(1397)  萬葉集 卷五
 
この卷は大伴(ノ)旅人卿及び山上(ノ)憶良の連作を主として輯め、その大部分は筑紫における吟咏である。漢文の尺牘歌序に富み、題目に叙事的興味あるものが多い。
この卷の特に注意を要することは、長歌は別として、短歌の書式が前後の諸卷と異なり、殆ど一字一音を以て記録されてゐることである。恐らく全卷一人の手に依つて成つたものであらう。さてはその記録者は誰れか。旅人卿薨後の作も見えるから、或は憶良の手記か。但家持家集の一部と觀られる第二十卷の如き、矢張一字一音を以て記載されてあるのを見ると、旅人卿の息家持の手記とする説が一層有力と考へられる。
 
雜歌《くさぐさのうた》
 
太宰(の)帥(かみ)大伴(の)卿(の)報(こたふる)2凶問(に)1歌一首并序
 
太宰府の長官大伴(の)旅人卿が不幸の見舞に答へた歌との意。○太宰帥 既出(一一六八頁)。○大伴卿 傳既出(七三六頁)。○凶問 凶事の存問。口語にいふクヤミ。この凶事は旅人卿の妻大伴(ノ)郎女の逝去を斥す。卷八に、橘時鳥卯花など初仲夏の景物を詠んだ歌の左註に、(1398)
  右、神龜五年戊辰、大宰(ノ)師大伴(ノ)卿之妻大伴(ノ)郎女遇(ウテ)v病(ニ)長逝焉《ミマカリヌ》。于時勅使式部(ノ)大輔石上(ノ)朝臣|堅魚《カツヲヲ》遣(リ)2太宰府(ニ)1、弔(ヒ)v喪(ヲ)并贈(ラル)2物色(ヲ)1。其事即(チ)畢(リ)、驛使及(ビ)府(ノ)諸卿大夫等、共(ニ)登(リテ)2記夷《キイノ》城(ニ)1而望遊之日、乃(チ)作(ル)2此歌(ヲ)1。
と見えた。凶事奏聞の使、勅使の下向、その來往の日子を假に約一月と見る時は、郎女の逝去は大よそ神龜五年の暮春から初夏の間と推定される。卷三所載の神龜五年戊辰太宰(ノ)帥大伴(ノ)卿(ノ)思2戀(ベル)故人(ヲ)1歌三首、天平二年冬上京の時の海路にての歌五首、故郷に歸つての三首は、皆郎女に對する哀悼の意を敍べてある。郎女の傳は既出(一二六頁)。○并序 この二字原本にない。補つた。序は端書《ハシガキ》。
 詩文に題詞の外に序の文を著して、その製作の來由を説くことは前漢の時代に始まり、魏晉の間に盛になつて來た。文選所載の詩文がこれを證する。上代のわが官吏達は皆文選を枕籍する漢學者だから、その樣式を模倣して、國歌の前に漢文の序を置いた。
 
禍〔左△〕故|重疊《ウチシキリ》、凶問|累《シキリニ》集(ル)、永《トコシヘニ》懷(キ)2崩(ク)v心(ヲ)之悲(ヲ)1、獨流(ス)2斷(ツ)v腸(ヲ)之|泣《ナミダヲ》1、但依(リ)2兩君(ノ)大(ナル)助(ニ)1、傾(ケル)命纔(ニ)繼(ガルヽ)耳《ノミ》。筆不(ルハ)v盡(サ)v言(ヲ)、古今(ノ)所v歎(ク)。
 
(1399)○禍故 わざはひ。故は事故の意。「禍」原本に福〔右△〕とあるは誤。神本その他による。○崩心の悲 心を碎く悲。○斷腸之泣 悲の切なる涙。文選の魏文帝の詩に、思(ハバ)2君(ガ)客遊(ヲ)1思(フ)v斷(タント)v腸(ヲ)。斷腸の故事としては、捜神記に、猿の子を捉へてて殺した時、猿の母が悲んで自殺したので、その腹を割いて見たら腸が斷れてゐたといふ話が出てゐる。○兩君大助 兩君は多分都より弔辭をよこした身分柄の人であらう。大助はお蔭。○傾命 死にかけた命。頽齡の意に近い。○筆不盡言 意の如く筆の廻らぬ。易(ノ)繋辭に、書(ハ)不v盡(サ)v言(ヲ)、言(ハ)不v盡v意(ヲ)とある。
 奈良時代とのみいはず、わが邦上代の漢文は、文選の四六駢儷の文體を祖述し歩驟してゐた。尤も漢土でも中唐の末韓柳の二家が出るまでは、悉く四六文であつた。彫心鏤骨排對に苦心し、字々金句々玉、絢爛眼を奪ふに足るものはあるが、畢竟これ剪裁補綴の技巧を爭ふに過ぎない。然し漢文をかくの如く立派に自由に驅使し得たことは、何としても古人の努力に敬服せざるを得ない。唐風模倣の世相は全く眞劍に一三昧であつた。殊に文臣はとにかく、武臣の棟梁たる旅人卿にして、尚かく漢學の素養に富み、讃酒歌(卷四所載)に見れば、その思想は晉の清談派の餘薫に浸り、詩作は懷風藻に、文章(1400)はこの集に著れ、全く文人としての地位を確保してゐる。文武兩道の達人、漢韓諸蕃を控制する太宰府の長上官として、この位の適任者は當時なかつたであらう。
 
余能奈可波《よのなかは》 牟奈之伎母乃等《むなしきものと》 志流等伎子《しるときし》 伊與余麻須萬須《いよよますます》 加奈之可利家理《かなしかりけり》     793
 
〔釋〕 ○よのなか 人間世。○むなしきもの 世間一切の諸法は滅びて空しきをいふ。佛經に、諸法皆空また諸法如幻化などの語が見える。○ときし 「し」は強辭。
【歌意】 もとより世間ははかないものと聞いては居たが、今郎女の死によつて〔もとより〜右○〕、その空しい道理を眞に合點した時さ、愈よ以てひどく、悲しいことでありますわい。
 
〔評〕 當時成實宗では我法の二空を説き、三論宗では有爲空無爲空畢竟空を説き、殊に名僧道慈が三論にその法螺を鳴らしてゐた時代だが、作者の佛教觀はもつと簡單なもので、所謂諸法皆空の大まかの處であつた。即ち生あるものは死に、形あるものは滅ぶ、一切の有爲は盡く無爲と觀ずる悲觀的思想に、漫然と支配されて居たのであらう。
 愛妻郎女の死は、作者をしてその悲傷に殆ど喪心せしめた。時日の經過に隨ひ、やう/\心の冷靜を取戻した時、金剛經に、如夢幻泡影、如露亦如電と説いた如く、一切有爲の世界は一物として常住不變のものある事なく、無常生滅にして自性をもたぬ者であることを覺悟するに至つた時、如來の金口の我れを欺かざるを知つ(1401)た時、更に一層の大いなる悲哀を痛感したのであつた。「いよよますます」とは、この心の動きの過程を象徴した詞である。
 
神龜五年六月二十三日
 
これは凶問を寄せられた都の兩君へ對しての返簡の日付と思はれる。製作の日子を記したのではあるまい。兩君のうちの一人は或は藤原|房前《フササキ》か。後にも房前に梧桐日本琴《キリノヤマトゴト》を贈つた旅人卿の消息と歌とがある。
 
筑前(の)守山(の)上(の)臣《おみ》憶良(が)悲2傷《かなしめる》亡妻《なきつまを》1詩《からうた》一首并序〔筑前〜左○〕
 
筑前守山上憶良が亡くなつた妻を悼み悲んだ漢詩との意。○筑前守 筑前の國守。○國守 國に大上中下國の別あり、その長官は守、次官は介、次に大少の掾、目を加へて四等官となる。國の大小によつて位階にも次第があるが、大抵守は五位、介は六位、掾は七位、目は八位相當。尚「國(ノ)司」を見よ(七三〇頁)。この題詞、原本にはない。假に補つた。憶良の傳は既出(二三四頁)。
 
蓋(シ)聞(ク)、四生(ノ)起滅、方(ニ)夢(ニシテ)皆空(シク)、三界(ノ)標流、喩(フ)2環(ノ)不(ルニ)1v息(マ)。所以(ニ)維摩大士《ユヰマダイジ》、在(リテ)2乎方丈(ニ)1、有(リ)v懷(クコト)2染疾之患(ヲ)1、釋迦|能仁《ノウニン》、坐《マシテ》2於雙林(ニ)1、無(シ)v免(ルヽコト)2泥※[さんずい+亘]《ナイヲン》之苦(ヲ)1。故(ニ)知(ル)二聖(ノ)至極(ナルモ)、不v能(ハ)v拂(フコト)2力負之尋(ギテ)至(ルヲ)1、三千世界、誰(レカ)能(ク)逃(レム)2黒闇之捜(リ)來(ルヲ)1。二鼠競(ヒ)走(リテ)而、度(ル)v目(ヲ)之鳥旦(ニ)飛(ビ)、四蛇爭(ヒ)侵(シテ)而、過(グル)(1402)v隙(ヲ)之駒夕(ベニ)走(ル)。嗟乎痛(マシキ)哉。紅顏共(ニ)2三從(ト)1長(ヘニ)逝(キ)、素質與《トモニ》2四徳(ト)1永(ク)滅(ビヌ)。何(ゾ)圖(ラム)偕〔左△〕老違(ヒ)2於要期(ニ)1、獨飛生(ゼムトハ)2於半路(ニ)1。蘭室(ノ)屏風徒(ニ)張(リ)、斷腸之哀(ミ)彌(ヨ)痛(マシ)。枕頭(ノ)明鏡空(シク)懸(リ)、染※[竹/均]之涙逾(ヨ)落(ツ)。泉門一(タビ)掩(ヘバ)、無(シ)v由2再(ビ)見(ルニ)1。嗚呼哀(シキ)哉。
 
〔釋〕 〇四生起滅− 胎生卵生濕生化生の四生の起滅即ち生死は、夢と同じで皆空であるの意。生物の産るゝ状相を、佛教では分類して四生とする。方夢は莊子齊物論に、方(リテヤ)2其夢(ナル)1也、不v知(ラ)2其夢(ナルコトヲ)1也。〇三界漂流− 欲界色界無色界の三界は何れも迷界で、造惡の衆生は皆この三界に生を受け、四苦八苦の間に大海に漂ふ如く輪廻するから、恰も環のその端《ハシ》といふものが無いのに喩へられるの意。環不息は越絶書に、終(リテ)而始(マル)、如(シ)2環之無(キガ)1v端。○維摩大土 維摩詰。淨名《ジヤウミヤウ》と譯す。印度|※[田+比]舍離《ビヤリ》國|※[田+比]耶離《ビヤリ》城の長者で、釋迦と同時代の人。家に居ながら菩薩行を修した。大士は菩薩の異稱。ダイジと讀む。○在乎方丈− 維摩經によると、釋尊の命によつて文殊菩薩を始とし佛弟子等が、維摩の染疾即ち病氣を見舞の爲、その室に詣つて問答する事がある。文殊が「何の故に疾むか」と問ふと、「衆生皆疾めり、我故に疾む」(1403)と維摩が答へ、次に不二法門の問答に入り、文殊は言説なしと答へて、更に維摩に反問すると、維摩黙然として答へずとあつて、その言舌の外たるを體現して示した維摩の黙は、有名な典故である。方丈は維摩の室の遺址を、唐の王玄策が西域に使した折、その笏(長さ一尺)を以て縱横に測つたら、各十笏あつたのでいふ。轉じて僧室の稱に用ゐた。。釋迦能仁 佛教の教祖釋迦牟尼佛のこと。皇紀一〇四年に印度|迦毘羅《カビラ》城に生まれ、同一八四年に拘尸那掲羅《クシナカラ》城外、跋提河畔の沙羅《サラ》雙樹下に入滅。壽八十(異説がある)。能仁は釋迦の語譯だから、釋迦能仁は梵漢竝擧となるが、佛陀の稱號に用ゐた。○坐於雙林―― 沙羅雙樹の林下に寂滅即ち死して、生ある者の死苦を遁れぬことを示したの意。雙林は沙羅林中特に二本高い樹があつたのでいふ。「泥※[さんずい+亘]」はナイヲンと梵讀し、涅槃《ネハン》と同語で、死を意味する。〇二聖至極 維摩や釋迦の優れた聖人ですら。下の思(ブ)2子等(ヲ)1歌の序にも、至極(ノ)大聖とある。○不能拂力負之―― 死生の變化は逃れ難いことをいふ。莊子大宗師篇に、藏(シ)2舟(ヲ)於壑(ニ)1、藏(スルヲ)2山(ヲ)於澤(ニ)1、謂(フ)2之(ヲ)固(シト)1矣、然而夜半有(ル)v力者負(ヒテ)v之(ヲ)而走(ル)、昧者(ハ)不(ル)v知(ラ)也と。力負は有力〔傍点〕者負〔傍点〕之の要約語。○三千世界 廣漠たる一切世界。一大三千大千世界の略。○誰能逃黒闇―― 誰が死の迫り來るを逃れることが出來よう。黒闇は佛經にある天部の神名で、災厄を司る神。○(1404)二鼠競走 賓頭盧爲優陀延王説法經に、「或者が曠野で象に追はれて、一の井戸を見付け、樹の根を傳うて藏れた、すると上に黒白の二鼠が樹の根を?む、廻りに四毒蛇が居て螫さうとする、下には三大毒龍が居て呑まうとする。或者は凡夫、曠野は生死、象は無常、井は人身、樹は人命、黒白の鼠は晝夜、樹の根は念々滅、四毒蛇は四大、三毒龍は死で、三惡道に墮するに喩へる」とある。○度目之鳥旦飛 人命のはかなさの喩。文選の張景陽(ノ)雜詩に、人(ノ)生(ルヽ)2瀛海(ノ)内(二)1、忽(タル)如《コトシ》2鳥之過(グルガ)1v目(ヲ)。〇四蛇爭侵 上の二鼠の條を見よ。又最勝王經の偈に、地水火風共(二)成(ス)v身(ヲ)、如(シ)3四毒蛇(ノ)居(ルガ)2一筺(二)1、云々。○過隙之駒夕走 度目之鳥と同意の喩。莊子知北遊篇に、人(ノ)生(ルヽ)2天地之間(二)1、若(シ)2白駒之過(グル)1v隙(ヲ)。又史記の留侯世家及び魏豹傳にもある語。○紅顔共三從―― 美しい姿もその具へた三從の義と一緒に長く滅びの意。三從は禮記に、婦人有(リ)2三從之義1、未(ル)v嫁(ガ)從(ヒ)v父(二)、既(二)嫁(ギテ)從(ヒ)v夫(二)、夫死(シテ)從(フ)v子(二)。○素質與四徳―― 白い肌もその具へた四徳と一緒に永く滅びたの意。「素質」は洛神賦にも皓質とある。「四徳」は周禮に婦學について、婦徳婦言婦容婦功の四徳を擧げた。○偕老違於要期 夫婦|偕《トモ》に老いようとの約束の時も違ひ。偕老は毛詩に、君子偕(二)老(ユ)とある。要期は所期に同じい。「偕」原本に階〔右△〕とあるは誤。○獨飛生於半路 獨居することが中年に出來ようとは。獨飛は漢書の李陵與(フル)2蘇武(二)1書に、雙鳧倶(二)北(二)飛(ビ)、一鳧獨南(ニ)翔(ル)。また文選の潘安仁(ノ)悼亡詩に、如(シ)2彼|翰《トブ》v林(二)鳥(ノ)1、雙棲一朝(二シテ)隻(ナリ)。○蘭室屏風徒張 人は逝いてその閨の屏風のみ空しく立ち。蘭室は芳ばしい室で、婦人の閨をいつた。孔子家語に、入(ルハ)2善人之室(二)1、如(シ)v入(ルガ)2芝蘭之室(二)1。蘭は香草の名。○斷腸―― 上出「斷腸之泣」を見よ(一三九九頁)。○枕頭 枕もと。○染※[竹/均]之涙 血の涙。染※[竹/均]は博物志に、舜南巡(シテ)不v返(ラ)、葬(ル)2蒼梧之野(二)1、堯(ノ)二女娥皇女英追(ヘドモ)v之(ヲ)不v及(バ)、至(リ)2洞庭之山(二)1、涙下(チテ)染(メ)v竹(ヲ)即(チ)斑(ナリ)。とある。※[竹/均]は竹の惣名。○泉門一掩 黄泉の門を一度閉ぢたら。一度死んだらの意。泉門は黄泉《ヨミ》の入口。左傳の注に、天玄(ク)(1405)地黄(二)、泉在(リ)2其中(ニ)1、故(ニ)言(フ)2黄泉(ト)1。後人語を借りて冥路の意となす。遊仙窟に、九泉下(ノ)人一錢(二ダモ)不v直(ヒセ)。
 
 この序は素より佛教の無常思想の所産である。然しこの思想は人類のすべてが、昔から懷いてゐた哲學と思ふ。莊子の力負説もそれである。文は梵漢の典故を湊合し、尺繍寸錦を剪裁して、而も天衣無縫と評すべき佳作。流石に入唐して勉強した人だけの事はある。
 憶良は釋迦如來に對して何時も維摩居士を考へてゐたらしい。下の悲歎俗道假合即離云々の詩序にもさうある。蓋し通俗二面の代表として、當時尊崇したものであらう。淡海三船にも聽v讀2維摩經1の詩がある。抑も聖徳太子の維摩經義疏の撰著の意義も、この認識に因縁したことゝ思ふ。
 
愛河(ノ)波浪已(二)先(ヅ)滅(ビ)、苦海(ノ)煩悩亦無(シ)v結(ブコト)、從來厭2離(ス)此(ノ)穢土(ヲ)1、本願|託〔左△〕(セン)2彼(ノ)淨刹(二)1。
 
〔釋〕 ○愛河波浪―― 一旦死んでは愛着の經緯《イキサツ》もなくなりの意。愛は人の溺るゝ故に河に喩へて、さて波浪といつた。文選の頭陀寺碑にも、愛涙成(ス)v海(ヲ)とある。○苦海煩悩―― 苦界に生ずる煩悩も亦起ることがないの意。苦界はその涯がないので海に喩へた。煩悩は即ち迷で、衆生を迷はし悩ますもの。菩提即ち悟の對語。○從來―― もとからこの穢れた地即ちこの婆婆世界を厭ふの意。淨土教では專ら現在の穢土を厭離し、未來の淨土を欣求することを標語としてゐる。○本願―― 阿彌陀佛の本願に縋つて彼の淨土に生まれたいの意。本願は彌陀經にある彌陀の四十八本願の字面を用ゐた。淨刹は淨土に同じい。刹は梵語で國土の義。「託」原本に詫〔右△〕とあるは非。託は托の通用。(1406)詩とはいふものゝ、これは佛者の作る漢讃の體である。平仄を問はず、滅、結、刹の屑韻、即ち仄韻を踐んである點など、普通の詩ではない。
 
日本挽歌《やまとのかなしみうた》一首并短歌
 
○日本挽歌 とは上の詩《カラウタ》の哀詩に對しての稱。挽歌を見よ(四一二頁)。
 
大王能《おほきみの》 等保乃朝庭等《とほのみかどと》 期良農比《しらぬひ》 筑紫國爾《つくしのくにに》 泣子那須《なくこなす》 斯多比枳摩斯提《したひきまして》 伊企陀爾母《いきだにも》 伊摩陀夜周米受《いまだやすめず》 年月母《としつきも》 伊久陀阿良禰婆《いくだもあらねば》 許許呂由母《こころゆも》 於母波奴阿比陀爾《おもはぬあひだに》 宇知那比枳《うちなびき》 病〔左△〕許夜斯努禮《やみこやしぬれ》 伊波牟須弊《いはむすべ》 世武須弊斯良爾《せむすべしらに》 石木乎母《いはきをも》 刀比佐氣斯良受《とひさけしらず》 伊弊那良婆《いへならば》 迦多知波阿良牟乎《かたちはあらむを》 宇良賣斯企《うらめしき》 伊毛乃美許等能《いものみことの》 阿禮乎婆母《あれをばも》 伊可爾世與等可《いかにせよとか》 爾保鳥能《にほどりの》 布多利那良※[田+比]爲《ふたりならびゐ》 加多良比斯《かたらひし》 許許呂曾牟企弖《こころそむきて》 伊弊社可利伊摩須《いへさかりいます》     794
 
(1407)〔釋〕○とほのみかどと この「と」はタルと解する。トシテでは意が通じない。「とほのみかどと」を見よ(七四四頁)。○しらぬひ 筑紫の枕詞。既出(八〇七頁)。○つくしのくに 「筑紫」を見よ(七四二頁)。○なくこなす 既出(一○〇八頁)。○したひきまして この筑紫へ〔五字右○〕追つて來られて。○いきだにもいまだやすめず 遠路を來た息をまだ叶《ツ》く暇もなく。○いくだもあらねば 幾らも經たぬので。下にかゝるべしとは〔七字右○〕の語を含む。「いくだもあらず」を參照(四〇〇頁)。[久」原本に摩〔右△〕とある。イマダモ〔四字傍線〕では前後の關係が面白くない。古義説により改めた。○こころゆも 心にまあ。この「ゆ」はニの意に近い。○うちなびきやみこやしぬれ 横になつて病み臥されたので。死を暗示した句。この句の下、バ〔右○〕の接續辭を含む。これは古文の格。「こやし」は臥す〔二字傍点〕の敬語。「病」の字原本にないが、コヤシヌレとのみでは句を成さぬので、新考の説に同じて補つた。童本は伏〔右△〕を上に補つてフシコヤシヌレ〔七字傍線〕と訓み、略解は婆〔右△〕を下に補つてコヤシヌレバ〔六字傍線〕と訓んだが、童本訓は重複の嫌があり、略解訓は古文法を無視した憾がある。○いはきをもとひさけしらず 石や木をも一々問ひ尋ねることも知らずの意。即ち石や木の辨別もなく衝き當る状をいふ。「とひさくる」を見よ(一〇〇八頁)。宣長の、言問ひて思を晴し遣る意、古義の、え問ひ放たむ由を知らぬ意などの説は全く不可。○いへならばかたちはあらむを 家に在らばその形骸はあらうものを。「家に在らば」は葬送せずに亡骸をおくをいふ。○いものみこと 「かみのみこと」を見よ(八六八頁)。○あれをばもいかにせよとか この句「語らひし心背きて――」に係る。「あれ」はワレの古言。「も」は歎辭。○にほどりの ※[辟+鳥]※[虎+鳥]は雌雄番ひで居るので、「二人並びゐ」に係る枕詞に用ゐた。卷十八にもこの用例がある。又卷三に「水鴨《ミカモ》なす二人竝びゐ」ともある。「にほどり」は既出(九八五頁)。○こころそむきて 心に背いて。○いへさかりいます 家を離れて居られる。△挿畫 挿圖290(九八五頁)を參照。
(1408)【歌意】 天皇陛下の遠くの朝廷たる筑紫の國に、妻は私のあとを〔七字右○〕慕つて來られて、息をすら吐く間もまだなく、年月も幾らも經たぬので、こんな事があらうとは〔十字右○〕、心にも思はぬ程に、病み臥されたので即ち死なれたので、何ともいひやうも仕樣も知らず、葬送の路の〔五字右○〕石や木をも構ふこともしない。これが家に居るまゝなら、その形骸《カタチ》はあらうものを、ほんに恨めしい妻の命が、私をばまあどうなれとてか、これまで夫婦中よく、二人竝んで居て語らつた情に背いて、家を遠ざかつて居られるわ。
 
〔評〕 前段は初頭より「こやしぬれ」まで、妻の命の來歴を絮説し、後段はその葬送時の感懷を叙べた。憶良の妻は憶良の筑紫赴任後、年時を置いて折角來紫したが、間もなく病死、その周章しさに憶良は途方に暮れたらしい。葬送の途に立つて、哀悼の涙に路傍の木石も辨ぜず、然し大江定基入道の如き、死屍を撫する愛執は狂人沙汰で、やはり世間法のまゝに事を運んだとなると、「家にあらば形はあらむを」の憾は、何人と雖も取敢へず感ずる事であらう。ありし日の鸞盟鳳誓の睦言を廻顧し追憶すれば、その盟誓を踏み躙つて去つた妹の命の無情さは、實に「恨めしき」限であらねばならぬ。
 前段は前景で平々に筆を運び、詞意明暢である。肝腎の焦點たる後段に至つて、「石木をも問ひさけ知らず」の下、或は落句あるかと疑はれる。「あれをばもいかにせよとか」は萬葉人の套語である。その死を死者の故意的行爲の如く扱つた逆怨み的命意は面白いが、これとても前人の嘗て用ゐた手法で、
  何しかも吾大王の、立たせば玉藻の如く、ころ臥せば川藻の如く、靡かひし宜しき君が、朝宮を忘れ給ふや、夕宮を背き給ふや――。(卷二、人麿−199)
(1409)と見え、作者の獨創ともいへぬ。「家さかりいます」は遠く奥山に埋葬したことの曲叙である。結尾「にほ鳥のふたり並びゐ、語らひし心背きて、家離りいます」の句に至つては、その白熱的激情に打ちのめされる。以下の短歌五首を通じて、漸く老境に入つてその伉儷を失つた悲痛の感愴が、如何にも如實に表現されて遺憾がない。
 憶良は實に山柿と並行すべき有數の作家で、殊に彼れは生活派の大家である。時に卒易の傾向があつて、疵瑕が散見するは、蓋しその自由奔放を喜び、拘束を嫌つた結果ではあるまいか。
 
反歌
 
伊弊爾由伎弖《いへにゆきて》 伊可爾可阿我世武《いかにかあがせむ》 摩久良豆久《まくらづく》 都摩夜佐夫斯久《つまやさぶしく》 於母保由倍斯母《おもほゆべしも》     795
 
〔釋〕 ○まくらづくつまや 既出(五七五頁)。○さぶしく 「うらさびて」を見よ(一三七頁)。
【歌意】 家に歸つて往つて、どう私はしようかしら。主のない〔四字右○〕閨房《ネヤ》は、定めし物寂しく、思はれるであらうなあ。
 
〔評〕 一坏の土既に香魂を埋め、送葬の人は一旦に散じて、身邊俄に無聊を覺えた時、思索の餘裕は茲に漸く生じて來た。乃ち主なき閨房はいかに索莫たるものだらうの想像網を張つて、「家にゆきていかにかあがせむ」と、始めて體驗す(1410)る俄鰥の立ち切れない悲哀を、直截的に痛歎した。これは葬送直後の作。人麻呂もまた、
  家にきて妻屋を見れば玉床の外《ト》に向ひけり妹が木枕 (卷二−586)
と歸家後の感愴を妻屋と枕とに寓せてゐる。既にその歌評中に「毛詩の角枕粲兮」を例に引いたが、文選所載の潘岳の悼亡(ノ)詩、寡婦(ノ)賦なども有名な作で、當時の學人達で知らぬ者は無かつた筈、
  ――展轉|盻《ミレバ》2枕席(ヲ)1、長箪竟(フ)2牀(ノ)空(シキヲ)1、牀空(クシテ)委(ネ)2清塵(二)1、室空(クシテ)來(ス)2悲風(ヲ)1、――。(悼亡詩)
  歸(リテ)2空館(二)1而自(ラ)憐(ミ)兮、撫(デテ)衾※[衣+周](ヲ)1以(テ)歎息(ス)、思纏綿(シテ)以(テ)※[務/目]亂(シ)兮、心摧傷(シテ)以(テ)愴惻(ス)。(寡婦賦)
など見え、夫婦愛を語るに方つて、枕席衾※[衣+周]ぐらゐ現實的の物件はなからう。乃ち柿本山上二家の作も、その淵源する處をほゞ討ね知ることが出來よう。
 長歌に「あれ」こゝに「あが」とあるのに、次々の歌には和何《ワガ》とあつて、呼稱が統一してゐない。此處だけで見ればア、ワ、並行時代と思はれるが、一般的には當時、吾《ワ》の語が優勢の勢力を占めてゐたことを記憶されたい。
 反歌はこの一首にとゞまるか。或は次の「はしきよし」の歌までを數へてもよからう。他は隨時の所感と思はれる。
 
伴之伎〔左△〕與之《はしきよし》 加久乃未可良爾《かくのみからに》 之多比己之《したひこし》 伊毛我己許呂乃《いもがこころの》 須別毛須別那左《すべもすべなさ》     796
 
〔釋〕 ○はしきよし 妹《イモ》にかゝる。「はしきやし」を見よ(五一八頁)。「伎」原本に枝〔右△〕とあるは誤。○かくのみからに (1411)既出(四四二頁)。「かく」は妻の不幸なる身の上をさす。契沖は、慕ひ來て年月も經ぬことをさすといひ、古義は、短き命をさすと解したのはいづれも非。○すべもすべなさ せむ方もなきをいふ。
【歌意】 妻は苦勞して死んだ〔九字右○〕、こんな事であるより外はないのに、はる/”\私のあとを慕うてこの筑紫に來た、可愛い妻の心の術ないことよ。
 
〔評〕 妻の身上を決算して見れば、不幸といふ赤字が殘るだけ。それをも知らず、奈良京から長い族路の苦患を重ねて、而も子供まで引連れて、筑紫の自分の手許まで來るや、息を休める間もなしに死んだ。夫の立場として、この位不愍な事はあるまい。「すべも」といひさして、更に「すべなさ」といふ。意迫り語窮つた嗚咽の状態が見るやうである。 
久夜斯可母《くやしかも》 可久斯良摩世婆《かくしらませば》 阿乎爾與斯《あをによし》 久奴知許等其等《くぬちことごと》 美世摩斯母乃乎《みせましものを》     797
 
〔釋〕 ○くやしかも 「こごしかも」を見よ(七八〇頁)。○しらませば 既出(二四八頁)。○あをによし 奈良の枕詞であるが、こゝは奈良の事に用ゐた。押照《オシテル》を難波、足引を山、玉桙を道、百敷を宮のことに用ゐたと同例。かく枕詞をその被語たる名詞の意に轉用することは、枕詞慣用の餘に生じた變態である。既出(八三頁)。○くぬち 國内《クニウチ》の約。近來この種の語が濫造され、遂に部屋ぬち、幕ぬち〔七字傍点〕などの畸形語を見るは厭はしい。○あをによしくぬち 奈良の國内。奈良の國といふ名稱はもとない。吉野國初瀬國の例によつて、奈良京の全周に亘(1412)つた地を假稱した。○ことごと 「許」をコと讀むは呉音、「其」は呉音ギ、轉音ゴ。
【歌意】 妻がかうなると知らうならば、奈良の國内盡く見せうものを。さうしなかつた事が殘念な。
 
〔評〕 死者に對して生前に眷顧の淺かつたことを後悔するは、人情の常である。殊に妻君に對してこの感が深い。憶良は大寶元年に無位の遣唐少録で渡唐した。當時を假に二十五歳と見て起算すると、この神龜五年には五十二歳になる。(沈痾自哀文ノ本文ニ是時七十有四トアルハ必ズ誤)又この妻君を初婚當時の人とすると、「子や泣かむ」とある如く、四五歳位の幼兒をもつ母親としては、少し年を取り過ぎはしまいか。或は後添の若い人かも知れない。
 昔ほど現代人の意想外に、婦人の外出は不自由だつたから、見物にあちこち連れて歩く機會が少かつた。それに子供も澤山居たらしいから尚更だ。奈良には名勝地が澤山あり、舊構新構の神社佛閣も數知れぬ程點在し、東市西市繁華の衢も亦相應にあつたとなると、「見せましものを」の後悔は一段と深くなる。それが雙棲期間の比較的短い後添の人なら、更に強い愛着の念まで手傳つて、愈よその憾は甚しからう。で覺えず「悔しかも」の第一聲を放つた。感情の激越は自然倒装の詞態を取るに至らしめたものである。
 或説に國内を筑前の國内と解したのがある。都から到著するや間もなしに死んだ人に、筑前の國内を見せる見せぬは問題でない。况や「あをによし」の解釋をどうするか。
 この歌はまづその形態に就いて大いに注意を要する。それは初句の獨立してゐることで、五七の定型を破つたのみか、首切型である。次に「あをによし」の枕詞が變態的に使用されたことである。平安期の後世風に轉(1413)化してゆく道程の最先驅を作したものといつて可からう。
 
伊毛何美斯《いもがみし》 阿布知乃波那波《あふちのはなは》 知利奴倍斯《ちりぬべし》 和何那久那美多《わがなくなみだ》 伊摩陀飛那久爾《いまだひなくに》     798
 
〔釋〕 ○あふち 楝。また樗とも書く。古名キサ。俗にセンダンの木といふ。暖地産の落葉喬木。葉は羽状複葉で、卵形又は披針形である。夏日淡紫色の五辨花を開き、果實は橢圓で黄熟する。
【歌意】 亡妻が見たことであつた、楝の花はもう散るであらう、その死の悲に私の泣く涙は、まだ乾かぬのにさ。
 
〔評〕 楝の花は五月下旬(陰暦)時分が盛り、それが散り盡す頃は六月一杯か。元來が暖地産の植物だから、筑前守の官舍附近には、日除けかたがた植ゑたものであらう。現在でも九州南部には殊に多い。契沖の奈良の家の木なるべしといふ説は當らぬ。――吉野の象《キサ》谷は珍しく楝があつての稱だらう。
 哀悼の涙はまだ盡きぬのに、彼れが珍しがつた美しい楝の花は散らんずらんと、その矛盾を扱つて、時經ても尚新たなる悲を歌つた。卷三家持の作、
(1414)  妹が見しやどに花咲く時はへぬわが泣く涙いまだ干なくに (−469)
とその歸趨を同じくして、これは更に一層の洗煉を見る。
 
大野山《おほぬやま》 紀利多知和多流《きりたちわたる》 和何那宜久《わがなげく》 於伎蘇乃可是爾《おきそのかぜに》 紀利多知和多流《きりたちわたる》     799
 
〔釋〕 ○おほぬやま 城《キ》の山の奥山。肥筑の國境をなす。「きのやま」は既出。(一一九八頁)。○なげく 「宜」は音ギ、轉音ゲ。○おきそのかぜ、息吐によつて起る風。「おき」は息《イキ》の古言。「そ」は嘯《ウソ》の略(宣長説)。神代紀に嘯《ウソムク》之時|迅風《ハヤチ》忽(チ)起(ル)。△地圖及寫眞 挿圖330。(一一九八頁)331(一一九九頁)を參照。
【歌意】 大野山に霧が立ち渡るわ。私が歎くその溜息の風に、霧が立ち渡るわ。
 
〔評〕 大野山は宰府平野の南方を局る山岳で、宰府に向つた山陰は、ともすれば曇り勝に雲霧の搖曳を見るのである。作者は忽ちこれを拉へ來つて、わが歎の霧だと高唱して、その甚しい誇張に何等の躊躇も疑念も挿まぬ、一本氣の力強さに壓倒される。抑も歎の霧や息吹の霧は神代からいひ舊した着想で、
  吹棄《フキウツル》氣吹《イブキ》之狹霧。(古事記、上)
  猪鹿多(ニ)有(リ)、――呼吸《イブク》氣息《イキ》似(タリ)2朝霧(ニ)1。(雄略天皇紀――卷四十四)
  あかねさす日ならべなくにわが戀は吉野の河の霧に立ちつつ (卷六−916)
  この小川霧たなびけり落ちたぎつはしゐの上に事あげせねども (卷七−1113)
  吾妹兒に戀すべなかり胸をあつみ旦《アサ》戸あくれば見ゆる霧かも (卷十二−3034)
(1415)  君がゆく海邊のやどに霧立たばわが立ち歎く息と知りませ (卷十五−3580)
  わが故に妹なげくらし風早の浦のおき邊に霧たなびけり (同卷−3615)
など襲用され、又その反復の律調的詞型も古體の一格で珍しくはない。すべてが常套的でありながら、よく腐を化して新となし、完全に別樣の一生面を描き出した作者の手腕には敬服する。
 以上は一時の聯作ではない。
 
神龜五年七月二十一日、筑前(ノ)國(ノ)守山(ノ)上(ノ)憶良(ガ)上《タテマツル》。
 
 この年時は以上の漢詩及びその序と、長短の和歌とを一括して、太宰帥旅人卿に上つた時を示したもので、製作の日時ではない。憶良は筑前守で旅人卿の被官だから、卿の求めに依つて、これらの詩作をその高覽に供したのである。依つて「上」の字を書いた。
 但これには少々仔細がある。旅人卿の奥方大伴(ノ)郎女はこの年の初仲夏の頃に逝去、それから約一月、楝の花盛りに憶良の妻君は沒した。で二人の男やもめは同病相憐む同じ境遇に置かれ、故人を追懷する一念に支配されてゐた。されば憶良にこの諸作があると聞くや、旅人卿はその呈出を促したものであらう。蓋し憶良の悲悼は即ち旅人卿の悲悼で、兩々相通ふものがあるのであつた。
 或説に憶良のこの諸作は、愛妻大伴(ノ)郎女を喪うた旅人卿の爲に哀傷の意を叙べて上つたので、憶良自身の悼亡の作ではないと。想ふに上の報凶問歌が六月、こゝの歌が七月とあるので、日時が近い處から誤つて混同した説であらう。左註の日時の考は既に各條に示しておいたから再言せぬ。歌にのみ就いて見るに、「妹が見し楝(1416)の花は散りぬべし」とある。楝は枕草子に「必ず五月五日に値ふもをかし」と見えて、早咲のは五月初句もあらうが、普通は五六月の間の花である。然るに大伴郎女は春夏の交に故人となつてゐるから、今年の楝の花を見るに及ばない。又長歌に「筑紫の國に、泣く子なす慕ひ來まして、息だにも未だやすめず云々」とあつて、夫の赴任地筑紫に妻君があとから追つて來た趣であるのに、大伴郎女は、夫旅人卿と同道して筑紫に來たのである。その敏馬崎に於ける懷舊の作、
  妹とこし敏馬の崎をかへるさに獨し見れば涙ぐましも (卷三−449)
  行くさには二人わが見しこの崎を獨過ぐれば懷《コヽロ》かなしも (同上−450)
に依つてこれを證することが出來る。かくの如く事實も齟齬し、季節も稍違ふ。死者が別人である事は火よりも明らかだ。况や「家にゆきていかにかあがせむ」の作、又「青丹吉國内こと/”\見せましものを」の如き、他人の妻女に就いていふべき口吻ではない。
 元來或説は甚しい失考だから、始めから問題にしなかつたが、近頃折々雷同の説を聞くので、茲に聊か顯正の筆を下した。
 序にいふ、太宰府は筑前國に在つたので、筑前守は殆ど宰府隷屬の官吏たる觀があり、遂にはその獨立性を失つて、後には太宰少貮の兼任となり、或は置かれぬ時代さへあつた。それ程に府との聞係が密接で、筑前守は不斷府中に出入してゐた事は疑もない。帥旅人は素より漢學に長じ、守憶良は又斯道の大家で、國歌は又共にその趣味を同じうする好敵手、隨つてその私交も尋常以上であつたらしい。集中に憶良が帥の家で歌を詠んだことが見え、又帥の歸京に際しての私懷を布べた作など、その交情の親密さを物語つてゐる。
(1417) 又いふ、宰府には夙くから學業院が置かれ、經學を主として、府僚その他の勉學を奨勵した。勿論帥の君旅人はその監督者で、筑前守憶良はそのよい教官であつたらう。
 
令(むる)v反(さ)2惑情《まどへるこころを》1歌一首并序
 
道理に外づれた情を誨《サト》して本心に反らしめる歌との意。當時仙術の擬ひ者が流行し、爲に父母妻子を棄て家を棄てゝ、山野に入る者が多かつたので、その惑情を警醒したのである。註家にこの意を得た者がない。
 
或(ハ)有(リ)v人、不〔左○〕(シテ)v知(ラ)v敬(フコトヲ)父母(ヲ)1忽〔左△〕《ユルガセニシ》2於侍養(ヲ)1、不(シテ)v顧(ミ)2妻子(ヲ)1輕(クス)2於脱※[尸/徙]〔左△〕(ヨリ)1。自(ラ)稱(ヘ)2異〔左△〕俗先生(ト)1、意氣雖(ドモ)v揚(ルト)2青雲之上(二)1、身體猶在(リテ)2塵俗之中(二)1、未(ダ)v驗《ミ》2修行得道之聖(ヲ)1。蓋(シ)是亡2命(スル)山澤(二)1之民(ナリ)。所以(二)指(シ)2示(シ)三綱(ヲ)1、更(二)開(キ)2五教(ヲ)1、遺《オクルニ》v之(二)以(テ)v歌(ヲ)令(ム)v反(サ)2其惑(ヲ)1。歌(二)曰(フ)、
 
〔釋〕 ○或有人 或人ありの意。○不知 「不」原本にない。文意の上から補つた。○忽於侍養 側にゐて世話することを疎かにする。「忽」原本に忘〔右△〕とあるは不妥當。○不顧、「顧」は顧の書寫字。○輕於脱※[尸/徙] 脱いだ履よりも粗末にする。※[尸/徙]は跟のない底の平らな履物の稱。史記の孝武本紀に、吾視(ルコト)2妻子之去(クヲ)1如(キ)2脱※[足+徙の旁](ノ)1耳《ノミ》。「※[尸/徙]」原本に履〔右△〕とある。○異俗先生 自ら先生と稱するは五柳先生の儔で、先生は韓詩外傳に猶(シ)2先醒(ノ)1、又文選の注に學人之通稱とある。異俗は凡人と異る意。莊子に、此有道者(ハ)所(ノ)v異(ル)2乎俗(二)1者也。「異」原本に畏〔右△〕とあり、或本には離〔右△〕とある。○意氣雖揚青雲之上 氣位は高いけれども。青雲之上は青空の上といふことで、史記の范雎傳、文選(1418)の東方朔の答客難などに見えた字面。○身體猶在塵俗之中 體はやはり汚れた世俗の中に在る。○未驗修行得道之聖 まだ難行苦行を積んで悟の道を得た達人を見ない。○亡命山澤之民 山や澤の間に逃げ匿れて正業に就かぬ民である。亡命はいはゆる驅落《カケオチ》で、亡は無、命は名である。驅落者は戸籍《ヘフミ》からその名籍を削られたのでいふ。史記の張耳傳、文選の楊雄の解嘲などに見えた字面。○所以指示三綱―― これが三綱五教の何者たるかを確と示して、歌を遺つてその惑情を反さしめようとする理由であるの意。三綱は禮記に、君(ハ)爲(リ)2臣之綱1、父(ハ)爲(リ)2子之綱1、夫(ハ)爲(リ)2婦之綱1と見えて、君臣父子夫婦の義をいふ。五教は五常の教で、書經の舜典、大禹謨などに見えた語。五常は書經の注に、五常(ハ)父義(アリ)、母慈(アリ)兄友(アリ)、弟恭(アリ)、子孝(アリ)。
 
父母乎《ちちははを》 美禮婆多布斗新《みればたふとし》 妻子美禮婆《めこみれば》 米具斯宇都久志《めぐしうつくし》 余能奈迦波《よのなかは》 加久叙許等和理《かくぞことわり》 母智騰利乃《もちどりの》 可可良波志母與《かからはしもよ》 由久弊斯良禰婆《ゆくへしらねば》」 宇既具都遠《うけぐつを》 奴伎都流其等久《ぬぎつるごとく》 布美奴伎提《ふみぬぎて》 由久智布比等波《ゆくちふひとは》 伊波紀欲利《いはきより》 奈利提志比等迦《なりでしひとか》 奈何名能良佐禰《ながなのらさね》」 阿米弊由迦婆《あめへゆかば》 奈何麻爾麻爾《ながまにまに》 都智奈良婆《つちならば》 大王伊麻周《おほきみいます》 許(1419)能提羅周《このてらす》 日月能斯多波《ひつきのしたは》 阿麻久毛能《あまくもの》 牟迦夫周伎波美《むかふすきはみ》 多爾具久能《たにぐくの》 佐和多流伎波美《さわたるきはみ》 企許斯遠周《きこしをす》 久爾能麻保良叙《くにのまほらぞ》 可爾迦久爾《かにかくに》 保志伎麻爾麻爾《ほしきまにまに》 斯可爾波阿羅慈迦《しかにはあらじか》     800
 
〔釋〕 ○めこ 妻をメと呼ぶ。○めぐし いとしいこと。可愛いこと。單活用の形容詞。○うつくし 「うつくしき」を見よ(九七四頁)。この句の下、契沖は代匠記に「遁路得奴兄弟親族《ノガロエヌハラカラウカラ》、遁路得奴老見幼見《ノガロエヌオイミイトケミ》、朋友乃言問交之《トモドチノコトトヒカハシ》」の六句ある一本を引いた。略解に、書體とも非なるべしとあるは當つてゐる。○かくぞことわり かくある〔二字右○〕ぞ道理《コトワリ》なる〔二字右○〕の略。○もちどりの 黐鳥の如く〔二字右○〕。「かかる」に係けた枕詞。「もちどり」は黐《モチ》に著いた鳥。黐は冬青《モチノキ》の皮を削り水に漬した上湯に煮て製す。○かからはしもよ 面倒な煩はしいものよ。「かからはし」は關《カヽ》るの形容詞態の斷定格で、拘束されるの意。「もよ」は歎辭。○ゆくへしらねば 仕樣《シヤウ》もわからぬので。こゝは行方知らねば拘《カヽ》らはしもよ〔十一字傍点〕の倒装。「ゆくへ」は卷二「ゆくへを知らに」(五五〇頁)又「逢坂の關の嵐のはげしきにゆくへ知らねばわびつゝぞをる」(今昔物語、蝉丸)のゆくへ〔三字傍点〕と同意。尚この句は七音の獨立句である。次にも「ながなのらさね」の句が七音で獨立してゐる。古義にハヤカハノ〔五字傍線〕(早川の)の句を上に補つて五七の調にしたのは非。○うけぐつ 穿け沓。穿け〔二字傍点〕は穴の明くこと。「既」をケと讀むは呉音。○ぬぎつるごとく 脱ぎ棄《ウ》つる(1420)如く。「つる」は、うつる〔三字傍点〕の上略。うつる〔三字傍点〕は棄《ス》つるの古言。孟子盡心篇に、舜視(ルコト)v棄(ツルヲ)2天下(ヲ)1、猶(シ)v棄(ツルガ)2敞※[尸/徙](ヲ)1。なほ上の「輕於脱※[尸/徙]」を見よ。「伎」は呉音ギ。○ふみぬぎて 踏み脱ぎて。○ゆくちふ 「ちふ」はとふ〔二字傍点〕ともいふ、トイフの轉語。○いはきよりなりでしひと  木石から出來て來た人。「なりでし」は化《ナ》り出しの意。○ながなのらさね 「な」は汝。「なのらさね」を見よ(一一頁)。○あめへゆかば 天上へゆくなら。○ながまにまに の下、なるべし〔四字右○〕の語を略いた。○つちならば 大地の上ならば。○おほきみいます 「天へゆかば」の將然格を現在格で承けた。○ひつき 日や月。時をいふ場合にはツキヒ。○あまぐものむかふすきはみ 「あまぐものむかふすくに」を見よ(九八四頁)。○たにぐくのさわたるきはみ 蟾蜍《ヒキガヘル》の行き、いたる果。祝詞(祈年祭、月次祭)にも出た詞。「たにぐく」は祝詞に谷※[虫+莫]、卷六に谷潜と書いてある。「※[虫+莫]」は蟇と同宇で、蝦蟇即ち普通の蛙のことだが、蟾蜍に通じて用ゐた。兩棲類中無尾類の動物。谷潜は谷潜《クヾ》りの意でこの名の本義か。宜長はクヽをその鳴聲と解した。「さわたる」の「さ」は接頭語。○きこしをす 既出(一四五頁)。○まほらぞ 勝れた地域なる〔二字右○〕ぞ。「まほら」のまほ〔二字傍点〕は眞秀《マホ》の義で、優秀なる事又はその處をいふ。「ら」は接尾語。古義には眞含《マホ》の義に解して辯があるけれども煩しい。古事記(中)倭建(ノ)命の御歌に「倭は國のまほろ〔三字傍点〕(ホラと同語)は」、同記應神天皇御製に「百千たる家庭《ヤニハ》も見ゆ國の秀《ホ》も見ゆ」など見えた。○ほしきまにまに の下、振舞ふべきことかは〔九字右○〕の意を補つて解する。或は脱句か。○しかにはあらじか さうではあるまいかの意。「しか」は作者の主張をさす。「阿羅慈迦」は佛經中の字面を用ゐた戲書。
(1421)【歌意】 父母を見れば尊い、妻子を見ればいとしい可愛い。人間界はかうあるのが當り前である。黐に罹つた鳥のやうに仕樣もないので、それは小うるさいものさ。然し〔二字右○〕穴の開いた沓を脱ぎ棄てるやうに、無造作にその父母妻子を打棄てゝゆくといふ人は、石や木から出來あがつた人か、お前の名を名告んなさいよ。それも天上へ行くならお前の隨意だ、苟も大地の上に居るなら、こゝには畏い天子樣がいらつしやいます。この照らす日月の下は、大空の向ひ伏す限り、蝦蟇のあるき渡る果までも、天子樣の御治めなさる國の結構な處だぞ。何にせかにせ、我儘勝手でよいものかい〔六字右○〕。何とさうではあるまいかね。
 
〔評〕 憶良は素より孔子教を奉ずる儒者で、且佛教信者であつた。隋唐時代には儒者で佛教に歸伏した人が多分であつたのを見ると、後世の如く、その教理の究竟に存する大いなる矛盾を精討するに至らぬ時代で、大まかに看過してゐたらしい。
 處で上代には、この儒佛兩道以外に、種々の變態的信仰や、咒術や卜占や祈祷やが盛に行はれた。神仙道の如きは、その中での高尚なる特殊の存在であつた。神仙思想は元來支那人特有のもので上古から存在し、それが黄老の教と結び付いて、後世は變形して道教となつた。その求める處は不老不死の術を修するにあつて、山に入るに始まり、天に昇るに終るのであつた。列仙傳の讃語中に、
  嘗(テ)得(タリ)2秦(ノ)大夫阮倉(ガ)撰(レル)圖(ヲ)1、自2六代1迄(リ)v今(二)、有(リ)2七百餘人1。始皇好(ム)2遊仙之事(ヲ)1、故(二)方土霧集(ス)。
と見えた。わが邦の仙道はこれを祖述したものらしく、それが佛教と結び付いて、遂に修驗道の基を開いた。
(1422) 懷風藻に荐に神仙に觸れた詩句が疊見する。假令それが文飾にせよ、上代の有識階級者が神仙に對して、憧憬をもつてゐた事が窺知される。年所を經るに隨つて、この思想は漸く一般の人心に浸染し、仙人氣取の變人が輩出して來た。本文にいふ異俗先生は箇人ではなくて、この徒輩の假稱である。彼等はその修行の第一歩として家出をした。然し僧道の出家ではないから、こゝに先生と呼んでゐるのである。この先生を始め當時の人達が描いてゐた仙人の恰好を紹介すると、
  とこしへに夏冬往くや皮ごろも扇はなたず山に住む人 (卷九、獻忍壁皇子−1682)
で、羽扇綸巾に皮衣、暑さ寒さを一張羅でとほして、松の葉を食ひ/\、巖穴にその道を修するのであつた。
 とに角この先生輩は弊履を脱ぎ棄てるやうに、父母妻子を棄て生業を抛つて、輸租貢調の國民的義務を怠り、吉野葛城その他の山野に漂浪して、煉行の結果、その靈驗の掲焉を求めた。集中(卷二、卷三)に見えた久米(ノ)若子《ワクゴ》の如きも、その一人であらう。扶桑略記に、
  古老傳(フ)、本朝往年有(リ)2三人(ノ)仙1、飛(ブ)2龍門寺(ニ)1、所謂大伴仙、安曇仙、久米仙|也《ナリ》。大伴仙(ハ)、有(リ)v基無v舍、餘(ノ)兩仙(ノ)室(ハ)、今猶在(リ)。
と見え、大伴氏安曇氏久米氏の者が仙人となつて飛行したといふのだから、仙道の卒業者であらう。是等の仙人達にしてからが、その出發が三綱五常の道を蔑ろにした、非人情の行爲者であつた事は爭へまい。禮記問喪篇に、禮義之經(ハ)非(ズ)2從(リ)v天降(レル)1、非(ズ)2從(リ)v地出(デタルニモ)1、人情而已矣と見え、社會の紀綱は人情が根本である。然し反面から視れば、人情ほど面倒なうるさいものは又ない。まこと「黐島のかからはしもよ」であると、一旦はその亡命の動機を是認した。蓋し一擒一縱の筆法で、次にその非を痛撃する爲の伏線である。
 作者は茲に至つて、先づ人道の根本たる父母妻子の私的情誼から、第一の鐵槌をその頭上に下した。これを(1423)無視して亡命した汝は、抑も「石木よりなり出し人か」と、鋭い攻撃の鉾先を向け、「汝が名告らさね」と手嚴しく詰責した。蓋し彼等はその國籍(戸籍)から離脱して奉公を蔑ろにした山澤亡命の民で、強ひてその名迹を隱匿してゐたものであらう。――仙者は大抵氏のみで呼ばれ、名の勒された者は殆どない。
 僧道の方でも林下に聖行を修する輩が、非常に澤山あつた。只根本が佛教の大教理に依據してゐるので、仙道の如く妄誕不稽ではない。
 天下(ノ)諸國、隱(ルヽ)2於山林(二)1清行(ノ)逸士、十年已上、皆令(メヨ)2得度(セ)1。(續紀卷二十一淳仁天皇天平寶字二年八月庚子朔の勅語)
とある如く、修行得道の境に入るのであつたが、異俗先生輩は青雲に昂揚する意氣ばかり凄くて、天ばかり仰いでゐても、足が第一土を離れぬから、詰りは塵俗中に蠢動する無用の民乞食の徒たるに過ぎない。
 作者は次に天下の公道から第二の鐵槌をその頭上に下した。昇天の術を講じ得て虚空に歩む。天上界は治外法權だから、「天行かば汝がまにまに」だとは、これも縱擒の筆法で、やがて來る恐ろしい風雲を孕んでゐる。「土ならば大君います」、この迅雷的大喝は嚴肅莊重を極めた豪句である。
(1424) 日月の照臨する處、詩の小雅にいはゆる、
  普天之下、莫(ク)v非(ルハ)2王土(二)1、率土之濱、莫(シ)v非(ルハ)王臣(二)1。
で、この大地は「天雲の向伏す極み、谷※[虫+莫]の狹渡る極み」と祝詞の神明に對して誓言する如く、天皇陛下の治め給ふ國のまほらである。苟も御國の空氣を呼吸してゐる以上は、御國の民として君國に盡すべき義務がある。さう自己本位の我儘をしてなるものか」「しかにはあらじか」、考へてみなさいと、一寸餘裕を與へてその覺醒を待つた。
 仙道でも僧道でも大抵幻術咒術が附隨してゐる。就中その尤なる者では役《エノ》君|小角《ヲツヌ》がゐる。小角は仙佛融合の端を開いた修驗道の豪傑である。
  丁丑。役(ノ)君小角流(サル)2伊豆(ノ)島(二)1。初(メ)小角往(キテ)2於葛木山(二)1、以(テ)2咒術(ヲ)1稱(セラル)。外從五位下韓國(ノ)連《ムラジ》廣足師(トス)v焉。後害(シ)2其能(ヲ)1、讒(スルニ)以(テス)2妖惑(ヲ)1。故《カレ》配(ス)2遠處(二)1。世(二)相傳(ヘテ)云(フ)、小角能(ク)役2使(シテ)鬼神(ヲ)1、汲(ミ)v水(ヲ)採(ラシム)v薪(ヲ)。若(シ)不(レバ)v用(ヰ)v命(ヲ)、即(チ)以(テ)v咒縛(スト)v之(ヲ)。(續紀卷一、文武天皇三年五月の條)
かうした術者は何時の時代でも、不思議に世俗の歡迎を受けるもので、隨つてその流を汲む者が盛に殖える。續いていか樣者が出てくる。しまひには、
  方今(ノ)僧尼、輒向(ヒ)2病人之家(二)1、詐(リテ)祷(リ)2幻恠之情(ヲ)1、戻《モトリテ》執(リ)2巫術(ヲ)1、逆《マヽニ》占(ヒ)2吉凶(ヲ)1、恐2脅(シテ)耆穉(ヲ)1、稍致(ス)v有(ルコトヲ)v求。道俗無(ク)v別、終(二)生(ス)2奸亂(ヲ)1。(續紀卷七、元正天皇養老元年三月壬辰の條)
  癸亥勅(ス)。内外文武百宮及(ビ)天下(ノ)百姓、有(ラバ)d學2習(シ)異端(ヲ)1蓄2積(シ)幻術(ヲ)1、壓魅《エンミ》咒咀、害2傷(スル)百物(ヲ)1者u、首(ハ)斬(リ)從(ハ)流(サン)(續紀卷十、聖武天皇天平元年四月の條)
の如き勅令まで出るに至つては、如何に信仰界が亂脈であつたかゞ想像される。「學習異端」とある中には、必ず異俗先生輩も含まれてゐるものと考へられる。
(1425) この歌題目が特異で對象が變つてゐるから、天馬空をゆく底の快味がありさうに想像されるが、令反惑情の目的を果す爲に、極めて道徳的の常識論議に墮したことは止むを得ない。作者は地方官(筑前守)たる立場から、上掲の天平元年の詔旨實行の責任があり、爲政上常にこれらの徒輩に憤懣を感じてゐたので、その鬱積が勃發して、遂にこの大作を成すに至つたものと思ふ。乃ち忠君愛國の精神を主體とし、儒佛二道の總意を羽翼として、警世の鐘を鳴した。かくて作者は尋常一樣の花鳥風月歌人を尻目にかけて、人道詩人として躍進した。
 この篇七言の獨立句が、第一「ゆくへ知らねば」、第二「なが名のらさね」、第三「しかにはあらじか」と三箇處にある。第三のは長歌結收の常格だから論はないが、篇中に置かれた第一第二は全く異製で、各そこに段節を形作るから、全部が劃然たる三段編制になつてゐる。これが必ず作者の創造とは斷じ難いが、(卷一の中皇命の御歌が二段編制である)かゝる特異の體製を紹介してくれたゞけでも、作者に滿腔の敬意を表する。
 
反歌
 
比佐迦多能《ひさかたの》 阿麻遲波等保斯《あまぢはとほし》 奈保奈保爾《なほなほに》 伊弊爾可弊利提《いへにかへりて》 奈利乎斯麻佐爾《なりをしまさに》     801
 
〔釋〕 ○あまぢ 天上の路。○なほなほに 當り前に。平凡に。直《ナホ》を反復した副詞。 ○なり 業《ナリ》はひ。家業。○しまさに なさいませ。「に」は命令辭のね〔傍点〕の轉化語。「爾」を禰〔右△〕の誤として、シマサネ〔四字傍線〕と訓めば落著は早い。
【歌意】 天上に昇るとしても、その路は遠いさ。仙道成就は覺束ないものだから〔十四字右○〕、素直に家へ歸つて、家業を爲《シ》なさいよ。
 
(1426)〔評〕 この時代は、徭役を忌避して逃亡する者、安きに迷うて乞食する者、軍器を挾んで亡命する盗賊などが尠からずあつた上に、又仙道僧道の出家者が多かつたから、上司でも實に經濟統制と人物整理とに困つたらしい。何よりも家に歸つて正業に就いて貰うのが、爲政者の唯一の希望で、目前の急務であつた。「久方の天路は遠し」は實に心骨に徹る冷語で、徒らに空想にあこがれて居るよりは、鍬を揮つて田を作れである。
 長歌では可なり語氣鋭く叩き付けてゐるが、飜つてこゝでは物柔く訓誨してゐる。これは單に變化を求めるばかりではない。改過善導の手段としても、この擒縱の呼吸を大切とする。
  
思《しぬぶ》2子等《こどもを》1歌一首并序
 
○子等 コドモと訓む。歌にも「こども」とある。コラ〔二字傍線〕と讀む場合は大抵は若い女の愛稱に用ゐた。
 
釋迦如來|金口《コンクニ》正(ニ)説(キタマヘリ)、等(シク)思(フコト)2衆生(ヲ)1、如(クナラムト)2羅※[目+候]羅《ラゴラノ》1。又説(カシメタマフ)、愛(ハ)無(シト)v過(グルハ)v子(ニ)。至極(ノ)大聖(モ)、尚有(リ)2愛(シム)v子(ヲ)之心1、况(ンヤ)乎世間(ノ)蒼生《タミ》、誰(カ)不(ランヤ)v愛(マ)v子(ヲ)乎。
 
〔釋〕 ○金口 釋迦は金身なので、その口を金口といふ。○等思衆生―― 最勝王經に、普(ク)觀(テ)2衆生(ヲ)1、愛(ニ)無(ク)2偏黨1、如(クセン)2羅怙羅《ラゴラノ》1。〇羅※[目+候]羅。釋迦の出家前の子。佛十大弟子の一。○蒼生 萬民をいふ。草木の蒼々《アヲアヲ》として衆多きに喩へた。書經の益稷篇に出た語。
 
(1427)宇利波米婆《うりはめば》 胡藤母意母保由《こどもおもほゆ》 久利波米婆《くりはめば》 麻斯提斯農波由《ましてしぬばゆ》 伊豆久欲利《いづくより》 枳多利斯物能曾《きたりしものぞ》 麻奈迦比爾《まなかひに》 母等奈可可利提《もとなかかりて》 夜周伊斯奈佐農《やすいしなさぬ》     802
 
〔釋〕 ○うり 瓜。※[甜/心]瓜をいふ。眞桑瓜これに當るか。○くり ※[殻/心]斗科の喬木。○まして の下、子供〔二字右○〕の語を略いた。○しぬばゆ 既出(二四三頁)。○まなかひ 目睫。遊仙窟に眼子を讀んだのは意訓。眼之交《マナカヒ》の義。眞淵はマナコアヒの約と解した。「まなかひに」は「かかりて」へ續く。○もとな 既出(六一六頁)。○やすいしなさぬ 安寢《ヤスイ》をさせない。「し」は強辭。
【歌意】 瓜を喰ふと子供が思ひ出される、栗を喰ふとまして子供が慕はしくなる。一體何處から出て來たものぞえ、眼先に無茶にちら/\して、私に安眠をさ、させないわい。
 
〔評〕 甜瓜だの栗だのは子供の好物である。陶淵明の責(ムル)v子(ヲ)詩に、通子(ハ)垂《ナム/\トス》2九齡(ニ)1、但覓《モトム》2梨(ト)與1v栗(トヲ)など、何處の國でも何時の時代でも、子供は子供である。
 前段突如、瓜や栗から筆を起して、「しぬばゆ」と上下にウ韻を踐み、漸層的に刻み込んで、聽者に息を吐かせぬ敍法は實に面白い。而も食物に對する毎にまづ子を思ふは、その聯想が自然で、又現實性が強い。
 さて轉一轉、「何處より來りしものぞ」の一不審を投げ懸けた。契沖いふ、
  宿世の因縁に依つて親となり子となるとは聞けど、宿命智なければ、知られぬ故なり。
(1428)と。成程それも理窟だが、作者はそこまでは考へてはゐないらしい。我ながら子煩悩の甚しさに、一體何處から此奴は出て來た奴かと、直感的に輕く叩いたと見てよからう。そしてこの句は前段が後段に轉捩する枢機の役目を勤めてゐる。
 後段は前段の意を更に具象的に敷演し、常に眼前にその面影が髣髴して、夜は安眠を許さぬと歎息した。
 「安寢しなさぬ」の被動の意をもつた表現も、この際最も要を得た手段である。
 小長歌は手輕に纏り易い特長はあるが、小型だから變化の求めにくい憾がある。然るにこの篇は十分に變化の妙を悉してゐる。そして長歌の弊竇たる繋褥さがなく、簡明直截で、感哀が何物にも妨げられず、生ま/\と露出されてゐる。蓋し接續詞形及び接續辭を用ゐぬことも、その一因を成してゐることゝ思はれる。
 憶良は神龜五年の夏に妻に死なれ、その時まだ四五歳の幼兒が殘されてゐた。その幼兒こそ天平五年の戀(フル)2男子|古日《フルヒヲ》1歌に見える古日であらうとの説もあるが、それはともかく、片親のない子供の事とて、男親の手一つに育てゝゐるし、又晩年の子供ではあり、愛も心配も人一倍で、居常子供の事ばかりがその胸臆に往來してゐたと考へられる。憶良の子煩惱たるは、實に餘儀ないその境遇からと思ふと、氣の毒にもなる。眞淵説に、都に留めたる子供を思ふなりとあるは適實でない。
 
反歌
 
銀母《しろがねも》 金母玉母《こがねもたまも》 奈爾世武爾《なにせむに》 麻佐體留多可良《まされるたから》 古爾斯迦米夜母《こにしかめやも》     803
 
(1429)〔釋〕 ○こがね 黄金《コガネ》。古言にクガネと訓むもよい。○なにせむに の下、欲りせむ〔四字右○〕の意を含む。古義に何故に〔三字傍点〕と解したのは非。○まされるたから 勝れた寶もの意。
【歌意】 銀や金も玉も、何しに欲しからうぞ。どんな結構な寶も、子に及ばうかい。
 
〔評〕 金銀珠玉を貴重して寶とすることは、古來からの世界的思想である。作者獨反抗して「何せむに」と揚言した。これには何人も耳を※[奇+攴]てゝ、その二の句を聞かざるを得なくなる。聞いてみれば、子寶が一番だといふ。まことに物質的富は、親子愛の精神的富に一籌を輸する。只その比較物件の意外な引用は、一寸牝牛に腹突かれた貌で、詩味は稀薄だが金言である。下の戀2古日1歌にも
  世の人の貴み慕《ネガ》ふ、七種の寶もわれは何せむに、わが中の産れ出でたる、白玉のわが子|古日《ふるひ》は、云々。(−904)
とある。但
  三國の時、呉主孫皓が諸姑、相共に小姑の家に會す。諸姑各その金玉の装飾を誇示して寶の美を爭ふ。獨小姑黙して應へず。諸姑強ひて問ふ。乃ち臥内より孩兒を抱き出でて〔八字傍点〕、顧みていはく妾の寶とするはこれのみ〔十一字傍点〕と。
憶良の作蓋しこれに本づく。もと/\この歌は、その詩味の如何よりも、親子愛を高唱した誠實なる情味が買はれたもので、作者獨創の感想として、より以上に高く評價され來つたものである。然るに既に出典がある以上は、洒落の二番煎じと同じく、その價値は半減してしまふ。若しこの故事の存在を知らずに偶合したものとすれば又別問題だが、作者が漢學者たるだけ、準據の疑がいとも濃厚である。
 
哀(しむ)2世間《よのなかの》難(きを)1v住《とどまり》歌一首并序
 
(1430)人間界の無常變易の理を逃れ難いことを哀む歌との意。この理は佛教の力説する處。
 
易(ク)v集(リ)難(キハ)v排《ハラヒ》、八大辛苦、難(ク)v遂(ゲ)易(キハ)v盡(キ)、百年(ノ)賞樂。古人(ノ)所v歎(ク)、今亦及(ブ)v之(ニ)。所以(ニ)因(リテ)作(リテ)2一章之歌(ヲ)1、以撥《ハラフ》2二毛之歎(キヲ)1。其歌曰、
 
〔釋〕 ○易集難排―― 人界は苦界で、生老病死の四苦に、愛別離、怨憎會、求不得、五陰盛の四苦を加へた八大辛苦が、動もすれば迫つて來て押退け難いの意。○難遂易盡―― 人生の賞心樂事即ち快樂は、思ふやうに求めかね、又求め得ても盡き易いの意。○古人所歎 八大辛苦の排ひ難き佛説は涅槃經中に見え、百年賞樂の盡き易いことは文選諸家の詩に見える。○今亦及之 作者が今亦その意に及んで觸れた。〇一章 文詞を章といふ。○撥二毛之歎 老の歎を追ひ遣る。二毛は黒髪に白髪の交ること。禮記に出で、又左傳に不v禽(ラ)2二毛(ヲ)1。文選の潘岳秋興賦に、余春秋去十有二、始(メテ)見(ル)2二毛(ヲ)1とある。これに就いて契沖いふ、
  憶良は天平五年に七十四歳にて卒せらる。此歌の左註の神龜五年とあるによりて逆推するに、六十九歳の作なれば、秋興賦の意に協はず、左傳によりて老を歎く心を作れりとすべし。
と。されど二毛之歎は、やはり初老中老の白髪を苦にしはじめた年配者の言で、六十九歳の頽老者のいふことではない。隨つて天平五年の作らしい沈痾自哀文に「是時七十有四」とあるは、必ず數字に誤があらう。上の「くやしかも」の歌の評中に考へた如く、憶良は神龜五年には五十二歳見當と覺しい。さてこそ二毛之歎もふさはしくなる。
 
(1431)世間能《よのなかの》 周弊奈伎物能波《すべなきものは》 年月波《としつきは》 奈何流流其等斯《ながるるごとし》 等利都都伎《とりつづき》 意比久留母能波《おひくるものは》 毛毛久佐爾《ももぐさに》 勢米余利伎多流《せめよりきたる》 遠等※[口+羊]〔左△〕良何《をとめらが》 遠等※[口+羊]佐備周等《をとめさびすと》 可羅多麻乎《からだまを》 多母等爾麻可志《たもとにまかし》 之路多倍乃〔五字左○〕《しろたへの》 袖布利可伴之〔六字左○〕《そでふりかはし》 久禮奈爲乃《くれなゐの》 阿可毛須蘇毘伎〔七字左○〕《あかもすそひき》 余知古良等《よちこらと》 手多豆佐波利提《てたづさはりて》 阿蘇比家武《あそびけむ》 等伎能佐迦利乎《ときのさかりを》 等等尾迦禰《とどみかね》 周具斯野利都禮《すぐしやりつれ》 美奈乃和多《みなのわた》 迦具漏伎可美爾《ぐろきかみに》 伊都乃麻可《いつのまか》 斯毛乃布利家武《しものふりけむ》 爾能保奈須《にのほなす》【本文、久禮奈爲能《クレナヰノ》】 意母提乃宇倍爾《おもてのうへに》 伊豆久由可《いづゆきゅか》 斯和何伎多利斯《しわかきたりし》 都禰奈利之〔五字左○〕《つねなりし》 惠麻比麻欲毘伎〔七字左○〕《ゑまひまよびき》 散久伴奈能〔五字左○〕《さくはなの》 宇都呂比爾家里〔七字左○〕《うつろひにけり》 余乃奈可伴《よのなかは》 可久乃未奈良之《かくのみならし》 麻周羅遠乃《ますらをの》 遠刀古佐備周等《をとこさびすと》 都流岐多智《つるぎたち》 許志爾刀利波枳《こしにとりはき》
(1432)佐都由美乎《さつゆみを》 多爾伎利物知提《たにぎりもちて》 阿迦胡麻爾《あかごまに》 志都久良宇知意伎《しづぐらうちおき》 波比能利提《はひのりて》 阿蘇比阿留伎斯《あそびあるきし》 余乃奈迦野《よのなかや》 都禰爾阿利家留《つねにありける》 遠等※[口+羊]良何《をとめらが》 佐那周伊多斗乎《さなすいたどを》 思斯比良伎《おしひらき》 伊多度利與利提《いたどりよりて》 摩多麻提乃《またまでの》 多麻提佐斯迦閉《たまでさしかへ》 佐禰斯欲能《さねしよの》 伊久陀母阿羅禰婆《いくだもあらねば》 多都可豆惠《たづかづゑ》 許志爾多何禰提《こしにたがねて》 可久〔左△〕由既婆《か ゆけば》 比等爾伊等波延《ひとにいとはえ》 可久由既婆《かくゆけば》 比等爾邇久麻延《ひとににくまえ》 意余斯遠〔左△〕波《およし は》 迦久能尾奈良志《かくのみならし》 多摩枳波流《たまきはる》 伊能知意志家騰《いのちをしけど》 世武周弊母奈斯《せむすべもなし》     804
 
〔釋〕 ○すべなきものは の下、年月にてその〔六字右○〕と補うて、下の「年月は流るゝ如し」に續ける。○とりつづき 打續き。「とり」は接頭語。○おひくるものは 追ひ來るものは。○ももぐさに 百種に。いろ/\〔四字傍点〕にといふに同じい。○せめよりきたる 責め寄り來る。○をとめらが 「※[口+羊]」原本に呼〔右△〕とあるは誤。「※[口+羊]」をメと讀む。羊の鳴聲を表した字。○をとめさびすと 處女振るとて〔右○〕。「さび」は「かむさびせすと」を見よ(一五三頁)。○から(1433)だま 韓玉 よい玉を稱する。○たもとにまかし 手本に纏はれ。この「たもと」は手頸のことで袂ではない。「まかし」は纏く〔二字傍点〕の敬相。政事要略、本朝月令に五節舞の歌として「乎度綿度茂《ヲトメドモ》、遠度綿左備須茂《ヲトメサビスモ》、可良多萬乎《カラタマヲ》、多茂度邇麻岐底《タモトニマキテ》、乎度綿左備須茂《ヲトメサビスモ》」を載せ、淨見原天皇(天武)が吉野宮におはしました時、神女が現れて舞ひ歌つたものとしてある。これは後世の傳説で、實は天平十五年五月詔して五節の樂を作られた時(續紀に出づ)作つて歌はせられたのであらう。宣長及び古義は、本文の歌の句を取つて尾一句を作り添へたものと斷じた。○しろたへの 袖の枕詞。「しろたへ」を見よ(一一八頁)。この句より以下、「阿可毛須蘇※[田+比]伎《アカモスソヒキ》」までの四句、原本には本文になく、或有此句として割註に擧げてある。今は本文に補入した。○ふりかはし 互に振合うて。「伴」原本に佯〔右△〕とある。神本その他によつて改めた。○くれなゐのあかもすそ 赤《アカ》はその種の色の總稱で、裳裾が紅色《クレナヰ》の赤なるをいふ。○よちこら 仙覺抄に、同じほどの子等の意と。この外新説がない。案ずるに、よちこ〔三字傍点〕は寄し(由)兒の轉訛で、所縁《ユカリ》ある兒の意か。兒は「菜摘ます兒」を見よ(一一頁)。○ときのさかり 盛りの時。若盛りをいふ。(1434)○とどみかね 留め難《カ》ね。「み」はメの音轉。トドムに四段活用があるのではない。「尾」の次音はミ。正辭の尾にメの音ありとする説は※[手偏+勾]つてゐる。○やりつれ 遣りつれば〔右○〕の意。古文の辭格。早くいへば遣リツルニの意。○みなのわた 蜷《ニナ》の腸《ワタ》。その腸が青黒いので「か黒き」に係る枕詞とした。ニナをミナといふは古言。「蜷」は腹足類中前鰓類の軟體動物。形は田螺に似、介殻大さ一寸餘、黒色にして細長い。川溝などに棲む。又海のもある。賤民の食料としたもの。河貝子。○かぐろき 「か」は接頭辭。「香青《カアヲ》なる」を參照(三八七頁)。○しものふりけむ 白髪を霜に喩へていふ。○にのほなす 丹の秀《ホ》の如く。丹土の色に出て冴えたのを丹の秀といふ。「吾が戀ふる丹の穗の面わ」(卷十)、「赤丹《アカニ》の穗に聞し召す」(祝詞)などある。この句はもと割註の句で、本文は「くれなゐの」とある。上に割註から補入した「紅の赤裳すそ引き」の句と差合ふので、こゝも本文を卻け、割註を取つた。○いづくゆか 何處よりか。○しわかきたりし 皺掻き垂りし。筋肉は老いて弛緩すると皺づいて垂れる。この句の下、六句は本文にない。割註の句を補入して、下の「手束杖《タヅカツエ》腰にたがねて云々」の八句に對せしめることゝした。○つねなりし 何時もの事であつた。○ゑまひ 笑み〔二字傍点〕の延言。○まよびき 眉引。眉の靡く状態をいふ。○さくはなの 「移《ウツ》ろひ」に係る序詞。盛りの花は衰ふるものなればいふ。○うつろひにけり 「ううろふ」は衰へ變るをいふ。○をとこさびすと 壯士《ヲトコ》振るとて〔右○〕。「かむさびせすと」を見よ(一五三頁)。○とりはき、「とりはけ」を見よ(三二六頁)。○さつゆみ 幸《さち》弓の義。「さつや」を見よ(二二九頁)。○たにぎり 「た」は接頭語。○しづぐら 倭文鞍《シヅクラ》。紀の雄畧天皇の御製に、(1435)「玉纏《タママキ》の胡座《アグラ》に立たし、倭文纏《シヅマキ》の胡座《アグラ》に立たし」と見え、延喜式にも倭文纏《シヅマキノ》刀形、※[糸+施の旁]纏《キヌマキノ》刀形、布纏《ヌノマキノ》刀形の稱がある。されば古へは鞍を飾るにも倭文布を以て纏うたと思はれる。契沖が下鞍と解したのは非。今昔物語に賤の鞍とあるは借字であらう。尚「しつはた」を見よ(九六二頁)。○はひのりて 匐ひ乘りて、「匐ひ」は乘る時のかたちをいふ。契沖がよくも乘り得ぬ意と解したのは非。○あそびあるきし 「あるき」は卷三にも「君があるくに」とあり、古言アリクがこの時代には既にかく轉化してゐる。この句は次の「世の中や」の句に續く。切つては惡い。○よのなかや 「や」は反動辭。○さなすいたど さ鳴《ナ》す板戸。「さ」は接頭辭。閉《サ》しの略ではない。「なす」は鳴らす〔三字傍点〕の古言。古への戸は多く開き戸で、開け閉てに音のする故にいふ。この句以下「さ寢し夜は」までは、記(上)の八千矛《ヤチホコノ》神の御歌に「をとめのなすや板戸〔九字傍点〕を、おそぶらひわが立たせれば――眞玉手の玉手さし纏《マ》き云々〔十二字傍点〕」とあるに據つた。○いたどりよりて 辿り寄りて。「い」は發語。○またまでの 眞玉手の。「ま」は美稱。「たまで」は手を賞めて玉に譬へていふ。○たまでさしかへ 玉手指し交《カ》へ。「かへ」は交し〔二字傍点〕の意。○さねしよの 眞寢《サネ》し夜の。○いくだもあらねば 下に、まだ若いと思ふのに〔九字傍点〕の意を含む。○たづかつゑ 手束杖。手に握む杖の義。一握に餘る杖の義とする説はいかゞ。弓にも手束弓といふ。○こしにたがねて 杖を腰に綰《タガ》ねること解し難い。想ふに、杖に紐を付けそれを腰に綰ね結ぶ習慣から、略言したものであらう。契沖以來束ねて〔三字傍点〕とのみ解して、その説を見ない。「たがね」はわかね〔三字傍点〕に同じい。○かゆけば (1436)二條院本に從つた。原本の「可久《カク》ゆけば」は、次に又「かくゆけば」とあるので面白くない。對語の場合には先出のカクをカとのみ略きいふが通例である。續紀第五詔にかく〔二字傍点〕を疊用した例もあるが、文章と歌とはおのづから別途である。○いとはえ 厭はれ。能相の助動詞のれ〔傍点〕をエ〔傍点〕に轉ずることは古語の常である。「※[既/且]」は呉音ケ。○にくまえ、惡まれして〔二字右○〕。○およしは 「およし」は凡《オヨソ》の轉。「遠」は衍字であらう。古義の斯遠《シヲ》の約ソなればとの説は煩はしい。○たまきはる 命及び現《ウチ》などの枕詞。既出(三六頁)。○をしけど 既出(四〇二頁)。△挿畫 挿圖11(36頁)54(163頁)69(二〇二頁)を參照。
【歌意】 人の世の中のどうにも手に乘らぬものは歳月で〔三字右○〕、その駐まらぬことは〔九字右○〕水の流れるやうである。そのあとから引續いて追つて來るものは、老や死など〔五字右○〕種々雜多に迫め掛けてくる。
 娘達がいゝ兒振るとて、唐玉を手首に嵌め、袖をお互に振合つて、赤裳の裾を曳きして、知り合の娘達と手を引連れて遊んだことであらう盛りの時を、さう/\は引止めかねて通り過ぎさせると、黒々した髪に、何時の間に霜(白髪)が降つたことであらうか、艶のいゝ顔のうへに、何處から來て皺が寄つたことか。何時もの事であつた美しい笑みも眉付も、花の散るやうに衰へて變つてしまつたことであるわ。嗟世の中は渾べてかうである外はないらしい。
 又益良雄が壯士《ヲトコ》振るとて、太刀を腰に佩び、獵弓を手に執り持つて、赤駒に倭文鞍を置いて跨がつて、遊び歩いたその世の中が、常住變らずにあつたことかい。娘達が音立てゝ閉める板戸を押開けて、その側《ソバ》に辿り寄つて、奇麗なその手をさし交はして寢た夜が幾らもないのに、早くも年寄つて〔七字右○〕、手束杖の紐を〔二字右○〕腰に綰ねて、ああ行けば人に厭はれ、かうくれば人に惡まれして〔二字右○〕、嗟世の中は〔五字右○〕大抵はかうである外はないらしい。さてこの老(1437)の次に來るものは死だ〔十五字右○〕、命は惜しいけれど仕樣も模樣もないわい。
 
〔評〕 人生ははかない。駒隙逝水を歎じてゐる間に、遠慮なしに老苦病苦死苦などが、まことに「百種に迫め寄りきたる」のである。但こゝには專ら老苦を主題とした。序文にも「二毛の歎を撥ふ」とある。
 老を歎き死を惡むは、古往今來何れの民族でも同じ事だが、只その觀念に就いては時に解釋を殊にして、そこに迷信も生じ、哲學も興つて來た。が作者は普通の人情に立脚して詠歎し、まづ少男少女の老の過程を具象的に描いてみた。
 美女艶婦の容姿服飾を賦することは、漢土上代の詞人の最も得意とした處で、古樂府の日出東南行を始め、辛延年の羽林郎詩、曹植の美女篇、傳元の有女篇、陸機の艶歌行の如き、枚擧に遑がない。作者もそれは知つてゐる筈だ。然るに本篇の處女さびの描寫は、量に於いては貧弱、叙述に於いては疎略だが、これは更に進んで、その衰老状態に言及するが目的だから、彼此相通じて、簡にして要を得た美人形容と見てよからう。
 「面影の變らで年の積れかし」と平安美人の歎いた如く、老の象徴として、婦人の一番氣にするのは第一に皺、第二に白髪だ。それが實に「何時の間か」「いづくゆか」だから溜らない。この二語共に置き得て可なりである。そして結局は「咲く花の移ろひにけり」となつて納まつてしまふ。
 富貴繁華の子の誇りかな容體や行動の描寫に至つては、更に一段の生彩がある。
 上代鷹狩は貴紳の遊樂だが、單なる狩獵は弓箭を帶する程の身柄の者は自由であつた。獵失手挾み、赤駒に倭文鞍置いて山野に馳驅する若者は、白金の目貫の太刀をさげ佩いて都大路を練る子と、風流の好一對を成す(1438)ものであつた。
 公子行少年行、唐代の少年なら彈を挾んで鷹を杜陵の北に飛ばし、日暮は共に娼家に斷腸の花を手折る處を、これは處女子がさ鳴す板戸を叩いて、眞玉手の玉手さし交へてゐる。その眞玉手の玉手は八千矛神の神言をそのまゝに援引したので、聊か知慧のないやうだが、何れにしても若い者は、宴樂と遊蕩でなければ、夜も日も明けない。節物風光不2相待(タ)1、(唐、蘆照隣)で、朝(二ハ)2爲(ルモ)2媚少年1、夕暮(二)成(ル)2醜老(ト)1、(晉、阮籍)、又は昨日(ハ)少年今(ハ)白頭、(唐、許渾)の歎逃るゝに途なく、昔日軒昂の意氣は頓に消沈して、手束杖に漸うその醜い姿を運ぶ。「か行けば人に厭はえ、かく行けば人に惡まえ」は、餘に現實暴露に過ぎて悲慘である。
 以上を抽象的に要約すれば、左の如くであらう。
 三界はみな生者必滅のことわりを歎く。中にも閻浮は老少不定の習ひを添へたり――駒の足いそがはしく羊の歩みあわたゞしければ、暫しともいひあへず、過ぎ易き影に誘はれて、童形ちの遠ざかり行くも名殘惜しけれども力なく、明け暮るゝ月日にはからはれて、我が儘にせぬ齡なれば、心ならず親み來ける知らぬ翁こそ厭はしけね。(向阿、父子相迎抄)
 さて老の次に來るものは死で、「明日知らぬわが身」(古今集、貫之)どころか、今がその時であるかも知れない。「命惜しけど」こればかりは防ぎやうもない。まこと人間世ははかない。
 以上眞に堂々たる大作で、組織が井整を極めてゐる。世間の男及び女の少壯期と頽老期との生活を封象に、その行動を相對的に排敍し、特に男子の方に重鮎を置いたことは、蓋し作者が男性だからである。而して客觀的敍事を以て進行しつゝ、結局人世の無常を痛歎するに至つては、作者その人の切ない息吐を聽くやうである。抑もかくの如き人生觀は、佛教が徹底的に一般人の心に喰ひ入つた後世に於いては、尋常茶飯語に過ぎないが、(1439)推古朝以來佛教隆昌の時代を來したとはいへ、聖武天皇が三寶の奴と宣うた時(天平勝寶元年)より殆ど二十年前に、かゝる思想のもとに人世描寫を、而も精細に切實にかくの如く試みた作家が、何處にあらう。當時に於てもこの歌は識者の注目する處となり、人口に膾炙したものであらう。歌中の一節「から玉を手本にまかし云云」が一寸潤飾されて、五節舞の歌詞となつた一事を以ても、これを證することが出來得る。
 初頭より「迫め寄りきたる」までは冒頭で、これを第一段とする。次に少年少女の榮枯盛衰を極力敷陳したのは、必然なる老苦の殺到を示すにあるので、總括的に第二段として前後二節に分つべきだが、便宜上少女の件を第二段、少年の件を第三段とする。次に結收の三句を第四段とする。
 少女の段末には「世の中はかくのみならし」、少年の段末には「およしはかくのみならし」の同意同型の結語を反復して、一々冒頭の「世の中はすべなきものか」を廻顧し、末段に又「命惜しけどせむすべもなし」と、冒頭に呼應を求めてゐる。かくして人間世が苦界で厭離しつべきものであることが強調される。なほ仔細に看れば修辭上の疵瑕が多少ある。「追ひくる」「迫め寄り來たる」の類語の重複も面白くないが、「世の中や常にありける」の句は全く冗語である。「すべなきものは」と「せむすべもなし」とは、古文の格として有意的の呼應とみて置かう。
 この篇は佛教思想の所産であることは勿論だが、その命意結構は漢詩に由來してゐるやうである。唐の劉廷芝の代(ル)d悲(ム)2白頭(ヲ)1翁(二)uの詩を參考の爲に左に、
  洛陽城東桃李(ノ)花、飛(ビ)來(リ)飛(ビ)去(ツテ)落(ツ)2誰(ガ)家(二カ)1、洛陽(ノ)女兒惜(ム)2顔色(ヲ)1、行(ク/\)逢(ツテ)2落花(二)1長(二)歎息(ス)、今年花落(チテ)顔色改(リ)、明年花開(イテ)復誰(カ)在(ル)、已(二)見(ル)松柏(ノ)摧(ケテ)爲(ルヲ)v薪(ト)、更(二)聞(ク)桑田(ノ)變(ジテ)成(ルヲ)v海(ト)、古人無(シ)2復洛城(ノ)東(二)1、今人|還《マタ》對(ス)落花(ノ)風、年年歳歳花相似(タリ)、歳歳年年人不v同(ジカラ)、寄(ス)v言全盛(ノ)紅(1440)顔子、應(シ)v燐(ム)半※[粲の左上+人](ノ)白頭翁、此翁(ノ)白或眞(二)可v憐(ム)、伊(レ)昔紅顔(ノ)美少年、公子王孫芳樹(ノ)下、清歌砂舞落花(ノ)前、光禄池臺開(キ)2錦繍(ヲ)1、將軍樓閣畫(ク)2神仙(ヲ)1、一朝臥v病無(シ)2相識(ル)1、三春(ノ)行樂在(ル)2誰(ガ)邊(ニカ)1、宛轉(タル)蛾眉能(ク)幾時(バクゾ)、須臾(二)鶴髪亂(レテ)如(シ)v絲(ノ)、但看古來歌舞(ノ)地、惟有(リ)2黄昏鳥雀(ノ)悲(ム)1。
 
反歌
 
等伎波奈周《ときはなす》 迦久斯何母〔二字左○〕等《かくしもがもと》 意母閉騰母《おもへども》 余能許等奈薩婆《よのことなれば》 等登尾可禰都母《とどみかねつも》     805
 
〔釋〕 ○ときはなす 常磐《トキハ》にの意。この「なす」は變態である。「常磐なすわれは通はむ萬代までに」(卷七)「常磐なすいや榮《サカ》はえに」(卷十八)は同例。○かくしもがもと 「かく」は現在の生活をさす。「何母」原本にない。類本その他による。○よのことなれば 「うつせみのよのことなれば」を見よ(一〇四九頁)。
【歌意】 何時も常磐に、かうまあして居たいと思ふけれども、變るが〔三字右○〕世の習なので、それを押とめかねたことよ。
 
〔評〕 長歌の大意を承け、末段の「命惜しけどせむすべもなし」に連絡して、無常變易を主眼として歌つた。下句の修辭に稍不完の氣味はあるが、それは反歌の性質上許容される事である。
 
神龜五年七月二十一日、於(テ)2嘉摩《カマノ》郡(二)1撰定《エラブ》。筑前(ノ)守山(ノ)上(ノ)憶良。
 
「令反惑情歌」以下の長短歌各三首は、嘉摩郡でこの日に調べ定めたとの意。○嘉摩郡 また嘉麻に作る。今(1441)は穗波郡と合して嘉穗郡となつた。太宰府から東約十里の山地。
 筑前守たる作者は偶ま嘉摩郡に滯留、その少閑を偸んで、如上の諸篇が草稿であつたのに、完全の仕上げをした。日附が旅人卿に上つた哀傷歌と同日である。想ふに、哀傷歌以下全部は同日に脱稿したが、哀傷歌のみは旅人卿に見せたので、名の下に「上」と書き、他はそのまゝ篋底に納めたものであらうか。
 
太宰(の)帥大伴(の)卿(の)相聞(の)歌二首〔十一字左○〕
 
この題詞、原本にはない。目録に依つて補つた。○相聞 こゝは友愛の情を叙べた。なほ既出(二九七頁)を見よ。
 
伏(シテ)辱(クシ)2來書(ヲ)1、具《ツブサニ》承(ル)2芳旨(ヲ)1。忽(二)成(シ)2隔(ツル)v漢(ヲ)之戀(ヲ)1、復傷(ム)2抱(ク)v梁(ヲ)之意(二)1。唯羨(ム)去留無(キコトヲ)v恙、遂(二)待(ツ)2披雲(ヲ)1耳。
 
 在京の知人から太宰府にゐる旅人卿に音信があつた、そのこれは返翰で、旅人卿の作である。古義にこの文を次の答歌の前に置き換へたのは非。○伏辱來書―― 辱くも御手紙を頂き、委細に御意の程を承つたの意。○承芳旨 下の「承芳音」と同意。○忽成隔漢之戀 離居して戀しい思をする。七夕傳説に據つたので、事は卷八に詳説する。隔漢は銀河を隔てること。文選の古詩に、迢々(タリ)牽牛(ノ)星、皓々(タリ)河漢(ノ)女、――河漢清(クシテ)且淺(シ)、相去(ルコト)復幾許(ゾ)、盈々(トシテ)一水|間《ヘダタレリ》、脉々(トシテ)不v得v語(ルコトヲ)。とある。漢は銀河のこと。○傷泡梁之意 信を忘れぬ心故に悲む。抱梁は抱(ク)2梁柱(ヲ)1の略で、梁は橋のこと。莊子盗跖篇に、尾生|與《ト》2女子1期(ス)2於梁下(二)1、女子不v來(ラ)、水至(レドモ)不v去(ラ)、抱(イテ)2梁柱(ヲ)1而死(ス)。〇去留無恙 起居の無事なるをいふ。○披雲 面會の意。徐幹の中論に、文王遇(フ)2姜公(二)1、灼然(トシテ)如(シ)3披(イテ)v雲(ヲ)(1442)見(ルガ)2白日(ヲ)1。又晉書に、衛※[王+讙の旁]見(テ)2樂廣(ヲ)1而奇(トシテ)之歎(ジテ)曰(フ)、若(シト)d披(イテ)2雲霧(ヲ)1而覩(ルガ)c青天(ヲ)u。
 
歌詞兩首
 
原本、「歌詞兩首」の下に、太宰帥大伴卿の六字あり、削つた。
 
多都能馬母《たつのまも》 伊麻勿愛弖之可《いまもえてしか》 阿遠爾與志《あをによし》 奈良乃美夜古爾《ならのみやこに》 由吉帝己牟丹米《ゆきてこむため》     806
 
〔釋〕 ○たつのまも 龍の馬をも。「たつのま」は良き馬をいふ。周禮に、凡(ソ)馬(ハ)八尺以上(ヲ)爲(シ)v龍(ト)、七尺以上(ヲ)爲(シ)v※[馬+來](ト)、六尺以上(ヲ)爲(ス)v馬(ト)。○いまも 「も」は歎辭。
【歌意】 時の間に千里を走る龍の馬も、たつた今でも得たいことよ、貴方のいらつしゃる〔九字右○〕懷かしい奈良の京に、一寸往つて來う爲にさ。
 
〔評〕 筑紫の果から奈良京、想うても遙である。况や地方官は私に任地を離れることは出來ない。そこで寸間を偸んでの往復には、千里汗血の龍馬を得るより外に手はない。然し龍馬は滅多に世にない。ないと知りつゝも尚「得てしが」と無い物ねだりをいふまでに、作者の心境は奈良京戀しの一念に逆上してゐる。而も「今も」といふ、如何に思ひ迫つた端的の感じであらう。但これは間接射撃で、その實は書簡の贈主たる奈良人に對して、一途に面晤したいといふ景慕親昵の意を、極度に表明したのである。例の詞人の幻化手段だ。
 
(1443)宇豆都仁波《うつつには》 安布余志勿奈子《あふよしもなし》 奴波多麻能《ぬばたまの》 用流能伊昧仁越《よるのいめにを》 都伎提美延許曾《つぎてみえこそ》     807
 
〔釋〕 ○うつつ 現實。○いめにを 「を」は歎辭。○つぎてみえこそ 續いて見えてくれ。「こそ」は願望辭。
【歌意】 實際には貴方に〔三字右○〕逢ふ術もないわい。せめて夜の間の夢にまあ、打續いて見えて下さい。
 
〔評〕 龍の馬も出來ない相談、「現《ウツツ》には逢ふ由もなし」と自覺するに至つては、當てにならぬ夢を當てにするより外はなくなる。
  空蝉の人目しげくはぬば玉のよるのいめにを繼ぎて見えこそ (卷十二−3108)
  今よりは戀ふとも妹に逢はめやも床のべさらず夢に見えこそ (卷十二−2957)
  今更に戀ふとも君に逢はめやもぬる夜をおちず夢に見えこそ (卷十三−3283)
戀歌にはかくの如く等類が多い。作者の來筑を神龜の二年とすれば、約五年の星霜を天離る鄙に暮した。離人の郷愁は殆ど戀の苦患と※[人偏+牟]しい。
 
(1444) 大伴(ノ)淡等《タビト》 謹状
 
この六字、原本は答歌の「ただにあはば」の歌の直後にあるが、こゝに置くが至當と思ふ。
○淡等 旅人《タビト》の聲に充てた作名。作名は漢詩文に署する爲、漢土人に擬した名を作ることで、大抵本名の類音を用ゐる。語呂が合ひさへすればよいので、音韻の理論に合ふのもあり、合はぬのもある。なほ「藤原宇合」の項を見よ(二五六頁)。○謹状 謹んで認めた書状の意。
 
答(ふる)歌兩首〔二字右○〕
 
これは在京の知人の作である。自分の見舞に對して、旅人卿からの書状に歌を添へてよこしたので、その返歌を又詠んで贈つたもの。○兩首 この二字補つた。
 
多都乃麻乎《たつのまを》 阿禮波毛等米牟《あれはもとめむ》 阿遠爾與志《あをによし》 奈良乃美夜古爾《ならのみやこに》 許牟比等乃多仁《こむひとのたに》     808
 
〔釋〕 ○たに 爲《タメ》にの略言。續紀十七詔に、國家護《ミカドマモ》るが多仁波《タニハ》勝れたり、佛足石の歌に、比○乃多爾《ヒトノタニ》などのタニは皆爲に〔二字傍点〕の意である。「仁」神本には米〔右△〕とある。これはタメ〔二字傍線〕と讀む。
【歌意】 龍の馬を私は探しませう、この奈良の京に來うといふ貴方の爲にさ。
 
(1445)【評】旅人卿の前首に對した返歌で、得難い龍の馬でも君の爲には求めようとは、切實に面會を欲する懇情の詞である。
 
多陀爾阿波須《ただにあはず》 阿良久毛於保之〔左△〕《あらくもおほし》 志岐多閉乃《しきたへの》 麻久良佐良受提《まくらさらずて》 伊米爾之美延牟《いめにしみえむ》     809
 
〔釋〕 ○ただにあはず 一向に逢はず。○あらく ある〔二字傍点〕の延音。〇おほし 多しの意か。「之」原本に久〔右△〕とある。宜長略解などの説に隨つて改めた。
【歌意】 その後一向に逢はず居ることがまあ多い。でお詞のまゝに、貴方の〔九字右○〕枕許を退かないで、貴方の〔三字右○〕夢にさ現れませうよ。
 
〔評〕 これは後首の返歌である。例の應酬の語、別にいふ處もない。新考に「おほし」はおほゝし〔四字傍点〕の意か、又は本文に於保々〔二字右△〕之とありしかとあるが、それも覺來ない。
 
大伴(の)卿(の)梧桐日本琴《きりのやまとごとを》、贈(れる)2中衛(の)大將藤原(の)卿(に)1歌二首〔大伴〜左○〕
 
旅人卿が桐で造つた日本琴《ヤマトゴト》を、中衛(ノ)大將藤原(ノ)房前(ノ)卿に贈つた時の歌との意。この題詞は原本にない。目録に依つて補つた。○中衛大將 ナカツマモリノツカサノカミ。中衛府の長官。○中衛府 禁中警衛の官衙で、神龜五年七月始めて置かれ、大將一人從四位上、少將一人正五位上、將監四人從六位上、以下諸役がある。天平寶(1446)字二年鎭國衞と改め、大將を正三位、少將を從四位上としたが、天平勝寶八年舊名舊制に復し、近衛府に對せしめた。○藤原卿 房前はこの時まだ從四位上だが、敬意を以て卿と書いた。○房前 贈太政大臣藤原不比等の第二子。續紀に、大寶三年五月正六位下藤原朝臣房前を東海道に遣はし政績を巡省せしめ、慶雲三年十二月從五位下、和銅四年四月從五位上、靈龜元年從四位下、養老元年十月朝政を參議し、同三年正月從四位上、同五年正月從三位、神龜元年二月正三位、天平元年九月中務卿となり、同四年八月東海東山二道の節度使を命ぜられ、同九年四月民部卿正三位にて薨ずとある。年五十七。(懷風藻)その年十月正一位左大臣を贈られた。生前兄武智麻呂の家の北に住んでゐたので、世に武智麻呂を南卿、房前を北卿と稱した。
 
梧桐日本琴一面《きりのやまとごとひとつ》 【對馬(ノ)結石《ユフシ》山(ノ)桐(ノ)孫枝《ヒコエ》也。】
 
これは書牘中の題言である。○梧桐 桐の木。玄參科の落葉喬木。和名抄に、陶隱居の本草註を引いて、桐(二)有(リ)2四種1、青桐梧桐崗桐椅桐、椅桐(ハ)白桐也、三月(二)花紫(ナリ)、亦堪(ヘタル)v作(ルニ)2琴瑟(二)1者是也とあるもの。椅桐を絃にこは梧桐と稱(1447)した。○日本琴 和名抄に、體似(テ)v箏《サウニ》而短小、有(リ)2六弦1、俗(二)用(ヰル)2倭琴(ノ)二字(ヲ)1、夜萬止古止《ヤマトゴト》、云々。又|東《アヅマ》琴といふ。大中小の三種あり、大は長さ六尺二寸、中は六尺、小は五尺或は五尺八寸、横六寸。○一面 面は平にして面ある物を數ふる稱呼。○結石山 對馬の北部にある山。今ユヒイシと唱ふ。○孫枝 卷十八橘の歌に「春されば孫枝《ヒコエ》もいつつ」、字鏡に、※[木+少](ハ)木(ノ)細枝也、比古江《ヒコエ》とある。文選※[(禾+尤)/山]康の琴賦に、乃(チ)〓(リ)2孫枝(ヲ)1准(ヘ)2量(ル)所(二)1v任(ス)。體源抄に、箏の甲の木、舊記にいふ、鹽風に吹かれたる日あたりの孫枝を用ゐるべき也と。
 
此琴夢(二)化《ナリテ》2娘子(ト)1曰(フ)、余|託《ヨセ》2根(ヲ)遙島之崇巒(二)1、晞《サラス》2※[韓の左+夸]《カラヲ》九陽之休光(二)1、長(ク)帶(ビテ)2煙霞(ヲ)1、逍2遙(シ)山川之|阿《クマニ》1、遠(ク)望(ミテ)2風波(ヲ)1、出2入(ス)雁木之間(二)1。唯恐(ル)百年之後、空(シク)朽(チムコトヲ)2溝壑(二)1。偶(マ)遭(ヒテ)2良匠(二)1、散(ジテ)爲(レリ)2小琴(ト)1、不v顧(ミ)2質廉(ク)音少(キヲ)1、恒(二)希(フ)2君子之左琴(タラムコトヲ)1。即(チ)歌(ヒテ)曰(フ)、
 
○此琴夢化―― 琴が夢中に娘子となつて現じ、作者に物語つたとかいふ趣向である。○託根遙島之崇巒―― 遠い海島の對馬の高い山に根を下しの意。「託」は托の通用。○晞※[韓の左+夸]九陽之體光 幹を太陽のよき光に照らさせ。※[韓の左+夸]は幹と同字。九陽の九は陽の極數、陽は日、體は善美の意。※[(禾+尤)/山]康の琴賦に、
  惟椅梧之所v生(ズル)兮、託(ス)2峻嶺之崇巒〔五字傍点〕(二)1、――含(ミ)2天地之醇和(ヲ)1兮、吸(フ)2日月之休光〔三字傍点〕1、欝(ト)紛紜(トシテ)以(テ)獨茂(リ)兮、飛(ス)2英〓(ヲ)昊蒼(二)1、夕(二)納(レ)2景(ヲ)于虞淵(二)1、旦(二)晞(ス)2幹於九陽〔四字傍点〕(二)1。(1448)○長帶煙霞―― 長いこと靄や霞を帶びて、山川の曲隅に自適しの意。逍遙は彼地此地と遊びあるくこと。詩の鄭風に、河上(ニ)乎逍遙(ス)。また莊子に逍遙游の篇がある。○遠望風波―― 遙に島外の風波を望んで、どちらつかずの境に身を保つてゐるの意。雁木とは莊子山木篇に、
  莊子行(イテ)2於山中(ニ)1、見(ル)d大木(ノ)枝葉盛茂(シ)、伐(ル)v木(ヲ)者止(リテ)2其(ノ)旁(ニ)1而不(ルヲ)uv取(ラ)也。問(ヘバ)2其故(ヲ)1曰(ク)、無(シト)v所v可(キ)v用(ヰル)。莊子曰(ク)、此木(ハ)以(テ)2不材(ナルヲ)1得(ト)v終(フルヲ)2其天年(ヲ)1。夫子出(デ)2於山(ヨリ)1舍(ル)2於故人之家(ニ)1。故人喜(ンデ)命(ジテ)2豎子(ニ)1殺(シテ)v雁(ヲ)而烹(ル)v之(ヲ)。豎子請(フテ)曰(ク)、其一能(ク)鳴(ク)、其一不v能(ハ)v鳴(ク)、奚(レヲカ)殺(サン)。主人曰(ク)殺(セ)2不(ル)v能(ハ)v鳴(ク)者(ヲ)1。明日弟子問(フ)2於莊子(ニ)1曰(ク)、昨日山中之木、以(テ)2不材(ヲ)1得v終(フルヲ)2其天年(ヲ)1今主人之雁(ハ)以(テ)2不材(ヲ)1死(ス)、先生將(ニ)何(レニカ)處(セン)。莊子笑(ツテ)曰(ク)、周(ハ)將(ムト)v處(ラ)d夫材(ト)與2不材(トノ)1間(ニ)u。。云々。
〇百年之後 長き歳月の後。人の一生をいふ。○朽溝壑 命を失ふことの謙辭。戰國策、史記などに填2溝壑1とある。壑は谷のこと。〇偶遭良匠―― 丁度良い職人に出合つて、ばら/\になつて小さい琴となつたの意。琴賦に、至人|※[手偏+慮]《ノベ》v思(ヲ)、制(シテ)爲(ル)2雄琴(ヲ)1。〇希君子之左琴 いゝ方の座側の琴となりたい。劉向の列女傳に、君子左(ニシ)v琴(ヲ)右(ニス)v書(ヲ)、樂材(リ)2其中(ニ)1。○歌曰 娘子が詠んだ歌にいふの意。
 夢中に桐の琴が娘子となつて、その來歴と希望とを語る。素より荒唐假托の言で、莊子の寓言に類する。尤も非情又は異類のものが人格を持つて現れる話説は、一般古代人のもつ迷想で、萬有を神と信ずる思想と一縷共通するものがある。後世の雜書はさておき、支那の捜神記や日本靈異記などを見たら、その類話の多いのに驚くであらう。
 
(1449)伊可爾安良武《いかにあらむ》 日能等伎爾可母《ひのときにかも》 許惠之良武《こゑしらむ》 比等能比射乃倍《ひとのひざのへ》 和我摩久良可武《わがまくらかむ》     810
 
〔釋〕 ○ひのときに いかにあらむ日のいかにあらむ〔六字右○〕時にを略していつた。○こゑしらむひと 音を聞き知るであらう人。知音。列子に、伯牙善(ク)鼓(ス)v琴(ヲ)、鍾子期善(ク)聽(ク)。呂氏春秋に、鍾子期死(ス)、伯牙破(リ)v琴(ヲ)絶(チ)v絃(ヲ)、終身不2復鼓(セ)1v琴(ヲ)、以爲(ラク)無(シト)d足(ル)2爲(ニ)鼓(スルニ)者u。○ひざのへ 膝の上《ウヘ》の略。○まくらかむ 枕にせう。「まくらく」は四段括。
【歌意】 どうした日のどうした〔四字右○〕時に、音を知らう人の膝の上を、私が枕に出來ようかまあ。
 
〔評〕 旅人卿は或時、その太宰府管内に屬する對馬の結石山の桐の木で和琴を造り、座右の愛翫とした。相當調子が良いので、これを奈良京にゐる知人藤原(ノ)房前に贈らうとしたが、それには何か一趣向と思ひ付いたのが、この琴が娘子に化つて夢中に現れての問答なのである。
 「いかならむ日の時にかも」の口調は、如何にも世話しない。一刻も早く知音に出遇ひたいの熱望が表現されてゐる。これを反對に考へれば、琴の娘子が旅人卿を前に置いて、お前などは聲知らぬ耳無しだからと見限つた事になる。かう娘子にいはせたのは、即ち自分はこの琴の持主たる資格のない人間と卑下して、房前に贈る爲の素地を作つたもので、一寸面白い趣向ではないか。
 「膝の上枕かむ」は、和琴は時としては膝に片乘せて彈じもするのでいつた。
 
僕《やつがれ》報《こたへて》v詩(に)詠《よめる》曰。
 
(1450) 私がその娘子の歌に答へて詠んたとの意。○僕 自稱の謙稱。漢書に自稱(シテ)爲(ス)v僕(ト)。○詩 こゝでは和歌を唐めかして稱した。下にも卷十七にも、この例がある。
 
許等等波奴《こととはぬ》 樹爾波安里等母《きにはありとも》 宇流波之吉《うるはしき》 伎美我手奈禮能《きみがたなれの》。 許等爾之安流倍志《ことにしあるべし》。     811
 
〔釋〕 ○こととはぬ 既出(一〇四七頁)。○きにはありとも 新考にアレドモの誤であるやうに主張してゐるのは却て非。琴の娘子への返歌だから、「あれども」と確言するは失禮の嫌があるので避けたもの。○うるはしき 端正なること。立派なること。○きみが 人の〔二字傍点〕とあるべきを、轉じてかくいつた。蓋し贈歌だからである。○たなれのこと 手に執り馴らす琴。
【歌意】 物いはぬ木で、よしあるとしても、君子たる方の持ち馴らす琴でさ、あるであらう。
 
〔評〕 琴の娘子が氣を揉んで、知音の膝を求めたのに對しては、まあ安心しなさい、何れ立派な方の左琴とならうからと慰めた。かうしてその琴を房前に宛てゝ贈つた以上は、その房前は必ず「聲聞き知らむ人」「うるはしき君」であらぬばならぬことが、間接に暗證される。實に巧妙なる辭令である。この贈答とも旅人卿の戲作。
 
琴(の)娘子《をとめの》答曰(ふる)。
 
敬(ンデ)奉《ウケタマハル》2徳音(ヲ)1、幸甚幸甚(ト)。片時(二)覺(メタリ)。即(チ)感《カマケテ》2於夢(ノ)言(二)1、慨然(トシテ)不v得2默止《モダスコトヲ》1。故《カレ》附(ケテ)2公(ノ)使(二)1聊(カ)以(テ)進御(スル)耳。
 謹状不具。
 
(1451) ○敬奉徳音―― 敬んで有難い仰を承り嬉しいことですと、琴の娘子が答へたと見て、自分の夢が覺めた。そこで夢中の娘子の言葉をめでて、心に衝動を感じて捨てゝも置かれず、それ故公の使に托して、聊かこの琴を貴方に差上げますのです、との意。○徳音―― 文選の李陵答蘇武書に、時(ニ)因(リテ)2北風(二)1復惠(メ)2徳音(ヲ)1、幸甚幸甚とある。毛詩谷風にも、徳音莫(シ)v違(フコト)など用例が多い。〇進御 進め參らす。琴賦に進2御(ス)君子(二)1。
 
天平元年十月七日、附(ケテ)v使(二)進上《タテマツル》。
 
 太宰府から公用で上京する使に托して差上げますとの意。本文には「附公使」とある。この使は太宰(ノ)大監大伴(ノ)百代であらう。
 
謹(ミテ)通《タテマツル》2中衞高明|閤下《カフカニ》1謹空
 
 ○謹通中衞高明閤下 謹んで中衛大將房前殿の許に差上げるとの意。○高明 優れた聡明。相手の徳を稱へていふ。陸機の弔(フ)2魏武帝(ヲ)1文(ノ)序に高明之質、夏侯湛の東方朔畫賛に高明克(ク)柔(ナリ)などみる。○閤下 尊稱。閤下に同じい。閣は高殿、閤は門傍の小戸で意は殊なるが、並用してゐる。○謹空 謹んで空白を置くの意。書簡に奥を明くるを敬とする。故に敬空とも書く。東寺にある傳教大師の弘法大師への返簡にも謹空の字がある。唐時代の書簡の樣式。
 
中衞(の)大將藤原(の)卿(の)報(ふる)歌一首〔十一字左○〕
 
(1452)この題詞原本にはない。目録に依つて補つた。
 
跪(キテ)承(ル)2芳音(ヲ)1、嘉懽|交《コモゴモ》深(シ)、乃(チ)知(ル)龍門之恩、復厚(キコトヲ)2蓬身之上(ニ)1、戀望(ノ)殊(ナル)念、常心(ニ)百倍(セリ)。謹(ミテ)和《ナゾラヘ》2白雲〔左△〕之什(ニ)1、以(テ)奏(ス)2野鄙之歌(ヲ)1。 房前謹状。
 
○嘉懽交深 嬉しさと喜とが入交つて一方ならない。○乃知龍門之恩―― 御引立の恩が、私の身に深いことを知つたの意。和琴を贈られた感謝の意を寓せた。龍門は登龍門の義。三秦記に、支那の黄河のよ流に龍門山あり、河水迅急、鯉魚こゝを登れば龍と化《ナ》ると。以て人の榮達に喩へる。後漢書李膺傳に、膺以(テ)2聲名(ヲ)1自(ラ)高(ウス)、士有(レバ)d被(ル)2容接(ヲ)1者u、名(ケテ)爲v登(ルト)2龍門(ニ)1。蓬身は卑しい身。蓬はヨモギ、雜草なので冠して謙稱とした。○戀望殊念―― 戀ひ念ふ切なる心は平生に百倍したの意。○和白雲之什―― 高作に答へて拙い歌を申上げるの意。白雲は白雪〔右△〕の誤か。白雪之什とは支那の楚國の歌曲の名で、高尚の詞を稱する。文選の宋玉が楚王問對に、客有(リ)d歌(フ)2於郢中(ニ)1者u、其始(ヲ)曰(フ)2下里巴人(ト)1、國中屬(シテ)而和(スル)者數千人、其爲(ス)2陽阿薤露(ト)1、國中屬(シテ)和(スル)者數百人、其爲(ス)2陽春白雪(ト)1、國中屬(シテ)而和(スル)者不v過(ギ)數人(ニ)1、云々。愈よ高尚なるほど和する者が少い。よつて陽春白雪を高調なる詞章の稱に用ゐた。什は詞歌の成數の稱。
 文意は龍門の何のと謙抑の辭に滿ちてゐる。房前も名家藤原氏の出ではあるが、當時旅人卿は高官の長老、自分は後輩(四十九歳)で官位も稍後れてゐるので、懇親の間柄とはいひながら謙遜した。
 
許等騰波奴《こととはぬ》 紀爾茂安理等毛《きにもありとも》 和何世古我《わがせこが》 多那禮乃美巨騰《たなれのみこと》 都地爾意加米移母《つちにおかめやも》     812
 
(1453) ○わがせこ こゝは友人旅人卿をさした。漢語の尊兄などいふに近い。既出(三三七頁)を參照。○みこと 御琴。○やも 「移」は古へヤの假字に充てた。例は神功皇后紀、欽明天皇紀などにある。本音はヤ行音のイなので、轉用された。
【歌意】 仰の如く、物いはぬ木であるとしても、貴方樣が持ち馴らされた御琴を、假初にも下に置きませうことかい。
 
〔評〕 旅人の贈遺に對しての感謝である。すべて樂器の類は上手が彈き込んだ物程よいのだから、外ならぬ旅人卿の手馴の琴は愈よ結構な筈で、下にも置かず珍重しませうの意を轉義して、「土に置かめやも」と、「木」の縁語を用ゐた。初二句は贈歌のまゝを返却した。
 
十一月八日、附2還《ツケテカヘス》使(ノ)大監《ダイゲンニ》1。
 
 天平元年十一月八日、御使の太宰(ノ)太監に返簡を托するとの意。下の梅花宴の歌註によると、この時の大監は大伴(ノ)百代《モモヨ》である。傳は卷三に既出(八九七頁)。
 
謹(ミテ)通《タテマツル》2尊門記室(ニ)1。
 
 謹んで貴殿の書記までに差上げるとの意。直接に宛てることを憚つた書式。尊門はその人の家を尊んだ稱。記室は書記の室。又その人の稱。漢書百官志に、王公大將軍幕府、皆有(リ)2記室1、掌(ル)v草(スルコトヲ)2書紀(ヲ)1とある。
 
〔1452.1453頁の上欄に房前の懷風藻の漢詩三首があるが、省略、入力者注〕
 
(1454)山上(の)臣憶良(が)詠(める)2鎭懷石(を)1歌一首并短歌〔全部左○〕
 
この題詞原本にない。目録に依つて補つた。○鎭懷右 記記を併せ考へると、古へ神功皇后が三韓征代の御時、臨月の御腹を鎭めの爲、御腰に石を挿まれたが、御凱旋後怡土郡の子負の原に至り皇子御降誕、その際お取置きになつた石が今に存してゐるとある。次の歌序によると、奈良時代には原の小邱上にその石が二箇あつた。然るに後世何時か紛失して、今は八幡の小社が建つてゐる。鎭懷とは歌に「御懷《ミココロ》を鎭め給ふと」と見え、産氣を抑へるをいふ。 
 
筑前(ノ)國|怡士《イトノ》郡(ノ)深江村(ノ)子負《コフノ》原(ニ)、臨(メル)v海(ニ)丘(ノ)上(ニ)有(リ)2二(ノ)石1。大(ナル)者(ハ)長(サ)一尺二寸六分、圍《ウダキ》一尺八寸六分、重(サ)十八斤五兩、小(キ)者(ハ)長(サ)一尺一寸、圍一尺八寸、重(サ)十六斤十兩。(1455)並皆《ミナ》楕円(ニシテ)状如(シ)2鷄子《トリノコノ》1。其|美好《ヨキコトハ》者、不v可(カラ)2勝(ゲテ)論(フ)1。所謂《イハユル》徑尺(ノ)璧是也。【或(ハ)云(フ)此二石(ハ)者肥前(ノ)國|彼杵《ソノキ》郡(ノ)平敷《ヒラシキ》之石、當(リ)v占(ニ)而取(ルト)v之(ヲ)】去(ルコト)2深江(ノ)驛家《ウマヤヲ》1二十〔左△〕許里《サトバカリ》。近(ク)在(リ)2路(ノ)頭(ニ)1。公私(ノ)往來(ニ)莫(シ)v不2下(リテ)v馬(ヨリ)跪拜《ヲロガマ》1。古老相傳(ヘテ)曰(フ)、往昔《イニシヘ》息長足日女《オキナガタラシヒメノ》命、征2討《コトムケタマヒシ》新羅《シラギノ》國(ヲ)1之時、用(テ)2茲(ノ)兩(ノ)石(ヲ)1挿2著《サシハサミタマヒテ》御袖之中(ニ)1、以爲(タマヒキ)2鎭懷(ト)1。【實(ハ)是御裳(ノ)中矣】所以《カレ》行人《ミチユキビト》敬2拜《ウヤマヒヲロガム》此石(ヲ)1。乃(チ)作歌曰《ウタヨミスラク》、
 
〔釋〕 ○怡土郡 今|志麻《シマ》郡と合して糸島郡となつた。怡土は伊斗、伊覩、逸都など書く。○深江村 福岡の東南八里、唐津路に當る海村で、西に一小灣を抱いてゐる。兵部省式に茲に驛馬を置いたことが見える。○子負原 筑紫風土記及び筑前風土記には子饗原とある。今コブノハラといふ。深江町の南五町。下文に「去深江驛家二十許里」とあるので、地名辭書は、二十許里は今路《イマミチ》にして三里餘なれば、濱崎の北なる鹿家《シカガ》崎、包石《ツヽミ》の邊なるべしとの一説を立てた。然しその邊は山海の相迫つた隘路ばかりで、假にも原の名を下すべき場所がない。案ずるに「二十許里」、は二許里〔三字傍点〕の誤で、十〔右△〕は衍字であらう。六町一里の制とすれば、二許里なら深江の驛頭から子負原まで、略その距離が出合ふ。〇一尺二寸六分 元明天皇の和銅六年の改制で、唐の大小尺を採用し、大尺を常用とし、小尺は※[日/処の几をト/口]景を測り湯藥を合するにのみ用ゐた。大尺の一尺は曲尺《カネ》の九寸七分八厘、小尺の一尺は同八寸一分五厘に當る。〇十八斤五兩 約二貫目ほどの重さ。大寶令の制に大小二樣あり、小兩は二十四銖を一兩、十六兩を一斤とした大兩は小兩の三兩を一兩に數へた。銀銅を量るには大を用ゐ、その他は小を用ゐた。(1456)令の大一斤は今の百八十匁に當る。○圍一尺八寸 原本「一」の下に寸〔右△〕の字あり、削つた。○状如鷄子 形が鷄卵のやうだ。○不可勝論 とても口で現せない。○所謂徑尺璧是也 一石ではなくて、世にいふ徑尺璧、即ち大きな玉であるとの意。徑尺はさし渡し一尺あるをいふ。淮南子に、聖人不(シテ)v貴(バ)2尺之璧(ヲ)1、而重(ンズ)2寸之陰(ヲ)1。○平敷之石當占而取之 割註の文で、神功皇后は占によつて平敷の石を取寄せられたとの意。平敷は長崎の北浦上村の平野寄のことといふ。そこに燧石の類の美麗なるが多く、里人はこれを子産《コウミ》の咒物とし、又緒締の玉などに磋るといふ。(記傳その他參取)。○公私往來――公用私用の往來に乘物から下りて跪いて拜まぬ者はないの意。○古老 土地の老人達。○息長足日女命 神功皇后の御名。○征討新羅國 皇后の三韓征伐は紀記に委しい。○挿著御袖之中 御袖の内に挿まれたとの意。○實是御裳中矣 割註の文で、本文は御袖之中とあるが、實は御袴の内であるとの注意。この石の事紀記の外、風土記に、
  子(ノ)饗原(ニ)有(リ)2石兩顆1、一片(ハ)長一尺二寸、周一尺八寸、一(ハ)長一尺一寸、周一尺八寸、色白(クシテ)而便(チ)圓(ク)如(シ)2磨(キ)成(セル)1、――凱旋之日至(リ)2芋※[さんずい+眉]1太子誕生、有(リテ)2此因縁1曰(フ)2芋※[さんずい+眉]《ウミ》野(ト)1、俗間(ニ)婦人忽然(チ)娠動(クトキ)、裙腰(ニ)挿(ミ)v石(ヲ)令(ム)v迎(ヘ)v時(ヲ)、蓋(シ)由(ル)v此(ニ)乎。(筑紫風土記)
  兒饗野、此野之西(ニ)有(リ)2白石二顆1、一顆(ハ)長(サ)一尺一寸、太(サ)一尺、重(サ)四十一斤、一顆(ハ)長(サ)一尺一寸、太(サ)一尺、重(サ)四十九斤、――時人號(ケテ)2其石(ニ)1曰(フ)2皇子|産石《ウミイシト》1、今訛(リテ)謂(フ)2兒饗(ノ)石(ト)1。(筑前風土紀)
 
可既麻久波《かけまくは》 阿夜爾可斯故斯《あやにかしこし》 多良志比※[口+羊]《たらしひめ》 可尾能彌許等《かみのみこと》 可良久爾遠《からくにを》 武氣多比良宜弖《むけたひらげて》 彌許々呂遠《みこころを》 斯豆迷多麻布等《しづめたまふと》 伊刀良斯弖《いとらして》 伊波比多麻比斯《いはひたまひし》 麻(1457)多麻奈須《まだまなす》 布多都能伊斯乎《ふたつのいしを》 世人爾《よのひとに》 斯※[口+羊]斯多麻比弖《しめしたまひて》 余呂豆余爾《よろづよに》 伊比都具可禰等《いひつぐかねと》 和多能曾許《わたのそこ》 意枳都布可延乃《おきつふかえの》 宇奈可美乃《うなかみの》 故布乃波良爾《こふのはらに》 美弖豆可良《みてづから》 意可志多麻比弖《おかしたまひて》 可武奈何良《かむながら》 可武佐備伊麻須《かむさびいます》 久志美多麻《くしみたま》 伊麻能遠都豆爾《いまのをつつに》 多布刀伎呂可※[人偏+舞]《たふときろかも》     813
 
〔釋〕 ○かけまくは 「かけまくも」を見よ(五三〇頁)。○あやに 既出(四四七、五三〇頁)。○たらしひめ 神功皇后の御事。息長足姫《オキナガタラシヒメ》の略。卷十五にも「多良思比賣《タラシヒメ》御舶《ミフネ》はてけむ」とある。歌謠の上ではかく略稱することは珍しくない。○みこと 命が〔右○〕。○からくに (1)大|加羅《カラノ》國、(2)三韓、(3)唐國、(4)弘く外國の稱とする。松下見林の説に、崇神天皇之世、大加羅國王之子|都怒我阿羅之《ツヌガアラシ》來(ル)、此外夷歸化之始也、故(ニ)韓地(ヲ)爲(ス)2加羅國(ト)1と(通證所引)。○むけたひらげて 征服して。紀に平をムケと訓んである。向けの義。さてこの句は切離して、遙に下の「眞玉なす二つの石を」へ續けて解する。○みこころをしづめたまふと 御懷《ミココロ》を鎭め拾ふとて。御産氣の腹を齋ひ鎭めて、その期を延ばすのをいふ。記に、即(チ)爲(ニ)v鎭(メム)2御腹(ヲ)1、取(リ)v石(ヲ)以纏(フ)2御裳之腰(ニ)1。○いとらして 「い」は接頭の發語。「とらし」は取るの敬相。○いはひたまひし 神に祈つて潔《キヨマ》はれた。○まだまなす 眞玉|如《ナ》す。○(1458)いひつぐがねと「語りつぐがね」を見よ(八四二頁)。○わたのそこおきつふかえ 海の底の極みの深しといふを、地名の深江《フカエ》にかけた修飾語。「おき」は奥の意。○うなかみ 海之上《ウナカミ》。海邊といふに同じい。○おかしたまひて 「おかし」は置く〔二字傍点〕の敬相。以上は足姫の御所爲を叙べた。○かむながら云々 その石が〔四字右○〕。「かむながら」は既出(1一五三頁)。○かむさび 「かむさぶと」を見よ(一五三頁)。○くしみたま 奇《ク》し御玉《ミタマ》。「奇し」はくすし〔三字傍点〕、くすはし〔四字傍点〕ともいひ、靈妙の意。「みたま」は石を玉と見ての言で、御靈《ミタマ》の意ではない。(宣長説)。新考はくしみ〔三字傍点〕と切つてみ〔右○〕を接尾語と見た。○いまのをつつに 今の現在に。「をつつ」はうつつ〔三字傍点〕(現)と同語。○たふときろかも 貴いことよ。「ろ」は「ともしきろかも」を見よ(二一三頁)。
【歌意】 懸けて思ふことは眞《アヤ》に恐れ多い、あの神功皇后樣が、御産氣をお鎭めなさるというて、お取りなされて神に祈り齋はれた、玉のやうな二つの石を、韓國を平定して後に〔二字右○〕、世人にお示しになつて、萬代に語り續ける爲にとて、深江の海邊の子負の原に、御手づから置かれて、それからこの方〔七字右○〕、神としてかう/\しく入らつしやいます、不思議なこの靈石《タマ》は、今の現在に尊くあらしやることよなあ。
 
〔評〕 神功皇后征韓の御時からこの天平元年まで、その間五百廿七年、久しくない事はないが、御裳の中に挿まれた石が、長さ一尺何寸の重さ十八斤のと生長したことは、餘に非科學的であらう。が傳説として、そこに特殊の光彩があり、時代を反映し時代人の心理を照射する。
 拜石の慣習は太古に於いて何れの邦でも存在してゐた。殊に萬有を神と信じてゐたわが國では勿論の事で、磐座《イハクラ》神籠石の類から始めて、石神に至つては所在に無數だ。又石に關するる奇蹟話説は枚擧に遑がなく、或は石(1459)に依つて吉凶を卜する石卜力石など、いひ立てれば全く無際限である。
 子負の原丘上の白石も、始から特殊の意味で別に存在してゐたものであらう。それに鎭懷の話説が纏綿して、愈よ神聖なる物として崇敬されるに至つたと考へられる。
 元明天皇の和銅六年に諸國に詔して、風土記を作らしめられた。この時から天平元年頃までは二十七年を經過してゐるから、遲速はあつても大抵は既に撰了されたと見てよからう。出雲風土記の如きは、追加の附記が天平五年である。然るに筑前守たる憶良は、記紀にさへ採收された鎭懷石の史蹟の詳説を、さも珍しさうに怡土人牛麻呂から聞いて、歌序に記載してゐる。筑前國ではまだ風土記の撰が成つてゐなかつた處か、各郡司からその原稿さへも、國衙に提出されて居なかつたことを想はせる。
 本篇は傳聞より外に何等の取材をしてゐない。靈石に就いての來歴を一意到底に行敍して、只末節に至り聊か轉捩して、稱讃の歎語を下して筆を收めた。「韓國をむけ平げて」の一句が聯絡の妥當を缺いてゐる爲に、完作と推奨する事の出來ないのは遺憾である。多分二三の落辭か脱句があるのであらう。「海の底おきつ深江」の辭樣は「海の底おきつ白波たつ田山」(卷一)と吻合する技巧である。
 國守は部内を巡檢してその風俗を察るのが任務の一である。然るに作者はその部内であり、太宰府からさう遠くもない深江の驛家を、まだ訪はなかつた。蓋し神經痛の持病で外出が不自由だつたせゐもあらう。若しこの石を實見してその詩想を縱横に發揮させたならば、より大いなる感興のもとに、或はその四圍の景象までも織り込まれて、情景兼ね到る非常な大作を、必ず世に遺したであらう。これは憶良の技倆を信ずる者の齊しく疑はない處である。
(1460) この歌の製作時期を案ずるに、上の梧桐日本琴の歌が天平元年十月であり、下の梅花の歌が同二年正月である。その間に按排されてあるから、まづ天平元年十月以降の冬季中の作と假定する。
 
反歌〔二字右○〕
 
○反歌 この二字原本にない。補つた。
 
阿米都知能《あめつちの》 等母爾比佐斯久《ともにひさしく》 伊比都夏等《いひつげと》 許能久斯美多麻《このくしみたま》 意可志家良斯母《おかしけらしも》     814
 
〔釋〕 ○あめつちのともに 天地と共に。天地と〔傍点〕が天地の〔傍点〕と音便で轉じた。別にトに通ふの辭があるのではない。○いひつげと 語り繼げとて〔右○〕。○おかしけらしも 「意」原本に志〔右△〕とある。田中大秀説によつて改めた。長歌にも「置かし給ひて」とある。志可志《シカシ》は敷く〔二字傍点〕の敬相で、こゝには不當。
【歌意】 足姫(ノ)命が〔四字右○〕、天地と一緒に、久しくいひ傳へてゆけというて、この靈石はお取置きなされたらしいわい。
 
〔評〕 尊いことかなと感激してゐる。玉石混淆といふが、石の質の佳いのは即ち玉だから、認識次第で石を玉といふことが出來得る。まして鎭懷石は白色で磨いたやうに美しいのであつたさうだ。
 
右(ノ)事傳(ヘ)言(フハ)、那珂《ナカノ》郡|伊知郷《イチノサト》蓑島(ノ)人、建部《タケベノ》牛麻呂是也。
 
鎭懷石の事を自分に話し傳へたのはこれ/\の人だとの註記。○那珂郡伊知郷衰島 那珂郡は今筑紫郡に併合(1461)された。地名辭書にいふ、伊知郷は海部郷の別名ならんと。續風土記に、簑島は今住吉の枝村の名に殘るとある。○建部牛麻呂 傳未詳。
 
宴《うたげしてよめる》2太宰(の)帥大伴(の)卿(の)宅(に)〔八字左○〕1梅花(の)歌三十二首并序
 
○宴太宰帥大伴卿宅 この八字、原本にない。ないのが原形であらう。但この卷前後出入の混線を避ける爲に、題詞を目録に依つて補つて來た書式に準じて、拾穗抄に隨つて補つた。△地圖 挿圖217(744頁)を參照。
 
 天平二年正月十三日、萃《アツマリ》2于帥老之宅(ニ)1申(ブ)2宴會(ヲ)1也。于時(ニ)初春令月、氣|淑《ヨク》風|和《ナゴミ》、梅(ハ)披(キ)2鏡前(ノ)粉(ト)1、蘭(ハ)薫(ル)2珮後之香(ト)1。加以《シカノミナラズ》、曙嶺移(シ)v雲(ヲ)、松(ハ)掛〔左△〕(ケテ)v羅(ヲ)而傾(ケ)v蓋《カサヲ》、夕岫結(ビ)v霧(ヲ)、鳥(ハ)封(ゼラレテ)v※[穀の禾が糸]而迷(フ)v林(ニ)、庭(ニハ)舞(フ)新蝶(アリ)、空(ニハ)歸(ル)故鴈(アリ)。於是《コヽニ》、蓋《カサトシ》v天(ヲ)坐《シキヰトシ》v地(ヲ)、促(シテ)v膝(ヲ)飛(バシ)v觴(ヲ)、忘(レ)2言(ヲ)一室之裏(ニ)1、開(ク)2衿(ヲ)煙霞之外(ニ)1。淡然(トシテ)自(ラ)放《ホシイマヽニ》、快然(トシテ)自(ラ)足(リヌ)。若(シ)非(ズバ)2翰苑(ニ)1何(ヲ)以(テ)※[手偏+慮]《ノベム》v情(ヲ)。詩(ニ)紀〔左△〕(ス)2落梅之篇(ヲ)1、古今夫(レ)何(ゾ)異(ナラム)矣。宜(シ)d賦(シ)2園梅(ヲ)1、聊(カ)成《ヨム》c短詠(ヲ)u。
 
〔釋〕 ○萃于帥老之宅 太宰の老帥旅人卿の宅に集つての意。○申宴會 申は安らかに暢びやかなる貌。○于時初春令月―― 文選晉の張衡の歸田賦の仲春(ノ)令月、時和(ミ)氣清(シ)に倣つた。○氣淑 淑は清いこと。○梅披鏡前之粉 梅は婦人の鏡臺前の白粉のやうに咲くの意。宋書又は初學記に、宋(ノ)武帝(ノ)女壽陽公主、人日臥(ス)2於含章殿(ニ)1、簷(1462)下(ノ)梅花落(チ)2於額上(ニ)1、成(ス)2五出(ノ)花(ヲ)1、拂(ヘドモ)v之(ヲ)不v去(ラ)、自後有(リ)2梅花(ノ)粧1とあるが、本文はこの典故に及ばない。○蘭薫珮後之香 蘭は男子の佩《オビモノ》のあとに殘る香のやうに薫るの意。この蘭は春蘭であらう。楚詞に、紐(ニシ)2秋蘭(ヲ)1以(テ)爲(ス)v珮(ト)。珮は玉の帶物。○曙嶺移雲 明方の山に雲が動いての意。○松掛羅而傾蓋 松は雲の輕羅を掛けて蓋《カサ》を傾けた如く掩ひの意。松の梢を蓋に譬へていふ。傾蓋は孔子家語に傾(ケテ)v蓋(ヲ)語(ル)とある。隋の煬帝の老松詩に、獨留(メ)2塵尾(ノ)影(ヲ)1、猶横(フ)2偃蓋(ノ)陰(ヲ)1。「羅」原本に蘿〔右△〕とあるは非。羅は薄物の帛で、蓋にも張る。諸註は誤る。○夕岫結霧 夕方の山が霧を立てての意。岫は文選の注に山(ノ)穴とあるが、嶺をもいふ。和名抄に久木《クキ》と訓んである。○鳥封※[穀の禾が糸]而迷林 鳥は薄霧の籠織《コメオリ》に閉ぢられて、おのが塒の林に迷ふの意。宋玉の神女賦に、動(シテ)2霧※[穀の禾が糸](ヲ)1以(テ)徐歩(ス)兮と見え、註に※[穀の禾が糸](ハ)今之輕紗とある。又史記司馬相加傳の重霧※[穀の禾が糸]の註に言(フ)2細(カニテ)加(キヲ)1v霧(ノ)とある。古義に※[穀の禾が糸]を〓の誤かとあるは非も亦甚しい。○蓋天坐地 坐は座と通用。淮南子に以(テ)v天(ヲ)爲(ス)v蓋(ト)。又劉伶の酒徳頌に幕(トシ)v天(ヲ)席(トス)v地(ヲ)。○促膝 膝を近づけること。梁陸※[人偏+垂]の詩、促(ス)v膝(ヲ)豈異(ナラムヤ)v人(ニ)の註に促(ハ)近(ヅイテ)v膝(ニ)坐(スル)也とある。○飛觴 杯を廻らすこと。觴は酒巵の總名。○忘言一室之(1463)裏 席上にゐて口利くことも忘れの意。蘭亭記の悟(ル)2言(ヲ)
一室之内(二)1を翻轉した。忘言は莊子に得(テ)v意(ヲ)而忘(ル)v言(ヲ)、陶潜の詩に欲(シテ)v辯(ゼント)已(二)忘(ル)v言(ヲ)。○開衿煙霞之外 心を外界の景色に馳せるの意。衿は襟と同じで、心の義に用ゐる。煙霞は霞であるが、唐書田遊岩傳に煙霞(ノ)痼疾と見え、山水の風光をいふ。○淡然自放 さらりとして氣儘での意。卷十七、大伴池主の歌序にも、淡交促(シ)v席(ヲ)、得(テ)v意(ヲ)忘(ル)v言(ヲ)。○快然自足 蘭亭記の句。○非翰苑何以※[手偏+慮]情 詩文でなくては、何で以てこの情を舒べることが出來ようぞの意。翰は筆のこと。よつて翰苑を詩文の事に用ゐた。○詩紀落梅之篇 詩には落梅の詩を擧げ記してあるの意。紀は識《シル》すの意。宋の飽照の樂府に梅花落の篇がある。
  中庭雜樹多(シ)、偏(ニ)爲(ニ)v梅(ノ)咨嗟(ス)、問(フ)v君(ニ)何(ゾ)獨然(ル)、念(フ)2其霜中能(ク)作(シ)v花(ヲ)、霜中能(ク)作(スヲ)1v實、搖蕩(タル)春風媚(ブ)2春日(ニ)1、念(フ)爾零落逐2寒風1、徒(ヨ)有(リテ)2霜華1無(シ)2霜質1。
この曲魏晉以後行はれ、樂府雜録に、笛羌樂也とある。毛詩召南の標有梅は典故としてはよいが、梅子の落つることで、花に交渉がない。「詩」原本に請〔右△〕とあるは誤。京本による。○古今夫何異矣 昔も今も何で違はうぞの意。○宜賦園梅聊成短詠 庭園の梅を詠じて聊か短歌を作りなさいの意。
 契沖いふ、この篇は晉の王羲之の蘭亭記を學んだもので、作者は山上憶良だらうと。蘭亭記はさもあらう、作者に至つては旅人卿とする説もある。新考はこれを破していふ。
  もし旅人の作ならば、萃于帥老之宅の上に主格の語あるべく、又帥老は自稱にあらで、親愛の意を帶びたる他稱なるべく思はる。又もし自稱ならば、第八首の下に主人と書かで帥老と書くべきなり。
と。然し歌の排列の順序を考察すると、必ず旅人卿自身か或は旅人卿の意を承けた隨身者の集録と見られる。さては序文も旅人卿の自撰となる。(1464)旅人卿のこの梅花宴は實に一代の清遊で、後人の欽羨する處であるが、或は梁の何遜の梅花宴を學んだものではあるまいか。梁書に
  何遜字(ハ)仲言、東海※[炎+立刀](ノ)人、爲(ル)2梁(ノ)法曹(ノ)水部員外郎(ト)1。揚州(ノ)廨宇(ニ)有(リ)v梅盛(ニ)開(ク)、遜常(ニ)吟2詠(ス)其下(ニ)1。後居(リ)2洛陽(ニ)1、思(ウテ)v梅(ヲ)不v得。請(フ)3再(ビ)任(ゼンコトヲ)2揚州(ニ)1。從(フ)v之(ニ)。既(ニ)至(ル)、適(マ)梅花盛(ニ)發(ク)。開(イテ)2東閣(ヲ)1延(キ)2文士(ヲ)1、嘯傲(スルコト)終日。
と見え、開東閣延文士は旅人卿のこの宴に示唆を與へたものらしく、その梅花の詩は、明人高青邱をして何郎去(ツテ)後無(シ)2好詠1とまで感歎させてゐる。
 
武都紀多知《むつきたち》 波流能吉多良婆《はるのきたらば》 可久斯許曾《かくしこそ》 鳥梅乎乎利都都《うめををりつつ》 多努之岐乎倍米《たぬしきをへめ》【大貮紀卿】     815
 
〔釋〕 ○むつきたち 正月になり。「むつき」は正月のこと。(1)睦《ム》月の意。(古設)(2)本《モト》つ月の約(眞淵設)(3)蒸す月の略(古一説)(4)身《ム》月の意(古義)。○うめ 烏梅の字面はウメに當てたまでで、別に意味はない。○をりつつ 皆人が各の折るので「つつ」といつた。○たぬしきをへめ 「たぬしき」は樂しき事〔右○〕をの意。「をへめ」は竟《ヲ》へめの意。これは眞淵宣長の説による。舊説は、樂しきを經《ヘ》めの意とする。○大貮 「太宰府を見よ(七九三頁)。○紀卿 名は未詳。紀氏は武内宿禰の後裔の名家。大貮は四位相當官である。四位は卿と公稱する資格はないが、私には尊敬の意で呼びもした。紀卿が大貮に任じたのは天平元年二月丹比縣守《タヂヒノアガタモリ》遷任の替であつたらう。(1465)この紀卿を假に紀(ノ)男人《ヲヒト》とすると、續紀天平十年十月の條に大貮で卒したとある。大貮としての在職年限が永過ぎるが、特別事情もあるから一概には疑へない。天平五年十月に旅人卿は太宰帥を罷め、藤原武智麻呂が就任したが、武智麻呂は遙任なので、既に經驗のある男人を大貮に再任せしめたと、考へられぬこともない。
【歌意】 毎年〔二字右○〕正月になり春が來たら、かうやつてさ、皆で以て梅を折り折りして、樂しみを極め盡しませう。
 
〔評〕 筑紫は暖地だから正月に梅もさぞ咲いたことであらう。この東風第一番の花を賞翫することは、
  春のうちの樂しき終へば梅の花手折り持ちつつ遊ぶにあるべし (卷十九−4174)
などその等類は多いが、殊にこれは春正を賀しつゝ諸人會同して偕に樂む趣が加はつてゐる。これが平安時代の調子となると、左のやうな風姿のものになる。
   新しき年のはしめにかくしこそ千年をかねて樂しきをへめ (古今集大歌所歌−1096)
 梅花を賞美することは、わが上代の文獻には見えない。飛鳥藤原時代に至つて、漸く左の三句を擧げることが出來る。
  素梅開(キ)2素靨(ヲ)1。嬌鶯弄(ス)2嬌聲(ヲ)1。(葛野王、春日翫2鶯梅1。)
  楊絮未(ダ)v飛(バ)蝶先(ヅ)舞(ヒ)。梅芳酒遲(クシテ)花早(ク)臨(ム)。(紀(ノ)朝臣古麻呂、望v雪。)
  折(ル)v花(ヲ)梅花(ノ)側。酌(ム)v醴(ヲ)碧瀾(ノ)中。(大學頭調(ノ)忌寸老人、三月三日應v詔。)
これが奈良時代に入ると、俄然盛になり、懷風藻を檢すると、諸家の作殆ど九句に及んでゐる。聖武天皇の天平十年には、
  秋七月癸酉。天皇御(シテ)2大藏省(ニ)1覽(タマフ)相撲《スマヒヲ》1。晩頭(ニ)御(ス)2西(ノ)池(ノ)宮(ニ)1。因(テ)指(シ)2殿前(ノ)梅樹(ヲ)1、勅(シテ)2右衛士(ノ)督|下道《シモツミチノ》朝臣眞備及(ビ)諸(ノ)才子(ニ)1曰(タマハク)、人(1466)皆有(リ)v志。所v好(ム)不v同(ジカラ)。朕去春欲(シテ)v翫(バント)2此樹(ヲ)1、而未v及(バ)2賞翫(スル)1、花葉遽(カニ)落(チテ)、意甚(ダ)惜(ム)焉。宜(シト)d各賦(シテ)2春意(ヲ)1詠(ズ)c此(ノ)梅樹(ヲ)u。文人三十人|奉《ウケテ》v詔(ヲ)賦(ス)v之(ヲ)。因(テ)賜(フ)2五位已上(ニハ)※[糸+施の旁]二十疋。六位已下(ニハ)各六疋(ヲ)1。(續紀卷十三)
と見え、當時いかに珍しがつて梅花を愛賞したかゞ諾かれよう。
 梅は始め支那の江南地方から移植されたものであることは、殆ど定説になつてゐる。蓋し毛詩から始めて續出する支那歴代の文獻に刺衝された結果であらう。否それ以上に、生活上必須の理由があつての事と考へられる。即ちその實が藥物として又食料として重大なる効果をもつので、實用的の意義からも播殖させたものであらう。
 
烏梅能波奈《うめのはな》 伊麻佐家留期等《いまさけるごと》 知利須義〔左△〕受《ちりすぎず》 和我覇能曾能爾《わがへのそのに》 阿利己世奴加毛《ありこせぬかも》 【少貮小野大夫】     816
 
〔釋〕 ○ちりすぎず 盛であるをいふ。「義」原本に蒙〔右△〕とあるは誤。○わがへ 我が家《イヘ》の略。わぎへ〔三字傍点〕に同じい。○ありこせぬかも 既出(三六五頁)。○少貮 「太宰少貮」を見よ(七九三頁)。○小野大夫 小野(ノ)老《オユ》のこと。傳既出(七九三頁)大夫は四五位の稱。
【歌意】 梅の花が、今こちら〔三字右○〕に咲いてゐるやうに、散り過ぎずに、私の庭にあつてくれないものかなあ。
 
〔評〕 羨望の餘は欲求となつた。即ち間接に、折柄滿開の帥老宅の園梅を讃美したもの。平淡の裏に巧緻を藏してゐる。
 
(1466)烏梅能波奈《うめのはな》 佐吉多流僧能能《さきたるそのの》 阿遠也疑波《あをやぎは》 可豆良爾須倍久《かづらにすべく》 奈利爾家良受夜《なりにけらずや》 【少貮粟田大夫】     817
 
〔釋〕 ○あをやぎ 青柳。「やぎ」はヤナギ(楊ノ木)の中略。楊柳科の落葉喬木。おもに垂《シダリ》柳を稱する。春葉より先に暗紫緑色の花を開き、晩春その果熱して絮が雪の如く飛散する。○かづら 既出(九四六頁)。○なりにけらずや 「けら」は助動詞けり〔二字傍点〕の第一變化。「や」は反動辭。○粟田大夫 この人も小野老と同役の少貮。粟田は氏。續紀に、和銅七年正月從六位下粟田朝臣|人上《ヒトカミニ》授(ク)2從五位下(ヲ)1、神龜元年二月正五位下、天平元年三月正五位上、同四年十月爲(ル)2造藥師寺(ノ)大夫(ト)1、同七年四月從四位下、同十年六月武藏守從四位下(ニテ)卒(ス)とある。この人上の事か。
【歌意】 梅の花の咲いた園の青柳は、折も折〔三字右○〕、※[草冠/縵]にされよう程に、なつたのでないことかい。
 
〔評〕 諸君よ、さあ柳※[草冠/縵]して梅に遊ばうぞの餘意がある。
  命のまたけむ人はたたみごも平群の山の熊橿の葉をうづにさせそのこ (古事記、中、倭建命)
  卷もくのあなしの山の山人と人も見るがに山かづらせよ (古今集、卷二十)
など、古人は時に臨んで、草木の枝葉や花を髪挿にし※[草冠/縵]にして興じたものであつた。會衆の皆が梅にばかり關心してゐる中で、麹塵の絲の新柳の※[草冠/縵]にその逸興を促したのは、作者の才慧を示すものであるが、賦園梅の題意外に逸してゐる。柳を※[草冠/縵]《カヅラ》く歌はこの時分から多くなつた。
 
(1468)波流佐禮婆《はるされば》 麻豆佐久耶登能《まづさくやどの》 烏梅能波奈《うめのはな》 比等利美都都夜《ひとりみつつや》 波流比久良佐武《はるびくらさむ》 【筑前守山上大夫】     818
 
〔釋〕 ○まづさく 「梅の花」に係る。○みつつや 「や」は疑辭。○山上大夫 憶良のこと。傳既出(四六頁、二三四頁)。
【歌意】 春になると、一番に咲くこの宿の梅の花を、獨見い/\して、春の日を暮さうことか。
 
〔評〕 あゝ勿體ないの余意がある。衆と偕に樂しまうとする人情の温さを取る。「春されば」「春日くらさむ」、春の語の重複は太だ卒易の憾がある。
 
余能奈可波《よのなかは》 古飛斯宜志惠夜《こひしげしゑや》 加久之阿良婆《かくしあらば》 烏梅能波奈爾母《うめのはなにも》 奈良麻之勿能※[死/心]《ならましものを》 【豐後守大伴大夫】     819
 
〔釋〕 ○こひしげしゑや 「ゑや」はゑ〔傍点〕とや〔傍点〕との複合歎辭。よしゑやし〔五字傍点〕のエヤは構成が違ふ。同項を見よ(三八六頁)。○を 「※[死/心]」は怨と同字。呉音ヲン。その短音を充てた。○大伴大夫 傳未詳。大伴三依とする説は非。三依の傳は既出(一一六七頁)。
【歌意】 世の中は戀の思がうるさいわいなあ。こんな始末なら、人間をやめて、いつそ物思のない〔十四字右○〕、梅の花にもならうものをさ。
 
〔評〕 知れ切つた實現不可能の希望をも、尚愚痴らしくいはずには居られぬ處に、さし迫つた心の苦悩があるの(1469)のだ。この苦悩を「戀」といつてゐる。思ふにこれは廣い意味での戀で、滿座の人達の誰れもがもつ覊人の郷愁であらう。時はこれ正月の十三日、奈良京では元旦の朝拜から始めて、七日の五位以上を召される宴会など、その他公私新正の營みに、何かにつけて思出種が多いのである。然るに軒頭の梅は無關心に、その清高の氣を吐いてゐるではないか。そこに無量の感愴がおこる。
 
烏梅能波奈《うめのはな》 伊麻佐可利奈理《いまさかりなり》 意母布度知《おもふどち》 加射之爾斯弖奈《かざしにしてな》 伊麻佐可利奈理《いまさかりなり》 【筑後守|葛井《フヂヰノ》大夫】     820
 
〔釋〕 ○かざし 既出(一五四頁)。○おもふどち 「どち」は口語のドウシ〔三字傍点〕である。神功皇后紀の御歌に「うま人はうま人|奴知《ドチ》」とある。○てな 既出(三六七頁)。○葛井大夫 葛井大成のこと。傳既出(十一九七頁)。
【歌意】 梅の花が今眞盛であるわ。思ふ同志で頭挿にしませうよ、今眞盛であるわ。
 
〔評〕 睦魂《ムツタマ》會《ア》へる友達と梅花をかざして遊ぶ、人間清福の極みであらう。「今盛なり」の反覆は「思ふどち頭挿にしてな」の逸興を促進する背景である。この反覆の句法は、卷二「櫻田へ鶴《タヅ》鳴き渡る」の評語を參照(六九四頁)。
 
(1470)阿乎夜奈義《あをやなぎ》 烏梅等能波奈乎《うめとのはなを》 遠理可射之《をりかざし》 能彌弖能能知波《のみてののちは》 知利奴得母與斯《ちりぬともよし》 笠沙彌《カサノサミ》     821
 
〔釋〕 ○うめとのはなを 初句より續けて見ると、青柳と梅との花をの意で、花は青柳にも梅にも隷屬する。柳は春葉より先に暗紫緑色の花を著く。提示辭のトは、必ず各語の下に附けるのが正格だが、これは「あをやなぎ」の下のトを略いた。この例は集中にまゝある。○のみて 酒を〔二字右○〕飲みて。○笠沙彌 滿誓のこと。傳既出(八〇六頁)。笠は氏、沙彌は既出(八〇六頁)。
【歌意】 柳の花と梅の花とを折つて、頭挿にさして、杯を擧げた後は、それらの花が散つたとても構はないよ。
 
〔評〕 初春の景物として梅柳を竝稱する例は、漢詩に古くからあるが、それを挿頭して遊ぶに至つては、特にわが古代人の業くれである。
 愛すべき梅柳の花挿頭、それをすら「散りぬともよし」と許容したのは、一寸人耳を驚かすが、よく見れば「飲みての後」といふ條件付であつた。さては今日の興宴を極度にもてはやした反射的言辭であることが諾かれよう。坂上郎女の
  酒杯に梅の花浮けおもふどち飲みての後は散りぬともよし (卷八−1656)
の下句は全くこれと同じい。何れが先出か。
 
(1471)和何則能爾《わがそのに》 宇米能波奈知流《うめのはなちる》 比佐可多能《ひさかたの》 阿米欲里由吉能《あめよりゆきの》 那何列久流加母《ながれくるかも》 【主人《アロジ》】     822
 
〔釋〕 ○ながれくる 雪の降り頻《シキ》るを流る〔二字傍点〕といふ。「ながらふる」を見よ(二二六頁)。○主人 帥老即ち、今日の花梅宴の主人公旅人卿のこと。
【歌意】 私の庭に梅の花が散るわ、こりやあ〔四字右○〕、天から雪が續いて降つてくるかまあ。
 
〔評〕 梅の散るを見て雪を聯想するは凡常の事ながら、一切譬喩の辭を著けぬ處に、この歌のよさがある。感情だけで思索の迹を遺さず、「天より――流れくるかも」と大らかに長け高く調べ成した。流石に旅人その人を想望させるに足りる。又この卿の詩には、
  梅花亂(レ)2殘岸(ニ)1、 煙霞接(グ)2早春(ニ)1。(初春侍v宴、懷風藻)
の句もある。天平十二年十一月(九日)その子家持は父のこの歌に追和して、
  みそのふの百木の梅の散る花のあめに飛びあがり雪と降りけむ (卷十七、追和太宰之時梅花、−3906)
と詠んだ。
 序に梅花歌の席次に就いて一言する。公席では官位の順序で座次がきまる。されば歌の排列も帥老自身の作を第一に置くべきだが、自分がこの宴會の催主なので、謙遜して、配下ながら大貮少貮以下諸國守の四五位の人人、及び造觀音寺別當たる滿誓沙彌を上座に推し、自分は、こゝに座を占めた。他は六七位の身分の人なので、下位に序でた。中に壹岐守があるが、それは島司に等しいもので、官等は六七位程度のものだつた。
 
(1472)烏梅能波奈《うめのはな》 知良久波伊豆久《ちらくはいづく》 慈可須我爾《しかすがに》 許能紀能夜麻爾《このきのやまに》 由企波布理都々《ゆきはふりつつ》 大監大伴氏|百代《モヽヨ》     823
 
〔釋〕 ○ちらく 散る〔二字傍点〕の延言。○いづく 既出(七〇〇頁、七一九頁)。○しかすがに 流石《サスガ》ニはこの約語。○きのやま 既出(一一九八頁)。○大監 「太宰大監」を見よ(八九七頁)。○大伴氏百代 傳既出(八九七頁)。
 △地圖及寫眞 挿圖330。(一一九八頁)331(一一九九頁)を參照。
【歌意】 梅の花が散るといふは、何處ぞい、それなのに、この城の山には雪は降り/\して、寒いことよ。
 
〔評〕 城の山は葛井《フヂヰノ》大成が「今よりは城の山道はさぶしけむ」(卷四)と歌つた如く、氣疎い山道で、宰府を望むその北側は殊に寒いから、隨つて筑紫大野に見ぬ雪がこゝでは降る。想ふに作者は宰府の梅花宴の後、城の山を越えた折の感想か。もし必ず當座の作とすれば、城の山を題詠的に扱つて詠んだものであらう。實際帥老宅の梅花は、「天より雪の流れくるかも」とある如く、盛に散つてゐたのである。然るに城の山は春寒料※[山+肖]として雪がちらつく。さし當つた眼前の景致を基準とすると、甚しい季候の差違に喫驚せざるを得ない。なまじひに色相が通うてゐるだけ、雪の花より花の雪が聯想されるので、乃ちわざとそ知らぬ顔を作つて、「散らくはいづく」の疑問の石を投じ、一環の波紋を描いてみた。そこに不盡の詩味が横溢する。
 
烏梅乃波奈《うめのはな》 知良麻久怨之美《ちらまくをしみ》 和家曾乃乃《わがそのの》 多氣乃波也之爾《たけのはやしに》 于具比須奈久母《うぐひすなくも》 【少監阿氏|奥島《オキシマ》】     824
 
(1473)〔釋〕ちらまくをしみ 散らむことの〔三字右○〕惜しさに。○うぐひす 燕雀類の鳥。支那にいふ鶯は黄鳥、黄※[麗+鳥]金衣公子などもいひ、毛詩に、出(デテ)v自(リ)2幽谷1、遷(ル)2于喬木(二)1とあつて、日本の鶯とは異る。○なくも 「も」は歎辭。○少監 「太宰府」を見よ(七九頁)。○阿氏奥島 傳未詳。阿氏は阿部氏か阿刀氏かの略。以下大抵氏を修《ツ》めてある。官位の卑い爲と名族でない爲とであらう。
【歌意】 梅の花の散らうことが惜しさに、私の園の竹の林に、鶯があれ鳴くわい。
 
〔評〕 宴は帥老の宅である。然るに「わが園の」といつてゐる。蓋し歌序に「賦園梅」とある園梅は、廣い意味に解釋すべきで、帥老宅自宅の差別なしに、園中の梅を詠ずればよいのであつた。
 竹の林の鶯は杜甫の詩にも、「春日鶯啼(ク)修竹(ノ)裏」と見えるが、その鶯聲を自分と同じ心に落梅を惜む有意的行爲に見做した。然しそれはわざとの技巧ではなくて、作者の感情が鶯と同化したのである。
 
烏梅能波奈《うめのはな》 佐岐多流曾能能《さきたるそのの》 阿乎夜疑遠《あをやぎを》 加豆良爾志都都《かづらにしつつ》 阿素※[田+比]久良佐奈《あそびくらさな》 少監土氏|百《モヽ》村     825
 
〔釋〕 ○土氏百村 土氏は土師氏の略。「土」原本に士〔右△〕とあるは誤。續紀、養老五年正月の條に、正七位上土師宿禰百村の名が見える。
【歌意】 梅の花の咲いた、この園の青柳の枝を、※[草冠/縵]にしながら遊びくらさう。
 
〔評〕 柳※[草冠/縵]で梅花のもとに遊ぶ春興を描いて、會同の人達にその實行を慫慂してゐる。流滑なるその諧調は打聞(1474)くからに快い。
 
有知奈※[田+比]久《うちなびく》 波流能也奈宜等《はるのやなぎと》 和家夜度能《わがやどの》 烏梅能波奈等遠《うめのはなとを》 伊可爾可和可武《いかにかわかむ》 【大典史氏大原】     826
 
〔釋〕 ○うちなびく 春の枕詞。既出(六七七頁)。○わかむ 判かむの意。○大典 既出(一一九一頁)。○史氏大原 傳未詳。史氏は史部《フミベ》氏の略。
【歌意】 春の青柳と私の宿の梅の花とを、その優劣を〔三字右○〕、どう判定しようかえ。とても判からない。
 
〔評〕こんな風流な閑問題に、全力を傾注して首を捻つてゐる、作者の態度が面白い。
 
波流佐禮波《はるされば》 許奴禮我久利弖《こぬれがくりて》 宇具比須曾《うぐひすぞ》 奈岐弖伊奴奈流《なきていぬなる》 烏梅我志豆延爾《うめがしづえに》 【少典山氏若麻呂】     827
 
〔釋〕 ○こぬれがくりて 梢に隱れて。「こぬれ」は木之末《コノウレ》の約。古義に、「弖」を之〔右△〕の訣としてカクリシ〔四字傍線〕と訓んだのは非。○いぬなる 去《イ》ぬなる。眞淵及び古義は、寐《イ》ぬなる意に解した。○しづえ 下枝。○少典 既出(一一八七頁)。○山氏若麻呂 山口(ノ)忌寸《イミキ》若麻呂のこと。既出(一一八七頁)。
【歌意】 春になると、他の木の〔四字右○〕梢隱れをして、鶯がさ鳴いて行くわ、梅の下枝にさ。
 
〔評〕 鶯の枝移りは遂に梅花に至つてとゞまる趣である。詩の小雅に、緜蠻(タル)黄鳥、止(ル)2于丘阿(ニ)1、また出(デ)v自(リ)2幽谷1、(1475)遷(ル)2于喬木(二)1などの意から、鶯に枝移りはいひ慣らされたらしい。
 
比等期等爾《ひとごとに》 乎理加射之都都《をりかざしつつ》 阿蘇倍等母《あそべども》 伊夜米豆良之岐〔左△〕《いやめづらしき》 烏梅能波奈加母《うめのはなかも》 【大判事舟氏麻呂】     828
 
〔釋〕 ○めづらしき 「岐」原本に波〔右△〕とあるは誤。○大判事 太宰府職員令に、大判事一人從六位下、小判事一人正七位下と見え、共に管内上申する處の犯状を案覆し、刑名を斷定し、爭訟を判決する職。○舟氏麻呂 傳未詳。舟氏は船子氏のことか。
【歌意】 人毎に折つて頭挿して遊ぶけれど、それでもやはり珍しい、梅の花ではあることよ。
 
〔評〕 理窟つぽく、梅花の見ても見飽かぬことを主張した。人毎に梅折りかざすは、帥老宅の興宴の光景であらう。調は平安期に近い。
 
烏梅能波奈《うめのはな》 佐企弖知理奈婆《さきてちりなば》 佐〔左○〕久良婆那《さくらばな》 都伎弖佐久倍久《つぎてさくべく》 奈利爾弖阿良受也《なりにてあらずや》 【藥師《クスリシ》張氏|福子《フクシ》】     829
 
〔釋〕 ○さきてちりなば 「咲きて」は添言で、「散りなば」が主である。○さくらばな 「佐」原本に脱、神本その他によつて補つた。○藥師 太宰府職員令に、醫師二人正八位上と見え、診候し病を療することを掌る。佛足石の歌に久須理師《クスリシ》、和名抄に、諸國醫師云々、俗(ニ)云(フ)久須之《クスシ》とある。○張氏福子 傳未詳。武智麻呂傳に、方(1476)士として張福子の名が見える。張は氏、福子は名。氏名共に音讀するがよい。韓唐の歸化人かその後裔かであらう。女性ではない。
【歌意】 梅の花が散るならば、櫻の花があとから續いて咲くやうに、なつて居るではないかいや。
 
〔評〕 衆口一致落梅を惜むに對して、何もさう落膽するに當らない、まだ櫻があるよと、一寸異議を唱へてみた。主題の梅には親切でないが、一座の空氣轉換には、これも面白い。
 
萬世爾《よろづよに》 得之波岐布得母《としはきふとも》 烏梅能波奈《うめのはな》 多由流己等奈久《たゆることなく》 佐吉和多流倍子《さきわたるべし》 筑前(ノ)介佐氏|子首《コビト》     830
 
〔釋〕 〇としはきふとも 年は來經《キフ》とも。○筑前介 介は國守を見よ(一四〇一頁)。○佐氏子首 傳未詳。佐氏は佐伯氏の略か。
【歌意】 萬年とまで年は過ぎても、梅の花は絶える事なく、今日のやうに〔六字右○〕咲きとほすことであらう。
 
〔評〕 「梅の花」を櫻花〔二字傍点〕としてもその意は通ずる。然し櫻では初二句が活きない。やはり新年の初頭に於いての感想が、その基調を成してゐるから、梅の花は決して動かない。一意到底に力強く押切つた處に、この歌の充實性を見る。葢し帥老宅の園梅を言壽いで賀意を表したのである。
 
(1477)波流奈例婆《はるなれば》 宇倍母佐枳多流《うべもさきたる》 烏梅能波奈《うめのはな》 岐美乎於母布得《きみをおもふと》 用伊母禰奈久爾《よいもねなくに》  【壹岐(ノ)守板氏|安《ヤス》麻呂】     831
 
〔釋〕 〇うめのはな の下、よ〔右○〕の歎辭を含む。○よいもねなくに 夜|寢《イ》も寐《ネ》ぬのに。○きみを 梅花を斥していふ。○板氏安麻呂 板氏は板茂《イタモチ》氏の略。連《ムラジ》姓。續紀に、天平七年冬九月、從六位下板茂連安麻呂云々と見え、その時右大史であつた。
【歌意】 今が春なので、道理でまあ咲いたこの梅の花よ、お前を思ふとて〔右○〕、夜も碌々寢もされぬになあ。
 
〔評〕 梅花は古人のいふ如く百花の魁として、第一に春信を齎す。これ「春なればうべも咲きたる」である。されば親愛の餘り、遂に「君」の敬稱を以て呼ぶに至つた。王子猷が竹を指して、何(ゾ)可(ケンヤ)3一日(モ)無(カル)2此君〔二字傍点〕1といつたのに似てゐる。戀愛の作に、詩には轉輾反側、歌にはいも寢ぬ〔四字傍点〕が紋切型であるが、それを非情の梅に應用したのは新案である。
 
烏梅能波奈《うめのはな》 乎利弖加射世留《をりてかざせる》 母呂比得波《もろひとは》 家布能阿比太波《けふのあひだは》 多努斯久阿流倍斯《たぬしくあるべし》 【神司《カムツカサ》荒氏|稻布《イナフ》】     832
 
〔釋〕 ○あるべし この「べし」は推量の意で命令ではない。○神司 太宰府職員令に主神《カムツカサ》一人と見え、諸祭詞の事を掌る。○荒氏稻布 傳未詳。荒氏は荒城氏か。稻布は稻生の義か。
【歌意】 梅の花を手折つて、頸挿してゐる皆人達は、今日一日は、物思ふこともないであらう。
 
(1478)〔評〕 今日の梅花宴をもてはやした。これは間接に主人帥老への挨拶となるのである。輕々といひ棄てた處に、淡々とした味ひがある。
 
得志能波爾《としのはに》 波流能伎多良婆《はるのきたらば》 可久斯己曾《かくしこそ》 烏梅乎加射之弖《うめをかざして》 多努志久能麻米《たぬしくのまめ》 【大令史、野氏宿奈麻呂】     833
 
〔釋〕 ○としのはに 年の端《ハ》に。卷十九、家持の自作の註に、毎年謂(フ)2之(ヲ)等之乃波《トシノハト》とある。○大令史 太宰府職員令に、大令史一人、小令史一人と見え、判文を抄寫することを掌る。○野氏宿奈麻呂 傳未詳。野氏は小野氏か野上氏か。
【歌意】 毎年春が來たならば、かうしてさ、梅花を挿頭して、樂しく酒を〔二字右○〕飲まうよ〔右○〕。
 
〔評〕 上なる紀の大貮殿の作「む月たち春のきたらば」と同じ鑄型から生まれたものだが、これは酒を飲まうといふ景物が付いてゐる。今日の梅花宴を取成したもので、作者は笠沙彌と同じ左利であらう。
 
烏梅能波奈《うめのはな》 伊麻佐加利奈利《いまさかりなり》 毛毛等利能《ももとりの》 己惠能古保志枳《こゑのこほしき》 波流岐多流良斯《はるきたるらし》 【少令史田氏肥人】     834
 
〔釋〕 ○ももとり 澤山の鳥。百千鳥(古今集春上)といふに同じい。○こほしき 「ものこほしき」を見よ(二四四頁)。○少令史 上の「大令史」を見よ。○田氏肥人 傳未詳。田氏は田口氏か田部氏か。肥人は契沖訓はウマビト。(1479)或はクマビト(球磨人)か。
【歌意】 梅の花が今まつ盛りである。澤山の小鳥の聲の戀しい春が、來たことらしい。
 
〔評〕 鶯をはじめ百千鳥の喧しい囀は、春の奏する交響樂である。梅に依つて春を感じ、春に依つて百鳥の諧調を懷ふ。想は平凡であるが自然である。
 
波流佐良婆《はるさらば》 阿波武等母比之《あはむともひし》 烏梅能波奈《うめのはな》 家布能阿素※[田+比]爾《けふのあそびに》 阿比美都流可母《あひみつるかも》 【藥師高氏義通】     835
 
〔釋〕 ○高氏義通 傳未詳。高氏は高橋氏か。高向氏か。
【歌意】 春になつたら會はう、と思つてゐた梅の花、念が屆いて〔五字右○〕、今日の宴遊において、出合つたことであるよ。
 
〔評〕 擬人法で仕立てた點に巧者はあるが、修辭はいまだしい。
 
烏梅能波奈《うめのはな》 多乎利加射志弖《たをりかざして》 阿蘇倍等母《あそべども》 阿岐太良奴比波《あきたらぬひは》 家布爾志阿利家利《けふにしありけり》 【陰陽師礒氏法麻呂】     836
 
〔釋〕 〇陰陽師 太宰府職員令に陰陽師一人と見え、占筮し地を相《ミ》ることを掌る。○礒氏法麻呂 傳未詳。礒部氏か磯城氏か。
【歌意】 梅の花を見るばかりか〔六字右○〕、手折り頭挿して遊んでも、まだ飽き足らぬ日は、外ならぬ〔四字右○〕今日でさあつたわい。
 
(1480)〔評〕 今日の梅花宴を讃美したもの。率直さと素朴さとで見られる。
 
波流能努爾《はるのぬに》 奈久夜※[さんずい+于]隅比須《なくやうぐひす》 奈都氣牟得《なつけむと》 和何弊能曾能爾《わがへのそのに》 ※[さんずい+于]米何波奈佐久《うめがはなさく》 【※[竹冠/卞]師志氏|大道《オホミチ》】     837
 
〔釋〕 ○なくやうぐひす 鳴く鶯。「や」は間接の歎辭。○なつけむ 懷けむ。○うめがはな この「が」の辭の用法珍しい。○※[竹冠/卞]師 太宰府職員令に※[竹/弄]師一人と見え、物數を勘へ計ることを掌る。○志氏大道 傳未詳。志氏は志紀氏の略。武智麻呂傳に暦※[竹/弄]算の人として、志紀(ノ)連《ムラシ》大道の名が見える。同人であらう。
【歌意】 春の野に鳴くまあ鶯を、馴熟ませようとて、私の家の園に梅の花が咲くわ。
 
〔評〕 園梅に依つて春野の鶯を懷うた作者は、遂に梅を擬人して鶯を懷はしめた。
 
烏梅能波奈《うめのはな》 知利麻我比多流《ちりまがひたる》 乎加肥爾波《をかびには》 宇具比須奈久母《うぐひすなくも》 波流加多麻氣弖《はるかたまけて》 【大隅目榎氏|鉢麻呂《ハツマロ》】     838
 
〔釋〕 ○ちりまがひ 散ることの甚しきにいふ。○をかび 岡邊。山び、濱び、河びの類語で、邊《ベ》は古言にビ〔傍点〕とも轉じていふ。○はるかたまけて 「ふゆかたまけて」を見よ(五〇頁)。○目 フミヒト。國衙の四等官。和名抄に、國(ニ)曰(フ)v目(ト)皆|佐官《サクワン》。○榎氏鉢麻呂 傳未詳。榎氏は榎本氏か榎井氏か。鉢麻呂の鉢は字音のまゝに讀むが(1481)よい。或はマリと讀むか。古義訓はモヒ〔二字傍線〕。
【歌意】 梅の花が散り亂れる岡邊では、春を時として待ち設けて、鶯が鳴くことわ。
 
〔評〕 日當りのいゝ岡の邊、梅花は散つて霰の如く、時に鶯の流音を聞く、その春光の快さは無二であらう。然し「春かたまけて」が有意的である爲に、自然味が缺けた。「岡べ」は毛詩の緜蠻(タル)黄鳥、止(ル)2于丘阿(ニ)1から出たものか。
 
波流能能爾《はるののに》 紀利多知和多利《きりたちわたり》 布流由岐得《ふるゆきと》 比得能美流麻提《ひとのみるまで》 烏梅能波奈知流《うめのはなちる》 【筑前(ノ)目田氏|眞上《マカミ》】     839
 
〔釋〕 ○はるののに 野《ヌ》をノ〔傍点〕と轉じた。卷六の大能備《オホノビ》も大野邊である。既に人麻呂の歌「はた薄|志能《しの》をおしなべ」(卷一)は篠《シヌ》をシノと轉じてゐる。藤原朝時代以前から、後世の野《ノ》(ヌ)篠《シノ》(シヌ)慕《シノ》ぶ(シヌブ)の類が發生したと見てよからう。○きりたちわたり 曇り渡りて〔五字傍点〕といふに同じい。「きり」は動詞で、名詞の霧ではない。○まで 「提」は漢音テイ、呉音ダイ。その單音を清濁兩用とする。○田氏眞上 傳未詳。田氏は田中氏。續紀に、天平十四年外從五位下田中朝臣眞上(ヲ)爲(ス)2肥後守(ト)1とある。「上」原本に人〔右△〕とある。類本その他によつて改めた。
【歌意】 春の野に、曇り渡つて降る雪と、人が見るほどに、梅の花が散ることわ。
 
〔評〕 雪に霧るといふは、古今集(冬)に「天きる雪のなべて降れゝば」なども見えてゐる。著想は旅人卿の「天よ(1482)り雪の流れくるかも」に似てゐて格調が劣る。而も園梅の歌でなく野梅を詠じてゐる。                  覽
 
波流楊奈那〔左△〕宜《はるやなぎ》 可豆良爾乎利都〔左△〕《かづらにをりつ》 烏梅能波奈《うめのはな》 多禮可宇可倍志《たれかうかべし》 佐加豆蚊能倍爾《さかづきのへに》 【壹岐(ノ)目村氏|彼方《ヲチカタ》】     840
 
〔釋〕 ○はるやなぎ この句を「かづら」の枕詞とする説は取らない。「奈」の下の那〔右△〕は衍字。○をりつ 「都」原本に志〔右△〕とある。濱臣説に從つて改めた。○うかべし 「可」原本に脱。拾穗抄に依つて補つた。○へに 「へ」は上《ウヘ》の略。○村氏彼方 傳未詳。村氏は村岡氏か村山氏か。
【歌意】 春の柳は折つて、私の※[草冠/縵]にした、そのうへ梅の花を、誰れが浮べたのかえ、この盃のうへにさ。
 
〔評〕 「春柳」を枕詞とすると、「さし柳根はる梓《アヅサ》」(卷十三)の例もあるが、名詞が混雜してうるさいのみならず、濱臣はいふ、
  梅は頭挿にはすべし、※[草冠/縵]にはなすべからず。故に二句にて句を切りて心得べし。「志」は都〔右△〕の誤ならむ。
この説まことに當を得てゐる。
 柳を折つて※[草冠/縵]にするは、既に春興のはずみに任せた所作である。飜つて見れば杯に梅花が浮んでゐる。逸興そのとゞまる處を知らずで、そも梅花を杯に摘み入れた風流兒は何者ぞと、他の共鳴者を幻想して喜んでゐる。昔の杯は大きいし、大抵は冷酒だから、ゆるりと下に置きもするので、自然梅の花が散り込むのであつた。
 
(1483)于遇比須能《うぐひすの》 於登企久奈倍爾《おときくなべに》 烏梅能波奈《うめのはな》 和企弊能曾能爾《わぎへのそのに》 佐伎弖知留美由《さきてちるみゆ》 【對馬(ノ)目高氏|老《オユ》】     841
 
〔釋〕 ○おときくなべに 聲を聞くにつれて。鳥獣の聲をオトとも古へはいつた。「時鳥聞く於登《オト》はるけし」(卷十七)、「鳴く鹿の目には見えずておとのさやけさ」(古今集秋上)などの例がある。「なべ」は並《ナベ》の義。○さきてちる 「さきて」は添言で、主意は散る〔二字傍点〕にある。○高氏老 高氏は高向氏。正倉院文書に、天平十七年十月、正六位上行雅樂少允であつた事が見え、續紀、天平勝寶二年四月の條に、正六位上高向|村主《スクリ》老(ニ)授(ク)2外從五位下(ヲ)1とある。
【歌意】 鶯の聲を聞くにつれて、梅の花が、私の家の園に散るのが見える。
 
〔評〕 鳥鳴き花散る、鬧がしい春意を描いて、平凡だけれど温雅な氣味がある。
 
和家夜度能《わがやどの》 烏梅能之豆延爾《うめのしづえに》 阿蘇※[田+比]都都《あそびつつ》 宇具比須奈久毛《うぐひすなくも》 知良麻久乎之美《ちらまくをしみ》 【薩摩(ノ)目高氏|海人《アマ》】     842
 
〔釋〕 ○高氏海人 傳末詳。この高氏は高向氏か、高丘氏か、高橋氏か。
【歌意】 私の庭の梅の下枝に遊びながら、鴬が鳴くわまあ、梅の散らうことが惜しさに。 
〔評〕 類想のおほい歌で、上出の
(1484)  梅の花ちらまくをしみわが園の竹のはやしにうぐひす鳴くも(阿氏奥島)
と同調の作。下向に倒装の變化はあるが、歌柄は劣る。
 
宇梅能波奈《うめののはな》 乎理加射之都都《をりかざしつつ》 毛呂比登能《もろびとの》 阿蘇失遠美禮婆《あそぶをみれば》 彌夜古之叙毛布《みやこしぞもふ》 【土師《ハニシ》氏|御通《ミミチ》】     843
 
〔釋〕 ○みやこしぞもふ 京が思はるの意。京を思ふの意ではない。これは四句の「遊ぶを見れば」の語意に押されての事である。○土師氏御通 土師《ハニシノ》宿禰|水通《ミミチ》のこと。既出(一一七三頁)。
【歌意】 梅の花を折つて挿頭して、人達がかう遊ぶ態を見ると、京がさ思はれるわ。
 
〔評〕 樂盡き悲來るで、目前の樂しい宴遊も、測らず奈良京の歡樂を追憶する連鎖となり、遂に懷土望郷の念に囚へられてしまつた。天涯の覊客たる一座の人達には、これを聽いて同じ感傷に打たれた者が多からう。
 
伊母我陛邇《いもがへに》 由岐可母不流登《ゆきかもふると》 彌流麻弖爾《みるまでに》 許許陀母麻我不《ここだもまがふ》 烏梅能波奈可毛《うめのはなかも》 【小野氏|國堅《クニカタ》】 844
 
〔釋〕 ○いもがへ 「へ」は家《イヘ》の上略。○みるまでに 「まがふ」に係る。○ここだ 甚しき意に用ゐた。なほ既出(五九六頁)參照。○小野氏國堅 正倉院文書によれば、天平十年頃から同十五年頃にかけ、東大寺寫經司の史生であり、天平十一年には大初位上であつた。又國方〔二字傍点〕とも書いてある。宰府では勸業院の小吏で居たのではあ(1485)るまいか。
【歌意】 我妹子の家に、雪がまあ降るかと思ふまでに、ひどくまあ紛うて散る、梅の花であることよ。
 
〔評〕 「妹が家」は今日の場合、餘り箇人的の感想になり過ぎた。無造作な口任せの作である。
 
宇具比須能《うぐひすの》 麻知迦弖爾勢斯《まちかてにせし》 宇米我波奈《うめがはな》 知良須阿利許曾《ちらずありこそ》 意母布故我多米《おもふこがため》 【筑前(ノ)掾門氏|石足《イソタリ》】     845
 
〔釋〕 ○まちかてに 「えかてに」を見よ(三一九頁)。○ありこそ この「こそ」は願望の辭。古語。○※[木+掾の旁] 既出(一一八九頁)。○門氏右足 門部連《カドベノムラジ》石足のこと。既出(一一八九頁)。
【歌意】 鶯が待つに待ち切れないであつた、その梅の花、散らずにあつてほしいなあ、思ふ人の爲にさ。
 
〔評〕 愛人に見せう爲に花の散らぬやうにと希望した。そしてその花に價値づける爲に「鶯の待ちかてにせし」の修飾を用ゐた。「おもふ兒」に就いては契沖いふ、
  今日の主人帥殿をさすか。卷六に藤原八束朝臣の家にて宴ありし時、家持の
   久堅の雨はふりしけ念ふ子が宿にこよひは明して行かむ (−1040)
  と詠まれしも、主人(八束)をさして申されたれば、これに準ふべきにや(代匠紀)
と。これは甚しい誤解で、その念ふ子は八束の家の婦人を斥したのである。さればこゝの「おもふ兒」も旅人(1486)卿の家の侍女かも知れない。
 
可須美多都《かすみたつ》 那我比〔左○〕岐波流卑乎《ながきはるびを》 可謝勢例杼《かざせれど》 伊野那都可子岐《いやなつかしき》 烏梅能波那可毛《うめのはなかも》 【小野氏淡理】     846
 
〔釋〕 ○かすみたつながきはるび 既出(三八頁)。「我」の下の比〔右○〕は衍字。○小野氏淡理 傳未詳。正辭いふ、高向《タカムクノ》黒麻呂の名に玄理を充てたること孝徳天皇紀に見ゆ、理をマロと訓む證なり、故に淡理はアハマロならむと。然しかやうな作名はあながち正訓ばかりでなく、類音類訓を充てもする。理《マサ》をマロに充てるは類訓である。
【歌意】 長閑な長い春の日を挿頭してをるが、それでもやはり、飽かず懷かしい梅の花であることよ。
 
〔評〕 理路にも渉り、平凡でもあるが、この邊が普通の處であらう。上の「人毎に折りかざしつつ遊べども」と、殆ど等類の作。
 以上三十二首、題詞に賦園梅とはあつても、あながち園梅を主とせず、頗る題外に傍出し、或は自家の梅、或は妹が家の梅、甚しいのは途上の口占さへある。想ふにこの作者達は帥老の梅花の招宴には侍しはしたものの、歌はその當座の即吟のみでなく、後日に提出したものもあつて、かうまち/\になつたのであらう。
 作者達の顔觸れを見ると、盡く文官で武官の人は居ない。大伴一族で防人司の人もあるが、歌が出てゐない。とにかく文官達は文事に居常親炙してゐる人達だから、歌は詠み得る筈である。然るにこの梅花の作を概括的(1487)に評すると、絶唱は勿論、佳作として推賞するに足るものが割合に乏しい。大抵平凡な類想類型に墮し、低級な處に彷徨してゐる。園梅といふ一つのボイントを與へられた爲、それに拘束されて自由が利かなくなつたらしい。
 又いふ、全部の作が白梅の詠である。帥老宅は固より一般にも紅梅はまだ無かつたらしい。否絶對に無いのではなく、極めて少なかつたと見るが至當であらう。
 
員外《かずよりほか》、思《しぬぶ》2故郷《ふるさとを》1歌兩首
 
○員外 定數の外の義。上の一連の梅花の歌の外といふ意で、同時の作ながら、内容の殊なる歌を附記する爲に、特に員外と題して書き添へた。作者は排行の順序上、梅花宴の主人旅人卿であることは明かである。卿は梅花宴の序と歌とを一括した後に、ふと浮んだ感想を詠じて茲に附記した。これを山上(ノ)憶良の作とした略解古義の説の如き、餘に無稽で是正の價値がない。
 
利我佐可理《わがさかり》 伊多久久多知奴《いたくくだちぬ》 久毛爾得夫《くもにとぶ》 久須利波武等母《くすりはむとも》 麻多遠知米也母《またをちめやも》     847
 
〔釋〕 ○わがさかり、「さかり」は齡の盛り。○くだち 降《クダ》ちの義、降る〔二字傍点〕の古言。こゝは時の更くるにいふ。夜くだち(卷十九)本くだち(古今集)などの例がある。○くもにとぶくすり 雲に飛ぶ藥は昇天の仙藥のこと。列仙傳に、劉安(ハ)高帝(ノ)孫(ナリ)、封(ゼラル)2淮南《ヱナン》王(二)1、好(ム)2儒術方技(ヲ)1、有(リ)2八公1往(イテ)詣(ル)v之(二)、遂(二)授(ク)2丹經及(ビ)三十六(ノ)水銀等(ノ)方(ヲ)1、――八公(1488)告(ゲテ)v安(ニ)曰(フ)可(シト)2以(テ)去(ル)1矣、於(イテ)v是(ニ)與v安登(リ)v山(ニ)、大(イニ)祭(リテ)埋(メ)2金(ヲ)於地(ニ)1、白日(ニ)昇(ル)v天(ニ)焉、所(ノ)2棄(テ)置(ク)1藥鼎、鷄犬舐(レバ)v之(ヲ)並(ニ)得2輕(ク)擧(ガルコトヲ)1、鷄(ハ)鳴(キ)2雲中(ニ)1、犬(ハ)吠(ユ)2天上(ニ)1とある。「得」はその入聲を略いてトに充てた。○はむ 食ふこと。服すること。○をちめやも 既出(七九八頁)。
【歌意】 自分の年盛りはひどく傾いたよ。假令あの淮南王の雲に飛ぶ藥を食べた處が、又と若返らうことかい。
 
〔評〕 「わが盛りいたくくだちぬ」は壯年期を可成り過ぎた人のいふ詞で、甚しい老人のいふべき詞ではない。梅花宴のあつた天平二年に於ける作者旅人卿の年齡は、懷風藻に據れば六十六の頽齡となるが、他にも又大きな理由があつて肯定し難い。懷風藻の年齡は約十年を減じて勘ふべきであらう。
 四十歳を初老と觀じた往時の人達には、五十六歳は實に盛期のいたく傾いた感傷を懷かしめたであらう。况や又一歳の老を加へた新年の初頭である。鷄犬も天上する淮南王の仙藥も、自分にはもう若返りの效能はなからうと悲觀した。この悲觀は果して籤を作して、その翌年の天平三年七月に故人となつたことは、同情に禁へない。
                     △大伴旅人年齡考(雜考――20 參照)
 
久毛爾得夫《くもにとぶ》 久須利波牟用波《くすりはむよは》 美也古彌婆《みやこみば》 伊夜之吉阿何微《いやしきあがみ》 麻多越知奴倍之《またをちぬべし》     848
 
〔釋〕 ○はむよは 「よ」はヨリの意。紀傳にいふ、記にヨリの意のヨをユといへるは一つもなし、書紀にはユとのみありてヨは一つもなし、萬葉にはヨともユともあるなりと。○いやしき 卑しき。淮南王劉安に對して自(1489)分を卑下した詞。古義の彌重《イヤシキ》と解したのは非。
【歌意】 雲に飛ぶ仙藥を食べるよりは、戀しい奈良の京を見ようならば、淮南王ならぬ〔六字右○〕卑しい私の身でも亦、若返りもせうよ。
 
〔評〕 一旦は流石の仙藥も若返りの效果なしと諦めてみたが、只一目京が見たい、自分の若返り方法はこれのみだとは、何といふ見じめな傷ましい詞であらう。旅人卿は神龜二年から茲に六歳の星霜を、天離る鄙の住居に暮した。既に六十近い老境にはあり、愛妻郎女は三年あとにこの異境で逝去、嗣子家持は十餘歳の幼年、いかに心ぼそい物寂しい生活を、その家庭に見詰めて來たことであらう。一刻も早くこのいやな思出のある鄙の住居から遁れて、命のあるうち花の洛に歸りたいとあこがれるのは、當然過ぎた感懷で、この他にも卿は、
  わが盛りまたをちめやもほと/\に奈良の京《ミヤコ》を見ずかなりなむ (卷三−331)
  あわ雪のほどろ/\に降りしけば奈良の京し思ほゆるかも  (卷八−1639)
など、再三反復その京|偲《シヌビ》の覊愁を詐へてゐる。
 
後《のちに》追(ひて)和《よめる》2梅(の)花〔左○〕(を)1歌四首
 
あとから繼ぎ足して詠んだ梅花の歌との意。「花」の字原本にない。補ふがよい。
 
能許判多流《のこりたる》 由棄仁末自列留《ゆきにまじれる》 烏梅能半奈《うめのはな》 半也久奈知利曾《はやくなちりそ》 由吉波氣奴等勿《ゆきはけぬとも》     849
(1490)〔釋〕 〇とも 「勿」は呉音モチ、略してモの音に充てた。
【歌意】 殘雪に混《マジ》つて咲く梅の花よ、假令その雪は消えるとしても、それをまねて〔六字右○〕、早く散るなよ。
 
〔評〕 正月十三日の梅花宴後、雪が降つたものと見える。梅雪おの/\その皎を競ふを見ての感興で、梅花に聲援を與へてゐる。
 
由吉能伊呂遠《ゆきのいろを》 有婆比弖佐家流《うばひてさける》 有米能波奈《うめのはな》 伊麻左加利奈利《いまさかりなり》 彌牟必登母我聞《みむひともがも》     850
【歌意】 雪の色を奪つて、白く咲いてゐる梅の花が、今まつ盛りであるわ。これを見よう人もありたいなあ。
 
〔評〕 梅が雪の色を奪ふは、必ず漢詩文にその出典があると思ふが、未だ索ね得ない。初二句の奇矯に似合はず、想は平々たるものである。
 
和我夜度爾《わがやどに》 左加里爾散家留《さかりにさける》 牟梅能波奈《むめのはな》 知流倍久奈里奴《ちるべくなりぬ》 美牟必登聞我母《みむひともがも》     851
 
〔釋〕 ○むめ 梅をムメと書くことのの初出。「牟」は漢音ボウ、呉音ム。
【歌意】 私の家に盛に咲いてゐる梅の花が、もう散りさうになつたわい、早く〔二字右○〕見よう人もありたいなあ。
 
〔評〕 著想平凡。「さかりに咲ける」といひ「散るべくなりぬ」といふ、甚だ煩冗である。既に上に「雪の色を」(1491)の歌ある以上は、これは除いてもよかつた。
 
烏梅能波奈《うめのはな》 伊米爾加多良久《いめにかたらく》 美也備多流《みやびたる》 波奈等阿例母布《はなとあれもふ》 左氣爾于可倍許曾《さけにうかべこそ》  852
 
 一(二)云(フ)、伊多豆良爾《イタヅラニ》、阿例乎知良順奈《アレヲチラスナ》、左氣爾于可倍己曾《サケニウカベコソ》、
 
〔釋〕 ○かたらく 語ることには〔四字右○〕の意。○みやびたる 風流である。以下梅花の詞。○こそ 願望辭。
【歌意】 梅の花が私の〔二字右○〕夢に現れていふことには、「自分は風流な花と思ひます、どうぞ貴方の〔三字右○〕酒杯に浮べて頂きたい」と。
 
〔評〕 上出の倭琴が娘子と化つて夢中に現じたと同趣である。梅花の精靈が誇かに自薦して「みやびたる花とあれもふ」といひ、作者の酒杯に浮かびたいと希ふ。作者の風流士たることはそこに暗證されてゐる。隨つて作者自薦の詞でもある。酒飲みの作者の思ひ付きさうな愉快な構想ではないか。
 隨の趙師雄が羅浮(支那廣東省惠州府羅浮)の梅花村で、月夜に夢寐恍惚の間に、梅の精靈たる美人と會飲した話がある。柳宗元の龍城録に、
  隋(ノ)開皇中、趙師雄遷(ル)2羅浮(ニ)1、一日天寒(ク)日暮(ル)、在(リ)2醉醒(ノ)間(ニ)1、因(リテ)憩(ム)2僕車(ヲ)松林(ノ)間(ノ)酒肆(ニ)1、傍舍(ニ)見(ル)2一女人(ヲ)1、淡粧素服出(デテ)迎(フ)2師雄(ヲ)1、時已(ニ)昏黒(ニ)、殘雪對(シ)2月色(ニ)1微(シク)明(ナリ)、師雄喜(ビ)v之(ヲ)、與v之語(ル)、但覺(ユ)2芳香(ノ)襲(フヲ)1v人(ヲ)、語言極(メテ)清麗(ナリ)、因(リテ)與(モニ)v之叩(キ)2酒家(ノ)門(ヲ)1得2數杯(ヲ)1、相與(ニ)飲(ム)、少頃(シテ)有(リテ)2一緑衣(ノ)童1來(リ)、笑歌戲舞(ス)、亦自(ラ)可(シ)v觀(ル)、頃(シテ)辭(シテ)寢(ヌ)、師雄亦※[立心偏+夢の夕を目]然、但覺(ユ)2風雨(ノ)相襲(フヲ)1、久(ウシテ)之時東方已(ニ)白(シ)、師雄起(チテ)視(レバ)、乃(チ)在(リ)2大梅花(ノ)樹下(ニ)1、上(ニ)有(リ)2翠羽(ノ)啾※[口+曹](タル)1、相顧(レバ)月落(チテ)v參(ニ)横(ル)、但惆悵(スル)而已。
(1492)と見えた。おなじ梅花の精靈でも、旅人卿のは夢に托した假作の言だから、花木精靈説は直ちに成立しないが、下にはさうした意識が潜在してゐたとも見られる。抑も木花咲耶姫、久々乃智、草野姫の類、草木を神と見た思想は、その精靈物語の由來する根源でもある。左註の「徒らに我れを散らすな」は、或は作者の一案かも知れないが、かうした物語形式では、素直でおとなしいのよりは、、曲折のある方が趣があつて面白いから、本文を採らう。
 
遊(び)2於松浦河《まつらがはに》1贈答(する)歌八首〔五字左○〕并序
 
○松浦河 また玉島川といふ。肥前國東松浦部。浮嶽山の南に發源し、西流四里、濱崎驛に至つて海に入る。今いふ松浦川は本名を栗川といひ、古への松浦川ではない。但玉島川の舊い河道は玉島の南山邊から西南下し、領巾振山の北麓と虹の松原との間を西流して、唐津灣に注いだと傳へられてある。松浦は紀の傳説では珍《メヅラ》の義であるが、夙くからマツラと清んで呼んだ。
 この篇、序及び仙女と贈答の歌、後人追和の歌、盡く旅人卿の自作である。これに就いて契沖の説が委しい。左に、
  此序竝に仙女に贈る歌を古來憶良の作とす。今按ずるに是は旅人卿の作なるべし。其故は太宰帥は九國二島を管攝する故に都督と號すれば、所部を檢察せむために何れの國にも到るべし。此故に第六には「隼人ノセトノイハホモ吉野ノ瀧ニシカズ」と詠まれたり。是一つ〔三字傍点〕。(1493)憶良は筑前守にて輒く境を越えて他國に赴く事を得べからず。是二つ〔三字傍点〕。次の吉田(ノ)連宜が状に、伏奉2賜書1といひ戀v主之誠と云ひ心同2葵※[草冠/霍]1と云へるは、同輩に報ずる文體にあらず。憶良は從五位下、宜も此時從五位上なれば、かやうには書くべからず。帥殿への返簡なる故に、徑に梅花(ノ)芳席といへり。松浦玉潭の仙媛贈答も同人の體なり、是四つ〔三字傍点〕。又彼次下の憶良の書并歌は、帥卿の典法に依つて部下を巡察せらるゝに贈らる、書尾に天平二年七月十一日と書かれたる三首の歌、何れも憶良は終に松浦河をも領巾麾山をも見られざること明なり、是五つ〔三字傍点〕。聊辨論して後人の發明を待つのみ。
 
余|以《コヽニ》、暫(ク)往(キテ)2松浦之|縣《アガタニ》1逍遙(シ)、聊(カ)臨(ミテ)2玉島之|潭《フチニ》1遊覽(ス)。忽(チ)値(フ)2釣(ル)v魚(ヲ)女子等《ヲトメラニ》1也。花容無(ク)v雙《ナラビ》、光儀無(シ)v匹《タグヒ》。開(キ)2柳(ノ)葉(ヲ)於眉(ノ)中(二)1、發(ク)2桃(ノ)花(ヲ)於頬(ノ)上(二)1。意氣凌(ギ)v雲(ヲ)、風流絶(エタリ)v世(二)。僕《ヤツガレ》問(ヒテ)曰(フ)、誰(ガ)郷誰(ガ)家(ノ)兒等《コラゾ》、若疑《ケダシ》神仙(ナル)者|乎《カト》。娘等《ヲトメラ》皆咲(ヒテ)答(ヘテ)曰(フ)、兒等者《コラハ》漁夫之舍兒《アマノイヘノコ》、草庵之微《クサノヤノイヤシキ》者(ナリ)、無(ク)v郷(モ)無(シ)v家(モ)、何(ゾ)足(ラム)2稱云《ナノルニ》1、唯性|便《ナラヒ》v水(二)、復心|樂《ネガフ》v山(ヲ)、或(ハ)臨(ミテ)2洛浦(二)1而徒(二)羨(ミ)鳥〔左△〕魚(ヲ)1、乍(チ)臥(シテ)2巫峽(二)1以空(シク)望(ム)2煙霞(ヲ)1、今|以《コヽニ》、邂逅《ワクラバニ》相2遇《アヒ》貴客《ウマビトニ》1、不v勝(ヘ)2感應《メデノコヽロニ》1、輒(チ)陳《ノブ》2款曲《マコトヲ》1。而今(ヨリ)而|後《ノチ》、豈可(ケンヤ)v非(ル)2偕(二)老(イ)1哉(ト)。下官《オノレ》對(ヘテ)曰(フ)、唯唯《ヲヲ》、敬(ミテ)奉(ハルト)2芳命《アフセヲ》1。于時、日(ハ)落(チ)2山(ノ)西(ニ)1驪馬|將《ス》v去(カムト)。遂(二)申(ベ)2懷抱《オモヒヲ》1、因(リテ)贈(リテ)2詠歌《ウタヲ》1曰(フ)、
 
○松浦之縣 大體東松浦郡の地をさす。神功皇后紀に、九年夏四月、北到(リ)2火前《ヒノクチノ》國松浦(ノ)縣(二)1、而進2食《ミヲシス》於玉島(ノ)里小河之側(二)1、云々、擧(ゲテ)v竿(ヲ)乃獲(タマヒキ)2細鱗魚《アユヲ》1、時(二)皇后曰(タマヒキ)2希見《メヅラシキ》物(ト)1、故《カレ》時《ヨノ》人號(ビテ)2其處(ヲ)1曰(フ)2梅豆羅《メヅラノ》國(ト)1、今謂(フハ)2松浦《マツラト》1訛(レルナリ)焉、是以《ココニ》(1494)其國(ノ)女人、毎(二)v當(ル)2四月(ノ)上旬《ハジメニ》1、以(テ)v鉤《ハリヲ》投(ゲ)2河(ノ)中(二)1、捕(ルコト)2年魚《アユヲ》1於今(二)不v絶(エ)云々。古事記(中)に、亦到(リ)2坐《マシ》筑紫(ノ)末羅縣《マツラガタ》之玉島(ノ)里(ニ)1、而御2食《ミヲシセス》其河(ノ)邊(二)1之時、當(ル)2四月之上旬(二)1、爾(二)坐(シテ)2其河中之磯(二)1、拔(キ)2取(リ)御裳《ミモノ》之糸(ヲ)1、以(テ)2飯粒《イヒボヲ》1爲(テ)v餌(ト)、釣(リタマフ)2其河(ノ)年魚(ヲ)1、故四月上旬之時、女人拔(キ)2裳(ノ)糸(ヲ)1、以粒《イヒボヲ》爲(テ)v餌(ト)釣(ルコト)2年魚(ヲ)1、至(ルマデ)2于今(二)1不(ル)v絶(エ)也と。今玉島村の南山に皇后祠がある。○玉島之潭 玉島川の淵。潭は水涯の深い處をいふ。玉島は里の名で、玉島川の岸に沿ふ玉島濱崎邊の舊名。○花容無雙光儀無匹 美しい顔や姿が儔がない。花容は花の如き容貌《カタチ》、光儀は美しい姿。○開柳葉於眉中 柳の葉を眉に靡かせ。眉の形とその翠の色との譬喩的形容。○發桃花於頬上 桃の花を頬に咲かせる。頬の樣子とその紅い色との譬喩的形容。文鏡秘府論六言句例に、訝(リ)2桃花之似(タルヲ)1v頬(二)、笑(フ)2柳葉之如(キヲ)1v眉(ノ)、とある。○意氣凌雲 氣位が遙に高く。史記司馬相如傳に、飄々(トシテ)有(リ)2凌雲之氣1。○風流絶世 みやびかさが世に最(モ)拔けてゐる。○若疑神仙者乎 若しや女仙人ではあるまいか。○兒等者 私共は。○漁夫之舍兒 海人《アマ》の家の兒。○草庵之微者 草屋に住む賎しい者。○何足稱云 何で名告る甲斐があらう。「稱云」は魏の曹昭の東征賦に出た語。○唯性便水復心樂山 只生れ付水に馴れ親しみ、また心に山を好いてゐる。論語に、知者|樂《ネガヒ》v水(ヲ)、仁者樂(フ)v山(ヲ)とあるに據つた。便水は水に習ふこと。○臨洛浦而徒―― 洛浦を窺つて、徒らに淵に棲む魚や鳥を羨みの意。洛浦は支那河南省河南府にある洛川のこと。魏の曹植洛神賦に、神女のこゝに現じたことが作つてある。徒羨鳥魚は淮南子の臨(ンデ)v河(二)而羨(ムハ)v魚(ヲ)、不v如(カ)2歸(リテ)v家(二)織(ルニ)1v網(ヲ)とあるに據つた。「鳥」原本に王〔右△〕とあるは解し難い。假に鳥と改めて解する。下の「煙霞」の對語。○臥巫峽以空―― 巫峽に身を横たへて、空しく山谷に靡く靄や霞を眺めの意。巫峽は巫山峽の略で、四川省より湖北に至る間の揚子江の水の嶮難を極めた處。三峽の一。楚の宋玉高唐賦に、巫山の神女が楚王の夢に入つた話が出てゐる。遊仙窟にも洛川巫峽の對句がある。○不勝感應 心に(1495)嬉しく應《こた》へて溜らない。○輒陳款曲 そこで眞心を申し述べる。款曲は誠または眞心をいふ。○而今而後 今からのち。論語泰伯篇に出た語。○豈可非偕老哉  何で偕老即ち夫婦でなしに居られようかい。毛詩の※[北+おおざと]風に與《ト》v子偕《トモニ》老(イン)。「非」は不の意に用ゐた。○下官 卑稱である。もと下級官吏の意。莊子、漢書賈誼傳に見え、又遊仙窟に多く見える。○唯唯 人の言を諾ふ敬語。文選にもある。○奉芳命 仰を承つた。○驪馬將去 夕暮にならうとする。驪は純黒の馬。よつて暗黒を意味する。文選應休連の書に、白日傾(キ)v夕(ベニ)驪駒就(ク)v駕(二)。○申懷抱 心を述べて。遊仙窟中の語。
 宋玉の高唐(ノ)賦神女(ノ)賦、曹植の洛神(ノ)賦、その賦中に現ずる神女は假托で、事實は男女會合の意を極めて婉微に述作したものと思ふ。遊仙窟はそれを現實的に扱つて、更に一歩進んで小説化し、
   見(テ)d一女子(ノ)向(ヒテ)2水側(二)1浣(フヲ)uv衣(ヲ)、余乃(チ)問(ウテ)曰(フ)、承(カニ)聞(ク)、此處有(リト)2神仙之窟宅1、故(ニ)來(リ)伺候(フ)…。女子答(ヘテ)曰(フ)、兒(ノ)家(ハ)堂舍賤陋、供給單疎(ナリ)、亦恐(ル)v不(ランコトヲ)v堪(ヘ)、終(二)無(シ)2吝惜(スル)1。余答(ヘテ)曰(フ)、下官是|客《タビビト》、觸(レテ)v事(二)卑微《イヤシ》、但避(クレバ)2風塵(ヲ)1則爲(ス)2幸甚(ト)1。云々
とあり、それから盛に詩歌を贈答して、遂に慇懃を通ずるに至つた經緯が書かれてある。
 作者は今松浦川に遊んで鮎釣る田舍娘どもに出會つた。乃ち宋玉曹植の艶辭に立脚し、遊仙窟の冶詞を歩驟し、彼等を神仙の兒の如くに假想し、豈可偕老哉と結んで、一場の話説と贈答の歌とを假作した。中古文學における伊勢大和の如き歌物語の樣式は、本集卷十六の有由縁歌と題した竹取翁の歌、及びその他の歌やこの歌に淵源したといふならば、その濫觴は更に遠く支那の古詩賦にあるといふこともいへよう。
 
阿佐里須流《あさりする》 阿末能古等母等《あまのこどもと》 比得波伊倍騰《ひとはいへど》 美流爾之良延奴《みるにしらえぬ》 有麻必等能古等《うまびとのこと》     853
 
(1496)〔釋〕 ○あさり 捜の意。集中、求食をアサルと訓んであるのは意訓。○しらえぬ 「しらえ」は知られ〔三字傍点〕。能相被相のレの助動詞をエと轉じいふは古格。「ぬ」は現在完了の助動詞。○うまびとのこと 良き人の子と。「うまびと」は「うま人さびて」を見よ(三二二頁)。
【歌意】 漁りする海人の子供だと、貴女は仰つしやるが、良家の子と、見るからに知られますわい。
 
〔評〕 名告るにも足らぬ漁夫の舍の兒、草庵の微しき者といはれるのは謙遜のお詞ですと、一寸オダテて置いて、誰が郷誰が家の兒等ぞと尋ねたその返辭を、暗に催促してゐる。
 
答(ふる)詩《うたに》曰(ふ)
 
○詩 例の歌を詩と稱した。
 
多麻之未能《たましまの》 許能可波加美爾《このかはかみに》 伊返波阿禮騰《いへはあれど》 吉美乎夜佐之美《きみをやさしみ》 阿良波佐受阿利吉《あらはさずありき》     854
 
(1497)〔釋〕 ○やさしみ 羞かしさに。○あらはさず 里をも家をも〔六字右○〕顯さず。
【歌意】 郷も無く家も無く、何ぞ稱云に足らんとは申しましたものゝ、實はこの玉島川の川上に家はありはありますが、貴方がまあ羞かしさに、ハツキリ言はずに居つたのです。
〔評〕 今こそ本當の事を明かしますがの餘意がある。この餘意は「顯さずありき」の過去的表現によつて生じてくる。空世辭と知れても悦ぶのが女、娘子等はつひ乘せられて、玉島の川上の里にその家のあることを打明けた。「君をやさしみ」に、その嬌羞を帶びて猜視してゐた女兒の態が想像される。
 
蓬客等《いやしきものら》、更(に)贈(れる)歌三首
 
○蓬客 いやしき者の意で、仙孃に對した謙辭。蓬心、蓬身、蓬體の蓬は皆賤卑の意。契沖説に轉蓬の旅客の心なるべしとあるは非。蓬はよもぎ。菊科の山野生自生の多年草本。
 
麻都良河波《まつらがは》 可波能世比可利《かはのせひかり》 阿由都流等《あゆつると》 多多勢流伊毛河《たたせるいもが》 毛能須蘇奴例奴《ものすそぬれぬ》     855
 
〔釋〕 ○かはのせひかり 娘子等の艶姿が映じて川瀬が光るのである。この句は四句の「立たせる」に係る。○あゆつると 鮎を釣るとて〔右○〕。鮎は有腹鰭類中鮭科に屬する小魚。年魚、香魚。「鮎」は借字。○たたせる 立たす〔三字傍点〕の現在完了格。「みかりたたしし」を見よ(一八七頁)。○も 「たまも」を見よ(一〇六頁)。
(1498)【歌意】 松浦川の川瀬が影美しく光り、鮎を釣るとて立つて居られる、貴女の裳の裾が、水に浸つて濡れたわい。
 
〔評〕 松浦川には鮎、鮎には婦人、婦人には裳、これ神功皇后以來の本事である。
 山翠に水淨き松浦川を背景として、その艶冶の影を水面に落しつゝ、赤裳の裾濡れ/\に若鮎釣る兒等を想ふ時、自然美と人物美との相煥發する光彩に、作者でなくても、こは神仙なる者かと疑ひたくなるであらう。「川の瀬光り」はこの意味において大事な豪句である。裳の裾の濡れを氣遣うたことは、婦人に對しての親切の情意を表示するものであつて、既に人麻呂も「珠裳の裾に汐滿つらむか」(卷一)と歌つてゐる。
 
麻都良奈流《まつらなる》 多麻之麻河波爾《たましまがはに》 阿由都流等《あゆつると》 孝多勢流古良何《たたせるこらが》 伊弊遲斯良受毛《いへぢしらずも》     856
 
〔釋〕 ○たましまがは 玉島川。松浦川のこと。○こら 既出(五八八頁)。○いへぢ 家路。既出(七四一頁)。
【歌意】 松浦にある玉島川に、鮎を釣るとて〔右○〕、立つて入らつしやる麗人達の、お宅の路のわからぬことよ。
 
〔評〕 尋ねて行きたいがの餘意がある。上の歌意より一歩を進めて、更に餘計に接近しようとあせつてゐる。家は玉島のこの川上の里であることは、既に明言されてあるが、委しくは知らぬ遺憾さを歌つた。
 
等富都比等《とほつひと》 未都良能加波爾《まつらのかはに》 和可由都流《わかゆつる》 伊毛我多毛等乎《いもがたもとを》 和禮許曾末加米《われこそまかめ》     857
 
(1499)〔釋〕 ○とほつひとまつら 遠つ人即ち遠方にゐる人の歸りを待つを、松浦に係けた序詞。○わかゆ 若鮎《ワカアユ》の略。○まかめ 「纏く」を見よ(三〇〇頁)。
【歌意】 松浦川に若鮎を釣る、貴女の袂を、私こそ枕にしませうよ。
 
〔評〕 又更に一歩を進めて、他人の手には落すまい、「われこそ纏かめ」と、とう/\最後の本音を吹いた。袂を纏くは即ちその玉手を纏くの婉語である。
 以上三首の聯作、その愛の表現進度が井々として規律だつてゐる。それは素より計畫的の作爲である。
 
娘等(が)更《また》報(ふる)歌三首
 
この返歌も假作である。
 
和可由都流《わかゆつる》 麻都良能可波能《まつらのかはの》 可波奈美能《かはなみの》 奈美邇之母波婆《なみにしもはば》 和禮故飛米夜母《われこひめやも》     858
 
〔釋〕 ○かはなみの なみ〔二字傍点〕の音の反復によつて、上句を「なみにし」に係る序詞とした。古今集に「三吉野の大川の邊の藤波のなみに思はばわが戀ひめやは」(戀五)と同例。○なみに 並々に。
【歌意】 この若鮎を釣る松浦川の川波の、なみ〔二字傍点〕といふやうに、貴方を〔三字右○〕竝大抵にさ思はうなら、私がかう戀ひませうかい。
 
(1500)〔評〕 眼前の景致を序詞に應用し、かは〔二字傍点〕となみ〔二字傍点〕との二語の反復交錯に、その語調を成した。序歌のもつ風格と、愚痴らしく詰め寄つたその情致とが、この歌を相當の完作にまで導いた。
 
波流佐禮婆《はるされば》 和伎覇能佐刀能《わぎへのさとの》 加波度爾波《かはとには》 阿由故佐婆斯留《あゆこさばしる》 吉美麻知我弖爾《きみまちかてに》     859
 
〔釋〕○わぎへ 我家《ワガイヘ》の約。「覇」をへと讀むは呉音。○かはと 河門。既出(一一三○頁)。「度」は漢音ト。ドは日本讀だから、古義訓にカハド〔三字傍線〕とあるは非。○あゆこ 鮎の兒。○さばしる 「さばしり」を見よ(一〇三一頁)。○かてに 待ち敢へずに。「かて」は既出(三一九頁)。
【歌意】 春になると、私の家のある玉島の里の川門では、鮎の兒が游ぎ走りますわ、貴方のお出を持ち切れなさうにさ。
 
〔評〕 さ走る鮎兒に托して、娘子自身の抑へ切れない慇懃の情を陳べた。四句までは全部叙景で、結句に到つて突如「君待ちかてに」の情語を著け、そこに最高度の躍動を示した手法は面白い。情景相俟つて、無盡の妙味を發揮してゐる。
 
麻都良我波《まつらがは》 奈奈勢能與騰波《ななせのよどは》 與等武等毛《よどむとも》 和禮波與騰麻受《われはよどまず》 吉美遠志麻多武《きみをしまたむ》     860
 
(1501)〔釋〕 ○ななせのよど 七瀬の淀。瀬と淀とは水の淺深が反對であるが、瀬が盡きれば淀になるので、かくいひ續けた。瀬に淀の意があるのではない。卷七にも「明日香川七瀬のよどに住む鳥も」とある。「ななせ」は數多の瀬の意。必ず七の數に拘はらない。玉島の里の山奥に七山村があるが、何の交渉もない。○よどむ 「よどむころ」を見よ(一二五二頁)。○よどまず たゆまずの意。川の縁語。
【歌意】 松浦川の數多の瀬の淀は、さやうに淀むにしても、私は滯りたゆむことなく、貴方の又のお出をお待ち致しませう。
 
〔評〕 眼前に停滯してゐる川淀の水を、逸り切つたわが戀心に對照して、こゝに深い感想を發し、「淀むともわれは淀まず」と反語の力強い表現によつて、自然を蔑視して自我を強調した。いかに君待ち戀ふる心が熾烈であるかを物語つてゐる。よど〔二字傍点〕の三疊も、その諧調を成す所以である
 以上の三首、上の贈歌三首とは全くその選を殊にし、殆ど別人の手に成つたものかと疑はれる程優れてゐる。蓋し作者は娘子の代作といふ點に、格別の興味が唆られた結果だと考へてよからう。
 
後(に)人(の)追(ひて)和(める)之|詩《うた》三首 都帥老
 
あとから或人がその歌意を襲うて詠んだ歌との意。後人を熟語と見ると、後世の人の意となつて、こゝには打合はない。契沖はオクルヽヒトノ〔七字傍線〕と訓んだ。○都帥老 都は都督の略稱。太宰府を支那の都督府に擬して、そこの樓を都府樓と稱する。帥老は旅人卿のこと。
(1502) この後に追和した人は誰れか。註に都帥老とあるは、上出八首が旅人卿の作なのを山上憶良の作と誤認した筆録者が、これのみは旅人の作と考へて、さう記入したものらしい。契沖いふ、
  帥の追和ならば、都帥老聞之追和詩三首などいふべし。
と。處で上出八首を旅人作として考へると、これは或は憶良の唱和かといふに、憶良なら何も後人と書く必要がない。立派に姓名を署して、山上憶良追和之詩と題してよろしい筈、而も憶良の松浦の清遊羨望の歌は別に三首下に出てゐる。そこで當然の歸結として、これも旅人卿の作で、後人云々の題詞は例の假托としたい。理由は多少違ふが新考も結論は同樣である。されば序文から始めて十一首の歌は、全部旅人卿の手になつた文藝遊戲と斷ずるに躊躇しない。
 
麻都良河波《まつらがは》 河波能世波夜美《かはのせはやみ》 久禮奈爲能《くれなゐの》 母能須蘇奴例弖《ものすそぬれて》 阿由可都流良武《あゆかつるらむ》     861
 
○ぬれて 濡らして。他動にいふ處をかく自動にいふ例が、當時この語にあつた。「袖さへぬれて刈れる玉藻ぞ」(卷四、「袖さへぬれて朝菜摘みてむ」(卷六)なども同意。○つるらむ 「都」原本にない。補つた。
【歌意】 松浦川の川瀬が早さに、娘子等は〔四字右○〕、赤裳の裾がその波に濡れて、鮎を釣るであらうか。
 
〔評〕 蓬客の更贈歌の第一首「立たせる妹が裳のすそ濡れぬ」の現在描寫を、これは想像にうつしたに過ぎない。但さやうに想像することは即ち、それに外ならぬ興味を感じたからである。以下三首ながら松浦の清遊に同伴(1503)しなかつた遺憾さを歌つてゐる。
 
比等未奈能《ひとみなの》 美良武麻都良能《みらむまつらの》 多麻志末乎《たましまを》 美受弖夜和禮波《みずてやわれは》 故飛都都遠良武《こひつつをらむ》     862
 
〔釋〕 ○みらむ 「ゆきくとみらむ」を見よ(二一七頁)。
【歌意】 皆の人が見るであらう松浦の玉島を、私一人見ないで、戀ひ懷かしんで居らうことかえ。
 
〔評〕 相反の事相を對比し、そこに羨望の情を湛へて、玉島を見ぬ遺憾さを力強く表現しようとした。その手段は尋常で、蘊含の味は乏しいが、一本氣の率直さを見る。
 「見」の語の重複の如きは、疎派の作では問ふ處でない。
 
麻都良河波《まつらがは》 多麻斯麻能有良爾《たましまのうらに》 和可由都流《わかゆつる》 伊毛良遠美良牟《いもらをみらむ》 比等能等母斯佐《ひとのともしさ》     863
 
〔釋〕 ○たましまのうら 玉島の浦はいづれ玉島川の河口であらう。今の河口は濱崎であるが、地方傳説には、玉島川の舊い河道は、濱崎の南方より領巾振山の北麓に沿うて西流し、今の松浦川(栗川)に合流し、唐津灣に入つたといふから、今の松浦川の河口が、古への玉島川の河口となる譯である。○いもら 妹達。「ら」は添語として單數の時にも使ふが、序に釣魚(ノ)女子等、題に娘等などあるから、こゝは複數と見る。○ともし 既出(四五五頁)。
(1504)【歌意】 松浦川、その玉島の浦に、若鮎釣る女共を見るであらう、その人の羨ましさよ。
 
〔評〕 玉島の兒等に對するあくがれは一轉して、兒等に値遇する人達にまで羨望が及んだ。
 
吉田連宜答和《よしだのむらじよろしがこたふる》之歌四首〔十字右○〕〔頭注に吉田連宜の懷風藻の漢詩二首あり、省略〕
 
吉田宜が返歌である。この題詞は原本にない。古義に從つて假に補足した。拾穗妙には答和人歌書并歌四首吉田宜とあるが、文が甚だ拙い。さてこれは旅人卿より、宰府の梅花篇、松浦の贈答篇を一括して書犢に添へて、四月六日に京なる吉田宜に遺つたのに對した、宜から旅人卿への返書と返歌とである。○吉田連宜 續紀に、文武天皇四年八月勅(リシテ)2僧通徳惠俊(ニ)1並(ニ)還俗(セシム)、云々、賜(ヒ)2惠俊(ニ)姓(ハ)吉名(ハ)宜(ト)1、授(ク)2務廣肆(ヲ)1、爲(メ)v用(ヰンガ)2其藝(ヲ)1也、と見え、又和銅七年正月に從五位下、養老五年正月に醫術從五位上吉(ノ)宜に※[糸+施の旁]十疋絲十※[糸+句]布二十端鍬二十口を賜ふ、神龜元年五月に姓吉田連を賜ふ、天平二年三月太政官の奏により弟子を取り業を習はしめらる、同五年十二月に圖書頭、同九年九月に正五位下、同十年閏七月に典藥頭となると見え、懷風藻に年七十とある。武智麿傳にも出。宜|啓《マヲス》。伏(シテ)奉《ウケ玉ハル》2四月六日《ウヅキムカノ》賜書(ヲ)1。脆(イテ)開(キ)2封〔左△〕函(ヲ)1、拜2讀(スレバ)芳藻(ヲ)1、心神|開朗《ホガラカニシ》、似v懷(ケルニ)2泰初之月(ヲ)1、鄙懷|除※[衣+去]〔左△〕《ノゾコリテ》、若(シ)v披(ケルガ)2樂廣之天(ヲ)1。至(リテハ)v若(キニ)d覊〔馬が奇〕2旅(シ)邊域〔左△〕(ニ)1、懷(ヒテ)2古舊(ヲ)1而傷(メ)v志(ヲ)、年矢不v停(ラ)、憶(ヒテ)2平生(ヲ)1而落(スガ)uv涙(ヲ)、 但達人安(ミシ)v排(ニ)、君子無(シ)v悶(ユルコト)。伏(シテ)冀(ハクハ)朝(ニ)宣(ベ)2懷(クル)v※[擢の旁]《キギシヲ》之化(ヲ)1、暮(ニ)存(シ)2放(ツ)v龜(ヲ)之術(ヲ)1、架(シ)2張趙(ヲ)於百代(ニ)1、追(ハム)2松(1505)喬(ヲ)於千齡(ニ)1耳。兼(ネテ)奉(ハル)2垂示(ヲ)1、梅花(ノ)芳席、群英※[手偏+漓の旁]《ノベ》v藻(ヲ)、松浦(ノ)玉潭、仙媛贈答(ス)、類《タグヒ》2杏壇〔左△〕各言之作(ニ)1、疑(フ)2衡皐※[木+兌]駕之篇(カト)1。※[身+耽の旁]讀吟諷(シ)、感謝歡怡(ス)。宜、戀《シヌブ》v主(ヲ)之誠、誠(ハ)逾(エ)2犬馬(ニ)1、仰(グ)v徳(ヲ)之心、心(ハ)同(ジ)2葵※[草冠/霍](ニ)1。而碧海分(チ)v地(ヲ)、白雲隔(テ)v天(ヲ)、徒(ニ)積(ムモ)2傾延(ヲ)1、何(ゾ)慰(メム)2勞緒(ヲ)1。孟秋(ノ)膺節、伏(シテ)願(ハクハ)萬祐日(ニ)新(ナラムコトヲ)。今因(リテ)2相撲部領使《スマヒノコトリヅカヒニ》1、謹(ミテ)付(ク)2片紙(ヲ)1。宜、謹(ミテ)啓(ス)、不次。
 
○四月六日 天平二年の。○跪開封函 謹んで封じた文函《フミバコ》を開けた。「封」原本に對〔右△〕とあるは誤。○芳藻 芳は美稱。藻は水草の彩《アヤ》ある者なので、文章に喩へていふ。○心神開朗 心がほがらかで。○似懷泰初之月 朗らかだといふ泰初の月を胸に抱いたやうだ。泰初ば魏の夏侯玄の字《アザナ》。世説に、朗々(タルコト)如(シ)2日月之入(ルガ)1v懷《フトコロニ》と、時人の泰初を評した語が見える。古義の解甚だ非。○鄙懷除※[衣+去] 卑しい思は除かれ。「※[衣+去]」は集韻に去と同義とある。原本は私〔右△〕とある。神本細本に據つた。○君披樂廣之天 晴やかだといふ樂廣の天を雲霧を押披いて見るやうだ。晉書に、衛※[王+懽の旁]が樂廣を見て奇なりとして、若(シ)d披《ヒライテ》2雲霧(ヲ)1覩《ミルガ》c青空(ヲ)uと歎じた。○覊〔馬が奇〕旅邊域―― 片田舍に長旅して、昔の知人を懷ひ出して悲みの意。邊域は太宰府をさす。「域」原本に城〔右△〕とある。○年矢不停―― 年の經つことは早くて、平常を顧みて泣くの意。年矢は周興嗣の千字文に、年矢毎(ニ)催(ス)と見え、年の經過の早いことを矢に喩へた。○達人安排 悟つた人は物の變北や推移りに驚かず。文選賈誼の鵬鳥賦に達人(ハ)大觀(ス)。また莊子太宗師篇に、安(ンジテ)v排(ニ)而去化(シテ)、乃(チ)入(ル)2於寥天(ノ)一(ニ)1とありて、排(ハ)推移也と注した。○君子無悶 よき人は物思しない。○宜懷※[擢の旁]之化 雉をも懷ける徳化を人民に布き。※[擢の旁]は玉篇に山雉とある。後漢書に、魯恭といふ人が中牟の令に拜した、上官(1506)の河南尹袁安が肥親といふ男を遣つて、その政迹を察《ミ》しめた時、偶ま雉が居たのを見て、傍にゐる童子に向つて肥親が何故に捉へぬのかと問ふと、童子が今雉が雛を養ふ時だからと答へたので、恭の徳化の深いのに驚いたとある。○存放龜之術 龜を放ち遣る手段を遺し置き。晉書に、孔愉といふ人が、路旁で人の龜を籠に入れて持つて居たのを買ひ、水に放して遣つた、すると龜は度々左向に振返り/\して往つた、のち功を建て餘不亭侯に封ぜられ、侯印を鑄ると、その鈕の龜の首が左向に出來た、三度鑄直したがやはり左向なので、不思議がつて職工がこれを愉に話すると、愉は龜を放つた報で出世したことを悟つたとある。〇架張趙於百代 張安世や趙充國を末代に於いて乘り越し。旅人卿が功名に依つて、昔の張趙の輩を凌駕することを希うたのである。張安世趙充國は共に前漢の名臣で、安世は宣帝の時の大司馬、充國は同上時の車騎將軍。班固が公孫弘傳賛に、將相(ニハ)則(チ)張安世趙充國と見えた。文選北山移文の籠2張趙於往圖1の李善注に、張敞と趙廣漢の事としてあるが、この二人は國家輔弼の大官でないから、こゝには協はぬ。架は駕と同意。○追松喬於千齡耳 赤松子や王子喬を長命して後から追はうばかりさ。旅人卿の長壽を希うたのである。赤松子も王子喬も共に仙人。列仙傳に、赤松子(ハ)神農(ノ)時(ノ)雨師云々、王子喬(ハ)周(ノ)靈王(ノ)太子晉也云々と見えた。○兼奉垂示、又お示しになつた。○梅花芳席 上の梅花宴をさす。○群英※[手偏+漓の旁]藻 勝れた人達の作歌。※[手偏+漓の旁]藻は文選に間出する字面で、※[手偏+漓の旁](ハ)舒也と注し、叙述することをいふ。〇玉潭 玉島の潭。○仙媛 仙女。媛は玉篇に美女とある。○類杏壇各言之作 孔夫子の座でその弟子達が各志を述べた詞に似てをり。梅花篇は帥老の宴席での各人の詠作なので擬へたもの。杏壇は孔子が群弟子に教を施した處。もと地名だつたが、後世壇を敷いて杏壇と名づけた。莊子漁父篇に、孔子休2坐(ス)于杏壇之上(ニ)1、弟子讀(ム)v書(ヲ)、夫子鼓(シ)v瑟(ヲ)奏(ス)v曲(ヲ)とある。各言之作とは、論語先進篇に、孔子が弟子達に向つて、蓋(ザル)3各言(ハ)2爾(ノ)志(ヲ)1とい(1507)はれたので、子路冉有曾點等が、銘々にその所思を陳べた事が見える。「壇」原本に檀〔右△〕とあるは誤。○疑衡皐※[木+兌]駕之篇 魏の曹植が洛水の神に値つて作つた洛神賦かと疑はれる。松浦(ノ)篇は玉島の仙媛に逢つて作つた趣なので擬へた。衡皐※[木+兌]駕は洛神賦に、日既(ニ)西(ニ)傾(キ)、車殆(ク)馬煩(シ)、爾廼《スナハチ》挽※[木+兌]《トキ》2駕(ヲ)乎※[草冠/衡]皐(ニ)1、秣(フ)2駟(ヲ)乎芝田(ニ)1と見え、※[木+兌]駕は乘車から馬を解き放つこと。※[木+兌]は税と通じ音ダツ。※[草冠/衡]皐は※[草冠/衡]といふ香草のある澤。○※[身+沈の旁]讀吟諷感謝歡怡 示された梅花松浦の二篇を貪り讀み唱へ歌ひ、感に堪へて樂しい。○戀主之誠―― 犬馬は飼主を戀ふ赤誠があるが、私はそれ以上に帥老を慕ひの意。○仰徳之心―― 葵※[草冠/霍]の花葉は日に向つて廻るが、私はそれと同じく徳を慕うて帥老を仰ぐの意。葵は向日葵のこと。※[草冠/霍]は弱《ワカ》い豆、又豆の葉をいふ。犬馬葵※[草冠/霍]は文選曹植の求v通2親々1表に、犬馬之誠不v能(ハ)v動(ス)v人(ヲ)、また若(キ)3葵※[草冠/霍]之傾(クルガ)2葉(ヲ)太陽(ニ)1、雖(ドモ)v不(ト)2爲(ニ)v之(ガ)廻(サ)1v光(ヲ)、終(ニ)向(フハ)v之(ニ)者誠也とある。○碧海分地白雲隔天 海が大地を區切り、雲が天を隔てる。碧白は色相上の對語。奈良京と筑紫との距離の遙なことをいつた。○積傾延 度々首を傾け領《エリ》を延ばす。傾延の出典不明。○勞緒 苦勞の心。緒は心緒愁緒など熟して心の意に用ゐる。○孟秋膺節 初秋に當る時。孟は始、膺は當の義。○萬祐日新 多くの幸が日に日に來てほしい。○相撲部領使―― 相撲の部領使に托して謹んで寸楮を拜呈致しますの意。相撲部領使は國内の相撲人を簡拔して京師に引率しゆく使。奈良時代には毎年七月七日に、天皇相撲を觀給ふ式が宮中に行はれた。よつて六月二十日までに部領使は相撲人を領して上京し、七日の相撲の節が終ると、又相撲人を率ゐてそれ/”\歸國した。こゝは筑紫へ歸國の部領使に返簡を託したのである。部領をコトリと訓む。事執《コトトリ》の約。
 この文は卷中殊に優れた佳篇である。素より文選の餘風を煽いてゐるには相違ないが、支那とても宋代に至り韓柳の文章が盛行するまでは、文選體であつたのだ。又篇中漢晉間の故事が多く使用されてあるが、支那で(1508)も唐時代は一般にさうだつた事は、李華の蒙求を見ても感ずる事であらう。
 宜はもと僧侶出身であつた。姓氏録によると、彼の家は孝照天皇を祖として、垂仁天皇の時、その先鹽乘津彦(ノ)命が任那を鎭めた。任那語に宰《ミコトモチ》を吉といふので、その子孫吉氏を稱し、奈良の田村(ノ)里河に家居したので、神龜中に居處の稱を取合せて吉田連となつたとある。以上の家歴から推すと、彼れの家は、韓國文化の仲介者となつてゐたのではあるまいか。まして僧籍に居たとなつては、彼れが醫術を善くし、漢文に堪能なのも偶然でない。
 
奉(る)v和《なぞらへ》2諸人《もろひとの》梅(の)花(の)歌(に)1一首
 
於久禮爲天《おくれゐて》 那我古飛世珠波《ながこひせずは》 彌曾能不乃《みそのふの》 于梅能波奈爾母《うめのはなにも》 奈良麻之母能乎《ならましものを》     864
 
〔釋〕 ○おくれゐて 梅花宴に立合はぬをいふ。○ながこひ 長戀。久しく戀ひ渡ること。卷十二にも「長戀しつついねかてぬかも」とある。○せずは せむよりはの意。古文の格。○みそのふ 御薗生。○うめ 「于梅」は烏梅と書くに同じい。
【歌意】 面白い梅花宴に居合はせずして、何時までも羨ましがらうよりは、いつそ帥老の御庭の梅の花にもならうものを。それも出來ない相談なので殘念です。
 
〔評〕「まし」の助動詞を使つて、假設の構想を猫き出す手段は古來の常套で、形式も一定し過ぎてゐる。されば(1509)餘程内容に優れたものを持たぬ以上は、陳腐の感は免れまい。この歌など折柄にふさはしいといふまでであらう。
 
和(らふる)2松浦(の)仙媛(の)歌(に)1一首
 
伎彌乎麻都《きみをまつ》 麻都良乃宇良能《まつらのうらの》 越等賣良波《をとめらは》 等己與能久爾能《とこよのくにの》 阿麻越等賣可忘《あまをとめかも》      865
 
〔釋〕 ○きみをまつ 上の娘子等の更報歌に「われはよどまず君をし待たむ」とあるに據つた。○まつらのうら 玉島の浦と同處。○とこよのくに 蓬莱國。「常世《トコヨ》」を見よ(一九三頁)。○あまをとめ 天少女。仙女をいふ。「あま」を海人と解するは非。○かも 「忘」は呉音モウで、その短音を用ゐた。
【歌意】 貴方を待つといふ、松浦の浦の娘子達は、蓬莱國の仙女であるかまあ。さても羨ましい。
 
〔評〕 仙女に待たれるに至つては、その艶福は欽羨の極であらう。但原作の序文には、松浦玉潭の釣魚の娘子等を既に仙媛視してゐる。それを承けての唱和だから、今更「蓬莱國の天をとめかも」といふは二番煎じで、別に何とか一層の波瀾を起して、一生面を打開すべきであつた。で「あまをとめ」を海人少女と解する説も出て來たらしい。然し蓬莱國の女漁師では、折角の仙女も型なしで、ゆかしげがないではないか。「君をまつまつ浦」の同音反復のゆとりある語調は、その構成が自然である。
 蓬莱國の事は山海經、列子、特に史記の封禅書によつて、上代人は知得したらしい。
 
(1510)思(ひて)v君(を)未(ず)v盡(き)重《また》題《しるせる》歌〔左○〕二首
 
貴君を思ふことが果しなく、又も書き記した歌との意。重の字は梅花松浦二篇の唱和の外に又の意である。「歌」原本にない。補つた。
 
波漏波漏爾《はろばろに》 於忘方由流可母《おもはゆるかも》 志良久毛能《しらくもの》 智弊仁邊多天留《ちへにへだてる》 都久紫能君仁波《つくしのくには》     866
 
〔釋〕 ○はろばろに 遙々《ハルバル》にの古言。皇極天皇紀の謠にも「波魯波魯爾《ハロバロニ》ことぞ聞ゆる」とある。○おもはゆる 思ほゆるの轉。「方」は漢音ハウで、その短音を用ゐた。○ちへに 「ちへのひとへも」を見よ(五六五頁)。○へだてる 古言の多行四段の既然格隔て〔二字傍点〕に現在完了のるの助動詞の接續したもの。類聚古葉には敞太津留《ヘダツル》とある。
【歌意】 いかにも遠々しく思はれることよ、白雲が幾重にも隔てゝゐる、貴君の入らつしやる〔九字右○〕筑紫の國はさ。
 
〔評〕 奈良京と筑紫國、千里遠く相望めども、白雲漫々として相逢ふ由もない。その愁思には同情するが、常識的で、平淺に近い。
 
枳美可由伎《きみがゆき》 氣那我久奈理努《けながくなりぬ》 奈良遲那留《ならぢなる》 志滿乃己太知母《しまのこだちも》 可牟佐飛仁家理《かむさびにけり》     867
 
(1511)〔釋〕 ○きみがゆき 既出(二九八頁)。○けながく 既出(二九八頁)。○ならぢ 奈良にある路の意。佐保路、立田路の類語。「きぢ」を見よ(一四二頁)。○しま 奈良路なる志滿《シマ》の續きは必ず地名である。和名抄に添上郡八島郷が見え、今も東市村に、古市の南に大字八島の名がある。志滿は八島の略稱であらう。奈良京の東市の遺地古市はこゝの首邑である。古義に、立田のあたりの地名としたのは牽強。又新考に山齋《シマ》の事としたのは失考で、「奈良路なる」の句に續かない。○かむさびにけり この「かむさび」は物舊るをいふ。上《カミ》すさびの意。
【歌意】 貴方の旅行は、年月長いことになりました。奈良路にある志滿の木立も、見違へる程、物舊りてしまひましたわい。
 
〔評〕 作者宜が故舊たる旅人卿の書簡を得たのは、四月の最末から五月の上旬頃であらう。梅花松浦二篇の返歌は早く成つたとしても、七月に入つての相撲部領使の筑紫歸國までは、他に依託の好便がなかつたらしい。この重題歌二首はその間に成つたものと思はれる。
 志滿には大伴家の別墅があつたのだらう。作者は今奈良路を往き、圖らずその別墅の木立の神さびを發見し、歳月はかくも早く流れ去つたものかと驚歎して、天涯に覊〔馬が奇〕遊する舊知己の久しい流離を傷む情意を寓せた。
 「君が行き氣長くなりぬ」の初二句は、磐姫皇后が天皇を思び給うた御歌(卷二所載)の初二句である。かやうに著名な成句を、而も何等の用意なしに襲用することは、牴觸感が強く響いて面白くない。
(1512)天平二年七月十日
 
 これは上の歌文全部を。七日の相撲の節會をすまして歸國する相撲部領使に託して、旅人卿に贈つた日付である。古義に、この日付が部領使の出入の時期に打合はずとして異説を挿んだが、それは平安期の規定からの推論で、奈良時代の事には與らない。委しくは歌序中の相撲部領使《スマヒノコトリヅカヒ》の項を參照。
 
山(の)上(の)臣憶良(が)松浦(の)歌三首〔十字左○〕
 
この題詞、原本にない。目録によつて補つた。
 この題詞序及び歌は、下の詠2領巾麾嶺1歌の次に置くべきで、順序が前後してゐる。蓋し錯簡である。その理由は三首の歌のうち、第二首が玉島釣魚の歌の唱和であることは明かだから、第一首も領巾麾嶺の歌の唱和と見るが當然だ。渾べてが旅人卿から示された松浦(ノ)篇領巾麾嶺篇に對しての應酬である以上は、憶良のこの作が旅人卿作の領巾麾嶺篇の前にあるべき筈がない。
 
憶良誠惶頓首、謹(ミテ)啓(ス)
憶良聞(ク)、方岳諸侯、都督刺史、並《ミナ》依(リテ)2典法(ニ)1、巡(リ)2行(キ)部下(ヲ)1、察《ミル》2其風俗(ヲ)1。意(ノ)内多端(ニシテ)、口(ノ)外(ニ)難(シ)v出(シ)。謹(ミテ)以(テ)2三首之鄙歌(ヲ)1、欲(リス)v寫(サムト)2五藏(ノ)欝結(ヲ)1。其歌(ニ)曰(フ)、
 
○方岳諸侯 方岳と諸侯と。方岳は地方を鎭むる大諸侯をいふ。晉紀總論に見えた語。文選潘安仁の詩、藩岳(1513)爲(ス)v鎭(ヲ)の注に、藩岳(ハ)謂(フ)2諸侯(ヲ)1也とある。諸侯は方岳に對しては小諸侯をいつた。但當時の日本は郡縣制で封建制ではないから、畢竟都督刺史に對した文飾の語である。それを辨へず無用の辯を費す人のあるのは可笑しい。○都督刺史 都督は總督に同じい。漢魏の間に始めて置かれた官。こゝは太宰帥に充てた、宰府を都府と稱するもこの意に據つた。○刺史 州の知事の稱。こゝは國守に充てた。○依典法―― 法規に依つて、都督即ち帥は管内九州二島を、刺史即ち守はその國内を巡行し、治下の人民の風俗を視察するの意。○意内多端―― 心の内に思ふことが多いが、口からは述べ難いの意。○欲寫五藏之欝結 心の蟠りを敍べようと思ふ。五藏は心肝腎肺脾をいふ。藏は臓に同じい。この文は憶良が筑前守として、長官たる太宰帥旅人卿に寄せた體裁である。旅人卿がその管内巡行の傍、松浦玉島の遊を試みたのに羨望の意を述べてゐる。
 
麻都良我多《まつらがた》 佐欲比賣能故何《さよひめのこが》 比列布利斯《ひれふりし》 夜麻能名乃美夜《やまのなのみや》 伎伎都都遠良武《ききつつをらむ》     868
 
(1514)〔釋〕 ○まつらがた 松浦|縣《アガタ》の略。松浦之縣を見よ(一四九三頁)。松浦潟の説もある。○さよひめのこ 佐用媛の兒。兒は親稱。肥前風土記に領巾振山の事をいうて、
  俗(ニ)傳(ヘテ)云(フ)。昔者|檜前《ヒノクマノ》天皇之世、遣(リ)2大伴(ノ)紗手比古《サテヒコヲ》1鎭(メシム)2任那《ミマナノ》國(ヲ)1、于時奉(リ)v命(ヲ)經2過(グ)此處(ヲ)1、於是|篠《シヌ》原(ノ)村(ニ)(篠(ハ)資農也)有(リ)2娘子《ヲトメ》1、名(ヲ)曰(フ)2乙等比賣《オトヒメト》1、容貌|端正《タダシク》、孤(リ)爲(リ)2國色1、紗手比古便|娉《ヨバヒテ》成(ル)v婚《メヲト》、離別《ワカルヽ》之日、乙等比賣登(リ)2此(ノ)岑(ニ)1擧(ゲテ)v※[巾+白](ヲ)招(ク)、因(リテ)以(テ)爲(ス)v名(ト)。
 又袖中抄に童蒙抄所載の肥國風土記を引いて、
  昔大伴狹手彦(ノ)連、任那國を鎭め、かねて百濟國を救はむが爲に、詔を承りてこの村に至りぬ。即ち篠原村弟日姫(ノ)子を聘しつ。その形人に勝れたり。別れ去る日鏡をとりて婦に與ふ。婦別の悲びに、その鏡を抱いて栗川に沈みぬ。こゝを鏡の渡りといふ。狹手彦船出する時、弟日姫(ノ)子こゝに登りて袖をもちて振り招く、この故に袖振嶺といふ、云々。
○ひれふりしやま 領巾を振つた山。下の「領巾麾嶺」を見よ(一五一七頁)。○ひれ 「たくひれの」を見よ(七一六頁)。○なのみや 「や」は疑辭。反動辭ではない。△挿畫 挿圖158を參照(五七五頁)。
【歌意】 昔松浦縣に居た佐用姫の兒が、夫狹手彦の船出を慕うて領巾を振つた、といふ山の名ばかり、私は〔二字右○〕聞き聞きして居らうことか。甚だ殘念な〔五字右○〕。
 
〔評〕 佐用媛の領巾振山傳説は、地方的に著しかつたのに、作者は往訪の期のないことを歎き、暗にそれを實見し得た帥老の多幸を羨んだ。そこに蘊含の味がある。松浦は肥前國内で筑前守の管外だから、憶良としては公然の出遊は出來ないのみならず、實は神經痛で足腰不自由の病人だつた事を思ふと、「山の名のみや聞きつつをらむ」には、實に切々たる哀音が纏綿してゐるのを感ずる。果して序に、欲v寫2五藏欝結1とある。
 
(1515)多良志比賣《たらしひめ》 可尾嚢美許等能《かみのみことの》 奈都良須等《なつらすと》 美多多志世利斯《みたたしせりし》 伊志遠多禮美吉《いしをたれみき》     869 一(ニ)云(フ)、阿由都留等《アユツルト》。
 
〔釋〕 ○なつらすと 魚《ナ》釣らすとて〔右○〕。この「な」は(1)魚を饌《ナ》に用ゐる時の稱。(2)轉じて魚の一名の如く用ゐる。神功皇后釣魚の事は上の「松浦之鮎」を見よ(一四九三頁)。○みたたしせりし 「みたたし」は既出(四八八頁)。「せり」は現在完了の助動詞。「し」は過去の助動詞。○いしを 神功皇后釣魚の石は、玉島川の河中にあつた。古事記の爾坐(ス)2其河中之礒(ニ)1の註に、其河(ノ)名(ヲ)謂(ヒ)2小河(ト)1、亦其礒(ノ)名(ヲ)謂(フ)2勝門比賣《カチドヒメト》也とある、その勝門比賣の事であらう。紀の通證に、玉島川岸に七尺ばかりの大石ありて俗に紫石といふ、皇后垂釣の處とあり、又同通釋には紫石は元和年中の洪水にて水底に埋れたりとあり、雲根志には、浮島と玉島川の間にある松原にありとある。その松原は虹の松原か。玉島川の舊河道はこゝを通過したらしいから、それも捨て難いが、とにかく石の所在は判明しない。○たれみき 不定の代名詞は第三變化終止言で結ぶのが正格。それがもし第四變化で結ばれた時には、「か」の疑辭の係辭が存在するものとして解釋する。詞の玉の緒に、タレはミシと結ぶべきを、ミキとあるは誤とあるは却て非。
【歌意】 神功皇后樣が魚をお釣になるとて、お立ち遊ばされたことであつた石を、誰れが見たのですえ。それは即ち貴方でせう、お羨ましい〔十五字右○〕。
 
〔評〕 劈頭から神の命の御名を提唱して、第五句の「石を」に至るまで、極めて莊重に敬虔にその叙事を運んだ。それは記紀に準據し、口碑に※[夕/寅]縁した興味饒い事柄である。結句に入つて突如その主觀に轉じ、僅に「誰れ見(1516)き」の一語を旅人聊に投げ懸けて、その裏詞に無窮の情意を※[酉+褞の旁]釀せしめた。稀に見る異體の作。
 
毛毛可斯母《ももかしも》 由加奴麻都良遲《ゆかぬまつらぢ》 家布由伎弖《けふゆきて》 阿須波吉奈武遠《あすはきなむを》 奈爾可佐夜禮留《なにかさやれる》     870
 
〔釋〕 ○ももかしもゆかぬ 百日もかゝらぬ。「し」は強辭。○まつらぢ こゝは松浦へゆく路。○さやれる 障つてゐる。「さやる」はさはる〔三字傍点〕の古言。
【歌意】 百日もさ歩きはせぬ松浦路、それ處か今日往つて明日は歸つて來られよう近い松浦路〔五字右○〕を、何に差支へて往かぬのか。
 
〔評〕 大した遠方でもないの意を、具象的に「百日しも往かぬ」と誇大に轉義した。それは次の「今日往きて明日は來なむ」に強い反映を持たしめる手段である。又かく漸層的に折返し、くどく〔三字傍点〕松浦路の近いことを唱道したので、「何かさやれる」の疑問が深く強く印象づけられ、そこに嚴しい自己詰問が展開される。而もこの詰問には答辯を與へてない。それは作者の現况が無言の雄辯で囘答をしてゐるので、餘意餘情はすべてその間に往來してゐるのである。
 作者の現况、それは上の「山の名のみや聞きつつをらむ」の評中に既に語つた如く、作者は長い病人なのである。
 
天平二年七月十一日、筑前(ノ)國(ノ)守山上(ノ)憶良 謹(ミテ)上(ツル)。
 
(1516) 謹上は帥旅人卿に上つたのである。旅人卿の松浦の歌は四月若鮎の節で、奈良京にゐる吉田宜でさへ、その返書と返歌とを七月十日の日付でよこしてゐる、然るに筑前の國衙に居る憶良が漸うこの月になつて唱和したのは稍怠慢らしい。古義の次第説はすべて誤解。
 
詠(める)2領巾麾嶺《ひれふりのねを》1歌一首〔八字左○〕
 
この題詞原本にない。目録に依つて補つた。○領巾麾嶺 また領巾振山。肥前國東松浦郡濱崎の西南、鏡村の東嶺である。高さ約二百八十四米突。北は松浦の海(唐津灣)に面し、山脚の砂濱二里の松林を虹の松原と稱する。唐津の東一里。
 この篇は序及び歌、後人追和、最後人追和、最々後追和の歌まで、盡く旅人卿の自作である。序及び歌の作者に就いて、契沖は夙く從來の憶良説を破して、
  憶良は松浦山玉島川ともに、終に見られざる由を書けり。典法に依つて巡察する次に、帥殿(旅人)の見けるなるべし。
といつた。この篇の後人追和の諸歌も、松浦篇の樣式を襲用したもので、その手法の同じ點かろ見ても、旅人卿の戲意に出たことは明かである。尚この篇は上の憶良の松浦(ノ)歌の前にあるべきもので、その錯簡であることは、既に松浦(ノ)歌の條で辯明した。 
 
大伴(ノ)佐提比古郎子《サテヒコノイラツコ》、特(ニ)被《カヽフリ》2朝命《オホミコトヲ》1、奉《マケラル》2使|藩國《トツクニニ》1。艤v棹《フナヨソヒシテ》言《コヽニ》歸《ユキ》、稍赴(ム)2蒼波(ヲ)1。妾也《メヤ》松浦|佐用嬪面《サヨヒメ》、嗟(キ)2此別(ノ)易(キヲ)1、歎(ク)2彼(ノ)會(ノ)難(キヲ)1。即(チ)登(リ)2高山之嶺(ニ)1、遙(ニ)望(ミテ)2離去《コギサル》之船(ヲ)1、悵然(トシテ)斷(チ)v肝(ヲ)、黯然(トシテ)銷(ス)v魂(ヲ)。遂(ニ)脱(ギテ)2領巾《ヒレヲ》1麾《フル》之。傍者莫(シ)v不(ルハ)2流涕《ナカ》1。因《カレ》號(ビテ)2此山(ヲ)1、曰(フ)2領巾麾《ヒレフリ》之|嶺《ネト》1也。乃(チ)作歌《ウタヨミシテ》曰(フ)、
 
(1518)○大伴佐提比古 佐提比古は狹手彦のこと。宣化天皇紀に、二年冬十月、天皇以(テ)3新羅《シラギノ》寇《アタナフヲ》2於|任那《ミマナニ》1、詔(リ)2大伴(ノ)金村(ノ)大連《オホムラジニ》1、遣(リ)3其子磐(ト)與(ヲ)2狹手彦1以助(ケシム)2任那(ヲ)1、是時磐(ハ)留(リ)2筑紫(ニ)1執(リ)2國(ノ)政(ヲ)1以(テ)備(ヘ)2三韓(ニ)1、狹手彦(ハ)往(イテ)鎭(メ)2任那(ヲ)1、加《マタ》救(フ)2百濟(ヲ)1。欽明天皇紀に、廿三年八月、天皇遣(リテ)2大將軍大伴(ノ)連狹手彦(ヲ)1、領(ヰテ)2兵數萬(ヲ)1伐(シム)2高麗(ヲ)1、狹手彦乃(チ)用(ヰテ)2百濟(ノ)計(ヲ)1、打2破(リキ)高麗(ヲ)1、其王踰(エテ)v垣(ヲ)而逃(ゲヌ)、狹手彦遂(ニ)乘(リテ)v勝(ニ)以入(リ)v宮(ニ)、盡(ク)得(テ)2珍寶貨賂《タカラモノ》、七織帳、鐵(ノ)屋(ヲ)1還(リ)來《ク》、など見えて、古代の猛將である。○郎子 若い男子の敬稱で、郎女《イラツメ》の對稱。「いらつこ」は色《イロ》つ子《コ》の義。イロは親愛を表する語で、カゾイロ、イロセ、イロト、などもいふ。○特被朝命奉使藩國 取分け詔を承り、外國に派遺され。藩は蕃と同じい。化外の國また夷をいふ。○艤樟言歸 船支度して出で立ち。艤は船装ひ。棹は船の意に用ゐた。言は虚字でココニと訓む。歸は往く、趨くなどの意。○赴蒼波 大海に乘り出した。○松浦佐用殯面 殯面はその字音をヒメに當てた。但殯の一字にヒメの訓があるから、面は添字とも見られる。この語末の添字書式は集中に散見する。傳は「さよひめのこ」を見よ(一五一四頁)。○嗟此別易歎彼會難 遊仙窟の所(ハ)v恨(ム)別(ノ)易(ク)會(ヒノ)難(ク)、去留乖(キ)離(ル)の句に據つた。佛經にいふ八大辛苦中の愛(ニ)別離苦、會者(ニ)定離の意である。○悵然斷肝 悲み痛んで肝がちぎれる。悵は痛む、怨むなどの章。○黯然銷魂 心が暗がつて魂が消える。黯は深黒、また別を傷む貌にいふ。江滝が別賦に、黯然釣銷(ス)v魂(ヲ)者《ハ》唯別|而已《ノミ》。○脱領巾麾之 頸に掛けた領巾を取つて振つた。麾はさし招くの意。
 
得保都必等《とほつひと》 麻通良佐用比米《まつらさよひめ》 都麻胡非爾《つまごひに》 比例布利之用利《ひれふりしより》 於返流夜麻能奈《おへるやまのな》     871
 
〔釋〕 ○とほつひとまつら 前出(一四九九頁)。○おへるやまのな、負ひ持つた山の名。
【歌意】 松浦佐用姫が夫戀しい心に、その領巾を振つた事から附いた、この山の領巾振の名であるわ。
 
(1519)〔評〕 契沖はこの初句を評していふ、
  遠つ人は大方の枕詞なるを、今は佐用媛が狹提比古《サテヒコ》の歸るを待つに、おのづから協へり。
と。成程初句にさうした技巧はあるとしても、山の名は傳説に於いて既に知れ渡つた話、それを何の潤飾もなく直敍してゐる。これでは短歌の形式を取つた報告に過ぎない觀がある。然し作者としては別に、この領巾振るに深い感銘をもつたのであつた。
 それは作者旅人が大伴氏である事に留意しなければならぬ。領巾振傳説の立物松浦佐用姫の戀の對象たる大伴狹手彦は、旅人卿の傍系の遠祖に當る。外征に偉勲を樹てゝ、大伴氏の家門に赫々たる光輝を齎した英雄である。その人その事に伴ふ佳人の消魂的哀話は、後裔旅人をして、格別に斷陽の因を成さしめるのであつた。
 狹手彦が宜化天皇二年に出征の命を受けてから欽明天皇二十三年に振旅凱旋するまで、無慮二十七年間を經過したことを知らねばならぬ。實に馬鹿/\しい程の長期戰だ。最初のうちは兄磐と共に松浦に居て、韓地の指揮を執つてゐたので、軍旅の徒然に佐用媛は聘されたのである。その渡韓を決行した年時は分明しないが、佐用媛との雙棲期間は相應長かつたことと思はれる。
 佐用媛は乙等《オト》比賣、弟日《オトヒ》姫など書かれて、松浦の篠原村の某家の二番娘であつたさうな。正妻でこそないが一旦許した恩愛の情味は同じ事で、夫の出征に飽かぬ別を惜むこと、その閨裏に於いて足らず、渡頭に於いて足らず、遂に高山の頂に領巾振るに至つて極まる。後人その情思を敷演して幾多の傳説を派生し、遂に支那の望夫石の故事まで湊合して、佐用媛を石化せしめたのも偶然でない。
 領巾振の本事はこの外に、欽明天皇紀に、調吉士伊企儺《ツキノキシイキナ》が韓國に捕へられた時、妻|大葉子《オホバコ》が歌に、
  から國の城のへに立ちて大葉子は領巾振らすもよやまとへ向きて (紀、第十九)
(1520)それを或者が和して、
  から國の城のへに立たし大葉子は領巾ふらす見ゆ難波へ向きて (同上)
とあつて、場處や事情こそ違へ、同時代であるのも不思議である。只佐用媛自身に歌のないことは寂しいが、この領巾麾嶺篇の宣傳力によつて、大葉子以上に花やかに、その事蹟が世間に流傳した。
 
後(の)人(が)追(ひて)和《なぞらふる》歌〔左○〕一首
 
上の「遠つ人」の詠に、人が後から唱和した歌との意。「歌」原本にない、補つた。以下皆同じい。
 
夜麻能奈等《やまのなと》、伊賓都夏等可母《いひつげとかも》 佐用比賣何《さよひめが》 許能野麻能閉仁《このやまのへに》 必例遠布利家無《ひれをふりけむ》     872
 
〔釋〕 ○やまのなと 山の名として〔二字右○〕。○いひつげとかも 言ひ繼げとて〔右○〕かまあ。「か」は疑辭。「夏」をゲと讀むは呉音。○やまのへ 山の上。
【歌意】 山の名として、領巾振〔三字右○〕をいひ傳へよといふことでまあ、佐用媛がこの山の上で、領巾を振つたのであらうか。
 
〔評〕 今は領巾振が山名になつた事に就いて一案を立て、始からその下組があつての所作であつたらうと、佐用媛の心理を勝手に推想した。結句語調が弱い。領巾ふらしけむ〔七字傍点〕とでもいひたい。「山の名」「山のへ」の重複も(1521)例は多いがうるさい。
 
最《いと》後《のちの》人(が)追(ひて)和(ふる)歌一首
 
又々人が後から唱和した歌との意。
 
余呂豆余爾《よろづよに》 可多利都夏等之《かたりつげとし》 許能多氣仁《このたけに》 比例布利家良之《ひれふりけらし》 麻通羅佐用嬪面《まつらさよひめ》     873
 
〔釋〕 ○このたけ 此嶽。領巾振山をさす。
【歌意】 萬年の後にも語り傳へよとさ、この山にて〔右○〕、領巾を振つたらしい、松浦佐用媛は。
 
〔評〕 佐用媛の意中は夫《ツマ》戀より外はない。それを作者は色々な角度から見て模索するのである。この「萬代に語りつげとし」は名誉心からその領巾を振つたやうにも聞えるが、既に著名な傳説として語り繼がれてゐる事實がある以上は、そんな嫌疑はない。作者の心持はもつと潔白である。
 
最《いと》最《いと》後(の)人〔左○〕(が)追(ひて)和(ふる)歌〔左○〕一首二首
 
宇奈波浪能《うなばらの》 意吉由久布禰遠《おきゆくふねを》 可弊禮等加《かへれとか》 比頴布良斯家武《ひれふらしけむ》 麻都良佐欲比賣《まつらさよひめ》     874
 
(1522)〔釋〕 ○ふらし 振る〔二字傍点〕の敬相。
【歌意】 大海の沖をゆく、夫狹手彦の〔五字右○〕船を、返れといふ事で、その領巾を振られたであらうか、松浦佐用媛は。
 
〔評〕 領巾振の本事に就いて、狹手彦出征の場面に即して、媛の情思を別な方面から描いてみた。總べて船は一旦漕ぎ出したら戻さぬのが定法である。而も「沖ゆく」である。その不可能なる返航を媛の意中に推した處に、この歌の山がある。
 
由久布禰遠《ゆくふねを》 布利等騰尾加禰《ふりとどみかね》 伊加波加利《いかばかり》 故保新苦阿利家武《こほしくありけむ》 麻都良佐欲比賣《まつらさよひめ》     875
 
〔釋〕 ○ふりとどみかね 「ふり」は領巾〔二字右○〕振りの略。「とどみかね」は前出(一四三四頁)。
【歌意】 漕ぎ出した夫の船を、その眞心こめた領巾振にも止めかねて、どんなにか戀しいことであつたらう、松浦佐用媛は。
 
(1523)〔評〕 前の歌の繼續場面で、流石の領巾振も、返航はさておき、その船足をさへ止め得ず、一別杳としてその消息を斷つに至つては、斷陽の極みであらう。「いかばかり戀しかりけむ」位では、まだ物足らぬ憾がある。
 
書殿《ふみどのに》餞(る)v酒(を)日(の)倭《やまと》歌四首
 
書殿で帥旅人卿が上京されるに就いての〔十五字右○〕餞別の酒を斟んだ時の歌との意。旅人卿の上京は天平二年十二月大納言に任ぜられた爲である。○書殿 學問所のこと。これは太宰府中の建物なので、帥殿の送別宴をそこに開いたのである。都府樓址の南にガギヤウと呼ばれる地がある。學業《ガクギヤウ》の轉訛で、宰府時代に學業院を置かれた遺址である。學業院は即ち書殿の在るべき處。これを旅人卿の家の書殿、又は憶良の住む筑前の國衙の書殿などいふ説は諾け難い。○倭歌 この餞宴に詩人は詩を賦し、歌人は歌を詠じたので、詩即ち唐歌《カラウタ》に對して特に倭歌《ヤマトウタ》と題した。この字面はこゝが初出である。唱和の意の和歌と混じてはならぬ。上にも詩に竝べて日本挽歌と書いてある。
 
阿摩等夫夜《あまとぶや》 等利爾母賀母夜《とりにもがもや》 美夜故摩提《みやこまで》 意久利摩遠志弖《おくりまをして》 等比可弊流母能《とびかへるもの》     876
 
〔釋〕 ○あまとぶや 天飛ぶ鳥と續く。「や」は間接の歎辭。天飛ぶ鳥も(紀、輕太子)天飛ぶや輕(卷二、卷四、卷十一)天飛ぶや雁(卷十五)など例が多い。○とりにも 鳥にて〔右○〕も。○がもや 「がも」は願望の辭、「や」は歎辭。○とびかへるもの  飛び還らうものをの意。「もの」はモノヲの略。推量詞を用ゐるべき處を現在格にし(1524)て、もの〔二字傍点〕と收めた例は、紀の應神天皇御歌に「逢ひ見つるもの」、記の雄略天皇御歌に「金※[金+助]《カナスキ》を五百千《イホチ》もがも※[金+助]きはぬるもの」、卷十三に「公《キミ》にまつりて越《ヲチ》えしむもの」など數多ある。
【歌意】 空飛ぶ鳥にでもなりたいなあ。そしたら君を奈良の京まで送り申して、早速飛び還らうものを。それがならぬので殘念な。
 
〔評〕 鳥は旦に出て夕べに還る。よつて鳥にでもなつて、一散に歸京する帥殿を造り屆けて來ようにといふ。實に懇情の限を盡した詞で、その不可能な事は百も承知でゐながら、尚愚痴らしくかういはねばならぬ處に、抑へ切れぬ惜別の情緒が漲り漂ふ。安貴王の歌、
  高飛ぶ鳥にもかも明日往きて妹に言問ひ――。(卷四、安貴王−534)
とその情趣を同じうしてゐる。
 「送り申して飛び還るもの」は古代の口語そのまゝを聞くやうな感じがする。憶良は漢學者だけに、國語の修辭に就いて、極めて無造作な表現をなす傾向をもつてゐる。時には却てそれが疎宕の味ひをもち、眞摯卒直な響を傳へる事もある。
 
比等母禰能《ひともねの》 宇良夫禮遠留爾《うらぶれをるに》 多都多夜麻《たつたやま》 美麻知可豆加婆《みまちかづかば》 和周良志奈牟迦《わすらしなむか》     877
 
〔釋〕○ひともね 人皆の意。皆《ミナ》をモネと訛るは筑紫の方言か。宣長は彌那〔二字右△〕の誤字とし、正辭は「母」にミの音あ(1525)り、「禰」は呉音ナイなれば、このまゝにてヒトミナと讀むべしと論じたが、正訓とは思はれない。○うらぶれ 心觸《ウラフ》れの義。愁ふること。○みま 御馬。○わすらし 忘る〔二字傍点〕の敬相。△地圖 第一册卷頭總圖を參照。
【歌意】 筑紫の人達は皆この通り、君の御出立を愁へ歎いて居るのに、君は奈良京の入口なる〔十字右○〕立田山に、御馬が近付かうならば、その喜に我等の事を〔九字右○〕、お忘れなさるであらうかえ。
 
〔評〕 旅人卿の旅况と旅情とを委曲に描いて、殆ど餘蘊がない。長い間の宰府の蟄伏は、一陽來復して中央政府に召還、今や大政輔佐の顯官として、花々しく奈良京の土を踏まうとするその人が、入京の關門たる立田山を、目のあたり馬頭に望んだ時の襟懷はどんなものであらう。この大きな喜の前には、宰府に於ける今の別離の如き小さな悲は、端的に消し飛んでしまふであらう。實に「御馬近づかば忘らしなむか」である。この直ちに人の肺腑を刺す言辭には、筑紫に取殘される運命のもとにある人達の寂しい氣持から發した、生別の悲哀を抱藏して、惻々と人に迫る。
 
伊比都都母《いひつつも》 能知許曾斯良米《のちこそしらめ》 志萬〔二字左△〕斯久母《しましくも》 佐夫志計米夜母《さぶしけめやも》 吉美伊〔左△〕麻佐受斯弖《きみまさずして》     878
 
〔釋〕 ○いひつつも 寂しといひつつも。○のちこそしらめ 後にこそ眞に思ひ知らう。○しましくも 暫らくまあ。「志萬」原本に等乃〔二字右△〕とあるが解し難い。宣長説により改めた。○さぶしけめやも 寂しからんやはの意。○きみまさずして 「伊」は衍字。但關守伊、麿伊の如く、「君」の接尾辭として解してもよい。
(1526)【歌意】 貴方が居られないでは寂しいと〔十四字右○〕、口にはいひながらも、本當の寂しさは、お別れした〔十二字右○〕後になつてこそ思ひ知らう。今の暫くは何の寂しからうかい。
 
〔評〕 送別の際に繰り返す詞は、衆口一致別後の離愁である。然し去(ル)者(ハ)日(ニ)以(テ)疎(シ)(文選古詩)で、少し日が經てば、泣いた烏はもう笑ふのである。それに引換へ、作者は愈よ以てその寂寞感に打たれるであらうことを、豫定的に揚言した。情意が紆餘曲折してゐるので、表現も隨つて紆曲してゐる。
 
余呂豆余爾《よろづよに》 伊麻志多麻比提《いましたまひて》 阿米能志多《あめのした》 麻乎志多麻波禰《まをしたまはね》 美加度佐良受弖《みかどさらずて》     879
 
〔釋〕 ○よろづよ 多年の轉義。○まをしたまはね 天下の政を執奏なさいませ。臣下の政を執るには、天皇に奏し上げてする故に、天の下申すといふ。「ね」は懇にいふ命令辭。○みかど 朝廷。御門《ミカド》の義より轉用。
【歌意】 貴方は〔三字右○〕萬代に壽長くお出なされて、天下の政をお執りなさいませ、朝廷を離れることなしに。
 
〔評〕 大納言は天下の庶事に參議し、敷奏、宣旨、獻替の事を掌る。天の下申す〔五字傍点〕とはこれをいふのである。天平二年には旅人卿は正三位中納言兼太宰帥で、中納言の勞十三年、帥の勞約七年に及んでゐた。令の制、大納言は定員四名だが、實際は一二名の任命に過ぎなかつた。この前年(天平元年)左大臣長屋(ノ)王の變あり、以後大臣を置かず、その代りに現任の大納言多治比(ノ)池守の外に、今一名の大納言を補した。その人は藤原武智麻呂で、(1527)旅人卿の後輩である。それは藤原氏專權の鋒鋩の著しい露出であつた。旅人卿としては大いに不平ならざるを得まい。偶ま同二年九月に入つて多治比(ノ)池守が薨じたので、その補缺に漸く大納言に任ぜられた。當時知太政官事舍人親王の下に、大臣なしで二名の大納言が政務を執つたのだから、その權力は例になく絶大だつたと思はれる。遲蒔ながら旅人卿が、この地位に昇進し得たことは、單に當人の喜ばかりか、宰府の部下一統の喜、別しては大伴一族が手を額にしたことはいふまでもあるまい。
 されば「萬代にいまし給ひて云々」には、普通の祝意以上に、頗る重大な意味と感想とが含まれてゐたものと考へられる。旅人卿が最早老年で生ひ先の長くないといふ懸念がその一、假令長命しても、政情や病氣やの種々の事故で、致仕退官の餘儀なくなる場合がその二である。故に長壽の上に朝廷を去らず仕へませと祝福せざるを得ない。洵に實際に即した懇切を極めた詞の餞別で、浮泛の點が微塵もない。然るに事實はこの祝福を裏切つて、果然その翌年七月を以て旅人卿は薨逝したではないか。嗟。
 尚卷四、太宰府の官人等が餞(クル)2卿(ヲ)筑前(ノ)國(ノ)蘆城(ノ)驛家(ニ)1歌の條下を參照(一一八八頁)。
 
聊(か)布《のぶる》2私(の)懷《こゝろを》1歌三首
 
上の送別の歌三首に添へて、自分一己の情懷を叙べた歌との意。「布」は左傳の註に陳(ブル)也とある。これも憶良の作である。
 
阿麻社迦留《あまさかる》 比奈爾伊都等世《ひなにいつとせ》 周麻比都都《すまひつつ》 美夜故能提夫利《みやこのてぶり》 和周良延爾家利《わすらえにけり》     880
 
(1528)〔釋〕 ○あまさかる 鄙《ヒナ》の枕詞。既出(一一二頁)。「社」をサに充てたのは、シヤの直音を用ゐたもの。○てぶり 手振。風俗をいふ。○わすらえ 忘られ〔三字傍点〕の古言。
【歌意】 私はこの遠くの田舍に、五年も住み通して、京のみやびた風俗は、何時か忘られてしまひましたわい。
 
〔評〕 足掛け五年の田舍住ひに、毎日接するのは田舍風俗田舍訛りで、何時か御同樣の田舍者になつてしまふ。國司が京官に轉任しても、家庭に進入した田舍詞が、何時までも拔けなかつた話がある。それ程だから、翻然として氣が付いて見ると、懷かしい京の手振は自分ながら夢のやうに遠い。實感そのものが用捨なくさらけ出されて、惻々の情に禁へない。
 但この歌は「布私懷」と題詞に斷つた如く、上の送別歌に添へて帥卿に贈つたものである。こんな私情的の作を何の爲にと考へて來ると、そこに手を拍つて失笑され、又黯然として涙ぐまれるものがあらう。即ちかやうに永い田舍住ひに降參してをります、と帥卿に愁訴し、間接にその同情を促して、京官への推輓を哀求したものである。
 「五年」は筑紫に來てからの五年で、國守としての五年ではない。この天平二年から逆算すると、神龜三年に憶良は筑紫に來たことになる。然るに天平三年六月にはまだ國守だつたのだから、神龜四年が國守任命の年となる。されば來紫してから半年乃至一年間は、守でなかつたといへる。多分筑前介などで赴任して來たが、そのうち守の缺員によつて補任されたものと思ふ。
 
(1529)加久能未夜《かくのみや》 伊吉豆伎遠良牟《いきづきをらむ》、阿良多麻能《あらたまの》 吉倍由久等志乃《きへゆくとしの》 可伎利斯良受提《かぎりしらずて》     881
 
〔釋〕 ○かくのみや 「や」は疑辭。○いきづき 息を吐くこと。この息は歎きの息。○あらたまの 年に係る枕詞。既出(九八六頁)。○きへゆく 來經往く。過ぎ行くをいふ。
【歌意】 自分はかうして一途に、京戀しさに溜息吐いて居らうことか、年月の經つ限も知らないでさ。
 
〔評〕 憶良の筑前守はこの天平二年十二月にはまだ現任であつた。それはこの歌どもの末に、筑前國司山上憶良と署してあり、又天平三年の作熊凝の歌の題詞にも、筑前守憶良とあるので證せられる。新考に年限を過ぎたれど召還されざりし也とあるは非。
 國守の任期は滿四年であつた。當時重任は許されぬから、滿期の曉他に轉任の口がない以上は、當てなしに歸京するか、又は長い馴染の土地だけに、前司殿で田舍に居据るかより外に方法がない。憶良の懊悩は實にこの點にあるのだ。
 もしかすると、未來永劫筑紫の果で老い朽ちてしまふかも知れない。「かくのみや息づき居らむ」といひ、「來經ゆく年の限知らずて」といふは、全くこれが爲である。實に悲しい聲を聞くものだ。その溜息には彼れの心腸が蕩けて流れ出すのではあるまいかと思はれる。これも旅人卿に相當の盡力を乞ふ間接的哀願である。
 
阿我農斯能《あがぬしの》 美多麻多麻比弖《みたまたまひて》 波流佐良婆《はるさらば》 奈良能美夜故爾《ならのみやこに》 ※[口+羊]佐宜多麻波禰《めさげたまはね》     882
 
(1530)〔釋〕 ○あがぬし 我が主。旅人卿をさす。「ぬし」はノウシ〔三字傍点〕(之大人)の約で、ノは領格の辭。さればアヌシ、ワヌシといふが正格、アガ主《ヌシ》、何某の大人などいふは誤用であるが、主《ヌシ》の語が既に一つの成語となつては、又かうも使用されるのである。平安期に入つてはこの用例が愈よ多い。○みたまたまひて 御靈《ミタマ》の〔右○〕頼《フユ》を〔右○〕賜ひての略。「ふゆ」は殖《フ》ユ、榮《ハ》ユなどの義。○めさげ 召しあ〔二字傍点〕げの約。呼び上げること。績紀廿六詔に、尊靈乃子孫乃《タフトキミタマノコドモノ》、遠流天在乎《トホクハフリテアルヲ》、京都仁召上天《ミヤコニメサゲテ》、臣止成無止云利《オミトナサムトイヘリ》。
【歌意】 貴方樣がお惠を垂れて下さつて、來春になつたら、この私を〔四字右○〕奈良京に、呼び上げて下さいませ。
 
〔評〕 旅人卿はこの十二月上旬に上京、來年正月からは太政官に出仕、政務を執るのである。そこで「春さらば」といつたので、その時は宜しくお引立を蒙りたい、どうか京官の口を世話して頂きたいと頼み込んだ。
 始に五年も經つて田舍者になり切つたと愁へ、次にもしかしてこのまゝ田舍に朽ち果てるのではないかと歎き、終りに京に呼び取つて下さいと本音を吹いた。その言辭整然と秩序立つて、層一層に迫力を強めて來た。要するにそのいかに田舍住ひに飽き/\し、又仕進の途に齷齪してゐるかゞ窺はれる。且又永年の知己旅人卿に置き去られては、一刻も不知火筑紫の片田舍に居る氣がしないのは無理もあるまい。
 
天平二年十二月六日、筑前(ノ)國(ノ)司山(ノ)上(ノ)憶良謹(ミテ)上(ル)。 
この十二月六日は、旅人卿發足の日に最も近いものと思ふ。されば府の官人等の蘆城驛家の餞宴(卷四所見)は、同月の上旬中の事だらう。當時宰府から奈良京まで、急いでまづ半月はかゝつた。年内に著京、新大納言とし(1531)て新年の儀禮に臨む必要上、一日も早く出發せねばならぬのである。
 
三島(の)王(の)後(に)追(ひて)和(ふる)2松浦|佐用嬪面《さよひめの》歌(に)1歌一首
 
三島王が後から旅人卿の松浦佐用媛の歌に和した歌との意。〇三島王 續紀に、養老七年正月無位より從五位下とある。なほ同紀、寶龜二年七月の條に、故從四位下三島王の女河邊(ノ)王葛(ノ)王が伊豆(ノ)國に配流されてゐたのを、皇族籍に復籍された事が見える。又天平七年に從四位下で相模國大住郡に食封を有してゐた事が、正倉院文書に見える。
 この題詞及び歌は順序上、旅人卿の領巾麾嶺歌の最々後の後人追和歌二首の次に置くべきで、茲にあるは錯簡と見るべきであらう。
 
於登爾吉岐《おとにきき》 目爾波伊麻太見受《めにはいまだみず》 佐容比賣我《さよひめが》 必禮布理伎等敷《ひれふりきとふ》 吉民萬通良楊滿《きみまつらやま》     883
 
