風巻景次郎全集第3巻 古代文学の発生、527頁、4800円、北海道大学国文学会編、桜楓社、1969.8.25(79.12.20.3p)
 
(211)  『万葉集』と歌風の変遷
 
       一 緒言
 
 およそ四百年にわたる四千五百余りの『万葉集』の歌を、歌風の変遷という面からみようとするには、その後のどの歌集の場合よりも周到な注意が要ると思う。それは短歌だけでなしに、長歌と旋頭歌と連歌とを含んでいるとか、歌数が非常に多いとかいう点も大いに関係はしているけれども、もっとも重要な点はその時代にある。『万葉集』中でもっとも古い仁徳帝の磐姫皇后の作(巻二・八五−八九)は、『日本書紀』の紀年に従えば西暦四世紀の前半期に属しているはずで在るし、もっとも新しい大伴家持の天平宝字三年(759)正月一日の歌(巻二〇・四五一六)は八世紀の半ばにあるが、この間にはさまれたおよそ四百年間は、文学史的にみてもっとも厄介な問題を含んでいる時期に当たっているからである。それは文学の発生をこの時期において想定しなければならぬということに外ならぬ。だとすれば、『万葉集』の中には文学以前の作品が交っているということになるであろう。われわれは『万葉集』の中で、原始歌謡から創作的または文学的詩歌に変異する時期を捕えなくてはならない。
 しかしまた見方によっては、『万葉集』の歌はすべて文学的詩歌であって、原始歌謡ではないともいえるであろう。なぜならば、今日みられる『万葉集』の巻々は、これまでの研究のほぼ一致しているように、もっとも古いものでも奈良朝の編纂であろうと考えられるし、その材料になっている山上憶良の「類聚歌林」はもとよりとして、(212)「柿本人麻呂歌集」などにしても、それが天武朝以前にまで潮りうるとは考えられないであろうから、資料になった文献もまた同時代のものだといえるわけである。それで、『万葉集』の巻々が編纂された当時、その編纂者はその歌を別にじぶんたちの時代の歌と別のものだなどとは考えていなかったであろう。時代の新古はわきまえていても、質的な相違があるとは思ってもみなかったであろうということが、まず想像できるからである。磐姫皇后《いわのひめのおおきさき》の歌とされているものが原始歌謡――それはただちに民謡といいかえても危険はない――であってもなくても、それを皇后の作として記載した編纂者は、それを特定の個人の作として疑わなかったのであるから、すくなくとも万葉時代にはそれは民謡とか何とか区別立てることもできずその要もなかったわけである。すべては同じ性質の歌に過ぎなかったのである。つまりみな文学的詩歌だと思っていたのである。同じことは『古事記』と『日本書紀』とにみられる二百余りの歌についてもいえるのであって、それらは今日普通に記紀歌謡といわれており、それはそれで不都合はないのであるが、この場合も、記紀の編纂者はそれらの原始歌謡的な歌をいずれも特定個人の作としてなんらの不都合を感ぜずに取扱い得たのであるから、これもまた奈良時代においては、創作歌とか民謡とかと区別だてる意識もなく、その必要もなかったことを示しているものと考えることができるであろう。
 はたしてそうであるとするならば、それは『万葉集』の歌には原始歌謡的な性質がなお多分に残っていたために、奈良時代の人々が、みずからの歌と、大化前代ないし推古前代の歌との区別を意識することができなかったのだということを意味するように思われる。そして、『万葉集』の歌になお民謡の性質が多分に存している点については、すでに高木市之助教授が和歌の古代性について述べられたとき、周到に取上げておられるのであるから(1)、ここではそれに譲って再び考えなおさなくても、論証を回避したことにはならないであろう。
 ところでそれならば、『万葉集』の歌が文学的詩歌でないかというと、そういうことは決していえないのであって、それは立派に文学である。原始歌謡と文学との区別を、自然の一部としてしかみられない生活に直接に支えら(213)れているか、自然に対立する文化的所産に支えられた生活の上に花を開いたかによって立てることが一応できるならば、万葉の歌は立派に文学でなければならない。文学であるところの万葉の歌に民謡的性格がひろく存在しているのであるから、これは原始性が残存しているとも、停滞しているとも、重層しているともいえるであろう。そうした重層停滞のさなかにあって、原始歌謡と文学との区別をそれほど意識しなかった人々によって、奈良時代の個人的創作と一つ並みの取り扱いを受けてしまっている全作品を新古の順位にしたがって、ここから以前は原始歌謡であり、ここから以後は文学であるという風に、歴史的な実年代と照らし合わせていい切ることはとてもできることでない。案外古い時代の作とされるものが非常に新しい歌と見ねばならぬかもしれず、また個人の作者名の明記されている作でも民謡としか受け取れない作もあるかもしれない。とくに時代の古いところになると、そうした点の問題は困難であって、歴史的な実年代に照応させること自体が不可能なことになってくることは十分考えに入れていなければならない。以上のような点に多少くどすぎるくらいにかかわった理由はつまり『万葉集』の歌風の変遷を区切るのに、歴史的に実年代に即して考えることは、多少とも無理であり、時には無意味にさえなり兼ねない、ということをいいたかったために外ならない。
 同じことは、大化ないし天智朝よりも以後の時代、いわばその作品をすべて文学と思いこんで扱ってもほとんど危険を感じないですみそうな時代についても同じように考えられるであろう。たとえば人麻呂の歌の特徴は、斎藤茂吉氏の人麻呂研究以来(2)、混沌とかデイオニゾス的とかという言葉であらわされることが普通になっているが、柿本人麻呂という個人名によって標記された全作品が、大伴家持の全作品とくらべて、なぜ混沌という点で特色づけられるかということは、大切な問題でなければならぬ。個人の創作として標記されているにかかわらず混沌が感じられるのは、その作品が個性的な一個の個人の創造として割り切れないものを持っているからのことで、個人の名が冠せられているにかかわらず、歌は個人のものになっていないということを意味するかも知れないであろう。し(214)かしそうだとするならば、人麻呂という個性が偉大であったとかなかったとかということと混沌ということとはあまり関係のないことで、むしろかれが孤立した個人的主体であるよりも、より同類の中の一員以上の者でないために、つまり個人としての名を持ちながらより類同約であり非個性的であるために、その作品が混沌と呼ばれるような性質を生み出してきたのだということになるであろう。高木教授の表現にしたがえば舎人(3)人麻呂の歌だということになる。人麻呂という孤立した個性を連想させる個人名を取り除いて、天武天皇の舎人部の歌としてみるならば、創作主体と歌の性質との矛盾は綺麗に解消することが感じられるであろう。
 としたところで、そうした現象は人麻呂で完全に消え去るであろうか。もちろん壬申の役をともにした天武天皇とその舎人たちというような関係はその後には存しないであろう。しかしその後には、ただちに単なる個人の抒情が成立したとみることはできない。とともに、天武朝の歌はすべて人麻呂的であったといい得る条件もまた存しない。人麻呂の同じころにも、より集団的でない歌もあり得たであろうし、人麻呂以後にも集団的な歌はなおあり得たであろう。ここでも歴史の実年代によって歌風の変遷を区切ることは、やはり多くの無理を予想させるのである。
 もっぱらそのような無理を避けるための手段として、ここでは発展段階的な見方で区切りを立ててみようと思うのである。
 発展段階的な見方というのは、原始的と思われる形から、もっとも後発的と思われる形まで、万葉歌の歌風の上でいくつかの段階を区切って、その各段階は歴史的に順を追って発生してきたものとみて、それによって歌風の変遷をいちおう整理しようとするものである。その各段階は次の段階が発生すれば前時代の段階として入れ代わりに消滅して行くとは限らないのであって、むしろ後の時期まで重なり合って残存したり、次の段階の歌においても、その特色の一部として溶けこんでいたりするのが普通であって、実年代によって歴史的に区分してしまうことは事実上困難である。だから発展段階的に見ようと思うのであるが、ある段階がもっとも優勢になった時代というもの(215)はおのずから決めることができるのであるから、この見方に立ったとしても、ぜんぜん歴史的な年代から離れ切ってしまうということは起こらないのである。
 そうした見方から、ここでは『万葉集』に含まれた全作品を歌風の変遷の上で次のように整理してみることができると思う。
  1.原始の段階――民謡的
  2.第二の段階――混沌的
  3.第三の段階――開化的
  4.第四の段階――悒情的
   注1 「短歌の古代性」(『近代短歌講座』第一巻、後に岩波書店刊『古文芸の論』に収む)
    2 『柿本人麻呂』(岩波書店刊)の中「第四、柿本人麻呂私見覚書」
    3 「古代文芸と社会」(河出書房『日本文学講座』第一巻、後に岩波書店刊『古文芸の論』に収む)
 
   二 原始の段階――民謡的――
 
  1 君が行《ゆき》日《け》ながくなりぬ山たづね迎へか行かむ待ちにか得たむ(巻二・八五、磐姫皇后、天皇を思ひて作りませる歌四首)
  2 かくばかり恋ひつつあらずは高山の磐根し枕《ま》きて死なましものを(巻二・八六)
  3 在りつつも君をば得たむうち靡く吾が黒髪に霜の置くまでに(巻二・八七)
  4 秋の田の穂の上《へ》上に霧らふ朝霞いづべの方にわが恋やまむ(巻二・八八)
 右の四首はいずれも仁徳帝の磐姫《いわのひめ》皇后の作として巻二の巻頭に載せられており、『万葉集』中で日附のもっとも(216)古いものである。これが磐姫皇后の作ということはどういう記録によったかわからないが、右の中の(1)の歌の後に「右の一首の歌は山上憶良臣の類聚歌林に載す」という、いわゆる左注が附けてある。「類聚歌林」には皇后の作といっていたのである。ところが『古事記』では男浅津間君子宿禰命《おあさづまのわくごのすくねのみこと》すなわち允恭天皇の皇太子木梨軽王《きなしのかるのみこ》が同母妹の軽大郎女《かるのおおいらつめ》またの名は衣通郎女《そとおしのいらつめ》に※[(女/女)+干]《たわ》けて伊予の湯に流されたとき、軽大郎女が恋慕にたえかねて後を追ったときの歌とし、歌も
  5 君が行《ゆき》日《ゆきけ》ながくなりぬ山たづの迎へを行かむ待つには待たじ
とあって、すこし異同がある。それで、巻二の編者は右の四首のあとにつづけて九〇番目にこの歌を載せた上で、注をつけている。その大意を取れば、この歌は『古事記』と「類聚歌林」とで説くところが同じでないし歌の作者も異なっている。それゆえもっとも信ずべきものとして『日本紀』を検するといって、仁徳紀の皇后関係の記事と允恭紀の木梨軽太子関係の記事とを引いた上で、「今案ずるに二代二時この歌を見ざるなり」(原漢文、以下万葉からの引用はすべて仮名交り文とする)、すなわち『日本紀』にはどちらの記事にもこの歌はみえていないと断案を下しているのである。『日本紀』にもみえない二つの異伝が他の記録にみえるというので、編者も不審を残したのであろう。それから(3)の歌についても、この四首の後に八九番の歌として
  6 居|明《あか》して君をば待たむぬば玉のわが黒髪に霜は降るとも(巻二・八九、或本の歌に曰く)
の歌を載せ、「右の一首古歌集中に出づ」という左注を附けている。歌に小異があるが、編者は同じ歌の異伝とみたか類歌と見たかで、ここに並べかかげたのであろう。
 同一の歌についてこうした異伝を伴うということは、今日からみれば考えさせられる問題である。これらの歌のいずれの伝承がより正しかったかは今から決めることは困難なのであって、そのいずれもが伝承として同等の権利を持つといいうるのである。それらの歌に伴った伝承をそのまま信ずるにしても、仁徳朝や允恭朝というよう(217)な時代に、ただちに記録として定着し、その記録が完全に伝えられたのであれば異伝の生じることも考えられないから、異伝があるということ自体、これが文字に固定する前の自由で長い伝承の授受の期間を想像させるのである。そして、記紀の背骨となった皇室の伝承が整理結集されたのが津田左右吉博士の説のように欽明朝ごろであった(1)ということが想定されるならば、すくなくともこの歌群の中の一首が磐姫皇后でなく軽郎女の作であるという『古事記』の伝承が決着してからも、相当の時間を経過してきたといえるわけである。それにもかかわらず、その『古事記』の伝承とは別に磐姫皇后作とする異伝があったとすれば、それについては種々考えなければならぬものがあろう。論証は省くが、つまり歌そのものについてさまざまの伝承が作られたのではなくて、種々なる伝承に同一の有名な歌が採り入れられたのであるとみるべきものと思われる。だとすれば、『古事記』の軽郎女の作というのが後世の附会であるように、磐姫皇后の作とするのも後世の虚構である。ということは、この歌の個人的な歌主は不明であることに外ならない。それについて、思い合わされることがいま一つある。それは『古事記』は軽太子と軽郎女との事件に関して問題の歌も含めて十三の歌を載せているが、それらの歌の一首は志良宜《しらげ》歌、二首は夷振《ひなぶり》の上《あげ》歌、一首は宮人振《みやぴとぷり》、三首は天田振《あまだぷり》、一首は夷振の片下、《かたおろし》二首は読歌《よみうた》と、その歌謡としての名称を記されている。それらの曲名は平安朝に書写された『琴歌譜』にみえるものもあって、曲名であることは確実である。『古事記』はこれらがいずれも歌われる歌曲の歌詞として伝承されたものであることを明らかに伝えているわけである。問題の一首については名を載せていないが、それは軽大郎女の追慕の歌として採っているためであったかもしれぬ。『古事記』の允恭天皇の段の歌の扱い方からみて、この歌一首だけは歌謡でないことを主張しうる余地はないようである。
 そのような歌を含む『万葉集』巻二の巻頭の四首の歌群は、同じ意味において磐姫皇后作とすることに危険が伴うとともに、民謡であったろうということがより自然な判断であるだろう。そして別の立場から、つまり歌風そのも(218)のからみて、これらが民謡であることを証明しておられるものに、すでに澤瀉久孝博士(2)や森本治吉博士(3)の説もある。そのようなわけで、これらの作が民謡であることを否定せねはならぬ理由は今はほとんど存しないと思うのである。
 これら(1)(2)(3)(4)四首が民謡であろうとされるゆえんは、そのいずれもが、特定の個人の、特殊な事情によって限定されていないことである。しばらく訪れてこない相愛の異性、それもおそらく男性を、家に留まった女性が思慕する自然の情だけを表現している。これはほとんどまったく本能的な吸引の情以上をなにも表現していない。したがってこれは甲または乙の個人の歌であるを要しない。たとえ個人が作った歌であるとしても、個人の特殊な事情や心の陰翳はなにもあらわれていない。もしこれで十全の自己表現をなし得たとするならば、その人は個人性を把持していない人間であって、文化人でもないし、まして近代人でもない。自意識の過剰に悩んだ近代の作家がたまたまこういう歌に遭遇して、そのなんらの分裂を感じさせないひと息の表現を「叫び」と感じようとも、それは自由であるが、その人がこのような歌しか作り得なかったとすれば、それで十全の自己表現を得たとは信じえなかったであろう。この歌の率直さ、線の強さは、個人的な意識の分化があり得ない生活に支えられているのである。そうした生活はなお原始的社会の様相にある生活を出ないはずである。
 ただこの四首の短歌を組み合わせてみると、一見連作短歌のような効果を文化人的読者にも与えるであろう。迎えに行こうか待っていようか。いやこんな苦しい思いで恋いつつあるよりは追っていって岩を枕に死んだがましだ。しかしそれもできぬ女の身ゆえ、黒髪に霜のおくまでも待っていよう。ああ秋の田の穂の上をさえぎっている朝霧をどちらの方に払いようもないように、自分の恋の苦しみはどう払いのけたらよいだろう。しかしくり返し読み返していると、この四首を組み合わせて磐姫皇后作に仕立てた伝承者の意図を裏切って、水田農耕にあけ暮れていた原始農村の景況が生き生きとして蘇ってくるであろう。(4)の歌の巧みな譬喩を味わった読者は、逆に(3)の歌もまた農村の歌であることに気がつくであろう。それは皇后が黒髪の白髪となるまでも待とうと、半ば諦め半ば振り切り(219)がたい思慕にさいなまれつつ歌ったものではなくて、こうした門辺にたたずんで待っていよう、夜は更けてわが黒髪の上に霜が置くまでもという、異性への吸引に身を任せている田園の若い女の夜這いの男性を待つ歌である。(3)(4)がそのような古代田園生活における性の吸引の歌であるとするならば、(1)(2)もまた同等の素朴性において読みとることができるであろう。
 古代田園の単純な労働のなかでは、心身を駆り立ててやまない性の衝迫は、人生の夜明けであり、最高の高揚であったに違いなく、すべての農耕儀礼が性的意味を伴ったことも、人類全体の原始的な段階に共通した特徴であった。
  7 隠口《こもりく》の 泊瀬《はつせ》の国に さ結婚《よばひ》に 吾が来れば たな曇り 雪は降り来 さ曇り 雨は降り来 野つ鳥 雉《きぎし》とよみ 家つ鳥 鶏《かけ》も鳴き さ夜は明け この夜は明けぬ 入りて且眠む この戸聞かせ  (三三一〇)
     反 歌
  8 隠口の泊瀬|小国《をぐに》に妻しあれば石は履《ふ》めども猶ぞ来にける(三三一一)
  9 隠口の 長谷《はつせ》小国に 結婚《よばひ》せす 吾がすめろぎよ 奥床に 母は陸《ね》たり 外床《とどこ》に 父は寝たり 起き立たば 母知りぬべし 出で行かは 父知りぬべし ぬばたまの 夜は明け行きぬ ここだくも 念《おも》ふごとならぬ 隠《こも》り嬬《づま》かも(三三一二)
     反 歌
  10 川の瀬の石ふみ渡りぬばたまの黒馬《くろま》の来夜《くよ》は常にあらぬかも(三三一三)
 右の四首は巻十三の中の、問答と称する部類の中にみられる歌である。この部類の歌はすべて間と答とを具備しているのではないが、男女いずれかがその情を相手に呼びかけている形のもので、問答というのはその意味におい(220)て名づけられたのであろう。右の例はその中で問と答とを兼ね備えた例である。
 呼びかけは一般の読者、ただしくば鑑賞者に向けてなされているのでなく、ある特定の相手に向けてなされている。その意味において、呼びかける者と呼びかけられる者とは、ともにその歌を現実に歌いかけた者または歌いかけられた者ではなく、創作に当たって予定されたある男と女とである。いわば作者はある男と女との問答として虚構したのであって、その歌を呼びかけ合っている男女はやはり歌と同様に作者によって仕組まれた虚構の、あるいは架空の存在である。その間答はそれゆえだれかによって謡われるとき、劇中の人物の問答のような形で聞き手に伝えられる。これは前の例に較べると相当複雑な、手のこんだものである。単なる原始歌謡というよりは、劇的な科白に伴った歌であったかも知れない。
 しかしこれがある特定の個人の特殊な意識ないしは事件を歌うところまできていないことは明白であって、一般的な夜這いの主人公である男性と女性とのそれぞれの状況を表現しているに過ぎない。だから発想の法式がどのように手がこんでいたにしても、そこに表現されたものは前の磐姫皇后作とされた(1)(2)(3)(4)の短歌の場合となんら変わるところのないものである。これらの歌はその形の複雑さにもかかわらず、このような作品を創作した者も、これを味わった者も、ともに原始歌謡の生産された、その同じ社会に属していたことを指示しているものとして解すべきである。
 この歌の発想が、『古事記』上巻にある大国主神《おおくにぬしのかみ》と沼河日売《ぬなかわひめ》との問答の歌とまったく同じであることも注意してよいであろう。それは五首からなる問答であるが、そのうちの二つだけを採って、比較のために例示だけして置こう。
 大国主が高志《こし》の沼河日売《ぬなかわひめ》を婚《よば》いに訪れたときの歌は、
  11 八千矛《やちほこ》の 神の命は 八島国 妻|求《ま》ぎかねて 遠々し 高志の国に 賢女《さかしめ》を ありと聞かして 麗女《くはしめ》(221)を ありと聞こして さ婚《よば》ひに あり立たし 婚ひに あり通はせ 大刀が緒も 未だ解かずて おすひをも 未だ解かね 嬢子《をとめ》の 寝《な》すや板戸を 押《お》そぶらひ 吾《あ》が立たせれば 引こづらひ 吾が立たせれば 青山に 〓《ぬえ》は鳴きぬ さ野つ鳥 雉《きぎし》は響《とよ》む 庭つ鳥 鶏《かけ》は鳴く 慨《うれ》たくも 鳴くなる鳥か この鳥も打ち止《や》めこせね いしたふや 天馳使《あまはせづかひ》 事の 語り言《ごと》も こをば
それに答える沼河日売の二つの歌の一つは、
  12 青山に 日が隠らば ぬば玉の 夜は出でなむ 朝日の 咲《ゑ》み栄《さか》えきて 栲鋼《たくづぬ》の 白き腕《ただむき》 沫雪の 弱《わか》やる胸を そ叩き 叩きまながり ま玉手 玉手差し纏《ま》き 股長《ももなが》に 寝《し》は宿《な》さむを あやにな恋ひきこし 八千矛の 神の命 事の 語り言も こをば
それで、その夜は逢うことなく、その翌夜大国主は思いをとげたことになっている。他の歌は略すが、この問答歌の、ことに(11)の歌の何句かは、(7)の歌の何句かと類似のものであるばかりでなく、これらの五首の問答歌の後に『古事記』の筆者は「これを神語《かむがたり》と謂ふ」と注しているのであるが、それは雄略天皇の条の長歌の注記に天語歌《あまがたりうた》とあるのと思い合わせると神語歌《かむがたりうた》とあるべきものの歌が脱落したか、省略されたかに違いない。そして、それらの名で呼ばれる歌の終わりはだいたい「ことの語り言もこをば」で終わるのが定例となっているのであって、その句の解は今日もなお決定はし兼ねるものであるが、だいたいにおいて伝承した歌謡である、語部《かたりべ》の伝えた歌であるという意味であることは誤りがないであろうから、けっきょく歌自身がそれを宣言しているわけで、(1)(2)(3)(4)の歌とはまったく別の種類に属するものであることは確実であるが、しかし個性的な抒情詩といったものであり得ないことも疑いのないものである。(11)(12)がそのような歌であるとすれば、それと類縁の関係にある(7)(8)(9)(10)の問答歌もまた、たとえ「ことの語り言もこをば」の末尾句を持っていないにしたところで、なんらか似通った伝承歌謡であったことは認めざるを得ないであろう。そうした例は外にも『日本書紀』継体紀七年九月の条に、安閑天皇がまだ勾大(222)兄皇子《まがりのおいねのみこ》といわれたとき、春日皇女《かすがのひめみこ》を聘して、月夜に清談して天の暁《あ》けることを知らず、たちまち一夜の感懐を言に形《あらわ》して口ずから唱われたとある歌が、まったく同じ手の伝承歌謡だったに違いないと思われるものである。しかしそのときの春日皇女の唱和は問答としてはふさわしくないもので、種々問題もあるからここには省略する。とにかくに、このような歌が原始演劇になんらかの関係を持ったろうというような推測も、それとして成り立つように思う(4)。
 いま一つ道行の原始型とみられるものを注意しておこう。その一つ
  133 百城《ももき》とし 美濃の国の 高北の 八十隣《くくり》の宮に 日向《ひむかひ》に 行きなむ宮を ありとききて 吾が通道《かよひぢ》の 於吾蘇《おきそ》山 美濃の山 靡けと 人は踏めども 斯く依れと 人は衝《つ》けども 意《こころ》なき山の 於吉蘇《おきそ》山 美濃の山(三二四二)
巻十三にとくに多く集められた道行の長歌は、珍しいものであるが、その類型はやはり記紀歌謡にもみられる。『日本書紀』巻十六武烈天皇前紀に、その太子であったとき、聘《め》そうとした影媛《かげひめ》が、すでに平群真鳥《へぐりのまとり》臣の子の鮪《しび》の※[(女/女)+干]《たわく》るところとなっていたのを知って、ついに鮪を仆すにいたるまでの経緯が記されている。その中に影媛が鮪の殺されるところへ逐って行って、すでに殺されたのをみて、泣き悲しんで歌った歌というのが載せてある。それは
  14 石上《いそのかみ》 布留《ふる》を過ぎて こも枕《まくら》 高橋過ぎ 物多《ものさは》に 大宅《おほやけ》過ぎ 春日《はるひ》 春日《かすが》を過ぎ 嬬隠《つまごも》る 小佐保《をさほ》を過ぎ 玉笥《たまけ》には 飯《いひ》さへ盛り 玉〓《たまもひ》に 水さへ盛り 泣き沾《そぼ》ち 行くも 影媛あはれ
このような道行は相磯貞三氏も説かれるように(5)、後世『梁塵秘抄』の今様物尽が発達し、軍記物における各種の道行、宴曲の海道下り、各種の中世紀行文の海道下り、それから謡曲のはじまりにほとんど例外のない道行、さらに浄瑠璃の道行と発展して行くことはたしかであるが、それはしばらく措いて、道行がそのような発展の仕方をしたところにも、その原始型が民謡であったことを暗示するものがあろう。それは古代の交通路線の地名をつづるのであるから、大方は旅行者のだれでもの体験に過ぎず、現代詩の中に伍した鉄道唱歌などよりもはるかに文学から遠(223)い原始的なものであった。影媛が愛人の死屍を前にしてこのような発想をしたとすれば、それこそ原始古代的な思惟または感情の表現と言わねはならず、またその歌がまったく別のところから生まれたものであったとしても、それを不思議とせずして影媛の悲嘆の物語に附会しえた人々もまた、その連想や感情の上において、ずいぶん今日の人間とかけはなれた世界にあったとしなければならぬ。そして、このような発想の技法は、歌そのものが次第に個人の生活に密接なものとなって行くにつれ、当然不適当なものとして振り捨てられて行ったであろう。すでに
  15 味酒《うまざけ》 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際《ま》に い隠るまで 道の隈《くま》 い積るまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放《さ》けむ山を 情《こころ》なく 雲の 隠さふべしや(一七、額田王近江国に下りし時、作れる歌)
この歌は道行ではない。まして巻二の一三一番、柿本人麻呂が石見国から妻に別れて上りくるときの長歌に「玉藻なす寄り寝し妹を、露霜のおきてし来れば、この道の八十隈《やそくま》毎に、万《よろづ》たびかへり見すれど、いや遠に里は放りぬ、いや高に山も越え来ぬ、夏草の思ひ萎《しな》えて偲《しの》ぶらむ、妹が門見む靡けこの山」と歌うところは、もちろん道行ではない。いずれも原始の道行の発想に筋を引いているようにみえるかもしれぬけれど、表現の関心の焦点はすでに隔たりきた旅の出発点に向けられている。そこには旅に次々とうつり行く土地そのものへの関心はみられない。移りゆくものへのそのような童心ともみられる吸引は、歌を詠嘆の文学として成立させるような主体の発生するところでは、おのずから発展変化してしまわねばならない。
 右に原始段階を指示する民謡的な三種類を挙げてみたが、もとよりこれで全部を尽くしたとはいえないし、そのようなつもりもまったくない。しかし、これを強いて歌風の変遷という点に立って、理窟をつけようとするならば、理窟のつけられなくもない、ある事実には触れ得たのではないかと思う。それは、『万葉集』の盛期の歌が、そこから生長してきたであろうところの原初的な形態である。この形態は年代的にいってもっとも早い時代を支配した(224)ことは確かであって、そこから次の段階が発生してきたのであるが、しかし次の段階が成立してからも、社会のある層には、なおそのまま存続したであろうし、さらに次の段階の歌の中に溶融して、その歌風を規定もしたとみるべきであろう。さてこの第一段階の背後には大化前代の氏姓制度の社会があったであろう。そして大化改新は氏姓制度そのものに対しては直接の関心を示さなかったのであるから(6)、氏姓制度社会の崩壊はきわめて緩慢で、平安時代の中期に及ぶころまでにわたっていた(7)。歴史の表面にきららかに浮かび出たところの、政治機構の変革や、英雄的な壬申の乱や、権力者たちの闘争や、政治面での浮沈や、そうした目まぐるしい動向は、もちろん氏姓制度を崩壊させる因となり果となりあったものではあったが、崩壊過程そのものは、もっと地下水脈のように静かに、徐々に進行していったのである。それと歩を合わせて、万葉歌の原初的形態もまた、残存しうる地盤を保有していたわけである。そして万葉歌の種々な歌風は、新しい時代条件のもとに発生して行く一方に、この原初の形態をながく歌自体の中に溶解存続させることになって、そこに独自の古代的な特色を生ぜしめたとともに、その残存の程度のいかんということも、また次の段階における歌風の微妙な相違を生ぜしめる一つの条件となったのである。
 右の(1)(2)(3)(4)のような作は、あまり手をかけなくても民謡であることがうかがわれた。そこでは個人としての作者名が記されているにかかわらず、個人の創作でなければならぬどのような性質もまだ現われてはいなかった。そういう点では作者の不明な(7)(8)(9)(10)や(13)などのような長歌においても同じことである。民謡的段階における歌風は一言でいえば素朴ということであり、非個性的ということである。それは別言すれば情感の表現、心理の陰翳の表現でなく、状況の直叙である。それは心理的抒情には至らないものであって、原始芸術に共通する素朴な写実主義である(8)。その中で(1)(2)(3)などの方は正述心緒の歌、(4)は寄物陳思の原型となるとみられ、(7)(9)(13)などは叙事的であって、本来抒情詩に発展してゆくべきものでなく、むしろ集団の行事、祭式などに附随した歌であり、語部または祭祀官によって伝えられることが正統であるような類のものである。(7)(8)(9)(10)と同型の大国主や沼河日売やの長歌(225)が『古事記』で神語《かむがたり》――これは前に触れたように神語歌とあるべきらしい――と呼ばれていることとも思い合わすことができる。(『古事記』雄略天皇の条の三重《みえ》の采女《うねめ》と皇后と天皇との長歌三首は天語歌となっていて、形式はよく似ている。また(1)の異伝としての(5)の歌を『古事記』に載せてあるすぐ次の長歌二首は読歌《よみうた》と名づけられていて、その類型は『万葉集』でも第二段階以後の作に出てくるが、そういう風に神語歌、天語歌、読歌などと呼ばれていた点からも、長歌系は抒情詩に発展すべきものでなくて、祝詞《のりと》や誄やに縁を引いて行くはずのものであった。)長歌が自由な抒情詩として滅びてゆくことは、発想の上からいっても、その管理された性質の上からいっても当然であった。
    注1 『古事記及び日本書紀の新研究』
     2 『万葉集講話』(出来島書店刊)
     3 『文学の発生と伝統』(文化書院刊)
     4 相磯貞三氏『記紀歌謡新解』三四−三五頁。
     5 『記紀歌謡新解』五四一頁。
     6 井上光貞氏『日本古代史の諸問題』
     7 阿部武彦氏「氏族制度の崩壊と氏族の物語」(『国語国文研究』第2号・昭和二六年二月)
     8 グローセ『芸術の始源』(岩波文庫)
 
       三 第二の段階――混沌的――
 
 第二段階を代表するのは柿本人麻呂の歌である。それは長歌においても短歌においても言うことができる。ここには明らかに個人的発想が成立する。それは『詩経』の大序に「詩は志を言うものである」とあるように言志のわざが生まれたことである。志というのは同じ序に「心に在るのを志という」とも言っておるし、『礼記』の少儀の(226)注には「志は私意である」ともいっておって、言志のわざはつまり個人的な発想の詩ということである。これを万葉時代に移してみると、詩賦のわざは天智天皇朝にはじまったとされていて、大友皇子や大津皇子は漢詩文にとくに秀でていたらしいが、この漢文学の影響は、民謡的な状況から、つまり前文学的な状況から歌を文学的作品に高めるためには忘れることのできないものであったと思う。
 大化改新の断行者であった中大兄皇子、すなわち後の天智天皇の作が
 
  1 香具山《かぐやま》は 畝火《うねび》を愛《を》しと 耳梨《みみなし》と 相争ひき 神代より かくなるらし 古昔《いにしへ》も 然《しか》なれこそ 現身《うつせみ》
  も 嬬《つま》を 争ふらしき(一三、中大兄三山の歌一首)
     反 歌
  2 香具山と耳梨山と闘《あ》ひし時立ちて見に来《こ》し印南《いなみ》国原(一四)
  3 渡津海《わたつみ》の豊旗雲に入日さし今夜《こよひ》の月夜《つくよ》あきらけくこそ(一五)
というのであって、おそらく皇弟|大海人《おおあまの》皇子、後の天武天皇との額田女王《ぬかたのおおきみ》に絡む具体的な対立を暗示しているに違いないにかかわらず、(1)(2)の想の叙し方は、古伝説にたよることによって、実にたどたどしく「現身も嬬を争ふらしき」という七七の二句に辿りついているのをみると、詩としての段階はまだいくらも第一の段階から抜け出ていないことを感じるのである。(3)の歌は左注がついていて、「今案ずるに反歌に似ず。但し旧本この歌を以って反歌に載す。故《かれ》、今猶この次に載す」とあるから、左注の注者はすくなくともこれを反歌とはみていなかったのである。それに最後の一句「あきらけくこそ」は種々の訓が考えられて、今に定訓を得ないのであるから、この歌についての論は避くべきであるが、この自然現象把握のリアリズムは(1)(2)の創作主体にとって、なんら不自然でも不可能でもないという事だけは言えるであろう。対象として自然の把握は文学以前の民謡的段階においても十分あり得る原始的能力であることは、前段にすでに触れた通りだからである。
(22) そして中大兄皇子の協力者であった藤原鎌足の歌も、
  3 吾はもや安見児《やすみこ》得たり皆人の得がてにすとふ安見児得たり(九五)
というのであって、ここにはすでに個人的な特殊な場合における感情の高揚が捕えられているけれども、その表現は事実の直叙、しかも息の短い繰り返しであって、まことに素朴な無技巧の表現であることが感じられる。しかしその同時代にも、もっと発達した表現の段階もあったことは確実で、問題の額田女王の
  4 君待つと吾が恋ひをれば吾が宿の簾《すだれ》うごかし秋の風吹く (四八八、額田王、近江天皇を思ひて作れる歌一首)
や、同じ額田女王の皇太弟大海人皇子(天武)との有名な贈答、
  5 あかねさす柴野行き標《しめ》野行き野守は見ずや君が袖振る(二〇)
  6 柴草《むらさき》のにほへる妹を憎くあらは人嬬《ひとづま》ゆゑに君《われ》恋ひめやも(二一)
などになると、短歌文学としての独自の歌境はよほど立派に成熟してきていると言えよう。それであるからまして天武持統朝を中心とした時代に焦点を合わせるならば、そうした個人的発想がいっそう円熟してきていることは、いちおう図式的にも言いうるはずのところであるが、それにもかかわらず、大化以後天武持統朝にかけての歴史的時期に第二段階として混沌的という一段階を考えようとするのは、なんとしても柿本人麻呂の存在が、万葉全歌風の上において、他のものと別箇に立てて考えずにはおかれない独自のものだからに外ならない。
 柿本人麻呂の歌風の特色は、斎藤茂吉氏この方、カオス的とかデイオニゾス的とかの評言が一般に通りのよいものになっているが、それをそのままに、ここでも混沌的という言葉で使うことにする。人麻呂の作では長歌の率がどの作家よりも多く、また長大な作品が多い。そのことが一つの特色となっている。その中でも制作年月の明確な、そして力作と見なされるものは多くは従駕の作、もしくは皇族の挽歌である。
(228)  7 やすみしし 吾|大王《おほきみ》 神ながら 神さびせすと 芳野川《よしのがは》 たぎつ河内《かふち》に 高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をすれば たたなはる 青垣山 山祇《やまつみ》の まつる御調《みつぎ》と 春べは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉《もみぢ》かざせり 逝《ゆ》き副《そ》ふ 川の神も 大御食《おほみけ》に 仕へまつると 上つ瀬に 鵜川を立て 下つ瀬に 小網《さで》さし渡し 山川も 依りてつかふる 神の御代かも(三八)
     反 歌
  8 山川もよりてつかふる神《かむ》ながらたぎつ河内に船出せすかも(三九)
吉野宮の従駕の長歌二首の中の二つ目の歌である。『日本紀』を検すると、持統天皇三年正月と八月、四年二月と五月、五年正月と四月に吉野に幸しているが、いずれの月に駕に従って作ったか、いまだ詳らかに知るをえないと左注が附してある。従駕の作であるから、『懐風藻』に多く取られている従駕の詩と同じょうに、帝徳を讃えるものであることは推定できるが、天皇が高殿の上に登って、現つ神として国見をされると、山の祇《かみ》がこれに仕え奉る御調物《みつぎもの》として、山々は春は花をかざし、秋は黄葉をかざしている。川の神もこれが召し上り物に奉仕しようとして、上つ瀬に鵜川を立て、下つ瀬には網を渡して、山の祇《かみ》川の神がともに奉仕している現神の代の姿よ、という発想は、完全に天皇を神として歌っているのであって、それは譬喩的表現ではなく、完全に直叙の体である。
  9 皇《おほきみ》は神にしませは天雲の雷《いかづち》の上にいほりせるかも(二三五)
  10 皇は神にしませは真木の立つあら山中に海をなすかも(二四一)
右二首の短歌のうち、(9)は天皇、(10)は長皇子に対する歌であるが、どれも譬喩歌ではない。天皇または皇族に対する人麻呂の関係は、人間として神に対する関係であって、どうしても現つ神でなければならない。譬喩でなく直叙でもってこのような表現をなしているのは、信じて歌っているのであって、決してためにするのでなく、御用詩人として美辞を連ねているのでもない。もしこれがかつて長谷川如是閑氏のいわれたと同じ意味において宮廷御用詩人(229)として作ったのであってみれば、というのは御用をつとめるためには時には心にもない媚び諂いも言ってのけたのであるならば、いずれかにこの作者はもっと才はじけた、個人性を覗かせるはずである。しかしそのような点が毫もも存しない。もっと素朴である。まさに辞義通りかれにおいて天皇に対する関係は、神と人との関係においてつかまれていると言うことができる。われわれは、そのような関係を、古代の英雄時代のものとしてのみ教えられている。とするならば、この場合、神である天皇は英雄であり、人である人麻呂は人間であったということになる。その人間は奴隷でもないし、反感を持ちつつ屈従を余儀なくされた被征服者でもない。それは具体的にいえば柿本氏の氏族員の一人であるが、天皇に対して、じぶんよりも高い、超人間的権威を感じて、みずから進んでこれを神と感じ、喜んで、また安んじて服属しているのである。天皇を神としているのもこの人間であり、みずからを人間としているのもこの人間である。超人間的なものを神として把握する仕方の背後には、もっと古い、精霊崇拝や祖先神崇拝やの段階における自然的な力を呪的なものとして捕える思念や崇拝やがはびこっており、そうした神観念における原始的段階は、この時代においても十分に生きておった。魂《たま》や物《もの》や主《ぬし》やに対する信仰は文献の上に明らかである。しかしそうした信仰の特色は、人間自体もまた自然の一部として、そうした魂を宿してもおり、物や主やの子孫でもあり得る。そうした幽暗な背景の前に浮かび出ている神と人との関係は、もっとはっきりと人間的であって、清明であり、暗い原始の思惟の霧の中から抜け出ている。神〔傍点〕として把握する仕方に前の段階の思惟の法式が残っていながら、神として把握されたものは人間の上に実証された優秀性に外ならなかったのであり、その認識は十分に原始的段階を乗り超えている。人麻呂たちが、そのような実証を天皇の上に持ち得た時というものは、壬申の乱を措いては考えられない。そこで、人麻呂が天皇や皇族を神としてたじろがず疑わず、はり切った力で歌い得たのは壬申の乱に大海人《おほあまの》皇子の英雄的行動を可能にし、歴史の上に天武朝を現実にあらしめたその舎人《とねり》たちの一人であったからに外ならぬと言い得るであろう。持統三年四月、日並皇子《ひなみしのみこ》の殯宮の時、その舎人らの慟傷して作った(230)二十三首は、ここには一々例示しないが、そうした存亡の秋をともに凌いできた腹心の者が、主君を喪った慟哭を伝えているものとして取るとき、もっともよく受取ることができるであろう。その同じ時の人麻呂の挽歌はすこし長大であるけれども次に掲げよう。
  11 天地の 初《はじめ》の時し ひさかたの 天《あめ》の河原に 八百万《やほよろず》 千万神《ちよろずがみ》の 神集《かむつど》ひ 集ひ坐《いま》して 神分《かむあが》ち 分ちし時に 天照らす 日〓尊《ひるめのみこと》 天《あめ》をば 知らしめすと 葦原の 瑞穂の国を 天地の 依り合ひの極《きはみ》 知ろしめす 神の命と 天雲の 八重かき別きて 神下《かむくだ》し 坐《いま》せまつりし 高照らす 日の皇子《みこ》は 飛鳥《あすか》の 浄《きよみ》の宮《みや》に 神ながら 太敷きまして 天皇《すめろぎ》の 敷きます国と 天《あま》の原 岩戸を開き 神上《かむあが》り 上り坐しぬ わが大王《おほきみ》 皇子《みこ》の命の 天の下 知ろしめしせば 春花の 貴《たふと》からむと 望月《もちづき》の 満《たた》はしけむと 天《あめ》の下 四方の人の 大船《おほふね》の 思ひ憑《たの》みて 天つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか 由縁《つれ》もなき 真弓《まゆみ》の岡《をか》に 宮柱 太敷きまし 御殿《みあらか》を 高知りまして 朝ごとに 御言《みこと》問《と》はさず 日月の 数多《まね》くなりぬれ そこ故に 皇子の宮人 行《ゆくへ》方知らずも(一六七)
     反 歌 二首
  12 ひさかたの天《あめ》見るごとく仰ぎ見し皇子《みこ》の御門《みかど》の荒れまく惜しも(一六八)
  13 あかねさす日は照らせれどぬば玉の夜渡る月の隠《かく》らく惜しも(一六九)
前に触れた舎人等の二十三首の中の三首、
  14 高光るわが日の皇子《みこ》の坐《いま》しせば島の御門《みかど》は荒れざらましを(一七三)
  15 吾が御門千代とことはに栄えむと念《おも》ひてありし吾し悲しも(一八三)
  16 東《ひむがし》の滝《たき》の御門に侍《さもら》へど昨日も今日も召すこともなし(一八四)
 かりにこの三首を取って人麻呂の(12)(13)と較べあわせてみる。その沈痛な格調は人麻呂の作に比肩することができ(231)るとともに、(12)ことに(13)の作よりも、もっと日並皇子の滝の宮に側近く常侍した者の個人的発想であることをリアルに現わし得ている。その点人麻呂の(11)などはとくに汎人間的で、かれは日並皇子の舎人ではなかったであろうことが感じられるように思う。しかしまた、次の点も見逃がすことはできない。「天地のはじめの天の河原の神々の会議の結果、天照大神は天を知ろしめし、また地の涯までも瑞穂の国を知ろしめす神の命として天降された日の皇子(天武天皇)は、飛鳥《あすか》の浄原《きよみはら》の宮《みや》に現つみ神とおられて、さて天の岩戸を押し開いて神として天に上りました。しかし、わが大王、皇子《みこ》の命(日並皇子)が天下の政を取られるからは、心安んじて憑《たの》み仰いでいると、なんとお考えになったか、真弓の岡に御殿を築かれて、御言葉をかけられることもなく日月が重なってしまった」という言い方には、皇太子日並皇子の薨去に触れるにも、まず父帝の天武天皇から歌い出さずにおけなかった作者自身の立場がうかがえると同時に、天武天皇に直結していたらしい人麻呂の調子は日並皇子だけを直接の主と仰いだ舎人たちよりも、より広大に天武持統朝の皇族を、天武天皇のゆかりの君たちであるゆえに敬愛しているような感じが受け取れるようである。そこに(12)(13)の大らかな感じと、(14)(15)(16)のより皇子だけに寄り添った歌い方との差が生じているように思う。
 しかしこの特色はいま一つ、もっと注意すべきことを表示しているように思われる。『日本書紀』巻三十の持統紀元年正月に皇太子(日並皇子)が公卿百寮を率て天武天皇の殯宮に赴き慟哭し、布勢朝臣|御主人《みうし》が誄《しのびこと》し奉ったとみえている。この誄《るい》というのは『墨子』にも「誄は死人の志をいうことである」とみえるように、死者生前の功徳をほめつらねること、またはその辞をさすのであるが、右の『日本紀』の記事のあとに「礼也《ヰヤナリ》」とあって、それは喪葬の儀礼であったのである。次いで三月にも「丹比真人《たぢひのまひと》麻呂誄v之、礼也」とあり、五月また隼人《はやと》や大隅・阿多《あた》の魁帥《いさお》たちが衆を率て誄し、二年三月には藤原朝臣大嶋が誄し、さらに十一月になってまた皇太子は公卿百寮および諸蕃の賓客を率て、殯宮に赴いて慟哭し、供え物を捧げ、舞を奏している。そのとき、諸臣はおのおのじぶんの先祖《おや》等(232)の仕えまつれる状《さま》を挙げて誄し、日をかえて蝦夷百九十余人が誄している。さらに日をかえてまた布勢朝臣御主人が大伴宿禰|御行《みゆき》とたがいに進んで誄し、当麻真人智徳が皇祖等の騰極《ひつぎの》次第を誄し奉り、終わって大内陵に葬った。これでみると、誄は陵に葬るまでの、殯宮のときの儀礼であることがわかるし、各氏族や部族や外蕃やがみな奉るものであることがわかる。そしてその内容からいうと、最後には、代表者によって「皇祖等之騰極次第」が誄せられるが、その前には諸臣が銘々その先祖《おや》等の仕えまつれる状を挙げて誄しているのである。君臣関係における哀悼の表現がそのような形を取るということは、いかにも氏姓制下にあった各氏族が、朝廷の祭政のことを、世襲的に分掌していた様を偲ばせていると思うのである。「皇祖等之騰極次第」を誄するのが大体どのようなものであったかについては、すでに倉野憲司博士の研究もあるからここには略するが(1)、諸臣が銘々その先祖《おや》等の仕えまつれる状を挙げて誄したというのはどういうものであったろうか。そこで柿本人麻呂の挽歌をみると、それは日並皇子だけでなく、高市《たけち》皇子の殯宮の時、明日香皇女の殯宮の時のものもあって、いずれも皇子皇女の生前の功徳を挙げて称讃し、その薨逝を悼んで、後に残った者の途方にくれる状をうたっている。その功徳をたたえる部分で、とくに高市皇子の場合などは壬申の乱の総司令官としての功績を眼に見るように叙しているが、日並皇子の場合と同じにそれが父帝天武天皇の御依嘱によることから歌い出している。かれの挽歌は皇子皇女のものであって、天武・持統両帝の場合のものではないが、しかしそれがいずれも殯宮の場合のものであることを考えると、それが誄せられたものであることはやはり天皇の場合と同じであったに違いない。とすれば、これから逆にまた、天武天皇殯宮の際、諸臣のささげた誄についても、ほぼ想像がつくのではないか。人麻呂は日並・高市両皇子の舎人であったかどうかは分明でないが、すくなくもその人の身になって、舎人として代作しているらしくあるから、これは天皇と諸臣との間のものと同一とはいえないまでも、それによって天皇とその舎人との間のものも想像することは容易なのではなかろうか。そして、さらに、舎人ならずとも、諸氏族の天皇に捧げた誄の大体を想像することもできるのではないであろうか。け(233)っきょくそのようなわけで、殯宮の際の誄のもっとも具体的な例をこの人麻呂の作にみることができるということになるであろう。それは神と仰ぐ君への人間としての関心である。ただし個人的人間としてでなく、汎人間的な、同身分の者の類同の関心である。
 それとともに、いま一つ言いたいことは、かれの長歌の具体的な作例は、実は抒情詩としての発想だけにもとづくものでなく、ある儀礼的用途の目的に応ずるものとして作られたのであって、したがって第一段階における(7)(8)(9)(10)や(13)(14)のような長歌の例と、なお密接な関係を持っており、それはその全体の形の上だけでなく、素朴なリアリズムの手法の上にも感じられる点である。明日香皇女の殯宮の歌に、「飛ぶ鳥の明日香《あすか》の河の、上《かみ》つ瀬に石橋《いはばし》渡し、下つ瀬に打橋渡す」と歌い出す仕方は、巻十三の三二六三の歌、『古事記』を検すれば木梨軽《きなしのかるの》太子の作だと左注のついている歌に「隠国《こもりく》の泊瀬《ほつせ》の河の、上つ瀬にい杭《くひ》を打ち、下つ瀬に真杭を打ち」と歌い出す仕方にまったく同じであり、そしてこの歌は『古事記』では読歌《よみうた》と名づけられているものであるが、読歌とはなんであろう。後世の『琴歌譜』にも余美《よみ》歌というのがあって、形はこれに類している。それはあやのある曲節でなしに、ただ読み上げるようにしてうたったものかといわれている。誄を『曰本紀』が、「しのびごと〔五字傍点〕したてまつる」と訓じているところをみると、誄の発声法は「うたふ〔三字傍点〕」という曲節ある発声には縁がなかったに違いない。こうした点を考えると、語句の形の上の類似だけでなく、それは同時にまた使用法の上におけるある類似の方向さえも暗示しているように思われる。それらの点を合わせ考えるならば、人麻呂の挽歌は外的な特徴の上からいってもまだ十分に抒情詩ではあり得ない。より素朴な、抒情詩以前の、または抒情詩以外の多くの条件に制扼されているわけである。それにもかかわらず高市皇子の挽歌をはじめ、その妻の死を悼み(巻二・二〇七)、吉備津采女《きびつのうねめ》の死を悼んだ歌(巻二・二一七)にいたるまで、なにか雄大で慟哭に似た感情の逞しい流露が感じられるのは、どうしたことであろう。それは自然ではなしに人間のものとしての感動が、第一次的な表現の対象には置かれないで、まだ儀礼的目的が優先して(234)いるにかかわらず、その感動が素朴で坩堝を出たばかりのように新鮮であるために、その抒情詩的ならぬ表現の組織を洩れて発散しているのだということができよう。そしてこのような詩歌の上での状況こそ、混沌的といわれるものに外ならぬ。それは人麻呂に代表されるような身分と歴史的運命とを兼ね備えた者でなければそれの創作主体とはなり得なかったところのものである。
   注1 倉野憲司氏『古事記序文註釈』(昭和二十五年謄写版刊)一一二頁−一二五頁。
 
