上田萬年監修
新村出
佐佐木信綱
橋本進吉
武田祐吉
久松潜一   共編
 
契沖全集   
 朝日新聞社發行
 
(1)   契沖全集【自第一卷至第四卷】凡例
 
一、契沖全集は、第一卷より第四卷に亘つて、萬葉代匠記の初稿本と精撰本とを併せ收める。
一、萬葉代匠紀は萬葉集の註釋書であつて、これに初稿本と精撰本との二種がある。はじめ契沖は、徳川光圀の囑に依つて、萬葉集註釋の稿を起し、貞享の末か元禄の初年頃に至つて脱稿した。これ今、初稿本と稱するところのものである。ついでまた光圀の囑によつて再稿の筆を執り、元禄三年頃に至つて成つたもの、これを今精撰本と稱する。この兩種の本は、いづれも萬葉集の本文註釋の分と、總論とも見るべき總釋の分とから成つてゐる。
一、代匠記初稿本の傳本には數種の系統があつて、自筆本、似閑本、流布本、若冲本の四種が數へられる。自筆本は水戸の彰考館文庫に十八册を藏してゐるが、それには總釋を缺き、本文註釋の分で、卷二、三、十六、二十を缺いてゐる。卷十、十一は上下二册づゝに分れ、他は一卷一册になつてゐる。卷一の一冊は、他の十七册よりも小形で、この一册は多分みづから清書をした本であらう。自筆本のうち卷二は散葉となつて諸家に分藏せられ、卷十六は、坂本左狂氏を經て、今竹柏園に藏せられてゐる。この二と十六とは彰考館文庫本の十七册の方と同じ本である。なほ自筆本の枕詞の部分の影寫本と思はれるものは、橋本進吉の藏するところとなつてゐる。この橋本本は表紙に、
(2)    【契沖法師著・徳川光圀卿閲】萬葉集中枕辭大概
とあるが、この標題は後人の加へたもので、内容は代匠記初稿本總釋中の枕詞の部分であらうと思はれる。似閑本といふは、契沖の門人今井似閑(號見牛)が、人をして書寫せしめ、みづから書入を爲した本で、賀茂別雷神社所藏、二十八册の全本である。奥に、
 寛永六年【甲申】中秋初染筆同四年【丁亥】二月七日遂成功畢
                    洛東隱士見牛
とあるので、その成立年月が知られる。流布本といふのは、最普通に存してゐる寫本で、内容は似閑本系統に近いが、似閑の書入も無く脱漏も多い。流布本系統の本には、蝶夢本、枝直本、久松潜一所藏本等の數種があるが、いづれも天王寺明靜院の本から出てゐるものと思はれる。若冲本は、契沖の門人なる海北若冲の奧書のある寫本で、この本は一々萬葉集の本文を載せて、その次に他の本に此してやゝ簡略なる代匠記初稿の文を附してゐる。
今全集に載するところの初稿本は、彰考館文庫所藏の自筆本を取り、その本に缺くるところを他本を以つて補つた。それは次の通りである。
 イ、總釋のうち、枕詞の部分は、橋本進吉所藏本によつた。この本は似閑本の枕詞の一册と同樣の内容を有するが、この本に無くして似閑本のみに存する部分(似閑の書入と推せられるものを除く)は、似閑本に依つて特に掲出し、その旨をことわつた。
 ロ、本文註釋のうち卷二は諸家に自筆本の散葉を藏してゐるので、その存してゐる部分はこれによつた。(3)その部分は次の通りである。
 ○「みくさかるしなのゝまゆみわかひかは」の條「の御歌にも、うま人のたつることたて」より、「玉かつら實ならぬ木には」の條「いまたみのならぬ心なり。かやうの事」まで、
 ○「いにしへにこふる鳥かも」の條「か、われもみゆきの御供なから」より、「勅穗積皇子遣近江志賀山寺」の條「近江國志我山寺封起」まで、
 ○「たはれをとわれはきけるを」の條「れをにはあらですご/\とわれをかへせるは」より、「たはれをにわれはありけり」の條「まことのたはれをゆへなりとざれてよめり」まで、
 ○「大寶元年――賓作v實誤」より、「青はたのこはた」の條「その沓のおちたるところに陵はつくれる」まで、
 ○「きた山のたなひく雲の」の條「よりたな引出る雲まにみゆる星も」より、「いそのうへにおふるつゝしを」の條「さきにいへるかことし。朱鳥二年の春なるへし」まで、
 ○「鳥〓立飼之雁乃兒」の條「なり。雁をかりと名付たるもかろくとふ心にて」より、「さてそ長壽の宿禰に昔よりさること有」まで、
 ○「八多籠良家よるひるといはす」の條「ものゝみゆく道をおもひかけぬみやちとして」より、「飛鳥の明日香の川の」の條「細々腰支參差」まで、
 ○「かけまくもゆゝしきかも」の條「の合戰をいへり。天武紀云、元年秋七月」より、「安藝の國なとよりお(4)ほく出すと見えたり。和名集」まで、
 ○「ふるゆきはあはになふりそ」の條「長流か枕詞燭明抄にいはく」より、「弓削皇子薨時」の條「遣淨廣肆大石王直廣參路眞人大人等監護喪事」まで、
 ○「衾道を引手の山に」の條「添上郡、衾路は山邊郡なれと」より、「玉もよきさぬきのくには」の條「第一卷にも第三にも有。くはしはほむる詞、名はよそにも」まで、卷二のうち、以上掲げた外は、賀茂別雷神社所藏の似閑本によつて補つた。
 ハ、卷十六は竹柏園所藏の契沖自筆本によつた。
 ニ、以上三項に記したほか、すなはち總釋のうち枕詞吋の一册を除いた部分と、および本文註釋のうち卷三、二十とは、賀茂別雷神社所藏の似閑本によつた。
 似閑本に依つた部分では、すべて似閑の筆と認められるものを省略した、
一、萬葉代匠紀精撰本の傳本としては、自筆本が侯爵徳川圀順氏によつて藏せられてゐる。この本は四十九册あつて完本である。すなはち總釋六册、卷一上、下、二上、中、下、三上、中、下、四上、中、下、五上、下、六上、下、七上、下、八上、下、九上、下、十上、中、下、十一上、中、下、十二上、下、十三上、下、十四上、下、十五、十六上、下、十七上、下、十八、十九上、下、二十上、下の四十九册になつてゐる。そのうち卷一上、下の二册は、本文は契沖の自筆ではないが、契沖はこの本に縱横に書入をなしてゐるから、その手許において書寫せしめた本として、自筆本に準じて見るべきである。卷七下の一册は、自筆本を火災のために燒失したので、補寫せしめたと傳へる寫本である。精撰本にはこの外に、彰考館文庫所藏の本、岩崎文庫藏本、木村博士校訂の刊本等があるが、いづれも徳川家の自筆本の傳本に過ぎぬやうである。今全集に載する所は、徳川侯爵家藏の自筆本に據り、自筆の分の缺けてゐる卷七下のみは岩崎文庫所藏本と、徳川侯爵本とを對校した。岩崎文庫本は、和學講談所本の轉寫本で、木村博士舊藏本であるが、徳川家本では卷七の下は一册であるが、この本では七の中下の二册になつてゐる。なほ念のために附言する。精撰本中、拾遺と稱する分三卷を添加してある本もあるが、この拾遺と稱するものは、不完全なる初稿本中往々添つてゐるところの脱漏と稱するものと、ほゞ同じ内容を有するもので、要するに不完全なる初稿本の脱漏を他の初稿本によつて補つたものに過ぎず、もとより代匠配精撰本の拾遺と稱すべきものでは無い。
一、契沖は萬葉代匠記の稿成つてこれを徳川光圀に獻上するに當り、兩度とも序文を書いてこれに添へてゐる。全集第一卷の初に載せた「上水戸源相公萬葉集代匠紀序」と「重被水戸源相公鈞命修選萬葉代陀記呈上叙」とは、すなはち前者は初稿本を、後者は精撰本を徳川光圀に獻じた際の序文であつて、代匠記と縁の深いものであるから、こゝにこれを收めた。而して前者は、圓珠庵所藏の契沖自筆の卷子により、後者は、賀茂別雷神社所藏の似閑本代匠記總釋に載する所によつた。
一、全集載するところの萬葉代匠記は、初稿本と精撰本とを併せたものであるが、總釋の部分は、まづ初稿本の總釋を掲げ、それが終つてから精撰本の總釋を掲げる。その分ちは、各卷の内題の下に括弧してゴヂツク字で初稿又は精撰と記してある。本文註釋の部分は、一節ごとに、最初に、契沖が代匠記を著す際に底本として使用したと認められる寛永版本萬葉集によつて、萬葉集の本文を掲げ、その次に、その本文に相當する註釋を、初、と標して初稿本、精、と標して精撰本の文を掲げる。すなはち初、と標してあるものゝみを拾つて行けば、萬葉代匠記の完全なる初稿本となり、精、と標したものゝみを拾つて行けば、また萬葉代匠記の完全なる精撰本となる。殊にすべて、初稿本は平假字で書き、精撰本は片假字で書いてあり、本全集にもその儘に印行したから、いづれの部分でもこの兩本の區別は、一目して明瞭であらう。
一、上に記した如く、自筆によつたものが大部分を占めてゐるが、その精本のうちには、往々別筆と認められる書入が爲されてゐる。今判じ得る限りは(以下別筆)又は(以別筆)としてこれを別にし、別筆の疑あるものは、その旨を記しておいたが、中には例へば單に文字を消したりしたものゝ如きには.鑑別し得ずに過ぎたものもあるであらう。また精撰本卷一の如きは、本文が別筆で、書入に契沖自筆のものがある。今その文に契沖自筆の旨を附記しておいたが、これも、契沖自筆の部分もある例證を示すものとして解せられたい。
一、原本、殊に契沖の自筆本には、縱横に修正を施してあるが、こはすべてその修正したものによつた。しかしその修正が他筆かの疑あるものは、つとめて原文と修正とを併せ出して、その旨を附記した。
一、自筆本には、書寫を爲さしめるための注意書きが入つてゐる。例へば「以下カクヘカラス」とか、又は詞句の順序を甲乙一二三等の文字で示したもの等である。これらはその指定に從つて出し、清書に關する注意の文字を省略した。ただし、「以下カクヘカラス」と記されてある分のうち、捨つるに忍ひざるものの一二を、その旨を記して特に附收した。
一、句讀點は、著者のみづから施したものはこれに依り、これなきものは、便宜のために校訂者に於いてこれを施した。自筆本のうち初稿本には句讀があり、精撰本には稀に句讀を施してある。橋本本には前半に著者の施したと認むべき句讀があり、後半にはこれが無い。契沖の句讀點は、すべて丶の一種で、行の中央に施したものは、今丶を以つて表し、行の右端に施したものは、今○を以つて表した。自筆の句讀のある部分でも、往々更に補足を爲したところがある。似閑本を使用した部分にあつては、似閑が施したと見ゆる句讀によつたものが多く、精撰本にあつては、木村博士校訂の刊本に負ふところが多い。
一、濁點返り點送り假字は、すべて原本の通りとした。
一、異體字は必要あるものゝ外は、すべて通用字に代へた。
一、なるべく原本通りに印行することに努め、引用文の如きも、その原書によつて校合することを避けて、著者が引用したまゝの文字を出すことを努めた。
一、原本が蠹蝕等で讀み難いものは、ほゞ字數を計算して□を以つてこれを示した。
一、原本の體載は、なるべくこれを保存したけれども、頭注の如きは頭書と記して本文の末に加へ、また旁書の如きも、長文に亘るものは、傍書と注して本文の末に加へた。
一、刊行に際して、校訂者の新に加へた注意の文字は、すべて括弧を加へて原本の文字と區別した。
一、各卷の内題は、總釋の部分のは、原本にあるものは原本により、無きものは新に補つてその旨を注した。本文註釋の部分の、萬葉代匠記卷何といふ内題は、すべて今補つたところである。
一、萬葉代匠記の校訂は武田祐吉が擔任した。
 
契沖全集第一卷目次
 
上水戸源相公萬葉集代匠記序………………………………………一
重被水戸源相公鈞命修選萬葉代匠記呈上叙………………………二
萬葉代匠記總釋(初稿)……………………………………………三
萬葉代匠記總釋枕詞(初稿)……………………………………三三
萬葉代匠記總釋(精撰)…………………………………………六三
  集中歌數………………………………………………………六三
〔以下精撰本関係なので省略〕
萬葉代匠記卷一……………………………………………………二二四
萬葉代匠記卷二……………………………………………………三六八
萬葉代匠記卷三……………………………………………………五六九
萬葉代匠記卷四……………………………………………………八〇七
   寫眞版
一、義剛賛契沖肖像………………………………………………圓珠庵藏
二、初稿本萬葉代匠記卷一…………………………………彰考館文庫藏
三、初稿本萬葉代匠記卷四……………………………………………同前
四、精撰本萬葉代匠記總釋枕詞上册…………………侯爵徳川圀順氏藏
五、精撰本萬葉代匠記總釋雜説………………………………………同前
六、精撰本萬葉代匠記卷二下册………………………………………同前
七、精撰本萬葉代匠記卷四上册………………………………………同前
 
上水戸源相公萬葉集代匠記序
みなの河のその水尾より出て、なかれひさしき源の朝臣、ものゝふのみちをならはしたまふいとまに、ふみの道をもこのむたまひて、ひたりみきをそなへたまふと、いつゝのくるま牛はあへけとつみつくさす、よつのくらむなきをさゝへてをさむはかななるを、あかす見たまふるとて、菅の根のはるの日にもゆふけの時をうつし、山鷄の尾の秋の夜にもねよとのかねをかそへたまはて、からやまとの歌も、はるあき月雪につけたるなさけの世にきこゆる櫻川の浪の花.ことはの林のえたにかよひ、なさかのうみのたまも、こゝろの池の水にうかへり。しかあるのみにあらす、したのうきしまゝことすくなきをおきて、つくはの山のたかく神さひたるをとりたまふと、やまとうたのなかにはわきて萬葉集をもてあそひて、ゆみとゝもに手にとり、つるきとひとしく身をはなちたまふことなし。そも/\ふるくより此集をは、しはすの月夜みるひとまれにして、たまさかに見る人も、みねのしら雲たゝよそめなりけれは、なかころこれをとくとせしものも、へみにあしをえかきていとゝきつねのうたかひをむすへり。このことをゝしみたまひて、下河邊のおきな長流といふものつたへおけるふみありて、よく此集をとくよしをきゝたまひて、これか抄つくるへきよしをおほせらる。筆をとらんとするおりしも、すこしこゝちそこなひてためらふとせしほとに、いつとなくあつしれて、年へてみまかりぬることはさいはひなくも侍るかな。をしむへきことにも侍るかな。こゝにやつかれ、かのおきなかともかきのかすにましはれること、年はとをといひつゝ、みつのはまへにおなしくしほたれぬれとも、もとよりつゝりのそてにして尾花よりもせはけれは、何のひろひおけるみるめもなきを、くゝつむなしからんとはしりたまはて、きゝおけることもやある、おもふやうもやあると、木こりにもとひ、草かりにもはかりたまへれは、かのおきなかまたいとわかゝりし時かたはかりしるしおけるに、おのかおろかなるこゝろをそへて、萬葉代匠記となつけてこれをさゝく。おほくはおのかむねより出て、はゝかりおほけれと、ことわさにいはゆる、はへのかほをふむになすらへてそ、みゆるしたまふへき。まことにさえはあしつゝよりもうすくして、かほははりのかはよももあつけれと、たゝこれせりをつみてしつくのたゐを鳥羽のあふみにそへたてまつるになん有ける
 
重(テ)被(テ)2水戸(ノ)源相公(ノ)鈞命(ヲ)1修2選(シテ)萬薬代匠記(ヲ)1【呈上叙】
                     沙門契沖
車(ノ)之爲v車〔中略〕啻《タヽ》止(マラ)2於源君(ノミニ)1
 
萬葉集代匠記惣釋(初稿)
此集を萬葉と名つくること、萬は十千なり。和語には與呂豆といふ。今はかならす十千にかきるにあらす。たゝ物のおほかるをいふなり。史記魏世家にいはく。萬滿數也。左傳にいはく。萬盈數也。莊子秋水篇には、號物之數、謂之萬といひ、則陽篇には、今計物之數不止於萬、而期曰萬物者、以數之多者、號而讀之也といへり。此心なり。葉の字はこれにふたつの義あり。ひとつには世の義、毛萇の詩傳に、葉世也といへり。葉の字.世の字ともに與とも津疑ともよめり。父子相かはるを世といひ、或は三十年をも世といふ。文選の左太仲か呉都賦には、雖累葉百畳、而當疆相繼といひ、劉※[王+昆]か勸進表には、三葉重光、四聖繼軌といひ、顔延年か赭白馬賦には、維宋二十有二載、盛烈光乎重葉といへる、これら皆世の心なり。いはんや、顔延年か曲水詩序に、其宅天哀立民極、莫不崇尚其道、神明振世、貽統固萬葉而爲量者也とかけれは、もしは此叙より二字をとり出て、此集萬世まてにつたはりて世をおさめ、民をみちひく教ともなれといはひて名付たるにや。後の勅撰にも、千載集となつけられたる、このこゝろなり。仁明天皇、令義解を天下に施行したまふ詔には、宜頒天下、普使遵畫一之訓、垂於萬葉といひ、齋部廣成か古語拾遺には、隨時垂制、流萬葉之英風、興廢繼絶、補千歳之闕典といへり。此等は此集より後の事なれともみな萬世の心に用たる證なり。又元亨釋書第二十二資治表にいはく。延暦二年七月、左官右僕射藤魚名薨、嘗於平城建萬葉寺といへり。これも萬世の意にて名付られたり。ふたつには歌義、釋名にいはく。人聲曰歌、々柯也。如草木有柯葉也といへり。此意にてなつくる歟。ふたつのあひた、撰者の心はかりかたしといへとも、先達みな後の義につけり。先古今集の眞名序にいはく。各獻家集并古來舊歌、曰續萬葉集。於是重有詔、部類所奉之歌、勒爲二十卷、名曰古今和歌集。かゝれは彼集初はむかしいまの歌をたゝおほくかきあつめて、續萬葉集と名つけて奉られけるを、かさねて勅ありて、よく部類をわかち歌をも吟味して古今集と名を改て奉れるなり。此集によるゆへにかんなの序に、やまと歌は人のこゝろをたねとしてよろつのことのはとそなれりけるとかき出して、一集の大體をのへ、和歌の本意を盡せり。よろつのことのはといへるに、續萬葉となつけたる、最初の心こもるへし。たねといひ、葉といふは、皆たとひなり。人の心物に感せさるほとは、草木の種のつちの中にあるかことし。既に感するに至りて、見る物聞ものにつけて、さま/\にいひいたせるは、雨露のめくみにあひてもえ出て、葉のわかれたるかことし。土にこもれるほとは、何のたねとしらされとも、柯葉をみて草木をわかち、木の中にも何の木、草の中にも何の草としるにたかはさるかことく、言外にあらはれて後、心のほともよくしられて、さかしきとおろかなると、まことあるといつはれると、かくすにところなし。このゆへに言の字は古登とよみてたれるを、古登波とよみ、ことのはともいふは、葉の字のたとひをそへていへるなり。まことある人のことはゝ松柏の變する事なきかことく、まことなき人のことはゝ、柳楸なとの秋にあへぬことくなれは、聖人のこときははるかなる世のことも聞て、すなはち知ことは、これ言語の徳なり。もし此聞へきことなくは、ひしりといふともつたへむ。首?嚴經にも佛もろ/\の聖者をして、所得の法門をとかしめて、文殊菩薩をしてえらはしめたまふ時、ひとり觀音の耳根圓通を取たまふも、此ゆへなり。心のいつはりなくまめやかなるをは、まこゝろといひ、言のいつはりなきをまことゝいふ。眞心、眞言なり。さるを心にいつはりなきをも、まことゝのみいふは、いつはりなき人は、こゝろとことはとあひかなふうへに、いふことはあらはにて、知やすけれはなり。このゆへに誠の字は、言と成とに從ひ、信の字は人と言に從へるを、ともに言のいつはりなきにも、心のいつはりなきにも、通して用るはこのいはれなり。嗔の字の口眞に從ふかことき、猶ふかきむね有へし。言の中に精華なるを、もろこしには詩といひ、此國には歌といふ。志のゆく所つゐに永歌するによりて名つくるに、はしめをはり有といへとも、所詮かはる事なし。此ゆへに詩をもうたといひ、歌をも續日本紀ならひに、此集には詩といへり。今その歌をえらふゆへに、萬葉なり。後々の勅撰に、金葉集、玉葉集、南朝に新葉集なと、名付られたるも、此集の名より出たるなるへし。集は廣韻曰。聚也。およそ物のあつまる事、鳥の木にあつまるよりおほきはなし。かるかゆへに字を製すること、木の上に隹の字をかうふらしめたり。玉篇にいはく。隹之惟切、鳥短尾之總名といへり。戦國策には、鳥集烏飛、兎與馬逝といひ、張衡か西京賦には、?貸方至、鳥集鱗萃といへり
一、此集の撰者ならひに時代の事、昔より説々ありて一定せす。されとも一同に勅撰とはさたむる歟。今此集の前後をみて、ひそかにこれをおもふに、中納言大伴家持卿若年より、古記、類聚歌林、家々の集まて、殘らすこれを見て、撰ひ取、そのほかむかしいまの歌、見聞にしたかひあるひは、人に尋とひて、漸々にこれを記し集て、天平寶字三年まてしるされたるか、そののちとかくまきれて、部類もよくとゝのへられぬ草本のまゝにて、世につたはりけるなり
問。古今集雜下にいはく。貞觀の御時、万葉集はいつはかりつくれるそととはせ給ひけれは、讀てたてまつれる。文屋ありすゑ
 神無月しくれ降をけるならのはの名におふ宮のふることそこれ
おなし集の序にいはく。いにしへよりかくつたはるうちにも、ならの御時よりそひろまりにける。かのおほん世や、うたの心もしろしめしたりけん。○これよりさきの歌をあつめてなん、萬えふしふとなつけられたりける。○かの御時よりこのかた、年はもゝとせあまり、世はとつきになんなりにける。眞名序にいはく。昔平城天子、詔侍臣、令撰萬葉集、自爾以來、時歴十代、數過百年。かくさたまれるを、なんそ清和の勅答、延喜の勅撰にそむきて、時代をも撰者をも、をのか胸臆にまかせてさためんとする。そのゆへあらはきかまほし
答ていはく。此事わかはしめていふにもあらす。京極黄門たしかにさため給はされとも、家持の撰といふに心をよせられたり。かのかゝれたることはにいはく。萬葉集時代事、近代歌仙等、多雖有喧※[口+花]相論事等、粗伺集之所載、自第十七卷似注付當時出來歌、事體見集第十七、自天平二年至于廿年。第十八、自天平廿年三月廿三日、至于同勝寶二年正月二日。【今案、考集第十八、二月二日後、自同五日至二月十一日載之。】第十九、自同年三月一日、至同五年正月廿五日。【今案、第十九終、二月廿五日也。非正月。】凡和漢書籍、多以所注載爲其時代書、何抛本集之所見、徒勘他集之序詞哉。頗似無其謂。撰者又慥説。世繼物語云。万葉集、高野御時諸兄大臣奉之云云。但件集橘大臣薨之後歌多書之、似家持卿之所注、尤以不審。このことはをおもふへし。他集の序詞とは、古今集の兩序をいへり。廢帝稱徳のころほひ、朝廷にことおほくなりて、歌の道もおとろへ、嵯峨天皇はひとへに詩文をのみこのませたまへは、皇女にいたるまて、詩をのみつくらせ給ひけるほとに、歌もすたれ、謬説出来て、此集をも、心をとめてみる人もなかりけるにこそ。其後又歌をもやう/\よむことになりけれと、たゝかの妄説なとを、さるにこそとおもひて、ふかくもきはめさりけれは、貞觀の勅答、延喜の勅撰にも、たしかならぬことはのこされて、大空をあふくはかり、此道にはあふく人とものいへることなれは、そののち吠聲のならひとはなれるなり。しかるに京極中納言、よく此集を見て、かくはのたまへるなり。そのうへに家持のわたくしに集られたりと見ゆるは、家持の歌にかきりて、拙歌といひて謙下せり。人のかたるを聞てしるし、人にたつねてしるす。みな家持の詞なり。大納言大伴旅人卿、いまた微官の時より名をしるさす。おほよそ大納言以上には、此集名をしるさす、たゝ氏姓と官位をもて顯せり。旅人は、天平二年十月に大納言に任せられ、三年七月に薨せられぬ。そのほとの歌にこそ名はしるさゝらめ、それよりさきのおほき歌に、一所も名をかゝす。二十卷のうちつゐに旅人といへる事なし。たとひやかもち撰者なりとも、勅撰ならはひとり父にわたくしせんや。これ家に撰してちゝをうやまへるなり。又やかもちの妻の、母にをくる歌を家持にあつらへてよませけるその詞書に尊母といへり。これわたくしの家のことにあらすや。これらに准して知へし。このほかかんかふる所あらはそこにしるすへし。定家卿ののたまへる所尤そのことはりいもしるし。又天平寶字三年より平城天皇の大同まては、五十年はかりなるに、なんそ人もなく歌もなきやうに、一首も入られさることはりあらんや。又人まろの石見の國よりのほりみやつかへしてそのゝち故郷へ歸らるゝ時、妻依羅娘子かわかれをおしみ、石見の國にして身まからるゝ時の歌、依羅娘子か聞てかなしふ歌、皆藤原宮御宇天皇代、※[手偏+總の旁]標せる下に載たれは、時代は分明なり。和銅元年六月に、但馬皇女薨たまふ時、穗積皇女のなけかせ給へる歌も、藤原宮御宇といへる下につらねたり。元明天皇和銅三年に、寧樂へ都をうつさせたまひけれは、うつされぬほとを猶藤原宮に屬せり。しかれは人まろの石見へ歸られける時、又かの國にて身まかられけるは、文武天皇の末より、元明天皇のはしめなり。第十卷に七夕の歌おほきなかに、天河やすのかはらのさたまりて心くらへはときまたなくにといふ歌のひたりに注していはく。此歌一首庚辰年作之。右柿本朝臣人麿歌集出といへり。これは天武天皇白鳳九年の歌歟。石見の國にありて、いまた都へのほられさる時よまれけるにや。又此集にたしかにその人の歌なるをは名をのせ、そのほかに誰家の集に出たりと注せるは、その人のにてはなくて、見聞人のをかきのせてをけるも有へし。まつ人丸は持統文武の兩朝につかへたてまつりし人なるを.平城天皇の御時の人といへること、此集をよく見すして妄説のまゝにかゝれたるなるへし。又人丸の位階をおほきみつのくらゐといへり。およそ貴賤をいふに、ふたつのやうあり。ひとつはつねのことし。ふたつには四位以下を賤とし、三位以上を貴とす。人丸の經られける官位、此集に見えすといへとも、しるすへきほとの官位にあらされはこそしるささるらめ。その死をいふにも、貴賤しな第二卷に死といへり。死はこれ六位以下庶人に通する詞なれは、賤位微官いはすして知ぬへし。又序にいはく。また山のへのあか人といふ人ありけり。うたにあやしくたへなりけり。人まろは赤人かかみにたゝむことかたく、あか人は人まろかしもにたゝむことかたくなん有けるといへり。同時ならすともともに上手にて、勝劣なしといはんにはかくもかくへからぬことにはあらねと、これは同時の人なりとおもはれけるにこそ。いにしへよりかくつたはるうちにもならの御時よりそひろまりにける。かのおほんよや、歌のこゝろをしろしめしたりけん。かのおほん時に、人まろなん、うたのひしりなりけるといふつゝきにかくかけれは、あやまれると見えたり。赤人の時代は、此集第六に、神龜元年より天平八年まての歌見えたり。しかれは元正天皇御在位の比より、聖武天皇の御在位のなかはまて有ける人なるへし。又歌のさかりなることは、天智天皇のころより、聖武考謙にをよへり。詩文とゝもにならひをこなはれけるなるへし。しかるを眞名序にいはく。自大津皇子之初作詩賦、詞人才子、慕風繼塵、移彼漢家之字、化我日域之俗、民業一改、和歌漸衰。この心すこしおもふにたかへり。但、上古はもはら歌をのみよみけるを、詩といふものゝ出來て、いつとなくうたの道の、おとろへけるといはゝ、詩賦のために歌のおほはれたるは、嵯峨天皇の御在位の比をこそ申へきに、貫之新撰和歌集序に云。抑夫上代之篇、儀漸幽而文猶質、下流之作、文偏巧而義漸疎。故抽始自弘仁至于延長詞人之作、花實初兼而已。今所撰、玄又玄也。非唯春霞秋月、潤艶流於言泉、花色鳥聲、鮮浮藻於詞露。皆是以動天地、感鬼神、厚人倫、成孝敬、上以風化下、々以諷刺上。雖誠假文於綺靡之下、然復取義於教戒之中者也といへる、この中に、弘仁を初とすれはかへりて是より文質をかねてよくなれるやうにきこゆれは、人まろたとひならのみかとの御時の人なりとも、彼わらはへまて聞なれたる、赤石の浦の朝きりも、三百六十首にはかならすもれけんかし。末世の今にいたりては、おもひかたくはかりかたきことのみおほし
又問。世繼に橘右大臣|高野《タカノ》帝の勅によりて撰はれたるよしかける、此説はいかゝおもふ
答て云ふ。此事さきに定家卿の詞をひける中にその辯あるかことし。そのうへ第六卷天平八年と標するに、御製の歌とて、橘は實さへ花さへといふ歌を載て、ひたりに注して云。右冬十一月九日、從三位葛城王従四位上佐爲王等、辭皇族之高名、賜外家之楠姓、已訖。於時、太上天皇々后共在于皇后宮、以爲肆宴、而即御製橘之歌并賜御酒宿禰等也。或云。此哥一首、太上天皇御歌。但天皇々后御歌各有一首者、其歌遺落、未得探求焉。今檢案内、八年十一月九日、葛城王等、願橘宿禰之姓上表。以十七日依表乞、賜橘宿禰。この注文、諸兄の大臣の詞にあらさること、掌をさせり。又第十六卷に、あさか山影さへみゆるといふ歌のひたりの注に、右歌傳云。葛木王遣于陸奧國之時云々。自身撰者ならは、かく注せられなんや。但葛木王には同名異人あり。歌の所に注すへし。いつれともさためかたし。又第十九に家持の歌に
 白雲のふりしく山をこえゆかん君をそもとないきのをに思ふ
此歌に注していはく。左大臣換尾云。伊伎能乎爾須流。然猶喩曰。如前誦之也。この左大臣といへるは、諸兄なり。これ家持のことはなり。又左大臣を壽せんとて作るといふ歌もあり。集をよく見ん人は、家持か私に撰すといふこと、みつから信すへし
一、目録の有無またあるにつけても諸本さま/\にかはれるよし、第廿卷の奥書に、仙覺律師くはしく注せらる。其中に、或又有都無目六本也といへり。今おもはく。此すへて目六なかりしか正本なるへし。昔も初學の人は侍けれは、目六なくしてはいつれの卷に、いかなる事の有としりかたけれは、さやうの事にたよりせむために、詞書のまゝにひろひ出し、あるひは左注を取、あるひはみつからの料簡をもてかける所も有。第一卷にはあやまり有。第二より第九まては、本のまゝにてあやまりなし。第十にはひと所あやまれり。十一より十四まて、又あやまらす。十五卷は、天平八年に使を新羅國へつかはさるゝ時、新舊歌合百四十五首と、中臣朝臣宅守か、越前の國へなかしつかはさるゝ時、狭野茅上娘子と贈答せる歌六十三首と、あはせて二百八首にて、卷をつくせり。事はたゝ兩條なり。兩條ともに、目録は小序の體にて、詞書は目録のことく、しかれは此卷は本來目六ありけるにや。もし目録なくて見は、宅守か事は越前へなかさるゝゆへ見えされは心得かたかるへし。第十六より第二十まては、あやまれる事はなはたおほし。十六より十九まては、ことに愚拙のものゝしわさなり。仙覺奥書に十五卷ま目録ありて第十六よりなき本ありといへり。しかれは此五卷は初學の中にも、おろかなるかしわさなるへし。此集をはむかしの人も本歌なとに用へきなとをえりてみて、一部の始終をは心をつけてもみされはこそ、これていの目録も、とかをつけられすしてさて有けり
一、長歌短歌
此集にては、長きを長歌とし.長歌の心をつゝめてよめる、三十一字の歌を短歌とも、反歌ともいふ。ある所には、反詠ともかけり。長歌に對せされは、常の歌をも短歌とはいはす
一、此集は神語なとあひましはりて、末代にいたりてそのこゝろ得かたきこと、新古今集の兩序に見えたり。假名の序にいはく。かの萬葉集は、歌みなもとなり。時うつ事へたゝりて、今の人しることかたし。眞名の序にいはく。彼上古之萬葉集者、蓋是倭歌之源也。編次之起、因准之義、皇序惟?、煙欝難披。かくのことくなれは、彼なかころをも過て、昔にもおよふへしときこゆる時たに、しることかたかりけれは、今にいたりて誰かよくこれをわきまふることあたはん。しらぬをしらすとして、うたかはしきをかゝは、とをかひとつふたつもしるはしるなるへし
一、後拾遺集の序にいはく。ならのみかとは、萬葉集二十卷をえらひて、常のもてあそひものとしたまへり。かの集のこゝろは、やすきことをかくして、かたきことをあらはせり。そのかみのこといまのよにかなはすしてまとへるものおほし。俊成卿古來風體抄にいはく。此萬葉集をは後拾遺序に申たるは、此集の心はやすきことをかくし、かたきことをあらはせり。よりてまとへるものおほしとそかきたるを、今さにはあらぬにやと覺侍るなり。此集のころまては、歌の詞、人の常によみける事ともを、時代移りかはるまゝにはよますなりにける詞とものあまたあるなるへし。もろこしにも文體三度あらたまるなと申けるやうに、此歌のすかた詞は時代のへたゝるにしたかひて、かはりまかるなり。昔の人のかたきことをあらはし、やすきことをかたくなして、人をまとはさんとおもへるにはあらさるへし。但かきさまのもしつかひにとりてそ、うちまかせてそのことにつかふをもかゝす、とくかきなしたることそおほかるへき。たとへは春花秋月ともいへる歌をやすくさはかゝて、まなかなにひともしつゝかきて、波流能波奈、阿伎乃都伎なとやうにかき、又おなしく一字にかくにとりても、こゝかしこにもしをかへてかき、又三十一字の物を、たゝ十餘文字にも、二十餘文字なとにもかきなしたる所々の侍るなり、まことにすこしはまとはさんとにやとも申つへかめれと、それもこと葉をかよはしてかくもいふそなとみせんとなるへし。されとも近來もさやさのもしつかひにはかゝれ、まとふものともゝあるなるへし。今いはく。これは後拾遺集の序に、すこし萬葉を難するやうにかゝれたるを、さにはあらすとたすけてかゝれたるなり。彼通俊卿、さる人には侍りけめと、歌においてはさして上手とも見えす、人の覺ゆるほとの歌もきこえねを、時の上手をさしこえて、白河院に申こひて、後拾遺集を撰せられ、これよりして集もわろくなりぬ。わろきことをはしむるほとの人なれは、此集を評せられけることも、わか心を古人になすらへてはかゝれけるなめり。やすきことをかくすとは、眞名をもかなをもさま/\にみたれかけるをいへるか。おほよそ此集の體、廿卷のうち第五第十四第十五第十七以下の四卷、以上七卷は大かたやすらかにかきて、よみやすし。殘る十三卷にぞ、眞名假名ともにいかてかくはかきもし、よみもしつらんとおもふ事おほく、なそ/\のやうにもかきなせる事、ところ/\にあれと、いにしへの人は器量おほきにして、才覺もひろかりけれは、家々に打みたれめつらしくかきおけるを、撰者そのまゝにかきつけたるへけれは、人まとはさんとわさとかまふることやはあるへき。世の未になりゆくまゝに、器量も才覺もそれにしたかへは、たゝめなれたるかんなのみを知て、すこしもかたきもしのましりつれは、えよますなりて、かへりて昔の人をうたかふなり。もろこしの文にも、五經、三史、文選、左傳、楚辭、莊子なとのことき古代の書にはめつらしき助語發語おほく、もしつかひも、末の世の文には見えぬ心得かたきことなり。これ聖賢をはしめて、人をまとはんとならんや。その時代のつねなるか、うつりかはりてをのつからかたき事になれるなり。今しはらく國の名、郡の名、郷の名につきていはゝ、これ此集の撰者のしわさにあらされとも、その中に和名集なとの注のかなにより所のものにもとはされは、よみとくことあたはぬかいとおほかり。これもまとはさんとてならんや。日本紀は三十卷にわたりてよみかたき中にもことに神代紀上下はむかしの點にしたかひてよめとも、いかてかくはかきたまひけん、いかてかくはよみときけんとおもふことのみおほし。これもまたまとはさんとてならんや。又かたきことのあらはれんは、世のたすけとなる事なり。されは難すへきにあらす。これは文字なとにかゝれたるにつきて、けにもとおもふ心のつく所もあれは、いはれたるにや。又俊成卿のたすけてかきたまへる中にも心得かたきことあり。春花秋月といふを、やすくさはかゝてとのたまへと、波流能波奈、阿伎乃都伎、みないにしへのかなにてやすきことなり。これをしからすといはゝ、今も文字にかくほとのことはみなもしにやはかき侍る。はるのはな、あきのつきともかけは、昔を難すへきにあらす。いろはといふかなは、弘法大師時の童蒙より末世をかけて、たよりあらしめて利益せんかために悉曇の字母四十七言になすらへて、四十七字のかんなをもて八句の歌につくりたまへり。此事は後にいふへし。源氏物かたりの梅かえに、よろつの事、昔にはおとりさまになりゆく末の世なれと、かんなのみなん、今の世は、いときはなくなりたる。ふるき跡はさたまれるやうにはあれと、ひろき心ゆたかならす、ひとすちにかよひてなん有けるといへり。まことにそのころまての上手のかんなうるはしうかきたるは、歌ににつかはしきを、それも末の世の心なれは、むかしの人におもはせは、かなひかなはすはかりかたし。もろこしにも、いにしへ事のすくなかりし世には、文字いてきて後も古文なりけるか、次第に轉して草書といふものゝ出來けるは事はおほくなりて、人の心はあさくなるゆへに、やすきにつきけるを、かへりて能書ときこゆるも、おほくは草書に名を得たり。此國のかんなは、草書の猶草になりたるなり。かんなとて、わきてもしを作りいたせるにはあらす
一、源氏物師、枕草子なとに、此集を古萬葉集といふを尺するもの、古代の集なるゆへとおもへるはあやまれり。これは菅家、此集にならひて新撰萬葉集をつくらせたまへるも、ともに世にをこなはるれは、それにわくとていふなり
一、此集に部類を分つに六種あり。一には雜歌、後々の勅撰に雜部あるにおなし。二には相聞、これは贈答にして、おもひをのふるなり。後の戀部にあたれり。十に六七も男女の情をのへて、其外は、君臣父子兄弟朋友にわたれり。三には挽歌、これは後の哀傷なり。挽、玉篇云。亡遠切、引也、與輓同。もろこしに葬送の時、?を執て薤露蒿里の歌をうたひて、轜車を挽ゆへにかなたに准して哀傷の歌を挽歌とはいへり。禮記檀弓下云。弔於葬者、必執引。若從柩及壙、皆執?。左傳云。晋之喪事敝邑之間、先君有所助執?矣。【?輓索也。禮送葬必執?。】捜神記云。挽歌者喪家之樂、執?者相和之聲【注云。?引柩索也。】文選注。李周翰曰。横【齊田横也】自殺。從者不敢哭而不勝哀。政爲悲歌以奇情。後廣之爲薤露蒿里歌、以贈終。至李延年、分爲二等、薤露送王公貴人、蒿里送士大夫庶人、挽柩者歌之。因呼爲挽歌。挽歌と名つくること、これらにみえたり。四には譬喩、これは物にたとへてこゝろをあらはすなり。第三卷に譬喩歌とてさま/\の心をさま/\の物にたとへたるを部類せり。相聞等の中にも譬喩あれは、かりに立たるなるへし。五には四季の歌、四季を四部にわかたは九部ともいふへし。六には四季の相聞、これは第八第十の兩卷に見え皇たり。これをも四部とせは十二部といふへし。又相聞に合せは惣して唯五部ともいふへし。此集は相聞をもて主とすれはにや。四季の歌も相聞ならぬは雜春雜夏なとといへり。古今より後の集にも戀部を五卷六卷にわかてる、この心におなしかるへし。又古今集は戀部ひとへに男女の中をいへり。その後の集にはまれ/\たゝ相聞なるも見えたり
一、此集卷々につきて部類のやうあり。されとも草案のまゝなれはにや、雜亂なきにあらす。第一卷は某宮々にして天か下しろしめすすめらみことの御代と標して、其下に次第に雜歌を載たり。第二卷は第一とおなし體にて初には相聞の歌をのせ、後にも同し次第にて挽歌を載たり。第三卷は三部あり。初には持統天皇よりこなたの作者の、いつれの比よりともしれぬ雜歌をのせ、中ころには同しやうにて譬喩の歌を載せ、後には聖徳太子の御歌よりこのかた、次第に挽歌を載たり。第四卷は仁徳天皇の御妹の御歌よりはしめておほよそ次第してみな相聞の歌なり。第五は太宰帥大伴卿報凶問歌といふより山上憶良の戀男子名古日歌といふに至るまて、神龜の初より天平五年にいたるまての雜歌なり。これは憶良の集をかれたるに家持卿後にくはへられたるもあるへし。憶良の大伴君熊凝かために其志を述てよまれける歌にいたるまてはみな筑紫にての歌にて都の人の贈答もましれり。貧窮問答歌も筑紫の作歟。たしかならす。好去好來歌より後は都にて憶良のよまれたる歌なり。此卷には詩文もましれり。又梅をよめる歌ともは春に入へく、挽歌に類聚すへきも多けれと、筑紫にてよめるを一類とし、憶良のあつめをかれたるにまかせて、すへて雜歌とはせるなり。第六はすへて雜の歌なり。此卷は養老七年より天平十六年まておほよそ次第を年にかけたり。第七卷は三部あり。初は雜歌其中に天象地儀よりはしめて、大底部類せり。中は譬喩なり。其中に寄物に部類あり。終は挽歌なり。此集はすへて作者しれす、時代もしれさるを一類とせり。第八卷は四季の歌なり。春夏秋冬次第せり。其中に四季相聞をたてゝ、相聞ならぬをは四季の雜歌とせり。こ/\く作者あり。第九卷には三部あり。雜歌と相聞と挽歌となり。此卷は作者の名をも、古人簡略に記したれと知かたきやうなるを一類とす。卷中に撰者の自注しかみえたり。第十卷は第八の體と全同なり。たゝし此卷は作者なきを異とす。此卷を第八につきて第九を十とせはやとそおほゆる。第十一第十二の兩卷は古今相聞往來歌類を上下にわかてり。みな作者なし。さき/\の相聞は時代作者等しれたるを類聚し、此兩卷は時代作者ともにしれさるを一類とす。第十一に譬喩歌十三首あり。これは相聞の中にして類聚せり。兩卷をの/\卷の中に部類をわかてり。此相聞はもはら男女の情をのへたるもまた一類なり。第十三卷には雜歌、相聞、挽歌、三部あり。相聞の歌五十七首の次に問答歌十八首、譬喩一首、以上十九首あり。これまた相聞の内に類をわかてり。惣をもて別に對するかことし。第十四は東歌なり。國をわかちて雜歌相聞譬喩の歌あり。末にいたりて未勘國の歌に、また雜歌、相聞、防人歌、譬喩、挽歌等あり。第二十卷に載たる防人歌とも、こゝにあるへきことなれと、十七卷の中ほと家持越中守にて下られける後日記のやうなれは、それもまたことはりあり。第十五は天平八年六月に新羅國へつかはされたる使の、往還のほとの歌とも、新古合て百四十五首と、中臣朝臣宅守か越前國に流さるゝ時、狭野茅上娘子と各別をかなしひて贈答せる歌六十三首と、都合二百八首をもて卷をなせり。これは第五卷と類すへき卷なり。第十六は惣標していはく。有由縁雜歌と、まことにしかり。相聞の歌もあれと、みな由縁を具せり。又俳諧の歌おほし。第十七卷は天平二年より同廿年正月まての歌を載たり。但そのあひた次第して連錦せる紀録にはあらす。漸々見聞にしたかひてあつめられけるか、もれて殘りけるを、後日に尋出して記せられけるなるへし。天平二年の歌十首をのせて、やかて、十七年の七夕の歌にうつれるにてしるへし。同十三年四月の歌より又絶て、十六年四月の歌あり。しかれは定家卿も天平二年より廿年に至るとのたまひて、さることなれとも、實は十八年七月家持越中守にて下られけるより相續して部類をもわかたすしるされて、日記のやうにはなれり。それにとりて天平勝寶三年八月まては越中にてしるされけるゆへ、そのほと都より下る人、時の王臣の歌、ならひに古歌の中にも、家持卿の聞をよはれさるをかたれは、すなはちしるして、誰つたふるまゝにみこゝにしるすなとやうに注せられたり。ひらきて知へし。十九卷のなかはより都へ歸りて記して、寶字二年七月まてに廿卷にみちぬれは因幡守となりて下りて三年正月一日の祝儀の歌をもて卷軸として筆をゝかれけるなるへし。十七十八の二卷にもまた詩文あひましれり。第五とゝもに三卷あり
一、此集に文字を用るに、正訓義訓あり。梵語を翻譯するに、翻義翻あることし。正訓は、花をはな、月をつきとよむかことし。義訓は、春草をわか草とよみ、金山をあき山とよみ、冬風をあらしとよみ、向南とかきてきたとよむたくひなり。又なそ/\のやうなるもおほし。千變萬化、神のことくしてはかりかたし。日本紀の義訓また妙なり。かれをみてこれをよむへし。所詮蛇牀を蛭莚と訓する心を得は、はしめて音訓をかたるへし
一、眞名をもて假名に用るに、日本紀はやすらかに音を取て用ゆ。但むつかしき文字なとをつかひて、音も呉漢相ましはれり。三十一字の歌は三十一字を用て眞名をましふることなし。此集の假名は、さのみむつかしきもしは用す、音訓相ましへてつかへり。音は多分呉音を用て、漢音はまれに用たり。和訓をかんなに用たるに、無窮のことあり。心をつくへし。八十一《クヽ》十六《シヽ》、左右《マテ》、二二《シ》、二五《トヲ》、喚?《ツヽ》、少熱《ヌル》、馬聲《イ》、蜂音《ブ》、青頭?《カモ》、留鳥《アミ》、此たくひかすしらす
一、假名反に心をつくへし。假令、吉野爾在とかきてよしのなるとよむは、爾阿反、奈なるゆへなり。雪消とかきてゆきけとよむは、幾叡切、氣なるゆへなり。くぬちこと/\みせまし物をとよめるは國中なり。爾宇切奴なるゆへなり。おほよそ阿以宇惠袁の韻となる字、下にある時のみ歌にはかゝることあり。もし此外にありともすくなかるへし。天降付を、あもりつくとよめるなとは米布切にて外なり
一、明魏法師は、をお、えゑ、いゐのたくひ、みな通してかくへきよしをいへり。これは通を見て別をしらさるなり。通別相まちてたかひになること、たとへは經緯の布をなすかことし。別は經なり。通は緯なり。別の經なくは、通の緯つくる所なし。布を横にみる時は、緯はかへりて經となり、經はかへりて緯となる。これ別の中に通あるなり。しかれとも横にみるといへとも、經緯をの/\その徳を混せす。これ通の時、別をうしなはさるなり。通別は兩輪雙翼にして、かくへからす。今これにちなみて、をしひろめていはゝ、別は差別、通は平等なり。内典外典の教、無量なれとも、畢竟此ふたつに通す。ふたつは倶時の法にして、初より前後せす。天地は差別、四方は平等なり。三世は竪にして差別なり。十方は横にして平等なり。それにとりても外典より小乘教の至大乘の中にも相宗まては平等をしらさるにはあらされとも、差別をさきとして、説ことは、凡夫は貴賤をわかち、凡聖をあきらかにして教されは道に入ことあたはされはなり。三論以上の大乘は眞如無相の平等の理を示して差別の執をとらかせり。されとも差別をすつるにはあらす。此上に、法佛自内證、秘密瑜伽最上佛乘、大漫拏?教、陀羅尼法門ありて、立かへりて、凡夫の見る所しる所の、地水火風空識の本有の六大をもて諸法の體とし、身語意の法爾の三密をもて用として、金胎兩部ならひに彼差別平等をつかさとりて捨ることなく取る事なし。先照高山の華嚴大教は、醍醐を攝する乳味なれとも、眞如法界不守自性隨縁の義をもて、深極とせり。これ猶無明の分域にして法性の深底をつくさす。三劫を經歴して、十進九退するといふに、おさむるゆへなり。金剛乘教には、各々守自性、各々自建立といひて、一味の上に無量乘を説て相さまたけさるなり。大明の謝肇淵か、易に大極といへるかすなはち無極することを、宋儒の知らすして、大極にして無極といへるを咲へる、これにゝたり。此三密門の理々無數、知々無邊をきかは、かれさためて信入すへきをあはさること惜むへし。六大たかひに具して、無數爲一の一ならて、二三にきらへるよのつねの一理より、差別の萬法を生すといはゝ、本無今有を執する外道の邪見にちかくして、末をもてをしふとも誰かこれを信せん。此理微妙にして上智にあらされはかへりてまとふゆへに、聖人にあへとも聞人まれなるを、末世にいたれは、内外の學、高きよりひきゝにいたり、遠きよりちかきにいたるといはんかことくして、言のみありて實なし。すてに傍論となりぬ。やめぬへし。各々守自性は、をお等の差別なり。明魏かいへる通は此上にあるゆへに、此集てにをはのをに、やゝもすれは、於の字をかけり。これは通の義をはかりてかけるなるへし。えゑのわかちは、いまたよくかんかへす。いゐはよくわかてり。此外言の下につきてまかふことおほし
ろとらと【うつろふ まらうと】 波與和【いはふ うらわ】 いとひと【展戀】【こひ こひ】 保與乎【しほ うを】 邊與惠【家 いへ 聲 こゑ】 登與多【纏 まとふ 答 こたふ】 知與之【穣 ひつち 羊 ひつし】 加與古【疑 うたかふ 埜 かこふ】 余與惠【迷 まよふ 万葉 まんえふ】 曾與左【誘 さそふ 携 たつさふ】 豆與須【屑 くつ 葛 くす】 奈與乃【稱 かなふ 調 とゝのふ】 牟與宇【梅 むめ、うめ 馬 むま、うま】 末與毛【賜 たまふ 思 おもふ】 安與乎於【逢 あふ 追 をふ 負 おふ】
これらになすらへて知へし。此集と日本紀、續日本紀、延喜式、和名集等のかんなはあひかなひて、今の世の假名は、たかひたることおほけれは、古代の相かなへるかおほきにしたかふへし。別あるゆへに通といふ名もあれは、まつ別をよく知て通をかねて用へし。明魏か通は別をやふりて通を執するゆへに通にもくらきなり。たゝしかくいへはとて、今通別をみつから知ていふにはあらす。道理しかれはおしていふなり。今また差別平等をたとへをもていはん、稚櫻氏の人こゝにありて、同腹にして十子あらん。太郎かおもはく、一姓にして同腹なり。兄弟なんそ尊卑あらん。しかはあれと、我不肖なれとも嫡子にあたれり。分にしたかひてみなひとしくめくまんと。五郎かおもはく、我は第五たり。このかみたちをやうやまふへく、をとうとをはめくまんと。十郎かおもはく、我は最後にむまれたり。一姓にして同腹なれはとて、なんそゝれをたのみて、このかみたちとひとしくおもはん。みなついてによりてうやまはんと。このかみは差別をわすれて平等を存し、をとうとは平等をゝきて差別につく事、かくのことくならは、管絃のしらへのかなへることくなるへし。あには嫡庶の差別を執して、をとうとをくたし、をとうとは姓腹を論して、あにをしのき、くはふるに利鈍をたくらへて、ふるき冠をもて履とせは、垣をせめく禍、天倫をやふりぬへし。文字の通別これに准すへし。かんなもしの數につきては、此次にしるすへし
一、とふ。かんなの數四十七字にかきり、又今のいろはといふもの、弘法大師の作なりといふこと、何にか見えたる。こたふらく。およそあらゆる音をいふに五十音あり。此事は後にいふへし。四十七字といふことは、千載和歌集の序にいはく。そも/\この歌の道をまなふることをいふに、からくに、ひのもとのひろきふみの道をもまなひす、しかのそのわしの嶺のふかきみのりをさとるにしもあらす。たゝかなのよそちあまりなゝもしのうちを出すして、心におもふことを、ことはにまかせて、いひつらぬるならひなるかゆへにこそ、みそもしあまりひともしをたによみつらねつるものは、出雲やくものそこをしのき、しきしまやまとふことのさかひに、いりすきにたりとのみおもへるなるへし。才學なけれは、此外はいまたみをよはす。此よそちあまりなゝもしは、いにしへよりわかれけるか、もしまた弘法大師の、いろはの歌をつらねたまへるより、さたまりけるか、知かたし。次に、いろはを弘法大師の製作なりといふ事は、世にあまねくいひつたふるうへに、日本紀疏云。問、我應神時漢言東漸、倭字則起于弘法大師空海、故上古未有文字云々。これ書に見えたる證なり。又傳法院覺钁上人の釋をあつめたる密嚴諸秘釋の中に、以呂波略釋あり。祖師の作とてこそ、上人は尺せられけめ。又、拾遺愚草にも、後京極殿の仰にて、ある夜の時のまに、いろはの四十七字を句の頭にをきてよまれたる歌あり。大權の聖者のしわさにあらすは、むかしよりかくもちゐて、今も手ならふ人のはしめとはせし。五十言の中に三言をかゝれたるもそのゆへ侍るへし。今意を得てこれを眞名とせは、色者雖艶【一句】散【奴留遠二句】我世誰【曾三句】將常在【四句】有爲乃奥山【五句】今日越【?六句】不見淺夢【七句】醉毛不爲【八句】その義かくのことし。此の中に初の四句は、常?倒の衆生をして覺察を生せしむ。四句の中に、初の二句は花紅葉のうるはしくにほへる色も、雨にうたれ風にふかれ、むなしくちることをいひて、次の二句の心もみなしかり。人なんそ常にあらんと引て、人の上に歸するなり。誰か常ならんといひなるゝゆへなり。されと字書に、是推切、何也、不知其名也といへり。今もなんそ常ならんといへは、誰何まことにおなし心なれは、誰そつねならんとあやしむへからす。常ならんは常にあらんなり。爾阿切奈となるゆへなり。おほよそ大小乗の法門まち/\なれと、通して最初には無常を觀するを要とするゆへに、まつ無常を示せは、常樂我淨の四?倒ともに、一時にのそこるなり。次の四句のこゝろは、すてに、有爲の諸法は畢竟無常なりと知ぬれは、世上の患難をまぬかるゝゆへに、うゐのおくやまけふこえてとはいへり。おく山としもいふは、險岨の至極に八苦等をたとふるなり。あさきゆめみしとは、世間虚假の法はこと/\く麁淺にて、夢中にさま/\の境界を見て、取捨憎愛の分別にくるしふかことくなれは、一たひさめて皆夢なりと知ぬるうへは、今更にまた見しとなり。又うゐといふよりこれまては、凡夫をいさなひて、いさうゐのおく山をけふこえはてゝ、なかく淺近の夢を見しとのたまふにもあるへし。ゑひもせす、これ此一句をたてゝ佛法の玄極をしめす。凡夫無明の酒を被て無始以來生死の曠野に醉臥せりとおもへとも、實は能醉の無明の酒もなく、所醉の凡夫もなくして、本來ゑひもせすなり。これにつきて顯密二教の心各別なり。弘法大師は密宗の祖師なれば、猶秘奥の義ありて沙石集にいへり。これそまことの大陀羅尼なるへき。八句は二頌に准せられたるなるへし。句絶の所は、初の四句の終、次の三句の終、後の一句となれは、此國の習にては、八句なれとも、實は三句なり。それを七行になされたれは、梵語しらぬものゝ、陀羅尼きかんやうなるもめてたし。道家に臨兵闘者等の九字を誦し、日出東方、乍黄乍赤なといひてましなふに、よろつのこと、感應響のことくなれは、いはんや、三密加持の妙語、何ことゝしらて手本とす。童蒙も不思議の冥益ありぬへし。顯教に方便といふは、空拳をにきりて、小兒の啼をやむるかことし。密教はしからす。譬は長者に愛子あり。いときなきに、おほくの黄金をあたへんとすれとも、かれたゝ玩好の具を弄して、いまたこかねの寶なることをしらす。これによりて、長者すなはち、彼金をもて禽獣蟲魚等につくりてあたふ。かれよろこひてもてあそふ。成長の時、寶なりとしれは、資用つくることなきかことし。方便といふは、玩好の具となすをいふ。まことには方便やかて眞實なり。又異朝の華嚴宗沙門金柯寺道殿法師の撰せる、顯密圓通成佛心要集に、密教の方便を譬へていはく。小兒の病ある時、藥を腹せしめんとすれとも更にうけかはす。これによりて母の※[女+尓]にぬりをくに、小兒藥ありともしらす、乳をふくむにちなみて頓に重病を除かことしと。いろはに功能あらんこと、これに准すへし。又いろはと名付るは、論語の學而等の例なる中に奇妙のこと侍り。父母を和語にかそいろはとよみて、母をいろはといふ。梵書の字母のことく、和語の字母なりといふことを、發端の詞にあらはされたる事、四十七言にさたまりたる和字をもて、過不及なく玄妙の教となさるゝうへに、かゝる奇異の事、誰の人か、をよひ侍らん。たゝし色者といへる詞なるを、似つかぬ母ともいふ事やあるへき。穿鑿なりと難する人侍らん。悉曇の法に達したる阿闍梨に尋られは、いふ所を信せらるへし。又今ひとつの奇あり。梵語に准するに、伊字に根本の義あり。伊聲これにおなし。五十音の初の五音は阿以宇惠遠なり。阿は諸法の本源なれとも喉内の聲にして、いまた分明ならぬうへに、聲韻をかねたり。以は喉内より舌に移て聲の轉する初なれは、根本の義あり。阿は種のことし。伊は種より生する根のことし。此根莖、枝葉花等の本となれは、根本の聲といふ。猶さま/\の義を經にとかれたれとも、今は和語につきていへは、につかはしきをとれり。和漢ともに伊を發語の聲とするも、自然に此理にかなへり。此字を初にをかるゝ事、悉曇の深義より出たり。終に京の字をゝかるゝことは、梵書の字母の終に界畔の字とて乞叉【二合】の字あり。これに准してをかるゝなり。彼乞叉といふ梵字は、迦と叉との二字を合たる字なり。これを異體重といふ。おほよそ梵字に、當體重、異體重の法あり。當體重は唐の文字にては、炎の字、棗の字の如し、異體重は、唐にもさま/\に二字、三字を重合して一字としたる字あるかことし。二字より四五字も重ぬる法あるかゆへに、梵語を漢字に對譯してかけるに、二合、三合、四合、五合等と注したるこれなり。悉曇を學せさるものは、梵語をよむにあやまることおほし。大佛頂陀羅尼【〓嚴咒】に虎〓都廬甕〓とあるは、虎〓【二合】都廬甕【三合】〓【半音】かくのことく注せらるへきを舊譯の三藏疎略にして筆受潤文等の人注せさるにより、梵字なき人傳受を經すして、句讀をもしらてよむほとに、宋朝の訛音をもて虎〓を二合に大呼せすして、くきんとよみ、都廬甕三合を知すして、都廬をつりよとよみ、〓の宇梵字の法に半音によむ事をしらす、上の甕の字につゝけてようはんとよめり。法華經を二重かなに、ほくえきやうとかけるをほくとよみ、下のきやうを、みなかなをわりて、猶上の字をつゝけてよまんかことし。かくのことく梵文に二音三音をつゝくる法、乞叉【二合】字を擧て、准してしらむるになすらへて、幾也宇の三音を合せたる京の字をもて、和語の二音、三音を合せて唐の一音とする法を、しめさるゝなり。それにとりて、梵文にも二合、三合の字等、あまたあれはいつれにても出すへし。迦と叉と合したる字を擧るに深意あることく、いろはに京の字を出さるゝにもゆへあるへし。字書に、京は大也と注せり。一大を合て天の字とするかことく、大といふにもるゝ事なけれは、京の字は天子のまします所の名にてもあれは、ふたつの心を兼てをかるゝにや。又、ゑひもせすといふは法身なれは、その所居の密嚴花藏の樂都を京といひて、法身の依正をあけて、法界をくゝらるゝなるへし。凡慮をもてはかり見るにも、かゝる深義有とみゆる、いろはの中に、いゐ、をお、えゑをわかちて出され、俊成卿もよそちあまりなゝもしとのたまへるを、明魏法師、たま/\通する一邊をみて、たやすくこれを混せんとするは、おほきにひかことなり。もししからば、仁賢天皇と顯宗天皇とは兄弟にまし/\て、仁賢をは初に億計王と申、顯宗をは弘計王と申き。億は奥のお、弘は口のをに用る字なり。平上去の三聲いつれをいかに申奉るとはしらねとも、故實を存知する人にたつねは、聞ところにわかち有へし。いたくなまれる人の橋、端、箸をえいひわけぬやうならは、兄弟の御中にまきらはしき御名をつかせたまはんやは。明魏もかきわかちいひわかたさることあたはし
一、一切の音聲は、五十音を出す。五十音といふは、初、阿伊宇惠袁より、後の和爲于叡於にいたるまて、十種の五音あるをいへり。涅槃經文字品【四十經第八第十三品】曰。佛復告迦葉、【菩薩名也非迦葉尊者】所有種々異論呪術言語文字、皆是佛説非外道説。迦葉菩薩白佛言。世尊云何如來説字根本。佛言、善男子、初説半字以爲根本、持諸記論呪術、文章諸信實法、凡夫之人、學是字本、然後能知是法非法、迦葉菩薩復白佛言。世尊所言字者、其義云何。善男子有十四音、名爲字義、所言字名曰涅槃常、故不流、若不流者則爲無盡、夫無盡者則是如來金剛之身、是十四音名曰字本已上。此經に字母五十字を説たまふ。五十音にはあらす。此五十字をたゝむて、十四音としたまふにつきて、和漢の諸師、これを解するに、異議まち/\にしてをの/\蘭菊なり。されとも和語にかなはぬは出さす。其中に信範法師の解、こゝに要なるゆへに引なり。十四音といふは、阿伊宇惠袁を五とし、迦遮?那波摩也良和を九として、合する時、十四音なり。九字を聲の體とし、五字を韻とする時、三十六音を生するゆへに、能生所生合すれは、五十音となるなり。されは迦等の九字は父のことく、阿等の五字は、母のことく、吉句計古等の三十六字は、子のことし。涅槃經の五十字、悉曇字記の四十七字等も、みな十四音をもとゝするゆへに、十四音とは説せたまへり。梵天所製の四十七言の中に、十二字を摩多の字といふ。摩多は梵語、唐には點畫とも韻とも譯せり。開すれは十二字なれとも、合すれは阿伊宇惠袁の五字なり。三十五字を體文といふ。字の體となる字なり。これも合すれは、迦左等の九字に攝す。今十四音の三十六音を生するやうを、梵字の位に准して、かりに漢字をもて合して圖すへし
 
 
(【右輪畫ノミ有リテ文字ナシ。似閑ノ識語ニ「此圖倭字正濫抄ニアリ今コヽニナシ」ト】)
もし梵語につきていはゝ無量の義あるへし。ちかころ河州延命寺淨嚴闍梨、悉曇三密鈔序目ともに八卷希をつくりて童蒙まてに便せらるゝ中に、上本十九葉より、終四十葉にいたるまてをみるへし。此五十音梵文は圖をかりていふかことく、字體をの/\別なれは、三の伊、二の宇、三の惠、二の乎きゝはおなしけれとも、まきれす。今のいろはには、此中に二の伊、二の惠、二の乎ありて也所生の以と、和所生の宇惠と、以上合て三音を闕こと、そのゆへあるへし。これを悉曇家にたつぬへし。みたりに混すへからす
一、本朝は大唐の文字をかり用といへとも、音韻はかへりて天竺によく通す。そのゆへは、梵文をよむに、本朝よくかなふかゆへなり。倶舍云。一切天衆皆作聖音、謂彼言辭同中印度。西域記第二云。詳其文字、梵天所製、原始垂則、四十七言、偶物合成、隨事轉用、流演枝派、其源浸廣、因地隨人、微有改變、語其大較、未異本源、而中印度、物爲詳正、辭調和雅、與天同音、氣韻清亮、爲人軌則。しかれは、わか國の上國なること知られたり。こゝをもて日本紀纂疏云。鞍韻書、倭烏禾切、女王國名。又於烏切。説文云。順貌廣愼貌。増韻謹貌。今以兩韵通用、則倭順貌、葢取人心之柔順、語言之諧聲也。今の集にことさへく韓、さへく百濟といひ、日本紀の欽明紀に、韓婦用韓語言なといへるは、異國の音韻のたゝしからさることをいへり。もろこしは呉漢の二言ありて、呉音は南天笠に近く、漢音は中印度の音に近かりけるを、衰世にいたりて、北狄のために、國をうはゝれけるゆへにや、今の唐音詳正ならすして、きゝもいといやし。詳正ならさること、何をもてかしるしとするとならは、一には梵文をもて證するにかなはす。ふたつには此の國の音は、呉漢ともに、かなたの盛におさまれる世の音をつたへて、今にあらたまる事なきに、それにもかなはされは、今の唐音はよこなまれるなるへし。しかれは本朝は此國のことはのたゝしきのみにあらす。唐よりつたはれる音もたゝしきなり。又唐には、ことはりをさきにいひて、事を後にあらはす。天竺は、事をさきにいひて、ことはりを後にいへり。わか國の法、天竺とおなし。たとへはもろこしには、見月、見花といふを此國には、月を見、花を見るといへるたくひなり。このゆへに唐のふみをよむには、五字、三字、五行十行、一紙二紙をへたてゝもかへりて讀なり。此國にても、おもひきやと初のいつもしに置てよむたくひはすこし似たれと、それも、もろこしの、豈料、不圖といふ心なれは、一句の中にかへるとかへらさるとのたかひあり。そのうへ此國のことはにても、古歌はおほくいひ下して、まれに下より上にかへりて心うる歌はよめり
一、天竺の文字は、梵天はしめて作るといひ、辰旦の文字は蒼頡はしめて作れりといふは、縁起を見て、法爾常恒の理をしるさるなり。龍樹菩薩摩訶衍論云。今始起徳、本來有故。此文のこゝろを案すへし。おほよそ本無今有は外道の見解なるゆへに、涅槃經に、無有是處と破し給へり。梵字漢字につきて、一往邪正をわかてとも、再往これを論すれは、ともに法爾に出て、更に人の造作にあらす。されとも法爾はかならす因縁によりて顯はるゝゆへに、鳥迹を見て本有の文字を顯はしけるを作るとはいへり。實には孔子の述而不作とのたまへるかことし。文鏡秘府論序云。空中塵中、開本有之字、龜上龍上、演自然之文。この文の心をみるへし。これ弘法大師のわたくしの尺にあらす。經論の明文によりて、惣持門の實義を演て、門外の教門みな實相より出ることをのたまふなり。論語に我欲無言といひ、易に書不盡言、言不盡意といひ、老子の知者不言といへるより、禅門に不立文字といひ、法華經に、諸法寂滅相、不可以言宣と説にいたるまて、淺深重々なりといへとも、猶、庶情に屬して、いまた表徳の至極をあらはさす。微妙寂絶の處にいたりては、言斷心滅といふは、車輪の經を量るに、ます/\いたれはます/\近くしてゆきてかへらさるかことし。三密平等の法門は圍のことくして、ます/\いたりて、ます/\遠けれは、かへりてちかくして本處にいたる。當相即道、即事而眞。それしからさんや。かるかゆへに、大日經にいはく。擧足下足、皆成密印、舌相所轉、皆是眞言。又云。秘密主觀、我語輪境界廣長、遍至無量世界清淨門、善無畏三藏説世尊、以未來世衆生鈍根、故迷於二諦、不知即俗而眞、是故慇懃指事、言秘密主、云何如來眞言道、謂加持此書寫文字、以世間文字、語言實義、是故如來即以眞言實義而加持之、若出法性外、別有世間文字者、即是妄心謬見、是則墮於?倒、非眞言也。已上。聲と字と實相と、三種無二なりと知て、よろしきに隨ひて用るを、一切智者とは名付る故に、弘法大師、聲字實相義をつくりたまへるを、承和官符に、東寺三業學者の中に、聲明業を學ふものゝ、所學の書に載たまへり。顯教の中の經論にも、如義言説は無爲の眞理にかなふよしを説れたる事、日月の明なるかことくなれとも、言斷心滅に卦著して、柱に膠せる輩、頭をめくらす事あたはす。二教論の引証の文ともをみるへし。守護國界主陀羅尼經【般若三藏譯】云○以上の經論等の文を引ことは、沙石集に、無住和尚、和歌は此國の陀羅尼なりと申されたるは、陀羅尼は惣持と譯して、多含の義あり。和歌もまた多義をふくむ故なり。是を梵語のかたには句義といふ。又字々に字相、字相、淺略、深秘、秘中、深秘等の義あり。和歌はそれまてにはをよはす。たとひ其義有とも、名をのみ聞てしらぬ事なから、隨方の文字語言にをのつから實相をふくむはたのもしき事なれは、略を取て諸文を引侍る。西行法師、明惠上人に對して、我は和歌一首よみ出ては卒堵波一本作ると思ふと申されけるは、沙石集に、慈鎭和尚、西行に眞言の大事を授り給ふへきよし、とひ給ひけるよしみえたれは、奥秘の義に達してかくは申されけるにこそ。千載集に、高野の山を住うかれて後、いせの國ふたみの浦の山寺に侍けるに、大神宮の御山をは、神路山と申、大日如來の御すいしやくをおもひて讀侍ける  圓位法師【後に西行とあらためらる】
 深くいりて神路のおくを尋れは又うへもなき嶺の松風
國を大日本と名つけ、神を天照大神といふも、をのつから、大日遍照尊に冥合せり。元亨釋書に、天照太神、行基菩薩に託宣したまへる神勅の詞、おもひ合せらる。八幡大菩薩、弘法大師と、密教を唱和して鎭護したまへるなと、内證はかりかたし。又神代紀上云。伊弉諾尊、則往筑紫日向小戸橘之  原、而祓除焉。然後洗左眼、因以生神、號曰天照太神、後洗右眼、因以生神、號曰月讀尊。眞言門の經軌の中に、兩眼に麼  佗の二字を觀して、日月となす事をとかれたれは、かれこれにつきて、瑜伽最上乘相應の地なれは、はか/\しくしられぬ事なれと、梵文と和語と相かなふ所あるにつけて、思ひよれることを注し侍りぬ
易繋辭云。子曰、書不盡言、々不盡意、然則聖人之意其不可見。子曰、聖人立象以盡意、設卦以盡情僞、繋辭以盡其言、變而通之以盡利、鼓之舞之以盡神。この中に、書不盡言、々不盡意といふは、釋摩  河衍論の五種言説の中の相と、夢と、妄執と、無始との四種の言説の眞理に契當せさるかことし。聖人立象といふより下は、第五の如義言説の能眞理を説かことし。此意を得さるもの、内典、外典ともに至極にいたりては、言語を離たりとのみおもへるは、をの/\その奥義をきはめさるなり。和歌もまたこれに准すへし。よろつの奥義は誰かはきはむる人あらん。此理ありと信して、いつはりをすてゝ、心のをよふ所まことにつかは、神明もこれをうけたまふへし
一、鹿烏禾切、和の字と音同しきかゆへに、通して和を用ゆ。倭の又の音、於烏切。説文云。順貌。わとおと五音通して義もまた和に通せり。日本起纂疏に、葢取人心之柔順、語言之諧聲也と釋したまへは、ことはりにあたれり。しかれは本朝はすてに和をもて名とすれは、いふにをよはす。三教もまた柔和をたとふ。此故に儒柔也。そのをしふるところ知ぬへし。老子云。人之生也柔弱、其死也堅強、萬物草木之生也柔脆、其死枯槁、故堅強者死之徒、柔弱者生之徒、是以兵強則不勝、木強則共、強大處下、柔弱處上。佛經云。柔和忍辱。本朝はもと陽國なり。陽勝ときは強に通るゆへに、日神乾徳を降して、坤儀につきたまふも、自然の教なるへし。神道は幽玄にして測かたし。和歌は、淺深を兼て、上は神明佛陀にも通し、下は凡民まてを教ふ。天下の治亂と和歌の興廢、ともに運をひとしうすと見えたり。論語云。陳元問於伯魯曰。○又云。子曰、小子何莫學夫詩。○禮記云。孔子曰、入其國其教可知也其爲人也、温柔敦厚詩教也。正義云。温柔敦厚詩教者温謂顔色温潤。○柔謂情性和柔、詩依違諷諫不指切事情、故云爾也、又曰、詩之失愚。○温柔敦厚而不愚、則深於詩者也。書舜典云。詩言志、歌永言、聲依永、律和聲。淮南子云。温惠淳良者詩之風。子夏詩序云。詩者志之所之也。○
歌は此國の詩なり。このゆへに此集ならひに續日本紀には、やかて詩ともいへり。こゝろさしのゆくところ、つゐにことをなかうすれは、もろこしには、初につきて詩となつけ、此國には後につきて歌となつくと、かなたにもまた歌といへは、おなしことなり、詩のをしへのことく、歌をも用ゆへし。詩すてに五經の中の隨一なれは、詩の天下に用あることお腔きなり。此集をは、此國にては、詩經に准すへし。いはんや詩は唐虞に起り、歌は神代にはしまる。久近はるかにへたゝれり。三十一字は陽數にして、上下二句に天地陰陽、君臣夫婦等の義こもるへし。上は五七五の三の陽數をあはせて、十七字の陽數とし、下は七々の陽數をかさねて、十四字の陰數とす。上下五句もまた陽數なり。神詠は風情のことく分別あるへからねと、自然にしかることあり。古今集序云。俗人爭事榮利、不用詠歌。○此詞まことなるかな。世に名の久しくとゝまるへきは、詩人、文人なれと、初には人麿赤人にならへる名聞えす。中ころには、貫之躬恒、後には、定家家隆、これらの人々にひとしく聞ゆる名なし。これ更にそのたくみの、おとりまさりあるにはあらさらめとも、此國にして神明にならふと、ならはさるとによるなるへし
一、古今集より後の歌には、もしあま鼻はあれとも、一首にたらさるはなし。此集にはあまれるも、たらぬもおほし。長歌は猶、句體さたまらぬおほし。此集の中にも聖武天皇の御宇の比より後の歌は、もしのあまりたらぬはあれと、句體みたれたるはなし
一、和歌の用は詩もおなし。詩は聖賢のはしめて、代々の人天下國家をおさむるにも、これを外にせさるよし、かきあらはし、いひつたふ。略してさきにひけるかことし。これをはをきて、まつ知歌は、人ことに胸中の俗塵を拂ふ玉はゝきなり。なに人のよめるにか、教訓の歌とて百首はかり有しを、昔、見侍りし中におほえたるは
 連歌せす歌をもよまぬその人のさこそねさめの|きたな《さひしイ》かるらめ
此下句は、大貳三位か、はるかなるもろこしまてもゆくものは、秋のねさめの心なりけりとよめるをふめるにや。さらても、ねさめをしもおもひやれるか、おかしく侍り。夜ふかくねさめて、つれ/\とあるに、おもはぬ事なくおもひやるに、詩歌に、心よせん人は、雪月花の時、琴詩酒の友、あるひは、雲井はるかにほとゝきすをまも、あるひは、枕にちかききり/\すを聞、つねなきことをねさめにし夢にたとへ、かきりある世をのこれるともしひによそへて、一首をつらぬれは、松の風吟をそへ、鐘の聲和をなせり。かの名をおとしても、利を得ん事をむさほり、身をそこなひても、富を求むことをおもふともからは、うかへる雲、胸の月をかくし、にこれる水、心の蓮をこえて、守餞の奴いとゝまとろむことをえし。たとひ、儒教をならひ、釋典をまなへとも、詩歌にたつさはらさる人は、胸中つゐに、塵俗をはらはすして、君子の跡、三千里を隔てをひかたく、開土の道、五百驛にさはりてつかれやすし
一、此集は、長歌と短歌と旋頭と、此三の外の體なし。短歌といふも長歌につける時いへり
 