〔釋〕 ○おとにきき 噂に聞き。音聞《オトギキ》と名詞にもいふ。○きみまつらやま 君待つに松浦山をいひ係けた。松浦山は領巾振山のこと。
【歌意】私は〔二字右○〕噂には聞き、目のあたりにはまだ見ない、佐用媛が領巾を振つたといふ、君待つといふ名の松浦山をさ。
 
(1532)〔評〕 佐用媛の傳説から領巾振山を景望しただけの意で、格別な詩味をもたない。「君まつ浦山」の造語は、上の「遠つ人まつ裏佐用媛」又「夫《ツマ》まつの木」(卷九)「君まつの木」(卷六)と同じく無用の技巧で、徒らに意味の混線を招くに過ぎない。
 三島王の系譜も、旅人卿と如何なる因縁があつて、この唱和をしたものかも判明しない。その女王達の配流は惠美押勝の叛に關係したものと考へられる。
 
大伴(の)君《きみ》熊凝《くまごりの》歌二首 大典麻田|陽春《ヤス》作
 
目録には、大典麻田(ノ)連陽春(ガ)爲2大伴(ノ)君熊凝(ガ)1述(ブル)v志(ヲ)歌二首とある。この歌は陽春が熊凝その人の氣持になつて詠んだものである。○大伴君熊凝 傳は次の憶良の漢文序中に記した如くである。君は姓。○大典 既出(一一九一頁)。○麻田陽春 既出(一一九一頁)。
 
國遠伎《くにとほき》 路乃長手遠《みちのながてを》 意保保斯久《おほほしく》 計〔左△〕布夜須疑南《けふやすぎなむ》 己常騰比母奈久《ことどひもなく》     884
 
〔釋〕 ○くにとほきみちのながて 遙な黄泉《ヨミ》の國への長い路。次の憶良の歌及び同序の意から推すと、國は冥路《ヨミヂ》、冥土の事と思はれる。「ながて」は既出(一一四四頁)。○おほほしく 既出(四八五頁)。○けふや 「計」原本に許〔右△〕とあるは誤。類本その他による。古義の戀ふや〔三字傍点〕の説甚だ非。○ことどひもなく 物言ふこともなく。「ことどひ」は「こととはぬ」を見よ(一〇四七頁)。
(1533)【歌意】 遠い冥路の〔三字右○〕長い路を、自分は〔三字右○〕心さみしく、何の物言ふこともなく、今日|通《トホ》つて行くことであらうか。
 
〔評〕 「おほほしく宮出もするか」(卷二)の趣に似て、彼れは佐田の隈囘、これは冥路であることに、相對の興が惹かれるに過ぎない。客死する熊凝の意中を忖度して、その自作の體に擬したもの。例の仏教思想の所産。
 
朝露乃《あさつゆの》。既夜須伎我身《けやすきわがみ》。比等國爾《ひとくにに》。須疑加弖奴可母《すぎかてぬかも》。意夜能目遠保利《おやのめをほり》。     885
 
〔釋〕 ○あさつゆの 朝露の如く〔二字右○〕。○けやすき 消《ケ》易き。○このみ この身。下によ〔右○〕の歎辭又はなり〔二字右○〕の決定辭を含む。○ひとくに 他國、外國。こゝは黄泉《ヨミ》の國をさす。○すぎかてぬ 死に行き敢へぬ。○めをほり 「ひとのめをほり」を見よ(一三七二頁)。
【歌意】 朝露のやうに消え易い、自分のこの身だ、が快く冥路の客《タビ》趣きかねることよ、親に逢ひたいの切願で。
 
〔評〕 熊凝は年十八で客中に死んだ。さぞ兩親に逢ひたかつたであらう。この同情的想像を、直ちに熊凝意中の語として歌つた。人生如露の語は支那上代の詩や佛經にも見えて、珍しくもない。
 
筑前(の)國司《くにづかさ》、守《かみ》山(の)上(の)憶良(が)敬(しみて)和(ふる)d爲(に)2熊凝《くまごりの》1述(ぶる)2其志(を)歌(に)u六首
 
筑前國の國衙の役人である筑前守憶良が、麻田陽春の〔五字右○〕熊凝の爲に代つてその志を逃べた歌に、敬んで和した歌(1534)との意。六首は長短歌を合せての數。○筑前國司守 國司は國の官吏の意で、守介掾目を總稱する。守は、こゝでは筑前守。「國守」を見よ(一四〇一頁)。
 
大伴(ノ)君熊凝者肥後(ノ)國益城郡(ノ)人也。年十八歳、以(テ)2天平三年六月十七日(ヲ)1爲(リ)2相撲使《スマヒノツカヒ》某(ノ)國司官位姓名(ノ)從人《トモビトト》1、參2向《マヰノボル》京都《ミヤコニ》1。爲《ナルカモ》v天不幸(ニシテ)、在(リテ)v路(ニ)獲(タリ)v疾(ヲ)。即(チ)於(テ)2安藝(ノ)國|佐伯《サヘキノ》郡高庭(ノ)騨家《ウマヤニ》1身故《ミマカリヌ》也。臨終《シナムトスル》之時、長(ク)歎息《ナゲイテ》曰(フ)、傳(ヘ)聞(ク)假合之身易(ク)v滅(ビ)、泡沫之命難(シ)v駐《トヾメ》。所以(ニ)千聖己(ニ)去(リ)、百賢不v留(マラ)、况乎凡愚(ノ)微《イヤシキ》者、何(ゾ)能(ク)逃避《ノガレム》。但我(ガ)老親、並(ニ)在(リ)2奄室(ニ)1、待(チテ)v我(ヲ)過(グス)v日(ヲ)、自(ラ)有(リ)2傷(マシムル)v心(ヲ)之恨1、望(ミテ)v我(ヲ)違(フ)v時(ニ)、必(ズ)致(サム)2喪(フ)v明(ヲ)之泣(ヲ)1。哀(イ)哉我(ガ)父、痛(マシイ)哉我(ガ)母。不v患(ヘ)2一身(ノ)向v死《シナムトスル》之途(ヲ)1、唯悲(シム)2二親(ノ)在(ル)v生《ヨニ》之苦(ヲ)1。今日長(ク)別(レ)、何(ノ)世(カ)得(ム)v覲(ルコトヲ)。乃(チ)作(ミテ)2歌六首(ヲ)1而死(ニタリ)。其歌(ニ)曰(フ)、
○相撲使 相撲部領使《スマヒノコトリヅカヒ》を見よ(一五〇七頁)。○某國司官位姓名 國名及び官位姓名を明記すべきを略筆した。○從人 供の者。○京都 奈良京のこと。○爲天不幸 運命の不仕合せ。○高庭驛家 後世は佐伯郡に高庭の名がない。驛家はウマヤ。傳馬を置いて吏人の往來に傭へる。○身故 身|退《マカ》る。「故」は物故などの故で死すること。○假合之身 假《カリ》の身。佛經に五大本來空、四大假合などいひ、萬物はすべて地水火風が縁に依つて假に結合して成つたもの故、縁が盡くれば忽ち離散して、本來の一切空に歸すると説く。○泡沫之命 泡の結ぶかとすれば消えるに等しい、はかない命。金剛般若經に、一切(ノ)有爲法(ハ)如(ク)2夢幻泡沫(ノ)1、如(ク)v露(ノ)亦如(シ)v電(ノ)。○千聖已去(1535)百賢不留 千百の聖賢でも皆死んで、生きてゐる者はない。○凡愚之微者 愚な卑い身分の者。○在庵室 家に居る。○待我過日 自分の歸を待つて日を送り。○望我違時 自分を待ち望に、その歸郷の時期を違へた。戰國策に、王孫賈之母曰(フ)、汝朝(ニ)出(デ)晩(ニ)來(ル)、吾則(チ)倚(リテ)v門(ニ)望(ム)v汝(ヲ)。○喪明之泣 盲目になる程の泣きの涙。檀弓に、子夏喪(ウテ)2其子(ヲ)1、而喪(フ)v明(ヲ)。○在生之苦 世に在る苦。○何世得覲 何時父母の安否を問へよう。覲はまみゆ〔三字傍点〕の意。○作六首之歌而死 熊凝が六首の歌を詠んで死んだとの意。實は憶良の假作。
 
宇知比佐受《うちひさす》 宮弊能保留等《みやへのぼると》 多羅知斯夜《たらちしの》 波波何手波奈例《ははがてはなれ》 常斯良奴《つねしらぬ》 國乃意久迦袁《くにのおくがを》 百重山《ももへやま》 越弖須疑由使《こえてすぎゆき》 伊都斯可母《いつしかも》 京師乎美武等《みやこをみむと》 意母比都都《おもひつつ》 迦多良比袁禮騰《かたらひをれど》 意乃何身志《おのがみし》 伊多波斯計禮婆《いたはしければ》 玉桙乃《たまぼこの》 道乃久〔左○〕麻尾爾《みちのくまみに》 久佐太袁利《くさたをり》 志婆刀利志伎提《しばとりしきて》 等許〔左△〕自母能《とこじもの》 宇知許伊布志提《うちこいふして》 意母比都都《おもひつつ》 奈宜伎布勢良久《なげきふせらく》 國爾阿良波《くににあらば》 父刀利美麻之《ちちとりみまし》 家爾阿良婆《いへにあらば》 母刀利美麻志《ははとりみまし》 世間波《よのなかは》 (1536)迦久乃尾奈良志《かくのみならし》 伊奴時母能《いぬじもの》 道爾布斯弖夜《みちにふしてや》 伊能知周疑南《いのちすぎなむ》     886
   一(ニ)云(ク)、和何余須疑奈牟《ワガヨスギナム》。
 
〔釋〕 ○うちひさす 宮の枕詞。既出(一〇〇八頁)。○みやへのぼる 大宮に參る。京《ミヤコ》にのぼる意ではない。○たらちしの 母に係る枕詞。足る〔二字傍点〕の敬相足らし〔三字傍点〕にし〔傍点〕の親稱の添うた語。久老いふ、爲《シ》は知《チ》に通ふ言にて、手摩乳《テナヅチ》足摩乳《アシナヅチ》の乳《チ》に同じく、親み崇むる意と。「たらちねの」といふに同じい。同項を參照(九八四頁)。○つねしらぬ 平生知らぬ。○くにのおくが 國の奥處《オクガ》。國の極まる果をいふ。「奥處を」は「越えて」に係る。○ももへやま 幾重も重なつた山。五百重《イホヘ》山といふに同じい。○かたらひをれど 傍輩と〔三字右○〕語らひをれど。○おのがみし 己れが身。「し」は強辭。○いたはしければ 「いたはし」は勞《イタ》づくの形容詞格。病みつくをいふ。○たまぼこの 道の枕詞。既出(二七二頁)。○くまみ 曲り角。隈邊《クマベ》の轉。「くまわ」に略同じい。「久」原本にない。類本その他によつて補つた。○くさたをり 草手折り。○しばとりしきて 柴取敷きて。「しきて」は草をも承けてゐる。柴《シバ》は雜木の細條をいふ。○とこじもの 床その物の如く。「かもじもの」を見よ(一九三頁)。「許」原本に計〔右△〕とあるは誤。契沖略解等の説による。又箇許〔二字右△〕自物(カコジモノ)の誤とする説もある。○うちこいふし 「こいまろび」を見よ(一〇三一頁)。○ふせらく 臥せることには〔四字右○〕。○くにに この「くに」は郷土をいふ。○とりみまし 「とりみ」は世話すること。病人には看護するをいふ。○かくのみならし 「かく」は生者必滅の無常なるをさす。○いぬじもの 「道に伏し」に係る序。○わがよすぎなむ 「一云」のこの句は結句の一傳を註したもの。これを次の「たらちしの」の歌の下に移すべしといふ略解の言は、佛足石歌體説を成立させたい(1537)爲の強辯である。
【歌意】 熊凝自分は〔五字右○〕大宮へ參るというて、母の手許を離れ、平生知りもせぬ國の遠い處を、幾重もの山を打越えて通り過ぎ、何時まあ京都を見られようかと、心に思ひながら、傍輩と話をしてをるが、自分の身體がさ煩ひ付いたので、往來の片隅に草を折つたり、柴を折つたりして敷き、それを床のやうにして〔二字右○〕轉がり寢、歎き臥して思ひ思ひ、郷土《クニ》に居るなら父親が世話もしよう、家に居るなら母親が世話もしよう、嗟《アヽ》人世はかうはかないものらしい、犬その物のやうに道端に打伏して、死んで往くことであらうかなあ。
 
〔評〕 相撲部領使は卑官の者が勤める。平安時代では近衛舍人が諸國に出張して、相撲人を京都に引率して來るやうになつたが、奈良時代では地方地方の下級官吏が、管下の相撲人を取纏めて上京し、相撲の節が終ると、又引連れて歸國するのであつた。熊凝はその又從者といふのだから、身分は一向問題にならない。年はわづか十八の若造、それが旅先で只病死したのでは、何も骨折つて諷詠に上すほどの價値はありはしない。
 これは畢竟作らむが爲に作つたもので、麻田陽春に唱和する爲の文字三昧に過ぎない。乃ち陽春の作に倣つ(1538)て代作體を取り、熊凝が上京の目的を果さず、途中で客死しただけの貧窮な材料に、父母兩親を搦ませて、強ひてその趣向を構成したといつても過言ではあるまい。
 「内日刺す宮へのぼる」といひ「何時しかも京師を見む」といふ、田舍者が主都にあくがれる心理は、何時の世でも變りはない。「母が手はなれ」は慈愛の象徴として母を擧げたので、あとに「父取りみまし」とあるから、兩親揃つて居たものである。「國にあらば父――」「家にあらば母――」の排對は叙法上に姿致を取る爲で、國には父、家には母を分排したことは、大小輕重おのづから相協うて適實である。「家にあらば云々」は人麻呂の讃岐(ノ)狹岑(ノ)島(ニ)視(ル)2石中(ノ)死人(ヲ)1歌(卷二)の「妻もあらば摘みてたげまし」と同一揆で、特に若い客死者に取つては、、父母の看護を云々することは、極めて切寶な聯想である。が又隨つて平凡でもある。
 面白いのはその病臥状態の描寫、「玉桙の道の隈みに、草手折り柴取敷きて、床じもの打ちこい臥して」である。この光景を眼前に描いてみると、寶に慄然たらざるを得ない。當時の行路病者は、往來端に草や柴を藉き重ねて、そこに寢かされたものである。正に「犬じもの」である。流行病や熱病となると、行路病者でなくてもその式だが、草枕時代の旅では、こんな事は敢へて珍しい譯ではない。主人の相撲使は公程に期日があるから、病人をその儘置去りにして急いで出立してしまふ。從者は素より官吏ではないから、驛家《ウマヤ》の方では飛んだ厄介者として構つてくれない。勿論蓄への錢もあるまいから、癒る病人もこれでは參つてしまふ。茲に至つて、「國にあらば父取りみまし、家にあらば母取りみまし」が、力強く利いてくる。結末の「世の中はかくのみならし、云々」は熊凝の意中を藉りた作者の語である。世間法の無常を痛感したなどは、十八歳の田舍者にしては出來過ぎてゐる。
(1539) 抑も熊凝が相撲使の從者となつたことは、錢入らずに咲く花の匂ふが如き奈良の京見物をしたい念願であつたとしてよい。それがこんな事で、父母の顔さへ見ずに道端の松の肥しとなつては、當人も口惜しからうし、他の者も氣の毒になる。麻田陽春にも、憶良にもそんな氣持が動いての述作であることはいふまでもあるまい。
 大體完作であるが、「思ひつつ」の再出は、聊か不快である。
 
多良知斯〔左△〕能《たらちしの》 波波何目美受提《ははがめみずて》 意保々斯久《おほほしく》 伊豆知武伎提可《いづちむきてか》 阿我和可留良武《あがわかるらむ》     887
 
〔釋〕 ○たらちし 「斯」原本に遲〔右△〕とあるは誤。古義説による。○おほほしく 既出(四八五頁)○あがわかるらむ 「らむ」この句落著しかねる。下にも「阿我和加禮南《アガワカレナム》」とある例によつて、今はその意に解する。
【歌意】 母親の顔をも見ずして、心いぶせく、自分はどちらへ向いて、死に〔二字右○〕別れられようか。
 
〔評〕 母親の顔を見ないでは、死ぬにも死に切れぬは少年客死者の心理。「いづち向きてか」は擧措その處を失うた状態、兩つながら寫し得て可なりといつて置かう。
 以下五首は獨立した短歌で、長歌に、附帶した反歌ではない。
 
都禰斯良農《つねしらぬ》 道乃長手袁《みちのながてを》 久禮久禮等《くれぐれと》 伊可爾可由迦牟《いかにかゆかむ》 可利弖波奈斯爾《かりてはなしに》     888
    一(ニ)云(フ)、可例比波奈之爾《カレヒハナシニ》。
 
(1540)〔釋〕 ○つねしらぬみちのながて 平生通うたことのない路の長い路。上の「國遠き路の長手」と同じく、冥路《ヨミヂ》をいふ。○くれぐれと 卷十三にも「沖つ波來寄る波邊をくれぐれと〔五字傍点〕獨ぞわがくる妹が目をほり」とある。契沖説に、遙なる意、俗にクレハルカといふも是なりとあるが、クレの義が解かれてない。宣長いふ、クレは闇き意にて覺束なき態《サマ》なりと。これは契沖説よりは優つてゐる。○かりて、糧《カテ》。「かり」は乾飯《カレヒ》の約。「て」はその料の物をいふ語。酒手《サカテ》の語も酒造る料の米をいふ、酒の代りの値にいふは後世の轉用。乾飯《カレヒ》は干飯《ホシヒ》の事で、轉じては携帶の食糧の稱ともなつた。和名抄に、餉(ハ)以(テ)v食(ヲ)遺(クル)v人(ニ)也、加禮比於久留《カレヒオクル》、俗(ニ)云(フ)加禮比《カレヒ》、また糧(ハ)行(ニ)所(ノ)v賚(ス)米也、又儲食《マウケノケ》也、和名|加弖《カテ》とある。○かれひはなしに 以下「一云」は結句の異同を註したもの。
【歌意】 平生通つたことのない冥土の〔三字右○〕遠い路を、どうして、ボンヤリと行かれうか、食料は持たずにさ。
 
〔評〕 死出の旅路、これが構想の基點である。そこに「常知らぬ路の長手」での糧なしを想像した。
  諸國(ノ)役民還(ル)v郷(ニ)日、食糧絶乏(シ)、多饉(ヱ)2道路(ニ)1、轉2填(ス)溝壑(ニ)1、其類不v尠(カラ)、云々。(續紀卷五、和銅五年正月詔)
とある如く、旅行中に餓死することは現在の事實であつた。「かりてはなしに」では一歩も踏み出せる時代ではなかつた。で「いかにか行かむ」と、熊凝の西方十萬億土の長旅に同情を寄せた。その同情が直ちに熊凝意中の語となつて、こゝには歌はれてゐる。
 乾飯《カレヒ》即ちホシヒは携帶食糧の輕便なるものであつた。重量が輕くて湯水に浸せばすぐに食へる。で昔の旅行者は必ず携帶したものだ。伊勢物語に「乾飯の上に涙おとしてほとびにけり」、古今集に「夕さりの乾飯たうべけるに」など見え、在原業平でも藤原兼輔でも、旅では乾飯を舐つてゐたものである。
 
(1541)家爾阿利弖《いへにありて》 波波何刀利美婆《ははがとりみば》 奈具佐牟流《なぐさむる》 許許呂波阿良麻志《こころはあらまし》 斯奈婆斯農等母《しなばしぬとも》     889
  一(ニ)云(フ)、能知波志奴等母《ノチハシヌトモ》。
 
〔釋〕 ○なぐさむる 既出(五一八頁)。○あらまし あらましを〔右○〕の意。○のちはしぬとも 左註の句。後に〔右○〕は死ぬとも。
【歌意】 家に居て母親が看病しようなら、多少慰む氣持もあらうものを、どうせ死ぬなら死ぬとしてもさ。
 
〔評〕 長歌の一節「國にあらば父とり見まし、家にあらば母とり見まし」の意を敷演したやうなものだ。遠い異郷の空で客死する少年の氣持としてはさもあらう。熊本縣の肥後と廣島縣の安藝、つひ鼻の先だと考へる交通便利な現代とは違ふことを、牢記する必要がある。道麿は一云の「のちは死ぬとも」の方を採つた。
 
出弖由伎斯《いでてゆきし》 日乎可俗閉都都《ひをかぞへつつ》 家布家布等《けふけふと》 阿袁麻多周良武《あをまたすらむ》 知知波波良波母《ちちははらはも》     890
  一(ニ)云(フ)、波波我迦奈斯佐《ハハガカナシサ》。
 
〔釋〕 ○またす 待つ〔二字傍点〕の敬相。
【歌意】 私の旅立つた日を數へ/\して、けふは還る/\〔七字右○〕と、私をお待ちなさるであらう、その父母達はまあ。實にお氣の毒で〔七字右○〕。
 
(1542)〔評〕 待甲斐のない自分とも知らずに待つて居る「父母らはも」の詠歎的のいひさしは、その餘意も餘情もすべてあなた任せに、讀者の上に投げ懸けられてあるので、讀者の感受次第では、何處まで深入りしてゆくかわからない。「あを待たすらむ」の敬語を挿んだ親昵の情味が、愈よ拍車をかける。かくして悲痛酸楚に禁へなくなる。一云の「母が悲しさ」では、折角の味ひが索然としてしまふ。「けふ/\と」は萬葉人の慣用語で、
  けふけふと吾がまつ君は石川のかひにまじりてありといはずやも (卷二、依羅娘子――224)
  あまの川霧たちわたるけふけふと吾が待つ君が船出すらしも (卷九――1765)
  出でていなば天飛ぶ雁の鳴きぬべみけふけふといふに年ぞ經にける (卷十――2266)
  ※[さんずい+内]譚《イリブチ》にこやせる公をけふけふと來むと待つらむ妻しかなしも (卷十三――3343)
  宮人のやすいも寢ずてけふけふと待つらむものを見えぬ君かも (卷十六――3771)
  ――かもかくも御言《みこと》うけむと、けふけふと飛鳥に到り、――(同上――3886)
など使つたものだ。
 
一世爾波《ひとよには》 二遍美延農《ふたたびみえぬ》 知知波波袁《ちちははを》 意伎弖夜奈何久《おきてやながく》 阿我和加禮南《あがわかれなむ》     891
   一(ニ)云(フ)、相別南《アヒワカレナム》。
 
〔釋〕 ○ひとよには― 人一代の間には一遍死んだら二度は値《ア》はれぬの意。「みえぬ」は見られぬの意。○おきて (1543)さし置いて。
【歌意】 人一代に二度と値へない父母を、この世にさし置いて、自分が長く死に別れようことか。
 
〔評〕 孝子臨終の苦悩を描いて餘蘊がない。「一世」と「二遍」とは自然的對語を成してゐる。契沖は以上六首を總括的に批評して、左の如く推賞した。
  熊凝が意をよく得て、あはれに詠める憶良かな、憶良なるかな。
 右長歌一首短歌五首のうち「たらちしの」の歌を除いては、皆結句の下に「一云」として異句を記してある。これに就いて略解に、
  按ずるに、天平勝寶中に奈良の藥師寺に建てられたる佛足石の碑の歌、盡く結句を二樣によめり。右の反歌この體に同じ。この頃かゝる體もありしにや。されば長歌の終に和何余須疑奈牟とあるは、次の「たらちしの」の短歌に添ひたるが、誤つて長歌の終に入りしなるべし。
といつてゐる。抑も卷三「栲領巾《タクヒレ》のかけまくほしき」及び「行くさには二人わが見し」の二首も、結句の下に一云〔二字傍点〕として異句を註してある。夙く久老はそれをば佛足石歌體と見てゐるが、それは有意的に結句を反誦した辭樣とは受け取り難い。然るに茲に至つて又、略解の佛足石歌體の説が生じてゐる。
 抑も佛足石歌體は、57、577、7、の六句三十八字の構成で、三十一字の短歌の結句を、多少意詞を換へて復誦した體製である。第一の「たらちしの」の歌には、諸本とも一云〔二字傍点〕の註がないから論外に置く。第二の(1544)「常知らぬ」の歌の一云の「かれひ」は本行の「かりて」と全く同意で、獨立性が薄い。第三の「家にありて」の歌の一云「のちは死ぬとも」はまづ本行の「死なば死ぬとも」を反誦したものといへよう。第四の「出でゆきし」の歌の一云「母がかなしさ」は本行に既に「父母らはも」とあるから、徒らに重複するばかりでなく、五句との應接が完全でない。第五の「一世には」の歌の一云「相別れなむ」は獨立性が薄いが、かう復誦されぬこともあるまい。されば五首のうち第三第五の二首だけが歌意を完成してゐると見られるが、それは偶然の事で、他の三首が殆どその不十分さを證してゐる以上は、是等の諸作を通じて佛足石歌體と見ることは、速斷の謗を免かれまい。
 
貧窮問答(の)一首并短歌
 
貧乏生活に就いての問答の歌との意。問の歌と答の歌との前後二篇より成り、前後篇互に密接な關係にあるので、一首として數へてある。作者は末尾に「山上憶良頓首謹上」と見え、憶良であることは疑もない。
 
風雜〔左△〕《かぜまじり》 雨布流欲乃《あめふるよの》 雨雜《あめまじり》 雪布流欲波《ゆきふるよは》 爲部母奈久《すべもなく》 寒之安禮婆《さむくしあれば》 堅鹽乎《かたしほを》 取都豆之呂比《とりつづしろひ》 糟湯酒《かすゆさけ》 宇知須須呂比弖《うちすすろひて》 之波〔左△〕夫可比《しはぶかひ》 鼻※[田+比]之※[田+比]之(1545)爾《はなひしびしに》 志可登阿良農《しかとあらぬ》 比宜可伎撫而《ひげかきなでて》 安禮乎於伎弖《あれをおきて》 人者安良自等《ひとはあらじと》 富己呂倍騰《ほころへど》 寒之安禮波《さむくしあれば》 麻被《あさぶすま》 引可賀布利《ひきかがふり》 布可多衣《ぬのかたぎぬ》 安里能許等其等《ありのことごと》 伎曾倍騰毛《きそへども》 寒夜須良乎《さむきよすらを》 和禮欲利母《われよりも》 貧人乃《まづしきひとの》 父母波《ちちははは》 飢寒良牟《うゑさむからむ》 妻子等波《めこどもは》 乞弖〔左△〕泣良牟《こひてなくらむ》 此時者《このときは》 伊可爾之都都可《いかにしつつか》 汝代者和多流《ながよはわたる》     892
 
〔釋〕 ○かぜまじりあめふるよの 風がまじつて雨の降る夜で。この「の」の用法は、卷三の「朋神《フタガミ》の貴き山の〔二字傍点〕儕立《ナミタチ》の見がほし山と」(八七五頁)、及び「天地にくやしき事の〔二字傍点〕世の中のくやしき事は」(九三四頁)とあるのに同じい。その項を見よ。「雜」原本に離〔右△〕とあるは誤。神本その他による。○かたしほ 堅鹽。和名抄に、石鹽一名田鹽。又有2黒鹽1、今按(ズルニ)俗(ニ)呼(ンデ)2黒鹽(ヲ)1爲(ス)2堅鹽(ト)1、日本私記(ニ)、堅鹽(ハ)木多師《キタシ》是也(ト)。紀の欽明用明孝徳天皇の各條にキタシホあり、木多師《キタシ》はその略語。又江家次第に、下物《サカナモノ》――一枚炊交、一枚堅鹽〔二字傍点〕、一枚青茄物と見えた。或はいふ燒鹽の稱と。○とりつづしろひ 「つづしろひ」は少しづつ食ふこと。つづしり〔四字傍点〕の延言。文選司馬相如の大人賦の※[口+幾]《ツヾシル》2瓊華(ヲ)1の注に※[口+幾](ハ)食(フ)也、また説文、※[口+幾](ハ)小食也とある。今昔物語の「この鮭鯛(ノ)※[魚+逐]※[魚+夷]《シホカラ》などをつづしる程に」のつづしる〔四字傍点〕もこの意。(1546)源氏物語(末摘花)に、つゞしり歌〔五字傍点〕とあるはこの轉用。○かすゆさけ 糟湯酒。酒糟を湯煎にしたもの。○うちすすろひ 「すすろひ」は啜り〔二字傍点〕の延言。「うち」は接頭語。○しはぶかひ 咳嗽《シハブ》き〔傍点〕の延言。咳嗽きは屡吹《シバフキ》の義。和名抄に、※[亥+欠]嗽、肺寒(ケレバ)則成(ス)也、乏波不岐《シハブキ》とある。「波」原本に可〔右△〕とあるは誤。眞淵説に從つて改めた。○はなひしびしに 鼻がグス/\と。「ひし/”\」は涕の鼻につまつて鳴る擬聲語。略解及び古義に、嚔《ハナ》びし嚔びし〔五字傍点〕を約めたるなりとあるは非。新考同説。ヒシ/”\ト〔傍点〕といふべきを「ひし/”\に」とあるは、記(上)に、鹽こをろ/\〔傍点〕に〔六字傍点〕かき成してといふに同じい。○しかとあらぬ 確《シカ》ともない。存在のはか/”\しからぬをいふ。○ひげかきなでて 髯を撫でて。「かき」は接頭語。「ひげ」は髭(口ヒゲ)鬚(頬ヒゲ)髯(※[思+頁]ヒゲ)の總稱。○ひとはあらじと 人らしい者はあるまいと。○ほころへ 誇れ〔二字傍点〕の延言。誇ラヘともいふ。○あさぶすま 麻製の衾。○ひきかがふり 引き冠《カブ》り。「かがふり」は古言で、カブリはその約。「ひき」は接頭語。○ぬのかたきぬ 布の肩衣。肩衣は袖無しの服の稱。卷十六の竹取翁(ノ)歌に結經方衣《ユフカタギヌ》とあるも、木綿《ユフ》の肩衣をいふ。○ありのことごと 在の盡《コト/”\》。在るものゝ全部。○きそへども 著襲《キソ》へども。著襲《キカサ》ぬること。「そへ」はオソヘの上略。○よすらを 「すら」は夜の主語を強めていふ。○うゑさむからむ 飢ゑまた〔二字右○〕寒からむの意。眞淵の「飢」を肌〔右△〕の誤とする説、新考の動詞形容詞相熟すべからずといふ説は共に非。○こひて 衣食などを〔五字右○〕乞ひて。「弖」原本に乞〔右△〕とあるは誤。契沖説による。○いかにしつつ この「つつ」はて〔傍点〕の辭に近い。○ながよはわたる 汝の世を渡る。
【歌意】 風にまじつて雨の降る夜の、その雨にまじつて雪の降る夜は、凌ぎやうもなく寒くてこまるので、竪鹽をボツ/\舐り、糟湯酒を啜つて、咳をし鼻をグス/\と鳴らせ、碌にもない鬚を撫でて、自分を置いては〔右○〕世(1547)に人らしい者はあるまいと、高慢はするけれど、寒い事はやはり寒いので、麻の衾を引つ冠り、布の肩衣をありたけ著襲ねるが、それでも〔四字右○〕寒い夜であるものを、自分よりも貧しい人の父母は、飢ゑそして〔三字右○〕寒からう、妻子どもは物欲しさに泣くであらう。その時にはどうしてお前の世を過ごすのかえ。
 (以上問の歌)
 
天地者《あめつちは》 比呂之等伊倍杼《ひろしといへど》 安我多米波《あがためは》 狹也奈理奴流《さくやなりぬる》 日月波《ひつきは》 安可之等伊倍騰《あかしといへど》 安我多米波《あがためは》 照哉多麻波奴《てりやたまはぬ》 人皆可《ひとみなか》 吾耳也之可流《あのみやしかる》 和久良婆爾《わくらばに》 比等等波安流乎《ひととはあるを》 比等奈美爾《ひとなみに》 安禮母作乎《あれもなれるを》 綿毛奈伎《わたもなき》 布可多衣乃《ぬのかたぎぬの》 美留乃其等《みるのごと》 和和氣佐我禮流《わわけさがれる》 可可布能美《かかふのみ》 肩爾打懸《かたにうちかけ》 布勢伊保能《ふせいほの》 麻宜伊保乃内爾《まげいほのうちに》 直土爾《ひたつちに》 藁解敷而《わらときしきて》 父母波《ちちははは》 枕乃可多爾《まくらのかたに》 妻子等母波《めこどもは》 足乃方爾《あとのかたに》 圍居而《かくみゐて》 憂吟《うれひさまよひ》 可麻度柔播《かまどには》 火氣布伎多弖受《けぶりふきたてず》 許之伎爾波《こしきには》 久毛能須(1548)可伎弖《くものすがきて》 飯炊《いひかしぐ》 事毛和須禮提《こともわすれて》 奴延鳥乃《ぬえどりの》 能杼與比居爾《のどよびをるに》 伊等乃伎提《いとのきて》 短物乎《みじかきものを》 端伎流等《はしきると》 云之如《いへるがごとく》 楚取《しもととる》 五十戸長〔左△〕我許惠波《さとをさがこゑは》 寢屋度麻※[人偏+弖]《ねやとまで》 來立呼比奴《きたちよばひぬ》 可久婆可里《かくばかり》 須部奈伎物可《すべなきものか》 世間乃道《よのなかのみち》     892
 
〔釋〕 ○さくや 「さく」は狹《セ》(迫)くの古言で、祝詞(祈年祭に)「狹《サ》き國は廣く」と見え、單活用の形容詞。契沖訓による。舊訓セバクヤ〔四字傍線〕。○ひとみなか 人皆然〔二字右○〕るかの意。○あのみやしかる 舊訓ワレノミヤシカル〔八字傍線〕。○わくらばに 邂逅《タマサカ》に。○ひととはあるを 人間とは存在してゐるのを。○あれもなれるを 吾も人竝に生まれ付いたのを。「なれる」は作れるの意。卷九にも「人となる事は難きを、わくらばになれる吾が身は」とある。舊訓ワレモツクルヲ〔七字傍線〕に從つて、吾も田畠を作るをの意と解するは穩かでない。○みるのごと 海松の如く。「みる」は「ふかみる」を見よ(四〇〇頁)。○わわけ 加行下二段活の語で、ほつれ亂るゝ態にいふ。○かかふ 千切れた布帛をいふ。字鏡に※[巾+祭](ハ)殘帛、也不禮加々不《ヤブレカヽフ》と見え、又袖中抄に「きり/”\すは世俗に、襤褸させ、カヽは拾はむと鳴くといへり、カヽとは帛布の破れて何にもすべくもなきを云なり、云々」とある。カヽはかゝふ〔三字傍点〕の略であらう。襤褸が甚しき物をいふ。○ふせいほのまげいほ 伏廬で曲げ廬。この「の」の用法、上の「風ま(1549)じり雨ふる夜の」の項を見よ。「ふせいほ」は伏廬。伏屋《フセヤ》に同じい。平《ヘタ》張りたる家をいふ。「まげいほ」は曲廬。曲つた家をいふ。伏シ廬、曲リ廬といふべきを、伏せ曲げと他動にいふは、意を強くする爲の表現である。○ひたつち 直《ヂカ》の土。地《ヂ》ビタ(地ベタ)のこと。卷十三に、當土をヒタツチと訓んである。○まくらのかたに 頭の方。○あとのかた 足の方。頭を枕といひ、足を跡《アト》といふは、紀記の神代卷にも見えた。○かくみ カコミの古言。卷二十に「さはに可久實《カクミ》ゐ」とある。○うれひ 憂ふ〔二字傍点〕は古へは四段活、今は下二段括とす。○さまよひ 坤吟すること。○かまど 竈《カマド》。釜|處《ド》の義。和名抄に、竈(ハ)炊〓(ノ)處也、和名|加萬《カマ》とある。但カマ(釜)は韓語。○には 「柔」の次音ニユを略して、ニに充てた。○こしき 甑。炊《カシキ》の轉。周禮考工記によれば瓦製の釜で、底に七孔ある。但木製のもあつた。日本では皆木製で、底に穴をあけ簀を敷き、湯中に置いて飯を蒸す。和各抄木器類に、甑(ハ)炊(ク)v飯(ヲ)器也、和名|古之伎《コシキ》とある。蒸籠。○くも 蜘蛛。組むの義と。巣掻くによつて名づけた。節足動物。○すがき 巣掻き。巣を造るをいふ。○いひかしぐすべも 飯を焚く仕樣も。「かしぐ」は飯を焚くこと。○ぬえどりの ※[空+鳥]鳥の聲は咽に籠るので、「のどよび」に係る枕詞とした。既出(五一七頁)。○のどよび 咽喚び。咽聲に呻き歎くこと。○いとのきて 口語の取分けて〔四字傍点〕の意に近い。最《イト》除《ノ》きての義か。「いとのきて痛き瘡には鹹鹽を灌ぐちふ如」、(本卷)「いとのきて薄き眉根を徒らに掻かしめつつも」(卷十二)、「いとのきてかなしき背ろに」(卷十四)など見え、當時の俗語であらう。○みじかきものをはしきると 當時の諺。下の沈痾《ヤミテ》自(ラ)哀(ム)文にも、諺(ニ)曰(フ)、痛(キ)瘡(ニ)灌(ギ)v鹽(ヲ)、短(キ)材(ニ)截(ル)v端(ヲ)と見えた。○しもととる 笞《シモト》を執る。笞は刊具で、和名抄に、唐令(ニ)云(フ)笞(ハ)大頭二分、小頭一分半、和名|之毛度《シモト》とある。「しもと」は繁許《シモト》の義で、根株から叢生した若木。それが笞にもなるので、笞をもシモ(1550)トと呼ぶ。「楚」の字にもこの兩意がある。○さとをさ 里長。戸令に毎v里置(ク)2長一人(ヲ)1とある。「五十戸」をサトと訓むは、孝徳天皇紀及び戸令に、凡五十戸爲v里とあるによる。卷十にも「橘を守部の五十戸の門田早稻」とある。「長」原本に良〔右△〕とある。東滿説に從つて改めた。○こゑは 「來立ち呼ばひぬ」に係る辭法だが、意が不完である。但當時ではこのまゝで租税催促の事と領會されたものであらう。よつて歌意の譯には補足してみた。○ねやと 寢屋處《ネヤト》。「と」は外《ト》の意としても通ずる。○よのなかのみち 世に經る道。生活の道。
【歌意】 天地は廣いといふけれど、私の爲には狹くなつたのか、日月は明るいけれど、私の爲には照つて下さらぬのか。人は誰れでも同樣であるのか、私だけさうなのか。たまさかに人間とは生まれたのを、人並に私も生まれ付いたのを、綿も拔けてない布の袖無しの、海松のやうに裂けさがつてゐる、襤褸ばかり肩に打懸け、低い傾いた小屋のうちに、地ビタに藁をバラリと敷いて、父母は自分の頭の方に、妻子どもは足の方に、圍んで居て憂へ歎き、竈には烟も吹き立てず、甑には蜘蛛が巣を張つて、飯を炊くことも忘れて、鶉のやうに咽聲で泣いてをるのに、取分けて「短い物の端を切る」と諺にいふやうに、笞を持つ里長が聲は、租税を〔三字右○〕催促《ハタ》るとて〔三字右○〕、臥處まで通つて來て呼ばはつた。全體これ程手に乘らぬものか、世渡りの道はさ。
 (以上答の歌)
 
〔評〕 (問の歌)「風まじり雨ふる夜の、雨まじり雪ふる夜は」の叙法は祝詞から來た樣式で、その名詞の反復交錯に、又對偶的漸層的の辭樣によつて、寒夜雨雪の風に紛々亂々する光景を、如實に力強く描出し得た。蓋しこ(ノ)篇に取つて非常に大事な背景を成すものである。
(1551) 作者憶良は その寒さ凌ぎに、今でも人のよく遣る糟湯酒を啜つたものだ。それも砂糖でも混ぜれば旨い甘酒になるが、古代に生憎砂糖はない。一皿の堅鹽をボツ/\、間の手に嘗めるのであつた。流石に寒氣は嚴しいので、咳はコン/\出るし、鼻水は詰まつてグス/\する。カラ埒もないが、それでも多少は陶然と來るから、少しばかりの山羊髯か何か繁扱《シゴ》きながら、「天下におれ程の者はあるまい」と高く慢じた。枕草子に酒飲の容體を描いて、
  また酒飲みてあかき口を探り、髯ある者はそれを撫でて、云々。
とあるも同趣である。糟湯酒ぐらゐで、かう氣が太くなるやうでは、憶良の上戸でない事は略想像が出來る。「我れをおきて人はあらじ」は、すべてが假托の言と見ればそれまでだが、平生謹※[殻/心]小心なる憶良だけに、何だか今まで内訌してゐた自負心が、測らずこゝにその片鱗を露はしたやうな氣がする。實際彼れは自負してもよい。少壯入唐して、當時の先端的文化の瓣香を摘み、漢語はあやつるし、漢文も形の如く立派に書けた。全く當時における押しも押されもせぬ有用の俊才ではないか。
 だが現實は寒い。麻の衾も何枚かの綿入れの布肩衣も、この寒夜をどうにもならない。
 憶良といふと、酷く貧乏臭い老人のやうに思はれるのも、この貧窮問答を草した爲だ。素より彼れの生活は豪華ではない。が痩せても枯れても筑前の國守殿だ。國守は平安期の文書には、温官膏腴之官と書かれてある。奈良時代だつて相當實入りのよかつた事は、たしかに保證される。只彼れが學究肌で派手者でなく、そして相當の老人で※[魚+環の旁]夫で神經痛の持病者であるだけだ。麻衾や布肩衣は事實かも知れないが、或は又文飾上の假構かも知れない。「我れよりも貧しき人」と比較の叙法を取つた關係上、下層生活者の飢寒を強調させる前提として(1552)自身の生活程度を實際以上に低下させて敷陳する必要もある。
 抑も中層階級者は上下層に直接交渉をもつので、雙方の事情によく通達する。况や牧民の官たる國守としては、下層民の生活に深い注意を拂ひ、野に餓※[草冠/孚]なきやと、念々に思惟するは當然の職責である。果然憶良は下層貧民の生活に同情を寄せ、つぶさにその飢寒を察し、「いかにしつつか汝が世は渡る」の一問を提げて立つた。
 この篇は貧者に對つての憶良のなした質問である。初頭より「寒き夜すらを」までを前段、以下を後段と大別する。「寒き夜すらを」の一句は前後段の間に立つた扇※[金+交]である。
 
 (答の歌)一度不如意の悲境に立つと、天地も窄く、日月も闇い心地がする。もうかうなつては、廣く世間を見渡す餘裕がなくなる。自分だけこんな憂い目辛い目を見ることかと、繼つ子らしく他を羨望しつゝ、「わが爲は狹くやなりぬる、――わが爲は照りや給はぬ」と、自己中心に不滿の叫を投げ付ける。然し退一歩、一分の思案を廻らし、「人皆か吾のみや然る」と、自他の兩端を叩いたのは、「人皆か」はホンの客語で、實は「吾のみや然る」事情を、下文に具陳しよう爲の伏線である。
 偶ま人間世に生を亨け、而も人竝に生まれ付いて、片輪でもなければ白痴でもないのにと、肉體的精神的に立派な一箇の存在であることを主張し、間接にわが貧窮の運命に對しての抗議を含めてゐる。
 以下、その筆は一轉して、貧窮状態の描寫に入つた。
 前篇の初頭に敍べたさほどの寒夜に、その著物はどうか。綿もない布肩衣の著破《キヤレ》してぶち/\下がつた襤褸だけを、身に引懸けた。いかに寒いことであらう。「綿もなき」は始から綿がないのではない。著舊して綿が(1553)脱けたのである。「かゝふのみ」とあるので、さう推定される。實際この時代の貧乏には極端なのがあつて、諸國の牧場の牧子などの連中となると、素裸で暮してゐるのさへあつた。天平勝寶六年十一月の知牧事擬少領吉野百鴫の解に、
  一、給(ヒテ)2衣服(ヲ)1而欲(リスル)v令(メムト)2仕(ヘ)奉(ラ)1事
  右件(ノ)牧子等爲(リ)2貧乏(ノ)民1、其無(クシテ)2衣服1率(ヰテ)仕(ヘ)奉(ル)醜(シ)。(正倉院文書)
とある。牧子等は比較的無軌道の生活者だから、それでも我慢もならうが、百姓となると痩せても枯れでも一戸の主で、かゝふ〔三字傍点〕でも何でも引懸けなければならぬだけつらい。
 次にその住居はどうか。それは低い傾いた小屋だ。何れ透間の風の堪へられぬは勿論であらう。その内の土間に、往きなり藁を敷いての起き臥し、疊などいふ贅澤な物は嘗てない。父母妻子は自分の頭や足の處に寄り固まつて、お互の活氣でやつと寒さを凌ぐ。そして愚痴をこぼし/\坤つてゐる。
 次に食物はどうか。竈は煙の立つたことなし、甑は蜘蛛が巣を喰ふ始末で、恰も後漢の范冉の窮居を、「甑中、生(ズ)v塵(ヲ)范史蜘蛛、釜中生(ズ)v魚(ヲ)范莱蕪」と、世人が歌つたと同樣、餘り永いこと煮燒きをしないので、飯の焚方さへ忘れてしまふ。詰り食ふべき米鹽が全くないのだ。
 かう人間の生活に必須な衣食住とも缺乏しては、我れながらドン底の貧窮に愛想をつかして、「※[空+鳥]鳥の」のどよばざるを得なくなる。悲慘そのものである。
 この無一物の貧者に對して、天は飽くまで無情だ。そこに掛取が出現した。私債ならとにかく、それが公租だ。諺にいふ通り、「足らぬ物の端を切る」で、踏んだり蹴つたりである。かく貧者の生活が虐げられつゝあ(1554)る状態を敍するに、層々疊々倍加してゆく筆法は、その深刻味をより以上に強調する効果がある。
 當時の里長は自分が出張して、納租の催促をしたものと見える。支配下五十軒の納租は、里長の責任であつたらしい。縣吏の租を催すことは支那の詩にも一再ならず歌はれて、「虎よりも猛し」と歎息されてゐる。
  縣官急(リニ)索(ムレドモ)v租(ヲ)、租税縁(リテ)v何(ニ)出(デム)。(杜甫、兵車行)
  縣官(ハ)似(テ)v虎(ニ)、動(モスレバ)則害(フ)v人(ヲ)。(李義山雜纂)
何處の邦でも似たやうなもので、威かしかは知らぬが、笞杖などを持つて遣つて來られては、何と恐ろしい譯ではないか。だから正直者はその聲を聞くから縮みあがるのであつた。それを遠慮もなく寢屋處《ネヤト》まで這入り込んでわめく。まるで地獄の呵責だ。事茲に至つては徒らに「かくばかり術なきものか」と悲鳴を擧げて、世の中の道を痛歎するより外に手はない。實に極端なる貧者の生活苦を描いて餘蘊なしといふべきである。
 「里長が聲は」の聲は〔二字傍点〕の落着が何としても面白くない。白璧の微瑕として措くより外はあるまい。或は落句でもあらうか。
 「天地は」より「吾のみや然る」までを第一段、「わくらばに」より「來立ち呼ばひぬ」までを第二段、以下を第三段とする。第二段のうち「わくらばに――吾もなれるを」を第一節、「綿もなき――のどよびをるに」を第二節、「いとのきて――來立ち呼ばひぬ」を第三節とみる。
 この篇は前篇の「いかにしつつか汝が世は渡る」の質問に對した貧者の答辯で、その貧窮状態を極力縷述して、「かくばかり術なきものか世の中の道」と應酬したものだ。素より貧者の立場からものした憶良の假作である。
(1555) 憶良がこの問答歌製作の動機に關しては、既に上述の如くである。さては答歌が目的たる主要篇であることは勿論で、問歌はその序篇である。隨つて問歌の敍事は、答歌に比して稍輕く進行し、委しく見れば三樣の變化をもつが、概しては殆ど一意到底の觀がある。答歌に至つては、その全力を傾注した大手筆で、結構といひ布置といひ、變化といひ、全く理想的に組織結成されてゐる。
 又内容に於いては、問歌には中層級の憶良その人の生活の片隣を露出し、答歌には全面的に最下層級者の生活が赤裸々に投げ出されてある。假令それが片寄つた社會級にせよ、一千二百年前の生活状態を、現在の我々の眼前に如實に映寫し展開してくれたことは、全く憶良の賜である。
 殊に何より嬉しいのは、この作が唐の杜甫の人民生活を基調として戰役を歌つた潼關吏、石濠吏、新安吏、新婚別、垂老別、無家別、兵車行の如き諸大作より、三十年も前であることである。何時も支那詩人の足迹踏襲の譏を免れないわが歌壇に、彼れより一足早く、この種の法門を開いて、堂々と獅子吼してくれた憶良に對して、滿腔の感謝と敬意とを捧げる。
 小著「歌がたり」(明治卅八年刊)のうちに、自分はこの歌を擧げて、憶良を人道歌人〔四字傍点〕と稱揚したことがあつた。いはく
  日向臭き自然詩人よ、香水臭き戀愛詩人よ。汝等の詩材は餘に貧窮なり、狹少なり、單純なり、更に一隻眼を豁開して天地の間を洞觀せよ。宇宙の眞理を諦視せよ。人生の運命に民族の消長に、國家の興亡に、吟ずべき事咏ずべき事はた益す多からずや。その運命といひ消長といひ興亡といふ、大小輕重の差こそあれ、皆悉く社會觀に屬す。この種の歌の興隆は人道詩人の任なり。
(1556) 孔子は詩の效果を論じて、風を移し俗を易ふに歸し、アーノルドは詩の定義を説きて、人生の批判なりと斷ぜし、共にこれ、雪や氷と隔つれど、落つれば同じ溪川の水なるもの。(中略)
 飜つてわが國歌を檢し來れ、纔にこれらの傾向をだに有する作、果してありやなしや。江戸時代はいかに、室町時代はいかに、鎌倉時代はいかに、平安時代はいかに。あはれ皆無の一言を以て答ふるの外なからんとす。幸に青丹吉奈良の時代に遡つて、茲に四篇を得たり。一は山上憶良の貧窮問答、餘の三は大伴家持の防人の歌。
 貧窮問答は(中略)作意の深意を推測するに、恐らくは諷託寄興あるか。蓋しかくして、世間幾多の暖衣飽食者流の反省と同情を促し、且は爲政者の注意を乞はんと試みしものなるか。云々。
 又いふ、この問答體の樣式は、漢詩に於いては、唐以前に見たことがない。否唐以後でもあるまい。處が日本では可成りの昔から立派に行はれてゐた。かの日本式尊が甲斐の酒折の宮での
  新ばり、筑波を過きて、幾夜か寢つる。
と仰せられたのに對し奉つて御火燒の翁が、
  かゞなへて、夜にはこゝの夜、日には十日を。(記、中)
と御答へ申上げた。これが旋頭歌(混本歌)の濫觴といはれてゐる。爾來旋頭歌にはとかく問答體が襲用され、この集中にもその例歌を澤山に數へることが出來る。然し旋頭歌は、5、7、7、の三句十九音を一囘反復した小詩形だから、その問答は殆ど口頭の應酬に近いほど容易いものといつても差支ない。
 長歌の詩形による問答體は、實にこの貧窮問答を以て嚆矢とする。憶良は伺處からどうしてこの體を捉へ來つたか、全くその見當が付かない。恐らく旋頭歌の問答體を長歌に應用して試みた、憶良自身の新案ではある(1557)まいか。すると、かういふ新詩體を創造したといふ一點だけでも、國歌に對しての憶良の功績は大書特筆すべきものといはねばなるまい。
 貧窮問答はかくの如く形式に於いてはその獨創があり、内容に於いては特異相を把握してゐる。憶良が萬葉歌人中、山柿の二名家の外に別に一旗幟を樹て、鼎足の勢を以て古今に睥睨する所以は全くこゝにある。
 
世間乎《よのなかを》 宇之等夜佐之等《うしとやさしと》 於母倍杼母《おもへども》 飛立可禰都《とびたちかねつ》 鳥爾之安良禰婆《とりにしあらねば》     893
 
〔釋〕 ○やさし 羞かしの意。
【歌意】 貧乏が甚いので、この世の中を厭《イヤ》なと又恥かしいとさ思ふけれども、自分は鳥でもないから、さつと飛び立つて去りかねることよ。
 
〔評〕 諺に「錢のないのは首のないのより惡い」と。みじめな生活に世の侮を受けつゝも、生の執着に引摺られてゐる。そして徒らに鳥雀の自由な生活を羨望する。安價でも何でも諦めがないのだから、一倍苦痛は甚しい。下句は警拔。
 
富人能《とみびとの》 家能子等能《いへのこどもの》 伎留身奈美《きるみなみ》 久多志須都良牟《くたしすつらむ》 ※[糸+施の旁]〔左△〕綿良波母《きぬわたらはも》     900
 
(1558) この「富人の」及び次の「麁妙の」の二首は、原本には、下の老(ノ)身(ノ)重(キ)病(ニ)經(テ)v年(ヲ)辛苦《クルシミ》及《マタ》思(ヘル)2兒等《コドモ》1歌(憶良作)の反歌中に攝してある。然し先賢の所説の如くそれは錯簡で、必ずこの貧窮問答の反歌たるべきである。成るべく原本の面目を變更せぬのが本書の主旨であるが、元のまゝでは、折角のこの問答歌の體裁を損じ、又億良その人の生活と人生觀とに、大きな錯誤を生ずるので、斷じてこゝに引上げた。
 
〔釋〕 ○いへのこども 家の子供。○きるみなみ 著る身がなさに。身に著切れぬをいふ。○くたし 轉じてクサスといふ。腐《クサラ》しの意の古言。○きぬわたら 澤山なる絹綿。この「ら」は複數。「※[糸+施の旁]」原本に※[糸+包]〔右△〕とあるは誤。類本による。
【歌意】 富者の家の子供達が、澤山で體一つではとても著切れぬので、腐し棄てるであらう、その※[糸+施の旁]綿はまあ。せめてそれでも欲しいなあ〔十二字右○〕。
 
〔評〕 物その平を得ぬのがうき世だ。自分だけはさう諦めても、可愛い子供達の※[食+幾]寒は當面の問題で、親としては人情見るに堪へない。冨人の家の子供のあり餘る※[糸+施の旁]綿に想到したことも、この心持からで、羨望の極は、お餘りでも欲しいやうな口振も出るのである。「※[糸+施の旁]綿らはも」の※[立+曷]後の辭樣は、含蓄と感愴とを深からしめる。
 
麁妙能《あらたへの》 布衣遠※[こざと+施の旁]爾《ぬのぎぬをだに》 伎世難爾《きせかてに》 可久夜歎敢《かくやなげかむ》 世牟周弊遠奈美《せむすべをなみ》     901
 
〔釋〕 ○あらたへの 既出(一八九頁、四四七頁)。但こゝは枕詞ではない。○きせかてに 著せ敢へずに。○かく(1559)やなげかむ 「や」は疑辭。卷十七にも同句があり、「や」は反語ではない。「かむ」に敢の字音を當てた。
【歌意】 麁い布の衣をなりとも、妻子に〔三字右○〕著せたいが
 
〔評〕 既に※[糸+施の旁]綿をいひ、こゝに布衣をいふ、當然の順序である。
 
山上憶良 頓首謹(ミテ)上(ル)。
 
頓首謹上とあるから、何れ上官の高覽に供したのであらうが、製作年月の詳記がないので、その上官を誰れとも確言し難い。上の熊凝の歌が天平三年六月だから、これも大概その頃の作として考へると、憶良はこの歌を上の熊凝の歌と共に一括して、都まで郵送、知己旅人卿の覽に供したものと思はれぬ事もない。但旅人卿は同三年七月に薨去されたから、郵送の日時を數へると、この歌どもは或は旅人卿の目に觸れるに及ばなかつたかも知れない。旅人卿の後任者藤原武智麻呂は、全然宰府に下向した形迹がない。
 
好去好來(の)歌一首并短歌
 
幸く去き幸く來よの意を述べた歌との意。好去のことは「さきくや」の項を見よ(一二七〇頁)。これは多治比(ノ)眞人廣成が遣唐大使に任ぜられて出立する時に、憶良の詠んで贈つた歌である。續紀に、天平五年三月戊午、遣唐大使從四位上|多治比眞人《タヂヒノマヒト》廣成等拜朝、閏三月癸巳、廣成辭見授(ケラル)2節刀(ヲ)1、夏四月己亥、遣唐(ノ)四船自(リ)2難波(ノ)津1進發と見え、同七年に歸朝した。
 
(1560)神代欲理《かみよより》 云傳介良久《いひつてけらく》 虚見通《そらみつ》 倭國者《やまとのくには》 皇神能《すめかみの》 伊都久志吉國《いつくしきくに》 言靈能《ことだまの》 佐吉播布國等《さきはふくにと》 加多利繼《かたりつぎ》 伊比都賀比計理《いひつがひけり》 今世能《いまのよの》 人母許等許等《ひともことごと》 目前爾《めのまへに》 見在知在《みたりしりたり》 人佐播爾《ひとさはに》 滿弖播阿禮等母《みちてはあれども》 高光《たかひかる》 日御朝庭《ひのみかどには》 神奈我良《かむながら》 愛能盛爾《めでのさかりに》 天下《あめのした》 奏多麻比志《まをしたまひし》 家子等《いへのこと》 撰多麻比天《えらびたまひて》 勅旨《おほみこと》【反(ニ)云(フ)大命《オホミコト》】 戴〔左△〕持弖《いただきもちて》 唐能《もろこしの》 遠境爾《とほきさかひに》 都加播佐禮《つかはされ》 麻加利伊麻勢《まかりいませ》 宇奈原能《うなはらの》 邊爾母奥爾母《へにもおきにも》 神豆麻利《かむづまり》 宇志播吉伊麻須《うしはきいます》 諸能《もろもろの》 大御神等《おほみかみたち》 船舶爾《ふなのへに》 【反(ニ)云(フ)、布奈能閇爾《フナノヘニ》】 道引麻遠志〔二字左△〕《みちびきまをし》 天地能《あめつちの》 大御神等《おほみかみたち》 倭大國靈《やまとのおほくにみたま》 久堅能《ひさかたの》 阿麻能見虚喩《あまのみそらゆ》 阿麻賀氣利《あまがけり》 見渡多麻比《みわたしたまひ》 事了《ことをへて》 還日者《かへらむひには》 (1561)又更《またさらに》 大御神達《おほみかみたち》 船舳爾《ふなのへに》 御手打掛弖《みてうちかけて》 墨繩遠《すみなはを》 播倍多留期等久《はへたるごとく》 阿遲可遠志〔五字左△〕《とほつちか》 智可能岬〔左△〕欲利《ちかのさきより》 大件《おほともの》 御津濱備爾《みつのはまびに》 多大泊爾《ただはてに》 美船播將泊《みふねははてむ》 都都美無久《つつみなく》 佐伎久伊麻志弖《さきくいまして》 速歸坐勢《はやかへりませ》     894
 
〔釋〕 ○いひつてけらく 「つて」はツタ〔二字傍点〕への約言。○そらみつやまとのくに 既出(一一頁)。○すめがみの ここの皇神は廣義で、神代の尊い神達をさした。祝詞にもその例が多い。尚「すめがみ」を參照(二六五頁)。○いつくしきくに 「いつくし」はイカメシ、オゴソカなどの意。靈異記(卷十)に經色儼然の儼然をイツクシクシテと訓んである。儼はイカメシ、オゴソカなどの義である。さては「皇神のいつくしき國」と續くと詞意が不完になるが、假に神威の嚴かなる國と解して置かう。新考は「吉」を武〔右△〕の誤と見てイツクシムクニ〔七字傍点〕と訓んだ。○ことだま 言の靈動をいふ。すべて靈妙なる活きをなすその本體を、魂《タマ》といひ魂シヒといふ。神にも人にも物にもその魂ありとなす。○さきはふくに 幸く活く國。「さきはふ」のはふ〔二字傍点〕は動詞形の接尾語で、名詞にその活きを與へる。饒《ニギ》はふ、味はふも同例。○いひつがひ 「つがひ」は繼ぎ〔傍点〕の延言。○ひとさはに 卷四にも「人さはに國には滿ちて」とある。○みちてはあれども 世間に〔三字右○〕。○たかひかる 既出(四八〇頁)○ひのみかどには 天皇陛下には。「御朝庭」は借字。○めでのさかり 御寵任の餘りといふに同じい。績紀第二十二詔(天平寶字元年七月)に、又|愛盛爾《メデノサカリニ》、一二人等冠位上賜治賜久止宣《ヒトリフタリラカヽフリクラヰアゲタマヒテヲサメタマハクトノル》、又類聚國史天長四年の詔に、御意乃愛盛(1562)爾治賜人毛亦在《ミコヽロノメデノサカリニヲサメタマフヒトモアリ》、文徳實録(卷三)に御意乃愛盛爾治賜人毛一二在《ミコヽロノメデノサカリニヲサメタマフヒトモヒトリフタリアリ》など見える。○あめのしたまをしたまひし 「天の下申し給へば」を見よ(五三八頁)。○いへのこと 家の子として〔二字右○〕。大政を執つた名家の子たるをいふ。廣成は左大臣島の末子。○えらびたまひて 天皇が廣成を〔六字右○〕選び給ひて。○おほみこと 大御言。割註に「反(ニ)云(フ)大命」とあるは「勅旨」をオホミコトと訓むべく示したもので、反は翻に通じ、反譯の意である。韻學上の術語たる反〔傍点〕とは意が殊なる。○いただきもちて 古へその事を取扱ふことを持つ〔二字傍点〕といつた。神名などに多く見える。大御言戴き持ちを早くミコトモツといひ、名詞にミコトモチ(宰)といふ。「戴」原本に載〔右△〕とあるは誤。契沖説による。○もろこし 諸越。支那の唐の世を稱し、又支那全土の稱とする。諸越はもと支那で南越諸國をその本部より呼んだ總稱で、わが邦は始め南部の呉越地方との交渉が多かつた爲、それを直譯して呼んだものが、遂に支那全土の稱に及ぼして用ゐられるやうになつた。○つかはされ 被使相で敬相ではない。○まかりいませ 罷《マカ》り坐《イマ》せば〔右○〕の意。「ば」の接續辭を略くは古格。上の「おほみこと」からこの句までは、廣成が主格。童本は「伊」の下弖〔右△〕の脱として、マカリイデマセ〔七字傍線〕と訓んだ。○かむづまり 神|鎭《シヅマ》りの意。「つまり」(1563)は(1)シズマリの上略(宣長、高尚説)。(2)詰りの意にて留まること(古義説)。○うしはき 事や物を主《ウシ》として領ずること。「はく」は宣長いふ、佩《ハク》v刀(ヲ)著(ク)v沓(ヲ)のハクと同じくて、身に著けて持つ意ならむと。「いそはく」を參照(一五九頁)。○おほみかみたち 大御神は天照大御神に限らず。他の神々にも尊んでいふ語。○ふなのへに 船の舳先《ヘサキ》に。「へ」は和名抄に、船(ノ)前頭謂(フ)2之(ヲ)舳(ト)1、和語(ニ)云(フ)v閇《ヘト》とある。艫《トモ》に對する。○みちびきまをし 遣唐使は勅遣の使なれば敬つて「申す」といふ。宣長が神の人を導き給はむを申し〔二字傍点〕といひては事違へりと難じたのは非。「遠志」原本に志遠〔二字右△〕とあるは顛倒。○あめつちのおほみかみ 天神地祇をいふ。○やまとの 四言の句。大和山邊郡の倭をいふ。○おほくにみたま 國土を治むるより付いた神名。神名帳(延喜式)に、大和國山邊郡大和(ニ)坐(ス)大國魂(ノ)神三座、名神大と見え、記(上)によれば、速須佐之男《ハヤスサノヲノ》命の孫大國御魂(ノ)神となつてゐる。(大國主神とは別)崇神天皇紀に、天照大神とこの神とを天皇の大殿の内に祭られたのを、天照大神を笠縫邑に、大國魂神を大市(ノ)長岡(ノ)岬《サキ》(倭ノ地)に移し祀られたとある。蓋しこの兩神を天と地との神として崇められたものと思ふ。垂仁天皇紀の廿五年の條に、一(ニ)云(フ)、倭(ノ)大神|著《ツキテ》2穗積(ノ)臣(ノ)遠祖大水口宿禰(ニ)1而|誨《ヲシヘタマハク》之、大初之《カミヨノ》時|期曰《チギリタマハク》、天神大神(ハ)悉(ニ)2治天(ノ)原(ヲ)1、御孫(ノ)尊(ハ)專(ラ)2治(メ)葦原(ノ)中(ツ)國之|八十魂《ヤソタマノ》神(ヲ)1、我(ハ)親(ラ)2治(メムト)大地官《オホツチノツカサヲ》1者、言已訖焉《ハヤクコトサダメタリ》と見え、大國魂(ノ)神は國土の神たることが明かである。○あまのみそら 天の御空。天三空《アメノミソラ》(卷十)に同じい。○あまがけり 虚空を遊行すること。出雲(ノ)神賀(ノ)詞(延喜式)に「天(ノ)穗比《ホヒノ》命を國體《クニガタ》見に遣はしゝ時に、天の八重雲を押別けて、天翔國翔※[氏/一]《アマガケリクニガケリテ》天(ノ)下を見めぐらして」、記の景行天皇の條に、倭|健《タケノ》命の御魂が、然(モ)亦そこより更に翔天以《アマガケリテ》飛(ビ)行《イマシヌ》など見え、神佛仙人亡魂の類は天翔りするものとされた。○みわたしたまひ 見守らるゝをいふ。○ことをへて 「こと」は遣唐の使命をさす。○すみなは 墨繩。工匠の具。塵斗《スミレ》(墨壺)に繩即ち絲を通して、それを引張つて打つと、一直線の(1564)黒線が付く。○はへたる 延《ハ》へたる。○とほつちか 遠つ値嘉《チカ》。續紀に遠知駕《トホチカ》とあるに同じい。次句の値嘉の岬《サキ》に重ねていひ續けた。尚次の「ちかのさき」を見よ。「庭」阿野本その他に遲〔右△〕とある。さては「阿」は津〔右△〕の誤、「志」は衍字で、遠津遲可《トホツチカ》の顛倒であらう。古義はいふアヂガスム〔五字傍線〕の誤かと。○ちかのさき 値嘉《チカ》は肥前國松浦郡。今の五島列島及び平戸島の舊稱。血鹿、知※[言+可]、知駕とも書く。記(上)の二尊國生みの條に、次(ニ)生(マス)2知※[言+可](ノ)島(ヲ)1、亦(ノ)名(ヲ)謂(フ)2天之忍男《フメノオシヲト》1と見え、西蕃往來の門戸に當る。肥前風土記に大近小近、續紀に達知駕《トホチカ》の島名がある。知※[言+可]の稱は風土記に、景行天皇が平戸の志式《シシキ》島の行宮にいまして、西海中の島を望み給ひ、此島雖(モ)v遠(シト)、猶見(ユ)v如(ク)v近(キガ)、可(シト)v謂(フ)2近(ノ)島(ト)1と仰せられたのに起つたと記してある。地名辭書の著者が大近を中通島、小近を宇久島、遠知駕を福江島に充てたのは信じてよい。福江島の西北端|美彌良久《ミミラク》の崎は、遣唐使船の泊所である。「岬」原本に岫〔右△〕とあるは誤。契沖説による。○おほとものみつ 既出(二三五頁)。○はまび 濱|邊《ベ》の轉。海《うな》び、野びはこの類語。○ただはてに 直終《タヾハテ》に。直ちに行き著く意の副詞格。○つつみなく 恙《ツヽガ》なく。凶事なく。
【歌意】 神代からいひ傳へたことは、この日本《ヤマト》の國は皇神の嚴めしい國、言葉の神靈の幸する國と、語り繼ぎいひ繼いでをる。それは現代の人も悉く目前に見てをり、知つてゐる。さて世の中に人間は澤山居るけれども、天子樣には神とますまゝに、貴方をば〔四字右○〕御寵任の餘に、天下の大政を執られた家(多治比氏)の子として、特に選(1565)出遊ばされて、で貴方は〔四字右○〕大命を捧げ持つて、唐の遠い境に遣はされ、出張なさるので、大海の岸邊にも沖にも、留まつてそこを領してゐられる諸の神達は、船の舳先に立つて〔三字右○〕お導きなされ、天地の神達や倭の大國魂の神は、大空を翔つて、見渡してお護りなされ〔六字右○〕、使命が終つて還る日には、又更に大神達が船の舳に御手を掛けてお助けなされるので〔九字右○〕、恰も墨繩を引張つたやうに一直線に〔四字右○〕、値嘉《チカ》の岬から御津の濱邊に、一途に貴方の御船は到著するであらう。どうぞ恙なく機嫌よくいらつしやつて、速くお歸りなさいませ。
 
〔評〕 開口一番皇神と言靈との威靈を唱道した。神威のことは後段に神達の活躍を叙してゐるから、その前提であることは明かだ。言靈に至つては、漫然と讀過しては、その何に照應があるかわからないから、無用の冗語に聞える。
 抑も「言靈の幸はふ」は言葉が玄妙な意味をもつとだけの讃辭と思つては間違ふ。そんな學術的の見地からのものではなくて、信仰上の問題である。蓋し言語は一種靈活なる應驗の徳を具へたものとして、古代に信ぜられてゐたのである。或豫言にせよ、或誓約にせよ或願望にせよ、それらの詞は現在及び未來に於いて、必然的なる應現を如實に示すものと考へられたのである。こんな思想は當時のいはゆる外國即ち韓唐天竺にはない事なので、「言靈の幸はふ國」と特に揚言したのである。
  敷島のやまとの國は言靈の幸はふ國ぞ眞幸くありこそ (卷十三――3254)
もそれで、「眞幸くありこそ」と祝福すれば、その言靈が靈驗をあらはし、願望通りの眞幸が實現される。こゝに至つては言葉は咒物《マジモノ》的性質を帶ぶることになる。詰り結末の「恙なく幸くいまして早歸りませ」との祝(1566)福の詞は、即ち必ずその應驗あり實現せらるべき約束のもとに置かれたものであることを、確認させたい爲の前提である。
 さて更に、神と言との靈動は神代からの傳統的信仰であり、又現在にこの應果を目前に現代人は知悉してゐるといひ添へた。
 上の「いひ傳てけらく」を承けて、下に「いひ繼がひけり」と重ねていふは古文の格で、祝詞には多い。
 次に愈よ本題にに入つて遣唐便の事に及んだ。
 小野妹子が遣隋大使として、絢爛たる漢土の文化を目撃して歸朝してから、漢土崇拜の思潮は益す拍車を加へて來た。遣唐使は孝徳天皇朝から始まり、爾來天武持統元明の三朝を除いては、御代毎に發遣され、採長補短の意味で、唐風摸倣に必死であつた。
 使人はわが邦の代表者であるから、對手國への儀禮としても、その門地官等の相當高い人を選任するのが通例である。加之對手國の歴史を知り學問を識り言語文章も操れゝば、資格に於いて滿點である。この天平五年の遣唐大使には多治比(ノ)眞人廣成が選任された。
 廣成は宜化天皇の孫|多治比《タヂヒノ》王の子左大臣島の子で、兄に大納言池守、中約言縣守(本集歌人)がある。實に面正しい「天が下まをし給ひし家の子」である。そのうへ彼れは漢學者でもあつたから、まづ適任といふ事が出來よう。
 航海の安否、これが遣唐使人の最難關で、瀬戸内海の潮騷も相當に魂を消すが、日本海の風波は殊に生命の問題であつた。然し大切なる國家の使節たる以上は、神の擁護は必ずあるべきであつた。住吉(攝津)から始め(1567)て、市杵《イチキ》島(安藝、嚴島)豐浦(長門豐東上村、住吉荒御魂)志加(筑前博多)田心《タゴリ》姫(同、宗像)湍津《タギツ》姫(田心姫の別名か)の神々は、その航路の奥に邊にます大御神達である。されば第一に、これらの海の神達が代る/\船の舳艫に立つて、順送りに安全に勅使の船を「導き申す」のであつた。
 この「船の舳に導きまをし」は決して作者の創案ではない。かうした思想は古代からの傳承である。殊に住吉の神は海童《ワタツミノ》神で、(記紀所見)海路の守護神として、神功皇后征韓の際、その荒魂和魂を現じ給うて以來、尤もその崇敬を極めた。
  空みつ日本の國は、水の上は土ゆく如く、船の上は床にますごと、大神のしづむる國ぞ、――。(卷十九、遣唐使賜酒肴御歌――4264)
  かけまくもゆゆしかしこき、住の江のわが大御神、船の舳にうしはきいまし、船艫に御立ちいまして、さし寄らむ磯の崎々、漕ぎはてむ泊々に、荒き風浪にあはせず、平けく居て歸りませ、――。(卷六――1021)
  住の江にいつく祝部《ハフリ》が神ごとを行くとも來とも舟は早けむ(卷十九、多治眞人古――4243)
  懸けまくのゆゝし恐こき、墨の江のわが大御神、船のへにうしはきいまし、船どもに御《ミ》立たしまして、さし寄らむ磯のさき/”\、漕ぎはてむ泊々に、荒き風波に合はせず、平らけく率《ヰ》て歸りませ、本の國へに。(同卷、作者未詳――4245)
  皇御孫尊の御命もちて、住吉に稱辭竟へまつる。皇神等の前に申し賜はく、大唐《もろこし》に使遣はさむとするに、――皇神の命もちて、船|居《すゑ》は吾作らむと教へ悟し給ひき。――。(祝詞、遣唐使時奉幣)
  住吉の神の導を給ふまゝに、はや船出してこの浦を去りね。――(源氏、明石卷)
  (近世金比羅神の出現によつて説かれる靈異は、古へはすべて住吉神のものであつた。又この神は神功皇后の征韓役に軍神としても現じ、後世弘く外敵に對する守護神とも考へられた。古事談所載の漁翁と白樂天との唱和――謠(1568)曲白樂天――の如きもその意味での派生である。)
 海路は、故にかくの如く懇切なる海の大御神達の擁護が望まれるとしてからが、陸上はその支配外である。さては遣唐一行の唐土上陸後は何としたものか。
 これに對して作者はまづ「天地の大御神達」と弘く呼び掛けた。が主としては倭の大國魂(ノ)神に懇請したものだ。蓋しこの神は國土の主神であるから、遣唐一行の唐地に於ける行旅の無事平安を「天翔り見渡し給ひ」と祈祷し切願した。
 要するに海には住吉、陸には大國魂、この二神が萬葉人の信奉の對象であつた事が諾かれよう。
 事は再びその歸航に及んだが、内容は往路とその精神に於いて變るべくもない。よつてその、敍筆に面目を聊か革めた。即ち上には「船の軸に導きまをし」とあるを、更に一層の佑助を望んで「大神達船の舳に御手打掛けて」といひ、一直線にの意を「墨繩を迎へたる如く」と譬喩し、迅速にの意を地理的描寫を交へて「値嘉の岬より――三津の濱邊にただはてに」といふ、繁簡精粗その宜しきに適ひ、行筆實に變幻自在を極めてゐる。要するに、海陸共にわが大御神達の行き屆いた冥助のあらうことを強力主張して、その行旅を祝福した。
 末段「つゝみなく幸くいまして早歸りませ」は、冒頭の「言靈の幸はふ國」とあるを顧應した結語で、首尾整然として分寸のゆるぎもない。而もこの語は遠行者に餞する套語で、
  在根良對島のわたりわた中に幣取り向けて早歸り來ね (卷一、春日藏首老――62)
  ――とどまれる我は幣とり、いはひつつ君をばやらむ、早歸りませ、(卷八、笠金村――1453)
  荒津の海わが幣まつりいはひてむ早かへりませ面變りせず (卷十三――3217)
(1569)  大船をあるみにいだしいます君つつむ事なく早歸りませ  (卷十五――3582)
の類頗る多い。現代でも千萬言の送別の詞も、究竟はこの一語に盡きる。
 遣唐の往來は約三年の長日子、海陸の行旅難に加ふるに、天災あり人災あり病災あり、その無事に歸朝するは實に天佑であらねばならぬ。で徹頭徹尾神樣に縋り付いた。この時代は聖武天皇が三寶の奴と宜はせられた時(天平勝寶元年四月)より以前で、疑もない惟一神道であつた。一方に佛陀に歸敬し。「禮2拜(シ)三寶(ヲ)1無(シ)2日(トシテ)不1v勤(メ)」といふ憶良ではあるが、それは箇人の信仰で、かうした公式の遣唐使迭別の際の辭令としては、古神道を眞つ向に振翳すのが至當であつた。平安期になると、これが躊躇なく「佛神憐み給へ」(源氏明石卷)となるから面白い。
 この篇の構成は「神代より」より「見たり知りたり」までが第一段、「人さはに」より「まかりいませば」までが第二段、「海原の」より「三船ははてむ」までが第三段である。その第三段を更に區分すれば、「導きまをし」までを第一節、「見渡し給ひ」までを第二節、「三船ははてむ」までを第三節とする。以下「早歸りませ」までは第四段となる。
 更にいふ、この篇の中心は海陸行旅の平安を神達に要望する點にある。海の恐怖は固より甚大だから、海路を主に陸路を從としたのは當然の事である。不思議なことは、讀下してゆくうちに何となく、祝詞の精神と宜命の文辭とが、彷彿として眼前に投影することである。
 作者憶良は壯時遣唐使の隨員(少録)として、唐都長安に往來した人である。されば多少異國情景に渉つた餞の詞を、この序《ツイデ》に見たかつた。否この歌はこれで結構だ。別に絢爛を窮めた唐代文化を日本人として見聞し(1570)た製作を、憶良はなぜ遺さなかつたか。外國風景異國情調、もしそれらの諸作があるとしたら、憶良の歌人としての價値は、より以上に偉大なるものとなつたであらう。徒らに旅愁を諷詠に托する事のみを知つて、特異なる眼前の好題目を漫然看過、唖のやうに黙してしまつたことは不思議でならない。歌人としては餘に無能である。これは憶良のみならず、安倍(ノ)仲麻呂等にも通じていへる事である。
 
反歌
 
大伴《おほともの》 御津松原《みつのまつばら》 可吉掃弖《かきはきて》 和禮立待《われたちまたむ》 速歸坐勢《はやかへりませ》     895
 
〔釋〕 〇かきはきて 「かき」は接頭語。
【歌意】 貴方の御船の著く〔八字右○〕御津の松原を〔右○〕、よく掃除して、私が立ちつゝお待ちしませう。で早くお還りなさいませ。
 
〔評〕 難波の御津の松原は、當時にあつては著名な存在で、集中にも再三歌はれてある。その下蔭を掃除して待たうとの聲明は、その奉仕の勞働行爲に歸朝歡迎の懇情が極度に露出し、而も御津の松原の出迎は、その頃奈良京に居たと思はれる憶良としては、今日なら東京人が御歸朝の節は是非横濱までお迎に行きますといふのと、略同樣の親切味を想はせる。これが使船出發の際に當つての辭令であることを思ふと、そこに惜別の情味が津津として迸るを覺える。「早歸りませ」は套語ではあるものゝ、又よく落著して、一首の總意を締め括つてゐる。
 
(1571)難波津爾《なにはづに》 美船泊農等《みふねはてぬと》 吉許延許婆《きこえこば》 紐解佐氣弖《ひもときさけて》 多知婆志利勢武《たちばしりせむ》     896
 
〔釋〕 ○なにはづ 「大伴の御津」と同處。○みふね 遣唐の使船をさす。○ひもときさけて 紐|解放《トキサ》けて。紐も結ばぬ體をいふ。○たちばしり 景行天皇紀に、日本武(ノ)尊(ノ)望(ミマシテ)v海(ヲ)高言《コトアゲシタマハク》、是小(ナル)海|耳《ノミ》、可(シ)2立跳《タチハシリニモ》渡(リツ)1とある。
【歌意】 難波の津に貴方のお船が着いたと、私の〔二字右○〕耳に這入らうなら、着物の紐も解き放つたまゝで、飛び出しませう。お迎の爲にさ〔六字右○〕。
 
〔評〕 それと出迎の爲に、着物を著換へて騷け出すのである。その取る物も取り敢へぬ周章しさを、「紐解け放けて立ち走り」と、具象的に表現したのは面白い。世説に皇甫規の事を叙した、
  衣(ハ)不v及(バ)v帶(スルニ)、※[尸/徙](ハ)履(ンデ)出(ヅ)、云々。
の趣と全くその規を一にする。作者は漢學者だから、寧ろ世説の敍筆を運用したと見るのが至當かも知れない。現に旅人卿なども、世説の鄭泉の故事をその讃酒歌中に引用してゐる。新考に奴隷の如く奔走せんの意とあるは誤解で、又働の都合よきやうに紐を結ばずとするは、事實が反對してゐる。
 廣成の歸朝を一途に待望してゐる情意が、ひし/\と人の胸臆を打つ。實をいへば奈良京から難波津まで、「紐解きさけて立ち走り」される譯のものではない。そこに極度の誇張があるが、決して不自然に聞えぬ程に、眞劍なる緊張がある。作者の人間味に富んだ性格の發露であらう。
 
天平五年三月一日、良(ガ)宅(ニテ)對面、獻(ル)2三首〔左△〕(ヲ)1。山上憶良謹(ミテ)上(ル)。
 
(1572) 天干五年の三月一日に廣成が憶良の家で面會し、さてこの三首の歌を廣成に獻ずるとの意。○良宅 「良」は憶良の略。〇三首 原本に三日〔二字右△〕とあるが文理が快くない。舊註その他には、獻ることは三日なりの意に解してゐるが牽強で、日〔右△〕は「首」の誤である。
 右の註文によれば、大使廣成は憶良の宅を訪問したのである。廣成は上にも述べた如く名家の子で、憶良とは門地に格段の懸隔があるから、所用があるなら億良を自邸に招致してもよい筈。尤も廣成は兄の縣守が太宰大貮、憶良は筑前守で、筑紫時代に入懇の間柄であつた關係もあり、又憶良は例の立居不自由の病人でもあるので、廣成の方からわざ/\足を運んだものか。さてその所用は今囘の外遊に就いて、曾ての渡唐者憶良の經驗談や注意を聞かうが爲かと想はれる。
 「山上憶良謹上」の六字は書簡としての記署である。
 
大唐大使《もろこしにつかはさるゝ》卿(の) 記室
 
これは書簡の宛名である。○大使卿 遣唐大使多治比廣成卿のこと。○記室 前出(一四五三頁)。
 
※[さんずい+冗]痾〔左△〕《やもこやりて》自(ら)哀(む)文 山上(の)憶良(が)作(る)
 
永い病を自分で悲しんだとの意。○沈痾 チンアと音讀するもよい。年久しき病をいふ。「※[さんずい+冗]」は沈に同じい。「痾」は深く進んだ病をいふ。原本に荷〔右△〕とあるは誤。神本その他によつて改めた。
 
(1573)竊(ニ)以(フニ)、朝夕佃〔左△〕2食(スル)山野(ニ)1者(ハ)、猶無(クシテ)2※[うがんむり/火]害1而得v度(ルコトヲ)v世(ヲ)。【謂(フ)d常(ニ)執(リ)2弓箭(ヲ)1、不v避(ケ)2六齋(ヲ)1、所(ノ)v値(フ)禽獣、不v論(ゼ)2大小孕不孕(ヲ)1、竝(ニ)皆※[殺の異体字](シ)食(ヒ)、以(テ)v此(ヲ)爲(ス)v業(ト)者(ヲ)u也。】晝夜釣2漁(スル)河海(ニ)1者(ハ)、尚有(リテ)2慶福1而全(ク)經v俗(ヲ)。【謂(フ)d漁夫潜女、各有(リ)v所v勤(ムル)、男者手(ニ)把(リ)2竹竿(ヲ)1能釣(リ)2波浪之上(ニ)1、女音腰(ニ)帶(ビ)2鑿籠(ヲ)1採(ル)2深潭之底(ニ)1者(ヲ)u也。】况乎、我從(リ)2胎生1迄(リ)2于今日(ニ)1、自(ラ)有(ルモ)2修善之志1、曾(テ)無(シ)2作惡之心1。【謂(フ)v聞(クヲ)2諸惡莫作、諸善奉行之教(ヲ)1也。】所以(ニ)、禮2拜(シテ)三寶(ヲ)1、無(ク)2日(トシテ)不(ルコト)1v勤(メ)。【謂(フ)2毎日誦經(シ)、發露懺悔(スルヲ)1也。】敬2重(シテ)百神(ヲ)1、鮮(シ)2夜(トシテ)有(ル)1v闕(クルコト)。【謂(フ)3敬2拜(スルヲ)天地(ノ)諸神等(ヲ)1也。】嗟乎※[女+鬼](カシイ)哉、我犯(シテ)2何(ノ)罪(ヲ)1遭(ヘル)2此重疾(ニ)1。【謂(フ)d未v知(ラ)2過去所(ノ)v造(ル)之罪(ヲ)1、若(シクハ)是現前所v犯之過(ナラムト)u、無(クシテ)2犯(セル)罪過1、何(ゾ)獲(ンヤ)2此病(ヲ)l乎、】初(メ)沈痾《ヤミコヤリテ》已來《コノカタ》、年月稍多(シ)。【謂(フ)v經(ルヲ)2十餘年(ヲ)1也。】是時七十有四、鬢髪斑〔左△〕白、筋力※[兀+王]羸(ナリ)。不2但年(ノ)老(タルノミナラ)1、復加(フ)2斯(ノ)病(ヲ)1。諺(ニ)曰、痛(キ)瘡(ニ)灌(ギ)v鹽(ヲ)、短(キ)材(ニ)截(ル)v端(ヲ)。此(レ)之《ノ》謂(ヒ)也。四支不v動(カ)、百節皆疼(シ)、身體太(ダ)重(ク)、猶(シ)v負(フガ)2鈞石(ヲ)1。【二十四銖(ヲ)爲(シ)2一兩(ト)1、十六兩(ヲ)爲(シ)2一斤(ト)1、三十斤(ヲ)爲(シ)2一鈞(ト)1、四鈞(ヲ)爲(ス)2一石(ト)1、合(セテ)一百二十斤也。】懸(ケテ)v布(ヲ)欲(リスルモ)v立(タムト)、如(ク)2折翼之鳥(ノ)1、倚(リテ)v杖(ニ)且(ク)歩(メバ)、比(フ)2跛足之驢(ニ)1。吾以(フニ)身已(ニ)穿(チ)v俗(ヲ)、心亦〔左△〕累(ヌ)v塵(ヲ)。欲(リシ)v知(ラム)2禍之所v伏(ス)、祟之所1v隱(ルヽ)、龜卜之門、巫祝之室、無(シ)v不(ル)2往(キテ)問(ハ)1。若(クハ)實若(クハ)妄(ナルモ)、隨(ニ)2其(ノ)所1v教(フル)、奉(リテ)2幣〔左△〕帛(ヲ)1無(シ)v不(ル)2祈祷(セ)1。然而彌〔左△〕(ヨ)有(リテ)v増(スコト)v苦(ヲ)、曾(テ)無(シ)2滅差(スルコト)1。吾聞(ク)、前代多(ク)有(リテ)2良醫1、救2療(スト)蒼生(ノ)病患(ヲ)1。至(リテハ)v若(キニ)2楡※[木+付]、扁鵲、華侘〔左△〕、秦(ノ)和緩、葛〔左△〕稚川、陶隱居、張仲景等(ノ)1、皆是在(シリ)v世(ニ)良醫(ニシテ)、無(カリキ)v不(ルコト)2除癒(セ)1也。【扁鵲、姓(ハ)秦字越人、渤海郡(ノ)人也。割(キ)v※[匈/月](ヲ)採(リ)v心(ヲ)、傷(ケテ)而置(キ)v之(ヲ)、投(ズルニ)以(スレバ)2神藥(ヲ)1、即(チ)寤(メテ)如(シ)v平(ノ)也。華他、字元化、沛國※[言+焦](ノ)人也。】(1574)若(シ)有(レバ)2病(ノ)結積沈重(ナル)者1、在(ル)v内(ニ)者(ハ)、刳(リテ)v腸(ヲ)取(リ)v病(ヲ)、縫(ヒテ)v腹(ヲ)摩(ス)v膏(ヲ)、四五日(ニシテ)差(ス)v之(ヲ)。】追2望(スルモ)件(ノ)醫(ヲ)1、非(ズ)2敢(テ)所(ニ)1v及(ブ)。若(シ)逢(ハヾ2聖醫神藥(ニ)1者、仰(ギ)願(ハク)割2刳(シ)五藏(ヲ)1、抄2探(シ)百病(ヲ)1、尋(ネテ)達(シ)2膏肓之※[こざと+奥]處(ニ)1、【肓(ハ)鬲也、心下(ヲ)爲(ス)v膏(ト)、攻(ムルモ)v(ヲ)不v可(ナラ)、達(スルモ)v之(ニ)不v及(バ)、藥(モ)不v至(ラ)焉。】欲(リス)v顯(ハサムト)2二豎〔左△〕之逃匿(ヲ)1。【謂(フ)晉(ノ)景公疾(ム)、秦(ノ)醫緩視而還(リ)言(フ)、可(シト)v謂(フ)2爲(ノ)v鬼(ノ)所(ルト)1v※[殺の異体字]也。】命根既(ニ)盡(キ)、終(フルモ)2其天年(ヲ)1尚爲(ス)v哀(シト)。【聖人賢者一切含靈、誰(カ)免(レムヤ)2此道(ヲ)1乎。】何(ゾ)况(ヤ)、生録未v半(バナラ)、爲(ニ)v鬼(ノ)枉殺(セラ)、顔色壯年(ニシテ)、爲v病(ノ)横困(セラルヽ)者(ヲヤ)乎。在世(ノ)大患孰(レカ)甚(カラム)2于此(ヨリ)1。【志恠記(ニ)云(フ)、廣平(ノ)前(ノ)太守北海(ノ)徐玄方之女、年十八歳(ニシテ)死(ス)。其靈謂(ヒテ)2憑馬子(ニ)1曰(フ)、案(フルニ)2我(ガ)生録(ヲ)1、當(シ)2壽八十餘歳(ナル)1、今爲(ニ)2妖鬼(ノ)1所(レ)2枉殺(セ)1、已(ニ)經(タリ)2四年(ヲ)1、此(ニ)遇(ハヾ)2憑馬子1、乃(チ)得(ムトアル)2更《マタ》活(クルヲ)1是也。内教(ニ)云(フ)、瞻浮洲(ノ)人、壽百二十歳(ト)。謹(ミテ)案(フルニ)、此數非(ズ)2必(シモ)不(ルニ)1v得v過(グルヲ)v此(ニ)。故(ニ)延壽〔二字左△〕經(ニ)云(フ)、有(リ)2比丘1、名(ヲ)曰(フ)2難達(ト)1、臨(ミ)2命終(ノ)時(ニ)1、諸佛請(フ)v壽(ヲ)、則(チ)延(ブ)2十八年(ヲ)1。但爲(ス)v善(ヲ)者(ハ)天地(ト)相畢(ル)。其壽夭者業報(ノ)所v招(ク)、隨(ヒテ)2其脩〔左○〕短(ニ)1而爲(ス)v半(ヲ)也。未(シテ)v盈(タ)2斯※[竹/卞](ニ)1而※[しんにょう+瑞の旁](ニ)死去(ス)、故(ニ)曰(フ)未(ト)v半(ナラ)也。任徴君曰(フ)、病(フ)徒v口入、故(ニ)君子(ハ)節(ス)2其飲食(ヲ)1。由(リテ)v斯(ニ)言(ハヾ)v之(ヲ)、人(ノ)遇(フハ)2疾病(ニ)1、不2必(シモ)妖鬼(ナラ)1。夫醫方諸家之廣説、飲食禁忌之原訓、知(リ)易(ク)行(ヒ)難(キ)之鈍情、三者盈(チ)v目(ニ)滿(チ)v耳(ニ)、由來(スルコト)久(シ)矣。抱朴子(ニ)曰(フ)、人但不v知(ラ)2其當(キ)v死(ス)之日(ヲ)1、故(ニ)不(ル)v憂|耳《ノミ》。若(シ)誠(ニ)知(ラバ)2羽※[鬲+羽](ノ)可(キヲ)1v得v延(ブル)v期(ヲ)者、必(ズ)將(ニ)v爲(ムト)v之(ヲ)、以(テ)v此(ヲ)而觀(レバ)、乃(チ)知(ル)我(ガ)病(ハ)、蓋(シ)斯(レ)飲食(ノ)所(ニシテ)v招(ク)、而不(ル)v能(ハ)2自(ラ)治(ムル)1者|乎《カ》。】帛公略説(ニ)曰(フ)、伏(シテ)思(フ)自(ラ)※[礪の旁](ムニ)以(テス)2斯(ノ)長生(ヲ)1。生(ハ)可(キ)v貪(ル)也、死(ハ)可(キ)v畏(ル)也(ト)。天地之大徳(ヲ)曰(フ)v生(ト)。故(ニ)死人(ハ)不v及(バ)2生鼠(ニ)1。雖(モ)v爲(リト)2王侯1、一旦〔左△〕絶(テバ)v氣(ヲ)、積(ムコト)v金(ヲ)如(キモ)v山(ノ)、誰(カ)爲(ムヤ)v富(ト)哉。威勢如(キモ)v海(ノ)、誰(カ)爲(ムヤ)v貴(シト)哉。遊仙窟(ニ)曰(フ)、九泉下(ノ)人(ハ)一錢(ダニモ)不v直(セ)。孔子曰(フ)、受(ケ)2之(ヲ)於天(ニ)1不(ル)v可(カラ)2變易(ス)1者(ハ)形也、受(ケ)2之(ヲ)於命(ニ)1不(ル)v可(カラ)2請益(ス)1者(ハ)壽也(ト)。【見(ユ)2鬼谷先生(ノ)相人書1。】故(ニ)知(ル)生之極(メテ)貴(ク)、命之至(リテ)重(キヲ)。欲(リスレバ)v言(ハムト)言窮(ル)、何(ヲ)以(テ)言(ハム)v之(ヲ)、欲(リスレバ)v慮(ハカラムト)慮絶(ユ)、何(ニ)由(リテ)慮(カラム)v之(ヲ)。惟以(フ)、人無(ク)2賢愚(ト)1、世無(ク)2古今(ト)1、咸悉嗟歎(シ)、歳月競(ヒ)流(レ)、晝(1575)夜不v息(マ)。【曾子曰(フ)、往而不(ル)v反(ラ)者(ハ)年也(ト)。宣尼臨川之嘆、亦是(レ)矣也。】老疾相催(シ)、朝夕侵(シ)動(キ)、一代(ノ)歡樂未(ルニ)v盡(キ)2席前(ニ)1【魏文惜(ム)2時賢(ヲ)1詩(ニ)曰(フ)、未(ルニ)v盡(サ)2西苑(ノ)夜(ヲ)1、劇(カニ)作(ル)2北※[亡+おおざと](ノ)塵(ト)1也。】千年(ノ)愁苦更(ニ)繼(グ2坐後(ニ)1。【古詩(ニ)云(フ)人生不v滿(タ)v百(ニ)、何(ゾ)懷(ク)2千年(ノ)憂(ヲ)1矣。】若夫群生(ノ)品類、莫(シ)v不(ル)d皆以(テ)2有盡之身(ヲ)1、竝(ニ)求(メ)c無窮之命(ヲ)u。所以(ニ)道人方士、自(ラ)負(ヒテ)2丹經(ヲ)1入(リ)2於名山(ニ)1、而合(ハスル)v藥〔左△〕(ヲ)之〔左○〕者(ハ)、養(ヒ)v性(ヲ)怡(バシメ)v神(ヲ)、以(テ)求(ムル)2長生(ヲ)1。抱朴子(ニ)曰(フ)、神農云(フ)、百病不(シテ)v愈(エ)、安(ゾ)得(ムト)2長生(ヲ)1。帛公〔左△〕又曰(フ)、生(ハ)好物也、死(ハ)惡物也。若(シ)不幸(ニシテ)而不(バ)v得2長生(ヲ)1者、猶以(テ)d生涯無(キヲ)2病患1者(ヲ)u爲(ム)2福大(ト)1哉。今吾爲(ニ)v病(ノ)見(レ)v悩(マサ)、不v得2臥坐(スルヲ)1、向東向西、莫(シ)v知(ル)v所(ヲ)v爲(ス)。無福(ノ)至甚、惣(ベテ)集(ル)2于我(ニ)1。人願(ヒ)天從(フ)、如(シ)有(ラバ)v實者、仰(ギ)願(ハクハ)頓(カニ)除(カム)2此病(ヲ)1。頼(ヒニ)得(バ)v如(キヲ)v平(カナル)、以(テ)v鼠爲(シハ)v喩(ト)豈不(ラムヤ)v愧(ヂ)乎。【已(ニ)見(ユ)v上(ニ)也。】
 
〔釋〕 本文非常に割註が多い、依つて釋中、割注の句は◎の印を以て分つた。次の漢文もこの例による。
○朝夕 「夕」原本にない。次句の「晝夜」に對して夕のあるが正しい。西本その他によつて補つた。○佃食山野者 山野に獵をして生活する者が。「佃」は禽獣を狩り取ること。○無※[うがんむり/火]害而得度世 災禍を受けることなく、平穩に世を暮すことが出來る。「※[うがんむり/火]」は災の書寫字。◎六齋 六齋日の略。四天王經、増一阿含經にある。毎月八、十四、十五、二十三、二十九、三十日の六日を斥す。これ等の日は不吉な日であるから、殺生などはやめ、謹んで功徳を行はなければならぬという。◎所値 「値」は遇ふこと。以下割註の誤字は正字に改め、その説明を略いた。◎※[殺の異体字]食 ※[殺の異体字]は殺〔傍点〕の古宇。○慶福 さいはひ。○全經俗 生命を全うして浮世に永(1576)らへる。◎潜女 カヅキメ。海女。◎能釣 「能」字不用。◎※[既/金] 鑿の書寫字。◎深潭之底 深き淵の底。○我從胎生―― 自分がこの世に生を享けてこの方今曰まで。「胎生」は佛教にいふ四生の一で、卵生、濕生、化生に對して、人類、獣類の生まるゝ状相をいふ。◎諸惡莫作―― 七佛通戒の偈の一節。全文は、諸惡(ハ)莫(レ)v作(スコト)、衆善(ハ)奉行(セヨ)、自(ラ)淨(ムルハ)2其意(ヲ)1、是諸佛教の四句の偈。「諸惡莫作」は消極的に惡を止むるを示し、「衆善奉行」は積極的に善をなすことを示してゐる。○禮拜三寶―― 佛法僧の三つを禮拜して。「三寶」はこの世の三つの寶の意で、佛法僧の三者を斥す。天平勝寶元年の聖武天皇の詔勅にも、三寶|乃《ノ》奴《ヤツコ》の語がある。◎毎日誦經 この句の上、謂〔右○〕を補つた。○發露懺悔 誠心を露はして懺悔する。「懺悔」は過去の罪惡を悟つて後悔すること。○鮮夜有闕 一夜だつて缺かしたことはない。「夜」は前句の「無日不勤」の日〔傍点〕に對應したまで。○嗟乎※[女+鬼]哉 あゝ愧かしいことよ。「嗟乎」は歎辭。「※[女+鬼]」は愧〔傍点〕に同じい。〇七十有四―― 七十四で鬢髪の斑白なのは當り前で、悲傷するには當らない。年紀に必ず誤があらう。潘岳の二毛之歎は四十二歳だからである。○鬢髪斑白 毛髪が胡麻鹽になつて。「斑」原本に班〔右△〕とあるは誤。西本その他による。○筋力※[兀+王]羸 體力が弱くやつれ。※[兀+王]はつかれて弱々しいこと。羸は痩せた貌。「※[兀+王]」原本に※[瓦+壬]〔右△〕とあるは誤。○痛瘡灌鹽 ひどい傷に鹽を振りかける。當時の俗諺であらう。泣き面に蜂〔五字傍点〕などといふに同じい。○短材截端 痛瘡灌鹽と同意の俗諺。上に「みじかきものをはしきる」とある(一五四九頁)。○四支不動 手足は動かず。「支」は肢〔傍点〕と同じい。○百節皆疼 節々は悉く痛い。○身體太重 力が拔けて〔五字右○〕の語を補うて聞く。○猶負鈞石 甚く重い物を背負つたやうだ。鈞と石との解は割註にある。○懸布欲立 力布を引つ懸けてそれに縋つて立たうと思へば。○如折翼之鳥 翼を折つた鳥のやうに自由がきかず。○倚杖且歩 杖に身驅を托して一寸歩かうとすれば。○此跛足之(1577)驢 びつこの驢馬のやうな具合だ。○吾以 自分で考へるに。○身已穿俗 この身は早くから世俗に入り混り。○心亦累塵 心も亦浮世の塵が堆つて汚れてゐる。「亦」原本に思〔右△〕とある。神本その他によつて改めた。○禍之所伏 病の原因たる禍の潜んでゐる處。○祟之所隱 物の祟の隱れてゐる處。「祟」は物のけなどの所爲によりて災難をうけること。○龜卜之門 韓唐流の卜考の家。「龜卜」は龜の甲を燒いて、その罅《ヒヾ》のつき方に依つて吉凶を卜ふ支那の卜占法。○巫祝之室 日本流の祈祷者の家。「巫」は巫女《ミコ》のことで、神々に仕へて神樂を舞ひ、又は祈祷を行ひ、或は神意を伺ひなどする女。「祝」は神に仕へる職の稱。はふり、かんなぎ。○無不往問 詣つて尋ねぬことはない。○若實若妄 その教示の虚實にかゝはらず。○奉幣帛無不祈祷 神佛に幣《ヌサ》を捧げて祈祷しないことはない。「ぬさとりむけ」を見よ(二三二頁)。「幣」原本に弊とあるは誤。○然而彌有増苦 さうしても愈よ苦みを増して。「彌」原本に禰〔右△〕あるは誤。無※[にすい+咸]差 病氣が輕くはならぬ。「※[にすい+咸]」は減の俗字。「差」は病の癒ゆること。救療蒼生病患 萬民の病氣を救ひ癒す。「蒼生」は人民のこと。前出(一四二六頁)。○楡※[木+付] 兪※[示+付]、愈※[足+付]、曳※[足+付]とも作る。支那の上古、黄帝時代の名醫。史記の扁鵲傳に「上古ノ時、醫楡※[木+付]有リ、病ヲ治ムルニ湯液醴灑、※[金+纔の旁]石、※[手偏+喬]引、案机、毒熨ヲ以テセズ、一撥シテ病ノ應ヲ見、五藏之輸ニ因リテ、乃チ皮ヲ割キ、肌ヲ解キ、脈ヲ訣シ、筋ヲ結ビ、髄脳ヲ搦シ、荒ヲ※[手偏+渫の旁]し幕ヲ仇シ、腸胃ヲ※[さんずい+前]浣シ云々」とある。○扁鵲 春秋戰國の世の人。長桑君の禁方を得て名醫となつた。詳しくは本文の註及び史記の扁鵲倉公列傳を見よ。○華佗 三國時代の名醫で、魏の曹操の頭風を一度癒したが、再度召されても參候せず、竟に曹操の怒を買つて殺された。尚本文の註を見よ。「佗」原本に他〔右△〕とあるは誤。○秦和緩 秦人の名醫和と緩。○葛稚川 名は洪、稚仙は宇。句容の人。少時より神仙の道と醫術とを好んでこれを修め、晉時代(1578)の神醫と謳はれた。その著に抱朴子内外一百十六篇がある。「葛」原本に※[草冠/場の旁]〔右△〕とあるは誤。○陶隱居 梁の人。字は通明、名は弘景。秣陵に生まれ、十歳の時、葛洪の神仙傳を讀んで醫術に志し、青年に及んで名醫の名を博した。晩年、華陽洞に隱れ、華陽眞人と號したので、世人陶隱居と呼んだ。○張仲景 仲景は字、名は機。漢代の人で長沙大守となつた。時に惡疫流行し、仲景はこれを療して名醫の名聲を得た。その著に傷寒論、金匱方の二大名著がある。○無不除愈也 病の根原を除き癒さないことがない。◎割※[匈/月]採心−列子記載の寓話。魯公扈、趙齊嬰の兩患者が、扁鵲に治療を依頼したところ、扁は、公扈は志彊く氣弱く、齊嬰は志弱く氣彊きことが、その病因であることを知つて、兩名に毒酒を與へて迷死させ、その心腸を剖いて心を入れ換へた後、神樂を投じて蘇生させたところ、公扈は齊嬰の家へ、齊嬰は公扈の家に歸つて、その妻子を吃驚させたといふ。◎結積沈重者 病原が滯りつもるものが。◎在内者 内臓に在れば。○追望件醫 前述の名醫達を後から望んだところで。○非敢所及 どうしたつて追つ付くことではない。○仰願 割刳より逃匿までの語句にかゝる。○割刳五藏 腹中を割り刳つて。「五藏」は五臓のこと。即ち肝、心、脾、肺、腎の五つの臓腑をいふ。○抄探百病 種々な病をさぐり取り。○尋達膏肓之※[こざと+奥]處 膏肓の如き身體の奥深いところまでも尋ね達して、「膏肓」は身體の局部の名稱。病がこの二所に在れば全快し難いといふ窮所。尚ほ割註を見よ。「※[こざと+奥]處」は深きところ。※[こざと+奥]は澳《フカシ》に同じい。◎鬲 膈に同じい。心と脾との間即ち胸中をいふ。◎攻之不可 之を治療しようとしても不可能である。「攻」は整へ正すこと。◎達之不及 これに針を鍼たうとしても深くて屆かない。「達」は針を鍼つこと。◎藥不至 飲んだ藥もそこまで屆かない。○欲顯二豎之逃匿 病魔の潜み匿れてゐるのを見つけ出さうと思ふ。「二豎」は病魔のこと。轉じて疾病の義にもいふ。左傳に「晉侯疾病アリ、(1579)醫ヲ秦ニ求ム。秦伯醫緩ヲシテ之ヲ爲メシム。未ダ至ラズ。侯夢ム。疾二豎子トナリ、曰ク、彼ハ良醫ナリ、惧クハ我ヲ傷ケン、焉ゾ之ヲ逃レン。其一曰ク、肓ノ上膏ノ下ニ居ラバ、我ヲ若何セン。醫至リテ曰ク、疾爲ムベカラザル也。肓ノ上、膏ノ下ニ在リ、之ヲ攻ムルモ可ナラズ、之ニ達スルニ及バズ、藥モ至ラズ、爲ム可カラザルナリ。侯曰ク良醫ナリ。厚ク禮ヲナシテ之ヲ歸ス」とあるによる。「豎」原本に竪〔右△〕とあるは誤。○命根既盡 命のもとが既に盡きて。○終其天年尚爲哀 天より享けた壽命が終つて滿足に死んだのでも、尚哀しいものとする。◎聖人賢者一切含靈―― 聖人賢人を問はず、すべての生物が、誰れがこの死といふことを免れられるだらうか。「一切含靈」は佛教語。「含靈」は靈を抱くもの即ち生物を指す。○何况――乎 どうしてまあ……をさ。反語の形式を採つた強意の語法。○生録未半 天命がまだ半分も盡きないのに。「生録」は命數、天命に同じい。○爲鬼枉殺 疫鬼のために無理に殺され。○爲病横困者 病の爲に横さまに困められるもの。○在世大患孰甚于此 この世に在る大きな患で、これより大きなものがあらうか。◎志恠記 志怪録〔三字傍点〕の誤記か。志怪録は支那の陸勲の著。◎廣平前大守徐玄方女 前に廣平の刺史であつた徐玄方の娘。大守は刺史と同じで、今の縣知事の如き官。◎憑馬子 人名。◎案我生録當壽―― 自分の天壽を考へるに、壽命は八十餘歳となつてゐるのに。◎妖鬼 あやしき鬼。ものゝけ。「妖」原本に※[女+ノ/拔の旁]〔右△〕とあるは書寫字。◎内教 佛教のこと。佛道を内教、佛書を内典といひ、他を外道外典といふは佛者の言。◎瞻浮洲人―― 長阿含經に、閻浮提(ノ)人壽百二十歳、中夭者多(シ)とあり、又、阿※[田+比]曇論に、閻浮提(ノ)人、壽命不v定(マラ)、有(リ)2其三品1、上壽一百二十五歳、中壽一百歳、下壽六十歳、其間中夭者、不v可(カラ)2勝(ゲテ)數(フ)1とある。◎瞻浮洲 閻浮提のこと。古代印度の世界説において、須彌山の南方に位し、十六の大國、五百の中國、十萬の小國を有し、佛に遇ひ法を聞くこと本洲に過ぐるはな(1580)しとされたので、もともと印度國を名づけて言つたものであるが、轉じて、吾人の住む世界を弘くいふやうになつた。◎非必不得過此 強ひてこの壽命數を越えられないといふのではない。◎廷壽經 延壽妙門陀羅尼經の略稱。原本壽延〔二字右△〕とあるは顛倒。◎比丘 梵語。男の出家をいふ。◎但爲善者 およそ善を爲す者は。「爲善」原本に善爲〔二字傍点〕とある。契沖は、左傳杜預の註を引いて、爲ハ治ト同義と解し、ヨクヲサムルモノハ〔九字傍点〕と訓み、舊註はヨクタスクルモノハ〔九字傍点〕と訓んでゐる。◎天地相畢 その壽命が天地と終始する。天地の齡と一緒であるの意。◎其壽夭者 「壽」は長命、「夭」は若死に。◎業報所招 自分の、所業の報がその結果を招いたもので。「業報」は作行に應じて來たむくい。「業」は身口意の所作のすべてをいふ。轉じて惡業をもいふ。◎隨其脩短而―― その作行の長短に從つて壽命の長短の半をなすものである。「脩」は長と同義。◎未盈斯※[竹/卞] まだこの壽命數に滿たないで。「※[竹/卞]」は算〔傍点〕に同じく、數ふ又數の意。◎故曰未半也 それ故に壽命の半にもならぬといふのである。◎任徴君 梁の人で名は安、字は定祖。學を好み、名利を欲せず一生出仕しなかつた。時の人、號して任徴君といつた。◎由斯言之 この意味から病のことを言へば。◎不必妖鬼 あながち疫鬼の爲ばかりではない。◎飲食禁忌之原訓 飲食を忌み禁ずるといふ根本の誡。◎知易行難之鈍情 知ることは容易であるが、さてそれを實行することは難しいといふ愚な心。◎三者盈目滿耳―― 以上の三つの事柄は、耳目に飽きるほど見聞きして來たことは、久しいものである。◎抱朴子 先述した晉の葛稚川の著書の名。内外篇八卷あり、黄老を主とした、所謂道家の書である。◎若誠知羽※[鬲+羽]―― もしも實際に仙人となつて死期を延すことが出來ると知れば、きつとこれを實行しようとする。「羽※[鬲+羽]」は支那で仙人となることを羽化登仙といふので、仙人となるの意。「※[鬲+羽]」は羽の本のこと。(1581)○帛公略説 未詳。○自※[礪の旁]以斯長生 自ら勵むにこの長生を目的とし。「※[礪の旁]」は勵〔傍点〕に同じい。○天地の大徳曰生 自然の大きなめぐみを生といふ。○死人不及生鼠 萬物の靈長たる人でも、死んでは生きてゐる鼠にも及ばないほど價値がない。〇一旦絶氣―― 一度び息が絶えたら、金を山ほど積んだとて、誰れが富人となさうか。「一旦」原本に一日〔右△〕とあるは誤。○遊仙窟 唐の張文成が仙窟に遊んだことを記した支那最古の軟文小説。〇九泉下人―― 死人は一文の値打もない。「九泉下人」は地下の人に同じい。即ち死亡した人。「九泉」は地の底のこと。木虚の海賦の許に、地有(リ)2九重1、故(ニ)曰(フ)2九泉(ト)1とある。○受之於天―― 天から授つたもので易へることの出來ないものは形である。○受之於命―― 之を運から授つて勝手に求め益すことの出來ぬものは壽命である。「命」は天の智的の方面をいふ語で、天道の配剤、自然の暦數のこと。「請益」は求め益す。◎鬼谷先生 楚の人。その姓名は不明。たゞ鬼谷(地名)に隱遁してゐたので、自ら鬼谷先生と號したといふ。所謂鬼谷子はその著であるといはれる。縱横家張儀、蘇秦は共に之に師事した。◎相人書 人相を占ふ書。○欲言言窮 以上のことを言はうとしても、いひ表はす言葉に窮する。○欲慮慮絶 考へようとしても考へ切れない。○咸悉嗟歎―― みな悉く歳月の經過の早く、晝夜をやすまず過ぎ去つて行くのを歎く。「嗟」は歎聲。○晝夜 「晝」原本に書〔右△〕とあるは誤。◎曾子 名は參、字は子輿。南武城の人。孔子の弟子で、孔子より四十歳餘も若かつたが、その孝道に通じた故を以て業を授けられた。その著に孝經がある。◎宣尼臨川之嘆 孔子が流水を見て、逝くものが二度と返らぬを嘆いたこと。論語(子罕篇)に、子在(リテ)2川上(ニ)1曰(フ)、逝(ク)者(ハ)如(キカ)v斯(ノ)夫、不v舍(カ)2晝夜(ヲ)1と。「宣尼」は孔子の謚文宣王とその宇の仲尼とを撮み合せての略稱。○老疾相催 老と病とがお互に萌して。○朝夕侵動 朝となく夕となく身體を次第に侵しすゝむ。「動」はうつり進むの意。〇一代歡樂―― 一生の(1582)歡樂がまだ自分の前に殘つてゐるのに。「席前」自分の座席の前。◎魏文 魂の文帝のこと。◎時賢 その時代の賢人。◎未盡酉苑夜―― 帝宮の西の苑で樂しい夜を盡さぬうちに、忽ち死亡して北の方※[亡+おおざと]山の塵となつてしまふとの意。「※[亡+おおざと]」は河南省洛陽の北に横たはる山の名。こゝには貴人名士の墳墓が多い。○千年愁苦―― 死の手は自分のすぐ背後に迫つてゐるとの意。「千年愁苦」は永久の愁ひ苦しみ即ち死を斥す。「坐後」は背後に同じい。◎古詩 文選所載の支那漢代の古詩を斥す。◎人生不滿百―― 人の生涯は百歳にも滿たないものであるのに、人はその心の中に常に悠久永遠の憂を持つてゐる。文選には「人生」を生年〔二字右△〕、「何懷」を常〔右△〕懷とある。今は文選によつて解釋した。○若夫群生品類―― かのあらゆる生物の各階級の者は、悉く何れ終りある身體をもつて、すべて無窮永遠の命を求めない者はない。○道人 道家又は佛者の説を修めて得道した人。こゝは道家の説を修めた者をいふ。○方士 神仙の方術を修める者。○自負丹經―― 自身で靈藥の方書を身につけて深い山に入り。「名」は大の意。○丹經 丹砂を煉つて不老不死の藥となす術書。○合藥之者 仙藥を製するはの意。これは支那で仙術を修める者の所作である。「藥」原本に樂〔右△〕とあるは誤。「之」を衍とする。○養性怡神 生命を養ひ精神をやはらげる。「養性」は生命を養ふこと。孟子の養性とは異る。○神農 支那上古の三皇の一一人。姓は姜、炎帝ともいふ。始めて農耕を教へ、又醫藥を作つた。○帛公 「公」原本に出〔右△〕とあるは誤。○爲福大哉 幸福が大なるものとなさうか。○不得臥坐 身體の自由が利かない。「臥坐」は寢たり起きたりの意。○向東向西莫知所爲 どちらを向いても、どうすることも出來ない。「向東向西」はあちら向きこちら向き。○無福至甚―― 不幸の項點がすべて自分の上に集つてゐる。「惣」原本に※[手偏+忽]〔右△〕とあるは書寫字。古義に、上に脱語あるべしとあるは非。○人願天從 人が誠心から願へば、天はその願に從つて、願(1583)望を叶へてくれるとの意。周書の泰誓に、天矜(リ)2于民(ニ)1、民之所v欲(スル)、天必(ズ)從(フ)v之(ニ)。とある。○如有實者 もし周書の言が本當であれば。○頼得加平 幸に平癒するやうになつたならば、○以鼠爲喩 上に「死人は生鼠に及ばず」と喩へたやうな無躾さは。こゝの「以鼠爲喩」は詩經の※[庸+おおざと]風にいふ主意とは異る。○豈不愧乎 天に對して大いに愧ぢ入る次第だとの意。豈……乎は反語の形。
 
 沈痾自哀の題意の命ずるがまゝに、例の四六駢儷の筆致をもつて、布陳これ力めた。まづ佛教にいはゆる四苦のうち、老と病との二苦に虐げられてゐる自己の境涯を詳叙し、次いで病苦そのものに就いて、醫藥の殊方のないことを歎き、さて筆を轉じて生死の問題に突入した。病苦のはてに來るべきは即ち死苦である。憶良はその覺悟はもちながら、尚生の執着を飽くまで強調し、綿々密々に反復した。「死人不及生鼠」の語の如き、辛辣も亦甚しい。結局無病息災を切願してゐる。世の富貴利達の人達が不老長生の仙術方術を講ずるのとは違つて、只さし迫つた當面焦眉の問題、即ち病魔の手から遁れたいだけの小さな、而も緊切な欲望に過ぎない。如何に彼れがその苦痛に困惑してゐたかが窺はれる。
 堂々たる大文字ではあるが、概してやゝ雜駁の感がある。引據は頗る廣汎で、彼れが博識であつたらうことは否めないものゝ、雅俗雜糅、殆どその煩に禁へない。殊に小説遊仙窟の引用に至つては不倫の譏を免れ得まい。蓋し同書は當時舶載日なほ淺く、隨つてこれを引用することは、頗る尖端的の知識を誇り得るものであつたらう。
 文中憶良の生活状態の一部とその病質とがほゞ推知され、又その思想信仰の傾向を看取することが出來る。(1584)「當時七十有四、鬢髪斑白」、「生録未半爲鬼枉殺、顔色壯年爲病横困者乎」の諸句の如きは、憶良の年齡を推定する上に於いて、重要なる材料である。   △憶良傳及び憶良年紀考(雜考――21)參照。
 
悲2歎《なげく》俗道(は)假合即離(にして)、易(く)v去(り)難(きを)1v留(り)詩一首并序
 
人世は佛説にいふ假合即離で、はかなくなり易く住まり難いことを軟く詩一首と、その序文との意。○俗道 世俗の道の義。人間世の約束をいふ。○假合即離 會者定離といふに同じい。宇宙の萬物は、因縁が假に和合して成つたものであるから、その因縁が盡きれば遂に離散しなければならぬといふ佛説。「假合之身」を見よ(一五三四頁)。○易去難留 常住性のないこと、即ち無常なることをいふ。
 
竊(ニ)以(フニ)、釋慈之示教(ハ)、【謂(フ)2釋氏慈氏1、】先(ヅ)開(キテ)2三歸【謂(フ)3歸2依(スルヲ)佛法僧(ニ)1。】五戒(ヲ)1、【謂(フ)2一(ニ)不殺生、二(ニ)不偸盗、三(ニ)不邪淫、四(ニ)不妄語、五(ニ)不飲酒(ヲ)1也。】而普〔左○〕(ク)化(ス)2法界(ヲ)1。周孔之垂訓(ハ)、前(ニ)張2三綱【謂(フ)2君臣父子夫婦(ヲ)1】五教(ヲ)1、【謂(フ)2父義、母慈、兄友、弟順、子孝(ナルヲ)1。】以(テ)齊(シク)濟(フ)2郡國(ヲ)1。故(ニ)知(ル)引導(ハ)雖(モ)v二(ト)、得(ルハ)v悟(ヲ)惟一(ツ)也。但以(フニ)、世(ニ)旡〔左△〕(シ)2恒質1、所以(ニ)陵谷更(リ)變(ル)、人旡〔左△〕(シ)2定期1、所以(ニ)壽夭樣〔左△〕不v同(ジカラ)。撃目之間、百齡已(ニ)盡(キ)、申臂之頃〔左△〕、千代(モ)亦空(シ)。旦(ニ)作(ルモ)2席上之主1、夕(ニハ)爲(ル)2泉下之客〔左△〕(ト)1。白馬走(リ)來(ルトモ)、黄泉何(ゾ)及(バム)。隴上(ノ)青松、空(シク)懸(ケ)2信劔(ヲ)1、野中(ノ)白楊、但吹(カル)2悲風(ニ)1。是(ニ)知(ル)世俗本無(ク)2隱遁之室1、原野唯有(リ)2長夜之臺1。(1585)先聖已(ニ)去(リ)、後賢不v留(マラ)。如(シ)有(ラバ)2贖(ヒテ)而可(キコト)1v免(ル)者、古人誰(カ)無(カラムヤ)2價金1乎。未(ダ)v聞(カ)d獨存(リテ)遂(ニ)見(ル)2世(ノ)終(ヲ)1者u。所以(ニ)維摩大士、玉體(ヲ)疾(マシメ)于方丈(ニ)1、釋迦能仁、掩(フ)2金容(ヲ)乎雙樹(ニ)1。内教(ニ)曰(フ)、不(バ)v欲(リセ)2黒闇之後(ニ)來(ルヲ)1、莫(シト)v入(ルヽコト)2徳天之先(ヅ)至(ルヲ)1。【徳天者生也、黒闇者死也。】故(ニ)知(ル)生(ニハ)必(ズ)有(リ)v死。死若(シ)不(バ)v欲(リセ)不v如〔左△〕(カ)v不(ルニ)v生(マレ)。、况乎縱(ヒ)覺(ルモ)2始終之恒數(ヲ)1、何(ゾ)慮(ル)2存亡之大期(ヲ)1者(ナラムヤ)也。
 
〔釋〕 ○釋慈之示教 佛樣達が御教へなさるのに。「釋慈」は釋迦と彌勒と。現當二世の衆生濟度の佛者。故にこの二者で佛を代表させた。○釋氏 釋迦氏の略。「釋迦能仁」を見よ(一四〇三頁)。○慈氏 彌勒の譯。釋迦の後を追つて、この世に出現し衆生を濟度する菩薩。○先開三歸五戒 先づ第一に三つの歸すべき所と五つの守るべきことを示し。「三歸五戒」は佛道に入る者の最初に受ける戒。「三歸」は佛法僧の三寶を歸依の對象とするをいふ。「五戒」は五つの惡行の戒。その目は割注に出てゐる。○普化法界 總體に現世を教化する。「法界」は佛法の行はれてゐる世界即ち現在の世をいふ。「普」原本にない。下の「齊濟郡國」の齊に對する爲に補つた。○周孔之垂訓 周公と孔子とが示された訓。周公も孔子も共に儒教上の大聖。前に釋慈に佛教を代表させ、こゝには周孔に儒教を代表させた。○前張三綱五教 先づ三綱五教を布き。「張」は「三綱」の綱に對應して用ゐた語「三綱五教」は人間の守るべき大道を示したもの。儒教の根幹をなしてゐる教。詳しくは割注を見よ。○齊濟郡國 遍く國中を濟ふ。契沖がいふ、こゝに「齊」の字あれば「化法」の上、まさに普〔右○〕などの字脱ちしなるべしと。「郡國」の「郡」は行政區劃の一、「國」は郡の總合したる名稱。西本等に「郡」を邦〔右△〕に作つて(1586)あるが、これは國々の意。○引導雖二―― 人間を教導する教は儒佛の二つに分れても、悟を得るといふことは唯一つであるの意。「引導」は一定の方向を誘引し指導すること。轉じて死人を葬る時、冥土に行くしるべをなすとて、僧侶の行ふ誦經の式をもいふ。こゝは前者の意。○世旡恒質 世には永久不變なものはない。「恒質」は永久不變の實體。「旡」原本に元〔右△〕とあるは誤。○陵谷更變、陵は谷、谷は陵と變じ。世の變遷を稱する語。毛詩小雅に、高岸爲(リ)v谷(ト)、深谷爲(ル)v陵(ト)とある。○人旡定期 人には定つた生命といふものはない。「旡」原本に元〔右▲〕とあるは誤。○壽夭不同 生命の長短が等しくない。「夭」原本に※[ノ/跋の旁]とあるは書寫字。○撃目之間―― 目を瞬くほどの短い間に、百年の齡は早くも盡きてしまひの意。人生の儚さを悠久の自然に對比して、言つた語。○申臂之頃―― 臂を伸すほどの短時間に、千代も亦空しく過ぎ去るの意。「頃」は少時、しばらくの意。原本に項〔右△〕とあるは誤。○旦作席上之主―― 朝には座上の主人となつてゐるが、夕には地下の人となつてしまふの意。「泉下之客」は「九泉下」を見よ(一五八一頁)。「客」原本に容〔右△〕とあるは誤。○白馬去來―― 驅け出して往つても、地下にはどうして及ばうぞの意。「白馬」は「黄泉」の對語で、白に意はない。「黄泉」は九泉に同じい。土の色は黄色であるのでかくいふ。○隴上青松―― 墓陵の上の青松に、今は亡き人の爲に空しく心約束の劔を懸けの意。「陵」は土の盛りあがつた處の稱。ヲカと訓む。こゝの陵は墓處を指す。「懸信劔」は呉王壽夢の季子札が徐君の基に劔をかけた故事をいふ。史記呉世家に「春秋ノ時、呉ノ季札出デ使シテ徐ノ君ニ過ギル。徐ノ君季札ガ劔ヲ好ス。然レドモ敢テイハズ。季札心ニ之ヲ知ルト雖モ、上國ニ使スルガ爲ニ未ダ獻ゼズ。還リテ徐ニ至レバ、徐ノ君已ニ死セリ。乃チ其ノ寶劔ヲ解キ、之ヲ徐ノ君ノ冢樹ニ掛ケテ去ル。」とある。「劔」は劍の俗字。〇野中白楊―― 野中に立つてゐる墓側の白楊は、ただ悲風に吹かれて(1587)ゐるの意。支那の俗、白楊を墳墓に植ゑる。通志に、種(ウ)2墟墓(ノ)間(ニ)1、故(ニ)曰(フ)、白楊多(シ)2悲風1、蕭々(トシテ)愁2殺(ス)人(ヲ)1。とある。「白楊」は筥楊《ハコヤナギ》のこと。楊柳科に屬する木で、葉は圓形にして尖り、鋸齒をしてゐる。花はカハヤナギに似て、春の初、葉の出ぬ先に咲く。○世俗本無隱遁之室 現世には始めから死の魔手から遁れ隱れる部屋はなく。「世俗」は世の中といふほどの意。○原野唯有長夜之臺 荒涼たる野原に、只死の安息所があるばかりだ。「長夜之臺」は墓の意。「長夜」は死をいふ。人が一度び死して復活しないのを、何時までも明けぬ夜に喩へた。○先聖已去―― 先聖もすでにこの世を去り、後賢もこの世に留まらずに死んで行くの意。○如有贖而―― もしも死といふものが金で買へて、死を免れることが出來るならばの意。「免」原本に※[免の二画目なし〔右△〕とあるは誤。○古人誰無價金乎 古人誰れが死を贖ふ價の金がなからうかい。○維摩大士 前出(一四〇二頁)。○疾玉體于方丈 尊い身體をその方丈の居室に於て疾に犯され。「玉」は美稱。「方丈」は「在乎方丈」を見よ(一四〇二頁)。○釋迦能仁 前出(一四〇三頁)。○掩金容于雙樹 尊い身體を涅槃後、沙羅雙樹に掩はれた。「金」は美稱。「雙樹」は「坐於雙林」を見よ。(一四〇三頁)。○内教 前出(一五七九頁)。○不欲黒闇之後來―― 黒闇天が後から迫ることを嫌ふならば、功徳天の前に來たのを受け入れるな。即ち死を欲せざれば生るゝなかれの意。「黒闇」は死を掌る神。「徳天」は功徳天女即ち吉祥天女のこと。こゝには生を掌る神とした。○不如 「如」原本に知〔右△〕とあるは誤。○况乎縱―― まして縱ひ生必有死といふ自然の道理を覺つたとしても、どうして生死の大時機を考へられようか、とても人智の及ぶ所ではないの意。「况乎……者也」は反語の形。〇始終之恒數 始有る者は必ず終有るといふ自然の道理。「恒」はつね〔二字傍点〕。「數」は條理、道理の意。揚子法言に、有(ル)v生者(ハ)必(ズ)有(リ)v死、有(ル)v始者必(ズ)有(リ)v終、自然之道也とある。○存亡之大期 生死の大時機といふほどの意。
(1588) この文はまことに引締つて無駄なしによく書けてゐる。尤も主意は佛教の專ら提唱する假合即離にあるから、新味の缺けてゐるのも亦當然であらう。初頭儒佛を相對的に排敍したが、「所以維摩」以下無常變易の意を強調し、死生の理に渉るに及んでは、全然佛教の典故を根本としてゐる。中間無常不住の事相を叙したあたり、辭句精煉、決して文選の諸公の作に遜らないと思ふ。
 
俗道(ノ)變化猶(ク)2撃目(ノ)1。人事(ノ)經紀如(シ)2申臂(ノ)1。空(シク)與《ト》2浮雲1行(ル)2大※虍/丘](ヲ)1。心力共(ニ)盡(キ)無(シ)v所v寄(ル)。
 
 ○俗道變化―― 現世の變化は恰も目を瞬く如く速く。○人事經紀―― 人の一生は臂を伸ばすほどの短い間に經つてしまふ。「經紀」は常の道理。文選曹子建七啓の、耗(ラシ)2精神(ヲ)乎虚廓(ニ)1、廢(ス)2人事之經紀(ヲ)1の注に、劉良曰(フ)、經(ハ)紀常理也とある。○空與浮雲―― 浮雲と共にあてどもなく空にさ迷つての意。「大虚」は虚空のこと。○心力共盡―― 心身共に盡きた死後は、寄る所も無いのだわいの意。「心力」は精神と體力と。詩とはいへ、例の漢讃で、詩味は索莫たるものである。
 
老(いたる)身(の)重(き)病(に)、經(て)v年(を)辛苦《くるしみ》、及《また》思(へる)2子等《こどもを》1歌五〔左△〕首
 
年寄つた體で重い病に懸かり、歳月を重ねて苦み、又子供の事を思うて詠んだ歌との意。〇五首 原本七〔右△〕首とある。それはこゝに誤載した「富人の」「あら妙の」の二首を加へて數へたからで、今はそれを「貧窮問答歌」の條に移したので、減じて五首となつた。又原本、題詞の下に「長一首短六首」と割註がある。後人の記入だから略いた。
 
(1589)靈剋《たまきはる》 内限者《うちのかぎりは》【謂(フ)2瞻浮洲(ノ)人(ハ)壽一百二十年(ト)1也 平氣久《たひらけく》 安久母阿良牟遠《やすくもあらむを》 事母無《こともなく》 喪無毎阿良牟遠《もなくもあらむを》 世間能《よのなかの》 宇計久都良計久《うけくつらけく》 伊等能伎提《いとのきて》 痛伎瘡爾波《いたききずには》 鹹鹽遠《からしほを》 灌知布何其等久《そそぐちふがごとく》 益益母《ますますも》 重馬荷爾《おもきうまにに》 表荷打等《うはにうつと》 伊布許等能其等《いふことのごと》 老爾弖阿留《おいにてある》 我身上爾《わがみのうへに》 病遠等《やまひをら》 加弖阿禮婆《くはへてあれば》 晝波母《ひるはも》 歎加比久良志《なげかひくらし》 夜波母《よるはも》 息豆伎阿可志《いきづきあかし》 年長久《としながく》 夜美志渡禮婆《やみしわたれば》 月累《つきかさね》 憂吟比《うれひさまよひ》 許等許等波《ことことは》 斯奈奈等思騰《しななともへど》 五月蠅奈周《さばへなす》 佐和久兒等遠《さわぐこどもを》 宇都弖弖波《うつてては》 死波不知《しにはしらず》 見乍阿禮婆《みつつあれば》 心波母延農《こころはもえぬ》 可爾可久爾《かにかくに》 思和豆良比《おもひわづらひ》 禰能尾志奈可由《ねのみしなかゆ》
 897
〔釋〕 ○たまきはる 「うち」に係る枕詞。既出(三六頁)。「剋」は刻に通じ、キザムと讀む。○うちのかぎり 現《ウツ》の限。生きてある世の限の意。「うち」はウツの轉。○謂瞻浮洲人壽百二十年 これは割註の文。上に「う(1590)ちの限」とある人壽の定數を示したもので、瞻浮洲即ち須彌山の南にある大陸に生息する吾人の世界では、人壽が通例百二十歳だといふこと。○こともなき 無事なるをいふ。○もなく 「も」は凶事《マガゴト》の意。マガ(凶)の約マ〔傍点〕の音轉。喪をモと訓むも、喪は凶事だからである。この語集中にも二三見え、又伊勢物語、蜻蛉日記などにも出てゐる。宣長がマガゴトの約と説いたのは煩はしい。「裳」は借字。○うけく 憂く〔二字傍点〕の延言。中止格。○つらけく 惡《ツラ》く〔傍点〕の延言。中止格。神代紀に、其(ノ)中一兒、最《イヤ》惡《ツラク》不v須《モチヰ》2教養《ヲシヘヲ》1とある。○いとのきて 前出(一五四九頁)。○いたききずには―― 上の沈(ミテ)v痾(ニ)自(ラ)哀(ム)文に、諺(ニ)曰(フ)、痛(キ)瘡(ニ)灌(ギ)v鹽(ヲ)、短(キ)材(ニ)截(ル)v端(ヲ)とある。「は」は輕く添へた辭。○からしほ 辛鹽。利きのよい鹽のこと。延喜式に甘鹽、味鹽、煮鹽の目がある。○そそぐちふがごとく 「何」を衍としてソヽゲチフゴトクと訓んでもよい。○おもきうまに 荷の〔二字右○〕重き馬。語は不完であるが、意はこれで通じたもの。○うはにうつ 上荷を付くること。「うはに」は餘分に載する荷の稱。「うつ」は荷に付くること。重荷の馬に上荷打つ〔九字傍点〕とは當時の諺であらう。後撰集(賀)にも「重荷にはいとゞ小附を」とある。○おいにてある 年寄つて居る。「に」は去《イ》にの意。○やまひをら この「ら」は強辭。複數の意ではない。卷二十にも「子をら〔傍点〕妻をら〔傍点〕おきてら〔傍点〕も來ぬ」とある。○なげかひ 歎き〔二字傍点〕の延言。○うれひさまよひ 前出(一五四九頁)。○ことことは 他に所見のない語である。(1)悉《コト/”\》は(古説)。(2)異事《コトゴト》は(契沖説)。(3)かくの如くならばの意(中島廣足説)。以上のうち(1)が稍可なりと思ふ。「ことことは死なな」は全く死にたいと釋してよい。○しなな 死ななむ。「きかな」を見よ。(一一頁)。○さばへなす 「騷ぐ」の枕詞。既出(一〇三九頁)。○うつてては 打棄《ウチステ》てはの意。チスの約ツとなる(契沖説)。卷十一に「打棄乞《ウツテコソ》」とある。○しにはしらず 六言の句。死にはならず、死ぬ方角もない、などの意。「しに」は假體言。○みつつ 子どもを〔四字右○〕。古義に、生老病死の憂き事を見つゝの意(1591)としたのは誤。
【歌意】 この生きの限は、平らかで安穩にもあらうものを、無事で惡い事もなくあらうものを、世の中は憂いつらいもので、取分け、諺に傷手《イタデ》には鹽を撒《フ》りかけるといふやうに、重荷の馬に小附けをするといふやうに、年寄つてゐゐ自分の身の上に、病氣をさ加へてゐるから、晝はまあ歎いてくらし、夜はまあ溜息吐いて明かし、年久しく悩んでゐるので、月を累ねて憂へて呻《ウナ》り、全く死にたいと思ふけれど、うるさく立騷ぐ子供達を、打棄てゝは死ぬ方角もなく、それを見てゐると心は愛に燃え立つ。何のかのと思案に暮れて、聲を立てゝのみさ泣かれるわ。
 
〔評〕 「平けく安けく」、「事もなく喪なく」は人間生活の多難が齎す自然的欲求で、又究竟の理想であるから、その實現はとても何時の世でもむづかしい。そこに宗教も生まれ、信仰も生まれ、道徳も生まれる。
 佛者は人間界を苦界と説き、生老病死の四苦を主張した。作者は特に佛教信者であつたから、「世間《ヨノナカ》の憂けくつらけく」の厭世觀をもつのも亦當然の事である。
 作者は老苦に病苦を重ねて、長年月この濁世に喘いだ。堪へかねては時に死を思ふ。そこが人間の弱さだ。といつて屑よく死にもならぬのは、足※[手偏+峠の旁]手※[手偏+峠の旁]の子供故で、進退谷まつては音を擧げて泣くといふ。
 こんな事は世間にザラにある事だが、その當事者としては、自分ばかりが特別に非道の重壓を蒙つてゐるかに感じ、その不幸悲運を強調して、身を歎き世を恨むも亦人情の常である。殊更に高邁達識の醒語を著けぬ處に、凡人としての作者の正直な小心な性格が想望される。
(1592) 尚こゝに註脚を要することは、作者が死を思ふ際に、一言も妻君の上に言及してゐない事である。上の思(ブ)2子等(ヲ)1歌の評中に絮説した如く、その妻君は既に病歿してゐたので、作者ひとり老境に穉兒を抱いて、その慘《ミジ》めな生活を送つてゐた事を知らねばならぬ。
 本篇は多くの人が體驗し、又は體驗すべき悲痛な事相が骨子であるから、その感想と叙述とが常識的皮相的である割に、頗る大衆に共鳴をおこし易い。「痛き瘡には辛鹽をそそぐ」「重き馬荷に上荷打つ」の諺語を取入れた排對も、この卑近な歌柄にふさはしい措辭である。隨つてこの歌は、高渾雅馴な歌調を執する前代の歌聖人麻呂赤人の如き作家の、殆ど夢想だもせぬ範疇のもので、作者憶良が、かの大作家達の後を承けて、別に一旗幟を樹て得た所以もこゝにある。
 修辭の上から見ると、初頭から「年長く病みし渡れば」までは無難だが、「月累ね憂ひさまよひ」の句は、上の「歎ひくらし」「息づきあかし」にさし合ふので面白くない。寧ろこの一句は削つて、「年長く――」の句を單句とするがよい。「見つつあれば心は燃えぬ」の情語は、この篇中の警策である。
 篇法は一意到底で、別に段節を切る必要を認めない。
 
反歌
 
奈具佐牟留《なぐさむる》 心波奈之爾《こころはなしに》 雲隱《くもがくり》 鳴往鳥乃《なきゆくとりの》 禰能尾志奈可由《ねのみしなかゆ》     898
 
〔釋〕 ○こころはなしに 「に」はニテの意。○なきゆくとりの 鳴き往く鳥の如く〔二字右○〕。
(1593)【歌意】 慰む心は更にないので、雲の中に鳴いて往く鳥のやうに、音を立てゝさ泣かれるわ。
 
〔評〕 三四の句は譬喩で、序詞のやうな輕いもめではない。「雲がくり鳴きゆく鳥」、いかにも陰慘な背景を作すものではないか。
 
周弊母奈久《すべもなく》 苦志久阿禮婆《くるしくあれば》 出波之利《いではしり》 伊奈奈等思騰《いななともへど》 許良爾佐夜利奴《こらにさやりぬ》     899
 
〔釋〕 ○いなな 去《イ》なむの意。○さやり 障《サハ》りの古言。
【歌意】 せう事もなく苦しいので、家を驅け出して去なうと思ふけれど、子供に引つ懸かつてね。それも出來ない〔七字右○〕。
 
〔評〕 弱者の安息は逃避より外はない。西行のは理想に活き、子供の縋るのを蹴飛ばしても出家したといふが、わが人間憶良は何處までも子煩悩だから、屑くそんな逃避も出來得ない。八方からの矢柄責に喘いで、徒らに苦悶してゐる。「子らにさやりぬ」、何と慘ましい又温かい愛の叫であらう。
 
水沫奈須《みなわなす》 微命母《もろきいのちも》 栲繩能《たくなはの》 千尋爾母可等《ちひろにもがと》 慕久良志都《ねがひくらしつ》     902
 
〔釋〕 ○みなわなす 水沫の如き。「みなわ」は水《ミヅ》のあ〔二字傍点〕わの省約語。「なす」を見よ(九〇頁)。○もろきいのち 脆(1594)い生命。「徴」をモロキと讀むは意訓。○たくなはの 栲繩の如く〔二字右○〕。千尋《チヒロ》に係る枕詞。「たくなはの」は既出(五八九頁)○ちひろにもが 千尋は長く〔二字傍点〕の轉義。「ち」は多數の義。「ひろ」は尺度の稱。兩手を左右に伸ばした程の長さをいふ。約六尺。「もが」は願望辭。既出(七四七頁)。○ねがひ 「慕」をかく讀むは意訓。
【歌意】 水泡に似たはかない命を、栲繩の長いやうに、長くありたいと希うて、日を送ることよ。子供故にさ〔五字右○〕。
 
〔評〕 「水沫なすもろき命」は、金剛經の十喩に本づき、上の爲(ニ)2熊凝(ノ)1述(ブル)2其志(ヲ)1歌の序中にも、「泡沫之命難v駐」と、この作者は書いてゐる。卷二十の願壽歌の
  水ぼなす假れる身ぞとゝは知れゝどもなほし願ひつ千歳の命を (――4470)
と同想同型であるが、その長壽を願ふ動機に至つては、非常な複雜な感情をこれは包藏してゐる。作者は始から長壽を願つてゐない。寧ろ「死なな」と思つてゐた。只父性愛の強烈さに、自まゝな死の逃避を中止して、その老躯に鞭打つて強く生きようとするので、實に沈痛の聲酸楚の語である。初句三句の修飾語の相對、これも亦一體。
 
倭文手纏《しづたまき》 數母不在《かずにもあらぬ》 身爾波在等《みにはあれど》 千年爾母何等《ちとせにもがと》 意母保由留加母《おもほゆるかも》     903
 
去(ヌル)神龜二年作(ム)v之(ヲ)。但以(テノ)v類(ヲ)故(ニ)更(ニ)載(ス)2於茲(ニ)1。
 
 この一首は神龜二年の作だが、前の「水沫なす云々」の歌意に類してゐるから、茲に並べて載せたとの意。これは憶良の自註である。
 
(1595)〔釋〕○しづたまきかずにもあらぬ 既出(一二九三頁)
【歌意】 私は〔二字右○〕數へるに足らぬ、身ではあるけれど、壽命だけは千年でもありたいと、思はれることよな。
 
〔評〕 老境に臨んだ盛懷である。幼い子供の行末を想へば、是非とも長命をして、その面倒を出來るだけ見て遣らねばならぬ責任がある。長壽を願ふその動機を想ふと、そこに一段の哀愁が漂ふ。但尊貴の御方や何やは勿論、數ならぬわが身でもと、頗る分別に著した抑損の語を發した。生活に大した變調のない時期では、感情が隨つて平靜で、自然理に詰んだ作に墮ちるのは據ない。
 神龜二年には作者の妻君はまだ存命であつたことを記憶したい。
 
天平五年|六月丙申朔三日戊戌《ミナヅキヒノエサルノツキタチミカノヒノツチノエイヌ》作《ヨメリ》。
 
右の老病云々の長短歌は、天平五年の丙申が朔に當るその六月、戊戌の日に當るその三日に詠んだとの意。
 
戀(ふる)2男子《をのこを》1【名(ハ)古日《フルヒ》】歌三首
 
死んだ男の子を戀ひ思ふ歌との意。割註「名古日」は原本に本行に書き下してある。又原本題詞の下に「長一首短二首」との割注がある。無論後人の記入。
 
世人之《よのひとの》 貴慕《たふとみねがふ》 七種之《ななくさの》 寶毛我波《たからもわれは》 何爲《なにせむに》 慕欲世武〔四字左○〕《ねがひほりせむ》 和我(1596)中能《わがなかの》 産禮出有《うまれいでたる》 白玉之《しらたまの》 吾子古日者《わがこふるひは》 明星之《あかぼしの》 開朝者《あくるあしたは》 敷多倍乃《しきたへの》 登許能邊佐良受《とこのへさらず》 立禮杼毛《たてれども》 居禮杼毛登母爾《をれどもともに》 同胞等《はらからと》 遊戲〔五字左○〕禮《あそびたはぶれ》 夕星乃《ゆふづつの》 由布弊爾奈禮婆《ゆふべになれば》 伊射禰余登《いざねよと》 手乎多豆佐波里《てをたづさはり》 父母毛《ちちははも》 表者奈佐利《うへはなさかり》 三枝之《さきぐさの》 中爾乎禰牟登《なかにをねむと》 愛久《うつくしく》 志我可多良倍婆《しがかたらへば》 何時可毛《いつしかも》 比等等奈理伊弖天《ひととなりいでて》 安志家口毛《あしけくも》 與家久母見牟登《よけくもみむと》 大船乃《おほぶねの》 於毛比多能無爾《おもひたのむに》 於毛波奴爾《おもはぬに》 横風乃《よこしまかぜの》 爾母布敷可爾布敷可爾〔十字左△〕《にはかにも》 覆來禮婆《おほひきぬれば》 世武須便乃《せむすべの》 多杼伎乎之良爾《たどきをしらに》 志路多倍乃《しろたへの》 多須吉乎可氣《たすきをかけ》 麻蘇鏡《まそかがみ》 弖爾登利毛知弖《てにとりもちて》 天神《あまつかみ》 阿布藝許比乃美《あふぎこひのみ》 地祇《くにつかみ》 布之弖額拜《ふしてぬかづき》 可加良受毛《かからずも》 可賀利毛吉惠《かかりもよしゑ》 天地乃〔五字左○〕《あめつちの》 神乃末爾(1597)麻仁〔左△〕等《かみのまにまと》 立阿〔左△〕射里《たちあざり》 我例乞能米登《われこひのめど》 須臾毛《しましくも》 余家久波之爾《よけくはなしに》 多知久都〔二字左△〕保里《たちくづほり》 朝朝《あさなあさな》 伊布許登夜美《いふことやみ》 靈剋《たまきはる》 伊乃知多延奴禮《いのちたえぬれ》 立乎杼利《たちをどり》 足須里佐家婢《あしすりさけび》 伏仰《ふしあふぎ》 武禰宇知奈氣苦〔左△〕《むねうちなげく》 手爾持流《てにもたる》 安我古登婆之都《あがことばしつ》 世間之道《よのなかのみち》     904
 
〔釋〕 ○ななくさのたから 佛經に金《コム》、銀《ゴム》、瑠璃《ルリ》、※[石+車]※[石+渠]《シヤコ》、瑠璃《メナウ》、珊瑚、號珀《コハク》を七寶と稱する。○なにせむに の下、一句脱ちてゐる。古義は慕欲世武〔四字左○〕《ネガヒホリセム》と補ひ、考はかなしき妹〔五字右○〕と輔つた。○わがなかの わが夫婦〔二字右○〕中の。不完ながらかう解しておく。この句は下の「吾子《ワガコ》」に係る。新考は「能」を爾〔右△〕の誤としてワガナカニ〔五字傍線〕と訓んだ。これは解し易い。○しらたまの 白玉の如き〔二字右○〕。○あかぼしの 「あくる」に係る枕詞。アカ、アクの同意語の類音を疊んだ。六帖の「明星のあかぬ心に」も同例。古義に、朝《アシタ》の枕詞として説を立てたが煩はしい。金星を夜明には明《アカ》星、夕方には夕づつと稱する。○しきたへの 枕及び床の枕詞。既出(二五五頁)。○ともに の下、「戲禮」の上に句が落ちてゐる。同胞等遊〔四字左○〕《ハラカラトアソビ》タハブレとするか。古義は可伎奈※[泥/土]弖言問〔七字左○〕《カキナデテコトトヒ》タハレ、新考は父母等遊〔四字左○〕《チヽハヽトアソビ》タハブレと續けた。尚適當の語を何とでも補つてよい。○ゆふづつの 夕の枕詞。ユフの語を疊んでいふ。既出(1598)(五一七頁)を參照。○いざねよと 古日の詞。○てをたづさはり 手携ひと同意。「を」は強辭。「たづさはり」は携ひ〔二字傍点〕の延言。○うへはなさかり 側《ソバ》は離れるな。「うへ」はほとり〔三字傍点〕の意。眞淵は「表」を遠〔右△〕の誤としてトホクハナサカリ〔八字傍線〕と訓み、新考は「者」をも衍としてトホクナサカリ〔七字傍線〕と訓んだ。○さきぐさの 中に係る枕詞。「さきぐさ」は三枝草。莖が三叉に出て春花の咲く草。三つあるものは中ある故に中の枕詞となり、又「春さればまづさき草の」(卷十)とも詠まれた。但その物は不明。(1)※[草冠/易]。文字集略(ニ)云(フ)※[草冠/易]草(ハ)枝々相値(ヒテ)葉々相當(ル)也、和名|佐木久佐《サキグサ》(和名抄)とあるが、※[草冠/易]草は未詳。(2)山百合。山百合の古名|佐葦《サヰ》の轉(眞淵説)。これは令義解に、三枝祭、謂(フ)2率川(ノ)社(ノ)祭(ヲ)1、三枝華以(テ)飾(ル)2酒樽(ヲ)1とあつて、率川祭には山百合を用ゐてゐるから諾はわれさうだが、百合は夏季の花で、「春さればまづさき草の」とあるに協はぬ。(3)三又そはな(白井氏説)。この他靈芝、瑞香、蒼朮、三椏木《ミツマタ》、三葉芹、福壽草などの説は遠い。○なかにを 「を」は歎辭。○うつくしく 愛らしく。古義訓ウルハシク〔五字傍線〕は非。○しが 「し」は其れ〔二字傍点〕の意と古義は解した。其奴《ソヤツ》をシヤツといふ例もある。○いつしかも 何時かまあ。「か」の疑辭は「みむ」に係る。「し」は強辭。○ひととなりいでて 人と成り出でて。一人前になるをいふ。○あしけくもよけくもみむ 「あしけく」「よけく」の下、あらむ〔三二字右○〕の語を各補うて聞く。○おほぶねの 頼む〔二字傍点〕の枕詞。既出(五六九頁)。○よこしまかぜ 横樣なる風。契沖訓によつた。○にはかにも 「爾母布敷可爾布敷可爾」は訓み難い。契沖は改めて、爾波可爾母布敷爾《ニハカニモシクシクニ》と訓んだが、宣長が更に布敷爾を削つてニハカニモ〔五字傍線〕と訓んだのに從ふ。○おほひきぬれば 古義訓オホヒキタレバ〔七字傍線〕。○たどきをしらに 「たどき」は手著《タヅキ》の轉。「たづきをしらに」を見よ(四一頁)。○しろたへのたすき 白|栲《タヘ》の襷は即ち木綿《ユフ》襷のこと。神供を扱ふに木綿《ユフ》にて襷する。○たすきをかけ 六言の句。○まそかがみ 既出(六四二・一一九三頁)。○あまつかみ 天に(1599)ます神。○こひのみ 既出(九八三頁)。○くにつかみ 地にます神。○ぬかづき 額衝き。頭を地に著けて禮すること。故に「額拜」の字を充てた。○かからずもかかりも 神の惠に〔四字右○〕かからざらむ〔二字右○〕もかからむ〔二字右○〕もの意。契沖説による。さてこの句の下、落句があらう。古義は吉惠〔二字左○〕《ヨシヱ》、天地乃〔三字左○〕《アメツチノ》と補つた。假にこれに從つておく。「よしゑ」はまゝよ〔三字傍点〕の意。「ゑ」は歎辭。○まにまと 「まにま」はまに/\の意で、祝詞に用例が多い。古義にいふ、原本の「仁」は衍字と。○たちあざり 「あざり」は解し難い。(1)アセル〔三字傍点〕(焦心)と同じ(契沖説)。(2)アザル〔三字傍点〕(靡亂)と同語で、土佐日記に「いと怪しく鹽海のほとりにてアザレあへり」とある(古義説)。思ふに或は「阿」は居〔右△〕の誤で、ヰザリ(膝行)か。さらば立つたり居ざつたりの意。○よけくはなしに よき事はなくて。「に」はニテ〔二字傍点〕の意。○ややややに、稍《ヤヽ》を重ねた副詞。眞淵訓による。古義は稍《ヤヽ》は彌々《ヤヽ》の義だから、それを又重ねていふ理なしと難じて、ヤウ/\ニ〔五字傍線〕と訓んだが、既に成語としての稍《ヤヽ》の語が存在してゐる以上は、それを反復したとて差支ない。又ヤウヤウ〔四字傍線〕はやや〔二字傍点〕を音便で伸べた語で、平安期に初見の語である。舊訓ヤウヤクニ〔五字傍線〕。○かたち 容貌。○くづほり 壞るゝこと。くづをれ〔四字傍点〕と同じい。「久都」原本に都久〔二字右△〕とあるは顛倒。契沖説による。○いふことやみ 六言の句。○たえぬれ 絶えぬれば〔右○〕の意。古格。○あしすり 「すり」清んで讀む。○なげく 「苦」原本に吉〔右△〕とあるが、歎きと中止しては意が徹らない。○てにもたる、舊訓テニモテル〔五字傍線〕。○あがことばしつ 吾が子の白玉を〔三字右○〕飛ばしつの意。上の「白玉のわが古日は」に應ずる。掌中の物を失つた意を弘めて、「飛ばしつ」といつた。新考の解は牽強。○よのなかのみち 前出(一五五〇頁)。
【歌意】 世人の貴んで欲しがる七種の診寶も、私は何の爲に求め望まうぞ。私夫婦間に産まれて來た、白玉のやうな私の子古日は、明けの早朝は床のあたり退かず、立つてゐてもすわつてゐても、一緒に同胞達と遊び戲れ、(1600)夕方になるとさあ寢なされと手を引張つて、父母は側を離れるな、その眞中に私は〔二字右○〕寢ようと、可愛らしくそれがいふので、何時かまあ大人になつて、よかれ惡しかれあらう〔三字右○〕を見ようと、力頼みに思ふに、意外に横しまの風が、俄にも襲うて來るので、どう仕樣にもその手がかりを知らず、白栲の襷を肩に〔二字右○〕掛け、鏡を手に持つて、天の神を仰いで乞ひ祈り、地の祇を伏して禮拜し、神のお惠が〔五字右○〕懸からなからうが懸からうがまゝよ、只天地の神の御心のまゝにお任せ致しますと〔八字右○〕、立つたり居ざつたりして、私が乞ひ祈るけれど、一寸の間もその病状のよい事もなくて、段々に容貌が痩せ衰へて、毎朝いうた詞も止んで命は絶えたので、私は〔二字右○〕跳りあがり足を摺つて叫び、伏し仰いで胸を打つて歎く。あゝ到頭〔四字右○〕、手に持つてゐた私の子の白玉〔三字右○〕を飛ばしなくしたことよ。仕方のないものは人生の逕路さ。
 
〔評〕 七珍萬寶は世人の欲求する處、而もわが子古日のあるに及かず、上に
  白玉も黄金も玉もなにせむに勝れる寶子にしかめやも (憶良――803)
とその著想を同じうする。これこの作者に就いて憶良説のおこる一理由である。
 「明星のあくる朝は」以下、在世の古日の行動を丁寧に追憶し廻想した。朝は床のうちから起ち居して兄弟達と巫山戲《フザケ》まはり、夕は又さあ寢ようと兄弟と手を繋いで、兩親の眞中に自分は寢るのだと頑張つたといふ。頑是ない幼兒の痴態を遺憾なく描寫し盡したものだ。成人してどんな者になるかわからぬが、とまれかくまれ末長く面倒を見て遣らうと、それを又親は樂しみに待つのであつた。
 突然の病氣、横しま風が俄に吹いた。この風を風邪のことゝする説もあるが、さう拘はらぬ方がよいと思ふ。(1601)子供の病氣ぐらゐ親心の途方に暮れるものはない。勿論|醫師《クスシ》はゐるけれど、祈祷は更に醫師以上と一般に考へられてゐた時代だ。即ち自身木綿襷を懸け、手に鏡を執つた。鏡は榮樹《サカキ》に懸けて神體とも仰ぎ、又病魔退散の厭勝の具ともなるのであつた。かくしてあらゆる天神地祇を仰ぎ伏して禮拜し祈願する。ひたすら熱誠を輸して、御利益は一切あなた任せだ。然るに何事ぞ、病は少康さへなしに憔悴脱落、口も利き得ず遂に絶命してしまつた。實に神も何も世にないの餘意が搖曳する。
 敍筆は始めて本題に入り、亡き古日の哀悼に逆上した自分の状態を細かに描き、さてこの作を物する程に漸う落付きの出た即今の心境から、茲に批判の語を下して、「世間の道」と、稍あきらめに近い冷語を以て結收した。それが又却てその悲痛を反撥する。要するに、親子愛を基調とした悼亡の悲曲で、情眞語眞、人をして卒讀に堪へざらしめる。
 この篇惜しい事に本文にまゝ誤脱がある。「わが子飛ばしつ世間の道」の句の如き、奇拔ではあるが稍不完でもある。又既に「仰ぎ乞ひ祈み」「伏して額づき」とあるのに、更に「伏し仰ぎ胸打ち歎く」は、煩冗の感を免れない。
 
反歌
 
和可家禮婆《わかければ》 道行之良士《みちゆきしらじ》 末比波世武《まひはせむ》 之多敞乃使《したへのつかひ》 於比弖登保良世《おひてとほらせ》     905
 
〔釋〕 ○わかければ 「わかし」は古へは幼弱なるをいふ。穉兒を若子《ワクゴ》、若郎子《ワキイラツコ》といふはその證である。(腋子《ワキゴ》の説(1602)は附會)。○みちゆきしらじ 道を行くことを知るまい。「みち」は黄泉《ヨミ》の道。冥途。○まひ 賂《マヒナ》ひ。古へ、禮物を幣《マヒ》と稱する。惡い意味での賄賂ではない。○したへのつかひ 下方の使。冥途の使者といふこと。下方《シタヘ》は冥途をさす。佛説に、地獄餓鬼畜生人間天上の五道の世界に居りて、善惡を照鑑する神とす。菩薩處胎經に見える。冥官。○おひてとほらせ 古日を〔三字右○〕負うて通つて下さい。「とほらせ」は通る〔二字傍点〕の敬相たる通《トホ》らす〔二字傍点〕の命令格。
【歌意】 古日は〔三字右○〕年が往かぬから、冥途を行く方角もあるまい。依つてお禮物を上げませう、冥官樣よ、古日を背負つて連れて往つて下さいよ。
 
〔評〕 古日は背に乘るほどの幼兒であつた。親心はあはれなもので、佛説によつて、末遙なる冥途を子供の一人旅する光景を思像しては、矢も楯もたまらず、その保護を下方の使に依頼した。幽明境を殊にしてゐる以上は、この依頼が果してその使の耳に達するか否か、甚だ覺束ないものだが、そんな理性を一切なくしてゐる處に、一本氣の愛情が躍動する。下方の使を人間使ひにしての「まひはせむ」も面白く、「負ひて通らせ」もこの事態に極めてふさはしい。
 
(1603)布施於吉弖《ふせおきて》 吾波許比能武《われはこひのむ》 阿射無加受《あざむかず》 多太爾率去弖《ただにゐゆきて》 阿麻治思良之米《あまぢしらしめ》     906
 
〔釋〕 ○ふせおきて 布施《フセ》は梵語|檀那《ダーナ》の譯。施をセ〔傍点〕と讀むは呉音。布は普、施は捨又は散で、一切衆生を哀愍する故に、一切のものを普く惠施するをいふ。○あざむかず 欺かず。欺くは(1)出し拔くこと。(2)ダマスこと。こゝは(1)の意。○ただにゐゆきて 直ちに率《ヰ》て往つて。○あまぢ 天上界の路。佛經に修羅、人間、天人の三善道に地獄、餓鬼、畜生の三惡道を合はせて六道といひ、六道に生まるゝ者は何れも輪廻して成佛することがないとある。然し天人界は六道の最上位で、天上に住み歡樂を受けるもの。上の「方の天路は遠し」の天路とは異なる。○しらしめ 「しめ」は使相の命令格。
【歌意】 お布施を捧げて、私は佛樣〔二字右○〕に乞ひ祈ります。佛樣よ〔三字右○〕、子供だからとて馬鹿にせず、すぐに連れて往つて、天上の路を教へて遣つて下さいよ。
 
〔評〕 佛説に、親に先立つ子はその不孝の罪によつて、死後の成佛を得ないといふ。據なく極樂往生は締めて、六道の最上位たる天人果を要望し期待したのは、せめてもの親心の現れである。さてさうとしてからが、頑是ない幼兒が死出の初旅では、全く「道行き知らじ」だから、布施を奉つて、「ただに率ゆきて天路知らしめ」と佛の慈悲に縋り付く。聊か蟲のよい注文も、結局は親心の悲しい愛の叫びである。「あざむかず」は人間的の情緒から出た冷語で、覺者たる佛に對しては失禮極まるが、その際の作者としては、子を思ふ熱愛より外に、(1604)他を顧慮する遑もなかつた。神供には置く〔二字傍点〕といふがつねなので、それに倣つて佛供にも「布施おきて」といつた。布施の漢語而も佛語を躊躇なしに使つてゐるなど、萬葉人は大膽だ。
 前の歌には冥途を管する下方の使に、この歌には十界の最上位者たる佛陀に、死者古日の保護を分擔させてゐる。實に到れり盡せりの行き屆いた情合を見る。
 以上の長短歌三首は、左註によれば作者未詳であるのを、略解古義共に、この卷憶良の家集と見ゆれば、自らの名書かざりしもありしなるをやとて、憶良の作とし、左註は削るべしといつた。甚しい顛倒の論で、元來この卷を憶良の家集とすることからして謬見である。况や假にこの歌を憶良の作とする時は、憶良の妻は神龜五年に死んだのに、この長歌には「父母は表《ウヘ》はなさかり」とあつて、夫妻共に存在してゐる趣だから、そこに矛盾がある。或は憶良が後妻を迎へてゐたかの疑もあるが、契沖は神龜五年に六十九歳(異論がある)の憶良が後妻を迎へらるべうもなしといつてゐる。何處までも左註を信じて、詠者未詳と見るが穩かである。
 
右一首、作者未詳。但以(テスレバ)2裁歌之體(ヲ)1、似(タリ)2於山上之操(ニ)1載(ス)2此|次《ツイデニ》1焉。
 
 右は作者不明の歌である。但詠歌の體裁からすると、山上憶良の歌詞に似てゐる、よつて憶良の歌どもの次に書き添へたとの。○操 風調の義。
 この左註は上の長短歌三首をこゝに附載した所以を記したもので、何人の追記か。前人は家持の所爲とした。或はさうかも知れぬ、又そうでないかも知れぬ。斷言は早計である。
 
  2006年7月10日(月)午後1時25分、卷五入力終了、2008.9.4(木)巻五校正終了
 
 
(1611) 萬葉集卷六
 
この卷はまづ養老七年夏から神龜年中、次に天平十六年頃までの諸作が收載されてある。
 
雜歌《くさぐさのうた》
 
養老七年|癸亥《みづのとゐ》夏|五月《さつき》、幸《せる》2于|芳野離宮《よしぬのとつみやに》1時、笠(の)朝臣金村(が)作(める)歌一首并短歌
 
幸于吉野離宮 續紀に、元正天皇養老七年夏五月|癸酉《ミヅノトトリ》九日)、行2幸《イデマス》芳野(ノ)宮(ニ)1、丁丑《ニヒノトウシ》(十三日)車駕還(ラス)v宮(ニ)とある時のこと。「芳野離宮」のことは、「吉野官」(一四四頁)、人麻呂の幸2吉野宮1之時歌の第二の長歌の評語(一五六頁)、及「吉野宮址考」(雜考7)を參照。○金村 傳既出(八四二頁)。△地圖及寫眞 挿圖35(一一〇頁)40(一二三頁)47(一四五頁)49(一四七頁)50(一五一頁)を參照。
 
瀧上之《たぎのへの》 御舟乃山爾《みふねのやまに》 水枝指《みづえさし》 四時爾生有《しじにおひたる》 刀我乃樹能《つがのきの》 彌繼嗣爾《いやつぎつぎに》 萬代《よろづよに》 如是二二知三《かくししらさむ》 三芳野之《みよしぬの》 蜻蛉乃宮者《あきつのみやは》 神柄香《かみからか》 貴將有《たふとかるらむ》 (1612)國柄鹿《くにからか》 見欲將有《みがほしからむ》 山川乎《やまかはを》 清清《きよみさやけみ》 常宮等《とこみやと》 諾之神代從《うべしかみよゆ》 定家良思母《さだめけらしも》     907
 
〔釋〕 ○たぎのへのみふねのやま 既出(六四八頁)。○みづえ 瑞枝《ミヅエ》。うるはしい樹枝をいふ。「みづ」は美稱。「水」は借字。○しじに 既出(七八六頁)。「四時」は借字。○つがのきの 「繼ぎ」の枕詞。既出(一二三頁)。「瀧のへの」よりこの句までは序詞。「刀」にツの音がないが、漢音タウ呉音トウだから、ツに轉用した。正辭はいふ、呉の轉音なるべし、同轉の毛をム、抱をフと呼べる例ありと。略解に都《ツ》の旁の落ちたるを刀と書き誤れるかとあるが、寫字の心理上、都の字を書くに、者を落して※[おおざと]のみを書くことは諾ひ難い。舊訓トガノキ〔四字傍線〕。○かくししらさむ 「かく」は現在の事實をさしていふ。「し」は強辭。「二二」は算數的戲書。「三」は次句の頭の「三」と重ねて「二二」に對した「三三」の戲書。〇みよしぬ 既出(一一〇頁)。○あきつのみや 蜻蛉野《アキツヌ》の離宮。「あきつのぬべ」を見よ(一四六頁)。○かみからか――くにからか 「くにからか」を見よ(五九六頁)。○みがほし 既出(七八六頁)。○やまかはを ヤマカハと清む。「を」は歎辭。○きよみさやけみ 清さに亮《サヤ》けさに。「清清」を濱臣が※[山+青]〔右△〕清の誤としてフカミサヤケミ〔七字傍線〕と訓み、古義が淳〔右△〕清の誤としてアツミサヤケミ〔七字傍線〕と訓んだのは何れも非。※[山+青]は僻字に過ぎ、淳は卷十八に「山河を廣み安都美《アツミ》と」の例もあるが、アツミは天下の廣大なる趣を表した語で、こゝに必要とする景勝を讃する語ではない。○とこみやと 常置の宮として〔二字右○〕。この句原本には缺けてゐる。古義に大宮等〔三字右△〕を本文に立てたが、今はその一考たる常宮等〔三字右○〕の方を本文に立てた。尚「とこみ(1613)や」は下の「とこみやと」を見よ(一六二七頁)。○うべし 「うべ」は既出(七五二頁)。「し」は強辭。
 
【歌意】瀧の上方の御船の山に、瑞々しい枝を刺して、繁く生えてゐる栂《ツガ》の樹の名のやうに、彌よ繼ぎ/\に打續いて、萬代までに御門樣が〔四字右○〕、かうさお占めなさるであらうこの芳野の蜻蛉の宮は、こゝの神故に貴いのであらうか、こゝの國故に見たくあるのであらうか。こんなに山も川もまあ清く亮かさに、道理でさ常置の離宮を〔六字右○〕遠い神代から、此處に〔三字右○〕定められたのであるらしいわい。
 
〔評〕 「瀧の上の」から「刀我の樹の」までの五句は序詞で、この樣式は赤人の登2神岳1歌、
  三諸《ミモロ》の神南備《カムナヒ》山に、五百枝《イホエ》さし繁《シヾ》に生ひたる、栂《ツガ》の樹のいや繼ぎ/\に、云々。(卷一、――372)
と全く同じだ。赤人の歌は、神龜元年の聖武天皇芳野行事(ノ)御時の歌、の數首後に擧げてあるから、まづその頃の作と思はれる。これは元正天皇の御代の作だから、無論先出である。
 蜻蛉離宮の前面に百千の銀龍を跳らす瀧つ瀬と、行雲の去來する御船の山とは、この離宮の景勝を代表する大事な山川で、「瀧の上の御船の山」といふ所以もこゝにある。さあて栂の樹だ。いゝ具合に神名備山にも御船の山にもあつたものと思ふが、或は序詞を構成する爲の文飾かも知れない。詞人は時に無から有を生ぜしめる幻手段を弄する。「いや繼ぎ繼ぎに萬代にかくし知らさむ」は、離宮が永久に行幸の光榮に浴するであらう事を、眼前の事態から立證した讃辭である。
 「神からか――國からか――」は人麻呂も既に用ゐた套語ではあるものの、山川の景勝に對する時、萬葉人はかく神と自然との威力を痛感せざるを得ないのであつた。そして、「貴し」と仰ぎ、「見がほし」と慕ふのが(1614)常であつた。
 この兩行の對句から胚胎して、いひ換へればそれを結收して、「山川を清みさやけみ」と轉換し、遠く冒頭の「瀧の上の御船の山」に呼應して、以てこの離宮の存在に價値づけた。茲に至つて「うべし神代ゆ定めけらしも」の浮誇に近い言辭も、感情の昂揚に煽られて、眞實性をもつて受け取られる結果を將ち來した。實をいへば、芳野離宮は應神天皇朝にその端を發したもので、神代からあつた事は史に所見がない。神代を上《カミ》代の意に解して、この矛盾を彌縫してもよいが、歌なり詩なり藝術なりには、時に虚實の間をゆく變化があるから、一概には律せられない。
 この篇初頭より「見がほしからむ」までが第一段、以下が第二段で構成されてゐる。比較すると第一段の分量が多きに過ぎて、平衡が取れないやうだが、それは長い序詞を冠した爲である事を思へば、さのみ苦にならない。反面から見れば、一意到底の敍法が結末に一寸した變化を見せたともいへる。だが赤人の登2神岳1の作に比すると、數籌を輸する。概して着想が凡常で、敍事も新味が乏しい。
 吉野離宮の題詠は人麻呂の長短歌數首(卷一所載)がその先鞭を着けてから、萬葉歌人は各心血を傾注して雄を爭ひ巧を競ひ、互にその力作を發表したが、遂に歌聖の作の右に出づるはさておき、その壘を摩することさへ出來ず、徒らにその範疇の間に東西するに過ぎなかつた。これ詩仙李白が黄鶴樓に崔頴の題詩の上頭にあるを見て、去つて金陵の鳳凰臺に題した所以である。
 
反歌
 
(1615)毎年《としのはに》 如是裳見牡鹿《かくもみてしか》 三吉野乃《みよしぬの》 清河内之《きよきかふちの》 多藝津白波《たぎつしらなみ》     908
 
〔釋〕 ○みてしが 「しが」は願望辭。「牡鹿」の借字は戲意あるか。○かふち 既出(一四五頁)。○たぎつ 「たぎつかふち」を見よ(五三頁)。△寫眞 挿圖 50(一五一頁)を參照。
【歌意】 毎年このやうにまあ見たいがなあ、この芳野の美しい川曲《カハクマ》の、瀧の白波をさ。
 
〔評〕 「清き河内の瀧つ白波」は芳野離宮の全生命であつて、さればこそ人麻呂は「瀧の都」(卷一)と呼び懸けた。瀧は即ち宮瀧で、約數町に亘る河床の岩石に河水の激突して雪を噴く光景は、實に語言に絶した佳勝であつたらう。今はその岩盤が高く露出して河床でなくなり、水量は減少して別に平瀬を作つて流れてゐる。滄桑の變、古への風光は求むべくもないが、寛平御記(扶桑略記所載)の文と現在の地形とを湊合すれば、ほゞ萬葉時代の瀧つ河内の景象を思ひ浮べることが出來る。
 芳野行幸は持統天皇時代には頗る頻繁であつたが、元正天皇時代には漸くたまさかになつた。さてはこの瀧つ白波に對して、「年のはにかくも見てしか」と、年々の行樂を供奉者が希望するのも偶然でなくなる。尤もこの希望は單なる行人の所感としても聞えるが、題詞の言を重んじて、行幸時の感想として考へるのか至當ではあるまいか。
 この下句は萬葉時代には珍しい綺麗な造語で、かうした體製は平安人の渇仰したものだ。集中の類句としては、僅に「三吉野の瀧の白波」(卷三)の一例を見るに過ぎない。
 
(1616)山高三《やまたかみ》 白木綿花《しらゆふばなに》 落多藝追《おちたぎつ》 瀧之河内者《たぎのかふちは》 雖見不飽香聞《みれどあかぬかも》     909
 
〔釋〕 ○しらゆふばなに 白い木綿《ユフ》花の如く〔三字右○〕に。「ゆふはな」は既出(五三八頁)。なほ「栲の穗に」を見よ(二七四頁)。
【歌意】 山が高くて、恰も白木綿花のやうに、眞白に落ちたぎる、激流の川曲は、見ても/\飽かぬことよなあ。
 
〔評〕 瀧は瀑布でないから、「山高み」は急角度の傾斜を表現したもので、懸崖の意ではない。吉野川は矢治《ヤヂ》、菜摘、蜻蛉《アキツ》のあたり、河中に亂石が散在して激瑞を成し、その好風景は婁ば古代詩人の舌端に上つてゐる。
  山高み白木綿花に落ちたぎつ夏身《ナツミ》の河|門《ト》見れど飽かぬかも (卷九、式部大倭――1736)
は、四句が普通名詞と固有の地名と相違してあるだけである。その語調聲調を按ずると、「瀧の河内は」は穩雅に、「夏身の河門」は剛健に聞える。音數の排敍如何にもよるが、「は」の辭の有無が殊にこの關鍵を握つてゐる。「白木綿花に」の譬喩は、打聞くから皎潔鮮白の感じが與へられ、激湍雪を噴く光景が如實に看取される。
 但これは萬葉人の慣用語で、
  はつ瀬川白木綿花におちたぎつ瀬をさやけみと見に來しわれを(卷六――1107)
の他、なほ盛に疊見する。
 「見れど飽かぬ」は物の面白さを表現する套語で、端を人麻呂の吉野離宮の作に發した如くであるが、人麻呂とてもその創語者ではあるまい。集中餘にその使用が多い。必ずや當時の平語であらう。この歌の如き、四(1617)句までは、いかにも雄渾なる風姿と瑰麗なる詞藻とで只《ヒタ》押しに押して來たのに、惜しい事に結句で頓挫して、理路に流れ、卒易に墮してしまつた。
 更にいふ、この歌の作者金村と、卷九の歌の作者式部|大倭《ヤマト》とは同時代と思はれる。さては何れが先出か。
 
或本(ノ)反歌(ニ)曰(フ)。
 
神柄加《かみからか》 見欲賀藍《みがほしからむ》 三吉野乃《みよしぬの》 瀧河内者《たぎのかふちは》 雖見不飽鴨《みれどあかぬかも》     910
 
〔釋〕 ○たぎの タギツ〔三字傍線〕とも訓まれるが、類聚抄にも瀧之〔右△〕とある。
【歌意】 こゝの神故でかうも見たいのであらうか。この吉野の瀧の河内は、見ても/\見飽かぬことよ。
 
〔評〕 初二句は長歌中の語を拉し來つたものだが、二句の「見がほし」と、結句の「見れど」とがさし合つて、不快である。但集中に例は山ほどある。
 
三吉野之《みよしぬの》 秋津乃川之《あきつのかはの》 萬世爾《よろづよに》 斷事無《たゆることなく》 又還將見《またかへりみむ》     911
 
〔釋〕 ○あきつのかは 蜻蛉の川。秋津の川。吉野川が蜻蛉野を通過する時の稱。今も宮瀧の水の平淺に委した邊に、アキドの稱が殘つてゐる。アキツの訛であることは疑ふ餘地もない。又その南岸の小平地を御園と稱(1618)する。靈異記に、吉野郡桃花(ノ)里――同處(ニ)有v河、名(ヲ)曰(フ)2秋河(ト)1とある。桃花(ノ)里を御園に充てれば、秋河は即ち秋津川に當る。秋河は秋津〔右△〕河の落字であらう。○あきつのかはの 初句よりこゝまでは序詞。
【歌意】 吉野のこの秋津川のやうに、萬年も絶えることなしに、何遍となく來て見ようわい。
 
〔評〕 直接には吉野川の景勝の讃美、間接には吉野離宮の禮讃である。下句が套語なので、多少でも新味を欲して、秋津川の稱呼を點綴したのは作者の機轉である。こゝは激流宮瀧の景致とは反對に、水淺く沙濶く、左右の山がなだれて、水を挾んで相接した川曲である。
 この下句に就いては、
  見れど飽かぬ吉野の川の常滑《トコナメ》の絶ゆることなく又かへりみむ (卷一、人麻呂――37)
の評語(一五一頁)を參照。
 
(1619)泊瀬女《はつせめが》 造木綿花《つくるゆふばな》 三吉野《みよしぬの》 瀧乃水沫《たぎのみなわに》 開來受屋《さきにけらずや》     912
 
〔釋〕 ○はつせめ 初瀬に住む女の稱。河内|女《メ》、難波|男《ヲトコ》などの同例。「はつせ」を見よ(八頁)。○はつせめがつくるゆふばな 古へ初瀬女が專ら木綿花を作つたのでいふ。この句の下にが〔右○〕の辭を含んでゐる。○みなわに 水沫と。この「に」はノ如クの意ではない。トナツテ、トシテなどの意。○さきにけらずや 「けら」は過去詠歎の助動詞けり〔二字傍点〕の第一變化。「や」は反動辭。
 
【歌意】 初瀬女が作る木綿花が、不思議にも〔六字右○〕、この吉野の瀧の、飛沫となつて、咲いたことではないかい。
〔評〕 色相の聯憩から初瀬女の木綿花を拉へて、吉野の瀧の水沫に配合するに至つて一段の姿致が横生する。抑も木綿花が水沫に咲くことが既に不思議であり、その木綿花が初瀬女のであり、水沫が吉野の瀧のである事によつて、地理的に愈よ不思議である。かく取混ぜた不思議の念を強く表現し、讀者の注意を緊と引付けて脇目も振らせぬのは手際である。
 開きにけるかも〔七字傍点〕と平叙の詠歎で終る處を、殊更に曲折を求めて、「開きにけらずや」と反語の辭樣を用ゐたことは、上句の力強い調子に對應させる爲の手段でもあり、詠歎を強く永くする所以でもある。
 古義に瀧を吉野の西河の大瀧に充てたのは拘はつてゐる。又小川村の丹生川の瀑でもない。吉野川の激湍なら何處でもよい。が強ひていへば矢張宮瀧の瀬であらう。尚委しくは吉野離宮址考(雜考――7)を參照されたい。
 
(1620)車持《くらもちの》朝臣|千〔左△〕年《ちとせが》作歌一首并短歌
 
○車持朝臣千年 傳未詳。車持は氏。車《クルマ》は加行四段活の繰ル〔二字傍点〕輪《ワ》の轉。故にクラの略訓が生ずる 「千」原本に 于〔右△〕とある。元暦本その他に從つた。
 
味凍《うまごり》 綾丹乏敷《あやにともしき》 鳴神乃《なるかみの》 音耳聞師《おとのみききし》 三芳野之《みよしぬの》 眞木立山湯《まきたつやまゆ》 見降者《みくだせば》 川之瀬毎《かはのせごとに》 開來者《あけくれば》 朝霧立《あさぎりたち》 夕去者《ゆふされば》 川津鳴奈辨詳〔左△〕《かはづなくなべ》 紐不解《ひもとかぬ》 客爾之有者《たびにしあれば》 吾耳爲而《わのみして》 清川原乎《きよきかはらを》 見良久之惜〔左△〕蒙《みらくしをしも》     913
 
〔釋〕 ○うまごり 「あや」の枕詞。既出(四五五頁)。四言の句。童本訓ウマゴリノ〔五字傍線〕は非。○あやにともしき 奇《アヤ》しいまでに結構な。「ともしき」は既出(七二四頁)。この句「みよしぬ」に係る。舊訓アヤニトモシク〔七字傍線〕。○なるかみの 音に係る枕詞。「なるかみ」は雷。嚴槌《イカヅチ》のこと。○おとのみききし 音に聞くは噂に聞くの意。名詞に音聞《オトギキ》といふ。卷七に「動神《ナルカミ》の音のみ聞きし卷向の檜原の山を」とある。○まきたつ 既出(一七七頁)。○みくだせば 見おろすと。遊仙窟に「直下《ミオロセバ》則(チ)有(リ)2碧潭(ノ)千仞(ナル)1」とある。契沖初訓ミオロセバ〔五字傍線〕。○あけくれば 夜が〔二字右○〕。○ゆふされば 「ゆふさりくれば」を見よ(一七八頁)。○かはづ 既出(七八七頁)。○なくなべ 鳴くにつ(1621)け。「詳」は衍字、元暦校本その他にない。「辨」を眞淵は理〔右△〕の、古義は利〔右△〕の誤として、ナクトリ〔四字傍線〕と句を切つたが、切らずに末節にいひ續ける體もあるから、文字を改易する説には從ひ難い。○ひもとかぬ 衣の〔二字右○〕紐も解かぬ旅と續く。家にあれば衣の紐を解いて打解けもするが、旅ではその餘裕がないのでいふ。卷九、檢税使大件(ノ)卿(ガ)登(レル)2筑波山(ニ)1時(ノ)歌に「うれしみと紐の緒解きて、家のごと解けてぞ遊ぶ」とある。○みらくし 「みらく」は見る〔二字傍点〕の延言で、見ることが〔五字右○〕の意。「し」は強辭。○をしも 「惜」原本に情〔右△〕とあるは誤。
【歌意】 奇しい程に結構な、そして噂にばかり聞いて居たことであつた、この吉野の眞木の茂つてゐる山から、いま〔二字右○〕見|瞰《オロ》すと川の瀬毎に、夜が明けてくると朝霧が立ち、夕方になると蛙が鳴くにつけ、何にせよ、衣の紐さへ解かぬ旅中でさあるので、自分ばかりで以て、この奇麗な吉野の河原を見ることがさ、勿體ないことわい。思ふ人にも見せたいなあ〔十一字右○〕。
 
〔評〕 「三芳野の眞木立つ山」は吉野の何處か。反歌に「三船の山」が出てゐるから、やはり蜻蛉離宮附近の山として置かう。朝霧が立ち、蛙が鳴く、これらの景物はお約束のやうだが、吉野の行遊は大抵夏秋の季間が主だから據あるまい。况や作者は始めての吉野行だ。凡常の景物も尚感興を惹くに十分であつたらう。
 一寸赤人の登(ル)2神岳(ニ)1歌(卷三)の風調に似た處がある。吉野の詠としては、今少し輪郭の大きな描寫が欲しいが、景に依つて情を起し、つぶさに家人に寄懷したその兼愛の情味は、誠になつかしいものがある。この點他の吉野遊覽の諸作に發見し難い特徴と認められる。
 「蛙鳴くなべ」の句、は實に鳴くなり〔四字傍点〕と切つて、段節を劃然とさせたい處である。然しこの時代には一意到底(1622)の敍出が漸く多くなり、段節に就いての觀念が薄らいで來たやうである。下の赤人の玉津島の作の如きも、これと同軌である。
 
反歌一首
 
瀧上乃《たぎのへの》 三船之山者《みふねのやまは》 雖畏《かしこけど》 思忘《おもひわするる》 時毛日毛無《ときもひもなし》     914
 
〔釋〕 ○かしこけど 畏《カシコ》けれども。遠けども〔四字傍点〕と同語法。「とほけども」を見よ(九〇二頁)。宣長の「畏」は見〔右△〕の誤にてミツレドモ〔五字傍線〕なるべしとの考は無用。
【歌意】 瀧の上の三船の山は畏いけれど、私の心に思ひ忘れる、時とても日とてもないわ。
 
〔評〕 三船の山には白雲の下りゐることが集中に歌はれてもあるが、僅かの小山だから、「畏けど」は誇張に過ぎはしまいか。又離宮當面の山たるが故に、聯想的に畏いといはれぬこともないが、「思ひ忘るる時も日もなし」は、この山に對する感想としてはふさはしくない。必ず假托の言である。
 想ふに作者は或貴女に戀して居たのであらう。吉野客中の無聊は、愈よ奈良京裏の人戀しさに拍車を懸け、乃ちその人を當面の三船の山に準擬し、畏い事だが思ひ忘れる時とてはないと呻吟したものであらう。長歌の「吾のみして見らくし惜しも」も、さてこそ大いに有意味の切實感をもつ。
 「時も日も」の漸層は珍しい事ではいが、この場合いひ得てよい。
 
(1623)或本(ノ)歌
 
原本には或本反歌曰〔三字右△〕とある。又この題詞の無い本もある。次の二首の意を案ずるに反歌ではないらしい。左註にも只類を以て茲に連載したとある。よつて改めた。
 
千鳥鳴《ちどりなく》 三吉野川之《みよしぬがはの》 川〔左○〕音成《かはとなす》 止時梨二《やむときなしに》 所思公《おもほゆるきみ》     915
 
〔釋〕 ○ちどり 既出(六八七頁)。○みよしぬがはの 卷七にも「馬なめて三芳野河《ミヨシヌガハ》を見まく欲り」とある。○かはとなす 川音のやうに。「川」原本にない。活字本に依つて補つた。
【歌意】 千鳥が鳴く、吉野川の川音のやうに、止み間なしに、戀しく思はれる君樣よ。
 
〔評〕 客中人を憶ふは前首と同じい。主格の「公」を最後に据ゑて、層々積み上げた樣式も面白く、素直に暢びやかな作である。只「川音なす」は既に聽覺を主とした譬喩であるのに、初句の「千鳥鳴く」が又聽覺の語である事が不快である。それは單に吉野川の修飾に過ぎない、輕いあしらひの語であるにせよ、この重複は主感の統一を妨げ、混線の嫌を招く。但千鳥鳴く〔四字傍点〕佐保川、蛙鳴く〔三字傍点〕井手の儔、一首のうちに多少のさし合ひはあつても、古人はあながち拘泥しなかつた。
 古義に「面白き勝地の景色を本郷人に見せたくて」とあるは、上の反歌として強ひて曲解したもので蛇足。
 
(1624)茜刺《あかねさす》 日不並二《ひならべなくに》 吾戀《わがこひは》 吉野之河乃《よしぬのかはの》 霧丹立乍《きりにたちつつ》     916
 
〔釋〕 ○あかねさす 日の枕詞。既出(九二頁)。○ひならべなくに 日數を並べぬのに。日數經ぬをいふ。○わがこひは 「吾」の代名詞は大體において、上代はア、の獨行、奈良時代はア、ワ並行、平安時代以後はワの獨行で、三期にわかれてゐる。古義に集中の「吾」(我)を一律にアとのみ訓んだのは非。○きりにたち 霧と立ちの意。この「に」は上の「みなわに」のに〔傍点〕と同意。
【歌意】 別れて後〔四字右○〕、さう日數を重ねもせぬのに、私の戀の息吐《イキヅキ》は、この吉野の川の霧となつて、立ち/\するわ。
 
〔評〕 客中の感懷だが、別離の意はその實境に托されて、歌には言及してない。依つてその意を補足して聞かなければならぬ。
 「わが戀は――霧に立ちつつ」も簡略過ぎた表現である。委しくは戀の歎き(長息)が霧に立つとあるべきだが、歎きの霧〔四字傍点〕は古來からの套語となつてゐる以上、當時はこれで明かにその意が通じたものらしい。なほ卷五、「大野《オホヌ》山霧立ち渡る」の評語(一四一四頁)を參照されたい。
 
右年月不v審(カナラ)。但以(テ)2歌(ノ)類(ヲ)1載(ス)2於此|次《ツイデニ》1焉。ある本(ニ)云(フ)、養老七年五月幸(セル)2于芳野離宮(ニ)1之時(ニ)作(メリト)。
 
 右二首の歌はその製作年月が分明しない。但上の車持朝臣の長短歌の類だから、この次に載せたとの意。上の註語は右二首が反歌でないことを主張したもの。「或本云――」はその意が不完であるが、これは車持朝臣の(1625)長短歌及び或本歌を、上の笠金村の作と同じく、養老七年五月の吉野行幸時の作と見たものであらう。
 
神龜元年甲子冬十月五日、幸2于紀伊國1時、山部宿禰赤人作歌一首并短歌
 
○十月五日 は聖武天皇が紀州行幸のため、奈良京御發輦の日である。○幸于紀伊國 續紀に、神龜元年冬十月辛卯(五日)天皇幸(ス)2紀伊(ノ)國(ニ)1。癸巳(七日)行(イテ)至(リマス)2紀伊(ノ)國|那賀《ナカノ》郡玉垣|勾《マガリノ》頓宮(ニ)1。甲午(八日)至(リマシ)2海部《アマノ》郡玉津島(ノ)頓宮(ニ)1、留(ルコト)十有餘日。戊戌(十二日)造(ラシム)2離宮(ヲ)於岡(ノ)東(ニ)1、是日從(ヘル)v駕(ニ)百寮、六位已下至(ルマデ)2于使部(ニ)1、賜(フコト)v禄(ヲ)各有(リ)v差(シナ)。壬寅(十六日)云々。又詔(シテ)曰(ク)、登(リ)v山(ニ)望(ムニ)v海(ヲ)此間最(モ)好(シ)、不v勞(セ)2遠行(ヲ)1足(レリ)2以(テ)遊覽(スルニ)1、故改(メ)2弱《ワカノ》濱(ヲ)1名(ケテ)爲(セ)2明光《アカノ》浦(ト)1。宜(シ)d置(キ)2守戸《モリベヲ》1勿(シム)uv令(ムルコト)2荒(レ)穢(レ)1。春秋二時差2遣(ハシ)官人(ヲ)1、奠2祭《マツル》玉津島之神、明光浦之靈(ヲ)1。己酉(廿三日)奉駕至(リマス)v自(リ)2紀伊(ノ)國1。
 
安見知之《やすみしし》 和期大王之《わごおほきみ》 常宮等《とこみやと》 仕奉流《つかへまつれる》 左比鹿野由《さひがぬゆ》 背上爾所見《そかひにみゆる》 奥島《おきつしま》 清波瀲爾《きよきなぎさに》 風吹者《かぜふけば》 白波左和伎《しらなみさわぎ》 潮干者《しほひれば》 玉藻苅管《たまもかりつつ》 神代從《かみよより》 然曾尊吉《しかぞたふとき》 玉津島夜麻《たまづしまやま》     917
 
〔釋〕 ○やすみしし 既出(三〇頁)。○わごおほきみ 既出(二〇五頁)。○とこみやと 「とこみや」は常置の宮、又は常置さるベき宮をいふ。「常宮」を宜長の「トツミヤ〔四字傍線〕(外つ宮)と訓むべし、常は借字なり」との説が出てか(1626)らは、註家は絶對盲從してゐるが、如何にしても無理な訓である。卷二に「木の※[瓦+缶]《ヘ》の宮を常宮《トコミヤ》と定め給ひて」とあるのも、常住の宮の意である。尚評語を參照。○つかへまつれる 直ちに「左比鹿野」に續く。玉津島(ノ)離宮は左比鹿野(雜賀野)にあつた。○さひがぬ 紀伊(ノ)國|海部《アマ》郡|雜賀《サヒガ》野。(今海草郡)。雜賀山(突端は雜賀崎)下の今の和歌浦町より東南方へかけた野。○そかひ 既出(八三四頁)。○なぎさ 既出(八六六頁)。○しかぞたふとき かうも尊い。○たまづしまやま 玉津島といふに同じい。島中更に隆起ある島を島山といふ。○たまづしま 玉津島。後記及び紀略には玉出島と(1627)ある。津をヅと濁る證である。和歌の浦の入江にある小嶼で、後世|妹※[女+夫]山といつた。古へこゝに玉津島の神社があつた。今伽羅山の東麓にある玉津島明神は江戸時代の再興で、新玉津島と稱する。
【歌意】 わが天子樣の離宮としてお仕してゐる、雜賀野からそちらに見える、あの沖の島、その奇麗な波打際に、風が吹くと白波が立ち騷ぎ、潮が干ると玉藻を海人が〔三字右○〕刈り/\して、神代からさうも尊いわさ、あの玉津島山は。
 
〔評〕 聖武天皇はその神龜元年十月八日に弱《ワカ》(和歌)の浦玉津島に御到着、風光頗る叡慮に協ひ、十二日に至つて離宮造營の勅命が下つた。が實際は八日から十餘日間、黒木の柱に尾花刈り葺きの頓宮《カリミヤ》に御逗留あらせられたのであつた。後にその離宮が竣功してから守部を置かれた。
 「大君の常宮」は事實に於いては外つ宮即ち離宮の事であるが、語意は頓宮行宮の假宮に對しての永住の宮の義である。さればこの歌は離宮造營の事が發表になつた十二日以後の作であらう。
(1628) 抑も弱《ワカ》の浦は、雜賀野の北を局つて西走する雜賀山の岬端雜賀崎から、南方名草山の突端紀三井寺の崖下に至るまでの港灣の總稱で、今は北灣を新和歌(ノ)浦と稱してゐる。
 玉津島の頓宮(のちは離宮)は何處に置かれたか。玉津島は「雜賀野ゆそがひに見ゆる奥の島」とあるによれば海中の島嶼だつた。そして潮がさすと渚に白波が立ち、潮が引けば海人が玉藻を刈るやうな場所だとすると、雜賀(和歌)川河畔の後世妹※[女+夫]島と稱した小嶼がこれに當る。然し分内が甚だ狹いうへに離れ島だから、頓宮を置かうにも離宮を置かうにも間に合はない。
 茲に至つて雜賀野の一端妙見山附近に、當時の御座所を考へすばなるまい。離宮を造られた岡(ノ)東は即ち妙見山の東麓を斥すものらしい。この時の詔に、
  登(リ)v山(ニ)望(ムニ)v海(ヲ)此(ノ)間最(モ)好(シ)、不(シテ)v勞(セ)2遠行(ヲ)l足(レリ)2以遊覽(スルニ)1、故《カレ》改(メテ)2弱《ワカノ》濱(ヲ)1爲(ス)2明光《アカノ》浦(ト)1。(續紀卷九)
と見え、登臨眺望の便宜があつたこともその證である。稱徳天皇の天平神護元年十月の行幸に、
  御(シ)2南濱(ノ)望海樓(ニ)1、奏(ヅ)2雅樂及(ビ)雜技(ヲ)1。權(リニ)置(キ)2市※[纏の旁+おおざと]《イチグラヲ》、令(ム)d陪從及(ビ)當國(ノ)百姓等(ヲシテ)任(ニ)爲(サ)c交關(ヲ)u。(續紀卷廿六)
とある南濱は妙見山の南濱で、前面の玉津島を隔てゝ、近く紀三井《キミヰ》寺の名草山、遠く藤代山に沿うた和歌黒牛の海濱を望み、遙に大崎と相呼ぶ形勝の地である。况や周圍は流下する土砂と、海風の吹き上げる堆砂とで潟地洳沮地を出現し、そこに鶴などの遊息に適する薦荻の叢生を見るのであつた。西方は明け放しの大海であるが、餘り風の荒れない冬十月(舊暦)頃は、實に暢んびりした明媚な風光なので、桓武天皇の延暦廿三年冬十月の行幸の詔にも、
  此月(ハ)波|閑《シヅカナル》時|爾之弖《ニシテ》、國風御覽須《クニブリミソナハス》時|止奈毛常母聞所行須《トナモツネモキコシメス》、今|御坐所乎御覽爾《オマシドコロヲミソナハスニ》、礒島毛奇麗久《イソシマモウルハシク》、海瀲毛清晏之弖《ナギサモサタカニシテ》、御意(1629)母於多比爾御座《ミコヽロモオダヒニオハシマス》云々。(後紀卷十二)
と仰せられ、御船遊があつた程だ。この時以後、史に行幸の所見がない。
 この歌は雜賀野の頓宮邊から玉津島を眺望してのスケツチである。始に作者自身の立場を説明し、次に玉津島の海潮の干滿時の風景を自然と人事とに分つて對敍し、次に玉津島の禮讃に及んで筆を擱いた。この一結は冒頭の天皇をかけて歌ひ出した崇高莊重な意調と對應して均衡が保たれる。「しかぞ貴き玉津島山」、山岳の勝を讃へるに貴し〔二字傍点〕の語を以てすることは、萬葉人の感情から出た、否山嶽崇拜時代からの套語である。
反歌
 
奥島《をきつしま》 荒礒之玉藻《ありそのたまも》 潮〔左△〕干二滿《しほみちて》 伊隱去者《いかくろひなば》 所念武香聞《おもほえむかも》     918
 
〔釋〕 ○しほみちて 「潮干滿」は干〔右△〕を衍字としてかく訓む。但シホヒミチ〔五字傍線〕の古訓もある。○いかくろひなば 隱れなば。「い」は發語。イカクレユカバ〔七字傍線〕の訓は非。○おもほえむ 戀しく〔三字右○〕思はれよう。「宇陀の大野はおもほえむかも」(卷二)「筑紫の千島おもほえむかも」(卷六)など同例。
【歌意】 沖の島の荒磯の海藻が、潮が一杯にさして隱れようなら、定めし戀しく思はれよう事かいな。
 
〔評〕 潮干に露はれた磯つきの海藻に、新奇の物珍しさを感じたが、忽ち反射的にやがての滿潮には水の下であらうことに想到し、「おもほえむかも」と、強い執着を語つた。海珍しい都人士の口吻。
 
(1630)若浦爾《わかのうらに》 鹽滿來者《しほみちくれば》 滷乎無美《かたをなみ》 蘆〔左△〕邊乎指天《あしべをさして》 多頭鳴渡《たづなきわたる》     919
 
〔釋〕 ○わかのうらに 若の浦、弱の浦。和歌と書くは後世のあて字。又|眞若《マワカ》の浦(卷十一)ともいつた。續紀に弱《ワカノ》浦を改めて明光《アカノ》浦となされたとあるが、それはアワの音通により、詩文を作るに都合のよい好字面を擇ばれたもので、失張ワカノウラが泛稱であつた。○かたをなみ 「かた」は既出(三八六頁)。「を」は歎辭。○あしべ 「蘆」原本に※[竹/壽]〔右△〕とあるは誤。元本その他に從つた。
【歌意】 若の浦に潮がさしてくると、干潟がまあ無さに、蘆原のあたりをさして、鶴があれ鳴いて行くわ。
 
〔評〕 潟は潮の干滿に隨つて出頭没頭する鹵斥地である。干潮時そこに求食《アサリ》してゐた鶴も、滿潮となると渚附近の林※[木+越]をさして退去する。岩礁や沙洲に寄せ返る白波、滿々と湛へた遠淺の小波、青青と海風に靡く蘆原、それらのすべてが、沙頭から高鳴きして蘆邊に移動する白鶴の翼のもとに一括されてゐる。大なり小なりあらゆる物がその生命の躍動を感ずる景敦と清楚なる色彩と爽快なる氣分とが相俟つて、長け高い行敍か縹渺た(1631)たる高韻を傳へる。但その「潟をなみ」の一句は聊か理路に泥んだ痕迹を遺してゐる。白璧の微瑕。
 
右年月不v記(サレ)。但※[人偏+稱の旁](ス)d從2駕《ミトモスル》玉津島(ニ)1之時(ノ)作(ト)〔四字右○〕u也。因(リテ)今檢2注(シ)行幸(ノ)年月(ヲ)1以(テ)載(ス)v之(ニ)焉。
 
右の歌は年月が記されてない、但玉津島行幸從駕の作というてゐる、そこで今行幸年月を檢べ注して、こゝに載せたとの意。「※[人偏+稱の旁]」は稱の古字。「玉津島」の下、之時作〔三字右○〕の三字は原本にない、補つた。
 
神龜二年|乙丑《きのとうし》夏五月幸(せる)2于吉野(の)離宮(に)1時、笠(の)朝臣金村(が)作歌一首并短歌
 
○神龜二年云々 この行幸續紀に所載がない。紀の脱漏か。
 
足引之《あしひきの》 御山毛清《みやまもさやに》 落多藝都《おちたぎつ》 芳野河之《よしぬのかはの》 河瀬乃《かはのせの》 清乎見者《きよきをみれば》 上邊者《かみへには》 千鳥數鳴《ちどりしばなき》 下邊者《しもへには》 河津都麻喚《かはづつまよぶ》 百磯城乃《ももしきの》 大宮人毛《おほみやびとも》 越乞爾《をちこちに》 思自仁思有者《しじにしあれば》 毎見《みるごとに》 文丹〔左△〕乏《あやにともしみ》 玉葛《たまかづら》 絶事無《たゆることなく》 萬代爾《よろづよに》 如是霜願跡《かくしもがもと》 天地之《あめつちの》 神乎曾祷《かみをぞいのる》 恐有等毛《かしこかれども》     920
 
(1632)〔釋〕 ○あしひきの 山の枕詞、既出(三四三頁)。○みやまもさやに 「みやま」「さやに」は既出(三九七頁)。○かみへ 上の方。○しもへ 下の方。○ももしきの 宮の枕詞。既出(一二六頁)。○おほみやびと 既出(一三一頁)。○をちこち (1)あちこち。彼方此方。(2)遠近。「越乞」はその字音を充てたもの。○しじにしあれば 澤山居るので。「しじ」は繁の意。○あやに 「丹」原本に舟〔右△〕とあるは誤。元本その他に從つた。○たまかづら 「絶ゆることなく」に係る序。既出(七八六頁)。○かくしもがもと 契沖初訓による。舊訓カクシモガナト〔七字傍線〕。○かしこかれども 眞淵訓による。舊訓カシコケレドモ〔七字傍線〕。△寫眞挿圖103(三三〇頁)參照。
【歌意】 山も清く鳴り響いて、流れ落ちてたぎる吉野川の、川瀬の奇麗なのを見ると、川上の方では千鳥が繁く鳴き、川下の方では蛙が妻を喚んで鳴く、その上供奉の〔八字右○〕大宮人も、あちこちに一杯に居るので、それらを見る度にひどくめでたくて、絶間なしに萬年も、かうまあありたいと、天地の神をさお祈りするわい、恐れ多いけれども。
 
〔評〕 この篇離宮詞の常套たる冒頭句を置かず、突如としてまづ叙景に入つた。作者はこの三年前(養老七年五月)に、既に吉野離宮詞を賦した。樣に依つて胡蘆を描くのも快くないと見え、前度とその樣式を殊にして、かくの如き奇手を出した。
 第一段、まづ吉野離宮の象徴たる激湍の勝を高唱し、その「清きを見れば」の一句は、第二段を展開した。
 第二段、離宮四圍の景象を囘看して、上つ瀬の千息下つ瀬の蛙、その清亮たる聽覺美に耳を傾けた。これは夏の蛙に冬の千鳥を配した文飾ではなく、この五月行幸時における矚目の實景なのである。千鳥は夏も盛に鳴(1633)ものである。更に囘看すると、供奉の大宮人達が恰も點景人物の如く、その緋緑の袖を翻しつゝ所在に往來する。これは嘗て人麻呂の歌つた、
  百しきの大宮人は、船なめて旦川渡り、船きほひ夕川渡る。(卷一――36)
とあるもので、離宮附近の板屋草舍から、或は公務に或は逍遙に出入する人達である。山間の僻郷蜻蛉野も偏に離宮地たるが故に、臨幸のあるが故に、かゝる異風景を現出し、かゝる光榮を荷ふ。作者は驚異の眼を瞠つて、「見る毎にあやにともしみ」と讃歎した。而もこの句は上を承け下を起す扇ホの役目を果してゐる。その「見る毎に」は上の「見れば」に呼應したもので、かく反復するが古文の格である。
 第三段、吉野離宮地のかく自然と人事とに飽くまで惠まれた幸福を、未來永世まで持續させたいと渇望し、「畏かれども」と理性に教へられながらも、天地の神にその祈願を投げ懸けるのであつた。果然一篇の吉野離宮讃辭である。
反歌二首
 
萬代《よろづよに》 見友將飽八《みともあかめや》 三吉野乃《みよしぬの》 多藝都河内之《たぎつかふちの》 大宮所《おほみやどころ》     921
 
〔釋〕 ○みとも 見る〔右○〕とも。見る〔二字傍点〕の第二變化の「み」を「と」の接續辭が承けるのは古格。○たぎつかふち 既出(一五三頁)。「かふち」は(一四五頁)に既出。○おほみやどころ 既出(一二七頁)。
【歌意】 千萬年になるまで見るとも、飽かうことかい。吉野の瀧の川曲の、この大宮所即ち離宮地はさ。
 
(1634)〔評〕 長歌では大宮所の萬代の御榮を祈願したが、これは萬年見ても見飽きることではないと、その景勝を絶對に讃美した。物は馴るれば興味が減殺するといふ前提のもとに詠まれた作。
 
人皆乃《ひとみなの》 壽毛吾毛《いのちもわがも》 三吉野乃《みよしぬの》 多吉能床磐乃《たぎのときはの》 當有沼鴨《つねならぬかも》  922
 
〔釋〕 ○わがも 吾が命〔右○〕もの略。新考よろしい。○ときはの 古義訓による。眞淵訓トコハノ〔四字傍線〕、舊訓トコイハノ〔五字傍線〕。○つねならぬかも 「ぬ」は願望辭の「ね」の轉。「つねにあらぬか」を見よ(八〇〇頁)。「沼鴨」は戲書。
【歌意】 皆人の命も自分の命も、この吉野の瀧津瀬の平磐のやうに、變らずあつて欲しいなあ。
 
〔評〕 はかない命と不變の岩との對照から生ずる感愴は型の通りであるが、行幸時の折柄を考へると、吉野の勝を人達と一緒に末永く樂みたいの餘意があるやうだ。「三吉野の瀧のときはの」は尤も適切な實際的取材で、人麻呂が「吉野の川の常滑《トコナメ》の絶ゆることなく」(卷一)と歌つた如く、河床數町に亘る大磐石を斥したものだ。
 
山部(の)宿禰赤人(が)作歌二首并短歌
 
○作歌二首井短歌 この題詞は不完である。作歌二首は長歌の二篇をさし、短歌はその反歌四首をさす。この歌どもはその製作年時が判明しない。左註に不v審(カニセ)2先後(ヲ)1とある。その時季を勘へると、前篇の長歌は春秋に通じたものであるが、反歌の小鳥の聲は或は暮春の景象ではあるまいか。後篇の長歌に至つては狩獵の(1635)事が敍してあり、而も「春の茂野に」と歌つてあるから、仲春頃の作であることは疑ふ餘地もない。
 
八隅知之《やすみしし》 和期大王乃《わごおほきみの》 高知爲《たかしらす》 芳野離宮者《よしぬのみやは》 立名附《たたなづく》 青墻隱《あをがきこもり》 河次乃《かはなみの》 清河内曾《きよきかふちぞ》 春部者《はるべは》 花咲乎遠里《はなさきををり》 秋去者《あきされば》 霧立渡《きりたちわたる》 其山之《そのやまの》 彌益々爾《いやますますに》 此河之《このかはの》 絶事無《たゆることなく》 百石木能《ももしきの》 大宮人者《おほみやびとは》 常將通《つねにかよはむ》     923
 
〔釋〕 ○やすみししわごおほきみの 既出(二〇五頁)。○たかしらす 「たかしりまして」を見よ(一五三頁)。「しらす」はしる〔二字傍点〕(領)の敬相。○みやは 宮處〔二字傍点〕はの意。或は下にその場處は〔五字右○〕の語を補つて聞く。もと/\「は」の辭の落著がよくない。「宮は――河内ぞ」では意味を成さない。○たたなづく 既出(一五四頁)○あをがきこもり 山の〔二字右○〕の青垣に〔右○〕籠り。「青垣山」、を見よ(一五四頁)。○かはなみ 川並。河道の曲折状態をいふ。「次」は借字。○かふちぞ 河内なる〔二字右○〕ぞの略。○はるべは 既出(一五四頁)。○ををり 「ををれる」を見よ(五一四頁)。○たちわたる 舊訓タチワタリ〔五字傍線〕は非。○そのやまのいやますますに 意が聞えない。塵積つて山となる意か。「そ(1636)のやま」は「たたなづく青垣山」をさす。
【歌意】 わが天子樣の御領知なさる吉野離宮は、その場處が〔五字右○〕疊まつた青山の〔三字右○〕垣に籠り、そして河並の奇麗な川曲であるぞい。春になると花が咲いて靡き、秋になると霧が立ち渡る。されば〔三字右○〕その青垣なす山のやうにいやます〔四字右△〕/\に、その河のやうに絶える事なしに、大宮人は何時も/\來通ふであらう。
 
〔評〕 大體が人麻呂の吉野離宮作の第一第二篇の詞句を雜揉し撮合して、頗る平凡にお座なりに作り上げたものである。赤人は優に一代の作家であるのに、この作は實に不思議だ。襷掛けの句法も紀記以來のことで、さう珍しくもないが、只中間に二聯を隔てゝの使用は、直接でないだけ、餘裕味を存して宜しい。
 
反歌二首
 
三吉野乃《みよしぬの》 象山際乃《きさやまのまの》 木末爾波《こぬれには》 幾許毛散和口《ここだもさわぐ》 鳥之聲可聞《とりのこゑかも》     924
 
〔釋〕 ○きさやまのまの 「きさやま」は「きさのなかやま」を見よ(二五一頁)。西本温本訓のキサヤマノハノ〔七字傍線〕、舊訓のキサヤマキハノ〔七字傍線〕は共に非。○こぬれ 既出(六八九頁)。舊訓コズヱ〔三字傍線〕。○ここだ 既出(五九六頁)。○さわぐ 「口」は呉音ク。△寫眞 挿圖49(一四七頁)を參照。
【歌意】 吉野の象山の邊の梢には、外とは違つて〔六字右○〕、大層澤山にまあ鳴き立てる、鳥の聲かいな。
(1637)〔評〕 象谷あたりの山陰を行くと、春色既に老いて嫩緑の枝頭にのぼる梢から梢に、喧しく鳴き立てる小禽の聲は、處がら折から爽かな快い氣分である。都では聞き馴れぬ景趣たることを表現する爲に、「象山のまの木ぬれには〔二字傍点〕」と斷つた。そこに作者の生活の片鱗がほのめき、耳傾けてゐる赤人その人が想見される。
 
烏玉之《ぬばたまの》 夜乃深去者《よのふけぬれば》 久木生留《ひさぎおふる》 清河原爾《きよきかはらに》 知鳥數鳴《ちどりしばなく》     925
 
〔釋〕 ○ぬばたまの 夜の枕詞。既出(三〇四、四七六頁)。○ふけぬれば 古義訓による。舊訓フケユケバ〔五字傍線〕。○ひさぎ 楸。一名木さゝげ。紫※[くさがんむり/威]科の喬木。河邊に多く自生す。高さ二三丈に達し、葉は卵形、時に掌状を成す。夏尺餘の穗を出して花を著く。胡麻の花の如く淡黄に紫點あり、實は一尺餘の莢が幾條も下垂す。○ちどり 既出(六八七頁)。「知」は借字。
【歌意】 旅居の〔三字右○〕夜が更けたので、楸の生えてゐる清い吉野の〔三字右○〕川原に、千鳥が頻に鳴くことわ。
 
〔評〕 吉野の河原にその頃楸が叢生して居たと見える。風情のない樹だが、一度河原の景致に想到すると、自然にそれが心頭にのぼるのである。
 山間幽寂の境、瀬鳴の響が枕をゆすつて、圓かな夢は結びがたい深夜に、この悽凉たる千鳥の聲を聽くは、(1638)實に客愁を唆るに十分なものがあらう。「千鳥しば鳴く」とばかりいひ放して、表面は單なる叙景の如く見えながら、その内面に旅客としての窮りない感哀が流動し滂薄して止まぬ。風姿も潔く詞も簡淨で、聲響も亦流滑である。
 上の作には晝の小禽を歌ひ、この作には夜の千鳥を歌つた。必ず心あつての趣向であらう。
 尚いふ、千鳥の聲專ら冬季の景物と後世は定められてあるが、實際には四季を通じて鳴いてゐる。さればこの歌を上の反歌や下の長歌と同じく、暮春の作とするに支障はない。
 
安見知之《やすみしし》 和期大王波《わごおほきみは》 見芳野之《みよしぬの》 飽津之小野※[竹/矢]《あきつのをぬの》 野上者《ぬのへには》 跡見居置而《とみすゑおきて》 御山者《みやまには》 射目〔左△〕立渡《いめたてわたし》 朝獵爾《あさがりに》 十六履起之《ししふみおこし》 夕狩爾《ゆふがりに》 十里※[足+榻の旁]立《とりふみたて》 馬並而《うまなめて》 御※[獣偏+葛]曾立爲《みかりぞたたす》 春之茂野爾《はるのしげぬに》     926
 
〔釋〕 ○あきつのをぬの 「飽津」は蜻蛉の借字。「あきつのぬべ」を見よ(一四六頁)。「※[竹/矢]」は矢※[竹/幹]《ヤガラ》で、矢※[竹/幹]をノ〔傍点〕といふ。○ぬのへ 野邊。○とみすゑおきて 迹見《トミ》の人を立てゝ置き。「とみ」は字の如く、狩の爲に鳥獣の通ふ跡を尋ね求むる人の稱。或は鳥見《トミ》の義か。この句末の「て」の辭は餘つてゐゐ。○いめたてわたし 射手(1639)をあちこちに多く立たせ。「いめ」は射部《イベ》の轉。弓射る人達の稱。「目」原本に固〔右△〕とある。元本西本によつた。○しし 猪鹿を稱する。既出「ししじもの」を見よ(五三九頁)。「十六」は算數的戲書。○とり 「十里」も戲書。○みかり 「※[獣偏+葛]」は獵の俗字。○なめて なべて〔三字傍点〕の古言。既出(三六頁)。○みかりぞたたす 敍相の上から、ここは御獵を催すの意とする。「たたす」は立つ〔二字傍点〕の敬相で、上の助辭によつて意が變る。獵にたたす〔五字傍点〕は獵に出掛けること、獵をたたす〔五字傍点〕は獵を催すこと。○しげぬ 茂岡、茂山などの類語。△挿畫 挿圖11(三六頁)137(四九二頁)を參照。
【歌意】 わが天子樣は、吉野の蜻蛉の小野の、野邊には迹見の人を据ゑ置き、山には射手を立て揃へ、朝狩に猪鹿《シシ》を踏み立てゝ起し、夕狩に草伏の鳥を踏み立てゝ飛び上がらせ、そして侍臣達と〔七字右○〕馬を乘り並べて、御獵をお催しなる、蜻蛉のこの春の茂つた野でさ。
 
〔評〕狩獵は冬を主として春に終る。秋津野の小野を圍む群山は鳥獣の好棲息地であるから、聖武天皇は行幸の序、御獵を催されたのであらう。
 中間、野山に跡見据ゑ射目立てたことを、野と山とに分係して文飾とした。「朝獵に――夕獵に――」は家持の安積《アサカノ》皇子(ノ)薨(レマセル)之時(ニ)作歌(卷三)にも見えた句だが、この歌の方が先出である。
 結末は、從駕の人達と馬乘り並べて山野を馳驅遊ばされる光景で、
  玉きはる内の大野に馬なめて朝踏ますらむその草|深野《フカヌ》 (卷一、中皇女――36)
  日並《ヒナミ》の皇子《ミコ》の尊の馬なめて御狩立たしし時は來向ふ、(卷一、人麻呂――49)
(1640)などと同型の措辭である。
 全體に小じんまりと引緊まつた作で、迹見、射目の句に、狩獵の状態が稍つぶさに描出されてゐる。轉結の倒装、頗る調が勁健で嬉しい。「おきて」のて〔傍点〕は他にも例はあるが、何としても邪魔な棄石である。
 
反歌一首
 
足引之《あしひきの》 山毛野毛《やまにもぬにも》 御※[獣偏+葛]人《みかりびと》 得物先手挾〔左△〕《さつやたばさみ》 散動而有所見《さわぎたりみゆ》     927
 
〔釋〕 ○みかりびと 大君の御獵に奉仕する人。○さつや 既出(二二九頁)。○たばさみ 既出(二二九頁)。「挾」原本に狹〔右△〕とあるは誤。元本その他によつた。○さわぎたりみゆ 「さわぎ」は忙しく奔走すること。「たりみゆ」の續きは古格。良行變格系の動詞に限り、その終止態に動詞が接續する。それも見ゆ〔二字傍点〕の動詞に限つてある。集中に「かしこき海に船出|爲利所見《セリミユ》」(卷六)「海人のいざりはともし安敞里見由《アヘリミユ》」(卷十五)又記(下)に「志毘《シビ》がはたてにつま多弖理美由《タテリミユ》」などある。古義訓による。舊訓はミダレタルミユ〔七字傍線〕。
【歌意】 この吉野の〔五字右○〕山にも野にも、御狩の人達が、幸矢《サツヤ》を手に執つて、奔走するのが見えるわ。
 
〔評〕 狩場の光景状し得て遺憾がない。山野に充滿して御狩人が立騷ぐ、その豪勢さが想ひ遣られる。かくて間接に天威の畏さが彷彿する。「幸夫たばさみ」は、その携帶武器は弓は勿論、太刀もあらう鉾もあらうが、一(1641)番狩場にふさはしい象徴的描寫である。序にいふ幸矢は通例の征矢を狩獵の時にのみいふ稱。
 
右不v審(カニ)2先後(ヲ)1。但以(テノ)v便〔左△〕(ヲ)故(ニ)載(ス)2於此(ノ)次(ニ)1。
 
 右の赤人作歌の全部は詠出年代不明で、上の歌との前後がわからない、但同じ吉野行幸の時の歌だから、都合に任せてこゝに載せたとの意。「便」原本に使〔右△〕とある。略解説によつて改めた。これは當初の採録者か後の補入者かの筆で、文章こそ拙いが、製作年代に就いての大事の註語である。眞淵はこの注を削るべしといつたが從ひ難い。削ればこの歌は上の歌の題詞に係けたものとなつて、神龜二年の作と確定してしまふ。
 
冬十月幸(せる)2于難波(の)宮(に)1時、笠朝臣金村(が)作歌一首并短歌
 
○幸于難波宮 續記、神龜二年十月の條に、庚申(十日)天皇幸(ス)2難波(ノ)宮(ニ)1。とある。この時の難波(ノ)宮は歌によると難波の味生《アヂフノ》宮であつた。「難波(ノ)宮」を參照(二三七頁)。
 
忍照《おしてる》 難波乃國者《なにはのくには》 葦垣乃《あしがきの》 古郷跡《ふりにしさとと》 人皆之《ひとみなの》 念息而《おもひやすみて》 都禮母無《つれもなく》 有之間爾《ありしあひだに》 ※[糸+賣]麻成《うみをなす》 長柄之宮爾《ながらのみやに》 眞木柱《まきばしら》 太高敷而《ふとたかしきて》 食國(1642)乎《をすくにを》 收賜者《をさめたまへば》 奥鳥《おきつとり》 味經乃原爾《あぢふのはらに》 物部乃《もののふの》 八十伴雄者《やそとものをは》 廬爲而《いほりして》 都成有《みやこをなせり》 旅者安禮十方《たびにはあれども》     928
 
〔釋〕 ○おしてる 難波の枕詞。既出(九八五頁)。○なにはのくに 古へ難波國と稱した今の大阪附近一帶の稱。行政區劃の國ではない。吉野國、泊瀬國の類。○あしがきの 「ふり」に係る枕詞。葦を結うた垣は初めから舊び煤けて見ゆる故にいふ。なほ亂れ〔二字傍線〕、ほのか〔三字傍線〕、ま近〔二字傍線〕などに係る枕詞。○ふりにし 眞淵訓フリヌル〔四字傍線〕。○おもひやすみて 氣に懸けぬこと。注意せぬこと。「やすみ」は休の意。眞淵訓イコヒテ〔四字傍線〕は非。○つれもなく 縁もなく。交渉のないのをいふ。「つれもなき」を見よ(四六九頁)。○うみをなす 績麻《ウミヲ》のやうに。「長《ナガ》」に係る枕詞。績麻は長い物なので譬へていふ。績麻を「續麻」と書くことは「をみ」を見よ(一〇六頁)。○ながらのみや 難波宮のこと。長柄は難波丘陵一帶の呼稱。すべて連亙した山や岡をナガラといつた。○まきばしら 既出(五〇〇頁)。○ふとたかしきて 「みや柱ふとしきませば」を見よ(一四六頁)。「たか」は美稱。○をすくに 既出(一九〇頁)。○をさめ 「收」は借字。○おきつどり 沖の鳥。味鳧《アヂ》又は鴨に係る枕詞。鴨の類は多く河海の沖の方に棲む故にいふ。味鳧《アヂ》は「あぢさはふ」を見よ(五一六頁)。○あぢふのはら 「味經」は味生、味原なども書(1643)く。攝津國東成郡小橋。(今の大阪市東區味原町)。古へこゝに難波(ノ)宮の別宮が置かれ、味生(ノ)宮と稱した。續紀、天平勝寶八年二月の條に、難波の宮に至り東南の新宮に御すとある新宮はこゝの事である。三島郡の味生村ではない。○もののふのやそとものを 「もののふのやそうぢ」(六八三頁)及び「やそとものを」(一〇三七頁)を見よ。○いほり 既出(二二七頁)。○みやこをなせり 新考訓に從つた。眞淵訓ミヤコトナレリ〔七字傍線〕、舊訓ミヤコトナセリ〔七字傍線〕。契沖訓の一にミヤコナシタリ〔七字傍線〕は共に非。
【歌意】 難波の國は舊い京址だとして、誰れもが氣にも懸けずに、打遣つてゐた間に、天子樣〔三字右○〕はその長柄の宮に、眞木柱を立派に高く造り建てゝ、國家をお治めなさるので、その〔二字右○〕味生の原に、多くの役人達は庵任ひをして、都を形作つたよ、旅中ではあるけれどもさ。
 
〔評〕 難波の京は、孝徳天皇の朝以後廢絶したが、難波宮は離宮として存在し、天武天皇の十二年十二月の詔にも、
  凡(ソ)都城《ミヤコ》宮室《オホミヤ》非(ズ)2一處(ニ)1、必(ズ)造(レリ)2兩參《フタトコロニ》1、故《カレ》先(ヅ)欲(ス)v都(セムト)2難波(ニ)1、是(ヲ)以(テ)百(ノ)寮者《ツカサビト》、各(ノ)往之《マカリテ》請(ヘ)2家地(ヲ)1。(紀――卷二十九)
と見えた。天皇の末年(朱鳥元年)に、難波は大藏省から失火して宮室まで燒けたさうだが、持統文武元正の列聖相次いで屡行幸の事が史に見えるから、手狹ながら相當焚餘の宮殿は存在してゐたものと考へられる。然し朱鳥以來四十年の舊構である。
 元正天皇の養老元年二月以後約九年振で、今囘の聖武天皇の神龜二年十月の行幸があつた。歌に「古りにし郷と、人皆の思ひ息みて、つれもなくありし間に」とあるは、その中絶期間の長い爲に、難波宮に對する交渉(1644)を、一般人士が忘れてゐた感情と思はくとを打出したものである。然し今囘端なく行幸があり、「長柄の宮に眞木柱大高敷きて食國を治め」られたのであつた。この時はまだ數波を皇都とした布告はないが、(皇都と定めたのは天平十六年二月)現神とます大君のまします處は、即ち皇都であると考へることが、本來のわが國民精神の常識であつた。
 故に留意を要するは「眞木柱太高敷きて」の語である。人麻呂の幸2吉野宮1時の歌(卷一)に「秋津の野邊に宮柱太敷しませば」、又「瀧つ河内に高殿を高知りまして」とあるは、吉野離宮の新構を語つてゐる例から類推すると、こゝの長柄の宮も必ず新構の離宮であらねばならぬ。この新宮こそは孝徳天皇の難波|大郡《オホゴホリ》の味生(ノ)宮の故地に就いて建てられたものと斷ずる。
 孝徳天皇の味生宮は豐崎(ノ)宮の創建後自然廢頽に歸し、徒らに寒煙荒草の野原となつて、味生の原と稱せられた。聖武天皇はそこを再び開發して味生離宮を新建され、この十日から始めて約二十日ほど(翌月十日には天皇奈良の大安殿に御し給ふ)滯留あらせられた。供奉の官人即ち「物の部の八十伴緒」は、倉卒の際とて各黒木の柱に茅の軒、假廬造りして住むのであつた。皇居を中心として、野原の間に忽然と一團の聚落を出現したことは、一寸驚異でもあり面白くもある。その感じが昂揚した餘り、遂に「都をなせり」とまで測らず誇張されることになつた。
 「旅にはあれども」は折角感情の坩壺に溶け込んだ陶醉を一旦に冷却する嫌もあるが、何としても現實に即した一句で、行幸供奉の旅先ながら、かゝる異風景を見ることに興味をもつのであつた。
 この篇、「おし照る」「葺垣」「續麻なす」「おきつ鳥」の枕詞、「眞木柱」「物部の」の準枕詞を用ゐて敷陳こ(1645)れ力めてゐる。莊嚴典雅な氣分を出す必要からでもあらうが、かゝる短篇としては煩瑣な感が生ずるのを禁じ得ない。
 又いふ、長柄の稱は豐崎宮にも味生宮にも冠してゐる。兩宮共に方角こそ南北に違へ、難波の岡陵地にあるからである。ながら〔三字傍点〕の語は長らふ〔三字傍点〕の義を以て、連亙した一帶の山岡を呼ぶ名稱らしい。故に近江に長柄山あり、難波にこの長柄の岡があり、その他諸國にこの地稱が多い。
 聖武天皇はこの二年十月の行幸後、翌三年十月に藤原(ノ)宇合《ウマカヒ》を造難波宮事に任じ、更に四年に石川(ノ)牧夫《ヒラブ》を造難波宮長官に任じ、宮室から始めて二官八省の堂々たる大規模の建築を竣功された。正倉院文書に、天平勝寶二年七月に、右以(テ)2今月廿六日(ヲ)1大郡(ノ)宮(ニ)幸行(ス)、また續紀、同八年二月の條に、壬子、是日行(イテ)至(リ)2難波(ノ)宮(ニ)1御(ス)2東南(ノ)新宮(ニ)1とあるは、正に味生宮の事である。
 序にいふ喜田貞吉氏の『帝都』に、味生を三島郡江口附近としてこの歌を引いて證としたのは、甚しい誤認である。
                   △難波宮及び味生宮考(雜考――22)參照
 
反歌二首
 
荒野等丹《あらぬらに》 里者雖有《さとはあれども》 大王之《おほきみの》 敷座時者《しきますときは》 京師跡成宿《みやことなりぬ》     929
 
〔釋〕 ○あらぬらに 荒野らにて〔右○〕。「ら」は接尾語。和名抄に、曠野、阿良乃良《アラノラ》と見え、單に野ら〔二字傍点〕ともいふ。
(1646)【歌意】 この味生の〔五字右○〕里は、荒野ではあるけれども、天子樣の居らつしやる時は、都となることわ。
 
〔評〕 神とますわが大君には、世に不可能な事はない。この種の想は集中に多い。殊に
  大君は神にしませば赤駒のはらばふ田居を都となしつ (卷十九――4260)
  大君は神にしませば水鳥のすだく水沼を都となしつ (同――4261)
の二篇は殆ど符節を合はせた如く、何れも帝威の禮讃であるが、この歌は「里はあれども」と理路に著したゞけ、餘蘊が乏しいのは致し方ない。
 
海未通女《あまをとめ》 棚無小舟《たななしをぶね》 ※[手偏+旁]出良之《こきづらし》 客乃屋取爾《たびのやどりに》 梶音所聞《かぢのときこゆ》     930
 
〔釋〕 ○あまをとめ 既出(四一頁)。○たななしをぶね 既出(二二四頁)。〇かぢ 「かぢひきをり」を見よ(五九七頁)。
【歌意】 海人少女が〔右○〕棚無し舟を、漕ぎ出すらしい。この旅の宿舍に、あれ〔二字右○〕梶の音か聞えるわ。
 
〔評〕 時刻の指定が無いのは缺點である。想ふに味生の原の旅の庵に、朝明の枕を※[奇+支]てゝ梶の音を聞いたものであらう。但それだけで舟を棚無し小舟、漕手を海人少女と認定することは、頗る速斷で冒險に近いが、日頃海人少女が棚無し小舟を操るのを見て、深い感興を覺えた經驗から、測らずこの聯想が生つたのである。
 味生の原は大體崖地であり、東は低濕の地から入海に接してゐたらしい。卷末の難波宮(味生宮)の歌にも、(1647)盛に海邊の形象が歌はれてある。
 
車持(の)朝臣千年(の)作歌一首并短歌
 
排叙の次第によれば上の歌と同時で、難波から住吉に出遊した或日の作であらう。
 
鯨魚取《いさなとり》 濱邊乎清三《はまべをきよみ》 打靡《うちなびき》 生玉藻爾《おふるたまもに》 朝名寸二《あさなぎに》 千重浪縁《ちへになみよせ》 夕菜寸二《ゆふなぎに》 五百重波因《いほへなみよる》 奥津波《おきつなみ》 彌益升爾〔七字左○〕《いやますますに》 邊津浪之《へつなみの》 益敷布爾《いやしくしくに》 月二異二《つきにけに》 日日欲〔左△〕見《ひびにみがほし》 今耳二《いまのみに》 秋足目八方《あきたらめやも》 四良名美乃《しらなみの》 五十往〔左△〕囘有《いゆきめぐれる》 住吉能濱《すみのえのはま》     931
 
〔釋〕 ○いさなとり 海又は濱などの枕詞。既出(三八七頁、四一〇頁)。○へつなみのいやしくしくに 邊つ波をのみ擧げたのはいぶかしい。上の朝凪夕凪の聯對を思へば、こゝも對語を配すべきである。この句の前に古義が、奥つ波いやます/\に〔九字右○〕と補つたのに從つた。○ちへ――いほへ 何れも多數の轉義。○しくしくに 既出(五(1648)五九頁、一三一五頁)。○つきにけに 朝にけに〔四字傍点〕とも續けていふ。「け」は「けならべて」を見よ(六八二頁)。○ひびにみがほし 「欲」原本に雖〔右△〕とある。「雖見」はミルトモ〔四字傍線〕と訓まれるが、下への續きがわるい。略解に從つた。○いまのみに 現在見る〔二字右○〕のみで。○いゆきめぐれる 「い」は發語。「往」、原本に開〔右△〕とあるによつて、諸本皆イサキメグレル〔七字傍線〕と訓み、咲き〔二字傍点〕は波を花に擬へたものと解してあるが、詞が足らない。故に開を誤として假に往〔傍点〕を充てた。元本その他にイソザキメグレル〔八字傍線〕の訓がある。又、「囘有」を古義にモトヘル〔四字傍線〕と訓んだのは非。○すみのえのはま 「すみのえ」を見よ(二四〇頁)。この歌記録上に特徴がみる。それは數目の宇を盛に充用してゐる事である。△地圖 挿圖78(二四一頁)を參照。
【歌意】 濱邊が清くて、そこに靡いて生えてゐる藻草に、朝の凪に千重に浪が寄せ、夕の凪に五百重に波が寄る、その沖の波の禰よ益す/\に〔十二字右○〕、岸の波の彌よ頻に、月に何時もに、日々に見たいわ。今見るだけで飽き足らうことかい。白波が往き廻つてゐる、きれいな〔四字右○〕この住吉の濱は。
 
〔評〕 霰松原を後に打出て見ると、廣々と展開した住吉の濱、そこには崎もない磯もない。只沙濱に千重に五百重に寄せては返る白波ばかりである。乃ち波を中心にこの篇を成した。
 層々反復、徹頭徹尾一語一句も波の上を離れない。如何に作者が波に興味を傾倒し、深く強く諦視して居たかがわからう。然し詩思は甚だ平靜でその熱量を缺いてゐる。又造句に清新の點がない、極めて月並の文句を剪裁して始終してゐる。殊に常に見たい〔五字傍点〕とか見飽かぬ〔四字傍点〕とかいふのは一般の遊覽作の套語で、長短篇に拘はらず、これがその主想となつたものが多く、單調も亦甚しい。漢唐詩人のやうに多趣多樣に縱横無碍に、その詩想を(1649)發揮し得ないのは遺憾である。
 
反歌一首
 
白波之《しらなみの》 千重來縁流《ちへにきよする》 住吉能《すみのえの》 岸乃黄土粉《きしのはにふに》 二寶比天由香名《にほひてゆかな》     932
 
〔釋〕 ○はにふに 埴生に。埴は黄土であるので、「黄土」をハニと訓む。「ふに」に「粉」を充てたのは、音のフヌを特用したもの。「はにふ」は既出(二四八頁)。○にほひて 衣を〔二字右○〕匂はしての意。自他が違ふが、かういふ辭樣が當時成立してゐたのだ。下にも安倍(ノ)豐繼の歌に「住の江の岸の黄土に匂ひて行かむ」とある。尚「匂はさましを」を見よ(二四八頁)。○ゆかな 行かむ。「な」は「家きかな」を見よ(一一頁)。
【歌意】 白波が幾重にも打寄せる、この住吉の岸の黄土《ハニフ》に、衣を染めて往かうなう。
 
〔評〕 住吉の岸の黄土層のことは紀記時代に所見がない。平安朝以後また觸れたものがない。只この萬葉人のみの口頭語である事は妙だ。尤も平安朝からは染色法が一層進歩して、こんな原始的染法は廢れたせゐもあらう。當時としては只それを見るだけでも、莫大なる興味を惹いたらしく、
  めづらしき人を吾家《ワギヘ》にすみの江の岸の埴生を見むよしもがも (卷七――一一四六)
  馬なめてけふわが見つる住の江の岸の埴生をよろづ世に見む (同上――一一四八)
の如き感想をもつてゐた。さてこの歌、
(1650)  草まくら旅ゆく君と知らませば岸の埴生に匂はさましを (卷一、清江娘子――69)。
  馬のあゆみおしてとゞめよ住の江の岸の埴生に匂ひて行かむ (本卷、安倍豐繼――1002)
の同意の作があり、中でもこれは平坦で姿致曲折が乏しいものゝ、白波と黄土は色彩的配合の顯著なるものがあつて、爽かな感じが與へられる。
 集中住の江の岸〔五字傍点〕と續けたのが十四首もある。夙く難波乃吉士氏はこゝを本據として、吉士即ち岸を名告つた。かくも岸に重點が置かれる以上は、その岸に何等かの特徴がなくてはなるまい。抑も住吉の海岸は廣範圍に亘つてゐる。南部は平遠で濱には出見の濱、粉濱があり、浦にはなごの浦(又濱)があり、津には御津、敷津、榎名津の稱がある。然し北部は粘土層の切崖に海潮が去來してゐたらしい。そこには黄土があつて岸の埴生と騷がれ、崖地は榛の生えた野原があり、時にはその崖を崩して新田を闢き、老松矮松は濱から崖地へかけて叢生し、霰松原あり姫松あり、忘貝忘草は詞人の口頭に上るのであつた。實に岸に興趣の多い處であつたと想はれる。
 
山部(の)宿禰赤人(が)作歌一首并短歌
 
これも神龜二年十月の難波行幸時の作とおぼしい。とすると歌中の「難波宮」は味生(ノ)宮であゐ。
 
天地之《あめつちの》 遠我如《とほきがごと》 日月之《ひつきの》 長我如《ながきがごと》 臨照《おしてる》 難波乃宮爾《なにはのみやに》 和期大君《わごおほきみ》 國所知良之《くにしらすらし》 御食都國《みけつくに》 日之御調等《ひびのみつぎと》 淡路乃《あはぢの》 野島之海子乃《ぬじまのあまの》 海底《わたのそこ》 奥(1651)津伊久利二《おきついくりに》 鰒珠《あはびだま》 左盤爾潜出《さはにかづきで》 船並而《ふねなめて》 仕奉之《つかへまつるし》 貴見禮者《たふとしみれば》     933
 
〔釋〕 ○おしてる 既出(九八五頁)。「臨照」は日月の臨照をいふ。その光は世に押し並べて照る故に、意を以てオシテルと訓む。○みけつくに 御食《ミケ》(御饌)を奉仕する國又は處。「みけ」は神又は君に參らする供御をいふ。「つ」は連辭。古義に御饌調《ミケツキ》國の義と解したのは迂遠。○ひびのみつぎと 日々の御貢物として。○あはぢの 四言の句。○ぬじま 淡路國三原郡|沼《ヌ》島。古書に野島又武島と書く。津名郡の野島が崎と紛れ易い。周囘二里、村民悉く漁戸。○わたのそこ 既出(四〇〇頁)。○あはびだま 鰒のもつ珠。眞珠のこと。但こゝは鰒といふに同じい。珠は熟語的文飾である。○かづきで 水に〔二字右○〕潜つて取出し。○つかへまつるし 「し」は單に強辭。契沖訓による。略解訓はツカヘマツルガ〔七字傍線〕。○たふとしみれば 見れば貴し〔五字傍点〕の倒装。契沖訓による。略解訓はタフトキミレバ〔七字傍線〕。△地圖 卷二卷頭總圖を參照。
【歌意】 天地の永遠なるがやうに、日月の長久なるがやうに、難波(ノ)宮にわが大君が四方の國をお治めなさるらしい。そこで〔三字右○〕供御の物を奉仕する國の、日々の御貢物として、淡路の野島(沼島)の海人が、海底の石に附いてゐる鰒を、澤山に潜つて取出し、さてその貢舟を漕ぎ並べて、大君に〔三字右○〕お仕へ申すのをさ、見ると貴いことわい。
 
〔評〕 初頭より「國知らすらし」までが前段、以下が後段である。その前後段の間に關鍵の語がないので、一篇の總意に連絡を缺くが如き嫌を生じ、爲に略解は本文の訓法を變へ、仕ヘマツルガ貴キ見レバとして、「國知らすらし」といふへ返してその意を了すべし」と説いた。然し意解の如くソコデ〔三字傍点〕(乃ち)の語を補入すれば、(1652)訓を變へずに忽に前後の意が疏通する。
 前段は天地日月の悠久を引喩して、極めて莊重に天皇が難波(ノ)宮に天下を知し召す趣を述べた。これは上の笠金村の作中の「眞木柱太高知りて食國ををさめ給へば」とあるに合致する古代思想である。
 後段は筆が一轉して、國民がその熱誠を輸して王事に勤める一例を敍べて、前段に顧應を求めた。事は淡路の野島の海人が大御食に仕へ奉る状景に屬する。人麻呂はその吉野離宮の作に、
  遊副《ユフ》川の神も大御食に仕へまつると、上つ瀬に鵜川を立ち、下つ瀬に小網《サデ》さし渡し、山川も寄りて仕ふる、――。 (卷一――38)
と專ら神の攝理を高唱して、臣民奉仕の事實を言外に彷彿せしめ、これは直接に漁民の奉仕状態を描寫した。
 抑も難波宮と海を隔てゝ相對する海島淡路は、その地理的關係から、行事の際は特に大御食を供する「御食つ國」と定められ、その魚貝を、「日々の調」として奉らしめたらしい。その貢進の野島舟が眞楫しじ貫き、威勢よく難波津さして海上を漕ぎ列ねて行く。これが「船並めて仕へまつる」である。目のあたりこの光景に接した作者は、そこに深い感銘をおこし、さていはく「貴し見れば」と。奉公の行爲の貴さは即ち天威の貴さを反映する。
 かく考へると「野島の海人の」より「さはに潜き出」までの鰒採の行事は、作者の推想で實見ではない事になる。野島舟は實際種々の海産物を運んだであらうが、就中鰒はその海幸の尤なる物なので、作者は特更に鰒採の状况を擇んで叙事的に描出して、野島舟の修飾としたものと思はれる。
 鰒は深海の岩礁に附著してゐるので、「沖ついくりに」といつた。「鰒珠」は眞珠だから、さはに潜き出せる(1653)筈がない。又潜き出ても大御食にはならない、珠は熟語としての文飾である。であるが、それが大君への捧物としてふさはしい感じを齎すので面白い。
  東鰒、隱岐鰒、耽羅鰒、薄鰒、長鰒、短鰒、着耳鰒、放耳鰒、都々岐鰒、横鰒、細割鰒、蔭鰒、凡鰒、御取鰒、鳥子鰒、串鰒、醤鰒、蒸鰒、火燒鰒、鮨鰒、甘煮鰒、
などの目が延喜式に見える。
 結收の「貴し見れば」は見れば貴し〔五字傍点〕の倒装で、この43音の組織から成る促調は、長篇の結語として殆ど定則の觀がある。
 
反歌一首
 
朝名寸二《あさなぎに》 梶音所聞《かぢのときこゆ》 三食津國《みけつくに》 野島乃海子乃《ぬじまのあまの》 船二四有良信《ふねにしあるらし》     934
 
〔釋〕 ○かぢのと 「と」はオトの上略。「かぢひきをり」を見よ(五九九頁)。○みけつくにぬじま みけつ國淡路の野島の略。國を狹義に解すれば、直ちに野島に續けてもよい。
【歌意】 朝凪の海に櫓の音が聞えるわ。あれは〔三字右○〕御食つ國たる、野島の海人の舟でさ、あるらしい。
 
〔評〕 早朝難波の海を見渡しての作である。聽覺から視覺に移つて、想像的假定に終つた。前日その日の漁獲を整理して野島を出帆し、海上二十里餘を何丁櫓かで徹宵漕ぎ通すと、丁度朝凪の頃に難波に到着する。されば(1654)「野島の海人の舟にしあるらし」はまことに尤な推定である。
 首尾一字のたるみもない、爽かな海氣を破る楫の響、朝凪に點々たる舟の動的景致の上に立つて、而も御食つ國の野島舟を想像する作者の襟懷は、如何にも愉快さうである。
 
三年|丙寅《ひのえとら》秋九月十五日、幸(せる)2於播磨(の)國|印南野《いなみぬに》1時、笠(の)朝臣金村(が)作歌一首并短歌
 
〇三年 神龜三年。〇九月十五日 この月日は誤があらう。委しくは評文を參照。〇幸於播磨國印南野 續紀に、神龜三年九月壬寅(廿八日)装束司造頓宮司の任命があり、爲(メ)v幸(サム)2播磨(ノ)國印南野(ニ)1也とある。又冬十月辛酉(十七日)行幸(ノ)從駕(ノ)人、播磨(ノ)國(ノ)郡司百姓等、供2奉(セル)行在所(ニ)1者(ニ)、授(ケ)v位(ヲ)賜(フコト)v禄(ヲ)各有(リ)v差、云々。癸亥(十九日)行(イテ)還(リ)2至(タマフ)難波宮(ニ)1。○印南野 既出(六六五頁)。△地圖 挿圖183(六六五頁)を參照。
 
名寸隅乃《なきすみの》 船瀬從所見《ふなせゆみゆる》 淡路島《あはぢしま》 松帆乃浦爾《まつほのうらに》 朝名藝爾《あさなぎに》 去藻苅管《たまもかりつつ》 暮菜寸二《ゆふなぎに》 藻塵燒乍《もしほやきつつ》 海未通女《あまをとめ》 有跡老雖聞《ありとはきけど》 見爾將去《みにゆかむ》 餘四能無者《よしのなければ》 大夫之《ますらをの》 情者梨荷《こころはなしに》 手弱女乃《たわやめの》 念多和美手《おもひたわみて》 徘徊《たもとほり》 吾者衣戀流《われはぞこふる》 船梶雄名三《ふねかぢをなみ》     935
 
〔釋〕 ○なきすみ 播磨國明石郡江井島の地。今の魚住《ウヲズミ》村の東に隣る。魚住は魚來住《ナキスミ》の中略で、尚ナキスミと讀(1655)むべきを、後世ウヲズミと誤讀したのである。古へ明石|韓泊《からどまり》間の水驛として築港があつた。今は廢してしまつた。○ふなせ 船泊。船居の義で、船を泊め置く處をいふ。但築港に限つて稱するので船津とは異なる。「瀬」は借字。古義の地名と解したのは誤。○まつほのうら 松帆の浦は淡路國津名都松尾崎江崎の邊の稱。○もしほやき 「もしほ」は海藻の汐水より採る鹽。海藻を掻集め、その上に汐水を汲みかける。さて汐の滲み付いた海藻を燒いて水に入れ、その上澄を釜に煮て鹽とする。故に「藻汐燒く」といふ。○ますらを 既出(四〇頁)。○たわやめの か弱い女の如く〔二字右○〕。○おもひたわみて 思ひ撓みて。くよ/\案じ續くるをいふ。○たもとほり 「た」は接頭語。「もとほり」は「いはひもとほり」を見よ(五三九頁)。眞淵訓による。○ふねかぢ 船と楫とのこと。舊訓フナカヂ〔四字傍線〕は非。△寫眞 挿圖185(六七〇頁)を參照。
【歌意】 名寸隅の船瀬から見える淡路の松帆の浦で、朝凪に藻草を刈り刈り、夕凪に藻鹽を燒き/\して〔二字右○〕、海人の少女が居るとは聞くが、それを見に行かう便りがないので、男らしい心も失せて、女のやうにクヨ/\物案じして、ブラ/\あるき廻はり、自分はさ其方《ソチラ》を戀ふることよ、實は〔二字右○〕船と楫とが無さにさ。
 
〔評〕 今囘の印南野行幸は、本文の題詞には九月十五日の幸とあるが、續紀には九月二十八日に頓宮司が任ぜら(1656)れたとあるから、行幸はその以後の事である。又日本紀略には、
  神龜三年冬十月辛亥(七日)行幸(ス)2播磨(ノ)國印南野(ニ)1、甲寅(十日)至(リマス)2印南野(ノ)邑美《オホミノ》頓宮(ニ)1、癸亥(十九日)還2至(リマス)難波(ノ)宮(ニ)1。
とある。されば題詞の十五日の行幸は全く誤である。さて續紀と紀略とを併せて考へると、十月七日に奈良御發輦、同十日に印南野の邑美(ノ)頓宮に御著、それより六日間ほど御遊覽があつて歸路に向はせられ、同十七日に還幸の途中に奉仕者への賞賜があり、同十九日に難波宮に御歸著となる。
 頓宮の所在地邑美は明石郡邑美(ノ)郷(今の金崎附近)で、名寸隅の船瀬の北一里許に當る。然るに印南野(ノ)行幸といひ印南野(ノ)邑美(ノ)頓宮といふ。蓋し印南野は印南郡を中心として加古明石二郡の一部に亘つた汎稱である事が察せられる。
 さて船瀬に就いて一言したい。往古船瀬の稱が諸國にあつた。貞觀九年の官符に、
  則(チ)知(ル)海路之有(ルハ)2船瀬1、猶(シ)3陸道之有(ルガ)2逆旅1。(類聚三代格)
と見えて、船泊の事であるが、長柄(ノ)船瀬(佐吉神代紀) 金《カナガノ》埼船瀕(績紀)水兒《カコノ》船瀬(同上) 太輪田《オホワダノ》船瀬、和邇《ワニノ》船瀬(三代格)など、何れも築港したもので、故に船瀕を造(1657)るといつた。造船瀬料(ノ)田、船瀬(ノ)功徳田、(主税式)獻(ル)2稻(ヲ)船瀬(ニ)1(續紀)などの語、皆築造の工課を語るものである。又私に船瀬を造り又はその料稻を獻じて賞賜に與つた例が多々、紀及び續紀に出てゐる。祝詞に「船居《フナスヱ》作る」とある船居は船瀬の原語である。
  太唐《モロコシ》に遣さむとするに、船居《フナスヱ》なきによりて、播磨國より船乘して使は遣むと念ほしめす間に、皇神の命以ちて船居は吾作らむと教へ悟し給ひき。教へ悟し給ひながら、船居作り給へれば、悦びうれしみ、云々。(祝詞、遣唐使時奉幣)
 名寸隅の船瀬は、僅に斗出してゐる江井島の小懸崖が、その一部であつたことを、今日でも語つてゐる。素より人工を加へた小灣だから、岩礁が少なく水深の餘りない海と思つてよい。隨つて漁撈には全く不向なので、蜃戸蟹屋の影も乏しいとなると、都人士のゆかしがる海人の生活には接すべくもない。邑美(ノ)頓宮から半日の閑を偸んで、わざ/\海にあこがれて來た作者は、こゝに大きな失望を感じたであらう。乃ち一轉して、當面の明石海峽の對岸なる、松帆の浦の藻刈鹽燒を云爲するに至つた。
 淡路の岩屋松帆邊はその地形からいつても、關西方面での海人の本場であつたらう事は疑もない。現今でも鹽燒こそしないが、漁撈は盛んな土地だ。况やその藻刈鹽燒はおもに婦人の仕事だ。作者が往訪の便のないことを慨いて殘念がるのも、そこに一抹の色彩がある。
 抑も行幸供奉の身柄では、松帆までの出遊は不可能な事で、「見に往かむ由」は全く無い。「丈夫の情はなしに、手弱女の念ひたわみて」は勿論誇張で、意對が親貼に過ぎる。「たもとほり――戀ふる」の躊躇低囘は、或衝動に驅られた者の自然的動作である。「船梶をなみ」は假にも般瀬である以上は、舟楫が無いとはどうしても考へられぬ。多分はその際淡路行の船便がなかつたことの托言であらう。然し既に「見に行かむ由のなけ(1658)れば」の聲言があるので、この重複感を如何ともし難い。辯護すれば具象的にその理由を反復絮説したものともいへようが、矢張不快である。又「なしに」「なければ」「なみ」と同語の疊出は、甚しい蕪穢ではあるまいか。
 この篇遊行の作として一機軸を出したもので、遊覽の不能を主題としてゐる。小篇ながら詩情も動いて面白いが、修辭に難點の多いのは遺憾である。
 
反歌二首
 
玉藻苅流《たまもかる》 海未通女等《あまをとめども》 見爾將去《みにゆかむ》 船梶毛欲得《ふねかぢもがな》 浪高友《なみたかくとも》     936
 
〔釋〕 ○たまも 既出(一〇六頁)。○なみたかくとも 初句の上に廻して聞く格。
【歌意】 松帆の涌に〔二字右○〕藻刈する、海人の少女達を見に往かうよ。どうぞ船や楫がほしいな。よし波が高くともさ。
 
〔評〕 長歌の大意を摘んで、結末に至つて「波高くとも」の轉語を下した。海に波は附物だが、殊に明石海峽は潮流關係から風浪の高い處である。作者はそれを意識してゐるらしい。それでも「見に往かむ」といひ張つてゐる。いかに松帆の浦の海人少女に興味をもつて熱中してゐるかが知れよう。殆ど今の東京人が大島のアンコに憧憬をもつてゐるやうな具合である。
 
(1659)往囘《ゆきかへり》 雖見將飽八《みともあかめや》 名寸隅乃《なきすみの》 船瀬之濱爾《ふなせのはまに》 四寸流思良名美《しきるしらなみ》     937
 
〔釋〕 ○ゆきかへり ユキメグリ〔五字傍線〕とも訓まれるが、舊訓に從つた。○みとも 前出(一六三五頁)。○あかめや 「や」は反動辭。○しきる 頻《シキ》るの意。「しき」の動詞格。「しきなみ」を見よ(五九七頁)。
【歌意】 往つたり來たり何遍見るとも、飽かうことかい。この名寸隅の船瀬の濱に、折返しつゝ寄せる白波はさ。
 
〔評〕 希望が實現不可能ときまつては、現在に滿足するより外はない。即ち眼を船瀬の白波に轉じた。そして逍遙多時に及んだ。矢張惡い景色ではない。さては「見とも飽かめや」と、極めて平凡な處に落着してしまつたのも據あるまい。
 
山部(の)宿禰赤人(が)作歌一首并短歌
 
上とおなじ行幸時の作。
 
八隅知之《やすみしし》 吾大王乃《わがおほきみの》 神隨《かむながら》 高所知流《たかしらせる》 稻見野能《いなみぬの》 大海乃原※[竹/矢]《おほみのはらの》 荒妙《あらたへの》 藤江〔左△〕乃浦爾《ふぢえのうらに》 鮪釣等《しびつると》 海人船散動《あまぶねさわぎ》 鹽燒等《しほやくと》 人曾左波爾有《ひとぞさはなる》 浦乎吉(1660)美《うらをよみ》 宇倍毛釣者爲《うべもつりはす》 濱乎吉美《はまをよみ》 諾毛鹽燒《うべもしほやく》 蟻往來《ありがよひ》 御覽母知師《みますもしるし》 清白濱《きよきしらはま》     938
 
〔釋〕 ○やすみしし 既出(三〇頁)。○たかしらせる 六言の句。「たかしりまして」を見よ(一五三頁)。古義訓による。眞淵訓タカシラスル〔六字傍線〕、略解訓タカシラシヌル〔七字傍線〕。舊訓タカクシラスル〔七字傍線〕は非。○おほみのはら 邑美《オホミ》の原。邑美は播磨國明石郡邑美郷。今の金崎清水の附近。印南野は印南郡で郡は異るが、明石郡の平野まで延長して稱したむの。「大海」は邑美の原義か。「※[竹/矢]」は「きしの」の項を見よ(七二九頁)。○あらたへの 藤の枕詞。既出(一八九頁)。○ふぢえのうら 既出(六六三頁)。「江」原本に井〔右△〕とあるは誤。眞淵説に從つた。○しび 鮪。硬鰭類鯖料の魚。眞黒《マグロ》の大なるもの。○うべも 道理でまあ。「うべ」は諸ふ意。○ありがよひ 「ありがよふ」を見よ(七四四頁)。「蟻往來」は戲書。○みますも 眞淵訓によつた。「御覽」は訓み難い。舊訓ミラム〔三字傍線〕はいかゞであるが、古義の訓メサク〔三字傍線〕も僻してゐる。○しるし 證《シルシ》になるをいふ。○きよきしらはま 「しらはま」は白砂の濱の稱。新考訓キヨミシラハマ〔七字傍線〕は鑿。△地圖及寫眞 挿圖184(六六三頁)及び卷二の卷頭總圖參照。
【歌意】 わが天子樣が神樣であらせられるように、假宮造りして〔六字右○〕占めて入らせられる、稻見野の邑美の原のその〔二字右○〕藤江の浦に、鮪を釣るとて海人は立ち騷ぎ、鹽を燒くとて人が澤山出て〔二字右○〕てゐる。浦がまあよさに道理で釣はする(1661)わ、濱がよさに道理で鹽を燒くわ。現に入らしつて、天子樣が〔四字右○〕御覽なさるもその證據さ。いかにも〔四字右○〕きれいなこの白濱よ。
 
〔評〕 「大王の高知らせる」は頓宮造營の事を斥す。頓宮の所在地邑美の原は邑美(ノ)郷、藤江の浦は葛江《フヂエノ》郷で、郷は互に異なるが、頓宮は浦の西北僅に一里半の近距離にある。で大まかに邑美の原の藤江と續けた。歌人の眼には行政區劃などは、さのみ嚴しくは映じない。
 藤江の浦は嘗て人麻呂が、その鱸釣に興味を惹いた場所である。
  あら栲の藤江の浦に鱸釣るあまとか見らむ旅ゆくわれを (卷三――252)
然るをこゝではそれが大物の鮪に變つた。製鹽も亦相當に盛んであつたと見えた。海上では漁船が鮪釣に奮闘し、陸上では製鹽に人達が活躍すると、海陸に亙つて左右に顧眄し、その生き/\と緊張した海人の生活状態に驚異の眼を瞠つた。
 入興の餘、筆は遂に藤江の浦の讃美に進行し、鮪釣るのも鹽燒くのも、「浦をよみ」「濱をよみ」の故であると、力強く反復主張してみた。が作者の心にはまだ物足りない。乃ち天皇臨幸の事を援いて絶對の證左とした。
 藤江の浦はかくして、その清き白濱を天下に誇耀し得た。
 「清き白濱」、今の藤江の浦は沙崖が崩壞して露出し、濱も狹い。古へとてもさう大きな浦ではなささうだ。濱はまことに白砂で、淡路島を近く、小豆島を遠く見るだけでも風景がよい。
 この篇初頭より「藤江の浦に」までは冒頭だが、假に一段と立てゝ見よう。堂々たる敍筆、事は天威に關し(1662)て雄大な氣象が磅※[石+薄]してゐる。中間第二段の四聯對、その前聯の叙景を主とした實對、後聯の感想を主とした虚對、相俟つてそこに變化横生し、意詞共に力量が充實してゐる。而も前後聯の襷掛けの手法は、記紀時代からの古調であるが、奈良時代に入つては、只管敍事や説明の進行に急なるが爲、漸くこの種の手法を見る事が稀になつた。蓋し詩思の興奮を缺くことの多い結果かと思ふ。第三段「見ますもしるし」と初頭に呼應して、一篇の重心を「清き白濱」に歸した。
 聖武天皇がその邑美(ノ)頓宮から藤江の浦に御出遊なされた事は、この歌の示す如くである。作者はその際供奉して、この佳作を獲たものであらう。
 
反歌三首
 
奥浪《おきつなみ》 邊波安美《へつなみやすみ》 射去爲登《いさりすと》 藤江乃浦爾《ふぢえのうらに》 船曾動流《ふねぞとよめる》     939
 
〔釋〕 ○へつなみやすみ 「へつなみ」は既出(六五五頁)。「やすみ」は平穩なるをいふ。仙覺訓ヘナミヲヤスミ〔七字傍線〕。舊訓ヘナミシヅケミ〔七字傍線〕。○とよめる 略解及び古義訓はサワゲル〔四字傍線〕。
【歌意】 沖の波岸べの波が穩かさに、すなどりするとて、藤江の浦に海人〔二字右○〕船がさ、ワヤ/\してゐる。
 
〔評〕 海上は凪いだ。今こそと出動する漁船の呼聲や楫の音が浦波に響動する。まことに勇ましい光景である。「沖つ波邊つ波」と部分的相對的に表現した漸層は、主眼の語たる「やすみ」に力強い波動を與へ、海人の出(1663)動に對する背景を作してゐる。
 
不欲見野乃《いなみぬの》 淺茅押靡《あさぢおしなべ》 左宿夜之《さぬるよの》 氣長在者《けながくあれば》 家之小篠生《いへししぬばゆ》     940
 
〔釋〕 ○いなみぬ 「不欲」を意訓にイナと讀んだ。○あさぢ 「あさぢはら」を見よ(八〇一頁)。○おしなべ 既出(一二頁)。舊訓オシナミ〔四字傍線〕。○さぬる 寢る。「さ」は接頭語。○しぬばゆ 「小篠生」は戲書。
【歌意】 印南野の淺茅を、押靡けて寢る夜が、長く重《カサ〕なるので、郷里の家がさ、懷かしく思ひ出されるわ。
 
〔評〕 今囘の印南野行幸は全部で十二三日の往復に過ぎない。然るに「氣長くあれば」といひ、「家し慕《シヌ》ばゆ」といふ。誇張に過ぎるやうだが、古代人は概して多忙生活でないし、又情味も篤いしするから」かうした感情は早くつよく動き勝であらう。勿論行旅の艱苦は現代人の想像外で、輕(ノ)皇子(ノ)宿(リマセル)2于安騎野(ニ)1時(ノ)歌にも、
  ――御雪ふる阿騎の大野に、旗すゝきしのを押なべ、草枕旅やどりせす古へ思ひて。(卷一、人麻呂――45)
とるか如く、淺茅押靡べの草枕、それが重なつては、愈よ以てその郷愁を釀すに十分であらう。
 
明方《あかしがた》 潮干乃道乎《しほひのみちを》 從明日者《あすよりは》 下咲異六《したゑましけむ》 家近附者《いへちかづけば》     941
 
〔釋〕 ○あかしがた 明石潟。播磨國明石郡。明石の浦が總稱で、そのうちに港もあり、又潟地もあつた。「方」(1664)は潟の借字。○しほひのみち 潮干の時には通行の出來る處をいふ。海邊にはよく見る現象。○みちを 道にて〔二字傍点〕。「を」の辭、普通の用法とすると、をさまる處がない。古文法の一と見て、ニの意に通ふヲと解しておく。○あすよりは 結句に係る句。○したゑましけむ 下笑ましから〔二字傍点〕むの意。この「けむ」は現在完了の推量詞で、過去推量詞ではない。「したゑむ」は心に笑むこと。「した」は心の中をいふ。訓は契沖のによる。新考は「異」を往〔右△〕の誤としてシタヱミユカム〔七字傍線〕と訓んだ。意は明白になるが、改字には一寸躊躇される。○ちかづけば 讀古義にチカヅカバ〔五字傍線〕の訓を提出してゐる。
【歌意】 明石潟の潮干の道で、内々よろこばしからう、明日からは故郷の家が近づくのでさ。
 
〔評〕 明日御還幸ときまつた前日の作である。邑美から明石までは三里許、朝出立すれば滿潮時にならぬ前に潮干の砂路が行かれる。素より本街道ではあるまいが、風景は必ず面白かつたに相違ない。のみならず一足づつに故郷の家に近づく歡喜をさへ加へる。「氣長くあれば家し慕ばゆ」と既に呻吟してゐた作者は、飛び立つ思で、明日の旅程の樂し(1665)さの二重奏を細々密々にその心に描いた。
 
遇(ぐる)2辛荷《からにの》島(を)1時、山部(の)宿禰赤人(が)作歌一首并短歌
 
○過辛荷島時 辛荷島は播磨國揖保部室津の港口の西方に連つてゐる地(ノ)辛荷、中(ノ)辛荷、沖(ノ)辛荷の三箇の島嶼を稱する。播磨風土記に、韓荷(ノ)島(ハ)、韓人破(リ)v船(ヲ)所(ノ)v漂(フ)之物、漂(ヒ)2著(ク)於此島(ニ)1、故《カレ》云(フ)2韓荷(ノ)島(ト)1と見え、土人カラミと呼ぶはその訛。この歌は聖武天皇の播磨行幸供奉の時の作ではあるまい。淡路から一散に辛荷島へと航行してゐる尚また邑美頓宮御淹留の日子から考へると、天皇は恐らく室津邊まで御出遊の遑があらせられぬと思ふ。
 
味澤相《あぢさはふ》 妹目不數見而《いもがめかれて》 敷細乃《しきたへの》 枕毛不卷《まくらもまかず》 櫻皮纏《かにはまき》 作流舟二《つくれるふねに》 眞梶貫《まかぢぬき》 吾榜來者《わがこぎくれば》 淡路乃《あはぢの》 野島毛過《ぬしまもすぎ》 伊奈美嬬《いなみづま》 辛荷乃島之《からにのしまの》 島際從《しまのまゆ》 吾宅乎見者《わぎへをみれば》 青山乃《あをやまの》 曾許十方不見《そこともみえず》 白雲毛《しらくもも》 千重爾成來沼《ちへになりきぬ》 許伎多武流《こぎたむる》 浦乃盡《うらのことごと》 往隱《ゆきかくる》 島乃埼埼《しまのさきざき》 隅毛不置《くまもおかず》 憶曾吾來《おもひぞわがくる》 (1666)客乃氣長彌《たびのけながみ》     942
 
〔釋〕 ○あぢさはふ 目に係る枕詞。既出(五一六頁)。○めかれて 「めかれず」を見よ(七三八頁)。「不數見」を意訓にカレと讀む。(宣長説)「數」を衍字とすればミズテ〔三字傍線〕と訓む。○しきたへの 枕の枕詞。既出(二五五頁)。「數」はシキと訓まれるが、敷〔右△〕ならばなほよい。○まくらもまかず 枕も執らず。「まく」を見よ(三〇〇頁)。○かには 樺櫻(カニハザクラ、カバザクラ)。古名ハハカ、今名は白樺。殻斗の喬木、葉は桑に似て尖頭及び鋸齒を居し互生す、初夏淡緑の花をつけ、果實は十月頃成熟する。樹皮は柔軟靱強なるを以て、物を纏きとゝのふるに用ゐる。和名抄木具(ノ)類に、玉篇(ニ)云(フ)樺(ノ)木皮(ノ)名、可(キ)2以(テ)爲(ス)1v炬(ト)者也、和名|加波《カバ》、又云|加仁波《カニハ》、今櫻皮有(リ)v之とある。○かにはまきつくれるふね 樺の皮を纏いて作つた船。(1)板の繼《ツガ》ひ繼ひを離れぬ爲に樺皮にて綴ぢ付ける船なるべし(古義所引嚴水説)。(2)舳を飾の爲に樺皮にて卷きたるならむ(1667)(略解説)。(3)船底に卷きて腐触を防ぎしなるべし(新考説)。○まかぢ 既出(八四六頁)。○ぬじま この野島は沼《ヌ》島(前出、一六六四頁)でも、野島が崎(六五九頁)でも地理がかなふ。○いなみづま この語義は「いなびづま」を見よ(一一〇一頁)。それに從へば、辛荷島は印南郡とは間に飾磨の一郡を隔てた揖保郡に屬するから印南都麻《いなみづま》辛荷の島とは續けていひ難い。然し實際には種々の轉用がある。即ち航海者は印南の海(今の播磨灘)を本として、印南都麻は印南の海に瀕する沿岸の總稱にも用ゐたとすれば解決がつく。新考はこの句の下に脱句あるかと疑つたが無用であらう。○しまのまゆ 「やまのまゆ」を見よ(八五頁)。○わぎへ 契沖訓による。○こぎたむる 漕ぎめぐる「こぎたみ」(卷三)とも見え、麻行上二段活用。但四段にも活用の例、集中に「沖つ島漕ぎたむ舟は」(卷三)「武庫の浦を漕ぎたむ小舟」(卷三)など見える。○ゆきかくる 舟の〔二字右○〕往き隱るの意。○しまのさきざき 島の先々。古事記(上)に「打ち見る島のさき/”\」、集中に「付き賜はむ島の埼前《サキ/”\》依り賜はむ磯の埼前」(本卷)「八十島の崎邪岐」(卷十三)その他磯の崎々の語も數多見える。○くまもおかず 「くまもおちず」に同じい。同項を見よ(一一〇頁)。「隅」は隈〔右△〕の通用。○おもひぞわがくる 我が思ひぞくる〔七字傍点〕の轉倒。○たびのけながみ 旅中の日子が長さにの意。「け」は來經《キヘ》の約。△地圖 第二冊の卷頭總圖を參照。
【歌意】 思妻の見る目を離れて、その枕もせず、櫻皮《カニハ》を纏いて造つた船に、左右の楫を懸け貫き、自分が漕いで來ると、淡路の野島も通り過ぎ、印南都麻の辛荷の島のあひから、自分の故郷の家を見ると、遠くに靡く〔五字右○〕青山(1668)のその何處とも見えず、白雲も幾重にも重なつて來た。漕ぎめぐる浦の何れも/\に〔右○〕、船の漕ぎ隱れる島々の出崎出崎に〔右○〕、殘る隈なく妻のことを〔五字右○〕憶ひ續けてさ自分は來たよ、旅の日數の久しさによつてさ。
 
〔評〕 開口一番、妹が目の離れ、枕も卷かぬをいふ。信に正直な自白で、夫婦間の愛を高唱するに、古人は何の遠慮ももたず、頗る開けすけなものであつた。後世武人的洗禮を經た時代から、この種の公言を憚り、強ひて痩我慢を張るやうになつた。
 「櫻皮纏き造れる船」から本題に入つて、その航海苦を敍した。古代の船が皆樺を纏いたかは疑問である。恐らく遠海航路の船に限つて、堅牢の上にも堅牢なれと、樺を以てその急處々々を纏いたものか。正倉院の投壺の箭には樺が卷いてあり、今昔物語に樺卷きたる弓がある。古へは盛にこの物を使用したらしい。
 難波の浦から淡路の野島までは略筆した。さて野島から印南の海を漕ぎ進んで、室津の港口を僅に距る辛荷島まで船は來た。
 故郷の天を想望することは、旅人の悲しい又樂しい日課である。地、中、沖の三島嶼から成る辛荷島、作者はこの島の際を透して吾宅《ワギヘ》を回顧した。が海上は遙に播攝境の山から淡路の島山が、青垣なして瀬戸内海の東偏を局り、その視界を遮斷してゐる。即ち「青山のそことも見えず」である。天を仰げば「白雲も千重に」重なつて、徒らに茫漠たるばかりである。畢竟幾度廻顧しても、首の骨こそ痛くなれ、酬いる物は何もない。以上がこの篇の中腹を構成する敍事である。
 昔の航海は常に海岸線近くに聯繋をたもちつゝ行くので、此處彼處の浦傳ひ、磯崎島崎の往きめぐりであつ(1669)た。されば「漕ぎたむる――」「往きめぐる――」の一聯は、航海全程といふほどの意を具象的に表現した辭句となる。
 あはれ萬斛の旅愁はこの海水を傾けても洗ふべくもない。まさに「隈もおかず憶ひぞわがくる」である。奈良京から播磨の國府までの公程は、下三日上五日の規定(和名抄)だから、この航海とても長くて一週間か十日には過ぎまい。それを「旅のけ長み」は聊か大仰らしいが、當時としては矢張大旅行で、假令どんな享樂があつても、「一夜を明かす程だにも旅寢となれば悲しきに」(太平記)と嗟歎した古人の氣持は、現代人の心からは殆ど理解し難い處で、古人の情味の篤さと、一本氣な正直さとに、つく/”\感動させられる。
 結收はかくして冒頭に回顧しつゝ叙情を以て終つた。一寸天武天皇の吉野の御製(卷一)の末尾に似てゐる。「漕ぎくれば」「見れば」の同辭法の重複は矢張白璧の徴瑕であらう。「わが漕ぎくれば」を漕ぎくるなべに〔七字右○〕とでも改めたらば、或は無難であつたらうに。
 この歌は赤人西下の時の作である。その西下の事由は判明しない。卷三に伊豫(ノ)温泉(道後)での懷古の作が出てゐる。或はおなじ折の詠か。
 
反歌三首
 
玉藻苅《たまもかる》 辛荷島爾《からにのしまに》 島囘爲流《しまみする》 水烏二四毛有哉《うにしもあれや》 家不念有六《いへもはざらむ》     943     、
 
〔釋〕 ○しまみする 島めぐりする。「いそみ」を見よ(八五一頁)。○う 鵜。※[盧+鳥]※[茲+鳥]。既出(八三頁)。「水烏」は(1670)その羽色から陸の烏に對へた造語。集中に贈(レル)2水烏(ヲ)越前(ノ)判官大伴(ノ)宿禰池主(ニ)1歌(卷十九)とも見え、爾雅の注に、※[盧+鳥]※[茲+鳥](ハ)水烏也と見えた。○あれや この「あれ」は命令格。「や」は呼格の辭。アレバヤ〔四字傍点〕の意ではない。
【歌意】 あの辛荷島に、島あるきしてゐる鵜でもさ、自分が〔三字右○〕あればよいわさ。そしたらなまじ〔七字右○〕、家など思ふ苦勞もなからう。
 
〔評〕 着想寄拔。「家思はざらむ」は家思ひの念に懊悩してゐる人の歎の聲、無心に磯あさりする鵜の鳥の幸福を羨み、寧ろこの身が即鵜であらうことを希望するに至つた。さればその一旦奇拔と見えたものも、實は小心の餘に出た矯語に過ぎない。情に脆い人間の弱さが如實に暴霹されて悲しい。
 
島隱《しまがくり》 吾榜來者《わがこぎくれば》 乏毳《ともしかも》 倭邊上《やまとへのぼる》 眞熊野之船《まくまののふね》     944
 
〔釋〕 〇しまがくり 島崎の陰に入るをいふ。「かくり」は四段活用の古言。略解訓による。舊訓シマガクレ〔五字傍線〕。○ともしかも この「ともし」は羨ましの意。「ともしきろかも」(二一三頁)「ともしも」(二一七頁)を參照。尚「こごしかも」を見よ(七八〇頁)。○やまと 既出(一二頁、二〇頁、一七二頁)。○まくまぬのふね 「まくまぬ」の「ま」は美稱。「くまぬ」は熊野形の船の稱と假定する。その樣式は判然しない。神代紀(下)、隈野(ノ)諸手《モロテ》船の疏に、熊野(ハ)船(ノ)名、また伊豫風土記に、昔野間(ノ)郡(ニ)有(リ)2一(ノ)船1、名(ハ)熊野(ト)1、後|化2爲《ナレリ》石(ト)1、また同逸文(釋紀所引)に、野間(ノ)郡熊野(ノ)峯、所(ヲ)名(ヅクル)2熊野(ト)1由(ハ)、昔時《ムカシ》熊野|止《ト》云《イフ》船(ヲ)設(ク)v此(ニ)など見え、造船の樣式上から付けた名と考へられる。(1671)この下にも家持の伊勢行幸供奉の歌に「御食《ミケ》つ國志摩の海人《アマ》ならし眞《マ》熊野の小舟に乘りて沖へ漕ぐ見ゆ」とある。但神代紀の諸手船の熊野は、出雲風土記によれば意宇郡の地名で、そこに素盞嗚尊の靈が鎭座されてある。さてはクマヌは出雲族の用ゐた韓語で、語意はさし當つて解釋されてないが、その船は或は朝鮮式の船かも知れない。諸手は漕手の二人以上あるのだから、相當の大きさと速力とを持つた船らしい。舊訓ミクマヌ〔四字傍線〕、今は略解訓による。
【歌意】 島陰に往き隱れ/\して、自分が漕いでくると、羨ましいことよなあ、故郷倭の方へのぼつて行く、あの眞熊野船はさ。
 
〔評〕 作者は折柄西下の途にあつた。船は島隱りする度に故郷倭に遠ざかり、離愁は愈よ益す深く長じてゆく。この際反對の東の方向に針路を取る船を發見したとしたら、とても羨望の念に堪へぬであらう。况やそれが長航海に耐へる眞熊野船なので、更に一歩を進めて、その船をわが懷かしの「倭へのぼる」ものと認定し、力強い懷郷の情を寓せた。
  旅にして物こほしきに山したのあけのそほ船沖に漕ぐ息ゆ (卷二、黒人――270)
とその感想の性質を同じうするものである。
 
