風土の万葉

  赤人の登春日野作歌-三笠山の地理考証を中心に-

                          米田進(こめだすすむ)

 

3-372    山部宿禰赤人登春日野作歌一首并短歌

春日を 春日の山の 高座の 御笠の山に 朝さらず 雲居たなびき 貌鳥の 間なくしば鳴く 雲居なす 心いさよひ その鳥の 片恋のみに 昼はも 日のことごと 夜はも 夜のことごと 立ちて居て 思ひぞ我がする 逢はぬ子故に

373    反歌

高座の御笠の山に鳴く鳥の止めば継がるる恋もするかも

 

 赤人らしく簡潔だが、その景観の描写は実感がある。解釈上は飛鳥の神岳の歌と同様相聞表現に少し問題があるが、地理的には飛鳥の神奈備と違って問題がないように各種注釈では見なしている。つまり春日の山も御笠の山も現在普通に呼ばれているところと同じとするわけである。この山々に関しては、現地で見ると、奇妙な地形で、赤人もいつものパノラマらしい鮮やかさがないが、そのぶん工夫したようだ。その奇妙な地形というのは、平城京あたりから見ると、台形の大きな春日山の前面になにかとってつけたこぶのような小山があることである(火山噴火の名残らしい、そういえば春日野も溶岩台地のようで変わった地形だ)。その地形から万葉の歌の地理に大きな疑問を呈したのが、和田嘉寿男氏①であり、そのまえに北島葭江氏②が疑問を呈し、和田氏のあとに仕上げ的な説を出したのが上野誠氏である③。この中で実地踏査的にまた資料的に最も詳細なのが和田氏である。

 氏は

10-1887、春日なる御笠の山に月も出でぬかも佐紀山に咲ける桜の花の見ゆべく

を材料にして、佐紀山からはどう見ても御蓋山(以下この表記の場合はすべて今の御蓋山のこととする)の月の出は見えないとし、御蓋山からの月の出が見られるのはどの地域かということを踏査した。氏以前には北島葭江氏が踏査し、氏以後には上野誠氏が調査したわけだが、こういうのはやはり地の利が物を言う。三氏とも、御蓋山から月が出る場所を問題にし、御蓋山の稜線が春日山の稜線を凌ぐところを探した。今の奈良の旧市街から西、平城京にかけてどこでも春日山の稜線が東の空を限っていて、御蓋山の稜線が東の空を限っているところなどありそうに見えないからである。そして北島氏は「高畑町あたりからも、…東大寺転害門から佐保内の方へ行く道からも高く春日山を凌いで見え、春秋の候は丁度そこから月が上るので萬葉歌人吾等を欺かざることを覺つたのである。」(『萬葉集大和地誌』279頁)と言った。これはその通りである。北島氏はさらに佐保のほうから撮った写真を載せた。ただし、それで万葉の歌が正しく理解できるかは問題で、北島氏自身は春秋にその場所からの月の出が見られるというが、佐紀山や平城京からは見えないのをどうするかということは答えていない。それに、太陽と同じで月の出は真東から南北に全体で35度ほど動き、しかも月齢によって昼間に出たら見えない。最北に振れると平城京からなら若草山のまだ北になり、最南に振れると高円山の南端を越える。東大寺あたりからだと御蓋山の頂上一帯は南東方向で、後ろは春日山の南端近い稜線になり、北島氏の写真のように御蓋山の稜線の方が高い。高畑だと御蓋山は北北東方向で、稜線の後ろは若草山一帯である。どちらも月の出の範囲に含まれる。

 同じような踏査結果を出した和田氏の結論はどうだろうか。氏は

   結局、御蓋山から月の出の見られる地域というのは、実際のところ、予想以上に狭いのであって、それはほとんど、今の高畑町と東大寺周辺の二か所ぐらいに限定されてくるのである。そして、たったそれだけの範囲とすれば、そこからたまたま月が出たからといって、「万葉歌人吾等を欺かず」と覚ることは私にはとうていできない。結果から言えば、「三笠の月」として詠まれた三笠山は御蓋山ではないだろうというのが私の見解なのである。