大納言從二位
 懷風藻曰。從二位大納言大伴宿禰旅人一首【年六十七】五言初春侍宴。寛政情既遠、迪古道惟新、穆々四門客、濟々三徳人、梅雪亂殘岸、煙霞接早春、共遊聖主澤、同賀撃壤仁
 元明紀云、和銅四年夏四月丙子朔壬午、正五位上大伴宿彌旅人授從四位下。七年十一月、爲左將軍
 元明紀云。靈龜元年正月甲申朔癸巳、授從四位上。四月爲中務卿
養老二年三月三日――
 紀云。養老二年二月壬申、行幸美濃國醴泉。○三月戊戌、車駕自美濃至。乙巳○大伴宿禰旅人爲中納言。しかれは三月朔日の支干を記せるゆへに、乙巳幾日にあたると知かたけれとも、戊戌より八日にあたれは三日といへるはたかへり
三年正月七日
 紀云。正月庚寅朔壬寅、七日は非なり。十三日なり
 紀云。四年二月壬子、太宰府奏言、隼人反殺大隅國守陽侯史麻呂。三丹丙辰、以中納言正四位下大伴宿禰旅人旅人、爲征隼人持節大將軍。○六月戊戌詔曰、蠻夷○
五年正月七日
 紀云。戊申朔壬子。五日なり。七日にはあらす。又紀云。三月辛未、賜帶刀資人四人
神龜元年――
天平二年
 紀漏脱
三年正月七日叙二位
 紀云。三年四月庚戌朔丙子、授正三位大伴宿禰旅人從二位。紀によるに、廿七日なり。二十をおとせる歟。誤れる歟、叙の下に、從の字をおとせり
 紀云。三年秋七月辛未、大納言從二位大伴宿禰旅人薨。難波朝右大臣大紫長徳之孫、大納言贈從二位安麻呂之第一子也
中納言從三位大伴宿禰家持【天平十二年より十六年まては内舎人なり】
天平七年正月
 十七年なり。十の字を脱せり。聖武紀を見るに、正六位上より轉任す。
十八年三月任兵部大輔
 紀云。三月壬戌、正五位下石川朝臣麻呂、爲宮内太輔。從五位下大伴宿禰家持爲少輔。しかれは、兵部太輔といへるはあやまれり。紀云。六月壬寅、從五位下大伴宿禰家持、爲越中守。此集第九に、勝寶三年七月、少納言に任せらると見えたり。紀にもらせり。紀に、勝寶元年四月朔、從五位上。六年四月庚午、爲兵部少輔。十一月爲山陰道巡察使。寶字元年六月爲兵部大輔
天平寶字二年六月任因幡守
 紀云 七月赴任【續日本紀第十七】
六年三月日任民部大輔
 紀云。六年正月庚辰朔戊子、從五位上大伴宿禰家持爲倍部大輔。【紀廿一云。中務省宣傳勅語、必可有信、故改信部省】六年三月日任民部大輔といへるは誤なり
八年正月日任薩摩守
 神護景雲【信瑞雲改元】
四月六日――【日月并官。官字誤爲宮。公卿補任なとにある歟】。
 紀不載
 光仁紀云。寶龜元年六月壬辰朔丁末、正四位下田中朝臣多太麻呂、爲民部大輔、從五位上大伴宿禰家持爲少輔【左中辨、右中辨なるへし】
九月日
 紀寶龜元年なり。景雲にはあらす
 十月己丑朔、即位改元。八月五日肥後國葦北郡人日奉部廣主賣献白龜。又同月十七日、同國益城郡山稻主献白龜
三年二月日
 紀云。二月丁卯、右中辨從四位下大伴宿禰家持爲兼式部員外大輔
五年――九月日
 紀云。九月庚子、從四位下大伴宿禰家持、爲左京大夫。○左京大夫從四位下、大伴宿禰家持、爲兼上總守
十一年二月――
 紀云。丙申朔甲辰
天應元年八月一日
 紀云。八年丁亥朔甲午、正四位上大伴宿禰家持、爲左辨兼春宮大夫。先是連母憂解任、至是復焉
延暦元年坐事除官位
 紀を見るに、以黨氷上眞人川繼【鹽燒皇子】謀反也
兼陸奥按察使
 紀、鎭守將軍。又紀に奏状あり。【但下征東將軍の時なり】
四年八月日薨
 實に八月廿八日なり。延暦紀云。八月癸亥朔庚寅、中納言從三位大伴將家持死。祖父大納言贈從二位安麻呂、父大納言從二位旅人。家持、天平十七年、授從五位下、補宮内少輔、歴任内外。寶龜初、至從四位下左中辨、兼式部員外大輔。十一年、擇參議、兼左右大辨、尋授從三位、坐氷上川繼反事、免移京外。有詔宥罪、復參議春宮大夫。以本官出爲陸奥按察使、居無幾、擇中納言、春宮大夫如故。死後二十餘日、其屍未葬、大伴繼人竹良等、殺種繼事發覺下獄、案驗之、事連家持等、由是追除名。其息永主等竝家流焉。元亨釋書二十三、資治表云。十有六年春正月、釋善珠擢僧正。延暦十六年。初早良太子、與黄門侍郎藤原種繼有郤。四年八月、帝如平城、發齋宮公主、赴勢州、種繼爲守宮。太子黨人射種繼于燭下斃。事發、十月、太子廢將受弑。太子使之諸寺預修白齋、諸寺恐而拒之、獨善珠納焉云々。正月十六日、爲僧正。今尺書によりてみるに.大伴繼人竹良等か、藤原種繼【宇合男】を射殺しけるは、早良太子の誂によりてなり。紀に、事連家持等とあるは、是又武雄の長なれは、たのませたまひけるにや。令の文に、年廿一歳以上なるを内舍人に補すと見えたり。家持、天平十二年より内舍人に補せらると見えたれは、延暦四年は、六十五六歳なるへきに、死骸いまた葬らさるに罪につらなりて除名せられ、紀にも庶人に例して、家持死とかき、本朝文粹、三善清行、延喜の帝に奉られける異見封事にも、罪人家持とかゝれたるは、誠に惜むへき事なり。集中の歌にてかんかふるに、遠祖道臣命より、勲功ならひなくして、武名累代に重かりけれは、家持も、父祖の名をおとさしと、心かけられける中に、すこし名を好まれけるにやと、みゆる所もあれは、かへりてつみにおちいられけるにこそ。されとも、文武の道をあはせ、和漢の才をかねて、此集をえらひて、將來にたまものせしは此人なれは、小疵をもて尺璧をすつへからす。後の勅撰に此人の歌を載せらるゝには、中納言とそ侍る
内大臣大織冠
 織を誤て藏とせり。織の字、日本紀には呉音に點したれと、世上には漢音によみならへり。位階によりて冠の製かはれるを、此人ひとり大織冠の名の殘たまへる、凡人にことなり。第二男とは、第一は多武峯定惠和尚なり。元亨釋書に傳あり。日本紀にも見えたり
年六十二
 懷風藻には六十三と注せり。委は此卷の初に注せり
 
萬葉代匠記惣釋枕詞(初稿)
  枕詞にゝてあらさる詞
名くはしき、いなみの海
名くはしき、よしの
あもり付、あまのかく山
打わたす、竹田の原
ふたさやの、家を隔て
ことゝはぬ、木
あらたまの、きへのはやし
花くはし、葦かきこし
 
一、玉くしけ、みんまと山第二
 ある本は、王くしけみむろと山とありて注するにをよはす。山城宇治郡に有みむろと山なり。みんまと山は、みんはことはの字、まと山なり。まろにあるくしけによせて、そのくしけをみんに、體勢《なり》のまとかなるとつゝたり。まと山いつくにありともきかす、高まと山なとや、山のかたち高くまろなるによりて名つけて、それを略して、まと山とはよまれて侍りけん
一、水薦苅 信濃第二
 これは水薦苅とかきたれは、水におふる草と心得へけれとも、さにはあらす。此次におなしやうによめるに、文字は三薦苅とかけり。みくま野とも、まくまのともいふかことく、みとまとは通する字なれは、眞草といふにおなし。木を眞木といふかことく草をほめていふ詞なり。薦の字はしきものゝこもなるを、此集にはかりて蒋の字書へき所に用たるを、こゝに草とよめるは、字書に、作甸切音箭。草稠曰薦とある、此心なるへし。日本紀の齊明紀にいはく科野國言。蠅群向西飛踰巨坂、大十圍高至蒼天。しかれはむかしは科野とかきけれは、草をかる野とつゝけたり。彼國に埴科郡あり。此名、國の名にもかよへるにや。今信濃とかけと、つゝけからは文字にはかゝはらす。支那も科野といふ心なれは、かくつゝくるなり〔以上似閑本による補足とあり〕
  此集中枕詞
下河邊長流か撰せる、枕詞燭明抄序にいはく。歌に枕詞あることは、人の氏姓あるにおなし。氏をゝきてよふ名のなかきかことくふるき歌のたけたかく聞ゆるは、おほは枕こと葉をゝき、おほくは序よりつゝけたるかゆへなりといへり。日本紀を考るに、神の人にかゝりてのたまふことはにも、神風伊勢《カムカセイセノ》國(ノ)之|百傳度會縣《モヽツタフワタラヒアカタ》之|拆鈴五十鈴《サクスヽイスヽノ》宮(ニ)所居《ヲル》神。亦云|幡荻穗出吾《ハタスヽキホニテシアレ》也。亦云|鳥往來羽田之汝妹者羽狹丹葬立往《トリカヨフハタノナニモハハタニハフリイヌ》。これら何となく幽玄にして、かう/\しくきこゆ。神代紀に大己貴命も、百|不立《タラヌ》八十之|隈《クマチ》とのたまへり。人の氏姓あるにおなしといへる、まことなるかな。此集中にある枕詞、大かた獨明抄に載たる中に、猶愚意の今案あるは、いさゝかそのよしを注す。その中におほくの卷にわたりあまたの歌にかふれるは、見やすからしめんかために、あつめてこゝに注す。一首二首なとあるはこゝには只名をあけて、その卷のそことのみさせり。見む人しるへし。又今案なきをは燭明抄にゆつれり
○久かた 天といはん枕詞なり。久しくかたしといふ心なり。日本紀に、我國開闢のはしめをいへるにも、天(ノ)先(ツ)成(テ)而|地《チ》後(ニ)定《サタマル》。然後|神聖《カミ》生《アレマス》2其中(ニ)1焉といへり。しかれは其|清明《スミアキラカ》なるものは、たなひき上りて天となりて久しく、重濁《カサナリニコ》れるものは、とゝこほりて地となることの遲きなり。天かたまりて久しけれは、久堅といふ義なり。或は久方ともかけり。天地の二方をいはゝ、天は久しきかたといはむも、たかふへからす。久かたと置ては、天とも空とも日とも月とも星とも、或は雲とも雨なとともつゝくるは、すへて天象のものなれは、いつれにもいふなるへし。又都ともつゝけたり。第十三云。ひさかたの都を置て草枕たひ行人をいつとかまたん。是は帝都のひさしくて、たちろくましきことをほめていへるにや。又天子のまします所なれは、空のことくにいひなしてよめるにや。帝都たてらるゝことを、日本紀に、底磐之地《シタツイハネニ》に、宮柱《ミヤハシラ》ふとしきたてゝ、高天の原に、  搾風高知《チキタカシリ》てなとかけるにて思へは、宮殿のことをは、空になすらへて高く申さんとていへるにも有へし。かの紫震殿を雷の上と申も、その心なり。今案新古今集に、宜秋門院丹後か歌に、都をはあまつ空ともきかさりき何なかむらん雲のはたてを。此心のやうに、旅にしては、故郷の郡のかたは雲井にのそめは、久かたの都といへるにや。又月をひさかたといふ事有。此集に用なけれは略せり。それと膝形といふ説は、奥義抄等に見えたれと、昔有けむ后の御ためにも人わろく作り出たるいやしき説なり。取にたらす。六帖には伊勢か歌をも、久かたの月のかつらのさとなれはとあり。久かたの中におひたるといふも、久かたの月の中におひたるといふへさを、月も天象の中の一物なれは惣をいひて別を兼たるなり
○あしひき 山とつゝくる枕詞なり。燭明抄にあまたの説を出せり。顯注密勘をみるに、定家卸の傳たまへるは、蘆引の説なりと見えたり。今案あしひきを眞名にかけるをみるに、日本紀の顯宗紀には、脚日來とかゝせたまひ、菅家万葉集には、足彈と書たまへり。此集には、無窮にかける中に、第四卷には足疾、第七卷には足病とかけり。これにつきておもふに、彼山によりて住けむ世なとは、かりそめにゆきかよふにも、谷にをり、みねにのほりなとしけむなれは、木の根、岩のかと、さま/\のうはらくゐなとをふみて、足をもそこなひ、又砥のことくなる道をゆくよりは、なつみて足をひき侍けれはや、足引の山とはつゝけそめ侍けむ。後撰集第十、戀二に、大江朝綱朝臣の歌の詞書にいはく。物かたらひける女のもとに、文つかはしたりけるに、心ちあしとて返事もせさりけれは、又つかはしける
 あしひきのやまひはすともふみかよふあとをもみぬはくるはしき物を
朝綱朋臣は、後江相公とて、無雙の名儒にて和漢に達し、本朝文粹にも文章あまた載られ、歌も集に見え、家集も有とかや。重代にてその身拔群なる名儒の、ことに日本紀をも、江家より初て講しそめられたるよしなるに、此歌枕詞の縁をはなれす。ふみかよふといひ、あとをもみぬはなといへるわたり、歌と詞書とをあはせてこゝろうるに、此女のやめるは、あしのけなりけるにや。あしひきのやまひとつゝくるからに、下の縁の詞は出來へき事なれと、猶あしのけなりけむとおほしきは、此集第二に、大伴田主かあしのけをやみけるを、石川郎女かとふらひける歌有。足疾足病なともかけり、清少納言に、やまひは、むね、ものゝけ、あしのけなと、おかしき物にかけり。源氏物かたりにも、みたりかくひやうといふものおこり、ところせくおこりてわつらひ侍りて、はか/\しくふみたつる事もはへらすとかけり。いやしからぬやまひなり。しかれは朝綱朝臣の歌によりて、足疾足病のかきやうをあはせて、これや正義に侍らむ。あしひきといへは、山とつゝけされとも、山の名に用たり。たとへは玉ほこの道といふへきを、道といはすして、玉鉾とはかりもよめるかことし。第三に
 あしひきのいはねこゝしみすかのねをひけはかたみとしめのみそゆふ
第十一に
 まとこしに月おしてりてあしひきのあらし吹夜は君をしそおもふ
第十六に
 あしひきの玉かつらのこけふのこといつれのくまをみつゝきにけむ
新古今集に菅家の御歌
 あしひきのこなたかなたに道はあれと都へいさといふ人のなき
此御歌は、つくしより都への間には、山陰道山陽道のふたつの道ある心を、足引のこなたかなたとはよませたまふにやとそうけたまはり侍る。日本紀を考るに、允恭天皇廿三年|木梨輕太子《キナシノカルノミコノ》輕|大娘皇女《イラツメヒメミコ》ををかしてよみ給へる歌云。あしいきの山田をつくり山高み下樋をわしせ下なきにわかなくつまかたなきにわかなく妻云々。顯宗紀|脚日木《アシヒキ》此|傍《カタ》山|牡鹿之角擧而吾※[人偏+舞]者《サヲシカノツノサヽケテワカマハン》云々
○玉ほこの 道とつゝけたり。燭明抄に説々を擧たり。今案その中に玉は鉾をほむる詞、道のすくなるをほこのなをきにたとへて、玉鉾の道といふを正説とすへし。そのゆへはもろこしにも道をおほくなをき物にたとへ侍り。毛詩(ノ)小雅大東(ノ)之篇云。周道如v底《ト ノ》。其直(コト)如v矢(ノ)。君子(ノ)所v履《フム》小人(ノ)所v視(ル)といへり。これ道のたひらかなるを砥にたとへ、なをきを矢にたとへたり。左傳云。詩曰周道挺々(タリ)【杜預曰。挺挺(ハ)正直也。】門前鮑明遠(カ)詩云。馳道直(コト)如v髪(ノ)。これらみな道のなをきをいへり。又なはてといふも繩手にてなをきをいふ。潘安仁(カ)藉田(ノ)賦云。遐阡繩直邇陌《ハカルナルナハテノコトチカキナハテク》如v矢(ノ)。これらに准するに、鉾は直なる物なれは、たとへたるへし。舒明天皇紀にいはく。山背(ノ)大兄《オヒネノ》王(ノ)云。亦大臣(ノ)所v遣群卿者|從來《モトヨリ》如(ク)2嚴《イカシ》矛1【嚴矛此(ヲハ)云2伊箇之保虚(ト)1】取中事而奏請《ナカトリモテルコトヲシテモノマウス》人|等(トモナリ)也。これは推古天皇崩したまひなんとしたまふ時、此山背大兄王をめして、御位をふませたまふへきよし、遣勅ありけれと、諸卿一同にもうけたまはらさりけれは、蘇我蝦夷大臣いかゝおもはれけん、舒明天皇いまた田村皇子にておはしましける時なるに、此皇子へ御位をゆつらせたまふよし、諸臣へもいひなしけるを、山背大兄王きこしめして、われ天位をほさむるにはあらねと、御遺詔さにはあらすとおほせつかはされける時、大臣此事を、みつからまいりてそのことはり申たてまつらんとは申されなから、心ちそこなへるに事よせて、まいらすして、諸臣を使にして申されし時、山背大兄王の、諸卿にのたまへる御詞なり。此御詞にも、ふたつの心あるへし。ひとつには、ほこは中ほとを取て持ものなれは、これにたとへて、使のこなたかなた偏黨なく、有のまゝに物申さるゝことをのたまふともいふへし。又ほこのすくなることく、有のまゝに物申さるゝといふ御詞にも侍るへし。此集第三に、かく山のほこ杉かもとゝよめる歌有。杉は天然なをき物なれは、そのたてるが、ほこをたてたるやうなれは、たとふるをも、思ひあはすへし。和名集を見るに、加賀國加賀郡に玉戈【多萬保古】といふ郷の名有。又ものゝふなとは、道をゆくに、劔をつき、矛をつきてゆけは、そのほこをつきて行にかけても申にや。左傳曰。成子|衣《キ》v製《アサキヌヲ》杖v矛(ヲ)【製(ハ)雨衣也】立2於阪上(ニ)1馬(ノ)不v出者助之鞭之。史記陳平傳(ニ)、平身間行杖v劔(ヲ)亡《ニク》。聶《セフ》政傳(ニ)聶政乃辭獨行杖(テ)v劔(ヲ)至v韓(ニ)。?食《レキイ》其(カ)傳(ニ)、沛公遽(カニ)雪(メ)v足(ヲ)杖(テ)v矛(ヲ)曰。延(テ)客(ヲ)入(レヨ)。和漢ことなれと、これらの心もかよひ侍らんや。又今ひとつの今案あり。日本紀第二神代下云。乃以2平《ムケシ》v國時(ニ)所(ノ)v杖《ツケリシ》之廣矛(ヲ)1授(マツリテ)2二(ハシラノ)神(ニ)1曰(ク)吾以2此矛(ヲ)1卒(ニ)有v治《ナセルコト》v功《コト》天孫若用(テ)2此矛(ヲ)1治(メタマハヽ)v國(ヲ)者、必(ラス)當2平安《サキクマシマサン》1。今(マ)我(レ)當(ニ)於|百不足《モスタラ》之八十|隈《クマヲ》將|隱去《カクレナン》矣。【隈《クワイ》此(ヲハ)云2矩磨?(ト)1】言訖(テ)遂(ニ)隱《マトリマシヌ》。これ大己貴命の、高皇産靈尊の命をうけて、御使|經津主《フツヌシノ》神と、武甕槌《タケミカツチノ》神とに向て、此國を天孫に奉りたまふ時の御詞なり。大己貴命に七の御名ある中に、八千|戈《ホコノ》神と申も、此廣矛を杖《ツキ》て國々をめくりてたひらけさせ給へる御名にや。大かたこれか正説にて、玉鉾の道とはふるくよりいへるなるへし。玉ほことのみいひて道としたる歌はうつほ物かたり樓の上の卷に
 からもりかやとをみんとて玉ほこにめをつけんこそかたわ人なれ
玉ほこの里ともよめり。此集第十一に
 遠けれと君をそこふる玉ぼこのさと人みなにわれ戀めやも
定家朝臣の説には、道のほとをは一里二里なといへは、玉ほこの里とつゝけたるもそのこゝろかと侍り。
今案成務紀云。五年秋九月|令《ノリコトシテ》2諸國(ニ)1以國郡(ニ)立2造長《ミヤツコヲ》1縣邑(ニ)置2稻置《イナキヲ》1並(ニ)賜(テ)2楯矛(ヲ)1以爲v表《シルシト》。この心にて玉ほこの里とはいふなるへし
○ぬは玉の くろきとつゝけたり。よるともやみとも、すへてくろきこといはむとていふ詞なり。むはたま、うはたまなとかへてよめる皆同し詞なり。今此本には皆ぬはたまとよめり。宇と奴と牟とはよく通すれは、いつれにても有へし。喜撰式天徳歌合なとの事は、燭明抄にゆつりぬ。此ぬは玉といふは、顯昭法師かいはく。順か和名に、烏扇をは射干とかけり。からすあふきの實は、丸にて黒きものなれは、烏羽玉といふを、野干に文字のかよひたれは、野干玉とかき又夜干玉とかきたる歟。それを略して、干玉ともかき、野玉ともいふかといへり。今案和名集云。本草云。射干一名烏扇【射音夜。和名加良須安布木。】射、野、夜、音相通する故に、延喜式の典藥式にも、夜干とかけり。又和名集云。考聲切韻云。狐(ハ)射干也。○關中呼(テ)爲(ルハ)2野干(ト)1語|訛《ヨコナマレリ》也。これ射野相通する證なり。更にからすあふきの實名を考るに、一名烏蒲。一名烏  學。一名烏吹。一名艸姜(ナリ)也。おほく烏の字を名におへるは故あるへし。顯昭法師、烏羽玉とかけるにつきて、烏羽は黒き心とこゝろ得られたりとみゆ。梅を烏梅、柳を楊奈疑、水を水都なとかける類、その物につきておもひよれるを、やかてかんなに用たるなり。されと音訓ことなれは、かんなに用たる時、梅はたゝめ、楊はたゝやなり、たとへは、梵語の屍陀林【林是漢語】は墓所なり。墓所といふより、譯場の人、屍尸の字を思ひよりて、其音を用たるかことし。さりとてかはねといふ心有にあらす。いはむや烏は音を取、羽は訓を取て用たるに、なにの心か有らんや。野干玉とかき、烏玉ともかけるにつきては、射干の實のまろくて黒きによりて、くろきといふ枕詞にをけるにやとはおもへと、射干の實を、うは玉といふ事も證なし。そのうへ、古事記(ニ)、大|己貴《アナムチノ》神の御歌に、ぬは玉のしろきみけしをまつふさにとりよそひをき云々。これはぬは玉のしろきとつゝけれは、おほきにことのたかへることなり。神世にもありし詞にて、今たしかにはしる人なきなるへし。しかれとも、只今しろきことにつゝけむはいはれす。黒きことにのみよむへし。又此集に、ぬは玉のひましらみつゝとよめるは、夜といはねとも、夜の明るこゝろにいへり。又ぬは玉のねての夕ともよめり。ゆふへもくらくなる心にて、ぬは玉とはをけるなるへし
○ちはやふる 神といはむ枕詞なり。これにつきて、さま/\の異説あれと、信しかたけれは、燭明抄にゆつれり。日本紀には、殘賊強暴横惡之神とかきて、ちはやふるあしき神とよめり。舊事紀古事記には、道速振荒振國神《チハヤフルアラフルクニツカミ》とかけり。是みな邪神のことをいへり。此義によりては、あしき神をさして、ちはやふる神とこそいふへけれとも、歌の習は、何となく神とつゝけむ枕詞に用て、すへてよき神あしき神、おしなへてちはやふるとはつゝけよめるなり。ちはやふるといふことはの心をおもふに、舊事紀に道速振とかける心歟。振は詞の助にて、善神惡神ともに神通速疾にして、一念の間に千萬里を隔てゝいたる心に、道速振といへるを、日本紀には心を得て、殘賊強暴の文字にかゝはらす、ちはやふるとよめるなるへし。日本紀の仁徳紀にも、此集にも、ちはや人うちとつゝけ、又此集ならひに古今集に、ちはやふるうちともつゝけよめり。宇治はもと兎道とかける故に、兎は道の早き物なれは、道速人は、兎の道をふることしといふ心なるへし。神を現人神《アラヒトカミ》といへは、ちはや人は神をいふへし。ちはやふる兎道とつゝくるもこれにおなし。又ちはや人うちとつゝくるもちはやふるうちとつゝくるも殘賊強暴の人を討といふ心にてつゝけたるか。大山守皇子は自身すなはち殘賊の人なれは殘賊を討といふ心ならはちはや人うちとはつゝけたまふましきにやと難すへけれとそれまていりたちては沙汰せす。たゝ世のふることにてかくつゝけたりと心得は難とはなるましきにや。およそ神變おほけれと、神境通をもて、速疾に十方に至るを、ことに不思議とすれは、善神惡神ともにちはやふる神といふを、日本紀は通する中の一邊をもて、邪神にいへたなるへし。延喜式神名帳云。備後國|三谿《ミタニ》郡知波夜比古神社。同國|三次《ミスキノ》郡知なみ夜比賣神社。これは善神をも、ちはやふるといふ心の御名なるへし。第九卷に、大伴卿の筑波山に登る時の歌の中に、をの神もゆるしたまへり。めの神もちはひたまひてといへり。又第十一に、玉ちはふ神も我をは打すてきしゑや命のおしけくもなし。此二首にちはふといふは、いはふなり。伊と知と同韻にて通せり。神職のものゝ着る、襷《チハヤ》といふものも、これをきて、身を|さや《潔》めて、神を齋《イハ》ひたてまつるゆへに、ちはふといふ用の詞を、ちはやと體にいひなして、名とせるなるへし。これらは心かはるへし。又此集第二、柿本人麿、高市皇|殯《モカリ》宮の時の長歌の詞云。ちはやふる人をなら|す《せ》とまつろはに國を|おさむ《治・シラセ》とみこのまによさしたまへはとつゝけよめり。此歌は大友皇子の亂をは、此高市皇子のしつめさせ給ふ心なり。かの亂の時に、大友皇子にしたかひて、天武をそむき奉りし人のことをいへるなり。あしき神をちはやふるといふにかよはして、兇賊の上をもかやうによめるなるへし
○天さかる ひなとつゝけり。天離天放天疎なとかきたれは、帝都を遠さかりたる國といふ心なり。およそ方角をいふに、王城をもとゝしていふ事常なり。神代紀に、下照姫の歌にも、天さかるひなつめのと云々。久しき時より見えたる詞なり。顯昭法師は、遠國ならてはよむましきよし申されたれと、第一卷に、人麿の歌に、あまさかるひなにはあれといしはしるあふみの國のさゝ浪の大津の宮になとよまれたれは、畿内を出は、いつくにもよむへし。あまさかるのかもし、ある所に我の字をもかさたれと、只清てよむへし。清濁を通して用る事もなきにあらす。天のひきくさかれる心といへと、王子淵か聖主得賢臣頌に、今臣|僻《サカテ》在2西蜀1なといへる心にみるへし。延喜式祝詞に、青雲能|靄《タナヒク》極《キハミ》、白雲能|墜坐向伏《オリヰムカフス》限といへるは、遠き所をのそめは、雲も地にをりゐて、つゝけるやうに見ゆるをいへり
○空みつ やまとゝつゝけり。そらにみつといふもおなし。饒速日命の、天磐船に乘て、空に翔て所を見て、大和國に天降て、鳥見《トミノ》白|庭《ハ ノ》山にまし/\けるより事おこりて、空みつ大和國とはいへり。舊事本紀云。天祖以2天(ツ)璽《シルシ》瑞《ミツノ》寶(ラ)十|種《クサヲ》1授2饒速日《ニキノハヤヒノ》尊1。則此(ノ)尊禀(ニ)2天神御祖(ノ)詔(ヲ)1乘2天(ノ)磐船(ニ)1而天降(テ)坐(ス)2於河内(ノ)國(ノ)河上(ノ)哮(ノ)峯(ニ)1。則遷(テ)坐(ス)2於大倭(ノ)國(ノ)鳥見《トミノ》白庭(ハノ)山(ニ)1。所謂乘(テ)2天(ノ)磐船(ニ)1而|翔2行《カケリマシテ》於大|虚空《ソラニ》1睨《ミテ》2是國《コノクニヲ》1而天降(テ)謂《ノタマフ》2虚空見《ソラミツ》日本(ノ)國(ト)1是(レ)歟《カ》。日本紀の神武紀の義も、是に同しけれは不v注v之。彼神の駕し給ひし磐船は、河内國天川の水上に今も有。磐船の御神と申ならはしたり
○神風 伊勢の枕詞なり。伊勢國風土記云。伊勢(ノ)國(ハ)者、天(ノ)御中主(ノ)尊之十二世(ノ)孫、天日別(ノ)命(ノ)之所(ナリ)2平治(スル)1。天日別命神倭磐余彦(ノ)天皇(ノ)自2彼西征1此東州1之時隨2天皇1到2紀伊國熊野村(ニ)1于v時隨2金烏(ノ)導(ニ)1入2中州1而到2於菟田下|縣《コホリニ》1。天皇勅2大|部《トモノ》日臣命(ニ)1曰。逆黨膽駒(ノ)長髓彦宜2早征罰1。廼勅2天日別命(ニ)1曰。國(ニ)有2天津之|方《ノリ》。宜(シ)2乎其國(ニ)1。早賜(ハレ)2標釣《ミシルシヲ》1。天日別命奉v勅東入2數百里1。其邑有v神。名2伊勢津彦(ト)1。天日別命問云。汝國獻2於天孫(ニ)1哉。答曰吾|覓《マキテ》2此國(ヲ)1居住(スルコト)日久。不2敢聞1v命(ヲ)矣。天日別命發v兵欲v戮(セント)2其神1。于v時畏服啓(シテ)云。吾國悉獻(テ)2於天孫1吾敢不v居矣。天日別命令v問云。汝之去時何(ヲ)以爲v驗《シ ト》。啓(シテ)曰吾以2今夜1起(シテ)2八風(ヲ)2吹2海水(ニ)1乘(テ)2波浪(ニ)1將(ニ)2東(ニ)入(ント)1此(レ)則吾之|却《サル》由|也《ナリ》。天日別命|整《トヽノヘテ》2兵(ヲ)窺(ニ)v之(ヲ)比(ホヒ)v及(フ)2中夜(ニ)1大風四(ニ)起(テ)扇2擧波瀾(ヲ)1光燿(メルコト)如v日(ノ)陸海共(ニ)朗(ナリ)。遂(ニ)乘(テ)v波(ニ)而東(ス)焉。古語云。神風伊勢國常世(ノ)浪(ノ)寄(スル)國(ト)者蓋此(ノ)之謂(ヒナリ)。【伊勢津彦神近令住2信濃國1】天日別命懷築此國復2命天皇1。天皇大歎詔曰。國(ハ)宜d取2國神之名1號2伊勢(ト)u。爲2天日別命(ノ)之討2此國(ヲ)1、賜(フ)2宅地(ヲ)于大倭耳梨之村(ニ)1矣。此義によらは、伊勢津彦の風をおこしたる故に、神風伊勢とはいふと聞えたり。其いせつ彦の神は、東に去て信濃國にとゝまる。今しなのゝ國に風伯神と申神是なりといふ。凰のはふりといふ。俊頼朝臣歌にいはく
  けさよりはきそちの櫻咲にけり風のはふりよすきまあらすな
風を心にまかせたる神とそ、今案これ風土記の説といへとも、疑なきにあらす。其故は神武紀を考るに、戊午年冬|十月《カミナツキ》に、八十梟帥《ヤソタケル》を國見の丘に撃たまふ。是時天皇の御歌にいはく。かんかせのいせの海の大石にや、|いはひもとへるしたゝみ《・被語匍匐廻細螺》の云々。すなはち紀に尺していはく。謠《ウタノ》意(ハ)以2大(ナル)石(ヲ)1喩2其國見(ノ)丘(ニ)1也。これ大石を國見の丘に喩とあれは、その大石にはひもとほるしたゝみをは、八十梟帥か、撃に難からぬにたとへ給ふことあらはなり。しかれは、所しもおほかるを、かむかせのいせの海の大石としもよみ出させたまへるは、ゆへなきにあらし。それはしはらくおきて、兎田《ウタノ》下(ツ)縣《コホリ》到り給へるはおなし年の七月なるにそれより天日別命東(ノカタ)數百里に入て、伊勢津彦をたひらけたまへるを、十月にいたりて天皇やかて神風のいせとよませたまはんこと信しかたし。又垂仁紀云。二十五年春三月丁亥朔丙、離《ハナチマツリテ》2天照大神(ヲ)於|豐耜《トヨスキ》姫命(ニ)1託《ツケタマフ》2于倭姫命1。爰倭姫命求(テ)d鎭2坐《シツメマサセン》大神(ヲ)1之處(ヲ)u而詣2莵田筱幡《ウタノサヽハタニ》1。【筱此云佐々。】更(ニ)還(テ)之入2近江國(ニ)1東(カタ)廻2美濃(ヲ)1到2伊勢國(ニ)1。時天照大神誨(テ)2倭命(ヲ)1曰。是(レ)神風(ノ)伊勢(ノ)國(ハ)則常世之浪(ノ)重浪歸《シキナミヨスル》國(ナリ)也。傍國可怜《カタクニノウマシ》國也。欲v居2是國(ニ)1故|隨《マニ/\》2大神(ノ)教《ヲシヘタマフ》1其祠(ヲ)立(タマフ)2於伊勢國(ニ)1。因(テ)興《タツ》2齋《イハヒノ》宮(ヲ)于五十鈴(ノ)川上(ニ)1是(ヲ)謂2磯《イソノ》宮(ト)1則天照大神(ノ)始(テ)自v天|降《クタリマス》之處(ナリ)也。神功皇后紀云。先(ノ)日(ニ)教(タマヒシハ)2天皇(ニ)1者|誰《イツレノ》神(ソ)也。願(ハ)欲v知(ント)2其|名《ミナヲ》逮《イタテ》2于七日七夜(ニ)1乃答(テ)曰。神風《カムカセ》伊勢國(ノ)之|百傳度逢縣《モヽツタフワタラヒアカタノ》之|拆鈴《サクスヽ》五十鈴(ノ)宮(ニ)所居神(ノ)名2撞賢木嚴之御魂天疎向津媛《ツキサカキイツノミタマアマサカルムカツヒメノ》命(ト)1焉。天照大神の御詞に、神風伊勢國と倭姫命に告させたまへは、深きゆへ侍るへし。神代紀下云。已而且降之間《ステニシテアマクタリマサントスルトコロニ》先驅者《サキハラヒノカミ》還(テ)白(サク)。有2一(リノ)神1居《ヲリテ》2天八達《アメノヤチマタ》之衢(ニ)1。其|鼻《ハナノ》長(サ)七咫《ナヽマタ》。背《ソヒラノ》長(サ)七尺餘《ナヽヒロアマリ》。當(ニ)v言《イフ》2七|尋《ヒロト》1。且《マタ》口尻明耀《クチカクレアカリテレリ》。眠如(ニシテ)2八咫《ヤタノ》鏡(ノ)1而|〓然《テリカヽヤケルコト》似《ノレリ》2赤酸醤《アカカヽチニ》1也。即遣(ハシテ)2從《ミトモノ》神(ヲ)1往(テ)問(ハシム)。時(ニ)有2八十萬(ノ)神(タチ)1。皆不v得2目勝《マカチテ》相(ヒ)問(コトヲ)1。○其猿田彦(ノ)神者、則到(リマス)2伊勢(ノ)之狹長田(ノ)五十鈴(ノ)川上(ニ)1。即天鈿女命|隨《マニ/\》2猿田彦神(ノ)所乞《コハシノ》1遂(ニ)以(テ)侍送《アヒヲクル》焉。此文を見るに、猿田彦神口かくれてかゝやき、眼やたの鏡のことくして、八十萬の神達見たまふことを得す。天照大神の御子今いてますへし。これによりてむかへに出て相待奉るとのたまひ、天神の御子は、筑紫日向高千|穗《ホノ》※[木+患]觸之峯《クシフルノタケニ》到たまふへし。我は伊勢の狹長田五十鈴川上に到るへしとのたまふは、猿田彦神すなはち天照大神の化現にて、垂仁天皇の時にいたりて、こゝに鎭坐したまふへきことを、神代にかねて其所をしめさせたまへるなるへし。風は天地の使にて、君子の徳にも比したる物なれは、事理一雙のことはりにて、大神宮の御いきほひ、をのつから風となるゆへに、神風のいせとはいふなるへし。されはこそ此集第二、高市皇子城上殯宮の時、人麿のよまれたる歌の中に、まつろはぬ立むかひしも露霜のけなはけぬへくゆく鳥のあらそふはしにわたらひのいりきの宮ゆ神風にいふきまとはし天雲を日のめもみせすとこやみにおほひたまひてなとよまれたれは、まさしく天照大神のおこさせ給ふ風と聞えたり。委は第二卷その歌の所に注せり。又皇極紀云。四年春正月(ニ)或(ハ)於2阜嶺《ヲカノタケニ》1或(ハ)於2河邊(ニ)1或(ハ)於2官寺之間(ニ)1遙(ニ)見(ニ)有(テ)v物而|聽《キコユ》2猿(ノ)吟《サマヨフヲト》或(ハ)一十許或(ハ)廿計。就(テ)而視(レハ)之物便不(ルヲ)v見(エ)尚聞2鳴嘯之響《ナリウソフクオトヲ》1。不v能v|獲v覩《ミルコト》2其身(ヲ)1【舊本云。是歳移2京(ヲ)於難波1而板|蓋《フキノ》宮爲v墟《アラトコロ》之兆】時人曰。此是伊勢大神之|使《ミツカヒナリ》也。此猿のさまよふに似たる聲も風なり。莊子云。野馬(ト)也塵挨(ト)也生物之以v息(ヲ)相(ヒ)吹(ク)者也。およそあらゆる壽命は息風なり。風に内外あり。内風と外風と和合するほとを《・梵曰優陀那下而撃冑海觸五處三内而發音聲矣》壽命とす。又息風心と和合するゆへに、※[田+比]盧庶那經疏に、念(ト)者風(ナリ)。々(ト)者想也と釋せられたり、されは息の字の、自に從ひ、心に從へるも此意にかなへる歟。此息風につきては、秘密乘に甚深の義あり。伊勢といふ名のこゝろをしらすといへとも、日本紀に吹棄氣噴之狹霧とかきて、ふきうつるいふきのさきりとよむ時氣の字をいとよめるは息なり。天照大神の神徳、外にはかぜとなり、内には壽命となるゆへに、神風の伊勢といひて、撰て此國には鎭坐したまへるなるへし。およそ物の動轉は皆風の徳なり。諸神の神通|速疾《スミヤカ》なるも、感應はやきも、皆是より出るにこそ。いかさまにも、此神風は、伊勢の國につきたる詞なれは、神風のみもすそ川ともよみ、いすゝの川とも山田の原ともつゝけて、後々の歌にはよめるなり。しかるを、奥義抄に、ある人つくしの安樂寺にて、神風をよみて人に笑はれたるよし見えたるに、ちかく何人のよめるにか、神風になひくいなほのといふ兩句を、人のかたりしこそ、伊勢の神領なとにてよめらんはしらす。むかしやんことなき人の、たはふれにのたまひし、稗の大臣今出來たるこゝちす
神風のいせなといふこともふつにしらぬものゝかたりしは、伊勢風とてあたりの|ことくに《・異國》よりは、風のおほく吹國なりと申す。又あるものゝかたりしは、彼國に住侍りし時、つしかせのやうに、風のひとゝほりふきて、家の内に吹入たるが、やねを吹かへしたる事の侍しを、所のものゝ申けるは、此國にはれいかゝる事の侍るを、かまかぜと申ならはし侍るとかたりけるよし申き
○水長鳥《シナカトリ》 安房とつゝけたり。これは第九卷にたゝ一首見えたり。猪名野、居名のみなとなとつゝけてよめる事は、集中にわたれり。おなし枕詞なれは、ひとつに尺すへし。先安房とつゝくる事は、日本紀第七景行紀(ニ)云。五十三年冬十月至2上總國(ニ)1從2海(ツ)路1渡2淡水門1。是時聞2覺賀鳥之聲1。欲v見2其鳥(ノ)形(ヲ)1尋而出2海中1。この淡水門を渡たまふは其時は猶上總國なり。養老二年五月に平郡《ヘクリ》安房《アハ》朝夷《アサヒナ》長狹《ナカサ》の四郡を上總より割分て安房國としたまへり。古語拾遺を見るに、天富(ノ)命、阿波(ノ)齋部を率て、東士に往て、麻穀を植たまふに、麻のよく生る所なれは、ふさの國と名付。古語に麻を總といふ。總の國は、今上總下總二國なり。とあれは、阿波齋部か住ける所にて、安房とかけるも、阿波と同しことにて、心は水の沫に名付たるにや。覺賀鳥は、みさこの古語なり。和名集(ニ)云。爾雅集注云。雎鳩【雎音七余(ノ)反和名美佐古。今案古語用2覺賀鳥(ノ)三字(ヲ)1云2加久加土利(ト)1見(タリ)2日本紀(ノ)私記(ニ)1。公望《キンモチ》案2高橋氏文1云2水佐古(ト)1】G(ノ)屬也。好(テ)在(リ)2江邊山中(ニ)1。亦食(フ)v魚(ヲ)者也。みさこを、またはしなか鳥ともいひける歟。されはあはのみなとをわたりたまふ時、みさこの聲の聞えけれは、其鳥のかたちをみんとおほしめして、海中に出たまひけれは、これをことのもとにて、しなか鳥あはとはつゝけたるなるへし。燭明抄に、みなか鳥とよみたれと、今の本にしなか鳥とあれは、これにしたかへり。水の字をしとよめるを思ふに、支の韻の平仄ともに、此音の字あり、須以(ノ)反之なれは、音をつゝめて用るにや。開の字をけのかんなに用る例を思ふへし。又同し景行紀に、冷水とかきて、さむきみもさとよみたれは、しといふ和訓もあるにや。よき水をしみつといふを思ふへし。第十三の長歌に、鳥のねのきこゆる海とよめるも、右の景行紀の由緒によりてよめるにやとおほゆ
次にゐなとつゝくる事は、しなか鳥は右にいへることく、みさこの異名なるへし。此集にみさこ居るとあまたよめり。此鳥魚をよくとる物にてみきはすさきなとをはなれす、ゐるものなれはなり。されはみさこのをりゐるといふ心にて、ゐの字をまうけむためにかくはつゝくるなるへし。第七卷に居名のみなとゝかけり。四長鳥志長鳥なと、上は書かへたれと、下はかならす鳥といふ字を書たれは、みさこをしなか鳥といふ事こそ見及されと、右の景行紀によるにこれ正義なるへし。ふるき説々は好事のものゝしわさと見えて、ひとつも信用にたらす
○さゝなみの あふみとつゝけたり。あふみの國、もとは淡海國とかけり。鹽の海に對して水海なれは、淡しき海といふ義なり。今近江とかく事は、遠江に對してなり、近江を和名集には、ちかつあふみとあれとも、こなたがもとにて、遠江は名付たれは、かなたをは、かならすとほたふみといへとも、こなたをは、ちかつあふみとはいはて、たゝあふみとのみいへり。さゝなみは小浪なり。大海のことく大浪のたつこともなけれは、只水文の小浪のたつ淡海といふ心なり。よりてさゝ浪の國とはかりも名つくるなり。あるひは大津ともつゝけしかともつゝけ、ひらともなからの山とも、なみくら山ともつゝけ、およそかの國の名所にはさゝなみと置なり、神樂浪《サヽナミ》樂浪《サヽナミ》なとかけるは篠《サヽ》浪とかくに心おなしかるへし。そのゆへは、神樂の時の取物に、筱《サヽ》を取ことあるゆへなり。神功皇后紀云。忍熊(ノ)王知(テ)v被(タルコトヲ)v欺曳(テ)v兵(ヲ)稍(ニ)退。武内宿禰出(シテ)2精兵(ヲ)1而追之。適遇(テ)2于逢坂(ニ)1以破(ル)。故號(テ)2其處(ヲ)1曰2逢坂(ト)1也。軍衆|走《ニク》之。及《ヲヒツキ》2于狹々浪|栗林《クルス・クリ私》(ニ)1而多(ク)斬(ル)。欽明紀(ニ)云。三十一年秋|七月《フムツキ》壬子(ノ)朔高麗(ノ)使到2于江(ニ)1是(ノ)月到遣2許勢(ノ)臣(ノ)猿《サルト》與2吉士赤鳩1發《ミチ》v自2難波(ノ)津1控2引《ヒキコシテ》船(ヲ)於狹狹|波《ナミノ》山(ニ)1而裝2飾船(ヲ)1乃往2迎於近江(ノ)北山(ニ)1、神功皇后は、近江の國をおして狹々浪といへる歟。欽明紀は高麗使近江に到といひ、船をさゝなみの山にひきこすといひ、近江の北山に迎ふとあれは、さゝなみの山はなから山にて、逢坂を引越をいふなるへし狹々浪逢坂山とも有
○朝もよい 紀《キ》伊とつゝけたり。燭明抄に、此集の五卷抄序を引り。彼序の心は、朝に飯かしくとてもやす木といふ心にいひつゝけたり。又、或説に、朝もよひは朝催也。朝に飯かしくとて、先薪を催す心なりといへり。今案此兩説をのが心にはともにうけかたくおほゆ。そのゆへは、五卷抄|安佐母與比《アサモヨヒ》とかけれとも此集にはあさもはさま/\みたれかきたれと、よいはかならす吉の字をのみかけり。あをによしならとつゝくるあをによしは、阿乎爾與之ともかきたれは、よむへきやうたしかなり。これは集中みな吉の字をかけるにつきては、彼例にてあさもよしとよむへきを、中ころよりの説につけるゆへにや、あさもよいとかんなをくはへたり。さきはひといふことを。さいはひといふならでは、きといふかんなを、いといへる事は歌にはなきにや。たとひよいといへるもよきなり。さてあさもよいは、文字はいかにかけるを正とし、義はいかなるを正とせんとならは、第四卷に、笠朝臣金村か長歌に、麻裳吉木道爾入立眞土山《アサモヨイキチニイリタツマツチヤマ》とつゝけよめる、此麻裳吉を、まさしきもしとし、心は麻衣のよき紀の國ろいふ心につゝけたるなるへし。そのゆへは第七卷に
 麻ころもきれはなつかし木のくにのいもせの山にあさまけわきも
此歌は房前の贈太政大臣の紀伊の國の作なり。歌の心はあさころもをきるにつけてわきもこかなつかしけれはおなしくはいもせの山に麻をまきて、それを衣にしてわきもこかきせたらは、いかはかりなつかしからましとよみたまへる心なり。此わきもこは紀の國の女をいへり。これいもせの山をいろへてよめる心なから、もとより紀の國は麻のよくおゆる國にてやかくはよみたまひけん。裳といふは、女のきる物なれと、上(ヲ)曰(ヒ)v衣(ト)下(ヲ)曰(フ)v裳(ト)とあれは、わきていふへきを、通して衣とのみもいへは、又通して裳ともいふへきにや。又女のきる麻裳をよくつくりて出しけるにもあらん、第九卷に、勝鹿眞間娘子を詠せる歌に、あさきぬにあをゑりつけてひたさをゝもにはおりきてなとよめり。ひたさをとは、ひたすらの苧を裳にきたるなり。これあさもといふにおなし。若麻裳吉といふ心ならは、第二卷に、高市皇子尊城上殯宮之時、ひとまろのよまれたる歌にあさもよいきのうへの宮とよみ、第十三にこれもおなし時の歌とおほしきに、あさもよい城於道從《キノウヘノミチユ》つのさはふ石村をみつゝとよめるは、大和にして、紀の國のことにあらさるはいかにと難すへし。されと紀のくにゝつゝけなれたるをかりて、きのうへの宮とつゝけたると心得は難とならさらん歟。大伴のみつとはいはしとも、いそのかみふるとも雨にさはらめやとも、いそのかみふるからをの、いそのかみふりにしさとなとも、かくてつゝくれは、城上宮は大和なりといふことをわすれて、只きといふ詞まうけむためなりとおもふへし。紀伊と書たれは、きいとよむへけれと、昔よりきとのみいひきたれるは、國の名皆二字にかきれは、紀の字のひゝさ伊なるゆへに、助語にくはへたるなり。續日本紀に載たる勅宣の詞にも、伊の字を助語にくはへられたる事有。南市の法相宗の、聖教の文をよむに、たとへは理の字の類、一字はなれてよむ時、理伊々義伊々なとやうによむは、いにしへよりしかよみならひて、今もあらためぬなるへし
○青によし ならといふ枕詞なり。ふるき説々皆燭明抄に出せり。いつれも誤にて用るにたらす。先なら坂に昔は青き士の有けるを、とりて繪かく丹につかひけるによかりけるなりといふ説は、土を繪の具には用へからす。紺青緑青のたくひならはこそあらめ。清輔朝臣、畫を丹青といふに付て奈良の新都のめてたきをほむとて、青丹よしならとはいふなりとて尺せられたるも、燭明抄に、仁徳紀武烈紀をひけることく、和銅三年よりはるかなるいにしへにあをによしならとよまれたれは、胸臆の説なり。顯昭法師は、崇神紀をひかれたれと、なら山と名付るよしはさることにて、和珥の武?《タケスキ》坂の上にして、忌?《イハヒヘ》を以鎭坐せる、その忌?青瓷なり。仍青瓷|吉那羅《ヨシナラ》といふへきを、青丹吉とは訛《ヨコナマレルナリ》也。委見2日本紀第五1といへるは彼忌?青瓷なりといふ事、紀になけれは、これは顯昭の自義をたてんための推量にて、そのをかの事を、委日本紀第五に見えたりとはいはるゝなり。和珥の武?坂に鎭《シツメ》坐し忌?《イハヒヘ》青《アヲ》瓷なるによりて、あをしよしといはる。あをによし和珥あをに吉武 搾《スキ》坂なとこそつゝけめ。そこをさりて、進《スヽム》てのほれるなら山を、いかてあをによしとはいふへき。これひとつ。又彼忌?を青瓷なりといふは、暗推にて證なし。これふたつ。たとひ青瓷なりとも、今はあをによしとのみ有。これみつ。和名集に瓷をしのきとよめるは瓷の字和訓なけれは、瓷(ノ)器といふ音をもて和語となせり。崇神天皇の比は三韓もいまた通せさりけれは、瓷といふ音にて名付たる器物あるへきようなし【是四。】これによりて、用るにたらすとはいふなり。次に今案を擧は第十三の長歌に、あをによしなら山過てとよめるに、緑青吉とかきたれは、玉もよきさぬきの國、眞菅よき宗我のかはらなと、名物を枕詞としてよめることく、昔はならよりよき緑青を出しけれは、かくはつゝくるなるへし。碧丹吉とかける所も有。青丹吉とは常にかけり。和名集云。本草云|緑青《ロクシヤウ》一(ノ)名(ハ)碧青。また異名を石緑銅青銅緑なといへり。石緑は世にいは緑青といふ物にて、その外は銅より出るなり。およそ丹は赤き物なるを。緑青は丹に似て青けれはあをにとはいへり。これを正義とすへし。源氏物語若菜下に、あをにもやなきのかさみといへるを、河海抄云。あをに万葉にあをによしならといへり。昔彼所のつちあをくあかゝりけるにて土器をつくりけるよりいひそめたるなり。一説|緑青《アヲニ。うつほの物語かすかまつりの下つかへはあをにも柳かさねきたり云々。源氏ならひにうつほにあをにといへるは、木賊《トクサ》色|萌黄《モヨキ》なとなるへし。河海抄に二説あり。初は青と丹とふたつの色とみて、彼所のつちあをくあかゝりけるにてかはらけをつくりけるよりいひそめたりとかゝせたまへるは邪説なり。次に一説緑青とあるはあたれりとす。第五卷にならとつゝけすしてくやしかもかくしらませはあをによしくぬちこと/\みせましものをとよめる歌有。あをによしを、すなはちならにして、くぬちはくにうちなり。はつせのくによしのゝくにといふかことし。哥はそこに注せり
○こもりくの はつせとつゝけたり。彼泊瀬の境地は四方に山の立めくりて、口のこもれる所なり。長谷とかけるも此心なり。又第一卷藤原京よりならの宮にうつり給ふ時の歌には、こもりくのはつせの川にふねうけてといふに、隱國とかき、第十三にはこもりくのはつせの國、隱來《コモリク》のはつせ少國なともよみたれは、世にかくれ里なといふことく、かくれ國といふ心にもあるへし。おほく隱口とかきたれは、或はこれをかくらくのはつせとも讀來れり。日本紀第十四を考るに、雄略天皇六年春二月泊瀬小野に遊たまひし時、山野の體勢《ナリ》をみそなはして、慨然興感《ナケイテミオモヒヲオコシテ》|歌(ノ)曰(ハク)《・ミウタヨミシテ》
 こもりくのはつせの山はいてたちのよろしき山、わしりてのよろしき山の、こもりくのはつせの山は、あやにうらくはしあやにうらくはし
同第十七繼體紀に出たる春日皇女の御歌にも、こもりくのはつせの川とよみ給へり。しかれは、日本紀の古語みなこもりくなるうへ、此集第十三に己呼理久乃泊瀬之河《コモリクノハツセノカハ》とかきたれは、かくらくとは、これらをよく考さる人の、隱口隱來なとかけるはかりをみて、よみあやまれるなれと、ふるくあやまれる事なれは、おなしく用きたれり。又後々の歌にこもり江のはつせともよみたるは、顯昭かいはく、口の字江の字に似たれは、よみ誤れるなりといへり。日本紀をはしめ、此集の歌とも、皆こもりくなれは、こもり江といふへき由來有へきにあらす、まことに誤れるなり。されと、こもり江とよめる事も久しくなれは、誤なからも用ることゝなれり。亦はつせの山を、とませの山ともよめり。六帖云
 かくらくのとませの山にすそつくと豐すめ神のまきしくれなゐ
是は泊瀬の泊の字とまりとよむゆへに、よみあやまれり。舟のとまることを、此集には舟はつる、舟はてゝなとよめり。すなはち泊の字なり
○みけむかふ 第二には、こかめの宮とつゝけ、第六には、淡路の嶋とつゝけ、第九にはみなふち山とつゝけたり、こかめの宮とつゝけたるにつきては、燭明抄に、酒かめをは玉たれの小かめなとゝよめり。酒瓶も御食に奉る物なれは、みけむかふこかめとつゝけたるなるへし。みけむかふ淡路とよめるには、心いさゝかかはりたれとも、御食に向ふの義は猶ひとつ心なりといへり。淡路とつゝくる心は、おなし第六卷に、おなし赤人、みけつ國ひゝのみつきとあはちの野嶋のあまのわたのそこおきついくりにあはひ玉さはにかつき出なとよめるは日々の供御の料に魚を奉るを、みけむかふといふと心得て、御食に向ふの義は、猶ひとつ心なりとはいへり。されとみなふち山とつゝけたるには、さる心もきこえす。おもふに、これはみつなから枕詞にはあらて、まちかく見わたしに、あさけゆふけの膳のことくさしむかひたるをいへるなるへし。しかれは、いつくにても、まちかくみゆる所をは、みけむかふとたとふへくやあらん
○あをはたの これも此集に三所にわたれる枕詞なり。第二には、木旗の上とつゝけ、第四には、かつらき山とつゝけ、第十三には、おし坂山とつゝけたり。これもあをによしこもりくの、ならはつせにかきりたるやうの枕詞にはあらて、木のしけり、かつらのはひのほれるが、青き旗をたてたるやうにみゆるを、たとへてよめるなるへし。豐はた雲とも、旗薄ともよめるも、またをの/\似たれはなり。委は第二卷に注せり
○玉たすき うねひの山とつゝけり。うねひは畝火《ウネヒ》畝傍《ウネヒ》なとかきたれと、うねみの山と讀なり。玉たすきとをくは。手襁《タスキ》は采女のかくれは、玉手襁采女とつゝくる心なり、采女と畝傍とまかへることのもとは、日本紀第十三、允恭紀云。四十二年春正月乙亥朔戊子天皇崩。○冬十一月新羅(ノ)弔使等|喪禮《ミモノコト》既(ニ)?《ヤムテ》而還之。爰(ニ)新羅人恆|愛《オシム》2京城傍《ミヤコノホトリ》耳成山畝傍山(ヲ)1則到(テ)2琴引(ノ)坂(ニ)1顧之而|宇泥灯b椰《ウネメハヤ》彌々巴椰《ミヽハヤ》。是未(タ・サルカ)v習|風俗《クニ》之|言語《コトヲ》1故訛(テ)2畝傍山(ヲ)1謂2宇泥刀iト)1訛(ト)2耳成山(ヲ)1謂2瀰々(ト)1耳。時(ニ)倭(ノ)飼部《ウマカヒ》從2新羅(ノ)人(ニ)1聞2是辭(ヲ)1而疑之|以爲《オモヘラク》新羅人|通《タハケタリ》2采女(ニ)1耳。乃返(テ)之|啓《マウス》2于大泊瀬(ノ)皇子《ミコニ》1。皇子則|禁2固《カラメトラヘタヒテ》新羅使者(ヲ)1而|推問《カムカヘトヒタマフ》。時新羅(ノ)使者啓(シテ)之曰(サク)。無v犯(コト)2采女(ヲ)1唯|愛《メテ》2京(ノ)傍(リノ)之兩山(ヲ)1而言耳。則知2虚言《ウツハリコトヲ》1皆|原《ユルシタマフ》。うねめのたすきかくる事は、同第二十九天武紀云。十一年春三月甲午朔辛酉詔曰。親王以下百寮諸人自v今已後位冠及|襷褶脛裳莫v著。亦膳夫采女等之|手繦《タスキ》肩巾《ヒレ》【肩巾此(ヲハ)云比例】並莫v服。かゝれは昔は采女の女官、たすきひれなとをかけたるを、此御時よりとゝめられぬと見えたり。續日本紀云。慶雲二年夏四月丙寅|先《サキ》v是(ヨリ)諸國(ノ)采女(ノ)肩巾田依(テ)v令(ニ)停(ム)v之(ヲ)至(テ)v是(ニ)復(ス)v舊(ニ)焉。これによるに、文武天皇の慶雲二年に、肩巾《ヒレ》をはもとのことくゆるされたりと見えたり。手繦《タスキ》も真中にあらん歟。延喜式采女司式云。凡諸(ノ)節會(ノ)日(ハ)正及(ヒ)令史《サウクワン》供奉|御膳《オモノヽ》前(ニ)。凡神今食、新甞會(ニハ)官人二人各給細布|?《チハヤ》一條(ヲ)采女八人【新甞會十人】各|望陀《マウダ》布(ノ)?一條六尺凡采女四十七人賜d近2宮城1地u【令史用采女朝臣氏】
○うまさかの 三輪とつゝけみむろの山ともつゝけたり。味酒とかきたるにつけて、是をあちさけとよめることもあれと日本紀を考るにうまさけと讀が古語なり。此集には皆うまさかのとかんなを付たれと、ことはりをおもふに、うまさけのとよむへし。そのゆへは、さかつき、さかつほ、さかもり、さかやまひなと、上に置時こそさかとはいへ、こさけ、あまさけなと、下につけていふ時は、皆さけなり。日本紀すてに、うまさけなり。これにしたかふへし。崇神紀云。八年夏四月庚子朔乙卯以2高橋邑人活日(ヲ)1爲2大~《オホウムワノ》之|掌酒《サカヒト》1【掌酒此(ヲハ)云2佐|介《ケ》弭苔(ト)1】冬十二月丙申朔乙卯天皇以2大田田根子(ヲ)1令v祭2大~《オホミワノカミヲ》1。是日活日自|舉《サヽケテ》2~酒《ミワ・ミキ》1獻2天皇1仍歌之曰。許能瀰枳《・此酒》破|和餓瀰枳《・我酒》那《ニア・非》羅|孺《ズ》。椰磨等那殊於朋望能農之《・日本成大物主》能、介《カ》瀰《・釀》之|瀰枳《・酒》伊句臂佐伊久臂佐《・幾久幾久》。如v此歌之|宴《トヨアカリス》2于|~《カムノ》宮(ニ)1。即宴竟之諸大夫等歌之曰。宇磨佐開瀰和能等能《・味酒大神殿》々、阿佐妬《朝戸》珥毛、伊弟※[氏/一]由介那《・出行》。瀰和能等能渡《・三輪殿戸》塢。於茲天皇歌之曰。宇磨佐階《・味酒》、瀰和能等能《・三輪殿》々、阿佐妬《・朝戸》珥毛、於辭寐羅箇《・押開》禰。瀰和能等能《三輪殿》渡烏。即開2~宮門(ヲ)1而幸行之。所謂大田田根子(ハ)今(ノ)三輪君等(カ)之始祖也。うまさけみわとつゝくは、古き詞なり。此つゝけたる心は、神に奉る神酒を、みわといへは、うまき酒をみわにすへて奉るといふ心にてつゝけたり。和名集云日本紀私記云神酒【和名云美和。】みむろの山も三輪山の別名なれは、三輪より起て、むま酒のみむろの山とはつゝくるなるへし。又神なひ山とつゝくるは、此山にもみわの神のましますゆへなるへし。又酒を釀《カモ》するをかむといへは、その心にてつゝけたりともきこゆ。土佐國風士記云。神川訓(ス)2三輪川(ト)1源|出《テヽ》此山(ノ)之中(ヨリ)屆《イタル》伊豫國(ニ)水清故爲2大神1釀v酒也用2此河水1故爲2河(ノ)名1也(ト)。しかれは、土佐國にあるみわ川も水清けれは、大神のために酒をかみて酒の名によりて、三輪川と名つくと見えたり。大神とは、大|己貴《アナムチノ》神、則みわの明神の名なり。和名集云。伊豫國、温泉郡味酒【万左介。】かの土佐の三輪川、温泉郡にいたりて、神酒をかもするゆへに、此まさけの名ある歟。舊事紀によるににわ山と名付る事は、大己貴神、天(ノ)羽車に乘て、おほそらをかけりて、大|陶祇《スヱツミ・陶津耳日本紀》のむすめ活玉依姫のもとに、夜のみかよひ給ける時、苧環に針をつらぬきて、神人の裾に著て、跡をとむるに、其跡三諸山に留りて、殘れる糸のみわかね有けるゆへに、三輪といふよしなり。日本紀の崇神紀の説は異なり。三輪山をもみむろ山といひ、神なひ山を(以下似閑本ニヨリテ補フ)もみむろ山といふにより、歌にもよみまかへたる事おほき歟。大己(以上)貴命とその幸魂奇魂と、崇神紀垂仁紀等を見るに、神もまたわかつにむつかしかりぬへきことあり。みわの名も崇神紀によるは、彼神のために、みわを作れるゆへの名なるへし
○たゝなつく【付たゝなはる】 青垣山とつゝけたり。第六に赤人の歌に、やすみしゝわかおほきみの高しらすよしのゝみやはたゝなつく青垣こもり云々。第十二云。たゝなつく青垣山のへたゝれはしは/\君をことゝはぬかも。又第一に、人丸の吉野にてよまれたる歌の中には、たゝなはる青垣山の山つみのまつるみつきと春へには花かさしもち秋たてはもみちかさせりとよまれたり。たゝなつくもたゝなはりつくにてたゝなはるといふにおなし。たゝなつくは、疊有とかけれは、衣のひだなとの、たゝまれたることく山のいくへもかさなれるをいへり。禮紀云|主佩垂則《キミノオモノタルヽトキハ》臣(ノ)佩|委《タヽナハル》。景行紀云。十七年春三月戊戌朔己酉幸(テ)2子湯(ノ)縣(ニ)1遊(タマフ)2于|丹裳《ニモノ》小野(ニ)1時(ニ)東(ノカタヲ)望之《ミソナハシテ》謂(テ)2左右《モトコヒトニ》1曰。是國(ハ)也直(ク)向(ケリ)2於日(ノ)出(ル)方(ニ)1故(ニ)號(ケテ)2其國(ヲ)曰2日向(ト)1也。是(ノ)日(ニ)渉《ノホリマシテ》2野中(ノ)大石(ニ)1憶《シノヒタマテ》2京都《ミヤコヲ》1而歌之曰。波辭枳豫辭《・愛吉》、和藝|幣《ヘ》能伽多由《・我家方從》、區毛位多知區|暮《モ》《・雲居立來》、夜摩|苔《ト》《・大和》波、區珥能摩|保《ホ》邏《・國眞原》摩《マ》、多々|儺《ナ》豆久《疊著》、阿烏伽枳夜摩|許莽例屡《コモレル》《・青垣山隱有》、夜摩苫之于漏|破《ハ》試《・大和助麗》。異能知能摩曾|祁《ケ》務比苫《・命全將人》破、多々瀰|許莽《コモ》《・疊薦》、幣遇利能夜摩《・平羣山》能、志邏伽之餓|延《・白樫之枝》塢《エヲ》、于|受《ス》珥左勢許能固《・髻華刺此子》。是謂2思v邦歌《クニシノヒウタト》1也。やまとの國は四方に山の立めくりてこもれる國なれはかくよませたまへり。神武紀云。抑又《ハタ》聞(シク)2於鹽(ヲ)土老翁《ツヽノオチニ》1。曰(シク)東(ニ)有2美地《ヨキクニ》1青山四(モニ)周《メクレリ》。これやまとの事なり。延喜式第八、出雲(ノ)國造(ノ)神賀《カムホキノ》詞云。出霊國乃青垣山(ノ)内爾、下津石根爾、宮柱太敷立※[氏/一]云々。これいつくにても、四面に青山ありて、垣のことくにめくれるを、青垣山といふ證なり。たゝなはるは、第二にたゝなはるやははたすらをともよめり。うつほ物語に、御くしよれたるしもに打たゝなはれたるいとめてたし。枕草紙に、かたはらのかたに髪のうちたゝなはりてゆらゝかなるほと、なかさおしはかられたるに云々。舊事紀に、三室の山を、青垣三室山といへり。是は三室の山の名歟。それも四面の群山を垣にたとへていへるか
○玉きはる 内といふ枕言なり。神功皇后紀に、忍熊王の先鋒《サキ》をせし、熊之凝《クマノコリ》か、軍勢をいさましめむとてよめる歌の中にも、たまきはるうちのあそかはらのち《・玉限内朝臣腹内》は|いさこあれや《・沙有哉》なとよめり。是は武内《タケノウチ》宿禰をさして、内の朝臣といへるなり。又忍熊王軍にまけて五十狹茅《イサチ》宿禰と、瀬田濟《セタノワタリ》に沈たまふ時の歌にも、玉きはる|うちあそかかふつものいたておはす《内朝臣之頭槌劍也痛手不負》はなとよみたまへは、ふるきことはなり。此集第五卷、山上憶良か長歌に、玉剋《タマキハル》、内限者《ウチノカキリハ》、平氣久《タヒラケク》、安久母阿良牟遠《ヤスクモアラムヲ》、事母無《コトモナク》、裳無母阿良牟遠《モナクモアラムヲ》とつゝけて、自注(ニ)云、謂《イフコヽコロハ》瞻浮洲(ノ)人(ノ)壽一百二十年也とかけり。此歌の心は玉しゐきはまる内はやすくこともなくわさはひもなくてあらんものをとよみたるなり。おなし卷に、玉きはる命とよめる、同し義なり。内とつゝくるたくひは、命きはまるの詞をかくてよめるにやとそ覺る。かならすうちとつゝけされとも、およそ内のこゝろにきこゆる所にをけり。第十には
 玉きはるわか山のうへに立かすみたちてもゐてもきみかまに/\
第十一には年きはるともよめり
 年きはる世まてさためてたのめぬる君によりてやことのしけゝん
第十七大伴池主か立山の長歌の中には、冬夏とわくこともなく、白妙に雪はふりおきて、いにしへゆ有來にけれは、こゝしかもいはのかむさひ、たまきはるいくよへにけむなとつゝけたり。第一卷に、たまきはるうちの大野とよめる歌に、玉刻春とかけるによりて、顯昭法師十節録を引て、毬杖の玉を春打といふ義に心得られたり。彼御房は博覽の人と見えたれとも、かゝることやうの料簡をこのまれけるこそ、歌のほとにおもひあはせらるれは、引る歌とも内とつゝけぬおほけれは、毬杖の玉の、ひちりこにけかれたるとやらむのやうに、とり所なき説なり。又内を打にかよはすことも、たま/\はさも侍らん。毎度かりたらんにはぬしあらはいとひぬへし
○ものゝふの 八十うち川とつゝけ、第十三には只うち川とのみもつゝけたり。八十うち川とは、宇治を氏にいひなして、ものゝふの氏姓のおほき心なり。八十は數のかきりにて、おほきことには皆八十とよめり。うち川とのみつゝけたるも、八十氏といふより起りて略していへるなるへし。又さらても武士は氏あるものなれは、かくはつゝくへし。舊事本紀を考るに、天孫天より下り給ふ時に、兵杖を帶し供奉して、天の物部廿五部人降れり。當麻《タキマノ》物部、芹田《セリタノ》物部、馬見(ノ)物部、久目(ノ)物部、足田(ノ)物部なと有。其ものゝふの末々相わかれては數しらぬものゝふなるへし
○おしてるや なにはの枕言なり。仁徳紀云。天皇又|歌《ウタヨミシテ》曰。於辭※[氏/一]屡《・臨照》、那珥破能瑳耆《・難波埼》能、那羅弭破莽《・並濱》、那羅陪務《・並將》苔虚層、曾能古破阿利《・彼兒有》鷄梅。この御歌より此枕首はしめて見えたり。おしてると、四もしによませたまひ、此集におなしく四もしにもよみ、またやの字をそへたして五もしにもよめり。此おしてるといふことにつきて、或は押出或は潮照ふるく此兩義あり。先押出の轟はいふにたらさることなり。うしほてるといふ心ならは、しほてるとこそいふへけれ。うしほといへることたにまれなるに、うしてるとたはいはて、音をかよはしておしてるといふことや有へき。みちひるをもやくをもしほとのみこそ聞なれたれ。此説もまたうけられす。今案、第六卷に、超(ル)草香山(ヲ)時|神社忌寸《カミコソノイミキ》老麿(カ)作(レル)歌二首、その中の第二に
 たゝこまの此みちにしておしてるやなにはのうみとなつけゝらしも
先此歌を釋して後に本意をいふへし。いにしへは津の國より大和へこゆるに、河内の國草香山をのみこえなれたりとみゆ。人丸の歌にも
 おしてるやなにはを過て打なひく草香の山をけふみつるかも
神代紀云。戊午年春二月丁酉朔丁未、皇師遂(ニ)東(ニユク)舳艫《トモヘ》相|接《ツケリ》。方(ニ)到(トキニ)難波之碕《ナムハノミサキニ》、會(ヌ)有(テ)奔潮《ハヤキナミ》太(ハタ)急《ハヤキニ》。因(テ)以名(ヲ)爲浪|速《ハヤノ》國(ト)。亦曰浪華(ト)。今謂難波(ト)訛《ヨコナマレルナリ》也。三月《ヤヨヒノ》丁卯朔丙子、遡流《カハヨリサカノホリテ》而上|徑《タヽニ》至(マス)河内國(ノ)草香(ノ)邑(ノ)雲(ノ)白肩《シラカタ》之津(ニ)。夏四月(ノ)丙申朔甲辰、皇師《ミイクサ》勒《トヽノヘテ》兵《ツハモノヲ》、歩(ヨリ)趣(ムク)龍田(ニ)。而其(ノ)路|狹嶮《サクサカシクシテ》人不得|並《ナミ》行(コトヲ)。乃還(テ)更(ニ)欲《オホス》東(ノカタ)踰(テ)膽駒《イコマノ》山(ヲ)而入(ント)中洲《ウチツクニヽ》。時長髄彦聞之曰(ク)。夫天~(ノ)子等《ミコタチノ》所以(ハ)來《メテマス》者、必將(ニ・ストイヒテ)奪(ハント)我國(ヲ)、則盡(ニ)起|屬《シタカヘ》兵(ヲ)徼《サヘキリテ》之於|孔舍衞《クサヱノ》坂(ニ)、與《トモニ》之|會戰《アヒタヽカフ》。○却(テ)至(テ)草香津(ニ)、植《タテヽ》盾(ヲ)而爲(ニ)雄誥《ヲタケル》焉。因(テ)改(テ)號(テ)其津(ヲ)曰盾津(テ)。今云(ハ)蓼津(テ)訛也。かゝれは神武天皇はしめて東征したまひて大和國へいらんとしたまふにも難波より草香へおはしませり。今も舟にて草香まてさかのほりて中|垣外《カイト》越とて、草香山をこえ侍り。老麿、草香山を難波の方へこゆとて、おしてるやなにはの海と名付けらしもといへるは、その心を推量するに、應神天皇輕島豐明宮に天か下をしろしめして、又難波にも大隅宮を造て、はる/\みゆきせさせたまへり、應神起云。二十二年春三月甲申朔戊子、天皇|幸《イテマシテ》難波(ニ)、居於大隅宮(ニ)。丁酉、登(マシテ)高|臺《トノニ》、而|遠望《ハルカニミタマフ》云々。四十一年春二月甲午朔戊申、天皇崩(ス)明《アキラ・アカリ》(ノ)宮、時年一百一十歳。【一云崩于大隅宮。】大隅宮におはしましける時、淡路嶋にみかりしたまひ、それより吉備の國へもみゆきせさせたまひ、なかはゝ大隅宮にて世をおさめさせたまへは、仁徳天皇はしめておしてるなにはとよませたまへり。おしてるといふ心は、此集第六赤人の歌に、あめつちの遠きかことく、日月のなかきかことく、おしてるなにはの宮にわか君の國しらすらしとよまれ、第十一に、おしてるなには菅笠、おきふるし後はたかきんかさならなくにといふ歌に、ともに臨照とかけり。臨は臨御し君臨し給ふ義なり。てるはほむる詞なり。又君をは、禮記にも日にたとへたれは、日の世上をてらしたまふ心にいへるにも有へし。月をよめる歌にも、おしてるといふは此心なり。第七に春日山おしてゝらせる此月とよみ、第八に我やとに月おしてれりとよみ、第十一にまとこしに月|臨照《オシテリ》てとよめり。毛詩には、日《ヒ》居|月《ツキ》諸照臨(ス)下士(ヲ)。まさしく天子の上にいひたるは、垂仁紀云。四年秋九月丙戌朔戊申、皇后母兄狹穗彦王謀反、欲危社稷。因伺皇后之燕居而語之曰。○是以冀(ハクハ)吾(レ)登(テ)2鴻祚《アマツヒツキニ》1、必(ラス)與v汝《イマシ》照(シ)2臨(マハ)天下(ニ)1、則高(シテ)v枕(ヲ)而永(ク)終(ンコト)2百年(ヲ)1亦不(ンヤ)v快乎。顯宗紀(ニ)云。大泊瀬天皇正(シク)統(テ)2萬機(ヲ)1臨2照天下(ヲ)1。魯(ノ)桓公二年(ノ)左傳(ニ)云。君(タル)v人(ニ)者(ハ)將(ニ)《・スルタモ》2昭(カニシテ)v徳塞(テ)v違(ヲ)以臨照(セント)1、猶懼(ル)v或(ンコトヲ)v失(スルコト)之。史記始皇本紀、登(テ)2之罘(ニ)1刻(ム)v石(ヲ)。銘(ニ)云。皇帝東(ニ)游(テ)、巡(テ)登(テ)2之罘(ニ)1、臨2照(ス)于海(ニ)1。文選韋孟諷諌諫詩云。穆々(タル)天子臨2照下土(ニ)1。これら日の光に君の威勢恩惠をなすらへていへり。文選應休l(カ)與(フル)2滿公?(ニ)1書(ニ)云。昨者不v遺猥(ニ)見2照臨(セ)1といへるは、天子ならねと分に人をうやまひてそのきたりとふらはるゝをいへり、をのつからかやうの心にかよひて、父帝の聖徳をもて、大隅宮にても世をおさめさせたまへは、おしてるなにはとのたまへり。されは老麿も、應神天皇の明の宮より難波へみゆきの時、彼草香山を越させたまふにさかしき事もなくて、道のすくにこえやすけれは、彼御世に、おしてるなにはとはなつけゝむといふ心にてよめりときこゆ。臨の字をおすとよむは、威光をもて民の上に臨たまふは、おもき物をもて物を押心なり。又此集に食國とかきておしくにとよめるは、天子の供御をみおしといふ。臣下には禄をはむといひ、公侯をはむといふかことく、天子は天下をもて御食としたまふゆへなれは、此心も通すへし。第二十卷に家持の歌に
 櫻花今さかりなりなにはの海おしてる宮にきこしめすなへ
鹽海をおしてるといふ義にても、此歌を尺せは通すへけれと、おしてる宮といへるはさきのことし。後々なにはならておしてるとよめる歌ともは、誤につけるとしるへし。
○おほともの 御津とつゝけたり。大伴の瑞《ミツ》といふ心なり。瑞は物をほむる詞なり。神武紀に、道臣命の歌に、みつ/\しくめのこらか、かふつゝい石つゝいもちなとよみたまへり。又神武天皇の御歌にも、おなしやうに、みつ/\しくめのこらと、二首よませ給へり。大伴氏の遠祖道臣命、大將として大來目部を率て、凶賊をたひらけられしかは、其功を大將に歸して、大伴の瑞といふ心に.三津とはつゝけたり。亦難波の津を御津と名付る事は.仁徳天皇の后磐之姫、御綱柏を此海に投棄させ給ふゆへに、號2其|地《トコロヲ》1謂(フナリ)御津(ノ)前(ト)也といへり。委古事記風土記等に見えたり。柏を捨させたまふ故は、第二卷に日本紀を具に引たれは、こゝに注せす。
○いさなとり 海とつゝけたり。いさなはくちらなり。とるは.世を取、國を取といふことく、領するなり。淮南子云。鯨鯢(ハ)魚(ノ)之|王《キミナリ》也。魚の中の王にて海をとる心なり。鯨取とかける所あるゆへに、くちらとるともよみきたれと、今の本はみないさなとりとのみよめり。允恭紀云。十一年春三月癸卯朔丙午、幸《イテマセリ》2於|茅渟《チヌノ》宮(ニ)1。衣通(ノ)郎《イラツ》姫|歌《ウタヨミシテ》之曰。等虚辭陪邇、枳彌母阿閉椰毛、異舍儺等利、宇彌能波摩毛能、余留等枳等枳|弘《ヲ》。此歌にすてにいさなとり海とつゝきたれは、これは古語にて、くちらとる海とは、打まかせて字のまゝによみあやまれり。壹岐風土記云。鯨伏《イサフシハ》在2郡(ノ)西(ニ)1。昔者|鮨鰐《ワニ》追v鯨(ヲ)走來(テ)隱(レ)伏。故云2鯨伏(ト)1。鰐并(ニ)鯨並(ニ)化(シテ)爲v石(ト)杳(ニ)去(ルコト)一里。俗(ニ)云(テ)爲2伊佐(ト)1。和名集云。壹岐島、壹岐郡、鯨伏《イサフシ》。神武紀天皇歌云。于?能《ウタ》多伽機《・兎田高城》珥、辭藝和奈陂蘆《・〓羂張》、和餓末菟夜《・我待哉》、辭藝破佐夜羅孺《・〓不障》、伊殊《イス》區波辭《・勇細》、區〓羅佐夜離《・鯨障》云々。此いすくはしはいさくはしなり。此集勇魚取とかける所もあれは、くちらの異名をいさといふも、大魚にていさみあるゆへなれは、いさくはしくちらとつゝけてほむる詞なり。くはしは允恭天皇の櫻をよませたまふ歌に、花くはし櫻のめ云々。此集に花くはし蘆垣こしなとよめるたくひにて、その物々をほむる詞なり。神武天皇の御歌の心は、大和國宇陀郡に兄猾弟狡《ヱウカシヲトウカシ》といふもの.魁師《クワイスイ・ヒトコノカミ》なりけるをめしけるに、弟猾は參けれとも兄猾は參らさりけれは、責たまはんとて、道臣命をつかはして誅したまひける後、弟猾大みきを奉ける時の和歌なり。うたのたかきは.兎田の高城なり。しきわなはるは、鴫|羂《蹄》張なり《・神代紀》。しきわなをはりてしきやかゝるとわかまては、しきはそのわなにさはらて、あらぬくちらのさはれるとは、おもひの外の大軍に城をやふらるゝことは、兄猾か心になりてよませたまへるなり。さやらすは、此集第五に、さはるといふことを、さやれるとよめるにおなし。今の日本紀にさよらすとかんなあり。これにしたかひていはゝ、さはわたるをさわたるなと物によくつけていふ詞なり。よらずは、しぎのよりこぬなり。くちらとるといふよりは、いさなとりは聞所もよけれは、大かたこれにつくへし
○わかくさの つまとつゝけたり。日本紀を考るに、仁賢天皇六年、秋九月己酉朔壬子、遣2日置(ノ)吉士(ヲ)1、使2高麗(ニ)1召(シテ)2巧手者《テヒトヲ》1。是(ノ)秋日鷹(ノ)吉士被v遣後有(テ)2女人《ヲムナ》1、居(リ)2于難波(ノ)御津1哭(テ)之曰(ク)。於v母亦兄《オモニモセ》。於v吾亦《アレニモ》兄。弱《ワカ》草|吾夫《ワカツマ》※[立心偏+可]怜《ハヤ》矣。古者以2弱草(ヲ)1喩2夫婦1。故以2弱草(ヲ)1爲v夫《ツマト》。つまとは夫惰ともにかよはしていふ詞なり。わか草は春草初草なり。わかつまのあかすめつらしき心にてたとふるなり。第三に人丸の長《マサルノ》皇子奉る長歌に、ひさかたのあめみることく、まそかゝみあふきてみれと、わかくさのましめつらしきわか大君かも。此歌も皇子を見奉るに、あかすいやめつらしきといふ心を、わか草によせられたり。又人丸の歌に
 難波人あしひたくやのすゝたれとをのかつまこそとこめつらしき
とこめつらしきは、常にめつらしきなり。春草をは雪まの草のめつらしくなともよみ、又うらわかみねよけにみゆるわか草なといひたれは、つまにたとふるは此心なり
○うつせみの 世とつゝけたり。うつせみの人とも、うつせみの命なともつゝけたり。うつせみはせみのもぬけたるからをいふなり。これによりてうつせみのむなしきからともよみたり。貝のからをうつせ貝といふ、おなしこゝろなり。うつほ木、うつむろなといふたくひ、みな中のむなしきをいへり、蝉のからをとゝめて、ゆくへもなくなるにたとへて、人の世のはかなきをいへる心なり。莊子に、?蛄(ハ)不知春秋と有。注に、?蛄は寒蝉なり。春生れて夏死し、夏生れて秋死すといへり。命みしかき物なれは、それに人の身をもたとへて、うつせみの命ともよめるなり。又此集に、うつせみとのみいひて、世といふ心に用たる歌あるは、あし引、玉鉾の例なり。後撰集六に
 おりはへてねになきくらすうつせみのむなしきこひも我はするかな
これはなく時をうつせみといふにあらす。終にもぬくる物なれは、うつせみといひなれたるにより、せみとのみはもしもいひたらねは、おしてうつせみといへり。聖教に因中設果の例あるに似たり。又此集第十二に
 ともし火の影にかゝよふうつせみの妹かゑめりしおもかけにみゆ
これは蝉鬢をあけて、かほよきをほむるなり。此うつせみといふも、右にいふかことく、もぬけぬ時にたとふれと、因中設果のことゝいへるなり
○かけろふ 燭明抄にくはし
○とふ鳥の あすかとつゝけたり。すなはち飛鳥とかきて、あすかとよめは、はるのひをかすかの里なといふことく、詞をかさねて枕言とせるなり。しかはあれと、飛鳥とかくも春日とかくも、いかなるゆへとつたへきたる事こそなけれ。ゆへなくてはかき侍らし。天式紀を見るに、白鳳十五年、秋七月乙亥朔戊午、改(テ)元(ヲ)曰朱鳥元年(ト)。【朱鳥此云阿訶美苫利】仍名(テ)宮(ヲ)曰飛鳥淨御原宮。此心を案するに、おほしめすよし有て朱鳥と年號を改たまひ、宮の名をも飛鳥淨御原宮となつけさせたまへるなり。仍といふ字の心、朱鳥といふ年號をうけて、飛鳥《トブトリ》の淨御原宮と、飛鳥の詞も此時はしめて名付られたるを、所の名を明日香といへは、これよりしてとふ鳥のあすかともいひ、飛鳥をおさへて、あすかともよむ歟。日本紀に、天武天皇以前にも、飛鳥とかきてあすかとよめる事あれと、養老年中に出來たる日本紀なれは、後をもて昔にめくらして、書給はむ事、さまたけなし。日向は景行天皇の御時より出來たる名なれとも、神代紀にもあるかことし。若舊事本紀なとに、飛鳥とかける事あらは、此料簡あたらすといふへし。いまたよくかんかへす。又仍といふは、飛鳥とかくことはもとよりのことにして、仍淨御原の宮と名付といふ心歟。いまた此間をしらす。はしめて飛鳥のあすかとよめるは、第一卷、元明天皇藤原宮より寧樂宮にうつらせ給ふ時の御歌に
 飛鳥のあすかの里をおきていなはきみかあたりはみえすかもあらん
春の日のかすかとつゝくる心は、すこしもこゝろを得す。かくはしめてつゝけたるは、繼體天皇七年九月に、勾大兄《マカリオヒネノ》皇子《ミコ・ミコミコ》【安閑天皇】春日の皇女《ヒメミコ》に逢たまひてよませ給ふ長歌に、八しま國つまゝきかねて、はるのひのかすかのくにゝ、くはしめを有ときゝて、よろしめを有ときゝて云々。これをはしめとす
○あら玉の 年とも春とも月日とも夜ともつゝけたり。あらたまはあらたまるなり。みなあらたまり行初なれはかくはつゝくるなり。年春なとつゝけたるは不及載之。月とよめる歌、古事記を考るに、尾張國|美夜受比賣《ミヤスヒメ・宮簀姫》か日本武尊に奉る歌にいはく
 たかてる、日のみこ、やすみしゝ、わかおほきみ、あらたまの、年が|きふれ《・來歴》は、あらたまの、月は|きえゆく《・消行》、うへな《・諾》/\、君待|かて《・難》に、我|着せる《・所着》、をすひ《・襲》の|すそ《・裙》に、つきたゝなんよ
此集第十、七夕の長歌に、あめつちとわかれし時ゆ、久かたのあましるしとて、おほきみの天のかはらに、あらたまの月をかさねて、いもにあふ時しを待と云々。同し卷に
 秋はきの下葉もみちぬあらたまの月のへゆけは風をいたみかも
第廿に家持の長歌の中に、あらたまの月日よみつゝ、あしかちるなにはの御津になとつゝけよめり。夜とつゝけたるは、第十二に
 今更にねむや我せこあらたまのまた夜もおちす夢にみまほし
また夜は全夜とかけり。一夜もかけすの心なり。又第十一歌に
 あらたまのす戸か竹垣あみめにもいもし見えなはわかこひめやも
是はあたらしく作りかへたるすとをよめる歟。第十四東歌、遠江の國の歌に、あらたまのきへのはやしとよめるは、彼國の麁玉《アラタマノ》郡にして、今いふあらたまにあらす。まきるへけれは注之
○もゝしきの 大宮とつゝけたり。日本紀には内裏とかきて、おほうちとももゝしきともよめり。禁中には百官の座をさためて、百のしきものある故なりといへり。百官といふも、おほよそつかさ/\おほきをいへり。かならすもゝにたりたるにあらす。大宮とつゝけねとも、百敷とはかりもよめり。位の字をくらゐとよむは、座居《クラヰ》といふ意なり。位階の上下によりて、座もしたかひてさたまれる所あるゆへなり。百敷となつくる心もおもふにかよへり。【百寮とかきてつかさ/\とよめり】
○さす竹の 大宮とつゝけたり。さす竹は竹の名なり。第十一の歌に
 さす竹のはにかくれたるわかせこかわかりしこすはわれこひめやも
又第十三に、刺將燒少屋之四忌屋爾《サスタカムコヤノシキヤニ》、掻將棄破薦乎敷而《カキステヤレコモヲシキテ》なとつゝけたり。しきやは、しこやにて、わひ人のすむみくるしき家の事をいへは、さすたかむとは難波人蘆火たく屋とよめることく、さす竹をたくらんこやといへる心なり。後の歌にさす竹はさゝ竹なりと心得て、定家卿も、衣にすれるさゝ竹の大宮人とよみ給へり。左と須と音通すれは、まことにさすはさゝにても侍るへし。道のへのゆさゝか上とよめるも、五百篠といふ事なり。又百さゝの三野の大君と第十三にあるも、さゝのしけき野といふ心につゝけたれは、禁中の繁昌にもよそへなから、さしあたりては大宮のおほといふをおほき事にいひなし、又おふる事にもいひなす歟にてさゝ竹の大宮とはつゝけたるなるへし。多と大と通したる事はおほし。梵語の摩  河を、大多勝の三字たよりに隨て譯せるをも思ふへし。大と生とをかよはしかけるは、此集第三に、生石村主《オホイシノスクリ》眞人といふ作者あるを、續日本紀の考謙紀には、大石村主眞人と有れは、さゝ竹のおほしとも、生るともつゝくる心歟。さすたけの詞のはしめて見えたるは、日本記二十二推古紀に、廿一年冬十二月、聖徳太子片岡にて飢人にたまへる御歌に、斯那提流箇多烏箇夜摩《・級照片岡山》爾、伊比爾惠《・飯飢》※[氏/一]弖、許夜勢屡《・所反》、諸能《コノ》多比等阿波禮《・彼旅人※[立心偏+可]怜》、於夜那斯《・親無》爾、那禮奈理鷄迷夜《・汝將成哉》、佐須陀氣能《・刺竹之》、枳彌波夜那祇《・君者哉無》。伊比爾惠《・飯飢》※[氏/一]、許夜勢留《・所展》、諸能《ソノ》多比等阿波禮《・彼旅人※[立心偏+可]怜》。此御歌にさす竹の君とのみつゝけさせたまへるは、さすたけの大宮にいます君といふへきを、さす竹の枕言を、やかて大宮といふ心に用て、かくはつゝけさせたまへる歟。此集第十六、竹取翁か歌にも、うちひさす宮のをみなも、さす竹のとねりおとこもとつゝけよめるは、上に内日さす宮のをみなといへることく、さす竹の大宮の舍人男もといふ心なれは、これにおなしかるへき歟
○うちひさす 宮とつゝけたり。是は宮殿の構の高けれは、内に日のさす宮とつゝけたるなり。さま/\にかける中に、内日刺とかけるか、まことの文字なるへし。それも刺は射の字なるへきにや。文選班孟堅か西都賦(ニ)曰。上(テ)2反字《・ソレルノキ》(ヲ)1以葢戴(トシテ)激《ソヽイテ》2日景(ヲ)1以納(ル)v光(ヲ)
○草枕 旅とつゝけたり。又枕詞ならねと、旅の歌に草をむすふ、草枕をゆふなとよめり。野にふし山にふして、枕たになくて草を結ふよしなるか、旅寢のあはれなるなり。日本紀云。藉《マクラトシ》v草《カヤヲ》班《シキヰトス》v荊《シハヲ》。海路の旅には、草枕とはよむましきか。六帖云
 舟路には草の枕もむすはねはおきなからこそ夢も見えけれ
鳥虫なとにもよめり。伊勢か、庭に鈴虫をはなちける時の歌
 いつくにも草のまくらをすゝむしはこゝを旅ともおもはさらなん
新古今集に康資王母の郭公の歌
 ほとゝきす花たちはなのやとかれて空にや草のまくらゆふらん
燭明抄の中に出せる枕言葉の中に此集になきは
 ○あらかねの つち○すく六の 市場○すみそめの 夕○まなつるの 【あいけの馬】○夕月夜【をくらの山】○薦枕 【高瀬の濱】○玉かき 御津○雨ころも【tみのゝしま】○しもとゆふ【かつらき】○吉隱【ゐかひの岡これ第二卷に注す枕詞にあらさるを昔より誤てまくらことはとせり】
 