       四 第三の段階――開化的――
 
 この段階は奈良朝期の初期、天平にかかるころまでに支配的であった歌風であって、もちろんその傾向は人麻呂の同時代人の上にもすでに現われていたし、その後にも尾を引いている。しかし、それが支配的だった歴史的な時期としてはちょうどそのころを考えることができる。
 それは大伴旅人・山上憶良・山部赤人たちに代表される歌風である。それらの歌風を開化的と名づけたのは単なる思いつきではない。この段階の歌風は当時としての文明開化〔四字傍点〕が持ちきたしたものであって、大陸文化の導入ということを抜きにしては決して考えることができないからである。
 大化改新にはじまる新時代が、政府の新政綱の遂行期に外ならなかった天武持統朝こそ、明治維新以後の文明開化の声の高かった時代に当たるだろうという見方もできるであろうけれども、その新時代的な建設が政治的な革新力に引かれていた時代には、民衆の生活意識や文化の面ではまだ新体制に順応した新しい意識や文化は形成されてこないのであって、とくに文学の面で新時代を感じさせる新風の現われたのは、維新後二十年を経過した時のことであった。同じ政治的革新と文学的革新との間の時間的齟齬は、万葉の時代にも同じようにみられると思う。
(235) 『日本紀』の天武十三年の条をみると、古い姓を整理する詔が出て、真人・朝臣・宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置の八つに統合されることになった。これは天武朝の八色改姓《はつしきかいせい》として社会史的に著明な事件であった。元来大化改新は中央集権制の確立のために経済体制を改めることを眼目にしていたようなところはあるが、氏姓制度の改変ということはなんら当面の目的にはなっていなかった。それが眼目になっていたように言うのは当たらないもののようである。そして天武朝の八色改姓ももとより氏姓制度そのものは社会組織の根本であるとする立場からであった。
 この整理に洩れて旧い姓をそのまま用いていた氏は奈良朝になってもまだあって、『万葉集』の皇族以外の作家は大体、真人《まひと》・朝臣・宿禰・忌寸《いみき》・臣・連・君・首《おびと》・造《みやつこ》・村主《すぐり》・使主《おみ》・史《ふひと》・直《あたえ》・倉人《くらひと》などである。その他に無姓の者があるがそれは大方は旧豪族の従属民、つまり部民《べのたみ》だった者である。それから少数の僧侶がいる。けっきょく大部分は氏姓の明らかな貴族か皇族かである。
 もちろん防人《さきもり》に徴収された関東在住の旧部民たちで無姓の者、巻第十四の東歌を作った名もない人々、などを合わせ考えると、貴族に対する民衆を考えうるかもしれないが、これらの人々を民衆というにはなお多少の危険が存する。民衆という以上やはり自由民であることを要するが、そして民衆といえば聞えがよいが、この万葉作者の中で無姓の者たちがどれだけ自由農民であったか、それは決められない。どの貴姓の氏かの部民であったろう。なんらかの意味において貴族の従属民であった。やはり万葉作家の中心は貴族とみるべきである。
 ただしその貴族も新体制の完備してくる中では次第に社会的な意味における変質を生じる。大化改新は氏姓制度には触れていないけれども、大化前代の氏族がその私領を支配し、その領民に対して本家であり氏《うじ》の上《かみ》であって、その領民がたとえ血縁的関係を持っていなくても、大方は何々|部《べ》の名のもとに擬制的な血縁関係を作って、氏族的大家族的統合の中に織りこんで、支配と隷属の関係を確固にしていたのに対して、その氏族の私領と領民とを摂収し、公地公民とする方針だったから、この方針が理想通り貫徹されれば、大化前代の貴族の土豪〔二字傍点〕であった性質は一(236)変して、朝廷の官僚〔二字傍点〕としての貴族に移るはずのものであった。
 しかし私領の公納はなかなか遂行されず、旧名族の在地地主的土豪的性質もまたながく跡を残したのである。大化改新の後もまだそのような状態であったから、第二段階の混沌的という歌風の創作主体はみなそうした性質の人間であった。人麻呂もまたそのような氏族員として、天皇の権威を仰ぎ、その近臣となったものである。
 しかし土豪的貴族に対して、官僚的貴族の自覚的な自己限定は、ようやく奈良朝に入って支配的となる。そして、それに伴って新しい歌風は分化せざるを得なくなる。官僚貴族の自己限定は大夫であった。大夫は五位以上の者であり、とくに職の長官は四位で大夫(たとえば東宮職の長官は東宮大夫、左京職の長官は左京大夫など)、太政官の職員は三位以上で大夫(中納言や大納言以上)である。唐六典に照らし合わすまでもなく、唐の大夫は上級官僚のことであるが、それが日本語としては「ますらを」と訓ぜられたことは面白いことである。「ますらを」には本来は旧時代の氏族の幹部である土豪的面影、英雄的面影が残っていて、むしろ、そうしたものこそ「ますらを」だったのだろう。とともに、今や高級官僚としての新しい面影が現われてくる。「大夫《ますらを》」(官僚)は一種の称号のように使われはじめる。ただし『万葉集』には多く大夫は丈夫と改められている。しかしこれは西郷信綱氏に説のあるように(l)、大夫であってよいように思われる。
 このような土豪としての旧氏族の、官僚として貴族への変化は、江戸時代の大名や知行取りが、明治政府の高官やいわゆる官員様になったような変化であった。律令制度による政治機構の中では、大陸文化は次第に生活の全体に変化を与えはじめる。『万葉集』の歌で、その影響のあらわれてきたものが、いわば開化的歌風に外ならない。
 その第一種。山上憶良。
     惑情《まどへるこころ》を反さしむる歌一首並に序
     或は人あり、父母を敬ふことを知れども侍養を忘れ、妻子を顧みずして脱履よりも軽んぜり。(237)自ら異俗|先生《せんじやう》と称《なの》る。意義青雲の上に揚ると経も、身体は猶塵俗の中に在り。未だ修業得道の聖にも験あらず、蓋し是れ山沢に亡命する民なり。所以《かれ》三綱を指示して、更に五教を開き、之に遣るに歌を以てして、其の惑を反さしむ。歌に曰く、
  1 父母を 見れば等し 妻子《めこ》見れば めぐし愛《うつく》し 世の中は かくぞ道理《ことわり》 黐鳥《もちどり》の 拘泥《かからは》しもよ 行方《ゆくへ》知らねば 穿沓《うけぐつ》を 脱ぎつる如く 踏《ふ》み脱《ぬ》ぎて 行くちふ人は 石木《いはき》より 成りでし人か 汝《な》が名告《の》らさね 天《あめ》へ行かは 汝がまにまに 地《つち》ならば 大王《おほきみ》います この照らす 日月の下《した》は 天雲《あまぐも》の 向伏《むかふ》す極《きはみ》 谷※[虫+莫]《たにぐく》の さ渡る極※[きはみ] 聞《きこ》し食《を》す 国のまほらぞ 彼《か》に此《かく》に  欲《ほ》しきまにまに 然《しか》にはあらじか (八〇〇)
     反歌
  2 ひさかたの天道《あまぢ》は遠しなほなほに家に帰りて業《なり》を為《し》まさに(八〇一)
序はもちろん美事な漢文である。身は世俗の間にありながら山沢に亡命し、独り意気だけは高くて反俗を意識している人間というのは、氏姓制健在であった大化前代では考えにくいものである。しかし律令制のもとに私領を公収され、一家の口数にしたがって口分田が班治された下で、家業に従い国家に租を輸しなければならない身の上になれば、氏姓制の下で部民の労働の上に安座した唯我独尊の態度は保ちがたい。そうした新しい時代にも、新国家の官僚としての地位を掴めれば、官僚国家では官僚ほど貴いものはないから、それでよかろうが、この時代には才学身に備わってもなお登用の選に洩れて、不平の徒が多く不遇を喞っていたことは想像できる。それが不平のあまり、父母妻子をかえりみず、慷慨の士となったり、要するにのらくら者になっていたことは想像できる。それに対して三綱五常を説き聞かせるというのは新社会における人間としてのあり方を説こうとするに外ならぬが、そこには別(238)に新しい自発的な人間像の形成があるわけではないのである。父母は尊く妻子は愛すべきが世の道理だというように、氏姓制の下にでも、後の家族主義の時代にでも自由主義的個人主義の社会にでも通存しうる動物的な愛情の本能に訴えて、全国は王土である以上は、父母妻子のことを考えれば、王の命ずるところに従って家業に従事する外ないであろうと説くところ、憶良自身はいちおう新社会において生きる道を、とにかくに観じえていたとすることができる。ただかれにも有名な貧窮問答歌(巻五・八九二)のように、あまり尊貴でない官吏の責は重くて給与の薄いことを慨いた歌もあるが、これとてもかれが新国家の官僚たることを否定しようとしているわけではない。世の中に対するかれの態度は従属的で諦観的である。不平を伴った肯定の間に揺曳しているといった感じである。それは新時代外来の知識とともに、旧社会の慣行にともすれば引かれる生活の実態を併せ持っている、そうした知識層の分裂と弱さとをよく反映しているように思われる。
 かれの漢文の美事さ、遣唐少録として唐土を踏んだ経歴からして、かれが当時の新知識だったことは確かといえよう。仏説によった序のついている歌も多く、かれの外来文化摂取は相当のものであったろうが、その歌言葉とその句の構造は、むしろ伝統的である。(1)の「天雲の向伏す極、谷※[虫+莫]のさ渡る極」など完全に祝詞《のりと》のままである。この言葉の構え方の旧さと、内容的な面の新しさとが、一種独自の肩を怒らしたような、円熟という感じから遠い風趣の原因となっているであろう。
 第二種。大伴旅人。そこに行くと旅人の歌はかなり違っている。
  3 いにしへの七《なな》の賢《さか》しき人どもも欲《ほ》りせしものは酒にし有るらし(三四〇)
  4 験《しるし》なきものを思はずは一杯《ひとつき》のにごれる酒を飲むべかるらし(三三八)
讃酒歌十三首として有名なものの中の二首である。その(3)の歌はあからさまに竹林の七賢をもち出して、かれらの好きだったものは酒だという歌い方には、板についた大陸文化への親近感があるといえよう。むしろそれを楯に取(239)って、自己の意欲を合理化し、なにか立派なものであるように感じようとする心の姿勢を、ここから読み取ることは酷であろうか。近代にもヨーロッパに心を寄り添わせて、自己の趣味を歌おうとする詩人の態度がありはしなかったろうか。(4)のように歌う表現の大胆さ率直さの裏には、実は(3)の歌に片鱗をみせたような支柱があったのだとみるべきではないか。しかしそれは山上憶良の「堅塩を取りつづしろひ、糟湯酒《かすゆぎけ》うち啜《すす》ろひて、咳《しは》ぶかひ鼻びしびしに、しかとあらぬ髪かき撫でて、吾をおきて人は在らじと誇ろへど」(貧窮問答歌の中)というのは、なんといっても別の境地であることも感じられる。それこそ貴族の鷹揚さで、帥大納言と筑前守とのうかがいみている世界の違いはそれとわかる。または名族大伴氏の氏上《うじのかみ》と山上氏という史上にもあまり名を著わさない氏族との前代この方の相違であるかも知れない。しかし旅人の歌風のおおらかで自在なところにはなんといってもその高貴さを偲ばせるもののあることは事実であろう。
 第三種。山部赤人。
  5 み吉野の象《きさ》山の際《ま》の木末《こぬれ》にはここだも騒く鳥の声かも(九二四)
  6 ぬばたまの夜の深けぬれば久木|生《お》ふる清き河原に千鳥しば鳴く(九二五)
有名な吉野の長歌に伴った二首の反歌である。この二首については高木市之助教授の実に精緻な考察があるので(2)、ここに多くの言葉を費すことを避けたいが、要は(5)や(6)やの歌に詠まれた自然は自然のままの自然ではなく、赤人によって切り取られ構成された芸術美になっているということが大切である。
 山上憶良に代表させた第一種、大伴旅人に代表させた第二種、山部赤人に代表させた第三種、ともに第二段階からも遠く抜け出ていて、「大夫《ますらを》」(官僚貴族)の歌であり、対象化された主体の外の自然であり人事であり、それは主体がその一部として融合している自然でも社会でもない。ひろい自然や社会人事やの中で、ある選択と批判とによって捕えられた自然や人事やである。その態度は氏族全体を貫通している共有の感動や認識やの代表的な表現と(240)いうようなものでなく、もっと個人的なものである。それには土豪的な、生産農民の主|領《ママ》的な集団との融合も、自然との未分化もみられない。そこにはもっと鍬から離れた人間として、また集団から一歩離れた者として、自然を見、人生を考える主体が生まれている。この奈良朝官僚貴族的主体の形成に伴って、第三段階の歌風が生まれてきていることが考えられるのであって、それが一歩個人的になったところに、個々の主体の状況による種々な個人差が生まれて来始めていることも併せ考えねばならないであろう。もちろんその同じ時刻に、官僚貴族とは違った身分や集団やの中には、歴史的事実として、第一段階の歌も第二段階の歌に似た歌も、同時的存在を保っていたかも知れない。しかしそれはそれで別状はないのであって、第三段階の歌風の成立が奈良時代と密接の関連を持つということが重要である。そしてこの段階の成立には、社会制度の問題だけでなく、この段階の創造主体もまた大陸文化の薫染によって開化していたということが大切である。
    注1 西郷信綱氏『日本古代文学』(昭和二十三年・中央公論社刊)の中「万葉人の世界」一二三頁以下。
     2 高木市之助氏『古文芸の論』(昭和二十七年・岩波書店刊)の中「古代文芸と方法」
 
     五 第四の段階――悒情的――
 
 天平宝字三年正月一日に『万葉集』最後の歌を作ったとき、大伴家持はすでに大伴氏の氏上《うじのかみ》であったが、官はまだ但馬守であった。旅人の薨じて後、奈良時代の宮廷史は藤原氏と大伴氏との激しい闘争に明け暮れる。藤原氏にははじめから大陸文化輸入の立役者としての立場が強く、それは同時により枢機を握っているということとも通じていた。それにくらべれば、大伴氏には前代以来の武門の氏として、最後まで土豪的英雄の家の感じが強かった。そして事あるごとに大伴氏は叛臣の立場に立たされ、藤原氏を君側の姦のように感じても手が出ない。家持が氏上に(241)立ったとき、氏族全体の須勢と、氏族員の切歯する様とを見ても、にわかにどうすることもできない。保守的な名族の傾き行く運命を双肩に感じながら、孤独無援の煩悶にさいなまれたであろう。内へ内へと内省して行く主体が成立する。
  1 春の野に霞たなびきうらがなしこの夕かげにうぐひす鳴くも(四二九〇)
  2 うらうらに照れる春日《はるひ》に雲雀あがりこころ悲しも独りしおもへは(四二九二)
(1)の歌の、この霞たなびく春の野も、夕日かげの中に鶯がないているのも、それはうらがなし〔五字傍点〕という主観の状況を通して捕えられたものであり、やがてうらがなしさ〔六字傍点〕として家持を取り巻いている。(2)の歌も孤独にもの思う者を悲しくするのは、うららかに晴れた春の日に空たかくあがっている雲雀の、張り切った鳴き声である。それが対称的に孤独な悲しみを抱く男をいっそう悲しくするのである。どちらも自然は家持の悲しみを融けこませたり、引き立てたりするものとなっている。創作主体の表現の対象は自然ではなくてかれの主観的感情である。それは赤人の自然の歌にもまだ見られなかったものであった。あの「み吉野の象山の際《ま》の木末にはここだも騒く鳥の声かも」は、第一段階の原始民謡の段階においてすでに確立していた自然的なリアリズムから本質的にまだいくらも抜け出しているものではなかった。第三段階の歌風はおしなべて、開化的ではあってもその手法においては旧風から抜けていないといえるであろう。それに対して、第四の段階は劃然と区別を立てることができる。これは自然的なリアリズムではない。ここにはっきりと抒情詩がある。大伴氏を征圧する藤原氏が、大陸の言語をよろこんで、宮廷の講席に漢詩を模しながら、進取的な政策家らしく一族挙げて現実と取組んでいたために、真に抒情詩を生産し得なかったのに対し、氏族の運命の閉塞という否定的契機を媒介とすることによって、純個人的抒情詩の創作者が保守的な大伴氏から生まれ出たということは、瞠目すべきことであった。それは歓喜の歌でも慷慨の歌でもなくて、実に悒情の歌であった。これは奈良朝中期以後をひろく代表する段階ではない。しかし大化以後、白鳳・天平の文化的盛(242)期をみれば、ともに第二段階の人麻呂的混沌と家持的悒情とを創造している。そしてそれがいずれもその期の社会全体を代表するものでなく、ある狭い身分の者(舎人たち)、またはある境遇に置かれた個人(家持個人)を表現しているものであることを振り返ってみると、第二段階と第四段階とは、その時代の社会としては普遍性を持っていないかのごとくにも一応は感じられる。しかし文学の発展の段階は、つねにそれぞれの時代の無差別的な全民衆の声として興るものではなかった。たださまざまな身分・境遇・環境などの差によって、その中のいずれかの状況に置かれた者が、その時期の文学の新しい段階の創造者としての役割をはたしたのであった。その意味において、第二段階と第四段階とは、いずれもその時期の人々の平均的な状況を反映しているものではなくて、かえって、その時期におけるもっとも特殊な状況を代表し得た主体に発したものであった。その意味において、人麻呂と家持とは、万葉全歌風の上において、やはりもっとも独自のものを創造している二つの峰であるとみなければならぬ。古代和歌としての『万葉集』の歌の上に、原始歌謡から個人の抒情詩にいたるまでの分化の段階がたどられ得るについて、そうした段階がいかにして歴史的に可能であったかを時代に結びつけて説明してみようとしたのであるが、あまり明快簡潔とまでは行き得なかったことを恥かしく思う次第である。(昭和二十八年一月二十七日)(『万葉集大成』第一巻・総記篇・昭和二十八年三月)
 
 
(243)  創生期の文学的詩歌
      ――生活・言語・民謡の延長線上に見た『万葉集』――
 
       一
 
 わたくしどもの祖先は日常生活において、いまだ文字を用いなかったから、その歌はもっぱら口承されたものであった。口承された歌は民衆の智慧と意欲と祈願とであって、年中行事や労働や祭儀と緊密に結びついていた。歌は有機的に生活の一部であったから、游離的に知識としての異国の文学などのしのびこむ隙がなかった。
 もちろん漢文の使用は大陸との交易のために世紀のはじめ頃からすでに行なわれていたし、儒学仏教の経典が大和朝廷に輸入されるようになってからは漢文学は次第に大和貴人の生活を潤色するようになって来ていたとはいうものの、外国の言語と修辞とは、民衆の心の韻律ではなかったのであって、もしなんらかの関係があったとすれば、それは今来《いまき》の神の魔呪に近いものであったと言えよう。
 このようにしてわたくしどもの祖先の言語はただ日本語のうた〔二字傍点〕としてのみ調えられていたのであった。そうした歌は数限りなく日本の島々の聚落のうちでうたわれて〔五字傍点〕いたはずであるが、時代が変移して生活の智慧であり得なくなるまで歌い継がれ、それからはやがて古歌となり、そしてやがて消えて行ったのである。そうした原始の歌謡の生態は、今日そのままには蘇生さすべくもないが、大化前後この方大和朝廷を中心とする漢字によっての日本語の(244)表記法が発明されてから、漢字に書きとどめられる歌がいくつか出来てきて、博物館における古代遺品のように、これを研究の対象とする時がおとずれるまで静かに保存されるようになったことは、文字の伝来とその使用法の発生とから結果した幸いであったと言わなければならない。その文献の中でも最も大きなものが『古事記』『日本書紀』に書きこまれた歌謡と『万葉集』とであったことは言うまでもない。
 日本語のうた〔二字傍点〕に対して漢語のうた〔二字傍点〕が大和の宮廷に問題となってきたのは大化以後の時代の新粧であつたと言うことができよう。そのとき、日本語のうた〔二字傍点〕は歌〔傍点〕と書き、漢語のうた〔二字傍点〕は詩〔傍点〕と書いているのが眼につくのであるが、それは『日本紀』『続日本紀』等にはことにはっきりしているようである。この使用法の区別には意味がある。歌は『釈名』に人の声であると言い、『書経』の舜典に注するように言を永くする事であり、それは『説文』に詠也とするのに等しい。それはすべて声に関するもので内容に関する定義ではない。それにくらべて、詩は『説文』に志也と言い、『書経』の舜典に注して志を言いあらわすものだと言い、『詩経』の国風関雎の序に、心にある間を志となし、言に発したのを詩となすと言うように、すべて音声に関するよりは表現の内容に即している。胸裡にあるものを言語に発すれば詩であるというのは、そのいまだ発せずして胸裡にあるもの、つまり志というものの方に重点を置いた定義である。当時、漢語の詩は外来の文学であって、自由に中国語の音声を操って、自然にうた〔二字傍点〕をなすことは一般には望めないことであったから、これを読むにしても作るにしても第一に文字にすがり、内容にすがって言葉を組み合わせる外はなかったのであろう。そこで漢語のうた〔二字傍点〕は音声のものでなく、文字の業、志想の作品とならざるを得なかった。しかもそれは特殊な開化人にだけ許されたことであった。
 日本の中において日本人によって日本語のうた〔二字傍点〕と中国語のうた〔二字傍点〕とが行なわれながら、それを漢字の歌〔傍点〕と詩〔傍点〕とによって用いわけた根拠は、そのようにして、うた〔二字傍点〕の在り方そのものの相異に由来した。しかしそれを日本語として言うならばなんと言い分けるべきであったか。日本にはうた〔二字傍点〕という言葉しかなかった当時、それはやまとうた〔五字傍点〕、から(245)うた〔四字傍点〕と訓み分けるより外に方法はなかったであろう。そしてこの日本語を源にして、逆に漢字による和歌と漢詩という熟字は、日本の中で作り出されて流布したであろう。事実、『古事記』『日本書紀』には歌とのみあって、まだ和歌の熟字はなく、『日本書紀』には詩とだけあって、漢詩の熟字はない。『古事記』には詩すらない。和歌の語のあるのは『万葉集』からであるが、これもむしろ相聞の場での「歌に和する」意味のものであり、かえって倭詩〔二字傍点〕とあるのの方がやまとうた〔五字傍点〕の意味に用いられたものであろう。そのようにして、ほんらい、日本の中で日本語の歌はただうた〔二字傍点〕でありさえすればよかったのである。
 その歌はもちろん中国にもあった。それは声楽曲の歌詞であって、多くは舞を伴う。大唐楽の雅楽はもとは舞だけでなく歌もあったが、その歌の漢語のものは詠と呼ばれ、西域等から唐に伝来した外国楽に由来する曲の歌は囀と言われた。意味の分からぬ歌だから「海士の囀り」といった平安朝人の言い方の源になったらしく囀と言ったのである。さてその舞と歌とについて、『楽府雑録』は歌者楽之声也と言い、舞者楽之容也と説明しているが、その歌というのは『詩経』の魏風の疏によれば、楽器にあわせて詠ずるのが歌であって、ほんらい音楽を伴うものである。伴奏なしで詠ずるのは、歌に対して謡と言った。こうしたことを注意に入れた上で記紀・万葉の上で用いられた歌という字の用い方を見ると、非常に正確に当てて用いられたものであったことを感じるのである。それは少なくとも宮廷の歌は、和琴の伴奏によってうたわれたものであったからである。それは記紀の文にも明証があるが、それだけでなく、万葉その他においてその通りであったことからも分かるのである。
 
       二
 
 それでまず万葉時代に於ける歌の生態について二三の記例を報告しょう。
(246) その第一は『続日本紀』巻十二聖武天皇天平六年(736)二月朔日の記事である。天皇は平城京の朱雀門に御し、歌垣を覧たまう。男女二百四十余人。五位以上の風流あるものはみなその中に交った。中に就いて正四位下長田王、従四位下栗栖王、門部王、従五位下野中王たちを楽頭として、本末に分かって唱和し、難波|曲《ぶり》、倭部曲、浅茅原曲、広瀬曲、八裳刺《やつもさす》曲の音を為して都中の士女に縦観せしめられ、歓を極わめて罷んだ。歌垣に奉仕した男女にはそれぞれ禄を賜わった。
 その歌は古い伝承を持つ歌であったに違いない。『古事記』『日本紀』の歌謡にはしばしばその名が記されているが、『琴歌譜』によると同じ名称のものが伝えられているので、それが曲名である事が決定した。『琴歌譜』は撰者未詳で円融天皇の天元四年(978)古写の近衛家本だけによって伝わったものであるが、歌の譜と伴奏の琴の譜とがともに記され、歌と曲《ふり》との二種を持っていて、茲都《しづ》歌、茲都歌の歌の返し、片降《かたおろし》、伊勢神歌、大直備歌、読歌、字書歌、酒坐歌、茲良宜歌などいうのに対し、高橋曲、短埴安曲、天人曲、継根曲、庭立曲、阿夫斯《弖あふしで》曲、山口曲、長埴安曲、阿遊陀《あわだ》曲、などの曲名とその歌詞と譜とが記されている。記紀歌謡の曲名の中にも志都《しづ》歌、歌の返し、片|下《おろし》、茲良宜歌その他歌というのがあるが、夷|振《ぶり》の上歌、宮人振、天田振など、曲というのも記されている。振〔傍点〕と曲〔傍点〕とは漢字の当て方の相違に過ぎないので、ほんらい、同じふり〔二字傍点〕であるが、うた〔二字傍点〕とふり〔二字傍点〕とをくらべてみると、歌の方が歌※[人偏+舞]所のものとして伝えられた由緒の古いものとの信頼の強かったものでないかと思われ、その歌の置かれた前後の関係記事を見ても、そうした伝承の素性を感じさせる。それにくらべると曲《ふり》(または振《ふり》)は、大和朝廷の伝承に取り入れられたのがわりに新しく、おそらくは采女によって国々から貢せられた新採の曲であったのかもしれない。それは折口信夫博士もすでに述べられたように、一つの推測を遠く出ないものではあるけれども、そうでないと言い切れる反証ももちろんないのである。そして振〔傍点〕または曲〔傍点〕は、宮廷公儀の伝承と言うにはより民謡の調子の強いことを感じさせるものである。天平六年朱雀門における歌垣の折の曲名もまた同じ性質を持っていた風俗《くにぶり》であり、宮(247)延の歌※[人偏+舞]所に伝習される事なくとも、都人士にまでよく知られていた、今日のいわゆる流行民謡であったかと思う。もちろんそれらは伴奏があれは和琴の伴奏によったものと思われる。その中で難波曲だけは、平安朝になってからの採集による『風俗《ふぞく》』の中にも出てくるし、堀河天皇朝の古写本によって伝来した承徳三年書写『古謡集』にも見られるのであって、その歌詞は、『風俗』には
     奈末不利《なまぶり》
  なはのつぶら江の 春なれば 霞みて見ゆる なはのつぶら江
となっており、いま一曲、
  月のおもを さわたる雲の まさやけくみゆ なはの円江《つぶらえ》の 秋なれば 霧たちわたる なはのつぶら江
という月面《つきのおも》と名づける曲とも関係があるらしいのである。承徳本『古謡集』の方では
     奈者布利
  奈者乃川布艮衣爾《なはのつぶらえに》 安支奈礼者《あきなれば》 支利布利和|支《(太カ)》利《きりふりわり》 奈者乃川布良衣《なはのつぶらえ》
     天
  川布良衣乃也《つぶらえのや》 世奈也《せなや》 安支奈礼者《あきなれば》 支利布利和太利《きりふりわたり》 奈者乃川布良衣《なはのつぶらえ》
     或説|者留奈礼者《はるなれば》止毛唱
となっていて、本末唱和の形になっており、末の第一句に「つぶら江のヤ夫《せな》ヤ」という風に拍子が入れてあるが、歌詞は「霧ふりわたり」が軸になっていて『風俗』の月面と同根である。『風俗』と『古謡集』とで曲名は奈末不利、奈者布利とあるが、誤写と決めるべきでなく、志田延義氏が『歌謡集』(日本古典全集)上巻の解説に文治奥書本『風俗譜』に難波乃都布良江とある事を指示されたように、どちらも難波振の両様の訛に過ぎない。『袖中抄』に縄振の風俗とあるのは奈者布利からの変化で、『体源抄』に奈末不利とあるのは、『風俗』の通行の本のままであ(248)る。それで曲名は奈者布利、奈末不利、難波乃都布良江いずれも同一物なのだが、歌詞は『古謡集』に「秋なれば霧降り渡り」となって『風俗』の月面の下半に等しく、『風俗』の月面の下半に等しく、『風俗』の奈末不利は「春なれば霞みて見ゆる」となっている点は、『古謡集』に「或る説春なればとも唱ふ」とある注のように、「春なれば」とも「秋なれば」ともうたったのである。下って中世の伝受書の一つであるが『吉野吉水院楽書』の風俗の血脈の条にも、
  六月より秋なればと歌ひ、霜月より春なればと歌ふ。一説、最勝講より秋なれば、五節より春なれば、と歌ふ。
と注していて、季節による歌いかえであり、歌としては難波曲《なにわぶり》という風俗歌一つであったのである。それと月面との関係は私にとってまだ未詳であるが、いずれにしても難波曲の歌詞ははっきりしている事が分かるのである。そして、風俗や承徳本『古謡集』に特に難波曲〔三字傍点〕という曲名の伝えられたところを見れば、それが、天平六年に難波曲〔三字傍点〕という名で歌垣に歌われたものと見て、間違いはないのでないかと思う。
 第二にはやはり『続日本紀』巻三十の称徳天皇宝亀元年(770)三月二十八日の例がある。その時は、葛井《ふちゐ》、船、津、文、武生《たけふ》、蔵の六氏の女二百三十人が歌垣に供奉した。服装は揃いの青摺の細布衣、紅の長※[糸+刃]《じん》(注、長い組み紐)を垂れ、男女が並んで行を分けておもむろに進行しつつ歌った序曲は、
  をと女らにをとこ立ちそひ踏みならす西の都は万代の宮
それからいよいよ歌垣の第一歌は、
  淵も瀬も清くさやけし博多川千歳をまちて澄める川かも
 そして歌の曲折ごとに袂を挙げて節を為した。歌垣の歌はその後にまだ四首つづいたが、並びに是は古詩であるから煩わしいので載せないと『続日本紀』は記している。それから河内大夫従四位上藤原朝臣雄田麻呂以下が和※[人偏+舞]《やまとまい》を奏した。それから六氏の歌垣奉仕の人に商布二千段と綿五百屯を賜わった。この西の都というのは称徳朝に河内国に在った由義宮《ゆげのみや》のことで、河内志に記す宮址はまだにわかに信じ得ないが、弓削氏の一族は称徳朝には、次々と(249)叙位の恩典にあずかり、由義宮への行幸も頻繁であった。しかし歌垣の歌に博多川の詠まれている事によって、西の郡の位置はほぼ分かる。それは博多川は伯太川で、和泉から河内を北流して大和川に合流する今の石川だからである。由義宮は石川沿いにあったのである。それにしても西の都といい、博多川といい、これらの歌は由義宮行幸のしきりに行なわれた称徳朝の新作である事も明らかであろう。『続日本紀』の記者はただそれにつづいて歌われた歌四首はいずれも古歌であるから載せないと言うのである。それで分かる事は、この時もまた序歌としては新作を合唱したにしても、歌垣の歌※[人偏+舞]の中心をなしたものは、いずれも古歌であって、いわゆる風流ある士女ならば、歌も節も身に著いた手馴れのものであったに違いないという事である。
 天平六年の歌垣の歌が諸国から都に貢献されたのにもとづく国振りの歌、すなわち風俗《ふぞく》であったらしい事といい、宝亀元年の歌垣の歌もまた衆人熟知の古詩であった事といい、生活の一部として人々の感情の抑揚の地《ぢ》となっていたものが、非常に多くの古詩、外ならぬ民間の伝承歌であったことは忘れることのできない点である。
 万葉に定着された四千五百の長短種々の歌は、その一箇人の創作であることの明白な証拠を残しているものをのぞいて、生活感情の抑揚に密着している伝承歌である事をいま一度確認するだけでなく、その個人の創作であることの明白な証拠を有する歌までもが、後世の創作歌にくらべて、はるかに強く、ただ程度の上だけでなく、和歌として異質的であると感じられるくらいにまで生活の抑揚そのものに近いことを、こうした当代伝承歌の在り方から推定することがなし得られるし、またそれは大切な事なのではないであろうか。
 
       三
 
 次にはそうした消息を『万葉集』の中に探ってみよう。巻六に次のような詞書を伴った二首がある。
(250)     冬十二月(天平八年、筆者注)十二日、歌※[人偏+舞]所の諸重臣子等、葛井連《ふぢゐのむらじ》成広の家に集ひて宴せる歌二首。比来《このごろ》古※[人偏+舞]盛に興りて古歳漸く晩れぬ。理宜しく共に古情を尽して、同じく古歌を唱《うた》ふべし。故《かれ》、此の趣に擬へて、輙ち古曲二節を献る。風流意気の士、発《も》し此の集の中に在らば争ひて念を発《おこ》し、心々に古体に和へよ。(原漢文、今仮名交り文にする)
  わが宿の 梅咲きたりと 告げ遣らば 来《こ》ちふに似たり 散りぬとも善《よ》し(一〇一一)
  春さらば ををりにををり 鶯の 鳴くわが山斎《しま》ぞ やまず通はせ(一〇一二)
これは歌※[人偏+舞]所《うたまいどころ》の動静だけにかかわる事のようではあるが、歌※[人偏+舞]所を通じて、もっとひろく朝廷ないしは在京の貴族社会の傾向を反映していることなのかも知れない。とにかくそこには古※[人偏+舞]の興が復活してきていたけはいが感じられるのであるが、それは養老天平の間の事であるから、すでに万葉作家の動きからしても、旅人・憶良・赤人の時代で、『万葉集』の歌風としては人麿に代表された段階からさらに一転した段階であり、開化的歌風の段階(本大成第一巻・総記篇「万葉集と歌風の変遷」)と言うべきところにあったことは注意してよい点であろう。大陸文学の咀嚼も十分になり、その影響も立派に出てくるし、日本人作家の漢詩集としての『懐風藻』や、私集としての『藤原宇合集』、石上乙麻呂の『〓悲藻』なども出来てきた時代であり、和歌の方でも笠金村、車持千年、山部赤人などの人麻呂調の復興が標準的歌声として認められ、純粋の生活言語歌よりは文語語法を交えたと思われる壮重体の作られるようになった時代であることは注意すべき点で、そうした点は、歌詞制作の面で言えば、古典作品の意識下にみずからを置いた状況であり、先行の形態に則りながら、スタイルの上で新しいものを結果させるといった時期であったと見てよいであろう。いってみれば、万葉全歌風の発展段階において、文芸の意識のもとに言語的作品が形成されはじめた時期であったと言うことができよう。古※[人偏+舞]の興ったという客観的事実が、和歌制作者の制作意識の基盤として内面的に受けとめられた形を考えると、そうした古い作品の世界が一つの観照の規準となっているという事(251)に外ならないであろう。それは和歌としての表現の世界が、生活言語の表現と微妙に摺れてきつつあることを感じさせるものである。
 いま一つ 『万葉集』の中に例を見るならば、巻第八の中に次の歌がある。
     仏の前《みまへ》に唱《うた》へる歌一首
  時雨の雨間なくな降りそ 紅ににはへる山の 散らまく惜しも(一五九四)
     右は、冬十月(天平十一年、筆者注)皇后宮の維摩講に、終日|大唐《もろこし》高麗《こま》等の種々の音楽を供養す。爾乃《すなはち》、此の謌詞《うた》を唱ふ。琴を弾くは市原王、忍坂王(後に姓を賜へる大原真人赤麿なり)、歌子《うたびと》は田口朝臣家宅、河辺朝人東人、置始連長谷等十数人なり。
これは聖武帝の后の光明皇后の催であった維摩講に大唐楽、高麗楽等の雅楽が演奏された間にあって、日本語の歌が唱われた場合であるが、琴の伴奏による型のごとくの合唱であった。もちろん仏に供養のための音楽であるから、雅楽の方も大陸伝来の有名な曲目が演奏されたのであって、和歌の合唱もとくに仏徳の奉讃とか維摩居士の称揚とかの歌である必要はない。だからただ季節に合った歌の合唱であったわけであるが、それが新作であったか否かは、右の引用の所自体では決める事はできない。しかし大体から言えば人の口に馴れていた歌の一つであったと言うべきかと想像される。しかしこの歌がこの天平年代以前のいわゆる古歌であったかどうかという点になると、それは、一段階前の歌風ではない。つまり人麻呂に代表されて、高市黒人、長意吉麿、持統天皇、弓削皇子、志貴皇子などを綜括する段階の歌風ではない。それよりは一段階新しい歌風である。巻八や巻十やによく見かける歌風である。
  時雨の雨 間なくし降れば 三笠山 木末《こぬれ》あまねく 色づきにけり(一五五三)
  皇《おほきみ》の 三笠の山の 秋黄葉《もみぢば》は 今日の時雨に 散りか過ぎなむ(一五五四)
  黄葉《もみぢば》を 散らす時雨に 濡れて来て 君が黄葉を 挿頭しつるかも(一五八三)
(252)  奈良山の 峯の黄葉 取れば散る 時雨の雨し 問なく降るらし(一五八五)
  奈良山を 匂す黄葉 手折り来て 今夜挿頭しっ 散らば散るとも(一五八八)
  十月 時雨に達へる 黄葉の 吹かは散りなむ 風のまにまに(一五九〇)
  九月の しぐれの雨に 濡れ通り 春日の山は 色づきにけり(二一八〇)
  しぐれの雨 間なくし降れば 真木の葉も あらそひかねて 色づきにけり(二一九六)
  秋風の 日にけに吹けば 露しげみ 芽子の下葉は 色づきにけり(二二〇四)
  さ夜更けて 時雨な降りそ 秋芽子の 本葉の黄葉 散らまく 惜しも(二二一五)
巻十は全部作者未詳であるが、巻八の方は全部天平年間の作者のはっきりした歌である。時雨が降るから黄葉は色づいたというのと、散ると惜しいから時雨よあまり降るなというのと、この二種類の発想の歌だけを十首ばかり選んで挙げてみたが、類歌は予想外に多いのである。
 さてとくに今問題になるのは天平期に入ってからの歌であるが、そこで作者の詳らかな巻八の作についても、贈答や宴席の歌やが非常に多いことと、類歌の非常に多いこととが眼につく点であった。そしてその類歌傾向ということは、巻十の作者未詳歌にまでひろく及んでいる特色であるということも明らかなのである。この類歌性ということは、時雨の雨の類歌的発想だけのことでなく、ことに巻十あたりの萩の花の歌についても、月夜の歌についても、七夕の夜の歌についてもひろく言える事である。それは巻十が類題的編纂になっているからというだけでなく、逆に言えば、これだけ類歌めいた作が多く存したから類題的にまとめてもこれだけ豊富な歌数を揃えることができたのだと言うことができるであろう。それは巻十の編纂のための問題にとどまるだけでなしに、もっと一般的に、天平歌風の作品間の特性として感じ得るような傾向でもある。巻一の終わりに近く、
     和銅五年壬子夏四月、長田王を伊勢の斎宮に遣しし時、山辺の御井にて作める歌
(253)という三首の短歌の一つは、
  うらさぶる 心さまねし ひさかたの 天《あめ》の時雨の 流らふ見れば(八二)
というのであるが、左注はこれを疑って、
     今|案《かんが》ふるに御井にして作《よ》める所に似ず、若し疑ふらくは、当時|誦《とな》へし古歌か。
と記している。この時雨の歌はいかにも別の歌詞をもっている上、その発想も別であって、とうてい同類のものと感じることはできない。それにくらべるならば、前の十首同志は実に類同の感が深く、巻十の作が年次作者ともに未詳であろうとも、巻八の作とともに、同類のものと見るに、あまり危険を感じないのである。
 さうした類型性はどうして生まれてきたものであるだろうか。
 
       四
 
 前の長田王の山辺の御井の歌となっている八十二番の歌、実はそれは事実でなくてその時に御井の辺で誦えた古歌ではないかと疑われた時雨の短歌は、たしかに格調蒼古で、同類の調子を探すならば、和銅より以前の歌と言ってもうべなえると思うが、そうした歌はいわゆる古歌として人々の口に多く伝承されていたので、人々はそれにふさわしい場合に当たってつねにそれを誦したのである。それゆえ、例の維摩講の時の時雨の歌にしても、新作と見る必要はないのであって、当時の人の口に在った歌の一つであったとしてなんの無理もないであろう。天平時代にも、それ以前と同じく古歌はすこぶるひろく伝承されていたのである。ただそれに類同の歌が非常に多くなった事については、二つの理由が考えられると思う。一つは万葉各巻の作られた時期にあたっていたか、それに近づいていたために作歌の時から遠く隔たらずに多く採集できている事である。「柿本人麻呂歌集」や「類聚歌林」も決し(254)て人麻呂や憶良の自作だけでなかった事ははっきりしているが、それはみな今滅び去って、万葉各巻の編者がそれをもとにして引用したものだけが幸いに万葉を通じて残ったに過ぎない。ところが巻八とか巻十とかのあたりの巻々になると、ちょうどその「人麻呂歌集」とか「類聚歌林」とかに当たるものと考えてよいような形で残されたので、自然同時代的な作品も多く採用されて残ったと見られるであろう。とにかく、多くの人々が、相聞贈答の機に臨み、宴の席にのぞんで多くの歌を残しえた根本はなにかと言えば、常に伝承されて心によく保存されていた歌が多くあったということであって、その点歌は天平時代においても、まだ美事にうた〔二字傍点〕としての生態を保っていたのだということになる。それは字にたよって、巻子を一々繰り展げて見なければならぬような形で保存されたものではなかった。生きた音声の言語として、人々の生活や感情の抑揚に伴い、またそれを整え強めるものとして、伝承されていたのである。いわば万葉人にとって、古歌は祖先以来の生活の律調であり、智慧ですらあつたと言えるであろう。その古歌のある句を現在の事にあわせて詠み更えると、それはそのまま新しい歌として成立するわけであった。この関係は歌が生活と密着してあるときは、平安朝になってからでも尤に生きていたのである。例はいくらもある。『枕草子』の有名な例を引くならば、第二十段で、中宮定子の弘徽殿の上の御局《みつぼね》へ一条帝がこられて、清少納言に墨をすれと命ぜられる。それから女房たちに今記憶している歌をすぐ書けと仰せになる。皆あがってしまって真赤になっている。そうは言うものの
  上臈二つ三つ書きて、「これに」とあるに
  年経れば齢は老いぬしかはあれど花をし見れば物おもひもなしといふことを、「君をし見れば」と書きなしたるを御覧じて、「唯この心ばへどものゆかしかりつるぞ」と仰せらるる‥‥‥
これは昭宣公基経の『古今集』の人の口にある歌を土台にして、一句だけ変えて、その時宜に適した彼女の歌にし(255)なして書きつけたのである。
 万葉時代にはもっと原初的にその状況は支配的であったと言うべきである。そして時間的にも場所的にも作られた歌の採集範囲に近い所にいた編者は、その作品を逃がすこと割に少なく、文字に定着せしめ得たわけである。しかしいま一つ、天平時代には、事実宴席や贈答の機会が、とくに貴族生活の間では激増して、風流意気の士は、そこで自然に歌を作ることの必要が高まったのである。その作歌の絶対量の増加もまた天平期の歌を多く残す事に与かって力があったことは、計算に入れねばなるまい。この期以後のものはもっぱら大伴氏関係の採集が中心になってくる傾向があって、それは大伴氏が他氏よりも歌に熱心であったという点もあるかと思われるけれども、他氏が全然作歌しなかったわけでなく、採集者が大伴氏だという点にもっとも原因があるかもしれぬ。そうとすれば、大伴氏関係中心だけでもこれだけの採集がなされたのであるから、奈良朝全歌人の作が平均して採集されたのであれば、はるかに多くの歌数が入手できたかもしれない。万葉歌人の肩書で見ると、あらゆる身分層の男女にわたっているのだから、それがあらゆる氏の家族にまで拡張できれば、歌数もはるかに増加したと考えるのが常識であろう。そ|れ《ママ》として、とにかくしかし全作歌量の増大は、作歌者数が増したか、一人当たりの作歌数が増したかであって、そうした増大はつまり作歌の機会の増加であるが、それは特殊な玄人だけに機会が増加したのではなく、むしろ大した専門家でもなんでもなく、社交界の圏内にあって、歌唱したり歌※[人偏+舞]したりすると同じように、作歌するに堪える者がみな風流の士女として、作歌したためであるに外ならない。したがってその作は地《ぢ》となった多数の伝承歌に手を入れるという形で行なわれたのである。そういう事になれば、作家の力量の上からいって類型に傾くのも当然であって、そこには創造的な発想が減じたとしてもなんの不思議もなかったのだと考えられる。
 結果として出てきた見かけの上での特色を説明すれば、天平以後の状況は、風流の士女の作歌をもって社交圏に加わる者の数が多くなり、その作が忘れられる前に文字に定着せしめられたので、作の水準としては、それ以前に(256)くらべて類型歌が多く、力量の低下を来しているように見えるのである。しかし、その現象はただそれだけに留まるものではない。そこには歌の風流化、いわば芸術化ということが結び着いている点について一考を要するものがあるであろう。
 
       五
 
 『万葉集』の歌が民謡の段階から発して芸術的創作詩にいたるまでを含んでいる事は、一般に認められているところであるが、どのあたりから芸術的創作詩になってくるか、どのあたりで民謡的性質から縁が切れるか、という点になると、これはいまだにそう分明になっているとは言い切れない問題である。第一両者の限界はなにによって附け得るかも考えようによって種々になりうるであろう。
 ただここでは当面の問題を解く限りにおいて必要な条件を言うならば、民謡の基礎には集団生活の意識があるということである。それは作者が集団であるということではない。作者は集団の中での才能に秀でただれかであってよい。ちょうど今日でも、農村の草刈りのような共同労働で、草場での休息時間によい話題の提供者となり語り手となって、人々の生活の感情や批評やを、ある方向に持って行くような人物がいるように、同じように歌の才能に秀でた歌い手というものは、未開の集団でも、いっそう強い影響力をもって特立し得たことは想像にかたくない。問題は、そういう個人的能力の優秀性は、作品の集団に及ぼす影響力を決定するものであって、作品の内容を個人的に決定するものではないという点である。作者も人間としての意識においては集団の一人である限り、集団の意識に生きているに外ならぬからである。ただその言語能力の優秀性が、より十分に集団の全体から共鳴されるような歌を作り得ているのであって、それは集団的な意識のより十全な言語表現に成功していることであり、よりいっ(257)そう歌の内容たる生活意識においては集団的なのである。そこでその歌が集団の生活を支え、律動を与え、感情を調整したり亢奮せしめたりする。そしてながく歌い継がれる。微妙な生活状況の変化にしたがって、その辞句の些少の点が伝承者に歌い換えられて行く。民謡はそのようにして、その母体の変更を伝承する集団の意識によって遂行して行く。この現象を称して、民謡の作者は民族だと言うならば、その限りにおいて作者は民族であると言ってもよい。しかし、その伝承改変の場合ですら、それをあえてなしうるのは、集団の中での言語能力の代表者であり、集団がそれに引かれて承認し歌い更えてしまうのだということは忘れてはならない。概括すれば民謡的段階は、集団によって伝承されるという方法を取るとともに、その歌われることにおいても集団的意識が中心になって、個性の特色を問題にしない。よき歌として力強く伝承されるのは集団的感動を醸しうる歌であり、それは集団的な、時に民族的な心理的統一にまで高まるところの共通の感動の源泉となっているものである。
 民謡はそれであるから、文字なき段階の社会に本来的なものであり、文字によってでなく民衆の胸の中に保管されるのであり、共同体社会のものとしてもっとも効果をはたしている形式である。したがって、文字ある社会、発展段階的に言えば文明社会の曙の到来とともに、民謡的詩歌の世界には第二の段階への展開が始まる。すこぶる図式的な言い方であるが、文学史的にそれは言えることであろう。しかしながら、民謡形式というものは、その後にもながくつづく。階級分裂の明確になった社会においても、支配層の文明的生活の中には、文字なき庶民層とは別箇の詩歌が生育する温床が用意される。大化改新から奈良朝のひらけるまで、実年代的にはそのあたりで、第二の段階は体を成したと言ってよい(「万葉集と歌風の変遷」参看)。しかしこの段階はまだ文明社会の詩歌の温床が準備されただけであって、創作そのものはまだ民謡形式にほぼ近いものとして作られている。というのは伝承の歌形にしたがって発想され詠唱されたろうという事である。ただ発想の源泉が純粋に集団的ではない。もっと作者の感動が無意識のうちに発表され、個人の社会的事情が表出される。たとえば『日本書紀』巻十六武烈天皇前紀に、その太子(258)であったとき、聘《め》そうとした影暖《かげひめ》がすでに平群其鳥臣《へぐりのまとりのおみ》の子の鮪《しぴ》の※[(女/女)+干]《たわく》るところとなっていたのを知って、ついに鮪を仆すにいたるまでの経緯が記されている。その中に影媛が鮪の殺される所へ逐つて行って、すでに殺されたのを見て悲しんで詠んだ歌というのが載せてある。
  石上《いそのかみ》 布留《ふる》を過ぎて こも枕 高橋過ぎ 物多《ものさは》に 大宅《おほやけ》過ぎ 春日《はるひ》 春日《かすが》を過ぎ 嬬隠《つまごも》る 小佐保《をさほ》を過ぎ 玉筍《たまけ》には 飯さへ盛り 玉〓《たまもひ》に 水さへ盛り 泣き沾《そほ》ち行くも 影媛あはれ
 この記紀歌謡の一つは、『万葉集』巻十三に多く集められた道行の長歌の類型であるが、影媛が歌った歌として載せてあるのに、その終末において「影媛あはれ」と言っているのは、おのずから第一人称で言っているごとく見えるけれども、実は第三人称であって、歌謡者によってそう歌われた形であると解せられる。ところが巻一の
     額田王近江国に下りし時、作《よ》める歌、井戸王すなはち和《こた》ふる歌、
  味酒《うまさけ》 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際《ま》に い隠るまで 道の隈 い積るまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放《みさ》けむ山を 心無く 雲の 隠さふべしや(一七)
     反 歌
  三輪山を 然も隠すか 雲だにも 心あらなむ 隠さふべしや(一八)
となると、これは民謡ではない。これは左注にも「右の二首の歌は、山上憶良大夫の類聚歌林に曰く、都を近江国に遷しし時、三輪山を御覧せる御歌なり。日本書紀に曰く、六年丙寅春三月辛酉朔己卯、都を近江に遷す」とあるように、憶良も特定作家の感懐として認めたのである。そこには「影媛あはれ」式の発想形式は取られず、道行ではない。それは通行形式から脱化して、特定人の心的状況が表現の対象となりかけていることの感じられる歌であって、もはや民謡ではない。しかしなお、民謡形式が支配している歌であるということは言い得るであろう。そのような意味からして、万葉の第二段階の歌は、一般的に言えば民謡性の支配をのこしつつも、創作詩歌に移りつつ(259)あった段階であったと見てよいものと思われる。そうした歌は、その発想や伝承方法の民謡的であるにかかわらず、伝承は作者たる貴族の周囲の人々に限られるようになる。つまりある氏族全般というよりも、ある家族圏ぐらいに狭められる。皇族の歌は皇室とその周辺の人々との全般に精神的紐帯として歌いつがれると言うよりも、ある皇子とか皇女とかの近縁の間における狭められた範囲に伝承されて行く。民謡性は弱まりつつ継続していると言えよう。そして、民謡にはなかった個人の状況が表現の対象として掴まれる。もちろんそれも民衆の中の一箇の個性として掴まれるというよりは、英雄として、小さな集団の中での主長として、仰がるべく慕わるべきものとして個人性を現出する。それから従属者もまた、ある特定の小主長のために全感動を歌うという点で、その狭さと小ささとのゆえに、個人性を持つようになってくる。
  河上の 五百箇磐群《ゆついはむら》に 草|生《む》さず 常にもがもな 常処女《とこをとめ》にて(二二)
の歌は、従属者によって発せられている歌だが、そこには時代全体として見れば、特筆するにはあまりに同じ階層の一皇女の永生のためのものとしての祈願が歌われていて、その皇女のために歌う歌者の祈願は、またまことに狭く小さい祈願である。そうした狭さ小ささのゆえに、ここに個人が表出されはじめているということが言えるであろう。発想において、民謡性を失うところに、より個人的事情が支配しはじめようとしているのである。これは個人的創作詩歌というにはなおまだ舌足らずの未熟の段階であると言わねばならぬ。しかもその同じ時代にも、文字なき庶民の間では民謡しかおのおのの心を支え、おのおのを庶民らしく集団の意識の中に統一していたものは無かったことは想像する困難ではないであろう。そこでは第一段階の歌が、なお現実に生きていたわけである。
 そうしたいくつかの点から考えて、『万葉集』における真に芸術的創作詩歌の生まれたのは、第三段階、つまり開化的段階の創作が万葉人の間に確立した時あたりに考えるべきであると思われる。
 