風吹者《かぜふけば》 浪可稱立跡《なみかたたむと》 伺候爾《さもらひに》 都多乃細江爾《つたのほそえに》 浦隱居〔左△〕《うらがくりをり》     945
 
〔釋〕 ○さもらひに 伺《ウカヾ》ひの爲〔二字右○〕に。尚「さもらへど」を見よ(四九四頁)。○つたのほそえ 津田の細江。播磨國飾(1672)磨郡。今の津田村これに當り、津田村に隣る飾磨町の内に細江町の稱がある。○うらがくりをり 「居」原本に往とあるは誤。元本その他によつた。
【歌意】 風が吹くので、海上には〔四字右○〕波が荒く〔二字右○〕立たうかと、その模樣見に、津田の細江に、浦隱れしてをるわ。
 
〔評〕 舟※[楫+戈]幼稚な時代とて、動もすれば神經を尖らせて、風まもり波まもり、島隱り浦隱り、海上をまるで忍びあるきのやうな状態で往來したものだ。「涌隱り」とはいつても、津田の細江は本當の港灣ではない。が折柄雲行がわるく風立つて來たので、これは危險と、臨時に手近のこの細江に避難したのである。この種の作はとかく單なる報告に流れ勝なのを、これは古代人の航海心理と感情とが如實に躍動してゐる。
 津田の細江は辛荷島より遙東方であるから、道順が逆になり、過幸荷島歌の反歌としては適切でないが、古人は大まかだから、途中の作をも反歌中に攝したのであらう。
 以上三首は赤人作中の異彩。他の諸作とその風格を殊にして、或は奇峭或は悽婉或は蒼凉、他人の容易に企及し難い佳處好處に富んでゐる。
 
過(ぐる)2敏馬《みぬめの》浦(を)1時、山部(の)宿禰赤人(が)作歌一首并短歌
 
○敏馬浦 既出。「みぬめ」を見よ(六五九頁)。
 
(1673)御食向《みけむかふ》 淡路乃島二《あはぢのしまに》 直向《ただむかふ》 三犬女乃浦能《みぬめのうらの》 奥部庭《おきへには》 深海松採《ふかみるとり》 浦囘庭《わには》 名告藻苅《なのりそかる》 深見流乃《ふかみるの》 見卷欲跡《みまくほしけど》 莫告藻之《なのりその》 己名惜三《おのがなをしみ》 間使裳《まづかひも》 不遣而吾者《やらずてわれは》 生友奈重二《いけりともなし》     946
 
〔釋〕 ○みけむかふ 既出(五一六頁)。こゝは御食《ミケ》に供ふる粟といふを淡路にいひかけた枕詞。○ただむかふ 直ちに對する。「ひなのくにべにただむかふ」を見よ(一一〇〇頁)。○みぬめ 「三犬女《ミイヌメ》」は戲書に近い。○うらわ 佐變動詞に接續する場合の「浦囘」は必ずウラミと訓む。○かる 略解訓によつた。舊訓カリ〔二字傍線〕。○ふかみるの みる〔二字傍点〕の音を疊んで「見まく」に續けた序。「ふかみる」は既出(四〇〇頁)。〇みまく 我妹子を〔四字右○〕見まく。○ほしけど この語態は「とほけども」を參照(九〇二頁)。○なのりその 名告るなといふ如く〔二字右○〕。「おのが名惜しみ」に係る序。「なのりそ」は既出(八四〇頁)。○おのがなをしみ 自分の評判に關はる惜しさに。○まづかひ 相手との間の使。○まづかひも 間使さへも。○いけりともなし 既出(五八二頁)。「重二」は四〔傍点〕の算數的戲書。並二〔二字傍点〕また二二〔二字傍点〕と同趣。△地圖 第二冊卷頭總圖を參照。
【歌意】 淡路島に眞ともに對つてゐる敏馬の浦の、沖合では深海松《フカミル》を採り、浦邊では莫告藻を刈る、その深梅松のミルといふやうに倭にゐる妻を〔六字右○〕見たいが、莫告藻の告《ノ》るなといふやうに自分の名が惜しさに、文通の〔三字右○〕使さへ(1674)も遣らないので、自分は生きてゐる氣もしない。
 
〔評〕 前半は詰まる處、眼前の取材によつた「見まく」「おのが名惜しみ」に對する修飾文字で、一篇の主意はその後牛にある。然し景に依つて情を興し情に依つて景を懷ふ。情景交互の絢ひ交ぜが相照映して、一段の風趣を生ずることを忘れてはならぬ。「おのが名惜み間使も遣らず」は負惜みだが、そこが男の切ない處さ。
 中間、深海松、莫告藻の交錯した襷付けは例の古調である。
 
反歌一首
 
處間乃海人之《すまのあまの》 鹽燒衣乃《しほやきぎぬの》 奈禮名者香《なれなばか》 一日母君乎《ひとひもきみを》 忘而將念《わすれておもはむ》     947
 
〔釋〕 ○すま 既出(九二二頁)。○しほやきぎぬ 既出(九二二頁)。○しほやきぎぬの 鹽燒衣の如く〔二字右○〕。海人の鹽燒衣は大抵著馴らした古着《フルギ》なので、「馴れ」と續けた。初二句は序詞。○なれなばか 「なれなば」は馴染んだなら。「か」は疑辭。○ひとひも 一日なりとも。片時もといふに同じい。○わすれておもはむ 念ひ忘れむの古格。「わすれてもへや」を參照。(二四六頁)。△地圖及寫眞 挿圖276(九二一頁)277(九二二頁)參照。
【歌意】 須磨の海人の鹽燒衣は、著馴れたものであるが、そのやうに狎れ馴染んだ上なら、假令一日でも貴女を、思ひ忘れる事もありませうかしら。
 
(1675)〔評〕 處がまだ馴染まぬうちに別れたので、思ひ忘れる時もないの餘意がある。表現が逆説的だから、一寸要領が握みにくいので、三句を略解及び古義は、近く居て〔四字傍点〕馴れなばと解し、新考はもし離隔に〔三字傍点〕馴れなばと解たが、何れも斜視である。
 作者は婚後間もなく旅に出たものと想像される。「馴れなばか――忘れて思はむ」はほんの物の喩で、本來は馴染むがまゝに愛は濃厚になるものだが、今のさし當つた離愁に感ずる纏綿の情緒を、力強く反映させる爲の善巧方便である。
 
 右(ノ)作歌(ノ)年月未(ル)v詳(カナラ)也。但以(テノ)v類(ヲ)故(ニ)載(ス)2於此(ノ)次《ツイデニ》1。
 
  右の歌は年月が不明だ。但同じ旅行類の作だからこの順に載せたとの意。「右」の語は過2敏馬浦1の作にのみ係けたものか、更に遡つて過2辛荷島1の作にまで及ぶものかは判明しない。
 
四年|丁卯《ひのとう》春正月、勅(りて)2諸王諸臣子等《おほきみたちおみたちに》1、散2禁《はなちいましめたまへる》於授刀寮(に)1時(に)作歌一首井短歌
 
〇四年 神龜四年。○勅諸王云々 王《オホキミ》達や臣《オミ》達に勅命が下つて、授刀寮に禁足せしめられた時に詠んだ歌との意。○散禁 大寶の獄令に、杖罪以下の罪は散禁す、但|巾《カブリ》を脱するに及ばずと見え、義解に謂(フ)d不v關(ラ)2木索(ニ)1唯禁(ズルヲ)c出入(ヲ)uとあつて、禁足に當る。散は放まなること。○授刀寮 續紀に、慶雲四年七月丙辰始(メテ)置(ク)2授刀舍人(ノ)寮(ヲ)1と見え、兵仗を帶し禁中を警衛する。督二人從四位上、佐一人正五位上、大尉一人從六位上、少尉一人正七位上、以下大志二人少志二人あり、舍人は四百人を限り、醫師兵衛衛士の目が見える。大官はその資人とし(1676)て授刀舍人を賜はる。後中衛府の支配を受け、天平神護元年二月近衛府に改められた。
 諸王諸臣子が散禁された事情は左註に委しい。
 
眞葛延《まくずはふ》 春日之山者《かすがのやまは》 打靡《うちなびく》 春去往跡《はるさりゆくと》 山上丹《やまのへに》 霞田名引《かすみたなびき》 高圓爾《たかまとに》 鶯鳴沼《うぐひすなきぬ》 物部乃《もののふの》 八十友能壯者《やそとものをは》 折木四哭之《かりがねの》 來繼比日〔二字左△〕《きつぐこのごろ》 如此續《かくつぎて》 常丹有脊者《つねにありせば》 友名目而《ともなめて》 遊物尾《あそばむものを》 馬名目而《うまなめて》 往益里乎《ゆかましさとを》 待難丹《まちかてに》 吾爲春乎《わがせしはるを》 決卷毛《かけまくも》 綾爾恐《あやにかしこく》 言卷毛《いはまくも》 湯湯敷有跡《ゆゆしくありと》 豫《あらかじめ》 兼而知者《かねてしりせば》 千鳥鳴《ちどりなく》 其佐保川丹《そのさほがはに》 石二生《いそにおふる》 菅根取而《すがのねとりて》 之努布草〔左△〕《しぬふまで》 解除而益乎《はらひてましを》 往水丹《ゆくみづに》 潔而益乎《みそぎてましを》 天皇之《すめろぎの》 御命恐《みことかしこみ》 百磯城之《ももしきの》 大宮〔左△〕人之《おほみやびとの》 玉桙之《たまほこの》 道毛不出《みちにもいでず》 戀比日《こふるこのごろ》     948
 
(1677)〔釋〕 ○まくずはふ 山に係る序詞。葛は山野に蔓ふ物なのでいふ。「ま」は美稱。「くず」は既出(九四六頁)。○かすがのやま 既出(八五九頁)。○うちなびく 春の枕詞。既出(六七七頁)。○はるさりゆくと 春になつてゆくと。「往」原本に住〔右△〕とあるは誤。元本神本等によつて改めた。○たかまと 「たかまとやま」を見よ(六一六頁)。○もののふのやそとものを 「やそとものを」を見よ(一〇三七頁)。「壯」は若盛りの男子をいふ。故にヲと訓む。○かりがねの 雁は秋冷に乘じてつぎ/\來るものなので、「來繼ぐ」に係る序とした。こゝは時季が正月即ち春だから、まことに雁の來繼ぐとしては當らない。梅(ノ)花歌(卷五)の序はおなじ正月に「空(ニハ)歸(ル)故雁(アリ)」と作つてある位だ。「かりがね」は雁と同意に用ゐた。本義は雁が音《ネ》で雁の聲をいふ。「折木四哭」は戲書。契沖がこれをカリガネと訓んだのはよいが、その解説は想像である。「折木四」はまた切木四(卷十)とあり。梅園日記(北靜廬著)に、和名抄雜藝部に、兼名苑(ニ)云(フ)樗蒲一名九采【内典(ニ)云(フ)樗蒲、賀利宇智《カリウチ》】又陸詞曰(フ)、※[木+鳥]【音軒、和名、加利《カリ》】※[木+鳥]子(ハ)樗蒲(ノ)采(ノ)名也とある。折木四は即|樗蒲子《サイ》の事にて、それは小木を薄く削り兩邊を尖らしめて、形杏仁を削ぎたる如し。その半面は白く、半面は黒く塗りて、白き方二に雉を畫き、黒き方二に犢を畫き、これを投じて其の采《メ》色によりて勝負をなす。西土(支那)にてはこれを四木といひ、又五子の采にてするを五木といへり。祈〔傍点〕又は切〔傍点〕の字を加へたるは長木ならぬをいふ。かゝれば折木四は樗蒲子の事にて、加利《カリ》の假字としたる也。云々。(卷三)
 又、狩谷※[木+夜]齋の箋註倭名抄、樗蒲の註に、
(1678)  喜多村氏節信曰(フ)、樗蒲用(ヰル)2四子(ヲ)1、云々。以(テ)v之(ヲ)反復互(ニ)換(フレバ)、則(チ)九變(シテ)而止(ム)。故(ニ)又名(ヅク)2九采(ト)1。
節信に折木考のある事は、その著嬉遊笑覽中にも明記してあり、正辭氏は梅園が節信の説を竊んだものとしてゐる。
○きつぐこのごろ 續いて來るこの頃。官人達の來集まるをいふ。「比日」原本に皆〔右△〕とあるは誤。宣長及び略解説によつて改めた。但その訓キツギコノゴロ〔七字傍線〕は非。○かくつぎて 原本に「石此續」とある。宣長及び略解の「石」を如〔右△〕の誤として、訓カクツギテとあるに從つた。○つねにありせば 何時もであるならば。この「つね」は平生の意。○ゆかましさとを 「さと」は春日の里。この「まし」は第四變化連體格。○まちかてにわがせしはるを わが待ち敢へず思ひし春をの意。「春を」はこの下の「戀ふる」に係る。尚「えかてにすとふ」を見よ(三一九頁)。訓は契沖のによる。○かけまくも 既出(五三〇頁)。「決」は挂《カケ》の意。宇鏡に、※[韋+蝶の旁](ハ)決也、弓加介《ユガケ》とあるカケである。缺〔右△〕の誤とするにも及ぶまい。○あやにかしこく 略解及び古義訓のカシコシ〔四字傍線〕は非。○ゆゆし 既出(五三〇頁)。○ちどりなく 佐保川に係る序詞。「ちどり」は既出(六八七頁)。○そのさほがはに その佐保川にて〔右○〕。「さほがは」は既出(二七三頁)。○すがのね 「やますげ」を見よ(七三六頁)。○しぬふまで 萎《シナ》へるまで。「しぬふ」は「心もしぬに」のしぬ〔二字傍点〕の動詞形で波行四段活の古語か。「眞木の葉のしなふ」(卷三)のしなふ〔三字傍点〕と相通の語と思はれる。「草」は二手《マテ》の二字の誤寫であらう。古義は原文のまゝで、春野を慕《シヌ》ぶ思ひ種《グサ》の意と解したのは當らぬ。次の「祓へてまし〔二字右△〕を」は禍を拂ふにて、思ひ種を拂ふのではない。新考に、この句は枕詞ならでは意通ぜすとあるも拘つてゐる。○はらひ 祓除。罪咎を拂ひ清むること。「解除」も同意。○みそぎ 既出(九三六頁)。○みことかしこみ 「みこと」(七三二頁)及び「かしこし」(五三〇頁)を見よ。○おほみやび(1679)との 「宮」原本に官〔右△〕とあるのは誤。元本その他による。△地圖及寫眞 挿圖170(六一七頁)169(六一四頁)87(二七三頁)を參照。
【歌意】 春日の山は春になつてくると、山邊に霞が靡き、高圓山に鶯が嶋くわ、數多の官人達は寄りに寄つてくるこの頃、何時もの事なら、友達を引連れて遊ばうものを、そして馬を乘り並べて行かう春日の〔三字右○〕里であるものを、その待ち敢へず焦がれた春を、ゆくりなく勅勘を蒙つて〔十一字右○〕、かけて思はうにも奇《アヤ》しく恐れ多く、口にいはうにも憚ありと、前以て知らうなら、千鳥嶋くその佐保川で、石間に生えてゐる山菅の根付きを取つて、そのしなしなになるまで罪を祓はうものを、逝く水に潔修《ミソ》いで穢を濺がうものを、悔しくも何もせずして〔十字右○〕、勅命を恐み畏れて、大宮人達が外出もせず立籠つて、徒らに餘所の春〔八字右○〕を戀ふるこの節であることよ。
 
〔評〕この篇は豫備知識として、まづ左註を讀んで、その大體の事情を知悉しておく必要がある。
 時は神龜四年の正月、春のしるしの霞幕は春日山に曳かれ、お隣の高圓山には鶯が新聲を奏でてゐる。祝ひ月の事とて、王子方や官人達が續々參朝や參陣やで繰り込んで、頗る賑やかだ。
 忽に侍從や授刀寮の人達の間で、打毬の催しが成り立つて、打揃つて春日野へ出掛けたのであつた。侍從はこの頃出身したばかりの若者が多いし、その他も相當血氣盛りの連中の事とて、お役目も忘れて見物の彌次馬まで飛び出したらしい。處が惡い事は出來ぬ。初春だといふに生憎の雷雨だ。その爲打毬の遊が潰れた位は何でもない。いとも大變な事件が出來してしまつた。 
 抑も天變地異は非常時の一つで、迷信深い古へは特に恐懼したものであつた。雷鳴の際には侍從の臣は玉體(1680)に近侍し奉り、武官は弓箭を帶して禁裏に侍衛する。令に明文こそないがこれが不文律であつた。平安期では雷鳴三度に及べば近衛の大將はじめ出陣して南殿に候し、さて襲芳舍に宿衛するので、襲芳舍を雷鳴の陣と稱したほどだ。
 珍しい雷雨で、主上は獨宸襟を悩ましてあらせられたのに、皆は春日野で濡佛、宮中に「侍從及び侍衛の臣なし」といふ涯りない失體を現じた。勅命忽に降下して、職務曠廢の廉《カド》により、その連中を授刀寮に禁足。
 「いやも、こんな掛けまくもいはまくも畏い忌々《ユゝ》しい禍つ日を前知したなら、早く佐保川に出て、岸の山菅を取つて、思ひ切りそのクタ/\になるまで、河水を晒いで潔修《ミソギ》して祓つて置けばよかつたに」と、今更悔んでも後の祭だ。
 川原に打出て祓除潔身、罪咎の穢を水に流して、遂に海から根の國へと順々に送り棄てる行事は、わが太古からの習俗で、大祓の詞(祝詞式出)の具さに示す如くである。
 愈よ禁足されてみると、日が經つに隨つて意地わるく、樣々な想念が頻に湧く。第一春といふ好もしい行樂時季、例年なら朋友三五輩を聯ね、白金の目貫の太刀を下げ佩いて、街頭への進出だ。或は新柳の枝を鞭に代へ轡を並べての新春の遊賞だ。次の反歌に見える如く、佐保の内の梅柳、春日高圓の山野や奈良山佐紀山の春日郊行、水上池(佐紀池)佐保川の舟遊など、尚澤山の行樂地もあつたらう。それを何ぞや、今は拘禁の身で、假にも大宮人たる者が、尺前一歩の道も日月の光を憚つて踏まず、待ち受けた希望の多い春を、空しく授刀寮の築土の陰から戀しがつて、不本意の日數を送る。實に心外なと慨歎した。然しその慨歎は根本に培はれてある享樂的氣分の反映であることが看破される。
(1681) 本事件は驕り切つた若者達の失敗であるが、面白いのは奈良人の心理も大して後世人と變らない事だ。近眼者は奈良時代は萬事が丈夫《マスラヲ》振で、剛健質實、勤勉素朴、誠意に充ち滿ちてゐるかのやうに幻想してゐる。令文の規程や續紀の法令や記事やを裏返して考察すると、矢張り御多分に洩れぬ同じ人間同じ世の中で、あらゆる醜怪な罪惡は横行してゐたのであつた。尤も國體觀念や敬神思想や氏族のもつ自尊精神や社會の傳統的慣習やに、往古からの竪實な思想が、半面に力強く流れてゐた事も確かだ。それが奈良人の特徴とでもいへよう。
 「眞葛はふ」より「鶯嶋きぬ」までの冒頭の一段は、この篇の全背景を構成してゐる。以下「わがせし春を」までが第二段の前節、以下「解除《ミソ》ぎてましを」までがその後節である。前節は「常にありせば」の假設的辭柄のもとに行樂の希望を布敍し、「待ちかてにわがせし春を」の句を關鍵として、第三段への跨續を求めた。後節は「かねて知りせば」の假設的辭柄のもとに、罪穢祓除の過怠を絮説し、前後兩節「まし」の語を大膽に疊用して、その散禁無聊中の閑想に耽つた。「おほきみの」以下は第三段で、一轉して散禁の現在状態を敍べて、前二段に反撥せしめた。「大宮人の」の一句は實に冷語骨に徹する思がある。但第二段前節の敍法に稍明晰を缺く憾もあるが、それも聞き樣による事である。
 王子諸臣子達の授刀寮の散禁、一寸注意の惹かれる題目だが、詠作の主想が春遊不可能の遺憾さにのみ置かれて、散禁そのものを輕く扱つた爲、極めて凡常な感想で終始してしまつた。それを逆にしたら定めて特色のある面白い作を見たことであらう。
 
反歌一首
 
(1682)梅柳《うめやなぎ》 過良久惜《すぐらくをしみ》 佐保乃内爾《さほのうちに》 遊事乎《あそびしことを》 宮動々爾《みやもとどろに》     949
 
〔釋〕 ○すぐらくをしみ 過ぐることを〔三字右○〕惜しみ。○さほのうち 佐保(ノ)郷の内。「さほ」を見よ(七三八頁)。○みやもとどろに 宮内も轟くほどに。この下、いひ騷ぐ〔四字右○〕の語が略かれてある。△地圖 挿圖170(六一七頁)を參照。
【歌意】 梅の盛りや柳の新緑の時過ぎることを勿體ながり、嘗ての春〔四字右○〕佐保の内で遊んだことを、宮内も轟くほどに、禁足の皆々がいひ立てたわい〔十三字右○〕。
 
〔評〕 佐保は奈良京の北郊で地域は狹いが、梅柳の春の景物に富み、又秋の風趣にも饒かであつた。
  我が門にもる田をみれば佐保の内のあき萩薄おもほゆるかも(卷十――2221)
 禁足連はその曾遊を憶ひ出して、實にあの時は面白かつたが、かうしてゐる間にもその梅も散り柳も伸び過ぎはしまいかと苦勞にして、盛に騷ぎ立てたといふ。「宮もとどろに」は素より大いなる誇張である。
 長歌の評中に、樂天氣分がその底に低迷してゐるといつた。茲にはそれが公々然と不謹愼と思はれる程に、表面的に打つて出てゐる。その暢氣さ加減には實に驚かされる。古義の説の
  佐保の内へ出で遊びし事を、宮中とよみていひ騷がれつゝ、散禁の罸にあひてをるがいぶせし、はまるで見當違ひで、散禁の因は長歌及び左註に見える如く、春日野の出遊で、佐保の遊には與らない。隨つて「宮もとどろに」は他人がお節介にさう騷ぐのではない、當人達が春を惜んで騷ぐのである。
 結句、その誇張と※[立+渇の旁]後の辭樣とによつて、頗る含蓄味を饒からしめた。
 
(1683)右神龜四年正月、數《モロ/\ノ》王子《オホキミ》及(ビ)諸《モロ/\ノ》臣等《オミタチ》、集(リテ)2於春日野(ニ)1、而作(ス)2打毬之樂(ヲ)1。其日忽(チ)天|陰《クモリテ》雨(フリ)雷電(ス)。此(ノ)時宮中(ニ)無(シ)2侍從及(ビ)侍衛1。勅(シテ)行(ヒ)2刑罰(ヲ)1、皆|散2禁《ハナチイマシメテ》於授刀寮(ニ)1而妄(ニ)不(ラシメタマフ)v得v出(ヅルコトヲ)2于道路(ニ)1。于時悒憤即(チ)作(ル)2斯歌(ヲ)1。作者未v詳(カナラ)。
 
 神龜四年正月、諸王子及び諸臣達が春日野に集まつて打毬の遊をした、その日急に空が曇つて雨が零り雷電かあつた。この時宮中には、侍從の文官も侍衛の武官も居ない、そこで勅命があつて刑罰の處斷があり、遊に往つた輩を皆授刀寮に禁足し、妄に外出を許されなかつた、時に憂欝して即ちこの歌を作つたとの意。○作者未詳 事が事、歌が歌だから、始から作者は不明にしてあつたものらしい。○打毬 毬杖をもつて毬を打つ遊戲。和名抄に、打毬、唐韻(ニ)云(フ)、毬(ハ)丸(メテ)v毛(ヲ)打(ツ)者也。劉向別録(ニ)云(フ)、打毬(ハ)昔黄帝(ノ)所v造(ル)、本因(リ)2兵勢(ニ)1而爲(ル)v之(ヲ)、云々。師説(ニ)云(フ)萬利宇知《マリウチ》。紀には打毬を蹴鞠と混同した。こゝの打毬之樂は打毬の遊樂の意で、雅樂の打毬樂ではあるまい。
 
五年|戊辰《つちのえたつ》、幸(せる)2于難波(の)宮(に)1時、作歌四首
 
〇五年戊辰幸于難波宮 神龜五年難波行幸のこと、續紀に所見がない。紀は誤漏が多いから、この題詞の如き(1684)事實はあつたと見てよからう。但、歌は難波行幸とは全く無關係なる相聞歌である。
 抑もこの卷は雜歌を採録するが本旨だから、相聞歌のあるべき筈がない。想ふに或人が、この四首を記した短籍(附箋)を卷三あたりの譬喩歌か相聞歌かの部に挿んで置いたのが、誤つて此處に紛れ込んだのを、そのまま後の筆者が本文に書き入れたものらしい。又いふ、この四首を※[手偏+(ク/内/比)]入として考へると、「五年云々」の題詞は直ちに下の「膳《カシハデノ》王(ノ)歌一首」とあるに係るものと見てよい。
 
大王之《おほきみの》 界賜跡《さかひたよふと》 山守居《やまもりすゑ》 守云山爾《もるとふやまに》 不入者不止《いらずはやまじ》     950
 
〔釋〕 ○さかひたまふと 界をなさるとて。「界ひ」は佐行四段活に古へは用ゐた。○やまもり 既出(九〇八頁)。○もるとふ モルチフ〔四字傍線〕の訓もよい。○やまに 山にも〔右○〕の意と見る。
【歌意】 假令天子樣が界を立て給ふとて、山番を置いて守るといふ山にも、界を犯して這入らずにはおくまい。――まして親の守る位の女を手に入れずにおくものか。
 
〔評〕 寄托の言であることは明かだが、文字上から見ると、事天威に關聯して甚だ不穩である。極端の誇張を志して、却て破綻を生じた。よつて意釋はその意を緩和して解して置いた。作者の本意とても恐らくその邊であつたのだらう。
 
(1685)見渡者《みわたせば》 近物可良《ちかきものから》 石隱《いそがくり》 加我欲布珠乎《かがよふたまを》 不取不已《とらずはやまじ》     951
 
〔釋〕 ○ちかきものから 近くにある〔二字右○〕もの故に。○いそ 磯。石處の義。○かがよふたま 耀く珠。
【歌意】 見渡すと、ごく手近にあるものを、その磯隱れに耀く珠を、手に取らずにはおくまい。――とても近くに住むものを、その箱入娘を、終には手に入れずにはおくまい。
 
〔評〕 磯隱れに耀ふ珠は鰒珠即ち眞珠である。眞珠ほど珠玉類の中で女性的の感じをもつ物はない。隨つて婦人に擬へるにふさはしい。而も今日よりもその産額が少くて、非常な高貴品であつた時代としたら、その譬喩は最大限度の敬慕を拂つたものといへよう。「磯隱りかがよふ」といつても、眞珠は貝中の珠で、剥き出しに光つては居ない位は作者も知つてゐようが、深閨中の美人を彷彿させるには、かういふより外はなからう。結句も類句が卷七に二首あるが、この際至當の下語である。但初句の「見渡せば」は浮泛で面白くない。この語は「見渡せば明石の浦にともす火の」(卷三)の如く用ゐて、始めて可なるものである。
 
韓衣《からごろも》 服楢乃里之《きならのさとの》 君〔左△〕待爾《きみまつに》 玉乎師付牟《たまをしつけむ》 好人欲得《よきひともがも》     952
 
〔釋〕 ○からごろも 韓衣。(1)朝鮮の衣、(2)朝鮮式の衣、(3)「から」を美稱として、單に衣のことゝする。こゝは(3)の意。○きならのさと 衣の著馴るの馴る〔二字傍点〕を奈良にいひ懸けた。「から衣著」までは奈良に係る序詞。○(1686)ならのさと 奈良京の一部にこの稱あるか、未考。上にも「奈良路なる島の木立も」と見えた。○きみまつに 君待つにより〔二字右○〕。待つ〔二字傍点〕に松をいひ懸けた。「君」原本に島〔右△〕とある。宜長いふ、下にも「吾宿の君まつの樹に」と詠めれば。こゝも島〔傍点〕は君〔傍点〕の誤と。○たまをしつけむ 玉を著けむ。「し」は強辭。○よきひと 優れた人。卷一には淑人〔二字傍点〕を訓んである。こゝでは物の辨へある人をいふ。新考は「人」を玉〔右△〕の誤とした。簡明であるが、わざと改める程の必要もない。
【歌意】 衣は著馴らす、その馴るといふ名の奈良の里のお方を待つによつて、その待つといふ名の松の樹に、玉をさ飾り付けう處の〔二字右○〕、譯のわかつた人も欲しいなあ。
 
〔評〕 待たれる人は京人で、殊にそれが壻の君であるとしたら、超特別の歡迎方法を考へねばならぬ。隨分宿に玉敷く手もあるが(本卷、及び卷十二、卷十八、卷十九に所見)、こゝには新手《シンテ》を出して、庭の松の樹に玉を飾つたらとの名案、然し深閨中の婦人とすると、それは心の内で思ふだけで、獨やきもきして、只もう氣特の利いたよき人の出現を待望した。
 初二句の辭樣は、卷三「をとめ等が袖ふる山の」の評中に詳説した。
 「きなら」「君まつ」のいひ懸け、こんな細瑣な技巧は集中に多分に疊見する。これに枕詞や序詞の有する類似の技巧を加へて見たなら、殆どその煩に堪へぬであらう。傳統は爭へないものだから、平安朝の技巧的修辭を論ずる前に、まづこの集の同じ方面を具に囘顧する必要があらう。
 
(1687)竿牡鹿之《さをしかの》 鳴奈流山乎《なくなるやまを》 越將去《こえゆかむ》 日谷八君《ひだにやきみに》 當不相將有《はたあはざらむ》     953
 
〔釋〕 ○さをしか 牡鹿。「さ」は美稱。「竿」は借字。尚「かなかむやまぞ」を見よ(二八七頁)。○ひだにや 「や」は反動辭。○きみに 新考はキミハ〔三字傍線〕と訓んだが不自然である。○はたあはざらむ 「はた」は「はたや」を見よ(二五八頁)。
【歌意】 平時はとにかく〔七字右○〕、牡鹿の鳴いてゐる山を、越えて行かうこの時なりとも、貴女にさし當つて、逢はずにあらうことかいな。
 
〔評〕 鹿の鳴くのは秋で、それは妻戀の爲である。その秋山を獨旅して行かうことを想像すると、男は鹿以上に妻戀ひの念に打たれて溜らなくなり、出立前に是非逢はうと思つたが、生憎や會合の機會がない。焦燥胸に迫つて、時もあらうに逢はずに別れ行くことか、いや行かれることではないと、男泣に泣いてゐる。
  み吉野の山のあらしの寒けくにはたや〔三字傍点〕今宵もわが獨寢む(卷一――74)
とその意趣風格が類似して、やゝ一籌を輪するが、而も聲響から生ずる凄酸味は同調である。
 
右、笠(ノ)朝臣金村之歌集〔左○〕中(ニ)出(ヅ)也。或(ハ)云(フ)車持(ノ)朝臣千年作(メリト)v之(ヲ)。
 
 金村歌集中にこの四首があつたのなら、金村作として差支へないやうだが、すべて左註に擧げた某歌集〔三字傍線〕といふものは甚だしどけない上に、第三首の如きは婦人の作らしいから、「右」の字は「さをしか」の一首にのみ係(1688)けて見るべきか。或人の車持千年作の説にも、同じ理由が共通する。「集」原本にない。補つた。
膳王歌《かしはでのおほきみの》一首
 
○膳王 膳部王、また膳夫王と書く。膳王は部〔右△〕の字或は脱か。既出(九八〇頁)。
 上の「五年戊辰幸2難波宮1時作歌四首」の題詞は、この条の始に置くべきものと思ふ。但この神龜五年の行幸は績紀には見えない。
 
朝波《あしたには》 海邊爾安左里爲《うなびにあさりし》 暮去者《ゆふされば》 倭部越《やまとへこゆる》 鴈四乏母《かりしともしも》    954
 
〔釋〕 ○うなび 海辺《ウミベ》の轉。山び、河び、岡び、濱びの續きと違つて、ウミの尾韻からビに續くので、ウナ〔二字傍点〕と轉じた。△地圖 第一冊 卷頭總圖參照。
【歌意】 朝方にはこの海邊に求食《アサリ》し、夕方になると、故郷倭へ山越えてゆく雁がさ、羨ましいなあ。
 
〔評〕 難波行幸の御供人としての膳部王を考へる。折々は人戀しさに故郷倭(奈良)へ歸りたいが、その自由は一切利かない。近くて遠い憾を抱いて、悄然として蘆邊の雁の行動を伺ふと、朝には難波の海に求食り、夕べには生駒連山を飛び越えて行く。山のあちらは即ち懷かしの倭である。はかない生物の雁も、圖らず人間羨望の的となるに至つて、旅情の凄慘、人をして酸鼻に禁へざらしめるものがある。
(1689) 初二句と三四句との排對、地理的に雄大な光景を想はしめ、屑々たる技巧に囚はれぬ点は推賞に値する。
 
右、作歌之年月不(ル)v審(ナラ)也。但以2歌(ノ)類(ヲ)1便載2此|次《ツイデニ》1。
 
 この左註は、歌を難波宮行幸時の題詞下の作とすれば、「但云々」は全然不用の文字となる。
 
太宰(の)少貮《すくないすけ》石川(の)朝臣|足人《たりひとが》歌一首
 
○太宰少貮 既出(七九三頁)。○石川朝臣足人 「石川足人朝臣」を見よ(一一六二頁)。以下また宰府の詠作が連載されてある。
 
刺竹之《さすだけの》 大宮人乃《おほみやびとが》 家跡住《いへとすむ》 佐保能山乎者《さほのやまをば》 思哉毛君《おもふやもきみ》     955
 
〔釋〕 ○さすだけの 君、皇子《ミコ》、大宮に係る枕詞。また舍人に冠するは大宮の〔三字右○〕舍人といふを略いたもの。刺《サ》し竹《ダケ》の轉。始より刺す竹の意ならばタの音は清む筈なるを、紀をはじめ古書皆濁音の陀、太などの字を充てゝあるから、複合名詞の刺し竹〔三字傍点〕を原語とする。大神宮儀式帳に五百枝利《イホエサス》竹田乃國ともある。(1)若竹の枝刺し葉刺し榮え行く意にて、君、大宮、皇子に續けていふか、「さす」は草木の生ひ殖《ハ》りて生榮えあるをいふ(守部説)。(2)狹虚《サス》竹の黍《キミ》を君にいひかけ、さて皇子とも大宮とも續く(古義説)。(3)立《タ》つ竹の轉(古説)。三説のうち(1)が勝つてゐる。○いへとすむ 家として〔二字右○〕住む。○さほのやま 既出(一〇〇八頁)。○おもふやも 「や」は疑辭。「も」は歎辭。△地圖及寫眞 挿圖170(六一七頁)87(二七三頁)を參照。
(1690)【歌意】 大宮人の貴方が〔三字右○〕、家として住まれた佐保の山をば、思ひ出しになりますかえ、貴方はよ。
 
〔評〕 大宮人は大伴旅人卿を斥した。旅人は門閥の名家で、この時從三位中約言兼太宰帥である以上は、堂々たる大宮人である。また奈良に於けるその佐保山の家は、父安麻呂卿以來の傳承で、音に聞えた名邸宅である。乃ちこの佐保山を拉へ來つて、今や鎭西の方伯となつて君は榮えて居られるが、時には故京戀し家戀しの念がお生《オコ》りでせうと、少貮さん足人は帥殿の急處を突いてみたものだ。「佐保の山をば思ふ」は歸家を念ふの暗喩である。
 こゝに一寸經緯がある。上の「五年幸于難波宮」の題詞の年代をこゝに係ければ、神龜五年の作と見られる。旅人の筑紫在任はこの時既に足掛け四年に及んでゐる。作者も卷四にこの年遷任上京の事が出てゐるから、旅人以上に長年在任して居たと見てよい。すると元々自分が持て餘してゐる懷土望郷の念から、同情的にこの質問を發したものと考へられる。更に今一層立入つて考へると、自分の抱いてゐる羈愁を、體裁よく旅人の口から吐かせようと試みた狡獪手段ともいへよう。
   藤なみの花はさかりになりにけり奈良の京《ミヤコ》をおもほすや君(卷三、大伴四綱――330)
と殆ど同調の作である。よつてその評語(七九七頁)を參照されたく、又卷五「雲に飛ぶ藥はむよは」の条の評語をも參考(一四八九頁)。
 
帥《かみ》大伴(の)卿《まへつぎみの》和《こたふる》歌一首
 
大宰帥の旅人卿の返歌との意。○帥 既出(七九八頁)。○大伴御 旅人の傳は既出(七三頁)。
 
(1691)八隅知之《やすみしし》 吾大王乃《わがおほきみの》 御食國者《をすくには》 日本毛此間毛《やまともここも》 同登曾念《おなじとぞおもふ》     956
 
〔釋〕 ○をすくには 新考に、食國なれば〔三字傍点〕といはでは辭足らずとあるは、迂に近い。「をすくに」は既出(五三三頁)。「御」は敬意を以て添へた。○やまともここも故郷の〔三字右○〕倭もこゝの筑紫〔三字右○〕も。
【歌意】 天子樣の御統治なされる日本國は、倭でも筑紫の此處でも、同じ事だとさ私は〔二字右○〕思ひます。――別に佐保の家の事も思ひません。
 
〔評〕 九寸五分で横腹に突つ懸つて來たのを、大段平でカツキと受け止めた貌である。足人は私人の立場から一場の情語を弄した。旅人は公人の立場から、詩の小雅北山篇の「普天之下、莫(シ)v非(ルハ)2王土(ニ)1」の意を主張して反撃した。實は表面的の理屈を楯とした強がりの痩我慢だから、その心中の葛藤に至つては、却て凄愴甚しきものがあらう。決して樂天的放語ではない。
 應歌が「刺竹の大宮人」と堂々と來たので「八隅ししわが大王」と應酬した。この邊の呼吸に息も吐かれぬ面白味がある。
 
冬十一月、太宰(の)官人等《つかさびとら》、奉(り)v拜《をろがみ》2香椎《かしひの》※[まだれ/苗](を)1訖《をへて》退歸《まかる》之時、馬(を)駐《とどめ》2于香椎(の)浦(に)1、各述(べて)v懷(を)作歌
 
神龜五年冬十一月に、太宰府の役人達が香椎の廟の參詣が濟んで歸る時に、香椎の浦に馬を駐めて、それ/”\心のうちを詠んだ歌との意。○太宰 太宰府を見よ(七九三頁)。○香椎廟 筑前國糟屋郡香椎村にある。香椎廟宮と称し、今官幣大社に列する。神功皇后を祀る。或は仲哀天皇を祀るとす。「香椎」はまた橿日、樫日と(1692)も書く。和名抄に加須比《カスヒ》とあるは平安期の訛称である。「※[まだれ/苗]」は廟の古文で靈屋をいふ。この社に限り神社といはずして廟といふは、制蕃の神として特に神靈を奉祀された爲か。社は古くよりあつたらしいが、本社古記に、養老七年造營、神龜元年に成就の記事がある。○香椎浦 香椎廟の西に接した博多灣の一部の称。△地圖挿圖217(七四四頁)を參照。
 
帥大伴(の)卿(の)歌一首
 
○大伴卿 旅人卿のこと。
 
去來見等《いざこども》 香椎乃滷爾《かしひのかたに》 白妙之《しろたへの》 袖左倍所沾而《そでさへぬれて》 朝菜採手六《あさなつみてむ》     957
 
〔釋〕 ○いざこども 既出。「いざ」及び「こども」を見よ(二三五頁)。○かしひのかた 香椎潟。香椎の涌は博多灣の奥部に屬し、遠淺で潟地を成してゐた。○かたに 潟にての意。「滷」は鹵水の合字。鹵は鹽土。鹽土の水に從ふは即ち潟である。○しろたへの 衣及び袖などの枕詞。既出(二八頁)。○そでさへ 裳裾は素より〔六字右○〕袖までも。○あさな 朝食《アサケ》の料の菜。菜はこゝでは海藻を称した。○ぬれて 既出(一五〇二頁)。
【歌意】 さあお前達よ、私も一緒に〔五字右○〕この香椎潟で、裾から〔三字右○〕袖までもビシヨ/\になつて、朝菜を摘まうぞ。
 
〔評〕 香椎廟は韓地制禦の神であり、太宰府は邊防の職であるから、神人不可分の關係に置かれてある。で帥卿を始め府の官人達は一同打揃つて賽詣した。宰府から香椎までは五里強、馬での遠乘なら朝詣に間に合はぬこ(1693)こともないが、多分前夜を一泊したものらしい。
 香椎參詣に必ず伴ふものは香椎潟の優賞だ。宰府の平野から出て來た人達の眼を悦ばしめるに足る風光であつた。參詣さへ濟めばもう用なし、あとは一時的解放の自由行動だ。
 帥卿は從者達に對つて「いざ子ども」と呼び懸け、香椎潟で一緒に朝菜摘をしようぞと、いかにも打解け切つたお詞だ。「袖さへ沾れて」は朝菜摘の状態の形容として適實である。この一句あるが爲に、朝菜摘が衣袂の沾れをも厭はぬ程興味深いものと受け取られ、隨つて「摘みてむ」に力強い示唆を與へる。
 「摘みてむ」は希望で、その實行に移らぬ間に有餘不盡の味ひがある。宰府の長官しかも御老體の帥卿が、本當に從者達と水なぶりをしてしまつたのでは埒はなくなる。
 閾を撤して衆と偕に樂しむ温雅な氣持、暢んびりした大樣な態度、流石に帥卿旅人の風格が想見される。
 
大貮|小野老《をぬのおゆの》朝臣(が)歌一首
 
○大貮 「太宰少貮」及び「太宰府」を見よ(七九三頁)。○小野老 既(1694)出(七九三頁)。老はこの時にはまだ少貮に任じたばかり。こゝに大貮とあるは、その極官を以て擧げたものだ。
 
時風《ときつかぜ》 應吹成奴《ふくべくなりぬ》 香椎潟《かしひがた》 潮干※[さんずい+内]爾《しほひのうらに》 玉藻苅而名《たまもかりてな》     958
 
〔釋〕 ○ときつかぜ 時に當つて吹く風。こゝはさし潮の時に吹く風をいつた。○しほひのうら 「※[さんずい+内]は水の廻り流るゝ内面をいふ。よつて浦に充てた。○かりてな 既出(三六七頁)。
【歌意】 さし潮時の風が、生《オコ》りさうになつた。香椎潟の潮干の浦で、はやく〔三字右○〕海藻を刈らうよ。
 
〔評〕 海潮滿干の差が著しい地方では潟地も忽ち海だ。香椎宮參拜を終へて浦邊に打出た頃は、大方晝の退潮の頂上で、一しきり遊ぶと、もう時つ風が吹き立つてさし潮時になる。そこで今の間遊べるだけ遊ばうといふ事を玉藻刈に托言した。
   時つ風吹かまく知らず阿胡《アコ》の海の朝明《アサケ》の潮に玉藻刈りてな (卷七――1157)
   ゆふされば潮滿ち來なむ住の江の淺香の浦に玉藻刈りてな(卷二、弓削皇子――121)
は同想同型の作。殊に前首は一心同體、何れを影とも形とも辨知し難い。
 
豐前(の)守|宇奴首男人《うぬのおびとをひとが》歌一首
 
○宇奴首男人 傳未詳。宇奴は氏 首は姓。政事要略(廿二)に、舊記(ニ)云(フ)、養老四年大隅日向兩國(ノ)隼人《ハヤト》發《オコス》v亂(ヲ)、勅(シテ)以(テ)豐前(ノ)守字奴(ノ)首男人(ヲ)1爲(シ)2將軍(ト)1、祈(リ)2八幡(ノ)大神(ニ)1伐(ツ)v之(ヲ)、多(ク)殺(ス)2隼人(ヲ)1大(ニ)勝(ツ)v之(ニ)、於是《コヽニ》爲(シ)2放生會(ヲ)1報(ズ)2神恩(ニ)1とある。(1695)姓氏録に宇奴(ノ)首(ハ)、百濟(ノ)國君(ノ)男、彌奈曾富意彌《ミナソホオミ》之後也と。但續紀を檢すると、養老四年二月に太宰府より隼人反亂の奏上があり、三月に正四位下大伴旅人が征隼人持節大將軍、從五位下笠(ノ)御室、同巨勢(ノ)眞人が副將軍に任ぜられたと見えて、字奴男人の將軍たる事がない。要略に、養老四年までは九年間になる。その間國守でゐたとしては法外の長期である。恐らく守は介の誤であらう。隼人反亂當時は豐前介(六位)であつたとすれば、位階が卑いから將軍たる筈も殆どあるまい。要略の記事は誤つてゐる。
 
往還《ゆきかへり》 常爾我見之《つねにわがみし》 香椎滷《かしひがた》 從明日後爾《あすゆのちには》 見縁母奈思《みむよしもなし》     959
 
【歌意】 豐前の國府から宰府へ往復の度に、何時も自分が見たことであつたこの香椎潟、明日から後には、二度と見ようすべもないわ。
 
〔評〕 香椎潟を再訪し難い遺憾の表明、間接にその風光の面白さが反映する。
 養老四年の隼人征伐の際、常時豐前介だつた男人は大將軍旅人の部將として働いた男だ。旅人が帥として再び筑紫に來てから又被管の關係を生じたのだから、公務以外に深い交情があつたと見てよい。
 九州及び二島は皆宰府の被管だ。豐前守たる作者も隨時宰府に參向して、帥卿の膝下に排跪の禮を怠らなかつたらう。香椎潟はその序に訪問した馴染み深い土地で、まことに「ゆき返り常にわが見し」であつた。然るに「明日ゆのち」なぜ見む由もないのか。
 男人は當時豐前守の秩が滿ちて、歸京の途に上る際であつたと考へられる。で帥卿に暇乞かた/”\宰府に參(1696)向したらしい。帥卿はこれを好機会に、少貮小野朝臣をはじめ作者等を同伴して、香椎に出動に及んだ。されば男人はこれが香椎の見納めなのであつた。
 「常にわが見し」「見む由もなし」の相反的應接、率直と正直さとはあるが、餘り親貼に過ぎるかと思ふ。
 
帥大伴(の)卿(の)遙(に)思《しぬびて》2芳野(の)離宮《とつみやを》1作歌一首
 
旅人卿が宰府から、遙に芳野離宮を戀ひ思うて詠んだ歌との意。
 
隼人乃《はやひとの》 湍門乃磐母《せとのいはほも》 年魚走《あゆはしる》 芳野之瀧爾《よしぬのたきに》 尚不及家里《なほしかずけり》     960
 
〔釋〕 ○はやひとの 既出(六五七頁)。○せと 薩摩の〔三字右○〕迫門の略。「さつまのせと」を見よ(六五七頁)。○いはほも 巖でさへも 。「磐」は盤〔右△〕とある本もある。二字は通用。○よしぬのたき 「たぎのみやこ」を見よ(一四八頁)。○なほ やはりの意。○しかずけり 既出(八二四頁)。△地圖及寫眞 挿圖177、178(六五六、六五七頁)。50(一五一頁)を參照。
【歌意】 いかに見事な〔六字右○〕薩摩の迫門の巖だつても、故郷倭の〔四字右○〕、鮎が走る吉野の瀧には、矢張かなはぬわい。
 
〔評〕 薩摩の迫門の岩壁岩礁の存在は、賞に雄大奇※[山+肖]を窮めたもので、とても規模の小さな吉野の瀧の比ではない。これが公論である。
 作者は心裏にそれを肯定しつゝも、「尚及かずけり」と斷言した。これは決してお國自慢の横車を押したの(1697)ではない。その實眞劍深刻な國|慕《シヌビ》の念がハンデキヤツプとなつて、吉野の瀧の價値が倍加されたからである。平然として迫門の巖を蹴落し得るほど、作者の胸中には國慕びの念が鉢切れさうになつてゐる。それが悲しい。「鮎走る」の形容はその特徴を擧げて、事實上からも吉野の瀧により多く價値づけようとの小努力である。すべて大きな聲の揚言ではなくて、悄然首を垂れて口の内につゞしつた趣の歌である。楚調凄然として窮りない感愴を内に藏し、表現は全く技巧外に超越して、一唱三歎の妙味がある。可笑しいのは古義に、
  薩摩は太宰の所部の國なれば、香椎廟より歸らるゝ序に往きて見られしなるべし。
とあるが、香椎から薩摩の迫門は百里も隔つてゐる。序などに往ける處ではない。この歌は上の香椎行とは全然關係をもたぬ別時の作である。
 
帥大伴(の)卿(の)宿(りて)2次田温泉《すきたのゆに》1、聞(きて)2鶴喧《たづがねを》1作歌一首
 
旅人卿が次田の温泉に泊つて、鶴の鳴く聲を聞いて詠んだ歌との意。○次田温泉 筑前國|御《ミ》笠郡次田(ノ)郷の湯。(今筑紫都二日市町武藏にあり、武藏温泉といふ)。竹取物語、空穗物語、古今集等に、筑紫の湯とあるはこゝの事。○鶴喧 「喧」はかまびすしの意で形容詞であるが、こゝは名詞とした。△地圖 挿圖217(七四四頁)を參照。
 
(1698)湯原爾《ゆのはらに》 鳴蘆多頭者《なくあしたづは》 如吾《わがごとく》 妹爾戀哉《いもにこふれや》 時不定鳴《ときわかずなく》     961
 
〔釋〕 ○ゆのはら 湯のある原野。○あしたづ 「あしたづの」を見よ(一〇〇二頁)。「頭」をヅと讀むは呉音。○こふれや 戀ふれば〔右○〕や。○わかず 「不定」を意訓に讀む。
【歌意】 次田の〔三字右○〕湯の原に鳴く鶴は、自分が吾妹子を戀ふるやうに、嬬戀るせゐかして、何時といふ事なしに鳴くわ。
 
〔評〕 次田の湯は太宰府の南郊にあり、天拜山下の平原で、まさに湯の原である。而も鶴も下り立つ※[さんずい+如]沮地であつたらうことは、疑もない地勢である。
 本年の暮春、旅人卿はその愛妻大伴郎女を喪はれた。(卷五、一三九七頁參照)。鶴の渡來は早くても十月であるし、上に「冬十一月云々」の題詞ある香椎行があるから、それから推せば、次田の湯治はまづ十一月十二月の交と(1699)見られる。郎女の逝後漸く半歳餘に過ぎない、
 温泉場の雰圍氣は孤獨感をいやが上にも唆るもの。况や老いて伉儷喪うた彼れである。追慕の暗涙は時に衣袂を湿すに堪へぬものがあつたらう。この時に當つて不斷の鶴唳を前面の湯の原に聞く。鶴も鳴き、我れも泣く。「なく」が兩者の連鎖となつて、「わが如く妹に戀ふれや」と、自身の情懷を鶴の上に寄托した。蓋し詞人の慣手段である。流石の醉客旅人も茲に至つては、酒の氣が全然醒めてゐる。「なく」の重複の如きは更に耳に障らない。
  打渡す竹田の原に鳴く鶴《タヅ》の間なく時なしわが戀ふらくは (卷四――760)
は妹君坂上郎女の作で同調に屬するが、此れは常々勁健、彼れは句々流麗、おのづから男女の色相を殊にしてゐる。尤も郎女のは遙 に後出である。
  
天平二年|庚午《かのえうま》、勅(りして)遣(したまへる)d擢駿馬使《こまえらびのつかひ》大伴(の)道足《みちたるの》宿禰(を)u時(の)歌一首
 
天平二年勅命で駿馬を探し求める使大伴(ノ)道足を筑紫に遣はされた時の歌との意。歌の作者は左註によれば葛井廣成《フヂヰノヒロナリ》である。○擢駿馬使 擢駿馬はコマエラビと訓む。この使は臨時に派遣される。「駿」は和名抄に、駿(ハ)馬之美称。漢語抄(ニ)、土岐字馬《トキウマ》、日本紀私記(ニ)、須久禮太留宇萬《スグレタルウマ》とある。○大伴道足 績紀に、慶雲元年正月從五位下、和銅元年三月從五位上讃岐守、同五年五月正五位下、同六年八月彈正(ノ)尹《カミ》となり、養老四年正月正五位上、同十月民部大輔となり、同七年從四位下、天平元年二月權參議となり、同三月正四位下、同九月兼右大辨となり、同三年八月諸司の擧に依つて擢んでられて參議となり兼官故の如く、同十一月南海道鎭撫使となる。天平十三(1700)年に薨逝。
 
奥山之《おくやまの》 磐爾蘿生《いはにこけむし》 恐毛《かしこくも》 問賜鴨《とひたまふかも》 念不堪國《おもひあへなくに》     962
 
〔釋〕 ○おくやま 既出(七三六眞)。○いはにこけむし 「こけむし」は「こけむす」を見よ(六一二頁)。初二句は「かしこく」に係る序詞。深山の岩に苔の生えたのは恐ろしく見えるのでいふ。○おもひあへなくに 歌を〔二字右○〕思ひつき得ぬのに。歌を考へることを歌思ひ〔三字傍点〕といふ。
【歌意】 奥山の岩に苔が生え、それが畏く見えるやうに〔八字右○〕畏くも、歌はどうかとお尋ねなさることよ、私には思ひ付きかねますのにさ。
 
〔評〕 一口に輿車といふが、奈良時代の乘物は輿の外は馬であつた。車は乘物として支那では馬車牛車羊車の類があり、わが邦では平安期に至つて牛車を用ゐるやうになつたが、その以前には車を用ゐなかつた。蓋し道路が不備で車行に適せぬせゐもあつたらう。力車は用ゐたが。
 で馬が頗る幅を利かせ、紀には諸臣の騎馬の行粧を叡覽された記事が再三掲載された。擢駿馬使を立てられる事も、それらの必要上からも起つたと見られる。然し筑紫に馬を求めることは異例であらう。馬は大抵日本中部以東の山國を産地としてゐる。但國守の職掌中には厩牧の事が規定されてゐたから、九州でもそれ/”\その飼育には力めてゐたものであらう。
(1701) 勅使道足は帥卿の一族で、当時權參議で在京大伴氏の代表者であつた。かた/”\歡迎の宴を帥の官邸で開き、官吏達を會同した。その中に葛井(ノ)連《ムラジ》廣成は勅使隨行の駅使で、下向して來た男であつた。乃ちこの男を捉まへて、須(シ)v作(ム)2歌詞(ヲ)1と責め立てたものだ。これには譯がある。廣成は養老三年に大外記で遣新羅使となつた程の漢學者で、(天平十五年に新羅使攝待に筑紫に下つた事もある)又詩作にも達成してゐる文雅の士である。されば國風の歌は彼れの畑《ハタケ》にあるまいとの豫想から、そこに興味をもつたものだらう。
 女牛に腹突かれたとはこの事、眞逆と思つたのが、聲に應じての「畏くも問ひ給ふかも思ひあへなくに」は、正にその實况に即した屬吐で、而も彼我を相對的に扱つた流活の妙は、時に取つて頗る面白い。主人帥卿、尊者道足を始め、一同唖然として驚歎したことであらう。
 但上句は全部、古い譬喩歌に、
  奥山のいはに蘿《コケ》蒸しかしこみと思ふこゝろをいかにかもせむ (卷七――1334)
 とあるを一寸拜借して融通したらしい。この來歴を知る者は、更に廣成の當意即妙の頓才に敬服したことであつたらう。尚卷七の本歌の評語を參照。
 
右、勅使《ミカドヅカヒ》大伴(ノ)道足(ノ)宿禰(ヲ)饗《アヘス》2于帥(ノ)家(ニ)1。此(ノ)日|會2集《アツム》衆諸《モロビトヲ》1。相2誘《イザナヒ》駅使《ハユマヅカヒ》葛井《フヂヰノ》連《ムラジ》廣成(ヲ)1、言(フ)v須《ベシト》v作(ル)2歌詞(ヲ)1。登《ソノ》時廣成應(ジテ)v聲(ニ)即(チ)吟《ウタヘリキ》2此歌(ヲ)1。
 
 擢駿馬の勅使大伴(ノ)道足を帥卿旅人の家で饗應した。この日諸人を寄せ集めた、駅使である葛井(ノ)廣成をその席に誘うて、歌を詠みなさいと慫めた、その時廣戌がその聲のもとに、すぐ樣この歌を朗吟したとの意。
 
(頭注に、奉和藤太政佳野之作 正五位下中宮少輔葛井廣成 という漢詩、たぶん懷風藻、があるが、省略)
 
(1702)○駅使 既出(一一八四頁)。○葛井連廣成 本姓|白猪史《シラヰノフヒト》。續紀に、養老三年閏七月大外記從六位下で遣新羅使となり、同四年 五月葛井連の氏姓を賜はる、天平三年正月正六位上から外從五位下、同十五年三月新羅の使來朝に就いて筑前に派遣、供給檢校のことを掌り、同六月備後守、同七月從五位下、同二十年二月從五位上、同八月天皇その宅に行幸留宿、廣成及びその室犬養(ノ)宿禰八重に正五位上を授けられ、勝寶元年八月中務少輔となる。下に天平八年十二月、歌※[人偏+舞]所の人達がその家に宴した事が出てゐる。音樂にも通じてゐたと見える。武智麻呂傳には文雅の士として擧げてある。卷四卷五卷六に筑後の守葛井大成の名が見える。廣成の兄弟か。
 
冬十一月、大伴(の)坂上(の)郎女《いらつめが》發《たち》2帥(の)家(を)1、上道《みちだちして》、超(ゆる)2筑前(の)國|宗像《むなかたの》郡|名兒《なご》山(を)1之時(に)作歌一首
 
天平二年冬十一月、大伴郎女が兄帥卿旅人の家を出立して、上京の途にのぼつて、筑前國宗像郡の名兒山を越える時に詠んだ歌との意。○大伴坂上郎女 既出(八六七頁)。○名兒山 宗像郡|荒自《アラジノ》郷(今の宮地村|在自《アラジ》)。勝浦村より田島村へ越える小山。有名なる宗像神社より西南に當り、今ナチゴ山といふ。筑前續風土記に、
  昔は勝浦より此處(名兒山)を過ぎ、田島より垂水越をして、内浦を通り蘆屋へ行くを大道としたり。
とある。
 
(1703)大汝《おほなむぢ》 小彦名能《すくなびこなの》 神社者《かみこそは》 名著始鷄目《なづけそめけめ》 名耳乎《なのみを》 名兒山跡負而《なごやまとおひて》 吾戀之《わがこひの》 千重之一重裳《ちへのひとへも》 奈具佐米七國《なぐさめなくに》     963
 
〔釋〕 ○おほなむぢ 既出(八三二頁)。○すくなびこな 既出(八三二頁)。〇かみこそ 「神社」を充てたのは、當時|神社《カミコソ》の氏もあるから、別に戲書ではなからう。○なづけそめけめ この山に〔四字右○〕名兒の名を附け初めたことであつたらう。この句の下に、然るに〔三字右○〕の語を挿入して聞く。○なのみを 「おひて」に係る。○なご 和《ナゴ》の義に取る。○ちへのひとへも 既出(五六五頁)。○なぐさめなくに 「米」原本に末〔右△〕とあるは誤。元本その他によつた。正辭は未〔右△〕の誤として、未にメの音ありと論じたが、迂遠である。
【歌意】 大汝少彦名の二神こそは、この山に〔四字右○〕心の和むといふ名兒の名を付けそめられたことであつたらう。然るに〔三字右○〕(1704)この山は、そんな結構な〔六字右○〕名ばかりを負ひ持つて、私の戀心の千分の一も、一向に慰めはせぬのにさ。
 
〔評〕 紀記に據れば、大汝少彦名の二神は相携へて國土を經營し、又稼穡の業を教へられたといふ。隨つて經營功成る毎に、その山川 國土に命名されたと想像することも、作者の自由であらう。
 「なご」は海邊に於いては風波の平穩を象徴した名称として、可なり廣區域に亘つて用ゐられてある。然し山の名には珍しい。作者はその自家の境遇から「なご」の名義に一不審を打ち、名のみあつてその實なしと喝破して、暗に名付け親たる大少二神に反問し怨訴してゐる。いかにも女らしい情緒の發露である。
 「吾戀」の對象は何か。これに(1)都を戀ふ(2)兄旅人を戀ふ(3)夫を戀ふの三つの考方がある。(1)は一般的でふさはず、(2)は兄の許を別れてまだ一日路位に過ぎぬとなると、(3)を取上げて見るより外はあるまい。
 郎女が藤原(ノ)麻呂(ノ)卿を夫として迎へたのは、前夫|宿奈《スクナ》麻呂の逝後暫くしての事であつた。二人の間に女の子までも擧げた程であるが、何かの事情から關係が疎遠になり、郎女は意を決して宰府の兄旅人卿の許に走つた。それも一時的興奮の餘で、居常戀々の情に耐へぬものとすれば、愈よ歸京の途に上つては火に油を濺いだやうな形で、その「吾戀」はまことに「千重」なるものがあつたらう。
 郎女は名兒のなだら坂を往きながら、山の名に※[夕/寅]縁して、こんな事を思ひ續けた。途上の口占として、小詩形ながらもかく完璧に仕上げた、その手腕には敬服する。
  名草《ナグサ》山事にしありけりわが戀の千重の一重もなぐさめなくに (卷七・1213)
は、長短の差こそあれ、この歌と着想も詞形も同じだ。後先何れか。
 
(1705)同、坂上(の)郎女(が)海(つ)路(にて)見(て)2濱(の)貝(を)1作歌一首
 
郎女が海辺の路で浜辺にある貝を見て詠んだ歌との意。これも上京の途上の事である。
 
吾背子爾《わがせこに》 戀者苦《こふればくるし》 暇有者《いとまあらば》 拾〔左△〕而將去《ひろひてゆかむ》 戀忘貝《こひわすれがひ》     964
 
〔釋〕 ○こふれば 旧訓コフルハ〔四字傍線〕。○ひろひて 古義訓ヒリヒテ〔四字傍線〕は古に泥み過ぎた。「拾」原本に捨〔右△〕とあるは誤。元本その他によつた。○こひわすれがひ 戀忘るに忘貝をかけた。○わすれがひ 既出(二四六頁)。
【歌意】 吾背子に戀すれば苦しいことわ。暇があるなら、濱邊で〔三字右○〕拾つて往かうよ、戀を忘れるといふ名の忘貝をさ。
 
〔評〕 今は征旅の途次、眼前咫尺の地にも逍遙の餘暇がない。「暇あらば」は暇のない反言である。
 「戀わすれ貝」の辭樣は、小手先の小技巧で、集中この外四首あり、別に「戀わすれ草」と詠んだのが一首ある。そのうち卷十五の歌は天平八年遣新羅使一行の人の作である。萬葉人も漸うこんな小技巧を悦ぶやうになつて來たことに注意を要する。中にも、
  いとまあらば拾ひに行かむ住の江の岸に寄るとふ戀わすれ貝 (卷七――1147)
はこの歌と全く同規で、形影相伴ふ觀がある。但「戀ふれば」といひ、又「戀わすれ貝」とあり、その他修辭の點に於いて此れは彼れに劣る。
 
(1706)冬十二月、太宰(の)帥大伴(の)卿(の)上(る)v京《みやこに》之〔左○〕時、娘子《をとめが》作歌
 
天平二年冬十二月、旅人卿が上京の時、兒島娘子《コジマヲトメ》が詠んだ歌との意。○兒島娘子 左註に遊行女婦とあり、その傳未詳。
 
凡有者《おほならば》 左毛右毛將爲乎《かもかもせむを》 恐跡《かしこみと》 振痛袖乎《ふりたきそでを》 忍而有香聞《しぬびてあるかも》     965 
 
〔釋〕 ○おほならば 大凡ならば。尋常ならば。○かもかもせむを 斯《カ》も如此《カク》もせむをの略。契沖訓による。旧訓サモトモセムヲ〔七字傍線〕。○ かしこみと 元本、類聚本の訓による。旧訓カシコシト〔五字傍線〕。○ふりたきそで 卷一「茜さす紫野ゆき」の歌の評語(九四頁)を參照。 ○しぬびて この「しぬび」は忍耐の意。
【歌意】 大抵ならば、あゝもかうもしませうものを、貴方樣の御身分柄〔九字右○〕恐れ入つた事として、今のお別に對し〔七字右○〕、振りたい袖を、振らずに〔四字右○〕我慢してをりますことかいな。
 
〔評〕 装束を脱いで、遊行婦兒島を相手に盃を擧げてゐる時は、その醉泣に手を燒かせる徒《タヾ》の老人に過ぎない。いざとなつて笏を執れば從三位太宰帥大伴旅人卿だ。今や卿は多年の蟄懷こゝに啓けて、新大納言としての都還り、晴の征途に上る門出でゝあつた。大少貮や守を始め、府庁國衙の官人は厮走の末に至るまで、その甘棠の徳を慕つて、我も/\と盛な見送りだ。 
(1707) 水城《ミヅキ》は府の正西約二十町許の處にある。その關門を出ればもう宰府の人でない。多くの人達は心ゆく限その袖を打振つて、我れも/\とその惜別の情意を表するのであつた。時にその人達の後ろに、じつと齒を喰ひしばつて涙を呑んでゐる女が一人あつた。それが兒島なのである。
 「遊び者の推參は世の常に候ふ」と、不斷は帥殿の官宅に出入して、特別な眷顧を蒙つてゐたとはいへ、失張陰の人である以上は、人目に露はれての袖振も恐こい。すれば出來ぬことはないが、卿の御身分の爲にさし控へて忍ぶのであつた。「振りたき袖を忍びてある」その態度の愼《ツヽ》ましさ、及び情理の葛藤から生ずる苦悩が※[酉+鰮の旁]釀する悲傷は、頗る同情に値する。「おほならばかもかもせむを」は一旦思索を經ての語だから、情熱の力の隨つて弱いのは止むを得まい。
  草まくら旅ゆく君を人目おほみ袖振らずして數多《アマタ》くやしも (卷十二――3148)
もこの同調である。
  大宰(ノ)帥大伴(ノ)卿(ノ)被《レ》v任(セ)2大納言(ニ)1臨v入《イラムトスル》v京(ニ)之時(ニ)、府(ノ)官人等餞(スル)2卿(ヲ)筑前(ノ)國|蘆城駅家《アシキノハユマヤ》1歌四首
といふ題詞が卷四にある。それは出發前の餞宴である。
 
倭道者《やまとぢは》 雪隱有《くもがくれたり》 雖然《しかれども》 余振袖乎《わがふるそでを》 無禮登母布奈《なめしともふな》     966
 
〔釋〕 ○やまとぢ 既出(一一六五頁)。○しかれども 「ふる袖」に係る。○なめし 無禮。蔑《ナミ》すの形容詞格。
【歌意】 貴方の旅立つた〔七字右○〕倭の方の路は、雲に隱れてゐる。それでも構はず、私の戀しさに振る袖を、失礼なと思(1708)つて下さるな。
 
〔評〕 帥卿訣別後の情景である。
 行々又行々、帥卿の影は遠離つてしまつた。その辿られた倭路を望めば、只愁雲が漠々と横たはるのみである。無論見送り人達は疾くの昔に退散して、何時までも自分一人がぼんやりとそこに佇立してゐる。もう誰れに氣兼ねもない、元來が情意表示の爲の袖振も、もうかうなつては對手の居る居ないは問題でなくなる、只抑へ怺えた自己の滿足が買へればよいのである。
 これは誰れも居ぬ處で振る袖である。それにさへ帥卿のお咎めを恐れて、「なめしと念ふな」の懇願は、飽くまでも自覺に富んだしほらしい謙虚な心根から出た詞で、實際貰ひ泣がされる。
 日蔭者は何時の世でもつらい。殊に門閥が喧ましく、階級制度の巖乎たる古代の社会状態を知悉すると、この作の哀婉さが深刻に受け取られて、更に悲痛なものとならう。その誠實さは名家大家の驕婦悍婦よりも遙に尊い遊行婦兒島である。
 
右、太宰(ノ)帥大伴(ノ)卿、兼2任《メサレ》大納言(ニ)1、向《ノボル》v京(ニ)上道《ミチダチス》。此(ノ)日馬(ヲ)駐《トヾメ》2水城《ミヅキニ》1、顧《カヘリ》2望(ム)府(ノ)家(ヲ)1。于時《トキニ》送(ル)v卿(ヲ)府吏《ツカサビトノ》之中(ニ)、有(リ)2遊行女婦《ウカレメ》1、其(ノ)字《ナヲ》曰(フ)2兒島《コジマト》1也。於是《コヽニ》娘子傷(ミ)2此(ノ)易(キヲ)1v別(レ)、嘆(キ)2彼(ノ)難(キヲ)1v會(ヒ)、拭(ヒテ)v涕(ヲ)自(ラ)吟(フ)2振袖《ソデフル》之歌(ヲ)1。
 
 旅人卿が大納言に召し出され、京へと出發した、この日馬を水城に駐め、從來住んでゐた宰府の家を振返つて名殘を惜しんだ、その時卿を送る宰府の役人の間に、遊行婦でその名を兒島といふのが混つて居た、この兒島(1709)娘子が人間の別れ易く会い難いことを悲傷して、涕を拭ひつゝ、以上の袖振の二首の歌を吟つたとの意。○兼任 後任のきまるまで、一時的に太宰帥のまゝで大納言に任じたのだから、兼任と書いた。遷〔右△〕任の誤とする説は非。任大納言は天平二年十月一日。○此日 天平二年十二月某日。○水城 下の「ますらをと」の歌の条を見よ。○府家 宰府の帥の住宅。○遊行女婦 ウカレメ。アソビメ。遊女。卷一「草枕旅ゆく君と」の歌の評語中、遊女の條を參照(二五〇頁)。
 
大納言大伴(の)卿(の)和歌二首
 
日本道乃《やまとぢの》 吉備乃兒島乎《きびのこじまを》 過而行者《すぎてゆかば》 筑紫乃子島《つくしのこじま》 所念香裳《おもほえむかも》     967
 
〔釋〕 ○きびのこじま 「きび」は古ヘ吉備(ノ)國といひ、三備及び美作を總称した。「こじま」は備前國兒島郡兒島。古事記(上)に、生(ム)2吉備(ノ)兒島(ヲ)1、亦(ノ)名(ヲ)謂(フ)2建日方別《タケヒカタワケト》1と見えて、備前國南部の大島。○つくしのこじま 遊行婦の兒島をさす。「子」は兒に通用。
【歌意】 倭街道の吉備の兒島を、通り過ぎて行かうなら、定めし〔三字右○〕筑紫の兒島、即ちお前のことが、思ひ出されようかいなあ、同じ名なので〔六字右○〕。
 
〔評〕 上の兒島の贈歌を旅人卿は途上で入手したものであらう。これは「倭路は雲隱れたり」の作に唱和したもの(1710)の如くである。吉備の兒島は海路の要津、筑紫の兒島は人中の名妹、相封的の同称呼でこそあれ、この人と物との間には、從來何の交渉も更にもたなかつた。偶ま作者の纏綿たる離情が楔子となつて、端なくそこに聯繋が生じた。矚目のもの悉く感傷を催すは旅客の慣ひ、况やこの兒島にあつてかの兒島を懷ふは當然の歸結。
 極めて平易な口占ではあるが、輕い戲謔と率直なる眞情とが綯ひ交ぜになつて生動してゐる。
    
大夫跡《ますらをと》 念在吾哉《おもへるわれや》 水莖之《みづぐきの》 水城之上爾《みづきのうへに》 泣將拭《なみだのごはむ》     968
 
〔釋〕 ○ますらを 既出(四〇頁)。○われや 「や」は疑辭。○みづぐきの 水城《ミヅキ》に係る枕詞。ミヅキの類音を重用した。「みづぐき」は瑞瑞しき莖の意。宜長はいふ、莖といへば木の事にも草の事にもなれり、木の神を久々能知《クヽノチ》といふにて心得べし、水城と續けたるは、瑞瑞しき莖の瑞木《ミヅキ》と重ねたるなりと。但瑞木とまではいかゞ。○みずき(1711)のうへ 水城のほとり。水城は水を湛へた城の意。筑紫郡水城村にある。天智天皇の御代に始めて築造されたもので、天智天皇紀に、三年云々、又於(イテ)2筑紫(ニ)1築(キ)2大堤(ヲ)1貯(ヘシム)v水(ヲ)、名(ケテ)曰(フ)2水城(ト)1と見え、又續紀に、天平紳護元年二月辛丑云々、太宰(ノ)少貮從五位下釆女(ノ)朝臣淨庭(ヲ)爲(ス)d修2理《ツクロフ》水城(ヲ)1專知官(ト)uと見えた。水城村の國道に當る左傍即ち古への水城東關門にある、水城大堤の碑文によるに、
  東堤長さ百七十六間三尺、西堤三百八十四間三尺、最も高き處五間五尺、盤根最も廣き處十九間餘、中央缺堤の所九十六間、東西に關門あり、こゝは即ち東關門の址にして片礎をなす。西は吉松隧道の地なり。
とある。太宰府址からは道が平坦だから、東關門址が遙に望まれる。△地圖 357(一三九八頁)を參照。
【歌意】 ますらをだと自任してゐる自分がさ、この水城のほとりで、お前に別れ兼ねて〔八字右○〕、女々しく涙を拭はうことかえ。
 
(1712)〔評] 大伴氏は古來武弁の家で、ますらを中のますらをである。旅人卿も既に再三その武功を樹てゝゐる。「ますらをと思へる」は決して口頭の漫語でない。かく自覺しながらも一倡女兒島との別には、戀々として水城のうへに泣かざるを得ない。英雄も尚兒女の情あるに至つて、親しさも尊さも湧いてくる。旅人卿の作にはすべて矯飾の氣がない。彼れは開放的で正直である。
 著想は自己批判に墮する嫌もあるが、自分ながら高まる情趣をもて餘して途方に暮れた、その愚痴が有難い。都府樓を遠景にした水城の關門下に、宰府國衙の官人達が綺羅星の如く左右に居流れた間に、老帥旅人と若い遊行婦兒島との唱和の情景を描いてみると、亦一場の好悲劇を構成する。
 「水城のうへ」を、上の左註に馬(ヲ)駐(メ)2水城(ニ)1、顧(リ)2望(ム)府(ノ)家(ヲ)1とあるによつて、水城の堤防上とする或説の如きはおよそ愚論である。顧望はたゞ顧望で、あながち高い場處を必としない。元來が府と關門との間は昔でも野原で、眺望が利いたと思はれる。さればやむごとなき御老體を堤の上まで追ひ上げるにも及ぶまい。
 
三年|辛未《かのとひつじ》、大納言大伴(の)卿(の)在(りて)2寧樂《ならの》家(に)1思《しぬびて》2故郷《ふるさとを》1作歌
 
神龜三年大納言旅人卿が寧樂の家で、故郷を戀うて詠んだ歌との意。○寧樂家 奈良の佐保の宅をさす。○故郷 (1)飛鳥の故京をさす(古義)。(2)平群《ヘグリ》の神南備《カムナビ》山附近の大伴氏の故居をさす(六人部是香―龍田考)。但神南備と岩瀬杜《イハセノモリ》及び奈良思《ナラシノ》岡の三者の關係は兩説とも不完である。これに對する私考は、卷八「神名火《カムナビ》の磐瀬の杜の持鳥」の条で述べよう。こゝの故郷は必ず飛鳥の神南備を斥したものと思ふ。
 
(1713)須臾《しましくも》 去而見壯鹿《ゆきてみてしが》 神名火乃《かむなびの》 淵者毛淺而《ふちはもあせて》 瀬二香成良武《せにかなるらむ》     969
 
〔釋〕 ○しましくも 京本書入シバラクモ〔五字傍線〕。○かむなびのふち 神南備山下の淵。この神南備山は飛鳥の雷岳《イカヅチノヲカ》の一称である。「かみをか」(四四七頁)及び「雷岳」(六三五頁)を參照。○ふちはもあせて 「淵者」の下毛〔右△〕を脱したものとする。旧訓はフチハアサビテ〔七字傍線〕とあるが、アサブ〔三字傍点〕といふ語の存在はおぼつかない。古義訓アセニテ〔四字傍線〕も苦しい。△地圖及寫眞 挿圖105(三三四頁)144(五二三頁)を參照。
【歌意】 一寸の間でも往つて見たいな、多分故郷の〔五字右○〕神南備の淵はまあ淺く變つて、瀬になるであらうかしら。
 
〔評〕 旅人卿は宰府時代に、頻に飛鳥藤原の故京、吉野の勝を回想してその羈愁を寓せた。(卷三所見)。今年の正月からは再び奈良京の人となり、「ほと/\に奈良の京《ミヤコ》を見ずかなりなむ」の歎息も雲散霧消して、その佐保の第に納まつたが、殊に當時は知太政官事の外大臣なしで、大納言二名が政務を執つてゐた時代だから、枢機多端で、懷かしの故郷飛鳥も徒らに夢想するより外はなかつたらしい。
 飛鳥人の遊覽地は飛鳥川が中心であつた。神南備の淵は神南備(雷)の岡脚を繞つて流れる飛鳥川の淵で、河床の岩が小斷崖を成して、上下に淵が出來、その末は復平淺に歸してゐる。山には杉があり、栂があり、山吹が咲き、時鳥が鳴き、川には霧が立ち、蛙が鳴き、千鳥が鳴く。
 老人は過去の回想が永い。少壯時に馴染んだ場處は、凡山凡水でも深い執著がある。まして相當の景趣に富んだ神南備の淵をやだ。
(1714) 然し飛鳥は故京となつてから茲に三十三年、その荒廢は察するに餘りある。のみならず更に「往きて見てしが」の往訪の念に、拍車を懸けるものがある。それは飛鳥川が地勢上淵瀬の變化が甚しいことで、乃ち「淵はもあせて瀬にかなるらむ」の想像を描くに至つた。而もナリヌ〔右△〕ラムと普通にいふべき處を、「なるらむ」の現在叙法で、その變化の現實性を示したのは際利《キハド》い手ぎはである。
 改めて更にこの作を見直すと、その眞意は、おのが見ぬ間に飛鳥旧京はいかに變化したかといふにある。それでは抽象的で薩張り面白くないので、その代表的勝地神南備の淵のうへに、一切を寄託した。かくて現實味が強調され、公人の不自由さから愈よ燃え盛る故郷偲《クニシヌビ》の情に、「しましくも往きて見てしが」の希望が切實を極めてくる。
 旅人卿はかくいひながら、その年の七月に薨逝した。恐らく神南備の淵も訪ふに及ばなかつたらう。氣の毒な事である。又次の歌に連繋させて考へると、この歌は旅人病中の作とも見る事が出來る。
 
指進乃《さしずみの》 栗栖乃小野之《くるすのをぬの》 芽花《はぎがはな》 將落時爾之《ちらむときにし》 行而手向六《ゆきてたむけむ》     970
 
〔釋〕 ○さしずみの 栗栖に係る枕詞。刺墨《サシズミ》の黒《クロ》といふを栗《クリ》にいひかけたもの。刺墨は黥《イレズミ》のこと。「指進」は借字。「進」をスミと訓む例が古書にないと古義はいふが、スヽミのスミとなるは音韻上の約束である。前人の説は(1)指墨のくるゝを懸けたるにて、くるゝは墨斗《スミツボ》のくるめきをいふならむ(眞淵説)、(2)「指」は摺〔右△〕の誤にて摺《スル》墨(1715)の墨とのいひかけならむ(橘常樹説)。(3)「乃」は六〔傍点〕か武〔傍点〕の誤にてサシスヽム〔五字傍線〕と訓み、スヽムはスサムにて、毬《イガ》の刺荒《サシスサ》む栗と續けたるか(古義説)。(4)卷廿に「むらたまの枢《クル》るに釘さし」とあれば、「推進」は村玉〔二字右△〕の誤寫にて、群玉《ムラタマ》の轉《クル》めく意にて栗にいひ續けたるか(古義一説)。以上のうちでは(1)が優つてゐる。○くるすのをぬ 和名抄に大和國忍海郡栗栖とある。(今南葛城都忍海村柳原)。又記の雄略天皇御製の「ひき田の若栗栖原《ワカクルスハラ》」は泊瀬。○はぎがはな 「芽」原本に茅〔右△〕とあるは誤。○ちらむ 「落」を眞淵は咲〔右△〕の誤として、サカム〔三字傍線〕と訓んだ。○たむけむ 「はま松がえの手向草」を見よ(一三九頁)。
【歌意】 栗栖野の萩の花の散らう頃にさ、往つてお祭をしよう。
 
〔評〕 栗栖は飛鳥からは一里ばかりの西に當るから、尚故郷といひ得る範圍内であらう。但作者と栗栖野との關係がわからない。「手向けむ」とある以上は、そこに祭られる何者かがなくては協はぬ。大伴氏の祖先又は父母、又は愛妻大伴郎女の墳墓でも、そこにあつたのか。
 野に萩の花を聯想する事は當然だが、「散らむ時にし往きて」は妙な注文を付けたものだ。通例なら盛りの時を覘つて往く筈である。この事情を解決するには一つの鍵がある。
 それは作者の病中といふ事である。丁度それが萩の花の咲く頃なので、卿の資人金(ノ)明軍も、
  かくのみにありけるものを萩が花咲きてありやと問ひし君はも(卷三――455)
と病中萩の花の消息を問はれた事を歌つてゐる。秋とはいへ暑い盛りの七月、とても老病の身を起して、栗栖(1716)野に蘋藻の禮を執ることは不可能だ。まあ相當時候もよくならうこの萩の花の散る頃は、自分の病氣も癒らうから思ひ立つてと、卿は樂しい豫望を描いてみたものだ。これを見ても卿はまだ死ぬつもりはなかつたのである。然るにその月の廿五日に、遂に※[さんずい+盍]焉として隔世の人となつた。
  再案、作者の父安麻呂は和銅七年五月に奈良の佐保の第で薨じた。奈良京草創の際とて、從來の慣習のまゝに遠く忍海の栗栖邊へ歸葬したものか。今天平三年は恰も二十年目で、必ず祭典を修すべき祥月のその五月に當つたものゝ、生憎病氣の爲、孝子の情を申べる事が出來ぬ焦燥から、かく豫約して、聊か自慰の言としたのではあるまいか。
 これは只試にいふのみ。尚前説の如く見ておくが穩かであらう。
 
四年壬申、藤原(の)宇合《うまかひの》卿(の)遣(はさるる)2西海道節度使《にしのうみつみちのせどしに》1之時、高橋(の)連《むらじ》蟲麻呂(が)作歌一首并短歌
天平四年に藤原宇合卿が西海道の節度使として派遣された時、高橋(ノ)蟲麻呂が詠んだ歌との意。○宇合卿 傳既出(二五六頁)。○西海道節度使 既出(一三四頁)。○高橋連蟲麻呂 傳未詳。卷三富士山(ノ)歌(なまよみの)の左註に「高橋連蟲麻呂歌集集出」の語がある。集中常陸下總攝津における作が見え、又大伴旅人と交際があつた。
 
白雲乃《しらくもの》 龍田山乃《たつたのやまの》 露霜爾《つゆじもに》 色附時丹《いろづくときに》 打超而《うちこえて》 客行公者《たびゆくきみは》 五百隔山《いほへやま》 伊去割見《いゆきさくみ》 賊守《あたまもる》 筑紫爾至《つくしにいたり》 山乃曾伎《やまのそき》 野之衣寸見世常《ののそきみよと》 伴(1717)部乎《とものべを》 班遣之《あかちつかはし》 山彦之《やまひこの》 將應極《こたへむきはみ》 谷潜乃《たにぐくの》 狹渡極《さわたるきはみ》 國方乎《くにがたを》 見之賜而《めしたまひて》 冬木成《ふゆごもり》 春去行者《はるさりゆかば》 飛鳥乃《とぶとりの》 早御來《はやくきまさね》 龍田道之《たつたぢの》 岳邊乃路爾《をかべのみちに》 丹管士乃《につつじの》 將薫時能《にほはむときの》 櫻花《さくらはな》 將開時爾《ひらかむときに》 山多頭能《やまたづの》 迎參出六《むかへまゐでむ》 公之來益者《きみがきまさば》     971
                        
〔釋〕○しらくもの 白雲の發《タ》つをいひ係けた、立田山の枕詞。○たつたやま 既出(二八四頁)。○つゆじも 既出(三八八頁)。○いほへやま 五百重山。「隔」は借字。○いゆきさくみ 六言の句。「い」は接頭語。「さくみ」は「いはねさくみて」を見よ(五六七頁)。○あたまもる 寇守る。筑紫には太宰府を置いて邊防を掌り、水城を築き防人《サキモリ》をすゑて非常に備へた。卷二十、追《アトヨリ》痛(ム)2防人(ガ)悲(ム)v別之心(ヲ)1歌(家持)に「不知火筑紫の國はあた守るおさへの城《キ》ぞと」と見え、宜化天皇紀の詔に、夫筑紫(ノ)國者|遐々之《クニ/”\ノ》所2朝屆《マヰイタル》1、去來《ユキヽノ》之所2關門《セキトスル》1、天武天皇紀の栗隈王の對言に、筑紫(ノ)國者(ハ)元|戎《マモル》2邊賊之難(ヲ)1也とある。○つくし 既出(七四二頁)。○やまのそき 「そくへ」を見よ(九三四頁)。○みよと 古義訓メセト〔三字傍線〕は非。○とものべ 屬僚をいふ。「とも」は朋輩又は集團の義。「ベ」はその部屬者の称。○あかち わかつ(分)の古言。古義は、神代紀の廢渠槽の訓|秘波鵝都《ヒハガツ》を証としてカを濁るべしと主張したが、(1718)波鵝津はハナツ(放)の意で別語である。且清濁は時代により又慣習によつて異なる。この時代に班田をアガチタと讀むからとて、他の場合をまで同一に律する事は出來ない。舊訓ワカチ〔三字傍線〕。○やまひこ 山彦。山神、山靈の稱。又反響を山靈の應ふるものとして、谺《コダマ》(木靈)を稱する。山|響《ヒヾキ》の約とする説は本末顛倒。〇たにぐくのさわたる 前出(一四二〇頁)。○くにがた 國形。國の状况。節度使の職制に地形を案ずることはない。この形は象《カタ》又|状《スガタ》の意であらう。○めしたまひて 六言の句。宇合卿が〔四字右○〕見給ひて。「めしたまへば」を見よ(二〇六頁)。○ふゆごもり。既出(七八頁)。○はるさりゆけば 「はるさりくれば」を見よ(七九頁)。○とぶとりの 「早く」に係る序。○はやくきまさね 早くお歸り〔三字右○〕なされい。略解訓による。「御來」を意訓にかく讀む。古義訓は「御」を却〔右△〕の誤としてハヤカヘリコネ〔七字傍線〕。○たつたぢのをかべのみち 立田山の峠の道をいふ。「たつたぢ」は立田にある道。○につつじ 「に」は丹土の色をいふ。赤色。「つつじ」は「いはつつじ」を見よ(四九五頁)。「管士」は借字。○にほはむときの 匂はう時で。「ときの」の詞態は集中の長歌、又は祝詞などに例が多い。○やまたづの 「むか(1719)への枕詞。既出(三〇六頁)。○きまさば 元本その他の訓による。舊訓キマセバ〔四字傍線〕は非。△地圖及寫眞 挿圖329(一一九六頁)。90(二八五頁)を參照。
【歌意】 立田山が露霜に色づく頃しも、打越えて旅立たれる貴方は、澤山の山を踏みならして、來寇の敵を守る筑紫に往かれ、そして〔三字右○〕山の奥野の末をもよく視察せいと、部下の者共を分けて派遣し、谺の應へよう果、蝦蟇の行き渡る里まで〔二字右○〕、地方の状態を調査なされて、來春にでもなつたら、早くお歸りなさい。丁度その頃は都入の立田路の岡沿ひの道に、赤い躑躅の匂はう時で、櫻の花が咲くであらう時に、私はお迎に參上致しませう。貴方がお歸りならば。
 
〔評〕 節度使は唐制では諸道に置かれた武官で、各その幕府を樹てゝ道下を鎭撫し、これを藩鎭と稱した。わが邦のはさほど強力なものではなく、軍團の整理、武事の講習、輜重の充實などの爲め、臨時派遣の高級官吏に過ぎない。
 節度使設置は宇合の在ぜられた天平四年が、その最初の試であつた。績紀に、
  天平四年八月丁亥(十七日)、正三位藤原(ノ)朝臣房前(ヲ)爲(シ)2東海東山二道(ノ)節度使(ト)1、從三位多治比(ノ)眞人縣守(ヲ)爲(シ)2山陰道(ノ)節度使(ト)1從三位藤原(ノ)朝臣宇合(ヲ)爲(ス)2西海道(ノ)節度使(ト)1云々。(卷十一)
と見えた。辭令は八月に降つたが、出發準備や何やで、秋もはや末頃になつて漸う發足した。時はこれ一年の好季節、朝に奈良の帝都を辭して、「白雲の立田の山の露霜に色づく時」に、打越えて旅行くのであつた。山紅葉は一行の族装に映じて花やかに、その銀鞍に白馬を打たせた、當年卅九歳の節度使宇合卿の得意の面影が彷(1720)彿する。途中の旅况を「五百重山い往きさくみて」の二句に約めたのは、省筆その宜しきに適つてゐる。
 さて筑紫の任處に到着、管内諸國の隅々まで、下僚の判官主典等を分遺して、軍事の整理に著手せしめる。九州二島は本來太宰府の統治する處、多少目的に相違はあるとしても、一面から見れば、節度使の仕事は帥の權限を犯し勝であつたらう。幸にこの前年に帥大伴(ノ)旅人卿が中央政府に復歸してから、當時は藤原(ノ)武智麻呂の遙任であつた。そのうへ武智麻呂は宇合の長兄だから文句はない。仕事は遣りよい。
 茲に下僚等の復命事をはり、西海一圓の國状は整頓され始末がつく。つけばその歸還が問題になる。
 行人に向つてまづ歸期を問ふのは、送別の際の常情である。然るに作者はその程度に滿足せず、今一層突き進んで、此方からその時期に注文を付けていはく、「春さりゆかば――早歸り來ね」と。秋から春までは略半年になるが、節度使の仕事は多端で、さうは早く歸れさうもない。ないを承知で無理な要望をする處に、勝へ難い惜別の情味が躍動する。
 奈良京から西國への出入は、立田越を以て本道とした。希望が實現して果して宇合が春の歸京となるなら、立田路は勿論櫻躑躅の花盛りだ。乃ちその好風景を幻想にのぼせて、今度はその春の好季節に「迎へまゐでむ」と、懇情の限を傾倒した。
 立田山を舞臺として、秋の紅葉に送つたからは、春の櫻躑躅に又出迎へしようといふ、太だ風雅三昧の言辭のやうで、その實涯りない離恨を湛へてゐる。送別の作として、一種の新樣を裁出したこの作者の手腕には敬服する。また
  「山のそき野のそき見よと、伴の部をあかち遣はし」
(1721)  「山彦のこたへむ極み、谷※[虫+莫]のさわたる極み、國形をめし賜ひて」は自他兩樣の行敍が自然對を成してゐて面白い。
 
反歌一首
 
千萬乃《ちよろづの》 軍奈利友《いくさなりとも》 言擧不爲《ことあげせず》 取而可來《とりてきぬべき》 男常曾念《をとことぞおもふ》     972
 
〔釋〕 ○いくさ 「みいくさ」を見よ(五三三頁)。○ことあげ 言葉《コトバ》に出さず。いひ立てず。卷十三に「蜻《アキツ》島倭の國は神柄《カムガラ》と言擧《コトアゲ》せぬ國然れども吾《ワ》は言擧す」、神代紀に、遂(ニ)到(リテ)2出雲(ノ)國(ニ)1乃|興言《コトアゲシテ》曰(ハク)、云々。又|高言《コトアゲ》ともある。○とりて 殺して。捕へての意ではない。宜長いふ、記の景行天皇の條に、西(ノ)方有(リ)2熊襲建《クマソタケル》1、是不v伏《マツロハ》无(キ)v禮《イヤ》人|等《ナリ》、故(レ)取(レトノタマヒテ)2其人等(ヲ)1而遣(ハシキ)、また取(リテ)2伊服岐《イブキ》山之神(ヲ)1幸行《イデマシヌ》矣など、殺すをトルといふ例なりと。○をとこ 古義訓による。契沖訓ヲノコ〔三字傍線〕。
【歌意】 千萬人の軍勢であるとても、物をもいはず、安す/\取殺して來さうな男とさ、貴方を私は〔五字右○〕思ひます。
 
〔評〕 字合は藤原家の三郎、比較的雄武の材の持主とは思はれるが、百萬の大軍も物もいはずに皆殺しにしてくべき英雄とは、少し※[言+叟]言に過ぎはしまいか。これでは宇合の方が慙死してしまひさうだ。別に戰場に出陣するでもない節度使に贈る詞としては、又不似合であらう。宇合はその西海行に就いて左の感懷を洩らしてゐる。
(1722)     奉2西海道節度使1之作
  往歳東山(ニ)役(シ)、今年西海(ニ)行(ク)、行人一生(ノ)裏《ウチ》、幾(カ)度倦(ム)2邊兵(ニ)1。(懷風藻)
「東山役」は嘗て神龜二年に蝦夷征伐に出陣したことを斥した。僅一度の出征とこの兵馬統管の出張ぐらゐで、「倦邊兵」は餘り勇氣がなさ過ぎる。支那詩人の口吻を眞似て反戰的の言辭を弄したとも見られるが、奈良時代の上流人士は漸く太平に狃れて、武邊の事を疎んずるやうになつて來たことも、考慮のうちに置くべきであらう。
 當人はかく邊兵に倦んでゐるのに、「――とりて來ぬべき男とぞ思ふ」は、聊か滑稽だ。強ひて助けて、激勵の詞として聞くが一番ふさはしからう。聖武天皇もこの意味から、節度使を送る御製に「ますらをのとも」と仰せられた。
 然しそんな實際問題から離れて、歌のみを見ると、頗る豪快で氣持がいゝ。或は孟子(公孫丑章)の「雖(モ)2千萬人(ト)1我往(カン)焉」の意を、鹽梅よく點化したのではあるまいか。
 
右、檢(ルニ)補任(ノ)文(ヲ)1、八月十七日任(ズ)2東山山陰西海(ノ)節度使(ヲ)1。
 
 續紀の文(評中引用)によると、東海〔二字右○〕の二字が落ちてゐる。補任文は續紀の補任の條をさしたもの。
 
天皇《すめらみこと》賜(ふ)2酒(を)節度使等《せどしたちに》1御歌《おほみうた》一首并短歌
 
聖武天皇か酒を節度使等に下されるに就いての御製との意。宇合卿等の節度使として派遣せられた時の事。
 
(1723)食國《をすくにの》 遠乃朝庭爾《とほのみかどに》 汝等之《いましらが》 如是退去者《かくまかりなば》 平久《たひらけく》 吾者將遊《われはあそばむ》 手抱而《たうだきて》 我者將御在《われはいまさむ》 天皇朕《すめらわが》 宇頭乃御手以《うづのみてもち》 掻撫曾《かきなでぞ》 禰宜賜《ねぎたまひ》 打撫曾《うちなでぞ》 禰宜賜《ねぎたまふ》 將還來日《かへりこむひ》 相飲酒曾《あひのまむきぞ》 此豐酒者《このとよみきは》     973
 
〔釋〕 ○をすくにの 朕が〔二字右○〕食國の略。○とほのみかど 既出(七四四頁)。○いましらが 童本の訓による。元本その他の訓はナムヂラガ〔五字傍線〕。○まかりなば 京を本にして地方にゆくを退《マカ〕るといふ。眞淵訓による。○たうだきて 手を拱《コマヌ》いて。「た」は手、「うだき」は抱《イダキ》の古言。抱の字イダク、ウダク、ムダクと訓む。靈異記に、抱、于田伎《ウタキ》と見えた。古義に、卷十四の「かき武太伎《ムダキ》」とあるは、東人《アヅマビト》の訛語なるべしと。但訓のテウダキテ〔五字傍線〕はいかゞ。手の字語の上にある時は多くタと讀む。○すめらわが 契沖訓による。○うづのみて 珍《ウヅ》の御手。「うづ」は貴重の意。諸祝詞に、字頭乃幣帛《ウヅノミテグラ》の語がある。○かきなで――うちなで 「かき」「うち」は接頭語。○ねぎ 犒《ネギラ》ふこと。○かへりこむひ 六音の句。略解訓カヘラムヒ〔五字傍線〕。○あひのまむきぞ 「き」は酒。略解訓による。舊訓アヒノマムサケゾ〔八字傍線〕。○とよみき 「とよ」は美稱。「み」は敬稱。
【歌意】 朕《ワ》が統治する國の遠《トホ》の朝廷《ミカド》に、お前達がかうして往つてくれたなら、暢ん氣で朕《ワレ》は遊ばう、手を拱《コマヌ》いて朕は暮さう。で天皇《スメラギ》の朕《ワ》がこの珍の御手を以て、御前達を〔四字右○〕撫で/\して勞らひ申すわ。お前達が任務を果して〔十字右○〕(1724)還り來う時、再び〔二字右○〕一緒に飲まう酒であるぞえ、このよい酒は。
 
〔評〕 天皇は新任の節度使三人を朝に召されて、送別の賜盃があつた。遣唐使の場合と同一の扱で、その使命の重大性が看取される。
 令には明かに地方軍事の機構は規定されてあるが、令の制定發布された大寶三年からこの時まで、二十七の星霜を重ねた間に、可成り民心が廢頽し紀綱が紊亂してきたらしい。土着の豪族が漸く跋扈し、人民が疲弊し、國守の威令が十分に行はれないとなつては、更に有力なる望族の高級官吏を派遣し、その手によつて積弊を釐革し、發令當時の精神を復興徹底させるより外はない。
 節度使三人、藤原氏では淡海公(不比等)の息四人のうち、房前《フサヽキ》宇合の二人までがその選に入り、それに多治比《タヂヒ》氏の縣守《アガタモリ》を加へた。藤原氏は當時出頭第一の名家、多治比氏は近江朝以來の右族、官は縣守(六十五歳)が從三位中納言、房前(五十二歳)が正三位參議、宇合(三十九歳)が從三位參議であつた。舍人親王(知太政官事)藤原武智麻呂(大納言)二人を除けば、この人達が内閣の中軸を形造つてゐた當時だから、單にこの一點から觀察しても、叡慮が那邊にあるかが拜祭されよう。
 さればその出發に際しても、特別に優渥な勅諚を賜うたのである。いはく、お前達が赴任する以上は、もはや何の顧慮する處はない、氣樂に遊び兩手を拱いてゐようと、一切の責任をこの人達の雙肩にかづけられた。そこに帝王としての御態度がある。
 更に仰せられたお詞が頗る意義深いものである。「天皇《スメラ》朕《ワ》が珍の御手もち、掻撫でぞ勞ぎ給ひ、打撫でぞ勞ぎ(1725)給ひ」と、御親ら御自身の上に御動作の上に、敬語をお使ひなされてゐる。天下廣しと雖も、古往今來いかなる主宰者でも、かうした敬語法を用ゐた例を聞かない。これわが國柄の他邦と殊絶してゐる所以で、陛下御自身も祖宗の天位を御繼承なされたものだから、公の立場にある御自身をお眺めなさる時は、かうもいはれるのである。大殿祭(祝詞)の詞にも、「すめらわが珍の御子《ミコ》」の語が見える。太古から傳承し來つた、日本獨特のあやに畏い建國精神が、明白に認められる。
 さて大御手を伸べて優撫しその勞を犒はれると仰せられた。節度使達が遠隔の地に櫛風沐雨、王命を體して有終の美を成さうと努力すべき、その勞苦に對する同情仁慈の思召は、「掻撫で」「打撫で」の漸層、「勞ぎ給ひ」の反復によつて、著く強調され、印象深く燒き付けられる。
 次に轉一轉して、當面の光景に立返り、お前達が歸洛復命の日、相會して更めてこの豐御酒は再び酌むであらうと、更に將來の歡會を豫約された。君臣一體水魚の如き思召で、靄々たる和氣のうちに、涯ない温情を垂れ給ふに至つて、その恐れ多さに感激の涙を、節度使達もさぞ揮つたことであつたらう。
 口號的小詩篇のうちに、厖大なる内容を包藏し、一擒一縱活殺自在を極めた聖製で、恩威並び行はれた趣が拜祭される。天皇この時三十二歳の御壯年に渡らせられながら、かくの如く帝王の器度を備へられたことは、畏しと申すにも餘ある。
 後段「掻き撫でぞ」「打ち撫でぞ」の重疊反復、その音數が特に異樣で、55、55の對句を成し、更にそれを67の音數で承けた破調で、短句長句互に相※[手偏+丞]ふの手法は、面白い節奏を演出してゐる。
 
反歌一首
 
(1726)丈夫之《ますらをの》 去跡云道曾《ゆくとふみちぞ》 凡可爾《おほろかに》 念而行勿《おもひてゆくな》 丈夫之伴《ますらをのとも》     974
 
〔釋〕 ○ゆくとふ ユクチフ〔四字傍線〕の訓もある。○おほろかに 大凡《おほよそ》にといふに同じい。おほらかに〔五字傍点〕はこの轉語であらう。「おほに」を見よ(五九三頁)。
【歌意】 丈夫たる者が往くといふ、この度の道であるぞ。いゝ加減に思つて往くなよ、丈夫の輩よ。
 
〔評〕 節度使の職は丈夫にして初めて勤まる大任、それも油斷があつては成果を得難い。汝等は丈夫であるが故にその任にあるが、よくそこに注意してゆけと、論理的に噛んで含めるやうに、責任の重大性を指示せられた。「おほろかに思ひて行くな」が主眼である。
 一氣高く磐旋しして語々※[しんにょう+酋]拔豪健、おのづから尋常歌人の口吻でない。御製はこの外に、
  空みつ大和の國は神からしたふとかるらしこの舞見れば   (續紀、天平十五年夏五月の條)
  あまつ神みまの命の取り持ちてこの豐御酒をいみ奉る
  八隅ししわご大君は平らけく長くいまして豐御酒まつる
など、何れも堂々たる雄風四邊を拂ひ、おのづから帝王の御屬吐である。
 
右(ノ)御歌者、或云(フ)、太上天皇(ノ)御製也(ト)。
 
○太上天皇 元正天皇を申す。御歌の風格から申せば、無論本文の如く聖武天皇の御製であらう。
 
(1727)中納言|安倍廣庭《あべのひろにはの》卿(の)歌一首
 
○安倍廣庭 傳既出(七四〇頁)。○中納言 既出(七四〇頁)。
 
如是爲管《かくしつつ》 在久乎好叙《あらくをよみぞ》 靈剋《たまきはる》 短命乎《みじかきいのちを》 長欲爲流《ながくほりする》     975
 
〔釋〕 ○あらくをよみ あること〔二字右○〕がまあよさに。「あらく」はある〔二字傍点〕の延言。○たまきはる 命の枕詞。既出(三六頁)。
【歌意】 かうしつつある事がまあよさにさ、人間の短い命を、長くありたいと望むわい。
 
〔評〕 「かくしつつ」は何を斥したか判然しない。當面の事相がその説明を與へぬ限り、この歌の感興の握みやうがない。がとにかく現世の人慾に飽滿すると、次に不老長生を希ふが人情の常である。
 但聖天子の御代に逢うた喜を表したのだらうといふのが、古人の説である。
 
五年|癸酉《みづのととり》、超(ゆる)2草香《くさか》山(を)1時、神社忌寸老《かみこそのいみきおゆ》麻呂(が)作歌二首
 
天平五年に、草香山を超える時、神社老麻呂が詠んだ歌との意。○草香山 生駒山を河内にていふ稱。生駒山の西麓に今|日下《クサカ》村がある。神武天皇紀に、遡流而上《カハヨリサカノボリテ》、徑《タヾチニ》至(リマス)2河内(ノ)國|革香邑《クサカムラ》青雲(ノ)白眉(ノ)津(ニ)1とある。孔舍衙《クサカ》坂は生駒山北路の峠。草香の直越(暗《クラガリ》峠)、はその南路の峠、草香江はその低地の入江であつた。尚「いこま山」を見よ(一八二九頁)。○神社忌寸老麻呂 傳未詳。神社は氏。孝徳天皇紀に神社(ノ)福草《サギクサ》、續紀に神社(ノ)忌寸河内の名があ(1728)る。神社はカミコソと訓む。天武天皇紀に社戸を古曾倍《コソベ》と訓み、神名帳(式)に近江國淺井郡に上許曾《カミコソ》神社がある。社をコソと訓むは乞《コソ》の意で、神社は人の乞ひ祈《ノ》む故である。古義に社は杜の字ならむとあるは、却て不穿鑿である。○忌寸 は姓。△地圖 挿圖91(二八六頁)を參照。
 
難波方《なにはがた》 潮干乃奈凝《しほひのなごり》 委曲見《よくみてむ》 在家妹之《いへなるいもが》 待將問多米《まちとはむため》     976
 
〔釋〕 ○なにはがた 既出(一一三八頁)。「方」は借字。○なごり 既出(一一三八頁)。尚この語義に就いては諸説續出して煩しい。○よくみてむ 古義訓による。「委曲」はヨクと訓む。卷十「君が姿を曲不見而《ヨクミズテ》」の曲も同じい。△地圖 挿圖77(二三七頁)參照。
【歌意】 難波潟の潮干の餘波を、とくと見ようわ、家にゐる妻が自分の歸を持ち受けて、難波の景色〔五字右○〕を、尋ね問ふであらう爲にさ。
 
〔評〕 難波潟の景色は平安期になつても「心あらむ人に見せばや」(能因)と歌はれた程よかつた。それが潮干となると又面目が變つて、鹵斥と水との交錯は、所在に洲濱模樣を現じ、鷺鶴は白を飛ばして蘆叢に下り、棚無舟は黒を點じて泥沙に膠し、漁網日に光つて近く※[辰/虫]舍の軒に懸かり、貝掘る子は遠く白洲に霞んでゐる。すべて和やかな好風光は、「潮干のなごり飽くまでに」(卷四)と、大伴(ノ)宿奈麻呂も難波で歌つてゐる。
 「よく見てむ」は作者が既にこの風景に陶醉してゐることが看取される。されば家妻にもせめて語つて聞かせ(1729)たくもなるので、その情意が「妹が待ち問はむ爲」と、本末を轉倒して表現された。蓋し夫に對して外出中の出來事を問ふのは、留守居する妻の常情で、
  玉津島よく見ていませ青によし平城《ナラ》なる人の待ち問はばいかに (卷七――1215)
も只自他の立場が相違したまでゞ、この歌とその落想を同じうし、その濃厚なる人情味が嬉しい。
 
直超乃《ただこえの》 此徑爾師弖《このみちにして》 押照哉《おしてるや》 難波乃海跡《なにはのうみと》 名附家良思裳《なづけけらしも》     977
 
〔釋〕 ○ただこえのこのみち 草香の〔三字右○〕直越《タダコエ》の路。生駒山の暗《クラガリ》峠の道をいふ。直越は一直線に越えるの意。古事記にも日下《クサカノ》直超(ノ)道の稱が見える。宣長いふ、大和の平群より伊駒山の内南の方を超えて河内國に至り、若江郡を經て難波に下る道にして、今暗峠といふ。日下村はこの道よりは北方なれども、古へはこのあたりをも日下といへりけむと。○おし(1730)てるや 「おしてる」は難波の枕詞。既出(九八五頁)。「や〕は問投の歎辭。
【歌意】 外ならぬ〔四字右○〕日下のこの直越の路でもつて、古人が押照る難波の海と、名を付けたことであつたらうなあ。
 
〔評〕 生駒山を越えるに、直越路を河内方へおりると、忽ち眼界が豁然として開け、一望鏡の如く照り渡つた難波の海の全景が雙眸のもとに收まり、始めて「押照る」の語が虚稱でないことを發見し、そこで古人も多分、この路でもつて難波の海を押照ると形容し始めたらしいの一案を創造した。いかにも強くその押照る光景が作者の眼底に燒き付いたことであつたらう。
 上の歌は峠から見おろした趣でないから難波潟附近の作、これは峠路での作である。同じ道中での吟詠なので、一つ題下に攝したが、順序は前後してゐる。
 
山上(の)臣《おみ》憶良(が)沈痾《やみこやれる》之時(の)歌一首
 
○沈痾之時 卷五に憶良の沈痾(ニ)自(ラ)哀(ム)文がある。又老身重病經(テ)v年(ヲ)辛苦(シム)云々の歌が七首あり、その左註に「天平五年六月丙甲朔三日戊戌作」とある。この歌はその以後の作である。○憶良 傳既出(二三四頁)。
 
士也母《をとこやも》 空應有《むなしかるべき》 萬代爾《よろづよに》 語續可《かたりつぐべき》 名者不立之而《なはたてずして》     978
 
〔釋〕 ○をとこやも 「や」は反動辭。「も」は歎辭。攷及び古義の訓による。舊訓ヲノコ〔三字傍線〕。○むなしかる 何も爲(シ)(1731)出でぬをいふ。死するの意はない。○なは 名をば〔二字傍点〕の意。○たてずして 古葉神本の訓による。舊訓タヽズシテ〔五字傍線〕は非。
【歌意】 男兒たる者が、ボンヤリとあるべき事かい。萬世の後まで語り傳へるほどの名をば、世に樹てないでさ。
 
〔評〕 過去の囘願は死に近い病間に於いて殊に甚しからう。この世に印して來た足跡をつぶさに檢討し、その功過を清算してみると、或者は後悔し、或者は殘念がり、或者は+《ブラス》も−《マイナス》もなく、或者は零でもあらう。宗教はそこに刹那の滿足を教へ、更に永遠の正覺《サトリ》に導く。
 沈痾自哀文によると、憶良は正直者で、日夜神佛を深く崇敬したとある。彼れは信行二つは正しく守つたらうが、覺地には到達し得なかつた。自哀文は畢竟昧者の愚痴である。然しそれでこそ、憶良の僞らざる人間性が、炳乎として著く我等の眼に映じて面白いのである。
 卷五所載の諸作は憶良の全人格を表現し露出してゐる。漢學者で文章家で歌人で、憂國慨世の志に篤く、道徳親念に富み、神佛の信仰家で、子煩悩家で、勤※[殻/心]な地方官で、起居不自由な病人で、老來なほ仕進の志があつた。これがその大概である。
 處がこの一吟に逢着して、その意外に驚いた。抑も彼れの何處にかゝる雄志を包藏して居たのか。左註によると、藤原(ノ)八束(房前の三男、當時十九歳)が河邊(ノ)東人をその病氣見舞の代理として遣つた時に、涕を拭うてこの歌を口吟したとある。
 嗚呼彼れも亦一箇の有髯男兒であつた。志は大いに才もあつたが、仕進に必要な門閥がなく、且一生世故の(1732)桎梏に繁累されて頽齡に及んでしまつた。不本意千萬である。嘗て筑紫にゐて、帥旅人卿が歸京の際、「奈良の都にめさげ給はね」とその推挽を乞うたが、間もなく卿の薨去にあひ、自らも筑前守の任果てゝ歸京はしたものゝ、頼む樹蔭に雨が洩つた。乃ち卿の知人藤原房前の子八束等の學間の師で、纔に餘命を過して居たらしい。實に失意の境遇にあつた。
 この歌や氣魄雄偉にして而も悲壯、信に懦夫をして起たしむる概がある。失意と瀕死の病苦との板挾みに喘ぎながら、壯來の雄志なほ消磨し盡さず、一道の豪氣四邊を壓倒してゐる。憶良はかく歌つてその年に卒した。享年七十有四(?)。
 憶良は漢學者の建前として大いに濟世の志を抱き、功名富貴手に唾して取るべしと思つたこともあらう。功利は儒教の本旨ではないが、支那人本來の思想は功利主義で固まつてゐた。されば
  功成(リ)名立(チテ)而利附(ク)焉。   (史記、范※[目+隹]傳)
  功名有(リ)d著(ルヽ)2於當世(ニ)1者u。 (同、 張蒼傳)
  垂(ル)2功名(ヲ)於竹帛(ニ)1。     (後漢書、※[登+おおざと]禹傳)
  立(テ)v身(ヲ)行(ヒ)v道(ヲ)揚(ゲ)2名(ヲ)於後世(ニ)1以(テ)顯(ハスハ)2父母(ヲ)1孝之終也。         (孝經、開宗明誼章)
  功成(リ)名逐(ゲテ)身退(クハ)天之道(ナリ)。  (老子、第九章)
など見えてゐる。西晉以來その反動思想が勃興して來たが、多くは不成功者の矯語か、或は成功者の人前を糊塗する煙幕に過ぎない。されば憶良がその學問上から薫染されて、功名に對して特に強い執着をもつに至つた事は、當然であらうと思ふ。
(1733) 卷十九、家持の慕《シヌブ》v振(フヲ)2勇士之名(ヲ)1歌に、
  (上略)ますらをや空しかるべき、梓弓末振り起し、投矢《ナグヤ》もち千尋射わたし、劔太刀腰にとり佩き、足引の八つ峯《ヲ》踏み越え、さしまくる情《コヽロ》さやらず、後の世の語り繼ぐべく名を立つべしも。(――4164)
  ますらをは名をし立つべし後の世の聞く繼ぐ人も語り繼ぐかね(――4165)
と見え、その左註に「右二首、追(ヒテ)2和《ナゾラフ》山上(ノ)憶艮(ノ)臣(ノ)作歌(ニ)1」とある。文武その揆を殊にするが、功名を懷ふことは一つである。如何にこの歌が當時の人士に深い感銘を與へたかが窺はれよう。
 憶良よ、君はその生前に於いて失望し又歎息した。而もそれは無用の焦燥に過ぎなかつた。君は事志と違ふといふかは知らぬが、君がわが萬葉歌人として占めた地位は實に最高至上のもので、その大名は萬世のもとに語り繼がれる。乞ふ安んじて瞑せよである。
 
右一首、山上(ノ)憶良(ノ)臣《オミガ》沈痾之時、藤原(ノ)朝臣八束、使(テ)2河邊(ノ)朝臣|東人《アヅマヒトヲ》1、令(ム)v問(ハ)2所v疾(ム)之状(ヲ)1。於是、憶良(ノ)臣報(フル)語既(ニ)畢(リ)、有v頃〔左△〕《シバラクアリテ》拭(ヒテ)v涙(ヲ)悲嘆《ナゲカヒテ》口2吟《クチズサム》此歌(ヲ)1。
 
 憶良の病中に、藤原八束が自分の代理として、河邊東人を遣つて病氣見舞をさせた、そこで憶良がその返事の口状を述べ了つて、暫時して涙を拭きつゝ嘆いて、この歌を口ずさんだとの意。○有頃 「頃」原本に須〔右△〕とあるは誤。○藤原朝臣八束 既出(九〇四頁)。○河邊朝臣東人 續紀に、神護景雲元年正月從六位上より從五位下、寶龜元年十月石見守とある。
 
(1734) 大伴(の)坂上(の)郎女(が)與《おくれる》d姪《をひ》家持(が)從《より》2佐保1還2歸《かへるときに》西(の)宅《いへに》u歌一首
 
坂上郎女が甥の家持が佐保の家から西の宅に歸る時に遣つた歌との意。○姪 玉篇に昆弟(ノ)子之稱と見え、男女に通じて用ゐる。又區別していふと甥はヲヒ、姪はメヒ。○西宅 佐保の本邸から西方に當る大伴家の別宅。○坂上郎女 既出(八六七頁)。○家持 既出(九〇〇頁)。
 
吾背子我《わがせこが》 著衣薄《けるきぬうすし》 佐保風者《さほかぜは》 疾莫吹《いたくなふきそ》 及家左右《いへにいたるまで》     979
 
〔釋〕 ○ける 著たる〔三字傍点〕の古言。「けせる」を見よ(一一一〇頁)。○さほかぜ 佐保の地に吹く風。「あすか風」を見よ。(二〇一頁)。○さほ 既出(七三頁)。
【歌意】 あの人が着てある衣が薄いわ。こゝの佐保風は餘り強《ヒド》く吹くなよ、大事なあの人が〔七字右○〕、その西の宅に往き著くまでは。
 
〔評〕 兄旅人卿逝後は、郎女がその娘大孃達と共に佐保の本邸(今の興福院附近か)に起居し、旅人卿の息家持は却てその西宅に住んでゐた。西宅も尚佐保の内であることは、地名を別に冠してないのでも想定される。宮城の(1735)東方四五坊の地に當る處は今も佐保の稱がある。その邊に大伴氏の西宅があり、宮仕の都合か何かで家持は移居してゐたのであらう。西宅との距離は約十町位かと想像される。
 衣の薄きをいひ、風の寒きをいふ、時季は必ず暮秋から冬である。佐保の岡陵下の風は勿論大したものではあるまいが、枯林を振ふ長風は、やはり人の衣袂の薄きを覺えしめるに十分だ。歌には時刻が點出してないが、まづ夕暮頃から夜分へかけての事であらう、さもなくば朝だ。もし朝とすれば、郎女の娘坂上大孃と家持との關係が想及され、或はその後朝に、母郎女が娘の代作して贈つたものと見られぬこともない。然し今は題詞のままに素直に受け取つておく。
 郎女は家持の辭しゆく後影を見送り、その無心なる風に向つて、「いたくな吹きそ」と控目がちな命令、「家に至るまで」と最小限度の要求をした。多少でも可愛い甥子に辛い目をさせまいの濃到親切なる情味は、すべての理路に超越してゐる。「ける衣薄し」の印象がこの情味の由つておこる根本で、かうした細瑣な點に氣の付くのは流石に婦人である。家持はいゝ叔母さんを持つたものだ。然しその大孃との關係に至つては、又こはい叔母さんでもあつたらしい。
 
安倍(の)朝臣蟲麻呂(が)月(の)歌一首
 
○安倍朝臣蟲麻呂 既出(一二八五頁)。
 
雨隱《あまごもり》 三笠乃山乎《みかさのやまを》 高御香裳《たかみかも》 月乃不出來《つきのいでこぬ》 夜者更降管《よはくだちつつ》     980
 
(1736)〔釋〕 ○あまごもり 「みかさ」に係る枕詞。雨に隱《コモ》る笠と續く。○みかさのやま 「みかさやま」を見よ(六二一頁)○たかみかも 既出(一七二頁)。○よはくだちつつ 夜の更けゆくをいふ。卷十九に「夜くだち」ともある。「くだち」は前出(一四八八頁)。「更降」は更の闌くる意。舊訓フケニツツ〔五字傍線〕は非。△地圖及寫眞 挿圖170(六一七頁)196(六一五頁)參照。
【歌意】 三笠の山が高いせゐかまあ、月が一向出て來ないわ。夜は更けに更けてさ。
 
〔評〕遲く出る月を待遠に思つて、「山高みかも」の一不審を投げた。月待つ歌に「雨ごもり」の枕詞は聯想上妙でない。又構想は次の坂上(ノ)郎女の歌も、間人(ノ)大浦の初月歌(卷三)も、沙彌(ノ)女王の歌(卷九)も皆同じである。暗合か踏襲かは知らぬが、かう類想の多いことも、その優絶した作でないことを證する。但大浦の歌「椋橋《クラハシ》の山を高みか」(七二三頁)には、多少の姿致とそれに就いての注脚がある。參照されたい。
 
大伴(の)坂上(の)郎女(が)月(の)歌三首
 
※[獣偏+葛]高乃《かりたかの》 高圓山乎《たかまとやまを》 高彌鴨《たかみかも》 出來月乃《いでくるつきの》 遲將光《おそくてるらむ》     981
 
〔釋〕 ○かりたかの 「※[獣偏+葛]高」は地名。高圓山西魔の臺地の稱。※[獣偏+葛]高の野といふ。卷七に「借《カリ》高の野邊さへ清く照る月夜かも」とある。こゝは高圓山に係る序詞の如くに用ゐた。○たかまとやま 既出(六一六頁)。○いでくる 古義訓イデコム〔四字傍線〕は非。△地圖及寫眞 挿圖170(六一七頁)169(六一四頁)參照。
【歌意】 ※[獣偏+葛]高の高圓山の高いせゐかまあ、出て來る月が、かうも〔三字右○〕遲くさすのであらう。
 
(1737)〔評〕 これも月を待つ意である。評は上の歌の條に盡きてゐる。蟲麻呂と郎女とは、卷四「戀ひ/\てあひたるものを」の歌の左註によると、頗る親昵の關係であつたさうだが、何もおなじやうな歌まで詠むにも及ぶまいに。然しこの歌は別に高《タカ》の語を三疊した小技巧がある。
 尚「古郷の飛鳥はあれど」(一七四四頁)及び「ますらをが高圓山にせめたれば」(一八〇〇頁)の條下を參照。
 
烏玉乃《ぬばたまの》 夜霧立而《よぎりのたちて》 不清《おほほしく》 照有月夜乃《てれるつくよの》 見者悲沙《みればかなしさ》     982
 
〔釋〕 〇ぬばたまの 夜の枕詞。既出(三〇四頁)。○おほほしく 既出(四八五頁)。「不清」を意訓にかく訓む。不明〔二字傍点〕(卷十)をも訓んである。○みればかなしさ 「月夜の」は「見れば」を隔てゝ、「悲しさ」に續く。この「さ」を古義に、高さ廣さの名詞格なると同じやうに解したのは誤。誤字説も多少あるがが採らぬ。○かなし (1738)(1)悲し、(2)面白い、(3)愛するの三者がある。この歌では(1)の意。「まかなしみ」を參照(一一三七頁)。
【歌意】 夜露が立つて、ぼんやりと照つてゐる月夜が、見ると、ほんに悲しいことさ。
 
〔評〕 月はその光色の關係から、悲哀の感じを催し勝ちのもの、まして時が蒼茫たる夜の靜寂であり、而も或は悲涼或は凄其なる聯想を伴ふところの煙霧に包まれて朦朧たる光景に對しては、一段の哀愁を加へざるを得まい。さればこの歌は當然な感想を當然に述べたまでで、何の奇もない。が月に悲しと道破したことは、歌ではこれが抑もであらう。詩には例が多い。
 「かなしさ」を面白しの意としても通ずるが、上の「おほほしく」が憂欝の意をもつから、悲しの意とする方が自然でふさはしい。
 
山葉《やまのはの》 左左良榎壯子《ささらえをとこ》 天原《あまのはら》 戸〔左△〕度光《とわたるひかり》 見良久之好藻《みらくしよしも》     983
 
〔釋〕 ○やまのは 山の端。「葉」は借字。○ささらえをとこ 細《サヽ》ら愛男《エヲトコ》。月の異名。「ささ」は物の細やかなるをいひ、「ら」は接尾語。「え」は美しく愛《ハ》しきをいふ。記(上)に「あなにやし愛袁登古《エヲトコ》を」とある。尚「ささらの小野」を見よ(九三六頁)。○あまのはら 既出(四二二頁)。○あまのはらとわたる 二説ある。(1)天の岩屋戸の前を渡る(古義)。(2)天の川門《カハト》を渡る(新考)である。按ずるに(1)はやゝ牽強の感がある。(2)は更に迂遠で、古今集(秋)に「秋風に聲をほ(帆)にあげてくる舟は天の門渡る雁にぞありける」とあるが、それは天の川門と(1739)解すべき前提があり。又同集(雜)「わが上に露ぞおくなる天の川門渡る舟の櫂の雫か」は明かに天の川と斷つてある。案ずるに「戸」を佐〔右△〕の誤として、サワタル〔四字傍線〕とすれば意は頗る明瞭だと思ふ。○よしも 「よし」は宜しで、結構の意。「も」は歎辭。
【歌意】 山の端から出るさゝらえ男(月)が、大空を經わたる光を見ることがさ、嬉しいな。
 
〔評〕 すべて崇高な感じを出すに骨折つてゐる。「天の原さ渡る光」といひ、又月に「さゝらえ男」の異名を用ゐた。この半人半神の活喩も適實で面白い。往時美貌を形容するに、光る〔二字傍点〕、耀く〔二字傍点〕の語がある。「さ渡る光」の光は「ささらえ男」の美しい影である。隨つて山の端から天の原を經渡るまで、見ても見飽かぬので、「見らくよしも」が旨く落著する。さもなければこの結句は、平凡な報告に終つてしまふ。
 
右一首(ノ)歌、或云(フ)、月(ノ)別名(ヲ)曰(フ)2佐散良衣壯子《サヽラエヲトコ》1也。縁(リテ)2此辭(ニ)1作(メリト)2此歌(ヲ)1。
 
 或人がいふには、月の異名を「サヽラエヲトコ」といふので、その辭を使つてこの歌は詠んだのだとの意。
 
豐前(の)國(の)娘子《をとめが》月(の)歌一首【娘子|字《ナヲ》曰(フ)2大宅《オホヤケト》1、姓氏未詳也。】      
 
○豐前國娘子 註に名を大宅といふと見え、卷四に豐前(ノ)國(ノ)娘子|大宅女《オホヤケメノ》歌とある。同人であらう。傳既出(一三二三頁)。
 
(1740)雲隱《くもがくり》 去方乎無跡《ゆくへをなみと》 吾戀《わがこふる》 月哉君毛〔左△〕《つきをやきみも》 欲見爲流《みまくほりする》     984
 
〔釋〕 ○ゆくへをなみと 行方《ユクヘ》がまあわからなさによつて。「と」の辭輕く聞く。○きみも 「毛」原本に之〔右△〕とある。これはキミガ〔三字傍線〕と訓まれるが、一首の意が分明を缺く。新考に毛〔右△〕の誤と見たのは甚だよい。
【歌意】 雲に隱れてその行方がわからなさに、私が戀うてゐる月を、あの方も同じやうに〔五字右○〕、見たくお思ひかしら。
 
〔評〕 郎を懷うて月に對する時、端なく月の雲隱れにあひ、懇にこの際における郎君の擧措と心情とを想像し思惟してみた。一輪の月は兩地の情を繋ぐ、銷魂の極である。但表現がやゝ散漫。
 
湯原(の)王(の)月(の)歌二首
 
天爾座《あめにます》 月讀壯子《つくよみをとこ》 幣者將爲《まひはせむ》 今夜乃長者《こよひのながさ》 五百夜繼許曾《いほよつぎこそ》     985
 
〔釋〕 ○あめにます 天上に座《イマ》す。○つくよみをとこ 月夜見男。月の異名。また月人男ともいふ。「つくよ」は月のこと。「み」はビ(靈)の轉語で尊稱。記(上)に、次(ニ)洗(フ)2左(ノ)御目(ヲ)1時、所《マセル》v成(リ)神(ノ)名(ハ)月讀(ノ)命、神代紀に、次に生(ム)2月(ノ)神(ヲ)1。一書(ニ)月弓《ツキユミノ》尊、月《ツキ》夜見(ノ)尊、月《ツキ》讀(ノ)尊とある。「讀」は借宇。○まひ 前出(一六〇一頁)。○いほよ 「いほ」は五百の意であるか、多數の義とする。○つぎこそ 續けてくれい。「こそ」は願望辭。
(1741)【歌意】 天上に居らつしやる 月讀男よ、お禮物を差上ませう。どうぞ今夜の長さは、五百夜の長さに續けて下さい。
 
〔評〕 單なる天象語の月〔傍点〕とのみでは「まひはせむ」が襯密でないので、月讀男の人格的名稱を用ゐた。
  若ければ道ゆき知らじまひはせむ下部《シタベ》の使負ひてとほらせ(卷五、山上憶良――905)
も似た着想である。すべて神祭の幣物は神意を慰め奉るにある。代償の應報を餘り強要すると、交換行爲に似た結果になるが、歌ではその代償が物質的でないから、却て興味三昧の快語となる。主としては明月の夜を長かれと要求したもので、稍浮誇に流れた氣味はないでもない。
  あすのよひ照らむ月夜《ツクヨ》は片寄りにこよひに寄りて夜長からなむ(卷七――1072)
はこの亞流である。
 
愛也思《はしきやし》 不遠里乃《まぢかきさとの》 君來跡《きみこむと》 大能備爾鴨《おほのびにかも》 月之照有《つきのてりたる》     986
 
〔釋〕 ○はしきやし 既出(五一八頁)。この句「君」に係る。○まぢかき 「不遠」を意訓に讀む。○きみこむと 君來むとて〔右○〕。略解訓による。宣長はこの三四句に誤字説を提出したが、皆當らぬ。○おほのび 大野邊。「び」は「はまび」を見よ(一〇〇一頁)。尚「はるののに」を參照(一四八一頁)。○てりたる 舊訓テラセル〔四字傍線〕。
【歌意】 遠くもない處に居る、愛する貴方が來うといふので、この大野の邊に、月が照つたことかまあ。
 
(1742)〔評〕 王はその邸宅續きの野原に、皎々と照つた明月に對し、ま近き里の親友を憶ひ、その來遊を希ふのであつた。然し王の狡猾なる、自身をその圏外に置いて、すべてを月と親友との交渉に寄託し、月は意有つて君が來路を照してゐると報告した。この報告に接した親友は、來ねば月に辜負する没風流の譏を負ふ、否でも應でも出て來ねばならぬとなる。面白い陷穽だ。巧語言と評しておかう。
 
藤原(の)八束《やつかの》朝臣(が)月(の)歌一首
 
○藤原八束朝臣 傳既出(九〇四頁)。
 
待難爾《まちかてに》 余爲月者《わがするつきは》 妹之著《いもがきる》 三笠山爾《みかさのやまに》 隱而有來《こもりたりけり》     987
 
〔釋〕 ○まちかてにわがする わが待ちかてにする〔九字傍点〕の顛倒。○いもがきる 「みかさ」に係る序詞。「きる」を古義訓にケル〔二字傍線〕とあるは非。尚「けせる」を見よ(一一一〇頁)。○みかさのやま 「みかさやま」を見よ(六二一頁)。
【歌意】 私が待ちかねてゐる月は、あの三笠山に、何時までも〔五字右○〕、かけ籠つてゐることよ。
 
〔評〕 上代の婦人も、笠を冠つて歩いたと見える。さて「妹が著る」の修飾も、この歌の平淺を蔽ふに足らない。
 
市原(の)王(の)宴《うたげして》祷《ほぎたる》2父|安貴《あきの》王(を)歌一首
 
(1743)市原王が宴を開いて父の安貴王の壽を祝はれた歌との意。○市原王 傳既出(九二〇頁)。○安貴王 傳既出(七四七頁〉。△挿圖275(九二〇頁)を參照。
 
春草者《はるぐさは》 後波落易《のちはうつろふ》 巖〔左△〕成《いはほなす》 常磐爾座《ときはにいませ》 貴吾君《たふときわがきみ》     988
 
〔釋〕 ○はるぐさは 契沖いふ、「草」は花〔右△〕の誤かと。○うつろふ 「落易」は略解にかく訓んだのか比較的よい。易は音エキ、變る〔二字傍点〕の意を採る。舊訓カレヤスシ〔五字傍線〕、契沖及び古義訓チリヤスシ〔五字傍線〕。〇いはほなす 「巖」原本に嚴〔右△〕とあるは誤。西本その他によつた。○ときは 「ときはなす」を見よ(七五〇頁)。
【歌意】 春草は美しくめでたいが〔八字右○〕、後には枯れ衰へる。それよりも〔五字右○〕巖のやうに、常磐にあらつしやいませよ、わが父君は。
 
〔評〕 「弱草の夫《ツマ》」と呼び、「春草のいや珍しきわが大君」と愛ではやすのが常習的の時代だ。されば一旦は春草の瑞々しさを以て父君に擬へて、壽の語とすべく思つたが、待て暫しよく思へば「後は移ろふ」で、秋になれば忽ち凋萎するのであつた。そこで極めて凡常で舊套には墮するものゝ、完全に常磐である巖石を引いて、父君の萬歳を切願した。孝子の心情がそこに脈動する。春草との對照が腐を化して新とした。時は恰も若草の萌え盛る遲春の頃であつたらう。
 
湯原(の)王(の)打酒《さかほがひの》歌一首
 
(1744)○打酒 酒を行ふをいふ。即ち酒宴である。打はその事をなす意で、打飯打漁とも熟する。「打」を宣長は祈〔右△〕の誤とし、古義所引の嚴水説は、折〔右△〕の誤にて酒を釀す意としたが、何れも非。サカホガヒは酒|壽《ホ》ギ〔傍点〕の延言。酒を進むるに壽《ホ》ぐをいふ。
 
燒刀之《やきだちの》 加度打放《かどうちはなち》 大夫之《ますらをが》 祷〔左△〕豐御酒爾《ほぐとよみきに》 吾醉爾家里《われゑひにけり》     989
 
〔釋〕 ○やきだちの 既出(一二六二頁)。○かどうちはなち 刀を拔いて鎬《シノギ》を露はすをいふか。「かど」は刀の稜《カド》で、ムネ(背)通りの稜線の稱。この句「ほぐ」に係る。舊訓ウチハナツ〔五字傍線〕は三句の「ますらを」に係るので、意がたじろぐ。宣長訓による。○ほぐ 眞淵訓による。類本等の訓ノム〔二字傍線〕、西本等の訓ネグ〔二字傍線〕。「祷」原本に擣〔右△〕とあるは誤。
【歌意】 丈夫《マスラヲ》が太刀の稜を拔き放つて言壽《コトホ》ぐ、その結構なお酒に、私は醉つてしまうたわい。
 
〔評〕 酒壽《サカホガ》ひは古へ廣い意味では興宴の稱となつてゐた。されば漢語の「打酒」の字面を充てもしたのである。抑も酒の釀造はむづかしいもので、その成否は神業と考へられ、精進潔齋、洒神にその丹誠を抽でたものである。造酒司で祀る神六座、そのうち四座は竈神で、酒を釀すに竈を祀り、又井を祀る。隨つて釀した酒甕の口(1745)を始めて切る時、その釀成の功をこれらの神々に感謝する爲の信仰的儀礼、或は咒術の類の行爲があつたと考へられる。
  吉|野《ヌ》の國主《クズ》ども――吉野の白擣上《カシフ》に横臼《ヨコス》を作りて、その横臼に大御酒を釀《カ》みて、その大御酒を獻る時に、口鼓を撃ち〔五字傍点〕伎《ワザ》をなして歌ひけらく〔九字傍点〕。(記中、應神天皇の條)
と見え、茲には「燒太刀の稜うち放ち――壽ぐ」とある。殊に劍太刀は神靈の憑る器で、不淨の邪氣を拂ふ功力あるものと信ぜられてゐた。さてかく壽ぎ終へた後、その酒を酌み交して宴するのであつた。
 この「ますらを」は酒造の當事者か、或は宴席の主事者であらう。それらが太刀拔き放つて祝言したこの豐御酒と讃め稱へ、杯を擧げて赤土《アカニ》の秀《ホ》に聞し召した湯原王は、その歡に禁へぬ餘り、この一作を物した。
 應神天皇は百濟人|須々許理《スヽコリ》の釀した大御酒にうらげて、
  須々許理が釀みし御酒《ミキ》に、われ醉ひにけり。事なぐし笑《ヱ》ぐしに、われ醉ひにけり。(記中)
とお歌ひ遊ばされた。著想はその躇襲のやうであるが、これは更に空を斬る劍氣が横逸して、胸中の洒落と相俟つて、いとも豪快の調を成した。高品の人、その風格もおのづから高邁である。この外王の作は戀歌を除いては、總體に調子が高い。竹園中の作家である。
 
紀(の)朝臣|鹿人《かひとが》跡見茂岡《とみのしげをかの》松(の)樹(の)歌一首
 
○跡見 「跡見(ノ)庄」を見よ(一三三二頁)。この跡見を大和礒城郡の外山《トビ》村に當てる説は取らぬ。○茂岡 樹木の茂つた岡のこと。○紀朝臣鹿人 續紀に、天平十九年九月正六位上から外從五位下、同十二月主殿(ノ)頭、同十二年十(1746)一月外從五位上、同十三年八月大炊頭とある。△地圖及寫眞 挿圖350(一三三四頁)351(一三三五頁)を參照。
 
茂岡《しげをかに》 神佐備立而《かむさびたちて》 榮有《さかえたる》 千代松樹乃《ちよまつのきの》 歳之不知久《としのしらなく》     990
 
〔釋〕 ○かむさび 「かむさびせすと」を見よ(一五三頁)。○ちよまつのき 千代待つに松をいひかけた。○しらなく 既出(四四五頁)。
【歌意】 この茂岡に物舊りて生ひ立つて、そして榮えてゐる、千年を待つといふ名の松が、幾年經たかもわからぬことよ。
 
〔評〕 繊弱な調で甚だ面白くない。「千代まつの木」の洒落もその當時には出榮えもしたらうが、鼻に著いて感心しない。
 
同(じ)鹿人(が)至(りて)2泊瀬《はつせ》河(の)邊《ほとりに》1作歌
 
○泊瀬河 「はつせのかは」を見よ(二七二頁)。
 
石走《いははしり》 多藝千流留《たぎちながるる》 泊瀬河《はつせがは》 絶事無《たゆることなく》 亦毛來而將見《またもきてみむ》     991
 
(1747)〔釋〕 ○いははしり――はつせがは 上句は序詞。京本訓による。類本神本などの訓はイシハシリ〔五字傍線〕。△地圖 挿圖 61(一七六頁)を參照。
【歌意】 岩床を走つて、たぎつて流れる初瀬川のやうに、絶える事なしに、何遍もこの川の景色を來て見よう。
 
〔評〕 今の初瀬川はさういゝ景色ではない。初瀬町附近に至つて稍見られる。然し「流るゝ水尾《ミヲ》の瀬を早み」(卷七)といひ、又
  泊瀬川しら木綿花に落ちたぎつ瀬をさやけみと見に來し我れを(卷七――1107)
などあるので見ると、昔は水量も多く相當な激瑞も澤山あつたらしい。この下句に就いては、卷一、人麻呂の幸2吉野宮1之時の第一歌の反歌の評語(一五一頁)を參照されたい。
 
大伴(の)坂上(の)郎女(が)詠《よめる》2元興《ぐわんこう》寺之里(を)1歌一首
 
(1748)坂上郎女が元興寺の里を詠んだ歌との意。○元興寺之里 奈良の新元興寺所在の里をいふ。新元興寺の舊地域は奈良京の左京四條五條の間、六七坊を占め、その南限は今の京終《キヤウハテ》より紀寺に亘る。今の花園町はその燈油の料の椿を栽培した花園の一部といふ。この寺もと高市郡の飛鳥にあつて飛鳥寺と呼ばれた。蘇我(ノ)馬子の創建。類聚三代格に、元興寺、此寺(ハ)者、佛法元興之場、聖教最初之地也。去(ヌル)和銅三年帝都遷(ル)2平城(ニ)1之日、諸寺隨(ツテ)移(ル)、件(ノ)寺獨留(マル)、更(ニ)造(リ)2新寺(ヲ)1備(フ)2其不(ル)v移(ラ)間(ニ)1、所謂本元興寺是也と見え、甚だその文意が誤解し易いが、奈良京には新元興寺が出來たので飛鳥京のを本元興寺といふの意である。續紀に、靈龜二年五月辛卯、始(メテ)徙(シ)2建(ツ)元興寺(ヲ)于左京六條四坊(ニ)1と見え、又その二年後、養老二年八月の條に、甲寅移(ス)2法興寺(ヲ)於新京(ニ)1とある。これに就いて日本紀通釋及び東大紀要の平城考には、飛鳥の本寺は法興元興飛鳥など、一寺數稱あつたものとして、元興寺が更に六條四坊から四條六坊に移された意味に解した。△地圖 挿圖380(一五一一頁)を參照。
 
古郷之《ふるさとの》 飛鳥者雖有《あすかはあれど》 青丹吉《あをによし》 平城之明日香乎《ならのあすかを》 見樂思好〔左△〕裳《みらくしよしも》     992
 
〔釋〕 ○ふるさとのあすか 故京の飛鳥。高市郡の飛鳥(ノ)郷をいふ。○あをによし 奈良の枕詞。既出(八三頁)。○ならのあすか 新元興寺所在の里をいふ。もと元興寺に飛鳥寺の稱があつたので、奈良の新地にもその稱を移した。○よしも 「好」原本に奴〔右△〕とあるは誤。類本その他によつた。
【歌意】 舊い京の飛鳥は懷かしくも〔五字右○〕あるが、又この平城《ナラ》の飛鳥を見ることがさ、面白いな。
 
(1749)〔評〕 作者が「古郷の飛鳥」を絶對の懷かしい對象としたことは、その兄君旅人が「神無備の淵はもあせて瀬にかなるらむ」(本卷)と懷舊の情に浸つた如く、少壯時を飛鳥の淨見原の古京に送つたからである。
 さて「平城の飛鳥」は元興寺の一稱を應用した作者の造語とすれば、そこに機智がほの見える。歌は對照が餘り緊密に過ぎて餘蘊に乏しいが、これも亦一節あるものと見られる。
 作者が元興寺の里に興味をもつたのは、寺が作者の寓してゐた高圓山下の宅に近い爲と考へる。下に聖武天皇の高圓山の御獵の時、里中に走り入つた※[鼠+吾]鼠を獻る時、作者が歌を詠んだのも、元興寺邊に住んでゐた證で、上に「※[獣偏+葛]高の高圓山を高みかも」とある作者の歌も、その傍證とするに足りる。
 
同坂上(の)郎女(が)初月《みかづきの》歌一首
 
○初月 既出(七二二頁)。但初月の意は傍で、これは相聞の歌である。
 
月立而《つきたちて》 直三日月之《ただみかづきの》 眉根掻《まよねかき》 氣長戀之《けながくこひし》 君爾相有鴨《きみにあへるかも》     993
 
〔釋〕 〇ただみかづき すぐの三日目の月の如き〔二字右○〕。初二句は「まよね」に係る序詞。○まよね 既出(一一八〇頁)。
【歌意】 月が立つてからすぐ三日目の月のやうな眉の、かゆさを掻き、お蔭で〔三字右○〕長らく戀してゐた、貴方に逢うたことよ。
 
(1750)〔評〕 初二句、序中に序のある例は他にもあるが、これは粗末で面白くない。婦人の眉を新月に擬することは漢詩にも多い。眉根を掻くことは例の俗信である。この事卷四「いとまなく人のまよねを徒らに掻かしめつつも」の條參照(一一八〇頁)。
 
大伴(の)宿禰家持(が)初月(の)歌一首
 
振仰而《ふりさけて》 若月見者《みかづきみれば》 一目見之《ひとめみし》 人之眉引《ひとのまよびき》 所念可聞《おもほゆるかも》     994
 
〔釋〕 〇ふりさけて 「ふりさけみれば」を見よ(四二二頁)。○みかづき 「若月」を意訓によむ。○まよびき 前出(一四三四頁)。
【歌意】 振仰いで三日月を見ると、嘗て一目見た、美人の眉引が、思ひ見されることよ。
 
〔評〕 眉を初月に喩へることは漢詩に、
  映(シ)見(ル)蛾眉(ノ)月(何子郎、玉臺新詠)  雙蛾擬(ス)2初月(ニ)1(范靖婦、同上)
  眉間月出(ツ)(遊仙窟)  眉(ハ)如(シ)2月(ノ)欲(スル)1v消(エント)(同上)
など既に先例があり、唐代に至つては愈よ多い。かういふ聯想は凡常の事だから、和漢偶合としてもよからう。「一目見し兒」に戀をもつことは、よくある例で、
  み空ゆく月の光にただ一目あひみし人の夢にし見ゆる(卷四、扉娘子――710)
(1751)  はた薄ほには咲き出ぬ戀をわがする、かぎろひのただ一目のみ見し人故に(卷十――2311)
  一目見し人に戀ふらく天ぎらし降りくる雪の消ぬべく思ほゆ(卷十一――2340)
  あし引の山鳥の尾の一峯《ヒトヲ》越え一目見し兒に戀ふべきものか(卷十一――2694)
  花くはし芦垣ごしにただ一目あひみし子ゆゑ千たび嘆きつ(卷十一――2565)
  かくしてぞ人は死ぬとふ藤なみのただ一目のみ見し人ゆゑに(卷十二――3075)
など盛に歌はれてある。但目の見方に各色の相違があり、情に多少の淺深がある。中にこの歌は、三日月に依つて纔にその眉引を追憶する程度の、戀としては極めて淡いはかないものであるが、對手はまづ相當の美形ではあつたらう。
 序にいふ、よく美人の描寫に面わをいひ眉引をいふが、口程に物をいふ眼の美に就いて言及したものが、殆どないのは不思議である。
 
大伴(の)坂上(の)郎女(が)宴(せる)2親族《うからと》1歌一首
 
如是爲乍《かくしつつ》 遊飲與《あそびのみこそ》 草木尚《くさきすら》 春者生管《はるはさきつつ》 秋者落去《あきはちりゆく》     995
 
〔釋〕 ○のみこそ この「こそ」は乞の意で、願望辭。○さきつつ この「つつ」は輕い意で、てといふに近い。「生」を古義に「女郎花|生澤邊《サキサハノベ》の」(卷七)「七重花さく八重花|生跡《サクト》」(卷十六)の例を以て、サクと訓むべしとある。舊訓モエツツ〔四字傍線〕、略解訓オヒツツ〔四字傍線〕。○ちりゆく 略解訓カレユク〔四字傍線〕。古義訓チリヌル〔四字傍線〕は非。
(1752)【歌意】 お互に盛りのうち〔八字右○〕、かうしつゝ樂しく遊び飲みしてゐたい。あんな草木ですら春は花が咲いて、秋は散つてゆくわ。まして人間は明日をも知れぬからね〔十六字右○〕。
 
〔評〕 旅人卿なき後の大伴氏は、政治的勢力こそ稍下火の状態になつたが、依然たる古來の名族、その門葉は頗る廣く榮えてゐた。當主家持はまだ十四五歳の弱年、隨つて叔母さんの郎女が萬事家の釆配を揮つてゐたらしく、卷三にも、坂上(ノ)郎女(ガ)宴(スル)2親族(ヲ)1之時吟(メル)歌の題詞がある。郎女は折々懇親會を催して、一家の結合を固くしたものらしい。
 宴會に酒と歌舞は附物だ。それが即ち遊び飲むである。歡樂極(ツテ)兮哀情多(シ)(漢武帝)で、一門の老若が歡を※[聲の耳が缶]す間に、郎女は一寸繁華の裏を覗いた。榮枯盛衰は草木の非情なるすら遁れぬ、人生獨晏如たる筈がない、さればお互に榮昌の現在に於いて、飽くまで享樂を追求したいと、その感想を披瀝して、興宴の火に油を濺いだ。
  人生無(シ)2根蔕1、飄(トシテ)如(シ)2陌上(ノ)塵(ノ)1、分前逐(ヒテ)v風轉(ズ)、此(レ)已(ニ)非常(ノ)身、落地爲(ル)2兄弟(ト)1、何(ンゾ)必(シモ)肉(ノ)親(ノミナランヤ)、 得(テ)v歡(ヲ)常(ニ)作(シ)v樂(ヲ)、斗酒聚(ム)2比隣(ヲ)1、云々。(雜詩、陶潜)
  衰榮無(シ)2定住1、彼此更(ニ)共(ニス)v之(ヲ)、――寒暑有(リ)2代謝1、人道毎(ニ)如(シ)茲(ノ)、達人解(シ)2其會(ヲ)1、逝將不2復疑(ハ)1、忽(テ)與2一觴(ノ)酒1、日夕懽相持(ス)。 (飲酒、陶潜)
の思想と共通點が存する。郎女が是等の文獻を見ないと斷言は出來ぬが、かういふ傾向の感想はさのみ特異性のあるものではないから、恐らく偶合であらう。
  夫天地者萬物之逆旅、光陰者百代之過客而(モ)浮世如(シ)v夢(ノ)、爲(ス)v懽(ヲ)幾何(ゾヤ)、古人秉(リテ)v燭(ヲ)遊(ブ)、良(ニ)有(ル)v以(ユヱ)也。(春夜宴桃李園序、李白)
(1753)も郎女の作と殆ど同時代で、その先後を決し難い。
 郎女はその頃四十餘歳の分別盛りの老媼であつた。素より佛教信者の事でもあり、無常變易の哲理にその關心をもつのも當然であらう。然し當時の佛教は現世利益を強調してゐたから、淨土教盛行の後世とは違つて、欣求淨土の所願は餘り熱烈なものでなく、却てかくの如く凡人主義に近いものに轉用されたのが、歌として又面白いのである。
  
六年|甲戌《きのえいぬ》、海犬養《あまのいぬかひの》宿禰岡麻呂(が)應《うけたまはりて》v詔(を)作〔左○〕歌一首
 
〇六年 天平六年。○應詔作歌 仰言によつて詠んだとの意。「作」原本にない。眞淵説によつて補つた。○海犬養宿禰岡麻呂 傳未詳。海犬養は氏。姓氏録に海神|綿積《ワタツミノ》命之後也とある。
 
御民吾《みたみわれ》 生有驗在《いけるしるしあり》 天地之《あめつちの》 榮時爾《さかゆるときに》 相樂念者《あへらくおもへば》     996
 
〔釋〕 ○みたみわれ 「みたみ」は人民のこと。既出(一九二頁)。○しるし かひ〔二字傍点〕(詮)といふに近い。前出の同項を參照(一六六二頁)。○あへらく あへる〔三字傍点〕の延言。
【歌意】 大君の〔三字右○〕御民たる私は、この世に生きてゐる甲斐があります、かやうに天も地も榮えるめでたい時に、逢つたことを思ひますと。
 
(1754)〔評〕 岡麻呂は如何なる身分の人で、如何なる動機で應詔の歌を詠んだものか、一向その事情が判明しない。
 想ふに岡麻呂は在官者ではないが、何かの功績又は或技藝堪能の士か、さては珍しい長壽者かで、特に召し出されて破格の恩命に浴した人ではあるまいか。されど六位以下の叙任は國史に記載しない例なので、その事蹟が湮滅したのであらう。平安朝に及んで、仁明天皇の御時、尾張(ノ)濱主(外從五位下)が百十三歳の老年で清涼殿前に召され、長壽樂を奏して、
  翁とてわびやはをらむ草も木も榮ゆる時に出でて舞ひてむ
の歌を獻つたことが史(續日本後紀)に見える。岡麻呂も何かこれに似寄つた事情のもとに召し出され、而も歌詠むと聞し召されて歌獻らしめられたものか。
 「みたみ」を弘く日本臣民の意と解するのは、現代人の勝手な見方である。この語には階級意識が隨伴してゐた。卷一、藤原(ノ)宮(ノ)役民之歌に「そを取ると騷ぐ御民も」とあるも同じで、本來無位無禄の百姓以下を呼び、又その自稱する語である。されば岡麻呂は尋常なる百姓でもあるまいが、別に官職をもたぬ身分だつたので、かく謙稱したのであらう。
 天平六年は聖武天皇の御治世、奈良朝の最盛時で、文化の發展も一段の飛躍を示し、
  青丹よし奈良の京《ミヤコ》は咲く花の匂ふが如く今盛りなり(卷二、小野老――328)
の時代であつたとすれば、「天地の榮ゆる時」は、決して漫然たる諛言ではなからう。濱主も「草も木も榮ゆる時に」と歌つてゐる。この明時に際會し、幸に寵遇を得て望外の光榮に浴する。實に「生ける驗あり」と感謝するに足りる。岡麻呂の歡喜や實に察すべきである。
(1755) この歌はかくの如く、箇人的感情から出發した歡喜の聲と聞くが至當であらう。君國の讃美聖世の頌聲の如きは、何を苦んで卑賤微臣の岡麻呂などに徴求されることがあらうぞ。
 然し「御民われ」は日本臣民の意に擴充して現代意識に解釋すると、更により大きな感想となつて、聖代に生息する蒼生の偉大なる感謝を表し、その堂々たる雄渾の風格、和諧暢達なる聲調、相俟つて及び易からざる絶唱と見られてくる。尚「君が代」の歌が國歌となつて、その存在價値を高めたのと似てゐる。
 
春三月幸(せる)2于難波(の)宮(に)之時(の)歌六首
 
○春三月 續紀に、天平六年春三月、辛未(十日)行2幸(ス)難波(ノ)宮(ニ)1、戊寅(十七日)車駕還(ル)v宮(ニ)とある。
 以下六首、難波に就いて歌はれたものなく、住吉地方は三首までも詠まれてある。「從千沼囘《チスワヨリ》」の歌の左註にある如く、天皇は難波宮御滯在中、住吉方面に御出遊があつたのだ。
 
住吉乃《すみのえの》 粉濱之四時美《こはまのしじみ》 開藻不見《あけもみず》 隱耳哉《こもりてのみや》 戀度南《こひわたりなむ》     997
 
〔釋〕 ○こはま 住吉の粉濱は住吉神社の西北に當り、今は全部陸地となつてゐる。この時代でも蜆が棲む處を見ると、水淺く泥沙の堆積した入江であつたらしい。○しじみ 蜆。瓣鰓類中同柱類に屬する貝。初二句は「あけ」に係る序詞。○あけもみず 打開けてもみず。○こもりて 契沖訓による。略解訓コモリノミヤモ〔七字傍線〕、(1756)舊訓シノビテノミヤ〔七字傍線〕、新考カクレテノミヤ〔七字傍線〕。△地圖 挿圖78(二四一頁)を參照。
【歌意】 住吉の粉濱の蜆貝のやうに〔四字右○〕、打開けるといふことも自分は〔三字右○〕せず、心の内にばかり込めて戀うて、月日を重ねることであらうかえ。
 
〔評〕 蜆とは妙な物を序詞に使つたものだ。その頃難波附近では粉濱の蜆が名物であつたのであらう。作者の戀の相手は從駕の女房か。とすれば迂潤に冗談口も利けない。さりとてさらりと諦めもし得ない。で「あけも見ず隱りてのみや」と、稍自嘲氣味にその力ない歎息を洩した。
 
右一首、作者未詳。
 
 作者未詳とあつても、最初は分明してゐたのだらうが、人物の關係上わざと秘する場合もあり、又作者の意志によつて匿名にする場合もある。後世の勅撰集にも、往々これに似た事情の存するものがある。
 
如眉《まゆのごと》 雲居爾所見《くもゐにみゆる》 阿波乃山《あはのやま》 懸而※[手偏+旁]舟《かけてこぐふね》 泊不知毛《とまりしらずも》     998
 
〔釋〕 ○まゆのごと 眉の形の如く。遠山の細く靡いた状をいふ。○あはのやま 阿波の國の山。仙覺註に、讃岐の屋島の邊の粟島とあるは無稽。古義がこれに依つて、「山」を島〔右△〕の誤かと疑つたのは愈よ妄。○かけて 此方から向ひへと懸けて。古義に、目に懸けてとあるは非。○しらず 知られ〔右○〕ずの意。
【歌意】 眉のやうに細く、空遙に見える阿波の山、そちらへ懸けて漕ぐ船は、その泊り處がわからぬわい。
 
(1757)〔評〕 これは難波の海邊でもよいが、南に寄つた茅渟《チヌ》邊なら尚更ふさはしい。濱頭に立つて眺望すると、阿波國の方角に當つて雲山の影が模糊としてゐる。それは淡路島の南端である。「眉のごと雲居に見ゆる阿波の山」は作者の認識が既に誤つてゐた。然し今の我々が見ても、それが「阿波の山」と想像されざるを得ない地理的實状にある。
 天末一抹の山影に劃されたのみで、海は漫々として廣い。そこに一葉の舟が沖を臨んで駛走してやつてくる。作者は忽ち深い關心を以てその舟を諦視した。頼りなさ心細さ不安さ、あらゆる同情が次/\に湧き立つ。舟の安息處は泊である。然るにその泊さへ見當が付かぬ大海であつては、結局どうなるだらうと、傍觀者たる作者の胸を傷ましめる。さればその前提たる場處の指定は、事情の許すかぎり誇大である程、結果が強く反撥し、「泊知らずも」の詠歎の響が幅ひろく振動する。
 説明すれば右の如くだが、作者は只感情の動きのまゝに、大らかに一氣にいひ下したもので、流石御身分がら、他人の到底企及し能はぬ高渾の格調を具へてゐる。
 
右一首、船(ノ)王(ノ)作(メル)。
 
 ○船王 淳仁天皇の御弟で、舍人親王の子。續紀に、神龜四年正月無位より從四位下、天平十五年五月從四位上、同十八年四月彈正(ノ)尹、寶宇元年五月正四位下、同二年八月從三位、同三年六月、御父舍人親王に崇道盡敬皇帝の追尊があつた爲、隨つて親王となり三品にに敍せられ、同四年正月信部卿、同六年正月二品、同八年十月惠美(ノ)押勝の亂により、詔に依つて降して諸王となし、隱岐國に配流された。その詔に、船(ノ)親王《ミコ》は九月五日に仲(1758)麻呂(藤原)と二人謀りけらく、書《フミ》作りて朝廷《ミカド》の咎數へ奉らむと謀りけり、云々。
 
從千沼囘《ちぬわより》 雨曾零來《あめぞふりくる》 四八津之泉郎《しはつのあま》 網乎綱〔二字左△〕乾有《あみをほしたり》 沾將堪香聞《ぬれあへむかも》     999
 
〔釋〕 ○ちぬわ 茅渟《チヌ》の邊。「ちぬ」は和泉の海の稱から起つて地名ともなつた。記(中)に、五瀬(ノ)命が御手の血を洗はれたので、血沼《チヌ》之海といふとの傳説を載せた。續紀に、靈龜二年に河内國の和泉日根二郡を割いて珍努《チヌノ》宮に供せしむと見え、故に和泉國が立つた。今の濱寺高石の邊は茅渟(千沼)である。「わ」を古義にはミ〔傍線〕と訓んである。〇しはつ 「しはつやま」を見よ(六九六頁)。○あみをほしたり 「乎」原本に手〔右△〕とあるは誤か。「綱」は衍宇。新考も同説。古義所引の大町稻城説はツナデホシタリ〔七字傍線〕と訓み、「網」は綱の誤、「綱」はおなじく衍字とした。「綱手」は曳舟などの繩であるが、それよりも網の方が干して風情がある。○ぬれあへむかも 沾れるに堪へようかまあ。早くいへば、沾れずにあらうかの意。「か」は疑辭。△地圖及寫眞 挿圖78(二四一頁)79(二四三頁)を參照。
【歌意】 茅渟の海邊から、雨がさ降つてくるわ。そこに磯齒津《シハツ》の海人が網を干してあるわ。あれが沾れずにあらうかまあ。
 
〔評〕 左註にある如く、この日天皇は難波宮から住吉に御出遊であつた。生憎や遙か茅渟の方から海雲は春雨を運んで來たので、俄の御還幸だ。磯齒津路《シハツヂ》にかゝると、海人の家の軒にはまだ網が干し放しになつてゐる。であ(1759)れは沾れてしまふにと、作者は餘所ながら心配をしたものだ。
 左註によれば應詔の作であるさうなが、餘り出來榮のいゝものではない。
 
右一首、遊2覽《アソビテ》住吉《スミノエノ》濱(ニ)1、還(リタマヘル)v宮(ニ)之時(ノ)道上《ミチニテ》、守部《モリベ》王(ノ)王〔左△〕應《ウケタマハリ》v詔(ヲ)作歌。
 
 右は聖武天皇が住吉の濱を御遊覽、難波(ノ)宮にお還りなされる時の途上で、守部王が仰言によつて詠んだ歌との意。この時御兄船王と共に行幸供奉に仕へ奉つたらしい。○王 一字衍。削るがよい。○守部王 舍人親王の子(紹運録)。續紀に、天平十二年正月無位より從四位下、同十一月從四位上とある。
 
兒等之有者《こらがあらば》 二人將聞乎《ふたりきかむを》 奥渚爾《おきつすに》 鳴成鶴乃《なくなるたづの》 曉之聲《あかつきのこゑ》     1000
 
〔釋〕 〇こらがあらば 「あらば」は居らばの意。「こら」は既出(五八八頁)。新考訓コラシアラバ〔六字傍線〕。○おきつす 沖つ洲。沖合の浮洲をいふ。
【歌意】 思ふあの兒が居るならば、二人で聞かうものを、あの沖の洲に鳴いてゐる鶴の、夜明方の聲をさ。
 
〔評〕 文武天皇の難波(ノ)宮行幸の御時、忍坂部《オサカベノ》乙麻呂は、
  倭戀ひいの寢らえぬに心なくこの洲の崎に鶴鳴くべしや(卷一――71)
とその孤獨の旅情を歌つた。これも同じ景致同じ環境同じ感哀のもとに生まれた雙生兒であるが、彼れは焦燥(1760)の色濃く活動的であり、此れは沈欝で内攻的である。悽楚の響こそ「倭戀ひ」に劣るが、「曉の一語は下し得てよい。寢覺勝なる孤客の情が婉曲に映寫され、鶴の聲もこの背景によつて一段と凄涼味を加へる。「二人聞かむを」に、獨しては悲しくてとても聞くに堪へぬ意が暗示され、人戀ひしの情念がさびしく湧き立つて見える。これは住吉の、粉濱あたりの曉であらう。なほ「倭戀ひいの寢らえぬに」の條の評語を參照(二九四頁)。
 おなじ作者の詠でも上の應詔の歌とは段違ひの出來だ。内におのづから感興が動いて發したのと、與へられて作るのとは、かうも違ふものか。
 
右一首、守部《モリベノ》王(ノ)作(メル)。
 
大夫者《ますらをは》 御※[獣偏+葛]爾立之《みかりにたたし》 未通女等者《をとめらは》 赤裳須素引《あかもすそひく》 清濱備乎《きよきはまびを》     1001
 
〔釋〕 ○あかもすそ 赤色の裳の裾。「たまも」を見よ(一六二頁)。○はまび 前出(一五六四頁)。△寫眞 挿圖11(三六頁)54(一六三頁)參照。
【歌意】 男達は御獵のお供に立ちなされ、少女達は奇麗な濱邊を、赤裳の裾を引いて遊ぶよ。
 
〔評〕 「ますらを」は男の官人、「をとめ」は官女である。男官は陛下の御獵に仕へまつり、官女達は後宮椒房の御方の濱邊の逍遙に仕へまつる。この相對的事相に敏くも著眼し、只その事を記して作者自身の感想は一語も挿まない。而も間接に難波宮御出動の盛世の勝事を頌してゐる。高手。初二句と三四五句とが對蹠的に合拍して(1761)ゐる敍法も、型が變つて面白い。
 難波宮附近は水澤地で、狩獵に適する山林原野がない。又蘆荻の叢生はあつても「清き濱邊」ではない。住吉ならば「清き濱邊」があり、近く山林もあり原野もある。これも住吉での作と見られる。
 
右一首、山部(ノ)宿禰赤人(ガ)作(メル)。
 
○赤人 傳既出(七六三頁)。
 
馬之歩《うまのあゆみ》 押止駐余《をさへとどめよ》 住吉之《すみのえの》 岸乃黄土《きしのはにふに》 爾保比而將去《にほひてゆかむ》     1002
 
〔釋〕 ○おさへとどめよ 「おさへ」は卷三にも「大御馬《オホミマ》の口をさへとめ」とある。奮訓オシテトドメヨ〔七字傍線〕。○はにふ 既出(二四八頁)。「黄土」の下爾〔右△〕の字脱かとも思ふが、無い助辭を訓み付けるのも例の事である。○にほひて 既出(一六五一頁)。
【歌意】 これ皆の者〔五字右○〕、手綱を控へて、馬の歩みを抑へ止めなさい。この住吉の岸の黄土に、衣を染めて往かうぞ。
 
〔評〕 住吉の岸の黄土の事は、既に卷一「草枕旅ゆく君と」(清江娘子)の條で、委しく評中に解説した。
  白波の千重に來寄する住の江の岸の黄土に匂ひてゆかな(本卷、車持千年――932)
はこれと下句が全く同じい。只「馬の歩みをさへとどめよ」が一段の姿致を作り、黄土に強い愛着を感じた趣(1762)が、間接に表現されて面白い。但「匂ひて行かむ」はあながちその實行を強要するものではない。只眼前の好風光をつぶさに翫賞しようの意を強調し誇張したまでゝある。
  馬いたく打ちてな往きそけ並べて見てもわがゆく志賀にあらなくに(卷三、刑部垂麻呂――263)
の上句はこれに似てゐるが、下句は全く別趣のものである。
 
右一首、安倍《アベノ》朝臣|豐繼《トヨツグガ》作(メル)。
 
 ○安倍朝臣豐繼 續紀に、天平九年二月外從五位下より從五位下を授くとある。
 
筑後(の)守|外《げ》從五位〔左○〕(の)下|葛井連大成《ふぢゐのむらじおほなりが》、遙(に)見(て)2海人(の)釣船(を)1作歌
 
○外從五位下 外は外位《ゲヰ》といひ、もと地方官に賜ふ位で、内位よりは輕い。民部式に位田は内位の半を減ずとある。神龜の頃より内官をも外位に敍すること始まり、後には内外官の論なく、姓氏の凡卑なる者を外位に敍した。○萬井連大成 傳既出(一九七頁)。
 
海※[女+感]嬬《あまをとめ》 玉求良之《たまもとむらし》 奥浪《おきつなみ》 恐海爾《かしこきうみに》 船出爲利所見《ふなでせりみゆ》     1003
 
〔釋〕 ○たま 鰒珠《アハビタマ》。上出(一六五三頁)を參照。○ふなでせりみゆ 「せりみゆ」の續きは古格。上出「さわぎたりみゆ」を見よ(一六四二頁)。
(1763)【歌意】 海人の少女は珠を探すらしい。沖の浪の恐ろしい海に、船出して居るのが見える。
 
〔評〕 沖に浮いてゐる舟では、その乘手を海人少女とは認定し難い。又題詞には釣船とある。釣船なら鰒珠を採取する舟ではあるまい。理窟をいへばかうだが、實は海上に浮沈する海人舟を見遣つて、興趣の湧くがまゝに誇大に下した想像で、か弱い海人少女を拉して、恐こき海に配合したことが手なのである。
 
※[木+安]作村主益人《くらつくりのすくりますひとが》歌一首
 
○※[木+安]作村主益人 傳既出(七五三頁)。
 
不所念《おもほえず》 來座君乎《きいますきみを》 佐保川乃《さほがはの》 河蝦不令聞《かはづきかせず》 還都流香聞《かへしつるかも》     1004
 
〔釋〕 ○きいます 「座」をイマスと訓む。過去を現在法に叙するは「たわやめの袖吹きかへす飛鳥風」(卷二)の例。舊訓キマセル〔四字傍線〕は結句との打合がわるい。新考訓はキマシシ〔四字傍線〕。○きみを 君なる〔二字右○〕を。○さほがは 既出(二七三頁)。△地圖 挿圖85(二七〇頁)を參照。
【歌意】 ゆくりなく入らつしやいます御方なのを、この佐保川の蛙《カハヅ》(カジカ)を聞かせずにお歸ししたことよなあ。
 
〔評〕 益人の宅は佐保川のどの邊であつたかわからぬが、
(1764)  佐保川のきよき河原に鳴く千鳥かはづと二つ忘れかねつも(卷七――1023)
と歌はれる程、佐保の蛙は名物であつた。彼れは内匠寮の屬僚として長官|佐爲《サヰノ》王を招待し、一席の清宴を開いた。然るに、王は都合あつてか餘り長居せずに辭去されたので、止むなく佐保川の蛙にその感懷を寓せた。
 蛙は靜寂の幽境には晝も鳴く。が主としては夕暮からである。官吏の宅地などのある京内では猶更であらう。萬葉人は盛に蛙を愛賞したので、益人も自慢に、それを佐爲王款待の種目の一に加へてゐたらしい。「蛙聞かせず歸しつる」と、事實を逆に取做した他動的表現は、その熾烈な遺憾の情の發露である。又自分が招待して置きながら、「思ほえず來います」は矛盾のやうだが、高が從八位上の大屬、その家に從四位上の長官佐爲王の光來は、恰も掃溜に鶴の下りたやうなものだから、それを飽くまで珍しがり悦ぶ感情からの顛倒である。かくてこそ「かはづ聞かせず」の遺憾さが絶對に透徹する。
 すべて工を求めるに意なくして工に、清怨の辭氣が極めて永い。
 
(1765)右、内匠寮大屬《タクミヅカサノオホキフミト》※[木+安]作(ノ)村主益人(ガ)、聊(カ)設(ケテ)2飲饌《ヲシモノヲ》1、以|饗《ミアヘス》2長官《カミ》佐爲《サヰノ》王(ヲ)1、未(ダ)v及(バ)2日(ノ)斜(ナルニ)1、王既(ニ)還歸《カヘレリ》。於時《トキニ》益人|怜2惜《ヲシミ》不v厭《アカズ》之歸(レルヲ)1、仍(テ)作(メリ)2此歌(ヲ)1。
 
 内匠寮の大屬たる※[木+安]作益人が、聊か酒肴を具へて、寮の長官佐爲王を招いて馳走をした、然るに王は日暮にもならぬうちに早くも歸つた、時に益人が飽かずも歸られたことを名殘惜しく、そこでこの歌を詠んだとの意。○内匠寮大屬 内匠寮は中務省の被官で令外官である。巧匠技巧の事を掌り、公事の餔設等を兼ね行ふ。神龜五年始めて置かる。頭(長官)一人從五位上、助一人正六位下、大允一人正七位下、少允二人從七位上、大屬一人從八位上、少屬二人從八位下。その他史生寮掌使部難色匠手等がある。○佐爲(ノ)王 美努《ミヌノ》王の子、葛城《カヅラキノ》王(橘諸兄)の弟。續紀に、和銅七年正月に無位より從五位下、養老五年正月從五位上、退朝の後東宮に侍せしめらる。神龜元年二月正五位下、同四年正月從四位下、天平三年正月從四位上、同八年十一月、兄從三位葛城王と共に上表、詔に依つて橘(ノ)宿禰を賜はる。同九年二月正四位上、同八月中宮(ノ)大夫兼右兵衛(ノ)率《カミ》で卒した。
 
八年|丙子《ひのえね》夏六月、幸(せる)2于芳野(の)離宮《とつみやに》1之時、山部(の)宿禰赤人(が)應(たまはりて)v詔(を)作歌一首并短歌
 
○八年 續紀に、天平八年六月乙亥(廿七日)幸(ス)2于芳野(ニ)1、七月庚寅(十三日)車駕還(ル)v宮(ニ)とある。
 
八隅知之《やすみしし》 我大王之《わがおほきみの》 見給《めしたまふ》 芳野宮者《よしののみやは》 山高《やまたかみ》 雲曾輕引《くもぞたなびく》 河(1766)速彌《かははやみ》 湍之聲曾清寸《せのとぞきよき》 神佐備而《かむさびて》 見者貴久《みればたふとく》 宜名倍《よろしなべ》 見者清之《みればさやけし》 此山乃《このやまの》 盡者耳社《つきばのみこそ》 此河乃《このかはの》 絶者耳社《たえばのみこそ》 百師紀能《ももしきの》 大宮所《おほみやどころ》 止時裳有目《やむときもあらめ》     1005
 
〔釋〕 ○めしたまふ 「めしたまへば」を見よ(二〇六頁)。○かむさびて 山が〔二字右○〕。○よろしなべ 河が〔二字右○〕。解は既出(二〇七頁)。○つきばのみこそ――たえばのみこそ 二つの「こそ」は結句の「やむ時もあらめ」に係る。 △地圖及寫眞 挿圖35(一一〇頁)49(一四七頁)を參照。
【歌意】 わが天子樣の御覽なされる芳野の宮は、山が高さに雲がさ靡く、河が速さに瀬の音がさ清亮《サヤカ》だ、そして山は〔五字右○〕神々しくて見ると貴く、河は〔二字右○〕いゝ程に見ると奇麗だ。この山が盡きよう時ばかりこそ、この河が絶えよう時ばかりこそ、芳野のこの大宮所は無くなる時もあらう。――然し山河の絶えたり盡きたりする時はないから、この大宮所の無くなる時もない筈さ。
 
〔評〕 吉野離宮の讃美は、殆ど前人同人の美辭麗句で盡きたかの觀があり、作者自身も曩に一章を物してゐる。その山水の勝を主張するに、大抵樣に依つて胡蘆を描き、別に透徹した觀祭もなく新しい描寫もない。
(1767) この篇前半は離宮より見た山河の形勝を説き、後半は逆に山河を引證して離宮の隆昌不變を祝した。そこに結構の變化布置の妙を見る。一篇を貫通する骨子は何處までも山と河で、句々※[夕/寅]縁して離れない。而も總括された主意は離宮の讃美に歸著してゐる。應詔の作、折柄處柄その體を得たと稱すべきである。結末「こそ」の辭の運用に依つて餘意を遺した敍法は、含蓄の風味が極めて永い。
 「見れば」の反復は平板を避ける手段で、意響兩つながら脈打つて生動する。「こそ」の辭を疊用した對句を、一句に承けて結收した手法も、當然ながら又面白い。
 
反歌
 
自神代《かみよより》 芳野宮爾《よしぬのみやに》 蟻通《ありがよひ》 高所知者《たかしらするは》 山河乎吉三《やまかはをよみ》     1006
 
〔釋〕 ○かみよ 上つ代。神の世の意でない。○ありがよひ 「ありがよふ」を見よ(七四四頁)。○たかしらするは 「たかしりまして」を見よ(一五三頁)。契沖訓、古義訓はタカシラセルハ〔七字傍線〕。○よみ よさに。下になり〔二字右○〕の助動辭を略いた。
【歌意】 天子樣が〔四字右○〕昔からこの芳野の宮に、現に通うて御覽なさるのは、詰りこゝの山と河とがまあ、よいせゐですわい。
 
〔評〕 現在のみで事足らず、「かみ代より」の行幸を以て、その山河の勝を立證的に飽くまでも讃め稱へた。四句(1768)「高知らするは」は契沖訓もわるくはないが、現在格に訓んだ方が切實味が強い。
 尚吉野離宮の事は、卷一の幸(ス)2于吉野宮(ニ)1之時作歌(人麻呂)の條下の評語(一四八頁及一五六頁)に讓る。
 
市原王《いちはらのおほきみの》悲(しめる)2獨子《ひとりごを》1歌一首、
 
 市原王が自分が〔三字右○〕獨子であることを悲しまれた歌との意。○悲獨子 契沖以來誤つて、市原王が自身の子の獨子なるを悲む意(契沖、古義)とし、或は他人の子の一粒種なることを悲む意(略解)に解し、さま/”\牽強の考證をしてゐる。市原王は實に安貴《アキノ》王の只一人の御子である。傳既出(九二〇頁)。
 
不言問《こととはぬ》 木尚妹與兄《きすらいもとせ》 有云乎《ありとふを》 直獨子爾《ただひとりごに》 有之苦左《あるがくるしさ》     1007
 
〔釋〕 ○いもとせ 夫婦兄弟に通じていふ。こゝは兄弟。なほ既出の「妹」及び「背」を參照。
【歌意】 物もいはぬ非情の木ですら、兄弟はあるといふに、自分ばかりは〔六字右○〕、只獨子であることが切ないわ。
 
〔評〕 人間はわが境遇から森羅萬象を眺めて、その感傷を寓する。故におなじ樹木の列立を見ても、それに大小あれば親子と見、似合の程度なれば夫婦と呼び、兄弟と名づける。科學的に雌雄や系統を分けるのとは違つて、そこに感情の生ま/\しさがある。
 これは王がひどい孤獨感に打たれた或折の作である。人間として言問はぬ草木を見て、その幸福を羨むに至(1769)つては、傷心の極といはざるを得ない。それは君父もあり妻子朋友もありはするが、横に血の繋がりのないことは、いかにも頼りない心細さを感ずるものである。何等の粉飾も假らぬ眞情眞詩であるが、この間の情味は人に依つては時に風馬牛であらう。結句稍露骨に傷つくも、反對に考へればこの率直さが又貴い。
 
忌部《いみべの》首《おひと》黒麻呂(が)恨(むる)2友(の)※[貝+余]來《くることのおそきを》1歌一首
 
 忌部黒麻呂が約束した〔四字右○〕友達の來やうの遲いのを恨んだ歌との意。○忌部首黒麻呂 忌部は氏、首は姓。續紀に、寶字二年八月正六位上より外從五位下、同三年十二月|連《ムラジ》姓を賜ふ。同六年正月内史局(ノ)助(内史局(ハ)圖書也)となるとある。○※[貝+余]來 「※[貝+余]」に遲の義がある。
 
山之葉爾《やまのはに》 不知世經月乃《いさよふつきの》 將出香常《いでむかと》 我待君乎〔左△〕《わがまつきみを》 夜者更降管《よはくだちつつ》     1008
 
〔釋〕 ○いさよふ 既出(六八四頁)。○わがまつきみを 月の出でむかと待つ如く、わが待つ君なる〔二字右○〕をの意。上句は「待」つに係る序詞。「乎」原本に之〔右△〕とあるが、君ガ〔二字傍点〕でも君ノ〔二字傍点〕でも收まる處がない。依つて改めた。
【歌意】 山際にたゆたうてゐる月が、出て來うかと待つやうに、自分が待つてゐる君なのを、段々と夜は深けに深けるわ。お出のないうちに〔八字右○〕。
 
〔評〕 約束の時を違へて來ぬ友を待つその焦燥を歌つてゐる。上句は序詞ではあるが、折柄が月の出の遲い廿日(1770)過頃であつたらう。
  山の端にいさよふ月をいでむかと待ちつつ居るに夜ぞ降ちける(卷七、詠月――1071)
  山の端にいさよふ月をいつとかもわが待ちをらむ夜はふけにつつ(同卷――1084)
と類型的であるが、流石にこれは構意が稍複雜してゐるだけ、曲折の姿態はある。
 
冬十一月、左(の)大辨〔左△〕|葛城《かづらきの》王|等《たちに》賜(へる)2姓橘(の)氏《うぢを》1之時(に)、御製歌《よみたまへるおほみうた》一首
 
天平八年十一月に左大辨葛城王達に橘氏を賜うた時に御詠みなされた御製との意。聖武天皇の御製と聞える。「辨」原本に臣〔右△〕とある。葛城王は橘諸兄と姓名を改めてから、後に左大臣となつたのだから、左大臣葛城王とは書くべくもない。當時王は左大辨であつた。故に臣〔右△〕は誤である。○左大辨 辨(ノ)局は太政官中に置かれ、左右に分れて八省を分掌し、庶事を承りて下に達し、太政官内を糺判し、文案を署し、稽失を勾へ、被官の諸司の宿直を監す。左右各大中少の辨がある。大辨は從四位上、中辨は正五位上、少辨は正五位下相當。和名抄に、左右大辨(ハ)於保伊於保止毛比《オホイオホトモヒ》とある。○葛城王等賜姓橘氏 葛城王弟佐爲王達に橘氏を賜うたのをいふ。姓橘氏は正しくは姓と氏とは殊なるが、氏を姓と呼ぶことも常の事である。○葛城王 橘諸兄のこと。續紀に、和銅三年正月無位より從五位下、養老元年正月從五位上、同五年正月正五位下、同七年正月正五位上、神龜元年二月從四位下、天平元年三月正四位下、同九月左大辨とある、同二年九月催造司監兼任、同三年八月擢んでられて參議、同四年正月從三位、同八年十一月上表に依つて橘宿禰を賜ひ、名を諸兄《モロエ》と改む、同九年九月大納言、同十年正月正三位、右大臣、同十一年正月從二位、同十二年十一月正二位、同十五年五月從一位左大臣、同十八年四月(1771)太宰帥、勝寶元年四月正一位、同二年正月朝臣姓を賜ふ、同八年二月致仕、天平寶字元年正月薨ず。大臣は贈從二位|栗隈《クリクマノ》王(天武天皇紀には栗前王)の孫、從四位下|美努《ミヌノ》王の子と見えた。栗隈王は姓氏録、橘朝臣の條に、敏達天皇(ノ)皇子(タル)難波(ノ)皇子(ノ)男栗隈王とある。
 
橘花者《たちばなは》 實左倍花左倍《みさへはなさへ》 其葉左倍《そのはさへ》 枝爾霜雖降《えにしもふれど》 益常葉之樹《いやとこはのき》     1009
 
〔釋〕 ○たちばな 既出(三七二頁)。○そのはさへ の下、めでたくて〔五字右○〕の語を略した。○えにしもふれど 元本一訓及び古義訓による。舊訓エダニシモオケド〔八字傍線〕。○とこはのき 常磐なる樹。なる〔二字傍点〕の助動詞の代りにの〔傍点〕の辭を用ゐた。この例後世ほど多い。 △寫眞 挿圖110(三七三頁)を參照。
【歌意】 橘は實も花もその葉も見事で〔三字右○〕、枝に霜が降つても、愈よ榮えて變らぬ樹であるわい。
 
〔評〕 かういふ結構なめでたい樹ゆゑ、汝の氏として賜ふのであるぞの餘意がある。家門繁昌を御祝福の意は、もとより暗黙の間に存在するが、既に和銅元年、橘氏を縣《アガタノ》犬養(ノ)宿禰三千代(葛城王の母)に賜うた時の勅語にも、
  橘(ハ)者菓子(ノ)長上(ニシテ)、人(ノ)所v好(ム)、※[木+可]《エダハ》凌(ギテ)2霜(ヲ)1而繁茂(シ)、葉(ハ)經(テ)2寒暑(ヲ)1而不v凋(マ)、與2珠玉1共(ニ)競(ヒ)v光(ヲ)、交(リテ)2金銀(ニ)1以(テ)逾(ヨ)美(シ)、是(ヲ)以(テ)汝(ノ)姓(ニハ)者賜(フ)2橘(ノ)宿禰(ヲ)1也。(續紀、卷十二)
とある如く、表面は氏姓に賜ふ理由として、橘その物を讃美したにとゞまる。尚卷二「橘の蔭ふむ路の」の評語(三七三頁)を參照。
(1772) さて橘氏は曩に縣犬養三千代に賜うたものであるのに、今又その子葛城王達に賜ひ、同意味の勅語と國歌とが添へられた爲、甚だ混雜の感がある。委しくは左註の解説に讓らう。
 
右、冬十一月九日、從三位|葛城《カヅラキノ》王、從四位上|佐爲《サヰノ》王等、辭(シ)2皇族之高名(ヲ)1賜(フコト)2外家之橘(ノ)姓(ヲ)1已(ニ)訖(リ)。於時《トキニ》、 太上天〔二字左○〕皇皇后、共(ニ)在《マシ》2于皇后(ノ)宮(ニ)1、以(テ)爲(タマヒテ)2肆宴《トヨノアカリ》1、而|御2製《ミヨミマシ》賀(グ)v橘(ヲ)之歌(ヲ)1、并賜(フ)2御酒(ヲ)宿禰等(ニ)1也。
或(ハ)云(フ)、此歌一首、太上天皇(ノ)御製、但天皇皇后(ノ》御歌各有(リ)2一首1者《テヘレド》、其歌|遺落《ウセテ》未(ダ)v得2探(シ)求(ムルヲ)1焉。今檢(ルニ)2案内(ヲ)1、八年十一月九日、葛城(ノ)王等、願(ヒ)2橘(ノ)宿禰之姓(ヲ)1上(ル)v表(ヲ)、以(テ)2十七日(ヲ)1依(リ)2表(ノ)乞(ニ)1賜(フ)2橘(ノ)宿禰(ヲ)1。
 
 右の歌は天平八年の十一月九日に、葛城王佐爲王の兄弟達が、皇族たる王の稱號を辭して、外家即ち母方の橘姓を賜はつた事は既に濟んだ、その時太上天皇(元正)天皇(聖武)皇后(藤原光明子)の御三方共に、皇后の居殿にゐらせられ、宴會を開かれて橘を頌する歌を詠まれ、その御歌と共に御酒を橘宿禰達即ちもとの葛城王等に下されたとの意。〇九日 續紀には丙戌上表とあつて、丙戌は十一日に當る。○天皇 この二字原本にない。必ず脱字。契沖が「皇后」を天皇〔二字右△〕の誤としたのは不勘。○辭皇族之高名賜外家之橘姓 續紀に見えた、十七日の降勅の文に據つたもの。
 「或云」から以下は更に追記の左註で、上と同一人の手に成つたものか、或は他人の手に出たかゞ不明である。意は、或人がいふ、この歌一首は太上天皇(元正)の御製だ、但別に天皇(聖武)皇后の御歌が各一首あるといふが、その歌は逸せて探し出されない。今文案を檢べると、天平八年十月九日に葛城王等が橘宿禰を願うて上表し、その十七日に表の乞ふがまゝに橘宿禰を賜うたとのこと。
(1773) 抑も葛城(ノ)王佐爲(ノ)王の父は美努《ミヌノ》王、母は懸(ノ)犬養(ノ)宿禰三千代であつた。三千代は夫美努王逝後、藤原(ノ)不比等《フヒト》(淡海公)に再嫁し、光明子(聖武天皇の皇后)を生んだ。されば光明子は葛城王兄弟から見れば異父同母の妹であられた。聖武天皇天平八年十一月十一日葛城王等の上表に、
 (上略)葛城(ガ)親母贈一位縣(ノ)犬養(ノ)橘(ノ)宿禰(ハ)、上歴(テ)2淨御原(ノ)朝廷(ヲ)1、逮《オヨビ》2藤原(ノ)大宮(ニ)1、事(ヘ)v君(ニ)致(シ)v命(ヲ)、移(シ)v孝(ヲ)爲(ス)v忠(ヲ)、夙夜忘(レ)v勞(ヲ)、累代※[立+曷](ス)v力(ヲ)、和銅元年十一月廿一日供2奉(シ)擧國(ノ)大嘗(ニ)1、廿五日御宴(ス)、天皇譽(メ)2忠誠之至(ヲ)1、賜(ヒ)2浮(ベルノ)v杯(ニ)之橘(ヲ)1、云々。是以(テ)汝(ノ)姓(ハ)者賜(フ)2橘(ノ)宿禰(ヲ)1也。而今無(ク)2繼嗣1者《バ》、恐(ラクハ)失(ハム)2明詔(ヲ)1、云々。(續紀、卷十二)
とある如く、元明天皇の朝に、三千代はその功勞を賞せられ、特に橘氏を賜はつた。されど婦人の事で、前夫美努王の子は王族であり、後夫不比等の子は藤原氏だから、死後に橘氏を繼承する者がなかつた。それでは折角の叡旨を無にするに當る。で葛城王等は皇族籍から退き、王號を返上して母三千代の橘氏を繼ぎたいと上奏した。元來葛城王等は五世王で、その子供は當然皇族から除籍される運命にあつたのだから、こゝで橘氏を繼ぐことは誠に適宜の處置で、その十七日勅許の詔に、
  王等情深(ク)謙讓、志在(リ)v顯(ハスニ)v親(ヲ)、辭(シ)2皇族之高名(ヲ)1、請(フ)2外家之橘(ノ)姓(ヲ)1、尋思(スルニ)所v執(ル)誠(ニ)得(タリ)v時(ヲ)。(續紀、卷十二)
と叡賞された。この賜姓の祝宴は異父妹たる皇后の居殿に於いて行はれ、二聖一后御親臨でこの御製まで下賜せられた。かゝる無比の光榮も、要するに母三千代と妹光明子の餘光で、かくして葛城王等は母の橘氏を繼い(1774)だ爲に、藤原氏との關係を一層親密になし得たのである。而も葛城王の妻は不比等《フビト》の女で皇后の御姉だから、重縁であつた。後年藤原氏の兄弟達が相次いで疫死するに及び、代つて諸兄(葛城王)が政柄を執り、位人臣を極めるに至つたのも、茲に發源してゐると思ふ。
 
橘(の)宿禰|奈良《なら》麻呂(が)應(へまつる)v詔(に)歌一首
 
○橘宿禰奈良麻呂 左大臣橘諸兄の男。續紀に、天平十二年五月諸兄の相樂の別業に行幸の時無位より從五位上、同十三年七月大學(ノ)頭、同十五年五月正五位上、同十七年九月攝津(ノ)大夫、同十八年三月民部大輔、同十九年正月從四位下、勝寶元年四月從四位上、閏五月侍從、七月參議となる。同二年正月朝臣の姓を賜ふ。同四年十一月但馬因幡(ノ)按察使兼檢校伯耆出雲石見等國非違事となる。同六年正月四位下、寶字元年六月左大辨、その月山背王の反に坐して官位褫奪。(公卿補任には七月二日謀反伏誅、或説遠流者如何)とある。後仁明天皇の承和十年八月に詔して從三位を贈られ、更に同十四年に太政大臣正一位を追贈。蓋し天皇の御外曾祖父に當る故である。○應詔歌 「詔」の下或は作〔右△〕の字脱か。
 
奥山之《おくやまの》 眞木葉凌《まきのはしぬぎ》 零雪乃《ふるゆきの》 零者雖益《ふりはますとも》 地爾落目八方《つちにおちめやも》     1010
 
〔釋〕 ○まき 既出(七二五頁)。○ふりは 降り〔二字傍点〕に舊り〔二字傍点〕の意を兼けた。上句は序詞。○つちにおち 零落することの譬喩。
(1775)【歌意】 澤山の眞木の葉を押靡かして降る雪が、いかに降りまさつても、橘の實が〔四字右○〕土に落ちようかい。――いかに橘家が〔三字右○〕舊びまさつてゆくとも、零落する事がありませうかい。
 
〔評〕 この歌は上の左註に見えた皇后宮に行はれた、橘の賜姓の肆宴における應詔の作であらう。既に擧げた上表の初節に、
  普者《ムカシ》輕堺原《カルノサカヒバラノ》大宮(ニ)御宇天皇(ノ)(孝元)曾孫|建《タケシ》内(ノ)宿禰、盡(シテ)2事(フル)v君(ニ)之忠(ヲ)1、致(セリ)2人臣之節(ヲ)1、創(メテ)爲(リ)2八氏之祖(ト)1、永遺(セリ)2萬代之基(ヲ)1。云々。 (續紀、卷十二)
とある意を、わが橘氏の上に移して歌つたものである。橘は他の果實と殊なり、翌年花咲く頃までも梢にその金鈴の色を輝かしてゐる。故に「ふりはますとも士に落ちめやも」といつた。それは、暗に君寵の永久不變を豫期した詞であるが、作者の晩年は事により忽ち失脚して、重譴を蒙つてしまつた。運命はをかしなものである。
  奥山の菅の葉しぬぎふる雪の消なばをしけむ雨なふりそね(卷三、大伴卿――299)
の上句はこれと同態で、無論大伴卿の方が先出である。
 
冬十二月十二日、歌※[人偏+舞]所之諸王臣子等《うたまひどころのおほきみまへつぎみたちが》、集(ひて)2葛井《ふぢゐの》連《むらじ》廣成(の)家(に)1宴《うたげせる》歌二首
 
天平八年十二月十二日に、歌※[人偏+舞]所の諸王や諸臣等が葛井廣成の家に集つて、宴會をした時の〔二字右○〕歌との意。○歌※[人偏+舞]所 雅樂寮のこと。和名抄に、雅樂寮、宇多末比乃豆加左《ウタマヒノツカサ》とある。「※[人偏+舞]」は舞と同字。○葛井連廣成 傳前出(一六九八頁)。
 
(1776)比來《コノゴロ》古(キ)※[人偏+舞]盛(ニ)興(リ)、古(キ)歳漸(ク)晩(レヌ)、理宜(シク)d共(ニ)盡(シテ)2古情(ヲ)1同(ジク)唱(フ)c古歌(ヲ)u。故《カレ》擬(ヘ)2此趣(ニ)1、輙(チ)獻(ル)2古(キ)曲《フリ》二|節《フシヲ》1。風流意氣之士、儻《モシ》有(ラバ)2此|集《ツドヒノ》中(ニ)1、爭《イカデカ》不〔左○〕(ラム)d發《オコシテ》v念(ヲ)、心々(ニ)和《ナゾラヘ》c古體(ニ)u。
 
この頃古い舞が盛に流行り、而ももう十二月中旬で古い歳が漸う晩れた、道理上一緒に古い情を傾けて古い歌を唱ふべきである。そこでその趣に準じて、即ち古い風《フリ》二章をさし出した、みやびな意先のある者が、若しこの會集の中にあるなら、何で思ひ立つて古い風に和へて詠まずしてあらうぞとの意。「古」原本に此〔右△〕とある。元本書入に據つて改めた。蓋しこの文はわざと古〔傍点〕の字を疊用したのである。「有」は在〔傍点〕と通用、古文にまゝ例がある。「不」原本にない。必ず脱字。○故擬此趣輙獻古曲二節 此趣に擬してとは、上の宜共盡古情同唱古歌とある趣に準じての意で、獻古曲二節は古歌二首を唱うたの意である。されば下の二首は古歌である。
 廣成は漢學者で、武智麻呂傳によれば文雅を以て許された人、のみならず既に遣新羅使で韓國にも使した人だから、高麗百濟の樂律にも通曉してゐたのであらう。乃ち歌※[人偏+舞]所の人達がその家に集合し、遂に古風の朗唱に及んだものである。この歌序はまづ廣成の手に成つたものと見てよからう。
 
我屋戸之《わがやどの》 梅咲有跡《うめさきたりと》 告遣者《つげやらば》 來云似有《こちふににたり》 散去十方吉《ちりぬともよし》     1011
 
〔釋〕 ○やど 既出(八八○頁)。○つげやらば この將然態を「似たり」と現在完了辭で結んである。文章法の格。○こちふ 來《コ》といふ〔三字傍点〕の約。
(1777)【歌意】 私の庭の梅が咲いた、と知らせて遣らうなら、何だか〔三字右○〕その人に來いといふに似てゐる。まあ知らせずに置かう〔十字右○〕、散つたとてもよいわ。
 
〔評〕 この歌從來の解説は朋友間の交渉としてあるが、その當を得ない。朋友間なら「來ちふに似たり」とて、何の差支があらう。そこを遠慮せねばならぬ點に一番の留意を要する。既に歌序の釋文に述べた如く、これは古歌を諷唱したもので、その作者は婦人である。
 庭前の梅花がその芬芳を放つにつけ、一寸した事から張り合つて今は足踏せぬ男が、嘗ての折深く軒端の梅花を愛賞した事を追憶し、花の消息を傳へたくも思ふが、此方から口を切つては勝負は負で、未練らしく男を呼び出すやうにも見え甚だ殘念、そこで、えゝまゝよ「散りぬともよし」、辛抱して黙つてゐようと、やゝ棄鉢氣味の口氣を洩したものである。
 四五句間の轉折、頗る含蓄に富み、戀と意地との閑葛藤に累されて喘いでゐる樣子がそこに生動して、深く幽怨の情を藏する。古今集の
  月夜よし夜よしと人に告げやらば來てふに似たり待たずしもあらず(戀四)
はこの訛傳である。
 
春去者《はるさらば》 乎呼理爾乎呼里《ををりにををり》 ※[(貝+貝)/鳥]之《うぐひすの》 鳴吾島曾《なくわがしまぞ》 不息通爲《やまずかよはせ》     1012
 
(1778)〔釋〕 ○はるさらば 「はるさりくれば」を見よ(七九頁)。舊訓ハルサレバ〔五字傍線〕。○ををりにををり 花が〔二字右○〕。「ををり」は「ををれる」を見よ(五一四頁)。○なくわがしまぞ 「春さらば」の未然態を「なく」の現在格で收めた。「しま」は既出(四八八頁)。○かよはせ 使相の動詞を敬相に用ゐた。こゝはその命令格。
【歌意】 春にもならば、花が〔二字右○〕撓《シナ》ひに撓ひ、鶯が鳴く私の庭ですぞ。されば〔三字右○〕斷えず通つて來て下さい。
 
〔評〕 これは朋友間の情味が主題である。然し、女の人待つ處としても、その意は通ずる。春の花鳥は天下到る處盛なもの、それを自分の庭だけの事のやうに、理窟なしに自慢した。要は「やまず通はせ」の希望さへ達成されゝばよい。卷一、志貴皇子の御歌、
  秋さらば今もみる如《ゴト》妻戀に鹿《カ》鳴かむ山ぞ高野原のうへ(――84)
とその興趣が似てゐる。又單に「ををりにををり」とのみでは不完であるが、それは花の事と、この時代には慣習的に承知された。又さう承知してよい。
 以上の二首は流石に歌※[人偏+舞]所の人達の事とて、古い節付のある古歌を朗詠したものと思ふ。
 
九年|丁丑《ひのとうし》春正月、橘(の)少卿《おとまへつぎみ》并|諸大夫等《まへつぎみたちの》、集(ひて)2彈正(の)尹《かみ》門部《かどべの》王(の)家(に)1宴(せる)歌二首
 
天平九年正月、橘(ノ)佐爲《サヰノ》卿や諸官吏達が彈正(ノ)尹門部(ノ)王の家に集つて宴會をした歌との意。○橘少卿 橘(ノ)佐爲のこと。「少卿」は大卿の對語で、兄諸兄を大卿、弟佐爲を少卿と稱したもの。卿は三位以上の呼稱だが、時により尊敬の意から四位五位の人をも呼んだ。○橘佐爲 もとの佐爲(ノ)王。前出(一七六一頁)。○諸大夫 「大夫」は令に(1779)四五位の稱とある。○彈正尹 彈正臺の長官《カミ》を尹といふ。彈正臺は風俗を肅清し非違を糾彈する職。尹一人從四位上、大弼一人從四位下、少弼一人正五位下。○門部王 傳既出(七五二頁)。
 
豫《あらかじめ》 公來座武《きみきまさむと》 知麻世婆《しらませば》 門爾屋戸爾毛《かどにやどにも》 珠敷益乎《たましかましを》     1013
 
〔釋〕 ○かどにやどにも 門にも〔右○〕宿にもの意。「蟲に鳥にも」を參照(八二二頁)。この「やど」は庭をさす。
【歌意】 前以て貴方達が來られようと知らうなら、この門にも庭にも、珠を敷かうであつたものを。突然の御入來で何のもてなしもなくてね。
 
〔評〕 珠敷くことに來客款待の意を寓することは當時の套語で、
  おもふ人こむと知りせば八重葎おほへる庭に珠數かましを(卷十一――2824)
  堀江には珠敷かましを大|皇《キミ》の御船漕がむとかねて知りせば(卷十八、橘宿禰――4056)
  葎はふいやしき宿に大皇のまさむと知らば珠敷かましを(卷十九、橘卿――4270)
  松かげの清き濱邊に珠敷かば君きまさむか清き濱邊に(卷十九、藤原八束――4271)
など盛に散見し、何れを先出とも定め難いが、中にもこれは上下の均衡がよく取れ、修辭が簡淨である。「門に宿にも」の漸層に一段の姿致を生じ、主人門部王の厚意が張調される。王は兄櫻井王やこの時のお客佐爲王と共に、神龜中の風流侍從と謳はれ、つい三年前(天平六年二月)に歌垣の頭となつて、朱雀門頭に諸曲を唱和し、(1780)天皇の叡覽、京中士女の喝采を博した數寄者である。その家に佐爲王父子やその他の雲客達が押懸け客、さぞ面白い興宴であつたらう。
 庭に敷くといふ珠は寶は小石《サヾレ》である。但珠と美稱することに依つて、一層款待の意が強く印象される。後世の庭園に立砂盛砂敷砂などの式あるは、この珠敷きの遺法と思はれる。
 
右一首、主人《アロジ》門部(ノ)王。【後賜(フ)2姓大原(ノ)眞人(ノ)氏(ヲ)1也。】
 
 割註、正しくは氏は大原、姓は眞人を賜ふとあるべきである。門部王が大原(ノ)眞人を賜うたのは天平十一年四月のことで、兄高安王、櫻井王と共に臣籍に降つた。
 
前日毛《をとつひも》 昨日毛今日毛《きのふもけふも》 雖見《みつれども》 明日佐倍見卷《あすさへみまく》 欲寸君香聞《ほしききみかも》     1014
 
〔釋〕 ○をとつひ 遠《ヲチ》つ日の轉。一昨日をいふ。舊訓サキツヒ〔四字傍線〕。
【歌意】 一昨日昨日今日と、立て續けに見たけれど、見飽かず〔四字右○〕、明日も見たい貴方樣よ。
 
〔評〕 極めて平易率直な口頭語、日並を漸層的に重ねかけて往つたのが手である。下句は「飽かぬ君かな」といふも同じで、さう簡單な抽象的に片付けてしまはない處に味ひがある。
 
右一首、橘(ノ)宿禰|文成《アヤナリ》。【即(チ)少卿(ノ)子也。】
 
(1781) ○橘宿禰文成 割註によれば少卿橘(ノ)佐爲《サヰ》王の子。傳未詳。續紀に、天平寶字元年閏八月正六位上橘(ノ)朝臣綿裳、改(メテ)2本姓(ヲ)1賜(フ)2廣岡(ノ)朝臣(ヲ)1とある綿裳は、橘氏系圖に佐爲王の子としてある。この綿裳の前名が文成か。その子に春成高成がある。天平勝寶三年正月に賜(フ)2文成(ノ)王(ニ)甘南備(ノ)眞人(ヲ)1とある文成王は別人。佐爲の子孫は天平八年十二月以後は王籍にない。
 
櫻〔左△〕井《さくらゐの》王(の)後(に)追(ひて)和(ふる)歌一首
 
櫻井王があとから、主人門部王の作に和した歌との意。○櫻井王 天武天皇の皇孫で、長(ノ)親王の子。兄は高安(ノ)王、弟は門部(ノ)王である(紹運録)。續紀に、和銅七年正月無位より從五位下、養老五年五月從五位上、神龜元年二月正五位下、天平元年三月正五位上、同三年正月從四位下、同十一年四月兄高安王と共に大原(ノ)眞人を賜はる。同十六年二月諸人と共に恭仁(ノ)宮(ノ)留守。卷廿に行2佐保邊1時之歌がある。この「櫻井王」を諸本に榎〔右△〕井王とあるは必ず誤。その理由は次の項にいふ。○榎井王 元本類本等の註に志貴皇子の子とある。續紀によれば、天平寶字六年正月に無位より從五位に叙せられた。これは嫡孫王の定例で、その時大抵二十五歳以上と見てよい。何かの事情により叙位が後れたとして假に四十歳として逆算しても、この天平九年にはまだ十四歳である。とてもこんな辭令の歌を詠む年配でない。又十四歳では無位と思はれるから、詞書に「諸大夫等」とあるに出合はない。依つて他にその人を求めると、門部王の兄に櫻井王があつた。櫻〔傍点〕と榎〔傍点〕とは一寸見違へ易い字體だから誤記したので、この歌は櫻井王の作と考へられる。榎井王の歌はこの一首のみなので、萬葉集の作者中から榎井王が一人消滅することになるから特記しておく。
 
(1782)玉敷而《たましきて》 待益欲利者《まちますよりは》 多鷄蘇香仁《たけそかに》 來有今夜四《きたるこよひし》 樂所念《たぬしくおもほゆ》     1015
 
〔釋〕 ○まちます 讀古義の訓による。舊訓マタマシ〔四字傍線〕はわが待つ意にも聞えて、三句以下への打合が面白くない。「益」を古義は衣四〔二字右△〕の語としてマタエシ〔四字傍線〕と訓んだ。○たけそかに 他に用例を見ぬ難語である。(1)たまさかの意(舊説、宜長)、(2)おし凌いでの意(久老)、(3)たか/”\にの意(略解)、(4)不意の意(古義)など、皆臆説である。假に(4)の説に從つておく。
【歌意】 わざ/\珠を敷いてお待ち下さるよりは、不用意の處へ〔六字右○〕突然〔二字傍点〕に參つた今夜がさ、樂しく思はれますわい。
 
〔評〕 兼日の約束に依つて訪問するなどは公式の事で、王子猷が戴逵を山陰に訪うたやうに、興に乘じて往き興盡きて還る自由の訪問の方が、拘束のないだけ面白いのである。
 主人門部王の作に對する返歌で、御兄弟間の贈答である。題詞によると、その宴席上の即吟ではないのだから、聊か證文の出しおくれといふ形、風流才子櫻井王にも似合はぬ不手際である。
 
春二月、諸(の)大夫等集(ひて)2左少辨|巨勢宿奈《こせのすくな》麻呂(の)朝臣(の)家(に)1宴(せる)歌一首
 
○春二月 天平九年春二月。○左少辨 上の「左大辨」を見よ(一七六六頁)。○巨勢宿奈麻呂朝臣 續紀に、神龜五年五月正六位下より外從五位下、天平元年二月少納言、同三月從五位下、同五年三月從五位上とある。
 
(1783)海原之《うなばらの》 遠渡乎《とほきわたりを》 遊士之《みやびをの》 遊乎將見登《あそびをみむと》 莫津左比曾來之《なづさひぞこし》     1016
 
〔釋〕 ○うなばらのとほきわたりを 「わたりを」は渡りなる〔二字右○〕を。蓬莱國は東海中にあるのでいふ。○みやびを 既出(三七四頁)。○なづさひ 既出(九五八頁)。
【歌意】 大海の遠い渡津であるのを、そこに〔三字右○〕風流士達の遊ぶのを見ようと思うて、私はわざ/\〔六字右○〕、辛苦して來たことであつたよ。
 
〔評〕 諸大夫連はまだ官途の淺い若者が多い。隨分風流者もある。それ等が寄り合つての酒宴では、面白い出來事がありさうであり、又あり勝である。それを覗きに來る物好もある。これはその物好の詠んだ歌である。
 酒宴の會衆の誰れやらが、ふと屋の壁に白い紙に字を書いたものがぶら下がつてゐるのを發見した。讀んで見ると、前書に「蓬莱(ノ)仙媛(ノ)所v賚《タマフ》、※[言+曼](リニ)爲(ニス)2風流秀才之士(ノ)1矣、云々」として、この歌が書いてあつた。歌は蓬莱の仙女の作に假託して作つて置きながら、私達凡人は覗き見も出來ません、「所(ナラム)2望見《ミサクル》1哉」と知らぬ振をして、而も自分達か御苦勞にも、諸大夫達の酒宴の樣子を見に來たことを、暗に報告してゐる。
 歌は只それだけの事で面白くもないが、興味本位からすると、時に當つての御趣向である。契沖はいふ。
  主人の女房などの、物の隙より酒宴の席にある人をかいまみて、時の興に蓬莱仙媛など書き付けて懸けけるにや。
と。仙媛の語を強く聞けば、作者を婦人とするのも理由がある。然し漢文を書く女は、この時代には殆ど絶無(1784)といつてよい。尤も蓬莱仙女の神話は、藤原宮役民歌(卷一)松浦篇(卷五)にも見え、この時代の常識だが、やはり若い地下の者達の戲であらう。
 
右一首、書(キテ)2白(キ)紙(ニ)1懸(ケタリ)2著屋(ノ)壁(ニ)1也、題(シテ)云(フ)、蓬莱(ノ)仙媛(ノ)所v賚《タマフ》、※[言+曼]〔左△〕(リニ)爲(ニス)2風流秀才之士(ノ)1矣、斯《コノ》凡客《ハンカク》之〔左△〕所(ナラム)2望見《ミサクル》1哉《ヤ》
 
 右一首は白紙に書いて屋の壁に懸けてあつた。その前書にいふ、これは蓬莱の仙女が賚うたもので、漫に風流秀才の士の爲に詠まれたもの、とても私達凡人の窺ひ見られる所であらうかいとの意。「賚」は原本に嚢〔右△〕、「※[言+曼]」は原本に※[草冠/縵]〔右△〕、「之」は原本に不〔右△〕とある。春海は「所」の下作〔右△〕の宇のある本に據つて、仙媛所作〔二字傍点〕焉、※[言+曼]爲風流秀才之士矣の誤とした。「斯凡客」以下多少誤があらう。
 
夏四月、大伴(の)坂上(の)郎女|奉v拜《をろがみまつりし》2賀茂神社《かものやしろを》1之時、便〔左△〕《ついでに》超(えて)2相坂《あふさか》山(を)1、望2見《みさけて》近江(の)海(を)1、而|晩頭《ゆふべに》還(り)來《きたりて》作歌。
 
(1785)天平九年四月、坂上郎女が山城の賀茂の社を參拜した時、その序に逢坂山を越えて、近江の湖水を眺めて、夕方に還つて來て詠んだ歌との意。○賀茂神社 式神名帳に、山城(ノ)國愛宕郡(ノ)賀茂別雷(ノ)神社、賀茂御祖(ノ)神社二座、名神大、とある(今京都市)。○便 宜長いふ、ツイデニと讀むべしと。原本使〔右△〕とあるは誤。元本神本等による。○相坂山 逢坂山、合坂山。山城近江國境の山隘(大津市の西南)。孝徳天皇紀大化二年の詔に、――北(ハ)自(リ)2近江(ノ)狹々波合坂《サヽナミノアフサカ》山1以來、爲(ス)2畿内國《ウチツクニト》1とある。桓武天皇の延暦十四年に逢坂(ノ)關を廢すと續紀にあるから、その以前には關が置かれてあつたので、その創置年代は不明。○近江海 琵琶湖のこと。○晩頭 夕方。「頭」は始又は緒の義。
 
木綿疊《ゆふだたみ》 手向乃山乎《たむけのやまを》 今日越而《けふこえて》 何野邊爾《いづれのぬべに》 廬將爲子等《いほりせむこら》     1017
 
〔釋〕 ○ゆふだたみ 木綿疊は神に手向ける物なので、手向《タムケ》の山にいひ續けた枕詞。既出(八七二頁)。○たむけのやま 峠をいふ。こゝは逢坂山の峠。なほ「ならのたむけ」の項の「たむけ」を見よ(七三八頁)。○いづれ 何處《イヅコ》といふ場合に、古へはかくいつた。○こら 從者等を稱した。「子ども」と呼んだこともある。「子」元本類本等に吾〔右△〕とある。攷古義などはこれに從つて、吾等をワレ〔二字傍線〕と訓んだ。訓方にも無理があり、又歌意の上からも(1786)面白くない。
【歌意】 逢坂の峠を今日越えて、今晩は〔三字右○〕何處の野邊に、泊りを取らうぞ。これ家來共よ。
 
〔評〕 郎女は賀茂から逢坂の峠を越して、近江の海の大觀を窮めた。さて「いづれの野邊に」と、今夜の泊りを思ふことは、既に夕方近くに時がなつてゐた證で、即ち「晩頭還來」である。歸路は山科の野を縱斷して宇治へ出る。これが順路だ。この間約五里、どうしても今夜は野中の泊りだ。松火を振り/\一行が泊りを求めて眞暗な大野を辿ることを想ふと、「――庵せむ」の心配が先に立つ。「子等」と從者への呼び懸けは、憶良が唐土にゐて、「いざ子ども」と、同輩や從者へ呼び懸けた情意と相似、心配やら不安やらがその胸中に嵩じて來て、とても獨では保ち切れなくなつた心状の表示で、一誦凄酸の氣に打たれる。
 
十年|戊寅《つちのえとら》、元興《ぐわんこう》寺之僧(が)自(ら)嘆(く)歌一首
 
天平十年、元興寺の法師が、自分で自分の身を嘆いた歌との意。〇元興寺 「元興寺之里」を見よ(一七四四頁)。(1787)○歌 これは旋頭歌である。
 
白殊者《しらたまは》 人爾不所知《ひとにしらえず》 不知友縱《しらずともよし》 不知《しらずとも》 吾之知有者《われししれらば》 不知友任意《しらずともよし》     1018
 
〔釋〕 ○しらたまは 己が身を譬へた。○しらえず 知られずの古言。「しらえぬ」を見よ(一四九六頁)。○よし まゝよの意。「縱」はユルスの意、「任意」は意訓で、共にヨシと訓む。
【歌意】 自分は結構な白珠だ〔九字右○〕、この白珠は他《ヒト》に知られない、えゝ他が〔二字右○〕知らずともまゝよ。假令他が〔二字右○〕知らずとも、自分がさ知つて居らうなら、他が〔二字右○〕知らずともまゝよ。
 
〔評〕 他の知る知らぬに關はらず、白珠はその本體のまゝに皎として光つてゐる。されば人間も「我れし知れらば知らずともよし」である。卞和が璞ははじめ石と卻けられたが、實は連城の璧であつた、無智共が何を知るかといつた調子で、白珠を以て自任し、聊か自ら慰めてゐる。だがその反面には、矢張不平や憤懣やが横はつてゐるのが「知らずともよし」の薄幕をとほして見え透く。不遇者の共鳴を禁じ得ぬ感慨である。
 今の元興寺に徑四寸餘の大白珠を藏し、この歌にいふ白珠はそれであると稱されてゐる。蓋し寺寶に有名な(1788)る大白珠のある處から、作者はこの譬喩を思ひ付いたらしい。但人の知不知にかく緊しくこだはつてゐるのは、決して大悟徹底したものではない。論語にも、人不(シテ)v知(ラ)而不v慍(ラ)、又不2君子(ナラ)1乎《ヤ》とある。されば左註にある「獨覺」も「多智」も、詰る處文字禅で、單なる經論上の學問的研究であらう。
 わが知ると人の知らぬとの對照、それが層々交錯して篇を成した。又旋頭(混本)歌の常體として、第三句は前後同句を反復した。同語の重疊がその煩を覺えぬばかりか、却て調の流滑暢達の素をなしてゐる。
 
右一首、或云(フ)元興寺之僧、獨|覺《サトリテ》多(シ)v智《シルコト》、未(ダ)v有(ラ)2顯《アラハニ》聞(ユルコト)1、衆諸《モロヒト》押侮《アナヅル》。因(リテ)此僧作(ミ)2此歌(ヲ)1、自(ラ)嘆(ク)2身(ノ)才(ヲ)1也。
 
 或人がいふ、元興寺の或法師が、獨力佛道の覺を得て知慧が多い、けれども世には未だ明かに知られてゐない、で人達が馬鹿にしてゐる、そこでこの法師がこの歌を詠んで、わが身のもつた才を嘆いたとの意。
 
石上《いそのかみの》乙《おと》麻呂(の)卿(の)配《はなたれし》2土左(の)國(に)1之時(の)歌三首并短歌
 
石上乙麻呂が土佐國に配流された時の歌との意。○石上乙麻呂 傳既出(二〇一頁)。○配土左國 續紀に、天平十一年三月、石上(ノ)朝臣乙麻呂坐(ハレ)v奸《タハクル》2久米(ノ)連|若賣《ワカメニ》1、配2流《ハナタレ》土左(ノ)國(ニ)1、若賣配(ル)2下總(ノ)國(ニ)1焉とある。久米若賣は采女で、乙麻呂はそれを犯した罪に依つて共に流罪。天平十三年九月の大赦には若賣のみ赦され、後に至つて乙麻呂も召還された。
 この第一歌及び第二歌は作者未詳であるが、第一歌初頭の「石上布留の尊は」、第二歌の「わが背の君は」の口氣を想ふと、必ず乙麻呂の近親者の作であらう。古義は乙麻呂の妻の作とした。
 
(1789)石上《いそのかみ》 振乃尊者《ふるのみことは》 弱女乃《たわやめの》 惑爾縁而《まどひによりて》 馬自物《うまじもの》 繩取付《なはとりつけ》 肉自物《ししじもの》 弓※[竹冠/矢]圍而《ゆみやかくみて》 王《おほきみの》 命恐《みことかしこみ》 天離《あまさかる》 夷部爾退《ひなべにまかる》 古衣《ふるごろも》 又打山從《まつちのやまゆ》 還來奴香聞《かへりこぬかも》     l019
 
〔釋〕 ○いそのかみふるのみこと 乙麻呂をさす。石上氏は大連物部(ノ)目の後裔で、その居宅石上の布留にあつたので、天武天皇時代に石上(ノ)朝臣を賜はり、かく「石上布留の命」ともいひ續けた。「尊」は尊稱。紀に至貴(ヲ)曰(ヒ)v尊(ト)、自餘(ヲ)曰(フ)v命(ト)、竝(ニ)訓(ム)2美擧等《ミコトト》1也とあるが、記はすべて命の字を用ゐた。私には臣下にも尊の字を用ゐたことが正倉院文書にも見える。尚「いそのかみ布留の山」を見よ(九四三頁)。○たわやめのまどひ 女色をいふ。「たわやめ」は既出(二〇一頁)。「まどひ」を古義にサドヒ〔三字傍線〕と訓んだのは非。卷十八に「左度波世流《サドハセル》」の語はあるが僻語で、例とし難い。○うまじもの 馬そのものなして。○ししじもの 猪鹿《シシ》そのものなして。「肉」は「しゝ」の本義であるが、こゝでは借字。○ゆみや 「※[竹冠/矢]」は矢〔傍点〕の俗字。集中また※[竹冠/幹]《ノ》の意にも慣用してある。○なはとりつけ――かくみて 繩取付けられ〔二字傍点〕、――圍まれてと被相態にいふべきを、かくいふは變則である。舊訓トリツケテ〔五字傍線〕は非。又舊訓カコミテ〔四字傍線〕は語が新しい。○ひなべ 田舍の方。鄙方《ヒナベ》の義。集中又、ひなの國べ〔五字傍点〕ともある。○まかる 略解訓による。奮訓マカリ〔三字傍線〕は非。○ふるごろも 又打《マタウチ》の約マツチをいひかけた眞土《マツチ》の枕詞。新衣は艶を出す爲に(1790)打つ。古くなると解き洗ひした上又打つ故に、約めて「古衣|又打《マツチ》」といひ、又「橡《ツルバミ》の解き洗ひ衣《ギヌ》又打《マツチ》山」(卷十)とも續けた。○まつちのやま 「まつち山」を見よ(二一七頁)。○かへりこぬかも 還り來てくれやいの意。「きしかぬかも」を見よ(一〇八頁)。△地圖 第一冊の卷頭總圖を參照。
【歌意】 石上布留の尊(乙麻呂殿)は女色の過ちに依つて、馬のやうに繩を懸け、猪鹿のやうに弓矢で圍んで、遠い田舍の方(土佐國)に流されてゆく。早くあの眞土山から、還つて來てくれゝばよいになあ。
 
〔評〕 從四位下左大辨といへば殿上人の錚々で、大した役人だ。上達部の候補者だ。而も親は左大臣だつた。かうした身分の石上布留の尊でも、釆女の犯奸は更に假借されない。乙麻呂は乃ち土佐(ノ)國に配流となつた。令によると、土佐國配流は罪の重い遠流である。身分罪状の如何に關はらず、既に勅勘の重罪人である以上は、官位を褫奪された平人だから、縛られも追ひ立てられもする。押送の小役人(衛府の尉志等)の呵責のもとに、馬か猪鹿《シシ》のやうに繩付となり、弓矢を携へた物部や使部に嚴重に護衛されて、配流の途に上るのであつた。契沖がいふ、
  さばかりの人の好色の過ちのみにて、實にさることはあるまじけれど、歌の勢にいふなり。心を付くべし。
とは飛んでもない誤認で、只多少文飾上の誇張もあらうといふに過ぎない。
 流人押送の光景の詳敍は、肥馬錦枹で揚々出入した乙麻呂の昨日の榮華を暗映するもので、榮枯盛衰一旦に處を易へた、その境遇に寄せた同情が著く見られる。されば結末の「眞土の山ゆ還り來ぬかも」は、篇法の上からは唐突の感があるが、情意の上からは綿々と連絡してゐる。所謂藕斷えて絲の斷えざる妙がある。
(1791) 惜別の歌に早くもその歸期を云爲することは、憶良の好去好來(ノ)歌(卷五)や、上の藤原(ノ)宇合が遣(ハサルヽ)2西海道(ノ)節度使(ニ)1之時の高橋蟲麻呂の歌にも見えたことで、人情その揆を一にするものである。殊にこれは勅勘の罪人たるに、尚も「還り來ぬかも」といふ。高潮した情味の前には一切の理窟は消えてなくなる。
 乙麻呂は奈良の囚獄を出て、立田の恐《カシコ》坂を越え河内を通過し、紀伊の大崎から舟出したらしい。それを「眞土の山ゆ還り來ぬかも」は矛盾のやうだが、紀伊路は眞土越が本道なので、かく詠まれたものであらう。
 
王《おほきみの》 命恐見《みことかしこみ》 刺並之《さしなみの》 土左〔二字左○〕國爾《とさのくにに》 出座耶《いでますや》 吾背乃公矣《わがせのきみを》 繋〔左△〕卷裳《かけまくも》 湯湯石恐石《ゆゆしかしこし》 住吉乃《すみのえの》 荒人神《あらひとがみ》 船舳爾《ふなのへに》 牛吐賜《うしはきたまひ》 付賜將《つきたまはむ》 島之埼前《しまのさきざき》 依賜將《よりたまはむ》 礒乃埼前《いそのさきざき》 荒波《あらきなみ》 風爾不令遇《かぜにあはせず》 莫管〔二字左○〕見《つつみなく》 身疾不有《やまひあらせず》 急《すみやけく》 令變賜根《かへしたまはね》 本國部爾《もとつくにべに》     1021
 
 舊本「おほきみの」より「わがせのきみを」までを一首の短歌として、別に掲げたのは大いなる誤。隨つて舊本に據つた國歌大觀の歌數も誤つてゐるので、便宜上、歌番號1020を除いた。
 
〔釋〕 ○さしなみの (1)「さし」は接頭語、「なみ」は並ぶの意にて、隣の序詞とす(舊説)。(2)閉し並ぶの意にて、(1792)閉し並ぶ戸といひ績けて、隣又は土佐などに係る枕詞とす(古義)。○とさのくにに 「土左」の二字原本にない。古義所引の吉田正雄の考により補つた。○いでますや 「や」は間投の歎辭。「をとめのさ鳴《ナ》すや〔傍点〕板戸を」(記上)、「畏きや〔傍点〕み墓仕ふる」(卷三)「囀るや〔傍点〕辛碓《カラウス》につき」(卷十六)の例なほ多い。○わがせのきみを 「きみを」は君なる〔二字右○〕をの意。「わがせ」の對稱は男にも女にも兄にも弟にもいへるが、多分は乙麻呂の妻妾より乙麻呂をさした詞であらう。○かけまくも 既出(五三〇頁)。「繋」原本に繁〔右△〕とあるは誤。元本神本等による。○すみのえのあらひとがみ 住吉の大神を稱する。記(上)に、伊邪那岐命が夜見國の穢を日向の橘の小門《ヲト》の檍《アハギ》原に禊祓し給うて、その時に成りませる底筒之男《ツコツヽノヲノ》命、中筒之男(ノ)命、上筒之男(ノ)命三柱の神は墨江之三前《スミノエノミサキノ》大神なりとある。社は攝津國西成郡住吉にあり、式内の大社である。(今大阪市住吉區)。○あらひとがみ 現人神。顯《アラハ》に形を現し給ふ神の意。住吉の神はより/\現れ出て幸へ護り給ふのでいふ。この語なほ景行天皇紀、雄略天皇紀、續紀などに見える。○ふなのへ 既出(一五六三頁)。○うしはき 既出(一五六三頁)。「牛吐」は戲書か。○たまはむ 「賜將」は漢文では將賜〔二字傍点〕だが、國文脈のまゝに字を充てた。こればかりではない。和漢混淆體の文字は集中に充滿してゐる。○あらきなみかぜにあはせず 荒い波風に遭はせず。荒き波に遭はせず〔四字右○〕、荒き〔二字右○〕風に遭はせずの略。○つつみなく 「莫」原本に草〔右△〕とあるは誤。宣長説による。「管」原本に菅〔右△〕とあるは誤。元本その他による。○やまひ 「身疾」を訓む。身〔傍点〕は衍宇ではない。契沖訓ミヤマヒ〔四字傍線〕は非。○すみやけく 略解訓による。舊訓スミヤカニ〔五字傍線〕。○かへしたまはね 「ね」は命令辭。「變」は反の字に假用した。○もとつくにべ 元の國の方に。本國に。大和の國をいふ。略解訓による。舊訓モトノクニベニ〔七字傍線〕。
【歌意】 大君の仰を畏こんで、土佐國にお出なさる私の背の君なのを、懸けて申さむも憚あり、恐れ多い住吉の(1793)現人神が、船の舳先にその働をお示しなされ、御到著なさらう島の出崎出崎、お立寄りなさらう磯の出崎出崎、荒い波や風に遭はせず、そして無事に病氣もさせず、歸して下さいませ、この本國の方に。
 
〔釋〕 全篇乙麻呂の爲に住吉の神に懸け奉つた祈願である。
 こゝの「大君の御言畏み」は、場合が場合だけに頗る巖重な意味のものである。土佐への流人船は、紀伊の大崎から出帆する。何れ沿海航路をたどる當時の事だから、風待日待にあちらの島こちらの磯、その崎々に寄泊しつゝ行く。内海航路と違ひ、外洋だから波も風も太だ高い。まづ第一に住吉の神に海路の無事平安を祈願した。さて愈よ土佐に着けば、何時歸るとも知れぬ流人生活、第二に煩はぬやうに守り給へと祈願した。そして第三に速に本國に歸し給へと祈願した。これは作者に直接交渉を生ずる緊要な事柄だから、詰まる處最後がその本來の心願であらう。
 以上層々疊みかけての切願、これ等の情味は作者が特別關係者である事を想はせるに十分である。况や最初に「わが背の君は」と呼び掛けてゐる。まづその夫人の作と見ておいてよからう。
 天平五年の贈(ル)2入唐使(ニ)1歌の
  虚見つ山跡の國は、青丹よし奈良の京師《ミヤコ》ゆ、押照る難波にくだり、住吉《スミノエ》の三津に船乘り、たゞ渡り日の入る國に、遣はさるゝわが背の君を、懸けまくのゆゆし恐こき、墨の江のわが大御神、船のへにうしはきいまし、船どもに御《み》立たしまして、さし寄らむ磯のさき/”\、漕ぎはてむ泊々に、荒き風波に合はせず、平らけく率《ヰ》て歸りませ、本の國べに(卷十九、作者未詳――4245)
(1794)と着想も辭句も殆ど類似してゐる。しかも後出である以上は、それを模倣したといはれても仕方がない。尚卷五「好去好來歌」の評語を參照(一五五九頁)。
 乙麻呂は天平十一年三月に土佐に配流、同十三年の大赦には洩れ、同十五年五月には既に復位して、更に從四位上を授けられた。とすればまづ十四年あたりの召還らしい。足掛け四年滿三年間、南海の蠻煙瘴雨にこの風流才子は暴されたのであつた。
 
右二首、作者未詳〔七字右○〕。
 
 假にこの左註を補つておく。古義は右二首石上卿(ノ)妻作〔八字右△〕としたが、前首と後首とは作者が違ふ疑もあるので一概に定め難い。
 
父公爾《ちちぎみに》 吾者眞名子叙《われはまなごぞ》 妣刀自爾《ははとじに》 吾者愛兒叙《われはまなごぞ》 參昇《まゐのぼる》 八十氏人乃《やそうぢひとの》 手向爲等〔左△〕《たむけする》 恐乃坂爾《かしこのさかに》 幣奉《ぬさまつり》 吾者叙退〔左△〕《われはぞまかる》 遠杵土佐道矣《とほきとさぢを》     1022
 
〔釋〕 ○まなご 愛兒。眞に懷かしき兒即ち眞懷兒《マナゴ》の義(古義説)。○ははとじ 古義はオモトジ〔四字傍線〕と訓み、舊訓のハハトジ〔四字傍線〕も存した。オモは母の古言。母父《オモチヽ》(卷十三)阿母刀自《アモトジ》(卷廿)おも刀自(曾丹集)の例がある。「妣」は禮記に(1795)は、生(ニ)曰(ヒ)2父母(ト)1、死(ニ)曰(フ)2考妣(ト)1とあるが、多く區別なしに用ゐられた。○まゐのぼる 奈良京に〔四字右○〕參り上るの意。舊訓マヰノボリ〔五字傍線〕。○やそうぢひと 「もののふのやそうぢ」を見よ(六八三頁)。○たむけする 「等」は衍字か。或は累〔右△〕、類〔右△〕などの誤であらう。○かしこのさか 懼《カシコ》坂。立田峠の東方の阪路、いま峠と稱する處。「たつたやま」を見よ(二八四頁)。○ぬさまつりわれはぞ 吾はぞ幣まつり〔七字傍点〕を句法の爲に倒置した。○まかる 「退」原本に追〔右△〕とある。眞淵の一考の方に從ふ。○とさぢを 土佐へ行く路なる〔二字右○〕を。△地圖 挿圖91(二八六頁)を參照。
【歌意】 父君に取つては私は愛兒である〔三字右○〕ぞ、母刀自に取つては私は愛兒であるぞ〔三字右○〕。然るに、京へ參りのぼる數多の官人達が、峠の神に手向けする恐《カシコ》坂に、私はさ幣を捧げて、反對に〔三字右○〕京を追はれて出て往きます。その道は〔四字右○〕遠い土佐路であるもの〔五字右○〕を。あゝ〔二字右○〕。
 
(1796)〔評〕 乙麻呂の父左大臣麻呂(ノ)卿は夙く養老元年に薨じてゐる。それからこの年まで二十三年も經つから、母君の存命とても覺束ない。然るになほ自分が父母の愛兒である事を、現在いますが如く反復誇稱した。蓋し門閥石上氏を支柱すべき大切なる身であることの自覺から發した語であらう。彼れは三男だが、その兄達に聞名のない處を見ると、多分早逝か何かで、彼れは跡取息子の一粒種であつたらしい。
  石上(ノ)中納言者左大臣(ノ)第三子也。地望清華、人才穎秀、雍容間雅、甚(ダ)善(シ)2風儀(ニ)1。雖(モ)v※[日/助](ムト)2典墳(ニ)1、亦頗(ル)愛(ス)篇翰(ヲ)1。嘗(テ)有(リテ)2朝譴1飄2寓(ス)南荒(ニ)1。臨(ミ)v淵(ニ)吟(ジ)v澤(ニ)、寫(ス)2心(ヲ)文藻(ニ)1、遂(ニ)有(リ)2銜悲藻兩卷1。今傳(フ)2於世(ニ)1、云々。(懷風藻)
と見え、略この朝臣の性行を察する事が出來よう。
 立田の恐坂はいふまでもなく、奈良京出入の公道で、上京の官人達は河内側から越えて、盛に峠の神に手向する。それは間もない着京の悦を感謝するのであつた。それに引換へ、自分は名家の愛兒でありながら流人として、逆に帝都を追はれて旅へ出る爲の悲しい幣奉りとすると、對照上その感慨は無量なものがあらう。况や行先は波濤萬里の土佐路である。同じ恐坂の手向に、かく一喜一憂相反する感想を取扱つて、自己の悲境に呻吟した。
 短篇ながらよく變化して、無限の感哀を藏してゐる。蓋し眞情流露の作。「われは愛兒ぞ」の對句の下に落句あるべしといふ略解古義などの説は無用。
 
反歌一首
 
(1797)大埼乃《おほさきの》 神之小濱者《かみのをはまは》 雖小《せばけれど》 百船純毛《ももふなびとも》 過迹云莫國《すぐといはなくに》     1023
 
〔釋〕 ○おほさき 紀伊國海部郡大崎(今海草都)。○かみのをはま 大崎の東に加茂村あり、カミ、カム、カモは神の意で同語。古へは大崎のあたりをもカミと稱したのであらう。○せばけれど 古義訓セバケドモ〔五字傍線〕。○ももふなびと 百船人。「純」の字、純一の意にてヒト又ヒタと訓む。人を一と書ける例は、卷九に「一《ヒト》知りぬべみ」とある。○すぐといはなくに 見〔右○〕過すといはぬのに。
【歌意】 大崎の神の小濱、それは狹いけれど、澤山の舟人も、徒らに見過すといふことはないのにさ。――自分は罪人でそを見る自由もないわい〔十七字右○〕。
 
〔評〕 以上の長短歌の趣によると、奈良京から立田峠にかゝり、河内路を通過して紀伊路に出、大崎から土佐行の船に乘つたのである。
(1798) 大崎の神の小濱は、藤白山脈が南方に斗出した荒崎の北にある灣で、東に向つて開き、土佐行の船は近世でも出た處である。
 百舟人の寄港するのは航海上の都合による。それを神の小濱の形勝に由るかのやうに寄興し、翫賞の遑もなしに、罪人として周章しく追ひ立てられる自分の境遇を嗟歎した。そこに感慨の含蓄がある。「せばけれど」の一抑「過ぐといはなくに」の一揚の如きは例の事で、大崎小濱の字對は有意無意の間にある。
 
右二首、石上(ノ)卿(ノ)作(メル)〔七字右○〕
 
 この左註を補つた。この二首は必ず乙麻呂の自作。
 
秋八月二十日、宴(せる)2右大臣《みぎのおほまへつぎみ》橘(の)家(にて)1歌四首
 
 天平十一年八月二十日、右大臣橘(ノ)諸兄《モロエ》の家で酒宴した歌との意。○右大臣 太政官の長官の一で、左大臣の次位。天子を輔佐し天下の大政を行ふ。皇極天皇の四年六月始めて左右大臣を置かれた。二位相當官。こゝの右大臣は橘諸兄のこと。諸兄は續紀に、天平十年正月授(ケ)2正三位(ヲ)1拜(ス)2右大臣(ニ)1とある。傳は「葛城《カヅラキノ》王」を見よ(一七六六頁)。○橘家 諸兄の京の家は所在未詳。別業は山城國相樂那井手に在つた。
 
(1799) 長門有《ながとなる》 奥津借島《おきつかりしま》 奥眞經而《おくまへて》 吾念君者《わがもふきみは》 千歳爾母我毛《ちとせにもがも》     1024
 
〔釋〕 ○かりしま 長門國阿武郡萩町松本の北、鶴江臺邊に雁《ガン》島の名がある。借島即ち雁《カリ》島を音讀したものか。但沖つ借島とあれば海中の孤島らしいから、地形が出合はないが、今の萩町は海灣中の堆洲なることは明かだから、雁島は古へは孤島であつたのではあるまいか。或はその西北角の指月山か。なほ大小の島々が沖合に散在してゐるから、何れとも判定し難い。初二句は借島の位置が沖合にある事を以て、「奥まへて」に係けた序詞。○おくまへて 奥あるやうにするをいふ。奥深く〔三字傍点〕に近い。古義に奥めて〔三字傍点〕の延言と解したが、奥め〔二字傍点〕といふ語はない。「奥まへて――念ふ」は「奥に思ふ」(卷三)に同じい。
【歌意】 長門にある沖の借島の、沖にあるやうに奥深く、私の思ふ君は、その齡が千年でまあ、あつてほしいことよ。
 
〔評〕 主人公諸兄は當時位は從三位、官は右大臣の一上、福禄兩つながら達し得て、世に不足といふは何物もない。遺す處は只年壽あるのみだ。當日宴席に陪した長門守|巨曾倍《コソベノ》對島は、機を見るに敏なる男で、今や五十六歳の老境にある主人公の意中を素早く洞察し、「千歳にがも」と祝福した。さうなれば福禄壽を一身に兼ね具へた長者だ。主人の滿悦想ふべしである。對島は恐らく橘家恩顧の人であらう。(1800)「長門なる沖つ借島」の序詞は任國の名處を使用して、對島自身の地歩を占めたもの。但
  淡海《アフミ》の海《ミ》おき津島やま奥まへて、わが念ふ妹が言《コト》の繋けく(卷十一、詠者未詳――2439)
と序態が酷似してゐる。
 
右(ノ)一歌、長門(ノ)守|巨曾倍對島《コソベノツシマノ》朝臣。
 
 ○巨曾倍對島朝臣 巨曾倍は氏。續紀に、天平四年八月、山陰道(ノ)節度使(ノ)判官巨曾部(ノ)津島に授(ク)2外從五位下(ヲ)1とある。その十一年には長門守だつたと見える。尚正倉院文書に、天平二年に正六位上大和介とある。
 
奥眞經而《おくまへて》 吾乎念流《われをおもへる》 吾背子者《わがせこは》 千年五百歳《ちとせいほとせ》 有巨勢奴香聞《ありこせぬかも》     1025
 
〔釋〕 ○わがせこ こゝは男性同士の親稱に用ゐた。なほ既出(一六九頁)及「わがせ」(九〇頁)を見よ。○ありこせぬ 既出(三六五頁)。「巨勢」は地名、戲書の意あるか。
【歌意】 奥深く私を思うてゐる貴方は、千年も五百年も、存らへてくれぬものかなあ。
 
〔評〕 對島の「千歳にがも」の詞に酬い、「千歳五百歳」を以て挨拶した。對島も相當の老人であつた事が察せられる。右大臣と長門守、身分こそ格段に違へ、「わが背子」と親稱を以て呼び懸けた處を似て見ると、餘程入懇の間柄と見える。
 
(1801)右一歌、右大臣(ノ)和(ヘタル)歌。
 
 右大臣は橘(ノ)諸兄のこと。
 
百磯城乃《ももしきの》 大宮人者《おほみやびとは》 今日毛鴨《けふもかも》 暇無跡《いとまをなみと》 里爾不去將有《さとにゆかざらむ》     1026
 
〔釋〕 ○なみと 無さにと〔右○〕て。「と」を輕い虚辭と見ても意が通ずる。○さと 宮城外をいふ。○ゆかざらむ 「去」を類本及び古葉に出〔右△〕とあるは、イデザラム〔五字傍線〕と訓む。この宴席の場合としては、「出」の方が剴切であるが、故人の歌を流用して誦したのであるから、容易く改め難い。
【歌意】 大宮人達は、今日さへもまあ暇が無いとて、里に退出しないのであらうか。
 
〔評〕 古義に「この歌今日の宴に誦したる意を知らず」とあるが、これ程理由の明白な事はない。その日は餘定より出席者が少くて寂しい宴會だつたと想はれる。主人公諸兄はその人達の不參の理由を、總べて公務の多端に取成して、故人豐島(ノ)釆女の歌を誦して、他の來客達に釋明したのである。そこに主人公の温容と雅量とが著く認められる。
 
右一首、右大臣傳(ヘテ)云(ハク)、故豐島《モトノテシマノ》采女(ガ)歌(ト)。
 
 諸兄は上の歌を誦してさて後、これは故人たる豐島(ノ)釆女の歌だと、來會の人達に語り傳へられたとの意。こ(1802)の「傳云」を家持に語つたのを記したのだと、古義にあるは速斷に過ぎる。○豐島釆女 豐島は訓にテシマ、トシマの二つある。即ち攝津國豐島郡|豐島(テシマ)、武藏國|豐島《トシマ》郡である。何れの出身の釆女か。「釆女」は既出(三一八頁)。
 
橘《たちばなの》 本爾道履《もとにみちふみ》 八衢爾《やちまたに》 物乎曾念《ものをぞおもふ》 人爾不所知《ひとにしらえず》     1027
 
〔釋〕 ○やちまたに 既出(三七三頁)。
【歌意】 橘の樹蔭にたどつて、その多い岐路《エダミチ》のやうに、いろ/\に物念ひをさするわい、人には知られずに。ええ益體《ヤクタイ》もない〔七字右○〕。
 
〔評〕 左註にある如く、卷二「三方(ノ)沙彌《サミガ》娶《アヒテ》2園(ノ)臣|生羽之女《イクハノメニ》1未幾時《イマダイクグモアラズ》臥(シテ)v病(ニ)作歌に、
  橘の蔭ふむ路の八ちまたに物をぞおもふ妹にあはずて(――125)
の誤傳で、高橋安麻呂の誦み違へであらう。總べては卷二の同歌の條下(三七二頁)に讓る。
 
右一歌、右大辨高橋(ノ)安麻呂(ノ)卿(ガ)語(リテ)云(フ)、故《モトノ》豐島(ノ)采女(ガ)之|作(メリト)也。但或本(ニ)云(フ)、三方(ノ)沙彌(ガ)戀(ヒテ)2妻|苑《ソノノ》臣(ヲ)1作《ヨメル》歌也(ト)。然(レバ)則(チ)豐島(ノ)采女(ガ)當時當所(ニ)口2吟《クチズサミシ》此歌(ヲ)1歟。
 
 この歌は高橋(ノ)安麻呂が故人豐島釆女が詠んだ歌だと語つたとの意。こゝまでが左註の原文である。さて何で(1803)安麻呂がこの歌を語つたかといふに、この橘家の宴席上、主人公諸兄が豐島釆女の歌を誦んじた處から、安麻呂はこれをも同じ釆女の作と誤認して、時の興に語り出したものか。「然則云々は何人かの追記で、豐島采女自身がその宴席の場で口吟したかの意であるが、釆女は既にその時故人になつてゐた。○右大辨 既出(一三六四頁)。○高橋安麻呂 續紀に、養老二年正月正六位上より從五位下、同四年十月宮内少輔、神龜元年二月從五位上、同四月宮内大輔で征海道蝦夷の副將軍となり、同二年閏正月正五位下勲五等、天平五年九月右中辨、同九年正五位上、同十年正月從四位下、同十二年太宰大武とある。右大辨だつたのは紀には洩れてゐるが、天平十年正月從四位に叙位してから、十二月大貮になるまでの間の事であらう。大辨は四位相當官だからである。
 茲に一言する。萬葉集卷二を斥して左註の追記に或本〔二字傍点〕と稱したことは頗る疑はしい。依つて思ふ、萬葉集の稱號はこの集全部二十卷を結集した際に附けた名稱で、その以前は卷々、或は同體裁のものを通じて、或は箇箇獨立して、適宜な名稱がそれ/”\別にあつたに相違ない。有由緒歌、東歌等の如き題目もその一であらう。委しくは雜考に讓る。       △萬葉集の結成(雜考――23)を參照。
 
十一年|己卯《つちのとう》、天皇|遊2獵《みかりしたまへる》高圓野《たかまとのぬに》1之時、小(き)獣《けだもの》泄《いで》2走(る)堵里《さと》之中(に)1。於是《ここに》適2値《あひて》勇士《ますらをに》1、生《いきながら》而|見《らる》v獲(え)、即(ち)以(て)2此獣(を)1獻2上《たてまつるに》御在所《みもとに》1副(ふる)歌一首 【獣(ノ)名(ハ)俗(ニ)曰(フ)2牟射佐妣《ムササビト》1。】
 
 天平十一年、聖武天皇が高圓の野に御獵をなされた時、小さな獣が人里の中に飛び出した、茲に勇士に出合つ(1804)て生擒にされた、乃ちこの獣を陛下の御在所に獻るに副へる歌との意。小獣は割註及び歌によると※[鼠+吾]鼠。○高圓野 「たかまとのぬべ」を見よ(六一九頁)。○堵里 人家ある處をいふ。○泄走 「泄」は漏の義。○俗曰 割註の「俗」は一般の通語の意。
 
大夫之《ますらをが》 高圓山爾《たかまとやまに》 追有者《せめたれば》 里爾下來流《さとにおりける》牟射佐妣曾此《むささびぞこれ》     1028
 
〔釋〕 ○せめたれば 迫めたれば。攻むること。○おりける 古義訓による。舊訓オリクル〔四字傍線〕。○むささびぞこれ ※[鼠+吾]鼠ぞこれなる〔二字右○〕の略。「むささび」は既出(六八九頁)。△地圖及寫眞 挿圖380(一五一一l頁)。196(六八九頁)を參照。
【歌意】 勢子《セゴ》の男達が、高圓山で追ひ詰めたので、溜らなくなつて〔七字右○〕、里中に下りて來た※[鼠+吾]鼠がさ、これで御座いますわ。御覽下さい〔五字右○〕。
 
〔評〕 高圓山は今は草山だが、古へは林木で蔽はれてゐたらしい。その山麓の臺地は※[獣偏+葛]高野で、御獵は山へとかけて行はれた。故に題詞には高圓の野といひ、歌には高圓山と詠んである。山の裾囘は奈良京、左京の五條から八九條の京極に接してゐる。されば野山を狩り立てられて戸惑ひした※[鼠+吾]鼠は、坊里の中に飛び込んだのである。※[鼠+吾]は一寸グロ味のある妙な恰好の動物だから、それを生擒にした人間は勇士かも知れない。この勇士は(1805)想ふに大伴家の家人であらう。高圓には大伴家の別墅があり、坂上郎女が偶ま來て居たので、この怪物を御獵に獻つて叡覽に供するに、詞がはりにこの歌を副へたものである。
 されば歌は事實を報告したまでの事に了つてゐる。
 
右一歌、大伴(ノ)坂上(ノ)郎女(ガ)作(メル)之也。但未(ダ)v※[しんにょう+至]《イタラ》v奏(スルニ)、而小獣|斃死《タフル》、因(リ)v此(ニ)獻(ルコトハ)v歌停(ム)v之(ヲ)。
 
 「但」以下は、かく奉獻の歌も出來たが、まだ申し上げる間が無いうちに、小獣※[鼠+吾]鼠が死んだ、で歌を獻ることも止めたとの意。
 
十二年|庚辰《かのえたつ》冬十月、依(りて)2太宰少貮藤原(の)朝臣廣嗣(が)反謀《そむきて》發《おこせるに》1v軍(を)、幸(せる)2于伊勢(の)國(に)1之時、河口(の)行宮《かりみやにて》内舍人大伴(の)宿禰家持(が)作歌一首
 
天平十二年十月、太宰少貮の藤原廣嗣が謀反して兵を起したので、伊勢國に行幸なされた時、河口(ノ)行宮で家持が詠んだ歌との意。○太宰少貮 既出(七九三頁)。○藤原廣嗣 參議式部卿宇合の第一子。續紀に、天平九年九月從六位上より從五位下、同十年四月式部卿にて大養徳《ヤマトノ》守、同十二月太宰少貮、同十二年八月、上表して時政の得失を指し、天地の災異を陳べ、僧玄※[日+方]、下道(ノ)眞備等を除くことを奏し、同九月遂に兵を起して反した。勅して從四位上大野東人を大將軍として征伐、廣嗣敗れて、十月二十三日肥前國松浦郡|値嘉《チカノ》島長野村にて捕縛、十一月一日斬に處せらる。○幸于伊勢國 續紀に、十二年十月壬午(廿九日)行2幸(ス)伊勢(ノ)國(ニ)1とある。○河口行宮 (1806)伊勢國一志郡河口(今河口村)。〇内舍人 既出(一〇二九頁)。△地圖挿圖 33(一〇三頁)を參照。
 
河口之《かはぐちの》 野邊爾廬而《ぬべにいほりて》 夜乃歴者《よのふれば》 妹之手本師《いもがたもとし》 所念鴨《おもほゆるかも》     1029
 
〔釋〕 ○かはぐちのぬ 壹志郡河口村から大三村に亙る雲出川北岸の野の稱。○いほりて 庵しての意。「いほり」は庵入《イホイリ》の義で、ラ行四段活。〇よのふれば 夜の經れば。「歴」は借字。
【歌意】 河口の野邊に庵住して、幾夜も經るので、寒くはあるし〔六字右○〕、本郷《クニ》の家の妻の袂がさ、戀しく思はれることよ。
 
〔評〕 河口の稱は雲出川に起る。大和から伊勢に出るに、名張を經て安保《アホ》を過ぎ河口に來ると、始めて大きな河雲出川に接する。河に打出づる處だから河口といふ。南街道の家城《イヘキ》路もこゝに會し、卷一に「十市(ノ)皇女(ノ)參2赴《マイヅル》伊勢神宮(ニ)1時、見(テ)2波多(ノ)横山(ノ)巖(ヲ)1云々」の題詞ある歌に「河上のゆつ磐村に」とある、その下流に當る。野は河の南北に亙り、東西に長い山間の僻地だ。そして川筋一帶に寒さが嚴しい。
(1807) 抑も今囘の伊勢行幸は、勿論神宮に治平祈願の勅使も立てられたが、一時亂を避けて關東(不破の關の東)に幸することが主であつた。續紀、十二年十月十一月の條に、
  壬午(廿九日) 行2幸(ス)伊勢(ノ)國(ニ)1、是日到(ル)2山邊郡竹谿村堀越(ノ)頓宮(ニ)1。
  癸未(三十日) 車駕到(ル)2伊賀國名張郡(ニ)1、
  甲申(朔) 到(リテ)2伊賀國|安保《アホノ》頓宮(ニ)1宿(ル)。大(ニ)雨(フリ)泥(リテ)人馬疲頓(セリ)。
  乙酉(二日) 到(ル)2伊勢國壹志郡河口(ノ)頓宮(ニ)1謂(フ)2之(ヲ)關(ノ)宮(ト)1、
  丙戊(三日) 是日大將軍東人等(ス)、以2今月二十三日1捕(ヘ)2獲(ツ)廣嗣(ヲ)1云々。――停2御《トドマルコト》關(ノ)宮(ニ)1十箇日。
こんな次第で、河口に御到着の翌日反人廣嗣敗亡の吉報を得、旅疲れの休息や祝賀やで、河口に十日も長居されたのであるらしい。
 時が仲冬の十一月、山地が特に寒い場處とあつては、この思の外の長逗留に、野邊の庵に夜を經るのは辛い。ましてまだ廿三四歳の内舍人の若者家持だ。奈良京を出發してから十日以上も、愛する妹が手から離れてゐる。山風野風川風が夜床をゆする度毎に、「妹が袂」を思ふは自然の人情である。藤原(ノ)麻呂の「妹とし寢ねば肌し寒しも」(卷四)に比するに、婉曲味を以て勝つてゐる。
 
天皇御製歌《すめらみことのみよみませるおほみうた》一首
 
○天皇 聖武天皇。
 
(1808)妹爾戀《いもにこひ》 吾乃〔左△〕松原《あのまつばらゆ》 見渡者《みわたせば》 潮干乃潟爾《しほひのかたに》 多頭鳴渡《たづなきわたる》     1030
 
〔釋〕 ○いもにこひあのまつ 妹に戀して吾が待つを、吾の松原にいひかけた序詞。○あのまつばらゆ 吾《ア》は伊勢國安濃郡の地名。その津を安濃《アノ》津といふ。諸註誤る。ユは讀み添へた。略解、宣長説は「乃」を自〔右△〕の誤として、ワガマツバラユ〔七字傍線〕と訓み、古義ユをヨ〔傍線〕と訓んだ。舊訓ワガノマツバラ〔七字傍線〕。○かた 「潟」元本その他に滷とあるも同意。
【歌意】 妹に戀して吾《ア》の待つといふ名の、吾《ア》の松原から、見渡すと、汐の干潟に、あれ鶴が鳴いてゆくわ。
 
〔評〕 初句は必ず序詞たるべきで、妹と松原と特殊の關係のない限は、妹に戀したとて松原を見渡すことは、道理《スヂ》が立たない。
  わが背子を安我《アガ》まつ原|欲《ヨ》見わたせば海人少女ども玉藻刈る見ゆ(卷十七――3890)
の上句は殆ど聖作と同型である。
 今囘行幸の御道筋は、赤坂(ノ)頓宮から吾の津(安濃津)に出られたと考へられる。古義にいふ。
  大御歌何とはなけれど、誦し申す度毎に、その時の風景今も目に浮びて見るやうなるは、御調の高きが故なるべし。
 
丹比家〔左△〕主眞人《たぢひのいへぬしのまひとが》歌一首
 
○丹比家主眞人 「家」原本に屋〔右△〕とある。當時丹比氏に家主《イヘヌシ》と屋主《ヤヌシ》と二人居て、而も十二年には共に從五位下で(1809)あつた。古義はいふ、こゝは家主の歌と。續紀に今囘の伊勢行幸に赤坂頓宮に於いて隨從者に位一級を進められた事が見え、それに家主の名はあるが、屋主の名はない。屋主の從駕して居なかつた證とされよう。屋主の歌は卷八に見え、傳はその條にある。なほ左註參照。○家主 續紀に、養老七年九月出羽國司正六位上丹治比(ノ)眞人家主と見え、天平九年二月從五位下、同十二年十一月伊勢行幸の途赤坂頓宮に於いて從五位上、同十三年八月鑄錢司長官、天平勝寶三年正月正五位下、同六年正月天皇東院に御し五位已上を宴し給ふ時、特に家主と大伴宿禰麻呂二人を召し、四位の當色を賜ひ四位の列に在らしめ、即ち從四位下を授かる。天平寶宇四年三月散位にて卒すとする。尚天平九年の正倉院文書に、因幡守とある。
 
後爾之《おくれにし》 人乎思久《ひとをしぬばく》 四泥能埼《しでのさき》 木綿取之泥而《ゆふとりしでて》 將往〔左△〕跡其念《ゆかむとぞおもふ》     1031
 
〔釋〕 ○おくれにし 京に留つてゐる人をさす。妻などであらう。○しぬばく 慕ぶことよの意。この句は下に續けず切るがよい。「しらなく」を見よ(四四五頁)。訓は古義による。舊訓オモハク〔四字傍線〕。○しでのさき 志※[氏/一]の崎。神名帳に伊勢國朝明郡|志※[氏/一]《シデ》神社がある。御津の濱の西。(今三重郡)古へその邊は海に瀕してゐたと見え、埼の名がある。○ゆふ 既出(九二三頁)。○とりしでて 「しで」は懸け垂ることをいふ。宣長はいふ繁垂《シジタリ》の義と。○ゆかむ 「往」原本に住〔右△〕とあるは誤。童本説(1810)による。
【歌意】 京に殘り留つてゐる人を、慕はしく思ふことよ。幸ひ志※[氏/一]の神のます崎に、木綿を崎の名の垂《シ》で垂らして、旅路の平安を祈つて往かうと思ふ。――無事に再び逢はう爲に〔十字右○〕。
 
〔評〕 家主は前日の赤坂頓宮で位一階を昇進したのだから、この上の慾には、無事に從駕の旅を了つて、早く家人の顏を見たいが一杯である。「志※[氏/一]〔二字傍点〕の崎木綿取りしで〔二字傍点〕て」はその崎にます志※[氏/一]の神に幣奉ることで、表現上多少の婉味を寓し、シデの疊音も諧調を成してゐる。但それらは末節の事で、旅客の家郷を憶ふ情味が津々としてゐる。「往かむとぞ思ふ」の辭氣が頗る悠揚迫らざる態のあるのは、彼れが得意滿面の際であつたからであらう。
 
右案(ズルニ)、此歌|者《ハ》不v有(ラ)此行宮之作(ニ)1乎《カ》。所2以(ヲ)然(ル)1言(ハム)之。勅(リ)2大夫(ニ)1從(リ)2河口(ノ)行宮1還(リ)v京(ニ)、勿(レ)v令(ムル)2從駕(セ)1焉。何(ゾ)有(ランヤ)d詠(メル)2思沼《シヌノ》埼(ヲ)1作歌《ウタ》u哉。
 
この歌は河口(ノ)行宮の作ではないのかしら、その理由を言はう、勅命が大夫(屋主は五位なればいふ)に下つて、河(1811)口行宮からすぐ奈良京に還り、巡幸の供に立つなと、されば何で思沼(志※[氏/一])の崎を詠んだ歌があらうぞとの意。
 以上の左註はこの歌を屋主の作としての註である。屋主にはさうした勅命のあつたことは、或は事實かも知れない。何かの事情で追ひ歸されたものだらう。が家主の方には何の關係もないことである。
 
獨|殘《とゞまりて》2行宮(ニ)1大伴(の)宿禰家持(が)作歌
 
只一人行宮に殘り留つて家持が詠んだ歌との意。この行宮は志※[氏/一]の歌の次に序でたので考へると、續紀に、車駕は十一月十四日赤坂(ノ)頓宮から、廿三日朝明郡、廿五日桑名郡(ノ)石占《イシウラノ》頓宮、廿六日美濃國|當伎《タキ》郡に到りますとある。この歌の次に海邊眺望の「御食つ國」の歌があるから、これも同處の作と見る時は、こゝの行宮は桑名の石占(ノ)頓宮と見るより外はない。桑名を離れて北しては最早海はない。この頓宮は今の桑名町の内。家持は内舍人の役目上、頓宮に居殘りをしたのであらう。久老は「獨殘」を狹〔右△〕殘の誤としてサヾムと讀み、多氣(當伎)郡大淀村の佐々夫《サヽフ》江に頓宮ありしなるべしとの説を立てたが、煩はしい。又殘の音はザンでサムでない。
 
天皇之《おほきみの》 行幸之隨《いでましのまに》 吾妹子之《わぎもこが》 手枕不卷《たまくらまかず》 月曾歴去家留《つきぞへにける》     1032
 
〔釋〕 ○まに ままにの意。
【歌意】 天子樣の行幸のまゝに御供して、京の家の妻の手枕をもせず、月日をさ經たことであるわい。
 
〔評〕 十月廿九日に京を立ち、十一月廿五日桑名の頓宮に著、その日數廿七日間で、旅は二月に亘つた。まこと(1812)「手枕纏かず月ぞ經にける」である。公に殉ずるは官吏の心得ではあるものゝ、人情は又格別である。車駕遠く去つて寂寞たる行宮の内、獨膝を抱いて家妻を思ふも亦止むを得まい。初二句は公、以下は私で、兩者對照の間にその意中の葛藤を見る。
 
御食國《みけつくに》 志麻乃海部有之《しまのあまならし》 眞熊野之《まくまぬの》 小船爾乘而《をぶねにのりて》 奥部榜所見《おきべこぐみゆ》     1033
 
〔釋〕 ○みけつくに 前出(一六五三頁)。○しまのあま 志摩國の海人「海部」は海人部の略。○まくまぬのをぶね 「まくまぬのふね」を見よ(一六七二頁)。
【歌意】 御食を奉る國の、志摩の海人であるらしい。眞熊野の小舟に乘つて、沖の方を漕ぐのが見えるよ。
 
〔評〕 志摩の國は古事記(上)に「島之|速贄《はやにへ》獻(ル)v之(ヲ)時云々」と見えたのを始として、
  元慶六年十月、志摩(ノ)國年貢(ノ)御贄 四百三十一荷云々。(三代實録)諸國例貢御贄、志摩深海松(宮内式)
  志摩國調、御取(ノ)鰒、雜鰒、堅魚、敖海鼠《イリコ》、雜魚|楚割《ソワリ》、雜魚脯、雜鮨、漬v鹽雜魚、紫菜《ノリ》、梅松、鹿角菜《ヒジキモ》、海藻《メ》、海藻根《マナカシ》、小凝菜《ココロテイ》、角俣菜《ツマノマタ》、於期菜《オゴノリ》、滑海藻《アラメ》等々。(主計式)
  凡志摩國供2御贄1 潜女卅人、歩女一人、仕丁八人云々。(主税式)
など見え、海産物を豐富に貢する御食つ國である。
 海上遠く眞熊野舟が威勢よく漕ぎゆく。それが或は知多か伊良虞の海人かも知れないが、作者が猶豫なく志摩の海人と認定したことは、當時いかに志摩の海人が伊勢灣上の活動者であつたかを想はせる。而も眞熊野舟(1813)は志摩人の特に利用してゐた點もあらう。
 この歌は單なる海上の矚目で他意はない、然るに古義に、
  海人が徒は暇なく荒き波風を凌ぎ海面に漕ぎ出て、天皇の御爲に危き業するは、さても哀れにいとほしき事かな、これにて思へば天皇の御左右に仕へまつるは、旅とはいへど遙にまさりて有難く貴く嬉しく云々。
この位見當が違へば却て面白い。
 
美濃(の)國|多藝《たぎの》行宮(にて)、大伴(の)宿禰|東人《あづまひとが》作歌
 
○多藝行宮 多藝郡(今養老郡)白石村養老山(多度山)の山口に行宮神社と稱する小社ある處か。靈龜三年の元正天皇の行宮地に就いて、聖武天皇も今囘の行宮を建てられたと考へられる。續紀に、天平十二年十一月己酉到(リマス)2美濃國(ノ)當伎《タギノ》郡(ニ)1と見え、五日間御逗留、翌十二月朔日不破に幸された。○大伴宿禰東人 續紀に、寶字五年十月從五位下にて武部少輔、同七年正月少納言、寶龜元年六月散位(ノ)助、同八月周防守、同五年三月彈正(ノ)弼とある。
 
從古《いにしへゆ》 人之言來流《ひとのいひくる》 老人之《おいひとの》 變若云水曾《をつちふみづぞ》 名爾負瀧之瀬《なにをふたぎのせ》     1003
 
〔釋〕 ○いにしへゆ 古義訓イニシヘヨ〔五字傍線〕、舊訓ムカシヨリ〔五字傍線〕。○ひとのいひくる 人のいひ傳へる。古義訓イヒケル〔四字傍線〕。(1814)○をつちふみづぞ 若返るといふ水なる〔二字右○〕ぞ。「をつ」は「をちめやも」を見よ(七九八頁)。久老訓による。舊訓ワカユテフミヅゾ〔八字傍線〕。○なにおふ 養老の〔三字右○〕名に負ふの略。古義の此處の地名に負へるとの解は誤。○たぎのせ 多度の瀑布と多度川の瀧つ瀬と醴泉と三者が太だ分明でない。瀑布の末は川の瀧つ瀬である。萬葉の註者のすべては、その大瀑布及び川の瀧つ瀬を即醴泉のやうに釋してゐる。然し續紀には美泉また醴泉とある。大瀑布や河水をうち任せて泉とはいはれぬ。依つて考ふるに、多度川の岸邊から湧く小流に特殊の靈水を發見したので、それを美泉といひ、美泉の流末の奔湍を、瀧つ瀬と歌つたものか。現在は川の瀧つ瀬の右岸に養老神社あり、その下老杉の根もとから盛に湧出する數道の地下水を、醴泉と稱してゐる。
【歌意】 昔から人がいひ傳へる、老人が若返るといふいゝ水であるぞ、この養老の名に負うてゐる瀧の瀬はさ。
 
〔評〕 續紀養老元年九月の條に、
  丁未天皇(元正)行2幸(ス)美濃國(ニ)1。甲寅至(リマス)2美濃國(ニ)1、丙辰幸(ス)2當耆《タギノ》郡多度(ノ)山(ノ)美泉(ニ)1云々。甲子車駕還(リマス)v宮(ニ)。十一月癸丑、天皇臨(ミ)v軒(ニ)詔(シテ)曰(ハク)、朕(1815)以(テ)2今年九月(ヲ)1到(リ)2美濃國不破(ノ)行宮(ニ)1、留連《トヾマルコト》數日、因(リテ)覽(ル)2當耆(ノ)郡多度山(ノ)美泉(ヲ)1自(ラ)盥《ソヽグニ》2手面(ヲ)1皮膚如(シ)v滑(ナル)、亦洗(フニ)2痛處(ヲ)1無v不(ル)2除(キ)癒(エ)1、在(リテ)2朕之身(ニ)1其驗(アリ)、又就(イテ)飲(ミ)2浴(ム)之(ヲ)1者(ハ)、或白髪反(リ)v黒(ニ)、或(ハ)頽髪更(ニ)生(エ)、或(ハ)闇目如(シ)v明(カナル)、自餘病疾|咸皆《ミナ》平癒(ス)云々。改(メテ)2靈龜三年(ヲ)1爲(ス)2養老元年(ト)1。
かく改元までされた程の由緒深い美泉で、元正天皇は、手面を盥ぐと皮膚が滑かになり、飲浴すると白髪は黒くなり、禿げた頭に毛が生え、目くらも眠が見え、百病も癒ると仰せられた。全く「老人のをつちふ水」である。想ふに明礬質か何かを含んでゐた鑛泉であらう。
 それから聖武天皇の今囘の行幸の年までは二十三年經つ。これ「いにしへゆ」である。或はその以前の土俗傳説の時代をかけていつたと考へられぬこともないが、次の歌にも元正天皇の行宮創始をさして、「いにしへゆ」と詠んである。
 序にいふ、養老孝子の傳説は、續紀に、
(1816)  養老元年十二月丁亥、令(ム)d美濃國(ニ)立春(ノ)曉、※[手偏+邑]《クミ》2醴泉(ヲ)1而貢(ガ)c於京都(ニ)u、爲(ナリ)v醴《ツクル》v酒(ヲ)也。
と見え、酒造の水にこの美泉を取寄せられた事から、養老の瀑布の水が孝子の爲に酒に變じた、十訓抄、著聞集の小説が出來、養老寺縁起が出來、遂に謠曲の養老とまで發展したのである。
 
大伴(の)宿禰家持(が)作歌一首
 
田跡河之《たどがはの》 瀧乎清美香《たぎをきよみか》 從古《いにしへゆ》 宮仕兼《みやつかへけむ》 多藝乃野之上爾《たぎのぬのへに》     1035
 
〔釋〕 ○たどがは 養老山中養老瀑の下流の稱。白石川又養老川といひ、末は揖斐《イビ》河に入る。序にいふ、今は美濃の養老山と伊勢の多度山とは稱呼を別にしてゐるが、元來養老山は多度山脈の北端の一部だから、古へは廣く多度の山と呼ばれ、その川を多度川と稱した。○みやつかへけむ 宮を造り奉るを「宮つかへ」といふ。○たぎのぬのへに 多藝の野のあたりに。「たぎのぬ」は養老山下の平野の稱。略解訓による。舊訓タギノノノウヘニ〔八字傍線〕。多藝行宮址傳説地が平野の西端の山手にあるので、ウヘニ〔三字傍線〕の訓を執する説もあるが、拘はつてゐる。
【歌意】 多度川の瀧つ瀬がまあ奇麗なせゐで、昔からこの多藝の野の邊に、宮造を仕へまつつたことであらうか。
 
(1817)〔評〕 多藝行宮は多度山東麓の林木の間にあつた。蓋し醴泉に親まれる便宜上と考へられる。作者は全然それを素知らぬ顔に、かゝる荒凉たる野邊における、養老天平二代までもの行宮造りに一不審を投げ、そこに自己流の別解釋を下して、ひたすら瀧つ瀬の景勝に因ることだらうと、その山水を讃美した。平凡打開の猾手段、味ふべきものがある。
 
不破《ふはの》行宮(にて)、大伴(の)宿禰家持(が)作歌一首
 
○不破行宮 美濃國不破部。續紀に、天平十二年十二月癸丑朔、到(リマス)2不破郡不破(ノ)頓宮(ニ)1とある。天武天皇の行宮は和射見野《ワザミヌ》の野|上《ガミ》にあつた。持統上皇、元正天皇、聖武天皇三聖の行宮も、やはり天武天皇の故地に就いて立てられたことゝ思ふ。野上は和名抄に不破(ノ)野上郷と見え、その宿驛は中古有名であつた。△地圖 挿圖145(五三一頁)、參照。
 
(1818)關無者《せきなくば》 還爾谷藻《かへりにだにも》 打行而《うちゆきて》 妹之手枕《いもがたまくら》 卷手宿益乎《まきてねましを》     1036
 
〔釋〕 〇せきなくば 「せき」は不破の關。不破部松尾の大木戸坂その故址と稱する。伊勢の鈴鹿(ノ)關、越前の愛智《アラチノ》關と共に當時三關の稱があつた。(續紀、令義解)。○かへりにだにも 引返しになりとも。契沖いふ、俗に立ち歸りに〔五字傍点〕往きて來むといふが如しと。○うちゆきて 「うち」は接頭語。
【歌意】 不破に〔三字右○〕あの關さへないならば、引返しになりとも一寸往つて、思ふ妻の手枕を枕に寢ようものをさ。何分關があるのでねえ〔十字右○〕。
 
〔評〕 關には關守が居て出入を誰何する。從駕の官人が格別のお許もなしに、一寸京に往つて來ますでは通らない。無駄な事をねち/\考へるのは愚の骨頂だが、燃えあがる情炎は抑へ切れない。茲に「關なくば」の一案を創出し、極く控目の欲望を張つてみた(1819)が、それすら實現不能を自覺するに至つて、その遺恨は太だ永い。奈良京出發以來既に三十四日、嘗ては妹が袂を慕ひ、中頃は月ぞ經にける怨情を述べ、茲には遂に關を呪ふに至つて、その離愁は極まる。
 上出「河口の野べに」の歌の評中に、聖武天皇の天平十二年十月の伊勢行幸の十一月三日までの行程を示したが、更にそれ以後の行程を續紀から抽出すると、左の如くである。參考の爲にこゝに記す。
  十一月、丁亥(四 日) 遊2獵《ミカリス》于|和遲《ワヂ》野(ニ)1。
      乙未(十二日) 車駕從(リ)2河口1發(チ)、到(リ)2壹志郡(ニ)1宿(ル)。
      丁酉(十四日) 進(ミテ)至(ル)2鈴鹿郡(ノ)赤坂(ノ)頓宮(ニ)1。      丙午(廿三日) 從(リ)2赤坂1發(チ)、至(ル)2朝明郡(ニ)1。
      戌申(廿五日) 至(ル)2桑名郡|石占《イシウラノ》頓宮(ニ)1。
      己酉(廿六日) 到(ル)2美濃國|當伎《タギノ》郡(ニ)1。(多藝行宮)  十二月、癸丑( 朔 ) 到(ル)2不破郡不破(ノ)頓宮(ニ)1。
      甲寅(二 日) 幸(ス)2宮處寺及(ビ)曳常泉(ニ)1。
      丙辰(四 日) 皇帝巡2觀《メグリミル》國城(ヲ)1。
      戊午(六 日) 從(リ)2不破1發(チ)、至(ル)2坂田郡横川(ノ)頓宮(ニ)1。是日右大臣諸兄|在前《マヅ》而發(チ)、經2略(ス)山背(ノ)國相樂郡恭仁(ノ)郷(ヲ)1、以(テノ)v擬(フルヲ)2遷都(ニ)1故也。
      己未(七 日) 從(リ)2横川1發(チ)、至(ル)2犬上(ノ)頓宮(ニ)1。
      辛酉(九 日) 從(リ)2犬上1發(チ)、到(リ)2蒲生郡(ニ)1宿(ル)。
(1820)    壬戌(十 日) 從(リ)2蒲生郡1發(チ)、到(ル)2野洲(ノ)頓宮(ニ)1。
      癸亥(十一日) 從(ル)2野洲1發(チ)、到(ル)2志賀郡|禾津《アハヅノ》頓宮(ニ)1。
      乙丑(十三日) 幸(ス)2志賀山寺(ニ)1。
      丙寅(十四日) 從(リ)2禾津1發(チ)、到(ル)2山背(ノ)國相樂郡玉井(ノ)頓宮(ニ)1。
      丁卯(十五日) 皇帝在前幸(シ)2恭仁(ノ)宮(ニ)1、始(メテ)作(ル)2京都(ヲ)1矣。
 抑も今回の伊勢行幸は藤原廣嗣の亂に依つて、廷臣殊に藤原氏一門の動靜を察するにあつたと考へられる。廣嗣は既に誅に伏したが、神宮には御親拜なく、美濃近江を經て、山城の甕原(ノ)恭仁宮に入らせられ、遂に恭仁を帝京と定め、奈良京を見棄てらゎた。蓋し藤原氏の根據地を避けたものであらう。この行專ら右大臣橘諸兄を親任せられ、諸王他氏を以て前後を警衛し、四百の騎卒を從へ、藤原氏としては仲麻呂、清河、八束の外に陪隨者がなかつた。又奈良御發輦以來殆ど二閲月に垂んとし、殊更に淹留遲滯あらせられた形迹が著く見える。それは正に恭仁新宮の竣功を待たれたものと斷じて誤はあるまい。
 
十五年|癸未《みづのとひつじ》秋八月十六月、内舍人大伴(の)宿禰家持(が)讃《たゝへて》2久邇京《くにのみやこを》1作歌一首
 
○十五年 天平十五年。○讃久邇京 久邇京のことは「くにのみやこ」(一〇三一頁)及び下の「久邇新京歌」の條下を參照。△地圖及寫眞 269(一〇二九頁)297(一〇三二頁)。
 
今造《いまつくる》 久邇乃王都者《くにのみやこは》 山河之《やまかはの》 清見者《さやけきみれば》 宇倍所知良之《うべしらすらし》     1037
 
(1821)〔釋〕 ○いまつくる 「いま」は新にの意。○さやけきみれば 古義訓による。舊訓キヨクミユレバ〔七字傍線〕。○うべ 既出(七五二頁)。
【歌意】 この新造の久邇の京は、山や河の清く美しいのをみると、道理で天子樣が大宮所と、こゝを〔十一字右○〕お占めなさるらしい。
 
〔評〕 天平十年十二月に恭仁京遷都を布告されてから、もはや三年、帝都としての規模樣式もほゞ完備に近づいた事は、史の報ずる處、こゝに至つてその讃歌が生まれるのも必然の結果であらう。
 この歌には創造がない。また感激も淺い。殊に「は」の辭の落着が不快である。
 
高丘河内連《たかをかのかふちのむらじが》歌
 
○高丘河内連 高丘は氏、河内は名、連は姓。もと樂浪氏。續紀に、和銅五年七月播磨國(ノ)大目從八位上樂浪(ノ)河内位一階を進む、養老五年正月正六位下、退朝の後東宮に侍す、又文章某等と共に、※[糸+施の旁]十五疋麻十五絢、布三十端、鍬二十口を賜ふ。神龜元年五月高丘(ノ)連を賜ひ、天平三年正月外從五位下、同九月右京(ノ)亮、同十三年散位を以て人々と共に京都(久邇京)の百姓に宅地を班給し、同十四年八月、造宮(ノ)輔を以て近江の紫香樂《シガラキ》の造離宮司となり、同十七年外從五位上、同十八年五月從五位下、同九月伯耆守、勝寶三年正月從五位上、同六年正月正五位下とある。なほ神護景雲二年六月、内藏頭兼大外記從四位下高丘宿禰比良麻呂卒の條に、父樂浪(ノ)河内(ハ)正五位下大學(ノ)頭とある。武智麻呂傳には文雅の人として擧げられてある。(1822)この歌及び以下の歌は皆天平十二年中の作。
 