(以下似閑本ニ無シ)
久か〔二字傍線〕た 足引〔二字傍線〕 玉鉾〔二字傍線〕 ぬは〔二字傍線〕玉 ちは〔二字傍線〕やふる 天さ〔二字傍線〕かる 空み〔二字傍線〕つ 神風〔二字傍線〕 水長〔二字傍線〕鳥 小波〔二字傍線〕のあふみ 朝も〔二字傍線〕よい 青に〔二字傍線〕よし こも〔二字傍線〕りく みけ〔二字傍線〕むかふ 玉た〔二字傍線〕すき うま〔二字傍線〕さかの たゝ〔二字傍線〕なつく【付たゝなはる】 たま〔二字傍線〕きはる 武士〔二字傍線〕の おし〔二字傍線〕てるや おほ〔二字傍線〕ともの いさ〔二字傍線〕とり 若草〔二字傍線〕の 空蝉〔二字傍線〕の かけ〔二字傍線〕ろふ とふ〔二字傍線〕とりの あら〔二字傍線〕たまの 百敷〔二字傍線〕 さす〔二字傍線〕竹の大宮 うち〔二字傍線〕ひさす くさ〔二字傍線〕枕 あら〔二字傍線〕かねの つち すく〔二字傍線〕六の 墨染〔二字傍線〕 まな〔二字傍線〕はらの 夕月〔二字傍線〕夜 こも〔二字傍線〕枕 玉か〔二字傍線〕きの 雨衣〔二字傍線〕 しも〔二字傍線〕とゆふ 吉隱
 
此集の歌を物にたとへは、庭に野山を造るに、山は高く野は廣くして、石をたて草木をうふる事、大かた有のまゝにして、精工をもとめさるかことし。古今集の歌は、右をたて草木をうふる事、やゝおもしろし。山の高さ野の廣さは、すこしたかふ事もや侍らむ。新古今集の歌は、野山の體勢より、石を立、草木をうふるにいたるまて、精工をきはめむとするゆへに、かへりて天然の景趣をうしなふ所有ぬへし。これむかしと今のをのつからしからしむるなるへし
長流か管見抄は、わかゝりし時かけるゆへに、老後にくいて、人にもやふりすてつと申き。しかはあれと、此記彼抄を取用る事おほし。たかへる所も今のあやまり有ぬへし(以上)
 
〔以下早稲田版〕
萬葉集代匠記惣釋 雜説
 
(1)萬葉集代匠記惣釋首卷
 
原書には、惣釋雜説として之を惣釋の尾に置く、今改て首卷とす、目録は原書にはなきを、今假にしるす、
   目録
 雜説                         頁   行
  本朝は神國なる事………………………………………………一………一
  歌の濫觴の事……………………………………………………一………五
  三十一字の句を陰陽の數に配する事…………………………一……一〇
  倭の字の解………………………………………………………二………八
  和歌の功の事……………………………………………………二……一五
  歌を見む人文辭にのみ拘はるべからざる事…………………四……一四
  義訓の事…………………………………………………………五………二
  此書を證する書どもの事………………………………………五………七
  此集に山城の名所をよめるは多くは大和に近き方なる事…六………四
(2)  本書の歌と後世の歌との辨…………………………………六……六
  此集の歌の心得かた……………………………………………六……一三
  歌は神道を本とすべき事………………………………………七………二
  文字の正俗訓義の事……………………………………………七………六
  東歌は五音相通同韻相通をもて見るべき事…………………七………七
  假字|切《カヘシ》に意を著べき事…………………………七……一〇
  本朝唐國及天竺の言語の差別…………………………………七……一五
  此集の時代並に撰者は家持卿なる事…………………………八………五
  訓點の事…………………………………………………………二一……二
  古注どもの事……………………………………………………二一…一〇
  枚正に所用の本どもの事………………………………………二二……二
  古本の不同の事…………………………………………………二二…一三
  此集は古來解し難き書とする事………………………………二二…二四
  部類の事…………………………………………………………二三……七
  卷々に付ての部類の事…………………………………………二四……八
(3)  長歌短歌旋頭歌の事…………………………………………二六……六
  目録の事…………………………………………………………二八…一二
  眞名假名の書やうの事…………………………………………二九……一
  打亂て書中に還て心を著てかける處ある事…………………二九…一五
  古風の詞古風のてにをは………………………………………三一……八
  此集に引ける書の事……………………………………………三二……三
  歌の體の文質の事………………………………………………三三……七
  本朝の音は詳雅なる事…………………………………………三三…一五
  五十音の事………………………………………………………三四……九
  まがひ易き音十七類……………………………………………四〇……一
  集中其物を以即彼假名に用る類………………………………四五……六
  言靈の事…………………………………………………………四五…一〇
 
(1)萬葉集代匠記惣釋首卷
                 僧  契冲 撰
                 木村 正辭 校
 
本朝は神國なり、故に史籍も公事も神を先にしし人を後にせずと云事なし、上古には唯神道のみにて天下を治め給へり、然れども淳朴なる上に文字なかりければ、唯口づから傳へたるまゝにて、神道とて儒典佛書などの如く説おかれたる事なし、舊事紀古事記日本紀等あれども、是は神代より有つる事どもを記せるのみなり、唯朝廷の公事諸社の祭祀に神代の遺風あり、並べての世には、薄らぎながら八雲猶消果ず、傾ぶきながら八重垣猶殘れるのみぞ、神の初めさせ給へる驗なりける、抑|素戔嗚尊《スサノヲノ》尊は此國の主にておはしますべかりしを、常に伊弉册《イザナミノ》尊のまします根の國へ行むとて啼泣《ナキイサチ》たまふ故に、伊弉諾《イザナギノ》尊さらば情のまゝにいねとてやらひやり給ふ、又|神性《カムサガ》猛《タケ》くまし/\ける故に、青山をさへ枯《カラ》山になし給ひけるを、さるほどならばいかでかく和らびたる事をば始めさせ給ひけむ、神の御上は順逆共に凡慮の及ぶべき事にあらず、三十一字は陽數(2)にして、上下二句に天地陰陽君臣父子夫婦等のあらゆる義籠るべし、上句は五七五の三つの陽敦を合せて又十七字の陽數とす、三句も亦陽なり、下句は七七の二つの陽數を合せて十四字の陰數とす、二句も亦陰なり、上下五句を總れば又陰なり上句は長く下句は短きも亦意あるべし、神詠なれば凡情を以て陰陽の數に配當して作るやうにはあるまじけれど、本然の理おのづから然るなるべし、本朝は東海の中に有て陽國なり、陽偏に勝時は剛に過ぐ、日神の乾徳を以て降て坤儀にましますも、後に至て其剛に過べきを兼て防がせ給ふにや、素戔嗚尊の猛※[礪の旁]にして國を治めさせ給ふ事を得給はぬ物から此詠歌の濫觴を殘し給ふも、取々に示させ給ふやう侍るべし、倭は烏和切にて和と音同じきが故に通じて和の字を用、倭の字又の音於烏切、説文(ニ)曰、順貌、和と於と五音通じて義も亦和に通ぜり、日本紀纂疏此義に依て蓋(シ)取(レリ)2人心(ノ)之柔順語言(ノ)之諧聲(ニ)1也と釋せられたるは理に當れり、しかれば本朝は既に和を以て名とすれば云に及ばず、三教も亦柔和を貴ぶ、此故に論語云、禮之用和爲v貴、又云、君子和而不v同《セ》、字書云、儒(ハ)柔(ナリ)也、其教る所知ぬべし、老子(ニ)云、人之生(ル)也柔弱、其死也堅強(ナリ)、萬物草木之生(ル)也柔脆(ナリ)、其|死《カルル》也枯槁(ナリ)故(ニ)堅強者(ハ)死之徒.柔弱者(ハ)生之徒、是以兵強(キトキハ)則不v勝(タ)、木強(キトキハ)則共(ス)、強大(ハ)處(リ)v下(ニ)、柔弱處(レリ)v上(ニ)柔和忍辱は釋教の常談なり、和歌は百錬の黄金の指鐶ともなる如く、以上の道に通ずるのみなら(3)ず、及び世間の人情にも叶へり、藤原有國の和歌序云、用2之(ヲ)郷人(ニ)1焉、用2之(ヲ)邦國(ニ)1、遊讌歡娯之辭、樂(テ)且(タ)康、哀傷貶謫(ノ)之詠、愁(テ)且悲(メリ)、行旅餞別之句、惜而怨(ム)、※[(貝+貝)/鳥]花鳧藻之思、※[立心偏+太]《ヲコロテ》以※[立心偏+喬](レリ)云云、かゝる事をば暫らく置て、先歌は胸中の俗塵を拂ふ玉箒なり、何人のよめるにか、教訓の歌とて百首俗歌の有を昔見侍りし中に、覺えたるは、
   連歌せず歌をもよまぬ其人の、さこそ寢覺《ネサメ》のさびしかるらめ、
ねざめとしも云へるがおかしく侍り、夜深くねざめて思はぬ事なく、思ふに詩歌に心よせむ人は、雪月花の時を戀ひ、琴詩酒の友を慕ひ、或は雲居はるかに郭公をまち、或は枕に近き蟋蟀をきゝ、常なき事をさめにし夢に喩へ、限りある世を殘れる燈によそへて、心うちに動て言外にあらはるれば、松の聲吟に鐘の音和をなせり、彼名を墜《オト》しても利を得む事を貪り、身を傷《ソコナ》ひても富を求めん事を謀《ハカル》輩は、浮べる雲胸の月を隱し、濁れる水心の蓮を越て、守錢の奴彌まどろむ事を得じ、假令儒教を習ひ釋典を學べども、詩歌に心おかざる族は、俗塵日日に堆《ウツタカ》うして、君子の跡十萬里を隔て追がたく、開士の道五百驛に障りて疲れやすし、書舜典云、詩(ハ)言v志、歌(ハ)永v言、聲依v永、律和v聲、禮記云、孔子曰、入2其國1其教可v知(ヌ)也、其爲v人温柔敦厚、詩(ハ)教也、正義云、温謂2顔色温潤1、柔(ハ)謂2性和柔(ナルヲ)1、詩(ハ)依違、諷諫(シテ)不3指2切事情1、故云v爾也、又云、詩之失(ハ)愚(ナリ)、温柔敦厚(ニシテ)而不v愚、則深(キ)2於詩1者也、論語云、鯉趨而過v庭(ヲ)、子曰、學v詩乎、對(テ)曰未(タシ)也、不v學v詩無2以言(コト)1、又云、小子何(ソ)莫(キ)v學2夫《カノ》詩1、詩可(ク)2以興(シツ)1可(ク)2以觀1可(ク)2以群1可2以怨(ミツ)1、邇之事v父、遠(シテハ)之事v君、多(ク)識2鳥獣草木之名(ヲ)1、子夏詩序云、詩者志(ノ)之所(ナリ)v之(ク)也、在v心爲v志、發v言爲v詩(ト)、情動(テ)2於中(ニ)1t而|形《アラハル》2於言(ニ)1、言(フニ)v之不v足、故嗟2歎之1、嗟2歎(スルニ)之1不v足、放(ニ)永2歌之1、永2歌(スルニ)之1不v足、不v知(ラ)2手之舞v之足(ノ)之蹈(トコロヲ)1v之也、情發2於聲(ニ)1、聲成v文、謂2之音1治(レル)世之音、安(シテ)以樂(シフ)、其政利和(ケハナリ)、亂世之音、怨(テ)以怒(ル)、其政乖(ケハナリ)、亡國之音(ハ)、哀(テ)以思(フ)、其民困(シメハナリ)、故(ニ)正2得失1動(カシ)2天地1感(セシムルハ)2鬼神1莫v近《スキタルハ》2於詩(ヨリ)1、先王以v是|經《ツネニシ》2夫婦1成2孝敬1厚(クシ)2人倫1美《ヨクシ》2教化1移(ス)2風俗(ヲ)1、故詩有2六義1焉、一(ニハ)曰v風、二(ニハ)曰v賦、三(ニハ)曰v比、四(ニハ)曰v興、五(ニハ)曰v雅、六(ニハ)曰v頌、云云、淮南子云、温惠淳良(ナルハ)者詩之風、和歌の功も此等に准らへ知べし、古今集の序は詩序の意を用られたり、同序に又云く、俗人(ハ)爭(テ)事(トシテ)2榮利1不v用v詠(スルコトヲ)2和歌1、悲哉悲哉、雖d貴(コト)兼2相將1富(ミ)餘(スト)c金錢u而(モ)骨未(サルニ)v腐2土中1名先(ヅ)滅2於世上(ニ)1、適爲2後世1被v知者唯和歌之人|而已《ノミ》、何(トナレハ)者語近2人耳(ニ)1義慣(ハナリ)2神明(ニ)1也、此詞まことなるかな、世に名の久しく留まるべきは詩人文人なれど、それだに本朝にては初には人麿赤人に並べる名聞えず、中比には貫之躬恒、それより後には定家卿家隆卿、是等の人々に等しく聞ゆるなし、是更に其巧の優劣に依るにあらず、神の始めおかせ給ふと始めおかせ給はぬとに係れり、
孟子云、説v詩者(ノハ)、不2以v文害(セ)1v辭、不2以v辭(ヲ)害(セ)1v志、以v意(ヲ)逆《ムカフル》v志、是爲v得(タリト)v之、如《モシ》以(セハ)2辭|而已《ノミ》1矣、雲漢之詩曰、周(ノ)餘(ムノ)黎民靡v有2孑遺1、信2斯言1也、是周無2遺民1也、是は詩に付ての事なれば説v詩者と云へり、實(5)には萬の書に亘るべし、歌を見む人も是意に依べし、
?牀を唐にかく名付たるは、其葉の生しきたるがうるはしく滑らかにて、?の此上に居たらむは人の牀に居る如く安からむと思ふ意を以て名付たり、此國にひるむしろ〔五字右○〕と云は蛭《ヒル》莚にて、蛭がためにはむしろなりと云心なり、さて唐に?牀と云草の注を見れば此國のひるむしろ〔五字右○〕に當る故にひるむしろ〔五字右○〕と訓ず、?は蛭にあらず、牀は莚にあらざれども、名付たる意は通へり、日本紀此集などの義訓、此意を得て見るべし、
此書を證するには此書より先の書を以すべし、然れども日本紀などの二三部より外になければ爲む方なし、次には古語拾遺、續日本紀、懷風藻、菅家萬葉集、和名集等なり、類聚國史は、世に稀なる書にて見ざれば如何せむ、後の先達の勘文注解のみに依らば、此集の本意にあらざる事多かるべし、意を得て撰び取べし、拾遺集に多く此集の歌を入られたるに誤多きに依て、其後の人迷惑する事多きを以て料り知べし、假令十五卷に新羅使の當所誦詠古歌とあるは、多く人丸の歌なり、此事天平八年にて古歌と云へば、明らかに人丸はそれより先なるに、彼新羅使がよめる歌を三首まで人丸の歌と載れ、剰もろこしにてよまれたる由さへあるにて其餘をも准らへ知べし、是をも信ずべくば何をか信ぜざらむ、
(6)清輔朝臣は、歌も上手なる上、歌學に置ては博覧の人と時にも許され、奥義抄世に出て後は、人皆枕草子とせし由なるに、灌頂卷とて事々しき奥書ある卷を見れば、燕石を珠とせられたる事多し、見る人知べし、此集に付ての事もあり、
此集に、山城の名所をよめるは、多くは大和に近き方なり、後の人今の京に居て今を忘れぬ故に見損じたる事あり、
此集の歌を譬へば、假山を作るに、高く大きにしてなり〔二字右○〕は奇怪ならず、草木は強ても心を入れずして殖渡したらむが如し、古今集の歌は、山の高さ大きさは、くらべ見ば如何侍らむ、なり〔二字右○〕もやゝ面白きやうを作り、草木も心あるさまに植たらむが如し、後の歌のよきは、危峰欲v墮v江(ニ)と作れる如くなるなり〔二字右○〕をいかで作り出てしかなと巧む意、巧拙はあるとも形《アラ》はれたり、草木を植石を立るに尤心を付て景趣多からむとするが如しとおぼゆるはあらずや、此集の歌は神語など交て上古の遺風あり、大方の姿も、詩に准らへば古詩より晋宋の比までに當るべし、
此集の歌を心得むには、いときなき子の片言するを、母の聞なれて意得る如くすべし、實にはさるまじけれど、今の耳には詞足らずして片言のやうに聞ゆるがあるを、かくは喩へて云なり、
(7)此集を見は古の人の心に成て今の心をも以て見るべし、
神道は佛法にも儒道にも替れる處ある歟、日本紀等を披き見て知べし、然も應神天皇の御世に儒教來り、欽明天皇の御世に佛道到れり、其後王臣共に是を相兼用て世を治たまへば.反きて叶ふ故あるべし、歌を見む人は神道を本として儒佛を兼て取捨せぬ心あるべし、
此集は文字の正俗を正さず、又今の字書を以て考へ見るに意得がたき事あり、失たる昔の字書も多かるべければ妄りに議すべからず、又時々和字も交れり、第十四東歌は、五音相通同韻相通をもて意得てよむべし、又濁音多し心を付べし、第二十の諸國防人歌も東歌なれば右に同じ、
假名切《カヘシ》に意を著べし、假令|吉野在《ヨシノナル》、吉野有《ヨシノナル》などかけるは、爾をば吉野に讀付たるなり、吉野にあると讀べきを、爾阿反《ニアノカヘシ》奈なる故に、在の字、有の字に、ナルの假名を付たり、有〔右○〕の字に成〔右○〕と云字の如く、本來なる〔二字右○〕と讀べき理あるにあらず、吉野|爾有《ナル》、吉野|爾在《ナル》などあるも是に准らへて知べし、是は云べきほどの事ならねど、極めて初心の人のために注す、此意を得れば常の歌にも益あり、
唐には理を先に云ひて事を後に云ひ、本朝には事を先に云ひて理を後に云ふ、此故に(8)彼方の書をよめば返りて讀なり、假令花を見、月を待と云を、彼方には見花、待月とかく故に、返らざれば、見る花を、待つ月を、にて字ごとに句となりて、此方にては此方の言に讀ても聞よからぬなり、初の五文字に思ひきやなどおけば、一首の意は下より返れど、一句は云ひ下すなり、梵語の法は多く本朝に似たり、
此集は古來勅撰とは定めて、何れの帝の勅、誰人の撰と云に付て異義まち/\なり、爰に拾芥抄云、京極中納言入道抄云、押紙、萬葉集時代事、近代歌仙等多雖v有2喧嘩相論事等1、粗伺(ニ)2集(ニ)之所(ヲ)1v載(ル)、自2第十七卷1、似(タリv注2付(ルニ)當時出來歌(ヲ)1、事體見v集、第十七、自2天平二年1至2于廿年1、第十八、自2天平廿年三月廿三日1、至2同勝寶二年正月二日1、【今云、考v集二日後、自2同五日1至2二月十一日1載v之、】第十九、自2同年三月一日1、至2同(シキ)五年正月廿五日1、【今云、考v集二月廿五日也、疑傳寫誤、】凡(ソ)和漢書籍、多以v所2注載1爲2其時代書(ト)1、何抛2本集之所1v見(ユル)徒勘(カヘン)2他集之序(ノ)詞1哉、頗似v無2其謂1、撰者又無2慥(ナル)説1、世繼物語云、萬葉集(ハ)高野御時諸兄大臣奉v之、云々、但件集橘大臣薨之後多(ク)書v之(ヲ)、似(タリ)2家持卿之所1v注(スル)、尤以不審、以上定家卿の義なり、大臣は勝寶九歳正月六日に薨じ給ひければ、第二十卷に同三月四日に大原眞人今城の宅にて家持のよまれたる足引の八尾《ヤツヲ》の椿と云歌より卷軸に至るまでの歌の事なり、今此定家卿の抄を見て、是に心著て普く集中を考へ見るに、勅撰にもあらず、撰者は諸兄公にもあらずして、家持卿私の家に若年より見聞に隨て記しお(9)かれたるを、十六卷までは天平十六年十七年の比までに。廿七八歳の内にて撰び定め、十七卷の天平十六年四月五日の歌までは遺たるを拾ひ、十八年正月の歌より第二十の終までは日記の如く部を立ず、次第に集めて寶字三年に一部と成されたるなり、今見及ぶ所を出して其由を證すべし、第二云、大伴宿禰娉2巨勢郎女1時歌一首、此大伴宿禰は、官本に依に大納言安磨卿なり、凡そ集中の例大納言以上には名をかゝざれば、第四に同じ人を大納言兼大將軍大伴卿と書て名をかゝぬは理なり、今は微官の時の歌なるを名をかゝぬは、私の家に祖父を貴びてなり、勅撰ならば假令家持此を奉はるとも名を記《シル》さゞる事を得じ、第三云、暮春之月幸2芳野離宮1之時中納言大伴卿奉v勅作歌一首并短歌、是は大納言旅人卿いまだ中納言の時も名をかゝざるは父を尊びてなり、同卷に中納言安倍廣庭卿歌とかけるに合せて意得べし、石上大夫歌一首、歌後注云、右今案石上朝臣乙麻呂任2越前國守1、蓋此大夫歟、弟麻呂卿は勝寶二年まで存命なりければ、勅撰ならばかくの如く不審あるべからず、同卷云、天平十一年己卯夏六月大伴宿禰家持悲2傷亡妾1作歌、此つゞき弟書持和等十三首、他人の筆にあらず、十六年甲申春二月安積皇子薨之時内舍人大伴宿禰家持作歌六首、此歌をよまれたる日の注も他人の筆にあらず、家持の内舍人と成られたるは天平十二年よりなり、第六に見えたり、令に、内舍人(10)は廿一歳以上にて任ずと見えたれば、十六年には家持廿六七歳なるべし、十七年の歌は集中に一首も見えざれば、第十六までは十七年に撰せられたるかとおぼしきなり、同卷云、悲2傷死妻1高橋朝臣作歌、歌後注云、右三首七月廿日高橋朝臣作歌也、名字未v審、但云2奉膳之男子1焉、是は上を承て天平十六年七月廿日なり、若聖武天皇の勅撰ならば、其當時の臣下名字未v審と云ことあらむや、卷第四云、右郎女者佐保大納言卿之女也云云、是は當時現存の人なれども家持の姑《ヲハ》なる故に、坂上郎女と云ことをかく委注するなり、假令家持の奉《ウケタマ》はられたりとも私ならずばかくは注する事を得られじ、同卷云、天皇賜2海上《ウナカミノ》女皇1御歌一首、歌後注云、石今案(スルニ)此擬v古之作也、但以徃當v便、賜2斯歌1歟、是は聖武の勅撰に非ず、私に集むる證なり、同卷云、天皇思2酒人女王1御製歌一首、又云、八代《ヤシロノ》女王獻2天皇1歌一首、獻2天皇1歌一首、獻2天皇1歌二首、此等孝謙天皇の勅撰ならず、當時を私に記する證なり、夏葛之不絶使乃不通有者《ナツクスノタエヌツカヒノカヨハザレハ》云云、此歌左注云、右坂上郎女者、云云、戀戀而相有物乎月四有者《コヒコヒテアヒタルモノヲツキシアレハ》云云、此注云、右大伴坂上郎女之母云云、委彼卷に至て見るべし、此等の注勅撰にあらず家持の親族の故に私に委注せらるゝなり、更に他人の筆とは見えず、大伴坂上郎女、從2跡見庄1贈2賜留(マル)v宅女子大孃1歌一首并短歌、歌後注云、右(ノ)歌、報2賜大孃1歌也、又云、大伴坂上郎女從2竹田庄1贈2賜女子大孃1歌二首、賜の字は、説文、徐曰、上|与《アタフルヲ》v下(ニ)曰v賜(ト)、下獻(ツルヲ)v上(ニ)曰v貢(ト)、(11)されば此字は私の家には尊ぶ人に用ゐれども、勅撰ならば君の臣下に物を給はるにあらずば用まじき字なるを、今かく書たるにて私撰なる事を知べし、下にも此字を用たるをば此に准らへて知べし、第五に歌の意を顯はす序、詞書などの外、詩文を交へ載たるは勅撰の體にあらず、第六云、天皇賜2酒節度使卿等1御歌一首并短歌、是聖武帝の御代に撰て孝謙帝の勅にあらぬ證なり、歌後注云、右御歌者或云太上天皇御製也、此太上天皇は元正天皇なり、此注私撰の證なり、天平六年甲戌春三月、幸2于難波宮1之時歌六首、第一歌後注云、右一首作者未v詳、此注聖武天皇の勅撰にあらぬ證なり、若後に至て作者を失ひたらば其由を注すとも未v詳とは云べからず、天平八年冬十一月、左大辨葛城王等賜2姓橘氏1之時御製歌一首、歌後注中云、或云此歌一首(ハ)太上天皇(ノ)御歌(ナリ)、但天皇皇后御歌各有2一首1者(テヘリ)、其歌遺落未(タ)v得2探求1焉、此注兩帝の勅撰にあらず諸兄公|奉《ウケタマ》はりて撰び給はぬ堅き證なり、天平十年秋八月二十日宴2右大臣橘家1歌四首、此端作右大臣を敬へる詞なれば勅撰にあらず諸兄公撰者ならぬ證なり、第三首の注云、右一首右大臣傳云、故豐島采女歌、此注諸兄公撰者にあらずして家持の撰せられたる證なり、又諸兄は天平十年正月に右大臣となり、十五年五月に左大臣と成たまひたるに、今右大臣と云ひ、故豐島采女と云は、此宴に在し豐島采女死して後天平十五年までに諸兄公の家特に語り(12)給へるを記されたるなり。諸兄公の家持にうるはしかりける事は此より後徃々に見えたり、第四首注云、右一首右大辨高橋安磨卿語云故豐島采女之作也云云、是も安麿其宴の衆にして有つる事を後に家持に語られける故、初に四首と云ひて一處におかるゝなり、十一年己卯天皇遊2※[獣偏+葛]高圓野1之時云云、是亦當時を記して孝謙天皇の勅撰にあらぬ證なり、十二年庚辰天皇御製歌一首、上に准らへて知るべし、丹比屋主眞人歌一首、後注云、右案此歌者不d有2此行宮1之作u乎、所2以然言1v之、勅2大夫1、從2河口(ノ)行宮1還(テ)v京(ニ)勿(ント)v令v從v駕焉、何有(ムヤ)d詠2思泥(ノ)埼1作(ルコト)1v謌哉、家持此度御供にて前後の歌日記の如くなるに、其時承はられたる口勅をかく記されたれば、誰か此集を家持の撰にあらずと云事を得むや、次卷、悲2寧樂京故郷1作歌一首并短歌、云云、終云、右二十一首田邊福磨之歌集中出也、福麿は第十八に家持越中守たりし時左大臣橘家の使として天平廿一年三月に越中へ下りし人なり、然るを今かく記されたるは集中に見聞する所を委記して後の疑なからむ事を兼て思ひ計らはれたれば、福麿の集られたる當時の集なれども引て證とするなり、第七云、大海爾荒莫吹《オホウミニアラシナフキソ》云云、是より下七首の後に注して云、右七首者藤原卿作(ナリ)、未(タ)v審(ニセズ)2年月(ヲ)1、是は藤原北卿なるを北の字を落せるか、彼處に委注するが如し、北卿は房前にて天平九年まで現存なりければ、勅撰ならば年月も知らるべきにや、第八卷云、天皇御製歌二首、又(13)云。遠江守櫻井王、奉天皇歌一首、天皇賜2報和1御歌一首。此等上に云ふ如く當時記せる詞にて孝謙天皇の勅撰にあらざる證なり、秋雜歌、右大臣橘家宴歌七首、次同奈良磨結集宴歌、後注云、以2前冬十月十七日1集2於右大臣橘卿之舊宅1宴飲也、此等勅撰にあらず、諸兄公撰者ならぬ證なり、冬雜歌太上天皇御製歌一首、天皇御製歌一首、歌後注云、右聞v之(ヲ)、御2在(マシテ)左大臣長屋王佐保(ノ)宅1肆宴御製(ナリ)、是私撰にして勅を奉はらぬ詞なり、御2在西池邊1肆宴歌一首、注云、右一首作者未v詳、但竪子阿倍朝臣蟲麻呂傳2誦之1、是又私撰の詞なり、藤原皇后奉2天皇1御歌一首、上に云如く孝謙天皇の勅撰にあらざる證なり、皇后をも孝謙天皇の御世と成ては太后と改てかけり、第九云、思2娘子1作歌一首并短歌、後注云、右三首(ハ)田邊福麻呂(カ)之歌集出、又云、過2足柄(ノ)坂(ヲ)1見(テ)2死人1作歌一首、是より七首まで注して云、右七首田邊福麿之歌集出、是第六の福麿之歌集(ノ)中(ニ)出(ルナリ)也と云を注せしが如し、第十二、於能禮故所罵而居者云云、注云、右一首平群文屋朝臣益人傳云、昔聞云云、是勅撰の詞にあらず、第十四卷終云、以前歌詞未v得3勘2知國土山川(ノ)之名1也、今按勅撰ならば其時は此中に猶勘がへ知る處あるべきにや、第十五云、天平八年丙子夏六月、云云、次云、中臣朝臣宅守云云、聖武紀を考ふるに天平十二年六月に大赦ありて穗積朝臣老等は召返されけれども、石上乙麻呂、中臣(ノ)宅守等(ハ)不v在2赦限1と見えたり、宅守の配處は越前にて、近流なるに大赦に漏ら(14)れけるは、天平十一年などに流されて餘り程もなければ赦し給はざりけるにや、右の天平八年丙子と云に次で某年某月日とも云はで載たるも當時の事なればなるべし、然らば孝謙天皇の勅にあらざる證なるべし、第十六云、安積香山影副所見山井之《アサカヤマカケサヘミユルヤマノヰノ》云云、注云、石歌傳云葛城王(ヲ)遣(ハス)2于陸奥國(ニ)1之時國司祇承緩怠異甚云云、葛城王は橘諸兄の初の名なり、彼大臣此集の撰者にあらざる證據なり、第十七は初天平二年十一月の歌より十六年四月五日までの歌は第十六卷までを撰て、後遺たるを拾へる歟、其故は第三に天平十六年の挽歌を載せ、第四にも往々に年月を注せる相聞あり、第六に養老七年より天平十六年まで專年に繋べき雜歌を載せ、第八にも天平十五年まで往々に四季に繋べき歌を載たり、さて十七年の歌はなくて十八年正月よりの歌は第二十の終寶字三年正月一日の歌まで次第に日記の如くなればなり、遺れるを拾ふ中に十年七月七日之夜云云、歌後注云、右一首大伴宿禰家持、勅撰ならば題の夜の字の下に注の姓名をば書べきなり、追和2太宰之時梅花1新歌六首、後注云、右天平十二年十一月九日、大伴宿禰家持作、此は第五卷に帥大伴卿宅にて各梅花をよめるを和せらるゝなれば、勅撰ならば題のやう今少替るべきにや山部宿禰赤人詠2春※[(貝+貝)/鳥]1歌一首、後注云、右年月所處、未v得2詳審(ニスルコトヲ)1、但隨2聞之時1記載2於茲1、是家特の私撰の詞なり、天平十八年正月云云、藤原豐成朝臣云云、(15)右件王卿等、應v詔作v歌、依v次奏v之、登時不v記2其歌1漏矢云云、是家持の私撰の證なり、勅撰ならば諸王卿の歌|御許《ミモト》には失ざるべき故に出させ給ふべし、又各私にも記しおかるべし、朝元が事家持のまのあたり知られたる事なる故に記されたり、大伴宿禰家持、以2天平十八年閏七月1云云、更贈2越中國1歌二首云云、此より第十九、玉桙之道爾出立徃吾者云云、此に至るまでは皆越中にての作或見聞の歌なり、是皆家持私撰の證なり、集中此に依て委は出さず、見る人味て知べし、其中に第十七に大伴池主が家持の歌を和する詞書に敬の字をおき、高市連黒人謌一首年月不審、後注云、右傳2誦此謌1三國眞人五百國是也、是私撰の證なり、第十九云、爲2家婦贈2在京尊母1所v誂作歌、大伴氏坂上郎女從2京師1來、賜2女子大孃1歌、此等私の家の詞にて勅撰にあらざる證なり、第十九云、右一首歌者幸2於吉野宮1之時藤原皇后御作、但年月未2審詳1十月五日阿邊朝臣東人傳誦云v爾、春日祭神之日、藤原太后御作歌一首等云云、後注云、右件歌者傳誦之人越中大目高安倉人種麻呂是也、但年月次者、隨2聞之時1載2於茲1焉、此右件歌と云に八首ある中に、前五首は藤原朝臣清河を遣唐使とせらるゝ時の歌にて當時の事なるを、かく注せられたるは兩帝勅撰にあらずして家持の私撰なる證なり、又家持と池主との贈答(ノ)書或は序を具したる詩なども交え載られたるは勅撰の體にあらず、又第十七の末、勝寶元年十一月十二日に大伴池(16)主より家持へ贈らるゝ書并に戯歌より、第二十の終に至るまでの歌ある事は聖武天皇の勅撰にあらざる證なり、第十九云、十月二十二日、於2左大辨紀飯麻呂朝臣家1宴歌三首、初二首注云、右一首治部卿船王傳2誦之(ヲ)1久邇京都時(ノ)歌、未(タ)v詳2作主(ヲ)1也、右一首、左中辨中臣朝臣清麻呂傳誦(ス)古京時(ノ)歌也、是を初として家持歸京の後の歌も皆家持の注にて悉私撰の證なれば更に煩らはしく出すべからずと云へども、初心の童蒙のために畧して要なるを擧べし、壬申年の之亂平定以後歌二首、注云、右件二首天平勝寶四年二月二日聞v之(ヲ)即載2於茲1也、閏三月於2衛門督1云云、注云、右件歌傳誦云云、是家持の詞なり、勅2從四位上高麗朝臣福信1云云、後注云、發2遣勅使1并賜v酒、樂宴之日月未v得2詳審1也、當帝の御歌をかく注せるは、私撰にあらずば如何とか云はむ、十一月八日、在2於左大臣橘朝臣宅1肆宴歌四首、此中に左大臣の歌注して云、右一首、左大臣橘卿、是左大臣を貴びて書たれば勅撰ならず、左大臣撰者にあらぬ證なり、左大臣換(テ)v尾云、伊伎能乎爾須流、然(フシテ)猶喩曰、如v前誦v之也、是は林王宅にて奈良麿朝臣の但馬案察使に赴むかるゝに餞せられける時、家持の歌の落句息の緒に思ふとあるをいきのをにすると改られば然るべきかと左大臣の宣まへるなり、是家持の私撰の詞なり、然るを仙覺是を以て左大臣當集の撰者にて家持も相加はられたる證とす、是は別時の宴席の事にて此集に預かる事にはあらず、され(17)ど左大臣の撰者ならぬ證とはなるなり、十一日、大雪落積(コト)尺有二寸、因述(ル)2拙懷1歌三首、終(ニ)云、但此(ノ)卷(ノ)中不v※[人偏+稱の旁]2作者名字1徒録(セルハ)2年月所處縁起1者、皆大伴宿禰家持裁作(セル)歌(ノ)詞也、是家持の私に集られたる證なり、此卷を以て他卷皆效て知べし、第二十にも今と同じく家持の歌に拙懷とかける事兩處あり、家持の歌にのみ此謙退の詞あり、知るべし他人の撰にあらずと云ことを、第二十云、右天平勝寶五年五月、在2於大納言藤原朝臣之家1時、依v奏v事而請問之間、少主鈴山田史土麿語2少納言大伴宿禰家持1曰、昔聞2此言1即誦2此歌1也、是家持の詞なり、同月二十五日、左大臣橋卿、云云、歌後注云、右一首少納言大伴宿禰家持云云、初の端作は諸兄公の撰にあらざる證なり、注は家持の撰せられたる證なり、天平勝寶七歳乙未、相替遣2筑紫1諸國防人等歌、防人は兵部省も此事に預る官なるに、家持此時兵部少輔にて難波へ下りて沙汰せられける故に此度の防人の歌を悉得て拙劣なるを捨て撰び取て載られたるも家持の撰ばれたる證なり、右八首昔年防人歌矣、主典刑部少録正七位上磐余伊美吉諸君抄寫贈2兵部少輔大伴宿禰家持1、是自注の詞にて勅撰にあらざる證なり、右件四首上總國大掾正六位上大原眞人今城、傳誦云v爾、是家持の私の詞なり、同月十一日左大臣橘卿云云、是左大臣撰者にあらざる詞なり、天平元年班田之時使葛城王云云、後注云、右二首左大臣讀v之(ヲ)云v爾、【左大臣(ハ)是葛城王後賜2橘姓1也、】是左大臣撰者にあらずし(18)て家持の私撰の詞なる證なり、勝寶八歳三月七日、云云、後注云、右一首式部少丞大伴宿禰池主讀v之即云、云云、是家持の詞なり、保利江己具伊豆手乃船乃《ホリエコクイツテノフネノ》等云云、右三首江邊作v之、第十九の終の注に准らふるに家持の私撰なる故にかくみづからの歌は名をもかゝでをかるゝ事あり、喩v族歌一首并短歌、左注云、右縁2淡海異人三船讒言1云云、勅撰ならば同時の名人のかやうにはかゝるべからす、右一首兵部少輔大伴宿禰家持後日追2和出雲守山背王歌1作v之、又云、右件四首傳讀、兵部大丞大原今城(ナリ)、又云、右一首、云云・主人大原今城傳讀云v爾、此等皆家持の詞なり、又此大原今城宴は勝寶九載三月四日なり、今年八月改元ありて寶字元年と成れり、橘左大臣は今年正月六日に薨じ給ひたれば此三月四日歌より卷の終に至るまでの歌ある事は左大臣撰者ならぬ證なり、二年春正月三日召2侍從竪子王臣等1云云、細注云、未v得2諸人之賦詩并作歌1也、是家持の私撰の詞なり、勅撰ならば何ぞ此詞あらむや、右一首爲2七日侍1v宴右中辨大伴宿禰家持豫作2此歌1但云云、是家持の私の詞なり、勅撰の詞にあらず、此外能心を著ば猶いくらもあるべし、然れば何となき注までも皆家持の詞なり、凡家持の歌は年月所處等を記されたる事集中に亘て他人よりも委し、歌數もまた他人の類にあらず、能々首尾を見合せば迷へる心風度て雲消え、疑がへる思春到て凍解べし、
(19)問新義の據《ヨ》る所誠に其謂ありといへども舊説に習へる心なれば其執いまだ遣がたし、其所以は新撰萬葉集序云、夫萬葉集者古歌之流也云云、於v是奉2綸※[糸+悖の旁]綜緝(スル)之外更在2人口1、盡以撰集成2數十卷1、装2其要妙1※[韋+媼の旁]※[櫃の旁]待v價、云云、此開端は文選班固兩都賦序(ニ)、或曰賦者古詩之流也、と云へるに傚てのたまへば、菅家の御心此集は大同天子勅撰なりと思召けるにあらずや、古今集雜下云、貞觀の御時萬葉集はいつばかり作れるぞと問はせたまひければよみて奉れる、      文屋ありすゑ、
   神無月しぐれ降おけるならの葉の、名に負宮のふることぞこれ、
又同じ集の序云、古よりかく傳はるうちにもならの御時よりぞ弘まりにける云云、これよりさきの歌を集めてなむ萬葉集と名付られたりける、云云、眞名序云、昔平城天子詔2侍臣1令v撰2萬葉集1云云、源順家集云、そも/\順梨壺にて奈良の都の古《フル》歌讀とき撰び奉りし時には云云、本朝文粹第十一、藤原有國讃2法華經廿八品(ヲ)1和歌序云、或應v詔以(テ)撰2録古今1、或起v意以編2次新舊1、興v自2萬葉集1、至2于諸家集1、卷軸已(ニ)多源流寔繁(シ)、榮華物語月宴云、昔高野女帝の御代天平勝寶五年には左大臣橘諸兄卿大夫等集りて萬葉集を撰ばせたまふ、後拾遺集序云、奈良の帝は萬葉集二十卷を撰て常の翫物としたまへり、此外先達の説々蘭菊なり、此等の説いかでか悉誤ならむ、請委く評議して我舊執を遣り、并せて(20)將來の疑を除け、答て云、内奥に公論あり、法に依て人に依らざれと云へり、智者の千慮に必らず一失あり、駿き馬の時に躓《ツマツク》事あるが如し、愚者の千慮に必らず一得あり、鈍き刀の時に割こと有が如し、時に割けども干將見て是を鋭しとせず、或は躓《ツマツケ》ども伯樂知て是を駑《オソ》しとせず、如何となれば各其分あればなり、然れども暗き人は毛羽を生じて過を掩はむとし、毛を吹て疵を求めんとす、是何ぞ君子の心ならひ、影を捉る猴の勞して功なき事を悟り、聲に吠る犬の喧して實なき事を知て早く黔婁が衣を引ことを止むべし、倩事の意を案ずるに、寶字より景雲の比までは朝廷に多く事ありて人の心穩ならねば歌の聲も息める歟、光仁天皇は明主にてまし/\けれども、和歌をば好ませ給はざりけるにや、田原天皇の御子|等《タチ》の歌何れも此集にあれば、此天皇|當初《ソノカミ》の御|諱《イミナ》白壁王《シラカベノオホキミ》にてまし/\ける時の御歌あらば尤載べき事なるに一首も見えず、其後の集にも聞えねばかくは疑がふなり、諸臣も是に依て詠ずる事を物うくしける歟、桓武天皇より後數朝此道廢れたるが如し、平城嵯賊淳和仁明の四朝中にも、嵯峨天皇は詩文を好ませ給ひける故に姫宮に至るまで詩をのみ作らせ給ひき、かくの如く久しく用ゐられざりける間に此道の傳絶けるに依て、さしも誤るまじき先賢も世に云ひ傳る妄傳をさにこそと受て、能此集を考がへ見るまでの事もなくて勅撰と定めて、撰者も夕(21)月夜曉やみのおぼつかなくて誰彼とは云けるなるべし、
此集の根本の點は、天暦の帝の勅に依て梨壺の五人是を奉はれり、順家集云、天暦五年宣旨ありて初てやまと歌撰ぶ所を梨壺におかせ給ひて古萬葉集よみとき撰ばしめ給ふなり、召をかれたるは河内掾清原元輔、近江掾紀時文、讃岐掾大中臣能宣、學生源順、御書所預坂上|望城《モチキ》なり云云、又云、抑順梨壺には奈良の都のふる歌よみときえらび奉、かゝれば此時の點はよかるべきを其後失けるにや、仙覺抄に古點とて出して字點相叶はざるを改られたる處多し、誠に古點に不審なる事多し、今流布する本の點は、仙覺諸家の名本を集て度々校合し、新點をも加へられて其功すくなからず、然れども仙覺の點にも亦不審なきにあらず、各其處に沙汰するが如し、
此集を注するは八雲御抄云、萬葉集抄、【五卷抄、貫之撰云云、二十卷抄、不v知2撰者1、】此後仙覺律師一部に亘て抄せらる、八雲御抄に五卷抄と注せさせ給へるをば袋草子には彼序を引に不v知2作者1と云へり、奥儀抄などにも序をのみ引て其外引たる事なければ本は早くより失て序のみ殘たる歟、二十卷抄と注せさせ給へるは顯昭の袖中抄等にまれ/\引かれたる萬葉抄と有本歟、其義を見るにはか/”\しき物とはおぼえず、仙覺抄は簡略なる上おぼつかなき事のみある物なり、此外は奥義抄袖中抄などに、此集の中の歌を拔出して注し(22)たる類はあれど、一部に亘て注したる人はなきにや、
今注する所の本は世上流布の本なり、字點共に校合して正す所の本は一つには官本、是は初に返して官本と注す、八條智仁親王禁裏の御本を以て校本として字點を正し給へるを、中院亞相通茂一卿此を相傳へて持給へり、水戸源三品光圀卿彼本を以て寫し給へるを以て今正せば官本と云彼官庫の原本は藤澤沙門由阿本なり、奥書あり、二つに校本と注するは飛鳥井家の御本なり、三つに幽齋本と注するは阿野家の御本なり、本是細川幽齋の本なれば初にかへして注す、四つに別校本と注するは、【正辭云、以下文缺く按ずるに水戸家にて校合せるものを云へるなるべし、】五つに紀州本と注するは紀州源大納言光貞卿の御本なり、此外、猶考がへたる他本あれど煩らはしければ出さず、三十六人歌仙集の中に此集の中の作者には人麿赤人家持三人の集あり、共に信じがたき物なれど古くよりある故に引て用捨する事あり、又六帖に此集より拔出して撰入たる歌尤多し、又代々の勅撰に再たび載られたる歌多し、見及ぶに隨て引て互に用捨せり、
古本の不同を云はゞ、第二十卷の仙覺の奥書に詳なるが如し、
此集は古來解し難き書とする事を云はゞ、新撰萬葉集序(ニ)云、夫萬葉集(ハ)古歌之流也、非v未(タ)《・サルニハ》3甞稱2警策之名1焉、况(ヤ)復不v屑(トセ)2鄭衛之音1乎、聞説(ラク)古(ニハ)飛文染翰之士、興詠吟嘯之客、青春之(23)時玄冬之節、隨(テ)v見(ルニ)而興既作(リ)、觸v聆《キヽニ》而感|自《オ》生、凡厥(レ)所2草稿1不v知2幾千(トイフコトヲ)1、漸尋2筆墨之跡1、文句錯亂、非v詩(ニモ)非v賦、字對雜糅、難v入難v悟、所v謂仰彌々高鑽(ハ)彌堅者|乎《カ》、然(レトモ)有v意者(ハ)進無v智者退(ソク)而已、新古今集序云、彼萬葉集は歌の源なり、時移り事隔たりて今の人知こと難し、同眞名序云、彼上古之萬葉集者、盖是倭歌之源也、編次之起因、准2之儀皇序1、惟※[しんにょう+貌]煙欝難v披(キ)、かくの如くなれば古賢猶是を難しとす、末代の今に至て誰か知やすからむ、今注する處其誤まれるを宥《ユル》して其闕たるを補なふ人あらば我が幸なるべし、
部類を云はゞ雜歌、相聞、譬喩、挽歌の四種あり、雜歌は後の、撰集の雜部に同じ、第八第十に別に四季雜歌あり、四季相聞等を雜糅する故に雜歌と云にはあらず、若まれ/\さる歌の雜はるは、それはいまだ草稿の故と思ふべし、相聞は後の戀部に當れり、古今集の戀部はひたすら男女の中に限れり、其後はまれ/\は男女の中ならぬも見えた、今集は親族朋友にも亘れり、されど本とする所は男女の中なり、譬喩は萬に亘てある事なれど、此集に云へるは男女の相聞に付てなり、但第三に沙彌滿誓の足柄山の舟木に寄せられたるのみ、相聞にはあらじとおぼえ侍る、委は彼處に云が如し、物に寄又此をば別に開くは第三第七に依てなり、挽歌は後の哀傷なり、玉篇云、挽、亡遠切、引也、與v輓同、禮記檀弓下(ニ)云、弔2於葬者1、必(ラス)執v引《・クルマノアナ》、若從2柩《ヒツキ》及(ヒ)壙《フカアナニ》1皆v※[糸+弗]《・ヒツキナハ》、左傳云、晋(ノ)之喪事、敝邑之間先君有(24)v所v助執v※[糸+弗]矣【※[糸+弗]、輓索也、禮送(ニハ)v葬必(ラス)執v※[糸+弗](ヲ)】捜神記云、挽歌者喪家之樂、執v※[糸+弗]者相和(スル)之聲、【注云、※[糸+弗]引v柩索也、】文選注、李周翰曰、田横自殺從者不2敢哭(セ)1、而不v勝v哀(ニ)故(ニ)爲《ツクツテ》2悲歌1以寄(ス)v情、後廣v之爲2薤露蒿里歌1以送v終、至2李延年1分爲2二等1、薤露送2王公貴人1、蒿里送2土大夫庶人1、挽v柩者歌v之、因呼爲2挽歌1、今の挽歌此に准らへて知べし。若四季を雜歌相聞を云はず別部とせば先に合せて八部なり、古今等の勅撰は四季を初とせるを、今のかく云事は第三以下に急きてもおかず〔七字左○〕、又春歌夏歌などもかゝずして春雜歌春相聞歌と立たれば、四季をあながちに肝要とはせぬにやとおぼしければなり、
卷々に付て部類のやうを云はゞ、第一は某宮にして天下知しめせる天皇代と表して泊瀬朝倉宮より寧樂宮に至るまで次第に雜歌を載たり、第二は第一と同じやうにて二部あり、初には難波高津宮より藤原宮の御宇に繋る相聞を載せ、後には後崗本宮の御宇より寧樂宮に至るまでの挽歌を載たり、第三は三部あり、初には持統天皇より聖武天皇までの雜歌を載す、但時代年月に繋たるにはあらず、次には紀皇女の御歌より家持のいまだ内舍人なりけむとおぼしきまでの譬喩の歌を載す、後には上宮太子の御歌より天平十六年までの挽歌を載す、第四は仁徳天皇の御代より聖武の御宇に至るまでの相聞の歌を載す、時代年月等にかけねば第三の雜歌に對する事、第一と第二(25)の相對の如し、第五は太宰帥大伴卿報2凶問1歌と云より山上憶良の戀男子名古日歌と云に至るまで神龜五年より天平五年迄の雜歌なり、此は憶良の記し置かれたるに家持の終の一首を加へて注せられたりと見えたり、其中に大伴熊凝が歌までは筑紫にての作、好去好來歌より終までは都にての作なり、此卷には詩文もまじれり、又梅をよめる歌は春雜歌とすべく、挽歌も多けれど古記に任てすべて雜歌とす、第六は養老七年より天平十六年まで年に繋たる雜歌なり、第七は三部あり、初は雜歌天象地儀等さま/”\部類せり、次に譬喩歌是も亦寄衣寄玉など部類せり、後には挽歌なり、終に類を離れて羈旅歌一首あり、雜歌中に羈旅作多ければ一處に載すべきを落して後に卷末に附たるかおぼつかなし、雜歌に攝すべし、第八は四季雜歌四季相聞なり、皆作者あり、第九は三部あり、雜歌と相聞と挽歌となり、此卷は作者の名ども古人簡略に記したるを一類とす、作者未v詳もあり、第十は第八と同じ、但此卷は作者なきを異とす、第十一第十二の兩卷は古今相聞徃來歌類を上下とす、作者なし、兩卷各卷の中に部類をわかてり、此相聞は專男女の中の情を述たり、但第十二の末羈旅發v思と云を除く、第十三に三部あり、雜歌相聞挽歌なり、問答と譬喩とは相聞の内なり、作者なし、第十四は東歌なり、國を別て雜歌相抑聞譬喩歌あり、末に到て未勘國の歌にも亦部類あり、第十五は天平八(26)年六月新羅國へ遣はされける使の往還の歌と、中臣朝臣宅守が越前國へ流されし時狹野茅上娘子と離別を悲て互によめる歌とを合せて一卷とす、第十六は有2由縁1雜歌と云へり、是には由縁ある相聞の歌も交はれり、第十七は初めは遺れるを拾ひ、天平十八年七月に家持越中守と成て下らるゝより二十卷の終に至るまで日記の如くして部類等を別つ事なし、
歌の體を云はゞ、此集には長歌短歌旋頭歌の三種あり、後人長短に付て異義あれど、唯長きは長歌、常の歌は短歌なり、其證は某歌一首并短歌幾首など云へる事數ふるに遑なし、第五云、老身重病經v年辛苦及思2子等1歌七首、【長一首、短六首、】是憶良の歌にて紛なき自注なり、其故は歌一首并短歌六首とかゝざれば尤注を具すべきなり、第十三云、此月者君將來跡《コノツキハキミモキナムト》、云云、反歌、云云、右二首但或云、此短歌者防人妻所v作也、然則應v知2長歌(モ)亦此同作1焉、反歌ならずしても常の歌を短歌と云へる證は、第五梅花歌序云、宜《ヘシ》(ク)d賦2園梅(ヲ)1聊成(ス)c短詠(ヲ)u、第十七云、橙橘初咲云云、因作2三首短歌1、云云、又云七言一首、云云、短歌二首、第二十云、冬十一月五日夜少雷起v鳴、云云、聊作2短歌一首1などあり、仙覺幼少より老年まで此集に心を入られし由はかゝれたれど、長歌に對せずば短歌とは云まじき由申されたるは、此等をば如何見られけむおぼつかなし、旋頭は五七七五七七の六句の歌なり、唯第十六越中國(27)歌四首の終の歌のみ五七五七七七とよめり、旋頭を濱成式には雙本と名づく、本と云は上句なり、末と云は下句なり、多分五七七五七七とよめば下句も上句と相雙びて聞ゆれば雙本と名付る歟、又上句を頭と云ひ下句を尾と云、増韻云、旋(ハ)回也、かゝれば雙本と意通ぜり、奥義抄下之下云、問云、六句歌を旋頭歌と名、如何、答て旋頭は上にかへるとよむ也、昔にかへる義也、故に濱成式には此歌を雙本と名づく、これ本に雙ぶと云へば昔に返る義に同じ、古今序には此歌を稱2換頭1、是又上にかへると云へばさきの義に同じ、問云、昔に返義いかゞ、答曰、神代は歌の章句不v定、すさのをの尊の八雲の詠より初て三十一字歌出來、其後ひとへに此躰を學ぶ、然るを三十一字の中に心ざし盡ざる時六句の詠まゝ出來【所謂旋頭歌也、】往昔の歌躰に似たるによりて昔にかへる心にて各如v此名づくと云へども意趣はひとつなり、右此説はむつかしくしてさる上に推量なり、雙本の義にはます/\叶はず、長歌の體は凡そ集中を考ふるに往古より聖武の御宇の初の比までは句數字數定まらぬ事多し、福磨家持池主などの長歌は句數定まれり、短歌も後の歌に字の餘れるはあれど足らぬはなし、此集には足らぬも多し、此処のみならず古事記日本紀等に載られたるも長短ともに然なり、恠しむべからず、長歌には反歌を副へたるもあり,そへざるもあり、副るに付て數を定めたる事はなけれど、第五第六に(28)五首を副へたるを多き限とすれば今も是に傚ふべき歟、第五に長歌一首に短歌の六首そひたるあれど、それは憶良の歌にて終の歌の下の自注云、神龜二年作v之、但以v類故更載2於茲1、七首に亘る注云、天平五年六月丙申朔三日戊戌作とあれば此は別義なり例とすべからず、長歌に副たる知歌を反歌と云は、反は反覆の義なり、經の長行に偈頌の副ひ、賦等に亂の副たる類なり、長歌の意を約めて再たび云意なり、第四云、天皇賜2海上女王(ニ)1御歌、此御歌後注(ニ)云、右今按此歌擬v古之作也、但|以往《イムサキ》當便賜2斯歌1歟、第六云、天平八年冬十二月十二日、歌※[人偏+舞]所之諸王臣子等集(テ)2屑井連廣成家1宴歌二首、比來古※[人偏+舞](ノ)盛與2古歳1漸晩(ヌ)、理宜d共(ニ)盡2古情(ヲ)1同唱(フ)c此歌(ヲ)u故擬2此趣1輒獻2古曲二節(ヲ)1、風流意氣之士儻有2此集之中1爭發v念心々和(セヨ)2古體1、此第六の小序を以て思ふに、此集の中にても天平の半より以前を古風とし以後を新樣とする歟、第四の御製を擬古作と云は若天平十年の比より後の御製にや、古體新製今の耳には聞分がたしと云へども改まりたる證右の如し、
目録を云はゞ、第二十卷の仙覺の奥書を見るに古本に三つの異あり、一つには惣てある本、二つには惣てなき本、三つには第十五までありて十六以下なき本なり、委は彼處の如し、今按目録は大きに誤れる事ありて後人のしわざなればなきを以正本とす、卷ごとに其誤を注す、見む人心を著べし、
(29)眞名、假名の書やうを云はゞ後拾遺集序云、奈良の帝は萬葉集廿卷を撰て常の翫物とし給へり、彼集の心は易き事を隱して難き事を顯はせり、當初《ソノカミ》の事今の世にかなはずして迷へる者多し、此中に難き事をあらはすとは如何なるをか申されけむ、おぼつかなし、易き事を隱すとは眞名假名の書やうの奇怪なる事を云へるなるべし、つら/\此集の書やうを見るに必しも撰者のしわざにはあらず、其比の風俗《ナヲヒ》にて家々に樣々に書たるを其まゝに寫されたるも多かるべし、第五第十四第十五及び第十七已下の四卷、以上七卷は安らかにかけり、又第十一の人麿家集の歌百四十九首は簡古にかゝれたり、是は彼集のまゝに寫されたりけるにや、日本紀の中にも人名地の名などに讀ときがたかるべきが多きは舍人親王のわざと止ことを得ずして自注を加へ置かれたり、人を迷はさむとてむつかしく書たまひけむやは、古事記はやすらかにかゝれたる上に自注あれど、序に人の名のたらし〔三字右○〕に帶の字をかき、地の名のくさか〔三字右○〕に日下とかけるをばさて置よしことわられたり、今の心を以て昔を量て此集の事のみを云へるは委しく思はざるなり、俊成卿の古來風體抄云、さて此萬葉集をば後姶遺序に申たるは、此集の心は易き事を隱し難き事を顯せり、よりて迷へる者多しとぞ、打亂て書中に、還て心を著てかける處を略して示さば、
(30)石走垂水之水能《イハバシルタルミノミヅノ》、  早數八師《ハシキヤシ》、 【十二之二十、】早、
妹目乎見卷《イモガメヲミマク》、           欲江《ホリエ》、     【同v右、】欲、
霍公鳥《ホトヽギス》、                飛幡之浦《トバタノウラ》、【十二之三十六、】飛、
登能雲入雨《トノグモリアメ》、            零河《フルカハ》、   【十二之十九、布留河也】零、
我心《ワガコヽロ》、                 盡之山《ツクシノヤマ》、【十三之三十一、】盡
吾紐乎妹手以而《ワガヒモヲイモガテモチテ》、     結八川《ユフハガハ》、  【七之八、】結
吾妹兒爾衣《ワギモコニコロモ》、           借香《カスガ》、     【十二之十九、】借、
韓衣《カラゴロモ》、                 裁田之山《タツタノヤマ》、 【十之四十五、】裁、
加吉都播多衣爾須里都氣《カキツバタキヌニスリツケ》、  服曾比獵《キソヒガリ》、 【十七之十二、】服、
橡之衣解洗《ツルバミノキヌトキアラヒ》、       又打山《マツチヤマ》、   【十二之十八、】又打、
國栖等之春菜將採《クニスラガワカナツムラム》、  司馬乃野《シバノヽノ》、  【十之十六、】司馬、【シバシバとつゞけたる故、シバとよませむとなり、】
眞鏡《マソカヾミ》、                 蓋上山《フタガミヤマ》、 【十九之二十二、】蓋、
眞十鏡《マソカヾミ》、                見宿女乃浦《ミヌメノウラ》、【六之四十七、】見、
眞十鏡《マソカヾミ》、                見名淵山《ミナブチヤマ》、 【十之四十六、】見、
落雪之《フルユキノ》、                消長戀師君《ケナガクコヒシキミ》、【十之六十三、】消、
(31)天在《アメニアル》、              日賣菅原《ヒメスガハラ》、  【七之二十七、】日、
明日從者《アスヨリハ》、               將行乃河《イナミノカハ》、 【十二之三十九、】將行、
白鳥能《シロトリノ》、                飛羽山松《トバヤママツ》、 【四之三十、】飛羽、
白栲爾丹保布《シロタヘニニホフ》、          信士之山《マツチノヤマ》、 【七之十七、】信士、
四長鳥《シナガドリ》、                居名之湖《ヰナノミナト》、  【七之十七、】居、
物乃部能《モノノフノ》、               八十氏河《ヤソウヂガハ》、  【三之十八、】氏、
 此外かやうに心を著てかける事いくらも有べし、
古風の詞古風のてにをは、并にてにをはの今と違たるを出す、
隔、倍那里《ヘナリ》、  不所忘《ワスラレヌ》、忘良延奴《ワスラエヌ》、  加?良《カテラ》、加?里《カテリ》、  從《ヨリ》、由《ユ》、  同《オナジ》、於也之《オヤジ》、  思はむや、思へヤ、  心もとなき、yラモトナシ、  所知奴《シラレヌ》、知良延奴《シラエヌ》、  拾《ヒロフ》、比里布《ヒリフ》、  由なき、毛登奈《モトナ》、 此等の類古風なり、
第七云、今衣吾來禮《イマゾワガクレ》、第十一云、、君乎見常衣眉根掻禮《キミヲミムトゾマユネカキツレ》、第十四云、古呂賀於曾伎能安路《コロガオソギノアロ》【有《アリ》也】許曾要志《コソエシ【吉《ヨシ》也】母《モ》、第十八云、安我毛布伎見我彌不根可母加禮《アガモフキミガミフネカモカレ》、又云、七夕歌云、徃更年能波其登爾安麻能波良布里左氣見都追伊比都藝爾須禮《ユキカヘルトシノハゴトニアマノハラフリサケミツツイヒツキニスレ》、以上のてにをは今には全く叶はず、昔叶ひけるやうを知らず、又第一云、然爾有許曾虚蝉毛嬬乎相挌良思吉《シカニアレコソウツセミモツマヲアヒウツラシキ》、此てにをは集中(32)數處あり、仁徳紀に磐之媛《イハノヒメ》の御歌にもあり、古今集以來なきてにをはなり、又第二云、嘆毛未過爾《ナゲキモイマダスギヌニ》、憶毛未盡者《オモヒモイマダツキネハ》云云、此者の字も亦集中に多し、是も亦心得がたきてにをはなり、此集に引ける書は、古事記、日本紀、古歌集、人麿歌集、山上憶良類聚歌林、笠金村集、高橋蟲麿集、田邊福麿集、以上八部なり、此外に或本曰と云へるは其數知がたし、古歌集、類聚歌林を除て人麿等の四人の集は、一家の集歟他人の歌を集たる歟是に不審あり、先人麿家集に付て云はゞ皆慥に人麿の歌ならば第一より第四までの如く名を顯はして載べし、何ぞ第七第十より下四卷の如く作者の名を擧ぬ卷に、歌後に右若干首人麿集に出たりと云はむや、第十四に人麿集出と注せる歌五首あり、人麿何ぞ東歌をよまるべきや、第六云、神龜五年戊辰幸2于難波宮1時作歌四首、後注云、右笠朝臣金村之歌中出也、或云車持朝臣千年作と也、是金村集に他人の歌ある證なれば是に准らふるに人麿歌集と云はみづからの集にはあらずして、廣く諸人の歌を集められたるなり、然るに此に依て然なりと云はむとすれば又然らざる事あり、其故は第四に、未通女等之袖振山乃《ヲトメラガソデフルヤマノ》と讀れたる人麿の歌を第十一人麿家集出と云中に載たり、又|里遠戀和備爾家里眞十鏡面影不去夢所見社《サトトホミコヒワビニケリマソカヾミオモカゲサラズユメニミエコソ》、此注云、右一首上見(タリ)2柿本朝臣人麿之歌中(ニ)1也、但以2句句相換(ルヲ)1故(ニ)載2於茲(ニ)1、又同卷問答歌云、眉根掻《マユネカキ》、鼻火紐解待八方《ハナヒヒモトキマタムヤモ》、何時毛將見跡戀來吾乎《イツカモミムトコヒコシワレヲ》、此注云、右上見2柿本(33)朝臣人麿之歌中(ニ)1、但以2問答1故、累(テ)載2於茲1也、此等に依れば人麿歌と見えたり、人麿の歌ならむに付ては一首を兩處に載たるも不審なり、再たび載る事あれば、皆其由を法せられたるを、さもなきは草案故に第十一には誤て、載られたる歟、後の問答に載たるにも不審殘る事あり、人麿集にも問答あれば、問答の故と云はゞ彼處にも載すべきを、いかで後の問答には置かれけむ、若人麿集には答歌なければ答歌ある本に依て再たび載て注せられたる歟、人麿集かくの如く不審なれば他の集此に准らへて知べし、
歌の體の文質を云はゞ、古より古歌をば質なりとす、新撰萬葉集(ノ)序云(ニ)云、倩々見2歌體1、雖2誠見v古(ヲ)知(ルト)1v今(ヲ)、而以(テ)v今比v古新作(ハ)花也、舊製(ハ)實(ナリ)也、以v花比v實、今人情彩剪v錦、多(ク)述(フ)2可v憐之句1、古(ノ)人心緒織v索(ヲ)、少綴2不(ル)v※[(來+攵)/心]之艶1、古今集序云、但見2上古之歌1、多(ク)存2古質之語1、未v爲2耳目之玩1、徒爲2教誡之端1、新撰和歌集序(ニ)云、抑夫上代之篇、義漸幽(ニシテ)而文猶質(ナリ)、下流之作文、偏巧(ニシテ)而義漸踈、故抽d始v自(リ)2弘仁1至(マテノ)2于延長1詞人之作花實相兼u、而已、是は古今集に入たる歌の中にも平城天皇御治世の比よりあなたの歌をば、質なりとして取られぬ意なれば、此集の歌を質なりとするなり、
 