(260)       六
 
 そこでは、赤人がいるし、旅人がいるし、、憶良がいる。それらの作は、いずれも個人の感性に結象した自然を詠み、また個人の志想を感動をこめて歌っている。赤人の吉野行幸に陪した長歌の反歌二首、「み吉野の象山のまの木末には」と「ぬば玉の夜のふけぬれは久木生ふる」との二首にしても、旅人の讃酒歌十三首にしても、憶良の日本挽歌、貧窮問答歌、好去好来歌にしても、いずれの歌主もが紛う万なく個性的な感性人であり、情念的な人間であり、思想家である。次の第四の段階を代表する大伴家持もまたはっきりと個人的な芸術的詩歌の作者である点では誤るべくもない。そういうわけで、私が「万葉集と歌風の変遷」でかかげた中の、第三の段階と第四の段階とにおいて、意識された芸術的創作歌は成立すると思われる。その最終段階を代表する家持は、有名な言葉を残している。その
  「幼年未だ山柿の門に〓らず、裁歌の趣、詞を〓林に失ふ」(巻一七、三九三六の歌の序)
の一節に見える山柿の門の山柿は古くから人麻呂と赤人と見られており、近年は山上憶良という説も強く主張されたけれども、これはやはり赤人であろう。大伴家の内々同志のやりとりの書簡で、山柿の門にいたらず、歌を裁《よ》むの趣、詞を〓林に失ったというのは、実感のうちあけ話である。そのなかで、人麻呂・赤人のような歌の高所にいたらず、古歌の多数にある中にただふみ迷うばかりだというのは、結局は古歌の伝統にすがりながらそれから真に自由な独創に抜け出ることのできない境地を正直に言ったものと取れる。巻十八を見ると、
  芳野の離宮《とつみや》に幸《いでま》行す時の為に、儲《かね》て作《よ》める歌一首井に短歌
という詞書の長歌と反歌二首とがあって、あらかじめ作ったものであるが、それは越中守であった天平感宝元年五(261)月十四日、国守の館で作ったもので、なんの行幸のために作ったというはっきりしたものではないようである。かれにとってそうしたことは屡々であったようである。そして行幸に陪するの作は流暢でなく、また前人の作に形の上で引きずられている。右の詞書の反歌二首だけを掲げてみても、
  いにしへを 思はすらしも 吾ご大君 吉野の宮を 在り通ひ見《め》す(四〇九九)
 もののふの 八十氏人も 吉野河 絶ゆることなく 仕へつつ見む(四一〇〇)
というのであって、人麻呂・赤人流の発想でありながら、新鮮さの点は格段に減退しているようだ。けっきょく、芸術的創作歌というものも、何から何まで、その歌型も、その様式も対象把握の仕方も、すべて独創的であってしかも完璧であるということは容易にあり得ないことであった。その大半は先行のものを伝承するところに成立する。山柿の門にいたらずとする自意識の奥には、伝統として先行の枠を伝承することの自覚的把握が伴っている。そうしながら先行のものに対してなんらかの点で独自なじぶんの時代なり境地なりを考えているのである。そこに芸術としての詩歌の根拠があるように思う。そうした意識の成り立ち方から言えば、これを万葉時代に限定して見るか
ぎり、それは集団の歌として成立した民謡的発想をどのような発展段階においても伝統として継承しながら、その伝統の枠の上で個人中心の意識の表現に駆り立てられて行った行跡に外ならないと言うことができる。そして歌風の変遷から見てその個人的芸術意識の表現が達成されたのは、その第三第四の段階であったのだというように見ることができるであろう。
 山柿の門にいたらずの言は、その発言者大伴家持の内面的意識として、和歌表現における一つの理想型の成立したことを象徴的に示すものでなければならない。それはつねにかれにとって自己の芸術の尺度となる。そういう尺度は集団的感動といったものとはかなり違ってくる。集団的な芸術感動は、生理的反応であり、生活現象であり、社会的事象であって、芸術的意識による評価とは隔たっている。芸術的意識による評価が満足させられる場合には、(262)非常にはっきりと個人的な充足感が伴っているのであり、表現型態の美事さ立派さというものへの智的秤量が伴っているのである。万葉時代においては、和歌伝統が意識される以前はもちろんとして、意識された時にも、生活の一部としての歌〔傍点〕、したがって生活言語の発想と同一線上にある歌〔傍点〕、集団生活の感動や智慧の表現である歌〔傍点〕がすべてであるか、またはそれが歌〔傍点〕なるものの基盤として生きて存在した。この基盤なくしては、旅人や憶良や赤人や家持やの芸術的表現すら支えられるものではなかった。そういう人々の歌が、より個性的になる傾向を示したという事は、集団の類同的感動から乖離し、孤立して行くということであるとともに、それが民謡的段階の発想に対して絶縁されるときには、今日考えられる万葉的という範疇からははみ出して行くような段階に到達していたということを意味するでもあろう。
  御苑生の 竹の林に うぐひすは しば鳴きにしを 雪は降りつつ(巻十九、四二八六)
は危く万葉の内につながれている。
  春の野に 霞たなびき うら悲し この夕かげに うぐひす鳴くも(巻十九、四二九〇)
  うらうらに 照れる春日に 雲雀あがり情悲しも 独《ひとり》しおもへは(巻十九、四二九二)
にいたって、ほとんど完全に万葉全歌から異種類になる。これはむしろ、『古今集』に有名な
  久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ
の同類的発想になってきているであろう。こうした発想は集団的感動から孤絶する個人的心境の支配という事である。そこでは和歌は歌〔傍点〕でなく詩〔傍点〕となっている。それは万葉時代の和歌と漢詩との両語の概念がそれぞれに示し得たと同じように、異質的な範噂となっていた。
 万葉時代の和歌はいまだに歌〔傍点〕であって詩〔傍点〕でないと言い切ることが図式的でありすぎることは以上の考察でも明らかな通りである。事実は尤に詩は成立していたからである。しかしそこに詩論が、ないしは美論が成立していたか(263)と言えば、それはまだであったと言わなければならない。だから万葉人の意識はまだ歌について美学的に整えられてはいなかったと言うべきであろう。しかし以上に触れた所によって、万葉歌人はたとえまだ美論の体系を構成していなかったにしても、今日の人間が万葉時代の歌について美学的な問題を思惟することは自由であるということも議論の余地はないであろう。
 私はしかし、『万葉集』の歌に対してもっぱら美学的判定を下すことを避け、ただ万葉の歌が詩歌文学の発展段階において、どのような状況にあるかを考えてみようとしたのであった。結論は、生活、言語、詩歌の一線上にある。も少し限定すれば集団生活、生活言語、民謡の延長線上にある創生期の文学的詩歌としての『万葉集』の実態をすこしでも探ってみようとしたことでもある。
       (『万葉集大成』第二十巻・美論篇・昭和三十年八月)
 
 
(318)  万葉作家の社会性
 
       一
 
 『万葉集』が民族的古典であると言われたり、または民衆の歌集であると考えられたり、そういう解釈や主張やが行なわれてきたけれども、この一篇の目的はそういう主義主張を陳述する仲間に加わろうとすることではない。結果から見れば現代における『万葉集』との結ばれ方に関係なしにものを言うことはできないであろうけれども、ここではできるだけ『万葉集』に即して、考えるとか論ずるとか言うよりはむしろ事実を述べたいと思う。
 
       二
 
 作家の社会性が普通問題になるのは、作品に対して無媒介的な共感で掩いつくせないものを感じはじめる際のことであると思う。
 たとえば俳句作者にとって芭蕉は神様であるとするならば、芭蕉の作品は理窟なしに共感できるもののはずで、俳句の限界は蕉風のにおいがするものでなければならず、したがって、芭蕉の作品の技術はどこまでも追及され、よくこなされなければならぬのだが、実際に存在した芭蕉という人間のその時代社会における限界や独自性や時代(319)性といった事は問題にはならない。それは一般的人間性を分有する一個の人間に外ならないのであって、芭蕉の作品が本当に分からないならば、こちらの人間がまだ至らないか、表現を理解する準備がまだないかということになるだけである。理想は無媒介的な全体的な共感ということにあるのだが、そういう世界では、古典作家の社会性というようなことは問題になりようがないのである。
 同じ意味において、明治以来『万葉集』は作歌の支えとなって久しいのであるが、そこにもわれわれは『万葉集』と現代人との無媒介的な共感の存在を見たし、またそうすることが修業であるといった強力な立場のあった事を知っている。したがって万葉人の社会性といったことが問題になるとすれば、無意味な学者のさかしらに過ぎなかったのである。
 しかしすくなくも今日の日本人が『万葉集』に無条件に共感するといった事が嘘であることは、正直な、そして純潔な感性の持主ならば、それほど鋭敏ではなくても十分感じることである。もちろんそれは『万葉集』をけなしていることでもなければ、無視しようとしている事でもない。全くそうではなくて、それは現代と相容れない万葉時代の特性を自覚的に捕えることによって、そうした否定的な契機を通して、逆に『万葉集』の独自な性質をより厳密に認識しようとすることに通じるものであり、そうした態度こそ、『万葉集』の担った古代における独自性を現代に生かす方法であるだろう。万葉作家の社会性が問題になるのは、無条件な礼讃では引きつけてゆけない現代人が現に成立しているということに外ならぬ。
 
       三
 
 万葉作家を見て行くと、大体貴族だということができる。沢瀉、森本両博士の『作者別時代順万葉集』を開けて(320)見れば分かることであるが、九分九厘は皇室関係と有姓の貴族である。姓《かばね》は、大化前代から大和朝廷を構成した豪族たちがうけた家柄をあらわす称号だとされるが、天武天皇十三年に古い姓を整理する詔が出て、真人・朝臣・宿禰。忌寸・道師・臣・連・稲置の八つに統合されることになった。これは天武朝の八色改姓《はつしきかいせい》として社会史的には有名な事件であるが、この整理に洩れて旧い姓をそのまま襲用している氏もまだ奈良朝には相当多かった。それで『万葉集』の皇族以外の作家は大方は、真人・朝臣・宿禰・忌寸・臣・連・君《きみ》・首《おびと》・造《みやつこ》・村主《すぐり》・使主《おみ》・史《ふひと》・直《あたえ》・倉人《くらひと》などである。その外に無姓の者があるが、それは大方は旧豪族の従属民つまり部民《べのたみ》だった者である。それから僧侶が少数見られる。結局、大部分の作家は貴族に属している。
 もちろん防人《さきもり》に徴収された関東に在住する旧部民たちで無姓の者や、巻第十四の東歌《あずまうた》などを作った名もない人々、いわゆる民謡の作者、巻第十六に見える乞食者《ほがいびと》などのような人々を総轄すれば、貴族に対する民衆を考え得るかもしれないけれども、これらを手放しで民衆と名づけるには危険が存する。普通に民衆と言えば自由民であることが考えられるが、そして民衆と言えば聞えがよいかも知れないが、この万葉作家の中で、皇族や氏姓階級やの外の無姓者のどれだけが自由農民であったか、それは一概には決められない。
 それにもっと大切なことは、『万葉集』二十巻の巻々は、奈良時代の名族大伴宿禰家持の手によって作られ、または手を経て伝わったことである。家持の手で作られたのでないらしい巻々も、自由農民の無名氏によって編纂された明証の得られる巻は一つもない。第十四巻の東歌や第十六巻の伝説歌、第十巻の作者未詳の四季の歌の相聞の類にしても、歌の蒐集や編纂やの仕事はもちろん貴族の手によった事は確実である。漢字の使用ということは、政治をとる側の組織の中に組みこまれている者か、仏教教団の中枢に属する者でなければ、そう容易のことではあり得ない。清書は筆耕生がするとしても、仕事はけっきょく貴族の事であり、したがって貴族の心を通して整理されている。巻二十の防人の歌も兵部少輔大伴家持が拙劣の作を捨てて筆録したのであって、民謡と思われる作も無条件に(321)当時在り得たはずの作がすべて記録されたわけでもなく、その中のきわめてわずかの数がようやく貴族の心を通して定着している事は忘れることができない。それで結局のところ、『万葉集』は全体としては貴族の文学だということに考える西郷信綱氏の説(l)に私も一致する。その説への二三の反論にもかかわらず、私はそう考えるのがより実態に近いと考えている。
   注1 西郷信網氏『貴族文学としての万葉集』(畝備書房刊)。『日本古代文学』(中央公論社刊)の中の「万葉人の世界」。なお、この一第は西郷氏の説による所が多い。
 
       四
 
 万葉作家の社会性といっても、大体皇族臣家を併せて、概して言えば貴族に属するといっただけでは、しかしほとんど無意識に近い。なんら具体的には限定していないからである。日本の古代貴族とは一体どのようなものであったろう。そして特に万葉作家の大部分が貴族だとして、それはどのような社会性を持っていた者であろうか。
 大化改新後、奈良時代を通じての古代貴族には二つの点で注意すべきものが見られると思う。一つは氏族的な歴史を後光として、豪族的な実力と誇りとに充ちた農村的貴族であること。いま一つは絶対王政の中央集権的古代国家の機構の中で、それぞれに官僚的地位に与かるとともに、地方の国々においてはその長官となり、九州においては総督(太宰帥)となり東夷北狄(関東・東北)の遠征軍に征夷大将軍となるような官僚貴族である。
 土豪的貴族としての性質は大化前代的で、『万葉集』の中心的時代にあっては旧制度的なものに属し、官僚貴族としての性質は新時代的なものと言える。古代官僚国家の官僚組織は漢文学の素養の非常に必要なもので、それにかなう人物の人材登用主義であったが、――まさにそれは唐帝国の官僚群の場合と同じであった――しかし、ここ(322)では、同じ人材ならやはり名族の子が優先的であるために、高貴な姓の魅力は依然としてすこしも減少しなかった。事実大化以後奈良時代を通じて、無姓の身分から成り上がって公卿に列した者はほとんど存しなかったのであった。けっきょく官僚貴族そのものが氏姓制度上の旧名族と重なり合ったのであって、名族の土豪的性格はずいぶんながく跡を引いたのである。
 いますこし説明すれば、大化前代の名族は所領の支配者であり、その領民に対しては本家であり氏《うじ》の上《かみ》であり、その関係は地縁的であって血縁的でなくても、しばしば何々|部《べ》の名のもとに擬制的な血縁関係をつくることが多く、大家族的な統合の中に支配と隷属との関係を融けこませていた。そうした氏族が大和朝廷を軸に、それぞれの職分を世襲的に分掌していたと言えよう。
 大化改新は氏姓の事には触れていないが、この氏族の私領と領民とを摂《ママ》収して公地公民とする方針であったから、もしそれが理想的に貫徹されるなら、旧豪族の土豪的性質は一変して、朝廷の官僚貴族に変化するはずのものであった。しかし領地の収納は容易には遂行できず、旧名族の在地主的土豪的性質もまたながく跡を残したのである。
 また公地は公民に男女長幼に応じて班給する、いわゆる口分田としたのであるが、旧名族は官僚としての俸給の外に、より本源的な生活の資源としてはやはり口分田を給せられたのであって、かりにある名族の本家が氏の上とその妻と子息たち五人とそれぞれの嫁と奴婢十人とから成っていたとすれば、それは二十人分の――単位に差はあるが――口分田を受けるわけである。四年に一度班給し直すのだから、その間は私領の場合と同じ在地農民的生活がつづく。土地を政府に納めても、私領を容易に納めなかった者も、官僚貴族の農民的な根本性の性格は変わらなかったのである。
 さて官僚貴族の自覚的な自己限定は「ますらを」であった。漢字に当てれば大夫。大夫は五位以上の者であり、特に寮の長官は四位で大夫――左京大夫・東宮大夫など――太政官の職員は三位以上で大夫――中納言や大納言以(323)上――である。唐六典に照らし合わすまでもなく、中国の大夫は上級官僚のことで、それが「ますらを」と訓ぜられた事はたいへん面白い。
   大夫《ますらを》の鞆《とも》の音《と》すなりもののふの大臣《おほまへつぎみ》楯立つらしも(七六)
 元明帝の御製である。かれらは農民的豪族だから、同時に戦の時は領民の大将となる。かれらには英雄の面影と土豪の面影とが一つに結びついている。ただし『万葉集』に多くは大夫は丈夫と改められているが、これが丈夫でなくて大夫であるべき事を指摘されたのも西郷信綱氏の論説である(l)。
    注1 西郷信綱氏『日本古代文学』(中央公論社刊)中の「万葉人の世界」。
 
       五
 
 徹頭徹尾の「ますらを」らしさが、無意識に当然のこととして残っていたのは天武朝ごろまでであったらしい。天武朝の八色改姓の頃から後、持統・文武朝を経て奈良朝に進むと、「ますらを」は大夫《ますらお》(官僚)となり、一種の称号のごとくにあっさりと使われる。
   大夫《ますらを》は御狩に立たしをとめらは赤裳裾びく清き浜びを(一〇〇一)
 檀那とか親方とか大将とかいう言葉が現代において軽く使われているほどまでに変化はひどくないにしても、すでに変化は生じている。
 その変化の原因は、土豪としての旧氏族の、大化以後にいつとはなしに生じた社会的変化そのものである。江戸時代の知行取りが明治の官員様になったような変化であった。計画路線の引かれた奈良の都には次第に丹楹白壁の貴族の住宅が建つようになった。それからすでに荘園の発生である。都市住民化と不在地主化。宮廷の陰謀と讌楽(324)と儀式と。そして宮廷の社交は、官僚としての地位を保持するためにも絶対に必要のこととなる。
 こうした貴族の社会的性質の変質は、当然かれらがほとんどを占めている万葉作家の社会性をも変質せしめる。そしてその変化は作品そのものに実に微妙に反映しているのである。それは大体奈良朝以前と奈良朝とで大きく分けることができるであろう。
   ささなみの志賀の辛碕さきくあれど大宮人の船待ちかねつ (二〇)
   山川もよりてつかふる神ながらたぎつ河内に船出せすかも(三九)
   妻もあらは採りてたげまし佐美《さみ》の山野のへの宇波疑《うはぎ》過ぎにけらずや(二二〇
   鴨山の磐根し纏《ま》ける吾をかも知らにと妹が待ちつつあらむ(二二三)
   ささの葉はみ山もさやに乱《さや》げども吾は妹おもふ別れ来ぬれば(二三)
 みな柿本人麻呂の作であるが、それと
  世の中を憂しと耻《やさ》しと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねは(八九三)
  術もなく苦しくあれば出で走り去ななと思《も》へど児等に障《さや》りぬ(八九九)
のような山上憶良の歌、または
   田児の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ不尽《ふじ》の高嶺に雪はふりける(三一八)
   いにしへの旧き堤は年深み池の渚に水草《みぐさ》生ひにけり(三七八)
   み吉野の象《きさ》山の際《ま》の木《こ》ぬれにはここだも騒く鳥の声かも(九二四)
   ぬば玉の夜のふけぬれば久木《ひさき》生ふる清き河原に千鳥しば鳴く(九二五)
などの山部赤人の歌をくらべて見る。また、
   ふりさけて三日月見れば一目見し人の眉引《まよびき》おもほゆるかも(九九四)
(325)  春の野に霞たなびきうらがなしこの夕かげにうぐひす鳴くも(四二九〇)
  わが宿のいささ群竹ふく風の音のかそけきこの夕かも(四二九一)
  うらうらに照れる春日に雲雀あがり情《こころ》悲しも独りしおもへば(四二九二)
などの大伴家持の作とくらべて見る。
 一見して感じるのは、奈良朝の歌の思想的にかまた感覚的にか分化して繊細化している姿と、人麻呂の歌の主客未分的な表現との著しい相違である。しかし中でもこうした相違の軸をなすものは、自然のつかみ万の変化である。
 赤人や家持の自然はつねに感覚的に鋭敏にとらえられており、対象化された主体の外の自然である。それは人麻呂の例に引いた歌のように主体の中なる感動と一つにつながった自然のつかまえ方とはまるで別である。この相違はもちろんそう簡単に個人的な資質の相違などではない。もっと深いものに結びついている。この自然を見る主体の自然と融合しあっているか、自然が対立的に見ているかといった違い方、それは生産農民として自然と結び合っているか、鍬を捨てた人間として自然を眺めているかの違い方であり、同時にそれは大化前代の土豪的旧氏族の在り方と奈良朝官僚貴族の在り方との相違とも相応じあっていると思われる。これは恐しいばかりきびしくまた胡麻化しのきかない人間主体の社会性でもある。
 「ますらを」という観念と、この赤人や家持やの織細な自然観照歌との間には、なにかそぐわない乖離を感じるのであるが、それは「ますらを」が土豪的地主的英雄的存在であるに反して、これらの歌の創作主体が、あまりにも官僚的都市的知識人的相貌を持っているかに思える点である。しかしもちろん都の官僚貴公子大夫〔二字傍点〕殿の歌として見れば、人麻呂の歌はあまりにも土の香に近くてそぐわないし、赤人や家持やの歌はいかにも大夫殿の歌というにぴったりしていると思うのである。前にもふれたように、奈良朝になると「ますらを」は本来的の意味からはずれ始めている事が、そのような所にも感じられるのである。
 
(326)       六
 
 しかし大切ないま一つの条件が残っている。
 奈良朝時代を貫くものに藤原大伴両氏の激しい闘争がある。藤原氏にははじめから大陸文化輸入者としての態度があり大伴氏には最後まで土豪的英雄の家の感じがあるが、事あるごとに大伴氏は叛臣の立場に立たされ、藤原氏を君側の奸のように思いながら手が出ない。藤原氏の方は左大臣不比等の女が聖武帝の后となり、四人の男子はそれぞれに異数の昇進をし、皇室の外戚として宮中深く親近し、武将の家筋であった大伴氏を抑えるのである。父旅人は太宰帥から大納言で終わり、子の家持は『万葉集』第二十巻最後の歌を詠んだとき、ようやくまた但馬守であった。旧家の名族大伴氏の氏の上として立った家持は、氏族全体の頽勢を身に感じながら、どうにもする事ができない。そして孤独無援の煩悶に虐げられる。保守的な名族の崩壊して行く運命のもとで、かえって内へ内へと内省して行く主体が成立する。この保守的な宿命の下で、およそその氏族的な誇りや観念やとかけはなれた内省的な個我が目覚め、類型的な民謡風の和歌を転じて、孤独の抒情詩を完成する。その敵対者藤原氏が、大陸の言語をよろこび学んで、宮廷の雅宴に漢詩などをひねくりながら、一族挙げての進取的な勢いに政策家らしく現実ととりくんでいるために、真の抒情詩の創造者になれなかった点は特に注意されなくてはならない。氏族の運命の閉塞という否定的契機を通じてのみ、ここで個人の心に根を持った純個人的な抒情詩は成立する。それは一族の者すらを排除した、独りの裡に深く沈んだ所から発芽する嘆きの歌である。そういう意味で、人麻呂とともに家持はやはり万葉歌のそれぞれに一方の極にいる者である。
 万葉作家の社会的性質を考えれば、舒明帝あたりから家持まで、多くの種類を含んでいる。しかしその背骨とな(327)るものはやはり貴族であって、ただその貴族が天武朝ごろまでと奈良朝とでは変質しているのである。その変質の背後に、実は万葉作家の最も重要な社会性がひそんでいたのである。いわば奈良朝以前には大化前代からつづく氏族的土豪的性格があったし、奈良朝には俸給生活者的な官僚貴族があったのである。
 
        七
 
 しばしば人は奈良朝を西洋古代、特にギリシャに比較する。ギリシャは郡市国家であり、奈良時代の日本もある意味で都市国家であった。しかし両者の差は顕著であって見違えるべくもない。
 ギリシャの都市の興隆は貿易によるのであって、この商業資本の蓄積が都市の経済を高度に発展させ、都市周辺の農園は、その生産力においてとうてい都市の経済に太刀打ちできなくなる。そして周囲の農村は、都市に隷属しなければならなくなっていった。古代においてギリシャには商業資本の上に立つ都市が生まれたのであって、したがってそこには近世的人間の原型のような人間が成立していたのである。
 しかし奈良の都はその点でまったくギリシャの都市とは別である。それは都市ではあるが、中央集権国家の政治的中心地であるに過ぎず、その都市自身はなんの全国を支配する商業資本も、まして生産資本も持っていたわけではない。それとは反対に、全国の農業生産の上に、その管理者であり集税官として腰を据えたのであった。ギリシャでは国家が都市国家であったのに反して、奈良時代には中央都市までが農村的であったのである。
 万葉作家が貴族を軸とする限り、この都市の性質からまた微妙に影響される。それはその抒情詩が自然観照の叙景歌というような一変種を生み出したことによく現われている。自然の観照が、ある静的で詠嘆的な感動の象徴的表現になりうるということは、自然に密接に結ばれてありながら、自然に手を触れないで見ていなければならぬ立(328)場の人間というものの存在をすぐ思い出させるであろう。
 『万葉集』の叙景歌こそ、古代史上西洋と類比を持たぬ都市的生活が生み出した珍種であるが、それの成立の根拠としては、ひろく大きい行動から身を退け、静的な境遇にみずからを閉鎖し、しかし自然とは人間社会よりも密接に融合しあっている創作主体を考えなければならないであろう。『万葉集』の叙景歌は、すなわち花鳥諷詠歌の祖である。もちろんそれは一度断絶するのだが、平安末期以後復興する。この花鳥諷詠歌の成立こそ、万葉作家の社会性を最も核心的に象徴しているものと言わなくてはならない。
 巻第十はすべて作者未詳であるけれども、それがわりに新しい作であろうという点についてはほぼ諸説が近似している。それが平安朝期のものよりも近世的な感じさえする花鳥諷詠歌になっている点で、とても遠く奈良朝以前にまで潮れるものではないであろう。それは奈良朝万葉作家の社会的性格を――また類稀れな東洋的官僚貴族の感性的社会的限界を最もよく反映していると言えるであろう。
   真葛原なびく秋風吹くごとに阿太《あだ》の大野の萩が花散る(二〇九六)
   なが月の時雨の雨にぬれとほり春日の山は色づきにけり(二一八〇)
   うちなびく春さり来れば小竹《しの》のうれに尾羽うち振りて鷺なくも(一八三〇)
   誰が苑の梅の花ぞもひさかたの清き月夜にここだ散り来る(二三二五)
(『万葉集講座』(創元社)第四巻・作家篇・昭和二十七年九月)
 
 
(329) 中世文学と『万葉集』
 
        一
 
 中世は『万葉集』をいかなる形において理解し受用したか。われわれは中世初期における京都歌壇の業績を調査することによって、この点を明らかにし、さらにその理解受用のされ方の意義を考究してみたいと考える。かくする事によって、中世の文学観ならびに中世の和歌と『万葉集』との関係を理解し、その歴史的必然性を認めんとするのである。
 けれどもしかし、中世という時代の限界についても諸説があり、それにも増して、時代の推移に伴う社会関係の変化に随つて、文学も著しき変遷発達衰亡を示しており、時代的にも内容的にも一概に中世文学の名をもって包括し得ないもののある事は、決して忘るる事を得ない点である。
 ことにわが中世においては、鎌倉時代と室町時代、すなわち言うべくば前期と後期とは、過渡期たる南北朝時代を間に置いて、文化荷担層における著しき社会関係の変化を示している。すなわち前期においては、伝統文化の荷担者としての公家と、新興文化の荷担者としての武家とは、ほぼ均等の社会的勢力をもって対立し、したがって、王朝文化の継承者たる公家階級は、発生期文化の荷担者たる武家階級に比し、高度の完成文化を所有する点において優位に在り、文学のごとき分野にあってはことにそれが著しかった。この点は、後期において、武家が社会の支
 
(376) 実朝は最近『文学』創刊号(昭和八年四月)における斎藤茂吉博士の「後鳥羽院と源実朝」によれば、著しく後鳥羽院の御製から影響を受けている事が分かった。そしてまた『水蜜』(昭和八年四月)における武田柘吉博士の「実朝の生涯」によれば、『金塊集』における二十二歳までの歌の中でも、初期にはより万葉的であり、後期に新古今的となったのであって、ことに『新和歌集』に存する側近の塩谷朝業、後の信生法師との贈答や、最後の朝詠み残した絶詠のごとき、まったく古今調以外のものでない所から見ても、晩年に至るほど、いっそう京都歌壇の主流に染められている事が分かるのである。また『日本文学講座』の斎藤茂吉博士の「金塊集研究」によれば、鎌倉武士はかならずしも万葉調の歌人でなく、ことに側近の臣であった信生法師なども、大体は古今調的であって、わずかに万葉調のものが見える程度であり、これは、実朝があやうくも及ぼし得た影響と言い得るのである。右の諸説は、決して、武家階級の上層が、和歌において自己発生的に、万葉的なリアリズムの歌を生み出し得はしなかった事の証明となる。武家は、より低度の文化荷担者として、より高度の京都文化に対したとき、常に、それに対して追随する形で接触したであろう。ゆえに作歌においては、つねに模倣に終始したのである。この事は、かの『新和歌集』や、『新勅撰集』以後の武士の詠作に見て、ほぼ明確の所である。中世初期の和歌と『万葉集』との関係を考えるに当たり、実朝を故意に避けた事も右の理由による。実朝の万葉調は著しく特殊的な発生であったからである。
 われわれは以上をもって、ひとまず「中世文学と『万葉集』」の筆を擱く事とするであろう。
 (『万葉集講座』(春陽堂)第四巻・史的研究篇・昭和八年七月『新古今時代』昭和十一年六月改題「定家為家の撰集と万葉集」)
    (三三六)* 「野」の意にあてた「努・怒」は、現在「ノ」甲類とする。本文叙述にかかわるから改めない。
    (三四六)*万葉二三五〇の五句は「予寒毛」で、「たもと〔三字右・〕さむしも」の訓は不審。
    (三六六)*著者の引く歌論は主として群書類従本によることが多いので、日本歌学大系本との異同も傍注した。
 
 
(377)  巻第一の歌について
 
       一
 
 作家のうちには幼い間から歌に親しんできた人が案外に多いのだろうとは思う。しかしながらそうした人でも、『万葉集』の第一巻から順序を追って素読をさせられたりしたという人はおそらくは少ないのではないか、あるいはほとんどないのではなかろうかという気がするのである。母親の寝物語で十歳ぐらいの時には『百人一首』をすっかり覚えてしまっていた、したがって十二三の時には歌みたようなものをこしらえてみたという人は、現に友人の間にもいるのである。また私の母は二十歳ころには『古今集』千百枚の歌留多を取ったものだそうである。しかしながら母の時代はもとより、二十世紀になって生まれたぐらいの年齢の人々の間にあっても、まだ素読で万葉巻一から暗誦させられて十歳の春を迎えたという人の話は、聞いたことがないのである。私が聞かなくても現にあるのかも知れないけれども、あったにしても実に実に稀な話なのであろうと思う。
 したがって大部分の人は、『万葉集』中の有名な歌の何首かに早く接していたにしたところで、万葉全巻を第一巻から順を追って触れるという事になると、案外大きくなってからの事なのではなかろうか。すくなくとも二十歳前後になってからの事ではなかろうかと思うのである。その頃になると、大概の人、ことに歌を作る人は、現代の歌や万葉・古今などの歌の何首か、または西行。実朝・真淵などという人々の歌などによって大体歌についての観念を作ってしまっているのが普通であろう。そして生まれてはじめて、それも万葉の長歌というものには多くは未(378)経験の情感をもって、あの開巻第一の雄略帝の御製「籠もよみ籠もち、ふくしもよみぶくしもち、この岡に菜摘ます児、家聞かな名告らさね」に接するのである。おそらく大概の人の第一印象はかならず多少の戸惑いに伴われていたに違いないと思う。その時の一種、得も言えぬ感じというものは、すくなくも私には忘れられないものになってしまった。予想しなかった奇異の感じである。もちろん意味などはっきり分かるはずもない。ただその言葉のひびきだけは、実に予想を裏切る語調なのである。
 私はちょうど同じころドイツ人が『神曲』の一節を原語で朗々と誦するのを聞かされた事があった。意味は全然分からない。しかしその音調の美しさと荘厳さとは、それだけで聞く者の心を打ちのめす力を持っていた。『神曲』を読むだけのためにでもイタリー語を習ってみたいと思わせるだけの魅力を持っていたのである。その後読んだケアリーの英訳はもう全然音調の魅力を欠いていたし、四種の日本訳はいずれもほとんど読むに堪えなかった。同じような印象を私は万葉開巻第一の作から受けた事を記憶するのである。もし十歳にも満たぬ中から素読で万葉を諳記してしまったために、そうした語調の魅力に触れないでしまった人があるならば、私はその人のために惜しまないではいられないである。同じ印象は第二首目、舒明天皇の国見の時の御製についても得られるのであった。第三首|中皇女《なかつひめのみこと》(孝徳帝の后後の皇極天皇)が間人連老《はほしひとのむらじおゆ》をして父帝舒明天皇に献ぜしめられた作についても同じである。
 ただそれは、『神曲』のように聞くやいなやすぐに感じ得たというのとは別である。何度か読んでみて感じ得た事なのである。そして、そうさせたものはその言葉であったと思う。不幸な事にわれわれ日本人として、いかに分かりにくいにしても、大体の意味の見当は字面から想像することができるのである。けれども万葉の第一首の日本語は、記紀の歌謡におけると同じほどに耳遠いものなのである。しかもその難解な言葉を通じて想像し得た意味がまたひどく単調らしいのである。そしてすくなからずあきれたのである。「籠《こ》もよみ籠《こ》もち」「ふくしもよみぶくしもち」の音の繰り返し、第二首の「国原は煙立ち立つ海原は鴎《かまめ》立ち立つ」の音の繰り返しと意味の上での対句的技(379)巧、それは実に単純で美しい。また第三首の
  朝《あした》には とり撫でたまひ
  夕《ゆふべ》には い倚り立たしし
  御|執《と》らしの梓弓の長|弭《はず》の音すなり
  朝猟に 今立たすらし
  夕猟に 今立たすらし
  御|執《と》らしの梓弓の長|弭《はず》の音すなり
という相当複雑な音と意味との繰り返し、これの音調の良さも格別である。しかしこの豪奢な言葉の遣いぶりによって伝えられた意味ははなはだ単純で少量なように感じたのである。(実はそれは決してそう言えない事なのであるけれども)この音調の良さと古語の耳遠さと意味の単調さとの結びつきが、それまでに経験した事のない語感上の不思議な感触を味わわせたのに違いないと思う。
 ところがいますこし進んで、人麿の長歌が出る所まで進んで行ったとき実際すっかり閉口してしまったのである。二十歳にして『万葉集』を通読しようと発願した当時の私は、そこにきわめて冗舌な美辞麗句による対句の繰り返しだけを感じさせられたのであった。そして倦怠したのである。忌憚なく言えば今もはじめて『万葉集』と取り組む多くの真面目な読者に多少ともそうした印象を第一巻の読過が与えているのではないかと思うのである。かつて『読売新聞』の文芸欄で読んだ記憶のある話であるが、パリで長唄を実演したときに、日本の音楽だというので音楽家や音楽記者たちがそのメロデーをノートしようとして意気込んでいたが、もののしばらくでみんな悲鳴をあげてしまった。こうどこまでも同じメロデーの単純な繰り返しではなんともやり切れないというのがその理由であったそうである。ところが長唄になれている日本人にはその似通ったメロデーの繰り返しは決して苦になどならないの(380)である。どこかこれと似た事が万葉第一巻の人麿の長歌の読過に際しては言い得られる場合が多いのではないかと思われる。つまり巻一における人麿の長歌は巻頭の三首の長歌に比してはるかに言葉の華麗が目について、中味が弱いという気がするし、これに比べれば巻頭の三首もはるかに比較にならぬほど中味と音調とがつり合って具足しているといったように感じられるのである。
 第一印象というものは恐ろしいものである。巻八・十・十七・十八・十九・二十等の多くは、たとえ万葉調と言われるある特殊の声調を持っている点では他の巻々と共通であるとしても、巻一・二などに比べるとほとんど『万葉集』中の両極と思えるほどの差異を持っている事が感じられる。そして、どちらが分かり易いかと言えば巻八・十等以下の巻々の歌の方がもちろんはるかに分かり易い。分かり易いだけでない、現代作家の作にして見たいほどの共通性を感じさせられるのである。それに比べると、巻第一・二の歌などは非常にとり著きにくいものである。言葉の意味を一通り辿ってみても、全体としてどこが良いのかちょっと雲をつかむような所がある。それにその発想と形式とがなんとなくわれわれの感じにぴったり来ない所が残るのである。なんとなく異人の歌の感が深いのである。
 
       二
 
 巻一は巻二とともに勅撰説さえ立てられている巻であり、両巻同じ立場から編纂されているから、たしかに対をなす巻である。その中巻一は雑歌であり巻二は相聞と挽歌とである。各部の内部は天皇の御代々々によって分けられており、いずれの部も大体舒明天皇から元明天皇の寧楽の都のはじめまでである。そして、雑歌のはじめ、すなわち巻一のはじめには雄略帝の御製を載せ、相聞のはじめには仁徳帝皇后の御歌を載せている。その一々の作も御製と称されるものや、皇族の御歌、またそうでなくても天皇の行幸や狩猟に陪しての作、天皇崩御の折や皇族の葬送(381)の際の作がほとんどすべてである。その御歴代の御代御代による分け方といい、その歌自体や詞書や左注やによって知られる性質といい、巻一の歌は巻二の歌とともに宮廷に伝えられ保存された歌である事は明確である。そして時代は推古朝の次から近江・飛鳥・藤原朝を経て奈良朝のはじめまでである。皇極帝の御代以後額田女王・天智帝を中心としてよい歌が載せられ、持統・文武帝の御代には柿本人麿・高市黒人を中心とする作が載せられている。そのように述べてくると、その編纂ぶりから一々の歌に至るまで、まことにはっきりしていてなんの問題も含まないかに思えるのであるが、実はそうでない。これらの諸作は、くり返し読み味わっている間に、実に種々の疑問を起こさせる緒を到る処にのぞかせているのである。まず開巻第一の雄略帝の御製である。これが御製そのものか否かは第二義的の事として、雄略帝の物語または舞踊に伴った歌であったものかも知れぬと見る説がようやく強くなって来ている事は周知のごとくである。その調子もまだ五七調にはととのっていず、三四五六五五五五というような特殊なものであって、形態から言えば記紀の歌謡の類と全く同一である。これなどは明らかに古いものであるし、したがってそれが宮廷へ伝承されたについては、記紀に載せられた歌にからむ物語などと同じく語部によって伝承された叙事詩の中に含まれて伝わったものに違いない。現に『日本書紀』には天智帝の御代まで多くの歌謡を載せているが、それ以後には載せられていない。巻一・二の歌はちょうど『日本紀』に含まれる時代にわたって、それに載せられなかった歌を集めたかの感をいだかせさえするのである。そういう見方が許されるとすれば、開巻第一の御製も実は語部によって伝承された雄略帝物語中の一つの歌であるわけで、したがって雄略帝御自身の真作である必要はかならずしもないばかりか、真の御製にしたところでむしろ語部のながい伝承の間に無意識的な変改発展が伴って、物語中の菜摘処女と帝とのかけ合いの歌らしくなってきているものと見ることができよう。その全体を挙げてみると、
  籠《こ》もよ み籠《こ》もち ふくしもよ みぶくしもち この岡に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね そらみつ(382) やまとの国は おしなべて 吾こそ居れ 敷きなべて 吾こそ坐せ 我こそは 告らめ 家をも名をも
である。いかにもこれはこれだけではぶっきら棒である。その前後に、すくなくもこの後にもっと処女との唱和の作が配置されてあったはずであって、これだけではどう見ても脱落した断片である。
 第二首目 舒明帝の御製
  大和には 群《むら》山あれど とりよろふ 天《あま》の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎《かまめ》立ち立つ うまし国ぞ あきつ島 大和の国は
 この作のどっしりした感じは 「国原は煙立ち立つ海原は鴎立ち立つ」の対句の落ちつきから来ている事が多大である。その外にこの作の個性的な点はない。むしろ国見の歌としての類型通りの作のようである。この作の時代は推古朝より新しいのであり、大体五七調になっているが、終わりは六五七であって型のごとくの五七七にはなっていないし反歌もまだない。こうした破調がかえって人麿作の流麗なのが冗舌に近い感を与えるのに比してやはり簡古の感じを与える点であると思う。そこに幾分まだ記紀歌謡に親近性を持つ声調が残っている。
 第三首目の作
  やすみしし わが大王《おほきみ》の 朝には とり撫でたまひ 夕には い倚り立たしし 御執らしの 梓弓の 長弭の 音すなり 朝猟に 今立たすらし 暮《ゆふ》猟に 今立たすらし 御執らしの 梓弓の 長弭の 音すなり
     反 歌
  たまきはる宇智の大野に馬速めて朝躇ますらむその草深野
 これは舒明天皇が宇智野に狩されたとき、帝の皇女、後の孝徳帝の后、すなわち女帝斎明天皇が、間人連老をして献ぜしめられた作であるが、この詞書は一般に皇女が老を使として帝に献ぜしめられた御自作と見られている。けれどこの詞書はこのままで、皇女が老に命じてお作らせになり、そして献ぜしめられた歌とも取れるであろう。斎(383)明天皇は紀によれば皇子を亡くされた悲しみの御歌を三首残しておられ、それはすばらしく傑作であるが、それも臣下をして作らしめられ、時々それを唱えて悲しみ哭し給うたように取れるのである。この作も実は臣下の作であってなんらの不都合はないわけで、ことにこの形式はやはり非常に類型的な感が深い。前後二段になって、それぞれに朝と夕との天皇の御行為を対句に組んだ上、「み執らしの梓の弓の長はずの音すなり」という全く同じ句を末尾に附してある。反歌によって朝狩の場と分かるが、対句に仕立てるために「朝狩に今立たすらし夕狩に今立たすらし」としてあって、これをまことに自然だと言うのはまことに不自然なことである。ここにはすでに著しい型の支配が存している。そしてこの型の中に歌われたものは決して今のわれわれに白熱した感情を与えるものではないと思う。むしろ荘重であって緊張した感はあるが、それは対句が音調の上で最も効果的に成功しているためである。末尾の句は五七五五という形である。しかし前の二つの歌に比べると、帝の御愛玩の弓という事に対する強い感じを持っている人の作である事は調子の上に出ている。ことに反歌は堂々たる傑作だと思う。全体としてたしかに前二者よりはより個性的な調子がよく出ていると思う。
 以上を概括して考え得ることはこれらの諸歌にある五七調への未統合と、対句表現とは、ともに記紀歌謡形態の残存であるという事である。歌うときには調子をとって歌うから音数の不定は、ただ読む時のように不便は感じない。こうした不定が苦にもされず残っているのは、それが歌われるからの事であったろうが、そのために思いの外に歌としてどっしりした感を出し得ていると思う。とともに対句の表現法は記紀歌謡以来しばしば行なわれた所で、これの使用は従来からの伝来の法式に則るものであり、したがって従来からのうたい物としての調子を素直にほとんど無意識に継承しているものであると思う。そこには特にその法式の継承に対して新味を加えるとか、それを破るとか、芸術的に磨きをかけるとかの意識は働いておらない事が感じられると思うのである。
 『万葉集』の巻頭三首の長歌は著しい程度になお太古の面影を遺しているものである。大化改新前と後とでは、(384)そしてそれに次いで飛鳥・藤原朝、いわゆる白鳳期を経過してゆく問には歌にも著しい変革が生まれてくる。個人的な感興にぴったりと密著した創作的詩歌の生まれて来るのは飛鳥・藤原朝を経過する間においてである。この点については折口博士の前々から説かれる所がまことに卓説であると感じられるのである。現代人の創作意識においては、真に自己の主観に根を持つところのものを歌うということが、大方の場合個人的であり、類型的でないということと同じ事を意味するようになっている。したがって、個性的ということと独創的ということとは同じでさえあり得る。そうした眼から見ると、万葉巻一のはじめの長歌などは非常に良さを掴む点で見当のつきかねるものになってしまうわけである。一首声調の正しさ、美しさ、力強さといったものを端的に感じとるのでなければならぬはずのものである。
 
       三
 
 以上の三首の長歌に比べると、巻一の人麿の長歌には、すばらしい芸術意識が動きはじめているように思う。「近江荒都を過ぎる時」の作に見ても、
  玉襷 畝火の山の 橿原の 日知の御代ゆ 生れましし 神のことごと 樛の木の いやつぎつぎに 天の下 知ろしめししを 天にみつ 倭をおきて 青によし 奈良山を越え いかさまに おもほしめせか
と言うあたり、神武以来歴聖の都が大和にあったのをさし置いてという意味に、しきりに枕詞を使い、また思う限りを流暢に述べ語ってゆく調子が出ている。次いで後半に
  天ざかる ひなにはあれど 石走る 淡海の国の ささなみの 大津の宮に 天の下 知しめしけむ 天皇の 神の尊の 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の 茂く生ひたる 霞立つ 春日の霧れ(385)る ももしきの 大宮処 見れば悲しも
と歌いおさめる所、ようやく大津宮のことに及び、最後に荒廃した実景に焦点が転じて一首のしめくくりが著いている。発想の第一声はあくまで歴史的な皇室の特色にあって、容易には五感に訴える現実に触れて来ない。そしてそれに触れる事によって一首は完結する。しかも「神の尊の大宮はここと聞けども大殿は此処と言へども」と繰り返して荒れた宮廷の跡所に歌を移すために、やはりきわめてしっかりと対象へ打ち込むように感じられるのであるが、この繰り返しの方法は前にも触れたように古いものである。ただその後にくる「春草の茂く生ひたる霞立つ春日の霧れるももしきの大宮所見れば悲しも」に至っては、その対句をなさずして言いかえつつ、波のうねるごとくに重畳させてくる語法が印象深く感じられるにかかわらず、終わりの五七七と言いおきめたところの調子は、かえって平凡化している。すくなくもこの作を前の三首に比べると、主題が漸層的に繰り出されてくる所、修辞のすこぶる技巧的になってくる所、五七五七の調子の非常に正確となる事など、作者としての人麿の発明と発見とによって引き直された所はすこぶる多い事を感じるのである。それ以後人麿の長歌はすべてこれらの特色を十分に発揮しているのである。それにもかかわらず、長歌は天平時代に入るとたちまち萎み衰えてゆくのが感じられるのである。その意味で創作的長歌らしい長歌は人麿をもって生まれ、人麿をもって終わると言うこともできるであろう。いわば人麿の長歌は、と言うより奈良朝の長歌もすべて含めて、それは前時代の語部の物語の間に挿まれて語り伝えられた不定型抒情詩の形態を継承して五七調に整理したものであった。その形態は決して人麿の独創でなく、そこに長く古代社会から伝わる歌の歴史性を背負っているのであった。同時に人麿は長歌において多くは常に宮廷の種々な必要によって歌ったらしいのであるが、それには長い伝統を持つ詩形を新しく整理した長歌の形が最も適当しておったと思われる。後、唐制がいっそう徹底し、宮廷の雅宴・陪駕に帝徳をたたえるにはもっぱら詩をもってするようになってから、すっかり長歌の宮廷における位置はすたれてしまうのであった。
(386) 第一巻の特色は長歌の多い事である。しかもそのはじめのものほど古体を存している事である。これらの事は著しく第一巻をわれわれの心情からかけはなれたものたらしめている。
 その間々に点々と存する短歌の中には、それが創作詩となって、独立した時代の面影を感じ得るものが多く残っている。
  秋の野のみ草苅りふき宿れりし宇治の宮処《みやこ》の仮廬し思ほゆ
  熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は傍ぎ出でな
  渡津海の豊旗雲に入日さし今夜《こよひ》の月夜あきらけくこそ
  ささ浪の志賀の辛碕幸くあれど大官人の船まちかねつ
  何処にか船泊すらむ安礼の崎こぎたみゆきし棚なし小舟
 これらの短歌の声調の感傷に溺れたような所もなく、理智を通して見ているというのでもなく、しかも実にしっかりと掴んでいる確かさは、天平時代の短歌のすでに織弱となっているのに比べるならば驚くべきちがいが存している事を知り得る。けだしこれらこそ真に発生期の短歌である。和銅に至るまでの時代の人々はすでに古における人々のように、単に氏上によって結合されている氏族共同の《ママ》団員ではない。ことに上流の人は、個々の才能によって高く衆の間にぬきんでる事ができた。より個々人が人としてあり得る時代となってきた。いわばかれらの間に個々人の自由な伸展がある意味において生まれつつあったのだ。その個人性の生成は決して鋭くはなく、また完璧となる性質のものでもなかったのだけれど、それにつり合った渾然とした、知的にも意志的にも感性的にも不均衡な偏頗な発達を成したところのない主観を反映した短歌を生むには都合のよい事であったのだ。
 巻第一の全作品には、その外になお案外に特殊な伝説を下に踏んでいるもの、伝説中に挿まれた歌として見るべきもの、古代社会の宗教観を強く反映しているものなどが多い。それらの事情は一々、巻一の歌を二の歌とともに、(387)『万葉集』中でもわれわれに親近性を感ぜしめにくいものにしていると思うのである。巻一の根本的な理解には、われわれの常識に直接結びつけられた鑑賞は無力である。それにはぜひとも古代社会と大化以後の律令国家との交代する特殊な時代における種々な生活・思想・感情上の問題に対する見通しを必要とするであろう。
(『短歌研究』昭和十一年十月号・「万葉集巻一の特別研究」・特集号)
 