故郷者《ふるさとは》 遠毛不有《とほくもあらず》 一重山《ひとへやま》 越我可良爾《こゆるがからに》 念曾吾世思《おもひぞわがせし》     1038
 
〔釋〕 ○ふるさと 奈良の故京をさす。○こゆるがからに 越ゆるが故《カラ》に。
【歌意】 故郷(奈良)は遠くもありません。然し山一重を越すが故に、つひ出にくゝて〔七字右○〕、涯りもない物思を、私は致しましたわい。
 
〔評〕 これも次の歌も、久邇京から奈良の故京に殘つてゐる朋友を訪ねての作である。その意は
  一重山|隔《へ》なれるものを月夜よみ門にいでたち妹か待つらむ(卷四、家持――765)
と表裏する。兩京間の距離は二里弱、これ「遠くもあらず」である。そこに横たはる山は、多寡が一重山だから、さのみの事もないが、久濶の申譯や懇情の押賣には最も好都合で、その難路をも押切つて訪問したといふ事實を以て、暗に故人の前に誇耀してゐる。すべて「思ひぞわがせし」の過去的表現から、是等の餘意餘情を發生させたもので、巧手。
 或説に「奈良より久邇京に來る途にて詠みて、奈良なる友に寄せしなり」とあるは賛成し難い。
 
吾背子與《わがせこと》 二人之居者《ふたりしをれば》 山高《やまたかみ》 里爾者月波《さとにはつきは》 不曜十方余思《てらずともよし》     1039
 
(1823)〔釋〕 ○わがせこ こゝは友人をさした。○をれば 新考ヲラバ〔三字傍線〕。
【歌意】 かうして〔四字右○〕貴兄と二人さ居れば、假令山が高くて、この里には月は、さゝずともよいわ。
 
〔評〕 山に障へられて月のさゝぬ里は、久邇京よりは奈良京の方が、春日高圓の連山が接近してゐるだけ、餘計にふさはしい。恐らくこの友人の家は左京四坊筋あたりであらう。折角の光來におもてなしの夕月もさゝぬ蓬宅でと、主人の卑下するのを、いや/\貴方とかく對面してゐさへすればそれで滿足ですと挨拶したものだ。「照らずともよし」は絶對ではない、照るに越したことはないが、それ以上に友情を重んじた口吻である。
  玉數ける家も何せむ八重葎おほへる小屋も妹と居《ス》めれば(卷十一――2825)
とよく意が似てゐる。力ある「は」の辭の疊用、注意を要する。前後二首とも辭令の即吟で、勿論親友の間柄ではあらうが、又半面に情味深い作者の人格を想はせる。
 
安積親王《あさかのみこの》宴《うたげしたまふ》2左少辨藤原(の)八束(の)朝臣(が)家(に)1之日、内舍人大伴(の)宿禰家持(が)作歌一首
 
安積親王が左少辨藤原八束の家で宴會をなされた日、内舍人家持が詠んだ歌との意。〇安積親王 既出(一〇二九頁)。○藤原八束 「藤原朝臣八束」を見よ(九〇四頁)。
 
久堅乃《ひさかたの》 雨者零敷《あめはふりしけ》 念子之《おもふこが》 屋戸爾今夜者《やどにこよひは》 明而將去《あかしてゆかむ》     1040
 
(1824)〔釋〕 ○ひさかたの 「あめ」の枕詞。既出(二八二頁)。○ふりしけ は古義訓による。舊訓フリシク〔四字傍線〕。○おもふこが 略解訓による。舊訓オモフコノ〔五字傍線〕。
【歌意】 この雨は降りしきれよ、さらば〔三字右○〕可愛く思ふ兒の宿に、今夜は泊り明して往かうわ。
 
〔評〕 天平十五年は安積皇子薨去の前年で、皇子は十六歳であらせられた。家持は内舍人の役義上、皇子の御供に候うて、八束朝臣家の宴に臨んだらしい。さて攝待に出た婦人の中に、氣に入つた女房か童女などを發見したのだらう。
 だが泊り込まうにも口實がない。折柄降り懸かつたはら/\雨、旨い汐だ。降りさへ強ければ、この雨ではと主人側は引留める、渡りに舟でぬく/\と泊り込むとなる。で「雨はふりしけ」に全希望を繋けた。當時二十六歳の美男家持、この位の風流三昧は當然であつたらう。
 契沖以來「おもふ子」を主人八束としたのは甚だ不當。略解には又相聞の古歌を誦したるならむとあるが、題詞の「作歌」の字面を無視した説である。
 
十六年|甲申《きのえさる》春五日、諸卿大夫《まへつぎみたちが》集(ひて)2安倍《あべの》虫麻呂(の)朝臣(の)家(に)1宴(せる)歌一首
 
天平十六年正月五日に、上達部や四位五位の人達が、安倍(ノ)虫麻呂の家に集つて宴會した歌との意。○宴歌一首 の下、舊本「姓氏不審」の割註がある。主人蟲麻呂の作であることは明確だから削つた。
 
(1825)吾屋戸乃《わがやどの》 君松樹爾《きみまつのきに》 零雪乃《ふるゆきの》 行者不去《ゆきにはゆかじ》 待西將待《まちにしまたむ》     1041
 
〔釋〕 〇きみまつのき 君待つを松の木にいひかけた。○ふるゆきの 上句はゆき〔二字傍点〕の疊音によつて「ゆきには」に係けた序詞。
【歌意】 私の庭の、君方を待つといふ名の松の木に降る雪の、ゆきといふやうに、迎には〔三字右○〕ゆかれもしまい、まあ待ちにさ待ちませう。
 
〔評〕 主人蟲麻呂も當時正五位上で大夫仲間であつた。折節春初の事とて雪が降り、庭の松の木は眞白だ。定刻は過ぎても雪に障へられてか、客人共はまだ姿を見せない。蟲麻呂は居たり立つたり、餘り遲いが眞逆に迎にも往かれず、仕方がなしに運上して、とゞ待つ事に落著したもの。客來を待つ主人の焦燥を歌つた。
 二句のいひ掛け、三四句のゆき〔二字傍点〕の疊音、四五句のゆき〔二字傍点〕、及び二四五句のまつ〔二字傍点〕の反復、四五句の排對、誠にうるさい程音調上の技巧を弄してゐる。
  君がゆきけ長くなりぬ山たづね迎へかゆかむ待ちにか待たむ(卷二、磐媛――85・記中)
はこの粉本で、かうした特殊の表現の二番煎じは感心しない。
 
同十一日、登(り)2活道《いくぢの》岡(に)1集(ひて)2一株《ひときの》松(の)下《もとに》1飲《うたげする》歌二首
 
天平十六年正月十一日、活道岡に登つて、一本松の蔭に集つて酒宴した歌との意。○活道岡 「いくぢやま」を(1826)見よ(一〇三八頁)。〇一株松 一本松。「寒流石上一株松」(唐、盧同)。△地圖及寫眞 挿圖296(一〇二九頁)298(1038)を參照。
 
一松《ひとつまつ》 幾代可歴流《いくよかへぬる》 吹風乃《ふくかぜの》 聲之清者《こゑのすめるは》 年深香聞《としふかみかも》     1042
 
〔釋〕 ○としふかみ 既出(八六六頁)。
【歌意】 この一本松よ、幾年經つたものか。かう吹く風の音の清いのは、年の積んだせゐかまあ。
〔評〕 活道岡には安積皇子の御陵を占められたが、これはその薨去の前年だから、登臨はまだ自由の時であつた。布當川を溯つてその勝景の盡きた處、和束杣山を周圍に展望する好箇の高地である。久邇京から五位の市原王や内舍人の家持などの若者達が一日の閑を偸んでの出遊、亭々たる一本松の下にその行厨を開いた。
 野外の休息に人は樹蔭を求めて始めて安心する。青天井では具合がわるいらしい。日本武尊は尾津《ヲツ》の前《サキ》の一つの松に御食《ミケ》をお取りなされ(記中)、雄略天皇は長谷の百枝槻《モヽエツキ》の下で豐樂《トヨノアカリ》を聞し召し(記下)、家持も亦莊門の槻の下に宴し(卷廿)、嵯峨天皇は後庭の合歡樹の下に御宴をなされ(後紀)、在原業平は東下りに、木蔭に下りゐてその乾飯《カレイヒ》のほとびを歎いた(伊勢物語)。
 松聲の涼しさに「年深み」の推想は自然である。上に「幾代か經ぬる」の疑問を投げ懸け、下に「年深みかも」の暫定的解説を試みた。手段はあるが、句意が親貼に過ぎる。
 
(1827)右一首、市原(ノ)王
 
○市原(ノ)王 傳既出(九二〇頁)。
 
靈剋《たまきはる》 壽者不知《いのちはしらず》 松之枝《まつがえを》 結情者《むすぶこころは》 長等曾念《ながくとぞおもふ》     1043
 
〔釋〕 〇ながくと 命〔右○〕長くあれかし〔四字右○〕との略。
【歌意】 壽命は測られない。然し〔二字右○〕私がこの松の枝を結ぶ意味は、命〔右○〕長かれとさ、思ふのである。
 
〔評〕 古代人が松が枝や草を結んで呪術を行つた事は、既に卷一、有間(ノ)皇子の結松の歌(四一四頁)、及び卷一、中皇(ノ)命の紀伊温泉に往く時の草結の歌(六一頁)の證する處。
 作者家持はまだ二十代の若者、松が枝を結んで自ら祝するには早いが、何か他に特殊の事情のあつたものだらう。
 
右一首、大伴(ノ)宿禰家持。
 
傷2惜《をしみて》寧樂京荒墟《ならのみやこのあれたるを》1作歌三首 作者不v審(かなら)
 
○傷惜寧樂京荒墟 天平十二年十二月久邇京遷都が宣せられ、寧樂(奈良)京は舊き都となつた。「寧樂京」は(1828)「寧樂宮」を見よ(二七〇頁)。○以下の諸作に署名がない。隨つて作者未詳。△地圖 挿圖170(六一七頁)を參照。
 
紅爾《くれなゐに》 深染西《ふかくしみにし》 情可母《こころかも》 寧樂乃京師爾《ならのみやこに》 年之歴去倍吉《としのへぬべき》     1044
 
〔釋〕 ○くれなゐに 紅の如くに〔四字右○〕。「栲の穗に」を見よ(二七四頁)。「くれなゐ」は既出(一三〇一頁)。○こころかも 「か」は疑辭。
【歌意】 紅は物に深く染むが、その如くに深く染み込んだ私の心であるかして、この荒れた奈良の都に住んだまゝ〔五字右○〕、年の經ちさうなことよ。
 
〔評〕 住めば都で、人間の土地に對する愛着心は意想外に強烈なもの。况や今までは「咲く花の匂ふが如く」盛りであつた奈良京だ。創始以來茲に三十一年、容易な事でおいそれと動けるものではない、根が生えてゐる。五位以上の官吏は勅令に依つて、又百姓は宅地を賜うて、久邇新京の移住を奨勵されたが、「紅に深く染みにし心」では、矢張「年(1829)の經ぬべき」奈良京であつた。
  いざこゝに我が世は經なむ菅原や伏見の里の荒れまくも惜し(古今集、卷十九、雜體)
といふ程に意氣組んだ頑張もないが、さりとて進んで目に見えて荒れゆくこの舊京を住み棄てられもしない。猶豫逡巡の氣持がよく映つて出てゐる。作者は官吏ならば六位以下の人か、さなくば散官の人であらう。
 
世間乎《よのなかを》 常無物跡《つねなきものと》 今曾知《いまぞしる》 平城京師之《ならのみやこの》 移徙見者《うつろふみれば》     1045
 
〔釋〕 ○うつろふみれば この「うつろふ」は移轉の意。されば意を得て「移徙」の字を充てた。
【歌意】 人間世を無常なものと、今さ知つたわい、この奈良京が引越すのを見ると。
 
〔評〕 奈良京がなまじ皇都として殷賑繁華を極めてゐたゞけに、反比例に都遷しに伴ふその荒廢に、佛の説く有爲無常を痛感せざるを得ない。萬代不易の信念が忽ち裏切られた悲哀、「今ぞ知る」がこの歌の生命である。
 
石綱乃《いはつぬの》 又變若〔左△〕反《またをちかへり》 青丹吉《あをによし》 奈良乃都乎《ならのみやこを》 又將見鴨《またみなむかも》     1046
 
〔釋〕 ○いはつぬの 石蔦《イハツタ》の縱横に這ひ纏ふ状を以て「をちかへり」に係る枕詞に用ゐた。「いはつぬ」は石に付く蔦《ツタ》のこと。集中「絡石」をツヌと讀んである。ツヌはツタの古言。尚「つぬさはふ」を見よ(三九九頁)。○をちかへり 引返し、立戻りなどの意。「變若」の字面は使つてあるが、こゝは原義のまゝに解する。轉義の若返〔二字傍点〕(1830)り〔傍点〕の意に、契沖及び古義の解したのは非。尚「をちめやも」を見よ(七九八頁)。「若」原本に著〔右△〕とあるは誤。類本その他による。
【歌意】 又立戻つて、もとのやうな奈良の京を、何時〔二字右○〕又見よう事かいな。
 
〔評〕 奈良京の復活を希望した。東京遷都の際でも、京都人の多くはおなじ希望を抱いてゐた。人情然あるべきである。そして奈良人の希望は遂に實現した。久邇(ノ)京(天平十二年)から難波(ノ)京(同十六年)紫香樂《シガラキノ》宮(同十七年)と異動の結果、遂に又もとの奈良京(同年)に復歸され、一時的現象で浮動してゐた帝都も全く固定する事になり、東大寺の盧舍那佛(同十八年)も建立されるやうになつた。古義やその他に、
  吾が盛り又をちめやもほと/\に奈良の京を見ずかなりなむ(卷三、旅人――331)
の類想と解してゐるのは全くの見當違ひで、それは作者老境の感想、これは奈良京の變轉に就いての感想で、前掲の二首と同趣の作である。
 「また」の重複、餘り快いものではない。
 
悲(みて)2寧樂(の)故京〔左△〕《ふるさとを》1作歌一首竝短歌
 
○寧樂故京郷 「郷」の字は衍。「ふるさと」は既出(一二四九頁)。
 
八隅知之《やすみしし》 吾大王乃《わがおほきみの》 高敷爲《たかしかす》 日本國者《やまとのくには》 皇祖乃《すめろぎの》 神之御代自《かみのみよより》 敷(1831)座留《しきませる》 國爾之有者《くににしあれば》 阿禮將座《あれまさむ》 御子之嗣繼《みこのつぎつぎ》 天下《あめのした》 所知座跡《しらしめますと》 八百萬《やほよろづ》 千年矣兼而《ちとせをかねて》 定家牟《さだめけむ》 乎城京師者《ならのみやこは》 炎乃《かぎろひの》 春爾之成者《はるにしなれば》 春日山《かすがやま》 御笠之野邊爾《みかさのぬべに》 櫻花《さくらばな》 木晩※[穴/牛]《このくれがくり》 貌鳥者《かほどりは》 間無數鳴《まなくしばなき》 露霜乃《つゆじもの》 秋去來者《あきさりくれば》 射駒〔左△〕山《いこまやま》 飛火賀嵬〔左△〕丹《とぶひがたけに》 芽乃枝乎《はぎのえを》 石辛見散之《しがらみちらし》 狹男牡鹿者《さをしかは》 妻呼令動《つまよびとよめ》 山見者《やまみれば》 山裳見貌石《やまもみがほし》 里見者《さとみれば》 里裳住吉《さともすみよし》 物負之《もののふの》 八十件緒乃《やそとものをの》 打經而《うちはへて》 里〔左△〕並敷者《さとなみしけば》 天地乃《あめつちの》 依會限《よりあひのかぎり》 萬世丹《よろづよに》 榮將往迹《さかえゆかむと》 思煎石《おもひにし》 大宮尚矣《おほみやすらを》 恃有之《たのめりし》 名良乃京矣《ならのみやこを》 新世乃《あらたよの》 事爾之有者《ことにしあれば》 皇之《おほきみの》 引乃眞爾眞荷《ひきのまにまに》 春花乃《はるばなの》 遷日易《うつろひかはり》 村鳥乃《むらとりの》 且立往者《あさたちゆけば》 刺竹之《さすだけの》 大宮(1832)人能《おほみやひとの》 踏平之《ふみならし》 通之道者《かよひしみちは》 馬裳不行《うまもゆかず》 人裳徃莫者《ひともゆかねば》 荒爾異類香聞《あれにけるかも》     1047
 
〔釋〕 ○たかしかす 高敷く〔三字傍点〕の敬相。「太《フト》敷かす」を見よ(一七六頁)○やまとのくに 大和國。「日本國」は借字。○すめろぎ 既出(一二五頁)。○あれまさむ 「あれましし」を見よ(一二三頁)。○しらしめます この「しめ」は敬相である。○かぎろひの 陽炎の立つ春の意を以て、「春」に係る枕詞とした。「かぎろひ」を見よ(一八五頁)。○かすがやま 「かすがのやま」を見よ(八五八頁)。○みかさのぬべ 春日野のこと。「かすがぬ」(八五八頁)。及び「みかさのやま」(六二一頁)を見よ。○このくれがくり 「このくれ」は既出(六七三頁)。「がくり」、は眞淵の訓。或はコモリ〔三字傍線〕と訓むか。「※[穴/牛]」は籠也と字書にある。○かほどり 既出(一五九頁)。豐田氏説に、阿波の或山間地方にては川烏の事をカホドリといへり、大和の山間には今も棲息するより考ふれば、春日山の溪流にこの鳥多く昔は棲みしならむと。川烏は鶫科の小鳥。鶫より小さく、全身黒褐色なるよりこの名がある。○しばなき 舊訓シバナク〔四字傍線〕は非。こゝは切れる格でない。○つゆじも(1833)の 秋に係る枕詞。既出(三八八頁)。○いこまやま 生駒山。大和生駒郡。標高六四〇米突。大和河内の國境に盤踞する山塊で、南に延いて信貴山となり、更になだれて立田山に終る。河内に面して高見高安の小山塊がある。「駒」原本に鉤〔右△〕とある。元本その他によつて改めた。眞淵の八釣山、宣長の羽買《ハガヒ》山の誤とする説は非。○とぶひがたけ 烽《トブヒ》を置かれた山。伊駒山の烽《トブヒ》が嵬は高見山のこと。高見山は伊駒山嵬の一で、河内方に屬し、暗峠の北に當る。續紀に、和銅五年正月廢(シテ)2河内(ノ)國(ノ)高安(ノ)烽(ヲ)1、始(メテ)置(キ)2高見(ノ)烽及(ビ)大和國(ノ)春日(ノ)烽(ヲ)1、以(テ)通(ズ)2平城(ニ)1とある。「とぶひ」は飛火の義。和名抄に、説文(ニ)云(フ)、※[火+逢]燧(ハ)、邊(ニ)有(レバ)v警(メ)則(チ)擧(グ)v之(ヲ)、度布比《トブヒ》と見え、令義解に襲敵の警報として、約四十里(六町一里)毎に高い山岡の上に置き、順次相應じて晝は烟夜は炬火を擧げる。炬は乾いた葦を心に乾草を卷いて縛り、それに松の心を挿す。「嵬」原本に塊〔右△〕とある。一本によつた。訓タケは古義による。讀古義は塊を執してヲカ〔二字傍線〕と訓んだ。○しがらみちらし しがらんで散らしの意。古義は、或はしがらみ或は散らしの意とした。「しがらみ」は繁絡《シガラミ》の義。「石」をシと訓むはイシの上略。○とよめ 響動《トヨ》ませの意。○みがほし 既出(七八六頁)。○うちはへて 一帶に。打延への義。○さとなみしけば 里が布き並ぶので、この里は官吏の私邸をいふ。「里」原本に思〔右△〕とあるは誤。童本説による。○よりあひのかぎり 「あめつちのよりあひのきはみ」を見よ(四六七頁)。「限」、眞淵及び古義訓はキハミ〔三字傍線〕。○ならのみやこを 奈良の京なる〔二字右○〕を。○あらたよのことにしあれば 新規の世の事なれば。「あらたよと」を見よ(一九四頁)。○ひきのまにまに (1)引くがまゝに(契沖説)。(2)率ゐるまゝに(古義説)。こゝは大宮すらを引く〔七字傍点〕と續く意ゆゑ(1)を可とする。大宮を引くことは天平十五年十二月に、奈良宮の大極殿を恭仁京に移したのをいふ。その文は評語中に引用した。○はるばなの 「移ろひ」に係る枕詞。「さくはなの」を見よ(一四三四)。○むらとりの 群《ムラ》鳥の。「朝立ち」に係る枕詞。「あさと(1834)りの」を見よ(五一七頁)。○あさたちゆけば 「旦《アサ》」は村鳥に付き、「たちゆけば」が主意。○ふみならし 踏んで平にし。今も凸凹を平にするをナラスといふ。
【歌意】 わが天子樣が御領知遊ばされる大和國は、御先祖の神の御時代から、お占になつてゐる國でさあるから、御先代の陛下が〔七字右○〕、お生まれになつた御子孫の繼ぎ繼ぎ、天下をお統治なさらうと、萬々年の末かけて、定められたであらうこの奈良の京は、流石よい處で〔六字右○〕、春にさなれば、春日山の御笠の野邊に、櫻の花が木蔭籠りに咲き〔二字右○〕、貌鳥は絶え間なしに屡ば鳴き、秋になつて來ると、伊駒山の飛火の嵬《タケ》に、萩の枝をその身に〔四字右○〕絡んで花を散らして、牡鹿はおのれの妻を呼んで鳴き響かせ、山を見れば山も見てありたい、里を見れば里も住みよい。その里には〔五字右○〕、多くの官吏達の私第が一杯に立ち並ぶので、とても遠く久しく、萬代に榮え往かうと、思うた事であつた皇居それすらを、頼りにした奈良の京であるのを、物事新な世の事でさあるから、陛下の御心の向ふまゝに、里は皆移り變り人は皆久邇新京へと〔十六字右○〕出掛けて行くので、これまで大宮人が踏みならして通つた道は、馬も通らず人も歩かないので、荒れてしまつたことよ(1835)まあ。
 
〔評〕 遷都は人心を更新する政治上の一手段であるが、重代の帝京を廢棄することは、頗る重大事件であつた。第一住めば都の心理が保守氣分と結び付いて、一般人民にその移動が喜ばれない。まして國越えの遷都となると愈よ問題が大きくなる。されば先聖人麻呂はその過2近江荒都1時の歌(卷一)において、皇祖皇宗の倭京を奠められた因縁來歴を強調し、近江遷都に對して、「いかさまに思ほし召せか」との疑問の石を投じたのであつた。この歌の冒頭はその思想文字を躇襲して、「敷きませる國にしあれば」までは、大和國が帝都の地たるべき因縁を揚言し、さて「あれまさむ御子の繼ぎ繼ぎ」より「千年をかねて定めけむ平城の京は」までは、元明天皇の奈良奠都の畏い聖意を數陳して、結局奈良京の有力なる讃辭に用ゐた。これが第一段である。
 第二段は自然と人事とに亘つて、奈良京の優秀なることを力説した。第一節にまづその景勝を列擧し、春は春日の裾野に櫻の花が咲き、貌鳥が鳴き、秋は伊駒の飛火の嵬の咲いた萩の花を鹿が絡んで妻戀するなどの娯があると、京の限界たる東の春日山に西の伊駒山を配し、春日(1836)の野邊に飛火の嵬、櫻の花に萩の枝、貌鳥の聲に鹿の音を對せしめて、帝都としての形勢の壯偉をさいひ、風物の豐富さを稱へた。「山見れば山も見がほし」はその結收で、かねてその對句「里見れば里も住みよし」を喚び起し、それが第二節への過渡の役目をつとめてゐる。
 第二節は京地の繁華状態に及んだ。「八十伴男のうちはへて里並み布けば」がそれである。大内裏を中心として、上京邊には官吏の邸宅が櫛比するであらうことは自然の勢で、尚いへばのちの平安京と同じやうに、右京より左京が榮えたことも考へられる。叙事は早くも進行して、最後の目的たる皇居の上に及んで、「大宮すらを」と喝破し、更に漸層的に「奈良の京を」と、第二段全部を結束し、かねて疊み重ねた抑揚の辭法を以て、第三段に轉換すべき素地を作り、「大君の引きのまにまに」に跨續した。始に「奈良の京は」、終りに「奈良の京を」と相承けたのは、古文の格で重複ではない。
 かくて自然人事兩つながら間然する處もない奈良京は、その廢棄さるべき理由を、殆ど發見し難い所以が暗證されてゐる。
 第三段に至つては、專ら奈良京廢頽の現在状態を描寫して前二段に應接し、そこに影の濃い反映があらはれて、感慨をいとも深からしめた。
 聖武天皇は實に奈良朝七代九十年間に於ける、唯一の英主であらせられた。正倉院に傳ふる天皇の御杖御沓から想像し奉ると、背丈の高い大柄の御方であらせられたらしく、その豪邁濶達の御氣象に任せ、隨分果敢な行動を時にはお取りになつたやうに拜察する。既に上の歌にもある如く、天平十二年十月の伊勢行幸は約二箇月に及び、十二月に入つてその中旬に、右大臣橘諸兄をして山城の恭仁京を經略せしめ、すぐ十三年の正月に(1837)朝賀を恭仁京に受け給ひ、續いて遷都を宣し給うた。固より天意は凡下の者の窺ひ知るべき處でない。「新世の事にしあれば、大君の引きのまにまに」、周章しく官公吏は舊京を棄てゝ新京に移住すべく命ぜられ、のみならず、
  初(メ)壞(テ)2平城(ノ)大極殿并(ニ)歩廊(ヲ)1、遷(シ)2造(ル)於恭仁京(ニ)1、(續紀、天平十五年十二月辛卯)
に至つては、奈良舊京に取つて傷ましい限ではないか。實に「大宮すらを」破つて、新京に引かれたのであつた。
  自今以後五位以上不(レ)v得3任(セテ)v意(ニ)住(ムコトヲ)於平城(ニ)1、如(シ)有(リテ)2事故1應(クハ)2須(ラク)退(リ)歸(ルハ)1、被2賜(リ)官符(ヲ)1然(ル)後聽(ルセ)之、其見(ニ)在(ル)2平城(ニ)1者(ハ)、限(リ)2今日(ノ)内(ヲ)1悉(ク)皆催(シ)發《タヽセヨ》、自餘散2在(リボヘル)他所(ニ)1者(モ)亦宜(シ)2急(ニ)追《メス》1。(續紀、十三年閏三月乙丑)
  遷(ス)2平城(ノ)二市(ヲ)於恭仁(ノ)京(ニ)1。(同八月丙午)
など見えて、舊京に戀々として移住に躊躇してゐる官吏達を、いとも嚴重に催促し、東京二市をも遷して、市人の移住を餘儀なくせしめた。奈良京の荒廢實に想ふべしである。作者はこれ等の取毀し工作や官吏市人の移住やを目のあたり見たので、その生ま/\しい刺戟は、茲に無量の感愴を發し、遂にこの一大詩篇は成つたものと思はれる。
 當時乘物は輿の外は馬であつた。人の挽く力車はあるが、馬車も牛車もない時代の事とて、貴族でも凡卑の官吏でも、馬で往來した。時に依つては女も馬に騎り、天武天皇の御代に、女も男のやうに縱に乘れとの法令も出た程である。今は大宮人の常に通うた一番繁華な大通りも、その馬の影を絶ち、人の足を絶つた。その寂(1838)寞荒涼の状は憑弔の人をして止め度もない感傷に陷らしめる。一結「荒れにけるかも」は、正に下だるべくして下だつた詠歎である。
 
反歌二首
 
立易《たちかはり》 古京跡《ふるきみやこと》 成者《なりぬれば》 道之志婆草《みちのしばぐさ》 長生爾異梨《ながくおひにけり》     1048
 
〔釋〕 ○たちかはり 奈良京その者が變易しての意。都が移轉するのでも人が替るのでもない。「たち」は接頭語。建替りの意とするは非。○しばぐさ 「いちしば」を見よ(一一〇八頁)。○けり 「異」をケと讀むはその訓。
【歌意】 奈良京は〔四字右○〕移り變つて、舊い京となつたので、往來の莱草が、長く伸びたことであつたわい。
 
〔評〕 人の踏まぬ道は草が生える。愈よ踏まねばそれが長く伸びる。莱草は道の荒廢の物指しだ。大宮人が白銀の目貫の太刀を下げ佩いて練つたことであつた宮道も、「莱草長く生ひにけり」となつては、即ち奈良京全部の荒廢は、愈よ以て推して知るべしであらう。無量の感慨を技巧なしに率直に歌ひ得て、一誦傷心に禁へざらしめ、再誦落涙に禁へざらしめる。「長く」の一語は殊に印象的である。
 又いふ、奈良京は〔四字右○〕の主語を略いてあることに留意を要する。
 
(1839)名付西《なつきにし》 奈良乃都之《ならのみやこの》 荒行者《あれゆけば》 出立毎爾《いでたつごとに》 嘆思益《なげきしまさる》     1049
 
〔釋〕 ○なつきにし 懷いたことであつた。○いでたつ 道に〔二字右○〕出で立つ。
【歌意】 永く馴染んだことであつた奈良京が、荒れてゆくので、道に出掛ける度毎に、歎がさ増ることよ。
 
〔評〕 舊都に四年間も殘留する者の心地には、時代に取殘されたかのやうで、寂しい心細い感じが、ひし/\と胸に迫つて來るのは尤もである。「出で立つ毎に嘆しまさる」は、その度毎に矚目の光景が變つて彌よ荒れまさるからである。  
 
讃《たゝふる》2久邇新京《くにのあたらしきみやこを》1歌二首并短歌
 
○久邇新京 山城國相樂郡にあつた甕《ミカ》(御香、三香、御鹿、三日)の原久邇の新京。久邇の京地は、鹿背山を中心として甕原、加茂、泉(岡田)三郷に亙つた。甕原は泉河(木津川)の南北に亙る地稱であるが、内裏は河の北岸|布當《フタギ》川の西方たる海住山(三條山)下の平地布當(ノ)原の久邇に置かれた。故に甕原(ノ)京ともいひ、その宮を久邇(ノ)宮また布當(ノ)宮ともいふ、宮址は今の瓶原村登大路の國分寺址附近に當る。續紀天平十八年八月の條に、大極殿(ハ)施2入(ス)國分寺(ニ)1と見え、廢都の後この地に山城の國分寺を建てるに當つて〔廢都〜傍点〕、大極殿を在形のまゝ國分寺に寄附し、そ(1840)の金堂か講堂かに宛てられたらしい。抑も久邇京はその地域が頗る畸形で、泉河の北岸を宮地として、その正門前の朱雀大路は河岸に近く通じ、河の南岸は鹿背山の西麓に中央の大道を南北に通じ、その東を左京西を右京とした。宮地を河南とする説は山城名勝志に始まるが、本來久邇宮と甕原宮(また甕原離宮)とは別處である。尚「くにのみやこ」を見よ(一〇三一頁)。委しくは雜考參照。△地圖及寫眞 挿圖296(一〇二九頁)297(一〇三二頁)318(一一五九頁)參照。
 
明津神《あきつかみ》 吾皇之《わがおほきみの》 天下《あめのした》 八島之中爾《やしまのなかに》 國者霜《くにはしも》 多雖有《おほくあれども》 里者霜《さとはしも》 澤爾雖有《さはにあれども》 山並之《やまなみの》 宜國跡《よろしきくにと》 川次之《かはなみの》 立合郷跡《たちあふさとと》 山代乃《やましろの》 鹿脊山際爾《かせやまのまに》 宮柱《みやばしら》 太敷奉《ふとしきまつり》 高知爲《たかしらす》 布當乃宮者《ふたぎのみやは》 河近見《かはちかみ》 湍音叙清《せのとぞきよき》 山近見《やまちかみ》 鳥賀鳴慟《とりがねなきぬ》 秋去者《あきされば》 山裳動響爾《やまもとどろに》 左男鹿者《さをしかは》 妻呼令響《つまよびとよめ》 春去者《はるされば》 岡邊裳繋爾《をかべもしじに》 巖者《いはほには》 花開乎呼理《はなさきををり》 痛※[立心偏+可]怜《あなあはれ》 布當乃原《ふたぎのはら》 (1841)甚貴《いとたふと》 大宮處《おほみやどころ》 諾己曾《うべしこそ》 吾大王者《わがおほきみは》 君之〔二字左△〕隨《きみがまにま》 所聞賜而《きかしたまひて》 刺竹乃《さすたけの》 大宮此跡《おほみやここと》 定異等霜《サダメケラシモ》     1050
 
〔釋〕 ○あきつかみ 現つ神。萬づの神は幽界《カクリヨ》にます、只天皇のみは顯界《ウツシヨ》にます神なる故に、現つ神と稱する。「明神」と書くも同意。孝徳天皇紀に、詔(リテ)2於高麗(ノ)使(ニ)1曰(ク)、明神御宇《アキツカミトアメノシタシロシメス》日本(ノ)天皇(ノ)詔旨、また、現爲明神御八洲國《アキツカミトオホヤシマグニシロシメス》天皇、天武天皇紀に、詔曰(ク)、明神(ト)御八洲日本根子《オホヤシマグニシロシメスヤマトネコノ)天皇と見え、公式令には明神御宇日本天皇(ノ)詔書、明神御宇天皇(ノ)詔旨、明神御大八洲天皇(ノ)詔旨の三階級の詔書々式を擧げてある。○わがおほきみの わが大君の知ろし召す〔五二字右○〕の略。○やまなみのよろしきくに 山々のつらなりの宜しい場處。「國」は狹義の國で、山城國をいふのではない。古義の説非。○かはなみのたちあふさと 川々即ち泉河と布當《フタギ》川との二つか流れ合ふ郷。「たち」は接頭語。「次」は「並」と同意に用ゐた。「くにと」「さとと」の二つのと〔傍点〕はトテの意。「かはなみの」を見よ(一六三七頁)。○かせやま 泉河の南岸にある一座の岡陵の稱。南北二十町東西十五町に亘り、最高二〇三米突。○やまのまに――ふとしきまつり 鹿背山の山のあひ〔二字傍点〕に大宮柱を立派にお建て申し。「山の際《マ》」を狹義に、山の間、又は山|際《キハ》の意に解するは當らぬ。「ふとしき」は「みやばしらふとしきませば」を見よ(一四六頁)。「まつり」は舊訓タテテ〔三字傍線〕とある。○ふたぎのみや 海住山の南方、布當川の西方、泉川の北岸にある平野を特に布當の原といふ。久邇の宮はそこにあるので布當の宮ともいふ。「當」は香と同韻で、香をカグと讀む如く當はタグと讀まれるので、(1842)轉用してタギに充てた。○とりがねなきぬ 「ねなく」は聲を立てゝ鳴くをいふ。「慟」は哀哭の意故ナキヌと訓んでみた。略解及古義は、これを動〔右△〕の誤としてトヨムと訓んだが、次に「山も動響《トヾロ》に――妻よび令響《トヨメ》」とあるに差合つてうるさい。舊訓イタム〔三字傍線〕。○をかべもしじに 岡邊も繁くある程に。「しじに」は既出(七八六頁)。○ををり 「ををれる」を見よ(五一四頁)。○あなあはれ 「痛をアナと訓むは「痛醜《アナミニク》」(卷三)「痛足《アナシ》川」(卷十二)の例である。「※[立心偏+可]怜」をアハレと訓むは「この旅人※[立心偏+可]怜」(卷三)の例による。又タヌシ〔三字傍線〕、オモシロ〔四字傍線〕の訓もある。舊訓イトアハレ〔五字傍線〕。○ふたぎのはら 上の「ふたぎのみや」を見よ。○いとたふと 舊訓イトタカキ〔五字傍線〕。○うべしこそ 下の「定めけらし」に應ずる。○きみがまにま 君とあるがまゝに。古義はいふ、神|隨《ナガラ》といはむが如しと。この語初見で他にまた例がない。本來五音の句たるべき處でもあるから、或は誤があらう。神隨〔二字左△〕《カムナガラ》の誤とすれば簡明でもある。○おほみやここと 大宮を此處と。
【歌意】 現人神であらせられるわが天子樣が、御統治なさる天の下大八洲の中に、土地は多くあるけれども、郷(1843)は澤山あるけれども、山々の並び具合の面白い土地とて、川々の寄り合ふ郷とて〔右○〕、山城の鹿背山の山のあひに、天子樣〔三字右○〕が大宮の柱を結構にお建てなされ、立派にお占めなさる布當の宮は、河が近さに瀬の音がさやかである、山が近さに鳥が音を立てゝ鳴くわ。そして〔三字右○〕秋になると、山もとゞろくほどに鹿はその妻を呼んで鳴き響かせ、春になると、岡邊もむく/\と巖には花が咲き靡き、まあ面白いこの布當の原よ、甚く貴いこの大宮處よ。道理でこそ、天子樣は君とますがまゝに、早く〔二字右○〕着眼なされて、大宮處を此處とお定めなされたことらしいわい。
 
〔評〕 帝王の宸居、天下の首都として鼎を奠める所以を力説するに、まづその雄偉なる山河の形勢を形容し、佳氣の鬱蒼たる景象を布陳するは慣手段で、わが大八洲のうち國を擇び郷を點ずるに、優秀中の最優秀地はこの布當(久邇)であると聲明した。「山並の宜しき國」は「國はしも」に應じ、「川次の立ち合ふ郷」は「郷はしも」を承け、相錯綜して姿致を成した。
 抑も甕の原の京域は三面に山を帶びて西の一面が開け、まさに(1844)「山並の宜しき國」である。又布當の宮地たる布當の原は、泉河がその南を局り、布當川がその東方を廻つて泉河に合流する。まさに「川次の立ち合ふ郷」である。鹿背山は又恭仁京の中央に介在して東西京の分界をなし、その北偏の隘路は布當の宮への參道である。これ「鹿背山の際《マ》に宮柱太しきまつり」といふ所以である。「布當の宮は」以下はその自然の風物を絶讃して、布當遷都に理由づける素地を作した。
 「河近み湍の音ぞ清き」は「川次の立合ふ」から、「山近み鳥が音鳴きぬ」は「山並の宜しき」から胚胎して、布當の水はその二瀧の義の如く、時に岩石磊※[石+可]として激流奔湍を成し、泉の河は清流淺沙を噛んで白を噴き、深淵碧を湛へてゐる。又皇宮の背後や東西の山々は、まこと四時山禽の好音をあやつるよき演奏場である。
 更に觀察は季節の景觀に及び、秋は山の鹿の聲、春は岡邊を覆ふ巖根の躑躅などを推賞した。故に春秋の行叙を顛倒したのは、別に意あつての事とは思はれない。然し一考すると、矢張春を先にし秋を後にして、「妻呼びとよめ」の中止態を、妻呼びとよむ〔三字右△〕と訓んで斷定句とし(1845)た方が、上の「鳥が音鳴きぬ」の斷定句に相對してよいと考へられる。さてこの前後二節の斷定句を承けて、「あなあはれ布當の原」と結束すると、遒勁なる節奏に波瀾が伴うて面白くなる。
 結末、いとあはれに貴き布當の原なるかな、大宮處なるかな、と反復讃歎して、久邇新京を奠められた天意のある處を忖度し奉り、絶對の賛意を表して、遙に冒頭の長句に顧應した。
 大體齊整として、布敍その當を得、新味には乏しいが完作に近い。
 全篇布當(久邇)皇居の讃語で、一言も京の事には言及してゐないのに、題詞には「讃久邇新京」とある。辯護すれば皇居を以て京を代表したといはれもしようが、尚「新京」は新宮〔二字右△〕の誤か。次々の長短歌とも皆皇居の事のみを歌つてある。
 又いふ、こゝに提唱した山も河も岡も、悉く布當の原に存在したものであることは否まれない。即ち布當(久邇)皇居を中心とした景勝の描寫である。隨つて皇居が泉河河南の地でない有力の證據にもなる。
               △恭仁宮、甕原宮、及恭仁京考(雜考――24參照)
 
反歌二首
 
三日原《みかのはら》 布當乃野邊《ふたぎのぬべを》 清見社《きよみこそ》 大宮處《おほみやどころ》 定異等霜《さだめけらしも》     1051
 
〔釋〕 ○ふたぎのぬべ 「ふたぎのはら」に同じい。○さだめけらしも 元本その他に「一云、此跡標刺」とあるは、(1846)コヽトシメサセと訓む。○こことしめさせ 大宮處は〔四字右○〕こゝと標をお打ちなさる。「しめゆへ」を見よ(三五九頁)。
【歌意】 甕原の布當の野邊がまあ、奇麗なのでさ、大宮處は此處と、お定めになつたらしいわい。
 
〔評〕 長歌の末節をそのまゝ反復した。餘り變北がないから、一本の「こことしめさせ」を採りたい。意は上の家持の讃2久邇京1の歌意と同軌である。又いふ、泉河河南は鹿背山の東麓は皇居を置くに適しない卑濕の地、西麓はもと離宮もあつた地だが、河北に比するとあまり「清み」ではない。
 
山〔左△〕高來《やまたかく》 川乃湍清石《かはのせきよし》 百世左右《ももよまで》 神之味將往《かむしみゆかむ》 大宮所《おほみやどころ》     1052
 
〔釋〕 ○やまたかく 「山」原本に弓〔右△〕とあるは誤。加藤枝直はいふ、山の草書が弓と誤つたのだらうと。古來弓にヤマの訓が振つてある。「來」を未〔右△〕の誤としてヤマタカミ〔五字傍線〕と訓む説は鑿。○きよし 「清石」の石は添字。〇かむしみ 神さび〔三字傍点〕に同じい。物舊ること。しみ〔二字傍点〕、さび〔二字傍点〕は音通。
【歌意】 山は高く河の瀬は清い。二んな結構な地とて〔九字右○〕、萬代の末まで物舊りて行かう、この大宮處ではあるわ〔五字右○〕。
 
〔評〕 山河の形勝を讃へて百代不易を祝するは、この種の作の常套。次にも「百代にも變るべからぬ大宮處」とある。然るにそれが四年後には忽ち廢都となつたことを思へば、一種の皮肉を感ずる。
 
吾皇《わがおほきみ》 神乃命乃《かみのみことの》 高所知《たかしらす》 布當乃宮者《ふたぎのみやは》 百樹成《ももきもり》 山者木高之《やまはこだかし》 落(1847)多藝都《おちたぎつ》 湍音毛清之《せのともきよし》 ※[(貝+貝)/鳥]乃《うぐひすの》 來鳴春部者《きなくはるべは》 巖者《いはほには》 山下耀《やましたひかり》 錦成《にしきなす》 花咲乎呼里《はなさきををり》 左牡鹿乃《さをしかの》 妻呼秋者《つまよぶあきは》 天霧合《あまぎらふ》 之具禮乎疾《しぐれをいたみ》 狹丹頼《さにつらふ》 黄葉散乍《もみぢちりつつ》 八千年爾《やちとせに》 安禮衝之乍《あれつかしつつ》 天下《あめのした》 所知食跡《しろしめさむと》 百代爾母《ももよにも》 不可易《かはるべからぬ》 大宮處《おほみやどころ》     1053
 
〔釋〕 ○ももきもり 澤山の樹が茂り。「成」は盛と通用。宣長はモヽキモリ、モヽキモルの兩訓を擧げて、尚モリを執し、古義はモル〔二字傍線〕を執した。何れにしても次の「落ちたぎつ」に對する句だから、これを山の枕詞とする説は當らぬ。舊訓ナス〔二字傍線〕は非。○いはほには 「山した光り云々」を隔てゝ、「花咲きををり」に續く。○したひかり 耀き光るの意で、卷二の「したぶる」(五八八頁)。卷三の「やましたの」(六九三頁)を參照。「下」は借字。○にしき 錦。丹頻《ニシキ》或は丹數の義と。赤を本色とする高貴の織物で、初め支那朝鮮より輸入し、その織法を傳へてはわが邦でも製する。よつて唐《カラ》錦、高麗《コマ》錦、倭錦の目がある。○あまぎらふ 空のぼつと曇るをいふ。「きらふ」はきる〔二字傍点〕の延言。なほ「きれる」を見よ(一二六頁)。○しぐれ 既出(九四六頁)。○しぐれをいたみ 「いたみ」は太《イタ》きこと、甚しきこと。○さにつらふ 既出(九三三頁)。○ちりつつ の下、さばかりよき處なれば〔十字右○〕(1848)の語を補つて聞く。○あれつかしつつ 在り付きつつの意。「つかし」は付く〔二字傍点〕の敬相。「あれつくや」を見よ(二一三頁)。古義はいふ令2顯齋1乍《アレツカシツツ》の意と。○しろしめさむと の下、思へば〔三字右○〕の語を補つて聞く。或は「知らにと妹が待ちつつあらむ」(卷二)の虚辭のと〔傍点〕の如くも見えるが、文の構成が違ふ。
【歌意】 わが天子樣たる神の命が、お占めなさる布當の宮は、澤山な樹が繋り山は木高い、たぎり落ちる川瀬の音は清い。鶯が來て鳴く春の頃は、巖には山が光り輝いて、錦のやうな花が咲いて靡き、牡鹿が妻を呼ぶ秋は、空がぼつとする時雨がまあひどさに、色付いた黄葉が散り/\して、その景色の面白さに〔九字右○〕、萬年にまあ在り付かれて、天子樣は此處で〔七字右○〕、天下を御統治なさらうと思はれるので〔六字右○〕、何時までも變る筈のない、この大宮處であることよ。
 
〔評〕 前篇に布當宮點定の因縁を縷述したから、後篇はそれを略して、直ちに本題に入つた。
 山水の鑑賞景物の品題、以て奠都の理由を證することは、例に依つて例の如くである。この前後とも同人の作とすれば、愈よ今少し題材の新規を求め、趣向の轉換が望ましかつた。何時も山、河、鶯、鹿、花、萩、黄葉では、餘に手が無さ過ぎる。これはこの歌にのみいふ事ではない。同じこの新都の讃歌、
  山|背《シロ》の久邇のみやこは、春されば花咲きををり、秋さればもみぢ葉匂ひ、おばせる泉の河の、かみつ瀬にうち橋渡し、淀瀬には浮橋渡し、あり通ひ仕へまつらむ、萬代までに。
  楯《タヽ》なめて泉の河のみを絶えず仕へまつらむ大宮處 (卷十七、境部宿禰老麻呂――3908)
の如きは、就中稍異色をもつが、それさへ強ひて難ずれば、やはり成語の集積でしかない。
(1849) 腹尾兩段の間「黄葉散りつつ」の下、恐らく脱句があらう。「百代にも變るべからぬ」は新京祝讃の意で、萬年も變らぬの語意を反説的に強調した。語は文選の
  臣願(フ)王熟計(シテ)而身行(ハンコトヲ)v之(ヲ)、此(レ)百代不易之道也。(枚乘諫呉王書)
の百代不易から出てゐる。古義に
  かくて又程なく新京を遷し姶はむの御あらましあり、新京の造營未だ成らざるに遷都ありてば、いかに百姓の勞苦いみじからむと、いとほしく思ふより、返す/\も「百代にも易るべからぬ大宮處」と歌ひあげて、民情に方人したるに、云々。
とあるは、年代錯誤の横入り説で、これは新京再遷都の議の出ぬ以前の作である。
 
反歌五首
 
泉川《いづみがは》 往瀬乃水之《ゆくせのみづの》 絶者許曾《たえばこそ》 大宮地《おほみやどころ》 遷往目《うつろひゆかめ》     1054
 
〔釋〕 ○いづみがは 「いづみのかは」を見よ(一九四頁)。○たえばこそ この「こそ」は係辭として本格の重い辭法。隨つて反對の餘意を生ずる。○うつろひゆかめ 衰へ行かう。移轉の意とするは當らぬ。舊訓ウツリモユカメ〔七字傍線〕。
【歌意】 泉河の流れゆく瀬の水が、絶えようならばさ、この布當の大宮處は、衰へ變ることもあらう。――だが泉河の水は絶える時がないから、布當の大宮處は移ろふことはない。
 
(1850)〔評〕 漢の高祖が功臣を封じた誓語に、
  使(ムルモ)2河(ヲ)如(ク)v帶(ノ)、泰山(ヲ)如(クナラ)1v※[礪の旁](ノ)、國以(テ)永寧(ニシテ)、爰(ニ)及(ボサン)2苗裔(ニ)1。(史記、高祖功臣年表)
とある。この河如帶云々の意を源泉としてこの歌は成つた。「こそ」の辭法に依る逆説的表現は、直説するよりもその效果は倍加し、而も含蓄の妙旨が生ずる。
  泊瀬川ながる水沫《ミナワ》の絶えばこそ吾がおもふ心遂げじと思はめ(卷七――1382)
もおなじ筆法である。
 
布當山《ふたぎやま》 山並見者《やまなみみれば》 百代爾毛《ももよにも》 不可易《かはるべからぬ》 大宮處《おほみやどころ》     1055
 
〔釋〕 ○ふたぎやま 布當の原を圍んでゐる山々の總稱。次にも山並〔二字傍点〕といひ續けてある。新考に、鹿背山の別名かとあるは非。
【歌意】 布當の宜しい〔三字右○〕山並を見ると、末代までも變る筈のない、この大宮處であることよ。
 
〔評〕 前篇の長歌中の「山並の宜しき國」の一句を斷ち截つて、後篇の長歌の末節に繼ぎ合はせて、おのづから別趣を成した。これを見てもこの前後篇及び反歌が同一手に出たものであることは明かである。長歌の※[口+堯]舌を聽いた後に、簡明直截なるこの一聲を耳にするは、愉快であるのみならず、調子が毫釐のたるみもなく緊張してゐてよい。
 
(1851)※[女+感]嬬等之《をとめらが》 續麻繋云《うみをかくとふ》 鹿脊之山《かせのやま》 時之往者《ときしゆければ》 京師跡成宿《みやことなりぬ》     1056
 
〔釋〕 ○をとめら 既出(一六二頁)。○うみを 績《ウ》んだ苧《ヲ》。○かせのやま 處女等が績苧《ウミヲ》を懸ける※[手偏+峠の旁]《カセ》といふを、鹿背《カセ》の山にいひ懸けて序詞とした。「※[手偏+峠の旁]《カセ》」は績苧を卷き懸け絡ふ器具。兩端撞木の形を成す。カセヒ、カセギともいふ。延喜式大神宮注文に金銅(ノ)賀世比《カセヒ》二枚、同祝詞龍田風神祭詞に比賣《ヒメ》神|爾《ニ》御服備《ミソソナヘ》、金能麻笥《クガネノヲケ》、金|能《ノ》※[木+瑞の旁]《タヽリ》、金|能《ノ》※[手偏+峠の旁]《カセヒ》、古語拾遺に以(テ)2麻柄《アサガラヲ》1作(リ)v※[手偏+峠の旁]《カセキニ》云々とある。「かせのやま」は「かせやま」を見よ(一八三七頁)。○ときし 「し」は強辭。舊訓トキノ〔三字傍線〕。○ゆければ 往きたればの意。往きは來《ク》と同意。
【歌意】 處女達が績苧を卷き懸けるといふ※[手偏+峠の旁]《カセ》の稱《ナ》を負うたその鹿背山も、時節がさ來たので、京となつたわい。
 
〔評〕 鹿背山は恭仁京の中央に介在し、左右京をわかつ目印《メド》の山なので、甕の原の地の代表に用ゐた。片田舍が突如帝王の京となる。この現實に刺戟されては、誰れも意外の感慨に打たれるので、「眞木の立つ荒山中に海をなすかも」(卷三)「赤駒の腹ばふ田居を京となしつ」(卷十九)「水鳥のすだく水沼を京となしつ」(同上)など、荐に歌つてゐる。そこで、初二句は勿論鹿背山の序詞ではあるが、績苧を絡む※[手偏+峠の旁]は器具としては餘り高級品でないから、そんな卑しい物の名を負うた鹿背山でもと、下に抑損の意を含め、さて「京となりぬ」と稱揚の語を著けたものと考(1852)へられる。「時し往ければ」に至つては、作者獨白の感懷を見る。
 又いふ、この序詞の表現は、作者が男性であることを立證してゐる。
 
鹿脊之山《かせのやま》 樹立矣繁三《こだちをしげみ》 朝不去《あささらず》 寸鳴響爲《きなきとよもす》 ※[(貝+貝)/鳥]之音《うぐひすのこゑ》     1057
 
〔釋〕 ○あささらず 既出(八五九頁)。
【歌意】 鹿背の山の木立がまあ繁さに、朝毎に來て、鳴き響かせる鶯の聲よ。
 
〔評〕 矚目の叙景、きはめて和平に温雅に尋常に詠み去つた。聊か平安朝の風調を彷彿せしめる。
 
狛山爾《こまやまに》 鳴霍公《なくほととぎす》 泉河《いづみがは》 渡乎遠見《わたりをとほみ》 此間爾不通《ここにかよはず》     1058
    一(ニ)云(フ)、渡遠哉不通有武《ワタリトホミヤカヨハザルラム》。
 
〔釋〕 ○こまやま 山城國相樂部上狛村。山裔曳いて木津川の北岸に臨む。「狛」は高麗に同じい。○わたり 渡津。
 △地圖 挿圖296(一〇二九頁)を參照。
【歌意】 狛山に鳴く時鳥は、泉河の渡り瀬が遠いせゐかして、此處には通うて來ぬわい。
 
(1853)〔評〕 遠く狛山に時鳥の聲がしながら、作者のもとには來鳴かぬので、乃ちこゝに疑義を立て、その理由を究明して見ると、外でもない、「泉河わたりを遠み」であつた。それも狛山の時鳥のほのかに聞える程度の遠み〔二字傍点〕である。
 作者は泉河の南方鹿背山附近に居たと見える。されば人が狛山から通ふには泉河の渡津を經る。この事實のもとに、時鳥も渡津によつて來往するやうに取成した、その痴呆の想に詩味の搖曳を感ずる。
 泉河の渡津は狛山の一支神童子山下に接してあつたと思はれる。續紀天平十四年八月の條に、
  宮城以南大路(ノ)西頭(ト)、與《トノ》2甕原(ノ)宮(ノ)東1之間(ニ)、令(ム)v造(ラ)2大橋(ヲ)1。
とあるは、從來渡津であつた處に、便利の爲に大橋を架けたと斷じてよい。さればこの歌は天平十四年八月の架橋以前、渡津時代の作とすべきである。前の長短歌もすべて同一期と考へてよい。
 但「反歌五首」とあるが、末の二首は別時の作で、或は反歌ではないかも知れない。殊にこの「狛山」の作の如き、長歌の意とは頗る交渉が遠くて聯絡しない。若しこれを別時の作とすれば「鹿背の山」の作もそれに準(1854)ずべきである。古義に「長歌には春秋の事をのみいへるに、反歌に時鳥を詠めるは聊か心得難きにや」とあるは末梢的の事ながら、疑義の一つにはなる。
 
春(の)日《ころ》悲2傷《かなしみて》三香《みかの》原(の)荒(れたる)墟(を)1作歌一首并短歌
 
○春日 天平十六年以後の春日である。〇三香原 甕原。久邇新京のこと。(一八三五頁)を參照。
 
三香原《みかのはら》 久邇乃京師者《くにのみやこは》 山高《やまたかみ》 河之瀬清《かはのせきよみ》 住吉迹《すみよしと》 人者雖云《ひとはいへども》 在吉跡《ありよしと》 吾者雖念《われはおもへど》 故去之《ふりにし》 里爾四有者《さとにしあれば》 國見跡《くにみれど》 人毛不通《ひともかよはず》 里見者《さとみれば》 家裳荒有《いへもあれたり》 波之異耶《はしけや》 如此在家留可《かくありけるか》 三諸著《みもろつく》 鹿脊山際爾《かせやまのまに》 開花之《さくはなの》 色目列敷《いろめづらしき》 百鳥之《ももとりの》 音名束敷《こゑなつかしき》 在※[日/木]石《ありがほし》 住吉里乃《すみよきさとの》 荒樂苦借哭《あるらくをしも》     1059
 
〔釋〕 ○やまたかみ 元本訓ヤマタカシ〔五字傍線〕、眞淵訓ヤマタカク〔五字傍線〕。○かはのせきよみ 契沖訓及び古義訓による。舊訓カハノセキヨシ〔七字傍線〕。○すみよしと 住むによいと。「住」原本に在〔右△〕とある。類本により改めた。○ありよしと (1855)居るによいと。○ふりにし 四言の句。眞淵訓による。舊訓フルサレシ〔五字傍線〕。○くに 狹義の國。○はしけや はしけや〔四字傍点〕し〔右△〕の誤か。但次の「かくありけるか」に意が續かない。この間に必ず誤脱があらう。古義に落句にあらじとあるは非。○かよはず 「ず」を終止格とする。○みもろつく 鹿背山に係る詞。(1)「三」を天〔右△〕の誤として天降著《アモリツ》く鹿背山と續けた(眞淵説)。(2)生緒繋〔三字右△〕の誤として、績苧繋《ウミヲカ》く※[手偏+峠の旁]《カセ》を鹿背山に係けた(宣長説)。(3)三諸は糟交《カスゴメ》の酒の名、ミは酒の實モロはもろ/\と濁るをいふ、ツクは造るの意。實モロ造る食稻《ケシネ》のケをカに轉じて鹿背山に係けた(久老説)。(4)御室齋《ミモロイツク》の意(古義説)。以上のうち(4)の説が穩健である。但鹿背に御室を立てゝ齋かれた神は不明。古義は三輪の大物主(ノ)神にて、大和にて殊に崇められたれば鹿背山に遷し祀れるかといつてゐる。○めづらしき――なつかしき 何れも「里」に係る。訓は古義による。舊訓は二つともシク〔二字傍線〕。○ありがほし 在《アリ》が欲《ホ》し。在りたい、即ち居りたいの意。「在りが欲し里」は、見がほし山〔五字傍点〕の類語。○あるらく 「樂苦」は戲書。○をしも 「哭」は喪《モ》に哭は伴ふものなので、轉義してモに充てた。古義は喪〔右△〕の誤とした。
【歌意】 甕の原久邇の京は、山が高さに、河の瀬が清さに、住みよいと人はいふけれど、居よいと自分は思ふけ(1856)れど、もう舊い京となつてしまつた處だから、土地を見ても人も往來せず、里を見れば家も荒れてゐる、はしけや……かくありけるか〔十一字傍点〕、あの鹿背山の山の際に、咲く花の色が面白い、澤山の鳥の聲が懷かしい、この〔二字右○〕居りたい住みよい里の荒れることが、惜しいわい。
 
〔評〕 生ま/\しい舊京への執著を語るが主で、而も自然や土地への愛着の外に、住居への愛著を最も力強く號呼した。「住みよし」「在りよし」がそれである。
 聖武天皇が天平十二年十二月十五日に甕原(ノ)宮に入らせられ、翌正月に恭仁京の皇都を宣せられてから、皇宮の造營、都市の經營は一方ならぬものがあつた。然るに又近江に紫香樂《シガラキノ》宮を創められ、十五年十二月に至つては久邇京の造作を停められ、次いで難波遷都が計畫された。十六年閏正月、まづ久邇難波の兩地に就いて、百官の賛否を質された處、
  乙丑(朔)詔(リテ)喚(ビ)2會(メ)百官(ヲ)於朝堂(ニ)1問(ウテ)曰(ハク)、恭仁難波(ノ)二京、何(レヲ)定(メテ)爲(ン)v都(ト)、各言(ヘト)2其(ノ)志(ヲ)1。於是陳(ブル)2恭仁(ノ)京(ノ)便宜(ヲ)1者、五位已上二十三人、六位已下百五十七人、陳(ブル)2難波(ノ)京(ノ)便宜(ヲ)1者、五位已上二十三人、六位已下一百三十人。(續紀、卷十五)
と見え、丁度半々の結果を見た。又市人の意見を徴した處、
  同戌辰(四日)就(キ)v市(ニ)問(ハシム)2定(ムル)v京(ヲ)之事(ヲ)1、市人(ハ)皆願(フ)d以(テ)2恭仁京(ヲ)1爲(ント)uv都(ト)。但有(リ)d願(フ)2難波(ヲ)1者一人、願(フ)2平城(ヲ)1者一人u。(同上)
と見え、市人は殆ど絶對に久邇京の支持者であつた。「在りよし住みよし」と思ふのは、決して作者ばかりの事ではなかつた。
 けれども多くの官民の不賛成を押切つて、遂に難波に遷都が斷行された。
(1857)   二月甲寅(廿日)運(ブ)2恭仁(ノ)宮(ノ)高御座并(ニ)大楯(ヲ)於難波(ノ)宮(ニ)1、又遣(リ)v使(ヲ)取(リテ)2水路(ヲ)1、運2漕(ブ)兵庫(ノ)器仗(ヲ)1。
  乙卯(廿一日)恭仁京(ノ)百姓情3願(スル)遷(ラント)2難波(ノ)宮(ニ)1者(ハ)、恣(ニ)聽《ユルセ》之。
  庚申(廿六日)勅(ニ)云(ハク)、今以(テ)2難波(ノ)宮(ヲ)1定(メテ)爲(ス)2皇都(ト)1、宜(シ)d知(リテ)2此状(ヲ)1、京戸(ノ)百姓任意往來(ス)u。
 かくて恭仁京は日に益し廢頽の舊都即ち「ふりにし里」となつた。然し難波京とても久しからず、その十一月には紫香樂(ノ)宮に幸して、そこを皇都となされた。處が山火事と大地震との連續で居たゝまれず、翌十七年五月もとの平城京に還御。これまで恭仁京に頑張つて居殘つてゐた市人達も、爭つて平城に徙つてしまつた。
 題詞の「春日」は早目に見れば天平十六年の春としても事情に即する。皇居は移動し百官は轉住し、一部の市人も隨つて分散した故京は、まことに「國見れば人も通はず、里見れば家も荒れたり」で、滿目蕭條としで嵐の去つたあとの如く、空虚な感が強かつたらう。花の色鳥の鳴く音のみが、?に依然として去年に似てゐるのが恨めしい「荒るらく惜しも」は必然の下語である。
  國破(レテ)山河在(リ)、城春(ニシテ)草木深(シ)、感(ジテ)v時(ヲ)花濺(ギ)v涙(ヲ)、臨(ンデ)v別(ニ)鳥驚(ス)v心(ヲ)。(唐、杜甫)
と同調。殘念な事はこの歌、中間落句の爲に不完となつてゐる事である。
 
反歌二首
 
三香原《みかのはら》 久邇乃京者《くにのみやこは》 荒去家里《あれにけり》 大宮人乃《おほみやびとの》 遷去禮者《うつろひぬれば》     1060
 
(1858)〔釋〕 ○うつろひぬれば 古義訓による。舊訓ウツリイヌレバ〔七字傍線〕も意は同じだ。
【歌意】 甕の原久邇の京は、荒れてしまつたわい。第一官吏方が引移つたのでね。
 
〔評〕 遷都の際、必要上第一番に引越す者は政府の官吏である。勿論官僚萬能の時代だから、その人達が居なければ、土地は全く火の消えたやうなものである。江戸から東京になる際でも、侍《サムラヒ》達が引拂つたあとには畠が出來田が出來た。まして僅三四年閉の新建の皇都、朽木を碎くよりも無造作に解體したに相違ない。率直の味を以て勝る作。 
咲花乃《さくはなの》 色者不易《いろはかはらず》 百石城乃《ももしきの》 大宮人叙《おほみやびとぞ》 立易去流《たちかはりぬる》     1061
【歌意】 咲花の色は變らない、然も官吏方はさ、移り替つたことよ。
 
〔評〕 長歌にも「咲く花の色珍しき」とあり、折柄花盛りであつたと見える。「易らず」「たち易りぬる」は餘り露骨な對照過ぎる。さりとて修辭を顧慮する遑もないといつた程の、熾烈な感情の迸りと認め難い。古義に
  その花を愛づべき大宮人は住處の變りぬれば、昔のまゝに咲く花もかひなし。
とあるは、歌のうへに見えぬ事で、説き過ぎてゐる。
 
(1859)難波(の)宮(にて)作歌一首并短歌
 
○難波宮 歌には「味原《アヂフノ》宮」とあるから、この難波宮は味生の地で、豐崎の地ではない。
 
安見知之《やすみしし》 吾大王乃《わがおほきみの》 在通《ありがよふ》 名庭乃宮者《なにはのみやは》 不知魚取《いさなとり》 海片就而《うみかたつきて》 玉拾《たまひろふ》 濱邊乎近見《はまべをちかみ》 朝羽振《あさはふる》 浪之聲※[足+參]《なみのとさわぎ》 夕薙丹《ゆふなぎに》 櫂合之聲所※[耳+令]《かひのときこゆ》 曉之《あかつきの》 寐覺爾聞者《ねざめにきけば》 海若〔左△〕之《わたつみの》 鹽干乃共《しほひのむた》 納渚丹波《いりすには》 千鳥妻呼《ちどりつまよび》 葭部爾波《あしべには》 鶴鳴動《たづがねとよむ》 視人乃《みるひとの》 語丹爲者《かたりにすれば》 聞人之《きくひとの》 視卷欲爲《みまくほりする》 御食向《みけむかふ》 味原宮者《あぢふのみやは》 雖見不飽香聞《みれどあかぬかも》     1062
 
〔釋〕 ○いさなとり 海の枕詞。既出(三八七頁)。○かたつきて 片寄り付いて。山片付きて(卷十)谷片付きて(卷十九)なども用ゐる。○たまひろふ 濱に係る枕詞。「たま」は良き石をもいふ。古義訓ヒリフ〔三字傍線〕。○あさはふ(1860)る 既出(三八七頁)。○さわぎ 「※[足+參]」元本に躁〔右△〕とある。古義には干禄字書を引いて、※[足+參]躁、上俗(ニ)下正(シ)とある。○ゆふなぎ 「薙」は借字。○かひのと 「櫂」は本訓がカヒなので、更に「合」の字を接尾の添字に用ゐたものと思ふ。和名抄に加伊《カイ》とあるは、カヒの音便と見たい。尤も掻き〔二字傍点〕の義としてその音便カイと釋する説は、古來有力だが、この櫂合《カヒ》の書法によつて、本訓をカヒと定むべきである。語義は交《カヒ》で、船縁に交叉して使用する故の名であらう。古訓はサホノオト〔五字傍線〕、眞淵は「合」を衍としてカヂノト〔四字傍線〕と訓み、古義は櫂が※[金+丸]《ツク》に摺れ合ふ故に「合」の字を添へたとて「櫂合」をカヂと訓んだ。○きこゆ 「※[耳+令]」は説文に聽也とある。○わたつみの 「若」原本に石〔右△〕とあるは誤。略解説によつて改めた。眞淵は原之〔二字右△〕の誤としてウナバラノ〔五字傍線〕と訓んだ。宣長が近〔右△〕の誤としてウミチカミ〔五字傍線〕と訓んだのは甚だ非。既に「濱邊を近み」とある。○しほひのむた 潮干と共に。舊訓シホヒノムタニ〔七字傍線〕とあるが、ニは不用。○いりす 海から入り込んだ洲。略解は「納」を※[さんずい+内]〔右○〕の誤としてウラス〔三字傍線〕と訓み、古義なども賛してゐる。○たづがねとよむ 「鶴鳴」をタヅガネと訓むは、上の讃(フル)2久邇(ノ)新京(ヲ)1歌に「鳥賀鳴慟《トリガネナキヌ》」の例がある。トヨム〔三字傍線〕と終止に訓むは、上の「櫂の音きこゆ」に對する爲である。古義訓による。舊訓トヨミ〔三字傍線〕。○かたりにすれば 話にすれば。○みけむかふ 既出(五一六頁)。こゝは御食に供ふる味《アヂ》物の意を以て、味生《アヂフ》の枕詞とした。○あぢふのみや 「あぢふのはら」を見よ(一六四四頁)。○みれどあかぬ 味生(ノ)宮をさしていふ。風景を見れどの意ではない。古義誤る。
【歌意】 わが天子樣が、現在にお通ひなさる難波の宮(味生宮)は、海に寄り添うて濱邊が近さに、朝の煽る風に浪の音がざわ立ち、夕方の凪《ナギ》に櫂の音が聞える。そして〔三字右○〕曉の寢覺に聞くと、海の潮干と一緒に、水が淺せて〔五字右○〕、(1861)入洲には千鳥が妻を呼んで鳴き、蘆邊には鶴の聲が響く。この景色を〔五字右○〕見る人が話にすると、聞く人が忽ち見たく思ふこの味生(ノ)宮は、見ても/\飽かぬことかいな。
 
〔評〕 聖武天皇の神龜二年十月の難波行幸は味生(ノ)宮であつた。同四年以後はその本建築も落成してゐるから、打任せていふ難波宮は、愈よ以て味生宮であることが當然である。而も「これは味生の宮は」と詠んである。鶴の棲息時期が寒冷期だとすると、歌に「鶴が音とよみ」とあるから、神龜二年十月の笠(ノ)金村の歌と同時の作とも見られるし、又他に關係なしにその時季に、作者が味生(ノ)宮で詠んだものとも見られる。
 難波(ノ)宮は何時も「わが大王の在り通ふ」處で、而も味生の地たるや入海に臨んで濱が近いと、まづ地形の大體を説示し、次いで景勝の細叙に入つた。長柄の岡は豐崎の突端から外海の水が奥深く灣入して、洲渚が處々に點在し、蘆荻が叢生してゐたことは、既に再三絮説した。
 朝は風立つ時で浪が立ち、夕べは凪ぎ時で盛に小舟が去來する。勿論遠淺だから、外海の潮が退くと、景趣が忽ち一變して、あちこちに干潟が出來、そこに千鳥が走り、鶴が舞ひ下りる。これら水郷特有の好風光を、朝夕晩の三時に就いて、おもに聽覺の方面から描寫して、「浪の音さわぎ」「櫂合の音きこゆ」「千鳥妻よび」「鶴がねとよむ」と叙出した。但この内面には作者既往の實見體驗が含まれてゐる。でこれを承けた「見る人の」が、唐突の不自然さを免れ得る。
 「見る人の語りにすれば」と「聽く人の見まく欲りする」との快い節奏を打つた交錯の排對は、
  見る人の語り繼ぎでて、聞く人の鏡にせむを、(卷廿、喩族歌、家持――4465)
(1862)と似た叙法でその結果見る〔二字傍点〕の欲望が強調され、味生の勝景に重點を齎した。結局すべてを味生(ノ)宮に歸一して、「見れど飽かぬ」との讃美に筆を擱いた。
 抑も豐崎にせよ、味生にせよ、難波(ノ)宮が、再三皇都となり、代々特殊の關係のもとに、數次の行幸を羸ち得たのは、政治的經濟的交通的の便宜もあらうが、その水郷の風趣を愛でられたことが、大きな理由と思ふ。大和朝廷には海がない。故に大和人は海を渇望してゐる。手近に海の見える處は難波である。かくて難波(ノ)宮の存在價値が生ずる。天智天皇の近江大津宮の遷都も、同じ事情のもとに置かれたと思ふ。
 
反歌二首
 
有通《ありがよふ》 難波乃宮者《なにはのみやは》 海近見《うみちかみ》 漁童女等之《あまをとめらが》 乘船所見《のれるふねみゆ》     1063
【歌意】 天子樣が〔四字右○〕現在、お通ひなさる難波宮は、海が近さに、海人の少女どもが、乘つた舟が見えるわ。
 
〔評〕 海の見える皇居は珍しい。况やそこに海人少女の操る小舟の見えるに至つては、逸興窮りがない、事は平平であるけれど。「大宮のうちまで聞ゆ――海人の呼聲」(卷三)と同調の作。
 
鹽干者《しほひれば》 葺邊爾※[足+參]《あしべにさわぐ》 白鶴乃《しらたづの》 妻呼音者《つまよぶこゑは》 宮毛動響二《みやもとどろに》     1064
 
(1863)〔釋]○しらたづ 細本の訓による。他に例のない語で、源重之集の歌、「霜の白鶴《シラタヅ》」はこれに據るか。西本及舊訓は強ひてアシタヅ〔四字傍線〕と讀んだが、上の蘆邊〔二字傍点〕ともさし合ふ。
【歌意】 潮が干ると、蘆邊に騷ぐ白い鶴が、妻喚ぶその聲は、味生の宮も轟くほどでね。
 
〔評〕 おなじ聽覺のものでも、
  大宮の内まで聞ゆ網引すと網子ととのふる海人の呼聲(卷三、長意寸意吉麻呂――238)
は海人の匆忙なる生活が意識される快調であり、これは鶴唳の凄婉なる哀調である。鶴唳は高音だから、「宮もとゞろに」は誇張なしの眞實で、而もこの歇後の辭樣は、不盡の餘韻を搖曳させる。長高の體、下句頗る※[しんにょう+酋]勁である。古義はいふ、
  抑平城京の荒墟とならむ事は悲傷しき事なれども、かしこき大御心より出でたる事なれば、せむすべなくて、つひに久邇に都うつされしかば、平城(ノ)京の荒行ことを、ふかく惜みいたく歎きたる意を、初め長短六首(ノ)歌にいひのべ、さてその次に、久邇(ノ)新京を讃美《タヽ》へたる意を、長短九首の歌にいひ擧げたり、かくて又しも、程なく新京を遷し賜はむの御あらましありて、――難波に都せさせ給へれば、せむかたなくて久邇(ノ)京は荒墟となれゝば、在よしと願ひたる民情にもかなはず、住よしと思ひし吾素志にもたがひて、いとも悲しく傷ましく歎かしく惜しき事ぞ、とおもへる微意より出で、此の長短三首の歌を陳べたるにて、皆一人の作なるべし。
 
過(る)2敏馬《みぬめの》浦(を)1時作歌一首并短歌
 
(1864)〇敏馬浦 「みぬめ」を見よ(六五八頁)。△地圖 第二冊卷頭總圖を參照。
 
八千桙之《やちほこの》 神之御世自《かみのみよより》 百船之《ももふねの》 泊停跡《はつるとまりと》 八島國《やしまぐに》 百船純乃《ももふなびとの》 定而師《さだめてし》 三犬女乃浦者《みぬめのうらは》 朝風爾《あさかぜに》 浦波左和寸《うらなみさわぎ》 夕浪爾《ゆふなみに》 玉藻者來依《たまもはきよる》 白沙《しらまなご》 清濱部者《きよきはまべは》 去還《ゆきかへり》 雖見不飽《みれどもあかず》 諾石社《うべしこそ》 見人毎爾《みるひとごとに》 語嗣《かたりつぎ》 偲家良思吉《しぬびけらしき》 百世歴而《ももよへて》 所偲將往《しぬばえゆかむ》 清白濱《きよきしらはま》     1065
 
〔釋〕 ○やちほこのかみ 八千矛(ノ)神。大國主(ノ)神即ち大穴牟遲《オホナムチノ》命の一名。少名※[田+比]古那《スクナビコナノ》神と共に國土を經營された。「すくなびこな」を參照(八三二頁)。○とまりと 「と」はトシテの意。○ももふなびと 前出(一七九三頁)。○やしまぐに 八千矛神の御歌に「八島國妻まぎかねて」(記上)と見え、紀(神代の卷)に、淡路四國隱岐九州壹岐對島佐渡本州を總稱して大八島國といふとある。○しらまなご 卷十一に白細砂をも訓んである。「まなご」に愛子の字をこの集には假りもした。「ま」は美稱。「なご」は砂子《スナゴ》の上略。狩谷掖齋の和名抄箋註にいはく、マナゴはマスナゴの省、或はマサゴと謂ふも、マナゴの急呼。或はマイサゴの義と。或人これを本末顛倒として、記に地名に眞名子《マナゴ》谷(紀に繊沙谿)あり、イサゴ、スナゴより古しと。然し語の構成順序からすると、掖齋説に左袒(1865)せざるを得ない。抑もスナゴはす〔傍点〕(洲)な〔傍点〕(領格の辭ノの轉)、ご(細小なる物の稱)、イサゴは、いさ〔二字傍点〕(イソ即ち石の轉)、ご(細小なる物の稱)であるが、或は下略し、或は上略し、それにマの美稱を添へても用ゐたもの。○うべしこそ を「けらしき」と結ぶは古代文法。卷一、三山(ノ)御歌に「然れこそ――戀ふらしき」の例がある。○しぬびけらしき この「しぬび」は慕ふの意。愛づの意ではない。〇しぬばえ 慕はれの意。○しらはま 白砂の濱をいふ。
【歌意】 八千矛(ノ)神の御時代から、澤山の船の著く泊處として、八洲の國の澤山の船人が決めたことであつた、この敏馬の浦は、朝吹く風に浦の波が騷ぎ、夕方寄する浪に海藻は寄り來る。そして〔三字右○〕白砂の潔い濱邊は、往來して見ても/\飽かない。道理でさ、一遍見た人毎に見ぬ人に〔四字右○〕語り續け、慕はしうしたことであつたらしい。されば〔三字右○〕幾代も經て慕はれて往かう、この潔い白濱よ。
 
〔評〕 「八千矛の神の御世より」は、神代からといふにその意は同じやうだが、この神は國土經營の神である事は見遁せない。即ち都市村落の建設、道路港灣の整理など、皆この神業に竢つたものである。かう考へると、或は敏馬は般瀬といふ程ではなくとも、半築港の場處であつたかも知れない。
 で神のなしのまゝに、敏馬の浦は武庫海上の船泊として、日本中のあらゆる舟人即ち「百船人」が、寄港によき場處と定めたのであつたと、神意人意の總和がこの浦にあることを讃美した。
 次に筆は敏馬の浦矚目の光景に轉じ、朝風に波、夕波に海藻を湊合して、その動搖飄蕩の動的状態を叙し、(1866)更に一線彎を描いた靜的の地物「清き白濱」を配して、その地理的説明と間接なる色相の對照とを言外に黙會せしめた。白砂は武庫山脈一帶の花崗岩の崩砂から成るものであつた。かくて「往き還り見れども飽かず」が當然來るべき結論となるのである。
 次に餘響として、この好風光は「見る人毎に」語り繼ぎいひ繼ぎ、百世の下まで偲ばれようと、讃美の筆をとゞめた。
 三段組織の篇法、その旗幟鮮明である。
 
反歌二首
 
眞十鏡《まそかがみ》 見宿女乃浦者《みぬめのうらは》 百船《ももふねの》 過而可往《すぎてゆくべき》 濱有七國《はまならなくに》     1066
 
〔釋〕 ○まそかがみ 眞澄鏡《マソカガミ》見《ミ》を敏馬のみ〔傍点〕に係けた枕詞。既出(六四三頁)。○すぎて 通り過ぎて。
【歌意】 敏馬の浦はいゝ景色で〔五字右○〕、澤山の船が、餘所に見過して往かれよう、濱ではないのにさ。
 
〔評〕 百船の泊りするのは當然だとの餘意を含んでゐる。
  大崎の神の小濱はせばけれど百船人も過ぐといはなくに(本卷、石上卿――1023)
と同型ではあるが、これは專ら自然愛賞の意を陳べ、彼れは流謫の感傷を寓せたもので、おのづから異調であ(1867)る。
 
濱清《はまきよみ》 浦愛見《うらうるはしみ》 神世自《かみよより》 千船湊《ちふねのはつる》 大和太乃濱《おほわたのはま》     1067
 
〔釋〕 ○うるはしみ 麗しさに。古葉の訓ウツクシミ〔五字傍線〕、舊訓ナツカシミ〔五字傍線〕。○はつる 「湊」を意訓に讀む。○おほわたのはま 大曲《オホワタ》の濱。敏馬の浦の灣であらう。今は神戸に屬する古への和田の岬は、恐くその西の突端か。
【歌意】 濱が清さに浦が美しさに、神代から澤山の船が泊る、この大曲の濱であることよ。
 
〔評〕 長歌の第一段を截取して、敏馬の浦を「大曲の濱」といひ易へたやうな形式であるが、別に新生面を打開してゐる。敏馬に千舟の泊つるは、元來航海上の便宜に因る實務的の事である。作者はそれを萬々承知してゐながら、全くその風光の美に引付けられての事と斷言した。そこに詩家の手段がある。
 
右二十一首、田邊《タナベノ》福《サキ》麻呂之歌集中(ニ)出(ヅ)也。
 
 悲2寧樂京故郷1作歌より以下の廿一首は田邊福麻呂の歌集の中に出てゐるとの意。まことその風體格調は大抵相類して特異の點が少い。同一人の作と見ても差支は無ささうだ。但悲寧樂京故郷の歌は比較的大作で、他作を壓してゐる。○田邊福麻呂 傳未詳。卷十八に、天平二十年二十三日左大臣橘家(諸兄)之使者、造酒司令(1868)史田邊(ノ)福麻呂(ヲ)饗(ヘス)2于守大伴宿禰家持(ノ)館(ニ)1云々の題詞がある。契沖はいふ、左大臣の家禮だらうと。卷九にも福麻呂歌集の語が見える。續紀に、天平十年四月正六位上田邊(ノ)史《フヒト》難波に外從五位下を授くとある。福麻呂は或はこの難波の子どもか。 
               2006年11月17日(金)午後1時15分、入力終了
               2008年10月7日(火)正午、校正終了
(1869)萬葉集卷第七目録
 (注意)この卷七は頁數の都合上、假に上下の二分に別け、(上)はこの冊に、(下)は次に刊行すべき第四冊に收めることにした。
 
雜歌《クサグサノウタ》
                〔評釋頁〕
詠(メル)v天(ヲ)一首………………一八七三
詠(メル)v月(ヲ)十八首……………一八七五
詠(メル)v雲(ヲ)二首………………一八八七
詠(メル)v雨(ヲ)二首………………一八九〇
詠(メル)v山(ヲ)七首………………一八九二
詠(メル)v岳(ヲ)一首………………一八九九
詠(メル)v河(ヲ)十六首……………一九〇〇
詠(メル)v露(ヲ)一首………………一九一五
詠(メル)v花(ヲ)一首………………一九一六
   〔入力者注、1870、1871の目次は略〕
寄(ス)v月(ニ)四首…………………
寄(ス)2赤《ハニ》土(ニ)1一首…
寄(ス)v神(ニ)二首…………………
寄(ス)v河(ニ)七首…………………
寄(ス)2埋木《ウモレギニ》1一首…
寄(ス)v海(ニ)九首…………………
寄(ス)2浦(ノ)沙(ニ)1二首……
寄(ス)v藻(ニ)四首…………………
寄(ス)v船(ニ)五首…………………
旋頭歌一首
   挽《カナシミ》  歌
雜(ノ)挽十二首…………………………
 或本(ノ)歌一首………………………
覊旅(ノ)歌一首…………………………
 
 
(1873)萬葉集卷七(上)
 
七の卷は大抵作者未詳の歌で、題詠實詠相混じ、寄託歌あり旅行歌あり挽歌がある。體に於ては短歌の外に珍しく旋頭歌《セドウカ》があり、長歌を缺いてゐる。その風調より推せば、概して奈良朝中期の作と思はれる。但多少はその上期に溯るものも混つてゐるらしい。
 
雜《くさぐさの》歌
 
詠(める)v天(を)
 
以下何々を詠める〔六字傍点〕とある題詞の歌は、或は題詠の作ではないかと疑はしめるが、實は記録者が詠者不詳の歌を輯録するに當つて、かゝる題詞を作つたと見るのが至當と思ふ。稀には題詠らしい、實感に遠ざかつた作もないではないが、大部分は實詠と認められる。
 
天海丹《あめのうみに》 雲之波立《くものなみたち》 月船《つきのふね》 星之林丹《ほしのはやしに》 ※[手偏+旁]隱所見《こぎかくるみゆ》     1068
 
〔釋〕 ○あめのうみ――くものなみ――つきのふね――ほしのはやし 天を海に、雲を波に、月を舟に、星を林に直喩した。
(1874)【歌意】 天の海に雲の波が立ち、そこに月の舟が出て、星の森に漕ぎ隱れてゆくのが見えるわ。
 
〔評〕 技巧中心の作である。月舟の譬喩は文武天皇の御製、
  月舟移(リ)2霧渚(ニ)1、楓※[楫+戈]泛(ブ)2霞濱(ニ)1(懷風藻)
にはじまり、
  春日なる三笠の山に月の舟出づ、みやび男の飲む盃に影の見えつつ (本卷――1295)
など見え、敢へて作者の創語ではない。さてこの月舟から、天を海、雲を波に見立て、その聯想を逞うしたものであらう。「星の林」に至つては、物數の多いのを林に譬喩する例が漢語に多いから、單語としては非難はないが、陸上の物件たる林を、海上の景象に湊合したことが統一を破つてゐる。舟が林に漕ぎ隱れては可笑しなものになるではないか。もと/\空想の所産だから、勢ひ眞實味から遠ざかり、時には不用意の間に種々な手落も出來勝である。
  あめの海月の舶浮けかつら梶懸けてこぐ見ゆ月人壯夫《ツキヒトヲトコ》(卷十――2223)
はこの歌を母胎として、五體滿足に誕生した子供であらう。
 この歌世に人麻呂の作として傳へらわたのは、左註がその俑を作つたのである。
 
右一首、柿本(ノ)朝臣人麻呂之歌集(ニ)出(ヅ)。
 
○人麻呂之歌集 既出。卷三(六五一)を見よ。
 
(1875)詠(める)v月(を)
 
常者曾《つねはかつて》 不念物乎《おもはぬものを》 此月之《このつきの》 過匿卷《すぎかくれまく》 惜夕香裳《をしきよひかも》     1069
 
〔釋〕 〇つねはかつて 平生は一向に。「曾」の字をカツテと詠むは、この集の例である。舊訓ソモ〔二字傍線〕は非。
【歌意】 何時もは一向に惜しいとも思はないものを、この月の更け過ぎて隱れようことか、惜しい今夜であることかまあ。
 
〔評〕 月に對する或夜の感想と素直に見ておかう。但珍しい人などに逢うた夜の作とも見られ、又月見の宴に呼ばれた客が主人の厚意に酬いる挨拶の詞とも見られる。詩境の分明しない憾もあるが、いかにも率直である。
 
大夫之《ますらをの》 弓上振起《ゆずゑふりおこし》 借高之《かりたかの》 野邊副清《ぬべさへきよく》 照月夜可聞《てるつくよかも》     1070
 
〔釋〕 ○ますらを 既出(四〇頁)。「大夫」も既出(四〇頁)。○ゆずゑふりおこし 既出(八四二頁)。「上」は意訓でスエと讀む。初二句は「獵り」の意を以て、三句の「借高」にかけた序詞。○かりたかのぬ 「かりたかの」を見よ(一七三六頁)。△地圖及寫眞 挿圖170(六一七頁)、417(一七三七頁)を參照。
【歌意】 丈夫が弓末を振り立てゝ獵るといふ名の、※[獣偏+葛]《カリ》高の野邊までも、光さやかに、照る月であることかまあ。
 
(1876)〔評〕 ※[獣偏+葛]高の野は高圓山の山下の臺地で、その頃の狩獵場であつた。でその狩獵状態を序詞に運用したことは、處がら當然の措辭といへよう。
 高圓山は勿論裾野の※[獣偏+葛]高の野邊さへもと、明月を仰いで極力その清かな光を稱へた。作者の顔の輝きさへも思ひ遣られる。
 以上は奈良京の東偏五條のあたりから仰ぎ望んだ趣としても聞える。作者の位置が不確定であることは聊か遺憾だ。
 
山末爾《やまのはに》 不知與歴月乎《いさよふつきを》 將出香登《いでむかと》 待乍居爾《まちつつをるに》 與曾降家類《よぞくだちける》     1071
 
〔釋〕 ○やまのは 山の端。「末」を意訓にハと讀む。〇いさよふ 既出(六八四頁)。○をるに 居るにつけて〔三字右○〕。○くだち 既出(一四八七頁)。
【歌意】 山の端にグヅ/\してゐる月を、今出ようかと、待ち/\して居るうちに、夜は段々と更けたわい。
 
〔評〕 別に特異性がない。隨つて類歌もある譯だ。下に
  山のはにいさよふ月をいつとかもわが待ちをらむ夜は深けにつつ(本卷――1084)
は即ちそれである。
  山のはにいさよふ月の出でむかとわが待つ君を夜はくだちつゝ (卷六、黒麻呂――1008)
に至つては、四句にこそ曲折をもつが、やはり等類である。
 
(1877)明日之夕《あすのよひ》 將照月夜者《てらむつくよは》 片因爾《かたよりに》 今夜爾因而《こよひによりて》 夜長有《よながからなむ》     1072
 
〔釋〕 ○よひ 夜の意に同じい。○かたよりに 「かたより」を見よ(三五六頁)。○こよひによりて 今宵に片〔右○〕寄つて。「因」は借字。
【歌意】 明日の晩も照るであらう月夜は、今夜の分に片寄りに寄つて、今夜は特に夜長くあつて欲しいわい。
 
〔評〕 當夜の明月を愛しむの餘、承知で無理な注文をつけた。奇警見るべく、風流欣ぶべきである。
  あめにます月讀をとこ幣《マヒ》はせむ今夜の月夜|五百夜《イホヨ》繼ぎこそ (卷六、湯原王――985)
は同趣で、更に誇大な欲求を構へたもの。餘り誇大が過ぎると、眞實味に遠ざかるから、本行の方が却て程のよい處であらうか、歌柄は劣る。
 「片寄りに――寄りて」と「今夜に――夜長からなむ」とは、何れも疊語式の錯綜的の表現で、而もその兩句が排對してゐるなど、その口吻の自在さに駕かされる。
 
玉垂之《たまだれの》 小簾之開通《をすのまとほし》 獨居而《ひとりゐて》 見驗無《みるしるしなき》 暮月夜鴨《ゆふづくよかも》     1073
 
〔釋〕 ○たまだれの 「をす」の「を」に係る枕詞。既出(五〇七頁)。○をすのまとほし (1)簾の間《アヒダ》を透し。(2)小簾の垂れたる間《マ》を透し。これは下に、波の岸に寄するを詠じて「この家とほし聞きつつをれば」とあるを證と(1878)する。以上何れでも意は通ずる。この句は「見る」に係る。トホシを六帖及び略解の訓にトホリ〔三字傍線〕とあるは非。舊訓による。○みるしるし 見る詮《カヒ》。
【歌意】 自分獨で、簾の透間を透して見るは〔三字右○〕、折角見る詮もない、この夕月であることよ。
 
〔評〕 簾影を透して見るは立ち昇つたばかりの月で、即ち夕月である。小簾垂れ籠めての獨坐無聊に、共に見はやす人もあらばと思ふは人情である。蓋し月が良ければ良いほど、その凄其を極めた光色が、人をして孤獨に耐へざらしめるからである。
 再案するに、小簾垂れ籠めて籠り居るは、必ず閨裏の婦人である。隨つてこの歌は、夕暮を時として來通ふ壻の君を、心待に待ちわたる情思が纏綿してゐると思ふ。
  月夜よし夜よしと人に告げやらば來ちふに似たり待たずしもあらず (古今集、戀四)
も同じ境地から出發したもので、これは「獨居て見るしるしなき」と、率直に道破してしまつた。そこに又限ない哀怨の氣味が漂うて、夕月夜のあはれさが一段と身にしみる。
 
春日山《かすがやま》 押而照有《おしててらせる》 此月者《このつきは》 妹之庭母《いもがにはにも》 清有家里《さやけかりけり》     1074
 
〔釋〕 ○かすがやま 「かすがのやま」を見よ(八五八頁)。○おしててらせる 押竝べて照らしてゐる。「わが宿に月押照れり」(卷八)「窓越しに月押照りて」(同上)などの例がある。○さやけかりけり 古義に「家里」を良(1879)思〔二字右△〕の誤としてサヤケカルラシ〔七字傍線〕と讀み、これに賛した人もあるが、誤解である。△地圖及寫眞 挿圖170(六一七頁)、169(六一四頁)を參照。
【歌意】 春日山を一帶に照してゐるあの月は、春日山ばかりか〔七字右○〕、吾妹子の家にも、同じ樣に清《サヤ》けく照つてゐるわい。
 
〔評〕 春日山に照り渡る月影を踏みつゝ、遂に妹が家に到つた男の作で、山麓の妹が家はまづ門内を見入れるからして、皎々たる月光に浮かび上がつて、玉の臺と輝くのであつた。これ「妹が庭にもさやけかりけり」との詠歎に耽つた所以である。月は一つだが、光は春日から妹が家にまで、作者と共に移動してゐる。
 
海原之《うなばらの》 道遠鴨《みちとほみかも》 月讀《つくよみの》 明少《ひかりすくなく》 夜者更下乍《よはくだちつつ》     1075
 
〔釋〕 ○つくよみ 既出(一二九〇頁)。○ひかりすくなく 照る間の少いのをいふ。契沖いふ、光輝の少きをいふにあらずと。「明」をヒカリと讀むは意訓。また諸訓ともスクナキヨ〔五字傍線〕と續けてあるが、さては初二句の意の應ずる處がない。○くだち 前出(一四八七頁)。「更下」は更即ち時刻の深けること故、クダチ〔三字傍線〕と訓む。
【歌意】 月はその出て來る海原の道の、速いせゐかなあ、こゝには〔四字右○〕碌に照る間もなく、夜は更けに更けてさ。
 
〔評〕 殘月の歌で、遲く出て忽ち隱れる、その夜の遺憾さを歌つた。「海原の道」を取出したのは、成るべく月の(1880)經渡る道程を遙なものにして、「光すくなく」に理由づけたものであるが、無論月は東海の天から上ることを承知してゐる作者の言である。
 
百師木之《ももしきの》 大宮人之《おほみやびとの》 退出而《まかりでて》 遊今夜之《あそぶこよひの》 月清左《つきのさやけさ》     1076
 
〔釋〕 ○ももしきの 「宮」の枕詞。既出(一二六頁)。△寫眞 挿圖332(一二〇〇頁)を參照。
【歌意】 大宮人達が、大宮から〔四字右○〕退出して遊ぶ、今夜の月のさやかなことよ。 
〔評〕 官吏が退廳後、鳥が籠を放たれたやうに、その遊樂に自由に羽を伸ばすは、現代でも同じ事である。「ももしきの大宮人のまかり出て遊ぶ船には梶棹も……」(卷三、鴨君足人)、といひ、又「大宮人の船待ちかねつ」(卷一、人麻呂)「佐保の内に遊びしことを」(卷六、作者未詳)「大宮人はいとまあれや梅をかざして」(卷十、赤人)といふ類、集中に多く疊見する。たまには公務の爲に「いとまをなみと里に往かざらむ」(卷六、諸兄)の如きこともあるが、元來當時の官衙は早朝の早退で、餘暇が頗る多かつたことも、その大いなる原因である。
 幾箇の官人相誘うての遊宴、身に閑暇あり、心に餘裕あり、隨つて興は酣に盡くることを知らない。而もそこに明月の背景があつた。さればそのうちの一人は、月に託して當夜の歡會を歌つた。線の優美な調の流麗な、爽かな響安易の感じのある作である。
 
(1881)夜干玉之《ぬばたまの》 夜渡月乎《よわたるつきを》 將留爾《とどめむに》 西山邊爾《にしのやまべに》 塞毛有糠毛《せきもあらぬかも》     1077
 
〔釋〕 ○ぬばたまの 「夜」の枕詞。既出(三〇四頁)。○あらぬかも 既出(一三二二頁)。
【歌意】 夜更け渡る月を、止めようと思ふに〔三字右○〕、西の山邊に、關もほしいものよなあ。
 
〔評〕 落月に對しての感想で、月の出入は關の有無にかゝはるものではないことを忘れる程の沒常識に陷つた處に、月を惜む情意が強く動いてゐる。關塞の事は國史に疊見し、又臨時の公私塞も相當に多かつた。
  境界之上、臨時置(キ)v關(ヲ)、應(キ)2守(リ)固(ム)1者(ハ)、並(ニ)置(キ)2配(リ)兵士(ヲ)1、分番上下(ス)。(軍防令義解)
と見え、古代人はその交通觀念に、必ず關塞の名詞を牢記してゐた。で「關もあらぬかも」は奇拔な着想のやうに今では思はれるが、當時では決してさう珍しいものではあるまい。穗積皇子も雪を見て「猪養の岡の關なさまくに」(卷一)と歌はれた。
 
此月之《このつきの》 此間來者《ここにきたれば》 且今跡香毛《いまとかも》 妹之出立《いもがいでたち》 待乍將有《まちつつあらむ》     1078
 
〔釋〕 ○ここに 作者の家の月影のさした處を斥す。○いまとかも 「且」は未定の意ゆゑ、句意に從つて「且今」と書いた。卷二に、ケフ/\トの本文が且今日且今日と書いてある。○いでたち 門邊〔二字右○〕に。
【歌意】 あの月が更けて〔三字右○〕、こゝにまで影がさして來たので、自分を〔三字右○〕もう來る〔二字右○〕と思うて〔三字右○〕まあ、吾妹子が門に〔二字右○〕出立つ(1882)て、待ち/\してゐるであらうか。
 
〔評〕 支障があつて妹が家を訪づれかねた男の作である。「我背子が來べきよひなり」(紀、衣通郎女)など、往時は男が夜毎に妻や情人の許に通ふ習俗であつた。さて月はいゝ加減に軒先を廻つた。夜の更けたことはいふまでもない。何も知らず我妹子はさぞ、自分を待ちあぐんでゐるであらうと、その焦燥の態度を懇に想像した。そこに作者自身の焦燥があり、妹を思ふ情味の深さが動く。門に倚る、門に立つは、人待つ態度として和漢共にその例が多い。
 「ここに來れば」を、妹が意中の語として解した新考説は、恐らく強辯であらう。
 
眞十鏡《まそかがみ》 可照月乎《てるべきつきを》 白妙乃《しろたへの》 雲香隱流《くもかかくせる》 天津霧鴨《あまつきりかも》     1079
 
〔釋〕 ○まそかがみ 「照る」の枕詞。既出(六四三頁)。○つきを 月なる〔二字右○〕を。○しろたへの 白の意に用ゐた枕詞。既出(一一八頁)。○あまつきりかも 天つ霧かも隱せる〔三字右○〕の略。「隱せる」は四句に讓つて略いた。「あまつきり」は空の霧。
【歌意】 元來〔二字右○〕照る筈の月なの〔二字右○〕を、照らぬのは〔五字右○〕、雲が隱したことか、それとも空の霧が隱したことか〔六字右○〕まあ。
 
〔評〕 「雲か隱せる」の響の強い詞の促つた表現から見れば、月は素より皆無なのであつた。されば「照るべき」は出づべき〔四字傍点〕といふ程の意で、そこに無中に有を生ぜしめた作者の幻化手段がある。そしてその無月を惡戲者の(1883)雲又は霧の所爲かと、はかなく疑つてゐる處に痴呆の味がある。
 この歌その構想において、下の「霜ぐもりすとにかあらむ」と一脉相通ずるものがある。 
久方乃《ひさかたの》 天照月者《あまてるつきは》 神代爾加《かみよにか》 出反等六《いでかへるらむ》 年者經去乍《としはへにつつ》     1080
 
〔釋〕 ○かみよにか 神代の光に〔二字右○〕かの略。「に」をユ(從)の意とする説もあるが、詞態を無視した強辯と思ふ。○いでかへる 立返つて出づるをいふ。「かへる」に屡する意をもつ。
【歌意】 あの空に照る月は、神代の光〔右○〕に幾度も立返つて〔七字右○〕、出るであらうか、年は永く〔二字右○〕經ちに經ちしてさ。
 
〔評〕 月には盈虚消長があるが、新月はやはりもとの光に立返つて照る。この事實を神代にまで延長させ、年經つゝもその度毎に神代の光に出で返るの想像を下した。表現が餘りハツキリしない點があつて面白くない。
 古義は年經て後神代に立返ると解し、三句を神代にも〔傍点〕の意とした。
 
烏玉之《ぬばたまの》 夜渡月乎《よわたるつきを》 ※[立心偏+可]怜《おもしろみ》 吾居袖爾《わがをるそでに》 露曾置爾鷄類《つゆぞおきにける》     1081
 
〔釋〕 ○ぬばたまの 夜の枕詞。既出(三〇四頁)。○わがをる わが見つつ〔三字右○〕をる。
【歌意】 夜を經ゆく月がまあ面白さに、何時の間にか〔六字右○〕、自分が見て〔二字右○〕ゐる袖に露がさ、置いたことであるわい。
 
(1884)〔評〕 袖の露によつて、夜更けの趣を言外に認識させた。されば略解などに、夜が更けて〔五字傍点〕を補語として解したのは、歌を釋き殺すもので、甚だ面白くない。詩境は平凡であるが、思はざる袖の露はやはり驚歎に値する。恐らく端近く打出て月に浮かれてゐた作者であらう。
 
水底之《みなそこの》 玉障清《たまさへきよく》 可見裳《みゆべくも》 照月夜鴨《てるつくよかも》 夜之深去者《よのふけゆけば》     1082
 
〔釋〕 〇みなそこのたまさへ 玉は石を褒めていふ。「障」は借字。○みゆべくも 略解訓による。舊訓ミツベクモ〔五字傍線〕。○ふけゆけば 古義訓フケヌレバ〔五字傍線〕。
【歌意】 水底にある玉までも、きれいに見えさうにまあ、照る月であることよ、夜が段々更けてゆくので。
 
〔評〕「水底の玉さへ――見ゆべく」は、月光の澄徹する趣を具象的に敍した。石を玉といふことは古代人の套語だが、こゝではそれが靈動してゐる。夜更けて愈よ澄みまさるは月の常態。結句置き得てよい。
 
霜雲入《しもぐもり》 爲登爾可將有《すとにかあらむ》 久堅之《ひさかたの》 夜度月乃《よわたるつきの》 不見念者《みえぬおもへば》     1083
 
〔釋〕 〇しもぐもり 霜曇。霜氣の催して空の曇るをいふ。「雲入」は假借。○ひさかたの 「夜わたる」を隔てて月に係る枕詞。既出(二八二頁)。
(1885)【歌意】 霜曇がするといふ譯かしら、夜を經行く月が、忽ち〔二字右○〕見えぬことを〔三字右○〕思へばさ。
 
〔評〕 寒夜の月の倏忽に變化した景象を歌つた。恐らくその月は上弦の月で、早くもその影を没したのであらう。
 それを霜曇の所爲かと疑つてゐる處に、痴呆の態が見えて面白い。
 
山未爾《やまのはに》 不知夜經月乎《いさよふつきを》 何時母《いつとかも》 吾待將座《わがまちをらむ》 夜者深去乍《よはふけにつつ》     1084
 
【歌意】 山際にグヅ/\してゐる月を、何時出て來る〔四字右○〕としてまあ、自分は待つて居らうか、夜は深けに深けてさ。とても待ち遠な〔七字右○〕。
 
〔評〕 半夜になつても月は出ぬ。待ち草臥れて、何時を當てに待つことかとの愚痴、焦れ切つた作者の樣子が眼前に彷彿する。月めでの極めて切なる情致がよく現れてゐる。
 五音七音の律動による結果として、結句の獨立は古調の本體である。後世では體言止めの體には常に見得るが、動詞や助辭で終るものには、やうやう稀になつた。
 
妹之當《いもがあたり》 吾袖將振《わがそでふらむ》 木間從《このまより》 出來月爾《いでくるつきに》 雲莫棚引《くもなたなびき》     1085
 
〔釋〕 ○いもがあたり 妹が家の邊を目當てに〔五字右○〕の意。○このまより この句は初句の上に廻して聞く。○なたな(1886)びき たなびくなの意。「なおもひと」を參照(四一一頁)。
【歌意】 木の間から、妹の家の邊目當てに〔四字右○〕、自分の袖を振つて見せうぞ。あの照り出した月に、雲が懸つてくれるなよ。
 
〔評〕 袖振の行事は額田王の「野守は見ずや君が袖振る」(卷一)又、人麻呂の
  石見のや高角山の木のまよりわが振る袖を妹見つらむか (卷二――395)
を參照されたい。さてこの歌は人麻呂のを飜轉したやうな作である。否それを本歌として、木の間の抽振を云爲したものである。新考は初二句を「木の間より」に係る序詞とし、古義は二句にて切り、「木の間より」を下に續けて解した。が共に無理があつて賛成が出來ない。
 
靭懸流《ゆきかくる》 件雄廣伎《とものをひろき》 大伴爾《おほともに》 國將榮常《くにさかえむと》 月者照良思《つきはてるらし》     1086
 
〔釋〕 ○ゆきかくるとものをひろき 靭を懸ける黨類の廣い大伴と續けた。大伴氏は古來の名家で、その一族は特に繋延してゐるのでいふ。尚「ゆき」(一〇三九頁)及「おほとものなにおふゆきおびて」(一〇四四頁)を參照。○おほともに 大伴等により〔二字右○〕の意。大伴を國名とする秋成説もあるが、他にその例を見ない。「おほともの」を參照(二三五頁)。△挿圖83(二六三頁)を參照。
【歌意】 靭を佩びる族類の廣い我等大伴により、この國は榮えようと、月は我等大伴の上に〔七字右○〕照るらしい。
 
(1887)〔評〕 御門衛りの大伴等が、月を仰いでの自讃の語であらう。大伴氏は上古から近衛兵として仕へ奉り、又征戰に從つては「草蒸す屍、水づく屍」の標語のもとに奮闘した。族類は廣い、威勢は強い、その心驕りから明月も只わが世の爲に照ると觀ずる。意氣頗る豪快である。初二句の修飾語は、祝詞に「靭負ふ件の男」(大祓)、又上にも家持の「大伴の名に負ふ靭帶びて」(卷三)など見え、來歴をもつた古語である。
 
詠(める)v雲(を)
 
痛足河《あなしがは》 河浪立奴《かはなみたちぬ》 卷目之《まきもくの》 由槻我高仁《ゆつきがたけに》 雲居立有〔左△〕良志《くもゐたつらし》     1087
 
〔釋〕 ○あなしがは また穴師川。「あなせのかは」を見よ(一二六五頁)。○まきもく マキムクの轉。古代の各稱には音轉で幾樣にも呼ぶ例が多い。故に「卷目」をなほマキムクと讀むべしといふ、考略解古義などの説には從ひ難い。○まきむく 大和磯城郡纏向村。山を卷向山、川を卷向川また穴師川といふ。○ゆ(1888)つきがたけ 弓槻、弓月、由槻の字を充てる。卷向山の最高峯。標高五百六十五米突。「高」をタケと讀むは意訓。○くもゐたつらし 有〔右△〕を衍字と見て、元本類本の訓による。さてこの「くもゐ」を紀の「わぎへの方ゆ久毛違多知久毛《クモヰタチクモ》」、(卷七、又記の景行天皇の條)及び集中「朝さらず雲居たなびき」(卷三)「有馬山雲居たなびき」(同上)の例により、雲と同義に解する。舊訓クモタテルラシ〔七字傍線〕は「居」を衍字と見たもの。△地圖及寫眞 挿圖338(一二六五頁)、338(一二六六頁)を參照。
【歌意】 穴師川の川の波が、盛に立つことわい。これでは奥山の〔七字右○〕卷目の弓槻が嶽に、雲が騷ぎ立つらしい。
 
〔評〕 鑑賞に先立つて地理的考察を下さう。まづ「あなし川」と道破したので見ると、作者は穴師の里の河邊に居たものである。川は弓槻の外山たる穴師山と三輪山との溪間を流れてくる。
 偶ま穴師の川波が何時よりも高く騷ぎ立つた。この景象を深く注視した作者は、端なく奥山弓槻が嶽の亂雲の生動を、想像に描くに至つた。唐詩の「山雨欲v來風滿v樓」(許渾)の趣にも似て、惡天候の前兆たる山風のあらびが、言外に躍如としてゐる。
 氣象雄大、格調高渾、平安朝以後には絶無の絶品である。が、實際はその歌柄に不似合なるほど川は狹く小さく、山も大した高山ではない。現代を標準にすれば、誇張の甚しさに喫驚される。もと/\大和の小天地にのみ跼蹐してゐた萬葉人だから、現代人の物の屑ともせぬ地的對象にも、比較的甚大な衝撃を感じ得たものであらうが、何としてもその感情の盛り上がりの絶大さには敬服させられる。
 「立つ」の語の重複は稍不快である。それは立つ〔二字傍点〕がこの歌の主命となつてゐるからと思ふ。結句或は多少の訛(1889)舛あるか。
 
足引之《あしひきの》 山河之瀬之《やまがはのせの》 響苗爾《なるなへに》 弓月高《ゆづきがたけに》 雲立渡《くもたちわたる》     1088
 
〔釋〕 ○あしひきの 山の枕詞。既出(三四三頁)。○なへに 既出(一九頁)。
【歌意】 穴師の〔三字右○〕山川の瀬の鳴るにつれ、弓槻が嶽に、あれ〔二字右○〕雲が立ち渡るわ。
 
〔評〕 上のと殆ど同趣同調。但おなじ山の雲を、上のは視覺から聯想し、これは聽覺から言及した。叙景の作として古來絶唱と稱へられた。二首とも多分は同一人の同時の作であらう。前首と同じく線の太い作で、左註は信を置くに足らぬが、まこと歌聖人麻呂の風格を想はしめる高調である。
 
右二首、柿本(ノ)朝臣人麻呂之歌集(ニ)出(ヅ)。
 
大海爾《おほうみに》 島毛不在爾《しまもあらなくに》 海原《うなばらの》 絶塔波爾《たゆたふなみに》 立有白雲《たてるしらくも》     1089
 
〔釋〕 ○たゆたふ 「たゆたひに」を見よ(三六八頁)。「絶塔」は訓音まじりの借字。
【歌意】 大海に島もないのに、不思議や〔四字右○〕、廣い海のゆた/\と動く波のうへに、立つてゐる白雲であることよ。
 
〔評〕 天候不穩の折であらう、茫洋たる波の上にもや/\と雲が盛に湧き起つ。地上の山に立つ雲を見狎れた眼(1890)からは、島山でもあればとにかく、何を根にして立つか不思議の限だ。で「島もあらなくに」と疑問の石を投げた。詰り海邊の勝手を知らぬ大和人の作である。既に大海〔二字傍点〕をいひ更に海原〔二字傍点〕といふ、不用意の重複であらう。
 伊勢行幸供奉人の作だから、海は伊勢灣である。但作者は未詳。
 
右一首、伊勢(ノ)從駕(ガ)作(メル)。
 
詠(める)v雨(を)
 
吾妹子之《わぎもこが》 赤裳裾之《あかものすその》 將染※[泥/土]《ひづちなむ》 今日之※[雨/脉]※[雨/沐]爾《けふのこさめに》 吾共所沾名〔左△〕《われさへぬれな》     1090
 
〔釋〕 ○あかも 「あかもすそ」を見よ(一七六〇頁)。○ひづちなむ 「ひづち」は既出(五〇八頁)。訓は考による。古義訓ヒヅツラム〔五字傍線〕は鑿に近い。「※[泥/土]」は泥土の合字。○こさめ 「※[雨/脉]※[雨/沐]」は和名抄に、細雨、一名※[雨/脉]※[雨/沐]、小雨也、和名|古左女《コサメ》、とあり、毛詩の小雅北山の章、文選の呉都賦などにも見えた字面。○われさへぬれな 「な」は「きかな」(一一頁)のな〔傍点〕と同語。「名」原本に者〔右△〕とあるは誤。元本類本その他による。△寫眞 挿圖54(一六三頁)、69(二〇二頁)、158(五七五頁)を參照。
【歌意】 今日のこの小雨に、いとしいわが妻の赤裳の裾が、ビシヨ/\になることであらう。私も一緒に濡れたいな。
 
(1891)〔評〕 何かの所用で妻が外出した折、生憎小雨が降り出した。「赤裳のすそのひづちなむ」は、定めし出先で困難してゐるだらうとの意を、具象的に描寫したもので、その印象深さが、下句を引立てるに役立つてゐる。同じ雨に「われさへ濡れな」、一緒にその困苦も分つてみたいとは、何と情味の饒かな詞であらう。是等の柔心軟語は、直ちに近代的歌謠、即ち諸國盆踊歌以降の小唄に共鳴するものがある。
 
可融《とほるべく》 雨者莫零《あめはなふりそ》 吾妹子之《わぎもこが》 形見之服《かたみのころも》 吾下爾著有《われしたにけり》     1091
 
〔釋〕 ○とほるべく 「融」は借字。○けり 著たりの意。略解訓による。キタリ〔三字傍線〕と訓むも惡くない。尚「けせる」(一一一〇頁)。及び「ける」(一七三四頁)を參照。
【歌意】 濡れが〔三字右○〕透りさうに、雨は降るなよ。わが妻の形見の衣を、私は下に著込んでゐるわい。
 
〔評〕 上と同時の作と解せられぬこともないが、女の許から朝歸りする男の作と見た方が自然である。朝寒にお風召してはと貸してくれた女の下著、それが即ち「形見の衣」である。袍か何かの下にこれを著込んで出て來ると、丁度折柄が雨天だ。無論この時代の事とて車ではあるまい。馬でなければ徒歩だらうから、酷く降られてはとても溜らない。そこで「我妹子の形見の衣」に寄托して、「透るべく――な降りそ」、即ちお手柔にと、無心の雨に對してその同情を強ひた。かく形見の衣が如何に大切な物であるかのやうに揚言した處に、この作者の老獪を見る。
                                      
(1892) 詠(める)v山(を)
 
動神之《なるかみの》 音耳聞《おとのみききし》 卷向之《まきむくの》 檜原山乎《ひばらのやまを》 今日見鶴鴨《けふみつるかも》     1092
 
〔釋〕 ○なるかみの 音に係る枕詞。「なるかみ」は雷のこと。雷を神聖視して鳴神といふ。「動神」と書くは震動の意を取る。○おとのみききし 音にのみ聞きし〔七字傍点〕に同じい。「音」は噂をいふ。○ひばらのやま 檜林の山。地名ではない。○ひばら 檜原。檜の森林のこと。檜は松杉科の常緑喬木。すべて草木の叢生した處を何原といふ。藤原、杉原、橿原、竹原、萩原、藪原の類頗る多い。
【歌意】 これまで〔四字右○〕噂にばかり聞き及んでゐた、卷向の檜林の山を、今日見たことよなあ。
 
〔評〕 恐怖觀念から雷を神聖視することは、何れの國でも未開時代からの遺傳思想で、記紀の記載もその範疇に洩れない。まこと鳴神の音聞は、
  天雲の八重雲がくり鳴る神の音にのみやも聞き渡りなむ (卷十一――2658)
とも見えて、すばらしいものである。一體卷向山は三輪山の背後に聳立して、共に檜原を以て聞え、その黒々と繁つた特異の山相は、いとも懷かしい感じを以て迎へられたに相違ない。今は裸山だが――。隨つて穴師川も現在よりは水量が多少多かつたらうと思ふ。集中この山と川とに對する吟詠の多いことは、古人が深い關心をもつてゐた證據である。
(1893) されば作者がこの山を始めて仰視し得た歡喜は、推して知るべしである。「今日見つるかも」の措辭に就いては、卷三「隼人《ハヤヒト》の薩摩の瀬門を」の評語(六五七頁)に言及して置いた。尚集中
  隼人の薩摩の瀬門を雲居なす違くもわれはけふ見つるかも (卷三、長田王――248)
  今しくは見めやと念ひし三芳野の大川淀をけふ見つるかも (本卷――1103)
  音に開き目にはまだ見ぬ吉野河六田の淀をけふ見つるかも (同上――1105)
  眉根かき下いぶかしみ念へりし妹がすがたをけふ見つるかも (卷十一――2614ノ乙)
  水鳥の鴨のすむ池の下樋《シタヒ》なみいぶせき君をけふ見つかかも (同上――2720)
  きのふこそ船出はせしかいさな取ひぢきの灘をけふ見つるかも (卷十七――3893)
の如くに同じ結語が疊見し、それが萬葉人の套語であることを想はせる。殊に「音に聞き目にはまだ見ぬ」の歌は同想同趣であるが、この歌の方が簡淨で點の打處がない。
 再考すると、卷向山は飛鳥京からも奈良京からも手近の山で、大した高山でもなし、さう珍しがる程の事もない。上つ道中つ道を往來する者は熟面の山である。茲に至つてその寓意の作であることが考へられる。恐らく「卷向の檜原」はその外山の里たる穴師や三輪附近に居た遊女の類を托言したもので、噂に聞き及んでゐたそこの遊女に始めて逢ひ得た悦を歌うたものではあるまいか。後出の檜原の歌にもこの種の疑が濃厚である。
 
三毛呂之《みもろの》 其山奈美爾《そのやまなみに》 兒等手乎《こらがてを》 卷向山者《まきむくやまは》 繼之宜霜《つぎのよろしも》     1093
 
(1894)〔釋〕 ○みもろの 四言の句。「みもろ」の山は三輪山のこと。「みわのやま」を見よ(八三頁)。「みもろ」は御室《ミムロ》。の義で、神の座す處を專らいふ。大和では三輪に坐す大物主(ノ)神が最大の崇敬を得てゐたので、みもろ〔三字傍点〕の語が三輪山、三輪の神を斥す場合が多くなつた。○そのやまなみに 其山竝として〔三字傍点〕の意。こゝではみもろ(三輪)山に卷向山が連亘するのを「山竝に」といつた。「やまなみに」は「やまなみのよろしきくに」を見よ(一八四一頁)。○こらがてを 兒等が手を枕《マ》くといひかけた、卷向山の枕詞。「こら」は既出(五八八頁)。「まく」は「いはねしまきて」を見よ(三〇〇頁)。○つぎのよろしも 續きがよい。「よろし」はよろふ〔三字傍点〕の形容詞格。完全してよいの意。新考訓ツグガヨロシモ〔七字傍線〕は非。△地圖 挿圖338(一二六五頁)參照。
【歌意】 三諸のあの山竝びとして、卷向山は、續き合ひのよいことなあ。
 
〔評〕 神山三輪を主體として、お隣の卷向山を賛美した。共にこれ欝蒼たる檜原の山で、森嚴の氣が漲り、映り(1895)榮えがするといふのである。
 
我衣《わがころも》 色將〔左△〕染《いろにしめなむ》 味酒《うまざけ》 三室山《みむろのやまは》 黄葉爲在《もみぢしにけり》     1094
 
〔釋〕 ○いろにしめなむ 「將」原本に服〔右△〕とある。古義説によつて改めた。契沖宣長は「色服」を服色〔二字右△〕の顛倒として、服〔傍点〕を上句に屬せしめ、色染〔二字傍点〕を宣長はイロニソメナム〔七字傍線〕と訓んだ。ソメもシメも古代は共通の語。○うまざけ 四言の句。「味洒」はもと三輪に係る枕詞であるが、三輪山は即三諸の山なので、三諸山の枕詞に轉用した。既出(八三頁)。古義は別義を立てゝ、酒の實《ミ》は脆美《モロキ》ものなれば味酒|實脆《ミモロ》をみもろ又はみむろに係けたと解した。○みむろのやま みもろの山に同じい。○もみぢしにけり 童蒙抄その他の訓による。
【歌意】 私のこの衣を、あの赤い色にさ染めようぞ。見れば〔三字右○〕三室の山は、よく〔二字右○〕色付いたことであるわい。
 
〔評〕 黄土を見ては「岸の埴生に匂はさましを」(卷一)といひ、萩原には、「衣匂はせ」(同上)といふ。三諸山は大體は常磐木の林であるが、今でも秋は紅葉する雜木があつて美しい。それが「色に染めなむ」とあるので、いかにもその紅葉の爛たる光景が思ひ遣られる。當時染色法は非常に發達してゐたものゝ、一面には原始染法の慣習も多分に殘存してゐたので、かうした着想も浮かんでくるのである。
 
三諸就《みもろつく》 三輪山見者《みわやまみれば》 隱口乃《こもりくの》 始瀕之檜原《はつせのひばら》 所念鴨《おもほゆるかも》     1095
 
(1896)〔釋〕 ○みもろつく 既出(一八五五頁)。「就」は借字。○こもりくの 初瀬の枕詞。既出(一七六頁)。「始」に初《ハツ》の意がある。△地圖及寫眞 挿圖152(五五五頁)、24(八三頁)を參照。
【歌意】 この三輪山を見ると、あの初瀬の檜原山が、思はれることよ。
 
〔評〕 初瀬の稱は範圍が廣く、初潮川兩岸の山地に亙つてゐるけれど、尚初瀬町の初瀬山を本據とする。長谷(ニ)坐(ス)山口(ノ)神社もそこにある。往古材木の産地で、檜原があつたのであらう。祝詞(祈年祭、六月月次祭)にも山口の神として、飛鳥、石村、忍坂に並べて、長谷《ハツセ》(初瀬)を擧げてある。
 三輪の檜原から初瀬の檜原を聯想した。檜原が一首の主命である。そして三輪以上に初瀬の檜原が廣大な立派なものであることが暗證される。
 この歌も他に準擬したものがありはせぬか。三輪女を見て端なく初瀬女を慕ぶ、かうも考へられぬ事もない。
 するとその女も或は遊女の儔であらう。
 
昔者之《いにしへの》 事波不知乎《ことはしらぬを》 我見而毛《われみても》 久成奴《ひさしくなりぬ》 天之香具山《あめのかぐやま》     1096
 
〔釋〕 ○あめのかぐやま 既出(二一頁)。△地圖及び寫眞挿圖6(二二頁)、4(一九頁)を參照。
【歌意】 古代の事は知らぬものゝ、自分が見てまあ、既に永いことになつたよ、天の香久山は。
 
〔評〕 香久山が神代に高天の原から天降りました山との傳説は、古代から大和人の心に銘記されてをり、その久しいものである事は誰れも承知してゐるので、わざと反説的に「いにしへの事は知らぬを」といひ、それを前提として「われ見ても久しくなりぬ」と詠歎した。そこに作者自身の存在の久しい事が暗證される。飛鳥磐余邊に住んでゐた老人の感懷とおぼしい。古今集の
  われ見ても久しくなりぬ住の江の岸のひめ松いく代經ぬらむ (雜上)
は無論これから脱化したものである。
 
吾勢子乎《わがせこを》 乞許世山登《いでこせやまと》 人者雖云《ひとはいへど》 君毛不來益《きみもきまさず》 山之名爾有之《やまのなにあらし》     1097
 
〔釋〕 ○わがせこを 「を」は呼格の辭。○いでこせやま いで來《コ》を巨勢山にいひかけた。「いで」は(三八三頁)、「こせやま」は(二一五頁)に既出。舊訓コチコセヤマ〔六字傍線〕は非。○やまのなにあらし 眞淵訓ヤマノナナラシ〔七字傍線〕。△地圖及寫眞 挿圖7(二八頁)、76(「二一六頁)を參照。
(1898)【歌意】 わが背《セ》子よさあ來い、といふ名の巨勢山だと、人はいふけれど、一向その君もお出がない。コリヤ山の名だけの事であるらしい。
 
〔評〕 巨勢の名は來《コ》に通うて一寸面白いので、「知らぬ國寄りこせ路」(卷一)「さゝれ波磯こせ路」(卷三)の類の弄語が多い。「人はいへど」とあつても、實は人のいふは巨勢といふ地名だけなのだ。只作者が勝手に「わが背子をいで來《こ》」の注文を巨勢に冠して、全部を人言の如くに取成し、そこに聊の希望を置いてみたものだが、「君も來まさず」の現實に幻滅の悲哀を感じて、「山の名にあらし」有名無實だと罵倒した。その「君」は恐らく巨勢人であらう。拾遺集には、
  わがせこを來ませの山と人はいへど君も來まさぬ山の名ならし (戀三)
と變化して出てゐる。
 
木道爾社《きぢにこそ》 妹山在云《いもやまありといへ》 玉〔左〔右○〕櫛上《たまくしげ》 二上山母《ふたがみやまも》 妹許曾有來《いもこそありけれ》     1098
 
〔評〕 ○きぢ 「きぢにありとふ」を見よ(一四二頁)。○いもやま 「勢能《セノ》山」を見よ(一四一頁)。○たまくしげ 玉|櫛笥《クシゲ》、既出(三一四頁)。櫛笥には蓋《フタ》があるので、その蓋を「二上」に係けた枕詞。「玉」原本にない。眞淵説に依つて補つた。京本その他は三〔右○〕の落字として、ミクシゲ〔四字傍線〕と訓んだ。「上《アゲ》」をゲと讀む例は集中他にもあ(1899)る。○ふたがみやま 「二上山」を見よ(四六一頁)。△地圖及寫眞 挿圖131(四六一頁)、132(四六二頁)、99(三一四頁)を參照。
【歌意】 紀伊路にはさ、妹山があるといふ、だが大和の〔五字右○〕二上山も、連れ合の妹山がさ、あることわい。
 
〔評〕 紀の國の妹兄の山は古來有名である。今は大和の二上山にも、雄嶽の外に雌嶽即ち妹山あることを揚言した。これは山にもそれ/”\夫婦があるといふ、單なる報告ではない。實は恥かしながら、ある鰥男《ヤモメ》が孤獨感に打たれての妻戀ひの詞である。
 依つて思ふに、この歌は阿閉(ノ)皇女(元明天皇)が勢《セ》の山を越えられた時の御歌、
  これやこの大和にしてはわが戀ふる紀路にありといふ名に負ふ夫《セ》の山 (卷一−35)
から轉生したものではあるまいか。原歌は夫君草壁皇子を御追懷の作である。さればこれも、我妹子に先立たれた大和男が、妹山に寄懷してその追慕の情を敍べたものと見たい。
 「二《フタ》」の語に揃笥の蓋を湊合した弄語が多い。櫛笥は勿論「たわやめの櫛笥に載れる」(卷四)とある如く、紅閨中の物であるが、男と雖も古人は常に鏡に對して梳つたもので、櫛笥の御用は不斷にあつた。
 
詠(める)v岳《をかを》
 
片崗之《かたをかの》 此向峯《このむかつをに》 椎蒔者《しひまかば》 今年夏之《ことしのなつの》 陰爾將比擬〔左△〕《かげにたぐはむ》     1099
 
(1900)〔釋〕 ○かたをか 大和葛下郡。紀に「しなてる片岡山」と見えて、二上山東麓にある一座の岡陵。○むかつを 向うの峯。「を」は山の高い處の稱。峯又丘をいふ。時に山の頽れた邊をも稱する。○しひ 殻斗科の常緑木。既出(四一五頁)。○なつのかげ 夏の樹蔭。○たぐはむ 擬《マガ》ふをいふ。「擬」原本に疑〔右△〕とあつて、ナミムカと訓んであるが、これは必ず比擬〔二字傍線〕の熟語と考へられる。古義は「比」を化〔右△〕の誤としてナランカ〔四字傍線〕と訓んだ。
【歌意】 片岡のあの向うの峯に、椎の實を蒔かうならば、それが生ひ立つて〔八字右○〕、今年の夏の樹蔭にたぐはうよ。
 
〔評〕 今蒔いた椎が今年の夏蔭にたぐふ程生ひ立つことは、事實あり得ない。誇張としても過ぎてゐる。これは何かの比喩であらう。
 
詠(める)v河(を)
 
卷向之《まきむくの》 病足之川由《あなしのかはゆ》 往水之《ゆくみづの》 絶事無《たゆることなく》 又反將見《またかへりみむ》     1100
 
〔釋〕 まきむくのあなしのかは 既出(一八八一頁)。○かはゆ この「ゆ」はヲの意に近い。○ゆくみづの 行水の如く〔二字右○〕。「絶ゆることなく」に係る序詞。
【歌意】 卷向の穴師川を、行く水のやうに、絶え間なしに、又立返つて見ようぞ。いかにもいゝ川の風景だ〔十一字右○〕。
 
(1901)〔評〕 「行く水の絶ゆる事なく」及び「又返り見む」は例の套語。上出の各條下を檢討されたい。
 
黒玉之《ぬばたまの》 夜去來者《よるさりくれば》 卷向之《まきむくの》 川音高之母《かはとたかしも》 荒足鴨疾《あらしかもとき》     1101
 
〔釋〕 ○ぬばたまの 既出(三〇四頁)。〇さりくれば 「はるさりくれば」を見よ(七九頁)。○まきむくのかは 穴師川と同じい。前出。○あらし 荒風。「し」は息《イキ》または風をいふ。「足」は借字。
【歌意】 夜になつてくると、卷向の川音が高いことよ、山の嵐が疾いせゐかまあ。
 
〔評〕 山は靜寂の夜、滿身の神經は悉く耳に集まる。これ川の瀬鳴の高さに強い衝撃を感ずる所以である。乃ち卷向おろしの烈しさに想到した。推移が自然である。上の弓槻が嵩の二首と詩境は相似て、被れは風を言外の含蓄にとゞめ、これは説破してゐるだけ、その點に於ての迫眞力は強い。「あらしかも疾き」の五音二音から成る促調と聲調の鋭さとは、激しい震動を全首に波及させる。
 
右二首、柿本(ノ)朝臣人麻呂之歌集(ニ)出(ヅ)。
 
大王之《おほきみの》 三笠山之《みかさのやまの》 帶爾爲流《おびにせる》 細谷川之《ほそたにがはの》 音乃清也《おとのさやけさ》     1102
 
〔釋〕 ○おほきみの 大王の御蓋《ミカサ》を「みかさの山」に係けて枕詞とした。「みかさ」は「きぬがさ」を見よ(六四(1902)六頁)。○みかさのやま 「みかさやま」を見よ(六二一頁)。○おびにせる 帶としてゐる。○ほそたにがは 細い谷川。普通名詞。
【歌意】 三笠山がその腰に帶として佩びてゐる、細い谷川の水音が、清かなことよ。
 
〔評〕 山腰の溪流を、人の腰をめぐる帶に喩へることは、この他にも、
  みもろの神のおばせる泊瀬川…………………………(卷九――1770)
  甘南備のみもろの神の帶にせる明日香の河の………(卷十三――3227)
  神名火の山の帶にせる明日香の河の…………………(同上――3266)
の等類がある。古代から近古までの帶は幅の狹い物だつたから、細谷川を擬へるには尤もふさはしい。姿も調も聲響も亮かに爽かな歌である。これを承和の大嘗會には吉備歌に取成して、初二句を
  眞金ふく吉備の中山帶にせる細谷川のおとのさやけさ (古今集、雜體)
と歌ひ換へてある。
 さてこの細谷川は、「みかさの山」を春日の社後の御蓋山とすれば卒《イサ》川や吉城《ヨシキ》川であらうし、汎く春日山の事とすれば、高圓山との溪澗から流下する能登《ノト》川が當てはまるやうである。
 
今敷者《いましきは》 見目屋跡念之《みめやとおもひし》 三芳野之《みよしぬの》 大川餘杼乎《おほかはよどを》 今日見鶴鴨《けふみつるかも》     1013
 
(1903)〔釋〕 ○いましきは 今は〔二字傍点〕と同じで、その意が強い。續紀(卷廿五)天平寶字八年九月の宣命に、今|乃《ノ》間《マ》此|太子乎《ヒツギノミコヲ》定(メ)不v賜(ハ)在(ル)故《ユヱ》方《ハ》、――今|之紀乃間方念見《シキノマハオモヒミ》定(メ)牟(ム)仁《ニ》と見え、今の間〔三字傍点〕と、今しきの間〔五字傍点〕とを使ひ分けてある。宜長訓による。舊訓イマシクハ〔五字傍線〕。○おほかはよど 大きな河の淀み。△地圖挿圖35(一一〇頁)を參照。
【歌意】 今はもう見られようかい、と思つたことであつた、吉野の大河淀を、幸に今日見たことよなあ。
 
〔評〕 吉野の大河淀は六田《ムツタ》の淀あたりのことであらう。山遠く河原が濶けて、風景が明朗である。「今しきは見めや」は何の理由によるか不明であるが、奈良人は飛鳥人や藤原人と違つて、吉野が遠隔の地になるから、再三の往訪はとてもむづかしい。それを何かの都合で再遊し得た喜の情を歌つたものらしい。
 
馬竝而《うまなめて》 三芳野河乎《みよしぬがはを》 欲見《みまくほり》 打越來而曾《うちこえきてぞ》 瀧爾遊鶴《たきにあそびつる》     1104
 
〔釋〕 ○うまなめて 馬を竝べて。既出(三六頁)。この句は四句へ係る。○みよしぬがは 吉野《ヨシヌ》川のこと。○みまくほり 「みまくほりする」を見よ(九一○頁)。○うちこえて 野山を〔三字右○〕打越え來て。○たき 吉野離宮所在地の瀧で、吉野川の激湍である。卷一、人麻呂の幸2吉野宮1時歌の條下を參照(一四四頁)。△寫眞 挿圖47、48、50(一四五頁−一五一頁)を參照。
【歌意】 景色のいゝ吉野川を見たく思うて、人達と〔三字右○〕馬を乘り竝べて、野山を〔三字右○〕越えて來てさ、この河の瀧つ瀬に遊んだわい。
 
(1904)〔評〕 これも奈良人の作である。藤原宮時代には日もこれ足らずと出遊された吉野だ。京が奈良に遷つては、一遍に輿馬の影綺羅の香を絶つて、もとの寂寥に返つたものゝ、奈良人は歴史的に慣習的に、そのあくがれをもつてゐる。されば日頃の渇望を醫すべく思ひ立つて、朋友兩三輩、遠乘で出掛け、蜻蛉離宮を訪うて、その宮瀧に遊んだ。實に記念すべき勝遊である。「打越え來てぞ瀧に遊びつる」、率直極まつた表現に、その歡喜の情が躍動する。但「馬なめて」「打越えきて」の同詞態は一寸面白くない。
 「打越え來てぞ」は下の歌にも「何時か越え來て」とあり、高市都の岡から鹿路にかゝり、上市へと山越えしたものか。これが一番吉野への近道である。然し巨勢路から廻つたのでもさういはれる。
 
音聞《おとにきき》 目者未見《めにはまだみぬ》 吉野河《よしぬがは》 六田之與杼乎《むつだのよどを》 今日見鶴鴨《けふみつるかも》     1105
 
〔釋〕 ○むつだのよど 後世にはムタとも略しいふ。吉野都大淀村。吉野村への渡津あり、水邊楊柳が多いので、柳の渡しとも稱する。△寫眞 挿圖286(九五九頁)を參照。
【歌意】 噂に聞きながら、目にはまだ見ない、吉野河の六田の淀を、今日目の前に〔四字右○〕見たことよなあ。
 
〔評〕 「音に聞き目にはまだ見ぬ」のくどい叙法は、「今日見つる」の喜びを強く映出させよう爲の手段である。六田の淀は吉野山に入る渡津として、清き河原を隔てゝ前面は近く吉野山に對し、遠く山上金峯青根百戒の連峯を望み、蛙は鳴き、千鳥は飛び、柳は靡く、宮瀧地方の山峽とは、おのづから別趣の勝境である。
 
(1905)河豆鳴《かはづなく》 清川原乎《きよきかはらを》 今日見而者《けふみては》 何時可越來而《いつかこえきて》 見乍偲食《みつつしぬばむ》     1106
 
〔釋〕 ○きよきかはら 卷六にも「楸おふる清き河原」とある。○けふみては 今日見てさて〔二字右○〕は。○こえきて 野山を〔三字右○〕越え來て。○しぬばむ こゝは愛賞の意。
【歌意】 蛙の鳴く、この吉野の〔五字右○〕清い河原を、今日見てさては〔三字右○〕、何時又野山を〔四字右○〕越えて來て、この景色を見つゝ愛でようことか。
 
〔評〕 吉野の詠であることはいふまでもない。今でも上市邊では旅人の夢を妨げるほど蛙が鳴く。再遊はとても覺束なからうとは、作者だけの特別事情もあらうが、又當時の道途の不便も想ふべしである。上下句應接の間に又〔右○〕の意が包含されてゐる。表現はさううまいものでない。
 
泊瀬川《はつせがは》 白木綿花爾《しらゆふばなに》 墮多藝都《おちたぎつ》 瀬清跡《せをさやけみと》 見爾來之吾乎《みにこしわれを》     1107
 
〔釋〕 ○はつせがは 「はつせのかは」を見よ(二七二頁)。○しらゆふばなに 既出(一六一六頁)。○せをさやけみと 「と」は強辭。接屬辭のトでない。○われを 「を」は呼辭。△地圖及寫眞 挿圖152(五五五頁)、86(二七二頁)、419(一七四七頁)を參照。
(1906)【歌意】 初潮川の、白木綿花のやうに落ちたぎる、河瀬がまあきれいさに、見に來た自分よ。
 
〔評〕 それ故飽くまで愛賞せずにはおくまいの餘意がある。抑も萬葉人は初瀬を頻に口頭に上せてゐる。それは初瀬國が優秀であるばかりではない。地理的に大和南部の故京に近く、又伊勢路の街道にも當り、接觸の機會が多かつたことも因を成してゐると思ふ。
 卷六に「石走りたぎち流るゝ初瀬河」とあるは、即ちこゝにいふ「白木綿花に落ちたぎつ」である。かく川瀬の白波を白木綿花に擬することは卷六に二首、卷九に一首見え、格別珍しくはない。只白木綿花は初瀬女の作る物だから、處がら初瀬川に親切であるといふに過ぎない。尚「山高み白木綿花に落ちたぎつ」(卷六)の條下を參照。(一六一六頁)
 
泊瀬川《はつせがは》 流水尾之《ながるるみをの》 湍乎早《せをはやみ》 井提越浪之《ゐでこすなみの》 音之清久《おとのさやけく》     1108
 
〔釋〕 ○みを 水脈。水すぢ。○ゐで 飲料にせよ灌漑にせよ、用水をすべて井といふ。さてその水を塞く塘をも堰《ヰ》といふ。手はその料の意。古義に手を留《トメ》の約と解したのはいかゞ。「提」は音借字。○さやけく 清けくあるかな〔四字右○〕の省略格。
【歌意】 初瀬川は、流れる水筋の瀬がまあ速さに、その堰※[土+隷の旁]を打越す波の音が、清《サヤ》かであることよ。
 
〔評〕 初瀬川は大和では廣い川で、少しは河原もあり、隨つて「流るゝ水脈」もある。附近の水田の渠に引く爲、(1907)川中に堰坑を打ち柵を造つて、水を壅ぐ。湛へられた水は、堰※[土+隷の旁]を越えて淙々の響を立てる。
  さされ波磯こせ路なる能登瀬川音のさやけさ瀧つ瀬ごとに (卷三、波多少足――314)
と比較して、その規模が稍大きなことが想像されよう。但對象も感想も酷似したもので、何れも打越す波の美しさを見つゝ、その清かな響を讃歎してゐる。憾むらくは「瀬を速み」の一句、幾分の理路に著した。
 
佐檜乃熊《さひのくま》 檜隈川之《ひのくまがはの》 瀬乎早《せをはやみ》 君之手取者《きみがてとらば》 將縁言毳《よせいはむかも》     1109
 
〔釋〕 ○さひのくま 「さ」は美稱。「ひのくま」は大和高市都|檜前《ヒノクマ》郷。(今の阪合村)。「熊」は借字。○ひのくまがは 高取山より出で眞弓の岡の東を經、久米寺の西を過ぎて重坂《ヘサカ》川(能登瀬川)と合する。○よせいはむ 言寄せむの意。かこつけ言ふこと。略解訓による。眞淵及び古義は「縁言」を言縁〔二字右△]の顛倒として、コトヨセム〔五字傍線〕と訓んだ。
【歌意】 この檜隈川の瀬がまあ速さに、貴女の手を取つてあげようなら、人が〔二字右○〕濡衣をいひかけませうかなあ。
 
〔評〕 檜隈川は小さな川だから、架橋の少ない時代では、石梁《イハハシ》即ち瀬の置石を踐んで徒渉したのであらう。けれど瀬は速し石はグラ/\する。危いから女の手を執つて扶けてやらうと思つたが、待て暫しと一寸躊躇した。う(1908)つかり親切氣を見せて、世間で譯でもあるやうにいひ立てられてはと、そこに理性が一寸頭を擡げた。
  秋の田の穗田の刈ばかかよりあはばそこもか人の吾を言《コト》なさむ (卷四、草孃――510)
と似た面白い情趣である。この「君」は見知り越しか或は行摺りの女であらう。
 「さ檜の隈檜の隈川」の疊語は、「み吉野の吉野の宮」(卷三)と同樣式で、古歌特有の歌謠的語調を成すもの、
  さ檜の隈檜の隈川に馬とめて馬に水飼へわれよそに見む (卷十二――3097)
の初二句もこれと同一軌である。又「瀬を速み」はこゝでは輕々に看過し難い主眼の語である。
 
湯種蒔《ゆだねまく》 荒木之小田矣《あらきのをたを》 求跡《もとめむと》 足結令〔左△〕所沾《あゆひぬらしつ》 此水之湍爾《このかはのせに》     1110
 
(1909)〔釋〕 ○ゆだねまく 「ゆだね」(1)齋種《ユダネ》の義。齋ひ潔めた稻種をいふ。等由氣《トユケノ》宮儀式帳に「二所(ノ)大神乃|御饌《ミケ》處乃御田尓下立弖先(ヅ)菅裁(チ)物忌(ミ)、湯鍬《ユスキ》持弓東(ニ)向(ヒ)耕佃《タガヘシ》、湯草湯種〔二字傍点〕下(シ)始(メ)云々」とある(古説、和訓栞説。(2)五百種《イホダネ》の義。五百をユ〔傍点〕といふ。(契沖説)(3)井種の義。井に漬け置ける稻種をいふ(宣長説)。(1)を可とする。「まく」を舊訓マキ〔二字傍線〕とあるは非。○あらき 新懇《ニヒバリ》をいふ。又その處。語義は古義にいふ新掻《アラカキ》の略かと。○あゆひぬらしつ 足結を沾らした。「令」原本出〔右△〕とあるは誤。今假にこの字を當てた。また者〔右△〕の誤として、拾本訓及び宣長訓にアユヒハユレヌ〔七字傍線〕とある。○あゆひ 足結《アシユヒ》の略。袴の裾を結ぶ紐。※[塞の土が衣]げる時は膝の邊に結ぶ。その足結に鈴を附けもしたと見え、記紀に足結の小鈴の語がある。○このかはのせに 「水」をカハと訓む。卷二に石水をイシカハ、卷三に水可良思をカハカラシとある。
【歌意】 齋種を蒔く新墾の田を、求めようとして、足結をつひ濡らしたわい、この川の瀬でね。
 
〔評〕 種蒔する新墾田《アラキダ》の場處さがしに出てあるいて、たま/\小川を横切つた處、思の外水が深くて、足結を濡らしてしまつた。ありさうな事である。古義に
  父母の守れるいつき娘を得むとてかにかくせしを、見顯はされて障へられしを、足結を沾せしに比へしにや。(1910)或はさうした譬喩の意があるかも知れない。とすれば「この川の瀬に」の現實性が強いから、山は女の家の近くのらしい。往時の田園風趣の味はれるのは嬉しい。
 
古毛《いにしへも》 如此聞乍哉《かくききつつや》 偲兼《しぬびけむ》 此古河之《このふるかはの》 清瀬之音矣《きよきせのとを》 1111
 
〔釋〕 ○しぬびけむ 愛賞の意を過去想像にいつた。○ふるかは 布留川。古川とも書く。大和山邊郡山邊村の溪間より發し、石上神宮の下を過ぎ、末は初瀬川に入る。尚「ふるやま」を參照(一〇八六頁)。△地圖 挿圖282(九四二頁)を參照。
【歌意】 昔でも今の私がやうに〔七字右○〕、かう聞き/\して、愛賞したことであらう、この布留川の清い瀬の音をさ。
 
〔評〕 石上《イソノカミ》布留《フル》の地は崇神天皇の御代に布都の御魂を齋き祀られてからこの方、仁賢安閑御二代の皇居があり、名族石上氏の故居でありなどして、往古は人出入の多い土地であつたらしい。布留の山が盛に吟詠に上るのを(1911)見てもさう點頭かれるであらう。然しその川の消息に至つては寥々たるもので、集中にも一二首に過ぎない。別に古人が愛賞した典故もない。蓋し微々たる小川である。多分古人に假托して、わが愛賞に理由づけたものであらうか。かうした幻手段を弄することも詞人の權利である。
 
波禰※[草冠/縵]《はねかづら》 今爲妹乎《いまするいもを》 浦若三《うらわかみ》 去來率去河之《いざいざがはの》 音之清左《おとのさやけさ》     1112
 
〔釋〕 ○はねかづらいまするいも 「はねかづら」及び「いまする」を見よ(一三二〇頁)。○うらわかみ 少《ワカ》さにの意。草木にいふ末《ウラ》若しの義より轉じた語。○いざ 誘ひ立てる意の副詞。「はねかづら」より「いざ」までは、疊音によつて率《イザ》川を呼び出した序詞。○いざがは 率川。春日山中に發源し、猿澤の池の南を※[しんにょう+堯](1912)つて、率川の社前を過ぎ、奈良の西に至つて奈良川に入る小川。「率去」の去は添字。
【歌意】 はね※[草冠/縵]を今する女がまあ年若さに、男達が誘ひ立てる詞の、いざ〔二字傍点〕といふ名の、率川の水音の清かなこ
 
〔評〕 四句の初語までを序詞とした體は、集中
  ますらをが幸矢たばさみ立ち向ひ射る圓方《マトカタ》は見るにさやけし (卷一、舍人娘子――61)
の外なほ數首を數へることが出來る。殊にこれはその序態が「宵にあひてあした面なみなばりにか」(卷一)と同じく、男女關係の艶語に依つたことが、姿致を求め過ぎて厭味に墮してゐる。奈良後期の萬葉人は、かうした弄技を漸く喜んで來た。又
  はねかづら今する妹を夢に見てこゝろのうちに戀ひ渡るかも (卷四、家持――705)
  はねかづら今する妹がうら若みゑみみ慍りみ著けし紐解く (卷十一――2627)
かくの如く、初二句は當時の套語となつてゐた。
 
此小川《このをかは》 白氣結《きりぞむすべる》 瀧至《たぎちゆく》 八信井上爾《はしゐのうへに》 事上下不爲友《ことあげせねども》     1113
 
〔釋〕 ○きり 「白氣」は霧の色が白いので充てた字面。○むすべる 古義に霧に結ぶといふ例なしとて、キリタナビケリ〔七字傍線〕と訓んだのは拘泥。○たぎちゆく 古義に「至」をユクと訓む例集中になしとて、落〔右△〕又は墮〔右△〕の誤としたのは不當。例ある宇ばかり用ゐる約束は始からない。○はしゐのうへに 走井《ハシリヰ》の邊に。走井は迸る泉をいふ。(1913)「走」をハシと訓むは石走《イハハシ》の語例による。これは古義説。舊訓のハシリヰノウヘニ〔八字傍線〕に從つて、或人の「信」をシリと讀むは平群の群をクリと讀むに同じとしたのは穿鑿。○ことあげせねども 言擧《コトアゲ》せねども。言擧する時は息吹《イブキ》の霧が立つのでいふ。「ことあげ」は既出(一七二一頁)。「上下」は熟語としてアゲと訓む。新考は「事上」を嗟〔右△〕の誤としてナゲキセネドモ〔七字傍線〕と訓んだ。意はよく徹るが姑くもとのまゝに從つた。
【歌意】 あの小川に霧がさ生つたわい、たぎつてゆくこの走井の邊で、自分は息吐いて〔四字右○〕言擧《コトアゲ》もしないけれど。
 
〔評〕 男らしい歌である。雄詰びにたけんで言擧したら、その息吹には霧も立たう。今は只何の事なしに混々と湧き立つ走井の水の行方を眺めると、一抹の霧がそこに靡いてゐるではないか。別に言擧した覺えもないにと、作者はそこに不思議を感じた。略解に、神代紀の
  天照大神、素戔嗚尊の十握劍を乞ひ取り、三|段《キダ》に打折り、天の眞名井に振りすゝぎて、吹き棄《ウ》つる息吹の狹霧に生《ナ》りませる神の御名を云々。(紀卷一)、
 故事を思ひて井の邊の霧を詠めるなりとある。この典故は有つてもよし無くても通ずる。
 歎きの霧に就いては、卷五「大野《オホヌ》山霧立ち渡る」の條下を參照。(一四一四頁)
 
吾紐乎《わがひもを》 妹手以而《いもがてもちて》 結八川《ゆふやがは》 又還見《またかへりみむ》 萬代左右荷《よろづよまでに》     1114
 
〔釋〕 ○わがひも わが衣の〔二字右○〕紐。○ゆふやがは 吉野にある川の名。或は吉野川の一部の稱か。卷一「ゆふのか(1914)はのかみも」を參照(一五四頁)。訓のユフヤは元本による。舊訓ユフハ。初二句は紐を結《ユ》ふを川の名にいひかけた序詞。○よろづよまでに 萬代までも〔右○〕といふに同じい。
【歌意】 自分の衣の紐を妹が手でもつて結ふ、その結ふといふ名の結八川よ、この面白い景色を〔八字右○〕、萬代の末までも、何遍となく立返つて來て見ようぞ。
 
〔評〕 男女の紐結びの事は、卷三「淡路の野島が崎の濱風に」の評語中にいつて置いた。下句は套語と套語との構成で、一向新味がない。僅に序詞の艶辭が多少の風情を點じてゐるが、例の厭味に墮する。
 
妹之紐《いもがひも》 結八川内乎《ゆふやかふちを》 古之《いにしへの》 并〔左△〕人見等〔左△〕《よきひとのみき》 此乎誰知《こをたれかしる》     1115
 
〔釋〕 ○いもがひもゆふ (1)妹がわが〔二字右○〕紐を〔右○〕結ふ。(2)妹が紐をわが〔三字右○〕結ふ(新考)。古へは夫婦互に衣の紐を結びあふ慣習もあつたから、どちらでもいへるが、打任せては矢張、男の紐を女が結ふと見たい。○かふち 既出(一四五頁)。○よきひとのみき 「并」は良〔右△〕「等」は幾〔右△〕の誤と見て、試にかく讀んだ。「よきひと」は既出(一一六頁)。略解は「并」を淑〔右△〕の誤としてヨキヒトミキト〔七字傍線〕と訓み、古義は「并人」を顛倒とし、「等」は管〔右△〕「誰知」は偲吉〔二字右△〕の誤として、ヒトサヘミキトココヲシヌビキ〔一四字傍線〕と訓んだ。○こを 此れを。
【歌意】 風景絶佳の〔五字右○〕結八川の河内を、古へのよい人が愛でて見たことわい。この〔二字右○〕意を誰れが知るかい。
 
(1915)〔評〕 自分より外に理解する者はあるまいの餘意がある。間接にかく結八河内を愛賞する自分は、そのよき人の儔であることを主張してゐる。吉野のよき人に就いては、懷風藻の詩や、天武天皇御製の
  よき人のよしとよく見てよしといひし吉野よく見よよき人よくみつ (卷一――27)
が最先出で、著名になつてをり、世間周知の事である。然るに「こを誰れか知る」は事實と矛盾する。そこがこの歌の山なので、わざと自分ばかり知つてゐるのだと、逆手を打つて力強く頑張つたものだ。
 尚卷一の「よき人の」の條下の評語を參照(一一六頁)。
 
詠(める)v露(を)
 
烏玉之《ぬばたまの》 吾黒髪爾《わがくろかみに》 落名積《ふりなづむ》 天之露霜《あめのつゆじも》 取者消乍《とればけにつつ》     1116
 
〔釋〕 ○ぬばたまの 黒の枕詞。既出(三〇四頁)。○ふりなづむ 降り滯り著くをいふ。「なづさふ」を參照(九五八頁)。○あめのつゆじも 既出(一二七三頁)。○けにつつ 「ふけにつつ」を見よ(七一二頁)。古義訓による。舊訓キエツツ〔四字傍線〕。
【歌意】 自分の黒髪に、落ちて附著する天の露霜を、手に〔二字右○〕取ると、消えに消えてしまつてさ。ほんにはかない〔七字右○〕。
 
〔評〕 「わが黒髪に霜のおくまでに」(卷二)など、男と違ひ婦人は全く無帽だから、大事の黒髪に、さて霜が置き(1916)露が置く。氣にせざるを得まい。チヨイと手を遣つて拂へば、指先はしとゞだ。「取れば消につゝ」は手にも溜らぬをいふ。婦人の態度と氣持がよく出てゐる。かく露霜のはかなさを主眼としてはゐるが、それは待つに來ぬ夜の閏怨の結果なので、
  君待つと庭にし居ればうち靡くわが黒髪に霜ぞ置ける (卷十二――3044)
の趣を本として、更に別樣を裁出したものである。幽怨の氣味が殊に深い。
 「あめの」の讃語はその崇高な聯憩を以て、上句の大まかな辭樣に均衡を取つたもので、かねて「とれば」の伏線を成してゐる。
 
詠(める)v花(を)
 
島廻爲等《しまみすと》 礒爾見之花《いそにみしはな》 風吹而《かぜふきて》 波者雖縁《なみはよすとも》 不取不止《とらずはやまじ》     1117
 
〔釋〕 ○しまみ 「しまみする」を見よ(一六七〇頁)。
【歌意】 島めぐりするとて、礒邊に見掛けた美しい花、假令風が吹いて波が寄せるとても、取らずにはおくまい。
 
〔評〕 單に花を愛翫する意としては、語氣が餘に強過ぎる。譬喩であることは間違ひもない。偶ま海村に遊んで美しい女を見かけ、如何なる邪魔があつても、手に入れずにはおくまいの意を、水邊の花に寓せて構成した。勿論一時の座興で、さう實行性をもつものではないと思ふ。
(1917)  わたの底しづく白玉風吹きて海は荒るとも取らずはやまじ (本卷、譬喩歌――1317)
と全くの雙生兒である。
 
詠(める)v葉(を)
 
古爾《いにしへに》 有險人母《ありけむひとも》 如吾等架《わがごとか》 彌和乃檜原爾《みわのひばらに》 挿頭折兼《かざしをりけむ》     1118
 
〔釋〕 〇ありけむ 「あり」は在りの意。○みわのひばら 三輪山の檜林。「三輪山」も「ひばら」も上出。○かざし 既出(一五四頁)。
【歌意】 いにしへ居たであらう人も、今の〔二字右○〕私のやうに、三輪の檜原で、髪挿を折つたことでありませうか。
 
〔評〕 檜原で折る髪挿は即ち檜葉である。檜葉などかざしたとて、何の風情もなささうだが、古代人は平群の山の熊橿の葉を髫華《ウズ》に挿し(記)たり、眞析葛《マサキヅラ》を鬘にし(紀)たりしたものだ。奈良時代でもこの歌の他に、
  あし引の山の木ぬれの穗よとりてかざしつらくは千年ほぐとぞ (卷十八、家持――4136)
と見え、あながち花紅葉の色物ばかりをしてはゐない。
 三輪は海石榴市《ツバイチ》かけて、往時は殷賑の地であつたと思はれる。作者はそこに於いて或遊女に出合つた。さて隨分ふるく馴染の男もあつたらうとの想像のもとに、いにしへの人も「わが如か」と、その好き業を思ひ寄せ(1918)たものらしい。乃ち遊女を檜原に譬へ、それに戲れたことを挿頭折るといひ成した。「いにしへにありけむ人」は斥す人のあるやうだか、こゝは輕く使用され、殆ど古への人〔四字傍点〕といふに同じい。
  いにしへにありけむ人もわがごとか妹に戀ひつついねがてにけむ (卷四――497)
と同型であるから、序にその條下の評語を參照されたい。
 
往川之《ゆくかはの》 過去人之《すぎにしひとの》 手不折者《たをらねば》 裏觸立《うらぶれたてり》 三和之檜原者《みわのひばらは》     1119
 
〔釋〕 ○ゆくかはの 「すぎにし」に係る序詞。○すぎにしひと 故人。舊訓スギユク〔四字傍線〕。○うらぶれ 既出(一五二五頁)。
【歌意】 いえ、いにしへ人が手折らぬので、それでかうしほ/\と立つてをりますのよ、三輪の檜原はさ。
 
〔評〕 上の返歌である。檜原はその遊女自稱の語で、これまで誰れも構つてくれ手が無かつたので、今にこんな思をして暮して居りますと、體のいゝお座成りをいつたものだ。すべて擬人仕立の表現に味がある。
 
右二首、柿本(ノ)朝臣人麻呂之歌集(ニ)出(ヅ)。
 
詠(める)v蘿《こけを》
 
(1919)三芳野之《みよしぬの》 青根我峯之《あをねがたけの》 蘿席《こけむしろ》 誰將織《たれかおりけむ》 經緯無二《たてぬきなしに》     1120
 
〔釋〕 ○あをねがたけ 青根が嶽。いはゆる吉野山(子守山)の奥山で、安禅寺の上方の山。標高八五九米突。○こけむしろ 苔蘚の數いたやうに生えた状を筵《ムシロ》に譬へていふ。○たてぬき 經をタテ、緯をヌキといふ。織物の上では經は縱絲、緯は横絲である。○なしに 無しにて〔右○〕。
【歌意】 この吉野の青根が嶽の苔の筵は、誰れが織つたのであらうか、縱絲も横絲もなくつてさ。
〔評〕 織物である以上は、繩筵だとて失張經緯がある。然るにこの苔の筵にはそれがないと怪しみ、「誰れか」の疑問を投げて、人間業でないやうに讃美した。抑も筵に譬喩したことが、はじめから巧んだ係蹄である。青根が嶽は林木(1920)の少い草山で、まゝ苔蘚が山骨を覆うて美しい。
 
詠(める)v草(を)
 
歌には細竹が詠まれてある。竹は木でも草でもないが、假に草に攝したもの。
 
妹所等《いもがりと》 我通路《わがゆくみちの》 細竹爲酢寸《しぬすすき》 我通《われしかよはば》 靡細竹原《なびけしぬはら》     1121
 
〔釋〕 ○いもがり 妹が在りの約。妹の居る所をいふ。○わがゆくみち 卷八にも「妹許等吾去《イモガリトワガユク》道の」と見えた。舊訓ワガカヨヒヂ〔六字傍線〕とあるが、「ゆく」の動詞なくては初句に續きがわるい。○しぬすすき 篠のこと。「すすき」は芒《カヤ》類の總稱なので熟していふ。篠と薄との意ではない。○しぬはら 篠の原。
【歌意】 妹が許へと、私が行く路の篠|芒《ススキ》よ、私がさ通はうならば、その時は〔四字右○〕靡いてしまへ、篠芒の原よ。
 
〔評〕 田舍情調の濃厚なのが面白い。但作者を以て直ちに田舍人とするは早計である。奈良の京域外は直ちに山野であつた。奈良人が郊外に出るとすれば、河岸には柴もあり、道路には篠の叢生もあつた。否域内とても未開の荒地が隨分多かつたと考へられる。その篠原踏み分けて通ふことは、相當の厄介仕事だ。その癖愛する者には逢はずには居られぬ自家撞着に喘いでゐる。「われし通はば靡け」は困厄の餘に發した絶叫で、既に人麻呂は「妹が門見む靡けこの山」と歌つてゐる。
(1921) この歌上下二段に構成され、上句には事を敍べ、下句には情を陳べた。三句の「篠すすき」と結句の「篠原」とは音數の都合上字面の變更を餘儀なくされた反復格である。蓋し五七調の歌には、その第二句を結句において更に反誦する古體がある。これは七五調として試みられた變態の反復格で、歌謠的特質を備へた點に留意すべきである。
 
詠(める)v鳥(を)
 
山際爾《やまのまに》 渡秋沙乃《わたるあきさの》 往將居《ゆきてゐむ》 其河瀬爾《そのかはのせに》 浪立勿湯目《なみたつなゆめ》     1122
 
〔釋〕 ○やまのまに この「に」はヲといふに近い。○あきさ アイサ。※[刀のノが一画目の角に当たる]鴨。あひ鴨のこと。小鴨に似て頭と背とは灰色、腹は白い。嘴細く尖り脚と共に赤い。秋來り春去る。
【歌意】 山ぎはに飛び渡る※[刀のノが一画目の角に当たる]鴨《アイサ》が、往つて棲むであらう處の、その河の瀬に、波は立つなよ、決して。
 
〔評〕 山とはいつても卑い山の腰を縫うて※[※[刀のノが一画目の角に当たる]鴨は飛ぶのである。作者はそれを見て、落ち著く先の河波に、「立つなゆめ」と命令を發した。その效果の有無は、はじめから問題ではない。只自分の同情を十分に發揮さへすれば、それで滿足してゐる。この暖い情味が一首の生命である。
 
(1922)佐保河之《さほがはの》 清河原爾《きよきかはらに》 鳴知鳥《なくちどり》 河津跡二《かはづとふたつ》 忘金都毛《わすれかねつも》     1123
 
〔釋〕 ○さほがは 既出(二七三頁)。○かはづとふたつ 千鳥と〔右○〕蛙《カハヅ》と二つの意。上のと〔右○〕を略くは古格。「なまよみの甲斐の國うちよする駿河の國と」(卷三)はこの例。「かはづ」は河鹿のこと。これを河の津と解した宣長説は牽強も甚しい。△地圖及寫眞 挿圖85(二七〇頁)、87(二七三頁)を參照。
【歌意】 佐保川の清い河原に、鳴く千鳥と、鳴く〔二字右○〕蛙との二つを、自分は忘れかねたわい。
 
〔評〕 佐保川は千鳥の名所蛙の名所で、何れもその河原に鳴く。で「千鳥鳴く」は遂にその枕詞となり、蛙は又
  思ほえず來ませる君を佐保川のかはづ聞かせず歸しつるかも (卷六、益人――1004)
とまで名物視された。作者はたまさかに此處の清遊を試みた奈良人か、或は暫く佐保郷附近に滯留してゐた地方人であらう。忘れかねるものは多々あらうに、その風流の情懷想ふべしである。
 
佐保河爾《さほがはに》 小驟千鳥《さばしるちどり》 夜三更而《よくだちて》 爾音聞者《ながこゑきけば》 宿不難爾《いねかてなくに》     1124
 
〔釋〕 ○さばしる 千鳥は小走りに歩むのでいふ。「さ」は接頭辭。「驟」は字書に小(シ)疾(キヲ)曰(フ)v驟(ト)と見え、小走りにゆくこと。舊訓アソブチドリノ〔七字傍線〕、古義訓サヲドルチドリ〔七字傍線〕、その他の訓何れも牽強。○よくだちて 「よはくだちつつ」を見よ(一七三六頁)。「三更」は午前零時より二時までの子《ネ》の刻の稱。故に「夜三更而」をヨクダチテと(1923)訓む。○ながこゑ 汝が聲。
【歌意】 佐保川に小走りに走る千鳥よ、夜が更けて、お前の聲を聞くと、寢るに寢かねるのになあ。
 
〔評〕 作者は佐保川千鳥の小走りを見知つてゐる人で、その夜聲はとかく愁眠を妨げる處から、千鳥に向つて苦情を竝べた。「汝が」の一語は相對的位置に千鳥を引上げて、強ひて喧嘩相手としたものだ。それら痴呆の想に面白味を生ずる。
 
思《しぬぶ》2故郷(を)1
 
 〇故郷 古京の地をいふ。
 
清湍爾《きよきせに》 千鳥妻喚《ちどりつまよび》 山際爾《やまのまに》 霞立良武《かすみたつらむ》 甘南備乃里《かむなひのさと》     1125
 
〔釋〕 ○かむなひのさと 飛鳥の神南備の里。飛鳥川に瀕し、その雷山を又神南備山といふ。飛鳥(ノ)淨見原(ノ)京の一部。「甘」は神の訓に充てた借字。「雷岳《イカヅチノヲカ》」(六三五頁)。及び「かみなひやま」(七八六頁)を參照。△他圖及寫眞 挿圖105(三三四頁)、31(九九頁)を參照。
【歌意】 清い瀬には千鳥がおのれの妻を呼び立てゝ鳴き、山際には霞が立つであらうわ、あの故京の〔五字右○〕神無備の里では。
 
(1924)〔評〕 清き瀬は飛鳥川のであり、山は近くて豐浦雷、遠くて往來《ユキヽ》の岡を隔てた北山邊の事であらう。淨見原京の一部たる。ごく小規模な神南備の里だけの感想だから、多武音羽高取の諸峯は這入るまい。さて飛鳥川にも
  わがせこが古家《フルヘ》の里の飛鳥には千鳥鳴くなり君待ちかねて (卷三、長屋王――268)
  (上略)明日香の古き京は、山高み河遠じろし、春の日は山し見がほし、秋の夜は河しさやけし、且雲に鶴《タヅ》は亂れ、夕霧に蝦《カハヅ》はさわぐ、云々。
  明日香川河よどさらず立つ霧の思ひすぐべき戀にあらなくに (卷四、赤人――325)
と見えて千鳥が棲み、又北さがりの山手だから、霞や霧が多い。故京神南備の里の風物の象徴としては、清き瀬の蛙や千鳥、山の際の霞は逸することが出來ない。奈良京に移住した飛鳥人の國偲びの情緒が、殆ど平凡に近いほど、温雅な詞と調子とで表現され、やゝ平安期の體調を思はせる。大人しやかな性格の作者であらう。
 
年月毛《としつきも》 未經爾《いまだへなくに》 明日香河《あすかがは》 湍瀬由渡之《せぜゆわたりし》 石走無《いははしもなし》     1126
 
〔釋〕 ○せぜゆ 「せぜ」は瀬を重ねた語。この「ゆ」はヲに近い。○いははし 石梁。既出(五一四頁)。○わたりし 古義訓ワタシヽ〔四字傍線〕。△地圖及寫眞 挿圖105(三三四頁)、144(五二三頁)を參照。
【歌意】 年月もまださう經たぬのに、嘗て飛鳥川のあちこちの瀬を渡つた、その石梁もないわ。
 
〔評〕 古へは架橋が少ない、尤も飛鳥川などは淺瀬が多いから、河中に石梁即ち置石をして飛び渡る箇處も澤山(1925)あつた。
  飛ぶ鳥の明日香の河の、上つ瀬に石橋《イハヽシ》渡し、下つ瀬に打橋渡す、石橋に生ひ靡ける、玉藻ぞ絶ゆれば生ふる、打橋に生ひをゝれる川藻ぞ干るればはゆる、云々。 (卷二、人麻呂――196)
といふ状態だ。こんな打橋や石橋は一寸水が出ればすぐ流れてしまふ。若しも構ひ手がなければ、流れたまゝだ。でも短日月の間にこれは又ひど過ぎると、その迅速なる荒廢の迹を慨歎してゐる。これは間接に手の裏返す飛鳥京の荒廢を物語るもので、一隅を擧げて他の三隅を想はしめる筆法である。
 
詠(める)v井(を)
 
隕田寸津《おちたぎつ》 走井水之《はしゐのみづの》 清有者《きよくあれば》 度煮〔左△〕吾者《わたるにわれは》 去不勝可聞《ゆきかてぬかも》     1127
 
〔釋〕 ○はしゐのみづ 「はしゐ」は前出「はしゐのうへ」(一九一二頁)を見よ。古義訓による。略解訓ハシリヰノミヅノ〔八字傍線〕。○わたるに 「煮」原本に者〔右△〕とあるは誤寫であらう。舊訓に「度者」をワタリハ〔四字傍線〕と訓んであるが、意が通じにくい。古義は者を布〔右△〕の誤としてワタラフ〔四字傍線〕と訓んだ。
【歌意】 たぎり落ちる走井の水が清いので、それを渡るに、自分は過ぎゆきかねることよなあ。
 
〔評〕 清冷の水の迸り流れる、それに見とれて佇立してしまふ。あり打の事で、渡りかけて藻の花のぞいた人も(1926)ある。いくら渡りたいとて、泥足などで踏み濁せるものでない。
 
安志妣成《あしびなす》 榮之君之《さかえしきみが》 穿之井之《ほりしゐの》 石井之水者《いはゐのみづは》 雖飲不飽鴨《のめどあかぬかも》     1128
 
〔釋〕 ○あしびなす あしびその物の如く。「あしび」は木瓜《ボケ》のこと。漢名櫨子。薔薇科の灌木。高さ六七尺、葉は長楕圓形をなし、花は春開き、紅白色の各種あり。あせみ〔三字傍点〕(馬醉木)と混ずべからず。「なす」は既出(九〇頁)。○いはゐ 歌に「掘りし井」とあれば、こゝは掘井の周圍を石で固めたのをいふ。
【歌意】 木瓜の花のやうに、榮えた君が掘つた井戸の、その石井の水は、幾ら飲んでも飲み飽かぬことよ。
 
〔評〕 井は全く生活の源泉で貴重なる存在である。神代既に、天の眞名《マナ》井ありて、天照大神は五百津御統《イホツミスマル》の玉を振り洒ぎ給ひ、湯津香木《ユツカツラ》の井ありて、豐玉姫は玉器《タマモヒ》に水酌まし給うた。井を中心としてその一團の聚落が形造られてゆく。故に井は公衆的の性質を帶び、多くは門井であつた。「あしびなす榮えし君」はその身分こそわか(1927)らぬが、相當の勢力家で、金を懸けてよい水の出るまで井を掘つたのであらう。「飲めど飽かぬ」はその水の清冽なことを稱讃した語で、かく稱讃することは、間接に故人の遺徳を慕ぶことになる。
   
詠(める)2和琴《やまとごとを》1
 
 ○和琴 日本《ヤマト》琴を見よ(一四四七頁)。△寫眞 挿圖372(一四四七頁)を參照。
 
琴取者《こととれば》 嘆先立《なげきさきだつ》 蓋毛《けだしくも》 琴之下樋爾《ことのしたひに》 嬬哉匿有《つまやこもれる》     1129
 
〔釋〕 ○こととれば 琴取るとは琴を彈くをいふ。○なげき 歎息。長息《ナガイキ》の義。○けだしくも 既出(五〇七頁)。○したひ 琴の胴は空洞で、裏面は上下に穴を穿ち、その絃の端を藏する。その形よりして下樋《シタヒ》と名づける。
【歌意】 琴を彈くと、彈くより先に吐息《トイキ》が吐《ツ》かれる、一體この琴の下樋《シタヒ》の中に、戀妻が籠つてゐるのかしら。
 
〔評〕 抑も音樂は神氣を道養し情意を宣和し、窮獨に處して悶えざる筈のものであるのに、これは又反對だ。蓋し作者は妻戀ひゆゑに萬斛の愁をもつ人である。琴の音に依つて聊か心の慰めを得ようとしても、それは徒らに心胸を撹亂するだけで、愁思は頑強に纏繞(1928)して去らない。でこの下樋に思ひ妻でも這入つてゐるかと、途轍もない突飛な想像を投げた。否突飛といふには割引を要する。下樋は元來音響が籠つて靈動をおこす空洞である。而も琴類は婦人も手馴らす樂器であるから、その聯想の經路は自然である。
 ※[(禾+尤)/山]庚の琴賦に、
  稱(スレバ)2其材幹(ヲ)1則以(テ)2危苦(ヲ)1爲(シ)v上(ト)、賦(スレバ)2其聲音(ヲ)1則以(テ)2悲哀(ヲ)1爲(シ)v主(ト)、美(スレバ)2其感化(ヲ)1則以(テ)2垂涕(ヲ)1爲(ス)v貴(ト)。(文選卷四)
とあるによれば、支那古代の琴音は感傷的の音質曲調を主としたものか。和琴は邦樂の物で彈法は違ふけれど、同じやうな優婉なる哀調を帶びてゐる。
 
芳野(にて)作(める)
 
神左振《かむさぶる》 磐根己凝《いはねこごしき》 三芳野之《みよしぬの》 水分山乎《みくまりやまを》 見者悲毛《みればかなしも》     1130
 
〔釋〕 ○かむさぶる 「かむさびせすと」を見よ(一五三頁)。○こごしき 既出(七四〇頁)。○みくまりやま 世にいふ吉野山。その最頂に水分《ミクマリ》の神を祀る。故に水分山ともいふ分《クマリ》は後世コモリと轉訛し、字に子守と書く。神名帳(式)に吉野水分神社(大)と見え、祈年祭祝詞中にも出、由來は古い。○かなしも 「かなし」は愛賞の意。 △地圖及寫眞 挿圖35(一一〇頁)、240(八二九頁)を參照。
【歌意】 あの神々しい、岩のごつ/\した、吉野の水分山を見れば、感に堪へるなあ。
 
〔評〕 吉野山は吉野川の對岸に聳え、その山相が特異の存在を示してゐる。これ古人がこゝに水分の神を祀つた所以、後來各種の歴史的因縁の生ずる所以であらう。歌は平々。
 
皆人之《みなひとの》 戀三吉野《こふるみよしぬ》 今日見者《けふみれば》 諾母戀來《うべもこひけり》 山川清見《やまかはきよみ》     1131
 
〔釋〕 ○やまかは 山と川と。
【歌意】 皆人が戀しがる吉野、それは今日見ると、道理でまあ、皆人が〔三字右○〕戀しがることわい、こんなに山や川が清いので。
 
〔評〕 「日光を見ぬうちは結構をいふな」の意を裏返したやうな作で、素朴にして穉拙といつて置かう。
 
夢乃和太《いめのわだ》 事西在來《ことにしありけり》 寤毛《うつつにも》 見而來物乎《みてこしものを》 念四念者《おもひしもへば》     1132
 
〔釋〕 ○いめのわだ 既出(八〇三頁)。○ことにしありけり 既出(一三三九頁)。○おもひしもへば 念ひに念へばの意。△地圖及寫眞 挿圖35(一一〇頁)、235(八〇五頁)を參照。
【歌意】 夢の囘《ワタ》、その夢といふ名は〔八字右○〕、言葉だけの事であつたわい。現實にも見て來たことであるものを、一途にさ思ひ込むとね。それが今は夢にも見えないから〔十四字右○〕。
 
(1930)〔評〕 夢の縁語から築き上げた空中樓閣、こんな低級な線上に彷徨してゐる構想も、既にこの時代にあるのだ。それはこの歌のみのことではない。
  わすれ草わが下紐につけたれど醜の醜草言にしありけり (卷四、家持――727)
  住の江にゆきにし道にきのふ見し戀忘貝言にしありけり (本卷――1149)
  手に取りしからに忘ると人のいひし戀忘貝言にしありけり (同上――1197)
  名草山言にしありけりわが戀の千重の一重もなぐさめなくに (同上――1213)
の儔、皆名詞の語意を著想の根元とした作意である。そして何れも「言にしありけり」と罵倒してゐる。而もこの歌は叙法が簡淨でないだけわるい。
 
皇祖神之《すめろぎの》 神宮人《かみのみやびと》 冬薯〔左△〕蕷葛《ところづら》 彌常敷爾《いやとこしくに》 立〔左△〕反將見《たちかへりみむ》     1133
 
〔釋〕 ○すめろぎのかみのみやびと 代々の天皇に奉仕する官人が。「祖」の字のあるによつて、かく解する。○ところづら 「ところ」は野老(山※[草冠/〓]※[草冠/解])をいふが、往時は薯蕷《ヤマノイモ》をも稱したのであらう。現に薯蕷の摺汁をトロヽといふはトコロの轉靴である。されば薯蕷をこゝではトコロと訓むべく、さて薯蕷類の地下莖を食料とするには、秋の葉落後を可とするので、「冬」字を冠したと見るべく、又薯蕷をトコロと訓ませる爲、トの音ある冬字を更に冠したとも見られる。薯蕷も野老もよく似た多年生草本で、山野に自生し、莖は纏繞性を有し、その葉は心臓型で、薯蕷は對生して狹く、野老は互生して廣い。記傳に引いた道麻呂説の、「野老は大方薯蕷と同じ頃(1931)枯るれども、物蔭などのは冬も葉青くて春まで殘るもある物なれば、冬薯蕷といふべし」は牽強であらう。さて「ところづら」は「とこしくに」にかゝる疊音の序詞。六帖訓マサキヅラ〔五字傍線〕、舊訓サネカヅラ〔五字傍線〕は共に無稽。「薯」原本に※[草冠/暑]〔右△〕とあるは誤。○とこしくに 永久に。常《トコ》を形容詞形に活用した副詞。○たちかへりみむ 「立」原本に吾〔右△〕とあるが、一首の意が通じない。試に改めた。
【歌意】 代々の御門樣の官人が、何時の何時までも、この吉野を〔五字右○〕、立返つて來て見ようぞ。
 
〔評〕 皇室と關係が深くて、行幸など不斷にあるべき意を以て、吉野を讃美した。「冬薯蕷」にその地方色を見る。但何を「立ち返り見む」といふのか、詞足らずで聞えない。實詠にはまゝあり勝な缺陷である。意解には試にこの吉野を〔五字右○〕の語を補つておいた。
 
能野川《よしぬがは》 石迹柏等《いはとかしはと》 時齒成《ときはなす》 吾者通《われはかよはむ》 萬世左右二《よろづよまでに》     1134
 
〔釋〕 ○いはとかしはと 岩と柏の木と。柏の葉は冬を經て若芽の出る春に落ちる、冬もその葉があるので、「松柏後凋」の語あり、磐と放べて「常磐なす」ものとした。これを一名詞として、契沖は岩門岩《イハトカシハ》の意とし、宣長(1932)は石常磐《イハトコシハ》の意と解した。迂遠でもあり、イハの同意語の重複など、甚だ妥當でない。この句は「常磐なす」に係る序詞。○ときはなす 既出(七五〇頁)。
【歌意】 吉野川、こゝの岩と柏の木とが、常磐そのものであるやうに、變ることなく、この風景を愛でに〔八字右○〕、私は千萬年も通はうよ。
 
〔評〕 吉野川は宮瀧から上流は岩石が多い。今は見當らないが、昔は柏樹も河邊に茂生してゐたのであらう。作者はその矚目の景象中から、この二つを提げて「常磐なす」の前提とし、「われは通はむ」と、その山水愛賞の意を高唱した。
 
山背《やましろにて》作(める)
 
 ○山背 山代とも書く。山城國のこと。延暦十三年桓武天皇遷都あり、續紀に、佳字を取り改めて山城となすとある。
 
氏河齒《うぢがはは》 與杼湍無有〔左○〕之《よどせなからし》 阿自呂人《あじろびと》 舟召音《ふねよばふこゑ》 越乞所聞《をちこちきこゆ》     1135
 
〔釋〕 ○うぢがは 宇治河のこと。既出(一九二頁)。○よどせなからし 一面に河水が深いので、淀の瀬のと差別のないのをいふ。卷十七に「上つ瀬に打橋渡し、余登瀬《ヨドセ》には浮橋渡し」と見えた淀瀬は淀のことで、こゝには與らない。「無」の下有〔右△〕を補ふ。契沖説による。○あじろびと 網代の漁業に從事する人。「あじろぎ」を見よ (1933)(六八三頁)。○をちこち 既出(一六三二頁)。「越乞」は呉音による音借字。△地圖及寫眞 挿圖66(一九二頁)、190、191(六八三、六八四頁)を參照。
【歌意】 宇治河は、一面に深くて〔六字右○〕、淀も瀬もないらしい。網代守の舟を呼ぶ聲が、あちこちに聞えるわ。
 
〔評〕 網代守は河中の網代小屋に、夜々篝を燒いて冰魚を寄せては掬ふ。隨つて夜通し舟は呼びつ呼ばれつ、淀瀬の頓着なく網代小屋と岸とを往來する。これ「淀瀬なからし」といひ、「をちこち聞ゆ」といふ所以であらう。なほ網代のことは「もののふの八十氏河の網代木に」の條下の評語(六八四頁)を參照。
 
氏河爾《うぢがはに》 生菅藻乎《おふるすがもを》 河早《かははやみ》 不取來爾家里《とらずきにけり》 裹爲益緒《つとにせましを》     1136
 
〔釋〕 ○すがも 菅藻は淡水産の緑色藻。葉状菅に似たるよりの名。出雲風土記島根郡の條に、法吉坡《ホキノイケ》、有2須賀毛《スガモ》1とあるを見れば、食用になる物らしい。○つと 「裹物《ツトモノ》」を見よ(一三八四頁)。
【歌意】 宇治河に生えてゐる菅藻を、河水が早さに、取らずに來てしまつたわい。無理にも取つて〔七字右○〕、土産《ミヤゲ》にせうものを。はて殘念な〔五字右○〕。
 
〔評〕 宇治河は名代の早川だが、處によつては菅藻の靡く瀬もあつたと見える。危ない思をして取るほどの事もないと、看過して來たが、勝地の記念としての裹物をもたぬ物足らなさを、今に至つて痛感し、後悔の念に打(1934)たれてゐる。我々のよく體驗することだ。
 
氏人之《うぢひとの》 貢〔左△〕乃足白《みつぎのあじろ》 君〔左△〕在者《きみしあらば》 今齒世〔左▲〕良増《いまはよらまし》 木積不成〔左▲〕友《こつみならずとも》     1137
 
〔釋〕 ○うぢひとの 「氏」は宇治の借字。○みつぎのあじろ 宇治人は河に網代を打つて氷魚を貢する故にいふ。「貢」原本に譬〔右△〕(タトヒ)とある。契沖はいふ、譬の網代とは、宇治に住む人は物の盛衰を所につけたる網代に譬へていふなるべしと。甚しい臆説で諾ひ難い。他にも諸説あれど皆非。譬〔右△〕は必ず「貢」の誤と斷ずる。「あじろぎ」を參照(六八三頁)。○きみし 「君」原本に吾とある。それでも通じないことはないが、宣長説に從つて改めた。○よらまし 「世」原本に王〔右△〕とあるが意が通じない。眞淵説に從つた。○こつみならずとも 「こつみ」は木屑をいふ。「成」原本に來〔右△〕とある。眞淵説によつた。古義は卷十四に「奈流世呂爾木都能余須奈須《ナルセロニコツノヨスナス》」とあるによつて、コツナラズトモ〔七字傍線〕と訓んだ。然し卷十一、同十九の木積は皆三音にコツミと讀むべく、又卷二十に許都美《コツミ》とあるから、コツと訓むは特別の場合である。
【歌意】 宇治人の貢物たる氷魚の網代、そこに〔三字右○〕もし貴女が居るならば、木積ではなくても、私が今は寄つてくるであらう。
 
〔評〕 網代は柵を結うて河水を堰くのだから、目的の氷魚の外に、木積や芥が澤山流れ寄る。作者はその状態から聯想を起して、彼の網代に君もしあらば、木積ならぬ自分も寄るであらうと、暗にその意中の人の來歸を思(1935)量した。「寄らまし」が關鍵の語であることは、
  あき風の千江の浦囘の木積なす心は寄りぬのちは知らねども (卷十一――2724)
  卯の花をくたす霖雨《ナガメ》のみづはなに寄る木積なす寄らむ兒もがも (卷十九――4217)
の儔を見ても知られよう。
 
氏河乎《うぢがはを》 船令渡呼跡《ふねわたせをと》 雖喚《よばへども》 不聞有之《きこえざるらし》 ※[楫+戈]音毛不爲《かぢのおともせず》     1138
 
〔釋〕 ○わたせを 「わたせ」は命令格。「を」は呼辭。○よばへ 呼べ〔二字傍点〕の延音。○せず 契沖はセヌの一訓をも提出した。
【歌意】 宇治河を、舟を渡せよと喚び立てるけれど、渡し守には〔五字右○〕聞えないらしい、漕いで來る〔五字右○〕※[楫+戈]の音もしないわ。
 
〔評〕 本街道の通過する宇治邊でも、平時は一艘の渡し舟で往復してゐたものらしい。向う河岸に舟のある際には、それを喚ぶのである。河幅が相當に廣いし瀬の音が激しいから、なか/\聲が徹らない。「※[楫+戈]の音もせず」で迎舟が來ない。不便なものだ。
  渡り守船わたせをと喚ぶ聲のいたらねばかも梶のおともせず (卷十――2072)
と全く同意同趣同型の作。
 當時宇治には橋があつた筈だ。孝徳天皇の朝に僧道登が造つたものである。但今の宇治橋よりは上流二町許(1936)の處であつたといはれる。されば船渡しは今の宇治橋邊に置かれたものか。後世|富家《フケ》の渡といつたのがそれであらう。
 
千早人《ちはやびと》 氏川浪乎《うぢかはなみを》 清可毛《きよみかも》 旅去人之《たびゆくひとの》 立難爲《たちかてにする》     1139
 
〔釋〕 〇ちはやびと 宇治に係る枕詞。「ちはやぶる」(三三〇頁)及び「もののふの八十氏河」(一九二頁)を參照。○たちかて 「たち」はその場を起つこと。
【歌意】 宇治河の川波がまあ、清いせゐかして、旅行く人が、立ち去りにくゝすることわ。
 
〔評〕 宇治は近江へ出る田上道と山城へ出る山科街道、伏見街道、淀八幡道とが縱横に交叉して、旅人の往來がはげしい處だ。これら輻輳した行旅の客が、明媚な山水美の爲には「立ちかてにする」と觀じた。實はそれは專ら自分の事なのを、「旅ゆく人」に寄懷したので、そこに作者の狡獪手段がある。
 宇治は山水共に美しい處だが、古代は專ら河に關する詠作が多い。蓋し大和人の小さな川ばかり見馴れた眼には、大河宇治はその網代と共に、特に大きな興味を惹いたものであらう。
 
攝津《つのくににて》作(める)
 
(1937) ○攝津 津の國のこと。難波の津あるによつて國名となつた。天武天皇六年、難波大宮あるを以て攝津職を置かれ、延暦十二年國司に改められ、職名の攝津を國名となされた。さればこの「攝津作」の題詞は延暦十二年以後の筆と見られる。世に萬葉編者の一人と想像されてゐる大伴家持は、延暦四年に薨じてゐるから、或は萬葉集は家持逝後に於て結集されたものかと疑はれぬでもない。が先づ家持以後に文辭を改易したものと見て彌縫しておく。
 
志長鳥《しながどり》 居名野乎來者《ゐなぬをくれば》 有間山《ありまやま》 夕霧立《ゆふぎりたちぬ》 宿者無爲《やどはなくして》     1140
 
一本(ニ)云(フ)、猪名乃浦囘乎《ヰナノウラワヲ》、※[手偏+旁]來者《コギクレバ》。
 
〔釋〕 ○しながどり 水鳥の名。常に水上に居るので、志長鳥居〔右○〕をいひ掛けて猪《ヰ》名の枕詞とした。さてこの志長鳥に就いて、(1)息長《シナガ》鳥の義。風をシといふ、故に息《イキ》(古言オキ)をもシといふ。鳩《ニホ》(ムグリ)は長く水中を潜行する息の長き島なればその一名とする(眞淵説)。(2)尻長《シナガ》鳥の義。尾長といふ鴨か。尻《シリ》をシと略くは常の事である(顯昭及び古義説)。尚「にほ」を參照(九八五頁)。○ゐなぬ 既出(七〇八頁)。○ありまやま 既出(一〇〇九頁)。○ゐなのう(1938)らわ 左註の語。猪名の湊の稱もある。往時武庫の海が北方に深く灣入してゐたことは「我妹子に猪名野は見せつ」(卷三)の評下(七〇九頁)に説明した。△寫眞及繪圖 挿圖294(一〇〇九頁)、290(九八五頁)を參照。
【歌意】 猪名野を來ると、向うの有馬山に、もう夕霧が立つたわい。泊る家もなくつてさ。
 
〔評〕 當時の猪各野は海岸線が近くて、そこに街道が通じてゐた。これ
  我妹子に猪名野は見せつ名次《ナスギ》山つぬの松原いつかしめさむ (卷三、黒人――279)
といふ所以である。西下の道中とすると、猪名野の正面に有馬山が連亙してゐる。まだ武庫河を渡らぬ先に暮色は漸く迫つて、西山有馬の山麓に薄霧が漂ふ。覊情はひし/\と哀愁を伴うて迫つてくる。况や定まる今宵の宿もない。心細さは一段と深刻だ。
  苦しくも降りくる雨か三輪が崎|佐野《サヌ》のあたりに家もあらなくに (卷三、奥麻呂――265)
  いづくにか我れは宿らむ高嶋の勝野の原にこの日暮れなば (卷三、黒人――275)
に似た旅情で、何れも人籟を超越した地籟である。
 「宿はなくして」の※[立+曷]後の辭樣と、その弱々しい語調とは、この際妥當な表現である。一本の句は、本行に比すると、詩境が漠として握みにくい。
 
武庫河《むこのかは》 水尾急嘉《みををはやみか》 赤駒《あかごまの》 足何久激《あがくたぎちに》 沾祁流鴨《ぬれにけるかも》     1141
 
(1939) ○むこのかは 武庫川。攝津有馬郡を經、武庫郡に入つて海に注ぐ。河口は時代により移動してゐる。舊訓ムコガハノ〔五字傍線〕。○みををはやみか 「みを」は水脈のこと。河海につけてその水筋をいふ。この句通例では意が下へ係る語勢となり、下句が落着しない。今は假にそれにて切れた格と見ておく。古義は「嘉」を三等〔二字右△〕の誤としてミヲヲハヤミト〔七字傍線〕と訓んだ。○あかごま 既出(一一三四頁)。○あがく 「あがき」を見よ(四〇七頁)。○たぎち 卷九に河《カハ》の瀬《セ》の激乎見者《タギツヲミレバ》とある。義訓に「激」をよむ。舊訓はソソギ〔三字傍線〕。
【歌意】 武庫の河は、水筋が速いことであるよなあ。赤駒の足掻で揚がる水に、衣も濡れてしまつたことよなあ。
 
〔評〕 武庫河はその下流は砂磧が多くて、平日は水が少ない。けれども駒打渡せば、その水脈は流石に速いので、飛沫は鐙にも鞍にも果は衣にも及ぶ。
  鵜坂川わたり瀬おほみこのあが馬《マ》の足掻きの水に衣濡れにけり (卷十七、家持――4022)
 
(1940)命《いのちを》 幸久在〔左△〕《さきくあらむと》 石流《いはばしる》 垂水水乎《たるみのみづを》 結飲都《むすびてのみつ》     1142
 
〔釋〕 ○いのちを 四言の句。○さきくあらむと 「在」原本に吉〔右△〕とある。宜長説により改めた。○いはばしる 「流」をハシルと意訓に讀む。古義はいふ、卷八に石激をイハハシルとあれば、「流」は激〔右△〕の誤かと。○たるみ 垂水。垂れ落ちる水をいふ。但こゝは地名。垂水の稱は諸方にあるが、攝津作の中に收めたので考へると、神名帳に攝(1941)津國豐島郡(今豐能郡豐津村)垂水神社(名神大)とある處で、社後の岡を垂水山といひ、社側に飛泉が今もある。○むすびて 手して掬ふをいふ。
【歌意】 命を長く無事にもたうとて〔右○〕、たぎつて流れる垂水の水を、自分は〔三字右○〕掬うて飲んだことわい。
 
〔評〕 天水と違ひ地下水は、種々雜多な鑛物質を含有するから、その成分如何によつては、科學的にも醫療に資することが證明される。が昔は實驗上からその效果を認めて、これを靈泉と稱して尊信した。養老泉の如きもその著しい一例である。而もその沸々湧出してやまぬ自然水といふことに、愈よ靈感が加るのである。
 然しそれだけではまだ長命する理由が薄弱である。抑も垂水神社は住吉の海童《ワタツミ》神を祀る。神功皇后紀に、
  神(住吉)有(リ)v誨(ニ)曰(ハク)、和《ニギミ》魂(ハ)服(キテ)2玉身(ニ)1而守(ラム)2壽命《ミイノチヲ》1、荒《アラミ》魂(ハ)爲(テ)2先鋒(ト)1而導(カム)2師船(ヲ)1、――因《カレ》以(テ)2依網《ヨサミノ》吾《ア》彦|垂見《タリミヲ》1爲(ス)2祭(ノ)神主(ト)1。(卷九)
と見え、垂見は垂水の義で、その居垂水の岡に因縁した名だらう。隨つて住吉神もその本郷たる垂水の地にも、分祀されたものだらう。するとその和魂もて壽命を守らせ給ふ住吉神のます處の石走る清水は、必ずや長壽の神驗があるべき筈で、又さう當時信ぜられてゐたと思はれる。
 茲に至つてわざ/\垂水の地を踏んで、この神水を「掬ひて飲みつ」と自慢らしく報告した所以が、明らかに諾かれるであらう。「命を幸くあらむ」の滿悦に浸つてゐる作者の情意が、率直に表現されてゐる。
 
作夜深而《さよふけて》 穿江水手鳴《ほりえこぐなる》 松浦船《まつらぶね》 梶音高之《かぢのとたかし》 水尾早見鴨《みをはやみかも》     1143
 
(1942)〔釋〕 ○ほりえ 難波の堀江。仁徳紀に、十一年冬十月、掘(リ)2宮北之郊原(ヲ)1、引(イテ)2南(ノ)水(ヲ)1以入(ル)2西海(ニ)1、因《カレ》以號(ケテ)2其水(ヲ)1曰(フ)2堀江(ト)1と見え、今の大阪臺地の東方の瀦水を一旦北へ導いて、淀の本流を西へと併せ流した堀川である。○こぐなる 「水手」は※[楫+戈]子《カコ》である。故に意訓にコグと讀む。戲意に近い。「鳴」は借字。○まつらぶね 筑前の松浦からのぼつて來た船の稱。
【歌意】 夜が更けて、堀江を漕いでゐる松浦船、その梶の音が高いわい、水脈《ミヲ》の流が速いせゐかまあ。
 
〔評〕 靜寂を破る夜深の櫓聲を水驛に聞く。その靜寂の景致想ふべしである。但松浦船との認定が一寸疑問だ。想ふに松浦船は風波の荒い外洋をも乘り切る大船だから、隨つてその※[楫+戈]も大型で、それを繁貫いて漕ぐとなると、※[楫+戈]の音だけで、見ないでも松浦船と推知されたのであらう。而もそれが夜深の空氣を震動する程の力漕、堀江の水脈の速さは想像に餘りある。
  松浦舟みだる堀江の水尾はやみ※[楫+戈]取るまなく念ほゆるかも (卷十二――3173)
  堀江こぐ伊豆手《イヅテ》の船の梶つくめ音しばだちぬ水脈はやみかも (卷廿――4460)
など頻にその水脈の急流なることを強調してゐる。然るに飜つて又、
  堀江より水脈びきしつゝみ舟さすしづ男《ヲ》の伴は河の瀬申せ (卷十八――4061)
    (七日、今日は川尻に船入り立ちて嬉し、川の水干て悩み煩ふ。船ののぼることいと難し。)
  きときては川の堀江の水を淺み舟もわが身もなづむけふかな (土佐日紀)
とあり、河瀬も分かぬ程に、水が干て舟がなづむ、それを強ひて綱手して曳きのぼるのであつた。これは河(1943)床の勾配が急なので、退潮時にかゝると、忽ち水脈速みとなつて上り船を悩まし、遂にはあちこちに瀬が露出して漸うに舟が通ずるのである。一千年前の難波堀江を今の淀河の河口状態に比べると、實に滄桑の感に禁へない。
 初句より四句までは事實を叙し、結句に一轉して感想に入つた。卷廿の「堀江こぐ伊豆手船」の詠はこの影法師である。
 
悔毛《くやしくも》 滿奴流鹽鹿《みちぬるしほか》 墨江之《すみのえの》 岸乃浦囘從《きしのうらわゆ》 行益物乎《ゆかましものを》     1144
 
〔釋〕 ○しほか 「か」は歎辭。○すみのえ 既出(七二九頁)。○きしのうらわゆ 古義訓キシノウラミヨ〔七字傍線〕。△地圖 挿圖78(二四一頁)參照。
【歌意】 殘念にも滿ちた潮であることよ、住吉の岸の浦べから行かうものをさ、退潮時だつたら〔七字右○〕。
 
〔評〕 崖下の波打際の風色は又遊覽に値する。然るに折柄の滿潮に妨げられて、つぶさに見能はぬ遺憾さを歌つた。初句と二句とで切つた促調が、よくその情意を表現してゐる。
 住吉の岸の事は卷一「草枕旅ゆく君と」。(二四九頁)、及び卷六「白波の千重に來寄する」(一六四九頁)の條の評語を參照。
 
(1944)爲妹《いもがため》 貝乎拾等《かひをひろふと》 陳奴乃海爾《ちぬのうみに》 所沾之袖者《ぬれにしそでは》 雖凉常不干《ほせどかわかず》     1145
 
〔釋〕 ○ちぬのうみ 和泉の海の稱。延長しては住吉邊の海をも稱する。尚「ちぬわ」を見よ(一七五八頁)。○ひろふ 古義はヒリフ〔三字傍線〕と訓んだが、古きに過ぎると思ふ。○ほせど 「凉」は曝凉《ホシサラス》の凉の意。「雖凉」はホセドと訓む。「常」は添字。下にも「雖干迹」と見え、迹の字を添へた。△地圖 卷一卷頭總圖參照。
【歌意】 妹が爲に、家裹の貝を拾ふとて〔右○〕、茅沼の海で濡れたことであつた袖は、幾ら干しても乾かぬわ。
 
〔評〕 「ほせど乾かず」と、その濡れを誇張したことは、即ち貝拾ひの辛苦を誇張したもので、間接には妹が爲の心盡しの尋常でないことの主張である。かうしてもしその貝を贈物としたとなると、假令それが鹽吹であらうと何であらうと、妹に取つては眞珠の價値を見出すであらう。
 
目頬敷《めづらしき》 人乎吾家爾《ひとをわぎへに》 住吉之《すみのえの》 岸乃黄土《きしのはにふを》 將見因毛欲得《みむよしもがも》     1146
 
〔釋〕 ○めづらしきひとをわぎへに 住の江の住み〔二字傍点〕にかけた序詞。人を住み〔四字傍点〕は自他が整はないが、いひ掛けの都合上、自他を混一に住ます〔三字傍点〕の意をもたせたもの。假にいひ掛の變態格と見る。或は「を」を歎辭とし、或は與〔左△〕《ト》の誤とする説もある。「わぎへ」は我《ワ》が家《イヘ》の約。○はにふ 既出(二四八頁)。
(1945)【歌意】 見ても見飽かぬあの人を、自分の家に棲ますといふ名の、その住の江の岸の埴生を、見ようすべもありたいな。
 
〔評〕 珍しき人を棲ますとは花婿を迎へることだ。この樣に手の込んだ序態は、例の低級な技巧の末に墮する嫌があつて妙でない。
 
暇有者《いとまあらば》 拾爾將往《ひろひにゆかむ》 住吉之《すみのえの》 岸因云《きしによるとふ》 戀忘貝《こひわすれがひ》     1147
 
〔釋〕 ○こひわすれがひ 既出(一七〇五頁)。
【歌意】 公用に〔三字右○〕暇もあるならば、拾ひにゆかうぞ、住の江の岸に寄るといふ、妻戀の心を忘れるといふ名の、忘貝をさ。
 
〔評〕 旅先での男の歌である。委しくは
  わがせこに戀ふれば苦しいとまあらば拾ひにゆかむ戀わすれ貝 (卷六、坂上郎女――964)
の評語を參照(一七〇五頁)。
 
馬雙而《うまなめて》 今日吾見鶴《けふわがみつる》 住吉之《すみのえの》 岸之黄土《きしのはにふを》 於萬世見《よろづよにみむ》     1148
 
(1946)〔釋〕 ○よろづよに 諸本諸註とも「於」を四句につけて讀んだのは誤。必ず五句につけて、「於萬世」の熟語體とし、ヨロヅヨニと訓むべきである。
【歌意】 人達と〔三字右○〕馬を乘り竝べて、今日自分が見た、この住の江の岸の埴生を、これから先も〔六字右○〕何時までも見よう。
 
〔評〕 好友兩三輩轡を竝べての勝遊、而も住吉情調のシンボルたる埴生を見得た大きな喜びからは、更に「萬代に見む」と希望するのは、大和人としてさもあらう。
 
住吉爾《すみのえに》 往云道爾《ゆくとふみちに》 昨日見之《きのふみし》 戀忘貝《こひわすれがひ》 事二四有家里《ことにしありけり》     1149
 
〔釋〕 ○ゆくとふみちに 住吉附近の濱邊の道であらう。契沖は「云」を去〔右△〕の誤とし、ユキニシミチニ〔七字傍線〕と訓み、古義もこれに從つた。○ことにしありけり 既出(一三三九頁)。
【歌意】 住の江に通ずるといふその道で、昨日見た、戀を忘れるといふ名の貝、それはたゞ〔五字右○〕名ばかりでさあつたわい。
 
〔評〕 今日になつてもやはり忘られぬの餘意が反映されてゐる。多分大和人の住の江行であらう。
  手に取りしからに忘ると人のいひし戀忘れ貝言にしありけり (本卷――1197)
はこれと同調。
 
(1947)墨吉之《すみのえの》 岸爾家欲得《きしにいへもが》 奥爾邊爾《おきにへに》 縁白波《よするしらなみ》 見乍將思《みつつしぬばむ》     1150
 
〔釋〕 ○いへもが 眞淵訓による。○おきにへに 「おきへなさかり」(六九八頁)及び「へには」(一三八四頁)を見よ。○しぬばむ 賞美しようの意。契沖は「思」を偲〔右△〕の誤としたが、二者通用である。舊訓オモハム〔四字傍線〕。
【歌意】 住の江の岸に、家が欲しいなあ。そして〔三字右○〕沖に岸邊に寄せる白波を、見い/\して愛賞しよう。
 
〔評〕 何人も思ひ寄る胸臆の語である。然し作者の先取權を如何ともし難い。
 
大伴之《おほともの》 三津之濱邊乎《みつのはまべを》 打曝《うちさらし》 因來浪之《よせくるなみの》 逝方不知毛《ゆくへしらずも》     1151
 
〔釋〕 ○おほとものみつ 既出(二三五頁)。○うちさらし 打洗ふをいふ。
【歌意】 御津の濱邊を洗つて、寄せて來る波の行方の、わからぬことよ。
 
〔評〕 一寸聞いては高渾の調をもつたよい歌らしいが、
  もののふの八十氏河のあじろ木にいさよふ波のゆくへ知らずも (卷三、人麻呂――264)
の二番煎じ、而も滔々と流れ去る河水の瞬間的の「いさよふ波」には、「行方知らずも」は適確な下語であるが、重竝《シキナミ》に寄せ返す海の波では、「ゆくへ」の感じが事實上不調和で落着しない。
 
(1948)梶之音曾《かぢのおとぞ》 髣髴爲鳴《ほのかにすなる》 海未通女《あまをとめ》 奥藻苅爾《おきつもかりに》 舟出爲等思母《ふなですらしも》     1152
    一(ニ)云(フ)、暮去者《ユフサレバ》、梶之音爲奈利《カヂノトスナリ》。
 
〔釋〕 〇おきつも 沖の藻。邊つ藻に對する。
【歌意】 ※[楫+戈]の音がほのかにすることわ。海士の少女が沖の藻を刈りに、舟出をするらしいわい。
 
〔評〕 おなじ※[楫+戈]の音でも「ほのかにすなる」は海人少女の所作と推定するにふさはしい。かくて沖つ藻刈りにまで想像は進展した。
  海人をとめ棚なし小舟漕ぎ出《ヅ》らし旅のやどりに楫の音《ト》聞ゆ (卷六――930)
と詩境は同じで、これは一層細々なる感情を弄んだ。
 左註の「ゆふされば」は藻刈舟の出る時刻でないと思ふ。
 
住吉之《すみのえの》 名兒之濱邊爾《なこのはまべに》 馬立而《うまたてて》 玉拾之久《たまひろひしく》 常不所忘《つねわすらえず》     1153
 
〔釋〕 ○なこのはま 住吉の北部の濱。今は埋没して滅びた。名兒は奈呉とも書く。○うまたてて 童本「立」を並〔右△〕の誤とするは非。○ひろひしく 「拾ひし」に「く」の接續體の辭の添うたもの。委しくは「おもへりしくし」を見よ(一三五八頁)。
(1949)【歌意】 住の江の名兒の濱邊に、馬をとめて、珠を拾うたことが、何時も忘れ得ない。
 
〔評〕 珠拾ふとは貝を拾ふことである。柔い波打際に馬を乘りすてゝの貝あさり、實に心ゆく面白い遊であつたらう。これぞ「常忘らえず」と落著する所以。但作者が男だけに、例の住吉情調に浸つたことの譬喩かも知れない。
 
雨者零《あめはふる》 借廬者作《かりほはつくる》 何暇爾《いつのまか》 吾兒之鹽干爾《あこのしほひに》 玉者將拾《たまはひろはむ》     1154
 
〔釋〕 ○あめはふる 初句を獨立句とし、次句に對せしめる。古義の中止態にフリ〔二字傍線〕と訓んだのは非。○いつのまか 「暇」に時間上の間《マ》の意がある。○あこ 下にも阿胡《アコ》の海とある。名兒の海の一名か。
【歌意】 雨は零るし、假廬は造るし、どんな暇《ヒマ》があつてか、吾兒の浦の潮干に、珠を拾はうぞ。
 
〔評〕 物蔭も無い濱邊での俄雨に、黒木や茅草を集めての假廬づくり、忙がしい事大變だ。樂しみにした潮干の貝拾ひなどは、けし飛んでしまつた。その殘念さに焦れ/\した氣持が如實に表硯されてゐる。初二句の漸層、而も「は」の辭を重用した聯對的句法に依つた促調に、あわたゞしく取込んでゐる光景が眼前に映寫され、「いつのまか」が有力に躍動する。
 
奈呉乃海之《なこのうみの》 朝開之奈凝《あさけのなごり》 今日毛鴨《けふもかも》 礒之浦囘爾《いそのうらわに》 亂而將有《みだれてあらむ》     1155
 
(1950)〔釋〕 ○あさけのなごり 朝潮の退《ヒ》いた餘波。詞が少し足らぬが、假にかく解しておく。「あさけ」は朝明《アサアケ》の略。○けふもかも 「かも」は疑辭。○うらわ 古義訓ウラミ〔三字傍線〕。〇みだれて 貝や海藻などが〔七字右○〕。
【歌意】 名兒の海の朝の引潮の餘波に、今日もまあ、磯の浦邊に貝や海藻などが〔七字右○〕、うち亂れてゐるかしらん。
 
〔評〕 前日に見た朝明のなごりの面白さを、今朝も想ひ出して、反芻して娯んでゐる。結句主語が無いが、下の
  今日もかも奥つ玉藻は白浪の八重祈るがうへに亂れてあらむ (1168)
の趣を移して、略その意が得られるであらう。
 
住吉之《すみのえの》 遠里小野之《とほさとをぬの》 眞榛以《まはりもち》 須禮流衣乃《すれるころもの》 盛過去《さかりすぎぬる》     1156
 
〔釋〕 ○とほさとをぬ 中世|瓜生《ウリフ》野といふ(今墨江村)。今の大和川の南偏の地。宣長いふ、ヲリノヲヌノ〔六字傍線〕と六言に訓むべし、今現に乎理乎野《ヲリヲノ》と呼べばなりと。但これは本末顛倒の説で、「遠里小野」を字に就いてヲリヲノと讀み、遂にウリフノと訛つたのである。新考同説。○まはりもち 眞萩を以て。「はり」をハンノ木と解するは當らぬ。「榛」は借字。「はりはら」(二二一頁)を參照。舊訓モテ〔二字傍線〕は中古以後の辭樣。○すれるころも 摺衣のこと。植物の花葉根などで衣に摺り付けて染める。○さかり 色の〔二字右○〕盛り。○すぎぬる 舊訓スギユク〔四字傍線〕。上のモチもこのヌルも古義訓による。△地圖78(二四一頁)を參照。
【歌意】 住の江の遠里小野の、萩の花をもつて摺つた衣の、その花々しい色〔五字右○〕盛りが、もう褪めて來たなあ。
 
(1951)〔評〕 前後皆住吉遊行の作である。これも遠里小野まで杖を曳き、例の萩が花摺など作つて、その興趣を※[習+元]んだものだ。摺りたては頗る鮮麗だが、一二日經つと段々褪色してくる。作者はそこに一抹の哀愁を感じ、前日の歡樂を思うて、愈よ寂寞の念に打たれるのであつた。餘韻縹緲。「はり」を必ず榛《ハン》の木と主張する人達は、この歌をどう説明しようとするか。まさか遠里小野の榛の木の皮や實で染めた衣がとは、この歌創作の動機が許すまい。
 なほ衣摺りの榛の事は、卷一「引馬野に匂ふ榛原」の條の評語及び榛原考(雜考5)を參照。
 
時風《ときつかぜ》 吹麻久不知《ふかまくしらず》 阿胡乃海之《あこのうみの》 朝明之鹽爾《あさけのしほに》 玉藻苅奈《たまもかりてな》     1157
 
〔釋〕 ○ときつかぜ 既出(五九七頁)。○ふかまくしらず 「まく」の下ことを〔三字右○〕の語を補うて聞く。「たらず」は知られ〔右○〕ずの意。略解及び古義訓シラニ〔三字傍線〕は非。○あさけのしほ こゝは朝明け時の退《ヒキ》潮をいふ。○かりてな 既出(三六七頁)。
【歌意】 さし潮時の風が、吹き出さうことも測られない。今のうち〔四字右○〕、この阿胡の海の朝明の退潮に、玉藻を刈らうよ。
 
〔評〕 玉藻を刈るは勿論海人の所作である。この作者は普通の住江遊覽の客であるが、その逸興の發するがまゝに、海人の藻刈に寄懷した。
(1952)  ゆふさらば潮みちきなむ住の江の淺香の浦に玉藻刈りてな (卷二、弓削皇子――121)
と歸趨を同じうするもの、又
  時つ風吹くべくなりぬ香椎潟しは干の浦に玉藻刈りてな (卷六、小野老――958)
に至つては、場處こそ違へ符節を合はせた如くである。
 
住吉之《すみのえの》 奥津白浪《おきつしらなみ》 風吹者《かぜふけば》 來依留濱乎《きよするはまを》 見者淨霜《みればきよしも》     1158
【歌意】 住の江の沖の白浪が、風が吹くと、來て寄せる濱邊を見ると、清いことよ。
 
〔評〕 落想平凡。又既に「吹けば」といひ、更に「見れば」といふ、同詞形の重複も甚だ不快である。
 
住吉之《すみのえの》 岸之松根《きしのまつがね》 打曝《うちさらし》 縁來浪之《よせくるなみの》 音之清羅〔左△〕《おとのさやけさ》     1159
 
〔釋〕 ○うちさらし この「さらし」は波の晒すをいふ。○よせくる 舊訓ヨリクル〔四字傍線〕。○さやけさ 舊訓にかくある。「羅」は必ず佐、紗、射などの誤。眞淵は霜〔右△〕の誤としてキヨシモ〔四字傍線〕と訓み、古義もこれに從つたが、音にきよし〔三字傍点〕といふは古調でない。
【歌意】 住の江の岸の、松の根を打洗ひ、寄せてくる波の、音のさやかなことよ。
 
(1953)〔評〕 爽かな光景と涼しい音響とが、眼耳を澄まして快い。但抽象的の感想語たる形容詞を結句に著下することは、萬葉人の口癖である。單調の率直、それはよい時もあり惡い時もありで、一定するものではないが、
  住の江の松をあき風吹くからに聲うちそふる沖つしら波 (古今集、賀、躬恒)
の如き複雜にして含蓄ある表現は、萬葉人の夢想だもせぬ處。
 
難波方《なにはがた》 鹽干丹立而《しほひにたちて》 見渡者《みわたせば》 淡路島爾《あはぢのしまに》 多豆渡所見《たづわたるみゆ》     1160
 
〔釋〕 ○なにはがた 既出(一一三八頁)。「方」は潟の借字。△地圖 卷二の卷頭總圖を參照。
【歌意】 難波潟の、潮干の折〔右△〕に立つて見渡すと、淡路島の方に、鶴の飛び渡るのが見えるわ。
 
〔評〕 往時の難波の浦は鹵潟の地だから、澪標を立てゝ、やつとその航路を示すほどで、「蘆漕ぎそけて御船來にけり」(土佐日紀)といふ状態であつた。されば潮干となると、求食する鶴は沖合遙にまで立舞ふ。それを淡路の島に去來するものと認定した。その認定が正しくなからうとどうあらうと構はない。只さし當つた眼前の風致に協へばよい。
 
羈旅《たびにて》作(める)
 
上掲の芳野山背攝津以外の旅行歌を一括して茲に收めた。但「眞野の榛原」の攝津作が一首混じてゐる。
 
(1954)離家《いへさかり》 旅西在者《たびにしあれば》 秋風《あきかぜの》 寒暮丹《さむきゆふべに》 鴈喧渡《かりなきわたる》     1161
 
〔釋〕 〇いへさかり 家を遠離り。○たびにしあれば 旅中に在ればとの意。
【歌意】 わが家を遠離つて、旅にさ居ると、秋風の寒い夕方に、雁が鳴いて通るわ。
 
〔評〕 蕭瑟たる秋風と、暮色のもたらす哀調とに、客心轉た凄然たる時、端なく悲雁の聲を天邊に聽く。雁も亦遠來の客である。かう二重三重に攻道具が揃つては、とても溜るものではあるまい。 
 
圓方之《まとかたの》 湊之渚鳥《みなとのすどり》 浪立也《なみたてや》 妻唱立而《つまよびたてて》 邊近著毛《へにちかづくも》     1162
 
〔釋〕 ○まとかた 既出(二三〇頁)。○すどり 洲にゐる鳥をいふ。集中、荒磯《アリソ》の渚《ス》鳥(卷十一)、入江の渚鳥(卷十五)、湊のすどり(卷十七)、渚鳥は騷ぐ(同上)、濱渚鳥(卷十四)など見える。○なみたてや 波立てば〔右○〕や。「也」を略解に巴〔右△〕の誤かとあるが、このまゝで通ずる。
【歌意】 圓方の湊の洲鳥は、沖に〔二字右○〕波が立てばかして、その妻を呼び立てゝ、岸邊に近づくことよ。
 
〔評〕 荒波を避けてか、沖の浮洲にゐる水鳥が、岸に段々と近寄つてくる。只それだけでは別に特色もないが、「妻よび立てゝ」に一抹の情味が漂ふ。
 
(1955)年魚市方《あゆちがた》 鹽干家良思《しほひにけらし》 知多乃浦爾《ちたのうらに》 朝※[手偏+旁]舟毛《あさこぐふねも》 奥爾依所見《おきによるみゆ》     1163
 
〔釋〕 ○あゆちがた 既出(六九五頁)。○ちたのうら 尾張國知多郡の海濱。年魚市潟の南方の衣が浦の邊をさして稱する。新考に年魚市潟は廣く云々とあるは大いなる誤。
【歌意】 年魚市潟は潮が干たらしい。知多の浦で朝漕ぐ舟さへも、岸から離れて〔六字右○〕、沖へ寄つて行くのが見える。
 
〔評〕 知多の浦の朝の退潮時の舟の動靜から、遠淺で鳴つた年魚市潟の潮干に想到した。蓋しこの兩地が隣接してゐる關係からである。「沖による」船をじつと見詰めてゐる作者の態度が面白い。
 
鹽干者《しほひれば》 干〔左△〕潟爾出《ひがたにいでて》 鳴鶴之《なくたづの》 音遠放《こゑとほざかる》 礒囘爲等霜《いそみすらしも》     1164
 
〔釋〕 ○ひがたにいでて 「干」原本に共〔右△〕とあるは誤。新考説による。○こゑとほざかる 鳥の聲をオトともいふ例もあれば、舊訓オトトホザカル〔七字傍線〕も捨てられない。
【歌意】 潮が干ると、その干潟に出て鳴く鶴の聲が、段々遠離ることよ。求食の爲に〔五字右○〕磯めぐりするらしいな。
 
(1956)〔評〕 專ら聽覺のうへから鶴の行動を描いてみた。おなじ鳥でも、前々首は近寄るをいひ、これは遠離るをいひ、おの/\風趣を殊にしてゐる。
 
暮各寸爾《ゆふなぎに》 求食爲鶴《あさりするたづ》 鹽滿者《しほみてば》 奥浪高三《おきなみたかみ》 己妻喚《おのがつまよぶ》     1165
 
〔釋〕 ○おのがつまよぶ 古義訓オノヅマヨブモ〔七字傍線〕。
【歌意】 夕凪の頃〔二字右○〕に、汀に餌をあさる鶴が、潮が段々滿ちてくると、沖の波の高さに、飛び立たうとして、〔八字右○〕、頻におのれの妻を喚ぶことわ。
 
〔評〕 上の「圓方の湊の渚鳥」と相似て、「おのが妻喚ぶ」の斷定のいひ棄てが、永い餘韻を搖曳させる。
 
古爾《いにしへに》 有監人之《ありけむひとの》 ※[不/見]乍《もとめつつ》 衣丹摺牟《きぬにすりけむ》 眞野之榛原《まぬのはりはら》     1166
 
〔釋〕 ○いにしへにありけむひとの 典故不明。或は人も〔二字傍点〕の意で、「之」は毛〔右△〕の誤か。○まぬ 既出(七一〇頁)。○もとめつつ わざわざの意に近い。物好みをするをいふ。○はりはら 「榛」は借字。既出(二二一頁)。
【歌意】 昔居たであらう人が、わざ/\、花を〔二字右○〕衣に摺り付けたであらう、この眞野の萩原よ。
 
〔評〕 卷三に高市(ノ)黒人夫妻の「眞野のはり原」の唱和があるが、それには衣摺のことは見えない。「いにしへにあ(1957)りけむ人」は別に斥す處があらう。古人の風流行爲を引證して、流石なる眞野のはり原よと讃美した。
 
朝入爲等《あさりすと》 磯爾吾見之《いそにわがみし》 莫告藻乎《なのりそを》 誰島之《いづれのしまの》 泉郎可將刈《あまかかるらむ》       1167
 
〔釋〕 ○あさりすと 求食すとて〔右○〕。「朝入」は借字。○なのりそ 既出(八四〇頁)。○いづれの 「誰」を意訓によむ。○かるらむ 新考に未來の事をいへるなればカリナム〔四字傍線〕と訓むべしとあるは非。△寫眞、挿圖244(八四〇頁)を參照。
【歌意】 自分があさりするとて、磯で見たことであつた莫告藻を、何處の島の海人が刈り取るであらうか。――濱あるきしてそこに見付けた娘を、何處の島人が手に入れることであらうか。
 
〔評〕 勿論譬喩の作である。田舍酒人を醉はしめる類で、潮風に吹かれてお色が眞黒な中に、一寸乙な女が目に留まり、「いづれの島の海人か刈るらむ」、結局は島人の妻だらうが勿體ないものだと、羨望の意を寓せた。
  島過すと磯に見し花風吹きて波はよすとも取らずはやまじ (本卷――1117)
と同調。これを古義に、
  物の便にわが見初めし女を誰がおの妻とすらむ、といふ意を譬へたる歌なるを、混れて羈旅の標内に入りしにや。
とあるが、これは客中の口占だから、羈旅の部に收めたもの。
 
今日毛可母《けふもかも》 奥津玉藻者《おきつたまもは》 白浪之《しらなみの》 八重折之於丹《やへをるがうへに》 亂而將有《みだれてあらむ》     1168
 
(1598)〔釋〕 〇けふもかも 「いまもかも」を參照(一六六頁)。○やへをるがうへに 幾重に折れ返るあたりに。卷二十にも、「白波の八重|乎流《ヲル》がうへに」とある。「をる」を古義に古今集の「沖にをれ波」のをれ〔二字傍点〕と同意と見たのは非。新考のタヽムの意に解したのも私見である。「於」の字に、上の意がある。○みだれてあらむ 舊訓ミダレタルラム〔七字傍線〕。
【歌意】 今日もまあ、沖の玉藻は、白波が幾重にも折れ返るあたりに、搖られて〔四字右○〕亂れてゐるであらうかまあ。
 
〔評〕 曾ての羈中の所見を回想した。「今もかも」は「けふもかも」の儔で套語であるが、過去想像に現實感を與へる手段として必要の語である。三句以下形容の妙を見る。
 
近江之海《あふみのみ》 湖者八十〔左△〕《みなとはやそぢ》 何爾加《いづくにか》 君之舟泊《きみがふねはて》 草結兼《くさむすびけむ》     1169
 
〔釋〕 ○あふみのみ 既出(六八七頁)。○みなとはやそぢ 下にあり〔二字右○〕の動詞を略いた。「十」原本に千〔右△〕とあるは誤。類本その他による。なほ略解は、「者」を有〔右△〕の誤とし、ミナトヤソアリ〔七字傍線〕と訓む松平康定説を可とした。姑く舊訓による。○くさむすびけむ 君が〔二字右○〕草結びけむの意を、四句の「君が舟はて」とあるに讓つて君が〔二字右○〕の語を略いた。「草結び」は無事平安を祈る咒術であつた。卷一「磐代の岡の草根をいざ結びてな」(六一頁)及び卷二の「磐代の濱松が枝を引き結ぶ」(四一四頁)の條下を參照。略解に「草を結ぶは旅行く道の標なり、いづくの道をか行くらむの意」とあるは當らない。又草枕の意を附會して、旅行する意と解する説もあるがいかゞ。
(1599)【歌意】 近江の湖水は、湊が澤山ある。その何處に君の船は泊つて、草を結んだことであらうぞ。
 
〔評〕 近江湖畔の港灣は、げにも澤山ある。然し旅行者の道筋は大抵が限定されてゐる。「いづくにか」といつた處で、その道筋以外の港灣ではない。さては「近江の海港は八十」は誇張の敍法で、「いづくにか云々」に對して、力強い前提を成すものである。尤もこの語は「近江の海八十の湊に」(卷二)「近江の海泊八十あり」(卷十三)など見え、當時襲用の套語と思はれるから、作者はさう深い用意なしに使つたものかも知れない。
 當時自身の平安無事を咒願して、物結び草結びの行事を修したことは、既に再三縷述した。これは旅行者に於いて、特に痛切に必要なる行爲であつた。又
  妹が門行きすぎかねて草結ぶ風吹き解くな又返り見む (卷十二――3056)
の如く、咒願して草を結んでもゐる。
 作者は今湖畔の道中にあつた。一足先に出帆した知人の船に思を馳せて、その旅况をつぶさに追想し、遂に草結びの行爲にまで想到した。濃到親切の情味が楮表に溢れてゐる。
                 △物結びの咒術に就いて (雜考――4參照)
 
左左浪乃《ささなみの》 連庫山爾《なみくらやまに》 雲居者《くもゐれば》 雨曾零智否《あめぞふるちふ》 反來吾背《かへりこわがせ》     1170
 
〔釋〕 ○ささなみ 既出(一三一頁、五五九頁)。○なみくらやま 近江の滋賀方面から見たる比叡山の古稱と思ふ。(1960)名は竝座《ナミクラ》の義か。○ちふ 「否」は呉音フ。△地圖 挿圖41(一二四頁)を參照。
【歌意】 連庫山に雲が出ると、吃度雨が降ると申します。早く〔二字右○〕歸つて來て下さい、わが夫《セ》の君よ。
 
〔評〕 後世「髪の毛三本動いたら舟に乘るな」と誡められ、「急がばまはれ」と教へられてある滋賀の湖邊は、早くも奈良時代において「連庫山に雲が出たら天氣が變る」との里諺があつたのだ。
 近江路の旅先で一寸外出した夫を留守居の妻が心配しての言で、歸つて來さへすれば、もう文句は無いのだ。その綢繆纏綿の情致思ふべしである。
 略解及び古義が、奈良の家にある妻が夫の旅先を想うての作としたのは、上句の強い現實感を見遁した説であるのみならず、結句の事情にも協はぬ。
 
大御船《おほみふね》 竟而佐守布《はててさもらふ》 高島之《たかしまの》 三尾勝野之《みをのかちぬの》 奈伎左思所念《なぎさしおもほゆ》     1171
 
〔評〕 ○おほみふね 天皇の〔三字右○〕。○はててさもらふ 大御船が泊てて自分達が〔四字右○〕御前に伺候するの意。古義にこの「さもらふ」を波間を伺ふ意としたのはいかゞ。卷六「風吹けば波か立たむのさもらひに」とあるとは場合が違ふ。上に「泊てて」とあるに注意するがよい。又「さもらふ」はさもらひし〔五字傍点〕と過去にいふべきを、音數に制限されて現在格に調へたもの。○たかしま 既出(七〇〇頁)。○みを 近江國高島都三尾郷のこと。今の三尾大溝の地を含む。三尾(ノ)崎あり。○かちぬのなぎさ 高島郡高島津の邊。今の大溝の地に當る。「かちぬのはら」を參照(七〇〇頁)。○おもほゆ 契沖訓による。奮訓ゾオモフ〔四字傍線〕。△地圖 挿圖202(七〇一頁)を參照。
【歌意】 天皇の〔三字右○〕大御船がとゞまつて、侍臣の自分等が〔七字右○〕伺候した、高島の三尾の勝野の波打際がさ、思ひ出されるわ。
 
〔評〕 三尾の勝野に大御船の泊てたのは何時の代のことか。卷一、明日香(ノ)川原(ノ)宮(ニ)御宇天皇(ノ)代の標下、「金《アキ》の野《ヌ》の尾花刈り葺き」の歌の左註に「一書(ニ)云(フ)、戊申(ノ)歳幸(セル)2比良(ノ)宮(ニ)1大御歌」とあれば、皇極天皇はその比良行幸の序を以て勝野にいでましのあつたものか。又は天智天皇の志賀(ノ)大津(ノ)宮の頃の御事か。
(1962) 勝野の津は小灣だけれど、滋賀地方と違ひ湖面が濶いし、且比良の明神崎(三尾崎)の餘波を南から受けるので比較的波が高く、隨つて渚の景色も惡くはないが、茲に「渚しおもほゆ」といふのは、その渚から打渡した湖水の全景を包容するもので、明媚な風光に魅せられた供奉の官人の一人が、後日になつても反芻的に、かく讃歎の語を放つたものであらう。
 古義に「近江國へ行幸ありし程、京にて思ひ遣りて詠めるなるべし」とあるは、甚しい誤解である。
 
何處可《いづくにか》 舟乘爲家牟《ふなのりしけむ》 高島之《たかしまの》 香取乃浦從《かとりのうらゆ》 己藝出來船《こきでくるふね》     1172
 
〔釋〕 ○ふなのり 「ふなのりせむと」を見よ(五二頁)。○かとりのうら 高島の香取の浦は、大船の香取の海(卷十一)と同じく、高島郡ではあるが所在不明。地形を案ずるに、水尾ノ崎から北舟木附近に及ぶ灣の稱であらう。眞長《マナガ》の浦も同處か。地名辭書に明神崎(三尾崎)附近に充てたのは諾はれない。○こきでくるふね 元本神本の訓コキデコシフネ〔七字傍線〕を古義の採つたのは非。△地圖 挿圖202(七〇一頁)を參照。
【歌意】 何處ではじめ〔三字右○〕、乘船したことであらうか、高島の香取の浦から、漕ぎ出してくるあの〔二字右○〕船はさ。
 
〔評〕 香取の浦から漕ぎ出す船なら、香取の浦で船乘したもので、何も「いづくにか」と疑ふに及ばないと斷じたら早計である。
 抑も湖水西岸の航路は、大津から北|海津《カイヅ》へかけて所謂若狹街道と竝行し、若狹越前等の北國に對する重要な(1963)る輸送幹線であつた。隨つて客船や荷船の往來が頻繁を極めたと想はれる。
 されば眼前の香取の浦から乘り出す船にしても、それは遠くて鹽津菅浦大崎邊から、近くて海津邊からでも出て來たのである筈、そこで「いづくにか」の疑問が描かれ、自分の描いたその係蹄に、作者はみづから出頭没頭してゐる。恐らく勝野の津か或は三尾の崎(明神崎)あたりの岸頭に立つて北望しての感想だらう。
 
斐太人之《ひだびとの》 眞本流云《まきなかすとふ》 爾布乃河《にふのかは》 事者雖通《ことはかよへど》 船曾不通《ふねぞかよはぬ》     1173
 
〔釋〕 ○ひだびと 飛騨人。飛騨は山國の事とて、國人多く杣を業とし、杣木を川に切り流す。又木工即ち大工を業とし、これを飛騨(ノ)工と稱すること、日本後紀、三代實録、延喜式(木工寮式)拾遺集、大和物語等に見える。但眞木流すは杣人の生業で、木工(1964)のする事でない。諸註こゝを木工の事と解してゐるのは誤である。「斐太人の打つ墨繩の」(卷十一)とあるは木工である。○まき 既出(七二五頁)。○にふのかは 飛騨國大野郡丹生川村。川を今は小八賀川と稱する。諸註大和の丹生川とするは當らぬ。○ことは 言《コト》は。
【歌意】 飛騨人が杣木を切り流すといふ、丹生の川は急流で、兩岸から〔七字右○〕お互に話は通ふが、舟は通はぬわい。――私とあの女との間もそんな形でね。
 
〔評〕 國衙の官人などの丹生川所見とし、偶ま杣人の「眞木流す」操作こそ見ないが、かねて話には聞いてゐたので、「とふ」といつたと解せられぬ事もないが、やはりこれを相聞の譬喩歌とし、使こそ通へ逢ひ難いの意と見たい。飛騨に取材したことは「相手が飛騨の國人だからであらう。言通ふほどの河幅でありながら舟が渡せぬは急流の故で、二人の戀にはきびしい邪魔のあるこどが暗示されてある。
 
霰零《あられふり》 鹿島之崎乎《かしまのさきを》 浪高《なみたかみ》 過而夜將行《すぎてやゆかむ》 戀敷物乎《こひしきものを》     1174
 
〔評〕 ○あられふり 鹿島に係る枕詞。霰降りその音の喧《カシマ》しといふを、鹿島にいひかけた。○かしまのさき 常陸國鹿島郡鹿島。卷九に「牡牛《コトヒウシ》の三宅の滷《カタ》にさし向ふ鹿島の崎に」とあり、三宅の滷は下總國海上都三宅郷の(1965)の北邊に沿へる鹵潟地(今利根川の河道)で、その對岸の有名なる鹿島の砂山は即ち鹿島の崎である。○すぎて 空しく〔三字右○〕過ぎて。古義に、その崎に留り居ること協はずして漕ぎ放れてやと解したのは非。
【歌意】 あの鹿島の崎を、波が高さに、只通り〔二字右○〕過ぎて行かうことか、戀しくて立寄りたい〔五字右○〕ものをさ。
 
〔評〕 常陸の内海は到る處現在よりはもつと廣々としてゐた。今の三宅の臺下の低地は、古代は遠淺の潟地で三宅滷といつたが、對岸鹿島の崎の邊は、東|安是《アゼ》の湊からくる海水の逆流で、風向により波が荒かつたらしい。作者はその船が風浪に妨げられて寄泊にも及ばず、鹿島の崎を空しく通過する遺憾さを歌つてゐる。「戀しきものを」の※[立+曷]後の辭樣、含蓄の餘味が搖曳する。
 鹿島の崎は昔でも何の風情もない砂山の出崎に相違ない。それに戀々たる執著を寄せるとは不思議の限だ。或はその邊の水驛に意中の人を想望してゐるのではあるまいか。當時も所在の水驛灣港には遊女の類が棲んで居たことは事實である。
 
足柄乃《あしがらの》 筥根飛超《はこねとびこえ》 行鶴乃《ゆくたづの》 乏見者《ともしきみれば》 日本之所念《やまとしおもほゆ》     1175
 
〔釋〕 ○あしがら 卷十四には「あしがり」と詠んだ歌が數首ある。「あしがらやま」を見よ(八九六頁)。○はこ(1966)ね 箱根山。相模駿河の國界をなし、峰巒重疊し山頂に蘆の湖あり、最高峯神山は標高約一四四〇米突。山中又温泉に富んでゐる。○ともしき 既出(七二四頁)の(1)の意。△地圖 挿圖267(八九五頁)を參照。
【歌意】 足柄の箱根の山を、飛び越えてゆく鶴の、珍しくて飽かぬのを見ると、故郷の倭がさ、偲ばれるわ。
 
〔評〕 作者は箱根の東方に居て瞻望したのである。今の小田原邊は昔は沮洳地で蘆原だつたから、鶴も相當その附近に棲んで居たらう。その鶴が青雲に一片の白を點じて、足柄亂山を飛び越えてゆく。實に目覺ましい雄大な景色である。これにつけても亦故郷人に見せたらばと、倭偲びの念に打たれて止まない。
  あしたには海びにあさりし夕べには倭へ越ゆる雁しともしも (卷六、膳王――954)
と同趣同調の作で、而もこの鶴の飛びゆく方角は常に願望して止まぬ故郷の空の方であることを考へると、一段と凄愴の感に打たれる。
 
(1967)夏麻引《なつそひき》 海上滷乃《うなかみがたの》 奥津洲爾《おきつすに》 鳥者簀竹跡《とりはすだけど》 君者音文不爲《きみはおともせず》     1176
 
〔釋〕 ○なつそひき 夏麻引き績《ウ》みの績み〔二字傍点〕を轉音で海上《ウナカミ》にいひかけた枕詞と思ふ。夏季麻の皮を苧に引く、故に夏麻といふ。さてその苧を絲に績《ウ》むのである。隨つて舊訓ナツソヒク〔五字傍線〕とあるは非。又(1)夏麻引く畝《ウネ》を海上に係けた(冠辭考、古義)。(2)「なつそ」は魚釣緡《ナツリソ》の略にて釣絲を引く海と續けた(古義説)の二説あるが不用。○(1968)うなかみがた、海上潟。上總國海上郡(今市原郡)。東京灣の東北偏に當る。海上の地名は古事記に上莵上《カミツウナカミノ》國、下(ツ)菟上(ノ)國(國造本記にも)と見え、上菟上は上總の海上郡、下菟上は下總の海上都に當る。卷十四の上總歌にも、「夏麻ひき海上潟の沖つ洲に舟はとどめむ小夜更けにけり」、とあれば、こゝの海上潟も上總國と見るが穩かである。○おきつす 沖合の洲。○とりはすだけど 鳥は〔二字右○〕鳴き騷げど。「すだく」は聚まる意だが、こゝは鳴くことをも籠めてある。「簀竹」は戲書。○おともせず 音づれもせずの意。
【歌意】 この海上潟の沖合の洲に、水鳥は鳴き騷ぐが、それに引換へ〔六字右○〕、あの人は音もしないわ。
 
〔評〕 上總の八幡姉が崎邊を舟行した人の作である。海上郡の西濱は、現在は無論だが、昔といへども遠淺の鹵潟地なので、海上潟と呼ばれた。泥沙の作る浮洲流れ洲は浦遠く出没し、そこには水鳥等の求食の聲が喧しく響く。この聽覺から起つた聯想は、忽ちその正反面に走つて、音づれもない故郷人に想到した。「鳥はすだけど君は音もせず」と、極めて露骨なる對比的敍法を以て、その合拍の間にきびしい感傷の情緒を寓せた。君は必ず家妻である。
 
(1969)若狹在《わかさなる》 三方之海之《みかたのうみの》 濱清美《はまきよみ》 伊往變良比《いゆきかへらひ》 見跡不飽可聞《みれどあかぬかも》     1177
 
〔釋〕 ○みかたのうみ 若狹國三方都の三方湖。東西一里南北その半。北に山を隔てゝ水月湖あり、三方より大なり、又その北に久々子、日向の二湖あり、その水相通ず。○いゆきかへらひ 「い」は發語、「かへらひ」は反り〔二字傍点〕の延音。
【歌意】 若狹にある、三方の湖の濱がきれいさに、往き返りして見ても/\、飽かないことよなあ。
 
〔評〕 三方の湖は極めてやはらかい和やかな感じのする小風景である。「い往き返らひ」清き汀を逍遙すれば、結局は套語ながら「見れど飽かぬかも」と落着せざるを得ない。
 
(1970)印南野者《いなみぬは》 往過奴良之《ゆきすぎぬらし》 天傳《あまづたふ》 日笠浦《ひかさのうらに》 波立見《なみたてりみゆ》     1178
  一(ニ)云(フ)、思賀麻江者《シカマエハ》、許藝須疑奴良之《コギスギヌラシ》。
 
〔釋〕 ○いなみぬ 既出(六六五頁)。○あまづたふ 日に係る枕詞。日は天を傳うて出没すればいふ。○ひかさのうら 播磨國印南郡大鹽と曾根との間の岡山を日笠山といふ。その山下の海の稱。推古天皇紀に、十一年――舍人(ノ)姫王薨(リヌ)2於赤石《アカシニ》1仍(テ)葬(ル)2赤石(ノ)檜笠《ヒカサノ》岡上(ニ)1とあるに據れば明石郡らしいが、郡中にその地名がない。蓋し古への明石は加古、印南、美嚢三郡に亙つた總稱で、明石國といつたのだから、赤石の檜笠と記されたものであらう。紀の文は誤と見てもよい。○たてりみゆ 古文の格、古義訓による。舊訓タテルミユ〔五字傍線〕。○しかまえ 飾(1971)磨江。古への飾磨津か。今の播磨國飾磨郡飾磨町飾磨川の河口。
【歌意】 印南野は早〔右○〕行き過ぎたらしい。日笠の浦に波が立つてゐるのが、あれ〔二字右○〕見えるわ。
 
〔評〕 日笠山はいはゞ南北に延長した一座の岡陵に過ぎないが、その山下の廣い鹽田は古代においては、無論遠淺の浦に波の立つてゐたことを物語つてゐる。
 この旅行者は、長い間倦怠極まる播磨平野を横斷して、茲に始めて海に接し得た、その珍しさ嬉しさを氣持よく歌つた。當時端的に眼に映じたものは、只波の白さであつた。乃ち「波立てり見ゆ」は必然的の下語である。さて一呼吸の餘裕を生じて、「印南野は行き過ぎぬらし」と廻顧し思惟したのである。
 左註の飾磨江は日笠の浦まで舟行三里、波には既に見飽きてゐるから、下句の印象がよく躍らない。本行のは西行の作、左註のは東行の作。
 
家爾之※[氏/一]《いへにして》 吾者將戀名《われはこひむな》 印南野乃《いなみぬの》 淺茅之上爾《あさぢがうへに》 照之月夜乎《てりしつくよを》     1179
 
〔釋〕 ○いへにして 家に於いて。○こひむな 「な」は歎辭。○あさぢ 「あさぢはら」を見よ(八〇一頁)。
【歌意】 歸つたら〔四字右○〕家において、さぞ自分は戀しく思はうな、あの印南野の淺茅の上に照つた、面白い〔三字右○〕月をね。
 
〔評〕 印南野を月夜に通過しての面白さを、追憶した旅中の作である。過去の印象が餘に歴然たる處から、未來(1972)も同樣と豫想して、その甚しい執着に我ながら首をかしげてゐる。「淺茅がうへ」の一語下し得てよい。荒涼たる曠野に、凄其衣に薄る夜氣の搖曳を思はせる。
 
荒礒超《ありそこす》 浪乎恐見《なみをかしこみ》 淡路島《あはぢしま》 不見哉將過《みずやすぎなむ》 幾許近乎《ここだちかきを》     1180
 
〔釋〕 ○あはぢしま 既出(六六二頁)。○みずやすぎなむ 略解訓による。舊訓ミズテヤスギム〔七字傍線〕。○ここだ 大層に、甚だなどの意。
【歌意】 荒磯を越す波がまあ恐しさに、あの淡路島を見ないで、通り過ぎようことかえ、大層近いものをさ。
 
〔評〕 名勝淡路島を目前にしなから、餘所に見過す殘念さを歌つた。結句はいひ過ぎたやうだ。
 
朝霞《あさがすみ》 不止輕引《やまずたなびく》 龍田山《たつたやま》 船出將爲日者《ふなでせむひは》 吾將戀香聞《われこひむかも》     1181
 
〔釋〕 ○やまず 不斷に。何時も。○たつたやま 既出(二八四頁)。○ふなでせむひ 難波の浦を〔五字右○〕。△地圖及寫眞 挿圖91(二八六頁)、90(二八五頁)を參照。
【歌意】 朝の霞が何時も靡く、あの〔二字右○〕立田山を、愈よ難波を〔五字右○〕船出しよう日は、自分は懷かしがらうなあ。
 
〔評〕 どの方面にゐて立田山を眺めたかは不明だが、近日西國に旅立つ大和人の作であらう。さては立田山は必ず來往すべき要路であるので、毎朝霞たなびく光景に殊更注意が惹かれたのである。この前提のもとに、難波(1973)出發の際は、如何にこの山の名殘が惜しまれることだらうと、豫め懷土望郷の念に打たれてゐる。古義が「さても見飽かぬ龍田山ぞ」と餘意をいひ添へたのは斜視である。
 
海人小船《あまをぶね》 帆毳張流登《ほかもはれると》 見左右荷《みるまでに》 鞆之浦囘二《とものうらわに》 浪立有所見《なみたてりみゆ》     1182
 
〔釋〕 ○とものうら 既出(九九一頁)。○うちわに 古義訓ウラミニ〔四字傍線〕。△地圖及寫眞 挿圖291(九五二頁)、292(九九二頁)を參照。
【歌意】 海人の小舟に、帆を張つたかと思ふ位に、鞆の浦囘に波が立つてゐるのが、あれ〔二字右○〕見えるわ。
 
〔評〕 鞆の浦は風光の和やかな海で、今は風があつても、沖にちら/\と白いものが見える程度の波なのだ。これ海人小舟の帆影に紛ふ所以である。つまり白の一語を囘護して道破せぬ處に味がある。「見るまでに」「見ゆ」の重複、例は多いが面白くはない。
 
好去而《まさきくて》 亦還見六《またかへりみむ》 大夫乃《ますらをの》 手二卷持在《てにまきもたる》 鞆之浦囘乎《とものうらわを》     1183
 
〔評〕 ○まさきくて 眞幸《マサキ》くて。「好去而」をかく訓むことは、卷五「好去好來」を見よ(一五五九頁)。○ますらをのてにまきもたる 鞆に係る序詞。鞆は弓射る時|丈夫《マスラヲ》が手に纏く物なればいふ。「ますらを」(四〇頁)及び「とも」(二六三頁)を見よ。○うらわを 古義訓ウラミヲ〔四字傍線〕。△繪圖、挿圖83(二六三頁)を參照。
(1974)【歌意】 まあ/\無事で、後にも亦立ち返つて見ようぞ、丈夫が手に纏いて持つてゐる鞆といふ名の、この鞆の浦囘をさ。
 
〔評〕 鞆の修飾としての三四句など、當時では尚平語であらう。「また返り見む」はこの主想であるが、これも屡ばいつた如く、萬葉人の套語である。但鞆の浦は、この對語を繰り返さゞるを得ぬほどに好風光である。
 初句の「まさきくて」は生命に危惧の念をもつ人の發する詞である。されば作者は長旅か何かで、容易に歸還の望のない人であらう。或は西國方面に赴任する老年の官吏でゝもあらうか。なほ、
  わが命まさきくあらば又も見む志賀の大津によする白波 (卷三、穗積老――288)
の評語を參照(七二一頁)。
 
鳥自物《とりじもの》 海二浮居而《うみにうきゐて》 奥津浪《おきつなみ》 ※[馬+參]〔左△〕乎聞者《さわぐをきけば》 數悲哭《あまたかなしも》     1184
 
〔釋〕 ○とりじもの 鳥そのまゝでの意。「うきゐて」に係る序詞。「かもじもの」を見よ(一九三頁)。○さわぐ 「※[馬+參]」は副馬の三頭なるをいひ、騷ぐの義がない。意訓か。或は驟〔右△〕の誤か。姑く疑を存する。○あまたかなしも 舊訓ココラカナシモ〔七字傍線〕。「哭」は喪《モ》には哭するが禮であつたから、意訓にモと訓む。
【歌意】 水鳥そのまゝで海に浮いてゐて、沖の波の騷ぐのを聞くと、ひどく悲しいことわい。
 
〔評〕 船中の作である。全然船を道破せず、直ちに「海に浮きゐて」と飛躍的の叙法を用ゐた。かくてその頼よ(1975)りなさ心細さが力強く表現される。その上に恐ろしい波の騷ぎが轟いては、愈よ情けなく思つて、その場合「あまた悲しも」、かういふより外はあるまい。
 
朝菜寸二《あさなぎに》 眞梶※[手偏+旁]出而《まかぢこぎいでて》 見乍來之《みつつこし》 三津乃松原《みつのまつばら》 浪越似所見《なみごしにみゆ》     1185
 
〔釋〕 ○まかぢこぎいでて 楫(梶)には貫く〔二字傍点〕といひ、取る〔二字傍点〕といふ。漕ぐ〔二字傍点〕といふのは正しくない。集中この歌の外に見えぬことで、さりとて「榜」は外に訓みやうもない。恐らく「眞梶」の二字に誤があらう。「まかぢ」は既出(八四六頁)。○みつのまつばら 松原のある御津は、打任せては難波の御津である。卷五に「大伴の御津の松原」とあると同處。「みつのはま」を見よ(二三五頁)。
【歌意】 朝凪ぎを時として、諸楫立てゝ〔三字右○〕漕ぎ出して、見ながら來た、あの御津の松原が、もう浪越しに遠く〔二字右○〕見えるわ。
 
〔評〕 無技巧の描寫であるが、時間と空間との推移が交錯して面白い。二句は稍穩當でない。「眞梶」も大袈裟だが、事實なら仕方がない。
 
朝入爲流《あさりする》 海未通女等之《あまをとめらが》 袖通《そでとほり》 沾西衣《ぬれにしころも》 雖干跡不乾《ほせどかわかず》     1186
 
〔釋〕 ○ほせど 「跡」は添字。
(1976)【歌意】 漁《スナド》りする海人少女達が、袖をとほして濡れたことであつた衣は〔右○〕、幾ら干しても乾かぬわ。
 
〔評〕 海人少女達の生活の辛苦を歌うた。上の
  妹がため貝をひろふと茅沼の海に濡れにし袖はほせど乾かず (本卷−−1145)
と同型同調であるが、その歸趨を殊にしてゐる。
 
網引爲《あびきする》 海子哉見《あまとやみらむ》 飽浦《あくうらの》 清荒磯《きよきありそを》 見來吾《みにこしわれを》     1187
 
〔釋〕 ○みらむ 「見」の上に將〔右△〕を、或は下に覽〔右△〕を脱したものか。○あくうらの 紀伊國海士都(今海草都)の田倉崎の灣か。卷十一に「木《キ》の國の飽等《アクラ》の濱」と見え、飽等は飽浦《アクウラ》の急語と思はれる。宜長いふ、加太《カダ》の浦の南なる田倉《タクラ》これなるべし(玉勝間)と。古義はアクラノ〔四字傍線〕と四言に訓んだ。
【歌意】 網を引く海人と、他人は〔三字右○〕見るであらうか、飽浦のきれいな荒磯を、見に來た自分をさ。
 
〔評〕 飽浦の好風光に見惚れて、何時までも荒磯に佇立してゐたが、ふと氣が付いて我れに返つた時の感懷である。かう長居しては定めし他所目には浦の海人と思はれようかと、その逸興を歌つた。但集中に類款(1977)が多い。なほ卷三「荒栲の藤江の浦に」の條の評語を參照(六六三頁)。
 
右一首、柿本朝臣人麻之歌集(ニ)出(ヅ)。
 
山越《やまこえて》 遠津之濱之《とほつのはまの》 石管自《いはつつじ》 迄吾來《わがきたるまで》 含而有待《ふふみてありまて》     1188
 
〔釋〕 ○やまこえて 山越えて遠しを達津に係けた序詞。狂言詞にも「山一つあなたの里に」など見え、山のあちらは遠いとの觀念は昔ほど強い。で「山越えて」が遠津の序詞に用ゐられた。この句を古義に四句へ係けて見るべしとあるは非。○とほつのはま 場所不明。宣長が考に卷十一に「霰ふり遠津大浦に」の次に「木の國の名高の浦」の歌を擧げたれば、遠津は紀伊國なるべしとあるが、確定的ではない。○いはつつじ 既出(四九五頁)。古義訓イソツツジ〔五字傍線〕。○わがきたるまで 卷廿にも「わが伎多流麻弖《キタルマデ》とある。古義に「吾」を返〔右△〕の誤としてカヘリコムマデ〔七字傍線〕と訓み、下の「足代《アテ》過ぎて」の歌の結句、及び卷九の長歌の結句の「還り來むまで」を證に引いたが、そ(1978)れはそれこれはこれである。讀萬葉古義の訓ワガクルマデニ〔七字傍線〕。○ふふみてありまて 含んでゐて待て。
【歌意】 遠津の濱の岩躑躅よ、自分がまた來るまでは、咲かずに莟んで待つてゐなさい。
 
〔評〕 濱邊の岩山などに躑躅は赤々とその莟を著けてゐるが、今は逗留の出來ぬ場合なので、また出直してくるまで、莟のまゝで待つてをれと注文した。不可能と知りつゝも無理をいふ、その花を愛賞したい念願の如何に強いかゞ窺はれる。風流三昧。
 
大海爾《おほうみに》 荒莫吹《あらしなふきそ》 四長鳥《しながどり》 居名之湖爾《ゐなのみなとに》 舟泊左右手《ふねはつるまで》     1189
 
〔釋〕 ○しながどり 前出(一九三七頁)。○ゐなのみなと 「ゐなぬ」(七〇八頁)及び「むこのとまり」(七一四頁)を見よ。△地圖 挿圖207(七〇九頁)を參照。
【歌意】 大海に荒風は吹くなよ、猪名の湊に、この船が行き著くまでは。
 
〔評〕 高が攝津内海でも、一葉舟の昔の航海では恐怖すべき大海だ。武庫山おろしでもくれば忽ち船は寂滅だ。されば「あらしな吹きそ」はやはり眞劍の叫である。
 猪名の湊は武庫の海の深く灣入した奥區(挿圖二〇七の假想海岸線參照)だから、啻に風波の安全なるのみならず、この時の豫定航路がその湊入にあつたと思はれる。是非に泊までは安全にと祈念する航海者の緊張が、確かに受け取られる
 
(1979)舟盡《ふねはてて》 可志振立而《かしふりたてて》 廬利爲《いほりせむ》 名子江乃濱邊《なこえのはまべ》 過不勝鳧《すぎかてぬかも》     1190
 
〔釋〕 ○かしふりたてて 船※[木+戈]を突き立てゝ。般を繋ぐの意を含む。「かし」は和名抄に、※[爿+戈]※[爿+可](ハ)所2以繋(ク)1v舟(ヲ)、漢語抄(ニ)云(フ)加之《カシ》と見えて、舟繋ぐ※[木+戈]をいふ。○いほりせむ 「いほり」を見よ(二二七頁)。○なこえのはま 攝津國住吉の北濱に奈呉(名兒)の海がある。又越中國射水都に奈呉乃《ナゴノ》江、奈呉江、奈呉の海の稱がある。この前後は悉く近畿方面の詠作で、而も左註に見れば藤原(ノ)卿一人の歌である。さてはこの歌のみ飛び離れた越中の詠とすることも如何であるから、尚攝津の奈呉の海と假定する。但攝津の奈呉は江と續けた例はない。古義は「名」を三句につけてイホリセナ〔五字傍線〕と訓み、「江」を潟〔右△〕の誤として四句をコカタノハマベ〔七字傍線〕と訓んだ。○すぎかてぬ 「入りかてぬ」を見よ(四九六頁)。
【歌意】 船が著いて、船※[木+戈]を突き立てゝ艤《モヤ》つて〔二字右○〕、宿らうぞ。この奈呉江の濱邊は、いゝ景色で〔五字右○〕、とても通り過ぎかねることよ。
 
〔評〕 全然上句は希望で、「過ぎかてぬ」心から出た空想なのだ。それを「かし振り立てゝ」など現實的描寫を用ゐて、さも實現しさうに放言した處に、詩味が發酵されるのである。
 
妹門《いもがかど》 出入乃河之《いでいりのがはの》 瀬速見《せをはやみ》 吾馬爪衝《わがまつまづく》 家思良下《いへもふらしも》     1191
 
(1980)〔釋〕 ○いもがかどいでいり 妹が門出で入りを入野《イリノ》河に係けた序。略解は「出入」は入出〔二字右△〕の顛倒、「乃」は水〔右△〕の誤としてイリイヅミガハ〔七字傍線〕と訓み、妹が門を入り出づを泉河に係けたりと解した。○いりのがは 入野川。山城國乙訓都の入野の川。今|善雄《ヨシヲ》川といふ。野《ノ》は古言ヌなれど、當時またノともいつたことは春の能《ノ》に(卷五)すがのあら能《ノ》(卷十四)夏の能《ノ》の(卷十八)などの例がある。又大和吉野|國※[木+巣]《クズ》村に入野といふ處がある。こゝの入野も或は國※[木+巣]村の入野か。○わがま 舊訓ワガウマ〔四字傍点〕。○いへもふ 「いへこふ」を見よ(八四四頁)。眞淵訓による。舊訓イヘコフ〔四字傍点〕。
【歌意】 妹が門を出入する、その入りといふ名の、入野川の水瀬がまあ早さに、自分の馬が躓くわ。コリヤ家人が自分を念ふらしいわい。
 
〔評〕 家人の思へば乘馬が躓くといふ俗信のことは、
  鹽津山うち越えゆけばわが乘れる馬ぞつまづく家戀ふらしも (卷三、笠金村――365)
の條において既に述べた。尚この次の「白栲に匂ふ眞土の山川に」の歌も等類で、その中鹽津山が一番高調である。
 初二句の辭樣は卷九に「妹が門入りいづみ河の床なめに」の類例が見え、人麻呂の「をとめ子が袖ふる山」(卷四)の顰に倣つたものらしい。尚同歌の評語を參照(一〇八七頁)。
 
(1981) 白栲爾《しろたへに》 丹保布信土之《にほふまつちの》 山川爾《やまがはに》 吾馬難《わがうまなづむ》 家戀良下《いへこふらしも》     1192
 
〔釋〕 ○しろたへににほふ 川瀬が〔三字右○〕白色に美しく映える。「しろたへ」を參照(一一八頁)。○まつちのやまがは 眞土峠の西麓に切崖高くなつた小川を待乳川(堺川)といひ、今ある橋を兩國橋と稱する。大和紀伊の國界である。「信」に眞《マ》の義があるので充てた。「まつちやま」を見よ(一二七頁)。○なづむ 「難」を意訓によむ。△地圖及寫眞 挿圖46(一四三頁)、73(二一八頁)を參照。
【歌意】 眞白に瀬々が美〔三字右○〕しく映える、眞土の山川に、それを渡る自分の馬が行き悩むわ。さては家人が戀しく思ふらしいわい。
 
〔評〕 「白たへに匂ふ」は白波の立つ婉辭である。さほどの早瀬では、打入れて渡るに駒の足掻の泥む筈だ。
 上の歌とこれとは、その詞態と地名こそ相違すれ、主意は同一である。恐らく何れかゞ本文で、一つはその異傳を注したのが、いつか本行に混れ込んだむのだらう。
 
(1982)勢能山爾《せのやまに》 直向《ただにむかへる》 妹之山《いものやま》 事聽屋毛《ことゆるせやも》 打橋渡《うちはしわたす》     1193
 
〔釋〕 ○せのやま 「勢能山」を見よ(一四一頁)。○ただに 一圖に、一直線に。○いものやま 「勢能山」を見よ(一四一頁)。○ことゆるせやも 言葉に承知したせゐかして。言聽せば〔右○〕やのバの接續辭を用ゐぬは古文法。「も」は歎辭。○うちはし 既出(五一四頁)。△地圖及寫眞挿圖46(一四三頁)、45(一四二頁)を參照。
【歌意】 背の山にまともに向つてゐる妹の山、それが、男の背山の乞をウンと承知したせゐかしてまあ、間の川瀬に〔五字右○〕橋を架け渡すわ。
 
〔評〕 打橋渡す河は妹背の山の間を流れる紀の川である。古今集(雜)にも「ながれては妹背の山の中に落つる吉野の川(紀の川)」と詠まれ、その地理は明確である。然るに「打橋渡す」は紀の川ほどの大川にはふさはぬといふ前提のもとに、宜長は
  妹山といふは兄山あるにつきて只設けていへる名にて、實に然いふ山あるにはあらじ。
の一説を提出した。が妹山の存在は事實で、この歌の外卷六卷七卷十三に數首の明證を擧げ得る。又他の説に、妹山を背山と同じ紀の川の北岸に獨立する山とし、その間の小川に打橋渡すと解した。臆説も亦甚しい。
 これは紀の川の北岸の背山の下から川の中洲までの淺瀬に、ヘナ/\の板橋を架け、中洲から船で、南岸妹山の邊に渡つてゐたのであらう。かうした交通状態は、河原の廣い田舍の川によく見受ける。
(1983) 作者はこの打橋を見て、所柄忽ち男女間の關係に想到し、平生盈々たる一水を隔てゝ、有意無意の間に永く相望んでゐた、他人行儀の妹背の山も、今や雙方の情意が疎通し投合した結果、女山は男山の來訪を承諾し、さてその打橋を渡して壻君歡迎の道を闢くものと觀じた。神秘的の香氣を帶びた巧緻の構想、容易に及び易からざるものがある。詞辭又分寸の弛緩もなく緊張してゐる。「打橋渡す」の現在描寫は殊に克明な印象を與へ、洵に恰當な表現である。
 
木國之《きのくにの》 狹日鹿乃浦爾《さひかのうらに》 出見者《いでてみれば》 海人之燈火《あまのともしび》 波間從所見《なみのまゆみゆ》     1194
 
〔釋〕 ○さひかのうら 雜賀の浦。紀伊國海士郡(今海草郡)。浦の東端は雜賀崎を以て若の浦を隔てる。その野を雜賀野といふ。○あまのともしび 漁火《イザリビ》をいふ。○なみのまゆ この「ゆ」はニ〔傍点〕の意に近い。古義訓による。舊訓ナミマヨリミユ〔七字傍線〕。△地圖 挿圖391(一六二六頁)を參照。
【歌意】 紀伊の國の、雜賀の浦に出て見ると、海人のいざりの火が、波の間に見えるわ
 
〔評〕 門部王も難波の浦で「見渡せば明石の浦にもゆる火の」(卷三)と詠まれ、海上の漁火ほど、海なき他郷人の眼を驚かすものはない。或時は美しく花やかに勇壯に、或時は心細げに寂しげに不安に感ずる。矚目の景を大まかに敍した處に、技巧を離れたよさがある。
 
(1984)麻衣《あさごろも》 著者夏樫《きればなつかし》 木國之《きのくにの》 妹背之山二《いもせのやまに》 麻蒔吾妹《あさまくわぎも》     1195
 
〔釋〕 〇きれば 古義訓ケレバ〔三字傍線〕。〇なつかしきのくにの 「夏樫木」は戲書だらう。〇あさ 既出(一一一九頁)。〇あさまく 麻蒔きし〔四字傍点〕と過去にいふべきを現在格に叙した。訓は略解による。舊訓アサマケ〔四字傍線〕は非。〇わぎも 「わぎもこ」を參照(一七一頁)。△寫眞 挿圖313(一一二〇頁)を參照。
【歌意】 麻衣を著ると、懷かしいわ。あの紀の國の妹背の山に、麻種〔右○〕を蒔いてゐた、吾妹が思ひ出されてね〔八字右○〕。
 
〔評〕 作者は大和人であらう。偶ま麻衣を著ると、嘗て紀路に往つた折、妹背の山あたりで行き摺りに見た、麻種を蒔いてゐた田舍娘を思ひ出した。一寸可愛らしい樣子をしてゐたので、「吾妹」とまで親稱を用ゐて、「なつかし」の情意を強調した。實は麻衣を著るまでは、忘れてゐた程の淡い戀心に過ぎないのだが、物に觸れては流石に死灰がまた燃える。而もその麻蒔く場處が外ならぬ妹背の山であつたとすると、愈よ好奇の情炎を煽るにふさはしいではないか。
 序にいふ、「麻裳よし紀人ともしも」(卷一)の枕詞の詞意を、この歌に湊合させて考へると、麻は當時紀州の名産であつたことが、確に斷言し得る。
 
右七首(ハ)藤原(ノ)卿(ノ)作。未(ダ)v審(カニセ)2年月(ヲ)1。
 
(1985) ○七首藤原卿作 「山越えて」以下を數ふれば八首となる。然し「妹が門出で入野川の」と「白栲に匂ふ眞土の」は、その何れかゞ異傳を註記したものと思はれるから、その一首を除くと數が合ふ。○藤原卿 誰れか。契沖はいふ、藤原(ノ)北卿にて房前なるべきを、北〔右△〕の字落ちたるにや、南卿武智麻呂は和歌に不堪なりけるか、集中一首もなければなり。もし大織冠ならば内大臣藤原卿とあるべしと。
 
欲得※[果/衣]登《つともがと》 乞者令取《こはばとらせむ》 貝拾《かひひろふ》 吾乎沾莫《われをぬらすな》 奥津白波《おきつしらなみ》     1196
 
〔釋〕 ○つともが 「つと」は土産の苞《ツツミ》物。「はなにもが」を參照(七四七頁)。略解訓による。○こはば 家人が〔三字右○〕。古義は二句にて切り、波の乞はゞの意に解したが、構思が不自然になる。○とらせむ 呉れよう。
【歌意】 土産物が欲しいと、家人が〔三字右○〕ねだつたら、呉れてやらうその〔二字右○〕貝を拾ふ、私を濡らすなよ、沖の白波よ。
 
〔評〕 自分めは洒落や道樂ではない、眞劍な家人の爲の貝拾ひだ、少しは察してさう邪魔立てするなと、底を割つて、沖つ白浪に同情を求めた。求めたとて非情の波には何の效果もないが、そこに痴呆の詩味がある。いかに波に濡れ/\貝拾ひに浮身を窶してゐたかゞ窺はれ、人情の温さに打たれる。
 
手取之《てにとりし》 柄二忘跡《からにわすると》 礒人之曰師《あまのいひし》 戀忘貝《こひわすれがひ》 言二師有來《ことにしありけり》     1197
 
(1986)〔釋〕 ○てにとりしからに 手に取るからに〔七字傍点〕と同じい。「し」の過去が殆ど現在完了格に近い。「咲之柄爾《エマシシカラニ》(卷四)「隔之可良爾《ヘダテシカラニ》」(同上)「相見之柄二《アヒミシカラニ》」(卷十一)など同例である。又「越我可良爾斷《コユルガカラニ》」(卷六)と現在にいふは素よりの事である。尚「し」の過去助動詞は、古代文法ではその結語を現在格で收める例がまゝある。古義訓テニトルガカラニ〔八字傍線〕も惡くない。○こひわすれがひ 既出(一七〇頁)。○ことにしありけり 既出(一三三九頁)。
【歌意】 手に取るまゝにすぐ忘れると、海人が效能をいつた戀忘貝、何のそれは〔五字右○〕、名ばかりでさあつたわい。
 
〔評〕 戀の煉獄から逃がれたい爲に、忘貝を拾つたことが曲敍されてゐる。上の
  住の江に行きにし道にきのふ見し戀わすれ貝言にしありけり (――1149)
と同趣であるが、海人の宣傳を引用した點は、一層現實的で、印象が力強い。「手に取りしからに忘る」の表現も一寸面白い。尚前出「夢のわたことにしありけり」の評語を參照(一九三〇頁)。
 
求食爲跡《あさりすと》 礒二住鶴《いそにすむたづ》 曉去者《あけゆけば》 濱風寒彌《はまかぜさむみ》 自妻喚毛《おのづまよぶも》     1198
 
〔釋〕 〇おのづま おのれの妻《メ》。
【歌意】 求食するとて〔右○〕、磯に棲む鶴が〔右○〕、夜が明けてゆくと、濱風の寒さに、おのれの妻を喚び立てるわい。
 
〔評〕 前出の
(1987)  夕なぎに求食する鶴しほみてば沖なみ高みおのが妻喚ぶ (――1164)
と殆ど相似た作。「あけゆけば」は鶴の鳴き出す時刻、「濱風寒み」は鶴の來て棲む時季なのである。「おの妻喚ぶ」は、想像を斷定にいつたもので、現實性が強調される。
 
藻苅舟《もかりぶね》 奥※[手偏+旁]來良之《おきこぎくらし》 妹之島《いもがしま》 形見浦爾《かたみのうらに》 鶴翔所見《たづかけるみゆ》     1199
 
〔釋〕 ○もかりぶね 玉藻など刈る舟。○いもがしま 紀州名所圖繪に、友が島の古名とあるに從ふ。友が島は紀伊國名草郡(今海草郡)加太《カダ》の海中にあり、西は淡路島と一水を隔てゝゐる。島の北に牛が首の瀬戸(中ノ瀬戸)あり、その邊を形見の浦と稱する。○かたみのうら 妹が島の形見の浦と續く。妹が島と形見の浦とは異地ではない。△地圖及繪圖 挿圖 477(一九七六頁)、478(一九七七頁)を參照。
【歌意】 藻刈舟が沖の方から〔四字右○〕、漕いでくるらしいわ。妹が島の形見の浦に、鶴が飛び翔けるのが見える。
 
〔評〕 形見の浦附近での所見である。卷二にも「玉藻刈る沖邊は漕がじ」とある如く、あの邊の沖は波荒く岩礁が多く、隨つて磯付の海藻が豐富で、藻刈舟の活躍場だ。鳴門若布の産地だ。偶ま近くの磯邊に求食してゐた鶴が、俄に物に驚いて飛び立つのを見て、その藻刈舟が沖から寄つてくると推定するのは自然である。
 
吾舟者《わがふねは》 從奥莫離《おきゆなさかり》 向舟《むかへぶね》 片待香光《かたまちがてり》 從浦※[手偏+旁]將會《うらゆこぎあはむ》     1200
 
(1988)〔釋〕 ○おきゆなさかり 稍無理だが、「ゆ」はニ〔傍点〕に近い意と見て、沖の方〔二字右○〕に遠離《トホザカ》るなと解する。實は沖へ〔右○〕とありたい處だ。卷三にも「沖へなさかり」とある。○むかへぶね 迎舟。古義訓ムカヒブネ〔五字傍線〕は非。○かたまちがてら 「かたまち]は一方のみ待つこと。「がてり」は既出(八五四頁)。ガテラ〔三字傍線〕も當時通用の語だが、「香光」はガテリと訓むがよい。
【歌意】 自分のこの舟は、沖の方に遠離るな。迎舟のくるのを、心待にしながら、浦邊から漕いで往つて出合はうよ。
 
〔評〕 約束こそないが、迎舟が來さうな場合だつたと見える。そこで餘り沖へは出るなと、船頭に聲を懸けたものだ。何れ迎舟は浦出してくるから、「浦ゆ漕ぎ合はむ」といつた。人的關係を主題にした舟行の作で、その情致に掬すべき面白味はある。奈良朝中期以後の風調が露出してゐる。「ゆ」の再出など苦にならない。
 
大海之《おほうみの》 水底豐三《みなそことよみ》 立浪之《たつなみの》 將依思有《よらむともへる》 礒之清左《いそのさやけさ》     1201
 
〔釋〕 ○みなそことよみ 波の音は海の底に鳴り響くのでいふ。上句は序詞。○よらむ 古義はヨセム〔三字傍線〕と訓み、船を〔二字右○〕寄せむの意に解した。
【歌意】 大海の底が鳴り響いて立つ波が、打寄るやうに、自分が立寄らうと思うてゐる、その磯の清けくあることよ。
 
(1989)〔評〕 事實は磯が清かなので寄りたくなつたのを、かう本末巓倒の逆敍を用ゐたことは、頗る効果的に「磯のさやけさ」を引立てる。この下に、
  大海の磯もとゆすり立つ波の寄らむともへる濱のさやけく (――1239)
といふのがある。一つ歌が二樣に傳誦されたものであることはいふまでもなからう。
 
自荒磯毛《ありそゆも》 益而思哉《ましておもへや》 玉之浦《たまのうら》 離小島《さかるこじまの》 夢石見《いめにしみゆる》     1202
 
〔釋〕 ○ありそゆもまして 荒磯よりも勝つて。○おもへや 思へば〔右○〕や。○たまのうら 紀伊國東牟婁郡浦神灣の稱。灣口は南に開いて岩礁多く、水は山岡の間を細長く西へ深く灣入して風波靜穩である。灣の北部に粉白濱がある。○さかるこじまの 離れた小島が。舊訓ハナレコジマノ〔七字傍線〕、神(1990)本訓サカレルコジマ〔七字傍線〕。
【歌意】 荒磯よりも以上に、よく〔二字右○〕思ふせゐかして、珠の浦の離れた小島が、夢にさ見えるわい。
 
〔評〕 荒磯の景も惡くはないがの前提のもとになされた作である。
 抑も紀路の海岸は大抵荒磯で終始してゐる。獨この珠の浦が恰も湖水の如き靜穩な碧を湛へて明媚である。その風光は又別段であることを、離れ小島によつて象徴させ、夢寐にも忘れかねるといつた。
 
礒上爾《いそのうへに》 爪不折燒《つまぎをりたき》 爲汝等《ながためと》 吾潜來之《わがかづきこし》 奥津白玉《おきつしらたま》     1203
 
〔釋〕 ○つまぎ 抓木《ツマギ》の義。薪の細小なるをいふ。○かづき 潜き。○おきつしらたま 沖の白玉は鰒珠即ち眞珠のこと。
【歌意】 冷えた總身を煖める〔九字右○〕爲、磯の上に妻木を折り燒きなど辛苦して〔四字右○〕、貴方の爲とて〔右○〕、私が海に〔二字右○〕潜つて採つて來た、この沖の白珠ですよ。
 
〔評〕 眞珠を人に贈つた時の作であらう。例の贈物に價値づける筆法で、恰も海女のするやうに、自分が苦辛し(1991)て採取した眞珠だと揚言した。
 鰒取の海女など、海からあがると、夏の炎天でも磯に焚火して身體を煖める。都人の眼からは頗る奇異の感に打たれ、海人の生活の辛苦さが、つく/”\看取される。但「婁木折り焚き」が「わが潜きこし」に跨續するので、事件が前後して矛盾を感ずる。蓋し表現の失敗である。作者の胸裏に眼底にへ張りついてゐる實感が、物をいひ過ぎた結果であらう。
 
濱清美《はまきよみ》 磯爾吾居者《いそにわがをれば》 見者《みむひとは》 白水郎可將見《あまとかみらむ》 釣不爲爾《つりもせなくに》     1204
 
〔釋〕 ○みむひとは 略解に「見」の下人〔右△〕脱ちたるかと。但このまゝでも訓まれぬこともない。
【歌意】 濱が美しさに、愛でて〔三字右○〕磯に自分が出て居ると、餘所から見る人は、自分を〔三字右○〕海人と見るであらうか、釣などはしもせぬのに。
 
〔評〕 結句あまりにいひ詰め過ぎて面白くない。なほ卷二「荒栲の藤江の浦に」(六六三頁)、及び上出「網引する海人とや見らむ」(一九七六頁)の評語を見よ。
 
奥津梶《おきつかぢ》 漸々志夫乎〔五字左△〕《しましくなこぎ》 欲見《みまくほり》 吾爲里乃《わがするさとの》 隱久惜毛《かくらくをしも》     1205
 
〔釋〕 ○おきつかぢ 沖に漕ぐ楫をいふ。「おきつかい」を見よ(四三四頁)。○しましくなこぎ 暫く漕ぐな。「漸(1992)々志夫乎」を新考に暫奈水手〔四字右△〕の誤として、かく訓んだのに、假に從つた。宣長はこれを漸々爾水手〔三字右△〕の誤として、ヤヤヤヤニコゲ〔七字傍線〕と訓み、古義は漸々莫水手〔三字右△〕の誤として、ヤウヤウナコギと〔七字傍線〕訓んだ。
【歌意】 沖の楫取よ、暫く控へて漕ぐな。見たく私が思ふ里が、隱れてゆくことが惜しいわい。
 
〔評〕 沖かけて楫取るまゝに隔つて、相知る懷かしの地も影を沒してゆくのを惜しんだ。
 
奥津浪《おきつなみ》 部都藻纏持《へつもまきもち》 依來十方《ヨセクトモ》 君爾益有《きみにまされる》 玉將縁八方《たまよせめやも》     1206
 
〔釋〕 ○へつも 岸邊の藻。沖つ藻に對する。○とも――やも「十方」「八方」は戲書。
【歌意】 沖の波は岸邊の藻を卷き込んで、打寄せてくるとも、貴方に優る程のよい珠を、寄せようことかいな。
〔評〕 荒涼たる海邊の獨居、美人を天の一方に望むの情や愈よ切なるものがあらう。偶ま眼前に波の弄ぶ藻草を見るに及んて藻草から深淵の名珠を想ひ、層々聯々、その名珠に依つて更にかの君を思惟し、また比較し、遂にいかに波の力でも君に勝れる珠は寄せないと斷じた、その情味の濃厚さに打たれる。畢竟これは美人に寄せた戀歌である。
 
粟島爾《あはしまに》 許枳將渡等《こぎわたらむと》 思鞆《おもへども》 赤石門浪《あかしのとなみ》 未佐和來《いまださわげり》     1207
 
(1993)〔釋〕 〇あはしま 既出(八三五頁)。〇あかし あかしのうらを見よ(七九〇頁)。○となみ 門波。迫〔右○〕門の浪の略語。明石の迫門を略して明石の門といふことは當時の通用語で、人麻呂の歌にも見えてゐる。△地圖及寫眞第二冊卷頭總圖および挿圖184(六六八頁)を參照。
【歌意】 粟島に、今〔右○〕漕ぎ渡らうと思ふけれども、明石の迫門の浪が、まだ立ち騷いでゐるわい。
 
