御進講録、狩野直喜、みすず書房、199頁、2500円、1984.6.28(05.1.7新装版)
 
尚書堯典首節講義
古昔支那に於ける儒学の政治に關する理想
我國に於ける儒學の變遷
儒學の政治原理
 
(1) 尚書堯典首節講義
 
(2) 大正十三年一月御講書始
 
(3) 今年新春の
御講書始に、臣直喜淺學菲才の身を以ちまして、漢書進講の
大命を拜し、誠に恐懼感激に任へませぬ次第で御座ります。さて臣が今日謹みて進講し奉りまするは、尚書堯典の起首の第一節、及び第二節で御座ります。堯典は漢土聖人の第一位に置かれて居りまする堯帝の盛徳大業を、後に夏の史官が記録致しましたるもので、其の中には舜帝の事も出て参ります。昔より漢土の經籍中でも、尚書は唐虞三代の聖王が天下を治められましたる事蹟、又たは當時君臣が政道につき互ひに相|誥《ツゲ》誡めましたる言葉の記録で御座りまして、漢土に於きましては、昔より帝王の學問に極めて大切なものとなりて居りましたので御座ります。殊にこの堯典は、大唐其の中でも尊重されましたるもので御座りまして、已に周の時代に、王室の種種の寶物を陳列致しましたる殊が御座りますが、其の時にも評典は寶物と致してあつたと申す事で御座ります。右樣なる次第で御座りまする故、古より堯舜の事を記録仕りましたる此の篇をば、堯典と申します。何故に典と名づけましたか(4)と申しまするに、典字の形、本來は上は※[縦棒五本に横棒二本]、册即ち物の本で御座りまして、下は兀、即ち几で御座ります。即ち册を尊重し、恭しく几の上へ載せましたる形が、此の典字で御座ります。又た意味の上より申し上げますれば、典字には常・經・法などの意味が御座ります。即ち堯が天下を治められましたる事蹟の此の記録は、萬世帝王の則るべきもので、其の道は古今中外を通じて、變りが御座りませぬと申す譯合より、堯典と名づけましたるもので、典字を加へましたるは孔子以前の事で御座りまする。先づ第一節の本文を讀み上げますれば、下の通りで御座ります。
 
  曰若(ニ)稽(フルニ)v古(ヲ)。帝堯(ヲ)曰(ヘリ)2放勲(ト)1。欽明文思(ニシテ)安安(タリ)。允(トニ)恭(シク)克(ク)讓(リ)。光2被(シ)四表(ニ)1。格(ル)2于上下(ニ)1。
 
 先づ本文の意味を申し上げますれば、「曰若」は「こゝに」と申す發語の辭で御座ります。一體、堯典は其の當時堯の徳業を仰ぎましたるものが、後へ語り傳へましたるもの、又は之れを記録致しましたるものも御座りましたる事で、夏の時代と相成り、其の史官が此れ等のものを材料と致し、又た幾分か潤色を加へまして、出來上りましたるものが、この堯典で御座ります。そこで史官より申しますれば、堯帝は古の人で御座りまする故、「曰若(ニ)稽(フルニ)v古(ヲ)」の四字を文の首に置きましたもので御座ります。「帝堯(ヲ)曰(ヘリ)2放勲(ト)1」と申しまする儀は、堯とは原來名で御座りまして、又た其の外に放勲と申しまする一種の稱號の如きものを有つて居られましたので御座ります。此れは勿論堯が自ら制せられましたものでは御座りませぬ。其の臣民等が、堯の盛徳大業を歎美致しまして、かゝる言葉を以て、堯(5)帝をよぴ、其の徳業を稱《タヽ》へたるもので御座ります。放は大と申す義にて、廣大無邊と申すやうな意味合で御座ります。又た勲は「イサヲシ」で御座りまして、堯以前にも隨分立派なる帝王が居られましたので御座りますが、堯は之れに立優り、其の功《イサヲシ》を申せば限りなく大きく、到底何とも言葉を以て形容致します事が出來ませぬ。其の意味より致して、放勲の號を上りましたる譯合で御座ります。それを以ちまして、此の文初めに帝堯と其の名を申し、次に稱號を擧げて、「曰(ヘリ)2放勲(ト)1」と申しました譯で御座ります。「欽明文思」は堯の盛徳の内より、特に四つ丈を擇び取り、其の人柄を寫出しましたるもので御座ります。欽は「つゝしむ」と申す義で御座ります。堯は上、天命を承け、祖宗の位を紹ぎ、下、萬民を治められる御身で、其の責任譬へ方なく重大なるもので御座りまして、一人の小なる失誤より致しても、國家人民の上に非常なる結果を生ずる事が御座ります。其の故に堯の心常に懍《リン》と引締り、毫しも油斷が御座りませず、何如《ドウ》にか致して、この大責任を遂げたく、正直一途に心を持ち居られまする事にて、此の心の有樣を欽〔右○〕の一字を以て形容致して御座ります。明〔右○〕と申しまするは、堯の心公平にして私なき故、少しの曇が御座りませぬ。即ち朝廷百官の賢否正邪より、下萬民の實情を遺りなく知られまする事、恰も日月の隅より隅までを照らすやうに御座ります。此の堯の妙《タヘ》なる心の有樣を形容して明と申すので御座ります。文とは、文理・條理などゝ申しまして、事物につき、「スヂメ」の立派に立ちまする義で御座ります。凡そ世の中が蒙昧にして未だ開けませぬ原始時代にありましては、物事が極めて簡單で、一條《ヒトスヂ》のもので御座りますれども、世の中開けて參りますれば、「スヂ(6)メ」が多くなります。左樣致しまして、此の數多の條目が恰も經の縦絲と、緯の横絲と組合ひて、綺麗な綾錦を織出しまするやうに、澤山の複雜なる事物の「スヂメ」が、美い具合にからみ合ひまして、燦然たる文物を生じまする。漢土に於きましては此れを又た禮樂と申します。或時代の文明は、その禮樂によりて、判斷致す事で御座ります。抑々この禮樂と申しまするものは、漢土に於きましては、帝王の制作されたるもの、委しく申上げますれば、帝王の徳が外面の有形なる事物に表はれましたものと、見るので御座ります。堯のときはこの禮樂文物が立派に出來上りましたが、それは全く堯が自ら文徳を其の心に備へて居られましたからの事で御座ります。其の故に、文を四徳の内へ數へましたるもので御座ります。次に思と申しまするは、思慮廣遠に致して、同時に物事の見|定《サダメ》が敏《サト》き義で御座ります。即ち其の政治をなされる上に就きまして、一時の小利に迷はず、一時の功名心などに驅られず、國家の大局、百年の長計を慮り、此の事はかく欲せば、かゝる結果を生ずると申しまする事を、敏《サト》く知られまする其の心の働を、思と名づけましたるもので御座ります。堯が此の四徳を有たれましたる事が、其れ以前の帝王に優られたる所以で御座りますが、猶ほ其の上に「安安」と申す事が御座ります。安安は四徳が事物に應じて働きまする状態を形容致したる言葉で御座ります。凡そ漢土にて聖人と申しまするものゝ中にも、學問修養の功によりて、斯の域に進みましたるものと、天性《ウマレツキ》本心の徳を完く備へましたる、一段と高き聖人と、かくの如き區別を立てまするが、孟子に「堯舜性(ノマヽニスル)者也」と御座りまする通り、堯は天性にこの四徳を心に得て居られましたる故、其の働が自然にすら(7)すらと參り、作爲努力の痕迹を見ませぬ。恰も天地の間に、四時晝夜の變化が自然に行はれまする通り、強いて無理にかく致したいと思ひませいで、其の働が何の苦もなく、完全圓滿に、又た何時でも同樣で、出來不出來等の事が御座りませぬ。其の態度を形容致して、安安と申します。其の次の「允恭克讓」を申し上げますれば、恭は倨傲の反對でござりまして、身九五の尊に居り、天下に君臨されまする高貴な方で御座りまするからと申して、決して人を侮ると申すやうな事が御座りませぬ。自然に威光備はり、動容周旋一つとして禮に中らぬ事が御座りませぬ。これを恭と申します。讓と申しまするは、堯は廣大無邊の功を立てた方で御座りましても、毫も自ら滿足されたる氣色御座りませず、己れを虚しくして、賢を容れ、善を奨められまする寛洪のさまを讓と申しまする。左樣致しましてこの恭と讓とは、共に堯の中心の誠より發しましたるもので、何等の修飾、乃ち人前を飾りますると申すやうな義が御座りませぬ故に、恭の上に允を加へ、允恭と申し、讓の上に克を加へ、克讓と申しましたる次第で御座ります。かゝる盛徳を具へられましたる故、其の及ぶ所、横には廣く四海の外まで充滿致し、縦には天地の間に行渡らぬ所が御座りませぬやうに、其の徳化を受けましたる事を美めて「光2被(シ)四表(ニ)1。格(ル)2于上下(ニ)1。」と申すので御座ります。次に第二節を讀み上げますれば、
 
 克(ク)明(ラカニシテ)2俊徳(ヲ)1。以(テ)親(ム)2九族(ヲ)1。九族既(ク)陸(クシテ)。平2章(ス)百姓(ヲ)1。百姓昭明(ニシテ)。協2和(ス)萬邦(ヲ)1。黎民|於《アヽ》變(リ)時(レ)雍(ゲリ)。
 
 此れは前に申し上げましたる堯の四徳が事業に著はれましたる徑路を述べましたるものにて御座り(8)ます。俊は大の義で御座りまして、俊徳とは大徳、即ち上の四徳で、堯が天下を治められましたる帝王の大徳で御座りまする故、これを俊徳と申します。堯は天性立派な聖王で御座りまするが、猶ほ其の上にも磨をかけまして、其の徳が益々光に輝くやうに相成り、此れを以て事業に施されましたるもので、之れを「克明2俊徳1」と申します。さて堯が其の俊徳を以て第一に何如なる事を致されましたかと申しまするに、それは「親2九族1」と申す事で御座ります。凡そ九族と申しまするは、己れの身より上《ウヘ》に父・祖・曾祖・高祖と數へ、下《シタ》に子、孫、曾孫、玄孫と數へ、それに己れの身を加へますれば、九となります。この九等の人、及び其れより出でましたる子孫等を合せて、之れを九族と申しまするので、結局堯の一家一族の人達で御座ります。唯委しく申上げますれば、堯は帝王の身で其の本家となり、旁系の人は支家で御座りますれども、實は同一の祖先より出でましたる一家一族で御座ります。そこで堯の徳は先づ手近き一家族内の人に及び、其の間に仁慈の徳化を施こされたる事を申すので御座ります。左樣に御座ります故に、九族の人人、盡く其の徳化を受け、堯と九族、又た九族相互の間に於きましても、温き情合を以て相親み、不和確執等のこと、全く御座りませぬ事を、「九族 既《〔コトゴト〕》(ク)陸」と申します。「既ニ」と訓ずることもあつた。次には「平2章百姓1」と申す事が御座ります。百姓とは、堯の朝廷に事へまする百官有司の事で御座ります。古昔は漢土に於きましても、姓は其の臣下のものへ、朝廷より特に下し賜はりましたるもので御座りまして、庶民には御座りませぬ故、多くの場合、朝廷に仕へ職事あるものを百姓と申します。平章は先儒色色と説をなして居りまするが、平は古音に(9)て辨別などゝ申しまする場合の辨〔傍線〕に近く、古は平辨〔二字傍線〕の二字互ひに通用致したるもので御座りまして、平章百姓とは、つまり百官の區別を明に致す事で御座ります。區別と申しまする事は、凡そ人を用うるに、君子を進め、小人を退けまする事これも區別で御座りますれど、猶ほ其の外にも區別が御座ります。それは何であるかと申しまするに、同じく君子に致しましても、其の材能に各々長短が御座りまする。そこで堯は一一其の材能を察して、適材を適所に置きましたる事、此れが平章の一《ヒトツ》で御座ります。又た右の如く、百官が其の職につきました以上は、各々其の職を守り、他の職に手出しを致しませぬやうに氣をつけます。例へば文官が妄りに武官の職務に立入り、武官が文官の職務に立入り、奥向に仕へまする人の職務と、表向に仕へ、政治を料理致しまする人の職務とが、互ひに混雜致しませぬやう、總べて百官の職務に明らかなる、「ケヂメ」を立てまする事、是れも亦平章百姓の事で御座ります。かく其の區別が明白になりますれば、政道正しく行はれ、國が自然に治まりまする譯合で御座ります。さて堯は此くの如く百姓を平章致しましたる結果、其の御膝元の畿内の地が能く治まりましたる所より致して、それから「協和萬邦」と申す事になりました。萬邦と申しまするは、當時畿内の外に、澤山の諸侯の國が御座りましたが、堯の徳化又た普ねく之れに及び、皆歸服して敢て離畔致しませず、又た萬邦相互の間も、親密に交際致しまして、干戈を起して相戰ひまするやうな、不祥事が全くなく、四海の内、皆風枝を鳴らしませぬ太平の恩澤に浴しましたる事を、「協和萬邦」と申します。「黎民|於《アヽ》變(リ)時(レ)雍(ゲリ)」と申しまするは、黎は衆と申す義で、黎民とは、衆庶庶民の事で御座ります。(10)即ち畿内の民は申すまでも御座りませぬ。萬邦の民、即ち天下の民草を總稱致しましたる言葉で御座ります。變りの變の字は、かく數多き庶民の事で御座りますれば、其の中には惡き習慣に染み、人倫の道に暗く、國法にも背きまする不心得のものが少なく御座りませぬ處、今堯の徳化を被り、恰も氷が旭日の光に※[さんずい+半]けまするやう、がらりと變り、從來の惡しきものも、其の魂を入換へまして、全く別人の如く相成りましたるさま、之れを徒《イタヅ》らに法律刑罰の力を以て外形丈を束縛して、惡を爲さしめませぬものと比較致しますれば、霄壤の差が御座りまする。かく堯の徳化が何とも誠に美事に御座りましたる故、於《アヽ》の一字を加へて、之れを嘆美致したるもので御座ります。又た此くの如く庶民が舊來の惡習を去り、人倫の道を心得まするやうになりました故、子を慈《イツクツミ》ませぬ父、親を勞りませぬ子、互ひに反目を致しまする夫婦等がなくなり、庶民其の業に安んじ、皆親しみ和らぎ合ひましたる事を時(レ)雍(ゲリ)と申します。孟子に「人人親2其親1長2二其長1而天下平」と御座りまするが、人人人倫の道を心得まして、天下治りませぬ道理は御座りませぬ。又た大學にも明徳と新民と申す事を述べて御座りまするが、堯は其の明徳を明に致しまして、之れを以て新民の事業を成し遂げられましたので御座ります。
 さて前に申上げましたる通り、堯典|起首《ハジメ》の文は、其の盛徳大業を包括して、敍述したるもので御座ります。孔子が六經を制定し、整理をつけましたる節、古代帝王の事蹟を記録致したるもの猶ほ數多く御座りましたが、未だ此の堯典に及ぶものは御座りませぬ故、此れ等を盡く取去り、堯典を尚書の第一に置きまして御座ります。又た屡々堯の徳を歎美致しまして「大哉堯之爲v君也。巍巍乎。唯天(11)爲v大。唯堯則v之。蕩蕩乎。民無2能名1焉。巍巍乎。其有2成功1也。煥乎其有2文章1也。」(論語泰伯)などと申し、堯の君たる其の盛徳大業は、唯天に比較すべきものにて、他の何物を以ても之れに喩ふべきものは無v之と申されて居ります。かゝる譯合で御座りますれば、漢土に於きまして、堯帝と舜帝とは、後世帝王の軌範準則と相成りまして、後世の人君は堯舜の君となられる事を理想として、君徳を磨き、政道を励むべきもの、人民は堯舜の民たる事を理想として孝悌を盡くし、生業を勤むべきもの、又た其の間に立ちまする百官有司は、上は其の君を堯舜に致し、下は其の民を堯舜の民たらしむる事を本分と心得て、御奉公致すべきものと成つて居ましたもので御座ります。孟子の言葉に、「欲爲君盡君道。欲爲臣盡臣道。二者皆法堯舜而已矣。」とはこの事で御座りまする。
 それで漢土の歴史を考へ、治亂興亡の跡を覽まするに、君臣共に此の心懸注意がありまするときは、國運隆にして世治まりまするが、堯舜などは及ぶべからざるものと相考へ申しまする具合に、君臣互ひに怠りて勉めませぬときは、國衰へ世亂れまする事、響の物に應ずるが如き次第で御座ります。また謹みて御國の史乘を相稽へましても、列聖の下し賜はりましたる御詔勅の中にも、堯舜の名を擧げて、御諭しになりましたる文句を拜誦致します。又た臣下より
上の徳を頌し奉りまするにも、恐れながら堯舜に比べまつりし例は、餘程古き時代に見えて居りまする。かの淡海御船が編纂致しましたと申しまする懷風藻の序に、
(12)天智天皇の御徳を頌へましたる言葉の中に、「道格2乾坤1。功|光《ミテリ》2宇宙(ニ)1。」と申しまする句が御座りますが、此れは疑もなく、堯典の「光2被四表1。格2于上下1。」をもぢりて使用致しましたるもので、暗に我君を堯に喩へ奉つたもので御座ります。
 さて堯典はかくの如く、帝王の大道を述べたるもので御座りまする故、其の敍述の順序が、初めに堯の徳を擧げ、それから其の徳が家の上に行はれ、次に國、それより天下と申しまする具合に、堯徳が感化を及ぼしたる範圍が廣くなり行まする状《サマ》を述べて居ります。是れは全く大學の書に、格物致知誠意正心修身と、一人の徳を磨き、身を修めまする道を教へ、それより齊家、治國、平天下、と己の徳が物に及びまする順次を立てゝ居りまするのと、全く同一で御座ります。左樣で御座りまして、此の中に何物が尤も大切であるかと申しますれば、格物より修身までが根本基礎で御座りまして、大學に「自2天子1以至2於庶人1。壹(ヲ)是皆以v修v身爲v本。」とありまするのも、又た孔子が政を論じまして、「君子之徳(ハ)風。小人之徳(ハ)草。車上2之風1必偃。」(論語顔淵)と申しましたるのも、全く同じ意味合かと相考へます。されば謹みて堯典の此の本文を案じまするに、「黎民|於《アヽ》變(リ)時(レ)雍(ゲリ)」の化は、「協和萬邦」の結果で御座りまして、「協和萬邦」は又た堯の朝廷人を得、畿内能く治まりましたるの結果、又たそれは九族盡く睦まじくなりましたる結果、又たそれを一層煎じつめますれば、堯帝の大徳が外に働を致しましたるものに過ぎませぬ。外國の歴史を相考へまするに、雄才大略の君主が、宇内を席卷し、世界を征服せむ事を企てまして、或程度まで之れを實行致したるものも御座りまするが、總べて程な(13)く失敗致し、多くの人命と貸財を費やして、得る所更に御座りませぬのみか、遂に社稷を危く致しましたる例が、澤山御座ります。此れは全く帝王の大徳〔四字傍点〕と申す根本が御座りませずして、唯|力〔右○〕を以て無理に萬邦を歸服させようと致しまする所から、「黎民|於《アヽ》變(リ)時(レ)雍(ゲリ)」と申すやうな譯に參らぬものと相考へます。比較を仕りまする事は、誠に恐多い義に御座りますれども、恭しく先帝より下し腸はりましたる、教育の御勅語を捧讀仕りますれば、其の中に臣民の宜しく遵守すべき箇條を
御示遊ばされましたる所、堯舜孔孟が人の臣たり、人の子たる道を教へましたるものと、其の揆を一に致すかと存じ上げます。左樣御座りまして其の最後に至り、
「朕爾臣民ト倶ニ拳拳服庸シテ咸其徳〔二字右△〕ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ」との有難き御言葉が御座ります。恐れながら、聖意の在る所を恭繹し奉りますれば、上御一人の大徳を以て、臣民の先に
御立被遊て、之れを御指導御感化遊ばされまする大御心が窺はるゝ次第で御座りまして、即ち堯典に於きまして、「黎民|於《アヽ》變(リ)時(レ)雍(ゲリ)」の化を以て、堯の俊徳に歸して居りまするのと、全く同一の義かと心得まする次第で御座ります。かゝる芽出度譯合の文で御座りまする故、謹みて之れを進講し奉り、
(14)御講書始の御祝を申上ぐる次第で御座ります。
  大正十三年正月
       從四位・動三等・京都帝國大學教授文寧博士臣狩野直喜
 
 
   古昔支那に於ける儒学の政治に關する理想
 
 昭和二年九月二日、十月三日進講
 
(17) 臣直喜淺學の身を持ちまして、此の次
御前に召出され、進講を仰付けられましたる事は、誠に恐懼に任へませぬ次第で御座ります。臣が爰に謹みて進講仕りまするは、古昔支那に於きまして、政治とは何如、政治の目的は何如と申しまする事に就き、儒學の方で何加に相考へましたるか、其の政治の理想を申上げまする心得で御座ります。さて唯今申上げましたる儒學は、古より支那に於きまして儒者が相傳へましたる學間で御座りまするが、其の教を創めましたのは孔子で御座ります。併し孔子も「述而不v作。信而好v古。」と申しましたる通り、新たなる一の學説、若しくは學波を立てましたるものでは御座りませぬ。其の以前に堯・舜・禹・湯・文・武・周公など申しまする聖人が居りました。此の内周公は、文王の子、武王の弟で御座りましたれども、人臣で御座りますが、他の六人は聖人の徳を具へ、又た帝王の位に居られましたる方で御座ります。それで此れ等の帝王の下されましたる詔勅、或は臣民に與へましたる訓誡、又たは此れ等の帝王のなされましたる政治、當時の賢臣共が之れを輔弼翼賛仕りました事蹟の記録と、(18)其の他當時の文物制度禮義作法及詩歌等の文學が孔子の時まで澤山傳はりて居りましたるを、孔子が自ら整理仕りまして、之れを其の教の經典と定めましたが、其れが六の種類に分れて居ましたる故、之れを六經とも申し、又た其の中の樂經を除きまして五經〔二字右○〕とも申しまする。孔子の教、即ち儒學で倡へまする政治や道徳の思想は、全くこの五經が根柢と相成り、また孔子自身の考へも加はつて居りまする。現《タヾ》今は種種學問が開けましたる事に相成りまして、支那古代の歴史の研究も進みまして、或は堯舜以下の聖人の事蹟は從來傳へられたる通りでは御座りませぬやうに申し、堯舜などの存在さへも否定仕るものが御座りまするが、臣が今日進講仕りまするは、歴史の事では御座りませぬ。唯孔子は何事も堯舜文武を立てゝ此れを手本と致し、又た孔子以前に堯舜以下の事を記しましたるものが御座りましたるものを取りまして、其の教の經典と致しましたる事丈を申上げます。孔子の教、或は儒學に於いて倡へまする道徳政治の理想は、右の如く致しまして五經に出て居りまする。又た論語・孟子及び其の他の儒書にも散見仕りまする故、此れ等のものより「政治の理想若しくは政治の理論」に關しまする部分を摘出し、一括して申上げまする心得で御座ります。
 
       一 天の思想
 
 尤も此の儒學は元來支那に起りましたるもので御座りますが、宗教と同じ樣に、其の國に於きまし(19)ても段段變つて參ります。又た同時にそれが他國に傳はりましても、其の國體國民性が御座りまする故、之れに順應致し、特殊の發展を致します。其の點より見ますれば、同じく儒學と申しましても、支那に傳はりて今日に及びましたるものと、我國〔二字傍点〕に傳はりまして、特殊の發展を致しましたるものとは、同じく儒學と申しましても、大に其の趣が違ひます、臣が今日申上げまするは、支那の儒學に於きまする政治の理想で御座ります。
 第一に申上げまするは、此の政治を遊ばさるゝ帝王で御座りまするが、此れに就き古昔の支那民族が何加に相考へましたるかを申上げようと存じます。それには、漢民族が深く崇拜仕りましたる上帝〔二字右○〕、或は上天〔二字右○〕、或は天〔右○〕と申しまするものと、密接の關係が御座りまする故、この事から申上げます。
 支那に於きまして、何時からか分りませぬ、先づ文獻が御座りまする時代から、上帝〔二字傍点〕、上天〔二字右○〕、天〔右△〕と申しまするものを尊び、此れを萬物の祖、萬事の本〔八字傍点〕と考へて居りました。例を以て申上げますれば、爰に人類〔二字右○〕及び動植物が御座ります。「人類」に就いて申しますれば、それ/”\「祖先〔二字右○〕」と申すものが御座りまして、之れを祭祀仕ります。支那に於きましても、此の祖先の祭祀と申しまする事は、上下を通じまして、中中矢釜敷事になつて居りましたが、其の祖先から又た尚上に溯りまして、人類〔二字右○〕及び萬物〔二字右○〕の出ましたる本がなくてはなりませぬ。此れを上帝〔二字傍点〕とか上天、天〔三字傍点〕と申しましたるもので御座ります。又た人間に限りまして、道義心、即ち善を善とし、惡を惡みまする心を、固有して居ります、尤も道義と申しまするものは、國により時代により、其の形式は違ひまするやも計られませぬ。或時代、(20)或國に最も貴まれましたる道徳が、他の時代、他の國には、左程尊まれませぬと申す事は御座りますると致しましても、道義心其の物は、人間共通と致しましたるもので、此れは元來人間には御座りませぬものを、便宜の爲め人が約束を致して製らへましたものでは御座りませぬ。已に人〔右△〕で御座りまする以上は、必ず多少なりとも生れながら之れを有つて居りまする。即ち孟子などが申しまする、良能良知〔四字右△〕で御座りまして、人が經驗學習によりまして得たるものでは御座りませぬ。初めからかゝるものを具備仕るやうに出來て居ります。
 然らばかゝるものが何如《ドウ》致して人間に御座りますかと申せば、之れを以て天に歸し、天がかゝるものを人に植ゑつけましたるものと致しまする。妄りに經書の文句を引用仕りまして、恐入る次第で御座りまするが、即ち中庸にも「天命之謂v性〔五字右△〕」と申す本文が御座ります。命は命令と連接して用ゐまする言葉で御座ります。恰も君上の御命令に、臣下は絶對服從して、之れに違背仕りまする事が出來ませぬ。此れと同樣に、人間として生れまするとき、誰れもこの道義心を有つて居りまする。此れは人が必然的にかくの如く初めから作られましたるものにて、之れを遁れようと致しても出來ませぬ。恰も天の命令の如きもので御座りまする故、「天命之謂v性」と申しましたるもので御座ります。
 さて天は、此くの如く萬物を生じ、人類を生じ、又た人類には特に道義心を初めに致し、種種精神上の有がたきものを植ゑつけて居りまするが、儒學の考へ方より致しますれば、天は之れを植ゑつけまする事丈致しまして、それより以上には世話を致しませぬ。それで御座りまするから、折角人類に(21)道義心其の他の精神上の能力を植ゑつけて置きましても、之れに教育〔二字傍点〕を施こし、之れを培養〔二字傍点〕仕り、固有致しま〔五字傍点〕したる立派なる精神的の能力を發達させず、放任致して置きますれば、或は萎ひ或は朽ちて仕舞ひます。又た天は人類萬物を生じまして、此れが生存發育致しまする力を與へて居りまするが、其れを持つて居りましても、其の生存發青の世話を致しませいで、其の儘放任仕りましたならば、忽ちに滅びて仕舞ひまする。即ち人には精神的生活〔五字傍点〕と物質的生活〔五字傍点〕の二方面が御座りまして、兩者均しく大切で御座りまするが、精神的生活の方面に世話を致しまする事を教〔右○〕と申し、物質的生活の方面に世話を致しまする事を養〔右○〕と申します。それで世の中に、天に代りて此の二方面の世話を致されまする御方が無くではなりませぬ。そこで宋の朱熹が申しましたる如く、天は其の爲めに人類中より「聰明睿智能盡2其性1者」即ち人と致しまして、洵に完全なる人を擇び、之れに億兆の君師たる大任を托しまするが、此の大任を御受けになつたる方を、帝王〔二字右○〕と申上げるので御座ります。尤も天は無形のもので御座りまする故、別に言語を以て此の任を托するなどと、帝王に其の意志を傳へまするやうな事は御座りませぬが、帝王の重大なる地位より考へまして、此くの如きものでなくてはならぬと推論仕り、今申上げましたる如き、朱熹の語も出ましたる次第で御座りまする。
 さて唯今申上げましたる億兆〔二字右△〕の君師〔二字右△〕と申しまする言葉の意義で御座りまするが、儒學の考へ方に致しますれば、帝王たる御方は、君〔右△〕と師〔右△〕の二資格が御座ります。即ち其の天下を統治遊ばさるゝ方面より、之れを君〔右△〕と申上げまするが、帝王の御責任は之れに盡きませぬ。即ち前に申上げましたる通り、(22)人類が天より賦與されて居りまする立派なる精神的の働、殊に道義心につき、それが完全に實現仕つて人たる名に負きませぬやうに御教育遊ばされまする。其の方面より申しますれば、之れを師〔右○〕と申しまする。
 一體、師と申しまする言葉には、廣狹の二義が御座りまして、凡そ學校に於いて教職に居りまするとか、或は一藝一能を佗人に傳へまするものを師〔右○〕と申しまする。併しそれは狹義に用ゐまする場合の師で御座りまして、君師〔二字右○〕と連言仕りまする場合には、師亦帝王を斥し奉る言葉で御座ります。
 さてこの教〔右△〕と養〔右△〕との關係で御座りまするが、其の順序より申しますれば、養〔右△〕が先きで、教が後に參るべきものと致して御座ります。又た其の價値から申しますれば教を第一と致し、養を第二と致します。其の理由を申上げますれば、元來人に尤も直接に幸福快樂苦痛の念を與へまするものは、其の日常の物質生活〔四字傍点〕で御座ります。若し日常の衣食に事を缺きませず、不安の念を有ちませぬときは、自然に其の心延び/\と致し、世を咒ひ人を咒ひまするやうな心の起ります理由は御座りませぬが、之れに反し、日常の生活は思ふままになりませず、衣食に缺乏を來し、父母妻子は論ずるまでも御座りませぬ、一身の生活さへ心に任せませぬときは、特別の修養あるものを除きまして、一般のものは不覺不識の間に、不健全なる思想を抱き、罪を犯して刑に觸れまするやうな事が起ります。左樣御座りませいでも、毎日朝より夜まで衣食を得まする事に汲汲たるものに對し、衣食計りに氣を取られませぬやうに諭し、高尚なる精神向上の途を説きましても、其の耳に入りまする事は困難で御座ります。政(23)治の要は、民の物質的生活に缺乏なきやうに致しまする事を、急務と致しましたるもので御座ります。管子に「倉廩實則知2禮節1。衣食足則知2榮辱1。」と御座ります。
 政治の要は民の物質的生活に缺乏なきやうに致しまする事を急務と致しましたるもので御座ります。併し儒學の政治に對する理論と致しましては、決して之れを以て究極〔二字右○〕と致しませぬ。恰も個人の道徳論に於いて、功利主義を排斥し、其の固有する道徳を實現するを以て、人世の目的と致しまするやうに、天下が能く治りまして、國富み民裕に生活を致すやうになりましても、政治の目的が達せられたるものと致しませぬ。其れ丈で御座りますれば、所謂覇者の政治でも出來まするし、又た實際それ丈を以て目的と致しまするのを覇者の政治と申しまする。王者の政治と申しまするは、成程人民の物質生活を重んじまする事は同樣で御座りますれども、猶ほ之れを以て滿足致しませず、「教」或は「教化」と申しまする事に注意致し、其の固有仕りたる精神的の能力に對し、人として出來まする丈の發達を遂げて、孝悌忠信の道を行ひ、極端に申上げますれば、天下皆善人にて、一の惡人が御座りませぬやうに相成つて、始めて政治の目的が達せられたものと致す次第で御座ります。それで前に申上げましたる如く、順序より申上ぐれは養〔右○〕が教の先きに御座りまするが、其の尤も重しと致しまする處は、養〔右○〕を第二、教〔右○〕を第一と致しまする次第で御座ります。
 それで此の大任を負はせられて、億兆に君臨遊ばすのが即ち帝王で御座りまするが、何加に帝王と申上ぐる偉い御方でも、かゝる面倒なる事を、御一人で遊ばさるゝ事は到底出來ませぬ。それで帝王(24)は億兆の君師として、其の大綱を御掌握遊ばされ、其の爲めに文武百官〔四字右○〕を設け玉ひ、教養の事務〔五字右○〕の一部を分ちて御委任遊ばすので御座ります。勿論、文官と武官とは、其の職務が違ひまする。又た官職にそれ/”\高下が御座りまするが、それは教養の事務を臣下に分授けられたる所の、性質大小より起れるものでは御座りまするが、苟も官と申したる名が御座りますれば、多少とも直接或は間接に、此の教養の御大任を輔翼し奉らぬものは御座りませぬ。
 さて此の教養につき申上げますれば、教養の事務〔二字傍線〕と教養の理想〔二字傍線〕と申す事になります。一體、文化が進み、人事が複雜に相成りますれば、之れに從ひまして教養の事務も亦複雜となりまする次第で御座りまするが、重に其の事務を掌りまするものでも、それが單に事務〔七字傍点〕を取扱ひまする故、自らを事務を取扱ひまする器械と相考へませず、極く下級の官職にありまするものでも、帝王の御大任たる教養の一部を輔翼し奉るといふ理想〔二字右○〕を持つべきものと致して御座ります。儒學の政治に關する理想から出來て居りまする官制を見ますれば、此こに一の特色が御座ります。即ち官制に大臣以下文武百官にそれぞれ職務が規定されて居りまするが、其の上にまた三公〔二字右○〕と申す官が御座ります。三公に相成りますれば、所謂「論道〔二字傍点〕之官」と申しまして、別に極りましたる職務とでは御座りませぬ。即ち政治の理想を論じ、道徳を以て上御一人を輔弼するもので御座ります〔即ち〜傍点〕。三公さへ左樣で御座りまする。帝王の御身になりますれば、勿論、萬機を御親裁遊ばされまするけれども、それは御委任を受けましたる各大臣が、其の事務につき奏上致しまする事を御裁可になれば宜しいので御座りまして、君徳を御琢き遊ば(25)す外には、何も御座りませぬ。
 例へば前に申上げまする通り、百官を御任命遊ばさるゝに就きまして、能く臣下の賢否を御洞察に相成り、適材を適所に御使用遊ばす事、是れを「知人之明」と申して、君徳の内の大なるものゝ一で御座ります。凡そ人には好き嫌ひと申しまするものが御座ります。下下のものも左樣で御座りまするが、其の爲めに失敗を仕ります。帝王の御身にて、若好嫌の情に任せ玉ひ、臣下を御使用に相成りまする事が御座りますれば、大變な結果が起りますので「知人之明〔四字傍線〕」が君徳の重なるものに成つて參ります。然らば、「知人之明」は何より起りますると申せば、つまり君主が廣大にして私なく、全く天に同じき徳を御琢き遊ばされ、御持ち遊ばさ〔御琢〜傍線〕る事に歸着致しまするが、文武百官と申しましても、各々其の徳をもちまする事を大切と致します。尤も職務事務で御座りまする以上〔尤も〜傍線〕、智識〔二字右○〕が必要で御座ります。才幹腕前が無くては相成りませぬ。併し又た同時に智識才能のみ立派なもので御座りましても、徳〔傍線〕即ち人格に缺けましたる處が御座りますれば、帝王教養の御事業に對して、之れを輔弼し奉りまする事が出來ませぬものと致したもので御座ります。
 右申上げましたる事を、支那古代の官制に照らし相稽へますれば、能く分りまする次第で御座ります。古昔周の時代に、周公と申しまする立法者が御座りまして、粲然たる制度文物が出來ましたが、其の官制を見ますれば、前に申上げましたる通り、百官の首班に居りまするは三公〔二字右○〕と申すもので御座ります。三公と申しまするは、太師・太傅・太保の三人で御座ります。後世では之れを三公とは申し(26)ませいで三師と稱し、三公と致しては、別に大尉・司徒・司空を三公と申しますが、周のときは右申上げまする三公のみで御座りました。それで三公の内につき、大師〔二字右△〕と申しまするは「天子(ノ)所2師法1」と御座りまして、天子の御師範役を勤めまする人で御座ります。太傅〔二字右△〕は同じく道徳を以て天子を傅《タスケ》相奉る人で御座ります。太保〔二字右△〕は同じく道徳を以て天子を保安し、即ち道徳を以て道徳の地位に安らかに居《ヰ》らせらるやうに致す役前で御座ります。
 即ち名は違ひまするが、道徳を以て君を保導し奉り、大政の出る源につき獻替しまするもので、別に一般の行政官廳の如く、限られましたる具體的〔三字右△〕な職務とては御座りませぬ。然るにこの三公と申しまするものは、此くの如き重大なるもので御座りまして、天子の御師範となりまするには、道徳人格完備仕りましたるもので御座りませぬければ勤まり兼まする。然るにかゝる理想的な人は、何れの時代に於きましても容易に求得られまする譯には參りませぬ。それで若し適任者が見當りませぬときは闕員と致し、補充仕りませず、其れ以下の官に居りまするものが不十分ながら、其の任務を致すやうになつて居りましたので御座ります。それは全く此の三公を重んじましたる譯で、又た一方から申せば、政治の上に於きまして、君徳を最も貴きものと致しましたる故で御座ります。歴史上の事を申上げますれば、唐の時代にも、官制の上に三公と申しまする官は御座りましたが、實際は之れを置きませぬ。贈官〔二字右○〕と申しまして、國家に大勲勞ありましたるものゝ没後に、其の榮譽を飾りまする爲め、特に賜はりまする名前に過ぎませぬ。尤も親王で其の生前に三公になられましたる方も御座りますが、(27)至つて少なき例で御座ります。近頃清朝までも、此の官名は御座りましたが、失張大臣の贈官となつて居ります次第で御座ります。古昔|御《ミ》國に於きましても、唐の制度を御斟酌遊ばしましたる事に致し、大寶の御規定を考へますれば、百官の首班と致しまして、太政大臣〔四字右○〕が御座ります。又た其の次には左右大臣が御座りまする。大寶の御規定にて、我太政官〔三字右△〕は唐の尚書省に當り、行政の事務を掌りまする最高官廳で御座りまするが、御國にては、別に其の上に三公の官を御置きになりませず、太政大臣左右大臣が同時に三公の職を務めまする事に相成り、殊に右三大臣の内に於きましても、太政大臣〔四字右○〕の職尤も重く、支那に於きまする三公に類似致して居りましたので御座ります。大寶令、太政大臣の條に
 