     集中假名の事、
日本紀纂疏云、按2韻書1、倭(ハ)烏禾切、女王國名、又於烏切、説文云、順貌、廣韻(ニハ)慎貌、増韻(ニハ)謹(シム)貌(トイヘリ)、今、以2(34)兩韻1通用、則倭(ハ)順貌(ナリ)、蓋取2人心之柔順語言之諧聲(ニ)1也、まことに本朝の音は詳雅なり、何を以てか知とならば能梵音に通ずる故に知れり、倶舍(ニ)云、一切天衆皆作(ス)2聖音(ヲ)1、謂彼言辭、同2中印度1、西域記第二云、詳(ニスレハ)2其文字1梵天所(ナリ)v製、原V始垂(ル)v則(ヲ)四十七言、遇v物合成隨v事(ニ)轉用(ス)、流2演枝派(ヲ)1其源浸廣、因(リ)v地隨b人微有(レトモ)2改變1、語(ヘハ)2其大較1未v異2本源1、而(シテ)中印度(ヲ)特(リ)爲2詳正1、辭調和雅(ニシテ)與v天同v音、氣韻清亮爲2人(ノ)軌則1と云へり、此梵文吾朝に流布せり、是を讀に能叶へば纂疏の説驗あり、彼三韓の如きは日本紀に訛て詳ならざる由處々に見え、此集第二にも言さへぐ韓とも百濟ともよめり、大唐も江南江北音の輕重異なる由なるに、まして衰世に至ては中區を去て、邊地を都としければにや、晩宋の後の音は詳雅ならざる歟、梵文に叶はぬなり、凡(ソ)人の語らむとする時、喉中に風あり、天竺には是を優陀那《ウダナ》と名付るを此には譯《ヤク》して内風と云、此風下て腎水を撃《ウツ》時、斷《キン》、齒《シ》、脣《シム》、頂《チヤウ》、舌《ゼツ》、咽《エム》、口《ク》の七處に觸《フ》れ、喉内、舌内、脣内の三内に依て出す所の聲に五十音あり、涅槃經文字品云、佛復告(タマハク)2迦葉(ニ)1、所v有種々(ノ)異論咒術言語文字(ハ)皆是佛説、非(ス)2外道(ノ)説(ニハ)1、迦葉菩薩白(シテ)v佛言(サク)、世尊云何(カ)、如來説2字(ノ)根本(ヲ)1、佛(ノ)言(ハク)、善男子初説2半字以爲2根本1、持2諸記論咒術文章諸陰實法1、凡夫(ノ)之人學2是字本1、然後能知2是法非法(ヲ)1、迦葉菩薩復白(シテ)v佛言(サク)、世尊所v言字者、其義云何、善男子有2十四音1、名(ケテ)爲2字義1、所v言字名(ヲ)曰2涅槃(ト)1、常故不v流、若不(ルヲバ)v流(セ)者則爲2無盡1、夫無盡(ナルハ)者即(ハチ)此如來金剛之身、是十四音名(ケテ)曰2字本(ト)1、【已上經文、】此つゞき(35)に五十字を説給ふ、但五十音にはあらず、此五十字をたゝみて十四音とのたまへるに付て和漢の諸師異義區なり、其中に信範法師の義に云く、十四音と云は、阿伊宇江遠《アイウエヲ》を五とし、加左太奈波末也良和《カサタナハマヤラワ》を九として合すれば十四音なり、一切の字是を出ねば十四音とは説たまへりと解せられたり、是和語に便ある説なる故に出せり、先諸音の初は阿なり、諸字の初も阿字なり、阿字諸法本不生と説かれたる經文は此義なり、此阿の聲初て舌に觸て伊と成り、脣に觸て宇と成る、江は伊の末音なり、江と云はむとする時、最初に微隱《ミオムに伊の聲を帶して、伊江を急に呼如くなるは此故なり、乎《ヲ》は宇の末音なり、乎《ヲ》と云時、最初に微隱に宇の聲を帶し、宇乎を急に呼如くなるは此故なり、阿は諸音の本體にして伊宇江乎の四音を生じ、加左太奈波末也良和の九字の韻となれば、聲韻を兼る字とす、以は經に根本の字と説かる、阿は喉内に在て微隱なれば喩へば種《タネ》の如し、伊は此種より初て根を生ず、此根より枝葉花菓等を生ずる如くなれば根本とは云なり、以は九字と合して幾之知仁比美伊里爲《キシチニヒミイリヰ》の九字を生じて韻と成り、宇は久須豆奴不武由留宇《クスツヌフムユルウ》の九字の韻と成り、江は計世天禰陪女要禮惠《ケセテネヘメエレヱ》の韻と成り、乎は己曾止乃保毛與呂於《コソトノホモヨロオ》の韻と成る、此以宇江乎の四音は、唯韻非聲の字なり、此五字五音に世間出世間の一切の五法を攝む、玉音に梵天所説の四十七字の字母の中の十二の摩多《マタ》の字を攝(36)す、摩多は梵語、此には點畫とも韻とも飜せり、加左太奈波末也良和《カサタナハマヤラワ》の九字は唯聲非韻の字なり、是に四十七字の中の體文三十五字を攝せり、體文とは諸字の體となる故の名なり、右の九字を聲の體とし以宇江乎を韻とする時三十六音を生ずる故に、能生の十四音、所生の三十六音、合せて五十音なり、しばらく加字に付て云はゞ、加と以と合する時幾となる、加と宇と合すれば加宇切久となり、加と江と合すれば計となり、加と乎と合すれば己《コ》となる、故に加を父とし、以宇江乎を母として幾久計己の四音を生ずるは、譬へば父母交會して諸子を生ずるが如し、餘は此に准らへて知べし、今梵文の法に准らへて、和字をもて五十音の樣を圖すべし、
 
〔入力者注、図は省略、必要な方は、近代電子図書館、または岩波の全集を参照して下さい。〕
 
(37)
 
梵字は、加幾久計己に付て云はゞ、加字を字體として以を點とする時幾となり、宇を點とする時久と成り、江を點とする時計と成り、遠《ヲ》を點とする時己と成て字體變ずる事なし漢字はしからざれば今梵字に准らへて字體を偏として點を旁とす、此五十音の中に本朝には四十七音ありて三音闕たり、三音は也と以と和合して生ぜる伊と、也と江と和合して生ぜる要《エ》と、和と、宇と和合して生ぜる宇となり、各本韻に攝する歟、若攝せば和より生ずるゐゑお〔三字右○〕も攝すべきを、半は攝し半は攝せざる其故を知らず、世に流布する伊呂波は弘法大師彼四十七音を梵書の四十七の字母に准らへて八句の詞となしたまへり、此も亦歌なるべし、されども四十七音は日本紀並に此集等、後の菅家萬(38)葉集和名集等までを勘見るに、皆一同なれば以呂波は唯是を詞を連られたるばかりにて、此より初て四十七言となれるにはあらず、此四十七言の中に、猶|以爲遠於江惠《イヰヲオエヱ》の三つの聞《キヽ》同じきに依て、比等の假名上下にある時まがふ事あり、又|字奴武《ウヌム》の三字、音便に依てまがふ事あり、又|波比不倍保《ハヒフヘホ》の五字下に有時|以宇江乎《イウエヲ》と、和爲宇惠於《ワヰウエオ》とにまがひ.又葵を阿布比《アフヒ》、障泥は阿布利《アフリ》、仰は安不禺《アフグ》、倒は多不留《タフル》とかけども、此を讀時中の布《フ》の乎《ヲ》と聞ゆる類あり、又|不《フ》の字下に有時音便に依て伊《イ》と由《ユ》とまがひ、波《ハ》と保《ホ》とまがふ類あり、又|知《チ》と之《シ》と下に在て濁る時まがふ事あり、寸《ズ》と豆《ヅ》とも同じ、又、煙、冠等の布《フ》の武《ム》にまがふ類あり、上に有てまがふ事は古書を見て古人の書置たるに依らざれば知がたし、下に在てまがふも唯體にして用に亘らぬは又古人の跡に依らざれば知がたし、若體用に亘り或は唯用なる詞は知易し、今集中に見えたる假名の中に今の人の用ると違ひたるを思ひ出るに隨て少々是を出す、此集の用にあらざれば委は出さず、此度和名集を初めて日本紀より菅家萬葉集等までの假名を考へ見るに、皆一同にして此集と叶へり、又行成卿などの比までの假名を見るに、此集に違はねば其後漸々に誤れる歟、假令(バ)椎は神武紀に椎此(ヲバ云2辭※[田+比](ト)1と注したまひ、和名には之比《シヒ》と注し、此集第十四には四比と書たるを中比より之爲《シヰ》と書て四位を此によせたる類多く聞ゆ、是根本を忘れ(39)て枝葉に附故なり、千載集序云、抑此歌の道を學ぶる事を云に、から國日の本の廣き文の道をも學びず、鹿の苑鷲の嶺の深き御法を悟るにしもあらず、唯かなのよそぢあまりなゝもじの内を出ずして、心に思ふ事を詞に任て云ひ連ぬる習なるが故に、みそもじ餘りひともじをたゞ讀連ねつるものは、出雲やくもの底を凌ぎ、敷島やまとみことの境に入過にたりとのみ思へるなるべしと云へり、定家卿の拾遺愚草に、後京極殿の仰に依て或夜時の程に色葉の四十七字を句の上に置て讀たまへる事見えたれば、俊成卿宣へる四十七字は色葉に付てなり、然れば故ある事なれば古きを尋て其意を知らずとも其跡にだに依べし、或人假名をばひたすら打混じて書べき由を云へり、たとひ通ずる事有とも通と云も別ある故なり、別なくば何の通と云事かあらむ、譬ば人と云名は上天子より下乞丐に至る、此通ずる名を以て尊卑なしと云べしや、通別を知て通ずる時は通じ、別する時は別するを智者とす、貴人は別を愛し賤者は通を好まば、貴賤交接せずして互に用をなさじ、字音の通別も亦かくの如し、能別を知る人にあらずば通は徒に名のみ有て混亂と成ぬべし、仁貿天皇を初は億計王《オケノオホキミ》と申し、顯宗天皇をば弘計王《ヲケノオホキミ》と申しき、億は於に同じく、弘は遠に同じ.遠於を混ぜば昆弟をばいかゞ分ち奉らび、汝定て此に至て口を箝て降旗を建べし、
 
(40)   以、【音の巳、伊等、訓の膽など是に同じ、此以は輕し、其故は安也、和は同じく喉音なる中に安は喉中の喉なる故に輕し、也は喉中の舌なる故に次に輕し、和は喉中の脣なる故に重し、所生の聲、各能生の聲に隨て輕重あり、此以は阿より生じて幾、之等九字の本韻なる故に輕きなり、上に在て用るは常に用馴て人多く知れり、今は下に在てまがひ易きを出す、也より生ずる伊を兼る故に也、伊、由、要、與の通ひある事知べし、
加伊《カイ》、【棹也、二之二十四等、】 意伊《オイ》、【老也、十九之三十、孝徳紀、間人《ハシヒトノ》連老、注云、老此(ヲハ)云2於喩、此は也、伊、由、叡、與の五音の通なり、】 久伊《クイ》、【悔也、十八之十一、此伊は也より生ずる伊を本韻に兼たり、其故は久也之とも久由とも通ひて云へばなり、今久爲とかくは誤なり、】 許伊《コイ》、【反也、五之二十八等、こやるともこやすとも云故に、也より生ずる伊なり、】 燒津邊《ヤイツヘ》、【三之廿一、】 朝裳吉《アサモヨイ》、【十三之廿八、】 福《サイハヒ》、【七之四十一、】 【此三つの類は、幾もじの耳に障る時、通はして和らげて云詞なり、但歌には稀なる事なり、】
   爲、【音の韋、委等、訓の井、猪等、皆同じ、此爲は和と以と合して生じたる末韻の字なる故、脣に屬して重し、五音同韻の相通あり、
澤寫、【和名云、奈万井、】 宇宗爲《ウナヰ》、【童男女也、十六之十七、】 居中《ヰナカ》、【田舍也、三之二十六、】 於保爲具左《オホヰグサ》、【※[草冠/完]也、十四之十三、】 烏芋《クワヰ》、【和名云、久和井、】 麻爲泥《マヰテ》、【參也、十八之二十七、】 藍【アヰ】、 狹藍左謂《サヰサヰ》、【左謂亦、狹藍也、狹藍者藍也、四之十五、】 潮左爲《シホサヰ》、【一之二十等、】
   比、【此字下に在て以、爲に紛るゝを少々此を出す、】
飯《イヒ》、【和名云、伊比、】 櫟《イチヒ》、【十六之三十云、伊智比、】 波斐《ハヒ》、【※[草冠/〓]也、廷喜式第三十九、】 灰《ハヒ》、【和名云、波比、】 新《ニヒ》、【十四之十九云、仁比久佐、】 小《チヒサシ》、【和名、信濃小縣、知比佐加多、】 宵《ヨヒ》、鯛《タヒ》、【和名云、太比、】 多比良《タヒラ》、【平也、二十之三十八、】 遂《ツヒニ》、【二十之六十一云、都比爾、】 奈麻強《ナマシヒ》、【※[(來+犬)/心]也、四之三十三、】 杭《クヒ》、【十三之十二、和名云、久比、】 水?《クヒナ》、【皇極紀云、倶比那、和名云、久比奈、】 吹飯濱《フケヒノハマ》、鯉《コヒ》、【和名云、古比、】 盲《メシヒ》、【和名云、米之比、】 聾《ミヽシヒ》、【和名云、美美之比、】 椎《シヒ》、【十四之廿四云、四比、神武紀云、椎此云2辭※[田+比]1、和名云、之比、】 (41)強《シヒテ》【三之十二云、志斐、】 ※[怨の心が皿]、【和名云、毛比、】
   乎、【音の遠、越、訓の尾、緒等皆同じ、此乎は輕し、以の下に注するが如し、五音同韻の相通知ぬべし、】
尾《ヲ》、【鳥獣尾也、】 終《ヲハル》、尾花《ヲハナ》、遠刀古《ヲトコ》【男也、五之九、神代紀上云、少男此云2烏等孤1、少女此云2烏等※[口+羊](ト)1、をとこ、をとめ、ひこ、ひめなどは男女をほむる相對の言なり、】 折《ヲル》、尾上《ヲノヘ》、乎佐乎左《ヲサヲサ》、【十四之二十九】、乎佐牟《ヲサム》、【治也、十七之二十九等、】 乎疑《ヲキ》、【荻也、十四之十八】 惜《ヲシム》、竿鹿《サヲシカ》、水尾《ミヲ》、【以上、今於を用るは誤なり、】 之乎禮?《シヲレテ》、【十九之四十六、新撰萬葉集云、芝折、與2此集1同、今保を用るは叶はず、】
   於、【意、飫等同じ、此於は和と乎と合して生ずる故に重し、又此字は和語の中には、上にのみ在て下にすゑたる事なし、】
於呂可《オロカ》、【十八之九】 於呂須《オロス》、【下也、二十之二十六】 鬼《オニ》、【和名云、於爾、】 覆《オホフ》、【和名云、鞍帽、久良於保比、】 音《オト》、織《オル》、【神代紀下云、倭文此云2之頭於利1、倭名云、促織、和名、波太於里米、】 遲《オソシ》、置《オク》、【除《オキテ》v君等亦同、】 送《オクル》、後《オクル》、追《オフ》、行《オコナヒ》、【允恭紀、衣通姫歌云、區茂能於虚奈比、】 於佐倍《オサヘ》、【押也、廿之十八、】 帶《オヒ》、重《オモ》、【續日本紀、和名云、權、波加利乃於毛之、】 押《オス》、
   保、【下に在て乎、於に紛るる中に少々を出す、】
五百千《イホチ》、【十八之二十三云、安波妣多麻、伊保知毛我母と云へり、五百重山、八百日等此に效ふべし、後の歌に、をちかへりとよめるは百千遍なりと云へり、然らば保の字下に在て乎と聞ゆるを乎なりと思ひあやまれるなり、第一にかりほを借五百とかき、第七にいほりを五百入ともかけり、】 登保《トホ》、【遠也、】 登保留《トホル》、【通也】 奈保《ナホ》、【猶也、】 那保《ナホ》、【直也、】 (42)※[雨/沐]曾保零《コサメソホフル》、【十六之二十九、】 赤曾保船《アケノソホフネ》、【三之十九】
   布、【俗に云ば皆ふもをと聞ゆるなり、】
障泥《アフリ》、【和名云、阿不利、】 扇《アフク》、仰《アフク》、葵《アフヒ》、【十六之十九、和名云、阿布比、】
   江、【音の叡、要等、訓の兄、得等同じ、此江は輕し、】
春花乃爾太要盛而《ハルハナノニホエサカエテ》、【十九之二十六、】件要《ハエ》、【草木生也、十四之二十四、】 笛《フエ》、【和名云、布江、】 朴津《エナツ》、 榎實《エノミ》、【十六之二十七、和名云、榎(ハ)衣、】 比要《ヒエ、》【稗也、十二之十七、】 雙六乃佐叡《スクロクノサエ》、【十六之十七】、
   惠、【音の衛、慧、訓の畫等同じ、此惠は和と江と合して生じたる江の末韻なる故に重し、五音相通同韻相通あり、知べし、】
机《ツクヱ》、【都久惠、】 杖《ツヱ》、【和名云、都惠、】 植《ウヱ》、故《ユヱ》、惠具《ヱグ》、【十之七】、 醉《ヱヒ》、【古事記中云、惠比、】 居《スヱ》、陶人《スヱヒト》、【十六之三十一、和名云、陶器、須惠宇都波毛乃、】
   倍、【下に在て江、惠とまがふ類、少々出v之、】
家《イヘ》、蠅《ハヘ》、爾倍《ニヘ》、【新饗也、十四之九】 柏《カヘ》、【十九之十六、和名云、加倍、】 蝦手《カヘテ》、【八之五十一、十四之二十五云、加敝流?、】 堪《タヘ》、
   和、【下に在て波に紛るゝ類、】
和和良葉《ワワラハ、【八之五十、】 和和氣《ワワケ》、【五之三十、】 多和多和《タワタワ》、【十之五十九、】 多和也女《タワヤメ、》【十五之三十四、】 多和美手《タワミテ》、【六之十六、】 浦囘《ウラワ》、【俗或は宇良波と書、故に出す、】 山多和《ヤマノタワ》、【古事記中、垂仁天皇段】 許等和理《コトワリ》、【五之七、】 阿和《アワ》、【沫也、十一之八、和名同v此、但二之三十六云、安幡雪、】 佐和久《サワク》、【躁也、五之三十八、】
   波、【下に在て和に紛るる類少々此を出す、】
櫻桃《ハヽカ》、【和名云、波波加、】 箒《ハヽキ》、爾波《ニハ》、【海上晴氣也、三之四十、】 尾張《ヲハリ》、【續日本紀或處云、尾破守、】 團扇《ウチハ》、【和名云、宇知波、】 器《ウツハモノ》、【和名云、宇都波毛乃、】
   宇、【安以字江乎の字に和爲宇惠於の字を攝したる故に攝する方にて下にあり、安より生ずる宇は音あらねば下にある事なし、但かみべをかうべと云ひ、つらくをつらう、からくをからうなど詞に通はすをば除く、
急居《ツキウ》、【崇神紀云、此云2兎岐于1、是は爲と通ぜり、】 宇宇《ウヽ》、【植也、十五之三十三、】 宇宇《ウヽ》、【飢也、推古紀、聖徳太子の御歌云、伊比爾慧?、是飯に飢てなれば慧に通ふは宇なる故なり、上と同じ、】 須宇《スウ》、【居也、是は惠と通ぜり、】
   布の字中に在て武にまがふ類、
冠、【十六五之廿四、和名云、加宇布利、】 合歡木花《ネフノハナ》、【八之廿一、和名云、禰布里乃木、】 睡《ネフル、》 煙、【介布利】 煙寸《ケフキ》、【十之五十三、和名云、※[火+欝]、俗云、介布太之、】、
  保の字下に在て乎と宇とにまがふ類、
(44)頬《ホヽ》、【和名云、保保、】 保寶我之婆《ホホカシハ》、【十九之二十四、】 面子《ホヽツキ》、【遊仙窟、】 蝙蝠《カハホリ》、【和名云、加波保里、かうもりと云ひならへり、】
  宇奴武三字相通、【宇は喉内、奴は舌内、武は脣内なり、梵文には三内の空點と云、空點とは梵字の上の圓點なり、】
此集の奴婆玉を後に宇婆玉とも武婆玉とも通はしよめるは三字を通ぜり、日本紀に大人とも卿とも書てウシとよめるは此集にヌシとよめると同じかるべし、第八には稻莚をイナウシロとよみ、第十七にはうるはしみ〔五字右○〕を牟流波之美《ムルハシミ》とよめるは宇と武とを通はせり、讃岐をサヌキとよみ、第十一に珍海をチヌノウミとよめるは音を借たれども武と奴とを通ぜり、此集に馬は宇麻、梅は烏米なり、古今集物名歌にうめ〔二字右○〕と題して、あなう目にと隱せるを思へば彼集の比までも此定なりける歟、今は武麻《ムマ》、武米《ムメ》とかけるは宇と武とを通はせり、諾は此集には宇|弁《ヘ》なるを今|武弁《ムヘ》とかくも亦同じ、埋木を今|武毛禮《ムモレ》木とかき、生《ウマ》るゝを武末留《ムマル》とかくは誤なり、其故は宇豆武《ウツム》を武豆武《ムツム》と云はず、宇武《ウム》と云を武々とは云はざればなり、此も亦妄りに通せば牛は主《ヌシ》と成り、主は蟲と成るべし、
  布字下に在時音便に依て上の字のまがふ事あり、
云《イフ》と結《ユフ》、問《トフ》と堪《タフ》、買《カフ》、替《カフ》、飼《カフ》と乞《コフ》、添《ソフ》と障《サフ》、負《オフ》と逢《アフ》となり、此等は布を比などに通はす時、云は以(45)比と成り、結は由比と成て別るゝなり、掃《ハラフ》、捕《トラフ》の類も亦同じ、いろふ、影ろふ、よろふ、そろふ、うつろふ、詛《ノロ》ふ、從《マツ》ろふ、拾ふなどの類も下の二學字良布に紛るれど、移ろひ、影ろひなど通はす時移ろふ、影ろふにて有けりと知らる、蜻蛉《セイレイ》陽炎《ヤウエム》をかげろふ〔四字右○〕、木綿《ユフ》をゆふ〔二字右○〕と云のみはたらかねばかねて知置べきなり、良利留禮呂の五字は冠となる事なく、阿、於の二音は沓となる事なし、
  集中其物を以即彼假名に用る、
河泊《カハ》、 河波《カハ》、【並河也、散2在集中1、】 可鷄《カケ》、【鷄也、七之四十一、十三之二十五、】 于稻于稻志《ウタウタシ》、【十六之二十二、上云子志田也、稻同、】 烏梅《ウメ》、 宇梅《ウメ》、【並梅也、】 楊奈疑《ヤナギ》、【楊也、】 安乎楊木《アヲヤナギ》、【青柳也、】 水都《ミツ》、【水也、】 物能《モノ》、【物也、】
以上集中の假名を云に付て他書の假名をも少々加へ侍り、
此集第五、好去好來歌云、神代より云|傳《ツテ》けらく、虚見津《ソラミツ》倭の國は、皇神《スメカミ》のいつくしき國、言靈《コトタマ》のさきはふ國と、語り繼《ツギ》云ひつがひけり、今の世の人もこと/”\、目の前に見まし知ます、云云、第十三歌云、志吉島《シキシマノ》、倭國者《ヤマトノクニハ》、事靈之《コトタマノ》、所佐國叙《タスクルクニソ》、眞福在與具《マサキクアレヨク》、實《マコト》に天神も太諄辭《フトノリトコト》をなし給ひ、延喜式にも樣々の祝詞あり、此國は殊に言を貴ぶこと知られたり、况や此集の歌は多く神語を存したれば祝詞の流とすべし、古今集の大歌所御歌の中にも此集(46)の歌のあれば神明も是を感じ給ふ事知ぬべし、楊誠齋が松聲詩(ニ)云、松本(ト)無v聲風(モ)亦無(シ)、適然(ト)相値(テ)兩(カラ)相(ヒ)呼(フ)、是は畢竟聲なき物相値て聲をなすと思へる歟、所謂《イハユル》石女の子の風情にて聲の本有を知らざるものなり、龍樹菩薩の釋摩※[言+可]衍論(ニ)云、今(ニ)始(メテ)起(スル)徳(ハ)本來有(カ)故(ニ)と云へり、譬へば木石の中に火性あれども、鑽燧の縁にあはざる時は火相顯はれず、顯はれざる時火性なしと云べからず、顯はるゝ時初て生ずと云べからざるが如し、誠齋が詩はしばらくおく、天竺に文字なく言語なき處を至極と執する一類の外道あり、聖教に是を破せり、易繋辭(ニ)云、子(ノ)曰、書(ハ)不v盡v言、言(ハ)不v盡v意、世の人唯是を見て言は終に意を盡さずと思へり、相つゞきて云、然(ラハ)則聖人(ノ)之意其不v可v見乎、子曰、聖人立(テヽ)v象以盡v意、設v卦以盡(シ)2情僞(ヲ)1繋v辭以盡2其言1、變而通v之以盡v利、鼓v之舞v之以(テ)盡v神と云へり、先の二句は釋論に相(ト)、夢(ト)、妄執(ト)、無始(ト)、如義(ト)の五種の言説を説中に、初の四種の言説は眞理に契當せずと云に似たり、聖人立v象と云より下は後の如義言説は能眞理を説と云が如し、夫無言と云は言に言の相を存せざるなり、※[病垂/亞]羊の如くなるを云にあらず、金剛語菩薩を又は無言大菩薩とも云ひ、維摩黙を※[口+縛]字の實義と善無畏三藏の釋し給へる是なり、又※[田+比]盧遮那經疏(ニ)云、世尊以(テ)2未來世衆生鈍根(ナルヲ)1、故(ニ)迷2於二諦1不v知2即v俗而眞1、是故慇懃指(テ)v事(ヲ)言《ノタマフ》3秘密主、云何、如來眞言道、謂加2持此書寫文字1以2世間文字語言實義1、是故如來即以2眞言實義1而加2持(シタマフエオ)之1若出(テヽ)2法性1外別有(トイハハ)2(47)世間(ノ)文字1者即是妄心謬見、都無2實體可(キ)1v求(ム)、而(モ)佛以2神力(ヲ)1加2持之(ヲ)1、是則墮2於顛倒(ニ)1非(ス)2眞言(ニハ)1也、守護脛、圓覺經等に※[こざと+陀の旁]羅尼より一切の眞如を出生する由とかれたり、諸法の本體とする眞如すら是より生ずれば何物か生ぜざる事あらむ、文鏡秘府諭序云、空中塵中開2本有(ノ)之字1、龜上龍上演2自然之文1、凡そ梵字漢字を云に一往淺深ありと云へども再往是を云へば優劣なし、蒼頡が鳥迹を見て文字を作れりと云は孔子の述(テ)而不v作(セ)と宣へる如く實には作るには非ず、鳥迹の縁を待て自然の文の顯はるゝなり、河洛の圖書を出せるは是故なり、されば聲字の下に必らず實相あり、聲字分明にして實相顯はる、此故に和歌にも先假名を能辨まへて後文義を尋ぬべし、千載集云、高野の山を住うかれて後、伊勢の國二見の浦の山寺に侍りけるに、大神宮の御山をば神路山と申、大日如來の御垂跡を思ひてよみ侍ける、圓仁法師、【西行】、
   深く入て神路の奥を尋ぬれば、又上もなき嶺の松風、
續千載集に後宇※[こざと+陀の旁]院の眞言宗の心をよませ給へる長歌も此意に同じ、神皇正統記、釋日本紀等の神道家の書にも專此由を云ひ、沙石集に無住長老、和歌之道有2深理1事と云一段を立てゝ、言すくなくして世間出世の心を含めば此國の陀羅尼なりと云へり、陀羅尼は一字に千理を含む故に漢士には惚特と云へるなり、委は彼集にあり、此等の意(48)に依て文字語言本より浮虚ならぬ事を云はむとする餘りに成て、見る人に厭はれぬべし
 
萬葉集代匠記惣釋首卷
 
 
贈正四位釋契沖阿闍梨撰
從五位木村正辭先生校訂
 
萬葉集代匠記
 
          四海堂發行
 
(1)萬葉集代匠記校本凡例
一 本書は、もと西山公の釋萬葉集の爲に起稿せしものなれば、本文をばすべて略して、片假字の傍訓のみを記したり、今讀者の便を圖り、舊版本即(チ)寛永二十年の刻本を以て本文を加へたり、
一 本書にはもと序文は載せず、今年山紀聞に西山公に奉りし代匠記の序とて出したるによりて載す、
一 萬葉集の全注は、本書を以て嚆矢とす、縣居翁の萬棄考は、其序によるに寶暦十年の撰なるに、此記は總釋の末に元禄三年に撰び終れるよし書せれば、萬葉考よりは七十牛ばかり先なり、其頃既にかゝる詳注をものしたる、其いたづきのほどおもひやるべし、但し其説はいまだしきものも數多ありて、盡くは從ひがたしといへども、今は唯契冲師の説を、其儘に世に傳へんとの意なれば、全く誤りなりとしられたる事をも、私に改め正さす、又文辭に於ても、いかにぞやかたぶかるゝふしも、かれこれあれど、いづれも本のまゝに書せり、又詞づかひも今の世には聞きなれざるものも多かれぢ、これも舊に從ひて意改せず、讀者宜しく其意を玩味して了解すべし、
一 阿闍梨は、五十音圖の於乎の所屬古來誤り來れるを覺らざりしかば、於乎の假宇づ(2)かひ違へるものあれど、阿闍梨の面目を、其まゝに傳へんとの旨趣なれば、これらも本に從ひて改めず、
一 萬葉集舊版本の傍訓の假字、大かたは古格を失はず、蓋し刻本の跋文によるに、成俊の訂正したるものゝ如し、偶違へるものあるも、盡く舊本に從ひて意改せず、其は今回の校合は、阿闍梨の素志と、舊版本の面目とを、失はざらん事を主とすればなり、但し總釋中に、言語の初聲を以て並列したるものゝ内、順序錯亂せるものあり、此類は本書の例によりて改む、
一 本書は、假字は總て片假字を用ゐたるを、今悉く草假字に改めたり、但し舊本の傍訓、及び日本書紀遊仙窟等の傍訓を引用したるものは、もとのまゝに片假字を用ゐる、
一 注中誤りとおぼしき文字にして、今いづれともおもひ得ざるをば、其文字の左に圜點を加へて、疑ひを存す、
一 本書には、集中の歌の歴代の撰集又は家々の集等に出たるものは、其歌の右肩に其書名をしるせり、此は別に田中路麻呂の撰びたる、撰集萬葉徴といふものに、詳かなるがうへ必要の事にもあらねば、其書にゆづりて今載せず、
一 本書に引用したる書、其文に疑ひあるものは、原書に照して訂正し、然らざるものは、(3)皆本のまゝに記せり、
一 本書の注釋は甚謹慎にして、文字はさらなり、傍訓といふとも、改むる事をせず、其おもふよしは注中に於て論じたり、古書を重ずる事厚しといふべし、但しあまりに鄭重に過ぎ、舊訓に拘泥して、傳來の誤を正す事能はざりしは、惜むべし、
一 縣居先生の萬葉考以來、世の萬葉家と稱する人だちの注本には、專(ラ)誤字の説を唱へて、古訓はさらなり、本文の文字をも、各自の意見を以て改易し、又は端作を改め、歌の位置をも變更したるもの多かれば、舊板本の面目を失ひたるもの甚多し、これ吾輩の恂に遺憾とする所なり、今回の校訂には、正文は盡く舊校本のまゝを存して、一字一訓といふとも苟もせざれば、此書によりて萬葉集舊本の面目を見る事を得べし、但原書第一卷の奥書は、今移して第廿卷の奥書の前に入れ、第三卷の末に載たる大伴(ノ)家持卿(ノ)傳は、第二十卷の奥書の後に置きたり、又總釋雜説中に、目録の異同は卷ごとに注すとあれど、今は二十卷のの黒くを一つにあつめて、別に一卷としたり、
一 記中にしるせる卷數丁數は、すべて寛永刻本に從へるものなり、但し之を今回印刷本の卷數丁數に改め易へん事は、全部落成のうへならではなす事能はず、故に盡く原書のまゝにしるしぬ、
(4)一 此校訂に就てかれこれ助けなせしは三好伸雄内山正居の兩人にて、又印刷校合の事にあづかりしも此兩人なり、
  明治三十三年六月            木村正辭又識
 
(5)
橘守部萬葉集墨繩總論に云、世に流布する代匠記と云ものは、いつの比の草按にて、いかなるをこの者の拔寫せしにからん、いまだしく且あらきもの也、おのれがもたるは、今井似閑の自筆にて書入あり、世に似閑本とはなべての名なれども、普通のとはこよなくまさりたり、卷數は流布の本と同じく二十二册なれども、薄紙にて一部の紙數凡二千枚あり、されば普通の本の如く五十枚位を一册とせば、四十卷の本なり、是とても彼阿闍梨の初度の稿本にて、清撰の下書にはらざれども、其説どもを見合するに、縣居翁などの見られたるも、世のかいなでの惡本なりし事は、其引て云るさまにてしるし、玉勝間曰、安藤爲章が千年山集と云物に、契冲の萬葉の注さくをほめて、かの顯昭仙覺が輩を、此大徳になぞらへば、あだかも駑駘にひとしと云べし、といへるまことにさる事なりかし、そのかみの説どもにくらべては、かの契注の釋はくはふべきふしなく、事つきたりとぞ誰もおぼえけむを、今又吾縣居大人にくらべて見れば、契注の輩も又駑駘にひとしとぞ云べかりける、何事もつぎ/\に彼の世はいとはづかしきものにこそありけれ、と云る此詞を見れば、宣長も猶かの普通の醜本のみをみて、よき本はみざりし事しられたり、又賂解は考を又引していへれば、定かにもしられざれども、序文にも右のさまにいひおとし、又春海が言に契冲はたゞ古今集こなたの學者にして、(6)萬葉以前には一足もふみ得ざりき、といひしをおもへば、此二人もよき本はみざりし事しられたり、今さやうあらざりつるよしをいはんに、彼(ノ)代匠紀の似閑の序文曰、難波東高津圓珠庵秘密乘沙門契師は、父は下河の何がしにて、津(ノ)國尼崎に生れ給ひ、いとけなかりしより、塵の世をうとみ家出して、深く瑜伽の道にいり、しばらく生玉の今里の邊に住給ひぬれど、猶いとはしく資産をすつること※[尸/徙]のごとく、東高津に淵潜して俗を圓珠に避け、閑をぬすむのあまり、しきしまや倭歌に心をよせ、剰へ枯溪にさへふけりて、和漢の書を閲する事あげて數へがたし、其性榮利をしたはず、窓外に雪をあつめ、昏旭に書をたがやし賜ひぬれど、終に倦給ふおもへりももなく、和歌をのみ友とし給ひおはしけるに、ひとゝせ水戸西山公、師の和歌にふけり、和書にいさをある事を聞しめして、萬葉集の新注を作らせ賜ひければ、いにしへより人の誤り來れるをいきどほりましけるにや、程もなく萬葉代匠記草稿三十卷〔三字傍点〕を編集して奉らしめ給ふ、今書寫する所の代匠記是也、其旨自序に見えたり、されども公の御心にかなはず、いかにとならば世に行ふ所の印本をもて鈔し給へばなり、たとへば記中に、何誤て何に作(ル)、何文字脱(スル)乎、此點誤れり如v此點じかふべし、など注し給へる所々すくなからず、こゝにより官庫の御本中院家(ノ)本飛鳥井家(ノ)本阿野家(ノ)本紀伊殿(ノ)本細川幽齋(ノ)本水戸校本等の秘書を(7)めぐらし賜ひて、彼此校讐をくはへて、改て鈔出し給ふべきよしの御こといなびがたく、まづ比校し給ふに、先に今按をつけ給へるに符節を合せたる如きの事又すくなからず、此秘本どもをもて、再び代匠記六十卷〔三字傍点〕あらたに注釋をくはへて奉らしめ給ふに、公其説の玄妙なることをおどろかせ賜ひ、ねもごろにめぐみ給ふあまり、しきりにめせどもかたくいなびておもむかず、ときに板垣宗憺をもて公も亦萬葉の註釋を下し、代匠記の説を採用ひ賜はんとす、功を一時に遂げたまはゞ奏覽を經、世にひろめしめ給はん、そのうちは代匠記の説世にもらす事勿れとなり、師うたがひを公にとらんよりはとて、清撰の代匠紀の草案までも、殘りなく奉り給へば、いよゝます/\おほんうつくしみあつく、身まかり給ふをりまでも、代匠紀に餘力とならん事は追々にかうがへ奉らしめ給ふ、しかるゆゑ清撰の代匠記は、西山にのみありて世に傳ふ事なし、やう/\眞名(ノ)序のみをあなぐりもとめて左にのするなり、其むね序中に詳なり、さるによりて此代匠記は公の御心にかなはざる所の書なれども、今予が聞所と考へ合するに、其説のたがふ事十にして二つ三つばかりならんか、こゝに元禄壬未(ノ)年、高津に師の三回忌をとぶらはむとてまかりしに、弟子利元坊予が心ざしの淺からざりしをめで給ひけるにや、ふかく此草稿を篋に藏めおき給へりしを、ひそかに見せ給ひぬるより、心も(8)そらにて白波の立居にぬすむばかりことして、とりかへりて、中略其後此代匠記と予が聞書とを【今加云、こはかの西山公の命じ給ひし、代匠記の清撰を寫し取らざりしをくちをしみて、一とせ師にねぎて講釋聞し事を云なり、其事は省きたる間にあり】見合せ侍れば、いさゝかたがへる事あり、いかにとならば、まづ代匠記に二通りありて、又追々考へ加へ給へる事、清撰の代匠記の後にもあればなり、こゝによりて不(ル)v全事のものうく、我聞ところの本説又追々かうがへ給へる説、又師の見給はざりつる書、予後に見及ぶ所を私(ニ)云とかきて、一事をのこさず朱もて書加へしむるものなり【今加云、守部がもたるは、此原本ならんとぞおぼしき】云云、
先づ此序文の趣をもて代匠記のあらましを知べし、或人云〔三字傍点〕、代匠記の清撰は先(ヅ)本文の訓點を改めたる二十卷〔本文〜右○、作者の傳を記せる八卷、註釋二十卷、惣論一卷、枕詞(ノ)釋二卷にて、惣計五十一册也、又其後の追考年々に書加へて、凡二百卷に及べりといへり、然れば其二百卷の清撰を見明らめずては、契冲は萬葉には至らじなどはいひがたかりなん、たゞ今わづかに見る處をもておしはかるに、語釋及本文の訓點などは、いまだしからんとおぼゆれど、そも猶若冲がみそかに拔とりおきし、萬葉類林の詳しげなるを見れば、後の清撰の方はさるかたもよくたりとゝのひたらんも知べからず、こたび守部が引所の代匠記は、善本とはいへど語釋はいまだよく整はざりける方なれど、それだに考(9)注とくらぶるに、かの古今集などは餘材抄と打聞との如くにて、採用る所大かた互角なり、【本書の引合せたる條々にて見べし】おもふに、常陸(ノ)雨引山の惠岳の見し本は三十卷といへれば、初度のながら未だ作者傳の闕ざりしなりけん、選要抄の凡例(ニ)云、作者の系譜及故事及字義及地名等の考へは、代匠記を詳也とす、言語及冠辭の釋は考の説まさる所あり、など記して、其本文はむねと代匠記に隨へり、此惠岳は初め縣居門の人なりけるに、猶かくしもぞいへりける、是らをもてもかの宣長の駑駘、春海が一足の誹は、過言と云べし、しかれば代匠記を見む人は、よく其本を撰ぶべきなり、
 正辭云、此墨繩の説は、代匠記を見る人に、益あるものなれば、いま鈔録して出す、但し此墨繩といふものは、總論のみにて本注はなしといふ、別に同人の著せる萬集集檜※[木+爪]といふものあれど、卷一より卷六までにて、いとあら/\しきものなり、按に墨繩を後にかく改稱せしなるべし、さて今井似閑の説の中に、再び代匠記六十卷あらたに注釋をくはへて奉らしめ給ふ、といへるは現品を見ずして大概にいへるなるべし、又或人云本文の訓點を改めたる二十卷とあるは、傳聞の誤りなるべし、又作者の傳八卷といへるは、萬葉集人物履歴の事にや、但し此本余が藏《モタ》るは九卷にて、代匠紀の外にあり、今回印刷に附したる本は、此履歴を除て五十四卷なり、いづれにしても(10)此或人の説は疑はし、又拾遺二百卷とはいとこと/”\し、余が藏本には拾遺は三卷のみなり、されど此は後に猶増加したるものはあるべくおぼゆるなり、もし其増加本を藏したる人は、速に印刷して、今の缺を補はん事を希ふ、
 
(1)美なの河その水の尾より出てながれ久しき源の朝臣、物部の道をならはし給ふいとまに、文の道をもこのみたまひて、ひだり右をそなへ給ふ、五つの車牛はあへげど積つくさず四つのくら棟をさゝへてをさむばかりなるをあかず見給ふるとて菅の根の春の日にもゆふげの時をうつし、山鳥の尾の秋の夜にもねよとの鐘をかぞへたまはで、からやまとの歌も月雪の時につけたるなさけの世にきこゆる櫻川の波のはなことばの林の枝にかよひなさかの海の玉藻心の池の水にうかべり、しかあるのみにあらす、したのうきしま誠すくなきをおきて、つく波山の高(2)く神さびたるをとり給ふとやまと歌の中にはわきて萬葉集をもてあそびて、弓とゝもに手にとり、つるぎとひとしく身をはなち給ふことなし、そも/\古くより此集をばしはすの月夜見る人まれにして、たまさかに見る人も峰のしら雪たゞよそ目なりければ、なかごろ是をとくとせしものも、へみにあしをゑがきていとゞ狐の疑ひをむすべり、此ことををしみ給ひて、下河邊長流と云ものつたへおける文ありてよくこの集をとくよしを聞たまひて、これが抄つくるべきよしをおほせらる、筆をとらんとする折しも、少し心地そこなひてためらふとせしほどに、い(3)つとなくあつしれて年經て身まかりぬる事は、さいはひなくも侍るかな、をしむべき事にも侍る、こゝにやつがれ彼の翁がともがきの數にまじはれる事としはとをといひつゝみつのはまべに同じく、しほたれぬれども、もとよりつゝりのそでにして尾花よりもせばければ、何のひろひおける見るめもなきを、くゝつむなしからむとはしりたまはで聞おけることもやある思ふやうもやあると、木こりにも問ひ草かりにもはかりたまへれば、彼翁がまだいとわかゝりし時かたばかりしるしおけるに、おのがおろかなる心を添て、萬葉代匠記と名付て是をさゝぐ、おほく(4)はおのがむねより出て憚おほけれど、なめかたのこほりなめげなるつみをわすれて、あしほの山のあしかるとがをもゆるし給ふべし、誠に才はあしづゝよりもうすくして、かほはほゝの木ばかりあつけれど、たゞこれせりをつみてしつくの田井をとばのあふみにそへ奉るものなりとあられふりかしまのさきのかしこまり申になむありける、
 
 
萬葉集代匠記卷之一上
              僧 契冲撰
              木村正辭校
 
萬葉集
此題號の意を釋するに、葉の字に兩訓あるに依て、義も亦隨て異なり、下に至て見ゆべし、萬は十千なり、和語にはよろづと云、よろづは多き數なれば、必しも十千にかぎらねど、あまたなる事をば、此國には、よろづと云ひ、唐には萬事萬端など申めり、故に左傳(ニ)曰、萬(ハ)盈(ル)數也、莊子(ニ)曰、今計(ルニ)2物之數(ヲ)1不(レトモ)v止(ラ)2於萬(ニ)1、而(モ)期《カキリヲ》曰(コト)2萬物(ト)1者、以2數(ノ)之多者(ヲ)1號(テ)而|讀《イフ》v之(ヲ)也、これらの意なり、葉の字は兩訓あり一には草木の葉を以言に喩ふ、所謂言の葉の道は歌なり、釋名(ニ)曰、人聲(ヲ)曰(フ)v歌(ト)、歌(ハ)柯(ナリ)也、如(シ)3草木(ノ)有(カ)2柯葉1也と云る是なり、古今集(ノ)眞名《マナ》序(ニ)曰(ク)、各々獻(テ)2家(ノ)集并(ニ)古來(ノ)舊歌(ヲ)1曰2續萬葉集(ト)1、於v是(ニ)重(テ)有(テ)v詔、部2類所v奉(ル)之歌(ヲ)1、勒(シテ)爲2二十卷(ト)1名(テ)曰2古今和歌集(ト)1假名序(ニ)曰、やまと歌は、人の心を種として、萬の言の葉とぞなれりける云云、萬の言の葉と云るに、續萬葉と名付たる最初の心籠るべし、種と云ひ葉と云は皆譬なり、人の心物に感ぜざる程は、草木の種の土の中に有が如し、既に感じて見る物聞物に(2)つけて樣々に云ひ出せるは、雨露に逢て萠出て葉の分れたるが如し、土の中に籠れる程は、何の種と知らざれども、枝葉を見て草木の品々を知が如く、詞、外に顯はれて後賢しきと、愚かなると隱すに所なし、心に僞なきをまごゝろと云ひ、言に僞なきをまことゝ云を、眞心をも、まことゝのみ云ひ習はせるも、まことの下に必まごゝろあればなるべし、誠の字を、言成に從ひ、信の字の、人言に從へる類を思ふべし、されば言はことゝのみ讀て足るを、言葉と云ひ、言の葉とも云なり、後の金葉、玉葉、新葉など、此に本づきて名付られたるか、淮南子(ニ)曰、夫道有2經紀條貫1、得(テ)2一(ノ)之道(ヲ)1連(ヌク)2千枝萬葉(ヲ)1云云、又精神訓曰、從v本引(ハ)v之千枝萬葉莫2得不1v隨也、言の中に精華なるを唐には詩と云ひ、此國には歌と云、志のゆくところ、終に永歌するによりて、名付るに始め終り有といへども所詮替る事なし、此故に詩をも歌と云ひ、歌をも續日本紀并に此集には詩といへり、今其歌を撰ぶ故に萬葉なり、葉は世の意なり、詩の商頌に昔在中葉とあるを、毛※[草冠/長]傳(ニ)曰葉(ハ)世(ナリ)也、呉都(ノ)賦(ニ)曰、累葉百疊、劉※[王+昆](カ)勸進表曰、三葉重(ヌ)v光(ヲ)、或は七葉、奕葉、重葉など、みな世の義なり、日本紀古事記にも傳2後葉1と用ひられたり、又顔延年が曲水詩序(ニ)曰、拓(ラキ)v世貽(シ)v統(ヲ)固(ウシテ)2萬葉(ヲ)1而爲(ス)v量(ト)者也、李善注云、晉中興書詔2桓玄1曰蕃衛王家垂固萬葉、かゝれば、若此二字はよりて、此集萬世までも傳はりねと祝て名付たるか、後の勅撰に千載集と(3)付られたる同じ意にや、仙覺抄云く、代々の撰集に和歌の字あり、此集になき事は、萬葉と云、即(チ)和歌なればなり云云、按ずるに當集にては作歌、詠歌、御歌、御製歌、あるひはたゞ歌とのみいへり、和歌と書たるは返《カヘシ》歌にて和の字は和答の義なり、日本紀古事記なども此定なり、古今集より以後は、大和歌の意にて字義各別なり、能々わきまふべし、そも/\唐に毛詩あり、後の作者|則《ノリ》を此《コヽ》に取れり、吾朝にしては、此集を彼に准ずべし、既に勅撰には古今集、私撰には菅家の新撰萬葉集、共に此集を規模とせらるゝ上は、誰か此に依らざらん、新古今集の兩序に並に和歌の源と云へり、源遠うして流れ長し、尤も仰ぐべし、
 
〔卷一の目録、天皇の御宇を並べたものを出して、明日香川原宮の後に、〕
初、萬葉集卷第一目録
明日香川原宮御宇天皇代。此標目録はさきにいへる
かことく、集の中よりひろひあけたりとみゆれは、あやまりにあらす。集にあやまれるか。そのゆへは額田王の哥のひたりに、山上憶良の類聚歌林をひけるに、一書に戊申の年といへるは、孝徳天皇大化四年なり。日本紀艇を引るは、齊明天皇五年なれは、いつれにても、皇極天皇の卸宇にあらず
〔幸參河國時歌の後に、〕
初、二年壬寅太上天皇幸2參河國1時歌。五首の二字をくはへて、下の別目をはふきてしかるへし。そのゆへは、哥にいたりては、作者ことなれは枚擧すへし。今は無用なり。別目の中に、長皇子御歌といふ下の、從駕作歌の四字衍文
〔以下標目を略す〕
初、太上《・持統》天皇幸2難波宮1時歌四首。下の別目又用なし別目の中に、作主未v詳歌、此五字衍文、また此太上天皇といふより下の、長屋王の哥といふまては、慶雲三年より上に有へし。太上天皇大寶二年十二月に崩したまふゆへなり
初、大行天皇幸2難波宮1時歌三首。別目また用なし。別目の中に作主未v詳歌五字衍文
初、大行天皇幸吉野宮時歌。注二首去別目好。別目の中、或云天皇御製歌、これ哥の左注を其まゝ擧
初、和銅元年戊申天皇御製歌。此前に標して、寧樂宮御宇天皇代といふへきを、集の中に脱せる歟。下に三年從2藤原宮1遷2于寧樂宮1といふゆへに略すといはゝ、上に從2明日香宮1遷2居藤原宮1といへとも、藤原宮御宇天皇代と標せり。又和銅三年に奈良へ移りたまへは、元年の上にありて標すへからすといはゝ、藤原宮も.朱鳥八年にこそうつらせたまへとも、三年の歌よりさきに標せり
初、一書歌。此是前御製異説耳。非v別有2一首1
初、長皇子卿歌。これ佐紀の宮の宴の哥は、長皇子のよませ給へは.哥のひたりに注せるを、宴の歌の外に別に一首あるやうに標せるは、さきにいへることく、いにしへの幼學のしわさなり。ふたつをあはせて寧樂宮(ノ)長皇子(ト)與2志貴皇子1宴(シタマフトキ)2佐紀宮1長皇子(ノ)御作(ノ)歌一首とあらはしかるへし
 
  雜歌
 
雜と云意別に注す、先は後の集の雜部に同じ、
 
泊瀬朝倉《ハツセアサクラノ》宮御宇天皇代 太泊瀬稚武《オホハツセワカタケ》天皇
 
泊瀬朝倉宮御宇天皇代《ハツセアサクラノミヤニアメカシタシロシメススメラミコトノミヨ》、日本紀第十四雄略紀(ニ)曰、十一月【安康天皇三年】壬子(ノ)朔甲子、天皇命2有司(ニ)1設2壇於泊瀬朝倉1即天皇位《アマツヒツギシロシメス》、遂(ニ)定(ム)v宮(ヲ)焉、勘物(ニ)云、大和國|城上《シキノカミノ》郡磐坂(ノ)谷是也、御〔右○〕、玉篇曰、治也、淮南子(ノ)高誘註曰、四方上下謂2之(ヲ)宇〔右○〕(ト)1、天皇〔二字右○〕、※[刑の立刀がおおざと]※[日/丙]爾雅疏云.説卦云、乾爲v天、君以2其倶尊(4)極1故也、大雅皆謂v君爲v天是也、皇、美也、天之總美大稱也、代〔右○〕、玉篇曰、更也、書天工人代v之、
太泊瀬稚武天皇、 太は日本紀に從て大に作るべし、稚は紀に幼に作る、かゝる事は和語の例なり、第二十二代雄略帝の御諱なり、按ずるに此注諸の證本皆細字なり、因て考るに後の人の注し加へたるか、下に至て誤る事おほし、後此に准ずべし、雄略帝は允恭天皇の第五の御子なり、委は紀に見えたり、二十三年八月崩、明年葬2于丹比高鷲(ノ)原(ノ)陵(ニ)1、河内(ノ)國丹南(ノ)郡に丹上丹下あり、丹下に此陵ありと云へり、
 