 
  古典における民間文芸
 
       一
 
 私は民間伝承の研究にとくに関心を持っている。そのためにいわゆる民俗学といわれている方面の本なども、折に触れて開けても見たし、したがってその方の基本的な名著だけでも一時も早く翻訳を終わって、岩波文庫などに網羅されるべきものだと切に希望してもきた。まして日本の民間伝承については次第に関心が強まってきて、柳田国男先生や折口信夫博士などを中心とした諸氏の報告などには、できるだけ注意をするようになっていた。もちろんその面の報告の載る雑誌も数は相当だし、民間伝承の範囲は漠としてひろいのだから、すべてを注意するということは追いつく事でないが、著書になったものだけでもできるだけ眼を通すようにしてきた。
 と言っても私はいわゆる民俗学者として、民間伝承の採集や報告に従事しようとしたのでも、しているわけでもない。私の今やりたいと思っていることは、日本文芸史を書き直してみたいという事なのであるが、そのためには民間文芸の考察は絶対不可欠だということが分かってきたので、民間伝承研究の方から補助されるのでなければ、(388)とうてい、のぞみを達することはできないと感じたゆえに、強い注意を喚び起こされたのであった。だから柳田先生の東北文学の研究とか、炭焼小五郎の事とか、一つ目小僧とかがどのくらい示唆の多いものとして映ったかしれないのである。まったく『東北文学の研究』や『桃太郎の誕生』は、お伽草紙などを解く上に無二の宝典となるかもしれないであろう。同じ意味で折口博士の『古代研究』から新しく教えを汲みとる因縁も持ったのであったし、その門下の業績にも注意するようになった。炭焼小五郎がどうしていわゆる国文学に関係を持ってくる事があり得るであろうか、それのかなり冒険ではあるが立派な見本は、高崎正秀氏の『万葉集叢攷』などの中に見られるであろう。
 そうした事の二三を念頭に置きつつ、今は数年前の国文学時評《*》のなかで、私は国文学に民俗学的研究といった分野のひらけつつあることを記したのであったが、その当時は有力な国文学者からすら国文学の民俗学的研究などいうものはいまだかつて聞いた事がないのであるなどという反駁を書かれたものであった。そればかりではない、早くに一度私が大きな影響を受けたところの折口博士の『古代研究』などは、迷語に過ぎぬように見る見方もずいぶん有力に存していたのであった。それを思えばこの二三年の間に民間伝承に対する興味のひろまったことは駭くに足るものがある。ねがわくば日本にしばしば繰り返されてきたように、これもまた一時の流行におわるものであらしめたくはないのである。ほんらい私は現代身近の作品に対すると同じ態度で、五百年千年前の作品をも鑑賞できると信ずる芸術的態度に疑いを感じた。というよりは私自身の感性の鋭鈍とは無関係に、歴史的にちがった時代の作品を全面的に享受する事はできないのでないかと感じた。いわば感性の歴史的限界を感じたために、古典文芸に学的に立ちむかう時の足場を失ったのであった。それに対する手当てのために、あてもなく歴史を学び、社会史に行き、経済史に行き、美術史をのぞき、考古学をさっと過ぎ、民間伝承研究へ移っていった。今ようやく文芸史研究の足場がきまりかけてきたとはいえ、流行のテムポははるかに早く私の思索的遍歴の足なみを抜いて、いまだに(389)「民間文芸の考察」をよく応用した文芸史研究の一第もまとめていないし、民俗学者らしく「民間文芸」そのものについての採集も調査もなし得てはおらない。ただ得てきたところは民間伝承に対する幾分の理解だけである。その理解をたよりにして古典の世界に眼をなげただけでも、これまで化石したようにおし黙って触れるところのなかった古昔の作品が、命をふきこまれて向こうからむくむくと起き上がってくるような感じを味わわされるのである。そうした変に薄気味のわるい予感を感じさせる古昔の作品は方々に見出だされるのであるけれど、ここでは『万葉集』の歌についてだけ、民間文芸を見る眼で見たときの見当を記してみょう。
 
       二
 
 現代における『万葉集』への関心は正岡子規にはじまる。もちろん木村博士この方、万葉学の歴史は独自の道を歩いているといえるかもしれぬ。しかしその歌を見る眼は、歌人も学者も子規以後近代人になったのである。別の言葉でいえば、現代国文学者の眼は多く、万葉の歌を見るに詩人の眼をもって見て、学者の眼をもってしない、いわば肉体的感性的であって、それが科学的知性によって焦点を調節されておらないように見えるのである。子規は絶大の力によって、俳句と短歌とを美事な近代文学に変質させた。そうなし得たわけは、子規が近代的文芸観によって俳句や短歌を理解したからであった。そして近代的に見ることにいささかの疑いも子規は持たなかったのである。文芸を見る近代的特色はなんであるか。などと言うまでもなく、それは個人性の独創的表現を文芸たることの尺度とすることであった。子規はその点ですこぶる勇敢であり得たから、俳諧の発句は俳句という名称のもとに文芸として認めたけれども、衆人の風流である付合は文芸でないとして否定しさることができた。しかし本当は、付合が子規の近代的文芸観にかなわなかったのだと言うもよく、付合を近代文芸として生かし得る見こみが子規に感(390)じられなかったと言ってもよい。さいわいにして短歌にはそうした問題はなにもなかった。そのかわり子規は、『万葉集』の歌までをみな、近代文芸を見ると同じ尺度で見てしまった。つまり個人的独創である。万葉歌には大方は作者名が記してある。なんの独創を疑うべきが《ママ》あろう。子規にとって、これは自明の理であったに違いない。近代文芸の黎明期を担う歌人にとって、これはまことにふさわしい振舞である。しかし現代の学問が、それと質的に同じ認識にとどまっていねばならぬ義務はすこしもないのである。国文学者も望遠鏡を用いねばならぬ。戦いはすべて機械化戦の時代である。肉眼の感性だけにたよるのは、十六七世紀の科学時代の残映に外ならぬ。
 しかしながら今日の万葉学は、国文学の他の部門に比べて、分量と斉整の点で群を抜いた豊饒さを見せている。いわゆる万葉学の専門人でない私が、なにも言うべき事はなさそうである。にもかかわらず一言したいのは、なんらかの疑問を残すからである。
 その一つに民謡の問題がある。『万葉集』に民謡の多く採られていることについてはすでに定説がある。しかし作者名の記入されていない歌全部をいちおう民謡的なものと見做す立場を強くとった立場が唯一の学的な立場という風になってきているであろうか。のみならず、作者名ある歌であっても、家持などに直接関係のある人々や、またはかれに近い時代の、文筆の技によってはじめから字に書いた創作をやりそうな人の歌でない限り、いちおうはみな、作者と歌との関係について疑いをかけ、伝承歌的性質を喚ぎつけようとする立場こそ、最も学的な立場であるという風になってきているであろうか。実はそうした分析探究の眼こそ学者の眼であって、いちおう今日の歌人の眼から区別されるものであって、そうした探究の必要上やむなくわれわれの肉眼を補う望遠鏡や数学やを応用する事が生じてくるわけであろう。日本文芸史研究の上では、そうした望遠鏡や数学やの一つが、民間伝承研究であると思う。一度そうした立場から見るならば、万葉歌の大部分はみな個人の創作でなく、民間伝承歌のように見えてくるのである。私にはそうなりそうに思えてたまらないのである。そしてそう見た方が、はるかに日本の学問のた(391)めに計り知れぬ貢献をするのでないかと空想するのである。あるいはそうなれば、現歌壇学界を通じての万葉歌の鑑賞され方は、根本的に修正されるようになるかも知れない。しかしそうなればなった方がはるかによいではないか。それは日本人が支那人に笑われないですむ一つの資格を身につける事だからである。なにを逡うことがあろう。
 もとよりすでに、折口博士など早く明晰にそうした立場においての仮説を立てておられるのだが、なぜか万葉学者一般の公認するところにまだなっていないような気がする。黙認されているのかもしれぬが、黙殺ではないかと危ぶむのである。
 しかし万葉学者が容易にそこまでの勇気を持ちえないわけは、あるいは『万葉集』自身にそうした仮説を支持する有力な文献的証拠が欠けているという、実証的厳密さの精神からきているものであるかもしれぬ。実際のところ、作者名について左注に異伝をかかげるものがあるとして、左注そのものの性質に種々問題も起こるかもしれず、そうとすれば作者名ある歌に対して作者との関係を疑うのはかなり冒険でもあり、学者として軽々にすべきでないかもしれぬ。しかし同じ奈良朝の文献に眼を移せば、それと気のつく例がある事は、折口博士もすでに度々指摘しておられる通りである。巻一麻績王の応和の御歌が、『日本書紀』と『常陸国風土記』との文献的証拠によって、いたく〔三字傍点〕とかいらご〔三字傍点〕とかいう地名に結びやすい歌謡であったことは認められる。かりに譲ってはじめに麻績王の御作であったとしても、『万葉集』に採られたのは王の流謫の地とはあらぬ遠隔の伊勢の東端に流伝して土地の伝承歌と化した後の歌であった事は消すよしもない。この一事だけででも『万葉集』の作者と歌との関係を、素朴に信じてはいられなくなるのである。もちろんこうした類例は、奈良時代の文献だけに傍証をもとめている限り、ひどく多くはなり得ないであろう。しかしこうした示唆は、実はただ一度あればそれで十分なのではなかろうか。打てば響くということもある。
 とにかく『万葉集』巻々の編者は、おのれの用いた文献的資料の記載をいちおう信じたか、あるいは民間伝承をみ(392)ずから記載するに当たっては、自己の所聞を信じたであろう。しかし伝承はかならず変化するものであって、記録にとどめられた形は変化の一段階における形にすぎぬという事を認めさえすれば、万葉の記載が決して今日の記録的証拠と同価値のものでないことをも認めなくてはならなくなる。つまり歌は万葉に記載されるまでに、幾変遷を重ね、また流伝の場所のちがうによってもずいぶん形を変えていたろう。そして万葉に記載された後においても、さまざまの所に流伝しつつ変遷をかさねたであろう。したがって、別の時に別の場所で文学にとどめられた場合には、当然のこととして両者の間になんらかの差異が生じているはずである。『万葉集』中の二箇所に出ている歌が、形の上に差異を生じているという事は、伝承的性質を認めようとする立場にとっては、得がたい一つの足場となろう。
 
       三
 
 実は以上は言わずもがなの事である。私の目的はここから先にある。『万葉集』中の二箇所に出てくるというに止まらず、『万葉集』以後の文献にも、当然別の時・所における記載はあらわれてくるであろう。そしてそれらが万葉記載の歌と同じ伝承の歌を記載したにしたところで、なんらかの点で、というのは歌自体の形においても、またその歌にまつわる伝説においても(作者名は伝説の一部である)、差異を生じている事は、大いにあり得ることである。かくて、万葉の歌に伝承的性質をすこしでも認める以上は、平安時代の文献もまた強力な資料としての価値を持ちはじめるであろう。それは『琴歌譜』の発見によって、記紀歌謡の性質がいっそうはっきりしたのと同じような関係を持つであろう。そうした文献として私の思いうかべているものは、古今・拾遺『古今六帖』三十六人集中の万葉歌人の集などである。
 しかしそう言えば、人は私の短見を嗤うかもしれない。古今以後の集に万葉の重載歌や万葉歌人の名を負う歌の(393)多い事は衆知の問題である。ただその歌が万葉所載の歌に比べて平安朝風にくだけてもおり、作者なども万葉記載の所伝に違っていたりして、万葉専門家の見識をもってすれば、とうてい採るにたえないものだから問題にしなかったまでである、と。これはまさに歌人としてならば至極の言である。斎藤茂吉博士が歌人〔二字傍点〕として、『拾遺集』の人麻呂の長歌を採るにたえずとされる事は、私の十分に同感しうるところである。と同時に大著『柿本人麻呂』が絶対に学問の書でなくて、一種怪奇なる芸術作品であることを認めねばならぬのである。学者がもしその立場に倣うならば、万葉学を挙げて作歌法に従属せしめたことになりはしないか。なんとなれば資料の採択範囲を決するのに、詩的評価を先だてているからである。
 それよりもむしろ私は万葉の訓について考えたい。現代の訓がより万葉自体に接近していることは信じてよいであろうが、仙覚までの訓に較べれば著しい変化がある。仙覚訓も古点次点を改めた点は避けるようにする。これは西本願寺本があるによって、みごとに分別することができる。そして元暦校本以前の平安時代の古写本『類聚古集』『古葉略類聚抄』『万葉抄』などの訓を集める。それから六帖、三十六人集、二十一代集の万葉作者名を附した歌全部を集め、また別の作者名を附した歌、および読人不知の歌の中から、『国歌大観』などの力を借りて、万葉重出歌と見なし得るものを採集する。それらの歌と、前の古点次点の訓による万葉歌とを較べて見る。すると、それらが想像以上に似たところのある事を感じるであろう。それはいったいなにを意味するであろうか。
 以下は私の想像にすぎぬ。しかし大体を言えば、一字一音の表記法によっている巻々はほぼ訓みちがえという事も避けえられようが、義訓・借訓・戯訓などの頻繁に用いられている巻々になれば、梨壷五人この方、次点の点者までは、訓み解くために相当の苦心を重ねたことと思われる。その場合、最もよく参考になったのは、相似通った他の文献所載の歌どもであったろう。その結果、古点次点そのものが、平安朝風になってしまう傾きが多かったであろう。古点次点が、平安朝文献に見える伝承歌に似ているのは、古点次点が平安時代に記載された伝承歌を訓読(394)の参考に資したためだとも言えるであろう。
 右の一事は逆にまた、古い伝承歌の平安朝文献に見えるものが、万葉から転載したのでも万葉をくずしたのでもなく、別系統の伝承が別のもっと後の時代に記載されたために、後代的な調子を持つようになったのである事を証明する鍵となるであろう。『古今集』にしても『古今六帖』にしても、それらの文献を基礎資料に十分用いた事であったろう。
 万葉の資料になったものですら、『類聚歌林』や『人麻呂歌集』などは伝承歌の採集帖であったらしい事はほぼ推察できる。『類聚歌林』も平安末期まではあったように、そして逆には『琴歌譜』や『神楽和琴秘譜』の類が新しく世に出てくるように、こうした採集帖に数多く作られつつあったに違いないのである。
 以上のようなわけで、平安時代文献に見える万葉系の歌は、決して改悪されたものでない。ただ伝承を固定せしめる時がおそかっただけである。というように見る事にして、平安朝文献の万葉系の歌と、万葉の歌との精細な異同をあとづけて行って見よ。私は新古今から続古今までの四集についてしかまだ行なっていないのであるけれど、それでも大体の予測はつくのである。一方に人麻呂や赤人やの作になっているものが、一方では作者不明になったり、あらぬ作者のものになったりさえしている。この事は平安朝文献の不確実を証明するものでなくて、万葉における人麻呂作や赤人作やという記載を考え直さないでは許されない一つのきっかけを提出しているものである。
 私は以上をもって、万葉歌の多くが伝承的性質を持っている事の万葉外的証拠となし得るように思うゆえに、この紙上を借りたのである。こうした事も立派に問題になりうる。そして問題にもならぬといって見すごすのは万葉を愛するゆえんではないという気がする。そして、こうした研究がやがて、万葉歌の伝統は、直系としては平安朝以後の宮廷外的民間伝承の方にながれている事への、正しい理解の源となる時があろう。『古今集』以後の二十一代集の伝統は、別の系譜に属していることの理解が、和歌史を正しく見直させる鍵ともなるであろう。
(395) もちろん、以上ははじめにも記した通りまだ私の希望であるにすぎぬ。民間文芸の考察の真に理解ある方法が古典文芸の研究に着実に応用されるとき、そこには瞠目に値する結果が生まれてくるのではないか。それはもちろん『万葉集』一部に限る問題では絶対にない。ただ私は一例を万葉に借りただけである。そしてすくなくも『万葉集』についてだけは、そうした研究を早く成熟せしめたいのである。支那の『詩経』については、清朝までの儒教道徳的訓釈の堆積にもかかわらず、数々のそうした新しい研究がすでになしとげられているではないか。もちろん日本においても、着想はすでに公表された問題である。民間伝承研究の方法に徹した学的実証がそれを待っているだけである。   
   (『文学』昭和十五年十月「民間文芸の考察」特輯号)
   (三七八)* 「今年度国文学界の展望」(昭和十一・十二・第一巻所収)か、と思われる。
 
 
   作家と歌と読者
 
       一
 
 『万葉集』をすぐれた歌集とすることは一つの常識である。私も別に異を樹てようとするものではない。『万葉集』はすぐれた歌集であることを感じているのだから、それですこしもさしさわりはない。けれども『万葉集』をすぐれた歌集であると感じうる根拠が、すべて『万葉集』自体にだけあるように思いきるのは短気でもあるし短見でもある、とすくなくも私は信じている。『万葉集』はよい歌集だと感じると、それは『万葉集』自体がよいからだという風な証明の仕方ばかりが繰り返し試みられる。『万葉集』はよいと感じる、とそう言うだけでは主観的な(396)感じに過ぎぬではないかという抗議が出ることを怖れてか、不思議に万葉自体の良さだけが原因で、万葉は良く感じられるのだというように言おうとする。それではまるで銘々の感力というものには最初から普遍性がないと決めてかかり、一々に個人的であってなんらの共通性もないと決めてかかっているようなものである。ある意味で個性の表現でなければよい芸術でないと論じた、あの芸術観が根強く影響力を保っている証拠でもある。と同時に主体的な把握ということに客観性があるという自信がもてないで、個々の主観から超越した客体的なものでなければ客観的妥当性の存し得る場とはなり得ないと、先入見的に決めているためでもあろう。だから万葉がよいと感じられるのは、取りも直さず万葉自身が超時間超空間的によいから、いつの人でも感ずる明のある限り、よいと感じるのだと言うことになる。反対に万葉をよいと感じないならば、それは万葉がわるいのでなくて、万葉をよいと感じ得ないのがあわれな事だということになる。主体的把握が個人的なものだという怖れをいだくから、それに客観性を認めようとする場合、把握されるものに本来具足する性質的《ママ》に把握できるのだという風に持って行く。そして素朴な実在論的模写説になってしまう。懐疑的立場にいま一歩である。自信のない事おびただしい。そうした点に私はすこぶる不満を感じるのである。
 万葉がよいとしたにもせよ、江戸の国学者と明治の子規や左千夫やでは、万葉をよいとする受け取り方がちがうのである。今日にあってはまた別になりつつある。保田与重郎氏が『万葉集の精神』という大きな本を書いて、これまでの歌壇や国文学者の常識に抗議するのもそのためである。万葉をよしとする受け取り方にもさまざまの場合があり得る。人あるいはその事実を解釈して、盲人等が象の足や鼻や耳やをまさぐって全体を推した話に比するかもしれぬ。しかしそのたとえは適切ではない。盲人は同時的に一匹の象のまわりにいて、まさぐったのであって、居場所の違うため、かれらの感覚圏内に入ってくる象の空間的部分が別なのであった。しかし江戸の国学者と明治の子規とでは、時がちがっていて、したがって象を把握するにしても、象の透視画が別になってくるのである。そ(397)こには時間的距離が考えに入れられる要があるのであった。つまりは、万葉に対する感じ方は、万葉自身だけの事でなく、これを感じる人間の問題でもある。これを別の言葉でいえば、作品と読者または鑑賞者との関係は複雑でさまざまであり得るという事になる。つまりは作品はそのままでも、読者の時間的位置がかわるだけで、受けとられた作品の姿は早くも別になる。同じ時代に眺められた作品は小異はあっても大同であろう。それゆえに、違った時代の見方というものを比較の物指しに用いぬ限り、同時代の人々の相互の見方には共通点がみとめられ、その共通点が作品そのものに属する性質として信ぜられるに至る。とんでもない話である。
 
       二
 
 当今歴史が回顧され、歴史的認識がやかましく論ぜられるようになったけれども、その論の多くは、ただに歴史的な事件を問題にしたり、これまでに書かれた歴史を読むことに終わったりしているようであって、歴史的認識という事について深く思いを籠めているものが少ないのはなんとした事であろうか。歴史を論ずるということは、ただに今日の事を感じたり批判したりするかわりに、時代的に過去に属する事柄を感じたり批判したりする、というに終わるものであってはならぬ。昨日までと同じ自己でありながら、今日は歴史が問題となってきたために過去に眼を向ける。すると結構、過去の事も面白く感じる、というのであるならは、むしろ切実に現代の事を感じたり考えたりしていた方がまだ思いつめたところがあってよろしい。じぶんの生きている場から隔たった時代の事をながめていると、大方は第三者的な岡目八目になって、気楽にたのしみながら、しかも最もわるい事には、今日の問題の比喩的な形をその上に認めるようになるのである。今日の眼で今日の事を見ずに『徒然草』を見ると、結構『徒然草』の作家も今日の人のように個人意識のはっきりした人であって、自己批判や時代の文明批評やをしているも(398)ののように見えてきてしまうのである。これまでの学者の批評は大方そうであったし、近頃の日本古典への共感というものも大方はそうした掴み方と大同小異である。ひどいのになると、千二百年前の『万葉集』ですら今日と同じ意識を持った人間の創作であるかのように独りぎめにした上で、『万葉集』の芸術性を論じ、作家を考える。そしてそうした場合の根拠には、しばしば人間の感情は五百年や千年でそう易々と変わるものでないという考え方がひそんでいる。すくなくもそうした考え方がおそるべき独断であるという事だけは、証明は第二としても触れておかねばならぬ。もし変わらぬという点だけを強調するならば、それは「三つ子の魂百まで」というたとえもある。変わらぬものがあることは日本国民の歴史がある限りあるといって絶対に間違いでない。そしてなにもそれを否定しようとするものでもないし、否定する者もないであろう。むしろ私などは、そうした変わらぬ日本国民の心を感じ過ぎるゆえ、他の一面を言う必要を感じるのであって、神代この方日本人が変わらぬという点を今更のごとく強く言う人は、かえってなにか日本国民の現在に心安からぬものを感じているのでないかを疑わしめるのである。有史以来、生々として伸展してきた日本国民にとって、今日ほど光栄の日はないのだし、今日ほど偉大な時はないのだということを感じ得ないときにだけ、日本人は変わりゆくという考え方に恐怖を感じずにいられないであろう。「三つ子の魂百まで」というたとえは、個人の事にとどまらず、国民のこととしても言える。
 しかし今日万葉を論ずるに、往々「三つ子の魂百まで」的の立場から考えている立論の多いのはどうした事であろうか。多くの人、個々人の関係においては、いつまでも子供である事を軽しめることは大いにある。なにゆえならば人は生長するものであるからして、生長しきれないものを軽しめるのはあり得る感情であった。三十にして三十の心境あり、五十にして五十の心境があり得る。したがって三十にして三十の見識を持ち得ず、五十にしてその年らしい見識をきずき得ぬ人間は低俗の徒として見られるのである。国民が千年の国の歴史をまもり来るとき、千年の変化に相応じえぬならば、それは真に歴史に生きてくる事にはなり得ないであろう。その事をひるがえして言(399)うならば、流行の面において見る限り、万葉人と現代日本国民はちがっている。『徒然草』の創作者と現代人とはちがっている。同時に万葉人と『徒然草』の創作者とはちがっている。
 芸術が流行と不易とを問題にせざるを得ぬのは、作品と読者との間柄よりも、もっと密接であって引きはがすことのできぬ関係が、作者と作品との間に存しているからのことである。創作が自己に忠実である限り、創作は個人の上においても変わってゆくことにならざるを得ぬし、時代の上においても変わらざるを得ぬ。また現実の問題として変わっていったゆえ、文学史の変遷は生じたのであった。今日の人、長く作品の変化しない時代を名づけて停滞期という。そして歌壇学界の常識として、鎌倉時代などを停滞期として軽蔑してかえりみぬ態度は、今日もなお相当に露骨であろう。それを取って今問題とするのではないが、それほどに停滞をきらい、流行のある事こそ、芸術が生々として生きていることのしるしであることをみとめるのであるならば、何故に『徒然草』の作家も万葉の作家もが、今日の作家とは別であり、芸術としても別であるという、実に簡単な事を認めないのであろう。つまりは芸術として掴むのでなく、表現としてつかむのでなく、言葉の末から踏みこんで、その思想に至るからでなかろうか。
 とにかくに、作家が作品を生むはたらきが芸術の表現の作用である限り、作家の構造がちがえは、その作家と出てくる作品とのつながりもちがい得るし、出てきた作品もちがい得る。今かりに、作家と作品との関係は千古不易であるとしても、作家がちがえは作品はちがってくる。しかし真実のところ、作家と作品との関係もまた変わるのである。万葉人が万葉の歌をつくり出す関係を、今日の歌人が今日の歌をつくる関係と同じであると見るならば、これもまた今日を以て過去を推すのであり、過去を以て今日の比喩と見ることになるであろう。もちろん見るのは人々の勝手であるかもしれぬけれども、今日問題となっている事は、昨日までの見方に対する反省であり抗議である。歴史が問題となるところでは、文人もまた一度はみずからを不易と流行との交錯の上にかえりみなければなら(400)ない。
 
       三
 
 以上の問題は要約するならば『万葉集』を中心にして、作家と万葉の歌との関係、そして万葉の歌と今日の読者との関係、この二つの関係はそれぞれに別の関係だということを言いたかったのである。読者と万葉歌との関係において描き出す万葉像は、読者の万葉像である。万葉自体ではないのである。そして今日の読者は万葉時代の人とは異なっているはかりでなく、江戸時代の人や平安時代と《ママ》もおのずと異なってきているのだから、今日の人がつくる万葉像は江戸人のつくった万葉像ともちがうのだし、平安時代人のつくった万葉像ともちがっているはずである。つまり万葉解釈史は刻々に流転しつつあるのであって、万葉をつかむということは主体的な問題である。もちろん今日主体的という言葉を用いると、素朴な歴史主義者はそれを個人的とか恣意的とかと同義に解するらしいのであるが、それは要するにそうした歴史主義者が個人主義者であって、主体的にほしいままに感じる限り個人的な把握しかなし得ない人間であることをみずから言っているようなものであって、それゆえ、歴史主義者はしばしば文学を文学として掴むことを恐れ、文学史を追究するにも作品に反映する思想を抽象して取扱うようになるらしいのである。これまでの歴史主義者は多く人間構造においてすこぶる個人主義的であるために、その感力の限界を理論で補おうとしているのであって、それゆえに主体的となることを恐れるし、理論の尺度でつねに客観的にしかものに触れ得ないのであるらしい。しかし主体的といっても、文学を文学として感じるということは主体的に把握するという以外に存在しないのである。主体的に把握しても、その人が切実に今日に生きている人であるならは、その人の把握した万葉の像は、今日の角度から見られる万葉像としての客観性を持ちうるものであって、もしそれ以上に(401)万葉自体をそのままに見ているというのであるならば、解釈の変遷という事は生じるはずはなくなるのである。解釈の変遷史がある事をみとめつつも、じぶんの把握した万葉は万葉自体であるといった風の信念を持つとすれば、これまでの万葉把握はすべて到らざるものであるか謬っているかという事になる。そして、しばしば人は内心にそう感じたり、口にあらわに断言したりもするのである。その点で認識はつねに傍若無人の自尊を人に与えがちであるが、そのような観念の固執あるゆえに、人の世はどれほど論争に充ちたものとなっているかわからないし、そして、そうした事と創作の結果とが正比例するとは決して限らないのである。
 
       四
 
 私どもは万葉に限らず、古典を今日の立場で解釈し把握する。いわば今日の立場で古典の像を構成する。日本国民であるゆえに、日本の古の文の中に心引かれるものを発見し、鼓舞されるものを発見するのである。ただ鼓舞されるのは今日の心に像を結ぶからのことである。言いかえれば共感し得たということは、解釈しきれたことである。その場合に昨日までの万葉像と別箇の像がうかび来ることがあってもそれは当然の事と言わなければならぬ。昨日までの万葉像はやがておのずと影うすれてゆくであろう。
 そのような点への意識は二つの方向へ発展する。それの一つは主体に把握される万葉像が変貌してゆくであろう事。いま一つはこれまでの万葉の把握が万葉自体を把撞したのでないという自覚からして、もっと万葉自体の発掘が前へ進むようになるであろう事。そしてこの後者の方の発展がいっそう徹せしめられるような地盤の上でこそ、はじめてまた前者の発展もあり得るという事。大正この方の文学理論で無意識にも身をかためた主観が万葉を望見する限り、いつまでたっても万葉の作品は芸術作品であったり、個人作家の歌ばかりであったりする。そして、そ(402)のような立場で歌を見る限り、万葉だけはよいけれど、『古今集』以後はなくてよいといった傍若無人な断言も生まれてくる。それでいながら、そうした暴言の意味するところが明治以後の文学意識のもとに作られた透視画像に外ならぬという事にはさらに気づかないで、それが全面的に万葉や古今や新古今やの歌自体に関する事であると考えがちである。そうした非歴史的な文学的な主体的把握に対してこそ、歴史的把握は新しい意味を持ってくるであろう。本当に歴史的把握ができたという事の証拠は、それが足場となって、じぶん自身の今日の状態を飛躍させる体制の、じぶんの中にととのったか否かの点にあらわれるであろう。国民倫理や国家観の上で、種々変化は生まれつつあるとしても、純芸術の問題としてのそうした契機はどこまで万葉把糎の内部に熟してきているであろうか。問題は万葉をすぐれた歌集としてみとめるとしても、いかなる角度からそれを認めるようになるかの問題である。しかも思想性においてとかいった方に逸脱しないで、あくまで文芸として感じる立場に立ちながらでの問題である。
          (『短歌研究』昭和十七年十月号)
 
(403)  書評
 
   【久松潜一志田延義】著『古代詩歌に於ける神の概念』
 
 個人とはなんであるか。文学とはなんであるか。この素朴な質問をはっきりした形で出してみてよいと思う。なぜといって、あまりにも人は個人的存在としてしか考えられず、文学とは個人を通して見られた現実や夢やに関するものとしか考えられていないからである。しかし個人の自覚は近代のものであり、文学とは近代の産物である。
 中世にはもちろん人間が在った。しかし類同の人間であって個の自覚は鋭くない。個としては存在できなかったからだ。
 古代に遡っても事情は同じである。ただ一つの相違は、古代には神が人間を結ぶ力となっている。中世には神を別にして、人間同士の秩序の規約が生まれてきた。人はそれを倫理といっている。
 今日の神の問題が再検討され、民族の総意を地盤とする文芸が考え直されるようになりつつあるについては、その根源に民族の伝統に対する渇望の存する事を忘れてはならない。同時にそれは近代的個人と近代的文学への批判の立場を築き、それらを乗り超える地盤の獲得への努力でもある。
 『古代詩歌に於ける神の概念』もそうした意味を担っている書物の一つであるということはできる。しかしそうした尺度からいえば、まだ十分に性格的な型態を備えるに至っていない事も感じなければならない。前篇は「万葉集に於ける神の概念」といい、久松潜一博士の筆、後篇は「神歌の研究」と題して、志田延義氏の研究である。
 前篇は久松博士の論文として見れば、大して傑作に属するものではないと思う。後篇志田氏の論文は、神楽歌の(404)中世における伝承の有様を、資料に対する限りなき忠実さをもって探究し、それが民族的性質を持つ事を実証されてある。その限りでは実に見事な出来であるが、なおさまざまな希望を提出したい点もある。ことに古代と中世との差、国民とか文学とかの観念の成立とがいま一段はっきりしているなら、この論文は画期的な意味を持ったかも知れない。
      (『都新聞』昭和十六年六月二日号)
 
   福永武彦訳『古事記』
     ――現代によみがえる古典――
 
 いってみれば、明治以来、日本古代の神話伝説的古典は、近代の西洋文学において必要であったほど、文学活動や人間形成のために重要な基盤にはなり得なかった。
 むしろ、大正昭和期において進歩的な役割をはたした文化人知識人の多くは、古典的伝統からの解放をこそ望んでいたから、十九世紀西洋の傑作を、そのまま古典として、そこから精神と造型との秘密を学んだのであって、その近代西洋の人間的精神的典型の基底が、いかに努力と時間とを要した古代の発掘と古典の研究とに支えられているか、その点についてはあまり実感を持たなかったと言ってよかろう。
 古典が真実に今日の人間精神に血の通った温い鼓動を伝えるようになるには、今日の日本人が人間としてもそこまで成長することが必要であった。その意味で、戦後まで古典は文学としてきわめて不幸であった。
 『古事記』や『日本書紀』や『風土記』は、いくつかの注釈書や現代語訳も作られたけれども、それらは多く教(405)料書的に正確であっても、乾燥して血の通わないものが多かった。
 しかし、現在では事情は違って来ている。とくに今度出た福永武彦氏訳の『古事記』(日本国民文学全集)は、かなり忠実な逐字訳でありながら、現代人にも身にしみて古代人の鼓動が伝わってくるであろう。『古事記』は文学として現代人の中によみがえつたと言うことができるであろう。なお、この本には『琴歌譜』という古代歌謡集の全訳と、『日本書紀』と『風土記』の抄訳も入れられている。
 ことに『日本書紀』は歌謡を含んだ歌物語の部分は全部訳出されていて、それは『古事記』とともに文学としての香りの高さを見せている。
 (『東京新聞』夕刊・昭和三十一年十二月五日号)
 
     犬養 孝著『万葉の風土』
 
 本書は昭和三十一年七月三日の刊行で当初から各方面の称讃の的となった。それは新聞、週刊誌、学術雑誌が挙げて紹介批評し、時間で言えば年末にまで及び、掲載紙数で言えば数十紙に及んだであろう。そしてほとんど一つとして文句をつけたり、望蜀の言を吐いたりしたものがなかった。市価は定まったと言ってよい。
 だからこれから本書の新刊紹介を出すということは、考えようによっては穏当を欠き、幾分礼を失することになるかもしれない。しかし楽屋話を最初にしてしまえば、学会誌の多くの場合の一つとして、この第十号の刊行が新年度はじめにまで延びてしまったので、自然の結果は時期はずれになったのである。去年の盛夏、はじめて新装成った本書を目にした途端、これを紹介することにしようと決めた。その時には早ければ秋のうちに、またおそくと(406)も年末までには第十号が出せる運びであった。それがそう行かなくなったのだから、これも楽屋話の続きに過ぎないが、決して『万葉の風土』のために時期をはずそうとする悪戯があったわけではない。言ってみればまことに他意はなかったのである。そして半年の時がたってみると、かえって本書を学術書としても扱いうるある程度の冷静な雰囲気を獲得したことが感じられる。それは、今度書評欄を書く番に当たっている筆者に取っても、もっけの幸いとなっていると言わねばならない。
 本書はすばらしい厚手のアートペーパーのカヴアーで包まれている。その表面には浜木綿の群生の美しい写真が載っている。装幀はあさ禄のクロースである。そして七月はじめの刊行であった。中にもたくさんの写真が載せてある。――中では博多湾頭の残の島(のこのしま)や、近江湖北のような美しい感の深いのがいくつもある。そしてそれが万葉地理研究家犬養氏の到らぬ隈もない行脚の実証にもなっている。――初夏の店頭で見る本書は自然への誘ないともなった。しかしそれは、学究犬養氏のトリックであるというよりは、旅をし、写真を取り、自然と相感じ合い、万葉を通して二重の陰翳をその自然に感じている芸術心に溢れた犬養氏の夢であり、創作であったのだ。人々が湧いたのももっともである。しかし近代人犬養氏が、全然、心をこめた著書の効果を計算しまいと努力したなどと考えるのもおかしな事である。著書の内容はすこぶる学術的なものだと、読んですぐ頷けるのであるが、しかし情感的効果の測量にわざと誤算をして気付かぬような痴鈍さをてらうような学術書ぶりはない。そしてむしろ勘のよい効果につつましく気を配っている所は、内容全体にも感じられる。全体を前篇後篇に分けて、前篇はいかにも万葉の風土に感覚的にふみ込めるような組立になっている。「秋山われは」、「浦の浜木綿」、「人麻呂と赤人」、「高市黒人」、「水田耕作歌私砂」、「島のしただみ」、「因幡の雪」、などという題を見て行くと、実に快よく肌をさするような所がある。実は、それらはすべて随筆ではなく、一行も仇やおろそかにはしがたい研究なのである。それら全体からして、犬養氏が、何回とない旅によって現地の印象を積み重ねて行かれたと同じように、実に丹念に万葉関係の著述を探り、(407)なによりも万葉そのものを仔細に読みふけり、しらべ上げて行かれた事が判る。この随筆風のたのしげな小品めかしいものを読んで行く中に、研究室や書斎での、――その成稿年月の示しているように――間違いなく二十何年にわたる努力の生活が浮かび上がってくる。どのような超人的努力を続けても、着想を得てから三年や四年の時間ではどうにもならない整理のたしかさが結果している。その結果が、なんのてらいも大げさな物言いもなしに、言いすてられている。随筆を読む気特で読過する人には、読過の際のなんのさし障りにもならない。しかしその研究室での努力はだれのものでもない。犬養氏だけが自分で整理されたデータなのである。それに着想そのものが生長の年輪を刻んでいる。しかしそうした事についての世にも親切な批評は、高木市之助博士がすでにしておられる事でもあるから、ここは割愛して、話を進めよう。たとえば、万葉には地名がいくつ出ているか、と言った言葉、その何千という数は、犬養氏だけが自分の報告として言っているのである。これは一例に過ぎないが、そうした調査の結果ということが、骨身を惜しまぬ実地踏査とまったく同じように実証的なものである事はうなずける所である。
 そして、今や万葉の風土についての論大系が体をなしはじめる所にまで、この地盤工作は来ている。読んだ者は、まだそれについて体系的に語らない犬養氏にもどかしさを感じるとともに、また銘々にじぶんなりの風土論を夢みる愉しさをも享楽させる。
 後篇は、四つの論文からなる。「上代文学と風土」、「万葉集における地名」、「万葉地理(その時代性・作家性)」「万葉地理(その風土性)」それらもそれぞれ昭和十年前から昭和三十一年までの時間の上にまたがっている。そのおのおのが犬養氏の研究における問題点の把握の生長の年輪をしるし著けている。しかしそのおのおのの論文の書かれた時点において、犬養氏はつねに慎重で謙虚である。決してはったりを言ったり、空想を交わした冗舌を用いたりしない。その意味で、後篇もまた現在における犬養氏の万葉の風土についての体系的概論ではない。そうした事は、後篇だけでなく、前節でもその通りであるから、この一章一章の裏打ちとなっている踏査探究の手のかかり方を気(408)にしながら読むと、この書は限りない重量感に読者を圧してくる重さを感じないではいられない研究論文集である。
 私ははぐらかしたような言い方だが、万葉学における分化の仕方と、そのおのおのの分野における研究とが、ようやく十分な所に迫りつつある事をひしひしと感じさせられる。日本の古代学は体系を樹てるにも第一着のテープを切るであろう。
   (『国語国文研究』第十号・昭和三十二年四月)
 
   久松清一博士の『万葉集とその前後』
 
 先生のお仕事はいよいよお盛んである。最近また『万葉集とその前後』という万葉研究の専書が世に送られた。まことになつかしく、うれしいことである。
 先生の研究暦を回顧することは、いささか個人的な思い出になずむことになるかもしれないが、これは決して私情に沈湎するのではない。やはり触れることによって、先生のお仕事が、近代日本における古典研究の積み上げを、多くもなく少なくもなく最も正確に、いわば象徴的に提示しているのだということを思い返すこと自体、やはり学問史にとって必要な気がするわけである。
 さて先生の卒業論文は万葉学者契沖についてであった。もちろんまだ研究資料はほとんど古文書のままに残されている時代のことで、したがってこの卒業論文は国文学研究史に新しい科学的な第一歩となるものであった。同じころ、『校本万葉集』の資料となった平安朝から鎌倉朝の万葉古写本の探索と調査との発表が、佐佐木信綱博士によって逐次になされていた。それは一つ一つが大へんな発見であったが、非常に時間と手数とがかかり、気骨の折(409)れる努力であった。一方また若き日の正宗敦夫氏によって、「寛永附訓本万葉集」による総索引の仕事が、明治の末から続けられていた。大学を出られた先生は、佐佐木信綱、橋本進吾、武田柘吉の諸博士と『校本万葉集』の事業を分担され、それは大震災の災禍をくぐって完成された。昭和のはじめには『万葉集総索引』は明治大正昭和の三代を経て出来あがった。同じころ、『万葉集叢書』として、現存最古の注釈である平安末の『万葉集抄』、鎌倉の『仙覚全集』、室町の『宗祇抄』から、江戸時代国学者たちの万葉集注釈が刊行され、また佐佐木博士を中心として、『契沖長流全集』が朝日から刊行された。それは近世国学の始源となった長流の『万葉集管見』の自筆本からの写しと、契沖の『万葉集代匠記』の初稿本と自筆精選本とを正確に活字化したものであったとともに、先生の考証的な契沖伝と伝記資料とを載録していた。それらは大体明治末期からはじまった近代的な古典学の最初の成果であったということができよう。それは昭和を通じて、万葉の訓詁学、考証学、注釈学を他のどの分野よりも輝かしいものにした基底となったものであるが、先生のお仕事は、それら礎石の据え着けから重要な分担者の一人として関係されたのであった。そういうお仕事は、戦前修定された『定本万葉集』の刊行や、戦後一つの結集的事業となった『万葉集大成』の刊行やのような大きくて重要な事業に、いつもその編集委員として関係されるような形で現われているが、最も大切なものとしては、近世の国学から近代の国文学へと学問意識を推進させて行く点での大学の講義や演習であったと言わなければならぬであろう。『日本文学評論史』や『日本文学研究史』や『和歌史』やのお仕事が生まれたが、そういう業績は先生の国文学が大学という機関を通して出来上がってくるところを、よく反映していたと言うことができるし、契沖と万葉とから出発された先生の学問が国学国文学古代文学の面に力点を持ったものになって来たのは当然と言えるし、事実また、そうした面における国文学の全体的な規模ないし性格は、先生の学問に近いものになっているということが言えるであろう。したがって先生のお仕事は、万葉学自体でもないし、万葉学だけでもないが、しかし、大正十四年の『万葉集の新研究』、昭和十年の『万葉集考説』以来、万葉研(410)究の専書としても『万葉集とその前後』で、四つ目のものが世に送られたわけである。
 全体で四章からなるが、第三章の「誦習考」の外はすべて戦後の論考で、それぞれは、『万葉集の新研究』や『万葉集考説』以来の御研究の自然的な深まり広まりであることが読んで行くとそれと感じられるのであって、その点がなつかしいのである。しかし先生のお仕事が明治この方の国文学の体系的考え方の総括という強い一つの線――それをはっきり打ち出してくることが近代日本の大学の国文学科の仕事でもあったが――に貫かれているので、万葉研究もまた、単に訓詁考証の結果の報告でなくて、万葉の文学作品としての人間性と美とを汲みとろうとする方向に重点が置かれているのである。
 それで、その第一章は「文学の発生と万葉の形成」であって、日本文学の発生から抒情詩の母胎を経て初期万葉に及び、万葉の思想性からその歌風歌体に及んでいる。その章に属すべき問題の中心点に、この昭和三十年間に一般的通念となってきつつある折口信夫博士の文学の宗教からの信仰起源説があるが、先生はそれに深い意味を認められながらも、昭和初期以来折に触れて述べられた「感動起原説」が成り立たぬものかどうかを改めて提起しておられる。これは先生の評論史的基礎からくるもののようで、ほとんどの日本の文学論というものが、「人間の感動というものが表現されて文学になり、歌になる、こういう考で」一貫して来ているという論拠に立っておられる。これは膨大な『日本文学評論史』の基礎に結びつくもので、非常に重大な提起であるが、それだけに慎重に考えると、『折口信夫全集』を基底に置いた折口説の信仰起源説と、先生の感動起源説との間では、文学発生の時点の隔たりが存しているのでないかと推せられる節があるようにも感じられる。
 第二章は「万葉歌人の類型」であるが、その中の山の一つは「山柿の論」である。「山柿の諭」の山は早くから先生が山部赤人説であられることを筆者も知っているが、江戸時代西田直義の『※[竹/攸]舎漫筆』を読んだものの思いつきらしく、憶良説が説かれてこの方、佐佐木博士もそれを取るべき説とされたらしく、愛知女子大の久米常民氏は(411)最も精密な憶良論を打ち建てられた。久米氏説は筆者の昭和十五年頃『水甕』に一年間連載した万葉漫筆《*》の中の不用意な赤人論に対する細理な憶良諭であった。それらを御承知の上で、先生は「赤人説」をさらに多くの論拠から考えておられる。万葉の中で家持の記した山柿が、やはり赤人と人麿だろうとされる理由は、家持自身の時代から後の勅撰和歌集時代にまでわたっての山柿の評価史の上に立たれるものなのであって、家持と憶良との私的な近しさにあるのでないとするお考えである。筆者もこのお考えは非常に合理性を感じるのであるが、山柿の論自体一歩一歩科学的になりつつあることが、しみじみと感じられるのである。次の山は「万葉巻五と山上憶良」である。巻五は旅人と憶良との歌の多く集められている集であるについて、しかし編纂者ないし集録者はいまだに確定しているとは言えない難問題である。それについて、従来の説を、一、家持撰定説、二、旅人筆録説、三、旅人周囲筆録説、四、憶良筆録説、五、憶良旅人周囲筆録説の五つに整理され、自説は第五説であるとして、ただ前半は憶良が旅人周囲の人間として旅人中心に筆録し、旅人の上京以後は憶良中心になったものだとされている。こういう見方を取られるが、芳賀矢一博士以来の諸説をも紹介され、とくに、最近諸家の全注釈類を丹念に比較されて、いずれも異見対立の実情であることに触れられる。これは巻五全体の成立の見方に直接関係してくるものだから、今後とも、注釈書の著わされるごとに、全巻的解釈決定の重要問題になるものであって、一つ一つの辞句の注釈以上の意味を持ってくるものである。先生はその意味の重さを十分に受け止められた上で、自説を出しておられる。異説がある場合には、この先生の説をまずはっきり抑える論拠が提出されなくてはならぬことになるであろう。
 第三章の「万葉集の伝説、風土、生活」の中の山は「三山歌考」である。この問題は、一見簡単なようで、古く『仙覚抄』の説以来、いくつかの論が近世から近代にかけて展開されている。それは有名な香具、畝傍、耳無の三山を、畝傍と耳無が男で香具が女、畝傍が女で香具と耳無が男、香具と耳無が女で畝傍が男、三山とも男で他に相手の女がいるの四説に整理できるとされ、それぞれの説を立てた学者の論じ方を見くらべながら、更に「雲根火雄(412)男志等」の解釈の諸説あることに及び、耳無を女とする説、「雄男志」を「雄々志」とする沢瀉博士説をかみ合わせて取りたいとされている。しかしこれについては、『国文学』第二十三号(昭和三十三年十月)に本学の吉永登教授の「三山歌解釈の否定的反省」という新しい論考が発表されていて、非常に考えさせられる論である。それは畝傍山という女山を中心に、香具耳成という二つの男山が妻争いをしたという説で、「雲板火雄男志等」は、「畝傍を愛しと」であることになる。この訓じ方についての種々な条件を細かく点検した上で、こう訓める事を決めた上、この伝説の成立時期を都が初瀬三輪の周辺にあったころとして、その点から三山に対した場合、畝傍を女山と見る景観は自然であるという論の筋は新説のようである。そうした点を考えながら、先生のお考えはどうなるであろうかと伺ってみたい。枚数もひどく超過したので、擱筆にしたいが、大学の煩務や学士院会員としてのお立場の中で、半生を通じてのお仕事のいよいよ豊かになり増さるのを拝見するのは実に喜ばしいことである。
   (『国文学』(関西大学)第二五号・昭和三十四年四月)
    (四〇一)* 「万葉襍記」(八)――山柿論――(『水甕』昭和十六年八月号・本巻所収)をさす。
 
  文学の生まれる前
    ――高崎正秀著『文学以前』――
 
 『朝日新聞』の小島特派員が「アフリカの夜明」という探訪記事を昨年末から載せていたが、一月十日の記事によると、日本の七倍もある赤道アフリカに五百万足らずの黒人が住んでいる。密林にさえぎられ、たがいに交通も(413)なく、知識の交換もない。生存競争もないから、生産技術もほとんど原始時代のままに近い。いずれも自然の絶対支配から免れる道を知らず、とくに奥地のかれらの生活を支配するのは自然への恐怖だとある。
 五百万という人口は、確かなことは決められないにしても、ほぼ奈良朝ごろの本州四国九州の総人口に近かっただろう。それが七倍の広さのところに散在するのだから、その稀薄さはおどろくべきものである。かりに仁徳天皇ごろにまだ三百万ぐらいだったとしても、今の赤道アフリカよりは密度は高かったわけだが、このような程度であれば、事情は大差なかったであろう。
 「アフリカの夜明」はさらに続ける。「自然がなにをするか恐ろしい。それから免れるために魔術師にまじないをしてもらったり、占ってもらったりする。」「何か不幸があると、必ずだれかがのろっているのである。それでその責任者を魔術師が指名する。責任者は身の潔白をみせるために、自ら毒を飲む。本当に潔白ならば、毒が作用しないという迷信である。」こうした迷信が現在まだ生活の指針として人々の心を支配しているということは、この赤道アフリカの社会、したがってその住民の意識が、千数百年前の日本のそれにすこぶる似通っているだろうということになるわけだが、そうした日本の太古をすぐ連想するのは、決してわたくしだけにとどまるものではないであろう。そのような現実のもとでは、「民主主義化だとか共産主義化だとかいう純政治的な方法は何の意味もない。」「アフリカは政治学より社会学の領分ですよと若いフランス人の官吏は言った。」そこでもっと人口の増加と生産技術の向上を結果させなければ、というのは、もっと文明の段階が高まるのでなければ、すべての外部からの近代的な援助は、かれらを迷惑がらせ、かれらはそれを避けて、ますます奥地へ逃げていくだけだそうだと、小島特派員は現地の指導者の言をつたえている.
 現代の日本人が千数百年も昔に帰っていくことができて、今の考え方や施設などを見せたとしたならば、それがどれほどの好意からであったとしたにしても、赤道アフリカの原住民と文明人との関係のようなものが、そこでも(414)かならず見られるに違いないだろうと思って、私は慄然とした。太古の生活や社会や、後代の文学の始源になったものや、そうしたものは日本でも相当ひろく触れられて来たことではあるが、いずれも考古学的な遺物や、記紀を中心とする最初期の文献にたよらなければならぬので、その正確な理解は非常に困難なものである。アフリカなどの現実に触れる場合でさえ、現代の意識や文化現象に引きつけて考えるために、その実態の真の意味とか性質とかを正確に理解するということが、非常な困難に直面することは、種々な原因があるらしいが、その最も大きなものの一つは、原始社会における原始的な思惟の方法体系が、文明時代にはいっての人類の持っているそれに対して、非常にかけ離れているということであろう。たとえ一国民の祖先の時代のことであっても、すべて数の少ない遺品や遺存文献やの、理解を通じて接近するより外ない情況であってみれば、その場合に真に科学的に理解の正確を期することのむずかしさは、現存の未開社会や未聞人の思惟や文化の理解に正確を期することよりも、はるかに大きいと言わなければならないであろう。それにもかかわらず、この文明以前の時代に芽ばえた、文学以前の言葉のわざは、一国の国民文学の特殊な伝統の発端として、一ばん正確に科学的に把握されなければならぬ必要があることは、動かぬところであった。けれどもその必要は、案外近頃まで日本人自身にとっても主体的に把握されていたとは言えないし、科学的な方法が打ちたてられていたとも言い切れない。
 高崎正秀博士の研究は、戦前から、そういう線における業績としてユニークなものであったが、最近出た『文学以前』は、とくにその点で美事な出来栄えの論文を集めたものである。
 そこに纏められたものは、戦前からのかなり長い時期にわたっているが、しかしその巻頭にかかげられた「文学以前」は、全体の序に代わるものであって、またこの書全体の主題を最も正確に提示し、同時に、こうした問題と取りくむ者が前提として持っていなくてはならない、古代学的な、また未開社会の文化学的な基礎認識を、実に明晰に、過不足なく、そしてこれはまた大へん大事なことだが、非常にわかりやすく、叙述している。この「文学以前」(415)一篇を見ても、高崎博士が日本古代の、文学的現象がまだ呪術宗教と融即していた情況の解明という、大へん厄介な問題と取り組んで来られた長い学問の歴史の到達点を見ることができるのである。それは日本の学者による日本自体の研究の到達点の一般的水準をも示すものであるばかりでなく、学界がそこに到達するように持ち運んできた主要な人物の一人が当の高崎博士でもあるという点において、ただに概論的というようなものでなく、非常に主体性のある創造的な美事さを持ったものである点も、この書を読んで面白く、問題提示に富んだものにしている点で、意味がある。面白いといっても、もちろんマスコミ的な教養書というのとは全然別な、古代学の専門的論集であるが、従来の書に多かった西洋の学術書の方法の受け売りと、日本の資料によった応用的な試論というのではなくて日本の古典の長い時間にわたる研究が、古代に関する一つの科学的認識の体系にまで結晶してきたものであることがなによりも意味があるし、貴いのである。
 高崎氏は、祭儀から文学への展開は、母系制から父系制社会にわたって形作られてきたことを言う。その社会において、一切の文学芸術がすべて宗教上の祭儀から生長してくることを言う。その媒介者、立役者は巫女であって、その行為が、寿詞と祝詞とになり、精霊を圧服するはたらきから歌も生まれ、物語に及ぶことを言い、劇の原形の生まれることを言う。もちろんこの考えは、日本の学術の上でも歴史ある学説上の伝統をふまえている。しかし、それは明治、大正の頃はもちろん、昭和に入ってすら、最前線の知識人にとっても、理解の容易でない、晦渋とみなされる立場であった。古代学にとって、今ではそれが常識化してさえきていることは、日本の学術にとっては著しい進歩だと言わなければならぬ。と同時に、それは、真にこなれきった日本古代の資料の調査整理から帰結した知識の体系として、日本人の学術が打ちたてたものとならなければならぬ。この両面の要求に答えるものとして、『文学以前』は良い標本となるであろう。
 文学以前の言葉のわざが呪術的宗教的意義を持っていた時代、母系制の残映が風俗習慣政治信仰にもまだ力強く(416)はたらいていた時代、そういう社会と表裏する点を文学以前の言葉のわざに探っている「御肇国天皇の本義」「出雲系文化の東漸」「枕詞の発生」「賀歌」など、みな大きな論文であり、高崎氏の学問の進展を語ると同時に、時代の進歩をもマークする成果と言うべきである。よい論集が出たと言わねはならぬ。
      (『読書』(桜楓社)第二号・昭和三十四年五月)
 