 「太政大臣一人。右師2範(トシテ)一人(ニ)1。儀2刑(タリ)四海(ニ)1。經(メ)v邦(ヲ)論(ジ)v道(ヲ)。※[變の糸が火]2理(ス)陰陽(ヲ)1。无(キトキハ)2其人1則闕(ク)。」
 
と御座ります。即ち其の職務を申上げますれば、第一は上御一人の御師範たる事、第二は其の人格に於いて四海萬民の手本となる事、第三には常に君側にありて、國を治むるの道〔七字右△〕を申上ぐる事、今日の言葉を以て申上げますれば、天下を御治め遊ばすにつき、其の理想〔四字傍点〕を申上ぐる事で御座ります。「※[變の糸が火]理陰陽」と申しまする事は、總べて自然現象は陰陽二氣の働きと相考へましたるもので御座りますが、古昔支那に於きまして、道徳又たは政治の理想は進み居りましたなれども、自然科學の方面の智識に乏しく、自然現象と人事と離るぺからざる關係御座りまするやうに相心得居りまして、天下治まり、芽出度御世で御座りますれば、風枝を鳴らさず、雨塊を破らずと申しまするやうに、陰陽能く調和致(28)しますれども、此に反して政道治まりませぬときは、陰陽調和を失ひまするやうに相考へましたるもので御座りまする故、※[變の糸が火]理陰陽の四字を加へましたるものにて、今日より相考へますれば、人間わざにては出來ませぬ事まで、太政大臣の職掌の中に入れて御座ります。丙吉(ノ)例。日蝕策免ノ事。古へに於きましてもかゝる大任を盡くしまするものは多く御座りませぬ故、「无其人則闕」と致して御座ります。即ち適當なる人が御座りませねば、別に強いて補充遊ばされぬ。其の場合には左右大臣二人が大政を綜理致しまする御定めで御座りまして、此れは申上げまする迄も御座りませぬ、儒學の政治に關する理想が、漢土歴代の制度の上にあらはれ、それが御國で彼の制度を御採用遊ばさるゝに及び、それが又た御國の官制にあらはれましたるものと相考へまする。
 猶ほ支那の官制につき、更に一事申上げます。それは周の官制を記載仕りましたる周禮〔二字右○〕と申す一書が御座ります。此の書につきては、後世の學者共が色色と議論を仕り、此れは周代に實際行はれましたる制度の記銘では無之、儒學の方にて凡そ政治はかくあるべきと相考へましたる理想の制度を書|記《シルシ》ましたるものと致すものが御座りますが、唯今其の説の當否は申上げませぬ。茲に申上げまするのは、儒學の政治に關しまする理想で御座りますれば、縱令《タトヒ》それが實際周代に行はれましたる事無之と致しましても、之れを引用仕りまして差支は御座りませぬものと相考へます。
 さて、此の周禮によりますれば、凡そ行政の官廳が六つに分れ、天官・地官・春官・夏官・秋官・冬官と六つ御座ります。而して各々定りましたる職掌が御座りまするが、其の中に天官の長官を冢宰〔二字右△〕(29)と申し、他の五官の首班に居りまして、國政を綜理致して居ります。此れは勿論前に申上げましたる三公〔二字右△〕よりは下で御座りまするが、行政官廳と致しましては、最高のもので御座ります。其の職務を申上げますれば、他の五官を率ゐまして、行政の統一を保ち、凡そ政治の大なる事柄につき、關知仕らぬ所は御座りませぬが、其の職に於いて最も著しき事は〔其の〜傍点〕、總べて宮中〔二字右△〕の事務を掌りまする官が、天官の中にありて、それが總べて長官たる冢宰の監督を受けまする。即ち御側に奉仕仕る宮内官〔三字傍点〕、侍醫、女官、御調度を掌りまするもの、毎日の供御を掌る大膳職等、すべて天官に屬し、冢宰の僚屬となつて居りまして、今日の立憲國家と比較仕れば、大變に樣子が變つて居りまして、今日立憲國家で申しますれば、内閣總理大臣と内大臣宮内大臣を併せましたる如きもので、大變に樣子が違ひまする。これは古昔の儒學より申しますれば、大臣は前に申上げまする通り、行政の事務を掌りて、天子を輔弼し奉りまする計りでは御座りませぬ。勿論それも必要で御座りますれども、凡て天下の政は煎じつめますれば、御一人の大御心より出づるもので御座りますれば、聖徳を啓沃し奉ること最も大切で御座ります。即ち大臣輔弼の任と申しまする事は、唯御政務の上に於いて、之れを輔弼し奉る計りでは御座りませず、御政務の出まする源、即ち聖徳を輔弼し奉る事が更に大切と致しましたるもので御座ります。左樣致しまして、この聖徳と、日常の御生活御起居飲食の微細なる事柄と極めて密接の關係が御座りまする故に、帝王の御日常の御生活に奉仕仕るものを、直接冢宰の下に置きましたる次第で御座ります。蜀の諸葛亮は、三代以來の名臣と稱せられ、又た其の出師表は古今奏議中最出色の文字と(30)なつて居りまするが、其の内に「宮中府中。倶爲2一體1。」と申して御座ります。府中〔二字傍点〕と申しますれば即ち今日の内閣で御座ります。兩者が一體と相成らず、互ひに相別れまする事を誡めましたる言葉で御座りまして、現今の立憲國家に於きまする考へ方とは、其の趣が變はつて居りまするやうに相考へます。猶ほこの儒學の理想を進みて申上げますれば、儒學の方では、一般倫理説と致しても、人の行を私人としての行、公人としての行などゝ區別を仕りませぬ。此の節はよく「某は私人としては非難致すべき所はあるが、公人としては立派である」などと申すやうな批評を承りますれども、儒學の考へ方より致しますれば、其の心正しからず、身を修め家を齊ふる事の出來ませぬものが、公人と致して立派な行を致しまする道理は御座りませぬ。此れは一般のものも左樣で御座りますが、殊に帝王の御身には、私人公人の御區別は御座りませぬ。帝王の御慶事は、即ち天下の慶事、又た帝王の御凶事は、即天下の凶事で御座ります。帝王の御一言御一動は、直ちにそれが普ねく天下に傳はり、四海の模範と相成りまする次第で御座ります。猶ほ極端に申上げまするならば、帝王毎日の御言動〔二字傍点〕が、其の大小輕重に關はりませず、それが即ち政〔右◎〕で御座りまする。其れ等の理由より致して、國務綜理の冢宰が、同時に内大臣宮内大臣の職務を併兼ねましたるもので御座ります。
 かくの如く政治の目的は教養にありと致し、又た其の爲めに文武百官ありて、それ/”\其の事業につき奉仕仕りまするが、究極の所は、上御一人の聖徳より出るものと相考へまする。尤もこの聖徳〔二字傍点〕と申せば、主觀的に大御心を形容致したるもので御座りまして、實際教養の手段と致しましては、具體(31)的の設備を必要と致しまする。此れを支那流に申しますれば、禮樂刑政〔四字右○〕と申し、又た單に禮の一字を以て之れを表はしまするが、儒學の考へ方より致しますれば、それは即ち聖徳が禮樂刑政の上に具體化されたものと見るので御座りまする〔それ〜傍点〕。
 かくの如く政治を以て帝王聖徳のあらはれと相考へまする理想を、徳治〔二字右○〕主義と申します。此れは儒學に於きまする政治の根本觀念で御座ります。周の戰國時代には、儒學以外に、諸子の學派が起りました。其の内でも刑名家或は法家〔二字右○〕など申しまする學派は、儒學と反對の立場に居りまするが、儒學の政治に關する理想は、右申上げまする通りで御座りまして、孔子も「政は正なり」(論語顔淵)と申して居りまする。
 一體古昔は政〔右○〕と申しまする文字と、正《タヾス》と申す文字は、互ひに通用致しまして、同一の意味を有ちまして御座ります。即ち帝王は御自身の御徳を御修めになりて、これを萬民の手本に御示遊ばされ、天下に正しからざるもののないやうに遊ばす。語を換へて申上ぐれば、「天下に正義を御實現遊ばさる事」此れを政治の眼目〔五字右○〕と致します。勿論世の中には、何如に政治がよく行屆きましても、到底化し難き頑冥のものも居りまする故、法も勿論必要と致します。文化進み人事複雜と相成りますれば、法は彌々緻密となつて參らむければなりませぬ。又た獨り法のみでは御座りませず、正義の爲めで〔六字右○〕御座りますれば、軍も必要で御座ります。換言仕りますれば、政治に「力〔二重傍線〕」を要しませぬ譯では御座りませぬ。併し、政は力なりと申さず、政は正なりと相考へ、儒學の方では、すべて法でも軍でも、此れを(31)以て徳治の助けと致します。左樣な次第で御座りますから、前に申述べましたる禮樂刑政〔四字右○〕、もつと簡單に申上げますれば、禮の概念中に、法で御座りましても、又た軍で御座りましても、總べて之れを入れて仕舞ひまする。
 
       二 徳治主義
 
 さて此の徳治、即ち徳を以て天下を治め玉ふ御徳をば、天子の大徳などゝ申しまするが、必竟之れを以て、萬民の手本として御示しに相成りまするから、別に萬民の徳と種類が違ひまする譯では御座りませぬ。然らば此の徳は何であるかと申上げますれば、儒學の方では人の徳の内で、仁徳を最も尊ときものと相考へました。尤も大學にも「爲(リテハ)2人君(ト)1止(マル)2於仁(ニ)1」と御座ります。御國の學者に致しましても物茂卿は仁に定義を下し、長上安民の徳と申して、專ら君主の御徳をさすやうに思はれまするが、左樣では御座りませぬ。勿論、此の徳が民を治むる地位にあらせられまする御方には、尤も能く顯はれまするが、決して君主の徳に限りませぬ。凡そ儒學に於きまして、人が學問修業を仕るのは、この徳を身に完くするのが目的でござりまして、人が〔二字右○〕其の努力により到達し得られまする最上の所は、この仁徳の完成實現と申す事で御座ります。それで、帝王の御徳も亦仁にある事は勿論でありますが、仁徳の完成は聖人でなくては出來ぬものと致し、孔子すらも、自ら之れに居りませぬ。それで、帝王(33)が萬民に御示になるには、餘り高遠に過ぎまする。それよりも、もつと何人にも分り易く、又た何人にも或程度まで出來まするもので、それで其の性質より申せば仁と離れず、寧ろ仁の根本と申すべきものを以て萬民に御示に相成りまする。それは即ち孝の徳で御座ります。それで御座ります故、前に申上げましたる徳治と申しまする以外に、同じ意味を有ちましたる孝治〔二字右○〕と申しまする言葉が御座ります。即ち帝王御自身に孝を遊ばし、此れを以て下萬民の進み向ひまする目標と遊ばされます。此れを孝治と申します。
 一寸此處にて前に申上げましたる仁〔右○〕と孝〔右○〕との關係を申上げますれば、仁〔右○〕は種種學者の説も御座りますれど、結局親愛〔二字右○〕の徳で御座りまして、此れを帝王の御徳として考へますれば、恰も天が萬物を生成し、毫も私が御座りませぬやうに、普ねく四海に及びまする所より、仁徳を貴しと致しますが、それは元來祖宗に御孝敬〔八字傍点〕を御盡くし遊ばさるゝ御心が、廣く物に及びたるもので御座ります。又た一般のものも左樣で御座りまして、先づ我が父母を愛し、其の心を推して一族一郷一國天下と申しまする具合に、親愛を致しまする區域が擴がりますが、この親愛の徳が何人にも尤も純に、又た尤も自然に能く顯はれまするは、父母に對する場合で御座ります。この父母に對して發しまするものを、廣く人類に擴充致しまして、内外遠近至らざるなきやうに相成りまして、其の結果が仁となりまする次第で御座ります。世には無教育な卑賤のもので、性質すなほに致し、毎日汗を流し僅かの勞銀を得まして、父母を養ひまする殊勝なものが御座りますが、此れは所謂孝子で御座りまして、仁者とは申されませ(34)ぬけれども、この孝子が親に對しまする純なる心持も、仁者が人に對しまする純なる心持も、別に變りは御座りませぬ。唯親愛の徳の及びまする範圍に、大小の差あるのみで御座ります。猶ほ委しく申上げますれば、「孝」は仁の核心の如きもので御座りまして、孝と申しまする核心より、學問修養により段段發達致しまして、それが完全に擴がりましたるものを仁と申します。論語學而の第二章に見えましたる「孝弟也者。其爲2仁之本1與。」と御座りまする有若の言葉、孟子に「堯舜之道孝弟而已矣」と御座りまするのも、之れを申しましたもので御座ります。
 孝の事を申上げましたる關係より致しまして忠の事を申上げます。支那儒學の考へより致しましても、人倫の内にて最も貴きものは君父〔二字右○〕と致して御座りまして、從ひまして、忠孝は并びに大切なるもので、此の一を缺きましたならば、天地の間に容れられざる罪人と相成りまする次第で御座ります。猶ほ進みて申上げますれば、忠と孝と、名は違つて居りますれども、其の心の働、心の持方は全く同一で御座りまして、子が其の父母に事へて孝を盡くしまする純なる心を以て、其の君に事へますれば、其れが即ち忠となり、又た君に事へて忠なる純なる心を父母に移しますれば、即ち孝と相成りまする。陳腐〔二字右○〕なる言葉では御座りますれども、「求2忠臣1必於2孝子之門1」と申しまする事は、動かす可からざる眞理かと相考へまする。尤も或ときは、忠孝兩立せざるやうに見えまする場合が御座ります。併しそれは唯形の上に於いて兩立せざるやうに相見えまする丈で御座りまして、假令孝道をすてゝ、忠道を立てましても、其のものは忠臣たると共に孝子たるを失ひませぬ〔其の〜右○〕。兩者相反しまして〔八字傍線〕、其の輕重を計り(35)一を取りて他を棄てまする。昔し東漢のとき匈奴が邊境に攻入りまして、多く人畜を掠めました。それで地方官〔三字傍点〕が兵を率ゐて之れを防ぎましたが、匈奴の方では地方官〔三字傍点〕たるものの老母を捉へまして、之れを陣頭に出しました。地方官が馬上より老母に向ひ、「昔爲2孝子1。今爲2忠臣1。」今日の場合母の御身を顧みる事出來ませぬ、御免るし下されと申して、敵軍に向ひ大勝利を得ましたが、其の爲めに母は匈奴に殺されました。地方官は其の後忠義の道致し方なけれども、母を殺しましたる哀に堪へず、血をはいて死にましたといふ事で御座りまするが、支那に於きましても、決して此の行を不孝と致してをりませず、忠孝の道を兩つながら全くしたるものと致してをります。唯忠孝無二忠孝一本と申しまする事は、儒學の上に理想として持居りましたけれども、支那は易代の國で御座りまして、君臣の關係が御國のやうに參りませぬ。それで彼の國では、理想は其の通りで御座りましたが、中中左樣には參りませぬ。併し此こに申上げましたる「孝治」と申しまする事は、忠と孝とを互ひに比較致し、忠よりも孝を重しとし、孝治主義と名づけましたる譯では御座りませぬ。孝の字色色之れを用ゐまする場合が御座りまして、忠孝と併稱しまする場合と、孝の意味を廣く用ゐ、忠の徳も其の中に入れて仕舞ひまする事が御座ります。禮記の内に、孔子の弟子曾參と申しまするものが、孝を説明仕りましたる中に「事v君不v忠非v孝也。※[さんずい+位]v官不v敬非v孝也。」とか、「戰陳無v勇非v孝也。」と御座ります通り、孝治と申しましても、決してこれより忠を引離したるものでは御座りませぬ。
 今一つ孝治〔二字傍点〕と申しまする理由は、此れは元來帝王が第一に〔六字右○〕其の徳を自ら御修めになり、これを以て(36)萬民を尊びき玉ふ事を申す次第で御座ります。支那儒學の方でも、忠孝を兩つながら重しと致しますれども、忠は臣道にして君道では御座りませぬ。忠治主義と申す言葉では具合惡しく、即ち君臣に共通致しまするものは孝に如くものは御座りませぬ。而して臣の孝の中に、其の君に對する忠を含んで居りますれば、誠に言葉の立方が順當に參る譯で御座ります。
 さて此れより孝治と申しまする事が、支那歴代の制度にあらはれましたる點を、聊か申述べたく存じます。第一は歴代帝王の謚《オクリナ》で御座ります。謚と申しまするは、天子が崩御になり、嗣天子より先帝の御徳業に相應致したる美名を御上りになる次第で御座りまするが、漢以來、清朝に至るまで、苟も支那一流の天子で御座りましたらば、殆んど總べて、謚の中に孝〔右○〕の一字が御座ります。尤も創業の君、例へば前漢の高祖、後漢の光武と申す如く、孝〔右○〕の字のない事も御座ります。これは除外例と致し、第二代よりは必ず孝の字がつきまする。後世は總べての事が文縟になりまして、天子の謚も十六字、十八字と申すやうに、多く立派〔二字右○〕な字を重ねる事になつて居りまするが、必ず其の内に孝〔右○〕の字が入つて居りまする。(天子の御謚として、良き名を上りたいと申しますれば、)これは孝治をなさるゝ天子の御徳と致して、必ず無かるべからざるものは、孝に外ならぬといふ次第で御座ります。御《ミ》國の例を引きましては恐入りまするが、恭しく列聖の御謚を考へ奉るに、古き處では、孝昭天皇、孝安天皇、孝靈天皇、孝元天皇と申上げ、少し後に孝徳天皇、孝謙天皇、光孝天皇と申上げ、近き世にては仁孝天皇、孝明天皇と申上げまする通り、(37)孝の一字を御謚の中にもたせ玉ふ御方が隨分〔二字右○〕あらせられまする。是れは恐れながら、前に申上げまする儒學の思想が根柢となつて居りまする支那制度を御採用になりましたる結果かと存じ上げます。
 儒學に於きまするこの孝治〔二字右○〕と申す事は、帝王が之れを行はせられて、億兆に手本を御示しになりまする事で御座りまするが、之れと同時に、億兆〔五字右○〕の臣民をして、此の孝を行はしめるやうに、制度の上に深い注意が拂はれて居ります。それには、孝を勸めまする目的から出ましたるものと、不孝を罰しまする事〔それ〜右○〕、この二つに分れて參ります。先づ不孝を罰しまする事、此れは支那歴代の法律〔分れ〜右○〕(即刑法)に能くあらはれて居りまする。
 一體支那に於きましては、歴代の法律は易はりまする譯で御座りますれども、政治に關する理想〔に能〜右○〕より出づるもので御座りまして、其の理想は萬古不易〔九字右○〕と致して御座りまするが、其の法の文面より申しましても〔法の〜右○〕、餘り變化は御座りませず、唯應用の上は異つて居りましたやに存じます。古昔の唐律と近世の清律と比較致しても、肝腎の處は同一で御座ります。それで唐律と清律に就いて〔それ〜傍点〕申しますれば、犯罪の性質として尤も惡むぺく、情状の酌量を致しませぬ、又た大赦特赦にも沾ひまする事の出來ませぬ罪の種類を十惡〔二字右○〕と申しまするが、第一は謀反〔二字右○〕、即ち社稷を危〔四字傍点〕くする事を謀るもの、第二は大逆を謀〔四字傍点〕るもの、第三は謀叛〔二字傍点〕で御座りまするが、第四に惡逆〔二字右○〕と申すものが御座りまして、此れは祖父母父母、若しくは夫の祖父母父母を殴ち及び殺さむ事を謀るもの云云と御座ります。それから第七には不孝〔二字右○〕と申す罪が御座ります。此れは前の惡逆よりは稍輕き方で御座りますが、注によりますれば、祖父母父(38)母若しくは夫の祖父母父母を告訴したり、或は言語を以て呪罵したり、或は籍を別にして財産を異にしたり、或は扶養を怠たり、或ひは父母の喪中にありながら、結婚を致したり、或は地方にあり祖父母父母の喪を聞きながら、之れを匿して哀を擧げず、又たは反對に祖父母父母が現存して居りまするに、詐りて其の死を稱するが如き、皆之れを不孝と致して、罰する事になつて居ります。此の内にて、祖父母を殴ちましたる場合は斬、呪罵致したるものは絞、又た祖父母が〔六字傍点〕犯罪を犯しましたるとき、之れを進んで告訴致しましたるときは法律上の制裁を受けまするが、若し祖父母に實際の犯罪が御座なきに、子孫たるものが之れを誣告致しましたるときは、絞に處することとなつて居ります。又た前に擧げましたるが如く、十惡の内に謀反〔二字右○〕とか謀大逆〔三字右○〕とか謀殺祖父母〔五字右○〕などゝ申して、「謀〔右○》」の文字がござります。此れは「君親無v將。將而必誄〔八字傍点〕。」(公羊傳)と申しまする言葉が御座りまして、儒學の格言となつて居りまする。其の意味は君親に對して危害を加へんとし、又たは加へましても、それは同一の罪を構成致しまするので、「將」まさに〔三字傍線〕と申す事は御座りませぬ。危害を加へんとして計畫致しましたらば、それは已に實行しましたものと同樣で御座りまして、法の上に於きましては、將と申す事は御座りませぬ。凡そ支那の法律では、人が〔二字右○〕人に對して惡事を致す場合の外、君父に對して致しまする犯罪を殊に重く致して御座ります。例せば呪罵〔二字右○〕の如き、他人を呪罵致しました場合は、極めて輕い罪で御座ります。祖父母に對しましたる場合は、絞罪〔二字右○〕で御座ります。又た他人が〔三字傍点〕罪を犯しましたる場合に、之れを官に告訴致しましても、何事も咎る筈は御座りませぬ。却て罪人を庇護して告訴致しませぬと(39)きは罪に問はれますが、祖父母に對しては、それが眞に罪を犯しましたる場合でも、「子爲v父隱〔四字右○〕」(論語子路篇)と申す本文から致しまして、必ず之れを告訴致しましたらば、法の制裁を受くる事になつて居ります。以上は不孝を罰しまする方の事で御座りまして、ちやんと國家の法律〔五字傍線〕の上に規定致して御座りますが、昔し御國に於きましても、唐律に本づきて出來ましたる律が御座ります。今日は其の完全なものは遺つて居りませぬが、其の僅かに遺つて居りまする律の本文と、唐律とを比較仕りますれば、全く同一で御座りましたる事が分ります。
 以上は不孝を罰する場合〔以上〜右○〕で御座りまするが、孝を勸めまする事も、制度上種種の形に依つてあらはれて居りまして、人民孝を致しましたる場合には、地方官より其の事を上申致しまするときは、門※[門/韋]旌表と申しまして、末代に之れを傳へまする爲め、其れが居住仕りまする町の入口に碑を立てまするが、それが農民で御座りますれば、地租を免ぜられまするとか、又た其の事蹟を史館に送りて傳を立てさせまするとか申す事が御座ります。唯今傳はりて居りまする正史の内に、孝義傳・孝友傳・孝感傳・孝行傳と申す部類が御座りまして、其の中に孝子の事蹟が出て居りまするのが、即ち地方官の報告に据り、之れを材料と致して作りましたるもので御座ります。それから、官吏に對して何如に孝を勸められましたかと申しますれば、官吏の父母が亡くなりましたる場合には、其の喪に服しまする期間が長う御座りまするが、子たるものゝ情を體せられて、辭職を聞屆けられます。三年の喪、即ち二十七ケ月の間、事務を見ませぬければ、不都合を生じますから、離職を致す事は見樣に据りましては、(40)甚勝手な事で御座りますが、朝廷では之れを御聞屆になりまする。尤も武官のものが戰事に臨みまする所、此れ等は一般の場合と違ひますから、縱令願出でましても、之れを許るされませぬ事が御座ります。又た文官で御座りましても、其れが重要な地位に居りまして、他人を以て之れに代ゆる事が出來ませぬときは、猶ほ其の地位に居て、職務を見る事を命ぜられまするが、其の場合で御座りましても、形式上は其の辭職を御聞屆けになり、其の代りに、某事務心得と申す事を命ぜられます。「心得」と申しますれば、支那の官制から申しますれば、本官で御座りませぬ。それで實際は依然其の職務を致しましても、本官は罷められましたる譯で、喪を終りましたる後、本官に復りまする譯で御座ります。此くの如く、官吏が一家の私事により辭任を願出でましたれば之れを許るされまするし、又た之れと反對に、父母の死したる事を屆けず、又た辭職を願出でませぬ時には、國法に觸れて罰を受くる事に成つて居りまする。是に依りて考へますれば、官吏が父母の喪によりて辭職を聞屆けられまする事は、朝廷の恩典で御座りますると同時に、官吏と致して、かゝる場合に辭職することが其の義務となつて居りましたる譯で御座ります。其の理由〔四字傍点〕は、已に朝廷が孝治〔三字傍点〕といふ事を以て天下に臨ませらる以上は、大小官吏〔四字傍点〕各々所轄人民に其の御趣意を傳へ、孝悌を實行させて、良風良俗を作出しまする事が第一の責任で御座ります。此れは官吏たるものが、自ら孝を其の親に盡くしまする事が必要で御座りまして、唯口先き計りで人民に諭しましても、良い結果は生じませぬ。之れと同時に、此こに官吏が其の親亡くなりましたる場合に、辭職を致しませねば、他人より批評仕りますれば「親喪に遇ひな(41)がら官職を抛つ事を得致しませぬ、不孝鄙劣のもの」となるので御座りまして、此くの如く見られましては、職務其の物が勤りませぬので、それで辭職を致すべきものとなつて居ります。此くの如く相成りますれば、官職を稍輕んじ公務を蔑《ナイガシロ》にするやうに相見えまするが、前に申上げまする通り、重要の地位に居り、他人では之れに代るものが御座りませぬときは、心得の名義を以て職務に留まる事が出來ます。又た此れ等を除きましたる一般官吏〔四字傍点〕には、現在職に居りまするもの以外に、之れを補充仕りまする官吏有資格が澤山御座ります。一般の官に於きまして、代りを見出す事が困難であると申しまするやうな例は少ないと見えまして、かゝる規定が成立仕りましたるものと存じます。此れは支那の制度に於きまして、誠に特殊なるもので御座りまするが、昔し御國に於いて唐の制度を御採用遊ばされましたるとき、此の精神も傳はりましたるやうに相考へます。それは大寶令中に假寧令〔三字傍線〕と申しまして、官吏に休暇を下賜はりまする規定が載つて居りまするが、其のうちに、凡そ文武の長官に致しまして、其の父母が一所に居りませぬ場合には、毎三年に歸省の爲め、卅日の休暇を賜はる事になつて御座ります。又た同時に凡そ官吏として官職を有しまするものが、父母の喪に遭ひましたるとき、「皆解官(セヨ)」と御座ります。解官と申しますれば辭職の事で御座ります。此れは前に申上げましたる、支那の制度に於きますものと同一の理由から、出でましたるものと存じまする。
 今ま一つ申上げまするは、支那に於きまして、凡そ文武官には朝廷より其の官位に對してそれぞれ配偶者にも相等の禮遇を賜はりまするが、此れは配偶者のみで御座りませず、其の長上即ち父、母、(42)祖父、租母、或る場合には會祖父、祖祖母までも或る禮遇を賜はりまする。それは朝廷に何か御慶事のありまする場合で御座りまするが、其の時には文武官へその品級〔二字右○〕に對して、稱號を下されます。例へば正一品從一品のもので御座りますれば、光禄大夫の稱號を賜はり、其の配偶者は一品夫人の稱號を賜はりまするといふ具合に、上下凡そ十七階になつて居りまするが、右正一品從一品の場合には其の父母、祖父母、曾祖父母まで本人及配偶者に賜はりますのと同一の種類を下さるゝ事となつて居ります。大概右の樣なる場合に、父母が存命致して居りませぬ事が多く御座ります。又た父母は存命仕りましても、祖父母・曾祖父母が存命仕ることは罕で御座りまするが、其の時は之れを贈り賜はるので御座ります。それから「二品三品」のものにはそれ/”\本人及び配偶者に賜はりまする稱號を、其の父母祖父母に賜はります。四品より七品までは本人及び配偶者に賜はりまするものと同一の稱號を其の父母丈に賜はります。九品になりますると、元來官位が卑いもので御座りまする故、本人及び配偶者丈に一定の稱號を賜はり、父母には賜はらぬもので御座ります。かゝる場合と致しましても、本人より本人及び配偶者に賜はるべきものを辭退し、其の代りに之れを父母に賜はらむ事を願出づれば、之れを許可さるゝ事になつて居ります。又た此れは稱號の事で御座りますが、大官にて國家に著しき功業を立てましたるものには、本人の官〔右○〕と同一のものを、父・祖・會祖三代に賜はり、又た母・祖母・曾祖母も同樣の待遇を受けまするが、勿論かゝる場合には、大概父・祖・曾祖均しく死亡仕りましたるまでにて、官と申しましても官名に過ぎませぬ譯で御座ります、爵も亦同樣で御座りまして、(43)すべてかゝる具合に、朝廷より賜はりまする恩榮は、本人に賜はりますと同時に、父、母、祖父母〔八字右○〕、曾祖父母と申しまする具合に、上に溯りまする事になつて居ります。此れも儒學に於きまする思想から出ましたるもので御座ります。それは凡そ人の子たるものが、上に事へて功業を立てまするは〔上に〜右○〕、それは上に對しましては忠となり、又た其の親に對しましては親の名を揚げ、其の家の譽を顯はしまする次第で御座ります。孝經に「立v身行v道。揚2名於後世1。以顯2父母1。孝之終也。」と御座りまする通り、孝と致しまして此れより大なるものは御座りませぬ。左樣致しまして、父母若しくは祖先の名を揚げまするには、朝廷より賜はりまする稱號官位より大なるものは御座りませぬ。それで人子たるものゝ情〔人子〜傍点〕を斟酌して、かゝる規定が出來ましたるもので御座ります。又た他に一の理由が御座ります。それは儒學の道徳から申しますると、臣が君に事へまして〔臣が〜右○〕、何か大に功業を立てましても、此れを以て自分の功業〔此れ〜傍点〕と致し、之れを以て聊かでも自ら誇りまする事が御座りましては、臣子の道とは申されませぬ。この功業は自分の功業では御座りませぬ。此れは一に我君の盛徳御稜威〔我君〜右○〕の然らしむるものと相考へ、其の功業を君に差上げ、自らは之れに居りませぬのが臣の道と致したるもので御座りまするが、子が親に對しまするも同樣で御座りまして、自ら朝廷に仕へ、榮官榮爵に上りましても、之れを己れ一人の力量にて、かゝる地位に達しましたるものと考へませぬ。此れは全く父祖の餘澤、父祖の教育〔此れ〜右○〕によりまして、かゝる名譽を得ましたるものと考へまする。それで御座りまする故、若し己れが朝廷に於いて官位ある身分となりましても、其の父母若しくは祖父母・曾祖父母〔七字右○〕が平民で御座りまして、(44)子孫と致して却つて其の上に居りましては〔四字右○〕心苦しく感じなくては相成らぬ次第で御座ります。それで子孫たるものゝ情を考慮致し、又た忠孝は一途即ち君に事へて忠を致し、國家の爲めに勲を立てまする事が即ち孝で御座りまする次第〔八字傍点〕を明に致す爲めに、かゝる規定を設けましたものと相考へまする。
 前に申上げましたる如く、この孝治と申しまする事は、帝王が人間の道徳に於いて極めて手近かなもの、又た根本的なるものを御選みになつて、天下を御指導遊ばされまする事で、他の言葉を以て申しますれば、之れを徳治〔二字右○〕とも禮治〔二字右○〕とも、又たは政教一致などゝも申しまする。これは儒學に於いて政治の理想と致す所で御座りますが、支那に於きましても、周末に種種なる學派が起りまして、儒學の唱へまする所と、全く反對の立場に居りまして、其の方が儒〔傍線〕學の方よりももつと實際的で、當時の時勢に適しますると相考へられ、當時の諸侯や一般政治家など、却つて之れを歡迎仕りました。其の一を申上げますれば、儒家で申しまする徳治〔二字右○〕に對して法治を唱へ、禮治に對して刑治を唱へ、又た儒學の方では政教一致〔四字右○〕、即ち何處までも此の兩者は分離すべからざるものと論じまするに、之れに反し、政教は當然分離すべきものとも主張致しまする。今ま其の主張を簡單に申上げますれば、儒學の方では、人君が自ら其の徳を御修めになり、萬民に手本として之れを示し、民の徳を變じて善に向はしむるを目的と致しまするが、儒學に反對の學派に於きましては、君主の徳化〔二字右○〕、或は君主の人格〔二字右○〕がそれ程に政治に影響を致すものと相考へませぬ。又た大なる影響あるものと致しましても、人君が徳を修め、それが立派な感化力を持ちまするまでには、幾年懸りまするや分りませぬ。或は人君の御一代では出(45)來ませぬ。幾百代もつゞき、徳澤が積りつもりまして、始めて民心に感化力を持つもので御座りますれば、中中急場の用には相立ちませぬ。それで左樣な緩慢なる遣方を致しませず、法と申しまする具體的の目安を立てゝ、民をして之れに遵はしめ、若し之れに背きまする場合には、どし/\法の制裁を加ふれば宜敷ものと致します。結局、徳治の方では人が惡事を働き法を犯しませぬ丈で滿足仕りませぬ。惡事を働き法を犯しまする其の心〔三字右○〕を匡正致しまする事に骨を折りまするが、儒學に反對の學派の唱へまする「法治」では、民が法に觸れさへ致しませぬければ、何事を致しても差支は御座りませぬ。又たそれで政治の實效が立派に擧りましたるものと心得、何事も法に依頼仕る主義で御座ります。さてこの法と申す文字で御座りますが、法治を主張致しまするものにても、法は道徳的のもので、結局道徳の法則を客觀的に條文にあらはし、之れに背くものに制裁を加へまするもので、明らかに當時の國人が一般にかゝる事は道徳にそむくと相考へましたる事を、法の力で之れをせよと命ずるは、不合理であると申して居りまするが、後には法の觀念が道徳の觀念と相離れまして、明に道徳、――當時のものが良風美俗と致したものに反對する惡法で御座りましても、若し必要で御座りましたら、どしどし之れを行ひ、又た之れを人民に強いて、少しも差支ないと致したもので御座ります。又た禮治と刑治と申しまするも、相互に反對致したる概念で御座ります。禮と申しまするは、今日の言葉で申上げますれば、文化〔二字右○〕と申しまする言葉に近いと相考へます。即ち國の文化、殊に道徳的・精神的のものを發達向上致させまして、積極的に民を誘なひまするのが、禮治で御座ります。刑治と申しますれ(46)ば、文化の發達向上などは相考へませぬ。却つて、かゝるものが進みますれば、民を治めまするに面倒と相考へまして、唯刑〔右○〕を以て消極的にかゝる事を爲してならぬと禁じまする。又た人民の方でも、實は罪を犯すの意志が御座りましても、刑に觸るゝ事を恐れまして、惡事を致しませぬ。かく外形に於いて、罪を犯しさへ致しませぬければ、それで國が治まり、政治の目的が達せられたるものと致しまする故、之れを刑治〔二字右○〕と申します。又政教一致〔四字右○〕と申しまする事は、かくの如く人君が自ら其の徳を修め、又た文化的の設備を十分になさる、民心を陶冶して善に向ふやうに御仕むけになり、法を畏れて惡事を致さぬ譯でなく〔法を〜傍点〕、かゝる事は爲すべきものでないと承知し、自然に法を犯さぬやうに相成ります。即ち政と教〔三字右○〕は二にして一、到底之れを引離す事が出來ませぬものと致しますのが、儒學の考へで御座ります。政教一致と申しますれば、政治〔二字右○〕と宗教〔二字右○〕とが一つに相成り、人民の信仰にまで立入りまするやうに聞えますれども、茲に申上げまする政教一致の教は、宗教の事では御座りませぬ。教化教育〔四字傍点〕と申す場合の教〔傍点〕で御座りますが、儒學に反對致しまする側では、政治は唯上の命令を人民が遵行さへ致せば、其れで宜しきものと致し、教と申す如き面倒臭く、且何時其の結果が擧がりまするやも測られませぬ事は、極く輕く見まして、政教〔二字右○〕と申しまする具合に、均しく貴びまする事が御座りませぬ。政治に於きまして、此の二つの相違致しましたる遣方につき、其の結果は亦それ/”\同一で御座りませぬ。其の事に就きまして、孔子が論語爲政篇に於いて下の如く申して居りまする。
 