初、雜歌
泊瀬朝倉宮御宇天 太泊瀬稚武天皇 日本紀稚作幼
仁徳《十七》天皇 允恭《二十》天皇 雄略《二十二》天皇《・母皇后忍坂大中姫生2五男四女1》 清寧《二十三》天皇
日本紀第十四曰。十一月【安康天皇三年丙申】壬子朔甲子、天皇|命《ミコトオホセテ》2有司《ツカサ》1設(ケテ)2壇《タカミクラヲ》於泊瀬(ノ)朝倉1即天皇位《アマツヒツキシロシメス》。御(ハ)治也。
淮南子(ニ)曰。四方上下謂2之(ヲ)宇(ト)1。雄畧紀(ニ)曰。太泊瀬幼武(ノ)天皇(ハ)、雄朝津間稚子(ノ)宿禰(ノ)天皇(ノ)第五(ノ)子也。天皇而|~《アヤシキ》光滿(リ)v殿《ミアラカ》。長而伉健過(タマヘリ)v人。四年春二月天皇射2獵於葛城山(ニ)1忽(ニ)見2長《タケタカキ》人(ヲ)1。來(テ)望《アヒノソメリ》2丹谷《・タムカヒニ》1。面貌容儀《カホスカタ》相2似《タウハシリ》天皇(ニ)1。天皇|知(メセトモ)3是(レ)~(ナリト)1猶故問曰。何處公《イツコノキミソ》也。長人對曰。現人之~《アラヒトカミ》先|稱《ナノレ》2王(ノ)諱《イミナヲ》1然(シテ)後|應※[道/口]《イハム》。天皇|答曰《申ハク》。朕《オレ》是(ノ)幼武(ノ)尊也。長人次稱(テ)曰。僕《ヤツコハ》是一言主~也。遂與|盤于遊《カリタノシムノ》田駈2逐一(ツノ)鹿1相2辭《ユツリテ》發《ハナツコト》v箭(ヲ)竝v轡《ムマノクチ》馳騁。言詞|恭恪《ツヽシムテ》有v若《コト》2逢仙《ヒシリノ》1。於v是日晩|田《カリ》罷(ヌ)。~|侍2送《アヒオクリ》天皇(ヲ)1至2來目水《クメカハマテ》1。是(ノ)時|百姓《オホムタカラ》咸言(ス)有(ス)コ《イキホヒ》天皇也。秋八月辛卯(ノ)朔戊申行2幸吉野宮(ニ)1。庚戌幸2于河上(ノ)小野(ニ)1令《ミコトノリシテ》2虞人《山司・カリヒト》1駈《カラシメ》v獸《シヽヲ》、欲《オホセシテ》2躬《ミツカラ》射(ント)1而|待《オフタマフ》。虻《アム》疾(ク)飛來(テ)〓《クラフ》2天皇(ノ)臂《タヽムキヲ》。於是《コヽニ》蜻蛉《アキツ》忽然《タチマチニ》飛來(テ)囓(テ)v虻(ヲ)將《ヰテ》去。天皇|嘉《ヨミシテ》2厥(ノ)有(ルコトヲ)1v心詔(シテ)2群臣(ニ)1曰(ハク)。爲(ニ)v朕《ワカ》讚(テ)2蜻蛉(ヲ)1歌賦《ウタヨミセヨ》之。群臣莫2能(ク)敢(テ)賦者《ヨムモノ》1。天皇乃|口號《ツウタシテ》曰○因(テ)讚(タマフ)2蜻蛉(ヲ)1名(ケテ)2此|地《トコロ》爲2蜻蛉(ノ)野《ヲノト》1。五年春二月天皇|※[手偏+交]2獵《ミカリシタマフ》于葛城山1。靈鳥《アヤシキトリ》忽(ニ)來(ル)。其(ノ)大(サ)如v雀(ノ)。尾長(シテ)曳(リ)v地(ニ)。而且(ツ)鳴(テ)曰。努力《ツトメヨ》努力。俄而|見《レタル》v逐(ハ)嗔(リ)猪從2草(ノ)中1暴《アカラサマ》出逐v人。※[獣偏+葛]徒《カリヒト》縁《ノホリ》v樹大懼。天皇詔2舍人1曰。猛|獸《シヽモ》逢v人則止。宜《ウヘ》逆《ムカヘ》射(テ)而且|刺《サシトヽメヨ》。舍人《トネリ》性懦弱《ヲサナクヨハクテ》縁《ノホリテ》v樹(ニ)失色五情無主《オムリアヤマリテコヽロヲソケナリ》。嗔猪直(ニ)來(テ)欲v噬(ト)2天皇(ヲ)1。天皇用(テ)v弓《ミタラシヲ》刺止《ツキトヽメテ》舉v脚踏殺。於v是|田《カリ》罷欲v斬2舍人(ヲ)1。舍人臨v刑而作v歌曰○皇后聞悲興v感《ミオモヒ》止v之。詔曰皇后不v與《クミセ》2天皇1而顧2舍人(ヲ)1。對(テ)曰國人皆謂2陛下1安v野而好獸《シヽコノムタマフト》無乃不可乎。今陛下以2嗔猪(ヲ)1故而斬2舍人1陛下譬(ハ)無v異(ナルコト)於豺狼1也。天皇乃與2皇后1上《タテマツテ》v車歸呼2萬歳1曰。樂哉人皆獵(ル)2禽獸《トリケモノヲ》1。朕(ハ)獵2得(テ)善言(ヲ)1而歸。安康天皇【雄略天皇兄】三年に、眉輪王天皇を弑せまつりて後、雄畧天皇をおそれて圓《ツフラノ》大臣の家にゝけかくれたまへるを、彼大臣の家を、兵を率て打かこませ給ふに、大臣出てかしこまり、眉輪王のために、さま/\にゆるしたまふへきよしをこひ奉られけれと、つゐにゆるし給はて、家に火をかけて、御兄の黒彦皇子、眉輪王、圓大臣を、燔《ヤキ》殺したまへり。大臣の妻に、大臣|脚帶《アユヒ》を求められけるを、取てあたふとて、心やふれして哥《圓大臣妻歌おみ《臣》のこは|たへ《妙》のはかまを|なゝへ《七重》をしにはに|たゝ《立》して|あよひ《脚帶》なたすも》よまれしさま、大臣、黒彦皇子、眉輪王の、にけ入たまへるを、臣こそ事あらは君の御蔭にかくれめ。臣下の家にかたしけなくかくれたまへるを、いかてか出し奉らんとて終に出し奉らて、ともに身を猛火にこかされけるよしをしるせる一段、義のあたる所のことはりはしらねと、卷をすてゝ涙をのこふかなしさなり。かくて天下をしろしめして、二十三年八月に崩したふ。御やまひすみやかなる時、公卿をめして.遺詔まめやかにおほせをかる。星川皇子の、清寧天皇に、うや/\しからて、みかとかたふけんと、はかり給ふへき御下心あるへきよしまてのたまひをかる。はたして遣詔のことし。むまれさせ給ふ時、神光みあらかをかゝやかし、葛木神とゝもに獵せさせ給ひて還御の時、神、久米川まてをくり奉りたまへるよりはしめて、崩したまふにのそみて、天下をやすからしめんとおほしめしけるよしなと、くはしく遺詔ありて、清寧天皇の、つちたち《・地紀》よくましませは、よく/\つかへたてまつるへき事なとまてのたまひをかせたまふ。いはゆる、始ありて終をよくし給ふなり。御在位のほと心得かたきことせさせたまへる事もあれと、凡慮の及ふ所にあらす。崩したまひて、あくる年にいたりて、河内國丹比高鷲陵におさめ奉る。今多治比村【今俗比を井に作れるは誤なり。丹比とおなし。丹南丹北の兩郡は、丹比を南北にわかてるなり】の西黒山村【和名集にも載延喜式にも黒山莚見えたり】の東にあたりて陵あり。これなるへし。五十餘年のさきにや、小澤氏のそれかし、彼陵をあはきて、おほきなる巖のかまへてありけるをは、坂東の故郷の庭にすへをきけるか、ほとなくゆへありて自殺しけるとそ、かのあたりの土民かたりて侍りし
 
天皇御製歌
 
御〔右○〕、蔡※[災の火が邑](カ)獨斷(ニ)曰、漢(ノ)天子凡所v進(ル)曰v御(ト)、御(ハ)者進(ナリ)也、凡衣服(ノ)加2於身(ニ)1、飲食入2於口(ニ)1、妃妾(ノ)接(ハル)2於寢1、皆曰v御、製〔右○〕與v制同、説文曰、製、裁也、孝經序注疏曰、製者裁剪述作之謂也、歌〔右○〕》、玉篇曰、詠聲與v謌同、此集歌謌哥三字通用、玉篇注2哥字1云、古文(ノ)謌字、
 
初、天皇御製歌。蔡※[災の火が邑](カ)獨斷(ニ)曰。漢(ノ)天子凡(ソ)所(ヲ)v進(ル)曰v御(ト)。御(ト)者進(ナリ)也。凡(ソ)衣服(ノ)加2於身1飲食(ノ)入2於口(ニ)1妃妾(ノ)接(ハル)2於寢1皆曰v御(ト)。製與v制同。説文曰。製(ハ)裁也。孝經序注疏曰。製者裁剪述作之謂也
 
1 籠毛與美籠母乳布久思毛與美夫君志持此岳爾菜採須兒家吉閑名告沙根虚見津山跡乃國者押奈戸手吾許曾居師告名倍手吾已曾座我許者背齒告目家乎毛名雄母《コモヨミコモチフグシモヨミフクシモチコノヲカニナツムスコイヘキカナツケサネソラミツヤマトノクニハヲシナヘテワレコソヲラシツケナヘテワレコソヲラシワレコソハセナニハツケメイヘヲモナヲモ》
 
(5)虚見津、【校本云、ソラニミツ、】 許下脱v曾、
籠モヨミ籠モチは、かごもよきかごを持なり、後は月清み山高みなどこそよめ、よきと云べき所によみとあるは古語なり、和名曰、唐韻云、※[金+讒の旁]【音讒、一音暫、漢語抄云、加奈布久之】犂鐵也、又土具也、此土具の注即ふくしなり、犂鐵の事は農具の所に見えたり、ふくしは鉄ならでも木にてもする物なり、俗には土堀子の三字を用て、ふくせと云、し〔右○〕とせ〔右○〕音通す、橋を矢橋の時、やばせと云ひ、年を一年の時、ひとゝせと云がごとし、仙覺抄に、採v菜と注せられたるは此に叶へども、廣くかゝる事に用る物なるを、狹く云ひなされたり、袖中抄のまてかたの注に、鍬にて沙を掻て、馬蛤の有所を知て、まてかりと云具にて刺取やうを云へる所に、又鍬ならねど上手はふくせにても、すなこをかくといへるにて知べし、是にては七字、四字、七字と三句はよむべしといへども、古風を思ふに二句なるべし、上の句は、こも〔二字右○〕二字を心に切やうにて、よみこもち〔五字右○〕までを一句によみ、下句はふぐし〔四字右○〕もの四字を切やうにて、よみふぐしもち〔七字右○〕の七字をよみつゞくべし、こもよみ〔四字右○〕とつゞけてこもち〔三字右○〕とよみ、ふぐしもよみ〔六字右○〕とつゞけてふぐしもち〔五字右○〕とよむべからず、今按仙覺抄を見るに、※[手偏+總の旁]じて此御歌に兩種の古點ありとて出さる、中にも初よりふぐしもちまで共に字にも叶ず、理もなければ、中々取も出ず、彼抄を見て知べし、今(6)の點は仙覺の改られたるにて、字にもよく叶ひ、理も能聞えたり、されども古歌の習とは云ながら、今のまゝに讀出でば、餘りに歌の發句とも聞えぬにや、神代紀の下に、籠の字をカタマとよみ、又|堅間《カタマ》ともかけり、かたま〔三字右○〕は、かたみに同じければ.カタミモヨミカタミモチと讀べきか、かたみも〔四字右○〕四字一句、よみかたみもち〔七字右○〕七字一句、下のふぐしも〔四字右○〕、又四字一句、よみふぐし持〔六字右○〕、又七字一句、如v此よまば可v然にや、須兒、賤しき者を云、男女に通ずる名なり、今は女なり、此集十卷に山田もるすごとよめるは男なり、家キカは、家をきかせよなり、按ずるに此集多分呉音を用たれば、家キケとよみて、家きけよと心得べきか、ナヅケサネは、名を告ねと云に、來よと云べきを、こ〔右○〕とのみもよめば、きけよといはざれど.語勢しか聞ゆるなり、常にも云ひきかせよと云ことを、云きけよと申めり、きか〔二字右○〕とよみては、事たらぬやうに侍り、なづけさねは、名を告ねと云にさ〔右○〕の字をそへたる也、第九にもあまの處女|子《コ》なが名告さねとあり、さ〔右○〕は添てよむことの多き言也、此卷の下に至て小松がしたの草をかりさねと云類也、今案、告(ノ)字ノルともよめば、名ノラサネとよむべきか、第五、憶良歌に、ながなのらさねとよめるを、奈何名能良佐禰《ナガナノラサネ》と書り、是明證なり、名のりと云にも、名乘と書は假て事也、某と名を告ることなれば、意(ハ)名告也、勅をみことのりと云も、詔の字はかけども、意は尊告《ミコトノリ》なり、ソラミツ大(7)和國、加樣の一部にわたりて多き詞は、別に釋して、見る人に便りあらしむ、後此に傚ふべし、オシナベテとは、常にも云詞なるを、下句につげなべてと云に對すれば心かはれり、此集に臨の字をオスとよめり、しかれば今は君臨の義なるべし、すごに家を問せ給ふに對すれば、今の二句、四海を以て家とし給ふ事なる故に、なべてと云に、押の字を、言に添て云には非ずと云也、ワレコソヲラシは、我こそをれとの給ふ古語なり、疑の詞に非ず、下同(シ)v此、古事記曰、雄略帝曰、於2茲(ノ)倭(ノ)國1除《オイテ》v吾亦無v王《キミ》、と云同(シ)心也、セナは男女に亘りて云、今は女を指給へり、委は別に釋す、告ナベテとは、すごに名を問せ給ふに對すれば、帝と申御名の、世に普き意なり、此御歌、二段に分て見るべし、なづけさねと云まで一段、すごに家と名とを問せ給ふ也、そらみつと云より下一段、帝御みづからの上をすごにつげ聞せ給ふなり、惣じての心は、御狩などに出させ給ひて、岡べを御覽じ給ふ折節、賤女の形などはきたなからぬが、うるはしきかたみ、又きいれ、いたひけしたるふくしを持て、菜を摘てゐたるに、誰となき御有さまにて、問よらせ給て、家はいづくの程にかすむ、名は何とかいふと尋させ絵へど、かつは凡人ならぬ御勢に恐れ奉、又は賤き身をはぢらひ奉りて、ともかうもえ聞え上ぬを理りに思召て、天下を以て家とするものは朕なり、萬民の上に臨て名高きものも又朕なれば、我こ(8)そ恥しからず、家をも名をも汝に告きかせて、さてこそ惠みをも加へめとよませ給ふなるべし、又此女のかほよきをめでさせ給ひて、召たまはんとて、問はせ給ふにても有べし、古事記にも日本紀にも此天皇の紀に此類の事あまた見えたり、
 
初、籠毛《コモ・第一段》、與美籠母乳《ヨミコモチ》、布久思毛《フクシモ》、與美夫君志持《ヨミフクシモチ》、此岳爾《コノヲカニ》、菜採須兒《ナツムスコ》、家吉閑《イヘキカム》。名告沙根《ナ|ツケ《・ノラ》サネ》。虚見津《ソラミツ・第二段》、山跡乃國者《ヤマトノクニハ》、押奈戸手《ヲシナヘテ》、吾許曾居師《ワレコソヲラシ》。告名倍手《ツケナヘテ》、吾已曾座《ワレコソヲラシ》。我許《脱v曾《ソヲ》》者背齒告目《ワレコソハセナニハツケメ》。家乎毛名雄母《イヘヲモナヲモ》
此御哥ふたつにわかちてみるへし。なつけさねといふまては、すこに家と名とを問せ給ふなり。そらみつといふより下は、みかと御みつからの上を、すこに告きかせたまふなり。こも、よみこもち、ふくしも、よみふくしもちは、かこも、よきかこをもち、ふくしも、よきふくしをもちてなり。ふくしとは、かねにて、へらのやうにこしらへて、菜摘女のもつ物にて、これにてそのねをさし切てとるなり。常にはふくせといへり。しとせと五音通すれは、ふくせともいへるなり。和名集云。唐韻云。※[金+讒の旁]【音讒。一音暫。漢語加奈布久之】犂鐵也。又土具也。この字なり。からすきの具にも此字あり。又土其也といへるが、ふくしなり、これまてを、上七字、下十一字に、二句によむへし。七字、四字、七字と、三句にもよむへしといへとも、古風をおもふに、二句なるへし。二句に讀つゝきて、上の句はこもと心にきるやうにおもひて、よみこもちとよみ、下の句は、ふくしもときるやうにて、よみふくしもちとつゝくへし。こもよみとつゝけて、こもちとよみ、ふくしもよみとつゝけて、ふくしもちとよむへからす。月夜よみ、山高みなとこそいへ。よきといふへきところに、よみとあるは、古風のことはなり。すことは賤しさものゝ名なり。第十には山田もるすことよめり。男女に通していふへし。今は女なり。家きかむ、名告さね。家のあり所もきかせよ。名をも告よとなり。告の字のるともよめは、なのらさねともよむへし。第五卷、山上憶良(ノ)哥に、なか名のらさねとよめり。告ねといふに、さの字のそはれるなり。さはそへてよむ事のおほき字なり。なのりといふにも、名乘とかくは、かりてかくなり。それかしと名を告ることなれは、心は名告なり。そらみつやまとのくには、かやうの、一部にわたりておほきことは、別に取出て釋して、見る人にたよりあらしむ。此のちおよそこれに准して、注すへきことの注せす、又この事はしるすともいはてあらんをは、類をもて、別に釋してつくるまきをみるへし。此みつのことは、三の字滿の字の和訓のやうにはよまて、共《トモ》上聲によむへし。此卷に滿の字をかけるは、かけてかくなり。見つといふ事なれは、三の字のやうにもよむへけれと、枕詞なれは、さよみては、常の詞のやうになりてわろし、やまとに、日本の惣名と、和州の別名とあり。今は惣名なり。をしなへて、われこそをらし。つけなへて、われこそをらし。をしなへてとは、常にもいふ詞なるを、下につけなへてといふに對すれは、すこし心かはれり。下にいたりて、藤原宮役民か哥に、食國《ヲシクニ》をめしたまはんとゝいへり。天子の供御をすゝめたまふを、日本紀にみをししたまふといへり。食v侯食v禄なといふかことく、天下をもて、をものとしたまふ心にて、食國といひ、又此集に|みけつくに《・御食國》ともいへり。又此集に臨の字をもおほくおすとよめり。君臨の義にてもあるへし。すこに家と名とをとはせたまふに對すれは、今の初の二句、四海をもて家としたまふ事を、のたまふゆへに、常のなへてといふに、押の字をことはにそへていふにはあらすとはいふなり。告在へてといふが、御名のことなれは、臨の字食の字には、天下を家としたまふ心あるゆへに、かくはいふなり。をらしは我こそをれとのたまふ古語なり。疑の詞にあらす。せなは貴賤男女に通す。別に釋しをきぬ。今はすこを指たまへり。惣しての心は、御狩なとに出させたまひて、岡へを御覽したまふおりふし、いやしき女の、かたちなとはきたなからぬが、うるはしきかたみぬきいれ、いたひけしたるふくしをもちて、かのをかになをつみてゐたるに、たれとなき御ありさまにて、とひよらせたまひて、家はいつくのほとにかすむ。名は何とかいふと、たつねさせたまへと、かつは凡人ならぬ御いきほひにおそれたてまつり、またはいやしき身をはちらひたてまつりて、ともかうもえきこえあけぬを、ことはりにおほしめして、天下をもて、すなはち家とするものは朕なり。萬氏の上に臨て名高きものもまた朕なれは、われこそはつかしからぬ家をも名をも、なんちにつけきかせて、さてこそめくみをもくはへめとよませたまふなるへし。此みかとは、きはめてをゝしくおはしまして、むくつけき事をもせさせたまひしかとも、またいさめにもはやくしたかひたまひ、又哥をもおりふしにつけてあまたよませたまへり。色をもこのませたまひけれは、もし御めもとまりてとはせたまへるにや。すこやうのものゝ、御まなしりにかゝりて、かゝる御製のありけるは、やさしくもかたしけなくも侍るかな。おほよそ、文武は鳥の兩翼にして、かくへからすといへとも、時にしたかひて、たかひに表裏あるへし。みたれたる世には、武を外にして文を内にし、治れる時には、武を裏にして文を表とすへし。かたきはねをつゝむに、やはらかなる皮をもてすれはこそ、うるはしくはみゆれ。威徳をもて、世をやすらかに、久しくおさめたまひ、雄畧をゝくり名にもおはせたまへるきみの、かくまて仁愛ふかくよませたまへれは、世はあかれる昔に、人はみかとにまし/\て、尤一部をくゝる徳を具せる哥なるゆへに、撰者これを卷頭にはすへけるなるへし
 
高市崗本《タケチヲカモト》宮御宇天皇代  息長足日廣額《オキナカタラシヒヒロヌカノ》天皇
 
天皇は、第三十五代舒明帝也、敏達天皇の御孫、彦人大兄皇子の御子なり、初は田村(ノ)皇子と申き、日本紀(ニ)曰、二年冬十月、天皇遷2於飛鳥(ノ)岡(ノ)傍1、是(ヲ)謂2岡本宮1、高市は和州の郡の名也、延喜式祝詞の中に多く見えたる六郡の隨一也、神代卷(ニ)曰故會(テ)2八十萬(ノ)神(ヲ)於天(ノ)高市《タケチニ》1而問(フ)之、纂疏曰、一云大和國高市(ノ)郡是也、今高市(ノ)神社在焉、今按岡本宮は、帝王編年云島東岡本地也、玉林抄云、岡本宮、橘寺東逝廻v岡、則今岡寺地也、
 
初、高市崗本宮御宇天皇代 息長足日廣額天皇
第三十五代、舒明天皇なり。初は田村皇子と申奉き。敏達天皇の御孫、彦人大兄皇子の御子、天智天皇の御父なり。御母は糠手姫皇女と申。在位十三年、冬十月九日崩。日本紀にいはく。或本云。呼2廣額天皇1爲2高市天皇1也。又云。二年冬十月壬辰朔癸卯、天皇遷2於飛鳥岡傍1。是謂2岡本宮1。高市《・府》は和州十五郡の中に、別して名高き郡六郡あり。その随一なり。延喜式第八、祝詞の中におほく見えたり。日本紀神代上云。故《カレ》會《ツトヘテ》2八十萬(ノ)神(ヲ)於天(ノ)高市(ニ)1而問之。纂疏曰。一云大和國高市郡是也。今高市神社在焉。
 
天皇登香具山望國之時御製歌
 
2 山常庭村山有等取與呂布天乃香具山騰立國見乎爲者國原波煙立籠海原波加萬目立多都怜※[立心偏+可]國曾蜻島八間跡能國者《ヤマトニハムラヤマアレトトリヨロフアマノカクヤマノホリタチクニミヲスレハクニハラハケフリタチタツウナハラハカマメタチタツオモシロキクニソアキツシマヤマトノクニハ》
 
(91)有等、【八雲、アリト、】 立籠、【八雲御抄、タチコメ、仙覺抄如2今點1、疑彼本籠作v龍歟、校本、字與v今同、點、タチコメ、又別校本作v龍、點、タチコメ、】
村山は、群れる山也、神武紀曰、抑又聞2於鹽|土老翁《ツノヲチニ》1、曰、東有2美地《ヨキクニ》1、青山|四(モニ)周(レリ)、是大和(ノ)國を云へり、景行紀の思邦(ノ)御歌に、やまとは、國のまほらま、たゝなづく、あをがき山、こもれると云云、トリヨロフは、齊明紀、弓矢二|具《ヨロヒ》といひ、源氏物語に屏風一よろひと云へり、俗語に、鎧を具足と云も、物の具りたるを云か、然れば大和には山多けれども、中にも香具山は、嶺谷草木ともに面白くそなはれる山とほめてのたまへるか、又は下に青かぐ山とよめれば、今も艸木のうるはしく生茂りて山を取よそへる心か、ろ〔右○〕とそ〔右○〕と同韻にて通ぜり、香具山は、神代紀曰、亦以2天香山之眞坂樹1爲v鬘、又云、其天火明命(ノ)兒、天(ノ)香山(ハ)是尾張連等(ガ)遠祖也、釋日本紀曰、伊豫(ノ)國風土記曰、伊豫(ノ)郡、自2郡家1以東、北有2天山1、所v名2天山1由者、倭(ニ)有2天(ノ)加具山1、自v天天降時、分(レテ)而以片端者、天2降(ル)於倭(ノ)國1、以(テ)片端者、天2降於此|土《クニニ》1、因謂2天山(ト)1本也、これによりていへば、天降ても唯ならぬ山なり、下に天智天皇のよませ給へる三山の御歌をも思合すべし、かぐ山とも、かご山とも呼來れり、下の字共に或は清てよみ、或は濁れり、國見〔二字右○〕、神武紀に、國見(ノ)岡と云所あり、此下の人麿の歌、第三筑波山の歌、共に國見の詞あり、是によれば、高きに登りて眺望するを云也、又第十に、雨間あけて國見もせむをとよめり、國原〔二字右○〕、原の字は、爾雅に、廣平曰v原と釋して、原野の心(10)ながら國の廣き所を云、唐に中原と云、此に天(ノ)原、海原など云類也、和州には海なきをかくよませ給ふは、彼山より難波の方などの見ゆるにや、又唯さるべき事を興によませたまへる歟、怜※[立心偏+可]は、古語拾遺云、當2此時1上天初晴、衆倶(ニ)相見而皆明白、伸v手歌舞、相共稱曰2阿波禮、【言、天晴也】、阿那於茂呂(ト)1、【古語、事(ノ)之甚切、皆稱2阿那1、言衆面明白也】、怜※[立心偏+可]を、此処にアハレともカナシともよめり、日本紀にはウマシともよめり、蜻島は、もとの和州の別名、神武紀に見え、又雄畧紀の御製に見えたり、委は別に釋す、カマメは鴎也、ま〔右○〕とも〔右○〕と音通す、此歌初二句は總じて和州に山多き事を述給ひ、次二句は別而香具山をほめ、次二句は國見し給ふよしを述、次四句は太平に見ゆるを悦び思召よしを述べ、末の三句は和州の上域なる事を述て結び給へり、按に下に紀に仁徳天皇の段に云く、於是天皇登2高山1見2四方之國1、詔2之於國中煙不1v發云云、後見2國中1於v國滿v煙故爲2人民富1、今科2課役1、是以百姓之榮、不v苦2役使1といへり、今煙たちたつの二句は、彼民の竈は賑ひにけりの御製の面影あり、國民の豐なるを悦び思召す事言の外に浮べり、又按ずるに、烟立タツは、八雲御抄、并校本に從ひ、且當本の字に任てタチコメとよむべきか、カマメ立タツは、禽獣までも所を得る意なるべし、此御歌、八雲によき長歌の例に出し給へり、
 
初、天皇登2香具山1望v國之時御製歌
山常庭《ヤマトニハ》、村山《ムラヤマ》有等《アレト・アリト》、取與呂布《トリヨロフ》、天乃香具山《アマノカクヤマ》、騰立《ノホリタチ》、國見乎爲者《クニミヲスレハ》、國原波《クニハラハ》、煙立籠《ケフリタチコメ》、海原波《ウナハラハ》、加萬目立多都《カマメタチタツ》。怜※[立心偏+可]《オモシロキ・アハレナル此集有此反》、國曾《クゾ》句|蜻島《アキツシマ》、八間跡能國者《ヤマトノクニハ》。
以下小字傍書)結句八間跡、下釋爲本朝※[手偏+總の旁]稱。後按、猶是一州別號邪。神代紀曰。廼生大日本豐秋津洲。纂疏曰。秋津洲割分爲四十三國。今五畿内東山之八國東海之十五國山陽之八國山陰之七國南海之紀伊北陸之若狹等也。(以上)此御歌初二句は、惣して和州に山おほきことをのたまひ、次二句は別してかく山をほめ、次二句は國見したまふよしをのへ、次四句は太平にみゆるを、よろこひおほしめすよしをのへ、末の三句は、本朝の上域なることをのへて結したまへり。むら山は群山なり。唐謝觀か白賦にも曉入2梁王之苑1雪滿2群山1といへり、神武紀にいはく。抑《ハタ》又聞(シク)2於塩|土老翁《ツチノオチ》1。曰(シク)。東有2美地《ヨキクニ》1。青山四(ニ)圍(レリ)。これやまとの國をいへり。景行紀の思邦《クニシノヒノ》歌の中にも、やまとは、くにのまほらま、たゝなつく、あをかき山、こもれるとよませたまへるは、筑紫にて、和州のかたをなかめやらせたまひてなり。取よろふは、取よそふなり。軍にきる鎧も、身をよそひて、かこむ助なれは、よろふといふ用の詞を、體にいひなして、名つくるなり。うたひ、まひ、つかひのことし。和名集にいはく。唐韻云。鎧(ハ)【外蓋(ノ)反。和名與路比】甲也。釋名云。甲者似2物之有v鱗甲1也。うをのうろこあり、貝の甲あるに似たれは、甲といふかことく、村山の取つゝめるかく山なり。又齊明紀に、弓矢二具とかきて、ふたよろひとよめり。源氏物語に、屏風ひとよろひといへるも、二帖を一具といへるなり。これは、具足したる義なれは、峯谷岩木にいたるまて、そなはりて、圓滿したる山とほめたまふ歟。日本紀に、兵器をものゝくとよみ、俗語によろひを具足といふも、小手すねあてまて、取そなへてきる物なれはいふにや。また村山有跡を、むら山あれとゝもよみ、むらありとゝもよむへけれは、むら山の有てさはれは、中にも高きあまのかく山のいたゝきより、見はるかし給ふとにや。そのゆへは、下に遠く海上まても、なかめやらせたまふよしなれはなり。かく心うる時は、とりよろふは、村山のかこむにはあらて、此卷下に至りて、青かく山ともよめるかことく、草木のうるはしくおひしけりて、山を取よそふ心なり。又その山ともの、取つゝめるかく山のみねにのほりて、國見したまふといはむも通すへし。のほりたち、國見をすれはとは、下に至りて、持統天皇、よしのへみゆきし給ふ時、人まろの歌にも、此二句あり。天子は巡狩といふ事をさへして、國々の樣を見給ふことなれは、國見は國の盛衰、民の哀樂を、うかゝひしろしめすに、尤要なり。神武紀には、國見岳といへる所の名も、和州に見えたり。今も山々に、遠く見はるかさるゝところを、國見といふめり。第三卷に、筑波山にのほりて國見せる事をよめれは、諸臣よりつねの人にもいふへし。くにはらは、煙立こめとは、高平曰v原と、毛詩の傳にもいひて、此國にも、ひろ/\としたるところを、原といへは、國はらといひ、天原、海原なといふなり。さきの、景行天皇のくにのまほらまとよませたまへるも、國の眞原といふ事にて、今とおなし。ほとはとは、五音通し、下のまは昔よく物につけたることはなり。|やつこ《・僕》らまなといへるかことし。此二句は、高津宮の御宇の心ちす。日本紀第十一、仁徳紀云。四年春二月己未(ノ)朔甲子、詔2群臣1曰。朕登2高臺1以遠望之烟氣不v起2於城1。以爲百姓既貧而家無2炊者1。○三月己丑朔己酉詔曰。自v今之後至2于三歳1悉除2課役1息2百姓之苦1。○七年夏四月辛未朔天皇居2臺上1遠望之。烟氣多起。是日語2皇后1曰。朕既富矣。豈有v憂乎。また御製のうたにいはく。たかきやにのほりてみれはけふりたつ民のかまとはにきはひにけり。今の御うた、けふりたちこめとあれは、民を愛子のことくおほしめす、みかとの御よろこひ、御ことのはのうへにうかへり。うなはらは、かまめたちたつとは、かまめはかもめなり。まとめ五音相通なり。かの山のいたゝきよりは、なにはのかたまてみゆるにや。さらても興によみたまへるか。延喜式の祝詞に、舟の上は、さほかちほさすといへるかことく、のほりくたりに、ゆきかふ舟のひまなけれは、かもめもしつかにゐるほとなくて、しけくたつなり。おもしろき、くにそ句、あきつしま、やまとの國は。おもしろきとは、古語拾遺云、當2此之時1上天初晴、衆倶相見而皆明白。伸v手歌舞相共稱曰阿波禮【言(ハ)天晴也】阿那於茂志呂【古語事(ノ)之甚切(ナルヲ)皆稱2阿那1。言(ハ)衆(ノ)面明白也。】怜※[立心偏+可]を此集にあはれともよめり。結句のやまとは※[手偏+總の旁]名なり。此御製は、今さへ見奉るもたのしきやうなれは、子夏か詩序に、治(レル)世之音(ハ)安(シテ)以樂(シフ)。其政和(スレハナリ)といへるにもかなひて、又世も遠くして、人も君にましませは、雄略天皇の御歌なくは、かならす此歌第一に載へけれは、やかてさしつきて、兩帝の御うたをのせて、後の君たる人をして、おもはしめたてまつらんとなるへし。孔子のこときの聖人も、位なけれは、道をこなはれす。これによりて、まつみかとの御歌をつゝけて載るなり。守護國界主陀羅尼經に、佛廣く國王を護持する法要を説たまへる時、佛の慈悲は、一切衆生にあまねし。なんそ國王を、わきてしものたまふといふ難の有しに、たとへは、母に歡樂あれは、子は、隨ひて、安穩をうることくなるゆへに、國王のために、護持の法要は説なりとこたへたまへり。かゝる御歌よませたまふ御世に、むまれあひけん民は、宿善のほともおもひやられ侍り。定家卿の、百人一首に、初に天智持統兩帝のおさまれる世の御製をのせたまへるも、此集をおもはれけるにや
 
(11)天皇|遊獵《カリシタマフ》内野之時中皇命使|間人連老獻歌
 
目録には、并短歌の三字を加へたり、此集大抵の例を思ふに、反歌ある歌は皆かく注すべき事なるを、亦なき處も例あれば、元は三字有て後失たるか、又は後人目録計に加へたるか、如v是類後多し、可v准v之、内野は、大和(ノ)國宇智(ノ)郡の野(ノ)名也.是古の御獵場也、中皇命〔三字右○〕、何れの皇子と云ことを不v知、日本紀に不v見、舒明紀に天皇崩し給ふ時、中(ノ)大兄《オヒネノ》皇子、十六歳にして誄奉りたまへる由記したり、此御事にやと思へども、中皇命と申たる事は不2見及1、且中大兄皇子は、孝徳天皇の太子に立せ給へるを、此下に後(ノ)崗本(ノ)宮(ノ)御宇天皇代と標して、中皇命徃2于紀伊温泉1之時御歌とて載、やがて其次に中大兄三山歌とて載たれば別にこそ、日本紀を見に、舒明帝の比より、齊明天皇の比まで、中皇命と申べき皇子不v見、神代紀國(ノ)常立尊の下に注して曰、至(テ)貴(ヲ)曰v尊(ト)自餘曰v命(ト)並訓2美擧等《ミコト》1也と云へり、太子は至尊なる故、日本紀には草壁(ノ)皇子を皇子(ノ)尊と云、高市(ノ)皇子をも後(ノ)皇子(ノ)尊と載らる、然れば齊明天皇の時、中皇命とかけるは神代紀に自餘曰v命にあたれば、最不審なり、中皇命を目録に中ウシノミコトと點ず、此訓不審也、皇をウシとよむ事重而可v考、間人連老は、孝徳紀云、小乙下中臣(ノ)間人連(12)老《ハシウトノムラシオユ》【老、此云2於喩1、】白雉五年の遣唐使の判官六人の随一なり、或はオイと點じ、或はオキナと點ず、日本紀に據れば、オユと點ずるを好とす、此詞書を見るに、此歌は中皇命の讀せ給て老をして帝に聞上絵へるか、又中皇命、老に仰て讀せて奉しめ給へるか、下に至て中皇命御歌三首といへり、今の歌も中皇命の歌ならば、御歌と有べきを歌とのみあれば、間人(ノ)連が歌と見えたり
 
初、天皇遊2獵内野1之時中皇命d使《シメタマフ》間《ハシ》人連|老《オユヲシテ》1獻u歌
目録には并短歌の三字をくはへたり。此集の例を思ふに、反歌ある歌には、かく注すへきことなり。もとは有けるが、後にうせたる歟。初よりなかりけれと、目録をくはふるもの、心を得てそへたるか。後みなこれに准すへし
此ことは書につきて、此歌は、中皇命のよませたまひて、間人連《ハシヒトノムラシ》をもて、帝に聞えあけさせたまへる歟。又中皇命、間人連におほせて、よませて、たてまつらしめたまへる歟。心得かたし。大かたは間人連か歌なるへし。そのゆへは、下に至ていはく、中皇命往2于紀伊温泉1之時御歌三首といへり。今の歌も、中皇命の歌ならは、御歌とあるへきを、歌とのみあれは、間人連が、中皇命のおほせによりて、よふてみかとへたてまつると見えたり。又此中皇命とは、いつれの皇子を申にか。日本紀にもみえす。舒明紀に、天皇崩し給ふ時、中(ノ)大兄《オヒネノ》皇子、十六歳にして、みつからよく誄《シノヒコト》奉らせたまひたるよし、しるされたれは、中大兄の御ことにやとおもへと、中皇命と申たることを、見及はされは、おほつかなし。そのうへ中大兄皇子は、孝徳天皇の位につかせたまふ時、やかて太子にたゝせたまへるを、此下に後崗本宮御宇天皇代と標して、さきにひけることく、往2紀伊温泉1御歌をのせ、やかてその次下に、中大兄三山歌とてのせたれは、別人にこそ。日本紀をみるに、舒明天皇のころより、齊明天皇まてには、中皇命と申へき皇子も見えす。不審の事なり。神代紀(ニ)國恆立尊の下に注していはく。至(テ)貴(キヲ)曰v尊《ソント》。自餘《コレヨリアマリヲ》曰v命《メイト。並|訓《イフ》2美擧等(ト)1也といへり。太子は至尊なるゆへ、日本紀には、草壁皇子を、皇子尊といひ、高市皇子をも、後皇子尊と載らる。しかれは、齊明天皇の時、中皇命とかけるは、神代紀に自餘曰v命にあたれは、誰にてかおはすらん。間人連老は、孝徳紀云。小乙下中臣(ノ)間人《ハシヒトノ》連老【老|此《コレヲハ》云2於喩《オユト》1】入v唐而歸還
又中皇命をは。いかによむへきにか。目録に、なかうしのみことゝ、かむなのつきたれと、いかてさはよまん。うけられす。なかのすへらみことゝよむへけれとも、天皇とかけるをさよめは、しはらくこれをかく。内野は大和國宇智郡に有野なり。これいにしへ帝王の御かりはの、そのひとつなり。山城に同名あるゆへに、これをもそこかとまとへることあり
 
3 八隅知之我大王乃朝庭取撫賜夕庭伊縁立之御執乃梓弓之奈加弭乃音爲奈利朝獵爾今立須良思暮獵爾今他田渚良之御執梓能弓之奈加弭乃音爲奈里《ヤスミシシワカオホキミノアシタニハトリナテタマヒユフヘニハイヨセタテヽシミトラシノアツサノユミノナカハスノオトスナリアサカリニイマタヽスラシユフカリニイマタタスラシミトラシノアツサノユミノナカハスノオトスナリ》
 
八隅知之は、釋日本紀曰、八|隅《スミ》知也、天下をしろしめすを云、委は別に釋す、イヨセのい〔右○〕は發語の辭、此集最多し、後准v之、爾雅云、伊(ハ)維也、注、發語詞、かゝれば和漢おのづから相通ぜり、ミトラシは御手にとるを云也、雄略紀に、弓の字ミタラシとよめるも、みとらしの詞を、用を以て體に名付て、五音通ずるによりて、と〔右○〕をた〔右○〕となせるなり、太刀もはく物なる故に、御刀とかきて日本紀にミハカシとよめる此類なり、仙格抄、其外俗説(13)に、天竺の多羅枝を以て造る故に名づくと云は非也、我國の弓は神代より有る上に、雄略の御時、いまだ天竺の名をも聞べからねばなり、ナガハズは末弭《ウラハス》なり、うらハズは長く作れば長弭と云也、弓の弦うちの音も、此うら弭の所にあたりて聞ゆるものなれば,ながはずの音すなりとは讀り、仙覺は弓の弭は中に作によりて、中弭と云と釋せられたれど、本弭とても中にこそ有なれば、しからば詮なき言にて、音すと云にも叶がたし、イマタヽスラシはたつらし也、日本紀にも、二神天の浮橋にたゝしてと云へり、古語は皆如v是、歌の心は、我君の朝にはなで翫び夕にはよせ立たまへる弓の弭の聲聞ゆるにて、朝夕の獵に出給を知と也、後に御執と云下は、上の四句を重ていへり、毛詩などの三章四章にも、同事を打つゝ詞をかへていへるは誠の暑き也、彼に例すべし、下に至て長短ともに此格おほし、
 
初、やすみしゝ、わかおほきみの、朝には、取なてたまひ
やすみしゝは、別に注しつ。弓はめてたき徳あるものなるゆへに、もろこしにも此國にも、天子まてこれをいさせたまふ。をんなは鏡を寶とし、男は弓をたからとするゆへに、拾遺集の神樂にも、よも山の人のたからとする弓を神のみまへにけふたてまつるとよめり。朝には取いてゝ、塵なと打はらひてこれをひき、ゆふへには取をきて、よせたつるなり。いは發語詞にて、此集に尤おほし。のち/\これに准して知へし。もろこしもおなしけれはにや.爾雅曰。伊(ハ)維也。注曰發語詞。みとらしは、御手にとらすなり。とらすはとるなり。雄略紀に、弓の字をみたらしとよめるも、みとらしのことはを、用をもて體になつけて、五音通するによりて、とをたとなせるにや。多羅枝といふは俗説なり。四肘爲一弓【一尺八寸爲2一肘1。四肘(ハ)七尺二寸】といひ、高さ一多羅樹なといふなるは、みな天竺の法にて、此國には欽明天皇よりこそ漸々につたへきけ、雄略の御時、多羅樹の名をもきかんや。ながはすは、うらはすなり。末の字をうらとよむゆへに、末の弭をうらはすとはいへり。うらはすは、長く作れは長弭といふなり。弓の絃《弦》うちの音も、此うらはすの所にあたりてきこゆる物なれは、なかはすの音すなりとはよめり。今たゝすらしは、たつらしなり。日本紀にも二神天の浮橋に立たまふを、たゝしてとよめり。古語はみなかくのことく、かう/\しきことおほし。みとらしの、古歌にはくりかへしねんころによめる事おほし。毛詩なとの、三章四章にも、おなしことを、すこしつゝ詞をかへていへるは、まことのあつきなり
 
反歌 此義別に注す
 
4 玉刻春内乃大野爾馬數而朝布麻須等六其草深野《タマキハルウチノオホノニウマナメテアサフマスラムソノクサフケノ》
 
玉刻春内、此詞つゞき別に注す、又馬ナメテは馬を並べて也、數をなべ〔二字右○〕とよめるは、數あるものは並ぶ故なるぺし、朝フマスラムとは、朝獵にしゝ烏などを獵たつるなり、(14)ソノ草フケ野は、草深き野には鹿や鳥などの多ければ、宇智野をほめて再云也、第六卷赤人の長歌に、朝かりにしゝふみおこし、夕かりに鳥ふみたて、馬なめて、御獵ぞたてし、春のしげ野に、此と同心也、
 
初、玉きはるうちの大野に馬なへて朝ふますらむその草ふけ野
 玉きはるうちとつゝくることは、別に注してつくるかことし。馬數而とかけるは、數あるものはならふゆへなるへし。朝ふますらんとは、第六卷赤人の長歌に、朝かりに、しゝふみおこし、夕かりに、鳥ふみたてゝ、むまなへて、みかりそたてし。春のしけ野に。此歌とおなし心なり。草ふけ野は、うち野をふたゝひいへり、草ふか野ともよむへし
 
幸讃岐國|安益郡《アヤノコホリニ》之時軍王見山作歌
 
幸〔右○〕(ハ)者、蔡※[災の火が邑](カ)獨斷(ニ)曰、天子(ノ)車駕所v至以爲2僥倖(ト)1、故曰v幸也。至(テ)見2令長吏三老官屬(ヲ)1、親(ク)臨v軒(ヲ)作v樂、賜2食帛越巾刀佩帶(ヲ)1、民爵有2級數1、或賜2田租之半(ヲ)1、故(ニ)因v是謂2之幸(ト)1、日本紀にはイデマスとよめり、ミユキと云は御行にて義訓なり、安益郡〔三字右○〕、和名集曰、阿野國府、見山作とは、歌の心に依に、故郷を戀る餘り、なだを隔る山を見て、感を興してよめるなり、
 
初、幸2讃岐國安益郡1之時軍王見v山作歌并短歌目六。幸者蔡※[災の火が邑](カ)獨斷曰。天子車駕所v至以爲2僥倖1。故曰v幸也。至見令長三老官屬親臨v軒作v樂賜2食帛越巾刀佩帶1。民爵有2級數1或賜2田祖之半1。故因v是謂2之幸1。日本紀には、いてますとよめり。みゆきといふは、御行なり。字はもろこしの心にて、幸の字を用たれと、和訓の心は、かはれり。天子に行幸といひ、太上天皇に御幸といふは、簡別の約束にて、義はあるへからす。こまかにいはゝ、打かへていひても、かなひぬへし。讃岐とかきて、さぬきとよむは、亨奴牟はよく通するゆへなり。此集に和泉のちぬのうみを、珍海とかけるこれにおなし。安益郡は、和名集云。阿野綾郡國府。きりしれぬあやのかはらに鳴ちとり聲にや友のゆきかたをしるとよめるも此郡なり
 
5 霞立長春日乃晩家流和豆肝之良受村肝乃心乎痛見奴要子鳥卜歎居者珠手次懸乃宜久遠神吾大王乃行幸能山越風乃獨座吾衣手爾朝夕爾還此奴禮婆大夫登念有我母草枕客爾之有者思遣鶴寸乎白土網能浦之海處女等之燒塩(15)乃念曾所燒吾下情《カスミタツナカキハルヒノクレニケルワツキモシラスムラキモノコヽロヲイタミヌエコトリウラナケヲレハタマタスキカケノヨロシクトホツカミワガオホキミノミユキノヤマコシノカセノヒトリヲルワガコロモテニアサユフニカヘラヒヌレハマスラヲトオモヘルワレモクサマクラタヒニシアレハオモヒヤルタツキヲシラニアミノウラノアマヲトメラカヤクシホノオモヒソヤクルワカシタコヽロ》
 
ワツキモシラズは、古説たつきもしらずなりと云、わ〔右○〕とた〔右○〕と同韻なれば也、十卷に立居するたつきをしらに、むらきもの、ともつゞけたれば、さも有べきを、今案たつきもしらずは便もなきやうの心なれば、上にくれければといはゞさも有べきに、くれにけると續けたれば叶はず、十二に、出る日の入わきしらずとよめるごとく、上よりつゞきて、日のくるゝわきもしらずと云に、つ〔右○〕文字の中に添るにや、十四卷にあさをらを、をけにふすさにうますともといへるふすさ〔三字右○〕はふさ〔二字右○〕也、是等に准じて云也、ムラキモ、此詞下にも多ければ別に注す、心といはむため也、奴要子鳥は、子〔右○〕はそへたる字にて唯ぬえ鳥なり、ウラナケヲレバとは、下なげく也、高く聲をも立ず、喉聲にてつぶやくやうに啼鳥なれば、我故郷を戀とて打うめかるゝに喩て云へり、後にも今のごとく喩てよめる歌多し、或點にウラナキとあるは同じ心なれど、第十に七夕の歌の中に、二首今と同じく歎の字を用、十七には、奴要鳥能宇良奈氣之都追とあれば、うらなけなり、玉ダスキは、カケといはん爲也、後に此つゞき多し、宜クとは、君を神とひとつにかけて申がかなひてよろしきと云意也、孝徳紀曰、惟神【惟神者謂隨2神道1亦自有2神道1也】此(ノ)心、神の(16)道のまゝに行はせ給ひ、又御みづからも神の道ましませば神と云也、此外日本紀續日本紀等に、帝を神と申事あまた見えたり、此集にも末に至りて數しらず、遠ツ神と云は、凡人の境界に遠ければいへり、山越ノ風とは、山を吹越風なり、古今にも根こし山こし吹風とよめり、物こし垣こしなど云心には替れり、朝夕ニ還ラヒヌレバとは吹過又吹來る也、マスラヲト云云、ますらを〔四字右○〕は男子の總名なり、仙覺は益荒雄の心といへり、アラキはたけきなり、日本紀には男の一字をも書、又今のごとく丈夫とも書り、此つゞき下におほし、草枕は旅の枕詞なり、野山に旅寢するには草など引結て枕とする故なり、思ヒヤルは、思ひをやりすごす也、遣v情遣v悶など云が如し、想像には非ず、此集末に至りて皆此例也、シラニは、しらずなり、即不知と書下に多し、續日本紀にもあり、古語也、網浦は讃岐にあり、此卷下に至て伊勢に同名あり、歌の心は、旅にして古郷を戀しく思ふ故に、春の日の暮るゝと云分もしらず心を傷めてぬえの如く下なげく折節、君の御幸の御供に、我越來りし故郷の方の山より吹こす風の、我袖をふきて過るかと思へば又吹來て、我古郷を思ふ心を興しぬれば、丈夫と思へる我も、旅にしては思をやりて慰む便りもなく、古郷を思ひ焦ると也、思ぞやくるといはむ料に、海處女等が燒塩と所につけたることを序にいへり、
 
初、霞たつ、なかきはるひの、くれにける、わつきもしらす。此わつきもしらすといへるを、長流かわかき時かける抄に、わとたと同韵の字なれは、たつきもしらすといふことかといへれと、たつきもしらすは、たよりもなきやうの心なれは、上にくれけれはといはゝ、さもあるへきに、くれにけるとつゝきたれはかなはす。これはわきもしらすといふに、つもしの中にそはれるにや。わきをわつきといへる事は、いまた見及はされと、古語にはその例あれはいふなり。第十一卷に、玉たれのこすのすけきとよめるは、すきなり。十四卷は東歌なから、あさをらをゝけにふすさに、うますともといへる、ふすさは、ふさにて、おほきなり。これらに准していふなり。第十二に、中々にしなはやすけむ出る日のいるわきしらすわれしくるしもと讀ることく、旅にひさしくありて、故郷をこひしくおもひくらして、なかき春日なれと、くるゝわきもしらすとなるへし。むらきもは心なり、第四にも村肝のこゝろくたけてとよめり。むらは群にておほきなり。きもは字のまゝにも心得へし。又日本紀に、心府とかきて、心きもとよめれは、心を丹府といふかことく、きもといふも心なり。字書は府聚也とも釋せり。こゝろと和語になりくるも、こゝらといふことにて、おほきなるへし。※[田+比]盧遮那經には、無量心識とて、心もとより無量なりとゝかれ、常の教には、一心無量の境を縁するゆへに、境のかたにつきて、心を無量といふよしなり、今はそれまてはなく、よろつのことのよくもあしくもおもはるれは、むらきもの心とはいふなるへし。ぬえこ烏は、子はをへ字にて、唯ぬえ鳥なり。和名集云。唐韻云※[空+鳥]【音空。漢語抄云。沼江】怪鳥也。うらなきをれはとは、下なくといふ心なり。高く聲をもたてす、喉聲にて、つふやくやうになく鳥なれは、それにたとへて、我も下になくといふ心なり。第十卷七夕の歌にも、ぬえ鳥のうらなくとよめり。卜の字はかりてかけるなり。裏の字なり。玉たすきは、かけといはむためなり。かけのよろしくとは、君を神とひとつに、かけて申かよろしきなり。孝徳紀にいはく。惟神《カミナカラ》【惟神(ト)者謂隨2神道1亦自有2神道1也。】此こゝろ、神の道のまゝにをこなはせたまひ、又御みつからも神の道ましませは、神といふなり。此外日本紀績日本紀等に、神と申ことあまた見えたり。此集も末にいたりて數しらす。遠つ神といふは、凡人の境界に遠けれはいへり。かへらひぬれはとは、故郷こひしくなかめをるに、そなたより吹來る風の、わか袖にふれて、過るかとおもへは、又吹きて、いとゝ物おもひをもよほして、わするゝまもあらせす、なやますをいふなり。袖を吹返すにはあらす、爲兼大納言の歌に、山風はまかきの竹に吹すてゝ峯の松よりまたひゝくなり。ありのまゝなることを、めつちしくも、おもしろくもよまれて、感情ふかし。今もおなし心なり。ますらをとおもへるわれもとは、かねて事もなかりし時は、我は丈夫なりと、おもひほこりしに、旅にありては、をめ/\となるなり。おもひやるは、おもひをやり過すなり。遣v情遣v悶なといふかことし。想像にはあらす。此集すえにいたりて、おもひやるとよめる、多分今の意におなし。しらには、不知とかきてよめり。續《釋カ(別筆)》日本紀にもあり。古語なり。あみのうら、彼地の名所なり。此卷下にいたりて、人丸の歌のあみの浦は伊勢なり、家隆卿の、浪風ものとかなる世の春に逢てあみのうら人たゝぬ日そなきとよみたまへるは、いつれにつかれけむともしらぬを、近來の類字名所抄といふ物に、讃岐とさためたるは、其證をしらす。おもひそやくるとは、遊仙窟にも未(シカトモ)2曾(テ)飲(トオモハ)1v炭(ヲ)腹(ノ)熱如v燒といへり
 
(17)反歌
 
6 山越乃風乎時白見寐夜不落家在妹乎懸而小竹櫃《ヤマコシノカセヲトキシミイヘニアルイモヲカケテシノヒツ》
 
風ヲトキジミとは、時じみは時じく也、日本紀に非時と書けり、不斷の心也、ヌル夜オチズは毎夜不v闕也、共に後々多き言なり、言は山越の風の不v斷ふくに家にあるいもを忍ぶと也、
 
初、山こしの、風を時しみ、ぬる夜おちす、家なる妹を、かけてしのひつ
時しみは時しくなり。日本紀に非時とかきて、ときしくとよめり。不斷の心なり。長歌に、朝夕にかへらひぬれはといひし心なり。ぬる夜おちすは、毎夜かけすといふ義なり。後々おほき詞なり。上をうけて、その風の時なきかことく、ひと夜として、ふるさとにをきてこし妹を、はるかにかけてしのはぬ夜はなしとなり
 
右檢日本書紀(ヲ)無幸於讃岐國亦軍王未詳也但山上|憶良大夫《オクラノマウチキミノ》類衆歌林曰(ク)記曰天皇十一年巳亥冬十二月巳巳朔壬午(ニ)幸《イデマス》于伊豫(ノ)温湯《ユノ》宮云云一書云是(ノ)時(ニ)宮(ノ)前(ニ)在(リ)二(ノ)樹木此之二(ノ)樹(ニ)班鳩《イカルカ》此米《シメノ》二鳥|大集《オホクアツマル》時(ニ)勅(シテ)多(ク)掛《カケテ》稻穗《イナホヲ》而|養《ヤシナフテ》之乃作歌。云云若疑(ラクハ)從此便|幸《イテマス》之《コヽニ》歟
 
記曰の記は紀に作るべし、日本紀の舒明紀を指せり、今案、此川原宮は孝徳天皇を(18)申なるべし、然れば注に天萬豐日天皇とあるべし、今の注は後人の誤なり、其故は下に引る歌林に戊申年とあるは、孝徳天皇大化四年なり、後に日本紀を引るに據ば、齊明天皇五年の歌なれば、何れにても皇極の御世の歌にはあらず、日本紀を考るに、皇極は小墾田の宮にして世を知せ給へり、孝徳天皇とても慥に河原(ノ)宮と申べき證は見及ばざれども、下に後(ノ)岡本(ノ)宮と標し、今戊申と有れば、髣髴ながら孝徳の御世を指にやと覺たり、孝徳紀云、白雉四年、是歳太子奏請曰、欲3冀(ハクハ)遷2于倭(ラント)倭(ノ)京1、天皇不v許焉、皇太子乃|奉《ヰテマツリ》2皇祖母尊間人皇后(ヲ)1并(テ)率2皇|弟等《イロトタチヲ》徃(テ)居2于倭飛鳥(ノ)河邊《カハラ》行宮1云云、かゝれば、初より河原宮ある故に此方彼方におはしますほどを川原(ノ)宮と申けるにや、大化元年冬十二月長柄豐崎に都を遷し給により、後には長柄(ノ)宮御宇とのみ申せども、まさしくは白雉元年十月に宮の堺標を立て、宮造りを初め、二年十二月晦日に、東生(ノ)郡味經(ノ)宮より新宮に遷給ひて、難波長柄豐崎(ノ)宮と名付られ、三年九月に造營事終る由紀に見えたれば、此歌は其より先の作なれば、川原宮とは標せるか、一書云〔三字右○〕、此より又撰者の詞なり、伊與風土記(ニ)云、湯(ノ)郡、天皇等於v湯(ニ)幸行(シテ)降(リ)坐《マスコト》五度也、以2岡本(ノ)天皇并(ニ)皇后二?(ヲ)1爲2一度(ト)1。于v時於2大殿戸(ニ)1有v椹云2臣《オミノ》木(ト)1、於2其上(ニ)1集(マル)2鵤(ト)與2比米鳥(ト)1、天皇爲2此鳥1枝繋2穗等1養賜也、今引るは此風土記に似たり、されど此風土記の分拙して(19)誤あり、眞僞知がたし、
 
初、右※[手偏+僉]○【云云】。同紀曰。十二年夏四月丁卯(ノ)朔壬午天皇至v自v伊豫1便居2厩坂宮1。先(ノ)八年(ノ)紀曰。八年六月災2岡本宮1。天皇遷居2田中宮1。しかれは、八年に天火のために、岡本宮は燒たるゆへ、十二年に、伊豫湯より還御せさせたまひても、うまや坂の宮にいらせ給ふなるへし。下に一書云といふは風土記なるへし。第三卷赤人の、いよの湯にてよめる歌の所に引へし
 
明日香川原宮御宇天皇代 天豐財重日足姫《アメトヨタカライカシヒタラシヒメノ》天皇
 
天豐財重日足姫天皇は皇極の諱也、
 
額田王歌 未詳
 
額田(ノ)王、日本紀に不v見、續日本紀に和銅五年正月授2旡位額田(ノ)部王從五位下1とあるは別人なり、未詳とこゝに注を加へたるよしは、歌の注に顯るべし、
 
7 金野乃美草苅葺屋杼禮里之兎道乃宮子能借五百※[火+幾]所念《アキノノヽミクサカリフキヤトレリシウチノミヤコノカリイホシソオモフ》
 
※[火+幾]【官本作v磯可也、磯をシとよむは、イシを上畧せり、磯亦水中磧也、水渚石也、和州に磯城島あり、しきしまとよめり、】
 
ミクサは眞草なり、一説薄を云といへり、尾花苅葺とも讀たれば、さも可v有、集中多し、下傚v之、宇治《ウチノ》都は行宮なり、借廬は旅人の一夜の宿りに引結び、又稻などこなすとてもかりそめに作るを云なり、下に多く見えたり、日本紀に、應神天皇六年に輕嶋(ノ)明(ノ)宮より近江に行幸し給ひける時も、宇治野にて御歌よませ給ひ、又天武天皇近江(ノ)宮にて出家したまひて吉野へ入給とて、大和の島(ノ)宮へ歸らせ給時も、諸臣宇治まで送(20)り奉とあれば、宇治は大和より近江への路次なり、後の注を以見るに、額田王近江へ行幸の御供に陪て、宇治を過て後、山と云ひ河と云ひ尾花かりふきてしつらへる行宮の樣まで、中々ことそぎて珍しかりしを、立出てこし各殘のあかず惜おぼゆる心をよめるなり、所念を下にオボユとよめり、今も心に任すべし、都といへるを、宇治(ノ)皇子の官所を云と釋したかこともあれど、額田王の私の旅にて古を思心ならば、後注何のためにかせむ、又かりほを思といへば、一首の心も叶はず、必行宮なり、行宮を都と云こと、第六に難波宮へ幸の時の歌に、荒野らに里はあれども大君の、敷坐時は都となりぬ、此外多し、題の下に未v詳と注を加へたるは、撰者は孝徳帝の御供にて額田王のよめると傳て載れども、歌林の説には異なる上に、孝徳紀には比良(ノ)宮へ幸し給ふ由不v見、齊明紀にはあれど三月なれば歌の心不v叶、とにもかくにもたがひたれば、暫傳聞るまゝに載て、未v詳と斷りて左にも注せるにや、
 
初、秋のゝのみくさかりふき
みくさは眞草なり。宇治はやまとより、あふみへおはします道なれは、尾花なとかりふきて、しつらへる行宮のさま、中々ことそぎてめつらしく、又所からも、おもしろかりけれは、立出てこしなこりの、あかすおしくおほゆるなり。所念とかきては、此集におもほゆとよみたれは、今もさもよむへし。四時と土用とを、五行に配する時、秋は金にあたるゆへ、金をあきとはよめり。兎道稚郎子《ウチノワカイラツコノ》皇子の、大宮をたてゝ、住せたまふゆへに、今も宇治の都とよめるとおもへるは非なり。後の人のうちの都とよめるは、それにても侍るへし。今は行宮につきてよめり。左傳曰。凡邑有2宗廟光君之主1曰v都無曰v邑。杜預集解周禮、四縣爲v都四井爲v邑。然宗廟所v在則雖v邑曰v都尊之也。また舜は匹夫なりしかとも、ゐたまふ所、人みな徳をしたひてあつまりけるゆへに、都君といひけれは、いはむや、天子の一夜にてもましまさむ所は、いつくにても都といふに難なかるへし。日本紀に、應神天皇六年、近江國にみゆきしたまひける時も、宇治野にて御歌よませたまひ、又天武天皇、近江宮にて出家したまひて、吉野へ入せたまふとて、大和の嶋宮へ歸らせたまふ時も、諸臣兎道まて送り奉けると見えたれは、大和に都ありける時の路次なり。左注に、幸2比良宮1とあるにより、ことちをつくるともから、路次の御供にて額田王のよみ、あるひは行宮をおほしめして、天子のよませ給ふとはえこゝろえすして、とかくいへるはとるにたらす
 
右※[手偏+僉]山上(ノ)憶良(ノ)大夫(ノ)類聚(ノ)歌林(ヲ)曰一書戊申(ノ)年幸比良宮大御歌但紀曰五年春正月巳卯朔辛巳天皇|至《イタリマス》自紀(ノ)温湯三(21)月戊寅朔天皇幸吉野宮而|肆宴《トヨノアカリキコシメス》焉庚辰日天皇幸近江之|平浦《ヒラノウラ》
 
右※[手偏+僉]云云大御歌までは歌林なり、以下は撰者の注なり、前の軍王歌の注に准ずるに、一書の下に云の字脱たるか、戊申は孝徳天皇の大化四年なり、此説は帝の御歌とせり、歌の心隨て見るぺし、下に日本紀を引る詮なく煩しきに似たり、又五年と云上には文句脱たるか、齊明天皇の五年を此にて五年とのみは云べからず、今補ていはゞ、天豐財重日足姫天皇後四年戊午冬十月庚戌朔甲子幸紀温湯、とありて、次に還御を云べし、若又略を取て當要の事をのみいはゞ、天豐財重日足姫天皇後五年己未三月戊寅朔庚辰(ノ)日天皇幸2近江之平浦1、これにても可v足にや、但今引やう心あるべし、此は下の三山歌の左注を摸していへり、
 
初、右檢云々。これより平浦といふまて、皆類聚歌林の詞なるへき歟。但紀曰以下は、撰者の日本紀を引る歟。おもふに、みな歌林の詞なるへし。そのゆへは、撰者皇極天皇の御時、額田王のよみたまへりときゝて、明日香川原宮天皇代と標して載れとも、歌林に異説あるによりて、未v詳と注して、さて歌林を引なり。但紀以下、撰者の詞ならは、皇極天皇の御代と標せること、いよ/\ことはりなし。齊明天皇の紀温湯へみゆきせさせたまへるは、四年冬十月庚戌朔甲子と紀に載らる。一書の説によらは、此歌孝徳天皇の御製なり
 
後崗本《ノチノヲカモト》宮御宇天皇代  天豐財重日足姫《アメトヨタカライカシヒタラシヒメノ》天皇位後即位後崗本宮
 
後(ノ)崗本(ノ)宮は勘物云、前(ノ)崗本(ノ)宮同地也、位後の位衍文なり、此度を齊明天皇と申、重祚初(22)也、第三十八代なり、敏達天皇の曾孫、初には寶皇女と申して舒明天皇の后に立給て、天智天皇間人皇后天武天皇の三人を生たまへり、日本紀に具なり、
 
額田王《ヌカタノオホキミ》歌
 
8 ※[就/火]田津爾舩乘世武登月待者潮毛可奈比沼今者許藝乞菜《ニキタツニフナノリセムトツキマテハシホモカナヒヌイマハコキコナ》
 
シホモカナヒヌは八雲(ニ)曰、舟などに乘によくなりたる也、今ハコギコナは漕こんなと云心也、こぎ行んなど云べけれど漕出て來べき道なれば理たがはず、又禮記月令孟春之月鴻雁|來《カヘル》とあるをカヘルとよみ、此集第十卷には、春はきにけりと云べきを春去にけりとよめれば、こゝも漕行んなど云事也と知べし、歌林の異説の如く、齊明天皇の御歌と見ば、昔を思召出て名殘もあかずおぼさるれば、月持出るほどだにと思召せども、潮時にもよほされ給て、今は漕出て行宮へ歸らせ給んとなり、謝靈運詩に解v纜及流潮懷v舊不v能v發、
 
初、にきたつにふなのりせんと月まては潮もかなひぬいまはこきこな
潮もかなひぬとは、潮時の應してよくなるなり。宣化紀云。是(ヲ)以|海表《ワタノホカノ》之國|候《サムロヒテ》2海水《ウシホヲ》1以來賓《マウク》といへり。文選謝靈運詩(ニ)解v纜(ヲ)及2流潮(ニ)1懷(テ)v舊(ヲ)不v能v發(スルコト)といへり。今はこきこなは、こきこんなといふ心なり。こきゆかむなとこそいふへけれと、こき出てくへき道なれは、ことはりたかはす。又禮記月令、孟春之月鴻雁|來《カヘル》とあるをかへるとよみ、此集第十卷には春はきにけりといふへきを春去にけりとよめれは、こゝもこきゆかんなといふ事なりと知へし。又乞の字、此集にこといふかんなに用たること、いまたかんかへす。いてとよみ、こそとよめり。ともに物をねかふ詞なり。いてをは、出にかりて、いまこき出なとゝよむへきか。いまこき出んなゝり、今こけこそなとよむへき歟。今こけこそとこひて、なの字をそへたるなり、歌林の異説のことく、齊明天皇の御歌と見は、昔をおほしめし出て、なこなもあかすおほさるれは、月まち出るほとにとおほしめせとも、潮時にもよほされたまひて、いまはこき出て、行宮へ歸らせたまはむとなり
 
右※[手偏+僉]山上憶良大夫類聚歌林曰飛鳥岡本宮御宇天皇元年巳丑九年丁酉十二月己巳朔壬午天皇大后幸于伊豫(23)湯(ノ)宮(ニ)後(ノ)岡本宮|馭宇《ギヨウ》天皇七年辛酉春正月丁酉朔壬寅御舩而征始就于海路庚戍御船|泊《トヽマル》于伊豫|※[就/火]田津《ニキタツノ》石湯|行宮《カリミヤニ》天皇|御覽《ミソナハス》昔《ムカシヨリ》日猶存之物(ヲ)當時忽(ニ)起(ス)感愛之情所以因(テ)製(テ)歌詠(ヲ)爲《ナスノ》之哀傷(ヲ)也即此歌者天皇御製焉但額田王歌者別有四首
 
此中に九年といへるは憶良の誤なり、前の軍王の歌の注にも歌林を引り、其中に日本紀を引て、十一年十二月己巳朔壬午といへり、今日本紀を考るに全同也、又、九年の幸を記さず、其上中に一年を隔て十二月朔日の支干共に同じ事有んや、幸の日も又共に壬午にて十四日なり、必誤りと可v知、後(ノ)崗本(ノ)宮馭宇天皇、此八字は憶良加へらる、下は紀のまゝなり、天皇已下は憶良の詞也、
 
初、右檢云々。此中に天皇九年といへるは、憶良のあやまりなり。さきの軍王の歌の注にも、歌林をひけり。其中に日本紀を引て、十一年十二月已巳(ノ)朔壬午といへり。今日本紀を考るに、全同なり。又九年のみゆきをしるさす。そのうへ、中にひとゝせをへたてゝ、十二月朔日の支干、ともにおなし事あらんや。みゆきの日もまたともに壬午にて、十四日なり。かならす誤れりと知へし。後岡本宮馭宇天皇、此八字は憶良くはへらる。下は紀のまゝなり。海路の下、紀にいはく、甲辰御船到2于大|伯《クノ》海1時大田姫(ノ)皇女産v女焉。仍名2是女1曰2大|伯《クノ》皇女1。おほくは備前にあり。行宮(ノ)下(ニ)注(シテ)云。【熟田津此(ヲハ)云2〓枳陀豆1。】之情まては紀のことは、所以以下は憶良の詞なり
 
幸于紀温泉之時額田王作歌
 
(24)案齊明紀云、四年冬十月庚戌朔甲子幸2紀温湯1、
 
初、幸2于紀温泉之時1額田王作歌
齊明紀云。四年冬十月庚戌(ノ)朔甲子幸2紀温湯1
 
9 莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《ユフツキノアフキテトヒシワカセコカイタヽセルカネイツカアハナム》
 
我セコは妻をさして云、御供に出立時いつの頃か歸りなんやと我を夕月をあふぎみる如く思ひて問し妹が、今は歸るべき比とて立待らんに、いつか歸て相見なんとなりイタヽセルのい〔右○〕は發語の詞なり、ガネはがに〔二字右○〕なり、兼の字此集音をも用たれば、イタヽセリケンとよむが勝るべし、此歌の書やう難儀にて意得がたし、いりほがなるに似たれど、試に今案を加へて後世に便ぜん、仙覺抄を見るに、今の点は仙覺所爲なれば信じ難し、先書樣を釋せば、莫囂は無喧なり、堯の時の老人も日入而息と云ひ、淵明が詩にも日入群動息と作て、夕に至れば靜なれば義を以て莫囂を夕とす、圓隣は十五夜に對していへり、圓月に隣るなり、源氏に五六日の夕月夜ともいひたれど、今は十日餘なるべし、莫囂は圓隣を待てユフとよまれ、圓隣は莫囂によりてツキとよまる、他所に引き分てば共によまるべからず、大相七兄爪謁氣は、此の中の謁の字(25)は靄〔右○〕なるべし、靄〔右○〕は雲状と注したれば、此句をオホヒナセソクモとよむべし、五可新何本をばイツカシガモトとよむべし、※[手偏+總の旁]じてはユフ月シ履ヒナセソ雲、吾セコガ、イタヽセリケン、イツカシガモト、かくよむべきか、第十一に、遠妻の振放《フリサケ》見つゝ偲ぶらん、此月の面に雲十棚引、此意にや、イタヽセリケンは立て我を望て待つなり、イツカシガモトとは、し〔右○〕さ〔右○〕なり、後にもしが〔二字右○〕といへる所あり、己の字此集にさ〔右○〕とよめり、第九にさ〔二字右○〕が心からおぞや此君とよみて、己とも君とも同人を云たれば、必ずしも賤しむる言のみにもあらず、然れば月夜に立て我方を見おこすらん妹が許にいつか歸り到らむとなり、又新河本をニヒガホともよむべし、いつか歸りてめづらしくにほへる顔を見むとなり、又月を見てだに思よそへて我慰まんと云心もあるべし、
 