(417)  万葉の狭さと広さ
 
 万葉の歌の調子はすこぶる雄大壮重と大体のところ片附けることになっているようである。それは平安時代より後の歌に比べていえば、そういう所もないではないのであろうけれども、比べていう段になれば相対論である。そして雄大とか荘重とかいうことは、織細とか優美とかいう事があって言えることだから、もともと相対的であってよいわけであるけれども、一方から言えば、万葉が雄大だという名で呼ばれるようになるわけは、つまりは短歌史上にそれ以上雄大をもって呼びうる歌が続かなかった、それも長らくつづかなかったところから、そうした名が出たのであろう。確かにそうである。万葉の歌よりもっと雄大荘重の歌があれば、その方に取られて、万葉の歌は優美という折紙がつくかもしれないのである。事実、名というものはみなそうした性質のもののようである。
 そこで、なぜこういう言い出し方をしたかというに、私は万葉の歌を、それほど雄大とも荘重とも思わないからである。というわけは、私だけの現在の欲望でいえば、現代文学はもっともっと雄大で荘重で淋漓たるものであってほしい。底が知れぬほど雄大で、荘重で、それでいて人間の魂を全部中へ吸いとって行ってしまうようなものであってほしい、とそう希っているのである。そういう文学よ出てこいと待ちあぐんでいるのである。ところがすこしも出てこない。それで待ちくたびれて、その逆作用で万葉の歌といっても、その欲望をみたすほど雄大でも荘重でもないというように言ってみたくなっただけである。
 もう十年もまえ、私は時々飛鳥や藤原の地方へ出かけていった。感じやすい年頃であった。田の青々と光る中に、(418)こんもり浮き上がっている三山を眺めた事もある。美しい黄葉の丘のつづきに添って歩いた時もある。刈入れのすんだあとの時雨のふる中を、傘をさしながら島の圧へ歩いていった事もあった。ひるがえって、花ちりすぎた青葉のころ、満山緑に濡れている吉野の奥で、霧のながれにとりまかれていた事もあった。牡丹の花の眠りを誘うころ、当麻寺で休んで、二上山の麓をぬけた思い出もある。恭仁の京、瓶《みか》の原から浄瑠璃寺を通って奈良の裏手、佐保川の川上に下りてきたこともあった。雷丘に立って、甘橿丘を廻って、飛鳥川に佇んだ。一度は三輪から長谷へいって、名張へ抜けた。それはちょうど入梅のさ中で、満山ただ濡れて光る緑であった。
 この間掘辰雄の『黒髪山』という文章を読んで本当に感心してしまった。私のような羅列ではない。黒髪山をふみ迷うところ一つで、実にあの大和の山野を出している。まるで彫りものでもするように大和の一角を愛撫しながら、その抒情に美しい形象をかっきりと与えている。芸術心の凝集であった。私のようにせっかちに次々と書いてゆくのではしょせんこの一文が芸術になるべくもない。しかしである、私はそのようにせっかちに羅列したような季節のさまざまの大和を今もなお心から好いている。折あればいつでも飛んでゆきたいのである。正倉院の御物拝観は数回その幸いをくり返すことができたが、あの十一月の上旬という時節は、晴れた日と曇った日では、春日野と三笠山との感じはまるで別になる。鹿の声までが別になる。そして、私は曇った春日野、桜紅葉の紅よりあかく、三笠のやま肌の藍より青く、しんとしずまって、そよりともしない景感が大好きであったのである。眼底にのこる形象は大和絵にそっくりで、奈良時代の感触というにはあたらぬかもしれないが、私はそれが好きだった。もちろん大和絵風の構成にかなう色と形とは、大和の中ではそう多く見かけた事がないのである。そしてどちらかと言えば、京都でも見られるそうした景色よりもはるかに大和らしいものとして、前に羅列したあたりの景色を好いているのである。それにしても、それらの特色は、私は決して雄大と印象していない。一言でいえば小じんまりしている。優美ではないが可憐である。そう思って万葉を読む。すると、万葉はおよそ可憐な歌にみちみちているように(419)思えてくる。決して雄大ではないのである。
 もちろん、私は歌の声調の八代集調に比べて毅いことを言っているのでない。歌われた世界の小ささを言っているのである。
  東の野にかぎろひのたつ見えてかへり見すれば月傾きぬ
 どのように広大な野を連想するであろう。安芸野のあたりを知らずしてこの歌を読む。すくなくもかなりの広袤を持った歌としてしか、われわれはうけ容れないのでないだろうか。ところが現実の東の方の野は、鼻のつかえるほどの野である。この事実は歌の解釈にとっての一つの問題を提供する。
 つまりは万葉人が野といったり原といったり丘といったり川といったりしているものは、現実の問題として、実に実に小さいのである。それは外にも例がある。
  皇《おほきみ》は神にしませは天雲の雷の上に底するかも
  王《おほきみ》は神にしませば雲隠る雷山に宮敷きいます
 この場合、雷丘にい立たして国見せられる天皇の御姿をわれわれはどのように描き申しあげるであろうか。「天雲の」といい「雲隠る」という。その高大で、その堂々たることは、いわば筆紙にもつくしがたい。それほどの崇高さと宏大さをすくなくもわれわれは感じうるにちがいない。しかし、実のところ、その雷の丘は本当に可憐でささやかな一小丘にすぎぬ。上に生えた若櫟の背丈の二三倍しかない丘の高さである。ここでも万葉歌人が現実に歌の素材とした自然がおそろしく小さい事を知って驚く外ないのである。この事実が一つの問題を提供する。
 天武天皇の崩御し給うたとき、太后の作りませる御歌は、よく一句づつ念を入れて読んでいただきたい。やはり雷丘を皇居より眺めまして作り給うた御歌と拝せられる。
  やすみしし我大王の 夕されば見《め》し賜ふらし 明くれば問ひ賜ふらし 神丘《かみをか》の山の黄葉を 今日もかも問ひ賜(420)はまし 明日もかも見《め》し賜はまし その山を振放け見つつ 夕さればあやに悲しみ 明けくれはうらさび暮し 荒妙の衣の袖は 乾《ひ》る時もなし
 この御歌は皇居より間近の丘を、それも、常日頃天皇の親しみ眺められた雷丘を、望み見給うての御歌であって、これは非常に遠いとか、非常に高いとかいう感じを与えない御歌である。おそらく宣命や詔勅のごとく側近の者が作り申して下の者に示されたものとしても、また太后の御自作としても、いずれにもせよ、日常御起居の間に親しまれた間近の自然の感じがそれと受け取られて誤ることのない御作であると思う。先の人麻呂の雷丘の作はその前の東の野の作とともに自然に対する非常な拡大を行なっているとも考えられる。宏大なように感じさせるところが豪いといえば人麻呂がえらいということになる。しかし現代人のわれわれゆえ、それを宏大と感じたのかも知れぬ。われわれは歌がよければよいと感じる《*》ものだなどと、素朴には決して信じない。鑑賞評価は作と読み手の認識との兼ね合いから成るものだからである。それにしても人麻呂の歌の自然が実物よりすごく大きく感じられるのは不思議である。天武の太后の御歌が、現実の雷丘の印象によって決して不自然と感じられない可憐な感じを与えるのも不思議である。
 十市皇女薨去のとき、高市|皇子尊《みこのみこと》のお作りになった御歌の一つに、
  山吹の立ちよそひたる山清水汲みに行かめど道の知らなく
というのがある。なんとも可憐の御作である。
  佐保川の小石《さゞれ》ふみ渡りぬばたまの黒馬の来る夜は年にもあらぬか
 大伴坂上郎女の歌。今の佐保川の小ささは言語道断であるが、古は水源地万の森林がもっと伐り仆されなかったとして、いますこし大きさはあったかもしれぬ。しかし、あそこに十倍二十倍の大河があつたと考えるのは嘘である。この歌はこのままいささ小川の佐保の川瀬の小石をふんでくる事と受け取れる。どれもこれも小さく可憐であ(421)る。
  佐保川の清き川原に鳴く千鳥かはづと二つ忘れかねつも
  ぬば玉の吾が黒髪に降りなづむ天の露霜取れば消につつ
 みな小さい。私は、あの大和の自然の山は低く、細かに尾がながれて、小さく入りこんだ山麓のあちこちにある姿を思いおこす。一つの山麓の平地は、万葉人にかかればすなわち何々の野であった。それも無理はない。
 私は子供のころ、しばらく大阪の南、今はそれも市内になったが、住吉神社に寄った帝塚山という小山の近くに住んでいた。それは大伴金村の墓といわれる古墳であり、明治天皇の大演習の御野立所となった所であるが、子供の時にはなにもそんな事は知らなかった。そして、今日見れば、二階だての家よりすこし高いだけのその丘を、大した山として感じていたものであった。遠くの国境には金剛山も葛城も二上山も見えるのだが、それとは別にこの古墳を大した山として遊んだものであった。それを思うと私は万葉人が小さな野や瀬や丘や、そこにみる千鳥やかわずや、そこに咲く山吹やを限りなくいとしんだ心が分かるように思うのである。それは、身近い自然にひたと身をよせて生きているものの世界であり、感覚である。万葉人の自然は小さいのこそ自然なのである。
  敷島のやまとの国に人二人ありとし念はば何か嗟《なげ》かむ
 これも本当は大きくない。敷島のやまととは石の上布留とつづく続き方で、大和の方が小さな地名だったのではないかと考えている。欽明紀の元年七月に都を倭国|磯城《しき》郡磯城島《しきしま》に遷された事が見えている。『延喜式』巻九神名式の大和国|城下郡《しきのしも》に倭《やまと》恩智神社がある。この神社名の倭《やまと》は日本国の事でも大和一国の事でもなく、磯城の中のご《*1》く小さな部分の名であったのであろう。倭《やまと》が決して大きな国名でなかった事は『旧事本紀』巻十の「国造本紀」に大倭国造と葛城国造との並んでいることからも推測してよいかと思う。大倭国造の治め《*2》た範囲があるいは磯城郡ぐらいの所であったかもしれぬ。倭《やまと》とは、だから非常に小さい所であったろう。そうした小さい所の名としての敷島の(422)大和がなぜ日本国の事に生長したか、それはここでは別問題である。敷島が枕詞となったはじめの大和は非常にせまく小さくあったのでないかと思うのである。
 私は万葉の歌のなおつくられつつあった折、藤原京(1)や平城京の建設や、東大寺の建立のあった事を思いおこす。あの宏大な造型的な創作は、いったい、いかなる精神から生まれ来るであろうか。この長安洛陽の向こうを張った建設。宏大なる権威の象徴。人麻呂の歌に大きさが出たとすれば、それは宮廷歌人としての人麻呂の存在という事を考えねばならぬ。そしてかれの感覚が大和盆地のささやかで可憐な世界を踏み越えたとすれば、かれの精神を生育せしめたものは八紘に及んだ朝権の大いさに外ならなかったろう。正さ眼に東大寺を見つつもなお神ながらの日本の氏族の生活と大和の自然に密につながる生活とを持っていた所では、いわば伝統の息吹きふかぶかと古の夢を湛えている所では、人々の感覚はひたと大和の自然のこの道の隈に、かの坂の曲に寄り添っていたのであった。人あって、万葉の自然の小ささを嘆きとして言う者があれば、私はその人の歴史観を根本から疑うものである。と同時にいたずらに万葉の世界を雄大荘重とばかり言う人があるならば、その人の歴史観をも私はにわかに信じないのである。万葉の歌のささやかな鶯の羽にあわ雪の降る世界にとなりして、平城京の大極殿に蕃客の来貢があったとして、それですこしもおかしくはないではないか。奈良の表面(2)は唐文化化した生活の中で、私的(3)生活は力づよく古いしきたりをつないでいたに違いないからである。
 私は人麻呂の雄大な歌には、実は感覚の誇張があるであろうと見ているのである。雄大な時に人麻呂は非人間的となり、非文学的となっているでなかろうか。
   (『芸林』昭和十六年十月号・原題「万葉の狭さと奈良朝の広さ」・『日本文学史の構想』・『神々と人間』日本文学史ノート版)
   (四一九)* 「広袤」←「曠茫」。 (四二〇)*「歌がよければよいと感じるものだなど、素朴には」←「素朴に歌がよければよいと感じるなどとは」。 (四二一)*1「中の」の「の」初出稿により補入。*2「の治めた範囲」初出稿脱。 (四二二)*1「藤原京や」補入。*2「表面は唐文化化した生活の中」←「唐文化化した中」。*3「私的」←「私の」。
 
(423) 万葉襍記
 
       一
 
 私はこれから時間のあるにまかせ、しらべのつくにまかせて、『万葉集』のノートを作って行きたいと思う。時には小さな問題に深入りすることがあるかもしれず、またあるときには大きな問題を思いつき次第で大胆にかたづけてしまうこともあるかもしれない。しかしとにかく、『万葉集』は特殊の意味で、いままで勉強したいと思っていたのであるが、多忙のために不勉強のまま流されてきてしまった。すてて置けばまだまだ手をつけないに違いない。その意味では、手をつけてしまった方がよいに違いない。背水の陣を布けば、自然無理にも勉強はするようにならざるを得ぬであろう。
 もちろん『万葉集』は、現代においては和歌の聖典と認められている。したがって、研究の豊かなことはとうてい他のいかな古典も及ぶところではないし、また研究があまり分化してきているために、いわゆる万葉学者という専門家ができてしまって、よい加減の事ではなかなか学問的な言説はできにくいといったような諦めに似た気持さえ、一般の者は懐かざるを得ないほどの慣向すら、うかがわれるのである。事実三水会の年々出している『万葉集研究年報』など見ていると、つくづく私などがまた事新しく言い出す必要も余地もないかのような気さえしてくるのである。
(424) それにまた、学術的である限り、どんな些細な問題でも、先人の足跡はかならず吟味してみる必要があるし、また心得ていなければ嘘である。すでに一度だれかが下したことのある断案ならば、その説の創始者はかれであって、その功績はあくまでかれのものとして尊重されねばならぬ。その意味からしても先人の説は吟味しなければならない上に、また同じ事を知らずに繰り返すのであるならば、それはとうぜん無駄であり浪費でもある。どの点から言つても、書くということ、発表するということについて誠実であり、私的な満足や都合やに奉仕しないであるためには、よほど科学的な周到さが必要であろう。そして、それだけの自戒を行なうならばたった今、万葉関係の論文数は半減ぐらいはするのでないかという気もしないではない。もちろんしないかもそこは分からないのであるけれど。とにかく、それだけの事を感じていながらさらに、少なくも万葉の専門研究家でない私が万葉の事を書いてみようという気になったのであるから、相当自分でも考えさせられる所はある。万事は書いていることによって、じぶんの勉強をすすめたい念願から出た事である。したがってこれは結論の発表ではない。時々刻々の研究ノートに外ならないのである。
 
       二
 
 今日の万葉研究の盛大さは正岡子規の万葉提唱からひらけてきていると言える。けれども顧みれば、契沖この方江戸の国学者の万葉研究には異状な熱と努力とがあった。ただ子規以前と以後とではなにか違うのである。なにかと言うのは、研究の結果とか手続きとかいう点から言うのではなく反対に万葉を研究する土台となっている気特になにか違っているものがあるようである。それは言ってみれば、万葉の歌の感じ万の違いといったものである。江戸の国学者の受けとり万には、『古事記』を読みとくための最もよい準備となるという考え方や、上代の人の心だ(425)から雄々しくもあり直くもあり清くもあって、後代の人の心とは別であるという考え方や、様々の考え方はあっても、根本は、歌がいいと感じられたから万葉を研究し出すのでなく、上代に心引かれるゆえ万葉に親しむようになって行った所が多いようである。いわば国学の一翼として研究する。したがって、国学者が歌を作る場合、万葉調というものが、どこまでも身体にむすびついているかという点になると、考えさせる歌が多いという気がしてくる。作例を見せないで一気にやる論だから。すでにすこしく大胆になりつつあるが、江戸時代の万葉調の歌は、一つの念願であって、江戸人日常の感情の形にととのったものではない。
 それに対して、子規以後の万葉の立て方というものは、歌として万葉の方が古今以後のものより立派だという所から出発してくる。一個の歌人として歌を受けとっているのであって、国学者としての志があるために生まれてきたというのではない。もっと明治大正の一人の人間として、文学的に万葉が親しめたわけである。研究の盛大ということの背後には、だから江戸では国学が生まれたし、明治以後では歌壇の実作に万葉調が力を持ったという事実が生まれていた。
 これはいわば、万葉の歌の全体としての感じが、近代人の心にぴたりとするものを持っていたという事である。しかしこれは論としては、あまりに大掴みにすぎる話である。万葉の歌も実に様々な代の移りかわりにまたがって、ずいぶん長い間に作られた歌である。すべての歌が同一な条件のもとにある人の心の母胎から生まれたわけでは決してない。それで、大体の話ではあるが、すべての歌に同等に感じ得るはずはないと思われるのであって、もしすべてに同等に感じうる人があれば、それはすこしく奇怪である。私はその人の感受力の博大さをたたえるよりは、いささか疑いを持つ方が、常識からいっても健康であると思うのである。もちろん私は歌をあくまで一個の文芸作品と認めて言っている事である。
 現に『万葉集』から現代の人が学んだ所は、多く天平に属するものであったようだ。たとえば斎藤茂吉博士にし(426)ても、若いころの、『赤光』の時代には、今日ほどの柿本人麻呂への傾倒というものは見られなかったかに思う。そして、そのように万葉の中にあっても、どの時代あたりの歌へ感銘の中心が移動してゆくかということは、一人の人間の精神生長史の問題であると同時に、多少とも時代の歴史の問題でもある、といった気がするのである。だから、万葉の問題は、大体論だってもなかなか簡単どころの事ではない。しかし、それだけに、歌に関心のある者ならば、だれでもがいちおう万葉の事は問題にしていなくてはならないはずだということになるのである。ことにこのごろは、私自身もそんな気になっているのである。
 
       三
 
 さてしかし、私は万葉の学問と歌壇の創作とが、こんなに密接に結びついているのは、万葉への感銘そのものからだけ生まれてきたのだという風には考えない。万葉の学問をするためには、歌壇が万葉礼讃の声を高めて行ったことは、非常に力強い国民的後援となり、陰に陽に都合のよい情勢を導いてくるに力があったには違いなかろうが、そうした情勢が来さえすれば、すくすくと太茎の土を割って芽ばえるだけの学統は別にちゃんとあったのである。歌壇の方で近代日本人の心に生まれつつあった万葉に感じる芸術的感力に、目醒めを与えてくれたのが正岡子規であるとするならば、学問の方で、国学者からの学統を現代へ移し植える功績をはたされたのは佐佐木信綱博士であった。万葉を専門に研究した棹尾の国学者木村正辞博士の業をうけ継がれ、チェンバレン博士の歴史的研究法の訓を実践された佐佐木博士の業績は、歴史的回顧においては絶対のものである。もちろんそこに大きないま一つの業績がある。それは鹿持雅澄の『万葉集古義』以後、昭和の鴻巣盛広氏の『万葉集全釈』に至るまでの間にあって、明治大正を通じて唯一の全釈書である『万葉集新考』を完成された井上通泰博士の業績である。しかしながら、私(427)が佐佐木博士の業績をもって、文学研究史的に絶対なものと申すわけは、それが注釈事業という伝統的方法の上を辿っているものでなく、歴史的方法という新しい時代の学問的方法による基礎事業だったからである。万葉の歴史的研究、これは名はやさしいが、実はむずかしい。歴史的方法が科学性を持つためには、できる限りの原典への溯源が必要であった。江戸この方学者の底本としたのは慶長古活字本の附訓本か無訓本か、それをもとにした寛永整版本の附訓本か無訓本かであった。そしてそれらの刊本は新点を完成した仙覚の本に系統を引く。しかし伝写を経ているし、仙覚本自身絶対のものでない。今日の目から見れば、いくらでも古い写本を捜し出し、その系統を明らかにし、その諸本の間に生じている漢字の方も訓の方もの異同を明らかにし、また古写本をできる限り自由に研究に使えるようにする。そうした事があって、はじめて歴史的研究の基礎はできるわけであるが、これにはまず古写本の博捜、それの考証学的文献学的調査、複製本の刊行、校本の作成、といったいずれも非常に時間と手間とのかかる難事業を経なくてはならない。そして、それらの事業には、幾人かのよき助力があったことはもちろんとしても、その主軸となって仕事をされた人は佐佐木博士であった。そうした意味で佐佐木博士の業績は絶対である。博士の『和歌史の研究』という名著に『万葉集』古写本の捜査と発見と調査との報告をひとまとめに載せてあるのが大きな理由となって、早く帝国学士院賞が授与されてあるのは、思えば至当の顕照であると言わなければならない。今日金沢本、桂本、藍紙本、天治本、元暦校本、『古葉略類聚抄』『類聚古集』、西本願寺本等の複製されているのはすべて博士の功績であるし、『校本万葉集』の世に行なわれるのも博士の功績である。『新訓万葉集』が岩波文庫本として、万葉を世にひろめたこともまた博士の功であるが、あの『新訓万葉集』の背後には、三十年にわたる博士の努力が隠されておるわけである。
 いま一つの注意すべきは、橋本進吉博士の慫慂によって、これもほとんど二十年の努力の後に完成された、正宗敦夫氏の『万葉集総索引』である。『校本万葉集』と『万葉集総索引』、この二部の書が大震災の後、昭和のはじめ(428)にかけて世に出た事が、『万葉集』を他の国文学の研究部門に引きくらべて、段ちがいに量質ともに進歩させた最も大きな力であった。そして、そうした基礎事業のためには、ほとんど人間の半世にわたる時間と努力とが費されてある。その事を考えるならば、この二つの書は万葉研究の上で明治大正昭和三代が他の時代に対して誇りとすべき最大の紀念碑であったことになる。同時にこうした書を刊行しえた現代日本の誇りとすべき事であろう。この二書なくして今日の万葉学の到達した学問性というものは考えることができないのである。万葉研究はなおいっそう前進するであろう。しかし中世以降の万葉の受授研究がなくて仙覚律師の新点本によったように、今後の研究は遠く進んでいっても、常に『校本万葉集』と『万葉集総索引』との恩恵を受けずにすむという事はないであろう。私はこれから時にふれて万葉のノートを書いてゆくはじめに、まず右のような、もちろん常識となっている研究史的背景を、いま一度じぶんにはっきりさせて置きたいという気になったので、序のかわりとしてしたためた次第である。                              (昭和十五年十二月三日)
 
       四 堀江
 
 今度からいよいよ『万葉集』の中へはいって行くことにしよう。私は大阪にながく住んだことがあるので、大阪近郊の歴史地理には特に心を引かれるものがある。中でも淀川河口の上代地理については、たいへん興味があるのである。
 中で、堀江は大阪市内の町名にもなっていて、土地の人の耳にはなじみすぎているけれども、本当はそう簡単に分かるわけのものでもない。それに様々の地名に絡んでくるから、これをふり出しにしてすこし丹念にしらべていってみよう。
(429) 堀江を詠んだ歌は『万葉集総索引』によって十五首を検出することができる。全部『新訓万葉集』によって挙げてみよう。
  さ夜|深《ふ》けて堀江|榜《こ》ぐなる松浦船|楫《かぢ》の音《と》高し水脈《みを》早みかも(一一四三)
  押照る難波堀江の葦辺には雁|宿《ね》たるかも霜の零《ふ》らくに(二一三五)
  妹が目を見まくほり江のさざれ浪|重《し》きて恋ひつつありと告げこそ(三〇二四)
  松浦舟乱る堀江の水脈はやみ楫取る間なく念《おも》ほゆるかも(三一七三)
  堀江には玉敷かましを大皇《おほきみ》を御船漕がむと予て知りせば(四〇五六)
  玉敷かず君が悔いていふ堀江には玉敷き満てて継《つ》ぎて通はむ(四〇五七)
  堀江より水脈引きしつつ御船さす賤男の徒《とも》は河の瀬|執《まう》せ(四〇六一)
  防人の堀江漕ぎ出る伊豆手舟輯取る間なく恋は繁けむ(四三三六)
  …四方の国より献る貢の船は堀江より水脈引きしつつ…(四三六〇)
  堀江より朝潮満ちに寄る木糞《こづみ》貝にありせばっとにせましを(四三九六)
  芦刈りに堀江漕ぐなる楫のおとは大宮人の皆聞くまでに(四四五九)
  堀江漕ぐ伊豆手の船の楫つくめ音|屡《しば》立ちぬ水脈早みかも(四四六〇)
  堀江より水脈さかのぼる楫の音の間なくぞ奈良は恋しかりける(四四六一)
  船競ふ堀江の河の水際に来居つつ鳴くは都鳥かも(四四六二)
  堀江越え遠き里まで送りける君が心は志らゆましじ(四四八二)
 それらの歌の堀江は、保利江・保里江・保里延・保理江・穿江・欲江の六通りに記されてあって、堀江とは一つとして記されておらない。しかしながら、同じ時代の『日本書紀』の仁徳紀の中には明らかに堀江と記されてある。(430)『続日本後紀』の仁明天皇紀には難波堀川とも記されている。それらは後のこととして、堀江は歌としては『万葉集』だけにさかんに出てくるが、『古今集』以後の歌には出てこない。つまり堀江は『万葉集』で詠まれたのだが、その前と後とでは歌の題材としては消えていったのであった。
 
       五
 
 歌で分かることは、流れが相当あって、船が溯るには櫂の音も高く漕ぎのぼるのであつたが、それにしても船の上下はしきりにあり、水鳥なども鳴いているし、したがって両側は難波の芦も茂っていて、芦刈舟が右往左往している。もちろん難波江はすぐ川口であるからあげ潮になると流れがとまって、今の大阪の河川ほどではなくても、埃などのぶかぶかと浮かび寄ることもあるのはもちろんである。と、こう幻を描いてくると、まことに田舎びた水郷のさまがうかがわれるのである。が、舟行のしきりであったことは歌を読めば否定できない。ところでそうした堀江は、いったいいつごろからそうなっていたかと言えば、そう古い事ではないのである。
 一度触れた仁徳紀十一年の条に、
  詔2群臣1曰、今朕視2是国1者、郊沢曠遠而田圃少乏、且河水横逝以流末不v※[馬+史]、聊逢2霖雨1海潮逆上、而巷里乗v船、道路亦※[泥/土]、故群臣共視v之、決2横源1而通v海、塞2逆流1以全2田宅1、冬十月掘2宮北之郊原1、引2南水1以入2西海1、因以号2其水1曰2堀江1、
とある。これは一一四三番「さ夜深けて堀江榜ぐなる松浦船」の歌の注として、代匠記・略解・古義この方だれもが注意している所であるが、いったい仁徳天皇の坐した高津宮は、ちょうど今の大阪城のあたりと推定されている。大阪城は南北に走る細長い高台の北端にあって、今は大阪城と府庁とが高く聳ているが、すこし南へゆくと長流(431)や契沖やのいた生玉、すこし南へゆけば天王寺、さらに南すると住吉神社、浅香山、そして仁徳天皇御陵のある堺市東郊の高台の百舌耳原へとつづいている。この高台は古い洪積層で、その西側はすぐ白砂青松、大阪湾の水が白くうちよせていた事は、『栄華物語』で見ても分かるし、『古今集』以後の「松の下枝を洗ふ白波」式の歌に見ても分かる。ところでその半島の東側はどうだったかと言えば、古く入海だったことはたしかだ。神武御東征の兵船はこの半島の北端の、速い流れをのり切って内海に入り、草香江の白肩の津にふなはてせられた。これは大阪府と奈良県との堺、生駒山脈の足もとに近い所である。大伴旅人の歌が実景をうつしたものならば、その当時にもまだ深く入江はのこっていたはずである。ところで、この半島の北端は一度に低くなって、その辺一帯見渡すかぎり沈積土が自然に平原を形成しており、そこへ東北からは淀川が一直線にながれてきておる。また一方、飛鳥川や佐保川や大和一国の水を集めて竜田川が河内へ流れでると大和川となり、和泉の水を集めた石川と合流し、南河内を西北に走って、半島の東側にひたと沿いつつ北上し、そして淀川に合流している。大和川は元禄年間に大土木工事を起こして、今日のように大阪と堺との間を真西へ流すようにしたので、堺港は鎖国の後だったからよいようなものの、まるで役にも立たぬ浅い港になりはててしまった。しかしこの工事ははるか古く、奈良朝にも一度行なわれたのであって、和気清暦が与かっていた。それは天王寺のすぐ南側で、この半島を横断しようとしたのであって、今でも天王寺と関西線天王寺駅との中間がすこし谷となっておる。これが一千二百年前の大工事の失敗に終わった遺跡である。仁徳天皇の御代の工事は、この川に関して記録に残る最古の工事であるが、前文に南水とあるのがつまりこの大和川である。大和川がこのように厄介な川であったわけは、推測すれば面白い。おもな原因は二つある。一つは「世の中はなにか常なる飛鳥川」といわれるように、すでに古くから川が荒れている。つまりは大和の文化の早くひらけた事が、水源の原始林の伐木によって、次第に雨降れば急に氾濫し、日でりがつづけば涸れてしまうという現象を呈していた。その影響はもちろん難波の河口にひびくであろう。次第に入海は沈積土によって沼沢の多い、(432)芦の生い茂る平原をつくってゆく。同じ現象はある程度淀川の線に沿っても生じてくる。そこで古は半島だった高津宮から天王寺住吉にわたる丘陵は平原の中の高台となり、この半島にかこまれた太古の入海はいつか淀川、大和川の主流をのこして沼沢の多い、枝川の入りみだれ、所々に大きな入江のあとを残した平原にかわってきた。そのためなおさら淀と大和と二川が半島の東側で合流している事が、雨期の氾濫の因となった。
 そこで仁徳紀に見える工事が行なわれたのであった。その結果、挿図のBCの運河が出来て、ABの間はもと北流していたのが今度は逆に淀川の水を南流させるようになり、BCの運河は淀川の水と大和川の水とを併せ流すようになった。この運河がつまり堀江であったわけだ。
 ところで今の大阪の町の大半は、まだ芦の茂る低湿の島地だったり、水面下であったりしたのだから、この堀江の長さは知れたものである。今はそれが下流で二つに分かれて安治川と木津川とになっているが、その辺はすっかり水中であったろう。万葉の歌によれば高津宮のあたりから綱引きする海人の声がきこえたのだから、海岸線の位地は見当がつく。
 
       六
 
 淀川の本流は長柄川である。平安朝に入ると有名な「長柄の橋も朽つるなり」の歌が知られてくるが、『万葉集』には一度も出てこない。それはいわば、淀川本流が中央文化に直接関係のある舟行の路線になっていなかったためであるだろう。だとすれば堀江は中央文化と関係があったのであるか、といえば大いにあったのである。奈良の都を背景とし、難波もしばしば皇居となった関係を考えるまでもなく、沼沢の多い北河内は陸上交通の路線にはなり(433)かねる。道は生駒・信貴・葛城の山脈のいちばん低くなっている二上山の峠から一直線に西を指す。すると、北に沼沢地を眺めながら道はちょうど住吉のあたりへ出るのである。とすれば難波と奈良との文化交通の線が大和川に沿った方にある事は明らかで、したがって、住吉神社も天王寺もみなこの側にある。難波江に遣唐船の発着するだけでなく、内海航行の舟もみなこの側へはいってくる。そして堀江を溯り、大和川が大和から河内へ流れおちるあたりにまでは航行する。これが大切な点である。堀江は物部蘇我両氏の争いによって、金銅の仏像を投入しただけにはとどまらぬ。もっと奈良文化にとって大切な水であったわけだ。
 
       七
 
 なぜそれが平安朝になって歌によまれなくなったか。もちろんすでに読者も心づかれていよう。都は山城へうつった。淀川が文化の路線とかわる。そこで長柄川、一名中津川は、中央の歴史と結ぶようになるのであった。『文徳実録』に仁寿三年十月の条に名が出てくる。
 一方堀江の方は『続日本後紀』仁明天皇の承和十三年九月の条に、改修工事の事が見えている。
  仰2河内摂津両国1、令v苅2掃難波堀川所v生草木1、為d引2石川竜田両河諸流1令u〓2西海1也、
 つまりは堀江の芦が茂り、木も茂り、水はけは悪くなっていたので、浚渫したのであろうが、主要交通路がかわれば船着場の運命は分かりきっている。堀江は都人の歌に詠まれるには縁の遠いものとなっていってしまった。
 実は、長柄川は舟航に不便だったらしい。それは長柄の主流がS字形にうねっていることを考えるだけも分かるであろう。それに淀川口の土砂の沈積は相当さかんであったらしい。そこで必要はいつも果断である。『続日本紀』の桓武天皇延暦四年正月の条に、
(434)  遣d使v掘2摂津国神下・梓江・鯵生野1適c于三国川u、
とある。三国川とは後の神崎川であって、鯵生野のあたりで淀川から運河で三国川へ通ぜしめたのであった。この連絡点が有名な江口、三国川の海に入る出口に近く、これも有名な神崎がある。この川口を平安朝この方ながく川尻といって、ほとんど固有名詞的に用いられている。江口神崎は、京都が水路で地方へ結ぶに至ってひらけてきたものに外ならぬ。『朝野群載』巻三に見える大江匡房の『遊女記』になると、この三国川を交通の上からばかりでなく、地理的にも本来の主流のように考えて、長柄川や、堀江川の方は分流だという風に考えられている。そうなれば、西行と江口の遊女との話はひろまっても、堀江川が忘れられてゆくのは当然のことである。
 したがって、難波の運命もまた堀江と類を同じくしているといってよい。
 
       八 難波(上)
 
 前回は掘江川のことを考えて、難波もまた堀江と運命をともにしたと結んだから、今度は難波について考えてみる。
 今大阪の中之島に難波橋がかかっているが、なにわ橋〔四字傍点〕と呼んでいる。これは当然のことのようであるが、別に南区の方には難波新地あり、難波駅があり、これらはいずれもなんば〔三字傍点〕である。そして近松門左の有名な浄瑠璃『難波心中』もなんば橋心中〔六字傍点〕である。いつごろからなんば〔三字傍点〕と呼ぶようになったか、その点はまだ検べてみておらないが、近松の作で分かる通り江戸時代にはすでになんば〔三字傍点〕であった。今日なにわ橋〔四字傍点〕というのなどは、むしろ古にかえった呼び方であると言わなければならぬ。難波の発音がそのように変遷したわけは、様々考えられると思うが、都の人に一度忘れられた後、大阪の都市の勃興にともなって、あらためて移住民の間に難波の地名が浮かび出てきたために、(435)それらの新開市民がおのれの時代の字音読みにしたがって、なんば〔三字傍点〕と言うようになったのが一原因でないかと私は考えている。
 大阪は室町時代にすでに名の出た小坂の郷名の拡大したものだという事であるが、実際その辺の多くの古地名は多く大阪の市中に残されている。渡辺の渡しだとか、生玉だとか、長柄だとか、田蓑だとか、そして難波だとか。だから難波というのは実に狭い一地点の名になりはてていたのであった。大阪のことをなにわ〔三字傍点〕と言うのは大阪の町が開けてこの方の雅名である。いつからそうなってきたかと言えば、やはり都が平安京に移り、淀川が政治文化上の交通路線となった後、ことに江口のあたりで淀川本流から三国川(神崎川)へ運河を掘って、江口神崎の線が交通線になってから後のことである。
 たとえば『栄華物語』の「殿上花見」の巻を見ると、住吉詣の精しい記事が見えているが、その帰り路は、住吉から陸路を北上して「難波といふ所〔六字傍点〕にて御はらへあり」と記している。難波という所などという書き方を見ると、この地名も平安京の貴紳にとっては、かなり疎遠になっていたことが分かると思う。すくなくとも江口や神崎ほど耳に熟した名ではなくなっていたのである。いま一つすこし古い例を挙げれば、『源氏物語』の「澪標」の巻にある。明石の上が船で住吉へ詣でて、源氏の行列に出遇う。そして身を省みて言う、数ならぬ身が源氏の大臣と立ち変りわずかばかりの祈りをしたところで、住吉の神も数の中へは入れ給うまい。しかし今から明石へ帰るのも中途半端だ「今日は難波に船さしとめて、祓をだにせむ。」そして難波の方へ漕ぎ渡る。源氏もそれを聞いてあわれと思される。社を発って、逍遥しつつ引き返し、難波の祓も立派にして、「堀江のあたりを御覧じて、今はた同じ難波なると、御心にもあらでうち誦じ給へ」は、明石上は沖に船がかりして、田蓑の島に御禊をする。この方は古いだけに、いますこし精しい。源氏の口ずさんだのは、
  わびぬれば今はたおなじ難波なる身をつくしても逢はんとぞ思ふ
(436) 『拾遺集』恋二に元艮親王の御歌、『拾遺抄』によみ人知らずの歌である。
 みをつくし、すなわち澪標は、航路標識であるから、葦などの茂った細い水路などならば、どこにでも立てられるはずのもので、『万葉集』十四にも、
  遠江引佐細江の澪標吾を憑めてあさましものを(三四二九)
などと見えている。しかし難波の澪標は、都近いだけにだれにも知られておった。それで、「難波なる身をつくしても達はんとぞ」とも詠まれ、そして『源氏物語』の巻名ともなった。しかし、なぜか難波の澪標は一度も『万葉集』には詠まれていないのである。考えてみるに、この澪標は、平安朝に入ってから立てられたものかもしれぬという気もするのである。
 それにしても、その澪標はどこにあったか、と言えば、堀江川の河口あたりに立てられていた標識だろうと思う。
 
       九
 
 その一証は『源氏物語』よりさらに溯って、紀貫之の『土佐日記』に見えている。二月五日、貫之の乗船は住吉の沖を北へ素通りして澪標の立っているその地点に碇泊した。そして六日の朝に纜を解いて、淀川川尻にはいった。その六日の記事を見ると
  六日、みをつくしのもとより出でて、難波つきて、河尻に入る。
とある。この河尻はもちろん三国川(神崎川)の川尻である。当時はすでに江口の所の運河工事の後であり、江口神崎の線が淀川下流の交通路になった後であるから、土佐から来る外洋航路の大船は、とうぜんこの三国川の線を溯航しなければならぬ。船は川尻に入って神崎で泊まったのであろう。七日から溯航がはじまるのである。そこで、(437)六日は澪標の下から三国川の川尻までの航海であるから、その距離は相当なくてはならぬ。両者相当隔たっているという点から見て、澪標はどうしても堀江川の川尻になければ話が合わなくなるのである。けだし淀川河口のデルタを中にして、堀江川の川尻は南のはてにあり、三国川の川尻は北のはてにあるからである。
 この考えが正鵠を得ているとして、それではなぜ堀江川の川尻に澪標があったかといえば、堀江川の方が船の航行に不便になってきていたことを証するものであるかと思う。そのわけは、前回にも一度引用した記事であるが、『続日本後紀』仁明天皇の承和十三年九月の記事を思い合わすからである。そこに石川竜田両河諸流を引いて西海へ通ぜしめるため、難波堀川に生えた草木を苅らしめたと見えている。つまり仁明朝の頃すでに堀江川に葦などが茂って、水はけも悪くなっていたのであろう。とすれば大船の航行に不便なのはもとよりである。しかし住吉詣り船などはどうしてもこの線を通るから、船の通うだけのことはしてあったかと想像される。そのような点から考えても、澪標は堀江川の川尻の方にあつたに違いない。と同時に主要路線としては認められなくなった後にできたものでないかという気もするのである。今日大阪市の徽章は澪標であって、堀江川の下流である木津川河口に立てられている。往時の地理には関係ないが、思い出したのでちょっとつけ添えた。
 
       一〇
 
 さて右の『土佐日記』を引いたために、問題になる事が一つ出てきた。それは難波つきて〔五字傍点〕川尻に入るという事である。これは森本治吉氏が『新訂要註土佐日記』(三省堂)の七三頁に『万葉集』巻二の天智天皇崩御の時の太后の御歌に、
  鯨魚取り淡海の海を、沖さけて榜ぎくる船、辺つきて榜ぎくる船……(一五三)
(438)とあるのを証として、古代語法の形を存するものとされたのが定説とすべきものかと思う。卓見であると思う。それで「難波つきて」の辞句の解は、「難波に沿って」で動かない。
 とすると、いちばん南のはての堀江の川尻から北のはての三国の川尻まで、淀川デルタの正面を横ぎって行ったのが、難波に沿って行ったという事になる。淀川河口の三角洲のあたり全体が難波でなければならなくなる。いったいそれでよいのかというのが問題である。
 これはこれで良い。難波はほんらいわりにひろい土地の名で、その中にあった堀江川尻の港だったから難波江、難波津、難波の御津などと言ったのであろう。その港としての難波の方ばかりが地名として土着していたので、難波という地名は狭くなっていってしまった。古い言い方でいえば、江口神崎もとより難波でよいのだが、だれもそうは言わなくなったのである。
 そこで広い難波はどのくらいあったか、この間題を考えておこう。
 難波は相当ひろい地域にわたっていた。『日本書紀』欽明天皇紀元年に
  九月乙亥朔己卯幸2難波|祝津《ハフリツ》宮1、
とある。この宮は名から見て、やはり海に沿い、船のついた地点にちがいない。『摂津志』に
  河辺郡祝津西、在2西難波村1
と見えている。河辺郡は今でいえば兵庫県の東のはて大阪府に接する地方である。そして今も尼崎市の西、西宮市の東に、東難波、西難波の地名が残っている。難波の西辺は大阪と神戸との中間あたりへ伸びていたろうことが想像できるのである。
 それから清寧天皇紀のはじめを見ると、漢彦が命のたすかった謝礼として大伴大連に土地を献じている所がある。
  大伴大連我君、降2大慈愍1、促短之命既統延長、獲v観2日色1、輙以2難波来目邑大井戸田十町1送2於大連1。
(439)やはり『摂津志』に、
  住吉郡遠里小野、旧名難波来目大井戸。
とある。住吉郡というのは『和名類聚砂』の郡名にも見えていて古いものなのであるが、近頃は東成郡に合わせられていた。今日では大阪市住吉区である。その南のはしに当たる方に遠里小野《ヲリヲノ》町があって、元禄年間に切り開いた大和川の放水路を隔てて堺市に接している。両市をつなぐ橋は遠理小野橋といっている。もちろん町名も橋名も新しいものであるが、すでに『万葉集』にも、
  住吉の遠里小野の真榛もち摺れる衣の盛過ぎぬる(一一五六)
  …紫の大綾の衣住吉の遠里小野の其榛かちにはしし衣に…(三七九一)
などあって、住吉の方角だったことは分かる。来目がその方だったとすれば、住吉神社よりも南の方まで難波だった。この事は『大日本地名辞書』や『大日本地理志料』を開けて見ておかなかったので、いつかまた追加しようと思う。とにかく難波とよばれていた所は非常にひろい場所であった事は念頭におかなければならぬ。
 またそれと一方、三国川、長柄川、堀江川、いずれも仁徳天皇の御代と、聖武孝謙両朝のころと、延喜の御代とを比べ考えるならばその三角洲の生長は後になるほど早くなっていても遅くなるという事はないと思われるから、『土佐日記』時代や『源氏物語』『栄華物語』の時代やよりも、『万葉集』に詠まれたころの難波は、もっと河口の線も簡(440)単であったことも想像しなくてはならぬ。したがって、今日大阪は中程に港があって西の方へつきでているが、この部分はまったくまだ水底に属していて、今の大阪市の大半をなす沖積層の生成期にあった。海岸線は自然の状態で中くぼみに東の方へ入っていた事は思わねばならない。それで大体は難波の地は挿図の左上祝津の辺から下右の住吉神社、来目大井へかけての点線の右側に沿って、江口のあたりまでかけてが、そのころの難波と見てよいのでないかと思う。もちろんそれには、ずいぶん多くの地図や文献をもっと掲げなくては十分といえないが、ここには大体の見当をつけてみるにとどめよう。
 さて大体以上のように見当をつけて、『万葉集』中の難波の歌にてらし合わしてみたいと思う。
 
       一一 難波(下)
 
 難波の語原は今のところ決めることはできない。これまで難波の名称の起源を語るものとして多くの人に引用されたものは、『日本書紀』神武天皇紀の戊午年春二月の条の記事である。その文をかなまじりに書けば次のようである。
  皇師遂に東にゆく、舳艫《ともへ》相|接《つ》けり。方に難波之碕《なにはのみさき》に到るとき、奔潮《はやきなみ》有りて太だ急《はや》きにあひぬ。困りて以て名づけて浪速国《なみはやのくに》と為す、亦|浪華《なみはな》と曰ふ。今|難波《なには》と謂ふは訛《よこなま》れるなり。
 この文に奔潮あって甚だ急であったと見えているのは事実であったであろう。北河内一体にひろまっていた内海は、南側から突き出ている難波の岬によって大阪湾と隔てられている。その内海には淀川も大和川もが注いでいたのだから、難波の岬に扼せられていたあたりは、水流がはやくて、ことに干潮になる時などは相当の速度で流れたろうことは想像できる。としても、それゆえに浪速国と名づけられたとするのは如何かと思う。これは風土記など(441)にも多く見えることであるから、すでに多くの人の気づいている通り、奈良時代頃の人の問に行なわれていた地名起源説話の一つの例であろう。それは大方当時の人々の合理的精神を満足させる風のものであって、多くは音の転訛現象として一応の説明をするのであった。だから、当時の淀川河口も相当の流れ速度があったために、眼前に見るそうした現象と、ナニハの地名とを、ナミハヤという観念を仲介にして結びつけたのであったろう。われわれはこの地名説話によって、すくなくもそのころに、そうした説話が摂津河内あたりの人に説かれていたかも知れぬということは想像してもよかろう。しかしそれはあくまでも地名あっての説明であって、歴史事実あって初めて地名が生まれたと信じては危険であろう。とすれば、難波《なにわ》の語原は今のところ決めがたいことになるであろう。
 さて淀川流域の南側、北河内のあたりが内海だった事は、今の地質上の知識からも言えるし、神武御東征の軍の上陸したと語り伝えたところの草香などという地名が、はるか生駒山脈寄りに残っていることからも想像してよいであろうが、土砂の沈積は自然に行なわれていたに違いないので、次第に洲が発達し、島が多くなってきたのは当然で、難波の岬の東側、大和川流域の方に生まれてきた陸地が『和名抄』の摂津国の部に言うところの東生郡《ヒガシナリ》、またその西側から北辺の方の淀川河口にわたって生成した陸地が西生《ニシナリ》郡であった。後の東成郡と西成郡で、大阪の市街も両郡の上にまたがって出来ていったわけであるが、大大阪の生まれるまでは郡も存続しておった。今日では大阪市東成区と西成区とにその旧名を残しているに過ぎない。
 
       一二
 
 『万葉集』にも難波国・難波宮・難波海・難波滴・難波碕・難波江・難波津・難波門など出てくることは古義の「名処考」巻之五にも見えているし、『万葉集総索引』を引いてみても分かることである。その中で、難波国といえ(442)ば漠とその辺の土地を呼んだらしいので、『万葉集』の歌のできるころに官制の上で難波国があったわけではない。というのは万葉巻二、神亀二年冬十月難波宮に幸せる時、笠朝臣金村の作れる歌は、聖武天皇の御代の行幸であって、歌に、
  押照る難波の国は、葦垣の古りにし郷と、人皆の 云々(九二八)
と見えているが、その頃にはもちろん難波国という国のあったわけではないからである。
 難波宮は、『万葉集』にしばしば出てくる。しかしこれは決して一箇所ではない。すくなくも数箇所あったのであった。『日本書紀』によれば応神天皇は廿二年春三月、難波に幸して大隅宮におられた。妃の兄嬢《えひめ》が故郷の吉備の方を望んで嘆かれたので、天皇はおもいやり深くも妃を吉備へと送られた。「夏四月、兄媛大津より発船して往く。天皇|高台《たかとの》にいまして、兄媛の船を望《み》そなはして、歌よみして曰く」と紀は記して、御歌を載せている。これは、今の大阪としても北よりの方で、前号に述べた長柄川よりも北の方だったろうと推定されている。だからもちろん、淀川下流が堆積土のためにすでに平坦な島地となっていたことが分かる。ただし、この宮に関する歌は『万葉集』には出てこない。
 すぐ次の仁徳天皇は難波高津宮におられたが、これはほぼ今の大阪城のあたりと考えられている。以前はいますこし南の方、天王寺との間ぐらいに考えられていたが、それは正確でなかろうという説は故喜田貞吉博士の強調されて以来、一般に信ぜられているように思う。しかしこの宮に直接関係のある歌も『万葉集』には出てこない。そしてその後また皇居は大和のうちへ帰ることとなった。
 しかるに孝徳天皇の大化元年冬十二月に、ふたたび大和を出て、皇居は難波にうつされた。『日本書紀』に見ると、
  天皇都を難波の長柄《ながら》の豊碕に遷したまふ。老人等相謂ひて曰く、春より夏にいたり、鼠の難波に向《ゆ》きしは、遷都の兆《しるし》なりき。
(443)とある。この後百五十年あまり、難波京は継続して、桓武天皇の延暦の長岡遷都、次いで平安遷都によって、廃せられるまでつづいた。その間実際に皇居となったのはごく稀であり、また僅かの時間であったが、しかし京都としては百五十年あまりつづいたのであった。これは東京に対して京都には今日もなお御所があり、京都は名のしめすように今日も京都であるように、奈良の平城京が出来てからも、引きつづき難波京は存続したのであった。
 その存続の事は紀にも続紀にも明記はしていないように思う。私の探った所では見つからない。ざっと見たので見落しはあると思うが、差しあたり見つからない。しかし京都でないと明記した所もない。ところで難波の所在地である摂津は、国司の所管でなくって職《しき》の所管になっている。国司の長官は守《かみ》で、職の長官は大夫《だいぶ》である。だから摂津に限って摂津の大夫である。これは京都の長官が左京大夫と右京大夫で、職が司っているのと同じ観念である。平安時代に入って、摂津職が廃されて、国司の所管となり、摂津守が長官になるように変わったのは、つまりは難波京が廃絶したことになるであろう。『続日本紀』を見ると、奈良時代には引きつづき摂津大夫が立っている。だから『万葉集』の歌の作られた時代、書きとめられた時代には、もちろん難波は都であって、皇居たる難波宮の所在地であった。
 
