風土の万葉

赤人942945番歌の犬養説批判

米田進(こめだすすむ)

 

 赤人にしてはややしまりのない作品のせいか、有斐閣と和泉書院の論文集のどちらにも取り上げられていない。といって問題がないわけではない。島の間から故郷を顧みるというとき辛荷の島の島々の間からなのか、唐荷の島と伊奈美嬬との間なのかということと、そして、反歌三首で、三首目に大きく後戻りした都太の細江が詠まれるのは特に意味がないのか、あるいは長歌との映発をねらった構成美を出すための意図的な配置の三首構成ななのかということとである。これは難問で、犬養氏によって詳しく論じられる(「辛荷島歌考―赤人美の構造の一面―」『萬葉の風土 続』塙書房、1972年所収、初出1959年)まではあまり追求されず、その犬養氏の説も前者、後者ともに最近は支持するものが多いが、なお不安定である。それでいて反論もないようだ。とにかく難問だから、本稿では、犬養氏の説を批判するが、それに代わるほどの説を出すことは無理である。批判だけでも有意義だと思いたい。

 

 まず、赤人の歌。

     過2幸荷島1時、山部宿禰赤人作歌并短歌

  あぢさはふ 妹が目かれて 敷妙の 枕もまかず 桜皮纏き 作れる船に 真揖ぬき 吾が漕ぎ来れば」

   淡路の 野島も過ぎ 印南つま 辛荷の島の 島の際ゆ 吾家を見れば

   青山の そこともみえず

   白雲も 千重になり来ぬ」

    漕ぎたむる 浦のことごと

    往き隠る 島の崎々

     隈もおかず 思ひぞ吾が来る 旅の日長み (巻六-九四二)

      反歌三首

  玉藻刈る 辛荷の島に 島回する 鵜にしもあれや 家思はざらむ (巻六-九四三)

  島隠り 吾が漕ぎ来れば 羨しかも 大和へのぼる 真熊野の船 (巻六-九四四)

  風吹けば 浪か立たむと さもらひに 都太の細江に 浦がくり居り (巻六-九四五)                               〔犬養氏の論文による、ふりがな省略〕

 この中の「淡路の 野島も過ぎ 印南つま 辛荷の島の 島の際ゆ 吾家を見れば」が問題である。文脈からして「印南つま」を「印南つま(を過ぎ)」と理解すべきだという犬養氏などの説は無理がある。素直に読めば、どうしても「印南つま(と) 辛荷の島の」としか読めない。主な注釈を見ると、

一、印南つま(を過ぎ)、多田全解(「の先」と訳すが「を過ぎ」と同じ意味になる)、和歌大系(犬養説を詳細として紹介)、釈注(「経て」と訳す、犬養説を詳しく紹介)、新編全集(「あとにして」と訳す)、吉井氏担当全注(犬養説を詳しく紹介し全面的に支持)

二、印南つま(と)辛荷の島の、阿蘇全歌講義(「や」と訳す、犬養説を紹介、ただし従わず)、古典集成、注釈、佐佐木評釈、全注釈、窪田評釈、新村氏担当総釈、全釈

三、その他、印南つまを辛荷の島の修飾とするもの、全訳注原文付、古典全集、私注、金子評釈、口訳、これらは犬養説に近いが、印南つまを通過地とせず、印南つまの先にある辛荷の島というようにとっている。「過ぎ」よりも歌の文脈に忠実だが、26キロも離れ、隣の隣の郡にあるものを「先」あるいは「印南の一部」といえるかという地理的な難点があると犬養氏は言う。しかし地理的な難点だけで処理出来るかどうか不安な点もある。

 思い切って三つにまとめたが、助詞がないのだから訳し方にも差があり、こう簡単ではない。しかしこまかく分類してもあまり意味がない。一が五つあるが、吉井氏以降の新しいもので犬養説の影響下にあることはほぼ間違いない。二は八つあり前者より多いが、一時代前の注釈書がほとんどである。阿蘇氏の場合は、全体に保守的な傾向がある。犬養説を紹介しながら従わない点にそれが出ている。三は少数派で最近では問題とされない説なので一つにまとめた。二、三の説の批判については犬養論文に詳しい。

 一についてはもとになった犬養説が詳しいので、それを検討する。

  第一に、両地を「と」による並立と見ることは地理的に極めて不自然である。「印南つま」を高砂の地とすれば、辛荷の島までは直線距離的二六キロ、その間、南方に家島群島を望むほか、沿岸に島もなく洋々たる海上である。