初、莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣吾瀬子之射立《ユフツキノアフキテトヒシワカセコカイタヽ》爲兼《セルカネ・セリケム》五可新何本《イツカアハナム》
わかせこは、妻をさしてのたまへり。御供に出たつ時、いつの頃か、かへりなんやと、われを、ゆふ月をあふき見ることくおもひて、とひし妹か、今は歸るへき比とて、立まつらんに、いつかゝへりて、あひみなむとなり。いたゝせるのいは、發語のことはなり。かねはかになり。兼の字、此集音をも用たれは、いたゝせりけむとよむがまさるへし。此哥のかきやう、よみやう、難義にて、心得かたし。しゐて第一の句を案するに、莫は禁止辭にて、なかれなれとも、唯なしともよめり。囂は左傳牡預註(ニ)喧嘩也といへり。堯の時、老人ありて、日出而起、日入而といひ、又陶淵朋か詩に、月入群動息と作れり。されは、陰氣に應して、くるれは靜になる心にて、莫囂を夕とよめる歟。圓隣とは、十日過るころは、月もやう/\まろにみゆれは、七八日の月は、それにちかつけは、かくはかけるにや。此集に、女の哥に妾の字をわれとよめり。おとこの哥には、かくへからす。夕月ならて圓隣ともかくまし。第二の句は、かきやう、よみやう、ひたすら心得す。新の字あふとよめるもまたいまたしらす
 
中皇命徃于紀伊温泉之時御歌
 
10 君之齒母吾代毛所知哉磐代乃岡之草根乎去來結手名《キミカヨモワカヨモシレヤイハシロノヲカノクサネヲイサムスヒテナ》
 
シレヤはしれと云下知の詞には非ず、しれりやといはんごとし、君が代の久からん事も我世の長からん程も汝らしれりや、所の名しもときわなるべき磐代にきつるは嘉瑞に非ずや、いざ爰にかや根を引結びて枕として一夜宿んとよませ給へり、君(26)の御供にもあらぬに、君が代もとよませ給へるは臣子の道なり、草根は第十にも、くさねのしげきとよみ、第十四にも、久佐禰可利曾氣とよまぬにはあらねど、六帖に岡の歌、又初てあへると云題にも此歌を出したるに、共にかやねとあり、式子内親王も此歌を取て、磐代の岡のかやねに枕結ばむとよませ給ひ、此次の歌にも、カヤとよみ、官本にもカヤに作ればカヤネに付べし、
 
初、中皇命往2于紀伊温泉1之時御歌三首
君か代もわかよもしれや磐代の岡のかやねをいさ結てな
しれやはしれといふ下知の詞にはあらす。しれりやといはむかことし。君か世の、久しからんことも、わ心か世のなかゝらんほとも、なnちらしれりや。ところの名しも、ときはなるへき磐代にきつるは、嘉瑞にあらすや。いさこゝに、かやねを引むすひて枕として、一夜やとらんとよませたまへり。君の御供にもあらぬに、君か代もとよませ給へるは、臣子のみちなり。草根はくさねとよまぬにはあらねと、かやとよむへし。式子内親王も、此哥をとりて、岩代のをかのかやねにとよませたまひ、此次の哥にもかやとよめり
 
11 吾勢子波借廬作良須草無者小松下乃草乎苅核《ワカセコハカリイホツクラスカヤナクハコマツカシタノカヤヲカリサネ》
 
小松下乃草乎苅核、【官本コマツカモトノクサヲカリサネ、或コマツカシタノに作る、】
 
我セコは御供の人をさし給へり、作ラスは作るなり、又下人をして作らしむとも云べし、いほりさすなども讀みて一夜の宿りを結ぶなり、もしやねをふくべきかやなくば、小松がもとによきかやの有合て見ゆるを苅てふけと宣ふなり、カリサネはかりねなり、上にいへるがごとし、
 
初、わかせこはかりいほつくらす
此せこは、御供の人をさしたまへり。つくらすはつくるなり。又下人をしてつくらしむともいふへし。いほりさすなともよみて、一夜のやとりをむすふなり。もしやねにふくへきかやのなからは、小松かもとに、よきかやのありあひてみゆるを、かりてふけとのたまふなり。ふかさねは、ふきねといふに、字のたらねはさもしをそへたるなり
 
12 吾欲之野島波見世追底深伎阿胡根能浦乃珠會不捨《ワカホリシコシマハミセツソコフカキアコネノウラノタマソヒロハス》
 
不捨、【捨當2改作1v拾】
 
(27)ホリはほしきなり、言はわが聞おきてみまくほしかりし野嶋をば見せつなり、紀州にも野嶋あるか、もしは紀の海の濱づらを經てかなたこなた御覽じ給ふに、淡路の野嶋を見やらせ給ふにや、遠き野嶋をさへ見つるに、あこねの浦は目の前に見ながら、底の深さに歸るさの家づとにすべき眞珠をえひろひ給はぬが殘多くおぼさるゝとなり、不拾は第十五等に比利比弖など云へる古風に依て今もヒリハヌと讀むべし、
 
初、わかほりし野嶋はみせつ
ほるはほしきなり。からの文をよむに、下よりかへる所に、欲の字あるは、ほりすとよめとも、つよくいはむとて、ほつすといふなり。むさほるといふも、俗語にきたなきことを、むさしといへは、きたなく物ほしかるといふ心なるへし。わか聞をきてみまくほしかりし、野嶋をはみせつなり。紀州にも野嶋ある歟。もしは紀の海の濱つらを經て、かなたこなた、御覽したまふに、あはちの野嶋をみやらせたまふにや。遠き野嶋をさへみつるに、あこねのうらは、めのまへにみなから、そこのふかさに、歸るさの家つとにすへき、眞珠をえひろひたまはぬが、のこりおほくおほさるゝとなり
 
或頭云|吾欲子島羽見遠《ワカホリシコシマハミツルヲ》
 
ワガホリシコジマハ見シヲと讀べし、小嶋は見しをなり、
 
初、或頭云。吾欲(シ)子島羽見(ツル)遠。わかほりし、こしまはみしをとも讀へし。小島はみしをなり
 
右※[手偏+僉]山上憶良大夫類聚歌林曰天皇御製歌
 
此説ならば君が代とは御供の皇子大臣を宣ふべし、仁和帝僧正遍昭に七十賀給ひける御歌に、君が八千代とよませ給へり、
 
初、右檢云々。此説ならは、君か代とは、御供の皇子大臣を、のたまふへし。仁和のみかと、僧正遍昭に、七十賀たまひける御哥に、きみかやちよとよませたまへり
 
中大兄 近江宮御宇天皇 三山歌一首 【目録云、并短歌二首】
 
中大兄は天智天皇なれば尊とか皇子とか傍例によるに尤有べし、三山の下に目録には御の字あり、脱せるか、三山は、香具山耳梨山畝火山也、仙覺抄曰、播磨(ノ)風土(28)記(ニ)云、出雲(ノ)國|阿菩大神《アホノオホカミ》聞(テ)2大和國|畝火《ウネヒ》香山《カクヤマ》耳梨《ミヽナシ》三(ツノ)山相(ヒ)闘1以2此(ノ)歌(ヲ)1諫v山、上來之時到2於此(ノ)處1、乃聞(テ)2闘(フコト)止(ヌト)1覆《ウチカヘシ》2其所(ノ)v乘之船1而坐v之、故號2神集之形覆《カミツトヒノカタオホヒト》1、今御歌によれば、香山は雌山にて、畝火耳梨の二の雄山懸想して我妻にせんと相爭ひし事を詠じ給なり、此事何の比と云事不v、香山耳梨は十市郡にて南に香山北に耳梨山あり、畝火は高市郡にて、二の山よりは西に、鼎の如くにそばだてり、五雜爼に、宋史、竹書紀年、説海紀等を引て、あまた水の闘ことを載、此類なるべし、
 
初、中大兄 近江宮御宇天皇 三山。《御、目六》歌一首并短歌二首 目六
中大兄とのみかけるは、すこしいかゝとほゆ。尊とか、皇子とか有ぬへきにや。三山の下に、目六には御の字あり。おちたるなるへし
三山は、かく山、うねひ山、みゝなし山なり。昔いつれの時にか有けむ。此三山あひたゝかひけることあり。そのゆへは、かく山は雌山にて、うねひみゝなしのふたつは、雄山なり。此ふたつの山、ともにかく山にけさうして、をの/\われこそえてつまにせめと、あらそひて、なりとよきけるを、出雲國の阿菩大神と申神、聞たまひて、いさめてあらそひをやめしめむとて、はりまの國まておはしけるほとに、山のあらそひやみぬときゝて、のりたまひし舟をうちうつふせて、それに坐して國へはかへらて、はりまにとゝまりたまふ。此事をみつ山のあらそひといふを、よませたまへるなり。播磨國風土記云。出雲國阿菩大神聞2大和國(ノ)畝火、香《カク》山、耳梨山三山相闘1、以v此欲v諫v山上來之時、到2於此處1乃聞2闘止1覆2其所v乘之船1而坐之。故號2神|集《ツトヒ》之形覆1。もろこしにも、水のたゝかふことあり。明朝謝肇※[さんずい+制]か撰せる五雜俎曰。水|固《マコトニ》常有2闘者1。春秋書3穀洛闘毀2王宮1、竹書紀年載2洛伯用與2河伯〓夷1闘u。○宋史五行志(ニ)載高宗紹興十四年樂平懸河決衝2田數百頃1。田中水自起立如2爲v物所v吸者1。高v地數尺不v假堤防1而水自行。里南程家井水又高數尺天矯如v虹聲若2雷霆1、穿v垣毀v樓而出。二水闘2於杉?1、且前且郤十餘刻乃解各復2其故1。説海紀貴州普定衛有2二水1一曰2滾塘塞2一曰2閙蛙池1、相近前後。呉人從v軍至v此夜聞2水聲搏激1。既而其響益大。居人開v戸視v之波濤噴v面不v可2逼近1。坐以伺v旦。及v明聲息。二水一(ハ)涸一(ハ)溢。人以爲2水闘1。此亦古今所v有不v足v異也。三山のあらそひも此如なり
 
13 高山波雲根火雄男志等耳梨與相諍競伎神代從如此爾有良之古昔母然村有許曾虚蝉毛嬬乎相格良思吉《カクヤマハウネヒヲヲシトミヽナシトアヒアラソヒキカミヨヨリカヽルニアラシイニシヘモシカニアレコソウツセミモツマヲアヒウツラシキ》
 
格、【異本作v拾、非、】
 
カグ山ハとは此にてはかぐ山をばと云心なり、高山と書く事は神代より他山に異なれば義を以て書り、ヲヽシは日本紀に雄畧雄拔又雄壯と書く、男らしき心なり、源氏物語葵の卷、いとをゝしくあざやかに心恥しと、又少女に少しをゝしくあざやぎたるみ心にはと云云、かぐ山、上に云へるが如し、畝火耳梨又面白山なり、故に允恭紀云、新羅人恒(ニ)愛《ヲシム》2京城《ミヤコノ》傍(ノ)耳|成《ナシ》山|畝傍《ウネビ》山1、則到2琴引(ノ)坂1顧之曰、宇泥※[口+羊]巴椰彌巴椰《ウネメハヤミハヤ》、つぶさに(29)は此前後を見べし、異國の人さへめでけるにて知るべし、神代ヨリカヽルニアラシとは、神代より妻を爭ふ事はかくあるらしとなり、古へモシカニアレコソとは、しか〔二字右○〕はさ〔右○〕といふに同じ、さすがをしかすがとも云が如し、さあればこそなり、あればこそといはでかなはぬ所に、かやうには〔右○〕の字なければ、かたことのやうなれど、此集に此類多し、古語なり、ウツ蝉モ妻ヲアヒウツラシキとは、うつせみは世と云枕詞なり、別に釋せり、今其枕詞を世の事に用る事は、あしびきと云て山とし、玉鉾とのみ云て道の事に用るが如し、上に神代といひ古もとあれば、此空蝉は今の世を指してのたまふなり、妻を相うつとは、妻故に相うつなり、相格を義訓してアラソフとよむべきか、然らば妻を〔二字右○〕のてにをはも能く聞ゆるなり、格の字は相如が子虚賦にも獣を格と云に用たり、上にこそ〔二字右○〕と云てき〔右○〕とうけて止るてにをは、此集に數多見えたり、仁徳紀皇后御歌云、虚呂望虚曾赴多弊茂豫耆《コロモコソフタヘモヨキ》云云、此集より以後の集には不v見、歌の心は神代を始て其後の古へも今の世も、互に爭うちて身の失るをも不v知は色の道なりと云心を、情なき山を云出して人間の上に云及ぼし玉ふなるべし、妻を爭事はあり、此集に縵兒櫻兒芦屋のうなひをとめなどの類なり、
 
初、かく山はうねひをゝしとみゝなしとあひあらそひき
此四句は、みつ山のあらそひしことをのへたまへり。第一の句かく山をはと心得へし。かく山を、高山とかきてよむことは、神代より名高き山にて、他の山にことなれは、義をもてかけり。をゝしは、をのこらしきなり。日本紀に、雄略、あるひは雄拔、又は雄壯とかきて、をゝしとよめり。その心字のことし。源氏物語のあふひの卷にも、中將の君、にひ色のなをしさしぬきうすらかに衣かへして、いとをゝしくあさやかに、心はつかしきさまして參りたまへり。をとめには、すこしをゝしく、あさやきたる御心には、《卷名》しつめかたしともかけり。うねひのをゝしき山と、耳成山とか、をの/\われえむとあらそふなり。神代よりかゝるにあらし。いにしへもしかにあれこそとは、此三山のあらそひ、神代の事にて、さて神代よりかゝるわさはあることにあるらしとよませたまへるか。また人代になりてのことなるを、それよりさきの神代よりとよみたまふ歟。しかにあれこそとは、しかはさといふにおなし。さすかともしかすかとも、いふかことし。さあれはこそなり。あれはこそといはてかなはぬ所に、かやうにばの字なけれは、今のみゝにきけは、かたことのやうなれと、此集に此類おほきことなり。古語のならひと知へし。うつせみもつまを、あひうつらしきとは、うつせみは、世といふへき枕詞別に釋しをけり。今はその枕詞を、やかて世の事に用たまへるは、あしひきといひて山とし、玉ほことのみいひて、すなはちみちとするかことし。神世といひ、いにしへもとあれは.これは今の世なり。格の字は手に從て挌につくるへし。妻をあひうつとは、つまにあひうつなり。つまゆへにたかひにうつ心なり。相格をあらそふともよめり。上にこそといひて、きとうけてとむるてにをは、此集にはあまた見えたり。古今集をはしめて、そのゝちはみえぬことなり。つまにあひうつといふへきを、つまをとあるたくひもまたこの集におほし。さて妻をあらそへることは、此末に見えたる、縵兒、櫻兒、蘆屋のうなひをとめなとのたくひなり。おほよそ色このむことにつきては、経文《・法華》に婬欲熾盛不擇禽獣とゝかれたるかこときは、あさましきことにて、色このむといふまてもなし。又もろこしのたゝしき聖の道なとはしはらくをきぬ。此國には聖君賢臣ときこゆるも、すこし色をはこのまれけるなり。されと古公の時、内に怨女なく、外に曠夫なしといふかことく、身をつみて人のうへにもをよほしたまひければ、はかなきことの、あはれにもやさしくもきこゆる事おほし。そのほかよのつねのおとこ女のなさけも、俊成卿の、こひせすは人は心のなからまし物のあはれはこれよりそしると、よみたまひけんやうに、おかしうきこゆる昔物かたりもあれと、あまりに入たちぬれは、人をも身をもそこなふ、むくつけき事さへ出來るものなるゆへに、三山のあらそひにことつけて、いましめをのこしたまふなるへし
 
反歌
 
(30)14 高山與耳梨山與相之時立見爾來之伊奈美國浪良《カクヤマトミヽナシヤマトアヒシトキタチテミニコシイナミクニハラ》
 
イナミ國原とは、播磨に印南(ノ)郡あり、阿菩大神そこに止り給ひけるなるべし、難波の國芳野の國と云が如く、郡なれども國と云べし、地の字郷の字など國とよめり、此まゝにては阿菩大神の播磨までおはしたることゝは聞えずして、印南が大和へ來らんやうなれど、古歌は例として委からす、又今こそあれ、昔は此爭の事時の人普く知べければ、大抵を取てよみ給なるべし、業平の雨中に藤を人に送るとて、ぬれつゝぞ強で折つるとよまれたる類に見るべし、
 
初、かく山とみゝなし山とあひし時たちてみにこしいなみくにはら
此哥にては、耳梨山にあひて、うねひ山のまけてやみたらんやうなれと、あひし時は、あはむとせし時なるへし。あらをひのやみけんやうはしらねと、はかりておもふに、みゝなし山にもあはむとする時、うねひ山のことにうらみてあらそひけるなるへし。さてみゝなし山もえあはす、うねひ山もおもひやみて、持になりて和睦せるにや。下の句阿菩大神出雲よりたちて、はりまにおはしてとゝまりたまへと、あらそひやますは、やまとまてのほりたまふへき本意なれは、かくはのたまへり。いなみくにはらとは、播磨に印南郡あり、そこにとゝまりたまひけるなるへし。くにはらはさきに釋せるかことし。なにはのくに、よしのゝくにといふかことく、郡なれともくにといふへし。地の字郷の字なと、くにとよめり
 
15 渡津海乃豊旗雲爾伊理比沙之今夜乃月夜清明已曾《ワタツミノトヨハタクモニイリサシコヨヒノツキヨスミアカクコソ》
 
ワタツミは海の※[手偏+總の旁]名、また海神をも云、今は海神か、トヨ旗雲は八雲に云、大なる旗に似て赤き夕の雲なり、【袖中一委記、】皇覽云、※[山/虫]尤家在2東郡壽張縣※[門/敢]郷城中1高七尺、常十月祠v之、有2赤氣1出如v絳、名爲2※[山/虫]尤旗1、懷風藻、大津皇子遊獵詩云、月弓輝2谷裏1、雲旌張2嶺前1。今かくつゞけ給は、雲は海神の興す物なる故か、海賦には吐2雲霓(ヲ)1潜(ス)2靈居1と云、此集十八には、此みゆる天の白雲わたつみの、奥つ宮べに立渡などもよめり、又皇覽に※[山/虫]尤が旗といへるやうに、海神の旗といへる心にや、第十六に、わたつみの殿のみかさなどよ(31)めるを思合すべし、此御歌は注の如く反歌とは不v見、唯夕の雲の赤くたなびけるに入日の能さすをば、世にも日より能相とすれば、今宵の月は、必澄て明なるべきを喜ぴて詠じ給ふなるべし、
 
初、わたつみのとよはた雲に入日さしこよひの月夜すみあかくこそ
此御哥は、注のことく、反歌とはみえす。たゝ月を御覽せむとおほしめすころ、おりしもゆふひやけして、月もあかゝるへき相なれは、よろこひおほしめして、よませたまへるなるへし。わたつみとしもよみ出させたまふは、なにはなとへおはしまして、にしのかた海上はるかにみゆる所にてや、よませたまひけむ。又さはなくとも、とよはた雲は、夕ににしのかたに旗のなひきたるやうに、ひろこりたてるをいへは、西は海上天につらなりたれは、いつくにもあれ、かくつゝけさせたまふ歟。皇覽云。蚩尤冢在2東郡壽張縣※[門/敢]郷城中1。高七尺。常十月祠之。有2赤氣1出如v絳。名爲2※[山/虫]尤旗1。懷風藻大津皇子遊獵詩云。月弓輝2谷裏1、雲旌張2嶺前1
 
右一首歌今案不似反歌也但舊本以此歌載於反歌故今猶載此歟亦紀曰天豊財|重日足姫《イカシヒタラシヒメノ》天皇|先《サキノ》四年乙已(ニ)立《タテヽ》爲天皇(ヲ)爲(ス)皇太子(ト)
 
歟は疑の辭、此に叶はず、傍例に依に焉なるべし、立爲〔二字右○〕之爲〔右○〕字衍文也、皇極紀曰、四年六月丁酉朔康戌、讓2位於輕皇子1、立2中|大兄《オヒネヲ》1爲2皇太子1、かゝるを今言を加へて引ことは、齊明帝の下に皇極の御時の事を引けばなり、先といへるは、前後の四年紛るればなり、此四年は孝徳天皇に屬して大化元年なり、
 
初、後注の中に、立と天との中間の爲の字、けつりさるへし。皇極紀にいはく。四年六月丁酉(ノ)朔庚戌讓2位於輕皇子1。立2中|大兄《オヒネヲ》1爲2皇太子1
 
近江大津宮御宇天皇代 天命開別《アメミコトヒラカスワケ》天皇
 
天智紀云、六年春三月、遷2都于近江1、天命開別《アメミコトヒラカスワケ》天皇とは天智帝の諱なり、
 
(32)天皇詔内大臣藤原朝臣競憐春山萬花之艶秋山千葉之彩(ヲ)時額田王以歌判之(ヲ)歌
 
内大臣は鎌足なり、天智紀云、八年冬十月丙午朔庚申、天皇遣2東宮大皇弟於藤原内大臣家1授2大職冠與(ヲ)2大臣(ノ)位1仍賜v姓爲2藤原氏1、自v此以後通曰2藤原大臣1云云、皇極紀に中臣鎌子(ノ)連とて、天智帝のいまだ中大兄皇子にておはしましけると謀を合て、蘇我(ノ)入鹿を誅し大功を立し人なり、皇極紀より天智紀までに具に見えたり、又續日本紀にも往々に出たり、大職冠は孝徳天皇三年に七色十三階の冠を制し給ふ其第一なり、今も大職冠と申すは此故なり、今此詔を承給ふ時はいまだ内大臣にあらず、又天武三年八姓を分ち、十三年冬十一月五十二氏に姓を朝臣と賜ふ、藤原も其隨一なれば此時までは朝臣の稱なきを、此に朝臣といへるは共に後人の筆なればなり、題の心は、花咲る春山と紅葉する秋山と何れか勝劣あると、大職冠に勅して諸の王臣をして心々を爭はしめ給ふ時、額田王判斷せる歌なり、此判も勅に依か、又此は秋の方人にて秋や勝れたる事を判决してよむとも判と云べし、又兩方を合せて判者としてよまれたるにても侍るべし、題に春山秋山と云て字を替(33)ず、歌も亦山の外に出ざれば廣く春秋を比べて云には非ず、たゞ山に付て爭ふなり、されど拾遺、新古今等の歌并に源氏物語等に春秋の爭ひを記せり、皆此集を濫觴とす、風流の事なり、
 
初、近江大津宮
天皇詔2内大臣藤原朝臣1。日本紀を考るに、天武三年に八姓を分、十三年冬十一月に五十二氏に姓を朝臣と賜ふ。藤原もその隨一なり。後の人の詞なるゆへ、こゝに朝臣とかけり。大織冠なり。さてこの心は、大織冠に勅して、よろつの花の咲みたれたる春の山やおもしろき。ちゝのもみちのてりかはしたる秋の山やあはれなると、人々に、をの/\方人となりて、をとりまさりを、あらそはしめたまふ時、額田王、秋山のまされるよしを判斷したまへる哥なり。是も天氣にて判したまひけるにや。ひろく春秋をくらへて、勝劣を論するにはあらす。たゝ山につきてあらそふなり。春山秋山の字に心をつくへし。哥もその心とみえたり。されとも、のちの人春秋をあらそひけるは、これを濫觴といふへし。拾遺集雜下に、ある所に春秋いつれかまされるとゝはせたまひけるに讀て奉ける。紀貫之。はるあきにおもひみたれてわきかねつ時につけつゝうつる心は。元良のみこ、承香殿のとしこに、はるあきいつれかまさるとゝひ侍けれは、秋もおかしう侍りといひけれは、おもしろき櫻を、これはいかゝといひて侍けれは、大形の秋に心はよせしかと花みる時はいつれともなし。題しらす。よみひとしらす。春はたゝ花のひとへにさくはかり物のあはれは秋そまされる。新古今集春上にいはく。祐子内親王、ふちつほに住侍けるに、女はうゝへひとなと、さるへきかきり、ものかたりして、春秋のあはれいつれにか心ひくなとあらそひ侍けるに、人々おほく秋に心をよせ侍けれは。藤原孝標女。あさみとり花もひとつに霞つゝおほろにみゆる春の夜の月。源氏物語野分に、春秋のあらそひに、昔より秋に心よする人はかすまさりけるをといへり。彼物語抄に、樹下集を引ていはく。しかのとよぬし、大伴くろぬしらか論議の哥。豐主とふ。おもしろのめてたきことをくらふるに春と秋とはいつれまされる。くろぬしこたふ。春はたゝ花こそはちれ野邊ことににしきをはれる秋はまされり。又謙徳公いまた宰相中將の時、應和三年七月二日、かのきむたち春秋の歌合のことあり。秋のかたより。花もみつもみちをもみつ虫のねもこゑ/\おほく秋そまされる。今をのかこゝろさしをいはゝ、まことにはつらゆきのやうに、ふたつのかたをこそぬくへけれと、たからを腰にまとひて、楊州の鶴となることを得すして、かならすひとつををけとならは、なく/\東君のために、左の肩をこそ
 
16 冬木成春去來者不喧有之鳥毛來鳴奴不開有之花毛佐家禮杼山乎茂入而毛不取草深執手母不見秋山乃木葉乎見而者黄葉乎婆取而曾思叔布青乎者置而曽歎久曾許之恨之秋山吾者《フユコナリハルサリクレハナカサリシトリモキナキヌサカサリシハナモサケレトヤマヲシケミイリテモトラスクサフカミトリテモミエスアキヤマノコノハヲミテハモミチヲハトリテソシノフアヲキヲハオキテソナケクソコシウラミシアキヤマソワレハ》
 
冬木成は春の枕言なり、別に注す、春サリクレバ、此も多ければ共に別に注す、始より花モサケレドと云までの六句は、春の賞すべき事を云立るなり、鳥なき花さくと云に春の面白事を盡せり、咲れどのど〔右○〕の字は雖の字にてゆるして奪ふ詞なり、山を茂みと云より秋の勝れる事をいはんとて春の山を云おとすなり、花はさけ共山の茂ければ入て手折る人もなく、草深ければ分て取手もなし、手も人なり、用を以て體を呼なり、秋山以下の四句は秋を譽るなり、取テゾ忍ブとは、春は花さけれど山茂りて(34)よそにのみ見て止しが、黄葉の比は草も枯る故山に入て枝を折取て見るとなり、忍とは過にし方を慕ふのみに非ず、眼前の事もあかず思ふを云なり、集中に此心多し、青キヲバ置テゾ嘆クとは、紅葉の中に青葉の有をば折ても見ずして是さへひとつに紅葉せぬ事を嘆くなり、ソコシウラメシとは青葉は秋も折人なければ其所がうらめしければ我はもみぢする秋山を勝ると定るぞとなり、恨めしとは春に心ゆかぬ所のあるに恨を殘すなり、
 
初、冬木なりはるさりくれは
花もさけれとゝいふまての六句は、春山の方人、春の賞すへきことをいひたつるなり。冬木成は、冬木となりて、落葉するをいふにはあらす。冬至の比より、陽氣の下にもよほして、年立かへれは、木のめのはるといふ心につゝくれは、なるは成就の心なり。春さりくれは、これは、春されは秋されはといふには心かはるなり。者されはといふは、春之在者ともかけるにより。春にあれはといふ心なり。定家卿もかく心得たまへり。今のはるさりくれはといふは、春は東よりくれは、かしこをさりてこゝにくる心なり。まことは、速くかしこよりこゝにくるまてもなく、すこしうこきて、その所をうつるは、去なり。又さるといふかすなはち來るなり。第十に、風ませに雲はふりつゝしかすかに霞たなひき春さりにけり。是は春はきにけりといへるなり。鳥もなき花もさくといふに、春のおもしろきことをつくせり。さけれとのどは、雖の字にて、ゆるして奪ふ詞なり。山をしけみといふより下の四句は、秋山の方人、秋のまされる事をいはむとて、春をいひおとすなり。花はさけとも、春山のしけゝれは、入てたをる人もなく、草ふかけれは、わけてとる手もなきなり。手も人なり。用をもて體をよふなり。秋山以下の四句は、秋をほむるなり。とりてそしのふとは、春山の花は、草ふかく、木くらくて、よそにのみ見てやみにしが.心ゆかさりしを、もみちの比は、草もかれて入やすく、心のまゝに、錦とみゆる枝を折取て見るなり。しのふとは、過にしかたをしたふをいふのみにあらす。眼前のことも、あかすおもふをいふなり。古今集にみる物からやこひしかるへきといへるかことし。青きをは、をきてそなけく。そこしうらめし。秋山そ句われは。此中に、初の二句にて、春秋をまさしくゝらへて、秋をまされりとするなり。その心は秋山のにしきとみゆる中に、もみちのこりて、あを葉なるかあるをは、おる人もなくて、これさへひとつにもみちしてあらましかはとなけくなり。終の二句にて判定するなり。そこしうらめしとは青葉は、春山の色にて、秋も折人なけれは、そのところかうらめしけれは、わかまさるとさたむるは、秋山そとなり
 
額田王下近江國時作歌井戸王即和歌
 
井戸王不v詳、此題傍例に違へり、此には額田王下2近江國1時作歌一首并短歌と題して、綜麻形の歌の處に井戸王即和歌一首とありぬべき事なり、古記のまゝ歟、
 
17 味酒三輪乃山青丹吉奈良能山乃山際伊隱萬代道隈伊積流萬代爾委曲毛見管行武雄數數毛見放武八萬雄情無雲乃隱障倍之也《ウマサカノミワノヤマアヲニヨシナラノヤマノヤマノハニイカクルヽマテミチノクマイツモルマテニマクハシモミツヽユカムヲシハシハモミサケムヤマヲコヽロナキクモノカクサフヘシヤ》
 
委曲毛、【幽齋本點、クハシクモ、】
 
(35)味酒、青丹吉、別に釋す、三輪の山の下にを〔右○〕文字を入て心得べし、山ノマは、山の間なり、又山際を山ノハともよめり、それは峯の心なり、イカクルヽのい〔右○〕は發語の詞なり、道ノクマ、神代紀、大貴己命曰、今我當於|百不足《モヽタラス》之|八十隈將隱《ヤソクマチニカクレナン》矣、【隈此云2矩磨?《クマチ》1、】社預左傳註、隈、陰蔽之處、イツモルの矣〔右○〕發語の詞、たゞ積るなり、道のひぢをる所數多あるを云、マグハシは、唯くはしくなり、ミサケンは第十九に、語さけ見さくる入目などよめり、是も三輪山を見つゝ故郷を去て行旅懷を避んものぞとなり、カタサフベシヤはかくしさはるべしやにて、落着はかくしさはるべきものにはあらずとなり、此歌は下2近江(ノ)國1時と題したれば、まだ滋賀へ遷都し給はぬ時、勅にても私にても下らるゝとてよまれたりと見えたり、飛鳥にありて面白く常に見馴れし三輪山を、奈良の山のはにかくるゝまで、數々の道の隈を行かぎりは見つゝ行きて、しば/\思ひを慰めんものを、雲は心なくて如是遮る事の殘多きとなり、大江嘉言が歌に、思ひ出もなき古さとの山なれど、隱れ行はたあはれなりけり
 
初、うまさかのみわの山あをによしならの山の
味酒、青丹吉は、別に釋しつ。みわの山をと、をの字をそへて心得へし。いかくるゝは、いは發語の詞。道のくまは、行まかる所なり。いつもるはいはまた發語の詞。つもるは道のくま/\ひちをるその數のつもるなり。神代紀に、大己貴命のゝたまはく。今我當於2百|不《ス》v足之|八十隈《ヤソクマチ》1將2隱去1矣【隈此(ヲハ)云2矩磨※[泥/土]《クマチト》1。】杜預左傳註(ニ)隈(ハ)陰蔽之處。まくはしも、みつゝゆかんを。眞委見てゆくへき物をなり。なら山にかくれ、行まかるそのくま/\にさはりて、みえすなるまては、くはしく見、しは/\見てたにゆかむものをなり。みさけんは、第三卷にとひさくるといふ詞あり。物かたりなとして、おもひをさくるなり。これもみわ山をみつゝ、故郷をさりて、ゆくおもひを、さけむものをとにや。みわ山は、第二卷に天武天皇崩したまひて、持統天皇のなけきよませたまふ御哥にも、朝夕に、みわ山のことをのたまひし物をとあれは、他にことなる山にて、今もみわ山とわきてよみたまへる歟。又みわに住たまへるが、あふみへうつるとて、なこりをおしみてよみたまへる歟。大江|嘉言《ヨシトキ》か哥に、おもひ出もなきふるさとの山なれとかくれ行はたあはれなりけり
 
反歌
 
18 三輪山乎然毛隱賀雲谷裳情有南畝可苦佐布倍思哉《ミハヤマヲシカモカクスカクモタニモコヽロアラナムカクサフヘシヤ》
 
(36)畝【官本云、或作v武、】
 
シカモカクスカは如是かくすかななり、古今集貫之歌に、みわ山をしかもかくすか春霞、人にしられぬ花や咲らん、此歌を取れるにや、歌の義明かなり、
 
初、みか山をしかもかくすか雲たにも心あらなんかくさふへしや
しかもかくすかは、しかのことくもかくすかなり。せめて雲なりとも心ありて、みわ山をゆく/\みるへき限はみせもせて、かくしさはるへしやとなり。古今集貫之哥に、みわ山をしかもかくすか春かすみ人にしられぬ花やさくらん。此哥を取てよまれけるにや。陶淵明歸去來辭曰。雲無v心而出v岫
 
右二首歌山上憶良大夫類聚歌林曰遷都近江國時|御覽《ミソナハス》三輪山|御歌《ミウタ》焉日本書記曰六年丙寅春三月辛酉朔巳卯遷都于近江
 
これによれば御製なり、歌の心隨て見るべし、
 
19 綜麻形乃林始乃狹野榛能衣爾著成目爾都久和我勢《ソマカタノハヤシハシメノサノハキノコロモニキナシメニツクワカセ》
 
綜麻形乃林始、仙覺の曰、林の茂くして杣山などの形のごとくはやし初る心なり、そまかたに道やまどへるとよめる歌も、杣方と心得られたりと見えたり、今案、日本紀に綜麻をヘソとよめり、始の字は第十九に、始水をミツハナと點じたれば、水はなは水の出さきをいへば、今はサキと訓じて、ヘソカタノ、林ノサキノと讀べきか、古歌に、(37)山深くたつをだまきとよみ、狹衣に、谷深く立をだまきは吾なれや、思ふ心の朽てやみぬるとよめるも、木の打しげりて丸に見ゆるが、をだまきのやうなれば、やがて押て苧環と名付たるか、若爾らばへそかたの林といはむ事も可v准v之、さてこれは所の名歟、狹野榛、狹はたゞ野榛也、榛ははりの木、俗にはんの木と云、古は此皮を以て絹を染たるを榛染と云、此榛と萩と紛るゝ事あり、又集中多く有れば別釋す、衣爾著成、是はキヌニツクナスと讀べきにや、神代紀は如五月蠅をサバヘナスとよめるは、さつきの蠅のごとくと云心なれば、つくなすも、つくごとくなり、此集に鏡なす玉藻なすなど讀り、十四に、高き根に雲のつくのすと云も雲のつくなすにて、雲の山に著如也、歌の心は、榛の衣に染つくやうに、我思ふ人は目につきて離ぬと云なり、此集第七に、今つくるまたら衣は目につきて、我におもほゆいまだきね共、此心なり、ワガセは、女を指て云へり、背も男女に通ず、別に釋す、此歌の註にいへる如く、始の長歌を和する歌とは見えず、
 
初、綜麻形の林始のさのはきのきぬにつくなすめにつくわかせ
木のしけき所は、杣人の入山のかたちに似たれは、そまかたといふといへり。蓬か杣なといふ心に見たる歟。綜麻形とかきたれは、ことなるよみやうもあるへき歟。日本紀に結総麻かきてへそとよみたれと、こゝにはかなふへくもなし。もしそまかたの林といふ名所にても侍るか。林始はその林のはしめにある榛といへり。今案始の字は、此集末に至て、始水とかきて、水はなとよめるは、世俗にいふ水の出はななり。かくもよみたれは、今は林のさきとよむへき歟。さのはきは、さは物によくつけていふ詞なり。雉子を野つ鳥といふを、此十六には、さのつ鳥とよみたれは、唯野にある榛なり。榛ははりの木なり。俗にはんの木といふ。武士の氏に榛谷といふもこれなり。片山里の川邊なとにおほき木なり。昔は榛摺のきぬとて、よき人も此皮をもてそめけるなり。萩か花すりといふ事もあるゆへに、榛と萩とよくまきるゝなり、衣爾著成を、ころもにきなしとよめるはあやまななり。きぬにつくなすとよむへし。神代紀に、如五月蠅とかきて、さはへなすとよめり。此集に、鏡なす、玉藻なすなとよめる、皆かゝみのことく、玉ものことくなり。しかれは、榛染の、よくきぬにしみつくかことく、わかめには、君かつきてみゆると、たとへてよめるなり。第七に、いまつくるまたら衣はめにつきて我におもほゆいまたきねとも。つくなすとよめるは、第十四に、高き根に雲のつくのす我さへに君につきなゝ高根ともひて。これは東哥なれは、雲のつくなすといふを、つくのすとよめり。もひてはおもひてなり。此わかせは、女をさしていふ。まことに、右の長哥を和する哥とは見えす
 
右一首歌今案不似和歌但舊本載于此次故以猶載焉
 
天皇遊獵蒲生野時額田王作歌
 
(38)蒲生野は近江蒲生郡にある野なり、此獵は藥獵なり、後の注の下に注すべし、
 
20 茜草指武良前野逝標野行野守者不見哉君之袖布流《アカネサスムラサキノユキシメノユキノモリハミスヤキミカソテフル》
 
アカネサスは集中に多き詞なり、茜刺、あから引、さにづらふ、さにづかふ、にほす、にほふ、丹の穗、皆似たる言なり、色のにほふと云も赤き色より云言なれば、茜刺も大かた匂ふ心なり、委は別に注す、紫は赤黒相まじはりてうるはしき色なれば、それをほめて茜刺とは云出せり、第十六に、さにづかふ色に名付る紫の、大あやの衣とよめるも此心なり、元明紀に、大寶元年の服制に黒紫赤紫と云は、深紫、淡紫なり、赤紫にあかねさすとつゞけんは勿論なり、黒紫にも匂ふ心につゞけむに子細なかるべし、紫は野に生て女の色よきに喩ふる物なれば、官女のあまた御供して彼方此方打群あるくを以て蒲生野を押て紫野と云へり、太子の御答に此紫野を受て紫の艶《ニホヘル》妹とよませ給へるにて彌明にしられたり、又第三につくま野に生る紫とよみたるも同國なれば、蒲生野に實に紫の有によせてよませたるにても侍るべし、シメ野〔三字右○〕は御獵のためしめ置なれば、蒲生野を云にて、行は野守のゆくなり、今此紫野標野といへるを他國の名所とするは此歌の理に叶はず、俊頼朝臣の歌にいふ、紫野みかり塲ゆゝし眞白(39)なる、倶知の羽かひに雪ちりほひて、是紫野は今の歌によりて蒲生野をよまれたるか、狩をよまれたるはこゝの狩を鷹狩と思はれけるか、但藥狩と知りながら鷹狩をもよまるべし、又匡房卿の歌云、がまふ野の標野の原の女郎花、野守に見すな妹が袖ふり、これは蒲生野をやがて標野とし、君といへるを女と心得て女郎花とはよまれたり、大意は、帝の供奉の官女袖打ふりて遊行く艶麗のありさまを、皇太子に見給ふや御目の留らんと云意なるべし、野守は皇太子を比して云なり、
 
初、茜さす紫野ゆきしめ野ゆき野守はみずや君か袖ふる
此哥のよみやう、かゝはる所なくおもふまゝにて、上代ならすはよむこともあたはす人もゆるさし。心うることのやすからぬ哥なり。大意は、みかりの御供に、女もあまた具せさせたまへるが、簾中を出てまれにめつらしくみる野なれは、こなたかなた打むれてあるくを、天武天皇、時に太子にてましますに、御覽しつやと讀て奉り給ふなり。あかねさすとは、月日の光のあかきをもいひ、又十六卷の哥に、あかねさす君とよめるは、紅顔のにほへるをいへり。今も紅顔をほめんとて、かくはよみ出たまへり。紫は野におふる物なれは、色よき女のおほきをたとふとて、蒲生野をゝさへて紫野といへり。おなし國にて、つくまのにおふる紫と、此第三によみたれは、かまふ野にまことに紫のあるによせて、よまれたるにても侍るへし。あかねさす紫とつゝけ紫野とよまんこと、哥をわか物に領したる人にあらすは、おもひもよるまし。しめ野とは、けふのみかりのためにかねてしめをく野なれは、これもかまふ野をいへり。君か袖ふるとはかの女とものしなひたる袖うちふりてゆくを、野もりはみすやとなり。太子を野もりによせて、御めのとまらんと云こゝろなるへし。又君か袖ふるとは、太子をさしていへる歟。彼紫に御目のつける歟。袖ふらせたまふを、野守の野をまもることく、紫を領する人は、みすやといふ心歟。御かへしの人つまゆへにと、あるよりみれは、さもありぬへくきこゆ。俊頼哥に、紫野御かりはゆゝしましろなる|くち《・倶知》のはかひに雪ちりほひて。匡房哥、かまふのゝしめのゝ原の女郎花野もりにみすな妹かそてふり。此哥は君か袖ふるを、女の袖ふると心を得てよみたまへり。此紫野しめ野にまとひて、さいふ所のあるやうにおもへるはいふかひなし
 
皇太子答御歌 明日香宮御宇天皇
 
皇太子、白虎通曰、漢天子稱(ス)2皇帝1、其(ノ)嫡嗣稱2皇太子2、【上下畧、】此皇太子は天武帝也、
 
初、皇太子答御歌
白虎通曰。何以知3天子之子稱2世子1。春秋傳曰。天子之子稱2太子1。或曰諸侯之子稱2太子1。則春秋傳曰晉有2太子申生1。周制太子世子亦不v定也。漢(ハ)天子稱2皇帝1其嫡嗣稱2皇太子1諸侯王之嫡稱2世1。後代咸因v之。
 
21 紫草能爾保敝類妹乎爾苦久有者人嬬故爾吾戀目八方《アキハキノニホヘルイモヲニククアラハヒトツマユヱニワカコヒメヤモ》
 
紫草はムラサキノとよむべし、アキハキと點ぜるは誤なり、推量するに此点の失したる本に向て、第十五卷に、あきはぎのにほへるわが裳とよめる七夕の歌などを思て後人のかく點ぜるか、六帖、人妻の歌、仙覺抄に此を載たるにも紫のとあり、同v之、官本亦同、尤可v然、ニクヽアラバとは嫌はしく思はゞなり、惡人などを憎むと云心のにくむ(40)にはあらず、第十に、吾こそはにくゝもあらめわが宿の、はな橘を見にはこしとや、と詠ぜるも同じ、紫の如く匂へる妹をきらはしく思ば、我領せぬよそめ計の色にかくまで戀むやとなり、順〔左○〕して和し給へり、人ツマは他の字をひと〔二字右○〕とよめば他妻なり、第十に、あからひく色たへの子をしばみれば、人妻ゆゑにわれこひぬべし、此歌今の御歌に似たり、第十二に、人妻ゆゑにわれ戀にけりともよめり、紀曰、五月五日の御獵は藥獵なり、藥獵とは鹿茸を取んためなり、きそひ獵とも云、百艸を取を云と意得るは誤なり、推古紀云、十九年夏五月五日藥2獵於菟田野1、二十年夏五月五日藥獵之集2于羽田1云云、二十二年夏五月五日藥獵なり、これ同日なれば藥獵と知られたり、此集十六、乞食者の爲v鹿述v痛歌に、う月とさつきの程に藥がりつかふる時にとよみたれば、これを以て鹿獵とは知れり、此集第四人丸の歌に、夏野行男鹿の角の束のまも云云、和名藥部云、雜要決云、鹿茸、【和名、鹿乃和加豆乃、】鹿角初生也、月令に五月鹿角解とあれども、少々は遲速ある事物毎の例なり、まづは五日にて四五月の間はすることにや、乞食者の歌のみならず、第十七家持歌に、かきつばた衣にすりつけますら男の、きそひがりする月はきにけりとよまれたるも四月五日の歌なり、同き天皇此後も亦此日狩をし給へり、紀云、八年夏五月五日壬午、天皇縱2※[獣偏+葛]於山科野1、
 
初、紫草のにほへる妹をにくゝあらは人つまゆへにわか戀めやも
紫草を、あきはきとよみなせるは、古點には侍らし。おほきにあやまれり。紫野といふをうけて紫のといひ、あかねさすといへるをは、にほへるとつゝけさせたまへり。にくゝあらはとは、きらはしくおもはゝなり。憎惡といふほとのにくむにはあらす。惡寒なといふほとのにくむなり。第十に、われこそはにくゝもあらめわかやとの花橘を見にはこしとやとよめるもおなし。まことに、紫のことくにほへる妹をきらはしくおもふ我ならは、わか領せぬよそめはかりの色に、かくまてはこひむやと、順してかへしたまへり。第十に、あからひく色たへのこをしばみれは人つまゆへにわれこひぬへし。此哥今の御うたにゝたり。第十二に、さゝのうへにきゐて啼点めをやすみ人つまゆへにわれこひにけり
 
(41)紀曰天皇七年丁卯夏五月五日|縱獵《カリシタマフ》於蒲生野于時|天皇弟《ヒツキノミコ》諸王《オホキミタチ》内臣《ウチノマウト》及(ヒ)群臣《マムテキムタチ》皆悉|從《オムトモナリ》焉
 
天皇弟は日本紀作(ル)2大皇弟1、按ずるに、今の天は上に一畫を餘し、日本紀は下に一點を脱せる歟、太に作らば然るべし、太皇弟は帝之弟を儲君に立つるを云、太皇叔の類なり、晋書帝紀四曰、晋惠帝永興元年三月河間王※[禺+頁]表請(テ)立2成都王穎1爲2太弟1云云、
 
初、紀曰――。五月五日の御かりは、藥獵なり。藥獵とはしかのわかつのをとらんためなり。きそひかりともいふ。百草をとることなりとおもへるは、あやまれり。第十六、乞食者のうたに、う月と、さつきのほとに、藥かり、つかふる時にとよみたれは、まつは五日にて、四月五月のあひたは、おなしく藥獵といふなり。第十七、家持哥に、かきつはたきぬにすりつけますらをのきそひかりする月はきにけり。此藥獵、日本紀にみえたるは、推古紀云。十九年夏五月五日藥(リ)2獵(シタマフ)於菟田野(ニ)1取2鷄鳴時《アカトキヲ》1集2于藤原池上(ニ)1以2會明《アケホノヲ》1乃往之。栗田(ノ)細目(ノ)臣《オム》爲2前(ノ)部領《コトリ》1。額田部(ノ)比羅夫(ノ)連爲2後(ノ)部領《コトリ》1。是(ノ)日諸臣(ノ)服色皆|隨《マヽナリ》2冠色(ノ)1。各|着《キセリ》2髻華《ウズ》1。則大徳小徳(ハ)、竝用v金、大仁小仁(ハ)用2豹尾《ナカツカミノヲ》1、大禮以外用2鳥尾1。二十年夏五月五日藥獵之。集2于羽田1以相連參趣於朝1。其|裝束《ヨソホヒ》如2兎田之獵1。二十二年夏五月五日藥獵也。推古天皇十九年に、はしまりて、今の天智天皇七年まて、以上四度、そのゝち見えす。天皇弟《ヒツキノミコ》今の印本の日本紀に、天を大に作れるは、上の一畫をうしなへり。こゝにひけるを證とすへし。日次のみことゝよめるは、同母の弟なるが、太子にてましませはなり
 
明日香清御原宮天皇代 天渟中原瀛眞人天皇
 
明日香(ノ)清御原(ノ)宮は、天武元年紀曰、是歳營2宮室於崗本宮南1即冬遷以居焉、是謂2飛鳥(ノ)淨御原(ノ)宮1、考物曰、大和國高市(ノ)郡今(ノ)嶋(ノ)宮(ノ)正東地是也、或者(ノ)云、多武峯の西につゞき細川山あり細川村あり、村の西四五町許に淨御原宮の遺跡あり、俗に淨御を音に云といへり、
 
初、天(ノ)渟中原瀛眞人《ヌナハラオキノマツトノ》天皇。日本紀に中をなと注せり
 
天渟中《アマヌナ》【日本紀注曰、渟中此云2農難1、】原瀛眞人《ハラオキノマヒトノ》天皇は天武帝の諱なり、
 
十市皇女參赴於伊勢神宮時見波多横山巖吹黄刀自作(42)歌
 
十市(ノ)皇女(ハ)天武帝(ノ)皇女、母(ハ)額田姫王、詳2于日本紀1、懷風藻を見るに、大友(ノ)皇子の妃となりて葛野王を生給へり、後は高市(ノ)皇子の妃と成給へるか、第二の高市(ノ)皇子の御歌を見るべし、波多(ノ)横山不v詳、和名云、高市(ノ)郡波多とあれば、此處淨御宮より伊勢への路次にや、姓に波多(ノ)朝臣あり、吉の姓は多く居地に依て賜たれば、先祖此地に居住せられけるか、第十にはた野とよめるも其邊にや、羽田と云所は別なり、其故は波多氏尸は朝臣、羽田氏は眞人なり、是を以て知るべし、
 
22 河上乃湯都盤村二草武左受常丹毛冀名常處女煮手《カハカミノユツハノムラニクサムサスツネニモカモナトコヲトメニテ》
 
第二の句を伊勢の地の名と云説あれど題の心に違へり、今按ユツイハムラとよむべし、延喜式第八|祈年《トシコヒノ》祭(ノ)祝詞曰、四方 能 御門 爾 湯津磐村 能《ヨモノミカトニユツイハムラノ》如(ク)塞坐 ?《フサカリマシテ》云云、これ名所にあらざる堅い證なり、那※[日/丙]が爾雅疏に、盤、大石也といへり、幽齋本に盤を磐に作れり、神代紀、『復劔(ノ)刃垂血《ハヨリシタヽルチ》是爲2天(ノ)安河邊所在五百箇磐石《ヤスノカハラニアルイホツイハムラ》1云云、湯津杜樹《ユツカヅラ》、湯津爪櫛《ユツツマグシ》などを思合するに、ゆづ〔二字右○〕はしげき心か、村は上の村山を注せしごとく群の字の心にて多きを云、崇神紀に載る歌に、大坂につきのぼせるいしむらをと云云、此いしむらも石の(43)繁を云、此歌は面白き横山より潔くながるゝ水の其河上に並立る巖のありさまのあかず面白ければ、あはれ此巖の草の生ぬ如くなる仙女の壽命を保て、いつとなく此になかめをらばやと女の歌なればいへるなり、詞書に波多横山作歌とのみはかゝずして巖を見てといへるに心を著べし、集中の詞書に往々に此意ありと見えたり、凡境地風景に對して常なき世をなげく樣によめるは、其向へる所の物を貪愛するやうに云てほむる心なり、大納言旅人の歌に、わが命も常にあらぬか昔みし、きさの小川を行てみんため、其外第三弓削(ノ)皇子の吉野にての御歌、第六笠(ノ)金村の吉野にての歌等にも同じ心あり、
 
初、河上のゆついは村に草むさす常にもかもなとこをとめにて
湯津磐村とかけるを、ゆつはの村とよみて、ひとつの名所とするはあやまりなり。波多横山より、なかれ出る川上に、奇異なる巖の、いくらともなくならひてたてるをみてよめるなり。詞書の意をよくみぬによりてあやまれり。延喜式第八、祈年《トシコヒノ》祭祝詞の中にも、四方《ヨモ》能|御門《ミカト》爾|湯津磐村《ユツイハムラ》能|如(ク)塞(カリ)坐《マシ》※[氏/一]といへり。これは、いをついはむらを、上略してをゝゆに通していへるなり。此集に、をさゝをゆさゝとよみ、うつるをゆつるともよみ、從の字をよりとよむ、そのよりをゆともよめり。いをついはむらは.神代紀上云。遂拔(テ)2所帶十握《ミハカセルトツカノ》劔(ヲ)1斬(テ)2軻遇突智(ヲ)1爲2三|段《キタト》1。此各化2成神1也。復劔(ノ)刃《ハヨリ》垂《シタヽル》血是爲2天(ノ)安河|邊《ラニ》所在《アル》五百箇磐石《イホツイハムラ》1也。神道家には、湯といふ字たにあれは、清淨の義といへと、日本紀にも、字をかりてかけることおほけれは、清淨の義通せさる事もあるへし。ゆつかつらも、枝のしけきをいひ、ゆつのつまくしも、百刺櫛を、さしくしとよめは、はのこまかにしけきをいふへし。盤の字を書たるは、盤のことくなる石なれは、磐の字も、盤より作り出せる字にて、通するなり。村は、むら、むれ、皆群の字の心にて、おほきをいふ。崇神紀に、百襲《モヽソ》姫命の、箸御墓を、大坂山の石にてつきける時、人のよめる歌にいはく。大坂につぎのほせるいしむらをたこしにこさはこしかてむかも。これも、石のしけきを石村とよめり。はたのこよこ山のおもしろきより、底さへ見えて、いさきよくなかれくる、その川上に、えもいはぬいはほの天のやすかはらともみるはかり、ならひたるが、あかすおもしろけれは、あはれ此いはほともの、いくちよをふれとも、草のおひぬことく、われも仙女のことき壽命をたもち、とこをとめにて、いつとなく、こゝになかめをらはやと、女の哥なれはいへるなり。おほよそ、おもしろき所、月花なとに對して、身のつねならぬことをなけくやうによめるは、むかへる所の物をほむとて、貪愛するやうにいへはなり。第三卷に、大納言旅人、わか命もつねにあらぬか昔みしきさの小川をゆきてみんため。第六に笠金村、萬世にみともあかめやみよしのゝたきつ河内の大宮所。人みなの命もわれもみよしのゝ瀧のとこいはのつねならぬ鳧。初の哥をもこゝにかくは次の哥の心をあらはさんためなり。弓削皇子の吉野にての御哥に、瀧のうへのみふねの山にゐる雲のつねにあらんとわかおもはなくに。第三にあり。これも山の見あかぬよりのたまへり。齊奚公牛山の嘆もこゝに引へし。鎌倉右府、今の哥と、古今集みちのくはいつくはあれとゝいふ兩首をとりて、なきさこくあまの小舟といふ秀逸はよまれたるを、無常を觀する心にのみ釋しなせり。清少納言に、御前にあまた物おほせらるゝついてなとにも、世の中のなへてはらたゝしう、むつかしう、かた時あるへき心ももせて、いつちも/\いきうせなはやと思ふに、たゝのかみのいとしろうきよらなる、よき筆白き色紙、みちのくにかみなとえつれは、かくてもしはしありぬへかりけりとなん覺え侍る。又かうらいへりのたゝみの、むしろあをうこまかに、へりのもんあさやかにくろうしろうみえたる、引ひろけてみれは、何か猶さらに此世はえおもひはなつましと、命さへおしくなると申せは、いみしくはかなきこともなくさむかな。をはすて山の月はいかなる人のみるにかとわらはせ給ふ。さふらふ人も、いみしくやすきそくさいのいのりかなといふとかけるをおもふへし。こひする人も、おしからさりしいのちさへなかくもかなとよめるかし
 
吹黄刀自未詳也但紀曰天皇四年乙亥春二月乙亥溯丁亥十市皇女阿閉皇女參赴於伊勢神宮
 
第四にも此刀自が歌二首あり、吹黄は氏にて刀自は名なるべし、刀自は女の事にて歌にも常處女《トコヲトメ》にてといへるにて女とは知れり、但紀曰云云、紀は天武本紀也、十市(ノ)皇女見2于前1、阿閉、【日本紀作2阿陪1】天智紀曰、姪娘生2御名部(ノ)皇女(ト)與2阿陪(ノ)皇女1、【阿陪皇女即元明天皇也、】
 
(44)麻續王《ヲミノオホキミ》流於伊勢國伊良虞島之時人哀傷作歌
 
麻續(ノ)王、不v詳2其系譜1、
 
初、麻續王。をうみといふへきを、うみを上略して。をみといふ。續の字は、績にやとおもひつれと、日本紀、延喜式、此集みな續の字なり。續v麻曰v績と字書にあれは同し事なり
 
23 打麻乎麻續王白水郎有哉射等龍荷四間乃珠藻苅麻須《ウツアサヲヲミノオホキミアマナレヤイラコカシマノタマモカリマス》
 
打麻はウチアサと體によむべきか、ウツとよめば用なり、十二にうみをのたゝり打麻懸《ウチヲカケ》とよめるをウチヲと點ず、今も打ヲヽと四文字にもよむべし、麻をはぎて能やはらげうむを云なるべし、此はうち麻ををにうむと云心につゞけたり、アマナレヤはあまにあれやなり、落著はあまにもましまさぬ物を、痛はしく習はぬ業の玉もを刈給ふ事よといとをしむなり、袖中抄に此歌を釋せられたるに誤あり、見人知べし、
 
初、打麻をゝみの大きみ
第十二に、をとめらか、うみをのたゝり、うちをかけと侍る所に、今のことくかきて、うちをとよめり。麻をはぎて、よくやはらけてうめは、うちをといふなるへし。今もうちをヲと四もしにもよむへし。うちをといへは、打の字も體となり、うつあさといへは、打の字用なり。うちあさとよめは、うちをとおなし。うつとよむはあしかるへし。うちあさを、をにうむとつゝけたり。あまなれやは、あまにあれはにやなり
 
麻續王聞之感傷和歌
 
24 空蝉之命乎情※[草冠/夷]浪爾所湿伊良虞能島之玉藻苅食《ウツセミノイノチヲヲシミナミニヒテイラコノシマノタマモカリマス》
 
情?、【二字當v作2惜美1乎、但おしむと云に情の字をか ける所集中に多し、三之四十九紙、四之五十八、六之十一、十三之十、今と併て已上五處、字相似たる故皆寫誤歟、玉篇に人之陰氣有v欲者と情の字を注せり、惜は吝貪也と注す、意通歟、】 所濕、【或作2所温1、非也、】
 
(45)浪ニヒテはひぢてなり、但物を酒に漬すを酒ひてなど云こそひて〔二字右○〕の二字體なれ、今所濕〔二字右○〕をひ〔右○〕とよみてて〔右○〕もじをよみつくる事理なし、然ればヒヂと改べきか、官本にヌレと點ぜり、これ尤もよし、食はハムとよむべきか、義明なり、
 
初、うつせみのいのちをゝしみ
浪にひては、ひちてなり。食の字ますとはよむへからす。はむとよむへし。情?は惜美のかきあやまれるなり
 
右案日本紀曰天皇四年乙亥夏四月戊戍朔乙卯三品麻續王有罪流于因幡一子流伊豆島一子流血鹿島也是云配于伊勢國伊良虞島者若疑後人縁歌辭而誤記乎
 
此天武紀の意を見るに、二子の罪父に及ぶか、其故二子共に父よりも遠流なり、是云と云より撰者の注なり、注の心を按ずるに撰者も只古記に任て二首共にいらこが島とよめる故は知られざるかと見ゆ、通妨のために此注は加へられたれど何の故にかくよむといはれねばなり、又常陸(ノ)國風土記臼、行方《ナメカタ》郡從v此南十里、板來《イタク》村近臨2海濱1、安2置驛家1、此(ヲ)謂2板來之驛(ト)1、其西榎木成v林、飛鳥淨御原天皇之世、遣2流麻續王1之居處、其海燒鹽藻海松白貝辛螺蛤多生云云、此等に據れば麻續王の謫居彌相違あり、如何、
 
初、右案云々。此注猶不審のこれり。まことに日本紀は、此にひけることくなれとも、いらこか嶋も玉もかりますとも、ゆへなくてはよむへからす。もし初はいせへなかしつかはされけるを、後にあらためていなはへうつされけるを、日本紀には、後を取てしるしたまへる歟。太神宮の神衣《カンミソ》奉るにつきて、麻續氏服部氏のもの、彼國にあり。麻續王といふ名につきて、因幡なれともいらこか嶋とはよめる歟。これは入ほかなれと、後の人に猶心をつけしめんとてなり
 
(46)天皇御製歌
 
25 三吉野之耳我嶺爾時無曾雪者落家留間無曾雨者零計類其雪乃時無如其雨乃間無如隈毛不落思乍叙來其山道乎《ミヨシノヽミカノミネニトキナクソユキハフリケルヒマナクソアメハフリケルルソノユキノトキナキカコトソノアメノヒマナキカコトクマモオチスオモヒツヽソクルソノヤマミチヲ》
 
此歌は興而比とも云べし、初六句は興、次の四句は比、終の三句は本意を述たまへり、クマモ不落は、道のくま/\一も殘さずなり、前の一夜もおちずに同、思ツヽゾクルは早至りてみばやと思召す路次の御意なり、第十三に此によく似たる歌あり、但彼は戀の歌なり、或本の歌句々かはれども心同じ、
 
初、みよしのゝみゝかのみね
此御哥は興而比ともいふへし。初六句は興、次の四句は比、終の三句は本意をのへたまへり。くまもおちすは、道のくま/\ひとつものこさすなり。さきのひと夜もおちすに同し。おもひつゝそくるは、はやくいたりてみはやとおほしめす、路次の御心なり。第十三に、これによく似たる哥あり。此次の哥句にかはれることあれと心おなし
 
或本歌
 
26 三芳野之耳我山爾時自久曾雪者落等言無間曾雨者落等言其雪不時如其雨無間如隈毛不墮思乍叙來其山道乎《ミヨシノヽミカネニトキシクソユキハフルトイフヒマナクソアメハアメハフルトイフソノユキノトキナラヌコトソノアメノヒマナキカカコトクマモオチズオモヒツヽソクルソノヤマミチヲ》
 
右句々相換因此重載焉
 
或本歌
三芳野之耳我山爾耳我山爾はみみゝかのやまと讀へし時自久曾は垂仁紀に非時をときしくとよめり。不時如は上の時自久をかへせはとときしくかことゝ讀へし右句々――
 
(47)天皇幸于吉野宮時御製歌
 
27 ※[さんずい+〓]人乃良跡吉見而好常言師芳野吉見與良人四來三《ヨキヒトノヨシトヨクミテヨシトイヒシヨシノヨクミヨヨキヒトヨキミ》
 
吉野には神武天皇の入らせ給ひて後、聖主賢臣のぼり給て、ほめ給はずと云ことなく、美稻が仙女にあひし靈山なれば、第九卷人丸集の歌に、いにしへのさかしき人の遊びけん、吉野の川ら見れどあかぬ鴨、是らに合せて今の御製をも見るべし、下のよき人は、皇后皇子だち大臣などをさして宣へるなるべし、此の注に引る天武紀の次の文に、此時天皇后宮及び六皇子共に盟をなさせ給ふ事あり、此御歌は毎句用同字格とて、詩に一體あるに同じ、歌にも猶此類あり、心こそ心をはかる、心なれ、心の仇は心なりけり、思はじと思ふも物を思ふ哉、おもほじとだに思はじゃ君、思ふ人おもはぬ人の思ふ人、おもはざらなむ思ひ知るやと、櫻さくさくらの山の櫻花、さく櫻あれば散る櫻あり、濱成和歌式に、二十種の雅體を立つる中に、第一聚蝶、毎句上同字用也とて、例に此御製を出さる、第一の句三吉野をとありて、終の句よきひとよくみよとあり、
 
初、よき人のよしとよくみて
吉野には、神武天皇のいらせたまひて後、聖主賢臣、のほりたまひてほめたまはすといふ事なく、美稻《ウマイネ》か仙女にあひ、天皇も天女のまふを見給ふ靈山なれは、第九卷に、人まろの集に出る哥にも、いにしへのさかしき人のあそひけんよしのゝ川らみれとあかぬ鴨。これらにあはせて、今の御製をもみるへし。下のよき人は、皇后皇子たち、大臣なとをさしてのたまへるなるへし。此御哥は、毎句用2同字1格とて詩に一體あるにおなし。哥にも猶此類あり
おもはしと思ふも物を思ふかなおもはしとたにおもはしや君。おもふ人おもはぬ人のおもふ人おもはさらなむおもひ知やと。櫻さくさくらの山のさくらはなさく櫻あれはちるさくらあり。濱成和哥式に、十種の雅體を立る中に、第一聚蝶。毎句上同字用也とて、例に此御製を出さる。第一の句、みよしのをとありて、結句よきとよくみよとあり
 
紀曰八年巳卯五月庚辰朔甲申幸于吉野宮
 
(48)藤原宮御宇天皇代 高天原廣野姫天皇
 
藤原宮は持統紀云、八年十二月乙卯遷2居藤原宮1云云、日本記私紀云、師説此地未詳、愚案、氏族略記云、藤原宮在2高市(ノ)郡鷺栖坂(ノ)北(ノ)地1、或者云、多武峯紀云、藤原(ノ)宮大原也、今見るに、後(ノ)飛鳥(ノ)岡本(ノ)宮の舊地の東北三四町許、近年造營の大職冠大宮の地なりといへり、但志貴(ノ)皇子の明日香風都遠見とよませ給ふ御歌によれば不審なり高天原廣野姫天皇は、第四十一代持統の御諱なり、天智天皇の皇女、初は天武天皇の皇后、詳に日本紀に見えたり、此標は持統文武兩帝に亘れるを、此に持統の御諱を擧げたるは後人の誤りなり、下に至ておのづから明かなり、
 
天皇御製歌
 
28 春過而夏來良之白妙能衣乾有天之香來山《ハルスキテナツキニケラシシロタヘノコロモサラセリアマノカクヤマ》
 
夏來良之、【官本又云、ナリツソキヌラシ、來の字の下に計等の字脱せるか、さらずばキタルラシともやよむべからむ、】衣乾有【別校本亦云、コロモホシタリ、官本亦云、コロモホシタル、】
 
此御製は、第八卷夏の雜歌の初に載すべきを、此集部類未だ不調、故にこゝにあるな(49)るべし、又年の次に隨て此にあるか、此歌未だ淨御原(ノ)宮にましませる時の御歌なり、春過テとは時節の替り來る次第をいふなり、十卷に冬すぎて春は來ぬらし、十九卷に、春すぎて夏きむかへばと云云、宋玉が好色の賦に、向2春之末1、迎2夏之陽1、白妙ノ衣、たへは妙の字、又細の字を書けり、ほめたる詞なり、よりて白妙の衣白たへの袖など多くよめり、後に白細布とかきてシロタヘと和したれば今も其意に見るべし、※[手偏+總の旁]じて白きをたへと云にや、下に雪穗とかきてタヘノホとよみ、敷白と書きてシキタヘとよめり、乾有をばサラセリともホシタリともよみ來れり、同じことなり、春マデノ衣ハタヾミ置カン爲ニホシ、開v箱衣帶2隔v年香1と更衣詩に作れる如く、去年より箱に入置ける衣をば今きる料に濕氣など乾さんとて、香具山の麓かけてすむ家々に取出てほせるが見ゆるにつけて時節の至れる事をよませ給へるなり、第十四卷東歌、つくばねに雪かもふらるいなをかも、悲しきころかにのほさるかも、ふらるはふれるなり、いなをかもはいなにかもなり、にのほさるかもは布ほせるかもなり、又風俗の歌にも、甲斐がねに白きは雪か、いなをさの、かひのけ衣さらすてづくり、山に布ほすこともあればこそかくはよみけめ、今の御歌是に准じて心得べし、衣ほしたり、衣さらせり、共に云はてゝ詞も古質なりなど思ひて、何れの人か衣ほすてふと改めけむ、今(50)此集によりて見ればいかゞと覺ゆ、新古今集には、此歌を夏の部の始に載せらる、更衣の心なるべし、後の人衣ほしたりと云ふを、春は霞度りしが夏になれば霞の霽れて山の色明白に見ゆるを云ふと釋せり、歌の中にさる詞もなきをかく釋せる事不審なり、殊に更衣の歌にて天象の事を云べからず、たゞ歌の詞の中に義をとるを好とすべきか、
 
初、春過てなつきにけらし
此御製は、第八卷夏雜哥の初に取らるへきを、此集いまた部類をよくもとゝのへさるゆへに、こゝにはあるなるへし。下に至りて、朱鳥八年に、藤原宮に遷たまふとしるせり。これはいまた淨御原宮にまし/\ける時の御哥なり。春過てとは、時節のかはりくる次第なり。十九卷家持の長哥にも、春過て夏きむかへはとよめり。宋玉か登徒子好色賦には、向2春之末1迎2夏之陽1といへり。左太沖か呉都賦に、露《アキ》往|霜《フユ》來といひ、周興嗣か千字文に、寒來暑往といひ、此第十に、ふゆ過て、春はきぬらしといへる、皆同意なり。白妙の衣とは、色は白きか本色なれは、白たへの衣、白たへの袖なとおほくよめり。たへは妙の字、細の字なとをかけり。ほめたることはなり。白き色を、たへといふにや。此卷の末にいたり、たへのほによるの霜ふりとよみ、十三にはたへのほといふは雪穗とかき、十一には、しきたへといふに、敷白とかけり。又栲角栲衾なといふも、たくは白きといふ古語なるを、しろたへといふに、白栲ともかけり。五色の中に、白たへとのみいひて、あをたへとも、黄妙ともいはす。白の字を直にたへとよめれは、白き色をいふなるへし。文選には、皚々とあるをしろたへとよめり。乾有をは、さらせりとも、ほしたりともよみ來れり。おなしことなり。春まての衣は、たゝみをかんためにほし、開v箱衣帶2隔v年香1と、更衣の詩にもつくれることく、其年より箱にいれをける衣をは、今きむ料に、濕氣なとかはかさんとて、かく山のふもとかけてすむ家々に、とり出てほせるがみゆるにつけて、時節のいたれることをよませたまへるなり。第十四、東哥に、つくはねに雪かもふらるいなをかもかなしきころかにのほさるかも。ふらるは、ふれるなり。いなをかもは、いなにかもなり。にのほさるかもは、ぬのほさるかもなり。山にぬのほすこともあれはこそ、かくはよみけめ。今の御哥これに准して心得へし。衣ほしたり、衣さらせり、ともにいひはてゝ、ことはも古質なりなとおもひて、いつれの世の人か、衣ほすてふとあらためて、物ふかうけたかくしなつとおもはれけん。此集第三、沙彌滿誓の哥に、こきゆくふねの跡なきかことゝあるを、あとのしら浪と、拾遺集にあらためて入られたるは、心もたかはす、ことはもはなやかなるをこのむ世にかなへり。これは目前に御覽して、よませたまへるを、人づてにきこしめしたるやうになりたれは、叡慮にはそむきぬへし。世にきよきことをこのむやまひあり。哥も卑俗なるはいふにたらす。あまりにけたかゝらんことをこのみて、ふるき哥をさへ、わか心にしたかへて、あらためけんは、かのきよきをこのむやまひにひとし
 
過近江荒都時柿本朝臣人磨作歌【目録云、一首并短歌、】
 
日本紀、天智六年紀曰、三月己卯遷2都于近江1、是時天下百姓不v願v遷v都、諷諫者多、童謠亦衆、日々夜々失火處多、人麿の傳別に記す、
 
初、過2近江荒都1時柿人朝臣人麿作歌。 一首并短歌目六
 
29 玉手次畝火之山乃橿原乃日知之御世從《タマタスキウネヒノヤマノカシハラノヒシリノミヨユ》【或云自宮】阿禮座師神之書樛木乃彌繼嗣爾天下所知食之乎《アレマシヽカミノアラハストカノキノイヤツキツキニアメノシタシラシメシヽヲ》【或云食來】天爾滿倭乎置而青丹吉平山乎越《ソラニミツヤマトヲオキテアヲニヨシナラヤマヲコエ》【或云虚見倭乎置春舟吉平山越而】何方御念食可《イカサマニオホシメシテカ》【或云所念計米可】天離夷者雖有石走淡海國乃樂浪乃大津宮爾天下所知食兼(51)天皇之神之御言能大宮者此間等聞雖大殿者此間等雖云春草之茂生有霞立春日之霧流《アマサカルヒナニハアレトイハヽシルアウミノクニノサヽナミノオホツノミヤニアメノシタシラシメシケムスメロキノカミノミコトノオホミヤハコヽトキケトモオホトノハコヽトイヘトモワカクサノシケクオヒタルカスミタツハルヒノキレル》【或云霞立春日香霧流夏草香繁成好留】百磯城之大宮處見者悲毛《モヽシキノオホミヤトコロミレハカナシモ》【或云見者左夫思母】
 