〔評〕 行旅者が屡ば體驗する處、目的地を眼前咫尺の間に望みながら、その迫門の潮さゐは、小舟の交通を遮斷する。殊に明石の門は落潮時には潮流が急に駛り、その名殘が容易に收まらない。潮待に待ちあぐんだ作者は、呪ふやうに「いまだ騷げり」の冷語を放つた。「いまだ」は畫龍點睛の妙語で、これに依つて全鱗悉く振ふ。この歌の粟島は、必ず明石の對岸に當る淡路の北邊の地稱である。
 
妹爾戀《いもにこひ》 余越去者《わがこえゆけば》 勢能山之《せのやまの》 妹爾不戀而《いもにこひずて》 有之乏左《あるがともしさ》     1208
 
〔釋〕 ○いもにこひ 戀ふ〔二字傍点〕の語に續く時は、妹に〔傍点〕・我妹子に〔傍点〕といひて、妹を〔二字傍点〕・我妹子を〔四字傍点〕といはぬが萬葉人の通語。〇せのやま 既出(一四一頁)。○ともしさ 羨ましさの意。
【歌意】 吾妹子に戀ひつゝ、自分が背の山を〔四字右○〕越えてゆくと、背の山が別に妹山にも戀ひずに、平氣で〔三字右○〕ゐることが羨ましいことよ。
 
〔評〕 背の山の妹山のと、名こそ人らしいが、山の事だから本來無情だ。乃ち「妹に戀ひずてある」の活喩を用(1994)ゐて、この一案を提げて自己の遣る瀬ない煩悶に對比し、その平然たる態度を感心してゐる。例の地名に※[夕/寅]縁した構想はうるさいが、腐を化して新とした手腕は買へる。既に「妹に戀ひ」といひ、更に「妹に戀ひずて」といふ、この率直で露骨に過ぎる反言が、相反撥して、この歌では頗る效果的の表現となつてゐる。 
人在者《ひとならば》 母之最愛子曾《ははのまなごぞ》 麻毛吉《あさもよし》 木川邊之《きのかはのべの》 妹與背之山《いもとせのやま》     1209
 
〔釋〕 ○まなご 既出(一二一八頁)。○あさもよし 紀の枕詞。既出(二一七頁)。○きのかは 紀の川。大和の吉野川が紀伊國伊都郡に入つてからの稱。東流十三里那賀海草二郡を貫流し、和歌山市の西北に至つて海に入る。○いもとせのやま 妹と兄の山。
【歌意】 人であるならば、丁度母親の愛子であるぞ〔三字右○〕、紀の川の邊に竝んでゐる、あの〔二字右○〕妹山と兄の山は。
 
〔評〕 背山妹山が紀の川縁に對立してゐる態を、擬人して兄妹の兒と見なし、それを母の眞愛子に譬喩した。さ程にこの二山は可愛らしげな小山である。
 
吾妹子爾《わぎもこに》 吾戀行者《わがこひゆけば》 乏雲《ともしくも》 竝居鴨《ならびをるかも》 妹與勢能山《いもとせのやま》     1210
〔釋〕 ○ならびをるかも 「竝居鴨」は戲書。
【歌意】 吾妹子に自分が戀ひつゝ行くと、羨ましくも、中よく〔三字右○〕竝んでゐる、妹山と背山よ。
 
(1995)〔評〕 この種の構想は、當時としては常識的で陳腐に近い。體調の温雅を以て勝る。
 
妹當《いもがあたり》 今曾吾行《いまぞわがゆく》 目耳谷《めのみだに》 吾耳見乞《われにみえこそ》 事不問侶《こととはずとも》     1211
 
〔釋〕 ○めのみだに 面影だけなりとも。「め」は見え〔二字傍点〕の約。「めをほり」を見よ(一三七二頁)。○みえこそ この「こそ」は願望辭。○こととはず 「こととはぬ」を見よ(一〇四七頁)。
【歌意】 妹の住むあたりを、今さ私が通るわ。せめてその面影だけでも、自分に見えてほしい、口は利かずともね。
 
〔評〕 恐らくこの作者は戀の焦燥にあこがれ出て、妹が家のあたりを徘徊したのであらう。無論直接に話の出來るに越した事はないが、退一歩實現可能の程度にその要望を置いた。戀は何かと苦勞なものだ。
 これは普通の戀歌であるのに、こゝに排次されたのは、「妹」とあるを妹山の事と誤認した爲である。
 
足代過而《あてすぎて》 絲鹿乃山之《いとかのやまの》 櫻花《さくらばな》 不散在南《ちらずあらなむ》 還來萬代《かへりくるまで》     1212
 
〔釋〕 ○あて 紀伊國在田都はもと安諦《アテ》郡といひ、持統天皇紀及び績紀大寶三年の條に阿提《アテ》、績紀天平三年の條に阿※[氏/一]《アテ》、こゝには足代《アテ》とある。日本後紀に大同元年改(メテ)2紀伊(ノ)國安諦郡(ヲ)1爲(ス)2在田郡(ト)1、以(テ)3詞渉(ルヲ)2天皇(ノ)諱(ニ)1也と見え、平城天皇の御名は安殿《アテ》であつた。但こゝは絲鹿の山に對した地名だから、郡名では不倫である。必ず安諦と稱(1996)する小地名でなければならぬ。案ずるに今の在田川は安諦郡時代には安諦川と呼ばれたことと考へられる。その中流に中古|當《アテ》川(ノ)莊の名が見え、上流は今も安諦川といつてゐる。往古、安諦川(在田川)以南の地を廣く安諦といひ、以北の地を安太《アタ》(英多)と稱したのであらう。古義いふ、安諦はもと一郷一邑の名なりけむが、後に廣く郡名となれるなるべしと。諸家、安太《アタ》と混同して無用の辯を費してゐる。「代」は漢音テイ。○あてすぎて 絲鹿山も安諦の地には屬するけれど、安諦の最北端にあるので、大まかにかくいつた。古義がこの句を結句に係けて解したのは句法を亂すもので感心しないが、この句の下實に詞が足らない。越ゆる〔三字右○〕の語を「絲鹿の山」の上に添へて聞くべきである。○いとかのやま 在田郡絲鹿村。在田川の南の山。古への熊野街道この山の峠を通過し、湯淺へ出る。○ちらずあらなむ 舊訓チラズモアラナム〔八字傍線〕。○かへりくるまで 古義訓カヘリコムマデ〔七字傍線〕とあるが、コム〔二字傍点〕と將然にする(1997)必要がない。卷十五にも「可敝里久流末低《カヘリクルマデ》」とある。
【歌意】 安諦を通り過ぎて、今越える〔四字右○〕絲鹿の山の櫻の花よ、散らずにあつて欲しいな、引返して來う時までに。
 
〔評〕 これは東又は南の方面から來て、安諦の地を大部分を通過して絲鹿峠に懸つた人の作であらう。今は在田川河畔に道路が通じて、峠を越さない。
 絲鹿山は中將姫で名代の雲雀山の南隣に蟠屈した小山だが、坂路は可なり嶮峻で、林木が叢生してゐる。その間に櫻花の點綴を面白しと興じた旅人は、散り易いこの花に對つて、一言歸路の再會を契らざるを得まい。
  山越えて遠津の濱の石つゝじわが來たるまでふゝみてあり待て(本卷――1188)
  わが行きは七日を過ぎじ立田彦ゆめこの花を風に散らすな(卷九――1748)
などの興趣に、一脈相通ずるものがある。
 
名草山《なぐさやま》 事西在來《ことにしありけり》 吾戀《わがこひの》 千重一重《ちへのひとへも》 名草目名國《なぐさめなくに》     1213
 
〔釋〕 ○なぐさやま 名草山は紀伊國名草郡(今海草郡)の小嶺。その最南の突端海に瀕んだ處に紀三井寺がある。○ことにしありけり 既出(七二七頁)。○わがこひの 古義訓ワガコフル〔五字傍線〕。何れも千重の一重〔五字傍点〕と續く、その例卷四、卷三、卷六にある。○ちへのひとへも 既出(五六五頁)。△地圖 挿圖391(一六二六頁)を參照。
(1998)【歌意】 名草山がなぐさといふも〔七字右○〕、名のみのことでさあつたわい。私の戀の千の一つも、慰めはせぬにさ。
 
〔評〕 溺る者は藁でも攫む、はかない地名や物名などにせよ、自分に都合のいゝやうに解釋しては縋りつき、さてその效果がないとて失望する。
 ――名のみを名兒《ナゴ》山とおひてわが戀ふる千重の一重も慰さめなくに(卷六、坂上郎女――963)
もそれである。そしてこれは失望の果、翻つて「言にしありけり」と毒口を吐いてゐる。
 
安太部去《あたへゆく》 小爲手《をすて・サヰデ》乃山之《のやまの》 眞木葉毛《まきのはも》 久不見者《ひさしくみねば》 蘿生爾家里《こけむしにけり》     1214
 
〔釋〕 ○あた 安太は紀伊國在田郡(古へ安諦郡)英多《アタ》のこと。和名抄に在田郡英多と見え、郷名である。安諦《アテ》の北に接する。上の「あて」を參照。○あたへ 英多の方〔二字右○〕へ。○をすてのやま 所在不明。今在田郡に推手《オシテ》村あ(1999)り、或はそこの山か。地名辭書は、小爲手をサヰデ〔三字傍線〕と訓み、海草郡加茂村沓掛の蕪坂の南に竝べる才坂《サイザカ》に充てた。在田郡の郡界に當る。○まき 既出(七二五頁)。○こけむし 「こけむす」を見よ(六一二頁)。
【歌意】 安太へ出る、小爲手の山の眞木の葉さへも、永いこと見ないので、蘚が生えたことわい。
 
〔評〕 小爲手の山は安太へゆく往還の山だ。大した深山でもなささうだが、今度通つて見ると、眞木の枝葉に猿尾かせ(下り苔)が著いてゐたので、烏兎の怱々たるに驚いたものだ。「久しく見ねば」は底を割つたいひ方で面白くない。が或は暫く逢はぬうち情人の變心したのを比擬したものか。
 
玉津島《たまづしま》 能見而伊座《よくみていませ》 青丹吉《あをによし》 平城有人之《ならなるひとの》 待問者如何《まちとはばいかに》     1215
 
〔釋〕 ○たまづしま 既出(一六二六頁)。○あをによしなら 「あをによし」を見よ(八三頁)。「平城」の字面は續紀元明天皇和銅元年秋九月の條に始出。「平」はナラスの義を取つて奈良に充て、「城」は支那の洛陽城長安城の例に倣つて稱したもの。△地圖及繪圖 挿圖391(一六二六頁)、392(一六二六頁)を參照。
【歌意】 この玉津島の景を、君よ〔二字右○〕とくと見てお出なさい。奈良の京にゐる方が、君のお歸を〔五字右○〕待ち受けて、こゝの樣子を〔六字右○〕お尋ねなされたら、何と返辭をなさいますかえ。  
 
〔評〕 玉津島遊覽の口占である。同伴者に對してさも親切らしい警告も、その實は自分がこの勝景に陶醉の餘り(2000)に發したもので、奈良なる人を倩ひ來つて、「待ち問はば」の一案を叩き付け、同伴者に抗議の餘地を無からしめた。かくしてゆるりとその好風光を愛賞しようとの企らみである。狡獪も亦甚しい。
  難波潟しほ干のなごりよく見てな家なる妹が待ち問はむ爲(卷六、神社老麻呂――976)
と相似た興趣で、これは他人を卷き添へにしただけ、一層複雜性を帶びて面白い。老手。
鹽滿者《しほみたば》 如何將爲跡香《いかにせむとか》 方丈〔左△〕海之《むろのうみの》 神我戸〔左△〕渡《かみがとわたる》 海部未通女等《あまをとめども》     1216
 
〔釋〕 〇むろのうみ 紀伊國牟婁郡の海。今の熊野灘に當る。「丈」原本に便〔右△〕とある。新考にいふ、方便〔二字傍点〕海は方丈〔二字傍点〕海の誤、方丈は維摩の室の大きさより出でたる語にて僧堂の稱となれり、されば方丈はムロ(室)と訓むべしと。信によき發見である。舊訓、方便海をワタツミと讀み、これによつて契沖は、海龍王は衆生を利便する方便にて龍宮城を占めて住めば、その意にて書けるにやといつたが、糊塗の説である。○かみがと 恐ろしい水門《ミト》の意。原本に「神我手《カミガテ》」とあるは解し難い。古義に「手」を戸〔右△〕の誤としてカミガトと訓み、神之門《カミガト》の意にて、卷十六怕(シキ)物(ノ)歌の「神之門渡《カミガトワタル》」に同じとあるに從つた。但神武天皇紀に、遂(ニ)越(エ)2狹野(ヲ)1到(リマス)2熊野(ノ)神(ノ)邑(ニ)1と見えたるそこの崎なりとの説はいかゞ。神邑は熊野地方の總稱だから、甚だ漠然としてゐる。こゝはやはり怕物歌の神之門と同じく、地名と見ぬ方がよい。【歌意】 たゞでも〔四字右○〕荒いのに、潮が滿ちたなら、どうしようとて、この牟婁の海の恐ろしい水門を渡るのか、あの海人少女どもは〔右○〕。
 
(2001)〔評〕 水門《ミト》を構成してゐる向ひ島などには、退潮時を利して海藻採取に、海女等は小舟を操つて渡るのであつた。その心細い頼りなげな有樣に同情して、作者は「潮滿たば」と心配した。牟婁の海は素より荒海だ。それを強調して表現した「神が門」の一語は、この心配を如實に裏づけるものであつた。海馴れぬ都人の作。
 
玉津島《たまづしま》 見之善雲《みてしよけくも》 吾無《われはなし》 京往而《みやこにゆきて》 戀幕思者《こひまくもへば》     1217
 
〔釋〕 ○みてしよけくも 見てしことは〔三字右○〕良けくもの略。「よけく」はよく〔二字傍点〕の延言。○こひまく 「まく」は推量辭のむ〔傍点〕の延言。いはまく〔四字傍点〕、かけまく〔四字傍点〕と同詞態。
【歌意】 評判の景色のいゝ〔八字右○〕、玉津島を見たことであつたのも、自分は一向良くもないわ、京に歸つて、それが思ひ出され〔八字右○〕、戀ひられようことを思へばさ。
 
〔評〕 逆説的筆法での玉津島讃美である。詞人は讃美の語に窮すると、時にこの猾手段を弄する。
  人よりは妹ぞもあしき戀もなくあらましものを思はしめつつ(卷十五、中臣宅守――3737)
  いみじき盗人かな、尚えこそ棄つまじけれ(枕草子)
などその類例がまゝある。もと/\機智の産物だから、決して上乘なる作とはいへないが一寸面白い。
 
黒牛乃海《くろうしのうみ》 紅丹穗經《くれゐなにほふ》 百礒城乃《ももしきの》 大宮人四《おほみやびとし》 朝入爲良霜《あさりすらしも》     1218
 
(2002)〔釋〕 ○くろうしのみ 黒牛の海は黒牛潟ともいひ、今の黒江灣に當る。和歌山市の南三里、黒江町の海で、和歌の浦に隣接する。名草都(今の海草郡)。○くれなゐにほふ 「にほへる」を見よ(一〇七九頁)。○ももしきの 宮の枕詞。既出(一二六頁)。△地圖 挿圖391(一六二六頁)を參照。
【歌意】 黒牛の海に、紅の色が映つて美しい。多分大宮人がさ、求食《アサリ》するらしいわい。
 
〔評〕 黒牛の海は潟ともいひ、遠淺の小波勝の處であつた。――今の黒江町はその堆砂の上に出來た市街――その漸※[瀲の右端が欠]※[さんずい+艶]たる波上に、赤裳の裾を映ぜしめた大宮人は、男官ではなくて、必ず從駕の女房であらねばならぬ。大寶元年辛巳冬十月太上天皇(持統)大行天皇(文武)幸(ス)2紀伊(ノ)國(ニ)1時(ノ)歌の中に、
  黒牛潟しほ干の浦をくれなゐの玉裳据ひきゆくは誰が妻(卷九、――1672)
とも見え、この前後の紀路の歌は、皆同時の詠と推定してよい。
 抑も太上天皇は女帝にましますから、流石に多人數の女官が扈從したらう。赤裳は婦人の服ながら、海波(2003)に紅の匂ふは大きな誇張で、色彩の配合太だ鮮明である。何れおなじ從駕の男官達の作であらう。
 
若浦爾《わかのうらに》 白波立而《しらなみたちて》 奥風《おきつかぜ》 寒暮者《さむきゆふべは》 山跡之所念《やまとしおもほゆ》     1219
 
〔釋〕○やまと 既出(二三八頁)。△地圖及挿圖 挿圖391(一六二六頁)、392(同上)を參照。
【歌意】 若の浦に白い波が立つて、沖吹く風が寒い夕方は、故郷の倭がさ、思はれてね。
 
〔評〕 文武天皇の慶雲三年の難波行幸の時の歌、
  蘆邊ゆく鴨の羽がひに霜ふりて寒きゆふべは倭しおもほゆ(卷一、志貴皇子――64)
は同趣の作である。若しこれを大寶元年の紀伊行幸の時のとすれば、この歌の方が先出となる。尚卷一「蘆邊ゆく鴨の羽がひに」の歌の評語を參照(二三九頁)。
 
爲妹《いもがため》 玉乎拾跡《たまをひろふと》 木國之《きのくにの》 湯等乃三崎二《ゆらのみさきに》 此日鞍四通《このひくらしつ》     1220
 
〔釋〕 ○ゆらのみさき 紀伊國日高都白崎村の東南に由良《ユラ》の港あり、その北の岬角を稱するか。
【歌意】 思ふ兒の爲、土産の〔三字右○〕珠を拾ふとて、處もあらうに〔六字右○〕、紀伊の國の由良の岬に、思ひがけず〔五字右○〕、今日のこの日を暮したわい。
 
(2004)〔評〕 「紀の國の由良の岬に」との事々しいいひ立ては、その邊鄙の荒濱であることを説示し、そこの珠拾ひがいかに苦辛なものであるかを婉曲に物語つた。而も妹が爲には一所懸命で時の移るのも知らず努力した趣を、「この日暮しつ」と力強い他動的詞態を取つて誇張した。そこに妹思ひの情味が津々と湧くのである。總べて「この日暮しつ」の句には必ず意外とする趣が伴うてゐる。
  妹が爲菅の實つみにゆけるわれ山路まどひてこの日暮しつ(本卷――1250)
  春の雨にありけるものを立隱れ妹が家路にこの日暮しつ (卷十――1877)
  飛鳥川ゆく瀬を速みはや見むと待つらむ妹をこの日暮しつ(卷十一――2713)
の例を見ても明かであらう。
(2005) 大寶元年の行幸時の作にも湯等《ユラ》の前《サキ》の名が見える。この歌も同時の作か。
 
吾舟乃《わがふねに》 梶者莫引《かぢをばなひき》 自山跡《やまとより》 戀來之心《こひこしこころ》 未飽九二《いまだあかなくに》     1221
 
〔釋〕 ○かぢをばなひき 梶をば引くな。梶引くは艪を押すをいふ。「かぢひきをり」を參照(五九七頁)。
【歌意】 わがこの船の艪を、さう〔二字右○〕押すなよ、倭から見たいと思ひ戀うて來た心が、まだ滿足しないのにさ。
 
〔評〕 勝地に出會つて見ても見飽かぬ心から、さう取急いで「梶をばな引き」と、船頭に小言をいつてゐる。「倭より戀ひこし」は、その景望の念を極度に表現した語で面白い。
 
玉津島《たまづしま》 雖見不飽《みれどもあかず》 何爲而《いかにして》 ※[果/衣]持將去《つつみもちゆかむ》 不見人之爲《みぬひとのため》     1222
 
〔釋〕 ○つつみもち ツトニモチ〔五字傍線〕と訓むも惡くない。舊訓ツツミモテ〔五字傍線〕は非。
【歌意】 玉津島は幾ら見ても見飽きない。どうしてこれを土産に〔六字右○〕、※[果/衣]んでもつて往かうかえ、まだ見ない人の爲にさ。
 
〔評〕 不可能を承知で、尚未見の人の爲にその娯を頒つて遣らうと碎心する、その情味が嬉しい。「玉津鳥を――裹(2006)みもち」は頗る奇拔で大膽な下語のやうであかが、島が元々小さな島であり、又島の名の玉から、法華經の衣裏の珠即ち玉を包むことを聯想しての作と考へると、頗る細心な巧緻が認められる。
  をぐろ崎みつの小島の人ならば都の苞にいざといはましを(古今集、大歌所歌)
とは似而非なる行き方である。
 
綿之底《わたのそこ》 奥己具舟乎《おきこぐふねを》 於邊將因《へによせむ》 風毛吹額《かぜもふかぬか》 波不立而《なみたてずして》     1223
 
〔釋〕 ○わたのそこ 沖の枕詞。既出(二八四頁)。
【歌意】 この沖を漕ぐ船を、あの岸邊に寄せよう。丁度都合のいゝ〔七字右○〕風も吹いてくれないかなあ、波は立てないでね。
 
〔評〕 さも面白い沿岸の景色を海上から見渡しての作。成るたけ近寄つて、つぶさに愛賞したいの念から、好便の風は吹け、但波は立てるなと、矛盾を平氣に、勝手な注文をいつてゐる處に、幾分の詩味を生ずる。
 
大葉山《おほはやま》 霞蒙《かすみたなびき》 狹夜深而《さよふけて》 吾船將泊《わがふねはてむ》 停不知文《とまりしらずも》     1224
 
〔釋〕 ○おほはやま 所在不明。八雲御抄に紀伊とあるは、この卷の排次上からの推定に過ぎない。○かすみた(2007)なびき この霞は霧をいつた。○しらずも 「不知文」は戲書のやうに見える。
【歌意】 大葉山に霧が靡き、夜が更けて、わが乘船の、著かう湊もわからぬことよなあ。
 
〔評〕 目じるしの山には霧が懸かり、夜は積水の上に更ける。而も一望微茫として孤舟寄る處がないのである。かう心細い頼りない悲觀的材料が堆積しては、その重壓に堪へぬ作者の悲鳴を、目のあたり聞くやうである。卷九
  母山霞たなびき小夜ふけてわが舟はてむ泊しらずも(碁師――1732)
の初句は、「母」の上、大〔右○〕字の脱で、オホバヤマと訓むべく、さては全くこれと同歌。
 
狹夜深而《さよふけて》 度〔左△〕中乃方爾《となかのかたに》 欝之苦《おほほしく》 呼之舟人《よびしふなびと》 泊兼鴨《はてにけむかも》     1225
 
〔釋〕 ○となかのかた 門中の方の意。門中は記の仁徳天皇の條に、「由良《ユラ》の門の門中《トナカ》のいくり」と見え、こゝは單に海上をいふ。「度」原本に夜〔右△〕とある。宣長説によつて改めた。守部が近江の地名として、夜中の潟と解し、卷九「客《タビ》なれば三更《ヨナカ》をさして照る月の高島山に隱らくをしも」を證としたのは採らない。
【歌意】 夜が更けて、海上の方で氣の滅入《メイ》るやうに、湊を〔二字右○〕呼び立てゝゐた舟人は〔右○〕、もう泊に著いたらうかしらなあ。
 
〔評〕 夜聲は耳について忌まはしい。さればいかにおほゝしい呼聲であつたらう。その行方を何時までも覺束な(2008)がつて同情してゐる。卷一
  いづくにか船泊《フナハテ》すらむあれの崎漕ぎたみゆきし棚なし小舟(高市黒人――58)
とその景致も心境も似てゐゐ。
 
神前《みわのさき》 荒石毛不所見《ありそもみえず》 浪立奴《なみたちぬ》 從何處將行《いづくゆゆかむ》 與寄道者無荷《よきぢはなしに》     1226
 
〔釋〕 ○みわのさき 「みわがさき」を見よ(六八五頁)。古義訓カミノサキ〔五字傍線〕。○よきぢ 避《ヨ》ける路。「よき」は加行四段の活用。ヨギと濁るは誤。△地圖及寫眞 挿圖192(六八五頁)、194(六八七頁)を參照。
【歌意】 三輪が崎は、その荒磯さへ〔二字右○〕も見えぬ程に、浪が立つたわ。何處から通つて往かうぞ、外に避ける路は無くてさ。
 
〔評〕 海岸の一本道、そこには岩礁が亂立して沖遠く斗出してゐる、これが三輪が崎の實景である。折柄狂瀾怒濤はその荒磯を壓して凄まじかつたとすれば、物馴れぬ旅人は一遍に畏縮して、「いづくゆ行かむ」と當惑せざるを得まい。而も「よき路」はないのである。進退谷まつて途方に暮れてゐる作者その人を想見する。句法も變化があり、表現にも分寸の隙がない。
 
礒立《いそにたち》 奥邊乎見者《おきへをみれば》 海藻苅舟《めかりぶね》 海人※[手偏+旁]出良之《あまこぎづらし》 鴨翔所見《かもかけるみゆ》     1227
 
(2009)〔釋〕 ○めかりぶね 契沖訓による。舊訓モカリブネ〔五字傍線〕。元來藻類の稱呼としてはモもメも同語で、モは汎稱。メは食料の意義をもつ特稱。○かもかける 「鴨」を鶴〔右△〕の誤とする説は獨斷。
【歌意】 磯に立つて、沖や岸邊を見ると、今しも〔三字右○〕藻刈舟を〔右○〕、岸邊から〔四字右○〕海人が漕ぎ出すらしい、鴨が騷いで沖へ〔二字右○〕飛び渡るのが見える。
 
〔評〕 藻刈舟が漕ぎ出すのは岸邊である。鴨の翔るは沖へである。その間に亙つた動的景致が、磯に立つ作者の眸中から映寫されてゐる。
  藻刈り舟沖漕ぎくらし妹が島かたみの浦に鶴翔ける見ゆ(本卷――1199)
と同調ながら、これは稍猥雜の感がある。
 
風早之《かざはやの》 三穗浦廻乎《みほのうらわを》 ※[手偏+旁]舟之《こぐふねの》 船人動《ふなびとさわぐ》 浪立良下《なみたつらしも》     1228
 
〔釋〕 ○かざはやのみほ 「かざはやの」(九六八頁)及び「みほのうら」(九六八頁)を見よ。○うらわ 古義訓ウラミ〔三字傍線〕。○さわぐ 新考のトヨム〔三字傍線〕の訓は非。△地圖及寫眞 挿圖219(七四八頁)、289(九六九頁)を參照。
【歌意】 三穗の浦邊を漕ぐ船の、船頭があれ騷ぐわ。大分波が立つらしいわい。
 
〔評〕 海邊ではこんな事は不斷で、一向珍しい景象ではない。それを都人は好奇の眼を瞠つて、一途に深く見入(2010)つた。そこにこの作のよさがある。
  かつしかの眞間のうらみを漕ぐ舟の船人さわぐ浪立つらしも(卷十四――3349)
はこの一傳であらう。眞間の浦は靜穩な入江だから、荒濱の三穗の浦のやうに、「舟人騷ぐ」も、「波立つ」もよく利かない。
 
吾舟者《わがふねは》 明旦〔左△〕石之浦〔左△〕爾《あかしのうらに》 ※[手偏+旁]泊牟《こぎはてむ》 奥方莫放《おきへなさかり》 狹夜深去來《さよふけにけり》     1229
 
〔釋〕 ○あかしのうら 既出(七九〇頁)。「明旦」は意訓にアカシと讀まれる。さて「石」を添字とした。「旦」原本に且〔右△〕とあるは誤。又元本にはこの字がない。「浦」原本に潮〔右△〕とあるを、宣長説によつて改めた。眞淵は滷《カタ》の誤、童本は湖《ミナト》の誤とした。舊訓は潮をハマ〔二字傍線〕と訓んである。
【歌意】 私のこの船は、明石の浦に漕ぎつけようぞ。船頭よ〔三字右○〕、さう沖の方へ出てくれるなよ、大分夜が更けてしまつたわい。 
 
〔評〕 この歌は卷三、高市黒人の覊旅歌八首中の
  わが船は比良のみなとに漕ぎはてむ沖へなさかり小夜更けにけり (――274)
と第二句に相違あるのみ。恐らく流傳の誤であらう、委しくは同歌の條(六九八頁)を見よ。
 
(2011)千磐破《ちはやぶる》 金之三崎乎《かねのみさきを》 過鞆《すぎぬとも》 吾者不忘《われはわすれじ》 牡鹿之須賣神《しかのすめがみ》     1230
 
〔釋〕 ○ちはやぶる 神の枕詞。既出(三三〇頁)。但こゝは金の御《ミ》崎に續けた。これに就いて、(1)は千早ぶる神の〔二字右○〕金の御崎の略言とし、(2)は千早ぶるを枕詞と見ず、その本義のまゝに、荒ぶる恐ろしき金の御崎と解した。元來この語は猛く荒い神人の形容として用ゐられ、(2)の解の如きはその變例と見られる。○かねのみさき 鐘の岬。筑前國宗像郡鐘が崎町の北の出崎。○われはわすれじ 古義に「吾者」をアヲバ〔三字傍線〕と訓んだのは、話は面しろくなるが附會である。○しかのすめがみ 志賀の皇神。志賀島の綿津見《ワタツミ》の神のこと。神名帳に、筑前(ノ)國糟屋(ノ)郡、志賀海《シカノワタツミノ》神社三座(名神大)と見え、景行天皇紀に志我(ノ)神の名出づ。志賀島地方は古への綿津見の國(2012)で、その祖神を子孫が祀つたのが志賀島の海神の社である。皇神は何れの神にもいふ尊稱。祝詞にその例が多い。「しか」は既出(七〇六頁)。
【歌意】 假令〔二字右○〕あの鐘の岬を過ぎたとしても、私は忘れはすまい、海上安全にお守り下さつた 有難い〔十五字右○〕志賀の皇神樣をさ。
 
〔評〕 鐘の岬は南に玄海灘、北に響灘を振分ける岬角である。志賀島から鐘の岬までは海上十餘里、鳥も通はぬ玄海の荒浪に畏怖恐縮して、一途に海の神樣志賀の皇神の擁護を祈念するより外はなかつた。やつと無事に鐘の岬を船頭に望み得たその瞬間の嬉しさは、どんなであつたらう。全くこれも志賀の皇神の御利益だ、この御恩はよしやあの鐘の岬を過ぎても忘却することではないと、未來までを懸けて最大限度の感謝の詞を志賀の皇神に捧げた。一葉舟に五尺の身命を托する往古の航海情調が、如實に躍動してゐる。
 
天霧相《あまぎらひ》 日方吹羅之《ひかたふくらし》 水莖之《みづぐきの》 崗水門爾《をかのみなとに》 波立渡《なみたちわたる》     1231
 
〔釋〕 ○あまぎらひ 空がぼうとすること。曇ること。「あまぎらふ」を見よ(一八四七頁)。○ひかた 袖中抄(顯昭著)に坤《ヒツジサルノ》風なりとある。眞淵の考に、土佐の俗、日中の南風を日方《ヒカタ》といふとあるを、古義は諾つて、それは六月の頃にいふといひ添へた。○みづぐきの 岡に係る枕詞。瑞々しい莖は若々しい。故に瑞莖《ミヅグキ》の若《ワカ》を轉音で岡《ヲカ》にいひかけて枕詞とした(宣長説)。○をかのみなと 筑前國遠賀郡遠賀川の河口港。その地形水を夾んで東(2013)西に岡あり。故に岡の湊といふ。河口の西岸に蘆屋町あり。「崗」は岡と同じい。
【歌意】 空が曇り立ち、日方の風が吹くらしい、岡の湊に、あの通り〔四字右○〕波が立ち渡るわ。
 
〔評〕 當時の岡の湊の地形を案ずるに、現在遠賀川の流れてゐる東西の岡根一杯に、海水が深く浸入して、細長い灣を成してゐたと想はれる。風波の平穩なことはいふまでもあるまい。まこと往古における最良港と見えた。筑前風土記に、
  塢※[舟+可]《ヲカノ》縣(ノ)之東側、近(ク)有(リ)2大江口1、名(ケテ)曰(フ)2塢※[舟+可](ノ)水門《ミナトト》1、堪(ヘタリ)v容(ルヽニ)2大船(ヲ)1焉。
と見え、大江は遠賀川の事である。神武天皇は東征の蹕をこゝに止め姶ひ、仲哀天皇も御船を泊め給うた。
 今見ればこの平和な湊に思ひ寄らず波が立つてゐる。その異常な景象に、作者は衝動を感じた。折柄天候も惡く雲行が荒い。さては此の地の禁物たる日方の風が吹くらしいとの想定を下して、作者はその覊情を傷めた。
 作者は多少岡の湊の地理的消息に通じてゐる旅人であらう。日方〔二字傍点〕の方言まで使つてゐる。體調雄渾にして情景兼ね到つた佳作
 
大海之《おほうみの》 波者畏《なみはかしこし》 然有十方《しかれども》 神乎齊禮而《かみをいのりて》 船出爲者如何《ふなでせばいかに》     1232
 
(2014)〔釋〕 ○かみを こゝの神は海神。○いのりて 卷九に「わたつみの何れの神を齊祈者《イノラバ》か」とあるにより、「禮」は祈〔右△〕の誤かといふ説もあるが拘泥。神本訓による。眞淵訓イハヒテ〔四字傍線〕。
 
【歌意】 大海の波は、ソリヤア恐ろしい。けれども海の神樣を齋き祭つて、船出せうならどうかい。
 
〔評〕 海は折柄|時氣《シケ》てゐる。船頭は大事を取つて風候《カゼマモリ》よくして、容易に船を出さない。作者は波のかしこさを百も承知しながら、餘りの退屈さに氣短になり、やゝ棄鉢的に反抗氣味に、海上守護の海神樣にお願して出帆したらと、理窟詰に船頭に強要した。「しかれども」の露骨な抑揚は、この場合にふさはしい表現であり、「いかに」といひ棄てたその強い鋭い口吻に、餘情が永く深く含蓄される。海路の不安風待の倦怠に焦燥し切つてゐる旅客の情致と、その周圍の混雜した空氣とが、眼前に彷彿して面白い。
 
未通女等之《をとめらが》 織機上乎《おるはたのへを》 眞櫛用《まぐしもち》 掻上栲島《かかげたくしま》 波間從所見《なみのまゆみゆ》     1233
 
〔釋〕 ○はたのへを 舊訓のハタノウヘヲ〔六字傍線〕も宜しい。○まぐし 「ま」は美稱。○かかげたく 掻上繰《カヽゲク》るの意。口語のタクシアゲル〔六字傍点〕のタクシもこのたく〔二字傍点〕の變形。尚「たけば」を見よ(三七〇頁)。さて初句よりこゝまでは、栲島にいひ懸けた序詞。○たくしま 出雲國島根郡多久島、今|大根《ダイコ》島と呼ぶ。中《ナカ》の海の海中にあり、方二十町許。尚「おうのうみ」を見よ(八五五頁)。新考に、肥前平戸の度《タク》島を充てたのは、この歌の趣にも合はない。○なみのまゆみゆ 古義訓による。舊訓ナミマヨリミユ〔七字傍線〕。
(2015)【歌意】 少女達が、織る機の上を、櫛でもつて掻き上げてたくといふ名の栲島が、波間からあれ〔二字右○〕見えるわ。
 
〔評〕 機の上を「櫛で掻上げたく」のは、その縱絲を整理する爲で、今も機織は櫛を使つてゐる。少女のすなるこの優しい工技に、眞櫛もち掻上げたく細かな動作をまで織り込んで、序詞に運用したことは、矢張作者の氣持が暢んびりした遊のある境涯に置かれた時のことで、中の海の平和な風景中に栲島を認め得た感想として極めてふさはしい。
 
鹽早三《しほはやみ》 礒囘荷居者《いそわにをれば》 入潮爲《あさりする》 海人鳥屋見濫《あまとやみらむ》 多比由久和禮乎《たびゆくわれを》     1234
 
(2016)〔釋〕 ○あさり 「入潮」は意を以て充てた語。○いそわ 古義訓イソミ。
【歌意】 潮の流が速さに、磯邊に舟を寄せて〔五字右○〕ためらうてゐると、餘所からは、この土地の漁する海人と思ふであらうか、實際は旅ゆく自分であるものをさ。
 
〔評〕 すべては卷三「荒栲の藤江の浦に」(六六三頁)及び上出「網引する海人とや見らむ」(一九七七頁)の條の評語に讓る。
 
浪高之《なみたかし》 奈何梶取《いかにかぢとり》 水鳥之《みづとりの》 浮宿也應爲《うきねやすべき》 猶哉可※[手偏+旁]《なほやこぐべき》     1235
 
〔釋〕 ○みづとりの 水鳥の如く〔二字右○〕。浮寢《ウキネ》に係る枕詞。○うきね 水上に浮いてゐて寢ること。
【歌意】 浪は高いわ。何と船頭よ、いつそ〔三字右○〕船を泊めて、今晩は波の上の浮寢にしようか、それとも〔四字右○〕やはり續けて漕ぎ行くことにしようか。
 
〔評〕 初句の「波高し」は上の歌の「大海の波はかしこし」と同じ破題の句で、次にその感懷を申べんとする前提である。船の進退は船頭の知ることで、一切彼方任せであるべきだが、作者は早く「波高し」に膽を潰してしまつたので、不安と恐怖とに辛棒しかねて、遂に口を切つて「浮寢やすべき」「なほや漕ぐべき」と、兩端を敲いて、船頭にその解決を迫つた。まことあぶなければ船は出さない、だから素人はうるさいと、船頭は小(2017)言をいふかも知れないが、そんな理窟はこゝにはない。而もかく兩端を持してはゐるものゝ、「なほや漕ぐ」は漕ぐが現在事實だから、假にそれを認容したまでゝ、作者の眞意は一刻も早く船を岸に寄せて浮寢の安きに就きたいのである。浮寢とても望むべきことではないが、命には換へられぬといつた調子である。
 四段切れの曲折往復に波瀾重疊し、多樣な句法の變化と、それに伴ふ促調とが、あわたゞしい心の動搖を如實に示して、當時の航海苦が深刻に吾人の眼前に展開されてゐる。會話的傾向の作として、稍風骨に乏しい憾はある。
 
夢耳《いめにのみ》 繼而所見爾〔左△〕《つぎてみゆるに》 竹島之《たかしまの》 越礒波之《いそこすなみの》 敷布所念《しくしくおもほゆ》     1236
 
〔釋〕 ○みゆるに 見ゆるによりて〔三字右○〕。「爾」原本に小〔右△〕とある。爾の略體の尓〔右△〕の誤寫と斷ずる。宣長は八〔右△〕の誤、古義は乍〔右△〕(ツツ)の誤とした。○たかしまのいそ 高島の磯。近江國高島郡の大溝邊の湖岸をさした。「竹島」は高島に同じ。○いそこすなみの 磯越す波の如く〔二字右○〕。三四の句は「しくしく」に係る序詞。○しくしく 「しくしくに」を見よ(一三一五頁)。
【歌意】 その人の面影が〔七字右○〕、夢にばかり續いて見えるので、恰も高島の磯を越して寄る波の頻《シキ》るやうに、頻に思はれるわ。 
 
〔評〕 着想も表現の樣式も常套的のもので、新味はない。主格を略いた表現に注意を要する。
  あかときの夢に見えつつ梶島のいそ越す波の敷《シ》きておもほゆ (卷九、宇合卿――1729)
(2018)は意姿共に最もよく相似してゐる。尚卷四「やまとぢの」の條の評語を參照(一一六五頁)。
 
靜母《しづけくも》 岸者波者《きしにはなみは》 縁家留香《よりけるか》 此屋通《このいへとほし》 聞乍居者《ききつつをれば》     1237
 
〔釋〕 ○よりけるか 「か」は歎辭。古義訓ヨセケルカ〔五字傍線〕とあるが、他動にいふよりは自動の方、この歌の趣に協ふ。○このいへとほし 「をすの間とほし」を見よ(一八七七頁)。
【歌意】 靜にも岸には波は、寄つたことよなあ、この家の内を打通して、聞き/\して居ると。
 
〔評〕 作者は今岸邊の宿の奥の間(母屋)に靜坐してゐた。するとひた/\波の砂を噛む響が、かすかに間拍子よく、家の内まで徹つて聞えて來る。作者はそれにじつと耳を傾けて、胸中の琴線が共鳴する感觸を味つてゐる。靜韻靜坐靜聽、それらを一貫した幽邃深沈の感じ、靜遠の態度、そこに凡胎を脱した一道の清氣が流動する。
 
竹島之《たかしまの》 阿戸〔左△〕伯波者《あどかはなみは》 動友《とよめども》 吾家思《われはいへおもふ》 五百入鉋〔左△〕染《いほりかなしみ》     1238
 
〔釋〕 ○あどかは 近江國高島郡|安曇《アド》川。朽木谷の奥より發源して、船木港に入る。船木港は古への足迹《アド》の水門《ミナト》(又は湖)である。「伯」原本に白〔右△〕とあるは誤。伯は河伯の略で川に充てたものか。古義は直ちに河〔右△〕の誤とした。○とよめども 童本以下サワゲドモ〔五字傍線〕と訓んでゐる。○いほりかなしみ 庵住ひが悲しくての意。「いほり」は(2019)宿りと同意。「鉋」原本に※[金+施の旁]〔右△〕とある。※[金+施の旁]は鉈《ナタ》の俗字であるが、書寫字として鉋に充て用ゐたもの。△地圖挿圖202(七〇一頁)。
【歌意】 高島の安曇川の波は、響き渡るけれども、それにも紛れず〔七字右○〕、私は國の家を思ふわい、この宿りの悲しさに。
 
〔評〕 安曇川は西近江における最大の河だから、その波の騷は相應であらう。が冲々たる憂思は一向に紛れない。覊愁と離愁の綯ひ交ぜに、作者は憔悴脱落してゐる。
  ささの葉はみ山もさやに亂れどもわれは妹おもふ別れ來ぬれば (卷二、人麻呂――135)
と同趣同型で、結句の説明に墮した缺點まで共通してゐる。これといふも、三句に理路の語を著けたのが、重なる原因であると思ふ。卷九の高島(ニテ)作(メル)歌、
  高島のあど河波はさわげどもわれは家思ふ宿りかなしみ (――1690)
はこの遺傳に過ぎない。
 
(2020)大海之《おほうみの》 礒本由須理《いそもとゆすり》 立波之《たつなみの》 將依念有《よらむともへる》 濱之淨奚久《はまのさやけく》     1239
 
〔釋〕 ○いそもと 磯根と同じい。
上の「おほ海のみなそことよみ立つ波の」と、第二句の變つたゞけで全く同歌である。すべては同歌の條(一九八八頁)を見よ。
 
珠匣《たまくしげ》 見諸戸山矣《みもろとやまを》 行之鹿齒《ゆきしかば》 面白四手《おもしろくして》 古昔所念《いにしへおもほゆ》     1240
 
〔釋〕 ○たまくしげ 玉櫛笥の實《ミ》(身)をいひかけての三室戸山の枕詞。既出(三一六頁)。○みもろとやま 「みむろとやま」を見よ(三一六頁)。○ゆきしかば 行きつればといふに同じい。「し」の過去助動詞が、現在完了に輕く使はれてゐる。古文法。
【歌意】 三室戸山を通過したので、その山が〔四字右○〕面白くて、しかも昔が思ひ出されるわ。
 
(2021)〔評〕「古へ思ほゆ」とあれば、懷舊の作に違ひないが、その事情が判明しない。三室戸山に關係した或故事などがあつたのだらう。さう高くもないがその山容は秀麗だから、まこと面白いといへる。「行きしかば」の過去叙法を現在格で收めたのは、この外にも、
  かすみ立つ野のへの方に行きしかば鶯鳴きつ春になるべし (卷八、圓比眞人乙麻呂――1443)
がある。
 
黒玉之《ぬばたまの》 玄髪山乎《くろかみやまを》 朝越而《あさこえて》 山下露爾《やましたつゆに》 沾來鴨《ぬれにけるかも》     1241
 
〔釋〕 ○ぬばたまの 黒の枕詞。既出(三〇四頁)。○くろかみやま 大和添下郡。奈良山の一部で那富《ナホ》山の北隣。下野又は備中説は更に不用。
【歌意】 黒髪山を朝方越えて、山陰の露に、濡れてしまつたことよなあ。
 
(2022)〔評〕 この黒髪山は佐保田から般若寺坂通りへ出る山路で、北に元明元正御二代の山陵を望み、南は那冨山陵(聖武天皇第一皇子)に對し、欝蒼たる森林地帶である。而も朝は露の多い時だから、袖も袂もびしよ濡れの筈だ。だが作者は一向豫期しなかつた辛苦なので、「沾れにけるかな」の驚嘆となつた。平淡のうちに滋味を藏してゐる。
 
足引之《あしひきの》 山行暮《やまゆきくらし》 宿借者《やどからば》 妹立待而《いもたちまちて》 宿將借鴨《やどかさむかも》     1242
 
(2023)〔釋〕 ○かさむかも 「か」は疑辭と解する。
【歌意】 山路を行つて日を暮し、そして宿を借らうなら、美人が出て待つて、宿を借してくれようかまあ。
 
〔評〕 夕暮近くまで山路を歩き草臥れて、早く今宵の宿を心に描いた。倦怠の氣持から出た途上口占の閑想像、これに似た咄は、膝栗毛にも一再ならず書かれてある。この妹は家妻ではない。さりとて必しも遊女|傀儡《クヾツ》とも限らない。只漫然とそこに美しい女性を想像したまでゝある。「宿借さむかも」と、自分ながら不確實な事を考へて、首を傾けてゐる處に面白味がある。
 「宿借らば」「宿借さむかも」の重複は頗る重苦しい。
 
視渡者《みわたせば》 近里廻乎《ちかきさとわを》 田本欲《たもとほり》 今衣吾來《いまぞわがくる》 領〔左△〕巾振之野爾《ひれふりしぬに》    1243
 
〔釋〕 ○さとわを 里わなる〔二字右○〕を。古義訓サトミヲ〔四字傍線〕。○たもとほり 既出(一六五五頁)。○わがくる 童本の訓に從つた。略解以來ワガコシ〔四字傍線〕と訓んであるのは非。○ひれふりし 「領」原本に禮〔右△〕とあるは誤。△寫眞 挿圖158(五七五頁)を參照。
【歌意】 見渡すと、つひ近い里であるものを、ぐる/\廻り道をして、今さやつと來ることよ、嘗ての別に我妹子が〔九字右○〕、領巾を振つたその野に。
 
〔評〕 久し振で歸郷し、早く妹に逢はむの心急ぎにいら/\して居る、作者の氣持がよく出てゐる。
(2024) 田舍道は迂囘してゐるから、割合に近くて遠い。だから我妹子の領巾振りし野に到着し得たことは、何よりも喜ばしい。口占體の作として、格調の卑いのは止むを得ない。新考の「領巾振りし」を現在の事と解したのは非。
  見わたせば近きわたりをたもとほり今や來ますと戀ひつつぞをる (卷十一――2379)
は上句相似て風調も同じで、殆ど贈答の作の如き觀がある。
 
未通女等之《をとめらが》 放髪乎《はなりのかみを》 木綿山《ゆふのやま》 雲莫蒙《くもなたなびき》 家當將見《いへのあたりみむ》     1244
 
〔釋〕 ○をとめらがはなりのかみを 少女等が放髪《ハナリノカミ》を結ふを、木綿《ユフ》の山にいひかけた序詞。○はなりのかみ 「放髪」の字面の如く、ばら/\なる髪をいふ。古代は婦人の十四五歳までは髪を結ひ上げず、その程を過ぎ、又は夫を持てば、髪を結ひ上げる習慣であつた。○ゆふのやま 豐後國速見郡の由布《ユフ》嶽のこと。今豐後富士とも稱する。標高千四百七十米突。豐後風土記に、速水郡|柚富《ユフノ》郷、此郷之中|栲《カヂノ》樹多(ニ)生(ヒタリ)、常(ニ)取(リ)2栲(ノ)皮(ヲ)1以(テ)造(ル)2木綿《ユフヲ》1、因(リテ)謂(フ)2柚富(ノ)郷(ト)1とある。○なたなびき 「莫蒙」を意訓にかく讀む。舊訓(2025)ナカクシソ〔五字傍線〕は蒙の字義にはよく當るが、古調でない。
【歌意】 少女達が放(ノ)髪を結ふといふ名の由布の山に、雲が靡くなよ、懷かしい家のあたりを見ように。
 
〔評〕 家郷の空の見當も付かぬと、由布嶽の雲に小言をくれた。題材が大きいだけに、「家のあたり」は近距離ではあるまい。高峻なる荒山由布嶽の序詞としては、「少女等が放髪を結ふ」は綺麗に過ぎる嫌がある。この序詞を信じてさて由布嶽を見ると、聊か豫想が裏切られる。抑も序詞は歌意には交渉は無いものゝ、一首の風趣の上には切り離し難い關係があると思ふ。
 
四可能白水郎乃《しかのあまの》 釣船之綱《つりふねのつな》 不勝〔左○〕堪《たへかてに》 情念而《こころにもひて》 出而來家里《いでてきにけり》     1245
 
〔釋〕 ○しか 既出(七〇六頁)。○たへかてに 初二句は「たへ」に係る序詞。釣船の綱は丈夫なれば永く耐へる。されば「かてに」とまでは係らぬ。「勝」原本にない。古義説によつて補つた。舊訓タヘズシテ〔五字傍線〕。△地(2026)圖及寫眞 挿圖217(七四四頁)、205(七〇六頁)を參照。
【歌意】 志賀の海人の釣舟の綱はよく堪へる、が自分は〔三字右○〕堪へかねる程、人を〔二字右○〕心に思うて、出掛けて來たことわい。
 
〔評〕 居たゝまれなくなつて、ふら/\と的もなく出てくる。これは戀する人の常態である。まして客中ではさぞである。結句率直でよろしい。
 
之加乃白水郎之《しかのあまの》 燒鹽煙《しほやくけぶり》 風乎疾《かぜをいたみ》 立者不上《たちはのぼらず》 山爾輕引《やまにたなびく》     1246
 
〔釋〕 ○かぜをいたみ 既出(七二八頁)。
【歌意】 志賀の海人が鹽を燒く煙〔右○〕が、風がまあひどさに、上へは昇らず、山にかけて靡くわい。
 
〔評〕 海邊によく見る風景である。煙の風に靡く山は、志賀ではやはり志賀の島山であらう。
  繩の浦の鹽燒くけぶり夕されば立ちはのぼらで山にたなびく (卷三、日置少老――354)
と相似してゐる。なほ同歌の評語を參照(八三一頁)。
 
右件(ノ)歌(ハ)者古集中(ニ)出(ヅ)。
 
古集は古歌集であらう。左註の意は、上の「四可能白水郎乃《シカノアマノ》」の歌の序《ツイデ》に、古歌集中におなじこの「之加乃白(2027)水郎之」の歌があつたから、書き入れたとの意と考へられる。處でこの歌が卷三の「繩の浦の鹽燒く煙」の異傳だとすると、註者のいはゆる古歌集〔三字傍点〕は多分は獨立した別箇の存在らしいが、或は直ちに本集の卷二をさしたものかとも疑はれる。萬葉集の名稱が後に至つて總括的に家持などの手で輿へられたものと假定すれば、本集の卷一より卷四までは、古歌集と呼ぶより外はあるまい。
 
大穴道《おほなむち》 少御神《すくなみかみの》 作《つくらしし》 妹勢能山《いもせのやまは》 見吉《みらくしよしも》     1247
 
〔釋〕 ○おほなむち 「道」をムチに充てた。既出(八三二頁)。○すくなみかみ 「すくな」は少彦名《スクナビコナ》の略言。「すくなびこな」を見よ(八三二頁)。○いもせのやま 妹山と背山。「勢能《セノ》山」を見よ(一四一頁)。
【歌意】 大穴道の神と少名彦の神とがお作りなされた、妹背(夫婦)の山は、見ることがさ、面白いなあ。
 
〔評〕 妹山背山は平た張つた小さな岡で、決して景色のよい山ではない。然るに尚「見らくしよしも」といふ。これはその名稱に就いての聯想を翫んだもので、わが國土を經營されたとの傳説をもつ、大少二神のこの夫婦二山を作られた譯《ワケ》知りの御心を想ふと、その神業に感銘しつゝ樂んで見られるのである。
 
吾妹子《わぎもこと》 見偲《みつつしぬばむ》 奥藻《おきつもの》 花聞在《はなさきたらば》 我告與《われにつげこそ》     1248
 
(2028)〔釋〕 ○わぎもこと 我妹子として〔二字右○〕。我妹子と共に〔六字傍点〕の意ではない。○しぬばむ めでよう。○おきつものはな 「おきつもの」(一六九頁)、「いつものはな」(一〇七五頁)を參照。○つげこそ 「こそ」は願望辭。△寫眞 挿圖304(一〇七五頁)を參照。
【歌意】 可愛い我妹子として、見い/\して愛でようと思ふ〔三字右○〕、あの沖の藻の花が咲いたらば、私に知らせて下さいね。
 
〔評〕 この沖つ藻は河や沼の沖の藻である。さて咲いたら知らせよと、人に注文する程、藻の花に深い執心を留めたことは、その清楚な白色の見るから可憐な細々の花が、家なる妻の風姿を想起させるからであつた。乃ち我妹子として見つゝ慕ばうの一案を提げて、せめてこのはかない希望なりとも滿たさうと努めてゐる。根強い離愁に因はれた人の作である。
 
君爲《きみがため》 浮沼〔左△〕池《うきぬのいけの》 菱採《ひしとると》 我染袖《わがしめしそで》 沾在哉《ぬれにけるかも》     1249
 
〔釋〕 ○うきぬのいけ 浮沼の池は八雲御抄に石見と見え、その安濃郡三瓶山の半腹にある。「沼」原本に沾〔右△〕とあるは誤。○ひしとると (2029)菱の賓〔三字右○〕を採るとて〔右○〕。菱は菱科の水草、葉柄は中部ふくらみ、葉は四角にして水面に叢生す。花は白色にして四瓣、實は黒色にて角状の突起を有し、極めて堅い。種子は白色にして食用に供する。古義訓ヒシツムト〔五字傍線〕。○わがしめしそで 自分が染めたことである袖。古義は「袖」を衣〔右△〕の誤としてシメゴロモ〔五字傍線〕と訓んだ。舊訓ワガソメシソデ〔七字傍線〕。○ぬれにけるかも 契沖、眞淵共にヌレニタルカモ〔七字傍線〕と訓んだ。
【歌意】 貴方の爲に、浮沼の池の菱の實を取るとて〔右○〕、私の折角染めたことであつた袖が、濡れてしまつたことよ。
 
〔評〕 婦人の作である。思ふ人に食べさせたいばかりに、山中の恐ろしい池に菱の實を採取する。その苦勞だけでも澤山なのに、命から二番目の大事の著物が、その爲びしよ濡れになつたと、大仰に歎息した。而もその著物は自分の丹誠して染めた物だといひ添へてゐる。いかにも女らしい。要するに入手の勞苦を強調して贈物に價値づ(2030)け、人に深く思を著せようとする例の筆法である。
  豐國の企救《キク》の池なる菱のうれを採むとや妹が御《ミ》袖|沾《ヌ》れけむ (卷十六、豐前國白水郎――3876)
と表裏して、恰も男女應酬の作たる感がある。
 菱子は盛に食料として昔は採取された。伊勢駿河の風土記に菱を貢する事が見え、延喜式には、貢進果子に丹波國菱子二棒の目がある。又同式に見れば、公事節會の料に盛に供用されてゐる。
 
妹爲《いもがため》 菅實採《すがのみつみに》 行吾《ゆけるわれ》 山路惑《やまぢにまどひ》 此日暮《このひくらしつ》     1250
 
〔釋〕 ○すがのみつみに 「やますげ」を見よ(七三六頁)。又の訓スガノミトリニ〔七字傍線〕。○ゆけるわれ 假にかう訓んでみた。古義訓ユキシアレ〔五字傍線〕はシの過去が落ち著かない。舊訓ユクワレヲ〔五字傍線〕は愈よ非。○やまぢにまどひ 古義訓による。舊訓ヤマヂマドヒテ〔七字傍線〕。△寫眞 挿圖215(七三七頁)を參照。
【歌意】 我妹子の爲に、菅の實を採りに往つた自分がさ、つひ〔二字右○〕山路に踏み迷つて、意外にも今日のこの日を暮したよ。
 
(2031)〔評〕 山菅は山野到る處ふんだんにある草で、その實を先から先へ採り廻つてゐるうちに方角を見失ひ、山中にまご/\して暇を潰した。「この日暮しつ」は妹に揚言する爲の誇張であらう。「ゆけるわれ」は稍冗漫の感がある。
 菅の實採が何で「妹が爲」であるか。その葉は神事に、その根は藥料に用ゐられたが、その實は想ふに染料としたものであらう。秋冬の交よく熟すると濃碧色となるので、摺衣など作るに最も適當だ。さて妻君に頼まれてその實を摘みに山へ往く、簡素な古人の生活を味ふと、種々の意味からして面白い。上出の
  妹が爲玉をひろふと紀の國の湯等《ユラ》の御崎にこの日暮しつ (――1220)
と同趣の作で、題材はこの歌の方が新鮮で面白い。結句この「日暮しつ」に就いては、「妹が爲玉をひろふと」の條の評語を參照(二〇〇三頁)。
 
右四首、柿本(ノ)朝臣人麻呂(ノ)歌集(ニ)出(ヅ)。
 
四首のうち、人麻呂の歌詞に稍近いのは「大穴道少御《オホナムチスクナミ》神」の歌である。他はみな風調が違ふ。殊に「君が爲浮沼の池の」の歌は婦人の作である。
 
(1)おくがき (第三)
 
 私は職として時に丹※[土+犀]に上り、官局に出入することもあるが、元來が野人で、書齋から講堂へが、殆どその生活の全部である。隨つて、專攻の學問上いふべきこと、いひたいこと、爲べきこと、爲たいことは山ほどあるが、私の仕事は大抵が獨自の考索に屬し、他の編纂物や何かのやうに人手を※[人偏+就]りる譯にゆかぬから、その成果は實に牛の歩だ。然しこれも生來の鈍根によることと諦めてはゐる。
 只心外なのは出版の長引いたことである。この評釋の第三冊の如き、去年の暮春に選字に着手してから一年半餘を費してゐる。徒然草に、足許から鳥がたつやうに渡邊の聖のもとに物學びに出掛けた登蓮法師の話が出てゐる。全く何時死ぬか分らぬ生身をかゝへてゐる私だ。日暮れ道遠し、思へば氣が狂ひさうになる。
 それは勿論時局の影響でもある。私は應仁の亂を知らずにゐたといふ叡山の學徒とは違ふから、相當に非常時を認識し、何時でも筆を投じて戎軒を事とする位の氣慨は持ち合せてゐる。
 現代を確に認識することは、即ち過去を如實に認識する階梯である。さては文學の批評鑑賞者は、新古を通じて各の時代相を的確に把握し、そこに比較研究の基礎を作らぬばならぬ。
 だから、萬葉集の研究は、歌としての批評鑑賞が本體であることは勿論だが、一面に全國文の研究であり、更に(2)全國史の研究である。又、單にわが國粹文化の研究のみではなく、外來文化の研究でもある。而もそれらを一括し、すべては結集された歌その者のうへに歸一せしめねばならぬ。
 かくの如き綜合研究は實に煩々瑣々を極めたものだ。搗てゝ加へて出版、それは組織、樣式、挿圖、校正などの勞苦だ。今漸く出來上がつてまだ糊の香の失せぬこの第三冊目の新しい装釘に對して、私は暮夜人知らぬ涙の涌くを覺えるものがある。
 
 昭和十五年秋九月
                        元 臣 し る す
 
〔入力者注、索引は省略〕
 
萬葉集評釋 第四冊  明治書院 1945.1.10  14円50銭
 
〔入力者注、總目次は省略〕
 
(1)      緒言
 評は釋の上に立たなければ確實性がない。釋はいはゆる訓詁で、前人幾多の研究は專らその方面にのみ全力を濺いでゐたものだ。
 私も私の批評の基礎として、決して訓詁を疎かにするものでない。只その紛々たる是非當否を絮説してゐては、目的たる批評の時間がなくなる。依つて學的常識に訴へて讓られるものは、時にその結論ばかり提示しておいたものもある。
 或はこの僅な省略に對して遺憾の意を表した者がないでもない。私は失禮にも、その人達はまだ學的常識が出來てゐないからだとはいはない。それは歌意や批評の項を眞に味讀してくれれば解ることだとは斷言する。
 評は猿の人眞似で、誰れにでも出來る。然しよく評することは誰れにもむづかしい。我々は原作者とは赤の他人だ。而もこの古文學の相手は、千年以上の昔の空氣を呼吸してゐた人達だ。神樣でない以上は見通しといふ譯にはゆかない。そこで種々の角度からの研究が必要となる。さうして出來得るだけ原作者の眞感情を捉まうとする。單なる自分の第一印象で一寸片付けてしまふのや、自己陶醉に終るものなどは、いかに多言を費しても眞の批評ではない。
(2) 私は私の批評に立體的研究、これを榜標してゐる。石を敲けば火が走る。歌に對した瞬間の感受性がそれである。然それだけでは學問にはならない。それを説明し、更にその説明に各方面からの的確なる立證を要する。かうなると現代の流行語でいへば科學的だ。一歩進んでいふと、私の理想とする立體研究の結果として現れた批評は、一種の創作である。考へてみれば、私は萬葉二十卷四千數百首の上に、一々創作を試みつゝあるのである。
 私はこの萬葉集評釋の批評が、立體的研究の上に立つた創作であるといふことをいひたい爲に、この一文を草する。
 世間に評釋を以てなほ訓詁視してゐる者がある。彼等は訓詁といふ字義すら本當に知らないのであらう。尤も多數の淺薄な輕浮な著書が評釋の美名を冒涜した結果、そんな錯覺を招いたともいへる。迷惑な話だ。私の既刊書「枕草子評釋」及び「古今集評釋」などを本書に併せ見たら、恐らく前言の非を曉るであらう。
 
 昭和十九年一月、第四卷の校を了しつゝ
            金 子 元 臣 し る す
 
〔入力者注、凡例、卷七、八、九の目次は省いた。〕
 
(2037)萬葉集卷七(下)
 
問答《トヒコタヘ》
 
短歌の前首と後首とで問答の意が構成されたもの。この體はその始旋頭歌においてなされたものだが、漸く短歌の方に移行して來たのである。尚委しくは「雜考」に讓る。
 
佐保河爾《さほがはに》 鳴成智鳥《なくなるちどり》 何師鴨《なにしかも》 川原乎思努比《かはらをしぬび》 益河上《いやかはのぼる》     1251
 
〔釋〕 ○さほがは 既出(二七三頁)。○ちどり 既出(六八七頁)。○かはらをしぬび 河原を愛でて。「しぬびつ」を見よ(四五頁)。△地圖及寫眞 挿圖170(六一七頁)195(六八八頁)を參照。
【歌意】 佐保川に鳴いてゐる千鳥よ、何でまあ、こんな〔三字右○〕磧を愛で慕うて、無闇と川を溯ることかい。
 
〔評〕 千鳥が遂にその修飾語になつた程、佐保川には千鳥が多く居たのであつた。卷七にも「佐保川の清き河原に鳴く千鳥」とある。磧の砂礫を踐み/\流をのぼるのは千鳥の習性だ。それを千鳥が磧を愛好するものゝ如く觀じ、「何しかも」の疑問を投げかけて、一寸千鳥を揶揄してみたものだ。
(2038) 「川」の語が重複してゐるが、更にその煩を覺えぬばかりか、却て節奏を拍つて語調を齎してゐる。 △問答體歌考(雜考――25)を參照。
 
人社者《ひとこそは》 意保爾毛言目《おほにもいはめ》 我幾許《わがここだ》 師奴布川原乎《しぬぶかはらを》 標結勿謹《しめゆふなゆめ》     1252
〔釋〕 ○おほにも 大凡にも。○いはめ 新考に「云」は思〔右△〕の誤かとあるは不用。○ここだ 既出(五九六頁)。○かはらを 磧なる〔二字右○〕を。○しめゆふ 「しめゆへ」を見よ(三五九頁)。○ゆめ 禁止の辭。「謹」を讀むは意訓。
【歌意】 人間こそはさ、佐保の磧を何でもなくまあ云ひもせう。然し〔二字右○〕自分等千鳥〔二字右○〕は大層に愛好する磧なのを、標など結うて邪魔して〔四字右○〕下さるなよ、きつと。
 
〔評〕 上の歌の詰問に答へた千鳥の語として作つた。抑も佐保川の奈良京を貫流するあたりは、全くの里川状態で、附近の人家では勝手にその河岸や河原を使用してゐたらしい。されば懸想人の通ふ爲には、
  千鳥鳴く佐保の川門の瀬をひろみ打橋渡す汝《ナ》が來と思へば(卷四、坂上郎女――528)
の如く打橋を架けもする。又都合次第ではその磧に圍ひをしたり、仕切をしたりする。これが磧傳ひに溯る千鳥に取つては、甚だ迷惑な通行妨害である。人間はいざ知らず、千鳥の方では「ここだしぬぶ」結構な磧なのにと、人間等に向つて抗議を申し込んだ。
 以上二首の問答が突飛なる遊戲文字の如く見えるのは、その實寓意の作だからである。(2039) 想ふに、前首は女の作で、懸想にあくがれて頻繁にかの女の家を訪問に及んだ男を、鳴きつゝ川のぼりする佐保川千鳥に擬へ、「何しかも」と設問の辭を下して、どうした料簡で御苦勞にもかうお通ひ下さるのかと空とぼけた。恐らく女の側近者の調戲であらう。後首は男の答で、おそばの人達は、自分の態度をまだ眞劍でないやうにお疑ひなさるかも知れぬが、どうして一所懸命の熱愛です、かの女を決して「標結ふな」、邪魔立てして隔てゝ下さるなと、側近の人達に懇願したものと思はれる。
 歌としては前首の方が懸け歌だけに完璧で、風調も高邁勁健である。後首は相當巧思を弄したものゝ、事理を陳べるに急がしく追はれてゐる觀がある。
 
右二首、詠(メル)v鳥(ヲ)。
 
神樂浪之《ささなみの》 思我津乃白水郎者《しがつのあまは》 吾無二《われなしに》 潜者莫爲《かづきはなせそ》 浪雖不立《なみたたずとも》     1253
 
〔釋〕 ○しがつ 卷二に「ささ波の志我津の子ら」とある。既出(五九二頁)。○われなしに 我れなしにて〔右○〕。「なし」は不在の意。○かづき 潜《カヅ》き業。舊訓イサリ〔三字傍線〕。△地圖及寫眞41(一二四頁)44(一三二頁)を參照。
【歌意】 志賀の海女は、この私の居ぬのに、無闇に〔三字右○〕潜るなよ。假令凪ぎがよくて〔八字右○〕波が立たずとも。
 
〔評〕 潜きするは通例海女である。女だてらの危險な過ぎはひを思ふと、それへの同情は愈よ以て強い。でおれが見張つてゐない時には、如何な凪ぎの場合でも潜きするなと、懇切な警戒を與へた。然し作者は海女に何の(2040)交渉もないほんの行摺りの赤の他人だ。
 又場處が志賀津では困つた。抑も淡水《アフミ》の海はいふまでもなく淡水であり、而も滋賀附近は昔でも遠淺であつたと考へられるから、舟浮けて魚貝を求食る海人はあつても、潜きする海女のあらう筈もない。海人〔二字傍点〕の聯想によつて潜き業を思ひ寄せたまでだとすると、この歌の眞實味は稀薄になる。
 稀薄になつても仕方がない。この歌はもと/\比興の作で、海人を以てわが思ふ兒に擬へ、自分の後見なしに輕はづみの事をしてはならぬの意を、「われなしに潜きなせそ」といひ、「波立たずとも」といひ添へ、すべて海人の所作によつて終始して、豫め女の輕擧盲動を訓戒したものだ。新考に、
  海人のかづきを見て面白く思ふ餘に、そをわが物と領ぜむと思ふ心なり、今も幼兒には屡ば見る心理状態なり。
とあるは何事ぞ。面白いと見るは以ての外、人情でもない。
 
大船爾《おほふねに》 梶之母有奈牟《かぢしもあらなむ》 君無爾《きみなしに》 潜爲八方《かづきせめやも》 波雖不起《なみたただずとも》     1254
 
〔釋〕 ○かぢしも 「し」は強辭、「も」は歎辭。
【歌意】 大船には楫がさ、まああつてほしいわ。いはば私の楫は貴方ですから〔十三字右○〕、貴方なしに何で潜きをしませうかい、よしや波は穩やかであるともさ。
 
〔評〕 懸歌に對して、大船の梶を例に引いて、自分勝手の行動はせぬことを誓つた、女の返歌である。鸚鵡返しに「波たゝずとも」の句を結末に反復した。これも一格である。この贈答を一連に復誦すると、その反射的呼應によつて語調を感ずる。
 
右二首、詠(メル)2白水郎《アマヲ》1
 
臨《ツケテヨメル》v時(ニ)
 
折に觸れて詠んだ歌との意。
 
月草爾《つきぐさに》 衣曾染流《ころもぞそむる》 君之爲《きみがため》 綵色衣《いろへのころも》 將摺跡念而《すらむとおもひて》     1255
 
〔釋〕 ○つきぐさ 既出(一二〇六頁)。○そむる 古義訓ソメル〔三字傍線〕は非。○いろへのころも 彩色ある衣。「綵」は彩〔右△〕に通じ、玉篇に五綵備(ル)也とある。彩色を動詞にイロフといひ、名詞にイロヘといふ。即ち色取ること。されど舊訓イロドルコロモ〔七字傍線〕は非。こゝ及び「紫の綵色之※[草冠/縵]《イロヘノカヅラ》」(卷十二)、「紅の綵色《イロヘ》に見ゆる秋の山かも」(卷十)の綵色は皆イロヘと訓む。眞淵はマダラ〔三字傍線〕と訓んだが、同じ臨時の作中に綵衣と斑衣とを竝べて出してある以上は、各その訓を殊にするが當然だから、綵はマダラでない反證になる。紀には綵をシミ、綵色をシミノモノと訓んだ例によれば、こゝをシミノコロモヲと訓むもよいが、他の場合の通用を思うて、イロヘノコロモと訓んでみた。(2042)○すらむ 「すれるころも」を見よ(一九五〇頁)。△寫眞 挿圖333(一二〇六頁)を參照。
【歌意】 結局〔二字右○〕月草に衣をさ染めましたわ、貴方の爲、彩色美しい衣を〔右○〕、摺らうと思うて。
 
〔評〕 婦人の作である。郎君の爲綵衣を作るに、紅もあり紫もあるが、月草の花色を染めたといふ。一體何の爲に、月草に染めたことをかく報告したのか。そこに紆餘曲折した情思がある。紅もいゝがけば/\しい、紫もいゝが花やか過ぎる、いろ/\散々苦勞した擧句が、月竝の月草染になつてしまつたのである。餘り考へ過ぎて平凡に落ち著く。世間によくある事で、その間に潜行してゐる情味の饒かさを汲むべきであらう。
 
春霞《はるがすみ》 井上從直爾《ゐのへゆただに》 道者雖有《みちはあれど》 君爾將相登《きみにあはむと》 他囘來毛《たもとほりくも》     1256
 
〔釋〕 ○はるがすみ 井に係る枕詞。春霞の居る〔二字傍点〕を井にいひかけたもの。○ゐのへゆただに 井のほとりへ眞直に。「ゐ」を田舍の略とし、又地名とする説は當らぬ。この「ゆ」はニ〔傍点〕の意に近い。古義訓ヰノヘヨタダニ〔七字傍線〕。○たもとほり 既出。(2043)一六五五頁。
【歌意】 井戸の邊に、眞直に路は付いてゐるけれど、貴女に逢はうと思うて、わざと〔六字右○〕うろ/\來ることよ。
 
〔評〕 神代綿津見(ノ)神の宮の門脇には井のあつた如く、井を中心として部落も成立する。されば井の邊には必ず道路が通じでゐた。こゝに「井の邊ゆ路はあれど」といふは即ちそれである。
 然し埴瓮や何かを捧げて彼女が井戸端に出て來るのを待つには、その直路を目の前に控へながら、餘計にあちこちぶら/\して手間取らねばならぬ。戀する者の焦慮と痴呆の行爲とを、率直にさらりと白状してゐる。
 
道邊之《みちのべの》 草深由利乃《くさふかゆりの》 花※[口+笑]爾《はなゑみに》 ※[口+笑]之柄二《ゑみしがからに》 妻常可云也《つまといふべしや》     1257
 
〔釋〕 ○くさふかゆり 草の茂つた中の百合。この百合は鬼百合でも山百合でもよい。略解訓クサフケユリ〔六字傍線〕は非。○はなゑみに 花の笑みの如く〔三字右○〕に。花の咲くを人の顔の綻ぶに譬へて笑むといふ。「に」は(1)の如く〔三字傍点〕の意(舊説、略解、古義)。(2)花の如き笑みに(新考)。以上何れも初二句を譬喩と見た。○ゑみしがからに 「ゑまししからに」を見よ(一二四六頁)。舊訓ヱミセシカラニ〔七字傍線〕、契沖一訓ヱマシシカラニ〔七字傍線〕。○いふべしや 「や」は反動辭。宣長の歎辭と解したのは非。
【歌意】 路端の草むらの中の、百合の花の笑みのやうに、あの女が自分に向つて〔十字右○〕ニコリとしたからとて〔右○〕、それで〔三字右○〕妻といはれようかい。
 
(2044)〔評〕 測らず途中で邂逅した婦人が好意の艶笑をおくつた。すると傍人達が岡燒半分、ワイ/\騷いだのに對しての辯明か。更に立入つて「妻といふべしや」の口吻から推すると、その婦人は實は情人であるのを、人前を繕ふ爲の強辯とも聞き取られる。卷四、聖武天皇の思《シヌブ》2酒人(ノ)女王(ヲ)1御製に、
  道にあひて笑まししからにふる雪の消なば消ぬかに戀ひ思《モ》ふ我妹《ワギモ》(――624)
とも見え」美人の盻兮たる巧笑には、何のかのとうるさい問題が發生し勝である。又この上句を家持が踏襲して、
  夏の野のさゆりの花の、花ゑみににふぶに笑みて、逢はしたる――(卷十八長歌――4116)
と作つた。げに大樣に咲いた百合の風姿は、その花笑みをいふに尤もふさはしいものである。
 尚行き合ひの戀に就いては、卷十一「玉桙の道ゆかずして」の歌の條下にいはう。
 
黙然不有跡《もだあらじと》 事之名種爾《ことのなぐさに》 云事乎《いふことを》 聞知良久波《ききしれらくは》 苛曾〔二字左△〕有來《からくぞありける》     1258
 
〔釋〕 ○もだあらじと 黙して居られ〔二字右○〕じとて〔右○〕。○ことのなぐさ「ことのなぐさぞ」を見よ(一二七七頁)。○いふことを 云ふことなる〔二字右○〕を。○ききしれらくは 聞き知れること〔二字右○〕は。「知れらく」は知れる〔傍点〕の延音。〇からくぞありける 「苛」原本に小可〔二字右△〕、「曾」原本に者〔右△〕とあるは誤。古義所引の嚴水説による。略解所引の宣長説は少可〔二字右△〕を奇〔右△〕の誤として、訓アヤシカリケリ〔七字傍線〕である。但者〔右△〕を衍字とすればスクナカリケリ〔七字傍線〕と訓まれ、この歌の意は通ずるが、卷十一「ますらをと思へる吾を」の歌の結句も、「小可者在來」とあり、矢張カラクゾアリケルでなくては意(2045)が通じない。【歌意】 黙つては居られないとて〔右○〕、ほんの口草にいふことなのを、その眞實を人の〔七字右○〕聞き知つてゐることは、辛いものでさあつたわい。
 
〔評〕 交際場裏にはこんな事はよくある。一座の空氣を亂すまいとして、口から出放題に跋を合はせて、お茶を濁す。もしそこに虚心平氣、その放言の眞意如何を打診し得る人が居たら、こんなきまりの惡い事はあるまい。作者は或時かうした場合に測らず遭遇しての實感である。
 
佐伯山《さへきやま》 于花以之《うのはなもたし》 哀我《かなしきが》 手〔左△〕鴛取而者《てをしとりてば》 花散鞆《はなはちるとも》     1259
 
〔釋〕 ○さへきやま 佐伯山は攝津國池田市の東北方にあり、標高二百米突。仁徳天皇紀に、猪名(ノ)縣(ノ)佐伯部《サヘキベヲ》移(ス)2于安藝(ニ)1と見え、地名辭書はその佐伯部の遺墟とした。寶龜勘録、西大寺資材帳にも、「一卷、豐島郡佐伯村……………等獻」とある。眞淵は「伯」を附〔右△〕の誤としてサツキヤマ〔五字傍線〕と訓み、卷十に「五月山卯の花月夜時鳥」、また「五月山花たち花に時鳥」などある(2046)を例に引いた。但本文のまゝで聞える以上は、改字の必要を認めない。○うのはな 卯つ木の花をいふ。卯つ木は虎耳草科の灌木。高さ五六尺以上、葉は對生し、橢圓形にて尖り、周邊に細鋸齒あり。四五月頃白色の細花を聞く。幹枝中空なる故に空木《ウツギ》の稱がある。○もたし 持ち〔二字傍点〕の敬相で、こゝは中止態である。訓は西本矢本京本による。契沖及び略解古義の訓にモチシ〔三字傍線〕とあるが、そのシは過去辭だから妥當でない。○かなしきが 愛《カナ》しき妹〔右○〕がの略。卷十四の東歌に「鳰鳥の葛飾早稻を贄《ニエ》すともそのかなしきを外《ト》に立てめやも」はこれと同例。又同卷に「かなしき背《セ》ろが我《ワ》がり通はむ」とも見えた。「かなし」は既出(一七三七頁)。○てを 「手」原本に子〔右△〕とある。契沖説によつて改めた。○はなはちるとも の下、よし〔二字右○〕の語が略かれた。
【歌意】 佐伯山、そこの〔三字右○〕卯の花を持たれ、いかにも〔四字右○〕愛らしい娘の、その手をさ執つたらば、持つてゐる〔五字右○〕卯の花は散るとてもよいわ〔三字右○〕。
 
〔評〕 作者は夏山のそゞろ歩きに、端なく卯の花を手中に弄しつつくる一少女に邂逅した。少女も卯の花も共に美しかつた。彼(2047)れは一瞥のもとその少女に持前の好色《スキ》心を動かし、一寸その柔手を握つてみたくなつた。若い者の言動は何時の代でも大抵同じだ。
 人はよく萬葉人は徹頭徹尾、眞實と素朴の凝り固まりのやうに考へてゐる。でほんの戲謔に過ぎないものまでも、眞劍に重々しいものに扱つて感心してしまふ。可笑しな事だ。これなども只行摺りの風流三昧で、まづわざと卯の花と少女とを同價値に扱つて比興し、更に英斷らしく、「花は散るとも」と、卯の花を蹴落して、少女の一握手を絶對のものにした。これら餘裕と遊のある點に、一番の留意を要する。
  はし立の倉梯山をさかしみと岩掻きかねてわが手取らすも(記、隼別王)
おなじ手を取るにしても、その境地は西と東である。
 
不時《ときじきに》 斑衣《まだらのころも》 服欲香《きほしきか》 嶋〔左△〕針原《しまのはりはら》 時二不有鞆《ときにあらねども》     1260
 
〔釋〕 ○ときじきに 時ならぬをいふが本義で、不斷に、何時も/\などの意が生じた。こゝは後者の意。「かぜをときじみ」を見よ(四五頁)。新考訓トキジクノ〔五字傍線〕は歌意たじろぐ。舊訓トキナラヌ〔五字傍線〕。○まだらのころも むらに染めた衣。こゝは萩の花摺の斑衣。卷十の[はだれ」を參照。○きほしきか 「きほし」は著まほしと同意。(2048)「か」は歎辭。○しまのはりはら 嶋の萩原。「しま」は大和高市郡嶋の庄の地。「奈良路なる島の木立」の島は別處。「しまのみや」を見よ(四八○頁)。「はりはら」は既出(二二一頁)。「嶋」原本に衣服〔二字右△〕とあるは解し難い。元本にこの二字なく、嶋〔右△〕の字が補つてあるのに從つた。袖中抄、童蒙抄の句もシマノハリハラとある。「針」は榛の借字。○ときにあらねども 一訓は時ナラズトモ〔六字傍線〕。
【歌意】 何時でも斑の摺衣が著たいなあ、嶋の萩原は、今花咲く季節ではないけれどもさ。
 
〔評〕 嶋は遠く蘇我馬子が豪華を窮めた第宅地であり、又近くは日竝皇子の島の宮の遺址である。西は橘寺や川原寺に隣接し、南は飛鳥川に局られて餘地はないが、東飛鳥の岡から北へかけては、萩原もありさうな平地を存してゐる。但作者はその萩原に花のない時分、偶まこの島の故地を訪問し、萩の花摺に紫の斑の衣を作つて、その逸興を遣る風流三昧の所作を、つぶ/\と念頭に描いた。
 「衣匂はせ旅のしるしに」(卷一)、「岸の埴生に匂ひて行かな」(卷六)など、もと/\旅人の心胸を拍つた觸目の感興から發したものではあるものゝ、古人は有髯男子でも、服色に相當の關心をもち、大きな興味を感じてゐたことが認められる。而も萩の花は紫色(古代の)で、それが古代人の特に懷かしんだ色相であることを、考慮に置くべきだ。
 生憎や今は萩の花の時季でなかつた。けれども「著ほしきか」であつた。こんな出來ない相談の愚痴に拘泥してゐるのも、結局嘗て花摺衣に感じた深い愛著に起因してゐる。
 修辭の上から見ると、初句と結句は語性が同じで、語意も近似してゐるので、重複感が強い。卷十の
(2049)  思ふ子がころもに摺らむ匂へこそ島の榛原秋たゝずとも(――1965)
は頗る相似してゐるものゝ、おのづから別趣の作。
△榛原考(雜考――5)參照。
 
山守之《やまもりの》 里邊通《さとへかよひし》 山道曾《やまみちぞ》 茂成來《しげくなりける》 忘來下《わすれけらしも》     1261
 
〔釋〕 ○かよひし 略解訓による。古葉及び神本訓サトベニカヨフ〔七字傍線〕。
【歌意】 山番が不斷、私の〔四字右○〕里へと通うた山路がさ、草木が路を塞ぐまで〔九字右○〕、茂くなつた。さてはこの私を山番は〔十字右○〕、忘れたことらしいわい。
 
〔評〕 里住ひしてゐる婦人の作で、山守を以てその男に譬へたことは、男が里近い山莊に住んで居たからだ。今日は明日はとその來訪を待ち呆けてゐるうちに、遂にその通路に草木が茂つたといふ。そこには多少の誇張もあらうが、いかに長い間の勘忍であつたかが想像される。けれど尚露骨な怨恨の語を著けない。只惆悵として自分にいひ聞かせるかのやうに、「忘れけらしも」と、いとも力なげに呟いてゐる。作者のしほらしい人格がにじみ出てゐる。結句の一轉囘不言の妙を存する。
 
足病之《あしひきの》 山海石榴開《やまつばきさく》 八峯越《やつをこえ》 鹿待君之《ししまつきみが》 伊波比嬬可聞《いはひづまかも》     1262
 
(2050)〔釋〕 ○あしひき 「足病」は脚病の人の足を引くからの戲書。○つばき 艶葉木《ツヤハキ》の義。山茶科の常緑喬木。山地に自生し、又庭園に翫賞せらる。その實より油を製する。「海石榴」はその本字。唐代專らこの字を用ゐ、天武天皇紀にも、白海石榴を貢すと見えた。又山茶花とも書く。世にいふサヾンクワは茶梅の誤稱である。又椿の字を充てるのは、わが邦の作意。○やつを 彌津岑《ヤツヲ》。澤山な峯や岡をいふ。○ししまつ 初句より「しゝ」までは「まつ」に係る序詞。「しゝ」は古義訓による。宣長訓シヽマチギミ〔六字傍線〕。舊訓シカマツ〔四字傍線〕。○いはひづま 齋き妻。大切にする妻のこと。
【歌意】 獵師が〔三字右○〕山椿の咲く八丘《ヤヲカ》を越えて、鹿を待つ如く、貴方が一途に〔三字右○〕待つ、いとも大切な妻であるかいまあ。
 
〔評〕 昔の大和では鹿の出るやうな山谷にも、椿が澤山咲いてゐたと見える。いや椿を播種した山谷にまで鹿は出没したのである。(この事「巨勢山の列々椿」(二一五頁)の條の評語を參照。)
 この歌は山莊住ひの人の思ひ妻を詠んだのであらう。「足引の」から「鹿まつ」までは待つ〔二字傍点〕を形容した最大の修飾だが、そこに一心不亂に待つ趣が見える。これを眞淵は遠路を通ふ勞苦に譬へたといひ、宣長は狩人の鹿を窺ひ待つ如く大切にするの意の比喩と説いたのは、一寸的が外れてゐる。
 男が女の來るのを待つは、當時の常習慣からは違例だ。違例だからこそ「いはひ妻かも」と冷かしもしたものだ。
 
曉跡《あかときと》 夜烏雖鳴《よがらすなけど》 此山上之《このをかの》 本末之於者《こぬれのうへは》 未靜之《いまだしづけし》     1263
 
(2051)〔釋〕○あかとき 「あかときづゆ」を見よ(三三八頁)。○からす 燕雀類に屬する鳥。鳴管を有せず、只叫聲を發する。○よがらす 烏を夜にていふ。○をかの 「をか」は岑所の義で、地面の高い處又は高くなつてゐるものをいふ。故に「山上」を允てた。略解訓コノミネノ〔五字傍線〕。○こぬれのうへ 「こぬれ」は既出(一四七四頁)。「うへ」はあたりの意。○いまだ なほの意。この語の本義には協はぬが、既にこの時代にかく副意の發生を見た。
【歌意】 もう明けたと、夜烏は啼くけれど、あの岡の梢のあたりは、まだ夜のまゝで靜なことよ。
 
〔評〕 岡邊の宿に住んでゐる人の或日の曉の所見である。
 夜明烏の聲に驚いて、外の方を見渡すと、薄暗い空を局つた向うの岡の梢は、一層黒々と夜の靜寂を殘して、シンとしてゐる。半明半暗の早曉の光景が如實に描寫されてゐる。景致の中心たる「岡の木ぬれ」を把握したことは、作者の才意を語るものである。尤もこれらの光景は我々が不斷實見する處のものであるが、夙くこの作者に道破されてしまつた。
 但この歌は見樣によつては根本的に立場を殊にし、頗る別趣のものとなる。即ち曉方に歸らうとする男を、女が引きとめて、「烏が啼いたつて、御覽なさい、まだ夜深ですよ、岡の梢はシンとしてゐます」といつたものとすると、軟心柔語、その津々たる情味は汲めども盡きぬといつた形である。恐らくこの方が眞相を捉んだ見方であらう。
 
西市爾《にしのいちに》 但獨出而《ただひとりいでて》 眼不並《めならばず》 買師絹之《かへりしきぬの》 商自許里鴨《あきじこりかも》     1264
 
(2052)〔釋〕 ○にしのいち 奈良京の右京にあつた西の市。東の市に對する。(今大和添上郡九條村)。郡山町の北に市田と稱する處その故地であらう。「詠2東市之樹1」を參照(七五二頁)。○めならばず 目並ばずは見並ばずの意で、こゝは相目利《アヒメキヽ》の人のないのをいふ。「め」は見《ミ》の轉。古今集にも「花がたみ目並ぶ〔三字傍点〕人のあまたあれば」とある。古義訓メナラベズ〔五字傍線〕は鑿であらう。○かへりしきぬの 買ひたりし絹が。略解は「買」の下有〔右△〕を補ふべきかといひ、又一訓にカヒニシキヌシ〔七字傍線〕ともある。○あきじこり 商ひの不埒な賣り付け。商醜賣《アキシコウリ》の義。シコウリの約はシコリとなる。(1)俗の押つ覆《カブ》せにて、買ひ被りのこと(彦麻呂説)。(2)シコリは頻りの意(契沖説)。(3)シコリは染み凝るにて物に執著する意(略解説)。(4)シコリは仕損ふをいふ。源氏若紫に、しゝこらかし〔六字傍点〕とあるも、シコルの類語にて、卷十二に「しゑや更々しこりこめやも」のしこり〔三字傍点〕に同じ(古義説)。以上のうち(1)が尤も穩かでよい。卷十二のしこり〔三字傍点〕はこゝとは別意で、交渉がない。「自」は漢音シ、呉音ジ、ここは音便でアキジコリと濁る。
【歌意】 西の市に只ひとり出掛けて、目利の相手なしに、買つた絹が、飛(2053)んだ押つ被せであることかいなあ。
 
〔評〕 奈良平安の東西市は何れも公設であつた。それでも品物に目が利かぬと、商醜賣《アキジコリ》をされたものと見える。昔も商人は腕があつた。
 さて絹布に對しては、婦人は何時の世でも敏感と思はれるから、この商醜賣に引つ掛つたのは男だらう。男なら目利の相談對手が入用な筈だ。それを獨斷で遣つて失策《シクジ》つたといふ。然し只それだけでは、詩味の頗る稀薄なことは免れまい。
 そこで、これは裏面に譬喩の意をもつものと考へたくなる。即ち獨ぎめで縁を組んだ女が、飛んだ喰はせ者であつたと、後悔と憤懣との念が綯ひ交ぜになつて、かう歌はれたらしい。但これは臨時の題下に攝られてある歌であり、下に譬喩歌は別に掲出されてあるから、そこに撞著を見る。或はこの卷の記録者が分類の際の手落であらう。
 
今年去《ことしゆく》 新島守之《にひさきもりが》 麻衣《あさごろも》 肩乃間亂者《かたのまよひは》 許誰取見《たれかとりみむ》     1265
 
〔釋〕 ○ことしゆく 今年徴發されて〔五字右○〕ゆく。○にひさきもり 新|防人《サキモリ》。○さきもり 埼守の義。防人と書くは唐六典による。邊防の爲、島又は海岸の岬角を守る兵士の稱。孝徳天皇紀に、「初(メテ)修(メ)2京師《ミサトヲ》1、置(ク)2畿内(ノ)國司、郡司、關塞《セキ》、斥候《ウカミ》、防人《サキモリ》、驛馬《ハユマ》、傳馬(ヲ)1云々」とあるが防人の語の初見で、天智天皇紀にも「是歳(三年)於(イテ)2對馬(ノ)島、(2054)壹岐(ノ)島、筑紫(ノ)國等(ニ)1、置(ク)2防《サキモリ》與《ト》1v烽《スヽミトヲ》」と見えた。なほ奈良時代のことは「防人司(ノ)佐」の條を參照(七九五頁)。さて「島守」の訓、古來サキモリ、シマモリの兩樣が存してゐる。但打任せて防人をシマモリといつた例はない。故になほ意訓でサキモリと訓むがよい。○まよひ 布帛の經緯の亂るゝをいふ。即ち地の縒れ/\になること、ほつるゝこと、平張ること。和名抄に「唐韻(ニ)云(フ)、※[糸+比](ハ)繪(ノ)欲(スル)v壞(レムト)、萬與布《マヨフ》、一(ニ)云、與流《ヨル》」とある。「間亂」は、布帛の上では「亂」の一字でマヨヒと訓まれるが、尚その訓を確かにする爲に「間」の字を冠した。契沖以來「間」を衍としたのは以ての外である。○たれか 「許誰」はコノタレ〔四字傍点〕の意で、タレと訓む。隋唐頃の俗語である。契沖が「許」は阿〔右△〕の誤か、さらずば衍なるべしといひ、諸註皆衍字説を取つたのは却て誤つてゐる。「か」は訓み添へた疑辭。○とりみむ 「とりみ」は世話すること。衣の上では繕ふこと。
【歌意】 今年徴發されてゆく、新防人が著てある麻の衣、それがこれから先、著舊されて〔十字右○〕の肩のほつれは、誰れが世話しようかえ。
 
〔評〕 當時諸國の軍團に籍を有つ兵士は、國衙の差定によつて一家に一人、防人に徴發され、遠く筑紫の邊防に赴く。それが三年交替であつた。こゝにいふ新防人は何處の國のでもよいやうなものゝ、その勞苦に同情する上に於ては、成るべく遠戌の兵士である方が、餘計にふさはしく感ぜられる。依つて東男の防人に出で立つたものとして考へる。
 天平二年九月に停(ム)2諸國(ノ)防人(ヲ)1とあつて、それは專ら東國の兵士を差遣されたことを意味する。それから八年を經た天平九年九月に至つて、是日、停(メテ)2筑紫(ノ)防人(ヲ)1、歸(ラシメ)2本郷(ニ)1、差(シテ)2筑紫人(ヲ)1令(ム)v戌(ラ)2壹岐對馬(ヲ)1、とあるは、東國の(2055)防人の駐屯を停められたことで、天平寶字三年太宰府の上言に、自(リ)v罷(メシ)2東國(ノ)防人1、邊戌日(ニ)以(テ)荒散(セリ)、如(シ)不慮之表(ニ)、萬一有(ラバ)v變、何(ヲ)以(テカ)應(ジ)v卒(ニ)、何(ヲ)以(テカ)示(サン)v威(ヲ)とあつたが、奥羽の動亂の爲にその處分が延引して、同六年四月になつて、一時東國の兵士を差遣して填補した。されば天平九年から同寶字六年まで、廿六年間中絶してゐた。さてはこの歌は前度の天平年間の作か、又は後度の天平寶字年間の作かは判明しない。とにかく「今年ゆく新防人」に對しての感懷である。
 彼等は麻衣を著てゐた。麻は上下總の國常陸下野を始として東國の名産で、佳人眞間の手兒奈も、麻衣に青衿を付けてゐた。すべて著物は肩から綻び或はへばる。この遠戌する防人の妻は、まづ麻衣の肩のまよひを豫想して「誰れか取りみむ」と取越苦勞をした。
 それは軍團に居る時だつて、著物の肩は同じやうにまよふであらうが、軍團は四郡に一箇處の規定だから、故郷に距離がさう遠くもないから、著物の仕立替位は、家庭に連絡を取つて世話もして貰へる。それが不知火筑紫への駐屯となつては、家庭とは絶縁だ。「肩のまよひ」は些細な事柄ながら、而も生活上切實な問題で、男手ではどうにもなるまい。「誰れかとりみむ」は取り見る人のないといふ答案を豫期しての設問である。そこに無限の婉微なる感愴が※[酉+鰮の旁]釀し波動してくる。このよい世話女房と、「額には矢は立つともそびらには矢は立てじ」と揚言して、君國の爲に遠く去る東男との生別離に對して、何人も斷腸の涙を濺がずには居られまい。而もこの下句はその一隅を抑へて三隅を揚ぐる警策で、更に/\防人の向後の孤獨生活の勞苦全部に對しての、絶大なる同情なのであつた。古樂府の※[豐+盍]歌行に、
  兄弟兩三人、流宕(シテ)在(リ)2他縣(ニ)1、故衣誰(カ)當(キ)v補(フ)、新衣誰(カ)當(キ)v縫(フ)。
(2056)に比するに、更に一段の精彩を加へた作で、聲響の和諧、風調の優越、それが情緒の切實さと相俟つて、一唱三歎せざるを得ない。
 
太舟乎《おほふねを》 荒海爾※[手偏+旁]出《あるみにこぎいで》 八船多氣《やふねたき》 吾見之兒等之《わがみしこらが》 目見者知之母《まみはしるしも》     1266
 
〔釋〕 〇あるみ 荒海《アラウミ》の略のアラミの轉。卷十五にも「大船を安流美《アルミ》にいだし」とある。神本以下アラウミ〔四字傍線〕の訓も存してゐる。○やふねたき 彌《イヤ》船漕ぎの意。「や」は彌《イヤ》の意にて「たき」に係る副詞。「たき」は漕ぐ意の加行四段の動詞。土佐日記に「たけども/\しりへ退《ソゾ》きに退きて」とあるたけ〔二字傍点〕と同語。新考に「多氣」はたけど〔三字傍点〕の意にて、杼〔左△〕《ド》の落字なるべしとあるは、私に過ぎる。○まみ 目付き。契沖訓による。
【歌意】 大船を荒海に乘り出し、而も船を盛に漕いで、やつとの事で〔六字右○〕私が逢うた女の、その目付は眼に著いてねえ。
 
〔評〕 航海の途次、立寄つた湊か島で、ふと馴染んだ女の情が、何時までも忘れかねた趣である。勿論浮草の女でもあらうが、頻に航海苦を漸層的に強調して、さも/\心盡しのはてに逢ひ得たものゝ如くにいひ做した。かくて「まみはしるしも」が切實に印象づけられ、その盻たる美目が我々の前に彷彿する。
 宣長は上句を譬喩と見て、
  親のまもりの強くして逢ひ難き女に、色々と心を盡して逢ひ見たるを喩へたるなり。
(2057)といひ、古義もこれに同じた。一往尤な見方だが、こゝが譬喩歌の部でないのと、上句に實在性が強いのとの二つの理由によつて、別箇の見解を下した。
 
就《ツケテ》v所(ニ)發《ノブ》v思(ヲ) 旋頭歌
 
○就所發思 これは懷古の作である。
○旋頭歌 セドウカ。又|混本《コンポン》歌といふ。旋頭は頭をめぐらすの意。この歌體は577を前聯とし、更に577の後聯を復唱した樣式で、大凡問答體、復唱體、一意到底體の三者に分類される。問答又は復唱の際において、前聯の第三句を後聯の第三句にそのまゝ襲用する場合が多かつた處から、初二句即ち頭が振り替るの意で旋頭《セトウ》と名づけ、又反對に第三句即ち本を同じうする意で、雙本又は混本《コンホン》と名づけた。雙本混本の稱は平安期になつての文獻に出てゐる。
 又第三句を復唱するに、全く同句を用ゐたものと、多少辭樣の變化を求めたものとがある。今假に同句のものに正格、變化したものに變格の稱を與へた。
 抑も問答體の歌は紀に見えた大久米《オホクメノ》命と神武天皇との高佐士野《タカサシヌ》の唱和がその嚆矢であるが、同時に伊須氣餘理比賣《イスケヨリヒメメノ》命と大久米命との唱和に至つては、全く旋頭歌の定型に近づいた問答體である。日本式尊が甲斐の酒折《サカヲリノ》宮における火焚の翁との問答歌は、愈よ旋頭歌の樣式を完全ならしめたもので、記にはこれを片歌と稱した。蓋し問歌と答歌とを各分立させて與へた稱呼であらう。(既出の補遺)。
 
(2058)百師木乃《ももしきの》 大宮人之《おほみやびとの》 蹈跡所《ふみしあとどころ》 奥浪《おきつなみ》 來不依有勢婆《きよらざりせば》 不失有麻思乎《うせざらましを》     1267
 
〔釋〕 ○あとどころ 迹である處。佛足石(ノ)歌に「三十《ミソヂ》あまり二つのかたと八十《ヤソ》ぐさとそだれる人の踏みしあと處〔三字傍点〕、稀にもあるかも」とある。「蹈」は踏〔右△〕が正しいが、書寫上の通用である。以下一々にいはない。△地圖及寫眞 挿圖41(一二四頁)44(一三二頁)を參照。
【歌意】 こゝは〔三字右○〕大宮人が甞て踏んだ、その迹處よ。あの沖の波が、寄せて來なからうならば、昔の迹はもとのままで〔十字右○〕、亡《ナ》くなりはしなからうものをさ。
 
〔評〕 近江(ノ)大津(ノ)宮を遷されし後に、志賀辛崎などのさまを詠めるなるべしといふに、衆口が一致してゐる。
 志賀の辛崎の船遊などに出立つた大宮人達の蹤迹は、素より何時まで殘らう筈がない。それは沖つ波の來去に關するものでは決してない。この明かな事實に目をつぶり、さも沖つ波の無情なる所爲の如くに慨歎してゐる。これはこれ無中に有を生ぜしむる筆法で、他に懷古の種《クサ》はひとなるべき何物もないので、昔ながらに寄せ返る眼前の沖つ波に、すべての感愴が集中し、昂奮の極遂に痴呆に墮したものである。そこに無窮不盡の怨意が搖曳する。
 調は行雲流水の痕なきが如く、姿は清楚で繊塵もとめない。詞は又平易簡淨を極めてゐる。憑弔の作の上乘。歌聖人麻呂の志賀宮址の短詠二首(卷一所載)に比するに、彼れは人籟の大なるもので線が太く、此れは天籟(2059)の小なるもので線が細い。
 然し旋頭歌の本體からは遠い。全く短歌の延長でしかない。この點旋頭歌の後期に屬する所産である事を想はせる。恐らく人麻呂以後のものであらう。
 
右十七首〔左○〕、古歌集(ニ)出(ヅ)。
 
上の問答歌の「佐保河爾」より以下の十七首をいふ。「首」の字原本にない。補つた。
 
兒等手乎《こらがてを》 卷向山者《まきむくやまは》 常在常《つねにあれど》 過往人爾《すぎにしひとに》 往相目八方《ゆきあはめやも》     1268
 
〔釋〕 ○こらがてを 既出(一八九四頁)。この句は普通には卷向の枕詞であるが、こゝは歌意に交渉をもつので枕詞ではない。○まきむくやま 「まきむく」及び「ゆづきがたけ」を見よ(一八八七頁)。○つねにあれど 何時も存在してゐるがの意。ツネナレド〔五字傍線〕の訓は非。○すぎにし 既出(一八四頁)。○ゆきあはめやも 往き合はれようかい。「相」原本に卷〔右△〕とある。人に往き卷く〔六字傍点〕は語を成さない。新考に相〔右△〕の誤とあるに從つた。彦麻呂は「爾往」を乎復〔二字右△〕の誤として、スギニシヒトヲマタマカメヤモ〔十四字傍線〕と訓んだ。
【歌意】 兒等が手を纏《マ》く、といふ名の卷向山は、何時もありはするが、死んでしまつたその人に、往き逢ふことがならうかいまあ。 
 
(2060)〔評〕 相反的事相の撮合を基調としての著想、そこに一片の理路を存するが、鍾情の極に墮した愚痴だから、却て聽者の感傷を唆る。「過ぎにし人」はその亡妻などであらう。
  さゝ波の志賀のから崎さきくあれど大宮人の船待ちかねつ(卷一、人麿――30)
に巧緻の點は及ばないが、その手法は同じい。
 
卷向之《まきむくの》 山邊響而《やまべとよみて》 往水之《ゆくみづの》 三名沫如《みなわのごとし》 世人吾等者《よひとわれらは》     1269
 
〔釋〕 ○やまべとよみて 山邊に〔右○〕とよんで。「とよみて」は一訓ヒヾキテ。○みなわ 「みなわなす」を見よ(一五九三頁)。○よひとわれらは 現世の人なる〔二字右○〕我々は。
【歌意】 卷向の山邊に〔右○〕響動《トヨ》んで、流れゆく水の上の、あの泡のやうであるわい、現世の人である〔三字右○〕我々は。
 
〔評〕 「卷向の山邊とよみてゆく水」は即ち穴師川である。卷五「水沫なすもろき命も」の條で評した如く、これも無常思想の所産で、内容には一向新味を見ないが、格調高渾、措辭暢達である。「とよみて」は、トヨモシ〔四字傍点〕といふ方が力強いかと思ふ。略解に、上三句は序なりとあるは從ひ難い。
 
右二首、柿本(ノ)朝臣人麻呂(ノ)集(ニ)出(ヅ)。
 
(2061)寄(セテ)v物(ニ)發《ノブ》v思(ヲ)
 
隱口乃《こもりくの》 泊瀬之山丹《はつせのやまに》 照月者《てるつきは》 盛※[呉の口が日]爲烏《みちかけするを》 人之常無《ひとのつねなき》     1270
 
〔釋〕 ○こもりく 既出(一七六頁)。○みちかけするを 「を」は歎辭。「※[呉の口が日]」は※[日/失]の失畫で書寫字だらう。※[日/失]は※[日+失]と同字で、日の傾く意なので、缺《カケ》の意に借りた。類聚名義抄にはクルと讀んである。「烏」にはヲの音がある。類本、元本一訓、眞淵訓などに從つた。古義は「烏」を焉〔右△〕の通用と見て、ミチカケシケリ〔七字傍線〕と訓み、卷十九の「天の原ふりさけ見れば照る月|毛《モ》盈※[呉の口が日]之家利《ミチカケシケリ》を例とした。舊訓ミチカケシテゾ〔七字傍線〕。
【歌意】 あの初瀬山に照る月は、滿ちたり缺けたりするよ。ほんに〔三字右○〕人生が、全く不定でね。
 
〔評〕 月の盈缺は人間に無邊な聯想と神秘な暗示とを與へる。その多くは人生の消長に關聯して考へてゐる。印度や希臘あたりの昔にもこの種の思想が夙く發生し、支那でも易にある「日中(スレバ)則昃(キ)、月盈(テバ)則食(ク)」は人生に即しての譬喩である。詰り原始時代から人類が自然にもつた觀念であらう。今も初瀬山の月に對して、その盈てば缺け、有と見れば無である現象に想到して、人生の逝いて反らぬはかなさを歎じた。
 特に初瀬山の月を云爲したことは、作者を初瀬人とすればそれまでだが、或は初瀬の新域《アラキ》に送葬又は賽詣した人の感懷ではあるまいか。古義は斷然、下の挽歌の部にこれを編入した。
 
右一首、古歌集(ニ)出(ヅ)。
 
(2062)行路《ミチニテヨメル》
 
遠有而《とほくありて》 雲居爾所見《くもゐにみゆる》 妹家爾《いもがいへに》 早將至《はやくいたらむ》 歩黒駒《あゆめくろこま》     1271
 
〔釋〕 ○くもゐに 空にの意。
【歌意】 遠くつて、天末に見える妹の家に、早く往き著かうよ、さつさと歩け、この黒駒よ。
 
〔評〕 馬に乘つて思ひ妻の許に通ふ、面白い詩境だ。
  黒駒のあがきを早み雲居にぞ妹があたりを過ぎて來にける(卷二、人麻呂――136)
に類似し、彼れには人麻呂ならではなし得ぬ技巧があるが、此れは極めて率直に感想をさらけ出し、人の思はくなど一向にお構ひなしといつた一本氣の調子、眞摯の點において、きびしく人の胸臆を打つ。「遠くありて雲居に見ゆる」は大分丁寧な表現だが、これは「早く到らむ」の素地を作すものである。黒駒は調子にまかせたもので、黒に深い意味はない。
  等保久之※[氏/一]《トホクシテ》雲居に見ゆる妹が敞《ヘ》に伊都可《イツカ》いたらむ歩め黒駒(卷十四――3441)
は初句三四句に異同がある。傳誦の際にかく轉訛したものだらう。
 
右一首、柿本(ノ)朝臣人麻呂之歌集(ニ)出(ヅ)。
 
(2063)人麻呂の作に類似點があるので、後人これを人麻呂作と認定し、その歌集に編入したものらしい。
 
旋頭歌
 
古義は「寄物發思」といふ題詞を作り、「旋頭歌」を注に引き下した。
 
釼後《たちのしり》 鞘納野爾《さやにいりぬに》 葛引吾妹《くずひくわぎも》 眞袖以《まそでもち》 著點等鴨《きせてむとかも》 夏葛引〔二字左△〕母《なつくずひくも》     1272
 
〔釋〕 ○たちのしりさやに 大刀の鋒《サキ》が鞘に入るを入野にいひかけた序詞。鋒をシリといふは柄頭に對しての稱。○いりぬ 「いりのがは」と同處か(一九八〇頁)。○くずひく 葛の蔓を引取るをいふ。「くず」は既出(九四六頁)。○まそでもち 兩袖を持つて。「まそで」は兩袖をいふ。「ま」は眞手、眞梶の眞《マ》の意に同じく、數の揃ふをいふ。「もち」は持ちの意で、「以」は借字。これを作るの意とする説は牽強。○なつくずひくも 「葛引」原本に草苅〔二字右△〕とあるは誤。宣長説による。
【歌意】 大刀の鋒が鞘に納《イ》る。その納るといふ名の入野に、葛蔓を引く、あの兒よ。兩袖を持つて、わが男に〔四字右○〕著せようとするのかまあ。夏野の葛蔓を引くはまあ。
 
〔評〕 葛は山野に自生してゐゐ蔓草、その蔓の皮を剥いで作つた絲で葛布を織る。葛布は當時賤卑の服であつた。作者は今入野を通りかゝつて、若い女が一心になつて葛の蔓を引く作業を見た。聯想はその葛から葛布、葛布(2064)から葛衣、葛衣からその葛衣を著る男の上にまで進展し、遂にその男と葛引の女とを關係づけ、更に「眞袖もち著せてむとかも」と、男の背なに兩袖を引張つて著せかけて遣る、いとも親切な婦人の態度にまでその想像は馳せて往つて、無中に有を生じ、空中に樓閣を現じた。かうして葛引の女の勞動の眞劍さが自然と映出されてくる。前聯の第三句を反復する際、一寸字句を變易して、後聯は「夏葛引くも」と歌ひをさめた。「夏」は葛の最も繁茂する時季を表した。
 雙本體の變格で、前聯と後聯の句末に、モ〔傍点〕の脚韻を踐んでゐる。
 
住吉《すみのえの》 波志〔左○〕豆麻君之《はしづまきみが》 馬乘衣《うまのりごろも》 雜豆臘《さひづらふ》 漢女乎座而《あやめをませて》 縫衣叙《ぬへるころもぞ》     1273
 
〔釋〕 〇はしづまきみ 愛夫君《ハシヅマキミ》。可愛い夫の君といふこと。「志」原本にない。補つてみた。古義に、波豆麻《ナミヅマ》は地名などにてそこに住む人をいふかとあるは、甚だ窮した臆説である。宣長が波里摩著〔四字右○〕の誤としてハリスリツケシ〔七字傍線〕と訓み、次の第三句の「乘」をも垂〔右△〕の誤として、マダラノコロモ〔七字傍線〕と訓んだのも私斷に過ぎる。舊訓のハヅマノキミ〔六字傍線〕。ナミヅマキミ〔六字傍線〕などの訓は義を成さぬ。○うまのりごろも 乘馬の時の衣。○さひづらふ さひづる〔四字傍点〕の延言。卷十七に「佐比豆留夜《サヒヅルヤ》から確《ウス》に舂《ツ》き」ともある。さひづる〔四字傍点〕はさへづる〔四字傍点〕の古言。外國人の物言ひが鳥の囀に似て聞えるので、韓《カラ》、漢《アヤ》などの枕詞とした。傭字例にいふ、「雜は音サフなれば、サハ、サヒなど轉用したる例あれど、サニとは轉用すべからず、されば茲はサニヅラフとは訓までサヒヅラフと訓むべし」と。舊訓サニツラフ〔五字傍線〕。○あやめをませて 「あやめ」は字の如く漢國《カラクニ》の女のこと。漢をアヤと訓むは漢織《アヤハトリ》漢直《アヤノアタヘ》の訓例による。(2065)もと朝鮮で支那を呼んだ稱。「ませて」は記傳の訓による。舊訓はヲトメヲスヱテ〔七字傍線〕。契沖は毛詩にも漢有2游女1といひて美女ある處なれば彼處に准じて書けりとて、ヲトメ〔三字傍線〕の訓に從つたが、三句の「さひづらふ」には意が連續しない。△挿畫 挿圖11(三六頁)69(二〇二頁)及び158(五七五頁)を參照。
【歌意】 この住吉における、愛する夫の君の乘馬服よ。これは特別に〔三字右○〕漢女を家へ招んで、縫つた衣ですぞ。
 
〔評〕 乘馬姿はおよそ颯爽として頗る意氣なものである。何れの邦でも騎乘には輕捷なる動作の必要上、特種の服装が要求された。馬乘衣や馬乘袴がそれで、その樣子が又一段と派出なものに見られる。
 今は愛夫の君が馬上凛々しく扮装《イデタ》つて、わが家を出て行くのであつた。それを見送つた作者は、我ながらその風采に見惚れて、あの氣の利いた馬乘衣は、自分が丹精して、特に漢女を招請して仕立てたものだと、自慢かた/”\その滿足の笑みを洩らした。漢女を座せたことは、その馬乘衣が漢風の製裁樣式であつたことを想はせる。
 この頃の漢女は漢呉國からの歸化人の後裔で、一部は住吉附近にその聚落を形作つて住んでゐたのではあるまいか。雄畧天皇紀に
  十四年春正月、身狹村主《ムサノスクリ》青等、共(ニ)2呉國(ノ)使(ト)1、將(ヰテ)2呉(ノ)所v獻(レル)手末|才伎《テビト》、漢織《アヤハトリ》呉織《クレハトリ》、及《マタ》衣縫《キヌヌヒ》兄媛弟媛等(ヲ)1、泊(ツ)2住吉(ノ)津(ニ)1。(紀卷四十四)
と見え、漢呉の織女や衣縫女を概稱して漢女といつたらしい。住吉は素より船舶の集散した殷賑地だから、それらの工女は相當生活してゐられる。
(2066) その本職の漢女をわざ/\傭ひ上げての舶來仕立、惡からう筈がない。それは愛夫の君への最大なる心盡しであつた。婦人の繊細なる情緒が下に閃いて、面白い作である。
 舊訓サニヅラフ〔五字傍線〕は「雜」の發音上からも無理であるが、漢女の冠語としては事實上からも諾ひ難い。この語義の通り、わが古代には婦人達が小丹《サニ》即ち赤土を化粧品として顔面や身體に塗りつけたものだ。出土品の埴輪の土偶がそれを證する。陳壽の三國志の魏志の倭傳に、
  女人以(テ)2朱丹(ヲ)1、塗(ル)2其身體(ヲ)1、如(シ)2中國(ノ)用(ヰルガ1v粉(ヲ)也。
と見え、白粉を使ふやうになつたのは、漢風を學んでからである。假令この語が只容顔の赤みばしつた美しさの形容に過ぎない時代となつたとはいへ、唐人《モロコシビト》の漢女《アヤメ》に冠して用ゐることは不當ではあるまいか。
      △唐風模倣考(雜考―― 26參照)
 
住吉《すみのえの》 出見濱《いでみのはまの》 柴莫苅曾尼《しばなかりそね》 未通女等《をとめらが》 赤裳下《あかものすその》 ※[門/壬]將往見《ぬれてゆかむみむ》     1274
 
〔釋〕 ○いでみのはま 住吉の高燈籠の邊の濱と、地名辭書にある。略解には訓イヅミノハマ〔六字傍線〕かとある。○かりそね 「尼」をネに充てるのは呉音のニ〔傍点〕の轉。卷九に「つぎて漕がさ尼《ネ》」、「吾に尼保波尼《ニホハネ》」などの例がある。古義訓カラサネ〔四字傍線〕は非。○あかものすそのぬれてゆかむみむ 古義はアカモスソヒヂユカマクモミム〔十四字傍線〕と訓んだ。「※[門/壬]」は潤と同意義に用ゐた。誤ではない。
【歌意】 この住吉の出見の濱の、柴を刈りなさるなよ、處女達の赤裳の裾が波に〔二字右○〕沾れて、行かうのを見ようわ。
 
(2067)〔評〕 住吉の濱邊は陸地が延長して新田が段々と開發されたほど、もと/\遠淺で、隨つて濱が平遠だつた。だから處によつては波打際まで柴が茂生するといふ状態だ。それでは濱傳ひの交通が不便なので、その通路を開く爲、里人等が柴を刈り拂つてゐるのを見かけた作者は、そこにゆくりなく感興を發し、これ/\柴を刈つて通路などつけてはならぬ、處女達が柴に妨げられて據なく波打際を通ると、その赤裳裾が寄る波に弄ばれてビシヨ濡れになる、その風情は格別だからと、妙な抗議を申し立てた。實際から遊離した趣味一方の閑問題。里人がそれを聽かうが聽くまいがとんと構はない。そこにいひ知らぬ面白さがある。
 この歌、古説も新註も、盡く見當違ひの解釋を下し、誤字の何のと私議して、正鵠を得たものがない。
 
住吉《すみのえの》 小田苅爲子《をたをからすこ》 賤鴨無《やつこかもなき》 奴雖在《やつこあれど》 妹御爲《いもがみためと》 私田苅《わがたをかるも》     1275
 
〔釋〕 ○からすこ 「からす」は刈る〔二字傍点〕の敬相。この「こ」は男をさしていつた。〇やつこ 家《ヤ》つ子《コ》の義。支屬の者をいふが本にて、卑賤階級に屬する者の稱となり、男を奴《ヤツコ》、女を婢《メヤツコ》といつた。「賤」をヤツコとよむは意訓。○わがたをかるも 「私田」をワガタと訓むは神谷氏説による。略解は「私」を秋〔右△〕の誤とし、古義もこれに從つてアキノタカルモ〔七字傍線〕と詠んだ。略解訓はアキノタカラス〔七字傍線〕。
【歌意】 住吉の小田を、自身〔二字右○〕刈つて入らつしやる貴方よ、下男がないのですかね。(女)いえ下男はあるが、外ならぬ貴女のお爲とて、自身で私の田を刈りますわい。(男)
 
(2068)〔評〕 前聯は女の問で、後聯は男の答である。當時奴婢は一種の賤民階級で、箇人又は寺社などに隷屬して使用された、姓も何もない奴隷であつた。大寶令の規定を見ても、良賤の別は非常に嚴唆なものであつた。百姓即ち大ミタカラは良民階級で、奴婢を使用し得る權利者だ。
 秋は收穫時で忙がしい。農家の主人も、自身鋭鎌を揮つて稻刈をする。素より知合の中だらうが、或女が行摺りにこれを見て、頗る同情して、「奴かもなき」御苦勞な事といひかけた。するとその男が「いえ人手はあるが、特に貴女に獻じようと思うて、自身にかう私の田の稻刈をするのです」との返答、落花既に情あり流水豈に意なからんやで、同情の詞に甘えて、更に有情の語を酬いたものだ。蓋し一場の戲謔である。
 
池邊《いけのべの》 小槻下《をつきがもとの》 細竹莫〔左○〕苅嫌《しぬなかりそね》 其谷《それをだに》 君形見爾《きみがかたみに》 監乍將偲《みつつしぬばむ》     1276
 
〔釋〕 ○いけのべ 地名か。和名抄に大和國十市郡池上(ノ)郷。(今磯城郡、香具山の北麓)とある處。磐余《イハレノ》池邊の意。磐余(ノ)池はまた埴安《ハニヤスノ》池、市磯《イチシノ》池ともいふ。用明天皇紀に「天皇即位、館《ミヤヅクル》2於磐余(ニ)1、名(ヲ)曰(フ)2池邊雙槻《イケノベノナミツキ》宮(ト)1、云々。〇をつき 小《ヲ》は美稱。「つき」は「つきのき」を見よ(五七三頁)。○なかりそね 次の歌に「莫苅嫌」とあるによれば、莫〔右△〕の字を補ふがよい。「嫌」に猜《ソネ》み厭ふ意があるので、ソネに充てた。〇みつつ 「監」に見る意がある。覽〔右△〕の誤とするまでもない。
【歌意】 池の邊の、この槻の木の蔭の小竹を刈りなさるな。せめてそれなりとも、貴方の形見にして〔二字右○〕、見い/\(2069)お慕ひ致しませう。
 
〔評〕 磐余の池邊に、古代の雙槻の遺蘖が、尚存在して居たのかも知れない。その槻の本の小竹原で、男は女に出逢うて、一場の情話を語つたものだ。處でまたも逢へるかのよもやに惹かれて、以前の場處を再訪したが、女の影は見るべくない。空しく小竹原がさら/\と鳴るのみだ。逢うた記念と思へば詰らぬ小竹でも懷かしい。悵然として誰にいふともなく、「小竹な刈りそね」とその獨言を洩した。
 
天在《あめなる》 日賣菅原《ひめすがはらの》 菅〔左△〕莫苅嫌《すげなかりそね》 彌那綿《みなのわた》 香烏髪《かくろきかみに》 飽田志付勿《あくたしつくも》     1277
 
〔釋〕 ○あめなる 四言の句。天にある〔三字傍点〕日を姫《ヒメ》にいひかけた枕詞。古義の「在」を傳〔右○〕と改め、アマヅタフ〔五字傍線〕と訓む説は無用。○ひめすがはら 姫菅の生えてゐる原。姫菅はやさしい一種の菅の稱。すべて姫何と稱するは、特に細小なる美しい物をいふ。「すが」を見よ(七三六頁)。「ひめ」を地名とする契沖説は採らぬ。○すげなかりそね 「菅」原本に草〔右△〕とある。古義説により改めた。○みなのわたかぐろき 既出(一四三四頁)。○あくた 塵芥。粗腐《アラクタ》の義と。
【歌意】 茂つてゐる姫菅の原の、その菅を刈りなさるなよ。お前の〔三字右○〕の眞黒な髪に、芥がたかるわ。
 
〔評〕 菅刈に勞働してゐる婦人への同情である。多分その女は結ひ立ての綺麗な髪をしでゐたのだらう。女の伊(2070)達は何時の世でも黒髪である。で菅の芥が舞ひ立つて取付くのをいとほしがつた。
 前聯と後聯との初句に各枕詞を配して、相對的姿致を取つた。而も「あめなる」の廣大無邊の崇高なる語に、「蜷の腸」の卑小なる微物を取合せたことは、極端と極端との對照で、作者の有意的戲意があつたと見てよからう。
 前聯の初二句を、宣長は天上の菅原なりといつたのに對して、古義が、さるうつけたる事なしと難じたのは、當然のことである。
 
夏影《なつかげの》 房之下邇〔左△〕《ねやのもとに》 衣裁吾味《きぬたつわぎも》 金〔左△〕儲《あきまけて》 吾爲裁者《わがためたたば》 差大裁《ややおほにたて》     1278
 
〔釋〕 ○なつかげ 夏の日の遮へられた處をいふ。但こゝの「かげ」は樹蔭であらう。「影」は借字。○ねやのもとに 六言の句。閨の處で。「邇」原本に庭〔右△〕とあるは誤。元本その他による。「下」舊訓、古義訓はシタ〔二字傍線〕とある。○あきまけて 秋の設けをして。「冬かたまけて」を見よ(五○一頁)。「金」原本に裏〔右△〕とある。「裏儲」はウラマケテ〔五字傍線〕と訓むより外はないので、從來裏を附けて〔五字傍点〕の意とした。然し裏を付けて裁つは意味を成さない。新考に「裏」を金〔右△〕の誤として義訓にアキと訓んだのは賛成である。○ややおほにたて 少し大振に裁てよ。童本訓ヤヽヒロクタテ〔七字傍線〕、古義訓イヤヒロニタテ〔七字傍線〕。
【歌意】 夏蔭の涼しい部屋のもとで、衣を裁つわが妻よ。秋支度として自分の爲に裁つてくれるなら、少し大振に裁つてくれい。
 
(2071)〔評〕 夏の着物は涼しいのを主とするから、ツンツルテンでも構はないが、秋袷の頃からは少し寛潤でなければ困る。肉體的にも夏痩が囘復してくるからである。處で茲に留意すべき事柄がある。上古の衣服は肢體そのままの形を露骨に現はした、實用的の物に過ぎなかつた。文化が發達して美意識が向上するに隨ひ、装飾の意匠が盛に施されて來た上に、衣服の構成上にも變化を來し、段々寛濶を尚ぶやうになつた。袖は長く廣くなり、筒のやうであつた袴は、幅廣の太い物に變つた。尤も當時の政府の方針も社會の趨勢に押されて、容儀帶佩を重んずるやうになり、狹※[衣+僊の旁]細領を嫌ひ(和銅元年制)一般下層民まで脛裳を禁じて白袴を穿かせ、(慶雲三年の制)袵の淺いのを嚴禁し(和銅五年)などした。さればこの歌は、寛濶な服が新流行の時代であつたことを考慮に入れてよからう。
 家庭的の打解けた情味が漂うて、いかにも懷かしい作である。
 
梓弓《あづさゆみ》 引津邊在《ひきつのへなる》 莫謂花《なのりそのはな》 及採《つむまでに》 不相有目八方《あはざらめやも》 勿謂花《なのりそのはな》     1279
 
〔釋〕 ○あづさゆみ 梓弓引くといふを引津にかけた枕詞。「あつさゆみ」は既出(三一頁)。○ひきつのへ 引津のほとり。引津は筑前國志麻郡(今絲島郡)可也村。なほ卷十五の「引津(ノ)亭(ノ)船泊之作」の條を參照。○なのりそのはな これを神馬藻《ホンダワラ》とすると、花らしい花は咲かない。「なのりその」を見よ(一六七三頁)。「莫謂」「勿謂」は意を以て充てた。○つむまでに 神馬藻を〔四字右○〕摘むまでにの意。前聯から續けて、花を摘むことのやうに解した(2072)諸註は誤つてゐる。○あはざらめやも 輕く聞くと、逢はれずに〔五字傍点〕あらうかいの意、重く聞くと、逢はずに〔四字傍点〕あらうことかいの意となる。こゝは約束の詞だから、強く重い方がふさはしい。
【歌意】 引津の浦邊に生えてゐる、わが名を告《ノ》るなといふ名をもつ、莫告藻《ナノリソ》の花よ、その莫告藻〔三字右○〕を探る頃までに、何で逢はずにあらうかい。決してわが名を人に告《ノ》つてはなりませんぞ、莫告藻の花よ。
 
〔評〕 或男が引津の浦の女に係り合つて、更に再會を豫約した情話である。女を莫告藻に擬して、頻に「な告りそ」と噛んで含めるやうに反復した點から見ると、恐らく男は相當身分をもつた者らしく、而も莫告藻を摘む頃まで待たせねばならぬのは、さう容易く會合の機のない境地にあることを證する。まづ他郷人と見てよからう。身柄のある他郷人、かう考へると、男はまあ宰府あたりの官吏でゝもあらうか。
 さて神馬藻の花は、下にも詠んだのが一首あるが、詰り詞の花で、その實あるものではない。解者は盡く眩惑されてゐる。但莫告藻を摘むことは盛で、それは食料に供した(2073)ものだ。平安期にも
  民部下交易雜物、伊勢國|那乃利曾《ナノリソ》五十斤、參河國那乃利曾五十斤、播磨國那乃利曾三十斤、紀伊國那能利曾五十斤、伊豫國那乃利會五十斤。(延喜式 卷廿三)
と見え、それを摘むには時期がきまつてゐた。即ち寒中で莫告藻のまだ弱く軟いうちのことであつた。
 雙本體の正格で、おのづからナ〔傍点〕韻を踐んでゐる。
 
撃日刺《うちひさす》 宮路行丹《みやぢをゆくに》 吾裳破《わがもはやれぬ》 玉緒《たまのをの》 念亂〔左△〕《おもひみだれて》 家在矣《いへにあらましを》     1280
 
〔釋〕 ○うちひさす 既出(一五三六頁)。○たまのをの こゝは「亂れて」にかゝる枕詞。既出(一〇四六頁)。○おもひみだれて 「亂」原本に委〔右△〕とあるは誤。古葉及び神本その他にも、既にオモヒミダレテの訓がある。
【歌意】 もしやあの兒に逢ふかと〔十一字右○〕、御所通りの路を行くに、自分の裳は摺り切れたわ。こんな事ならいつそ〔九字右○〕、只思ひ煩うて、家に引つ込んで居らうものを。馬鹿らしい〔五字右○〕。
 
〔評〕 作者は男であるから、裳は普通の袴である。宮前通りの賑かな人中で、ふと氣に入つた女を見懸けた。
(2074)  燒津へわがゆきしかば駿河なる阿倍《アベ》の市路にあひし兒等はも(卷三、春日老――284)
は輕い思慕の念に覆はれた回想だが、これは強い愛著の情に打たれ、更にそれを行動にまで移したもので、再度遭逢の機會を窺ふとては、株を守つて兔を待つ愚を繰り返し、嘗ての宮路を彷徨うたのである。若い男のよく遣ることだ。然しそれは全くの骨折損で、羸けたものは「わが裳は被れぬ」だけであつた。多少の誇張はあらうが、この具象的表現が、非常に力強い印象を與へる。そこでやゝ悔恨氣味に「思ひ亂れて家にあらましを」といふは、失望の餘の歎息の聲である。
 「宮路をゆく」とあるので、その女を必ず宮人とするのは早計であらう。宮路は宮城通りの繁華な往來で、「内日刺す宮路を人は滿ちゆけど」(卷十一)といふ光景を想ふがよい。されば「白金の目貫《メヌキ》の太刀をさげ佩きて」通る若者もあり、娘も通れば人妻も通る。
  うちひざす宮路にあひし人妻ゆゑに、玉の緒の念ひ亂れてぬる夜しぞ多き(卷十一――2365)
はこの歌に酷似してゐるものゝ、傳誦の訛とは覺えぬ。各別箇の存在である。或は同時一聯の作か。
 
君爲《きみがため》 手力勞《たぢからつかれ》 織劑衣服斜《おりたるきぬぞ》 春去《はるさらば》 何色〔左△〕《いかなるいろに》 摺者吉《すりてばよけむ》1281
 
〔釋〕 ○たぢから 手の力。タはテの轉。勞力、勤務などの意。○きぬぞ 「衣服」を意訓にキヌとよむ。「斜」をゾと讀むは呉音のセの轉。宣長が料〔右△〕の誤とし、キヌヲ〔三字傍線〕と訓んだのは非。他に誤字説も多いが何れも無用。○いかなるいろに 「色」原本に何〔右△〕とある。宣長説によつて改めた。○すりてばよけむ 摺つたらばよからうの意。
(2075)【歌意】 これは著料として〔八字右○〕夫《セノ》君の爲に、自分の手力を勞らせ、そして〔三字右○〕織り上げた帛《キヌ》ですぞ。さて春になつたら、何の色に染めたらよからうか。――それが又一苦勞で〔八字右○〕。
 
〔評〕 織り上がつてほうと一息安心した處で、又「いかなる色に」と、その帛を眺めながら暫し思案に耽つた作者の態度が、目に見えて面白い。况やそれら重疊した苦勞が、盡くこれ「君が爲」なのだから、實に嬉しい。婦人のやさしい情合のあからさまに出た作である。
 「春さらば」は、新春の料に早く夫君に著せてみたい心持を表してゐる。論語にも「暮春(ニハ)春服已(ニ)成(ル)」とある。蓋し秋蠶の絲を紡いでから、機を立てはじめる。それも家事の合間に織るのだから、年内一杯にやつと織り上がつたのであらう。「すりてば」は摺衣を作るのだが、草摺には時季が餘りにおくれ、花摺は多く夏以後の即興的の物である。常の染料としては藍か月草の移しか紅花などでなくてはならぬ。然しどれが本當に夫君に似合ふか氣に入るかゞ、又苦勞の種なのである。上の「月草に衣ぞ染むる」と、一脉相通ずる情趣を見る。
 
橋立《はしだての》 倉椅山《くらはしやまに》 立白雲《たてるしらくも》 見欲《みまくほり》 我爲苗《わがするなへに》 立白雲《たてるしらくも》     1282
 
〔釋〕 ○はしだての 梯立《ハシダテ》の倉と續けて、倉椅山に係る枕詞。「はしだて」は今の梯子《ハシゴ》のこと。古への倉庫は床が高く造られ、出入の爲梯子が掛けられてあるのでいふ。垂仁天皇紀に「故曰(フ)2神之|神庫隨樹《ホクラモハシダテノマニマト》1」とある。○くらはしやま 倉椅また椋橋など書く。「くらはしのやま」を見よ(七二三頁)。○たてる 新考にタツヤ〔三字傍線〕と訓ん(2076)だのは非。
【歌意】 倉椅山に立つてゐる白雲よ。その山を〔四字右○〕私が見たく思ふにつれて、意地わるく〔五字右○〕立つてゐる白雪よ。
 
〔評〕 倉椅山を見ようとすると、何時でも雲が邪魔してゐるので、作者は少し焦れ込んだ。
  三輪山をしかも隱すか雲だにも心あらなむ隱さふべしや(卷一、額田王――18)
とその歸趨を同じうし、この歌の方が「隱さふべしや」といひ詰めぬだけ、含蓄味は深い。
 倉椅山(今音羽山)は大和中央の高山で、根張りの大きな山である。その北山陰即ち大和平原から眺望の利く方は、平地から聳立して、雲霧が特に聚散し、氣候が寒い。
 雙本體の正格で、モ〔傍点〕韻を踐んでゐる。
 
橋立《はしたての》 倉椅川《くらはしがはの》 石走者裳《いはのはしはも》 壯子時《をざかりに》 我度爲《わがわたりせし》 石走者裳《いはのはしはも》     1283
 
〔釋〕 ○くらはしがは 倉橋山、多武《タムノ》峯の澗水が相合うて、椋橋の里に至つて倉椅川といはれる。櫻井の邊にて忍坂《オサカ》川といひ、更に磐余《イハレ》川を入れて寺川となる。「くらはしのやま」を參照(七二三頁)。○いはのはし 石梁《イハハシ》のこと。「いははし」を見よ(五一四頁)。舊訓イシノハシ〔五字傍線〕。「走」は借字。○をざかり 男盛り。○わたりせし 「度」は渡〔右△〕の通用。古訓多くはワタシ〔三字傍線〕と訓み、古義訓はワタセリシ〔五字傍線〕である。今は新考訓に從つた。
【歌意】 倉椅川の渡り石はまあ。自分が男盛り時代に、よく渡つたことであつた渡り石はまあ。迹形もないわ〔六字右○〕。
 
(2077)〔評〕 作者は老境に臨んで、久し振りに故郷椋橋の里を訪ねたものと見える。その「男盛りに」渡つた覺のある石梁、何れ思ふ兒の許にでも通つたであらう思出の多い石梁は、何時の出水に押流されたものか、懷舊の種はひは何もないとなつては感慨無量だ。「石の橋はも」の詠歎の反復は悲愴の情を煽揚して止まない。古義に「昔契をかけし人の今は絶えぬるを譬へたるならむ」とあるは、よしない蛇足と思はれる。
 これも雙本體の正格で、モ〔傍点〕韻を踐んでゐる。
 
橋立《はしたての》 倉椅川《くらはしがはの》 河靜菅《かはのしづすげ》 余苅《わがかりて》 笠裳不編《かさにもあまず》 川靜菅《かはのしづすげ》     1284
 
〔釋〕 ○しづすげ いはゆる小菅であらう。この菅は莎本科の草本。(1)下《シヅ》菅の意にて、菅の小きをいふか(略解)。(2)石著菅《シヅスゲ》にて、卷六に「佐保川に石に生ふる菅の根取りて」とあり(古義)。(3)倭《シヅ》菅にて、倭文《シヅ》の如く縞ある菅ならむ(新考)。(1)の説が穩かである。「靜」は借字。○かさにもあまず 笠にも編まずは笠に製らぬをいふ。
【歌意】 倉橋川の川原の〔三字右○〕しづ菅よ。自分が刈り取つて笠にも作らない、川原のしづ菅よ。
 
〔評〕 倉橋人の詠であらう。笠に編む菅は笠菅ともいひ、葉廣の菅である。これは細小な川原の下菅を童女に譬へ、刈り取つて笠にも編まぬに、手に入れて妻ともされぬの意を寓し、その幼立ちに心は惹かれるものゝ、餘所に見るより外はない遺憾さを自歎した。好色三昧。
(2078) これも雙本の正格で、ケ〔傍点〕韻を踐んでゐる。
 
春日尚《はるびすら》 田立羸《たにたちつかる》 公哀《きみはかなしも》 若草《わかぐさの》 ※[女+麗]無公《つまなききみが》 田立羸《たにたちつかる》     1285
 
〔釋〕 ○つま 「※[女+麗]」は伉儷の儷と通用。
【歌意】 長閑な春〔四字右○〕の日でさへも、田に出て働いて〔三字右○〕立ち勞れる、その貴方は可愛相よ。手助けをする〔六字右○〕妻もない貴方が、獨で働いて〔五字右○〕立ち勞れることわ。
 
〔評〕 人が皆花や蝶やと遊ぶ春の日、それを而も若い男が、畑打か田返しか、田の面に立つて長時間働いてゐる。同情せざるを得まい。「たちつかる」は想像から起つた現在描寫で、印象強い表現である。作者の同情は更に拍車を加へて「妻なき君が」と、その家庭状態にまで立入つた。作者は同里の女人であらうが、かうなると、あぶなく同情から愛情に移りさうである。
 前聯の第二句を後聯の第三句で反復した。旋頭歌中の變體である。
 
開木代《やましろの》 來背社《くせのやしろの》 草勿手折《くさなたをりそ》 己時《おのがときと》 立雖榮《たちさかゆとも》 草勿手折《くさなたをりそ》     1286
 
〔釋〕 ○やましろ 山背國(延暦中、山城と改む)。「開木」を山に充てた。契沖はいふ、諸木山より開き出すが故か(2079)と。大和本記に、總べて材木を採る所を、杣人の諺に山開《ヤマシロ》といへり、山城も材木を採りし所かと。何れも適解と思はれない。○くせのやしろ 久世の社。山城國久世郡。延喜式に水主《ミヌシ》神社、十座竝大とあるはこれか。中世同郡龜這(もと樺井)の樺井社の一境に移され、故地は不明となつた。後出「さぎ坂山」を參照。○おのが 「己之」を眞淵、宣長はワガ〔二字傍線〕と訓むべしと主張した。だが我《ワガ》または吾《ワガ》と區別する爲に、特に己之または己の字を用ゐたとも思はれるから、己之はオノガ、己はオノと訓むが至當と考へられる。卷十六「己妻《オノヅマ》すらを」はオノの例である。古義はシガ〔二字傍線〕と訓んだが、シガは其《ソ》がの意だから、己之の字義によく協はない。別に己之をナガと訓む場合もある。○おのがときと 草自身が得た時と。△地圖 挿圖204(七〇四頁)を參照。
【歌意】 山城の久世の社の、草をば折りなさるな。よし草が〔四字右○〕自分の時として榮え茂るとも、草をば折りなさるな。
 
〔評〕 「おのが時と」榮ゆる草は、彌珍しく彌懷かしい。草ばかりではない、樹木でもさうだ。けれど神の占めます社の物であつて見れば、うつかり手でも指せば神罰覿面だ。現代人でもこれはいふことで、無論當時の常識であつた。常識だけでは歌にならない。
 そこでこの歌が譬喩であることに氣付くであらう。乃ち主ある女に懸想して煩悶する男への諷諫となるのだ。假令その女が美しい女盛りであつても、主ある以上は手出しをするな、崇りがこはいと諷諫した。この種の構想は集中にまゝ散見する。
 雙本の正格で、ソ〔傍点〕韻を踐んでゐる。
 
(2080)青角髪《あをみづら》 依網原《よさみのはらに》 人相鴨《ひともあはぬかも》 石走《いははしる》 淡海縣《あふみあがたの》 物語爲《ものがたりせむ》     1287
 
〔釋〕 ○あをみづら (1)青は黒色の意に用ゐる。「みづら」は字に「角髪」とある如く、古代の結髪の樣式で、髪を分けて左右の耳の上に角のやうに綰ねて結ぶをいふ。記の神代卷に御|美豆良《ミヅラ》と見え、崇唆天皇紀に「古俗年少(ノ)兒、年十五六(ノ)間、束(ヌ)2髪(ヲ)於額(ニ)1、十七八(ノ)間分(ケテ)爲(ス)2角子(ト)1《ミヅラ》、今亦然(リ)之」とある。髻、鬘、※[髪/衆]などの字を充てる。(2)青角髪は美しくよしとの意にて、依網《ヨサミ》の地名にいひかけたる枕詞(古説)。(3)碧海面《アヲミヅラ》の義、三河國碧海郡の海邊の意。碧海郡に依網《ヨサミノ》郷ありて海邊なり。淡海縣の淡海は遠つ淡海即ち遠江の事にて取合せたり。(古義一説)。(4)アヲカヅラ〔五字傍線〕と訓むべく、角髪は鬘の義にて、カヅラとも訓むべし(契沖)。思ふに、青角髪|寄《ヲ》せ編《ア》むの約ヨサミ〔三字傍点〕を、地名にいひかけた枕詞と見るがよい。○よさみのはら (1)河内國|丹比《タヂヒ》郡(今中河内郡)依網(ノ)郷、また攝津國住吉郡依網郷とす(古説)。(2)和名抄に、三河國碧海郡|與佐美《ヨサミ》とある處なり(宣長、古義一説)。(2)の解は地理的に異見があつて採り難い。○あはぬかも 逢つてくれゝばよいになあの意。「常にあらぬか」を參照(八〇〇頁)。八七〇頁の「あはぬかも」とは、その意が異なる。○いははしる 既出(一二五頁)。○あふみあがた 「あふみ」は(1)近江國のこと(古説)。(2)遠江をさしていへり。古へは遠江《トホツアフミ》も近江《チカツアフミ》も共に淡海《アフミ》なるべけ(2081)ればなり(古義)。自分はこれを近江國のうち滋賀郡の古稱と考定した。少し長文なので評の項に讓る。○あがた 上《アガ》り田の義。朝廷に輸租する土地の稱。中古以來國司の任國をもいつた。
【歌意】 この依網の原で、人も出會つてくれゝばよいになあ。會つたら〔四字右○〕あの淡海縣のお話をしようぞ。
 
〔評〕 「あがた」は收穫の朝廷に納まる田をいふ。かくて村邑を總べた一地方の名稱となり、その支配者を縣主《アガタヌシ》といひ、後にはその名稱が姓《カバネ》となつて某|縣主《アガタヌシ》と呼ばれた。成務天皇紀に定(メ)2賜(フ)大縣、小縣之縣主(ヲ)1と見えて、その大きいのは、地域が郡治の大きさに等しいのもあつた。平安期には國司の任國を呼ぶやうになり、地方官叙任を縣召といひ、土佐日記に「縣の四年五年はてゝ」、古今集に「縣見にはえ出で立たじや」などあるものそれである。然し廣い意義の國をさして直ちに某縣といつた例は、絶對に見ない。さればこゝも、狹い意味であるところの古稱の縣と解するが、至當と考へられる。故に淡海縣は淡海の湖水の周邊の一地方の名稱とすべきだ。古今集に
  あふみより朝立ちくればうねの野にたづぞ鳴くなる明けぬこの夜は(卷廿、大歌所歌)
とあるは萬葉時代の古歌と思はれるが、このあふみ〔三字傍点〕もそれで、うね野に相對した、近江の國内のある地稱であらねばならぬ。
 抑も淡海縣は滋賀郡を本據とし、淡海湖畔南部の古名であらう。そしてうね野は蒲生郡蒲生野の一稱といはれるから、古今集の歌も地理的に立派に解決がつく。いや更にこの推定を裏書するものがある。それは下出の
  霰ふりとほつあふみ〔四字傍点〕の吾跡川楊《アドカハヤナギ》、刈れれどもまたも生ふとふ吾跡川楊 (――1293)
(2082)のとほつあふみ〔六字傍点〕である。吾迹川(安曇川)は高島郡の地で、そこを遠つ淡海と稱したとなると、高島郡の南方に當る滋賀郡の地は單に淡海と稱し、或は近つ淡海と稱したと考へて然るべきである。但記にいふ近《チカツ》淡海(ノ)國は、或時は廣義の近江國、或時は狹義の湖畔南部の地稱の如く見られて、一定し難い。
 とにかく「淡海縣の物語」は滋賀都地方の物語といふ事になる。のみならず「近江の國の物語」では餘に大ザツパで、一向纏まりが付かない。さて「淡海縣の物語」とは何か。滋賀は湖山を控へた山水秀麗の勝地、その上人文發達上交通上の要地、歴史的の故蹟として、近江の宮地、志賀の大津、同じく辛崎、大|曲《ワタ》、勢多の橋、勢多の川、逢坂の手向、いや話の種はいひ盡すべくもない。
 處で依網の原だ。諸説多くは三河國の依網として、近江國より東下、或は遠江國より西下の時の作としてある。が自分は河内攝津に分系してゐる依網郷の地と思ふ。こゝは近江にも相當近く、又奈良京にも近いからふさはしい。作者は依網の里人で、たま/\淡海の縣見物をした歸路、わが家近くの依網の原にさしかゝつての感想であらう。
 草枕時代の事とて、多くの人は滅多にその郷土から踏み出さない。然るに作者は近江の縣見物をして來た。皆人がゆかしがる土産話を、山と仕込んできた。その嬉しさに一刻も早く自慢がしたい。故郷の依網に近づくに隨ひ、話してやりたい話したいで一杯だ。その逸り切つた氣持から、こゝは碌々人の通らぬ原中なことも忘れて、さあ誰れでもよい、たつた今出會ひたいものだ、「人もあらぬかも」と口走られたのであつた。時代人の氣持が如實に表現されて面白い。
 
(2083)水門《みなとの》 葦末葉《あしのうらはを》 誰手折《たれかたをりし》 我背子《わがせこが》 振手見《ふるてをみむと》 我手折《われぞたをりし》     1288
 
〔釋〕 ○みなとの 四音の句。「みなと」は水之門《ミナト》の義。河海に拘はらずいふ。○あし 蘆、葦、同物で、禾本科の宿根草本。アシの音を忌んで、又ヨシと呼ぶは後世の事で、それに葭の字を充てるに至つた。○うらは 葉先の方をいふ。「うら」は「うれ」と同じい。○ふるてを 略解はいふ「振」の下衣〔右△〕の脱にて、フルソデ〔四字傍線〕と訓むべしと。
【歌意】 湊の蘆の葉先を、誰れが手折つたのかえ。實は〔二字右○〕私の郎《ヲトコ》が、船出の別にその〔七字右○〕振る手を見ようとて〔右○〕、私がさ手折つたのさ。
 
〔評〕 湊情調水郷情調の濃かな作である。既に名殘を惜んで渡頭に手を分つた。それでも足らず郎は顧みしながら、舟から荐に手や袖を振つて見せる。女も亦その後影を見送りつゝ立ち盡したが、漸う郎の舟が蘆叢の陰に没れさうになるので、周章てゝ邪魔になる蘆の葉を手折つた。但これは獨波頭に取殘された作者が、その折り拉かれた蘆の末葉に目を瞠つて、自分の行爲を反芻的に追想したものである。情景兼ね到つた作で面白い。振る袖よりは振る手の方が一層直接的で、こんな田舍情調にはふさはしい。前聯は問で、後聯は答である。この問者は漠然とぼかしてあるが、詰りは自問自答なのである。
 雙本體の變格で、シ〔傍点〕韻を踐んでゐる。
 
(2084)垣越《かきごしに》 犬召越《いぬをよびこせ》 鳥獵爲公《とがりするきみ》 青山《あをやまの》 葉茂山邊《はしげきやまべ》 馬安君《うまやすめきみ》     1289
 
〔釋〕 ○いぬをよびこせ 犬を呼び來させ。「こせ」は來《コ》シメの約語。古義訓イヌヨビコセテ〔七字傍線〕は調が緩い。舊訓イヌヨビコシテ〔七字傍線〕は非。○とがり 鳥獵《トリガリ》の略。○やまべ 山邊に〔右○〕。新考は「邊」を爾〔右△〕の誤としてヤマニ〔三字傍線〕と訓んだ。○やすめ 二段活の命令格だのに、ヨの命令辭がない。古格。△挿圖137(四九二頁)を參照。
【歌意】 私の〔二字右○〕垣根越に犬を呼び立てゝ、鳥狩をする君よ。青山の青葉の茂つた山邊に〔右○〕、馬を休ませなさい、君よ。
 
〔評〕 前聯は垣根行く鳥狩人を見て、その男の颯爽たる風姿を叙した。快活な狩犬は道端の垣根を潜つたり出たりして走り廻る。それを呼び立てつゝ馬乘り立てゝ行く。背景が心地よい濃緑の山邊だ。作者は又垣越しに、丁寧に男の行動を注視し、更に親切にも「葉しげき山邊馬やすめ」と、その勞苦を犒ふと見せて、その實は男の顔を暫時なりとも見て居たいの本願であつた。
  さひの隈檜隈川に駒とゞめ駒に水かへわれよそに見む(卷十二、――3097)
とその情意に一脈相通ずるものがある。
 雙本體の變格で、ミ〔傍点〕韻を踐んでゐる。
 
海底《わたのそこ》 奥玉藻之《おきつたまもの》 名乘曾花《なのりそのはな》 妹與吾《いもとわれ》 此何有跡《ここにしありと》 莫語之花《なのりそのはな》     1290
 
(2085)〔釋〕 ○わたのそこ 「おき」の枕詞。既出(二八四頁)。○いもとわれ 下にあるべきと〔傍点〕の辭を略した例は多い。舊訓その他の訓イモトワレト〔六字傍線〕。○ここにしありと 「し」は語調のまゝに訓み添へた。これを新考は無理としたが、外にも例がある。この訓大抵はコヽニアリト〔六字傍線〕と六言に訓んである。「何」は荷〔右△〕の通用。
【歌意】 沖の藻である處の、莫告藻の花よ。思ふ兒と私が、こゝに忍んで〔三字右○〕ゐると、人に告げてはならぬぞ、その名の通りの莫告藻の花よ。
 
〔評〕 上の引津の神馬藻に比べると、表現がはつきりしてゐる。桑中の音、君子の謗る處だが、人情の趨くところ、如何ともし難い。
 雙本體の正格で、ナ〔傍点〕韻を踐んでゐる。
 
此崗《このをかに》 草苅小子《くさかるわらは》 然苅《しかなかりそね》 有乍《ありつつも》 君來座《きみがきまさむ》 御馬草爲《みまぐさにせむ》     1291
 
〔釋〕 ○わらは 古義訓コドモ〔三字傍線〕。○ありつつも 既出(一一三二頁)。○みまぐさ 御秣「まぐさ」はもと眞草《マグサ》の意から出て、今は馬草の意に用ゐられた。「まぐさ」を參照(一八四頁)。
【歌意】 この岡に草を刈る子供よ、そんなに刈り取るなよ。そのまゝでまあ、思ふお方のお出でなさらう折の〔二字右○〕、馬の飼葉《カヒバ》にしようわ。
 
(2086)〔評〕 盛に子供達が岡邊の夏草を刈るのを見て詠んだ婦人の作。「ありつつも」といつても、短日月の間である。さもないなら、古今集に
  大あらきの森の下草おいぬれば駒もすさめず刈る人もなし (雜上)
となつて、飼葉にしたくも、馬が承知しない。
 お供が、侍の男に馬と馬丁である、古代の通勤壻さんを想像する。妻君の家では、壻さんの一切の世話をした上、侍や馬丁の仕著せを春秋に出す。御入來の節は毎日であらうとも、その人數に飯も食はせなければならない。馬にまで秣の世話だ。然しこゝはそんな經濟的の話ではなく、君の「みま草」にまで行き屆く、その妻君の懇切な情意のあらはれが嬉しい。
 
江林《えばやしに》 次完也物《やどるししやも》 求吉《もとむるによき》 白栲《しろたへの》 袖纏上《そでまきあげて》 完待我背《ししまつわがせ》     1292
 
〔釋〕 ○えばやし 江に沿うた林。地名でも誤字でもない。○やどる 「次」は字書に舍也と見え、ヤドルと訓む。○しし その肉《シヽ》について猪鹿の稱となつた。こゝは鹿をいふ。「完」は宍《シヽ》の通用。○ししやも 「やも」のやは疑辭。○もとむるに 捉へる。
【歌意】 江林に宿つてをる鹿は、捉へるに都合がよいかまあ。捲り手をして、鹿が出てくるのを待つ、吾が夫《セ》の君よ。
(2087)〔評〕 鹿は山に棲むとばかり思ふのは、開墾の行き屆いた時代の後世人の考で、少し人氣がなければ里にも出て來、山續きの流江の岸の林などには、無論幾らも出没した。湊に鹿の取合はせられた可兒の湊の話もある。江林はまこと、地形的にも鹿の逃げ場がない。林が遮るので、反對にこちらが近寄るには都合がよい。兩袖を捲り上げて、出て來たら一打と、固唾を呑んで息を凝してゐるわが背の一瞬息の樣子を歌つた。勇ましい事だ。が下には女の心地に、あんな無謀な事をして怪我でもせねばと危ぶんで、はら/\してゐるらしい情意が潜在してゐる。
 
丸雪降《あられふり》 遠江《とほつあふみの》 吾跡川楊《あどかはやなぎ》 雖苅《かれれども》 亦生云《またもおふちふ》 餘跡川楊《あどかはやなぎ》     1293
 
〔釋〕 ○あられふり 霰降りトホといふをいひ係けた、遠《トホ》の枕詞。トホは霰の音の擬聲語。現代人のトホの發音は妥協的で響が弱いので、霰の音の擬聲にならない。以て古代人の發音の表現が明確であり、多行發音が、特に今日と相違してゐた事が窺はれる。なほ(1)霰降る音《オト》の上略のトを遠にいひかけたり(契沖説)。(2)霰降り飛び打つの意に續けたり。トビウツを約めてトブツとなるをトホツに轉じて遠津《トホツ》にかけたり(古義説)の二説あるが、(2)は殊に牽強である。「丸雪」は霰のこと。戀水《ナミダ》、火氣《ケブリ》、重石《イカリ》、白氣《キリ》、青頭鷄《カモ》の類の表意語。○とほつあふみ 遠つ淡海。近江國高島郡の古稱。また江北坂田郡にもいふ(靈異記)。「遠江」とあつても遠江國のことではない。風俗の謠物には、トホタアフミ〔六字傍点〕と訛る。○あどかはやなぎ 吾跡《アド》(安曇)川の川楊の略。「あどかは」は既出(二〇一八頁)。そこの川楊は挿圖495(二〇一九頁)の寫眞中の木叢がそれである。○かはやなぎ 川邊の楊の意。(2088)それが筥楊でも猫楊でも、特に川楊と稱する物でも何でもよい。但植物學的には川楊は水邊に多く自生し、高さ丈許に達する落葉木。葉は桃葉に似て、四五月頃有緑色の穗状花を出す。○かれれども 苅りてあ〔四字傍点〕れどもの約。○またもおふちふ 「ちふ」はトフと訓むもよい。
【歌意】 遠つ淡海の安曇川の川楊よ。かう苅つてあつても、又生えるといふ、この安曇川の川楊よ。
 
〔評〕 面白い事には、現在も安曇川の河畔に川楊が茂生してゐる。この歌にいふ川楊の遺蘖であらう。素より灌木状の樹だから、所用の時は鋭鎌でもつて苅り取つて使ふ。作者は安曇の里人ではあるまい。「かれれども又も生ふちふ」は、初めて川楊の樣子を聞いた人の語としか考へられない。
 作者は今眼前に苅り渡した川楊の木叢を見て、こんなに切つても亦その切株から生える、發芽性の強いものとの安曇の里人の話に感心し、我等が中もこの川楊の如く、一旦は邪魔が這入つて中絶こそしたれ、再び本意を徹すその時期のあらうことを豫期し、未來の希望をどこまでも持たうとの譬喩歌で、安曇川楊を反復呼び懸けて詠歎する間に、おのづからその寓意が隱然として躍動する。
  楊こそ切れば生えすれ世の人の戀に死なむをいかにせよとか (卷十四――3191)
も同じ取材で兩意に岐れたものだ。が安曇川楊の婉曲にして含蓄味の深いのにはとても及ばない。
 雙本體の正格で、キ〔傍点〕韻を踐んでゐる。
 
朝月日《あさづくひ》 向山《むかひのやまに》 月立所見《つきたてりみゆ》 遠妻《とほづまを》 持在人《もちたるひとし》 看乍偲《みつつしぬばむ》     1294
 
〔釋〕 ○あさづくひ 朝|就《ヅク》日。朝方になる日の意。「向ひ」に係る枕詞。○たてりみゆ 「たてり」は現れてゐるの意。たつ〔二字傍点〕は總べてその氣の發ち、その物の現るゝをいふ。古義訓によつた。略解訓タテルミエ〔五字傍線〕。○とほづま 遠くゐる妻。妻は本妻でも情人でもよい。○もちたる 童本訓によつた。舊訓モタラム〔四字傍線〕。
【歌意】 あれ〔二字右○〕向うの山に、月の出たのが見えるわ。遠方に思妻を持つた人達がさ、定めしこの月を〔七字右○〕見ながら、思ひ慕ふことであらう。
 
〔評〕 月に對して遠つ人を憶ふ。漢土の詩作にはその例が多い。但大抵征婦の作である。これは月によつて湧きあがつた自分の哀感を、遠妻を持つ人の胸中にまで押擴めて、同情の涙を濺いだ。たまさかにも逢ひ得ぬ遠妻故に思ひ焦がれてゐる人は、必ず旅の子であらう。「朝づく日」の枕詞は「月」にさし合つて、聯想の混線を招くので、面白くない。
 
右二十三首、柿本(ノ)朝臣人麻呂之歌集(ニ)出(ヅ)。
 
春日在《かすがなる》 三笠乃山二《みかさのやまに》 月船出《つきのふねいづ》 遊士之《みやびをの》 飲酒杯爾《のむさかづきに》 陰爾所見管《かげにみえつつ》     1295
 
(2090)○つきのふね 月を船に譬へた。○みやびを 既出(三七四頁)。○かげに 影に立つて〔三字右○〕。
【歌意】 春日にある三笠山に、月の船が出たわ。風流男の飲む盃に、影に立つて〔三字右○〕見え/\して、さて面白いなあ。
 
〔評〕 奈良京で三笠山は判で捺したやうな月の出處だ。その月に對して玉杯を執る。まさに風流男の所作だ。况やその杯に月光が玲瓏と映つて、緑のさゝ波に浮ぶのであつた。興味滿點。奈良人士はかうした愉快な瀟洒な心の方面を、我々に見せてくれる。但「月の船」は、そのはじめ弦月を舟に譬へたのであらうが、慣用が久しくなつては、單に月といふと同意に輕く使はれたと思はれる。
 
譬喩歌
 
 茲にいふ譬喩に三つの樣式がある。(一)は一首全部が譬喩を構成する體で、全く諷託の作に屬するから、自ら婉曲の妙含蓄の味を存する。(二)は一首の半部即ち上句又は下句が譬喩を構成する體で、(一)に比し稍婉味の減殺を見るが、時にその雋永な寄興に、覺えず膝を打つて感歎されるものがある。(三)は見聞の事物にその感興を托したもので、この種の作は尠いが、自由奔放の特徴がある。
 但概していへば、譬喩といふ鑄型に詰め込まれた爲、技巧の見るべきはあつても、精神迫力の充實した作に乏しい憾を生ずる。
 譬喩歌の多くは戀愛に關しでゐる。戀愛は世間を憚る爲に、感想を直接に表現することを避ける場合が多い(2091)ので、勢ひ譬喩によつてその懷抱を叙べるやうな結果になる。
 以下、寄何〔二字傍点〕といふ題詞を掲げてあるが、頗る重出してゐる。これは原本の錯簡から來たもので、その分斷したものに、後人が更に一々題詞を與へた結果と思ふ。一つ題詞のもとに纏めて整理したいが、さては原本の體裁順序を變更する爲に、原歌の檢索に支障を來すを恐れ、すべて原本のまゝに從つた。
 
寄(ス)v衣(ニ)
 
衣に托して詠んだ歌。
 
今造《いまつくる》 斑衣《まだらのころも》 服面就《めにつきて》 吾爾所思《われにおもほゆ》 未服友《いまだきねども》    1296
 
〔釋〕 ○いまつくる 舊訓イマヌヘル〔五字傍線〕。○めにつきて 「面」は音借字。略解、宣長訓のオモヅキテ〔五字傍線〕は非。○われに 「に」はニハの意。眞淵は「爾」を者〔右△〕の誤としてワレハ〔三字傍線〕と訓み、古義は「吾」を常〔右△〕》の誤としてトハニ〔三字傍線〕と訓んだ。
【歌意】 今新しく製る斑の衣は、人は知らず〔五字右○〕、自分には目に付いて、思はれるわ、まだ手を通して著はせぬけれども。
 
〔評〕 斑の衣は派手なものだ。而も今つくる裁ちおろしだ。それに喩へた新しい女の美しさは思ひ遣られる。愈よ以て目に付く。「いまだ著ねども」は稍いひ詰め過ぎた憾はあるが、婚約期間の樂しげな情合がよく出てゐ(2092)る。
 
紅《くれなゐに》 衣染《ころもしめまく》 雖欲《ほしけども》 著丹穗哉《きてにほばや》 人可知《ひとのしるべく》     1297
 
〔釋〕 ○しめまく 契沖訓による。○ほしけども 「遠けども」を見よ(九〇二頁)。○きてにほはばや 「や」は疑辭。
【歌意】 紅色に衣は、染めたく思ふけれども、著てぱつとしたら、人が氣付くであらうか。
 
〔評〕 前の歌から心理的には一段進行した境致だ。その女は手に入れたし、さりとて逢つたことが人に知れてはと、情と理とが葛藤して躊躇してゐる。これは美しい私妻《シノビヅマ》を設けようとして、本妻の耳に入ることを恐れたことらしい。
 この時代、紅は位色の外の色だから、禮朝服以外の私服には、誰れが著てもよかつた。下著なら無論。
 
干各〔二字左△〕《かにかくに》 人雖云《ひとはいふとも》 織次《おりつがむ》 我二十物《わがはたものの》 白麻衣《しろあさごろも》     1298
 
〔釋〕 ○かにかくに 「干各」原本に千名〔二字右△〕とある。元本類本西本古葉等の訓はトニカクニ〔五字傍線〕と訓み、神本古葉は「名」を各〔右△〕とある。これに依つて古義は「千」も干〔右△〕の誤とし、干各〔二字傍点〕をカニカクニ〔五字傍線〕と訓むべしといつた。舊訓チナニハモ〔五字傍線〕(2093)も惡くはない。千名は卷四に「千名《チナ》の五百名《イホナ》」の語例がある。然しハモ〔二字傍線〕の訓に當る字がない。○おりつがむ 續けて織らう。○はたもの 機物。機に懸けて織る物の稱。轉じては直ちに「機物の踏木もちゆきて」(卷十)の如く機を斥すことがある。「二十」は借字。○しろあさごろも 「ころも」は布といふ程の意。
【歌意】 何のかのと、人はよしいふとも、續けて織らうぞ、自分の機物である、この白麻の布は。
 
〔評〕 織りかけの機を見て、出來がいゝの惡いのと、女どもが寄つてたかつて噂するのは常の事。それにも拘はらず、作者はどこまでも織り續けてゆかうと、その決意の程を示した。他人が幾ら間に水をさしたからとて、自分のこの戀は堅く仕續けて末まで遂げようとの譬喩だ。一本氣の眞實さに打たれる。
  かにかくに人はいふとも若狹路の後瀬《ノチセ》の山の後もあはむ君(卷四、坂上大孃――737)
とほゞ似た心持で、「わが機物」に當時の女人の生活さへ偲ばれて懷かしい。
 
右三首、柿本(ノ)朝臣人麻呂之歌集(ニ)出(ヅ)。
 
寄(ス)v玉(ニ)
 
安治村《あぢむらの》 十依海《とをよるうみに》 船浮《ふねうけて》 白玉採《しらたまとると》 人所知勿《ひとにしらゆな》     1299
 
(2094)〔釋〕 ○とをよる 既出(五八八頁)。「十」は借字。○とると 契沖訓による。舊訓トラム〔三字傍線〕。○しらゆな 略解訓による。舊訓シラスナ〔四字傍線〕。
【歌意】 味鴨の群が、靡き寄つてゐる海に、船を浮べて、白珠を採ると、人に知られるなよ。
 
〔評〕 主意は下句にある。上句はその形容に過ぎないが、強ひて全部を譬喩とすれば、古義の
  人多く群れゐる中を、かゆきかくゆき懸想のさまをなして、世に知らるゝなかれと、見る人の諫むるなるべし。
といふのが近からう。
 
遠近《をちこちの》 礒中在《いそのなかなる》 白玉《しらたまを》 人不知《ひとにしらえず》 見依鴨《みむよしもがも》     1300
 
〔釋〕 ○をちこちの この遠近は輕く使はれてある。
【歌意】 あちこちの磯の間にある白珠を、人に知られずに、手に取らう術もありたいなあ。
 
〔評〕 磯に秘められた珠の如き秘藏娘を、竊に手に入れたいといふのである。白玉は鰒珠即ち眞珠がふさはしい。磯の中から出る小石だなどいふは、こだはつた議論である。
 
海神《わたつみの》 手纏持在《てにまきもたる》 玉故《たまゆゑに》 石浦廻《いそのうらわに》 潜爲鴨《かづきするかも》     1301
 
(2095)〔釋〕 ○たまゆゑに 玉なる〔二字右○〕にの意。委しくは、玉なるが故に、思ひ懸けてはならぬのに〔思ひ〜右○〕の意。この類の省略法は「人妻ゆゑに」(卷一)「人の兒故に」(卷二)その他卷十一、十二などに例が多い。○うらわ 古義訓ウラミ〔三字傍線〕。舊訓ウラマ〔三字傍線〕は非。○かづき 水を潜ること。
【歌意】 海神が、御手に纏いて持たれる玉なのに、自分はそれを採らうとて〔自分〜字右○〕、磯の浦囘に潜きすることかまあ。
 
〔評〕 海神はその嚴父かその夫か、それともある貴紳を譬へたかは判然しない。とにかくその女に取つての權力者である。然るにその眼を偸んで逢はうと苦勞することを譬へて、みづからその愚を嘲つてゐる。初二句は既に、卷三に「海つみの手に纏かしたる珠|手次《タスキ》」の語例がある。
 
海神《わたつみの》 持在白玉《もたるしらたま》 見欲《みまくほり》 干遍曾告《ちたびぞつげし》 潜爲海子《かづきするあま》     1302
 
〔釋〕 ○ちたびぞつげし 何遍もその意を通じた。○あま 海人に〔右○〕の略。「海子」の字は珍しい。海士、海人と書くは通例。
【歌意】 海神の持つてゐる白玉を〔右○〕、手に取りたく思ひ、何遍もその意を通じたことよ。潜き業をする海人即ち媒の貴方に〔七字右○〕。
 
〔評〕 人の秘藏する娘を得たく思うて、媒人に再三催促したことの譬喩だ。次の答歌の趣によると、「あま」は媒(2096)人を擬へたものとなる。くどい程に折角頼んでも色よい返辭を得ぬので、媒人に對して「千たびぞ告げし」と、その不滿を訴へた。
 下に初二句が「底清みしづける玉を」と換つただけの同歌がある。
 
潜爲《かづきする》 海子雖告《あまはつぐれど》 海神《わたつみの》 心不得《こころしえねば》 所見不云《みゆといはなく》     1303
 
〔釋〕 ○こころしえねば 眞淵訓による。○みゆといはなく 玉〔二字右○〕が見ゆといはぬ。「見ゆ」は逢ふこと。○いはなく 「しらなく」を見よ(四四五頁)。新考訓による。
【歌意】 へえ、媒人のこの海人は、申し入れはしましたが、海神即ち親の同意を得ないので、白玉〔二字右○〕即ち娘さんが、逢はうとは申しませんこと〔二字右○〕よ。
 
〔評〕 上のと一聯の贈答歌で、これは媒人の詞である。贈歌に讓つて珠は〔二字右○〕の主語を略いた。珠は即ち本尊の婦人を擬へた。親が不承知では昔でも結婚は成立しなかつた。尤も非常手段で竊に通つたり、盗み出したりもするが。
 
 この二首、諸注の解多く正鵠を得ない。
 
寄(ス)v木(ニ)
 
(2097)天雲《あまぐもの》 棚引山《たなびくやまの》 隱在《こもりたる》 吾下心〔二字左△〕《わがしたごころ》 木葉知《このはしるらむ》     1304
 
〔釋〕 ○やまの 山の如く〔二字右○〕の意で、初二句は「隱り」に係る序詞。○したごころ 「下心」。原本に忘〔右△〕とあるは誤。宣長説によつて改めた。○しるらむ 古註皆かうある。古義訓シリケム〔四字傍線〕は非。
【歌意】 空の雲が靡く山のやうに、籠つてゐる私の内心を、山の〔二字右○〕木の葉即ち彼女は〔五字右○〕知るであらう。
 
〔評〕 木の葉を思ふ兒に譬へた。落花流水、わづかに情意の通ずるであらうことを心頼みにした自慰の詞だ。「松は知るらむ」(卷二)、「木の葉知りけむ」(卷三)、「草さへ思ひうら枯れにけり」(卷十一)の類、草木を擬人していふことは珍しくない。が山の木の葉を思ふ兒に擬へた例は少ない。尚この歌の景致は、眼前に雲烟の去來する雜木山が想見される。
 
雖見不飽《みれどあかぬ》 人國山《ひとくにやまの》 木葉《このはをし》 己心《おのがこころに》 名著念《なつかしみもふ》     1305
 
〔釋〕 ○ひとくにやま 下の「人國山の秋津野」の條を見よ(二一三〇頁)。○このはをし 眞淵訓による。舊訓コノハヲゾ〔五字傍線〕。〇おのがこころ 宣長は「己」を下〔右△〕の誤としてシタノコヽロ〔六字傍線〕と訓んだ。○なつかしみもふ 契沖訓ナツカシミオモフ〔八字傍線〕。
(2098)【歌意】 見ても見飽かぬ、人國山の木の葉をさ、自分の心、懷かしがり思ふわ。
 
〔評〕 これも木の葉を思ふ兒に擬へた。木の葉は全體的の木の葉で、梢の繁つた状態をいつた。「見れど飽かぬ」は吉野の事物に冠する套語となつてゐたから、こゝもその意で人國山にいひ續けたのであらう。蜻蛉野あたりの女に心懸けての作か。
 
寄(ス)v花(ニ)
 
是山《このやまの》 黄葉下《もみぢのしたの》 花矣我《はなをわが》 小端見《はつはつにみて》 反戀《かへりてこひし》     1306
 
〔釋〕 ○はつはつに 既出(一三一七頁)。「小端」をハツ/\と訓む。○かへりてこひし 契沖訓による。舊訓カヘルコヒシモ〔七字傍線〕。宣長が「花矣」を咲花〔二字右△〕、「反」を乍〔右△〕の誤として、サクハナヲアレハツハツニミツヽコフルモ〔十九字傍線〕と訓み、古義もそれに據つたのは非。
【歌意】 この山の紅葉の蔭の花を私が、なまじ〔三字右○〕一寸見て、反つて戀しいわい。
 
〔評〕 紅葉の蔭の花に親の守る女を譬へ、それに首尾して僅に逢ひ得た後の感想を歌つた。なまじ逢うたが爲に入らぬ苦勞を求めたやうに、表面は悔んでゐる。「かへりて」が眼目である。
 
(2099)寄(ス)v川(ニ)
 
從此川《このかはゆ》 船可行《ふねはゆくべく》 雖在《ありといへど》 渡瀬別《わたりせごとに》 守人有《まもるひとあり》     1307
 
〔釋〕 ○かはゆ この「ゆ」はヲといふに近い。○ゆくべく 渡り〔二字右○〕ゆくべく。○わたりせ 舟にても徒歩にても渡らるゝ河瀬をいふ。又ワタセともいふ。渡津、渡し場。○まもるひとあり 渡守がゐる。「まもる」は目守《マモル》の義。略解にモルヒトアルヲ〔七字傍線〕と訓み、古義もこれに從つたのは非。
【歌意】 この川に舟は通られるといふが、どうして〔四字右○〕、その渡り瀬/\には、チャンとその番人がゐるわ。――仕樣がない〔五字右○〕。
 
〔評〕 女の教へてくれた戀の通ひ路にも、嚴しい人目の關のあることを歎いた。往時の渡守はたゞ舟渡しをするだけではなく、山守、橋守、國守の如く、警戒監視の任を帶びてゐた。されば譬喩甚だ適確。而も一意到底に調べおろして、底力がある。「あり」の語が重複してゐる。
 
寄(ス)v海(ニ)
 
大海《おほうみを》 候水門《まもるみなとに》 事有《ことしあらば》 從何方君《いづくゆきみが》 吾率隱《わをゐかくさむ》     1308
 
(2100)〔釋〕 ○おほうみをまもるみなと 大海の風潮を伺ふ湊の意。船は湊にありて航海の安否を伺ふ。「風候《カゼマモリ》」を參照(八七三頁)。諸註無用の説が多い。○いづくゆ どこにの意。○ゐかくさむ 「隱」原本に陵〔右△〕とあるは誤。この訓、評語を參照。古義訓はカクレム〔四字傍線〕。
【歌意】 航海の大事を見計らふこの湊に、もしもの事がさあるならば、どこに貴方が、私を連れて隱して下さらうぞ。
 
〔評〕 逃げ込んだ安全地帶を湊に喩へ、もしこゝに危險が起つたらと、杞憂に囚はれた。こんな事をいひ出して心配をかけるのは、男のする事でない。作者は必ず女だ。道行をした女が、居常何かと不安らしく、小さな胸を痛めて、おど/\してゐる樣子が眼に見える。
 
風吹《かぜふきて》 海荒《うみはあるとも》 明日言《あすといはば》 應久《ひさしかるべし》 君隨《きみがまにまに》     1309
 
〔釋〕 ○かぜふきてうみはあるとも 「風吹」「海荒」はわざと對語に書いたもの。
【歌意】 よし〔二字右○〕風が吹いて海は荒れるとしても、船出は〔三字右○〕明日の事といはうなら、待ち遠いでせう。何時でもそれは貴女の御意次第さ。
 
〔評〕 此處が不安心といふならば、たつた今でも、危ない橋を渡つても、思召次第立退きませうと、女の心を迎(2101)へた譬喩だ。前の歌の答歌で、男の作である。
 
雲隱《くもがくる》 小島神之《こじまのかみの》 恐者《かしこけば》 目間《めはへだてども》 心間哉《こころへだつや》     1310
 
〔評〕 ○くもがくる 小島に續けたのは、海上の小島の、雲に隱り勝なのから出た形容。○こじまのかみ 式の神名帳にない。備前國兒島郡兒島の田土浦(ニ)坐(ス)神社のことか。○かしこけば 畏けれ〔右○〕ばの意。古格。○めはへだてどもこころへだつや この「へだて」「へだつ」は四段活用の古格。「め」は見え〔二字傍点〕の意の目で、逢ふの意。「や」は反動辭。契沖訓、古義訓のメハヘダツレド〔七字傍線〕は、下のヘダツヤと自他が齟齬する。新考訓はメハヘナルトモコヽロヘナレヤ〔十四字傍線〕で、或はこの方が素直であらう。
【歌意】 小島の神の畏いので、逢ふことは隔たるが、心は隔たることがあるかい。
 
〔評〕 小島の神は守り嚴しい親を譬へた。女から、さう/\逢へはせぬが、心には決して變りはないと、男にその誠意を内通して安心させたものだ。下句「隔つ」の語を相反的に打重ねた表現は、わざと露骨を求めた辭法で、そこに固い強い決意のほどが受け取られる。
 
右十五首、柿本(ノ)朝臣人麻呂之歌集中(ニ)出(ヅ)。
 
(2102)寄(ス)v衣(ニ)
 
橡《つるばみの》 衣人者《ころものひとは》 事無跡《ことなしと》 曰師時從《いひしときより》 欲服所念《きほしくおもほゆ》     1311
 
〔釋〕 ○つるばみ 櫟《クヌギ》の實をいふ。その穀を鼠色の染料とする。櫟は殻斗科の落葉喬木。○つるばみのころものひと 橡衣を著る人をいふ。賤者のこと。舊訓キヌキルヒトハ〔七字傍線〕は無理である。又舊訓に從つて「衣」の下に著〔右△〕の字を補ふ説も蛇足である。而もキル〔二字傍線〕は下のキホシにさし合ふ。宣長は「人者」を者人〔二字右△〕の轉倒と見て、コロモハヒトノ〔七字傍線〕と訓み、古義もそれに同じたが、牽強を免れない。○いひしとき 聞きし時といふに同じい。○きほしく 契沖訓による。舊訓キマホシク〔五字傍線〕。
【歌意】 橡の衣を著る人は、いつそ〔三字右○〕無事だと、聞いた時から、その橡の衣が〔六字右○〕着たく思はれるわい。
 
〔評〕 漢土では支配者が時々變るから、「患(フ)2人(ノ)家國(ヲ)1兩鬢(ノ)霜」などいつて、宰相の重責を馬鹿らしく感じ、その印綬を解いては「臥(シテ)聽(ク)宰相(ノ)去(ツテ)朝(スルヲ)v天(ニ)」なぞ、隱者生活の安樂を吹聽したりする。信に貴人はその尊榮は羨むべきだが、隨つて責任が重いから、心配氣苦勞は一通りでない。これを奈良時代に見るに、尊貴の權臣等の榮枯盛衰が實に甚しかつた。威勢あれば或は讒構が入つて貶謫の憂き目に遭ひ、或は諂諛の輩のおだてに増長して非望を企てて滅亡したり、それら史實の頁が眼まぐるしい程繰り返された。大津(ノ)皇子、長屋(ノ)王、船(ノ)王、黄文(ノ)王、(2103)道祖(ノ)王、和氣(ノ)王、氷上(ノ)鹽燒、藤原(ノ)豐成、同仲成、橘(ノ)奈良麻呂、大伴(ノ)古慈斐、大伴(ノ)家持など、その人である。かうした世相に幾囘となく直面した貴人は、喬木風多し、寧ろ身分の無い者は幸福だとの逆觀念を懷くに至るも、無理からぬ事であらう。かくて橡の衣が著欲しく羨ましくなるのである。
 およそ禮服朝服以外は、當色以下なら何色を著てもよい當時の規定であつた。令に、
  凡服色(ハ)、白、黄、丹、紫、云々、楷衣、蓁、紫、橡、黒、如v此之屬、當色以下各兼(ネテ)得v服(ルヲ)v之(ヲ)。(衣服令)
とある。然しこゝは始から賤者で橡衣を服する者をさした。即ち、
  無位(ハ)皆|皀《クロノ》縵頭巾、黄袍、云々、家人奴婢(ハ)橡墨衣〔七字右○〕。(同上)
と見えた家人奴婢がそれである。主人自身は富貴榮華にこそ傲つてをれ、多寡が八九百束の稻で買はれた奴婢どもの、身分が輕ければ氣も輕い暢ん氣さは微塵もない。
 初二句の「橡の衣の人は事無し」は當時行はれてゐた諺であらう。然し橡の衣は淨衣として、神佛に賽詣する人奉仕する人は著る。(正倉院文書中及びその他)潔齋の著物だから著てゐれば禍事《マガゴト》はない筈、で賽詣や奉仕の場合でなくても著欲しいとの意に解せられぬこともない。又思ふに淨衣の橡の衣を平民の橡の衣に聯繋させて、兩意をかねて「事無し」といつたとしてもよい。
 
凡爾《おほろかに》 吾之念者《われしおもはば》 下服而《したにきて》 穢爾師衣乎《なれにしきぬを》 取而將著八方《とりてきめやも》     1312
 
〔釋〕 ○おほろかに 大凡に。契沖訓による。舊訓オホヨソニ〔五字傍線〕。○きめやも 上に〔二字右○〕著めやもの意。○なれにしき(2104)ぬ 著馴らした衣。それはよれ/\に汚《ヨゴ》れるから「穢」の字を充てた。
【歌意】 竝大抵に、私がさ思はうなら、これまで〔四字右○〕下に着て、きたなくなつた衣を、何で〔二字右○〕取り上げて上に〔二字右○〕著ようかい。
 
〔評〕 これまで妾などでゐた女を本妻に直さうとする折、女の遠慮するのを抑へて、その再考を促した。比喩は恰當。
 衣食住は生活の基本だから無理はないが、集中衣服に關聯した作は殆ど全面的といつてよい程だ。萬葉人がそれに深い關心をもつてゐたことが知られる。そして下に著る〔四字傍点〕を事實にも譬喩にも歌つた作が七首もある。
 
紅之《くれなゐの》 深染之衣《こそめのころも》 下著而《したにきて》 上取著者《うへにとりきば》 事將成鴨《ことなさむかも》     1313
 
〔釋〕 ○こそめ 濃染。「深」は意を以て充てた。○ことなさむ 「わをことなさむ」を見よ(一一〇七頁)。
【歌意】 紅の濃染の衣〔右○〕を、下に着て、今更〔二字右○〕上に著ようなら、世間がうるさく〔七字右○〕いひ做さうかまあ。
 
〔評〕 この深紅は無論下著の掻練などであらう。下著を上著にしたら、何時だつて氣違ひ扱にされる。でそれに譬へて元の身分が身分だから、本妻となされたら世間の口の端がと、女は躊躇した。貴賤門地の喧しい時代だからではあるが、作者の僭上心のない、つゝましさが奥ゆかしい。「下に著て上に取り著ば」は稍御丁寧の感があるが、これはわざと印象強い表現を求めたものである。
 
(2105)橡《つるばみの》 解濯衣之《ときあらひきぬの》 恠《あやしくも》 殊欲服《ことにきほしき》 此暮可聞《このゆふべかも》     1314
 
〔釋〕 ○ときあらひきぬの 引解いて洗つて拵へた〔三字右○〕衣の。八言の句。○あやしくも 「きほしき」に係る。
【歌意】 橡の解いて洗濯した衣が、不思議にまあ、著たく思はれる、この夕方であることかまあ。
 
〔評〕 橡は賤卑の服、その色は鼠色に屬して、見る影もない。而もその洗濯したものとなつては、取得がない。わざとかう層々いひ詰めて來たのは、「殊に著ほしき」に強い反映を與へて、その印象を深からしめる。「ゆふべ」は人戀しい感情の昂揚する折柄で、又男女會合の時間に向つてゐる。「あやしくも」の批判的形容は稍詩味を減殺しはせぬか。身分の卑い女を戀して作者は懊悩してゐる。
 
橘之《たちばなの》 島爾之居者《シマニシヲレバ》 河遠《かはとほみ》 不曝縫之《さらさずぬひし》 吾下衣《わがしたごろも》     1315
 
(2106)〔釋〕 ○たちばなのしま 「たちばな」(四八九頁)。及び「しまのみや」(四八〇頁)を見よ。○さらさず 洗はず。○したごろも 下著の衣。
【歌意】 橘の島にさ、私は〔二字右○〕居るので、河が遠さに、洗はずに縫つた、私のこの〔二字右○〕下衣さ。
 
〔評〕 洗濯は流れ川が便利だ。廣くいへば島の地は飛鳥川の附近であるが、洗濯などに出掛けるには一寸遠いのでつい無精をして洗濯せずに下著を仕立てたといふ。土地が離れて居たので、よく身元調もせずに召抱へた妾などに不埒があつて、自分の輕率を後悔しての作であらう。「下衣」とあるから、女を妻のこととする契沖説はどうかと思ふ。
 
寄(ス)v絲(ニ)
 
河内女之《かはちめの》 手染之絲乎《てぞめのいとを》 絡反《くりかへし》 片絲爾雖有《かたいとにあれど》 將絶跡念也《たえむともへや》     1316
 
〔釋〕 ○かはちめ 河内國の女。泊瀬女《ハツセメ》、難波女《ナニハメ》の類語。卷十四には大和女《ヤマトメ》があり、記の歌には山代女《ヤマシロメ》がある。○てぞめ 手づから染むるをいふ。○てぞめのいとを 初二句は「くり返し」に係る序詞。○かたいと 一本縒《イツポンヨリ》の絲。縒り合はせぬ絲のこと。
【歌意】 河内女が、その手染の糸を繰り返しするやうに〔五字右○〕、繰り返し思うて〔三字右○〕、それは片絲の片思〔三字右○〕ではあるが、絶えようと思ふかい。
(2107) 〔評〕 片思ながら諦めようとは思はぬといふことを、絲の縁語で「片絲の」「絶えむと」と鎖り續けた。河内女の絲がすべて片絲なのではない。河内は當時染織の技が盛だつたと見える。
 
寄(ス)v玉(ニ)
 
海底《わたのそこ》 沈白玉《しづくしらたま》 風吹而《かぜふきて》 海者雖荒《うみはあるとも》 不取者不止《とらずばやまじ》     1317
 
〔釋〕 ○しづく 下著《シタツ》くの略。落つる露をシヅク〔三字傍線〕といふも、この變態名詞である。古義はいふ、石著《シツク》の義と。下にも「石著玉」と見え、靈異記には「白玉|礒著《シヅキ》や」と見えるから、さもと思はれるが、石、礒は玉に就いての假借字で、この語の本義ではない。
【歌意】 海の底〔右○〕に沈んでゐる白玉よ〔右○〕。よし〔二字右○〕風が吹いて海は荒れるとも、採らないではおくまい。
 
〔評〕 深窓の娘を玉に譬へ、その兩親などが不同意で、堰き留めるやうな事があつても、手に入れずには置くまいの意を擬へた。古義が父母などが諫めて逢ひ難き女なれどと解したのは、語に分寸の相違がある。下の「秋風はつぎてな吹きそ」の熱意の一歩進んだ境地。
 なほ卷六「見渡せば近きものから」(951)、卷七「島廻すと礒に見し花」(1117)の評語を參照。
 
底清《そこきよみ》 沈有玉乎《しづけるたまを》 欲見《みまくほり》 千遍曾告之《ちたびぞつげし》 潜爲白水郎《かづきするあま》     1318
 
(2108)〔釋〕 ○かづきするあま 下にに〔右○〕の辭を補うて聞く。
【歌意】 水底が清くて、沈んでゐる珠を、見たく思うて、何遍となくさ、潜きする海人に、採つてくれと〔七字右○〕、告げたことよ。
 
〔評〕 三句以下は上の「わたつみのもたる白玉」の歌と同じい。但初二句は甚しく劣つてゐる。「清み」は不用。海《ワタ》の底〔二字傍点〕とする方がよい。
 
大海之《おほうみの》 水底照之《みなそこてらし》 石著玉《しづくたま》 齊而將採《いはひてとらむ》 風莫吹所〔左△〕年《かぜなふきそね》     1319
 
〔釋〕 ○いはひ 「齊」は齋の通用。○ふきそね 「所」原本に行〔右△〕とあるは誤。【歌意】 大海の水底を照らし、沈んでゐる珠を、齋み清まはつて採らうぞ、風は吹いてくれるなよ。
 
〔評〕 珠玉の尤れたものは車何乘を照らすと、支那では號してゐる。「大海の水底照らす」もそれに近い想像で、眞珠などは光の鈍い物であるが、今の場合「いはひてとらむ」の前提として、出來るだけ大袈裟な布衍を必要とするので、「水底照らし」とまで誇張したのである。「いはひて」は太切に扱つてといふ程の意。古義に、玉に疵つけぬやうにとあるは、穿ち過ぎだ。風は海での厄介物なので事の障害に譬へた。詰りは玉の如き頗るの美人を無事に手に入れたいとの意で、譬喩としては完作である。
 
(2109)水底《みなそこに》 沈白玉《しづくしらたま》 誰故《タレユヱニ》 心盡而《こころつくして》 吾不念爾《わがもはなくに》     1320
 
〔釋〕 ○たがゆゑに ダガユヱニ、タレユエニ、昔から兩訓が存し、歌經標式には「他我由惠爾《タガユヱニ》」と出てゐる。上に誰ガ〔二字傍点〕とあれば下も吾ガ〔二字傍点〕と應じ、上に誰レ〔二字傍点〕とあれば下も我レ〔二字傍点〕と應ずるのが正格で、これを交錯した訓もあるが、誤である。
【歌意】 水底に沈んでゐる、白珠の貴女よ〔三字右○〕、誰れが爲に私が心を碎いて、思ひはしませんに。すべて貴女の爲さ〔八字右○〕。
 
〔評〕 この種の反説的筆法は、非常に効果的の表現である。が譬喩歌としては、玉の活用が稀薄に過ぎる。
 
世間《よのなかは》 常如是耳加《つねかくのみか》 結大王《むすびてし》 白玉之緒〔左△〕《しらたまのをの》 絶樂思者《たゆらくもへば》     1321
 
〔釋〕 ○つねかくのみか 何時もかくばかりある〔二字右○〕事か。○むすびてし 「大王」をテシと訓む。「わがさだめ羲之《テシ》」を見よ(八九九頁)。○を 「緒」、原本に結〔右△〕とあるは誤。○たゆらく たゆる〔傍点〕の延言。
【歌意】 世間は何時も、かうばかりある〔二字右○〕事か、折角〔二字右○〕結んだことであつた白珠の緒が、斷れることを〔三字右○〕思へばさ。
 
〔評〕 白玉は緒を通して、頸に飾り手に纏く装身具であつた。切れまいと思ふその緒が意外にも切れる。玉はそ(2110)こでばら/\だ。それを固く契りかはした中が絶えたのに譬へ、世間法が不定であることを知つてゐながら、戀の迷妄からこればかりは例外と信じた事が、矢張例外でなかつた事に悔恨して、「世間は常かくのみか」と深い感傷に浸つた。
 
伊勢海之《いせのうみの》 島津之白水郎我〔七字左△〕《しまつのあまが》 蝮玉《あはびだま》 取而後毛可《とりてのちもか》 戀之將繁《こひのしげけむ》     1322
 
〔釋〕 ○しまつのあまが 原本に、白水郎之島津我〔七字右△〕とあるは顛倒。「さゝ波の志賀津のあま」(卷七)の辭樣を思ひ合はせるがよい。「島」は志麻《シマ》の國のことで、半島なればいふ。「津」は船著きのこと。舊事本記に、成務天皇の御代に島津(ノ)國造〔四字傍点〕を定められた事が見える。この考偶ま新考説と符合する。○あはびだま 既出(一六五一頁)。
【歌意】 伊勢の海の志摩の海人は、鰒珠を取るが、その如く〔四字右○〕思ふ人を手に入れて後も、かうも戀の心地の繁くあらうことか。
 
〔評〕 人慾には際限がない。抱かるれば負はれようだ。逢ひ見ての後、却て愈よ燃えあがる情炎を、我ながら怪んでゐる。
 
海之底《わたのそこ》 奥津白玉《おきつしらたま》 縁乎無三《よしをなみ》 常如此耳也《つねかくのみや》 戀度味試《こひわたりなむ》     1323
 
(2111)○わたのそこおきつしらたま 「わたのそこおきつしらなみ」を見よ(二八四頁)。○よしをなみ 縁がなさに。○かくのみ 「かく」は効もなく戀ひ渡るをさす。○なむ 「味試」は嘗ムの意で充てた戲書。
【歌意】 海底の深いところの白珠、即ち深窓のかの女は、近寄る手蔓がなさに、私は〔二字右○〕何時もこんなにばかりして、徒らに〔三字右○〕戀うて月日を經ることであらうか。
 
〔評〕 斧のない木は伐れない。手蔓がなくては玉も手に這入らない。と知つても諦められないのは戀の愚痴だ。何時を限とこんな苦悩を續けるのしらと、自己批判をして歎息してゐる。
 
葦根之《あしのねの》 懃〔左△〕念而《ねもごろもひて》 結義〔左△〕之《むすびてし》 玉緒云者《たまのをといはば》 人將解八方《ひととかめやも》     1324
 
〔釋〕 ○あしのねの ネの音を疊んで「ねもごろ」に係る枕詞とした。○ねもごろ 「懃」原本に※[動/心]〔右△〕とあるは誤。○むすびてし 「義之」にテシを充てたことは「わがさだめてし」の條を見よ(八九九頁)。「義」は羲〔右△〕の書寫字。○たまのをといはば 「いはば」は聞かうならの意。
【歌意】 私が懇に考へ込んで結んだ、この玉の緒〔右○〕だと聞かうなら、他人が解かれうことかい。
 
〔評〕 思ふ中に邪魔が這入つて別れ話の持ち上がつた時の作で、深く思ひ込んで結んだ縁と知つたら、人が中を割くことはとても出來まいとの譬喩だ。まこと玉の緒には種々の結方があり、器用に上手に結んだものは、他(2112)人には容易に解き難い。
 
白玉乎《しらたまを》 手者不纏爾《てにはまかずに》 匣耳《はこのみに》 置有之人曾《おけりしひとぞ》 玉令泳流《たまおぼれする》     1325
 
〔釋〕 〇まかずに ずに〔二字傍点〕の用法口語のに同じい。集中例が多い。略解が「爾」を底〔右△〕の誤としたのは、これを雅言ならずと見た爲であらう。○おけりしひと 嘗て置いた人。新考訓オキタルヒト〔六字傍線〕は歌意を誤解してゐる。○たまおぼれする 「玉おぼれ」は玉に惑溺するをいふ合名詞。舊訓による。契沖以來オボラスル〔五字傍線〕と動詞に訓む人もあるが、それは二句の意に杆格を生ずる。
【歌意】 白玉を手には纏きもせずに、匣の内にばかりに、放《ホ》つて置いたことであつた人がさ、今更玉に夢中騷ぎをすることわ。
 
〔評〕 玉は装飾品だから、匣の中に放置したのでは意味を成さない。故に女を巣守にして置いた男が、この頃更に新しい女に熱中するのを譬へて、その前後の行爲の矛盾を諷※[言+※[氏/一]]した。
照左豆我《てりさつが》 手爾纏古須《てにまきふるす》 玉毛欲得《たまもがも》 其緒者替而《そのをはかへて》 吾玉爾將爲《わがたまにせむ》     1326
 
〔釋〕 ○てりさつが 「照左豆我」は意不明。眞淵は、照幸《テリサチ》の義にて玉商人の名なるべしといひ、古義は、ワタツ(2113)ミとあるべき處といつた。二句は人間臭が強いから、眞淵説が面白さうだ。
【歌意】 照左豆が、手に卷いて持ち舊す、玉でも欲しいなあ。その緒を取換へて、自分の玉にせうぞ。
 
〔評〕 或人の持ち飽いた女を懸想し、その縁を切換へて、自分の物にしたいとの譬喩だ。卷十六に、
  眞珠《シラタマ》は緒絶えしにきと聞きし故にその緒また貫きわが玉にせむ(――3814)
   右傳(ニ)云(ク)、時《ムカシ》有(リキ)2娘子1、夫君(ニ)見(レ)v棄(テ)、改(メ)2適《ユケリ》他氏《ヒトノイヘニ》1也、于v時有(リ)2壯士《ヲトコ》1、不v知(ラ)2改(メ)適(ケルヲ)1、此歌(ヲ)贈《オクリテ》、請2誂《コヒキ》女之|父母《オヤニ》1、云々。
の歌と同趣。古い玉を新しい緒に貫くは常ある事で、引喩いかにも巧緻。
 
秋風者《あきかぜは》 繼而莫吹《つぎてなふきそ》 海底《わたのそこ》 奥在玉乎《おきなるたまを》 手纏左右二《てにまくまでに》     1327
 
〔釋〕 〇までに までは〔右○〕の意をかくいふは古代の詞態。
【歌意】 秋風は、打續いて吹いてくれるなよ、海の底の深みにある珠を、自分の手に入れるまでは。
 
〔評〕 秋は風立つ時季、風が立てば海が荒れて潜けない。隨つて玉は採れない。「得がてなる女を珠に比へ、父母などの呵責《コロビ》を風に譬へたり」と古義にある。その通り。
 
寄(ス)2日本琴《ヤマトゴトニ》1
 
(2114)○日本琴 既出(一四四七頁)。
 
伏膝《ひざにふす》 玉之小琴之《たまのをごとの》 事無者《ことなくば》 甚幾許《いとここばくに》 吾將戀也毛《わがこひむやも》
     1328
 
〔釋〕 ○ひざにふす 膝上に横はるを伏す〔二字傍点〕と擬人した。○ひざにふすたまのをごとの コト〔二字傍点〕の疊音により「ことなく」に續けた序詞。○たまのをごとの 「たまの」は譬喩の美稱。「を」も美稱。○ことなくば 無事ならば、障なくばの意。○いとここばくに 略解訓による。古義訓のハナハダコヽダは事を好んだ。
【歌意】 膝に横へる琴の、コト〔二字傍点〕といふ〔三字右○〕障り事がないならば、思ふまゝに逢へるから、こんなに〔十四字右○〕酷く澤山に、私が戀ひようことかい。
 
〔評〕 玉の小琴は序詞として使はれたまでだから、實は譬喩の體にはならない。感想は凡常であるが、反説的表現によつて多少の曲折を生じた。「膝に伏す」は卷五にも「聲知らむ人の膝のへわが枕《マクラ》かむ」とある。
 
寄(ス)v弓(ニ)
 
陸奥之《みちのくの》 吾田多良眞弓《あだたらまゆみ》 著絃〔左△〕而《つらはげて》
引者香人之《ひかばかひとの》 吾乎事將成《わをことなさむ》     1329
〔釋〕 〇あだたら 岩代國|安達《アダチ》郡の古名。そこの山の名に安達太郎と書いて、今もアダタラと呼んでゐる。地名辭(2115)書の説は、ラ〔傍点〕は接尾語にて本名アタタ〔三字傍点〕なるべしと。和銅二年の制にて、國郡の名を二字と定めた時、安達の字を充て、遂にアダチ〔三字傍点〕と呼ぶやうになつた。奈良時代には安達の郡名なく、安積郡の管内であつた。○まゆみ よき弓。「ま」は美稱。檀《マユミ》の木をいふのではない。○つらはげて 「つら」は絃《ツル》の古語、「はげ」は弓絃を懸くるをいふ。又矢を作るにいふ。「著絃」は絃をかけること。「絃」原本に絲〔右△〕とある。上三句は「ひかば」に係る序詞。○ことなさむ 「わをことなさむ」を見よ(一一〇七頁)。
【歌意】 陸奥の安達の弓に、絃を張つて引くやうに、彼の女を〔四字右○〕引かうなら、人が、私を彼れこれいひ騷がうかしら。
 
(2116)〔評〕 當時岩代國中では、安達太郎山の周邊たる安達安積の兩郡が、北地往來の要衝に當り、四道將軍も會津に合した程で、隨つてその原野も早く開拓され、即ち安積郡では安積山、安積沼、安達郡ではそこの山や弓材が、再三吟咏に上るやうになつた。
 弓は往時最必要の武器で、兵部の貯藏、京師の禁衛、王卿諸僚の自家用を始として、諸國の軍團に貯藏するその數は、無量であつた。されば山國からは貢物として盛に獻つたものだ。特に寒國の材は木質が堅緻だから、「あだたら眞弓」は弓材中の王者であつたらう。それで譬喩に引用されたのだから、作者と陸奥との關係はないと見てもよからう。
 彼の女を引き試みたい念は山々。然しそれが知れゝば「わを言なさむ」で、世間の非難が囂々と集まつて、自分の社會的地位も何も失はれてしまふ結果が必然といつたやうな、餘程面倒な身分の相手と見える。想ふに權門の貴女か、或は既に婚約のある女か、或は有夫の婦かであらう。まことに作者の心状は甚だ危險な頂點に立つてゐる。わづかに多少の理性の存在が躊躇させてゐるに過ぎない。このハラ/\させる處が、この歌の利き處である。
 
南淵之《みなぶちの》 細川山《ほそかはやまに》 立檀《たつまゆみ》 弓束纏及〔二字左△〕《ゆづかまくまで》 人二不所知《ひとにしらえじ》     1330
 
〔釋〕 ○みなぶち 大和高市郡坂田村稻淵。稻淵は南淵の訛である 飛鳥川の水源地。皇極天皇紀に、葛城(ノ)皇子(天智天皇)の師事なされたと見えた、南淵請安先生の墓がある。○ほそかはやま 南淵山の北隣の山。天武(2117)天皇紀に「五年夏四月、是月勅(シテ)禁(ジテ)2南淵山、細川山(ヲ)1、並(ニ)莫(カラシム)2蒭薪(スルコト)1」と見えた。○まゆみ 木の名。和名抄に、檀、萬由三《マユミ》と見え、山錦木といふもの。落葉の亞喬木。その葉大にして桃葉の如く、夏花を開くこと衛矛に似てゐる。毛詩鄭風の樹檀の註に強靱之木とある。和漢共に昔は弓材に用ゐた。普通錦木(衛矛)をいふが、それは木質が軟脆で弓には作らない。○ゆづか 弓の中央部の稱。和名抄に「釋名云、弓(ノ)末(ヲ)曰(フ)v※[弓+肅](ト)、中央(ヲ)曰(フ)v※[弓+付](ト)、和名|由美都加《ユミヅカ》」とある。○まくまで 「纏」原本及び諸本ともない。古葉により補つた。「及」原本に級〔右△〕とある。改めた。○しらえじ 略解訓による。契沖訓シラレジ〔四字傍線〕。
【歌意】 南淵の細川山に立つ檀の木、それが弓となつて、その弓束が纏かれるまでは、どうぞ〔三字右○〕人に知られまいと(2118)思ふ。
 
〔釋〕 「弓束纏く」は、延喜式に「造(リ)2※[弓+付](ノ)角(ヲ)1裁(チ)v革(ヲ)纏(ク)v※[弓+付](ヲ)」(兵庫式)と見え、所謂握革を付ける事だから、これが濟めば完全な弓として使用されるのである。即ち一切の手順が整うて、その人を手に入れて持つまでは、この事を他人に知られまいとの譬喩で、寸前尺魔、意外の故障の起るのを恐れたからである、さても戀は苦勞なものだ。或男が偶ま細川山の檀の木を見て弓に寄せた感想で、出遊には常に弓箭を帶する、相應の身分柄の作者であらう。
 
寄(ス)v山(ニ)
 
磐疊《いはたたむ》 恐山常《かしこきやまと》 知管〔左△〕毛《しりつつも》 吾者戀香《われはこふるか》 同等不有爾《ひとしからなくに》     1331
 
〔釋〕 ○いはたたむ 古義訓による。舊訓イハダタミ〔五字傍線〕は非。○こふるか 「か」は歎辭。○ひとしからなくに 「同等」に古來ヒトシ、トモ、の二訓あり、眞淵はナゾヘ〔三字傍線〕、新考はナミ〔二字傍線〕と訓んだ。藤原(ノ)史(淡海公)が用ゐた不比等の字面は等しからず〔五字傍点〕の意で、謙稱たることは疑もないから、こゝもヒトシと訓ませる筈で「同等」の字を充てたものと考へられる。
【歌意】 岩石が重なる、恐ろしい山、即ち高貴な身柄の者と知りながらも、私はそれを戀ひ慕ふことよ、とても等し並みの者でも〔四字右○〕ないのにさ。
 
(2119)〔評〕 或貴女を戀して、自分の身分の凡下を自覺しつゝ、尚諦めの付かぬ趣を譬へた。なまじ階級理性のあるだけいぢらしい。初二句は下の「奥山の岩に苔蒸し畏けど」の類想。
 
石金之《いはがねの》 凝木數山爾《こごしきやまに》 入始而《いりそめて》 山名付染《やまなつかしみ》 出不勝鴨《いでかてかかも》     1332
 
〔釋〕 ○いはがね 岩が根。「石金」は戲意あるか。○こごしき 既出(七四〇頁)。「凝」にコヾの訓がある。「木」は添字。古義訓による。○いでかてぬ 出で敢へぬ。「いりかてぬかも」を見よ(四九六頁)。
【歌意】 岩根のごつ/\した山に、這入りはじめて、もう〔二字右○〕山が懷かしさに、山から出かねたことかまあ。
 
〔評〕 前の歌の趣から推すと、これもむづかしい立場の女に逢ひそめて、ついその情合にほだされ、金縛りになつたことの譬喩らしい。内心に事の露顯を恐れて怖ぢ切つてゐる。
 
佐保山乎《さほやまを》 於凡爾見之鹿跡《おほにみしかど》 今見者《いまみれば》 山夏香思母《やまなつかしも》 風吹莫勤《かぜふくなゆめ》     1333
 
〔釋〕 ○さほやま 「さほのやま」を見よ(一〇〇八頁)。○おほに 既出(五六三頁)。
【歌意】 佐保山を、いゝ加減にこれまで〔四字右○〕見たけれど、今よく見ると、こゝの山は懷かしいわい。風は吹き荒らすな(2120)よ、きつと。
 
〔釋〕 平凡な女だが、馴れ染めるまゝに、人情のいゝ處がわかつて來たので、餘所から邪魔の入らないやうにとの譬喩だ。「佐保山をおほに見し」は、佐保山は平凡な岡山で、何の特徴とてもないからである。然し山踏み分けてよく見れば、春の花秋の紅葉など、遊賞にも適してわるくはないので、風などで荒したくない。
 
奥山之《おくやまの》 於石蘿生《いはにこけむし》 恐常《かしこけど》 思情乎《おもふこころを》 何如裳勢武《いかにかもせむ》     1334
 
〔評〕 ○おくやまのいはにこけむし 既出(一七〇〇頁)。「於石」は漢文的に書いた。初二句は「恐《カシコ》」に係る序詞。○かしこけど 略解訓による。
【歌意】 奥山の岩に苔が生え、その樣がいかにも畏いやうに、彼の人は〔四字右○〕畏いけれど、思ひ慕ふ心を、どうせうかまあ。
 
〔評〕 貴人を思ひ染めて、手も出せず諦めもえせずして懊悩し、途方に暮れてゐる。この初二句は既に卷六に葛井(ノ)廣成の利用する處となつた。萬葉人のいはゆる奥山は、現代人の考へるやうな物凄い深山幽谷ではないが、それでも尚その磊※[石+可]たる岩石を見ては、相當の脅威と畏怖とを感じたのであつた。
 
(2121)思※[騰の馬が貝]《おもひあまり》 痛文爲便無《いたもすべなみ》 玉手次《たまだすき》 雲飛山仁《うねびのやまに》 吾印結《われぞしめゆふ》     1335
 
〔釋〕 ○おもひあまり 「※[騰の馬が貝]」は字書に「餘《アマリ》也」とある。古義は、眞淵の「※[騰の馬が貝]」を勝〔右△〕の誤としたのに從つて、オモヒカテ〔五字傍線〕と訓んだが、詞足らずである。○うねびのやま 「雲」をウネに充てたのはウムの音轉。○われぞしめゆふ 「しめゆへ」を見よ(三五九頁)。類本神本等の訓による。略解訓ワガシメユヒツ〔七字傍線〕。
【歌意】 思ひ餘つて、酷くまあ仕樣がなさに、とうとう畏い〔六字傍線〕畝傍山に、私はさ標を立てたよ。
 
〔評〕 貴女を戀して、分に過ぎた事と知りつゝ遂にわが手中の物としたとの譬喩だ。下句、契沖の「高く大きなる山を榜示して」との解に、諸註異議のないのはをかしい。畝傍は小さな山である。想ふに作者は、畏き山の意を以て畝傍山を拉し來り、さて貴女に擬へたのであらう。まこと「橿原の日知の御世ゆ、玉襷畝傍の山の」(卷一)とある如く、小山ながらも畝傍山は神聖な畏い山で、三山傳説の對象となる程、仰高された山である。三句の枕詞の使用は特別に莊重な詩味を助成してゐる。
 
寄(ス)v草(ニ)
 
冬隱《ふゆごもり》 春乃大野乎《はるのおほぬを》 燒人者《やくひとは》 燒不足香文《やきたらねかも》 吾情熾《わがこころやく》     1336
 
(2122)〔釋〕 〇やきたらねかも 燒き足らねば〔右○〕かもの意。古義訓による。舊訓ヤキタラヌカモ〔七字傍線〕。
【歌意】 あの春の大野を燒く人は、その大きな野だけでは〔十字右○〕、燒き足らねば〔右○〕かして、私の心まで〔二字右○〕燒くわ。
 
〔評〕 春の野を燒くのはその枯草を拂ふが重な目的である。今情炎の燃えあがりを如何ともし難い作者は、姑くその光景を眺めてたたが、遂に溜らなくなつて、これは野燒の人がその大野でも足らずに、自分の心にまで火を付けたかと揚言した。素より「燒く」の語が聯想の關鍵となつてはゐるものゝ、奇拔の落想、その愚やその痴や及ぶべからずで、戀する者の苦衷から生じた一種異樣の苦笑である。「大野」の語は、「燒き足らね」に密接な伏線をもつ緊語で、下し得てよい。「燒く」の三疊はその印象を深からしめ、且諧調を成してゐる。
 
葛城乃《かづらきの》 高間草野《たかまのかやぬ》 早知而《はやしりて》 標〔左△〕指益乎《しめささましを》 今悔拭《いまぞくやしき》     1337
 
〔釋〕 ○かづらき 「かづらきやま」を見よ(一一〇〇頁)。○たかま 葛城山の東面の鞍部の地。(今大和南葛都高間村)。○かやぬ 契沖訓による。舊訓クサノ〔三字傍線〕。○はやしりて 早く領して。○しめささましを 「標」原本に※[手偏+票]〔右△〕とあるは書寫字。○いまぞくやしき 「拭」は次音シキである。眞淵は拭〔右△〕を茂〔傍点〕の誤としてイマシクヤシモ〔七字傍線〕と訓んだ。
【歌意】 葛城山の高間の草野、それを〔三字右○〕早く占領して、標を立てようであつたものを、手後れになつて〔七字右○〕、今さ殘念な。
 
(2123)〔評〕 手に入るべき女を油斷して人の物にしたことを譬へて、後悔の臍を噛んでゐる。當時高間の草野は廣漠たるもので、勝手に人の標さすに任せたものと見える。それもその筈、高間は葛城山嶺の葛城神社に賽詣する者の爲の足溜りに過ぎぬ寒村で、その周邊の畠や田は、昔は草野であつたに相違ない。今も高間から南方は廣々とした草原小竹原が展開してゐる。そんな處でも自分に魁けて、いざ他人が標さしたとなると、人情は變なもので殘念と感ずるのである。
 
(2124)吾屋前爾《わがやどに》 生土針《をふるつちばり》 從心毛《こころゆも》 不想人之《おもはぬひとの》 衣爾須良由奈《きぬにすらゆな》     1338
 
〔釋〕 〇つちばり 土針。和名抄に「王孫、一名黄孫、沼波利久佐《ヌハリグサ》、此間(ニ)云(フ)都知波利《ツチハリ》」と見え、植物學者はこれをツクバネ草に充てゝゐる。ツクバネ草は多年草本で百合科に屬し、莖高さ一尺内外、莖の上部に尖端の※[木+隋]圓形をした四葉輪生し、華は五六月頃、莖頂に一筒の淡黄緑色の四瓣花を開く。又延齡草、一名アカネヌヌハリの事ともいふ。○こころゆも 古義訓コヽロヨモ〔五字傍線〕。○すらゆな 摺らるゝなの意。「すらゆ」は也行下二段活。
【歌意】 私の宿に生えた土針よ、心からまあ思うてくれない人の、衣に摺り付けられるなよ。
 
〔評〕 膝許で育つた眞娘《マナムスメ》に、心からお前を思はぬ男などに引つ懸かるなよと、兩親などがその輕はづみを戒めた情味のゆたかな歌である。はかなげな王孫草は、生ぶな筥入娘には洵によく當て嵌つた見立てだ。その花は衣に摺るほどの濃い色でもなく、又一莖に只−輪だから數もない。譬喩の構成上、「衣に摺らゆな」といひ做したのみで、決して月草や萩などのやうに、一般的に摺られる花ではないからだ。後出の
  白菅の眞野の榛原こころゆも思はぬ君がころもに摺りぬ(――1354)
(2125)と意は表裏する。
 
鴨頭草丹《つきぐさに》 服色取《ころもいろどり》 摺目伴《すらめども》 移變色登《うつろふいろと》 ※[人偏+爾]之苦沙《いふがくるしさ》     1339
 
〔釋〕 ○ども 「伴」は借字。○いふが 「※[人偏+爾]」は稱の古宇。
【歌意】 月草に衣を彩つて摺らうけれど、生憎〔二字右○〕移り易い色だ〔右○〕、と聞くのが心配さ。
 
〔評〕 結婚しようとは思ふが、男の浮氣な性分なことを噂に聞いて、苦にされるとの譬喩だ。男が情事關係において、比較的奔放だつた往時では、この點は最も女の悩む處だつた。「といふが苦しさ」に、女のとかうの思案に暮れて躊躇してゐる樣子が、よく出てゐる。月草に移ろひ易いことを詠んだ例は、集中に疊見する。
 
紫《むらさきの》 絲乎曾吾搓〔左△〕《いとをぞわがよる》 足檜之《あしひきの》 山橘乎《やまたちばなを》 將貫跡念而《ぬかむとおもひて》     1340
【歌意】 紫の絲をさ、私が搓りますわ、山橘の實を、貫き通さうと思うて。
 
〔評〕 女を得ようとして、最善の手段を盡すことの譬喩だ。紫の絲に山橘の朱實、色彩は鮮明。但花橘を貫くことは例の事ながら、山橘即ち藪柑子は實が小さくて脆弱で、絲に貫くには足らない。單に橘の語からのふとし(2126)た聯想とすれば、そこに浮誇の難がある。或はその無理を承知しつゝ紫の絲を縒つてゐるのではあるまいか。さては山橘はまだ片なりの少女を擬へたものとなる。
 山橘即ち藪柑子を草のうちに攝した。
 
眞珠付《まだまつく》 越能管原《をちのすがはら》 吾不苅《わがからず》 人之苅卷《ひとのからまく》 惜菅原《をしきすがはら》     1341
 
〔釋〕 ○まだまつく 眞珠付く緒《ヲ》をいひ係けた。「越《ヲチ》」の枕詞。○をち 近江國坂田郡の越智《ヲチ》。卷十三にも「息長《オキナガ》の遠智《ヲチ》の小菅」とあり、そこの息長川の河畔には小菅が叢生してゐたと見える。大和にも高市郡に越智《ヲチ》があるが、小菅の生える場處でない。舊訓コシ〔二字傍線〕は非。○すがはら 菅茅の叢生した處をいふ。〇わがからず 略解訓による。舊訓ワレカラデ〔五字傍線〕。
【歌意】 越《ヲチ》の菅原よ。自分が苅らずに〔右○〕、人の苅らうことが〔三字右○〕、惜しい菅原よ。
 
〔評〕 自分の懸想した女が人の物とならうとする殘念さを譬へた。上の「葛城の高間のかや野早しりて」にほゞ似通つた感慨で、何れも比興の作であることが、その婉曲味を※[酉+鰮の旁]釀する。
 二句五句の「菅原」の反復は、律調的古體の遺風である。「わが苅らず」「ひとの苅らまく」の相反的排對の技巧、「苅る」の疊音による語調など、太だ見るべきものはあるが、それだけ格調は下つて、如實に奈良時代中葉以後の色相を現じてゐる。
 
(2127)山高《やまたかみ》 夕日隱奴《ゆふひかくりぬ》 淺茅原《あさぢはら》 後見多米爾《のちみむために》 標結申尾《しめゆはましを》     1342
 
〔釋〕 ○見むため 世話することを見る〔二字傍点〕といふ。
【歌意】 山が高さに、夕日がもう隱れたわ。この淺茅の原を、あとで又手掛けよう爲に、標を立てゝ置かうものを。それがならぬので殘念な〔十一字右○〕。
 
〔評〕 日は早くも山頂に没して淺茅が原を苅りさした趣、それを親などの邪魔が入つての、あわたゞしい女との別に譬へ、後日の逢瀬を約束する遑もなかつたことを悔んで、「標結はましを」と擬へて、その大きな溜息を吐いた。比喩允當、風調も高い。
 
事病者《こちたくば》 左右將爲乎《かもかもせむを》 石代之《いはしろの》 野邊之下草《のべのしたぐさ》 吾之刈而者《われしかりてば》     1343
 一(ニ)云(フ)、紅之寫心哉《クレナヰノウツシゴコロヤ》、於妹不相將有《イモノアハザラム》。
 
〔釋〕 〇こちたくば 言痛くあらばの意。○かもかもせむを 「かもかくもせむ」を參照(九〇六頁)。「を」は歎辭。古義訓による。舊訓カニカクセムヲ〔七字傍線〕。○いはしろ 既出(六一頁)。○したぐさ 物かげの草。○くれなゐのうつし心や妹にあはざらむ この左註はこの歌に用がない。何かの錯入である。
(2128)【歌意】 世間の噂が煩さかつたら、どうともかうともせうよ。この磐代の野邊の下草を、私がさ苅つたならば、嬉しからうに〔六字右○〕。
 
〔釋〕 あの筥入娘を自分の手に入れたら嬉しからうとの譬喩だ。「こちたくばかもかもせむを」は當座の揚言で、もとより未來の成算があつていふのではない。
 
眞鳥住《まとりすむ》 卯名手之神社之《うなてのもりの》 菅實乎《すがのみを》 衣爾書付《きぬにかきつけ》 令服兒欲得《きせむこもがも》     1344
 
〔釋〕 ○まとり 眞鳥は鷲の稱とするに、衆口が略一致してゐる。獨契沖は鵜の事として、鵜は海に住めば海《ウナ》といひかく、或は木を眞木といふ如く、よろづの鳥をいふべしともいつた。○まとりすむ 雲梯《ウナテ》の序詞。千鳥なく佐保、蛙《カハヅ》鳴く井手の類語。○うなてのもり 雲梯の森。大和高市郡金橋村曾我川の東岸にあり、大穴持(ノ)命の子|加夜奈留美《カヤナルミノ》命を祀る。雲梯はもと郷名で、今の金橋村眞菅村を含む。式の出雲國造(ノ)神賀(ノ)詞、和名抄などにも見えた地。「神社」をモリと訓む。森には社あり社には森があるのでいふ。或は社をモリといふは韓語と。○すがのみ 山菅の實。(2129)「やますげ」を見よ(七三六頁)。「實」原本に根〔右△〕とあるは解し難い。山菅の根は物に染みつく色がない。よつて、改めた。○かきつけ 描き付け。菅の實を描き付けるは、即ち摺り付けることになる。
【歌意】 雲梯の森の菅の實を、衣に摺り付けて著せう、若い兒も欲しいなあ。
 
〔評〕 作者は雲梯の森蔭に、山菅の實が碧玉を綴つて、人待顔に立並んでゐるのを見た。卷七に「妹が爲菅の實つみに」とある如く、その菅の實から菅の實摺の衣を想ひ、次にそれを著た若い女の瀟洒な姿に想到し、さてその女を欲しいとまで發展した。自然から人事に、人事から人物に、人物から情緒にと、層々に移行してくるその聯想が自然である。遊閑男の情痴に過ぎないとけなせば〔四字傍点〕それまでだが、人情は決してさうしたものではない。潤ひのある懷かしい作と思ふ。
 この歌には譬喩の意はない。又「眞鳥住む」の序詞は、嘗て雲梯の森に鷲の居た事があつて以來、鷲の在不(2130)在に拘はらず、慣習的に雲梯に冠して用ゐた語であらう。卷十二にも「眞鳥すむ雲梯の杜の神」とある。今でも曾我川の河畔に雲梯の一座の森林が欝蒼としてゐる。
 
常不知《つねしらぬ》 人國山乃《ひとくにやまの》 秋津野乃《あきつぬの》 垣津幡鴛《かきつばたをし》 夢見鴨《いめにみるかも》     1345
 
〔釋〕 ○つねしらぬ 常知らぬ他《ヒト》國といひかけた「人國山」の序。「常知らぬ」は平生知らぬの意。卷五に「常知らぬ道の長手」(一五四〇頁)の例がある。「知」原本にない。契沖説によつて補つた。尤も元のまゝでツネナラヌ〔五字傍線〕と訓んで、無常な人世といふ意を人國にいひかけたとしても解せられるが、意趣がこの歌にふさはしくない。○ひとくにやま 蜻蛉野に續けたので見ると、吉野の宮瀧の地(2131)にある山だ。多分は吉野離宮地の背後に當る菜摘の山がそれであらう。○かきつばた 燕子花。鳶尾科の濕地に自生する宿根草。高さ二尺許。葉は菖蒲の如くで中肋状の脈がない。夏花莖を出し、紫、碧、白色等の鳶尾状の花を著く。普通に杜若の字を充てるが、杜若は別種の物で、燕子花ではない。○をし 「し」は強辭。「鴛鴦」は下の「みる鴨」の鴨に對した戲書。○みるかも 古義訓ミシカモ〔四字傍点〕とあるが、こゝは現在格でよい。
【歌意】 人國山の、蜻蛉野の美しい〔三字右○〕燕子花をさ、夢にみることかまあ。
 
〔評〕 蜻蛉野の北山の山根は、全く溜り水が澤を成す地形である。昔そこに燕子花が自生してゐた事と思はれる。さてその燕子花を夢に見るとは、その邊で瞥見した美人が居常念頭に懸かることを譬へたものらしい。紫に咲き誇る優婉なる燕子花は、まこと美人に比擬するにふさはしい。上の
  見れど飽かぬ人國山の木の葉をしおのが心になつかしみ思ふ (――1305)
(2132)と同一人の作か。
 
姫押《をみなへし》 生澤邊之《さきさはのへの》 眞田葛原《まくずはら》 何時鴨絡而《いつかもくりて》 我衣將服《わがきぬにきむ》     1346
 
〔釋〕 ○をみなへし 「姫」は婦人の汎稱に用ゐる。「押」は壓《ヘ》スの意によつての借字。○をみなへしさきさは 既出(一二九四頁)。舊訓オフルサハベノ〔七字傍線〕とあるが、古義の訓に從つた。「生」は開〔傍点〕と書くも同じで、サクと訓んだ例が、卷六、卷十六に見える。○まくず 「ま」は美稱。「くず」を見よ(九四六頁)。○くりて 絲に〔二字右○〕繰りて。古義などに、蔓を繰り寄せることに解いたのはいかゞ。繰り寄せることは、この時代には引く〔二字傍点〕といつた。
【歌意】 佐紀澤の邊に、生えてゐる葛の原、その葛を〔四字右○〕何時まあ絲に〔二字右○〕繰つて、私の衣に著ようかえ。
 
〔評〕 あの女を手順よく、何時晴れて自分の物とされようかとの譬喩で、その時機の到來を待ちかねてゐる意が明白だ。「絡りて――きむ」といふに、織り成すことはおのづから含まれるのである。但「眞葛原――絡《ク》りて」は聯想の跳躍で、粗いいひ方ではある。
 
於君似《きみににる》 草登見從《くさとみしより》 我標之《わがしめし》 野上之淺茅《ぬのへのあさぢ》 人莫苅根《ひとなかりそね》     1347
 
〔釋〕 ○ぬのべの 「上」原本に山とある。古義説によつて改めた。野山〔二字傍点〕と續いては、餘り場處を廣く指し過ぎる。
(2133)○あさぢ 「あさぢはら」を見よ(八〇一頁)。
【歌意】 君に似る美しい〔三字右○〕草と見た時〔右○〕から、自分が占めておいた、野邊の淺茅を〔右○〕、人は苅つてくれるなよ。
 
〔評〕 童女の時分から思ひ込んでゐた女を、今の娘盛りに、他人には手を觸れさせまいとの譬喩だ。淺茅を苅る頃は秋のことで、その葉が柔く靡いて茅花の出るのは春だ。古代の漢詩にも、
  手如(シ)2柔(カナル)※[草冠/夷](ノ)1(詩衛風) 出(ヅ)2其※[門/〓]※[門/者](ヲ)1、有(リ)v女如(シ)v荼(ノ)。(註に荼(ハ)茅華、――詩鄭風)
など見えて、若々しい女を茅花の白く靡くに喩へた。
  妹に似る草と見しよりわが占めし野《ヌ》べの山吹誰れか手折りし(卷十九、――4197)
と殆ど相似た構想であるものゝ、結果は各別で、山吹は既に裏切られた失望であり、この淺茅は先取權を主張して、横合ひからの苅手を警戒してゐる。多情また多恨。
 
三島江之《みしまえの》 玉江之薦乎《たまえのこもを》 從標之《しめしより》 己我跡曾念《おのがとぞおもふ》 雖未苅《いまだからねど》     1348
 
〔釋〕 ○みしまえのたまえ 三島の玉江。又三島江の入江ともいふ。攝津國島上郡。(今の三島郡三箇牧の地)。古へ淀川の瀦水が灣(2134)を成してゐた處の稱。○こも 眞菰。「わかごもを」の條の「薦」を見よ(六四二頁)。○おのがと 己が物〔右○〕との略。
【歌意】 三島の玉江の眞菰を、占めたその時から、自分の物とさ思ふわ、まだ苅りはせぬけれど。
 
〔評〕 婚約した以上は自分の物だ、まだまことの契は結ばないがとの譬喩だ。所有慾の歴然たる作。
 
加是爲而也《かくしてや》 尚哉將老《なほやおいなむ》 三雪零《みゆきふる》 大荒木野之《おほあらきぬの》 小竹爾不有九二《しぬにあらなくに》     1349
 
〔釋〕 ○かくしてやなほや 「や」の辭が重なつてゐる。上のを疑辭とすれば下のを歎辭、上のを歎辭とすれば下のを疑辭と見るか。又は「哉」は茂〔右△〕の誤でナホモと訓むべきか。但卷三「馬な〔傍点〕いたく打ちてな〔傍点〕行きそ」(六八一頁)のな〔傍点〕の重複に就いて、上の「な」を冗字として解しては置いたが、或は古代におなじ係詞を重複させて使ふ變格が存在したのではあるまいか。こゝに姑く疑を存する。○みゆきふる 既出(一七八頁)。○おほあらきぬ 大和宇智郡宇智の荒木神社のある地か。その社は式の神名帳に見える。○おほあらき 大荒城。荒城は殯處をいひ又墳墓をいふ。諸國にアラキの名あるは、皆古墳に就いての稱である。△地圖 前出の挿圖522(二一二三頁)を見よ。
【歌意】 かうしてまあ、やはり老い朽ちようことか。自分は〔三字右○〕雪の降る冬枯の〔三字右○〕大荒木野の、小竹でもないのにさ。
 
(2135)〔釋〕 字智郡の大荒木野ならば葛城山下の荒野で、この歌として場所がふさはしい。細竹などは幾らもその頃は生えてゐたらう。「みゆきふる」に、あたりの野草は既に苅り取られて、空しく素枯れ渡つた細竹のみが山風に荒んで叢生してゐる冬季の光景が現前する。かくて初二句に對し、親貼なる聯繋と對映とをたもつ。「小竹にあらなくに」の抑揚の辭法も、こゝにはふさはしい表現である。草木非情、小竹はこの衰殘の境地に或は無關心かも知れないが、有情の人間としてはとても耐へ得る處でないのだ。世に後れて、無用の長物の如く寂しい存在となつた老人の感懷と思しい。「なほや老いなむ」は一段の感傷を唆る悲哀の語、斷腸の聲。
  かくして也《ヤ》猶八《ナホヤ》なりなむ大あら木の浮田の杜《モリ》の標《シメ》にあらなくに (卷十二――2839)
はこの歌の轉訛であらう。
 小竹を草のうちに攝してある。
 
淡海之哉《あふみのや》 八橋乃小竹乎《やばせのしぬを》 不造矢而《やはがずて》 信有得哉《さねありえむや》 戀敷鬼乎《こひしきものを》     1350
 
(2136)〔釋〕 ○あふみのや 近江の矢橋といふ續きで、「や」は間投の歎辭。足柄や箱根〔五字傍点〕などのや〔傍点〕と同じい。但萬葉集中「の」の助辭を承けたヤの語例が他にない。○やばせ 近江國栗太郡(今老上村)。勢田の北一里。ヤバシ〔三字傍線〕の訓もある。○やはがず 「不造」を矢の縁で意訓にハガズとよむ。古葉訓による。○さねありえむや、本《ホン》に居られようかい。「や」は反動辭。「あり」は存在の意。「信」を眞淵はサネ〔二字傍線〕と訓んだ。卷九に「核《サネ》忘らえず」、「左禰《サネ》見えなくに」、卷十五に「人は左禰あらじ」、「佐禰なきものを」、卷十八に「夜しも左禰なし」、卷廿に「時は左禰なし」など見え、何れもまこと〔三字傍点〕の意である。舊訓マコトアリエムヤ〔八字傍線〕。○こひしき 古義訓コホシキ〔四字傍線〕。
【歌意】 近江の矢橋の小竹を矢に作らずして、即ちその女を自分の物とせずして、本《ホン》に居られようかい、戀しくて溜らぬものを。
 
〔評〕 野路の篠原は有名だが、矢橋も野路に隣つた土地で、今でも篠原がある。近江朝廷時代は勿論、奈良時代となつても、近江人はその小竹を採つて、失に矧いだものと見える。こゝは矢に矧ぐを、女をわが物と領するに譬へた。「や」の反語と「ものを」の抑揚辭との疊用は、その熾烈なる情意を最も有力に表現する。
 但かうした半譬喩の形式を取つた作は、一連に讀み下すと、時に條理が齟齬したり、曖昧になつたりする。(2137)この歌とてもそうで、矢橋の篠を矢に矧ぐことは、「さねあり得むや」とか「戀しきものを」とかいふ程の事柄でもない。譬喩の適實性を缺く爲に、更に再誦して思索する必要を生ずる。直覺的に人の肺腑を打つを第一義とする詩作の上においては、上乘のものでない。
 
月草爾《つきぐさに》 衣者將摺《ころもはすらむ》 朝露爾《あさつゆに》 所沾而後者《ぬれてのちには》 徙去友《うつろひぬとも》     1351
 
〔釋〕 ○ぬれてのちには 古今集(卷五)に「ぬれてののちは」とあるは非。
【歌意】 月草に衣は摺らうぞ、朝の露に沾れたそのあとには、色が變るともまゝよ〔三字右○〕。
 
〔評〕 花色摺は全く美しい。然し移り易い。朝などの露の多い時、沾れると忽ち斑紋《ブチ》が出來てしまふ。恰も事に觸れて心の變る女のやうだ。でも後の事はともかく、達てその美人に逢はうとの譬喩だ。甚だ輕佻な淫蕩的な作で、血の氣の漲つた作者の若さが想像される。
 
吾情《わがこころ》 湯谷絶谷《ゆたにたゆたに》 浮蓴《うきぬなは》 邊毛奥毛《へにもおきにも》 依勝益士《よりかつましじ》     1352
 
〔釋〕 ○ゆたにたゆたに ゆた/\すること。ゆたに〔三字傍点〕の重言で、「た」の接頭語を加へて「たゆたに」といふ。古今集に「ゆたのたゆたに」とあるは、この轉じたもの。卷二「大船のたゆたふ」はこの語の動詞格。○うきぬな(2138)は 浮蓴菜の如く〔三字右○〕。「ぬなは」は沼繩《ヌナハ》の義で、蓴菜のこと。睡蓮科の宿根草本。葉は楕圓形で、莖葉の背面に寒天樣の粘液がある。夏日暗紅色の花を開く。水中に浮いてゐるので浮蓴菜といつた。○よりかつましじ 寄り敢へまいの意。「ましじ」はまじ〔二字傍点〕の原語。「ありかつましじ」を見よ(三一七頁)。
【歌意】 私の心は、ゆた/\として、恰も池に〔四字右○〕浮いてゐる蓴菜のやうに、岸の方にも沖の方にも、よう〔二字右○〕寄り付き敢へまいて。
 
〔評〕 心がぐら/\して、この分ではどちらにも決着しまいとの譬喩だ。作者が或時或事に當つた折の述懷で、優柔不斷の境地に居ずくまつて、途方に暮れてゐる樣子が、よく表現されてゐる。
 
寄(ス)v稻(ニ)
 
石上《いそのかみ》 振之早田乎《ふるのわさたを》 雖不秀《ひでずとも》 繩谷延弖〔左△〕《しめだにはへて》 守乍將居《もりつつをらむ》     1353
 
〔釋〕 ○わさたを この「を」は「もりつつ」に係る。○ひでず 秀でず。穗が出ずの意。秀《ヒイデ》は冲《ヒイル》の正反だが、 (2139)結局出で〔二字傍点〕も、入る〔二字傍点〕も同意に落ちる。○しめだに 「しめ」は標繩をいふ。「繩」を古訓にはナハ〔二字傍線〕、ツナ〔二字傍線〕など訓んである。○はえて 「弖」は原本に與〔右△〕とあるが、意が通じにくいので改めた。新考も同説。△地圖 挿圖282(九四二頁)を參照。
【歌意】 布留の早稻田を、その稻がまだ〔六字右○〕穗に出ずとも、標繩なりとも張つて、番をしつゝ居らう。
 
〔評〕 まだ生ぶの少女で、一人前にはならずとも、今から自分の物と領じて、嚴しく見張つて居らうとの譬喩だ。氣の永い話だが、それに堪へようとする熱意に、甚しい戀の執着を見る。紫上を引取つた源氏の君の先鞭を著けたやうなもの。
  あしひきの山田つくる子ひでずとも標だにはへよもると知るがね(卷十――2219)
と同調の異趣。或は一つ歌が二樣に傳誦されたものか。
 
寄(ス)v木(ニ)
 
白菅之《しらすげの》 眞野乃榛原《まぬのはりはら》 心從毛《こころゆも》 不念君之《おもはぬきみが》 衣爾摺《ころもにすりつ》     1354
 
〔釋〕 ○しらすげのまぬのはりはら 既出(七一一頁)。○こころゆも 古義訓コヽロヨモ〔五字傍線〕。○すりつ 摺られ〔二字傍点〕つの意。古義訓による。眞淵訓スリヌ〔三字傍線〕。
(2140)【歌意】 眞野の萩原の萩は〔二字右○〕、心からまあ思うてもくれぬ、貴方の衣に摺られたわい。
 
〔評〕 實情のない男に契を結んだ女が、その後悔氣味の感傷を衣摺の所作に託した。これを女の獨言としても聞えるが、思はぬ人の〔二字傍点〕といはず、「君が」の敬稱を用ゐたので見ると、かう詠んでその男に贈つて遣つたものと考へられる。曲折情を生じ、憂思筆端に※[糸+ォ]繞する。
 「心ゆも思はぬ」は女の心としても解せられ、古義もその説であるが、全體から見て不當である。而も上出の
  我が宿に生ふる土針こころゆも思はぬ人の衣に摺らゆな(――1338)
も、事件に未然と既然との相違こそあれ、「心ゆも思はぬ」は男の上に就いていつてゐる。  △自他交錯の種々相(雜考――27參照)
 
眞木柱《まきばしら》 作蘇麻人《つくるそまびと》 伊左佐目丹《いささめに》 借廬之爲跡《かりほのためと》 造計米八方《つくりけめやも》     1355
 
〔釋〕 ○まきばしら 眞木の柱はよい柱である。「まきたつ」を見よ(一七七頁)。○そまびと 杣木を扱ふ人の稱。「そま」は建築材料としての木をいふ。○いささめに 卒爾にも、一寸してもの意。「いささ」のい〔傍点〕は發語、ささ〔二字傍点〕は細小の義、「め」は見え〔二字傍点〕の約。されば聊なる時間をいふ。集中「率」又は「率爾」を訓ませてある。この句を契沖や古義は四句に係けて、聊なる借廬にと解したのは非。
【歌意】 眞木柱を作る杣人は〔右○〕、一寸しても〔右○〕、假廬の柱など〔三字右○〕の爲として、その眞木柱を〔八字右○〕作つたことであらうかいまあ。
 
〔評〕 杣木を抓《ツ》ま取つて眞木柱を作り上げる杣人は、三つ端《バ》四つ端の殿造りを豫想して斧を揮つてゐる。尾花刈り葺く借廬などは、黒木の柱だ。さればその杣人の念頭には借廬などは始からない。この事實を引證して、眞實一途に縁を結んだ自分は、貴女を一時の慰物にしようといふ意思は甞てなかつたとの譬喩だ。
 近頃餘所に通ふ女が出來てとかく男の足が遠退くので、その薄情を怨んで來たのに對して、あれは一時的の借廬同然のもの、お前は私の家の大黒柱にする積りなのだから、もつと長い目で見なさいの意を含んでゐる。果して眞劍の詞か、或は口巧者の辯解か。それは當人の作者でなければわからない。
 
向峯爾《むかつをに》 立有桃樹《たてるもものき》 成哉等《なりぬやと》 人曾耳言爲《ひとぞささめきし》 汝情勤《ながこころゆめ》     1356
 
〔釋〕 ○もものき 薔薇科の落葉木。仲春淡紅色又白色の花を發く。實は外面に毛を有する。○なりぬ 結實《ナ》るに事の成るをかけた。初二句は序詞。○ささめきし 「ささめく」は※[口+耳]《サヽヤ》くに同じい。「耳言」の意訓。○ながこ(2142)ころゆめ 汝が心に愼めの意。
【歌意】 向うの峯に立つてある桃の木、あれが結實《ナ》るやうに、二人の中はもう出來たかしらと、人がさ※[口+耳]いたことであつた。お前の心にきつと氣を付けなさい、知られぬやうに〔七字右○〕。
 
〔評〕 人の目は高い、岡燒半分もう二人の間に噂を立てる。男は喫驚して、今露顯しては大變だと周章てゝ、「汝が心ゆめ」と、女に固い警戒を與へたものだ。
 土臭い若い者同士の桃色の※[口+耳]、又一種特異な響を傳へる。
 
足乳根乃《たらちねの》 母之其業《ははのそのなる》 桑尚《くはすらも》 願者衣爾《ねがへばきぬに》 著常云物乎《きるといふものを》     1357
 
〔釋〕 ○ははのそのなる 母の園にある。「其」は園〔傍点〕の借字。「業」は助動詞のナル〔二字傍点〕に充てた借字。舊訓竝に類本の訓による。元本古本神本等にソノフノ〔四字傍線〕と訓んであるのも、「其」を園の意に取るべき證である。「業」を業はひの意に、古義は解したが、其《ソ》の業《ナル》は語が不熟である。○くはすらも 契沖は「桑」の下子〔右○〕の脱字として、クハコスラ〔五字傍線〕と訓んだ。舊訓クハモナホ〔五字傍線〕。○くは 桑。桑科の落葉喬木。○ねがへば 希《コヒネガ》へばの意。かうしようと希望するをいふ。○きぬにきる 衣に著らる〔二字傍点〕の意。能動詞の著らる〔三字傍点〕を他動詞に著る〔二字傍点〕といふは正格ではないが、被動の摺られ〔三字傍点〕を他動に摺り〔二字傍点〕といふ如く、慣用による變格であらう。これを絶對に認めないとすれば、「著」は誤字となる。新考は變〔右△〕の字などの誤にて、キヌニナル〔五字傍線〕と訓むべしといつた。
(2143)【歌意】 母の園にあるあの桑でさへも、思ひ立ち次第で、遂には衣にして著られるといふものを。――二人の中も、何で願うて成らぬ事があらうぞ。
 
〔評〕 母親は先に立つて飼蠶の業にいそしむ。故に「母の園なる桑」といふ。さてその桑が飼蠶によつて絲となり、遂に織られて衣となるのだから、結果からは桑が衣に著られるといへる。この聯想の飛躍は可能な事も不可能らしい錯覺を與へる。さうしておいて、その實現されてゐる事實を以て證據として、およそ心に願へば世に成らぬ事はないと托言した。周圍の故障の多い爲に二の足を踏んで躊躇してゐる男を、女の激勵した詞として聞かう。古義に母に願へば〔五字傍点〕とあるは條理が立たない。
 
波之吉也思《はしきやし》 吾家乃毛桃《わぎへのけもも》 本繋《もとしげく》 花耳開而《はなのみさきて》 不成在目八毛《ならざらめやも》     1358
 
〔釋〕 ○はしきやし この句「毛桃」に係る。既出(五一八頁)。○わぎへ 既出(一五〇〇頁)。○けもも 桃の木のこと。桃の實は外面に毛があるのでいふ。○もとしげく 「もと」は幹をいふ。元本訓モトシゲミ〔五字傍線〕は有意的になり過ぎる。
【歌意】 私の家のいゝ毛桃の木よ〔三字右○〕、幹が茂くて花ばかり咲いて、そして實の〔五字右○〕結らぬことがあらうかい。
 
〔評〕 契沖いふ「約する言のみありて、實《ジツ》のなからむやと譬ふる也」と。上の「向つをに立てる桃の木」もこれ(2144)も野趣味が漂うて、毛詩の桃夭の章を一寸聯想させる。彼れは周召の雅言、これは鄭衛の靡音と郤けるかも知れないが、それは風教上の論議である。但何れも格調が高いとはいはれない。
  見まくほり戀ひつつ待ちし秋萩は花のみ咲きて成らずかもあらむ(本卷――1364)
  吾妹子がかたみの合歡花《ネブ》は花のみに咲きて蓋しく實はならじかも(卷八――1463)
などはこの類想。
 
向岡之《むかつをの》 若楓木《わかかつらのき》 下枝取《しづえとり》 花待伊間爾《はなまついまに》 嘆鶴鴨《なげきつるかも》     1359
 
〔釋〕 ○わかかつら 「楓」は女桂《メカツラ》。槭樹《カヘデ》ではない。楓、桂二字、通はせて充てたと思はれる。桂は北部の山地に自生する桂科の落葉喬木。葉は心臓形で對生し、早春葉より先に紅色の花を着ける。俗に賀茂がつらといふ。○しづえとり 下枝を手に持つの意。○はなまついまに 花待つ間にの意。「い」は接頭語。卷十にも「春風に亂れぬい〔傍点〕まに見せむ子もがも」とある。
【歌意】 向うの峯の、若かつらの樹の下枝を取持つて、この花咲くは何時と〔三字右○〕待つその間を、もどかしく〔五字右○〕歎いたことよ。
 
(2145)〔評〕 契沖いふ、童女に契りてその盛を待つに譬へたりと。若楓では秋の色盛りまでは久しい。これ下枝を執つて惆悵する所以である。好色《スキ》者なるかなだ。
 
寄(ス)v花(ニ)
 
氣緒爾《いきのをに》 念有吾乎《おもへるわれを》 山治左能《やまぢさの》 花爾香君之《はなにかきみが》 移奴良武《うつろひぬらむ》     1360
 
〔釋〕 〇いきのを 既出(一二六七頁)。○われを 吾なる〔二字右○〕をの意。○やまぢさ ちさの木、又エゴノ木。和名抄に「賣子木、和名|賀波知佐乃《カハチサノ》木」とあるもこれか。山野に自生し、高さ丈餘、葉卵形にして尖る。初夏葉の間に五瓣の白花を開く。香氣あり。實は赤橿の如くにて、長さ三分許。秋熟して褐色の種子を噴く。傘の轆轤に作るので、俗にロクロ木と稱する。○やまぢさの 花に係る序。古義に、山ぢさの移ろふやうに心變り云々と解いたのは非。○はなに アダに。花は散り易いので、浮華または空の意に代用された。卷八に「梅の花花に訪はむとわが思はなくに」「わぎへの梅を花に散らすな」、古今集の序に「人の心花になりけるより」などの花〔傍点〕もこの意。
(2146)【歌意】 懸命に、貴方を思つてゐる私なのを、あだに貴方が、心の〔五字右○〕移つたであらうかしら。
 
〔評〕 自分の立場を中心として、男の煮え切らぬ態度に、怨恨の情を叙べた。下句「か」の疑辭を挿んで一分の餘裕を遺し、哀婉窮りがない。すべて譬喩の意は稀薄であるが、「花に」「移ろひ」などの縁語に修飾されてゐる。
 「山ぢさ」は、卷十一に「山ぢさの白露おもみ]、卷十八に「ちさの花咲ける盛りに」なども見えて、その花の鈴成りに梢頭が白了した趣は格別であり、且その清香は馥郁たるものなので、屡ば詞人の口頭に上つたものだらう。
 
墨吉之《すみのえの》 淺澤小野之《あさざはをぬの》 垣津幡《かきつばた》 衣爾摺著《きぬにすりつけ》 將衣日不知毛《きむひしらずも》     1361
 
〔釋〕 ○あさざはをぬ 淺澤小野。攝津國東成|墨江《スミノエ》村。地名辭書に、「住吉社の南に一條の窪地あり、東南|依網《ヨサミノ》池に連る。今闢きて田となし細流存す」とある。その沼に燕子花の外、千載集には、花かつみを詠み合はせた歌がある。○きむひ 日は時といふに同じい。○しらず 知られ〔右○〕ずの意。
【歌意】 住吉の淺澤小野の燕子花を〔右○〕、衣に摺り付けて、着よう時は、何時ともわからぬわい。
 
〔評〕 燕子花の摺衣は初夏を象徴する派手衣で、野駈けの藥獵に草の露や物の汚れを防ぐ爲に、古人は上襲《ウオソ》ひ即ち上つ張として羽織つたものと想はれる。
(2147)  かきつばた衣に摺り付けますらをの著襲《キソ》ひ獵する時は來にけり(卷十七、家持――3921)
がそれである。まことこの花は紫の色が濃く瓣が大きく汁も多いから、染料には持つて來いであらう。果然造紙にも、胡桃染、比佐宜《ヒサギ》染、木芙蓉染に並べて垣津幡染がある。
 藥獵は推古天皇紀や天智天皇紀では五月五日の行事である。然るにこの歌には「著む日知らずも」とある。蓋し奈良時代に入つては日を一定せず、初夏の間都合次第で行はれたらしい。卷十六に「四月《ウヅキ》と五月《サツキ》のほどに藥獵仕ふる時に」と見え、前掲の卷十七の家持の歌の端書には「四月五日」と記してある。
 作者は今住吉の里で、燕子花に擬へる程の美人を獲た。獲たといつても、まだ懸想程度かもしくは稍それが進展した位の處であらう。全く手に入れてわが物と領ずる時期は、何時の事やらわからない。されば「衣に摺りつけ著む日知らずも」と、事の成る日の待遠なことを寄托して歎思した。意詞渾成、天衣無縫の觀がある。
 
秋去者《あきさらば》 影毛將爲跡《うつしもせむと》 吾蒔之《わがまきし》 韓藍之花乎《からゐのはなを》 誰採家牟《たれかつみけむ》     1362
 
〔釋〕 ○うつしもせむと 染め移しもせうと。「影」は影寫の意でウツシに充てた借字。宣長が移〔右△〕の誤とし、古義もそれに同じたのは却て非。古義は「毛」も爾〔右△〕の誤とし、ウツシニセムト〔七字傍線〕と訓む説を提出したが穿鑿である。○からゐ 既出(八八〇頁)。
【歌意】 秋になつたら、その花を〔四字右○〕染め移しもせうと、私が蒔いたことであつた韓藍の花を、誰れが摘み取つたのであらうか。
 
(2148)〔評〕 時期が來たら吾が物にすべく、心に占めておいた童女を、何人にか取られて殘念との譬喩だ。上にも「葛城の高間のかや野早しりて」の同意の作が見え、まだ/\と油斷してゐる間に、他の懸想人の手中に歸してしまふ。かうした哀話は昔の結婚道中にはよくあつた事だ。幽怨の意に富んでゐる。
 
春日野爾《かすがぬに》 咲有芽子者《さきたるはぎは》 片枝者《かたつえは》 未含有《いまだふふめり》 言勿絶所〔左△〕年《ことなたえそね》     1363
 
〔釋〕 ○かたつえは 略解訓による。○ふふめり 含んでゐる。蕾なるをいふ。
【歌意】 春日野に咲いた萩は、まだ片枝は蕾である。それに似て〔五字右○〕、成人に近い童女のことだ。音づれは絶やすなよ〔右○〕。
 
〔評〕 結婚適齡期に近く、一廉の情趣を解する女では、風前の花で脇見もされない。監視かた/”\注意を此方に惹き付けておく必要がある。「言《コト》な絶えそね」は尤もな忠告といはう。この忠告者はその尊長か或は媒人か。
 
欲見《みまくほり》 戀管待之《こひつつまちし》 秋芽子者《あきはぎは》 花耳開而《はなのみさきて》 不成可毛將有《ならずかもあらむ》     1364
 
〔釋〕 ○ならず 實の〔二字右○〕結《ナ》らず。
(2149)【歌意】 見たく思うて、戀ひ/\して待つた萩は、花ばかり咲いて、實が〔二字右○〕結《ナ》らずにあらうことかまあ。
 
〔評〕 童の時分からわが物にしたく待ち焦れてゐた女は、今は成人したものゝ、この戀は成就しかねようかしらとの譬喩だ。何だかそんな面白からぬ豫感があつての作だらう。萩の實は即ち芽子で、問題にする程の物ではない。只事の成るの縁語として撮合したまでである。
 
吾妹子之《わぎもこが》 屋前之秋芽子《やどのあきはぎ》 自花者《はなよりは》 實成而許曾《みになりてこそ》 戀益家禮《こひまさりけれ》     1365
 
【歌意】 私の思ふ兒の庭の萩、それは〔三字右○〕花の間〔二字右○〕よりは、實になつてさ、戀しい思がまさるわい。
 
〔評〕 萩は花のうちこそ風趣はあるが、實になつてからは詰らないもの。それに引換へ自分の戀は、實になつて即ち逢つてからが餘計に戀しくて溜らぬと、驚訝した。實はそれが戀の常態であるのを、わざと我妹子の宿の萩に寄托して一波瀾を描き、その熱意のほどを我妹子に示したのである。
 以上三首を、略解に「同一人の作なるべし」とある。いかにも戀の行程は次第を逐うてゐるものゝ、第一首は春日野の萩、この首は我妹子の宿の萩で、場處がまち/\である。作者は違ふが、おなじ取材での同逕路の作だから、一括して順序に記載したものと見てよからう。
 
(2150)寄(ス)v鳥(ニ)
 
明日香川《あすかがは》 七瀬之不行爾《ななせのよどに》 住鳥毛《すむとりも》 意有社《こころあれこそ》 波不立目《なみたてざらめ》     1366
 
〔釋〕 ○ななせのよど 既出(一五〇一頁)。「不行」をヨドと訓むは、「七瀬の」を承けた意訓である。○こころあれこそ 心あれば〔右○〕こその意。古格。訓は拾穗抄、代匠記による。舊訓コヽロアレバコツ〔八字傍線〕は非。
【歌意】 飛鳥川の、幾瀬もの淀に棲む水鳥も、料見があれば〔右○〕さ、波も立てないのであらう。
 
〔評〕 「心あれこそ波立てざらめ」は種々の場合に應用が利くが、情的問題の範圍でのみ考へると、男の不實を怨みながらも尚辛抱して、冷靜な態度で居ようと力めてゐる作者が、折柄飛鳥川の幾つもの淀瀬に、水鳥が事もなげに長閑に浮いてゐるのを見て、自己の境遇に比擬しての感想であらう。されば「住む鳥も」といつてゐる。欝積した情怨の發露で、その波立てぬ處に、女人の温順な尊さがある。飛鳥川に七瀬をいふのは、土地が急勾配なので、自然的にも人工的にも、淀瀬の數が多いからである。
 こゝの歌の譬喩の意、代匠記、略解、古義、新考等の解は、皆的が外れてゐる。
 
寄(ス)v獣(ニ)
 
(2151)三國山《みくにやま》 木末爾住歴《こぬれにすまふ》 武佐左妣乃《むささびの》 此〔左△〕待鳥如《とりまつがごと》 吾俟將痩《わがまちやせむ》     1367
 
〔釋〕 ○みくにやま 越前、伊賀、若狹、上野等にあるが、尚越前國坂井郡三國神社のある三國山か。有名な北陸の要津たる三國湊の附近なので、吟詠に上つたのだらう。山は岡山に近いもので、高くはない。○こぬれ 「こぬれがくりて」を見よ(一四七四頁)。○とりまつがごと 「鳥」の上の此〔右△〕は衍字。○わがまちやせむ 「わが」を略解にワヲ〔二字傍線〕、古義にワレ〔二字傍線〕と訓んだ。舊訓によつた。
【歌意】 三國山の梢に住んでゐる※[鼠+吾]鼠が、獲物の〔三字右○〕鳥を待つやうに、私が貴方のお出を〔六字右○〕、待ちつゝ痩せかへるでせう。
 
(2152)〔評〕 ※[鼠+吾]鼠は夜獣で、宿鳥《ネトリ》を襲ふ。作者は※[鼠+吾]鼠の生活状態を知らず、その晝のうち樹間に閉息してゐる状を見て、餌鳥を待つものと解し、それを待ち久しき譬喩とした。
 
寄(ス)v雲(ニ)
 
石倉之《いはくらの》 小野從秋津爾《をぬゆあきつに》 發渡《たちわたる》 雲西裳在哉《くもにしもあれや》 時乎思將待《ときをしまたむ》     1368
 
〔釋〕 ○いはくらのをぬ 岩倉の小野。秋津にいひ續けたのでみると、必ず吉野離宮の所在地秋津野の附近であらねばならぬ。秋津野の北邊を局つてゐる人國山の山裔が西へと延びた平夷な岡が、吉野川の北岸に迫り、その岡根沿ひの小平地を土人は岩戸《イハド》と稱してゐる。即ち石倉の訛であらう。秋津野の西偏に當る。岡の彼方は楢井の里である。○くもにしもあれや 雲であれよの意。「あれや」を見よ(一六七〇頁)。△地圖 前出挿圖527(二一三〇頁)を見よ。
【歌意】 石倉の小野から、秋津野に立ち渡る雲でさまあ、自分が〔三字右○〕あればよいわ。そして〔三字右○〕時期の到來をさ待たうよ。
 
〔評〕 川向の御船の山には雲が常に去來するが、卷四に「秋津野にたなびく雲のすぐといはなくに」ともあつて、岩倉秋津邊の山野にも時により雲靄の搖曳を見るのである。元來が日受けの野だから、それも極めて稀にしか立たない。作者は今珍しく岩倉から秋津へと野を走る雲を見て、時が來ればこんな現象もある、自分の戀もさ(2153)うあせらずに、成るべきその時を待たうと、分別した趣である。「雲にしあれや」は卷六の「鵜にしもあれや」と同詞態で、雲の如く〔四字傍点〕にあれといふべき處を「雲にしあれ」と直言したので、そこに切迫した感情が現れてゐる。さて「し」の強辭の重疊、一寸耳障りになるが、一面には諧調の得もあつて、一概に難としにくい。
 この歌の解、諸註悉く要領を得ない。
 
寄(ス)v雷(ニ)
 
天雲《あまぐもに》 近光而《ちかくひかりて》 響神之《なるかみの》 見者恐《みればかしこく》 不見者悲毛《みねばかなしも》     1369
 
〔釋〕 ○あまぐもに 空にといふに同じい。○かしこく 新考訓に從つた。舊訓カシコシ〔四字傍線〕。○なるかみの 鳴る神の如く〔二字右○〕。鳴るは動詞に用ゐた。以上三句は「見れば畏し」に係る序詞。
【歌意】 大空に近く光つて鳴る神(雷)のやうに、貴女樣を〔四字右○〕、見れば畏縮されて〔五字右○〕こはいし、見なければ又戀しくて〔五字右○〕悲しいわい。
 
〔評〕 對手は餘程身分の高い婦人と見えた。或は反對に作者の方が餘程身分の卑いのかも知れない。戀に上下の隔がないとはいへ、理性と慣習とは、作者の感情に「見れば畏し」を強ひた。さりとて逢はずに居れば涙の溢れる程戀しい。この矛盾した二つの感情を漸層的に竝叙して、情理の岐路に彷徨ふ憐れな小羊を點出した。
(2154) 「天雲に近く光りて鳴る神」は頗る跌宕を極めた豪句である。下句はその反説的漸層の辭樣に依つて、纔に力の均衡を保ち得た。
 
寄(ス)v雨(ニ)
 
甚多毛《はなはだも》 不零雨故《ふらぬあめゆゑ》 庭立水《にはたづみ》 大莫逝《いたくなゆきそ》 人之應知《ひとのしるべく》     1370
 
〔釋〕 ○はなはだも 「多」は「甚」をハナハダと訓ませる爲の添字。但字のまゝに、この句をイトサハモと訓まれぬ事もない。古義はコヽダクモ〔五字傍点〕と訓んだ。○にはたづみ 既出(四八八頁)。○いたくなゆきそ 水の逝くは流るゝこと。「大」は太〔二字右○〕と通用。誤ではない。
【歌意】 さう酷くも降らぬ雨なのに、この潦水よ、餘り多くは流れるなよ、人が變だと氣付きさうなことで〔四字右○〕。
 
〔評〕 略解に「逢ひ見ることの少なきに、人の知るばかり色に出づなといふを添へたり」とある。偶ま雨水が聚つて、思の外に庭潦が多量に流れるのを見て起つた感想で、さう旨い譬喩でもない。
 
久堅之《ひさかたの》 雨爾波不著乎《あめにはきぬを》 恠毛《あやしくも》 吾袖者《わがころもでは》 干時無香《ひるときなきか》     1371
 
(2155)【歌意】 雨降には著もせぬもの〔二字右○〕を、不思議にまあ、私の袖は、乾く時がないのかえ。
 
〔評〕 打任せての袖の涙は、戀の故と大抵相場はきまつてゐる。初二句は三句以下の爲の襯染で、矛盾を扱つた小技巧に墮し、「あやしくも」も婉味を殺ぐが、涙の語を道破せぬ處はこの作の特徴でもあらう。「なきか」の疑問で餘韻を搖曳させた表現もよい。古義に「人の知るばかりに忍びなる思にこぼるゝ涙は、いたくな流れそ」とあるは、見當違ひに解き過ぎだ。
 
寄(ス)v月(ニ)
 
三空往《みそらゆく》 月讀壯士《つくよみをとこ》 夕不去《ゆふさらず》 目庭雖見《めにはみれども》 因縁毛無《よるよしもなし》     1372
 
〔釋〕 ○つくよみをとこ 既出(一七四〇頁)。尚「つくよみ」(一二九〇頁)を參照。○ゆふさらず 既出(八三四頁)。○よるよし 近寄る手段。
【歌意】 大空をゆく月讀男よ、夕方缺かさず目には見るけれども、そばに寄り付く手だてもないわ。
 
〔評〕 婦人が月に寄せての詠歎で、餘所にのみ男の姿を何時も/\見るが、近づくすべもないとの譬喩だ。「月讀男」の擬人はその戀男を特別なよい人の如く聯想せしめる。然し早まつて必ず貴人だと斷定してはならぬ。端(2156)から見ては可笑しい程の相手でも、太陽が御光を刺してゐるかのやうに感ずるのが戀である。
  目には見て手には取らえぬ月のうちの楓《カツラ》の如き妹をいかにせむ(卷四、湯原王――632)
はこの類想で、更に高處を行くもの。
 
春日山《かすがやま》 山高有良之《やまたかからし》 石上《いそのうへの》 菅根將見爾《すがのねみむに》 月待難《つきまちかてぬ》     1373
 
〔釋〕 ○いそのうへの 石のほとりの。この「石上」をイソノカミ〔五字傍線〕と地名に訓む宣長説は、地理的にも不當。舊訓イハノウヘノ〔五字傍線〕。○すがのね 「ね」は輕くいひ添へた語で、單に菅といふに同じい。眞淵は「根」を實〔右△〕の誤とし、又宣長は「菅根」を舊郷〔二字右△〕の誤として、三句よりイソノカミフルサトミム〔十一字傍線〕ニと訓み續けた。何れも牽強を免れない。○つきまちかてぬ 眞淵訓による。古義訓ツキマチガタシ〔七字傍線〕。
【歌意】 春日山は、山が高くあるらしい。そのせゐかして〔七字右○〕、岩間の菅を見よう爲〔右○〕に、月を待ちかねたわい。
 
〔評〕 懇に話したい事もあるのに、今宵はどうした事か、待ちあぐむ程男が姿を見せぬ、さては何か大きな故障があるらしいとの譬喩だ。但單なる月待つ歌としても十分に面白い。「石の上の菅の根見むに」は繊細ながら、流石に奈良人らしい著想。
 諸註、この譬喩の意を解し忘れてゐる。
 
(2157)闇夜者《やみのよは》 辛苦物乎《くるしきものを》 何時跡《いつしかと》 吾待月之〔左△〕《わがまつつきの》 早毛照奴賀《はやもてらぬか》     1374
 
〔釋〕 ○いつしかと 何時かと。早晩の意ではない。「し」は強辭。○つきの 「之」原本に毛〔右△〕とある。眞淵説によつて改めた。
【歌意】 闇夜は厭《イヤ》なものを、何時か/\と、私の待つ〔二字右○〕月が、早くまあさし出ぬことかえ。
 
〔評〕 夕暮に來通ふ男を下待つ婦人の作で、月を男に擬へ、獨居は切ないものを、あの待つ君は早く來ぬことかとの譬喩だ。
 一考するに、この歌は譬喩歌の條下に攝したのが誤で、男のある女が月の出を待つ感懷かも知れない。とすれば本文のまゝ「月毛」で歌意は通ずる。然し譬喩と見て「月之」とした方が歌は面白い。
 
朝霜之《あさしもの》 消安命《けやすきいのち》 爲誰《たがために》 千歳毛欲得跡《ちとせもがもと》 吾念莫國《わがもはなくに》     1375
 
〔釋〕 ○あさしもの 朝霜の如く〔二字右○〕。
【歌意】 朝霜のやうに消え易い生命、それを誰れの爲に千年もありたいと、私は思ひはしませんによ。――皆貴方の爲にですよ〔八字右○〕。
 
(2158)〔評〕 「人生如(シ)2朝露(ノ)1」(漢書、文選)は、ソロモンの言にも見えたことで、洋の東西を問はず、この人生觀は古代から持續されたもの。况や佛教全盛時代の當時では、尋常茶飯語であつた。霜でも同じ事だ。然しこの定理に背いてまで長生を願ふは、愛の恒久を欲するが爲、君が爲だといふ。この人情は比翼連理を天地の間に契るのに同じい。盲目的戀愛の一歩手前にある作で、幾分の分別に著してゐるが、逆説的表現に姿致があり、歇後の辭樣に餘情を殘してゐる。卷十一に
  ちはやぶる神のたもてる命をも誰れが爲にか長く欲りする(――2416)
と同意同調の作だが、「けやすき命」は稍露骨でもあり、又對映が親貼に過ぎて、「神のたもてる命」の蘊含の味あるに及ばない。
 
右一首者、不(ル)v有(ラ)2譬喩歌(ノ)類(ニ)1也。但闇(ノ)夜(ノ)歌(ノ)人|所心之《オモヒアリテノ》故(ニ)、並《マタ》作(メリ)2此歌(ヲ)1。因(リテ)以(テ)2此歌(ヲ)1、載(ス)2於此|次《ツイデニ》1。
 
右の「朝霧」の一首は譬喩歌の類ではない。但上の「闇の夜は」の作者が思ふ所があつたので、序に又此歌を詠んだ。因つて此歌をこの順に書き載せたとの意。○所心 所思と同じい。集中卷十七「於v是悲2傷覊〔馬が奇〕旅1各陳2所心1作歌」の外、處々に見える。
 
寄(ス)2赤土《ハニニ》1
 
○赤土 ハニと訓む。黄土もハニと訓む。ハニは映土《ハニニ》の略だから、赤黄いづれの土にも通用する語。但區別を(2159)要する場合には、赤土はアカハニと呼ぶ。尚「はにふ」の條の「はに」の項を參照(二四八頁)。
 
山跡之《やまとの》 宇※[こざと+施の旁]乃眞赤土《うだのまはにの》 左丹著《さにつかば》 曾許裳香人之《そこもかひとの》 吾乎言將成《わをことなさむ》     1376
 
〔釋〕 ○やまとの 四言の句。○うだのまはに 今大和宇陀郡内牧村に大字|赤埴《アカバネ》がある。八瀧の東北にある山。アカバネはアカハニの轉語。こゝにいふ眞赤土の産地。○まはに 「ま」は美稱。○さにつかば 赤土の染み著くを、さにつく〔四字傍点〕といふ。それに似着く〔三字傍点〕をいいかけて、初二句を序詞とした。似著くは似寄ること。「さ」は美稱。「に」は丹土即ち赤土のこと。○そこもか 既出(一一〇七頁)。
【歌意】 倭の宇陀の眞赤土が、衣に丹著《ニツ》くといふやうに、似附《ニツ》かうなら、それをも餘所の人達が、何か譯のあるやうに、私をいひなさうかしら。
 
〔評〕 婦人の作だらう。好きな人には夫婦らしく似合つて見られたい。がさう似合つたら、人が彼れこれいふだらうかとの心配。
  秋の田の穗田の刈りばかかよりあはばそこもか人の吾《ワ》を言《コト》なさむ(卷四、草孃歌――512)
(2160)と下句は全く同一だが、こゝは譬喩歌の條下なので、上句を序詞としてかう解する事にした。もし「秋の田の」の歌の如く、上句を實事として見ると、或男が、宇陀處女達が土産の赤土摺《ハニズリ》布を製造してゐる處に往き合ひ、その赤土が一寸でも自分の著物に附いたら、何かその女達と譯のあつたやうに人に噂されるだらうの意となつて、愈よ面白からうと思ふ。尚「秋の田の」の歌の評語を參照(一一〇七頁)。
 
寄(ス)v神《カミニ》
 
木綿懸而《ゆふかけて》 祭三諸乃《まつるみもろの》 神佐備而《かむさびて》 齋爾波不在《いむにはあらず》 人目多見許曾《ひとめおほみこそ》     1377
 
〔釋〕 ○ゆふ 「やまべまそゆふ」を見よ(四四二頁)。○まつる 古義訓イハフ〔三字傍線〕は鑿。○みもろ 「みもろの」を見よ(一八九四頁)。○かむさびて 「かむさびせすと」を見よ(一五三頁)。以上三句は「齋む」に係る序詞。この句を下に續けて、古びて即ち年寄つての意に、略解古義などに解してあるのは、詞も調はず、實状にも打合はない。○いむ (1)齋ひ清まはる。(2)忌み嫌ふ。こゝは上句の神につけては(1)の義、下句につけては(2)の義を用ゐていひ續けた。
【歌意】 木綿を取懸けて祭する、御室の神の神すさびて、清まはり忌むやうに、貴方を忌み嫌ふのではありません。人目が多さにさ、よう逢はぬのであります〔十一字右○〕。 
(2161)〔評〕 親などの許さぬ中だらう。男と違つて女は家に居るのだから、竊び逢ふには一層苦勞する。時により場合により、折角來た男を追ひ返すことがある。それで女に異心があるやうに男が怨んで來たのに對しての辯解である。一切はこれ「人目多みこそ」で、決して貴方を嫌ふのではありません、私の苦衷を少しは察して下さいといひたげな口振である。
 
木綿懸而《ゆふかけて》 齋此神社《いはふこのもり》 可超《こえぬべく》 所念可毛《おもほゆるかも》 戀之繁爾《こひのしげきに》     1378
 
〔釋〕 ○いはふこのもり 「神社」又は社をモリと訓むことは上出。訓は類本神本古葉等による。契沖訓イムコノモリモ〔七字傍線〕はモ〔右・〕の辭によつて意は明晰になるが、無くてもその意は聞かれる。
【歌意】 木綿かけて齋き祀つた社さへも〔三字右○〕、超えて往きさうに、思はれることよ、この〔二字右○〕戀心のはげしさにさ。
 
〔評〕 上と一聯の贈答で、贈歌に「人目多み」でといつて來たのに對して、自分はそんな人目などは頓著しません、逢はうが爲には神の社の忌垣でも乘り越しますと、女の心を淺いやうにいひ腐した。贈答の體の常格である。
  千早ぶる神の忌垣も越えぬべし今はわが名のをしけくもなし(卷十二、――2663)
と同想で、これは下句の説明的表現が、稍その熱度の低さを感ぜしめる。なほ
  千早ぶる神の社しなかりせば春日の野べに粟蒔かましを(卷三、娘子――404)
(2162)  春日野に粟蒔けりせば鹿待につぎてゆかましを社しるとも(同上赤麻呂――405)
など、皆萬葉人の敬神の念が基本となつての構想である。
 新考に、贈歌の意を承けずして辭を承けたる例なりとあるはいかゞ。立派に辭も意も承けての趣向である。
 
寄(ス)v河(ニ)
 
不絶逝《たえずゆく》 明日香川之《あすかのかはの》 不逝有者《よどめらば》 故霜有如《ゆゑしもあるごと》 人之見國《ひとのみまくに》     1379
 
〔釋〕 〇よどめらば 「不逝有者」の意訓。元本訓による。古今集(戀四)にこの歌を載せて、ヨドミナバ〔五字傍線〕とあり、類本古葉神本元本一訓はユカズアラバ〔六字傍線〕とある。契沖は後の訓を採つた。○みまくに 古義訓による。舊訓ミラクニ〔四字傍線〕。
【歌意】 經えず流れて行く、あの〔二字右○〕飛鳥川が、もし〔二字右○〕滯らうなら、何か仔細のあるやうに、人が見ようにさ。
 
〔評〕 常に行き通ふのを、もし途絶えしたら、異心でもあるやうに、女は思ふだらうとの譬喩だ。何かの事情によつて夜離《ヨガレ》を餘儀なくされる男の述懷で、作者はかう心配する程の眞實男なのだ。
 
明日香川《あすかがは》 湍瀬爾玉藻者《せぜにたまもは》 雖生有《おひたれど》 四賀良美有者《しがらみあれば》 靡不相《なびきあはなく》     1380
 
(2163)〔釋〕 ○しがらみ 「しがらみわたし」を見よ(五二三頁)。○なびきあはなく 新考訓による。古本の訓多くはナビキアハナクニ〔八字傍線〕とある。奮訓ナビキモアハズ〔七字傍線〕。
【歌意】 飛鳥川の瀬毎に、藻は生えてゐるけれど、間に柵があるので、瀬毎の〔三字右○〕藻が靡き合ひもしないことよ〔三字右○〕。
 
〔評〕 飛鳥川は上流こそ「昨日の淵ぞ今日は瀬になる」(古今集)で急流だが、雷岳を過ぎて飛騨邊にくると、玉藻のある平瀬になる。されば處々に柵を懸けて水を堰いて使用してゐたと見える。その趣の作が集中に幾らも見える。だから上つ瀬の藻と下つ瀬の藻とは柵に隔てられて、一緒に靡き合ふことはない。その如く我等二人の間には嚴しい邪魔があつて、一緒になり得ないと歎息した譬喩だ。意詞渾成して哀怨の味ひが永い。
 但卷二の「明日香の河の、上つ瀬に生ふる玉藻は、下つ瀬に流れ經らばへ」は、本文の事實の正反對を語つてゐるが、そねは間に柵のない瀬々なのである。
 
(2164)廣瀬川《ひろせがは》 袖衝許《そでつくばかり》 淺乎也《あさきをや》 心深目手《こころふかめて》 吾念有良武《わがおもへらむ》     1381
 
〔釋〕 ○ひろせがは 大和廣瀬郡川會(今北葛城郡箸尾村)。佐保川、百濟川、葛城川の諸水會湊して廣瀬となれる處の稱。川合には有名な廣瀬神社がある。○そでつくばかり 「つく」は漬《ツ》くにて、漬《ツ》かること。「衝」は借字。初二句は「淺き」に係る序詞。○あさきをや 淺き人〔右○〕をや。○こころふかめて 心を深くして。熱心に。○おもへらむ 思ひてある〔五字傍点〕らむの約略。
【歌意】 廣瀬川が、徒渡りすれば、やつと〔三字右○〕袖が漬かる位淺いやうに、淺い心の人を、深く思ひ込んで、自分は戀うて居るのであらうか。
 
〔評〕 馬鹿なことゝ聊か自省してゐる。「淺き」に「深めて」の懸け合はせなど、小細工の感はあるが、愛の均衡を欲求するはこの道の常情だから、そこに作者の眞實がある。
 「袖漬くばかり」は、催馬樂にも「澤田川袖漬くばかり淺けれど」と歌はれてある。古代の衣の袖たけは、今の金尺の七八寸位に當るから、現代人の袖で考へると可成開きがある。がこゝは徒渉に堪へる程度の淺さを叙べたに過ぎない。
(2165) 又廣瀬川を廣瀬に注ぐ葛城川の一稱とする説もある。それは廣瀬川が衆水の會湊する爲水量が多いので、「袖漬くばかり淺き」に適確でないとした考方から來たものと思ふ。すぐそばに本當の廣瀬があるのに、支流たる葛城川を廣瀬と稱する筈もなく、また廣瀬川とて、さう水量の多い處ばかりはない。瀬によつて淺い處も出來よう。
 本集中河川の徒渉に言及した作が折々ある。これは當時橋梁の少なかつたことを語るもので、或は衣を※[塞の土が衣]げて渡り、或は馬を乘り入れて渡る。平安京となつても鴨川を徒渉したり、牛車を乘り入れたりしたものだ。金葉集の連歌に「鴨川を鶴脛にして渉るかな」の句がある。
 
泊瀬川《はつせがは》 流水脈〔左△〕之《ながるるみをの》 絶者許曾《たえばこそ》 吾念心《わがもふこころ》 不遂登思齒目《とげじとおもはめ》     1382
 
〔釋〕 ○みをの 「脈」原本に沫〔右△〕とあるは誤。古義説による。△寫眞 挿圖419(一七四七頁)を參照。
【歌意】 初瀬川の流れる水筋が、絶えたらばさ、私の戀する心(2166)は、末〔二字右○〕遂げまいと思はう。――だが初瀬川の水脈の絶えることは無いから、この戀は末の遂げることであらうぞ〔だが〜右○〕。
 
〔評〕 自慰の詞である。かうした反説的の表現は、含蓄味を強要するもので、蘊藉の味は稍乏しくなる恐れもあるが、一節面白い處はある。
  泉河ゆく瀬の水の絶えばこそ大宮どころうつろひゆかめ(卷六――1054)
  あめ地といふ名のたえてあらばこそ汝《イマシ》とわれとあふ事やまめ(卷十一――2419)
又は上宮法皇帝説の「いかるかや富の小川の絶えばこそ」、古今集の「君をおきて仇し心をわがもたば」の類、詞人の慣用手段である。そのもと盟誓的の意旨から出發して、時に一種の禁呪《マジナヒ》に近い性質のものにまで移行してゐる。
 