(47) 「子曰道v之以v政。齊v之以v刑。民免而無v恥。道v之以v徳。齊v之以v禮。有v恥且格。」
 
と御座ります。茲にて政〔右○〕と申しまするは、狹義に使ひまする意味で御座りまして、即ち法の事で御座ります。之〔右○〕れは人民を斥しまする言葉で、上にある人が法を以て人民を導びき、又た人民善なるもの不善なるも無く皆一樣に善人たらしめる爲め、刑を用ゐまするときは、人民は法を畏れ刑を畏れまして、之れにかゝる事が御座りませず、故に「民免」と申します。此れは誠に結構の事では御座りますが、一體、免は「苟免也〔三字右○〕」と注にも御座りまして、唯國法の制裁を受けさへ〔四字傍点〕致しませぬければ、其れで宜敷と相考へまする丈で、法を犯しまする本心は、矢張り依然として持つて居ります。それで御座りまする故、若し國法をくゞりまする機會さへ御座りますれば、再たび惡事を働きまするかも謀られませぬ。それで「民免而無恥〔五字右○〕」と御座ります。法を犯し之れに觸るゝ事は御座りませいでも、惜哉、法を犯し之れに觸れまする事を恥〔右○〕と致す心が起りませぬ。それで御座りまするから、或時は法〔右○〕を犯しませぬけれども、法に不備の點が御座りまして、之れを潜りまする事が出來ますれば、法の制裁を受けませぬ範圍に、種種の惡事を働きます。それで又た一方では、法の不備の點のないやうに、法を立てますれども、人の智惠も同時に發達致しまして、之れを潜る事に骨折るやうに相成ります。之れに反し君主より道、即ち道徳を以て人民を導びき、又た君徳の外にあらはれたるものと相考へまする禮〔右○〕、即ち文化的の施設により、積極的に民心を正しき方に御誘ひになれば、假令其の效果は緩慢に御座り(48)ましても、形の上に於いて國法に背きませぬ計りでなく、國法を犯しまする事を恥辱と心得、良心よりどう致しても出來ませぬ。皆善と申しまする軌道の上に載つて參りまするより、之れを「有恥且格」と申したる次第で御座りまする。勿論孔子と致しましても、決して法を輕視致した譯では御座りませぬ。國家は一日も法なくして立ちまするものでは御座りませぬ。又た上古素撲人心淳厚のときには、法は極めて簡單に御座りますれども、世の進むに從ひ、人事が複雜と相成れば、法も緻密になつて參りますれども、法が緻密に成ればなりまする丈、法計りではそれが行はれませぬ。即ち法を受けましても「民免而無恥」と申す結果に相成ります。法が緻密になればなります丈、それと同程度に人の道徳が向上致して、獨り之れが法をして其の活用を全たからしむ計りにては御座りませず、寧ろ法なるものを徳治の補助となしまするやうに致さねばならぬと論じまするのが、儒學の立場で御座ります。
 今ま一つ儒學の方で徳治を重んじまする譯は、前にも申上げましたる如く、儒學の方では、家族の考へが本となつて居りまして、一國でも天下でも、家族を模型として出來たるもの、或は家族の延長と相考へまして、單位の小家族〔三字傍点〕に父母が居りまするが、一國天下と申す一大家族に君がありまして、それが恰も単位の一家族の父母に當るものと相考へます。それで君は民の父母など申す吉葉が御座ります。あれは決して君が父母の子に對する如き情を御持ちにならねばならぬといふ丈の意味では御座りませぬ。君は即〔右◎〕ち民の父母であると、君民の關係を述べましたるもので御座りまして、凡べて儒學(49)の倫理上の教へは、それから割出して居りまする。然るに、この單位の小家族、即ち普通の意味で申しまする一家族の内にて、毎日の生活が何如なる具合に行はれまするかと申しますれば、父子兄弟夫婦の間、常に權利義務の觀念を有して、それが互ひに彼等を結付けて居りまするものでは御座りませぬ。又た勿論家族内に於いて、國家の法律のやうなるものを立て、それに拘束致されて生活致しまする譯では御座りませぬ。然らば何を以て之れを結合仕りまするかと申せば、父子兄弟夫婦間の情愛〔二字右○〕で御座ります。前囘に申上げましたる仁〔右○〕の大徳につき、「孝弟也者。其爲2仁之本1與」と申しましたる有若が言葉の通り、この人の持ちまする仁徳〔二字右○〕が、最も能くあらはれまするは家族内で御座りまして、若しこの情が薄く、又た全く御座りませぬならば、家族の存立は出來ませぬ事は明らかで御座ります。戰國の末に韓非と申しまする學者が御座ります。此れは極端なる儒學嫌で御座りまする故、從つて儒家の家族を重んじまする主義にも反對し、かういふ事を申述べて居ります。韓非申しまするに、「茲に不良の子が御座りまして、父母之れを訓誡し、郷黨之れを責め、師長之れを教へて、毫しも改めませぬものを。州郡の史が法を以て之れに臨み、之れを拘引仕つたら、忽ちにして縮み上りて、文母郷人師長〔六字傍線〕などが何加に骨を折りましても感化出來ませぬものを、法を以て一朝にして其の行を改むる事を得まする。それから考へますれば、父母の愛が子の教育上に役立ゝぬのは此の如し云云」と申して居ります。此れは韓非の極端の言方で御座りまして、韓非は愛情と申す事を姑息の愛、道義の心の交りませぬ初めから惡いものと相考へて居ります。若し情理〔二字右○〕均しく供はりまして、其の子を訓誡致しま(50)したら、不良の子でも或る程度まで直りませぬ道理は御座りませぬ。尤も世間には父母が立派でも、何如に立派な法がありましても、世に法を犯すものあると同じく、不良の子が出來まする事は御座りまするが、韓非の如く總べて父母の愛は子の教育に何等の效用なしと申し、又た同時に法を極端に重んじ、一日でも監獄に入れましたならば、不良の子が直に善人となるやうに申して居りますが、さやうな理窟は御座りませぬ。韓非の擧げましたる例は、愛が御座りましても、それは高高子を愛しまする如き、極めて低級の愛で御座りまするが、情と理と均しく備はりましたら、かゝる弊害の御座ります譯は御座りませぬ。
 さて儒家に於きましては、前に申しまする如く、一國も天下も一の大なる家族と相考へ、君臣の關係も、天子の關係も同一と相考へまする。それで若し一家族のもの共を結付けまする最大なるものが愛〔右○〕即ち愛情とあると同樣に、君民の堅き結合は、父子と同じき愛即ち愛情が基礎とならなければ相成りませぬといふ考へから、此の徳治主義を倡へまする譯合で御座ります。儒學の徳治主義に對し法治主義を倡へまするものは、君臣の愛情などは政治には無用のものにて、寧ろ法の正しく行はれまする事を阻害致すものと考へて居ります。昔儒學の曰傳ふる聖代の御世に、司寇(司法大臣)が刑を行ひまするときは、君此れが爲めに御遠慮ありて樂を擧げられず、死刑の報を聞召すときは、爲めに涕を流されたといふ事が御座ります。必竟、其の罪を惡み其の人を惡み給はざる仁心より發するものとなつて居りまするが、韓非はこれを例に取り、君が樂を擧げず涕を流し玉ふは、仁と謂ふべし。然れども、(51)之れを以て國法を抂ぐる事能はざるにあらずや。然らば君の仁〔右○〕と國法〔二字右○〕とを比較して、國法重きにあらずやと申して居ります。併し儒學の方でも、國法を輕視仕る事は御座りませぬ。唯儒學の方では、法を〔二字右○〕勵行は致しまするが、其の間に温い情愛が御座ります。父母が子を叱責致すにも、其處に無限の慈悲心が籠りて居ります。法家の考へ方に致しては、罪を犯しましたるものが、刑を蒙りまする事は必然〔二字右○〕の事にて、それは刑に觸れまする本人が惡いからと致し〔刑に〜傍点〕、全く冷淡なる態度を以て之れに向ひます。即ち、其處に徳治と刑治の差を生じまする次第で御座ります。
 
      三 儒學の天下思想
 
 
 此れより儒學の天下思想に就き申上げます。一體、支那の古典には、天下〔二字右○〕と申しまする言葉と國〔右○〕と申しまする言葉が御座りまして、或時は天下と申し、國と申し、其の意味が同一の事も御座りますが、本來の事を申上げますれば、大變違つて居ります。第一天下は帝王即ち天子の統御なさる所で御座りまして、國と申しますれば、天子より封土を受けて民を治めまする諸侯の領地で御座ります。孔子が出ましたる周代には、右の如く上に周の天子をいたゞき、其の下に公侯伯子男〔五字右○〕に分れましたる、即ち五等の國が御座りまして、公侯は方百里〔二字傍線〕、伯七十里〔三字傍線〕、子男五十里〔三字傍線〕とちやんと其の領土も極り、かゝるもの澤山散布仕つて居りましたが、此れを國〔右○〕と申します。已に國で御座りまする以上は、東は何處ま(52)で、西は何處まで、南北は何處までと、地理上の區劃境界〔四字右○〕がちやんと極つて居りまするが、天子の統御し玉ふ天下は〔天子〜傍点〕之れと違ひまして、所謂日月の照らしまする所、霜露の墜ちます所で、何處から何處までと申す地理上の區劃境界は御座りませぬ。「普天之下莫v非2王土1。率土之濱莫v非2王臣1〔普天〜傍点〕。」と、詩經の詩人も歌ひましたる如く、天下と申しますれば、地理の上より考へまして、實に漠然たる言葉で御座ります〔實に〜傍点〕。又た同時に「國」と申せば、或限られましたる領土で御座りまして、已に一國が御座りまする以上、他にかゝる國が澤山並存仕る事は申しませいでも明らかで御座りまする。已に天下と申しますれば、二つ以上の天下が御座りまする事は考へられぬ次第で御座ります。尤も周の時代には、地理上の智識極めて幼稚で御座りまして、唯今の支那本部に關しまするもの丈に精確なる智議を持ち合はせ居らざりしものと考へられまする。天下即ち世界は一の帝王が統御さるべきものと相考へて居りました。他に文化の點に於いて支那に并ぶ國がなかつた。若し世界帝國主義〔八字傍点〕とでも申しまする言葉が御座りましたらば、恰も之れに當りまするもので御座ります。孟子に「天無2二日1。民無2二王1。」と御座りまするも同樣の事を申しましたもので御座ります。此の天下一王主義〔六字右○〕、世界帝國主義は前囘に申上げましたる支那儒學の見ましたる帝王の地位より來りましたるものに御座ります。若し帝王は天下の主と文字通り解釋仕り、己れの國と同等對立の國を認めませぬならば、誠に侵略的〔三字右○〕なる危險なる主義と相考ふる事が出來まする。若し左樣で御座りましたらば、古より雄才大略の君主が、天下を己れの支配の下に置かむと致しましたる例は、東西の史乘に相見えて居りますが、此れ等の君主が試みましたる(53)所と、其の形が似通ひ居りまするやうに相考へられまするが、其の實は恰も氷炭の如く相同じからず、全く正反對のもので御座ります。
 それは何如なる次第で御座りまするかを申上げますれば、此れ等の君主が試みましたるものは、武力兵力〔四字傍線〕を持ちまして、無理に宇内を其の支配の下に置かむと致しましたるもので、それで御座りまする故、若し一旦成功致しましても、壓抑仕りまする力が弛みまするか、無くなりますれば、折角建設仕りましたる大帝國も、忽ち迹なく消去ります。「アレクサンドル」の歿後、成吉思汗の歿後など、其の適例で御座ります。儒學の天下思想は全く之れと違ひまするもので、凡そ此れ等武力兵力のみにより、領土を擴げまする慾望より、他を侵略致しまするのを、覇道と申し、王道と反對のものに相考へます。孟子が「以v力假v仁者覇。以v徳行v仁者王。」と申しましたる如く、唯「仁」と申しまする美名を表面の飾りと致し、其の實は「力」のみを以て目的を達する道具と致しまする態度を覇道と申しまする。儒學に於きまする天下の思想は、之れと異なりまして、前に申上げまする如く、帝王は聰明睿智、一般のものに御優れになり、天に代りて教養をなさるゝ御方なれば、天が内外遠近の別なく之れを掩ひまするやうに、帝王のしろしめす所、土地に限りは御座りませぬ。其の點より申しますれば、前申上げましたる武力兵力を以て、宇宙帝國を建設致さむと致しましたる人人の考へと同樣に御座りますれども、儒學の方では、武力兵力を以て強制的に歸服させようと致しませぬ。帝國の御徳が光曜きまして、普ねく内外四方を照らし、もつと詳しく申上げますれば、帝王の御徳が制度文物〔四字右○〕の上(54)にあらはれましたるものを禮〔右○〕と申します。即ち今日の言葉を以て申上げますれば、文化〔二字右○〕と申すやうな意味に相成りまするが、この帝王の文化が燦然と立派であり、それが帝王の畿内、即ち御膝元に於いて、尤も光を放つ事は勿論で御坐りまするが、帝王の徳が廣大で、又た其の化が優越致しましたもので御座りますれば、それ丈、其の及びまする影響が廣く、畿内より萬國〔二字右○〕と申すやうに擴がりまする。又た之れを擴げるべきものと致しましたるもので、此の理想を尤も能く言表はしましたるは、尚書堯典の首節に、堯の徳を美めまして、「光2被四表1(東西南北)。格2于上下1。」と御座りまする文句が、即ち之れに當りまする。即ち同じく天下思想と申しましても、其の方法目的〔六字傍点〕が違ひます。兵力武力のみに由りまする遣方は、一時に功を成す事は御座りましても、其の反對が參りまする處がありまする。儒學の天下思想はさうで御座りませず、帝王の文化(即ち聲教)が廣く世界に及びまするは、恰も水が物に染込みまするが如く、極めて徐徐〔二字右○〕で御座りますれども、それが自然と近きより遠きに及びます。固より天下は廣く、人民は衆く御座りまする故、法制的〔三字傍線〕に之れを統一仕る事は困難で御座りますが、法制的に統一致せずとも、唯帝王の徳が之れに及び、言を換へて申上げますれば、文化が普ねく四方に及びて、其の天下皆之れにそみましたらば、それで滿足致し、又た之れに反し、若しそれが廣く及びませぬ場合には、帝王の徳足らず、文化に於いて未だ十分ならずと考へられ、益々其の徳を修め文化を盛にすべきものと致し、妄りに武力を用うることを誡めましたものが、此の天下思想で御座ります。
(55) 昔し漢明帝のとき天下太平にして、學問甚だ盛に致し、天子自ら辟雍と申す大學に於いて、親ら經を講じて、羣臣に拜聽を許るされしが、其の數多く中に入る事を得ず、内外まで充滿仕つた事が記載され、匈奴のエビスまで、其の子を大學に送り入學せしめたと申す事を、史家が口を極めて讃歎致して居ります。かゝる具合に文化〔二字右○〕が遠方までも及び、帝王を以て其の文化の宗主とさへ認めますれば、其れ以上は干渉仕りませぬ。昔し支那に於いて朝鮮安南等を屬國と考へましたるも、右の譯合で御座ります。
 又たかくの如く帝王は當然天下の主で御座りますれども、徳の大小文化の何如によりまして、其の範圍が廣くも狹くも相成り〔其の〜傍点〕、又た狹くなりましても、無理に之れを廣くすべきものと致しませぬ。それで支那で申しまする天下は、地理の上より申しまして、極めて漠然たるもので護謨玉の如きものにて、伸びまする事も縮みまする事も出來ます。此れは理論上より推しましたる事で御座りますが、歴史上の事實より申上げますれば、或場合には東は朝鮮、南は安南、西は中央亞細亞、北はシベリヤ(元の事は此こに申上げませぬ)までに光被致したる事も御座り、又た或時代には、支那本部に止まり、甚しきは江南以南の地に帝位を擁したる人も御座ります。歴史上より申しますれば、疆域が廣がりまするは、唯其の文化が擴がりまする丈では御座りませぬ。兵力を用ゐましたる事は勿論で御座りますますれども〔疆域〜傍線〕、表面上は之〔五字傍点〕れを以て武力の征服とは致しませぬ。其の時代の帝王の徳或は文化が自然に〔三字右○〕天下に擴がつたと見〔九字傍点〕、武力は恰も徳治と法治に於きますると同一の關係に相考へ、唯其の補助に過ぎ(56)ぬと致しますが、此れは儒學の天下思想より參りましたるもので、支那〔二字右○〕に於きまして、其の帝王を特殊の地位に居らるゝものと相考へましたに關はらず、それが無暗に世界征服主義〔六字右○〕と相成りませなかつた理由は、亦た其の政治に關する理想から參りましたる譯で御座ります。
 右の事を申上げまするにつき、支那に於いて華夷と申す言葉が御座りまする事を申上げます。或は華夏とも夷狄とも申します。これは前に申上げましたる、支那人が考へましたる天下の内に、華〔右○〕(即ち中國)と夷との部分が御座ります。此れは一方より見ますれば、華は漢人種、夷は非漢人種で、人種の區別で御座りますれども、元來支那人には、人種的の差別觀念は、割合に少ないので御座りまして、漢唐の如く、其の所謂天下が非常に擴大致しまして、漢人の文化の勢力が盛んになりまするときは、華夷〔二字右○〕の別を立てませぬ。漢人で御座りませぬものも、漢人と同樣に取扱ひを致し、非漢人にて高位大官に至りたるものも澤山御座ります。之れに反し、漢人の建てましたる國が異人種によりて壓迫されまする場合には、人種的差別の念が旺盛に相成ります。南北朝に於ける南朝、遼金元に對する宋、又近代の支那〔六字右○〕が即ちそれで御座ります。左樣で御座りませず、其の國力が盛んで文化が遠く及びまするときは、漢人種との區別を屏去り〔漢人〜右○〕、異人種を攝出する雅量を有して居ります。此れも其の天下思想より參りまする結果で御座りまして、已に同じく一の帝王の下にあるべきものなれば、自他を區別する必要は御座りませぬ。かゝる場合には「華夷」とは元來は人種の區別で御座りますれども、此の考へを去りまして文野の區別と致します。華〔右○〕は王化の及び文化の及んだ所、夷は王化文化の及ぶ事少な(57)く、又た全く及ばぬ所をさすわけで御座ります。即ち縱令異人種で御座りましても、帝王の徳が及び、文化が及んだ所で御座りますれば、之れを華と申し、又た漢人種で御座りましても、王化に浴せず、文化のない所で御座りましたらば、之れを夷と申す事が出來まする次第で、唯簡單に漢人たるが故に、之れを華といひて尊び、漢人ならざるが故に、之れを夷と申して輕んじまする譯では御座りませぬ。孔子が作りましたる春秋が即ちさうで御座りまして、漢人の國で御座りましても、其の君の行が禮義を失うて居りましたる故、夷の待遇を與へ、又た漢人にあらざるものでも、其の國君の禮義が立派で御座りますれば、是れを文化ある國と致し、華の待遇を與へて居ります。
 そこで此の華夷の關係で御座りますが、或時代に於きまして、王化が衰へ〔五字右○〕、夷が我儘勝手の事を致し、暴力を以て支那人の所謂中國に入らむと致しまするときは、之れを攘はねばなりませぬ。孔子の春秋を見ますれば、攘夷〔二字傍点〕を致しましたる人を、大變に賞めて居りまする。それは王化に背き、文化を破壞致しまする故、之れを攘ひまする事で御座ります。然るを此の攘と申しまする事は、恰も惡い人體に害を與へまする蟲が飛んで參りましたる、之れを排除けようとて、徹底的に何處までも征討致しまする事では御座りませぬ。決して一國〔二字右○〕が他國〔二字右○〕と相爭ひまするやうに相手向きとなりて之れに對しませぬ。前に申上げましたる如く、夷と申しましても、同じく天子の治めらるべき天下の内であり、但王化未だ及びませぬ所から、中國を犯しまするから、之れを攘ひは致しますれども、元來は王者の敵では御座りませぬ。それで其れが害を致しませぬ範圖に於いては其の儘に放任し、自然にそれが王化(58)を受くるに至るを待ち、妄りに力を用ゐて之れを支配の下に置く事を務むべきものでないと致して御座ります。此の事を稱して「王者不v治2夷秋1」などゝ申します。かゝる鹽梅で御座りますから、支那の儒教に於きまする天下思想は、言葉丈では侵略的のやうに相聞えまするが、甚だ平和のもので御座りまして、實際支那歴代の君主にて、平和の手段に出ませいで、武力を以て遠方を征服せむと計劃致し、又た之れを實行致したるものも少なく御座りませぬが、儒家の議論と致しては、之れを惡い事と致し、或は之れを諌め、又た後世の歴史に書きまする場合に、其の事を非難致して居ります。
 此の天下思想は儒學の政治に關する理想より出ましたものにて、誠に高遠なるもので御座りまするが、後世には此れに伴なひまする色色の弊も御座りました。第一はこの天下の思想より致し〔九字右○〕、中國夷狄と天子の居られる場處からの遠近によりで區別をつけ、極めて尊大に構へ、歐米諸國と國交を致すやうに相成りましても、昔より持つて居りましたる天下思想より致して、之れを夷狄と見做し、其の長處を取りまする考へが起りませず、自ら其の古來文明のみを誇りまする結果、頑冥と相成り世界の進歩に遲くれましたる事、今ま一つはこの天下思想より致し、支那民族に愛國心と申すもの極めて薄く御座りました〔この〜右○〕。申し上げまするまでも無之、國と國と相并び、他國の侵略を受けまい、己れの國土を守りたいと、互ひに競争致しまする所より愛國心が起ります次第で御座りまするが、前に申上げます如く、己れ自ら天下と心得、國と申しまする考へが御座りません。孔子のときは封建時代にて、天(59)子の下に澤山の國が御座りましたが、秦漢以來は唯天下あつて國は御座りませぬ。夷狄と申すも、この天下の内にて、唯王化の及ばぬ所であれば、之れを相手向にすべきものではないと相考へて居りました。かゝる有樣に御座りますれば、現代國家に於きまして、各國民が持ちまするやうな愛國心が御座りまする譯は御座りませぬ。清朝の初めより、歐洲の勢力が段段支那に加はりました。対那人より見ますれば〔十字傍線〕所謂夷狄で御座りまする故、勿論同等の待遇を與へず、「王者不治夷狄」の主義を以て之れに對しましたが、益々勢力が強くなりましたる所から、之れを攘ひましたが、攘ひきれませず、段段土地を取られまして、支那人自身、其の天下は元來境界のなきもので御座りましたが、歐洲に土地を取られましたる事よりして、支那の土地が何處から何處までと申す事が外國より教えられたりして、初めて國の觀念が出來て參りました。
 今一つは尚武の精神に缺けて居、夷狄に對しては成るべく之れを相手に致しませず、已むを得ざる場合に打拂ひまするといふ位の考へで御座りまする。それで御座りまするゆえ、現代國家に於いて、各國民が持つて居りまする愛國心が非常に缺乏仕りましたるものと相考へまする。又たこの特殊なる天下の思想より致し、武力を尚びまする精神に缺けて居り〔武力〜右○〕、國を守りますは武力に頼らんければ、相成りませぬが、天下思想より致しますれば、何處から何處までと申しまする國の考へが御座りませず、又た武力を以て疆土を擴げまする事を極端に惡徳と考へましたる所より、此の尚武の精神を失ひましたる事は當然と相考へます。
 
(60) (補注) 欄外に「天下を愛しますと共に魯を愛し、…‥併しこれは孔子の考へ※[五字□で囲む]は愛國家〔三字右○〕、且尚武、……其の弟子等も魯を愛して居りました。(六藝は射〔右○〕を、……)」とあり。
 
 秦漢以後に於きまして、支那が一大帝國と相成り、又た之れと壤接しまする所に三方共國力に於いても、文化の點に於いても到底匹敵すべきものなく、支那は即ち天下で御座りまするやうな觀を呈し、そのために儒學の政治に關する理想〔儒學〜傍点〕の一方面が高調されるやうに相成りましたものと相考へまする。
 
      四 民意の尊重
 
 此れより儒學にて申す民意の尊重といふ事を申上げます。上に申上げましたる通り、帝王の政治は民の教養をなさるゝ事で御座りまして、政治は全く人民の爲めに行はるゝもので、人民なくて政治ある譯は御座りませぬ。能く民意のある所を御洞察になり、其の政治が民意と違はぬやうになされる事が、必要で御座ります。それで儒學に於きましては、民の好む所を好み、民の惡む所を惡むを以て、政治の要諦と致して御座ります。それで儒學では、政治の上に於いて何如に致すべきかと疑問〔二字右○〕が起りましたるとき、之れを庶民に問ふと申す事が御座ります。尚書洪範によりますれば、之れを問ひまする相手が、龜、筮、卿士、庶民と四つ御座ります。即ち或事柄につき、君はかく致すべきと考へられても、猶ほ決定に至らざるとき、之れを龜に問〔六字傍点〕はれましても「吉」と出ます。又た筮に問はれまして(61)も「吉」と出ます。此次は卿士即ち百官に問はれましても、君の考へに賛成仕り、又た庶民即ち民衆に問はれましても、君の考へに賛成仕りましたるときは、之れを「大同」と申し、此れより芽出度事は之れなく、必ず君主の考へたる事は成效致すと申しまする意味の文句が御座ります。古昔人心純朴で御座りまして、國の大事となりますれば、龜の甲を灼《や》き、或は筮竹によりて吉凶を知らむ事を務めます。又た百官に對し、此の事は何如あるべきやと問はれまする。此れも尤の事で御座りますが、其の外に庶民〔二字右○〕が居ります。即ち君の考へを決定致しまするには、龜筮の占や、百官の意見と、同一の重さ〔二字右○〕を持ちて居ましたもので御座ります。洪範は、周初に出來ましたる篇で御座りますが、其の中に庶民〔二字右○〕の文字あらはれ、又た右申上げまする如く、國の疑事は庶民まで其の意見を聽くべきものとなつて居りまする。それから周官秋官の内に、小司寇〔三字傍線〕(司法次官)と申す官が御座りまして、此れは王が庶民の意見を問はれまする爲め、庶民を招集し會議を開かれまするが、此れに關する一切の事務を掌るもので御座ります。其の條に王が庶民に問はれまする事項を記して御座ります。即ち第一は「詢2國危〔三字右○〕1」と御座ります。即ち軍が起〔三字傍線〕り都が危くなりましたる場合で御座ります。第二は「詢2國遷1」此れは遷都の事で御座ります。遷都は唯宗廟朝廷が遷ります計りで御座りませぬ。庶民も隨つて遷りまする事にて、彼れ等の利害に關する所極めて重大で御座りまする故、庶民の意見を徴せられまする。第三は「詢2立君1」と申す事で御座ります。凡そ君は即ち皇后の出が順次に立たれまするのが順當で御座りますが、嫡后の出に無之、庶出の場合に御座りましたらば、澤山の方の内より、賢者〔二字右○〕を立つべきであ(62)ります。此のときは、庶民の意見まで徴せられる事となつて居ります。此れは周禮と申しまする制度の條文で御座りまするが、古い時代の歴史を攷へましても、かゝる場合に王、或は諸侯が、それ/”\庶民を招集仕りましたる事が載つて居ります。勿論、此れは百官をさし置いて、庶民の意見を問はれまする譯では御座りませぬ。百官に諮詢されまするのは申すまでも御座りませぬ。猶ほ民意を重んぜられ之れに問はれまする。支那に於きましても清朝の末、歐米及び御國の制に※[人偏+效]ひ、議會を開かねばならぬと申しまする議論が朝野の間に起りましたが、當時の舊學問を致しましたるものは、何ぞ議會などゝ申して、範を外國に取る要あらむ、昔より我國には議會はありしなりと申し、此の周禮の本文を證據にして議論仕りまして御座りますが、此れはこぢ付で御座りまして、其の性質が違つて居ります。第一、前に申上げましたる通り、庶民の會議に上されまする案は、唯三條に過ぎませぬ。
 第二は此の三條につき、唯庶民の意見を御問になります。周禮の本文には唯詢ふとなつて居、今「御諮詢〔三字右○〕」と申しまする言葉の詢字を遣かつて御座りまして、決してそれが君主を拘束したてまつるものでは御座りませぬ。それを御採用になりますると否は、君主の勝手で御座ります。これにつきまして、例へば遷都の事で御座りまするが、昔殷に盤庚と申す賢王が御座りましたが、屡々水害が御座りました故、遷都の計を立てられましたが、庶民は皆父祖以來住慣れましたる所を去る事を厭ひ、容易に之れに從ひませぬ。それで王は懇に利害を説勸められ庶民の反對に關はらず遷都を決行されました。其の庶民を訓誡されましたる言葉が尚書盤庚と申す篇に載つて居ります。この事實より考へまし(63)ても、周禮に見えましたる「詢萬民」と申しまする事が、諮詢に止まり、若し君が明らかに其の言ふ所不可と思はれましたるときは、必ずしも之れに從ふを要しませぬ事が分ります。又た孟子の内にかく申しまする言葉が御座ります。これは孟子が齊宣王に人を用ゐ、人を罰しまする人君の心得を説き、「此に一人が御座りまして、王の左右のもの此れは賢者なれば御用ゐなさるやうと申しても、直ちに用ゐ玉ふべからす、諸大夫亦同樣に申しても直ちに用ゐ玉ふべからず、國人皆な此れは賢者なりと申したる後、能く御自身に其の人を御調らべになり、其の賢なるを御見極めの上、始めて之れを用ゐ玉へと申し、不賢者を去り、罪人を殺しまするときにも、最後に國人の意見に徴し、然後君御自身でこれを調らべ、其の去るべきか殺すべきかを見極めて之れを決し玉へ。」と申して居ります。孟子は儒家の中にでも、民意尊重と申す事を八釜敷説きましたるもので御座りますれど、廣く國人の意見を徴し、然後君主自ら最後の判斷をなすべしと申し、民意ならば是否均しく從はざるべからずとは申して居りませぬ。即ち政治は民の爲めの政治で御座りまする事は勿論で御座りますれども、民によりて爲されるものとは決して相考へませぬ次第で御座ります。是れは大昔支那儒學の政治に關しまする思想で御座ります。
 然らばかゝる思想は何如なる點より起りまするかと申せば、矢張り前に申述べましたる、儒學の徳治主義より參ります。即ち帝〔右○〕王が自ら其の徳を修め、之れを以て民を善に導き、諸侯卿大夫等皆な其の徳を修めて上御一人を輔翼すべきもので御座りまして、天子は勿論、諸侯卿大夫等總べて賢者であ(64)り、賢者が上に居りまする、又たさうなるべきと申す前提を致して居りまする。已に賢者で御座りますれば、一般の庶民よりも事物の智識を餘計に備へて居るもので御座ります。それで、庶民は假令多數で御座りましても、其の考へが必ず正しきとは申されませぬ。多數の考へと申しまするものは、其の時の具合にて附和雷同致す事が御座ります。それで政治をなすに當り、民意が那邊にあるかを知る事は、極めて必要で御座りますれども、民意が間違つて居りまして、實際それが人民の爲めにならぬと考へられましたら、必ずしも之れに從ふを要しませぬ。即ち君主は先頭に立ちて、民をして向ふ所を知らしめ、之れに從はしむる御方と致し〔即ち〜右○〕、反對に民が先頭に立ちて、君主が之れに從ふものと考へませぬ。
 今ま一つ申上げまするは、この民意と申す事で御座りますが、儒學の考へ方から致しますれば、民意は即ち天意などゝ申し、これは天下の人心が皆一致したときの事で〔民意〜右○〕、誠に間違ない正しきもので御座りますれども、實際に就いて申しますれば、民意が區區に別れまする事が御座ります。清初に出ましたる黄宗羲が申しまする如く、凡て人には利害の觀念が御座りまして、それで相互ひに利害の衝突が御座ります〔凡て〜傍点〕。又た之れを階級と致して考へましても、富〔右◎〕者と貧〔右◎〕者と申しまする具合に、利害相反するものが御座りまして、廣い意味に於きまする民意の何れにあるか分れ兼ねまする場合が澤山御座ります。それは貧者〔二字右○〕は貧者〔二字右○〕の利晋、富者は富者の利害、貴族は平民は、商工は農はと申しまする具合に、團體的にも個人的にも、自己の立場、自己の利害を標準として議論を致しまするから、必ず議論が分(65)れて參ります。それで若し右の階級の中の、何れにかに居りましたら、自然心が片寄りまして、何れの主張が正しきか判斷仕る事は困難で御座ります。それで儒學の考へ方に致しましては、爰に一人ありて、其の人は此れ等の内の何れにも入らず、自己の利害と申す考へが全く之れなく、唯天下全體の利害〔二字傍点〕と申す事を考へ、出來る丈各團體或は個人の利害を調和し、一方に偏する事ないやうにされる方が無くではなりませぬ。儒學の方で申しますれば、それが即ち帝王〔四字右○〕、一國で申しますれば君主で御座りまして、之れ〔二字傍点〕を輔佐し奉る百官も亦左樣でなくては相成らぬと致したもので御座ります。尚書洪範に王道を説きまして、「無v偏無v黨。王道蕩蕩。無v黨無v偏。王道平平。」と御座ります。即ち人君が一方に御偏りにならぬ、一方のみを御好みなされ、之れに御近づき遊ばさる事なければ、王道は何等の障害が御座りませぬ事を申しましたるもので、此の天下の公を御持ちになりまするは帝王にて、又た天下の公を御持ちなさるゝには民意を御案じなさるゝ事は勿論で御座りますけれども、眞の民意は前に申上げまする如く、分り難きもので御座りますから、何處までも帝王が聰明睿智の徳を以て、帝王の方から、常に下民を御指導に相成るべきものと致したのが、儒學の政治に關する理想で御座ります。近頃支那に於いて、人心の變動が盛んで御座りまして、反儒學の思想も段段蔓延致して參りましたが、要するに、此れ等の點、即ち天下の政治は帝王より出づべきもの、家の政は父より出づべきものと致す思想に反對致すので御座ります。
 以上申上げましたるは、儒學の理想〔二字右○〕で御座ります。理想で御座りますれば、それで果して完全に行(66)はれましたと申す事は無い譯で御座ります。尤も孔子はこの理想を述べまする事に、堯舜の代はかく、文武の代はかくと申しまして、事實上かゝる黄金時代が御座りましたるやうに申して居りますが、其の當否は別と致しまして、儒學の方では此れ等の帝王は所謂聖人にて、完全無缺で御座りますが、後世の帝王は之れを學び、其の理想に向つて進み玉ふべきものと致し、又た臣下が天子を輔翼致しまするのも、要するに我君古の聖人と同等になり玉ひまするやうに努力仕る事で御座りまして、「君を堯舜に致す」と申す事が又た臣下の理想と致しましたる所で御座ります。尤も孔子は此の理想を抱きながら、之れを實際に施さむとせしが、不幸にして時の君に用ゐられず、又た孟子の時代は孔子時代よりも社會の事情が變りまして、政治道徳との問題につきましても、諸子の學派盛んに起り、儒學を攻撃し、又た當時の君も儒學の説きまする處は理想に偏し、實際に迂いと申して、之れを用ゐませず終りましたが、漢の時、儒學が復興致して、理論上に於きまして、政治は總べて儒學に準據して行はるゝものと相成り、制度法令も亦た前に申上げました通りに、此れを本として編纂されまして御座ります。勿論〔儒學が〜右○〕、漢より今日まで二千有餘年の間には、治亂迭ひに御座りまして、此の理想が全く實現されませぬ時代も御座りましたが、又た同時に漢光武の建武、明帝の永平、唐太宗の貞觀、宋仁宗の慶暦、明の孝宗の弘治、清聖祖の康煕、高宗の乾隆と申しまする如き、立派な治平の世も御座りました。勿論此れ等の帝王に就きまして非難を致しますれば、闕典が全く御座りませぬとは申上げられませぬけれども、兎も角眞面目にこの理想を以て政をなされ、又た臣下もこの理想を以て天子を輔けましたから(67)で御座りました。又た同時に亂世と申せば、屹とこの理想が上下になくなりましたる時で御座ります。然るに從來はこの理想が其の行はれますると否とに論なく、別に此の理想或は政治の主義に對し、大膽に批評を仕り、其の考へが間違つて居りまするなどゝ申しまするものは御座りませぬ。何如なる暴君でも、又た惡しき政治家に致しても、この「政治の道」といふものに對して、大いに憚る所がありましたもので御座ります。然るに、清朝の末に相成りまして、段段思想上の變動が起りました。其の一を申上げますれば、光緒の末年に、改正法律編纂、此れは支那も治外法權を撤廢致しまするに、從來支那流の法律にては外國の承認を經る事が出來ぬと考へ、此の事業が創められましたるものと存じます。それで〔光緒〜右○〕宜統元年に修訂法律大臣より憲政編査館へ廻附仕り、それから此の草案が出來上りて、中央の官廳及び地方大官に之れを廻附され、其の意見を徴せられましたが、かゝる法律を行ひましたらば、數千年來の禮教風俗〔四字傍線〕を破壞〔三字右○〕致し、國家の基礎を危くするに至らむと申す反對の意見が多く、殊に學部【即ち御國で申せば文部省に相當】尚書は猛烈に反對意見を奏上致しました。即ち學部に於いて、教育の方針と致して居りまする所と、法律の〔教育〜右○〕規定とは矛盾致して居ると申すので御座ります。即ち支那固有の道徳と致しては、君父を重しとなす忠孝を除きて、これより大なる道徳は無い筈で御座りまするが、草案の方では、君父に對する犯罪の刑輕に失す、例へば妄りに山陵に立入るなど申す事は、重い罪になつて居りまするが、草案の方では罰金刑になつて居るは不都合である。又た民法の方にも子の財産、妻の財産などを認めて居りますが、支那從來未だ之れなかりし事にて、必竟かゝる法律が行はれましたらば、(68)家族制の破壞と相成るべしなどと、一一條文を擧げて之れを非難致し、資政院に於いても、中々矢釜しき問題と相成りましたが、遂に再たび修正致すことゝ相成り、修正致しましたるものに、法部に於いて再たび手を入れて、舊法律の精神を附加されまして、やつと實行されましたるものが、唯今の法律と相考へまする。此れは興味ある現象で御座りまして、前に申上げましたる徳治主義より致して、法治主義に移らむと致しまする過程、或はもつと精密に申上げますれば、支那流の政治理想、數千年鞏固に致して居りましたるものが、始めて動搖仕りましたものと見て差支なきかと存じます。
 それから幾年ならざる内に、支那の歴史上に未だ嘗つて御座りませぬ大變動起り、清室仆れ共和國と相成りました。或學者は、支那は從來革命の國柄で御座りますれば、此の度清室仆れ共和國と相成りましても、實質に於きましては、宋亡びて元となり、元より明に代りますると同樣に、極めて輕く相考へまするものが御座ります。勿論唯今中華民國と申しまするものが、眞に共和政體〔四字傍点〕の體裁具備仕らぬ事は申上げるまでも御座りませぬ。唯從來の革命と違ひまするのは、從來の革命は即改姓〔二字右○〕、天子の姓が變りまする丈で、政治〔二字右○〕の理想〔二字右○〕毫も改りませぬ。獨り變りませぬのみならず、一體支那にて革命の起りまする原因は、政治の理想が行はれませぬやうに相成り、國亂れますれば、新らしき代が起りまして、一度光を失ひましたる理想は、又た力を得まして、政治の上にあらはれると致しましたるもので御座ります。此の度の場合は全く違ひまして、理想〔二字右○〕其の物がなくなりました。政治道徳等すべての文化の源泉と相考へ、又た所謂自己の利害を忘れ、天下の利害を以て利害となす地位に御出になる(69)べき帝王がなくなられました。此れは堯舜以來支那の歴代には御座りませぬ變動と申して差文ないかと相考へます〔堯舜〜右○〕。前に申上げましたる通り、從來支那も亂世多く、また賢主計りありました譯では御座りませぬが、この政治の理想はかくあるべきと申す教へは動かすべからざるものと考へ、此れに對して多少でも憚かりて敢へて爲さゞる所が御座りましたが、それが全く地に墜ちましたる次第で御座ります。又た從來の革命は政治の革命で御座りまして、思想の革命では御座りませぬ。國の革命で、社會や家庭には何等の變動も御座りませぬ。然るに此の理想の變革より致し、家庭には家庭の革命、社會には社會の革命、或は又た文學革命なども起りまして御座ります。支那は國家と致して組織鞏固には御座りませねど《*》、家庭社會の團結力強く御座りまする故、別に心配は入りませぬやうに思はれ居りまして御座ります。近頃の樣子を見ますれば、唯破壞〔二字傍点〕の一方で前途誠に悲觀の至りに任へませぬが、是れは必竟前に申上げまする政治の理想がなくなりまして、從つて新らしき理想が起りませぬ故かと相考へます。
  * 原文「御座りますれど」とある。
 