       一三
 
 いますこしいえば、大化元年難波長柄の豊碕宮に遷都の後、造営がはじまり、白雉二年十二月にはほとんど完成した。十二月晦日に味経《あじふ》宮で二千一百余の僧尼に一切経を読ましめられた。そこで天皇は大郡からこの新宮に遷られ、それを号《なづ》けて難波の長柄の豊碕の宮といわれた。それより前、天皇は大郡すなわち東成郡の郡衙を行宮としておられたのを、いよいよこの時新宮に遷御あらせられたのであって、その時正式の名称も決められたのであったが、(444)別名は味経宮とも大郡宮ともいった。また正式の宮名を略して長柄の宮とだけも言ったらしい。『和名抄』の摂津国の郡名でも味原《あじふ》は東成郡にあって、この宮が東成郡にあり、しかも味経の一部にあり、長柄川に接した場所にあった事に疑いはない。
 その宮都は紀による白雉三年秋九月に完了したが、その宮殿の状ことごとく論《い》うべからずとある。それからすぐ政事上の関係で大和へ遷幸になったが、、斎明天皇も難波宮へ行幸になった。天智天皇は大津宮におられたが、天武天皇は十二年に詔して、
  凡そ都城宮室《みやこおほみや》は一処に非ず、必ず両参造らむ、故《カ》れ先づ難波に都せむと欲す 云々
と仰せられて、御修理がはじまったが、朱鳥元年に至って、正月十四日酉の時、難波の京の大蔵省から失火して、宮々ことごとく灰燼に帰し、兵庫職だけは災厄を免れた。しかしまた復旧はされたに違いないのであって、完全ではなくとも藤原京と並んで難波京の設備はあった。持統天皇六年四月丙辰(廿一日)には難波の大蔵保管の鍬を有位者に賜わっている。しかし大体奈良時代に入ってから、平城京の美しさには比べられなくなっていたのはたしかである。
 ところで続紀によれば聖武天皇の神亀三年十月廿六日、式部卿従三位藤原朝臣|宇合《うまかい》を知造難波宮事に任じ、御修理の事がはじまった。そして天平年間にはそれがほぼ完了したのであろう。『万葉集』巻三を見ると、
   式部卿藤原宇合卿、難波|堵《みやこ》を改め造らしめらるる時、作れる歌一首
  昔こそ難波田舎と言はれけめ今は京《みやこ》引き都びにけり(三一二)
というのがあるが、宇合は天平三年八月十一日に弟の麻呂、葛城王、大伴道足など六人の者の一人として、参議に任ぜられたのだから、この歌はそれ以前の作であったと信ぜられる。とすれば天平のはじめ、すでに難波京の美に復旧していたと見てよいであろう。
(445) さてそうなって、聖武天皇は頻々と難波宮へ行幸になっている。『万葉集』巻六に見ると、天平六年春三月難波宮に幸せる時の歌六首が見えていて、統紀の同年月の条にも難波宮行幸の事が見え、また摂津職は吉師部《きしべ》の楽を奏し、天皇は造難波宮司・国郡司などに禄を賜い、また東生・西生両郡の租と調とを免じたまい、他の摂津国内の十郡には調を免じたまうた事も見えている。
 さてそのようにして聖武天皇の復旧されて行幸になった難波宮はいずれの宮かといえば、外ならぬ大化この方存続してしばしば修理された難波長柄豊碕宮であったのである。つまり味経の宮であり長柄の宮であった。『万葉集』巻六を見ると神亀二年の歌のところに、
   冬十月、難波宮に幸せる時、笠朝臣金村の作れる歌一首並に短歌
  押照る難波の国は、葦垣の古りにし郷《さと》と人皆の念ひやすみて、つれも無くありし間に、うみをなす長柄の宮に、真木柱大高敷きて、食す国を治めたまへは 云々(九二八)
とあるし、
   難波宮にて作れる歌一首並に短歌
  やすみしじ吾が大王の在り通ふ難波の宮は、鯨魚取り海片肘きて玉拾ふ浜辺を近み、朝羽ぶる波の音さわぎ夕なぎに櫂の声《おと》聞ゆ、あかときの寝覚に聞けばわたつみの潮干のむた、浦|渚《す》には千鳥妻呼び、葭辺には鶴《たづ》が音とよむ、……御食向《みけむか》ふ味原《あぢふ》の宮は見れど飽かぬかも(一〇六二)
     反歌二首
  在りがよふ難波の宮は海近み漁童女《あまをとめ》らが乗れる船見ゆ(一〇六三)
  潮干れば葦辺にさわぐ白鶴《あしたづ》の妻呼ぶ声は宮もとどろに(一〇六四)
とも詠まれている。長柄川は淀川(山城川・山崎川)の下流、前に述べた堀江川と分かれた部分の名であったのだ(446)し、宮はまったく淀川下口の三角洲の上にあり、海にはすぐ接していた。それはこれらの歌によっても多く分かるであろう。それと同時に堀江川にかかわる歌の中には、天皇の御用にその川筋の用いられていることを示す歌もあった事を考えると、堀江川にも遠くなかったろうという事が感じられるのである。長柄宮の位置は現在から的確には決定しがたい問題になっているにしても、ほぼその位置の見当はつくであろう。
 
       一四 大伴の御津・難波の御津(上)
 
 『万葉集』の歌の中にしばしば大伴の御津〔五字傍点〕という言葉がでてくる。その大伴の御津については、今日の見解は一定していると見てよいであろう。その見解について見渡してみるに、要点は二つに分かれると思う。
 第一に、大伴の御津はどこにあるかということに関しては、それは難波の御津だと考えられておる。この見解は江戸時代この方一定不変であって、異説はおそらく存しないようである。
 第二は、大伴の御津の名称については、また二つに大約できるが、その一つは大体大伴の〔三字傍点〕は御津の枕詞であるとする説であって、これは江戸時代この方現代まで承け継がれており、いま一つは大伴〔二字傍点〕を地名と見る説であって、これは大正以後になって生まれてきておる。
 難波について考えてきたので、問題は自然に難波の御津のことに触れてくる。それで今度は大伴の御津を問題にしてみたいと思いたった。いったい大伴の御津ははたして難波の御津そのものであるのかどうか。なぜそう信じて疑わないのであるか。それは『万葉集』の用例に全部眼を通すと、大伴の御津なるものが難波あたりにあった事はたしかに分かるのであって、関東や九州やにあったのでないことは一見明瞭ではある。だからといって、大伴の御津すなわち難波の御津とするはいかがであろうか。江戸時代この方の国学者は、その点すべて、両者同一であるこ(447)との証拠は決して挙げておらぬ。だからいわば速断である。そう決めてかかっているだけであって、疑いをもって見直したことがないのである。私はなにか証拠とするに足るものはないかと思って渉猟した結果、ただ一つだけ証拠とすればする事のできるものを拾いあげた。それは『万葉集』巻五に載っている有名な好去好来の歌につけられた二首の反歌である。その二首は次の通りである。
  大伴の御津〔五字傍点〕の松原かき掃きて吾立ち得たむ早やかへりませ(八九五)
  難波津〔三字傍点〕に御船はてぬと聞え来ば紐ときさけて立ち走りせむ(八九六)
 同一の歌の反歌に一つは大伴の御津とあり、いま一つは難波津とあるのであるから、大伴の御津すなわち難波津であると見てもよいであろう。こんな事はあまりにも顕著な実例ゆえ、いまさら引くに及ばぬというためでもあろうか、『万葉集』中唯一の実例であるこの二首すら、大伴の御津即難波の御津説の根拠づけのためには引かれた事がないのである。しかもこの二首を措いては、大伴の御津を難波の御津とし得る論拠は絶対に存しないのである。
 右の八九六番の歌の難波津をもって難波の御津としなければならぬ理由もまた絶対に存しない。なんとなれば、当時の難波の地の中には船の出入できる津港はいくつか存在したのであって、決して難波の御津ばかりには限らなかったからである。眼に触れたものを列挙するだけでも、
  住吉《すみのえ》の浅香の浦(一二一)
   夕さらば潮満ち来なむ住吉の浅香の浦に玉藻苅りてな
  住吉の得名津(二八三)
   住吉の得名津に立ちて見渡せば武庫の泊ゆ出づる船人
  住吉の敷津の浦(三〇七六)
   住吉の敷津の浦のなのりその名は告りてしを逢はなくも怪し
(448)  住吉の三津(四二四五)
  そらみつ大和の国あをによし奈良の都ゆ押照る難波に下り住吉の三澤に船乗りただ渡り日の入る国に遣はさる‥‥‥
外に巻三に四極《しはつ》山(二七二)があり、巻六に四八津之泉郎《しはつのあま》(九九九)があり、また『日本書紀』雄略紀の十四年正月の条に磯歯津《しはつ》路がある。そして、『日本書紀通証』は住吉一名磯歯津としている。粉浜だの住吉の岸だの奈呉の浜辺だの多くの名も出てくる。たとえそれらの多くの名は見えても、『万葉集』に見えるように大船をもって渡唐するような時の港は、難波の御津より外にはないではないかという反対がもし起こるとすれば、私はただちに答えうる。もちろん住吉の御津もまたその港でありうると。そしてその例を『万葉集』中にもとめるとすれば、右に引いた巻十九・四二四五の一首で事は十分であろう。しかも住吉は明らかに難波の一部である。それは『万葉集』に見ても分かるし、前二回にわたり、難波について述べたところを参照されても分明であろう。だから、好去好来の歌の反歌に、大伴の御津と難波津との歌が二首並んでいるという事実だけによって、大伴の御津を難波の御津とする事は絶対にできないのである。このように、『万葉集』中唯一の証拠になりそうな所さえ、証拠としての確実性が十分でないという事になれば、いったいなにをもって大伴の御津は難波の御津であると決定しうるのであるか。師説の伝承以外にはありえないであろう。しかもその師説といえども絶対に江戸時代以前には溯るをえない。なんとなれば室町時代には大伴の御津をもって難波の御津なりと断定する説はいまだ発生しておらぬと見得るからである。このようにして、大伴の御津は改めて検討されなければならない地名の一つであったのである。
 
(449)       一五
 
 次に大伴の〔三字傍点〕が枕詞であるとする説と、大伴〔二字傍点〕が地名であるとする説とである。
 いったい大伴の〔三字傍点〕が冠せられているのはすべて土地に対してであり、しかも難波のあたりの土地に対してであって、それに二種ある。『万葉集』巻一に見ると、
  いざ子どもはやく日本へ大伴の御津〔五字傍点〕の浜松待ち恋ひぬらむ(六三)
  大伴の高師の浜〔七字傍点〕の松が根をまきてし寝れど家ししぬばゆ(六六)
の二首があって、大伴の御津はこの歌の後にもしばしば見えるのであるが、大伴の高師の浜はこの一首限りで外に所見はないのである。さてその六三の歌について現存の最も古い注は、今見える平安時代唯一の注釈書である『万葉集抄』に「ミツノ浜松トハ摂津国ノミツト云所也」とあって、大伴についてはなんらの説明はしていないが、摂津にある事だけは限っている。ただ摂津の国のミツと言う所だというのだから、難波の御津と決めているのかもしれぬ。が、大伴について一言もないのは、周知のものゆえ捨てたのか、それとも不明であるので触れなかったのか。いったい平安時代人は、難波などについてもすでに「なにはと云ふ所」といった言い方をしているように、あまり往来のしげくない所となっていた事は前回にも触れた通りであるが、それゆえにこそ難波あたりの事は、すこしでも知っておれば説明はなしたくなるであろうし、分かっておればかならず一言したであろうに、それを触れなかったのは大伴がすでによくは分からなくなっていたのでないかと想像させるのである。また六六の歌の方については、今のところ『仙覚抄』に見えるのが最も古いが、それにも「タカシノハマ摂津国也」とあるだけで、やはり大伴には触れていない。平安末期の『万葉抄』の時分からなかったとすれば、仙覚時代にももちろん分からなかった方が(450)当然であろう。大伴を地名の一部としているのは、私の見た所では宗祇の『万葉抄』からであるらしく、六六の歌について、「たかしの浜は摂津也。大伴のたかしの浜の松は所から面白し」といっているが、なにによって地名の一部と見なしたかは言っていない。が、しかし、見方によれは『万葉集』に大伴の高師の浜とあるからそのままに用いたのであって、大伴の〔三字傍点〕が地名の一部であるか、枕詞であるかは、宗祇の頭の中ではまだ判然としてくるまでに到っていなかったかもしれない。おそらくそう見るのが穏当であると思うのである。
 だとすれば、そうした中世訓詁家の漠とした未分化の観念を継承して、枕詞と断言したり、地名と断言したりすることは、江戸時代の学者にいたって生じたことだと見られるようである。
 おそらく大伴枕詞説の始源は契沖の『代匠記』である。その精撰本の六六の歌の注に、「大伴は高師ノ枕詞、別ニ注ス」といっている。しかしまだ大伴の御津の方について、そう明言していない。また一方、大伴地名説の宣言は荷田春満の『僻案抄』である。その六三の次の注には「大伴乃御津乃浜松とは大伴乃御津は摂津の地名也」と見え、六六の歌については「大伴乃高師能浜は摂津国にあり。後には和泉国と心得てよみたる歌あり。あやまるべからず」と記している。高師浜摂津説は『仙覚万葉抄』の説の継承であるのはたしかである。
 
   注、一言するに、高師の浜は本当はどこかよく分からぬ。現在は和泉国泉北郡にあって、有名な浜寺海水浴場の近くであるが、泉北郡は古の大鳥郡である。並河《なびか》永の『五畿内志』に、『和泉志』に高渚《たかす》廃寺在2大鳥郡南荘1、故址有2乳守小祠1、と記している。それは『続日本紀』の宝亀四年十一月に、宜(シ)3……和泉国高渚(ノ)五院(ニ)、各々捨(テシム)2当郡(ノ)田三町(ヲ)1とある。このタカスとタカシとは音の相通で、いずれかが訛ったものであろう。加藤千蔭は『万葉集略解』の六六の歌の注に、続紀の記事と仙覚・春満の摂津説とを並べて、疑いを存している。曰く「高師は和泉国大鳥郡に有事、紀に見ゆ。或人、此高師は難波にありて、和泉の高師にあらずといへり。猶土人に問ふべし〔八字傍点〕」と。江戸の千蔭は土地の人に望みをかけたが、おそらくこれは分かるまい。それからその紀はおそらく続紀の誤りであろう。なぜならは大鳥郡は、『日本紀』の時代には河内国に属していて、まだ和泉所属になっていない。和泉に転属したのは霊亀二年の事であって、それは明らかに続紀の範囲内の時代だからである。そんなわけで橘守部も『檜嬬手』でやはりすこぶる曖昧である。曰く「高師は和泉国大鳥郡。難波にもありと云ふ。」しかし続紀の高渚に(451)して高師であるならば、現在和泉国に在る事は正しい伝承であることとなる。おそらく『八雲御抄』この方、訓詁注釈家の間に伝えられた高師摂津説は旗色がわるいのである。
 
 とにかく、契沖春満両大人が枕詞説と地名説とを掲げた後に出た賀茂真淵は苦しんでいる。かれはいちおう枕詞と決したものの、すると、大伴の〔三字傍点〕が御津と高師と二種の語にかかる理由を説明しなくてはならぬ。『冠辞考』はそこで、神武天皇の「みつみつし久米の子らが粟生には、かみら一本そねがもと、そねめつなぎて打ちてしやまむ」のみつみつし久米の子とある、その久米部をつかさどるのが道臣命、その命の子孫が大伴宿禰だから、大伴のみつ〔五字傍点〕とつづけたと説き、また、みつみつし久米の子らの久米部は軍事をもって朝廷に仕えたもので、健きもののふであるから、その健《たけ》き事に言いかけて、大伴の高師〔五字傍点〕とつづけたのだろうと説いた。橘守部の『檜嬬手』、岸本由豆流の『攷証』は、大伴の稜威《みつ》であると考えている。また富士谷御杖の『万葉集燈』は、『冠辞考』の説をのべた後、大伴の高師の浜について、「又姓氏録に、大伴大田宿禰の次に、佐伯日奉造は、談士《たかし》連之後也とあるにより言ふにやといへり」と記している。とにかくみな枕詞的連想から生まれたものと考えている点は共通である。
 ところがもし枕詞であるならば、「大伴の」は、一般に外の「高し」という言葉の用例にも自由に連絡しなくてはならぬはずであるにかかわらず、決してそうでなく、『万葉集』中ただ一首の高師の浜に一回結びついているだけである。またもし枕詞であるならば、「大伴の」は、同じく一般に外の「御津」「満つ」「稜威」などにかかるべきだのに、難波のほとりの御津につづくだけで、決して他の国の御津にすらかからず、まして、「満つ」だの「稜威」だのにかかるという事が絶えてない。この点はたしかに枕詞としては不自然である。
 それに較べるならば、たとえ高師浜が和泉であろうと摂津であろうと距離はあまり遠くも隔たっているわけでないのだから、大伴は御津から高師浜あたりへわたっての地名であったのだろうと見る見方の方が、はるかに合理的である事は肯定できるわけである。そのようなわけで、最近の大伴地名説は生まれてきたものであるだろう。した(452)がってそれは、荷田春満の地名説から伝統を引くものでなく、むしろ新たに興った説であると見る方がよいと思うのである。
 しかしそれにしても、最近の大伴地名説もはじめに言ったように大伴の御津を難波の御津と決めてかかっている点ですこぶる不満なものである。たとえば豊田八十代氏の『万葉地理考』のなには〔三字傍点〕の条に見ると「難波津は、今の東成・西成二郡の地にわたり、墨江・大伴の津(御津と云ふ)両処あり」と記されてあるが、これにはどうも疑いがかけられざるをえないのである。難波津〔三字傍点〕が非常にひろくて住吉の御津と難波の御津とが外港と内港との関係にあったという事は、説として面白いが論拠にかける。それに対して、難波の御津(せまい意味の)の方を大伴の御津という事は、劈頭に述べたように証拠はないのである。そこで大伴の御津はまったく先入見なしにいま一度検討しなければならぬ問題となる。そして私は、大伴の御津は難波の御津であるのではなく、かえって反対に住吉の御津であると考える。次はそれについて述べようと思う。
 
      一六 大伴の御津・難波の御津(下)
 
 大伴の御津が難波の御津でなくて、おそらく住吉の御津であろうとする提案の直接的証拠は、大伴の御津が難波の御津であろうとする場合と同じように、『万葉集』の中からさがし出す事はできぬのである。そこで、そうした証明を行なう第一の前提として、まず大伴地名説を処理しておかねはならぬ。それができなければ推定は不確かとならざるを得ない。
 私は大伴は決して地名ではないと言い切れるように思う。それではなんであるかと問われるならば、それは氏族の名称であって、大伴氏の多く屯する所という意に用いられており、まだ地名とはなっていないものだと答えるで(453)あろう。
 大伴が地名でないとする理由は二つありうる。一つは「六国史」に摂津・河内・和泉あたりの地名としてまったくその名が見えていないという事である。そしていま一つには、奈良時代はおろか、その後の記録にも、すこしも名が出ていないという事である。
 第一の点については、これをたとえばささなみ〔四字傍点〕などと較べてみるとよい。ささなみ〔四字傍点〕は南近江の小さな部分の地名とされている。『万葉集』の中にもその名は十数回出てきている。有名な「近江の荒都を過ぐる時柿本朝臣人麿の作れる歌」に、
  ……天ざかる夷《ひな》にはあれど、石走る淡海の国のささなみ〔四字傍点〕の大津の宮に、天の下知ろしめしけむ……(二九)
     反歌
  ささなみ〔四字傍点〕の志賀の辛碕さきくあれど大宮人の船待ちかねつ(三〇)
  ささなみ〔四字傍点〕の志賀の大曲《おほわだ》淀むとも昔の人にまたも逢はめやも(三こ
または高市黒人の作にも、
  古りにし人にわれあれやささなみ〔四字傍点〕の放き京も見れば悲しき(三二)
  ささなみ〔四字傍点〕の国つ御神のうらさびて荒れたる京見れば悲しも(三三)
巻七の轟旅にて作れる九十首中に、
  ささなみ〔四字傍点〕の連庫《なみくら》山に雲ゐれば雨ぞふるちふ帰りこ吾がせ(二七〇)
または同巻問答の歌の中に、
  ささなみ〔四字傍点〕の志賀津のあまは吾なしに潜《かづ》きはなせそ波立たずとも(二一五三)
巻九の槐本《ゑにすのもと》の歌
(454)  ささなみ〔四字傍点〕の比良山風の海吹けば釣する海人の袖かへる見ゆ(一七一五)
 こうした例に見られるささなみ〔四字傍点〕は、近江の国のささなみとも、ささなみの大津の宮とも、ささなみの志賀津とも、ささなみの連庫山とも、ささなみの比良山とも自由につづいている。つまりささなみの内にある地名ならば当然つづけ詠んでよいはずであるし、またその通りにつづけ詠まれてもいる。その上、「六国史」の上にも名が明らかに記載されている。たとえば、『日本書紀』巻九、神功皇后の摂政元年に、
  武内宿禰出2精兵1而追之、適遇2于逢坂1以破、故号2其処1曰2逢坂1也、軍衆走之、及2于|狭々浪《ささなみの》栗林1、而多斬、
巻廿五、孝徳天皇大化二年の条には、
  凡畿内、東自2名墾《なばりの》横河1以来、南自2紀伊|兄《せの》山1以来、西自2赤石櫛淵1以来、北自2近江|狭波《ささなみの》合坂山1以来、為2畿内国1
また巻廿八、天武天皇元年には、
  諸将軍等悉会2於|篠浪《ささなみ》1、而探2捕左右大臣及諸罪人等1、
などとある。正史にしばしば記載されて、ことに畿内の地の限界を示すにまでささなみ〔四字傍点〕の名称の用いられているという一事は、ささなみ〔四字傍点〕の信用度を高めるものであること、いうまでもない。あえて『万葉集』の歌に詠まれたというだけの事ではないのであった。
 それに較べるならば、大伴の方はまったく事情が別であると思わせる。『万葉集』の歌にはしばしば詠まれているにかかわらず、『古事記』・「六国史」を検して、難波津・難波三津之浦・難波御津・難波江ノ口・住吉津・墨江之津などしばしば見えているにかかわらず、大伴之御津はついに一度として出てこない。ことに大伴が難波の南方の地名であるならば、それが先に出したささなみ〔四字傍点〕の場合と同じ行き方で、難波の大伴の津守とも、大伴の住吉の敷津とも、難波大伴の遠里小野とも、大伴の浅香の山とも、または大伴の粉浜・大伴の吉志の浜辺とも、なんとでも(455)言えそうなものである。ところが大伴については、その事が絶えてない。それのあるのは実は大伴ではなくて住吉である。住吉に関する限り、その事実はささなみ〔四字傍点〕の場合よりも多くの例証によって恵まれている。
  夕さらば潮みち来なむ住吉《すみのえ》の浅香《あさか》の浦に玉藻刈りてな(一二一)
  住吉の得名津《えなつ》に立ちて見渡せば武庫の泊《とまり》ゆ出づる船人(二八三)
  住吉の粉浜《こはま》の常夏咲くも見ず隠《こも》りにのみや恋ひわたりなむ(九九七)
  住吉の名児《なご》の浜辺に馬たてて玉拾ひしく常志らえず(二五三)
  住吉の遠里小野の莫榛もち摺れる衣のさかり過ぎぬる(二五六)
  住吉の岸の松が根うちさらし寄り来る狼の音の晴らに(二五九)
  住吉の出見《いでみ》の浜の柴な刈りそね未通女《をとめ》らが赤裳の裾のぬれてゆかむ見む(一二七四)
  住吉の浅沢小野の杜若衣に摺りつけ著む日知らずも(二二六一)
  住吉の敷津の浦の名告藻《なのりそ》の名はのりてしを逢はなくも怪し(三〇七六)
 これらの例で見ても分かる。住吉はあまりひろい地名でないが、その中にある些々たる所の名が、このように住吉を冠して詠まれている。それはむしろ、なにはの埼(巻十三)・なにはの小江(巻十六)・なには門(巻二十)・なには堀江(巻十)などよりも、こまごまとして、狭い範囲を感じさせるのである。それになぜ大伴のは、ただ一度高師の浜に結びつく外、大伴の御津としてもっぱら御津にしか結びつかないのであるか。
 右のように検してくると、大伴が地名であるということが非常に危険になってくる。ことに鴻巣盛広氏の『全釈』(第一冊・八十頁)に六三番の歌の釈として述べられたように、難波の南に接してかなりひろい地名であったらしいとする説は、なおさらいかがかと思われる。住吉よりもひろい地名ならば、それに含まれる場所の名は、住吉を冠した所の名よりもはるかに多くなっていなければならず、そうだとすれば、それがすこしも出てこないという事(456)は、解しがたい不可思議でなければならぬ。大伴は地名ではなかったのである。
 それにいま一つの点、つまり後の文書にさらに名の出ないという点も考え合わせなくてはならぬ。ささなみ〔四字傍点〕の方は、平安時代へ入ってからも、近江志賀郡の南半ぐらいの所とはほぼ見当がついていて、しばしば歌にもよまれてきた。ところが大伴の方はさらにその事がない。住吾詣・天王寺詣・熊野詣は平安時代に盛行する。その道筋は、渡辺で船を捨てる。つまり大阪城の下であり、古の高津宮の麓であり、難波の碕の突端である。それから南して、天王寺、それからさらに南して住吉、熊野詣ももちろんおなじ道を南へ進んだのであった。そして『源氏物語』でも『栄華物語』でも、なには〔三字傍点〕と住吉〔二字傍点〕との名はかならず出てくるのに、大伴の名は出てこない。なお博捜を要するけれど今のところ見つからぬのである。
 
        一七
 
 次にみつ〔二字傍点〕である。今大阪に御津寺町の名があるが、これは千二百年前に関係ありとしても難波の御津に関するだけである。住吉に関する事である。
 ところで、御津というのは、難波津が難波京の津港であり、したがって天皇の御船の泊まる所ゆえ、敬語をもって言ったとする真淵の説などは、一概には信じられぬ。もしこの説が正しいとすれば、志賀の大津の大と、難波の御津の御と、この二つの場合以外に敬称はほとんど用いる場所はないはずである。ところが志賀の大津の方は、大が津としっかり結びついて一つの名となっているらしいに対し、難波の方はかならずしもそうでない。『日本書紀』には難波津と難波御(三)津と両様に書くが、一般には難波津である。また『万葉集』では難波津ばかりであって難波の御津とある場合は四三三一の歌一つだけである。これはかならずしもなにはのみつ〔六字傍点〕が固有名詞的に結着して(457)いたのではないと解すべきものであろう。また、住吉についても同じ事がいえる。『日本書紀』では一般に住吉であって、雄略天皇十四年の条に住吉津と出て来、『古事記』下巻仁徳天皇の条に墨江之津と出てくるが、住吉の御津とは一度も出てこないようである。ところが『万葉集』では逆に、巻十九に
  ……押照る難波に下り、住吉の三津に船乗り、ただ渡り日の入る国に遣はさる……(四二四五)
とあって、御津となっている。したがって、御津は難波の御津には限らない。これはなにを意味するかと言えば、御津がかならずしも津の敬称と限らず、語源的には折口博士が『古代研究』に水戸《みと》・水門《みなと》などと同じものであろうとされるのが、非常に暗示的に思えてくるのである。難波津と難波の御津、住吉津と住吉の御津とが、史に歌に等しく残されてあるを考えてみると、ますます御津を難波とだけに限るいわれはなくなってくる。したがって、大伴の御津が難波の港でなければならぬいわれは絶対に存しない。というよりは、難波京の港ゆえ御津と敬称すると見るならば、それに大伴の〔三字傍点〕と冠する事はいったいなにを意味するのであろうか。
 そこで大伴の御津は住吉の御津だという事を考えうる余地がひろびろと開けてくるわけである。しかし、それには二つの積極的理由がある。
 
       一八
 
 その理由の第一。今の住吉神社から堺にかけての広い地は、大伴氏の部族の割拠した土地である。大伴金村が新羅との外交に失敗して身を退けたのは住吉宅であった。『日本書紀』欽明天皇元年の条に明らかである。『五畿内志』の『摂津志』には、「住吉郡大伴金村第古蹟在2堺北荘高州浜東1」とある。住吉津は後に堺として飛躍する事を約束されていた土地である。それに大伴氏と住吉神社との関係もたいへんに密接なものである。たとえば『吾妻鑑』(458)文治二年注進の信濃国庄園の中の、住吉庄は院御領となっているが、その名からしてはじめ住吉神社の神領として開墾された事が想像される。そして現在そこに定住する清水氏・細萱氏などが、みな大伴氏である事も近頃分かってきたりしている。それは栗岩英治氏の稿本「信濃庄園の研究」の住吉庄の所に精しい。なお住吉と大伴氏との密接な関係は、『日本書紀』を見れば十分であるけれど、『歴史と地理』(三二ノ六)所載の岡田信治氏の「四天王寺建立時代の難波」を見るとよくまとめられてある。
 とにかく住吉津は難波津の外港であって、津守の神としての住吉神に鎮められていた所であり、その地は大伴氏の根拠地であった。大伴氏は難波の京の四天王寺以北にまで蕃拠したわけでない。だから、難波の内港、つまり難波の御津そのものを大伴の御津といういわれはないわけである。
 理由の第二。難波津は難波江ともあるし、遣唐船が難波江口でのり上げ、波のために梶を破損した事も『日本書紀』に見えているし、澪標が江の口に立てられもしたので、難波津が難波堀江の口を開いておる所、堀江川、長柄川の河口の三角洲をなす島々のかげに隠った所であったろう事は、万葉の歌によって推測できる。
 巻二十を見ると、防人の歌があるが、
  難波津に装ひ装ひて今日の日や出でてまからむ見る母なしに(四三三〇)
といっている、その難波津がどこかというと、
  防人の堀江漕ぎ出る伊豆手舟楫とる間なく恋はしげけむ(四三三六)
である。そしてまた、
  ……蘆が散る難波の御津に、大船に真櫂|繁貫《しじぬ》き、朝なぎにかこととのへ……(四三三一)
と叙している。これは芦のしげっている点で河口の三角洲のことであるは明らかである。なおこの外に、
  海原のゆたけき見つつ蘆が散る難波に年は経ぬべく思ほゆ(四三六一)
(459)  ……いや遠に国を来離れ、いや高に山を越え過ぎ、蘆が散る難波に来居て……(四三九八)
 などあるが、これらの蘆が散る難波の歌はみな大伴家持の歌である。蘆が散るは当時決して歌枕でなかったのであって、家持の実感による創作でなかったか。そして非常に気に入ってしばしばこれを使ったのだと思うのである。ともかく蘆の花ちる堀江川を漕ぎ下って防人は出帆するのだが、その防人らの泊まったのが難波津なのだ。だから難波津が堀江川の河口港であるはたしかと見てよかろう。
 それに対して、大伴の御津という言葉は、家持自身がつかっていない。かつ、
  大伴の御津の松原かき掃きて吾立ち得たむはや帰りませ(八九五)
  いざ子どもはやく日本へ大伴の御津の浜松まちこひぬらむ(六三)
いずれも山上憶良の歌、憶良は大宰府では大伴旅人の下僚であった。そして浜松という。外浜である事が分かる上、大伴の〔三字傍点〕などいう所、あるいは憶良あたりの言い出した事でないとは言えない気もしてくる。だとすれば、住吉津の実景を叙しつつ、大伴氏の土地であるによって、大伴の御津といったのであろうという推測は成りたつのである。とにかく
  ……大伴の三津の白波間なく我が恋ふらくを人の知らなく(二七三七)
明らかに白波のよせる所である。
  ……大伴の御津の浜辺ゆ、大舟に真楫しじぬき……(三三三三)
浜辺といっている。
  大伴の御津の浜辺をうち曝し寄りくる浪の行方知らずも(二五一)
大伴の御津が外港であって、白波がじかに寄せる浜辺であって、浜松林のつづいていた様は手にとるようである。そして、かかる風景の所は、蘆が散る難波ではなくて、彼の世には「松の下枝を洗ふ白波」と詠まれた住吉よりの(460)方でなくてはならない。
 大伴の御津は住吉の御津である。
 
       一九
 
 万葉襍記を書き出して、難波あたりの地理のしらべを半年つづけたら、すこし疲れてきた。その間に加藤将之君が歌集『対象』を出し、つづいて『斎藤茂吉諭』を出された。まことによろこばしく思っている中に、まえまえから予告のあった松田先生【*】の『春雷』が、渋ごのみの装訂でかえって新しい感じを出すといった風で、引きつづき刊行された。なにもかも結構である。なかなか許可の下りなかったのが突差に決まって、加藤将之君はすでに北支にゆかれた。活躍は大したものであろう。歌のためにはまた、この上もないことであるが、東京が淋しくなるのはやむをえぬところである。
 私自身は上野の山の中にたてこもって、後には徳川家代々の霊廟、東には帝室博物館と帝国図書館を感じながら一日つとめをする。夕陽の射すころ、美術学校の樹木と美術研究所の窓とをながめながら上野公園へ出て、上野駅へ行ってすぐ省線にのる事もある。山の下まで下りて、風月で菓子をたべることもある。日本菓子はかならず売り切れていてまずい洋菓子しかない。それでもいい。第一停止令でむかしより安くなったので、風月も格式ばった感じがなくって、よい。だから時々はいって疲れをやすめることにしている。疲れといえば、大へんよく疲れるのである。帰りは省線でうまく坐れたにしても、すでに急行時間なので、つとめ人で押すな押すなである。電車の中は読書の時間にしてあるからやがて本を出して読みはじめる。『日本生物学の歴史』だとか、『人間のポリス的形成』だとかいう本をよむ。時には『旧事本紀』をよんだり『妹の力』などよんだりする。『斎藤茂吉論』の時だけはね(461)むらなかったけれど、外の時は大方新宿あたりでねむくなり、中野は決まって昏々とねむっている。本当に疲れるのである。
 いわば少々仕事に追いかけられて、息をきらしている恰好である。本当にじぷんの畳のうえにベタリと坐って、夕方の濡れた庭先の草の葉にでも見とれていたいものである。おそらくその時間がない。あかいさつき〔三字傍点〕は盛りをすぎ、白い柘植《つげ》の小花には蝶がむれている。栗の花は散って、風はめっきり夏らしくなった。そして私もすこし休養がほしくなった。
 
       二〇
 
 私の現在の事実は、万葉を読んで隔靴掻痒の感を持つことである。つまり短歌芸術としてはっきりつかめ切れないものを、いたるところに感じることである。賀茂真淵の万葉をほめたことは習ったし、ちょっと真淵のものを読んでみても、その褒め万は大したものである。それだけ褒めればすがすがとしよう。子規子の賞め方の大したものであったことはもちろんである。その後こちらへの歌壇は『万葉集』を短歌芸術として読みとることのために、大した努力を割いてきた。それがまた短歌創作といつも表裏をなしてきた。そうしたことも知らぬわけではない。として、さて直接『万葉集』に対して、やはり疑問なきを得ぬのである。世|界《ママ》では『古今集』以後の歌はいわばくだらないので、ことに鎌倉以後の歌などは以ての外にくだらぬので、万葉におよぶ歌はないのだと信じているようであるけれど、それは子規子やその後継者がそう信じていたからそう信じているに過ぎぬことが非常に多いと思う。そうした態度で『万葉集』に真に文学を感じ、それによってじぶんの歌修行のできた人は幸いであったし、明治末から大正時代を通して、そうした感じ方は大いにあり得たと思う。しかしそうした幸いな人が、一代の文学を短歌(462)においてつくり得ているからといって、万葉を学ぶ以外に短歌の修業がないと考えれば、それはおそらく五十歳以上の人々の立場に引きずられて、無自覚に恰好をまねているのでないかという気がするのである。たとえば茂吉氏などが『赤光』の歌をつくり出すまでには、時の調子にあきたらなくて、種々な批評を押し切って、進んで万葉語の使用や万葉歌の表現の勉強をされたらしい。加藤君の茂吉論にそれは精しく書かれてもいる。そのくせ『赤光』の性格はもとより万葉のそれとはおよそ似もつかぬものである。そこにも問題の緒ははっきりと見えているわけである。事情が今日もなお二十代後期の茂吉氏にとってとまったく同じであるかどうか、その点は保証の限りではないであろう。限りでないばかりでなく、事情は幾変遷を来している。
 茂吉氏はなにも子規子やその師伊藤左千夫が万葉ごのみだったので、まねて万葉語をつかったのではない。子規子の地獄変相図の歌に心から降参して、それを真似た。まねながらやっぱりじぶんのものは最初から子規子とはちがっていた。その事も加藤君に委曲をつくした論がある。問題は、自覚無自覚のことでなく、茂吉氏に詩があったということに帰着する。今日の人々の詩が、つねにその表現において万葉を慕うとは限らない。そのこともはっきりしている。
 根本の問題は自己の詩に忠実であるかどうかということになるわけであろう。じぶんのもっている詩が、さまざまな他人の作品の中から、文学と感じうるものを選びとる。共感という作用は、作者がその作品をつくり出す時のはたらきに対しては責任を持つことはできぬし、関係もない。たとえば本人が何気なく振舞っている物腰態度を、人がみてひどく感心したといった場合と同じである。大いに感心させようとかかっている事を大いに感心すれば当然の事であるが、すこしも人の感心しないこともある。逆に感心させようなど思っていない事で人の感心する事もある。感心する方は自由である。ひとつの言語作品に文学を感じるか否かは鑑賞者の問題である。さてその言語作品が文学制作の意図のもとに作られたか否か、これも鑑賞においてはあまり重大な問題ではない。よみとる者が文(463)学とよみとる、それで十分である。ただ同じ時代にいれば、おたがいの事情は分かるから、文学と感ぜしめるための虚構、短歌でいえばよき歌をつくる心がけというものは大いにあってよいのであるが、過去の作者に対してそれを要求することは不可能である。それに今日の文学という意識には現代の特色がついていて、決して超時代的なものではないし、普遍的なものでもない。今日の文学という観念は近代において明晰を加えたものであって、それ以前の観念は今日の文学観念にくらべれば、不明瞭であるというだけでない、質的にも違っている。それが古に溯るにしたがって著しくなっている。これは認めねばならぬところであると思う。だから今日の文学観念を潔癖にまもれば、日本文学史の骨になる作品年代誌や作品年表は作れなくなる。今日の文学意識と同じ意識から生み出された作品など、ものの数百年溯れば、およそ一つだって見出だされなくなるでもあろうから。だから事ひとたび過去の時代の作品となれば、それに文学を感じるか否かは、鑑賞者が自己の能力に全責任を負わなくてはならない。
 
       二一
 
 そういう立場で見ると意識したわけではないが、むしろ逆に、なにか私の文学の勘にぴたりとあわぬものが万葉全般を掩っているという感じがあって、それがなぜであろうと疑っている中に、万葉の歌が文学でないからだという結論がでてきたのである。
 もちろん、こうした万葉の作品を、今日文学と感じる主観があってよい。また事実明治この方たいへんにたくさんあったに違いない。そうした主観の持主が多く、かつ強力に万葉のためにつくした結果、みずから万葉を読んで、みずからの感受力がなにと感じるかをためす事なく、万葉を文学として読まぬ中から決めているといった常識は、たいへんひろくはびこっているのであるけれども、万葉を読んで文学を感じない主観が存在してもよいし、事実そ(464)う感じる主観も実はなかなかに多いと思うのである。もちろんそうした主観は新しい主観である。常識を敵にまわす主観である。だからこれまでの通念を排撃する。したがってなかなか承認を得るには努力が要る。そして私自身どうかと言えば、後者に属するを思うのである。
 そして、そうした所属の身として、今日までのように扱われている万葉に対したから、そのために特にこれは変だという感じが強くきたのである。そして、そうした感じがあったために、万葉の歌には今日言うところの文学的意識のもとに作られた作が非常に少ないという事を勘づかせたのだと思っている。しかしあとになってしらべてみると、そうした意味のねらいは、すでに若き日の折口博士が『古代研究』で説いておられるのを知った。私は万葉に関する『古代研究』中の論を、二年前までなぜか縁がなくて読まなかったのである。私の説はあらずもがなである。しかしながら、私は私でこうしたことをひとり考えていたのだから、じぶんに責任を持つ意味で書いておくことにしたい。
 
        二二
 
 なお、私は昨年九月の『文学』に載せた一《*》文の中で、斎藤茂吾博士の『柿本人麿』につき寸評を書いたのであったが、それを十月十三日の『都新聞』の大波小波欄で、妙にけしかけるような調子で取りあげていた。私はそうした事は予期しなかったし、書く時はすこぶる淡白に書いたのであったから、少々ならず驚きもし責任も感じた。批評というものはよく読んだ上で、責任を以てするで《ママ》なければ寸言も言うべきでないことを、一人の胸のうちで感じ直した。もちろんあの大著をみな読んで、ノートを取ってから言った言ではなかったので、責任上からも、今年の夏休には、『柿本人暦』四冊をぜひ通読したいと思っている。
 
(465)       二三 山柿論
 
 山柿論は『万葉集』の歌を読みとくために、すぐ役立つことではないが、万葉歌人の環境を知るためには役立つ点もある。そして近頃一つの結論に近づいたような気がする。
 『万葉集』巻十七に、天平十九年三月越中守大伴家持が越中掾大伴池主と贈答した歌の一つに記した漢文の端詞が問題の緒である。その詞の一節に、「稚時不v渉2遊芸之庭1、横翰之藻、自乏2乎彫蟲1焉。幼年未v〓2山柿之門1、裁歌之趣、詞失2乎聚林1矣。」と見えている。
 この山柿が山辺赤人と柿本人麻呂であるというのが古くからの通説であった。おそらくそれは『古今集』の序に、「然猶有2先師柿本大夫者1、高振2神妙之思1、独歩2古今之間1、有2山辺赤人者1、並倭歌仙也。」とあるのと照らし合わせて出てきた考えかとも一応は思えるが、実はそうでなく、古今序の書かれたころには、人麻呂・赤人は、和歌史の上で特別の意味を持ったものとして、大きく映っていたのに違いない。だとすれば、家持の時代にも事情は大してかわっていなかったのかもしれない。もしそうならば問題はなんでもなく終わるわけであるが、佐佐木信綱博士が『歌学論叢』で、山柿を山上憶良と柿本人麻呂とであろうという新説を提唱されてから、問題は分かれるようになった。しかしその後大して説があったわけではなかったが、近来は急に山柿論が繰り返されている。『国語と国文学』の昭和十五年十月号で久米常民氏が山上憶良説を建てられたが、同じく十二月号に久松潜一博士は山辺赤人説の妥当と見られる趣を説かれた。この度は同じ雑誌の七月号にまた井乃香樹氏が「山柿考」と題して、山辺赤人説を説かれた。
 井乃香樹氏の立論の根本は、先年来同氏の主張されるように、万葉歌は決して単純素朴なものでなく、先行の漢(466)籍仏典古歌を自由に使って、複雑な技巧を弄しているという点にある。私は複雑な技巧であるのか、どうかはしばらく外に措きたい。が、万葉歌が先行の多くの民謡的歌詞の調子にのって作られてあることはたしかだと思われる。たとえば古歌集に出た歌
  未通女等《をとめら》がはなりの髪を木綿《ゆふ》の山雲なかくしそのあたり見む(一二四四)
それと人麻呂の
  秋山に落つる黄葉しましくはな散り乱れそ妹があたり見む(一三七)
の想のたて方は似ている。
  高島の阿戸《あと》白波は動《とよ》めども吾は家|思《も》ふ廬《いほり》悲しみ(一二三八)
この歌も人麻呂の
  ささの葉はみ山もさやに乱《さや》げども吾は妹おもふ別れ来ぬれば(一三三)
の発想に似通っている。
 愛《は》しきやし吾家《わぎへ》の毛桃本しげみ花のみ咲きて成らざらめやも(二二五八)
  出でて見る向ひの岡に本しげみ咲きたる花の成らずは止まじ(一八九三)
  大和の室《むろ》原の毛桃本しげく言ひてしものを成らずは止まじ(二八三四)
こうした作者未詳の歌の間の類型は当然のことである。口の上にのっていた多くの歌、人々もなにかまとまった発想をするにはそうした型にたよってするのが一ばん楽でもあるし、そうしか出来なかった時代、類型にむいて個人的特色を出そうというような精神がまだなくて、類型に自然にたよってゆく類同の精神の生きている世の中で、個々の人の心を通ずる必要から作られた歌までが、民謡的類型を持ってくるのは当然であらねばならぬ。だからこれは複雑な技巧によったものかどうか、その点はにわかに従うことはできない。むしろ素朴な精神がそうした事を可(467)能ならしめているといった方がよいかとも思われる。がしかし、解釈の如何は別として、万葉の歌が相互に似ているもののあることはたしかである。
 そうした点をみとめた上で、井乃香樹氏は、家持が池主に贈った歌はすこぶるよく山上憶良の歌にたよっていると言って、一々例証を挙げる。また池主の歌は山辺赤人にたよっていると言って、一々に例証を挙げる。家持の歌が憶良にたよっている事はたしかである。しかし池主の歌が赤人によ《ママ》っているか否かはやや疑問である。氏も牽強附会と思うかもしれぬがと言っておられるように、不安がある。それはともかく、氏はそれをもととして、家持の端詞に一つの解釈を下される。先に引いた端詞は、「余は幼少の頃から国守の憶良にこそは私淑したけれども歌人の人麻呂赤人には師事しなかった」という事になる。これは謙遜であり、池主が赤人を引いたのに対しての挨拶だとされる。したがって山柿は人麻呂と赤人とであって、池主はそれに答えて、家持の歌を称め、「山柿(の)謌泉(も)、比v此如v蔑《おとれるが》」と言ったのであるとされる。この説は、池主の歌が赤人の歌を引いたのだということが、牽強附会の感を与えないで、もっと自然に見せる事ができれば、この方法のままでも認められてよいと思う。しかし牽強の感もたしかにあるのである。
 
       二四
 
 もちろんそれは方法の上のことである。結論としては私もやはり山辺赤人説である。というよりは山辺赤人であるのがより真実なのだと思っている。その事はすこしちがった面からも言えるように思う。
 家持の端詞に、「稚時不v渉2遊芸之庭1、」とある遊芸はもとより音楽歌舞の類である。軽んじた意味はすこしもあるのでない。むしろ礼楽並存は儒教の理想であり、宣命の中にもあきらかに詞として宣らせられている。もちろん(468)当時の歌の宮廷にあって奏せられるものは、和琴の伴奏により、大歌所所管の歌には舞を伴っていたであろう。遊芸は尊ぶべき業であった。そして、その業によって侍宴従篤の和歌を残した大立物は人麿と赤人とであった。
 詩宴従駕の詩は『懐風藻』に多く載っている。もとより国風を献ずるのは日本古来のしきたりであったが、宮廷の宴席に陪して帝徳を頌するの詩を賦するは支那伝来の風儀であった。もとを溯れば等しく太古の遺風であろうけれど、それが後世の宮廷に伝わって儀式化された時の外観は、別のものであったのは当然である。ことにも盛唐の宮儀が大和朝廷の廷臣たちの目を驚かした事は大いにありうることであった。だから侍宴賦詩の儀は唐風の移植であった。人麻呂赤人の従駕の歌もまたそれに触発されて、あの荘重体の型をつくりえたと言えよう。単なる模倣ではない。根はわが国の国造国家時代から、伝承するものにあったと思われるが、人麻呂や赤人やの歌、またそれの作られた時と場合の威儀を思えば、それはやはり大陸の影響で引き出されたものという気がするのである。
 家持は大納言旅人の子、天平十年から十六年まで内舎人、天平十八年宮内少輔、民部少輔、越中守、兵部少輔、兵部大輔など歴任している。その後の歌は『万葉集』の上には存しないと見てよいであろう。かれが因幡守、薩摩守、大宰少弐を経て参議に上ったのは宝亀十一年であって、そのころの歌はあるのかないのかよく分からぬ。しかしとにかく、かれが宝亀十一年二月一日参議に任じた時は五十二歳であったのが事実であるとすれば、山柿の門云々を言った天平十九年は十九歳である。十八の冬越中守に任じたのであるが、天平十年から十六年まで内舎人で、十七年に従五位下したのを思えば、それでよいかと思われる。一青年貴公子が、そうした言を吐いたのは決して見下したのでもなく、ただ和歌の専門家としての力量に及ばぬ事を認めての言であると思われる。それに山上憶良は歌は漢学の影響によって新しくあったが、本来一人の趣味者であって、むしろ高官の官吏である。歌をもって行幸に陪する専門人とはおのずから別である。同時にしたがって、憶良は歌によって従駕の事がない。その点で、歌においての権威と考えられる事はない。若い家持はたまたま父旅人の趣味をうけ、父に親しかった下僚憶良の歌を幼(469)年時代に知っていて、それによって作歌の業に心を引かれたのであろう。そうした眼には、官の高下、勢力の大小でなく、歌の上で秀でた存在が強く映じた事は想像されることである。とすれば人麻呂赤人が大きくうつるのは当然である。官はひくくても紀貫之が『古今集』以後の歌壇にあって大きくうつったのと関係は相等しかったであろう。私はそれゆえ、家持にとっての山柿は人麻呂赤人にうたがいないと信じている。同時に『古今集』の序がこの二人をとっているのもまたもっともな事だと考える。
 
       二五 大伴家持(上)
 