確かに26キロというのは相当な距離で(野島から高砂までの20キロ余より長い)、しかもどちらも本土に近く、両者の間が海峡のようになっているわけではないから(津軽海峡のようなものではない)、その間から東の大和の方を望むというのも不自然である。しかしそれは「際(ま)」を島と島との間の狭い隙間と解するからそうなるので、「印南つま」と「辛荷の島」の航路の中間「あたり」からとすれば距離の長さはそれほど不自然ではない。「青山の そこともみえず 白雲も 千重になり来ぬ」という茫洋とした感じは、「印南つま」と「辛荷の島」の航路の中間あたりの方が辛荷の島々の島と島の間の狭い所から見るよりも適している。それに犬養氏も言っているが、中間あたりを過ぎると南方に家島群島の大きな島々が連なり、それまでの広大な感じが減じるから、中間あたりは大和遠望の最後の位置とも言える。野島から印南つままでは淡路島や明石海峡も近く印南野への聖武の行幸もあったが、印南つまを過ぎると、それらからも遠ざかり、いよいよ本場の瀬戸内海に入っていくので(家島群島や小豆島や備前の海岸が近づく)、大和との別れの気持ちも高ぶるであろう。

  第二に、地名を羅列しただけで経過地をあらはす例は、

  そらみつ 大和の国 あをによし 奈良山越えて 山城の 管木の原 ちはやぶる 宇治の渡り 滝の屋の あごねの原を 千歳に かくる事なく 万世に あり通はむと 山科の 石田の杜の すめ神に 幣取り向けて 我れは越え行く 逢坂山を (巻十三-三二三六)〔犬養氏は、山科の以下を略している〕

と言うが、三つの地名は並べただけで、それぞれを過ぎてと言う意味にはならない、「あり通はむ」とあるのだから、道行き的に地図的に並べただけであることは明らかである。曾倉氏の全注でも「あおによし奈良山を越えて、山城の綴喜の原や、ちはやぶる宇治の渡りや、滝屋の阿後尼の原を、」のように、並列で訳している。

  第三に、題詞に「過2辛荷島1時……作歌」とあり、最初の反歌も辛荷島をうたつて長歌に直ちに応ずるものとなつてゐる。

とあるが、長歌と反歌を時間的に直結するとすべき必然性はない。題詞は長反歌全体にかかるのだから、長歌で辛荷の島を眼前にし、反歌の時点で辛荷島を通過したのであって、長歌では印南つまと辛荷島との間での遠望を詠んでいると見ても問題ないであろう。反歌では狭い島の付近を描いており遠望を示す語句はない。

  第四に、「野島も過ぎ」の「も」の潜勢力は「印南つま」にも響くものがあるし、のみならず「辛荷の島の島の際ゆ」の「の」音連用の快調も船の進行感を助けて、「印南つま」を通過地たらしめる効果が見られる。

根拠となるほどのことではない。寸詰まりで船の進行の遅さを感じることも可能だ。

  第五に、「印南つま」の地名は…、拒婚説話から…、「辛荷」の「辛し」に掛けしてゐるところも考へねばならない。

掛けた言葉を連発したからといって、「過ぎ」になるとは限らない。妻に否まれ辛いからそこらへんで望郷の遠望をしたとも取れる。

  第六に、「辛荷の島の」の次に、ことさら「島際従」の句があるところからも、「辛荷の島の島と島との間から」の意に解すべきであるし、高木市之助博士の…「際」は、「両個のものの出逢つたところ」「同じものの中間なる会であり隙である」から、洋上二六キロも離れたあひまと見るよりも、具体的には前記の、地の唐荷と中の唐荷の島の辺と考へることの自然さをとるべきである。

「辛荷の島の 島際従」とあるからといって辛荷の島の島の間だとしかならないのではない。そもそも正確には「辛荷の島の 島々の 島際従」とあるべきだ。そうではないのだから、印南つまの島と辛荷の島との間ともとれる。要するにこれは前にも言ったように距離の問題で、地の唐荷と中の唐荷の島の間なら600メートルで、間とか隙とか言えるが、26キロも離れていては無理だというのであろう。「際」というのを高木氏のいうように「両個のものの出逢つたところ」「同じものの中間なる会であり隙である(岩波古語辞典の語義とほぼ同じ)」ととったとしても、その中間の間が26キロもあってはいけないということはないだろう。大きなスケールのものを扱うならその中間の距離も大きくなる。難波→(27キロ)→敏馬→(27キロ)→野島→(25キロ)→印南つま沖(泊地は都太か)→(26キロ)→辛荷島周辺の泊地という間隔(ほぼ同距離)で就航すれば、26キロといっても瀬戸内海航路の一区画であり、その中間なら際である。しかも中間は13キロだから、それぐらいなら辛荷島も印南つまもよく見えるだろう。