 
  我國に於ける儒學の變遷
 
 昭和四年十一月十一日、二十五日進講
 
(73) 皇《オ》國に於きまする儒學變遷の大要を申上げます。元來支那に於きましても、儒學は時代により幾多の變遷をなして居ります。即ち漢の世より致しまして、唐・宋・元・明・清と時代を追うて幾多の變遷を致して居りまするが、それが亦其の時代に相當りまする皇《オ》國の儒學に影響を與へまする。例へば、皇國の學者が支那より傳はりましたる學説・學風を守りて居りまする所へ、彼の國に偉大い學者があらはれまして、儒學の上に大轉機を劃しますれば、その新しき學説學風が又た皇《オ》國に傳はりまして、學者相競うて其の方へ傾きまする。これは元來儒學が彼の國に起りて、皇國に傳はりましたるもので致方は御座りませぬが、又た皇國に於きまして、彼の國の儒學に關係御座りませず、皇國の儒學自體で、皇國の時代の關係、國情の何如により變遷を致して居りまするものも御座ります。其れ等の點を少し計り申上げまする心得で御座りまする。
 
(74)     一 第一期・儒學の渡來より奈良平安朝
 
 儒學の第一期、即ち儒學が始めて皇《オ》國に傳はりましたるは、朝廷に於かせられ、三韓支那の文物を御採用遊ばされましたる結果、彼の國文物の一要素として、皇國に傳はりましたるもので御座ります。凡そ彼の國の文物と申しますれば、種種御座りまするが、其の制度・法律に致しましても、文學・藝術に致しましても、儒學がすべて其の中枢と相成り、基礎をなして居りまする。それで彼の文物が我に傳はりまするにつき、儒學が同時に我に傳はり、朝廷に於かせられても、重く之れを御用ゐに相成りましたる譯で御座りまするから、此の時代即ち儒學が皇國に入りましてから、奈良平安朝に至るまでの間の儒學につきましては、一般に支那文化が我國に入りましたる有樣を申上げます。單に儒學のみに就いて申上ぐる事は出來兼まする次第で御座ります。
 儒學が始めて皇《オ》國へ傳はりましたるは、應神天皇の御宇、即ち帝の十五年に阿|直《チ》岐と申しまするもの、其の翌年に王仁と申すものが、百濟國より來朝仕り、太子菟道稚郎子を御教導申上げましたる事が、國史に相見え、誰れも承知仕つて居りまする事柄で御座ります。さて此の王仁と申しまするものは、桓武天皇の御時代に其の子孫に當りまするものが、祖先の系因を朝廷に申立てゝ居りまする所に据りますれば、元來王仁の家は、漢高祖の後で御座りまして、其の祖父に當りまするものまでは漢人(75)で御座りましたが、其のものゝ時代に百濟へ參り、百濟人と相成りました由を申上げて居りまする。若し此れを事實と致しますれば、相當な家柄で御座りまして、家に學問を傳へて居りましたるものと思はれまするし、又た百濟より儒學が傳はりましたる事に、形の上では成りて居りますれども、其の實は漢時代の儒學が、王仁によつて皇國に傳はりましたる事と存じまする。
 元來漢は支那に於きまして、儒學の復興時代で御座りまして、彼の國春秋時代より戰國時代にかけ、儒學を初め諸子百家の學が盛んに相成りましたるに、秦始皇の爲めに、一時すつかり絶滅されましたる所、漢の初めと相成り、秦の暴政より免かれましたるものが少し殘つて居りまして、壁の中にぬり込み、或は山巖の間に秘め置きましたるを取り出して人に教へました。それから、儒學又た其の他の學問が起りました。學問が幾派にも分れ思想が區區にては、政治の上にも具合が惡いと申して、學問の統一が行はれ、始めて儒學が朝廷より正統の學問と認められ、特別の保護を受けましたるのみならず、官吏を採用仕りまするにも、一一儒學によつて試驗を致し、此れに合格仕りましたるものが、丞相の位まで進みますると申す具合で御座りました。又た大學にも博士官を置き、一經專門と申しまして、五經の一一がそれ/”\專門に分れ、各々專門の學を以て博士が生徒に教授仕りましたるもので、儒學の點より申しますれば、漢が最も盛んな時代で御座ります。
 一體今日に至りまするまで、儒學を支那にては、漢學と宋學の二つに分けまする。又たこの漢に起りましたる漢學が、漢後六朝を經、唐に至りまするまで、引續き一の學風をなして居りまするから、(76)之れを漢唐學と申しまする。宋學は宋時代に漢唐學に對して起りましたるもので、其の學風が元明まで榮えましたるもので御座りまして、此の學派を宋明學と申しまする。それから清朝に相成りまして、儒學の上に復古の氣分が盛んに相成り、宋元以來の儒學の内には釋老の思想が加はり、純なるものに無き故、此れ等の思想を儒學の内より取除き、元の形に復しませんければならぬ、凡そ儒學をなすには漢まで溯りませないでは、本當の所が分らぬと申すもの出まして、清一代殊に乾隆・嘉慶以後、漢學が全盛を極めましたる次第で御座ります。それで時代より考へますれば、儒學の中にて漢學と申しますれば、極めて舊い學問のやうに思はれますれども、其の變遷の徑路より申上げますれば、現今では漢學が尤も新らしき學問と申す譯で御座ります。
 以上申上げましたる事は、支那に於きまする儒學の變遷で御座りまするが、この二つが、亦それぞれ皇《オ》國の儒學に影響を與へましたるもので御坐りまして、時代より申上げますれば、奈良朝・平安朝又たは其の後に相成りましても、朝廷に於いて御採用遊ばされ、又た清原・中原などゝ申して、公卿の内に儒學の家筋が御坐りまして、子孫相襲ぎ、儒學を以て御奉公致して居りましたるものは、皆この漢學若しくは漢唐學で御座りまする。又た宋學の方は、鎌倉の末より少し行はれ、足利時代には、五山の僧侶など之れを脩めましたる所、慶長以來江戸を中心と致し、諸藩に行はれましたるものは、多く宋學で御座ります。殊に寛政以後は、幕府より令を下しまして、宋學の中にても、殊に程朱學を尊びまして、昌平坂學問所、即ち昌平校の教官には、程朱學のもののみを用ゐまして、其の他の學派(77)のものは、之れを排斥致しましたる次第で御座ります。
 右の如く儒學に二つの大いなる學派が御座りまして、それ/”\特色が御座りまするが、其の事は後に申上げまする。さて前に申上げましたる王仁で御座りまするが、彼れの學問は何如なもので御座りましたる事か、一切相分りませぬが、其の家筋より又た時代より相考へまして、漢學を以て太子に御教授申上げましたる事と存じまする。又た古事記によりますれば、王仁來朝の折、論語十卷、千字文一卷〔九字右○〕を獻上致しました事が見えて居りまする。
 論語鄭玄注
 論語何晏集解
此れは皇國の記録に儒學の經籍の名が出て居りまする、最初のもので御座ります。さてこの阿直岐と申し、王仁と申し、兩人ながら皇《オ》國に歸化して朝廷に奉仕し、子孫長く家業を紹ぎましたるやうで御座りまして、王仁の子孫は文※[□で囲む]《フミ(マ、)》氏を名乘り、又た阿直岐の子孫は史※[□で囲む]《フヒト》の姓を賜はつて居りまする。つまり文氏、史姓の名は均しく文筆の事を掌りまする所より起りましたるもので、殊に、史《フヒト》姓を有ちましたるものは、阿直岐の子孫に限りませず、百濟・新羅・或は支那人にて皇國に歸化致したるものゝ子孫に、史姓※[二字□で囲む]を名乘りましたるものが澤山御座ります。それは一體漢字・漢文は外國のもので御座りまして、之れを讀み書き致しまする事は、皇《オ》國のものには非常に困難で御坐りましたる所より、外國歸化のものが之れに當りたる事と思はれます。履中天皇の御宇に、「始(テ)之於2諸國(ニ)1置(ク)2國|史《フヒトヲ》1」云云と御(78)座りまする。矢張り此れ等の歸化人を御用ゐに相成りましたる事と存じまするが、儒學〔二字右○〕も勿論此れ等のものゝ手に御座りました事と存じます。又た國史を見ますれば、百濟の國より五經博士・易博士・暦博士・醫博士〔五經〜傍線〕などを度度頁進仕りましたる事が御座ります。歸化の人、及び此れ等のものにより儒學が皇《オ》國の人に授けられたる事と存じまするが、この時分は恐らく高貴の方方の中にても、極めて少數で御座りましたる事と相考へまする。
 それより、餘程後に相成りまして、欽明天皇十三年に、同じく百濟國より佛教が傳はりました。當時百濟より上りましたる表文に、佛法の弘大なる事を述べましたる中に、「是法(ハ)於(イテ)2諸法(ノ)中(ニ)1最(モ)爲《タリ》2殊勝1。難v解難v入。周公孔子(ダモ)尚不v能v知。」と御座ります。「周公孔子尚不能知」と申して態々引合に出したのは、必竟周公・孔子の教の何如なるものなるかを、皇《オ》國に於いて已に承知致して居るものと相考へかゝる文句を入れましたもので御座ります。さて儒學は朝廷に於いて、早速之れを御採用あらせられましたが、佛教は左樣に參りませず、蘇我・物部・中臣等の間に、之れを入るゝ入れぬとの議論が起りましたが、用明天皇の御宇に相成りましては、御上にも之れを御信仰遊ばすやうに相成り、又た聖徳太子が佛教の大信者で在らせられましたる所より、蘇我氏と御結びに相成り、物部氏を御誄伐の結果、佛教が勝利を得ました譯で御座ります。
 それから、佛教が段段盛んになりましたる事にて、儒學は何加に成り行きましたるかと申しまするに、已に「周公孔子だも知る能はず」と申しまするやうな、遙かに儒學より優れましたる佛教で御座(79)りましたならば、一方が盛んに相成りますれば、他方は衰へます道理で御座りますれども、實際は佛教が段段と盛んに相成り、初めは百濟高麗、後には支那との交通が始まりて、彼の文物が我國へ傳はりまする場合、彼れより參りまする僧侶、又た我より彼國へ留學仕りまする僧侶に致しましても、佛教は勿論、其の他の學問を傳へ、佛教が盛んに相成りますると同時に、儒學亦之れと共に盛んに相成りました。
 一體、この佛教と儒學の關係で御座りまするが、支那に於きまして、六朝以來隋唐〔六字右○〕までは、兩者の間に、互ひに相嫉視し相爭ひ、水火の如くにてありたる例は先づ少ないので御座ります。尤も唐の韓愈の如き學者は有名な佛教嫌ひで御座りましたが、此れは例外で御座りまして、一般には左程仲の惡いものでは御座りませぬ。それは此の時分に於きましては、儒學と佛教と其の説きまする範圍が、互ひに違つて居りました。即ち儒學は人倫五常の道、即ち現世に於いて人の應さに履行ふべき軌範、極めて常識的な教で御座りまして、形而上學の問題には餘り觸れませぬ。又た過去未來の事につきましては猶ほ更申しませぬ。それで當時に於きまする人は現世の事は儒學に從ひ、此れを己を修め人を治むる標準と致し、未來の事は佛教によりて安心を得まする位の考へで御座りました。猶ほ委しく申しますれば、二者が其の基礎を置きまする所違ひますから、互ひに影響仕る事が少ないので御座ります。當時の儒學者は同時に佛教の信者で御座りましたる譯で、此れが當時即ち六朝隋唐に於ける儒學の特色で御座りますると同時に、奈良朝王朝の儒學も亦全く同一の有樣で御座ります。此れは儒學の側よ(80)り申したるもので御座りまする。佛教の方から申しましても、それが支那に入りましても、支那從來の儒學と衝突仕る事を避け、務めて此れと調和せむと致しましたる事は勿論で御座りまするが、第一佛教經典が漢文を以て書かれましたる以上、漢文の理解力なくては相成りませぬ。佛教を研究致しまするにつきましても、儒學は勿論諸子百家の書を一通り心得て居りまする事が必要で御座りました譯と存じます。
  僧侶が外典を讀みしこと、今日彼に佚して我にのみ傳はる儒籍少なからざるは、多く佛經の背などに書かれたるものが、佛經の力によりて今日に保存されたるを申上ぐべし。
 それは聖徳太子の御事を考へましても能く分りまする。太子が佛教を深く御究めに相成りましたる事は申上げまするまでも御座りませぬ。太子の御著述に法華・維摩・勝鬘三經の疏《シヨ》、即ち注が御座りまして、其の佛教に於ける御造詣が何如に深くあらせられたかゞ窺はれまするが、太子の御學問は獨り佛教の範圍に止りませず、儒學の方面に於いても、御素養あらせられましたる事は、太子の御作になりましたる憲法により、之れを證明仕ります事が出來まする。一體此の憲法は、第二條に『篤(ク)敬2三寶(ヲ)1。三寶〔二字傍線〕者佛法僧〔三字傍線〕也。』と御座りまする所より、佛教を皇《オ》國に流布し玉ふこと、憲法を御作りになりましたる唯一の御目的であつたかの如く申すものも御座りますが、右三寶云云の語は、第二條に見えました丈で、其の外に、佛教臭き所が全く御座りませぬ。其の外は君臣上下の分を正せ〔九字傍線〕とか、國に二の君なく、民に兩の主なし〔國に〜傍線〕とか、又た當時朝廷より地方に至りまするまで、貴族豪族が政權を擅に(81)致し、土地人民を私有して、天皇の命に從ひませぬ弊害を痛く御戒めになりました文句が御座ります。尤も此の時代に當時の弊害を御除きになる事は出來ませず、憲法に御座りまする所は唯一の訓戒に止まりましたが、未幾ならずして、大化の御革新があり、又た太子の御理想が實現されましたる譯で御座りまするが、憲法〔二字傍点〕にあらはしましたる太子の政治に關する御理想には、儒學的要素が譯山見えて居りまする〔儒學〜傍点〕。又た此れは後世の學者が注意致しまする通り、憲法中の文句に、書經・詩經・左傳・論語・禮記・孝經・孟子・史記・管子・墨子・韓非子と申しまする具合に〔書經〜傍線〕、經書は勿論、諸子百家まで御渉獵遊ばされたる事が明らかであります。太子は佛教につきては、高麗の僧、惠慈〔二字傍線〕、又た儒學に於きましては博士覺埼〔二字傍線〕と申しまするものに御學び遊ばされたと申す事で御座ります。憲法の内容と申し文辭と申し、洵に其の儒學に於ける御造詣が深くあらせられたる事が窺はれます。
 此くの如く太子は佛學にも、又た儒學に於きましても御造詣深くあらせられましたが、此れ等の學問を遊ばさるゝに從ひ、支那大陸の樣子も能く御承知になつてゐらせられたと見えまして、愈々直接に彼れと國交を御開きになる思召を以て、大禮小野妹子を御派遣に相成りました。此れが表向き皇《オ》國より支那に使節を派遣されましたる最初のもので御座りまして、支那側の記録即ち隋書にも詳載されて居りまする。さて當時大使が持參仕りましたる有名な國書の事で御座りまするが、是れは太子親から御起草になりましたると申す事で、初めに「日出處天子。致2書日没處天子1。無v恙。」といふ文句が御座りました。何如なる故《ワケ》に御座りまするか、この最初の國書は、日本書紀に載つて居りませず、却(82)つて隋書の方に出て居りまするが、隋書によりますれば、隋の煬帝が侍臣其の國書を讀むを聞き、頗る不機嫌なる容子を致し、以後外國の國書にて、我に對して封等の態度を取るやうな書振をなしたるものは、奏聞を致しては相成らずと申しましたる事が出て居りまする。太子は支那の文化を初めて御國へ御移入なさつた方で、文化の點に於いては、我よりも優つて居り、是非彼れを學ばねばならぬといふ思召が盛んで、所謂支那文化崇拜者であらせられましたる事は勿論で御座りまするが、凡そ外國の文化を極端に崇拜いたしまするものが即ち彼れを尊びまする餘り、己れの國を卑しむ如き態度を取りまする事が昔も多く御座りましたが、この國書を拜すれば、彼れの文化を入れたき思召にて、使節を御出しには相成りましても、何處までも對等の態度を御取りになりました御見識の偉大くあらせられた事に恐入ります。少し岐路に入りまするなれども、この國交を御始めになりましたる動機で御座りまするが、傳説によりますれば、當時|皇《オ》國に傳はりましたる佛教經文中の或る部分が缺けて居りましたる故、それを支那に御求めになる爲め、使節を御出しになつたと申して御座ります。又た隋書にも日本の使節が海西〔二字傍点〕【即ち隋の事で御座ります】の天子が佛法を重んじ玉ふ由を聞きて、國交を修め、又た沙門を連れて佛法を學ばしむ云云と御座りまするから、當時彼れと國交を御開きに相成りまする御目的の中には、佛法を彼れに御求めになるといふ事も勿論で御座りましたと考へます。併し決してそれが唯一の理由とは考へられませぬ。
 一體隋は支那に於きまして、南北朝以來二百六七十年程も南北に分れ、戰亂引續きて居りましたる(83)ものが、隋に至り統一されまして、制度文物も立派に整頓仕りましたる時代で御座ります。それが又た僅かの間に亡びまして、唐が之れに代りましたる譯で御座りまするが、唐の制度文物の基は隋で御座りまして、唐は此れに本づき之れを整頓したるに過ぎませぬ。それで歴史の上にては、單に唐の文物制度とも申し、又た隋唐の文物制度とも申しまして、文化の上よりは同一で御座ります。つまり太子が隋に使節を御派遣遊ばされましたるも、大陸のその文化を御取入れになるが御目的で、決して佛教計りの事ではなかつたと相考へます。
 小野妹子は隋へ派遣されましたる明年歸朝致しましたが、其の時隋帝は答禮の意味を以て、使節を附けて妹子と共に來朝仕りましたが、我朝廷に於かせられても、隋の使節に對し非常に御手厚き待遇を下されました。彼れの使節もこれに感激致し、歸へりて隋帝へ復命致しましたと相見え、其の事が隋書に載つて居りまする。かくて隋の使節が彼國へ歸へりまするにつき、再たび妹子をして之れを共に隋へ遣はされました。此れが第二同の御派遣で御座りまするが、今度は留學生八名を使節一行につけ御派遣に相成りました〔今度〜右○〕。
 この留學生の事を少し申述べたいと存じます。留學生は妹子と共に彼園に參りましたる第一回の留學生に限らず、古の留學生は二種類御座りまして、一は學問僧〔三字傍点〕即ち佛學研究の爲めに遣はせられたる僧侶、一は普通の留學生にて儒學、其の他俗人の學問を致すもので御座ります。(而して兩者共三韓支那より歸化致したるもの、又たは歸化致したるものゝ子孫で御座りました。)當時この學問僧と申(84)しましても、決して佛教の學問計りを致しましたる譯では御座りませず、彼の佛教以外の學問をも兼修め、彼の文化に觸れ、種種有益なる觀察を致して歸朝致し、僧侶でありながら佛教以外の事業、即ち律令編纂等の事につき朝廷の御用をなしたるものも御座ります。又た歸朝の後自ら還俗致しましたるものも御座りまするし、又た朝廷より特に還俗を命ぜられたものも往往御座ります。文武天皇の御時には態と朝廷より僧に還俗を命ぜられ、これを官吏に御登庸になりたる例が御座りますが、初めて留學生を御派遣に相成りましたる時は、猶ほ更で御座りまして、僧俗〔二字右○〕と申しましても、佛學を修めまする以外、彼れの文物を攝取し、歸朝の後朝廷の御用に立つたもので御座ります。又たこの八名の留學生は、餘程長く彼の地に滯在致しましたるものにて、或は廿五年、或は三十年以上も、彼の地に留まりましたる事にて、十分に學問も致し、又た彼の制度文物の研究をも遂げ、恐らく彼の國文化の崇拜者となつて歸朝仕りましたものと相考へます。
 此れ等最初の留學生が歸朝仕りましたるは、支那にては隋亡び唐の初に相當り、恰も皇國にて舒明天皇の御宇、即ち大化の御革新が機熟し將さに發せむとする時で御座りました。申上げまするまでも御座りませず、大化の御革新は、天智天皇の御英斷と、藤原鎌足輔弼の力とによりて出來ましたるもので、始めて郡縣制度の基礎を置かれ、天下の人民が朝廷直接の御政治を仰ぐことに相成りました。この大改革は明治御維新と比較すべき事柄で御座りまする。天智天皇がかゝる御改革を遊ばされ、天下統一の御政治をなさるゝにつき、法制律令等を御發布になりまするには、範を彼の國に御取りにな(85)りました。この御政治の運用さるゝにつきては、立派な先例がなければならぬ事で御座りまするが、それには唐の制度を御採用になる事が尤も御便利で御座りました。それは唐の制度なら、支那歴朝の内、之れに過ぎたるものはないと申す位にて、宋元明清皆それ/”\制度が御座りますれども、大體に於きまして唐を學びましたるもので、それが丁度皇國に於いて豪族政治が仆れ中央集權の御政治を遊ばさるには、唐の制度を御用ゐになる事が、尤も適當と思召された次第かと考へます。
 一體天皇は兼て彼の土の學問を御窮め遊ばされましたる事は、初め鎌足と共に蘇我入鹿御誄伐につき御計畫遊ばさるゝに、人目を御避けになりまするため、南淵先生と申しまする儒者につき、周公孔子の教を御學びになり、毎日二人にて書を把りて御通になりまする往還の途に於いて、御相談があつたと申す事で御座りますが、決してこれは、人目を御避けになる計りの事で御座りませず、儒學を御好みになつて居つたと思はれまする。さてこの南淵〔二字傍点〕と申しまするものにつき、詳なる事は相分りませぬが、此れは前に申上げましたる小野妹子につれられて彼の國へまいりましたる最初の留學僧の一人にて、南淵〔二字右○〕|請安《シヨウアン》と申すものにて、僧として留學は仕りましたが、歸朝後何時の間にやら還俗して、當時一般に南淵先生〔四字右○〕と呼ばれ、周公孔子の道〔六字傍点〕を教へて居りまする。かくの如き經歴のもので、彼の國には三十年以上も居りましたもので御座りますれば、彼の國の事情なども逐一承知致して居りまして、色色政治上の事につき、御參考になる事を申上げましたものと思はれます。又たそれから同じく、小野妹子の一行に加はりましたるものに、僧旻〔二字右○〕と申すものが御座ります。此れは歸朝仕りたる後、大化(86)元年に僧侶の身分のまゝ國博士※[三字□で囲む]〔三字右○〕に任ぜられ、同じく留學生で御座りまする高向玄理《タカムカクロマル》も同時に國博士※[三字□で囲む]となり、又た大化五年に、八省百官〔四字右○〕が設けられ初めて唐風の官制が出來ましたが、兩人とも其の制定に盡力致して居りまする。結局推古朝に彼の國へ留學を命ぜられましたるものが歸朝、大化の御世に其の學ぶ所を以て朝廷の御用に相立ちましたるは、非常なもので御座ります。
 さて此くの如くして天智天皇の御時には、唐の制度に本づきまして八省百官を設けられ、所謂る近江朝令と申しまする行政法典も出來上り、また大學を建てゝ人材を養成されたと申す事で御座ります。大寶時代にこの近江朝令を基礎として出來ましたる大寶令中に、學令と申すものが御座りまして、其の内に大學に關しまする規定が御座りまするが、近江朝にて初めて出來ましたる大學の規定、大約之れに似て居りましたる事と思はれまする。此の時分には彼の學問が漸く我國に擴がりまして〔彼の〜傍点〕、帝を始め奉り、彼の文學に堪能なる方が段段多く御座りました。帝の御製の詩文も澤山御座りたる由記録に見えて居りますれども傳はりませぬ。今日に傳はりて居りまするは、帝の皇子、即ち弘文天皇〔六字右○〕の御製が二首傳はつて居りまする。此れが今日に傳はつて居りまする日本人の作りましたる最初のもので御座ります。今日より之れを拜誦致しまして、誠に立派な簡朴の御出來ばへで御座りまして、あの時代にあれ程の御製が何如《ドウ》して御出來になりましたかと驚きまする次第で御座ります。其の外にも同じく天智の皇子に渡らせらる河島皇子〔四字傍点〕、又た天武天皇の皇子大伴皇子〔四字傍点〕、此れ等の方方、また長屋王の御作が餘つて居りまして、奈良朝と相成りますれば、益々文學が開けまして、唐人に遜りませぬ作物が遺(87)つて居りまする。
 此くの如く一方にては、唐制の御採用あつて各々の文化的施設をなさるゝと同時に、遣唐使が頻繁に派遣され、又た遣唐使が派遣さるゝときは、必ず澤山の學問僧留學生が加はりまして、彼等が其の時時の新智識をもたらして歸へりますれば、又た當方にも其の通り改良を加へて、唐に負けぬやうに致すといふ有樣で御座りました。當時皇國より彼の國へ渡りまする事は、極めて困難で御座りまして、或は風波に逢うて、船沈没致しまする事もあり、或は海中の孤島に飄着して、土人の爲めに虐殺されまするとか、或は彼の地に無事到着致しましても、滯在中に病死致したるものも御座ります。又た彼の國に内亂が起りまして、途梗がりて遂に歸朝致します事が出來ませず、其の儘になつて異域の鬼となりましたるものも御座りまする。其の困難辛苦は到底今日では想像出來ませぬ所で御座りますれども、當時朝命を受けて彼の國に參りまするものは、彼の文物制度を學んで朝廷の御用に立てたいと相考へ、身命を抛ちて危險を冒して勇往邁進致しましたる意氣は、誠に盛んなるもので御座りました。
 
  當時留學生の朝野の間に持囃されたる事を申すぺし〔當時〜右○〕。
  山田御(三)方の事 懷風藻に「秋日於長主宅宴新羅客一首并序」あり。長屋王が新羅の使節をその宅に迎へて宴を開きし時に各各詩を賦せしめたる時の詩なり。
 ――――――――――――
  養老三年正月己亥(續紀8)
  入唐使等拜見。皆着唐國所授〔四字傍点〕(唐の官を授けらるゝ)朝服。
 ――――――――――――
(88)  姓名の變更する事 藤原清河(遣唐大使從一品)名を河清と改め秘書監となる。從二位を追贈(續紀22 25 35)。
 ――――――――――――
  阿倍仲麻呂  二十歳で入唐、七十三歳で没。名を朝衡(晁郷)と改む。死後正二位を贈る(續紀5)。
 ――――――――――――
  膳臣大丘の事 長安の國子監に學び孔子の改號を進言。大學博士兼豐後介。從五位下(續紀29)。
 