 大伴宿禰家持は宝亀十一年二月一日に参議に任じ、はじめて公卿の列に加わった。それは『続日本紀』のその年月日の条に記されている。位は正四位下であった。
 『公卿補任』は後の編纂である。奈良時代の公卿については、もっぱら『続日本紀』の記載によっているらしい。
 さて家持についても『公卿補任』はその法式にしたがって、宝亀十一年の条、かれが参議に任じた年にはじめてその名を出している。そして、これもまた『公卿補任』の法式通り、初見の年の条に、五位叙位から公卿に列するまでの履歴が記されている。その記事もやはりみな『続日本紀』の記載を拾って作られたものらしい。ただ経済雑誌社版『国史大系』の中の『公卿補任』に見ると、『続日本紀』の記載と二三の出入りがある。これはおそらく『公卿補任』の転写の間に生じた誤りかと思う。たとえば「天平十八年六月越前(中(コ))守」とあるのなど、『続日本紀』に見ると、六月廿一日に、「藤原宿奈麻呂為2越前守1、」従五位下大伴家禰家持為2越中守1、」とあって、越前守は誤りとしなければならぬ。(中(コ))というのは校訂者黒板勝美博士の校合であって、小中村清矩所蔵本に越中守とある事を示しているのだが、おそらく小中村本は誤りを知って訂正してあったか、または『国史大系』本の底本が(470)誤って写し伝えたか、いずれかであろう。『続日本紀』の方と較べれば、そうした小異は大方訂正することができる。それゆえ『公卿補任』よりも『続日本紀』の本文に拠った万が正しく履歴を知ることができる。
 ただ一つ『続日本紀』にはなくて、『公卿補任』にだけ記されているのは家持の年齢についてである。「六国史」は五位以上の者の薨卒はこれを一々記録しているけれども、年齢については記している場合と記していない場合とがある。これは編纂の際に年を知る記録のなくなっていたためか、それとも外になにかわけがあるのか、その点はよく分からないけれども、とにかく年齢は記した場合と記さない場合と二つある。そして、家持死の場合には年齢が記されていない。したがって『続日本紀』ではかれの年は分からないのである。
 ところが『公卿補任』の宝亀十一年、かれの初見の条を見ると、次のように記されている。
  参議正四位下大伴宿禰家持(五十二)
       二月一日任。九日兼右大弁。右京大夫。
       大納言従二位旅人(又名多比等)之子。
   天平元年己巳生。十七年正月従五下。……(以下略)
 宝亀十一年に満五十二歳とすればたしかに家持は天平元年に生まれたことになる。これは非常な獲物でなければならぬ。しかしこれについて一つ腑に落ちぬ事は、『万葉集』の記載である。
 家持の作で年代の明らかなものといえば、巻第八にある歌で、おそらく天平四五年ごろのものである。この巻第八は大方家持と同じ頃の人々のもので、所々に年代が記入されてある。そのはじめの部分は春雑謌とあってちょぅど三十首並んでいて、その最後の歌が大伴坂上郎女の作(一四四七番)、その左注に「右一首天平四年三月一日佐保宅作」とあるので、坂上郎女の歌が天平四年のものであることが分る。ところで、その歌の前に家持の歌が二首ある。大体この巻は年代順に並べたかと思われるので、すれば、やはり天平四年の春の歌かと思われる。もしそうだ(471)とすれば、天平元年に生まれた家持がかぞえ年四つの春早々、大した歌をつくっている事になる。
  うち霧らし雪は降りつつしかすがに吾家の苑に鶯なくも(一四四一)
  春の野にあさるきざしの妻恋に己があたりを人に知れつつ (一四四六)
どうもこれが四つの年の事とは思えない。別人の歌か、『公卿補任』が誤っているか、『万葉集』巻第八の年月日が信ずるに足りぬか、そのいずれかを出ないであろう。
 そうした曖昧さは困るから、いますこしたしかなところを探してみる。巻十七以下はかなり明らかに年代順のノートのような形をしていて、体をととのえた編纂歌集ではない。記入されている日附は年代順であって、ほぼ信ずるに足りよう。その第十七巻のはじめの方に、「天平十年七月七日、独仰天漢聊述懐」の歌が載っている。
  織女し船乗すらしまそかゞみ清き月夜に雲立ちわたる(三九〇〇)
 以下十一年十二年と年次を追って記されてゆく。巻第十八は天平二十年三月から翌天平感宝元年または天平勝宝元年を経て、次の天平勝宝二年二月までである。巻第十九はその三月から天平勝宝五年二月まで。巻第二十はそのつづきから天平宝字三年正月一日の歌までである。順序が一定しているから巻第十七のはじめの万の家持の歌は、天平十年と見ておくの外はない。それとしても、『公卿補任』を信ずれば算え年十の七夕の歌という事になる。なんと言っても稚なすぎるのである。
 『公卿補任』に天平元年生、宝亀十一年五十二歳とあるのは、なんらかの誤りを持つものであるにちがいない。ただ『国史大系』本の『公卿補任』は諸本をもって校合してあるのに、この年齢の記載にはなんの事もないのを見ると、これはもし誤りのあるものとしても、補任編纂のころ、すでにそうした記録があって生じた事にちがいない。転写の誤りで生じた事ではなさそうである。
(472) それにいま一つ考えなくてはならぬ事は、『万葉集』の詞書によると、かれが天平十年から十六年ごろまではたしかに内舎人をつとめている事である。たとえば巻八、橘奈良暦宅で宴した折の十一首中の一つ、
  黄葉の過ぎまく惜しみ思ふどち遊ぶ今宵は明けずもあらぬか(一五九一)
の左注に、「右の一首は内舎人大伴宿禰家持」となっている。この歌自身は日附を持っていないが、天平十年の日附と天平十一年の日附との間に配列されていて、「以前冬十月十七日云々」という曖昧な日附を持っている。巻六の、
  河口の野辺にいほりて夜の歴れは妹が袂しおもほゆるかも(一〇二九)
は天平十二年冬十月大宰少弐藤原広嗣の謀叛により、伊勢に聖武天皇の行幸された時にお伴をした時の歌で、詞書には 「内舎人〔三字傍点〕大伴宿禰家持の作れる歌一首」となっている。かれは内舎人として、行幸にお伴して不破の関を越え、山城に入り、恭仁京に従い、そこで留まって皇居の警衛にあたっていた。そして同じ巻六に天平十五年八月には、「内舎人〔三字傍点〕大伴宿禰家持、恭仁京をほめて作った歌一首」(一〇七三番)が載っている。
 いったい内舎人とはなんであろう。
 『令』の軍防令に見ると、五位以上の者の子孫で年二十一に及びながら、現在役任なき者は、年ごとに中央または地方の官司で調べ、十二月一日を限って身柄を式部省に送る。そして人物検査をした上で、性識聡敏、儀容取るべきを内舎人とし、特に三位以上の者の子はすべて内舎人とする。それ以外の者は、大舎人、東宮舎人、中宮舎人に当てる。
 また六位以下八位以上の者の嫡子が年二十一に及びながら現在役任なき者も同じ手続で人物検査をし、儀容端正、(473)書算にたくみな者を上等とし、式部省に送って検査の上大舎人とする。中等下等はそれぞれ別の標準があって、中等は兵衛とし、下等は使部とする。
 この兵衛の中で、王公に随身として配せられるものがある。親王の護衛に任ずる随身は帳内といい、諸臣の賜わる随身は資人という。この内舎人・大舎人(東宮・中宮舎人)帳内・資人をみな含めて舎人という。その中でも内舎人は天皇の側近に侍し、警衛に任ずるので名誉の職である。
 ちなみにこれは地方の民で、国々の軍団に兵士となった者から抜かれて、都の警衛に当たった衛士や、辺陬の地の衛戊に当たった防人とはまったく別であった。
 中でも内舎人は三位以上の子と五位以上の子の中で秀れたものだけが、丁年に達した後、任官するまでの間、親衛隊として側近にあるものゆえ、すこぶる名誉の職である。
 さてその内舎人になるのは今日の徴兵令による入隊と同じで、二十一歳の年の十二月一日を限って行なわれるのだから、前に出した家持の橘奈良麿宅宴飲の歌が十月十七日であったに見て、家持はすくなくもその前年内舎人に任じている。つまり二十一歳になっている。もし沢瀉博士・森本氏共編の『作者別年代順万葉集』五〇四頁のように、それを天平八年十月であるとするなら、家持は天平七年にすくなくも二十一歳になっている。
 天平七年かりに二十一歳とするならば、家持は霊亀元年に生まれている。補任は霊亀元年と天平元年とを誤まったのでもあろうか。そして延暦四年に満八十歳で世を去った事になる。
 
       二七
 
 右を大体の目安とする。大体であってこの通りとは思わない。しかし合理的に考えて、これより五年も十年も喰(474)い違う事はないと信じる。天平七年に二十一歳とすれば、従五位下の天平十七年は三十一歳である。三十二歳で越中守である。これは大伴氏のような大族としてもちょうど程よい叙任の程度である。参議就任は六十六という事になる。父旅人は六十六で大納言、多治比県守は六十四で参議、六十五で中納言。巨勢奈弖麻呂は七十で参議、多治比広足は六十八で参議、石川年足は六十一で参議、文室知努は六十五で参議。当時三十代で参議になりえたのは、衆族を圧して頭角を抜きはじめた藤原氏の一族、ことに不比等の子供たちであった。
 その勘定でゆくと、家持の歌の一番わかい天平四年ごろの歌は十八ぐらいであって、
  ふりさけて若月《みかづき》見れば一目見し人の眉引《まよびき》おもほゆるかも(九九四)
は天平五年十九の時の歌となる。また、
  春の野に霞たなびきうらがなしこの夕かげにうぐひす鳴くも(四二九〇)
  わがやどのいささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕かも(四二九一)
  うらうらに照れる春日に雲雀あがり情《こころ》悲しも独しおもへは(四二九二)
などは天平勝宝五年四十歳の春の歌となる。
 天平三年七月父の従二位大納言旅人は六十七で薨去。その頃かれは十七ぐらい。母はだれか分からぬが、おそらく、神亀四年ごろ中納言大宰帥として九州におもむく時はともに行きながら、天平二年帰京の時はすでにこの世の人でなかったところの、旅人の妻がその母であったのでなかろうか。とすれば、十歳ぐらいから十六ぐらいまでは父母とともに家持も大宰府にあって、そこで母の喪に会った。筑前守であった山上憶良も父の官舎に訪れたのを、少年の印象にとどめていたかもしれない。
 大体以上のねらいで見てゆけば、家持の官歴と年と歌とはほぼ釣り合ってゆくと思うのである。
 
(475)       二八 大伴家持(下)
 
 大伴家持について書かれた論文や単行本はかなりある。しかし旧く読んだものは忘れているし、近頃のものは一々眼を通している暇もない。で、私の手元にあるものだけを読み直したりしてみた。
  家持論  小泉※[草冠/冬]三・『国語と国文学』・二の十一
  歌人としての家持 小泉※[草冠/冬]三・『国語と国文学』・三の二
  大伴家持と続日本紀  長岡弥一郎・『国語と国文学』・九の九
  大伴家持内舎人任官時試攷 藤田寛海・『国語と国文学』・十七の三
  大伴家持論     尾山篤二郎・『短歌研究』・七の七以下
  大伴家持の往来歌と其相手 尾山篤二郎・『短歌研究』・九の九以下
  大伴氏古跡考  尾山篤二郎・『短歌研究』・十の一
 外の分は止める。単行本では、小泉※[草冠/冬]三氏の『国語と国文学』所載のものをもとにしてまとめられたものが大正末年に出て、なかなかよい本であったのを記憶するが、今手元にない。それから昭和になって十三年に、『歴代歌人研究』の第三巻が、佐佐木博士の『大伴旅人・大伴家持』で、日本教育家文庫に志田延義民の『人麿・憶良・家持』が入っている。昨年も一冊出ているはずなのだが、手に入れかねて、著者名も記憶を逸してしまっている。
 右の中で、伝記研究の上に基礎的な功績のあるのは尾山氏の諸論と長岡氏のものと藤田氏のものとである。中で長岡氏のは古いだけに概括的であるが、藤原氏との関係を大観してあって便利であった。それに比べると尾山氏の「大伴家持論」の三は「橘諸兄と大伴家持」、その四は「広嗣の事変と伊勢従駕」で、立派なものであり、「大伴氏(476)古跡考」には堂々たる国学者の風※[蚌の旁]がうかがわれる。往年の名著『西行法師評伝』の考証の精緻さに上越す大きさも感じられるほどである。また、藤田氏のものは問題の内舎人任官の時代が中心になっており、したがって家持の年齢推定に一つの基礎を与える作業であり、この間題ではここしばらくこれ以上に出られまいという所まで来ている。私の前稿は藤田氏の論を読まずに書いたので、後から書きながらかえって簡単粗雑に終わった。『令』の軍防令の規定を土台にしたところは同じだが、これよりたしかな史料がないのだから、一致するのが当然である。その令の文の解釈について、藤田氏の方がはるかに親切で周到である。
 しかしまだ家持の私生活が真に復原できるところまできているかどうかは問題である。復原といっても史料はすでに出つくしている形だから、解釈の問題である。ことに当時の歴史の中に浮沈する一公人としての去就。そして、一方には万葉に最大の歌数をとどめている歌人としての私生活、中でも氏長者として、一男性として、また一個人としての生活。それらがひろく包摂できるような洞察を含んだ人間像の再建。これはなかなかむつかしい。儒教と仏教とのただならぬ流入の中で、古来の伝統的精神がどのように揉まれていたか、これもなかなかむつかしい問題である。そして、一ばん大切な事は、そうした思想信仰の対立の中では、人間の姿そのものが一重にならない。そしてまた、今日われわれの考え感じる人間とも非常にちがった人間であるだろう。あまりその点を簡単に考えると、とんでもなく勘ちがいが起こりそうである。これまでの行き方であると、その点は実にあっさり通りすぎて、ほとんど問題になっていないようだ。つまり大正時代の呑気な態度、といって語弊があるならば、素朴な態度である。しかしそう言ったからといって、すぐさま家持の人間像が再建できるものではない。むつかしさは今後へつづくであろう。
 
(477)       二九
 
 家持個人でなく、大伴氏全体の動向を考えると、家持の心中がすこし想像できるように思う。大伴佐伯にとっての敵は藤原氏であった。これはおそらく、家柄の旧い名族にとって共通のものであったろう。しかし家の大小高下から言って、対等の心持で、またはそれ以上の心持で藤原氏を成り上がり者と感じ、痛憤してる《ママ》名族を考えるとなれば、やはり大伴佐伯であったろう。蘇我氏の擡頭以来、すでに文官の武官を凌ぐ情勢は決定的であったが、蘇我と藤原との交代は文官同志の問題であった。壬申乱に大伴氏の地位の回復が一度できたが、その後に二度大乱なく、したがって中央にあっての地位は藤原氏に圧せられる。大伴佐伯の役割は中央にあるよりは東北地方、蝦夷の地の開拓に司令官となることであった。でなければ九州大宰府に長官となる事であった。いづれにしても辺防総司令である。その功によって参議に任ずる時、あるいは大中納言に任ずる時は、すでに齢六十にいたる頃で、その間常に中央政治に結んでいる藤原氏は、四十にして参議納言、五十にして大臣に昇るという有様であった。しかもそれは形の上だけの事であって、そうした形が結果する内幕はどうかといえば、宮中においての政権の壟断であった。東宮坊と後宮と朝廷とにわたって、年少の時代から関係密接であって、しばしば皇后・皇妃・夫人を出している家柄の子弟が、あえて皇室の寵に誇るというでなくても、おのずと他の氏族に比べて権を専らにしやすい事は考えられるところである。大伴氏にとっては古昔からそういう関係はないのであって、老年はじめて参議納言となっても、男性の表向きの昇進であって、そこにいたるまでの任免の事、多くは藤原氏等の官吏の掌中にあるゆえ、すこしばかりの開拓の業が進まぬといっては官位を褫奪される事も生じれば、讒によって地方官の地位を空しくする事も起こるのであった。しかも直接掖庭に在って、讒に対するに諌奏を以てする手段もなく、後宮を通じて隠密に叡慮に(478)触れ奉る道もない。それゆえ、みずから潔く持して、運命の如何にかかわらず、奉公の赤心を吐露して佞臣の私意に対する痛憤を高め清めるの外はなかった。大伴古慈悲が淡海三船の議によって出雲守の任を解かれた折、家持の作った歌は『万葉集』巻二十の天平勝宝八年の部に載っている。
 しかし『続日本紀』天平勝宝八年五月癸亥(十日)の条に、「出雲守従四位上大伴宿禰|古慈斐《コシビ》・内竪|淡海《アフミノ》真人三船、坐《ツミシテ》d誹2謗朝廷1无(トイフニ)c人臣之礼u、禁2於左右衛士府1、」、とあって、万葉巻二十の歌の左注と合わぬ。古慈斐と三船はともに讒せられて、そして左衛士府と右衛士府とに禁ぜられたのである。とすれば讒した者はだれであったであろうか。それにしても、
  久方の天の戸聞き、高千穂の嶽に天降りし、すめらぎの神の御代より、はじ弓を手《た》握り持たし、ま鹿児矢を手挟《たばさ》み添へて……子孫《うみのこ》のいや継ぎ継ぎに、見る人の語りつぎして、聞く人の鑒《かがみ》にせむを、惜《あたら》しき清きその名ぞ、凡《おほ》ろかに心思ひて、虚《むな》言も祖《おや》の名絶つな、大伴の氏と名に負へる、健男《ますらを》の伴
と詠んだ家持の心持はさまざまに汲みとれる。「喩族歌」と題はあるが、おそらくこれは励ましの掛け声である。武士の家の心掛けをいっそう要求したのは、讒者に対する憤りであったろう。そのころ家持はまだ従五位上兵部少輔。大輔に昇る前年である。年はようやく四十三四。ところが古慈斐の方は宝亀八年八月四日に攷じているが、非参議の従三位大和守で、年は八十三。『公卿補任』は七十八としている。逆算して天平勝宝八年は六十二または五十七である。
 古慈斐はその後丙寅(十三日)の条に、「詔(シテ)並(ニ)放免(ス)」とあるように、三船とともにわずか三日間で放免となっているが、翌天平宝字元年の六月には、また橘奈良麻呂、大伴古麻呂等とともに、黄文王、安宿王を戴いて、藤原仲麻呂(恵美押勝)討減の謀に与っている。露見して捕われ、七月三日に、古麻呂等は自経し、土佐守古慈斐は任国に流された。橘奈良麻呂の事は見えぬけれども、やはり流されたか誅せられたかに違いない。橘氏は諸兄の時以来、(479)藤原氏に対するに大伴佐伯を味方とたのんでいたので、関係は深かった。とすれば、先の「喩族歌」の時の古慈斐の讒言も藤原氏側から出たものであったに違いない。
 それにしても、この天平宝字元年の事件では、大伴氏にとってはまことに情ない宣命が発せられた。
  又大伴佐伯宿禰たちは、遠天皇《トホスメロギ》の御世より内の兵《イクサ》として仕へまつり来、又大伴宿禰たちは吾が族《ウカラ》にもあり、諸々同じ心にして皇朝《スメラミカド》を助け仕へまつらむ時に、かかる醜事《ンコゴト》は聞えじ、汝《イマシ》たちのよからぬによりして、かくあるらし、諸々|明《アカ》き清《キヨ》き心もちて、皇朝を助け仕へまつれ、
また八月甲午(十八日)の詔勅にも、
  爾乃賊臣……橘奈良麻呂・大伴古麻呂・大伴古慈斐……大伴駿河麻呂……禀性凶頑、昏心転虐、不v顧2君臣之道1不v畏2幽顕之資1、潜《ヒソカニ》結2逆徒1、謀傾2宗社1、悉受2天〓1、咸伏2罪〓1、
と仰せられている。時に家持は兵部大輔になったばかりでまったくまだ力というものを持っていない。家持がいかに痛憤しても、この打撃は容易に取りかえし得るような程度のものではなかったのである。それはすこし大伴一家の上に眼を馳せてみればすぐ分かる。いったい大伴氏では天平三年に従二位大納言旅人薨じ、参議正四位下道足は天平十三年まで見えて卒年未詳。次いで公卿に列したのは参議牛養一人に止まったが、天平勝宝元年四月一日正三位中納言に叙任の後、わずか二月で五月廿九日には早くも薨じている。しばらくして七月二日大伴兄麻呂が参議正四位上して、ようやく公卿の末座についたが、天平勝宝八年従三位して参議の筆頭に坐ったまま、その後の消息不明である。『続日本紀』に名も見えぬ。『公卿補任』には、天平宝字二年参議の第二席に名を出して、某月某日謀反の由を記しているが明らかでない。その後は宝亀六年正四位下大伴駿河麻呂が参議に列するまで、足掛け二十年の間、大伴氏はついに一人として公卿の列に加わる者がなかったのである。これは大伴氏ほどの名族にとっては怖るべき打撃であったと言わねばならぬ。駿河麻呂は翌宝亀七年鎮守府将軍として任地にあるまま薨じて従三位を贈位(480)せられている。もとより駿河麻呂任参議の同じ年、古慈斐もようやく従三位に昇ったが、これは非参議の三位に終始して間もなく薨じ、宝亀九年になって正四位下大伴伯麻呂がまたようやく六十一で参議に任じた。一見大伴氏の勢もようやく復したかに見えるけれど、実はそうでない。その間に藤原氏の勢は抜くべからざるものになっていた。宝亀九年という年を例に取って見ても、右大臣が七十七の大中臣清麻呂、中納言の第二席に物部宅嗣がいる外、大納言から内臣に昇った魚名、中納言縄麻呂が藤氏であるのはもちろん、十名の参議は大伴伯麻呂以外すべて藤氏の者ばかりである。
 家持が宝亀十一年参議して、ようやく公卿に列する者両名となったが、一年とんで天応二年には両人とも氷上川継の事に坐して官を解かれ、伯麻呂は二月に卒し、家持は四月になって詔が下り、罪を宥されて官に復したけれど、再び大伴氏の公卿たる者はかれ一人となってしまった。すでに頽齢にあって、身一人参議中納言に昇ったところで、名族の末路は蕭条たるものがあり、四周の情況を見れば、高楼の仆れんとするのを一人の肩に担っている思いがあったであろう。同族の若手が藤原氏に対し憤激の挙に出ようとして制しがたかった事もこれでうなずけるものがある。かれもまた、氏族の闘争に引かれてその末路をいっそう哀れにしたと言わねばならぬ。これは決して個人の運命ではない。氏族全体の運命に殉じたものであった。
 しかも言いうべくば藤氏は地の利を得て、大伴氏を誘殺したとも言える。すくなくも当時大伴氏族の所感としては、藤氏を見るに袞竜の袖に隠れて事を為す側近の佞臣を以てしたであろう。しかもその外交に応ずるに武力を以てする外なく、孤忠の清節を持してみずから慰める外に、憤激のやり場所がなかった。しかも一度武を用いれば、そのたびに天朝は宣して賊臣とし給うた。常に間なく宥免の事があったに見れば、朝廷もまた大伴氏の運命を照覧あったに違いないが、それゆえにこそ、大伴氏賊臣の詔を発せしめ奉った源本の勢力に対して、いっそう憤激の深まるのは無理からぬ事である。思えば実に実に哀れの限りと言わなければならぬ。
 
(481)       三〇
 
 大伴家持について書いているうちに、『日本短歌』十月号に保田与重郎氏の「大伴家持の相聞歌」が載った。一読するうちに私の心の中で問題が脱れてゆくのを感じた。それで大伴家持論でなく、私の感じたことについて書いてゆく。『万葉集』について明治この方の論を見ると、大方は万葉の歌の礼讃に終止している。近時は時に万葉の歌についてかならずしも褒めない見方も出てきているが、それが力を持っているわけでもない。一般から言えば常に礼讃のつづきである。さてその礼讃の特色は、私の理解する限り、芸術としてのそれである。もっと狭く言えば文学としてのそれである。もちろん近頃は国家的意味から記紀等と並べて『万葉集』への注意も高まってきているが、そうした立場での万葉礼讃は、古典としての万葉の形態を改変する意図をいだき易く、今度もそうした意志に伴われた言説が見られる。それは文学として見るよりはむしろ国民道徳の淵源の一つとしての古典と見るゆえ、今日の国民倫理の立場から見て不都合と見られる点を抹殺しようとするに到るものと思われる。だからこれはもっぱら今日の倫理的感覚から来る問題であって、かならずしも文学としての問題ではない。文学的立場からする限り、だから万葉歌の理解は礼讃と結びついていると言っても過言ではない。
 それでは万葉の歌は本来そのように文学として勝れておるのであるか。すくなくともこれまでの受け入れ方から言えばそうであるらしい。万葉歌が良いというのは、万葉歌が勝れているから良いのであって、そうでなければ良いと感じられるはずがないとするのであったようだ。だとすれば、万葉歌を良いと感じなかった人や、万葉調でない歌を作った歌人やはどういう事になるのであろうか。万葉自身が良いのに感じなかったのは馬鹿のためか無能力者であるためか、子規ははっきり貫之は下手な歌作りだと断言しているので、無能力者だと思っていたに違いない。(482)しかしそうした考え方は一般のものであって、なにも子規一人のものではないであろう。だとすれば、日本には千数百年短歌は風雅の道とせられて来たにかかわらず、万葉以後では真の作家は普通に万葉調の歌人とされてきた源実朝、このあたりまでは一人も出なかった事になる。現に賀茂真淵などはそう言っている。それから当の真淵や井出曙覧や平賀元義あたり。子規はたしかに実朝へそれらの人を加えて考えている。としたところで、全体の数の少なさはなんとした事であるか。もちろん第一人者がそうたくさんにあるわけはないのであるが、これなどはあまりにひどすぎる。その他の作家はみな下手で自覚が足りなかった。その証拠には万葉調の歌をつくっていないではないか、というのであるならば、その結論もすこしひどすぎる。もちろんこれまでの議論はみなそれであったのだが。
 私は以上のような評価の偏頗から出発して、一つの考えに到達するようになった。それは、明治末期この方の万葉礼讃は、万葉自身の良さという事よりも、摂取する者の側の事情により深く関係しているという事である。なんでもない事のようであって、しかもこれは重大な問題である。
 元来万葉歌の一つ一つの出来ばえというよりも、万葉を良しとする評価は、そうした評価をなし得る主観の問題である。万葉が良いから良いと感ずるのが当然だとする立場からは、そう感じ得ない者は馬鹿だという事に結局はならざるを得ないし、だとすれば千数百年間にすぐれた日本人は数人しかいなかった事になるのであって、それは結果から見てもすこぶる不遜であるのだが、はたしてそうであるならば不遜に見えたところで仕方はない。それを主張するの外はないのだが、そのような主張はすくなくも私にはかえって馬鹿の相貌を感じさせるものである。なぜといって、それはいわば素朴実在論的な考え方の上にたった模写説めいた考え方をしているからである。いったい現代短歌をそういう人はなんと見ているのであろう。と言うよりは、すべて人の作った言語、神話、芸術などをなんと考えているのであろう。そしてそれらを認める認識のはたらきをなんと見ているのであろう。
 ここで私は強引に言ってしまう。すべて言語や芸術やをそのまま客観的事実だと見た見方は、今日すでに旧くさ(483)い。いわば十九世紀的の香がするのである。言語や芸術やを一個の象徴として受け取る立場は、それにくらべてより新しく今日のものの感じがする。新しいものがなんでも良いというのでは決してない。しかし別な立場の成熟してくるところでは、なんとしたところで同じ結果が出るわけのものでない。新しく生まれた立場では同じ歌への評価でも変わりうるのである。
 そうした時代の動きに随伴する歌の新しい受け取り方をするというと、案外これまでくだらぬとされていた歌がよく見えてきたりするものである。現に私がそうで、その点から顧みて、私は従来の万葉礼讃は実はその時代の主導的な傾向にある精神の反映だと感じとったのである。
 だから万葉の歌の分かる人が何人いたかでなく、万葉を良しと感じうる感受力がどうして生まれたかという問題がまずはじめに生じなければならぬ。そして、それにつづいて、その感受力がどの程度に現代という場においての普遍性を持つかが問題となってくるのである。それらの点を考慮に入れてふりかえって見ると、子規以後の新しい万葉礼讃は、短歌を文学として感じる立場から生まれていたのであった。文学とはそれでなんであるかという事になると、それは十九世紀西欧の文学の概念に近い概念であった、という事ができる。ところが『古今集』この方、子規が『古今集』を下らぬ集だといって排斥した明治三十年ごろまでの歌は、そうした文学の概念にはおよそ遠い所から生まれてきている歌であった。いわば風雅であった。ゲーテの『ヴェルテル』やルソーの『懺悔録』から筋を引く近代文学とはおよそ別の地盤から生じたところの風雅のあそびであったのであった。質がちがうのだから、一つなみに評価できぬのは当然であった。実は良いわるいでは評しきれぬものがあったのである。
 この事を勘定に入れてこれまでの万葉礼讃を見直すと、たやすく万葉自体の良さというよりも、万葉をよしと感じうる性質の持ち主の自己告白であったのだという事が分かると思う。      (『水甕』昭和十六年一月号−十二月号・十一回連載)
(484)(四六〇)* 松田常憲。昭和二年以後『水甕』の編集経営者。
(四六四)* 九月号に見えない。十月号の「古典における民間文芸」(本巻所収)に「大著『柿本人麻呂』が絶対に学問の書でなくて一種怪奇なる芸術作品である」と言及しているのをさすか。
 
 
      蘆が散る難波
 
        一
 
 蘆が散る難波は私の夢であった。と言っても唐突な話なので、いますこし説明をさせていただきます。
 昭和二年の三月に、大阪府立女子専門学校いまの大阪府立女子大学に参ることが決まったとき、佐佐木信綱先生から、大阪に行くのなら難波文学史を是非まとめるのがよいという餞別のお言葉をいただきました。先生はもとよりそのような事はすっかりお忘れになっていると思うが、私にとっては大切な頂き物になっています。ところが生来仕事がのろく、道草が好きなので、いまだに先生にお報いすることができないでいる中に、難波の文学も近世と近代とのあたりは、この三十年間に調査研究も極度に進んで、私などの力ではどうにもならないような所に来てしまいました。それでいよいよ難波文学史の私による実現はあやしい事にならざるを得ないのですが、先生のお言葉がなければ決して調べてみようと思いたたなかったろうし、調べてみなければ今に興味を持つことがなかったろうと思うような点はいくつも掴むことができまして、御恩はだんだんありがたく感じられるのであります。
 さて大阪へ参りましたとき、まだ学校出たての気ばかりはやってなにも知らない人間であったのに、隔てなく親(485)しくしていただきました沢瀉先生から、この度おすすめいただきましたので、一時に回想がむらがり起こりました。それで、大阪赴任の時以来、気が向くとは弄って見ていた難波に因みのあることを、一つ取り出してみたいと思います。
 それが蘆の花が風に散ったころの難波なのであります。
 
       二
 
 あしがちるというのは、『冠辞考』巻一にも「なには」の枕詞として出ているし、したがって『万葉集総索引』にも枕詞として掲げられています。
 しかしそれは押し照る難波などとはすこし違っているのではないかという感じが前からしているのですがどうでしょうか。と言うのは、『万葉集』では、蘆が散る難波の実例は三つしかないのであって、それは、
 (1) あらたまの 月日よみつつ 蘆が散る 難波の御津に 大船に真櫂しじ貫き……(四三三一)
 (2) 海原の ゆたけき見つつ 蘆が散る 難波に年は 経ぬべく思ほゆ……(四三六二)
 (3) いや遠に 国を来離れ いや高に 山を越え過ぎ 蘆が散る 難波に来居て……(四三九八)
の三つですが、注意すべきは、その三つともに大伴家持の歌であること、その上に三つとも天平勝宝七年二月の作で、(1)は八日、(2)は十三日、(3)は十九日というように、たった十日あまりのきわめて短かい時日のうちに用いられているに過ぎないという事です。家持自身も外では使っていないし、他の人も使っていない。平安時代に下ってもほとんど使っていないように思います。この天平勝宝七年二月に家持は兵部少輔として、防人が難波に集まり、そこから船に乗って九州に出発する際の事務に当たっていたわけでありましょうから、かれも実地難波に在ったし、(486)防人の群も実地に見ていて、そこで「防人の情に為りて思を述べる」作をいくつか作らざるを得なかったし、いつまで難波にいることかと思ったりもした。これら三つの「蘆が散る難波」という句は、すべてそうした作の中に出ている句である。ということは私も大阪に在任中に気がついて、もちろんそうしたことはなんでもないことなのでしょうけれども、私としては大へん感動したわけでした。なぜかと言うと、家持の眼前には一面の蘆原が展けていて、その花が風に散っている。その実景から来たこれは家持個人の発想なのに違いない。そう思って感動したのでした。だから『万葉集』自体の中においても、まだ枕詞と言えるようなものに固まって来ていないし、一般的使用にまで達していない。そこで、枕詞としてはすこし違っているのでないかと感じたわけです。枕詞というには、やはり押照る難波の宮というように、一般的認容の上で、個人的でなく、口調子のように使わなければ都合が悪いのではないか、と非常に思いたかったのです。と言うのは、「蘆が散る難波」が非常に印象鮮やかで、これはなんとしても家持の個人的な感覚を通した個人的な発想だと思いこみたかったからに外なりません。そしてもちろんそれは蘆の花が散るのだと思いこんでいたのです。
 しかしこれはすこし具合が悪い。眼前の実景だとすると、二月の作だから、花が散るのではおかしいわけです。実景というのにこだわる以上は、花が散るという考えは捨てなくてはならない。『冠辞考』では、「あしの葉も冬は散りみだるる物なれば、華のみならじとも言ふべけれど、……猶あし華なるべく覚ゆ」と言って、みな二月の作に用いているけれども、巻十に春の歌として「をみなへし咲く野に生ふる白つつじ」(一九〇五)とも言っているという証拠をあげて、花の散る蘆ということで二月に作っても不都合ではない。これはやはり花が散るのだと決めている。それはさて措き、家持の作自体は今から見れば眼前の景と見るべきでなく、もすこし余裕のある、枕詞的意識に近い観念の結合から来ていたのではないかと思います。だとすれば、散るのは二月だから枯葉だなどと無理にこじつける事はせずとも、蘆の花が散るのだと見てわるくはないのではないでしょうか。
 
(487)       三
 
 大へん長い枕詞になってしまいましたが、実はそんなことがきっかけとなって、蘆の穂なみが吹きなびけて、白茶けた花が西風に散る千二百年前の難波江を想い描くようになりました。
 木津川尻に近く中島があって、それは蘆しか生えていない洲でしたし、築港に近い埋立地も、空地の砂の上に痩せた蘆が風に吹かれていました。新淀川の方には蘆はずいぶんまだありました。しかし、そうした工業都市大阪の周辺にとり残された自然の切れはしは、なんとも汚れ物のように荒れていて、そこから天平時代の長柄川や堀江川の海に流れ入るあたりの湿原が、蘆に掩われ、鶴の声が聞えていた状景は、蘇って来べくもなかったことはもちろんです。
 大阪女専にはそのころから魚澄博士がおられたので、摂津河内あたりの歴史地理を探るのにいろいろの指導を仰ぐことができました。昭和年代の大阪附近、淀川下流の五万分の一と二十万分の一の地図をもとにして、まず新淀川工事のはじまる前の、明治維新から三十年頃にかけての地形に溯りました。新淀川放水路が幅ひろく、まっ直ぐに通じたために姿を消してしまった長柄川のS字型に蛇行しているころの様子が、地図の上で考えられるようになっただけで、ずいぶん眼が聞かれました。(これはすこし後に『大阪市史』の附図を開けてみたら、明治二十三年の地図が載っていて、暗中模索が手間ばかりかかるものであることを思い知らされました。)その長柄川と大阪市内に流れ入る淀川、その下流の安治川、木津川、淀川のすこし上手の江口のあたりで結びつけられている神崎川、それら幾筋かの蛇行する川筋、それから大和川が元禄の放水路工事で大阪と堺との中間に流路を変えられた以前、大和から河内に流れ出ると向きを西北に取って、大阪城の東から北に廻って淀川と結んでいたころのことを知るこ(488)とができるようになると、すこし見当がついてきました。
 それと同時に、現在の大和川の河口の埋め立てや、安治川口に天保山が盛り土された時のあの埋め立てや、大阪築港のあたりの埋め立てや、そうした埋め立て以前の所まで海岸線を地図の上で後退させて見ることができるようになって、大阪築城後、城下町としての大阪が建設されるようになったころの淀川河口一帯の地形が彷彿できるようになりました。
 そんなわけで大阪城の天主閣が再建されてから、あの上に登って現実に眺めた大阪市の相貌は、天平時代の「蘆が散る難波」のころの状景とあまりにも縁のないものであることが分かりましたが、それはなにも近代建築の櫛比する工業都市と蘆原との違いというだけにとどまりません。むしろ淀川下流の流路や海岸線やの著しい相異として考えられ、並びに地表面の相異として想像できたわけです。それは、市街ができるようになると、盛り土がされたり、地固めがされたり、護岸工事の石垣とか堤防とかができたり、道路工事が行なわれたりして、人工的に地表面が堅固になってくるが、市街でなければ河水が運ぶ土砂でできた沖積層の低平な洲に、水辺では蘆が茂り、河流に遠い所は、これも自然に生じた草木の落葉の数十年数有年にわたる腐蝕土ですこしづつ高まり、そこが田や畑に開かれていれば、よほど人工が加わった方で、しばしば原野のままである、といった形をしているであろう。そうした自然生成的な地表の姿と、都市の地盤として極度に人工的になった地表の姿とでは、その上を掩っている建築物とか蘆とかを取りはらってみたとしても、非常に違ったものであることは想像できるはずであります。それで、すくなくとも数々ある大阪の古地図の時代を乗り越して、まずそれ以前の室町から鎌倉、引いては平安朝ごろの様子を想像することに馴れるのでなければ、とても天平時代の難波まで溯って想像することはできないであろう、といった事を漠と感じさせられるように成りました。しかしそれは、そんな簡単なことでない事も分かりました。
 
(489)       四
 
 大阪市街を一歩外に出ると、江戸時代にまだしきりに広大な沼沢の残っていたことは記録もあるし、疑うことはできぬわけです。難波のことを気にしはじめたころにも、喜田貞吉博士を始めとして、次第に歴史地理の研究は進みつつありましたが、その後雑誌『歴史地理』に時々発表されたような専門の業績が積み重なり、万葉歴史地理の研究も長足に進んで、八木博氏、竹山直次氏、岡田信次氏、天坊幸彦氏、大井重二郎氏、魚澄惣五郎氏、次田潤氏、豊田八十代氏、奥野健治氏等の研究が次々と発表され、近頃では、大井氏の『上代の帝都』(昭和十九年)や、ことに天坊氏の『上代浪華の歴史地理的研究』(昭和二十二年)などのような立派な著書によって、古代難波の淀川河口地帯の模様は、実地検証と文献的資料との両面から、ひと通り解明されたという感じに到達しているように感じます。しかしもちろん私自身としては、昭和初期のころは、そうした精細な考証的結果も知りませんし、したがって万葉ごろの難波の景観について、具象的なイメージを描くことのできないもどかしさは、なんとも救いがたいものを感じました。そのもどかしさは、天坊氏の大著が出るころになっても決して十分には満たされなかったものです。
 その第一の理由は、非常に生意気な言い方になるので恥ずかしい次第なのですが、二三十年前のそのころの気持をそのままに申すことが許していただけるならば、それらの歴史地理的な考証の裏附けとして、地学的な観点が足りなかったように思われる事です。もちろん、今の上町の丘陵に扼されて、大きな入江があって、その入江は山城摂津の国界の山崎・橋本・八幡の辺にまで達しており、そこから琵琶湖の水に木津・賀茂・桂の水の合したものが流れこんでいる。またこの入江の東南では、信貴山脈を突切った大和川の水が南河内から北流する石川の水ととも(490)に注いでいる。と、この程度の巨視的な洪積期の最末期ごろの海岸線は教えられていました(第一図参照)。しかしこれは言ってみれば問題の場所に地学的変化の生じる以前の枠を提示されたみたいなもので、実はそこに長い時間をかけて沖積層の生成過程の自然史が繰りひろげられ、そこにさらに都城や村落や河口港や牧場や田畑やの生成過程としての人文史が重なってくるわけです。ところで天平時代は申すまでもなく、その両者が重なりあっている一時期に違いないのですが、その人文史的な面、長柄豊崎宮や高津宮、国華としての四天王寺、住吉神社、高麗館や新羅館や百済館や唐館の建設、そして難波江、難波津、難波堀江、難波京の条里、などの整備、そこに住む人々の服装、集まってくる伊豆手船、松浦船、熊野船、漁船の出入り、そういったものは確かにそのころの歴史的景観を決定するもののわけですが、実はそうした人為的な建設物の存在しまたは活動している背景としての自然自体がどのような相貌を呈していたか、それがはっきりしないとどうにも難波のイメージを描くことができないと思ったのです。そして、それには、天平ごろの淀川流域、ないし淀川河口の辺りが沖積層(491)の生成過程のどのような時期を経過しつつあったか、それをできるだけ押しつめて行くことが必要なのではないか、そのために河道の変遷や三角洲生長の状況、入江の沼沢化の状況を、文献的に確かめうる限り確かめて、それを沖積層の生成過程として見ればどのような時期に当たるかの地学的知識に照らした科学的な認識が必要なのではないか、そう思ったし、是非そうした知識が持ちたいと思ったのです。
 ところが河道や三角洲生成過程の判断となると、文献的考証の精細なのに統べて、それから復元されてくる地形図が、非常に巨視的にとどまっていて、そこになんらも地学的な素養によって調整された眼が感じられないような気がしたわけであります。けっきょく、復元想定図は難波古図の類以上に出ないということです。そしてこの古図類は多く島とか荘とかの位置を指示したり想定したりしたものであるらしく、その図によって海岸線を考えることは実際上不可能だと言わねばならぬのではないでしょうか。
 第二に蘆が生じる場所は、湿原であるはずで、水底であっては駄目ですし、豊富な水が勢いよく流れている所でも駄目です。その代わり水脈をはずれて、沈積土が相当水面すれすれになり、水が淀むようになると、いち早く蘆が生じはじめる。河口や沼沢地の蘆原は多くはまだ完全な陸地になり切っていない所で、大方は沢である。うっかり踏みこむと腰まで吸いこまれるようにはまりこんでしまう。だから田にもならず、畑にもならない。それで難波のことに立ちもどりますと、上町の丘陵に口を扼された広い入江に土砂が沈積して、次第に水面すれすれに近よってきたころには、河水の常に流れる部分と、土砂の沈積する部分とができ、また水脈からはずれた所は深いままに沼のように滞り、水面下に隠れてはいるけれども、川と陸地との別のように高低が生じ峡谷と盆地と平原とが出来、まったく水面上に露出している陸地と同じような様子になってくる。その水面すれすれになった所がまず蘆原になってくるわけで、そういう想像をしただけでも、淀川河口の三角洲や北河内中河内のあたりは、すぼらしい平らかな水郷で、大和の方から峠を越えて降りてくれは、山国の大和とは打って変わった景観を呈しており、河流の水脈(492)をはさんで見渡すかぎりの蘆原かと思えば沼や入江のような淀みがあって、そこに鶴や鷺や鴨の類が群れている。鳴きかわしたり、飛び立つたり、魚を漁ったりしている。そうした隠り沼の風景がひと度本流の水脈に近づくと豁然として大河の風貌を呈してくる。舟で廻れば濃淡遠近の程も奥深く蘆の切り岸が、あるいはせまり、あるいはひろく、あるいは彎曲して連なっている。住吉、四天王寺から高津宮につづく丘の上から眺めると、島のごとく、大平原のごとく蘆が密生し、その間を帯のように大和川の本流が縫い、そして東北の涯遠く、山城の方へと山城川流域の蘆原が霞んで消えて行っている。蘆のことから考えてくると、天平ごろの難波の地は、沖續層としてはまだ非常に若いのだと考えることができるのではないでしょうか。だとすれば、なおさら、古地図の類に、ただ海中に点々と小島があるような書き方をしてあるのでは、とても当時の実景を彷彿させることは思いもよらぬような気がします。
 大和が中心であった奈良朝には、山城川(淀川)の本流は交通路線としての重要性がまだ少なく、海洋航路船もすべて難波の港がその終点であり始発点であったから、難波江、難波津、難波堀江、そのあたりから上の方は、都人の生活圏からは脱れることになる。山城川の下流にあたる長柄川の方に船がはいることは不便である。船は自然に難波の御津、住吉の御津に泊る。
 『万葉集』ではだから長柄川あたりのことはよく分からない。
 都が山城に移ると途端に山城川は重要性を増し、味生のあたりで三国川(神崎川)と運河で結び、江口神崎の水駅を通って三国川の川尻から浜伝いに兵庫明石の方へと航するようになった。『続日本紀』の巻三十八、延暦四年正月庚戌の条に早くも見えている有名な記事の通りです。すると難波は急に田舎となり、『土佐日記』で見れば、紀貫之も土佐からの帰路は、住吉を通り、難波の入口、澪標のもとに泊まり、それから長柄川の三角洲を右手に見つつその前を横切って、三国川の川尻を神崎に入り、そして江口から山城川の本流に出て溯っています。けっきょ(493)く平安時代になっても長柄川のあたりはよくは分からないようです。それで「蘆が散る難波」というのは、難波の高津宮の辺りから、難波の御津、堀江川のあたりを中心にした場所で捕えられたものに相違ないと思うのですが、家持が見たのは実に低湿で、人気の少ない都の外側をおし包んでいる無限に厚みのある自然の、一番人寰に接触している部分だったろうという事になります。
 もちろん私もこういう景観を呈する時期は、沖積層の生成過程において、なんと呼ばれるものであるか知らないのですが、とにかくまだかなりに若い段階に属しているのではないかと思われてなりません。それをもっと正確に捕えたいものだと思います。
 
       五
 
 私は北海道に参つてもまだ、そんな風にして、天平ごろの難波の自然の景観を、なんとか生々したイメージに描きたいものだと思う気特を捨てないでおりました。そしてたまたま釧路から阿寒国立公園にはいって行こうとしたとき、これこそ天平時代の難波の宮を取りまいていた自然に違いない、と感じる自然にぶつかりました。
 もちろん釧路は北海道でも夏まで寒い地方で、春さきから八月末までは猛烈に深い霧が襲来します。釧路自身は木もあまり育たぬといった所ですから、そういった気象的な面を見ますと、関西のそれとは似ても似つかぬ荒涼たる所だと言わざるを得ません。しかし一ばん大事なのは、釧路の背景となっている湿原が見渡すかぎりの蘆原で、それがいかにも沖積層の生成過程における、ある若い一時期を経過しつつあるに遣いないということです。ここの気象や気候の如何にかかわらず、その地学的な意味において、これは天平の難波を彷彿させる得がたい見本でないかと思います。
(494) 今日この釧路湿原地帯は地学上でも有名なものだという事ですが、北海道綜合開発計画によって、なお百年か二百年も要するかもしれない自然の生成を待たないで、近い将来に、人為的に耕作地化されることになりそうであります。それで、現在の状況を分かりやすく解説してみようと思います。この第二図は昭和二十四年版地理調査所の二十万分の一の地図から縮尺したものですが、釧路の市街の東半分は、ちょうど大阪における上町の丘陵のように、(495)洪積層のしっかりした丘陵の上に載っています。そして阿寒国立公園の中の屈斜路湖(クッシャロ湖)という湖から発した釧路川が、ちょうど琵琶湖から出た淀川が大阪で海に入っているように、十里ばかりを流れて釧路で海に注いでいます。その釧路川は本来は深い入江に注いでいたのですが、川の流れの力で、次第にこの入江に沖積層の若い沈積がはじまりつつあります。第二図で釧路の奥深くはいりこんだ入江が横線で描いてありますが、これは大体は蘆の生えた湿地帯か、あるいは標高十センチに足りない実に低平な島地でありまして、現在はもう決して海とは言えません。昔の入江の海岸線は、現在は、洪積層の丘陵と、この非常に若いと思われる沖積層との接合線に外なりません。その代わりこの新生の、今生まれつつある平地は、まったく驚くほどに平坦で低く、そしてその表面を血管のように水流が蛇行しています。地面と水面の差は十センチを越えません。その島地の岸には楊柳が自生し、島地の表面は軟い牧草の芝生が生えて、乳牛が放牧されています。淀川の下流にも鳥飼の牧だの味原の御牧だのの成立した時のことを考え合わされます。水は幅一ぱいに溢れてくねくねと蛇行しており、毛細管のように脈絡しています。それが下流になると一面に、夏で言えば毛羨氈のように平らな蘆に掩われた湿原となり、そこに秋近づけば煙のように花が散り、冬から春にかけて、荒涼とした枯蘆原を展じます。
 下流の湿原の中を今では一直線に放水路が開かれ、釧路市の丘陵の麓を蛇行して海に入る本流は水勢もきわめて緩くて、河口に近い岸は岸壁工事ができて漁港となっており、河口から外は春雪が行きとどいて、防波堤に囲まれた立派な港になっています。要するに、河口にできた釧路は、啄木が「さいはての駅に降り立ち」と歌ったけれど、天平ごろの難波の都にくらべれば、千二百年の人間の歴史の隔たりを如実に反映して、田舎町ながらに近代的な施設も見られます。それに太平洋に直かに面しているので、海岸の砂浜は淀川デルタの千二百年前のそれとは違っていると思います。概して言って、この釧路湿原の現在の海に面した幅半キロにも足りない砂地だけは、外海に面した海岸の性格を示していますが、その薄い皮に包まれた中側は、まったく千二百年前の、摂津河内の湿原沼沢の景(496)観に似過ぎるぐらい似ているものと直感されるのです。もちろん聚落の近くですから、釧路の近くでは、
 (4) 堀江より 朝潮満ちに 寄る木糞 貝にありせば つとにせましを(四三九六)
ということにもなるし、
 (5) 海原の ゆたけき見つつ 蘆が散る 難波に年は 経ぬべく思ほゆ……(四三六二)
の難波を釧路と置き換えれば、今でも釧路に転任した勤め人の発想として通用するでしょう。
 (6) 松浦舟 乱る堀江の 水脈早み かぢ取る間なく 念ほゆるかも……(三一七三)
 (7) さ夜更けて 堀江こぐなる 松浦船 梶の音たかし 水尾早みかも……(二四三)
こんなことも舟の種類さえ気にしなければそのまま言えるかもしれません。
 (8) 三島江の 入江の薦を かりにこそ 吾をば君は 念ひたりけれ……(二七六六)
人間感情については、こんな発想もそのまままことに自然と思われるし、
 (9) 押照る 難波堀江の 葦辺には 雁寝たるかも 霜し降らくに……(二一三五)
 これをそのままあの千二百年前の淀川流域の景としてすなおに感じるためには、どうしても釧路川流域の湿原以外には参考にすべき場所がないと思います。ただ、今日では鉄砲の音が時々鳥たちの夢を破るでしょうが、それでも人のさわなるよりは鳥の方がはるかに多く群れているかもしれません。山を越えて国立公園の方に帰って行く人にとっては、
 (10) 島山を い行き廻れる 河ぞひの 丘辺の道ゆ 昨日こそ 吾が越え来しか……(一七五一)
も実感でしょうし、外洋航路の船の出帆の時には、
 (11) 夕去れば 鶴が妻喚ぶ 難波潟 三津の崎より 大船に 真かぢしじ貫き 白波の 高き荒海を…‥
   (一四五三)
(497)も本当です。「真かぢしじ貫き」はちょっと困るけれども、今日本で丹頂鶴の棲息しているのはこの釧路湿原だけになったそうです。遠い遠い蘆原のかなたに純白の姿を望遠鏡で捕えたことは、私も一度しかありませんが。
 
       六
 
 文献的な研究のほとんど行きつくしているように見える難波の歴史地理研究の成果を万葉における難波の実作品の理解の上にもっと強く結びつけるために、千二百年前の摂河の山川の風※[蚌の旁]を現実の自然の中に探ることもまた考証学の残された大切な分野ではないでしょうか。あのころの淀川大和川の湿原は、沖積層のまだ形成過程にあったと思うにつけ、そして本洲にはもうそんな若い状況が残っていないように思うにつけ、地学についてはまるで素人であるのも省みず、ちょっと夢を描いてお見せした次第です。
   (『万葉』第十三号・昭和二十九年十月・『日本文学史の研究』上)
 
(498)  大伴乃御津
 
       一
 
 大伴の御津について昭和十四五年ごろに、二度ほど短歌の雑誌に書いたことがあった《*》が、かなり飛躍のある荒っぽい推定であるので、そのままにしてしまっていた。しかし今でも同じ問題が疑問となって心に去来するので、それを裁いて下さる人もがなと、改めて書きとどめておきたい。
 問題の点は大伴の御津ははたして難波の御津だろうか、という事である。そして私の結論を先に出せば、大伴の御津は普通に考えられるように難波の御津ではないという疑いを、私は持っているということである。それならば大伴の御津はどこであるかと言えは、それを決定的にきめる決め手が無いようなので疑問が心に去来するわけであるのだが、それはあるいは住吉の御津ではないであろうかという強い誘惑を感じるのである。
 それについてできるだけ簡潔に要点だけを書き記して行こう。
 