名毛伎世婆《なげきせば》 人可知見《ひとしりぬべみ》 山川之《やまがはの》 瀧情乎《たぎつこころを》 塞敢而有鴨《せかへたるかも》     1383
 
〔釋〕 ○しりぬべみ 知りぬべくて〔二字傍点〕。この「み」は輕い意の用法。○やまがはの 「たぎつ」に係る序。○たぎつこころ 沸き立つ心。逸《ハヤ》る心。○せかへたる 「せかへ」は堰き〔二字傍点〕の延言。「敢」は借字。字によつて敢へ〔二字傍点〕の意に解くは非。
【歌意】 溜息を吐かうなら、人が知りさうなので、沸き立つ心を、自分で〔三字右○〕堰き止めたことかいな。
 
(2167)〔評〕 人目をつゝむ戀の切なさを歌つた。縁語の取成しだけで、譬喩歌といふには不當である。
  言《コト》にいでていはばゆゝしみ山川のたぎつ心をせかへたりけり(卷十一、――2432)
と同趣で、殆ど甲乙がないといひたいが、簡淨の點に於いて、これは彼れに劣る。
 
水隱爾《みこもりに》 氣衝餘《いきづきあまり》 早川之《はやかはの》 瀬者立友《せにはたつとも》 人二將言八方《ひとにいはめやも》     1384
 
〔釋〕 ○みこもりに 水中に籠るをいふ。○いきづきあまり 息吐き足らぬこと。息吐きあへぬこと。初二句の解は新考説に從つた。○せにはたつとも 川瀬には立つとも。その場合には立つともの意を寓せた。
【歌意】 水もぐりに、息も吐きあへず、早川の瀬に立つやうな、苦しい〔三字右○〕立場には臨むとも、人にこの戀を話さうかい。
 
〔評〕 これも忍戀の歌で、譬喩やゝ奇僻である。然し萬葉人がよく現實を諦視し、詩材を廣範圍に求めることに努力した點に敬服する。
 
寄(ス)2埋木《ウモレギニ》1
 
○埋木 木幹の半石化したもの、水底の土中より出る。
 
(2168)眞※[金+施の旁]持《まがなもち》 弓削河原之《ゆげのかはらの》 埋木之《うもれぎの》 不可顯《あらはるまじき》 事等不有君《こととあらなくに》     1385
 
〔釋〕 ○まがなもち 弓削《ユゲ》に係る枕詞。昔の弓は丸木弓だから、無論眞※[金+施の旁]で削つて製つたので、弓削にいひ續けたもの。この枕詞の弓削に係る理由を古來解説したものがない。訓は細本京本によつた。舊訓マカナモテ〔五字傍線〕は枕詞の詞態でない。○まがな 「ま」は美稱。「かな」は材木の表面を削る道具で、今音便にカンナといふ。然しこの時代の鉋は鑓カンナといふ物で、今の鉋とは全く形が違ふ。「※[金+施の旁]」は鉋の書寫字。○ゆげのかはら 河内國若江郡弓削(ノ)郷(今中河内郡曙川村弓削)。弓削川は弓削(ノ)郷にての舊大和川の一稱、今纔に河道を存し、長瀬川又|曙《アケ》川といふ。○うもれぎの 埋木の如く〔二字右○〕。埋木は埋れてゐても、何時か掘り出されて世に出るので、「顯はる」に係けた。以上三句は序詞。○あらはるまじき 「不可顯」を舊訓にかく讀んである。垂仁天皇紀に忽(チ)積(ミテ)v稻(ヲ)作(ル)v城(ヲ)、其堅(キコト)不可破《ヤブルマジ》とある不可破の訓に同じい。古訓にアラハレザラム〔七字傍線〕ともある。○こととあらなくに 事にあらぬにの意。ニといふべき處にトといふ例は珍しくない。「等」古本多くは爾〔右△〕とある。これはコトニアラナクニ〔八字傍線〕と訓む。
 
(2169)【歌意】 この隱し事は〔六字右○〕、弓削の川原の埋木のやうに、世に顯はれまい事ではないのにさ。――もし顯はれたらどうせうぞ〔十二字右○〕。
 
〔評〕 作者のおど/\してゐる態度が眼に見える。さ程露顯を怖れるのは、不正か不當かの戀だらうが、戀の本質から見れば、素より眞實だ。そこに他の同情を引付るだけの力がある。
 この歌の譬喩は假に戀愛問題として扱つておいたが、他の場合にも適應される。政治的陰謀の多かつた時代だから、それ等の關係者の作かも知れない。「弓削の河原」を擧げたので想像すると、或は例の道鏡一派の陰謀に危惧をもつた者の作か、などとも考へられる。
寄(ス)v海(ニ)
 
大船爾《おほふねに》 眞梶繁貫《まかぢしじぬき》 水手出去之《こぎでにし》 奥將深《おきはふかけむ》 潮者干去友《しほはひぬとも》     1386
 
〔釋〕 ○こぎ 「水手」は楫子《カコ》であるが、楫子は船漕ぐ業を旨とする故に、意を以て漕ぎ〔二字傍点〕に充てた。○ふかけむ 深くあらむの約轉。
【歌意】 大船に楫を揃へて、漕ぎ出したことであつた、その沖は深からうよ、よし潮は干たとても。
 
(2170)〔評〕 「船は大船、楫は眞楫、汐は引汐、すべて好條件のもとに出發したとはいへ、沖の深さはやはり心配だ。事の前途を餘所ながら危倶しての作である。戀の上でも同じ事だ。
 
伏超從《ふしごえゆ》 去益物乎《ゆかましものを》 間守爾《まもらふに》 所打沾《うちぬらされぬ》 浪不數爲而《なみよまずして》     1387
 
〔釋〕 ○ふしごえ 土佐國安藝郡野根村。伏越は伏して越ゆるの意で、立ちては歩き難い程の嶮路の稱。今の野根町より西、小港の磯山道がそれで、僅四五町の上りだが頗る嶮峻である。その崖下の波打際も通路で平坦であるが、時に波濤の襲來に遭ふ。丁度越後の親不知子不知に似た處と見えた。現今は兩路とも廢して別に國道が開通してゐる。○まもらふに 「間守《マモ》らふ」とは相間《アヒマ》を伺ふこと。間《マ》で切つて讀む。目守《マモ》るとは異なる。「守らふ」は守る〔二字傍点〕の延言。古義訓による。眞淵訓ヒマモルニ〔五字傍線〕。○よまずして 數《ヲ》みそこね〔三字右○〕ての意。全く數まぬのではない。「よむ」は數へること。契沖訓による。舊訓カゾヘズテ〔五字傍線〕。
【歌意】 よしや嶮路でも〔七字右○〕、伏越から行かうものを、平らな海際を行くとて、波の〔十二字右○〕相間をはかるのに、衣を濡らされたわい。波の拍子を數へそこねてさ。
 
(2171)〔評〕 荒磯荒濱をゆき、一二三で波の合間を驅け拔けるのに、つい拍子を取違へて波をかぶる、あり打の事である。寧ろ嶮岨な峠でも「急がばまはれ」で、伏越の本道を行けばよかつたとの後悔である。
 もしこれを相聞の作とすれば、面倒で手數が懸つても、然るべき仲人を頼んで、順序立てゝ懸想の意を通ずべきであつたのを、氣短に直接の申込か訪問などして、すげなく拒絶された趣の譬喩であらう。僻地の地形を旨く湊合して使用し得たことは、土地人か或は準土他人の作であらねばならぬ。
 
石灑《いはそそぎ》 岸之浦廻爾《きしのうらわに》 縁浪《よするなみ》 邊爾來依者香《へにきよらばか》 言之將繁《ことのしげけむ》     1388
 
〔釋〕 ○いはそそぎ 岩に打ちかけ。三句に跨續する。契沖訓による。考に「灑」を隱〔右△〕の誤として、イハガクリ〔五字傍線〕と訓み、古義はこれによつてイソガクリ〔五字傍線〕と訓んだ。舊訓イハソヽグ〔五字傍線〕は非。○うらわ 浦邊の意。○よするなみ 以上三句は「邊に來寄らば」に係る序詞。○へにきよらばか 古義訓による。舊訓ヘニキヨレバカ〔七字傍線〕は非。
【歌意】 岸の浦邊に、岩に打掛けて寄せる波、それは〔三字右○〕邊近く寄せて來るが、そのやうに男が〔七字右○〕近く寄つて來うなら、人の噂は煩さからうかえ。
 
〔評〕 思ふ男が身近く出這入したら、又人の物言ひがと、苦勞した婦人の作である。古義に、思ふ人の邊に寄り近づきたらばと解して男の歌とし、それに就いて新考が來る〔二字傍点〕と往く〔二字傍点〕とは通用なりなど彌縫したが、女の歌とすれば何でもない。
 
(2172)礒之浦爾《いそのうらに》 來依白波《きよるしらなみ》 反乍《かへりつつ》 過不勝者《すぎもかてずば》 雉爾絶多倍《きしにたゆたへ》     1389
 
〔釋〕 ○すぎもかてずば 去りもかねるならばの意。歎辭の「も」を補つてかく訓む。略解訓はスギカテナクバ〔七字傍線〕、新考は略解訓を非として、スギシアヘネバ〔七字傍線〕と訓んだ。○きしに 「雉」は岸の借字。雉は記に岐藝斯《キヾシ》、紀に枳藝矢《キヾシ》、本集十四に吉藝志《キヾシ》と見え、濁つて呼ぶが正しい。今もキジと濁る。但本集の用字は清濁通用の場合が多い。宣長が「雉」を涯〔右△〕の誤としたのは無用。
【歌意】磯の浦邊に寄せて來る波が、立返り/\して、さうこゝを立去りかねるなら、いつそ〔三字右○〕この岸に滯つて居れよ。
 
〔評〕 引いては返りして、二六時中おなじ操作を繰り反してゐる波を見ると、ほんにこんな事もいひたくなる。さて譬喩の意は、古義に「思ひかはしたる男の、女の家のあたりに來て、人目憚りつゝえ逢ふこともせず、過ぎ行きがてにするを見て、寧ろこの邊にゆらへていませと、女の詠めるなるべし」とある。それでよい。
 この歌「來よる」「過ぎもかてず」「たゆたへ」など、波を擬人しての仕立、縁語を操縱して十分に修辭の巧を弄してあるうへに、譬喩の意を添へたから、繁褥らしいが、下句の調は勁健である。
 
淡海之海《あふみのみ》 浪恐登《なみかしこみと》 風守《かぜまもり》 年者也將經去《としはやへなむ》 ※[手偏+旁]者無二《こぐとはなしに》     1390
 
(2173)〔釋〕 ○なみかしこみと 古義訓による。管見訓ナミカシコシト〔七字傍線〕。○かぜまもり 風を守つて。風間を伺ふこと。こゝは名詞ではない。「かざまもり」を見よ(八七三頁)。○としはやへなむ 年は經なむかの意。○こぐとはなしに 漕ぐといふ事はなしで。
【歌意】 近江の海は波が恐ろしいとて、湊に〔三字右○〕風を伺うてばかりゐて、空しく〔三字右○〕年は經たうことかえ、船〔右○〕漕ぐこととてはなくてさ。
 
〔評〕 女の親達の警戒が嚴しいので、機會を伺うてゐるうちに、徒らに時日が移つてしまふ事か、進んで手段も講じないでとの譬喩だ。みづから因循に過ぎたことを悔恨してゐる。「年はや經なむ」を古義に、多くの年〔四字傍点〕と解したのは過ぎてゐる。近江の海の浪のかしこさは、
  さゞ波の連庫《ナミクラ》山に雲ゐれば雨ぞふるちふかへりこ吾が背(卷七、――1170)
の條を參照(一九五九頁)。
 
朝奈藝爾《あさなぎに》 來依白波《きよるしらなみ》 欲見《みまくほり》 吾雖爲《われはすれども》 風許増不令依《かぜこそよせね》     1391
 
〔釋〕 ○あさなぎに この句を三句の上に移して聞くべしとある古義説は非。
【歌意】 朝風に寄つてくる白波を〔右○〕、見たく自分は思ふけれど、風がさ邪魔して、こちらへは〔五字右○〕寄せつけぬわ。
 
(2174)〔評〕 凪のよい時は、波が沖に見えても岸は穩かだ。「朝」に深い意はない。都合を見計らつて訪ねてくるその人を、見たく思ふけれど、邪魔立する者が寄せつけぬとの譬喩だ。
 
寄(ス)2浦(ノ)沙(ニ)1
 
紫之《むらさきの》 名高浦之《なだかのうらの》 愛子西〔左△〕《まなごにし》 袖耳觸而《そでのみふれて》 不寐香將成《ねずかなりなむ》     1392
 
〔釋〕 ○むらさきの 「むらさき〕は群崎《ムラサキ》の義で地名か。卷十六にも「紫の粉滷《コカタ》の海に」と見えた。名高の浦に續けたので考へると、今の黒江灣の海邊は沙嘴が澤山斗出し、長汀短汀が連續して、これに黒牛潟、日方の浦、名高の浦、粉滷などの名稱が與へられたと思はれる。その澤山の沙嘴が即ち群崎なのであらう。宣長の玉勝間に、紀伊人の話とて、紫川といふ川のあることをいひ、地名にて村崎の意かとあるが、紫川のことは或はこの歌によつた後人の僞稱かも知れない。彦麿説は、紫の階高《シナタカ》の略を名高に續けたり、紫は上階の服色なればなりといつたが、「紫の粉滷」の續きは解けない。○なだかのうら 黒牛の海の一部で、今の黒江の南隣日方町の一部。「くろうしの海」を見よ(二〇〇二頁)。この邊の現在の海濱は地形甚しく變化したと認められる。「名高の浦の」までは「まなご」に係る序詞。〇まなごにし 眞妙《マナゴ》に愛子《マナゴ》をいひかけた。「眞砂《マナゴ》」は「しらまなご」を見よ(一八六四頁)。「愛子《マナゴ》」は既出(一七九四頁)。「西」原本に地〔右△〕とあるので、古義訓はマナゴツチ〔五字傍線〕、舊訓はマサゴヂニ〔五字傍線〕」とあり、例はあるが地〔傍点〕又は路〔傍点〕が邪魔になつて、「袖のみふれて」への續きが面白くない。新考説(2175)の「地」を西〔右△〕の誤としたのに賛成した。△地圖及び寫眞挿圖391(一六二六頁)487(二〇〇二頁)を參照。
【歌意】 群崎の名高の浦の、眞砂子《マナゴ》の稱《ナ》に通ふ人の愛子《マナゴ》にさ、徒らに〔三字右○〕袖ばかり觸れて、即ち出會うたばかりで〔十字右○〕、共寢もせずになつてしまふことかしら。
 
〔評〕 紀伊は古く開けた國で、而も山海の物資に富んでゐるので、空穗物語に見える、牟婁郡の神南備(ノ)種松のやうな寶の王が多かつたらしい。
 紀州の名所見物か何かの他郷人が、名高の浦の相當の豪家の箱入娘を、濱邊あたりの行き摺りに見たので、眞砂から愛子に想及し「袖のみ觸れて」といひ、そのまゝ行き別るゝ遺恨さを「寢ずかなりなむ」といつたらしい。
 さて思ふに、あの有名な道成寺縁起も紀伊の日高郡の事で、主人の名がこの歌の第三句と同じ眞愛子《マナゴノ》庄司とある。その娘の清姫と安珍との説話も、結局は丁度「袖のみ觸れて寢ずかなりなむ」であつた。或はこの歌の内容から説話を發生し、それが時代と共に段々變形して往つて、遂に平安期には手の込んだ縁起物語となつたのではあるまいか。
 
豐國之《とよくにの》 聞〔左△〕之濱邊之《きくのはまべの》 愛子地《まなごづち》 眞直之有者《まなほにしあらば》 如何將嘆《なにかなげかむ》     1393
 
〔釋〕 ○とよくに 豐前豐後二國の古稱。○きくのはま 豐前國企救《キク》郡企救の濱。今の小倉市より東方の海濱の(2176)稱。長濱浦の大字がある。「聞」原本に間〔右△〕とあるは誤。卷十二に「豐|州《クニ》の聞《キクノ》濱松」、また「豐國の聞《キクノ》之長濱」、卷十三に「豐國の聞の高濱」など見えた。○まなごづち 眞砂土の意。古義訓による。舊訓はマナゴヂノ〔五字傍点〕。以上三句は類音を疊んで「まなほ」にいひ續けた序詞。○まなほ 眞直はマツスグ、スナホなどの意。又正直の意。○なにか 古義訓イカデ〔三字傍線〕は非。
【歌意】 豐國の企救《キク》の濱邊の、眞砂土《マナゴヅチ》の稱《ナ》のやうに、お前の心が〔五字右○〕眞直に即ち素直にあるならば、何で歎かうかい。
 
〔評〕 戀中がもつれて、事が面倒になつた折の述懷か。濱邊のマナゴを見ても、人の心のマナホでないのに感傷せざるを得ない作者の胸中は、同情に餘ある。體も長高で意も切實である。前後の歌、皆戀の意を寄託してゐるから、こゝもその趣で見るがよい。
 
寄(ス)v藻(ニ)
 
鹽滿者《しほみてば》 入流礒之《いりぬるいその》 草有哉《くさなれや》 見良久少久《みらくすくなく》 戀良久乃太寸《こふらくのおほき》     1394
 
〔釋〕 ○いりぬる 波に〔二字右○〕入りぬる。「入りぬる」は没するをいふ。○いそのくさ 藻をいふ。○くさなれや 草な(2177)れば〔右○〕や。○みらく 「みらくし」を見よ(一六二一頁)。○こふらく 既出(七九一頁)。
【歌意】 自分の戀は〔五字右○〕、汐が滿ちると波に〔二字右○〕潜つてしまふ、磯の草であればかして、見る即ち逢ふことが〔三字右○〕少なくて、見ないで戀しく思ふことが〔三字右○〕多いわい。
 
〔評〕 比喩が巧緻なので、古來著名になつてゐる。下句の説明は相反的事相の對比で、含蓄味こそ乏しいが、直感の力強さはある。漸層による「らく」の反復、舌頭甚だ流滑である。
 
奥浪《おきつなみ》 依流荒礒之《よするありその》 名告藻者《なのりそは》 心中爾《こころのうちに》 疾跡〔左△〕成有《とくなりにけり》     1395
 
〔釋〕 ○なのりそは 神馬藻に名告るなの意をかけた。「なのりそ」は既出(八四〇頁)。古義に「者」を之〔右△〕の誤としたのは、結句の改字に合はせる爲で非。○とくなりにけり 早く決心のついたことをいふか。「なり」は成就の意。「跡」を衍字として省く。眞淵が「疾跡」は靡〔右△〕の誤にてナビクナリケリ〔七字傍線〕と訓んでから、古義は嚴水のナビキタリケリ〔七字傍線〕を更にナビキアヒニケリ〔八字傍線〕と改め、字をさま/”\に改竄した。新考は「疾」を念〔右△〕の誤としてモヘトナリケリ〔七字傍線〕と訓んだ。
【歌意】 沖の波の寄せくる、荒磯の莫告藻《ナノリソ》の、名告るなといふことは、自分の〔十三字右○〕心のうちに、疾く決心が出來たことであるわい。
 
(2178)〔評〕 公然名告つてわが物に、と考へたのを思ひ返して、何處までも秘密の關係におかうと決心した譬喩か。
 
紫之《むらさきの》 名高浦乃《なだかのうらの》 名告藻之《なのりその》 於磯將靡《いそになびかむ》 時待吾乎《ときまつわれを》     1396
 
〔釋〕 ○なのりそのいそに 初句からこゝまでは「靡かむ」に係る序詞。○われを 「を」は歎辭。
【歌意】 名高の浦の莫告藻が、磯に靡くやうに、思ふ兒が〔七字右○〕自分に靡き寄らう時を〔右○〕待つ私よ。
 
〔評〕 單なる自遣の語としても聞えるが、かう詠んでその人に贈つたものとすれば、この悠揚迫らざる素直な態度は、相手の好意を把握するに十分である。
 
荒礒超《ありそこす》 浪者恐《なみはかしこし》 然爲蟹《しかすがに》 海之玉藻之《うみのたまもの》 憎者不有手《にくくはあらずて》     1397
 
〔釋〕 ○しかすがに 既出(一一五三頁)。「蟹」は下の「海」に對へた戲書か。○あらずて 眞淵は「手」を乎〔右△〕の誤として、アラヌヲ〔四字傍線〕と訓んだが、元のまゝで意は聞える。
【歌意】 荒磯を打越える波は、恐ろしいわ。それなのに、その海にある〔六字右○〕珠藻が、憎くはなくてね。
 
〔評〕 さてどうせうぞの餘意がある。磯浪のやうな親達の怒は恐ろしいし、流石に珠藻のやうに靡き寄るその娘(2179)は可愛いと、とかうの思案に餘つた體だ。「憎くはあらずて」の歇後の辭樣、餘情を煽つて頗る妙である。契沖説は、初二句は人言のこちたさを譬へたる也とあるが、人言では稍切實を缺く憾がある。
 「しかすがに」の接續詞を用ゐた歌は、その語意上、表現の樣式が大抵同型に墮ちる。その中でこれは多少變化を求めた。
 
寄(ス)v船(ニ)
 
神樂聲乃《ささなみの》 四賀津之浦能《しがつのうらの》 船乘爾《ふなのりに》 乘西意《のりにしこころ》 常不所念《つねわすらえず》     1398
 
〔釋〕 ○ふなのりに 船乘の如く。「に」は「たへの穗に」を見よ(二七四頁)。以上三句は序詞。○のりにしこころ 「妹が心にのりにけるかも」を見よ(三二七頁)。
【歌意】 志賀津の浦での船乘するやうに、貴女の心に〔五字右○〕、乘つてしまつた私の〔二字右○〕心は、何時も貴女を忘れられない。
 
〔評〕 かう詠んで贈つたものだちう。志賀津即ち大津の船出は、古代の交通上では常の事であつた。
 「心に乘る」は自他を通じて使つた萬葉人の套語。なほ卷三「東人の荷向のはこの荷の緒にも」の條の評語(三二八頁)及び卷十「春さればしだる柳のとををにも」(1896)の條の評語を參照。
 
百傳《ももづたふ》 八十之島廻乎《やそのしまわを》 ※[手偏+旁]船爾《こぐふねに》 乘西情《のりにしこころ》 忘不得裳《わすれかねつも》     1399
 
(2180)〔釋〕○ももづたふ 譯山に傳はる。「八十《ヤソ》の島」に續けた枕詞。「傳ふ」は船の島々を傳つて係り行くをいふ。○こぐふねに 漕ぐ船に乘る如く〔四字右○〕。上三句は序詞。
【歌意】 澤山の島囘を漕ぐ船に乘るやうに〔五字右○〕、乘り移つてしまつた私の〔二字右○〕心は、貴女を〔三字右○〕忘れかねたまあ。
 
〔評〕 上の歌と初二句こそ違へ、同意同調の作である。
 
島傳《しまづたふ》 足速乃小舟《あはやのをぶね》 風守《かぜまもり》 年者也經南《としはやへなむ》 相常齒無二《あふとはなしに》     1400
 
〔釋〕 〇しまづたふ 島から島を傳つて行くをいふ。○あはやのをぶね 船足の速い舟。「あ」は足《アシ》の下略。
【歌意】 島傳ひする速《ハヤ》舟が、風間を伺うて、時日が經つやうに、周圍の氣を兼ねて、徒らに〔時日〜右○〕年は經たうことかえ、貴女に〔三字右○〕逢ふといふことはなくてさ。
 
〔評〕 上の「あふみの海浪かしこみと」の歌と同型の同調。但「足速の小舟」に別樣の意趣を寓してゐる。
 
水霧《みなぎらふ》 奥津小島爾《おきつをじまに》 風乎疾見《かぜをいたみ》 船縁金都《ふねよせかねつ》 心者念杼《こころはもへど》     1401
 
〔釋〕 ○みなぎらふ みなぎる〔二字傍点〕の延言。「みなぎる」は水之霧《ミナキ》るの義で、水煙の發つをいふ。契沖訓による。舊訓(2181)ミナギラヒ〔五字傍線〕。○かぜをいたみ 既出(七二八頁)。○こころはもへど 「もへど」は小島を思ふので、寄せたいと思ふのではない。
【歌意】 水煙が發つ沖の小島に、風がまあひどさに、この船を寄せかねたわい、心はその小島を〔五字右○〕思ふけれど。
 
〔評〕 心にはその女を思ひながらも、親達などの怒を恐れて、いひ寄りかねたとの譬喩だ。舟行における景趣と海客の感情とが如實に描出され、譬喩の意も親密である。
 
殊放者《ことさけば》 奥從酒嘗《おきゆさけなむ》 湊自《みなとより》 邊著經時爾《へつかふときに》 可放鬼香《さくべきものか》     1402
 
〔釋〕 ○ことさけば かくの如く遠|離《ザ》くるならばの意。「こと」は如《コト》の意で、この語何々の如〔四字傍点〕と下につく時は、ゴトと音便で濁るのが通例。「許等《コト》めでは」(允恭天皇紀)、「殊《コト》ならば」(卷十)、「琴《コト》さけば」「別《コト》さけば」、(卷十三)、「ことならば」(古今集、後撰集)、「ことは降らなむ」(古今集)などのコト〔二字傍点〕は、皆|如《コト》の意である。古義訓コトサカバ〔五字傍線〕は非。○おきゆ この「ゆ」はニ〔傍点〕に通ふ意。○さけなむ 「なむ」は願望辭。「酒嘗」は戲書。○みなとより 水之門《ミナト》より。こゝは湊口からの意。○へつかふとき 岸邊に寄り付く時。「へつかふ」を參照(一二六三頁)。○さくべきものか 「か」は反動辭。
【歌意】 かう遠ざけるのなら、まだ沖にゐるうちに、遠ざけてほしい。もう湊口から岸邊に著く時に、遠ざけてよいものかい。
 
(2182)〔評〕 曲折した表現である。おなじ撥ねつけるなら、かう深入せぬうちに撥ねつけてほしい、今となつての背負投は餘り酷いとの譬喩だ。氣乘薄の爲に長引いて、結局謝絶に決したのであらうが、時には半分遊戲的の氣持で、男の心を綱引いて翻弄する、性《タチ》の惡い女のあることは、源氏物語にも書いてある。
 
寄〔左△〕(ス)v神〔左△〕(ニ)一首 旋頭歌
 
○寄神 原本は旋頭歌〔三字右△〕とあり、上來の體裁に一致しない。よつて假にこの題目を設けて、「旋頭歌」を題下の註に引下した。古義も同見。
 
三幣帛取《みぬさとり》 神之祝我《みわのはふりが》 鎭齋杉原《いはふすぎはら》 燎木伐《たきぎきり》 殆之國《ほとほとしくに》 手斧所取奴《てをのとらえぬ》     1403
 
〔釋〕 ○みぬさとり 「ぬさとりむけ」を見よ(二三二頁)。「み」は敬稱。古義訓による。舊訓ミヌサトル〔五字傍線〕。○みわのはふり 三輪山の神に奉仕する祝。「みわのやま」(八三頁)及び「はふり」(一三二五頁)を見よ。「神」を舊訓のまゝにミワとよむ。古義はカミ〔二字傍線〕と訓み、ミワとよむは大神に限りたる事と思ゆとあるが、卷四に、「三輪《ミワ》の祝がいはふ杉」とある如く、杉を詠み合はせてあるから、ミワの訓がよい。○すぎはら 杉林のこと。檜原、松原、萩原などの類語。○たきぎきり 「燎」は明を採る爲に燒く火。釋文に在(ルヲ)v地(ニ)曰(ヒ)v燎(ト)、執(ルヲ)v之(ヲ)曰(フ)v燭(ト)と見え、又玉篇に放(ツ)v火(ヲ)也とも見えた。茲は焚くの意に用ゐた。略解訓による。舊訓タキヾコリ。○ほとほとしくに (2183)殆と。アブナク。この語ほと/\〔四字傍点〕の形容詞格の副詞で、他に用例を見ない。又ほと/\、ほと/\しくには、その語の本質上、推量辭を以て承けるのが常格であるが、又かくの如く現在格で應ずる例も、なほ二三ある。○てをの 小振《コブリ》の斧をいふ。大工の使ふテウナ(手斧の訛)とはその製が異なる。○とらえぬ 略解訓による。△挿圖 前出、533(二一四一頁)を參照。
【歌意】 幣を取つて三輪の神に仕へる祝が、忌み清めた杉林、そこに〔三字右○〕薪木を切つて、あぶなく手斧を取られたよ。
 
〔評〕 大胆にも神の森に這入つて盗伐をしたのを、監視の祝に見付かつて、危く手斧を取り上げられる處だつたといふ。古義に
  父母などの固く守る女を犯し、殆ど辛き目を見むとせしといふ譬なるべし。又はやむごとなき人を犯して、殆ど罪にかからむとせしをいふにもあるべし。
まづその邊でよからう。
 盗伐は何時の世でも盛で、景行天皇紀に、俘囚の蝦夷を御諸山(三輪山)の傍に住ませたら、忽ち神山の樹を丸坊主にしたことが見え、續紀にもこれに關する法令が出てゐる。宇治拾遺にも、山守によき(斧)を取られた咄がある。そして盗伐の罰に斧を取上げることは、おのが田に水を引く爲に畔を切る者の鍬を没收するのと同じ意味である。
 さてこの歌は景行天皇紀の記事などに※[夕/寅]縁して、三輪の神山の杉原に取材し、これを盗伐することは、大胆この上なしの所業である事を暗示した。すべて神木は畏敬の極、手を觸れても崇るとまでいはれ、
(2184)  味酒を三輪のはふりかいはふ杉手触りし罪か君にあひがたき(卷四、丹波大娘子――712)
  神樹にも手は觸るとふなうつたへに人妻といへば觸れぬものかも(同上、大伴卿――517)
など詠まれた。
 
   挽歌《バンカ・カナシミウタ》
 
雜(ノ)挽
 
○雜挽 四季に關係のない挽歌の意。挽歌は既出(四一二頁)。
 
鏡成《かがみなす》 吾見之君乎《わがみしきみを》 阿婆乃野之《あばのぬの》 花橘之《はなたちばなの》 珠爾拾都《たまにひろひつ》     1404
 
〔釋〕 ○かがみなす 鏡のやうに。「見し」に係る。「なす」は既出(九○頁)。○あばのぬ 大和添上郡春日か。皇極天皇紀の童謠に、「をち方の阿婆努《アバヌ》のきゞし」と見え、神名帳(延喜式)に、大和添上郡に率《イサ》川(ノ)阿波(ノ)神社を擧げてある。坊目考には、西(ノ)城戸にその舊蹟あり、天文の兵亂に廢亡して、今知る人なしと。城戸は中世木戸(ノ)郷といひ、南方の極限で、率川阿波神社とその地を殊にする。○はなたちばな 既出(九四五頁)。○たまに 玉としての意。橘から續けてはその實をいつた。
【歌意】 鏡見るやうに私が見た、即ち逢うたその人を、阿婆の野の橘の實の〔二字右○〕、玉として拾つたわえ。
 
〔評〕 持統上皇が荼毘の烟と騰られてから、火葬は愈よ盛つて、當時の公卿士大夫の最期は、續々霞や霧や雲に紛れることゝなつた。これは佛教隆昌の影響で、印度式の葬法を採用したのであつた。而も釋尊は勿論、名僧高僧輩のは、その灰中から舍利珠を拾ふことがあつた。これ「玉に拾ひつ」の聯想の生るゝ所以である。但こゝは「わが見し君」の事だから、本物の舍利珠は希求すべくもない。即ちその葬處たる阿婆野の橘の實の玉として、大切にその遺骨を拾ひ上げたといふ。君を玉に拾ふは聯想の跳躍で、不吉の語を忌避した爲であらう。
 橘を果實之長上として珍重することは、垂仁天皇以來の通念で、(「橘の蔭ふむ路」の評語(三七三頁)を參照)。五月の節にはそれを玉に貫いて翫んだ事を思へば、「花橘の玉に拾ふ」とは、最大級の愛惜の情意を托したことになる。
 
蜻野※[口+立刀]《あきつぬを》 人之懸者《ひとのかくれば》 朝蒔《あさまきし》 君之所思而《きみがおもほえて》 嗟齒不病《なげきはやまず》     1405
 
〔釋〕 ○あきつぬを 「※[口+立刀]」は叫〔右△〕の俗字。○かくれば いひ及べば。懸けていへばの意。○あさまきし 朝火葬の灰を〔五字右○〕撒《マ》いた。火葬の執行は夜中で、翌朝その骨灰を四方に撒布する。○なげきはやまず 「齒不病」は戲書。
【歌意】 秋津野の事を、人がいひ出すと、朝火葬の灰を撒き散らした事であつた、その人の事が偲ばれて、歎はとまらないわ。
 
〔評〕 吉野の蜻蛉野で、知人を火葬に附した人の作である。素朴で嬉しい點もあるが、「朝まきし君」は、骨灰撒(2186)布の風習を意識しつゝも、尚粗笨の感があつて面白くない。
 
秋津野爾《あきつぬに》 朝居雲之《あさゐるくもの》 失去者《うせゆけば》 前裳今裳《むかしもいまも》 無人所念《なきひとおもほゆ》     1406
 
〔釋〕 ○うせゆけば 眞淵訓ウセヌレバ〔五字傍線〕。○むかしもいまも 何時でもの意。この「むかし」は大きな過去を指すのではない。「今」に對して今ならざるをいふのだ。詰り契沖訓のキノフモケフモ〔七字傍線〕とほゞ近い意だから、隨つて改訓の必要もない。
【歌意】 秋津野に、朝靡いてゐる雲が消えてゆくと、あんな風にその火葬の烟も消えたのだと〔十三字右○〕、以前でも今でも即ち何時も、亡人の事が思ひ出されるわ。
 
〔評〕 雲に火葬の烟の聯想はいひ舊してゐるが、年月が經つても尚その悲の新しいとある情味に、掬すべきものがある。
 
隱口乃《こもりくの》 泊瀬山爾《はつせのやまに》 霞立《かすみたち》 棚引雲者《たなびくくもは》 妹爾鴨在武《いもにかもあらむ》     1407
 
〔釋〕 ○かすみたち 赤氣の立つをいふ。水蒸氣のカスミではない。「霞」の字の本義に當る。
【歌意】 初瀬山に赤い氣が立つて、靡く雲は、吾妹子の火葬の烟〔四字右○〕でまああらうか。
 
〔評〕 卷三の人麻呂の
  こもりくの初瀬の山の山のまにいざよふ雲は妹にかもあらむ(―428)
の訛傳と思はれる。
 
枉言香《たはことか》 逆言哉《およづれごとか》 隱口乃《こもりくの》 泊瀬山爾《はつせのやまに》 廬爲去《いほりせりとふ》     1408
 
〔釋〕 ○たはこと 既出(九三四頁)。舊訓マガゴト〔四字傍線〕。○およづれごと 「およづれ」を見よ(九三三頁)。○いほりせりとふ 假廬造りをするといふ。眞淵訓による。舊訓イホリストイフ〔七字傍線〕。
【歌意】 戲《タハ》言か、それとも僞り言か。初瀬の山に、吾妹子が〔四字右○〕廬造りしたといふわ。
 
〔評〕 當時の初瀬山は荒山で、さう無造作に人の住む處ではない。そこに、「廬りせり」は葬られたことの婉辭である。初二句は套語で、
  さにつらふ吾大王は、こもりくのはつ瀬の山に、神《カム》さびにいつきいますと、玉梓の人ぞいひつる、およづれか吾が聞きつる、たは言か我が聞きつるも――(卷三、丹生王――120)
の一節を抄出したに過ぎないが、句の短く節の促つた漸層が、「か」の疑辭の疊用によつて、左顧右眄、その意外に驚惑してゐる作者の心情をよく露出し、全體的に引締つて無駄がない。
 
(2188)秋山《あきやまに》 黄葉※[立心偏+可]怜《もみぢあはれみ》 浦觸而《うらぶれて》 入西妹者《いりにしいもは》 待不來《まてどきまさず》     1409
 
〔釋〕 ○もみぢあはれみ 「あはれみ」は傷はしく思ふ意に用ゐた。略解訓による。○うらぶれて 「うらぶれ」を見よ(一五二五頁)。古義に、この句を第四句の下にめぐらして聞くべしとあるは、無理も甚しい。これは「あはれ」を「※[立心偏+可]怜」の字義に拘はつて面白シの意とのみ解したので、「うらぶれて」に打合はぬ爲に、彌縫したらしい。
【歌意】 秋山に、もみぢがいとほしいとて〔右○〕、愁へ歎いて分け入づた吾妹子は、幾ら待つても、歸つて來なさらない。
 
〔評〕 暮秋の時分、思ふ兒を山邊に葬送して後の作である。その兒は山の黄葉の凋落を傷んで山入したまゝ消息を絶つたと、死者をなほ生者としての哀悼である。
  秋山のもみぢを茂みまよはせる妹をもとめむ山路知らずも(卷二、人麻呂――208)  豐国のかゞみの山のいは戸たて隱《コモ》りにけらし待てど來まさぬ(卷三、手持女王――418)
の二首を擣きまぜて出來たやうな作だが、おのづから又一生面を打開して、縹渺たる悲意が漂ふ。
 
世間者《よのなかは》 信二代者《まことふたよは》 不往有之《ゆかざらし》 過妹爾《すぎにしいもに》 不相念者《あはぬおもへば》     1410
 
(2189)〔釋〕 ○まことふたよはゆかざらし 眞に二つの世は來ぬらしい。「よやもふたゆく」を參照(一三四三頁)。古義訓のユカザリシ〔五字傍線〕と過去にしたのは非。○あはぬおもへば 古義訓アハナクモヘバ〔七字傍線〕も可。
【歌意】 人間世は、眞に二度とは來ないらしい。死んでしまつた吾妹子に、それ切り〔四字右○〕出合はぬことを思へばさ。
 
〔評〕 二度と來られる現世《コノヨ》ではないとは、古往今來一定した常理である。然るに追慕の極はその常理をも疑つて、或は活き返るかも知れぬとのはかない頼をかけて見たものゝ時日の經過がその無効さを立證したので、「まこと二世は往かざらし」と、漸く痴呆の夢から還つて、悲しい現實を肯定せねばならなくなつた。そこに無限の哀愁が動く。「まこと」の一語下し得て妙。
 
福《さきはひの》 何有人香《いかなるひとか》 黒髪之《くろかみの》 白成左右《しろくなるまで》 妹之音乎聞《いもがこゑをきく》     1411
 
〔釋〕 ○いもがこゑをきく 契沖訓による。舊訓イモガオトヲキク〔八字傍線〕。コエもオトも古代では通用してゐるが、人の上では、コエの方が穩かである。
【歌意】 どんな幸福な人が、黒髪が白髪と變るまでも、妻の聲を聞くことかえ。
 
〔評〕 共白髪で添ひ遂げる人もあるのに、作者の今の境遇はその正反對なので、且疑ひ且羨んだ。壯年で妻を喪つた悲哀が、いかにも鮮明に反映されて、慟哭以上に人の心胸を打つ。「黒髪の白くなるまで」は歳月永くの(2190)轉義で、この具象的の表現に、色相の對照を加へて、印象が愈よ鮮明に力強い。「妹が聲を聞く」も連れ添ふなどいふ抽象語と違つて、極めて深切な情味を煽揚する。まことに千古不磨の眞情眞詩。
 
吾背子乎《わがせこを》 何處行目跡《いづくゆかめと》 辟竹之《さきたけの》 背向爾宿之久《そがひにねしく》 今思悔裳《いましくやしも》     1412
 
〔釋〕 ○いづくゆかめと 何處へ往かうぞ、何處へも往きはすまいの意。早くいへば、イヅクユカメヤハ〔八字傍点〕の意となる。○さきたけの 背合《ソガヒ》に係る枕詞。割つた竹は背中合せになる故にいふ。「辟」は裂の借字。○そがひにねしく 背中合せに寢たことが。「おもへりしくし」を參照(一三五八頁)。
【歌意】 わが夫が自分を離れて〔六字右○〕何處へ往くものぞと、腹立紛れに〔五字右○〕、後ろ向に寢たことが、死んだ〔三字右○〕今さ、悔しいわい。
 
〔釋〕 死なれて見ると、流石に生前の事々に悔恨の念をゆする。遂にははかない痴話喧嘩まで想ひ出しては、背中合せの自分の我儘だつたのに泣くのである。「吾背子をいづくゆかめと」の多寡を括つた不貞腐れの口調、餘ほど氣の強い妻君らしい。隨つてさう信用される程、その旦那さんは氣の良い働のない人かも知れない、當時の夫妻關係の一般的慣習を基礎として考へると。とにかく
  ある時はありのすさびに憎かりき亡くてぞ人は戀しかりける(源語引歌)
で、後悔先に立たず、鰥夫寡婦の一度は必ず體驗する眞心の聲である。
 
(2191)庭津鳥《にはつどり》 可鷄乃垂尾乃《かけのたりをの》 亂尾乃《みだりをの》 長心毛《ながきこころも》 不所念鴨《おもほえぬかも》     1413
 
〔釋〕 ○にはつどり 庭《ニハ》にゐる鳥、即ち家に畜はれる鳥の意で、鷄《カケ》に係けた枕詞。記(上)八千矛神の御歌に「小野《サヌ》つ鳥|雉子《キヾシ》はとよむ、庭つ鳥|鷄《カケ》は鳴く」とある。この語略してニハトリ〔四字傍点〕といひ、遂に枕詞の本質を失して、直ちに鷄を呼ぶ稱となつた。○かけ 鷄。その鳴き聲から付いた稱。神樂歌に「庭鳥はかけろ〔三字傍点〕と鳴きぬ」とある。雉科の家鳥。○たりを 鷄の尾の彎曲して垂れたもの。○みだりをの 亂尾の如く〔二字右○〕。鷄の垂り尾の而も亂れ尾は長い。以上三句は「長き」に係る序詞。古義訓シダリヲノ〔五字傍点〕。○ながきこころ ここは長閑《ノドカ》な心といふに近い。
【歌意】 鷄の垂れ尾のその亂れ尾の、長いやうに、暢んびりした氣持は、自分には〔四字右○〕持たれぬことかまあ。
 
〔評〕 死後の當座は誰れもこんな心持である。時が經つと「去者(ハ)日(ニ)以(テ)疎(シ)」(文選)となるのである。この序體は人も知る、
  足引の山鳥の尾のしたり尾の長き長夜を獨かもねむ(卷十一、或本歌)
に吻合して、下句やゝ力量が劣るが、「垂尾の亂り尾の」と漸層的行叙によつて、いかにも長々しい感じを寫出した手際はやはり侮り難い。
 
薦枕《こもまくら》 相卷之兒毛《あひまきしこも》 在者社《あらばこそ》 夜乃深良久毛《よのふくらくも》 吾惜責《わがをしみせめ》     1414
 
(2192)〔釋〕 ○こもまくら 薦枕して〔二字右○〕。薦枕は薦を束ねて作つた枕。紀の卷十六の影媛の歌にも「薦枕高橋過ぎ」とある。「わかごもを」を參照(六四二頁)。○あひまきしこ 共寢した女。○ふくらく 更くる〔三字傍点〕の延言。○をしみせめ 「をしみ」は假體言。
【歌意】 枕を一緒にして寢た、我妹子も居るならばさ、夜の更けること〔二字右○〕も、自分は惜がることもせう。――今は失せて、居らぬから、夜の深けるのが何だ〔今は〜右○〕。
 
〔評〕 長恨歌のいはゆる「孤燈挑(ゲ)盡(シテ)未v成(サ)v眠(ヲ)」で、半夜壁に映るは煢然たるわが影のみ。ありし世には長夜も短きを歎いたが、今は却て疾く明けよと願ふのである。今昔の感哀は深くその胸を打つてゐる。「こそ」の辭、その運用の妙を見る。
 
玉梓能《たまづさの》 妹者珠氈《いもはたまかも》 足氷木乃《あしひきの》 清山邊《きよきやまべに》 蒔散染《まきてちらしむ》     1415
 
〔釋〕 ○たまづさの 玉梓の如き〔二字右○〕。玉梓は玉齊※[土+敦]《タマチサ》樹で、その花時は白く美しく清香を放つので、美し殊に譬へた枕詞。玉梓を梓弓の事として、射るの意によりて妹にいひかけたとする契沖説は、前提が薄弱である。なほ「たまづさの」を參照(五六四頁)。○まきてちらしむ 契沖訓による。「染」を漆〔右△〕の誤としてマケバチリヌル〔七字傍線〕と訓む契沖の一説は從ひ難い。
【歌意】 吾妹子の遺骨〔三字右○〕は、珠であるかしてまあ、清い山邊に撒いて、ばら/\散らさせるわい。
 
(2193)〔評〕 思へば勿體ないの餘意がある。僧共が散骨の式を行ふのを見ての感想である。火葬の遺灰を玉に擬へたのは、愛惜の念に因縁してゐる。上の歌にも「珠に拾ひつ」といつた。さてその珠は、束ね緒を斷つて散らすやうに、高みから骨灰を撒布するのであつた。「清き山邊」は、荼毘所の處柄である。
 續後紀卷九に、
  承和七年五月辛巳、後(ノ)太上天皇(淳和)顧2命(シテ)皇太子(ニ)1曰(ク)云々、予聞(ク)人歿(シテ)精魂歸(ス)v天(ニ)、而空(シク)存(スレバ)2冢墓(ヲ)1、鬼物憑(キテ)v焉(ニ)、終(ニ)乃(ニ)爲(シ)v祟(ヲ)、長(ク)貽(ス)2後累(ヲ)1、今宜(シ)3碎(キ)v骨(ヲ)爲(テ)v紛(ト)、散(ゼム)2之(ヲ)山中(ニ)1。於是中納言藤原(ノ)朝臣吉野奏(シテ)言(フ)、昔字治(ノ)稚彦(ノ)皇子|者《ハ》、我朝之賢明也、此(ノ)皇子遺教(シ)、自使v散(ラ)v骨(ヲ)、後世效(ヘリ)v之(ニ)、然(ドモ)是(ハ)親王之事(ニテ)、而非(ス)2帝王(ノ)迹(ニ)1、我國自(リ)2上古1、不(ルハ)v起(サ)2山陵(ヲ)1、所v未(ダ)v聞(カ)也、山陵(ハ)猶(シ)2宗廟(ノ)1也、縱《モシ》無(クバ)2宗廟1者、臣子何(ノ)處(ニカ)仰(ガム)。云々。
と見え、これに就いて宣長は、
  これ火葬にあらずしては骨を散すべき由なし。然るに宇治皇子の頃火葬なきなり。されば宇治稚彦(ノ)皇子云々は世の誤り傳へなり。然れどもかくいひ傳ふることは、世中に洽く火葬する事の弘まりて、骨を散すならはしの有るによりて、しかいひ傳へたるなるべし。然れば後世效之といふにて、骨を散すことのありしを知るべきなり。
と説明した。
 
或本(ノ)歌(ニ)曰(フ)
 
(2194)玉梓之《たまづさの》 妹者花可毛《いもははなかも》 足日木乃《あしひきの》 此山影爾《このやまかげに》 麻氣者失留《まけばうせぬる》
 
〔評〕 落花の行方も知らずなるやうに、「撒けば失せぬる」といふ。花を撒くは佛式の散華からの聯想かとも思はれるが、それに拘はる必要もあるまい。
 この歌は上の歌の異傳たる事はいふまでもない。
 
 覊旅《タヒノ》歌
 
名兒乃海乎《なごのうみを》 朝榜來者《あさこぎくれば》 海中爾《わたなかに》 鹿子曾呼〔左△〕成《かこぞよぶなる》 ※[立心偏+可]怜其水手《あはれそのかこ》     1417
 
〔釋〕 ○なごのうみ 攝津住吉に名兒の浦、名兒の濱あり、又越中國射水都に名兒《ナゴ》の海あり、その他諸國にこの地稱があり、何れとむ定め難い。○わたなかに 海中にて〔右○〕。○かこぞよぶなる 水手《カコ》が呼聲を立つるよ。呼聲は水手同士呼び交はす聲で、「海人の呼聲」の呼聲に同じい。「かこ」は既出(一一〇〇頁)。「鹿」は借字。「呼」原本に鳴〔右△〕とあるは誤。眞淵説による。○あはれそのかこ 「あはれ」は歎辭。
【歌意】 名兒の海を、朝に漕いでくると、向うの〔三字右○〕沖合で、水手がさ聲立てゝ呼ばはつてをるわ。あゝ面白いあの水手よ。
 
(2195)〔評〕 名兒の海、風波の和やかさはその稱の通りである。漕ぎ出して見ると、沖行く船から揚がる水手等の張り切つた呼聲の豪快振に、土の上ばかり這ひ廻つてゐた作者は度膽を拔かれて、殊に激しい衝動を受けたらしい。乃ち反復強調、「その水手」を指斥し讃歎した。而も是等の景氣が「朝」の一語に統括されて、いかにも爽快である。
 「あはれその水手」の辭樣は、卷九にも「あはれその鳥」と見え、殆ど型のきまつた嫌はあるものゝ、頗る力強い效果的の表現である。
 
 
〔卷八の目次省略〕
 
(2209) 萬葉集卷八
 
本卷は春夏秋冬の四季に關した雜歌と相聞歌とを收めた。所載年代は上は志貴皇子より、下は大伴一家の所作に至り、編次が整然としてゐる。
 
春雜《ハルノクサグサノ》歌
 
志貴《シキノ》皇子(ノ)懽《ヨロコビノ》歌
 
志貴皇子が喜の御心を詠まれた歌との意。○志貴皇子 既出(二〇〇頁)。
 
石激《いははしる》 垂見之上乃《たるみのうへの》 左和良妣乃《さわらびの》 毛要出春爾《もえいづるはるに》 成來鴨《なりにけるかも》     1418
 
〔釋〕 ○いははしる 垂水《タルミ》の枕詞。○たるみ 垂水。垂れ落つる水をいふ。瀑布は大小に關はらず皆垂水である。これを攝津國豐島都(今豐能郡)の垂水神社の地稱とする諸説は諾へない。攝津の垂水は既出(一九四〇頁)。○た(2210)るみのうへ 垂水のほとり。垂水の山の上と解するは非。○さわらび 「さ」は美稱。「わらび」は水龍骨科の植物。山野の陰地に自生する。
【歌意】 冬籠つてゐた〔六字右○〕垂水の邊の早蕨が、漸く〔二字右○〕萌え出す春に、なつたことであつたよなあ。
 
〔評〕 天智天皇の御直系の皇族方は、淨見原朝廷時代には、總體に沈滯して不振の境遇であらせられたらしい。志貴皇子は藤原宮時代の大寶三年に至つて、漸く無品から四品に昇叙、更にその九月には賜(フ)2四品志紀(ノ)王(ニ)近江國(ノ)鐵穴《カナアナヲ》1と文武天皇紀に見えた。永年雌伏状態にゐたものが、引續いて皇恩に浴し、榮位と富源とを兩つながら獲得された。運が向いて來た。「懽」とは恐らくこの際の事だらう。
 「石はしる垂水のうへ」は寒む/\として冷たい場處だ。そこにも春は到來して、蕨がそのしほらしげな小さな拳を持ち上げてゐた。皇子はこの光景に直面して、忽ち自家の開運の時節の到來したことに想到され、感慨の起らざるを得なかつた。微小の野物もなほ生々の欣びに萌える、これも時節だ。まこと嬉しい時節だ。めでたさの象徴だ。「萌えいづる春になりにけるかも」の詠歎は表面單純な一本氣の行叙と見えて、裏面には複雜した無窮の悦喜の情を包藏してゐる。格は高邁、調は清爽、意は幽婉である。
(2211) 略解に、慶雲元年に封一百戸、和銅七年には三品で二百戸を賜はり、靈龜元年に二品になり賜ふことを見れば是等の時の御歌かとあり、諸註も雷同してゐるが、それは見方が甚だ淺薄なので、さう順調の榮進時代となつては、もう「石はしる垂水のうへの早蕨」ではなく、「萌えいづる春に云々」の比興の利目が淺い。
 
鏡女王《カヾミノヒメミコノ》歌
 
○鏡女王 既出(三〇九頁)。
 
神奈備乃《かむなびの》 伊波瀬乃杜乃《いはせのもりの》 喚子鳥《よぶこどり》 痛莫鳴《いたくななきそ》 吾戀益《あがこひまさる》     1419
 
〔釋〕 ○かむなび この神奈備は大和平群都(今生駒都)の神南《カミナヒ・ジンナム》山即ち大島の嶺の事であらう。「おほしまのね」を見よ(三〇九頁)。○いはせのもり 神南山の北麓の車瀬にある。故に「神奈備の磐瀬」と續けた。奈良志野中の一林で、龍田村に屬する。「杜」の字、(2212)モリと訓むことに就いては、既出のその項(二七八頁)を見よ。○よぶこどり 既出(二五一頁)。△地圖 挿圖96を參照(三〇九頁)。
【歌意】 磐瀬の森の喚子鳥よ、さうひどく鳴いてくれるな。私の戀心が増るわ。
 
〔評〕 喚子鳥が鳴く、その聲は寂しい。背景が磐瀬の杜だ。いよ/\寂しい。この寂しさは思ふ事がなくても人戀しさの念を助長する。まして意中の人があつては尚溜らない。で、「いたくな鳴きそ」と、喚子鳥に命令した。その効果の有無は全然忘れてゐる。説明すればかう長くなるが、これだけの心理經過は一轉瞬の間に行はれての感傷である。表現か簡素で、痴呆の想を伴ひ、調が高古である。女王はその額田部の本居から逍遙して、磐瀬の杜に喚子鳥の聲を聞かれたのであらう。兩地の距離はわづか一里に過ぎない。
 卷二「妹が家も繼ぎて見ましを」の條の評語を參照(三〇九頁)。
 
駿河(ノ)采女(ガ)歌一首
 
○駿河采女 既出(一〇九六頁)。
 
沫雪香《あわゆきか》 薄太禮爾零登《はだれにふると》 見左右二《みるまでに》 流倍散波《ながらへちるは》 何物花其毛《なにのはなぞも》     1420
 
〔釋〕 ○あわゆき 泡雪。水分の多い雪の稱。○はだれ 又はハダラ。梵語|曼陀羅《マダラ》の轉語か。曼陀羅は雜色の義。(2213)その色々の交錯するのが斑《ブチ》に見えるので、物の斑《ブチ》なるをマダラといつた。久老や古義が離《ハナ》レと同語のやうにいへるはいかゞ。又はだれ雪〔四字傍点〕を略してハダレとのみもいふ。○ながらへちる 「ながらへ」は流れ〔二字傍点〕の延言。「ながらふる」を見よ(二二六頁)。○なにのはなぞも 何の花なる〔二字右○〕ぞよ。疑問の何《ナニ》、如何《イカ》に、誰が、などの辭に應じて結尾に「そも」を置いた格は、すべて問ひ懸けの意となる。卷四「何のしるしぞも」(一二二三頁)、同卷「何ぞもいもに」(一三七八頁)など皆その意。
【歌意】 沫雪が斑に降るかと見るほどに、續けて降るのは、一體〔二字右○〕何の花であるぞいまあ。
 
〔評〕 白い花が散るのなら何でもかういはれるが、矢張梅の花がふさはしい。
  わが國に梅のはな散るひさ方のあめより雪の流れくるかも(卷五、大伴卿――822)
とも既に見え、落梅を目撃しながら、餘に雪のやうなので、その梅たるを忘れた趣である。而もそれを人に問ふに至つては、その痴や及ぶべからずである。
 
尾張(ノ)連《ムラジガ》歌二首
 
○尾張連 尾張は氏、連は姓、名を逸してある。
 
春山之《はるやまの》 開乃乎爲〔左△〕黒爾《さきのをぐろに》 春菜採《わかなつむ》 妹之白紐《いもがしらひも》 見九四與四門《みらくしよし》     1421
 
(2214)〇さきのをぐろ 崎の小畔《ヲグロ》。山の出崎の田畔をいふ。「を」は美稱。「乎黒」をヲグロと訓む。「爲」は衍字で削るがよい。「爲」の衍字たることに心付かず、眞淵は乎烏里〔二字右△〕の誤として、サキノヲヽリ〔六字傍線〕と訓み、隨つて「開」を咲き〔二字傍点〕の意と解し、花が咲き撓む意とした。正辭はこれに依つて、「爲」にヲ〔傍点〕の古音ありしなるべしと彌縫した。宣長は手烏里〔三字右△〕の誤としてサキノタヲリ〔六字傍線〕と訓み、岬《サキ》の緩《タルミ》(平夷)の意に解し、略解、古義はこれに同じた。○わかな 早春の菜蔬。芹、薺、うはぎ等の野生の物を主として稱する。「春」を意訓にワカとよむ。古義訓はハルナ〔三字傍線〕で、止由氣《トユケ》宮儀式帳に、奉2進(ル)春菜|漬(ノ)料(ノ)鹽二斛(ヲ)1とあるを引いたが、儀式帳のもハルナと讀む證にはならない。而もこの歌では春の語が重複となる。○しらひも 著物の紐である。△寫眞 挿圖54(一六三頁)367(一四三三頁)を參照。
【歌意】 春の山の出崎の田の畔に、若菜を摘む、あの兒の白紐は、それを〔四字右○〕見ることがさ面白いわい。
 
〔評〕 當時の婦人は白い上衣の領紐を右脇に長く結び垂れた。又赤裳の上に纏うた褶《シビラ》の白紐もあらう。
 黒い田の土、青い若菜、美人の赤裳に映ずる白紐、その色彩は鮮明だ。就中作者は特に白紐にその興味を惹(2215)かれた。白色は目立つからでもあらうが、只だらりと下がつた紐では、遠くから見ては何の衝撃も齎さない。これは山の春風に煽られてひら/\と動いた白紐であらねばならぬ。その動的風情が、閑靜なその環境を破つて面白いのである。
 
打靡《うちなびく》 春來良之《はるきたるらし》 山際《やまのまの》 遠木末乃《とほきこぬれの》 開徃見者《さきゆくみれば》     1422
 
〔釋〕 ○うちなびく 春の枕詞。既出(六七七頁)。○やまのま 山際の字義の通りで、山間の意ではない。○さきゆく 咲いてゆく。「咲く」の活きを強めていふ。咲き續くの意ではない。
【歌意】 あゝ〔二字右○〕春は來たらしいわ。あの山際の遠くの梢が、花を〔二字右○〕著けてゆくのを見ればさ。
 
〔評〕 「らし」の想像辭は、それを裏付ける事相の如何によつて、詩味の高下、歌の優劣は定まる。この下句の如き、「春きたるらし」を立證する景象としては、少し平凡ではないか。
  うちなびき春さりくらし山のまの遠き木ぬれの咲きゆくみれば(卷十、――1865)
と同歌、第二句に一語の相違あるのみ。
 
中納言|阿倍《アベノ》廣庭(ノ)卿(ノ)歌一首
 
○中納言 既出(七四一頁)。○阿倍廣庭 既出(八五四頁)。
 
(2216)去年春《こぞのはる》 伊許自而植之《いこじてうゑし》 吾屋外之《わがやどの》 若樹梅者《わかきのうめは》 花咲爾家里《はなさきにけり》     1423
 
〔釋〕 〇いこじて 「い」は發語。「こじ」は神代紀に「根2掘《ネコジニ》五百箇眞榊《イホツマサカキヲ》1掘《コジテ》而」と見え、掘り出すことをいふ。戸をコジ開けるなどのコジはこの語の轉意。
【歌意】 去年の春掘り取つて植ゑた、私の庭の若木の梅は、もう〔二字右○〕花が咲いたわい。
 
〔評〕 移植したことと、若木であることとは、咲くを危ぶまれる理由であつた。しかし氣遣はれたその梅が咲いたので、望外の懽びを歌つたものだ。「にけり」の詞がその意外な趣を表現してある。
 
山部(ノ)宿禰赤人(ガ)歌四首
 
春野爾《はるのぬに》 須美禮採爾等《すみれつみにと》 來師吾曾《こしわれぞ》 野乎奈都可之美《ぬをなつかしみ》 一夜宿二來《ひとよねにける》     1424
 
〔釋〕 ○すみれ 菫菜科の野生植物。高さ三四寸。葉は柳より廣き劍状をなし、仲晩春墨斗状の可憐なる濃紫色の花を著く。尚種類が多い。スモフ取草。香川景樹は菫に紫雲英説を立てたが、準據のない獨斷である。菫は墨入《スミイレ》、即ち墨斗の義。その花の形状によつて名づけた。○ひとよねにける  「一夜」「二來」は戲書。
【歌意】 春の野に、菫の花摘みにと、來た私がさ、餘り野がまあ懷かしさに、とう/\一夜泊つてしまつたわい。
 
(2217)〔評〕 古來「菫摘みに」を春の行樂に花摘することだとばかり思つてゐる。古義は、衣を摺らむ料、又たゞ花を愛しみて摘むにもあるべし、などいつて、矢張遊樂本位に考へてゐる。菫は衣に摺るほど澤山もないので、景樹は古へいふ菫は今の紫雲英のことだと主張した。是等の説は、皆菫摘の眞目的を知らないのである。菫は、
  菫菜、和名|須美禮《スミレ》、(中略)※[さんずい+勺](シテ)食(ヘバ)v之(ヲ)滑疏(ニシテ)可(キ)v食(フ)之菜也、(和名抄、野菜部)
  菫萱、※[木+分]楡云々、以滑(ニス)v之(ヲ)、(禮記内則)
  菫茶如(シ)v飴(ノ)。(詩經、大雅緜章)
  蓼蟲避(ク)2葵菫(ヲ)1。註(ニ)云(フ)、菫有(リ)2二種1、此即(チ)内則(ニ)所謂菫萱之菫、根(ハ)如(ク)v薺(ノ)、葉(ハ)細(シ)v於v柳、味甘(ク)可(シ)2蒸(シテ)食(フ)1。(選詩補註)
  野菜云々、楡、註曰、啖(フニ)v之(ヲ)最(モ)滑(カニ)、如(シ)2梨頭草《スミレノ》1。(物理小識)
など見え、古へは和漢ともその葉や根を蒸したり茄でたりして食つたものである。されば菫摘は若菜摘と同じく、もと實生活の必要から出て、傍ら野遊を兼ねた陽春の行事と考へられる。そして、和名抄時代の平安期にも尚食料としたことは明らかであらう。
 さて菫摘も若菜摘も專ら婦人の所作だが、男も同伴して、その春興を滿喫したらしい。古今集に
  春日野はけふはな燒きそ若草のつまも籠れりわれも籠れり(春上)
(2218)といふもそれで、夫婦出動のピクニツク、人情は昔も今も變りはない。
 今作者も御多分に洩れず、夫婦して郊外の菫摘に來た。然し鳥啼き蝶は舞ふ芳草の野、當面の興に耽つて、霞立つ長き春日の暮れるのも忘れ、遂に野外の家に一泊した。考へて見れば菫摘に二日がかり、そんな事はあるものでない。そして、食料の菫摘は從となり、野遊の方が主となつてしまつた。我ながら苦笑して、「野をなつかしみ一夜寢にける」と、結果の意外を驚歎した。
 この歌は赤人の代表作の一つである。自然にして平淡明朗、風調優美に、語路暢達にして流滑、更に險奇の語を著けない。一氣に三句までいひ下して、七五の調に近づいてゐる。人麻呂に比して、稍後れた頃の時代調に因るのでもあらうが、作者のもつ温雅な人格の反映であることは爭へない。
 以上の如きこの歌の全輪廓を古來解し得たものがない。で「一夜寢にける」をもわざとらしい誇張と見たり、佳作とは思はぬなどいふ濫言を弄したりする。赤人が聞いたらその短見に愕くであらう。
 
足比奇乃《あしひきの》 山櫻花《やまさくらばな》 日竝而《ひならべて》 如是開有者《かくしさけらば》 甚戀目夜裳《いとこひめやも》     1425
 
〔釋〕 ○やまさくらばな 山の櫻の花。山櫻と特に稱する櫻の事ではない。○ひならべて 日數を竝べて。「ひならべなくに」を參照(一六二四頁)。○いとこひめやも 略解訓イタコヒメヤモ〔七字傍線〕。
【歌意】 山の櫻の花が、幾日もかけて、かうさ今のやうに〔五字右○〕咲いてゐるならば、ひどく花を戀はうことかいな。
 
(2219)〔評〕 櫻の花は生命が短い。
  わが行きは七日は過ぎじ立田彦ゆめこの花を風に散らすな(卷九、――1748)
と詠まれたのも櫻であらう。蓼太は更にこの意を強調して「世の中は三日見ぬまの」と詠んだ。蓼太の句は世相に比擬したその巧緻の爲に、自然味が遊離し、この歌は又その立意は首肯されるものゝ、説明に墮して餘韻が乏しい。
 
吾勢子爾《わがせこに》 令見常念之《みせむともひし》 梅花《うめのはな》 其十方不所見《それともみえず》 雪乃零有者《ゆきのふれれば》     1426
 
〔釋〕 ○わがせこ こゝは男性間の呼稱と見よう。既出(三三七・四三頁)。○ふれれば 積りたればの意。
【歌意】 わが友その人に見せうと思つた、私の庭の梅の花が、それぞ〔右○〕とも見えないわ、雪が降り積つてあるのでさ。
 
〔評〕 仔細に見れば梅は三分の白を雪に遜るが、概觀的には一般に白了して辨じ難い。作者は乃ち、「わが背子に見せむ」の情的事相を結び付けて、愈よ雪に壓せられた梅花を惜愛してゐる。その「わが背子」は必ずや色をも香をも知る人でなければならぬ。古今集の
  梅の花それとも見えず久方のあまきる雪のなべて降れゝば(冬、作者未詳)
と同套の作であつて、格調の高渾さに於いては稍劣るかも知れぬが、情景相俟つ點に於いてはこれが優つてゐ(2220)る。この作者の歌風は大方素醇清爽で、複雜性のものでも、尚單調に近づく事を忘れない。
 
從明日者《あすよりは》 春菜將採跡《わかなつまむと》 標之野爾《しめしぬに》 咋日毛今日毛《きのふもけふも》 雪波布利管《ゆきはふりつつ》     1427
 
〔釋〕 ○あすよりは 新古今集(春)、及び類本訓アスカラハ〔五字傍線〕。
【歌意】 明日からは若菜を摘まうと、占め置いた野に、昨日も今日も雪は降り/\して、摘みに行かれぬことの殘念な〔摘み〜右○〕。
 
〔評〕 山野に標を立てる事は、集中に再三歌はれてゐる。標は動詞としては占領《シメ》の意である。さては「しめし野」は野の一部に、恰も今の松茸山のやうに繩張でもして置いたものか。若菜摘もさうなつては頗る殺風景な氣がする。これは心中に場處の豫定をして置くをいふのであらう。
 初春の情景で、雪勝な天候に、待ちわびたその行遊の妨げられる、輕い遺憾さを扱つた。姿がさはやかで、平淡ながら棄て難い滋味がある。既に「明日」といひ、次いで「昨日も」「今日も」と節を拍つて日並の語を並べたのは、有意的であらうが、自然を失ふまでには至らない。「雪は降りつつ」も現在感が強くて面白い。
 
草香《クサカ》山(ノ)歌一首
 
〇草香山 既出(一七二七頁)。
 
(2221)忍照《おしてる》 難波乎過而《なにはをすぎて》 打靡《うちなびく》 草香乃山乎《くさかのやまを》 暮晩爾《ゆふぐれに》 吾越來者《わがこえくれば》 山毛世爾《やまもせに》 咲有馬醉木乃《さけるあせみの》 不惡《にくからぬ》 君乎何時《きみをいつしか》 往而早將見《ゆきてはやみむ》     1428
 
〔釋〕 ○おしてる 難波の枕詞。既出(九八五頁)。○うちなびく 打靡く草と續けて、草香の枕詞とした。○くさかのやま 「草香山」を見よ(一七二七頁)。○やまもせに 山も狹《セ》きほど〔二字右○〕に。○あせみ 既出(一九二六頁)。○あせみの 「あせみ」の如く〔二字傍点〕。「にくからぬ」の序とした。○にくからぬ 可愛いの逆語。古義訓アシカラヌ〔五字傍線〕は非。△地圖及寫眞 第一卷の卷頭挿圖、及挿圖415(一七二九頁)を參照。
【歌意】 既に〔二字右○〕難波を打過ぎ、草香山を夕方に、私が越えてくると、山も狹いほどに、咲いてゐる馬醉木《アセミ》の、その花の〔四字右○〕やうに愛らしいあの兒を、何時さ往つて、早く見ようことか。
 
〔評〕 難波を通過して奈良京へ歸る人の作である。意中の人に早く逢ひたいの念は、難波に來著と同時に、愈よ燃え盛る。草香の直越《タヾコエ》にかゝると、黄昏の光に、馬醉木《アセミ》の鈴成の花が、山一杯に白く匂うてゐる。あゝ「憎からぬ」花だと見惚れた瞬間、再び「憎からぬ」人の上に聯想は立戻つて、もう一二時間で京入とはなるものゝ、然しそれは夜分だ。愈よ氣が急いて「往きて早見む」と焦立つた。
 短篇ながら變化が横生してゐる。中間自然の景象を配した情景の對映も面白く、心的轉換の状歴々として、(2222)印象鮮明である。
 殊に主要の情語を最後に配して、全首にその反撥力を波及せしめた篇法も面白い。
 
右一首(ハ)、依(リテ)2作者|徴《イヤシキニ》1不v顯(ハサ)2名字(ヲ)1。
 
右の一首の歌は詠人の身分が卑いので、その名をあらはして書かぬとの意。本集には遊行婦即ち娼女などさへ、その名の明記されたのがある。古代の社會通念では、彼等の階級は現代ほど輕蔑されてゐなかつた。それ以下の微者とすると、乞食者を別としては奴婢階級の外はない。奴婢は即ち奴隷で、稻何百束で賣買された賤民であつた。當時良民と賤民との差別は非常に嚴格で、その事は國史や令に示されてある。想ふにこの作者は奴婢階級の人であらう。もし遊行婦の作なら、本卷、夏雜歌の「橘歌」の題下に遊行女婦と注してある如く、この題下にもその注記のあるべきだ。
 
櫻花(ノ)歌一首并短歌
 
※[女+感]嬬等之《をとめらが》 頭挿乃多米爾《かざしのために》 遊士之《みやびをが》 ※[草冠/縵]之多米等《かづらのためと》 敷座流《しきませる》 國乃波多弖爾《くにのはたてに》 開爾鷄類《さきにける》 櫻花能《さくらのはなの》 丹穗日波母安奈何《にほひはもあなに》     1429
 
(2223)〔釋〕 ○かざし 既出(一五四頁)。○かづら 既出(九四六頁)。○ためと 上に「ために」とあるので、助辭を「と」といひ換えた。に〔傍点〕もと〔傍点〕もこゝは同意。さてこの句は「さきにける」に跨續する。○しきませる 大君の〔三字右○〕の語を補うて聞く。既出(七九五頁)。○はたて 果手《ハタテ》の義。果て〔二字傍点〕と同意。「て」は行手の手に同じい。○にほひはもあなに 八言の句「にほひ」は色澤をいふ。「はも」は歎辭。○あなに まあ美しい。「に」は和《ニギ》びて美しいの意。神代紀に、妍哉をアナニヱヤと訓んである。アナもヱヤも歎辭。ニに充てた「妍」の字は匂やか〔三字傍点〕、たをやか〔四字傍点〕の意。「何」は荷〔右△〕の通用で、誤字ではない。類本神本その他に爾〔右△〕とあるは愈よ明白である。△挿圖377(一四六九頁)を參照。
【歌意】 處女達が髪挿の爲に、風流男達が※[草冠/縵]の爲に、大君の〔三字右○〕統治なされる國のはてまで〔二字右○〕に、咲いてゐる櫻の花の色艶はまあ、あゝ美しい。
 
〔評〕 事實からいへば、當時の櫻は專ら山櫻だから、枝が剛くて※[草冠/縵]にはしにくいが、髪挿に對しての文飾で、「※[草冠/縵・の爲」といつた。そして櫻を只、若い男女達の陽春行樂の爲に日本中に咲き渡るものゝやうに一氣に主張した。こんな勝手な解釋は、全く櫻に狂する者の言葉であるが、又事實昔から櫻の國日本であつたのだ。結局「匂はもあなに」の讃美が、この製作の本意である。
 中間「敷きませる國」は大君のの主語を要する格なので、上に八隅しゝわが大王の〔九字右○〕の二句の落句ありとする契沖説が、一般に認められてゐる。然し大王の敷きます〔六字傍点〕はその當時では判で押したやうな慣習語なので、わざと省筆したと見ても差支はあるまい。まして小型の長歌としては、その位の自由は與へられてもよい。この歌(2224)はわが皇國を櫻に結び付けて考へる思想の最先驅をなした作である。
 
  反歌
 
去年之春《こぞのはる》 相有之君爾《あへりしきみに》 戀爾師乎〔二字左△〕《こひにしを》 櫻花者《さくらのはなは》 迎來良之母《むかひくらしも》     1430
 
〔釋〕 ○こひにしを 「師乎」原本に手師〔二字右△〕とあり、コヒニテシ〔五字傍線〕と訓まれるが、意が明晰を缺き、辭法も不穩である。新考いふ、師乎を顛倒して而も乎を手に誤れるならむと。さもあらう。○むかひくらしも、「むかひく」は來向〔二字傍点〕ふに同じい。古義訓ムカヘケラシモ〔七字傍線〕。
【歌意】 去年の春逢つた人に、戀したことであつたのを、今や〔二字右○〕櫻の花は、その時季に〔五字右○〕向つて來るらしいまあ。
 
〔評〕 花下に不圖出會つた人に輕い戀心を覺えたのであつたが、又もや春が立返つて櫻花の季節となつたので、懷舊の情がむら/\と起り、死灰が再び燃えた。花見に往つたら若しか又逢へもせうの意を言外に遺して、單に「櫻の花は向ひ來らしも」といひ棄てた婉曲な手法は、その含蓄味を深からしめる。
 
右二首(ハ)、若宮《ワカミヤノ》年魚《アユ》麻呂誦(ム)v之(ヲ)。
 
この長短歌二首は、年魚麻呂が讀んで聞かせたとの意。○若宮年魚麻呂 既出(八八七頁)。
 
山部(ノ)宿禰赤人(ガ)歌一首
 
(2225)百濟野乃《くだらぬの》 芽古枝爾《はぎのふるえに》 待春跡《はるまつと》 居之※[(貝+貝)/鳥]《をりしうぐひす》 鳴爾鷄鵡鴨《なきにけむかも》     1431
 
〔釋〕 ○くだらぬ 百濟野は「くだらのはら」に同じい。既出(五四〇頁)。○はぎ 既出(一〇〇一頁)。○ふるえ 枯れ殘る枝をいふ。○をりし 類本神本の訓による。古義は「居」の上に來〔右△〕を補うてキヰシ〔三字傍線〕と訓んだ。舊訓スミシ〔三字傍線〕。○けむかも 「鷄鵡鴨」は戲書。△地圖 挿圖141(五一二頁)を參照。
【歌意】 百濟野の萩の枯枝に、春を待つとて〔右○〕、居たことであつた鶯は、もうとうに〔五字右○〕鳴いたであらうかいまあ。
 
〔評〕 作者は冬の頃百濟野を通過し、偶ま枯れ殘つた野萩の枝潜りしで飛ぶ鶯を瞥見した。陽春の今、四邊鶯の流音を聞くにつけ、嘗ての百濟野の鶯を想起し、つぶさにその可憐の状態を思ひ、延いては萩の古枝の野情を偲んだ。「啼きにけむかも」の落句、その黙々として飛んで居た趣を反映し、野生の微物に、なほその愛著を禁じ得ない、作者の情意の温さがほの見える。
 
大伴(ノ)坂上(ノ)郎女(ノ)柳(ノ)歌二首
 
○坂上郎女 既出(八六七頁)。
 
吾背兒我《わがせこが》 見良牟佐保道乃《みらむさほぢの》 青柳乎《あをやぎを》 手折而谷裳《たをりてだにも》 見縁〔左△〕欲得《みむよしもがも》     1432
 
(2226)〔釋〕 ○みらむ 既出(二一七頁)。○さほぢ 佐保路。奈良京の佐保川添ひの路の稱。なほ「さほ」(七三八頁)及び次の歌の「うちのぼる」を見よ。○みむよしもがも 「縁」原本に綵〔右△〕とあるは解し難い。契沖説によつて改めた。△地圖 挿圖170(六一七頁)を參照。
【歌意】 わが背子の君が、愛でてお覽なさるであらう處の、佐保路の青柳を、せめて一枝〔五字右○〕手折りてなりともして、見よう術《スベ》もありたいなあ。
 
〔評〕 佐保路の柳は次の歌にも「打上る佐保の川原の青柳は」と詠まれ、佐保の川沿道即ち佐保路が柳竝木になつて居たらしい。青々たる河畔の柳、佐保路の春色は必ず奈良京唯一の名勝だつたに相違なく、參退の官人達のこの路にかゝる者は、蔭立ちならして、幾瀬かの春水に影を曳く麹塵の絲に、その朝服の袖を拂はせたことであらう。作者のいはゆる「我背子」もやはりその一人であつたのだ。「我背子」は或は郎女の後の夫藤原麻呂卿かも知れない。
 郎女は麻呂卿との間に、何か面白からぬ經緯があつたと見え、遠く宰府の兄旅人卿の許に投じてゐた。異境に春を迎へた覊人の愁は殊に婦人に於いて甚しからう。油然として起る國偲びの念は、花と榮ゆる奈良京を思ひ、士女の春遊を思ひ、遂に佐保路の柳を思ふ。而もその柳は更に無情の故人我背子を聯想せしめる媒たるに至つて、その感傷は極まる。
 實に「我背子が見らむ佐保路の青柳」は、郷愁に更に離愁を加ふるもので、一枝なりとも手折つてまのあたりに見たいとの切なる情願に裏書するものであつた。情緒纏綿。
 
(2227)打上《うちのぼる》 佐保能河原之《さほのかはらの》 青柳者《あをやぎは》 今者春部登《いまははるべと》 成爾鷄類鴨《なりにけるかも》     1433
 
〔釋〕 〇うちのぼる 「うち」は接頭語。佐保路は奈良皇居の正面、二條通に面した朱雀門から羅城門に至る朱雀大路の一部で、佐保川に沿うた四條から九條間の稱であらう。すべて京中の路は皇居のある北へ向ふをノボルといふ。中にもこの重要なる朱雀大路の南半部を保有する佐保路だから、「うちのぼる」の詞を冠するは至當である。久邇京の登大路も同意味からの命名であらう。訓は古本による。嘗訓ウチアグル〔五字傍線〕。なほ他説では(1)佐保路は打|上《ノボ》りつゝ行く處ならむからにいへるにや(眞淵説)。(2)打登る眞穗《マホ》を佐保にいひかけたるなるべし、登《ノボル》は穗の張り出づるまゝにすく/\と立登る由なり(古義)。(3)舊訓に依つて、打|上《ア》ぐる眞帆《マホ》を佐保にいひかけたり(古義一説)。○さほのかはら 「さほがは」を見よ(二七三頁)。○なりにけるかも 新考はナリニケムカモ〔七字傍線〕と訓んで「類」を誤とした。
【歌意】 佐保川の河原の青柳は、只今はもう、春めく時となつたことであるかまあ。
 
〔評〕 佐保川路の柳竝木は、多分宮城や道路に楊柳を栽ゑた漢土の都城の趣を移したものだらう。されば陽春の候となると、その※[參+毛]々たる麹塵の絲が時に朝紳參退の袖を拂ひ、時に行人の肩や馬背を撫でて、懷かしい京名物となつてゐたと想はれる。
 さて「河原の青柳」は珍しい。嚴しくいへば柳は岸にこそあれ河原の物ではないが、大まかに打任せての措(2228)辭と見ておかう。作者は有名な柳原に緑が囘つて來たのを見て、その新春の色に目を瞠つて詠歎しつゝ、裏面には日月の經過の迅速なことを驚歎してゐる。「今は」の一語が眼目である。
 前の歌と同時の作ではない。然し新考説の如く結句を「なりにけむかも」とすれば、他郷又は異地にありての想像となるから、同時の作と見られる。
 
大伴(ノ)宿禰|三林《ミヨリガ》梅(ノ)歌一首
 
○大伴宿禰三林 「林」は或は依〔右△〕の誤で、大伴三依のことか。尚思ふにこれは誤ではなくて、音訓入り交りではあるが、三依《ミヨリ》の音に因んだ文雅上の作名らしい。三依の傳は既出(一一六六頁)。
 
霜雪毛《しもゆきも》 未過者《いまだすぎねば》 不思爾《おもはぬに》 春日里爾《かすがのさとに》 梅花見都《うめのはなみつ》     1434
 
〔釋〕 ○いまだすぎねば まだ霜雪の降るをいふ。○かすがのさと 既出(九一五頁)。
【歌意】 霜や雪もまだ、その時が過ぎないのに、意外に春日の里に、梅の花を見たわい。
 
〔評〕 平凡な所見で、梅花の霜雪を凌ぐも新意がない。全體が理路に著してゐる。
 春日の里わは奈良京の東郊で、その頃多少の梅が閭間に點在してゐたと見える。日受けもよい地勢だから、他處よりは花が早く咲くのであつた。
 
(2229)厚見《アツミノ》王(カ)歌一首
 
○厚見王 傳既出(一二八八頁)。
 
河津鳴《かはづなく》 甘南備河爾《かむなひがはに》 陰所見《かげみえて》 今哉開良武《いまやさくらむ》 山振乃花《やまぶきのはな》     1435
 
〔釋〕 ○かはづなく 神南備川の序語。「千鳥啼く佐保川」の類で、單なる修飾語である。「かはづ」は既出(七八七頁)。○かむなひがは 大和國に二箇處ある。(1)は平群郡の神南山即ち三室山(大島の嶺)をめぐる寺川の稱。(2)は高市郡の神南備山即ち雷の岡をめぐる飛鳥川の一稱。以上のうちこゝは(2)を可とする。○かげみえて 「咲くらむ」に跨續する。「陰」は影の借字。○いまや 古本多くイマカ〔三字傍線〕と訓んである。○やまぶき 薔薇科の灌木。既出(四四四頁)。「振」を充てたのは、振り〔二字傍点〕は古言に振《フ》きと加行四段に活用したからで、羽振《ハブキ》の語もその一例。△地圖及寫眞 挿圖――105(三三四頁)144(五二三頁)を參照。
【歌意】 あの神南備川に影が映つて、今頃咲くであらうか、山吹の花が。
 
〔評〕 蛙の噂く神南備川は飛鳥である。赤人、古麻呂、金村その他の諸家の作にも、蛙が歌つてある。
 この歌は表面は神南備川の山吹は今咲くだらうかとの單純な想像に過ぎない。然しその根柢に過去がある。作者は嘗てその河水に映じた山吹の陸離たる光彩をなつかしんだ。時今や季春、忽ち當時の光景を想起し、そ(2230)の印象を反芻して、「影見えて今や咲くらむ」とその詩思を馳せた。自然への憧憬、そこに美しい情感がある。これを空想の所産らしく考へるのは近眼者の妄見である。
 體格典雅、風調優艶、節奏の微妙と相俟つて、後代の歌人殊に元久歌人の渇仰する所であつた。それだけ格調は平安期に近いものであつて、貫之はこれに私淑して、
  逢坂の關のしみづに影見えていまや引くらむ望月の駒(拾遺集、秋)
と歌つた。
 
大伴(ノ)宿禰|村上《ムラカミガ》梅(ノ)歌二首
 
○大伴宿禰村上 續紀の神護景雲二年七月の條に、日向國宮崎郡の人大伴(ノ)人益が、肥後國葦北郡の人刑部(ノ)廣瀬女と共に、白龜の赤眼なのと青馬の白髪毛なのを獻り、各從八位下を授けられ、※[糸+施の旁]十匹綿廿屯布卅端、正税一千束を賜はり、又人益が父村上に、父子之際同(ウスルハ)v心(ヲ)天性也、恩賞(ノ)所v被(ムル)、事須(シ)2同(ジク)沐(ス)1とあつて、その縁黨の罪を恕して入京を赦された事が見え、村上は寶龜二年四月正六位上から從五位下に叙せられ、その十一月肥後介となり、同三年四月從五位上で阿波守となつた。
 
含有常《ふふめりと》 言之梅我枝《いひしうめがえ》 今旦零四《けさふりし》 沫雪二相而《あわゆきにあひて》 將開可聞《さきぬらむかも》     1436
 
〔釋〕 ○あひて 立ち合うて。
(2231)【歌意】 まだ蕾んでゐると聞いた梅の枝は〔右○〕、今朝降つた泡雪に張り合つて、咲いたらうかまあ。
 
〔評〕 雪中に梅の芬芳を放つ美しい潔い風致を想像した。梅の霜雪を凌ぐは支那傳來の極まり文句だが、それが事實だから仕方がない。下の
  けふふりし雪にきほひてわが宿の冬木の梅は花咲きにけり(家持――1649)
は現在描寫になつてゐるが、畢竟は同趣。なほ
  しはすには沫雪降るとしらねかも梅が花咲く含めらずして(少鹿女郎――1648)
はこの歌と表裏してゐる。
 
霞立《かすみたつ》 春日之里《かすがのさとの》 梅花《うめのはな》 山下風爾《やまのあらしに》 落許須莫湯目《ちりこすなゆめ》     1437
 
〔釋〕 ○かすみたつ 春日に係る序語。春日山附近は雲烟が常に立つのでいひ續けた。霞は古代には春季以外にも詠んでゐる。「千鳥鳴く佐保」「蛙鳴く井手」など類例が多い。略解はカスミタチ〔五字傍線〕と訓んで枕詞とした。○やまのあらしに 「やまのあらしの」を見よ(二五八頁)。○ちりこすな 「ききこすな」を參照(一二八○頁)。
【歌意】 春日の里の梅の花よ、山の嵐に散つてくれるなよ、きつと。
 
〔評〕 風に散るは花の常態、それを「山のあらし」にも必ず散るなとは、隨分無理な注文だが、その無理たるを(2232)忘れる程、まこと美しい梅だつたのだ。山は春日山である。 
大伴(ノ)宿禰駿河麻呂(ガ)歌一首
 
○駿河麻呂 傳既出(九〇六頁)。
 
霞立《かすみたつ》 春日里之《かすがのさとの》 梅花《うめのはな》 波奈爾將問常《はなにとはむと》 吾念奈久爾《わがもはなくに》     1438
 
〔釋〕 ○うめのはな 以上三句は花の疊音によつた序詞。○はなにとはむと あだに訪はうとは。「はなに」は前出(二一四五頁)。
【歌意】 春日の里の梅の花の、花といふあだ事に、貴女を訪はうと、私は思ひませんのにね。――それを浮いた事のやうにお取りなさるのは酷い〔それ〜右○〕。
〔評〕 これは探梅の作ではない。懸想人としての辭令で、
  まひしつゝ君がおほせる撫子の花のみとはむ君ならなくに(卷廿、左大臣――4447)
と同意の作である。表現はこの歌の方が明晰で洗練されてゐる。
 卷三にもこの作者の梅の歌があり、同じく戀歌である。
 
中臣《ナカトミノ》朝臣|武良自《ムラジガ》歌一首
 
(2233)○中臣朝臣武良自 傳未詳。武郎自は連《ムラジ》の義で、こゝは名である。
 
時者今者《ときはいまは》 春爾成跡《はるになりぬと》 三雪零《みゆきふる》 遠山邊爾《とほやまのへに》 霞多奈婢久《かすみたなびく》     1439
 
〔釋〕 ○ときはいまは 六言の句。○みゆきふる 雪の積つてあるをいふ。集中その例が多い。「み」は美稱。○とほやまのへに 舊訓トホキヤマベニ〔七字傍線〕。
【歌意】 時節はもう、春になつたと、あの雪のつもる遠山の邊に、霞が靡くわ。
〔評〕 天地の春を知つて靡くと、霞の所作を有意的に取成した。遠山の鋭い雪白に映射した、長閑けくやはらかい紫の霞の搖曳は、初春の景氣が著しくそこに生動する。體は長高、調は優雅である。
 
河邊(ノ)朝臣|東人《アヅマヒトガ》歌一首
 
○河邊朝臣東人 續紀に、神護景雲六年正月正六位上から從五位下、寶龜元年十月石見守となるとある。
 
春雨乃《はるさめの》 敷布零爾《しくしくふるに》 高圓《たかまとの》 山能櫻者《やまのさくらは》 何如有良武《いかにかあるらむ》     1440
 
〔釋〕 ○しくしくふる 「しく/\」は重々《シキ/\》の意。繁きこと。頻なること。眞淵訓による。奮訓シキ/\フルニ〔七字傍線〕。(2234)○たかまとのやま 既出(六一六頁)。○いかにか 西本にこの訓あり。舊訓イカニ〔三字傍線〕は非。
【歌意】 春雨が頻つて降るにつけ〔二字右○〕。高圓の山の櫻は、どんなであらうかしら。
 
〔評〕 大方咲いたらうと、雨中に花を想ふ、その風流情緒が輕く流れ出てゐる。隣の春日山と違つて、高圓山は常磐木が少いし、裾野は草野だから、花でも咲けば人目に著く。
 
大伴(ノ)宿禰家持(ガ)※[(貝+貝)/鳥](ノ)歌一首
 
○大伴宿禰家持 既出(九〇〇頁)。
 
打霧之《うちさらし》 雪者零乍《ゆきはふりつゝ》 然爲我二《しかすがに》 吾宅乃苑爾《わぎへのそのに》 ※[(貝+貝)/鳥]鳴裳《うぐひすなくも》     1441
 
〔釋〕 〇うちきらし 「きらし」は霧《キ》るの佐行四段に活用された語。「きれる」(一二六頁)及び「きらふ」(三〇三頁)を見よ。○わぎへ 「わぎへのあたり」を見よ(一二八三頁)。
【歌意】 掻きくらし雪は降り/\するが、流石に自分の家の園に、鶯があれ鳴くわい。 
〔評〕 矛盾した景趣に對し、驚異の眼を瞠つて、「しかすがに」の語を轉捩の楔子とした。その内實は、鶯聲によつて陽氣の催すのを欣んでゐる。(2235)結句に「鶯鳴くも」と置いた例を集中に求めると、この歌の外に八首算する。特殊語でないからそれも無理はない。さてかやうに動詞形容詞に歎辭のも〔傍点〕を添へて結收する體は、平安以降漸く廢れてきた。
 
大藏(ノ)少輔丹比屋主眞人《スナイスケタヂヒノヤヌシノマヒトガ》歌一首
 
○大藏少輔 大藏省の次官。大藏省は主として出納を掌る官司で、卿《カミ》一人(正四位下相當)、大輔一人(正五位相當)、少輔一人(從五位相當)と令に見える。○丹比屋主眞人 丹比は氏、屋主は名、眞人は姓。屋主は續紀によれば神龜元年二月正六位上から從五位下、天平十七年正月從五位上、同十八年九月備前守、同二十年二月正五位下、天平勝寶元年閏五月左大舍人頭となつた。卷六に丹比|家主《イヘヌシ》の名が見える。原本にそれを屋主とするは誤。同條參看(一八〇八頁)。
 
難波邊爾《なにはべに》 人之行禮波《ひとのゆければ》 後居而《おくれゐて》 春菜採兒乎《わかなつむこを》 見之悲也《みるがかなしさ》     1442
 
〔釋〕 ○なにはべ 難波の方。「みつのはま」を見よ(二三五頁)。○ゆければ 行きければ。「ゆけ」は加行四段活の第五變化、「れ」は現在完了の助動詞。○おくれゐて 跡に殘つてゐて。○かなしさ この「かなし」は可愛さうの意。
【歌意】 難波の方に、その想ふ〔四字右○〕人が往つたので、跡に殘つてゐて、獨〔右○〕若菜を摘む兒を見ること〔二字右○〕が、可愛さうなことよ。
 
(2236)〔評〕 愛する男は難波へ往つた。只獨悶々の情を抱いて、せめてもの心遣りに近郊の若菜摘に出てゐる兒、他の幾群かの綺羅の中は夫婦連れの遊行もあることを思ふと、まこと氣の毒にも可愛さうにもなる。さうした對映的景致のある事實を忘れては、この歌の滋味は半減する。「人の」といつて、夫とも何とも説破せぬのも、含みの多い味のある表現である。
 
丹比(ノ)眞人|乙麻呂《オトマロガ》歌一首
 
○丹比眞人乙麻呂 目録の註に、屋主(ノ)眞人(ノ)第二之子也とある。續紀に、天平神護元年正月正六位上から從五位下に、同十月の紀伊行幸に爲(ス)2御前次第司(ノ)次官(ト)1と見えた。
 
霞立《かすみたつ》 野上乃方爾《ぬのへのかたに》 行之可波《ゆきしかば》 ※[(貝+貝)/鳥]鳴都《うぐひすなきつ》 春爾成良思《はるになるらし》     1443
 
〔釋〕 ○ぬのへ 野邊。〇ゆきしかば 既出(二〇二〇頁)。
【歌意】 霞の立つ野邊の方に往つたので、鶯が嶋いたわ。もう春になるらしい。
 
〔評〕 霞の立つ春の景象、野邊に出遊するのは春候に促された行動、それでもう春の趣は十分だ。けれども春の象徴たる鶯の聲を聞くに至つて、始めて躊躇せずに「春になるらし」といひ得る。圖らず春信の第一聲を聞き(2237)得た歡の情が動いてゐる。
 
高由女王《タカタノヒメミコノ》歌一首
 
○高田(ノ)女王 既出(一一四六頁)。
 
山振之《やまぶきの》 咲有野邊乃《さきたるぬべの》 都保須美禮《つぼすみれ》 此春之雨爾《このはるのあめに》 盛奈里鷄利《さかりなりけり》     1444
 
〔釋〕 ○つぼすみれ 菫の花はそのつぼんだ形状から、また壺菫とも呼ぶ。「菫」を見よ(二二一六頁)。○さきたるぬべの 新考訓サケルヌノヘノ〔七字傍線〕。
【歌意】 山吹の咲いてゐる、野邊の壺菫が〔右○〕、この春雨に、眞盛りであることわい。
 
〔評〕 「この」と強く春雨を提擧して、濡れて咲く菫の可憐な情趣を映出させた。「盛りなりけり」は菫の状景の描寫位に輕く看過され勝だが、そこに詠歎がある。摘んでもゆきたいがこの雨ではといふ、菫に對するあこがれが内面に動いてゐる。まこと婦人らしい作である。「山吹の咲きたる」は實景であらうが、焦點たる菫への注意を分散させる恐がある、黄紫の配色も美しいが。但かうした體は集中に可成り多い。
 
大伴(ノ)坂上(ノ)郎女(ガ)歌一首
 
(2238)風交《かぜまじり》 雪者雖零《ゆきはふるとも》 實爾將〔左△〕成《みにならむ》 吾宅之梅乎《わぎへのうめを》 花爾令落莫《はなにちらすな》     1445
 
〔釋〕 ○みにならむ 「將」原本に不〔右△〕とあり、ミニナラヌ〔五字傍線〕と訓まれてある。新考に將の誤としたのは宜しい。
【歌意】 假令風まじりに雪は降るとしても、追つ付け〔四字右○〕實にならうところの〔四字右○〕、私の宅の梅を、あだに散らすなよ。
 
〔評〕 「わぎへの梅」はわが娘を擬へ、風まじりに風のふるやうな、えらい故障があつても、未來は夫婦とならう筈の私の内の娘との縁を、中途であだにしてはならぬぞとの譬喩である。下の
  わぎもこが形見の合歡木《ネブ》は花のみに咲きてけだしく實にならぬかも(卷八――1463)
は事は正反してゐるが、花實のあしらひが相似てゐる。
 郎女の娘は、坂上大孃、坂上二孃の二人である。その中の誰れかへの懸想人に與へた歌であらう。
 
大伴(ノ)宿禰家持(ガ)春〔左△〕※[矢+鳥]《ハルノキヾシノ》歌一首
 
○※[矢+鳥] キヾシ、後には約めてキジといふ。平安期以後は專らキヾスと呼んだ。「※[矢+鳥]」は雉〔右△〕と同字。鶉鷄類の野鳥。春※[矢+鳥]は春その雌を戀うて鳴く雉をいふ。古義に二字をキヾシとのみ訓んだのは不完。「春」原本に養〔右△〕とあるは誤。
 
(2239)春野爾《はるのぬに》 安佐留※[矢+鳥]乃《あさるきぎしの》 妻戀爾《つまごひに》 己我當乎《おのがあたりを》 人爾令知管《ひとにしれつつ》     1446
 
〔釋〕 ○あさる 「あさり」を參照(一四九六頁)。○おのがあたりを 拾遺集(春)にはオノガアリカヲ〔七字傍線〕とある。○しれつつ 知ら〔右○〕れつゝの意。られ〔二字傍点〕の約はレ。「令知」はシラシメでシラレではないが、卷十三の長歌の中にも「人不令知」をヒトシレズと訓んである。
【歌意】 春の野に求食《アサリ》する雉子が、妻戀しさに鳴いて〔三字右○〕、自身の在處を、人に知られ/\してさ。愚しいことよ〔六字右○〕。
 
〔評〕 春の雉子は萋々たる芳草の間に伏してゐるが、折々妻戀にその鋭い聲を立てるので、この野に雉子が居るなと、すぐ人に知られてしまふ。そのやうに自分も妻戀の思を我から外面に露はして、人に感付かれることよとの譬喩だ。雉子に對しては同情であるが、自身に對しては、戀の爲に世間の耳目をも忘れた愚さを批判した嘲笑の言葉で、そこに悔恨の情が動いてゐる。すべて自己批判は歌としては結果が面白くなくなるが、これは譬喩の表現でもつて、その缺點を援護してゐる。
 
大伴(ノ)坂上(ノ)郎女(ガ)歌一首
 
尋常《よのつねに》 聞者苦寸《きくはくるしき》 喚子鳥《よぶこどり》 音奈都炊《こゑなつかしき》 時庭成奴《ときにはなりぬ》     1447
 
(2240)〔釋〕 ○よのつねにきく、平常に聞くは。○よぶこどり 既出(二五一頁)。
【歌意】 平生聞くこと〔二字右○〕はわびしい呼子鳥、それが〔三字右○〕聲の懷かしい、時節にはなつたわい。
 
〔評〕「懷かしき時」は春を斥した。春の暢んびりした氣持で聞くと、愁はしげなボヤケたやうな呼子鳥の聲も、却て和やかな聞いてもみたい聲となるのである。萬法は一心だ。大方佐保の山齋續きの山邊に鳴く呼子鳥を聽いたのであらう。
 この歌は呼子鳥が春季を主と鳴くことの證左となつてゐる。
 
右一首、天平四年三月一日、佐保《サホノ》宅(ニテ)作(メル)。
 
○佐保宅 大伴家の本邸。郎女の父安麻呂は佐保(ノ)大納言と呼ばれた。子息旅人卿傳承して、その妹坂上邸女も住んでゐた。
 
  春(ノ)相聞《サウモン》
 
○相聞 既出(二九七頁)。
 
大伴(ノ)宿禰家持(ガ)贈(レル)2坂上(ノ)家(ノ)之|大孃《オホイラツメニ》1歌
 
○坂上家之大孃 既出(九一〇頁)。
 
(2241)吾屋外爾《わがやどに》 蒔之瞿麥《まきしなでしこ》 何時毛《いつしかも》 花爾咲奈武《はなにさきなむ》 名蘇經乍見武《なぞへつつみむ》     1448
 
〔釋〕 ○やど 「屋外」は意を以て充てた。○いつしかも 既出(八八八頁)。○さきなむ 「なむ」は現在完了の推量の助動詞。契沖訓による。舊訓サカナム〔四字傍線〕は非。○なでしこ 既出(一〇一六頁)。○なぞへつつ  擬《ナゾラ》へつゝ。古語。
【歌意】 私の庭に蒔いた撫子よ、何時まあ花と咲き出るであらうか。咲いたら貴女に〔七字右○〕擬へ/\して見ようわ。――多分この戀心が慰まうも知れぬ〔多分〜右○〕。
 
〔評〕 戀する人の眼では、あらゆる事物が愛の對象と映ずる。まして可憐そのものである撫子だ。今その種を蒔きつゝ「擬へつゝ見む」と、早くも開花の節を待ちわびる心持は讀めた。さてこの歌をその本人に贈つた所以は、わが愛情を表明して、相手の歡心を獲むが爲である。この撫子が咲いた頃だらう、作者は又、
  撫子のそのはなにもが朝な/\手に取りもちて戀ひぬ日なけむ(卷三――408)
と詠んで大孃に贈つてゐる。何れも柔腸の情語。
 
大伴(ノ)田村(ノ)家(ノ)之|大孃《イラツメガ》與《オクレル》2妹坂(ノ)上(ノ)大孃(ニ)1歌一首
 
〇大伴田村家之大孃 既出(一三六〇頁)。
 
(2242)茅花拔《ちばなぬく》 淺茅之原乃《あさぢのはらの》 都保須美禮《つぼすみれ》 今盛有《いまさかりなり》 吾戀苦波《わがこふらくは》     1449
 
〔釋〕 ○ちばなぬく 茅花は後にツバナ〔三字傍線〕と轉じた。淺茅《アサヂ》の春の穗をいふ。白くして絮《ワタ》の如く柔で喰はれる。この穗は引けげ拔ける。故に茅花拔くといふ。尚「あさぢはら」を參照(八〇一頁)。訓は神本による。○つぼすみれ 壺菫の盛なる如く〔五字右○〕。以上三句は「盛なり」に係る序詞。前出(二二一六頁)を參照。
【敬意】 茅花を拔く淺茅の原の、壺菫の盛なやうに、今が燃えさかる頂上ですわ、私が貴女を〔三字右○〕戀ふること〔二字右○〕は。
 
〔評〕 春先の淺茅原には茅花も崩え、菫も咲く。それを抽いたり摘んだりするのは婦人の仕事だ。上にも高田(ノ)女王は
  山吹の咲きたる野べの壺菫この春雨にさかりなりけり(本卷――1444)
と歌はれ、種々の點において相似してゐるが、これは更に一歩を進めて、そこに妹大孃を思ふ感懷を托した。蓋し田村大孃は、妹大孃とこの野遊の興を倶にせぬ事を深く遺憾としたのである。田村大孃の妹思ひは、卷三所載の「よそにゐて」以下の四首の歌及び左の
  わが宿の萩がはな咲く夕かげに今も見てしが妹がすがたを(卷八――1622)
  わが宿にもみづるかへで見る毎に妹をかけつゝ戀ひぬ日はなし(同――1623)
  あわ雪の消ぬべきものを今までに長らへぬるは妹にあはむとぞ(卷九――1662)
(2243)の三首に、本文の歌どもを湊合して一連に考へると、尋常一樣でなかつた事が諾かれ、その優れたやさしい人情美に打たれる。
 なほこれに就いて餘説がある。本卷の末、田村大孃の「あは雪の消ぬべきものを」(1662)の條の評語を參照。
 
大伴(ノ)宿禰家持(ガ)贈〔三字右○〕(レル)2坂上(ノ)郎女(ニ)1歌一首
 
○家持贈 この三字原本にない。諸説かく補ふを可とした。この前後家持の歌が多いから、假にそれに隨つて置いた。
 
情具伎《こころぐき》 物爾曾有鷄類《ものにぞありける》 春霞《はるがすみ》 多奈引時爾《たなびくときに》 戀乃繁者《こひのしげきは》     1450
 
〔釋〕 ○こころぐき 「こころぐく」を見よ(一三四四頁)。
【歌意】 悩ましいものでさ、あつたわい、春霞の靡く時分に、戀心のしげく燃えるのは。 
〔評〕 作者を必ず家持とすれば、坂上郎女は叔母に當り、その娘大孃が自分の妻だから、この戀は廣い意味の戀と見ねばならぬ。郎女は佐保の本邸に住み、家持は佐保の西宅に居た。春のもや/\した氣分は人懷かしく悩ましいものである。但
(2244)  春日山かすみたなびき情ぐく照れる月夜にひとりかも寢む(卷四、坂上大孃――735)
は相似た境地。曲はないが贈答としても聞える。さては題詞の「贈坂上郎女」は「贈坂上大孃〔二字右△〕の誤か。
 
笠(ノ)女郎(ガ)贈(レル)2大伴(ノ)家持(ニ)1歌一首
 
○笠女郎 既出(九〇〇頁)。
 
水鳥之《みづとりの》 鴨乃羽色乃《かものはいろの》 春山乃《はるやまの》 於保束無毛《おぼつかなくも》 所念可聞《おもほゆるかも》     1451
 
〔釋〕 ○みづとりのかものはいろの 水鳥の鴨の羽の色の如き〔二字右○〕。春山に續けた序詞。春の山は草木が青み渡るので譬へた。鴨には翠の色羽があるので、青首の稱さへある。○かも 鴨。水禽類中扁嘴類に屬し、種類が多い。〇はるやまの 春山の如く〔二字右○〕。春の山は霞んでぼつとしてゐるので、「おぼつかなくも」に續けた。以上三句は「おぼつかなく」に係る序詞。○おぼつかなく 不分明なる貌。ハキとせぬ貌。
【歌意】 水鳥の鴨の羽色のやうに青い〔三字右○〕、春の山のボウとしてゐるやうに〔十字右○〕、私の胸は薄惚けてまあ、思はれることよ。――それも貴方故さ〔七字右○〕。
 
〔評〕 上句は序に序を重ねて、層々に積上げた尖塔形の歌だ。それは主要語の「おぼつかなくも」を強調する手段に外ならない。平凡を修飾し、腐を化して新としたもの。
 
(2245)紀(ノ)女郎(ガ)歌一首
 
○紀女郎 既出(一二六四頁)。
 
闇夜有者《やみならば》 宇倍毛不來座《うべもきまさじ》 梅花《うめのはな》 開月夜爾《さけるつくよに》 伊而麻左自常屋《いでまさじとや》     1452
 
〔釋〕 ○うべも 諾《ウベ》も。道理にまあの意。○いでまさじとや 出でます〔四字傍点〕の語が天皇の行幸以外に用ゐられる例は、天智天皇紀の童謠などにも見えた。この事、古事記傳に委しい。「とや」はトイフコトカ、否カの意。「や」は疑辭。「伊而」の而〔傍点〕の訓はテだが濁音に流用した。古義は耐〔右△〕(漢音タイ)の省文とし、略解は耐〔右△〕の誤字としたが、それにも及ぶまい。
【歌意】 闇夜なら御尤にまあ、來なさるまいさ。今〔右○〕梅の花が咲いてゐるこの〔二字右○〕月夜に、お出でなさるまいといふことかえ。
 
〔評〕 女郎の居宅には折しも淡月が梅花を照してゐた。こんな面白い風情を見遁がして來ぬといふ法はないと、自然の景象を絶對の身方に取つて、飽くまでも男の無情を追究した怨歌である。その男は花月に辜負する風流罪過と、女郎の訪問を怠つた情的罪過とを、二重に責め付けられた譯である。
 二句と三句以下との合拍、餘に緊密に過ぎるが、作者は素より承知の上で、理窟詰にぎう/\いはせた處に、(2246)その熱愛の情味が迸つて面白い。
 女郎は安貴《アキノ》王の妻だし、また家持との關係がその以前にあつたらしくもあるから、相手の男は何れとも判然しない。
  われこそは僧くもあらめわが宿の花橘を見には來じとや(十卷――1990)
はこの範疇に屬する作。
 
天平五年|癸酉《ミヅノトトリノ》、春|閏《ウルフノ》三月《ヤヨヒ》、笠(ノ)朝臣金村(ガ)贈(レル)2入唐使(ニ)1歌一首并短歌
 
○天平五年の閏の三月に、笠金村が遣唐使に贈つた歌との意。○笠朝臣金村 既出(八四二頁)。○入唐使 唐に往く使、即ち遣唐使《モロコシニツカハサルヽツカヒ》。この時の遣唐使は續紀に、天平四年八月以(テ)2從四位下|多治比《タヂヒノ》眞人廣成(ヲ)1爲(ス)2遣唐大使(ト)1と見え、委しくは同時の作たる卷五の山上憶良の「好去好來」の歌の條下に注した。卷九、卷十九にも同時の歌が出てゐる。
 
玉手次《たまだすき》 不懸時無《かけぬときなく》 氣緒爾《いきのをに》 吾念公者《わがおもふきみは》 虚蝉之《うつせみの》 世人有者〔四字左○〕《よのひとなれば》 大王之〔三字左○〕《おほきみの》 命恐《みことかしこみ》 夕去者《ゆふされば》 鶴之妻喚《たづのつまよぶ》 難波方《なにはがた》 三津埼從《みつのさきより》 大船爾《おほふねに》 二梶繁貫《まかぢしじぬき》 白浪乃《しらなみの》 (2247)高荒海乎《たかきあるみを》 島傳《しまづたひ》 伊別往者《いわかれゆけば》 留有《とどまれる》 吾者幣取〔左△〕《われはぬさとり》 齊乍《いはひつつ》 公乎者將待〔左△〕《きみをばまたむ》 早還萬世《はやかへりませ》     1453
 
〔釋〕 ○たまだすき 「懸け」の枕詞。既出(三九頁)。○かけぬときなく 心に〔二字右○〕係けぬ時なく。○いきのをに 既出(一二六七頁)。○うつせみの 世の枕詞。既出(九八六頁)。「うつせみも」を見よ(六九頁)。○よのひとなればおほきみの この二句原本にない。契沖説によつて補つた。いはく、卷九の長歌に、「人となる事は難きを――虚蝉乃代人有者大王之御命恐美《ウツセミノヨノヒトナレバオホキミノミコトカシコミ》、またその續きの長歌に「虚蝉乃世人有者大王之御命恐美《ウツセミノヨノヒトナレバオホキミノミコトカシコミ》」とありて、こゝもかの例に依るに、二句脱したるなるべしと。○ゆふされば 既出(一六二〇頁)。〇なにはがた 難波潟。既出(一一三八頁)。○みつのさき 御津の濱と同處。「みつのはま」を見よ(二三五頁)。○まかぢしじぬき 「まかぢ」(八四六頁)、及び「しじぬき」(八五一頁)を見よ。○あるみ 前出(二〇五六頁)。○いわかれゆけば 「い」は發語。○ぬさとり 「ぬさとりむけ」を見よ(二三二頁)。「取〔右△〕」原本に引とある。眞淵説によつて改めた。○またむ 「待」原本に往〔右△〕とあるは誤。契沖説による。
【歌意】 私が心に懸けぬ時なく、命にかけて念ふ貴方は、流石〔二字右○〕この世の人だから、天皇の仰を畏んで、夕方になると鶴がその雌を喚ぶ、難波潟の御津の崎から、大船に諸楫《モロカヂ》を澤山たてゝ、白浪の高い荒海を、鳥傳ひして別れて往かれようなら、あとに留まつてゐる私は、幣を取持つて、御無事の〔四字右○〕祓をしつゝ、貴方をばお待ち致しま(2248)せう、どうぞ〔三字右○〕早くお歸りなさいませ。
 
〔評〕 金村は凡下の卑官、多治比廣成は名家の大官、身分に大きな逕庭のあつた事はいふまでもない。然し「玉襷懸けぬ事なく、息の緒に念ふ」所以は、特別な入懇の間柄にあつたと見える。
 「空蝉の世の人なれば、大王の命恐み」は官吏の公命を奉ずるをいふ套語で、間接に遣唐の使命に觸れてゐる。「夕されば鶴の妻喚ぶ」はその景物を※[人偏+就]りた難波潟の修飾に過ぎない。
 難波津から遣唐使の船の出發することは定例で、この時も
  夏四月己亥(三日)遣唐四船自(リ)2難波(ノ)津1進發(ス)、(續紀、天平五年の條)
と見えた。
 以下廣成が航海苦を豫想に描いての行叙も、せい/”\瀬戸内海を範圍とした想像で、極めて常識的である。結末、送別者たる立場から、神に祈つて無事の歸朝を待ち、「早歸りませ」で收束したのも例の套語である。
(2249) 全篇よく纏つて整つて、一點の疵瑕もない完作である。然し單なる私情の縷述で、それもこの時代人の口頭語で終始し、警拔の點が乏しく又精彩がない。かうなると、憶良の「好去好來歌」は、結構雄偉な大作であることが確實に認知される。彼れのは天地の神祇を縱横に驅使して、世界は日本と漢土とに亘り、言靈の幸をまで織り込んで、有力に「早歸りませ」の套語に新しい生命を吹き込んでゐる。
 こ篇の特徴としては、一意到底なることと、徹頭徹尾對句法を用ゐないこととである。 
反歌
 
波上從《なみのうへゆ》 所見兒島之《みゆるこじまの》 雲隱《くもがくり》 穴氣衝之《あないきづかし》 相別去者《あひわかるれば》     1454
 
〔釋〕 ○なみのうへゆ この「ゆ」はニ〔傍点〕に近い用法。○こじま 小さな島。備前の兒島ではない。「兒」は借字。○こじまのくもがくり 小島の海雲に隱るゝ如く〔二字右○〕。上句は譬喩。古義や新考説はむづかしく考へ過ぎて牽強である。○いきづかし 息吐《イキヅ》くの形容詞格。但これは終止言のみで活用はない。○あひわかるれば 童本訓による。舊訓、古義訓アヒワカレナバ〔七字傍線〕は非。新考訓アヒワカレユケバ〔八字傍線〕。
【歌意】 波の上に見える、小さな島が雲隱れするやうに、胸が塞がつて〔九字右○〕、それはまあ吐息がつかれるわ、遣唐の貴方と〔六字右○〕お別れすればさ。
 
〔評〕 古への難波の浦は八十島が列布してゐた。折柄低迷する海雲にその島影が隱蔽されてゐるのを見て、今の(2250)別離の悲に塞がる心の状態を思ひ寄せた。「あな息づかし」は、この際この時に尤もよく當て嵌つた胸臆の語である。
 
玉切《たまきはる》 命向《いのちにむかひ》 戀從者《こひむよは》 公之三舶乃《きみがみふねの》 梶柄母我《かぢがらにもが》     1455
 
〔釋〕 ○たまきはる 命の枕詞。既出(三六頁)。「切」をキハルに充つるは借字。○いのちにむかひ 「いのちにむかふ」を見よ(一二九七頁)。○こひむよは 「よ」はより〔二字傍点〕の意。略解訓コヒムユハ〔五字傍線〕。舊訓のムカフコヒヨリハ〔八字傍線〕は非。○かぢがら 舵《カヂ》の取木《トリギ》のこと。和訓栞に、明律考に舵牙をカヂガラと訓めりと。すべて物の體及び柄をカラといふ。和名抄に、※[竹/矢](ハ)其體(ヲ)曰(フ)v※[竹/幹](ト)、夜加良《ヤカラ》と見え、又卷十四にみる可良加治《カラカヂ》は柄楫の義と思はれる。(契沖はカヂヅカ〔四字傍線〕の一訓を呈出したが、古來からのカヂガラの訓を變へる程の必要もない。
【歌意】 取殘されて〔五字右○〕、命がけに戀ひようよりは、貴方の御船の、舵の取木にもなりたいなあ〔右○〕。――さすればお供が出來るのにさ〔さす〜右○〕。
 
〔評〕 金村と廣成との親交程度は、どれ程だかわからぬが、男女間の戀愛と違ひ、「命にむかひ戀ひむよは」は普通の交遊程度なら、殆ど諛言に近いほどの誇張である。玉となつて太刀となつて纏かれたいとは、戀愛情事にはよく歌はれるが、流石にこれは遣唐使の送別だけに「梶柄にもが」といつた。取材が頗る新しく、又自分の身分を顧みて謙遜の意を寓した處、その體を得てよろしい。
(2251) 以上の長短歌は送別の作であるが、編者はなほこれを相聞の部中に收めた。
 
藤原(ノ)朝臣|廣嗣《ヒロツグガ》櫻(ノ)花(ヲ)贈(レル)2娘子《ヲトメニ》1歌一首
 
○藤原(ノ)廣嗣が櫻の花を娘子に贈つた歌との意。○藤原朝臣廣嗣 既出(一八〇五頁)。 
此花乃《このはなの》 一與能内爾《ひとよのうちに》 百種乃《ももぐさの》 言曾隱有《ことぞこもれる》 於保呂可爾爲莫《おほろかにすな》     1456
 
〔釋〕 〇ひとよ 「よ」は竹の節と節との間を稱する如く、花の一部分即ち瓣をも、古へはよ〔傍点〕といつたのであらう。他に語例がない。契沖は葩《ハナ》かといひ、略解は瓣かといつた。○ももぐさ 「ももぐさに」を見よ(一四三二頁)。○おほろかに 既出(一七二六頁)。
【歌意】 この花の一瓣のうちに、私のいひたい〔六字右○〕澤山の言葉がさ、籠つてゐるわ。いゝ加減に扱ふなよ。
 
〔評〕 題詞を除けて見ると、何の花だかわからないが、實詠ではこれでよい。一よに籠る無量の詞。その性質や内容が何であるかも、兩者暗黙の間に了解されるのだから面白い。詰り戀人同士の合詞といつた形だ。「おほろかにすな」は表面は櫻の花の事と見せて、内實は自分の熱意を粗畧に思ふなと主張してゐる。初二句と三四句とが流水對を成してゐる。情緒纏綿、聽者をして耳の痒きを覺えしめる。
 廣嗣は藤原四家のうち、獨武邊を立てた式家の子として、後には遂に反亂を起した程の驕兒だが、こんな優(2252)しい一面を有してゐたと思ふと、なか/\味のある人間らしい。 
娘子(ガ)和(フル)歌一首
 
此花乃《このはなの》 一與能裏波《ひとよのうちは》 百種乃《ももぐさの》 言持不勝而《こともちかねて》 所折家良受也《をられけらずや》     1457
 
〔釋〕 ○うちは うちに〔右○〕はの意。○もちかねて 保ちかねて。○をられけらずや 「折られ」を敬相と見る。古義訓ヲラエケラズヤ〔七字傍線〕。
【歌意】 お察しすると、とても〔三字右○〕花の一瓣ぐらゐの中には、數の言葉は持たせかねて、それでわざ/\〔七字右○〕お折りなされて、下されたのでは〔七字右○〕ないかい。
 
〔評〕 とても瓣ぐらゐには盛り切れぬお情と存じて居ります、何でいゝ加減に思ひませうかいの餘意がある。より以上に相手の好意を買つて見せたのは、おほろかにせぬ〔七字傍点〕意を囘護した巧語言である。
 
厚見(ノ)王(ガ)贈(レル)2久米(ノ)女郎(ニ)1歌一首
 
○厚見王 既出(一二八八頁)。○久米女郎 傳未詳。古義は久米(ノ)連|若賣《ワカメ》かといつた。その若賣は績紀に、天平十一年三月、石上朝臣乙麿と奸けた罪により、乙麿は土佐に、若賣は下總に配流され、翌年六月大赦に遇うて召されて入京したとある。この久米連若賣の外に、當時同名の婦人が今一人あつた。古義がそれをも一傳のう(2253)ちに收めたのは、誤である。それを序にいはう。
 久米連|若女《ワカメ》(若賣と書かぬ)は續紀に、景雲元年十月無位から從五位下となり、同二年十月從五位上、寶龜三年正月正五位上、同七年正月從四位下、同十一年六月卒した。贈右大臣從二位藤原朝臣百川の母と見えた人である。百川は參議式部卿藤原宇合の子で、寶龜十年七月に四十八歳で薨じた。逆算すると、その生年は神龜四年に當るから、母たる若女はその以前に於いて、既に宇合の妻か妾かであつた人であらねばならぬ。石上(ノ)麻呂の奸けた若賣は采女で、百川の生年よりは八年も後の天平十一年に、その犯奸沙汰が起つた。もし同一人としたら、乙麿より先に宇合が采女犯奸の罪に問はるべきではないか。又既に人の妻妾だつた人が、改めて采女に奉仕する事は絶對ない。
 
屋戸在《やどにある》 櫻花者《さくらのはなは》 今毛香聞《いまもかも》 松風疾《まつかぜはやみ》 地爾落良武《つちにちるらむ》     1458
 
〔釋〕 ○やどにある  次の返歌に屋戸爾有《ヤドニアル》とあるから、爾〔右△〕の字がなくても、訓み添へてよい。新考訓はヤドナル〔四字傍線〕。○まつかぜはやみ 童本訓マツカゼイタミ〔七字傍線〕に古義は從つた。○つちにちるらむ 「落」、古本にはチルとオツ〔二字傍線〕と兩樣の訓がある。
【歌意】 貴方の〔三字右○〕宿にある櫻の花は、今まあ松風の烈しさに、あたら〔三字右○〕土に散るであらうかまあ。
 
〔評〕 久米女郎の家の櫻花を詠んだには相違ないが、眞意は外にある。櫻を女郎に譬へ、今は評判の美貌も、世(2254)の荒波に揉まれて、定めて衰殘したらうかと、聊か調戲の意を含めた作である。必ず女郎を久米若賣とすれば、彼れは采女出身だからいふまでもなく美人だ。石上麻呂卿との大艶事を演じたのもそれが爲だ。その大赦歸京後どう生活してゐたか。無論采女の二度勤めは出來まい。が一旦京洛の華風に染み込み、而も刑餘の身では、その貢進の故國に歸る氣もせず、奈良京住居をしてゐたものだらう。厚見王の官歴から推すと、若賣と殆ど同年輩と思はれる。偶ま若賣の門前を通りかゝると、櫻の花が咲いてゐた。もう彼れ若賣も四十近い姥櫻、一つどんな返辭をするかとの好奇心から、この歌をいひ入れられたものだらう。
 この歌は前後の記載順を考へると、大抵寶字年代の作と想像される。
 
久米(ノ)女郎(ガ)報贈(フル)歌一首
 
世間毛《よのなかも》 當爾師不有者《つねにしあらねば》 屋戸爾有《やどにある》 櫻花乃《さくらのはなの》 不所比日可聞《ちれるころかも》     1459
 
〔釋〕 ○ちれるころかも 「不所」は契沖いふ、もとの所にあらぬは、花にては散るなれば、義を以て書ける也と。新考はチレルとはいひ難いやうに難じた。
【歌意】 人間世も常住でさないから、仰しやる通り〔六字右○〕宿にある櫻の花が、はや〔二字右○〕散つてゐる時分ですわよ。
 
〔評〕「櫻の花の散れる頃かも」は自分の美貌の衰へたことを比擬して、懸歌の「地に散るらむ」を肯定し、「世の中も常にしあらねば」と愚痴ちつぽく答へた。女として誠に堪へ難い哀愁が漂うてゐる。なまじ美人の評判を(2255)取つただけに。
 
紀(ノ)女郎(ガ)贈(レル)2大伴(ノ)宿禰家持(ニ)1歌二首
 
○紀女郎 既出(一二六四頁)。
 
戲奴【變(ニ)云(フ)和氣《ワケ》】之爲《わけがため》 吾手母須麻爾《わがてもすまに》 春野爾《はるのぬに》 拔流茅花曾《ぬけるちばなぞ》 御食而肥座《めしてこえませ》     1460
 
〔釋〕 〇わけ 「わけをば」を見よ(一一六七頁)。「戲奴」はタハレタ奴といふ意。宣長が戲に奴の如しと解したのは非。割註の「變」は翻譯の意。○てもすまに 手も數《シバ》にの轉。「すまに」は數々すること。○ぬけるちばなぞ 抽《ヌ》ける茅花なるぞ〔三字右○〕。「ちばなぬく」を見よ(二二四二頁)。○めしてこえませ 茅花を喰うて肥えることは、當時の俗信であらう。本草綱目に、白茅(ノ)根、有(リ)2補(ヒ)v中(ヲ)益(ス)v氣(ヲ)之功1、茅針及(ビ)茅花(ハ)無(シ)2益(ス)v氣(ヲ)之蘇1、蘇頌曰(フ)、俗(ニ)謂(フ)2之(ヲ)茅針1、甚(ダ)益(アリ)2小兒(ニ)1、とあつて、喰うて肥えるとは見えない。
【歌意】 お前の爲に、私が取る手もせはしく、春の野で抽き取つた茅花ですぞ、召しあがつてお肥りなさいませ。
 
〔評〕 「手もすまに――抽ける」、に、その懇情の限を表した。
  石麻呂にわれ物申す夏痩によしといふなるむなぎ取り召せ(卷十六、家持――3853)と石麻呂の痩躯を嘲つた家持が、又紀女郎からその痩躯を揶揄されてゐるのだから可笑しい。家持は美男系の(2256)家の人で、華奢な優男であつた事がわかる。紀女郎はその姉氣分の思ひ遣りもあらうが、實は一旦關係もあつた憎くもない男なので、藥物の茅花をわざ/\贈つたものと見える。
 この歌「わけ」の卑稱と「召して肥えませ」の敬稱とが統一してゐない。その統一を缺いてゐる虞に、おどけた滑稽味を感ずる。集中この「わけ」の語は家持時代の歌に多い。 
晝者咲《ひるはさき》 夜者戀宿《よるはこひぬる》 合歡木花《ねぶのはな》 吾〔左△〕耳將見哉《われのみみめや》 和氣佐倍爾見代《わけさへにみよ》     1461
 
〔釋〕 ○よるはこひぬる 夜は戀ひ寢《ヌ》る。合歡木の花葉が、夜になると、閉ぢつぼみするのを擬人して寢るといつた。○ねぶ 合歡木。※[草冠/豆]科の野生落葉樹。高さ丈餘に達し、葉は羽状複葉で、小葉は夜間閉合する。故に眠《ネム》の木といふ。夏は梢頭に眉刷毛状の花を著け紅色を呈す。莢のうちに豆状の實を結ぶ。○われのみ 「吾」原本に君〔右△〕とあるは誤。
【歌意】 晝は咲いて夜は戀ひつゝねむる、合歡木の花よ。私ばかり見ようかえ、貴方もさ御覽なさい。
 
〔評〕 晝は紛れて體裁も取繕つて居られるが、夜の靜寂は溜らなく物思に囚はれる。合歡花の晝夜により開閉するに、それを譬へた。さて自(2257)分の愛著の苦悩をそこに暗示して、家持にもこれ見給へと贈つたものだ。詰りは同情の強要である。「わけさへに見よ」、こんな親褻の語を交換するほど、女郎と家持とは互に戀ひつ戀はれつしてゐた中だつた。卷四の「神さぶといなにはあらず」(紀女郎)、「玉の緒を沫緒によりて」(同上)及び「百年に老舌いでて」(家持)の兩者間の贈答を見れば、おのづからこの間の消息がわかるであらう。然し運命の惡戲にこの二人は、今は別々の道を辿るべき最中なのであつたらしい。「晝は咲き夜は戀ひ寢る」は半活喩で、修辭上から嚴しくいへば不完であるが、音數に制限をもつ詩歌では時に許容される。
 
右、折(リ)2攀(ヂテ)合歡《ネブノ》花(ト)并茅花(トヲ)1贈(レル)也。
 
上二首の説明で、合歡花を攀ぢ、茅花を折りて贈つたとの意。樹木の枝を採るを、攀といつた。下にも攀2橘花1とある。
 この二首は同時の作でなく、茅花は春、合歡花は夏贈つたもので、記録者はこれを一括して、この左註を添へたものか。然し茅花は夏でも穗を出すから、確たる斷定は出來ない。
 
大伴(ノ)家持(ガ)贈和《コタフル》歌二首
 
〇贈和歌 答ふる歌を贈るの意。
 
吾君爾《わがきみに》 戲奴者戀良思《わけはこふらし》 給有《たばりたる》 茅花乎雖喫《ちはなをはめど》 彌痩爾夜須《いややせにやす》     1462
 
(2258)〔釋〕 ○たばり 賜《タマ》はり。○はめど 古義訓による。神本訓、舊訓はクヘド〔三字傍線〕。
【歌意】 わが君樣に私は戀してゐるらしい。下された茅花を食へど、肥えるどころか〔七字右○〕、彌よ痩せる上に痩せますわい。
 
〔評〕 戀の思に身の細ることは、詩に衣帶の緩きを覺えるといひ、歌に影となり陽炎の如くなるといふ。流石の茅花も効果がなく痩せ細る以上は、「わけは戀ふらし」の結論に到着するのは當然である。况やその贈主たる紀女郎は流石に年嵩だけに、夜晝の使ひ分けをする程、漸うあきらめをもつたらしいが、家持の方は若いだけ未練がまだ強い。
 
吾妹子之《わぎもこが》 形見乃合歡木者《かたみのねぶは》 花耳爾《はなのみに》 咲而蓋《さきてけだしく》 實爾不成鴨《みにならぬかも》     1463
 
〔釋〕 ○かたみ 既出(一二一一頁)。卷十六に「商變領爲爲跡之御法あらば」の歌の左註に寵薄(ルヽ)之後還(シ)2賜(フ)寄物(ヲ)1云云とあつて、寄物の註に、俗(ニ)云(フ)2可多美《カタミト》1とあるが、それは意訓で本義ではない。○はなのみにさきて 花にのみ咲きての意。○けだしく 「けだしくも」を見よ(五〇七頁)。舊訓ケダシモ〔四字傍線〕。
【歌意】 吾妹子が思出種として贈られた〔四字右○〕合歡木は、花にばかり咲いて、その癖一向〔五字右○〕實のらねことよ。
 
〔評〕 合歡花は結實する。こゝに「實にならぬ」といふは、贈物たる眼前の合歡花の折枝に對しての言葉である。(2259)何時も渝らぬ女郎の親切には屡々感佩するものゝ、今は矢張他人である事を比擬して、その感傷を女郎に訴へた。女郎の耳は痛い。「實にならぬ」所以は、上の歌評中に一言觸れて置いた如き事情である。想ふに女郎は既に安貴王の妻となつて居たのであらう。さては何と思つたとて仕方がない。全く實には成らない。
 
大伴(ノ)家持(ガ)贈(レル)2坂上(ノ)大孃(ニ)1歌一首
 
卷四に、家持が久邇《クニ》京から寧樂《ナラ》にゐる大孃の許に贈つた歌が十數首あり、又紀(ノ)女郎との贈答數首もその間に雜載してある。共に參照してその意を了すべきである。
 
春霞《はるがすみ》 輕引山乃《たなびくやまの》 隔者《へなれれば》 妹爾不相而《いもにあはずて》 月曾經爾來《つきぞへにける》     1464
 
〔釋〕 ○へなれれば 「へなる」は隔《ヘダタ》るの古言。
【歌意】 春霞の靡く山が、私のゐる久邇京と貴女のゐる奈良との間に〔私の〜右○〕、隔たつてゐるから、貴女に逢はないで、月を重ねてしまつたわい。
 
〔評〕 月越しに亘つて往訪の出來ぬのには、種々の事情も伏在して居らうが、面倒なしに一切を山の隔たりに托したのは狡猾である。なほすべては
  ひとへ山へなれるものを月夜《ツクヨ》よみ門にいで立ち妹か待つらむ(卷四、家持――765)
(2260)の評語を參照(一三七〇頁)。
 
右、從(リ)2久邇《クニノ》京1贈(レルナリ)2寧樂《ナラノ》宅(ニ)1。
 
○從久邇京云々 久邇京は家持の居處、寧樂宅は大孃の居處。
 
夏(ノ)雜(ノ)歌
 
藤原(ノ)夫人《オホトジノ》歌一首【淨見原御宇天皇之夫人也。字曰2氷上大刀自《ヒガミノオホトジト》1也、即(チ)新田部《ニタベノ》皇子之母也。】
 
○藤原夫人 註に氷上大刀自とある。藤原鎌足の女で、大原大刀自即ち五百重媛の姉。天武天皇の夫人。但新田部皇子の御母は五百重媛である。註誤る。既出「藤原夫人」を見よ(三三二頁)。
 
霍公鳥《ほととぎす》 痛莫鳴《いたくななきそ》 汝音乎《ながこゑを》 五月玉爾《さつきのたまに》 相貫左右二《あへぬくまでに》     1465
 
〔釋〕 ○ほととぎす 既出(三五二頁)。○さつきのたま 五月の玉は五月五日の端午の節の料として作る藥玉が主で、遂にはその餘興として橘の實、菖蒲の根などを玉のやうに綴つた物にまで及んだ總稱である。諸註悉く不完。藥玉は、續命縷また長命縷ともいふ。麝香、沈香、丁子などの藥物を調合して丸香に造り、錦嚢に納れて、その周圍を、躑躅、菖蒲、艾などを以て球形に飾り、五色の太き絲を八尺程に飾り下げたるもの。端午の(2261)節には王卿はこれを賜はりて左の臂に佩び、また室内に懸ける。人命を益し、邪氣を避ける効ありとする。○たまにあへぬく 玉と一緒に貫く。この場合の「たまに」は玉トシテ〔四字傍点〕の意でないことは、評中に引用した卷十七、卷十八の歌にもある、この辭樣の構成を見たらわかる筈である。「あへぬく」は相貫《アヒヌ》くで、一緒にとほすこと。契沖訓による。舊訓はアヒヌク〔四字傍線〕。○までに まではの意に用ゐた。古格。
【歌意】 時鳥よ、さう〔二字右○〕餘計に鳴くなよ、お前の聲を、五月の玉即ち藥玉に、一緒に貫きとほすまでは。
 
〔評〕 端午の節供はもと支那の民間習俗から起り、それがわが邦にも早くから傳來して、菖蒲※[草冠/縵]など翫んだものだ。大寶令の兵部省式がこれを證する。その後公式には一時中絶したが、天平十九年の端午の節會には再び復活され、而も菖蒲※[草冠/縵]をつけぬ者は宮門を通さぬといふ凝り方で、そして公庭において王卿は藥玉を賜はり、これを佩びて退出するのであつた。一般人においては婦人達の遊閑的行事として、菖蒲※[草冠/縵]を作り藥玉を作つて互に贈遺し合つて娯んだものだ。さてこの藥玉の丸香を製ることが根源となつて、玉に大きな趣味を感じ、「花橘を玉に貫く」は季節の娯遊として最も興味深いものであつた。おなじ節物の菖蒲の根までも玉に貫き、
  白玉をつゝみて遣らな菖蒲草花たちばなにあへぬくまでに(卷十八――4102)
と歌はれた。遂にはその香氣を以て邪氣濕氣を拂ふといふ本來の目的から離れて、香氣もない山橘を貫き、更に玉の聯想は益々横走りをして、
  わが背子は玉にもがな時鳥聲にあへぬき手に纏きてゆかむ(卷十七――4007)
と、わが背子の玉に時鳥の聲あへ貫くとなつては、餘に奇矯に流れるが、それも本行の歌などがその俑を作(2262)つたのではあるまいか。
 今は四月中に鳴き頻る時鳥に向ひ、端午の節に鳴き合はせてこその意を婉曲に奇拔に、「五月の玉にあへぬくまでに」といひ、今さう嶋いては勿體ないと時期尚早の抗議を投げた。畢竟時鳥の聲の愛賞が中心である。
 
志貴《シキノ》皇子(ノ)御歌
 
神名火乃《かむなびの》 磐瀬乃杜之《いはせのもりの》 霍公鳥《ほととぎす》 毛無乃岳爾《ならしのをかに》 何時來將鳴《いつかきなかむ》     1466
 
〔釋〕 〇かむなびのいはせのもり 前出(二二一一頁)。○ならしのをか 奈良志《ナラシ》の岡。大和平群都。磐瀬の杜の東北に方つて低い岡が連り、南東は闢けた平野である。「ならし」は踏み平《ナラ》すの義。「毛無」は、無毛を書き下したもので、毛は土に生ずる植物をいふ。左傳に食(ム)2土之毛(ヲ)1と見え、その生ぜぬ土を不毛といふ。人の踏み平す處は草の生ぜぬ意から、毛無をナラシと訓ませた。
【歌意】 神南火の磐瀬の杜の時鳥は、この〔二字右○〕奈良志の岡に、何時來て鳴かうかしら。
 
〔評〕 磐瀬は平野の杜で、奈良志は岡ながら草木がない。時鳥の鳴きおくれるのは當然である。で心待に待ち戀ふる意を詠んだ。奈良志の岡は皇子のか或は誰かの別墅ででもあらう。
 この皇子の御作は、全體に高古の響があつて感銘が深い。稀に「たわやめの袖吹き返す」(卷一)の如き温藉な姿、巧緻の手法を見せたものもあるが、大抵は一本調子で終始してゐる。
 
(2263)弓削《ユゲノ》皇子(ノ)御歌一首
 
〇弓削皇子 既出(三五〇頁)。
 
霍公鳥《ほととぎす》 無流國爾毛《なかるくににも》 去而師香《ゆきてしが》 其鳴声乎《そのなくこゑを》 聞者辛苦母《きけばくるしも》     1467
 
〔釋〕 ○なかるくに 無い土地といふに同じい。
【歌意】 時鳥の居ない土地にも、往きたいな。その時鳥の〔三字右○〕鳴く聲を聞くと、溜らなく〔四字右○〕切ないわい。
 
〔評〕 抑々時鳥は渡り鳥で日本にも支那にも棲んでゐる。支那ではその聲の哀切な處から、蜀の望帝の魂の化身などいふ傳説が附會され、怨鳥と呼ばれ、不如歸と血を吐くまで鳴いて故郷を偲ぶといはれ、その異名さへ澤山生ずるやうになつた。これを吟詠に上せることは六朝時代からの事で、大部分が悲哀な感情を歌つてゐる。
 わが邦で時鳥に注意を拂ふやうになつたのは、無論支那文化の影響で、奈良の中葉から、その賦詠が一遍に盛になつた。不思議なことに、時鳥が夜鳥であり、その音質が哀調を帶びてゐるにも關はらず、これを他の環境に結び付けて愛賞する意が、わが邦では盛に發生した。蓋し文藝遊戲に扱つた結果と考へられる。
 作者は漢籍の素養は積まれたであらうが、この歌は漢詩文の直接影響と見るよりも、衷心憂悶に禁へぬ事があつての吟咏と見るが穩當であらう。哀切の衝撃から遂に嫌忌の域にまで進んだ。「なかる國にも往きてしが」(2264)は頗る警拔豪宕の落想である。
 
小治田廣瀬王《ヲハリダノヒロセノオホキミノ》霍公鳥(ノ)歌一首
 
〇小治田 小墾田とも書く。廣瀬王の住んで居られた地名であらう。大和高市郡豐浦の岡にある。○廣瀬王 紀に(天武天皇)十年三月廣瀬王等に詔して帝紀及び上古の諸事を記さしめ、同十三年二月淨廣肆廣瀬王等を畿内に遣はし、都たるべき地を視占せしめ、同十四年九月廣瀬王を京及び畿内に遣はし、各人夫の兵を校せしめたと見え、續紀に(持統天皇)六年三月の伊勢行幸に留守官となり、大寶二年に從四位下にて造大殿垣司となり、同三年十月太上天皇の御葬司に任じ、和銅元年三月從四位上にて大藏卿、養老二年正月正四位下、同六年正月卒すと見えた。
 
霍公鳥《ほととぎす》 音聞小野乃《こゑきくをぬの》 秋風《あきかぜに》 芽開禮也《はぎさきぬれや》 聲之乏寸《こゑのともしき》     1468
 
〔釋〕 ○こゑきくをぬ 卷一「たわやめの袖吹き返す飛鳥風」の辭法と同じい。「そでふきかへす」を見よ(二〇一頁)。○をぬの 小野が。小野の秋風と續くのではない。○さきぬれや 咲きぬれば〔右○〕や。
【歌意】 時鳥の聲聞く處即ち鳴く處の小野が、秋の風に萩の花の咲いたせゐかして、聲が餘りしないわ。
 
〔評〕 いかにも當り前の事をいひ並べたやうだが、何時も時鳥を聞き馴れた小野に、その聲の乏しくなつたこと(2265)は、眼前胡枝花が秋色を弄してはゐるものゝ一抹の寂寥と哀愁とに打たれざるを得ない。而も節物風光の須臾に改つた感傷を伴つてゐる。
 
沙彌《サミガ》霍公鳥(ノ)歌一首
 
○沙彌 沙彌とのみで名がない。集中三方(御形)沙彌、沙彌滿誓、沙彌女王の三沙彌がある。歌は男の作だから、三方沙彌と滿誓沙彌とのうちか。或は全く別人の沙彌かも知れない。
 
足引之《あしひきの》 山霍公鳥《やまほととぎす》 汝鳴者《ながなけば》 家有妹《いへなるいもし》 常所思《つねにおもほゆ》     1469
【歌意】 山時鳥よ、お前が鳴くと、家にある吾妹子がさ、何時も思ひ出されてね。
 
〔評〕 時鳥に家郷の天を憶ふのは、支那流の著想で、敢て珍しくない。作者がもし三方(ノ)沙彌だとすると、續紀に前(ニ)爲(リ)2沙門(ト)學2問《モノマナブ》新羅(ニ)1と見えて、漢學者だから、この位の事はいひさうな事である。次の歌の作者刀理宣令も漢學者だ。
 
刀理宣令《トリノセンリヤウガ》歌一首
 
○刀理宣令 「土理宣令」を見よ(七五七頁)。
 
(2266)物部乃《もののふの》 石瀬之杜乃《いはせのもりの》 霍公鳥《ほととぎす》 今毛鳴奴香〔左○〕《いまもなかぬか》 山之常影爾《やまのとかげに》     1470
 
〔釋〕 ○もののふの 磐瀬に掛る枕詞。武夫の屯聚《イハ》むといふを磐《ィハ》にいひかけた。イハムは紀に滿また屯聚を訓んである。古語。○なかぬか 「か」は歎辭。「つねにあらぬか」を參照(八〇〇頁)。「香」原本にない。補つた。○とかげ 常陰《トコカゲ》の略。何時も陰である處をいふ。陰はカゲトモ(陰背面《カゲソトモ》の義)の陰である。「影」は陰の借字。宣長説の、タオ陰にて、山の撓みたる處をタヲともタワともいふとの説はまはりくどい。
【歌意】 磐瀬の杜の時鳥、たつた今まあ鳴けばよいな、あの山の常陰にさ。
 
〔評〕 常陰は山では日のさゝぬ北裏である。神南山の北裏は斷崖状をなして、垢離取場《コリトリバ》の水に臨み、榛莽が欝蒼として、磐瀬の杜と相望んでゐる。奈良志野中の唯一の林※[木+越]なので、時鳥の集湊する處である。然るにどうした事か、何時まで待つても彼れは鳴かない。焦れ切つて「今も鳴かぬか」と切望の音を揚げた。四五句の倒装、その促迫した情緒にふさはしい表現である。この卷の時鳥の作中では優秀の部であらう。
 
山部(ノ)宿禰赤人(ガ)歌一首
 
戀之家婆《こひしけば》 形見爾將爲跡《かたみにせむと》 吾屋戸爾《わがやどに》 殖之藤波《うゑしふぢなみ》 今開爾家里《いまさきにけり》     1471
 
(2267)〔釋〕 ○こひしけば 戀しくばの轉。「家」細本には久〔右○〕とある。○ふぢなみ 既出(七九六頁)。
【歌意】 戀しからう時には、その〔二字右○〕形見にせうとて〔右○〕、自分の庭に栽ゑた藤の花が、今咲き出したことわい。
 
〔評〕 何が「戀しけば」だか要領を得ない。打任せては思ふ人の筈だが、編次の上からは時鳥か。餘り不完なので、新考は長歌の反歌ででもあらうの説を立てた。
 時鳥の歌として見ると、去年藤の花咲く頃に初時鳥を聞き合はせ、その記念にせうと藤の樹を庭前に栽ゑた。それは來年もこれを媒として聞かうの心構であつた。今やその藤が咲き出した。鳴かねばならぬ時鳥である。藤の花の咲いた報告ではなくて、暗に時鳥を下待つ意が含まつてゐる。然し、
  戀しくば形見にせよと我背子がうゑし秋はぎ花咲きにけり(卷十――2119)
の歌を引合はせて考へると、矢張戀歌で、何かの事情で暫くその人の來ぬことの豫定されてゐる際、記念として栽ゑた庭上の藤が今しも咲き出したので、感傷の餘に詠んだものであらう。作者が赤人とあるから、藤を栽ゑた當人はその朋友などであらうか。
 
式部大輔石上堅魚《ノリノツカサノオホキスケイソノカミノカツヲノ》朝臣(ノ)歌一首 
○式部大輔 式部省の次官。式部省は内外文官名帳、考課、選叙、禮儀等及び學校、策試、禄賜などの事を掌る。職員は卿《カミ》(正四位相當)、大輔(正五位相當)、少輔(從五位相當)以下、大丞、少丞、各二人その他がある。○石上堅魚朝臣 續紀に、(元正天皇)養老三年正月從六位下より從五位下、神龜三年正月從五位上、天平三年正月(2268)正五位下、同八年正月正五位上と見えた。
 
霍公鳥《ほととぎす》 來鳴令響《きなきとよもす》 宇乃花能《うのはなの》 共也來之登《ともにやこしと》 問麻思物乎《とはましものを》     1472
 
〔釋〕 ○うのはなのともにやこし 卯の花と共に來たか。「の」はトの轉語。「あめ地の共に久しく」を見よ(一四六〇頁)。宣長は「來」を成〔右△〕の誤としてムタヤナリシ〔六字傍線〕と訓んだのは無稽。
【歌意】 時鳥が鳴いて來て、あたりを響かすわ、お前は〔三字右○〕卯の花と一緒に來たのかと、問ひ尋ねようものを。相手が時鳥ではねえ。
 
〔評〕 支那では時鳥に躑躅を取合はせて杜鵑花とまで呼び、こちらでは躑躅をおいて藤の花や卯の花や橘を配合して詠んでゐる。風土などの關係もあらうが、その相違が面白い。
 作者は今記の城に登ると、山路には早くも卯の花が咲いてゐた。さては時鳥は鳴くべきだが、一向にその聲がない。乃ち「來鳴きとよもせ」と時鳥に強請して、その理由を「卯の花のともにや來し」と問ひたい爲だと聲言した。その實は卯花に假托して時鳥を鳴かせようとの魂膽である。時鳥の縁で、卯の花の咲いたのを「來し」と活喩に表現したのは聊か無理だが、即興の作だ、その位の放膽さはあつてもよい。
 堅魚朝臣は左註にある如く、太宰(ノ)帥旅人(ノ)卿の妻大伴(ノ)郎女の逝去に際し、その職分がら勅使として弔問の爲に筑紫に下つた人で、公命を果した後、宰府の役人達と、宰府の南郊大野の果にある記《キ》の城に登臨して、この詠(2269)を得たので、單なる遊覽の作である。大伴郎女の追憶の意を寓せて解説するのは附會と思ふ。
 
右、神龜五年戊辰、太宰(ノ)帥大伴(ノ)卿之妻大伴(ノ)郎女、遇(ウテ)v病(ニ)長逝《ミマカリヌ》焉。于時(ニ)勅使式部(ノ)大輔石上(ノ)朝臣堅魚(ヲ)遣(リ)2太宰府(ニ)1、弔(ヒ)v喪(ヲ)并贈(ル)2物色(ヲ)1。其事既(ニ)畢(ル)。驛使及府(ノ)諸卿大夫等、共登(リ)2記夷城《キイノキニ》1、而望遊之日、乃(チ)作(メリ)2此歌(ヲ)1。
 
 神龜五年戊辰に太宰府の長官大伴(ノ)旅人(ノ)卿の妻たる大伴(ノ)郎女が病に罹つて逝去した。時に勅使式部(ノ)大輔石上(ノ)堅魚の朝臣を宰府に遣はされ、喪中見舞や物品を贈られた。堅魚は公用が全く濟んだので、驛使及び宰府の大少貮の諸卿や五位の守等と一緒に、記夷の城に登つて遊覽した日、そこでこの歌を詠んだとの意。大貮は四位、少貮は五位相當官で卿とは稱せられぬが、筑紫の田舍では貴紳だから、諸卿と打任せて書いたらしい。○記夷城 夷《イ》は紀《キ》の音を伸べて添へた語で、正しくは記城《キノキ》である。古義に水城と混じて説明してあるのには失笑する。「きのやまみち」を見よ(一一九八頁)。○物色 いろ/\の物。「色」は種目の義。也〔右△〕の誤とする説は非。
 郎女の長逝に就いては、卷三に、「神龜五年戊辰、太宰(ノ)帥大伴(ノ)卿(ノ)思2戀《シヌブ》故人(ヲ)1歌」、卷五に、「帥大伴(ノ)卿(ノ)報(フル)2凶問(ニ)1歌」あり、委くはその條に就いて見よ。
 
太宰(ノ)帥大伴(ノ)卿《マヘツギミノ》和(フル)歌一首
 
○大伴卿 旅人のこと。既出(七三六頁)。
 
(2270)橘之《たちばなの》 花散里乃《はなちるさとの》 霍公烏《ほととぎす》 片戀爲乍《かたごひしつつ》 鳴日四曾多寸《なくひしぞおほき》     1473
 
〔釋〕 ○たちばなの云々 上句は「片戀しつつなく」に係る序詞。○かたごひ 一方的の戀。
【歌意】 橘の花が散る、この〔二字右○〕里の時鳥は〔右○〕、片戀しながら鳴く日がさ多いわ。――自分も妻を失うて、矢張片戀に泣く時が多い〔自分〜右○〕。
 
〔評〕 時鳥の鳴くのはその雌を呼ぶので、即ち片戀に鳴くのである。然し一般的には漫然と只その鳴く音を愛づるのみだが、作者は自己の斷絃の悲から、直覺的にその片戀に想及し、時鳥を假りて、その悲悼の感懷を寄せた。「橘の花散る」は眼前の景象を直叙したに過ぎない。それを郎女の逝去に譬へたと有意的に見ることは穿鑿であらう。
 さてこの「橘の花散る里」は何處か。堅魚朝臣の記夷城登臨の作の返歌だから、これも同時同處の作と考へるのは速斷である。左註に「驛使及府諸卿云々」とあるは、宰府の長官たる帥卿を別にした書方で、もし旅人卿が同行したのなら、帥卿云々〔四字傍点〕と特筆すべきである。况や記の城は山城で里とはいはれず、橘も栽ゑさうな場處でない。されば「橘の花散る里」は宰府における帥卿の居宅であることは疑もあるまい。乃ち堅魚朝臣の歸府後、その作を聞いて、帥卿の私懷を申べた唱和と斷ずる。
 
(2271)大伴(ノ)坂上(ノ)郎女(ガ)思《シヌブ》2筑紫大城《ツクシノオホキノ》山(ヲ)1歌一首
 
○大城山 筑前國三笠郡。太宰府背後の正北に聳立する山。後世四天王寺山と稱する。天智天皇紀に、四年八月遣(シ)2百濟(ノ)達率憶禮福智――(ヲ)筑紫(ノ)國(ニ)1、築(ク)2大野及|椽《キノ》二城(ヲ)1、文武天皇紀に、二年三月令(シテ)2太宰府(ヲ)1、繕(ヒ)2治(メシム)大|野《ヌ》、基肄《キイ》、鞠智《トクチノ》三城(ヲ)1とある大|野《ヌ》の城の所在の山である。元暦本の卷十「大城(ノ)山者色付爾家里」の註に、謂(フ)2大城(ト)1者在(リ)2筑前國御笠郡之大野山(ノ)頂(ニ)1とあるは記夷の城と誤つて混じたもの。△地圖及寫眞 挿圖357(一三九八頁) 358(一三九九頁)を參照。
 
今毛可聞《いまもかも》 大城乃山爾《おほきのやまに》 霍公鳥《ほととぎす》 鳴令響良武《なきとよむらむ》 吾無禮杼毛《われなけれども》     1474
 
【歌意】 今も大城の山に、時鳥が鳴き響かすであらうかまあ、自分はそこに〔三字右○〕居ないけれどもね。
 
〔釋〕 郎女が兄の帥卿旅人の許に投じたことは、卷二、大伴(ノ)坂上郎女(ガ)祭v神歌の評中(八七二頁)に説明した。その歸京は天平二年十一月と思はれるから、この歌はその翌年の天平三年の五月時分の作であらう。
 宰府の帥卿の官舍は、何れ都府樓附近であらうと想像される。さては大城山に近いから、山の林木の間に鳴きとよむ時鳥の聲は、馴染み深いもので、而も郷愁を唆る無情の聲であつたに違ひない。今や奈良の京地に在つて筑紫の去年を回想すると、物として追憶の種ならざるものはない。况や時まさに五月、翻つて大城の山の時鳥にあこがれの情を寄せて、「今もかも――鳴きとよむらむ」との想像を馳せた。これらの辭句は、この場(2272)合誰れでも或はいひ得るかも知れないが、「われなけれども」の一結に至つては、容易に下し難い遒勁な轉語である。
 
大伴(ノ)坂上(ノ)郎女(ガ)霍公鳥(ノ)歌一首
 
何哥毛《なにしかも》 幾許戀流《ここだくこふる》 霍公鳥《ほととぎす》 鳴音聞者《なくこゑきけば》 戀許曾盛禮《こひこそまされ》     1475
 
〔釋〕 ○ここだく 「こきだく」に同じい。同項を見よ(六二一頁)。
【歌意】 時鳥は何でさ、澤山にさう〔二字右○〕戀ふるのであるかまあ、その〔二字右○〕鳴く聲を聞くと、つい誘はれて〔六字右○〕、自分の人戀しさがさ、まさるわい。
 
〔評〕 作者は全く情海に沈溺してゐる。その桃色の眼からはあらゆる物が戀の罔象である。そこへ時鳥があの引切聲でせはしなく鳴くしお前もさうなのかと愈々戀心がはずむので、「何もかも」と時鳥に抗議をいひ立てた。痴呆の想が下に動いて流れてゐる。古今集の
  時鳥はつ聲きけばあぢきなく主さだまらぬ戀せらるはた(夏部、素性)
は殆どこれから轉生したものらしい。
 郎女の戀まさる相手は誰れか。或は藤原(ノ)麻呂(ノ)卿か。
 
(2273)小治田《ヲハリタノ》朝臣|廣耳《ヒロミヽガ》歌一首
 
○小治田朝臣廣耳 傳未詳。續紀の天平五年、十一年、十三年の條に、正六位上から外從五位、從五位下となり、尾張守に任じた小治田(ノ)廣千の名が見えるが、同人とは斷じ難い。契沖は廣千を廣耳〔右△〕の誤としたが疑問である。
 
獨居而《ひとりゐて》 物念夕爾《ものもふよひに》 霍公鳥《ほととぎす》 從此間鳴渡《こゆなきわたる》 心四有良思《こころしあるらし》     1476
 
〔釋〕 ○こゆ 直譯すれば此處より〔四字傍点〕だが、集中の用例は、此處を〔三字傍点〕、又は此處に〔三字傍点〕の意である。古義訓はコヨ〔二字傍線〕。○こころしある この心は同情の意。
【歌意】 獨居て物案じする夕方に、時鳥がわざと〔三字右○〕こゝを鳴いて通るわ。思ひ遣りがあるらしい。
 
〔評〕 夕方が背景で獨居がその環境であつて見れば、恐らく寂寥感に打たれぬ者はあるまい。その寂寥を破つて而も目近く「こゆ」鳴き渡る時鳥である。いひ知らぬ慰藉を覺えた作者は、時鳥に對して感謝せざるを得ない。「心しあるらし」の讃語は當然の歸結。
 
大伴(ノ)家持(ガ)霍公鳥(ノ)歌一首
 
宇能花毛《うのはなも》 未開者《いまださかねば》 霍公鳥《ほととぎす》 佐保乃山邊《さほのやまべを》 來鳴令響《きなきとよもす》     1477
 
(2274)〔釋〕 ○いまださかねば 未だ咲かぬのにの意。この用例上に疊出。○やまべを 類本細本温本等、及び古義の訓ヤマベニ〔四字傍線〕。
【歌意】 卯の花もまだ咲かぬのに、時鳥は佐保の山邊を、來て鳴き響かすことよ。
 
〔評〕 季節より早い時鳥を詠んだ。佐保山は大伴氏邸の山齋續きの山である。卯の花の配合は常識的の感があるが、下句力強くひた推しにいひ捨てた點は、この歌の風調を高からしめてゐる。
 
大伴(ノ)家持(ガ)橘(ノ)歌一首
 
吾屋前之《わがやどの》 花橘乃《はなたちばなの》 何時毛《いつしかも》 珠貫倍久《たまにぬくべく》 其實成奈武《そのみなりなむ》     1478
 
〔釋〕 ○そのみ 今年の新しい實をさす。○いつしかも 既出(一五九八頁)。
【歌意】 自分の庭の花橘が、何時さ玉として貫かれるやうに、その實がなることだらうかまあ。
 
〔評〕 橘を玉に貫くは例の端午の行事だ。家持宅の橘は晩手《オクテ》と見えて、花は咲いたが實にはまだならない。然るに端午の節は近い。さあ節日までに實が玉に貫かれようかどうかと、氣が揉めて待遠な趣で、興味中心の作である。この邊の家持の作は大抵即興即吟の口號的小品である。
 
(2275)大伴(ノ)家持(ガ)晩蝉《ヒグラシノ》歌一首
 
〇晩蝉 歌にヒグラシと詠んである。されば夕方に鳴く蝉の意で、茅蜩のこと。
 
隱耳《こもりのみ》 居者欝悒《をればいぶせみ》 奈具左武登《なぐさむと》 出立而者《いでたちきけば》 來鳴日晩《きなくひぐらし》     1479
 
〔釋〕 〇ひぐらし 下になり〔二字右○〕の助動詞を含む。「ひぐらし」は有吻類中蝉科に屬する昆蟲。早朝も鳴くが日暮を主として鳴く。カナ/\蝉。茅蜩。
【歌意】 家内に〔三字右○〕籠つてばかりゐると、氣が塞ぐので、その氣晴しをするとて、外に出掛けて聞くと、丁度來て鳴く蜩であることよ〔六字右○〕。
 
〔評〕 愁思を懷いて門に倚るは、誰れでもすることである。突如前林に鳴いた蜩に心の和みを覺えて、その蜩を詠歎した。「いで立ち聞けば」に作者の態度が想見される。
 
大伴(ノ)書持《フミモチガ》歌二首
 
(2276)〇大伴書持 既出(一〇一五頁)。
 
我屋戸爾《わがやどに》 月押照有《つきおしてれり》 霍公鳥《ほととぎす》 心有今夜《こころあるこよひ》 來鳴令響《きなきとよもせ》     1480
 
〔釋〕 ○おしてれり 「おしてる」を見よ(九八五頁)。○こころあるこよひ 興のある今夜。眞淵はコヽロアラバコヨヒ〔九字傍線〕と八言に訓んだ。
【歌意】 自分の庭に、一杯に月が照り渡つてゐる。時鳥よ、かう〔二字右○〕趣のある今夜ぞ、こゝに〔三字右○〕來て鳴き響かせい。
 
〔評〕 杜鵑の一聲を水の如き月夜に所望して、更に一段の興會を追求してゐる。風流三昧。古義に、又思ふ友人も訪ひきたり、といひ添へたのは蛇足。
 
我屋前乃《わがやどの》 花橘爾《はなたちばなに》 霍公鳥《ほととぎす》 今社鳴米《いまこそなかめ》 友爾相流時《ともにあへるとき》     1481
 
【歌意】 自分の庭の花橘に、時鳥よ、鳴くなら〔四字右○〕今さ鳴かうぜ。思ふ〔二字右○〕友に出會つた時だよ。
 
〔評〕 上と同時の作か。良夜にして良友に逢ふ、その歡が思ひ遣られる。さてはこの佳客に對して、何等かの方法を講じて※[疑の左+欠]待の意を表せざるを得ない。即ち庭前の橘を介して時鳥に「今こそ鳴かめ」の注文を著けた。そ(2277)の無理性が面白い。書持の詠み口はなか/\縱横自在で、兄家持に優るとも劣らぬ。
 
大伴(ノ)清繩《キヨツナガ》歌一首
 
○大伴清繩 傳未詳。古義に「繩」一本に綱〔右△〕に作るとある。卷十九に大伴(ノ)清繼の名があるが、その誤字とは定め難い。
 
皆人之《みなひとの》 待師宇能花《まちしうのはな》 雖落《ちりぬとも》 奈久霍公鳥《なくほととぎす》 吾將忘哉《われわすれめや》     1482
 
【歌意】 皆の人が咲くを〔三字右○〕待つた卯の花が、散つたとても、それは構はぬ〔六字右○〕、鳴く時鳥を、自分は忘れようことかい。
 
〔評〕 橘や卯花と時鳥、共に季節の風物として、その關係は不可分のやうに、奈良人は考へてゐた。そして卯花が散る頃は時鳥の盛りはもう過ぎて、誰れも珍重する者がない。獨作者は時鳥を愛賞する餘り、世間の通念に反抗して、「われ忘れめや」と揚言し、時鳥に滿腔の渇仰を捧げた。その點に新意を認める。
 
庵《イホリノ》君|諸立《モロタチガ》歌一首
 
○庵君諸立 庵は氏、君は姓、諸立は名、傳未詳。
 
吾背子之《わがせこが》 屋戸乃橘《やどのたちばな》 花乎吉美《はなをよみ》 鳴霍公鳥《なくほととぎす》 見曾吾來之《みにぞわがこし》     1483
 
(2278)〔釋〕 〇わがせこ こゝは兄弟か朋友をさしたらしい。
【歌意】 貴君の庭の橘の花がまあよさに、來て鳴く時鳥を、見にさ私は參つたことでしたよ。
 
〔評〕 多分は閑談の爲に「わがせこ」を訪問したのだらう。但その辭柄として、事を時鳥愛賞の風流に託した。お庭の橘は花がよいのでと、時鳥が特別に鳴きもするやうに、出來るだけのお世辭。その取成し柄と口達者とに頗る興味を感ずる。時鳥を聞きに〔六字傍点〕といはず、「見に來し」とあるは、變つて珍しい。奈良京では、時鳥が庭樹を傳つて鳴いてゐたものだ。
 
大伴(ノ)坂上(ノ)郎女(ガ)歌一首
 
霍公鳥《ほととぎす》 痛莫鳴《いたくななきそ》 獨居而《ひとりゐて》 寐乃不所宿《いのねらえぬに》 聞者苦毛《きけばくるしも》     1484
 
〔釋〕 ○いのねらえぬに 既出(二五三頁)。
【歌意】 時鳥よ、さう〔二字右○〕劇しく鳴くなよ、自分は只獨居て、眠りもようされぬのに、その上お前の聲を聞くと、溜らなく〔四字右○〕切ないわ。
 
〔評〕 作者は既に「鳴く聲聞けば戀こそまされ」と詠んだ。その人戀しさの繼續であらう。孤獨の枕を欹てゝその哀切な聲を聽くに至つては、斷腸の極だ。「聞けば苦しも」とは上に弓削皇子も歌はれた。
 
(2279)大伴(ノ)家持(ガ)唐棣《ハネズ》花(ノ)歌一首
 
○唐棣花 「はねずいろの」を見よ(三七八頁)。
 
夏儲而《なつまけて》 開有波禰受《さきたるはねず》 久方乃《ひさかたの》 雨打零者《あめうちふらば》 將移香《うつろひなむか》     1485
 
〔釋〕 〇なつまけて 「ふゆかたまけて」を見よ(五〇一頁)。〇はねず 「はねずいろの」を見よ(一二七八頁)。
【歌意】 夏を時として咲いた唐棣花、雨がかう〔二字右○〕降るならば、花が〔二字右○〕衰へようかしら。
 
〔評〕 唐棣花はいかにもはかなげな花と見える。折柄が初夏雨勝ちな天候に、その衰殘を懸念する情意は認められるが、平凡に過ぎる。
 
大伴(ノ)家持(ガ)恨(ム)2霍公鳥(ノ)晩喧《オソクナクヲ》1歌二首
 
吾屋前之《わがやどの》 花橘乎《はなたちばなを》 霍公鳥《ほととぎす》 來不喧地爾《きなかずつちに》 令落常香《ちらしなむとか》     1486
 
〔釋〕 〇はなたちばなを 「ちらしなむ」に跨續する。○ちらし オトシ〔三字傍線〕の訓もあるが、花や雪などには、「落」を多くはチルと訓ませるのが本集の例である。
(2280)【歌意】 自分の庭の花橘を、時鳥は來てまあ嶋かずに、むだに〔三字右○〕地上に散らしてしまはうことかえ、あんまりな〔五字右○〕。
 
〔評〕 橘の花は結構なもの、それを土に汚すに勿體ない極み。この責道具で來鳴かぬ時鳥に詰め寄つた。否應なしにこれでは鳴かずはなるまい。
 落花委地は詩では套語であるが、歌では「地に散らし」とまで、くどくいふことは奈良人の口癖で、平安以後には少ない。「來鳴かず土に」は句が分裂して獨立しないが、構想に變化を求める必要上、第四句第五句には大目に許容される。「とか」の疑問に餘情を搖曳させてゐる。
 
霍公鳥《ほととぎす》 不念有寸《おもはずありき》 木晩乃《このくれの》 如此成左右爾《かくなるまでに》 奈何不來喧《などかきなかぬ》     1487
 
〔釋〕 ○おもはずありき 鳴かぬとは〔五字右○〕思はなかつたの意。相念はずの意ではない。○このくれ 「このくれしげに」の項の「このくれ」を見よ(六七三頁)。
【歌意】 時鳥よ、今に鳴かぬとは〔七字右○〕思の外であつた。木の下闇のかう茂く〔二字右○〕なるまでに、何で來て鳴かぬのかえ。
 
〔評〕 「卯花の共に來る」といはれる時鳥、それが緑蔭濃やかになるまでも音せぬのは、まさに「思はずありき」だ。「などか」の一語は置かるべくして置かれた必然の語である。作者は待ち草臥れて焦れ込んだ。
 
(2281)大伴(ノ)家持(ガ)懽(ベル)2霍公鳥(ヲ)1歌一首
 
何處者《いづくには》 鳴毛思仁家武《なきもしにけむ》 霍公鳥《ほととぎす》 吾家乃里爾《わぎへのさとに》 今日耳曾鳴《けふのみぞなく》     1488
 
〔釋〕 ○いづくには 何處《ドコ》ぞ〔右○〕には。○わぎへ 既出(一五〇〇頁)。
【歌意】 時鳥は、何處ぞでは、鳴きもしたことであつたらう。が私のある里には〔右○〕、今日ばかりさ、はじめて〔四字右○〕鳴くわ。
 
〔評〕 時鳥の初聲を歡んだ。「今日のみ」は、鳴かなかつた過去の時日に對していつた。 
大伴(ノ)家持(ガ)惜(ム)2橘花(ヲ)1歌一首
 
吾屋前之《わがやどの》 花橘者《はなたちばなは》 落過而《ちりすぎて》 珠爾可貫《たまにぬくべく》 實爾成二家利《みになりにけり》     1489
 
【歌意】 自分の庭の、橘の花は散り切つて、玉と貫けよう程に、實になつてしまつたわい。
 
〔評〕 曩には「いつしかも玉に貫くべくその實なりなむ」と待ち遠しかつた橘が、もう「實になりにけり」で、光陰の移り換りは早い。この歌實の育つたのを「玉に貫くべく」といつた爲に、そこに珍重する趣が生じて、(2282)花を惜む意の方が稍輕くなつた。題詞を單に橘歌〔二字右△〕とすればよい。
 
大伴(ノ)家持(ガ)霍公鳥(ノ)歌一首
 
霍公鳥《ほととぎす》 雖待不來喧《まてどきなかず》 菖蒲草《あやめぐさ》 玉爾貫日乎《たまにぬくひを》 未遠美香《いまだとほみかも》     1490
 
〔釋〕 ○あやめぐさ 菖蒲草。池沼の水邊に自生する多年生草本。地下に長い根莖を有し、年々それより劍状の平行脈葉を簇生し、大なるは長け四五尺に達する。初夏葉間に花軸を抽いて肉穗花序をなし、淡黄色の小花を數多付く。葉根とも香氣が高い。五月艾と共に邪氣を拂ふ物として珍重された。「菖〔右○〕」原本にない。補つた。○ぬくひを 「を」は歎辭。
【歌意】 時鳥がいくら〔三字右○〕待つても、來て鳴かない。菖蒲を〔右○〕玉と貫く日はまあ、まだ遠いせゐかまあ。
 
〔評〕 菖蒲を玉に貫くはその根莖の節々を切り離して緒に綴るので、その日は端午の日である。時鳥は「おのが(2283)五月」といふ如く、五月の節物だ。作者はあこがれの餘り、そんな理窟なしに早くから時鳥を待ちかけた。が餘り鳴かぬので、ふと端午の日のまだ遠いことに想到し、そのせゐかしらと一寸首を捻つた、その穉氣に面白味がある。
 
大伴(ノ)家持(ガ)雨(ノ)日(ニ)聞(ク)2霍公鳥(ノ)喧(クヲ)1歌一首
 
宇乃花能《うのはなの》 過者惜香《すぎばをしみか》 霍公鳥《ほととぎす》 雨間毛不置《あままもおかず》 從此間喧渡《こゆなきわたる》     1491
 
〔釋〕 〇すぎばをしみか 散らうならそれが惜しさにか。「み」は助辭。サニ又クテと譯す。さればこゝの「をしみ」は惜シムの動詞の第二變化ではない。「すぎば」の將然をかく現在に承けるのは古格の一つである。○あままもおかず 雨の降る間もさし控へずの意。「雨間」は雨の晴れ間をいふが普通だが、この時代には雨の降る間を專らいつた。下にも「久かたの雨間もおかず雲隱り鳴きぞ行くなる早稻田かりがね」、卷十に「雨間あけて」などある。
【歌意】 卯花が散らうならその〔二字右○〕惜しさにか、時鳥が雨の降る間もさし控へず、此處から鳴いて往くわ。
 
〔評〕 雨に卯花の摧殘するを惜んでゐる際、時鳥の耳近に鳴くを聞いての作である。そして自分の心境を時鳥に托して歌つた。「こゆ」とあるからは、その卯花は作者庭前の物である。奈良京は山野に接近してゐるから、平安人士のやうにわざ/\卯花垣を訪うたり、時鳥を尋ねたりするに及ばない。
 
(2284)橘(ノ)歌一首 遊行女婦《ウカレメ》
 
○遊行女婦 客の聘に應じて東西する故に遊行といふ。和名抄に、揚氏漢語抄(ニ)云(フ)、遊行女兒、和名|宇加禮女《ウカレメ》、又云(フ)阿曾比《アソビ》。
 
君家乃《きみがいへの》 花橘者《はなたちばなは》 成爾家利《なりにけり》 花乃有時爾《はなのあるときに》 相益物乎《あはましものを》     1492
 
〔釋〕 ○はなのあるときに 八言の句。契沖訓ハナナルトキニ〔七字傍線〕。○なりにけり 實に〔二字右○〕。
【歌意】 貴方のお宅の花橘は、實《ミ》になつてしまひましたわい、まだ花のある時に、出會はうものをさ。時節が後れて殘念な〔九字右○〕。
 
〔評〕 橘の結りたての實は小さくて青い。五月の玉には貫けるけれど、樹にあつては賞翫するに足らぬ。「花ある時」はその乳白の花と※[草冠/分]芳とが際立つて美しく又快い。惟ふに或は寓意の作か。御主人はもう妻定めして身を固めてしまはれたが、その前の仇めいた時代にお目に懸かればよかつたにとの艶情を寄せたものらしい。
 「君が家」は、このあたり大伴一家關係の作ばかりだから、或は家持の宅かも知れない。招かれて、酒席などに侍した遊行婦の口吟であらう。
  かはづ鳴く井手の山吹散りにけり花の盛に逢はましものを(古今集、春、詠人不知――或は橘清友)
(2285)と同調の作ながら、風韻の點は山吹に遙に及ばない。
 
大伴(ノ)村上《ムラカミガ》霍公鳥(ノ)歌一首
 
〇大伴村上 前出(二二三〇頁)。
 
吾屋前乃《わがやどの》 花橘乎《はなたちばなを》 霍公鳥《ほととぎす》 來鳴令動而《きなきとよめて》 本爾令散都《もとにちらしつ》     1493
 
〔釋〕 〇もとに 樹の〔二字右○〕もとにの略。古義は「本」を地〔右△〕の誤としてツチニ〔三字傍線〕と訓んだが、本文のまゝで意が通ずる。改める必要もない。
【歌意】 自分の家の橘の花を〔二字右○〕、時鳥が來て鳴き響かせて、樹の〔二字右○〕下に散らしたわい。
 
〔評〕 丁度橘の花散る頃、時鳥が木傳うて鳴いた。それを時鳥が「來鳴きとよめて」散らしたと、時鳥に冤罪を被せた。その顛倒の見に穉氣があつてよい。
 諸家擧つて頻に宿の橘をいふことは、橘のもつ傳説と、その當時の流行とで、軒前に缺くべからざる殖樹として栽ゑた爲である。この事委しくは卷二「橘の蔭ふむ路の」の評語(三七三頁)、及び卷六「橘は實さへ花さへ」の評語(一七七一頁)を參照。
 
(2286)大伴(ノ)家持(ガ)霍公鳥(ノ)歌二首
 
夏山之《なつやまの》 木末乃繋爾《こぬれのしげに》 霍公鳥《ほととぎす》 鳴響奈流《なきとよむなる》 聲之遙佐《こゑのはるけさ》     1494
 
〔釋〕 ○こぬれのしげに 木末の繁みに。「こぬれ」は既出(六八九頁)。「しげ」は繋しの語根の名詞となつたもの。訓は細本による。契沖訓シヾニ〔三字傍線〕。
【歌意】 夏の山の梢の繁つた邊に、時鳥が鳴き響かせてゐる聲の、遙かであることよ〔五字右○〕。
 
〔評〕 時鳥が夏山の梢を出没しつゝ鳴くその遠音が聞えた。聞えた〔三字傍点〕といつては實感は既に逃げてゐる。只「遙けさ」の形容によつて、有餘不盡の味ひを寓せた。古今集に
  音羽山けさ越えくれば時鳥こずゑはるかに今ぞ鳴くなる(夏部、友則)
もおなじ遙かな聲であるが、作の焦點は違つてゐる。
 
足引乃《あしひきの》 許乃間立八一《このまたちくく》 霍公鳥《ほととぎす》 如此聞始而《かくききそめて》 後將戀可聞《のちこひむかも》     1495
 
〔釋〕 ○あしひきの 山の枕詞であるのを、こゝは直ちに山の意に轉用した。既出(九二三頁)。○たちくく 「たち」は接頭語。「くく」は潜《クヾ》ること。漏る〔二字傍点〕の古言。「八十一」は算數的戲書。
 
(2287)【歌意】 山の木の間を〔右○〕潜る時鳥、それを〔三字右○〕かう一旦聞き初めては、今から〔三字右○〕後は、定めし〔三字右○〕戀ひようことかまあ。
 
〔釋〕 當面の面白さから、後引きの癖が付きさうだと心配した。間接の賞翫、その構想に曲折の味がある。「後戀ひむかも」の句に就いては、卷十「春霞山にたなびき」の條下の評語を參照。
 萬葉人は時鳥を身邊近く見詰めてをり、平安人となると、多く空間と時間とを結び付けて大まかに歌つてゐる。平安人が舊套を避けようとした意思も手傳つて居らうが、主としては奈良平安兩京の地勢と殷賑の度との相違によつて、時鳥の多少と、その接觸程度の密不密に原因するものと思ふ。
 
大伴(ノ)家持(ガ)石竹花《ナデシコノ》歌一首
 
〇石竹花 瞿麥花《ナデシコ》を見よ(一〇一六頁)。
 
吾屋前之《わがやどの》 瞿麥乃花《なでしこのはな》 盛有《さかりなり》 手折而一目《たをりてひとめ》 令見兒毛我母《みせむこもがも》     1496
 
〔釋〕 ○もみせむこ 「こ」は例の若い女の愛稱。
【歌意】 自分の宅の撫子の花が〔右○〕、今〔右○〕盛りであるわ。−枝〔二字右○〕手折つて、一目見せうその兒もありたいなあ。
 
〔評〕 家持の周圍は女だらけだ。「見せむ兒」に困ることはあるまい。但こゝは撫子に對しての興趣に遊んでゐる(2288)のである。
  いゆきあひの坂の麓に咲きをゝる櫻の花を見せむ子もがな(卷九――1752)
  青柳のいとの細しさはる風に亂れぬいまに見せむ子もがな(卷十――1851)
など皆同趣であることを思ふがよい。こゝに「一目」といひ、卷十の歌は「まに」といふ、情念を強調して象を深める手段である。
 
惜(ム)v不(ルヲ)v登(ラ)2筑波《ツクバノ》山(ニ)1歌一首
 
筑波山に登らなかつたことを遺憾とするとの意。○筑波山 筑波岳《ツクバノタケ》を見よ(八七四頁)。
 
筑波根爾《つくばねに》 吾行利世波《わがゆけりせば》 霍公鳥《ほととぎす》 山妣兒令響《やまひことよめ》 鳴麻志也其《なかましやそれ》     1497
 
〔釋〕 ○ゆけりせば 往つた事であるなら。「り」は現在完了詞。○やまひこ 既出(一七一八頁)。○なかましやそれ 「や」は反動辭。「それ」は其れを〔右○〕の略。下に、往きて數多聲聞かれしは羨まし〔往き〜右○〕の意を補足して聞く。
【歌意】 もし筑波山に、私が往つたことであるなら、貴方の聞かれたやうに〔貴方〜右○〕、時鳥がさう〔二字右○〕木魂を響かせて〔右○〕、鳴きませうかい。それをねえ〔三字右○〕。
 
〔評〕 お羨ましい事よの餘意がある。筑波に登つた人が、山では盛に時鳥が鳴いてゐたと、自慢さうに語るのを(2289)聞いての返事で、それは貴方だからこそ御馳走に鳴いてくれたのでと、山登りに同行しなかつた遺憾さを婉曲に表明した。「それ」の反撥は實に全局を覆して更に別乾坤を闢くもので、屈折の妙を見る。
 
右一首、高橋連蟲麻呂之歌集中(ニ)出(ヅ)。
 
〇高橋連蟲麻呂 既出(一七一六頁)。
 
   夏(ノ)相聞
 
○夏相聞 夏の李をもつた戀の歌といふこと。
 
大伴(ノ)坂上(ノ)郎女(カ)歌一首
 
無暇《いとまなみ》 不來之君爾《こざりしきみに》 霍公鳥《ほととぎす》 吾如此戀常《われかくこふと》 往而告社《ゆきてつげこそ》     1498
 
〔釋〕 ○こざりし 略解は「之」を座〔右△〕の誤としてキマサヌ〔四字傍線〕と訓んだ。○つげこそ 「こそ」は願望辭。
【歌意】 暇が無さに、お出で下されなかつた貴方に、時鳥よ、私がこのやうに戀しがると、往つて告げ知らせてくれい。
 
〔評〕 昔の男は夕方から妻君の許に通勤したものだ。妻君の方では今日は今日はと毎晩待つが、男の方は雨が降(2290)つた風が吹いたで差支へ、又所用や事故やで、さう/\は往かれない。たまにはそれらにかこつけて、餘所の女の處に往きもする。だから待つ方では氣が揉める。
 この歌も、男の方から、目下非常に多忙でと、不沙汰の挨拶をして來たのに對しての返事で、折柄軒端渡りする時鳥に、その止み難い戀心の通達を托した。時鳥の有心無心は、この際作者の念頭に無い。雁書の故事は古いが、時鳥の言傳はこれが先鞭である。
 
大伴(ノ)四繩(ガ)宴吟《ウタゲニウタヘル》歌一首
 
○宴吟歌 宴席で歌つた歌との意。これは四繩の自作ではあるまい。
 
事繁《ことしげみ》 君者不來益《きみはきまさず》 霍公鳥《ほととぎす》 汝太爾來鳴《なれだにきなけ》 朝戸將開《あさとひらかむ》     1499
 
【歌意】 事多さに、待つ〔二字右○〕お方はお出でなさらぬ。時鳥よ、お前なりともせめて、來て鳴けよ。そしたら〔四字右○〕この朝戸を開けうに。
 
〔評〕 平常はその君の來ました後朝に、別を惜みつゝ開ける朝戸である。が今は「來まさぬ」夜だ。開ける氣力もない。乃ち「汝れだに來鳴け」と時鳥に注文をつけ、さらばそれを機會にこの朝戸を開けもせうといふ。空閨を守る婦人の打萎れた樣子が見るやうで、怨望の意が歴然としてゐる。「來まさず」「來鳴け」は語意の密貼(2291)に過ぎる憾はあるが、「汝れだに來鳴け」は實に斷腸の語。
 
大伴(ノ)坂上(ノ)郎女(ガ)歌一首
 
夏野乃《なつのぬの》 繁見丹開有《しげみにさける》 姫由理乃《ひめゆりの》 不所知戀者《しらえぬこひは》 苦物乎《くるしきものを》     1500
 
〔釋〕 ○なつのぬの――ひめゆりの 上三句は「知らえ」に係る序詞。○ひめゆり 山野に自生する多年草本。大なるは二尺餘、小なるは一尺餘。花瓣狹くして展開せず、黄赤二種ある。○しらえぬ 知られぬの古語。
【歌意】 夏の野の、草の〔二字右○〕茂みに咲いてゐる姫百合は、人に知られぬ〔六字右○〕が、その如く人に〔二字右○〕知られぬ戀は切ないものをさ。察して貰ひたい〔七字右○〕。
 
〔評〕 「知らえぬ戀」は片戀である。その愚を自覺しながらもどうにもならず、「苦しきものを」と、誰に訴へるともなく他に同情を要求してゐる。序詞がまことに妥當で而も優腕で、印象が深い。
 
小治田(ノ)朝臣廣耳(ガ)歌一首
 
(2292)霍公鳥《ほととぎす》 鳴峯乃上能《なくをのうへの》 宇乃花之《うのはなの》 ※[厭のがんだれなし]事有哉《うきことあれや》 君之不來益《きみがきまさぬ》     1501
 
〔釋〕 ○をのうへ 岡の上。「を」を參照(一九〇〇頁)。○うのはなの 上句はウ音を疊んで、「うき」に係けた序詞。○あれや あれば〔右○〕や。
【歌意】 時鳥が鳴く岡の上の卯の花の、う〔傍点〕といふ憂《う》い事があるせゐかして、君はお出でなさらないわ。
 
〔評〕 親しい朋友などが近頃足を拔いたのを訝つて、何か面白くない事でもあつてかと心配してゐる。序詞は時節の風物を以て層塔式に積み上げた。かう詠んでその人に贈つたものだらう。
  うぐひすの通ふ垣根の卯の花のうき事あれや君が來まさぬ(卷十――1988)
と同型の同調。この卯の花の口合は古今集時代に至つて愈よ流行つた。
 
大伴(ノ)坂上(ノ)郎女(ガ)歌一首
 
五月之《さつきの》 花橘乎《はなたちばなを》 爲君《きみがため》 珠爾社〔左○〕貫《たまにこそぬけ》 零卷惜美《ちらまくをしみ》     1502
 
〔釋〕 ○さつきの 四言の句。古義は「之」を山〔右△〕の誤として、サツキヤマ〔五字傍線〕と訓んだのは非。○たまにこそ 「社」の字、原本にない。契沖説によつて補つた。
(2293)【歌意】 五月の花橘を、貴方の爲に、玉としてさ貫きますわ、徒らに〔三字右○〕散らうことが惜しさに。
 
〔評〕 地に散るが勿體なさに、その花を採つて玉に貫く、それを「君が爲」と稱した。端午の贈物と見ればそれまでだが、今少し深長な意味がありさうだ。蓋し橘の花の咲き初めてから散り方になるまでも、その君は來なかつたので、しびれを切らして、橘花の花輪を綴つて贈物とし、そこに幽怨の情を寓せたものと考へられる。
 
紀(ノ)朝臣|豐河《トヨカハガ》歌一首
 
○紀朝臣豐河 續紀に、天平十一年正月、正六位上より外從五位下となるとある。
 
吾妹兒之《わぎもこが》 家乃垣内乃《やどのかきつの》 佐由理花《さゆりばな》 由利登云者《ゆりといへるは》 不許〔左○〕云二似《いなちふににる》     1503
 
〔釋〕 ○かきつ 垣内《カキウチ》。ウチの約はツ。○さゆりばな 「さ」は美稱。○ゆりといへるは 「ゆり」はヨリ(從)の古言。こゝはこれより〔四字傍点〕の略語と考へられる。結局後に〔二字傍点〕の意に通ふ。卷十八に「さゆり花ゆり〔二字傍点〕もあはむと思へこそ今のまさかもうるはしみすれ」、同卷「さゆり花ゆり〔二字傍点〕もあはむと下《シタ》はふる心しなくば今日も經めやも」などのゆり〔二字傍点〕、何れも後ニ〔二字傍点〕と譯してよい。宣長は夙くこの用例を發見したが、語義の解説がなかつた。訓は新考に從つた。舊訓ユリトシイヘバ〔七字傍線〕。○いなちふににる 否《イヤ》だといふに似てゐる。「許」原本に謌〔右△〕とあるは誤。「不許」をイナとよむは意訓。下にも、不許者不有をイナニハアラズと訓んである。これは宣長説。
(2294)【歌意】 あの兒の宅の垣根内の、百合の花の名のやうに〔五字右○〕、ゆり〔二字傍点〕(後ニ)逢ひませう〔五字右○〕と、あの兒がいつたのは、何だか〔三字右○〕否だといふのに、似てゐるわ。
 
〔評〕 情痴の世界は別天地だが、まこと解頤の語で、打聞くから、何人もほゝ笑まずには居られまい。「似る」の一語尤も含蓄に富んで、餘韻を搖曳する。
 
高安《タカヤスノ》歌一首
 
○高安 こゝに氏姓のないのは、脱字。卷一に高安(ノ)大島あり、卷四に高安(ノ)王がある。この二人のうちか、又別人か。
 
暇無《いとまなみ》 五月乎尚爾《さつきをすらに》 吾味兒我《わぎもこが》 花橘乎《はなたちばなを》 不見可將過《みずかすぎなむ》     1504
 
〔釋〕 ○わぎもこが 我妹子が宅の〔二字右○〕。
【歌意】 自分は〔三字右○〕寸暇が無さに、この物節の〔五字右○〕五月をすら、彼の女の宅の〔二字右○〕、花橘を見ずに、過してしまふことか。
 
〔評〕 五月は端午の節供があり、徃來贈遺の頻繁な時である。それが爲却て公私多用で、我妹子往訪の餘閑を得ない。乃ち花橘に寄託して、相見の期を愆つことを嗟歎した。そこに含蓄の餘味を見る。
 
(2295)大神女郎《オホミワノイラツメガ》贈(レル)2大伴(ノ)家持(二)1歌一首
 
○大神女郎 既出(一二三六頁)。
 
霍公鳥《ほととぎす》 鳴之登時《なきしすなはち》 君之家爾《きみがいへに》 往跡追者《ゆけとおひしは》 將至鴨《いたりけむかも》     1505
 
〔釋〕 〇すなはち 「登時」をスナハチと訓む。紀及び捕亡令に登、續紀に登時を、かく訓んである。
【歌意】 時鳥が鳴いた時すぐ貴方の宅に往けと追ひ遣つたのは、往きましたことでせうかまあ。
 
〔評〕 懷かしい時鳥の聲を庭前に聞いた。滿悦この上もない。忽ち獨占のあたらしさを感じ、同じ事なら彼の人家持にも樂ませたいの一念から、早く往つて鳴けと追ひ立てた。その親昵の情味に伴ふ穉氣痴態想ふべしである。けれども相手が鳥だ。果して命令通りに往つてくれたかどうかと照會したものだ。作者の意圖は只自分の親切の情意を相手に通せばよいので、實はその到不到は問題でないのだ。
 
大伴(ノ)田村(ノ)大孃(ガ)與(フル)2妹坂上(ノ)大孃(二)1歌一首
 
古郷之《ふるさとの》 奈良思之岳能《ならしのをかの》 霍公鳥《ほととぎす》 言告遣之《ことつげやりし》 何如告寸八《いかにつげきや》     1506
 
(2296)〔釋〕 〇いかにつげきや 「いかに」で切る。「つげきや」は告げたかどうかの意。
【歌意】 故里の奈良志の岡の時鳥に、言傳してやりましたが〔右○〕、貴女〔二字右○〕に申しましたかどうですか。
 
〔評〕 上の大伴郎女の、「いとまなみ來ざりし君に」の作と同趣で、更に一歩前進し、その効果如何と問訊した。それだけ少し遊戲氣分に傾いた嫌はあるものゝ、姉妹間の打解け切つた情味がそこに出てゐる。
 田村大孃は、奈良の田村の邸の外に、奈良志の岡にも住んでゐたと見える。
 
大伴(ノ)家持(ガ)攀(ヂテ)2橘花(ヲ)1贈(レル)2坂上(ノ)大孃(二)1歌一首并短歌
 
○攀橘花 橘を折るをいふ。
 
伊加登伊可等《いかといかと》 待吾屋前爾《まつわがやどに》 百〔左△〕枝刺《ももえさし》 於布流橘《をふるたちばな》 玉爾貫《たまにぬく》 五月乎近美《さつきをちかみ》 安要奴我爾《あえぬかに》 花咲爾家里《はなさきにけり》 朝爾食爾《あさにけに》 出見毎《いでみるごとに》 氣緒爾《いきのをに》 吾念株爾《わがおもふいもに》 銅鏡《まそかがみ》 清月夜爾《きよきつくよに》 直一眠《ただひとめ》 (2297)令覩而爾波《みせむまでには》 落許須奈《ちりこすな》 由米登云管《ゆめといひつつ》 幾許《ここだくも》 吾守物乎《わがもるものを》 宇禮多伎也《うれたきや》 志許霍公鳥《しこほととぎす》 曉之《あかつきの》 裏悲爾《うらがなしきに》 雖追雖追《おへどおへど》 尚來鳴而《なほしきなきて》 徒爾《いたづらに》 地爾令散者《つちにちらせば》 爲便乎奈美《すべをなみ》 攀而手折都《よぢてたをりつ》 見末世吾味兒《みませわぎもこ》     1507
 
〔釋〕 ○いかといかと 如何《イカ》と如何《イカ》と。「いか」は如何〔二字傍点〕にの意だらう。如何にを只イカとのみいふは他に例を見ぬが、イカニ、イカデ、イカガとも用ゐる以上は、イカがその本體の語であることを證する。さては「いかと」の語態がイカニトの意をもつことも怪むに足らない。○まつわがやどに 「待」原本に有〔右△〕とあるは誤。大平説によつて改めた。○ももえさし 既出(五八四頁)。○あえぬかに 落つるばかりにの意。「あえ」は也行下二段の動詞で、落つることをいふ。方言にこの語あること、信濃浸録、山彦草子、橿の落葉等に論じてある。「ぬ」は現在完了詞。「かに」はカノヤウニと譯する。「に」は如くの意のニ〔傍点〕である。「かたりつぐかね」を參照(八四二頁)。○けに 既出(八六五頁)。〇いきのをに 既出(一二六七頁)。○まそかがみ 眞澄鏡の如く〔三字右○〕の意。既出(六四三頁)。「銅鏡」を意訓にマソカヾミと讀む。神代紀に白銅鏡あり、又青銅鏡も行はれた。とにかく質(2298)は銅鏡なので充てたと考へられる。○ちりこすな 散つてくれるな。「ききこすな」を見よ(一二八〇頁)。○ここだく 澤山に、許多になどの意。こきだく〔四字傍点〕とも轉じいふ。○うれたきや 慨かはしいまあ。「や」は間投の歎辭。○しこほととぎす 「しこ」は罵る詞。「しこのしこぐさ」を見よ(一三三九頁)。○なほし 「なほ」は矢張の意。「し」は強辭。
【歌意】 どうか/\と貴女のお出で〔六字右○〕を待つ私の宿に、澤山枝をさして生える橘〔右○〕は、その花を玉として貫く五月の節がまあ近さに、殆ど〔二字右○〕落ちるかのやうに花が咲いたことわい。朝毎に何時も出て見る度に、命懸けて私の思ふ貴女に、「この頃の〔二字右○〕いゝ月の夜に、只一眼なりとも〔四字右○〕お見せしようまでには、散つてくれるなよ、必ず」といひながら、私が大事に〔三字右○〕守るものを、情けないなあ厭《イヤ》な時鳥奴〔右○〕が、曉の只でも心悲しい時〔右○〕に、追つても/\矢張さ來て鳴いて、むだにこの花を〔四字右○〕地に散らすので、仕方がまあなさに、攀ぢて折り取りました。どうぞ御覽下さい、吾妹子の貴女〔三字右○〕よ。
 
〔評〕 起手突如として情語を下し、漸く叙事に移行した。この種の樣式による長歌の次代的のものであることは既に上に屡ば説明した。
 「いかといかと待つ」は大孃の來訪を待つのである。但婦人が男の宅に來るのは、當時の常習には悖つてゐる。二人の間には既に戀は成立してゐたか、それともまだ作者家持だけの片戀時代かは判明しない。大孃はおなじ大伴氏でも、分系たる宿奈麻呂の子で、母親坂上郎女の佐保の宅で育つた。郎女は即ち家持の叔母だから、家持と大孃とは從兄弟同士の幼馴染だ。かうした關係からして、家持の佐保の西宅へも、時たま出入すること(2299)があつたと考へられる。
 相思の人は矚目の物悉く感傷の種ならざるはない。庭上の橘、それは萬葉人の齊しく渇仰を極めた橘は、今が花の眞つ盛であつた。それを「たゞ一眼」なりとも思ふ君に見せたいは人情だが、その實は一眼なりとも會ひたいの寄懷である。而も「清き月夜」を拈出したことは、艶々しい緑葉の間に點綴する乳白の細花の、時恰も仲夏の爽涼たる月影に反射する、その光色の美が絶對だからである。「五月を近み」とある月夜は、必ずその五月の前月、即ち四月中旬、晩くとも下句の殘月まださやかな頃であらねばなるまい。とするとこの歌もその頃ほひの製作となる。かくして作者は殘月の夜を遂に起き明して、「曉のうら悲しき」思に、大孃を戀ひ偲ぶのであつた。
 そこへ惡戲者としての時鳥を點出した。上にも
  わが宿の花たちばなを時鳥來鳴きとよめて本に散らしつ(大伴村上――1493)
とあり、花は盛り過ぎなむとして散るのを時鳥の所爲に寄托し、常は愛賞措かざる時鳥をば「醜」と罵り、遂には「追へども」といふに至る。素よりそれも假構で、さばかりの橘を勿體なくも折らねばならぬ理由を無理にも作成したものである。これとても大孃の來訪の遲いからで、愈よ待ちかねて、橘を折り取つて贈るの意が隱約の間に歴々としてゐる。畢竟は最後の「よぢて手折りつ見ませ吾妹子」が一篇の主命である。
 この歌は冒頭から「花咲きにけり」までが第一段、「朝にけに」から「よぢて手折りつ」までが第二段、以下が第三段で、中間縱横にその懷抱を揮灑し去つた。頗る常識的ではあるものゝ、こんな輕い小さな題目でこれ程の大手筆を揮つた家持は、矢張立派な歌人である。
 
(2300)反歌
 
望降《もちくだち》 清月夜爾《きよきつくよに》 吾妹兒爾《わぎもこに》 令覩常念之《みせむともひし》 屋前之橘《やどのたちばな》     1508
 
〔釋〕 ○もちくだち 十六夜より三四日間をかけていふ。「もち」は、ミチ(滿)の轉語で、十五夜の滿月をいひ、又その日その夜をもいふ。「望」は支那で、日と月と相對し望む意にて、十五夜の稱とした。「くだち」は降《クダ》りの古言。
【歌意】 望の夜が過ぎて、まだいゝ月夜の頃に、貴女に見せうと思うた、私の宅の橘ですよ、これは〔三字右○〕。
 
〔評〕 その節お出がないのでわざとお目に懸けますの餘意がある。大體長歌の意を要約して歌つた。
 
妹之見而《いもがみて》 後毛將鳴《のちもなかなむ》 霍公鳥《ほととぎす》 花橘乎《はなたちばなを》 地爾落津《つちにちちしつ》     1509
 
〔釋〕 ○のちも この語の「も」は大抵歎辭。
【歌意】 貴女が花橘〔二字右○〕を見てから〔二字右○〕、後でまあ時鳥は〔右○〕鳴いてほしい。然るに貴女より先に來て鳴いて、折角の〔然る〜右○〕花橘を土に散らしましたわい。
 
(2301)〔評〕 時鳥の鈍馬さ加減を罵つた。かやうに時鳥に浴びせる罵聲も歎聲も、すべては大孃思慕の情の投影である。即ち大孃の來訪がその期を過してあることを、間接に怨嗟したもので、蘊合の味が永い。
 
大伴(ノ)家持(ガ)贈(レル)2紀(ノ)女郎〔二字左△〕(ニ)1歌一首
 
○紀女郎 原本、紀郎女〔二字右△〕とあるは顛倒。○歌の下、原本「作」の字あるは不用。
 
瞿麥者《なでしこは》 咲而落去常《さきてちりぬと》 人者雖言《ひとはいへど》 吾標之野乃《わがしめしぬの》 花爾有目八《はなにあらめやも》     1510
 
〔釋〕 ○さきてちりぬ 既出(九〇七頁)。○はなにあらめやも 神本訓ハナヽラメヤモ〔七字傍線〕。
【歌意】 撫子は咲き散つたと、人はいふが、それは私の標《シメ》結うた野の、花であらうことかい。――貴方にそんなことはない筈さ〔貴方〜右○〕。
 
〔評〕 撫子の「咲きて散る」は女の心變りを譬へた。噂には聞いたが、多分他人の事だらうとぼかした婉辭である。或は紀女郎が安貴王の妻となつた頃の作ではあるまいか。
  梅の花咲きて散りぬと人はいへどわがしめゆひし枝ならめやも(卷三、駿河麻呂――400)
と同意同調、駿河麻呂は家持よりは稍先輩だから、歩驟の謗は免れ難い。
 
(2302) 秋(ノ)雜歌
 
崗本天皇御製歌《ヲカモトノスメラミコトノミヨミマセルオホミウタ》一首
 
○崗本天皇 舒明天皇の御事。なほ「崗本宮」を見よ(一八頁)。
 
暮去者《ゆふされば》 小倉乃山爾《をぐらのやまに》 鳴鹿之《なくしかの》 今夜波不鳴《こよひはなかず》 寐宿家良思母《いねにけらしも》     1511
 
〔釋〕 〇をぐらのやま また小鞍の嶺。小椋とも書く。立田山中の一峯で、卷九に「龍田の山の瀧のへの小鞍の嶺」とあれば、大和平群郡(今生駒郡)立田の龜の瀬の上方の山である。大和志に小倉(ノ)峯(ニ)有(リ)v二、一(ハ)在2立野村(ノ)西(ニ)1、一(ハ)在(リ)2小倉寺村(ノ)上方(ニ)1とあるが、小倉寺村の上方は鬼取山の事で、瀧の上とあるに協はぬ。無論今一説の方に從ふべきだ。△地圖及瀉眞 後出挿圖605(二五五九頁)604(二五五八頁)を見よ。
【歌意】 夕方になると、きまつて〔四字右○〕小倉の山に鳴く鹿が、今夜は鳴かない。もう寐てしまつたらしいわい。
 
〔釋〕 「鳴く鹿の――鳴かず」、この異常の現象は一寸聖慮を動かし奉つた。仁徳天皇の御憂慮あらせられた兎餓野《ウガヌ》の鹿は、狩人に捕られて今夜は鳴かぬ〔六字傍点〕のであつた。がこれはそんなむづかしい因縁話も何もない、極めて單純な御推想で、「いねにけらしも」の無造作な下語は穉氣滿幅、容易く企及し難い高古の調である。
(2303) 契沖や古義などの、今宵鳴かぬは偶《ツマ》を得て心安く寢入りたるならむと解したのは、穿鑿に過ぎる。
 紀に天皇の立田邊に掩留された記事がない。難波、有馬、伊豫の湯などへ行幸の途次か。 
大津(ノ)皇子(ノ)御歌一首
 
○大津皇子 既出(三三七頁)。
 
經毛無《たてもなく》 緯毛不定《ぬきもさだめず》 未通女等之《をとめらが》 織黄葉爾《おれるもみぢに》 霜莫零《しもなふりそね》     1512
 
〔釋〕 ○たて――ぬき 「たてぬき」を見よ(一九一九頁)。○しもなふりそね 「ね」は懇辭。
【歌意】 經絲もなく緯糸もきまりなく、處女等が織つた錦の〔二字右○〕もみぢに、霜が降るなよ。
 
〔評〕 黄葉を錦に譬へることは漢詩には珍しくない。然も作者御自身も、
  天紙風筆畫(キ)2雲鶴(ヲ)1、山棧霜杼織(ル)2葉錦(ヲ)1。(懷風藻)
と作られてゐる。葉錦はまことに完句と見受けられる。が「をとめらが織れるもみぢ」は稍疎に失しはしまいが、錦〔右○〕の語がない爲、聯想が跳躍してゐる。又「をとめら」は錦織部《ニシゴリヘ》の織女等を斥したのであらうが、或はまた天女の伴《トモ》を想うたと考へられぬこともない。
  みよし野の青根がたけの苔むしろ誰れか織りけむ經緯《タテヌキ》なしに(卷七――1120)
(2304)も暗に神仙を織女に指斥してゐる。
 
穗積(ノ)皇子(ノ)御歌二首
 
○穗積皇子 既出(三五六頁)。
 
今朝之旦開《けさのあさけ》 鴈之鳴聞都《かりがねききつ》 春日山《かすがやま》 黄葉家良思《もみぢにけらし》 吾情痛之《わがこころいたし》     1513
 
【歌意】 今朝のこの朝明け、雁の聲を聞いた。さて〔二字右○〕は春日山は色付いたらしい。かう秋氣が深く催しては〔九字右○〕、自分の胸は悲しくて痛いわ。
 
〔評〕 漢土では悲秋といふ語の生ずる程、金風商聲に悲哀を感じ、離騷の詩賦から始めて歴代の製作に、その種のものが充滿してゐる。皇子の御作には漢文學の影響が認められるものがあるから、これもその儔かも知れない。然し人情は和漢とも一途だ。しか感ずべくして感じられたと見てよからう。おなじ主觀の表現でも、悲し〔二字傍点〕を通り越した「痛し」に至つては、その凄愴の氣に打たれる。
 三段切れの手法、意調急迫して、語々勁健である。殊に結句の應接、藕斷えて絲斷えざる妙味を存する。古義が結句を三句の上に廻はして釋したのは曲解。
 
(2305)秋芽者《あきはぎは》 可咲有良之《さきぬべからし》 吾屋戸之《わがやどの》 淺茅之花乃《あさぢがはなの》 散去見者《ちりぬるみれば》     1514
 
〔釋〕 ○あさぢがはな 「あさぢはら」(八〇一頁)及び「ちばな」(二二四二頁)を見よ。
【歌意】 秋萩は、花が〔二字右○〕咲きさうであるらしい、自分の宿の淺茅の花が、散つたのを見ると。
 
〔評〕 茅花は春の季物となつてゐるが、遲い種類のは夏でも、殊によると秋でも、その白い穗を抽いてゐる。これは夏の半ば過ぎ、作者は庭上の茅花のほゝけて散るのを見て、秋色の野邊に催すを卜した。そこに節物風光の素早い變轉を感じて悵然たる、作者その人を見る。
 季節の上のみでいへば、この歌は上の歌と前後すべきである。
 
但馬(ノ)皇女〔左△〕(ノ)御歌一首 【一書(二)云(フ)、子部(ノ)王(の)作(メル)】
 
○但馬皇女 既出(三五六頁)。「女」原本に子〔右△〕とあるは誤。西本温本等による。〇子部王 傳未詳。子部は小子部《チヒサコベ》の畧か。
 
事繁《ことしげき》 里爾不〔左△〕住者《さとにすまずは》 今朝鳴之《けさなきし》 鴈爾副而《かりにたぐひて》 去益物乎《いなましものを》     1515
 
(2306)一(ニ)云(フ)、國爾不有者《クニニアラズハ》。
 
〔釋〕 ○ことしげき 言《コト》繁き。「事」は借字。○すまずは 住まむより〔三字右○〕はの意。「不」原本に下〔右△〕とあるは誤。類本神本その他による。○いなましものを 類本神本の訓による。舊訓ユカマシモノヲ〔七字傍線〕。○くににあらずは 二句の一傳を註した。國は處といふに同じい。
【歌意】 人言のうるさい里に住まうよりは、今朝聽いた雁に連れ立つて、何處ぞへ〔四字右○〕去なうものを。殘念な〔三字右○〕。
 
〔評〕 作者は既に「君によりなな言痛《コチタ》かりとも」(卷二)と覺悟の前で、穗積皇子との危い戀の道を歩んだ。なれども人言が深刻になつてくると、はじめの廣言にも似ず、流石に小さい胸は動搖した。絶體絶命、この面倒な世界から逃避するより外の思案はなくなつた。「雁にたぐひていなまし」は、幾ら殘念がつても、實行不能な空想だが、然し單なる空想ではなく、その眞實の所産であつた。遂には「おのも世にいまだ渡らぬ朝川」(卷二)まで渡られたのも、人言を繁みこちたみの故であつた。その事件が如何に當時の大問題になつてゐたかが想像されよう。一云の「國にあらずは」は本行より事が廣くて面白い。
 なほ委しくは卷二「但馬(ノ)皇女(ノ)在(セル)2高市皇子(ノ)宮(ニ)1時、思(シテ)2穗積皇子(ヲ)1御作歌」以下の三首、及びその評語を參照(三五六頁――三六一頁)。
 再考するにこの秘密の露顯は秋であつた。さればこそ皇女は既に「秋の田の穗向《ホムキ》のよれる片寄りに」(卷二)と歌はれ、今又こゝに「今朝鳴きし雁」に寄懷されたのである。すると、上出の穗積皇子の御歌の「今朝の朝(2307)け雁が音聞きつ」に何かの因縁があるやうに想像される。或は皇子の御作にこれは唱和されたものか。果してさうとすれば、皇子の御作も單なる悲秋の情思を叙べたのに畢るのではなくて、その「わがこころ痛し」には更に一段悲痛な複雜な感愴を伴うてをることを、考慮に置かねばならなくなる。
 
門〔左△〕部《カドヘノ》王(ノ)惜(メル)2秋葉《モミヂヲ》1歌一首
 
○門部王 既出(七五二頁)。「門」原本諸本とも山〔右△〕とあるは誤。今改めた。その理由は次を見よ。○山部王 山部王に二人ある。一人は天武天皇紀に見える山部王で、近江方の將として、犬上川で身方の爲に殺された人、今一人は桓武天皇がまだ諸王にましける時の御名で、稱徳天皇紀に、天平神護二年十一月無位山邊(ノ)王(ニ)授(ク)2從五位下(ヲ)1とある。
 このあたりの編次を年代から勘へると、穗積皇子、但馬皇女の御歌と、長屋王の御歌との間だから、無論はじめの山部王ではない。桓武天皇の山部王は長屋王の薨ぜられた天平元年よりは、遙か後の同八年の御降誕だから、これも當らない。古義にはなほ同名別人なるべしとある。別人に異議はないが、同名との想像は不稽である。これは必ず門〔左△〕部王の誤寫と思はれる。門部王は、元明、元正、聖武の三天皇に歴任された人で、丁度この前後の年代に順應する。○秋葉 意訓にモミヂと讀む。
 
秋山爾《あきやまに》 黄反木葉乃《もみつこのはの》 移去者《うつりなば》 更哉秋乎《さらにやあきを》 欲見世武《みまくほりせむ》     1516
 
(2308)〔釋〕 ○もみつ 「もみつ」は草木の色付くをおもにいふ、多行四段の動詞、古言。その第二變化がモミチで、名詞には紅葉の事とする。又延言にはモミタヒとなる。「黄反」の反は變の通用で、黄變は草木の色付くをいふ。眞淵訓ニホフ〔三字傍線〕、舊訓キバム〔三字傍線〕。○うつりなば 古義訓による。舊訓ウツロヘバ〔五字傍線〕は非。
【歌意】 秋の山に、美しく色づく木の葉が散るならば、もう一遍紅葉する〔四字右○〕秋を見たく思はうことか。
 
〔評〕 眼前の秋色の見ても飽かざる趣を、秋の再來が希望せられることによつて反語した。
 
長屋(ノ)王(ノ)歌一首
 
○長屋王 既出(二六二頁)。
 
味酒《うまさけ》 三輪乃社〔左△〕之《みわのやしろの》 山照《やまてらす》 秋乃黄葉《あきのもみぢば》 散莫惜毛《ちらまくをしも》     1517
 
〔釋〕 ○うまさけみわ 「うまさけ」「みわ」何れも既出(八三頁)。○やしろの 「社」原本に祝〔右△〕とある。類聚古葉により改めた。元のまゝ祝《ハフリ》の山でも、祝の住む〔二字右○〕山の意とすれば通ぜぬことはないが、不完である。○やまてらす 宣長訓ヤマヒカル〔五字傍線〕は却て非。
【歌意】 三輪の社の山を耀す、秋の色付いた葉は〔右○〕、散らうことが惜しいわい。
(2309)〔評〕 平淡の感想を平淡に叙べた。作者の氣品が何處やらに想望される。三輪の社の山は即ち三輪山である。
 
山上(ノ)臣憶良(ガ)七夕《ナヌカノヨノ》歌|十二首《トヲアマリフタツ》
 
〇七夕 七月七日の夕の略稱。この題詞には專ら七夕傳説の事蹟を詠じ、時に同夜の月などをも詠じてゐる。支那に於ける陰陽説に、奇數を陽として尚び、偶數を陰として卑しめた。月と日にも奇數の相重なるを欣び、一月一日には歳旦を祝し、三月三日には上巳の禊修に伴ふ曲水宴を催し(後世は雛祭)、五月五日は衆病悉除の香草や藥玉を翫び、楚臣の靈を弔し、七月七日は星祭を行ひ、九月九日は高きに登つて災禍を祓へ、菊花を弄んで老を辟けるなど、いはゆる五節を生ずるに至つた。
〇七夕傳説 支那古代の民間傳説に、七月七日の夜は、夫の牽牛星(彦星)と妻の織女星(棚機つ女)とが、年に一度天の河を渡つて相逢ふといふ艶話がある。呉均が續齊諧記に、桂陽(ノ)成武丁、有(リ)2仙道1、忽(チ)謂(ツテ)2其弟(ニ)1曰(ク)、七月七日織女當(シ)3渡(リテ)v河(ヲ)、暫(ク)詣(ル)2牽牛(ニ)1、至(リテ)v今(ニ)云(ク)、織女嫁(スト)2牽牛(ニ)1。云々。又荊楚歳時記に、天河之東(ニ)有(リ)2織女1、天帝之子也、年々織杼(ニ)勞役(シ)、織(リ)2成(ス)雲錦(ノ)天衣(ヲ)1、天帝憐(ミ)2其獨處(ヲ)1、許(ス)v嫁(グヲ)2河西(ノ)牽牛(ニ)1、即(チ)嫁(ギテ)遂(ニ)廢(ス)2織袵(ヲ)1、天帝怒(リ)責(メテ)令(シム)v歸(ラ)2河東(ニ)1、但使(ム)2其(ニ)一年一度相會(ハ)1とある。これを祭ることは、周處が風土記に、七夕灑2掃(シ)於庭(ヲ)1、施(シ)2几筵(ヲ)1、設(ク)2酒果(ヲ)於河鼓織女(ニ)1、言(フ)二星(ノ)神會(ニ)、乞(フ)2富壽及(ビ)子(ヲ)1、また歳時記に、七夕婦人以(テ)2綵縷(ヲ)1穿(チ)2七孔針(ヲ)1、陳(ベ)2瓜花(ヲ)1、以(テ)乞(フ)v巧(ヲ)とある。星家の説では河鼓と牽牛とを別座の星としてゐる。
 
(2310)天漢《あまのがは》 相向立而《あひむきたちて》 吾戀之《わがこひし》 君來益奈利《きみきますなり》 紐解設奈《ひもときまけな》     1518
 
一《アルヒハ》云(フ)、向河《カハニムカヒテ》。
 
〔釋〕 ○あまのがは 天河、銀河のこと。秋小星の聚群が天半に白く靡いて見えるのを稱する。天漢、河漢などもいふ。「漢」は河の意。○むきたちて 織女星が。○ひもときまけな 「ひも」は衣の紐。「まけ」は設《マウ》くること。即ち支度すること。「な」は「いへきかな」の項の「な」を見よ(一一頁)。
【歌意】 天の河を隔てゝ、そちらに〔八字右○〕向いて立つて、私が戀ひ焦れたその〔二字右○〕君(彦星)が、今夜〔二字右○〕お出でなさるわ。さあ〔二字右○〕衣の紐を解いて待ち設けようぞ。
 
〔評〕 牽牛、織女の二星のことは、既に詩經の小雅(大東篇)に、
  維天(ニ)有(リ)v漢、監(カニ)赤(ク)有(リ)v光、跂(タル)彼(ノ)織女、終曰七襄、雖(モ)2則七襄(スト)1、不v成(サ)2報章(ヲ)1、v(タル)彼(ノ)牽牛、不2以服1v箱(ニ)、云々。
と見え、史記天官書にも、二星の名が出てゐる。淮南子に、
  七夕、烏鵲填(メテ)v河(ヲ)成(シ)v橋(ヲ)渡(ス)2織女(ヲ)1。(今本ニナシ)
(2311)といひ、文選の古詩に、
  迢々(タリ)牽牛星、皎々(タリ)河漢(ノ)女、盈々(タル)一水(ノ)間、脉々(トシテ)不v得v語《ルコトヲ》。
とあるを見れば、夙く周末以前から七夕傳説が發生してゐたことを證する。齊諧記の成武丁の話説の如きは、それに蛇足を添へたに過ぎない。張華の博物志も亦牛女の事に及んでゐる。かくて魏晉以降牛女の賦詠が益す盛行し、王鑒(晉)、范雲(宋)、謝惠連(宋)、王僧達(宋)、顔延之(宋)、何遜(梁)、徐※[立心偏+非]妻(染)等の諸作家、各々その巧思を運らし奇手を弄して、六朝を經、唐代に及んだ。
 わが邦では正史には孝謙天皇の天平勝賓三年七月七日に賜宴のあつた事が出てゐる。素より節供の賀宴に相違ないが、牛女の事も必ずその日の品題に上つた事と考へられる。然しそれより以前の養老七年の七月七日に、 東宮(聖武天皇)の令旨によつて、憶良がこの作を物したと、この歌の左註にあるから、わが邦における七夕の勝事の、これが抑もの最初であらう。いや/\これはまだ早計な推定であつた。懷風藻に右大臣藤原不比等の七夕の詩が載せてある。いはく、
  雲衣兩(ナガラ)觀v夕(ニ)、月鏡一(ニ)逢(フ)v秋(ニ)、機下非(ズ)2曾故(ニ)1、援息是威猷、鳳蓋隨(ヒテ)v風(ニ)轉(ジ)、散影逐(ヒテ)v波(ヲ)浮(ブ)、面前開(キ)2短業(ヲ)1、別後悲(ム)2長愁(ヲ)1。
不比等は養老四年三月に薨逝された人だから、この詩作は遲くともその前年の七夕の詠であらう。さては憶良の作よりは四年前の養老五年に、既に七夕の行事は始まつてゐたと斷言される。但以上は文獻上での考説で、實際は支那の俗間行事までも盛に取入れたと思はれる近江朝廷前後から、ぼつ/\と行はれて來たものであらう。(卷十、七夕の歌の左註に、此歌一首庚辰年作v之とある庚辰を、天武天皇九年に當てる説は誤)
 とにかく七夕傳説は支那文化の將來したものであるから、これに興味を感じ、これを賦することも、まづ漢(2312)學者又は詩人の手になされるのが至當の順序で、由つて最初は詩作のみであつたものが、次いでは漢學者詩人中の歌人が、これを國歌に吟詠するやうになり、憶良はその第一人者として、こゝに登場したのだ。
 支那の婚儀は幾多の文獻が示す如く、古代から夫の家にその婦を迎へるのであつた。故に七夕傳説も、織女が天河を渡つて牽牛に歸ぐことになつてゐる。處がわが古代習慣はその反對であつたから、作者は牽牛が天河を渡つて織女を訪ふ趣に取成した。恐らく作者の味噌もそこにあらう。「紐解き」は漫然と釋すれば、衣の紐を解いてその容與の姿態を示すものといつて濟むが、突き詰めると下裳の紐即ち下紐である。およそ萬葉人ぐらゐ紐を氣にした者は恐らくあるまい。殊に戀愛問題に觸れると、盛んに紐を取扱つて歌つてゐる。それは大抵下紐である。或註者は下紐では卑猥だと郤けたが、そんな潔癖家は萬葉人には一人もない。篤とこの集の全部を通讀して見るがよい。
 この歌はすべて織女の意中から構思した作で、上句から四句までは一氣に牽牛の來由を叙し、結句一轉換して織女自身の※[疑の旁が欠]待の熱意を叙べた。長句と短句との應接の姿致にその妙を見る。
 
右、養老七年七月七日、應v令作〔左○〕《オホセゴトニテヨメリ》。
 
養老七年の七夕に皇太子の令旨によつて、この歌を詠んだとの意。〇七年 原本に八〔右△〕年とあるは誤。養老八年は聖武天皇御即位の年で、その二月に神龜と改元。皇太子たる方はその頃まだなかつた。その前年の養老七年の七夕とすれば、元正天皇の御在位中で、皇太子は即ちのちの聖武天皇であらせられた。憶良は當時皇太子の御學問の事で奉仕したと見え、續紀に「養老五年庚午、詔(シテ)云々、從五位下山上憶良等退朝之後、令(ム)v侍(ラハ)2東宮(ニ)1(2313)焉」とある。さてこそ七夕の日、皇太子は侍講の憶良に命じて、その詠作を獻らしめられたのである。○「應令」は應令作之〔二字右○〕の略。ほんの心覺えの註記と見えて、文は不完である。以下の左註もこの例に準じて作〔右○〕の字を補つた。
      △懷風藻の作者に就いて(雜考――28參照)
久方之《ひさかたの》 漢瀬爾《あまのかはせに》 船泛而《ふねうけて》 今夜可君之《こよひかきみが》 我許來益武《わがりきまさむ》     1519
 
〔釋〕 〇あまのかはせ 天の河の河瀬の略言。天の河原、天の河路、天の河津、天の河|門《ト》など皆この辭例。「漢」の一宇をアマノガハと訓む。下にもアマノガハラに漢原を充てゝある。○こよひか 「か」は疑辭。○わがり わが許《モト》に。妹許《イモガリ》の類語。
【歌意】 天の河の川瀬に、舟を浮べて、今夜君樣(彦星)が、私の許に御出でなさらうかいな。
 
〔評〕 上のと同じ立場に織女を置いて詠んでゐる。牽牛の川渡りを想像して、その擧動を丁寧に思惟した處に、その戀々の情緒が漂ふ。「君」と「わ」との對比も、親昵な情味を強調する。
 
右、神龜元年七月七日(ノ)夜、左大臣(ノ)家(ニテ)作〔左○〕(メリ)。                    
〇神龜元年云々 聖武天皇即位の御年で、左大臣は長屋(ノ)王である。「左大臣家」の下作〔右○〕の字を補ふ。
 長屋王は非常に文詩を愛好された方で、その佐保の宅に在朝の文人墨客を屡ば招請して作らせられた詩は、(2314)懷風藻に多く載つててゐる。憶良がこの歌を詠んだ時も、他に七夕の詩作があつたらうと想像される。
 
牽牛者《ひこぼしは》 織女等《たなばたつめと》 天地之《あめつちの》 別時由《わかれしときゆ》 伊奈牟〔左△〕之呂《いなむしろ》 河向立《かはにむきたち》 意空《おもふそら》 不安久爾《やすからなくに》 嘆空《なげくそら》 不安久爾《やすからなくに》 青浪爾《あをなみに》 望者多要奴《のぞみはたえぬ》 白雲爾《しらくもに》 H者盡奴《なみだはつきぬ》 如是耳也《かくのみや》 伊伎都枳乎良牟《いきづきをらむ》 如是耳也《かくのみや》 戀都追安良牟《こひつつあらむ》 佐丹塗之《さにぬりの》 小船毛賀茂《をぶねもがも》 玉纏之《たままきの》 眞可伊毛我母《まかいもがも》【一云(フ)、小棹毛何毛《ヲサヲモガモ》】 朝奈藝爾《あさなぎに》 伊可伎渡《いかきわたり》 夕鹽爾《ゆふしほに》【一云(フ)、夕倍尓毛《ユフベニモ》】 伊許藝渡《いこぎわたり》 久方之《ひさかたの》 天河原爾《あまのかはらに》 天飛也《あまとぶや》 領巾可多思吉《ひれかたしき》 眞玉手之《またまでの》 玉手指更《たまでさしかへ》 餘多〔左○〕《あまたたび》 宿毛寐而師可聞《いもねてしがも》【一云(フ)、伊毛左祢而師加《イモサネテシガ》】 (2315)秋爾安良受登母《あきにあらずとも》【一云(フ)、秋不待登毛《アキマタズトモ》】     1520
 
〔釋〕 ○ひこぼし 彦星。牽牛星のこと。彦は日子《ヒコ》の義で日女《ヒメ》に對し、男子の尊稱となつてゐたから、彦星は即ち男の星の意で、牽牛星の譯語に充てた。和名抄に、牽牛(ハ)、爾雅(ノ)註(ニ)云(ク)、一名河鼓、和名|比古保之《ヒコボシ》、又|以奴加比保之《イヌカヒボシ》と見えた。○たなばたつめ 棚機つ女。織女星のこと。棚機は高造りの機で、上等の物を織る。その機織をつとむる女を棚機つ女といふので、神代紀に天(ノ)棚機姫《タナバタヒメノ》神(記には、天(ノ)衣織女《ミソオリメ》)の名が見える。今は織女星の譯語に應用した。○いなむしろ 川に係る枕詞。顯宗天皇紀にも「伊儺武斯廬川傍柳《イナムシロカハゾヒヤナギ》」とある。語義に就いて、(1)寢莚《イネムシロ》の轉。夫婦寢るに用ゐる二枚つなぎの莚。二枚を刺し交《カハ》すによりてカハ(川)にいひ懸け、又敷くにいひ續けて共に枕詞としたり(守部説)。(2)稻莚《イナムシロ》の義。稻の莚は強《コハ》き物なればその強《コハ》を川《カハ》にいひ懸けたるならむ(古義説)の二説ある。(1)は面白さうだが、二枚|繋《ツナ》ぎ云々は臆説で、肯定しにくい。(2)はいひ懸けの音態は稍不快だが、簡單なだけよいと思ふ。「牟」原本に字〔右△〕とあるは誤。釋日本紀廿八にもこの歌を引いて、伊奈牟之呂《イナムシロ》とある。○かはにむきたち 隔ての河に向つて立ち。○おもふそら――なげくそら 既出(一一四〇頁)。○あをなみ 蒼波〔二字傍点〕の直譯語か。用例を他に見ない。青海《アヲウナ》原、青海《アヲミ》の原はあるけれど。○あをなみに 青波に向つて〔三字右○〕。○のぞみはたえぬ 眺望の屆かぬをいふ。漢語の望斷〔二字傍点〕といふに同じい。「のぞみ」を希望の意とする説は當らぬ。○なみだ 「H」は字書に滴水の一解もあるから、意訓で涙《ナミダ》と讀まれぬこともない。○かくのみやいきづきをらむ 既出(一五二九頁)。○さにぬり 丹塗《ニヌリ》即ち朱塗のこと。「さ」は美稱。「さにつろふ」を見よ(九三三(2316)頁)。○たままきのまかひ 玉で飾つた櫂。「ま」は美稱。○いかきわたり 楫櫂などにて水を掻きゆくこと。「い」は接頭語。○いこぎわたり この「い」も接頭語。○あまとぶやひれ 空を飛ぶ爲の〔二字右○〕領巾の意。「や」は間投の歎辭。「ひれ」は既出(五七四頁)。領巾で天を飛ぶは人間業でない。これは佛畫や佛像などから來た形象で、その天女は領巾を翼として雲中を飛翔してゐる。織女星は系統は違ふが、矢張天女の儔なので、その領巾に「天飛ぶ」の枕を冠した。○かたしき 片敷く〔三字傍点〕とは獨寢の態で、おのが衣の片身を下に敷くをいふ。但こゝは單に敷くの意に用ゐた。特例と見るべきである。○またまでのたまでさしかへ 既出(一四三五頁)。○あまたたび 眞淵説によつて「餘」の下に多〔右○〕を補つてかく讀む。新考は夜毛〔二字右○〕の二字を加へてアマタヨモ〔五字傍線〕と訓んだ。卷十五に「あまた夜も〔五字傍点〕ゐねて來ましを」とあれば、それもよい。○をさをもがも ○いもさねてしが ○あきまたずとも 以上割註の句、本文と格別の優劣もない。
【歌意】 彦星樣は棚機つ女と、天地の闢け始めから、夫婦ながら〔五字右○〕天の河を間に向き合つて住まれ、それ故〔三字右○〕戀ひ思ふ心地が落ち著きかねるのに、思ひ歎く心地が落ち著きかねるのに、青々と遙かな波に見渡しは屆かず、白い空の雲に詠《ナガ》めする涙は盡きてしまつた、えゝ何でかうしてばかり吐息ついて居らうかい、かうしてばかり戀ひ戀ひして居らうかい、どうぞ朱塗の小船もほしいものよ、玉飾した眞櫂もほしいものよ、それがあらば〔六字右○〕、朝凪に櫂を〔二字右○〕掻き撥ねて渡り、夕汐に船を〔二字右○〕漕いで渡り、そして天の川の磧に、棚機つ女の領巾を打敷いて、綺麗なその手をさし交はして、何遍もゆるりと寢てさみたいことかまあ、何も〔二字右○〕秋でなくともさ。
 
(2317)〔評〕 二星會合の傳説は七月七日の秋の一夜と限られた、そのあはれな宿命故に同情が惹かれ、興味深くも感ずるのであつた。もと/\現實を離れての遊技氣分で、古來からこれを賞翫してゐる。されば天の河は牽牛が越さうが、織女が越さうが、鳥鵲の橋を渡らうが船で漕がうが、車で越さうが徒渉りしようが、それは空想の所産で作者の勝手であつた。
 餘り勝手過ぎて、この歌は天の河を廣大に誇張した結果が、測らず海になつてしまひ、朝凪がしたり夕汐がさしたりして、聊か腑に落ちない。「さ丹塗の船」は即ち赤《アケ》のそほ船で、實際にもあつた特別仕立の官船であるが、「玉纏の眞櫂」は空想であらう。そんな櫂は實用にならぬ。只二星の身邊を飾るにふさはしいやうに、漢詩にいはゆる蘭橈桂舟の豪華の文字を移したものと思はれる。同時代の詩にも、
  ――窈窕鳴(シ)2衣玉(ヲ)1、玲瓏映(ズ)2彩舟(ニ)1、所(ハ)v悲(ム)明日(ノ)夜、誰(カ)慰(メム)2別離(ノ)憂(ヲ)1(懷風藻、七夕、小田史)
など作つてゐる。「青浪に望は斷えぬ、白雲に涙は盡きぬ」は望斷、涙盡の直譯であるばかりか、全體の句調が漢文的であるのは、作者憶良の地金が歴々と露出したものと見られて面白い。
 領巾は大抵婦人の持物となつてゐた。祝詞に「領巾掛くる伴の男」と見え、紀に膳夫《カシハデ》の掛けたこともあるが、それは特殊の場合だ。長いのは一丈餘もあるから、天飛ぶ翼の代りともなり、又[領巾片敷き」も出來さうな事である。さてこの領巾といひ、又「眞玉手の玉手さし交へ」も、記の沼河比賣《ヌナカハヒメ》の歌中の語であるとすると、「天飛ぶや」以下は織女星の意中を叙したやうに聞えるが、全體の主格は冒頭に「牽牛は」とあるから、不快ながらもなほ牽牛の意中として見ねばならぬ。
(2318) 結句「秋にあらずとも」は洵に置き得て妙で、よくその情意を盡してゐる。
 
反歌
 
風雲者《かぜくもは》 二岸爾《ふたつのきしに》 可欲倍杼母《かよへども》 吾遠嬬之《わがとほづまの》【一云(フ)、波之嬬乃《ハシヅマノ》】 事曾不通《ことぞかよはぬ》     1521
 
〔釋〕 ○かぜくも 風と雲と。○ふたつのきし 天の河の兩岸。○とほづまのこと 遠妻の言《コト》。「事」は借字。「とほづま」は既出(一一四〇頁)。○はしづま 愛《ハ》し妻の意。
【歌意】 風や雲は、天の河の〔四字右○〕兩方の岸に通ひもするが、河の向ふ〔四字右○〕にゐる〔二字右○〕、私の嬬棚機の言傳はさ、一向に〔三字右○〕通はぬことよ。秋でないので〔六字右○〕。
 
〔評〕 これも牽牛星の意中を揣摩して作つたもの。「通ふ」「通はぬ」の反叙、印象は鮮明だが、餘に親貼に過ぎる。然しこの體、集中に多い。契沖が
  風雲は兩岸に往來すれども實の使ならねば、織女の言を傳へず。
と解したのは曲解である。果してその意ならば、結句言ぞもてこぬ〔六字傍点〕とでもいはねばならぬ。
 
多夫手二毛《たぶてにも》 投越都倍伎《なげこしつべき》 天漢《あまのがは》 敞太而禮婆可母《へだてればかも》 安麻多須辨奈吉《あまたすべなき》     1522
 
(2319)〔釋〕 たぶてにも 礫《ツブテ》にて〔右○〕もの意。「たぶて」は手棄《タウテ》の義で、手して擲つことから、、遂に飛石《ツブテ》の事に用ゐた。古義のたぶて乎〔左△〕〔四字傍点〕(ヲ)も〔傍点〕の説は非。○あまたすべなき この「あまた」は甚しくの意。
【歌意】 一寸礫でも投げて屆きさうな、河幅のない天の河、それでも〔四字右○〕隔たつてゐるせゐかまあ、酷く仕樣もないことわ。――言傳も出來ず逢へもせぬのでねえ〔言傳〜右○〕。
 
〔評〕 牽牛の感情がよく出てゐる。初二句、河幅の狹い形容を、男性のよく遣る飛石打によつて表現した。これは或は諺の如くにいひ馴らされてゐた語かも知れないが、もし作者の獨創とすれば警拔で面白い。左註によると地上から見上げた天の河で、實に「たぶてにも投げ越しつべき」といひたく狹く見える。
 
右、天平元年七月七日夜、憶良(ガ)仰(イデ)觀(テ)2天(ノ)河(ヲ)1作(メリ)。【一云(フ)、帥(ノ)家(ニテ)作(メル)。】
 
〇一云、帥家作 帥家は太宰帥大伴旅人卿の家である。憶良が風月の佳會毎に宰府の旅人卿の家に出入して、吟賞を共にした事が窺はれる。
 
秋風之《あきかぜの》 吹爾之日從《ふきにしひより》 何時可登《いつしかと》 吾待戀之《わがまちこひし》 君曾來座流《きみぞきませる》     1523
 
【歌意】 秋風が吹きはじめたその日から、何時か/\と、私が待ち焦れた、君(彦星)がさ、今〔右○〕入らつしやいましたわ。
 
(2320)〔評〕 織女の意中を詠んだ。「秋風の吹きにし日より」は即ち七月立秋の日からの意、それが七日になつて、愈よ「君ぞ來ませる」と、牽牛に逢ひ得た喜を叙べた。
  秋風の吹きにし日より天の川瀬に出で立ちて待つと告げこそ(卷十、――2083)
  秋風の吹きにし日より久方の天の川原に立たぬ日はなし(古今集、秋)
の直後の趣である。
 
天漢《あまのがは》 伊刀河浪者《いとかはなみは》 多多禰杼母《たたねども》 伺候難之《さもらひがたし》 近此瀬乎《ちかきこのせを》     1524
 
〔釋〕 〇いと 「いと」は三句の「立たねども」に係る。但この副詞は形容詞に係るを常格とし、かくの如く動詞に係るは變格である。○さもらひがたし 牽牛星の許に〔六字右○〕侍ひ難しの意。こゝの「さもらひ」は、卷六の「風吹けば波か立たむと伺候《サモラヒ》に」の「さもらひ」(一六七一頁)の意ではない。○この瀬を この瀬なる〔二字右○〕を。
【歌意】 天の河は、河浪はさうも立たないけれども、彦星のお側に〔六字右○〕、侍りかねることよ。しかも〔三字右○〕近いこの渡り瀬であるもの〔五字右○〕をさ。
 
〔評〕 これは七夕の詠ではない。平日の織女の感想を歌つた。まづ「いと河浪は立たねども」といひ、更に「近きこの瀬を」といひ添へた。そんな天の河なら無造作に何時でも渡れる筈だ。然るに事實は「さもらひ難し」である。作者はこの矛盾だけを報告して、そのよつて來る原因は、すべて他の推測に打任せて、知らぬ顔をし(2321)てゐる。この點甚だ狡猾である。七夕ならねば逢はせぬ、天の河傳説の鐵則が構想の基礎である。
 
袖振者《そでふらば》 見毛可波之都倍久《みもかはしつべく》 雖近《ちかけども》 度爲便無《わたるすべなし》 秋西安良禰波《あきにしあらねば》     1525
 
〔釋〕 ○そでふらば 「そでふる」及びその評語を見よ(九四頁)。○みもかはしつべく 八言の句。「も」は歎辭。○ちかけども 「とほけども」を見よ(九〇二頁)。舊訓チカケレド〔五字傍線〕。
【歌意】 天の河はその兩岸が〔天の〜右○〕、袖を振らうならば、氣が付いて〔五字右○〕見交はしもしさうに、近いけれど、渡る手立もないわ、秋でさないから。
 
〔評〕 盈々たる一水に咫尺もこれ萬里、二星平生の焦燥が思ひ遣られる。初二句は上の「たぶてにも投げ越しつべき」と同じく、天の河の狹さの形容で、而も情趣を含んだ態度が見えて面白いが、「近けども」は底を割つた。見もかはしつべき天の河〔見も〜傍点〕といつた方が、含みもあり簡淨でよからう。
 
玉蜻※[虫+廷]《たまかぎる》 髣髴所見而《ほのかにみえて》 別去者《わかれなば》 毛等奈也戀牟《もとなやこひむ》 相時麻而波《あふときまでは》     1526
 
〔釋〕 ○たまかぎる 既出(一七七頁)。こゝは玉の落ちついた光澤を譬へて、「ほのか」の枕詞に用ゐた。「蜻※[虫+廷]」は單に蜻とのみも書かれ、カギロヒの訓があるからの借字。○ほのかにみえて 一寸逢つての意。○もとなや (2322)「もとな」は既出(六一六頁)。「や」は疑辭。
【歌意】 なまじ〔三字右○〕一寸逢つたばかりで、別れようならば、却て〔二字右○〕無茶に戀はれうことか、又來年の秋の〔五字右○〕逢ふ時まではさ。
 
〔評〕 二星會合後の感想を歌つた。享樂の陶醉から醒めると、情けない現實が待ち受け、別愁と離愁とは永く來年まで持ち越されることに同情した。結句逢はむ時まで〔六字傍点〕といつた方が、表現がはつきりする。
 
右、天平二年七月八日(ノ)夜、帥(ノ)家(ノ)集會《ツドヒニテ》作〔左○〕(メリ)。 
○右云々 右の歌は天平二年の七夕の翌夜、太宰帥旅人卿の家の會合で詠んだとの意。「右」はこの歌一首にのみ係けた語。「作」原本にない。補つた。
 
牽牛之《ひこぼしの》 迎嬬船《つまむかへぶね》 己藝出良之《こぎづらし》 漢原爾《あまのがはらに》 霧之立波《きりのたてるは》     1527
 
〔釋〕 ○つまむかへぶね 妻の織女星を迎への船。○あまのがはら 天の河の河原の略言。○たてるは 眞淵訓による。舊訓タテレバ〔四字傍線〕。
【歌意】 彦星の、妻棚機を迎へ取る船が、今〔右○〕漕ぎ出るらしい。あれあの通り〔六字右○〕、天の河原に霧の立つてゐるのは。
 
(2323)〔評〕櫓櫂に船を操ると、雫が散つたり、波のしぶきが立つたりする。で天の河の狹霧を、牽牛の妻迎船の水霧と見た。憶良のこの一詠が出てから、
  天の川霧たちわたるけふ/\とわが待つ君が船出すらしも(卷九――1765)
  君が船いま漕ぎくらし天の川霧たちわたるこの河の瀬に(卷十――2045)
  天の川八十瀬きらひぬ彦星の時まつ船は今し漕ぐらし(同卷――2053)
など、後人が荐に踏襲した。又この種の作中には下界人の立場からとも聞え、又天上界に作者が遊離しての言とも聞えて、曖昧なのがまゝある。
 
霞立《かすみたつ》 天河原爾《あまのがはらに》 待君登《きみまつと》 伊往還程爾《いかよふほどに》 裳襴所沾《ものすそぬれぬ》     1528
 
〔釋〕 ○かすみたつ この霞は霧をいふ。卷二「秋の田の穗のへにきらふ朝霞」の條(三〇三頁)を參照。○いかよふ 「い」は接頭の發語。
【歌意】 天の河原に、お出でなさる〔六字右○〕君(彦星)を待つとて〔右○〕、あちこちするうちに、私〔右○〕(棚機)の〔右○〕裳の裾は、びしよびしよになりましたわ。
〔評〕 おなじ戀人を待つ焦燥でも、これは一年一度の事だから、勿論大變であらう。裳裾を濡らしての「い通ふ」が、その態度を適確に説明してゐる。「裳の裾沾れぬ」の句は集中他に五首を數へるが、風情の似たのでは、
(2324)  君が爲山田の澤にゑぐ摘むと雪解の水に裳の裾ぬれぬ(卷十――1839)
であらう。而もこれは毫も瑣屑の點のないのが嬉しい。
 
天河《あまのがは》 浮洲〔左△〕之浪音《うきすのなみと》 佐和久奈里《さわぐなり》 吾待君思《わがまつきみし》 舟出爲良之母《ふなですらしも》     1529
 
〔釋〕 ○うきすのなみと 「うきす」は水中に浮くが如く見ゆる洲をいふ。「洲」原本に津〔右△〕とあるが、浮津は妥當でないので改めた。眞淵は「浮」を御〔右△〕の誤としてミツノナミノト〔七字傍線〕と訓み、新考は「浮」を渡〔右△〕の誤としてワタツノナミト〔七字傍線〕と訓んだ。○なり 詠歎の助動詞。
【歌意】 天の河の浮洲の浪の音が、何時もより〔五字右○〕ざわ/\することよ。私の待つ君(彦星)がさ、今〔右○〕船出をなさるらしいわい。
 
〔評〕 これは織女の聽覺から構思して、牽牛歡迎の情緒を叙べた。浮洲にせよ、御津、渡津にせよ、何れ空想だから、どうでもよいのだが、浮洲の方が地勢的に趣があり、浪の音も餘計に耳立つて聞えるであらう。
  天の川霧たち渡るけふ/\とわが待つ君が船出すらしも(卷九、藤原北卿――1765)は三句以下同一である。北卿は藤原房前のことだから、憶良と同時の人で、歌の後先は判然しない。但憶良の方が年長である。
 以上憶良の十二首、一時の作でこそないが、一つの題目を隨分と多量に詠んだものだ。もと/\架空的話説(2325)に立脚したものだから、盛にその巧思を運らした點には感服するものゝ、結局遊戲文字に墮して、實感の人に迫るものを見出し得ないのも當然である。なほ卷十所載の七夕の歌百首を參照して見たら、思半ばに過ぎるものがあらう。
 
太宰(ノ)諸卿大夫《マヘツギミタチ》并|官人等《ツカサビトタチガ》、宴《ウタゲスル》2筑前(ノ)國|蘆城驛家《アシキノハユマヤニ》1歌二首
 
太宰府の高級官吏達や下役人達が、蘆城の驛で宴會した時の歌の意。○蘆城驛家 既出(一一六二頁)。
 
娘部思《をみなへし》 秋芽子交《あきはぎまじる》 蘆城野《あしきのぬ》 今日乎始而《けふをはじめて》 萬代爾將見《よろづよにみむ》     1530
 
〔釋〕 ○あしきのぬ 野は蘆城川の兩岸に展開してゐる。「蘆城(ノ)驛家《ウマヤ》」を見よ(一一六二頁)。
【歌意】 女郎花に秋萩がまじつて咲く、この蘆城の野は〔右○〕、今日を手始めにして、何時までも來て見ようぞ。
 
〔評〕 宰府の諸官吏中、宴會にこの野を訪うた人の作である。高くはないが山相の和やかな蘆城山あり、その裾をめぐつて清流蘆城川が流れ、そこに蘆城野が展開し、遠く竈山大城(ノ)山を北に望み、南に國境城の山を見はるかす。麻田(ノ)陽春は「野に立つ鹿」を詠じ、大伴(ノ)四綱は「河音さやけし」と歌つた。更に女郎花や秋萩の景物を加へたとなつては、全く忘られない面白い野であらう。この面白さの忘れ難い趣を、「萬代に見む」と誇張した。がこれは少し平凡な妥協的の下語である。「けふを始めて」はこの興宴に對する挨拶の辭。
 
(2326)珠※[匣の甲を臾]《たまくしげ》 葦木乃河乎《あしきのかはを》 今日見者《けふみては》 迄萬代《よろづよまでに》 將忘八方《わすらえめやも》     1531
 
〔釋〕 ○たまくしげ 既出(三一四・三一六頁)。こゝは「あしき」の枕詞と思はれるが、その詞意が餘り明瞭でない。
 (1)玉匣|明《ア》くを蘆城《アシキ》のアの一字に係けたり(契沖説)。(2)玉匣は淺き櫛笥なれば、玉匣|淺笥《アサケ》といふを蘆城《アシキ》にいひ懸けたり(古義説)。「※[匣の甲を臾]」は匣の書寫字。○あしきのかは、水源は御笠郡の寶滿山なので、下流では寶滿川といふ。筑後に入つて筑後河に合流する。○みてば 見てあらば。古義訓による。舊訓、ミレバ〔三字傍線〕は非。
  △寫眞 挿圖328(一一九二頁)を參照。
【歌意】 この蘆城川を今日見たらば、萬代の後までも、忘られうかいな。面白い景色なので〔八字右○〕。
 
〔評〕 川が蘆城の景勝の中心を成してゐる。畢竟上の歌と共に蘆城の驛家の讃辭である。 
右二首(ハ)、作者未詳。
 
笠(ノ)朝臣金村(ガ)伊香《イカグ》山(ニテ)作歌二首
 
○笠朝臣金村 既出(八四二頁)。○伊香山 イカグヤマ。又イカゴヤマ。近江國伊香郡。賤が嶽(鹽津山の一部)の南部の山。式の神名帳に、伊香郡|伊香具《イカグノ》神社がある。「鹽津山」を參照(八四二頁)。
(2327) △地圖 挿圖247(八四四頁)を參照。
 
草枕《くさまくら》 客行人毛《たびゆくひとも》 往觸者《ゆきふれば》 爾保比奴倍久毛《にほひぬべくも》 開流芽子香聞《さけるはぎかも》     1532
 
〔釋〕 ○ゆきふれば 道行く際に觸るゝをいふ。名詞には行觸《ユキブリ》といふ。
【歌意】 旅する人さへも、行きがかりに一寸障るを衣も色に染まりさうにまあ、美しく咲いてゐる、萩であることかまあ。
 
〔評〕 金村は任國越前への往來に、鹽津山附近を通過したと見える。卷二に鹽津山の歌が二首載つてゐる。伊香山の野は即ち鹽津山の南麓の野である。「弓末振りおこし」て矢立の響を轟かした勇士金村にも、行き摺りの美しい野萩の花に愛著をもつほどの風流な半面がある。「旅ゆく人も」は落ち著いて賞翫し得る土地人に對しての語で、倉卒に通り過ぎる旅人の袖すら匂ひさうなと、萩の花の咲きの盛りを強調した優雅(2328)な作である。
 
伊香山《いかぐやま》 野邊爾開有《ぬべにさきたる》 芽子見者《はぎみれば》 公之家有《きみがいへなる》 尾花之所念《をばなしおもほゆ》     1532
 
〔釋〕 ○をばな 既出(四九頁)。
【歌意】 伊香山の裾野べに咲いた、萩の花を見ると、貴方のお宅にある尾花がさ、思ひ出されますよ。
 
〔評〕 萩が匂へば尾花は靡く。伊香野の萩は端なく人の家の尾花を想起せしめた。「君」は恐らく故郷なる奈良京の知人であらう。茲に至つて「尾花し思ほゆ」は即ちその家主たる君を思ふの託言となる事に氣が付くであらう。
 表現極めて婉微で、無邊の情趣が隱然と動く。怱々の旅中なほかく慇懃の懇情を寄せたので見ると、君は意中の情人かも知れない。
 
石川(ノ)朝臣|老夫《オキナガ》歌一首
 
○石川朝臣老夫 傳未詳。續紀、文武天皇二年七月の條に、直廣肆石川朝臣|小老《ヲオユヲ》爲(ス)2美濃守(ト)1とある。少老の改名でもあるまい。或は血縁者か。
 
娘部志《をみなへし》 秋芽子折那〔左△〕《あきはぎをらな》 玉桙乃《たまほこの》 道去※[果/衣]跡《みちゆきづとと》 爲乞兒《こはむこのため》     1534
 
(2329)〔釋〕 ○をらな 折らむの意に近い。「きかな」を見よ(一一頁)。「那」原本に禮〔右△〕とある。宣長説によつて改めた。○みちゆきづとと 途中で得た家苞として〔二字右○〕。○こはむこのため 「こ」は若い婦人の愛稱。「爲乞兒」は漢文めかして書いた。
【歌意】 女郎花や秋萩をさあ〔二字右○〕折らうぞ。途中で得た土産をと、乞ひせがむであらう、あの兒の爲にさ。
 
〔評〕 昔だとて家人の望む本當の土産は、頗る物質的の物であつたに違ひあるまい。然るに歌には、波の花だの藻の花だの藤の花だの草木の花だの貝殻だのを家苞にするやうな事を、荐に歌つてある。これは作者が自然の美趣または興趣に打たれての感激から出た矯語で、そこに詩趣が動いてくるのである。
 
藤原(ノ)宇合《ウマカヒノ》卿(ノ)歌一首
 
○宇合 既出(二五六頁)。
 
我背兒乎《わがせこを》 何時曾且〔左△〕今登《いつぞいまかと》 待苗爾《まつなべに》 於毛也背〔左△〕將見《おもやせみえむ》 秋風吹《あきのかぜふけ》     1535
 
〔釋〕 ○いまかと 「且今」をイマと訓む。その例卷七に「且今《イマ》とかも」とあり、又卷二には「且今日」をケフと訓んである。「か」は訓み添へた語。「且」原本に旦〔右△〕とあるは誤。○おもやせみえむ 面痩《オモヤセ》見えむ。「背」原本に者〔右△〕とあるは誤。この考測らず童本の訓と暗合したのも面白い。然るに舊訓に「於毛也者」をオモヤハ〔四字傍線〕とある(2330)に從つて、略解にオモヤは面輪《オモワ》にてヤとワを通ふなりと解し、古義も賛成したが、面輪をオモヤといふこと他に例もなく、東歌などの方言なら知らぬこと、普通の語としては如何と思ふ。宣長は「於」を聲〔右△〕、「也」を世〔右△〕の誤として、オトモセバミムと〔七字傍線〕訓んだが、牽強らしい。新考は「見」を痩〔右△〕の誤として、オモヤハヤセム〔七字傍線〕と訓み、ヤは疑辭として面や痩せむの意に解した。○あきのかぜふけ 宣長訓を用ゐた。舊訓アキカゼノフク〔七字傍線〕。
【歌意】 わが夫《ツマ》(彦星)を、そのお出でが〔六字右○〕何時ぞ今かと待つにつれて、顔の痩が人目に著かうぞ。早く〔二字右○〕秋の風が吹けよ。――七月の七日が待ち遠しい〔七月〜右○〕。
 
〔評〕 これは七夕前の織女の氣持を詠じたものだから、題詞はもと、藤原(ノ)宇合卿(ノ)詠(メル)2織女(ヲ)〔三字右○〕1歌とあつたものだらう。「何時ぞ今か」はいかにも急き切つた情趣にふさはしい表現だ。人の子故に痩せ細ることは弓削皇子も歌はれたが(卷二)、これを織女の上に移した趣向は、新機軸を出したもので、よく婦女の情を穿つたものといはれよう。「秋の風吹け」の一轉語、下し得て恰當。
 
縁達師《エンタツシガ》謌一首
 
○縁達師 法師の縁達か。「師」の上、或は脱字があらう。傳未詳。
 
暮相而《よひにあひて》 朝面羞《あしたおもなみ》 隱野乃《なばりぬの》 芽子者散去寸《はぎはちりにき》 黄葉早續也《もみぢはやつげ》     1536
 
(2331)〔釋〕 ○よひにあひてあしたおもなみ 「なばり」に係る序詞。既出(二二七頁)。○なばりぬ 名張野。今の伊賀の名張町の附近の平野か。「なばりのやま」を參照(一六九頁)。○はやつげ 「續也」の也は添字。
【歌意】 殘念な事に〔五字右○〕、この名張野の萩の花は、疾うに〔三字右○〕散つてしまつた。黄葉が色づいて、萩の花のあとを早く繼げよ。
 
〔評〕 萩は散り紅葉は未しき中間季節、作者は偶ま勢州街道の名張野を通過し、野は一點の紅もとゞめない落莫たる光景に接しての即興で、諸木早く黄變して野趣を絶たしめるなと絶叫した。
 この序詞は、卷一、長皇子の歌「なばりにかけ長き妹がいほりせりけむ」(60――二二七頁)の序詞と同一である。委しくはその評語を參照。
 
山(ノ)上(ノ)臣憶良(ガ)詠(メル)2秋野《アキヌノ》花(ヲ)1歌〔左○〕二首
 
秋野爾《あきのぬに》 咲有花乎《さきたるはなを》 指折《およびをり》 可伎數者《かきかぞふれば》 七種花《ななくさのはな》 其一     1537
 
〔釋〕 ○およびをり 指を屈げること。「および」は和名抄に「指、手指也、和名|由比《ユビ》、俗云|於與比《オヨビ》」とある。但俗とは通常の意で、俗語の意ではない。○かきかぞふれば 「かき」は接頭語。○ななくさ 七種。七草ではない。
【歌意】 秋の野に咲いてゐる優れた〔三字右○〕花を、指折り數へると、七色の花となつたわい〔六字右○〕。
 
(2332)〔評〕 もとが風流の閑事で、詩味の乏しいことは作者自身も承知して居らう。七種と七の數を限つたのは、太古からの東洋的の數字觀念が、そこに考へられる。
 これは次の歌との聯作で、嘗て貧窮問答歌に用ゐた手法の如く、みづから提唱して、みづから答へてゐる。
 そしてこれは短歌、次のは旋頭歌で、問答おの/\その體を殊にしてゐるのは珍しい。「其一」「其二」の註記は前後一連の作であることを示した。作者の所爲か、後人の所爲か。
 
芽之花《はぎのはな》 乎花葛花《をばなくずばな》 瞿麥之花《なでしこのはな》 姫部志《をみなへし》 又藤袴《またふぢばかま》 朝貌之花《あさがほのはな》     其二 1538
 
〔釋〕 ○はぎのはな云々 これは旋頭歌である。○をばな 既出(四九頁)。○くずばな 既出(九四六頁)。○なでしこのはな 「瞿麥花《ナデシコ》」を見よ(一〇一六頁)。○をみなへし 既出(一二九四頁)。○ふぢばかま 和名抄に「蘭、和名本草云、布知波賀萬《フヂバカマ》」、源氏物語(藤袴の卷)には字音にラニとある。菊科の多年生草本。莖は圓形に強直して、高さ三四尺、葉は通常三出複葉の觀あり、一種の佳香がある。秋淡紫紅色を呈する頭状花を繖形に著く。○あさがほのはな 不明。(1)今の朝顔とする説。和名抄に「牽牛子《ケニゴシ》、和名、阿佐加保《アサガホ》」と見え、平安以來は一般に承認されてゐるが、牽牛子は野生の(2333)花でない。(2)桔梗とする説。新撰字鏡に「桔梗、阿佐加保《アサガホ》、又云岡(カ)止々支《トヽキ》とある。(3)蕣花即ち木槿とする説。朗詠集に、木槿の題下に牽牛子即ち朝顔の歌を攝し、明月記などにも見えるが、木槿は草でない。(4)旋花如ち晝顔とする説。狩谷※[手偏+夜]齋、岡村尚謙等はこれを主張したが、臆説で文獻上の根據はない。以上を通約すると、(2)の桔梗説が稍有力となるが、他に旁證はない。
【歌意】 その七種の花は〔七字右○〕、萩、尾花、葛の花、瞿麥の花、女郎花と藤袴、朝顔の花だ。
 
〔評〕 七種の花の解説で、花の名を列擧したに過ぎないが、殊に多數なる秋草野花の中から、かく優秀なものばかりを公平に選擇し來つた作者の鑑識に敬服する。憶良は草花に餘ほど深い關心をもつてゐたらしい。但藤袴は花としては詰らないが、昔はその芳香を併せて愛賞したものだ。類聚國史、大同二年九月の條に、皇太弟(嵯峨)の御歌に「皆人のその香をめづる布智波賀麻《フヂバカマ》」と詠まれ、古今集には「主知らぬ香」を詠んである。
 旋頭歌體を用ゐたのは他意あるのではない。短歌では内容が包容し切れないからである。上句「なでしこの花」、下句「あさがほの花」と、同じ詞態を反復した混本の體格は旋頭歌の正調で、而も七種の花名を自在に按排して、いかにも流滑暢達、朗唱に値する。然し結局は遊戲文字である。
 
天皇(ノ)御製歌《ミヨミマセルオホミウタ》二首
 
○天皇 聖武天皇。すべて記録者はその記録當時の天子を天皇とのみ書く。故にこゝの天皇は聖武天皇の御事となり、卷三の天皇は持統天皇の御事となる。
 
(2334)秋田乃《あきのたの》 穗田乎鴈之鳴《ほたをかりがね》 闇爾《くらけくに》 夜之穗杼呂爾毛《よのほどろにも》 噂渡可聞《なきわたるかも》     1539
 
〔釋〕 〇ほたをかりがね 穗田を刈るに雁《カリ》をいひかけた。穗田は稻穗の出た田。○かりがね 雁が音の義であるが、雁と同意に用ゐた。○くらけくに 暗けくある〔二字右○〕にの意。「暗けく」は寒けく〔三字傍点〕の類語。略解訓クラケキ〔四字傍線〕は非。○よのほどろ 既出(一三五八頁)。
【歌意】 秋の穗田を刈る、そのカリといふ稱《ナ》の雁が、眞暗なのに、夜中のうちからまあ、鳴いて通ることよ。
 
〔評〕 「穗田をかりがね」の秀句は、下にも「早稻田かりがね」(家持)、古今集にも「夜を寒み衣かりがね」(詠人不知)の等類があり、何れも雁の來る季節の景物が修飾に使はれてゐる。抑も暗夜の物の聲は、何となく寂しい神秘な響を傳へる。而もそれが寒雁の聲であつて、穗田を刈り收める暮秋の候だとすると、その凄まじい夜氣がひし/\と身に迫る。まして青丹よし奈良の大宮の大殿の内で、明王はその闇天の聽を驚かさせ給うた情景を想像すると、更に一段の凄氣の縱横するを感じよう。
 
今朝乃旦〔左△〕開《けさのあさけ》 鴈之鳴寒《かりがねさむく》 聞之奈倍《ききしなべ》 野邊能淺茅曾《ぬべのあさぢぞ》 色付丹來《いろづきにける》     1540
 
〔釋〕 ○けさのあさけ かくいひ重ねるのは當時行はわた詞態である。「旦」原本に且〔右△〕とあるは誤。○あさぢ 既(2335)出(一九七一頁)
【歌意】 今朝の夜明けに、雁の鳴く音を、寒く聞いたのにつれて、さても〔三字右○〕野邊の淺茅はさ、色づいたことであるよ。
 
〔評〕 野邊の淺茅生は珍しく點々と紅を潮した。乃ち雁聲を聽いた朝床の寒さを想起して、さればこそと、滿天滿地、秋暮れ方の凄涼たる風露の侵すを感じた。情景自然。
  今朝鳴きてゆきし雁がね寒みかもこの野の淺茅色づきにける(卷八――1578)
は同趣同型であるが、聖製に比べると稍洗煉が足らないやうだ。
 
太宰(ノ)帥大伴(ノ)卿(ノ)歌二首
 
○大伴卿 旅人卿のこと。既出(七三六頁)。
 
吾岳爾《わがをかに》 棹牡鹿來鳴《さをしかきなく》 先芽之《さきはぎの》 花嬬問爾《はなづまとひに》 來鳴棹牡鹿《きなくさをしか》     1541
 
〔釋〕 〇さきはぎの 初萩の花を花妻にいひ續けた序詞。訓は略解に從つた。いはく「サキハギは初芽子《ハツハギ》なり、神樂歌の先張《サイバリ》もサキハリの音便にて、サキは先、ハリは萩の古言」と。○はなづま 花めく妻の意。新考いふ「新妻なり。花は花嫁花婿の花なり」と。○はなづまとひに (1)萩を鹿の妻と見ていふ(舊説)。(2)舊説と同説(2336)で、こゝは萩の花を〔右○〕妻問ひにの意と見る(古義)。(3)「さき萩の」は枕詞にて、新妻問ひにの意(新考)。以上のうち(3)が比較的優れてゐる。
【歌意】 自分の占めた岡に、男鹿が來て鳴くわ。その〔二字右○〕花めく妻を問ひに、來て鳴くわ、男鹿が。
 
〔評〕 鹿と萩との縁は深い。共に山野の物で、萩の花盛の頃から、鹿も妻戀して鳴く。で、三、四の句を誤解して、萩を鹿の妻と考へるやうな舊説も生じ、平安時代の歌には專らその意でもつて「萩の花妻」と詠んである。もと/\動物と植物とは非倫だから、結局無理な技巧に終始する。
 これは第二句を結句に反復する古格を學びながら、結句に變化を求めて、詞の構成を顛倒せしめた。されば來鳴ク棹鹿〔五字傍点〕ヨと續く平叙ではなくて、棹鹿ガ來鳴クの倒装と見ねばならぬ。
 
吾岳之《わがをかの》 秋芽花《あきはぎのはな》 風乎痛《かぜをいたみ》 可落成《ちるべくなりぬ》 將見人裳欲得《みむひともがも》     1542
 
〔釋〕 ○かぜをいたみ 風が甚しさに。「を」は歎辭。
【歌意】 自分の岡の秋萩の花が、風がまあひどさに、散りさうになつたわい〔二字右○〕、早く見よう人もありたいがなあ。
 
〔評〕 「見む人もがも」「見せむ人もが」「見せむ兒もがも」「見せましものを」の類、誰れも愛惜の餘には自然に發する情味で、素より新味は見られないが、
(2337)  わが岡にさかりに咲ける梅の花散るべくなりぬ見む人もがも(卷五、旅人卿――851)
と作者自身からして、同じ事を繰り返してゐる。尤も只梅が萩に取換つただけのものゝやうだが、洗煉が行屆いて、表現が煩冗でないだけ、梅の歌の方が優つてゐる。
 
三原《ミハラノ》王(ノ)歌一首
 
〇三原王 續紀に、天平十二年八月治部卿從四位上三原王等を遣はし、伊勢に奉幣、同十八年三月大藏卿、同十九年正月正四位上、同二十年二月從三位とある。
 
秋露者《あきのつゆは》 移爾有家里《うつしなりけり》 水鳥乃《みづとりの》 青羽乃山能《あをばなおやまの》 色付見者《いろづくみれば》     1543
 
〔釋〕 ○うつし 染料の義。色を染め移すよりいふ。卷七に「秋さらば移しもせむと」とある。後には月草の花汁を紙に染めて置いたのを、專ら移し花〔三字傍点〕、又移し〔二字傍点〕といふやうになつた。○みづとりのあをば この水鳥は主に鴨をさした。正しくは水鳥者の鴨の青羽といふべきを略して、それを青葉の山に懸けた序詞。なほ、本卷「水鳥の鴨の羽色の春山の」の條の解を見よ(二二四四頁)。
【歌意】 秋の露はまるで、染汁であつたわい。水鳥の鴨の青羽のやうな、青葉の山が、露のおくまゝに〔七字右○〕、紅くなつてゆくのを見ると。
 
〔評〕 露霜に草木の黄變するに、露を移し〔二字傍点〕と見立てたのが新趣向だ。古代人は男子と雖も服飾觀念に富んではゐ(2338)るものゝ、この作者がもし婦人だと、更に一段の光彩が煥發するだらう。
 
湯原(ノ)王(ノ)七夕《タナバタノ》歌二首、
 
〇湯原王 傳既出(八六二頁)。
 
牽牛之《ひこぼしの》 念座良武《おもひますらむ》 從情《こころより》 見吾辛苦《みるわれくるし》 夜之更降去者《よのふけゆけば》     1544
 
〔釋〕 ○こころより 心よりも〔右○〕。新考訓による。舊訓コヽロユ〔五字傍線〕。○ふけゆけば 「更降」は夜の時刻の降《クダ》つこと。故にフケと訓む。
【歌意】 牽牛星が心配なさるであらうお心以上に、餘所から〔四字右○〕見てゐる、私が心苦しいわ、七日の〔三字右○〕夜が更けてゆくので。
 
〔評〕 年に一度の逢ふ瀬、その夜の更けて行くのは、即ち起き別れゆくきぬ/\の迫るので、當事者以上に、見てゐる自分の方が苦しいと、二星に切なる同情をさゝげた。これも一つの趣向。
 
織女之《たなばたの》 袖纏〔左△〕三更之《そでまくよひの》 五更者《あかときは》 河瀬之鶴者《かはせのたづは》 不鳴友吉《なかずともよし》     1545
 
(2339)〔釋〕 ○そでまく 「纏」原本に續〔右△〕とある。「袖續」は袖を接する意で、詰り袖を交はすことだらうが、穩やかでない。古義の説に從つて改めた。○よひ 夜と同意。「三更」を訓んだ。卷十にも「初瀬風かく吹く三更《ヨヒ》は」とある。「更」は時刻の更《カハ》る義。一夜午後八時より午前六時までを五つに分つて五夜といふ。漢官舊儀に「五夜者、甲夜(今の午後八時)、乙夜(同十時)、丙夜(同十二時)、丁夜(午前二時)、戊夜(同四時)、衛土甲乙相傳盡2五更1」と見え、甲夜を初更、乙夜を二更、丙夜を三更、丁夜を四更、戊夜を五更とも稱する。○あかとき 「あかときづゆ」を見よ(三三八頁)。「五更」、は午前四時だから、曉に充てた。「三更之五更」は戲書か。
【歌意】 織女の袖を枕として、牽牛の寢る七夕の曉方は、天の川の〔四字右○〕河瀬の鶴は、催促顔に〔四字右○〕夜が明けたと、鳴かなくてもよいわ。
 
〔評〕 「鶴は早起だ。隨分夜中にも鳴く。されば
  暗き夜に鳴くなるたづの(卷四――592)
  明け暮れのあさ霧がくり鳴くたづの(卷四、笠麻呂――509)
  この夜らのあかときくだち鳴くたづの(卷十――2269)
  あふみより朝立ちくれはうねの野にたづぞ鳴くなる明けぬこの夜は(古今集卷二十、大歌所歌)
など詠まれてゐる。鶴は本來暮秋の候を期しての渡り鳥で、七夕には間に合はぬが、もと/\架空的の幻想だから、こゝは夜明烏の格で使はれたものだ。場處が天の川で而も七夕樣の後朝では、鶴でなくてはふさはしからぬ。例の二星への同情である。
 
(2340)市原(ノ)王(ノ)七夕(ノ)歌
 
○市原王 既出(九二〇頁)。
 
妹許登《いもがりと》 吾去道乃《わがゆくみちの》 河有者《かはしあれば》 脚〔左△〕緘結跡《あゆひむすぶと》 夜更降家類《よぞくだちける》     1546
 
〔釋〕 ○かはしあれば 「し」は訓み添へた。舊訓カハノアレ〔五字傍線〕バ。○あゆひむすぶと 「脚」原本に附目〔二字右△〕とある。眞淵いふ、附目は脚〔右△〕の誤にて、「脚緘結」をアユヒムスブと訓むべしと。これを宣長がアヒナダス〔五字傍線〕と訓んだのは鑿に近い。略解は附目を脚固〔二字右△〕の誤として、アユヒツクル〔六字傍線〕と訓んだ。皇極天皇紀に「あよひたづくり」、卷十七に「足結たづくり」とあるを例にしての訓であらうが、それは作るの意にて、著くることではないから、こゝの例にならない。「あゆひ」は既出(一九〇九頁)。○くだちける 「よはくだちつゝ」を見よ(−七三六頁)。舊訓フケニケル〔五字傍線〕。
【歌意】 思ふ妹(棚機)の許にと、自分(彦星)の行く路が、河がさあるので、足結の紐を結ぶというて、思の外〔三字右○〕、夜がさ更けたわい。
 
〔評〕 河があるので足結を結ぶとは、天の河を徒渉りの支度で、袴を脛高に上げて、足結を括るのであらう。その位の事で、「夜ぞくだちける」は誇張に違ひないが、戀に走る者の焦燥は、又かうも周章するのである。
 
(2341)藤原(ノ)朝臣八|束《ツカノ》歌一首
 
○藤原朝臣八束 既出(九〇四頁)。
 
棹四香能《さをしかの》 芽二貫置有《はぎにぬきおける》 露之白珠《つゆのしらたま》 相佐和仁《あふさわに》 誰人可毛《たれのひとかも》 手爾將卷知市《てにまかむちふ》     1547
 
〔釋〕 ○さをしかの云々 これは旋頭歌。○あふさわに 本集難語の一つで、意はおほけなく〔五字傍点〕、非分などに當る。卷十一にも「山城の久世のわく子が欲しといふわを、あふさわに〔五字傍点〕わを欲しといふ山城の久世」がある。
【歌意】 鹿が萩の枝に貫いて置いた、この美しい〔五字右○〕露の白玉、それを大それて〔七字右○〕、何者がまあ取つて〔三字右○〕、手に纏かうといふのかい。
 
〔評〕 いはゆる狂言綺語に屬する。白玉を纏く習慣のあつた古代では、秋野の逍遙に萩の枝の露を見ては、緒に綴つた玉を聯想し、手に纏いてみたい位の事は、誰れも思ひもし言ひもする。それをわざと大仰に咎めて、「たれの人かも」と叱咤し、あれは鹿の秘藏してゐる露の玉だぞと宣言した。萩の露を鹿の所爲とした構思も面白く、而も人間よりは鹿の意志を尊重した顛倒の見に、詩味を發揚し、「あふさわに」の戲謔、人をして失笑せしめる。
 旋頭歌としては異體で、短歌の延長である。
 
(2342)大伴(ノ)坂上(ノ)郎女(ガ)晩芽子《オクテノハギノ》歌一首
 
○大伴坂上郎女 既出(八六七・一一二二頁)。○晩芽子 遲咲の萩。
 
咲花毛《さくはなも》 宇都呂布〔左○〕波※[厭の雁だれなし]《うつろふはうし》 奥手有《おくてなる》 長意爾《ながきこころに》 尚不如家里《なほしかずけり》     1548
 
〔釋〕 ○うつろふ 「呂」の下、原本布〔右○〕の字がない。補つた。○おくて 奥手。草木の花實に、時期に遲れるものをさしていふ。されば晩稻をもオクテといふ。○ながきこころ 氣の長いこと。
【歌意】 咲く花で〔右○〕も、急いで咲いて早く〔八字右○〕散り衰へるのはいやだ。そんなのは〔五字右○〕遲咲であるこの萩の、ゆるりとした心に、矢張及ばないわい。
 
〔評〕 輕卒に移り易い人心を擬へて詠んだ。季節はづれに遲く咲く花は、割合に早く衰へるものだが、こゝはそんな理窟は無用だ。
 
典鑄《テンジユノ・イモノシノ》正《カミ》妃(ノ)朝臣|鹿人《カヒトガ》至(リテ)2衛門大尉《エモンノダイジヨウ・ユゲヒノオホキマツリゴトビト》大伴(ノ)宿禰|稻公《イナギミノ》跡見庄《トミノタドコロニ》作歌一首
 
○紀鹿人が大伴(ノ)稻公の迹見の別莊に往つて詠んだ歌との意。○典鑄正 鑄物師の長官、正六位相當。職員令に、典鑄司、正《カミ》一人、掌(ル)d造(リ)2鑄金銀銅鐵(ヲ)1塗(リ)2二飾瑠璃(ヲ)1、玉作及工戸(ノ)戸口名籍(ノ)事(ヲ)u、と見え、佐一人、太令史少令史各一(2343)人、雜工使部等がある。○紀朝臣鹿人 既出(一七四五頁)。○衛門大尉 衛門府の三等官。正六位相當。職員令に、衛門府、督一人、掌(ル)2諸門(ノ)禁衛、出入(ノ)禮儀、以(テ)v時(ヲ)巡檢(シ)、及(ビ)隼人(ノ)門籍、門※[片+旁](ノ)事(ヲ)1と見え、佐一人、大尉二人、少尉二人、大少志各二人等がある。○大伴稻公 既出(一二〇九頁)。○迹見庄 既出(一三三二頁)。
 
射目立而《いめたてて》 跡見乃岳邊之《とみのをかべの》 瞿麥花《なでしこのはな》 聰手折《ふさたをり》 吾者持〔左○〕將去《われはもていなむ》 寧樂人之爲《ならびとのため》     1549
 
〔釋〕 これは旋頭歌。○いめたてゝ 射部《イベ》を立てゝ鳥獣の跡《ト》を見る意を、「とみ」に係けた枕詞。「いめたてわたし」及び「とみすゑおきて」を見よ(一六三八頁)。古義訓イメタチテ〔五字傍線〕は誤。○とみのをか 跡見庄の岡。○ふさたをり ふさに〔右○〕手折り。「ふさ」は總の義。ふすさに〔四字傍点〕又ふさに〔三字傍点〕ともいひ、フサ/\ト、フサヤカニなどの意の副詞。○もていなむ 「持」の字、原本にない。「將去」とのみでもさう訓まれるが、上に持〔右○〕の字を補へば愈よ確かである。
【歌意】 迹見の岡邊の美しい瞿麥の花、これを澤山に手折つて、私は持つて往かうぞ、奈良の京人の爲の土産にさ〔五字右○〕。
 
〔評〕 鹿人は稻公の迹見の別莊に遊びに往つた。岡は秋は萩が咲き鹿が鳴く面白い處である。今は岡邊の撫子にその目を惹かれ、澤山に手折つて故郷人の贈遺にしようといふは、美しい情味だ。又それ程に岡邊の撫子は盛に美しかつた。但「奈良人の爲」とぼかしてはゐるが、鹿人には暗に斥す人があるのかも知れない。(2344)この迹見庄は稻公が早く卒去したので、姉の坂上郎女が傳承したらしい。卷四に郎女が此處に居て、娘坂上大孃に贈つた歌が出てゐる。
 
湯原(ノ)王(ノ)鳴鹿《シカノ》歌一首
 
○湯原王 傳既出(八六二頁)。
 
秋萩之《あきはぎの》 落乃亂爾《ちりのみだりに》 呼立而《よびたてて》 鳴奈流鹿之《なくなるしかの》 音遙者《こゑのはろけさ》     1550
 
〔釋〕 ○ちりのみだりに 既出(四〇一頁)。舊訓はチリノマガヒニ〔七字傍線〕。○こゑの 神本訓はオトノ〔三字傍線〕。
【歌意】 秋萩の散り亂れる折節に、その雌を〔七字右○〕呼び立てゝ、鳴くことである鹿の音の、遙かであることよ。
 
〔評〕 萩の花の亂れ散るは仲秋以後の景致、鹿もその頃盛に妻戀して鳴く。乃ち湊合して、萩の花の亂れ散るを鹿の音の前景に使ひ、「聲のはろけさ」と、その縹渺たる哀音に秋思の動く趣を歌つた。上句巧意を覘つて少しぼやけたせゐもあらうが、諸註、萩の花の散るに紛れて見えぬ雌鹿を呼び立てるやうに解し、中には字句の脱落にまで言及したのは、いみじき誤である。
 
市原(ノ)王(ノ)歌一首
 
(2345)待時而《ときまちて》 落鐘禮能《ふれるしぐれの》 雨令〔左△〕零收《あめやみぬ》 朝香山之《あさかのやまの》 將黄變《うつろひぬらむ》     1551
 