 右のやうなる次第で御座りまして、文武天皇の御時になりますれば、朝廷の御儀式萬端まで唐風に改まりまして、大寶元年春正月元日に、天皇大極殿に出御の上、朝賀を御受け遊ばされましたるが、庭の左右に日月像青龍朱雀玄武白虎の幡を立てられ、階下に外國の使臣つらなり、全く唐風で御座りまして、國史に其の事を記して、「文物之儀於v是備矣〔八字右○〕」と御座ります。又た大寶の初めに、遣唐使として唐國へ參りましたるものに、粟田朝臣眞人と申すものが御座りました。此の者一行と共に、彼の地へ上陸し帝都をさして急ぎまする内、或る地方にて、住民共御身達は何國のものぞと問ひしかば、此れは日本國の使者なりと答へたりしが、其の人吾曹も、海東に大倭國と申す國あり、又たの名を君子國と申し、人民豐樂にして、禮儀に敦しと承はりしが、今ま御身達の儀容を見るに、聞く所に違はざりけりとて、大に尊敬を受けましたると申す事を、粟田が歸朝の際奏上して居ります。此れは眞人が虚言を申上げましたるものでは無之、新唐書と申しまする彼の國の記録を見ますれば、眞人が學を好み能く文を屬し、又た其の風采堂堂と致して居りましたる事、又た時の天子則夫武后が眞人等の一(89)行に、麟徳殿と申しまする宮中の一間に於いて、宴を賜はりましたる事が載つて居る。當時皇華の使が、彼の國へ參りまして其の體面を保ち、彼れより輕侮致されませぬやうに心懸けましたる状を想像されます。
 其れよりして未幾、奈良朝と相成りまして、愈々制度文物が具備致しましたが、此れと同時に佛教以外の儒學も、朝廷縉紳間に流行致しまして、奈良朝の末には個人にて經籍のみを集めましたる公開圖書館やうのものを建て、學者をして自由に出入研究させました例も御座りまするが〔個人〜傍点〕、先づ當時の教育法を申上げますれば、國都には大學が御座ります。此れは式部省の管轄になつて居りまするが、學内に大學頭、助、それから博士助教〔四字傍線〕などの教官が御座りまして、毎年秋冬に釋奠を致し、又一方三百名の定員になつて居りまする學生を教導致します。其の學生は五位以上の子孫、及び東西史部の子、及び八位以上の子にて、入學を希望致しまするものには、特に入學を許るされ、何れも九年の間在學が出來る事になつて居ります。又た九年在學仕りても、成業の見込なく、貢擧〔二字右○〕、即ち高等文官の試驗〔七字傍線〕に應ずる事が出來ませぬものは、除籍さるゝ事になつて居ります。又た諸國にもそれ/”\國學が御座りまして、此れは國守の監督の下に、國博士と申すものが教導を司りました。又た學生の定額にも上國・大國・中國・小國と申すやうに國の大小により五十乃至二十名と定員が御座りまして、此れには郡司子弟を以て之れに補する事になつて居りまする。その他典藥・陰陽寮・雅樂寮ありて、醫術・天文・音樂を教ふ。大學、國學の何れも毎歳試驗が御座ります。試驗の結果により、大學の學生は、大學頭、又た國(90)學の學生は國守より推薦して、貢學〔二字傍線〕に應ぜしむ。つまり貢〔右○〕人・擧〔右○〕人は官吏登用の試驗にて、式部省にて行はれまするが、試驗に四種類御座りまして、某科と申します。即ち第一は秀才の科、第二は明經の科、第三は進士の科、第四は明法の科で御座ります〔即ち〜傍線〕。各科により試驗課目が違ひ、又た難易も一樣で御座りませず、又た合格仕りまして授けられまする位にも高下が御座ります。此れも全く唐制と同一で御座ります。此の内秀才の科〔七字傍線〕、これは之れを取りまする標準が甚だ高く御座りまして、及第のものが少なく御座りましたから、唐でも高宗のとき之れを廢めました。皇國でも同樣聖武天皇の御宇になくなりまして、他の三科と相成りました。明經は經義につきて試驗を致しまするものにて〔明經〜右○〕、周易・尚書・毛詩・周禮・儀禮・禮記・春秋・左氏傳・論語・孝經等の内より問題が出まする。又進む士科〔三字傍線〕、これは詩賦文章が主となりまして、問題によりて即席に之れを作らせ、又た文選・爾雅を試みます。それから明法科〔三字傍線〕、これは律令〔二字右○〕即ち現行の法律を試みまする〔現行〜右○〕。即ち今日の言葉を以て申上げますれば、明經〔二字傍線〕は經學、進士は文學、明法は法學に相當りまする。さう致し、此の三科の一を以て及第致しましたるものは、それ/”\官吏と相成りまするが、又た其の學問の宜敷く優なる所より、大學の教官即ち博士となりまする場合、明經出身で御座りますれば、之れを明經博士〔四字右○〕、又たは單に博士と申し、進士〔二字右○〕出身で御座りますれば之れを文章博士〔四字右○〕、明法の及第者で御座りますれば之れを明法博士〔四字右○〕と申しまする。結局儒學を修めましたるものは〔結局〜傍線〕、三の中何れかを擇びましたる〔十字傍線〕もので、それ/”\違ひましたる方面に於いて、朝廷の御用に相成りたるもので御座ります。
(91) 先づ明法博士の事より申上げます。前に申上げましたる如く、天智天皇の御宇に初めて唐制に本づき、八省百官を設け玉ひ、近江朝令と申すものが出來まして、それから天武天皇の淨御原朝令、文武天皇の大寶令、元正天皇の養老令などゝ申しまする、又た令以外に律、格、式など申しまする法典編纂事業が行はれましたが、此れに關係致しましたるものは、この明法科出身〔五字右○〕中にて明法博士たるものが多く御座りました。當時此れ等の法典が編纂され、それが實施されまするにつき、何分にも唐の制を御採用に相成りましても、國情が違ひまするから、地方官の如きすら法を應用致しまする勝手が分りませず、人民は猶ほ更に相分りませぬ所から、此れ等明法博士を諸國へ御派遣になりて、巡囘講演の如きものを屡々御命じに相成りましたる事が、國史に見えて居ります。尤も唐制御採用と申しましても、一より十まで鵜呑に唐制を其の儘に御取になりませなんだ事は、從來の學者も指摘仕りましたる如く、大寶令と唐六典とを比較致しますれば能く分りまする。例へば唐にては、大政の出まする所は尚書・門下・中書〔六字傍線〕の三省にて、各こ獨立して天子に直屬致しましたるもので御座りますれども、かくては事務の統一上宜しく御座りませぬ故、尚書省〔三字右○〕のみを取つて太政官となされ、門下省〔三字傍線〕は別に獨立したる官廳を立てられず、大納言〔三字右○〕と申す官が太政官左右大臣の下にありまして、門下省の事務を行ひ、又た中書省此れも其の代りに中務省と申すものを八省の一に置かれ、太政官の下に置かれ、又た宮内省是れも唐にて之れに當りまするものは、尚書省とは獨立對等の地位にありましたるを、亦八省の中に置かれ、同じく太政官の管轄となり、又た皇國〔二字右○〕は古より神祇を尊び、祭政一致の御國體で御座りま(92)するより、太政官より獨立したる神祇官を御立になり、しかもそれが官制の第一になつて居ります。此れを六典に當てますれば、唐にて祭祀に關しまする事は禮部〔二字右○〕、即ち大寶令の治部省で御座りますれども、治部省にて取扱ひまするものは、僧尼〔二字右○〕の身分で御座りまして、皇國の神祇の祭祀〔五字右○〕は神祇官の掌る所で御座ります。かやうなる處は、彼此の國體國俗同じからざる所、又た彼の繁文縟禮なる弊に鑑み、長を採り短を捨つるといふ考へが立法者中に御座りましたる事は勿論で御座りますれども、大體に於いては令〔傍点〕と申し律〔傍点〕と申して、全く彼國のものを摸擬〔十字傍線〕あらせられましたるものにて、我國の法典を能く理解致しまするには、其の母法たる唐の法典を知り、又た唐の法典の由つて來りましたる支那古代の法典までも承知致さねばなりませぬから、當時明法博士〔四字右○〕なるものは極めて必用なるもので御座りました。此れにつき一つ興味ある話が御座ります。それはやや後、平安朝時代の事で御座りまするが、當時の明法博士等澤山御座りましたが、刑法のある條文につき、皆集りて討議仕りましても、疑義百出仕り何如にしても分りませぬ。故に其の疑問の點を簡條書に致しまして、之れを唐へ送り彼の國の學者の判斷を請はむと致しましたる所、讃岐永直と申すえらい學者が御座りまして、之れを見、其の疑義につき明確なる解決を與へましたにより、態々唐まで質問を送る事を止めましたと申す事が、國史【日本三代實録卷六貞觀四年〔日本〜傍点〕清和天皇】に見えて居りまする。皇國の刑法の解釋が分りませぬと申して、唐の學者に質問仕るなど、誠に不體裁極まりましたる事で御座りまするが、彼れの法〔四字右○〕を手本として我國に御取りに相成るについては、其の意味が分らず、其の儘我國法律の文章と相成りましたるやうな事もあり、種種疑(93)問が出でしものと存ぜられます。
 それから、此の文章博士の事を申上げます。これは進士の科に合格致し、又た時としては進士に合格仕りまして、對策と申しまして御上より御題を賜はり、之れに及第仕りましたるものを對策及第と申し、甚だ名譽のものとなつて居りまする。この文章博士は進士より出身仕りましたるもので御座りまして〔この〜傍点〕、詩賦文章に長じて居りまして、其の方面を以て御用を務めて居ります。當時は文章と申しますれば、漢文の事で御座りまして、詔勅を初めと致し、法典又たは官廳の文章まで漢文で御座ります。當時唐人の嗜味が御國にも移りまして、詩を作り賦を作りまする事は、御上より士大夫まで廣がつて居りましたから、初めの間は法典編纂の事が御座りましたから、明法博士が大層幅を利かせて居りましたかなれど、奈良朝の後半期より平安朝に至りますれば、此れ等三博士の内、文章博士、此れは唐の翰林學士に當りまするものにて、其の位も最も高く、文章博士より、明經、明法と申しまする順になり、又た此れ等のものゝ官歴より相考へましても、文章博士より大臣に進みたるもの、即ち菅原道眞、粟田在衡の如きものが御座ります。さてこの文章博士につき、今ま申し上げますれば、此れは全く朝廷の文事を掌りまする役目で、或は詔勅、或は國書の草案を起しまするとか、或は關白とか太政大臣等が辭表を提出仕りまするとき、御優詔が下つて之れを御引留めに相成りまする。此れを二度表、三度表などゝ申しまして、初度の表にて御許しがなく優詔が下り、又た第二第三の表に對し、それぞれ優詔が下りまする例となつて居りまするが、唯病氣の故を以て官を辭すと申しまするやうな簡單(94)の文句で御座りませず、當時四六駢偶と申しまして、句の文字を四字或は六字に致して對句をとり平仄を調へて、音調を整へましたる美文で御座りまして、之れに御答に相成りまする優詔も同樣で御座ります。かゝる辭表は道眞の如き親ら之れを作る才能の御座りまするものは別と致し、大概當時文名高きものに依頼致す事で御座りまするが、或場合には表も優詔も一人で草しまする。三度の表三度の優詔に、内容は勿論同一で御座りまするが、文辭は同一のものを使はぬやうに骨折つて居りまする。それが當時の誇りで御座りました。又た當時太平の御世で御座りまして、時時宮中に於いて二月の花の御宴、三月の曲水、五月端午、九月重陽などに、御宴には必ず此れ等詩文に堪能なるものを召され居り、御上より題を賜はり、又た御製に奉和致すなど、即ち文學を以て御上の御相手を務めまする。今ま一つは國史編纂の事にて、奈良朝平安朝の中までは、時時國史の編纂が御座りまして、日本書紀・續日本紀・日本後記・續日本後記・文徳實録・三代實録これを六國史と申します。此れは何れも勅撰の書で御座りまして、親王或は大臣などの大官に居りまするものが總裁となつて居りますれども、實際編纂に從事しまするものには、又た其の道のものが御座りました。此の歴史の學問を致しますものを、紀傳博士と申しましたれども、元來國史は漢文で書きまする故、史記・漢書などを能く讀み、事實以外にこれを巧に記述仕る丈の文才ある事を要します。それで紀傳道の博士を止められて、其の方の任務も文章博士が致す事に相成り、菅原・大江此の二家のもの重に之れに任ぜられまするが、これを紀傳道〔三字右○〕の家とも申しまする。是れ必竟文章博士が之れに關係するを原則と致しましたからで御座(95)ります。
  明治の初めに修史館〔九字右○〕
 それより明經博士で御座りまするが、此れは經學を專門と致しますもので、儒學の内で尤も大切なるものは此の經學で御座ります。尤も明經博士と申しましても、全く文を能くせざるにあらず、朝廷の文書を掌りし事亦これあり、又た法制律令の根本原理は經學より出たるものなれば、明經出身のものにて法典編纂に從事せるもの亦少なしとせざるも、然れども其の職とする所は窮經にあり、聖人の道は載せて六經にあるを以て、其の訓詁義理を稽へて其の道を能く心得、宮中に侍讀して君徳を輔翼し奉り、又た之れを以て學生を教導致しますれば、是れが第一に置かれねばなりませぬ。
  釋奠のとき、經義の一節を講義し、質問者には御前に於いて議論をなす。
 然るに前にも申上げましたる通り、後に相成りますれば、當時朝廷にても又た一般の社會に於きましても、尤も尊敬を受けましたるものは文章博士で御座りました。一體、奈良朝より平安朝に至りまするまで、文章博士たるもの、又た博士にあらざるも文藝を以て一時に鳴り、或は本國のみならず唐にありて彼第一流の文人等と周旋致しましたる阿倍仲麻呂の如きもの、此れ等の作りましたるものゝ、今日に殘つて居りまするものが澤山御座りまするが、誠に立派なもので、殆んど唐人と選む所なきものが御座ります。一體、漢文は本來支那のもので御座りますれば、御國人が作りますれば、そこで御國臭き所が御座ります。其の巧拙は別の問題と致し、一讀仕つて支那人の作か日本人の作かと申す事(96)が相分ります。奈良朝より少なくとも平安朝初期までのものは、全く唐風で御座ります。(此れは文章のみならず、書なども左樣で御座ります。今日傳はりて居ります奈良の寫經、又たは正倉院中の聖武天皇・光明皇后の御宸翰を拜見仕りましても、左樣で御座ります。)かゝる具合に立派な作物が御座りましたる譯で御座りまするが、此の明經博士が專門と致しましたる經學甚だ振ひませず、經學につき彼等が支那の學者にも劣りませぬ研究を致し、著述を致しましたかと申しますれば、毫も左樣なものは御座りませぬ。其の點より申しますれば、徳川幕府時代の儒學と大なる差異が御座りまするが、それは何如なる理由かと申しまするに、是れ亦唐のならはしが御國に影響致したるもので御座ります。
 一體唐の經學〔四字右○〕は漢魏六朝の經學が流れて唐に至りましたるもので御座ります。是の長い間には儒學が分派致し、殊に南北朝と二つに分れて居りましたるときは、南學北學各々相同じからず、本經の文句さへ互ひに所所違つて居りましたが、唐太宗が天下を一統し、政治的に一統を致しましたる後、南北に相分れましたる儒學を統一仕りまする目的を以て、貞觀年中に孔穎達と申しまする學者が御座ります。この孔穎達を初めと致し、其の他有名なる學者共をして五經正義と申しまするものを作らしめ、諸儒の經書に關する説をあげて、一一之れを批評し、經書の解釋に關し、標準を示しましたるものが、五經正義〔四字右○〕で、誠に大した事業で御座りまして、それが經學の上に非常なる權威を有し、學校の重なる參考書たるは勿論、科擧〔二字右○〕(即ち本朝の貢擧)に於いて之れを能く讀みて、之れに違はぬやうに答案を作れば、それで澤山で御座りまする。別に多くの書を讀み、自分で經學の研究を致す必要は御座りま(97)せぬ。それで五經正義の編纂は誠に大事業で御座りますれども、それが却つて唐の經學を不振に陷ゐらせましたる原因となり、唐三百年の間經學につきましては、二三の例外は御座りますれども、大したる經學の著述が御座りませぬ。實に唐が左樣で御座りまする故、唐制を御採用に相成り、其の下に生れ出ましたる經學で御座りますれば、唐と同一の結果で御座ります。
 今ま一つ申上げまする事は、唐は漢と相并び、國力の尤も盛んなりし時代で御座りまして、疆域も廣がり、又た其の治下の人民も多く御座りましたから、法制的〔三字右○〕に其の大なる疆域、多くの人民(其の内には異人種も居りました)を治めまする必要が御座りましたる所より、後世の手本と相成るべき法制・律令〔四字右○〕が出來ましたと同時に、其の方面の學者は隨分御座りました。
 それから今ま一つは、唐人の文藝嗜味と申しまするか、支那歴代中、こゝ迄文藝嗜味の發達仕りたる時代は御座りませぬ。唐は唐太宗の貞觀より玄宗の開元天寶までは尤も國力膨脹し、百姓殷富で御座りました所、人の心がゆつたりと致しまして、此の世を享樂するといふやうな氣分が非常に盛んで御座りました。左樣な譯合で御座りまするから、唐の時代に尤も發達仕りましたるものは詩、音樂、書畫、建築と申すやうなもので、殊に詩に於きましては、李白・杜甫〔四字右○〕と申すやうなものが時を同じくして起り、今日まで詩と申しますれば、李杜は古今の詩聖にして此れより以上のものは有り得べからざるものとなつて居りまする位で御座りまするが、李白・杜甫を除きましても〔李白〜右○〕、其の外に有名なる作家至つて多く、詩は唐を以て尤も宜しきものと致して御座ります。かく詩賦其の他の藝術が發達致し(98)まする丈に、唐人は氣象がのんびりと優長に出來まして、經學と申しまするやうな「ジミ」なる堅き學問はどちらかと申しましたらば餘り好みませぬ。又た不得手で御座りまして、又た一般の社會も經學の士よりも、文學の士を貴びましたる事にて、唐の科擧制度を檢らべましても、又た唐三百年に於きまする宰相・大臣の履歴を稽へましても、科擧の内にて進士科〔三字右○〕出身のものが尤も多く、又たそれが尤も當世に貴ばれました。尤も或時代には、文藝の士は往往輕浮にて、往往人格上宜しからざるものも、此の中に雜る弊あるを以て、詩賦を罷めて之れに論策を以てせむとするの議をなすものも御座りましたが、遂に行はれませず、而して進士科によりて宰相大臣まで進みましたるものゝ中に、却つて政治家として立派な腕前を持ちましたるもの多かつた由申して御座りまするが、皇國も全く同樣で御座りまして、明經・進士〔二字右○〕・明法の中にて進士出身〔四字右○〕しかも文章博士〔四字右○〕と申しまするものが、尤も幅を利かせて居りました譯で御座ります。尤も御國にては門地門閥と申す事が重く、攝關大臣の職は藤原氏に限られて居りましたれども、菅原道眞、粟田在衡の如く、閥閲藤原氏に及ばず、猶ほ且つ大臣となりましたるものも御座りまする如く、唐制御採用に相成りまして、其の結果も亦同一で御座りました。以上、學問の有樣、又た之れに對する嗜好までが、全く同一の結果となりたる事を申上げました。
 
 前に進講仕りましたる通り、奈良朝平安朝に於きまして、初めは儒學の内で明法即ち彼の國の法律制度の學問を修めましたるものが大層御國の御用に相成り、其の後には詩賦文章に長じましたるもの(99)が重んぜられましたる事で御座ります。當時此の方面のものが必要で御座りましたる譯は、當時の文章は皆漢文で御座ります。詔勅は勿論法典又たは官廳の文書まで漢文で御座ります。又た當時唐人の嗜味が御國にも浸潤仕りまして、御上より公卿大夫まで文學を尊び、假令實用を目的と致しまする文字でも、唯用を辨じまする計りでは相成りませず、其の内に典雅優美なる文辭なくては相成りませず、極端なる例を申上げますれば、當時大臣等の御上に捧げましたる辭表で御座りまして、老朽其の職に任へませぬ故、賢路を開きまする爲め御解職を願ひますると申すやうな、簡單なる理由で御座りますが、美辭麗句を相列らべ、又た六朝より唐にかけて最も流行仕りましたる四六駢偶の體と申しまして、一句の文字が四字六字となりまして對句をとり、又た文字の發音即ち平仄を調へ、之れを讀みましたるとき、耳の感じが宜敷やうに致しましたるもので御座りますが、この辭表を上りましたるときは、必ず優詔が下りまして御引留遊ばされまするが、其の辭表に劣りませぬ立派なる文辭を綴つて御座りまするが、初度の表、二度三度の表など申しまして、優詔を拜しまして猶ほ二度三度と辭表をさし出しまして、又た一一優詔を頂きまする。最後には優詔に從ひ奉りて辭意を舍てまするか、又たはそれならば致方ないとの優詔を拜する事も御座りまするが、要するに事柄は簡單で御座りまするが、三度の表三度の優詔とも内容は同樣で御座りますれども、文辭はさきの文辭と重複仕りませぬやうに、非常に修辭上の技術を盡くして御座ります。かゝる文辭は道眞の如き、親ら之れを作るの才あるものは別と致し、概ね當時文名高きものに求めて起草せしむるもので御座りまする。或場合には表も優詔も(100)一人で草しまする事が御座ります。内容は同一で御座りまするが、之れに違つた文辭を使用仕りまする事、餘程文字に長じたるものならでは出來ませぬので、之れを大層誇りと致しました。又た當時太平に御座りまして、朝野暇多く御座りまして、宮中にて御宴が御座ります。二月の花の御宴、三月の曲水、五月の端午、九月の重陽節など、必ず御宴が御座りまして、其の節には必ず此れ等詩文に堪能なるものを召され、御上より御題を賜はりますれば、皆御製に次韻し奉ると申すやうに、即ち文學を以て御相手を仕る事が一の役目で御座りました。
 今ま一つは是れが少し堅い事で御座りますが、國史の編寡で御座ります。奈良朝平安朝に勅撰の國史が六つ御座りまするから、此れを六國史と申しまするが、勿論漢文で御座ります。勅撰の事で御座りますれば、其の親裁には親王若しくは大臣が任ぜられますれども、實際筆を執りましたるものは別に御座りまして、之れを紀傳道又た紀傳博士と申すもので御座ります。紀傳は本紀列傳をつめましたる言葉で御座りまして、結局歴史の事を申しまするが、元來漢文で記しまする以上は、範を史漢に取りまする事は勿論で御座りまして、事實を巧に記しまする筆力なくては、叶はぬ事で御座ります。それに後には紀傳博士は文章博士に合併致しまして、詩賦文章の外に史官を兼ねまする事に相成りました。中世以後、菅原大江の二氏が世々文章博士を仰付けられまする事に相成り、文學は二氏の專有物のやうに相成りましたが、其の史官を兼ねましたる關係より、之れを紀傳道の家と申しまする。
 奈良朝平安朝に於いて、朝廷又たは縉紳大夫の間に唐の文學を尊尚されましたる結果、此の方面は(101)非常に發達仕りまして、文章博士で御座りますもの、又た御座りませぬものでも、詩文を以て一世に鳴りましたるものゝ作物が、今日に數多く殘りて居りまするが、誠に立派なるもので御座りまして、殆んど唐人と選む所なきものが御座ります。
 一體漢文又た詩賦は、元來支那のもの、外國の文學で御座りまするので、何如に皇園のものが之れに精通熟練仕りましても、星國のものが之れを作りますれば、其處に何となく日本人の作らしく感ぜられまする所が御座りまする筈で、此れは止むを得ざることで御座りまするが、其の巧拙は別と致しまして、此の時代に於きまする皇國人の詩賦文章に、左樣なる皇國人の習氣、即ち皇國人の作らしく思はれまする所が御座りませぬ。尤も平安朝の中期以後には、御國の文學、即ち國文が起りまして、國文を書きまする心持が其の作りまする漢文詩賦の上に覺えず入りまして、所謂和習が其の中に入つて參りましたるやに存じまするが、平安朝の中期以前までは全く唐風で御座りました。此れは詩文に限りませず、書〔右○〕でも左樣で御座りまして、後世は書の巧拙は別と致しまして、此れは日本人の書、此れは支那人の書と申しまする事が、一目瞭然と誰れにも相分りまする。然るに奈良朝平安朝の初めの書と相成りますれば、全く鑑別がつき兼ねまするやうな譯で、何如にして、かく唐人の書と異りませぬやうに書けましたるかと驚入りまする計りで、模倣と申しまする事が何加にしてあれ丈完全に出來ましたか不可思議に思ひまする次第で御座ります。
  スタイン、ペリオが敦煌にて得たる唐の寫經の事。
(102) 一體唐は支那歴代中にても尤も文學の盛んなる時代で御座ります。又た書畫音樂其の他藝術方面に於きまして、支那に於きまして此れより優りましたる時代はないと申す事に相成つて居りまするが、此くの如く立派な文化を來しまするには、長い歴史を有つて居りまするのに、皇國に於いて僅かの間に彼の文物の精髄を攝取し、彼れに劣りませぬものを製らへましたる事は、何れの時代にても、皇國のものが他に我よりも優れる文物が御座りまする事を見ますれば、直に彼れに負けまいと申す氣象を起し、萬難を排して之れに趨く國民性を證明致します。又た彼れの文化を採りまするにつき、其の長短得失を明らめ、長のみを取り短は之れを舍て、外國文化に中毒仕りませぬやう注意仕りまする事は、經世の要諦で御座りますれども、何分にも僅かの歳月を以て、彼の程度まで進まむと致しまするから其處に無理が御座りまして、知らず/\の間に、彼の短處まで取入れまして、それが後世に至りまして害毒を流しまするやうな事も往往にして御座りまする。
 奈良朝平安朝にかくの如く、一般に唐の文物制度が行はれ、總て皇國に傳はりましたるにつき、狹き意味に於きまする經學は何如に相成りましたるかと申しまするに、經學即ち明經博士〔四字傍点〕の掌りましたる經學は甚だ振ひませず、唯釋奠の御祭祀が御座りまするとき、經書の講義を致しまするとか、又た宮中に於いて御上若しくは皇子に侍讀仕りまする具合にて、それも寧ろ一の御儀式に過ぎませぬやうに拜察致しまするが、それも矢張り唐と同樣で御座ります。一寸唐の經學を申上げますれば、漢魏以後南北朝と相成り、天下二つに分れて居りましたるのを、隋が之れを一統し、唐が尋で之れを完成致(103)しましたが、漢魏以後經學も二つに分れ、甚しきは經書の本文さへ異同が御座りまする。又た同じく南朝丈に致しましても、諸儒の説が岐々に相成つて居りましたる故、政治上の統一と共に經學を統一致しまする考へより、唐太宗の貞觀年間に、孔穎達と申しまするもの及び其の他當時の碩學を集め、五經正義〔四字右○〕と申しまするを作り、是れによりて從來經義に就き先儒の意見區區に相成つて居りましたるものを統一し、經の解釋に於ける標準を設け、太學以下の學校も專ら之れによつて教へまするし、又た科擧乃ち文官任用試驗、亦た之れに由つて及第を定めましたる故、この正義さへ熟習仕ればよいと申す事に相成り、殊更に種種の載籍を讀み、又た精を彈くし力を窮めて、自ら儒學の蘊奥を探るやうな必要もなくなりました。元來唐人は當時疆域四方に擴がり、人民も多く、中には異人種も多く御座りました所より、之れを治めまする爲め法制律令の必要が御座りまして、此の方の學問は頗る發達し、又た學者も少なく御座りませぬ。又た一方唐人は歴代の内に於いて、尤も文藝嗜味と申しまするか、藝術嗜味と申しまするか、此の嗜味が尤も發達仕りたる時代で御座り、殊に太宗の貞觀より玄宗の開元天寶【恰も我奈良朝】が、彼の黄金時代で御座りました所より、人心寛くりと致し、一般に此の世を享樂致しまする氣分が上下に充滿して居りまして、從つて詩賦音樂、雎畫建築と申すやうなるものが非常に發達し、殊に詩に於いては李杜〔二字傍点〕、古文に於いては韓柳〔二字傍点〕と申しまするやうな天才が輩出仕りましたる譯で御座ります。かく文藝のみが殊に貴ばれましたる所から、恰も皇國に於いて文章博士が尤も幅を利かせましたると同樣に、唐に於きましても亦進士出身〔四字傍点〕即ち詩賦の試驗を受けて及第仕りましたるものが(104)尤も當時に貴ばれ、此れより進みて宰相の位に升りましたるものが尤も多く、明經出身のものにて大臣となりましたるもの甚だ少なく御座りました。かやうな次第で御座りましたる故、經學の方面に於いて二三の學者を除き、藝術方面の人才多きに比し、非常に寂寥たる有樣で御座りましたが、皇國に於いても全く其の通りで御座りまして、文藝を以て唐人と彼我相頡頏仕りまするやうなものは少なく御座りませぬが、經學に深かりし人は餘り承つて居りませぬ次第で、唐の文物を御採用に相成りましたる結果は、學問の點も萬事其の通りに相成りましたものと見えまする。
 
       二 鎌倉時代
 
 唐は三百年計りも致しまして、それより五代の亂と相成り、宋出でゝ國内を一統仕りましたれども、國力の上より申しますれば遠く唐に及びませぬ。併し學問殊に儒學の點は中中唐に劣りませず、又た宋の儒學は唐の儒學と非常に趣を殊に致して居りまする。尤も宋學と一概に申上げましても、其の内にも種種の分派が御座ります。例へは朱陸と申しまして、朱熹朱子陸九淵象山との學問上の爭いなどは有名なるもので御座りまして、明に至りまして、王守仁即ち陽明と申しまする學者が出まして、陸九淵の後を椎ぎ、朱子學者と兩立仕りましたが、皇國に於きましても徳川時代に朱熹の學と王守仁の學とは氷炭相容れませぬものゝやうに考へられましたが、廣く之れを申しますれば同じく宋學で御座(105)ります。此くの如く宋學の中には敷多き學派は御座りますれども、之れを全體と致し、從來の漢唐學と比較仕りますれば、非常に相違仕りましたる點が御座ります。
 それは何かと申しまするに、第一は從來の漢唐學に於きましては、經文〔二字右○〕は勿論で御座りまするが、漢魏の學者が之れに下しましたる注をも全く金科玉條の如く相考へまして、甚しきに至りましては、經文と注と比較仕りまして、明に注が本文の意に合つて居りませぬ、間違つて居りまする事が分りましても、尚ほ之れに旨從仕りまして、自分の考へを出しまする事を致しませぬ。結局先儒の説を過信し、之れに拘泥致しまする弊が御座りました。然るに宋學と相成りますれば、其の立前が變りまして、儒學は孔子の教を明に致しまするが目的で御座りますれば、必ずしも漢魏諸儒の注を墨守し、之れに旨從するを要しませぬ。若し諸儒の注に經文の意を得ざる所が御座りますれば、之れに背き自己の見識を以て説を立つべきものであると相考へました。結局前に申上げましたる唐の五經正義が唐人に對して有ちましたる如き權威を失ひ、學が勝手に其の是と信ずる所により、新らしき解釋を注に加へました。猶ほ之れに留まりませず、經文其の物につきましても、唐までは經の總べてが孔子によりて經たる權威を與へられ、又た經の中には孔子が親ら筆を取りて書きましたものあると致し、毫も之れに疑を挾さまず、之れを尊信仕りましたる處、末に相成りますれば、經書の或るもの、又たは或經書内の一部に説きましたる所、孔子の教と矛盾仕りまする所が御座りますると見ますれは、後世のものが孔子に托し勝手に僞作し、或は筆を加へたるものに相違無之と相考へ、從來は經書で御座りますれ(106)ば、最高至上の尊敬を拂ひましたる所、宋儒になりますれば、勝手に其の取捨を致しまする具合に、其の學風が極めて自由に相成りました。
 第二〔二字傍点〕は漢唐の儒學は經書の訓詁を調らべまして、其の文字を讀みますれば、それで十分なるものと相考へましたが、宋學の立前で御座りますれば、聖人の道〔四字傍点〕は經に載せて御座りますれば、訓詁に因りて其の文字を解しまする事は必要では御座りますれども、其の文字訓詁丈では、聖人の道は分りませぬ。文字の裏面〔五字傍点〕即ち表面の文字よりもつと其の奥に御座りまする聖人の道〔四字傍点〕を把持いたしまする事が大切なる事にて、聖人の道を體得仕りますれば、文字訓詁などは差して矢釜敷申しませいでも宜敷きと申す考へが御座ります。
 第三は漢唐學の立前より申しますれば、聖人の道は經によつてのみ之れを窺ふことが出來まする。即ち經を讀みまする事が儒學にて尤も重んじまする所で御座りますれども、宋學の立前より申しますれば、經は固より聖人の道を載せたるもので御座りますなれども、聖人の道と申しましても、要するに聖人の心〔右○〕に過ぎませぬ。聖人の心は物慾私心が御座りませぬ。恰も少しの陰《クモリ》も御座りませぬ鏡の如きもので御座りまして、世の中の善惡邪正が其の心にうつりまして、此れは善此れは惡と申しまする事が直ちに分りまする、其の行ひまする所自然に道にかなひまする。それで其の心の本として教を立てましたる故に、此れが人間の應さに履むべきものとなつて參ります。然るにこの聖人の心と普通〔七字右○〕の人と、心に於いて毫も差異は御座りませぬ。但聖人は天より稟けましたるものを完く致しまして、物(107)慾私心の爲め其の本心を撹されまする事が御座りませぬが、普通の人でも克己復禮の工夫を致して精進仕りますれば、聖人の域に達する事が出來ますると説きまする。結局宋儒の學問は、我一心を對象と致しまして之れをみがきまする。即ち一國に就いて申上げますれば、法制・律令・文學・美術等は誠に大切のものでは御座りますれども、此の文化は君主の御徳〔五字傍点〕の外形にあらはれたるものに御座りまして、君主の御徳が何如なるかによりて、外形的の文化の價値が定まりまする。又た普通の人間に就きて申しまして、其の人が外形の行爲が立派に御座りましても、又た才能の美しきものが御座りましても、其の依りて出まする所の心が正しく御座りませぬときは、外形の行爲は價値が御座りませず、又た其の才能の御座りまする事が却つて苦を與へますると申しまするやうに、總べての努力を外に求めずして我心に取りまする〔總べ〜傍点〕。此れが宋學に共通なる學間の致樣で御座ります。第二は此くの如く心に重きを置きまする結果と致しまして、心に就きまして精緻なる研究を致しまして、心〔右○〕と申しまするものは、一體何如なるものなるか、孟子は「人の性〔傍点〕は善〔傍点〕」とか 「人皆以て堯舜たるべしと」と申しましたが、其の説は間違ひなきもので御座りまするが、然らば性〔傍点〕と心〔傍点〕との關係は何如、又た人には先天的に仁義禮智の性を有して居りますると致しますれば、人の惡を致しまする事は何如なる所より起りまするか、人間が此の肉體を有ちまする以上、五官の慾と申すものが御座りまするが、此れと性との關係と申しまするやうな問題より致しまして、宇宙論或は宗教論即ち鬼神論などの方面にも及び、此れまで漢唐學派に於きまして、問題に致しませず、寧ろ佛教の方に譲つて居りましたる所、之れを儒學(108)へ取入れ、又た一方心〔右○〕に就いての學問、即ち心の修養鍛錬〔六字傍点〕を以て、尤も大切なる事と致しましたので御座ります。
 第四はかくの如く「心」につき研究を仕りましたる結果と致し、宋學の多くのものは、人が聖人の域に進みまする事の出來まするのは、聖人〔二字右○〕と同じく仁義禮智の「性」あるに由る、性は聖凡同一であるが、人には同時に「情」と申すものありて、此れが惡の原因と相成りまする。聖人も人で御座りまする以上、情のなき事は御座りませぬけれども、其の情は喜ぶべき時に喜び、怒るべき時に怒り、決して其の節を越えませぬ故、其の性は依然として動かさるゝ所御座なく、鏡の如き陰蔚《クムリ》が御座りませぬ。人は動もすれば、喜怒哀樂の情が中を失ひ、性の命令を受けませぬ。學問の要は務めて、其の情〔傍点〕をして勝手なる振舞をさせぬ事で御座ります。即ち今日の言葉で申しますれば、理性〔二字右○〕と感情〔二字右○〕、意志〔二字右○〕と感情〔二字右○〕、これが人心に於いて相争ひまする。この場合に常に理性意思〔四字右○〕が感情に克つやうに致さねばならぬので御座りまして、乃ち道徳上の問題より申しますれば、其の感情の流露よりして善行を致しま〔其の〜右○〕しても、それは善行には相違御座りませぬけれども、眞の善行とは申されませぬ。此れは人の應さに行はざるべからざる道と申す事を理性によりて之れを確信し、又た感情は何如に御座りましても、強固なる意思の力によつて之れを行ひまして、それが始めて善行となる次第で御座ります。それで宋儒學問の致し方を申せば、堅牢なる意思の鍛錬で御座りまして、孟子が申しましたる浩然〔二字右○〕の氣も之れに外ならぬ次第で御座ります。それで唐の時代〔四字右○〕と宋の時代〔四字右○〕とは元來人の氣象が異ひます。唐人は前にも申(109)上げまする如く、文藝藝術の嗜味が多く、極めてのんびりと優雅で御座りまして、世の中を樂しきものと相考へましたが、宋の人は極めて地味で御座り、文藝藝術を全く好みませぬ譯では御座りませぬが、同じく文藝藝術〔七字傍点〕でも「けばけばしき」ものよりも澁きものを好みまして、世の中を樂しきものと考へまするよりも、嚴粛なるものと考へまする風が御座りまして、從つて學問の風も亦此くの如く變化仕りましたものと相考へます。
 以上は唐に於きまする儒學と宋の儒學との區別で御座りまするが、皇國に於きまして、鎌倉以後武門武士が政治の中心と相成りましては、彼等の嗜味と平安朝に於きまする公卿大夫の嗜味とは全く違つて居りまして、隋唐文化の影響多大に受けて居りまする奈良朝平安朝の文化に對しては、理解をもちませぬのみならず、彼等には到底之れを學ぶ事は出來ませぬ。獨り之れを學ぶ事は出來ませぬのみならず、隋唐文化の弊害は、それが形の上にては誠に立派で粲然たる光輝を放つて居りますけれども、道具立てが立派な割合に、形式に拘はれ實行力に乏しく、所謂繁文縟禮と申すやうな嫌が御座ります。又た詩賦文藝を重んじまする結果、人が文弱に陷ゐるの虞が御座ります。平安朝の末に於きて源平二氏が起り、遂に天下兵馬の權を握るに至りましたるも、亦隋唐文化の影響を多く受けたる平安朝〔鎌倉以後〜右○〕の文化が「爛熟」しきりましたる結果で御座ります。かやうな次第で御座りまする故、隋唐文化の一要素で御座りましたる儒學、奈良朝平安朝に行はれましたる如き儒學は、此れ等の武門武士の學問と致しましては、餘り適當では御座りませず、もつと簡易にして、武士の精神氣魄を練りまする儒學(110)を要して居りましたが、此の時代に當りまして宋學が皇國に傳はりました〔此の〜傍点〕。宋學は何時頃何人に由つて皇國に傳はりましたるかは、種種此の問題に就いて研究仕りましたるもの御座りますれども、確たる事は分り兼ねまする。多分此の時代には朝廷と彼れとの國交は絶えましたれども、僧侶共が參つて居りましたる故、彼れ等が歸朝の節、佛教經籍と共に宋儒の著述をも持參仕り、それが僧侶と少數の學者に讀まれましたるものと相考へまする。後醍醐天皇の御時、僧玄慧法師と申すものが御座りまして、餘程博學のもので御座りまして、宋人司馬光がかきましたる資治通鑑、それから程|※[景+頁]《コウ》・程※[熙の左上+頁]・朱熹の學を尊信し、嘗て帝に侍讀せしときに、此れ等の人の注によりて進講せしが、其れより之れを學ぶもの往往これありしといふ。つまり此の時代より宋學が行はれましたやうに存ぜられます。世人或は楠木正成なども稍儒學を知り、又た其の儒學は宋學なりしやうに申しまするものも御座りますれども、之れを證明仕りまする有力なる資料は御座りませぬやうに相考へまする。とも角鎌倉の末より致しまして足利時代に相成りますれども、僧侶の内に宋學の書を讀みまするものが御座りまするし、又た從來の漢唐の經學を仕りまするも多少は新注を用ゐましたるものも御座りましたれども、戰亂の世の事で御座りますれば、一般に學問を仕りまするものは少なう御座りまして、武人の精神修養を仕りまするには、儒學と申しまするよりも禅學によりましたるものが多かりしやうに考へます。それで宋學が本當に盛んに相成りまして、一般教育の一要素と相成りましたるは徳川時代の事で御座ります。
 