石走、【官本云、イシハシル、】 所知食兼、【宮本云、シロシメシケム、】 天皇之、【官本云、スヘラキノ、】 春草之【幽齋本云、ハルクサノ、】 茂生有、【官本云、シケリオフナル、】
 
玉手次は、畝火の枕詞なり、別に記す、橿原ノ聖ノミヨユは神武天皇なり、神武紀曰、觀2夫畝傍山東南橿原地1者、蓋國之|墺區《モナカ》乎、可v治v之、是月即命2有司1經2始帝宅1、辛酉年春正月庚辰朔、天皇即2帝位於橿原宮1、是歳(ヲ)爲2天皇元年1云云、故古語(ニ)稱v之曰於2畝傍之橿原1也、太2立《フトシキ》タテヽ》宮柱(ヲ)於|底磐之根《ソコツイハネ》1峻2峙榑風1於2高天之原1而馭2天下1之天皇號曰2神日本磐余彦火火出見天皇1矣、或者の云、當時橿原(ノ)村畝傍山の東南にありて、葛(ノ)上(ノ)郡に屬して高市(ノ)郡にとなれりといへり、いつの比より葛(ノ)上(ノ)郡には屬せるにか、アレマシヽは、生れましますなり、神代紀上云、然後神聖|生《アレマス》2其中1焉、此第四岳本天皇の御歌にも、神代よりあれつぎくればと云云、ゆ〔右○〕はよりの古語集中に滿り、又此從〔右○〕の字を、に〔右○〕ともを〔右○〕とも云てにをはに(52)書きたれば御世ニとも讀べし、神ノアラハストガノ木ノイヤツギ/\ニとは、是は仙覺の點にて、神は人の犯すあやまちを咎め給ふ物なれば、神のあらはすとがの木のとはよそへつゞくるなりと注せり、今按此點此説共にうけがたし、此神といふは神武天皇にて君を云、内證は神にておはさめども、外用は天神地祇といはれ給ふ神には替るべければ、神のあらはすと云ふべからぬ上に、神のあらはすとが此に用なし、又とがの木は、彌つぎ/\と云はん爲の枕言にいへるを、それにかく※[金+巣]つゞけむこと、後々の歌は知らず、全く古歌の心に非ず、神ノシルシニとよむべきか、意は神武の和州を國のもなかと定めて宮作りし給ひし驗に、代々の帝多分此國に都を建てさせ給ふ心なり、古點神ノシルセル、これまた下のとがにつゞきてよろしからず、とがの木は能く生茂る物なる故に、第三卷にもみもろの神なみ山にいほえざし、しゞに生たる都賀乃樹の、いやつぎ/\にと云云、其外にも、かくつゞけよめる事多し、古くはマガリ木ノと點ぜり、これは詩の周南に、南有2樛木1といへる注に、木下曲曰v樛、これによれり、然れどもまがり木は彌つぎ/\のつゞきに詮なき上に、集中の例右に引が如し、字書廣ければ別にとがと訓ずる子細ありけるなるべし、俗には栂の字を用ゆ、天離夷、石走、樂浪共に枕詞なり、別注す、所知食兼、此處句絶なり、いかさまにおぼし(53)めしてかと云ふを受くる故なり、大宮は禁裏を※[手偏+總の旁]じて云ひ、大殿は其中にある諸殿なり、春草を若艸《ワカクサ》とよむは義訓なり、第八にはわかなを春菜とかけり、字のまゝにもよむべし、春ビノキレル、きる〔二字右○〕の霧、景行紀に峯|霧《キリ》谷|※[日+壹]《クラシ》とあり、源氏物語にも、めもきりてといへり、霧と云名は物を遮りて見せぬ故なるべし、百シキは、日本紀に内裏をモヽシキともオホウチとも點ぜり、百官の座ある故に百しきといふとなり、但今按あり、集中に多き詞なれば別に注す、案に春草春日の下の二の之の字はの〔右○〕とよみては、おひたる〔四字右○〕の下、切るゝにもあらずつゞくにもあらず、然れば疑ひのか〔右○〕になしてよむべきか、第十に、ならなる人の來てもみるがね、これは見るがになり、此がねを之根とかけり、是證據なり、若草のしげゝれば見えぬか、霞の立さへて見えぬかなり、幸に細注、句はかはれども此心なり、歌の心は、初より天の下しろしめしゝをとままでは神武より代々の帝多は都を大和にしめ給ふことを述べ、空にみつよりしろしめしけんまでは、大津宮へ、移り給ふ事を不審に思ふなり、いかさまにおぼしめしてかといふによりて見れば、此帝の郡を遷し給ふ事を少し謗れるか、民のねがはざること題の下に引ける天智紀の如し、※[手偏+總の旁]じて都を遷す事は古より民の嫌へる事なり、史記殷本紀曰、盤庚渡v河南復※[尸/立]2咸陽之故居1廼五遷、無2定處1、殷民咨胥皆怨不v欲v從、况や上に引け(54)る孝徳紀にいへる如く、豐碕(ノ)宮をば嫌ひ給ひて、倭京にかへらせ給ふべき由、奏請したまひながら、御みづからは又あらぬ方へ都を移させ給ふ、不審の事なり、又按ずるに、第二第十三にも、いかさまに思し食てかといへるは、たゞ御心のはかりがたきを云へり、殊に今の帝は大織冠と共に謀て蘇我(ノ)入鹿を誅し給ひ、凡中興の主にてましませば、七廟の中にも太祖に配して永く御國忌を行はる、智證の授决集にも見えたり、然ればたゞ御心のはかりがたき故にも侍らんか、注のサブシモはさびしもなり、サブシとよめること末に至りて多し、此集にさびしといへるは、後々につれ/”\なるをのみ云にはかはりて、悲しもと云ふに同じ、下に不樂とも不怜とも書けるにて心得べし、第三に同作者、あふみの海夕浪千鳥ながなけば、心もしのに古思ほゆ、とよまれたる歌も今の心に同じ、又拾遺にも同人、さゞ浪の近江の宮は名のみして、霞たな引宮木守なしとあり、
 
初、玉たすきうねひの山のかしはらの
此哥、初には神武天皇よりこのかた代々のみかと、多分やまとに皇居をしめたまふ事をいひ、そらにみつといふよりは、近江へ移りたまひける事をいひ、すめろきの神のみことの大宮はといふより下は、荒廢せることをかなしふなり。玉たすきうねひは、すてに別に釋しつ。かしはらのひしりのみ代ゆ、よりといふへきをゆといふこと、此集にめつらしからす。古語なりと知へし。神武天皇の御ことなり。日本紀第三云。神日本磐余彦天皇諱 彦火々出見《カンヤマトイハレヒコノスメラミコトハタヽノミナハヒコホホテミ》。彦波瀲武※[盧+鳥]?草茸不合尊第四子《ヒコナキサタケウカヤフキアハセスノミコトノヨハシラニアタルミコナリ》也。母《イロハヲ》曰《申ス》2玉依姫(ト)1。海童之小女《ワタツミノヲトムスメナリ》也。天皇生而明達意碓如也。年十五立爲2太子1。同卷云。三月辛酉(ノ)朔丁卯下v令曰。自2我東征1於v茲六年矣。頼以2皇天之威1凶徒就v戮。雖d邊土未v清餘妖尚梗u而中洲之地無2復風塵1。誠宜d恢2皇都1規?大壯1。而今運屬2此屯蒙1民心朴素○且當d披2拂山林1經2營宮室1而恭臨2寶位1以鎭2元々u。○觀夫畝傍山(ノ)【−−(ヲハ)此云2宇禰 糜夜摩(ト)1】東南橿原(ノ)地者、葢國之墺區乎。可v治v之。是月即命2有司1經2始帝宅1。○辛酉春正月庚辰朔天皇即2帝位於橿原宮1。是歳爲2天皇元年1。尊2正妃1爲2皇后1、生2神八井耳命渟名川耳尊1。故古語|稱《ホメ申シテ》v之|曰《イハク》。於2畝傍《ウネヒノ》之|橿原《カシハラニ》1也|太2立宮柱《ミヤハシラフトシキテ》於|底磐之根《シタツイハネニ》1峻2峙榑風《チキタカシリ》1於2高天之原《タカマカハラニ》1而馭2天下1之天皇號《ハツクニシラススメラミコトヲナツケテ》曰(ス)2神日本磐余彦火火出見天皇(ト)1矣。あれましゝは、生れましますなり。神代紀上云。然復|神聖《カミ》生《アレマス》2其中1焉。此第四、岳本天皇の御哥にも、神代より、あれつきくれは、人さはに、國にはみちてとよませ給へり。神のあらはす、とかの木の、いやつき/\に。あれましゝ神とつゝくるは、神武綏靖等のみかとを、神と申て、神明はあきらかに.人のをかせる科を、見あらはし給ふ物なれは、やかてとかの木にいひかけて、とかの木の、次第におひつゝきてたえぬかことく、御子孫あひつゝきて、多分やまとにてこそ、天下をおさめさせたまひし物をとなり。とかの木に、樛の字をかけるにより、もとのまかれる木をいふといへる説は、あやまれり。玉篇云。樛(ハ)居秋切。木下曲曰v樛といひ、又毛詩周南に、南有2樛木1葛??之といふ詩の注も、玉篇におなし。これによりていへと、第三卷赤人長哥に、みもろの、神なひ山に、いをえさし、しゝにおひたる都賀乃樹の、いやつき/\にとよめる、今におなし。とかは、今栂の字を用れと、これも俗字なりといへり。樛の字をかけるは、昔別に考ふる所ありけるなるへし。あらはすは驗の字、證の字なり。神功皇后紀云。即《ソノ》年以2千熊長彦(ヲ)1副(テ)2久※[氏/一](ニ)1等|遺《マタス》2百濟《クタラノ》國1。因以垂(テ)2大恩《ウツクシヒヲ》1曰。朕從2神|所驗《アラハシタマヘルニ》1始開2道路(ヲ)1平2定|海《ワタノ》西(ヲ)1以賜2百濟1。論語曰。葉公語2孔子1曰。吾黨有2直(スル)v躬(ヲ)者(ノ)1。其父|攘《ヌスム》v羊(ヲ)而子|證《アラハス》v之。日本紀竟宴歌にいはく。あまかしのをかのくかたちきよけれは、神のあらはすとかに|ざ《・ソアノ反》りける。いかさまに、おほしめしてか。これはすこしそしりたてまつる心あるか。そのゆへは、孝徳紀云。是季【白雉四年】太子秦請曰。欲3冀遷2于倭京1。天皇不v許焉。皇太子乃奉2皇祖母尊、間人皇后1并率2皇弟等1往居2于飛鳥河邊行宮1。于時公郷大夫百官人等皆隨而遷。由v是天皇恨欲v捨2於國位1令v造2宮於山碕1乃送2歌於間人皇后1曰云云。五年冬十月癸卯朔皇太子聞2天皇病疾1乃奉2祖母尊、間人皇后1并率2皇弟公卿等1赴2難波宮1。壬子天皇崩2于正殿1。○是日皇太子奉2皇祖母尊1遷2居倭河邊行宮1。天智紀云。六年春三月辛酉(ノ)朔己卯遷2都于近江1。是時天下百姓不v願v遷v都。諷諫者多(ク)童謠亦衆。日々夜々失火處多。これらの心をみるに、孝徳天皇の、長柄の豊崎におはしますをは、やまとへ歸らせたまひて、然るへきよし奏したまひ、御許容したまはさりけ札は、皇祖母尊をゐて奉り、皇后皇弟まてを引具したまひて、やまとの川原宮へ、かへらせ給ふにより、孝徳天皇うらみおほしめして、位をさらせたまはむとさへおほしならる。しかるに、齊明天皇のゝち、御位につかせたまひての六年に、大津宮へうつらせたまふ時、百姓都のうつらむ事をねかはす、いさめたてまつるものも、おほかりけれと、つゐにううらせたまふに、さま/\の童謠ありて.晝夜|失火《ホヤケ》し、よからぬ事ともありけるよし、日本紀にみえたれはほのめかしていへるにや。しけく都をうつす事は、民のうらむることなり。史記殷本紀曰。盤庚渡v河南、復居2成湯之故居1、迺五遷無2定處1。殷民咨胥皆怨不v欲v徙。またほのめかしても、そしりたてまつるにはあらて、大織冠と御心をひとつにして、蘇我入鹿を殺して、天下を中興したまふ帝にて、はかりかたき叡慮なれはいふにや。天さかるひなにはあれと、別に尺するかことし。顯昭の、きはめて遠き國にあらすは、あまさかるひなとはいふましきよし申されたるは、一徃さもと聞ゆれと、此哥より見れは、穿鑿せる説なり。畿内を出は、いつくにもいふへし。しろしめしけむ。此所句絶なり。いかさまに、おほしめしてかといふ句をうくるゆへなり。大宮は禁中をすへていひ、大殿は、大宮のうちにある別殿をいへり。春草、春日の下のふたつの之の字は、ともにうたかひの歟になしてよむへし。ふたつなから、のとよみては、句もきれす、つゝきもせぬなり。かとよむことは、柳之枝とかきて、やなきかえたとよむことく、、のにかよふにこれるかを、清濁通して、すみてよむなり。第十卷に、梅の花われはちらさしあをによしならなる人のきてもみるかねといふ哥の、かねはかになり。それに、之根とかける、これすみて用る證なり。春草を、わか草とよめるは、義翻に例すへし。わか草のしけゝれは、みえぬか、霞の立さへてみえぬかなり。きるは遮なり、霧といふ名も物をさへきりて、みせねゆへに、用を體の名とするなり。源氏物語に、涙にくるゝことを.めもきりていへるこれなり。もゝしきは禁裏には、百官の座あるゆへにいふといへり。日本紀には、内裡とかきて.おほうちとも、もゝしきともよめり。大宮はといふよりはるひかきれるといふまて、文章の隔句對の體にゝたり。人まろの長哥には、此體下にもおほし
 
反歌
 
30 樂浪之思賀乃辛碕雖幸有大宮人之舩麻知兼津《サヽナミノシカノカラサキサキクアレトオホミヤヒトノフネマチカネツ》
 
辛崎と云ふを受けてサキク〔三字右○〕とつゞけたり、さきくとは日本紀に無恙とも平安とも(55)書ける意同じ、辛崎は昔のまゝに平安にしてあれど、大宮人の乘りつれて遊びなどせし舟の今はまてどもよせこぬを辛崎が待ちかぬるとなり、第九に、白崎はさきくありまて大舟に、まかぢしゞぬき又かへりみむ、是に合せて知るべし、六帖に今の歌をも第九の歌をも行幸の第に入れて、今の歌のさきくあれどをみゆきしてとよみ、舟まちかねつを舟よそひせりと改め、第九の歌のさきくありまてをも、みゆきかくあらばとなせるをみれば、昔の人も此集をよく見ざりけるにや、
 
初、さゝなみのしかのからさきさきくあれと
さゝなみは、別に注あり。からさきといふをうけて、さきくとつゝけたり。さきくとは、日本紀に、無恙とも平安ともかきたり。幸の字も心おなし。からさきは昔のまゝに、平安にしてあれと、大宮人の、ゝりつれてあそひなとして、こきかへりてよせし舟の、今はまてともよせこぬを、まちかぬるといへり。十三卷にも、長哥に、さゝなみのしかのからさきさきくあらはまたかへりみんとよめり。又此待かぬるは、からさきが待かぬるにても侍るへし。心なきものにも、心あらするは.詩哥のならひなり
 
31 左散難彌乃志我能《ササナミノシカノ》【一云比良乃】大和太與杼六友昔人二亦母相目八毛《オホワタヨトムトモムカシノヒトニマタモアハメヤモ》【一云將會跡母戸八】
 
ワダとは水の入込みきてまわれる所なり、七わだに曲れる玉のなど云ふも、かよへり、?などの蟠ると云ふも此心なり、水のみわだともよめり、水うみの入りたる所にて、廣所なれば大わだと云へり、されば水は早く流れ過る物ながら大わだに入曲りて淀むとも、昔は去てかへりこぬ物なれば、其世の人に又逢はんや、又あはじと云ふなり、注の句はアハムトオモヘなり、思ふをお〔右○〕を略してもふ〔二字右○〕とよめること下に多し、日本紀の歌にもあり、思ヘヤは此後も多き言なり、思ふやといはむが如し、下知にあ(56)らず、此句に付て釋せば、上は初の如くにて、昔の人に逢はんと思ふや、流れて過ぎし水の如くなる人にはえあはじとなり、又釋すらく、大わだはよどみて昔の舟を待どもなり、
 
初、さゝなみのしかのおほわた。わたとは、水のいりこみて、まはれる所なり。七わたに、まかれる玉のなといふもかよへり。へみなとの蟠るといふも、此心なり。水のみわたともよめり。水うみの入たる所にて、廣き所なれは、大わたといへり。されは、水はゝやくなかれ過る物なから、大わたに入まはりて、よとむとも、昔はさりて歸こぬ物なれは、その世の人に、又あはんや。又はあはしといふなり
一本の哥に、あはんともへやは、あはむとおもへやなり。おもへやとは、下知するにはあらす。あはむとおもはむやといふ心なり。古語には髣髴なることおほし
 
高市古人感傷近江舊堵作歌 或書云高市連黒人
 
古人も注の黒人も考ふる所なし、懷風藻に隱士民黒人とて詩二首あれども、民と云ひて姓をいはねば別人なるべし、按ずるに此は古人が歌なるべし、其故は第三に高市連黒人近江舊郡歌一首あり、同じく黒人が歌ならば何の卷にも一所に載すべきか、又考て云、彼卷の歌も異説を注したれば、共に黒人が歌なれど別けて載るか、堵は、玉篇云、都魯切、垣也、五版爲v堵といへり、一版は二尺なれば、一丈の垣を堵と云ふ、然れば皇居の築墻のみ殘れるを見て傷てよめるか、但此堵字第三の二十六紙、六之三十八、十六之十九にもあり、皆都の字と通ずるやうにも見えたり、平仄の聲も違ひ、又相通の由も見えねば不審なれど、あまた見えたれば誤にはあらじ、據ところあるべし、二首となきは脱せるか、目録にも亦なし、
 
初、高市黒人感2傷近江舊堵1作歌。恐脱二首二字。目録亦不注。堵玉篇曰。都魯切。垣也。五版爲v堵。二尺を一板といへは、高さ一丈の築牆《ツイチ》なり。ついひちのゝこりたるを見て、かなしふなり。堵はもし都と通する歟。第三に、高市連黒人近江舊都歌とて載たるあり
 
32 古人爾和禮有哉樂浪乃故京乎見者悲寸《フルヒトニワレアルラメヤサヽナミノフルキミヤコヲミレハカナシキ》
 
(57)此作者の名古人といへば、我名におへる古人にてあればにや、古き都をみればかなしく覺るとなり、按和禮有哉は我ハアレバヤとよむべきか、曾禰好忠が集の自叙にも、おやのつけてし名にしおはゞ、よしたゞと人もみるがになど書り、黒人が歌ならば、此都の全盛に逢し古人にも我はあらぬを、など舊都をみればかくばかりは悲きかとなり、官本に初二句をイニシヘノ人ニワレアレヤと點ず、黒人が歌ならばこれ尤然るべし、古人が歌なりとも彼がみずからの名にかけざることも侍るべし、
 
初、古人にわれあるらめや
此作者の名、古人といへは、わか名におへるふる人にてあれはにや、ふるき都のみなはかなしくおほゆるとなり。和禮有哉とかきたれは、われはあれはやともよむへし。曾禰好忠か集の自叙にも、おやのつけてしなにしおはゝ、よしたゝと人もみるかになとかけり。黒人か哥ならは、此都の全盛にあひしふる人にも我はあらぬを、なと舊都をみれは、かくはかりはかなしきそとなり
 
33 樂浪乃國都美神乃浦佐備而荒有京見者悲毛《サヽナミノクニツミカミノウラサヒテアレタルミヤコミレハカナシモ》
 
國ツミ神は、日吉の大宮權現にて、本三輪の御神にて地祇なればかくは申す、其おはします處なれば、みかみの浦と云といへる説あれど、彼は傳教大師天台宗の守護のために、勸請したまひ、此は遙に以前の歌なれば更にかなふべからず、今按、サヾナミノ國とは近江を※[手偏+總の旁]じて云へば、此國つみ神は彼國中の神なり、則延喜式神名帳に載る所のごとし、ウラサビテは心さびしきなり、心をうらと云こと別に注す、みかみの浦と地の名に云つゞくるにはあらず、浦の字をかけるは借てかけるなり、第十に、あさぢがうら葉と云にも浦をかけるにて思べし、歌の心は、帝の此國に都を定させ給(58)へば、國中の神だち天神の天降給ひしやうに守護し給ふ故に榮たりし都なるを、帝の神去給ひし後は國つ神も便を失て心悲みければ、物くさく成て守り給はぬにや、程なく荒果たるを見るが悲しきとなるべし、
 
初、さゝなみのくにつみかみの
日吉の神は、三輪と同體にてましますといふ説あり。三輪は地祇なり。地祇をくにつかみといふ。地祇のましますゆへに、志賀のうらをくにつかみの浦といふなりとそ。うらさひてとつゝくる、うらは心なり。うらかなし、うらめつらしなとの類皆おなし。毛詩に、不(ンヤ)v屬《ツカ》2于毛(ニ)1、不(ンヤ)v離《ツカ》2于|裏《コヽロニ》1といへり。身は表にあらはれ、心は裏にかくるゝゆへにいふなり。法性寺關白殿の哥に、さゝなみやくにつみかみのうらさひてふるき都に月ひとりすむ。昔はかやうにとりても、よみけるにや。又松尾と日吉とはおなし神なり。三輪とおなし御神のことは、いまたかむかへす。神道の末の書にて見をよひ侍り
 
幸于紀伊國時川島皇子御作歌 或云山上巨憶良作
 
川嶋皇子は天智第二の皇子、母は宮女|色夫古娘《シコフコノイラツメ》、
 
34 白浪乃濱松之枝刀手向草幾代左右二賀年乃經去良武《シラナミノハママツカエノタムケクサイクヨマテニカトシノヘヌラム》 一云|年者經爾討武《トシハヘニケム》
 
白浪ノ濱は白波のよする濱なり、名所に非ず、十一には白濱波ともよめり、手向草、只手向なり、草は萬にそへて云詞にて、十七にも、萬世の語らひ草とよめり、第十三に、相坂山に手向草い取置つゝ幣よめり、とを初て、何にても神に物を奉るを云、今は松か枝を結て奉なるべし、有馬(ノ)皇子の結松の事あれど、昔はさしも忌べからざる歟、第六第二十にも家持の歌に松が枝を結とよめり、又只松が枝を折て手向るをも云べし、花をも紅葉をも折て神に手向くるは其折による手向なり、袖中抄に古語拾遺を引(59)て彼に云る手向草かと思はれたれど、此に不叶か、彼は神樂の取物の類と見えたり、十三の手向草は何物ともいはず、第六にゆふだゞみ手向の山といへるも相坂なり、引合て手向草にはあらざることを知べし、たゞ今手折松のときはなるによせて神も此に跡垂そめ給ひてよりいかばかりの世をか經給ひぬらんとなり、熊野の御神に手向るにや、此歌第九卷には山上歌と載て歌の詞少し替りて、左に川島(ノ)皇子の御歌とも云よし注せり、今と表裏せり、濱成和歌式には、角沙彌紀(ノ)濱歌と出せり、新勅撰集雜四に、後京極攝政家百首歌に草歌十首よみ侍なるとて、今の歌の發句を風ふけばと改めて寂蓮法師が歌と載らる、不審なる事なり、
 
初、白波のはま松かえの。白波のよする濱なり。名所にあらす。たむけ草は、草はそへたる詞なり。松を結てたむくるなり。第二卷に有馬皇子、岩代の濱松かえを引むすひとよみ給へるも、神のたむけなるへし。花をもゝみちをも折て、神にたむくるは、その折によるたむけなり。只今たをる松のときはなるによせて、神もいかはかりの世をか、へたまひぬらんとなり。熊野の御神にたむくるにや。此哥第九卷には、山上哥と載て、哥の詞すこしかはりて、ひたりに川島皇子の御哥ともいふよし注せり。今と表裏せり。濱成和歌式には、査體とて、よろしからぬを七種擧る中の、第七雜韵の例に、角沙彌紀濱歌云とて、此哥を出されたり。往古は五句三十一字をたに、大かたにまもりて、あまる事は、のち/\もあるを、二三字たらぬをさへよめれは、式といふこともきこえす。詩なとのやうに、韵をすへなとすることもなし。濱成の式出來て後、式、髓腦なといふものわつらはしきまて出來れと、その比の人よりはしめて、後の人まて更に用す。ひとつふたつのことは、式なくてもまもりぬへし。源氏物語にも、式髓腦なとは、うけぬさまにかけり。韵をおすことは、濱成詩なとに准して初て式を立られけるか。かたく執せは、素戔烏尊の神詠をはしめて、雜韵のきすをのかれさるへし。秦始皇の、からきまつりことをしけくして、民を罪におとしいれられしかことく、哥も式によらんとせは、よみかたかるへし。よらすは式をたてゝ何かせん。堯のみかとの民、みかとのちからをわすれたることく、哥も式をわすれは、やすくたのしきこゑ出來ぬへし
 
日本紀曰朱鳥四年庚寅秋九月天皇幸紀伊國也
 
日本紀曰、朱鳥四年、天武紀曰、十五年秋七月乙亥朔戊午、改元曰2朱鳥元年1、【朱鳥此(ヲ)云2阿※[言+可]美苫利(ト)1】今年天皇崩じ給て、次の丁亥持統天皇御位に即せ給ふ、年號をば改めずして丁亥を元年とし給ふ故四年は庚寅なり、
 
初、日本紀曰朱鳥四年、天武紀云。秋七月乙亥朔戊午、改元曰2朱鳥元年1【朱鳥此(ヲハ)云2阿※[言+可]美苫利1。】これは天武十五年丙戌の年なり。今年天皇崩したまひて、次の丁亥、持統天皇御位につかせたまふ。年號をはあらためすして、丁亥を元年としたまふゆへ、四年は庚寅なり
 
萬葉集代匠記卷之一上
 
(1)萬葉集代匠記卷之一下
 
越勢能山時阿閉皇女御作歌
 
能は詞の字なり、せの山は紀川の北、妹の山は南にて、相向たるを取合て妹背山と呼を、只ひとつの山の名と心得るは誤なり、此集をよく見ばおのづから疑なかるべし、又古今にも妹背の山の中に落る吉野の河とよめる是なり、此兩山後にあまた出る故に、此に兼て注す、日本紀孝徳紀二年詔(ニ)、凡畿内東自2名墾《ナハリノ》横河1以來、南自2紀伊|兄《セノ》山1以來、【兄此云v制】西自2赤石(ノ)櫛淵1以來、北自2近江狹々浪(ノ)合坂山1以來、爲2畿内國(ト)1、
 
初、越2勢能山1時、日本紀、孝徳二年(ノ)詔(ニ)凡(ソ)畿内東自2名|墾《ハリノ》横河1以來南自2紀伊|兄《セノ》山1以來、【兄此(ヲハ)云v制《セト》】西自2赤石(ノ)櫛淵1以來、北自2近江狹々波合坂山1以來爲2畿内國1
 
35 此也是能倭爾四手者我戀流木路爾有云名二負勢能山《コレヤコノヤマトニシテハワカコフグルキチニアリトイフナニオフセノヤマ》
 
大和にありて、紀國にこそせの山といへるおもしろき山はあれと人の語るを聞しはこれや此山ならん、げにも面白山也と云心なり、
 
初、これやこのやまとにしてはわかこふる
やまとにありて、きのくにゝこそ、せの山といへるおもしろき山はあれと人のかたるを聞しは、これや此山ならん。けにもおもしろき山なりと、兄山といふ名を、夫君によせて、よませたまへり。阿閉皇女は、草壁太子(ノ)妃《ミメ》、文武帝母、皇位につかせたまひて元明天皇といふ。天智天皇第四の皇女
 
幸于吉野宮之時柿本朝臣人麿作 【目録云二首并短歌二首】
 
初、幸2于吉野宮1之時柿本朝臣人麿作、歌二首并短歌二首目六
 
(2)36 八隅知之吾大王之所聞食天下爾國者思毛澤二雖有山川之清河内跡御心乎吉野乃國之花散相秋津之野邊爾宮柱太敷座波百磯城乃大宮人者舩並?且川渡舟競夕河渡此川乃絶事奈久此山乃彌高良之球水激瀧之宮子波見禮跡不飽可聞《ヤスミシヽワカオホキミノキコシメスアメノシタニクニハシモサハニアレトモヤマカハノキヨキカフチトミコヽロヲヨシノヽクニノハナチラフアキツノノヘニミヤハシラフトシキマセハモヽシキノオホミヤヒトハフネナメテアサカハワタリフネキホヒユフカハワタリコノカハノタユルコトナクコノヤマノイヤタカヽラシタマミツノタキノミヤコハミレトアカヌカモ》
 
此歌初には總じて日本に名所多き事をいひ、山川のと云よりは別の吉野をほめ、百しきのと云より下は御供の諸臣の樂しぶよしをいひ、此河のと云より君臣の長久山川と均しからん事を願ひ、玉水のと云より下の三句は所がらのあかれぬ事を云て結べり、サハは多きを云、日本紀に多の字を讀り、山川の川の字清て讀べし、山と川となり、第七にも、皆人の戀るみよしのけふみれば、うべもこひけり山川清みとよめり、河内《カフチ》は下にも多き詞なり、河の間といはむが如なるべし、御心ヲヨシノヽ國、心よしとつゞけて云り、神功皇后紀の神託の詞にも御心の廣田の國、御心の長田の國と(3)云り、花チラフは散あふ也、散かふといはむが如し、草花の散野べとつゞけたり、秋津、吉野の名所也、舟キホヒは今の俗ふなせりと云が如し、我先にと爭ふ心なり、拾遺集には舟くらべと有、第廿に布奈藝保布《フナキホフ》堀江(ノ)川と云り、此に准じて今の点に隨べし、荊楚歳時記曰、南方競渡者治2其舩1、使2輕利1謂2之飛鳧1、是は五月五日の戯れ也、又五日ならで常にもする事也、此川ノとは臣下の奉《ツカフ》る事吉野川の絶ぬが如く、君、高み位にいます事は吉野山の高きが如くならんと也、瀧より落る水は玉のやうなれば、瀧の都といはんとて玉水ノといへり、案ずるに拾遺には、やすみしゝをちはやぶると改めらる、是は此集に君を神とよめるに心得て押へて改られけるにや、貴て准へ申にこそあれ、誠には神にても坐さねば、ぬは玉のくろしとつゞくる心を得て夜などゝつゞくるにはかはるべきか、國者思毛を草の葉とよめり、國者はくさともよむべし、思の字を葉とはよみがたかるべきにや、澤二雖有をうるひにたりととよめり、澤は潤澤恩澤など云時うるふなれど、雖有をにたりととよむべき理りなし、にたりといふてにをは、にてありと云べきを?阿切多なる放つゞめてにたりと云也、然れば拾遺の説改やう不審也、彼集は三代集の内にて花山院御撰とかやいへど治定し給はぬほどに流布せるにや、雜亂の事多きよし古くも沙汰せり、總じて此集より拔取て加(4)へられたる歌に疑をのこすこと共見え侍り、
 
初、やすみしゝわか大きみの。此歌、初には惣して日本に名所おほきことをいひ、山川のといふよりは、別してよしのをほめ、百しきのといふより下は、御供の諸臣のたのしふよしをいひ、此河のといふより、君臣の長久、山川とひとしからん事をねかひ、玉水のといふより下の三句は、所からのあかれぬことをいひて、むすへり。さはゝおほきをいふ。日本紀に多の事をよめり。御心をよしのゝ國、心よしとつゝけていへり。神功皇后紀の、神託の詞にも、御心を廣田の國といへり。今の津の國の廣田神社なり。花ちらふは、ちりあふなり。ちりかふといはむかことし。舟ぎほひは、今の俗、ふなせりといふかことし。我さきにとあらそふ心なり。拾遺集には舟くらへと有。荊楚歳時記云。南方競渡者治2其船1使2輕利1。謂2之飛鳧1。これは五月五日のたはふれなり。又五日ならてつねにもすることなり。第二十卷に、布奈藝保布ほりえの川とよめり。此川のなとは、臣下のつかふまつることは、よしの川のたえぬかことく、君のたかみくらゐにいます事は、よしの川の高きかことくならんとなり。瀧よりおつる水は、玉のやうなれは瀧のみやこといはむとて、玉水のといへり。拾遺集には、やすみしゝを、ちはやふるとあらため、國者思毛を、草の葉とよめり。國者はくさともよむへし。思の字を、いかてはとよまん。澤二雖有を、うるひにたりとよめり。澤は潤澤恩澤なといふ時、うるふなれと、雖有を、にたりとよむへきことはりなし。にたりといふてにをはゝ、にてありといふへきを、もしのあまれは、※[氏/一]阿(ノ)切多なるゆへ、にたりとはいふなり。雖の字は、いへともとよむ時は、縱奪の詞。過去現在に、通すへし。いふともとよむ時は、假令の詞にて、未來なり。されとも.これは詩文に用る時のことなり。和語には、縱奪の時は度毛とよみ、度とよめり。假令の時は登毛とよむ。登とひともしによむことは、まれなり。たま/\あれと、いやしきやうなり。後鳥羽院の御製なれとも、頼めすは人をまつちの山なりとねなましものをいさよひの月、此山なりとは、片言のやうにていやしく聞ゆるは、ひかきゝにや。人はいふとも、入はいへともといふ時も、雖言の二字なり。雖の字は、さきにいふかことし。しかれは、拾遺のあらためやう、心得かたし。彼集は、三代集の内にて、花山院御撰とかやいへと、治定したまはぬほとに、流布せるにや。雜亂のことおほく、此集よりぬきとりてくはへられたる歌もあやまり見え侍り
 
反歌
 
37 雖見飽奴吉野乃河之常滑乃絶事無久復還見牟《ミレトアカヌヨシノヽカハノトコナメノタユルコトナクマタカヘリミム》
 
常滑は、舊記に云、とこなめはしるとは岩の上に水のあがり洗ふを云、今按第九にも、妹が門|入出見河《イリイテミカハ》のとこなめに、みゆきのこれりいまだ冬かもとよめるを以てみれば、顯昭のいへるやうにやと思所の、第十一云、隱口《コモリク》の豐《トヨ》はつせぢはとこなめのかしこき道ぞこふらくはゆめ、此は川ともいはざれば、さらぬ山路にも人の蹈むこと稀なる處は岩の上に苔などの生て上なめりぬれば、それを云か、又川といはねど泊瀬川あれば水に付て云か、拾遺にはながれても、結句はゆきかへりみむとあり、
 
初、みれとあかぬよしのゝ川のとこなめの。とこなめは、川の底に、いつとなく、にこりの、こりつきて苔むせるさゝれ石なとの、ふみとめかたく、なめらかなるをいふなり
 
38 安見知之吾大王神長柄神佐備世須登芳野川多藝津河内爾高殿乎高知座而上立國見乎爲波疊有青垣山山神乃奉御調等春部者花挿頭持秋立者黄葉頭刺理【一云黄葉加射之】遊副川(5)之神母大御食爾仕奉等上瀬爾鵜川乎立下瀬爾小網刺渡山川母依?奉流神乃御代鴨
《ヤスミシヽワカオホキミノカミナカラカミサヒセストヨシノカハタキツカウチニタカトノヲタカシリマシテノホリタチクニミヲスレハタヽナハルアヲカキヤマノヤマツミノタツルミツキトハルヘニハハナカサシモチアキタテハモミチカサセリ》ユフカハノカミモオホミケニツカヘマツルトカミツセニウカハヲタテシモツセニサテサシワタシヤマカハモヨリテツカフルカミノミヨカモ
              
依?、【別校本、?作v而、】
 
神ナガラは上の軍王歌に孝徳紀を引が如し、又同紀に隨在天神と書ても神ナガラとよめり、此ながらと云詞は孝徳紀に隨の字を以注し給へり、そのまゝにての意なり、さながら、それながら、昔ながらと云も通ぜり、伊勢物語に有常の琴をかける處に、なを昔よかりし時の心ながら尋常の事も不知とあるながらの詞今に同じ、常云馴たるながらの詞に違て心得煩ふ人も有べきが故に委注せり、神サビセスとは、神さびは此集下にも多き詞にて、八雲袖中等に説々あるごとく歌によりて心も替れば委は別に釋せり、第十第十七に神ビとのみもよみたればさ〔右○〕は例の添たる詞なり、しかれば宮び、夷びなど云ひ、少女《ヲトメ》さび、男さびともいへる如く心得て、さて歌によりて替る心を知べし、をとめさびはをとめだて、をとめぶり、をとめゝきといはむやうなれば今もこれらに准じて見るべし、せすのす〔右○〕の字清てよむべし.神さびするとて也、高殿は、宮殿を※[手偏+總の旁]じて高殿ともいへども、上リタチ國見ヲスレバとあれば樓の字(6)をよむ是なるべし、又山の上にある殿なれば上り立と云といはむも違まじきか、高知マシテは高く造給ひて也、治の字をシルとも、ヲサムともよめり、タヽナハル青垣山、此詞後にも有故に別に釋す、大抵はたゝなはるは重りたるを云、青垣山は四面をかこめる山の青き垣のごとくなるを云、名所に非ず、山神〔二字右○〕、古点山カミ、仙覺山ツミと改む勿論のことなり、日本紀に山神|等《タチヲ》號《ナツク》2山祇《ヤマツミト》1といへり、天神地祇と分も一往の事にて山祇とも山神ともいへり、吉野には延喜式に載たるも山口(ノ)神社、水分(ノ)神社、金峯(ノ)神社等あり、タツルミツキは、たつるたてまつる也、別の校本はマツルと点ず此に附べきか、此集末に見奉而をミマツリテとよめり、日本紀にも多し、花カザシモチ黄葉カザセリは花紅葉を山神のかざしいたゞきて民のみつぎ物の樣に春秋にたてまつると也、晏氏春秋内篇一曰、夫靈山固(ニ)以v石(ヲ)爲v身(ト)、以2草木1爲v髪、これかざすと云心に同じ、ユフ川仙覺云川の名也、今かしこにて湯川と云所これか、大御食は帝の供御にまゐる物也、カミツセニ鵜川ヲタテ、此は人のするわざなれど河伯の許して鮎などを多取しむるを云也、文選、東都寶鼎(ノ)詩(ニ)云、嶽修v貢兮川效(ス)v珍、山川モ依テツカフルとは山神河伯も帝徳に歸して仕ふまつるなり、山川の川清て讀むべし、山と川となり、此歌初の四句は帝の徳を神に比し、次の四句は芳野に殿づくりすることを云、次の二句(7)は眺望し玉ふ事を云ひ、たゝなはると云よりさて刺渡までは山の四方青山めぐりて景氣の能を述、且山神帝のために花紅葉をも御覽にそなへ色香を添、河伯は魚を奉りて鵜川等の利多からしむることを云、山川もと云より終までは、百姓は云にや及ぶ、神祇もかしこまり仕へまつる御世なりと譽たてまつる也、此下の役民が歌に天地もよりてあれこそと云へるも同じ、
 
初、やすみしゝわか大きみ。神さひせすとゝは、神さひすとてなり。せすのすの字清てよむへし。古語なり。神さひは、さは添たる字にて、此集に、神備てといふに同し。おきなさひ、をとめさひといふかことく、神たてをし神ふりをすといふ心なり。のほりたち、國見をすれは、さきに尺せるかことし。たゝなはる、青垣山。別に尺せり。名所にあらす。四面青き垣のかこめることきをいふ。此下は、山神河伯も、帝の威徳によりて、貢職を、修することをいへり。山つみは、日本紀に山(ノ)神|等《タチヲ》號2山祇1といへり。天神地祇とわかつも、一往の事にて、山祇とも山神ともいへり。所々に山神あるゆへに、日本紀に山神等といへり。吉野には、延喜式に載たるも山口神社、水分神社、金峯神社、等あり。奉の字、まつるとのみよめるも、たてまつるなり。此集末にいたりて、見奉而とかきて、みまつりてとよめるも、みたてまつりてなり。花かさしもち、これは、山のうへに花もみちのあるを、山神のかさしにいたゝきて、民のみつき物のやうに、春秋にたてまつるとなり。晏氏春秋内篇諫上第一曰。夫靈山|固《マコトニ》以v石爲v身以2草木1爲v髪。ゆふ川は、よしのにある川の名、常にはゆかはといふ所なり。此下は河伯のみつき物たてまつるをいふ。大御食は、みかとの供御にまいるものなり。かみつせにうかはをたて下つ。これは人のするわさなれと、河伯のゆるして、うをなとをおほくとらしむるをいふなり。文選班固東都賦曰。山靈護v野屬御方神。雨師汎灑風伯清v塵。同寶鼎詩曰。嶽脩v貢兮川效v珍。揚雄甘泉賦曰。八神奔而警蹕兮、振殷〓而軍裝、蚩尤之倫帶2干將1而秉v玉戚兮。顔延年詩、山祇蹕2〓路1、水若警2滄流1。山川もよりてつかふるなとは、四民百姓はいふにやをよふ。冥祇まてもかしこまりつかふまつる御代かなと、ほめたてまつるなり。此下の役民か歌に、天地もよりてあれこそといへるも、今におなし。山川の川、すみて讀へし。山と川となり。六種尺といふに准せは、相違尺なり。いはく、山は川にあらす。川は山にあらす。別なるゆへなり。常ににこりて讀は、依主尺なり。山か川なるゆへに。これらをはしめて、集中に見えたる人まろの長歌、ことに他人のをよはさる所きこゆ。赤人といへとも、班固か司馬遷をのそまんかことし。李白か飄逸の仙才をもて、杜陵翁か沈欝をかぬともいふへし。いはゆる虎にして翅あるものなり
 
反歌
 
39 山川毛因而奉流神長柄多藝津河内爾舩出爲加母《ヤマカハモヨリテツカフルカミナカラタキツカウチニフナテスルカモ》
 
歌の心明也、
 
初、山川も、上のことく、川の字すむへし。神なからは、常に何なからとといひつけたるにはたかふやうにて、よく/\心をつけされは、心得かたき詞なり。隨在天神《カミナカラモ》【孝徳紀】又|惟神《カミナカラモ》【惟神者謂2神道1亦自有2神道1也】
 
右日本紀曰三年巳丑正月天皇幸吉野宮八月幸吉野宮四年庚寅二月幸吉野宮五月幸吉野宮五年辛卯正月幸吉野宮四月幸吉野宮者未詳知何月從駕作歌
 
何月は何年月と云へる年の字の落たるなるべし、
 
(8)幸于伊勢國時留京柿本朝臣人麿作歌【目録云三首】
 
此心下の注に明なり、
 
初、幸2于伊勢國1時留v京柿本朝臣人麿作歌。三首目六
 
40 鳴呼見乃浦爾舩乘爲良武※[女+感]嬬等之珠裳乃須十二四寶三都良武香《アミノウラニフナノリスラムヲトメラカタマモノスソニシホミツラムカ》
 
嗚呼見乃浦、仙覺抄云、古本にはうみの浦にと点ず、是は呼の字和せられず、又或本にはをこの浦と点ず、是亦宜しからず、又第三の句或本都末度毛能と和す、然るに第十五に此歌を再載るに安美能宇良《アミノウラ》と書き、乎等女良我《ヲトメラガ》と書たれば此を證としてあみの浦にとよみ、をとめらがとよむべしと云云、甚明なり、今案此發句を拾遺集にはをふの浦と改む、嗚呼見をいかでをふとはよみ侍るべき、古今第二十伊勢歌に、をふの浦とよみたれば、其をふの浦をよめると心得てかくは改めらるゝか、玉葉集にはをみの浦にと云ひ、八雲にもをみの浦、伊勢と載らる、何も此集の始終を考へられざるか※[女+感]嬬等之と書るを玉葉につまともとあるは、つまともいもともをとめとも此集によみたれば誤にあらねど、是も十五卷を考へられざるなり、玉モは玉はほむる詞、(9)裳《モ》は女のきる裳也、下にも多くいへり、歌の心は、女は常に簾中に住ものなるを偶御供に侍《サブラ》ひてえもいはぬ海べを見る事なれば、鹽干のかたに出て藻を拾ひ貝を尋ねて遊樂する程に、しほの滿きて裳のすそなどぬらすらんと思ひやりてよまれたる也、女帝の御供にて女官多く陪る故に第三にも妹とよまれたり、
 
初、嗚呼《ア》見乃浦爾。此歌を拾遺集には、をふのうらにとあらためらる。嗚呼見を、いかてをふとはよみ侍るへき。古今集顯注に、志摩國に、をふの浦あり。志摩をは伊勢とひとつに申すよしなれは、そのをぶの浦をよめるとこゝろえて、かくはあらためらるゝか。玉葉集には、をみのうらに、ふなのりすらん、つまとものと載らる。八雲御抄にも、をみのうら伊勢と載らる。今案いつれも此集の始終をかんかへられさりけるあやまりなり。第十五卷に、此歌を載たるに、安美能宇良爾とあるうへは、まかふことなし。※[女+感]嬬等之とかけるを、玉葉につまともとあるは、※[女+感]嬬とかきて、つまとも、いもとも、をとめとも、此集によみたれは、あやまりにはあらねと、これも、十五卷に、今の點のことく、乎等女良我とかゝれて侍り。玉もは、玉はほむる詞。裳は女のきる裳なり。女は常に簾中にすむものにて、ことにおもしろき海邊なとは、まれにみる事なるに、たま/\御供にさふらひて、えもいはぬうみへをみる事なれは、しほひのかたに出て、玉もかひつ物なと.あかすひろふほとに、しほのみちきて、裳のすそなとぬらすらんと、おもひやりてよまれたるなり。嗚呼は、なけく聲なるゆへに、二字をあはせて唯あとよむなり
 
41 劔著手節乃崎二今毛可母大宮人之玉藻苅良武《タチハキノタフシノサキニケフモカモオホミヤヒトノタマモカルラム》
 
タチハキノタフシとそへたるは太刀をとる手とつゞくる也、腰にさすを云のみにあらず手に取をもはくと云也、日本紀に持劔と書てタチヲハクとよめり、今按此太刀著のたふしとつゞけたるは梓弓いそべなど云枕詞には違て下まで用あるべし、第二十、妙觀命婦が葛城王の山城より芹の裹にそへて贈られたる歌の和に、ますらをと思へる物を太刀はきて、かにはの田井に芹ぞ摘ける、是は只猛きのみにてふかき色あらんとも思はざりしに、太刀はきながらやさしくも芹摘て得させ給へる事と芳情を謝せり、今の歌もますらをにして太刀帶ながら海邊の珍らしさに渚に出て玉藻や刈らんと云心か、枕詞を以て下まで其心を受る例は、第十一に大舟のかとりの海にいかりおろしと云此なり、又古今に梓弓春立しより年月の、射るがごとく(10)も思ほゆる故、但古人はわざとは作出べからず、自より來る時の事なるべし、今は手節の崎の玉藻おのづから寄來れり、今はイマと点ずへし、
 
初、たちはきのたふしのさき、たちはきのたふしとつゝくるは、腰にはくをいふにあらす。手に取を、今ははくといふなり。神代紀|臂《タヽムキニ》著《ハキ》2稜威之高鞆《イヅノタカゲタヲ》1といふかことし。太刀をとる手とつゝるなり
 
42 潮左爲二五十等兒乃島邊榜※[舟+公]荷妹乘良六鹿荒島回乎《シホサヰニイラゴノシマヘコクフネニイイモノルラムカラキシマワヲ》
 
五十等兒、【仙覺抄、紀本、共点、イラト、非也、】
潮左爲、下にも多き嗣なれば別に釋す、塩の荒きに云詞なり、五十は三十四十等に准ずればいそなるべきを、集中に借て用たる處皆二字引合てい〔右○〕とす、五十《イ》鈴川の例なり、只十三卷に山邊乃五十師乃原《ヤマノベノイソシノハラ》とよめる歌のみイソと用たり、島ワは島の廻り也、いそわなどもよめり、此集に丸の字わ〔右○〕とよめり、車の輪も丸くて能く廻れば云歟、然ればわと云一言にまはる心もとより有なるべし、歌の心は、潮さゐは大事にする事にて、殊に浪あらき島の邊りは女などの乘て何心ちすらんと思やりて憐む也、イモと云は都《スベ》て女をさして云也、以上三頸首によめる所の名並に伊勢なり、
 
初、潮さゐにいらこのしまへ。しほのさしあふ所を、しほさゐといふといへり。今案おきつしほあひとよめる詞には、かはるなり。もしあとさとは同韻の字にて通すれは、ひとゐとかはれるには心もつかて、鹽あひといふ詞と、おなしと心得たるか。第三に、鹽左爲の浪をかしこみ、第十一に牛窓の浪の鹽左猪、第十五に、於伎都志保佐爲たかく立きぬなと、みなおなしく爲猪をかけり。又第二卷人丸さぬきのさみねの嶋にて、死人をみてよまれたる歌にも、おきみれは、跡位波たち、へをみれは、白波とよみ云々。此あとゐ浪といへるも、おなし詞にやあらん。位は爲におなしく用て、伊以には用す。もし浪のゐんとてうねるほとなとを申にや。さはよろつにつけていふ詞にて、ぬるをさぬる、わたるをさわたるなとよめは、しほさゐも、しほのゐるといふにや。歌の心は潮さゐは、海上にて、大事にすることにて、ことに浪あらき嶋のほとりを、男の身にてたに、舟はあやうきものなるに、さることになれぬ女なとのゝりて、何こゝちすらんなとおもひやりてあはれふなり。妹といふは、すへて女をさしていふことはなり。しまわは、嶋のまはりなり。くるまのわもまろくてよくまはれはいふ。此集に丸の字をわとよめるもその心なり
 
當麻眞人麿妻作歌
 
當麻は氏、日本紀にタイマ、タキマ兩點あり、先祖は用明天皇の御子麻呂子(ノ)皇子な(11)り、用明紀に見えたり、臣人は姓天武十三年冬十月、當麻等の十三氏に眞人の姓を賜ふ、八姓の第一なり、麿は名也、考る所なし、此歌第四卷重出、作者も同じ、
 
43 吾勢枯波何所行良武己津物隱乃山乎今日香越等六《ワカセコハイツチユクラムオキツモノカクレノヤマヲケフカコユラム》
 
巳津物は仙覺抄の意、古点オノツモノ、其意分明ならざる故にオキツモノと改らると見えたり、其證に第十一のおきつもをかくさふ浪とよめる歌を引り、證は、明なれども巳をオキと点する事往古よりあらば押ても信ずべし、仙覺の新点なれば不審なり、今按字のまゝにイツモノと讀べきか、第四に川上のいつもの花とよめり、歌には浪に藻の沈て隱るとは云つゞけねど、古歌の習はさる事なれば、仙覺も證を引て隱の山は伊勢也、此卷下に至て、朝面無《アシタオモナ》み隱《カクレ》にかと長(ノ)皇子の詠給ひ、第八に朝《アサ》がほ耻《ハヅ》る隱野《カクレノ》といへる並に同じ所なり、又此をナバリノ山とよむべきかとおぼゆる今按あり、別に注す、歌の心明、
 
初、わかせこはいつちゆくらむ。いつくのほとをか今は行らん。およそかくれの山をやけふはこえて行らんとおもひやるなり。おきに有藻の、浪にかくれたるによせてかくはつゝけたり
 
石上大臣從駕作歌
 
是は石上(ノ)朝臣弟磨卿の父にて名は麿也、文武紀云、慶雲元年春正月丁亥朔癸巳、詔(12)以2大納言從二位石上朝臣麿1爲2右大臣1、元明紀云、和銅元年二月丙午、右大臣正二位石上朝臣麻呂爲2左大臣1云云持統天皇の時には大臣に非ず、然共後の人記せる故に大臣と書也、石上は饒速日《ニギハヤビノ》命の後、元は物部氏、分れて石上榎井の兩氏となる、垂仁紀云、然遂大中姫命授2物部十千根大連1而令v治、故物部連等至2于今1治2石上(ノ)神寶1、是其|縁《コトノモト》也、然れば居地を以て氏とせり、是も天武十三年十一月に朝臣の姓を給れり、從駕は令義解第六儀制令云、事駕《キミ》行幸所v稱、蔡※[災の火が邑]獨斷曰、天子以2天下1爲v家、不d以2京師宮室1爲cl常處u、則當d乘2車與1以行2天下u、故群臣託2乘與1以言v之也、故或謂2之車駕1、
 
初、石上大臣從v駕作歌。これは石上朝臣麿なり。文武天皇慶雲元年春正月丁亥朔癸巳、詔以2大納言從二位石上朝臣麻呂1爲2右大臣1。和銅《元明》元年三月丙午右大臣正二位石上朝臣麻呂爲2左大臣1。これ續日本紀の文なり。委は作者部類に別に注せり。持統天皇御時には、大臣にはあらされとも、撰者、人からをたふとひて、後の官をもてよへるなり
 
44 吾妹子乎去來見乃山乎高三香裳日本能不所見國遠見可聞《ワキモコヲイサミノヤマヲタカミカモヤマトノミエヌクニトホミカモ》
 
吾妹子、雄畧紀曰、吾妹《ワキモコ》、【稱v妻爲v妹、蓋古之|俗乎《クニコトカ》、】
 
イザミノ山伊勢也、戀しく思出ていざそなたをだにみむとつゞけたるなり、自然にかなひたる枕詞也、いざ見んと思て大和の方にかへりみすれども更にみえざるはいさみ山の高きが隔つればにや有む、又山はさしも高からねど境はるかに隔ちきつればみえぬかと也、
 
初、わきもこをいさみの山。いさみの山、伊勢なるへし。つまをこひしくおもひ出て、いさそなたをたにみむとつゝけたるなり。いさみんとおもひて、やまとのかたにかへりみすれともさらに見えさるは、いさみ山の高きがへたつえはにやあらむ。いな山はさしもたかゝらねと、さかひはるかに、國をへたてきつれはみえぬかと、はかなうよみなしたまへるは、歌のならひなり。詩歌は、はかなきやうなるか、感情ありておもしろきなり。議論をこのめるは、なさけをくるゝなり。わきもこは、雄畧紀云。吾妹《ワキモコ》【稱v妻爲v妹(ト)蓋古之|俗《クニコト》乎】
 
(13)右日本紀曰|朱鳥《アカミトリ》六年壬辰春三月丙寅朔戊辰以淨廣津廣瀬|王等《オホキミラヲ》爲留守|官《ツカサト》於是中納言三輪朝臣|高市《タケチ》麿|脱《ノカレテ》其冠位フ上於朝重諫曰|農作之前車駕《ナリハヒノサキニキミ》未可以動辛未天皇不從諫遂幸伊勢五月乙丑朔庚午御阿胡|行宮《カリミヤニ》
 
津は日本紀に肆なり、前は節なり、並に今の本傳寫の誤なり、津廣肆の肆は四にて位階なり、天武紀下云、十四年春正月丁未朔丁卯、更改2爵位之號1、仍(テ)増2加|階級《シナシナヲ》1、明位二階、淨位四階、毎階有2大廣1、并十二階、以前《コレハ》緒王以上之位云云、高市麿は忠と功とを兼たる人なり、直諫も本朝第一にて朱雲が折檻に多く讓るまじき人なり、功は天武紀に見え、忠諫は此に引れたる持統紀に猶具なり、披て見るべし、文武天皇慶雲三年に卒せらる、壬申の年功を以從三位を贈たまふ、大花上利金之子也、委は文武紀に見えたり、懷風藻に年五十といへり從駕應v詔詩を載す、又濱成式に旋頭歌あり、重諫とは持統紀云、二月丁酉朔丁未、詔2諸官1曰、當以2三月三日1、將v幸2伊勢1、宜d知2此意1備c諸衣物u、乙卯云云、是日中納言直大貳三(14)輪朝臣高市麿上v表敢直言、諫d爭天皇欲v幸2伊勢2妨c於農時u、
 
初、右日――以淨廣津【肆也寫誤】廣瀬王【紀云。直廣參當麻眞人智徳、直廣肆紀朝臣弓張】等重諫曰○【紀云。六年春二月丁酉丁未詔2諸臣1曰。當以2三月三日1將v幸2伊勢1。宜d知2此意1備c諸衣物u○乙卯○是日中納言直大貳三輪朝臣高市麿上v表敢直上v諫爭d天皇欲v幸2伊勢1妨c農時u農作之前【紀作v節】車駕【令義解第六、儀制令云。車駕行幸所v稱。蔡?曰。天子以2天下1爲v家不d以2京師宮室1爲c常處u則當d 2車輿1以行c天下u。故群臣詫2乘輿1以言v之事。故或謂2之車駕1】――。高市麿は忠あり、功ありて、文章もありし人なり。此故に此集に歌はなけてとも、こゝの注によりて、國史を引て、作者の所に附録し侍り。又こゝにみかとをいさめられし心、異國にも其例見えたり。史記趙世家曰。十六年肅侯游2大陵1出2於鹿門1。大戊午扣v馬曰。耕事方急。一日不v作百日不v食。肅侯下v車謝。又日本紀、續日本紀等をみるに、女帝は、ことにいつれも行幸おほし。女姓の本上にや。けすの中にもをとこよりは、女はものみなとこのむとみゆ
 
輕皇子宿于安騎野時柿本朝臣人麿作歌 【目録云一首并短歌四首】
 
輕皇子は諱は天之眞宗豐祖父《アメノマムネトヨオホチ》也、系圖に諱は輕と出せり、孝徳天皇を初は輕皇子と申奉りき、文武天皇を輕皇子と云事は日本紀續日本紀にも不v見、此詞書によれば系圖に載る所可v信、持統十一年に太子に立たまへば今は唯皇子にてまし/\ける時なり、安騎野《アキノ》は大和(ノ)國宇陀(ノ)郡也、延喜式曰、宇陀(ノ)郡阿紀(ノ)神社、是は人麿も御供に在てよまれたりと見えたり、
 
初、輕皇子――人麿作歌○ 一首并短歌四首目六
輕皇子は、文武天皇の、また太子にておはしましける時、輕の里なとにおはしまして、かくは申けるなるへし。孝徳天皇を、初は輕皇子と申奉き。文武天皇を、初にかく名づけたてまつるよしは、日本紀續日本紀なとにも見えされとも、今の長歌、昔をおほしめすよしをよみ、反歌に日ならへしみこのみことのうまなへてみかりたゝしゝ時はきむかふといふをもてみれは、文武の御ことゝきこえたり。安騎野は宇陀郡なり。延喜式曰。宇陀郡、阿紀神社【鍬靫】。日竝皇子は、持統天皇三年四月薨
 
45 八隅知之吾大王高照日之皇子神長柄神佐備世須登太敷爲京乎置而隱口乃泊瀬山者眞木立荒山道乎石根禁樹押靡坂鳥乃朝越座而玉限夕去來者三雪落阿騎乃大野爾旗須爲寸四能乎押靡草枕多日夜取世須古昔念而《ヤスミシシワカオホキミノタカテラスヒノワカミコハカミナカラカミサヒセストフトシキシミヤコヲオキテコモリクノハツセノヤマハマキタテルアラヤマミチヲイハカネノフセキオシナミサカトリノアサコエマシテタマキハルユフサリクレハミユキフルアキノオノニハタスヽキシノヲオシナミクサマクラタヒヤトリセスムカシオモヒテ》
 
此歌初四句を句を置替て高照す日の皇子の八隅しゝ吾大君はと心得べし、後にも(15)此詞あり此に准ずべし、高照ス日は日(ノ)神なり、ワカミコの点の心は若御子なり、日本紀には、ヒコミコと点ぜり、彼点は古賢の傳へたる点なれば同じくは彼によるべきか、凡紀と此書との点の異同皆是に准ずべし、今は先今の点につけり、古語拾遺云、天照太神育2吾勝尊1、特甚鍾愛《コトニメクシトオホシテ》常懷2腋下1、稱曰2腋子1、自注云、今俗號2稚子1謂2和可古1、是其轉語なり、わかみこと云此心なり、御裔なれども直に吾勝尊のことく日(ノ)神の御子と云なり、日の御子にして八隅を治たまふ我大君とは心得べし、太敷爲は、ふとはたしかなる心なり、家にふとき柱をたつるが如し、今案フトシカスと讀べきか、今点にてはさきの君を申やうなり、但さきより敷おき給ふ都と心得ば此も難なし、是までは持統の御上を云、都ヲ置テと云より輕《カルノ》皇子のあき野へおはします路すがらの事を云へり、今都と云はいまだ藤原の宮へ移り給はぬさきなれば、淨御原の宮也、隱口乃泊瀬、別に注す、眞木立ルキはたゞ木と云に眞はほむる心なるを添て云も常の事なれど今は※[木+皮]の木なり、第三にもまきの立荒山中とよみて、※[木+皮]はみ山木なれば其由に云なり、只木を云はゞ木はいづくにもあり、山は勿論にてにぶき事なるべし、寂蓮が露もまだひぬまきの葉に、又まき立山の秋の夕暮などのまきも木名なるべし、フセ木は臥木也、禁の字は禁防の心、字をかりて書り、景行紀に曰、十八年到2筑紫後國|御木《ミケニ》1居2於(16)高田行宮1、時有2僵樹1長九百七十丈焉、百寮踏2其樹1而往來云云、此類也、オシナミは供奉の兵の岩木をも押なびけ踏とほるを云也、坂烏とは鳥の朝に坂を越るを云、十四には坂越てあへの田面にゐるたづのとよめり、十三ははとなみはる坂とを過てとよみ、其鳥のごとく朝に坂を越るを云、是より下は阿騎《アキノ》野にやどらせたまふ由を云り、玉限は十一十三にも如此書て点も同じ、其中に十一には石垣淵とつゞけたれば皆カゲロフノと讀べきか、其よし別に注す、先今の点につかば玉ぎはるは物の限りあるを云詞なれば夕は一日の限りなればかくつゞくるなるべし、ミユキフルアキノ大野ノとは反歌第三によるに此時節也、ハタスヽキ袖中抄に説々あり、蒲の旗のやうなるを云なるべし、シノヲオシナミ、しのはしげき事也、しのにおしなみと云に同じ、此集にを〔右○〕と云べきをに〔右○〕といひ、に〔右○〕と云べきをを〔右○〕と云へる事多し、旅ヤドリセス、せすのす〔右○〕清てよむべし、宿りするを云、昔思ヒテは反歌にて見れば是よりさき日並知《ヒナメシノ》皇子の此野に御狩などし給し事を思食て、馴させ給はぬ旅ねをし給ふ御心の程を感じてよめる池、山を越る道すがらといひ、雪のふる時節といひ、景氣思ひやるべし、
 
初、やすみしゝわか大きみの。わか大君は、持統天皇なり。日のわかみこは輕皇子を申。日神の御子孫なれは、日のわかみこといひ、又天子の徳を、日にたとふれは、日のみこといふ。都をゝきて、藤原へ移り給はぬさきなれは、淨御原の宮なり。眞木たてるは、眞はよろつの物につけてほむること葉なれは、大木のしけきをいふ。又※[木+皮]はみ山木なれは、それにもあるへし。ふせ木は、臥木なり。大木のをのつからたふれたるが、道によこたはれるをふみこゆるなり。禁の字は、禁防の心を、かりてかけるなり。又樹神のやとる木なとがよこたはりて、みたりなる人のいるを、ふせく心もある歟。日本紀景行天皇紀十八年到2筑紫後國1御木居2於高田行宮1。時有2僵樹1長九百七十丈焉。百寮踏2其樹1而徃來云々。此たくひなり。をしなみは、難義の道なれとも、供奉の兵のおほくて、其岩木をも、押なひけ踏とほるといふ心なり。坂鳥とは、朝鳥の山の尾を飛こゆるをいふ。其鳥の坂を越ることく、朝越ましますとなり。玉限ゆふさりくれは、此玉限を、長流か抄には、かけろふとよみ、今の本には、玉きはるとよめり。此集に、三所に玉限とかけり。一には、今のことし。二には第十一に玉限いはかきふちとよみ、三には、第十三に玉限日もかさなりてとよめり。今の本には、いつれも玉きはるとよめり。文字につきては、玉きはるさもと聞ゆ。たゝ第十一の、いはかきふちのつゝきそ心得かたく侍る。かけろふは、三首にわたりてよく通すれとも、いかにして、かけろふとよむへしとも、文字の心得かたけれは、まつ今の本につきて釋すへし。くはしくは、かけろふの内とつゝくるにつきて、別に尺せり。玉きはるは.ものゝかきりあるをいふ詞なれは、夕はひと日のかきりなるゆへに、かくはつゝくるなるへし。はたすゝきは、ほに出て打なひきたるが、はたにゝたれはいふなり。しのをおしなみ、此集に、をといふへき所を、にといひ、にといふへきを、ゝといへる事おほし。しのにおしなみといふにおなし。しのは、しけきことなり。たひやとりせすは、上の神さひせすとゝにすむへし。たゝ神さひす、旅やとりすといふ古語なり。昔おもひては、さきにいへるかことく、反歌にてみれは、日竝《ヒナメシノ》皇子の、此野にみかりなとしたまひしことを、おほしめして、なれさせたまはぬたひねをしたまふ、御心のほとを、感し奉てよまれけるなるり。此時文武天皇また十五六歳には過させたまふましけれは、雪ふるころの御たひねのほと、かたしけなけれど、おもひやるへし
 
短歌
 
(17)46 阿騎乃爾宿旅人打靡寐毛宿良目八方古部念爾《アキノヽニヤトルタヒヽトウチナヒキイモネラシヤモイニシオモフニ》
 
宿良目八方、【定家卿自筆点、ネラメヤモ、按此点の心なれば自は目の字の誤か、】
 
阿騎乃、此下に野の字落たるか、又あきのにと四字によまれたるか、打ナビキとは御父の昔を思召す故に藻などのなびきたる樣に打とけてもえ寢させ給はじとなり、宿はぬ〔右○〕とぞよまゝほしき、
 
初、あきのゝにやとるたひ人打なひき。阿騎乃、此下に野の字おちたり。打なひきとは御父の昔のおほしめし出るゆへに、藻なとの水の上になひきたるやうに、打とけてもえねさせ給はしとなり
 
47 眞草苅荒野者雖有葉過去君之形見跡曾來師《ミクサカルアラノニハアレトハスキユクキミカカタミノアトヨリソコシ》
 
眞草、み〔右○〕とま〔右○〕と通ずる故に宜きに隨ひて讀なり、葉過ユク、此は葉の字の上に黄の字の落たるを強てかく讀たるなり、其故は第二卷に黄葉《モミチハ》の過ていゆく、第九に黄葉の過ゆくこら、十三に黄葉の散て過ぬ、又黄葉の過てゆきぬと云云、皆一同に挽歌の詞也、其外挽歌ならぬにかくつゞけたる歌おほし、又第九に人丸集の挽歌紀國にての作に、鹽氣《シホケ》たつありそにはあれど、徃水《ユクミツ》の、過ゆく妹がかたみとぞこし、是詞は少替て意は今の歌に同じ、然ればモミヂ葉ノ過ニシ君ガカタミトゾコシと讀べし、葉過ゆくもせはしく、跡の字の下によりと讀べき字もなし、必黄の字の落たるなり、紅葉も(18)盛なる時あるに過としもつゞくるは、紅葉散むとて色付又惜めども脆く散物なればよそへて云なり、これより三首は人丸の私の心をよまれたるなるべし、日並《ヒナミシ》皇子の御狩せし野なれば君が形見とはいへり、
 
初、眞草かるあらの。みとまと通するゆへに、よろしきにしたかひて讀なり。葉過ゆく、これは葉の字の上に、黄の字のおちたるを、しゐてかくよみなせるなり。そのゆへは、第二卷人丸の長歌に、おきつものなひきし妹は、黄葉の、過ていゆくとよみ、第九には、黄葉の過ゆくこらと讀、第十三には、わか心、つくしの山の、黄葉の、散て過ぬといひ、又、いつしかと、わか待をれは、黄葉の、過てゆきぬと、玉つさの、使のいへはなと、皆一同に、挽歌のことはなり。しかれは、もみちはの、過にし君か、かたみとそこしとよむへし。葉過ゆくもせはしく、跡の字の下に、よりと讀へき字もなし。かならす黄の字のおちたるなり
 
48 東野炎立所見而反見爲者月西渡《アツマノヽケフリノタテルトコロミテカヘリミスレハツキカタフキヌ》
 
東野は阿騎《アキ》野に近き野にや、長歌にみ雪ふる阿騎の大野とよみて、皇子の出ます時は冬なれば野を燒く烟のみゆるにつけて日並(ノ)皇子の御狩の御供せし折の事ども思ひつゞけてねられぬまゝに飽かずながめやる程に月の傾く程になりぬとなるべし、案ずるに火田とて火を放ちて草を燒て獵をもするなり、又西都(ノ)賦に獵を云へる所に擧v烽命v爵、李善注云云、呉都(ノ)賦云、鉦皷疊《フルヒ》v山(ヲ)火烈|※[火+栗]《モユ》v林(ニ)、飛爛浮煙(アリ)載霞載陰、是も狩にいへれば煙を見て昔の虞望に擧し烽火の煙を思出て慕ふ心にや、西渡とかきて傾クとよむは義訓なり、又案ずるに東野と書き西渡とかけるは相對する詞なればヒムガシノヽとよみニシワタルと字のまゝによむべきにや、阿騎(ノ)野にしてあづまのと云ふ處たとひありともよむべからず、阿騎(ノ)野は淨御原(ノ)宮よりは東に當れば※[手偏+總の旁]じて東の野とも云ふべし、又其野の中にも東の方を指しても云ふべし、東と云ふは(19)月の西に渡りて夜の深けたる由をいはむ爲なり、又東に向て煙の立つ方を見て頭を回ふらせば月は西に渡りぬと、日並(ノ)尊御世の須臾《シバシ》なりし事をたとふるやうによまれたるか、又按ずるに第六にかげろふの春にしなればと云ふ歌に炎乃春とかけり、東の字を義訓してハルノ野ノカゲロフタテルと點ずべきにや、心は春の御狩の時を思ひ出つるなり、第二にかげろふのもゆるあら野とよみたれば、上の歌に眞草かるあら野にはあれどゝ云へるやうにも心得べき、
 
初、あつまのゝけふりのたてる。あつま野も、阿騎野にちかき野にや。さきの長歌に、み雪ふる、阿騎の大野とよみて、皇子の出ます時は冬なれは、野をやく煙のみゆるにつけて、ねられ給はぬまゝに、彼野にても、父皇子の、みかりなとしたまひける物をと、あかすなかめやらせたまふほとに、月のかたふくほとになりぬとなり。西渡とかきて、かたふくとよむは、發語の義飜の例なり
 
49 日雙斯皇子命乃馬副而御獵立師斯時者來向《ヒナシミコノミコトノムマナメテミカリタチシヽトキハコムカフ》
 
來向、【校合本云、キムカフ、】
 
日雙斯、今の本〔三字左○〕にヒナラヘシと點じたれどもヒナメシと四文字に讀むべし、草壁《クサカベノ》太子を文武紀に日並知皇子と申し、八隅知之のやすみしゝとよむ時、知をし〔右○〕とのみよむ例にて日並知をヒナメシとよむなるべし、然れば斯は知の字の假名と心得べし、第二卷に此皇子隱れさせ給ひて後舍人どものよめる歌の中に、毛衣を春冬かたまけてみゆきせし、宇陀の大野はおもほえんかもとよめり、菟田(ノ)野阿騎(ノ)野同郡なれば何にも狩し給べし、狩は冬に宜きに折節薄おしなみ雪ふる比なれば時はきむかふ(20)と云へり、第十九家持長歌にも春過て夏き向へばともよまれたり、立師斯、是をばタヽシヽとよむべし、み狩に立給ひし時と云ふなり、タチシヽとよむはわろし、
 