〔釋〕 ○ときまちて その季節を待つて。○しぐれ 既出(九四六頁)。「鐘禮」をシグレと訓む。鐘をシゲに充てた。鐘は二冬の韻で、shong(シヨング)を中略すればシグとなる。卷十二に鍾禮を充てたも同韻の同例。○ふれる 舊訓オツル〔三字傍線〕。○あめやみぬ 令〔右△〕を衍字として訓んだ。或はハレヌと訓むもよい。眞淵は「雨令」を零〔右△〕、「收」を低〔右△〕の誤としてフリフリテ〔五字傍線〕と訓み、その他の諸説も改竄が甚しい。○あさかのやまの 類本神本西本細本温本等に「朝」の上に開〔右○〕の字あり、これによる契沖訓ケサカグヤマノ〔七字傍線〕は面白いと思ふが、姑く本文のまゝに從つた。○あさかのやま 攝津國住吉郡(今は和泉國泉北部)に淺香山と稱する小さな丘陵がある。又陸奥國(今岩代)安積郡に安積山がある。何れか。○うつろひぬらむ この「うつろひ」は色付くの意。衰殘の意ではない。
【歌意】 時季を待つて降つた、時雨の雨が止んだわい。定めし〔三字右○〕朝香の山が、色付いたらうよ。
 
〔評〕 「移ろひぬらむ」と想像することに、往つても見たいの希望が包藏されてゐる。 
湯原(ノ)王(ノ)蟋蟀《コホロギノ》歌一首
 
○蟋蟀 コホロギ。今の名稱と同じい。直翅類中蟋蟀科の昆蟲。全體黒褐色にして、尾端に二箇の刺あり。陰(2346)濕を好み土石の間などに潜む。大小二種あり。秋に入つて鳴く。その音肩刺セ裾刺セの如く聞える。平安京以後、古今集(秋)に「つゞりさせてふキリ/”\ス鳴く」とあるによつて、蟋蟀をキリ/”\スとするは誤。
 
暮月夜《ゆふづくよ》 心毛思努爾《こころもしぬに》 白露乃《しらつゆの》 置此庭爾《おくこのにはに》 蟋蟀鳴毛《こほろぎなくも》     1552
 
〔釋〕 ○ゆふづくよ (1)夕月夜、(2)夕熟夜の兩説あるが、なほ夕月の晩の意として、(1)に從つた。○しぬに 既出(六八八頁)。
【歌意】 夕月の頃、氣も滅入《メイ》る程〔右○〕に、白露のおくこの庭で、蟋蟀の鳴くことはまあ。
 
〔評〕 夕月ながら秋の光はさやかだ。夜氣は早くも催して、露は庭草の葉末に、その凄其の影を宿してゐる。秋のあはれさはこれだけでもう十分だ。この道具を背景として蟋蟀が切々と鳴く。まこと愁人ならぬ湯原王も斷腸せられざるを得まい。句法に曲折があり、情景相兼ねた幽玄の作で、
  秋風のさむく吹くなべわが宿の淺茅がもとに蟋蟀鳴くも(卷十――2158)
と對照するに、これは一層字々句々※[糸+眞]密に分寸の弛みもない、實にあざやかな手際で、巧に磨き出された美玉(2347)の觀がある。
 
衛門(ノ)大尉大伴(ノ)宿禰|稻公《イナキミガ》歌一首
 
鐘禮能雨《しぐれのあめ》 無間零者《まなくしふれば》 三笠山《みかさやま》 木末歴《こぬれあまねく》 色附爾家里《いろづきにけり》     1553
 
〔釋〕 ○こぬれ 既出(六八九頁)。舊訓コズヱ〔三字傍線〕。○あまねく 「歴」を意によつて訓んだ。
【歌意】 時雨の雨が、間なしにさ降るので、三笠山は〔右○〕、梢が殘らず、色付いたことわい。
 
〔評〕 平滑のうちに自然味を藏する。よく見ると、漸く平安期の相貌が髣髴する。後撰集冬部に、
  はつ時雨降るほどもなく佐保山の木末あまねく色づきにけり(――讀人しらず)
とあるは、或はこの歌の轉訛か。
  なが月のしぐれの雨に沾れとほり春日の山は色づきにけり(卷十――2180)
  しぐれの雨間なくし降れば眞木の葉も爭ひかねて色づきにけり(卷十――2196)
などはこの等類である。眞木の葉は尤も印象が深い。
 
大伴(ノ)家持(ガ)和(フル)歌一首
 
(2348)皇之《をほきみの》 御笠乃山能《みかさのやまの》 黄葉者〔左○〕《もみぢばは》 今日之鐘禮爾《けふのしぐれに》 散香過奈牟《ちりかすぎなむ》     1554
 
〔釋〕 ○おほきみの 御笠の枕詞。既出(一九〇一頁)。○もみぢばは 「者」原本にない。尤もなくてもかう訓むより外はない。
【歌意】 貴方は、三笠山の梢が遍く色付いたと仰つしやるが、いや/\〔貴方〜右○〕、この今日の時雨に、散り衰へてしまふことか、と私は心配します〔八字右○〕。
 
〔評〕 おなじ時雨でも懸歌は色付くといひ、返歌は散り過ぐといふ。そこは作者の感じ次第、取成し次第である。これが叔姪の贈答だと思ふと、その親昵の情味が伴奏の役目をつとめる。
 
安貴《アキノ》王(ノ)歌一首
 
○安貴王 既出(七四七頁)。
 
秋立而《あきたちて》 幾日毛不有者《いくかもあらねば》 此宿流《このねぬる》 朝開之風者《あさけのかぜは》 手本寒母《たもとさむしも》     1555
 
〔釋〕 ○いくかもあらねば 幾日もあらぬにの意。○このねぬる 「ねぬる」は寢てゐるの意。「この」は四句の「あさけ」に係る。
(2349)【歌意】 秋が立つてまだ幾日もないのに、寢てゐるこの朝明の風は、袂がうそ寒いことはまあ。
 
〔評〕 三句の「この寢ぬる」は從來餘り輕く見られ過ぎた。「秋來ぬと合點させたる嚔かな」(蕪村)の類想とすれば、この句がなくても意は徹るので、「朝開《アサケ》」の序詞ぐらゐに見た説もある。處がどうして大いに重要な役目を擔任してゐる句で、作者の擧動がそこに表現されてゐる。夜床にまだ寢たまゝ、明方の風の冷えを、強く衣袂に感じ、早くも秋凉の侵すに驚いた趣だ。「幾日もあらねば」は單に字餘りであるばかりでなく、その詞意の複雜性と聲響の力強さとによつて、下句との均衡が旨く保たれる。又「寒しも」は凉しい感じを強調した語で、而も誇張の感を抱かせない。實況實詩。
 
忌部首《イミベノオヒト》黒麻呂(ガ)歌一首
 
○忌部首黒麻呂 忌部は氏。續紀に、孝謙天皇寶字二年八月に、正六位上より外從五位下、淳仁天皇寶字三年十二月に、同族七十四人と共に連姓を賜はり、同六月正月内史(ノ)局(ノ)助となるとある。
 
秋田苅《あきたかる》 借廬毛未《かりほもいまだ》 壞〔左△〕者《こぼたねば》 鴈鳴寒《かりがねさむし》 霜毛置奴我二《しももおきぬがに》     1556
 
〔釋〕 ○かりほ 假廬《カリイホ》の略。○こぼたねば 壞たぬにの意。「壞」原本に壤〔右△〕とあるは誤。○おきぬがに 置くがやうに。「けぬがに」を見よ(一二一六頁)。
(2350)【歌意】 秋の田を刈る爲の假廬も、まだ取りこはさぬのに、雁の鳴く音が寒く聞えるわ、而も霜も置くほどにさ。
 
〔評〕 暮秋に近い田舍の情景である。古へは農事に愈よ取懸る頃から、田畝の間に掘立の假小屋を作り、農人はそこにゐて或は鳥獣の來襲を警め、或は農事に使用した。收穫が濟めば取毀してしまふ。「いまだ壞たねば」はまだ農事の終らぬをいつた。然るに風霜の氣は既に侵して「雁が音寒し」である。すべて季節上の矛盾の景趣を撮合して、そこに驚歎の感慨を寓せる手法は、詞人の弄する常套手段で、上の安貴王の作とても同型である。只感じの喰ひ入り方の淺深に依つて、歌の優劣が生ずるのみ。
 「秋田かるかり〔四字傍点〕ほ」は疊音の語調をもつ。それが有意か無意かは、作者の外に知るべくもない。
 
故郷《フルサトノ》豐浦《トヨラノ》寺之尼(ガ)私房《イヘニテ》宴《ウタゲスル》歌二首
 
故き京の豐浦寺の尼の家で、宴會した歌との意。○故郷 推古天皇は一時この豐浦(ノ)宮にまし/\、後|小墾田《ヲハリダノ》宮に遷り給うたので、豐浦は故郷となつた。「故郷」を見よ(六九〇・一二四九頁)。○豐浦寺 大和高市郡豐浦村。豐浦の岡の北面にあり、もと向原《ムコハラノ》寺といひ、後にその音に充てゝ廣嚴寺と稱した。欽明天皇の十三年十月、百濟から佛像經論を獻つた時、群臣の抗議に依つて、佛像を大臣蘇我(ノ)稻目に賜ひ、稻目はその向原の家を喜捨して寺とした。然るに國内に疫病の流行を見たので、國つ神の怒と解して、寺を燒き拂ひ、佛像を難波(ノ)堀江に投じた。その後再興されたものと見え、天武天皇の御時には、飛鳥寺、川原寺などに並んで、五大寺の一つに數へられた。こゝに「豐浦寺之尼」とあるので、諸家、豐浦寺を尼寺であると解したのは速斷で、この寺は平安(2351)時代までも僧寺であつた。續紀及び催馬樂に「葛城の寺の前なるや、豐浦の寺の西なるや、榎の葉井に白玉しづくや、眞白玉しづくや。をしとんど/\」と謠はれた寺である。なほ次項を見よ。○尼私房 本寺附屬の建物で、尼の住む坊をいふ。この時代には既に僧寺尼寺の別は立てられながら、又僧寺の坊中に尼を置くこともあつた。天武天皇紀に、八年夏四月乙卯、橘寺尼房失v火、以焚2十房1と見えた。僧侶でも生活上婦人の手を俟つ事が多いから、將來比丘尼たるべき婦人を沙彌尼として寺中の坊に住ませ、勞役に從事させたものだ。下の左註の「沙彌尼」を參照。「私房」は本寺附屬の建物で、尼の住む坊を稱した。
 
(2352)明日香河《あすかがは》 逝囘岳之《ゆきたむをかの》 秋芽子者《あきはぎは》 今日零雨爾《けふふるあめに》 落香過奈牟《ちりかすぎなむ》     1557
 
〔釋〕 〇ゆきたむをか 川の逝きめぐれる岡の意。「こぎたむ」を參照(一六六七頁)。宣長訓による。舊訓ユキヽノヲカ〔六字傍線〕。
【歌意】 飛鳥川が行きめぐる、岡の秋萩は、今日降るこの雨に、散り衰へてしまふであらうか。
 
〔評〕 飛鳥川は豐浦の岡の東崖下を過ぎて西折し、雷の丘の南麓を流れて行く。その東崖は榛莽地で、秋は萩の花盛りだ。作者は多分奈良京からの遠遊であらうが、生憎の雨天に、尼の私房を※[人偏+就]りて一酌を催したものゝ、この雨に遭つてはと、ひたすら萩の花の摧殘を惜んだ。
 
右、一首、丹比眞人國人《タヂヒノマヒトクニヒト》。
 
○丹比眞人國人 丹比は氏、眞人は姓、國人はその名。續紀に、天平八年正月正六位上から從五位下、同十年閏七月民部少輔とある。丹比氏の名族たることは、丹比(ノ)縣守の傳を參照(一一七〇頁)。
 
鶉鳴《うづらなく》 古郷之《ふりにしさとの》 秋芽子乎《あきはぎを》 思人共《おもふひとどち》 相見都流可聞《あひみつるかも》     1558
 
(2353)〔釋〕 ○うづらなく 既出(一三七八頁)。○ふりにしさと こゝは豐浦寺の地をさす。
【歌意】 鶉の鳴く、それ程荒廢した古京の萩の花を、思ふ人同士、一緒に賞翫したことよ。
 
〔評〕 飛鳥地方は帝都の地では既になく、故京中の故京豐浦の岡は、寺地の外は、秋は鶉が鳴き萩の咲く、實に荒涼たるものであつたらう。何等の悟道もなく善智識でもない沙彌尼共は、常にその寂寞感に禁へ得なかつたに違ひない。偶ま珍客國人の來訪に接し、萩の花見の道案内、不躾ながら「思ふ人どちあひ見つる」と、その歡喜の聲を擧げた。
 
秋芽子者《あきはぎは》 盛過乎《さかりすぐるを》 徒爾《いたづらに》 頭刺不挿〔左△〕《かざしにささず》 還去牟跡哉《かへりなむとや》     1559
 
〔釋〕 ○かざし 既出(一五四頁)。○ささず 「挿」原本に搖〔右△〕とあるは誤。
【歌意】 萩の花は、もう盛りが過ぎるのを、いたづらに貴方は〔三字右○〕、挿頭にも刺さずに〔右○〕、お歸りになつてしまふといふことかえ。
 
(2354)〔評〕 初二句は國人の「けふ降る雨に散りか過ぎなむ」の語を承けた。「挿頭にささず」はゆるりと賞翫せずにの婉語だ。興に乘じて草木の花葉を挿頭すことは古代の慣習だからである。而も國人の周章しく歸る理由は、ゆくりなく雨が降り出したからであるが、そんな現實の問題には全く目を塞いで、國人の態度を偏に殺風景な振舞であるかのやうに詰め寄つた。この取成しは當意即妙で面白い。
 
右二首(ハ)、沙彌尼等《サミニドモ》。
 
○沙彌尼 七衆の一。沙彌を勤息男といふ對して、勤息女と譯す。始めて十戒を受け、未だ俗にある女をいふ。後具足戒を受けて比丘尼となる。戒は受けても俗體の女だから、その私房で酒宴も出來、その給仕をもしたもので、もしそれが本寺本坊であり、本當の僧尼であつたら、絶對に許される筈のものではない。新考に「比丘尼が男子を引きて私房にて宴せしめ、云々」と、その墮落を憤慨したのは失考である。
 
大伴(ノ)坂(ノ)上(ノ)郎女(ガ)跡見田庄《トミノタドコロニテ》作歌
○跡見田庄 既出(一三三二頁)。
 
妹目乎《いもがめを》 跡〔左△〕見之埼有〔左△〕《とみのさきなる》 秋芽子者《あきはぎは》 此月〔左△〕其呂波《このつきごろは》 落許須莫湯目《ちりこすなゆめ》     1560
 
〔釋〕 〇いもがめを 妹が目を疾|見《ミ》といふをいけかけた跡見《トミ》の枕詞。疾見《トミ》は疾く見むの意。新考は一寸見むの意(2355)とした。○とみのさきなる 「跡」原本に始とあるは誤。「有」原本に乃〔右△〕とあり、サキノ〔三字傍線〕と訓まれる。第二句の定音數を缺く例は少ないから、改字の上ナルと訓んだ。○とみのさき この「さき」は岡山の根の出崎をいつた。○つきごろ 「月」原本に目〔右△〕とある誤。○ちりこすな 「聞きこすな」を見よ(一二八〇頁)。
【歌意】 跡見の岡崎にある萩の花は、この月頃かけては、散つてくれるなよ、きつと。
 
〔評〕 郎女は跡見の別莊に、月を亘つて滯在の豫定と見えた。故に岡崎の萩の花にも、月頃はゆめ散るなと、氣長に愛賞すべく希望した。これを誤解して、「この月頃」を古義や新考には、この月ばかりの意とした。
 
吉〔左○〕名張乃《よなばりの》 猪養山爾《ゐかひのやまに》 伏鹿之《ふすしかの》 嬬呼音乎《つまよぶこゑを》 聞之登聞思佐《きくがともしさ》     1561
 
〔釋〕 ○よなばり 既出(五五五頁)。「吉」原本に古〔右○〕とあるは誤。○ゐかひのやま 「ゐかひの岡」を見よ(五五五頁)。○ともし 既出(七二四頁)。
【歌意】 猪養の山に、隱れ〔二字右○〕伏す鹿が、妻呼び立てゝ鳴く聲を聞くの〔右○〕が、飽かず面白いことよ。
 
〔評〕 跡見の崎、吉隱、猪養の岡、皆郎女の別莊附近の地名だ。雄大なる跡見(鳥見)山麓、猪養の岡の榛莽の奥から、妻戀する鹿の※[口+幼]々たる哀音が、秋風に和して峽谷に瀰漫する。郎女はこの時の感想を只「ともしさ」の一言で表現したが、少し物足らない。新考に「跡見の田庄に居ながら猪養の鹿の聲を聞きしにはあらで」とあ(2356)るは、跡見の田庄の所在の誤認から來た彌縫説である。
 
巫部麻蘇娘子《カムコベノマソヲトメガ》鴈(ノ)歌一首
 
○巫部麻蘇娘子 既出(一三一八頁)。
 
誰聞都《たれききつ》 從此間鳴渡《こゆなきわたる》 鴈鳴乃《かりがねの》 嬬呼音乃《つまよぶこゑの》 乏蜘在可〔四字左△〕《ともしくもあるか》     1562
 
〔釋〕 ○たれききつ 誰れが聞いたらうの意。下にらむ〔二字右○〕の意を含む。古義は伊勢物語(塗籠本)の「いづこまで送りはしつと人問はば飽かぬ別の涙川まで」を例證に引いて、この格を詳説し、眞淵の「都」を跡〔右△〕の誤として、タレキケト〔五字傍線〕と訓んだのを破してゐる。○ともしくもあるか 原本の「之知左寸」は解し難い。宣長は乏蜘在可〔四字右△〕の誤としてかく訓んだ。古義は乏左右爾〔四字左△〕《トモシキマデニ》の誤としたが少し迂遠。
【歌意】 誰れが聞いたらう。私の處を鳴いてゆく雁の、頻に〔二字右○〕妻呼ぶ聲が、珍しくもあることよ。
 
〔評〕 群飛する雁の鳴くのは妻戀に鳴くともいへまい。それに「こゆ鳴き渡る」とある趣で見ると、これは軒近に鳴き過ぎた孤雁である。愛人家持の疎濶を怨んで、※[糸+卷]戀の情に囚はれてゐた折柄とて、その孤雁も自分とおなじ境遇、おなじ情思のもとに鳴くものゝ如く想斷した。そして「誰れ聞きつ」、多分は貴方もお聞きでせうねと、その無情さを諷刺したもので、曲折の妙がある。初句の獨立は七五調の傾向の強烈になつた結果で、この頃の新體に屬する。
 
(2357)大伴(ノ)家持(ガ)和(フル)歌一首
 
聞津哉登《ききつやと》 妹之問勢流《いもがとはせる》 鴈鳴者《かりがねは》 眞毛遠《まこともとほく》 雲隱奈利《くもがくるなり》     1563
 
〔釋〕 ○ききつや 聞きつや否や〔二字右○〕と。○とはせる 問ふ〔二字傍点〕の敬相。
【歌意】 聞いたかと、貴女がお尋の雁が音は、こちらではほんにまあ遠く、雲隱れて聞え〔二字右○〕ましたわい。
 
〔評〕 麻蘇娘子の「こゆ鳴き渡る」に對して、「まことも遠く雲隱る」で、仰の通り永い不沙汰になりましたと、陳謝の意を寓せた。
 
日置長枝娘子《ヘキノナガエヲトメガ》歌一首
 
○日置長枝娘子 傳未詳。日置は氏。記の應神天皇の條に「大山守(ノ)命者、土形(ノ)君、弊伎《ヘキノ》君、榛原(ノ)君等之|祖《オヤ》也」とあるから、ヘキと訓む。和名抄の地名にはヒオキ又ヒキと訓んである。
 
秋付者《あきづけば》 尾花我上爾《をばながうへに》 置露乃《おくつゆの》 應消毛吾者《けぬべくもわは》 所念香聞《おもほゆるかも》     1564
 
〔釋〕 ○あきづけば 「あきづく」は秋の景氣に成るをいふ。つく〔二字傍点〕は朝|附日《ヅクヒ》、夕|熟日《ヅクヒ》のつく〔二字傍点〕と同意。○おくつゆ(2358)の おく露の如く〔二字右○〕。以上三句は「消ぬ」に係る序詞。
【歌意】 秋めいてくると、尾花の上におく露の、はかなく消えるやうに〔はか〜右○〕、消え入りさうにまあ、私は思はれることかまあ。
 
〔評〕 當季の景物を序詞に使つた。その繊細幽婉な情景と流麗な調子とが、「消ぬべく思ほゆる」まで、傷心の天地に彷徨してゐる戀愛情緒に渾然融合して、いかにも物優しく女らしい作者その人の風貌を想見する。四句の促調、突如平地に波を起してゐる。
 
大伴(ノ)家持(ガ)歌一首
 
○家持歌 原本に「家持和歌」とあるは和〔右△〕の字は衍。新考に和は秋〔右△〕の誤かとある。
 
吾屋戸乃《わがやどの》 一村芽子乎《ひとむらはぎを》 念兒爾《おもふこに》 不令見殆《みせずほとほと》 令散都類香聞《ちらしつるかも》     1565
 
〔釋〕 ○ひとむら 「村」は叢の借字。○みせず 略解訓による。舊訓ミセデ〔三字傍線〕。○ほとほと こゝは普通の用例。
【歌意】 私の庭の一叢の萩の花を、思ふ人に見せずに、殆ど散らしたことわい。
 
〔評〕 格別に思ふ兒の賞翫を經れば、萩の花も一段の光彩を増す筈だが、それが「見せず」に殆ど摧殘となつて(2359)は萬事休すだ。「散らしつる」の使相の表現は散る〔二字傍点〕を強諷して、遺憾の意を深刻たらしめる手段である。かくして萩の花の散るまでも來訪せぬ、思ふ兒の無情を間接に映出した。まことに怨意縹渺たるもの。
 
大伴(ノ)家持(ガ)秋(ノ)歌四首
 
久堅之《ひさかたの》 雨間毛不置《あままもおかず》 雲隱《くもがくり》 鳴曾去奈流《なきぞゆくなる》 早田鴈之哭《わさたかりがね》     1566
 
〔釋〕 ○あままもおかず 前出(二二八三頁)。○わさたかりがね 早稻田を刈る〔二字傍点〕を雁《カリ》にいひ懸けた。「わさ」は早稻《ワセ》の轉語だから、ワサタは早稻〔右○〕田と書くべきを「早田」と書いたのは、この時代既に稻に限らず季節に早い物を汎くワサといつたからで、卷十に早芳子《ワサハギ》の語がある。「わせ」は早く成熟する稻の稱。中稻《ナカテ》晩稻《オクテ》に對していふ。大抵初秋の頃に收穫を終へる。
【歌意】 雨の降る間も止めず、雲隱れしつゝ鳴いてさ往くことわ。丁度〔二字右○〕早稻田を刈る、その刈るといふ名の雁がさ。
 
〔釋〕 農人は、稻の苅りしほを外すまいと、雨を冒しても小田に立つ。この主觀の上に成つた序詞で、少しくどいが、巧緻喜ぶべきものがある。「早稻田かりがね」の造語は初見で、「戀忘れ貝」(卷六・卷七・卷十五)の類型である。「早稻田刈り」を句中の枕詞とする説もあるが、これはもつと有意味のもので、當季の節物を湊合した準序詞ともいふべきものだ。
(2360) 要するに老手の作で、少年家持の所爲とはとても思はれない。
 
雲隱《くもがくり》 鳴奈流鴈乃《なくなるかりの》 去而將居《ゆきてゐむ》 秋田之穗立《あきたのほだち》 繁之所念《しげくしおもほゆ》     1567
 
〔釋〕 ○ほだち 稻の穗の立つのをいふ。初句より四句までは「しげく」に係る序詞。
【歌意】 雲隱れして鳴いてゐる雁が、往つて棲むであらうところの〔四字右○〕、秋の田の穗立は繁きものだが、その如く〔四字右○〕繁くさ、人が〔二字右○〕戀ひ思はれるわ。
 
〔評〕 雁の鳴く音によつて田家の秋の闌なる光景を想像し、その穗立の繁さから聯想して、おのれの繁き秋思を寓せた。雁の行方を何時までも見送つて、物思に耽つてゐる作者の態度が、如實に現れてゐる。
 全四句を序詞として、結一句にその主意を置いたこの體は、集中でも少い。
 
雨隱《あまごもり》 情欝悒《こころいぶせみ》 出見者《いでてみれば》 春日山者《かすがのやまは》 色付二家利《いろづきにけり》     1568
 
〔釋〕 ○いぶせみ 「いぶせし」を見よ(一三七四頁)。
【歌意】 雨に閉ぢ籠つて、氣が塞ぐので、外に〔二字右○〕出て見ると、春日の山は、早くも〔三字右○〕赤くなつたわい。
 
(2361)雨晴而《あめはれて》 清照有《きよくてりたる》 此月夜《このつくよ》 夜〔左△〕更而《よくだちにして》 雲勿田菜引《くもなたなびき》     1569
 
〔釋〕 〇よくだちにして 「よはくだちつゝ」を見よ(一七三六頁)。「夜更」の更を深《フ》くる意に取つて、クダチと訓む。「夜」原本に又〔右△〕とあり、舊訓はマタサラニシテ〔七字傍線〕である。今は古義説によつて改めた。○たなびき 「田菜引」は戲書。
【歌意】 雨が晴れて、さやかに照つたこの月夜、夜更けになつて、雲が出てくれるなよ。
 
〔評〕 上句は現前の光景、下句はそれから生まれた感動で、夜降ちにして尚月に叢雲の妨を恐る。即ち終夜その清光を愛でようの意で、興會想ふべしである。豪快の氣味、放膽の句法、この作者の他作に類しない。
 この四首は聯作體で、雨中から遂に雨上りの月明に及んだ。
 
右四首、天平八年(ノ)丙子《ヒノエネノ》秋(ノ)九月作(メリ)。
 
家持が十七八歳頃の作だらう。(公卿補任に寶龜十一年に五十二歳とあるは誤)
 
藤原(ノ)朝臣|八束《ヤツカガ》歌二首
 
(2362)〇藤原八束 既出(九〇四頁)。
 
此間在而《ここにありて》 春日也何處《かすがやいづく》 雨障《あまざはり》 出而不行者《いでてゆかねば》 戀乍曾乎流《こひつつぞをる》     1570
 
〔釋〕 ○ここにありて 「ここにして」を見よ(七一九頁)。○かすが 大和添下郡春日郷、山あり野あり里がある。各項を見よ。○いづく 既出(七一九頁)。○あまざはり 既出(一一一七頁)。古義訓アマヅツミ〔五字傍線〕は非。△地圖 296(一〇二九頁)を參照。
【歌意】 此處に居つて見れば、あの懷かしい〔九字右○〕春日は何處だかなあ〔四字右○〕、雨に遠慮して、出て行かぬので、徒らに貴女を〔六字右○〕戀ひ/\してさ、をるわい。
 
〔評〕 初二句は遠方を想望する詞態である。
  こゝにして家やもいづく白雲のたなびく山を越えて來にけり(卷三、石上卿――287)
  こゝにありて筑紫やいづく白雲のたなびく山の方にしあるらし(卷四、大伴卿――574)
の先出二首の如きは、最もよく置き得てある。
 この歌の「こゝ」は何處か。歌の趣によれば晴天なら「出でて行か」れる距離の場處である。さては春日から程遠からぬ久邇京であらう。久邇京當時、奈良への往復を主題にした作が、集中に澤山見える。久邇京とすると間近過ぎて、初二句が稍浮泛のやうだが、これは雨日の感想だから差支ない。
(2363) 作者は奈良の春日にその愛人を置いた。然し當時の法令は、然るべき官吏に新京久邇の移住を強ひた。で作者も久邇に居て奈良へ通はねばならなかつた。近いといつても一里半強、雨天の往訪は一寸難儀なので、心ならずも雨障りとなる。空しく雲烟去來のうちに春日の方を瞻望して、その愛人を「戀ひつつぞをる」より仕方がなかつた。この歌は八束の廿七八歳頃の作か。
 なほ卷四、「雨ざはり常する君は」の評語を參照(一一一七頁)。
 
春日野爾《かすがぬに》 鐘禮零所見《しぐれふるみゆ》 明日從者《あすよりは》 黄葉頭刺牟《もみぢかざさむ》 高圓乃山《たかまとのやま》     1571
 
【歌意】 春日野に時雨の降るのが見える、明日からは紅葉を髪挿して遊ばうぞ、高圓の山で。
 
〔評〕 委しくいへば春日野と高圓の野とは別だが、打任せては春日野は兩山麓に廣被した名稱である。今は春日高圓の山影は模糊として、その裾野に時雨のかゝるのが見えたので、いざ高圓山に紅葉見をしようと、明日の日和を樂んだ。高雅な貴紳を見るやうな作品である。紅葉髪挿すは例の古代人の遊樂的行爲だ。
 新考に下句を高圓山が紅葉かざさむの意に釋した。面白い見方で、既に卷一、人麻呂の長歌に、
  山つみの奉《マツ》る御調と、春部は花かざしもち、秋立てばもみぢかざせり(――38)
とある。然しそれは山を神格視して、「山つみの奉る御調と」の句を前提においての聯想で、打任せては山が花を挿頭すの、紅葉を挿頭すのといへば突飛である。
 
(2364)大伴(ノ)家持(ガ)白露(ノ)歌一首
 
吾屋戸乃《わがやどの》 草花上之《をばながうへの》 白露乎《しらつゆを》 不令消而玉爾《けたずてたまに》 貫物爾毛我《ぬくものにもが》     1572
 
〔釋〕 〇をばな 尾花を「草花」と書く例は、卷十、卷十六にも見えた。古義にいふ、草を集中にカヤ〔二字傍点〕と訓む、カヤは薄にて、薄の花は尾花なれば、草花と書きてヲバナと讀まするなりと。
【歌意】 自分の宿の、尾花のうへにおく白露を、そのまゝに〔五字右○〕消さずに、玉として通すものでまあ、ありたいな。
 
〔評〕 尾花の露は一再ならず歌はれて、秋の風情の象徴の如く見られた。その露は手に取れば忽ち消えることを承知しながら、尚玉に貫きたいの痴想を描いてゐる。さ程に露は美しい玉であることが反映されて面白い。「玉に貫く」は極めで套語だが。
 
大伴(ノ)利〔左△〕上《トカミガ》歌一首
 
○大伴利上 契沖はいふ、「利」は村〔右△〕の誤なるべしと。但必ず誤と斷定は出來ない。古代に似寄の人名は幾らもある。「村上」の傳は前出(二二三〇頁)。
 
秋之雨爾《あきのあめに》 所沾乍居者《ぬれつつをれば》 雖賤《いやしけど》 吾妹之屋戸志《わぎもがやどし》 所念香聞《おもほゆるかも》     1573
 
(2365)〔釋〕 ○いやしけど この「いやし」は卑陋の意。「遠けども」を參照(九〇二頁)。
【歌意】 秋の雨に濡れ/\してゐると、餘り辛氣なので、むさくるしくても、吾が妻のゐる宿がさ、戀しく〔三字右○〕思はれることかまあ。
 
〔評〕 旅中などの作か。假令それが花時錦帳のもとであつても、矢張わが家の好きに及かない。ましてや秋雨蕭蕭としてその破窓を打つ時、愈よこの感は深からう。一抑一揚、實情が率直に出てゐる。「賤しけど」は一片の理路をもつが、この歌に取つての眼目である。
 
右大臣橘(ノ)家(ニテ)宴(スル)歌七首
 
○右大臣 既出(一七九八頁)。○橘家 橘諸兄の家。既出(一七九八頁)。諸兄の傳は「葛城(ノ)王」を見よ(一七七〇頁)。
 
雲上爾《くものうへに》 鳴奈流鴈之《なくなるかりの》 雖遠《とほけども》 君將相跡《きみにあはむと》 手囘來津《たもとほりきつ》     1574
 
〔釋〕 ○くものうへになくなるかりの 「遠けども」に係る序詞。○とほけども 既出(九〇二頁)。舊訓トホケレド〔五字傍線〕。○たもとほり 既出(一六五五頁)。「手」は借字。
【歌意】 雲のあたりに鳴いてゐる雁の遠いやうに、お宅は〔三字右○〕遠いけれど、貴方樣に逢はうとばかり、道を〔五字右○〕廻り囘は(2366)つて來ましたわい。
 
〔評〕 丁度時が八月下旬なので、秋の景物を序詞に用ゐた。「遠けども」はどの程度なのか。橘家の本邸が奈良山に在つた事は下にも見え、又その子が奈良麻呂と名づけられたのでも思ひ合はせられるが、この序の詞態といひ、次ぎ/\の歌の趣といひ、この橘家は必ず山城相樂郡の諸兄公の井手の別墅であらねばならぬ。すると、奈良の京から北へ二里有餘の距離があるから、宴會のお客になるには實に遠い。その遠路而も熟路でない田舍道を、くね/\と探し廻つて來たのだから、全く「たもとほり來つ」である。その萬千の勞苦も只君に逢ひたい一心でと、おのれの誠意を誇張氣味に披瀝した。
  春がすみ井のへゆたゞに道はあれど君に逢はむとたもとほりくも(卷七――1256)
  女郎花咲きたる野べをゆきめぐり君を思ひ出たもとほり來ぬ(卷十七、池主――3944)
(2367)下句が相似てゐる。
 
雪上爾《くものうへに》 鳴都流鴈乃《なきつるかりの》 寒苗《さむきなべ》 芽子乃下葉者《はぎのしたばは》 黄變可毛《うつろへるかも》     1575
 
〔釋〕 ○なべ 「よろしなべ」を見よ(七一七頁)。○うつろへるかも 「黄變」はさま/”\に訓まれる。契沖一訓にモミヂツルカモ〔七字傍線〕とある。
【歌意】 雲のあたりに鳴いた、雁の聲の寒いにつれて、萩の本の方の葉は、色が變つたことかまあ。
 
〔評〕 宴會當日の寫景、「寒き」を寫眼として、悲秋風露の氣がそこに動く。をなじ雁聲を上の歌は序に用ゐ、これは實景に扱つた。
 
右二首、
 
この下、官名と姓名とが脱ちた。次に長門(ノ)守巨曾倍(ノ)朝臣津島の作が置かれてあるから、津島より稍上位の官吏の作であらう。
 
(2368)此岳爾《このをかに》 小牡鹿履起《をじかふみおこし》 宇加※[泥/土]良比《うかねらひ》 可聞〔左△〕可聞爲良久《かもかもすらく》 君故爾許曾《きみゆゑにこそ》     1576
 
〔釋〕 ○をじかふみおこし 物陰に潜んでゐる鹿を踏み立てゝ驚かすをいふ。卷三、卷六に「朝獵にしし踏みおこし」とある。○うかねらひ 窺《ウカヾ》ひ覘《ネラ》ひの意。「うか」はウカヾヒの略。○かもかもすらく あゝもかうもする。下にことも〔三字右○〕の語を補つて聞く格。「らく」はる〔傍点〕の延言。「可聞可聞」の下の聞、原本に開〔右△〕とある。契沖、魚彦等の説によつて改めた。○きみゆゑにこそ の下、あれ〔二字右○〕の語を略した。△圖畫 挿圖11(三六頁)を參照。
【歌意】 この岡に鹿を踏み立てゝ、射留める爲に〔六字右○〕窺ひ覘ひ、何のかのすることも、外ならぬ〔七字右○〕貴方樣故でさ、ありますわい〔六字右○〕。
 
〔評〕 橘家の井手の邸は岡野の取付にあり、それから東の山手までよい狩場で、そこに鹿獵を催したと見える。お客さん達も一緒になつて、「うかねらひ」した。もと/\宴會の餘興で、來客※[疑の左+欠]待の目的であるのは明らかだが、作者はこれを飜轉して、こんな辛苦を盡すのも、皆貴方樣への奉公だと、主人右大臣殿へ追從した。巧語言と謂ふべしだ。
 略解、古義などに上句を序詞と見て、獵師達が「うかねらひかもかもする」如く、自分が彼れ是れするのもの意に解した。それでもいゝが、「この岡に云々」とある現在性の強さに、序詞説を棄てた。又
  戀の歌なるを、この時誦せしなるべし。(略解)
(2369)  夙く詠める、又は聞き保てる歌なるを、辭の折にあひたれば、誦して主人に聞えしならむ。(新考)
の如きは臆斷に過ぎると思ふ。
 作者津島と主人諸兄公とは、格別入懇の間柄であつた事は、卷六所載のこの日に詠んだ津島の歌が證する。
 
右一首、長門(ノ)守|巨〔左△〕曾倍《コソベノ》朝臣|津島《ツシマ》。
 
○巨曾倍朝臣津島 「津島」は對馬に同じい。傳既出(一八〇〇頁)。「巨」原本に臣〔右△〕とあるは誤。
 
秋野之《あきのぬの》 草花我末乎《をばながうれを》 押靡而《おしなべて》 來之久毛知久《こしくもしるく》 相流君可聞《あへるきみかも》     1577
 
〔釋〕 ○こしくも 來たことがまあ。「しく」の語、委しくは「おもへりしくし」を見よ(一三五八頁)。○しるく 語意は著《シル》くであるが、こゝはその驗《シルシ》のあるをいふ。
【歌意】 秋の野の尾花の穗先を押靡けて、來たまあその甲斐あつて、嬉しくも〔四字右○〕逢へた、貴方樣であるかいまあ。
 
〔評〕 橘家の井手の岡邊の家に行く路旁には、無論野草が深かつたらう。その尾花を押分けて來た詮があつてと、君を訪ふ爲には勞苦をも辭せぬ意氣組を誇示し、その招宴に列し得た喜を歌つた。實にその辭令の巧さに敬服する。總體にこの作者の什には才氣の器用さが纏はつてゐる。「來しくもしるく」はこの他に
  見まくほり來しくもしるく吉野川音のさやけさ見るにともしく(卷九――1724) 
(2370)  天の河わたり瀬毎におもひつゝ來しくもしるし逢へらく思へば(卷十――2074)
の二首がある。殊に後首はこの歌の趣に相似してゐる。
 
今朝鳴而《けさなきて》 行之鴈鳴《ゆきしかりがね》 寒可聞《さむみかも》 此野乃淺茅《このぬのあさぢ》 色付爾家類《いろづきにける》     1578
 
〔釋〕 ○さむみかも この「かも」は疑辭の係辭。
【歌意】 今朝のほど、鳴いて往つた雁の聲、寒いせゐかしてまあ、この野の淺茅生は、紅く色付いてしまうたことわい。
 
〔評〕 「この野」は井手の岡邊の野である。さて寒雁の聲に色付く淺茅原を配合した。秋の景氣は耳から眼からひし/\と身に迫つてくる。
  今朝のあさけ雁がね寒く聞きしなべ野邊の淺茅ぞいろづきにける(聖武天皇、――卷八――1540)
  雲のうへに鳴きつる雁の寒きなへ萩の下葉はうつろへるかも(卷八――1575)
は同趣同型で、聖製が尤も優れてゐる。
 
右二首、阿倍(ノ)朝臣蟲麻呂。
 
○阿倍朝臣蟲麻呂 既出(一二八五頁)。
 
(2371)朝扉開而《あさとあけて》 物念時爾《ものもふときに》 白露乃《しらつゆの》 置有秋芽子《おけるあきはぎ》 所見喚鷄本名《みえつつもとな》     1579
 
〔釋〕 ○あさと 朝の戸。夕戸《ユフト》の語はない。「扉」は戸片《トビラ》のことだが、戸に通用。○見えつつ 「つゝ」に「喚鷄」を充てたのは戲書。鷄を喚ぶに、昔はツヽといつたと見える。今はトヽと呼ぶ。
【歌意】 朝戸を開けて、ぼんやり物思してゐる時、白露のおいた萩の花が、見え/\してそのあはれさに〔七字右○〕、愈よ無茶に物思がされてね〔七字右○〕。
 
〔評〕 この宴會は歸路が遠いので、客は一泊したらしい。されば「朝戸開けて」ともいふのである。野邊の家の秋の朝、旅心地に淡い哀愁が感じられ、露置く萩が見るとはなしに眼に見える。その哀れさ寂しさは、物思に愈よ拍車をかける。遂に溜らなくなつて、「もとな」とその音を揚げた。
 
棹牡鹿之《さをしかの》 來立鳴野之《きたちなくぬの》 秋芽子者《あきはぎは》 露霜負而《つゆじもおひて》 落去之物乎《ちりにしものを》     1580
 
〔釋〕 〇つゆじもおひて 露霜に置かれたのを「負ひて」と活喩した。「つゆじも」は既出(三八八頁)。
【歌意】 鹿の來て立ち鳴く、この〔二字右○〕野の萩の花は、露霜を負つて、散つてしまうたものを。さて今から何を愛賞しようぞい〔さて〜右○〕。
 
(2372)〔評〕 秋やゝ更け方の光景、流石に鹿が來往して哀を添へた野べの萩も、今は露霜に摧殘して、次いで來るべき何物もない。傷心の曲、絶望の聲だ。
  秋さらば妹に見せむとうゑし萩露霜おひて散りにけるかも(卷十――2127)
と同巧異曲。
 
右二首(ハ)、文忌寸馬養《フミノイミキウマカヒ》。
 
○文忌寸馬養 文は氏。忌寸は姓、馬養は續紀に、靈龜二年四月(ノ)詔に、壬申(ノ)年の功臣贈正四位上文忌寸禰麻呂(ノ)息、正七位下馬養等十人に田を賜ふこと各差ありと見え、天平九年九月正六位上より外從五位下、同十二月に外從五位上を授けられ、同十年閏七月に主税頭、同十七年九月に筑後守、寶字元年六月に鑄錢司長官となり、同二年八月に從五位下を授くとある。文氏は始め首姓、のち連姓より忌寸姓となる。文首を紀に書《フミノ》首とあれば、文はフミと訓むべく、諸註アヤ〔二字傍線〕とあるは非。
 
天平十年|戊寅《ツチノエトラノ》秋八月二十日
 
まづ橘家の宴の歌を擧げ、さてその年月日を記した。卷六に「秋八月二十日、宴2右大臣橘家1歌四首」とあるも、同時の作である。  △橘家所在考(雜考――29)參照。
 
橘(ノ)朝臣|奈良《ナラ》麻呂(ノ)結集宴《ウタゲスルトキノ》歌十一首
 
(2373)○橘朝臣奈良麻呂 「橘(ノ)宿禰奈良麻呂」を見よ(一七七四頁)。續紀に、天平勝寶二年、橘(ノ)宿禰諸兄(ニ)賜(フ)2朝臣(ノ)姓(ヲ)1と見え、橘氏はこの天平十年にはまだ宿禰姓だつた。記録者が溯らせて朝臣と記したものだ。○結集宴 多人數寄り集つての宴會の意。結集は集結に同じい。
 
不手折而《たをらずて》 落者惜常《ちりなばをしと》 我念之《わがもひし》 秋黄葉乎《あきのもみぢを》 挿頭鶴鴨《かざしつるかも》     1581
 
〔釋〕 ○ちりなばをしと 未然態の詞形を現在態に承けた格。「と」はトテの意。古義訓チラバヲシミト〔七字傍線〕。○わがもひし 我が大切に〔三字右○〕念うた。古義に初二句を直ちに「念ひし」に續けて解したのは非。
【歌意】 手折らずに散らうなら惜しいとて〔右○〕、私が大事に思うた處の、秋の紅葉を、思ひ切つて〔五字右○〕折り挿頭したことかまあ。
 
〔評〕 時は冬十月(今の十一月)、わが山莊の紅葉も散る頃である。その散らぬ間に挿頭し得た喜を歌つて、紅葉を飽くまで賞翫した。
 
希〔左△〕將見《めづらしき》 人爾令見跡《ひとにみせむと》 黄葉乎《もみぢばを》 手折曾我來師《たをりぞわがこし》 雨零久仁《あめのふらくに》     1582
 
〔釋〕 ○めづらしき 「希將見」をメヅラシと訓む。將字が無用であるが、集中卷十、卷十一、卷十二の書例、皆(2374)同じい。「希」原本に布〔右△〕とあるは誤。宣長説によつて改めた。希は稀と同意。○めづらしきひと 稀人《マレビト》といふに同じい。客人をいふ。○ふらく 降る〔二字傍点〕の延言。
【歌意】 客人《マラウド》方に見せうと思うて、紅葉を手折つてさ、私が來ましたわい、しかも〔三字右○〕雨の降るのにさ。
 
〔評〕 この作者は、前首とおなじく、今日の主人公である。客人※[疑の左+欠]待の心盡し、紅葉をわざ/\手折つて來ただけでも厚意は既に十分だ。ましてやそれが雨を冒してとなつては、客人は謝する詞もあるまい。かう恩に著せるのも、逸與に任せた所爲くれだ。その實は家隷共に命じて手折つて來させたものだらう、今日の人々の挿頭の料として。
 
右二首、橘(ノ)朝臣奈良麻呂。
 
黄葉乎《もみぢばを》 令落鐘禮爾《ちらすしぐれに》 所沾而來而《ぬれてきて》 君之黄葉乎《きみがもみぢを》 挿頭鶴鴨《かざしつるかも》     1583
 
〔釋〕 ○きみがもみぢを 君が手折られた〔五字右○〕紅葉を。
【歌意】 私は此方に參るとて〔九字右○〕、紅葉を散らす時雨に沾れて來て、貴方樣のお折りなされた〔七字右○〕紅葉を、今〔右○〕挿頭しましたことかまあ。
 
〔評〕 時雨の散らすのも紅葉、挿頭すのも紅葉、到る處紅葉ならざるはない。「君が黄葉を挿頭す」といふに、感謝の意を寓した。
(2375) 主人公がひどく熱心にその手折つた紅葉を誇稱したので、來客は以下つぎ/\、紅葉を主題として唱和したものだ。
 
右一首、久米《クメノ》女王。
 
○久米女王 續紀に、天平十七年正月、無位久米(ノ)女王(ニ)授(ク)2從五位下(ヲ)1とある。
 
希將見跡《めづらしと》 吾念君者《わがもふきみは》 秋山《あきやまの》 始黄葉爾《はつもみぢばに》 似許曾有家禮《にてこそありけれ》     1584
 
【歌意】 あゝ愛《メヅラ》と思ふ貴方樣は、この秋山の見事な〔三字右○〕初紅葉に、似てさ、おありなさるわい。
 
〔評〕 美しい品のよい初紅葉を以て主人公奈良麻呂に擬へて、一番のお世辭を呈した。茲に於いて奈良麻呂の人柄を想像せざるを得ない。奈良麻呂の父君はもとの葛城王、今の右大臣諸兄公、母君は淡海公藤原不比等の女で、生れ立ちからの貴公子である。隨つて何れ人品も氣高く立派であつたらう。そして父諸兄公はこの天平十年には五十五歳だから、奈良麻呂は三十歳位か或は今少し若いかも知れない。初紅葉は決して不倫の比喩ではあるまい。
 
右一首、長(ノ)忌寸(ガ)娘《ムスメ》。
 
〇長忌寸娘 傳未詳。長は氏、忌寸姓。「娘」は或は娘子〔右○〕の脱か。
 
(2376)平山乃《ならやまの》 峯之黄葉《みねのもみぢば》 取者落《とればちる》 鐘禮能雨師《しぐれのあめし》 無間零良志《まなくふるらし》     1585
 
〔釋〕 〇ならやま 「平」をナラと訓む。事は崇神天皇紀に、官軍が山の草木を踏み平《ナラ》したので、平《ナラ》山の名が付いたとある。委しくは「ならのやま」を見よ(八四頁)。
【歌意】 この〔二字右○〕奈良山の峯の紅葉は、取るとすぐ散るわ。かう脆《モロ》いのは〔六字右○〕、時雨の雨がさ、絶えず降るのらしい。
 
〔評〕 時雨には紅葉が散るといふ考が著想の基調で、今日ばかりでなく、前々から時雨が降りかゝつてゐるのであるらしいと、その紅葉の脆さはかなさを強調した。「取れば散る」の端的な表現はよい。
 奈良山は、下の人名《ヒトナ》の歌にも見えて、今日の集宴の場處即ち橘邸の所在地である。
 
右一首、内舍人縣犬養《ウトネリアガタノイヌカヒノ》宿禰|吉男《ヨシヲ》。
 
○内舍人 既出(一〇二九頁)。○縣犬養宿禰吉男 續紀に、寶字二年八月正六位より從五位下、同五月肥前守、寶字八年十月伊豫介とある。勝寶二年には但馬掾であつた(但馬國司牒)。縣(ノ)犬養氏は橘諸兄公の母が(美努王の妻、奈良麻呂の祖母)縣(ノ)犬養(ノ)三千代であるから、この吉男や持男は橘家の親戚であらう。
 
黄葉乎《もみぢばを》 落卷惜見《ちらまくをしみ》 手折來而《たをりきて》 今夜挿頭津《こよひかざしつ》 何物可將念《なにかおもはむ》     1586
 
(2377)〔釋〕 ○なにかおもはむ 「何物」をナニと訓んだ。もし何可物〔二字左△〕將念の顛倒とすれば、ナニカモノモハム〔八字傍線〕と訓まれる。
【歌意】 紅葉を、その散らうことが〔三字右○〕惜しさに、手折つて來て、今夜頭挿に挿しました。今はもう何を思はうかい。思ふ事もないわ〔七字右○〕。
 
〔評〕 今夜の招宴にその滿足を表したもの。初句より四句までは、主人公奈良麻呂の二首の作意を承けた。
 
右一首、縣《アガタノ》犬養(ノ)宿禰(ノ)持男《モチヲ》。
 
○縣(ノ)犬養(ノ)宿禰持男 傳未詳。吉男の身内であらう。
 
足引乃《あしひきの》 山之黄葉《やまのもみぢば》 今夜毛加《こよひもか》 浮去良武《うかびいぬらむ》 山河之瀬爾《やまがはのせに》     1587
 
〔釋〕 ○うかびいぬらむ 舊訓ウキテイヌラム〔七字傍線〕。古義訓ウカビユクラム〔七字傍線〕。
【歌意】 山の紅葉は、今夜まあ、浮かんで流れゆくであらうか、山川の瀬に。
 
〔評〕 夜宴の間にも紅葉の散るのが惜まれ、懇にその光景を思惟した。もしこの山川が橘邸附近のものなら、尤も適切であらう。但奈良山中に川らしい川はない。雨が降れば谿谷を水が走つて川を成す位のものだ。こゝは(2378)それでも澤山と思ふ。この歌は背景に時雨の雨がある。
 契沖説に「山の紅葉は見る人なしに、谷川の水に散り浮きてや」とあるは横入である。
 
右一首、大伴(ノ)宿禰|書持《フミモチ》。
 
○大伴宿禰書持 既出(一〇一五頁)。
 
平山乎《ならやまを》 令丹黄葉《にほすもみぢば》 手折來而《たをりきて》 今夜挿頭都《こよひかざしつ》 落者雖落《ちらばちるとも》     1588
 
〔釋〕 ○にほす 匂はす〔三字傍点〕の急言。卷十六にも「墨《スミノ》江の遠里小野の眞榛《マハリ》もち丹穗《ニホ》しし衣に」とある。「令丹」は赤からしむることで、色付くる意を以て、ニホスに充てた。
【歌意】 奈良山を色付かした紅葉を、手折つて來て、今夜頭挿したわい。もうあとは〔五字右○〕散るなら散つても構はぬ〔三字右○〕わ。
 
〔評〕 紅葉を頭挿し得た歡を誇稱して、暗に今夜の招宴を讃美した。
 
右一首、三〔左△〕手代人名《ミテシロノヒトナ》。
 
〇三手代人名 傳未詳。續紀に、天平二十年七月に從五位下大倭(ノ)御手代《ミテシロノ》連|麻呂女《マロメ》に宿禰姓を賜ふとある。麻呂女の一族か。「三」原本に之〔右△〕とあるは誤。細本等によつて改めた。
 
(2379)露箱爾《つゆじもに》 逢有黄葉乎《あへるもみぢを》 手折來而《たをりきて》 妹挿頭都《いもとかざしつ》 後者落十方《のちはちるとも》     1589
 
【歌意】 露霜に遭うた紅葉を、手折つて來て、かの女と挿頭したわい。もう〔二字右○〕あとは散るとも勝手さ〔三字右○〕。
 
〔評〕 上のと同趣同型。只「妹と」の一語が、稍複雜性と色彩とを添へてゐる。この「妹」は誰れを斥したものか。新考は久米(ノ)女王や長忌寸(ノ)娘とし、古義は宴席に出會うた侍女などかといつた。
 
右一首、秦《ハタノ》許遍《コヘ》麻呂。
 
○秦許遍麻呂 續紀に、勝寶三年正月正六位上秦(ノ)忌寸首麻呂に從五位下を授くとある。首(カウヘ)を許遍《コヘ》と短呼したものか。
 
十月《かみなづき》 鐘禮爾相有《しぐれにあへる》 黄葉乃《もみぢばの》 吹者將落《ふかばちりなむ》 風之隨《かぜのまにまに》     1590
 
〔釋〕 ○かみなづき 十月の異稱。(1)神之《カミノ》月の轉。なほ水|之《ノ》月をミナツキといふに同じい。十月は神事を行はれるので神の月といふ(甲説)。(2)釀成《カミナシ》月の略。九月に新穀を刈り入れ、十月の新甞に酒に釀み成す故にいふ。集中十六に「味飯《ウマイヒ》を水に釀み成し」とある。(古義、景井説)。(3)雷無《カミナ》月の意。この月より冬に入り雷は蟄する故に(2380)いふ(乙説)。(4)神無《カミナシ》月の意。十月諸神集(ル)2出雲大社(ニ)1故にいふ、曾丹集に「何事も行きて折らんと思ひしを社はありて神無月かな」(下學集説)。以上のうち(4)は俗説。
【歌意】 十月の時雨に遭うた紅葉が、風が吹かうなら、その風のまゝに散つてしまはうよ。
 
〔評〕 雨中の紅葉の脆さを叙べたに過ぎない。契沖が説に、
  下句はともかくも君に從はむの意なり。げにも奈良麻呂、寶字元年に謀反のやうの事ありし時、この歌主も方人をせられける、云々。
とは飛んでもない鑿説である。
 
右一首、大伴(ノ)宿禰|池主《イケヌシ》。
 
○大伴宿禰池主 家持の一族。詩文に長じ歌を善くす。天平十年十月の橘家舊宅の會、同十八年八月家持が館の宴に陪し、同二十年三四五月家持の越中守たるに贈答し、その五月には越中丞となりて家持の部下として赴任し、勝寶五年には既に歸京して、諸大夫と高圓の野に遊び、同六年正月家持宅の宴に陪した。續紀に天平寶字元年七月の條に、安宿王、黄文王、橘奈良麻呂の謀反に與した事が見え、その處罰の事が洩れてゐる。又正倉院文書、天平十年の駿河國正税帳に、※[不/見]《モトムル》2珠玉(ヲ)1使、春宮坊少屬從七位下大伴宿禰池主【上一口・從十二口】云々と見えた。
 
黄葉乃《もみぢばの》 過麻久惜美《すぎまくをしみ》 思共《おもふどち》 遊今夜者《あそぶこよひは》 不開毛有奴香《あけずもあらぬか》     1591
 
(2381)〔釋〕 ○すぎまく 「すぎ」は紅葉には散り衰へるをいふ。○あらぬか 「つねにあらぬか」を見よ(八〇〇頁)。
【歌意】 紅葉の散らうことが〔三字右○〕惜しさに、思ひ合つた同士、遊ぶこの夜は、明けないでまあ、あつてくれゝばよいになあ。
 
〔評〕 燭を秉つての紅葉の宴、席にある者は皆これ睦魂あへる同士であつて見れば、その樂は盡きる期もあるまい。この夜永かれと望むのも尤もだ。殆ど李太白の春夜宴桃李園の文を想はせる。
 
右一首、内舍人《ウトネリ》大伴(ノ)家持。
 
以前(ハ)冬十月十七日集(ヒテ)2於右大臣橘(ノ)卿之舊宅《マヘツギミノモトノイヘニ》1宴飲《ウタゲス》也。
 
以上は天平十年の冬十月十七日に、右大臣橘諸兄公の舊の邸に集まつて宴會したとの意。○以前 以上の意。○舊宅 新しい山城綴喜郡井手の宅に對していつた。歌に奈良(平)山を反復してゐるので考へると、橘家の舊宅は奈良山にあつたものと斷ずる。
 當時の來賓の顔觸を見渡すと、大伴氏はその宗家たる家持書持兄弟及び旁族池主が參會し、藤原氏の人は一人も居ない。縣(ノ)犬養氏は二人居るが、これは橘氏の親類だ。奈良麻呂にこの時既に藤原氏を傾ける意圖があつたとは考へられないが、藤原氏を疎んじ、大伴氏を近づけて居た形迹は顯著といはねばなるまい。
 抑も奈良麻呂の父諸兄は、その母顯犬養(ノ)三千代が藤原不比等(淡海公)に再※[草冠/(酉+隹)/れつか]したので、まづ藤原氏に※[夕/寅]縁して出世の緒口を握み、次いで母三千代の力に依つて宮中に信任を贏ち得、(三千代は聖武天皇の皇后藤原光明子の(2382)御生母)天平九年七月後、右大臣藤原武智麻呂はじめその兄弟達が疫病の爲續々薨逝した機會に、一躍參議から大納言、翌年は右大臣と飛躍した。この橘氏の新興振には、藤原氏一門は目を剥かざるを得まい。自然兩者の間に面白からぬ感情が横はつたと見られる。
 奈良麻呂は夙くも自家勢力擁護の爲、永年藤原氏に世を狹められてゐた、武人大伴氏の舊勢力利用を思ひ寄つたのではあるまいか。その證は十數年後、勝寶九年(寶字元年)七月の變を記した續紀の奈良麻呂の語中に見え、又大伴氏は古麻呂、古慈悲、池主その他も、その謀叛に參加してゐた。
 
大伴(ノ)坂上(ノ)郎女(ガ)竹田(ノ)庄《タドコロニテ》作歌二首
 
〇竹田庄 既出(一三六五頁)。
 
黙〔左○〕然不有《もだあらず》 五百代小田乎《いほしろをだを》 苅亂《かりみだる》 田廬爾居者《たぶせにをれば》 京師所念《みやこしおもほゆ》     1592
 
〔釋〕 ○もだあらず 平然として居られずの意。黙《モダ》して居られずの轉意。「黙」原本にない。眞淵説を參酌して補つた。眞淵は「然」を直ちに黙〔右△〕の誤としたが、集中モダには黙然の二字を充てゝゐる。さてこの句を古義に枕詞としたのは非。○いほしろをだ 「いほしろ」の「いほ」は五百のことであるが、こゝは多數の轉義。「しろ」は田地を測る名稱で、拾芥抄に、方六尺(ヲ)爲(ス)2一歩(ト)1、積(ミテ)2七十二歩(ヲ)1爲2十代(ト)1――五十代(ヲ)爲(ス)2一段(ト)1とあるから、まことの五百代は十段に當る。「をだ」の「を」は美稱。○かりみだる 「亂る」は亂す〔二字傍点〕の古言。○たぶせ 田|伏《フゼ》(2383)の庵〔二字右○〕の略。田を守る伏屋をいふ。「田庵」をタブセと訓むは、卷十六「かる臼は田廬のもとに」の歌註に、田廬者|多夫世《タブセ》也とあるによる。
【歌意】 とても〔三字右○〕平氣では居られないわ。廣い秋の田を農夫等が〔四字右○〕刈り亂してゐる、その〔二字右○〕田伏の庵に住んでゐると、京がさ戀しく思はれるわ。 
〔評〕 竹田の地は漠々たる平田で、それに接した別莊だから田廬《タブセ》と稱した。時は娩秋、色付き渡つた稻田を苅り騷ぐ光景は、いかにも賑やかなものゝ、肅殺の氣に伴ふ一抹の哀愁に、孤獨の寂寥をひし/\と感じ、京|偲《シヌ》びの念に嚴しく打たれるのである。尚この京偲びには一層の情思が搦んでゐることを忘れてはならぬ。それは奈良京に遺して來た愛兒坂上(ノ)大孃を「間なく時なしわが戀ふらくは」(卷四)だからである。されば劈頭、「もだあらず」の喝破は、思ひ迫つた感情の爆發を示すものである。
 左註に「秋九月作」とあり、「間なく時なし」の詠の上句は、「打ち渡す竹田の原に鳴く鶴の」とあつて、節物が略一致するから、それも恐らく同年の秋冬の交の作であらう。尚「打ち渡す竹田の原の」の條の評語を參照(一三六六頁)。
 
隱口乃《こもりくの》 始瀬山者《はつせのやまは》 色附奴《いろづきぬ》 鐘禮乃雨者《しぐれのあめは》 零爾家良思母《ふりにけらしも》     1593
 
〔釋〕 〇こもりくの 初瀬の枕詞。既出(一七六頁)。○はつせのやま 既出(一七七頁)。
(2384)【歌意】 見渡すと〔四字右○〕初瀬山は、色づいて紅葉した。時雨の雨は、降つたことであるらしいなあ。
 
〔評〕 竹田から東を望めば、近い三輪山は常緑木を主とした山だが、初瀬山の見渡しは雜木が多くて色付いたものと見える。雨に色付くの常套を翻轉した逆想像は、腐を化して新となしたものゝ如くであつて、失張大した内容はもたない。
 
右、天平十一年|己卯《ツチノトウノ》秋九月作(メル)。
 
佛前唱《ホトケノミマヘニテウタヘル》歌一首
 
本尊佛の前で唱つた歌との意。これは奈良の興福寺(法相宗)の本尊で、藤原鎌足が奉じた銀造長け二寸の釋迦佛を、後に丈六佛の首に納めたもの。なほ左註「維摩講」の項を見よ(二三八六頁)。
 
思具禮能雨《しぐれのあめ》 無間莫零《まなくなふりそ》 紅爾《くれなゐに》 丹保敝流山之《にほへるやまの》 落卷惜毛《ちらまくをしも》     1594
 
〔釋〕 ○やまのちらまく 山の木葉の〔三字右○〕散らまくの略。卷九に「山城の久世の鷺坂神代より春は發《ハ》りつゝ秋は散りけり」と見え、今も山ガ茂ル、山ガ枯レルなど、常にいふ。
【歌意】 時雨の雨は、さう〔二字右○〕絶え間なしに降るなよ。折角眞赤に色付いた山が、その紅の葉の〔六字右○〕散らうことが惜しいわい。
 
(3285)〔評〕 着想に新奇の點こそなけれ、風調が幽婉で、朗唱に適する。維摩會は十月なので、時節柄、時雨をいひ紅葉をいつたのだが、その當日生憎の雨天であつた事は疑ひもない。「紅に匂へる山」には、暗に春日の周圍の山々の秋景が意識されてゐるらしい。
 左註によると皇后藤原光明子は父祖の遺志を紹いで、その氏寺興福寺の維摩會の願主に立たれたと見える。問講の間まづ雅樂などの演奏があり、次に邦樂の演奏に移つた。後世邦樂を雅樂寮から分つて大歌所を置かれたが、その職員には別當、琴師、歌師の名稱あるのみ(西宮記)。即ち左註にある如く、彈琴者と歌人とがあるばかりで、歌人《ウタビト》中の歌|長《ヲサ》が笏拍子を拍つて歌ふといふ、極めて簡單な仕組である。さて歌人が十餘人も居て、合唱したので見ると、當時既に短歌朗詠の曲調が製定されてゐたと考へられる。
 さてこの佛前唱歌はどんな輪廓のものであつたらうか。矢張佛者の諷誦する梵唄の音質と曲調とに準據したものと見るのが、一番理由ある穩當の考方であると思ふ。佛教音樂、これが後來のわがあらゆる音樂上に、偉大な影響を與へたことは説明するまでもない。
(2386) なほ卷六「冬十月十二日歌※[人偏+舞]所之諸王臣子等(ガ)集(リテ)2葛井(ノ)連諸成(ノ)家(ニ)1宴(スル)歌二首」の題下を參照(一七七六頁)。
 
右冬十月、皇后宮之維摩講《キサキノミヤノユヰマコウニ》、終日《ヒネモス》供2養(ス)大唐高麗等種種音樂《モロコシコマラノクサ/”\ノウタマヒヲ》1。爾乃《スナハチ》唱《ウタフ》2此歌詞(ヲ)1。彈琴者市原(ノ)王、忍坂(ノ)王【後賜2姓大原眞人赤麻呂1也、】歌人者《ウタヒトハ》田口(ノ)朝臣|家守《ヤカモリ》、河邊(ノ)朝臣|東人《アヅマヒト》、置始連長谷等十數《オキソメノムラジハツセラトタリアマリノ》人也。
 
天平十年の冬十月に、皇后宮が行はせられた維摩會に、終日唐や高麗などの種々の音樂を佛に手向け、そこでこの歌を朗詠した。歌に合はせての琴彈きは市原王、忍坂王、歌ひ手は田口家守、河邊東人、置始長谷等十餘人であるとの意。○皇后宮 聖武天皇の皇后。「藤原皇后」を見よ(二四四八頁)。○維摩講 維摩經を講説する法會。維摩會に同じい。維摩のことは「維摩大士」を見よ(一四〇二頁)。元享釋書に、齊明天皇(ノ)三年十月、鎌子(藤原鎌足の前名)於(イテ)2山州陶原(ノ)家(ニ)1、創(メ)2山階(ノ)精舍《テラヲ》1、設(ク)2維摩會(ヲ)1、維摩會自v此始(ル)と見え、この山階寺を天武天皇元年大和飛鳥の厩坂に移し、元明天皇都を奈良に移すに及び、和銅三年又寺を奈良に移し、興福寺と改稱した。續紀の藤原仲滿の上奏によれば、鎌足薨後三十年維摩會は中絶してゐたのを、鎌足の子不比等が再興した。毎年冬十月十日に擧行、十六日に終る大法會。○供養 物を供へて佛法僧の三寶を祭ること。○大唐高麗等種々音樂 支那朝鮮その他の音樂や舞。いはゆる雅樂のこと。「歌※[人偏+舞]《ウタマヒ》所」を見よ(一七七五頁)。「等」とあるは菩薩舞や他の雜樂も一緒に演奏されるからいふ。○爾乃 二字で乃《スナハ》ちの意。文選に屡ば見える字面。○此歌詞 「時雨の雨」の歌を斥す。○彈琴者 琴の彈き手。琴は六絃の倭琴。○市原王 既出(九二〇頁)。忍坂王 續紀に、寶字五年正月授(ク)2無位忍坂(ノ)王(ニ)從五位下(ヲ)1とある人。○歌人 歌ひ手。紀をはじめ諸書に見える歌男、歌(2387)子、歌女、歌者の稱は皆歌謠ふ者をいふ。作歌者ではない。作歌者を歌人《ウタヒト》といふは平安中期からのこと。○田口朝臣家守 傳未詳。古義は、續紀に、神龜三年正月、授(ク)2正六位上田口朝臣家主(ニ)從五位下(ヲ)1とある、この家主の子などにやといつた。○河邊朝臣東人 既出(一七三三頁)。○置始連長谷 傳未詳。
 
大伴(ノ)宿禰|像見《カタミガ》歌一首
 
秋芽子乃《あきはぎの》 枝毛十尾二《えだもとををに》 降露乃《ふるつゆの》 消者雖消《けなばけぬとも》 色出目八方《いろにいでめやも》     1595
 
〔釋〕 ○とをを 撓むこと。たわゝ〔三字傍点〕の轉。○ふるつゆの 以上三句は「けなば」に係る序詞。舊訓オクツユノ〔五字傍線〕は妥當でない。○けなば 命の〔二字右○〕消なばの意。
【歌意】 萩の枝も撓むほど〔二字右○〕に、降る露が消えるやうに〔三字右○〕、自分の命が消えるなら消えても、決して樣子に顯はさうことかい。
 
〔評〕 世に憚る戀、強ひて隱さうとする努力位つらい忍苦はあるまい。
  磐がねのこゞしき山を超えかねて音には鳴くとも色にいでめやも(卷三、長屋王――301)
  しぬびには戀ひて死ぬともみそのふの鷄冠草《カラアヰノハナ》の色にいでめや(卷十一――2984)
など、一死に換へてもとまで口にはいふが、ついその口の下から色に出勝ちだ。そこに大きな苦痛と危險が待ち受けてゐる。
 
(2388)大伴(ノ)宿禰家持(ガ)到(リテ)2娘子門《ヲトメノカドニ》1作歌一首
 
○到娘子門 娘子の名は不明。
 
妹家之《いもがいへの》 門田乎見跡《かどたをみむと》 打出來之《うちでこし》 情毛知久《こころもしるく》 照月夜鴨《てるつくよかも》     1596
 
〔釋〕 ○かどた 門前の田。○うちでこし 出掛けて來た。「うち」は接頭語。
【歌意】 吾妹の家の門前の田を見ようと、出掛けて來た、その思のまあ甲斐があつて、さやかに照る月夜であることかまあ。
 
〔評〕 「門田を見む」は寄託の言で、その實はあはよくば妹を見ようと出掛けたのである。幸にも好月は前程を照して、得意滿面だ。然し何處までも表面は門田の上で終始し、月心ありとその清光を讃美してゐる。含蓄味の深い巧思の作である。
 
大伴(ノ)宿禰家持(ガ)秋(ノ)歌三首
 
秋野爾《あきのぬに》 開流秋芽子《さけるあきはぎ》 秋風爾《あきかぜに》 靡流上爾《なびけるうへに》 秋露置有《あきのつゆおけり》     1597
 
【歌意】 秋の野に咲いてゐる秋萩が、秋の風に靡いてゐるうへに、秋の露がおくわ。
 
(2389)〔評〕 風に靡く野萩のうへに露が溜つたのを詠んだ。わざと「秋」の語を四囘までも累層し、景象が秋に統一されてゐる事をくどく語つた。かうした同語の反復體は、集中、天武天皇の御製や坂上郎女の歌をはじめ、その他にも散見し、素より遊戲氣分に墮するものである。
 
棹牡鹿之《さをしかの》 朝立野邊乃《あさたつぬべの》 秋芽子爾《あきはぎに》 玉跡見左右《たまとみるまで》 置有白露《おけるしらつゆ》     1598
 
〔釋〕 ○あさたつ 朝立つてゐること。「たつ」を立行く意としてアサダツ〔四字傍線〕と濁るべしといふ新考説は諾へない。
【歌意】 鹿が朝立つてゐる、野邊の秋萩に、玉と思れるまで、美しく〔三字右○〕おいてある白露よ。
 
〔評〕 野に立つ鹿を背景としての、萩の花におく露の白玉、さながら倭繪で、さはやかな朝の風趣が彷彿する。この幽艶繊細な景致は、奈良人の悦ぶ所で、又平安人の好む所でもあつた。それが爲踏襲また踏襲、遂にこの原作まで舊臭くしてしまつたが、
  秋萩における白露さながらに珠とぞ見ゆるおける白露(卷十――2168)
に比すれば稍高處を歩んでゐる。
 この歌の風格といひ聲調といひ、殆ど平安期のもので、古今集中に置いたら辨別しかねるであらう。
 
(2390)狹尾牡鹿乃《さをしかの》 ※[匈/月]別爾可毛《むなわけにかも》 秋芽子乃《あきはぎの》 散過鷄類《ちりすぎにける》 盛可毛行流《さかりかもいぬる》     1599
 
〔釋〕 ○さをしか 「狹尾」と書くは戲意あるか、鹿の尾は短小である。○むなわけ 胸で押分けること。卷廿にも「さを鹿の胸分けゆかむ秋の萩原」とある。
【歌意】 鹿が胸分けしたせゐ〔二字右○〕かまあ、萩の花が散り衰へてしまつたわい。いやそれとも〔六字右○〕、花の盛りがもう過ぎたせゐ〔二字右○〕かまあ。
 
〔評〕 摧殘した萩を見て、兩端を叩いて首をかしげてゐる。事實をいへば花盛りが過ぎたまでだが、作者はわざと平地に波瀾を起して、鹿の胸分けを想像に描いた。鹿の胸分けは卷二十の歌にも見えて、何人の創語かはわからぬが、これはその動作がよく活用されてゐる。とにかくこんな閑想像に焦慮することも、萩の花に對する強い愛著を語るものである。
 結句、同詞態の單句による漸層的反復は、接續辭の省略と相俟つて、頗る勁健の調を成すものである。家持作中の異色あるもの。
 
右、天平十五年|癸未《ミヅノトヒツジノ》秋八月見(テ)2物色(ヲ)1作(ル)。
 
○見物色 景物を見ての意。卷八「時鳥來鳴きとよもす卯の花の」の左註中の「贈物色」の物色とは意が違ふ。
 
(2391)内舍人《ウトネリ》石川(ノ)朝臣廣成(ガ)歌二首
 
○内舍人 既出(一〇二九頁)。○石川朝臣廣成 續紀に、寶字二年八月從六位上から從五位下、同四年二月姓|高圓《タカマトノ》朝臣を賜はり、文部少輔となるとある。別に續紀には、高圓朝臣廣世あり、寶字五年五月從五位下にて攝津亮、同八年正月從五位上、播摩守、景雲二年二月周防守、同六月伊豫守に轉じ、寶龜元年十月正五位下とある。寶字四五年間の官位の次第が接續するので、古義は廣成が廣世と改名したものとしてゐる。
 
妻戀爾《つまごひに》 鹿鳴山邊之《かなくやまべの》 秋芽子者《あきはぎは》 露霜寒《つゆじもさむみ》 盛須疑由君《さかりすぎゆく》     1600
 
〔釋〕 ○かなく 「かなかむやまぞ」を見よ(二八七頁)。○つゆじも 既出(三八八頁)。
【歌意】 妻戀して鹿が鳴く山邊に、咲く萩の花は、この頃の〔四字右○〕露霜が寒さに、盛りが過ぎてゆくわ。
 
〔評〕 率直平淡、特異性には乏しいが、仲秋暮秋の交の山野の景氣はかうである。
 
目頬布《めづらしき》 君之家有《きみがいへなる》 波奈須爲寸《はなすすき》 穗出秋乃《ほにいづるあきの》 過良久惜母《すぐらくをしも》     1601
 
〔釋〕 ○めづらしき 「君」に係る。上に「めづらしき人に」とあるに同じい。略解訓メヅラシク〔五字傍線〕は非。○はなす(2392)すき 花薄。薄の穗に出たもの、即ち尾花である。集中他にこの語の所見がない。神功皇后紀に幡荻穗出吾也《ハタスヽキホニイヅルアレヤ》と見え、古くから旗(幡)薄とはいつた。略解は「奈」は太〔右△〕の誤字か、なほ新撰萬葉に花薄の語あれば、奈良時代の末にはさもいひしにやといつて斷言せず、古義は誤字説を取つた。正辭は「奈」にダ、ナの兩音あれば「奈」をタと讀むべしといつたが、これは奈をナと讀む時代的通則を無視した空論である。本文に「奈」とある以上は、ハナスヽキと讀んで、略解の一説を許容して、記の雄略天皇の條の「草香江の入江のはちす花はちす〔四字傍点〕」(赤猪子)の例に倣つた新語としておかう。
【歌意】 愛する處の、君の家にある花薄が、穗に出て美しい〔三字右○〕秋の、過ぎることが惜しいなあ。
 
〔評〕 野では平凡に看過する薄も、君が家に靡く銀の穗には、秋の更けゆくことが惜しまれるとは、詰り來客としての主人公への挨拶の詞である。
 
大伴宿禰家持(ガ)鹿鳴《シカノネノ》歌二首
 
○鹿鳴 契沖はいふ、上に聞〔右○〕の字を脱せるかと。
 
山妣姑乃《やまひこの》 相響左右《あひとよむまで》 妻戀爾《つまごひに》 鹿鳴山邊爾《かなくやまべに》 獨耳爲手《ひとりのみして》    1602
 
〔釋〕 ○やまひこ 既出(一七一八頁)。「妣姑」は戲書。
(2393)【歌意】 山彦が響きあふまで、妻戀して鹿の鳴く山邊に、自分獨ばかりで、聞いて居ることよ〔八字右○〕。
 
〔評〕 何れ奈良京附近の山の鹿であらう。初二句はその尻あがりの高音を誇張し、さばかりに鳴くのも妻戀の爲であることに想到しては、寂しい山邊に獨ある作者は、おのづから妹戀しの念が、油然として湧かざるを得まい。結句の一轉語、全幅に活きた生命を吹き込むもの。
 
頃者之《このごろの》 朝開爾聞者《あさけにきけば》 足日木※[竹冠/昆]《あしひきの》 山乎令響《やまをとよもし》 狹尾牡鹿鳴哭《さをしかなくも》     1603
 
〔釋〕 ○あしひきの 「※[竹冠/昆]」は借字。もと箆〔右△〕の書寫字で、箆は竹器の稱、故に矢の笶《ノ》に充てた。○なくも 「哭」をモと訓むことは既出(一八五五頁)。
【歌意】 この節の朝明に聞くと、山を鳴り響かせて、鹿が鳴くわい。
 
〔評〕 大伴家の佐保邸などでの即興か。淡々たること湯の如しだ。これと同じ結句が卷十に三首、卷十五に二首ある。中に
  夜を長みいのねらえねに足引の山ひことよめさをしか鳴くも(卷十――2680)
は三句以下殆ど同意だ。
 
右二首、天平十五年|癸未《ミヅノエヒツジノ》八月十六日作(メル)。
 
(2394)大原(ノ)眞人《マヒト》今城《イマキガ》傷2惜《ヲシム》寧樂故郷《ナラノフルサトヲ》1歌一首
 
〇大原眞人今 續紀に、寶字元年五月正六位上大原眞人今木に從五位下を授く、同六月治部少輔、同七年正月左少辨、四月上野守、同八年正月從五位上、寶龜三年閏三月無位大原眞人今城を本位從五位上に復す、七月兵部少輔、同三年九月駿河守とある。寶字八年正月には從五位上で、寶龜二年には無位とあるのは、多分寶字八年惠美(ノ)押勝反逆の連坐で、官位を褫奪されて居たものであらう。尚天平廿年には兵部少丞正七位下、勝寶七年には上總國朝集使大掾であつた。「今城(ノ)王」を參照(一一四六頁)。○寧樂故郷 卷六「傷2惜(ム)寧樂(ノ)京(ノ)荒墟1」を見よ(一八二七頁)。
 
秋去者《あきされば》 春日山之《かすがのやまの》 黄葉見流《もみぢみる》 寧樂乃京師乃《ならのみやこの》 荒良久惜毛《あるらくをしも》     1604
 
〔釋〕 ○あきされば 「はるさりくれば」を見よ(七九頁)。
【歌意】 秋になると、春日山の紅葉を〔右○〕見る、面白い〔三字右○〕奈良の京の、荒れることが惜しいわい。
 
〔評〕 奈良京の思出種としては多々あらう。それを作者は一本槍に春日山の紅葉を取上げ、以てその傷惜の情を託した。風流の情懷が想ひ遣られる。新京の久邇とても花紅葉は無論あるが、今はそんな穿鑿をしてゐる遑はないのだ。なほ奈良京荒廢の委しいことは、卷六「悲2寧樂故郷1作歌」の長歌の評語を參照(一八三五頁)。
 
今城(ノ)王が天平十一年に一族の高安(ノ)王と同時に、大原(ノ)眞人となつたとすると、奈良京の故里と化したのは、そ(2395)の翌年の事だから、こゝの大原(ノ)眞人今城の署名も矛盾がない。そして寶字七年には從五位の國守で活躍してゐたから、その頃を五十歳と假定して逆算すると、天平の十一二年は廿五六歳に當る。この歌は今城の若い頃の作と考へられる。
 
大伴(ノ)宿禰家持(ガ)歌一首
 
高圓之《たかまとの》 野邊乃秋芽子《ぬべのあきはぎ》 比日之《このごろの》 曉露爾《あかときづゆに》 開兼〔左△〕可聞《さきにけむかも》     1605
 
〔釋〕 ○さきにけむ 「兼」原本に葉〔右○〕とあるは誤。類本神本その他によつて改めた。
【歌意】 高圓山の裾野邊の萩の花は〔右○〕、この節の曉方の露に、咲いたことであらうかまあ。
 
〔評〕 高圓の※[獣偏+葛]高野あたりは、盛な萩原であつたらしい。
  あき風は日にけに吹きぬ高圓の野べの秋萩散らまくをしも(卷十――2121)
  宮人の袖つけごろも秋萩ににほひよろしき高圓の宮(卷廿、家持――4315)
など詠まれた。而も後首は矢張家持の作であつて見れば、家持は高圓の野萩に深い愛著を感じてゐたものと考へられる。肌寒いこの頃の曉露に萩の花、しかも高圓の野萩のうへを聯想する風懷は、いかにも情趣の饒に盡きぬものがある。もしこれが上の今城の歌と同じく、久邇京に在つての追憶とすれば、その旅情まで加はつて愈よ味ひの永いものとならう。風調も凡でない。(2396)序にいふ、「高圓の宮」の歌は勝寶六年の作だから、これよりは十一年も後の詠である。
 
秋(ノ)相聞
 
額田王《ヌカタノオホキミノ》思《シヌビテ》2近江(ノ)天皇(ヲ)1作(メル)歌一首
 
君待跡《きみまつと》 吾戀居者《あがこひをれば》 我屋戸乃《あがやどの》 簾令動《すだれうごかし》 秋之風吹《あきのかぜふく》      1606
 
鏡(ノ)王女(ノ)作歌一首
 
風乎谷《かぜをだに》 戀者乏《こふるはともし》 風乎谷《かぜをだに》 將來常思待者《こむとしまたば》 何如將嘆《なにかなげかむ》      1607
 
以上二首は卷四に既出(一〇七一、一〇七二頁)。
 
弓削《ユゲノ》皇子(ノ)御歌一首
 
秋芽子之《あきはぎの》 上爾置有《うへにおきたる》 白露乃《しらつゆの》 消可毛思奈萬思《けかもしなまし》 戀管不有者《こひつつあらずば》     1608
 
(2397)〔釋〕 ○あきはぎの――しらつゆの 上三句は「消」に係る序詞。〇こひつつあらずば 既出(三〇〇頁)。
【歌意】 萩の花のうへに、置いた露の消えるやうに、消えも即ち死にもせうかいな、かう戀ひ/\して苦しんで〔四字右○〕をらうよりはさ。
 
〔評〕 戀には色々ある。水上の泡のやうにはかないのもあれば、巖石をも滲み透すやうな強烈なのもある。その苦患から逃避したさに、おなじ死を思ふにしても、
  かくばかり戀ひつゝあらずば奥山のいは根しまきて死なましものを(卷二、磐之媛――86)
の如く、熱情的の深刻なのもあれば、この歌の如く落ち着いて瞑想的なのもある。
  我妹子に戀ひつゝあらずば秋萩の咲きて散りぬる花にあらましを(卷二、弓削皇子――120)
は殆どこれと兄弟のやうな作で、幽婉味の豐かなだけ、萩は露より優つてゐる。但卷二の題詞には「弓削皇子(ノ)思(ビテ)2紀(ノ)皇女(ヲ)1御作歌」とある。或はこの歌もをなじ時の御作か。
 
丹比《タヂヒノ》眞人(ガ)歌一首
 
○丹比眞人 傳未詳。この氏姓の人が集中に多いので、誰れとも判定し難い。原本、題下の割注に「名闕」とある。卷二、卷九にもかうあるので、古義は同人かと疑つてゐる。
 
宇陀乃野之《うだのぬの》 秋芽子師弩藝《あきはぎしぬぎ》 鳴鹿毛《なくしかも》 妻爾戀樂苦《つまにこふらく》 我者不益《われにはまさじ》     1609
 
(2398)〔釋〕 ○しぬぎ 既出(七三七頁)。○こふらく 「樂苦」は戲書。
【歌意】 宇陀野の萩の花を、押分けて鳴く鹿〔右○〕でも、妻を戀ふることは〔三字右○〕、自分にはよも勝りはすまい。
 
〔評〕 氣疎い宇陀の大野の萩押分けて鳴くは、鹿が妻戀に熱中して辛苦する状態の描寫だ。さて自分の戀愛苦はそれ以上と斷言したい處を、「われにはまさじ」と聊か控へ目にした主張に、蘊含の味があつて面白い。
 偶ま作者が宇陀野を通過しての口吟か。
 
丹生女王《ニフノオホキミノ》贈(レル)2太宰(ノ)帥《カミ》大伴(ノ)卿《マヘツギミニ》1歌一首
 
○丹生女王 既出(一一六八頁)。
 
高圓之《たかまとの》 秋野上乃《あきぬのうへの》 瞿麥之花《なでしこのはな》 卜〔左△〕壯香見《うらわかみ》 人之挿頭師《ひとのかざしし》 瞿麥之花《なでしこのはな》     1610
 
〔釋〕 これは旋頭歌。○うらわかみ 末若さに。草木の莖立の弱《ワカ》いのを末《ウラ》若しといふ。「卜」原本に于〔右△〕とあるは誤。契沖以來、于の下に良〔右○〕を補つてウラと訓ませた。「壯」はワカと訓む。「香」は添字。
【歌意】 高圓の秋野のほとりの、撫子の花よ。それは嘗ては〔三字右○〕」末若さに、人が頭挿したことであつた、撫子の花よ。
 
〔評〕 咲き初めた頃は人がチヤホヤしたが、今は盛り過ぎて挿頭されもしないと、自己の身上を撫子に托して歎(2399)息した。さてこの歌を贈られたとすると、大伴卿即ち旅人卿は嘗てその撫子を挿頭した人となる。今こそ縁は切れたれ、丹生女王の末若みの頃、卿はその情人關係にあつたと推定してもよからう。
 卷四にこゝと同じ題詞で載つてゐる女王の歌(一一六八頁)で見ると、お互に以來潔い交際を續けてゐたらしい。然るに女王は今更らしく、何でこんな歌を贈つたものか。蓋し女王は流石に女だけに、なほ幾分の未練が遺つて居る。いや死灰を再び燃さうとまでは考へもすまい、もう盛り過ぎた自覺がある。が折につけ節につけ、自分は棄てられたのだといふ感傷の起るのも亦止むを得まい。幽怨の意が言外に動いて、音節また妙。
 
笠縫女王《カサヌヒノオホキミノ》歌一首
 
〇笠縫女王 目録に、六人部《ムトベノ》王之女、母(ヲ)曰(フ)2田形《タカタノ》皇女と注した。六人部王は卷一に身人部《ムトベノ》王と見え、傳はその項に擧げた(二四八頁)。田形皇女は天武天皇の皇女で、續紀によれば、慶雲三年三品で伊勢(ノ)齋宮に立ち、神龜元年二品、同五年三月薨じた。
 
足日木乃《あしひきの》 山下響《やましたとよみ》 鳴鹿之《なくしかの》 事乏可母《ことともしかも》 吾情都末《わがこころづま》     1611
 
〔釋〕 ○やましたとよみ 山陰が響き渡つて。○なくしかの 「言《コト》ともし」に係る序。鹿の聲を言《コト》といつた。無理なやうでも作者がさう詠んだのなら、後人の意見で變へるべきでない。○ことともしかも 「言ともし」はその聲の愛《イツク》しきをいふ。「事」は借字。古義は「事」を聲〔右△〕の誤とした。新考に「事」を如〔右△〕の借字と斷じたが、用(2400)字上穩かでない。○こころづま 思ひ夫《ヅマ》(妻の意にも)。契沖訓オモヒヅマ〔五字傍線〕。
【歌意】 山陰がとよむほど〔二字右○〕、鳴く鹿の聲のやうに、その聲が愛しいことよ。私の思ひ夫《ヅマ》は。
 
〔評〕 思ふ人の聲は優しい、その言葉は甘い。それを鹿の音に聯想して懷かしがるに至つては、奈良人でなければ出來ない、いへない。
 
右川(ノ)賀係女郎《カケノイラツメガ》歌一首
 
○石川賀係女郎 傳未詳。
 
神佐夫等《かむさぶと》 不許者不有《いなにはあらず》 秋草乃《あきぐさの》 結之紐乎《むすびしひもを》 解者悲哭《とくはかなしも》     1612
 
〔釋〕 ○かむさぶといなにはあらず 既出(一三六七頁)。○あきぐさの 秋草の如く〔二字右○〕。「結び」に係る序語。秋の草の繁り亂れたる態を、結ほる〔三字傍点〕と見てのいひ懸けであらう。古義は咒術の草結を例としたが、それは一般的の事柄ではない。況や新考にこれを「紐を解く」に係けた枕詞と解したのは、語勢も辭樣も無視したもの。
【歌意】 私が〔二字右○〕年寄つたとて〔右○〕、否むのではありません。只一旦もう男はもつまいと〔只も〜右○〕結んだ紐を、二度と〔三字右○〕解くことは、情けないわい。
 
(2401)〔評〕 結婚の申し込みがある位だから、「神さぶ」といつた處が、さう年寄ではない。只娘盛りでない年配の誇張だ。「結びし紐」と特に提唱したことは、甞ては解いたことを暗示してゐる。「結ぶ」と「解く」との闘はせ、一寸弄語の遊戲めくが、この歌では事實に即した頗る眞實の語である。
 「結し云々」を簡單に解すれば、新しい懸想の男に對しての拒否、複雜に解すれば、甞て別れた男の復|縒《ヨリ》を戻さうとの申込に對しての拒否となる。何れにしても寡居してゐる賀係女郎は、情理二つの葛藤の結局、理性に落着したものだ。
 
加茂女王《カモノオホキミノ》歌一首
 
○加茂女王 既出(一一七二頁)。原本題下の割注に、長屋(ノ)王之女、母(ヲ)曰(フ)2阿倍(ノ)朝臣(ト)1也とある。
 
秋野乎《あきのぬを》 旦〔左△〕往鹿乃《あさゆくしかの》 跡毛奈久《あともなく》 念之君爾《おもひしきみに》 相有今夜香《あへるこよひか》     1613
 
〔釋〕 ○あきのぬをあさゆくしかの 「あともなく」に係る序詞。略解に「あと」にのみ係るとしたのは非。○あともなく 跡形もなく。○こよひか 「か」は歎辭。
【歌意】 秋の野を朝たちゆく鹿の、影を没して〔五字右○〕跡形もないやうに、名殘もないと思うた貴方樣に、久し振にお逢ひした、今夜であることわ。
 
(2402)〔評〕 男の久しい中絶えを怨みず、只逢ひ得た喜をのみ歌つてゐる。何といゝ氣質の人だらう。覺えず同情される。
 
右(ノ)歌、或《アルヒト》云(フ)椋橋部《クラハシベノ》女王(ト)。或(ハ)云(フ)笠縫(ノ)女王(ノ)作(メリト)。
 
○椋橋部女王 既出(九七八頁)。○笠縫女王 前出(二三九九頁)
 
天皇(ノ)賜(ヘル)2遠江(ノ)守櫻井(ノ)王(ニ)1御製《オホミ》歌〔天皇〜左○〕一首
 
○天皇 聖武天皇。○櫻井王 既出(一七八一頁)。王が遠江守となつたのは、神龜から天平の初年の間であらう。
 この題詞は、原本に「遠江(ノ)守櫻井(ノ)王(ガ)獻(レル)2天皇(ニ)1歌」とある。これに就いて、新考はまことによい發見をした。それは次の歌と作者が入り換つてゐるといふことだ。この「九月の」の歌は天皇に奉る作としては、餘に諾けばつて敬意を失する嫌がある。又次の答歌に遠江の僻遠な地方の「大乃《オホノ》浦のその長濱」を用ゐたのも、御製としては縁が遠く、その地に住む人の口號ならふさはしい。よつて「九月の」歌を天皇御製の贈歌とし、次の歌を櫻井王の答歌とする。隨つてこゝの題詞を假にかく改めた。
 
九月之《ながつきの》 其始鴈乃《そのはつかりの》 使爾毛《つかひにも》 念心者《おもふこころは》 所〔左△〕聞來奴鴨《きこえこぬかも》     1614
 
(2403)〔釋〕 〇ながつき 既出(九四六頁)。○はつかりのつかひ 雁使即ち雁信のこと。前漢の蘇武が匈奴に使してそのまゝ囚はれ、消息を絶つた時の事で、漢書蘇武傳に「教《シム》3使者(ヲシテ)謂(ハ)2單于(ニ)1、言《ハク》天子射(テ)2上林中(ニ)1得(タリ)v雁(ヲ)、足(ニ)有(リ)v係(ケタル)v帛(ヲ)、書(ス)3武等在(リト)2某(ノ)澤中(ニ)1」とあるに本づく。○おもふこころ 古義舊訓はオボスコヽロ〔六字傍線〕。○きこえこぬかも 「つねにあらぬか」を參照(八〇〇頁)。「所」原本に可〔右△〕とある。契沖説に從つた。
【歌意】 書信を齎すといふ〔八字右○〕、長月の初雁の使にて〔右○〕も、我を思ふ心は、聞えて來ないかなあ。
 
〔評〕 地方官は赴任早々は非常に忙しい。まづ前司との事務引繼ぎから始め、種々雜多な地方的交渉に携はつたりで、櫻井王もその爲、遠江に赴任の年、その晩秋になつても、尚天機奉伺に及ばなかつたと見える。天皇の櫻井王に對する御私交は、御製の御口氣から拜察すると、餘程親昵であつたらしい。
 抑も櫻井王は、六人部(ノ)王や長田(ノ)王等と共に風流侍從(武智麻呂傳)と許された人だ。さては遠江守ならぬ以前は侍從であつたに相違ない。侍從は天子の御近習役だから、日常龍顔に咫尺し奉つてゐたので、王が外官となつて暫く消息の打絶えたのを御憂慮あらせられ、かくの如き優渥なお詞が下されたのであらう。かう考へると、匈奴から上林苑に來た雁信を以て、遠江から奈良京への消息に擬せられたことは、その故事の運用に於いて極めて適切である。そして上苑の雁は蘇武の信書を齎し、奈良京の雁は櫻井王の何物をも齎さない。誠意の有無がそこに對映されるので、櫻井王に取つては、とても嚴しい諷刺である。
 なほ考ふるに「九月のその初雁の使」は毎年國守より京に派遣する朝集使のことを思ひ寄せて、その便りにも音沙汰が無いと仰せられたのではあるまいか。朝集使は孝徳天皇紀の大化元年二月の條に見え、平安期には(2404)毎年十一月一日の朝集となつた。が奈良時代には九月の朝集であつたのだらう。
 
櫻井(ノ)王(ノ)奉報和《コタヘマツレル》歌〔七字左○〕一首
 
原本の題詞は「天皇(ノ)賜報和《コタヘタマヘル》御製歌」とあるが、上述の如くこの歌を櫻井王の奉和として、假にかく改めた。
 
大乃浦之《おほのうらの》 其長濱爾《そのながはまに》 縁流浪《よするなみ》 寛公乎《ゆたけくきみを》 念比日《おもふこのごろ》     1615
 
〔釋〕 ○おほのうら 今存在しない。和名抄に遠江國磐田郡|飫寶《オホノ》郷あり、現在中泉驛の正南一里餘に於保《オホ》村の名が殘つてゐる。於保から東の福島町を東偏として、西は天龍川の東一里の袖浦の邊まで、當時は一續きの海濱で、まことに長濱であつたと見える。後世天龍川の沙嘴の延長に伴ひ、その流砂が砂丘となつて一時は江灣の形を成し、更に海口が閉塞されては湖水となつたらしい。現在福島と袖浦との中間にある小湖は、その名殘である。地名辭書はいふ「於保村并に福島村の南に湛へたる一江にして、沙丘によりて外海と隔離し、東西一里半南北十餘町にも及びしが如し」と。○よするなみ 寄する波の〔右○〕。以上三句は、「ゆたけく」に係る序飼。
(2405)【歌意】 大《オホ》の浦の、その長い濱邊に打ち寄せる波〔右○〕の、ゆつたりしたやうに、氣長くゆつたりと、陛下を思ひまつる、この節でありますわい。
 
〔評〕 大の浦が湖沼であつたとすれば、清見潟の波でさへ 「ゆたけき」といはれるから、それ以上にゆるやかな波が寄つてゐたらう。櫻井王は任國のこの景勝を序詞として、勅諚では「念ふ心」も持たないやうですが、どう致しまして、かう念々に氣長く思ひ奉つてをりますと奉答した。契沖は、おほの浦、長濱の地名が「ゆたけく」に響き合つて聞ゆると評した。さもあらう。
 
笠(ノ)女郎《イラツメガ》贈〔左△〕(レル)2大伴(ノ)宿禰家持(ニ)1歌一首
 
○笠女郎 既出(九〇〇頁)。○贈 原本に賜〔右△〕とある。この集は贈賜通用である。 
毎朝《あさごとに》 吾見屋戸乃《わがみるやどの》 瞿麥之《なでしこの》 花爾毛君波《はなにもきみは》 有許世奴香裳《ありこせぬかも》     1616
 
〔釋〕 ○ありこせぬかも 既出(三六五頁)。
【歌意】 毎朝私が見る庭の、撫子の花でまあ、貴方はあつて下さらぬかなあ。
 
〔評〕 さらば毎日のやうに逢へようにの餘意がある。何時も君が來ぬ夜の朝が明けるので、「朝毎に」は輕々に看過し難い有意味の措辭である。見れば庭前の撫子はこの無情の人にも似ず、朝毎に優しい笑みを捧げてゐる。(2406)この正反對の現象が撮合されると、「花にも君は」の願望が自然と生まれてくる。そしてこの碎けた句法と促調とは肯綮を得た表現で、一首の平調を破してゐる。概しては女らしい優しい味のある作。
 
山口(ノ)女王《オホキミノ》贈〔左△〕(レル)2大伴宿禰家持(ニ)1歌一首
 
○山口女王 既出(一二三二頁)。○贈 原本に賜〔右△〕とある。
 
秋芽子爾《あきはぎに》 置有露乃《おきたるつゆの》 風吹而《かぜふきて》 落涙者《おつるなみだは》 留不勝都毛《とどめかねつも》     1617
 
〔釋〕 ○かぜふきておつる 上句よりこゝまでは一種の序詞。○とどめかね 古義訓トヾミカネ〔五字傍線〕は非。
【歌意】 萩においた露に風が吹いて、露が〔二字右○〕落ちるが、その如く落ちる涙は、とめかねましたことよ。
 
〔評〕 一陣の秋風に萩の露は溜らずほろ/\と散る。この傷ましい秋思と中懷にある深い感傷とは、忽ち連繋して、とゞめかねつる涙となつた。いかにも嫋々とした線のほそい歌である。元來山口(ノ)女王は泣き蟲である。既に卷四に家持に贈つた五首の歌がある(一二三二頁)。それも泣き切れない戀の悲を訴へてゐる。如何なる事情か、兩つながら家持の返歌がない。
 
湯原(ノ)王(ノ)贈〔左△〕(レル)2娘子《ヲトメニ》1歌一首
 
(2407)○ 湯原王 既出(八六二頁)。○贈 原本に賜〔右△〕とある。
 
玉爾貫《たまにぬき》 不令消賜良牟《けたずたばらむ》 秋芽子乃《あきはぎの》 宇禮和和良葉爾《うれわわらはに》 置有白露《おけるしらつゆ》     1618
 
〔釋〕 ○うれわわらはに 末《ウレ》が〔右○〕わわらはにの意。さて「わわらはに」は難語である。卷五に「海松《ミル》の如《ゴト》わわけさがれる」とあるわわけ〔三字傍点〕が副詞格の構成になつたものか。さては「うれ」に續く副詞で、萩の末《ウレ》がそゝけ亂れた樣であらう。もし「おける」の副詞とすれば末《ウレ》ノ〔傍点〕となくては意が通じにくい。「葉」は借字と見る。契沖は末葉のそゝけたるなりといひ、古義も末のわゝけたる葉の意と解したが、詞續きに無理がある。
【歌意】 どうぞ〔三字右○〕玉として貫いて、消さずに頂きたい。あの萩の末がそゝけ亂れて、置いてある白露をさ。
 
〔評〕 およそ露の玉ぐらゐあり觸れた陳語はない。作者はその腐を化して新となし、
  わが宿の尾花がうへの白露を消たずて玉に貫くものにもが(家持――1572)
の著想とおなじ基礎上に立つて、百尺竿頭更に一歩を進めた。素より出來ない事を所望したもので、娘子に對しての調戲である。
 
大伴(ノ)家持(ガ)至(リテ)2姑《ヲバ》坂(ノ)上(ノ)郎女(ガ)竹田(ノ)庄《タドコロニ》1作(メル)歌
 
○姑 ヲバともシウトメとも訓んでよい。郎女は家持の叔母で、また姑に當る。郎女の娘坂上(ノ)大孃は家持の妻(2408)である。○竹由庄 既出(一三六五頁)。
 
玉梓乃《たまほこの》 道者雖遠《みちはとほけど》 愛哉師《はしきやし》 妹乎相見爾《いもをあひみに》 出而曾吾來之《いでてぞわがこし》     1619
 
〔釋〕 ○はしきやし 既出(四一〇・五一八頁)。〇いも 婦人の愛稱として用ゐ、こゝは郎女を斥す。古義に郎女を戲れてさしたるかとあるは非。卷三にも、坂上(ノ)二孃の夫大伴駿河麻呂が、「吾妹子が宿の橘」と詠んで、郎女を吾妹子と呼んでゐる。戲れではない。
【歌意】 奈良から〔四字右○〕竹田庄は、道は遠いが、只貴女を見る爲に、出掛けてさ、私は參つたことです。
 
〔評〕 竹田までは奈良京から七里もある。馬で飛ばすにしてからが、一寸骨が折れる。それもお目に懸かりたさの一心でと、自分の親切氣を誇燿した。この「妹」を略解に「郎女の娘(坂上大孃)を斥したるか」とあるは事實相違。郎女は竹田庄、迹見庄出遊の時は、何時も娘達を京に遺して來てゐる。
 
大伴(ノ)坂上(ノ)郎女(ガ)和(フル)歌一首
 
荒玉之《あらたまの》 月立左右二《つきたつまでに》 來不益者《きまさねば》 夢西見乍《いめにしみつつ》 思曾吾勢思《おもひぞわがせし》     1620
 
〔釋〕 〇あらたまの 月に係る枕詞。もと年に係る枕詞なので、轉用して月にも係けたものか。又、疎玉の磨《ト》ぎ(2409)を、音通で月《ツキ》に係けたとも考へられる。なほ既出の同項を參照(九八六頁)。○つきたつ 月の更り立つをいふ。月の經《タ》つ意とするは後世のこと。
【歌意】 月が更《カハ》つて立つまでに、お出でなさらぬので、貴方を〔三字右○〕夢にさ、見い/\して、切ない〔三字右○〕思をさ、私が致しましたよ。
 
〔評〕 言外に暫く振に逢へた喜を寓せた挨拶の詞である。
 この贈答二首、左註によれば秋に詠んだものだが、歌には秋季の景物がない。契沖はいふ、
  この贈答、ひたぶるの雜歌なれば、左註の年月によらば第六卷(雜歌を收む)に入るべく、相聞によらば第四卷(相聞を收む)に入るべし。
と。誠にさもあらう。
 
右二首、天平十一年|己卯《ツチノトウノ》秋八月作(メル)。
 
巫部麻蘇娘子《カムコベノマソヲトメガ》歌一首
 
○巫部麻蘇娘子 既出(一三一八頁)。
 
吾屋前乃《わがやどの》 芽子花咲有《はぎのはなさけり》 見來益《みにきませ》 今二日許《いまふつかばかり》 有者將落《あらばちりなむ》     1621
 
(2410)〔釋〕 ○はぎのはなさけり 略解訓ハギハナサケリ〔七字傍線〕もよい。
【歌意】私の宿の萩の花が咲いたわい、貴方よ〔三字右○〕、見にお出で下さい。もう二日も經たうならば、散つてしまひませう。
 
〔評〕 散る一歩手前だから早く來ませといふ。畢竟萩の花に寄托して夫子の來訪を強く促したもの。この娘子甚だ狡獪である。「今二日ばかり」、かやうな數量的の語は、時に取つて非常な効果を奏するので、詞人の慣用する處。三段切れの促調、その情意の焦燥を見る。
 
大伴(ノ)田村(ノ)大孃《オホイラツメガ》贈《オクレル》2坂上(ノ)大孃(ニ)1歌二首
 
○大伴田村大孃 既出(一三六〇頁)。
 
吾屋戸乃《わがやどの》 秋之芽子開《あきのはぎさく》 夕影爾《ゆふかげに》 今毛見師香《いまもみてしか》 妹之光儀乎《いもがすがたを》     1622
 
〔釋〕 ○ゆふかげ 夕日の餘光の匂ふをいふ。○いまも 今まあ。この語の用例を見るに「も」はすべて歎辭。以下これに準ずる、古義の含むる意の助辭と見たのは非。
【歌意】 私の宿の秋の萩が咲くわ。その夕影、今まあ見たいことですよ、貴女の美しい〔三字右○〕お姿をさ。
 
(2411)〔評〕 萩の花が咲く庭上の夕明り、この幽婉な景致を背景として、妹大孃の匂やかな姿を、ぼつと浮き上がらせて見たいと、いひ遣つた。下心は只田村の家に來て貰ひたさの一念で、先方が氣の乘りさうな似つこらしい理由を提示したものだ。情味津々。
 
吾屋戸爾《わがやどに》 黄變蝦手《もみつかへるで》 毎見《みるごとに》 妹乎懸管《いもをかけつつ》 不戀日者無《こひぬひはなし》     1623
 
〔釋〕 ○もみつ 前出(二三〇八頁)。「黄變」も同項を見よ。古義訓はニホフ〔三字傍線〕。○かへるで カヘデと略しいふは後世の語。鷄冠木即ち槭樹のこと。その葉形蛙の手に似たので名づけた。○いもをかけつつ 「かけのよろしく」を見よ(四〇頁)。
【歌意】 私の宿に色付いた、鷄冠木《カヘデ》を見る度毎に、美しい〔三字右○〕貴女の上を懸けて、戀しく思はぬ時とてはないわ。
 
〔評〕 鷄冠木の紅葉に、左丹《サニ》つらふ妹を聯想した。古代人はかういふ考が強かつた、集中「紫の匂へる妹」(卷一)「秋山のしたべる妹」(卷三)「杜若匂へる妹」(卷十)「山吹の匂へる妹」「躑躅花匂へるをとめ、櫻花さかゆるをとめ」(卷十三)「紅匂ふをとめ」(卷十七)など見え、花木の美觀に深く留意した習性からと思ふ。尤も漢詩にも隨分この種の比興は多いが。
 處で紅楓は庭上の物だから、「見る毎に」といつても不斷に眼に觸れるので、結局は何時も戀してゐる事に落著し、姉妹愛の優しい情緒がよく流動してゐる。
 
(2412)坂上(ノ)大娘《オホイラツメガ》秋稻※[草冠/縵]《イナカヅラヲ》贈(レル)2大伴(ノ)家持(ニ)1歌一首
 
○秋稻※[草冠/縵] 穗の著いた稻で作つた※[草冠/縵]。「※[草冠/縵]」は既出(九四六頁)。
 
吾之蒔有《わがまける》 早田之穗立《わさたのほだち》 造有《つくりたる》 ※[草冠/縵]曾見乍《かつらぞみつつ》 師弩波世吾背《しぬばせあがせ》     1624
 
〔釋〕 ○わがまける 「蒔」神本に業〔右△〕とある。業有はナレル〔三字傍線〕と訓む。これは業《ナリ》はひとしたるをいふ。○ほだちつくりたる 穗立にて〔二字右○〕作りたるの意。穗立は生ひ立つた穗をいふ。新考は「立」を用〔右△〕又は以〔右△〕の誤としてホモチ〔三字傍線〕と訓んだ。理りはよく立つが、このまゝでもよい。
【歌意】 私が蒔いて作つた、早稻田の立穗で、拵へた※[草冠/縵]ですぞ。これを〔三字右○〕見い/\して、私のことを思つて下さい、夫《セ》の君よ。
 
〔評〕 種蒔から※[草冠/縵]になるまで、一切の辛苦をわが手にかけた物ですぞと、贈物に價値づけた。稻穗を※[草冠/縵]く即ち頭飾に使ふことは、思へば舊い習慣である。今も婦人が稻穗の簪を挿すことがある。四句上下に分離し、結句は倒装でやゝ窮屈の感がある。一種の拗體。
 新考に、竹田庄より贈れる歌としたのは無稽。
 
(2413)大伴(ノ)宿禰家持(ガ)報贈《コタフル》歌一首
 
吾妹兒之《わぎもこが》 業跡造有《なりとつくれる》 秋田《あきのたの》 早穗乃※[草冠/縵]《わさほのかづら》 雖見不飽可聞《みれどあかぬかも》     1625
 
〔釋〕 ○なりと 産業《ナリハヒ》として〔二字右○〕。○わさは 早稻《ワセ》の穗。
【歌意】 吾妹子貴女〔二字右○〕が、その業はひとして作られた、秋の田の早稻の※[草冠/縵]は〔右○〕、見ても見ても飽かぬことかまあ。
 
〔評〕 來意を承けて、その熱心に拵へた趣を、「業とつくれる」と大仰に取成し、結構な物と感謝した。
 
又|報《コタフル》d脱2著身衣〔左△〕《ヌギテキタルコロモヲ》1贈(レルニ)c家持(ニ)u歌
 
○脱著身衣 著馴らした衣を脱いでの意。「衣」原本に夜〔右△〕とあるは誤。
 
秋風之《あきかぜの》 寒比日《さむきこのごろ》 下爾將服《したにきむ》 妹之形見跡《いもがかたみと》 可都毛思努播武《かつもしぬばむ》     1626
 
〔釋〕 ○したに 上衣《ウヘノキヌ》の下に。○かつも 「かつ」は既出(一〇二六頁)。「も」は歎辭。
【歌意】 秋風の寒いこの節、幸に下された衣を〔八字右○〕、下に著込みませう。そして貴女の形見として〔二字右○〕、一面にはまあ、お情を思ひ出しませう。
 
(2414)〔評〕 稻※[草冠/縵]は遊樂、著身衣は實用で、何れも秋につけた夫思ひの情思の籠つた贈物だ。どうせ女の著身衣だから上には著らねもせぬから、「下に」といつた。その體臭の移り香に衣の主を思ひ出すなどは古代人の特權。歌は率直に實情を※[聲の耳が缶]してゐる。
 この著身衣には大孃の贈歌がない。家持の歌に返歌らしいこびた構思や斧鑿の痕の見えぬ點から推すと、元から贈歌はなかつたかも知れない。姑く疑を存する。
 
右三首、天平十一年|己卯《ミヅノトウノ》秋九月(ノ)往來。
 
○往來 應答の意。
 
大伴(ノ)宿禰家持(ガ)攀《ヲリテ》2非時《トキジキ》藤(ノ)花并|芽子黄葉《ハギノモミヂ》二物《フタモノヲ》1、贈(レル)2坂上(ノ)大孃(ニ)1歌二首
 
○攀非時(ノ)藤花云々 時ならぬ六月に藤の花の咲いたのと、萩の葉の早くも黄ばんだのとの二種を折つてとの意。「非時」は藤花と芽子とに係る。訓は連體格にはトキジキ、假體言として下に續ける時はトキジクと讀む。尚「ときじみ」を見よ(四五頁)。
 
吾屋戸之《わがやどの》 非時藤之《ときじきふぢの》 目頬布《めづらしき》 今毛見牡鹿《いまもみてしが》 妹之咲容乎《いもがゑまひを》     1627
 
〔釋〕 ○ときじきふぢの 以上初二句は「めづらしき」に係る序詞。眞淵訓による。○めづらしき 「いもが咲ま(2415)ひ」に係る。藤の花にては珍しいの意、人にかけては愛《メデ》たいの意。舊訓古義訓にメヅラシク〔五字傍線〕とあるは非。
【歌意】 私の宿の、時ならぬ時分に咲いた藤の花の珍しいやうに、愛《メヅ》らしい貴女の笑まひを、たつた今まあ見たいことです。
 
〔評〕 もとより即興的の作で深いことはないが、非時の藤を序詞に用ゐたその才慧を取る。
 
吾屋前之《わがやどの》 芽子乃下葉者《はぎのしたばは》 秋風毛《あきかぜも》 未吹者《いまだふかねば》 如此曾毛美照《かくぞもみでる》     1628
 
〔釋〕 ○したば 本の方の葉をいふ。○ふかねば 吹かぬのにの意。○もみでる もみぢてあ〔三字傍点〕るの約略。古義いふ、咲有《サキテアル》をさける〔三字傍点〕、持有《モチテアル》をもてる〔三字傍点〕と同格と。「照」は借字。
【歌意】 私の宿の萩の下葉は、秋風もまだ吹かぬのに、かうさ色付きましたわい。私の戀心の色に出るやうにさ〔私の〜右○〕。
 
〔評〕 これも萩の葉の早くも色付いた報告ではない。自分の抑へ切れぬ戀心を下に擬へて歌つたものだ。六月の藤の花と萩の黄葉、季節に遲れた物と早まつた物とを取合はせて贈る。戀愛遊戲の片鱗。
 
右二首、天平十二年|庚辰《カノエタツノ》夏|六月《ミナツキノ》往來。
 
大伴(ノ)宿禰家持(ガ)贈(レル)2坂上(ノ)大孃(ニ)1歌一首井短歌
 
(2416)叩々《ねもごろに》 物乎念者《ものをおもへば》 將言爲便《いはむすべ》 將爲爲使毛奈之《せむすべもなし》 妹與吾《いもとわれ》 手携沸而《てたづさはりて》 旦者《あしたには》 庭爾出立《にはにいでたち》 夕者《ゆふべには》 床打拂《とこうちはらひ》 白細乃《しろたへの》 袖指代而《そでさしかへて》 佐寐之夜也《さねしよや》 常爾有家類《つねにありける》 足日木能《あしひきの》 山鳥許曾婆《やまどりこそは》 峯向爾《をむかひに》 嬬問爲云《つまどひすといへ》 打蝉之《うつせみの》 人有我哉《ひとなるわれや》 如何爲跡《なにせむと》 一日一夜毛《ひとひひとよも》 離居而《はなれゐて》 嘆戀良武《なげきこふらむ》 許己念者《ここおもへば》 胸許曾痛《むねこそいため》 其故爾《そこゆゑに》 情奈具夜登《こころなぐやと》 高圓乃《たかまとの》 山爾毛野爾毎《やまにもぬにも》 打行而《うちゆきて》 遊往杼《あそびあるけど》 花耳《はなのみし》 丹穗日手有者《にほひてあれば》 毎見《みるごとに》 益而所思《ましておもほゆ》 奈何爲而《いかにして》 忘物曾《わするるものぞ》 戀云物乎《こひといふものを》     1629
 
(2417)〔釋〕 ○ねもごろに 「叩々」は正辭いふ、懇々と同義にて、字書に誠也(爾雅釋訓、同疏證)とあれば、素よりネモゴロと訓むべき文字なり、靈異記(高野本)にも叩《ネンゴロニ》求(ム)v之(ヲ)と振假名ありと。思ふに「叩」の本義は撃ち又は敲くことであるが、論語に我|叩《タヽイテ》2其兩端(ヲ)1而竭(ス)とあるは懇なる趣なので、遂に叩に懇の意が派生したのだらう。〇てたづさはり 手を取り合つて。○しろたへの 枕詞。「細」をタヘと訓む。細に精《クハ》しの義があり、精しい物は妙《タヘ》なので、タヘに細を充てた。但何れも栲《タヘ》の借訓である。「しろたへ」を見よ(一一八頁)。○そでさしかへて 袖を交して。卷五に「玉手さし交へ」とある。○さねしよ 既出(一四三五頁)。○やまどり 山雉。鶉鷄類の鳥、形雉子に似、雌雄毛色を異にす。雄は赤黄色にして赤黒の斑あり、尾長し。雌は赤黒色にして尾短し。○をむかひにつまどひす 谷を隔てゝ峯向ひに居て、妻戀して呼ぶをいふ。出典未詳。枕草子、及び奥儀抄にも「山鳥は夜になれば、雌雄は山の岑を隔てゝ別々にぬる」と見えた。「つまどひ」は既出(九六二頁)。○うつせみの 「人」の枕詞。既出(一〇七頁)。○われや 「や」は疑辭。○なにせむと 原本に「如何爲跡可」とあり、ナニストカ〔五字傍線〕と訓まれる。「か」は疑辭なれば、上の「われや」のや〔傍点〕の疑辭とさし合ふ。この疑辭の重複を、古義は古歌には例ある事なりと、輕く片付けてゐる。それは自分も既に認めてゐる事であるが、今は京本に「可」の字のないのに從つて、ナニセムトと訓だ。新考に上の「や」を歎辭と解したのは窮してゐる。○そこゆゑに 古義訓による。舊訓ソノユヱニ〔五字傍線〕。○こころなぐやと 欝氣が和《ナゴ》むかと。○あそびあるけど 「往杼」をアルケドと訓むは、卷六に「雖行往」をアルケドモと訓んだ例による。なほ「あるく」を見よ(九五一頁)。舊訓ア(2418)ソビテユケド〔七字傍線〕、略解訓アソバヒユケド〔七字傍線〕。〇はなのみし 古義訓による。眞淵はハナノミ〔四字傍線〕と四言に訓んだ。○おもほゆ 古義訓シヌバユ〔四字傍線〕。
【歌意】 つく/”\と物念ひをすると、言はうやうもなく、どう仕樣もないわ。貴女と私が親しく手を取り合つて、朝方には庭に立ち出で、夕方には寐床の塵を〔二字右○〕打拂つて、お互に袖をさし交はして、寐た夜が何時かあつた事かい。あの山鳥はさ、雄が〔二字右○〕峯向うでその雌を呼ぶとはいふ。然し山鳥でもない〔八字右○〕人間である私が、何せうとて〔右○〕一日でも一夜でも、夫婦離れ居て歎き戀ふのであらうか。こゝを思ふとこの胸がさ痛むわ。それ故に私は〔二字右○〕氣が晴れるかと思うて〔三字右○〕、高圓の山にも野にも、出掛けて往つて遊びあるくが、只花ばかりがさ咲き匂うてゐるので、それを見る夜毎に花のやうな貴女の事が〔花の〜右○〕、一層|慕《シノ》ばれて溜らない。どうして忘れられるものぞい、この〔二字右○〕戀といふものをさ。
 
〔評〕 冒頭はまづ胸中の欝積を訴へた一篇の總叙で、集中他に例を見ない手法である、大抵はかやうな句は篇中適宜な場處に按排されてある。
 家持は既に述べた如く、美男であつたと思はれる。彼をめぐる女は無數であつた。なれども、獨大孃に向つて家持はその熱愛を捧げてゐたらしい。大孃も亦稻※[草冠/縵]を作るやら針袋や著身衣を贈るやらして、その誠意の限を披瀝してゐた。
 然るに何ぞや、「袖さし交へて」さ寐し夜や常にありける」で、たまさかには逢ひもしたらうが、大抵は山鳥の如く離れ居て、妻戀に苦しんでゐる。二人の中は公然たる夫婦だつたと思はれるのに、實に不思議だ。尤(2419)も戀愛遊戲の間には、隨分口先だけの甘いことを白々といひもするが、この歌にはそんな浮氣つ氣は微塵もない。「心和ぐや」と高圓の野山を彷徨ふほど焦燥してゐる。
 家持が關係の婦人を數へてみると、新舊取混ぜて、山口(ノ)女王、紀(ノ)女郎、笠(ノ)女郎、大神(ノ)女郎、巫部(ノ)麻蘇娘子、日置(ノ)長枝娘子、安倍(ノ)女郎、中臣(ノ)女郎、河内(ノ)百枝娘子、粟田(ノ)娘子の外、名の知れぬ娘子や童女があり、先妻(第十八)まである。これでは絶對信用は置けなくなる。そこへ色々な中言《ナカゴト》即ち中傷がはひる。こんな事から大孃との間が疎隔してゐるのではあるまいか。或は又かうした婦人關係から、姑大伴(ノ)郎女の御機嫌を損ねて、逢ふ瀬を堰かれて居たのかも知れない。
  念ひ絶えわびにしものを中々になにか苦しくあひ見そめけむ(卷四、家持――750)  人眼おほみ逢はざるのみぞ情《コヽロ》さへ妹を忘れてわが念はなくに(同上――770)
  かにかくに人はいふとも若狹|道《ヂ》の後瀬《ノチセ》の山ののちも逢はむ君(同上 大孃――737)
など、この二人の戀愛行路は、甚だ難艱であつた。
 中間山鳥の傳説を引用して、その相似た孤獨の境遇に、「打蝉の人なる我や」と力強く抗議を申し込んだ一段は、意中の波瀾、篇中の變化で、頗る精彩がある。憂悶の餘、高圓の野山に屡ば出あるく、人麻呂も吾が戀の千重の一重も、なぐさもる情《コヽロ》もありやと、吾妹子が止まず出で見し、輕の市に吾が立ち聞けば――。
 (卷二、妻死之後泣血哀慟歌)
と同じ行動に出てゐる。そして人麻呂は似た人にも出會はぬので、遂に妹が名を呼んで袖を振つたが、家持は(2420)野花ばかり見て全く人影を見なかつた。生憎やその野花は何時も大孃の艶姿を聯想させ、一層身骨も蕩けるやうな戀の※[陷の旁+炎]に溜息を吐いた。「いかにして忘るゝものぞ戀といふものを」、辭句甚だ凄絶である。この末段は作者の現在の境地と感想を叙べ、一篇の枢軸を成してゐる。
 この一篇は洵に佳作である。多少の陳語もあり、人麻呂や憶良の口吻に似た箇處もあるので、踏襲呼ばりをする人もあるが、それは皮相の見で、すべて情熱の新しい息吹によつて煉成されてある。但冒頭の四句は除いて、「妹とわれ手携はり」を起首とした方が、繁縟でなくてよいかとも思ふ。
 
反歌
高圓之《たかまとの》 野邊乃容花《ぬべのかほばな》 面影爾《おもかげに》 所見乍妹者《みえつついもは》 忘不勝裳《わすれかねつも》     1630
 
〔釋〕 ○たかまとのぬべのかほばな 以上二句は序詞で、下にの如く〔三字右○〕を補つて聞く。○かほばな 未詳。集中、容花、貌花、可保花、可保我花とあり、
  いはばしの間々《マヽ》にさきたる貌花《カホバナ》の花にしありけり在りつゝ見れば(卷十――2288)
 うちひさつ宮のせ川の可保婆奈《カホバナ》の戀ひてかぬらむきそも今宵も(卷十四――3505)
  みやしろの岡べにたてる可保我波奈《カホガハナ》な咲きいでそ根こめてしぬばむ(同上――3575)
と見え、崖下にも川原にも岡べにも咲くもの。前人の説は(1)オモダカ又はムクゲ(舊説)。(2)晝顔(略解、古義、小野博などの説)。(3)美しき花をいふ、一草の名にあらず(契沖、伴信友説)。以上何れも論據の不碓實な臆斷で賛(2421)成し難い。恐らくこれは永久の謎であらう。
【歌意】 高圓の野邊の容花が、美しくて面影に立つて見えるやうに、吾妹子は面影に立つて見え/\して、忘れかねたまあ。
 
〔評〕 長歌にいはゆる「花のみし匂ひてあれば、見る毎にまして思ほゆ」に、更に詳細なる説明を與へたもの。既に「容花」といひ、次いで「面影」といふ、そこに縁語の技巧がある。
 
大伴(ノ)宿禰家持(ガ)贈(レル)2安倍女郎《アベノイラツメニ》1歌一首
 
○安倍女郎 既出(六九一・一〇九四頁)。
 
今造《いまつくる》 久邇能京爾《くにのみやこに》 秋夜乃《あきのよの》 長爾獨《ながきにひとり》 宿之苦左《ぬるがくるしさ》     1631
 
〔釋〕 ○くにのみやこに 久邇の京にて。
【歌意】 この新造の久邇の京で、秋の夜の長いのに、獨寢ることがつらいことよ。
 
〔評〕 この邊の編次は大抵天平十二三年代と覺しいから、久邇京は遷都の布告が出てからまだ二三年位に過ぎず、在官の人と商人だけが率先して移住した程度の、まだ寂しい新京であつた。その頃の作者はまだ若盛りだ。そこに秋思の促すに堪へない秋の長夜を獨寢するに至つては、その物苦しさに、平生疎い人さへ悲しくなる。ま(2422)して情人をやである。なほ卷四「一重山へなれるものを」の歌の評語の末章を參照(一三七一頁)。
 作者は天平十五年に、又こゝと同じ初二句の歌(卷六)を詠んでゐる。
 
大伴(ノ)宿禰家持(ガ)、從《ヨリ》2久邇《クニノ》京1、贈(レル)d留(レル)2寧樂宅《ナラノイヘニ》1坂上(ノ)大孃《オホイラツメニ》u歌一首
 
家持が久邇京から、奈良の舊京に留まつてゐる坂上大孃に贈つた歌との意。
 
足日木乃《あしひきの》 山邊爾居而《やまべにをりて》 秋風之《あきかぜの》 日異吹者《ひにけにふけば》 妹乎之曾念《いもをしぞおもふ》     1632
 
〔釋〕 ○ひにけに 「朝にけに」の「けに」と同じい。「け」は「けならべて」を見よ(六八二頁)。
【歌意】 私は久邇京の〔六字右○〕、山邊に住んでをつて、秋風が毎日も不斷も吹くので、悲しくなつて〔六字右○〕、貴女をさ思ひますよ。
 
〔評〕 家持の久邇京の新宅は山際で、この外にも
  久堅の雨のふる日を只ひとり山邊にをればいぶせかりけり(卷四――769)
  板葺の黒木の屋根は山ちかし明日の日取りて持ちまゐりこむ(同上――779)
など詠み、秋は林木を振ふ長風が、不斷に軒端を鳴らす處であつた。とすれば、その寂寥感からは、まづ「妹」の笑顔を思ひ浮べざるを得まい。眞率の作。
 
(2423)或者《アルヒト》贈(レル)v尼(ニ)歌二首
 
○或者 次の歌に「衣手に水澁《ミシブ》つくまで植ゑし田を」とあるのと、その次の家持との連句の尼の句に、「佐保川の水をせきあげて植ゑし田を」とあるのを湊合して考へると、田は佐保田で、即ち大伴家の佐保第の門田であらう。すると、この或者はやはり家持ではあるまいか。なぜ匿名にしたかといふに、聊か出家者を※[女+曼]※[執/衣]する嫌がある爲、わざとぼかしたのらしい。
 
手母須麻爾《てもすまに》 殖之芽子爾也《うゑしはぎにや》 還者《かへりては》 雖見不飽《みれどもあかず》 情將盡《こころつくさむ》     1633
 
〔釋〕 ○てもすまに 前出(二二五五頁)。
【歌意】 自分が甞て〔五字右○〕、手も忙がしく、栽ゑ育てた萩に、花が咲いて〔五字右○〕、却ては、見ても見飽かず、心盡しをせうことかえ。
 
〔評〕 この時代、貴紳の家には持佛が奉安され、常住の尼などを置いて供養したもので、大伴家に寄食してゐた新羅の理願尼の如きは、その主なる者であつた。そしてその手から僧尼を得度せしめることも、信仰を誇耀する貴人等の手段であつた。されば家に置いて育てた童女を、持佛に奉仕させる爲に、その情願によつて尼ともしたので、年配は十七歳を限るのであつた(僧尼令による)。
(2424) 年の十七歳は女盛りだ。尼にしてからが、勿體ないやうな艶やかさだ。だが禁斷の木の實で手が出ない。全く「見れども飽かず心盡さむ」である。なまじ尼にしてと後悔氣味な口氣で、庭上の萩に擬へて尼に調戲《カラカ》つたものだ。
 古義の解説は煩はしくて、正鵠を得ない。
 
衣手爾《ころもでに》 水澁付左右みしぶつくまで《》 殖之田乎《うゑしたを》 引板吾波倍《ひたわれはへ》 眞守有栗子《まもれるくるし》     1634
 
〔評〕 ○みしぶ 水澁。濁水に浮ぶ錆の如きもの。また水銹《ミサビ》といふ。○たを 田なる〔二字右○〕を。○ひたわれはへ 六言の句。○ひた 引板《ヒキイタ》の略。板二枚を並べて、それに繩を付けて引鳴らして、鳥獣の田畝に寄るを驚かし逐ふ。○はへ 引板の繩を引延ぶるをいふ。○くるし 「栗子」は戲書。
【歌意】 衣に水澁の付くまで、骨折つて〔四字右○〕植ゑた田なのを、その上に〔四字右○〕引板の繩を引張つて守つてゐるのが、私は苦しいわい。
 
(2425)〔評〕 童女の時分から育て上げて佛樣の奉仕者とし、飛んだ疎相が出來てはと、又見張番をする。さりとはつらい役廻りだと愚痴をこぼした。暗に一脈の風流情緒が動いてゐる。作者はその門田などを見て、農事に比喩したものだらう。
 
尼(ガ)作《ヨミ》2頭(ノ)句(ヲ)1、大伴(ノ)宿禰家持(ガ)所《ラレテ》v誂《アトラヘ》v尼(ニ)、續(ギテ)2末(ノ)句(ヲ)1等〔左△〕和(フル)歌一首
 
○尼作頭句云々 尼が上句を詠み、家持が尼に誂へられて、その下句を續いで、前の歌に應へた歌との意。上句をこゝに頭句と稱した。「等」は衍字。
 
佐保河之《さほがはの》 水乎塞上而《みづをせきあげて》 殖之田乎《うゑしたを》【尼作】 苅流早飯者《かれるはつひは》 獨奈武〔左△〕倍思《ひとりなむべし》【家持續】     1635
 
〔釋〕 ○みづをせきあげて 堰をすゑて川水を湛へて引くをいふ。○かれるはつひは 刈つて作つた初飯は。「はつひ」は初飯《ハツイヒ》の略。「早」をハツと訓む。卷十にも「梅の早花《ハツハナ》散りぬともよし」とある。略解訓カルハツイヒハ〔七字傍線〕は詞足らず。新考訓に從つた。舊訓、古義訓カルワサイヒハ〔七字傍線〕。○ひとりなむべし 「なむ」は嘗むの意。食ふことをいふ。「武」原本に流〔右△〕とあるは意が通じない。古義説により改めた。
【歌意】 骨折つて〔四字右○〕、佐保川の水を堰きためて引いて、植ゑ付けをした田を、(尼作)刈り取つてはじめて炊いだ〔三字右○〕飯は、貴方が獨おあがりなさいませ(家持代作)。
 
(2426)〔評〕 尼は上の「衣手に」の歌の返歌をすべく、上の句だけは作つたものゝ、その實挨拶の仕樣に當惑した。で肝腎の下句が出來ない。到頭投げ出して家持に拵へてくれと誂へた。そこで家持は、尼の立場から詠んだ。すべて火を水に逆襲法を執ることは、返歌の慣手段である。懸歌の色めいた下心には、全然耳を潰して、さやうに辛苦された佐保田の稻なら、その早飯はお一人で召上がつて然るべしでせうと、たゞ事に外らしたものだ。そこに贈答の妙味が存する。
 この歌に就いての諸家の説皆見當違ひである。
 三十一字歌の上句下句を二人して作ることは、物に見えたこれが最初であらう。蓋し當時の眞實の歌調は七五調になり切つて、五七五を上切、七七を下句と截然區分される時代となつたので、その結果上句と下句との音數が略平均して力量が相當する處から、問答體にせよ、一意到底體にせよ、二人打寄つての附合即ち聯作に最も都合のよい歌體となつた。そこで必然的に既存の旋頭歌における各種の問答體が短歌に應用されることゝなり、これを連《ツラネ》歌と稱した。然るに旋頭歌は却て廂を貸して主屋(2427)を取られた貌となつて、漸く衰滅の一路をたどる状態となつてしまつたのも、奇しき現象といはねばなるまい。
 
冬(ノ)雜歌
 
舍人娘子《トネリノイラツメガ》雪(ノ)歌
 
○舍人娘子 既出(二二九頁)。
 
大口能《おほくちの》 眞神之原爾《まかみのはらに》 零雪者《ふるゆきは》 甚莫零《いたくなふりそ》 家母不有國《いへもあらなくに》     1636
 
〔釋〕 ○おほくちの 「眞神」に係る枕詞。狼を眞神とも大神《オホカミ》ともいつた。すべて恐るべき物、例へば狼虎蛇の如きを神と稱したことが紀に見える。狼は口が大きいので、大口の眞神とも稱したので、「大口の」を地名の眞神の原にいひ續けたものだ。風土記には、明日香の邊に狼のゐて人食ひしより、そこを大口の眞神の原といふとある。○まがみのはら 既出(五三○頁)。△地圖 前出(2428)(二三五一頁)を見よ。
【歌意】 眞神の原に降る雪は、餘りひどく降るなよ。宿るべき〔四字右○〕家とてもないのにさ。
 
〔評〕 明日香の淨見原宮のあつた時代は、眞神の原も相當榮えてゐただらう。まだ藤原宮に遷りたての時分は、
  たわやめの袖ふき反す明日香風みやこを遠みいたづらに吹く(卷一、志貴皇子――51)
  わが背子が古家の里の飛鳥には千鳥鳴くなり君まちかねて(卷三、長屋王――268)
位の寂れ方であつたが、再び奈良に遷都されてからは、愈よ故里さびて荒廢し、
  しましくもゆきて見てしか神南備の淵はもあせて瀬にかなるらむ(卷六、大伴卿――969)
といふ有樣、それが奈良も中頃となると、もう「家もあらなくに」となつて、全くの昔の眞神の原に立ち返つてゐた。
 偶まこゝを通過した舍人娘子は、この寂寞荒涼たる野原の雪に出會つて、その進退を失した。抑も眞神の原の地理的全貌を考察すると、多武、高鞭の連山の北麓の裾野で、東は幾多の岡陵を隔てゝ欝然たる倉橋山あり、西は豐浦、雷の小岡を隔てゝ地盤は稍急峻に低下し、遠く葛城連山を望み、北は廣濶にひらけて、近く藤原宮址から遠く大和平原に續いて、次第に平夷に歸してゐる。北受け西受けの高地の冬、山に吹き當つた返しの風に卍字巴と降る雪、雪馴れぬ大和人而も京住居のか弱い婦人の心地には、どんなにか心細くも佗しくもあつたらう。「いたくな降りそ、家もあらなくに」は、決して誇張の言ではあるまい。但
  苦しくもふりくる雨か三輪の崎佐野のあたりに家もあらなくに(卷三、奥麻呂――265)
(2429)の一詠が頗るの絶唱なので、この歌の價値を半減するのは氣の毒だ。
 
太上天皇御製歌《オホキスメラミコトノミヨミマセルオホミウタ》一首
 
○太上天皇 こゝは元正天皇を申す。神龜元年二月、皇太子(聖武天皇)に御受禅あり、天平廿年四月崩御、太上天皇として廿五年まし/\た。
 
波太須珠寸《はたすすき》 尾花逆葺《をばなさかふき》 黒木用《くろぎもち》 造有室戸〔左○〕者《つくれるやどは》 迄萬代《よろづよまでに》     1637
 
〔釋〕 ○はたすすき 既出(一七八頁)。○さかふき 逆に葺くこと。略解に穗の方を下にして葺くをいふとある。現在の茅葺は穗を上にする。○くろぎ 既出(一三八一頁)。○やどは 舊訓「室」の字のみにてヤドと詠んだ。次の歌にも「室戸」とあるから戸〔右○〕を補ふ方がよい。
【歌意】 旗薄や尾花を逆葺にし、黒木を以て柱として造つたこの家は、萬代までに榮えてあれよ〔六字右○〕。
 
〔評〕 黒木の柱に茅の軒、すべて假廬の趣である。左註によると、左大臣長屋(ノ)王の宅に行幸、その饗宴の席上の御製とある。長屋王の主殿は檜の柱で瓦葺、又は板屋であつたに相違ない。がこれは天皇、太上天皇兩陛下の御臨幸を仰ぐ爲、特に臨時の假庵式の別棟を新造したものだ。勿論古例に倣つたものと覺しい。別に儉約の爲(契沖)でも、王の家作りの古へ樣(略解)なのでもない。金殿玉樓の御住居から、この目先の變つた假廬式の建(2430)物に入らせられて、大いに興味を唆られての御感想と拜察する。素より御還幸後はすぐに取毀してしまふ。それを御存知での上の「萬代までに」だとすると、大いに意味深長で面白いのみならず、主人長屋(ノ)王の款待に對する感謝の聖意まで暗に流動してゐる。
 體格風調、ともに蒼古にして雄渾である。初二句を旗薄の尾花と、新考に解したのはむづかしい。これは薄やその尾花になつたのやといふ意である。
 
天皇(ノ)御製歌《ミヨミマセルウタ》一首
 
○天皇 聖武天皇。
 
青丹吉《あをによし》 奈良乃山有《ならのやまなる》 黒木用《くろぎもち》 造有室戸者《つくれるやどは》 雖居座不飽可聞《ませどあかぬかも》     1638
 
〔釋〕 ○ませど 天皇は御自身の事に、かく敬語を用ゐられる例は多い。古義訓による。舊訓ヲレド〔三字傍線〕。
【歌意】 外ならぬ〔四字右○〕奈良山にある、黒木を以て造つたこの宿は、幾ら居ても、居飽かぬことかまあ。
 
〔評〕 上のと大同小異の御製で、これも堂々たる風格が具はつてゐる。特に奈良山の黒木もち造れると仰せられたのは、長屋(ノ)王の第が奈良山に接する佐保だからである。懷風藻にこの王の宅を寶宅、作寶《サホ》樓など書いてある。
 
右聞(ク)v之(ヲ)、御2在《イデマシテ》左大臣|長屋《ナガヤノ》王(ノ)佐保(ノ)宅《イヘニ》1肆宴《トヨノアカリキコシメシテ》、御製《ミヨミマセルオホミウタト》。
 
(2431)右二首は承るに、長屋王の佐保の宅に臨幸あらせられて、宴會あらせられて詠み給へる御製であるとの意。
 
○長屋王 既出(二六二頁)。○肆宴 酒食を設けて宴すること。肆は列ぬること。詩の大雅に肆(ネ)v莚(ヲ)設(ク)v席(ヲ)と見えた。
 
太宰(ノ)帥《カミ》大伴(ノ)卿《マヘツギミノ》冬(ノ)日見(テ)v雪(ヲ)憶《シヌベル》v京《ミヤコヲ》歌一首
 
〇大伴卿 旅人卿のこと。既出(七三六頁)。
 
沫雪《あわゆきの》 保杼呂保杼呂爾《ほどろほどろに》 零敷者《ふりしけば》 平城京師《ならのみやこし》 所念可聞《おもほゆるかも》     1639
 
〔釋〕 ○ほどろ/\に マバラに。「ほどろ」ははだれ〔三字傍点〕と同語。卷十に「庭も決太良《ハダラ》にみ雪降りたり」とある左註に、「庭も保杼呂《ホドロ》に雪ぞ降りたる」と見えた。「はだれ」を見よ。前出(二二一二頁)。
【歌意】 沫雪がまばらに/\降り敷くので、故郷の〔三字右○〕奈良の京がさ、偲ばれることかまあ。
 
〔評〕 筑紫は大和よりは雪が少い。たまに牡丹雪が散り布くと、故郷ではよく見たものだがと、測らず奈良京を偲ぶ種《クサ》はひとなり、溜らず戀しい。邊土にある羈客の離愁が眞實に動いて見える。古義に「京はいかに面白からむ」など、遊閑的に解いたのは聞違ひである。
 
(2432)太宰(ノ)帥大伴(ノ)卿(ノ)梅(ノ)歌一首
 
吾岳爾《わがをかに》 盛開有《さかりにさける》 梅花《うめのはな》 遣有雪乎《のこれるゆきを》 亂鶴鴨《まがへつるかも》     1640
 
〔釋〕 ○のこれるゆきを 新考に「を」をと〔右△〕の誤としたのは却て誤。
【歌意】 自分の住む處の岡に、盛に咲いた梅の花〔右○〕に、消え殘つた雪を、つい見|混《マガ》へたことかまあ。
 
〔評〕 消え殘つた雪を梅の花に見間違へたといふだけで、新意はない。雪に詠み合はせたので冬季の部に入れた。「殘れる雪」とあつても、春の殘雪をいふのではない。卿はまた反對に梅花の散るのを「天より雪の流れくるかも」(卷五)と詠んでゐる。卿は又屡ば「わが岳」を繰り返して、鹿や萩を詠んでゐる。宰府の周邊には岡がある。
 
角《ツヌノ》朝臣|廣辨《ヒロベガ》雪梅(ノ)歌一首
 
○角朝臣廣辨 傳未詳。雄略天皇紀に、大伴(ノ)小鹿火《ヲカヒノ》宿禰が角《ツヌノ》國に留つて、角(ノ)臣の祖となつた事が見え、天武天皇紀に、十三年十一月に朝臣姓を賜はつた。角(ノ)國は和名抄に、周防(ノ)國都濃(ノ)郡とある地。
 
沫雪爾《あわゆきに》 所落開有《ふらえてさける》 梅花《うめのはな》 君之許遣者《きみがりやらば》 與曾倍弖牟可聞《よそへてむかも》     1641
 
(2433)〔釋〕 ○ふらえ 降られ〔二字傍点〕の古言。
【歌意】 沫雪に降り催されて咲いた、この〔二字右○〕梅の花、貴女の許へ贈らうなら、人が〔二字右○〕擬《ナゾ》らへて、彼是〔二字右○〕いはうかいな。
 
〔評〕 有意か無意かは知らぬが、梅花の面白さに、それを贈らうとして、さて又世間の口が、何か譯のあるやうにいひ付けはせぬかと躊躇してゐる。この「君」は必ず婦人である。
 
安倍《アベノ》朝臣|奥道《オキミチガ》雪(ノ)歌一首
 
〇安倍朝臣奥道 續紀には、息道《オキミチ》と見え、天平寶字六年正月正六位上から從五位下、若狹守となり、同七年正月大和介、同八年九月正五位上、その十月攝津大夫となり、天平神護元年正月勲六等、二月左衛士督、同二年十一月從四位下、神護景雲元年三月中務大輔、同二年左兵衛督となる。寶龜二年閏三月無位から本位從四位下に復せられ、その九月内藏頭、同二年四月但馬守、その八月|息部《オキベノ》息道を本姓安倍朝臣に復し、同五年三月卒すとある。
 
棚霧合《たなぎらひ》 雪毛零奴可《ゆきもふらぬか》 梅花《うめのはな》 不開之代爾《さかぬがしろに》 曾倍而谷將見《そへてだにみむ》     1642
 
〔釋〕 ○たなぎらひ た靡き霧《キ》り合ひの約。雨雪などの降つてぼつとなるをいふ。あまぎらふ(卷六、卷七)あまきらし(下出)かききらし(卷九)うちきらし(前出)など、皆同意の語。「たな曇り」「との曇る」は空の曇るが主で、(2434)意が異なる。新考にすべて同意と見たのは疎い。○さかぬがしろに 「しろに」は代りにの意。○そへて 擬《ヨソ》へての意。
【歌意】 烟り渡つて、雪がまあ降つてくれぬかなあ。そしたら〔四字右○〕梅の花の咲かぬ代りに、擬《ヨソ》へてなりとも見ように。
 
〔評〕 旅人卿は「天より雪の流れくるかも」と落梅を形容したが、これは逆に一奇手を弄し、梅花を下待つ心から、それに似た雪でも思ひ切り降れと熱望した。「そへてだにみむ」の退一歩の口氣に、梅花を愛好する意が著しい。實感は稀薄である。
 
若櫻部《ワカサクラベノ》朝臣|君足《キミタルガ》雪(ノ)歌一首
 
○若櫻部朝臣君足 傳未詳。この氏は履仲天皇紀に、三年冬十一月、是日改(メ)2長眞膽連《ナガノマキモノムラジ》之本姓(ヲ)1、曰(フ)2稚櫻部(ノ)造《ミヤツコト》1と見えた。
 
天霧之《あまぎらひ》 雪毛零奴可《ゆきもふらぬか》 灼〔左△〕然《いちじろく》 此五柴爾《このいつしばに》 零卷乎將見《ふらまくをみむ》     1643
 
〔釋〕 ○いちじろく 「灼」原本に炊〔右△〕とあるは誤。○いつしば 「いちしば」を見よ(一一〇八頁)。
【歌意】 空が曇り合ひ、雪が降つてくれぬかなあ、あざやかに、この繁つた莱《シバ》草に、降らう有樣〔二字右○〕を見よう。
(2435)〔評〕 五十津莱に翫賞されるやうな雪は、底の知れた薄雪だ。隨つて景氣も面白く、翫賞の餘裕もあるといふものだ。上の「棚ぎらひ」の歌よりは遙に眞率でよい。「いち」「いつ」の疊音は有意か無意か。「降らぬか」「降らまく」は重複感が強い。
 
三野連石守《ミヌノムラジイソモリガ》梅(ノ)歌
 
〇三野連石守 傳未詳。卷十七に、天平二年冬十二月太宰(ノ)帥大伴卿(ガ)被《ラレテ》v任(ケ)2大納言(ニ)1上(レル)v京(ニ)之時、陪從(ノ)人等別(ニ)取(リテ)2海路《ヲ》1入《ル》v京《ニ》、於是悲2傷《ミ》覊旅(ヲ)1各陳《ベテ》2所心(ヲ)1作(メル)歌十首とある中に、石守の作が一首ある。
 
引攀而《ひきよぢて》 折者可落《をらばちるべく》 梅花《うめのはな》 袖爾古寸入津《そでにこきれつ》 染者雖染《しまばしむとも》
 
〔釋〕 ○ひきよぢて 引寄せ取付いて。○ちるべく 散るべくて〔右○〕。契沖訓チルベミ〔四字傍線〕。○こきれつ 扱《コ》き入《イ》れつの略。集中例の多い語である。「こき」はすごく〔三字傍点〕こと。○しむとも 下に、構はぬ、まゝよなどの語を補うて聞く。
【歌意】 枝を引張つて、折らうなら散りさうなので、その梅の花を素扱いて、袖の中に入れたことよ、よし袖が花の色に、染むなら染むとも、構はぬ〔三字右○〕。
 
〔評〕 「玉を扱き敷く」ことは、橘諸兄(ノ)卿も詠んだが、梅花を愛する餘に袖に扱き入れたのは、この作者の新案で(2436)ある。家持は父旅人卿の從人たる、先輩石守のこの語が、大層氣に入つたと見えて、
  (橘の)――初花を枝に手折りて處女等に裹にもやりみ白妙の袖にも扱きれ(卷十八、長歌――4111)
  藤浪の花なつかしみ引きよぢて袖にこきれつ染まば染むとも(卷十九、長歌――4192)
  時鳥なく羽ぶりにも散りぬべみ袖に扱きれつ藤なみの花(同反歌――4193)
  池水にかげさへ見えて咲き匂ふあしびの花を袖に扱きれな(卷廿――4512)
など、橘の花や藤の花やあしびの花を、皆袖に扱きれた。中にも卷十九の長歌は、その末章が全くこの歌の借用であるのはひどい。
 「染まば染むとも」は、家持が藤の花に應用した如く、色ある花がふさはしい、さてはこの歌の梅は紅梅であらう。
 
巨勢《コセノ》朝臣|宿奈《スクナ》麻呂(ガ)雪(ノ)歌一首
 
○巨勢朝臣宿奈麻呂 「巨勢(ノ)宿奈麻呂(ノ)朝臣」を見よ(一七八二頁)。
 
吾屋前之《わがやどの》 冬木乃上爾《ふゆぎのうへに》 零雪乎《ふるゆきを》 梅花香常《うめのはなかと》 打見都流香裳《うちみつるかも》     1645
 
〔釋〕 ○ふゆき 冬木は冬枯の木。○ふるゆき 降り溜つた雪をいふ。今降るのではない。
【歌意】 自分の宿の、冬木のうへに積る雪を、つい間違へて、梅の木〔二字右○〕の花かと見たことかまあ。
 
(2437)〔評〕 冬枯の梢の雪を見て、梅の花が咲いたと思つた錯覺、例の愛梅家の言である。
 
小治田《ヲハリダノ》朝臣|束《アヅマ》麻呂(ガ)雪(ノ)歌一首
 
○小治田朝臣東麻呂 傳未詳。
 
夜干玉乃《ぬばたまの》 今夜之雪爾《こよひのゆきに》 率所沾名《いざぬれな》 將開朝爾《あけむあしたに》 消者惜家牟《けなばをしけむ》     1646
 
〔釋〕 ○ぬばたまの 「よひ」に係る枕詞。○ぬれな 濡れむの意。「いへきかな」を見よ(一一頁)。○をしけむ 惜しから〔二字傍点〕むの約轉。
【歌意】 今夜の雪に、さあ濡れて愛でよう〔四字右○〕、この夜の明けう朝には、消えたら惜しからうぞ。
 
〔評〕 「いざぬれな」は、自分に自分がいひ聞かせた詞である。古義に、家の内の人をいざと誘ふと解したのは迂遠である。「ぬれな」は濡れるのが希望なのではない。濡れなければ見られぬからの事である。雪珍しい國の薄雪の夜の感想である。
 
忌部首《イミベノオヒト》黒麻呂(ガ)雪(ノ)歌一首
 
○忌部首黒麻呂 既出(一七六九頁)。
 
(2438)梅花《うめのはな》 枝爾可散登《えだにかちると》 見左右二《みるまでに》 風爾亂而《かぜにみだれて》 雪曾落久類《ゆきぞふりくる》     1647
 
〔釋〕 ○えだにか この「に」はユ〔傍点〕に通ふ意と見ると解し易い。
【歌意】 梅の花が、その枝から散るかと、見違へる程に、風に亂れて、雪がさ降つてくるわい。
 
〔評〕 梅雪の擬似は例の事だが、さらりとした素直な表現はよい。
 
紀(ノ)少鹿女郎《ヲジカノイラツメガ》梅(ノ)歌一首
 
○紀少鹿女郎 「紀女郎」を見よ(一二六四頁)。
 
十二月爾者《しはすには》 沫雪零跡《あわゆきふると》 不知可毛《しらねかも》 梅花開《うめのはなさく》 含不有而《ふふめらずして》     1648
 
〔釋〕 ○しはす 年竟《トシハツ》の略轉。十二月の異名。○しらねかも 知らね〔右○〕ばかもの意。○ふふめらず 「ふふむ」は含《フク》むの古言。
【歌意】 十二月には沫雪が降ると、知らぬせゐかしてまあ、梅の花が咲くわ、蕾に含んでゐないでさ。
 
〔評〕 早梅の意である。「知らねかも」の活喩は一趣向。「ふふめらずして」はいひ過ぎて餘蘊がない。
 
(2439)大伴(ノ)宿禰家持(ガ)雪梅(ノ)歌一首
 
今日零之《けふふりし》 雪爾競而《ゆきにきほひて》 我屋前之《わがやどの》 冬木梅者《ふゆきのうめは》 花開二家里《はなさきにけり》     1649
 
【歌意】 今日降つた雪に張り合つて、自分の宿の冬枯の梅は、花が咲いたことであるわい。
 
〔評〕 姿のすらりとして、調子の流滑な點を取るのみ。尚上の「ふふめりといひし梅が枝」の評語を參照(二二三〇頁)。
 
御2在《マシマシテ》西(ノ)池(ノ)邊《ベニ》1、肆宴《トヨノアカリシタマヘルトキノ》歌一首
 
聖武天皇が〔五字右○〕西の池(ノ)宮に出御があつて、饗宴し給へる時の歌との意。○西池邊 續紀に、天平十年秋七月癸酉、天皇御(シ)2大藏省(ニ)1覽《ミソナハス》2相撲(ヲ)1、晩頭御(ス)2西(ノ)池(ノ)宮(ニ)1云々、又、天平寶字六年三月壬午、於(テ)2宮(ノ)西南(ニ)1新(ニ)造(リ)2池亭(ヲ)1、設(ク)2曲水(ノ)宴(ヲ)1、と見え、奈良の内裏の西邊に池があり、その池に臨んでの宮殿や亭舍があつたと見える。宮城内の西南隅に谷田と稱する窪地あり、或はその遺址か。○歌 これは天皇の御製歌であらう。評語を見よ。
 
池邊乃《いけのべの》 松之末葉爾《まつのうらはに》 零雪者《ふるゆきは》 五百重零敷《いほへふりしけ》 明日左倍母將見《あすさへもみむ》     1650
 
(2440)【歌意】 この池の邊の、松の末葉に降る雪は、急には消えぬやうに〔九字右○〕、幾重にも一杯に降れよ。今ばかりではない〔八字右○〕、明日さへも見ようわ。
 
〔評〕 池があり、水に臨んで松がある。造庭のお約束である。その松に降る雪、色彩の配合はあざやかだ。餘りの面白さに、明日の再見を契つて、「五百重降りしけ」とまで極度の誇張がなされた。その放膽さは語言の末に屑々たる凡手の企及される處でない。
 これは必ず、聖武天皇の御製である。聖作は風格高邁にして雄渾、列聖中希に覯る歌仙であらせられる。而も内裏の池の宮の景色をわが物の如く、「明日さへも見む」と諾け張つていひ得る人は、陛下の外にある筈がない。左註には「作者未詳」と記し、殿上童の阿倍(ノ)蟲麻呂が傳誦したとの附註がある。想ふに公然たる御發表でなかつた爲に、傳誦のまゝをかうした形式で記録されたものだらう。
 阿倍蟲麻呂は天平九年九月には既に正七位上であつた。彼れがまだ内豎の童時代とすれば、これは必ず天平九年以前の聖作でなければならぬ。
 
(2441)右(ノ)一首(ハ)、作者未詳。【但、豎子阿倍(ノ)朝臣蟲麻呂(ガ)傳2誦(ス)之(ヲ)1。
 
割註は豎子の役を勤めてゐた阿倍蟲麻呂が聞き傳へて口誦んだとの意。○豎子 童で殿上に奉仕する者。卷廿の題詞にも、「寶字二年春正月三日、召(シ)2侍從豎子〔二字傍点〕王臣等(ヲ)1云々」と見えた。和名抄に、内豎三百人、俗(ニ)云(フ)、知比佐和良波《チヒサワラハ》。「豎」は周禮の内豎の注に、未(ル)v冠者之官(ノ)名とある。○阿倍朝臣蟲麻呂 既出(一二八五頁)。
 
大伴(ノ)坂上(ノ)郎女(ガ)歌一首
 
○郎女歌 前後の例によれば、郎女雪梅〔二字右○〕(ノ)歌とあるべきだ。
 
沫雪乃《あわゆきの》 比日續而《このごろつぎて》 如此落者《かくふれば》 梅始花《うめのはつはな》 散香過南《ちりかすぎなむ》     1651
 
〔釋〕 ○かくふれば 「かく」を新考に「つぎて」の上に置き換へて心得べしとあるは誤。類本訓カクフラバ〔五字傍線〕に略解の從つたのは非。
【歌意】 沫雪がこの節續いて、こんなに降るので、折角の〔三字右○〕梅の初咲の花は、傷められて〔五字右○〕、散り失せてしまふかしら。  
 
〔評〕 二三輪の初花を壓する多量の雪、「散りか過ぎなむ」は梅に對する同情の語である。
 
(2442)池田(ノ)廣津娘子《ヒロツヲトメガ》梅(ノ)歌一首
 
○池田廣津娘子 傳未詳。池田は氏。卷十六にも池田(ノ)朝臣がある。廣津を雄略天皇紀の訓に此廬岐頭《ヒロキヅ》とあるに從つて、古義がこゝをもさう訓んだのは拘はつてゐる。
 
梅花《うめのはな》 折毛不折毛《をりもをらずも》 見都禮杼母《みつれども》 今夜能花爾《こよひのはなに》 尚不如家利《なほしかずけり》     1652
 
【歌意】 私はこれまで〔六字右○〕、梅の花を〔右○〕折りもして見〔二字右○〕、折らずにも見たけれど、今夜の梅の〔二字右○〕花のよさ〔三字右○〕には、矢張及ばないのでしたわ。
 
〔評〕 何の花にでも通用され、梅花に對する適實性はない。想ふに梅花宴に招かれての主人に對する辭令の語であらう。「折りも折らずも見つ」は仔細《ツブサ》に見た趣である。
 
縣犬養娘子《アガタノイヌカヒノイラツメガ》依《ヨセテ》v梅(ニ)發《ノブル》v思(ヲ)歌一首
 
〇縣犬養娘子 傳未詳。○依梅發思歌 梅にその感慨を寄せた歌との意。
 
如今《いまのごと》 心乎常爾《こころをつねに》 念有者《おもへらば》 先咲花乃《まづさくはなの》 地爾將落八方《つちにおちめやも》     1653
 
(2443)〔釋〕 〇おもへらば 思ひてあらば。○まづさくはな 春の一番驅けの花。梅のこと。
【歌意】 只今のやうに深い心を、何時もあの人が〔四字右○〕もつてをらうならば、梅の花が土に落ちるやうに、私が〔二字右○〕打棄てられることがあらうかいな。
 
〔評〕 現在が幸福だと、將來を心配する。梅花を以て自ら况へ、梅花の凋落を思うて、わが身の上の取越苦勞をし、且又今の分なら大丈夫らしいと安心の喜を歌つた。とつおひつその小さな胸を痛めて、ひたすら男の心一つにもたれ懸つてゐるのだから可憐である。
 
大伴(ノ)坂上(ノ)郎女(ガ)雪(ノ)歌一首
 
松影乃《まつかげの》 淺芽之上乃《あさぢのうへの》 白雪乎《しらゆきを》 不令消將置《けたずておかむ》 由毛〔二字左△〕可聞奈吉《よしもかもなき》     1654
 
〔釋〕 ○よしもかもなき 「由毛」原本に言者〔二字右△〕とあるは、何としても訓み難い。宣長は「言」を由〔右△〕の誤とした。新考が「者」をも毛〔右△〕の誤としヨシモカモナキ〔七字傍線〕と訓んだのに從つた。
【歌意】 松蔭の淺茅のうへに、降つてゐる雪を、そのまゝ消さずにおかう、手段もないことかまあ。
 
〔評〕 松の下の淺茅の枯生にちら/\とある雪景色に、作者の心は惹かれた。だが薄雪だから、融けはじめたら一遍になくなる。「消たずて」の工夫を求めたのは、當然の希望。
 
(2444)冬(ノ)相聞
 
三國眞人人足《ミクニノマヒトヒトタリガ》歌一首
 
○三國眞人人足 續紀に、慶雲二年十二月從六位上から從五位下、靈龜元年四月從五位上、養老四年正月正五位下とある。
 
高山之《たかやまの》 菅葉之努藝《すがのはしぬぎ》 零雪之《ふるゆきの》 消跡可曰毛《けぬとかいはも》 戀乃繁鷄鳩《こひのしげけく》     1655
 
〔釋〕 ○たかやまの――ふるゆきの 上三句は「けぬ」に係る序詞。○すが 既出(七三六頁)。○いはも いはむ。「も」はむ〔傍点〕の轉訛。「なかも」を見よ(一二三四頁)。○しげけく 繁くて、或は繁くあるになどの意。なほ既出(五三六頁)を見よ。「鷄」はその漢音ケイを短音として用ゐ、「鳩」はその呉音クを用ゐた。「鷄鳩」と書いたのは戲書。
【歌意】 高山の菅の葉を押靡けて降る雪の、消えるやうに、もう自分は命が消えると、いうて遣らうかえ、戀心が餘り頻るので。
 
〔評〕 雪から消《ケ》と續ける序文は序體の歌は例が多い中に、
(2445)  道にあひてゑましゝからに降る雪の消なば消ぬかに戀ひ思ふ吾妹(卷四、聖武天皇――624)
は内容まで近い。又この歌の上句は、
  奥山の菅の葉しぬぎふる雪の消なばをしけむ雨な降りそね(卷三、大伴卿――299)
とおなじである。旅人卿と人足とは同時の人で、殆ど同年配かと思はれるので、その後先は決定し難い。然し戀歌としては立派な作で、辭句に寸分のたるみもない。但「高山」はなほ奥山〔二字傍点〕とある方が菅の葉をいふにふさはしからう。この歌、古今集(戀一)には、
  奥山の菅の葉しのぎ降る雪の消ぬとかいはむ戀のしげきに
となつて、再出してゐる。
 
大伴(ノ)坂上(ノ)郎女(ノ)宴〔左○〕《ウタゲスル》歌
 
○「宴」の字、原本にない。補つた。
 
酒杯爾《さかづきに》 梅花浮《うめのはなうけ》 念共《おもふどち》 飲而後者《のみてのちには》 落去登母與之《ちりぬともよし》     1656
 
〔釋〕 ○うけ 舊訓ウケテ。古義訓ウカベ〔三字傍線〕。○のみてのちには 古義訓による、舊訓ノミテノノチハ〔七字傍線〕。
【歌意】 酒杯に梅の花を浮かせ、思ひ合つた同士、飲んでのあとは、もう散つたとても構はぬさ。
 
(2446)〔評〕 梅花を杯中に浮べるのは、時に當つての風流行爲である。
  春柳かづらにをりつ梅の花たれが浮べし酒杯のへに(卷五、彼方――840)
  梅の花ゆめに語らくみやびたる花とあれもふ酒に浮べこそ(卷五、大伴卿――852)
など見え、杯中の黄に、梅花の白の點在する風情も面白いが、美酒と梅花との芬香が相交錯するのも惡くあるまい。
 但これには來歴があるのではなからうか。支那では芳花香草を酒に浸す習慣が昔からあつた。蘭陵美酒欝金香(李白)は欝金の根を浸して酒の香味を添へたものである。椒酒(屠蘇洒)、黄柑酒、菖蒲酒、梨花酒、蘭酒等々と數へ來ると、梅花酒も亦あるべき筈、いやあつたのである。抑も梅花宴は唐めいた清遊であつた。(この事は卷五の大伴卿の梅花宴の歌の各處に於いて言及)でそれらの香酒から聯想して、杯中の梅花を云爲するに至つたものと考へられる。
  青やぎと梅との花を折りかざし飲みての後は散りぬともよし(卷五、笠沙彌――821)
は殆ど同趣意の作であるが、「おもふどち」に、殊に興宴の全貌が描き出され、和やかな情味の交流がいち著く露はれて面白く、上下句また均衡を得て、辭句は一挺の玉の如く洗煉されてゐる。
 
○(ガ)和(フル)歌一首
 
○和歌 誰れが和へたのか。必ずこの語の上に姓名があるべきだ。左註によれば、郎女の親類内だけの酒宴だから、或は作者は家持かも知れない。
 
(2447)官爾毛《つかさにも》 縱賜有《ゆるしたまへり》 今夜耳《こよひのみ》 將飲酒可毛《のまむさけかも》 散許須奈由米《ちりこすなゆめ》     1657
 
〔釋〕 ○つかさ 官司をいふ。○ゆるしたまへり 集宴することを〔七字右○〕。○のまむさけかも この「かも」は反辭。かは〔二字傍点〕に同じい。○ちりこすな 前出(二二九八頁)。
【歌意】 お上《カミ》でも親類の酒宴は〔六字右○〕、お許しなさつてゐる。だから今夜ばかり飲まう酒かいな。梅の花よ〔四字右○〕、散つてくれるなよ、きつと。
 
〔評〕 左註に見える酒宴の禁制は、續紀の天平から寶字年代までには、その記載こそないが、事實だつたに相違ない。郎女が「飲みて後には散りぬともよし」と梅花の零落を許容したのに對し、わざと法令の但書を逆用して、大聲に抗議したその態度が面白い。そして暗に留連の酒宴を希望し、その時にも杯に浮べたい梅花だ、「散りこすな」と要望した。相手の梅が非情である事は、すつかり忘れてゐる、その痴氣が又面白い。
 
右、酒(ハ)者、官禁(シメ)制《トヾム》。※[人偏+稱の旁]《イハク》、京中(ノ)閭里不(レ)v得2集宴(スルコトヲ)1、但|親親《ハラカラドモノ》一二、飲(ミ)樂(シムコトヲ)許《ユルス》者《テヘレバ》、縁(リテ)此(ニ)和《コタフル》人、作(メリ)2此發句(ヲ)1焉。
 
酒は官司から飲むことを禁制した。いふ、京《ミヤコ》の中の里々で宴會することはならぬ、但身内の者が少々寄つて飲んで慰むことは許可するといふので、それに依つて、この返歌した人は、この發句を「官にも許し給へり」と詠んだとの意。○發句 初二句を斥した。
 
(2448)藤原(ノ)皇后《オホキサイノ》奉(レル)2天皇(ニ)1御《ミ》歌一首
 
○藤原皇后 藤原(ノ)光明子。續紀、天平寶字四年六月の條に、乙丑、天平應眞仁正皇太后崩じ給ふ。姓は藤原氏、近江朝の大織冠内大臣鎌足の孫、平城朝の贈正一位太政大臣不比等の女なり。母を贈正一位縣(ノ)犬養(ノ)橘(ノ)宿禰三千代といふ。聖武皇帝儲貮となり給ひし日、納れて妃とし給ふ。時に年十六。聖武皇帝即位し給ひ、正一位を授け大夫人となす。高野(ノ)天皇及び皇太子を生ませ給ふ。天平元年大夫人を尊びて皇后となし給ふ。勝寶元年高野(ノ)天皇受禅あり、皇后職を改めて紫薇中臺と曰ふ。云々。春秋六十。と見ゆ。
 
吾背兒與《わがせこと》 二有見麻世波《ふたりみませば》 幾許香《いくばくか》 此零雪之《このふるゆきの》 懽有麻思《うれしからまし》     1658
 
〔釋〕 ○みませば この「ませ」は假設法の助動詞マシの活用。
【歌意】 わが背子と二人して見ようならば、どれ程か、この降る雪が面白く嬉しからうに。
 
〔評〕 只嬉しからうとの想像に了るのではなくて、反面に今一人して見るは寂寞に堪へぬとの情意が反映されて、(2449)訴へられてある。どんな面白いものでも一人で賞翫してゐるのは物足らぬ。同好の相手がほしい。況やその相手が我背子なら申分はない。「ふたり」と數へた處に幾許の怨意が隱然としてゐる。眞實そのものと拜承する。
 
池田(ノ)廣津娘子《ヒロツヲトメガ》歌一首
 
眞木乃於上《まきのうへに》 零置有雪乃《ふりおけるゆきの》 敷布毛《しくしくも》 所念可聞《おもほゆるかも》 佐夜問吾背《さよとへわがせ》     1659
 
〔評〕 ○まきのうへにふりおけるゆきの 「しくしく」に係る序詞。「まき」は既出(七二五頁)。「ふりおける」は既出(七七七頁)。○しくしくも 「しくしくに」を見よ(一三一五頁)。○さよ 「さ」は美稱。
【歌意】 常磐木の上にある雪が、頻つて降つたやうに〔九字右○〕、打頻つてまあ、貴方の事が思はれることよ、今夜是非に來て下さい、吾背の君よ。
 
〔評〕 「降りおける雪」は積つてゐる雪で、靜止状態だから、「しくしくも」への續きが面白くない。降りくる雪の〔六字傍点〕とあれば穩やかだ。初二句とも字餘りなのは珍しい。結句「さよとへ」を、諸註、聊か平穩ならず誤あるべしなど難じてゐるが、この方は別に申す旨なしだ。
 
大伴(ノ)宿禰|駿河《スルガ》麻呂(ガ)歌一首
 
梅花《うめのはな》 令落冬風《ちらすあらしの》 音耳《おとのみに》 聞之吾味乎《ききしわぎもを》 見良久志吉裳《みらくしよしも》     1660
 
(2450)〔釋〕 ○うめのはなちらすあらしの 「音《オト》」に係る序詞。「冬風」をアラシと讀むは意訓。○おとのみに 音沙汰ばかりに。音は噂の意。○みらくし 既出(一六二一頁)。
【歌意】 梅の花を散らす嵐が音する、その音沙汰即ち噂ばかりに聞いてゐた貴女を、今〔右○〕見ることがさ、結構なことよ。
 
〔評〕 懸想し渡つてゐた女に、始めて逢ひ得た喜を歌つた。「わぎも」を契沖は坂上(ノ)二孃をいへるなるべし(卷三、「山守のありける知らに」の條參照)といつた。或はさうかも知れない。又さうでないかも知れない。
 
紀(ノ)少|鹿《シカノ》女郎(ガ)歌一首
 
久方乃《ひさかたの》 月夜乎清美《つくよをきよみ》 梅花《うめのはな》 心開而《こころひらけて》 吾念有公《わがもへるきみ》     1661
 
〔釋〕 ○ひさかたの――うめのはな 上三句は「心開けて」に係る序詞。○つくよ 既出(五八一頁)。○こころひらけて 心の快活なるをいふ。梅の花の上では、花心まで一パイに開いた状をいふ。古義訓コゝロニサキテ〔七字傍線〕は無理。新考はコヽロヒラキテ〔七字傍線〕。○わがもへるきみ ワハモヘリキミ〔七字傍線〕とも訓まれる。
【歌意】 月がまあ清さに、梅の花が。パツと開くやうに、心がカラリとして嬉しく〔三字右○〕、私が思うてをります貴方樣よ〔右○〕。
 
〔評〕 月下に見る梅花の風情は爽快そのものである。乃ちその梅花の花輪の咲き切つた状態を借り來つて、自分(2451)の喜悦の情を形容した。時代は後先だが、白樂天の長相思に「草拆(ケテ)心開(ク)」とある句を想はせる。さて一轉、私がこんな風に思うてゐる君樣よと、その思慕の情を披瀝して、情人の上に重きを歸した。作者は順調の戀の歡喜に浸つてゐる。
 
大伴(ノ)田村(ノ)大孃《オホイラツメガ》與《オクレル》2妹坂上(ノ)大孃(ニ)1歌一首
 
沫雪之《あわゆきの》 可消物乎《けぬべきものを》 至今《いままでに》 流經者《ながらへぬるは》 妹爾相曾《いもにあはむとぞ》     1662
 
〔釋〕 ○あわゆきの 「け」に係る序語。○ながらへぬるは 存命してゐるをいふ。「ながらへ」は雪の縁語。雪の降るを「ながる」といひ、又「ながらふ」といふ。細本略解の訓による。「流經」は卷一にナガラフルと訓んである。されば古義訓ナガラヘフル〔六字傍線〕は當らない。○あはむとぞ 逢はむとての事ぞ〔三字右○〕の略。略解訓による。
【歌意】 私の命は〔四字右○〕、沫雪のやうに消える筈なのを、今までに存在《ナガラ》へてゐるのは、只〔右○〕貴妹に逢はう爲とばかりです〔六字右○〕ぞ。
 
〔評〕 雪の縁語の鎖り續けは平安期に多い手法で、一寸氣がさすが、それも内容の眞摯さに壓倒されて、苦にならない。「今までに長らへぬるは妹に逢はむとぞ」は、實に悲痛を極めた血を吐く詞である。茲に至つて前提たる「沫雪のけぬべきものを」に就いて一考察せざるを得ない。
(2452) 男女間の戀愛では、動もすれば死を云爲する。それは同情を強要する爲の誇張も含まれる。眞の姉妹の愛情には更にその必要がない。ないのに尚、作者は死の問題に觸れた。想ふに田村(ノ)大孃は折しも重病に罹つてゐたのだらう。
 男親大伴宿奈麻呂は疾うに歿し、妹坂上大孃はその母坂上郎女と共に坂上の宅に別居し、獨田村の宅に取殘されてゐる作者の境遇を思ひ遣るがよい。うら若い身空で、この孤獨の寂寞に鎖され、ひたすら人戀しさに煩悶してゐる。誠に妹大孃に贈つた八首の歌(卷四に四首、本卷に四首)を通觀せよ、言々句々、悉くこれ姉妹愛の結晶でないものはない。然るに自分から訪問する意向を叙べた作は一首もなく、一途にその來訪ばかり望んでゐる。そしてその作には神經質的な繊細な感覺の匂が何時も流れてゐる。かう考へて見ると、田村大孃は不斷ぶら/\病で藥餌に親しんでゐたのではあるまいか。
 又この田村大孃に、母坂上郎女を懷ふ作は、ありさうで一首もない。又郎女は達者な歌人で、集中七十餘首を算する程の作家でありながら、田村の娘に關する作は一首もない。互に不人情のやうだが、田村大孃は宿奈麻呂の前妻の子で、郎女とは繼の親子關係だつたからである。これが一切の疑問を解く唯一の鍵である。
 だが母こそ異なれ同父の姉妹間の情味は又格別で、田村の姉と坂上の妹とは交通はして居るが、田村大孃のこれらの贈歌に對する、坂上大孃の返歌は一首もない。大孃は夫家持には贈歌も返歌もあるから、詠めぬ人ではないとすると何だか變だ。田村大孃の歌に貰ひ泣をする評者は、この點に於いて聊か憤懣を禁じ得ない。
 
大伴(ノ)宿禰家持(ガ)歌一首
 
(2453)沫雪乃《あわゆきの》 庭爾零敷《にはにふりしき》寒夜乎《さむきよを》 手枕不纏《たまくらまかず》 一香聞將宿《ひとりかもねむ》     1663
 
〔釋〕 ○たまくら 妹が〔二字右○〕手枕の略。○まかず 「いはねしまきて」を見よ(三〇〇頁)。○ひとりかもねむ 「か」は疑辭、「も」は歎辭。
【歌意】 沫雪が庭上に降り敷いて、寒いこの夜を、愛する妹の〔五字右○〕手枕もせずして、獨寢ようことかまあ。
 
〔評〕 引手數多の作者の事だから、この妹は誰れやらわからぬ。
  ながらふる雪ふく風の寒き夜にわが背の君はひとりかぬらむ(卷一。譽謝女王――591)
と表裏して、新味はないが實感的の眞率さがある。
 
 2007年8月3日(金)午後4時25分、卷八入力終了、2008年12月17日(水)午後1時13分、卷八校正終了、
 
〔2455〜2460、目録省略〕
 
(2461)萬葉集卷九
 
本卷は雜歌、相聞、挽歌の三部に分たれ、雜歌には旅行歌及び地方的の人物や出來事を諷詠した諸篇を收め、まゝ皇子に獻進の作をも混へた。中に作者の氏又は名のみを題詞とした異樣な部分は、この卷に採録した原本の形式をそのまゝ遺したものと思はれる。相聞歌は留送別の作を主として收めた。挽歌には地方的の哀歌や憑弔の諸作を收めた。
要するに、三三の作を除く外は、全部地方色を以て蔽はれた卷である。
 
雜《ザフノ・クサ/”\ノ》歌
 
泊瀕朝倉《ハツセノアサクラノ》宮(ニ)御宇天皇御製歌《アメガシタシロシメススメラミコトノミヨミマセルオホミウタ》一首 大泊瀬稚武《オホハツセワケタケノ》天皇
 
○泊瀬朝倉宮御宇天皇 雄略天皇。なほ既出の同項を見よ(七頁)。
 
暮去者《ゆふされば》 小椋山爾《をぐらのやまに》 臥鹿之《ふすしかの》 今夜者不鳴《こよひはなかず》 寐家良霜《いねにけらしも》     1664
 
〔評〕 この歌、左註にある如く、卷八、秋雜歌の部に、崗本《ヲカモトノ》天皇(ノ)御製歌として擧げ、第三句「なく鹿の」とある。(2462)鳴く〔二字傍点〕の語の重複を厭つて、「臥す」と直したらしいが、前後の關係から見て、矢張「鳴く」の方が穩當。總べては卷八の同歌の條(二三〇二頁)を見よ。
 
右、或本云崗本天皇御製。不v審(カニセ)2正指(ヲ)1因(ツテ)以(テ)累(ネテ)載(ス)。
 
或本には舒明天皇の御製といふ。何れを指して正しいとみてよいかわからぬ。因つて又載せたとの意。
 
崗本(ノ)宮(ノ)御宇天皇(ノ)幸《イデマセル》2紀伊(ノ)國(ニ)1時(ノ)歌二首
 
舒明天皇が紀伊園に行幸せられた時の歌との意。契沖いふ、舒明天皇の紀伊行幸のこと紀に見えず、崗本宮の上後〔右○〕の字脱ちしなるべしと。後《ノチノ》崗本宮は齊明天皇。その紀伊行幸のことは、卷一の「紀温泉」を見よ(五六頁)。
 
○崗本宮 既出(一八頁)。
 
爲妹《いもがため》 吾玉拾《あれたまひろふ》 奥邊有《おきべなる》 玉縁持來《たまよせもちこ》 奥津白浪《おきつしらなみ》     1665
 
〔釋〕 ○たまひろふ 玉は鰒珠は勿論、美しい石をもいふ。○もちこ 古義訓による。舊訓モテコ〔三字傍線〕。
【歌意】 吾妹子の爲に、私は今〔右○〕玉を拾ふわ。沖の方にある玉を寄せて來いよ、沖の白波よ。
 
〔評〕 著想には一節ある。既に「沖つ白波」といへば、「沖べなる」は無用の疊語となる。そこが古歌の素朴な處といへばいはれる。次の次にこの歌再出。
 
(2463)朝霧爾《あさぎりに》 沾爾之衣《ぬれにしころも》 不干而《ほさずして》 一哉君之《ひとりやきみが》 山道將越《やまぢこゆらむ》     1666
 
〔釋〕 ○ほさずして 略解訓カワカズテ〔五字傍線〕は非。
【歌意】 朝霧に潜れてしまつた衣を、干しもせずして、只一人貴方が、山路をお越えなさらうことか。
 
〔評〕 山路の旅、朝は雲霧が多い。濕つた著物もそのまゝで、妻なしで一人行くことかと、家にある妻などが、懇にその辛苦な旅況を心に描いて同情した。「ぬれにし衣干さずして」は頗る實感的だが、惜しい事に調子が甚だ弛緩してゐる。
  二人ゆけどゆき過ぎがたき秋山をいかでか君がひとり越ゆらむ(卷二、大伯皇女――106)
  玉かつま熊しま山のゆふぐれにひとりか君が山路越ゆらむ(卷十二、――3193)
などは全く一つ鑄型から打出されたもの。なほ
  わが背子はいづくゆくらむ沖つ藻の名張の山を今日か越ゆらむ(卷一、當麻眞人麿妻――43)
  おくれゐて戀ひつゝをれば白雲のたなびく山を今日か越ゆらむ(卷九、――1681)
  氣《イキ》の緒にわがもふ君は、鷄がなくあづまの坂を今日か越ゆらむ(卷十二、――3194)
など等類が多い。是等は決して剽竊や模擬ではない。いはゆる「花時門を出づれば、期せざるに車轍を同じうす」とあるもので、止むを得ない。
 
右二首、作者未詳。
 
(2464)大寶(ノ)元年|辛丑《カノトノウシノ》冬十月、太上天皇《オホキスメラミコト》、大行《サキノ》天皇(ノ)、幸《イデマセル》2紀伊(ノ)國(ニ)1時歌十三首
 
大寶元年十月に、持統上皇と文武天皇とが、御一緒に紀伊國にみゆきせられた時の歌との意。○大行天皇 既出(二五三頁)。
 この題詞は元明天皇の御治世のはじめ、文武天皇は崩御後まだ稱へ名の御謚號を奉らぬ時分の記録で、文武天皇を大行天皇と書き、持統上皇はまだ榮えていらせれたので、太上天皇と書いた。
 卷一の大寶元年辛丑秋九月太上天皇幸(ス)2于紀伊(ノ)國(ニ)1時(ノ)歌、及び續紀に、大寶元年九月丁亥天皇幸(ス)2紀伊國(ニ)1、冬十月丁未車駕至(リマス)武漏《ムロノ》温泉(ニ)1、戊午車駕自(リ)2紀伊1至(リマス)とあると同時の事。
 
爲妹《いもがため》 我玉求《わがたまもとむ》 於伎邊有《おきへなる》 白玉依來《しらたまよせこ》 於岐都白浪《おきつしらなみ》     1667
 
右一首、上(ニ)既(ニ)見(エ)畢《ヲハンヌ》〔二字左△〕。但歌(ノ)辭《コトバ》小《スコシ》換(リ)、年代相違(フ)、因(リテ)以(テ)累(ネテ)載(ス)。
 
 この一首は既に上に見えてゐる、但歌の詞が少し換り、年代も違ふ、因つて又記載したとの意。「玉求む」が「玉拾ふ」、「白玉よせこ」が「玉よせもちこ」と上の歌にはあり、上のは崗本(ノ)宮(舒明天皇)の御代の作、これは文武天皇の御代の作となつてゐる。○上既見畢 原本に上見既畢〔二字右△〕とあるは誤。
 
(2465)白崎者《しらさきは》 幸在待《さきくありまて》 大船爾《おほふねに》 眞梶繋貫《まかぢしじぬき》 又將顧《またかへりみむ》     1668
 
〔釋〕 ○しらさき 白崎。紀伊國日高郡白崎村。北田邊灣と南由良港との間の地峽の突端の岬角で、雪白の巨巖が群立して奇觀を極めてゐる。又白神の磯をこゝに充てる説もある。○さきくありまて 恙なく存在して待て。「さきくあれど」を參照(一三一頁)。○まかぢしじぬき 既出「まかぢ」(八四六頁)「しじぬき」(八五一頁)を見よ。△地圖 挿圖489(二〇〇四頁)を參照。
【歌意】 白崎は、變らずに在つて待てよ。大船に兩楫を澤山たてゝ、又も立返つて見ようわ。
 
〔評〕 折柄白崎を通過しての作である。「大船に眞梶繁貫く」は大海を渡る支度だ。そんな臆劫な手數とそれに伴ふ危險とを冒してゐる途中でも、その勝景には目を瞠らずには居られないばかりか、一見飽かず、更にその再遊を契る。愈よその勝地たることが言外に彷彿する。そして「さきく在り待て」の活喩によつて、戀々の情を白崎に寄せたのも、甚だ効果的である。「さき」「さきく」の疊音の手法は、夙く人麻呂の志賀の辛崎の作(卷一)やその他にも見えるが、これは(2466)頗る自然的で、一向に斧鑿の痕がない。
 
三名部乃浦《みなべのうら》 鹽莫滿《しほなみちそね》 鹿島在《かしまなる》 釣爲海人乎《つりするあまを》 見變來六《みてかへりこむ》     1669
 
〔釋〕 ○みなべのうら 南部《ミナベ》の浦。紀伊國日高郡南部灣。○かしま 南部灣の東南の岬角より六丁ほどの海中にある小島。○かへりこむ 「變」は反に通用させた。
【歌意】 南部の浦に、汐がさしてくるなよ。あの鹿島にゐる、釣する海人を、見て返つて來うね。
 
〔評〕 鹿島は小島ながら、小舟の往來に便利な漁場だ。海人の生活は山國の人には物珍し(2467)い。逸興に乘じて「見てかへりこむ」といふほど鹿島は岸近だが、滿潮時には波が立つので、びく/\してゐる。いかにも紀の路めぐりの京人らしい。
 
朝開《あさびらき》 榜出而我者《こぎいでてわれは》 湯羅前《ゆらのさき》 釣爲海人乎《つりするあまを》 見變將來《みてかへりこむ》     1670
 
〔釋〕 ○あさびらき 既出(八二六頁)。〇ゆらのさき 「ゆらのみさき」を見よ(二〇〇三頁)。
【歌意】 朝船出に漕ぎ出して、由良の崎に〔右○〕、釣する海人を、見て返つて來うわ。
 
〔評〕 上のに比べると曲折は乏しいが、著想は同じで、海人生活をゆかしがつてゐる。朝は海人の活動開始の時刻である。
 
湯羅乃前《ゆらのさき》 鹽乾爾祁良志《しほひにけらし》 白神之《しらかみの》 礒浦箕乎《いそのうらみを》 敢而※[手偏+旁]動《あへてこぎとよむ》     1671
 
〔釋〕 ○しらかみのいそ 白崎よりその東南に亘る磯の稱か。由良の崎の北半里。地名辭書に、有田郡の白上を充てた説は、由良の崎とは餘に距離があり過ぎて問題にならぬ。○うらみ 既出(一一〇一頁)。○あへて 敢へて。
【歌意】 由良の崎邊は、汐干になつたらしい。白神の磯の浦邊を、推して船が漕ぎ騷くことわ。
 
(2468)〔評〕 行幸供奉の一行中、或は白崎の奇景を探勝の舟どもかも知れないが、白神の磯波を凌いで漕ぎ競ふを見ての作だらう。そして逆に湯羅の崎の汐干を推想した。
 「あへて」の一語、その荒磯波を征服しつゝある趣がいち著く、點睛の妙を見る。地名の湊合は珍しくないが、すべて勁健の調で終始してゐる。
 
黒牛方《くろうしがた》 鹽干乃浦乎《しほひのうらを》 紅《くれなゐの》 玉裙須蘇延《たまもすそひき》 往者誰妻《ゆくはたがつま》     1672
 
〔釋〕 ○くろうしがた 「くろうしのうみ」を見よ(二〇〇二頁)。○たがつま 下になるぞ〔三字右○〕の語を含む。
【歌意】 黒牛潟の、汐干の浦を、紅色の裳裾を引いて行くのは、一體〔二字右○〕何人の妻であるぞい〔五字右○〕。
 
〔評〕 紅の玉裳裾ひくは、吹上の長者(空穗物語に出づ)のやうな土豪、或は國衙の高級官吏といつたやうな身分柄の家の婦人が汐干狩する趣で、色彩の鮮明さが、美しく人目にも立つので、「誰が妻」と問ひ懸けたい好奇心もおこる。「紅」に對する黒牛潟の、「黒」は單に字面上の對映で、却て實感の統一を混線に導く。輕く看過するがよい。なほ
  黒牛の海くれなゐ匂ふもゝしきの大宮人しあさりすらしも(卷七――1218)
の條の評語を參照(二〇〇二頁)。
 
(2469)風早〔左△〕乃《かざはやの》 濱之白浪《はまのしらなみ》 徒《いたづらに》 於斯依久流《ここによりくる》 見人無《みるひとなしに》 一(ニ)云(フ)、於斯依久藻《コヽニヨリクモ》。     1673
 
〔釋〕 ○かざはやのはま 風早の三穗の浦におなじい。「かざはやの」「みほのうら」を見よ(九六八頁)。「早」原本に莫〔右△〕とあるは誤。○よりくる 下に歎辭を含む。○ここによりくも 四句はこの一云の方が本文より優つてゐる。
【歌意】 風速《カザハヤ》の三穗の濱の白波は、無駄にこゝに寄つてくるわ、見はやす人とてもなしにさ。
 
〔評〕 この風早は熊野灘に臨んだ突角地で、素より偏僻の荒濱だ。偶ま此處に來合はせた作者は、その好風光といふよりは、その狂瀾怒濤の壯觀に打たれたのだ。感歎の餘、千重しく/\に寄りくる波の徒勞に同情した。そこに詩味の横溢を見る。實際この風速の三穗では、一にも波、二にも波で、「見る人なしに」のいひ棄て、荒涼寂寞たる光景を寫出して、餘韻縹渺たる感がある。古義に、「家妻など率て來て共に見はやさば樂しからむに、さる人もなくて云々」とあるは、甚しい横入である。
 
右一首、山上(ノ)憶良(ガ)類聚歌林(ニ)曰(フ)、長忌寸意吉《ナガノイミキオキ》麻呂(ガ)應《ヨリテ》v詔(ニ)作(メリト)2此歌(ヲ)1。
 
類聚歌林には、意吉麻呂が仰言によつてこの歌は詠んだとあるとの意。かやうな御遊幸の途次に供奉の歌人に作歌を召されることは、例の多いことである。○長忌寸意吉麻呂 「長忌寸興麻呂」を見よ(二二三頁)。
 
(2470)我背兒我《わがせこが》 使將來歟跡《つかひこむかと》 出立之《いでたちの》 此松原乎《このまつばらを》 今日香過南《けふかすぎなむ》     1674
 
〔釋〕 〇わがせこがつかひこむかと この初二句は出立《イデタチ》の序詞。我背子の使が來うかと思うて門に〔二字右○〕出立つをいひ懸けた。○いでたちの 「いでたち」は一寸出で立つた處をいふ。「走出《ワシリデ》の堤」(卷二)の走り出〔三字傍点〕に近い。卷十三に「大船の思ひたのみて出立の〔三字傍点〕清き瀲《ナギサ》に」とあるも同意。古義に、その地の體勢の海濱などに自ら出立ちたる如く見ゆるをいふとあるは斜視。これによつて新考が地名と見たのも附會。
【歌意】 吾背子の使が來うかとて、門に〔三字右○〕出で立つ、その出立ちの處〔二字右○〕にあるこの松原を、今日行き過ぎてしまふことか。
 
〔評〕 暫く逗留した旅宿を去るとて、見馴れたその附近の松原に名殘を惜んだ。序詞が繁褥で紆曲してゐるので、主意が散漫に流れる嫌がある。
 
藤白之《ふぢしろの》 三坂乎越跡《みさかをこゆと》 白栲之《しろたへの》 我衣手者《わがころもでは》 所沾香裳《ぬれにけるかも》     1675
 
〔釋〕 ○ふぢしろのみさか 紀伊國海士郡(今海草郡)藤白山の坂路。藤代の鳥居(北口)より登り冷水《シミヅ》(南口)に降る、その間廿町ほど。「みさか」の「み」は美稱。○ぬれにける 涙に〔二字右○〕を略した。△地圖 挿圖427(一七九八頁)を參照。
(2471)【歌意】 藤白の坂を越えるとて〔右○〕、私の袖は、涙に〔二字右○〕沾れてしまつたことかまあ。
 
〔評〕 衣手の沾れはすぐ草木の露を思はせる。無論榛莽に埋まつた山路だが、實は藤白坂には悲傷に禁へぬ來歴があつた。それは磐白の岡の結松と關聯した、有馬(ノ)皇子の御事蹟である。
  四年十一月庚寅、遣(シム)3丹比(ノ)小澤(ノ)連|國襲《クニソヲシテ》絞(ラ)2有間皇子(ヲ)於藤白坂(ニ)1。(齊明天皇紀)
と見え、皇子は此處でお果てなされた。而もそれが冤罪と思はれるのだから、餘計に後人の同情する所以で、藤白坂で衣手が沾れたといへば、有馬皇子の御追悼だと承知するのが時代意識であつたと思ふ。
 尚この委しい事は、卷三、「磐白《イハシロ》の濱松が枝を引結び」の條の評語を參照(四一四頁)。
 
勢能山爾《せのやまに》 黄葉常敷《もみぢとこしく》 神岳之《かみをかの》 山黄葉者《やまのもみぢは》 今日散濫《けふかちるらむ》     1676
 
(2472)〔釋〕 ○とこしく 「常」は借字で、床敷か。床のやうに平らかに敷くこと。床次《トコナミ》の床も平らなる意である。宣長は「常」を落〔右△〕又は散〔右△〕の誤としてチリシク〔四字傍線〕と訓み、古義はそれに隨つて、「しく」は頻りの意とした。○かみをか 既出(四四七頁)及び「雷岳」(六三五頁)を見よ。
【歌意】 背(兄)の山に、紅葉が一パイに散り敷いたわい。あの神岳の紅葉は、今日さ散るであらうか。
 
〔評〕 紀伊行幸の往返何れでもいへるが、まづ往路として考へたい。藤原京附近では飛鳥の神岳が紅葉山で聞え、天武天皇はその淨見(ノ)宮から朝夕御愛賞なされた趣が、この十五年前の秋の太上天皇(持統)の御製にも見えてゐる。今次の行幸も、この神岳の紅葉を眺めつゝ御通過遊ばされた事であらう。既に紀路に入り立ち、背の山を越ゆるに及んで、その山路は紅葉の茵だ。從駕者たる作者が、茲に至つて昨日の神岳の紅葉を追憶し、その凋落を聯想して、それを愛惜するのも亦自然である。「今日か散るらむ」の端的な表現は、眼前の背の山の落葉に對映して、強い切實感を與へる。
 
山跡庭《やまとには》 聞徃歟《きこえもゆくか》 大屋〔左△〕野之《おほやぬの》 竹葉苅敷《たかばかりしき》 廬爲有跡者《いほりせりとは》     1677
 
〔釋〕 ○やまと 「やまとには」を見よ(二〇頁)。こゝはその(2)の意。○きこえもゆくか 「か」は疑辭。○おほやぬ 和名抄に、紀伊國名草郡(今海草郡)大|屋《ヤノ》郷が見え、紀の川の北岸で、山口村の南に當る。そこの野であらう。「屋」原本に我〔右△〕とあるので、舊訓はオホガヌ〔四字傍線〕であるが、紀伊にその地名がない。宣長は宅〔右△〕の誤とした。(2473)いかにも同じ、名草郡に大宅《オホヤケノ》郷もあるが、大家《オホヤノ》郷と區別の必要上、必ずそれはオホヤケと呼ぶのである。○たかば 契沖は、「竹」の上、小〔右△〕の脱としてサヽバ〔三字傍線〕と訓んだ。○いほりせり 「いほりす」を見よ(六六一頁)。
【歌意】 京の方には、知られてまあ行くことかしら、自分が今、この〔六字右○〕大宅野の竹の葉を刈つて床と〔二字右○〕敷いて、假屋泊りをしてゐるとは。
 
〔評〕 今囘の紀伊行幸歌中に現れた地名を綜合して、その通過の道順を考へると、まづ國境の眞土山を越えてから、紀の川の北岸の大和街道を西へ、大屋(ノ)郷から南下して平尾の妻の杜を過ぎ、始めて南紀の海岸黒牛の海(黒江)に出、藤白坂を經て由良、白崎、白神、南部(三名部)、風早を往復いづれかに訪問したのである。大屋から黒牛への道は即ち熊野街道である。
 大屋野は紀の川の北岸で、南北一里餘、東西は一寸見渡しの付かぬ平野だ。普通でも家郷を憶ひ家人を思ふのは旅客の常情、而も時はこれ冬十月(陰暦)の日の暮方、北山(雄山峠の山)おろしの遠慮なく吹き晒す曠野の假廬のやどり、直土に「竹葉刈り敷く」わびしの假寢では、愈よ蒸衾なごやが下を思はざるを得まい。その極、大和の家人、懷かしの妻らは、恐らくこの苦患は知るまいの愚痴の一つも溢したくなる。「聞えもゆくか」の疑問態の婉微なる辭樣が面白い表現であるばかりか、「竹葉刈り敷く」は凄酸の旅況を描き得てよい。
 
(2474)木國之《きのくにの》 昔弓雄之《むかしゆみをが》 響矢用《かぶらもち》 鹿取靡《かとりなびけし》 坂上爾曾安留《さかのへにぞある》     1678
 
〔釋〕 ○きのくにの 四句の「坂のへ」に係る語。「ゆみを」に係るのではない。諸註は誤つてある。直に「弓雄」に續くとすると、「むかし」が邪魔になつて、二句のとゝのひが惡い。で弓雄ノムカシ〔六字傍線〕と顛倒すべしといふ新考説もおこる。○ゆみを 弓をよく射る者の稱。古義に刀雄《タチヲ》、矛雄《ホコヲ》などの例なければ、「弓」は幸〔右△〕の誤にて、サツヲ〔三字傍線〕と訓むべしとあるは却て非。すべて言語には特殊の慣用がある。他の語に例がないからとて、存在してゐる語を抹消するのは、本末轉倒である、この反對に、例があるからとて、存在しない語を作るのも無法である。○かぶら 鏑矢のこと。箭の先に、木にて蕪根に似たる物を作り、中を空にして三孔を穿ち、雁股の鏃をすぐ、射れば空氣を通じて鳴る。和名抄に、鳴箭、漢書音義(ニ)云(フ)鳴鏑(ハ)如(シ)2今(ノ)鳴箭(ノ)1也、日本私記(ニ)八目鏑(ハ)|夜豆女加布良《ヤツメカブラ》とある。記の神武天皇の條に鳴鏑を※[言+可]夫良《カブラ》と見え、又卷十六にも「ひめ如夫良《カブラ》八つ手挾み」と見えた。但「響(2475)矢」を藍本、類本等にナルヤ〔三字傍線〕と訓み、又略解はナリヤ〔三字傍線〕と訓んだ。○かとりなびけし 鹿を取り伏せたの意。古義訓による。眞淵訓シカトリナメシ〔七字傍線〕。○さかのへにぞある 「紀の國の――坂の上にぞある」と初句から續く。「ある」は居るの意。ナルの意ではない。「ある」は古言多くの場合居る〔二字傍点〕の意に用ゐる。さてこの紀(ノ)國の坂はどこか。一旦は大和紀伊の國境の坂で、「紀の關守いとゞめてむかも」(卷四)と詠まれた處かとも考へてみたが、これは妻の杜のある平尾から約三十町ほどの東、吉禮《キレ》、小手穗《コテホ》の中間の山陰にある弓取坂の事であらう。三方が岡陵の袋地で一方だけ開け、一筋道が岡の上にまで通じてゐる。鹿など追ひ込まれゝば逃げ端のない場處である。△地圖 二四七三頁を參照。
【歌意】 昔弓取が鏑矢をもつて、鹿を射て取つた、紀の國の坂の上にさ、私は〔二字右○〕今居ることよ。
 
〔評〕 この時の一行中の或者は、平尾で妻の杜の賽詣も無論すましたらうが、つい近くの弓取坂の因縁を聽いて、好奇心からそこへ立寄つたものと思はれる。その因縁といふは、昔弓の上手な人物が居て、その袋地の坂下に來る程の鹿を一匹殘さず射止めたとかいふ、半英雄的傳説が存在してゐたのであらう。
 「坂の上にぞある」は坂の上に自分が立つて居るといふだけの報告ではない。此處に來ぬ他の同人達に向つての、稍誇耀的氣分の感懷である。
(2476) 「靡けし」はまことに上手な表現である。ある程の鹿が鏖殺された趣がこの一語に盡された。
 
城國爾《きのくにに》 不止將往來《やまずかよはむ》 妻社《つまのもり》 妻依來西尼《つまよしこせね》 妻常言長柄《つまといひながら》     1679
 一(ニ)云(フ)、嬬賜南〔左△〕《ツマタマハナム》、嬬云長柄《ツマトイヒナガラ》。 
〔釋〕 ○きのくに 紀の國。「城」も紀も借字。もと木の國の義。○つまのもり 紀伊國名草郡(今海草郡)東山東村平尾にある都麻都比賣《ツマツヒメノ》神社のことで、神名式に名神大とある。和名抄に、紀伊國名草郡津麻郷あり、郷名は神名による。もと名草郡の西山東村|伊太祁曾《イタケソノ》社より大寶二年の分祀といふ。祭神都麻都比賣は伊太祁曾(ノ)社の主神|五十猛《イタケルノ》命の妹神。妻の宮、妻の御前などもいつた。現在の社地より北一町の小丘がその元地である。○つまよしこせね 妻を〔右○〕依《ヨ》し來せ。「よしこせ」は略して俗にヨコセといふ。「依し」は依せの古言。佐行四段活。「來せ」は命令格。「ね」は懇命の辭。○つまといひながら 妻といふまゝにの意。この「ながら」は神ながら〔四字傍点〕のナガラと同じ意。○つまたまはなむ 一云の「南」(2477)原本に爾〔右△〕とあるは誤。略解説による。△地圖 二四七三頁。
【歌意】 願懸けに、妻の社のある〔十字右○〕紀の國に絶えず通はうぞ。妻の社《モリ》よ、私に妻をよこして與へて下さい。社の名が妻といふまゝに、お願します〔五字右○〕。
 
〔評〕 神の森の名の妻の語から幻出した空中樓閣で、よき思ひ妻を持たぬ獨身者の即興である。
 
 右一首、或云(フ)、坂上忌寸人長《サカノヘノイミキヒトヲサガ》作(メリト)。
 
○坂上忌寸人長 傳未詳。
 
後(レタル)人(ノ)歌二首
 
京に後れ居たる人の歌との意。從駕の人の妻であらう。
 
朝裳吉《あさもよし》 木方往君我《きへゆくきみが》 信士山《まつちやま》 越濫今日曾《こゆらむけふぞ》 雨莫零根《あめなふりそね》     1680
 
〔釋〕 ○あさもよし 紀の枕詞。既出(二一七頁)。「信」をマに充てたのは、マコトの意を取つた。
【歌意】 紀の國へ行く背の君が、眞土山をお越えなさらう今日ですぞ〔三字右○〕。雨が降つてくれるなよ。
 
〔評〕 眞土山は小さな峠で、降りると大和紀伊國界の境川の小溪谷、それからすぐ登つて長々と岡道を行く。さ(2478)のみ大した嶮路でもないが、國境といふ感じが、大きなハンデキヤツブを與へてゐる。尤も昔から木茂き山であつたらしい。山の雫に沾れ/\して、眞土の泥滑々に困難することは、雨の日に於いて甚しい。旅ゆく人を思ひ遣つて「越ゆらむ今日ぞ」と日取を數へ、「雨な降りそね」と行路の平安を祈る。正に家人の所作であり、情懷である。結句の一轉化、萬葉人の得意な句法であるが、これは殊に一首の司命で、全幅に有力な振動を與へる。
 
後居而《おくれゐて》 吾戀居者《わがこひをれば》 白雲《しらくもの》 棚引山乎《たなびくやまを》 今日香越濫《けふかこゆらむ》     1681
 
〔釋〕 ○わがこひをれば 下に、かくとも知らず〔七字右○〕の意を含む。
【歌意】 あとに殘つてゐて、旅立つた夫を〔六字右○〕、自分が戀ひ/\してをると、夫はさうとも知らず〔九字右○〕、雲の打靡く高山を、今日越えるであらうかしら。
 
〔釋〕 離人を憶ふ情味を盡してゐる。この一首だけ出せば相當なものだ。只類想が多い。この事、上の「朝霧にぬれにし」の條の評語を參照(二四六三頁)。
 
獻(レル)2忍壁皇子《オサカベノミコニ》1歌一首 詠(メリ)2仙人形《ヤマビトノカタヲ》1
 
○忍壁皇子 既出(六三七頁)。○詠仙人形 仙人の圖樣を詠んだとの意。これは題下の註になつてゐるが、(2479)正しくは題詞中に攝してよい。但この卷の題詞は極めて簡單で、ほんの聞書式の體裁である。
 
常之倍爾《とこしへに》 夏冬往哉《なつふゆゆけや》 裘《かはごろも》 扇不放《あふぎはなたぬ》 山住人《やまにすむひと》     1682
 
〔釋〕 ○なつふゆゆけや 夏と冬とが並び〔二字右○〕行けば〔右○〕やの意。○かはごろも 毛衣《ケゴロモ》に同じい。獣の毛皮を衣に製した物。○やまにすむひと 仙人は語では外にいひやうがないから、仙字の字義に從つて、山人、山に住む人などいつた。
【歌意】 何時も/\、夏と冬とが並行して往くせゐかして、皮衣と〔右○〕扇と〔右○〕を離さぬわい。山に住む人即ち仙人は〔右○〕。
 
〔評〕 仙人が夏の扇を持つて冬の皮衣を着てゐるその矛盾を捉へて、一寸した穴を穿つた頓才の作だ。契沖が、忍壁皇子家の屏風の繪、或は繪にかける仙人を見て詠んだと見たのはよい。但「それに寄せて皇子を祝ひ奉りて」とあるは穿鑿である。
 漢文化の影響から神仙思想がわが國民思想に浸潤し、仙人道が行はれたことは、卷三の柘枝《ツミノエ》仙の歌(八八四頁)や、卷五の反惑情歌(一四一七頁)の歌、及びその條の評語に盡した。尚懷風藻や、靈異記や元亨釋書を參考してよい。
 
獻(レル)2舍人(ノ)皇子(ニ)1歌二首
 
(2480)〇舍人皇子 傳既出(三六一頁)。
 
妹手《いもがてを》 取而引與治《とりてひきよぢ》 ※[手偏+求]手折《うちたをり》 君〔左△〕頭〔左○〕刺可《きみかざすべき》 花開鴨《はなさけるかも》     1683
 
〔釋〕 〇いもがてをとりて 「ひき」に係る序詞。○うちたをり 「※[手偏+求]」に採の義あり、意を似てウチと訓む。○きみかざすべき 「君」は原本に吾〔右△〕とあり。宣長がいふ、「君」となくては「獻」といふに當らずと。げに次の歌にも[君待ちかてに」とある。「頭」原本にない。眞淵説によつて補つた。
【歌意】 妹が手を取つて引く、その如く引つ張つて手折つて、皇子樣がお挿頭しなさるべき、花が咲いたことであるわい。
 
〔評〕 花の折枝を添へて獻つた歌であらう。例のうるさい序體、萬葉人の惡趣味である。 
香〔左△〕山者《かぐやまは》 散過去鞆《ちりすぐれども》 三和山者《みわやまは》 未含《いまだふふめり》 君待勝爾《きみまちかてに》     1684
 
〔釋〕 ○かぐやまは 香山の花は〔三字右○〕。「香」原本に春〔右△〕とある。春山でも意は通るが、三輪山と相對するには、地名を充てるのが妥當だから改めた。新考は、春日山の日〔右△〕の脱とした。春日と三輪は懸け離れ過ぎて面白くない。○みわやまは 三輪山の花は〔二字右○〕。
(2481)【歌意】 香山の花は〔二字右○〕、散り過ぎたれども、三輪山の花は〔二字右○〕、まだ蕾んでをるわ。貴方樣のお出でを、待ちかねさうにして。
 
〔評〕 この歌は和銅三年の奈良遷都以前で、舍人親王がまだ藤原京に居られた頃、三輪人の獻つたものであらう。わが里の花の消息を申し上げて、暗にその御遊覽を促した。咲くのを控へて「君待ちかてに」と花に待ちかけられては、否應なしだ。自然を愛好する人情の急處を捉まへた點、作者なか/\狡猾である。花〔右○〕の語を著下せず、直ちに香山は散り三輪山はふくめりとある省略法は、當時の歌に多い。尚下の
  山しろの久世の鷺坂神代より春ははりつゝ秋は散りつゝ(―1707)
の條(二五〇一頁)を參照。
 
泉《イヅミ》河(ノ)邊(ニテ)間人《ハシヒトノ》宿禰(ガ)作(メル)歌二首
 
○泉河 「いづみのかは」を見よ(一九四頁)。○間人宿禰 傳未詳。卷三に、間人(ノ)宿禰大浦がある(七二二頁)。同人か。△地圖及寫眞 挿圖 204(七〇四頁)65(一九一頁)444(一八五三頁)を參照。
 
河瀬《かはのせの》 激乎見者《たぎつをみれば》 玉藻鴨《たまもかも》 散亂而在《ちりみだれたる》 此河常鴨《このかはとかも》     1685
 
〔釋〕 ○たまも 「も」は歎辭。「藻」は借字。但この「藻」も、上下の「鴨」も、河の縁語によつた戲書。○ち(2482)りみだれたる 上の「かも」の係辭を一旦「たる」と承けて結び、兼ねて下の名詞「この河門」にいひ續けた變格。例は多い。○かはと 河門。既出(一一三〇頁)。「常」をトに充てるは、この集の書例。
【歌意】 河の瀬のたぎるを見ると、まるで玉がまあ散り亂れたのかと思はれる〔五字右○〕、この河門であることよまあ。
 
〔評〕 今の木津川(泉河)は總體に平淺で、こゝにいふやうな風景は餘り見られないが、下にも泉河の「床なめ」が歌はれてある。思ふにこれは久邇京の泉の大橋邊あたりの所見であらう。瀧の水玉は例に依つて例の如しだ。
 
彦星《ひこぼしの》 頭刺玉之《かざしのたまの》 嬬戀《つまごひに》 亂祁良志《みだれにけらし》 此河瀬爾《このかはのせに》     1686
 
【歌意】 彦星の挿頭の玉が、その妻戀ゆゑに、亂れ墮ちたのらしい、この河の瀬にさ。きら/\と玉が飛び散るわ〔きら〜右○〕。
 
〔評〕 七夕の日たま/\泉河に臨んでの作で、激湍の飛沫の美しさから、彦星の挿頭の玉の亂れを聯想して寄興した天外の落想、水珠の賛美も茲に至つて極まる。而も水珠〔二字傍点〕の語を道被せぬ處に蘊含の妙がある。上來の空想を突如現實に引返した結一句。そこに作者の技巧を見る。「妻戀ひに亂れにけらし」は、彦星がその妻織女に逢ひたいの一心から夢中で、その簪の玉の外れ落ちるのも知らぬ趣である。
 
(2483)鷺《サギ》坂(ニテ)作歌一首
 
鷺坂 山城國久世都久世町。下にも{山城の久世の鷺坂」と見え、山を鷺坂山ともいふ。寺田|富野《トノ》の邊より望めば一大高丘で、古へは林木が茂つて、鷺の群棲してゐた處であらう。坂は岡側に通じ、道傍の林間に久世神社がある。大倭本紀に、倭武尊薨去の時白鳥に化り給ひ、天を翔り久世の鷺坂小笹が上にとゞまりますといふはこの地を稱する。△地圖挿圖 204(七〇四頁)を參照。
 
白鳥《しらとりの》 鷺坂山《さぎさかやまの》 松影《まつかげに》 宿而徃奈《やどりてゆかな》 夜毛深往乎《よもふけゆくを》     1687
 
〔釋〕 ○しらとりの 鷺に係る枕詞。紀記の倭武(ノ)尊の條の白鳥も鷺とおぼしい。○さぎさかやま 「鷺坂」の項を見よ。○まつかげ 「影」は蔭の借字。○ふけゆくを 更けゆくもの〔二字右○〕を。
(2484)【歌意】 この〔二字右○〕鷺坂山の松の蔭に、泊つてゆかうわ、夜がまあ更けてゆくもの〔二字右○〕を。
 
〔評〕 何處から來たかは知らぬが、奈良京へはまだ三里強あるのに、夜ははや更けたのである。歩いてもだめと諦めて、此處に野宿をして往かう、鷺坂山の松蔭を頼んだ。古代の旅情がまざ/\と窺はれて、凄酸そのものである。といつても本當に野宿をしたと考へるのは早い。事實はその邊の人家に泊を求めたのかも知れない。旅行苦を強調する手段として、かく比興して歌つたのだ。一首の司命たる「夜の更けゆく」を最後に置いて、上には反射的效果を與へ、下には餘情を搖曳せしめたその句法も面白い。
 
名木河《ナキカハニテ》作(メル)歌一〔左△〕首
 
名木河で詠んだ歌との意。「一首」は原本二首〔二字右△〕とあるが、次の歌は海邊の作だから、こゝは一首とあるべきだ。次の歌の題詞が書寫の際脱ちた本に就いて、後人が一連に數へて二首と改めたらしい。それといふも、このあたり編次が混亂したからで、下にも名木河作歌三首が見え、この「あぶり干す」の類歌が出てゐる點から推すと、この歌は宜しく下の「名木河作歌」の題下に還元して、そこを四首と數へて然るべきだ。○名木河 和名抄に、山城國久世郡|那紀《ナキノ》郷あり、那紀郷は同郡大久保、富野《トノノ》莊邊に亘る舊名であらう。河は地名辭書には栗隈溝《クリクマノウナテ》を充てたが覺束ない。思ふに那紀の西偏を局る泉河(木津川)の一名ではあるまいか。山城の淀道はこゝに通じてゐる。序にいふ、那紀、名木は水葱《ナギ》の借字であらう。抑もこの郷は泉河の河曲に當る卑濕の地で、北は巨浸小倉(巨椋)の地に接してゐる。土地柄その水田に水葱《ナギ》を作つて、奈良人の好物たる羮に、その食膳を(2485)賑はしたものだらう。△地圖 挿圖 204(七〇四頁)を參照。
 
※[火三つ]干《あぶりほす》 人母在八方《ひともあれやも》 沾衣乎《ぬれぎぬを》 家者夜良奈《いへにはやらな》 ※[羈の馬が奇]印《たびのしるしに》     1688
 
〔釋〕 ○あぶりほす 火にて〔三字右○〕※[火三つ]り干す。○ひともあれやも この「やも」は、やは〔二字傍点〕と同意の反動辭。○いへには 「には」に差別の意がある。
【歌意】 火で焙《アブ》り干してくれる、人がまああることかい。この濡れた衣をこのまゝ、特に〔六字右○〕家には送らうぞ、自分の旅の記念にさ。
 
〔評〕 名木河邊を通過する折の春雨だ。あたりに掩蔽物のない吹き晒しだから、定めてよく濡れたらう。無論その濡衣の始末に困つた。でいつそ家に送つてわが家人には見せうといふ。蓋し苦難のあとを示してその同情を要求したいのである。抑も「旅のしるし」には、萩が花に衣匂はす風流韻事もあり、玉を拾ひ藻を採つての家苞もあるが、濡衣を送るに至つては甚だ實際的で、情味中心の作である。
 
杏人《カラヒトノ》濱(ニテ)作(メル)歌一首〔七字左○〕
 
茲にこの題詞を補つた。理由は上の名木河作歌の題詞の處で述べた。
 
(2486)在衣邊《ありそべに》 著而榜尼《つきてこがさね》 杏人〔左△〕《からひとの》 濱過者《はまをすぐるは》 戀布在奈利《こほしくあるなり》     1689
 
〔釋〕 ○ありそべ 荒磯《アリソ》邊。「在衣」卷一には有衣と書き、何れも借字。○こがさね 宣長訓による。「尼」は呉音ニ、一音ナイ、通音ではネの音を生ずる。○からひとのはま 所在未詳。舊訓にかくあるが、杏をカラとのみ訓むは不當である。或は杏林の人の略で、クスヒトノか。或は「杏」は吉〔右△〕の誤でヨキヒトノか。或は「人」は之〔右△〕の誤か又は衍字で、カラモヽノか。○はまをすぐるは 舊訓その他の訓はハマヲスグレバ〔七字傍線〕。
【歌意】 船頭よ、成るたけ〔七字右○〕磯際に近づいて漕ぎなさいよ。名からして面白い〔八字右○〕唐人の濱を通るのは、戀しいことであるわい。
 
〔評〕 船君かその左右の人かは知らぬが、その人が舟子等にいひかけた歌である。景色も勿論佳かつたらうが、第一に濱のが大いなる興味を惹いて、漠然と看過し切れなかつたのだらう。必ず唐人の濱とすれば、「から」の稱呼が特別の崇拜に値した時代人の意識からは、さやうに「戀しくある」のも當然であらう。或は又、その濱の人か物か事かに、何か懷かしい因縁があつての事であらう。
 
高島《タカシマニテ》作(メル)歌二首
 
○高島 近江國高島郡。
 
(2487)高島之《たかしまの》 阿渡河波者《あどかはなみは》 驟鞆《さわげども》 吾者家思《われはいへおもふ》 宿加奈之彌《やどりかなしみ》     1690
 
卷七「竹島《タカシマ》の阿戸《アド》かは波はとよめども〔五字右○〕、(一訓サワゲドモ)われは家おもふやどりかなしみ」の再出。同歌の條(二〇一八頁)を見よ。
 
客在者《たびにあれば》 三更刺而《よなかをさして》 照月《てるつきの》 高島山《たかしまやまに》 隱惜毛《かくらくをしも》     1691
 
〔釋〕 ○よなかをさして 「よなか」は夜中潟のこと。卷七「さ夜ふけて夜中のかたに」を見よ(二〇〇七頁)。「三更」は午後十二時より午前二時の稱なので、夜中に充てた。○たかしまやま 近江國高島郡の山。琵琶湖畔から見える西方の山を稱した。尚「たかしまのかちぬ」を參照。 △地圖及寫眞 挿圖 202(七〇一頁)201(七〇〇頁)を參照。
【歌意】 自分は〔三字右○〕旅中にあるので、夜中の潟〔二字右○〕をさして照る月が、早くも〔三字右○〕高島山に、隱れることが惜しいわい。
 
〔評〕 北近江の湖畔に、道を貪つて宿を取りをくれた旅人の作か。東夜中潟あたりは遙に月の斜光が反射して、きら/\と光つてゐる。これを「夜中をさして照る」といつた。月明りを便りに心細くも獨曠野の路を辿るうち、早その月も西の方高島山に没せんとするに至つて、前途は絶望だ。「隱らくをしも」はその焦燥の聲である。月は多分七八日頃の上弦の月であらう。(2488)新考に「三更をさして」といへる、もし地名とせば、高島山より西方にありとせざるべからず」とあるは誤認である。
 
紀伊《キノ》國(ニテ)作(メル)歌
 
吾戀《わがこふる》 妹相佐受《いもはあはさず》 玉浦丹《たまのうらに》 衣片敷《ころもかたしき》 一鴨將寐《ひとりかもねむ》     1692
 
〔釋〕 ○いもはあはさす 「あはさず」はあはずの延言。人の上に就いていふ語。故にイモニ〔三字傍線〕と舊訓にあるは非。略解訓による。○ころもかたしき 片寢して衣や袖を下に敷くこと。獨寢の状態。
【歌意】 自分が戀しく思ふ、吾妹子は逢うてくれず、珠の浦に、衣を片敷いて、空しく讀寢ようことかまあ。
 
〔評〕 旅中の事だから、故里の妹に逢ひやうもない。それを故意に逢うてくれぬものゝやうに表裏にいひ成した、その幽怨の情致は人の胸を拍つ。さてそれが襯染となりて、衣片敷く獨寢の遺憾さが強く映出されてくる。旅先での浮氣のやうに新考が見たのは淺い。下句は次の歌も相似し、また卷十には同句がある。
 
玉※[匣の甲が臾]《たまくしげ》 開卷惜《あけまくをしき》 ※[立心偏+(又/宏の下)]夜矣《あたらよを》 妹〔左○〕袖可禮而〔左△〕《いもがそでかれ》 一鴨將寐《ひとりかもねむ》     1693
 
〔釋〕 〇あたらよを 「※[立心偏+(又/宏の下)]は※[立心偏+(メ/宏の下)]の書寫字、※[立心偏+(メ/宏の下)は悋の俗字、悋は吝と同意。吝は惜しむの意ゆゑ、アタラに充て(2489)た。○いもがそでかれ 新考が「袖」の上に妹〔右△〕を補つてイモガソデカレテと訓んだのを助けて、「而」を衍字として訓まぬ。「かれ」は離《カ》れの意。舊訓「袖」をコロモデ〔四字傍線〕と讀んであるのは非。意も亦不完。
【歌意】 明けようことの惜しい、勿體ないこの〔二字右○〕夜を、吾妹子の袖から遠放つて、獨寢ようことかまあ。
 
〔釋〕 これも家人を懷ふ旅情を歌つたもので、一途に夜を禮讃して、「ひとりかも寢む」の歎意を永からしめた。もし「紀伊國作歌」の題詞のもとになければ、普通の相聞歌となる。
 
鷺坂(ニテ)作(メル)歌一首
 
細比禮乃《ほそひれの》 鷺坂山《さぎさかやまの》 白管自《しらつつじ》 吾爾尼保波尼〔左△〕《われににほはね》 妹爾示《いもにしめさむ》     1694
 
〔釋〕 ○ほそひれの 鷺の頭毛が細い領巾《ヒレ》を懸けた状に似るので、鷺の枕詞とする。「ひれ」を見よ(五七四頁)。京本も仙覺も契沖も古義も、皆この訓である。舊訓タクヒレノ〔五字傍線〕とあるが、契沖のいふ如く、「細」はタク(栲)とは讀み難い。栲の色は白い處から、鷺に續ける爲に強ひて訓み付けたものだ。又思ふに「乃」は衍字で、クハシヒレと訓むべきか。さらば精妙なる領巾の意となり、鷺の頭毛の美しさに稱ふ。○しらつつじ 「いはつつじ」を見よ(四九五頁)。○われににほはね 我が衣に〔二字右○〕その色が移れの意。衣に〔二字傍点〕となくてもその意に聞くのが奈良人の通念である。契沖説によつて、原本に※[氏/一]〔右△〕とあるを「尼」に改めた。
【歌意】 鷺坂山の白躑躅よ、わが衣に〔四字右○〕匂うてくれよ、家苞にして〔五字右○〕、吾妹子に示さうわ。
 
(2490)〔評〕 萩を見ては「衣匂はせ旅のしるしに」(卷二)、黄土を見ては「岸の埴生に匂はさましを」(卷一)、「岸の埴生に匂ひて行かな」(卷六)など、皆萬葉人の套語である。但白躑躅ではその色が衣に句ひさうもない。「白」或は誤字かと思へど、萬葉人は聯想的に平氣でかうもいつてゐる。
 
泉河(ニテ)作(メル)歌一首
 
妹門《いもがかど》 入出見河乃《いりいづみがはの》 床奈馬爾《とこなめに》 三雪遺《みゆきのこれり》 未冬鴨《いまだふゆかも》     1695
 
〔釋〕 〇いもがかどいりいづ 妹が家の門を入り又出づの意にて、泉《イヅミ》河に懸けた序詞。○いづみがは 「いづみのかは」を見よ(一九四頁)。○とこなめ 床列《トコナミ》の意。既出(一五〇頁)。新考に石梁《イハハシ》と同樣に解したのは非。
【歌意】 泉河の床列に、雪が殘つてゐるわ。まだ冬かなあ。春だと思つたのに〔八字右○〕。
 
〔評〕 平地や草木の上こそ融けたれ、岩石殊に河原の床列《トコナメ》などには、白々と殘雪が溜つてゐる。作者はこれに寒氣立つて冬の名殘を感じた。すべて早春の趣である。契沖が
  雪といふは實の雪にあらじ、白沫の巖のもとに積れるをいろへて云へるなるべし。
とは何事ぞ。新考もその尾に附いて、白沫にあらず打掛くる波なりなどいつてゐる。
 古へは妻君の家に毎夜通ふ慣習だつたから、「妹が門入り出づ」は格別奇手を弄した措辭ではない。卷七に(2491)も「妹が門|出入《イデイリ》の川の瀬を早み」とある。が再三いふやうに、かゝる序態は技巧過ぎて、好ましいものとは思はない。
 
名木《ナギ》河(ニテ)作(メル)歌三〔右△〕首
 
○三首 四〔右△〕首とあるべき理由は、上の名木河二首とある題下に説明した。
 
衣手乃《ころもでの》 名木之河邊乎《なぎのかはべを》 春雨《はるさめに》 吾立沾等《わがたちぬると》 家知〔左△〕良武可《いへしるらむか》     1696
 
〔釋〕 ○ころもでのなぎ 「ころもでの」は枕詞に違ひないが、名木に係る意は不明。或は衣手の靡キをナギと約めて、名木に係けたものか。略解に衣手の「沾る」といふ續〔四字傍点〕きといひ、又古義は衣手の裁ちを第四句の「たち」に續けたものと見た。餘り離れ過ぎた跨續で無理であらう。○なぎのかはべを この「を」は、ニ〔傍点〕に通ふ意。宣長が「乎」を之〔右△〕の誤としたのは却て非。○いへしるらむか 「いへ」は家人の意、「知」原本に念〔右△〕とある。「家念ふらむか」では意が明晰を缺く。よつて改めた。
【歌意】 名木河の河邊に、私が今〔右○〕、春雨に立ち沾れしてゐると、家人は知るであらうか。
 
〔評〕 苦につけ樂につけ、家を懷ひ家人を戀ひ、その所思を訴へるのは行人の常情である。「たち沾る」にその困憊の状態が歴然としてゐる。
 
(2492)家人《いへびとの》 使在之《つかひなるらし》 春雨乃《はるさめの》 與久列杼吾乎《よくれどわれを》 沾念者《ぬらすおもへば》     1697
 
〔釋〕 ○いへびと 家にある人、おもに妻をいふ。○よくれど 避《ヨ》けても。
【歌意】 この春雨は、家人のよこした使であるらしい。いくら〔三字右○〕避けても/\、自分を沾らすことを思ふとさ。
 
〔評〕 家人の使は先から先と、何でもかでも自分に尋ね合はなければ納まらない。春雨が餘りしつこく附き纏うて沾らすので、まるで家人の使だと思つた。戲謔の語、本筋ではないが、時に取つて面白い。
 
※[火三つ]干《あぶりほす》 人母在八方《ひともあれやも》 家人《いへびとの》 春雨須良乎《はるさめすらを》 間使爾爲《まづかひにする》     1698
 
〔釋〕 ○まづかひ 既出(一六七三頁)。
【歌意】 外に〔二字右○〕焙り干してくれる人がまあ、あることかい。然るに〔三字右○〕家人が、こんな厄介な〔六字右○〕春雨をすら、使にしてよこすわ。沾れて仕樣がない〔八字右○〕。
 
〔評〕 上に「使なるらし」といひ、これは更に一歩を進めて「間使にする」と斷定した。かくして聯作は進行する。
 上にある名木河の「あぶり干す」の歌は、聯作の順序上、この歌の次に置くべきである。 
(2493)宇治河(ニテ)作(メル)歌
 
歌に巨椋の入江と伏見の田居とが詠み合はせてある。宇治河は兩地の中間を流れてゐる。○宇治河 既出(一九二頁)
 
巨椋乃《をほくらの》 入江響奈理《いりえとよむなり》 射目人乃《いめびとの》 伏見何田井爾《ふしみがたゐに》 鴈渡良之《かりわたるらし》     1699
 
〔釋〕 ○おほくらのいりえ 巨椋(ノ)入江。巨椋(ノ)池のこと。今訛つて小倉《ヲグラ》の池といふ。山城國久世郡にあり、東西五十町南北四十町に亘る宇治川の曲江である。故に巨椋の入江と稱する。湖の東岸小倉町に巨椋神社あり。神名式に出てゐる。近年排水して盡く水田となつた。○いめびとの 伏見に係る枕詞。「いめびと」は射目《イメ》人で、射目は射部《イベ》の轉。射部人は叢に打伏して鹿など伺ひ見るので、伏見《フシミ》に續けた。尚「いめたてわたし」を見よ(一六三八頁)。○ふしみ 今の山城國京都市伏見(2494)區の地。北に丘陵を負ひ、南は低地で宇治川に臨む。その低地は古への伏見の田居に當る。○たゐ 田居。田のある居處をいふ。「井」は借字。
【歌意】 巨椋の入江が、響き渡ることよ、さては伏見の田面に、雁が飛び渡つてくるらしい。
 
〔評〕 叙景の作に地名を湊合することは、詞人の慣手段で珍しくはない。が巨椋の池と伏見の田居といへば、そこに平遠なる大水郷の景致が彷彿し、必然的に秋冬の候は寒雁の來往を見る。これ入江に響く雁聲に、その伏見の田居に渡ることを推定する所以である。「聲」の一字を著けずして」そのさやかな聲が虚空に遍滿する。體格は高渾に、風調は清爽に、措辭は潔淨である。
 
金風《あきかぜに》 山吹瀬乃《やまぶきのせの》 響苗《とよむなべ》 天雲翔《あまぐもかけり》 鴈亘〔左△〕鴨《かりわたるかも》     1700
 
〔釋〕 〇あきかぜに 「金風」は秋風のこと。金は五行説では西に配し、秋に充てる。略解訓による。舊訓アキカゼノ〔五字傍線〕は、秋風が山を吹くを山吹の瀬にいひ懸けたと見た爲で、甚だ迂拙である。古義はこれに同じてゐる。○やまぶきのせ 山吹の瀬。山城國字治郡宇治川の北岸。稚郎子《ワカイラツコ》の御陵のある邊をいふ。これに朝日山(離宮山)(2495)の山下とする説と、宇治橋の下手とする説とがある。歌の趣から見て、前説がふさはしい。○あまぐも 天の雲。雨雲ではない。○かりわたるかも 「亘」は原本に相〔右△〕とある。宣長説によつて改めた。△地圖及寫眞 挿圖 496(二〇二○頁)190(六八三頁)を參照。
【歌意】 秋風に、宇治川の〔四字右○〕山吹の瀬の音が、響き鳴るにつれて、天雲を翔つて、雁が飛び渡ることよ。
 
〔評〕 秋の河風は烈しく吹いて、瀬鳴りの音が常よりも高い。雲行は從つて荒い。
  あし引の山川の瀬の鳴るなへに弓月が嶽に雲たち渡る(卷七―1088)
と似た景趣で、更に天空を破つて鳴き渡る一行の雁が點加された。引締つて深刻な點は弓月が嶽に稍及ばないが、複雜な取材を旨く統一して、悲秋肅殺の氣が全面的に漲つてゐる。
獻(レル)2弓削《ユゲノ》皇子(ニ)1歌三首
 
○弓削皇子 既出(三五〇頁)。
 
佐宵中等《さよなかと》 夜者深去良斯《よはふけぬらし》 鴈音《かりがねの》 所聞空《きこゆるそらに》 月渡見《つきわたるみゆ》     1701
 
〔釋〕 〇さよなか 眞夜中。「さ」は美稱。○つきわたる 月が空を經行くをいふ。
【歌意】 あれ雁の鳴く空に、月がもう廻つて見えることよ。もはや眞夜中と、この夜は更けたらしい。
 
(2496)〔評〕 天地の靜寂を破つて、過雁の聲が端なく落ち來るに、ふと見上げると、その中空に一輪の明月の滿ちたのを見て、さて/\夜の更けた事よと愕いた。總べての物音は夜が更けると、愈よ澄みまさるから、「雁が音の聞ゆる空に」に、深夜の靜寂の景氣が隱然としてゐる。身外何物もなく、只耳に雁聲、眼に明月のみあるこの間の感愴は、隈なく歌ひ盡されてある。格調は高古莊重で、修辭は天衣無縫である。人口に昔から膾炙されたと見えて、古今集(秋)にも再出した。作者は凡常の歌人ではない。
 
妹當《いもがあたり》 茂苅音《しげきかりがね》 夕霧《ゆふぎりと》 來鳴而過去《きなきてすぎぬ》 及乏《ともしきまでに》     1702
 
〔釋〕 ○いもがあたり 妹が家の〔二字右○〕あたり。四句の「來鳴きて過ぎぬ」に係る。○しげきかりがね 茂木《シゲキ》を刈るを雁にいひかけた。茂木は榛莽《モサ》である。シゲミカリガネと訓むもよい。宣長は「茂」を衣〔右△〕の誤としてコロモカリガネ〔七字傍線〕と訓んだ。衣を借るは妹に縁はあるが、こゝは雁の修飾語であればよいのだから、あながち妹に關係を要しない。とすれば成るべく本文のまゝでありたい。
【歌意】 妹が家の〔二字右○〕あたりを、茂木《シゲキ》を刈るといふ稱の雁が、夕霧に來て鳴いて通つたわい。羨ましいほどに。
 
〔評〕 夕かけて妹が家を訪はうとしての途上の作か。さてこそ霧もた靡き、雁もよく移動する時刻である。その聲を妹があたりに聞く、懷かしいものゝ重ね/\で、作者の心緒は掻き亂されるのである。二句の小技巧「亭(2497)主の好きな赤帽子」だが、妹が住む村落の暮秋らしい物寂びた肯綮が、茂木を刈るに點出されてゐる。
 
雲隱《くもがくり》 鴈鳴時《かりなくときは》 秋山《あきやまの》 黄葉片待《もみぢかたまつ》 時者雖過《ときはすぐれど》     1703
 
〔釋〕 ○かりなくときは 略解訓による。舊訓も古義もカリナクトキニ〔七字傍線〕。○かたまつ 「かたまちがてり」を見よ(一九八八頁)。但こゝは偏に待つの意。○ときはすぐれど 古訓トキハスグトモ〔七字傍線〕。宣長は「雖」の下不〔右△〕の脱としてスギネド〔四字傍線〕と訓んだ。
【歌意】 雲隱れに雁の鳴く時〔右○〕は、秋の山の紅葉を、偏に待つことぞ〔三字右○〕、時季は過ぎたけれど。
 
〔評〕 鴈聲を聞く時は時季でなくても紅葉が戀しくなるの意である。結句は過ぐれど〔三字傍点〕でも過ぐとも〔四字傍点〕でも、過ぎねど〔四字傍点〕でもよく落著しない。はじめから不出來な歌で、稚拙な點は蔽ひ難い。
 以上三首に就いて契沖は、
  右の三首ともに皇子に獻る歌なれば含める意あるか。又別意を含まず、皇子より秋の歌を召し給ふに讀みて奉れる歟。
との兩説を立てゝ決定しない。古義はその前説に從つて、三首に皆寓意ありとし、新考は三首ながら寓意なしとして、後説に從つた。
 抑も「さ夜中と」「妹があたり」の二首の如きは、寓意などあるべき趣の歌でない。殊に「さ夜中と」の歌に寓意を説くは佛頭糞を塗るに等しい。末の「雲隱り」の歌は或はあるかも知れない。古義は
(2498) 「今は身のなり出づべき時は過ぎゆくとも、御惠澤の下りてなり出でむを、偏に待ちつゝ居るぞ」の意を寓せたものとした。
 總べてよき人に歌獻る場合、私意をまじへぬ表向の歌を上るのが禮儀である。多作の時は、その中に或は身分の愁訴などいひ添へもしよう。故に三首のうち、最後の歌だけは寓意ありと見てもよい。
 再考するに、この三首、始のと終のとの巧拙の軒輊が餘りにも甚しい。或は一人の作ではないが、何れも獻弓削皇子の歌なので一つ題下に一括して掲げたのであるまいか。
 
獻(レル)2舍人《トネリノ》皇子(ニ)1歌
 
○舍人皇子 既出(三六一頁)。
 
※[木+求]手折《うちたをり》 多武山霧《たむのやまぎり》 茂鴨《しげみかも》 細川瀬《ほそかはのせに》 波聚祁留《なみのさわげる》     1704
 
〔釋〕 ○うちたをり 多武《タム》に係る枕詞。(1)「うち」は接頭語にて、手折り撓《タワ》むを多武にいひかけたり(舊説)。(2)打手折る手《タ》と續けたり。手は肱を屈伸するものなれば、それを打手折るとはいへり(契沖説)。(3)折は道の前《クマ》を折り曲るをいふ。多武は手廻《タモトホ》る意にて、折手廻《ヲリタモトホル》といふにいひかけたり(古義説)。○たむのやま 多武の嶺、又|談峯《タムミネ》、いま塔《タフノ》峯といふ。大和國高市都多武峯村。(今磯城郡)。東は吉野郡の山に接し、西は高市郡に接する。(2499)(標高六一九米突)。齊明天皇紀に、二年九月云々、於(テ)2田身《タムノ》嶺(ニ)1冠《カヾフラシム》2以|周《メグレル》垣(ヲ)1、(田身山(ノ)名、此(ニ)云(フ)2太務《タムト》1)と見えた。峯上に藤原鎌足の廟あり、談山神社と稱す。○しげみかも 繁さにかの意。「も」は歎辭。○ほそかは 山を細川山といひ、その溪澗を細川といふ。南は南淵山に對し、多武の西隣に接する。(標高五二三米突)。天武天皇紀に、白鳳五年、勅(シテ)禁(メ)2南淵山細川山(ヲ)1莫(カラシム)2蒭薪(スル)1とある。△地圖及寫眞 前出(二一一七頁)を參照。
【歌意】 多武の山の霧が繁いせゐかして、細川の川瀬に、波が立騷いでゐることわ。
 
〔評〕 山霧は即ち小雨である。多武の西側面と細川の南側面は殆ど吃立してゐる。隨つて小雨でも溪澗の細川は、忽に水嵩が増して波が激揚する。まことに實況に即した實詩である。
 
冬木成《ふゆごもり》 春部戀而《はるべをこひて》 殖木《うゑしきの》 實成時《みになるときを》 片待吾等叙《かたまつわれぞ》     1705
 
〔釋〕 ふゆごもり 春の枕詞。既出(七八頁)。
【歌意】 花の咲かう春の頃を、待ち戀うて植ゑた木が、花の咲くは勿論〔七字右○〕、それが實になる時を、偏に待つ私ですぞ。
 
〔評〕 無論寓意の作だ。古義は、身の榮花を仰ぎて詠みて奉れるならむと解いた。然し又普通の戀歌として見れば、幼女を置いて育てゝゐるうち立派な花のやうな娘となつたので、戀心を感じ、實になる即ち成婚の時を獨(2500)心待にするの意ともなる。花の實になるをかうした意味に用ゐた例は、集中に數へ切れない。どうもかう見る方が自然のやうに考へられる。
 
舍人(ノ)皇子(ノ)御歌一首
 
黒玉《ぬばたまの》 夜霧立《よぎりはたちぬ》 衣手《ころもでの》 高屋於《たかやのうへに》 霏※[雨/微]麻天爾《たなびくまでに》     1706
 
〔釋〕 ○よぎりはたちぬ 略解馴ヨギリゾタテル〔七字傍線〕。○ころもでの 高屋に係る枕詞。衣手の栲《タク》を高屋《タカヤ》にいひかけた。栲《タク》はタヘに同じい。「しろたへ」を見よ(一一八頁)。古義に、衣手の布明《タヘアカ》を高屋にいひかけたりとあるは迂遠。又略解はコロモデヲ〔五字傍線〕と訓み、衣手を※[塞の土が衣]《タ》クを高屋にいひ續けた意とした。※[塞の土が衣]ぐることを古言にタクといふ。「たけば」を參照(三七〇頁)。○たかやのうへ 高屋のほとり。「たかや」は大和國城上郡八釣の高屋(家)といふ地。尤も地名でなく、高き家とも解されるが、枕詞の「衣手の」からの續きには地名(2501)が多い。「於」にウヘの意がある。△地圖及び寫眞 挿圖 188(六七八頁)189(六八〇頁)を參照。
【歌意】 あゝ〔二字右○〕夜霧は立つたことわ。あの高屋の邊に打靡くほどに。
 
〔評〕 藤原京時代における皇子の御作であらう。藤原から東南に當る八釣の高屋あたりは高陵地なので、一里弱の距離はあるが見通しの場處だ。皇子は偶まその方角の野末に當つて、大きな夜霧の搖曳するのに深い興味を牽かれ、餘念なく諦視しつゝあるうち、段々と霧は上昇してゆくのであつた。でその動向と盛な景象とを一括して「高屋のうへにた靡くまでに」と稍誇張氣味に描出された。星の零るやうな暗夜であつたらうことが言外に彷彿する。叙景の上乘で風調もけ高い。「高屋」を高き家と解する説は紙上の空論に過ぎない。
 
鷺坂(ノ)歌一首
 
山代《やましろの》 久世乃鷺坂《くせのさざさか》 自神代《かみよより》 春者張乍《はるははりつつ》 秋者散來《あきはちりけり》     1707
 
〔釋〕 ○さぎさか 前出(二四八三頁)。○はり 芽の出ること。發すること。
【歌意】 山城の久世の鷺坂山〔右○〕は、神代の昔から、今にその木草が〔七字右○〕、春は芽を吐き、秋は散ることわい。
 
〔評〕 鷺坂山は作者が見はじめた昔から、今に春榮秋落、おなじ事を反復して止まない。人生の倏忽なるに比べ(2502)れば、實に自然は悠久である。「神代より」の誇張はこの意を強調するにふさはしい措辭である。「はり」「ちる」は山の草木のうへであるが、直ちに鷺坂山が發《ハ》り又散るといふも、往時の修辭上の慣習で、頗る簡淨な感じを與へる。尤も山ガ紅葉シタ〔六字傍点〕などは今でもいふことである。
 
泉河(ノ)邊《ホトリニテ》作(メル)歌
 
○泉河 今の木津川の事であるが、咋《クヒ》山を詠み合はせてあるから、久邇甕原よりは遙か下流の泉河である。
 
春草《はるぐさを》 馬咋山自《うまくひやまゆ》 越來奈流《こえくなる》 鴈使者《かりのつかひは》 宿過奈利《やどをすぐなり》     1708
 
〔釋〕 ○はるぐさをうまくひやま 春草を馬喰ひといふを咋《クヒ》山に懸けた序詞。○くひやま 咋山。山城國綴喜郡の飯岡か。木津川(泉河)の西岸平田間にある高さ百尺ほどの岡にて、岡上の社を式内の咋岡神社と稱する。○くひやまゆ この「ゆ」はヲ〔傍点〕に近い。○かりのつかひ 「はつ雁の使」を見(2503)よ(二四〇三頁)。○すぐなり 「なり」は詠歎の助動詞。△地圖 前出564(二三六六頁)を見よ。
【歌意】 あの咋山を越えて來ることである、雁の使は、自分の宿を、只通り過ぐるわ。
 
〔評〕 仮に咋岡附近の三山木邊に宿を取つた地方人として考へる。折しも北方の咋山からその宿の上空をかけて、飛び過ぎる雁の聲を聞いた。忽ち例の蘇武の故事を思ひ寄せて、この雁は餘所への信使と見えて、自分の宿へは立寄らぬよと、その失望の聲を洩らした。時代的に見て、作者は漢學に親みのある人であらうと想像される。下句太だ率直で歎意が永い。
 「春草を馬くひ山」の小技巧は、「處女らが袖ふる山の」(巻四、―人麻呂)の顰に倣うたもの。
 
獻(レル)2弓削(ノ)皇子(ニ)1歌一首
 
御食向《みけむかふ》 南淵山之《みなぶちやまの》 巖者《いはほには》 落波太列可《ふれるはだれか》 消〔左△〕遺有《きえのこりたる》     1709
 
〔釋〕 ○みけむかふ 既出(五一六頁)。こゝは南淵に係る枕詞。御食向《ミケムカ》ふ蜷《ミナ》を南《ミナ》淵にいひ懸けた。ミナは蜷(ニナ)の古言で、古へは蜷を食料としたので、「御食向ふ蜷」と續けた。なほ「みなのわた」を見よ(一四三四頁)。○みなぶちやま 南淵山。前出「みなぶち」を見よ(二一一六頁)。○はだれ はだれ雪〔右○〕の略。前出(二二一二頁)。
【歌意】 あの南淵山の巖には、積つた斑雪が消え殘つてあるのかしら。眞白に見える〔六字右○〕。
 
(2504)〔評〕 上にも「妹が門いりいづみ河のとこなめにみ雪殘れり」とある趣を移して、一應は斑雪が岩上に消え殘つてゐる趣に解するか、又何かを斑雪に見立てた意とも解される。見立てたとすれば山の落花でゝもあらう。恐ろしい雄勁な調子の作である。
 
右、柿(ノ)本(ノ)朝臣人麻呂之歌集(ニ)所v出(ヅル)。
 
○右云々 この「右」はこの獻2弓削皇子1歌一首のみを指した狹い意か。又溯つて獻2忍壁皇子1歌以下二十八首を指した廣い意か。二十八首中作者の名を署したものが三首(舍人皇子一首、間人宿禰二首)ある事を思ふと、その外にも他の作家の歌が多分存在してゐることが考へられる。故に「右」を狹範圍に限定して、最後の「みけむかふ」の歌の左註とのみ見るのが危險が尠い。
又いふ、左註の「右」は下に「何首」と歌數を記してある時の外は、必ず前掲の一首をのみ斥したものと見ることを、本評釋の通則とする。
 
倉無《クラナシノ》濱及(ビ)粟(ノ)小島(ノ)歌二首〔全部左○〕
 
(2505)この題詞は假に設けた。抑もこゝの二首を、上の「獻弓削皇子歌」の題詞のもとに攝ねて、その「一首」とあるを三〔左△〕首と改めるのが順當らしいが、上の左註には「柿本朝臣人麻呂之歌集所出」、この二首の左註には「或云柿本朝臣人麻呂作」とあり、明かに歌の出自の相違を示してをり、又彼れは大和の名所、此れは瀬戸内海筋に屬した名處を扱つてゐるから、この三首を同列には認め難い。恐らく「獻弓削皇子歌一首」とあるは原形のまゝを傳へたもので、こゝの二首には題詞の脱ちたものらしい。
 
吾妹兒之《わぎもこが》 赤裳泥塗而《あかもひづちて》 殖之田乎《うゑしたを》 苅將藏《かりてをさめむ》 倉無之濱《くらなしのはま》     1710
 
〔釋〕 ○ひづちて ひたと沾れるをいふ。○うゑしたを 植ゑし田なる〔二字右○〕を。〇くらなしのはま 豐前國中津の龍王濱のことゝいふ。
【歌意】 我妹子が赤裳の裾をびしよ沾れにして、植ゑた田なのを、殘念ながら、その稻を〔九字右○〕刈つて納めおく倉が無いといふ名の、倉無の濱さ。
 
〔評〕 濱の名から案出した口頭の弄語で、四句から五句の名詞へのいひかけ、後世の狂歌にこの體が多い。句中にいひかけのある「戀忘れ貝」「誰れ呼子鳥」と、一脈の共通點が認められる。上句、我妹子の稼穡の勞を縷述したので、倉無しを遺憾とする意が自然に映出されてくる。
 この歌、風調から看れば、決して歌聖人麻呂の口吻でなく、時代も遙に後れてゐる。さては愈よ弓削皇子に(2506)獻つた歌でなくなる。弓削皇子は文武天皇の大寶三年に薨去された方である。
 
百傳《ももづたふ》 八十之島廻乎《やそのしまわを》 榜雖來《こぎくれど》 粟小島者《あはのこじまは》 雖見不足可聞《みれどあかぬかも》     1711
 
〔釋〕 ○ももづたふ 枕詞。既出(九二六頁)。「傳」の下、原本に之〔右△〕の字がある。藍本、類本、古本、神本等にないのに從つた。○しまわ 古義訓シマミ〔三字傍線〕。○こぎくれど 古義訓コギキケド〔五字傍線〕は牽強。○あはのこじま 「あはしま」を見よ(八三五頁)。
【歌意】 これまで〔四字右○〕澤山な島邊を、漕ぎ渡つて來たが、この粟島は、いくら見ても/\、見飽かぬことかまあ。
 
〔評〕 一片の理路が搦んでゐるから、いゝ歌ではない。「こぎくれど」「みれど」の同詞態の重複も面白くない。
 
右二首、或云(フ)、梯本(ノ)朝臣人麻呂(ガ)作(メリト)。
 
人麻呂と雖も咳唾悉く珠を成す譯ではなからう。けれどもこの二首、前のは人麻呂以後のもので、後の歌は評の如く餘り芳ばしくない。或人の言俄に信じ難い。
 
登(リテ)2筑波(ノ)山(ニ)1詠(メル)v月(ヲ)歌〔左○〕一首
 
○筑波山 「筑波岳《ツクバノタケ》」を見よ(八七四頁)。○詠月歌 「歌」原本にない。補つた。
 
(2507)天原《あまのはら》 雲無夕爾《くもなきよひに》 烏玉乃《ぬばたまの》 宵度月乃《よわたるつきの》 入卷※[立心偏+(又/玄)]毛《いらまくをしも》     1712
 
【歌意】 大空に雲もない夜に、その夜を經行く月の、山際に〔三字右○〕隱れることが惜しいわい。
 
〔評〕 筑波山上に見た月の特徴とては格別に出てゐないが、半天半地の高處における明月を想はせぬ事もない。「よひに」とあつて、又「夜わたる」は、なほ一推敲が欲しかつた。
  茜さす日は照らせれどぬば玉の夜わたる月の隱らくをしも(卷三、人麻呂―169)
は三句以下同じであつて、立意は全く別途。
 
幸《イデマセル》2芳野離宮《ヨシヌノトツミヤニ》1時歌二首
 
○幸芳野離宮時 何時とも決定し難い。「芳野離宮」は「吉野宮」を見よ(一四四頁)。△地圖及寫眞 挿圖 35(一一〇頁)47.48.49(一四五頁―一四七頁)を参照。
 
瀧上乃《たぎのへの》 三船山從《みふねのやまゆ》 秋津邊《あきつべに》 來鳴度者《きなきわたるは》 誰喚兒鳥《たれよぶこどり》     1713
 
〔釋〕 ○たぎのへのみふねのやま 「たぎのへ」及び「みふねのやま」を見よ(六四八頁)。○あきつ 「あきつのぬべ」を見よ(一四六頁)。○たれよぶこどり 誰れを喚ぶを呼子鳥にかけた。「よぶことり」は既出(二五一(2508)頁)。
【歌意】 宮瀧上方の、あの三船の山から、秋津野の方に、鳴いて來て飛び渡るは、そも〔二字右○〕誰れを喚ぶ、呼子鳥であるぞ〔四字右○〕。
 
〔評〕 芳野離宮の山野には呼子鳥が多かつたと見え、この外
  やまとには鳴きてか來らむ呼子鳥象の中山呼びそ越ゆなる(卷一、―70)。
  朝霧にしぬゝに沾れて呼子鳥三船の山ゆ鳴き渡る見ゆ(卷十―1831)
などの作がある。秋津野は離宮の所在地で、折しも行幸時とすれば、従駕の官人や雜卒が往來出入してゐたであらう。そこへ三船の山奥から飛んで來て、呼子鳥が鳴く。名稱からの聯想で、誰れを呼ぶのかしらと一不審を打つのも亦當然の歸結であらう。隨つてこれはさう寂しい環境の呼子鳥ではなからう。
  春日なる羽買の山ゆ佐保のうちへ鳴きゆくなるは誰れ呼子鳥(卷十―1827)。
來ると往くとの相違こそあれ、結構は全く同一。
 
落多藝知《おちたぎち》 流水之《ながるるみづの》 磐觸《いはにふり》 與杼賣類與杼爾《よどめるよどに》 月影所見《つきのかげみゆ》     1714
 
〔釋〕 ○いはにふり 舊訓イハニフレ〔五字傍線〕。
【歌意】 落ちたぎつて流れる水が、岩に觸れ障へられて〔五字右○〕、淀んでゐるその〔二字右○〕淀に、月の影がさして見えるわ。
 
(2509)〔評〕 宮瀧の激湍即ち「落ちたぎち流るゝ水」は、急に迫つた兩岸の岩壁に狹められ、河身は屈曲して、暫く深淵を成してゐる、それが「よどめる淀」である。されば岩壁の上流と下流とでは全く別天地の景觀に接する。急瀬激湍の間は月光が徒らに反射されたばかりであつたが、この河淀には圓月がその影を亂さずぼかんと浮んでゐる。清爽の感、幽寂の情、得意想ふべしである。上の動的景象は下の靜的景象を引立て、「よどめる淀」の疊言は、死の如き水の状態を力強く印象づける。
 この歌は作者の自力に任せて自然をこなして寫出したもので、人籟の優れたものと稱へてよい。
 
右三首、作者未詳。
 
〇三首 上の筑波山の歌にまでかけて數へた。契沖以來、二〔右△〕首の誤としたのは誤認。
 
槐〔左△〕本《ヱニスノモトガ》歌一首
 
○槐本 この次々の歌、題詞に氏をのみ記してあるから、これも氏であらう。が槐本氏は物に所見がない。本の誤か。柿本氏の人は數名續紀にも出てゐるが、人麻呂の外に歌人はない。次の歌の「山上」が憶良作であるので推すると、これは人麿作であるらしい。
 
樂波之《ささなみの》 平山風之《ひらやまかぜの》 海吹者《うみふけば》 釣爲海人之《つりするあまの》 袂變所見《そでかへるみゆ》     1715
 
〔釋〕 ○ささなみの 「ささなみ」を見よ(一二五頁)。「樂浪」も同項を見よ。○ひらやま 比良山。近江國滋賀(2510)郡、北滋賀の木戸小松兩村に亘り、琵琶湖の西岸に屹立する。標高九六〇來突。山下の出崎は明神崎(小松崎)である。なほ「ひらのみなと」を參照(六九八頁)。○うみふけば 海は淡海の海即ち琵琶湖のこと。○そでかへる 袖が飜る。「袂」は袖に借りた。「變」は借字。△地圖及寫眞挿圖 199(六九九頁)200(同上)を參照。
【歌意】 比良の山風が湖上を吹くと、釣舟の海人の、袖の飜るのが見えるわ。
 
〔評〕 蒼茫として涯もない大湖の波上、そこには只一葉の釣舟が浮流してゐるのみであつた。作者は暫く諦視してこの大自然の懷に抱擁され、殆ど呆然たる状態にゐたらしい。忽ちその靜寂を破る比良山風の吹きおろしに、湖面は颯と鱗々の波を生じ、釣する海人の子の袖が吹き煽られてはためく。靜中の動致、作者は自然に從順して、極めて正直にありのまゝを歌ひ、風調清絶、一點の塵垢もとめない。歌聖人麻呂ならではと思はれる神品である。
 
山(ノ)上(ノ)歌一首
 
○山上 憶良のこと。この歌卷一に出て、題詞に幸(セル)2于紀伊國(ニ)1時、川島(ノ)皇子(ノ)御作歌、或云(フ)、山上(ノ)臣憶良(ガ)作(メリ)とある。同條を見よ(一三九頁)。
 
白那彌之《しらなみの》 濱松之木乃《はままつのきの》 手酬草《たむけぐさ》 幾世左右二箇《いくよまでにか》 年薄經濫《としはへぬらむ》     1716
 
〔釋〕 ○まつのきの 卷一には「まつが枝〔二字右△]の」とある。○としは 卷一には、「年乃〔右△〕」とある。「薄」本音ハを用ゐ(2511)てク韻を略した。
 
右一首、或云(フ)、河島(ノ)皇子(ノ)御作(ト)。
 
春日《カスガガ》歌一首
 
○春日 春日(ノ)藏首《クラヒト》老のことか。既出(二三一頁)。
 
三河之《みつかはの》 淵瀬物不落《ふちせもおちず》 左提刺爾《さでさすに》 衣手沾〔左△〕《ころもでぬれぬ》 干兒波無爾《ほすこはなしに》     1717
 
〔釋〕 ○みつかは 近江國滋賀郡南坂本|穴太《アナホ》にある今の四谷川のことか。穴太は成務天皇の志賀(ノ)高|穴穗《アナホノ》宮の故地で、そこに接した湖津を御津《ミツ》といひ、そこに流れ入る川を御津川と呼んだ。保元物語、渡平盛衰記にも三河尻《ミツカハジリ》の名稱がある。○ふちせもおちず 「ぬるよおちず」を見よ(四五頁)。○さでさすに 小網刺すによつて〔三字右○〕。「さでさしわたし」を見よ(一五五頁)。○ぬれぬ 「沾」原本に湖〔右△〕とあるは誤。契沖説による。眞淵は潤〔右△〕、千蔭は濕〔右△〕の誤とした。
【歌意】 御津川の淵も瀬も、一つ殘さず小網《サデ》刺すので、衣は沾れたわ、乾してくれるかの女とてもないのにさ。
 
(2512)〔評〕 作者と御津川との因縁はわからない。旅に居て御津川に川狩をした感興か。その濡れ衣から忽ち故郷の「乾す兒」に聯想は飛んで、離愁に耽つた。「淵瀬もおちず小網さす」は誇張もあらうが、三津川の小川に過ぎないことが知られる。
 
高市《タケチガ》歌一首
 
○高市 高市連黒人か.。既出(二二五頁)。
 
足利思代《あともひて》 ※[手偏+旁]行舟薄《こぎゆくふねは》 高島之《たかしまの》 足速之水門爾《あどのみなとに》 極爾監〔左△〕鴨《はてにけむかも》     1718
 
〔釋〕 ○あともひて 既出(五三四頁)。○こぎゆくふねは 漕ぎにし船は〔六字傍点〕と過去にいふべきを現在叙法にした變格。○あどのみなと 安曇の湊。船木《フナキノ》港のこと。「あどかは」を見よ(二〇一八頁)。○はてにけむ 「監」原本に濫〔右△〕とあるは誤。類本、神本等による。古義は「爾」を去〔右△〕の誤とし、濫を元のまゝとして、ハテヌラムの一訓を提出した。△地圖 挿(2513)圖 202(七〇一頁)を参照。
【歌意】 連れ立つて漕ぎ出した船は、高島の安曇《アド》の湊に、著いてしまつたことであらうかまあ。
 
〔評〕 それともまた後れたのか知らの餘意がある。大津から北上したのか、鹽津菅浦又は海津邊から南下したのか。とにかく安曇の湊の假泊が豫定だつたと見える。この邊は漫々たる大湖で、後れ先立つて何時か友船の影を見失つた寂寥感と恐怖感とは綯ひ交ぜになつて、ひたすらその行方を心配してゐる。舟旅の作として上乘。
 
春日(ノ)藏首〔左○〕《クラヒトガ》歌一首
 
○春日藏首歌 「首」の字原本にない、補つた。上の例によれば藏首の姓は記さぬ筈だが、古記には、こゝには姓が書かれてあつたので、左註にその辯明がある。下出の題詞もすべて統一がないから、こゝをのみ改むべきでない。
 
(2514)照月遠《てるつきを》 雲莫隱《くもなかくしそ》 島陰爾《しまかげに》 吾船將極《わがふねはてむ》 留不知毛《とまりしらずも》     1719
 
【歌意】 この照る月を、雪は隱すなよ。島の陰に、わが船の著かうとする〔三字右○〕、泊がわからぬわい。
 
〔評〕 一葉舟に托して、風浪の穩かな島陰を求めては假泊してゆく。現今と違ひ、目標になる漁村の燈火も尠からうから、月明りが唯一の頼りだ。隨つてわづか一片の雲も、舟航者をして生命の不安を感ぜしめる。
  大葉山かすみたなびき小夜ふけてわが船はてむとまり知らずも(卷七、―1224)
と同趣の作。
 以上山上(ノ)歌の「白浪の濱松の木」を除けば、皆近江歌である。さてはこの春日(ノ)藏首の歌も、淡海湖上の作かも知れない。湖上にはその南北に島嶼が相當散在してゐる。
 
右一首、或本(ニ)云(フ)、小辯(ガ)作(メリト)也。或(ハ)記(シテ)2姓氏(ヲ)1無(ク)v記(スコト)2名字(ヲ)1、或(ハ)※[人偏+稱の旁](ヘテ)2名號(ヲ)1、不v※[人偏+稱の旁](ヘ)2姓氏(ヲ)1。然(モ)依(リテ)2古記(ニ)1便(チ)以(テ)v次《ツイデヲ》載(ス)、凡如(キ)v此(ノ)類、下皆效(フ)v焉(ニ)。
 
右の一首の歌は或本には小辯が作だとある。さてこの邊の題詞、或は槐〔右△〕本歌、山上歌、春日藏首の如く氏姓を記してその名を書かず、或は元仁歌、絹歌の如く、名號を記して姓氏を書かない。甚だ亂雜だが、古記のまゝに順序を遂うて書き載せた。すべてこのやうな類は、下記の題詞もこれに準じてゐるとの意。○小辯 少辨の誤か。傳不明。
 
(2515)元仁《グワンニンガ》歌三首
 
○元仁 傳未詳。或は僧侶か。
 
馬屯而《うまなめて》 打集越來《うちむれこえき》 今日見鶴《けふみつる》 芳野之川乎《よしぬのかはを》 何時將顧《いつかへりみむ》     1720
 
〔釋〕 ○うまなめて 既出(三六頁)。眞淵訓による。童本訓コマナベテ〔五字傍線〕。「屯」をナメテ〔三字傍線〕と讀むは聚の意訓。△地圖 挿圖 35(一一〇頁)を參照。
【歌意】 友人等と〔四字右○〕、馬を乘り並べて、一團となつて野山を〔三字右○〕越えて來て、今日見たこの〔二字右○〕吉野の川を、何時また立返つて見ようぞ。
 
〔評〕 吉野の瀧の景勝には萬葉人は陶醉し、「又返り見む」とか「見れど飽かぬ」とか、極り文句を反復してゐる。そしてこれは、
  馬並めて吉野の川を見まくほり打越え來てぞ瀧にあそびつる(卷七―1104)
  かはづ鳴く清き川原を今日見ては何時か越え來て見つゝしぬばむ(同上―1105)
の二首を搗き交ぜて一首に纏めたやうな作である。
 この打群れて馬並めた人達は、下の歌の作者島足や麻呂等であらう。なほ卷七「馬並めて吉野の川を」の條の評語を參照(一九〇三頁)。
 
(2516)辛苦《くるしくも》 晩去日鴨《くれゆくひかも》 吉野川《よしぬがは》 清河腹乎《きよきかはらを》 雖見不飽君《みれどあかなくに》     1721
 
【歌意】 わびしくもまあ、暮れてゆく、今日の日かまあ、吉野川の清い河原を、見ても/\飽かぬのにさ。
 
〔評〕 行楽に日もこれ足らぬ趣で、平凡な感想ながら、集中にこの種の作は殆どない。不思議といふべしだ。但おなじ「苦しくも」でも、卷三の「三輪が埼」の詠には到底匹敵すべぐもない。もと/\これは遊賞の樂事だから、輕い氣分のものである。
 
吉野川《よしぬがは》 河浪高見《かはなみたかみ》 多寸能瀬〔左△〕乎《たぎのせを》 不視歟成嘗《みずかなりなむ》 戀布眞國《こほしけまくに》     1722
 
〔釋〕 ○たぎのせ 「たぎ」は吉野の瀧即ち蜻蛉の瀧つ瀬のこと。「たぎのみやこ」を見よ(一四八頁)。「瀬」原本に浦〔右△〕とあるに就いて、契沖は、瀧のあたりの入江のやうなる處といひ、略解は、浦は裏なりといひ、古義は、大瀧の裏なりといつた。抑も蜻蛉《アキツ》の瀧に入江を詠んだ歌は一つもないし、よしあつたとしても、「戀しけまくに」は矢張主景たる瀧でなければなるまい。又瀧の裏は實際を知らぬ妄説で、蜻蛉の瀧でも大瀧(西河の瀧)でも、激瑞であつて瀑布ではないから、裏などありはしない。これは全く浦は瀬〔右△〕の誤である。〇こほしけまくに 戀しからむにの意。「こほしけむ」を見よ(七五四頁)。眞淵訓コヒシケマクニ〔七字傍線〕。
【歌意】 吉野川の河波が高さに、面白い瀧の瀬を、見ずになるであらうか、さらば後々までも〔八字右○〕、戀しからうにな(2517)あ。
 
〔評〕 吉野川の水嵩が生憎に増し、河波が高いので、例の數丁に亘る岩床の水簾が、波下に浸入して見られない。吉野に來てこの瀧つ瀬の美觀に接しないのは來ぬのと同じだ。萬千の遺憾は將來までも「戀しけまくに」といふに至つて極まる。
 
絹《キヌガ》歌一首
 
〇絹 人名であらう。或は婦人か。
 
河蝦鳴《かはづなく》 六田乃河之《むつだのかはの》 川楊乃《かはやぎの》 根毛居侶雖見《ねもごろみねど》 不飽君鴨《あかぬきみかも》     1723
 
〔釋〕 ○かはづなく 六田を修飾した序。今でも六田邊は河鹿が盛んに鳴く。「かはづ」は既出(七八七頁)。○むつだのかは 六田の淀ともいふ。吉野川を六田《ムタ》にて稱する。六田は吉野郡に屬し、大淀村から吉野村に入る渡津のある處。今は楊柳があつて、俗に柳の渡しといふ。○かはやぎの 「かはやぎ」は川ヤナギの略。「かはやなぎ」は前出(二〇八七頁)。以上三句は四句の「ねもごろ」の「ね」にいひ懸けた序。 △寫眞挿圖 286(九五九頁)を參照。
【歌意】 六田の淀の川楊の根といふ、ねんごろに見ても/\飽かぬ貴方樣かまあ。
 
〔評〕 作者は六田人であらう。吉野探勝の爲に來た都人達へ呈した歡迎の詞である。おなじ「ねもごろ」でも、川(2518)楊の根は土地人の口吻である。初二句と三四句とは排對してゐる。尚「ねもごろ」に就いては、巻四「足引の山におひたる菅の根の」の條の評語を參照(一二〇四頁)。
 
島足《シマタリガ》歌一首
 
○島足 傳未詳。
 
欲見《みまくほり》 來之久毛知久《こしくもしるく》 吉野川《よしぬがは》 音清左《おとのさやけさ》 見二友敷《みるにともしく》     1724
 
〔釋〕 〇ともしく 契沖訓による。舊訓、古義訓トモシキ〔四字傍線〕。
【歌意】 見たく思うて、來たまあその甲斐があつて、吉野川は、水音が亮かであることわ、又見るに面白くてさ。
 
〔評〕 耳に眼に、どの感覺からもよい處だと賞讃した。二句と結句とが、形容詞の同詞態で中止されてゐるのは、不快を免れない。
 
麻呂(ガ)歌一首
 
○麻呂 傳未詳。
 
古之《いにしへの》 賢人之《さかしきひとの》 遊兼《あそびけむ》 吉野川原《よしぬのかはら》 雖見不飽鴨《みれどあかぬかも》     1725
 
(2519)【歌意】 昔の賢い人が、好んで遊んだであらう、この〔二字右○〕吉野の河原は、見ても/\飽きないことかまあ。
 
〔評〕 吉野の名義は古言|曳之努《エシヌ》(紀記)、轉じて吉野《ヨシヌ》で、よき野といふ地稱である。何人がさういひ初めたかは分明でないが、天武天皇の御製には、
  よき人のよしとよく見てよしといひし吉野よく見よよき人よくみつ(卷一―27)
と遊ばされ、その頃仙道僧道を修する者の巣窟であつたことは、既に再三縷述した。役(ノ)小角、柘之枝《ツミノエ》仙、大伴仙、安曇仙、久米仙の類、皆いはゆる賢き人で、何れも吉野に住み、又は出入したのだから、この河原に遊んだであらうことは、想像に餘ある。で懷古の情を勝景に寓せて、「見れど飽かぬ」の意を肯諾せしめようと強ひた。
 
右、梯本(ノ)朝臣人麻呂之歌集(ニ)出(ヅ)。
 
丹比眞人《タヂヒノマヒトガ》歌一首
 
○丹比眞人 誰れとも定め難い。
 
難波方《なにはがた》 座干爾出而《しほひにいでて》 玉藻苅《たまもかる》 海未通等《あまのをとめら》 汝名左禰《ながなのらさね》     1726
 
〔釋〕 ○をとめ 「末通」の下女〔右○〕の脱。或はわざとの略書か。○ながなのらさね 「なのらさね」を見よ(一一頁)。
(2520)【歌意】 難波潟の汐干に打出て、藻草を刈る、海人の處女達よ、お前の名を名|告《ノ》んなさいよ。
 
〔評〕 男に對して女が自らその名を教へることは、その懸想を肯諾した意味になる。この習俗に就いては、卷一、雄略天皇の御製の「名告らさね、家聞かな」の條の評語(一六頁)にいひ盡した。
 「玉藻刈る海人の處女」は次の返歌によつて見れば、難波の浦で見懸けた良家の娘を、戯に海人に比擬して挑んでみたものと見られる。だからその戀は眞劍なものではなく、ほんの旅の慰さのからかひ半分の小當りに過ぎない。
 
和(スル)歌一首
 
○和歌 海人の〔三字右○〕和ふる歌である。
 
朝入爲流《あさりする》 海〔左○〕人跡乎見座《あまとをみませ》 草枕《くさまくら》 客〔左○〕去人爾《たびゆくひとに》 妻者不教〔左△〕《つまとはのらじ》     1727
 
〔釋〕○あまとを 「を」は強辭。「海」原本にない、補つた。○つまとはのらじ 「教」原本に敷〔右△〕とあるは誤。略解説による。
【歌意】 私をたゞの〔五字右○〕、漁する海人とまあ、御覽なさいませ。行摺りの旅の人など〔二字右○〕に、妻としては名を〔二字右○〕申しますまい。
 
〔評〕 「求食する海人とを見ませ」の口振は、この作者が求食りする海人でないことを反證する。難波人の良家の(2521)娘らしい。
 當時旅行く人に妻と名告る者は、この難波から住吉邊に澤山住んで居たものだ。暗裏にそれを對象として、既に御覽の通りに私を海人の子と看過されたがよい、そんなお詞はお門違ひでせう、と皮肉つた。「旅ゆく人に妻とは告らじ」は頗るハツキリした拒絶である。この娘なか/\しつかり者だ。
 
石河(ノ)卿《マヘツギミノ》歌一首
 
○石河卿 石川氏の公卿を求めると、この時代には年足《トシタル》の外にない。續紀、寶字六年の條に、年足は後(ノ)岡本(ノ)朝の大臣大紫蘇我(ノ)臣|牟羅志《ムラシ》が曾孫、平城(ノ)朝の左大辨從三位|石足《イハタル》の長子なり。率性廉勤治體に習ふ。家より起ち少判事に補し、頻に外任を歴、天平七年從五位出雲守にて事を視ること數年、百姓これに安んず。同九年從四位兼左中辨に至り、參議に拜す。勝寶五年從三位、遷つて中納言兼文部(ノ)卿、神祇(ノ)伯に至る。公務の間唯書を悦ぶ。寶字二年正三位、御史大夫に轉ず。別式二十卷を作る。寶字六年九月薨ず。年七十四。その墓誌は攝津國|島上郡|眞上《マガミノ》郷(ノ)光徳寺村より發掘された。
 
(2522)名草目而《なぐさめて》 今夜者寐南《こよひはねなむ》 從明日波《あすよりは》 戀鴨行武《こひかもゆかむ》 從此間別者《こゆわかれなば》     1728
 
〔釋〕 ○こゆ 此處にの意。前出(二二七三頁)。
【歌意】 相慰めて、今夜はとにかく寐ようぞ。明日からは定めし〔三字右○〕、戀ひ想ひつゝ旅〔右○〕行くであらうかまあ、此處で別れようならば。
 
〔評〕 任地を去るに臨んでその寵妾との別離か、或は客遊の間一時的に聘した或女との別離か、詳しいことはわからぬ。初二句の柔腸軟語、耳の痒きを覺ゆる。
 
宇合《ウマカヒノ》卿(ノ)歌三首
 
○宇合卿 「式部(ノ)卿藤原(ノ)宇合」を見よ(二五六頁)。
 
暁之《あかときの》 夢所見乍《いめにみえつつ》 梶島乃《かぢしまの》 石越浪乃《いそこすなみの》 敷弖志所念《しきてしおもほゆ》     1729
 
〔釋〕 〇かぢしま 場處不明。竹〔右△〕島、高〔右△〕島などの誤寫か。この歌は、
  夢にのみづきてみゆるに竹島の磯越す波のしく/\念ほゆ(卷七―12136)
(2523)と處々字句は變つてゐるが、畢竟同歌である。卷七の同歌の條を見よ(二〇一七頁)。
 
山品之《やましなの》 石田乃小野之《いはたのをぬの》 母蘇原《ははそはら》 見乍哉公之《みつつやきみが》 山道越良武《やまぢこゆらむ》     1730
 
〔釋〕 ○いはた 山城国字治郡醍醐村石田。今イシダといふ。石田神社あり、今田中明神といひ、天(ノ)穂日《ホヒノ》命を祀る。神名式に久世郡石田神社とあるが、郡界は時によつて出入があるから、拘泥するに及ばぬ。山科の野の最南部に當る。○ははそはら 柞の林をいふ。「ははそ」はハウソと訛つてもいふ。これに二説ある。一は小楢の種類で、秋薄く紅葉するものとし、一は柏《カシハ》のことゝする。柏は山地に自生する殻斗科の落葉喬木で、葉は柏餅に用ゐられ、樹皮は染料に用ゐる。
【歌意】 山科の石田の小野の、柞林を〔右○〕見い/\して、貴方が山路を、お越えなさらうことか。
 
〔評〕 石田神社の社後は日野の丘陵地で、短い急坂を登れば、道傍は今でも林叢を處々に見る位だから、昔は柞が林立してゐたであらう。この道は宇治から木幡を左に見て山科の野を縦斷し、逢坂を經て近江に出る本道で(2524)ある。それだけおなじ山路でも幾分安易な氣分で、旅人の征途をつぶさに思念してゐる。
 作者を必ず宇合卿とすれば、その知人の旅情を思ひ遣つたものとなるが、この下句に含んだ情緒は、家妻の征夫を思ふ場合に多く歌はれてゐる。次の歌には、宇合卿自身が現にその石田の森を踏破してゐる。この二つを湊合して考へると、この歌は宇合卿の作ではなくて、宇合卿の妻たる人の作であることは疑ふ餘地がない。されば題詞は委しくは、この歌には宇合卿〔三字右○〕(ノ)妻(ノ)歌、次のには宇合卿(ノ)和(フル)歌〔五字左○〕とあるべきだ。但この卷は總べての題詞が簡略に記録されたので、宇合卿關係の作を一括して、「宇合卿(ノ)歌三首」と題したらしい。
 
山科乃《やましなの》 石田社爾《いはたのもりに》 布靡越者《ふみこえば》 蓋吾妹爾《けだしわぎもに》 直相鴨《ただにあはむかも》     1731
 
〔釋〕 ○いはたのもりに 石田の森にて〔右○〕の意。○ふみこえば 手向もせずに只通り過ぎるをいふ。舊訓による。眞淵は「越」を勢〔右△〕の誤とし、略解は「靡越」を麻勢〔二字右△〕の誤とし、(2525)共にタムケセバ〔五字傍線〕と訓んだ。古義も同訓。
【歌意】 山科の石田の森で、そのまゝ踏み越えて行くならば、さやうさ、吾妹子に、すぐに逢へようかまあ。
 
〔評〕 眞の神意は別として、凡人の心に映る神には凡人らしい心證が與へられ、半神半人にまで下落する。で色色な語り草が發生するのは世界的である。石田の神もそんな事から、戀愛をお嫌ひなさる神樣と信ぜられてゐたのだらう。さればうつかり參拜すると、
  山しろのいは田の杜に心おぞく手向けしたれや妹に逢ひがたき(卷十二―2856)
といふやうな次第になる。その代り反對に、委細構はず遮二無二に踏み越えて行けば、逆効果で或は逢はれもせうか、との途方もない一案を立てた。それ程に戀の試練は苦しい。
 
碁師《ゴシガ》歌二首
 
○碁師 碁打のこと。三代實録(卷十三)紀(ノ)夏井傳中にもこの語あり、書家を手師、僧を法師といふに同じい。名は不明。
 
祖母山《おほばやま》 霞棚引《かすみたなびき》 左夜深而《さよふけて》 吾舟將泊《わがふねはてむ》 等萬里不知母《とまりしらずも》     1732
 
〔釋〕 ○おほばやま 近江國高島郡の西偏に、今|饗庭《アヒバ》野と稱する臺地がある。アヒバはオホバの訛か。「祖」の字(2526)原本にない。宣長説によつて補つた。又大〔右△〕の落字と見てもよい。
 この歌卷七には、初句「大葉山」とあつて、既出(二〇〇六頁)。
 