と言う。つまり、御蓋山から月は出、それが北島氏の言うところで間違いないことは認めるが、それは万葉で詠まれた「三笠の月」ではないというわけである。氏は南北方向を踏査し、南北でも離れすぎると、御蓋山から月は出ないという。それはその通りなのだが、地元を知らない人や地図を深く読む習慣のない人だと、なにも東大寺や高畑に限ることなく、氏の可視範囲の地図の点線内にある、正面の春日大社参道あたりからでもいいと思うだろう。だいたい満月前後には東から出るのだからぴったりなのだが、東西の線上だと御蓋山の頂上と春日山のそれとはほぼ直線上にあり(そこが東大寺や高畑とは違う)、なかなか春日山の稜線を越えない。越えるほどに近づくともはや密林の中で稜線も何も見えないのである。和田氏の図から誤解する人もいるかもしれないので老婆心から説明した。東大寺や高畑からなら御蓋山の頂上への視線を伸ばすと春日山(高畑の場合は若草山)の稜線への距離が長く(春日山山頂から離れる)、その分御笠山の稜線が春日山や若草山の稜線より高くなる部分が増えるのである。https://hinode.pics/moon/state/code/29で月の出の方角とかを見たりすればわかることだが、やはりその説明がないのは片手落ちといえる。なお和田氏が論文を書いた50年ほど前は手軽なパソコンもこんなアプリもなかったことは言うまでもない。御蓋山に限らず全国どこの月の出でも今なら精細にシミュレートできる。

 次に上野氏の三笠山の月の出の地理の議論だが、氏は地理的な調査を自身で精密にやったのではないようである。北島、和田氏の成果を軽くなぞっただけで、すぐに表現の問題に論点を移し、「空間表現」という言葉で、「御笠の山に出た月」という表現がもたらす当時の情感から見ると三笠山は地理的にはどう説明できるかというふうに論じる。しかし地理的な理解が十分でないままに、表現から地理を考えようというのは順序が逆のようでもある。だから現実にはあり得ないような地理理解になってしまっている。御蓋山から月は出ないことを認めながら、それでも考えようによっては御笠山の月を詠んでいるのだという、難解な結論になっているのである

 

 上野氏の結論は難解だといったが、その難解さを説明するためにはもう少し地理を深く追求する必要がある。北島氏は御蓋山からの月の出は見られるという事実を確認してそれ以上に万葉の歌との関係は追求しなかった。和田氏はそれにあきたらず、東大寺あたりからしか見えないのでは(氏は言わないが高畑あたりから月の出は月齢の関係で現実には見られないようだ)、御蓋山からの月の明かりで佐紀山の桜を見るという歌は詠めない、として批判する。なお言えば三笠山や春日山を詠んだ歌の中には、すでに東大寺の建築が始まった後の時期のも多く、そんなときに万葉歌人たちが東大寺あたりに集まって宴会をしたり月見をしたりするというのも考えがたいし、あの小さな御蓋山あたりの森を月が照らしたところでおもしろくもないだろう。とにかく和田氏はそんな狭いところではなく、広く平城京あたりから春日山の月の出を詠んだとしたいというのである。それはそうである。以下繰り返しになるが、それだと御蓋山から月は出ない。なのに万葉では三笠の山から月が出るというのだから、今の春日山こそが万葉の頃の三笠の山であるとするしかないと和田氏は言うのである。これは微修正すれば同意できる。氏の言う根拠は納得しがたい。そこを微修正すればよい。

 