(111)      三 徳川時代
 
 徳川時代の宋學と奈良朝・平安朝の漢唐學と相違仕りますのは、前に申上げましたる如く、昔の儒學は朝廷に於かせられ、隋唐の文化を御採用に相成りましたる結果、隋唐文化の一要素とて皇國に傳はりましたるもので御座りまして 儒學と隋唐文化と引離して取扱ひませぬ。左樣仕りまして、この隋唐文化が皇國に入りまして、其の長短得失を考へ、此れを能く消化して皇國の文化と致しまする事よりも、唯摸倣に過ぎたるものと致しますれば、儒學も亦同樣で御座りまして〔昔の〜傍線〕、唐の儒學〔四字右○〕を其の儘に摸擬仕りましたものと致さねば成りませぬ。又た實際全く摸擬で御座りましたる事は、唐の學制と皇國の学制、唐の科擧と皇國の貢擧と、全く同一で御座りまして、大學にて用ゐまする課業目の分ち方、貢擧の種類又たは試驗法まで同一で御座りましたので相分ります〔を其〜傍線〕。
 然るに徳川時代の儒學に於きましては、別に法制・律令其の他文物に至るまで、支那の影響を受けましたる事は全く御座りませぬ。唯支那の文化の一大産物で御座りまする儒學のみが、他の文化と引離されて皇國で重んぜられ、さう致して、其の儒學〔二字右○〕が皇國〔二字右○〕の御國體國情に適合致すやうに相成りて、摸擬品でも御座りませぬ、又た借用品でも御座りませぬ所の所謂日本儒學と相成りました〔日本〜傍点〕。
 前に申上げましたる如く、徳川時代で尤も盛んで御座りましたるのは、宋學で御座りますれども、(112)宋學の内にも朱子學、又た明王守仁即ち陽明の學を主と仕りまする所の陽明學、それから宋學より離れまして新に一の學派をなしましたる古學、宋學と古學と何れにも偏せず、其の長を舍て短を補ふを目的として起りましたる折衷學、又た徳川時代の末に相成りますれば清朝に起りましたる漢學が御座りまして、同じく儒學と申しましても其の學派は甚だ多く、各派皆それ/”\偉大い學者が御座りまして、中中昔縉紳間に行はれましたるもの、即ち明經博士の掌りましたる儒學の如きものでは御座りませぬ。今大體二の方面に分けて申上げまする。
 即ち第一は儒學を一の學問と致しまして、皇國の學者が何如なる方面に於きまして〔二の〜右○〕、又た何如なる程度に於きまして、學問の上に業績を擧げましたるかを申上げ、第二には、我儒學の實用方面、即ちそれが我國民性國情に適合仕りまして、一般に世道人心に對し何如なる効果を有ちましたるか、右二方面に就きて申上げまする。
 第一の方面に於きまして、我儒學は彼の儒學を唯摸倣仕りましたるもので御座りませいで、各々自家獨得の研究を仕り、從來彼の國の學者が未だ手を着けませぬ所に心を留め、彼の國の學界に對し經學の上に於いて、決して遜色が御座りませぬ所の種種の著述を出しました。かくの如く儒學の發達仕りましたる事は〔かく〜傍点〕、この儒學が初めて我國に傳はりましてより、徳川幕府の初期まで千年も經過仕りたる事で御座りますれば、縱令平安朝の末より鎌倉足利時代を通し戰亂相續き學問が退歩仕りましたと申しながら、儒學が徐徐として、それ自身にて發展し彼れに遜りませぬ我學、所謂日本の儒學が出來(113)ましたる事は當然のやうにも相考へられまするが、直接の原因〔二字右○〕としては、當時鎖國の時代で御座りました。この鎖國〔二字右○〕が宜しき政策で御座りましたるか否かに就きましては、種種史家の議論も御座りまするが、皇國の學者が儒學の上に獨創の見を出しまするもの多く相成りましたるは、鎖國と申しまするが偶然に原因をなしましたかと心得ます〔獨創〜右○〕。奈良朝又た平安朝の初期に於きまするやうに、兩國の國交が頻繁に行はれ、遣唐使留學生が常に派遣されまするやうな時代には、唯其の文物學問につき之れを我國に傳へまする事が目的で御座りまして、之れに就きて寛くり相考へ〔六字傍点〕長短得失を比較し、獨創の見を出しまする如き餘裕はない筈で御座ります。即ち儒學が元來彼の國のもので御座りまする以上、それが次ぎ次ぎに我國へ傳はりまして、こちらは全く受身の地位に立ちまする次第で御座ります。然るに鎖國時代と相成りますれば、其の時代に於きまする彼の學界の樣子が相分りませず、或は多少分りましても、彼の學界の刺戟を受けまする事が少なく御座りまする故、勢自己で色色研究して獨創の見を出すやうに相成ります。尤も鎖國時代で御座りましても、長崎の一港丈は支那及び荷蘭國へ對して開かれて御座りますれども、支那の學者のかきましたる新奇の書が、直ちに我國へ渡り、我學界へ廣く傳播仕ると申す現今の〔三字右○〕やうな事は御座りませぬ。又た縱令すぐに參りましても、本の一部丈位で、到底學者に多く讀まれますると申すやうな事は御座りませぬ。其の證據には元禄享和頃〔五字傍点〕、即ち我國に於いて儒學が最も盛んに御座りましたる時代は、清朝に於いて康煕の半より雍正の終にかけましたる時代に相當り、清朝と相成りましてより九十年も經過仕りまして、清の學者が書きましたる著述も、(114)皇國に傳はつて居りまする譯で御座りますれども、是の時代の學者が多く讀みましたるものは高が明までの書で御座ります〔高が〜傍点〕。又た當時書籍と申しましても、幕府或は大藩の學校には一通りは備へましても、現今の如き圖書館も御座りませぬ故、彼れ等學者の讀みましたる書籍の智識は、或は該博と申しまする事は出來ませぬが、其の代りに僅か計りの書を熟讀仕りまして、又た自己の考へを錬りまする所より、往往獨創の見を出しましたるものが御座りまする。其の一二を申上げますれば、山鹿高興〔四字傍線、四字右○〕素行伊藤|維※[木+貞]《コレサダ》〔四字傍線〕仁斎及子|長胤《ナガタネ》〔二字傍線〕東涯物茂卿〔三字傍線〕徂※[行人偏+來]等の學者で御座りまして、此れ等の學者を古學派と申しまする。此れは宋學に對しましたる名で御座りまして、追追宋學を研究仕りましたる結果、此れに對して疑を挾み、宋學の中には釋老の思想が澤山混雜仕つて居りまする。又た漢唐學と申しまして、字義訓詁計りを專らに研究して孔子の道を把みまする事から、此れ等の學問を儒學中より排除し、直ちに孔子の學統に接すべきものと申しまするやうに、遠大なる抱負を有したるもので御座りまして、彼れ等の眼中には孔孟を除きまして恐れまするものが御座りませぬ。又た茂卿の如きは孟子さへも大に駁撃仕りましたる位で御座りまして、それ/”\特色を有ちまする所の學派を作りました。山鹿は儒學以外に兵學を修め、儒學と武士道との調和を謀り、又た昔より儒學を仕りまするものが動もすれば支那に癖し、彼を貴び我を賤め、内外本末を顛倒仕りまするの故を矯め、又た伊藤は宋儒の學が孔孟の學と異なりまする點に注意仕つて一家の説をなし、其の立前より致しまして、論語古義、孟子古義、語孟字義、中庸發揮、童子問〔論語〜傍線〕などの著述が御座りまして其の學を主張仕り、其の子長胤〔五字右○〕は長子で御座りま(115)するが、其の外に四人、合せて五人の男子が御座りまして、皆な父の學を繼ぎ、長胤のみは仕へずして家にあり、四人は皆な諸侯に仕へて父の學を廣めました。伊藤の家は京都の堀川に居住仕りましたる故、世又た之れを堀川學派と申しました。伊藤〔二字傍点〕は學問も一世にすぐれ、又た人物も誠に寛弘なる長者で御座りまして、儒者と致しまして完全なもので、門人も多く仕立てました(大石良雄)が、其の著書〔四字傍点〕の中殊に其の學問を見るに足るべきものは、論語孟子の古義と、語孟字義で御座りまして、此れは語孟の中に見えまする〔論語〜傍線〕、命、性、天道、理、氣、心、情、仁、義、禮、智等の字義に就きて精密なる研究をなし、朱熹の此れ等に關する解釋の間違つて居りまする所を指摘致しましたるもので御座りまして、誠に獨創の見に富みましたるもので御座ります。然るにこの伊藤の著述が出來ましてより七十年も經ちましたる後、清儒戴震と申しまする學者が御座りました。此れは清一代に於きまする屈指の人物で御座りまする。此のものが宋學に反對仕りまして孟子字義疏證と申しまするものを撰しましたが、此の著述、支那にて今日まで大層持囃しまするもので御座りまするが、其の説、又たその方法まで、非常に類似仕つて居りまする。此くの如く清儒が後に色色と研究を仕つて居りまするのを、其れ以前に已に伊藤が致して居りまする。猶ほ外にも御座りまする。尤も伊藤の説と右清儒の説は〔尤も〜傍点〕研究の結果偶然其の歸を一に致しましたる譯で御坐ります。物茂卿〔三字右○〕に相成りますれば、此れも宋學に對して一家の學を起しましたるものにて、伊藤の學説と相違の點も之れあり、其の人物につきましても伊藤とは大層變つて居りまするが、其の箸述の或るものは彼の國に傳はり、それが又た支那人によりて〔其の箸〜傍点〕覆(116)刻されまして、彼の國の學者の著述に日本の物茂卿の説はかく/\と己の著述中に引きましたるも御座ります。又た慥かに茂卿の著述を讀みましたる證據も御座りまする彼の學者〔四字傍点〕が、其の著述の中に、茂卿と同樣の説をなして居りまするものが御座ります。此れは全く茂卿の説を※[巣+力]竊仕りましたるもので御座ります。又た茂卿が門人に山井鼎と申すものが御座りまして、紀州の徳川が分家で御座りまする西條藩主松平頼渡の家來で御座ります。主人の命により、足利學校〔四字右○〕に支那にも已に絶へましたる古寫本〔三字傍線〕、また宋板即ち宋の時代に出版に相成りましたる經書注疏〔二字右○〕の類が御座りましたれば、それにより此れまで明以來の版本に御座りまする文字の誤を正しまして、七經孟子考文〔六字右○〕と申しまする一書を著はして、之れを主家へ出しましたる所、此れを又た主人より時の將軍吉宗へ獻じましたるなれば、吉宗は直ちに之れを版に命じ、又た字が拙なくしては皇國の耻と御座りまして、態々時の能書家細井廣澤と申すものに箱書をかゝせ、長崎奉行の手より之れを支那へ送りました。又た其の後右の書を長崎に參りましたる支那商人が之れを買ひまして支那に送りましたるところ、彼れ等の平素經書の讀方又た解釋につき疑を有ちましたる處が冰釋仕りましたる事が多く御座りました。此れを見ましたるものが大に感心仕りまして〔九字傍点〕、それが又た彼の學界に刺激を與へ、支那の學問〔五字傍点〕につき日本の學者に負けては相成りませんと申して、山井が研究仕りましたる方面の學問が彼の國學者の間に盛んに行はれました。それから其の國の學者の經學に關しまする著述には必ず考文〔二字右○〕を引く。當時清朝にては高宗、普通に乾隆帝と申しまする君主の時代で御座りました。この帝頗る好學の方にて、有名なる四庫全書編纂の大事業が起りまし(117)たとき、この山井の書をも四庫の中に收めました。四庫の中には朝鮮人の作りたるもの、又た明末より天主教の傳道師が支那へ參りまして、西洋の天文・暦學・算學を教へましたが、其の多くは漢文に書きましたるもので御座りまするが、此れ等も其の中に入つて居りまする。併し支那に於いて尤も重しと致しまする經學〔二字傍点〕の方面にて外國人の著述を入れましたるものは、此の山井の七經孟子考文〔六字右○〕のみに御座りまして、日本西條儒臣山井鼎撰〔十字傍点〕東都物觀補遺として、支那の學者の著述と肩を比べて居りまする。後には又た彼の國にて覆刻され、それが又た支那の商船にて長崎へ參りまするやうな譯で、今日で御座りましても、支那にて少し經學を仕りまするものは山井の名を知らぬものは御座りませぬ。又たこれはこちらの學者の著述では御座りませぬが、初め支那より參りましたる貴重なる書籍で、彼れには早く散佚仕り御國のみに傳はりましたるものが多多御座りまするが、それが御國の學者により翻刻されまして支那へ渡り、又た其中のものは矢張り四庫に収められました。結局〔二字右○〕當時の儒學に於きまして、唯支那人の學問を眞似致しますると申す事は御座りません。支那人の學問に劣りませぬのみか、こちらの學者の著述が却つて彼に渡りまして、彼の學界を刺激仕りましたる事も決して少なく御座りませぬ。奈良朝・平安朝の學者が唯一も二もなく唐人を眞似仕りましたものとは雲泥の差が御座りましたる事で御座ります。
 それより、儒學が一般教化の上に何如なる働を仕りましたるかにつき申上げます。徳川時代即ち慶長元和以來、天下が安靜と相成り、學問も漸く萌芽仕りまして、徳川家康の如き初めは藤原肅惺窩に(118)就きて道を問ひ、其の門人林信勝を招聘仕りて文事顧問と致しました。此れがため林家が世々儒學を以て幕府に仕へまする事と相成り、元禄三年、將軍綱吉、從來林一家の私立で御座りましたる塾を改めて公けのものに致し、又た林家にて私祭仕りたる釋奠を將軍自ら祭りまする事に相成り、列藩に命じて金幣を進獻せしめ、又た其の側に校舍を立て、林家のものが其の學頭を世襲し、又た其の學問は宋學によりましたるもので御座りまする。各藩に於きましても各々競うて學館を立てまして、尾張の明倫堂、水戸の弘道館、和歌山の學習館、金澤の明倫堂、會津の日新館、米澤の興譲館、長門の明倫館、鹿兒島の造士館、肥後の時習館と申すやうな具合に、藩學が御座りまして、學者を招聘して、文武の業を勸め、互ひに相負けませぬやうに競ひましたるものにて、王政御一新の前まで藩學二〇〇以上御座りました。又た京都・江戸・大阪を初め、其の他の都會は勿論、可なり偏陬の地にも、立派な學者が御座りまして、或は私立の學校私塾の如きものを設け、多くの學生を收容仕り、前に申上げましたる伊藤維※[木+貞]の如き、飛騨佐渡壹岐を除外したる以外に、門人の一人たりとも居りませぬ國は御座りませなんだと申しますことで御座ります。又た極めて低い百姓町人に對しましても、寺小屋の如き物ありて、讀み書き算盤、又た餘り文字を存じませぬものにも相分りまするやうに、平易なる修身講話を致しまするといふ具合に、所謂普通教育も可なり全國に及んで居りましたる事で御座りまするが、其の目的と致しまするは、此れ等のものまで人倫五常忠信孝悌の道を教へまする目的にて、其の据りましたる所は固より儒學で御座りまして、當時一般に行はれましたるは宋學で御座りますれば、教化(119)と申しまする點より申しますれば、宋學が尤も影響を與へましたるものと相考へます。
 さて徳川時代に儒學が學問として少數者に研究致されましたる計りには無之、一般教化の根本と相成りましたるは、元來我國民性に尤も適合するもので御座りまするし、殊に封建時代に於きまして武士が尤も重んじましたる武士道〔三字傍点〕に一致仕る所が多く、武士道に一層みがきをかけ、其の徳性を涵養し心神を錬磨致しまするに、儒學に頼りまする事を尤も便利と考へました事と存じます。今ま一つはこの儒學を創め教を後に垂れましたる孔子は、周の世に生れ、しかも周の立法者とも申すべき周公の子孫が封ぜられましたる魯のもので御座ります。孔子の教は人の道を説きましたるものにて、一時代又たは或る一國に限らるべき性質のものでは御座りませねども〔孔子〜傍点〕、又た一方より相考へますれば、其れは封建時代に生まれましたるもので、封建制度の長所短所をも充分に承知仕つて、色色と當時の君臣に對して教をなして居りまするが、其の内には〔五字傍点〕、後世殊に封建時代に生息仕りませぬものには何如に其の教が適切で御座りましたか分りかねまする所も御座ります。(後人の支那の學者でもはつきり分り兼ねまする所もありましたかと存じます。)然るに支那には周以來、周の如き完全な封建制度は御座りませぬ。之れに反して、我徳川時代即ち經學の尤も盛んに行はれましたる時代は、學者が偶然にも周の封建と多くの點に於いて類似仕りましたる國情の下に居りました。それで儒學の或る點に於いては孔子の教を能く諒解仕ることが出來、又た實際其れが適切に當時のものゝ心に訴へまする事が御座りまするやうに相考へます。
(120) 孔子の時、上には周王ありて、畿内の地を治め、下に公卿大夫ありて、世々朝廷に事へ、畿内の地、天子直轄の地内に采地を有して居りました。畿内以外には乃ち五等の諸侯が星羅棊布して、各々其の國内を治めて居りましたが、右は勿論天子より命ぜられましたるものにて、周禮即ち周王の法度を守り、周王に忠勤致すべきもので御座りまして、常に貢のものを出し、又た朝覲して臣節をつくすべき種種の規定が御座りました。又た諸侯の臣の中でも、上卿即ち上家老は〔四字傍点〕諸侯の臣では御座りますれども、其の職を襲ぎまするに朝廷より任命の形式を取りまする事になつて、天子の威令普ねく諸侯の上に加はつて居りましたる所、段段時が立つに從ひまして王室衰へ、諸侯が我儘を致し、強きものは弱者をいぢめて其の土地を擴ぐやうに相成りまする内、諸侯の内にて尤も勢力を有ちましたる覇者と申すものが出ました。元來諸侯は直接天子に隷屬仕るべきもので御座りますれども、覇者が出まするやうに相成りまして後、諸侯に命令を下しまするは覇者で御座りまして、天子では御座りませぬ。朝覲と申しまするは天子に朝覲する事で御座りますれども、後には覇者の處へ參りまするやうに相成りました。勿論此の時代に於きましても天子の貴き事を承知仕らぬものは御座りませぬ。覇者と申しましても表面は王室を貴び勤王を表※[衣偏+暴]仕りますれども、一の名義に過ぎませず、王命を笠にきて諸侯に號令し、諸侯は又た覇者の機嫌のみを窺ひ、己が天子の諸侯たるを知らず周公の制と相反する事甚しう御座りました。孔子はかゝる時代に生れられたりしをもちまして、大層覇者の政を嫌ひ、王覇の別を嚴にし、尊王の大義を明にされ、正名即ち名分と申す事を八釜數のべられたるものに御座りまして、(121)其の思想は春秋の一書にても能く分る事で御座ります。此れは孔子の思想にて儒學に共通なるもので御座りますれば、宋儒〔二字右○〕は殊にこの點に重きを置きて居ります。此れは宋儒の學が尤も功利論を排斥する所より起りしものと思はれまする。又た宋儒は同時に正閏論を矢釜敷申します。正閏と申す事は、天下一統の世なれば問題が起りませぬが、歴史上國が幾多に分れたる事御座りまして、例せば漢末の三國、南北朝時代の如く、同時に二つ以上の天子御座りまするものを、史家は孰れを以て正統なり正統にあらずと致しまするか、是れ亦正名の一で御座ります。或論者は統一を闕きたる時代は、實力の點を標準として、幾多天子と名乘る内にて、尤も實力あり多くの土地と人民を有せしものを正統として、其の天子の年號を用ゐて事實を排列するより外に致方なしといふもの御座りますれども、宋儒殊に朱子は極力之れに反對し、實力を以て正閏を定むるべきものにあらず、其の帝位を履む事の當を得るか當を得ざるかに因りて正閏を定むべしと申しまして、朱子の通鑑綱目には大に此の點に注意致して御座ります。かくの如き我封建時代〔五字傍点〕に於いて、宋儒の學が一般に擴がり、其の學問の立場より其の時代を考へますれば、何人と雖も、將軍〔二字右○〕の地位に對し問題を起しまするは當然の事で御座りまして、將軍を以て〔五字右○〕孔子宋儒の覇者と比較仕らぬものはない筈で御座ります。水戸の徳川光圀が大日本史を編纂仕るにつきまして、即ち王覇の別を正し君臣の大義名分を明にするを以て目的と致しましたるものにて、尤も心を用ゐましたるは即ち此の點で御座りまして、將軍傳〔三字右○〕、將軍家傳を立てゝ居りまするが、元來、我國に世襲將軍或ひは其の家臣あるべき筈は無し、時勢の變を示す爲め、將軍傳等を置き、實(122)は叛臣であるといふ意味を婉曲に申して居りまする。又た神功皇后を本紀より刪つて皇妃傳に入れ、天智天皇の次に帝大友即ち弘文天皇〔四字傍線〕を御代の中に入れ、又南北朝に於いて北朝の帝は別に後小松天皇本紀に附録しまして、之れを御歴代に入れませず、正閏を明らかにし名分を正して居りまする處、此れ等は大日本史の特筆で御座りまする。此れ全く此の編纂を助けたるものは多く朱子學者で御座りまして、(以下缺文)
 次に儒學の夷狄に對しまする攘夷思想で御座ります。春秋時代には漢人種以外、非漢人種で文化の程も漢人種に劣りて居りまするものが、支那の國内に住みて居りまして、それ/”\が段段周の諸侯の國を侵しましたる事が御座りまして、覇者の一で御座りましたる齊桓公などは、之れを攘ひまする事に骨折りましたるより、覇者では御座りますれども孔子は其の功を認めました。又た春秋の書法に於きましても、孔子は中國と夷狄とは明らかに區別して、中國を貴び夷狄を黜けて居りまする。其の點より申しますれば孔子も攘夷論者で御座りますれども、孔子に於きまする中國と夷狄との區別は、寧ろ禮教風俗の差で御座りまして、夷狄でも周の禮教風俗を用ゐ立派なる文化を有して居りますれば之れを中國に入れ、又た中國の諸國にても、周の文化を舍て其の行夷狄に均しきものが御座りますれば、之れに對して夷狄と同樣に取扱ひましたるが、春秋の原理で御座りまする。結局中國夷狄の差を立てまするは、人種の區別と申しまするよりも、文野の差と申す位にて、人種的差別觀は、孔子の考へには餘り御座りませぬ。それは漢唐の時代でも左樣で御座りまして、其の中には漢人以外の人種も澤山(123)居りまして、非漢人種で御座りましても、其の才能を以て大官となりましたものが御座ります。又た兵隊などに外國即ち漢人以外のものを使用致しましたる例も御座ります。人種の區別を立てませぬで御座りますれども、若し外國即ち漢人種で御座りませぬものより、壓迫されまするときは忽ち其の態度を一變仕りて之れを排斥仕ります。かゝる傾向が歴史に顯著なる事實で御座りまして、宋儒殊に朱熹の如き、宋が〔二字傍点〕初めは遼、次に金、最後に元より滅ぼされましたる南宋時代に生れましたるものにて、當時宋の都は臨安に御座りまして、中原の地は此れ等非漢民族に※[人偏+占]據され、武力に於いては之れに勝つ事が出來ませず、それで正閏の論〔四字右○〕が學者の間に非常の興味をもちました。勿論正閏と申しまする事、昔の時代に御座りましたる歴史上の或る朝廷が、正統で御座りましたか否かを吟味致しまする學問上の議論では御座りまするが、かゝる事に殊に熱心を持ちましたるのは、宋自身が當時正閏を問ふ必要を感じましたる譯で、それが學問の上に顯はれ、又た孔子の春秋を攘夷の方面から專ら解しましたるのも、當時の學者がかゝる環境の下にありましたからで御座ります。かゝる性質を持ちましたる宋儒の學が、徳川時代殊に中期以後盛んに行はれましたるときに當り、外國との交渉が起こり、ペルリの來航を見ましたる譯で御座りまして、平素宋儒の學を致し宋儒の文を讀みましたるものに、非常の刺戟を與へまして、尊王と攘夷〔五字右○〕の論が起り、遂に明治の鴻業の出來ましたるものと相考へまする。尤も此れは我學儒學の側より申上げまする、儒學計りの力で明治の鴻業が御出來になりましたと申しまする譯では御座りませぬ。唯かくの如くなりましたる一の誘因をつとめましたる事を申上げます。
 
(125)  儒學の政治原理
 
(126) 昭和七年六月六日、十三日進講
 
(127)                  帝國學士院會員京都帝國大學名譽教授
                    從三位勲二等臣狩野直喜進講
 
 臣儀屡々御前に召出され、洩學菲才の身を以て、御進講を仰付けられ、洵に恐懼感激に任へませぬ次第で御座ります。今次《コノタビ》恭しく申上げ奉りまするは 「儒學の政治原理」と申す題目で御座ります。儒學にて政治と申す事を何如に考へましたか、其の邊の大要《アラマシ》を申上げまする心得で御座ります〔儒學〜右○〕。此れに就きまして、豫め御許を願上げまするのは、先年御進講の光榮を荷ひましたる節、「古昔支那に於ける儒學の政治に關する理想」と申す題目につき、二同に度り其の大略を申上げましたが、今日申上げまする題目も、殆んど同一の意味で御座ります。從ひましては、先年御進講仕りましたる事と、重複仕りまする事が定めて多多御座りまする事と存じます。其の儀は豫め御許を願奉ります。
 又た今ま一つ御許を願上げまするは、儒學が學問として成立致しましたるは、孔子からで御座りまするが、支那に於きましても、漢唐宋元明清と長い間、其の學説・學風に變化を受けまして、種種の(128)學派を生じ、一の學派の説きまする所と、他の學派の説きまする所と比較致しますれば、大變な相違が御座りまする。又たこの儒學が、御國に傳はりまして、多くの碩學鴻儒を出し、一つの學派を立てましたるものも幾多御座りまするが、此れ等の内には支那傳來の説を墨守致しませず、御國體又たは我國民性に順應致しまするやうに氣をつけまして、儒學の或方面を殊に發展いたしましたる結果、彼の國の儒學とは大に趣を異にいたすやうになりましたる點も御座ります。今次《コノタビ》申上げまする「儒學の政治原理」と申す題目は、儒學が成立いたしましたる孔子時代、或は孔子以前に、已に支那民族が一般に持つて居りましたる所の政治思想で御座りまして、後世支那の文物制度に至りまするまで、少なからぬ影響を與へたる根本的のもの丈申上げまする心得で御座ります。又たこの思想を本として、かくあらねはならぬと考へましたる國家と、現代の立憲國家の組織と比較致しますれば、少なくとも形の上に於きましては大變に相違仕りましたる所も御座りますれども、唯有の儘を申上げ、強いて兩者を調停若しくは比較を仕らぬ心得で御座ります。
 