 以上犬養氏の挙げた六つの理由にはそれほど確固としたものはなかった。肝心の「印南つま(を過ぎ)」というのも、犬養氏の説が出るまではおおかた並列で「~や~」「~と~」とされてきた。素直に読めばそうなるから、それに合うように地理表現を理解する方がいいだろう。

 

 ところで、このように犬養氏が、長歌の最後を辛荷の島に設定するのに拘ったのには、理由があるようだ。それは長歌反歌の美的な構成ということで、長歌の最後を辛荷の島に持って行き、反歌の最初の辛荷の島と対応させようとしたのであろう。それによってパノラマ的な長歌反歌の対応をみようとしたのである。このパノラマという言葉によほど自信があったようで、そう長くもない論文で17回も使われている(ついでに言えばコンポジションが2回、もう一つの赤人関係論文では、パノラマ10回、モンタージュ7回、コンポジション2回)。ところが、そのパノラマの意味がずれているようなのだ。氏は、

  まさに景観は移動風景的にパノラマ型に展開しきたり、それは望郷の方向とはおよそ逆に、…対句による律動が、船の進行感とパノラマ型展開をさらに助長させてゐる…かくて長歌は、あくまでも現実の景観に即して旅愁望郷の心情が表出され、しかも景観は移動風景的に展開し、通過地の地名は順次あげられ、浦を漕ぎ島を過ぎ、全体に進行の律動が保たれ、船の進行に逆比例して、旅愁望郷の心情の進展する構造であつて、まさにパノラマ型ともいふべき構成がとられてゐる。長歌のこの在り方は三つの反歌にいかに対応されてゆくであらうか。

  …長歌がパノラマ型移動風景型展開のもとに表出すれば…

  …海上のパノラマ的な風土景観の中に身を置いた…

などと言う。ここに「移動風景的」「進行感」「景観は移動風景的に展開」「パノラマ型移動風景型展開」とあるように、氏は「移動風景」をパノラマととらえているが、パノラマはそんな意味ではない。

  新明解国語辞典、見る人を取り囲む半円形の壁に、風景または歴史的物語を何枚もの絵に描き、前に実物模型を置いたもの。〔高い所から見渡すのと同じ感じを与える〕「――展望台」

ここに移動風景の要素などはどこにもない。赤人の歌でも、ある高所の一点から広く見渡したという内容ではなく、通過した地名や通過する予定の地名(長歌だけだと両方でわずか三つだが)を並べ、印南つまと唐荷島の間から想起し(だから野島などはおそらくはっきりとは見えず記憶の中の地名となる)、ついで「漕ぎたむる 浦のことごと 往き隠る 島の崎々 隈もおかず 思ひぞ吾が来る 旅の日長み」とまとめたものだが、多くの島の崎や浦についても、パノラマ的に一望しているのではなく(実際はあのあたり淡路島だけで、多くの島も浦もなく、赤人の誇張があるのだが)、長い日数故郷を思いながらやって来る、というのだから、記憶の中の舟行が大方で、実景ではない。だから、パノラマとはとても言えない。「長歌は道行き風」と古典集成、釋注、阿蘇全歌講義等は言ったが、その通り「道行き風」であって、パノラマ的ではない。

 このパノラマ論は反歌にも及び、長歌は進行方向へ反歌は後方へのパノラマ的な抒情の展開とすると阿蘇氏は紹介したが、これは吉井氏全注から、類を見ない詳細な構成分析だと賞賛された。今まで反歌と長歌の関係がよくわからないとされてきたのが(特に三首目の辛荷から遠く後戻りした地名の意味)、見事に解決したというので、犬養氏がいう、パノラマ型によるコンポジションの論(美的構成論)は高く評価された。しかし長歌でパノラマの意味が誤解されていたように、反歌でもパノラマの意味は誤解されている。だから犬養説のかなめである、長歌反歌のパノラマ型の対応という構成論は、成り立たないということになり、反歌第三首の地名の謎は解決されていず、長歌反歌の構成も不明のままと言うことになる。