 和田氏は文献面でも多く探索した。そして、春日山の西前面の小山が三笠山だという『顕注密勘』を引用する(上野氏はそれの仲麻呂の歌の所を全文引用した)。そして今の御蓋山は、確実に古代の三笠山であるとするのだが、この文献は鎌倉初期のものであり、平城京あたりに住んだ万葉人とは違う京都の人間の発言だからあまり信を置くのはどうかと思う。文中でも大和の国の春日山とか言っていて土着の人の知識でないことが明瞭だ。ただしそれが今も万葉学者には受け入れられている。今奈良あたりでは三笠山といえば若草山のことであり御蓋山など春日大社に何度か行った人しか知らないような山なのだが。国土地理院の地図では、若草山(三笠山)、御蓋山(春日山)、花山、芳山(ほやま)となっていて、どれが正式名称なのか迷うほどである。しかし、今の奈良県民としては、若草山が草山になっている今、地図の花山を春日山と呼び(春日大社の花山院氏弘匡氏の著書でもそうなっている)、春日山地一帯や御蓋山を春日山と呼ぶことはない。それはともかく、『顕註密勘』でいう三笠山の比定を認める以上、和田氏は、万葉歌人は今の春日山と御蓋山との全体を三笠山と呼んだのだろう(あるいは春日山には三笠山という別称もあったかともいう)とすることで難問を解こうとしたのだが、上野氏も言うように、いくらなんでも、三笠山は御蓋山のことだが、背後の大きな春日山(花山)を含めた名称でもあるとするのは苦しい。氏は天平勝宝のころの「東大寺山堺四至図」④を持ち出し、御蓋山とか神地とかの名が見いだせ、春日山があるべき所には「南北度山峰」とあるだけである、という。それは間違いないが、しかし、それなら「南北度山峰」などとせずそこを「御蓋山」とすべきではないか。その図の御蓋山は非常に小さく描かれているが、まるで春日大社あっての御蓋山であって、春日山地の山としては取るに足りないものだと言っているようだ。だいたい東大寺の古図なのだから、東大寺の観点からかかれているのであって(東大寺から見れば御蓋山はよく見え、そこには東大寺の先輩格たる春日大社があるということ、あるいは春日大社などは御蓋山の周辺だけが境内なのだと言いたいのかも)、万葉の歌に合わないこともあるであろう。

 和田氏も解きあぐねた難問を上野氏はどう解いたか。氏は

  「三笠山」「春日山」「高円山」の月の出の歌々は、すべて平城京から東方を望んだ景ということができるから、これらは平城京地域から見る月の出の景であり、そこから生まれた表現の一つに「春日なる三笠の山に出でし月かも」もあったということができよう。そして、それは『万葉集』においてすでに類型化していたとみてよい。してみると、春日山と三笠山との関係が問題となるが、これについて適切な指摘をしているのは『顕註密勘』である。

という。これは全く和田氏と同じことを言っているのであり、私も同じ考えである(ただし『顕註密勘』の指摘は認めない)。そして平城京からは御蓋山の月の出は見えないと言う点について、北島氏、和田氏の説を再確認する。次に、

  …、奈良時代においては、現在の春日山も含めて三笠山と呼ぶことがあったのではないか、と〔和田 一九八〇年〕。和田の考えが正しいとすれば、この間題は解決しよう。…。しかし、私は和田の考えに従うことができない。なぜならば、同じ山塊のうちではあっても、三笠山と春日山は区別されて、呼称されていたと考えるからである。やはり、「ミカサヤマ」というからには笠型の円錐型でなくてはならないだろう。その円錐型の峰は、あきらかに背後の春日山と区別されていたと考えるからである。

という。これに一部はすでに言及したが、ここで上野氏は、山の名前から、笠型の円錐型でなければならず、それなら背後の今の春日山はそういう形ではないからだめだという。この論理はおかしい。和田氏は御蓋山が中心でそこに背後の春日山も含めた総称もまた三笠山と言ったのだろうというので、春日山は円錐型の峰でないからだめだでは否定したことにならない。ただその山体の大小が違いすぎるのが悪いと私は思うのである。それに和田氏は山の形など笠に似ていなくてもよいと言ったが、それはともかく、なぜ今の春日山を「カサ」の形と見なせないのか、そのこと自体が疑問である。それについては後述。そこで氏は「空間表現として考える」として、