       二
 
 鹿持雅澄の「万葉集名処考」の巻五の「なには」の条(国書刊行会本『万葉集古義』巻九の五三六頁以下)を見ると、(499)万葉ごろの難波は難波大郡と難波小郡、古義当時の東生郡と西成郡に亘って広くいう称だとあるのを大体の標準にすることができるであろう。もちろん記紀の文面に一々あたって見て、それを読み解くのにこの「名処考」だけでなく、『五畿内志』や『大日本地理志料』や『大日本地名辞書』なども用いて行ってみると、大阪市に編入された両郡よりももすこし広い地域にひろがっているように思える。しかし、その点は当面の問題でないからここでは通過することにする。そしてこの難波の地をなべて広く難波国と言ったとする「名処考」の推定(五三九頁)をそのまま承け継ぐことにする。
 そうすると、難波海・難波潟・難波江・難波埼・難波津・難波御津・難波宮などはみなこの難波または難波国の域内にあったということになる。
 そこで、その中難波津と難波御津というのは雅澄の考ではおのずから別なのであって、難波津は「尼が埼より南住吉の敷津の境まで、すべて船の著きし津を云りしなるべし」(五四〇頁)とあるように難波の地における船つき場といった意味にとっており、それに対して、難波の御津は「みつ」の条(五八八貢)に「摂津国西成郡にあり、今|高津《カウヅ》の西の万、古の御津なりとぞ」とあって、ある難波の中の特定の津港である。それはまた『古事記』仁徳皇后の故事にからむ地名起源説話を持っているが、しかしそれは「いはゆる先代旧辞にてもあるべく、」「実は官船の出入する津なるによりて、貴みて御津といふにやとも思は」れると記している。そうして「住吉(ノ)御津は、同国同名にて郡異れり」と特に注している。
 以上で見れば難波津というときは難波御津も住吉御津も合わせ含めることができるが、難波御津と住吉御津とは決して同一のものとは見ることができず、まったく別の港であること、少なくも雅澄は見ていたことに成る。そして、以上の見解は、私も大体同感できると思うのである。
 ところがここにいま一つ大伴の御津というのがある。そして、これは 「名処考」の中には出てこない。それは枕(500)詞として「枕詞解」巻二(一〇六頁)の「おほとも」の条に出ているが、大伴の御津・大伴の見つとは言はじ・大伴の高師の浜の三つの続き方に対する解として、大体『冠辞考』の伝統を引いた解釈を下している。その中について、大伴の御津の実例として引用している歌は、「名処考」の方の難波の御津の実例としている歌と相かさなっている。とすれば雅澄は、難波の御津が大伴の御津であることを自明として見ているわけであるが、これはなにも雅澄一人にとどまる問題ではない。むしろ江戸国学における総決集として、契沖以来の説の生長し成熟してきたものであることは、各注釈書を当たって見てよく分かる所である。しかしその説の生長過程は直接の問題でないから、ここでは触れない。
 それにしても何故大伴の御津は難波の御津であって、住吉の御津ではあり得ないか。またあってはならないか、その点になるとなんの決定論も出ていないのである。それが私に不安の念の去来するのを感じさせる。
 
       三
 
 それについては、「大伴の」を枕詞と考える説よりも地名と考える説の方が有力な作用を為していると思う。枕詞と考えるならば、「大伴の」は「みつ」にかかる謂われ、または「たかし」にかかる謂われ等を究明すれば足りるのであって、その「みつ」が住吉の御津でなく難波の御津でなければならぬとする理由は見つからなくなると思われるからである。ところが、地名説的立場をとれば文献的足場と見うるものがいくつか出てくるであろう。一ばん無視できないのは『和名抄』の西成郡雄惟を雄伴と見る立場、同じく摂津国雄伴を重く見る立場である。このあたりから、大伴は難波地方の古名であるとも言えるし、ささなみが近江の地方名であるように地方名であるとも考える事ができる。しかしこれは、奥野健治氏の『万葉摂河泉志考』の大伴の条(八七頁)を借用すると、「住(501)吉大社解状」に菟原郡元名雄伴国とあって、今の武庫郡の一部、旧八田郡(神戸旧市須磨方面)に当たるらしく、『摂津風土記』に雄伴郡夢野、また「法隆寺資材帳」に雄伴郡宇治郷伊米野と見える雄伴もこれであるとしている説に合う。だとすれば、奥野氏のようにこの雄伴は難波大伴とは別系の地名だろうという考え力が一ばん穏当なようである。それに、地理的関係を別にしても、雄伴と大伴とは同一名ではあり得ないとする方が、相通ずると見るよりは穏当である。私はその方に賛成したい。
 とすれば、難波の地で、万葉時代に近いころの史料に大伴の名と結びつく所をもとめれば、清寧紀の即位前紀で、大伴大連が難波来目邑で十町の田を送られた件や、欽明紀元年九月に、大伴金村が住吉宅にこもって、疾と称して朝しなかった事の記事などを挙げる事ができるであろう。大伴氏の勢力地盤と住吉に近い難波のあたりとは、なんらかの関係があったにちがいない。そのような関係から、ごく簡単に住吉の御津に近い方面が大伴氏の本貫であったと言い切っては飛躍があるかもしれないけれども、関係は深かったと見る事はできないであろうかという事は、考えてみてはならない考えとも言い切れないであろう。その点ではむしろこの方が、歌の実景を考えるのに解釈がしやすいという点もありはしないかと思われる。大伴の御津は住吉の御津であったのではないか。この想像がこうして次第に可能性のあるもののようになってくる。
 
       四
 
 このいわば仮説に、さしあたり不都合を感じさせそうな『万葉集』の作品が一箇所だけある。それは巻五の憶良の好去好来(八九四番)の歌である。それの一節に「墨縄をはへたるごとく、あちかをし智可の岬より 大伴の御津の浜辺に ただ泊てに 御船は泊てむ」と歌って、その反歌二首が
(502)  大伴の御津の松原かき掃きてわれ立ち得たむ早や帰りませ(八九五)
  難波津に御船泊てぬと聞えこば紐ときさけて立ち走りせむ(八九六)
とあることである。ここでは同一場合の反歌が、一首は本歌とひとしく大伴の御津と歌われているに対し、一首は難波津にと詠まれている。それではこれが大伴の御津は古来の説のごとく難波の御津であることの確証になるではないか。それはたしかに胸を打つ事実である。
 しかしこの二首、ないし三首の歌をいますこしよく観察してみると、一つの事に気がついてくるであろう。それは八九六番の歌が「難波津に御船泊てぬと聞えこば」と詠んでいて、難波の御津と言っていない事である。それはすでにこの小論の前の方で触れたように、鹿持雅澄も認めていた通り、難波津と難波の御津は別である。難波津は難波の地の津港を押しなべて、したがって幾分は漠と指している言い方である。難波の御津は特別の港である。つまりそれは堀江川・難波堀川の河口なる難波江口のあたりの船つき場である。今の大阪の北浜一帯あたりの地である。そこで、憶良が遣唐使の出発にあたって好去好来の歌を詠んだ天平五年という時に、奈良の都にいて、その立場で作ったのだとすれば、それはどういう事になるか。奈良人はただ馳せに西に馳せて二上山の峠を河内に下って、真西して住吉に馳せつける。船は値嘉の岬(肥前松浦)から墨縄をはえたるごとく一直線に走航してきて、ただ泊てに大伴の御津の浜辺に碇泊する。この呼吸から言って、大伴の御津は住吉の御津の万が鑑賞の自然に好都合なのであって、難波の御津だとそれほどうまく行かないようである。そして、大伴の御津とならべた八九六番の歌も、幸いにもただ難波津とうたっていて難波の御津ではない。だとすれば、反歌二首は、総名としての難波の港(難波津)とその一つである大伴の御津とを歌っているのであって、なんらの矛盾もその間には存しない、と言う事ができるわけである。したがって大伴の御津は最初から、難波津の中での難波の御津だけに比定しなければならぬ不自由からは解除されていたわけなのである。(503)そしてそのあとに芽を出してくる考えは、外ならぬ大伴の御津すなわち住吉の御津という考えである。
 
       五
 
 好去好来の歌をこのように処理することができるとすれば、それより外の大伴の御津の歌は、強いて難波の御津の歌として解するよりも、住吉の御津のあたりの歌として解する方が、すべて自然に万葉時代の歴史地理的現実と相応する表現として読み取ることができると思うのである。
  いざ子等早く日本へ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ(六三)
  大伴の美津の浜なる忘貝家なる妹を忘れて念へや(六八)
 巻一の歌は難波の御津でなければならぬような点はなさそうである。むしろ「御津の浜松」といい、「美津の浜なる忘貝」といい、「恋わすれ草生ふといふなる」の住吉ですこしも不都合ではなさそうである上に、御津の浜松もまた堀江河口の難波の御津よりも、住吉から和泉の高師につづく白砂青松の浜辺を想像する方が自然ではなかろうか。
 もちろん、難波の上町の丘陵は、その上に四天王寺を聳え立たせながら南下して住吉神社につづき浅香にかかって、百舌鳥耳原の丘陵へと連なって行く。その丘陵が水と接するあたり、住吉の浅香の浦(一二一)、墨江の得名津(二八三)、住吉の粉浜(九九七)、住吉の名児の浜辺(二五三)、住吉の遠里小野(二五六)、住吉の出見の浜(一二七四)、墨吉の浅沢小野(一三六一)、住吉の敷津の滞(三〇七六)、墨江の小集楽《おづめ》(三八〇八) などと、種々な表現を歌の上にとどめているのだから、それのすべてが固有名詞としての地名ではない事が明らかだとしても、水陸の接触点がただ一線の白砂青松の長汀でなかった事は明らかである。それに住吉神社の真正面近くと思われるあたりに(504)住吉の御津があったとすれば、そのあたりも、ただ手放しの無表情な長汀であったとも思われない。しかし、それも実は水陸接線の内側の形状であって、大阪湾に面した所は一線の長汀だったと思われるのである。それに今の住吉と堺との間に大和川の放水路が開かれる八百年前のことであり、それが無ければ住吉の辺から和泉にかけて、大河はなく、海岸線は曲折がない。今の堺と高師との中間の石津川の河口にしても曲もないものである。それにしても内海航路の舟の泊まりには十分に役立つぐらいの河口である。だから右の住吉の歌の表現によって、地形の入り乱れた複雑な海岸線を想像するならば、、これもまた大阪湾の西風による波浪の海岸線を作り出す作用を抜きにした想像で、簡単にすぎるであろう。けっきょく、小川の河口に小さな入江や沼沢の類を持ち、そこには葦やあやめなどの群落を作りながら、その外側は大阪湾に而して一様に白砂の長汀によって縁取られていたといった地形を想像することができる。だから一度舟にのって沖を過ぎれば、
  朝なぎに真梶こぎ出て見つつ来し三津の松原浪越しに見ゆ(二八五)
といった景観を呈するわけである。
 上町の丘陵の西側の裾の線、ちょうど今南海鉄道の本線の走っている地盤は、ほぼ千三百年前の海岸線に近く、一致せずとも遠くはない。鉄道線路工事などで掘り下げると、六尺も掘れば水であるが、その水の上三四尺から下二三尺にかけて砂であり、その下は黄色の粘土である。今の住吉公園駅粉浜駅のあたりはまさにそうである。それで、
  白浪の千重に来寄する住吉の岸の黄土ににほひて行かな(九三二)
  めづらしき人を吾家に住吉の岸の黄土を見む因もがも(一一四六)
  馬並めて今日吾が見つる住吉の岸の黄土を万世に見む(一一四八)
というような歌は、南海鉄道に沿った天下茶屋・住吉間の丘陵の西側斜面が海岸線に接していて、そのどこを掘っても美しい黄土を取って染色に使うことができたのであろう。今でも、ちょっと掘れば、粘土細工によい黄土を簡(505)単に取ることができるである。三四十年前のその辺はまさにそのような状態であった。そして海岸は、
  白細砂三津の黄土の色に出でて云はなくのみぞ我が恋ふらくは(二七二五)
といった白砂である。
 この黄土の岸のあたりが、「白細砂三津の黄土」(二七二五)であるとともに、「今日吾が見つる住吉の岸の黄土」(一一四八)であったり、と同時に、
  住吉の岸の松が根うち曝し寄り来る浪の音の清けさ(一一五九)
であったりする。そのような住吉であったり御津であったりする。それは西風に浪打ちよせて、
  大伴の御津の浜辺をうち曝しより来る波の行方知らずも(二五一)
であり、また、
  大伴の三津の白浪間なく我が恋ふらくを人の知らなく(二七三七)
  大伴の御津の松原かき掃きて吾立ち待たむ早や帰りませ(八九五)
であったりする。そこで大伴の御津は、地形的にたしかに住吉の御津に近く、難波の御津でなければならぬ関係が少ない。あるいはまるでない。
  大伴の御津の泊に船はてて立田の山を何時か越えいかむ(二毛二二)
 この御津から大和への巡路という点でも、大伴の御津は住吉の御津であってすこしもかまわないのでないか。
 私は大伴御津は住吉御津だという気特に拘わっている。そしてひそかに信じたいとしている。高教を賜わらむことを。
    (昭和三十、十、二十五)
 (『万葉』第十八号・昭和三十一年一月・『日本文学史の研究』上)
(四八八)* 「大伴の御津攷」(『短歌人』昭和十四年四月号)および「万葉襍記」(五)・(六)−大伴の御津・難波の御津−(『水甕』昭和十六年五・六月号・本巻所収)をさしている。
 
(509)   文学史家の見た上代
 
           神田 秀夫
 
 この第三巻は、風巻先生の古代日本に対する関心、平安朝以前の日本文芸に対する文学史家としての関心、それが生みだした諸論攷として見るべきものかと思う。
 たまたま、私も亦、記・紀・万葉を研究しているとて、本全集の編纂者のかたがたから、解説をせよとのお求めにあずかったのだが、私のような者の解説を、はたして先生が喜んで下さるかどうか、実は、すこぶる疑問である。ただ、御生前、石川春江君とともに「紫式部」を書いたり、兼好法師を読んだりしていたころ、先生のお教えを乞うこと一再でなかった、そのお近づきを思い、御遺著「日本文学史の研究」上・下巻の編集に、窪田敏夫先生や西郷信綱氏のお手伝いをしたものだから、その御縁で、今また、このような解説の責を負うことになったものと思うが、風巻先生の博大な知見に対して、私の管見が、これを矮小化することがなければよいが、と内心はなはだ不安である。
 さて本全集編纂のかたがたが整えられた諸論攷は、この第三巻のばあい、三部に分れていて、物語・古事記・万葉となっている。
 第一部は、物語というものがどうして起って来たか、それを、文学史家としての先生が、自ら納得のゆくものにしたいという衝動から生れたものと思われる。御遺著編集の際、これらの草案にあたる講義ノートのようなものを、ちらと拝見した記憶があって、今それを思いだすにつけても、再三改稿されたらしい此の第一部が、先生の御研究(510)の一つの主題だったことが痛感され、この第三巻の巻頭以下二篇は、本全集にとっても、確かに重要な一部分を成すものと思われる。本巻解題で、近藤潤一氏も触れて下さっているが、525ページ上段にあるように、阿部武彦氏との接触が、先生に一つの刺戟になったとみてよいのではないかと思う。つまり、先生のなかで進行していた化学変化に対して、阿部氏は、その反応速度を促進させる触媒の役割を果されたように思われる。巻頭の「氏族伝承の分解」は、そうして生れて来たものだろう。
  大化から平安中期にかかるころまでが、氏姓制崩壊期とみられるであろう。この時期と、氏族の物語の崩れた形の文献に記載された時期とが、まさに一致しているのである。
という、18ページの立言は、結局、氏姓制から律令制への変化の時期が、ちょうど物語の発生期でもあった、という第一部四篇の大筋、大枠を決定してゆくのであって、ここに最初の足がかりがあったのではないかと思う。
 もちろん、先生の目的は、物語の前史の探索、初期作品の文学史的位置づけにあったに相違ないが、この「氏族伝承の分解」一篇が、当時から今日まで、読み返されて来た所以のものは、考察が、物語の発生してくる、その社会的基礎の動きを、絶えず配慮の中に置いていて、氏姓制から律令制への変化の上に、国史からはみだす伝承が、伝承から虚構への動きを示してゆく過程を、いきいきと描いてみせられたところに在る。
 「氏族伝承の分解」は、石母田正氏の「古代貴族の英雄時代」に刺戟されて大古墳時代の日本に思いをはせる。しかし、藤間生大氏の説かれるような民族連合政権説には賛同し得ない。そうして、例えば九州の王たちは、大和の大王に対しては国造として従属しながら、九州の自分たちの人民に対しては依然として王であったろうと想像する。その辺の想像の仕方は実に凱切、的確で、今でも私どもを首肯せしめる(13ページ)。だが、諸豪族は、土地人民を奪い合う、その競争途上で、皇室を追い越せず、世襲的な従属関係を固定されて、氏姓制のなかに埋没する。英雄時代は過去となる。その辺の粗描(15ページ)も、実に簡潔に五世紀から六世紀への大変化を指摘する。さて、(511)大化となると、公地公民だから、諸氏族は私地私民の「経済的地盤が否定され」(19ページ)るし、中央集権の官僚機構は、姓(かばね)の本来の意味である「地位職能」の「分掌」「世襲」(19ページ)を認めないから、天武改姓以後の姓(かばね)は「家柄を現わす尊称のようなもの」(19ページ)に過ぎなくなって、奈良朝、平安朝へと移行する。今、かく云えば、そんなことは常識じゃないか、と読者は思うだろうが、その常識は誰がつくった、誰が常識にしてくれた、殊に、誰がそれを文学史の底流に於ける環境の変化として文学史家の立場から指摘をしてくれたのかと考えてみると、実に二十年前の、この論文なのである。
 だが、風巻先生の論文というのは、この「氏族伝承の分解」に限らないが、絶えず退いては廻り路をなさる。ここでも先生は、日本書紀のことにふれ、推古紀以来の国史編纂のことに、一わたりふれずには気が済まず、さまざまな「原資料」があったにちがいないことを強調され、
  そうしたものの全体は、本紀・世家・列伝・志・表等をつくるための最も必要な資料である。と言うよりは、その全体がそのまますなわち「日本書」なのだとも言えなくはない。
と指摘された。この指摘は、最近、神田喜一郎博士が「日本書紀という書名」と題して、岩波の日本古典文学大系月報昭和40年7月号に書かれた説と、いみじくも符合する模索の方向の一致を示している。神田喜一郎説は、今日のところでは一ばん進歩した説であるが、先生の直観と、漢籍の博大な素養とが、十五年前、やはり、その一歩手前まで来ていたことは記して置く必要があろう。
 だが、先生の不満は、日本書紀に一歩踏み込めば、たちまち起って来ざるを得ない。即ち、そこでは、「奈良朝官僚」の手で、「編年」のために「史料」が「寸断」され「解体」されている。(29ページ以下)
  「一書」というものはそのようにして、私は氏族の伝承の中で、神々に触れる部分の寸断されたものであると思う。(31ページ)
(512)では、一書でない本文の方はどうなのか。
  それもまたあの氏族の出自についての伝承が中軸になっているのであって、(31ページ)
両者の間に「質的な差」はないのだ。ここに於て、先生は重大な事実に想到される。即ち「寸断」されたものは諸氏族の伝承はかりではなく、皇族の伝承も同様に「寸断」されているのであぺり、
  全体として「日本紀」の雄略朝ごろまでの歴帝紀の軸心にあるものは、英雄の運命にたいする民族的な反応ではなかった。(31ページ)
それは、日本武尊や神功皇后の思い出を含みながら、
  英雄叙事詩の成立の地盤とは別の地盤の上に成立している(32ページ)
では、その「別の地盤」とはどんな状況の社会か。それは、皇族の権威と力との伸展していた英雄時代でもなく、安定と停滞との氏姓制の時代でもない。
  むしろ皇室の権威が危機を胎んでいた時期にこそふさわしかったと思われる。その意味において私は「日本紀」の軸となった物語の形成は欽明帝ごろとされる津田博士説を示唆多いものと思うのである。(32ページ)
と津田左右吉説が顧みられ、任那の滅亡から白村江の敗戦に至る過程に思いを馳せ、
  氏族制度的な国家機構は、紐帯がゆるんでいなくとも総動員には不向きである。しかもこの外戦は一に中央を富ませ、中央の文化をたかめるためだけのもので、畿内に遠い国造たちにとっては、戦争の一方的負担以外なにものも結果しないと見ねばならぬ。決して民族的昂奮などの生じてきうる条件は存していなかった。(33ページ)
ことに想到され、しかし、こういう時代なればこそ、日本書紀にみられるような寸断、編年、再組織は起ったのであって、つまり、現在の「皇室力の弱さ」から「かの大和国家発展時代の偉大な事業にたいする回顧が生まれ、」(513)それによって当面の危機の間に主導権を握るべき立場にある氏族が皇室に外ならぬということの自覚に資した(34ページ)
のである、と先生は考えられた。かくて、日本書紀の、史料解体、寸断、編年に現れた「中国史学の精神は、神話伝説にとっては恐るべき敵であったわけである。」(34ページ)という認識に到達する。
 では、怪力乱神を語らせない儒教伝来の合理精神の影響で六国史から振り捨てられた諸氏族の伝承は、どうして生きのびることができたか。
  いかに正史が官僚的履歴によって、いかに神性を払拭しても、そのころの一般的人間理解は優れた能力を神秘なもの奇異なるものとして観念する。(41ページ)
だから、
  氏族伝承の祖先神話の発端に住する神々の神秘な力と仏法の高僧の神威力とは、なお幽暗な人間理性の眠りの奥において握手する。聖徳太子・役行者・鑑真・良弁・弘法などの伝説化は急速にすすみ、それらの人々は身分や氏族やの桎梏から飛翔して、神仙となり聖者となる。
ここに神秘のよみがえり、非合理の復活、伝承から虚構への途をつける、もう一つの動きがあり得たのだ、と先生は考えられた。
 以上が管見に依る「氏族伝承の分解」の要略である。今日からみれば、一、二の瑕瑾は、むろん、指摘もされるであろう。しかし、社会の経済の動きと、政治の支配者の意図、そのなかを縫いながら伸長したり萎縮したりする小集団の精神を、四、五世紀から九、十世紀に及ぶ潮流としてとらえたものとして、この論文は、今でも、ちょっと類がないのではあるまいか。
 これと並行して発表された「物語の本質」では、「日本書紀」が氏族伝承を、帝室に関係のある限りに於てしか(514)採り上げないことを証するために、崇神紀の三輪山の語を例にあげ(104ページ以下)、転じて肥前風土記の篠原の弟日姫子の話(105ページ以下)、山城風土記伏文の賀茂の社の話(106ページ以下)に及び、大三輪、日下部、賀茂の三氏の伝承の扱われ方を問題にし、再転して近江風土記佚文の羽衣説話から丹後風土記佚文、外宮の延暦儀式帳に及び(108ページ以下)、
  天人の降臨、神人交通のことは、大化前代氏姓制度の時代において、世界観として生きていた。それゆえ、最高の出自をもって至高の権威を象徴しなければならなかった皇室の氏の伝承は、やはり天孫降臨を不可欠の要件としたのである。しかし他氏の出自にからむ白鳥処女伝説や三輪山伝説のような蛇神求婚説話などはいつか他氏の小説となっていったのである。(109ページ)
と説かれた。これを言い換えると、天孫降臨〔四字傍点〕を皇族だけのものにして置くために、天女の降臨〔五字傍点〕すら史書から除外されて、根なし草にされ、虚構のなかに生き返るほかなくなった、ということになる。注目すべき、今でも清新な示唆を含む、卓見と評してよかろう。
 「古代物語の成立」は、上記二篇よりややおくれるが、先生のお得意の漢籍と国文との平行研究で、漢籍を素養とした平安朝の官僚貴族の観念形態(イデオロギー)が、中国に於ける伝奇の扱われ方と、同様な結果を、日本の古老の伝に対しても惹き起してゆく過程が描きだされる。一々、本文を引いて解説するまでもない。文化が輸入されて、観念形態が移植されるということが、いかに恐るべき結果を招くかを、しみじみと思い知らされる、忘れ難い一篇である。
 「物語文学の発生」は、上記三篇との間に若干のずれ〔二字傍点〕がある。近藤潤一氏の解題にも触れられているような悪条件(508ページ下段)のせいも、むろん、あろうが、関心が古事記そのものに向いてもいたらしく、85ページから92ページにかけて、さほびめ物語を長々ととりあげたりなさっている。しかし、それはそれとして、あとで第二部の解(515)説で、もういちど云うように、決して意味のないことではなかった。
 だが、その第二部と順序を逆にして、第三部の解説から先にしたい。
 第三部は、「万葉作家の社会性」から読まねばなるまい。短い講座物であるが、そこで先生は、やはり、重要な発言をなさっている。それは、
  万葉作家を見て行くと、大体貴族だということができる。(319ページ)が、その「貴族」に両様あって、一つは氏族的歴史を後光として、豪族的な実力と誇りとに充ちた農村的貴族であること。いま一つは絶対王政の中央集権的古代国家の機構の中で、それぞれに官僚的地位に与かるとともに、地方の国々においてはその長官となり、九州においては総督(太宰帥)となり東夷北荻(関東・東北)の遠征軍に征夷大将軍となるような官僚貴族である。(321ページ)
この大化以後に於ける「官僚貴族」の発生という、
  こうした貴族の社会的性質の変質は、当然かれらがほとんどを占めている万葉作家の社会性をも変質せしめる。(324ページ)
  それは大体奈良朝以前と奈良朝とで大きく分けることができるであろう。(324ページ)
といって、柿本人麻呂の歌と、山上憶良や山部赤人、ひいては大伴家持の歌とを対比され、
  一見して感じるのは、奈良朝の歌の思想的にかまた感覚的にか分化して繊細化している姿と、人麻呂の歌の主客未分的な表現との著しい相違である。(325ページ)
と述べ、「赤人や家持の自然」が「対象化された主体の外の自然」になったのは、人麻呂との「個人的な資質の相違などで」説明しきれるものではなく、
(516)  それは生産農民として自然と結び合っているか、鍬を捨てた人間として自然を眺めているかの違い方であり、同時にそれは大化前代の土豪的旧氏族の在り方と奈良朝官僚貴族の在り方との相違とも相応じあっていると思われる。これは恐しいばかりきびしくまた胡麻化しのきかない人間主体の社会性でもある。(325ページ)
と指摘された。
 この、大化から大宝にかけての官僚の発生という、氏姓制から律令制への社会的変化と、万葉集の歌風の変遷、その「自然のつかみ方の変化」とを対応させて、万葉集が平城遷都以前と以後とで異質なものと感じられることの根拠を示唆されたのは、当時として、実に大きな指摘であり、卓見であったと思う。それは後年、この論文の存在を知らずに人麻呂研究に夢中になった私の実感をするところである。
 なお、この論文は、この観点から、藤原氏に対する大伴氏、ことに家持の苦悶をとらえ、又、都市としての奈良が、ヨーロッパの都市の観念ではつかめない別のものであったことまで注意していて、その点でも卓れたものである。就いて看られればわかる。
 「万葉集と歌風の変遷」は、右の「万葉作家の社会性」の考察を土台にして、展開しているものと思われ、沢瀉久孝博士の四期区分説を肯定しておられるが、ただ、それを
  原始の段階――民謡的
  第二の段階――混沌的
  第三の段階――開化的
  第四の段階――悒情的
と内容を規定し(215ページ)、原始の段階では作家を挙げず、第二の段階では人麻呂、第三の段階では憶良、旅人、赤人、第四の段階では家持と、極度に作家をしぼって概説としての大筋を通す方に力をいれておられたように見受(517)けられる。その点、先生の論文としては、特に味わいの深いものではない。
 これに対して、長論「山部赤人」は、先生の万葉作家研究として、まことにこく〔二字傍点〕のある名論だと思う。先ず、その作歌年代が大体、聖武朝であることを述べ(265ページ)、赤人を笠金村・車持千年と並べて考え、金村・千年・赤人が、人麻呂から、どうずれ〔二字傍点〕て来ているかを検討し(267ページ以下)、
  つまり、従駕の時の作にも、帝王を中心にした発想でなしに、私情を根柢に持つ詩が作られ、かつまた、それが天皇行幸の際の詩と注記されて記載されているという事情が新しいと思うのである。その注記は要するに作詩の時を限定するだけであって、決して、作詩の動機や発想の対象を限定するものではなくなっている(279ページ)
と指摘され、そうなるについては、行幸の性質も変ってきている、例えば持統天皇の吉野行幸は、「丹生川上神社への参拝が行なわれた」(281ページ)はずで、「つまり持統帝の丹生川上神社信仰が、吉野行幸の主動機であった」(287ページ)と考えられるのに対して、「聖武朝になっては、名勝の美を称し遊宴を愉しむことの方が主たる動機によってしまっていたと考えられる」(291ページ)と述べられた。このあたり、どうも折口信夫−高崎正秀説の間接の影響が感じられる(288ページ)。
 だが、論歩はここで一転して、懐風藻に平行現象を見いだそうとし、侍宴従駕の作の多い中にも個人的な感懐がまじってくる例として、越智広江の「述懐」や隠士民黒人の「幽棲」が引かれ、
  そうした公的儀礼のいよいよ華麗に大袈裟に高まって行く習慣的な絶対性と、その非人間的な豪華さについて行けなくなった官僚個々人の間に、確実に生じてきた脱落の意識と抵抗の意識を通しての個人的自覚の形成(303ページ)
  赤人沢の問題はやはり以上の点を考慮に加えることによってのみ、一歩前進させることができるであろう。(518)(同右)
と論を進められ、
  赤人が新しい学問に縁がない人であろうという事は、同じ開化的歌風の段階を代表させ得る歌人として、大伴旅人や山上憶良やと較べれば簡単に想像できることである。(306ページ)
という教養の問題から、更には出自の問題に及び、笠臣、車持公、山部連の古墳時代以来の前歴を洗い上げ(このあたり、先生は、世上このごろの万葉博士などとちがって、上代全文献の操作縦横自在、まことに小気味がよい)、「冨能ク儔フ莫シ」といわれた山部連小楯の子孫の、おっとりした生活環境を推測され(315ページ)、「勢い立っている新官僚群のそれとは同ずるを得ない」意識のもとに「なんなく旧時代のままに生きていたのである。」「新国家に対して抵抗したり悲憤したりしないのは、生活の根拠がどこかに存在するからである。」と判断せられた。
 このあたり、山部赤人を、続日本紀に出て来ないから下級官吏で、貧乏だったろうと推測するような、未熟な赤人諭とは、全く、雲泥の差である。
 なお、戦前の講座に寄せられた「中世文学と万葉集」、昭和十六年に歌誌「水甕」に連載された「万葉襍記」、戦後、学会誌「万葉」に寄せられた「蘆が散る難波」などについても、一言したいが、こういうものは、ここで解説してしまうと、本文を読まれる読者のたのしみを半分奪ってしまうことになるので、がまんして、差し控えたいと思う。
 第二部に取って返す。いったい、先生は、締切にせきたてられると、そっちの方を先にかたづけてやらなければと思って、御自分の研究の方を後廻しになさるかただったように思う。右の「万葉集と歌風の変遷」にしろ、「山部赤人」にしろ、平凡社の万葉集大成がせきたてたにちがいないのであって、古事記の方が昭和三十年以後になったのは、古事記大成が万葉集大成よりあとで企画されたことと関係があると私は思う。ほんとは、第一部「氏族伝(519)承の分解」で大股に両脚を踏ん張った立論は、一方では源氏物語を両手で持ち上げると同時に、他方では古事記に根をおろすべき性質のものであった。ところが、そこへ万葉集大成が飛びこんで、先生を引っ張りだしてしまった。ために、順序が逆になった、というところではないかと思う。
 「古事記研究の再出発」は、明治以来の古事記の研究史を、先生の鑑識で跡づけられ、評価されたものであって、「大正期の研究に画期的な業績を残された学者として、津田左右吉博士と和辻哲郎博士とを挙げ」(119ページ)、昭和期においては、橋本増吾博士の「東洋史上より見たる日本上古史研究(邪馬台国論考)」、山田孝雄博士の「古事記序文講義」、武田祐吉博士の「古事記研究−帝紀攷」に注目され、戦後、西郷信綱氏や西田長男博士の今日の研究が出てくる段階にまで及んでいる。その研究環境の変遷と関心の推移とを描破する先生の視野は広く、諸方に気が配られているが、結局、
  「古事記」が伝えられた古い文献であり、古代人の認識の結果である事を知って、その古代人の認識をそのまままず認識しようとする。古代文献学の基礎に帰って、そこから出発することこそ、「古事記」研究の再出発の始発点であろう。
  近世期において、宣長はかれ独自の立場において、一度それを試みた。私どもは、現代の人間として、再びそれを始めようとするのである。(141ページ)
と考えておられる。ところで、
  宣長にはしかし出発点に神典であるという前提があった。いろいろな前提を捨て去り捨て去って最後に残ったのがそれであった。私どもは神典という前提をなによりもはっきり捨て去らねばならぬ。私どもにとっては神は人に代わる。古代人の残した文献であるということが、私どもの出発点になる。
  そこで大切な事は、古代人の具体的に生きた社会の姿というものについてである。(141ページ)
(520)といって氏姓制の、大化以前の社会の像と古事記とが結びついて来なければならぬ、という要請をだしておられる。
  「古事記における社会・英雄」は、
  しかし最も注意しなければならぬ点は、大化・壬申の大乱を経た前と後とでは、社会の状況は著しくちがってきていたことである。そして万事はそこから発しており、天武帝の根本策も歴史的にはそこに直結していたはずである。(152ページ)
という歴史的把握から出発し、その氏族対策の一環として、みずからを中核に据えるべく、
  「古事記」は皇室の由来を説くために作られた物語である、ということをいま一度ここで記憶にとどめ直すことにしよう。(157ページ)
と云われ、
  そういう意識的環境において、英雄は仰がるべく、追憶さるべき人間像として、いっそう明断な影像を結晶させたであろう。(157ページ)かように皇族の、諸氏族に対する偉力を壮大に印象づけることにこそ、過去の英雄を古事記に登場させる意味はあったのだと判断し、そもそも、倭建命の物語は、五世紀の倭の五王(宋書夷蛮伝)、ことに倭王武の上表(同上)に述べているような征服の拡大を前代に反映させ「日本武尊という個人格に集中させ」(161ページ)たものであるとして、162ページ以下、長文の倭建西征・東征伝説の繙読、分析が行なわれる。四世紀初葉を舞台とする倭建命の伝説が、五世紀中葉以来の、主として雄略天皇の東征西服の現実に触発されて六世紀にまとまっていたものらしいという推測は、先生によって立論の根拠を確かにしたと云えるであろう。(異論をとなえている私自身、その論歩には、今でも相当押され気味になるほどの強さを感じる。)
(521) この倭建命に関する所論と、並行して読むべきものが、第一部の「物語文学の発生」に於ける、さほびめ物語の論で、これの場合、「眼をあざむくばかりに人間的である」、「大まかな人間としての造型はすこぶる適確で鋭い」(91・92ページ)わけを考えてゆくうちに、「初期万葉の時代の場において、佐保姫説話は造型されている」(93ページ)という判断に到達された。即ち、その文芸としての把握は七世紀に入った人間のものだろうという判断である。従来、大ていの古事記論がほとんど触れることなく伏せて来た叛乱、叛乱に捲き込まれた后妃の悲劇、一首の歌謡もみられぬ物語にあらわれた人間性の開花を問題にして、この伝説の傑作に、倭建命の場合に劣らぬ人間造型としての価値を認められたのは、流石は先生だと思う。恐らく、それは平安朝の、藤原時代の、皇室と外戚との関係に敏感であられたことから来る発見であったろうと思うが、研究者に女性のすくない古事記の世界には、大きな示唆を投げたにちがいない。
 以上、私は、この第三巻所収の諸論文のうち、重要でもあり、解説を要すると思われる数篇について、管見を述べてきた。しかし、最初から云っているように、何か、こう、私が先生の業績を倭小化しているような気がして、どうも、これ以上、筆が進まないのである。
 戦前にお書きになったものには一つも触れなかったが、この第三巻にも数篇が収められているように、先生の古代研究は、もちろん、戦前からはじまっていたのであって、「曾戸茂梨への橋」一つを採ってみても、あの知識の伝達の途のとざされがちで、とても今日から云ったら、お話にならぬ不十分な資料のなかで、敏感な先生の頭脳が、いかに悶え苦しんでおられたかがわかるのである。
 そうして戦後、戦前には予想もできなかった記・紀・万葉の皇室に対する研究の自由を与えられたわけだが、戦争育ちの私どもは、依然として文句ばかり云っておって、せいぜい一匹狼、悪くすると野良猫程度の研究主題しか(522)自らつかみ取らなかった。そういう時期に、戦前からの学者、戦争で文芸観を根底から揺さぶられたことのない殿様たちと、私どもとの間に立って、架橋の役割を果して下さったのは、実に風巻先生の諸論文であったと思う。それは今、私どもが、攻守立場をかえて、学生との間の断絶になやみ、一つの橋も架けられずに苦しんでいる時なので、よけいによくわかるのである。今、考えると、当時、先生のお書きになったものから、惜しげもなく投げ与えられた示唆は、星がこぼれるようだったのだ。当時は、それを半分も吸収しなかったことに、今、この解説を書きながらも気がつく始末である。本全集が出たら、私自身、もういちど読み直して、ここから新しいヒントを得たいと思っている。それこそが、この、文学史を書くために生れて来られたような風巻先生というかたの学恩に報いる其の方途ではないかと感じるからである。(六九、八、三、国会の醜状見るに堪えぬ夜)
 
 
(523) 解題
 
 この巻には、主として記紀万葉に関する論稿を収め、主題に応じて三部に編んだ。ただし、紙幅の制限で、『古事記』の児童向け抄訳『日本神話物語』(【「日本少年少女古典文学全集」・弘文堂昭和三二年九月、後「日本少年少女古典物語全集」として岩崎書店刊】)三〇六ページ四二〇枚、および後に「万葉襍記」「大伴乃御津」に吸収される「大伴の御津攷」(【『短歌人』昭和十四年四月号】)は、やむなく割愛した。
 本文の校訂は第一巻に准じ、訓釈された引用歌句は、原則として引用原形のままとし、現在の定説で改訓されている場合も、執筆当時の通説に拠るものは、にわかに改めることを避けた。そのため「イザナギ」→「イザナキ」などきわめて僅少の語句を改めたほかは、本文叙述にかかわる場合があるため、「中世文学と万葉集」の「野(ヌ)」なども、旧に拠っている。
 本巻所収の論稿中、「中世文学と万葉集」は、『新古今時代』、「氏族伝承の分解――古代物語発生史の覚え書――」「古代物語の成立」「物語の本質――形態的な面での限定――」(第一部)、「山部赤人」「葦が散る難波」「大伴乃御津」(第三部)は、『日本文学史の研究』上巻、「曾戸茂梨の橋」(第二部)「万葉の狭さと広さ」(第三部)は絶版に付せられた『日本文学史の構想』(【たゞし後者は『神々と人間』日本文学史ノートU版で再録】)に収録されているが、他は単行書に未収。第一部の『研究』所収の三篇については、同書の校訂に従って初出形態の単純な錯誤を訂したところがある。また右の一部分の校訂過程で、北海道大学教授近藤光男氏の御示教を得た。
      *
 本巻の敗戦以前の論稿は十篇をかぞえるが、うち八篇は昭和十四〜十七年に集中している。「中世文学と万葉集」は昭和八年の執筆で、後「定家為家の撰集と万葉集」と改題して『新古今時代』に収めたものであるが、これは中世万葉受容史の一面を報告するとともに、その基盤は『新古今時代』と連接する中世勅撰集和歌史に属している。著者の上代文学をめぐる発言は、やはり戦争期に入ってからなされているとすべきである。
 したがってそれらは当然第一巻と相わたる性格を持ち、それだけにまた、本格的な『古事記』研究、『万葉集』研究の意図から発したものとはいいがたい。著者の関心は、まず第一に歌論を通じて、近代写実短歌伝統のなかに生きる万葉尊重の短歌観・短歌史観の精神基盤を衝き、その伝統観に旋回をもとめようとする動機に導かれている。「巻第一の歌について」から「万葉襍記」を経て「作者と歌と読者」にいたる歌論は、第一巻「作者と学者について」以下の歌論・方法論的省察、第五巻以後の(524)和歌史関係論稿と、わかちがたい血縁性をわかちあっている。
 また、第二に、「古事記の周囲を歩いて」「古典における民間文芸」などは、当時まだ異説として孤立していた民俗学的研究の積極的受容、およびそれによって焦点が合うようになってきた隣接諸科学の多様な綜合的援用によって、科学的に文学の発生過程を解明しようとする志向から生まれてきてもいる。ともに神人交流の原始社会から、人間とその文学、ことに近代的自我の文学が析出されてくる筋道を把握しようとする、その意味での文学史家としての方法的自己定立に伴われている。
 第三に、著者の、近代合理主義ヒューマニズムを、戦時下の記紀の神典化、万葉尊崇に対置させ、偏狭な国家主義パトリオチズム、神秘的な天皇制イデオロギーを批判する動機が、だいたいどの論にもゆきわたっている。「万葉の狭さと広さ」にもそれはあるし、「曾戸茂梨の橋」にしても、日韓併合後の朝鮮民族に対するいわれなき蔑視・偏見に対する、学問的修正の意図をみおとすべきではないだろう(【この論文の第三節までは、『日本文学史の周辺』の「原始」(第二巻)冒頭の祖型になっている。】)。
 こうして、右の十篇は解体して第一巻および第五巻等に所属させることもできる性格を、それぞれもっている。しかし、それよりも戦後の古代文学史の領域における著者の仕事の素描としての意義を重視し、主題・対象に即して本巻に所属せしめ、著者の問題意識の展開をあとづけようと試みたのである。
 それとはすこし別に、「万葉襍記」における万葉歴史地理の考証は、著者みずから記すように、昭和二年大阪女専への初赴任に際して、佐佐木信綱博士の示唆をうけ、以来ずつと抱懐していた<難波文学史>構想の一端をなす産物であった。著者は学窓を離れてすぐ博士の助手も勤め、後年の『新古今時代』出版もその斡旋による。ついでながら、同書は風巻夫人の談によれば「長野から東京へ出ましたときに佐佐木信綱先生が京都の人文書院に紹介して下さってね、初めてでもございましたし、感激しましてね。一番経済的に苦しかった時代です。佐佐木先生は、少しでも生活の便宜に、とおっしゃって下さったわけですけど、私たち、金銭的な観念がないもんですから、五百部を全部寄贈したんです。先生があとでおいでになって、いくら印税をよこしましたかとお尋ねでしたが、全部寄贈しました。と申しあげましたら、フーン、とね。」(【座談会「風巻景次郎・人と学問」『北方文芸』昭和四三・二】)という次第だった。戦後、北海道大学へ赴任した著者は、釧路湿原の風物に触発されて古代難波のわかい風貌を想起し、それはやがて「蘆が散る難波」にまとまる。これが『万葉』に発表されてまもなく、ジャスミンの芳香に包まれた室内で認められたという佐佐木博士の書翰が舞いこみ、著者は翌朝の演習でさつそく、開口一番「佐佐木信網先生からおたよりをいただいてね……」と披露しながら、しばらくうっとりした眼ざしで、懐旧の想いを反芻してやむことがなかった。古代難波の夢は、晩年まで胸奥の一隅にあたためられている。しばしば札幌に<風透る>という枕詞を冠して興じあうのが常だった著者は、難波に「蘆が散る」と冠した家持の感性を、自身の青春の夢想とともにひそかに胸裡に棲まわせてあわれがっていたように想われ(525)る。同時にそれは、第四巻に収める風土美意識論の基底にも通っているというべきであろう。
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 昭和二十五年三月三十日に、著者は北海道大学国文学会の機関誌『国語国文研究』発刊の編集会議を招集、その創刊号のためにみずから筆を執ったのが、この期の学界に衝動をあたえた「氏族伝承の分解――古代物語発生史のための覚え書――」であった。著者は、戦後ただちに、戦禍と中国引揚げでうしなった古代史関係の史料抜萃ノート復原に着手し、古代国家論・英雄時代論争など戦後歴史学界の顕著な達成に鋭敏に眼を光らせながら独自の古代文学史構想を築きだし、それは講義でもあつかい、また封禁されていた原始古代史について「自由に書くといふ愉しみ」(【『日本文学史の周辺』あとがき】)とともに執筆もすすめていたが、たまたま北大文学部の同僚阿部武彦氏(【当時国史学講座分担助教授】)の、著者の関心と交錯する未発表論文に触れたのを契機に、一気にまとめあげられたのが、この論文であり、また続稿として書き継がれた「物語の本質――形態的な面での限定――」「古代物語の成立」であった。阿部氏の論文は、『国語国文研究』二号に、次の附記とともに掲載されている。「此の小論は終戦の前、史料を整理しておく必要に迫られたメモである。たまたま風巻教授の特別なる御好意によって印刷になる機会を得た。今から見ると不満の多い点が多いが、殆んどそのまま発表することとした。附記して風巻教授の御好意を謝する次第である」。
 しかし、このころ、著者は古代中世物語史の著述を脳裡に描き、『源氏物語』『平家物語』論を見透す計画に着手している。なかんずく『源氏物語』に当面の関心を傾注しようとしている。同じ昭和二十五年二月日記に「源氏物語のつづきを書かねバならぬ。面白い着想があるわけだ」(五日)、「源氏物語の成立。読者と作者と作品と。」(十三日)、「今日から文学″のための源氏物語論″を書こう。源氏物語についてはまだ殆ど問題は何も解明されてゐないといってよい。」(二十六日)など、源氏をめぐる思索に熱中している様子が記されている。すなわち「源氏物語の成立に関する試論」(第四巻)の第一着手である。そこからも推測できるように、第一部の各篇は、かならずしも『古事記』を主対象とする上代文学論の組織に編入されるものでなく、後に「中古の文学」(第四巻)で概説されるように、物語史の前史を描きとる意図で構想されていることは明らかである。その意味で本巻でも第一部を立て、第四巻の物語文学論との連絡をもはかろうと試みた。
 しかし、著者は、昭和二十六年八月、過労のため軽い眼底出血に脅かされ、翌年やや健康を回復したかと見えたが、同二十八年にはまた高血圧で入院治療を余儀なくされ、以後三十二年十月最初の狭心症発作に倒れるまでも、つねに間歇的な病患に苦しむ、きわめて不安定な健康状態に襲われつづけた。「物語文学の発生」「古事記における社会・英雄」などは、厳冬下悪化した病状に打ちのめされ、北海道大学離任、関西大学転任のための移住という離騒転変期に、その間隙を縫うように執筆された。そうした不本意な悪条件のためか、著者生涯の仕事でこ(526)こだけ、たとえば倭建命や抄本毘売皇后説話の叙述など、ときとして文体をやや乱したりしてもいる。著者としてはやや冗漫に誌面を埋めている、この口語訳による説話の要約に、ときとして童話風な語り口が散見されるのは、あるいは狭心症発作直前の夏、小樽市郊外豊里の中村卯太郎氏別邸に籠ってまとめた『日本神話物語』に無意識のうちに引かれた点もあるかも知れない。『源氏物語』(【国語と文学の教室・福村書店昭和二七年刊】)もそうだったが、この種の仕事に、著者は精魂をそそいでいる。ただし、右の論文の口語訳部分は、『日本神話物語』該当部分の転用ではない。いずれにせよ、衰弱した体調との苦闘の痕がうかがえて、いたましい。
 それに比すると、『万葉集大成』寄稿の「万葉集と歌風の変遷」「山部赤人」などは、兼好論や源氏論などとともに、著者五〇歳の、眼底出血をきりぬけて健康を回復したと信じられた、したがって多産でもあった時期の作物であった。著者は、眼底出血療養にひきつづく秋、「一機に気分転換をはかって」関西から金沢を廻って各地で講義するかたわら、友人たちと旧交をあたためている。「この旅で、北海道生活にないものにふれ得」て、「どんなにか楽しかっただろう」と、風巻夫人は書く(【『札幌の十年』(6)『北方文芸』昭和四三一〇】)。そして翌二十七年夏には、恩師久松潜一博士を迎えて、著者がその寄託をうけて創設に挺身した北大文学部の現状を披露し、さらに旧友窪田敏夫氏を加えて、道東・道北の講演旅行にのぼっている。そのときの網走行の一場面を回想して「その後もいろいろの網走紀行文など読むが、私の見たような幸福なかげろうの群舞にめぐりあった人はないようだ」と夫人は語る。高台の校庭一面、地表低く這うように漂って変幻する濃密な海霧の発生を目撃した印象であるが、「幸福なかげろうの乱舞」とはまた、当時の夫人のはれやかな心象風景でもあったに相違ない。大学草創の辛酸をきりひらいて北海道生活になじみ、健康面でも仕事面でも自信に満ちて張りつめている著者の姿が、その表現の背後にあった、と考えないのは、むしろ不自然であろう。
 この回想記はさらに筆を継いで、「やがて汽車は釧路川の湿原帯に入った。湿原をはじめてみる私は、シベリヤにでもいったような錯覚さえして、あちこちに放牧された景色を眺めた。/「アツ鶴が」/と誰かの声で久松先生も窪田先生も一様に澄み切った薄水色の空を仰いだ事だった」と描いている。この車窓で久松博士はその風土文芸学の構想を、著者は年来の古代難波歴史地理を語りあったのであった。
 しかしこの曇りのない状態は、二年と続かず、昭和二十八年の声を聞くとすぐ訪れる高血圧の不安と、四月以後の入院加療によって断たれてしまった。「創成期の文学的詩歌」「大伴乃御津」、そして研究史の有力な一側面をかたちづくっている「古事記研究の再出発」などは、札幌での万葉学会開催を挿んで小康を保っている時期の所産である。そしてこの時期の著者を領していたのは、むしろ勅撰二十一代集を軸とする和歌史構築と、源氏物語成立論、それに研究史とであった。
 こうした事情も手伝って、著者の記紀万葉に関する仕事は、(527)おおむね古代文学史の構想に沿う仕事としての節度にまもられており、その本格的考究は未完に終わった部分が多いと思われるが、それでも、著者の古代学は、上代に限っても独立して一巻をなすため、物語史・和歌史・研究史に分属させることをせず、見られるような構成にまとめることとしたのである。
 なお、「万葉襍記」は一年間十一回にわたって連載したものを一括し、各回の副題は、該当「節」数字下に移した。その他、「古代文学の問題−−純愛の目ざめと原始の神の息吹き−−」は、『北海道大学新聞』の合同執筆による連載記事「日本文学の歩み」の「その一」として寄稿、「文学史の第一頁を書くために――原始文学の史料の扱いについて――」掲載誌『THELITERATURE』は、札幌文科専門学院(【札幌短期大学・札幌商科大学の前身】)の発行。おそらく同校に出講していた杉浦正一郎氏の企画と依頼による日本文学特輯号のために書かれた。
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 なお、割愛したもののうち、この巻に多少かかわりのある『海道東征註』(【昭和十八年八月靖文堂刊三四ペ】)にも触れておく。『海道東征』は、皇紀二千六百年奉祝芸能祭のために、日本文化中央聯盟の委嘱によって、北原白秋が創作した神武天皇讃歌である。(【『中央公論』昭和十五・一、『多磨』同一五・四、『新頌』】。「高千穂」から「天業恢弘」にいたる八草にわかれ、古語を駆使した蒼古な交声曲詩篇、信時潔作曲によって、昭和十五年十一月甘六日、東京音楽学校職員生徒等五百名の出演によって演奏された。著者も同校教授として出演学生のために全篇を講述、(【「海道東征のことども」、『多磨』昭和一六年一月号】)さらに、レコード総譜のための解説(【『多磨』昭和一六・四所収】)を、単行書『海道東征』刊行の際に改稿、別冊に添えたのが本篇である。総序・題名・各章・大意にわけて、かなり詳密な語釈と評論を加えている。詩篇注解であるが、著者の『古事記』論の参考資料ともなり得なくはない。しかし、注釈書として、収録からはずしたのである。別冊には、白秋門下の木水弥三郎の長文の「後記」も載せている。
                     (近藤潤一)