思乍《おもひつつ》 雖來來不勝而《くれどきかねて》 水尾崎《みをがさき》 眞長乃浦乎《まながのうらを》 又顧津《またかへりみつ》     1733
 
〔釋〕 ○おもひつつ 古義訓シヌビツヽ〔五字傍線〕。○みをがさき 「みを」は水脈の義で、今高島郡に三尾の里あり、その南偏を流れて湖水に入る川を鴨川と稱する。この川の砂洲の出崎が三尾の崎である。地名辭書に明神崎の事とするはその理由がない。この出崎から南勝野の湊(今の大溝)に至る長濱が眞長の浦か。尚「みを」を見よ(一九六一頁)。○まながのうら 上項を見よ。○かへりみつ 強い意では立返り見る。輕い意では顧るとなる。本文「顧」の字を充てたのは、その輕い意であることを證する。△地圖1挿圖 202(七〇一頁)を參照。
【歌意】 心に面白く思ひ浮べつゝ來れど、景色のよさに〔六字右○〕過ぎ來かねて、水尾が崎の〔右○〕眞長の浦を、又振返つて見たわい。
 
〔評〕 大體は湖上の舟行らしいが、陸上での作と見えぬこともない。又遊覽の意ではなく、眞長の浦に人を懷ふの作とも見られる。
 
小辯(ガ)歌一首
 
(2527) ○小辯 この名再三既出。少辨〔右△〕の誤か。
 
高島之《たかしまの》 足利湖乎《あどのみなとを》 ※[手偏+旁]過而《こぎすぎて》 鹽津菅浦《しほづすがうら》 今香〔左△〕將※[手偏+旁]《いまかこぐらむ》     1734
 
〔釋〕 ○しほづ 近江國淺井郡鹽津村。鹽津山(賤が嶽)の西麓の湖邊の小港。なほ「鹽津山」を見よ(八四二頁)。○すがうら 近江國伊香具郡朝日村。葛尾《カツラヲ》崎の西側にあり、鹽津の東南二里半、船木港を北へ距ること五里。○いまか 「香」原本に者〔右△〕とある。藍本古葉本神本等による。△地圖 挿圖 202(七〇一頁)247(八四四頁)を參照。
【歌意】 自分の知る人の舟は〔自分〜右○〕、高島の安曇の湊を漕ぎ通つて、鹽津菅浦あたりを、今漕ぎ渡るであらうかしら。
 
〔評〕 「安曇の湊を漕ぎ過ぎて」の口吻から推すと、安曇の南方からその船の出發した事は明らかで、或は勝野《カチヌ》(大溝)あたりからの解纜であらう。一直線に行けば鹽津までは約八里、和船一日の航程としては、少し手張る。順風で船足が速ければ鹽津まで乘り込めるし、遲ければ菅浦泊りだ。作者はその日の夕暮方湖水に臨んで、懇に故人の船の行手を追想し、近い安曇の湊から、遠く水雲蒼茫の間に菅浦鹽津を望んで、その旅情を悲しんだ。かくて「今か」が印象深い下語となる。その深切な情味の響は飽くまで聽者の胸を搖り動かす。主語の略かれたのも簡淨でよい。
 鹽津菅浦は地理的順序が前後してゐる。が、語調の整理上止むを得ない。これに類する措辭が、他にもまゝある。
 
(2528)伊保《イホ》麻呂(ガ)歌一首
 
○伊保麻呂 傳未詳。
 
菅〔左△〕疊《すがだたみ》 三重乃河原之《みへのかはらの》 礒裏爾《いそのうらに》 如是雁〔左○〕鴨跡《かばかりかもと》 鳴河蝦可物《なくかはづかも》     1735
 
〔釋〕 ○すがだたみ 菅疊。すべて疊は編《ヘ》て造る、故に菅疊は三重《ミヘ》の重《ヘ》にかけた枕詞。記の神武天皇の御製にも「菅疊いやさや敷きて」と見えた。この疊にする菅は山菅ではない。莎草科の沼菅などの類であらう。「菅」原本に吾〔右△〕とある。誤と見て改めた。○みへのかはら 三重の河原。伊勢國三重郡三重川の河原。三重川は今|内部《ウツベ》川といふ。采女《ウネメ》川の訛である。鎌岳、入道岳より發源し、葦田、采女二郷を過ぎ、潮濱にて海に入る。今采女町の附近に河原田の稱がある。大安寺資財帳に「三重郡采女(ノ)郷十四町、四至、東公田、南岡山、西百姓宅、北三重河之限」とある。○いそのうら 磯の浦。亂石のある入江をいふ。磯は石處《イソ》の義で、池、川、海、(2529)何處にてもいふ語。古義に磯の内《ウチ》と解したのは當らぬ。○かばかりかもと 舊訓は本文のまゝでかく訓み、契沖は「是」の下に雁〔右○〕を補つた。古義の訓はカクシモガモ〔二字傍線〕。抑もこの句が唐突で、何をさして「かばかり」或は「かくしも」といつたのかわからない。わからないのが當然、「如是雁鴨」は河蝦《カジカ》のカラ/\コロ/\カラ/\と鳴くその擬聲に意味を與へた獨立語で、丁度時鳥の聲を程時スギヌ〔五字傍点〕または天邊掛ケタカ〔六字傍点〕と聞くと同樣なものだ。然るに新考に旋頭歌の訛傳として云々したのは論外とし、古來の注者また全然氣が付かなかつた。「雁鴨」は戯書。△地圖 挿圖 89(二八一頁)を參照。
【歌意】 三重の河原の磯の浦に、から/\ころ/\「コレダケノ事ヨ」と鳴く、河蝦《カジカ》であることよ。
 
〔評〕 奈良人は常習的に河蝦の聲を、戯にはさうと聞き做したのであらう。
 
式部大倭《ノリノツカサノオホヤマトガ》芳野(ニテ)作(メル)歌一首
○式部大倭 式部省の官吏大倭(ノ)某のこと。大倭は氏か。傳未詳。
 
山高見《やまたかみ》 白木綿花爾《しらゆふばなに》 落多藝津《おちたぎつ》 夏身之河門《なつみのかはと》 雖見不飽香聞《みれどあかぬかも》     1736
 
〔釋〕 ○なつみのかはと 「なつみのかは」(八六二頁)及び「かはと」(一一三〇頁)を見よ。
 この歌、四句の外は、卷六、笠金村の長歌の反歌に同じい。同歌の條の評繹(一六三頁)を見よ。
 
(2530)兵部川原《ツハモノヽツカサノカハラガ》歌一首
 
○兵部川原 兵部省の官吏川原(ノ)某のこと。川原は氏か。傳未詳。
 
大瀧乎《おほだきを》 過而夏箕爾《すぎてなつみに》 傍居〔左△〕而《そひをりて》 淨河瀬《きよきかはせを》 見河明沙《みるがさやけさ》     1737
 
〔釋〕 ○おほだき 大和國吉野郡西河の瀧のこと。河床の岩が迫つて河水が激湍を成して流下してゐる。西河は吉野川の本流で、東河の高見川に對しての稱。○なつみにそひをりて 夏箕(菜摘)の岸に寄り傍うてゐて。「なつみ」は「なつみのかは」を見よ(八六二頁)。「居」は原本に爲〔右△〕とある。宣長説によつて改めた。○あるがさやけさ 「さやけさ」は氣持のさはやかな意に用ゐた。景色の上ではない。「河明沙」は戯書の意あるか。△地圖 挿圖 35(一一〇頁)を参照。
(2531)【歌意】 大瀧を通り過ぎて、川下の夏箕の岸に寄り傍うてゐて、清いこの河原を見ることが、氣持のよい事さ。
 
〔評〕 大瀧の邊は兩山相迫つて日光を遮蔽し、河幅は挾まつて一大瀑となる。それから流に沿うて下ること五里。夏箕の里に入ると、風光は濶然として聞け、曩の大瀧とは打つて變つた、まことに親み易い清き河瀬となる。されば作者は「傍ひ居りて」、低回去りかねるのである。大瀧と夏箕との明暗兩景の對照、「見るがさやけさ」と、夏箕に膠著してしまつた作者の態度、吉野情調が面白くいひ盡されてある。
 
詠(メル)2上總末珠名娘子《カミツフサノスエノタマナヲトメヲ》1歌〔左○〕一首并短歌
 
上總(ノ)國|周淮《スヱ》郡の珠名娘子を詠んだ歌との意。○末 普通は周淮と書く。本義は陶《スヱ》であらう。國造本紀に須惠《スエノ》國と出てゐる。この郡今は君津都となる。その飯野村に二間《フタマ》塚と稱する前方後圓の約一町に亙る古墳が一基ある。(地名辭書に二基とあるは誤)。里人或は珠名の墓とするは無稽で、これは必ず周淮の國造の墓と思はれる。但その邊、大塚、美人塚など古墳が無數だから、その中に珠名の墓があらうも知れぬが、今は辨へ難い。○珠名娘子 傳未詳。珠《タマ》が女の名で、名《ナ》は親稱であらう。眞間の手古奈の奈も同意。
 
水長鳥《しながどり》 安房爾繼有《あはにつぎたる》 梓弓《あづさゆみ》 末乃珠名者《すゑのたまなは》 胸別之《むなわけの》 (2532)廣吾妹《ひろきわぎも》 腰細之《こしぼその》 須輕娘〔左△〕子之《すがるをとめ》 其姿之《そのかほの》 端正爾《きらきらしきに》 如花《はなのごと》 咲而立者《ゑみてたてれば》 玉桙乃《たまほこの》 道行人者《みちゆきびとは》 己行《おのがゆく》 道者不去而《みちはゆかずて》 不召爾《よばなくに》 門至奴《かどにいたりぬ》 指並《さしなみの》 隣之君者《となりのきみは》 預《あらかじめ》 己妻離而《おのづまかれて》 不乞爾《こはなくに》 鎰左倍奉《かぎさへまだす》 人乃皆《ひとのみな》 如是迷有者《かくまどへれば》 容艶《かほよきに》 縁而曾妹者《よりてぞいもは》 多波禮弖有家留《たはれてありける》     1738
 
〔釋〕 ○しながどり 既出(一九三七頁)。こゝは安房《アハ》に係る枕詞。「しながどり」(鳩《ニホ》)は、常に水面に出没して人目に立つので、「しなが鳥|彼者《アハ》」を安房《アハ》の地名にいひ懸けた。古義に尻長《シナガ》鳥|表羽《ウハハ》をいひ懸けたるかとあるは牽強である。「水」をシと讀むは字音。本音はスヰであるが、式イの切で紙韻に屬する。○あはにつぎたる 安房郡に續いた。周淮《スヱ》の郡名に對したのだから國名の安房ではない。○あづさゆみ 弓には常に本末をいふ。その末をいひ懸けて周淮《スヱ》の枕詞とした。「あづさゆみ」は既出(三二四頁)。○むなわけのひろき 胸の間の廣い。この胸別は鹿の胸分《ムナワケ》とはその意を殊にする。眞淵訓による。舊訓ヒロケキ〔四字傍線〕はその語例がない。○こしぼそのすがるをとめの 腰の細い※[虫+果]羸《スガル》のやうな〔四右○〕處女。※[虫+果]羸なす腰細《コシボソ》處女といふに同じい。六言の句。「之」は(2533)衍字。○すがる ※[虫+果]羸。膜翅類の昆蟲。細小なる蜂で、その色赤黒色。よく筆管や戸※[片+(戸/甫)]などの小さい穴に卵を産し、その食料として蜘蛛などの小蟲を一緒に封じておく。古人はその孵化した蜂を見て蜘蛛が蜂になつたものと速了し、似我《ジガ》蜂の稱を與へ、毛詩には螟蛉有v子など作られた。○そのかほ 「姿」をカホと讀むは意訓。○きら/\しきに 美しくて光あるにいふ。「端」は正しの意であるが、容姿の上では整つて美しいこと。故に端正、端麗なぞを紀にはキラ/\シと訓み、靈異記にも、端正は岐良岐良之《キラキラシ》とある。童本訓による。舊訓ウツクシケサニ〔七字傍線〕は非。○みちゆきびと 「道行人」は次に「おのが行く道」とあるから、避けて熟語に訓むがよい。略解及び古義訓はミチユクヒト〔六字傍線〕。○さしなみの 「隣」の枕詞。既出(一七九一頁)。舊訓及び古義訓はサシナラブ〔五字傍線〕。○あらかじめ 「預」は豫と同意。略解訓による。舊訓カネテヨリ〔五字傍線〕は非。古義は頓〔右△〕の誤字としてタチマチニ〔五字傍線〕と訓んだ。○かれて 離《カ》れて。「かれ」は離るゝこと、疎遠になること。○かぎ 「鎰」は鑰〔右△〕の書寫字。鑰は外から挿し込んで内の締りを開けるカギ。和名抄に鑰匙(ハ)門乃加岐《カドノカギ》、今案(ズルニ)、俗人印鑰之處(ニ)用(ヰルハ)2鎰(ノ)字(ヲ)1非也。楊氏漢語抄(ニ)云(フ)》、鉤匙(ハ)戸乃加岐《トノカギ》、※[金+巣]子(ハ)藏乃賀岐《クラノカギ》と。○まだす 献る、さしあぐるの意。たてまだす〔五字傍点〕の上略。たてまだす〔五字傍点〕は奉《タテマツ》り出《ダ》すの略語。類聚國史、告2柏原(ノ)山陵(ニ)1詞に奉出須止《タテマダスト》、續後紀の宣命に奉出須|此状《コノサマ》、三代實録、太政官(ノ)宣詞に奉出世利《タテマダセリ》と見え、その外、奉出、奉進、奉遣等の字を、荐にタテマダスと古史に訓んである。又タテを略したマツリダスは集中に「麻都里太須《マツリダス》形見の物を(卷十五)とあり、更に略したマダスは集中の古訓に「わが衣形見に奉《マダス》」(マツル)(卷四)、「心さへ奉有《マダセル》君に」(卷十一)など見える。舊訓マダシと中止形にしたのは非。古義はマダス〔三字傍線〕を全然卻けて、奉をマツル〔三字傍線〕とのみ訓んだ。○ひとのみな 古義はいふ、人皆乃〔二字左△〕《ヒトミナノ》とありしかと。○まどへれば 神本京本等の訓による。舊訓マドヘルハ〔五字傍線〕。○いもは 珠名をさす。○かほよきに 顔よき男〔右○〕に(2534)の略。上の「その姿《カホ》のきら/\しきに」は珠名の上、この「顔良き」は訪ひ寄る男の上だから重複しない。諸註これを見誤つて、宣長はウチシナヒ〔五字傍線〕、嚴水はトリヨソヒ〔五字傍線〕など訓んだのは、「容艶」の字義にも遠い。無用の辯である。○たはれ 戯れ、遊蕩などの意。
【歌意】 安房に續いた末(周淮)の珠名は、胸先のふつくりした吾妹で、※[虫+果]羸のやうな腰細の娘で、その容姿が光つて美しいので、恰も花の如く莞爾《ニコリ》として立つて居ると、往來する人は、自分のゆく道は忘れて、召びもせぬにその門に立ち寄つた。又その近處の者は、前以て自分の女房を振棄てゝ、頼みもせぬのに、大切の鑰をさへ珠名〔二字右○〕にさし出して、機嫌を取つた〔六字右○〕。皆の人がかうも夢中に騷ぐので、その中の〔四字右○〕器量のいゝ男に〔二字右○〕凭れ添うてさ、吾妹珠名はたはけて居つたことであるわい。
 
〔評〕 まづ雙頭的に地名に枕詞を冠しての一意行進だ。然し「安房に繼ぎたる――周淮《スヱ》」は、地理的には餘に大ザツパな叙述である。一體安房國は古來上總の分國みたやうな状態で、併合したり分離したりしてゐる。高橋氏(ノ)文に、景行天皇の行宮を上總(ノ)國安房(ノ)浮島(ノ)宮と書かれてある。養老二年、上總の平群、安房、長狹、朝夷四郡を割いて安房國を立て、天平十三年もとの如く上總に併合、寶字二年に又分置された。この歌は何時の作だか分らぬが、安房郡に周淮郡の直接に隣續することは決してない。間に長狹(安房國)天羽(上總國)の二郡が介在してゐる。或は安房を國名として「安房に繼ぎたる――上總國の〔四字右○〕周淮」の意を、周淮の地の著名なのに任せて、上總國の〔四字右○〕をいひおとしたものか、否周淮が昔から國名を稱してゐた習慣上、觀念的にかくいひ續けたものであらう。
(2535) 「胸別のひろき吾味、腰細のすがる娘子」は純然たる對偶だ。古代人は婦人の肉體美の一つとして、胸の美を擧げることを忘れなかつた。出雲風土記國引の文には「童女《ヲトメ》の胸鋤《ムナスキ》取らして」と見え、そのゆたかな胸形を愛でた。鈿女《ウズメノ》命が猿田彦(ノ)神に會つて胸乳《ムナヂ》を露はして見せたのも、流石の目勝《マカツ》神も挑發される程、ムツチリしてゐたものであつたらう。楚辭の大招に「滂心《ヒロキムネ》、綽態《タヲヤカナルスガタ》、※[女+交]麗《カホヨニ》、小腰《ホソキコシ》、秀(デタル)頭若(シ)2鮮卑(ノ)1只」とあり、支那の昔でも廣い胸細い腰を推賞した。腰細は又盛に婦人の姿態美の隨一に數へられ、遂に楚王宮中の餓死、梁冀が妻の折腰歩に至つて極まり、「歩く姿は百合の花」と諺にもいはれる。
 珠名はもと/\田舍娘だ。青丹吉奈良の京の姫君達と違つて、深窓の内に引込んでは居ない。即ち「その姿《カホ》のきら/\しきに、花の如咲みて立てれば」で、蕣花のやうな輝かしい顔を莞爾《ニコ》つかせて門に出て張つてゐる。さて上の排對をこの單句で一旦結束して、更に次節の展開を待つた。
 かうなると、おなじ里中は勿論、噂が遠近に廣がる。つい通り懸かりの人達までも、一寸拜んでといふ娑婆氣を出す。それを「おのが行く道は行かずて」といひ、「召ばなくに門に到りぬ」といふ。措辭甚だ皮肉に又辛辣である。況や近處合壁の男共の騷ぎは輪を懸けての大變だ。甚しいのは、前以ておの妻に愛想盡かしをしておいて、呉れともいはぬ鑰などを恭しく捧げて、何時でも戸を開けて來るやうにとの狂氣沙汰だ。「奉《マダス》」の尊敬語は、嘲弄の微意が反撥されて、この際尤も妙である。この鑰は藏のではない、門戸の鑰だ。
 かく「玉桙の道ゆき人」と「指竝の隣の君」との懸想行爲を、長句の排對によつて描出した。こゝが本篇の最大重心である。
 筆は愈よ結收に移つた。「人の皆かく迷へれば」は決前生後の句である。そこで本尊珠名の態度はといふと、(2536)寄り集まるたはれ男の中のいゝ男に打靡いて、巫山戯散らして居たことであつたと、一意到底の長句を以て結んだ。事は甚だ平凡である。
 畢竟珠名は地方的美人であつたらうが、取るにも足らぬ一婬婦に過ぎない。わざ/\詞人がその叙筆を費すほどの價値を見ない。この末節恐らく譏刺の意を寓してゐるのではあるまいか。いや必ずさうであらう。
 この篇、對句と單句とを交錯して層々累々叙し去つた。筆路頗る流滑で、些の澁滯もない。實に老手の錬成である。
 婦人の行迹を題目として賦詠する體は、支那では漢代に漸く起り、六朝殊に蕭梁の代から盛になつた。大抵綺靡艶治を以て勝を取る。故にこれを艶體と稱した。その比較的小篇の作を左に、
  束飛伯勞歌
  東(ノ)飛伯勞西飛(ノ)燕、黄姑織女時(ニ)相見(ユ)、誰(カ)家(ノ)兒女(カ)對(シテ)v門(ニ)居(ル)、開(キ)v顔(ヲ)發(シテ)v艶(ヲ)照(ス)2里閭(ヲ)1、南※[窗/心]北※[片+(戸/甫)]挂(ケ)2明光(ヲ)1、羅※[巾+韋]綺帳脂粉香(シ)、女兒(ノ)年紀十五六、窈窕無(ク)v雙顏如(シ)v玉(ノ)、三春已(ニ)暮(レ)花從(フ)v風(ニ)、空(シク)留(メテ)2可憐(ヲ)1誰(ト)與(ニカ)同(ゼン)。(染武帝、玉臺新詠)
わが邦の詞人もこの風に感染したと見え、集中この種の長篇が疊出してゐる。但支那のはその主人公が專ら京住居の婦人であるが、こちらのは多く田舍娘が主題となつてゐる。尤も田舍とはいつても、大抵地方における股盛な部落地である。珠名の周淮は國造の舊地、手兒奈の眞間は葛飾の中心部落の湊地、蘆屋處女の菟日は西國街道の要衝で、何れも海に瀕した交通路に當り、魚鹽の利に富んだ場處である。想ふにそれ等の作者は國衙の官人などで、當時下命の風土記編纂の材料採取の爲、部内の舊事異聞を探尋する際に得た副産物であらうか。
                 △三女考(雜考―30參照)
 
(2537)反歌
 
金門爾之《かなとにし》 人乃來立者《ひとのきたてば》 夜中母《よなかにも》 身者田菜不知《みはたなしらず》 出曾相來《いでてぞあひける》     1739
 
〔釋〕 ○かなと 「をかなと」を見よ(一三三三頁)。○みはたなしらず 「みもたなしらず」を見よ(一九三頁)。「田菜」は戯書。○いでてぞ 舊訓イデゾ〔三字傍線〕。
【歌意】 金戸にさ、男が來て立つと、仮令眞夜中でも、わが身の事は一切構はず、出てさ逢つたことわい。
 
〔評〕 男が訪れると、よる夜中でも閨から飛び出して逢ふといふ。そんな女は田舍だつて凡そあるものでない。常習に反逆し常軌を逸脱してゐるからこそ、地方特種としてかく歌はれたものだ。
 
詠(メル)2水(ノ)江(ノ)浦島(ノ)子(ヲ)1歌一首、
 
○水江浦島子、水(ノ)江は氏、浦島は名、子は親稱としておく。浦島子の事蹟の初見は、雄略天皇紀に、「二十二年秋七月、丹波(ノ)國餘社《ヨサノ》郡|管川《ツヽガハノ》人、水(ノ)江(ノ)浦島(ノ)子、乘(リテ)v船(ニ)而釣(ス)、遂(ニ)得(タリ)2大龜(ヲ)1、便(チ)化2爲《ナリキ》女(ト)1、於是浦島(ノ)子、感《メデテ》以(テ)爲(ス)v婦(ト)、相|逐《シタガヒテ》(2538)入(レリ)v海(ニ)、到(リテ)2蓬莱山《トコヨノクニニ》1歴2覩《ミル》仙家(ヲ)1、語(ハ)在(リ)2別卷(ニ)1」とある。和銅六年に丹波國五郡を割きて丹後をおかれて後は、與謝(餘社)郡は丹後國に屬した。管(筒)川は、今本庄、筒川の二村に分れ、筒川浦は新井崎より北、經が崎に至る海濱を稱する。尚丹後風土記及び浦島子傳は、紀の本文を更に委細に紹述してゐる。紀にいふ別卷は多分この二書の本づいた處であらう。
 
春日之《はるびの》 霞時爾《かすめるときに》 墨吉之《すみのえの》 岸爾出居而《きしにいでゐて》 釣船之《つりぶねの》 得乎良布見者《とをらふみれば》 古之《いにしへの》 事曾所念《ことぞおもほゆる》 水江之《みづのえの》 浦島兒之《うらしまのこが》 堅魚釣《かつをつり》 鯛釣矜《たひつりほこり》 及七日《なぬかまで》 家爾毛不來而《いへにもこずて》 海界乎《うなさかを》 過而榜行爾《すぎてこぎゆくに》 海若《わたつみの》 神之女爾《かみのをとめに》 邂爾《たまさかに》 伊許藝※[走+多]《いこぎおもむき》 相誂良比《あひとぶらひ》 言成之賀婆《ことなりしかば》 加吉結《かきむすび》 常代爾至《とこよにいたり》 海若《わたつみの》 神之宮乃《かみのみやの》 内隔之《なかのへの》 細有殿爾《たへなるとのに》 携《たづさはり》 二人入居而《ふたりいりゐて》 (2539)老目不爲《おいもせず》 死不爲而《しにもせずして》 永世爾《ながきよに》 有家留物乎《ありけるものを》 世間之《よのなかの》 愚人之《かたくなびとの》 吾妹兒爾《わぎもこに》 告而語久《つげてかたらく》 須臾者《しまらくは》 家歸而《いへにかへりて》 父母爾《ちちははに》 事毛告良比《ことものらひ》 如明日《あすのごと》 吾者來南登《われはきなむと》 言家禮婆《いひければ》 妹之答久《いもがいへらく》 常世邊爾《とこよへに》 復變來而《またかへりきて》 如今《いまのごと》 將相跡奈良婆《あはむとならば》 此篋《このくしげ》 開勿勤常《ひらくなゆめと》 曾己良久爾《そこらくに》 堅目師事乎《かためしことを》 墨吉爾《すみのえに》 還來而《かへりきたりて》 家見跡《いへみれど》 宅毛見金手《いへもみかねて》 里見跡《さとみれど》 里毛見金手《さともみかねて》 恠常《あやしみと》 所許爾念久《そこにおもはく》 從家出而《いへゆでて》 三歳之間爾《みとせのほどに》 墻毛無《かきもなく》 家滅目八裳〔左△〕《いへうせめやも》 此筥乎《このはこを》 開而見手齒《ひらきてみてば》 如本來〔二字左△〕《もとのごと》 家者將有登《いへはあらむと》 (2540)玉篋《たまくしげ》 小披爾《すこしひらくに》 白雲之《しらくもの》 自箱出而《はこよりいでて》 常世邊《とこよへに》 棚引去者《たなびきぬれば》 立走《たちはしり》 ※[口+斗]袖振《さけびそでふり》 反側《こいまろび》 足受利四管《あしずりしつつ》 頓《たちまちに》 情消失奴《こころけうせぬ》 若有之《わかかりし》 皮毛皺奴《はだもしわみぬ》 黒有之《くろかりし》 髪毛白班奴《かみもしらけぬ》 由李〔左△〕由李〔左△〕波《ゆりゆりは》 氣左倍絶而《いきさへたえて》 後遂《のちつひに》 壽死祁流《いのちしにける》 水江之《みづのえの》 浦島子之《うらしまのこが》 家地見《いへどころみゆ》     1740
 
〔釋〕 ○はるびの 四言の句。諸訓ハルノヒノ〔五字傍線〕とあるは、古調のこの歌に調和しない。○すみのえのきし 打任せて墨吉《スミノエ》の岸といへば攝津國の住吉の岸の事になるが、浦島は紀にもある如く、丹波(のち丹後)の與謝郡の人だから、この墨吉は與謝郡|管《ツヽ》川の墨吉と見るより外はない。扶桑略記、浦島子續傳の末にも、忽(ニ)到(リヌ)2故郷澄江(ノ)浦(ニ)1とあるから、管川の里に墨吉(澄江)といふ地稱があつたとする。○とをらふ 撓むことをタワともトヲともいふ、そのトヲにラフの接尾詞の屬した語か。影ラフ、安ラフの類語。意は撓むに同じい。「釣船のとをらふ」は釣船が波にゆら/\する貌にいふ。大平はクユタフ〔四字傍線〕の誤として手湯多布〔四字右△〕と改字し、古義も追從した。(2541)○いにしへのごと 浦島子の事を斥す。○かつをつり 鰹を釣り矜り〔二字右○〕。矜り〔二字傍点〕は次の「鯛つり矜り」に讓つて略いた。鰹は硬鰭類の魚。その肉を干せば堅くなるので堅魚《カタウヲ》と稱し、轉じてカツヲとなつた。○たひつりほこり 「たひ」は硬鰭類の魚。「つりほこり」は釣り得て得意になるをいふ。○うなさか 「海界」の字義のとほり。記(上)の塞《フタギテ》2海坂《ウナサカヲ》1而返(リ)入(リヌ)の海坂も、坂は借字にて界の意。記傳に、海神の國とこの上國との間の隔ある處をいふ也と。○わたつみ 海神。既出(七四頁)。○かみのをとめ 神本カミノムスメニ〔七字傍線〕と訓んだ。○いこぎおもむき 「※[走+多]」は趨〔右△〕の俗字。字義の通りにオモムキと訓めば事もない。然るを略解及び古義はムカヒ〔三字傍線〕と訓み、舊訓は「相」までを句としてワシラヒ〔四字傍線〕と讀んだ。○あひとぶらひ 互に挑み合つて。「誂」は挑むの意。男女間にはこれを問ふ〔二字傍点〕といふ。即ち妻問《ツマドヒ》の間《トヒ》である。下の歌にも「垣穂なす人の誂時《トフトキ》」と見えた。問ふ〔二字傍点〕がトブラヒと活くのは通則。「誂」は又カタラヒとも訓むから、舊訓のアヒカタラヒ〔六字傍線〕も惡くはない。眞淵訓のカヾラヒ〔四字傍線〕は※[女+耀の旁]《カガ》ふの語に本づいたのだが、その活用が無理である。○ことなりしかば 「言」は事〔右△〕の借字で、事成るは夫婦となつたのをいふ。○かきむすび 一緒にの意。古義に夫婦の約《ムスビ》をなすことと解したが、既に上に「事成りしかば」とあるから、意が重複する。舊訓カキツラネ〔五字傍線〕は穩かでないが、その意は得てゐる。○とこよ 「わがくにはとこよにならむと」を見よ(一九三頁)。○わたつみのかみのみや 神代紀に、(彦火々出見尊)於是|棄《ウテヽ》v籠《カタマヲ》遊行《イデマシ》、忽(チ)至(リマシヌ)2海神之《ワタツミノ》宮(ニ)1、其宮、雉※[土+蝶の旁]整頓《タカガキヒメガキトヽノホリ》、臺宇《タカドノノヤカズヲ》玲瓏《カヾヤケリ》云々。こゝはカミノミヤノ〔六字傍線〕と訓んで六言の句。ミヤコノ〔四字傍線〕、ミヤヰノ〔四字傍線〕など、強ひて七言に訓むに及ばぬ。○なかのへ 中(ノ)重。宮城内即ち大内裏中に更に一區劃を成した地域。即ち禁中即ち内裏を稱する。こゝは天皇の御居處に擬へていふ。○たへなる 精妙なる。「細」は精《クハ》しの意。○おいも 「老目」は耆〔右△〕の誤か。耆は老ゆの意、また老人の意。禮記には六十歳、周禮には八十(2542)歳をいふとある。○ながきよに 略解、古義共にトコシヘニ〔五字傍線〕と訓んだ。○かたくなびとの 浦島子を斥す。古義に紀また續紀を引いて、「かたくな」、を「愚」の古言としたのはよい。舊訓シレタルヒトノ〔七字傍線〕。○しまらくは シマシクハ〔五字傍線〕と訓むもよい。舊訓はシバラクハ〔五字傍線〕。○ことものらひ 六言の句。古義訓コトヲモノラヒ〔七字傍線〕。○あすのごと 時日の經たぬことの譬喩。○このくしげ 「くしげ」は「たまくしげ」を見よ(三一四頁)。「篋」はハコ〔二字傍線〕とも訓まれるが、後に「玉|篋《クシゲ》」とあれば、こゝもクシゲと訓む。○そこらくに 其處に〔三字傍点〕に同じい。○かためしことを いひ〔二字右○〕固めしことなる〔二字右○〕を。○みかねて 見付け敢へずして。○あやしみと 拾穗抄のこの訓よろしい。○いへうせめやも 「裳」原本〔右△〕に跡とある。こゝは意の續く處だから「と」と切れては調はない。古義説によつて改めた。○みてば 見たらば。○もとのごと 「本來」原本に來本〔二字右△〕とあるは顛倒。○こいまろび 既出(一〇三一頁)。「反側」は詩の周南關雎(ノ)篇に輾転反側と見えて、寐反りすることをいふ。○こころけうせぬ 正氣の失せたるをいふ。「消」原本に清〔右△〕とあるは誤。藍本その他による。○はだも 舊訓カハモ〔三字傍線〕は非。○ゆりゆりは 後々《ノチ/\》は。卷八「ゆり〔二字傍点〕といへるは」を見よ(二二九三頁)。「李」原本に奈〔右△〕とあるは誤。古義説による。彦麻呂は由奈由奈を奈由奈由〔四字左△〕《ナユナユ》の顛倒とした。○いへどころ 家の在つた處。今はその家はないのだ。
【歌意】 春の日の霞んでゐる時に、自分が〔三字右○〕墨吉《スミノエ》の岸に出て居て、沖に釣船のゆた/\してゐるのを見ると、ふと昔の話がさ思ひ出される。昔あの水江の浦島の子が、鰹や鯛釣に乘氣になつて、七日まで家にも歸らないで、海の果を越えて漕いで行くと、海神の姫に、ゆくりもなく漕ぎ行き會つて、互に話が出來て夫婦となつたので、連れ立つて常世(蓬莱)に到著し、海神の宮城内の又その奥(中の重)の立派な御殿に、手を取り合つて二人で(2543)棲んで、永い間年も寄らず死にもせずに、居たことであつたものを、世の中での大馬鹿者(浦島)が、わが妻の姫に語ること〔二字右○〕には、「暫時の間故郷の家に歸つて、兩親に出來事を話し、ほん明日のやうに、早く〔二字右○〕私は立歸つて來ませう」というたので、妻の姫のいふこと〔二字右○〕には「この常世の方に復返つて來て、只今のやうに連れ添はうと思召すなら、この差上げます〔五字右○〕櫛匣を決して開けてはなりませんぞ」と、固く約束をしたことなの〔二字右○〕を。浦島は〔三字右○〕愈よ故郷墨吉に歸つて來て、もとの〔三字右○〕わが家を見れど見付けかねて、もとの〔三字右○〕里を見れど見付けかねてそこで思案するに、家を出てわづか三年の間に、かう垣根もなく家もなくならう事かい、もし〔二字右○〕この筥を開けて見ようならば、元のやうに家はあらうも知れぬ〔四字右○〕と、この櫛匣を少し開けると、白雲が筥から出て、常世の方に靡いて行くので、それを呼び返すとて〔九字右○〕、驅け出して大聲學げ、袖を振り、辷つたり轉んだり、足摺しつゝ悔しがつたが〔六字右○〕、忽に一時の〔三字右○〕正氣を失つた。そして〔三字右○〕若かつた膚も皺だらけになつた、黒かつた髪も白髪になつた。後々は息さへ止まつて、とう/\命も盡きて死んでしまつた、その〔二字右○〕水江の浦島の子の住んで居た土地が、あれ〔二字右○〕見えるわ。
 
〔評〕 春日うら/\と霞んで、膏のやうにとろんとしてゐる海上、そこにたゆたふ漁船から、この浦に居た昔の浦島の夢への繋がりを念ふ。まことに推移が自然である。
 浦島は堅魚釣り鯛釣りほこる片田舍の漁師である。獲物があるので調子に乘つて、幾日經つても歸つて來ぬ。そんな事は漁師にはあり打の事だ。その内沖合で神女に出會つたといふ。紀も丹後風土記も龜の子を釣り上げ、それが神女に化つたとあつて、神女の名が風土記には龜姫とある。動物が人化する話例は和漢とも澤山あり、別に奇とするに足らぬが、それに全く凡人生活をするものと半神半人生活をするものとの二者に別れ(2544)る。龜姫はその後者の方だ。「神のをとめ」はカミノムスメの訓を採りたいが、俗間この龜姫を乙姫といつてゐる。それはこのヲトメの語の訛稱であらうことは疑を容れない。よつて姑く舊訓を存しておいた。
 楚壬は高唐に遊んだ爲に巫山の神女に會うた。然し話はそれ切だ。浦島の方は龜姫と夫婦となつて、その本郷の蓬莱國まで出掛けて行き、主權者の花壻樣といふので、管川の貧乏漁師は一躍金殿玉樓の主人として、三年の間、富貴榮耀を極めて暮した。
 胡馬朔風に嘶き越鳥南枝に巣喰ふ。まして人間に於いてをやだ。今でも永年外國に生活してゐた者が、晩年になると故郷戀しさに、造つた財産を引纏めて歸つてくる。
 然し蓬莱國は仙界で、老もなく死もない常若の極樂だ。それでも浦島は國が戀しい兩親が戀しい、歸心矢の如しで溜息を吐く。素性が素性だから仕方がない。それを作者は「世間の愚人」と扱きおろした。
 浦島と龜姫との一場の對話は、その筋書通りを運んだものだ。別れに與へた形見の櫛匣、只開けるなとだけでは不親切のやうだが、その結果を何とも豫言しない處に神秘性があつて面白い。
 天上仙界の日月は長い。その三年は人間の百年(神仙傳による。風土記は三百年)、故郷墨吉の山河は依然たりだが、不思議や、物も人も變り果てゝ、自分の噂を遠い昔話として聞かされたのみだ。途方に暮れてかねての訓言も忘れ、櫛匣の蓋を一寸開けると、白雲がふは/\と立昇つて常世の方へ去つた。雲が出たからとて、何も「立走り叫び袖振りこい轉び、足摺しつゝ」するには及ばない。そこに叙述の不完がある。風土記には
  忽(チ)開(キ)2玉匣(ヲ)1、即(チ)未(ル)v※[目+譽](ノ)之間、芳蘭之體、乘(リ)2風雲(ニ)1翩(リ)2飛(ブ)蒼天1、云々。
と見えて、その匣の中から龜姫の姿がすつと現れ、雲に乘つて天に飛んで往つたのである。これでは立走りも(2545)しよう、袖も振らう、こい轉び足摺もしよう。「若かりし膚も皺みぬ、黒かりし髪もしらけぬ」は老で、「のち遂にいのち死にける」は死だ。即ち上の「老いもせず、死にもせずして、云々」の反應で、人間界の見じめさを如實に示した。浦島は心からかく榮枯盛衰手の裏を反した境遇に陷り、一場の悲劇の主人公に了つた。
 作者はかく浦島傳説を語り納めて、茲に冒頭を囘顧し、「水の江の浦島の子が家地見ゆ」で筆を擱いた。現實から瞑想に入り、瞑想から又現實に返つた。この歌の詠まれた頃は、まだ浦島の宅址と傳へられた土地が墨吉にあつたと見える。とにかく堂々たる大手筆で、わが邦叙事詩中の大作として、古今に雄たるものゝ一つである。
 この傳説は思想的に見れば、支那から來た神仙思想の所産である。蓬莱の語は楚辭に初出し、神仙の居處を海に※[不/見]めることは、
  蓬莱、方丈、瀛洲(ノ)三神山(ハ)在(リ)v海(ニ)、金銀(ヲ)爲(ス)2宮闕(ト)1。(漢書郊祀志)
  蓬莱隔(ツルコト)2弱水(ヲ)1三十萬里、非(ズバ)2飛仙(ニ)1、無(シ)2以(テ)到(ル)1。(列仙傳、大平廣記)
など見えた。又常世は漫然と海外の國を斥していふ場合が多く、又事實としては、外國たるその頃の支那朝鮮の文化程度が、われより進んで居たから、理想の國として常世を羨望して居た。さては蓬莱を常世に充てることも偶然であるまい。而もこの歌は綿津見の宮を以て蓬莱に充てた。海の縁は離れないが、本筋は歪曲されてゐる。それが嵩じては後世佛説も加味され、龍宮城となり、龍王の女乙姫となり、浦島太郎となつて、話が派手になつた。
 浦島傳説は何時頃發生したものか。事は雄略天皇紀中に出てみても、不確定である。神仙道は推古天皇以後(2546)隋唐文化の輸入に伴つて流行し出したものであることは明瞭だから、それ以後か或時代に於いて成立したであらうことは疑を容れない。只雄略天皇頃の昔話として傳へた爲に、紀の編者が、その御代の條に繋けたに過ぎない。序にいふ、紀にはこの種の紀事は他に絶對ない。必ず衍文であらうと。
 又教訓的に考へると、仙凡二者の間に大きな隔りのあることを諷諭し、世の仙術者に非望の行爲に耽溺する愚を暗示したものとも見られる。かの憶良の「令反惑情歌」の主意と、その言を異にして歸趨を同じうするものか。而して約束を輕親し禁戒を破ることの重大なる非違であることを痛切に教へてゐる。
 又話説として考へると、紀記所載の彦火々出見尊(火遠理命)の綿津見の國訪問の一段が、餘にもよく相似してゐる。またこの話説の結果は述異記、水經注の爛柯山の王質の故事に同じい。今この三者を表に作つて見る
 
         世界 目的  媒者   往路(乘物) 到著地    神仙の宅    對手     生活
(彦火々出見尊) 海 鉤を求む 鹽土ノ神 無間勝間之船 綿津見之國  鱗の如造れる宮 綿津見の女   夫婦歡樂
(浦島)     〃 漁獵   龜(姫) 龜(姫)   蓬莱國    妙なる殿    仙女(龜姫) 夫婦歡樂
(王質)     山 采樵   ○    ○      少室山    石室      仙童     圍棋又絃歌の歡樂
       滞留年限     歸郷動機 形見   歸路(乘物) 離郷以來の年限 現實   終局
彦火々出見尊 三歳      大歎息  干珠滿珠 鰐      ○       勝利   盛榮
浦島     三歳      嗟歎   櫛匣   船      百年餘     家郷滅亡 老死
(王質)   一局又一關の間 爛柯   ○    ○      數十年     家郷滅亡 不明
 
と、まづかうなる。尠くとも浦島傳説はわが古代神話を神仙思想によつて變形させた物語ではあるまいか。
(2547) 又事實として考へると、これは一種の漂流奇譚である。丹後は宮津の崎の最突端管川のあたりは、日本海に直面した荒海だ。漁師がよく出漁中、暴風の爲東西も知らぬ外國に漂著し、そこに多年土著して運よく土地の酋長の壻になり、相應の生活を營むが、故郷戀しさに白髪頭のヨボ/\老爺で歸國したなどいふ話は實に山ほどある。浦島もおなじ漂流者の一人か。それに尾鰭が付き彩色されて、浦島太郎が出來上つたものだらう。
 
反歌
 
常世邊《とこよへに》 可住物乎《すむべきものを》 釼刀《つるぎたち》 己之心柄《ながこころから》 於曾也是君《おそやこのきみ》     1741
 
〔釋〕 ○つるぎたち 「なが」のなに係る枕詞。既出(五〇六頁)。○なが 汝が。「己」をナと訓むことは大己貴《オホナムチノ》命の讀例による。童本訓によつた。略解訓シガ〔二字傍線〕、古義訓ワガ〔二字傍線〕、何れも不當。○心から の下、住まずして〔五字右○〕を補うて聞く。○おそや 鈍や。「や」は歎辭。
【歌意】 永久に蓬莱に〔三字右○〕蓬莱《トコヨ》に、往まう筈であるものを、自身の心から、飛び出してさ〔六字右○〕、馬鹿だよ、この君は。
 
〔評〕 情状の酌量なしに、浦島に手嚴しい批判を下した。蓋し浦島の仙人になり損ねたのを惜む餘りの一本氣の激語である。常識の批判などは歌にならぬ。
 
見(テ)2河内《カフチノ》大橋(ヲ)獨去娘子《ヒトリユクヲトメヲ》1作〔左○〕歌一首并短歌
 
(2548)○見河内大橋獨去娘子作歌 河内の大橋を獨渡つてゆく娘を見て詠んだ歌との意。「河内の大橋」は河内の片足羽《カタシハ》河に架つた大橋。
 
級照《しなてる》 片足羽河之《かたしはがはの》 左丹塗《さにぬりの》 大橋之上從《おほはしのへゆ》 紅《くれなゐの》 赤裳數十引《あかもすそひき》 山藍用《やまゐもち》 摺衣服而《すれるきぬきて》 直獨《ただひとり》 伊渡爲兒者《いわたらすこは》 若草乃《わかぐさの》 夫香有良武《つまかあるらむ》 橿實之《かしのみの》 獨歟將宿《ひとりかぬらむ》 問卷乃《とはまくの》 欲我妹之《ほしきわぎもが》 家乃不知《いへのしらなく》     1742
 
〔釋〕 ○しなてる 小竹《シヌ》の轉語シナに、立てる〔三字傍点〕の約語テルの熟したもので、篠の立つてゐる土地にかけて使つた序語。尚「千鳥鳴く佐保川」「蛙鳴く吉野の川」の類で、されば「しなてる片岡山」(紀)とも續くのである。片鹽は河畔、片岡は丘陵地で、共に篠が叢生してゐたと想はれる。卷十三の「師名《シナ》立つ都久麻《ツクマ》さぬかた」の師(2549)名立つも篠立つである。「級照」は借字。舊説は(1)級《シナ》立てる(冠辭考)。(2)地形|階級《シナ》ありて片上り片下りなる所のさまに冠らす(紀通釋)。(3)シナは嫋《シナ》の意。テルは佐比豆流《サヒヅル》のヅルと同語にて形容の語、カタは肩にて、嫋々《シナ/\》したる肩といふ續きにて「かた」に係る枕詞(古義)。○かたしはがは 堅鹽《カタシハ》川。片足羽川は借字で、「片足」はカタシと訓む。堅鹽は堅磐《カタシハ》の義で、その地は、續紀に養老四年、河内國堅下上二郡、更(ニ)號(ス)2大縣郡(ト)1とある處。今は堅下堅上は村名に存し、大縣郡は廢して中河内那に入る。この堅下竪上即ち堅鹽の地を流れてゐる大和川を堅鹽川と稱した。もとより街道筋で大橋あるべき地形である。河内志に、石川の舊名とあるは據がない。大和國にも片鹽の地名はあるが、こゝは河内の堅鹽である。○さにぬり 既出(二三一五頁)。○おほはしのへゆ この「ゆ」はヲ〔傍点〕に近い。○やまゐ 山藍の約。大戟科の山草。葉は橢圓形にて對生し、一種の液汁を有す。これを以て青色の染料とす。初夏淡黄緑色の花被を有する小花を穂状に綴る。○すれるきぬ 草木の花葉や根を染料として、直接に布帛に摺り付けて染めた衣をいふ。「ころもにほはせ」を参照(二二一頁)。○いわたらすこ 「い」は接頭語。「わた(2550)らす」は渡る〔二字傍点〕の敬相。「こ」は若い女の親稱。○かしのみの 「ひとり」に係る枕詞。橿の實はその穀斗《カサ》の中に實は一つのみであるのでいふ。○とはまくの 問はむこと〔二字右○〕の。
 △地圖 後出挿圖 605(二五五九頁)を參照。
【歌意】 片鹽川の朱塗の大橋の上を、紅の赤裳の裾を曳いて、山藍をもつて摺染にした衣を著て、只一人で、渡つてゆくあの娘《コ》は、夫があるであらうか、それとも〔四字右○〕夫がなくて獨寐であらうか。問うてみたく思ふ吾妹兒が、家の知られぬことわい。殘念にも〔四字右○〕。
 
〔評〕 小スケツチの小即興である。然し詩歌は大小に關はらず深みが大切だ。
 西國出入の關門たる難波から奈良京に入る本街道、堅鹽川(大和川)には朱塗の大橋が架けてあつた。丹縁彩色を建築物に施すことは支那人の慣習、それに倣つての、唐土人高麗人が來朝にも、愧かしくない用意と見えた。そこを青摺衣に赤裳裾の若い兒が渡つてゆく、極めて絢爛な美しい光景だ。
 かう相當の風采をした娘であつては、何としても好奇の心を動かさざるを得まい。何れその近處の良家の者であらう。
 さあ一人者か二人者かが心配になる。好奇心は漸く好色心と進展し、名が知りたい、家が知りたいとまでなつた。けれども作者は押が弱い。徒らに「家の知らなく」と慨歎するのみで、網の魚を逃がした。
 こんな事實は古代人に取つては尋常茶飯事だ。だが前半の客觀的叙筆に頗る精彩があり、後半の主觀的叙情も極めて自然で、「知らなく」と歇後の辭樣を以て餘意餘情をいひ遺した。かくて一篇劃然と前後二樣に變化し、對映の妙容易に企及し難いものがある。まあ高級のダツトサンだ。
 
(2551)反歌
 
大橋之《おほはしの》 頭爾家有者《つめにいへあらば》 心悲久《まがなしく》 獨去兒爾《ひとりゆくこに》 屋戸借申尾《やどかさましを》     1743
 
〔釋〕 ○つめに 「頭」をツメと訓む。橋のもとをいふ。天智天皇紀に「于智《ウチ》橋の都梅《ツメ》のあそびに」と見え、催馬樂にも、「橋の詰《ツメ》」とある。略解訓による。○まがなしく 可愛さうに。「ま」は美稱。「かなし」は愛すること。略解訓による。舊訓コヽロイタク〔六字傍線〕、契沖訓ウラカナシク〔六字傍線〕。○ましを 「申」は十二支の猿で、梵語に猿を麻斯叱《マシタ》といふを、略してマシといふ。「申尾」は戯書。卷四には「猿尾」がある。
【歌意】 大橋の橋詰に自分の〔三字右○〕家があるならば、可愛さうにも獨往くあの兒〔三字右○〕に、宿を借さうものをさ。生憎家もないのでねえ〔十字右○〕。
 
〔評〕 折しも夕暮頃と見えた。男でさへ夜道のあぶない時代だ。獨往く兒に同情の餘り、「家あらば――宿借さましを」と、懇情の屆かぬ遺憾さを表明した。この表明は結局獨言だが、向うが知る知らぬを問題にせぬ處に、その迸る熱意を見る。
 
見(テ)2武藏(ノ)小埼《ヲサキノ》沼(ノ)鴨(ヲ)1作(メル)歌一首
 
○小崎(ノ)沼 歌に前玉之《サキタマノ》小崎乃沼とある。前玉は埼玉で、和名抄に武藏國埼玉(ノ)郡、佐伊太末《サイタマ》とある。小崎の沼は(2552)江戸時代に、北埼玉都に今の井泉村尾崎をその故地と定めて、碑石を建てた。北埼玉は利根川會川その他の水流が縱横に交錯し、地形到る處に變化し、到底沼の故地は求められない。
 
前玉之《さきたまの》 小埼乃沼爾《をさきのぬまに》 鴨曾翼霧《かもぞはねきる》 己尾爾《おのがをに》 零置流霜乎《ふりおけるしもを》 掃等爾有斯《はらふとならし》     1744
 
〔釋〕 これは旋頭歌。○さきたまのをさきのぬま 前項を見よ。○はねきる 羽叩きするをいふ。「霧」は借字。○ふりおける 既出(七七七頁)。
【歌意】 埼玉の小崎の沼で、鴨がさ羽叩きをするわ。自分の尾に降り積つた霜を、うち拂ふとの事で〔三字右○〕あるらしい。
 
〔評〕 鴨の羽叩きは物を打拂ふに似た状態である。霜を拂ふ動作を連想したのは、時が冬の朝か寒夜だからであらう。多く水鳥類は寒中をおのが時として群棲し、活躍する。こゝに「おのが尾」といひ、卷十五にも「鴨すらも――わが尾には霜な降りそ」と見え、頻に尾に降る霜を云々したので、古義に、鴨は尾を大切にする由にてと説明したのは、當推量も甚しい。彼等はすべて尻尾を盛に振る習性がある。それが眼に著いて、おのが身〔四字傍点〕といふべき處に、尾を擧げたまでだ。
 前聯は聽覺を伴うた叙景、後聯は作者の想像を交へた説明で、相呼應してゐる。造句遒勁で調に弛緩の痕がない。委しくいへば、前句の地名の剪裁からはじめて、後句の調も力強く終つてゐる。叙情の語は弱くなり勝なので、後句は字餘りを用ゐ、音數顛倒の促調を用ゐなどしてその弊を救ひ、上下の均衡を保たしめた。さり(2553)とて技巧的に終始した作と思つてはいけない。鴨の羽切る音が廣い小埼の沼を響動し、聽者の膚にその霜氣がひし/\と刺し透る思がある。
 體は旋頭歌としては變調で、短歌の延長の如き觀がある。
 
那賀郡曝井《ナカノコホリノサラシヰノ》歌一首
 
○那賀郡曝井 諸國ともその中央部に、那賀(中)郡が立てられてある。がこれは常陸國の那珂郡(今は茨城郡)で、その郡珂(ノ)郷の曝井である。常陸風土記に
  那賀郡云々、自(リ)v郡東北(ニ)、挾(ンデ)2栗河(ヲ)1而置(ク)2驛家(ヲ)1、(本近(ク)2栗河(ニ)謂(ヘリ)2河内(ノ)驛家(ト)1)。當(リ)2其以南(ニ)1、泉出(デ)2坂中(ニ)1、水多(ク)流(レ)尤(モ)清(シ)、謂2之(ヲ)曝井(ト)1。縁(ヒテ)v泉(ニ)所(ノ)v居(ル)村落(ノ)婦女、夏月會(ヒ)集(リ)、浣(ヒテ)v布(ヲ)曝乾《サラセリ》。
と見え、この栗河は那珂川の古名で、今も茨城郡袴塚村瀧坂の半ばに清泉が盛に涌出し、その附近を曝臺、その裾田を曝田と呼んでゐる。武藏國那賀郡とする説は非。
 
三栗乃《みつぐりの》 中爾向有《なかにむかへる》 曝井之《さらしゐの》 不絶將通《たえずかよはむ》 彼所爾妻毛我《そこにつまもが》     1745
 
〔釋〕 ○みつぐりの 中に係る枕詞。栗の實はその毬《イガ》の中に大抵三つあり、故に三つ栗といふ。三つある物は必(2554)ず中のあるにより、三つ栗の中(那賀)と續けた。○なかにむかへる 那珂川を中心として、河内《カフチ》、臺《ダイ》渡りの那珂(ノ)郷の低地を廣く見おろす曝井の所在地瀧坂は、「那珂に向へる」といひ得る。宣長の「向」を回〔右△〕と改めてメグレル〔四字傍線〕と訓む説や、その他の改字説は机上の空論である。○さらしゐの 曝井の如く〔二字右○〕。上句は曝井の水の絶えぬを以て、「絶えず」に係けた序詞。「さらしゐ」は題詞の解を見よ。○そこにつまもが  「そこ」は曝井の地を斥す。
【歌意】 那珂の地に臨んでゐる、この曝井の水の絶えぬやうに、絶えず通はうぞ、それには〔四字右○〕其處に、氣に入つた〔五字右○〕妻がまあ欲しいわ。
 
〔評〕 曝井に對して「絶えず通はむ」とは、泉の水のさやかさを愛でて、絶えず來て見むの婉語だといふ。然し既に「通はむ」といつた以上は、別に本尊樣がある筈だ。
井は生活の源泉で、聚落を作り社會を作る基本だ(この事は卷一、藤原(ノ)宮(ノ)御井(ノ)歌の評語に(二一二頁)既に※[聲の耳が缶]した)。而も井に聚る者は大抵婦人だ。風土記にも、この曝井に村落の婦人達が夏は洗濯に出動するとある。隨つて神代の綿津見の宮の井から始めて、井の本にはとかく艶種が發生し、平安時代の小野宮(ノ)右大臣實資は墻外の井に來る婦人連を透(2555)き見して、その好色心を滿足させたとある。作者も曝井の那珂女に幾分の風流心を動かして、「そこに妻もが」との戯謔一番、流石に洒落れたものだ。古義の何時までも曝井の水に拘泥してゐる解説は、田舍親爺の談義に近い。
 
手綱《タヅナノ》濱(ノ)歌一首
 
○手綱濱 常陸國|多珂《タカ》郡手綱濱。今の多賀都高萩より北、赤濱邊までの海濱の總稱であらう。一里餘西に今も手綱《テヅナ》町がある。古へこの郡は高(ノ)國といひ、國造を置かれた。上の那珂の曝井と同じく常陸歌である。
 
速妻四《とほづまし》 高爾有世婆《たかにありせば》 不知十方《しらずとも》 手綱乃濱能《たづなのはまの》 尋來名益《たづねきなまし》     1746
 
〔釋〕 ○とほづまし 「とほづま」は既出(一一四〇頁)。「し」は強辭。○たかに 「たか」は高即ち多珂で、地名である。略解に「高」を其〔右△〕の誤としてソコと訓んだのは非。○しらずとも 道を〔二字右○〕知らずとも。○たづなのはまの 手綱の濱の稱《ナ》の如く〔二字右○〕。タヅナを同音の「尋ね」の序語とした。○たづねきなまし この「き」は行くの意。「まし」はましを〔右○〕の意。
【歌意】 遠方にゐる妻がさ、もし〔二字右○〕この高(多珂)に居るならば、よし道は〔四字右○〕知らずとも、手綱の濱の稱《ナ》のやうに、(2556)尋ねゆかうものをさ。
 
〔評〕 始めて多珂郡に出張か在任かした小官吏の作であらう。故郷に置いた妻か愛人かを念ふ餘り、この多珂にそれが居りさへすれば、どんな處でも尋ねて訪はうにと、參商空しく相隔てゝ怨望する悲傷の情を叙べた。「手綱の濱のたづね」の口合は小技巧に墮するものだが、當時としては耳新しく聞えたらう。平安期の歌人達も、却て喜んで隣女の醜を重ねてゐる。
 前人の諸説、結句の解が不當であつた爲、皆正鵠を外してゐる。殊に古義の、「我を尋ね來て共に風景を愛づべきを、さもなきは他の男に心移りして吾を思はぬにや」などは、迂愚も亦甚しい。
 尚いふ、手綱の濱は口合に借りたまでとすればそれまでだが、退いて考へると相當理由ある事と思はれる。この濱の全體は荒濱だが、その南端關川の河口は入江をなしてゐた形迹を有し、筥庭式の小風景が想像される。多珂郡中の勝地として當時の人達に記憶されてゐたことが、この歌の素地を成してゐると思ふ。
 
(2557)慶雲《キヤウウンノ》三年|丙午《ヒノエウマ》〔六字右○〕、春|三月《ヤヨヒ》、諸卿大夫等《モロ/\ノマヘツギミタチガ》下(レル)2難波《ナニハニ》1時(ノ)歌二首并短歌〔三字右○〕
 
〇慶雲三年丙午云々 續紀に、慶雲三年九月丙寅行2幸(ス)難波(ニ)1、十月壬午還(リマス)v宮(ニ)と見えたその年の春の事で、次の長歌に「君が三行《ミユキ》は今にしあるべし」とあるに思ひ合はせれば、行幸準備の爲に春三月卿大夫達を難波へ遣はされ、その時に人々の詠んだ歌である。「卿」は(三一三頁)、大夫は(六五五頁)に既出。「難波」も既出(二九七頁)。「慶雲三年丙午」は原本にない。目録によつて補つた。「并短歌」も補つた。
 
白雲之《しらくもの》 龍田山之《たつたのやまの》 瀧上之《たきのへの》 小鞍嶺爾《をぐらのみねに》 開乎烏〔左△〕流《さきををる》 櫻花者《さくらのはなは》 山高《やまたかみ》 風之不息者《かぜしやまねば》 春雨之《はるさめし》 繼而零者《つぎてしふれば》 最末枝者《ほつえは》 落過去祁利《ちりすぎにけり》 下枝爾《しづえに》 遺有花者《のこれるはなは》 須臾者《しまらくは》 落莫亂《なちりみだれそ》 草枕《くさまくら》 客去君之《たびゆくきみが》 及※[しんにょう+(横目/衣)]來《かへりこむまで》     1747
 
〔釋〕 ○しらくもの 雲の立つを龍田山にかけた枕詞。○たつたやま 既出(二八四頁)。○たぎのへ 「たぎ」は立田山下に當る大和川の激湍をさす。今龜(ノ)瀬と稱する處。○をぐらのみね 前出「をぐらのやま」を見よ(二(2558)三〇二頁)。○さきををる 「ををれる」を見よ(五一四頁)。「烏」字、原本に爲〔右△〕とあるは誤。以下この字の誤は一々註しない。○かぜし 舊訓による。古義訓カゼノ〔三字傍線〕。○はるさめし 上と相對して「之」をシと訓む。諸訓ハルサメノ〔五字傍線〕。○ほつえ 秀《ホ》つ枝の義。上の枝をいふ。「つ」は連辭。○しづえ 下《シ》つ枝。「し」は末《スエ》の義。枝垂柳のシダリ〔三字傍点〕も末垂《シダリ》である。古義に石著《シヅク》を例として、土に著く枝と解したのは牽強。○しまらくは 古義訓シマシクハ〔五字傍線〕。○なちりみだれそ 古義訓ナチリミダリソ〔七字傍線〕。○きみが 契沖、略解、「君」を吾〔右△〕の誤としたのは却て非。○かへりこむまで 略解訓カヘリクマデニ〔七字傍線〕はいかゞ。 △地圖及寫眞 挿圖 91(二八六頁)90(二八五頁)を參照。
【歌意】 龍田山の瀧つ瀬のきはの小鞍の嶺に、ふさ/\と咲く櫻の花は、山が高さに風がさ止まないので、春雨が續いてさ降るので、上の枝はもう散り過ぎてしまつたわい。せめて〔三字右○〕下の枝に殘つてゐる花は、どうぞ〔三字右○〕暫時は散り亂れてくれるなよ。この旅に出立つた人達が、歸つて來(2559)うまではさ。
 
〔評〕 春日立田峠を東口から打越す折の矚目と感興である。峠の細徑を傳つて往くと、右は聳立してゐる山崖であるが、左は溪谷で、丁度麓を流れ廻る大和川が激湍を成す、龜の瀬の上を通る。その龜の瀬の西に更に屹立してゐる小山が小鞍の峯である。折しも櫻が咲いてゐた。それも處柄の風や折柄の雨に曝されて、上枝はもう坊主、下枝ばかりが白い。かく上枝の零落に言及したのは、下枝の殘花に重心をおく爲の手段である。その殘花に向つて、反歌に「七日は過ぎじ」とある如く、短時日の旅だから、難波から歸るまでは散らずに待てと、無理を承知での難題だ。畢竟花を熱愛する情語である。風流三昧だ。「君」は一行中の諸卿を漫然と指斥したもの、作者は必ず同行の大夫(四五位)等の一人であらう。
 
反歌
 
吾去者《わがゆきは》 七日不過《なぬかはすぎじ》 龍田彦《たつたびこ》 勤此花乎《ゆめこのはなを》 風爾莫落《かぜにちらすな》     1748
 
〔釋〕 ○わがゆき わが旅程。「きみがゆき」を參照(二九八頁)。○たつたびこ 龍(立)田彦。式の神名帳に、大和國平群郡龍田(ニ)坐(ス)天(ノ)御柱、國(ノ)御柱(ノ)神社、二座、名神大、また龍田比古、龍田比賣(ノ)神社二座と見え、伊弉諾尊の息(2560)吹《イブキ》になりませる風神、級長《シナ》(志那)津《ツ》比古(記)、級長邊《シナトベノ》命(紀)の彦神姫神を祀る。龍田に坐す故に龍田彦龍田姫とも申す。社は今生駒都立野村、立田山の東山口にある。○ちらすな 略解訓 ナチラシ〔四字傍線〕。
【歌意】 自分の旅行は、長くて〔三字右○〕七日は過ぎまい。龍田神よ、きつとこの櫻の花を、風に散らしなさるな。
 
〔評〕 長歌では歸るまでは散るなと花に強要した。けれども花の心のまゝにもならぬは、風といふ惡戯者だ。幸ひ龍田は風の本家本元龍田彦の神がまします處、で反歌では一歩進んで、龍田彦に切願してその風を封じた。下にも「名に負へる杜に風祭せな」とある。これでは、否でも神はその面目にかけて花の保護をせざるを得まい。
 「七日は過ぎじ」は日程にさうした豫定があつたのではない。「七日」は多日または數日などの轉義である。下の歌の題詞に、「難波經宿、明日還來之時」とあるから、事實は一晩掛けの旅だが、逗留の最大限度を指示したものだ。すべて數量語は使ひ方によつて感情に面白い微妙な躍動を與へる。この「七日」なども實に旨く坪にはまつたもの(2561)で、その聲響も快的である。もしこれを假に五日〔二字傍点〕としたらどうか、數的觀念のみ先だつて、蘊含の味ひは※[しんにょう+外]げてしまふ。七《ナヽ》の數量に就いては別に所説がある。
 句々遒勁字々洗煉を極め、風調また高邁にして朗唱に適する。
 
白雲乃《しらくもの》 立田山乎《たつたのやまを》 夕晩爾《ゆふぐれに》 打越去者《うちこえゆけば》 瀧上之《たきのへの》 櫻花者《さくらのはなは》 開有者《さきたるは》 落過祁里《ちりすぎにけり》 含有者《ふふめるは》 可開繼《さきつぎぬべし》 許智期智乃《こちごちの》 花之盛爾《はなのさかりに》 紐解而《ひもときて》 吾者〔五字左○〕雖不見《われはみねども》 左右〔二字左○〕《かにかくに》 君之三行者《きみがみゆきは》 今西應有《いまにしあるべし》     1749
 
〔釋〕 ○うちこえゆけば 「うち」は接頭語。古義に、馬に鞭を打つてとあるは非。○こちごち 既出(五七三頁)。○ひもときてわれは――かにかくに 原本「雖不見左右」とのみあり、上の「花の盛に」に續かない。上下に必ず誤字と脱句がある。宣長は又モ來ム〔四字傍線〕左右《マデ》散リコスナ〔五字傍線〕とあるべき處といつたが、句法が亂れて面白くない。古義は「雖不見」の下落莫亂〔三字右○〕の脱としてミセズトモ散リナ亂リソ〔ミセ〜傍線〕と讀み、新考は「見」を相〔右△〕の誤として、アハネドモ〔五字傍線〕とし、下にナホシタヌシモ〔七字傍線〕を補ふべしとした。然し花盛りの趣だから、ミセズトモ〔五字傍線〕やアハネドモ〔五字傍線〕は絶對(2562)に不可である。假に「盛爾」の下、紐解而吾者〔五字右○〕の五字脱、「左右」を干各〔二字右△〕の誤字として、ヒモトキテワレハ〔八字傍線〕雖不見《ミネドモ》カニカクニ〔五字傍線〕と訓まう。紐解くは衣の領紐を解くので、打解けてゆるりとした貌。○きみが 天皇陛下が。○いま 追つ付けの意。
【歌意】 立田山を夕暮方に、越えてゆくと、瀧の邊の櫻の花は、咲いたのは盛り過ぎてしまつたわい。莟んでゐるのは、その後から續いて咲くであらう。このあちこちの花の盛に、ゆつくりと自分達は賞翫しないけれど〔ゆつ〜右○〕、とにかくに天皇陛下の行幸は、追つ付けさ、近くに〔三字右○〕あるらしいわ。――花よ喜びなさい〔七字右○〕。
 
〔評〕 奈良京を立つて立田越を夕暮にする、餘程の急御用だ。龜の瀬邊の山々の櫻は、咲くもあり散るもあり莟むもありで、今が眞盛りだ。けれども生憎時刻が夕暮ではあり、而も難波への公用を帶びてゐる。袍衣か狩衣かの紐を外してお花見といふ暢氣な沙汰どころでない。だがまあ山の櫻よ、落膽するに當らぬ。叡覽にそなはるのも近いうちだぞ、と花に好信を洩らして喜ばせた。
 「今にしあるらし」の語をよく翫味すると、この今を事實上の秋九月の行幸にかけて解するは謬つてゐる。抑も難波宮は古來からお控の京で、何時でも行幸に間に合ふやうな準備がある。委しい事は、卷六「冬十月幸2于難波宮1時笠朝臣金村作歌」の評語中(一六四三頁)に言及してある。されば九月の行幸に、半年も前の三月から準備の官吏を派遣する要を見ない。これは必ず三月中か四月ならば早々、まだ花のある頃に、難波宮へ御動座の御豫定であつたと斷ずべきだ。さてこそ「君がみゆきは今にしあるらし」は花に對しての慰めの詞ともなり得るのだ。九月の行幸では花には何等の交渉もない。
(2563) 然しこの御豫定は事情があつて實行されず、九月に至つて愈よ御發輦になつたのも事實である。
 
反歌
 
暇有者《いとまあらば》 魚津柴比渡《なづさひわたり》 向峯之《むかつをの》 櫻花毛《さくらのはなも》 折末思物緒《をらましものを》     1750
 
〔釋〕 ○なづさひわたり 泥んで歩きまはるをいふ。「なづざふ」を見よ(九五八頁)。「柴」は音サイ、その短音サを用ゐた。
【歌意】 暇がもしあるならば、あちこち〔四字右○〕ぶらついて、こゝのばかりか〔七字右○〕、向うの峯の櫻の花をも折らうものを。さて今は急御用の出張なので殘念な〔さて〜右○〕。
 
〔評〕 「只見(テ)2公程(ヲ)1不v見v春(ヲ)」(唐、熊嬬登)と同意に落著する。夕暮かけて嶮岨を以て聞えた立田越をするを思へば、その大至急の公用たることは言はずして明らかだ。で十分賞春の遑なさを歎息した。
  わが背子に戀ふれば苦しいとまあらば拾ひにゆかむ戀わすれ貝(卷六、坂上郎女―964)
  いとまあらば拾ひにゆかむ住のえの岸によるとふ戀わすれ貝(卷七―1147)
すべて「暇あらば」は暇ない反言である。古義に、今見るのみならず折取つて本郷人の苞にもせまはしく思ふ由なりとあるは蛇足。
 
難波(ニ)經宿《ヤドリテ》、明日還來《アクルヒカヘル》之時(ノ)歌一首并短歌
 
(2564)○難波經宿云々 難波に一晩泊つて明くる日還つて來る時、立田山で〔四字右○〕詠んだ歌との意。「經宿」は一夜泊りしての意。信の二夜泊りに對する。上の長短歌は往路、これはその歸路で、同じ折の作。
 
島山乎《しまやまを》 射往廻流《いゆきめぐれる》 河副乃《かはぞひの》 丘邊道從《をかべのみちゆ》 昨己曾《きのふこそ》 吾越來牡鹿《わがこえこしか》 一夜耳《ひとよのみ》 宿有之柄二《ねたりしからに》 岑上之《をのうへの》 櫻花者《さくらのはなは》瀧之瀬從《たきのせゆ》 落墮而流《ちらひてながる》 君之將見《きみがみむ》 其日左右庭《そのひまでには》 山下之《あらしの》 風莫吹登《かぜなふきそと》 打越而《うちこえて》 名二負有杜爾《なにおへるもりに》 風祭爲奈《かざまつりせな》     1751
 
〔釋〕 ○しまやまを 岩山などの半島形に河中に斗出したのを島山といつた。序に島に就いていふと、(1)海中の島嶼または沙洲、(2)湖海に治うた半島、(3)河水の※[榮の木が糸]廻した地、(4)作庭。以上四種類がある。○いゆきめぐれる 神本及び細本の一註にかくある。舊訓イユキモトホル〔七字傍線〕。古へより二様の訓が存してゐた。奈良人の時代常識では混線なしに訓み得たであらうが、後世では判定し難い。〇かはぞひの 正しくは「いゆきめぐれる河の〔二字右○〕河ぞひの」とあるべきを略言した。この省略法は例が多い。○ねたりしからに 寢たりしものをの意。委しくは、寢たりし故《カラ》に、そんな筈はないのに〔そん〜右○〕の意。○をのうへの 岑上《ヲノヘ》に同じい。○ちらひてながる 「落墮」は同意(2565)語の重疊だから、チラヒと訓んでみた。舊訓オチテナガレヌ〔七字傍線〕。眞淵訓はタギチテナガル〔七字傍線〕とあり、略解、古義共にそれに追從したが、牽強の感がある。○きみが 天皇を斥して申す。○あらしの 四言の句。古義訓によつた。卷八にも「山下風《アラシノカゼ》に」とある。舊訓ヤマオロシノは古語でない。○うちこえて 立田山を〔四字右○〕。○なにおへるもり 風の神と〔四字右○〕名に負うてゐる社。龍田彦の社をさす。○かざまつり 風神の祭。龍田の風神祭は延喜式(祝詞式)によれば、四月七月の兩度、五穀成熟の爲に風雨の荒びなかれと行はれる定例の公事。但こゝは花の爲の臨時の祭である。
【歌意】 島山の裾を行き廻つて流れる、河の縁の岡邊の道を〔傍点〕、ほん昨日さ自分は越えて往つたことであつた。難波に著いても只一晩泊つたに過ぎぬ〔四字右○〕ものを、今見れば〔四字右○〕岑の上の櫻の花は、河の瀧つ瀬に散りに散つて流れるわ。近々行幸あつて〔七字右○〕、大君の見そなはすであらうその日までは、嵐の風など吹くなと、早く〔二字右○〕この峠路を打越して、風の神と〔四字右○〕名に立つてゐる龍田の社に、風祭をせうね。
 
〔評〕 起筆いかにも簡淨にその地勢を形状し得た。
 大和川は、實際龜の瀬のあたりに岩山が突き出し、その根を行き廻る水は岩床を走つての瀧つ流だ。その上の岡道を昨日の夕方に越えて、公用地難波に一泊、すぐ引返して今日またもとの道を辿る。只の一夜だが、山の櫻は早くも瀧の水泡だと、山と瀧の瀬とを映對させて、そこに甚しい倏忽の變化を叙した。さて近く迫つた難波行幸を思ふと、同じ事ならこの花を叡覽にと思ひ寄らぬ者はあるまい。然し花の命は短い。こゝに「昨日こそ――一夜のみ――」の前二句が顧應してくる。その大敵嵐を左右するのは、風の神より外はない。「打越(2566)えて」は峠から京口に出ることで、幸そこの立野の杜に龍田彦が嚴としてまします。「苦しい時の神頼み」で、乃ち「風祭せな」と落著するは、想の進行が自然である。
 以上三首の長歌、最初のは枕詞が二箇處、中のは一箇處、最後のは全然使用しない。素より沈思黙考した苦心の作ではなく、輕い即興的の安易な作で、概して輕妙を以て勝るもの。古人の花に對する風流情緒をしみじみと味得する。
 
反歌
 
射行相乃《いゆきあひの》 坂上之蹈本爾《さかのふもとに》 開乎鳥〔左△〕流《さきををる》 櫻花乎《さくらのはなを》 令見兒毛欲得《みせむこもがな》     1752
 
〔釋〕 〇いゆきあひ 「い」は例の發語、「ゆきあひ」は兩方から出會ふこと。○さか 「上」の字は添字。○ふもと 麓。蹈本《フモト》はこの語の本義。
【歌意】 往來の人のぶつかりあふ坂の麓に、ふつさり咲いてゐる櫻の花を、見せうあの兒もありたいなあ。
 
〔評〕 およそ坂でも何でも、人の行き合はぬ路とてはない。それを特にかくいふのは、餘に路が狹くて、出會つたまゝ互に身をかはすことの出來ぬからだ。立田路は神武天皇紀に、
  皇師|勒《トヽノヘ》v兵(ヲ)、歩《カチヨリ》趣《イデマス》2龍田(ニ)1、而其(ノ)路|狹嶮《サカシクテ》不2得《エ》並(ビ)行(カ)1。
と見え、今でも向うから人が來ると立ち止まつて除けなければならぬ難處がある。そんな山岨の上から見おろ(2567)すと、麓には櫻が滿開だ。あゝいゝ景色だ。獨見ては勿體ない、人にも見せたい。さては懷かしい吾妹子に第一に見せたくなる。
 長歌には公情を叙べて大君の叡覽を思ひ、反歌には私情を叙べて見せむ兒を懷うた。かくて叙事に變化を生ずる。
 以上の立田路往返の諸作は、一人の手に成つたものではない。同行の誰れ彼れが思ひ/\の作だ。されば花の遲速の描寫もちぐはぐで一致もない。かと思ふと、花と風の神とを喰ひ合はせた落想が搗ち合つてゐたりする。それでよいのだ。
 新考は、下の筑波嶺の※[女+耀の旁]歌會の歌の左註に、「右件(ノ)歌者高橋(ノ)連蟲麻呂(ノ)集中(ニ)出(ヅ)」とあるを、こゝまで引上げて、この立田の諸篇から始めて※[女+耀の旁]歌會の歌まで、全部を蟲麻呂の作と斷じたが、私にはその辯駁の勇氣がない。
 
檢税使《ケムゼイシ》大伴(ノ)卿(ノ)登(レル)2筑波《ツクバ》山(ニ)1時(ノ)歌一首并短歌
 
○檢税使 税はチカラと訓む。民庶の手力を盡した所得を年貢として官に納むるもの。檢は檢校《シラ》ベることで、檢税使は諸國の國衙に出張してその納税状態を勘考する役。○大伴卿 この大伴卿は誰れか。この卷は古歌の雜載で、家持の手に成つた大伴家の歌集とは違ふから、大伴卿とあつても、その父祖安麻呂、及び旅人の事とは定めかねる。又安麻呂、旅人の傳中に檢税使を勤めたことも見えない。その他天平から寶字までの間に、大伴氏で公卿に昇つた人は道足、牛養、兄麻呂、古慈悲の四人だが、この人達の事蹟にも檢税使の事が見えない。檢税使はさのみ重職でないから、國守(五位相當)より少し上級の官吏ならよい譯で、當時四位現任の大伴(2568)氏の人だつたらう。○筑波山 既出(八七四頁)。△地圖及寫眞 挿圖257(八七五頁)258(八七六頁)259(八七八頁)を參照。
 
衣手《ころもで》 常陸國《ひたちのくにの》 二竝《ふたなみ》 筑波乃山乎《つくばのやまを》 欲見《みまくほり》 君來座登《きみがきますと》 熱爾《あつけくに》 汗可伎奈氣伎《あせかきなげき》 木根取《このねとり》 嘯鳴登《うそむきのぼり》 岑上乎《みねのうへを》 君爾令見者《きみにみすれば》 男神毛《をのかみも》 許賜《ゆるしたまひ》 女神毛《めのかみも》 千羽日給而《ちはひたまひて》 時登無《ときとなく》 雲居雨零《くもゐあめふる》 筑波嶺乎《つくばねを》 清照《さやにてらして》 言借石《いぶかりし》 國之眞保良乎《くにのまほらを》 委曲爾《つばらかに》 示賜者《しめしたまへば》 歡登《うれしみと》 紐之緒解而《ひものをときて》 家如《いへのごと》 解而曾遊《とけてぞあそぶ》 打靡《うちなびく》 春見麻之從者《はるみましゆは》 夏草之《なつくさの》 茂者雖在《しげくはあれど》 今日之樂者《けふのたぬしさ》     1753
 
(2569)〔釋〕 〇ころもで 常陸《ヒタチ》に係る枕詞。四言の句。意は(1)衣袖には襞《ヒダ》の出來るものなれば、衣手の襞《ヒダ》をいひかけた(地名辭書)。(2)衣手を漬《ヒタ》しを常陸にかけた。倭武(ノ)尊|巡2狩《ユキメグリマシテ》東夷之國(ヲ)1幸2過《イデマス》新治《ニヒバリ》之縣(ニ)1、所《サルヽ》v遣(ハ)國(ノ)造《ミヤツコ》毘那良珠《ヒナラタマノ》命(ニ)新(ニ)令(ム)v掘(ラ)v井(ヲ)、流泉淨澄、最(モ)有(リ)2好愛(キ)1、時(ニ)停(メ)2乘輿(ヲ)1、翫(ビ)v水(ヲ)洗(フ)v手(ヲ)、御衣《ミゾ》之袖垂(レテ)v泉(ニ)而沾(レヌ)、依(リ)2潰《ヒタス》v袖(ヲ)之義(ニ)1以(テ)爲(ス)2此國之名(ト)1、國俗(ノ)諺(ニ)云、筑波(ノ)岳(ニ)雲掛(ル)衣袖漬《コロモデヒタシノ》國(ト)(常陸風土記)。假に(1)の説を採る。(2)はこの枕詞あつて後に出來た説らしいと古義も難じた。さりとて古義に擧げた衣手|端揚《ハタタギ》の説は餘りに迂遠。舊訓コロモデノ〔五字傍線〕。○ひたち 常陸。(1)直土《ヒタツチ》の義。陸地續きに交通し得る處なればなり(常陸郡郷考、地理志料)。(2)日高道《ヒタカヂ》の約。日高又は高見は蝦夷の住居せる奥羽地方の稱、常陸はそこに通ふ路なれば日高道といふ(古今顯昭註、伴信友説)。(2)の説宜しきか。○ふたなみ 筑波山の頂は雌雄二峯竝んでゐるのでいふ。卷三にも「儕立《ナミタチ》の見がほし山」とある。「ふたがみの」を見よ(八七五頁)。舊訓はフタナミノ〔五字傍線〕。上に「衣手常陸」と續けたのに對へてはノ〔傍点〕の助辭のない方がよい。古義訓フタナラブ〔五字傍線〕は語に來歴がない。○きみがきますと 眞淵訓キミキマセリト〔七字傍線〕。○あつけくに 熱けくある〔二字右○〕に。「あつけく」は寒けく〔三字傍点〕の類語。古義訓によつた。○あせかきなげき 「なげき」は大息吐くをいふ。「氣」の下、落字あり。伎〔右○〕を補ふ。○このねとり 木の根をつかみ。卷三の「草取りかねて妹が手を取る」の取り〔二字傍点〕と同意。木は語の頭にある時はコといふ場合が古代に多い。記の雄略天皇の條、三重采女の歌に「竹の根の根だる宮、許能泥能《コノネノ》根はふ宮」と見え、その他、木花《コノハナ》開耶姫、木立《コダチ》、樹種《コダネ》、菓《コノミ》、木蔭《コカゲ》、木工《コダクミ》、木钁《コクハ》、木幡《コハタ》など、紀記に例がある。魚彦訓による。○うそむき 嘯吹《ウソフ》くこと。嘯は玉篇に蹙《シヾメテ》v口(ヲ)而出(ス)v聲(ヲ)とあり、意識的に出せば口笛で、無意識的に出るは、俗に海女の囀と稱する音の類である。こゝは後の方の意。嘯を字鏡に宇曾牟久《ウソムク》とある。本義はウソフクだが、古くから牟久《ムク》と轉じていつた。「嘯鳴」の鳴は添字。○ちはひ 幸《サチハ》ひの上略。(2570)幸《サチ》にハヒの接尾詞の添うて動詞となつた語。○いぶかりし 明かでなかつた、疑はしかつたの意。古義に欝《イブ》せかりしと解したのは非。宣長は「石」の下に木〔右△〕を補うてイブカシキ〔五字傍線〕と訓んだ。○まほら 「まほらぞ」を見よ(一四二〇頁)。○つばらかにしめしたまへば 男女二神が〔五字右○〕。○うれしみと 嬉しいとて〔右○〕。この「み」は高み卑みのみ〔傍点〕で、サニの意ではない。○ひものをときて 衣の紐の緒を解いて。すべて紐を解き帶を緩ぶるは、打解けた時の所作である。○いへのごと 家にある如く〔四字右○〕。
【歌意】 この常陸國の筑波山を見たく思うて、君(大伴卿)が御出でなされたとて、御案内の爲に〔六字右○〕、この夏の暑いのに、汗を掻き/\ハア/\息を吐いて、木の根に取付き、ヒユウ/\音を擧げて登り、頂上を卿に御覽に入れると、筑波の男神もその志を許しなされ、女神もお惠を下され、平生は〔三字右○〕何時を何時ともなく雲が立ち雨が零る、この筑波山をあざやかに照らしての晴天で、ハツキリしなかつたこの筑波地方の結構な國形を、つまびらかに御見せなさるので、嬉しいとて一行の人達は〔六字右○〕、衣の紐をも解いてゆつくりと〔五字右○〕、わが家にあるやうに打解けて遊ぶわい。全く春見ようよりは、夏草が茂くはあるが、今日見ることの〔五字右○〕樂しいことよ。
 
〔評〕 當時の常陸の國府は石岡にあつた。石岡の西には筑波がその翠色を天に挿んでゐる。檢税使大伴卿は來府の序を以ての山登りだ。作者は國衙の下僚で、使の卿が常陸を離國されるまでは、道案内を仕るのであつた。下に見える「鹿島都苅野橋別2大伴卿1歌」の作者も、左註によれば同一人(高橋連蟲麻呂か)らしく、遂に國境近い苅野橋まで送つたのであつた。
 筑波は名山だ。歴史も古い。筑波を見なければ常陸に來たとはいわない。されば丹比(ノ)國人は冬の雪道を冒し(2571)ても登つた(卷三所載)。今はその反對の夏だ。
 登りは今の筑波町から一里、急峻だから暑くてはさぞこたへたであらう。評者が三十餘年前登つた頃は、正にこゝにいふやうに、處々岩につかまり、木の根に取付いたものだ。「歎き」と「嘯き」とは事は稍違ふが、多少親貼の嫌がある。今少し變つた措辭がありたかつた。愈よ登り切つて、こゝが頂上と大伴卿に披露する。平生は尊嚴を維持する爲に山を神化する雲雨も、今日は男女二神のお許しとお蔭とで、有り難い事にお山は晴天、新治筑波國の優秀なる全貌を、殘る隈なく鳥瞰し得た。と筑波神に感謝の詞を捧げることを忘れなかつた。頂上の雄岳と雌岳との間に平地が若干ある。この一行が打解けて家の如娯み遊んだのも、恐らくその邊であらう。 さて結收の筆は一轉して、季節の對照に及び、春を抑へ夏を揚げた。春は何といつても寒い。三月(今の四月)にも樹氷を見るほどだ。今は「あつけきに汗かき歎き」の夏で、草深い時ではあるが、それでも春よりはと、眼前の行樂を飽くまで亨受した。一意到底の敍筆だが、波瀾疊出して變化に富んでゐる。
 なほ筑波山に關しては、卷三「登(リ)2筑波(ノ)岳(ニ)1丹比(ノ)眞人國人(ガ)作歌」の條の評語中(八七七頁)に詳説した。參照されたい。
 
反歌
 
今日爾《けふのひに》 何如將及《いかにかしかむ》 筑波嶺《つくばねに》 昔人之《むかしのひとの》 將來其日毛《きけむそのひも》     1754
 
(2572)〔釋〕 〇いかにかしかむ 「か」は反動辭。新考訓による。舊訓イカヾオヨバム〔七字傍線〕は古訓でない。古義訓イカデシカメヤ〔七字傍線〕は語理が徹らない。
【歌意】 今日のこの日に、どうして及ばうかい。筑波山に昔の人の來たであつたらうその日も、楽しさにおいては〔八字右○〕。
 
〔評〕 長歌の「今日の楽しさ」の結語を承けて、今日にも勝る日は昔にもなからうと、「日」の語を反復して頻に力んだ。「昔の人」とは誰れか。風土記の伊邪那岐(ノ)命の筑波神御訪問から以來、幾千萬人が來て楽しんだであらうが、就中卿の先人の來たことがあるので、それを斥したものか、或はまた當時話柄となつてゐた或人の絶代の勝事があつて、それを思うての事か。略解は、漫然と下した語で斥す所なしといつた。以前の檢税使を斥したとする新考説は愈よおぼつかない。
 
詠(メル)2霍公鳥《ホトヽギスヲ》1歌〔左○〕一首并短歌
 
○霍公鳥 「ほとゝぎす」を見よ(三五二頁)。
 
(貝+貝)/鳥之《うぐひすの》 生卵〔左△〕乃中爾《かひこのなかに》 霍公鳥《ほととぎす》 獨所生而《ひとりうまれて》 己父爾《ながちちに》 似而者不鳴《にてはなかず》 己母爾《ながははに》 似而者不鳴《にてはなかず》 宇能花乃《うのはなの》 開有野邊從《さきたるぬべゆ》(2573) 飛飜《とびかへり》 來鳴令響《きなきとよもし》 橘之《たちばなの》 花乎居令散《はなをゐちらし》 終日《ひねもすに》 雖喧聞吉《なけどききよし》 幣〔左△〕者將爲《まひはせむ》 遐莫去《とほくなゆきそ》 吾屋戸之《わがやどの》 花橘爾《はなたちばなに》 住度鳴〔左△〕《すみわたりなけ》     1755
 
〔釋〕 ○かひこ 養卵《カヒコ》。玉子のこと。コは卵の本名。タマはその形玉に似てゐるので名づけた。「卵」原本に卯〔右△〕に誤る。〇なが 「己」を汝《ナ》と訓むこと前出(二五四七頁)。略解訓シガ〔二字傍線〕。○とびかへり 飛んで翻る。卷二の「眞弓の岡に飛びかへりこね」の飛びかへりは〔六字傍点〕飛んで立返るの意。語は同じで意は異なる。舊訓による。○まひ 既出(一六〇二頁)。「幣」原本弊〔右△〕に誤る。○すみわたりなけ 「嶋」原本に鳥〔右△〕とある。古義説に從つて改めた。
【歌意】 鶯の育てゝゐる卵の中に、時鳥が混つて獨生まれて、お前の父親や母親たる鶯〔右○〕に似ては鳴かず、卯の花の咲いた野邊から、飛び翻り軒近く來て鳴き響かし、橘の花を止まつてゐて散らし、日一日鳴いても聞き飽かずよろしい。お前に〔三字右○〕お禮を上げようわ、遠くに飛んで行くなよ。私の庭の花橘に、何時までも住みついて鳴きなさい。
 
(2574)〔評〕 時鳥/\と詩人騷客はチヤホヤするが、實は怪しからぬ奴で、他鳥の巣の中に自分の卵を産み落し、宿主の卵は蹴出してしまふ。氣のいゝ宿主はそのまゝ巣籠りして、變な卵だと思ひ/\一所懸命に孵すと時鳥に化け、挨拶なしに飛び出して行く。
  生(ム)v子(ヲ)百鳥(ノ)巣(ニ)、百鳥不2敢(テ)瞋(ラ)1、仍爲(ニ)《ヤシナフ》2其子(ヲ)1、禮(シキコト)若(シ)v奉《ツカフル》2至尊(ニ)1。(唐、杜甫)
  四月《ウヅキ》したてば、夜ごもりに鳴く時鳥、昔より語り繼ぎつる、鶯のうまし眞子《マコ》かも、云々。(卷十九、家持―4166)
など見え、恰も鶯の子のやうだ。されば鶯を「なが父――なが母」といつた。聲は鶯とは似ても著かぬが、面白いと聞けば面白い。時は野邊に卯花の咲く頃飛んでくる。林木の間を出没して横腹を見せ/\する。それが「飛び翻り」である。やがて里中を鳴き渡り、庭の橘の花を散らして終日鳴く。野、里、庭、と段々に接近して來て、遂には作者と一つになつてしまつた。それが「日ねもすに鳴けど聞きよし」である。
 どんな御馳走でも續いては降參だ。それ故平安時代にはその初音を賞翫し、或は稀なる聲を尋ねて聞くのもあつた。「いつも初音の心地」は口頭の頓作に過ぎない。江戸時代の俳句でも、大抵はその一聲の瞬間的興會を覘つた。然るに萬葉人は不思議だ。軒の橘に居續けて鳴けと極言してゐる。
 集中時鳥の作は實に無數だ。それらは「鳴く音空なる」(古今集)といふやうな遠距離の聲ではなくて、大抵はもつと里近い家近い、人間と接觸の近い聲であり、又姿でもあつた。蓋し古代の奈良はこの鳥が盛に棲息してゐた故であらう。
 この篇初頭より「似ては鳴かず」までが第一段で、その來歴を叙し、「鳴けど聞きよし」までが第二段で、その動作と鳴聲との優秀さを叙し、以下が第三段で、時鳥への熱愛的希望を叙べた。「鳴く」の重聲反復、い(2575)かにその聲をめでたしと感じたかが知られよう。
 
反歌
 
掻霧之《かききらし》 雨零夜乎《あめのふるよを》 霍公鳥《ほととぎす》 鳴而去成《なきてゆくなり》 何怜其鳥《あはれそのとり》     1756
 
〔釋〕 ○かききらし 前出「うちきらし」(二二三四頁)及び「たなぎらひ」(二四三三頁)を見よ。
【歌意】 烟り渡つて雨の降る夜であるものを〔六字右○〕、時鳥が鳴いて通ることわ。まあ可愛さうなあの鳥よ。
 
〔評〕 雨夜の時鳥、濡れシヨボ垂れたその状を想像すると、愛賞の心からは、「あはれその鳥」と、同情の語が覺えず發せられる。
  名兒《ナゴ》の海を朝こぎくればわた中に水手《カコ》ぞ呼ぶなるあはれその水手(卷七、―1417)
とその姿も調子も似てゐる。
 
登(ル)2筑波《ツクバ》山(ニ)1歌一首并短歌
 
草枕《くさまくら》 客之憂乎《たびのうれひを》 名草漏《なぐさもる》 事毛有武跡《こともあらむと》 筑波嶺爾《つくばねに》 登而見者《のぼりてみれば》 尾花落《をばなちる》 師付之田井爾《しづくのたゐに》 鴈泣毛《かりがねも》 寒來喧奴《さむくきなきぬ》 (2576)新治乃《にひばりの》 鳥羽能淡海毛《とばのあふみも》 秋風爾《あきかぜに》 白浪立奴《しらなみたちぬ》 筑波嶺乃《つくばねの》 吉久乎見者《よけくをみれば》 長氣爾《ながきけに》 念積來之《おもひつみこし》 憂者息沼《うれひはやみぬ》     1757
 
〔釋〕 ○うれひ 古義訓はウケク〔三字傍線〕。○なぐさもる 既出(一〇九九頁)。○あらむと 古義は「武」を哉〔右△〕の誤としてアレヤト〔四字傍線〕と訓んだ。○しづくのたゐ 「しづく」は常陸國茨城郡(今新治都)志筑《シヅク》村。東鑑には志筑(ノ)郷とある。筑波山の南麓より東に走つて志筑の山岡は起伏し、その北部に沿うて志筑川が流れてゐる。古風土記に、從(リ)v郡西南(ニ)近(ク)有(リ)v河、謂(フ)2信筑《シヅク》之川(ト)1、源(ハ)出(デ)v自(リ)2筑波之山1、從(リ)v西流(レ)、東歴(テ)2郡中(ヲ)1、入(ル)2高濱之海(ニ)1(霞が浦)とある川。志筑の南部は一面の平田、これが志筑の田居である。「たゐ」は田家のこと。「井」は借字。○にひばりの 新治郡の。「にひばり」は新墾の義。倭建(ノ)命の御歌に「新治《ニヒバリ》筑波を過ぎて」(記)と見えた。○とばのあふみ 鳥羽の湖水。古風土記に、新治郡(ノ)、郡(ノ)西一里有2騰波《トバノ》江1、長(サ)二千九百歩、廣(サ)一千五百歩、東(ハ)筑波郡、南(ハ)毛野河(絹川の古道)、西北(ハ)新治郡、艮(ハ)白壁郡、と見え、大抵南北四十九町、東西三十二町ほどの大澤である。今はすべて水田。これを大寶沼に充てる説は採らない。「あふみ」は淡水《アハミ》の轉。淡水の湖をいふ。○よけく よく〔二字傍点〕の延言。○ながきけに 長い月日に。「け長く」を見よ(二九八頁)。△地圖 挿圖 257(八七五頁)を參照。
【歌意】 長旅の愁を慰めることもあらうかと、筑波山に登つて見ると、麓の尾花がほゝけて散る士筑の田家に、雁の音も寒さうに來て鳴いた。鳥羽の湖水も秋風に白浪が立つた。かう筑波山の結構さを見ると、永い月日に、くよ/\と思ひつゝ積んで來た愁は、一遍に晴れた。
 
(2577)〔評〕 國衙に赴任してゐる官吏の作であらう。客遊の人は姑く旅愁の囚となるのが通例だ。氣晴しにならうかと、わざ/\筑波の山登り、時秋にして南麓を見おろせば、志筑の田居には尾花が打散り、雁も寒聲を伴うて鳴き落ちる。西方を見渡すと、鳥羽の湖も秋風に白浪立つて光つてゐる。まことに秋興盡きる處を知らない。眼前の好風景に我れを忘れて叫んだ快哉の聲である。
 こゝに東北二面の風景が叙してない。ない筈、東は低く志筑山の岡陵が蜿蜒とし、北は高く葦尾加波の山が連亙して大した眺望にならないからだ。然し大規模の作なら、無論その叙筆に上せる價値があり、更に遠く北に日光山彙の蜿蜒たる大嶽峻峯を控へ、西は上信國境の山脈を望み、西南には富士山の晴容を瞥見し、東には霞が浦の水光手に取る如く、南方の平田は無邊にして直ちに武相の野に連る。この雄大廣濶な眺望と感興とは、別に大歌人の詩筆を※[人偏+就]りるより外はない。今は覊人の小手筆だ。
 中間の叙景は相當に詩味を包容してよい。只結收は冒頭を囘顧したとはいひながら、餘に變化がない。「見れば」の轉換語が重複してゐるのも、疵瑕として數へられよう。
 
反歌
 
筑波嶺乃《つくばねの》 須蘇廻乃田井爾《すそわのたゐに》 秋田苅《あきたかる》 妹許將遣《いもがりやらむ》 黄葉手折奈《もみぢたをらな》     1758
 
〔釋〕 ○すそわ 山裾のめぐり。古義訓スソミ〔三字傍線〕。
【歌意】 筑波嶺の山麓のめぐりの田家に、秋の田を苅るあの兒の許に遣らうわ。いざ〔二字右○〕山の紅葉を手折らうよ。
 
(2578)〔評〕 憂欝も煩悶も登臨のお蔭でけし飛んで、紅葉を愛賞する餘裕も出來、ついこんな陽気な詞も出る程の勇氣も付いた。「秋田苅る妹」を、新考に、山の上から麓田の農婦は見えない、これは登りしなに見た農婦達だと説明した。重箱の隅を楊枝でせゝるやうな論議は、こゝには無用だ。尾花が散り寒雁が鳴く、秋風は湖上の波を揚げる、正に晩秋の光景、その頃は収穫の農繁期で、男も女も田に立つてゐる。今目の前に見ようと見まいとそれには關らない。
 
登(リ)2筑波|嶺《ネニ》1爲《スル》2※[女+耀の旁]歌會《カヾヒヲ》1日(ニ)、作歌一首并短歌
 
○※[女+耀の旁]歌會 ※[女+耀の旁]歌の集《ツド》ひ。※[女+耀の旁]歌は文選左太冲の魏都(ノ)賦に、明發而※[女+耀の旁]歌(ス)とあり、注に蠻人之歌也とある。※[女+耀の旁]歌をカガヒと訓むことは、集の左註に、※[女+耀の旁]歌者、東《アヅマノ》俗語(ニ)曰(フ)2賀我比《カガヒト》1とあるによる。歌中の語に「かがふかがひに」とあれば、カヾフといふ動詞が本で、名詞にカヾヒとなつたのは明かである。攝津國風土記の※[女+耀の旁]歌之會の註に、俗(ニ)云(ヒ)2宇多我岐《ウタガキト》1、又云(フ)2加我毘《カガヒト》1也と見え、歌垣も※[女+耀の旁]歌會も同一である。歌垣の歌は互に歌を詠みあふ故にいひ、カキもカヾヒも同語で、カヒを約めればキとなる。清濁は違ふが音便で變化したのである。さてカヾヒの意は(1)掛け合ひの約か(言海)。(2)力グレアヒの約。カグルは婚を成すこと。(宣長)。(3)久那賀比《クナカヒ》の約にて婚會《クナカヒ》の義(古義説)。(4)カヾは擬聲にて、それを活用してカヾフといふ。即ち聲揚《ウタアゲ》すること(樂章類語抄)。四説とも穩當とは思はれない。或はウタガキが原語で、歌窺《ウタウカヾ》ひの約略か。歌を以て對手の意を探り察《ミ》る意であらう。それを東國では歌を略し、窺《ウカヾヒ》のウを上略してカヾヒとのみいつたと考へられる。垣はもとより借字。
 
(2579)鷲住《わしのすむ》 筑波乃山之《つくばのやまの》 裳羽服津乃《もはきつの》 其津乃上爾《そのつのうへに》 率而《あともひて》 未通女壯士之《をとめをとこの》 徃集《ゆきつどひ》 加賀布※[女+耀の旁]歌爾《かがふかがひに》 他妻爾《ひとづまに》 吾毛交牟《われもあはむ》 吾妻爾《わがつまに》 他毛言問《ひともこととへ》 此山乎《このやまを》 牛掃神之《うしはくかみの》 從來《むかしより》 不禁行事叙《いさめぬわざぞ》 今日耳者《けふのみは》 目串跡〔左△〕勿見《めぐしとなみそ》 事毛咎莫《こともとがむな》     1759
 
  ※[女+耀の旁]歌者、東《アヅマノ》俗(ノ)語(ニ)曰(フ)2賀我比《カガヒト》1。
 
〔釋〕 ○わし 猛禽類中鷹料に屬する大鳥。○もはきつ 裳羽服津。不明。今は筑波山麓に接近した湖沼はない。鳥羽の淡海は一里も西に距つてゐる。恐らく地形の變化して瀦水が無くなつたのだらう。試にいへば、大増山から發源して、筑波の東麓に沿ひ、更に東折して柿岡と志筑の間の低地を流れる志筑川、それが古へは途中の或高地に障へられ、一旦瀦溜して小瀞か湖沼状態を成してゐたので、石岡の國府から行く者は、山路を辿るよりは樂なので、船で通ふ。その發著地が裳羽服津なのではあるまいか。○あともひて 既出(五三四頁)。○かがふかがひ 上の※[女+耀の旁]歌會《カヾヒ》の項を見よ。○われもあはむ 六言の句。舊訓ワレモカヨハム〔七字傍線〕。古義訓による。○こととへ 言問《コトト》ひの命令格。「こととはぬ」を見よ(一〇四七頁)。○うしはく 「牛掃」は借字。既出(一五六三(2580)頁)。○むかしより 略解訓ハジメヨリ、古義訓イニシヘヨ。○いさめぬ 禁ぜぬ。誡めぬ。○めぐしと わが妻をめぐしと。「めぐし」は愛《メデ》たく懷かしむ意。「跡」原本に毛〔右△〕とあるは誤。「めぐしとな見そ」となくては意不通。古今の諸家荐にに膠柱の説を立てゝ、結局諾ひ難い。○こともとがむな 上に妻の上を「めぐしとなみそ」とあるに對し、次に自身の事に及んだ。さればこの「こと」は事柄の意で、言の意ではあるまい。古義は言|咎《トガメ》をと解した。
【歌意】 鷲が棲む筑波の山の裳羽服津《モハキツ》の、その津の邊に連れ立つて、若い女や若者が出掛けて集まり、互に〔二字右○〕挑み合ふ※[女+耀の旁]歌《カヾヒ》會で、他人の妻に自分も逢はう、自分の妻に、他人も懸想をいひ懸けろ。この山を支配する神樣が、昔から禁じない業であるぞ〔三字右○〕。今日ばかりは、自分の妻を〔五字右○〕可愛いと思ふな、その代り自分のする〔その〜右○〕事も、人は咎めるなよ。
 
〔評〕 筑波は此面彼面に蔭のある樹繁き山だ。昔は一般に人間が少なくて雲梯《ウナテ》の杜にさへ眞鳥が棲む程だから、筑波に鷲の棲むのは當然だ。卷十四にも「筑波嶺にかが鳴く鷲の音をのみか」とある。
 往古の人文の上から考察すると、筑波は東方の登口が表參道だつたと思はれる。――近時の南口の表參道は甚しい急峻だから、交通路にはならぬ――國府(石岡)からの順路は、柿岡を經るとも、志筑山の北路から、志筑川の小靜を舟で溯つて、裳羽服津に著くともして、其處から登り出して十三峠路を、今の筑波町の小平地に出る。※[女+耀の旁]歌會の庭は必ずその邊であらう。
 紀記に見える椿市の歌垣に、影媛を中に挾んでの稚鷦鷯《ワカサヽギノ》太子と鮪《シビノ》臣との行動や歌の再三の贈答やは、上古の(2581)歌垣即ち※[女+耀の旁]歌會の状を如實に示すものである。なほ
  雄伴郷|波比具利《ハヒグリノ》岡、此岡(ノ)西(ニ)有(リ)2歌垣山1、昔男女集(リ)2登(リ)此山(ニ)1、常(ニ)爲(ス)2歌垣(ヲ)1、因(リテ)以(テ)爲(ス)v名(ト)。(攝津國風土記)
  香島郡|童子女《ヲトメノ》松原、古有(リ)2年少(キ)僮子1、男(ヲ)稱《イヒ》2那賀寒田《ナカノサムタ》之|郎子《イラツコト》1、女(ヲ)曰(フ)2海上(ノ)安是之孃子《アゼノヲトメ》1、並(ニ)貌容端正、光透(ル)2郷里(ニ)1、相2聞(キ)名聲(ヲ)1、同(ジク)存(ス)2望念(ヲ)1、自愛心滅、經v月(ヲ)累(ス)v日(ヲ)、※[女+耀の旁]歌之會、邂逅《タマサカニ》相遇(フ)、于時郎子歌(ヒテ)曰(フ)云々。孃子歌(ヒテ)曰(フ)云々。(常陸國風土紀)
  杵島郡、縣(ノ)南二里(ニ)有(リ)2一孤山1、從(リ)v坤指(シテ)v艮(ヲ)、三峯相連(ル)、是(ヲ)名(ク)2杵島(ト)1、坤(ハ)者曰(ヒ)2比古神(ト)1、中(ハ)者曰(ヒ)2比賣神(ト)1、艮(ハ)者曰(フ)2御子神(ト)1、郷閭(ノ)士女、提(ゲ)v酒(ヲ)抱(キテ)v琴(ヲ)、毎歳春秋、携(ヘテ)v手(ヲ)登(リ)望(ミ)、樂飲歌舞(シ)、曲盡(キテ)而歸(ル)。(肥前風土紀)
などの記事から察すると、年に一度か二度日を定めて、地方/\の山野の勝地に男女が集合して歌舞遊冥し、歌意を以て相挑み相應じ、各その偶を得るに畢る。抑もこれは太古から人類生々の必要上、その本能を縱まにした遺習で、節操の解放時であつた。後世の盆踊はその又遺風だが、これは爲政者の手に依つて、風紀肅正の大鉈を地方的に施されたものだ。
 茲にこの※[女+耀の旁]歌會を斥して、「この山を主人《ウシ》はく神の、昔より禁《イサ》めぬ行業《ワザ》」と稱してゐる。それもその筈、筑波神は雌雄の二神にまします。肥前の杵島の神も亦さうである。昔からその社頭での歡娯だから、神意を楯に取つて威張るのも尤もだ。めぐしい妻も人任せ、その代り自分も勝手な眞似をしようとの放言は、頗る亂淫に渉つて厭はしくもあるが、理窟は拔きだ。されば常陸風土記に、
  筑波|峯《ネ》之會(ニ)、不(ル)v得2聘財(ヲ)1者(ハ)、兒女(ト)不v爲《セ》矣。
とある如く、※[女+耀の旁]歌會に相手の出來ないやうな者は、女でないとした。
 清の趙翼(※[區+瓦]北と號す)の※[竹/瞻の旁]曝雜記の邊郡風俗の條に、
(2582)  粤《エツ》西(廣西)ノ土民及ビ※[さんずい+眞]※[黒+今](雲南貴州)ノ苗※[獣偏+果]ノ風俗大概淳朴ナリ。惟男女ノ事ハ甚ダ別アラズ。春日毎ニ墟ヲ※[走+珍の旁]ヒテ、歌ヲ唱ヘ男女各一邊ニ坐ス。其歌ハ皆男女相悦ブ詞ナリ。ソノ合ハザル者モ亦歌アリテ之ヲ拒ム。※[人偏+爾]ハ我ヲ愛スレドモ我ハ※[人偏+爾]ヲ愛セズノ類ノ如シ。若シ兩ナガラ相悦ベバ、則歌畢リテ手ヲ携ヘテ酒棚ニ就キ、並坐シテ飲ミ、彼此各物ヲ贈リテ以テ情ヲ定メ、期ヲ訂リテ相會ス。甚シキハ酒後即チ潜ニ山洞ニ入リテ相昵ル。歌ヲ唱フル時ニ當リテ諸婦女雜坐ス。凡遊客素ヨリ相識ラザル者モ皆之ト嘲弄スベシ。甚シクテ相※[人偏+畏]レ抱クモ亦禁ゼズ。并夫妻アリテ同ジク墟端ニアランニ、ソノ妻ノ人ノ爲ニ調笑セラルヽヲ見テモ夫ハ瞋ラズ、反リテ喜ブハ妻美ニシテ能ク人ヲ悦バシムト謂ヘルナリ。否ラザレバ或ハ歸リテ相※[言+后]ル。云々。
とあるは、わが※[女+耀の旁]歌會の爲に註脚を與へたものといへよう。
 とにかく※[女+耀の旁]歌會はかくの如く樂しい行事だ。筑波は隨つて樂しい山だ。それを措いても登臨の快があり、奇巖怪石の磊※[石+可]、林※[木+越]の森々、雲烟の去來は、人をして心神を往かしめるに足りる。伊弉諾尊が筑波神に豫約せられたお詞(風土記所出)は、全く茲に實現してゐる。これぞ上代人が筑波を口を極めて椎賞する所以。
 續紀に歌垣の事が載せてある。いはく、
  天平六年二月天皇御(シ)2朱雀門(ニ)1覽(ス)2歌垣(ヲ)1、男女二百四十餘人、五品以上有(レバ)2風流者1皆交2雜(ル)其中(ニ)1、――等(ヲ)、爲(ス)v頭(ト)、以(テ)2本末(ヲ)1唱和(ス)、爲(ス)2難波曲《ナニハブリ》、倭部《ヤマトヘ》曲、茅原《チハラ》曲、廣瀬《ヒロセ》曲、八裳刺《ヤツモサス》曲之音1、令(ム)2都中(ノ)土女(ニ)縱(マニ)觀1。(卷十一)
  寶龜元年三月、車駕行)2幸(ス)由義《ユゲノ》宮(ニ)1云々、男女二百三十人、供2奉(ル)歌垣(ヲ)1、其服並(ニ)著2青摺(ノ)細布《サヨミノ》衣(ヲ)1、垂(レ)2紅(ノ)長紐(ヲ)1、男女相並(ビテ)分(テ)行(ク)、途《ミチニテノ》進歌云々、其歌垣(ノ)歌云々。毎(ニ)2歌(ノ)曲折1擧(ゲテ)v袖(ヲ)爲(ス)v節(ヲ)。(卷三十)
この歌垣は古代の歌垣や※[女+耀の旁]歌會とは性質が違ひ、集團的の歌舞である。京師ではかく歌垣が變形して、後世の(2583)踏歌の元始をなしてゐる。が地方ではまだ古習が存して、筑波の※[女+耀の旁]歌會の如きが行はれてゐたのだ。
 なほ「他妻に云々」に就いては、卷十「朱羅《アカラ》ひく色妙《シキタヘ》の子」の條を參照。
 
反歌
 
男神爾《をのかみに》 雲立登《くもたちのぼり》 斯具禮零《しぐれふり》 沾通友《ぬれとほるとも》 吾將反哉《われかへらめや》     1760
 
〔釋〕 ○をのかみ 筑波の雄神のまします雄嶽即ち男體山をいふ。
【歌意】 雄嶽に雲が立昇つて、一村雨がかゝり、この衣がよし〔二字右○〕沾れ透るとも、自分は歸らうかい。
 
〔評〕 「雄の神」はこゝは山頂の易名に過ぎないやうだが、崇高味を呼ぶ點に於いて必須な措辭である。その神の降らす雨に遭つても、づぶ濡れになつても、なぜ歸らぬと強情をいひ張るか。それは※[女+耀の旁]歌會が滅法面白いからである。そこに十分なる含蓄の餘意が見られる。多分作者が「かがふかがひ」に浮かれ切つて居た時、天候が俄然變つて沛然と雨が來たのであらう。「雲たちのぼり時雨降り」と中止態の漸層に、「われ反らめや」の反語、一往一返、勁健の調子で終始してゐる。
 左註に、右件(ノ)歌は高橋(ノ)連蟲麻呂(ノ)歌集(ニ)出(ヅ)とあるから、この長短歌二首は或は蟲麻呂の作かも知れない。なほ下の「鹿島郡|苅野《カルヌノ》橋(ニテ)別(ルヽ)2大伴卿(ニ)1歌」の條下に、その餘説を述べよう。
 
右、件(ノ)歌者(ハ) 高橋(ノ)連蟲麻呂(ノ)歌集中(ニ)出(ヅ)。
 
(2584)詠(メル)2鳴鹿《シカヲ》1歌一首并短歌
 
三諸之《みもろの》 神邊山爾《かみなびやまに》 立向《たちむかふ》 三垣乃山爾《みかきのやまに》 秋芽子之《あきはぎの》 咲乃盛爾〔四字左○〕《さきのさかりに》 棹鹿乃〔三字左○〕《さをしかの》 妻卷六跡《つまをまかむと》 朝月夜《あさづくよ》 明卷鴦視《あけまくをしみ》 足日木乃《あしひきの》  山響令動《やまひことよめ》 喚立鳴毛《よびたてなくも》     1761
 
〔釋〕 ○みもろの 既出(七八六頁)。○かみなびやま 既出(七八六頁)。こゝは飛鳥の雷岳《イカヅチノヲカ》と假定する。「雷岳」を見よ(六三五頁)。○たちむかふ 打向ふに同じい。○みかきのやま 御《ミ》垣の山。神なび山は神山だから、傍なる山を忌《イ》垣に譬へていつた。こゝは豐浦の岡をさした。なほ前出「豐浦寺」を參照(二三五〇頁)。契沖は、立向へる山あるなるべしと漫然たることをいひ、諸註また言及してゐない。○あきはぎのつまをまかむと 鹿の妻が萩の花であるやうに聞える。平安期の歌心はこの意で專ら詠まれてある。然し甚しい不倫な取合せなので、契沖は秋芽子の如く珍しき妻をの意に解し、「あきはぎの」を比喩とした。修辭上の理窟は立つが、矢張受け取りにくい。卷八に
  わが岳にさを鹿來鳴くさき萩の花妻とひ〔八字傍線〕にきなくさを鹿(太宰師大伴卿、―1541)
とあるも、さき〔二字傍点〕萩のは花妻〔二字傍点〕の花を形容したので、妻にまでは係らぬから、こゝの證にはならぬ。新考に「あき(2585)はぎの」と「つまをまかむと」との間に、咲キノ盛リニ棹鹿ノ〔九字右○〕などいふ二句の落句あるべしと斷じたのは警眼である。今はこの二句の落脱あるものとして解釋する。「まかむ」は既出(九二五頁)。○あさづくよ 夜明頃の月をいふ。夕月夜の對語。○よびたて 元本藍本類本の訓による。舊訓ヨビタチ〔四字傍線〕。△地圖及寫眞 188(六七八頁)130(四四八頁)を參照。
【歌意】 神南備山に向き合ふ、あの御垣の山で、萩の花の咲き盛る時に〔六字右○〕、妻戀する鹿が〔四字右○〕、朝月夜の明けうことが惜しさに、谺《コダマ》を響かせて、その妻を〔四字右○〕喚び立てゝ鳴くわい。
 
〔評〕 雷岳の畏こさは今更いふまでもない。その御垣と候ふ山は、南方飛鳥川を挾んで立ち向ふ豐浦の岡の外にはない。萩が多かつたと見え、卷八に、故郷(ノ)豐浦寺(ノ)尼(ノ)私房(ニ)宴(スル)歌と題して、
  あすか川ゆきたむ岡の秋萩は今日降る雨に散りかすぎなむ(國人―1557)
の外二首、萩をもてはやした歌が出てゐる。淨見原京の榮えた時代でも、豐浦の岡は皇宮を俯瞰するから、無論採樵を禁ぜられ、豐浦寺へ參詣の外は登攀も許されぬ場處と思はれるから、何れ萩も茂り鹿も出没してゐただらう。ましてや遷都後なら無論のことである。
 作者は今雷の岳附近の家で、測らず殘月に尻聲を引いて哀れ氣に鳴く豐浦の岡の鹿の音を聽いた。鹿の鳴くは秋の妻戀ひ時季である。さてはその妻を求めかねた鹿が、一夜の空しく明けることを悲しみ、山とよむまで聲を揚げて啼くよと、躊躇なしにいひ切つた。
 この歌、原本のまゝだと、古義に鹿といはずしておのづから鹿の事と聞かせたりとある通りである。新考に(2586)長歌には主格を擧ぐるが至當と難じたのは當らない。それは作歌上自由の問題である。
 
反歌
 
明日之夕《あすのよに》 不相有八方《あはざらめやも》 足日木之《あしひきの》 山彦令動《やまひことよめ》 呼立哭毛《よびたてなくも》     1762
 
【歌意】 明日の晩には〔右○〕、逢はれずにあらうかい。それをこの夜ばかりのやうに〔それ〜右○〕、谺を響かして、鹿は妻を〔四字右○〕呼び立てゝ鳴くことよ。
 
〔評〕 鹿の妻戀に頻に同情し、明日の晩もあるではないかと慰めた。蓋し鹿の音に哀感を唆られて溜まらぬ人の作である。主格の鹿の語が略かれてある。
 
右、件(ノ)歌、或云、柿本(ノ)朝臣人麻呂(ガ)作(メリト)。
 
作者と場處との關係を考へると、或は淨見原宮時代か若しくは藤原宮時代の初期の作かとも思はれる。これ或人の人麻呂作の説の生ずる所以であらう。
 
沙彌《サミノ》女王(ノ)歌一首
 
○沙彌女王 傳未詳。
 
(2587)倉橋之《くらはしの》 山乎高歟《やまをたかみか》 夜※[穴/牛]爾《よごもりに》 出來月之《いでくるつきの》 片待難《かたまちがたき》     1763
 
〔釋〕 ○よごもり 「※[穴/牛]」は牢の俗字。こゝは動詞で籠圍するの意を用ゐ、コモリに充てた。○かたまちがたき 「かたまちがてり」を見よ(一九八八頁)。この歌左註にいふ如く、卷三の
  椋橋の山を高みか夜ごもりに出でくる月の光ともしき(大浦―290)
の結句が變つたのみだから、再説を略く。
 
右一首、間人《ハシヒトノ》宿禰大浦(ノ)歌中(ニ)既(ニ)見(ユ)、但末(ノ)一句相換(ル)、亦作歌(ノ)兩主不2敢(ヘテ)正指(セ)1。因(リテ)以累(ネテ)載(ス)。
 
○作歌兩主不敢正指 歌主が沙彌女王と大浦との二人あつて、何れとも正しく斷定が出來ないとの意。
 
七夕《ナヌカノヨノ》歌一首并短歌
 
久堅乃《ひさかたの》 天漢爾《あまのかはらに》 上瀬爾《かみつせに》 殊橋渡之《たまはしわたし》 下湍爾《しもつせに》 船浮居《ふねをうけすう》 雨零而《あめふりて》 風者〔左△〕吹登毛《かぜはふくとも》 風吹而《かぜふきて》 雨者〔左△〕落等物《あめはふるとも》 裳不令濕《もぬらさず》 不息來益常《やまずきませと》 玉橋渡須《たまはしわたす》     1764
 
(2588)〔釋〕 ○あまのかはら こゝは天の河といふに同じい。「天漢」は天の川のこと故、正しくは原〔右○〕の字なくてはカハラとは訓まれない。上にも漢原〔二字傍点〕と書いた處がある。然し天の川、天の川原はその頃同意に通用した語で、原に深い意はない。○たまはし 「たま」は美稱。○ふねをうけすう 船を浮べて置くの意。この句で切れないと一篇の意が齟齬して通じにくい。略解訓による。舊訓フネウケスヱテ〔七字傍線〕、契沖訓フネヲウケスヱ〔七字傍線〕、古義訓フネウケスヱ〔六字傍線〕。○かぜはふくとも――あめはふるとも 原本「不吹登毛《フカズトモ》」「不落等物《フラズトモ》」とある。二つの「不」略解に引用した宣長の或人説に、者〔右△〕の誤ならむとあるに從つた。
【歌意】 天の河に上の瀬には美しい橋を架け、下の瀬には船を浮べて置く。船と違つて、假令〔七字右○〕雨が降つて風は吹くとも、風が吹いて雨が降るとも、その裳裾を濡らさずに、絶えずお出でなされよとて〔右○〕、天の河に美しい橋を架けた。
 
〔評〕 橋を架けるのは男の仕事、裳裾を曳いて雨などに濡れるのは女の姿態である。されば牽牛星の意中として、この歌は詠まれたと見る。可愛い織女星ゆゑの心盡し、却ては牽牛自身の爲の工作であつた。その理由は「七夕に雨が降ると、二星の會合がお流れになる」といふ話説が生じてゐるからである。でどんなに雨風が荒くてもの意を強調して、「雨降りて風は吹くとも、風吹きて雨は降るとも」と丁寧反復して印象を深からしめ、結局「玉橋渡す」にその重點を歸した。
 「船をうけ据う」は一篇の大意から見れば、「珠橋わたし」に對を求めた修辭上の文飾に終るやうだが、天の河の船渡しは殆ど通則の如くになつてゐるから、作者としては言及せざるを得なかつた。幸にもそれが爲船渡(2589)しの風雨の困難さが暗映されて、架橋の企畫に必要性を帶びてくる。要するに架空の誕語、文章遊戯として見れば面白い處もある。
 
反歌
 
天漢《あまのがは》 霧立渡《きりたちわたる》 且今日且今日《けふけふと》 吾待君之《わがまつきみが》 船出爲等霜《ふなですらしも》     1765
 
【歌意】 天の河に水霧が立ち渡るわ。今日か今日かと、私の待つ君(彦星)が、今船出をなさるらしいよ。
 
〔評〕 これは織女の立場から作つた。霧は船を遣る爲に發つ水烟をいつた。
  ひこ星の嬬《ツマ》むかへ船漕ぎ出《ヅ》らし天のかはらに霧の立てるは(卷八、―1527)に似た着想で、そこに分寸の差違がある。卷十その他にも類歌がある。尚卷八の「ひこ星の嬬むかへ船」の條の評語を參照(二三二二頁)。
 
右、件(ノ)歌、或云(フ)、中衛(ノ)大將《カミ》藤原(ノ)北卿(ノ)宅(ニテ)作(メル)也。
 
これは何人かが藤原北郷の宅で詠んだとの意。○中衛大將藤原北卿 藤原|房前《フササキ》のこと。兄武智麻呂の宅は南に在つたので南卿と稱し、房前を北卿と稱した。房前の傳は既出(一四四六頁)。中衛大將は中衛府を見よ(一四四五頁)。
 
相聞
 
(2590)振田向《フルノタムケノ》宿禰(ガ)退《マカル》2筑紫(ノ)國(ニ)1時(ノ)歌
 
○振田向宿禰 傳未詳。振は布留《フル》の借字で、布留は氏。姓氏録に布留(ノ)宿禰とある。田向はその名。但古代には複姓がまゝあるから、振田向が氏かも知れない。○退筑紫國 京を退りて筑紫に行くをいふ。筑紫國は今筑前筑後の稱。
 
吾妹兒者《わぎもこは》 久志呂爾有奈武《くしろにあらなむ》 左手乃《ひだりての》 吾奥手爾《わがおくのてに》 纏而去麻師乎《まきていなましを》     1766
 
〔釋〕 ○くしろ 「くしろつく」を見よ(一六五頁)。○おくのて 臂より奥を稱する。二の腕に當る。眞淵の説を宣長が敷演して以來、右の手を邊《ヘ》の手、左手を奥《オク》の手とする説が行はれてゐる。委しくは「雜考」に讓る。
【歌意】 我妹子お前は、釧であつてほしいな、さらば〔三字右○〕私の左手の、その奥の腕にはめて往かうものをさ。それが出來ないので殘念な〔それが〜右○〕。
 
〔評〕 作者が京で馴染んだ女に別れ行く折の作である。成る事なら連れても行きたいが、事情はそれが不可能である。となると、遂には實現性のない空想まで描くやうになる。
 釧を實物として扱つたのは、集中この歌の外にない。萬葉時代には手纏のみ流行してゐて、釧は餘りはやらなかつたと見える。服制の改正などその因を成したのではあるまいか。玉も釧も装身具だから美しい。さては愛人を以てそれに比擬するのは、聯想が自然である。比擬した上で、その玉その釧の如く、手に纏きたいの身(2591)に著けたいのと欲求するのも人情で、この趣向は萬葉人の殆ど通念となつてゐる。家持などは再三反復この意を詠じた。
  わが背子は玉にもがもな時鳥聲にあへぬき手にまきて行かむ(卷十七、家持―4007)  あも刀自は玉にもがもや載きてみづらのなかにあへまかまくも(卷廿、津守小栗栖―4377)
なほこの事は卷三「人言のしげきこの頃」の條の評語を見られたい(九七一頁)。
 この歌の特色は漫然たる手に纏〔三字傍点〕くの套語を避けて、「左手のその奥の手に」と描寫に委曲を盡した點にある。而も漸層法で現實性を強めて來た、その表現の手際は全く警拔である。總べて餘計な装身具などは、滿艦飾の場合は別として、餘り活動せぬ左手にするのが便利であり、現今の人達も實行してゐることである。又釧はもとより肱纏《ヒヂマキ》で、その奥の手にあるべき物だ。
 「去なましものを」は百尺竿頭に一歩を進めたもので、「その奥の手」即ち内緒にでも女をも連れてと思うたことも、一旦理性に反ると、一切實現不能の空想に過ぎないことを覺悟するに至つて、永久の別離を悲傷する餘意が搖曳して盡きない。
            △釧考、奥の手考(雜考―31參照)
 
拔氣大首《ヌカゲノオホビトガ》任《マケラルヽ》2筑紫(ニ)1時、娶《アヒテ》2豐前(ノ)國(ノ)娘子《ヲトメ》紐兒《ヒモノコニ》1作(メル)歌三首
 
牧氣大首が筑紫(筑前又は筑後)に赴任する時、豐前(ノ)國の紐(ノ)兒といふ娘子に逢つて作んだ歌との意。○拔氣大首 傳未詳。拔氣はヌカゲと訓む。古義に、神代紀に鏡作部(ノ)遠祖|天糠戸《アマノヌカト》を、一書には天(ノ)拔戸と作れるを思ひ合はすべしとあるに從ふ。大首は首《オビト》の姓もあるが、こゝは子首《コビト》に對した大首で、名であらう。○紐兒 傳未詳。
 
(2592)豐國乃《とよくにの》 加波流吾宅《かはるはわぎへ》 紐兒爾《ひものこに》 伊都我里座者《いつがりをれば》 革流波吾家《かはるはわぎへ》     1767
 
〔釋〕 ○とよくに 既出(七五四頁)。○かはる 豐前國田川郡香春村。鏡山の東南麓の村。和名抄に香春(ノ)郷と出てゐる。豐前風土記に、田河郡香春(ノ)郷、此郷之中(ニ)有(リ)v河、此河瀬清淨(シ)、因(テ)號(ク)2清(ミ)河原《カハラ》村(ト)1、今謂(フハ)2鹿春郷(ト)1誤と。ハラをハルと發音するは昔からの九州訛と見えた。今は濁つてバルと發音してゐる處もある。○わぎへ 我家《ワガイヘ》の約。下になり〔二字右○〕の助動詞を略いた。○いつがり 「い」は發語。「つがり」は繋《ツナガ》りの約。良行四段の動詞。※[金+巣]は金《カネ》の鎖《クサリ》のことだが、和名抄には加奈都賀利《カナツガリ》と訓んである。掖齋の箋註に、ツガリ、連鎖之謂、舞人(ノ)摺袴(ニ)有(リ)2ツガリ組1、今(ノ)俗、茶入(ノ)袋(ニ)有(リ)2スガリ1、又以(テ)v絲(ヲ)造(ルヲ)v嚢(ヲ)亦謂(フ)2之スガリ(ト)1、竝(ニ)※[言+爲](レル)2ツガリ(ヲ)1也。と△地圖及寫眞 222(七五五頁)221(七五四頁)を參照。
【歌意】 豐前の國の香春は私の宅〔右○〕よ。紐の兒に引つかゝつてをるので、香春は私の宅〔右○〕よ。
 
〔評〕 今筑紫に赴任して行く人が、途中の香春の宿で、香春は私の宅だは、とても合點のゆかぬ詞である。こんな不合理な前提をおいて、更にその解説を與へて成程と諾かせるのは、詞人のよく用ゐる猾手段である。こゝも「紐の兒にいつがりをれば」の説明を聞くや、覺えず膝を拍つて何人もほゝ笑まざるを得まい。「わぎへの如し」といへば常識的だが、それを「わぎへ」と斷定してしまつた逸脱の氣味が面白い。それ程に紐の兒は作者をして旅を忘れ公程を忘れて、餘念なく耽溺せしめる愛の力をもつてゐたことが想像される。「紐」の縁語の「いつがり」の如きは、一寸した聯想上の道樂で、そんな調戯を弄する程度の、輕い身柄の女で紐の兒はあつ(2593)た。
 二句を結句に反復するは古體である。(なほ卷一、「麻裳よし紀人ともしも」の評語(二一九頁)を參照)。
 
石上《いそのかみ》 振乃早田乃《ふるのわさたの》 穂爾波不出《ほにはいでず》 心中爾《こころのうちに》 戀流比〔左△〕日《こふるこのごろ》     1768
 
〔釋〕 ○ほにはいでず 穂には出づ〔二字傍点〕を「いでず」のいで〔二字傍点〕にいひ續けて、初句より「いで」までを序詞とした。「ほにはいでず」は「ほにいづる」を見よ(七九一頁)。○このごろ 「比」原本に此〔右△〕とあるは誤。
【歌意】 石上の布留の早稻田が、穂には出るが、そのやうに表面《ホ》には顯はさず、自分は〔三字右○〕心の内ばかりで戀うてゐる、この節であることよ。
 
〔評〕 九州のあたりで、なほ石上布留の早稻田を抽出した。作者大首は大和人の而も布留人なのであらう。「戀ふるこの頃」の結句は、平安人なら戀ふる頃かな〔六字傍点〕といふ處で、集中、長歌一首の外にこの歌を入れて六首まである。就中
  人言をしげみと妹にあはずして心のうちに戀ふるこの頃(卷十二、―2944)
は下句が全く同じだ。然し、「人言を繁みと妹にあはずして」は説明的で、この序詞を運用して大樣に調べおろした風格には遠く及ばない。
 
(2594)如是耳志《かくのみし》 戀思渡者《こひしわたれば》 靈刻《たまきはる》 命毛吾波《いのちもわれは》 惜雲奈師《をしけくもなし》     1769
 
〔釋〕 ○かくのみしこひし 二つの「し」は強辭。○たまきはる 命の枕詞。既出(三六頁)。
【歌意】 こんなにばかりさ、戀してさをると、もう〔二字右○〕命も、私は惜しいこともないわい。
 
〔評〕 戀愛は人間の本能だ。隨つて命を抛ち死をかけて狂する。この種の諷詠は人間が存在する間は盡きまい。まことに平凡で陳腐で、而も眞實なのだ。
 以上二首は大首が香春を發足してから後の詠であらう。對手は無論紐の兒だ。
 
大神大夫《オホミワノマヘツギミガ》任《マケラルヽ》2長門(ノ)守(ニ)1時、集(ヒテ)2三輪河(ノ)邊(ニ)1宴《ウタゲスル》歌二首
 
大三輪の大夫が長門守に任ぜられた時、人達が〔三字右○〕三輪河の邊に集まつて、送別の宴を開いた時の歌との意。○大神大夫 大神は氏、大三輪の意。單に三輪ともいふ。姓はもと君であつた。この大夫は三輪朝臣高市麻呂のこと。紀に、天武天皇元年六月大伴吹負を將軍に拜した時、吹負の麾下に會し、七月箸(ノ)陵に戰つて近江の軍を破り、同十三年朝臣姓を賜はつた。持統天皇六(諸本、七トアルハ誤)年二月の伊勢行幸に、是日、中納言直大貮三輪朝臣高市麻呂上(リ)v表(ヲ)敢(テ)直言(シテ)、諫(ム)d爭天皇(ノ)欲(シテ)v幸(サムト)2伊勢(ニ)1妨(グルコトヲ)c於農時(ヲ)u、云々。續紀に、大寶二年正月從四位上にて長門守となり、三年六月左京(ノ)大夫となる。慶雲三年二月卒し、壬申の功により從三位を贈らる。大花上利金(2595)の子なりとある。懷風藻に年五十と見えた。〇三輪河 初瀬川を三輪にて稱する名。川は三輪山の南麓|金谷《カナヤ》を通過して西北流する。「初瀬川」を見よ(二七二頁)。
 
三諸乃《みもろの》 神能於姿勢流《かみのおばせる》 泊瀬河《はつせがは》 水尾之不斷者《みをしたえずば》 吾忘禮米也《われわすれめや》     1770
 
〔釋〕 ○みもろのかみ 三輪山の神。三輪山を三諸山とも稱する。「みわのやま」を見よ(八三頁)。○おばせる 帶び給ふ心の意。佩ばす〔三字傍点〕は佩《オ》(帶)ぶの敬相。○みを 既出(一九〇六頁)。
【歌意】 三輪の神が、帶にしていらつしやる初瀬河、その水脈《ミヲ》がさ絶えないならば、貴方達を〔四字右○〕私が忘れませうかい。
 
〔評〕 作者は三諸の神の神裔として三輪の地に蟠踞してゐた三輪(ノ)君の棟梁で、壬申の役飛鳥方に馳せ參じて忠勤を抽んで、途に三位中納言にまで陛つた英雄である。旁ら文事にも渉り、その所作は懷風藻にも出てゐる。今外官となつて行長門守で赴任する。その送別の宴は三輪川の勝地に張られた。神人たる三輪の一族は同族の名譽として擧つて參會したらう。
 彼等族人が口を開けば三諸の神を云々するのは、蓋し當然過ぎる當然だ。時は正月、仰げば神のます三諸山はその氏人を愛護するかのやうに和やかに春日に霞み、俯せば初潮川は昔ながらに滾々として山裾に御帶として流れてゐる。作者は乃ち三諸神の神意を借りて暗に初瀬川の常住性を證し、更にその初瀬川を借りて、參會(2596)の族人達に向つて、永久にわが交情の渝らぬことを證した。一任四五年の別離には過ぎないが、文選の「去者(ハ)日以(テ)疎(シ)」の輕薄な人情はもたぬと斷言する處、この際この時、尤もその當を得た留別の詞であらう。作者は當時四十六歳。
 著想は例の山※[礪の旁]河帶の誓語に類し、而もその反説的手法は、
  いかるがの富の緒川の絶えばこそわが大君の御名忘らえめ(上宮聖徳法王帝説、拾遺集、今昔物語、日本靈異記)
に發源して、類歌はこの他に二三、集中に數へられる。
 なほ卷六「いづみ河ゆく瀬の水のたえばこそ」の條(一八四九頁)、及び「大王の御笠の山の帶にせる」の條(一九〇一頁)の評語を參照。
 
右一首、大神(ノ)大夫(ガ)作(メル)〔八字右○〕。
 
此處にこの左註を補ふがよい。理由は評語が説明してゐる。
 
於久禮居而《オクレヰテ》 吾波也將戀《われはやこひむ》 春霞《はるがすみ》 多奈妣久山乎《たなびくやまを》 君之越去者《きみがこえなば》     1771
 
〔釋〕 ○われはや 「や」は歎辭。
【歌意】 あとに殘つてゐて、私はまあ戀しく思はうわ。あの春霞の靡く山を、貴方が越えて往かれうならばさ。
 
〔評〕 これは上の送別宴に參會した或者の作である。「春霞たなびく山」は漫然たる旅中の山ではなく、眼前に霞(2597)んで見える生駒葛城の連山、主としては高市麻呂の行路に當る、國境の二上越あたりを指斥してゐるのである。そこを越せば高市麻呂はもはや大和の人ではない。で「後れゐて――戀ひむ」と、「來るべき別恨を豫想して、眼前の別離を悲しんだ。
 
右一首、宴(ニ)集(レル)人(ノ)作(メル)〔七字右○〕。
 
こゝにこの左註を補ふ。
 
右二首、古集中(ニ)出(ヅ)。
 
○古集 他の書例によれば古歌〔右○〕集とあるべき處。
 
大神(ノ)大夫(ガ)任(ケラルヽ》筑紫(ノ)國(ニ)1時、阿倍《アベノ》大夫〔二字左△〕(ガ)作歌
 
○大神大夫 上と同じく高市麻呂のこと。但筑紫赴任の事はその傳にない。新考はいふ、初二句が上の歌と同じなので、その題詞「大神大夫」をこゝに誤記したのだらうと。これも一説である。○任筑紫國 筑前か又は筑後の守かになされたのをいふ。○阿倍大夫 古義に阿倍(ノ)廣庭を充てたが、高市麻呂は慶雲三年に、廣庭は天平四年に薨じ、その間廿六年の開きがあつて、廣庭は遙か後輩であるから、「子ゆゑに」とある歌の趣に合はない。抑も「子」は男同士では、同等の身分よりは卑い對手に專ら使ふ詞である。四五位相當の大夫を「子」と呼ぶからは、作者は必ず三位以上の公卿であらう。されば「大夫」は卿〔右△〕の誤。但、阿|倍《ベノ》卿は高市麻呂時代に二人ある。一人は廣庭の父右大臣阿倍(ノ)御主人《ミウシ》で、大寶三年に六十九歳で薨じ、高市麻呂よりは廿二歳も長じた人(2598)だ。高市麻呂を「子」と呼ぶに、門地閲歴年齡共にふさはしい。今一人は中納言阿倍(ノ)宿奈《スクナ》麻呂(比羅夫の子)だが、これは官位も年齡も稍卑い。なほ勘考の餘地がある。○阿倍卿 名は御主人《ミウシ》。本姓は阿部(ノ)(倍)布施《フセ》(普勢)(ノ)臣。壬申の功臣。紀に、持統天皇元年正月中納言、同五年正月直大壹、同八年正月氏(ノ)上、大納言となり、同十年資人八十人を賜ふと見え、續紀に、大寶元年三月從二位右大臣、同三年閏四月薨ずとある。
 
於久禮居而《おくれゐて》 吾者哉將戀《われはやこひむ》 稻見野乃《いなみぬの》 秋芽子見都津《あきはぎみつつ》 去奈武子故爾《いなむこゆゑに》     1772
 
〔釋〕 ○こゆゑに 男をさして「子」とも呼ぶ。但必ず同輩以下の者に稱する。「子ども」(二三五頁)を參照。
【歌意】 あとに殘つてゐて、私はまあ戀しからうわ。面白さうに〔五字右○〕稻見野の萩の花を見ながら、行くであらうお前なのにさ。
 
〔評〕 行人には愁が多い。客愁があり離愁があり郷愁がある。なか/\以てさう暢氣なものではない、と知りつつ、西國街道を下る序には播磨では「稻見野の秋萩見つゝ」などして、何の物思もないやうに、高市麻呂の旅を推想した。これはその反映を借りて、自分の抱く別愁を力強く映出させようの魂膽である。初二句は前の歌のと同じい。
 
獻(レル)2弓削《ユゲノ》皇子(ニ)1歌一首
 
(2599)○獻弓削皇子 作者が自分の詠歌を弓削皇子に獻つて御覽に入れたとの意で、歌意が皇子と作者との間に關するものか否かは確定しない。單に持歌を御覽に供へた位に輕く見られぬこともない。次の「獻舍人皇子歌」も同樣である。弓削皇子の傳は既出(三五〇頁)。
 
神南備《かむなびの》 神依板爾《かむよりいたに》 爲杉乃《するすぎの》 念母不過《おもひもすぎず》 戀之茂爾《こひのしげきに》     1773
 
〔釋〕 ○かむなびの――するすぎの 神南備の神の〔二字右○〕神依板にする杉の略。上三句は疊音によつて「過ぎず」のすぎ〔二字傍点〕に係けた序詞。この神南備は杉を詠み合はせてあるので、三諸《ミモロ》山即ち三輪山と假定する。○かむよりいた 神の憑《ヨ》ります板。古へ杉の板を敲いて神を招ぎ奉る神事があり、その板を神憑《カミヨリ》板と稱したもの。
 古く占をするに、琴を彈きて神をおろし奉り御教を乞ひし事は記紀に見え、又琴の代りに板を叩きて神をおろし奉る業もあり、これを神憑板といふ。伊勢の内宮にて琴板とて、凡二尺五寸ばかり幅一尺餘厚さ一寸餘なる檜板を用ゐ、笏にて叩く態をなすことあり。參勤の人の淨不淨を占ふ。(以上、略解所載宣長説、足代弘訓の神依板、伴信友の正卜考の説を參取)○おもひもすぎず 「おもひすぐべき」を見よ(七八九頁)。
【歌意】 神依板にする神南備の杉の、すぎ〔二字傍点〕といふやうに〔六字右○〕、思ひがまあ過ぎてなくならぬことわ。戀心の繁きによつてさ〔四字右○〕。
 
〔評〕 序詞はどう使はうと作者の自由だ。然るに「過ぎ」の口合に杉を用ゐる場合に、多く神の杉を※[人偏+就]りてゐる。(2600)この歌、及び
  石の上布留の山なる杉村のおもひ過ぐべき君にあらなくに(巻三、丹生王―422)
  神名備のみもろの山にいはふ杉おもひ過ぎめや蘿《コケ》蒸すまでに(卷十三、―3228)
などがそれである。思ふに神威を背景として過ぎざる〔四字傍点〕の意を無理からにも肯定させようとした手段で、頗る効果的であるといひ得る。特に神依板はその物柄からくる特殊の聯想もあつて、印象が深い。
 なほ卷三「石上布留の山なる」の條の評語を參照(九四三頁)。
 
獻(レル)2舍人(ノ)皇子(ニ)1歌二首
 
○舍人皇子 傳既出(三六一頁)。
 
垂乳根乃《たらちねの》 母之命乃《ははのみことの》 言爾有者《ことにあらば》 年緒長《としのをながく》 憑過武也《たのめすぎむや》     1774
 
〔釋〕 ○ははのみこと 「みこと」は既出(九八四頁)。○ことにあらば コトナラバ〔五字傍線〕と訓むもよい。略解訓コトナレバ〔五字傍線〕は非。○としのを 既出(一〇〇八頁)。○たのめ 頼ませの意。
【歌意】 これがもし、母上のお詞であるならば、こんなに年月永く、頼ませ甲斐のないことがあらうかい。
 
〔評〕 次のと同じ戀歌である。男の心を試す爲か、それとも變心したのか、女は一旦旨い返事をして置きながら、何時までもその言を實行しない。焦れ切つた男は苦悶の餘、慈愛の權化たる母親を引張り出して、反映的に強(2601)く女の無情を咎めた。怨意恨情、人の肺腑を刺すものがある。切ない時の縋り付き處は神佛であり、また親である。人情は昔も今も變らない。
 
泊瀬河《はつせがは》 夕渡來而《ゆふわたりきて》 我妹兒何《わぎもこが》 家門《いへのかなとに》 近舂〔左△〕二家里《ちかづきにけり》     1775
 
〔釋〕 ○かなど 「をかなと」を見よ(一三三三頁)。略解訓による。舊訓イヘノミカドハ〔七字傍線〕。
【歌意】 初瀬川を夕方渡つて來て、とう/\〔四字右○〕吾妹子の家の門に、近づいたことであるわい。
 
〔評〕 思ふ兒訪問の途上口占である。
 左註に「人麻呂之歌集出」とある。假にこれを人麻呂作として考察してみよう。人麻呂が大和時代の戀の煉行を地域によつて求めると、墨坂の女、輕の女、それに「吾妹子と二人出で見し」(卷二)と詠んだ櫟本の女との三人が出現するであらう。人麻呂が藤原京(又は飛鳥京)から出掛けたとすれば、墨坂へ行くにも初瀬川を渡りはするが、まづ櫟本の方が概して尋常であらう。
 初瀬川を夕方に越えて櫟本へは三里、無論馬上だから譯もあるまいが、「家の金門に近づきにけり」と、ほつと息吐いて、やれ/\と安心した輕い喜の情を率直に歌つた。そこに一道の生氣がある。よしこれが人麻呂作でないとしても、この歌の氣分はこんな處だ。
 
右三首、柿本(ノ)朝臣人麻呂之歌集(ニ)出(ヅ)。
 
(2602)石河(ノ)大夫《マヘツギミガ》遷任《ツカサウツサレテ》上(レル)v京(ニ)時、播磨娘子《ハリマヲトメガ》贈(レル)歌二首
 
〇石河大夫 名は君子《キミコ》。續紀に、和銅六年正月正七位より從五位下、靈龜元年五月播磨守、養老四年正月從五位上、同十月兵部大輔、同五年六月侍從、神龜元年二月正五位下、同三年正月從四位下となると見えた。○遷任上京 こゝは播磨守の任滿ち、京官となつて上京したのである。○播磨娘子 傳未詳。
 
絶等寸※[竹/矢]《たゆらぎの》 山之岑上乃《やまのをのへの》 櫻花《さくらばな》 將開春部者《さかむはるべは》 君乎將思《きみをしぬばむ》     1776
 
〔釋〕 ○たゆらぎのやま 播磨の國衙附近の山であるらしい。國衙は今の姫路市の東方に接近した地點にあつたと思はれるが、今の姫路城の地即ち日女路《ヒメヂノ》丘の丘陵を除いては外に山はない。さては「絶等木の山」は日女路(ノ)丘の古名か。「※[竹/矢]」は「きしの」を見よ(七二九頁)。○きみをしぬばむ 略解訓による。舊訓キミヲオモハム〔七字傍線〕。
(2603)【歌意】 絶等寸の山の、岑の櫻の花が〔右○〕、咲かう春頃には、いよ/\貴方樣を戀ひ慕ふでせうよ。
 
〔評〕 君子の播磨の離任は何月であつたか分明しないが、とにかく櫻咲く春ではなかつたと見える。「咲かむ春べは」と提唱したのがそれを證する。而もそれは、嘗て一緒に春を享樂した歡會を、今別離に憶ひ出しての言葉であらうが、少し主觀がぼつとしてゐる。
  然《シカ》の海人は布《メ》刈り鹽燒きいとまなみ櫛笥のをぐし取りも見なくに(卷三、石川女郎―278)
を石河大夫即ち君子の作として新考はこゝに引用したが、その誤であることは、既にその歌の條下に辯明しておいた。
 
君無者《きみなくば》 奈何身將装※[食+芳]《なぞみよそはむ》 匣有《くしげなる》 黄楊之小梳毛《つげのをぐしも》 將取跡毛〔左△〕不念《とらむとおもはず》     1777
 
〔釋〕 ○くしげ 既出(三一四頁)。○つげのをぐし 「つげ」は黄楊木。常緑の小喬木で高さ一丈餘に達する。葉は細かい卵形で、春淡黄色の小花を簇生する。材は黄色で緻密にして堅く、印材、櫛などに製する。「を」は美稱。「梳」は疏櫛《アラグシ》である。○とらむとおもはず 「毛」は衍字。契沖訓トラムトモモハズ。
【歌意】貴方樣が無いならば、何で身じまひもしませうぞ。櫛笥にある黄楊の櫛さへも、手に〔五字右○〕取らうと思ひません。
 
〔評〕 女の本來の性癖であり、又生命であるのは化はひ化粧である。それも「誰れに見しよとて紅《ベニ》繊漿《カネ》附けう」(2604)で、肝腎の見せる人がなくては畢竟無用だ。この歌は
  自(リ)2伯之東(セシ)1、首如(シ)2飛蓬(ノ)1、豈無(カランヤ)2膏沐1、誰適爲(ム)v容《カタチヅクリヲ》。(毛詩衛風伯兮篇)
  女(ハ)爲(ニ)2説《ヨロコブ》v己(ヲ)者(ノ)1容(リシ)、士(ハ)爲(ニ)2知(ル)v己(ヲ)者(ノ)1死(ス)。(史紀豫讓傳)
の意を紹述したやうだが、播磨娘子が、こんなむづかしい書物を讀まう筈もあるまいから、眞情の發露は和漢同轍と見てよい。石川大夫の別離に對して捧げた滿腔の悲意、惻々として人の肺腑を打ち、實に凄また酸なるものがある。而もこの石の如き眞心は、讀者の同情を飽くまで要求して止まない。香匳中の黄楊の小梳は、いかにも脂粉の香が四圍に放散する。要するに千古不磨の名品である。
 初二句の意を三句以下に具象的に再説して強調した。この種の手法は集中にその例が多い。
 國守が任中に蓄妾することは、既に卷二「藤原宇合(ノ)大夫(ガ)還任上京(ノ)時、常陸娘子(ノ)贈(レル)歌」の評語(一一二一頁)に言及して置いた。又卷四に、門部王がその出雲守の時、部内の娘子を聘られた事が見えた。ましてや君子は六人部王などと共に、風流侍從を以て世に許された男だ(武智麻呂傳)。その任中の艶話は相當なものがあつたらう。
 
藤井(ノ)連《ムラジガ》遷任(サレテ)上(レル)v京(ニ)時、豐後|娘子《ヲトメガ》贈(レル)歌一首
 
○藤井連 藤井は葛井と同じい。連は姓、葛井連は集中に、廣成《ヒロナリ》、大成《オホナリ》、諸會《モロアヒ》、子老《コオユ》の四人の名が見える。その傳に九州に往つたことの見えるのは、廣成一人である。續紀に、天平十五年三月、筑前國司言(ス)、新羅(ノ)使等來朝(スト)、於是遣(シ)2――葛井連廣成(ヲ)於築前(ニ)1檢2校(ス)供給(ノ)之事(ヲ)1とある。新羅の使の供給の檢校などは、臨時の所役で出張するだけの事で、その御用が濟んで他の官職に任ぜられたとしても、遷任はどうか。遷任上京は國司であつた(2605)人の京官に轉任した場合にふさはしい用語と思ふ。契沖は廣成の事とした。文獻の不備で誰れとも決定し難い。○豐後娘子 「豐後」の二字、原本にない。補つた。この脱字の爲、古義は上の播磨娘子と同人説を立てたが、それは無理である。
 
從明日者《あすよりは》 吾波孤悲牟奈《われはこひむな》 名欲山《なほりやま》 石踏平之《いはふみならし》 君我越去者《きみがこえいなば》     1778
 
〔釋〕 ○こひむな 「な」は歎辭。○なほりやま 豐後國|直入《ナホリ》郡の山。朽網《クタミ》山(久住山)をいふか。この山は巖石が多い。なほ卷十一の「くたみやま」を見よ。古義は作者を播磨娘子と決めた爲「欲」を次〔右△〕と改め、名次《ナスギ》山の事とした。されど播磨から上京するのに、名欲山を越えることは絶對ない。○ふみならし 「踏平」の字義の通り、踏んで高びくを平にする意であるが、こゝは踏み立て〔四字傍点〕といふ程の輕い意に用ゐた。「踏」原本に蹈〔右△〕とあるは通用か。
【歌意】 明日《アシタ》からは、私は獨殘つて、定め〔六字右○〕て戀ひしがることでありませうなあ、あの名欲山の岩が根を踏み立てて、貴方樣が越えて去なれうならば。
 
(2606)〔評〕 「君が去つたら戀しからう」、この立意は極めて常識的だから、
  大船のおもひたのみし君がいなば吾は戀ひむなたゞに逢ふまでに(卷四、―550)
  ――朝鳥の朝立ちしつゝ、群鳥のむら立ち行けば、留まりゐてわれは戀ひな、見ず久ならば。(本卷、金村歌集―1785)
  朝がすみ棚引く山を越えていなば吾は戀ひむな逢はむ日までに (卷十二、―3188)  雲ゐなる海山越えていましなば吾は戀ひむなのちは逢ひぬとも (同卷、―3190)
など類歌の多いのも止むを得まい。但これらの數首は皆再會の豫望があるだけに、幾分の餘裕と曲折とがあつて、別離の情がさう突き詰めてゐない。この歌に至つては、全く處女心の一本氣に、その再會の期もない生別の悲哀が、力強く歌はれてゐる。「名欲山岩踏みならし」の具象的表現に至つては、離人の行手に横はる名欲山路の險岨に、その艱苦を同情しつゝ、一別萬里の自分の離情の前景を描いてゐる。
 
藤井(ノ)連(ガ)和(フル)歌一首
 
(2607)命乎志《いのちをし》 麻幸〔左△〕久母〔左△〕願《まさきくもがも》 名欲山《なほりやま》 石踐平之《いはふみならし》 復變〔左△〕來武《またかへりこむ》     1779
 
〔釋〕 ○いのちをし 「し」は強辭。○まさきくもがも 「幸」原本に勢〔右△〕とある。古義説によつて改めた。「願」は一字にてもガモと訓まれるから、原本に可〔右△〕とあるを「母」に改めてモガモと續けた。新考は「勢」を多〔右△〕、「可」を母〔右△〕と改め、名〔右○〕を補うてマタクモガモナ〔七字傍線〕と訓んだ。他にも改字の訓もあるが省く。○またかへりこむ 「變」原本には亦毛〔二字右△〕とあり、舊訓はマタ/\モコム〔七字傍線〕である。眞淵は「復」を後〔右△〕の誤としてノチマタモコム〔七字傍線〕と訓んだ。今は古義の亦毛〔二字右△〕を「變」の誤とする説に從つた。
【歌意】 命をさ、無事でまあありたいなあ、さらばお前のいふ〔八字右○〕名欲山の岩踏み立てゝ、復立ち返つて來うは。
 
〔評〕 卷三「わが命眞辛くあらば又も見む」(七二〇頁)の條の評語に「生命に不安を感ずる人の發する詞だ」といつた。日本武尊の「命のまたけむ人は」(記、中)と詠まれたのも、御命の危殆に瀕まれた際の御作である。さてはこゝの初二句も、作者が既に命に懸念のある老境にあつたことが窺はれる。乃ち懸歌の「岩踏みならし」を再用して、「復反りこむ」とはいつてゐるが、これは當座の慰めの詞に過ぎない。その實は弦を離れた矢だ。假令命があつても二度とは來ない。眞實の事情は歌の意とは矛盾してゐる。その矛盾を知りつゝ、この場合はかういはねばならぬ處に、作者の耐へ難い苦衷が存して哀れである。
 藤井連は大夫と書いてないから、六位以下の人であらう。さては國衙の橡か何かで、名欲山を朝夕に望む竹田あたりの分廳に姑く在住した人か。
 
(2608)鹿島《カシマノ》郡|苅野《カルヌノ》橋(ニテ)、別(ルヽ)2大伴(ノ)卿(ニ)1歌一首并短歌
 
○鹿島郡 常陸風土記によれば、香島(鹿島)郡は、古老の言に、難波(ノ)長柄|豐前大朝御宇《トヨサキニミヨシロシメシヽ》天皇(孝徳)の御世、己酉の年に、下總國海上部(ノ)造(ノ)部内輕野以南一里、那珂(ノ)國(ノ)(常陸)造(ノ)部内寒田以北五里を割き、別に神(ノ)郡を置き、そこに坐す天之大神(ノ)社坂戸(ノ)社沼尾(ノ)社を併せ、香島(ノ)天之大神と惣稱し、因つて郡の名としたとある。○苅野橋 和名抄に、常陸國鹿島都|輕野《カルヌノ》郷とある、その輕野に在る橋。神《カウノ》池から流れ出して利根川に注ぐ一條の小川に架した。後世一ノ橋、二ノ橋、三ノ橋の稱があつて混亂するが、今は輕野の村落を貫通する國道の橋に、輕野橋の名が與へられてある。○別大伴卿 上の題詞に、「檢税使大伴卿登2筑波山1時歌」と見えたその大伴(ノ)卿である。別とは大伴卿が常陸の檢視を終へて下總國海上郡に渡る時に、ここまで送つて來た常陸の國衙の官吏が別れるのをさしたものである。その人は何人だかわからない。左註に「高橋連蟲麻呂之歌集中(ニ)出(ヅ)」とある。
 
(2609)牡〔左△〕牛乃《ことひうしの》 三宅之滷〔左△〕爾《みやけのかたに》 指向《さしむかふ》 鹿島之崎爾《かしまのさきに》 挾丹塗之《さにぬりの》 小船儲《をぶねまけ》 玉纏之《たままきの》 小梶繁貫《をかぢしじぬき》 夕鹽之《ゆふしほの》 滿之登等美爾《みちのとどみに》 三舩子呼《みふなこを》 阿騰母比立而《あともひたてて》 喚立而《よびたてて》 三船出者《みふねいでなば》 濱毛勢爾《はまもせに》 後奈美〔左○〕居而《おくれなみゐて》 反側《こうまろび》 戀香裳將居《こひかもをらむ》 足摩〔左△〕之《あしずりし》 泣耳八將哭《ねのみやなかむ》 海上之《うなかみの》 其津乎指而《そのつをさして》 君之己藝歸者《きみがこぎいなば》     1780
 
〔釋〕 ○ことひうしの 「みやけ」に係〔右△〕る枕詞。「ことひうし」は和名抄に「特牛、頭大(ナル)牛也、俗語(ニ)云(フ)古度比《コトヒ》」と(2610)ある。大牛の牡牛をいふは、特負《コトオヒ》牛即ち特に物を負ふ牛の義である。物を〔二字傍点〕の語なくても牛の負ふは物だから、意はとほる。卷十六には事負乃《コトオヒノ》牛とある。事は特の借字。古義説の許刀多物負《コヽタモノオヒ》牛の約などは迂遠極まる。「みやけ」の枕詞とするは、(1)寮飼《ミヤケ》の意にてかけたるか、大牛は多く官にて飼養すればなり(眞淵説)。(2)嚴毛《ミカゲ》をいひかけたるなるべし、牛は毛を尚べばなり(古義説)。の兩説中、(1)を穩當とする。「牡」原本に牝とある。元本藍本神本等によつて改めた。○みやけのかた 三宅潟。「みやけ」は和名抄に、下總國海上郡三宅(ノ)郷と見え、今海上村に字三宅の稱が存してゐる。三宅潟に沿うた丘陵地で、古へ屯倉《ミヤケ》を置いた處であらう。北の崖下は今は平野で利根川に瀕み、その間は田畠だが、古へは崖下近くから遠淺の滷潟地であつたと見えて、この名がある。「滷」原本に酒〔右△〕とあるは誤。古義は浦〔右△〕の誤としてミヤケノウラ〔六字傍線〕と訓んだ。○をぶねまけ 「を」は美稱。「まけ」は設《マウ》けの原語。支度すること。○をかぢ 「を」は美稱。「かぢ」は船の漕具の總稱。○みちのとどみ 滿ちの最頂點。「とどみ」は止《トヾ》まり〔二字傍点〕の約。土佐の方言では、潮の湛へたことをトヾとといふ由。○みふなこ 「み」は敬稱。「ふなこ」は、和名抄に舟子を訓んであり、舟を操る人、即ち※[楫+戈]子《カコ》のこと。○あともひ 既出(五三四頁)。○はまもせに 「せに」は狹《セ》きほどにの意。○な(2611)みゐて「美」字、原本にない。補つた。眞淵は或は「奈」は竝〔右△〕の誤かともいつた。○こいまろび 既出(一〇三一頁)。「反側」は毛詩の周南關雎篇に「※[足+展]轉反側」とある。○あしずりし 「摩」原本に垂とある。宣長説によつて改めた。○うなかみのそのつ 海上の津。下總國海上郡三宅潟の内に屬する。「その」の指示代名詞は音數を調へる程度の輕い使ひ方である。〇そのつを 「乎」原本に於〔右△〕とあるは誤。 △地圖 挿圖470。(一九六五頁)を參照。
【歌意】 三宅の滷に、かけ向つてゐる鹿島の崎に、朱塗の船を支度し、玉を飾つた楫を澤山懸けて、夕方の最滿潮に、船人どもを連れ立てゝ、喚び騷いで貴方樣の〔四字右○〕船が漕ぎ出さうならば、其處まで送つたわが常陸の國人達は〔其處〜右○〕、濱邊も狹い程に大勢竝んで居て、伏し轉びして戀ひ慕うてあらうかまあ、足摺して聲をひたすら立てゝ泣くであらうか。愈よ下總岸〔五字右○〕の海上のあの津を指して、貴方樣が漕ぎ出してお行きなさらばさ。
 
〔評〕 この歌は地理的説明が非常にむづかしい。題詞には輕野橋とあつて、歌はその場處が鹿島の崎の濱である。船出の人ならその波頭に送別するのが當然なのに、橋で別れるのも變だ。鹿島の崎は古へ輕野郷の内だから、輕野(ノ)橋は輕野(ノ)濱〔右△〕の誤か。
 然し再考すると、物には例外がある。作者は何か止むない事情があつて、輕野の橋までは見送つて來たが、それから引返したとも考へられる。歌の趣を檢ると、その船出の光景は一切想像から成立してゐるのが、何よりの證據である。
 そこで、今度は鹿島の崎の濱と、三宅の滷と海上の津との三角關係だ。鹿島の崎は廣い長い。息栖《オキス》あたりか(2612)ら銚子口までに及んでゐるが」歌に「三宅の滷にさし向ふ」とあるから、海上郡の三宅(ノ)郷に近寄つた地點でなければならぬ。或は輕野橋より東南四里の川尻、矢田部邊(今の利根川の北岸の濱)ではあるまいか。前面は即ち上總の海上郡三宅郷の海即ち三宅滷である。海上の津は海上郡の津といふことで、三宅滷の西部に當る今の小船木邊が船の發著處であつたのだらう、といふ所以は、此處から上總の中央部に國道が通じてゐる。昔からの官道であらう。すると、三宅滷は今の海上村字三宅を東限として、西は小船木邊に及んだ流海の稱となる。(現今はこの流海が利根川の河道となつてゐるが、それは慶長以來の事である)。
 大伴卿は檢税の事了へて筑波山に登つたが、方向轉換して鹿島へ來た。そして輕野を通過して、三宅潟を横斷し、海上の津に渡るのであつた。常陸の國内はその國守の責任上、この貴人に對する※[疑の左+欠]待をば力めねばならぬ。で追從して來た國衙の吏員中の一人が、何かの理由で、輕野橋でお別れする時にこの歌を詠んだ。
 三宅の潟と鹿島の崎、これは常陸と下總との國境である。よつて開口一番、これから展開すべき詩境を地理的に限定した。海上の津は當時の官津だから、備へ付けの朱《アケ》のそぼ船、即ち「狹丹塗の小船」があり、官人達の送迎に便した事はいふまでもない。然し「玉纏の小梶」は事實ではあるまい。七夕の歌に「さ丹塗の小船もがも、玉纏の眞かいもがも」(卷八)とあるは、空想の所産だから何とでもいへよう。本當に船道具に玉など鏤めたら、實用にならない。只狹丹塗の船に對して立派な梶といふ程の形容である。
「夕汐の滿ちのとゞみ」、今でも利根川は潮の干滿があるが、この川の流れ込まぬ内の海の昔は、海潮の來往が、もつと著しかつたと思はれる。尤も流海の事だから、滿潮時には流下する水とさし汐とが衝突して波は立つが、渡航には最適の時機であつたらう。すはやと掛りの役人達が船支度、船子どもを引連れ、騷ぎ立てゝ漕(2613)ぎ出すとなる。こゝまでの叙事は實に想像であるが、現在法を用ゐて、その印象を鮮明に的確にした。御船といひ御船子といふものは、大伴卿に對しての敬意である。
「御船いでなば」から筆を一轉して叙情に入り、露はにその想像を逞しうした。見送りの常陸人は濱邊に押凝り、名殘惜しさに五體を大地に擲つて戀しがり、或は置き去りにされる事を悲しんで泣き喚くであらうと、その別離の光景を細やかに想像に描いた。蓋しこれは公人たる卿の國境を去るを惜む常陸人の公情を叙して、作者箇人の輕野橋に於ける現在の悲別を、陰に映帶させたものであつて、言外の餘味ゆたかに、その含蓄が極めて深い。末節「海上のその津をさして、君が漕ぎいなば」は、初頭より「御船出でなば」までを、更に總括的に反復したもので、重複ではない。
 大伴卿が筑波山に登つた歌の左註に「高橋連蟲麻呂之歌集中出」と見え、こゝにも同じ左註があるので、諸家、蟲麻呂が大伴卿を輕野まで案内して、これを詠んだと説明してゐる。なほ、上の「大伴卿(ノ)登(ル)2筑波山(ニ)1時(ノ)歌」の評語を參照(二五七〇頁)。
 
反歌
 
海津路乃《うみつぢの》 名木名六時毛《なぎなむときも》 渡七六《わたらなむ》 加九多都波二《かくたつなみに》 船出可爲八《ふなですべしや》     1781
 
〔釋〕 〇うみつぢ 海の路。船路、航路。○ときも 「も」は歎辭。古義は「毛」を爾〔右△〕の誤とした。○なむ――なむ 上の「なむ」は現在完了の推量辭、下の「なむ」は願望辭。○すべしや この歌、六、七、六、九、二、(2614)八と數字澤山に記録した。戯書の一。
【歌意】 海路の和ぐであらう時まあ、渡つてほしい。こんなに立つ波に、船出をなさるべきことかい。
 
〔評〕 滿潮時に波の立つのを見て、何もこんな時に渡らないでもの意を強調して歌つた。幾ら古代人でも、三宅潟の波ぐらゐに大した恐怖はもつまいが、かく誇張する事によつて、何かと辭柄を設けてこの賓客を引留めようとする、惜別の情味が煽揚される。李白の詩に、
  横江館前津吏迎(フ)、向(ツテ)v余(ニ)東指(ス)2海雲(ノ)生(ズルヲ)、郎今欲(スル)v渡(ラムト)縁(ル)2何事(ニ)1、如(キ)v此(ノ)風波不v可(カラ)v行(ク)。(横江詞)
と全く符節を合はせたやうな作である。
 
 右二首、高橋(ノ)連蟲麻呂之歌集中(ニ)出(ヅ)。
 
與《オクレル》v妻《メニ》歌一首
 
雪己曾波《ゆきこそは》 春日消良米《はるひきゆらめ》 心佐閉《こころさへ》 消失多列夜《きえうせたれや》 言母不往來《こともかよはぬ》     1782
 
〔釋〕 〇きえうせたれや 消え失せたれば〔右○〕や。
【歌意】 雪はさ、春の日消えもせう。お前の〔三字右○〕心まで消えてなくなつたせゐかして、薩張〔二字右○〕音づれもこぬことよ。
 
〔評〕 初春の頃、暫く音信を怠つた妻に贈つたもので、理窟詰めにギウといはせた。
 
(2615)妻《メガ》和(フル)歌一首
 
松反《まつがへり》 四臂而有羽八〔二字左△〕《しひてあるはや》 三栗《みつぐりの》 中止〔左△〕不來《なかたえてこず》 麻追〔左△〕等言八子《まつといへやこ》     1783
 
〔釋〕 〇まつがへり 待反《マツガヘ》り。待ち反《カヘ》りの訛語。待つことの甚しいにいふ。消えかへり、死にかへり〔十字傍点〕の類語。卷十七にも「麻追我弊里之比爾底《マツガヘリシヒニテ》あれかも」(家持)とある。古來難語として、多くは不明ながら枕詞ならむといひ、その他種々の臆説を立てゝあるが、一笑に附すべしだ。○しひてあるはや 強ひて居ることよの意。「はや」は歎辭。「羽八」原本に八羽〔二字右△〕とあるは顛倒。略解、古義その他も、「有八羽」の羽を某字の誤として、アレヤモ〔四字傍線〕と訓んだ。○みつぐりの 中の枕詞。前出(二五五三頁)。○なかたえてこず 中絶して來ないの意。「止」原本に上〔右△〕とある。補考により改めた。眞淵は「中上」をナカスギテコズ〔七字傍線〕と訓み、卷十二に「戀ひつゝあらずは死上有《シヌルマサレリ》」と見え、「上」に勝る意あればスギテの義あるべしといつた。○まつと 「追」原本に呂〔右△〕とある。眞淵説によつて改めた。○いへやこ 「や」は「いへ」の四段活の既然態に附いた命令辭。集中まゝその例を見る。「こ」は文使ひの童などをさしていつた語。
【歌意】 私は待ちに待つて我慢して居ることですわよ。それを〔三字右○〕貴方は中絶して、薩張御出でがない。「待つてゐます」と、さう申し上げよ、お使ひの〔四字右○〕兒よ。
 
(2616)〔評〕 男は春の雪など引合ひに出して、勝手な事をいつて來た。でその文使の兒に托して、まづ自分の仕打を反省せよと逆襲した。
 
右二首、柿本(ノ)朝臣人麻呂之歌集中(ニ)出(ヅ)。
 
贈(レル)2入唐《モロコシニツカハサルヽ・ニツタウ》使(ニ)1歌一首
 
○入唐使 遣唐使のこと。「入」はその國都に造《イタ》るをいふ。このあたりの編次、天平の初年頃の作を※[糸+輯の旁]めてあるから、この入唐使は天平五年の遣唐大使多治比(ノ)廣成か。廣成が遣唐大使として出發したことは、卷五、山上憶良の「好去好來歌」の條(一五五九頁)において詳述した。この下にも同時の歌が出てゐる。〇一首 原本にない。目録によつて補つた。
 
海若之《わたつみの》 何神乎《いづれのかみを》 齊祈者歟《いのらばか》 往方毛來方毛《ゆくさもくさも》舶之早兼《ふねのはやけむ》     1784
 
〔釋〕 ○いのらばか 古義訓による。眞淵訓イハハヾカ〔五字傍線〕、童本訓マツラバカ〔五字傍線〕、舊訓タムケバカ〔五字傍線〕。○はやけむ 早から〔二字傍点〕むの約轉。
【歌意】 一體、海の神樣のうち、どの神樣を折らうならば、貴方の〔三字右○〕往きしなも歸りしなも、船がお早からうかしら。
(2617)〔評〕 かういふのは、往復とも船が早くないことを反證する。遣唐使の航路は瀬戸内海からはじめて日本海、黄海、東支那海横斷に終り、その往復は幾ら眞梶繁貫かうが、海神に祈らうが、風待日待まで加はつて日子が懸かる。その上難船に次ぐ難船で、危險率が非常に多い。
 海の神樣は住吉の大神、安曇連《アヅミノムラジ》が祀る海神《ワタツミ》、なほ細かくいふと澤山の神樣がある。どの神樣が一番御利益があらうかしらとは、甚だ勿體ない申分だが、情熱の前に理窟はない。下總の埴生郡から筑紫の防人《サキモリ》に差された男も、
  あめつしの何れの神を祈らばかうつくし母にまた言問はむ  (卷廿、大伴麻輿佐―4392)
と歌つた。この作者に至つては遣唐の當事者でもないのに、さもわが事のやうに心配し、危倶の念に驅られてゐる。蓋し強い同情の露れである。これより後の勝寶三四年の遣唐使藤原清河の爲の餞別の歌、
  住の江にいつく祝《ハフリ》が神言《カムゴト》と行くとも來《ク》とも船は早けむ  (卷十九、多治比(ノ)古―4243)
は一本槍にその信心を捧げただけに安心がある。下句はこの歌を學んだものか、それとも暗合か。
 
右一首、渡海(ノ)年紀未詳。
 
「年紀未詳」に就いてはこの題詞下の解説を見よ。
 
神龜五年|戊辰《ツチノエタツ》秋|八月《ハツキニ》作〔左○〕歌一首并短歌
 
この題詞は不完である。歌の趣は親友が越(ノ)國(前、中、後)に國守となつて赴任の時に詠んだもの。
 
(2618)人跡成《ひととなる》 事者難乎《ことはかたきを》 和久良婆爾《わくらばに》 成吾身者《なれるわがみは》 死毛生毛《しにもいきも》 君之随意常《きみがまにまと》 念乍《おもひつつ》 有之間爾《ありしあひだに》 虚蝉乃《うつせみの》 代人有者《よのひとなれば》 大王之《おほきみの》 御命恐美《みことかしこみ》 天離《あまざかる》 夷治爾登《ひなをさめにと》 朝鳥之《あさとりの》 朝立爲管《あさだちしつつ》 羣鳥之《むらとりの》 群立行者《むらだちゆけば》 留居而《とまりゐて》 吾者將戀奈《われはこひむな》 不見久有者《ミズヒサナラバ》     1785
 
〔釋〕 ○ひととなることはかたきを 人間に生を受けることは難いのを。四十二章經に、「佛言(ハク)、人離(レテ)2惡道(ヲ)1得(ルコト)v爲(リ)v人(ト)難(シ)」と見えた。○なれるわがみ 人と〔二字右○〕成れるわが身。○きみが 今旅行く人を斥す。○ひなをさめに 地方を治めに。國守に赴任するをいふ。「ひな」は既出(一二五頁)○あさとりの 朝の序語。既出(五一七頁)。○むらとりの むら立の序語。群鳥の如く群立つの意。兼ねてムラの疊音を利用した。○むらだち 古義訓ムレタチ〔四字傍線〕。○こひむな 「な」は歎辭。
【歌意】 人と生まれることはむづかしいものを、たまさかに幸にも〔三字右○〕人と生まれた自分の身は、生き死にも貴方の(2619)まゝにと、思ひく/\してゐたうちに、浮世の人の事だから、天子様の仰言を惶んで、地方を治めに貴方は〔三字右○〕朝方打立つて、供人をつれて〔六字右○〕群立つて行くので、あとに止まつて居て、私は定めし戀しがらうなあ、逢はずに久しくあるならばさ。
 
〔評〕 「人と成ることは難き」」こんな人生觀をもてば、當時の有識人であつた。憶良も「わくらばに人とはあるを」(卷五)と歌つた。人死して、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六趣に輪廻する、天上果は最上だが、次の人間果でも、生前の功徳が積らねば得られない、大抵は三惡道に墮すと、佛教は説く。今は偶ま人間に生まれたその貴重な生命をさへ捧げて、「君がまにま」といふ。作者とこの旅立つ人との關係は、
  死にも生きもおなじ心とむすびてし友やたがはむわれもよりなむ (卷十六、仙女―3797)
などの如く、いはゆる刎頸の交といふにrしい間柄と見える。
 千里王命に趨るは臣子の任だ。友は今牧民の官となつて、越の地に赴く。國司の下向は盛儀を繕うたもので、平安時代にはその罷申《マカリマヲシ》の儀を、主上の御覽なされた程だ。屬僚使人の外に眷屬から始めて、家隷下人の同勢あまた、行粧派手やかに朝立に群行するのであつた。作者はつぶさにそれを見送つて居たのであらう。
 末段は初段を承けて、この親友に對する別後の愁緒を叙べたのだが、「吾は戀ひむな見ず久ならば」は稍無力な結收で、初段の悲壮な内容をもつ特異な體調に、十分の均衡が取れない。
  あづさ弓ひき豐国の鏡山見ず久ならば戀《コホ》しけむかも  (卷三、益人―311)
おなじ「見ず久」でも、それは完作である。然しこの長歌の方が先出である。
 
(2620)反歌
 
三越道之《みこしぢの》 雪零山乎《ゆきふるやまを》 將越日者《こえむひは》 留有吾乎《とまれるわれを》 懸而小竹葉背《かけてしぬばせ》     1786
 
〔釋〕 ○みこしぢ 「み」は美稱。「三」は借字。越道は越をゆく路の意。○ゆきふるやま 雪の降つてある山。題詞にも「秋八月」とあつて、今雪が降るのではない。○しぬばせ 慕ぶ〔二字傍点〕の敬相の命令格。「小竹葉」は戯書。
【歌意】 越路の雪のある山を、貴方が〔三字右○〕越えるであらうその時は、京に獨〔三字右○〕留まつて歎いてゐる〔五字右○〕私を懸けて、思ひ出して下さいよ。
 
〔評〕 越の雪山を踏破する日は、行客が愈よ北地の異境に足を踏み込んだことを意識する時で、隨つて遠く故郷の空を囘望して、胡馬越鳥の感に打たれる時である。その時は京に獨親友を失うて寂莫に禁へぬ自分の一人居ることを、忘れずに憶ひ出してくれと訴へた。送別の作として一別手を出したもので、その濃到深切の情味は掬んで盡きぬものがある。新古の諸家の解説は悉く斜視である。
 
天平元年|己巳《ツチノトミ》冬|十二月《シハスニ》作〔左○〕歌一首并短歌
 
續紀に、天平元年十一月癸巳任(ズ)2京及畿内(ノ)斑田司(ヲ)1云々とあるので、古義説に班田使に出た人の作だらうと。
 
虚蝉乃《うつせのみ》 世人有者《よのひとなれば》 大王之《おほきみの》 御命恐彌《みことかしこみ》 礒城島能《しきしまの》 (2621)日本國乃《やまとのくにの》 石上《いそのかみ》 振里爾《ふるのさとに》 紐不解《ひもとかず》 丸寐乎爲者《まろねをすれば》 吾衣有《わがきたる》 服者奈禮奴《ころもはなれぬ》 毎見《みるごとに》 戀者雖益《こひはまされど》 色二山上復有山者《いろにいでば》 一可知美《ひとしりぬべみ》 冬夜之《ふゆのよの》 明毛不得呼《あかしもえぬを》 五十母不宿二《いもねずに》 吾齒曾戀流《われはぞこふる》 妹之直香仁《いもがただかに》     1787
 
〔釋〕 ○しきしまの 大和に係る枕詞。「しきしま」はその語意用法が幾樣にも釋かれ、(1)大和國磯城郡磯城島(今城|島《シマ》村)。欽明天皇|師木《シキ》島の大宮に坐し(紀記〉、金刺《カナサシノ》宮と號け給うた(紀)。(2)磯城島が大和の首都たる關係から、大和一國の稱となり、又その枕詞として用ゐられた。(3)大和の號が日本全國の稱となつた關係から、磯城島も亦、日本の總稱として用ゐられ、又その枕詞として用ゐられたと。然るに日本紀通證は地名根據説を非として、枕詞に「皇神之敷坐《スメガミノシキマス》島の八十島」とある意により、敷島の稱が起つたとした。この方が學的根據があつて面白いが、思ふに兩系統の意が混淆して慣用された詞であらう。○やまとのくに こゝは大和國をさした。「日本國」は借字。「やまとには」を參照(二〇頁)。○まろね 衣帶のまゝにて寢ること。俗にいふゴロネ。○わがきたる 古義訓ケセル〔三字傍線〕は敬語だから、こゝでは當らぬ。○なれぬ 衣に馴る〔二字傍点〕といふは、著舊るされるこ(2622)と。穢るゝを馴るといふは第二義の用法。○みるごとに その衣を〔四字右○〕。○いろにいでば 「いろに出でめやも」を見よ(七四〇頁)。「山上復有山」をイデと訓む。これは漢代の古樂府の詞で、「藁砧今|何在《イヅクニカアル》、山上復有(リ)v山、云々」の句がある。藁砧は※[石+夫]にて夫の隱語、山上復有山は出の字の隱語。こゝはそれを借用した。○あかしもえぬを 上に、永くて〔三字右○〕の語を補うて解する。「呼」をヲの音に用ゐた例は卷四にもある。宣長はアケモカネツヽ〔七字傍線〕と訓み、或人の説を引いて、鷄〔右△〕字落ちたるにて「呼鷄」をツヽと訓むべしといつた。卷八、卷十三にも、喚鷄をツヽと訓ませてある。眞淵は「呼」を啼〔右△〕の誤としてアカシモカネテ〔七字傍線〕と訓んだ。今は舊訓に從つた。○いもねずに 「五十」をイと訓むは例のこと。○ただか 既出(一三一四頁)。
【歌意】 我々は〔三字右○〕この世にある人の事だから、天子樣の仰を惶み奉つて、大和の國の石上《イソノカミ》布留の里に出張して〔四字右○〕、上衣の紐も解かず丸寢をするので、この自分の著た衣は萎えてくた/\だ。それを見る度に、平生それらの世話をしてくれた妻を思ひ出して〔平生〜右○〕、戀心はまさるが、素振にあらはれては人が氣が付きさうなので、冬の長夜の明かしもかねる程なのを、よう眠りもせずに、自分はさ戀ひ思ふことよ、妻の事一點張にさ。
 
〔評〕 出張先の官吏が懷いた夫婦愛を歌つた。旅で第一に困るのは著物の窶れだ。肩のまよひから裾褄の汚れ、それらにつけて不斷不自由なく世話をしてくれた妻が、しみ/”\有難く思ひ出される。弱氣を見せまいと、人前は空元氣を繕うてはゐるものゝ、孤衾冷やかな冬の長夜の徒然には、妻戀の念が一途に込み上げてくる。全く生活に即した嘘も僞もない告白である。但格調はさう高いものでない。
 二段編制の體、截然として旗幟鮮明である。
 
(2623)反歌
 
振山從《ふるやまに》 直見渡《ただにみわたす》 京二曾《みやこにぞ》 寐不宿戀流《いをねずこふる》 遠不有爾《とほからなくに》     1788
 
〔釋〕 ○ふるやまに 布留山にて〔右○〕。○ただに こゝは直ちに〔三字傍点〕といふに同じい。既出(四二五頁)參照。○みやこ 奈良京をさす。○いをねずこふる 古義訓によつた。舊訓イネズテコフル〔七字傍線〕、契沖訓イモネズコフル〔七字傍線〕。
【歌意】 布留の山で、まともに見渡される京にさ、寢もせずに戀ふることわ。そんな〔三字右○〕遠方でもないのにさ。
 
〔評〕 布留から奈良京の外れまでは、大概一里半強、高い處から望めば只一目だ。でも御用の都合では飛んで歸れない。咫尺も萬里、その矛盾を捉へての詠歎だ。「遠からなくに」は萬葉人の口拍子で、既に「ただに見渡す」とあるから、少しいひ過ぎの憾もあるが、さうくどく云はずには居られぬのであらう。
 
吾妹兒之《わぎもこが》 結手師紐乎《ゆひてしひもを》 將解八方《とかめやも》 絶者絶十方《たえばたゆとも》 直二相左右二《ただにあふまでに》     1789
 
〔釋〕 ○ただにあふまでに 普通では、逢ふまでは〔右○〕といふ處。古格。
【歌意】 我妹子が結んでくれたのであつた衣の紐を、解かうことかい。よし切れるならば切れるとも構はぬ〔三字右○〕、ぢかに我妹子に〔四字右○〕逢ふまではさ。
 
〔評〕 長歌の「紐解かず丸寢をすれば」の意を敷演した。我妹子の眞心を思ふと、この紐は千切れても解かぬと、(2624)執拗に頑張つた。そこには、他の女の爲に紐解くことは決してすまいの意が暗示されてゐる。想ふにこの長短歌とも、その我妹子に贈つたものであらう。「絶えば絶ゆとも」の假設的疊言は、この場合最もよく當て嵌つた有力な表現である。
 この歌、結句を三句の上にまはして見れば解りが早い。
 
右、件《クダリノ》五首、笠(ノ)朝臣金村之歌集〔左○〕(ニ)出(ヅ)。
 
天平〔二字左○〕五年|癸酉《ミヅノトトリ》、遣唐使(ノ)舶《フネ》發《ヨリ》2難波1入海《イヅル》之時、親母《ハヽガ》贈(レル)v子(ニ)歌一首并短歌
 
○天平 目録によつて補つた。○發難波入海云々 この度の遣唐使は、續紀に、天平四年八月、以(テ)2從四位上多治比(ノ)眞人廣成(ヲ)1爲(シ)2遣唐大使(ト)1、從五位下中臣(ノ)朝臣名代(ヲ)爲(ス)2副使(ト)1、判官四人録事四人云々、同五年閏三月授(ク)2節刀(ヲ)1、夏四月、遣唐(ノ)四船、自(リ)2難波(ノ)津1進發《イデタツ》と見えた。その時の隨員の母がその子に贈つた歌である。
 
秋芽子爾〔左△〕《あきはぎに》 妻問鹿許曾《つまとふかこそ》 一子二《ひとつごに》 子持有跡五十戸《こもたりといへ》 鹿兒自物《かこじもの》 吾獨子之《わがひとりこの》 草枕《くさまくら》 客二師往者《たびにしゆけば》 竹珠乎《たかだまを》 密貫垂《しじにぬきたり》 齋戸爾《いはひべに》 木綿取四手而《ゆふとりしでて》 忌日管《いはひつつ》 神爾乞祈〔四字左○〕《かみにこひのむ》 眞悲久〔三字左○〕《まがなしく》(2625) 吾思吾子《わがおもふわご》 眞好去有欲得《まさきくありこそ》     1790
 
〔釋〕 ○あきはぎに 「爾」原本に乎〔右△〕とある。秋萩を〔三字傍点〕だと、以下萩を鹿の妻とする意となつて惡い。この事、卷八「さき萩の花妻問ひに」の條(二三三五頁)を參照。○ひとつごにこもたりといへ 孤《ヒト》つ子にて〔右○〕子を有《モ》つてゐるとはいへ。犬猫と違ひ、鹿は一回に一匹より産まぬ。眞淵訓による。古義は「二子」を乎〔右△〕の誤として、ヒトリゴヲモタリトイヘ〔ヒト〜傍線〕と訓み、ヒトツをヒトリといふ例として、新古今集の「濡れてやひとり鹿の鳴くらむ」を引いた。けれども禽獣の上にヒトリといふは、孤獨の意を強調する爲の文飾で、普通ではない。矢張ヒトツゴと訓むが穩かである。「五十戸」は戯意あるか。○かこじもの 鹿の兒そのまゝの。「かもじもの」を見よ(一九三頁)。○いはひべ 「戸」は借字。既出(八六九頁)。○ゆふ 「まそゆふ」を見よ(四四二頁)。○とりしでて 既出(一八〇九頁)。○かみにこひのむまがなしく 原本「いはひつつ」から直ちに「吾が思ふ吾子」に續けてあるが、甚だ意が不完だ。古今の註家は漫然看過してゐるが、必ず落句のあるものと考へられる。よつてこの二句を間に補足した。「こひのむ」は「こひのみ」を見よ(九八五頁)。「まがなしく」は「まがなしみ」を見よ(一一三七頁)。○わご 童本訓による。略解訓アゴ〔二字傍線〕、舊訓ワカゴ〔三字傍線〕。○まさきく 「好去」は、旅行く時では幸くあるをいふ。卷五の好去好來、卷七の好去而《マサキクテ》など、皆この例である。「去」は衍字ではない。○ありこそ 「こそ」は願望辭。
 原本こゝに「奴者多本奴去、古本」の八字あり、訓讀し難い。今は元本藍本神本その他によつて削つた。古(2626)義はいふ、仙覺が校合せし時書き入れたるものなるべしと。
【歌意】 萩の咲くに妻問ひする鹿はさ、只一つ子でその子をもつてゐるといふ、丁度〔二字右○〕鹿そのまゝの私の獨子が、旅にさ立つて行くので、竹珠を澤山絲に通して垂らし、祝甕に木綿《ユフ》を取掛けて垂れて、忌み清まはりつゝ神樣にお願ひします。極《ゴク》可愛く〔神樣〜右○〕私が思ふ吾子よ、どうぞ〔三字右○〕無事であつてほしいわ。
 
〔評〕 市原王はわが獨子にある事を歎いたが、獨子の親の心持に至つては更に又格別だ。ましてその獨子を危險の多い遣唐の旅に手放す母親の心中は、どうであらう。その獨子たることを強調するに、鹿の兒を引合に出した。素より奈良の郊外は鹿澤山で、その兒が獨子であることは、誰れも見知つて居るからでもあるが、もつと事實に即した理由がある。
 この時の便船の出發は夏の四月であつた。特に三月に閏のあつた歳だから、鹿の兒は既に生まれて小犬ほどに育ち、母鹿のそばに纏ひ付いて、よち/\してゐる愛らしい盛りであることを忘れてはならぬ。
 人事を盡しての果は神の御力に縋るより外はない。齋庭を立てゝ型の如くの神祭だ。千念萬願も結局わが子が「眞幸くありこそ」の一點に落著する。「齋戸に木綿取りしで」は、神酒を釀す祝瓮の周圍に木綿を結び下げて、潔齋したのである。
 この歌「いはひつつ」と「吾が思ふ吾子」との續きが、釋にいふ通り不完である。神爾乞祈《カミニコヒノム》、眞悲久〔七字左○〕《マガナシク》の二句が補はれて、始めて意詞格ともに完全する。(2627)
 
反歌
 
客人之《たびびとの》 宿將爲野爾《やどりせむぬに》 霜降者《しもふらば》 吾子羽※[果/衣]《わがこはぐくめ》 天乃鶴群《あめのたづむら》     1791
 
〔釋〕 ○はぐぐめ はぐくむ〔四字傍点〕の命令格。はぐくむは羽含《ハクヽ》むの義。羽交に覆ふをいふ。轉じては育つることにも用ゐる。○あめのたづむら 鶴は天高く群れ舞ふのでいふ。この「あめ」は天上の意。高天が原のあめ〔二字傍点〕ではない。古義訓による。眞淵訓アメノツルムラ〔七字傍線〕。
【歌意】 旅人が宿らう野に、もし〔二字右○〕霜が降らうならば、その霜を遮るやうに、特に〔二字右○〕わが子を羽ぐくんでやつてくれい、空飛ぶ群鶴よ。
 
〔評〕 唐の都長安まではまことに雲山萬里、遣唐の一行は、夏のはじめに出發しても、時により秋の頃はまだ旅の途中にあるかも知れない。その間長驛短亭相次いで、この東海日本の國使を迎へたであらうが、時には人無き曠野に日を暮すこともあらう。これ旅の野宿に凛乎たる嚴霜を思ひ寄せ、「霜降らば」といふ所以である。
 鶴は既に再三縷述した如く、雁に後れてくる渡鳥だ。「瑶臺霜滿(テリ)、一聲之玄鶴唳(ク)v天(ニ)」(梁、謝觀)で、鶴と霜とは不可分の關係にある。今は遙に唐土の曠野、その暮天の霜に舞ひ舞ふ鶴群を幻想に描き、愛兒の旅状を悲しむ一點に熱狂した作者は、禽鳥と人との差別も忘れて、汝が兒ばかりか「わが子はぐくめ」と絶叫した。
 子を愛しむはあながち鶴に限るまいが、その羽翩が大きい關係から、雛兒を羽ぐぐむ状態が、特に人目に立(2628)ち易い。のみならず易經の、
  鳴鶴在(リ)v陰(ニ)、其子和(ス)v之(ニ)。(風澤中孚)
 これは上下の間誠心の相通ずるの比喩だが、思へば思はるゝ親子愛がそこに象徴されてあるから、鶴の子を思ふ出典の最先のものとして考へられる。然し作者は漢學者の母ではあるものゝ、婦人の事だから、こんなむづかしい典據を知つて詠んだといふのではない。漢文學盛行の結果、當時既に「子を思ふ鶴」といふ詞が、一般的通念となつてゐたのであらう。
 以上はこの歌の聯想の經路に就いて絮説してみたに過ぎない。その無理性にまで昂揚した母性愛の深さは、到底蠡測の言の及ぶ處でない。金磬一打、響は盡きても餘韻はなほ盡きない趣がある。「天の」は、鶴の冠語ではあるが、一面にその雄大なる景致を支配する最も緊切なる好辭である。歌格高渾、措辭また雄健、風調は元久の幽玄體の先驅を成すものである。
 山上憶良は子煩悩にかけての魁首で、その種の名作保持者である。だがとかく理智にこだはる傾向があつて、この作の如き天籟の線に達したのがない。この作者は口占的な短歌ばかりではない、その組織構成に知識と技術とを要する長歌をも詠出してゐる。すると相應の教養をもつた婦人と推測される。遣唐の大使や副使でこそあるまいが、判官級の、官吏か留學生留學僧などの母親かと思ふ。
 
思《シヌビテ》2娘子《ヲトメヲ》1作(メル)歌一首并短歌
 
(2629)白玉之《しらたまの》 人乃其名矣《ひとのそのなを》 中々二《なかなかに》 辭緒不延《ことをのばへず》 不遇日之《あはぬひの》 數多過者《まねくすぐれば》 戀日之《こふるひの》 累行者《かさなりゆけば》 思遣《おもひやる》 田時乎白土《たどきをしらに》 肝向《きもむかふ》 心摧而《こころくだけて》 珠手次《たまだすき》 不懸時無《かけぬときなく》 口不息《くちやまず》 吾戀兒矣《わがこふるこを》 玉※[金+爪]《たまくしろ》 手爾纏〔左△〕持而〔左△〕《てにまきもち》 眞十鏡《まそかがみ》 直目爾不視者《ただめにみずば》 下檜山《したひやま》 下逝水乃《したゆくみづの》 上丹不出《うへにいでず》 吾念情《わがおもふこころ》 安不在〔二字左△〕歟毛《やすからめかも》     1792
 
〔釋〕 ○しらたまの 白玉の如き〔二字右○〕。○しらたまのひとのそのなを この二句は、飛んで「玉だすき懸けぬ時なく、口息まずわが戀ふる兒を」の句に跨續させて解する。直續させては意が通じない。多分落句がこの下にあらうと考へられる。○なかなかに なまなかに。○ことをのばへず 言《コト》を述べずの意。言葉や消息を交《カハ》さぬをいふ。「のばへ」は述べ〔二字傍点〕の延言で、波行下二段活。「緒」はヲの助辭に借りた。「延」は借字。これを辭の緒|延《ノ》ベズ(舊訓)又は辭ノ緒|延《ハ》エズ(契沖)など訓んで、緒を譬喩と見た諸家の解は鑿説である。「不」元本藍本類本には下〔右△〕とある。これはシタハエ〔四字傍線〕と訓む。下|延《ハエ》の語例は、この卷末及び卷十四に二箇處、卷十八、卷二十などに(2630)見えるが、皆心の内に思ひ定める意だから、辭を下延え〔五字傍点〕では理りが立たない。○まねく 「さまねし」を見よ(二八二頁)。略解訓による。舊訓アマタ〔三字傍線〕。○おもひやる 既出(四一頁)。○たどき たづき〔三字傍点〕の轉語。同項を見よ(四一頁)。○しらに 既出(四一頁)。○くちやまず 口にいひ止まず。○わがこふるこを 「こを」は兒なる〔二字右○〕をの意。○たまくしろ 手に纏《マ》きに係る枕詞。「くしろつく」を見よ(一六五頁)。「※[金+爪」は釧の書寫字。○てにまきもち 六言の句とする。こゝは手に纏き持たずの意で、打消の不〔右○〕を要する處だが、次句に「不視者」とあるに讓つて略した。原本に「而」の字あるので、諸訓モチテ〔三字傍線〕と讀んでゐるが、「て」の辭が文理を阻んで面白くない。よつて「而」は衍字と見た。「纏」原本に取〔右△〕とあるが、釧は取持つ物ではないから、取を纏〔右△〕の誤として、眞淵考によつてマキモチ〔四字傍線〕と訓んだ。○まそかがみ 既出(六四三頁)。こゝは見え〔二字傍点〕の約め〔傍点〕を、「たゞ目に」の目にいひかけた枕詞。○ただめにみずば ぢかに目に見ぬならば。舊訓がよろしい。古義訓タダメニミネバ〔七字傍線〕。○したひやま 下樋山。攝津國能勢郡(今豐能郡西郷村)。今劍尾山と稱する。池田市を北へ距ること十里許。標高七八四米突。攝津国風土記に、昔有(リ)2大神1、曰(フ)2天津鰐(ト)1、化2爲《ナリテ》鷲(ト)l而下2止《ヲリキ》此山(ニ)1、十人往(ケバ)者、五人去(リ)五人留(リキ)、有(リ)2久波乎《ハハヲト》云(フ)者1、來(リ)2此山(ニ)1、伏(セテ)2下樋(ヲ)1而|屆《イタル》2神(ノ)許(ニ)1、從《ヨリ》2此樋(ノ)内1通(ヒテ)而祷祭(リキ)、由(リテ)v是(ニ)曰(フ)2下樋山(ト)1とある。但下樋は伏樋《フセドヒ》の事で、水を通はす爲の設だから、こゝは下樋山を「したゆくみづ」の枕詞として用ゐた。「檜」は樋の借字。○したゆくみづの 下行く水の如く〔二字右○〕。下樋山よりこの句までは、「上に出でず」の序詞。○やすからめかも 「不在」原本に虚〔右△〕とある。古義説によつて改め、訓は新考によつた。古義訓はヤスカラヌカモ〔七字傍線〕。
【歌意】 自分は思ふ兒〔六字右○〕に、なまなかに言葉もようかはさず、逢はぬ日が數多く經つてゆけば、空しく〔三字右○〕戀ふる日が重つてゆけば、その〔二字右○〕憂欝を晴らす術を知らないので、心は千々に碎けて、白玉のやうなその兒の名を、心に〔二字右○〕懸(2631)けぬ時なく、口に絶やさずいひ馴らして、このやうに〔五字右○〕私が戀ひ思ふあの兒なのを、何時までも〔五字右○〕この手に纏き持たず、ぢかに目に見ないならば、山の名の下樋の水のやうに表面《ウハベ》に出ず、下にばかり〔五字右○〕思ふ自分の心は、安からうことかいな。
 
〔評〕 「有女如v玉」、苟も珠玉の存する以上は、これを麗人に譬へ、愛子に喩へることは、和漢偶然の一致であらう。思ひ迫つてはその兒の名を口に呼ぶ、戀する人のせめてもの心やりである。
  春の野に草はむ駒のくちやまず吾《ワ》をしぬぶらむ家の兒ろはも(卷十四−3532)
は公然だが、これは人聞きを避けるだけいぢらしい。
 「思ひやるたどきを知らに」以下の一節は、卷一、軍王の長歌の一部の踏襲に墮ちた。隱り沼《ヌ》や池の水を下戀の例に引くことは珍しくないが、「下樋山下ゆく水の」の序詞は新案である。こんな邊鄙の地名傳説を知つて使用したことから考へると、この作者は津國の國衙の官人か、或は津國人であらう。
 起手「白玉の人の名を」と突如に歌ひ出した筆法は頗る妙であるが、その跨續に距離のあり過ぎるのが難點である。結收の二句も上來の語勢にあはせて稍不振で、反撥力が足りない。但古語や古風の枕詞を剪裁して構成した爲に、一寸異色を感ぜしめる。
 又この歌、前半に似ず、後半に至つて句毎に枕詞を冠して感情の興奮を訴へ、劃然と前後その面目を別にしてゐるのは、長歌中の異體と稱すべく、下の挽歌に見える「哀(ミテ)2弟(ノ)死去《マカレルヲ》1作歌」の末節も、稍この手法に類似してゐる。
 
(2632)反歌
 
垣保成《かきほなす》 人之横辭《ひとのよこごと》 繁香裳《しげみかも》 不遭日數多《あはぬひまねく》 月乃經良武《つきのへぬらむ》     1793
 
〔釋〕 ○かきほなす この句は三句の「しげみ」に係る。既出(一三二六頁)。○よこごと 横しまな人言。讒言。
【歌意】 垣のやうに、人の讒訴が繁くうるさいせゐかまあ、貴方に〔三字右○〕逢はない日が多く、かう月の經つたのであらう。
 
〔評〕 古代夫妻同棲でない時期が多いから、男は盛にあちこちに發展する自由がある。その代り、女の方でも氣に入らなければ、折角尋ねて來ても追つ拂ふ權利があつた。時には他の男を引入れるのもないではない。だから別居してゐる以上は、兎角種々な中口が這入り勝で、互に氣まづくなるのも自然の勢だ。そこで怨意恨情を歌つた作が、古代に多い。
  垣穂なす人言聞きてわが背子がこゝろたゆたひ逢はぬこの頃(卷四、丹波大娘子―713)
も同意同趣であつて、それは女の立場から歌つた。
 
立易《たちかはる》 月重而《つきかさなりて》 雖不遇《あはねども》 核不所忘《さねわすらえず》 面影思天《おもかげにして》     1794
 
〔評〕 ○たちかはるつき 一月が經つて次の月になるをいふ。○さね 「さねありえむや」を見よ(二一三六頁)。
(2633)【歌意】 經かはる月が重なつて、今に〔二字右○〕逢はぬけれど、まこと忘られないわい。あの兒が〔四字右○〕面影に立つてさ。
 
〔評〕 理路には著してゐるが、嘘はない。初二句の日子の經過を語る叙法に一節ある。
 
右三首、田邊(ノ)福麻呂之歌集(ニ)出(ヅ)。
 
挽歌
 
○挽歌 既出(四一二頁)。
 
宇治(ノ)若郎子宮所《ワカイラツコノミヤドコロノ》歌一首
 
○宇治若郎子 應神天皇の皇太子にて山城の宇治にまし/\、位を大鷦鷯《オホサヽキノ》尊に讓り給うた。「若」の字、稚とも書く。○宮所 こゝは宮址をいつた。若郎子の宮址に就いて、
  この皇子宇治に宮造りさせ給へることは仁徳天皇紀に見えたれど、今木の宮のこと考ふる處なし。これは應神天皇、輕島(ノ)豐明(ノ)宮に天の下如しめしける時、この皇子、今木(大和)におはしけるなるべし。(契沖)
 山城志に、今木(ノ)嶺、在(リ)2宇治(ノ)彼方町(ノ)東岸(ニ)1、今曰(フ)2離宮山(ト)1とあるは、この萬葉の歌に依れる押當て説なるべし。(宜長)
 歌は「妹らがり今來」といふを紀の嶺にいひ懸けたるなり、紀の嶺は紀伊郡の嶺なり。(新考)
三説ながら皆當らぬ。却て山城志に離宮山とあるが宜しい。
 
(2634)妹等許《いもらがり》 今木乃嶺《いまきのみねに》 茂立《しみたてる》 嬬待木者《つままつのきは》 古人見祁牟《ふるひとみけむ》     1795
 
〔釋〕 〇いもらがり 妹許《イモガリ》におなじい。「ら」は複數語だが、單數に接尾辭の如く用ゐた例が、この下にも、卷五、卷十三などにもある。古義は集中のイモガリトの例を引いて、「等許」を許等《ガリト》の顛倒とした。さてこの句は「今|來《キ》」に係る序語。○いまきのみね 山城國宇治郡宇治郷。宇治川の北岸にあり、中世朝日山と呼ぶ。興聖寺その中腹にある。應神天皇の時より離宮を置かれ、稚郎子太子もまし/\た。姓氏録に山城國の神別に今來(ノ)連がある。古く歸化人を宇治邊に置かれたので、今來の地稱があつたと見える。○しみたてる、「しみさびたてり」を見よ(二〇六頁)。○つままつの木 夫《ツマ》待つを松にいひかけた序語。「君まつの木」(卷六)の類例。○ふるひと 古への人。故人。又老者をもいふ。古義は「ふるひと」を老者の意にのみ見て當らずとし、「古」を吉〔右△〕と改め、ヨキヒト〔四字傍線〕と訓んだ。 △地圖及寫眞496(二〇二〇頁)190(六八三頁)を參照。
【歌意】 吾妹子の許に今來る、その今來といふ稱の嶺に茂つて立つてゐる、夫を待つといふ稱の松の木は、昔の人が見たことであつたらう。
 
〔評〕 初句の「妹等がり今來」と四句の「夫待つ」とは相互的交渉をもつた修飾語である。枕詞や序詞を一首中上下に置いて對揚せしめることは珍しくもないが、その詞意は大抵無關係な存在である。とすると、この歌はそこに新手を出したものといへよう。好惡の問題は別として。但その詞態が上下ともいひ懸けなのは藝がない。
 内容は極めて單純で、松樹に懷古の情を寄せた通念的のものだ。
 
(2635)紀伊《キノ》國(ニテ)作歌四首
 
この作者は紀伊國|雜賀《サイガ》、名草邊を逍遙して、既に故人となつた愛妻との曾遊を想ひ、その斷絃の悲を叙べた。
 
黄葉之《もみぢばの》 過去子等《すぎにしこらと》 携《たづさひて》 遊礒麻《あそびしいそを》 見者悲裳《みればかなしも》     1796
 
〔釋〕 ○もみぢばのすぎにし 「もみぢばの」及び「すぎにし」を見よ(一八四頁)。○いそを 舊訓イソマ〔三字傍線〕とあるを、古義は「麻」はヲと訓むべし、磯ま、浦まの語は古へになしといつた。
【歌意】 紅葉の散り過ぎるやうに、失せた兒等と、手を取合つて遊んだことであつた、その磯を見ると、昔が思ひ出〔五字右○〕されて悲しいわい。
 
〔評〕 磯の巖も寄る波も曾遊のまゝに依然たりだが、愛賞を共にしたその人は今や亡い。この今昔の轉變を扱つた作は和漢を通じて山の如くで、新味はない。初二句は成語、結句は平語。只三四の句が夫妻和樂の状態を描出して、その哀傷の度を深めた。
 
鹽氣立《しほけたつ》 荒礒丹者雖在《ありそにはあれど》 往水之《ゆくみづの》 過去妹之《すぎにしいもが》 方見等曾來《かたみとぞこし》     1797
 
(2636)〔釋〕 ○しほけたつ 卷二の「鹽氣のみかをれる」(四五五頁)の意と同じい。○ゆくみづの 往く水は流れて返らぬので、「過ぎ」の序とした。卷七に「往く川の過ぎにし」ともある。
【歌意】 鹽烟りの立つ荒磯ではあるが、逝く水のやうに往つてしまつた、吾妹子の形見の處〔二字右○〕だと思うて〔三字右○〕さ、再び訪ねて來たのであつたよ。
 
〔評〕 場處が海邊だから「塵氣たつ荒磯」といつたゞけで、すべては
  眞草刈る荒野にはあれどもみぢ葉の過ぎにし妹が形見とぞ來し (卷一、人麻呂―47)
の再演に過ぎない。「ゆく水の」は序語ではあるものゝ、「鹽氣たつ荒磯」にふさはず、抵觸感がおこる。なほ「眞草刈る」の評語を參照(一八四頁)。
 
古家丹《いにしへに》 妹等吾見《いもとわがみし》 黒玉之《ぬばたまの》 久漏牛方乎《くろうしがたを》 見佐府下《みればさぶしも》     1798
 
〔釋〕 ○くろうしがた 「くろうしの海」を見よ(二〇〇二頁)。○さぶし 樂しからぬこと。集中、不樂、不怜などの字面を充てゝある。
【歌意】 その昔に、我妹子と一緒に〔三字右○〕、自分が見た黒牛潟を、今ひとりして〔五字右○〕見ると、詰らないわい。
 
〔評〕 往時の黒牛潟は遠淺の海で、萬頃の漣が平和な風光を浮べてゐた。然るに「見ればさぶしも」といふ。蓋(2637)し過ぎにし日の樂しさを思へばである。嘗ては我妹子と二人して見た黒牛潟だ。それを獨して見るとなつては、對映的にひし/\と寂寥感が迫つて、今昔の感が愈よ深い。而もそれが再び逢ふべくもない死別によるとすれば、斷腸の極だ。「獨」の語を著下せぬ處に、蘊合の味が遠永く搖曳する。
 上の「もみぢ葉の過ぎにし妹と携ひて」と全く同趣の作で、これは一層引締つて力量も優つてゐる。
 
玉津島《たまづしま》 礒之裏未〔左△〕之《いそのうらみの》 眞名兒〔左○〕仁文《まなごにも》 爾保比弖〔左○〕去名《にほひてゆかな》 妹觸險《いもがふれけむ》     1799
 
〔釋〕 ○うらみ 既出(一一〇一頁)。「未」原本に末〔右△〕とあり、訓はウラマ〔三字傍線〕である。○まなごにも 眞砂にさへ〔二字右○〕も。「まなご」は「しらまなご」を見よ(一八六四頁)。契沖眞淵の説により、「名」の下に兒〔右○〕を補つた。○にほひて 「弖」原本にない。眞淵説によつて補つた。○いもがふりけむ 古義訓による。
【歌意】 玉津島の磯の浦邊の眞砂にさへも、衣を〔二字右○〕染めて行かうな、嘗て〔二字右○〕吾妹子がさはつたことであつたらうわ。
 
〔評〕 眼前に展開する玉津島の百明千媚も、故人が嘗ての蹴上げの砂にも及かない。せめてその懷かしの眞砂になりとも衣匂はせ、戀々の情を慰めようといふ。實は花に匂はせ埴生に匂はせする事はあつても、砂では匂はせやうがない。が作者にはそんな小理窟は疾うにないのだ。縁さへあれば何にでも喰ひ付いて行かうといふ愛著のあらはれだ。
 
右五首、柿本(ノ)朝臣人麻呂之歌集(ニ)出(ヅ)。
 
(2638)五首とは「宇治(ノ)若郎子(ノ)宮所歌」以下を籠めて數へたもの。
 
過(グルトキ)2足柄《アシガラノ》坂(ヲ)1見(テ)2死(ニタル)人(ヲ)1作歌一首
 
○足柄坂 足柄の御坂、足柄の神の御坂など稱した。足柄山彙中、足柄路の峠である。京方より來れば、駿河國駿東郡の竹(ノ)下より登り、相模國足柄上郡關本に降る。足柄の關は東坂の相模分にあつた。「あしがらやま」を見よ(八九六頁)。
 
小垣内之《をかきつの》 麻矣引干《あさをひきほし》 妹名根之《いもなねが》 作服異六《つくりきせけむ》 白細乃《しろたへの》 紐緒毛不解《ひもをもとかず》 一重結《ひとへゆふ》 帶矣三重結《おびをみへゆひ》 苦侍伎爾《くるしきに》 仕奉而《つかへまつりて》 今谷裳《いまだにも》 國爾退而《くににまかりて》 (2639)父妣毛《ちちははも》 妻矣毛將見跡《つまをもみむと》 思乍《おもひつつ》 往祁牟君者《ゆきけむきみは》 鳥鳴《とりがなく》 東國能《あづまのくにの》 恐耶《かしこきや》 神之三坂爾《かみのみさかに》 和細〔左△〕乃《にぎたへの》 服寒等丹《ころもさむらに》 烏玉乃《ぬばたまの》 髪者亂而《かみはみだれて》 郡問跡《くにとへど》 國矣毛不告《くにをものらず》 家問跡《いへとへど》 家矣毛不云《いへをもいはず》 益荒夫乃《ますらをの》 去能進爾《ゆきのすすみに》 此間偃有《ここにこやせる》     1800
 
〔釋〕 ○をかきつ 「を」は美稱。「かきつ」は垣内《カキウチ》の約。屋敷内をいふ。○あさをひきほし 麻を引き又は干し。(2640)卷四に「麻を刈り干し」ともある。「あさ」は既出(一一一九頁)。○いもなね 妹汝《イモナ》ね。「なね」を見よ(一三三六頁)。○しろたへの 既出(一一八頁)。こゝは紐に係けた枕詞。この語はもと庶民の服が白色だつたので、衣の枕詞として用ゐられ、次いで衣の一部分たる袖、帶、紐などにまで係けての枕詞となつた。「細」に精しの意あれば妙字の意に通ずる。栲の借字。○くるしきに 苦しき公役〔二字右○〕に、「侍」は漢音シ。○ゆきけむ 來けむといふに同じい。○かみのみさか 足柄坂のこと。「かみの」はすべて畏き物に冠する語。「み」は敬稱。「三」は借字。○にぎたへの 服《コロモ》に係る枕詞であらう。「にぎたへ」は柔栲《ニギタヘ》の義。荒栲に對する。「細」原本に靈〔右△〕とある。和靈《ニギタマ》では如何にしても服《コロモ》に續かない。上の「白細」の書例によつて「和細」と改めた。眞淵は靈を細布〔二字右△〕の誤とした。○さむらに 「さむら」は寒し〔二字傍点〕の形容詞の語根に「ら」の接尾辭を添へた語。うまら〔三字傍点〕、わびしら〔四字傍点〕の類語。○ぬばたまの 髪の枕詞。既出(三〇四頁)。○くにとへど 「くに」は漢語の郡の字音に通ふので、「郡」を充てた。○のらず 眞淵訓による。舊訓ツゲズ〔三字傍線〕。○ゆきのすすみ 行くことに逸るをいふ。「こぎのすすみ」(一一七四頁)の類語。○こやせる 下に歎辭を含む。訓は略解による。舊訓フシタリ〔四字傍線〕。
【歌意】 屋敷内の麻を拔いて干し、骨折つて〔四字右○〕女房さんが作つて著せたであらう衣の〔二字右○〕紐をも解かず、痩せ細つて〔五字右○〕、一重まはりの帶を三重まはし、實に苦しい勞働〔二字右○〕に奉仕し、やつと解放になつた〔やつ〜右○〕今なりともせめて〔三字右○〕故郷《クニ》に歸つて、父母も見よう〔三字右○〕妻をも見ようと、思ひ思ひして來たことであらう其方《ソナタ》は、東《アヅマ》の國のこの恐しい足柄の神の御坂で、衣も寒げに髪は亂れて、故郷を尋ねても故郷をも告げず、家を尋ねても家をもいはず、流石の益荒雄が、道行くまゝに此處に仆れてゐることよ右○〕。
 
(2641)〔評〕 東男の京師の人夫に徴發されてゐたもの、即ち役民が、歸國の途中、足柄坂で行き倒れとなつてゐたのを見て、同情しての弔歌である。
 著物とては、國を出る時に女房が丹精して拵へてくれた一張羅、その紐を解いて息む間もない激しい勞役の爲に、遂には一重の帶が三重まはる、骨と皮ばかりに衰弱した。恐らく病氣にも罹つてゐたのであらう。全く牛馬の如く使役されたらしいが、これは決して事實を誣ひた誇大の言辭ではなく、役民達はその勞役を厭うて盛に逃亡した程である。
 出立の際は國衙の官人が役民を一團として引率したらうが、歸る時には銘々ばら/\の手錢旅行だ。携帶食糧として幾日間かの乾飯の用意位は與へられたとしてからが、不時の災禍や病氣などで旅の日數が延びるとなると、もうお仕舞だ。當時でも流通貨幣の錢はあつた。泉津(木津)から奈良までの車力が三十三文だつた時世だが、役民達は國家義務で働くのだから、賃銀はくれない。隨つて彼等は錢をもたない。※[人偏+果]で道中のならぬ世の中、錢がなく物がなくては仕樣がない。
  諸國(ノ)役民(ノ)還(ル)v郷(ニ)日、食糧|缺乏《トモシク》、多(クハ)餓2死(シ)道路(ニ)1、轉2填(ス)溝壑(ニ)1、其類不v少(ナカラ)、云々。(續紀、和銅五年正月詔)
がそれである。この東男は只懷かしの父母や妻子やの顔が見たいの一心に、辿る/\も漸う足柄の御坂まで來は來たのだ。
 當時の官道は足柄道であつた。阪路の全長は上下六七里にも及ぶが、神の御阪即ち峠となつては、正味登り二里降り二里、その險峻に彼れの精根はこゝに盡きはてゝしまつた。行き倒れ、摩り切れた麻衣はその肌も覆はず寒らに、髪は蓬々と亂れて酸鼻の極だ。故郷《クニ》を問ひ家を問へど返事がない。流石の益荒男も空しく望郷(2642)の深い恨を抱いて、黙々たる一塊の土となつた。
 この篇劃然と前後二段にその意が分截されてゐる。初頭から「ゆきけむ」までの前半截は、路傍の死人の素性を役民と認定して、それを基礎としての想像から成り立つた叙筆で、後半截は、眼前の事相に即した描寫となり、その斃死状態を深刻に叙して、滿腔の同情を捧げた。大體は完作に近いが、欲をいへば後半において少しあせり過ぎ、その背景を回顧することを忘れた憾がある。人麻呂は「狹岑島《サミネノシマニ》視(ル)2石中(ノ)死人(ヲ)1」の歌に、
  ――波の音のしげき濱邊を、敷妙の枕となして、荒床により臥す君が、云々 (卷二―220)
と些少ながらもそこに言及してゐる。險怪なる足柄山、その林木に草茅に巖石に、幾らでもその周邊を顧れば詩材を採取し得たであらうに。
 
過(グル)2葦屋處女《アシノヤヲトメノ》墓(ヲ)1時(ニ)作歌一首并短歌
 
○葦屋 攝津國|菟原《ウバラ》郡葦(ノ)屋(今|蘆屋《アシヤ》市)。和名抄に菟原郡蘆屋(ノ)郷とある。古への葦屋は武庫山下地方に廣被した稱で、その沿海を葦屋(ノ)海と呼び、今にその稱を存してゐる。この歌にも下の同題目を詠んだ歌にも、葦(ノ)屋(ノ)菟名日《ウナヒ》處女とある。菟名日も地名だから、序に次に解説して置かう。○菟名日 ウナヒ。海邊《ウナヒ》の義。邊をヒと(2643)いふことは神南備《カムナヒ》が神|之邊《ノヘ》の意であるのと同じい。葦屋の海に沿うた小地帶である。古來の註者、これを郡名の菟原《ウバラ》と混一にして、種々の説を立てゝゐる。或は原にフの訓があるから菟原はウナヒだといふ。稍迂遠ではあるがまだよい。或は菟名日は海邊だから海原《ウナバラ》が轉じて菟原となつたといふが、陸地を海原といふことは理窟にない。この二語はおの/\語性の殊なるもので、菟原はもとより茨(ウバラ)の義で、伊勢物語にも「津の國むばら〔三字傍点〕の郡」とある。○葦(ノ)屋處女 葦屋の菟名日《ウナヒ》の里に住んでゐた或處女。故に歌に「葦の屋の菟名日處女」と詠んである。傳説中の婦人で、歌に詠まれた事の外には何もない。○處女墓 菟原郡(今武庫郡)住吉川の西、生田川の東との間、西國街道に沿うて瓢形の古墳が三箇あり、東のは御田《ゴデン》に、中のは東明《トウミヤウ》に、西のは味泥《ミドロ》にあり、中央のは南面し、東西のは各中央のに向つて造られた。その距離は互に十五六町を隔てゝゐる。西の味泥塚は明治年間に破壞された。古來中央のを菟名日處女の墓とし、東のを智奴《チヌ》男の墓、西のを菟名日男の墓と稱した。下の歌では東西のを壯士《ヲトコ》冢と概稱した。中央の處女塚は後世|求女《モトメ》塚と訛り、太平記にも、求女(2644)塚に小山田高家討死の事が出てゐる。
○處女冢傳説 この歌及び下の「見2莵原處女墓1歌」、又卷十九の家持の「追和歌」を知るには、まづその傳説を心得ておく必要があるから左に、
  昔津の國の葦(ノ)屋の莵名日(莵原)處女を、同じ里の莵名日(宇奈比)壯士《ヲトコ》と和泉の智奴(茅渟、茅沼、血奴)壯士《ヲトコ》、一名|小竹田《シヌダ》(信太)丁子《ヲトコ》とが、競争して妻問ひして來たので、處女は何れにも靡きかねて、入水して死んだ。そこで二人の壯子も跡を追つて海に投身したのを、親族達が寄つて、處女冢を中に壯士家を東西に、三つの墓を造つたといふ。この傳説を大和物語には、大いに劇的に數演して、二人の男が競争して處女の望むまゝに、生田川の水鳥を射ることゝし、處女は二人共射當てたので板挾みとなつて、據なく入水すると、二人の男も跡を追つて入水したとあつて、その後が怪談咄となつてゐる。
 
古之《いにしへの》 益荒丁子《ますらをとこの》 各競《あひきほひ》 妻問爲祁牟《つまどひしけむ》 葦屋乃《あしのやの》 莵名日處女乃《うなひをとめの》 奥城矣《おくつきを》 吾立見者《わがたちみれば》 永世乃《ながきよの》 語爾爲乍《かたりにしつつ》 後人《のちのひと》 偲爾世武等《しぬびにせむと》 玉桙乃《たまぼこの》 道邊近《みちのへちかく》 磐構《いはかまへ》 作冢矣《つくれるつかを》 天雲乃《あまぐもの》 退部乃限《そぐへのかぎり》 此道矣《このみちを》 去人毎《ゆくひとごとに》 (2645)行因《ゆきよりて》 射立嘆日《いたちなげかひ》 域〔左△〕人者《あるひとは》 啼爾毛哭乍《ねにもなきつつ》 語嗣《かたりつぎ》 偲繼來《しぬびつぎこし》 處女等賀《をとめらが》 奥城所《おくつきどころ》 吾并《われさへに》 見者悲裳《みればかなしも》 古思煮《いにしへおもふに》     1801
 
〔釋〕 ○ますらをとこ 「ますらを」に同じい。同項を見よ(四〇頁)。「丁子」の丁は當るの義で、強壯の時に當るをいふ。舊唐書食貨志に、「男女始(メテ)生(ルヽヲ)爲(シ)v黄(ト)、四歳(ヲ)爲(シ)v小(ト)、十六(ヲ)爲(シ)v中(ト)、二十一(ヲ)爲(シ)v丁(ト)、六十(ヲ)爲(シ)v老(ト)」と見え、この唐制に倣つて、大寶の戸令にも「其男(ハ)廿一(ヲ)爲(シ)v丁(ト)、六十一(ヲ)爲(ス)v老(ト)」とあり、廿一より六十までを正丁と稱して、兵役の義務があつた。「丁子」と熟すると、莊子天下篇に「丁子有(リ)v尾」と見え、蛙の子の事であるが、ここは丁年の男子の意に用ゐた。訓は神本西本細本による。舊訓はマスラヲノコ〔六字傍線〕。あひきほひ 「各」を意訓にアヒ(相)と讀む。略解訓アヒキソヒ〔五字傍線〕は古語でない。○つまどひ 「聘」(ツマドフ)を見よ(三一三頁)。○かたり 物がたりを古へは談《カタリ》とのみいつた。○のちのひとしぬびにせむと 後《アト》の人が思出種にしようと〔右○〕て。類本ノチヒトニ〔五字傍線〕、元本ノチヒトシ〔五字傍線〕と訓み、略解古義の訓にノチヒトノ〔五字傍線〕とあるも妥當でない。○いはかまへ 磐を〔右○〕構へ。石槨を疊み成すこと。即ち磐城を作ること。イハガマヘと合名詞に訓む新考説はいかゞ。○つか 古義訓ハカ〔二字傍線〕。○つかを 冢なる〔二字右○〕を。○そくへのかぎり 「そくへのきはみ」に同じい。同項を見よ(九三四頁)。契(2646)沖訓はソクヘをソキヘ〔三字傍線〕と訓んだ。同時代語であるから、何れでも宜しい。○いたち 「い」は發語。○なげかひ 歎き〔二字傍点〕の延言。○あるひと 里に〔二字右○〕ある人。「或」は在の借字。「或」を又は他本原本に惑〔右△〕とあるによつて、舊訓ワビビト〔四字傍線〕、契沖訓サトビト〔四字傍線〕、宣長訓サドビト〔四字傍線〕などあるが穩かでない。元本藍本類本神本等に從つた。○をとめらが この「ら」は單數に用ゐた。その例集中に多い。○われさへに 契沖訓による。○いにしへおもふに 「煮」原本に者〔右△〕とある。既に「見れば」とあるに、又「思へば」と重なるは拙い。正辭説によつて改めた。
【歌意】 その昔の益荒男、智沼男(信太男)と莵名日男とが、互に競爭して挑んだことであらう、葦屋の莵名日處女の墓處を、自分が佇立んで見ると、里人が〔三字右○〕末代の語草にしい/\し、後人の思出種にせうとて〔右○〕、街道近く石槨を構へて拵へた塚なのを、遠方までこの街道を行く人毎に、塚の許に立ち寄つて、佇立んで溜息を吐き、土地に居る者は聲を擧げても泣き/\して、果して〔三字右○〕世に語り傳へ、思出種に何時も/\して來た、莵名日處女の墓處を、自分までも見ると悲しいことよ。その昔を思ふによつてさ。
 
〔評〕 男女性が相對して存する以上、一人の女性を二人の男性が爭ふやうな三角事件は、何時の世でも絶える筈がない。假令それが神でも人間でも同じ事だ。この篇の傳説も、かの三山傳説と同一系統に屬するものである。只この傳説が頗る悲劇を極めただけ、餘計に時人に同情されたのである。
 現有の處女冢は前方後圓のいはゆる瓢箪塚で、周囘八十餘歩に亙る、一寸大きなものだ。多寡が變死した庶民の子女のものとしては、立派過ぎる。然し群衆心理は別だ、時に常識以外の飛躍を遣る。この事件に同情し興奮した、地元の莵名日や小竹田(信太)の里人が、お祭騷ぎに騷ぎ立つて、計畫的に處女冢を眞中に、二つ(2647)の壯士冢を各それに向き合はせて造る。さもありさうな事である。處女冢と莵名日壯士との冢はおのれの生地に就いて築かれ、小竹田男は和泉人なので、その冢は同距離をたもつて東方に築かれたのだ。抑も奥津城は荒山中と大抵相場のきまつたものを、西國往還の街道筋の平地に並べて築いた。大いに宣傳の意味があらう。これ「永き世のかたりにしつゝ後人のしぬびにせむと――道の邊近く磐構へ作れる冢」といふ所以である。
 孝徳天皇大化二年の詔に、諸王諸臣の墳墓の制を定めて、庶人は平地に埋收せしめられ、文武天皇の大寶の令に至り、更に縮少の方針を執られた。とするとこれは大化の制前後の業くれと考へられる。そしてこんな破格な事をするからこそ、更に大寶の墓制も發布されたのであらう。
 創設者の目的は達した。「この道をゆく人毎に行き寄りて立ち歎かひ」、「ある人は音にも泣きつつ」であつた。そして果して豫期の如く「語り繼ぎ偲びつぎくる」のであつた。
 この歌、造冢の主意とその目的が達成された事とを叙説するに終つて、作者自身の憑弔の感想は極めて輕い。「吾さへに見れば悲しも」だけでは、ほんのお附合の棄言葉のやうだ。而もそれに重複感があつて繁縟に墮してゐる。「天雲のそくへの限」の句も置き得たものとは思はれない。
 
反歌
 
古乃《いにしへの》 小竹田丁子乃《しぬだをとこの》 妻問石《つまどひし》 莵會處女乃《うなひをとめの》 奥城叙此《おくつきぞこれ》     1802
 
〔釋〕 ○しぬだをとこ 信太男。「しぬだ」は和名抄に、和泉國和泉都信太(ノ)郷(今の泉北郡信太村)。今シノダとい(2648)ふ。信太の森で有名なる處。和泉の古名は茅渟《チヌ》(血沼)なので、又|智奴《チス》男とも呼んである。
【歌意】 昔の小竹田男が妻問ひをした、莵名日處女の墓處がさ、これであるわ。
 
〔評〕 音に聞えた處女冢を目のあたり見得ての詠歎であらうが、報告的に堕してゐる。
 
語繼《かたりつぐ》 可良仁文幾許《からにもここだ》 戀布矣《こほしきを》 直目爾見兼《ただめにみけむ》 古丁子《いにしへをとこ》     1803
 
〔釋〕 ○かたりつぐからにも 語り繼ぐ故にさへ〔二字右○〕も。「手に取りしからに」を見よ(一九八六頁)。○ただめに ぢかに目に。「ただ」は直ちにの意。
【歌意】 語り繼ぐさへまあ、聞いて莵名比處女〔八字右○〕は戀しいのを、ぢかに目に見たであつたらう、昔の莵名比男や小竹田男よ、どんなにか戀しかつたらう〔どん〜右○〕。
 
〔評〕 傳聞に血を湧かす自分を題に出して、昔男の戀の焦燥を想像した。そこにいひ知らぬ同情がある。二句は碎けてゐる。「からに」の語の使用上止むを得ぬことであらう。  △三女考(雜考―32參照)
 
哀《カナシミテ》2弟(ノ)死去《ミマカレルヲ》1作(メル)歌一首并短歌
 
(2649)父母賀《ちちははが》 成乃任爾《なしのまにまに》 箸向《はしむかふ》 弟乃命者《おとのみことは》 朝露乃《あさつゆの》 銷易杵壽《けやすきいのち》 神之共《かみのむた》 荒競不勝而《あらそひかねて》 葦原乃《あしはらの》 水穂之國爾《みづほのくにに》 家無哉《いへなみや》 又還不來《またかへりこぬ》 遠津國《とほつくに》 黄泉乃界丹《よみのさかひに》 蔓都多乃《はふつたの》 各各向向《おのがむきむき》 天雲乃《あまぐもの》 別石往者《わかれしゆけば》 闇夜成《やみよなす》 思迷匍匐《おもひまどはひ》 所射十六乃《いゆししの》 意矣痛《こころをいたみ》 葦垣之《あしがきの》 思亂而《おもひみだれて》 春鳥能《はるとりの》 啼耳鳴乍《ねのみなきつつ》 味澤相《あぢさはふ》 宵畫不云《よるひるとはず》 蜻※[虫+廷]火之《かぎろひの》 心所燎管《こころもえつつ》 悲悽別焉《いたむわかれを》     1804
 
〔釋〕 ○ちちははがなしのまにまに 父母が生み成すまゝに。この句は「箸向ふ」に係る。さう見ないと下に續かぬから、脱句説がおこる。○はしむかふ (1)箸は二つさし向へる物なれば箸向ふといふ(契沖説)。(2)はし〔二字傍点〕は物二つ相對ふをいふ言なるべし。橋も此方と彼方との岸の相對するよりいひ、箸も二つ對ふよりの稱ならむ(古義説))。(2)は懸け向ふ、相向ふなどの意で、これは事が廣くて説明には都合がよいが、恐らく作者の時代は(2650)(1)の箸の如く向ふの意で使つたのであらうと思ふ。○おとのみこと 弟を尊敬していふ。「おと」は乙の義。「かみのみこと」を見よ(八六八頁)。○あさつゆの こゝは枕詞。○かみのむたあらそひかねて 神と共には〔右○〕爭ひ難くて。生死は神の心ゆゑ、死と定められたのを死ぬまいと抵抗し得ないの意。○いへなみや 住む家がなさにか。略解訓による。舊訓ナシヤ〔三字傍線〕。○またかへりこぬ この「ぬ」は上の「や」の係に應じた否定の結節で、かねて下の「遠つ国黄泉の界に」の句に接續する文法上の一格。さう見ないと前後の詞意が齟齬する。○とほつくに 速い國。黄泉《ヨミ》は遠方なのでいふ。○よみのさかひ 夜見の界。夜見の國といふに同じで、又よもつ國といひ、單に夜見ともいふ。古來死者の赴く所と信ぜられ、その路を夜見路《ヨミヂ》といふ。夜見を史的地稱としては、紀記(神代の卷)の伊邪那美命の御葬送の段を初見とし、出雲伯耆の間にこれを求めた。委しい事はこゝに不用だから略する。なほ黄泉を見よ(一五八六頁)。○はふつたの 「おのがむきむき」に係る枕詞。卷二には「別れ」の枕詞に用ゐた例がある。蔦は先から先へ枝をさして分岐してゆくので、おのが向き/\〔七字傍点〕でもあり、別れ〔二字傍点〕でもある。○おのがむきむき おのが〔三字右○〕向きおのが〔三字右○〕向きを略した語。されば各向各向と書くべきを、「各々向々」と書いたのは、敬服敬服を敬々服々と書くと同じ書式だ。古義はオノモオノモ〔六字傍線〕と六言に讀んで、「向」を面〔右△〕の誤かといつた。○あまぐもの 雲は集つても分散するので、「別れ」に係けた枕詞。既出(六三六頁)を參照。○やみよなす 「まどはひ」に係る序詞。「なす」は似す〔二字傍点〕の轉語。○まどはひ 惑ひ〔二字傍点〕の延言。「はひ」に「匍匐」を充てたのも戯書らしい。契沖訓による。○いゆしし 所v射猪鹿《イユシヽ》。「いゆ」は射らる〔三字傍点〕の古言であるが、終止言のみあつて、他の活用をもたぬので、連體格に假りて「しゝ」に續けた變格。「しゝ」は「しゝじもの」を見よ(五三九頁、「十六」は四四の算數的戯書。イユは契沖訓である。舊訓はイル〔二字傍線〕。○いゆししの 「痛み」に係る(2651)枕詞。射られた猪鹿は疵に痛む意で續けた。○あしがきの 葦の垣は粗末な不揃の物なので、「亂れ」に係る枕詞とした。○はるとりの 春は百千鳥の囀るより、「音のみ鳴く」の序とした。舊訓ウグヒスノ〔五字傍線〕。○あぢさはふ 既出(五一六頁)。こゝは味鴨の多《サハ》に寄る〔二字傍点〕の意をいひ懸けて、夜《ヨル》の枕詞とした。古義は、この語釋の自説(味粟生)を固守する餘り、この下に「目辭《メコト》も絶えて、ぬば玉の夜晝いはず〔も絶〜右○〕」などの落句あるものとした。○かぎろひの 「もえ」に係る枕詞。「かぎろひ」は地より物より立つ水蒸氣で、そのさま白い炎の如くなるより、燃ゆといひ、影といひ、さては夕、春などに續けて枕詞に用ゐた。なほ既出(一八五頁)を參照。「蜻※[虫+廷]」は借字。「火」は添字。○いたむわかれを 「悲悽」を西本細本はイタム〔三字傍線〕と訓み、舊訓はナゲク〔三字傍線〕と訓んだ。古義が「別焉」を我爲〔二字右△〕の誤としてナゲキゾアガスル〔八字傍線〕と訓んだのは、上の「別れし」との重複を厭うたらしい。
【歌意】 兩親が生み成してくれたまゝに、箸のやうに向ひ連れた弟の命は、その消え易い命を〔右○〕、神の思召には逆らひかねて、この廣い〔二字右○〕瑞穂の國には、その住む〔四字右○〕家が無いせゐかして、復と歸つてこぬ夜見の國に彼れは往き、自分は〔六字右○〕とゞまつて、銘々別々にさなるので、闇夜のやうに思にくれ惑ひ、心がまあ痛むので思に亂れて、音に擧げて泣きつゝ、夜晝構はず心が燃えて別を悼むことよ。
 
 
〔評〕 全篇情語を以て終始してゐる。父母は子を生み付けるが、その生命は初生から死の最後まで神の支配だと考へるのが、わが古代思想であつて、世界中の大抵の民族も、結局そんな風な又はそれに近いやうな觀念をもつてゐる。記(上卷)の黄泉津平坂における陽神陰神の二神應答の條に、
  伊那那美(ノ)命まをし給はく「うつくしきあが那勢(ノ)命かくし給はば、汝《イマシ》の國の人草、一日に千|頭《カシラ》絞り殺さむと申し給ひ(2652)き」。こゝに伊邪那岐(ノ)命詔り給はく、「うつくしきあが那邇妹《ナニモノ》命、汝しかし給はば、あれは一日彌|千五百《チイホ》産屋立てゝむ」と詔り給ひき。こゝを以て一日に必ず千人死に、一日に必ず千五百人なも生る。故《カレ》伊邪那美命を黄泉津《ヨモツ》大神と申す。(紀も大同小異)
と見え、分擔的に陽神は生々の道を、陰神は死滅を掌るのであつた。これ「神のむたあらそひかねて」といひ、又「うつせみし神にあへねば」(卷二)と歎じた所以である。
 現し世の水穂の國に「家無みや又還り來ぬ」は一寸奇警な構思で、さて隱り世の黄泉の國への道行を對蹠的に行叙した。「遠つ國黄泉の界に」は「天雲の別れしゆけば」に跨續する句だが、中間の「はふ蔦のおのが向き向き」は詞意までおのが向き/\で、文理の疏通を妨げる癌となつてゐる。
 悼意を陳べた末章は、通念的の文字の羅列だが、その疊々層々の排叙に、縷々反復なほ盡きぬ悲痛の情意が認められる。但枕詞や序詞の連用で平凡を糊塗した嫌があり、同意同語の重複もあり、繁縟と錯雜との弊にたへぬ。
 
反歌
 
別而裳《わかれても》 復毛可遭《またもあふべく》 所念者《おもほえば》 心亂《こころみだれて》 吾戀目八方《われこひめやも》     1805
 一(ニ)云(フ)、意盡而《コヽロツクシテ》。
 
〔釋〕 ○わかれても 「も」は歎辭。口語にいふテモ〔二字傍点〕の意ではない。○こころつくして 四句の一傳を擧げたもの。
【歌意】 別れてまあ、復も逢はれさうに思はれるならば、こんなに心を取亂して、自分が弟を戀しがらうかい。
 
(2653)〔評〕 死別に對して誰れも一番に思ひ寄る感傷である。この御尤な知れ切つた理窟を、尚くどくいはざるを得ない處に、盡きて盡きない遺恨がある。
 
蘆檜木※[竹/矢]《あしひきの》 荒山中爾《あらやまなかに》 送置而《おくりおきて》 還良布見者《かへらふみれば》 情苦裳《こころくるしも》     1806
 
〔釋〕 ○あしひきの 「蘆」「檜木」の草木を並べて書いたのは戯意があるらしい。○かへらふ 還る〔二字傍点〕の延言。
【歌意】 こんな〔三字右○〕荒い山中に、弟を葬つて置いて、外の人達が〔五字右○〕還るのを見ると、いかにも心が切ないわい。
 
〔評〕 何の構思もない率直の表現と見えて、その實「見れば」の一語に、散り/\に行き別れる送葬の人を點出し、親身の情にかまけ、只一人悵然としてその墓前に佇立する自分を對比して、無限の感愴をそこに寓した。
 
右七首、田邊(ノ)福麻呂之歌集(ニ)出(ヅ)。
 
 ○田邊福麻呂 既出(一八六七頁)。
 
詠(メル)2勝鹿眞間娘子《カツシカノママヲトメヲ》1歌一首并短歌 
 
〇勝鹿眞間娘子 「勝鹿」及び「眞間娘子」を見よ(九六〇頁)。
 
鷄鳴《とりがなく》 吾妻乃國爾《あづまのくにに》 古昔爾《いにしへに》 有家留事登《ありけることと》 至今《いままでに》 (2654)不絶言來《たえずいひくる》 勝牡鹿乃《かつしかの》 眞間乃手兒奈我《ままのてこなが》 麻衣爾《あさぎぬに》 青衿著《あをくびつけて》 直佐麻乎《ひたさをを》 裳者織服而《もにはおりきて》 髪谷母《かみだにも》 掻者不梳《かきはけづらず》 履乎谷《くつをだに》 不著〔左△〕雖行《はかずありけど》 錦綾之《にしきあやの》 中丹※[果/衣]有《なかにつつめる》 齊兒毛《いはひごも》 妹爾將及哉《いもにしかめや》 望月之《もちづきの》 滿有面輪二《たれるおもわに》 如花《はなのごと》 咲而立有者《ゑみてたてれば》 夏蟲乃《なつむしの》 入火之如《ひにいるがごと》 水門入爾《みなといりに》 船己具如久《ふねこぐごとく》 歸香具禮《ゆきかくれ》 人乃言時《ひとのいふとき》 幾時毛《いくばくも》 不生物乎《いけらじものを》 何爲〔左△〕跡歟〔左△〕《なにせむと》 身乎田名知而《みをたなしりて》 浪音乃《なみのとの》 驟湊之《さわぐみなとの》 奥津城爾《おくつきに》 妹之臥勢流《いもがこやせる》 遠代爾《とほきよに》 有家類事乎《ありけることを》 昨日霜《きのふしも》 將見我其登毛《みけむがごとも》 所念可聞《おもほゆるかも》     1807
 
(2655)〔釋〕 ○あをくび 青色の襟。「衿」は毛詩(子衿の章)「青々(タル)子(ガ)衿」の註に、衿、音金、領《エリ》也、また和名抄に、釋名云、衿、古呂毛乃久比《コロモノクビ》、頸也と見えた。「くび」は衣の縁領《エリ》をいふ。卷十六にも「くびつけしうなゐが身には」、大和物語に「衣のくびに書きつけ」、元輔集に「衣のくびに」などある。エリは後出の語で、縁領の音訛である。和名抄は又、衿を比岐於比《ヒキオビ》と訓んである。漢書の楊雄傳に「衿2※[草冠/支]茄之縁衣1」の註に、衿(ハ)帶也、説文にも、衿の註に衣(ノ)小帶也とも見え、衿は始めから襟にも小帶にも使はれた字である。されば略解にアヲオビ〔四字傍線〕と訓んだのも一理あるが、「青衿」と續けた字面は毛詩に據つたと思はれるから、その詩意のまゝに、クビ即ちエリの事と見るのが宜しい。訓は元本神本による。○ひたさを 直小麻。混りのない麻絲をいふ。「ひた」はひたすらの意。「さ」は美稱。「を」は麻。○はかずありけど 古義訓による。舊訓ハカデユケドモ〔七字傍線〕。○にしきあやの 六言の句。「にしき」は既出(一八四七頁)。「あや」は文《アヤ》ある帛《キヌ》をいふ。○つつめる 「裹」は玉篇に包也とある。古義訓はクヽム〔三字傍線〕であるが、クヽムは口含むの義で、紀に※[行の間に缶]を訓み、その意を殊にする。○いはひご 大事にする子。かしづく子。平安時代にはイツキ娘といつた(空穗、源語)。古義に、良家《ウマヒト》の女と解したのは誤。「齊」は齋と通用。○もちづきの 「足る」の枕詞。既出(四六九頁)。○たれるおもわ 十分に整つた顔付。「滿」を足《タ》るに充てた。古義にいふ、神名の面足(ノ)尊も御面の滿足《タリトヽノ》へるをいふ、卷二にも「滿《タ》りゆかむ神の御面」とあり、續紀廿七の宣命に「大御|形【毛】《カタチモ》圓滿【天】《テ》」とあるを、宣長のタラハシと訓める、よく叶へりと。○なつむし これと斥した蟲はない。○みなといり 入港。○ゆきかくれ 行き隱れ。あらはに往き、竊《シノビ》に通ふをいふ。「具」は清音に用ゐた。濁ればカグレと讀まれるが、他に語例を見ない。宣長は「かぐれ」は婚をする古言なりといつたが、おぼつかない。古義には.「具禮」を賀比〔二字右△〕の誤として、ユキカヾヒ〔五字傍線〕と訓み、カヾヒは(2656)久那賀比《クナガヒ》の約にて、婚《トツ》ぎ合ふをいふより起れる古言なりとあるが、甚だ迂遠である。○ひとのいふとき 古義は「言」を誂〔右△〕の誤として、ヒトノトフトキ〔七字傍線〕と訓んだ。○いくばくも 西本温本の訓による。略解に「時」を許〔右△〕の誤としたが、このまゝでよい。○いけらじものを 古義訓による。卷十二に「幾不生有命」をイクバクモイケラジイノチ〔イク〜傍線〕と訓んである。舊訓イケラヌモノヲ〔七字傍線〕。○なにせむと 「歟」は衍字。渚註この衍字に心付かず、ナニストカ〔五字傍線〕と讀んで、種々牽強の説を立て、新考は落句説にまで及んだ。○みをたなしりて わが身の運命《サダメ》を一途に知つての意。「みもたなしらず」を見よ(一九三頁)。○こやせる 「こやす」は臥す〔二字傍点〕の敬語。○みけむがごとも 契沖訓による。
【歌意】 東の國に、昔にあつた事とて、現今までに絶えずいひ傳へて來る、葛飾の眞間の里の〔二字右○〕手兒奈《テコナ》が、麻衣に青い襟を著け、純麻を裳には織り立てて著て、髪さへも掻いては櫛けづらず、穿《ハキ》物さへ穿かずに歩けど、錦や綾の中に埋まつてゐる、秘藏|娘《コ》もお前にかなはうかい。滿月のやうに十分に整つた顔貌で、花のやうに打笑んで立つてゐるので、恰も夏蟲が火に飛び込むやうに、湊入に百船が漕ぎ集るやうに、多くの〔三字右○〕人がそのそばに行き寄つたり忍んだりして、何のかのと〔五字右○〕いひ懸ける時、手兒奈は、人間は〔七字右○〕幾らも生きてあるまいものを、そんな色戀沙汰〔八字右○〕は何にしようぞと、わが身をはかないものと、一途に思ひ知つて、入水して〔四字右○〕、浪の音の騷ぐ葛飾〔二字右○〕湊の墓處に、お前が横たはつた。その古い時代にあつた出來事を、つい昨日さまあ、見たであらう事のやうにまあ、思はれることかいな。
 
〔評〕 手兒奈はその頃庶民の著る麻の衣裳で、その上髪も梳らず徒跣であるく、土臭い田舍娘だ。それで居て、(2657)粉黛にうき身を窶し、綾羅錦繍に時勢粧を競ふ上流社會の筥入娘も、この兒の前には光を失ふといふのだから、本當の天の成せる麗質である。尤もこれには文飾もあらうが、美人であつた事は疑ひもない。そんな女に愛嬌笑ひをして立つて居られては、男共が魂を消して妻問ひに慕ひ寄るのは、磁石が鐵を吸ふと同じ理窟だ。その際、上總の末の珠名はおのが器量自慢から、誰れ彼れなしに金門を叩く男に「出でてあひける」であつたが、手兒奈はその反對で、いとも冷靜の態度を維持した。
 無教養な筈のこの若い田舍娘は、案外に老成な一種の人生觀を懷いてゐた。それは佛教の薫化から來た無常思想であらうが、朝に生まれ夕べに死ぬる蜉蝣の身を觀じ、多くの熱烈なる愛の要求も、地雷のうへの火遊に等しと郤け、遂に眞間の入江の藻屑となつた。一死孤貞を守つて終つた、殆ど奇矯に近いほどの高潔な思想と行爲とは、まづ眞間の里人に眼を瞠らせ、次いでは四方傳聞者の耳を愕かしめ、更に後人追慕の的となつた。但菟名日處女の如きどぎつい衝撃を受けたなら知らず、この歌だけでは、死を必要とする程の條件を見出し得ない。手兒奈には氣の毒な想像であるが、或は戀愛恐怖症で、何かの缺陷者だつたのではあるまいか。いやこんな事はいふまい。何處までも純な處女心から、その主持する思想の爲に殉じたと見るべきである。
 起筆に「いにしへにありける事と」といひ、末筆に「速き世にありける事を」といふ。かく首尾に反復するは古文の格で、殊に祝詞などに屡ば見る形式である。中間手兒奈の風釆を描寫した一節は精彩ある文字で、手兒奈その人を想見せしめる。「綾綿の中の齋ひ兒も」の客叙は、波瀾がそこに横生する。火取蟲の譬喩も相當であるが、湊入の船は眞間の入江の實景を利用したと思はれる。「幾ばくも――たな知りて」の數句には複雜な内容が盛られてあるらしいが、頗る簡要を盡してゐる。「浪の音の騷ぐ湊の奥津城に妹がこやせる」に至つては、(2658)その水死した事を暗示した含蓄の多い表現で、筆力跌宕を極めた。「昨日しも見けむが如も」は、「遠き世にありける」にわざと親貼なる對照を取つて、懷古の情憑弔の意を強く反撥せしめた手法である。かう見て來ると、まづは集中における叙事歌中の完作の一つとして推賞してよからう。
 なほ卷三、赤人の「過2勝鹿眞間娘子墓1時作歌」の評語を參照されたい(九六三頁)。
 
反歌
 
勝牡鹿之《かつしかの》 眞間之井見者《ままのゐみれば》 立平之《たちならし》 水※[手偏+邑]家牟《みづくましけむ》 手兒名之所念《てこなしおもほゆ》     1808
 
〔釋〕 ○ままのゐ 眞間の里の井。清水を溜めた石井か、はた堀井かは判然しない。古代の井を必ず溜井とのみ考へるのは固陋の見である。又或説にこの井を眞間の入江の水の事としたのは論外。○くましけむ 「くまし」は汲む〔二字傍点〕の敬相。「※[手偏+邑]」は廣韻に酌也とある。
【歌意】 葛飾の眞間の井を見ると、その邊を〔四字右○〕踏みならして、水を汲まれたであらう手古奈がさ、思ひ浮べられるわ。
 
〔評〕 眞間の井は共同井戸で、其處に寄つてたかつて汲む連中は、何れも麻衣に徒跣の田舍女だ。中に獨光つて後人の追慕にのぼるのは、薄命佳人手古奈只一人だ。作者はこの井の許に佇立んで、「水汲ましけむ」その生前の生活状態を眸中に描いて、滿腔の同情を寄せた。赤人の
(2659)  かつしかの眞間の入江にうち靡く玉藻刈りけむ手古奈しおもほゆ(卷二―433)
は同調の作である。
 
見(テ)2菟原處女《ウハラヲトメガ》墓(ヲ)1作〔左○〕歌一首并短歌
 
○蒐原處女 上の「葦屋處女」の項を見よ(二六四三頁)。
 
葦屋之《あしのやの》 菟名負處女之《うなひをとめの》 八年兒之《やとせこの》 片生乃時從《かたおひのときゆ》 小放乃〔左△〕鵠《をはなりの》 髪多久麻庭爾《かみたくまでに》 並居《ならびをる》 家爾毛不所見《いへにもみえず》 虚木綿乃《うつゆふの》 ※[穴/牛]而座在者《こもりてをれば》 見而師香跡《みてしがと》 悒憤時之《いぶせむときの》 垣廬成《かきほなす》 人之誂時《ひとのとふとき》 智奴壯士《ちぬをとこ》 宇奈比壯士乃《うなひをとこの》 蘆火〔二字左△〕燎《あしびたく》 須酒師競《すすしきほひて》 相結婚《あひよばひ》 爲家類時者《せりけるときは》 燒太刀乃《やきたちの》 手穎押禰利《たかひおしねり》 白檀弓《しらまゆみ》 靱取負而《ゆきとりおひて》 水入《みづにいり》 火爾毛將入跡《ひにもいらむと》 立向《たちむかひ》 競時爾《きそへるときに》 吾妹子之《わぎもこが》 母爾語久《ははにかたらく》 (2660)倭文〔左△〕手纏《しづたまき》 賤吾之故《いやしわがゆゑ》 大夫之《ますらをの》 荒爭見者《あらそふみれば》 雖生《いけりとも》 應合有哉《あふべくあれや》 完串呂《しじくしろ》 黄泉爾將待跡《よみにまたむと》 隱沼乃《こもりぬの》 下延置而《したはえおきて》 打嘆《うちなげき》 妹之去者《いもがゆければ》 血沼壯士《ちぬをとこ》 其夜夢見《そのよいめにみ》 取次寸《とりつづき》 追去祁禮婆《おひゆきければ》 後有《おくれたる》 菟原壯士伊《うなひをとこい》 仰天《あめあふぎ》 叫於良妣《さけばひおらび》 ※[足+昆]地〔左△〕《つちをふみ》 牙喫建而《きかみたけびて》 如已男爾《もころをに》 負而者不有跡《まけてはあらじと》 懸佩之《かきはきの》 小釼取佩《をだちとりはき》 冬※[草冠/叙]蕷都良《ところづら》 尋去祁禮婆《とめゆきければ》 親族共《やからどち》 射歸集《いゆきつどひて》 永代爾《ながきよに》 標〔左△〕將爲跡《しるしにせむと》 遐代爾《とほきよに》 語將繼常《かたりつがむと》 處女墓《をとめづか》 中爾造置《なかにつくりおき》 壯士墓《をとこづか》 此方彼方二《こなたかなたに》 造置有《つくりおける》 故縁聞而《ゆゑよしききて》(2661) 雖不知《しらねども》 新裳之如毛《にひものことも》 哭泣鶴鴨《ねなきつるかも》     1809
 
〔釋〕 ○かたおひ 生ひ出てまだ全く整はぬ年配をいふ。かたなり〔四字傍点〕に同じい。○をはなり 「を」は美稱。「はなり」は故《ハナリ》の髪ともいふ。「はなりのかみ」を見よ(二〇二四頁)。○をはなりの 「乃」原本に爾〔右△〕とあるは必ず誤。○かみたくまでに 「たく」は「たけばぬれ」を見よ(三七〇頁)。○ならびをるいへにもみえず 近隣の家にも姿を見せず。○うつゆふの 「こもり」に係る枕詞。穀《カヂ》は木の名で、その用をいふ時には木綿《ユフ》と稱する。さてその木膚に縱線を切り入れて皮を剥ぐと、くる/\と剥げる。その丸剥げの皮は中が空虚なので、虚(内)木綿の稱がある。これを拆いて繊維として栲を製する。かく拆くが故に虚木綿の眞拆《マサキ》國、略して直※[しんにょう+乍]《マサキ》國と續け、こゝには中心の空虚が隱《コモ》れる貌なので、虚木綿の籠り〔二字傍点〕と續けた。古義に苧毛卷《ヲダマキ》の事としたのは臆説である。舊訓ソラユフ〔四字傍線〕は非。○をれば 略解訓による。舊訓マセバ〔三字傍線〕。○いぶせむときの 「の」は卷六「につつじの匂はむ時の」(一七一八頁)の時の〔二字傍点〕と同格。訓は元本神本による。舊訓はトキシ〔三字傍線〕。「いぶせむ」は「いぶせし」の動詞格。(一三七四頁)を見よ。○かきほなす 垣穗の如く繁く〔二字右○〕の意。既出(一三二六頁)。○とふとき 「誂」をトフと訓むは略解による。説文に「誂(ハ)相呼(ビ)誘(フ)也」とある。○あしびたく 蘆火燒く煤《スヽ》を、「すすし」に係けた枕詞。「蘆火」、原本に廬火〔二字右△〕とあるは誤。古義に引いた景井の説によつて改めた。○すすし 進みの意とおぼしい。「師」を誤として、スヽミ〔三字傍線〕と訓めば何でもないが、當時スヽシの語が存在してゐたかも知れない。猥に改め難い。○あひよばひ 互に求婚するをいふ。「よばひ」は呼ぶ〔二字傍点〕の延言で、互に呼び懸けて婚意を通ずる意。(2662)「結婚」の字面は不當である。訓は西本細本温本京本等による。舊訓アヒタハケ〔五字傍線〕。○せりけるときは 「爲」をセリと訓んでみた。略解に「者」を※[者/火]〔右△〕に改め、シケルトキニ〔六字傍線〕と訓み、古義もこれに從つたが、この改字は甚だ非。舊訓シケルトキハ〔六字傍線〕。○やきだちの 「燒太刀」は燒鎌〔二字傍点〕の類語で、火で鍛冶するからの名である。○たかひ 劍の柄を古言に手上《タカミ》といつた。轉じてタカヒといふ。神代紀に急(ニ)握(リ)2劍柄《タチカヒヲ》1と轉じてある。釋日本紀に引く日向風土記に、劍柄《タカミ》村を後人が高日《タカヒ》村と改めたと出てゐる。これはこの風土記の出來た奈良時代には、既に劍柄《タカミ》をタカヒといつてゐた證左である。「穎」原本に預〔右△〕とあるは誤。頴は祝詞にも千頴八百頴《チカヒヤホカヒ》と見え、禾《ノギ》付の稻の稱だから、素より借字である。眞淵は頭〔右△〕の誤としてタカミ〔三字傍線〕と訓み、古義もそれに從つた。○おしねり おし撚《ヒネ》りの意。撚りは引練《ヒキネリ》の義だから、押練りと同意。○しらまゆみゆきとりおびて 白眞弓と〔右○〕靫とを〔二字右○〕執り又〔右○〕佩びて。「執り」は弓を、「佩び」は靫を承けた。諸註「とり」を接頭語として輕く解してゐるが、こゝは語勢の短促を要する處だかち、上の如く有意の語として見るがよい。「しらまゆみ」は既出(七二二頁)。「ゆき」は既出(一〇三九頁)。なほ「おほともの名におふ靫おびて」を參照(一〇四三頁)。「檀」をマユミと訓む。○みづにいり 水にも入らむ〔二字右○〕の意。次の「火にも入らむ」とあるに讓つて、現在の中止態を用ゐた。新考訓ミヅニイラバヒニモイラムト〔ミヅ〜傍線〕は穿鑿が過ぎた。○いやしわがゆゑ 「賤し吾《ワ》」と熟する。「賤し」の終止態を吾《ワ》に連ねて合名詞としたもの。諸訓イヤシキワガユヱ〔八字傍線〕。○あらそふ 「爭」をアラソフと確に訓ませる爲に、「荒」の字を上に添へた。○あふべくあれや 逢ふべくあらむやの意。「や」は反動辭。上に「あぶりほす人もあれやも」(二四八五頁)とあると同詞態。○しじくしろ 思ふに、「しじ」はスヾの轉で、鈴釧《スヾクシロ》であらう。鈴釧は釧《クシロ》の周邊に數箇の鈴又は鈴形を鑄出した物。そのはじめ、手首にはめて舞踊の時に鳴らしたもの。今も南洋土人の踊に花輪(2663)を手首にはめて調子を取るのがある。形状が好もしいので、好《ヨミ》の意を以つて黄泉《ヨミ》にいひ懸け、又、美《ウマシ》の意を以て旨寢《ウマイ》に續けて枕詞とした。繼體天皇紀に、矢自矩矢廬于魔伊禰矢度爾《シジクシロウマイネシトニ》とある。「完」は宍〔右△〕の書寫字。「くしろつく」を見よ(一六五頁)。他説は(1)繁櫛《シヾクシ》ろ黄泉《ヨミ》の意にて、伊奘諾尊が黄泉にて五百箇爪櫛《ユツツマグシ》を投げ給ひし故事による(契沖説)。(2)繁釧好《シヾクシロヨミ》の意(眞淵説)。(3)繁酒甘美《シヾクシロヨミ》の意。クシロは藥なるべし。藥は酒のことなり(古義)。(4)啜酒美水《スヽクシロヨミ》(通釋)。(5)繁串《シヾクシ》ろ數《ヨミ》の意。串は矢なり(新考)と。○よみに 夜見の國〔二字右○〕にて〔右○〕。「よみのさかひ」を見よ(二六五〇頁)。○こもりぬの 「した」に係る枕詞。浮草の蔽うた沼水は下に隱《コモ》るが故に、隱沼の下と續けた。○したはえおきて 内緒にその意を洩して置いて。○ゆければ 逝つてしまつたので。死を逝くといつた。○とりつづき 引續きといふに同じい。「とり」は接頭語。○おひゆきければ 後を追つて死んだので。○うばらをとこい 「うばらをとこ」は「うなひをとこ」に同じい。菟原の菟日に居た男。「い」は名詞の接尾辭。「しひい」を見よ(六三九頁)。○あめあふぎ 古義訓による。舊訓「伊」を下に續けて」イアフギテ〔五字傍線〕とあるは非。○さけばひおらび 「おらび」は神代紀(下)に哭聲《オラブルコヱ》、清寧天皇紀に哀號《オラブ》、記(垂仁天皇)に叫哭《オラビ》と見え、聲を擧げて泣くこと。九州四國の方言にも殘つてゐるといふ。眞淵訓による。古義訓はサケビオラビテ〔七字傍線〕。○つちをふみ 「※[足+昆]」は漢字典にない字。新選字鏡に、※[足+昆](ハ)後《アト》也、跟(ハ)上字(ニ)同(ジ)、平踵也、久比々須《クヒヒス》とあればクビスのことである。地《ツチ》に踵をつくるは即ち踏むことだからツチヲフミと訓むか。濱臣はアシズリシ〔五字傍線〕、正辭はタチヲドリ〔五字傍線〕と訓み、「※[足+昆]」を眞淵は※[足+榻の旁]の誤としてツチヲフミ〔五字傍線〕と訓み、古義は※[足+場の旁]〔右△〕の誤としてツチニフシ〔五字傍線〕と訓んだ。誤字とすれば眞淵説が穩當だらう。「地」原本に他〔右△〕とあるは誤。○きかみ 牙齒を噛み。字鏡に、咆勃(ハ)勇猛(ノ)※[白/ハ]、和奈之《ワナシ》、又|支可牟《キカム》と見えた。○たけびて 猛く荒ぶるをいふ。雄詰を神代紀にヲタケビ、神武天皇紀に(2664)ヲタケルと訓み、記に伊都《イツ》の男建《ヲタケビ》に踏建而《フミタケビテ》、祝詞に、荒備給比建備給事無志弖《アラビタマヒタケビタマフコトナクシテ》など見えた。○もころをに おのれ(我)如き男に、同輩の男になどの意。「もころ」は既出(五一五頁)。○かきはきの 取佩く處の。「かき」は接頭語。「懸」(掛)は古へ四段に活用し、記に掛《カキ》出とある。○をだち 「小」は美稱でなく、字の如く、小さなる太刀《タチ》であらう。○ところづら こゝは「とめ」の枕詞。(1)薯蕷《トコロ》はその蔓の岐の分れて延びゆく形が物を求め行くに似たれば、とめといふか。又食料にはその冬季の芋を可とするが、落葉後の事とて、林叢の間を尋ね求むるより起れる意か。「※[草冠/叙]字、字書にない。薯蕷をジヨシヨと呼ぶ故に、同音の叙に草冠をつけた造字だらう。既出(一九三〇頁)。○とめゆきければ 後を追つて逝つたので。略解訓による。東滿、契沖及び古義の訓はタヅネユケレバ〔七字傍線〕、舊訓はツギテユケレバ〔七字傍線〕とあるが、上の「追ひゆきければ」に對へて、同じ詞態に整ふべきである。○やからどち 「やから」は家從の義。古義訓による。舊訓ヤカラドモ〔五字傍線〕。○いゆきつどひ 「い」は發語。舊訓イユキアツマリ〔七字傍線〕。○つくりおける 眞淵訓による。舊訓ツクリオケリ〔六字傍線〕は非。○にひも 新しい思ひ。「裳」は喪の借字。
【歌意】 葦屋の菟名比處女が、まだ八歳兒の片成りの時から、振分けの髪をたくし上げる頃まで、並んで住む近處の家にも婆を見られず、奥深く籠つてばかり居るので、どうぞ〔三字右○〕見たいと人達が〔三字右○〕氣を揉む時で、うるさく男達が懸想に寄つてくる時、その中でも〔五字右○〕智奴壯士と菟名比壯士とが、勢ひ込んで競爭し、互に求婚をした時に、而も〔二字右○〕太刀の柄を押撚り、弓や靫を携へて、處女の爲には〔六字右○〕水にも入らう〔二字右○〕火にも入らうと、相手取つて競爭する時に、我妹子(處女)がその〔二字右○〕母に語らふことには、「何でもない(賤しい)私故に、立派な男達が爭ふのを見ると、假令私が〔四字右○〕生きてゐたとても、どちらの男にも〔七字右○〕逢はれうことかい、いつそ死んで〔六字右○〕夜見路で意中の人を〔五字右○〕待たう」(2665)と、内意を洩らして置いて、大いに歎いて處女が死んだので、智奴壯士は丁度〔二字右○〕その晩、處女の死を〔五字右○〕夢に見て、打續いて後を追つて死んだので、殘つた菟名比壯士は、天を仰いで叫び泣き、地を踏み立てゝ牙齒を噛んで猛く荒びて、おのれ如き男に負けては居るまいと、常用の小劍を帶び、處女の後〔四字右○〕を求め尋ねてこれも〔三字右○〕死んだので、この三人の〔五字右○〕身内達が來集まつて、この事蹟を〔五字右○〕永代に知らせようと、末代に語り繼がせようとて、處女冢を眞中に築き、二人の〔三字右○〕壯士冢をその此方と彼方とに築いて置いた、いはれ話を〔二字右○〕聞いて、何も〔二字右○〕見知りはせぬけれども、それが只今の新しい喪であるかのやうに、聲を擧げて泣いたことであるよ。
 
〔評〕 菟名比處女は「八歳兒の片生の時ゆ――髪たくまでに」、近處にも姿を見せぬ程の秘藏娘だ。かく年齡を提擧して佳人の生立を描くは、魏晉以降の※[盍+色]體の詩にはよく見る筆法である。處女は素より、眞間の手古奈のやうに、跣足で共同井戸に水汲に出る階級の女ではなかつた。けれども幾ら伏せても光は洩れる。懸想の若者達が自然門前に市を成すのは、古代の極まり切つた現象だ。竹取物語に
  世界のをのこ、あてなるも賤しきも、いかでこの赫※[亦/火]姫を得てしがな、見てしがなと、音に聞きめでて惑ふ。そのあたりの垣にも家の外にも、をる人だにたは易く見るまじきものを、よるは安き寢もねず、闇の夜に出でても、穴をくじり此處かしこ覗きかい間見、惑ひあへり。
と見え、果は五人の貴紳が盛に競爭した事が、面白をかしく書かれてゐる。處女には果して二人の激しい熱愛者が出現した。一人は同里の菟名比男、今一人は他國者の智奴男で、互に「すすしきほひ相よばひ」であつた。貴紳達の物柔かな懸想と違ひ、田舍氣質の一本氣、段々睨み合ひが激甚となつて來ては、仕事が荒い。衝(2666)突また衝突、互に太刀の柄に手を懸けたり、弓や靫を背負つて來たりして角目立ち、「火にも水にも」と命懸けの戀爭であつた。
 恐ろしい事だ。かう双方が逆上しての刃物三昧となつては、何方へ靡いてもたゞは濟まない。飛沫は何處にくるかわからぬ。勿論當の相手のみか、處女自身もあぶない。延いてはその父母の上さへ覺束ない。處女は板挾みの苦痛と恐怖との頂點に達した。ごく簡單なこの解決法としては、焦點たる自身をこの世から抹殺するより外はない。
 かう兩親の迷惑を想像する理由は、歌に「吾妹子が母に語らく」、家持追和の作に「父母に申し別れて」などあるを思ひ合せてである。死の決意を母に打明け兩親に暇乞するのに、慈愛の權化たるべき兩親が、承知で死なせてしまつた。暗黙の裏にその合意が認められるやうだ。
 處女は困惑の餘り、死に對して勇敢であつたが、それだけ餘計に情にも脆かつた筈で、彼れの小さな胸を密に焦がした意中の人は、智奴男であつたのだ。この反歌に
  墓のへの木《コ》の枝靡けり聞きしごとちぬ壯士にし依りにけらしも
と見え、その母親に心底を「下延へ置い」た中にも、恐らくその邊の事情は告白されてゐたことだらう。さればこそ彼れの亡魂は、その夜のうちに懷かしの智奴男の夢枕に立つたのだ。
 嗚呼、處女はその身を犠牲にして、敬愛する父母の爲と、心愛する智奴男の爲とに殉じた。そこに後人をして哀憐措く能はざらしめる、尊い献身的精神を見る。
 抑も處女が何れにも靡きかねて、却つて二人の抗爭を高めたのにも、深い理由が潜在してゐると思ふ。菟名(2667)比男はおなじ里人だが、智奴男は和泉の他國人だ。結婚に就いて他國他郷の人を排斥する習慣は、地方に依つては、現今でも相應に強く根張つてゐる。況や古代では尚更であつたらう。大和物語に出てゐる處女塚の話は、勿論後人の歪曲や誇張が加へられてあるものゝ、その冢造の一節が、こゝの心理を如實に暴露してゐる。    時に津の國の男(菟名比男)の親のいふやう、「同國の男をこそ同處にはせめ、別《コト》國の人の、いかでこの國の土をば犯すべき」といひ妨ぐる。時に和泉國の親(智奴男の)、和泉國の土を舟にて運びて、此處に持ち來てなむ、終に埋みてける。
こんな譯で、里人は土地の名代娘を他國人の智奴男に遣つてはと、皆が菟名比男の後援者だ。然るに處女の眞意は智奴男にあるのでは、圓い穴に角な栓をするやうなもので、始末が付かない。この一點だけでも、處女は躊躇逡巡してゐるうちに、騷ぎは大袈裟になつて來たらしい。
 智奴男の「取續き追ひゆきければ」は當然で、始から處女との情意の投合があり、「その夜夢に見」てさへあるので、自分故の死と思へば、一人死なせては義理が立たない、二世の契を目ざして決然と後を追つた。
 立ち後れた菟名比男の憤懣激昂の態度や行動を叙したあたりは、實に出色の文字である。滿身これ嫉妬の權化、惡魔の化身で、天地に俯仰して怒號し、牙齒を剥いて躍りあがつて悔しがる、高天が原か極樂かは知らぬが、かの二人をして自由には樂しませぬ、「もころ男に負けてはあらじ」と、出會ひ次第刺し違への覺悟で、小刀を手挾んで、又しても後を追つた。金剛夜叉か藏王權現が荒れ出したやうな容體、その背後から極度の嫉妬に逆上した心火が炎々と投影されて、描寫深刻を極め、鬼氣人に薄る。物凄しとも亦恐ろしい。その節短く音促つた短語の重疊、この際最も有效な險奇的表現である。
(2668)「妹がゆければ」「追ひゆきければ」「とめゆきければ」は何れも死の暗示で、死の方法は明示してない。がこれは菟名比の海即ち葦屋の灘に投身したのだ。家持の追和の歌に「家離り海邊に出で立ち、朝よひに満ちくる潮の、八重浪に靡く玉藻の、節の間も惜しき命を、露霜の過ぎましにけれ」とあるのが、これを證する。
 以上が昔津の國の片田舍菟名比の里に起つた悲劇物語の全部である。
 末章は三人冢成立の因縁に入り、この出來事に刺戟された里人達が、永久の記念たるべく冢造りをしたとの説明、そこに作者は自己の感想を附加して、一轉化、「故よし聞きて、新喪の如も音泣きつるかも」と簡單に響を收めた。結收にかく作者の感想を置くことは、爲焦中卿妻作の長篇を始め、支那の叙事詩にその例が多い。
 眞間の手古奈、末の珠名はおの/\その本名が傳へられた。この處女のみは、か程の悲劇の主人公、薄命佳人の標本でありながら、只生地の稱を冠するのみで、本名の傳はらぬのは頗る遺憾である。
 この篇本集の叙事歌中の大作で、その規模は壯大に、叙筆は縦横にして而も精細、措辭また老健で豪宕で、上の同題の作は勿論、眞間娘子の作をも一層凌駕した名什である。なほ卷十九の家持の追和の作を、參照の爲こゝに附記しておく。
  いにしへありけるわざの、奇《クス》はしき事といひ繼ぐ、知努をとこ、宇奈比をとこの、現つせみの名を爭ふと、玉きはる命も棄てゝ、爭ひに嬬問しける、※[女+感]嬬《ヲトメ》らが聞けば悲しき、春花の匂ひ榮えて、秋の葉の匂に照れる、あたら身の盛りをすらに、ますらをの言《コト》いとほしみ、父母に啓《マヲ》し別れて、家|離《サカ》り海邊《ウナビ》に出で立ち、朝よひに滿ちくる潮の、八重浪に靡く玉藻の、節《フシ》の間も惜しき命を、露霜の過ぎましにけれ、奥津城をこゝと定めて、後の世の聞き繼ぐ人も、彌遠にしぬびにせよと、黄楊の小櫛しがさしけらし、生ひて靡けり。
(2669)  をとめ等が後のしるしと黄楊小櫛生ひかはり生ひて靡きけらしも(卷十九、家持―4211)
 
反歌
 
葦屋之《あしのやの》 宇奈比處女之《うなひをとめの》 奥槨乎《おくつきを》 往來跡見者《ゆきくとみれば》 哭耳之所泣《ねのみしなかゆ》     1810
 
〔釋〕 ○なかゆ 眞淵訓による。舊訓ナカル〔三字傍線〕。
【歌意】 葦屋の菟名比處女の冢處を、往きに返りにと見ると、聲を立てゝさ、泣かれるわ。
 
〔評〕 往來に見る毎に泣かれるとは、その悲しみの何時までも盡きぬをいふ同情である。馴れゝば感度の薄くなる人情を基調としての作。
 
墓上之《つかのへの》 木枝靡有《このえなびけり》 如聞《きくがごと》 陳努壯士爾之《ちぬをとこにし》 依倍〔左△〕家良信母《よらへけらしも》     1811
 
〔釋〕 ○きくがごと 舊訓による。古義訓はキヽシゴト〔五字傍線〕であるが、長歌に「故よし聞きて」とあるから、現在格がよい。○よらへ 「よらへ」は依り〔二字傍点〕の延言。古義は「倍」を仁〔右△〕の誤として、ヨリニケラシモ〔七字傍線〕と訓んだ。
【歌意】 冢の上の木の枝が、智奴男の墓の方へと靡いてゐる。成程〔二字右○〕話のやうに、智奴男に菟名比處女は、心を寄せてゐたらしいわい。
 
(2670)〔評〕 處女塚は現今は老松が林立してゐるが、當時黄楊の木があつて、その枝が東にある智奴男の冢の方へさしてゐたのであつた。本文は只「木の枝」とのみあるが、家持の追和の歌によれば、それは黄楊の木で、處女が記念の爲にその黄楊の小櫛を土に刺した處が、根をおろして樹となりて繁茂したとある。土に刺した杖が樹になつた話はよくあり、それさへ奇蹟として語られるが、製造した櫛が樹となるのは奇蹟中の奇蹟といはねばならぬ。これだけの悲劇にこの位の奇蹟はあつてもよささうな事で、しかもその枝が意中の人智奴男の墓をさして靡くに至つては、愈よ話は怪奇である。高崎の駿河大納言の墓の松が江戸の方へは枝が刺さないなどいふ話もあるが。
 冢は後から築いたのだから、處女のはじめ櫛を刺した場處は、その宅地内であらう。或はその投身の場處か。いやそんな穿鑿は不用だ。もと/\こんな話は同情の芽から出た枝葉の繁りに過ぎない。
 
右、五首、高橋(ノ)連蟲麻呂之歌集中(ニ)出(ヅ)。
 
〔語釋索引、評文索引は省略。〕
 
萬葉集評釋(第四冊)、拾四圓五拾錢
金子元臣著、明治書院、1945年1月10日初版発行
 
 2007年11月10日(土)午前9時55分、入力終了
 2008年12月28日(日)午後1時52分、校正終了