  「春日なる三笠の山に出でし月かも」という表現を、三笠山の稜線から出た月ととってしまうと、どうしても三笠山の麓で見た月の出と考えなくてはならなくなる。すると、和田説のように三笠山といっても春日山であると考えるか、…桜井説のように積極的に三笠山の麓で月を見ることの意味を問うかという方向で論が展開していってしまうのである。…筆者は、この表現はむしろ東西を軸として広く仰ぎ見て、ないしは仰ぎ見たことにして歌われた表現であるとみたい。

と言う。つまり御蓋山の稜線からの月の出と考えるから、御蓋山の稜線が春日山の稜線より高く見えるのはどこかとなるのであって、最初の引用にあったように平城京から東方を望んだ景とすれば、物理的に御蓋山の稜線から月が出るわけはないので、稜線からの月の出ではなく山の上で現に照っている(仰ぎ見る)月を詠んだのだと解釈し直すべきだというのである。しかし稜線から出る月を詠んだのではないとしても(後述するようにこの説は信じがたい)、平城京からなら,春日の山の上に出た月であって、御蓋の山の上に出た月ではない。昼でも見分けがたいのに夜など、春日山の尾根の低部の出っ張りにすぎない御蓋山がわかるわけもないし、そんなこぶのような山だけを月が照らすわけもない。またそこの月明かりだけを遠くの平城京から詠むわけもない。広大な空から春日山一帯を照らすのである。

 そこで氏は,春日山に出た月と言えばよいのに、なぜ三笠の山に出た月を詠んだのかという難問を解こうとする。

  おそらく、それは三笠山が春日の中心にある山だからであり、その三笠山を中心として春日野(巻三の四〇四など)・春日の里(巻三の四〇七など)が広がるからであると思われる。春日野・春日の里とは、西から見れば、春日山の西麓全域と意識されるはずである。かの春日山を鳥の翼と見立てた場合、鳥の頭部にあたるのが三笠山なのであって、三笠山を中心に南北に広がる野こそ春日野・春日の里なのである。以上のごとくに考えると、三笠山を中心として南北に広い空間が意識されることになる。

長い引用になったが、今まで同様微妙なところが多く要約しにくい。ここで例の北島氏の羽易山説が出るが西から近づいてそんな風に見えるところはない(まして平城京からならなおさら)。だからそれを根拠に春日野の中心ということは出来ない。北島氏は東大寺や高畑など南北に離れた所からみてそう言ったのである。それに羽易山の語源解釈も疑わしいから、こんなところで羽易山を持ち出すこと自体場違いである。それに東西を軸として仰ぎ見たと、前の引用で言っていたのがここでは御蓋山を中心に南北に広がると言う。東西と南北ではかなり違う。春日野は春日山の前面に大きく広がる台地であって、御蓋山などはその中の小部分に過ぎない。東大寺などは若草山の麓であって、御蓋山とは谷で隔てられている。春日山前面の春日野や春日の里を御蓋山を中心とした南北の広い空間と見なすことは出来ない。御蓋山はただ春日大社のある所という意味しか持たない。もし御蓋山が中心なら、春日野、春日の里、ではなく,御蓋野、御蓋の里、という言葉があってもいいと思うのだが皆無である(御笠の野辺というのがひとつあるのみ)。ただし氏はそういう思い込みのもとに、

  おそらく、「春日なる三笠の山」と表現した場合には、春日山の前方部の空間全体が想起されたと思われるのである。その南北に広がる空間から出る月こそ、「春日なる三笠の山に出でし月」ではないのか。したがって、必ずしも三笠山の稜線から出た月だけが、「春日なる三笠の山に出でし月」であると考える必要はないではないか。