     一 政の意義
 
 儒學の經典として、尤も尊重致されて居りまするものは、四書五經〔四字右○〕で御座りまして、其の中には種種の方面に渡りまする聖賢の教が載つて、己を修め人を治めまする上につき、教を垂れて居りまする(129)が、結局《ツマリ》は道徳と政治とこの二つを出でぬ次第で御座ります。周は支那の古代に於きまして、文化の極めて發達し、學術の尤も〔文化〜傍点〕昌明なりし時代で御座りまして、此の時代には儒家以外にも、諸子異端の學として排斥致しましたる學派――道徳の根本義に於きましても、又た政治論に於きましても、全く相容れざる學派も御座りましたが、前漢の武帝以後、六經の表章と申して、此れ等の學派中、儒學が他の學派よりも尤も醇正であると極まり、其れが朝廷即ち國家公認の唯一の學問と相成り、官吏を採用致すにつきましても、儒學を治めましたるものに限られ、所有制度文物の背景には必ず儒學の政治理想が御座りまして、其の制度文物と申しまするものは、要するに、其の思想が外面に具體化したるもので御座りまして、勿論、制度上の變革は時代によりて又た革命により新なる制度が出來て參りましたれども、其の精神に於きましては變りござりませぬ。古より世の中は治少なく亂多しと申しまして、上下二千有餘年の間、儒學が文字通りに必ずしも行はれましたる事は少ないので御座りましたれど、漢以來とも角政治の上に、一定の理想が御座りました〔一定〜傍点〕。尤も此れは所謂理想〔四字傍点〕で御座りまして、かかる政治が行はれましたならば、それこそ彼れ等の所謂堯舜の世を現出いたす譯で御座りますれども、實際に詩書に顯はれ、孔孟により倡導されました如き王道政治が、果して完全〔二字右○〕に行はれしかと申しまするに、歴史上の事實より相考へますれば、かゝる時代は御座りませぬ。併しながら、此の政治の理想〔五字傍点〕を眞面目に抱き、これ以外に天下を平治する事は出來ないと申す信念より致しまして、君臣相偕にこの理想を實現いたす事に努力し、歴史上に赫赫たる業蹟を殘しましたる例は少なく御座りませぬ。(130)例へば漢光武帝の建武〔二字右○〕、明帝の永平〔二字右○〕、唐太宗の貞觀〔二字右○〕、宋仁宗の慶暦〔二字傍点〕、明孝宗の弘治〔二字右○〕、清聖祖の康煕〔二字右○〕、高宗の乾隆〔二字右○〕などは文徳より申し、又た武功より申しまして、極めて盛んなる時代で御座ります。此れ等の時代と申しましても、彼れ等の理想と致して標榜致しまする堯舜の政治に到着いたしましたかと申せば、必ず左樣で御座りませず、王道政治と申しましても、其の中には覇道政治が加はつて居りまするが、併し君は堯舜の主たらむ事を希ひ玉ひ、臣は堯舜の臣たらむ事を期して、一意專心に其の職を勵みましたる結果、此くの如き立派なる時代を現出いたしたるは、儒學を尊ばれましたる原因に歸せられて居ります。
 然らば、儒學に於いて懷抱仕りまする政治は、元來何如なる事を理想と致したるもので御座りまするか、其の内容に就いて申上げまする前に、此の「政治」の「政」と申す文字、御國にて政をマツリゴトと訓じまするは、祭政一致、祭が政治に尤も大切なる所より、この訓を生じましたる譯で御座りまするが、本來政治の言語學的解釋といたして、孔子が之れに「政者正也」と申す定義を下して居りまする。それは論語(顔淵)の中に、孔子が季康子に告げましたる言葉のうちに見えて居りまする。
 古昔、孔子の生れましたる魯國に三家と申し、代代國老を勤めまする家柄が御座りましたが、其の内に季氏と申す家が、尤も勢力を有して居りました。孔子の時、其の家の主人に當りまする季康子と申しまするものが、孔子に政を致しまする心得を質問仕りました事が御座りまする。其の時孔子は之れに答へまして、「政(ハ)者正也。子帥(フルニ)以(テセバ)v正(ヲ)。孰(レカ)敢(テ)不(ラン)v正(シカラ)。」と申して居ります。孔子がかゝる答を致(131)しましたるは、深き意味が御座りまして、季氏は前に申上げましたる如く國老の家柄にて、原來其の家を起しましたる祖先が、魯に内亂が御座りましたる際、非常に功勞が御座りましたから、其の子孫に至りましても、世々魯君の特別なる待遇を得、領地をも多く持つて居りまするし、兵權も握りて居りましたる所より、自然と我儘が増長いたし、君を蔑にして一國の政事を我物顔に致しまして、終には其の君を國外に逐出しまする迄、不臣の働を致したもので御座ります。然るに、季子の家には又た其の家來が御座りまして、魯君には陪臣に相當りまするが、其の家來共が、亦た主人を見習ひまして、主人の命令を遵守致しませぬ。當時君の命が其の國老に對して行はれず、家老の命が又た其の家臣に行はれませぬ。俗に申しまする下剋上の状態で御座りまして、季子も家臣の横暴には殆んど困りぬいて居りました。それで孔子は、其の質問に答へまして、「政者正也」と申す定義を與へ、然る後若し御身が、先づ正を以て君に事へ其の手本を示されたらば〔先づ〜傍点〕、「孰敢不正」皆な御身の爲す所を見※[人偏+效]ひて正しく相成り、此れ等のものに對して困りぬくやうなる事あるまじと、其の言葉は優しきやうに聞えますれども、季氏に對しましては隨分其の※[匈/月]にひしと應じますべき訓誡を與へましたもので、季氏と魯君との關係を相考へ、特に注意を致しましたもので御座りますれども〔特に〜傍点〕、「政者正也」と申しまする定義は、孔子が勝手に作りたるものにては無v之、此れは一般的に政の字に對する定義で御座りまして、先づ政字の構成、從うて發音の同一なる所より、「政者正也」と申したるもので御座ります。即ち「政」の字は左旁が正字で、右傍か「攴《ホク》」とこの二字より成立致しましたるものにて、「攴」の字は(132)又「卜」と「又」とを組合はせましたるものにて、又は即ち手で御座ります。それで漢以後、「攴」を横に列べまして「※[手偏+卜]《ボク》」と書きまする。「※[手偏+卜]」とは大きな〔三字傍線〕「棒」の事で御座ります。昔教師が子弟を訓へます場合、何知に致しても教師の教を遵守致しませぬとき、此れを匡正いたしまする爲めに、敲きまする道具を※[手偏+卜]と申しまする。それで政の文字も、政は民を正に導き、正しからざるものを正しまする事、恰も學間の教師が子弟を訓へて、猶ほ其の教に從ひませぬものが御座りましたら、其の子弟の爲めに色色な施設を致し、正しき筋道を離れましたるを、元の正しき道に引還へさせる事であるといふ意味合から、此の字が出來ましたる次第で御座ります。從ひまして、此の政字正字〔四字右○〕は漢以後より、判然と書方が違つて參りましたかなれど、其れ以前に於きましては、用法が混同致しまして、「正《タヾス》」と申す意味に政字を用ゐ、又た政字の代りに正字を使用致すといふ鹽梅で御座りまして、從うて漢時代に出來ましたる古き字書に於きましても、政治の條に「政者正也」〔九字右○〕と孔子が與へましたるものと同一の定義を下して居りまする。結局已に政〔右○〕と申しますれば必ず「正」すと申す觀念が直ちについて參りまする譯合で御座ります。
 一體、支那に於きまして、何時代に文字が出來ましたか、種種傳説は御座りますれど、確り致した事は分り兼ねまするが、果して文字が始めて出來まする時から、其の構造が唯今の通りで、又た其の構造致さしましたるは、左樣の意味合からで御座りましたか、其處には議論の餘地は有v之かと心得ますれども、少なくとも孔子のときは、其の字正に从ひ攴に從ひて、「政者正也〔四字傍点〕」といふ定義が一般(133)に行はれて居ましたるものを、孔子が取りて季子に訓誡を下しましたものと心得ます。なにも孔子が新らしき定義を下したるものでは御座りませぬが、併し政は正しからざるものを正す事、即ち今樣の言葉を以て申上げますれば、正義が國家の力によりて、此の世に實現實行され〔即ち〜傍点〕、又た實現實行されまするやうに努めまするのが即ち政であると申す事は、孔孟及び儒家の政治論に於いて其の核心をなすもので御座ります〔實現〜傍点〕。
 右の如く「政者正也」で御座りまして、一國に於きましては君が正を以て廣く民を帥ゐ、又た官廳にありては長官が正を以て其の僚屬を帥ゐまする所より〔一國〜傍点〕、古昔より「正」には君〔傍点〕とか或は長〔傍点〕と申す意味が御座りまして、支那の官制に於いて、「其の正」と官廳の長官を呼びましたる例が澤山御座ります。昔唐の制度を御參酌になり、太寶年間に御定めになりました太寶令官名中にも、東西市正、諸陵正、掃部の正などゝ、「正」の字を「カミ」と訓讀致して居りまするが、是れも矢張長官たるもの、先づ己れを正し、然る後僚屬を正すべきもので御座りまするより、長官の意味に正字を用ゐましたるもので御座ります。
 さてこの正しからざるものを正しまするには、色色の手段が御座りまして、儒學の立前より申しますれば、教化が第一で、教化の力によりても、猶ほ正す事が出來ませねば、刑罰を用ゐますが、それでも之れを正す事が出來ませぬ。多のものが相集りて團體をなして、命に服しませぬとき、兵を用うることは亦た止むを得ませぬので此れも亦た政と申します。周の制度を書きましたる周禮に、天地春(134)夏秋冬の六官に分ち、各々其の官廳にて管理致しまする事務の特色に從ひ、天官は治典、地官は教典、春官は禮典、夏官は政典、秋官は刑典、冬官は事典と分けて居ります。夏官にのみ此の政字を用ゐて、政典と申しまするは、夏官の長官を大司馬と申し、武官の長官〔五字右○〕で御座りまして、用兵の事を掌るもので御座ります。凡そ正しからざるものを正しまする仕事の内にて、兵を用うるの手段に出でまするより大切のものはなく、之れを善用いたしますると否とに因つて、大變な結果を生じまする故、殊更に此の官廳に政典と政の字を用ゐ、又た大司馬の官制に「帥2其虜1而掌2邦政1。以佐v王平2邦國1。」などと申しまする。
 瑣末なる文字の事を申上げまして恐入まするが、此の政字と相對しまして「征伐」と申しまする場合の征字が御座ります。孔子が書きましたる春秋には、戰争の記事が澤山出て參りまするが、當時周室微弱にして、諸侯互ひに兵を構へて人民が困り果てゝ居りまして、其の戰争の動機の正しきものは、殆んど御座りませぬ。「春秋に義戰なし〔七字傍点〕。彼れ此れより善きは則ち之れあり」(孟子)と申しまするやうに、義即ち正義よりのみ出ましたるものはないので御座ります〔義即〜傍点〕。それで孔子がこの戰争〔二字傍点〕行爲を書きますに、種種な言葉を使用仕りましたが、其の重なるものは「侵」「伐」「戰」「圍」「入」「滅」〔六字傍点〕等で御座ります。此れは戰争の性質、又た其の程度より言葉を違へて居りまして、「侵」が尤も輕く、「滅」が尤も重きもので御座りまするが、春秋の義より申しますれば、これは何れも當時の諸侯が不純なる目的より、相互ひに兵を構へましたる事を、其の性質及び程度により、此れ等の言葉を以て著はしま(135)したるもので皆な罪惡として之れを貶しましたるものと成つて居ります〔皆な〜右○〕。
 然らば何如なる種類の戰争も、罪惡と致しまするかと申せば、決して左樣では御座りませぬ。征〔右○〕或ひは征伐〔二字右○〕、征字に伐字が附加はりましたる場合の征伐は宜しき事になつて居ります〔征伐は〜傍点〕。第一、この征〔傍線〕と申しますることは、孟子にも「征者上伐v下也」と御座りまする通り、王者の師〔四字傍点〕についてのみ征又たは征伐〔六字傍点〕と申しまする。古昔支那人の考へによりますれば、王者は天命を受けて一天四海に君臨さるゝもので、之れと同等なる人はない譯で御座りまする。諸侯も其の下に兵を握りて居りますれども、其の兵を動かしまするは、王命により征伐に參加する場合に限られたもので御座ります。
 又た第二には孟子も「征之爲v言正也。各欲v正v己也〔征之〜傍点〕。焉用v戰〔三字右○〕。」と申して御座りまする通り、「征」と申す字義は〔七字傍点〕政の字と同じく、正しからざるものを正す事で御座ります。元來正しからざるものを正しまするは、王者の徳に頼るべきで御座りますれども、時としては、頑迷不靈にして、王化に從はざるものあるを以て、かゝる場合には師を出だして之れを征伐さるゝので御座りまして、足れ帝王政の大なるもので御座ります〔元來〜傍点〕。而してかゝる場合には、勿論其の人民を征伐さるゝものにあらず〔勿論〜傍点〕、其の地方人民の上に立ちまするもの、支配者が虐政を以て、其の人民を苦しめまするものを伐つので御座りまするが、「東面而征西夷怨。南面而征北狄怨。奚爲後v我。」と孟子も申しましたる如く、其の人民は王師を歡迎致しまして、一日も早く己れを苦めて居りまする暴逆なる權力を正さむことを希望致すのでありまして、王師に敵對致すやうな事はないと申す儀で御座ります。此くの如く、凡そ戰争の中(136)にて王者の征伐のみをよい事と致して居りまするは、正義を此の世に實現致すには、或場合は武力に頼らねばなりませぬ。是れは已むを得ざる事で御座ります。それで其の文字の構成は「征」は彳に从ひ正に从ひまする。恰も政治の構造と其の趣を一にして居りまする。
 さて凡そ此の「正」、今日の言葉で申しまする事は、何如なる標準を以て、これは正〔傍点〕これは不正〔二字傍点〕と定めまするか。此れは中々六ツか敷問題で御座ります。
 世の中には、不正の行爲と承知致しながら、之れを犯し行ふものが御座りまするが、此れは論外と致しまして、これは君國の爲めと相考へ〔九字傍点〕、本人は其の行爲を正しき事、少なくとも〔五字傍点〕道徳的には正しき事と、確信して行ひましたる事にても、第三者より見ますれば、甚だ正道をかけ離れまして、其の結果國家の大罪人となりまする例も、決して少くない事と考へます。個人の問題に致しましても左樣で御座りまするが、政治問題に就き、或事件が起りましたる場合、何加に致したら正道に合しまするやと定めまする事は、中中困難なる場合多いかと相考へます。儒學の説きまする處では、政治も遺徳も一つに考へまする主義で御座りまするが、遺徳問題、人事問題に致しても左樣で御座りまして、人が日常生活の上に於きまして、正道を寸毫も誤なく履んで參りまする事は、中中困難で御座ります。
 それは凡そ人は仁義禮智の徳を備へ、其の性本善なるもので御座ります。仁義禮智の内、殊に「義」は物の善惡邪正を判斷致しまする〔義は〜傍点〕働にて、何人も其の徳を具備致して居りまする故、判斷が人によりて違ひまする事はない譯で御座りまする。今日の言葉で申しますれば、人には理性〔二字右○〕と申すものが御座(137)ります。甲の理性と乙の理性が變りませぬ以上、一事につきて其の判斷に異同が起りまする事はない筈で御座りますれども、人には理性が御座りますると同時に、物慾と申すものが御座ります。是れ人が肉體を有ちまする以上、全く之れを除去る事は出來ぬもので御座りますれども、聖人は物慾の爲め、聊かでも其の本有の理性を掩はれまする事が御座りません。凡人はさう參りませず、物慾が段段と増長致しまして、本有の理性が十分の働をなしませず、各々其の人の立場とか其の私情私慾といふものが加はりまする故、本然の光が其の爲めに掩はれまして、正不正の判斷が狂うて〔三字右○〕參ります。自然界の法則は、一定不變のもので御座りまして、甲が見ましたる法則と、乙の見ましたる法則と、二樣ある譯は御座りませぬ。人事の法則につきましても、亦一定不變のものが御座りますに違ひない譯で御座りまするけれども、人事は中中複雜のもので、全く客觀的に事物の條理を考へる事が出來ませぬ故、自然界の法則のやうに、何人も同一に之れを認めるやうには參兼ねます。
 又た自然界の法則は、之れを知るといふのが目的で御座りますれども、人事界の法則は、之れを知りまするのみならず、行が之れに伴なひませいでは、何の役にもなりませぬもので御座ります。それで、儒學の方ではこの「知行」と申しまする事を矢釜敷申します。彼れ等が申しまするには、古昔聖人と申すものが御座りまして、其の中には生れながらにして、天品人に秀れたる聖人の徳を備へたるもの(生知)、又た修養によりて聖人の域に達したるもの(學知)、其の差は御座りますれども、均しく其の徳天理に合し、心境は八面玲瓏として、恰も十分に拂拭されましたる鏡の如く、一點の陰翳が(138)御座りませぬ。私といふものゝ爲め、其の働を妨げらる事が微塵も御座りませぬ。其の故に事の是非善惡、人の賢不肖に致しましても、一たび其の心の鏡に照らされますれば、有の儘の姿を顯はしまして、其の行は自然と正道に協うて參ります。此れを聖人の徳とも申し、又た帝王の徳とも申しまする〔聖人〜傍点〕。何故に帝王の徳と申しまするかと申せば、儒學の方では堯・舜・禹・湯・文・武・周公と孔子、此れを聖人と申しまするが、堯・舜・禹・湯・文・武は、支那の古代に帝王として、この徳を備へて居た方となつて居ります。周公も文王の子、武王の弟にて、一時攝政を致し、周の禮樂を制定したる人にて、帝王の位には居りませいでも、先づ準帝王と申して宜しき人で、但孔子のみが其の徳のみありて、其の位に居りませなんで一匹夫で御座ります。
 一體、堯舜の如きは其の時悠遠にして、果してかゝる帝王が事實上存在致しましたかにつきましては、史學の上では種種議論も御座りますれども、少なくとも孔子は此れ等の帝王を歴史的の人物と相考へて、之れを以て後世人君たる御方の標準と致して御座りますが、天下を治むるの道は、堯舜以來歴代の聖人は相受けて之れを後に傳へたるものと致します。漢以後に於きまする名君と稱せられまする帝王は、皆な此の徳を磨※[石+萬]する事に努力致され、之れに事へまするもの亦君徳を守立まする事を、其の職掌の重なるものと致しましたる所以で御座ります。
 一體、儒學の方で治統〔二字傍点〕と道統〔二字傍点〕といふ事を申します。治統と申しまするは、國家を統治いたされまする帝王の血統で御座りまして、支那は革命の國柄で御座りまする故に、帝王の姓が更はりまするごと(139)に治統も亦變り、決して萬世不易と申す譯に參りませぬ。獨り道統に至りまして、堯は之れを舜に傳へ、舜は之れを禹に傳へまするといふ具合に致しまして、後世の帝王も、この堯舜以來の道統の繼承者と考へられましたるものにて、前清時代までは宮殿の中に、此れ等堯舜禹湯を祭られ、又た歴代帝王廟と申しまする官幣の社が御座りまして、歴代帝王で御座りましたる人の中にて、全く道銃の繼承者たる資格なきものを除きまして、其の餘を祭りまする事になつて居りまする。是れも亦帝王の御政治に於いては、縱令治統は變りましても、道銃は萬世變りは御座りませず、堯舜以來傳統の政治原理によるべきものといふ事を示されましたるもので御座ります。
 儒學に於きましては、此くの如く帝王は堯舜以來の道統を繼ぎ、愈々之れを恢弘に致しまして、始めて政治が行はれるものと致しまする。道統の繼承者たる君徳を守り立てまする事が、尤も大切に相成りまするが、それは矢張り前に申上げましたる「政者正也〔四字傍点〕」と申す考へと密接な關係を持つて參ります。論語に堯帝が舜に位を禅られましたるときの誡めに、「允執其中〔二字右○〕」と申す言葉が御座ります。それで儒學では中〔右○〕と申す事を大變に貴び、孔子の孫子思に至り、中と申す事の理窟を述べましたる、中庸の一篇が御座りまする位大切となつて居りまするが、中〔右○〕とは過不及〔三字傍点〕なき事で御座ります。正と申しまする事は、毫も右左に傾きゆがみませぬ一本筋の事にて、元來中は的の中を一本の矢が貫きましたる象形文字、又た正の字も「的」が本義にて、弓の的をあらはします。つまり正〔右○〕も中〔右○〕も同一の概念で御座りまして、政治の要を中にありと申すことも、政は正也と申す事も、意味合には少しも變りは(140)御座りませぬ。それからこの政字の字義で御座りまするが、此の政治を廣汎の意味には、一家を治めまする事を家政、それから國政、天下の政と申しまするが、一家に於きましては家長〔二字傍点〕が正の標準を示し、一家族の正しからざるものを正します。大學の教にては、格物、致知、誠心、正意、修身、齊家、治國、平天下〔格物〜傍点〕の八の順次が御座ります。正意は己れの心を正すことで、己れの心已に正しくして身修まり、以て家を齊ふること出來ます。而してそれが基の礎と相成りまして、治國平天下の功を收むる事が出來まするが、今ま申上げましたる如く、家の政を致しまするは家長、一國に於きましては、封建時代で御座りますれば、諸侯が其の境内の人民に對し標準を示し、天下に於きましては、天子が親ら億兆の蒼生に標準を示し玉ふ。かういふ鹽梅で、それ/”\正の標準を示しまする範圖は違ひますれども、上よりして正の標準を示す事は同一で御座ります〔正の〜傍点〕。此れを名けて政と申すので御座ります。大學に「堯舜帥2天下1以v仁而民從v之。」と申して居りますが、標準と御座りまするは、この事を申しましたることで御座ります。
 又た古昔禹と申す聖帝が御座りましたが、孔子は之れを美めまして、「聲爲v律。身爲v度。〔六字右○〕」(大戴禮)と申しました。律は音律、度は尺度、即ち物さしの事にて、禹の聲は自然に音律の基礎、又た禹の身の丈手足の長さは、自然に尺度の基礎となりましたやうに申して居りまするが、是れは譬喩の言葉で御座りまして、其の人が正或は正義其の物で御座りまして、其れが下人民の「正」「正義」の標準となりましたる事を、譬喩を以て孔子が述べましたるものと相考へまする。
(141) さて、此くの如く儒學の理想と致しては、この正の標準は上より下に示すもので御座りますが、若し其の物指に「クルヒ」が生じますれば、非常な結果を生ずる譯で、一家の場合には家長の正の物指が狂ひを生じましても、其の影響は一家に止まりますれども、國天下と相成りますれば、少しの狂ひでも非常なる結果と相成りまする。大學に「桀紂帥2天下1以v暴而民從v之」と申すは、正の標準の狂ひました極端の場合を申したるもので御座ります。凡そ天下の大政に於いて、君徳と申しまする事を大切に致しましたる次第で御座ります。
 かくの如き譯合で御座りまして、君徳の啓沃と申しまする事が、儒學の政治論として尤も重要の事と相成つて居りまするが、それが尤も能く縣はれて居りまするは、支那歴代の官制で御座ります。この事は先年進講の節申上げましたる處と重複仕りますれども、御許を得まして一通り申上げますれば、隋唐以來朝廷にて、最上至高の官職を三師三公〔四字右○〕と申しまする。即ち三師は太師・太傅・太保〔六字傍線〕、三公は太尉・司徒・司空〔六字傍線〕各三人御座りまするが、唐六典に、「「三師〔二字傍線〕訓導之官也。明雖2天子1。必有v所v師。」と見え、「三公論v道之官也。蓋以佐2天子1。理2陰陽1。平2邦國1。無v所v不v統。」と御座ります。つまりこの六人は君徳を輔弼し奉る所のもの、大政の因て出でまする君徳を守立て奉る所のもので御座りまして、別に或る一の行政事務を主管いたすと極まりましたるものは御座りませぬ。御國の大寶令は、此の精神を十分御參酌遊ばされて出來たるもので御座りますれども、別に三師三公といふ官職はなく、太政大臣・左右大臣が行政の長官たると同時に、三師三公の職を兼ねましたるものにて、太政大臣の(142)條に「右師2範一人1。儀2刑四海1。經v邦論v道。※[變の糸が火]2理陰陽1。旡2其人1則闕。」と御座ります。一人に師範たりと申すは、即ち恐れながら上御一人の御師範役を務めまする事が一つ、それから下萬民の手本と相成りまする事、即ち大政を輔けて之れを施行いたすもので御座れば、己れを正して始めて天下の正しからざるものを正すものたるを示したるもので御座ります〔一人〜傍点〕。經邦論道の一句は、邦を治むるの理想を所有いたして、之れを以て君を輔け奉るべきものであると致しましたもので御座ります〔邦を〜傍点〕。凡そ君に事へ奉るには、一の理想を有たねばなりませぬ。唯政治の才能のみありて、理想が御座りませいでは、その爲め其の爲したる事が却つて國家の害を遺したる例も御座りまするが、殊に天子輔弼の任に當りまするものは、猶ほ更らで御座ります。
 ※[變の糸が火]理陰陽〔四字傍線〕、これは現代の考へより致しましては、餘程可笑しな思想で御座ります。古は天人相關と申しまして、人事と自然界の現象とは密接の關係あるものと信じ、政治の善惡得失は大なり小なり自然現象に影響を與へ、地震洪水或は日食等の事は、政治其の處を得ぬに源づくといたしましたもので、結局此の天災は陰陽二氣の不調和より起るもので、其の陰陽不調和は又た政治が其の原因をなすものと信じて居りました。漢時代には此の考へが殊に甚しく、日食の御座りましたるときに大臣が進退伺を出し、或は實際職を免ぜられ、或は其れ以上の御咎を受けましたる事が、歴史に載つて居りまする。
 漢の宣帝のとき、宰相に丙吉と申したるものに就き一の逸話が御座ります。此のもの或る初夏に多くの從者をつれ、車にて都の大街を通りましたる時、途にて大勢のものが集りて喧嘩をいたし、其の(143)中に死傷者も少なからず見受けましたが、丙吉は全く之れに知らぬ顔にて行過ぎました。又た程なく途の邊りに荷車を引きましたる一匹の牛が、疲勞に任へぬやうな鹽梅にて地上に打仆れ、又た暑熱に苦しみまする樣子にて、舌を長く出し息をついて居りましたが、丙吉は不圖之れを見まして、車を停め、牛飼を側近く呼寄せ、車上の荷を積みて今日此の所まで參りましたる路程など事細かに質問致して、然る後其の場を去りましたが、後從者丙吉に、途に闘爭者あるを見て知らぬ顔にて行過ぎながら、牛の喘に對し非常に御心配の體なりしは何如なる理由にやと問ひましたるに、丙吉は威儀を正し、人民の相集りて喧嘩を致すを捕へ其の罪を正すは、都《ミヤコ》の知事の職にて、其の報告を後に見ればそれで宜敷事にて、宰相直接の責任にあらず。今ま初夏の候にて暑氣之れより始まる。然るに今まの牛を見るに、何如にも炎熱に苦しむ氣〔今ま初〜傍点〕色あり。宰相の職は陰陽を※[變の糸が火]理するにあり。或は政治正しからずして、初夏に陽氣其の度を失するにあらずやと懸念致す故に、かく質問に及べりと申しましたれば、聽者皆感じましたと申す事で御座ります。
 支那と申しましても、後世には追追自然科學の智議も開けまして、暦法の如きも整頓され、日蝕の如き之れを豫知致すやうに相成り、自然の現象は必ずしも政治の善惡に關せぬこと位は承知致して居りましたれど、古典に御座りまする文句を其の儘使用致します故、文句内にありまする思想も幾分か殘つて居りましたと見えまする。今日より考へますれば、可笑しき點又た文字も餘りに誇大に見えますれども、結局、古昔宰相の職に對しまする考へは此くの如く高大なるもので御座りましたかゞ窺は(144)れまする。かく大政を輔翼し奉るに、其の道徳、其の氣量才能〔十字傍点〕など完備いたしましたるもので御座りませねば、其の選に入る事が出來ません。又たかゝる人物は世の中に常にあるものでは御座りませぬ故、「旡其人則闕」と御座りまして、強いて御補任になりませず、闕位のまゝ左右大臣が其の代りを務めましたもので御座ります。
 それから、今ま一つ申しあげまするは、周公が制定致しましたと稱しまする周禮の官制に、前に申上げまする如く、百官を天地春夏秋冬と六つに分ち、其の内天官の長官を冢宰と申しまして、これが六官の首班に居り、總べての行政事務を統一致して居りまするが、六官の首班となりて、六官の行政事務を統一致しまする以外、天官に固有なる事務が御座ります。而して其の固有なる事務の長官と致しては、之れを太宰と申しまする。而してこの太宰の下に、種種の官廳が御座りまするが、凡そ宮中の事務に關しまする官廳、常に側近に侍り、侍從・侍醫・女官、大膳、御衣冠、御履等の調度を掌りまする小さな官廳まで、總べて天官の内に御座りまして、太宰の直接監督を受くることに成つて居ります〔天官〜傍点〕。即ち儒學の精神より申しますれば、天子を輔弼し奉ると申しまするは、唯天子の行はせられまする大政につき之れを輔弼し、從つて之れに對して責任を負ふ計りでは御座りませぬ。大政の由つて出まする、上御一人の御心即ち君徳〔二字右○〕を輔弼し奉ること、これがより以上の重大なる責任となつて居りました。即ち前に申上げましたる太政大臣の官制に載つて居りまする、師範一人〔四字傍点〕の文句は其の理想を言ひあらはしましたるもので御座ります。
(145) 又た周禮天官太宰が一方には六官の首班となり、他方に於いて宮内のすべての官廳を、其の監督の下に置きましたのは、君徳を輔弼し奉る事を尤も大切に考へましたる結果で御座りまして、君徳は日常の御生活と極めて關係あるもので、日常の御生活が正しく行はれまして、それが積りまして、君徳が愈々御躋りになりまする譯で御座ります。例へば、毎日の供御のものに致しましても、又た御運動につきましても、決して細事では御座りませぬ。若しそれが其の當を得ませず、御健康を害し御精神に影響を及ぼしまする事が御座りまするやうな事が御座りましたら、それはゆゝしき大事にて、直に天下の治亂に關係致しまする事にも相成りまする故に、大政を總理致しますると共に、宮中大小の官廳を監督致しまする事に成つて居りまする。
 昔、漢諸葛亮が、其の主に上りました出師表の中に「宮中府中倶爲2一體〔八字右○〕1」と申して居ります。諸葛亮は三代以後の人物と致しまして、古今に罕なる忠臣と申す事になつて居りまするが、其の事へましたる先主の顧命を受けて輔佐致しましたる、後主劉禅と申しまする人は、どちらかと申しますれば凡庸の方で御座りましたなれども、諸葛亮を極めて御信任に相成りまして、宮中に事へまするもの皆な其の仲間の人計りで御座りまして、宮中府中共に諸葛亮を師傅の如く尊びましたる故、三國の中にて、蜀尤も小さく御座りましたなれど、諸葛亮〔三字右○〕が没しまするまでは互ひに一致協力致しましたる故、あれ丈の事業が出來ました譯で御座りますれども、それでも愈々三軍を率ゐて、魏を征伐致しまするにつき、後の事を心配致しましたと見えまして、表中殊に右やうの事を入れましたもので、其れが人(146)臣の鑑として彼の國の歴史に傳はつて居りまするは、決して兵法に通じ、戰を能くしたと申しまする事では御座りませぬ。儒學の理想を十分に懷抱致しまして、君徳の輔弼と申しまする事を、片時も忘れませぬ忠厚の誠が、人を動かしましたる故で御座ります。
 かくの如く、内外力を合はせて輔し奉りましたる君徳が立派に完備いたしますれば、君の御身〔四字右○〕が正即ち正義其の物で御座りまして、天下萬民が之れを目標と致して進みまする事に相成り、茲に始めて「政者正也」と申す理想が實現さるゝ事と相成ります〔之れ〜傍点〕。論語に、「子曰。爲v政以v徳。譬如d北辰居2其所1而衆星共uv之。」(爲政)と御座ります。北辰は即ち北極〔二字傍点〕、天の枢紐で御座りまして、其の所に居りて動きませぬが、所有星は其の枢紐を繞りて廻轉いたしまする。此くの如く人君は唯南面して、「正義の標準〔五字傍点〕」乃ち「政治〔二字傍点〕の標準〔二字傍点〕」を御示になりさへ致しますれば、臣下のものは、其の職分に應じて、御示になりましたる標準に從うて動き、決して其の軌道を脱し其の針路を誤りまする事が御座りませぬ事を述べましたる言葉で御座ります。又た同じく論語に「子曰無v爲而治者。其舜也與。夫(レ)何爲哉。恭v己正南面而己矣」(衛宣公)と御座ります。これは孔子が舜を美めましたる言葉で御座りまするが、舜の朝は賢人揃で御座りまして、舜自ら手を下されまする事はないので御座りまするから、表面より見ますれば、誠に無爲にして治まりましたやうに御座りまするが、無爲と申すは、唯百官其の職を得たる故で御座りまして、其の人を得られましたるは君徳の物指〔二字右○〕が正しく、人を知るの明が御座りました故でござりまして、正の物指は片時も之れを遺れられまする事はなかつたので御座ります。それで、(147)「恭己正〔右○〕南面而己矣」と御座ります。
 