 少し先走った。なぜ反歌三首はパノラマ型ではないか。一首目は、

  玉藻刈る 辛荷の島に 島回する 鵜にしもあれや 家思はざらむ

この辛荷島の鵜はその行動がクローズアップされていて、どこかの高所から見晴らした大きな風景の中の小さな一部ではないのである。

  島隠り 吾が漕ぎ来れば 羨しかも 大和へのぼる 真熊野の船

これははっきりしないが、辛荷島の島影に漕ぎ入ってくると逆に大和の方へ行く熊野船を見たということであろう。こういうものを後方へのパノラマ的な展開といえるだろうか。僅かな距離でも後方の場所(自分たちがすでに漕いで来た海域)に居る熊野船を詠んだ歌ということで、一つ前の鵜が熊野船になったのであり、大きな風景の要素としてのものではない。これは移動風景的なという意味のパノラマではなく(その理解自身間違いであることは前述)、熊野船に焦点を当てた歌を詠んだ(あるいは配列した)だけであって、大きな風景の中で、同時に複数の景色を見る(たとえば、熊野船と同時に大和の風景も見えるとか)というパノラマの意味通りの風景ではない。

  風吹けば 浪か立たむと さもらひに 都太の細江に 浦がくり居り

これが問題の歌である。いったん辛荷島あるいはその近辺にいる歌を出しながら、ここで20キロほども後戻りしたような今の姫路市あたりの地名を出すのは何故か。たしかに疑問だが、だからといって犬養説のような後方への移動風景を詠んだ構成ではない。では、辛荷島から遙か遠くの姫路あたりの風景を視野におさめた大きなパノラマなのか、そこに過ぎてきた風景を前景中景遠景と並べた歌なのかというと勿論そんなことはない。歌は遠景ではなく、そこで浦がくりをしている状態を詠んでいる。過去の体験を現在形のようにして三首目に置いたというだけで、パノラマの中の一景(同時に見渡されるもの)ではないのである。後方へのパノラマなどという誤解したパノラマの意味ではないだけでなく、正しい意味のパノラマ型でもない。おそらく連想によるものだろう。軽快な熊野船を見たら、風波がこわくて都太の細江に浦がくれしたことを連想したのではないか。ただし後方への動線にそって歌を配列したように見えるのは氏に言わせればモンタ-ジュであり、あるいは虚構的なパノラマ型で、それこそが赤人美だと言うことなのかも知れないが、こういう外国語は恣意的に使用される恐れがある。パノラマの意味に合わないのだから、氏の造語なのかも知れないが、どういう意味の造語なの定義がない。道行き的な望郷の念を長歌で総合的に詠み、反歌で、その中の最も味わい深い場面を鮮やかに詠んだと言うことだろう。無理して長歌反歌の美的で緊密な構成を考える必要はないであろう。長歌はフルコース、反歌はアラカルト(一品料理)、といったものではないだろうか。辛荷の島を過ぎるあたりまで来て、いよいよ吉備の海も目前になって、あらためて望郷の念もつのり、都太の細江で浦がくれして、なかなか進行しない船旅に苦しんだことが思い出された、といったところであろう。

 

 まとめ。

 一、印南つまを過ぎて辛荷の島の島々の間から我が家の方を見たのでなく、印南つまと辛荷の島の間から我が家の方を見たのである。

 一、反歌三首は長歌のパノラマ的な展開を更に具体的に、後方に向かってパノラマ的に展開したのではない。そもそも、長歌自体パノラマ的な表現ではなく(パノラマの意味を誤解している)、反歌もまたパノラマ的ではない。長歌の説明的で道行き的な望郷の表現に対して、反歌では印象的な三つの場面(鳥、熊野船、細江)にしぼり具体的に描写したのである。特に長歌を三つの場面にしてパノラマ的に後方に戻るようにして表現したのではない。

 

補足、高松寿夫氏の『上代和歌史の研究』、新典社, 2007.3の、第二部 第二期――人麻呂とその周辺 「第一章 人麻呂作歌にみる漢詩文受容――特に身体的所作にかかわる表現をめぐって――」の中に、

  万葉歌の表現で、このような対称的な位置にある二つの景をパノラマ的に描写する際には、「そがひに見ゆ」(3-三五七〔筆者注、縄の浦ゆそがひにみゆる奥つ島〕・6-九一七〔筆者注、紀伊行幸の雑賀野ゆそがひにみゆる奥つ島〕)といった言い回しもあり得た。

とある。赤人の二つの歌の「そがひにみゆる」をパノラマ的な描写としている。赤人の歌の一部にパノラマ的な描写があると見たのは犬養氏以外では珍しいだろう(犬養氏の論じたのはパノラマ的ではなかったが)。ただしそこの「そがひ」というのが対称的な位置をあらわすかどうかは疑わしい。対称的でなくともパノラマ的な描写であることは確かで、その見方は支持出来るし新鮮である。また犬養氏のようにパノラマを誤解してもいない。なお「そがひ」以外でも「登神岳作歌」はパノラマ的である。

  〔2024年9月2日(月)午後7時20分成稿〕