と言う。春日山の前方部空間全体というときは春日山自体は含まれないだろう、しかし物理的にはその春日山から月が出るのであって、前方部の空間から月が出るのではない。和田氏の説を乗り越えたたように見えてかえって悪くしている。しょせん平城京から見ると御蓋山から月が出るのではなく春日山から出る。なのにそれは御蓋山から出る月と言ってもいいのだというのは根拠が薄弱である。

 やや強引と思ったのか、氏は最後に次ぎのようなことを言う。

  …、当該歌が「春日なる三笠の山を出でし月」ではなくて、「春日なる三笠の山に出でし月」となっている点である。「…を」と表現した場合には、…、三笠の山の背後から出た月ということを含意した表現となる…。つまり、三笠山の背後から三笠山の上に月が出たという月の動きに焦点を合わせた表現となるのである。対して、「…に」と表現した場合には、その場所に月が今存在しているということに焦点を合わせた表現となるはずである。

これは一面的な解釈ではないか。そこに存在すると言いたいのなら、和田氏も言ったように、「出る」ではなく「照る」となるだろうし、また氏はそれとなく「上に」という言葉を補っているが、初めから「上に出る」と言うだろう(炭坑節のように)。「出る」というのは、岩波古語辞典に「いで、④(内から外へ、奥から表へ)姿を見せる。」とある意味である。④以外のを見ても動きのあるものばかりで「その場所に…今存在している」といった意味のものはない。「…に」と表現したからと言って、上空に今存在するという意味にはならない。移動して或る場所に到達したということであって「三笠の山の上に存在する月ではなく」「三笠の山の上に移動してきた月」なのである。

  三笠山の背後から月が出ようが、春日山の背後から月が出ようが、表現者の関心は、そこにはないといえるだろう。表現者の関心は、三笠山の上空に月があるかどうか、という点にあるのである。

とまで氏は言うが,月が出るのを待っているのだから、どこから出ても問題ではないとは言えない。今と違って昔(私が若かった頃でも)の奈良盆地は広大な空間の眺めがあり、四囲の山が丸見えであった。そういうところでは見慣れたあの春日山の稜線から丸い月が出て急に明るくなるところに興味の焦点があろう。それにすでに言ったように平城京から見ると、どこが御蓋山の上かなどということはどうでもよいしわかるものでもない。ただ東方のあの大きな春日山の稜線から月が出て平城京一帯を照らすのである。

 最後に氏は、

  おそらく、春日と三笠の山や野は、平城京生活者にとって平城京の東を代表する土地であったのであろう。

と言う。平城京から東を見たとき、御蓋山はその稜線すらしかとはわからない影の薄い山である。東を代表する山は今の春日山であり、若草山や高円山である。結局和田氏のいう、今の春日山も万葉の当時は今の御蓋山の一部として御蓋山(万葉では三笠山(御笠山))と言ったのだとする以外にないようなのだが、しかし前述のようにその考えは成り立たない。