       二 禮
 
 右の如く君徳の正の物指が、萬民の標準となつて參りますれども、君徳と申したのみにで、餘りに抽象的・概念的で御座ります。尤も無形にて見る可からざる君徳は、恰も雨露が草木を沾ほし成長せしめまする如く、萬民を感化致しまする事は勿論で御座りますれども、萬民が皆見て、正〔右○〕の標準と致すものがなくではなりません。換言致しますれば、君徳が客觀的に具體化したるもの、一般のものの日常行爲の標準となるものが無くてはなりませぬ〔日常〜傍点〕。然らば君徳の具體化致しましたるものは、何であるかと申しますれば、これを儒家の方では禮〔右○〕と申します。或は之れに樂を加へて禮樂〔二字右○〕と申しまして、政治をなすにはこの禮樂に由りまするより、他に途はないものと成つて居りまする。
 論語を見ましても、孔子が色色門人共に對し道徳政治の話を致して居りまするが、究極する所は仁〔右○〕と禮〔右○〕とこの二つに燼きて居りまするし、又たこの二つは一體兩面のものにして、之れを自律的に見ますれば仁となり、之れを他律的に見まするときは禮と相成ります。
 元來仁は人の心にて、誰れも持つては居りますれども、仁徳を完全に備へまする事は中中困難で御座ります、又た唯己れの心のみを頼み、是れは善と信じて行ひましても、其の結果より見まして甚だ(148)間違つて居りまする事が御坐ります〔この二つ〜右○〕、また(陽明學の弊)自律的の道徳軌範以外に、他律的の道徳軌範が御座りまして、人人が内其の心を修めまする事は勿論で御座りまするが、其の外に禮を踐履ふことに由りて、始めて正道を誤まらず完全の人と相成りまする〔自律〜傍点〕。
 此の禮は何如にして出來ましたかと申しますれば、これは古の聖王が、深く人情を知り〔七字傍点〕、之れを本とし、又た時勢進歩の程度を稽へ、其の時代の人が誰れも之れを踐行ふ事を得、又た之れを踐履ひまする事に由りて、正道を誤りませぬやうに、人間行爲の掟〔六字右○〕を規定いたしましたるもので御座ります。尤も人の心は不變のもので御座りまして、千年前の人の心も、千年後の人の心にも違はない譯で御座りますれども、禮其の物は時勢の進運に從ひ、多少違つて參ります。即ち澆禮、舜禮、夏禮、殷禮、周禮などゝ申しまして、時代により、禮の簡單なものから詳密になつて參りまするが、其の輪郭に於いては變りは御座りませぬ。論語に孔子が「殿因2於夏禮1。所2損益1可v知也。周因2於殷禮1。所2損益1可v知也。其或d繼v周者u。雖2百世1可v知也。」(爲政)と御座ります。つまり醴は時勢に適し、民度に應じまするやうに、其の間に損益が御座ります。即ち時代に適しませぬものは止めて仕舞ひ、又た時代の要求に應じて、新に益します事は御座りますれども、大體に於いては、前代の禮によりて全く根本的の改革は致しませぬ事を申したもので御座ります。
 さて、此の禮は今ま申上げまする通り、古の帝王にて聖人の徳を具へられましたる方が、之れを制作して總べてのものを禮の中に入れまするので御座ります〔古の〜右○〕。然るに、之れはすべての人に對し拘束力(149)を持つて居るもので、般禮は殿の臣子、夏禮は夏の臣子、周禮は周の臣子と申す位に、一代を創められましたる帝王、禹湯文武と申す如き帝王が、各一代の禮を制せられ、其の子孫たる帝王は其の祖の遺訓を守り、自ら之れを履み、又た其の臣民をして之れに率由せしめらるゝ譯で御座ります。そこで禮を作りまするものは、唯賢人の徳を持ちたる計りでなく、帝王の位につかれたる人でなくてはなりませぬ。中庸に「非2天子1不v議v禮」と申す明文の通りで御座ります。
 左樣な次第で御座りまするから、孔子も聖人の徳を具へては居りましたかなれども、別に禮を制する事は致しませず、自ら周の世に生れましたる上に、周禮は夏殿の禮より尤も完備し尤も精密なるものとして、一生の間、周禮を作りましたる周公を以て理想と致し、其の時代に周室はあれども亡きが如く、諸侯權を擅にして天子の命に服從いたしませず、又た諸侯の家來どもが、主人に背きまするといふ具合に、段段政治の權力が下に移つて參りましたるは、必竟周禮が行はれぬやうに相成りましたる故と憤慨いたしまして、之れの復興を以て理想といたしましたるもので御座ります。
 然るに周秦を經まして、秦に焚書坑儒の事あり、周の文化も一時は全く滅んで仕舞ひましたが〔然る〜傍点〕、漢に至り天下を一統いたしまして、世の中次第に靜寧に相成りましたる際に、恰も秦火の厄を免れましたる經典が、殘缺ながら山巖屋壁より出で、又た秦の迫害を受けましても、幸に命を助かりました老儒共があちらこちらで生徒を集め學問を授けまするといふ具合に相成り、追追學術が復興いたしましたが、漢の武帝の時に至り、學術の上にて儒學のみが朝廷の公認の教となし、特に之れを保護奨励致(150)す事と相成りました。そこで禮と申すものも不完全ながら出來まして、段段整頓され、漢禮・唐禮・宋・明・清禮と申す如き、時代によりで更つて參りましたが、原來儒學の思想が源となつて居りまする故、儒學が漢により正統の學問と相成りましては、其の禮も孔子の尤も貴びましたる周禮が禮の基礎となつて居りました。
 凡そ支那に於いては、一代が新たに起りまするときは、始めは武力に依り一統の業を立てますが、決して武力を以て推通す事を致しませず、創業の君又たは第二代の君によりて、直ぐに偃武修文など申しまして、「禮を制し〔四字右○〕樂を定むる」の事業が起り、其の一代の臣民の率由すべき行爲の標準を示します。それで若し之れに違背いたしますればどうなるかと申しまするに、第一朝廷の御掟に從ひませぬものとなり、又た第二には堯舜以來聖人の作りましたる禮、少なくとも禮の精神が其の内に入ります〔第一〜傍線〕る所の教に違背いたしまするから、一方には朝廷の御掟に背き、又た古への聖人の教に悖る事に相成り、二重の罪惡を犯す事に相成りまするから、民の之れを憚りまする事は、刑罰より甚しきものが御座ります。
 尤もかく申上げましても、禮の制裁が何れの時代に於きましても、同樣の力を持つて居りました譯では御座りませぬ。世治まり民其の生に安んじまするときは、禮が普ねく行はれ、世亂れまして、民が餒に苦しむと申す如き状態の時には、「民免而無v恥」と申しまするやうに、刑罰を免れさへ致せば、それで滿足いたすやうな者も澤山出ます譯で御座りますれども、ともかく數千年に渡りまして、築き(151)上げましたる禮の觀念と申上げまして宜しきか、或は禮が一般の風俗となりまする點より、之れを禮俗と申して宜敷か相分り兼まするが、それが支那人の頭を支配して參りましたる事は驚くべきで御座ります。
 元來支那は國も廣く、人も多く御座りまして、國家統治の力は何時代に致しましても、弱い方で御座りまするが、支那の家族若しくは家族の上に立てられましたる社會組織は、極めて堅固なるもので御座りまして、革命の國柄で御座りますれども、革命は唯政治上の革命で御座ります。この禮俗〔二字右○〕と申しまする場合、乃ち風俗として見ますれば、唯一般にこれは數千年以來の風俗で御座りまする故、何故に之れを守らねばならぬかと申す事を全く承知致さずに、之れに遵つて居りまするものが數に於いては尤も多く、大衆は皆左樣で御座りました。これは唯だ形式的に、禮の觀念などは毛頭御座りませず、昔より仕來りだからと申して、之れを守るので御座りまするが、讀書人以上、即ち教養ある階級と相成りましては、禮の精神を會得いたしまして、之れを守るもので御座ります。其の場合には之れを禮俗とは申さずして、禮教〔二字右○〕と申します。つまり、儒學にて政治上、尤も大切にいたしまする事は、此の禮教を廣く四海に敷くといふ事で、これが即ち教育で御座ります〔これ〜傍線〕。
 然るに支那に於きましては、近頃二つの大いなる事件が起りました。それは清朝が滅亡いたしましたる事にて、清朝が滅亡致しまして、從來の支那歴代に見まする如く、新しき帝王が起りませず、共和國と相成りまして、儒學にて相考へまする如き、禮教〔二字右○〕の出まする根本、即ち帝王と申す方が無くな(152)りましたる事で御座ります。禮は廣い支那に於きましても、何處も一樣で御座ります。即ち支那を統一し、相互を結付けまする處のものは、言語にはない文字と禮教〔五字右○〕、或いは禮俗〔二字右○〕で御座りましたが、文字のみは猶ほ餘りて居りますれども、禮教禮俗〔四字右○〕はなくなりましたと申して差支御座りませぬ。
 先般臣直喜の友人にて滿洲に旅行仕りましたるもの、其の國人より名刺を受けましたが、姓名の上に「制〔右○〕」字あり、此れは何如なる意味なるかと質問仕りました。姓名の上に制字を書しましたるは、本人喪中なるを示しまするものにて、父母の喪の場合は制の一字を書きます事になつて居りまする。制と申しまするは、朝廷の制度即オキテと申す事で御座りまして、朝廷のオキテに遵ひ、服喪中であると申す意味で御座ります。清朝滅び朝廷も御座りませぬが、唯習慣上かくの如く致して居りますれども、これも程なくなくなりまする事と相考へます。
 今ま一つはこの禮は歴代の帝王〔五字傍点〕が堯舜以來の聖人の禮、即ち儒學に於いて尤も尊重いたしまする古禮〔二字右○〕を本とし、作ることに相成つて居りますれども、現今は支那に於きましても、思想が區區に相成りまして、公然と數千年來人心を陶冶いたして參りましたる儒學に反對致し、儒學の精神よりして出來て參り、一般社會に行はれて居りましたる禮教〔二字右○〕又た禮俗〔二字右○〕と申すものが次第になくなり、勝手氣儘の振舞をいたしましても、誰れも之れを尤めまするものがなく、社會の制裁、社會の統制と申すものが全くなくなりました。此れが支那現今の状態を馴致いたしましたる重な原因かと存じまする。
 禮は前に申上げましたる如く、之れを時代について申上げますれば、堯舜禮・夏禮・殷禮・周禮・(153)漢唐禮と申す如きものになりまするが、又た禮を行ふ人に區別を立てますれば〔又た〜傍点〕、天子の禮、諸侯の禮、卿大夫士庶の禮〔天子〜傍線〕と別れ、又た其の種顆より申しますれば、吉禮・凶禮・軍禮・賓禮・嘉禮〔吉禮〜傍線〕と別れまするが、要するに、人の身分により〔要す〜右○〕又た時と場合とにより、行爲の標準と致しましたもので、此れを過ぎましても、不足で御座りましても、正の軌道を離れまする事に〔正の〜傍点〕相成ります。一體、人が各々履むべき道を離れませぬときには、互に衝突いたし、闘爭を生じまするが、若し軌道を守りて居りますれば、かゝる事は御座りません。そこで禮の用は人を〔六字右○〕制して事を起さしめざるものにて、社會の秩序平寧は、禮の行はるゝか否によるものと致したもので御座ります。此の事は、周末より秦初に生存して居りましたる筍子〔二字右○〕が詳論して居りまする。
 筍子申しまするには、凡そ人は生れながらにして欲、現代の言葉にて申しますれば慾望が御座りまする。而して常に慾望を充たさむとして動くもので御座りまするが、若し度量分界即ち〔凡そ〜傍点〕慾望を充たし得る所の分量、或はこゝ迄は充たして宜敷けれども、そこより一歩も出る事を許るさぬと申す限界が御座りませず、無限に慾望を充さむと欲し、人人擧つて此くの如くならば、必ず其處に闘爭と申すものが起り、亂の本と相成ります〔無限〜傍点〕。それで筍子は、「使d欲必不v窮2乎物1。物必不v屈c於欲u。兩者相持而長。是禮之所v起也。」と申して居ります。物と申すは人が之れを得むと欲しまする目的物、即ち慾望の對象で御座ります〔物と〜傍点〕。例へば、富〔右○〕と申しまするは其の一で御座りませうと存じます。筍子に申させますれば、凡そ富には限が御座りまして、無限と申す譯には參りませず。然るに、若し人人の慾望が無(154)限で御座りまして、それが皆有限の富を得んと欲しましたらば、事の起りまするは當然で御座りまする。それで聖人は之れが爲めに、或る制限を加へまする。此れが禮の本で御座ります。
 尤も儒學の方では、富を均しくす、即ち富を平分すべきものとは決して考へませず、人には生れながら賢愚不肖の別が御座りまするやうに、貧富の差は免れぬものと致しますが、さればと申し、人の自由競争に任し、富者は益々其の財を殖し、貧者は父母妻子を養ひまする事が出來ませず、日日の生活に苦しむと申す具合に、貧富の懸隔が大きくなりませぬ樣に、注意を致すので御座ります。論語に子貢が「貧而無v諂。富而無v驕何如。」と問ひましたるに、孔子は之れに對へて、「未v若2貧而樂。富而好v禮者1也。」(學而)と申して居りまする。若し富者にして、錢財さへ御座りますれば、社會上の名譽にても、政治上の權力でも容易に獲得さるゝものと相成りますれば、世の中のものは、皆な富の方面に熱中いたし、又た之れを得ませぬ所のものは、之れに對し怨恨不平を抱く事に相成りますれども、何如に富を得ましても、或る限度を越ゆる事を得ず、富者なるを以て、妄りに貧者を壓迫いたしませぬやうに相成りますれば、之れを仇讎の如く惡みまする譯はないと見まするが、儒學の立前で御座ります。
 此の意味合より致しまして、人に男女の情慾が御座りますれば、之れに對し婚姻の禮が御座ります。人には酒を飲みまする慾望が御座りますれば、之れに對し饗宴に關しまする種種の禮が御座ります。人が死しまするときには喪禮、又た其の死しましたるものとの關係よりして、一定の期間に一定の衣(155)裳をつけまするが、是れは皆其の人の身分によりて秩序整然たる區別が御座りまして、身分相應に其の慾望なり感情なりを充たしますると同時に、皆な度量分界を越えぬやうに致し、「禮儀三百威儀三千」と申しまする如く、人の日常生活の上につき、細微の點に度りまして規定を致し、己れの慾望感情に任せ、「正」の軌道をはずれねやうに致しましたるもので御座ります。
 かくの如く、天下に禮が行はれ、君臣父子貴賤上下の別が立ち、社會の秩序統制が取れましたる時代を、儒學に於いて尤も理想的の時代と致します。之れを一面より觀察致しますれば、禮を以て人を拘束致しまする事は餘りに窮屈に失し、すべての人を強いて一の鑄型に入れる弊が御座りまするやうに見えまするが、儒學の方より申しますれば、聖人の禮を制〔六字右○〕しまするのほ、人情に本づいて之れを作りましたるもので、決して人情に反し、人に其の出來ぬ事を強ひるものでは御座りませぬ。例へば此に喪禮と申すものが御座ります。喪禮に於いては君父の喪を尤も重きものにて、三年〔二字右○〕【實は二十七ケ月】の喪に服する事に爲つて居ります。凡君父の喪に對し哀痛致しまするは自然の情で御座ります。毫も哀痛の念が起りませぬものが御座りましたら、それは何等かの原因で、一時本心を失ひましたるものにて、之れを悲しみまするのが普通の人情で御座ります。然るに同じく之れを悲しみまする内にも、人の氣禀により、其の情に深淺厚薄が御座ります。人情の厚き臣子で御座りましたらば、三年の喪を尚ほ短かしと思ひ、極端のものになりましては、君父に捨てられたるを悲み、己の命を斷ちまして、君父の跡を追ひまするやも料られませぬ。又た之れに反し、其の情の輕薄なるもので御座りましたら、三年の(156)喪所では御座りませず、君父を喪ひまして未幾哀戚の情を感じませぬものも御座ります。此くの如く情の自然に任せて置きますれば、過不及〔三字傍線〕即ち哀戚に過ぎましたるものと、哀戚の足らざるものとが御座りまする故、過ぎたるものは引下げ、不足のものは引き上げ、兩方より歩み寄らしまして、君父の〔過ぎ〜傍線〕場合には三年と申す目安標準〔九字右○〕を立てましたので御座ります。其の他の禮に於きまして、皆同樣で御座りまして、人情に本づき過不及なき處を見計らひ、其處に標準を立てまする。それが即ち禮で御座ります。猶ほ其れのみにては、人が窮屈になり、世の中が堅苦しく相成りまする處が御座りまするから、禮の外に樂を作り人心を和らげ、其の本來の美しき感情を養ふ事に務めまする。此れを禮樂〔二字右○〕の治と申します。
 禮樂は上天子より出るもので御座りまするもので、天下のものが均しく之れを奉じまするから、前に申上げましたるやうに、禮俗〔二字右○〕と申して、天子統治の下に居りまする臣民間に共通なる、風俗習慣〔四字右○〕と相成りまする。又たかくの如き良風美俗〔四字傍点〕を人に植ゑつけまして、社會の基礎を作りまする事を、禮教〔二字右○〕と申しまする。尤も凡べての風俗習慣が、悉く禮に協ひましたるものとは申されませぬ。戰亂の後とか或は教化が普ねく行渡りませぬ處には〔戰亂〜傍点〕、往往非道徳的〔四字傍点〕なるのみならず、反道徳的なる風俗習慣〔四字右○〕も多多御座りまするが、是れは禮俗の内に入らぬもので御座ります〔是れ〜傍点〕。此くの如きものは禮教の力を以て、つぎ/\に改めまするのが、即ち所謂移俗易風〔四字右○〕と申す事で御座りまして、教育〔二字傍点〕の目的は之れより大なるものは御座りませぬ。經書の内に、聲教四海に遍しとか、四海皆王化に霑ふなど申しまする事は、(157)要するにこの禮教〔二字右○〕が廣く行はれましたる事を申すので御座りまして、禮教〔二字右○〕の行ほれまする範圍の廣さと、君徳の大小〔五字右○〕とは比例を致すものと考へまするのが、儒學の精神で御座ります。
 然るに儒學以外のものにあつて、かくの如く禮教を重んじまする説に反對の意見を有ちます學派が、戰國時代から御座りました。其の中にて尤も著く御座りましたるは、老莊學派即ち老子や莊子等の流れを汲みましたる學派で御座りまして、彼れ等の申しまするには、一體禮と申すは、要するに、人が作爲したるものにて、本來かくせねばならぬと理窟あるべき筈なし。若し儒學にて考へまする如く、禮を作りて人を強ひ、之れを一定の軌道に入れる事を務めましたらば、人は自然の感情を抑へて唯外形のみを重んずるやうに相成り、中心の誠を失ひ、禮を崇ぶの結果、僞善者〔三字右○〕を養成するに止まるべし。又た聖人が禮を制して、萬民の爭を息むなど申せども、此くの如きは言ふべく行ふべからざる議論なり。それよりも人の相爭ふは慾望より起るもので御座りますれば、縱令之れを斷絶せざるまでも、之れを最小限度に止むべし。それで尤も理想的の世界といたしては、第一教育とか學問を廢して人の智識を長ぜしめず、智識なければ賢愚の別もなく、眞正の平等が出來る。又た一體慾望の多くなるは、人の智識が進み文化の向上するに依り、それには交通の便利となる事も重なる原因なり。小國寡民と申して、又た大きなる國家を立つることは大間違ひで、部落部落に少數の人民〔五字右○〕が聚圍し、而して一部落と一部落の間鶏犬の聲が聞えまする位近接仕りましても、互ひに相往來せず、渇して飲み飢ゑて食する丈にて滿足致す太古の風に復歸いたして、初めて眞の平和なる生活を営むを得べしと申して居り(158)ます。勿論、唯飲食のみにて滿足いたしまする社會で御座りまして、自ら衣食の材料を得まする故、金錢などは全く無用にて、貧者もなければ富者も御座りませぬ。かくの如きが幸視なる社會であると申しまして、儒學にて懷抱いたす禮教主義の政治理想に反對致して居ります。
 今ま一つ儒學の政治理想に反對致しまするは、法家の學派で御座りまして、彼れ等が申しまするには、儒家にて申しまする禮教は、其の體裁は誠に立派で御座りますれども、すべて政治を教化的に相考へ、禮の標準を定め人をして之れに從ひ、又た之れを履ませて、世の中を善人計りに致さうと申す事は、理想としては結構で御座りますれども〔理想〜右○〕、實行の出來まする者には無之、又た出來ると致しましても、三十年五十年といふ如き期間には、其の結果を待つことは困難で御座ります。一體、此れ等法家學派などの起りましたるは戰國時代で御座りまして、當時列國間は弱肉強食の有樣にて、君臣共に當國強兵以外には何等の考へをも持つて居りませぬ。左樣に御座りまする故、儒學にて申しまする如き議論は、迂遠の一語を以て耳を藉しませず、國を治むるには法に如くなしと申す議論をいたしました。固より儒學とても法を無用とは考へませぬ。禮は屡々申上げました如く、人心を陶冶し、人の行を正しくして、法に觸るゝ業を未然に防ぐ積極的のもので御座りまするが、當時の法家派と申しまするものは、禮治に反對したるもので御座りました。已に法に觸れたるものを嚴罰して、之れを一般に示しますれば、他のものは皆之れを見て恐れ、敢へて非違を致さぬと申しまするので、極めて消極的のもので御座ります。又た禮は道徳的のもので、唯道徳を形にあらはしたるもので御座りますが、法(159)は必ずしも左樣でなく、時としては道徳に反對する事が御座りまするが、其の場合法を道徳の上に置かねばならぬと主張仕りまするものも、極端なる法家派には御座りました。
 彼れ等が申しまするには、例へば茲に不良の子弟が御座りまして、家庭に於いて何加に父母が慈愛を以て之れに臨み、矯正をしようと致しましても、教師が何知に嚴正に監督致しましても、又た土地のものゝ制裁が御座りましても、之れを何加とも致す事が出來ませぬに、若し地方官が之れを監獄に入れ、法に照らして嚴重に罰を致しましたら、直ちに其の行を改めて、善良の子弟と成るべく、家庭に於ける父母の子に對する愛などは、唯子をして其の愛に狃れしむるのみにて、却つて之れを惡しく致すに過ぎず、人君が民を愛する事父母の如くせよなど申す事も亦た同樣にて、到底左樣な事にては國を治むる事は出來るもので御座りませぬと論じ、嚴刑嚴罰主義を唱へましたので御座りまする。
 老莊學派が文明を呪ひまして、人が原始的の状態に歸へり、初めて眞の幸福を得るに至るべしと申す議論は、結局政治などゝ申す事は無用であるといふ事に歸着いたします。此れは周の文化が非常に發達いたし、又た其の弊害も御座りましたが、其の反動としてかくの如き矯激なる説も起りましたる譯で御座りまするが、此くの如きは所謂詩人の空想で御座りまして、到底實際に行ひ得べきものでは御座りませぬ。嚴刑主義を主張いたしまする法家派の考へは、又た餘りに法の威力を信じ過ぎましたる議論で御座りまして、積極的なる教化施設をなし、君臣上下の別を立て、人心を根底より立直し、國法の重んずべきを能く知り、自然に之れを犯さぬやうに仕向けませず、唯消極的に犯罪を取締りま(160)しても、若し人人が法を畏れぬやうに相成りますれば、何加に細密に又た嚴刻なる法を作りましても、到底駄目に相成ります。秦の始皇が學術を絶滅して、民を愚にする方針を取りましたるは、老莊派の思想を逆用いたしたるもので御座ります。又た専ら嚴刑嚴罰主義をとりましたるは、法家の思想に本づきましたるものにて、僅か二代にて國を失ひましたるは、其の禮教を舍てましたる故と申すのが、儒家の通論となつて居ります。
 前にも申上げましたる如く、禮の目的は教化の力を以て人を正しき軌道に入れまする事にて、正しき軌道に人人が入りますれば、其處に秩序が相立ち、上下の統制が出來て參ります。昔宋の世に、司馬光と申しまする賢相が御座りました。謚を文正と申します。學問大層宜敷く、殊に史學に精通致して居りました。此のものが嘗て勅を奉じて歴史の編纂に從事し、十九年の間、出來上りて獻上いたしましたるのが周威烈王の二十三年より五代まで一千三百六十二年間の歴史を二百九十四卷にまとめましたるもので、有名なる資治通鑑で御座ります。十九年を費やしたと申す位非常に骨を折りましたるものにて、書を上りまするときの表に、「臣精力盡2於此書1」と御座ります。光が此の書を編みたる意は、國の治亂與廢は古今皆同じきもので御座りまして、この中には人君が政をなされまするに「善可v爲v法。惡可v爲v戒。」の事柄が澤山御座りまするから、之れを御覽になつて政治の御參考に遊ばされ度しと申す事を、此の書を上る表文中に記して居ります。時の帝神宗之れを納れ、大變有益なる書とて、資治通鑑〔四字右○〕と名を賜はりましたもので御座ります。右の通鑑卷一の首に、周威烈王二十三年に云云(161)と見えて居ります。編年體は歴史を威烈王から始めるといたしましたら、其の元年より始むべき事で御座りまするのに、二十三年からで御座りまするのは、晉の大夫魏斯・趙籍・韓虔の三人が晉を滅ぼし、之れを三分いたしました。主人〔二字傍点〕に謀叛を致し其の國を奪ひましたるもの故、王室としては其の罪を責めらるべき筈で御座りますのに、之れに反しこの三人を各々諸侯となされました〔この〜傍点〕。此れは朝廷が自ら其の禮を破られましたもので、此れまでは天子と諸侯との名分が嚴重に相立ち、縱令實力に於いては王室微弱で御座りましたれども、諸侯は尚ほ名分の上よりして之れを憚かつて居りました。今ま晉の家臣が主人に背き、其の國を奪ひましたるにつき、縱令其の罪を匡す、即ち不正なる者を正す事は出來ぬと致しましても、之れを認めらるべき譯はないので御座りますが、今ま公然と此の三人に諸侯の任命が御座りました。此れは周室に持つて居らるべき、上下の秩序を正すべき禮或は禮權を自ら捨てられたる譯で、遂に王室の滅亡をいたすやうに相成りましたるも亦た無理はない事であると、此の事件を非常に重視いたしまして、この事件が御座りました二十三年より筆を起しましたもので御座ります。
 それで光は記事の初めに、「天子之職。莫v大2於禮1。」といふことを述べて居ります。光の考へによりますれば、禮は君臣の分を明にし上下の秩序を立て、其の間に統制をつけまする事が、禮の大切なる役目であるといふ事を申して居ります。司馬光は「天子は三公を統べ、三公は諸侯を率ゐ、諸侯は卿大夫を制し、卿大夫は士庶人を治め、貴以て賤に臨み、賤以て貴を承け、上の下を使ふこと猶ほ心(162)腹の手足を運び、根本の支葉を制するが如く、下の上に事ふる、猶ほ手足の心腹を衛り、支葉の根本を庇くるが如く、然る後能く上下相保ちて國家治平す」と申して居ります。要するに天子が禮を以て下を率ゐ、社會が統制をつけらるゝ事により、其の中に居りまする總べての階級のものが、互ひに相助け合ひ、社會全體が恰も一人の體のやうに相成りまして、始めて國家治りまするが、之れに對して、統制がなくなり、社會の階級が互ひに相爭ひますれば、天下は治まるものに無之と申す事を述べ、何如に禮の重んずべきかと申す事を、例を擧げて申して居りまする。
 それは昔周のとき、王室衰微し、諸侯強大と相成りましたが、諸侯の中に致しましても、晉文公と申すものが居りました〔晉文〜右○〕。此れは齊桓公と并稱せられ、五覇と申しまして、五人の覇者が春秋時代に居りまして御座りまするが、晉文公は其の中にても尤も有名なるもので御座りました。此れが嘗て王室に對し大功を立てましたが、朝廷より恩賞を何なりと賜はらむと御内意が御座りました時、文公はそれなれば、隧禮を用うる事の御許を下されたら難有仕合せと申上げました。隧禮と申しまするは葬禮のとき、棺を土中に入れまするに、諸侯以下は上より下に入れまするが規則で御座りまして、獨り天子の御大葬に相成りますれば「トンネル」樣に横に穴を掘り、車を以て棺を入れる事に成つて居ります。此の横穴を隧と申しまする。それで文公はこの隧禮を用うる御許を賜はりなば、難有存じまする旨を申上げましたる所、時の王は之れを黜け、此れは「王章也〔三字右○〕」といつて御許が出ませんので御座ります。王章と申すは、王と臣との區別を章にするものであるとの意味で御座ります。王猶ほ申されま(163)するには、此れは原來、汝が願出でるに由り許るさぬと沙汰せしまでの事であるが、若し強ひて其の禮を行ひたいとならば、汝も廣き領土を有する事なれば勝手に隧を用ゐたら宜しからむとの御沙汰で御座りましたれば、文公も恐懼して敢へて王の命に背いて隧禮を用ゐなかつたと申す事で、當時實力より申しますれば、晉國の力遠く王室の上に出て居りましたなれども、周王は禮を守り、一言の下に文公不臣の心を斥けましたので御座りまするが、今韓・魏・趙三人、其の主人の國を奪ひましたるにつきては、縱令王室衰微して其の罪を正す、即ち正しからざるものを正しまする大作用が行はれませいでも、直ちにかゝる不臣のもの、其の主人に對する反叛者を認めて諸侯とされましたる事は、非常なる失體で御座りまして、換言いたしますれば、王自ら禮の統制を失はれたるもので、周の滅亡に至る氣運がここに兆はれたるものとして之れを見ましたのが、司馬光議論の根底で御座ります。
 凡そ禮と申すものは、元來は名實相伴なうて用をなすもので御座ります。即ち天子が其の禮を以て正しからざるものを正し、尊卑上下の別を立て統制をなされまするのが本來にて、禮の行はるゝにつきては、實際に天子が總べて天下のものをして、之れに遵はしむる力がなくてはなりませぬ。併し實力はなくなりましても、禮のみが殘りて居ります場合が御座ります〔禮のみ〜傍点〕。即ち前に申上げましたる、晉文公が隧禮を用ゐる事を天子に願出ました如きが、其の一例で御座ります。當時實力に於いては、覇者たる晉文公の方が王室の上に御座りましたれども、禮は猶ほ殘りて居りましたから、それを強く守つて失はれなかつたので御座ります。何故に此くの如く禮を大切に考へましたかと申せば、縱令禮のみ(164)殘つて其の實は御座りませいでも、禮さへ御座りますれば、必ず後に禮と其の實を一致させまする運動が起り、天子諸侯卿大夫の名分に對して、眞の統制〔二字傍点〕が出來まする時代が參ります。
 此れにつきまして、論語八※[人偏+(八/月)]に告朔の※[食+氣]羊と申す事が御座ります。古昔支那に於きましては、暦と申すものが最も大切で御座りました。昔は全く農業を以て國を立てましたる時代で御座りまして、農民が穀物野菜を種ゑ、又た寒暑につき色色の準備を致すには、暦によりて季節を豫め承知致しまするが、最も必要で御座りました。それで朝廷で、毎年の末までに、翌年の暦を作つて普ねく天下の諸侯に頒たれます。かくの如くして天下のものが其の麿を用ゐます事を、正朔を奉ずるなど申しまして、其の王を戴き之れに服從致しまする大切なる徴といたしたので御座ります。かく普ねく天下に暦を頒たれますれば、諸侯は恭しく其の祖先の廟に藏め、毎月朔〔三字傍点〕に諸侯親ら廟に至り、一匹の羊を犠牲に供へて廟を祀り、其の月に相當いたしまする部分丈の暦を取出して、之れを其の領内の人民に頒ちます。此れが非常に古き時代からの禮となつて居りましたが、孔子の時代には周室は非常に衰微して、暦を作つて天下に頒ちまする事も無く、從ひまして、毎月朔に諸侯が廟に至り親祭いたしまする禮久しく絶えて居りましたけれど、偶然にも羊丈は昔のやうに有司によつて廟に供へられて居りました。左樣な譯で御座りましたる故、孔子の弟子子貢と申すもの、今日と相成りましては、羊を供ふるは全く意味ない事で御座りますれば、一層之れを廢止しては何如と申しましたれば、孔子答へて「賜也爾愛2其羊1。我愛2其禮1。」愛は惜しむの義で御座ります。賜、御前は一匹の羊の費用を愛み之れを廢めたい(165)と申すが、自分は其の禮が愛《おし》いと申しました。子貢は羊〔傍点〕と申す小さきものに目をつけ、孔子は禮と申す大きなものに目をつけましたもので御座ります。孔子が其の禮に執着を有ちましたる故は、縱令告朔の事は當時行ひませいでも、羊を供ふる事が御座りますれば、此れは元來かく/\の理由から起つたと申す事を人人が承知いたし、其の禮を再興いたす事も亦た出來まするが、羊を供へまする事も亡くなりましては、後世からは古へ其の禮の御座りましたる事分らなく相成りまするから、「我愛其禮〔四字右○〕」と申しまする譯で御座ります。
 孔子は周の封建時代、殊に周禮を制しましたる周公の子孫が封ぜられましたる魯國に生れまして、當時魯に傳はりましたる、周の文物制度を研究致しましたるものにて、秦漢以後に見まする一統帝國の事を考へて居りましたか否かにつきましては色色議論も御座りますれど、「天下有v道。禮樂征伐自2天子1出。」と論語(季氏)に見えましたる如く、禮樂は天子より出づべきもので、天子は之れによりて天下の秩序を保ち、三公諸侯以下の上下の階級に統制を御立てに相成りまする。征伐も同樣で御座ります。封建時代の事で御座りまする故、天子にも軍隊あり、又た諸侯もそれ/”\諸侯の軍隊が御座りますれども、天子は六軍、諸侯は三軍と申しまするやうに、第一兵數に於いて一定の掟が御座りまして、諸侯が勝手に兵數を増す事を許るしません。つまり諸侯の兵隊も間接には天子の軍隊で御座りまして、天子が征伐なされまする場合に、其の命令に從ひ兵を動かして征伐に參加いたします。此れを「敵王之※[立心偏+氣]」とか、「勤王之師」と申して、其れ以外に諸侯が自ら其の兵を動かしまする事は出來ませぬ。(166)此れを「天下有道之世」と申して居ります。又た孔子の書きましたる春秋は、全く尊王の大義を發揮いたす精神より出て居りまする事は、後世の春秋學者が申す通りで御座ります、從つて又た子貢告朔の※[食+氣]羊を去らむと欲するに答へましたるのも、同一の考へより出でたるもので御座ります。子貢は孔子の弟子中にて優れましたる人物で御座りまするが、此くの如き意見をのべて孔子より叱られて居りまする。
 又た同じく論語子路篇に、孔子が衛に居りましたる折、若し衛君、子を用ゐて政治を委せらるれば、初めに何如なる事に着手さるべきやと問ひましたら「必也正名乎〔五字傍点〕」と答へました。衛國には之れより先きに靈公と申す君が御座りましたが、世子と靈公と、父子の中が宜しく御座りませず、世子〔二字傍点〕は後に他國に出奔いたしました。其の内に靈公亡くなりました故、致方なく世子の子にて、靈公には孫に當るものが、租父の跡目を繼いで衛君となりましたが、一方には國外に出奔いたして居りましたる世子が他國の後援を得て、國に反らむと致し、又た衝君は拒いで納れまいと致し、親子國爭を致して居りまする。結局〔二字右○〕子が父を父となさず、祖父を父と致して居りましたので、尤も名が違つて居りました。(父とせず此れを讎と申して居ります。)それで孔子は「必也正名乎」と申しましたれば、子路は「有v之哉子之迂也〔七字傍点〕」と、今まは衛國國家危急の折柄で御座りまするから、もつと目前の難を※[手偏+丞]ふ政治上の施設あるべきに、正名など先生までもかゝる迂闊なる事を申さるかと申しましたれば、孔子は不與氣に「野哉由也」、誠に汝は禮義を辨へぬものとたしなめまして、最後に「名不v正則言不v順。言不v順則事不(167)v成。事不v成則禮樂不v興。禮樂不v與則刑罰不v中。刑罰不v中則民無v所v措2手足1。」と申して居ります。是れも前に申上げましたる如く、名は〔二字傍点〕實の賓と申す事が御座りまして、名〔右○〕と實とは相合して始めて實際の運用をなすもので御座りますれど、時としては禮のみ殘つて居りまする事が御座ります。其の場合はよく實さへあれば名はどうでも禮はどうでもよい、又た實が無かつたら名と禮とは何にもならぬ、之れを捨てゝもよいと申す事を、儒學以外の學派は多くさう考へまするし、又た學派など申すもので御座りませぬ一般のものは、實さへ取れば、名はどうでも宜敷いとか、實がなければ禮は何如樣でも宜數など申しまするが、儒學の方ではこれを功利的なる考へといたして排斥致しまする。
 御國の歴史上の事實と比較致して甚だ恐れ入りまするが、御國の如き御國柄でさへ、一治一亂は數の免れませぬ處で御座りまして、長き期間に於きまして、大權藤原に移り、大權又た武門に移つたる如き時代も御座りまするが、朝廷に於かせられましては、未だ嘗つて寸毫も禮〔右○〕と名〔右○〕を御失ひ遊ばされませぬから、必ず又た禮と實、名と實とを一致〔又た〜右○〕させようとの運動が起ります。明治の御維新も要するに此の運動より起りましたるもので御座りまして、孔子の言葉は、其の注脚といたしましても、間違ひ御座りませぬと相考へます。
 儒學の方にては、禮を此くの如く大切に相考へまするが、一體、禮を一般のものが能く相守り、社會の秩序が立ちまするには、所謂「衣食足而知2禮節1」と申しまするやうに、其の前に人民の日常生活を安定致す事が最も肝要で御座ります。尤も是れは互に原因結果をなすものなれど、生活の安定あ(168)りて然後禮始めて行はるといふが、儒家の考へとなり、人民が毎日衣食の料を得る事に汲汲し、又た何加に勞作いたしましても、生活を營む事能はざるものに對し、此れは朝廷の掟、聖人の教なるを以て遵奉すべしと申しましても、それは無益の事で御座りまする故、禮教を敷きまして、これを一般に行はせまするには、先づ人民の生活を安定にして、禮を行ふ事の出來まする餘裕を作りまする。尤も其の生活が苦められまして、衣食の餘裕が御座りませぬときも、全く禮教を棄ては致しませねども、其の禮を大目に見まして、若し禮の精神さへ失ひませぬければ、細末の點は必ずしも本來の規定に違ひましても、別にとがめは致しませぬ。
 周禮地官の條に荒政十二と申しまして、五穀熟せず、農民が不作に苦みまするときの施設を記載して御座ります。それは税を省きて農民の負擔を輕減致しまする事、公の力役を少なく致しまする事、食料若しくは種子を官より貸與へ、秋熟のとき之れを返納致させまする事、諸國に設けましたる關所にて徴収致します關税を一時中止致しまするとか、色色の應急施設が御座りますが、「※[生/目]禮」「殺哀」「多昏」と申しまして、普通規定されましたる禮を簡略に致し、禮の精神さへ失ひませねば、それで宜しき事になつて居りまする。孟子の言葉に、「無2恒産1而有2恒心1者。惟士爲v能。若v民則無2恒産1因無2恒心1。苟無2恒心1。放辟邪侈。無v不v爲。」(【梁惠王上】)と申して居ります。士は教育あり、修養の出來ましたるもので御座りまする故、縦令《タトヒ》恒の收入が御座りませず、衣食に缺乏致しましても、恒心即ち人が常に持つて居りまする心を失ふ事は御座りませねども、一般の人民は左樣には參りませぬ【古への武士の例を引くべし】。(169)生活不安にて衣食に缺乏致しまする所より、つい本心を失ひまして、正道を離れ、一度正道を離れまして、それが習慣と相成りますれば、惡行が次第に増長致しまして、何如なる事でも爲さゞる無きに至ります。勿論、其の罪は惡むべきで御座りますれども、生活苦と申すものが御座りませなかつたならば、かゝる結果には相成りまじきものを、當路者が生活の安定を謀ることを致さず、唯其の罪に陷るに及び、之れを刑しまするは、恰も人が鳥を驅りで羅罔に入るゝに同じと申し、民をして禮義に從はしむるには、民の産を制し、仰いでは以て父母に事ふるに足り、俯しては以て妻子を蓄ふに足らしめ、然後其の禮に從はざるを責むべきであると申して居ります〔然後〜傍点〕。又た漢荀悦が書きましたる申鑒と申しまするものゝ内に、
 「人不v畏v死。不v可2懼以1v罪。人不v樂v生。不v可2勸以1v善。雖v使d契布2五教1。皐陶作uv士。改不v行焉。故在v上者先豐2民財1。以定2其志1。」
と申して居りまする。其の意味を申上げますれば、凡世の中に人罪を犯す事を懼れて爲さゞるは、死を畏るゝに由る。善を勸めまして、之れに從ひまするは生を欲しまするからの事。若し人が生活に苦しみまして此の地に生きて居りまして生甲斐なしと思ひ、か程苦しみまするならば、死にましても構はぬと申すやうに相考へ、少なくとも生きて居りまする事と死にまする事との間に大した差別が無いと考へ、自暴自棄に相成りますれば、其れこそ大變で御坐ります。昔堯舜の時代、教育の職を掌りま(170)したる契(彼は五教――父義。母慈。兄友。弟恭。子孝を布く)、また刑罰を掌りまして名判官と稱せられましたるは皐陶で御座りますが、この如きものでも、此れ等のものに對しましては、手をつけやうがないと申して居ります。
 論語に孔子が衛國に居りましたるとき、車に乘りて都の大路を通りまして、人の往來の多きを見まして、車の御者を致して居りましたる弟子冉有を顧みまして、「庶矣哉〔三字右○〕」と申しました。何と衛の人の衆き事よと申しましたれば、冉有「既庶矣。又何加焉。」と申しました。既にかくの如く人口が繁殖したるに對し、此の上爲政者は何如なる政策を施すべきかと問ひましたるに對し、曰「富v之」と答へました。人口が多く相成りましたるのみにて、其の爲め却へつて衣食に窮するやうで御座りましては、誠に恐るべき結果が起ります。故に彼れ等の生活に事缺きませんやうに致さなくてはなりませぬ、故に「富之」と答へました。冉有猶ほ進みて「既富矣、又何加焉。」と問ひましたるとき、曰「教〔右○〕v之」と申して居りまする(子路)。孔孟に於きましても、其の他の儒家に於きましても、政治を行ひまする順序と致しては、民を富ます事を第一と致し、それから教化を第二と致しますれども、兩者の價値より論じますれば、教化が最も貴きものと致し、唯民を富ましたる丈で、決して國が治まるものとは致して居りませぬ。若し人心の根底を陶冶いたすものが御座りませなかつたならば、却へつて富に對して、無限の慾望を起し、互ひに相爭ふ事に相成りまする故に、禮或は禮教を布きまして、之れに節制を加へねばなりませぬ。
(171) 孟子に、孟子が初めて梁惠王に見えましたるとき、惠王が「叟不v遠2千里1而來。亦將v有3以利2吾國1乎。」と申しましたるに、「孟子對曰。王何必曰v利(ト)。亦有2仁義1而已矣。」と御座ります。惠王が利の一字を持つて參りましたるに、孟子は仁義の二字を以て之れに對し、其の誤りましたる考へを正しました。抑々惠王が考へましたる「利吾國」の利〔傍点〕は何如なる事で御座りましたかと申しまするに、本文には何等の内容を示〔七字傍点〕して居りませぬが、宋の朱熹は之れに注して、「王所v謂利(トハ)。蓋富國強兵之〔五字右○〕類。」と申して居ります。果して左樣で御座りましたらば、惠王の申す事が、穴勝惡いとは申されませぬ。列國對立の時代に於きまして、其の國を維持仕りまするには、第一之れに頼ることは當然で御座ります。儒學の政治思想から申しましても、富國強兵〔四字右○〕を決して惡いとは相考へませぬ。孟子が之れに反對して「王何必〔二字傍点〕言利(ト)」と答へましたるは、惠王は富國強兵其れ自體が終極の目的にして、「政者正也〔四字右○〕」の理想を行ふの手段たる事を承知致しませぬ。又た富國強兵と一概に申しますれども、其の之れを致しまする方法にも、種種御座りませうが、富國強兵〔四字右○〕さへ出來ますれば宜敷いので御座りまして、何如なる無理不正な事を致し、正しからざる道を通りましても、更にかまひません。それが惠王のみならず、當時の諸侯や政治家の考へで御座りました〔それ〜傍点〕る故、其の説に反對いたしました。孟子の考へに致しますれば、惠王の考へは手段を目的と考へましたる事、是れが誤りの一つで御座ります。今ま一つは、其の手段で御座りまする富國強兵〔四字右○〕も、仁義と申す理想が之れに伴なひませんでは、眞正の富國強兵は出來ませぬ。仁義の政治が行はれますれば、當然國富み兵も強くなりまする譯で御座ります。(172)語を換へて申しますれば、惠王の「利」と考へまするものも、孟子の仁義の中に含まれて參りまするよりして、「王何|必〔右◎〕言v利」と申して、惠王の政治の理想の極めて卑く、且小さき事を指摘いたしたので御座ります。
 要するに、儒學の方では、厚生利用、即ち人民の物質的生活を優にいたす事、寧ろ之れを以て第一の急務といたしますれども、常に禮教と申す事を忘れませぬ。禮教が明らかになりまして始めて「政者正也」の理想に到着する事が出來ると致しましたるもので御座ります。
 
       三 天子と人民
 
 以下儒學に於きまして、天子と人民との關係を何加に相考へましたるかを申上げます。支那の古代に於きましては、堯は位を舜に禅り、舜亦た以て禹に讓りましたが、夏の世より、帝王の子孫が其の位を繼承せられますやうに相成りましたれど、夏殷周と申しまするやうに、世代の名が變つて參りますが、理論〔二字右○〕と致しましては、前代の帝王が、勝手に其の位を他人に讓るべきものでは之れなく、又た勝手に前代帝王を滅ぼして、新に帝王となりまするといふやうな事は、猶ほ更いけない事に成つて居ります。元來天子の位は天の位で御座りまして、天は萬物を生じ、又た人には萬物の靈で御座りまする性を與へて居りますれども、自ら教養の任に當る事は致しませず、己れに代つて直接に之れが君と(173)なり、それが師となり直接に教養の任に當りまする人を選み、之れに命じて天子と致しまする。それで、堯が舜に位を讓りましたのは、堯が天下を舜に與へたものでは御座りませず、唯之れを天に薦めましたもので、恰も諸侯が其の同僚となるべき人を天子に薦めましても、其の薦を用ゐて、命じて諸侯たらしむるやは天子で御座りまする通り、人が人を薦〔五字右○〕める事は出來ますれども、之れをして天子たらしむるは天である〔四字右○〕と説明いたしまする。それは孟子の中に、萬章と申す弟子が孟子に、「堯以2天下1與v舜有v諸。」と質問いたしましたる時に、「孟子曰。否。天子不v能d以2天下1與uv人。」と答へ、猶ほ「然則舜有2天下1也。熟與v之。」と問ひましたるに、「曰。天與v之〔三字右○〕。」と答へましたのが即ちそれで御座ります。然れども、天は無形のもので御座りまする故、何如にして天が與へましたか否かが相分りまするかと申すに、それは鬼神が其の祭を享けて、民が其の徳に歸服しまするか否によりて分ります。孟子が引きましたる大誓に、「天視自(フ)2我民視(ルニ)1。天聽自(フ)2我民聽(クニ)1。」と申しまする如く、一般の民の視まする所、聽きまする所を、其の儘天の視聽と致しますると申す意味で御座ります。儒學の考へでは、かく民意を尊重致しまするは勿論で御座りますれども、天子は天命を受け、天に代りて人民の爲めに政治をなされます。それで民意の尊重と申す事は、尤も大切で御座りまして、民意が政治とぴつたりと合ひまする事が肝要で、所謂民の好む所を好む、民の惡む所を惡む政治でなくては相成りませぬ。それで尚書の中に、帝王が政治の上にて何如に致すべきかと疑問が起りましたるとき、之れを庶民に問ふと申す事が御座ります。
(174) 尚書洪範に由りますれば、政治上の疑問を決しまするに、王以外、龜・筮・卿士・庶民と四つ御座ります。古昔は人智が開けませぬ所より致して、龜の甲を灼き、或は筮竹により吉凶を問ひまする。それから朝廷の百官と庶民とに御座ります。或事柄につき、君之れを斷行すべしと思ひ、龜筮も之れを斷行するを吉とし、又た卿士庶民の意見も同樣斷行する事を可と致したら、此れは大同と申し大變宜敷事と成つて居ります。洪範は周初に出來ましたるもので御座りまするが、其の中に庶民の文字が出て、又た其の意見が君の疑を決定致しまするに、龜筮や卿士と同樣の重きをなして居ります。
 それから、周禮秋官の内に小司寇と申す官が御座ります。此れは王が或る事項につき、庶民の意見を聞かれまする爲め之を招集し、會議を開かれまするが、この會議に關する一切の事務を掌る事に成つて居りまするが、其の職分に庶民招集の場合を三と致して居ります。即ち「一曰。詢2國危1。二曰。詢2國遷1。三曰。詢2立君1。」と此の三つで御座ります。國危は注に兵寇の難あるを謂ふと御座りまして、軍が起り都が危うく相成りましたる場合、廣く萬民の意見を聽きまする事で御座ります。第二は詢2國遷1。此れは遷都の事で御座ります。遷都は唯宗廟朝廷が遷ります計りで御座りませぬ。一般の人民も其の居を變ふる事にて、彼れ等の利害に關しまする事重大で御座る故、是れ亦た其の意見を徴せられまする。第三は詢立君と申す事で、凡そ君は嫡長を立てまする事が一般で御座りまして、其の場合は問題は御座りませぬが、嫡長なく庶出のみ居られましたるときは、其の内より賢者を擇らびまする譯で、此のときは庶民の意見をも徴せられまする。此れは周禮の經文に見えて居りまするが、古(175)い時代の歴史を攷へますれば、かゝる場合に王或は諸侯が、それ/”\庶民を招集いたし、衆議に謀りましたる事が載つて居ります。勿論、これは百官をさし置き、庶民の意見のみを問はれまするのでは御座りませぬ。先づ百官に御諮詢に相成り、猶ほ廣く民意を重んじて、之れに問はれまする事に成つて居りまする。近來支那の學者は、支那にも古代より議會が御座りましたるやうに申し、清朝の末年に、彼の國に於いて議會を開くべしとの議論が起りましたる時、舊學者の中には何ぞ議會などゝ申して範を外國に取るの要あらむ、我國には昔しより議會はありしなりとて此の周禮の經文を援いて證據と致しますれども、此れは支那の學者の通弊でこぢ付けの論に過ぎず、實際性質が大變に違つて居ります。
 第一は庶民の招集されまする事は唯前の三の場合に過ぎず、又たかゝる事件臨時に之れを開きますもので御座ります。第二、周禮の本文には何何を詢ると詢の字が使用されてあります。唯民意のある所を知られまする爲め、之れに御諮りに相成りまするので、多くの場合には之れを採用さるゝので御座りまするが、其の意見を採用になりますると否とは、君主の勝手で御座りまして、採用を餘儀なく致すものでは御座りませぬ。これにつきましては、例へば、遷都の事で御座ります。昔殷の世に盤庚と申す王が御座りました。其の都屡々水害に罹り到底長久に居住すべき場處でないと思ひ、遷都の計畫を立てられました所、貴族を始め庶民に至りまするまで、祖先以來住慣れましたる地を去ることを厭ひ、容易に王の命に從ひませぬ。堂堂と之れに反對を致しました。それで懇懇其の利害を諭され、(176)殆んど貴族庶民の反對が御座りましても之れを押切つて遷都を致されましたが、それが後に相成りて、殷民の眞の幸福を來たし、國再び榮えるやうに相成りました。この事實より考へまして、殷と周と時代は違ひますれど、詢萬民と申しまする事は諮詢に止まり、若し君が明に其の言ふ所不可と息召しましたら、必ずしも之れに從ふを要しませぬ。
 孟子の中に齊宜王に人君が人を用ゐ人を罰しまする場合の心得を説き、此こに一人が御座りまして、王の左右のもの、此れは賢者なれば御採用あれと、御薦め致しても直ちに用うべからず、諸大夫亦同樣の事を申しても直ちに用ゐ玉ふべからず、國人皆此れは賢者なりと申したる後、能く其の人につき御自分にて其の賢否をしらべ、其の賢なるを御見極めの上、始めて之れを用ゐ玉へ。不賢者を去り罪人を殺しまするときにも同樣で〔能く〜傍点〕、最後に國人の意見に徹し、然る後〔國人〜傍点〕君御自身で果して不賢者として去るべく殺すべきかを見極めて、之れを決し給へと申して居ります。孟子は儒家の中にても、民意の尊重と申す事を八釜敷く説きましたるもので御座りますれど、廣く國人の意見を徹し、君主自ら最後の判斷をなすべしと申して居りますが、孔子も之れに類似致しましたる言葉を述べて居ります。論語に「衆惡v之必察(セヨ)焉。衆好v之必察(セヨ)焉。」(衛靈公)と申す事が御座ります。此れは用人の上から申しましたるもので、大概一般の氣受宜しき人は善人で〔大概〜傍点〕御座りますれども、或は朋黨比周と申し、己の仲間を作りて、其の仲間に己れの事をよきやうに宣傳いたさせ、それで美名を取るものも御座ります。又たさやうな事を致さず、或る仲間に入りませぬ所より獨立獨行致しまする故、人の助を得る能はず、或(177)は其の爲めに惡くいはれるものも御座りまするので、之れを詳審いたす事が必要と申すので御座ります。結局儒學の政治は民意の尊重、民の好惡に違反致さぬやうに注意致しますれども、政治は民の爲めの政治で御座りまして、民によりて爲されるものとは相考へませぬ。
 然らば此くの如き思想は、何如なる點より起りまするかと申せば、矢張り「政者正也」より出發致し、即ち帝王が先づ其の徳を修め、御身を正しくなし玉ひ、而して此の正なる尺度を以て下民を相率ゐに相成り、諸侯卿大夫等天子を輔けて正の物指〔四字右○〕が少しでも曲がり、其の中道を失はぬやうに致しまする。結局、天子の聽明叡智は勿論賢者朝にありと申す事を前提として出發いたしまする。語を換へて申上げますれば、「正」の物指は御上より出づべきもので、下より出づべきものでは御座りませぬ。それで民意が若し正しきもので御座りましたらば、勿論正の物指と一致すべきもので御座ります。又た不幸にして兩方のどちらかにかの「物指」が狂ひましたらば、それは大變な事に相成ります。
 今ま一つ申上げますれば、この民意と申す事で御座りまするが、儒學の考へ方と致しましては、民意は即天意と申し、之れに由りて政治を致すものとなつて居りまするが、これは天下の人心〔五字右○〕が皆な一致いたしました場合の民意を申します。然るに實際に就き申しますれば、民意が區區に別れまして、其の内の何れを取りまするかに苦しみまする場合が往往御座ります。此れにつきまして、清初の學者に黄宗羲と申すものが居りまして、下の如き事を申して居りまする。併し是れは本人のみならず一般に儒學派の持ちましたる思想と申上げて差支御座りませぬ。今黄の言を敷衍して申しまするに、凡て(178)人には、元來各々利害の觀念を有つて居りまして、それが又た自然他人の利害觀念と衝突致しまする。例へば貴族と平民、官吏に於きましても文官と武官、或は商工と農、貧者と富者と申しまするやうに、團體的にも又た個人的にも、すべて自己の立場より物事を考へたがりまするもので御座ります。若し其の立場よりの利害よりして、之れを國家の利害とわざと一致させまするものは是れは論外で御座りまするが、左樣でなく、眞に國家利害と考へましても、知らず識らずの間に其の立場より影響を受け、其の説きまする所が違ひまするより、果して民意が那邊にありまするか、どの主張が正しきかを知りまする事は極めて困難で御座ります。
 かく人には私が御座りまして事物の判斷が片寄りまするが、こゝに一人、全く此れ等の階級に屬せず、或る團體とか個人と申すやうな御考へが毛頭も起らず、天下全體の利害のみを考へ、又た出來得る丈各團體又たは個人の利害を調和し、一方に偏する事のないやう、所謂天下の公を持する事の位置に居る方が無いでは相成りませぬ。此の位置にゐらせられまする方は、天下に帝王を除きて外には御座りませぬ。尚書洪範に、王道を説きまして、「無v偏無v黨。王道蕩蕩。無v黨無v偏。王道平平。」と御座ります。偏は片寄りまする事、黨の本義は、羣〔右○〕と申す儀にて、一の仲間〔二字右○〕、一の集團を申します〔七字右○〕。從ひまして、其の仲間集團の一員となりて同集團に屬するもの縱令惡い事をいたしましても、相助けまする事を「黨する」と動詞に使用致しまする。王道は一祝同仁にて少しも偏頗が御座りません。又た或仲間集團〔王道〜傍点〕を殊に御助けに相成りまする事も御座りません。假りに王道を道路に譬へましたら、蕩(179)蕩〔二字傍点〕平坦で高低が御座りませず、すら/\と其の上を御走りになり、又た平平〔二字傍点〕にと總べて政治が條理を得まして、巧《うま》く治ります。此れを洪範にては皇極〔二字右○〕と申します。皇は大と申す義、極は中と申す事、即ち大中〔二字右○〕と申す事にて、大は中の形容で御座りまして、前に申上げましたる通り、中の觀念正の觀念と相通じます。即ち何處までも帝王が聡明睿智の御徳を以て偏なく黨なき大中至正、即ち正しき道を御踐み遊ばされ、又た其の物指を普ねく臣民に御示しになり其の軌道を離れたるものを御引寄せに相成る事、是れ即ち儒學にて理想と致しまする政治の極致で御座ります。
 
   2009年1月6日(火)、午前9時50分、入力終了