 とすると、どう考えればいいか。私は今の春日山そのものが三笠山で、今の御蓋山はそれに含まれる無名の小山だったとするしかないと思う。和田氏などは顕註密勘や「東大寺山堺四至図」などを根拠に今の御蓋山は奈良時代から御蓋山で、今の春日山は名前が無く、春日山地全体を春日山と呼んでいただろうとするわけだが、ここに和田氏も見ていた『大和名所図会』⑤に不思議な書き込みがある。春日大宮(かすがおほみや)と題した絵の説明で、左上部の一番高いところの右から、「こうせんすき」「とうろういはや」「ほんくがだけ」とありその左下に「うくいすたき」とある。それらの山の形は明らかに今の春日山であり、左に一段低くかいてあるのは名前の記入はないが若草山である。ところが、それらと春日大社との間に今の御蓋山の記入がない。右頁にそれらしい小山があるが名前の記入はない。前の頁に「春日山若宮」と題する絵があるがそこにも御蓋山らしいものはない。次の頁は「水屋社」と題するもので大きく「三笠山」と記入した山がかかれているが、明らかに今の若草山である。ここにも今の御蓋山はない。この春日大宮の絵にある「ほんくがだけ」というのは間違いなく「本宮が岳」であろう。つまり今の御蓋山の別名である。文章の方では顕註密勘を引用し、また若宮の南にあるとか言っているから、今の御蓋山を言っていることは間違いないが、絵の方では、今の御蓋山など記入すらない。どちらが正しいのかわからないが、絵の説明も迫真性がある。「蟷螂の岩屋」とか「鴬滝」とかはだいたい今も絵のあたりにある(鴬滝は稜線が一つずれている、佐保川の源流だから、花山と芳山との間になければならない、絵図にはうまく記入できなかったようだ)。つまり今の春日山は「本宮が岳」であり、それが今の御蓋山の別名なのだから、本来、今の春日山が三笠山であったのが、それがそのまま、春日大社の創建に従って今の御蓋山に移ったのだろうということである。今の春日山を御蓋山としてあがめていたものが、小山の北麓に社を建てたために、そこから近く見える無名の小山を御蓋山として祭祀がしやすいようにし、本来の御蓋山(今の春日山)は名前すら忘れられていったのだろう。今の御蓋山などというのは春日大社の関係者以外にはほとんど知られていなかったのだろう。『大和名所図会』の絵の方の記入は何か別の伝承が残ったものではないかと思えるのである。

 それにしても、御蓋山は「蓋」の字にこだわり「笠」と書くことはないが、あの小山は「蓋」のようには見えない。ややいびつな円錐である。今の春日山はまさに天蓋に見える。その名前を今の御蓋山は借用したのだろう。それにもう一つ、春日大社の本殿は御蓋山の方を向いていない。北西方向、若草山と春日山との間を向いている。つまり水谷川の源流で、春日の森の一番奥深いところである。春日山の水源をあがめる感じなのである。

 以上要するに万葉歌人たちは、今の春日山を三笠山と言い、今の御蓋山はほとんど知る人もなかった。ところが春日大社関係の人の間では、社殿近くの小山を御蓋山と言うようになった。それが「東大寺山堺四至図」や顕註密勘などに受け継がれていったのだろう。春日大社に参詣する人が増え、そこの神官などからそういう説明を受けるようになると、万葉歌人たちが今の春日山を三笠山と呼んでいたことなどは忘れられていったのだろう。 もう一つの有力な論拠として上野氏もあげている、今の御蓋山は円錐形で笠に似ているという説がある。しかし、今の春日山は相当に奇妙な形で、実物を見たらだれでも印象に残ると思うが、あの天蓋というものによく似ている。今の御蓋山はいわゆるとんがり帽子であって(といっても東西の稜線は明らかに不均衡である)、菅笠などに多い。仏像や天皇の頭上にかかげるのは、蓋、つまり「ふた」であり覆いなのであるから、横に平べったいのである。雨傘やパラソルの形である。その春日山の特異な形は、犬養氏の『万葉の旅(上)』の218頁の写真でよくわかる。注意深く見ると御蓋山が写っているが、相当詳しい人でないとわからないだろう。とにかくこういう形が万葉人が平城京から見た今の春日山(万葉の三笠山である)。しかし残念というか、万葉集の表記では、和田氏も言ったように、三笠か御笠のどちらかであって、御蓋というのはない。集中に蓋の字は、「きぬがさ」「いらか」「ふた」「けだし」「着る」「葺く」、などとしてかなりあるのに。天蓋のようなものも「笠」と表記したとするしかない。

11-2757 大君の御笠に縫へる有間菅ありつつ見れど事なき我妹

これなどは、天蓋であろう。天皇が小さい菅笠を直接頭にかぶったとは思えない。外出などには菅製の天蓋のようなものもあったか。

 その天蓋のような形を枕詞で表現したと思われるのが、今問題にしている赤人の、

3-372 春日を 春日の山の 高座の 御笠の山に 朝さらず 雲居たなびき 貌鳥の 間なくしば鳴く …

3-373 高座の三笠の山に鳴く鳥の止めば繼がるる恋もするかも

であり、

7-1102 大君の御笠の山の帯にせる細谷川の音のさやけさ

8-1554 大君の御笠の山の黄葉は今日の時雨に散りか過ぎなむ

である。赤人のは「高座の」とあるから明らかに天蓋であり、しかも山の形をも表していよう。あとの二首も天蓋だが、山の形をも表しているかどうかは微妙だ。

 なお天蓋とは思えない枕詞もある。

6-987 待ちかてに我がする月は妹が着る三笠の山に隱りてありけり

11-2675 君が着る御笠の山に居る雲の立てば繼がるる恋もするかも

 天蓋なら着るとは成らないだろう。菅笠はいろんな形のがあるので台形の箱のような、今の春日山の形に似た笠を庶民がかぶることもあったと思える(後世の市女笠のような)。あるいはただ言葉だけの連想で実際の形とは関係が無いとも言える。

 次に、

3-372 春日を 春日の山の 高座の 御笠の山に 朝さらず 雲居たなびき…

7-1295 春日なる三笠の山に月の舟出づ風流士の飲む酒杯に影に見えつつ

10-1887 春日なる三笠の山に月も出でぬかも佐紀山に咲ける桜の花の見ゆべく

10-2212 雁がねの寒く鳴きしゆ春日なる三笠の山は色づきにけり

12-3209 春日なる三笠の山に居る雲を出で見るごとに君をしぞ思ふ

6-1047 やすみしし 我が大君の … 春日山 御笠の野辺に

のように「春日の山の 高座の 御笠の山」「春日なる三笠の山」といった表現があり、この春日はどこなのかということがある。四例の「春日なる」は、春日山地一帯や春日野などを広く「春日」と呼んだのであろう。その中の今の春日山(万葉の三笠山で)あろう。それなら、バランスを失することはない。問題は赤人の「春日の山の 高座の 御笠の山」だが、和田氏は、これを同格の「の」でつないだもので春日山でもありまた別名三笠山でもあるとしたわけだが、万葉の時代今の春日山を春日山と呼んだとも思えない(「東大寺山堺四至図」によって和田氏もそういっているのだが)。それに同格としてまで同じ山を二つの名で表現しなければならない必然性もないようである。ということで、これは春日山地全体を春日山と呼び(西宮氏担当全注巻三などもそう言う)、そのなかの一部をなす山を三笠山(今の春日山)と呼んだとすべきだろう。これは6-1047からも言えよう。田辺福麻呂のこの歌は、生駒山の飛ぶ火が岳と対照させて春日山御笠の野辺と言っている。生駒山に対するのが春日山だから、今の春日山では生駒山に対応する形としては小さいので、春日山地全体を春日山と呼び、また飛ぶ火が岳と対させて御笠の野辺と言ったのだから、今の春日山を三笠山とし、その野辺を指したわけである(今の御蓋山を含む一帯が野辺である、周知のように野は小山も含む)。

 万葉には春日山を詠んだ歌がたくさんあるが、すべてを春日山地全体を指したものと見て問題はない。

 最後に、月の出のアプリによって、万葉の三笠山が真東に見える平城京の朱雀門から万葉の三笠山の月の出はどのように見えるか簡単に調べてみると、北島氏の言ったように、春と秋、つまり、3、4月と9、10月に、月例10から15ぐらいの月が、今の春日山の北端から南端までの間から出たり、その上空にあったりする。それ以外は若草山の北とか高円山の南とかに大きくずれ、時間の関係で見られないことが多い。夜、野外にいても暑くも寒くもないときに明るい月が東方の三笠山(今の春日山)あたりに見えるのはロマンチックだろう。

 

 ながながと万葉の三笠山の地理考証をしたが、赤人の春日山の歌にはどう関係するのだろうか。詳しくはわからないが春日野に登ったということは今の御蓋山と春日山との近くあたり(春日大社のあたり)までは行ったのだろう。つまり漠然と春日の山々に行ったのではなく、春日山地の中の天蓋のような三笠山の麓まで行ったということで、象山の歌と同じクロ-ズアップの手法で場所を狭く限定している。しかもその三笠山に「高座の」という枕詞をつけることで天蓋のような面白い山の形をイメージしている。横幅が大きく春日大社の神社林でもあるから、春日の森と言われるほどの豊かな樹林がある。飛鳥の神岳の場合は山上に登ってパノラマのような展望を詠んだが、万葉の三笠山の場合、今も頂上に登る明瞭な道はなく、登る人もいないようだ(御蓋山ははっきりした登山道があり私も登ったがもちろん展望などない)。麓まで行くと木々に阻まれ遠望など出来ないだろう。そういう刺激のない静かな環境で、何となく心も鬱してくる⑥。そこから「カホドリ」の鳴き声とわきあがる雲とを取り出して思い屈した相聞の感情が繰り返し湧いてくると歌う。中西進氏の言う挽歌的な発想というのが思い合わされる⑦。そういう心情にふさわしいのが今の春日山の森であり、それもまた風土の万葉である。それを赤人は見事に歌った。赤人の三笠山は今の春日山である。今の御蓋山のようなあるかないかのような小山では、深い憂愁は湧いてきそうもない。

 

注、

①和田嘉寿男、一九八〇年「三笠の月、春日の月」犬養孝博士古稀記念論集刊行委員会編『万葉・その後 犬養孝博士古稀記念論集』所収、塙書房。

②北島葭江、一九四一年『萬葉集大和地誌』、関西急行鐵道株式會社。

③上野誠、二〇一〇年「春日なる三笠の山に出でし月――平城京の東――」『国語と国文学・平城京の文学』、東京大学国語国文学会。

④奈良県・斉藤美澄編纂、一九七〇年『大和志料(上)』歴史図書社。では「東大寺の古図」として掲載している。一部原図通りでないところがあるが立論上は問題ない。

⑤滕禹言・秋里籬島編纂、一九七一年『大和名所図会』歴史図書社

⑥上山春平編、一九六九年『照葉樹林文化・日本文化の深層』中公新書。では、吉良「照葉樹林帯ではまり楽しくないのですよ…。奈良の奥山でも、かなり太いフジづるが大蛇みたいに下がってますからね。」吉良「…。奈良の奥山…すごみが保存されている。あすこに無数の山ビルがいる…。一番すごいのは若草山に面した北向きの斜面です。」中尾「照葉樹林は憂うつで悲しいですね。」といった発言に春日の森のすごさが出ている。私は春日山へは這入ったことがないが、春日大社あたりでも十分に感じられるし、大峰の池郷川で山ビルに食われたことがあるので、山ビルの不気味さはよく知っている。吉良氏が一番すごいというところは水谷川の源流で、春日大社本殿後ろの方向である。赤人の歌に憂鬱な印象があるのは春日の森の雰囲気をよく現したものと言える。なお赤人の歌に「朝さらず 雲居たなびき 貌鳥の 間なくしば鳴く」とあるのは同じ場所で、貌鳥の声を聞き、棚引く雲を見たのであろう。となるとやはり春日大社あたりでの実体験をもとにしたものと思えるが、毎朝雲が湧くほど湿度の高いところなのだろう。

⑦中西進、二〇〇八年、『中西進著作集23(万葉の長歌(一九八一年教育出版))』四季社。

                      〔2024年4月28(日)成稿〕