初、日雙斯みこのみことの。今の本に、ひならへしと點したれとも、日なめしと、四文字によむへし。そのゆへは、日竝知《ヒナメシ》のみことゝいふ、御名を日雙斯とかけれはなり。八隅知之とかきて、やすみしゝとよむ時、知の字は、たゝしとのみよむ。これに准して知へし。第二卷に、此皇子かくれさせ給ひて後、舍人とものよめる歌の中に、けころもを夏冬かたまけてみゆきせしうたの大野はおもほえんかも。兎田野、阿騎野同郡なれは、いつれにもかりし給ふへし。狩は冬によろしきに、おりふし簿おしなみ雪ふる比なれは、時はきむかふといへり。第十九家持長歌にも、春過て夏きむかへはとよまれたり。立師斯これをは、たゝしゝとよむへし。みかりにたちたまひし時といふなり。たちしゝとよむはわろし
 
藤原宮之役民作歌
 
50 八隅知之吾大王高照日之皇子荒妙乃藤原我宇倍爾食國乎賣之賜牟登都宮者高所知武等神長柄所念奈戸二天地毛縁而有許曾磐走淡海乃國之衣手能田上山之眞木佐苦檜乃嬬手乎物乃布能八十氏河爾玉藻成浮倍流禮其乎取登散和久御民毛家忘身毛多奈不知鴨自物水爾浮居而吾作日之御門爾不知國依巨勢道從我國者常世爾成牟圖負留神龜毛新代登泉乃河爾持越流眞木乃都麻手乎百不足(21)五十日太爾作泝須良牟伊蘇波久見者神隨爾有之《ヤスミシシワカオホキミノタカテラスヒノワカミコハアラタヘノフチハラカウヘニヲシクニヲメシタマハムトミヤコニハタカシルラムトカミナカラオモホスナヘニアメツチモヨリテアレコソイハヽシルアハウミノクニノコロモテノタナカミヤマノマキサクヒノツマテヲモノヽフノヤソウチカハニタマモナスウカヘナカセレソヲトルトサワクミタミモイヘワスレミモタナシラスカモシモノミツニウキヰテワカツクルヒノミカトニイソノクニヨリコセチヨリワカクニハトコヨニナラムフミオヘルアヤシキカメモアタラヨトイツミノカハニモチコセルマキノツマテヲモヽタラスイカタニツクリノホスラムイソハクミルハカミノマヽナラシ》
 
水爾浮居而、【官本、ミツニウカヒヰテ、】 持越流、【古點云、モチコユル、】 神隨爾有之、【官本、カミノマニアラシ、】
 
アラタヘとは布の※[手偏+總の旁]名なり、藤にてもをれば荒たへの藤衣と云ふ心にてつゞけるなり、委くは別に注す、食國乎賣之賜牟登《ヲシクニヲメシタマハムト》、をしくには天下なり、食v侯食v禄など云ふ加く天子は天下を以てものとし給ふ心なり、都宮者高所知武等《ミヤコニハタカシルラムト》、都にはとは都をばと云ふ心なり、官本に都ヲバと點ず是なり、タカシルラムは此點不v叶、古點高ク知ラムト、これによるべし、又タカシラサムトともよむべし、しらさむと云は知ると云ふ古語なり、都にて高く臣民の上に臨みて治むるなり、天地毛縁而有許曾《アメツチモヨリテアレコソ》はさきに人麿の歌に山河もよりてつかふると云に同じ、あれこそはあればこそなり、衣手能は田上の枕詞なり、別に注す、眞木佐吉檜乃嬬手乎《マキサクヒノツマテヲ》、此まきは檜の木をほめて云ふ、さくは斧などにて割るをいふなり、繼體紀に勾《マカリノ》大兄(ノ)皇子(ノ)歌云、莽紀佐倶避能伊陀圖鳴飫斯毘羅枳《マキサクヒノイタドヲオシヒラキ》、檜は本朝に宮木の最上とする事は神代紀曰、又|拔2散《アカツ》胸毛1是成v檜、檜可3以爲2瑞宮之材1云云、嬬手とは削りたてゝ節なき木の白くうつくしきが女の手に似たるを云ふ、モノヽフノ八十氏河、此枕詞別に注す、玉藻ナスウカベ流セレとは藻の如くう(22)かべるを云ふ、流せればといはぬは古語なり、其ヲ取とはそれを取るとてなり、身毛多奈不知は下にもたなしり、たないひなどよめり、棚、棚橋、機を棚機と云ふも皆空中にある心なれば身を傷損せむ事をもそらにしらぬと云ふにや、君の爲に身を忘れて顧ぬなり、又輕引と書きてタナビクとよめり、然ればたな〔二字右○〕は輕しと云ふ古語か、是は毛詩に經始勿v亟、庶民子來といへるに似たり、鴨自物はかもと云ふものゝ如くといふ心なり、下に鳥じ物犬じ物など云ふと同じ心なり、此じ〔右○〕の字は助語ながらなくてはつゞかねば少心ある字なり、日之御門は古事記雄略天皇の段に、伊勢(ノ)三重(ノ)妹が歌にマキサクヒノミカドニ
と詠みたれど、第五に憶良の歌に、高光日御朝廷《タカテラスヒノミカド》とよまれたると今は同じければ帝を日に譬へ奉りて其御門を作ると云ふにて宮殿知ぬべし、不知國依巨勢道ヨリとは不知國を古點にシラヌクニと点ずるをよしとす、仙覺イソノクニと改め点ずるは惡し、三韓等の外名も知らぬ國々より徳化を慕ひて依來ると云ふことを高市(ノ)郡のこせと云ふ所の名にいひつゞけたり、圖負留神龜〔五字右○〕、尚書曰・天乃錫v禹、洪範九疇、彜倫攸v叙、孔安國注(ニ)、疇(ハ)類也、天與v禹洛出v書神龜負v文而出、列2於背1有v數至2于九1、禹遂因而第v之以成2九類1、易繋辭曰、河出v圖洛出v云云、史記曰、神龜者天下之寶也云云、天智紀云、九年六月、邑中獲v龜、書2申字1上黄下玄云云、アタラ世はめづら(23)しき世とほむるなり、泉ノ河は山城(ノ)國相樂(ノ)郡にあり、今龜の文を負ふて出づるにはあらねどいづみの川とつゞけむ爲に上と共に世をほむる詞を枕に置なり、要用なる詞を以てかく面白く鈎※[金+巣]すること奇妙と云ふべきにや、持越流とは田上より宇治川に流し宇治より淀に流し淀より泉川に泝らしむるをいふ、百不足はい〔右○〕と云ふべき枕詞なり、百の數に足らぬ五十《イ》とつゞくるなり但、五十日太爾作《イカダニツクリ》とかける意|百日《モヽカ》に足らぬ五十日《イカ》とつゞくる意なり、末に百たらぬ山田の道、百たらぬ三十《ミソ》の槻枝、百たらぬ八隅阪など皆此つゞきに同ぞ、神代紀に百不足八十隈《モヽタラズヤソクマ》と大己貴《オホナモチノ》命ものたまへれば古語なり、伊蘇波久は爭の字をいそふ〔三字右○〕とよめり、我先にと爭ふ心なり、神ノマヽナラシは此神も亦君なり、君の御心にまかせぬことのなければ速に功成ぬべしとなり、
 
初、やすみしゝわか大きみ。これは、上の大きみ、下の日のわかみこ、たゝひとりの天子の御ことなり。高照す、日のわかみこの、やすみしゝ、我大きみはと打かへして心得へし。皇子とかきて、わかみことよむは、古語拾遺云。天照太神|育《ヒタシテ》2吾勝《アカツノ》尊(ヲ)1特(ニ)甚|鍾愛《メクシトオホシタマフ》。常(ニ)懷(キタマフ)2腋(ノ)下(ニ)1。稱《ナツケテ》曰2腋《ワキ》子(ト)1。【今|俗《クニヒト》號2稚子(ヲ)1謂2和可古1是其轉語也。】この心にて、たとひて、中に御の字をそへたり。日神の御おもひ子にておはしますといふ心なり。あらたへとは、布の惣名なり。藤にてもをれは、あらたへの藤衣といふ心にて、つゝくるなり。くはしくは名所のところに釋せり。あめつちも、よりてあれこそはさきに、人丸の歌に、山川もよりてつかふるとあるにおなし。あれこそは、あればこそなり。いはゝしるあふみ、衣手のたなかみ、皆名所の所に別に注せり。まきさくは、木の名の  にはあらず。宮造の良材を、きりこなけて柱なとに作なすをいふ。さくとは、斧にてわり、鋸にてひきわりなとするなり。繼體紀に、勾大兄《マカリノオヒネ》【安閑天皇】の御歌にも、まきさく、ひのいた戸を、おしひらきとよませたまへり。檜は本朝に、宮木の最上とすることは、神代紀にいはく、神代紀云。一書《アルフミニ》曰素戔嗚尊曰。○又援2散《アカツ》胸(ノ)毛(ヲ)1。是|成《ナル》v檜(ト)○檜可3以爲2瑞宮之材1といへり。檜のつまてとは、ふしたてる所もなく、白くきつくしきをいふといへり。今も、さま/\に名をつけていふことく、切たる木の名なるへし。玉もなす、うかへなかせれとは、なすは、如の字を日本紀に、なすとよめり。玉ものことくうかへなかせれはなり。ばの字なきは、上にいふかことし。そをとるとゝは、それをとるとてなり。身もたなしらすとは、此集に、末にもたなしらす、たないひなとよめり。霞たなひくといふに、輕引とかける所あれは、たなは、かろしといふ古語歟。しからは、身を王事のためにかろむして、あやまちなとして、やふりそこなふことをも、しらぬをいふなるへし。こゝは、毛詩に、經2始(ス)靈臺(ヲ)1。經(シ)v之(ヲ)營(ス)v之。庶民|攻《ツクル・オサム》之。不(シテ)v日(アラ)成(ス)之。經始(スルコト)勿(レトイヘトモ)v亟《スミヤカニスルコト》民子(ノコトクニ)來(ル)といへるにゝたり。かもしものは、鳧といふ物のことくいふ心なり。第五卷に、犬しもの道にふしてやとよめる、おなし心なり。此しの字は、常のやすめことはよりは、すこし心あるやうなり。日のみかとゝは、帝王を日にたとへ奉て、おはします宮殿等を、みかとゝいふなり。朝廷とかきて、みかとゝよめり。朝の一字をもよめり。不知國とかけるを、いそのくにと、かんなをつけたれとも、しらぬくにとよむへし。大唐三韓の外、名もしらぬ國々まて、徳化をしたひてたよりくるといふ事を、葛上郡のこせといふ所の名にいひつゝけたり。我國はといふよりあたらよといふまては、いつみ川といはむ序に、ことよせて、帝徳をほめ奉るなり。しらぬ國といふより、あたら代といつみ川といふまてのよみやう、此役民は、凡俗のものにあらしと、長流は申き。第十六の、竹取翁か長歌、おなし卷の、乞食者かよめる二首の長歌なとも、此類なり。こせちといふは、いつみ川より、陸路の巨勢をさして、つゝきたるなるへし。この道より、宮木を引取なり。わか國は、此後常住不變の地となりぬへし。そのゆへは、禹王の時、神龜、圖を負て洛水より出けることく、今もあらたにめつらしき御代とて、さる龜の出るといふ心を、發句にいひかけたり。泉川は木津河なり。なかれてよとの大橋に出。山城國|相樂《サカラカ》郡に屬せり。持こせるとは、田上山の木を、宇治河になかし、淀より、泉川にさかのほらしむるなり。もゝたらぬとは、いといはんためなり。五十をは、いそといふへきことなるに、五十鈴河を初て、いとのみよめり。菅家萬葉集にも、いつれといふに、五十人禮とかゝせたまへり。いそはくとは、われさきにとあらそひて、材を引なり。爭の字をいそふとよめり。神のまゝならしとは、君のおほしめすまゝなりといふ心なり。しらぬ國といふより、いつみ川にいたるまて、詞意たくみにして、よく心を付されは、心得かたし。ふみをおふ龜のことは、尚書曰。天乃錫2禹洪範九疇1。彜倫攸v叙。孔安國注、疇類也。天與v禹洛出v書神龜負v文而出列2於背1有v數至2于九1。禹遂因而第v之以成2九類1。易繋辭曰。河出v圖洛出v書。神龜者大戴禮云。甲蟲三百六十四、神龜爲2之長1。莊子曰。神龜知七十二鑽而無2遺筴1而不v能v避2刳v腹之患1。史記曰。神龜者天下之?也。與v物變化四時變v色。居而自匿伏而不v食。春蒼夏赤秋白冬黒。龜筴傳曰。上有2檮蓍1【索隱曰。檮音逐留反。檮蓍則?蓍】下有2神龜1。洛書云。靈龜者、玄文五色神靈之精也。能見2存亡1明2於吉凶1。孝經援神契云。天子孝則天龍降地龜出。熊氏瑞應圖曰。王者不v偏不v黨尊2用耆老1不v失2故舊1徳澤流洽則靈龜出。車〓(カ)秦書曰。符|堅(カトキ)高陸縣民穿v井得v龜。大二尺六寸。背文負2八卦古字1。堅以v石爲v池養v之。日本紀二十七云。天智天皇九年六月邑中獲v龜背|書《シルセリ》2申字1上(ハ)黄(ニ)下(ハ)玄。【今案倒玄黄。負申字疑壬申年亂讖邪。】延喜式治部省式云。神龜(ハ)黒神之精也。五色鮮明知2存亡1明2吉凶1也。もちこせるは十三に、月よみの、もちこせる水、いとりきて。日本紀十九云。秋七月壬子朔高麗使到2於近江1。是月遣2許勢臣猿與2吉士赤鳩1發v自2難波津1控2引《ヒキコシテ》船於狹々波山1而裝2飾《ヨソヒテ》船1。乃往迎2於近江北山1、遂引(コシテ)入(ル)2山背|高槭館《コマヒノムロツミニ》1
 
右日本紀曰朱鳥七年癸巳秋八月幸藤原宮地八年甲午春正月幸藤原宮冬十二月於戍朔乙卯遷居藤原宮
 
詳に日本紀に見えたり、
 
從明日香宮遷居藤原宮之後志貴皇子御作歌
 
(24)志貴(ノ)皇子は施基(ノ)皇子也、天智の皇子光仁帝の父なり、明月記云、天福元年六月八日條下曰、昨日以2書帖1示2合師季朝臣1事、志貴(ノ)皇子萬葉集載2數首1、新古今自他任2彼集1撰上之又被入了、今按此皇子如2國史1若v無2慥所見1將其讀若與2施基1、可v同歟、然者御諱可v無v便哉、答曰、件皇子如2彼集1者歌人内春日榎井海上三人王世貴皇子之子云、如今示給若施基之音可v通歟、日本紀點セキ云云、私按國史施基或作2芝基志貴志紀1、然則可d爲2之木之音1而讀u之、
 
51 ※[女+采]女乃袖吹反明日香風京都乎遠見無用爾布久《タヲヤメノソテフキカヘスアスカカセミヤコヲトホミイタツラニフク》
 
タヲヤメ、八雲御抄曰、若き女を云ふ、日本紀に少婦と書くと云云、今按此集にもこゝにかける外手弱女または幼婦などかけり、心はたをやかなる女なり、宗祇抄曰、此歌の心は、飛鳥の都にてありし時は明日香風も宮女の袖を朝夕吹かへしたるが、今都移りて遠ざかればいたづらに吹くとよめりといへり、第十九にあすか川川とをきよみおくれゐて、戀ふれば都いや遠ぞきぬ、但此は藤原(ノ)宮よりならへ遷されての歌なり、
 
初、たをやめの袖吹かへすあすか風
たおをやめは手弱女とかける心なり。羅綺之爲2重衣1妬2無v情於機婦1といふかことく、たをやきたるに名つく。此御歌は、ふたつの心あるへし。あすか風の、たをやめの袖を吹かへすは、藤原宮へ、うつらせたまへるなこりをおしみてまねけとも、都の遠けれはかひなしといふ心にや。また唯長袖風にひるかへりて、颯纏としなやかなれと、みるへき人なけれは、いたつらなりとにや。無用はまことにいたつらに侍り
 
藤原宮御井歌【目録云 一首并短歌】
初、藤原宮歌。一首并短歌目六
 
(25)52 八隅知之和期大王高照日之皇子麁妙乃藤井我原爾大御門始賜而埴安乃堤上爾在立之見之賜者日本乃青香具山者日經乃大御門爾春山路之美佐傭立有畝火乃此美豆山者日緯能大御門爾彌豆山跡山佐備伊座耳高之青菅山者背友乃大御門爾宜名倍神佐備立有名細吉野乃山者影友乃大御門從雲居爾曾遠久有家留高知也天之御蔭天知也日御影乃水許曾波常爾有米御井之清水《ヤスミシシワカオホキミノタカテラスヒノワカミコアラタヘノフチヰカハラニオホミカトハシメタマヒテハニヤスノツヽミノウヘニアリタヽシミシタマヘレハヤマトノアヲカクヤマハヒノタテノオホキミカトニハルノヤマチシミサヒタテリウネヒノコノミツヤマハヒノヌキノオホキミカトニミツヤマトヤマサヒイマスミヽタカノアヲスケヤマハソトモノオホミカトニヨロシナヘカミサヒタテリナクワシヨシノヽヤマハカケトモノオホキミカトニクモヰニソトホクアリケルタカシルヤアメノミカケアメシルヤヒノミカケノミツコソハトキハニアラメミヰノキヨミツ》
 
高照、【中院本云、タカクテル、】 天知也、【校合本云、アマシルヤ、】 水許曾波、【中院本云、波作v婆、】
 
埴安ノ堤ははにやすの池の堤なり、十市(ノ)郡也、此埴安の池を八雲にうへやすと載せられたるは御本に埴の字を植に誤りてや侍りけん、神武紀云、天皇以2前年秋九月1潜取2天香山之埴土1以造2八十|平車重射※[分/瓦]《ヒラカ》1躬自齋成、神代紀上曰、土神號2埴安《ハニヤスノ》神1云云、見之賜者、し〔右○〕(26)は助語なり、青香具山、八雲にかぐ山の外に青かく山と載せさせ給へど、たゞ艸木の茂りて青々と見ゆるを褒めてかく山を云ふなるべし、日經乃とは、唐には南北を天地の經とし東西を緯とせり、此國は是に異り、日本紀第七成務紀曰、五年秋九月、令2諸國1以2國郡1立2造長1縣邑置2稻置1竝腸2楯矛1以爲v表、則隔2山河1而分2國縣1、隨2阡陌1以定2邑里1、」因以2東西1爲2日縱《ヒタヽシ》1、南北爲2日横《ヒヨコシ》1、山(ノ)陽《ミナミ》曰2陰面《カケトモ》1山(ノ)陰《キタ》曰2背面《ソトモ》1是以百姓安居、天下無v事焉、かくあれば東にても西にても經と云ふべし、藤原の舊地に因て思ふに今は東の方を云りと、大御門は上の如くオホミカドとよむべし、下皆准v之、春山路は上に額田王の、咲かざりし花もさけれど山をしげみ、入てもとらずとよめる如く春山はしげる物なればしみさびといはむ科なり、之美佐備立有は、しみは繁の字を書きてしげきなり、しみゝと云ふも同じ、さびは前に見えたり、畝火乃此美豆山者、瑞山なり、ほむる詞なり、名所に非ず、日ノヌキは南北ともに云ふべきこと日の經の如し、其中に今は北なり、但畝火山は岡寺より西北に當れば藤原(ノ)宮よりは彌西北なるべし、※[手偏+總の旁]じて此歌によめる方角必しも正當なるべからず、大形に見るべし、山サビイマス、此さびも亦上に云ふが如し、耳高ノ青菅山とは、此耳高も地の名にて、假令ば三吉野の象山など云ふに同じき歟、又菅山は中に谷ありて兩の側の高ければ枕詞に云るか、或者の曰く、耳(27)梨山今の俗天神山と云ふ、北は木村の東にあり、此歌を引きて耳高山とも青菅山とも云ふといへり、彼國の案内よく知れる者の記せる事なれば耳成より外には藤原の舊跡の北には山なきにや、耳成山を耳高山とも青菅山とも云へる證なければおぼつかなし、されど三山といはるゝ内なれば誠に耳戌も此歌に取ては漏まじき山なれば、案内知れる者の詞に付て一注愚推を加へば、山の形などや菅に似て青菅の如くに耳を成と云ふ意に名づけ侍りけむ、さらば足引と云ひて山とする如く青菅山とも申してむ、耳高は青菅といはむためのみなるべし、宜名倍はよろしきなり、第三にもよろしなへわがせの君とよめり、名細《ナクワシ》は、細は細妙とつゞく字にて共にたへともよめば、名もよし野と云ひてよき山とほむる詞なり、第三に名ぐはしきいなみの海ともよめり、枕詞には非ず、影友乃大御門從雲居爾曾遠久有家留《カケトモノオホキミカドニクモヰニソトホクアリケル》、かげともは南に當りて吉野山は遠く立て都をしづむるなり、唐にもよき都は皆四面に靈山あるなり、張衡西京賦曰、漢氏初都在2渭之|※[さんずい+矣]《ホトリ》1、奏里2其朔1寔爲2咸陽1、云云、文煩ければ委くは引かず、披て見るべし、此歌の中間よく彼賦に似たり。三體詩許渾金陵詩落句云、惟有青山似2洛中1、天隱注曰、李白金陵詩曰、苑方2秦地1、少山似2洛陽1多、曾景建曰、洛陽四山、々々圍2伊洛1※[纏の糸がさんずい]澗在v中、建康【建康郡即金陵】亦四山圍2秦淮1直涜在v中、故許渾云似2洛中1、およそ都を立て(28)らるゝには山川の向背などを勘ふる故にや、班孟建西都賦曰、其宮室也、體2象乎天地1經2緯乎陰陽1云云、高知也天之御蔭《タカシルヤアメノミカゲ》、此歌は御井を題にてよめども井はさして物めかしうよむべき風情もなければ、先宮殿より始めて四面に名山のありて都のしづめとなる事をひひ盡して本意とする井の事をいひて一篇を収むるなり、あめの御蔭日のみかげとは延喜式第八祈年祭祝詞云、御孫《ミマノ》命瑞《ミヅ》御舍《ミアラカ》奉《タテマツリ》?天御蔭日御蔭《アメノミカゲヒノミカゲ》隱坐《カクリマシ》?云云、高き天の影日の影も移る水なれば、天の久しきと共に日のうせぬと共にときはにすみたゝへてあらむ清水とよめり、延喜式の心は蔭は庇蔭にて其蔭にかくれて安き心なり、西行上人の清水流る柳陰と小へる陰なり、今は影の移るを云ふ、但天之御蔭日御影と書ける文字の心を用ひて天の御蔭にかくれ日の御影の移る水と心得べきか、推古紀に蘇我(ノ)馬子大臣の帝に壽を上らるゝ歌に、やすみしゝわが大君の、かくりますあまのやそかげ、出たゝすみ空を見れば、云云、此天の八十かげと云へるは日のことなれば影にやと思ふを、隱れ給ふ陰とつゞけたれば日徳に庇蔭し給ふ心と見えたり、蔭の字を影也と注し又蔭也とも注したれば徃ては通ずるなるべし、
 
初、やすみしゝ――。はにやすの堤、はにやすの池の堤なり。此埴安の池を、八雲御妙に、うへやすと載られたるは、御本に埴の字を、植にあやまりてや侍けむ。見したまへれは、しは助語なり。青かく山、八雲御抄に、かく山の外に、青かく山と載させたまへと、只草木のしけりて、青々とみゆるをほめて、かく山をいふなるへし。日のたてのとは、もろこしには、南北を天地の經とL、東西を緯とせり。此國はこれにことなり、日本紀第七成務紀云。五年秋九月|令《ノリコチテ》2諸國1以國郡(ニ)立2造長1、縣邑置2稻置《イナキ》1竝腸2楯矛1以爲v表。則|隔《サカヒテ》2山河1而分2國|縣《コホリ》1隨2阡《タヽサノミチ》陌《ヨコサノミチ》1以定2邑里(ト)1。因以2東西(ヲ)1爲2日縱《ヒタヽシト》1南北爲2日|横《ヨコシ》1・山(ノ)陽《ミナミヲ》曰2陰面《カケトモト》1山(ノ)陰《キタヲ》曰2背面《ソトモト》1。是以|百姓《オホムタカラ》安v居《スミカニ》天下無v事焉。しみさひたてりは、しみは繁の字をかきてしけきなり。しみゝといふもおなし。さひは、さはつけたる字なり。神さひ、翁さひといふかことし。しけひて立なり。俗語に何たて何めくといふほとの詞なり。うねひの此みづ山は、瑞山なり。ほむる詞なり。日のぬきは南北をいふゆへに、南にあたりても、北にあたりてもいふへけれと、下に青菅山そともにあれは、そともは北なるゆへに、これはうねひ山の南にあたるなり。よろしなへは、よろしきなり。第三にもよろしなへわかせのきみとよめり。名くはしは、細の字をかけり。細妙とつゝく字にて、此集にたへともよめは、名もよし野といひて、よき山とほむる詞なり。第三になくはしき、いなみの海ともよめり。枕詞にはあらす。かけとものおほみかとに、雲居にそ、遠く有ける。かけともは南なり。南にあたりてうねひ山は、ちかく都のしつめとなり、よしの山は、遠く立てしつむるなり。もろこしにも、よき都は、皆四面に靈山あるなり。張衡西京賦曰。漢氏初都在2渭之|※[さんずい+矣]《ホトリ》1。※[さんずい+秦]|里《ヲリヌ》2其|朔《キタ》1。寔《コレヲ》爲2咸陽1。左有2※[山+肴]函重險、桃林之|塞《ソコ》1。綴《メクラスニ》以2二華(ノ)1巨靈(ノ)贔屓(ト)《・ヤマヲ オオホガ ミチカラオコシテ》高v掌(ヲ)遠v蹠《アトヲ》以流(セリ)2河曲(ヲ)1。其跡猶|存《・ウセス》。右有2隴〓之隘1。隔2〓《カキレリ》華戎1、岐梁〓雍、陳〓|鳴※[奚+隹]《・ヒカルカミ》(ノ)在焉。於v前即|終南(ノ)太一《・ヤマヤマ》(ノ)、隆〓|崔〓《・タカクサカシクシテ》(ト)隱〓|欝律《カタタカヒナリ》(ト)。連2岡乎〓〓(ニ)1抱v杜含(ミ)v〓(ヲ)飲《スヒ》v〓(ヲ)吐v鎬(ヲ)。爰有2藍田2珍玉是(ヨリシテノ)之自出(タリ)。於v後則高陵平原據(リ)v渭|踞《シリウタケタリ》v〓|〓漫《・ヒロクオホキニシテ》(ト)靡〓《・ナヽメニシテ》(ト)佗(タリ)v鎭(メ)2於近(ニ)1。其遠則有2九峻甘泉1。涸陰(シテ)沍《サエ》寒(シ)。日壯(ニ)至(レトモ)而含v凍(ヲ)此焉。清《スヽシウス》v暑(キヲ)。三體詩許渾金陵詩(ノ)落句云。惟有2青山1似2洛中1。天隱注曰。李白金陵詩曰。苑方2秦地1、少山似2洛陽1〓。曾景建曰。洛陽四山。々々圍2伊洛1※[纏の糸がさんずい]澗在v中、建康【建康郡即金陵】亦四山。圍2秦淮1直※[さんずい+賣]在v中。故許渾云似2洛中1。およそ都をたてらるゝには、山川の向背なとをかんかへ、天地陰陽にかたとりて、はしめらるゝなり。班孟建西都賦曰。其宮室也體2象乎天地1經2緯乎陰陽1。たかしるや、あめのみかけ。此歌は御井を題してよめとも、井は、さして物めつらしう、よむへき風情もなけれは、まつ宮殿よりはしめて、四面に名山の有て、都のしつめとなる事をいひつくして、本意とする井のことをいひて、一篇をしむるなり。あめのみかけ、日の御影とは、延喜式第八、祈年祭祀詞云。皇御孫命《スメミマノミコト》能瑞能|御舍《ミアラカ》仁奉※[氏/一]、天御蔭、日御蔭登隱坐※[氏/一]云々。高き天の影、日の影もうつる水なれは、天の久しきとゝもに日のうせぬとゝもに、ときはにすみたゝへてあらんしみつなりとよめり。延喜式の心は、蔭は庇蔭にて、その陰にかくれてやすき心なり。西行上人の、しみつなかるゝ柳陰といへる陰なり、今は陰のうつるをいふ。但天之御蔭、日御影とかけるもしの心を用て、天の御蔭にかくれ、日の御影のうつる水と心得へき歟。東坡か、花有2清香1月有v陰と作れるは、陰影通するにや
 
短歌
 
(29)53 藤原之大宮都加倍安禮衝哉處女之友者之吉召賀聞《フチハラノオホミヤツカヘアレセムヤヲトメカトモハシキリメスカモ》
 
安禮衝哉《アレセムヤ》をアレツゲヤとよむべきか、第四に神代從|生繼來者《アレツギクレハ》云云、第六に八千年爾|安禮衝之乍《アレツキシツヽ》云云、あれは生る一ゝなり、衝、は繼に借てかけり、富士に第七には伏を借てかけるに例すべし、つげやは下知にあらず、あれつがむやなり、前にあはむと思へやと云ふ所に釋せり、ヲトメガ友はともがらなり、後にしづをのとも、ますらをのともとあるに意同じ、之吉召賀聞《シキリメスカモ》、吉と書きてキリとよめる事此集に例なし、しきとのみ云ふも頻なればシキメサムカモとよむべし、歌の心は二義あるべし、一の心は子孫生れつゞきて藤原の大宮仕へをせよや、吾も男子なればこそ此幸の供にも參りたれ、處女が友がらはしきりに召されむか召さるまじきと云ふなり、一説は上の句は初の如し、下句は天子女帝にてましませば、生つかん處女はしきりに召給はんかと云ふ心なり、此歌御井の反歌とは見えず、されども其由をも注せざれば不審なり、重ねて考ふべし、
 
初、藤原のおほみやつかへ安禮衝哉
安例衝哉を、あれせむやとある點は、あやまれり。衝は突なれとも、繼の字にかりて用たり。雉を岸にかりて用るに准して知へし。あれは、むまるゝなり。つけやは下知にはあらす。さきに、あはむとおもへやといふ所に、尺せるかことし。あれつがんやなり。第四、岳本天皇御製には、神代より、あれつきくれは、人さはに、國にはみちてとよませたまへり。第六には、やちとせに、安禮衝しつゝと、今のことくかきて、あれつきしつゝとよめり。をとめかともは、ともからなり。しきりめすかも、之吉とかけるを、しきりとよめり。此集に吉の字きりとよめる例なし。しきとのみいふも、しきりなれは、しきめさんかもとよむへし。哥の心は、所からも、都に相應したる地なれは、いく久しく、おさめましますへし。我子孫に、宮仕にたへたる男女の、あひつきてむまれつかんや。あはれむまれつゝきて、つかへたてまつりて、御まもりともならせはや。ますらをならぬをとめがともからは、むまれつきたるとも、御まもりともなるましけれは、しきりにめしてつかはせ給ふ事もあらしとよめる歟。いかさまにも、此哥は、御井をよめる反哥には、もとよりかなはしとそみゆる
 
右歌作者未詳
 
(30)大寶元年辛丑秋九月太上天皇幸于紀伊國時歌 【目録云二首】
 
文武紀曰、九月丁亥天皇幸2紀伊國1、冬十月丁未、車駕至2武漏温泉1、戊午車駕自2紀伊1至、續日本紀には如是記して太上天皇の臨幸をば不v載、此太上皇と申すは持統の御事也、此には太上天皇の御幸をのみ載せて文武の行幸を並擧せざれば國史と今と互に出没あり、第九に大寶元年十月太上天皇(ト)大行天皇(ト)幸2紀伊國1時歌と具に並べ擧げたり、太上天皇とは、史紀始皇本紀云、追2尊莊襄王1爲2太上天皇2。【漢高祖尊v父曰2太上皇1、亦倣v此也、】高祖本紀注曰、索隱曰、葢太上無上也、皇徳大2於帝1、故尊2其父1號2太上皇1也、獨斷曰、高祖得2天下1而父在v上、尊號曰2太上皇1不v言v帝、非(レバナリ)2夫子1、此より後文武の御宇の歌なり、上の※[手偏+總の旁]標の下に持統の御諱を擧げたる誤を知るべし。
 
初、大寶元年――。文武紀云。三月甲午對馬島(ヨリ)貢v金。建v元爲2大寶元年1。又云。九年丁亥天皇幸2紀伊國1。冬十月丁未車駕至2武漏温泉1。戊午車駕自2紀伊1至。續日本紀には、かくのことくしるして、太上天皇の臨幸をは不v載。目録には、歌の下に二首といへり。太上天皇は史記始皇本紀云。追2尊莊襄王1爲2太上皇1。【漢高祖尊v父曰2太上皇1亦放v此也。】高祖本紀曰。高祖五日一朝2太公1如2家人父子禮1。太公家令説2太公1曰。天無2二日1土無2二王1。今高祖雖v子人主也。太公雖v父人臣也。奈何令v人主拜2人臣1。如v此則威重不v行。後(ニ)高祖朝2太公1擁v?迎v門却行。高祖大驚下扶2太公1。々々曰。帝人主也。奈何以v我亂2天下法1。於v是高祖乃尊2太公1爲2太上皇1。注曰。葵?曰。不(ルコトハ)v言v帝非(レハナリ)2夫子1。索隱曰。按2本紀1秦始皇追2尊莊襄王1爲2太上皇1。已有2故事1矣。蓋太上(ハ)無上也。皇徳大2於帝1。故尊2其父1號2太上皇1也。獨斷曰。高祖得2天下1而父在v上。尊號曰2太上皇1。不(ルハ)v言v帝悲(レハナリ)2天子1
 
54 巨勢山乃列列椿都良都良爾見乍思奈許湍乃春野乎《コセヤマノツラ/\ツハキツラツラニミツヽオモフナコセノハルノヲ》
 
巨勢山は或者の云ふ、巨勢村、葛(ノ)上(ノ)郡の西lこありて、高市(ノ)郡の境に近しといへり、げにも延喜式を見るに葛(ノ)上(ノ)郡に巨勢山口神社あれば、平地の所は高市(ノ)郡にて山は葛(ノ)上に屬するにや、和名に高市に載す、延喜式にも高市(ノ)郡に巨勢坐石椋孫神社、又許世都(31)比古命神社あり、决v之、ツラ/\椿は袖中抄曰、つら/\は列々と書く、つらなれる椿と云ふか、又本草等に女貞と書きてたつの木とよみ、又つらつばきとよめり、是をおし反してつら/\椿と云ふかと云云、案ずるにしげく生ひならぴたる椿を云ふ、和名云、拾遺本草云、女貞一名冬青、【和名、太豆乃木、楊氏漢語抄云、比女都波木】冬月青翠、故以名之、かゝれば顯昭の暗記の誤にや、此はなみ木を植るを行樹と云ふ、行列同意にてつら〔二字右○〕ともなみ〔二字右○〕ともよめり、春道列樹と云ふ名も是を思ひてつけるか、六帖に下の淡海が歌を椿の歌とし、第二十に家持がつらの椿つら/\にとよまる、今の歌を取用ゐられたりと見えたり、古事記に雄略天皇の后の御歌に、葉廣湯津眞椿《ハビロユヅマツバキ》とよませたまへるゆづ〔二字右○〕もしげき意なるを思ふべし、是は秋の歌にて今椿に必しも見所あるにあらねど、熟といふ言まうけん爲なる上、巨勢野の春になりて萬面白からんに此椿さへ山を照して咲かん時を思ひやるとなり、オモフナのな〔右○〕の字助語なり、なかれのな〔右○〕にあらず、
 
初、こせ山のつら/\つはきつら/\に
是は御供して、路次によめるなり。巨勢は、大和葛上郡なり。つら/\椿とは、しけく生ならひたるをいふ。第二十、家持歌にも、八をのつはきつら/\にとよまれたり。實をひろひて、油をとるとて、山里にはわさともうへをくが、谷川のきしなとに、春は山もてるはかり咲なり。目日本紀にも異國のみかとへ、椿の油をおほくまいらせたる事見えたり。上のつら/\つはきをうけて、おりふしつら/\みるにはよくかなひたり。こせ野の、秋の草かれわたる比たに、かくおもしろき所なるに、霞わたりて、雲雀あかり、わか草打なひかむ時、いかならんと、ゆかしくおもふなり。椿も只今は木をのみ見て、その花の折をおもふなり。秋の歌なり。心をつけてみるへし。下の或本歌は、同しやうにて、春野をみる當意のうたなり、御供の哥にはあらす
 
右一首|坂門人足《サカトノヒトタリ》
 
系譜不v詳、
 
55 朝毛吉木人乏母赤打山行來跡見良武樹人友師母《アサモヨイキヒトトモシモマツチヤマユキクトミラムキヒトトモシモ》
 
(32)赤打【赤當作v亦】
 
朝毛吉は紀といふ枕詞なり、別に注す、亦打山一説に紀州といひ、又は大和と云ふ、今按は大和につくべしとおぼゆ、委くは別に注す、トモシキはすくなきなり、又珍しき心にもよめり、すくなければ珍しき理なり、眞土山は大和にて紀國の境なるが、山路も難所なれば行きかふ紀人のすくなくて稀々逢ふがめづらしきなり、
 
初、朝もよいきひとゝもしもまつち山
ともしきは、すくなきなり。又めつらしき心にもよめり。すくなけれは、めつらしきことはりなり。まつち山はやまとにて、紀國のさかひなるが、山ちも難所なれは、ゆきかふ紀人のすくなくて、まれ/\あふか、めつらしきなり
 
右一首|調首淡海《ツキノヲフトアハウミ》
 
日本紀第二十八云、建2于津振川1、車駕《オホムマ》始(テ)至便乘焉、是時元從者草壁(ノ)皇子調(ノ)首淡海之類二十有餘人云云、續日本紀云、和銅六年四月授2從五位上1、養老七年正月授2正五位上1、又神龜四年(ノ)本紀に見えたり、續日本紀には調連とあれば後に連の尸を賜はるを、今は賜はらぬ先にて調首とはかけるなるべし、
 
或本歌
 
56 河上乃列列椿都良都良爾雖見安可受巨勢能春野者《カハカミノツラ/\ツハキツラツラニミレトモアカスコセノハルノハ》
 
義明かなり、今按ずるに此歌は人足か、歌の異なれば、淡海が歌の上にあるべけれど、(33)先御供の二首を載せて此歌は、御供にての歌ならねば引下して此に載する歟、
 
右一首春日藏首老
 
續日本紀曰、大寶元年三月、令2僧辨紀1還俗、代度一人、賜2姓春日(ノ)倉(ノ)首名老1、授2追大壹1云云、又懷風藻に詩あり、從五位下常陸介、年五十二といへり、
 
二年壬寅太上天皇幸于參河國時歌
 
日本紀曰、冬十月甲辰太上天皇幸2參河國1、行所2經過1尾張美濃伊勢伊賀等國郡司及百姓、叙位賜v禄各有v差、十一月戊子車駕至v自2參河1、按ふに歌下に五首とあるべき所なれど目録にも見えず、
 
初、二年壬寅太上――。五首とあるへき所なれと、目六にも見えす。文武紀云。冬十月乙未朔丁酉鎭2祭諸神1。爲v將幸2參河國1也。甲辰太上天皇幸2參河國1。行所2經過1尾張美濃伊勢伊賀等國郡司及百姓叙v位賜v禄各有v差。戊子【十一月】車駕至v自2參河1
 
57 引馬野爾仁保布榛原入亂衣爾保波勢多鼻能知師爾《ヒクマノニニホフハキハライリミタルコロモニホハセタヒノシルシニ》
 
引馬野、參河なり、類字抄に遠江とするは誤なり、榛原は前にも注する如く、はりの木原なり、十月十日に都を立給ふ御幸なれば萩に非ず、第三句官本にイリミダレと點ずるによるべし、旅ノシルシは、垂仁紀に何益をナニノシルシカアランとよめり、旅(34)の得分にといはむがゴトシ、歌の心は榛原に亂れ入りて衣をはぎずりにして歸らん時、家にて見すべき旅のしるしにせんとなり、
 
初、ひくまのにゝほふはきはら。ひくまのを、ある名所抄に、遠江といへるはあやまりなり。參河なり。此榛原は、はなりの木原なり。十月十日に、都をたゝせたまふみゆきなれは、萩にあらす。榛、萩、名もおなしくて、ともにきぬにするとよめは、まかふゆへに、くりことのやうに尺するなり。第三の句、入みたれとよむへし。みたるとよみてはわろし。はりはらに、みたれいりて、衣をはりすりにしてにほはせよ。歸らん時、家にてみすへき旅のしるしにせんとなり
 
右一首長忌寸奥麿
 
58 何所爾可舩泊爲良武安禮乃崎榜多味行之棚無小舟《イツコニカフネハテスラムアレノサキコキタミユキシタナヽシヲフネ》
 
舟ハテスラム、舟とむるをはつといふは古語なり、集中多し、安禮乃崎、參河なり、コギタミはこぎめぐるなり、運の字廻の字轉の字などをたむとよめり、此も古語なり、棚ナシ小舟、顯昭の云ふ、小き舟なり、小舟には棚といふ物のなきなり、舟棚は和名に※[木+世]字をよめり、せかいとて舟の左右のそばに縁の樣に板を打つけたるなり、それを踏ても行くなり、言はあれの崎をぎ廻る小舟は何方にとまるらんと心細き旅の景氣を述ぶるなり、
 
初、いづこにかふなはてすらん。舟とむるを、此集にはおほくはつるとよめり。こきたむは、こきめくるなり。運の字、廻の字を、たむとよめり。たなゝし小舟とは、ちひさき舟には、ふなたなのなきなり。舟たなは、せかいとて、舟の左右のそはに、縁のやうに、板をうちつけたるなり。それをふみてもありくなり。和名集に※[木+世]の字をふなたなとよめり
 
右一首高市連黒人
 
擧謝女王作歌
 
文武紀云、慶雲三年六月癸酉朔丙申、從四位下與謝女王卒、
 
(35)59 流經妻吹風之寒夜爾吾勢能君者獨香宿良武《ナカラフルツマフクカセノサムキヨニワカセノキミハヒトリカヌラム》
 
流經は流るゝなり、第八に流らへちるは何の花ぞとも梅をよみ、第十には櫻花散ながらふるとよめる、共に流るゝなり、ツマは夜の物のつまなり、論語郷黨篇にも必有2寐衣1長一身有半とある如く夜のものは長き物なれば、つまもすそになびきてあるをながらふるつまといへり、※[手偏+總の旁]の心は、とゞまれる吾だにかく衣の裙に風の吹きとほして寒けき夜に、いかなる野山の艸枕に衣さへうすくてまろねし給ふらむと大君を思ひやりてよめるなり、
 
初、なからふるつまふく風。なからふるは、なかきなり。妻はよるのものゝつまなり。論語郷黨篇にも、必有2寢衣1長一身有半とあることく、よるのものは、なかきものなれは、つまもすそになひきてあるを、なからふるつまといひて、やかて夫婦のかはらぬなからひによせて、とゝまれる我たに、かくさむけき夜に、いかなる野山の草枕に、衣さへうすくて、まろねし給ふらんと、夫君をおもひやりてよみたまへり。なからふらつまふく風、感情ありておもしろくきこゆる詞なり
 
長皇子御歌
 
長(ノ)皇子は天武帝第四皇子、御母は大江(ノ)皇女、天智帝(ノ)皇女、弓削(ノ)皇子同母の兄なり、長は此集にマサルと点ぜるは誤なり、日本紀の点に從ひてナガとよむべし、稱徳紀にも廣瀬(ノ)女王薨、那我(ノ)親王之女也と云云、
 
60 暮相而朝面無美隱美隱爾加氣長妹之廬利爲里計武《ヨヒニアヒテアサカホナシミカクレニカケナカキイモカイホリセリケム》
 
(36)朝面無《アサカホナシミ》、官本にアシタオモナミと點ず是可v然、日本紀に安措とかきてオモナシとよめり、おもなしは面目なしといふなり、伊勢物語にもおもなくていへるなるべし云云、此にては耻づる心有り、六帖に、ねくたれの朝がほの花秋霧に、おもかくしつゝ見えぬ君哉、白氏文集琵琶行に、猶抱2琵琶1半々掩v面、此第十一に、向へればおもかくしぬる物からに、つきてみまくのほしき君かも、カクレは上にかくれの山と云へる所なり、第八にはよひに逢て朝貌はつる隱野ともよめり、宵に逢人の朝に人に耻ぢて面かくしぬるをかくれと云ふ所の名にいひかけたり、題の下に文武紀を引ける如く伊勢をも經たまへばかくはよみ給へり、氣長《ケナガキ》け〔右○〕は息なり、賈誼が長太息といひしが如く、物思ふ時には長き息をつくを云ふ、此集に八尺《ヤサカ》のなげきともよめり、第二にも君が行|氣長《ケナガ》く成ぬとあるを初て下に多き詞なり、旅の氣《ケ》とよみ、又たゞ旅を氣《ケ》と名付けてよめるかとおぼしき歌もあり、物いひ渡り給ふ女などの御供したるを思召しやらるゝなるべし、
 
初、よひにあひてあさかほなしみ
朝面無美とかけるをは、あしたおもなみとよむへし。第八に、よひにあひて朝かほはつるかくれ野のとよめる、おなし心なり。かくれといへるも、かくれ野か、さきにおきつものかくれの山とよめるかの、あひたにて、伊勢なり。よひにあふ人の、朝には、またねくたれ髪にて、けさうもせぬほと、人にまほにみえむ事をはちて、おもかくしするを、所の名にいひかけ給へり。おもなみは、面目なしといふなり。伊勢物語に、おもなくていへるなるへしといへり。六帖に、ねくたれの朝かほの花秋きりにおもかくしつゝ見えぬ君かな。白氏文集(ノ)琵琶行に猶抱2琵琶1半掩v面。この第十一に、むかへれはおもかくしするものからにつきてみまくのほしき君かも。けなかきは.息なかきなり。賈誼か、長大息といひしかことく、物おもふ時は、なかき息のつかるゝを、此集に、八|尺《サカ》のなけきともよみ、けなかきとは、めつらしからすよめり。此けなかきは、こなたにこひしくおもひて、いきのなかきなり。物いひわたり給ふ女なとの御供したるを、おほしめしやらるゝなるへし
 
舍人《トネリ》娘子從駕作歌
 
第二相聞に、舍人(ノ)親王の御歌に和奉りし女なり、第八にも雪の歌あり、
 
(37)61 大夫之得物矢手挿立向射流圓万波見爾清潔之《マスラヲノトモヤタハサミタチムカヒイルマトカタハミルニサヤケシ》
 
得物矢《トモヤ》は一手なり、一手は二筋なれば共矢とも諸矢とも云へり、弓射る時は一手をたばさみて出づる習ひなればかくよめり、第二第六にも此詞あり、得の字をと〔右○〕とつかひたるは吉の字をき〔右○〕とつかひたるに同じ、得の字はと〔右○〕と云ふばかりにて、うるといふ心なし、吉の字き〔右○〕の聲に用ひて、よしといふ心なきが如し、然れば得物矢と書きて狩にえものある矢と注するは惡し、君又三个處に字を替ず書たれば獲物多き矢と云ふ心にエモヤと名付たるか、圓方《マトカタ》、伊勢國風土記白、的形(ノ)浦者、此浦地形似v的故爲v名、今已跡絶成2江湖1也、天皇行幸須邊歌曰、麻須良遠能佐都夜多波佐美牟加比多知、伊流夜麻度加多波麻乃佐夜氣佐延喜式に多氣郡に服麻刀方《ハトリマトカタ》神社を出せり、是は序歌なり、圓方といはんとて上句をいへり、別に心なし、圓方の景、弓射るとき的に向立てみるやうにさやかなるが面白しと云ふなり、
 
初、ますらをのともや。ともやは一手なり。一手はふたすちなれは、共矢とも、諸矢ともいへり。弓射る時は、一手をたはさみて出る習なれは、かくよめり。第二第六にも此詞あり。得物矢とかきたるゆへに、狩にえものある矢をいふと注するは、ある儒生の梵漢のわかちをしらて、心經のはてにある呪の、褐諦の字に、義をつけて、漢語に心得たるにひとし。得の字、入聲なるを、とゝつかひたるは、吉の字を、きとつかふにおなし。きといふかんなに用て、よしといふ義あらんや。まとかたは、まとかたの浦にて伊勢にあり。弓射るものゝ向ふまとゝいいつゝけて、そのまとにむかへるものゝ、心をひとつにするかことくして、此浦にうちむかひてみるに、海上さやけくみわたさるゝを、ほめたり。さきの長皇子の御哥と、此哥は、序哥なり。足引の山とつゝけ、梓弓いそへなと、秀句にいひても、一句、あるひは一句あまりにて、つゝくるをは、枕詞といひ、かくれといはんとて、よひにあひて、朝おもなみといひ、まとかたといはむとて、此哥のやうにいふを、序哥といふなり
 
三野連 名闕 入唐時春日藏首老作歌
 
續日本紀、三野連傳不v見、萬葉諸本有2考物1、引2國史1曰、【此史不v知2何書1】大寶元年正月、遣唐使民(38)部卿粟田眞人朝臣已下百六十人乘船五隻、小商監從七位下中宮少進美奴連岡麻呂、【按此三奴與2三野1相通乎、未v詳2是非1、】
 
62 在根良對馬乃渡渡中爾幣取向而早還許年《アリネヨシツシマノワタリワタナカニヌサトリムケテハヤカヘリコネ》
 
古老説曰、對馬に對馬の嶺とて高き山あり、唐に往還する舟この國にて風間をも侍つに此對馬の根をみつけてよる故に此根のあるがよしと云ふ義なり、今按ずるにあり〔二字右○〕といふに在の字は書きたれども、さかしきあらき峰と云ふ事なるべし、日本紀雄略天皇の舍人が歌に、わがにげのぼりし、ありをの上のはりがえだあせをと云云、此ありをの上はあらをの上にてさかしき山の尾と聞ゆれば準じて知るべし、對馬は昔三韓に渡りし津なれば國史に津島と書ける所あり、因て對馬と書きても心は津島なり、ワタ中は、わたは海を云ふ、わたつみに同じ、此集に綿の字を假て書きたればわたの原もすみて讀みけるなるべし、此に渡の字をかけるも借てなり、或説に海上は舟にて渡る物なれば云ふなりと云云、此推量なり、古事記等に多く綿の字を以書きたれば、波の白く立つが綿のやうに見ゆればとも申すべしや、神代より海神を綿津見と云ふによりて海原をもわたつみと云へば、其名の由知りがたし、ヌサは(39)路次の安穩ならん事を神に祈るとて奉る物なり、朝野群載廿二に、康和二年國務條事の下に曰、出2京關1間奉2幣道祖神1事、出v京之後所v宿之處密々奉2幣道神1、即令v行d願2途中平安1之由u、歌の義は明かなり、
 
初、ありねよしつしまのわたり
長流か燭明抄にいはく。在根良とは、つしまの國に、つしまの嶺とて、高き山あり。もろこしに行かへる舟は、此國によりて、風間をも待なり。其時は此つしまのねをみつけてよるゆへに、この根のあるがよしといふ義なり。わた中とは、わか國と、もろこしとの中に有國なれは、よめるなり。今案つしまのねはしかり。ありといふは、在の字はかきたれとも、あらみねといふことなるへし。すなはちかのつしまの根は、神なともおはしまし、さかしくもあるを、あらねといふ心にて、ありぬといふ歟。日本紀にみえたる、雄略天皇の舍人かうたに、わかにげのほりし、ありをのうへの、はりかえたあせをとよめる、ありをのうへは、あらをのうへにて、さかしき山の尾ときこゆれは、准してかくはいふなり。さきたちて、あらといはん事もいかにそやと聞ゆ。つしまは、昔三韓にわたりし時の津なれは、國史に津島とかける所あり。對馬とかきても、心は津島なり。わた中はわたは海をいふ。此集に綿の字をかりて、かきたれは、清濁通用して、さためかたしとはいへとも、わたの原も、すみてよみけるなるへし。こゝに渡の字をかけるも、借てなり。又海上は、わたる物なれは、此字の心にて わたつみ、わたの原もなつけたるにも侍らん
 
山上臣憶良在大唐時憶本郷歌【目録郷下有2作字1】
 
續日本紀第二曰、大寶元年春正月乙亥朔丁酉、以2守民部尚書直大貳粟田朝巨眞人1爲2遣唐執節使1、無位|山於《ヤマノウヘノ》憶良爲2少録1、
 
初、山上臣憶良在2大唐1時憶2本郷1【目六有2作字1】歌
續日本紀第二云。大寶元年春正月乙亥(ノ)朔丁酉、以2守民部尚書直大貳粟田朝巨眞人1爲2遣唐執節使1。無位山(ノ)於《ウヘノ》憶良爲2少録1。懷風藻(ノ)釋辨正在v唐憶2本郷1一絶。日邊瞻2日本1、雲裏望2雲端1、遠遊勞2遠國1、長恨苦2長安1
 
63 去來子等早日本邊大伴乃御津乃濱松待戀奴良武《イサコトモハヤヒノモトヘオホトモノミツノハママツマチコヒヌラム》
 
早日本邊、【官本、ハヤクヤマトヘ、】
 
去來子等は人々を指す、ヒノモトヘにて切て心得べし、意は故郷へ早皈らむなり、三津濱は舟の歸て著く所なり、濱松と云ふは待こひぬらんといはむ爲なり、第十五に此下句に同じ歌あり、
 
初、いさこともはやひのもとへ大伴の
去來子等、これをは、いさやこらともよむへし。俊成卿五社百首にも、いさやこらわかなつみてむとよみたまへるは、此哥なと昔はいさやこらとも點の侍りけるなるへし。はやひのもとへ、これをはゝやくやまとへともよむへし。こらといふは、人々をさせり。やまとへにてきる哥なり。きれ字寧なけれと、哥の心にてきるゝなり。みつの濱は、舟の歸りてつく所なれは、取出て、濱松といふは、まちこひぬらんといはむためなり。第十五に此下句におなし哥有
 
慶雲三年丙午幸于難波宮時【目録云歌二首、】
 
(40)文武紀曰、九月行2幸難波1十月還v宮、今按此下にも太上天皇難波に幸の時の歌、又吉野に幸の時の歌あり、持統は大寶二年十二月に崩じ給へり、此は其後なれば下に至て載すべき事なるを此に置けるは能く再治せざるにや、時の下に歌、或は歌二首の三字脱たるか、
 
初、慶雲三年丙午幸2于難波宮1時。歌二首目六
文武紀云。大寶四年五月甲午備前國獻2神馬1。西樓上慶雲見。詔大2赦天下1改v元爲2慶雲元年1云々。又云。三年九月丙寅行2幸難波1。冬十月壬午還v宮
目録に注せしことく、順をいはゝ、下の太上天皐幸2于難波宮1時歌といふより、右一首長屋王といふまては、此慶雲三年より上にあるへきなり。持統天皇は大寶二年に崩したまふかゆへに
 
志貴皇子御作歌
 
64 葦邊行鴨之羽我此爾霜零而寒暮夕和之所念《アシヘユクカマオノハカヒニシモフリテサムキユフヘハヤマトシソオモフ》
 
霜零而、【別校本云、シモオキテ、】
 
鴨は芦邊に住むものなればあしかもとも云ふなり、羽を打かへたる故に羽かひともはかへともいふなり、爾雅に雄は右を上にし雌は左を上にすといへり、鴨の羽に霜ふるとよむ事は此集にては第三第九第十五等によめり、旅にありて故郷を思ふは時はわかねど物に感じて彌思出るなり、鴨は雌と並居て睦まじきが、羽に霜降て拂ひわぶる聲などの聞ゆるにつけても、大和にまします妃を思召すとなり、所念は前にもオモホユとよめり、
 
初、あしへ行かものはかひに霜ふりて。鴨は蘆邊に住物なれは、あしかもともよむなり。羽を打ちかへてたゝむゆへ、はかひとも、はかへともいふ。雄は右を上にし、雌は左を上にすとかや。旅にありて、故郷をおもふは、いつとしもわかねと、又一段なる事ある時、いよ/\おもひ出るなり。第九にいはく。さきたまのをさきの池に鳧そはねきるといふ、をのか身にふりをける霜を拂ふとにあらし。第三に、かるの池の入江めくれる鳧すらも玉ものうへに獨ねなくに。第十五の挽哥に、かもすらも妻とたくひて、わか身には、霜なふりそと.白たへの、はねさしかへて、うちはらひ、さぬ|とふ《・といふなり》ものをなとよめり。又みかもなす、ふたりならひ居ともよめり。をしかもとて、鴛も鴨の類なり。鴛ならねとも、かもは、めを《・雌雄》あひならひてむつましきが、羽に霜ふりて、はらひわふる聲なとのきこゆるにつけても、やまとにおはします妃《ミメ》を、思しめし出たまふとなり。所念はおもほゆともよめり
 
長皇子和歌
 
(41)65 霰打安良禮松原住吉之弟日娘與見禮常不飽香聞《アラレフルアラレマツハラスミノエノオトヒヲトメトミレトアカヌカモ》
 
霰打をアヲレフルと点じたるはいかゞ、たゞアラレウツと字のまゝによむべし、霞は物に打つくるやうにふればなり、住吉は神功皇后紀云、亦表筒男中簡男底筒男三神誨之曰、吾|和魂《ニキタマ》宜d居2大津渟中倉之長峽1便因看c往來船u、於v是隨2神教1以鎭坐焉、風土記云、本名|沼名掠《ヌナクラ》之長岡之國、今俗畧之直稱2須美乃叡1、霰松原、住吉にあり、弟日はたゞ弟にて日は助語なるべし、顯宗紀に弟日僕と宣へるに同じ、歌の心はあられ松原の面白きをあられさへ降て興を添へたるにうつくしき娘と共にみれば一入あかぬとなり、娘は此下に清江娘子進2長皇子1と云ふ歌あり姓氏未詳と注せり、其娘子なるべし、をとひをとめのごとく見れどあかれぬとにやとも聞ゆれど、弟日娘與とかけるも共にの心なる上、清江娘子と云女あればたゞ上の心なるべし、又按ずるに霰打といへるも必しも此時降りたるにはあらで枕詞にや、古歌にはかやうにいへる例あることなり、官本に娘をムスメと点ず、是俗に從ふなり、此集にヲトメとよみ、イラツメと点じてムスメとはよまず、
 
初、霰打あられ松原。あられふると點したるは、あやまれり。霰うつと、字のまゝによむへし。霰は、物にうちつくるやうにふりて、ほとはしれは、うつともたはしるともよめり。霰は物にたまらてちるは、現のことなるを、建保年中の哥合に、薄にたまる霰おつなりとよまれたるは、用意ありて、上手のしわさなり。これに似せてや、をさゝかうへの玉あられ又ひとしきりと、あとさきなく聞つたへたるは、くちにてのみよめるなり。所の名あられ松原なるに、行幸もおりふし冬にて、霰のふれは、かくはつゝけられたり。神功皇后紀に、をちかたのあら乙松原、まつはらに、とよめる哥有。乙の字は、をとよむへき歟。もし礼の字の、偏のおちたるにやとおもへと、たとひ暗推のことくなりとも、此霰松原にはあらす。をとひをとめとゝは、下に清江娘子進2長皇子1といふ哥あり。姓氏未v詳と注せり。その娘子なるへし。弟日は、只弟にて、日は助語なるへし。顯宗紀云。誥之《タケヒテ》曰。倭者|彼彼《ソソノ》茅原淺茅原|弟日僕《ヲトヒヤツコラマ》是也。おもしろき所を、ゝとめとゝもにさへ御覽すれは、いよ/\あかすおほさるゝなり
 
太上天皇幸于難波宮時歌【目録云四首、】
 
(42)慶雲三年の歌より前に載すべきを、此にあるは未再治の故なるべし、
 
初、太上天王幸2于難波宮1時歌。四首目録
 
66 大伴乃高師能濱乃松之根乎枕宿杼家之所偲由《オホトモノタカシノハマノマツカネヲマクラネヌトカイヘシシノハユ》
 
枕宿杼、【新勅撰、マクラニヌレト、】 所偲由、【同上、オモホユ、】
 
大伴は高師の枕詞、別に注す、萬師濱は和泉に同名あり、此は攝津なり、枕宿杼、マクラネヌトカと點じたるは惡し、新勅撰の如くよむべし、シノバユ、忍ばるなり、ゆ〔右○〕とる〔右○〕は同韻にて通ず、此集に多し、日本紀の中の歌にもあり、浪の音のさはがしき濱べに松が根を枕として馴れぬ旅寐のうければ故郷の忍ばるゝとなり、
 
初、大伴の。枕宿杼、枕ねぬとかと點したるはよろしからす。枕にぬるとゝよむへし。浪の音のさはかしき濱へに、あらゝかなる松かねを枕として、なれぬたひねの、物ことにうけれは、いよ/\ふるさとの、しのはるゝなり。しのはゆは、るとゆとは、同韵の字なれは、通していへり。此集におほきことなり。日本紀の中の哥にもあり
 
右一首置始東人
 
系圖等未詳、
 
67 旅爾之而物戀之伎乃鳴事毛不所聞有世者孤悲而死萬思《タヒニシテモコヒシキノナクコトモキコエサリセハコヒテシナマシ》
伎乃、【幽齋本乃作v之、此二字諸本無v之、唯法性寺殿自筆本有v之、】 事毛、【事字諸本無v之、六條本有v之、】
 
戀シキのしきは鴫に云ひかけたり、鴫は物さびしく感ある物なれば、第十九にも春まけて物がなしきにさよふけて、はふき鳴しぎ誰田にかすむ、後世の歌にも此意多(43)し、彼も戀ふることの有樣になけば、何の上にも思ひはあるよと思ひ慰むればこそあれ、我のみならば戀ても死ぬべしと、旅のわびしきに家を戀ふる心を詠みたるなり、
 
初、旅にして物こひしきの。鴫を、こひしきといひかけたり。清濁かはれとも通するなり。神代紀上曰。足|化2爲《ナル》〓山祇《シキヤマツミト》1。疏云。〓《シキ》山(ハ)謂(フ)山(ノ)密《シケキヲ》也。〓(ハ)鳥(ノ)名此(レ)取2其訓1。々曰2志岐(ト)1。繁密之義也。いまもこれにおなし。
しきは田鳥ともいふ。和名集云。玉篇云※[龍/鳥]【音籠楊氏抄云。之木。一(ニハ)曰田鳥】野鳥也。しかれは、此集第十九に、鴫の字をかきてしきとよみ、今に至りて、此字を用るは、田鳥の二字を偏旁として、たとりすなはちしきなるゆへに、此國につくりて、しきとよむなるへし。畑の字なとも此類なるへし。此集人麻呂なとの麻呂を合して、一字にもつくれり。もろこしにも、此例おほし。龍鐘なとは、字に義なしといへとも、反切をもて用。又梵語を釋するに.假令|鑁《バン》字は、文感切なれは、やかて文感の二字を、偏旁に直て、※[文+感]となして、鑁《ハム》とよむ類數しらす。後の字書を作る人、此心をわきまへすして、釋典に出なと、わつらはしきまて、出せり。又和名集云。陸詞切韻云。〓【古活反。和名多土利】小鳥似v雉也。これは和名集に別にいたされたれは、鴫にはあらぬにや。草と木に、はきといふものゝありて、まかふたくひはあるへし。いかてか、同し鳥にて、たとりといふものゝふたつはあるへき。鴫も其たくひおほけれは、〓も※[龍/鳥]屬なるへし。陸詞か似v雉と注したるは、めきしにゝたりといふ事にも侍るへし。さて此鴫は、ものさひしく、感あるものなれは、十九卷に、家持の哥にも、春まけて物かなしきにさよふけてはふき鳴しき誰田にかすむとよみ、鴫のはねかき、鴫たつ澤なと、よむ物なれは、かれも物こひしきと名におひて、こふる事あるやうになけはこそ、何のうへにも、おもふことはあるよと、おもひなくさめ、物のうへはさもなくて、我のみならは、戀ても死ぬへしと、旅の物わひしさに、家をこふる心を、せめていへるなり。ふちはらのみやこより、なにはゝ、いくほとの旅ならねと、哥のならひは、かうもよむことなり
 
右一首高安大島
 
系圖未詳、
 
68 大伴乃美津能濱爾有忘貝家爾有妹乎忘而念哉《オホトモノミツノハマニアルワスレカヒイヘニアルイモヲワスレテオモヘヤ》
 
忘貝は別に注す此歌は六義にては興なるべし、忘貝によりて忘れて思へやとよめり、思へヤは前に注せし如く下知にあらず、思はむやなり、忘れぬと云ふが落著なり、二つの爾有、六帖家童子を思ふと云歌に共になる〔二字右○〕とよめり、
 
初、大伴のみつのはま。かやうの哥は、六義に准せは、興ともいふへし。わすれ貝によりて、わすれておもへやとよめり。おもへやは、さきにひとまるの哥に注せしことく、下知にはあらす。おもはむやなり。わすれすといふか落著なり
 
右一首身入部王
 
續日本紀の元正聖武兩紀に見えたる人なり、ムトベノ大君とよむべし、紀に六人部と書き、此集第八にも六人部と書ける所あり、門部などの如く六人部と云ふものあり、それを名に付るにや、齊明紀に和州の多武嶺を田身とかき、(44)天武紀上に同國むさと云ふ所を身狹とかけり、
 
初、身人部王。むとへの大君とよむなり。六人部とかけるところも有。六人部といふもの有。いかなることをなすことをつかさとるにかあらん、しらす。門部なとの類とみえたり。みとむとは、五音通すれは身をむとよめり。和州のむさ、おなし國の多武の嶺を、日本紀に、身狭、田身とかきたまへり
 
69 草枕客去君跡知麻世婆岸之埴布爾仁寶播散麻思乎《クサマクラタヒユクキミトシラマセハキシノハニフニニホハサマシヲ》
 
シラマセバは知りなましかばなり、ハニフは和名集曰、釋名云、土黄而細密曰v埴、【和名波爾、】此集には赤土黄土などもかけり、ニホハサマシヲは上の衣にほはせ旅のしるしにとよめる所に注せしと同じ心なり、凡集中に多き詞なり、六卷に、馬のあゆみおしてとゞめよ住の江の、きしのはにふににほひてゆかん、
 
初、草枕たひゆく。しらませは、しりなましかはなり。はにふは、和名集にいはく、釋名云。土(ノ)黄(ニシテ)而細密(ナルヲ)曰v埴。常識反【和名波爾】俗語には、はねといふ。十四卷東哥の中の、信濃哥にも、はねとめり。此集末に、黄土赤土なとかきて、はにとよめり。にほはさましをはさきに引馬野にゝほふ榛原といふ哥に注せし同こゝろなり。第六卷に、馬のあゆみおしてとゝめよすみのえのきしのはにふにゝほひてゆかん
 
右一首清江娘子進長皇子、姓名未詳
 
太上天皇幸于吉野宮時高市連黒人作歌
 
70 倭爾者嶋而歟來良武呼兒鳥象乃中山呼曾越奈流《ヤマトニハナキテカクラムヨフコトリキサノナカヤマヨヒソコユナル》
 
吉野山も大和なるを、今大和と云ふは藤原の都を指して云ふ、※[手偏+總の旁]即別名の心なり、今や都へ鳴て行くらんと云ふべきを鳴テカクランと云ふことは、本來の住所なれば我方にしてかくは云ふなり、前ににぎたつの歌に注す、第十に、やまとには鳴てかく(45)らん郭公、なが鳴く毎になき人おもほゆ、象ノ中山は仙覺抄曰、吉野山中にあり、象の形に似たれば象山といふなり云云、象の小川同所なり、又案ずるに上の二句の心、都に鳴て後こゝにや來鳴くらむといへるか、意は、都になけども行幸の程にて人もなければ此に慕ひ來て歸れと呼ぶかとなり、第十に呼子鳥君よびかへせとよめり、
 
初、やまとにはなきてか來らん。よしのも、やまとなるを、今やまとゝいへるは、藤原都をさしていふ。惣即別名の心なり。今や都へなきて行らんといふへきを、鳴てかくらんといふことは、本來の住所なれはわかかたにして、かくはいふなり。又さきに、にきたつにふなのりせんとゝいふ哥の所に、月令なとひきていへるかことし。きさの中山は、ささ山ともよめり。きさのを川おなし所なり。よしのにて、一所わきてなつくる所なり。象のふしたる形なれは、なつくとか。さも有ぬへし。第十に、やまとにはなきてかくらんほとゝきすなか啼ことになき人おもほゆ
 
大行天皇幸于難波宮時歌【目録云三首、】
 
大行、周禮曰、大行人小行人、主2謚號1官、漢書音義大行、不v在之稱、天子崩未v有2謚號1、故稱2大行1、禮記陳氏注曰、行力循行之行、去聲、以2其徃而不v反1故曰2大行1也、又文選註善曰周書曰、謚行之迹、是以大行受2大名1、細行受2細名1、これは先の義に異れり、日本紀に大行をサキと点ぜり、此大行天皇は文武天皇なり、御諱もあり謚號もおはしませど、藤原宮と標したれば文武の御世に至ては持統を太上天皇と申し、文武帝をばそれに前て大行天皇といへり、此事を先達も思紛れけるを、仙覺この第九卷大寶元年冬十月太上天皇大行天皇幸2紀伊國1時歌といへる詞書を以て證として分別せらる、最當れり、此等は文武の崩御の後程なく記せるまゝにて載せたるなるべし、
 
初、大行天皇幸2于難波宮1時歌。三首目六
禮記陳氏注曰。行乃循行之行。去聲。以2其往而不v反1故曰2大行1也。文選顔延年宋文元皇后哀策文注濟曰。凡天子崩未v及v有2定謚1※[手偏+總の旁]名曰2大行1。皇后亦同2此義1也。善曰。周書曰。謚(ハ)行之迹。是以大行受2大名1細行受2細名1。風俗通曰。皇帝新崩未v有2定謚故※[手偏+總の旁]2其名1曰2大行皇帝1。行下孟切。韋昭云。大行者、不v反之辭也。天子崩未v有v謚故稱2大行1
 
71 倭戀寐之不所宿爾情無此渚崎爾多津鳴倍思哉《ヤマトコヒイノネラレヌニコヽロナクコヽノスサキニタツナクヘシヤ》
 
(46)さらぬだに故郷を戀ひて旅寐のまどろまれぬを鶴の鳴くを聞けば、彼も又妻を戀ひ子を思ひてや鳴くらんと吾身によそへて悲しければ、かゝる旅人ある洲さきに心もせず啼かんものかとなり、
 
初、やまとこひいのねられぬに。さらぬたに、旅寝のまとろまれぬを、たつの啼をきけは、かれもまた、妻をやこふらん。子をやおもふらんと、それさへわか身をつみて、ものかなしけれは、たひゝとあるあたりのすさきに、こゝろもせて、なかむものかとよめり
 
右一首|忍坂部乙磨《オシサカヘノオトマロ》
 
傳不評、忍坂部、刑部、忍壁、皆オサカベとよめり、
 
初、忍坂部は、おさかへとよむへし。刑部、忍壁、忍坂部なとみたれかけり
 
72 玉藻苅奥敞波不榜敷妙之枕之邊忘可禰津藻《タマモカルオキヘハコカシシキタヘノマクラノアタリワスレカネツモ》
 
右一首式部卿藤原宇合
 
初、宇合は馬養《ウマカヒ》の反名なり。むかしは、かへし名といふことあり。淡海公は、史《フヒト》なるを、不比等とかき、葛野を賀能とかくたくひなり《藤原葛野麿見續日本紀延暦廿三年入唐大使》。天子の諱《タヽノミナ》にも、嵯峨天皇は、神野にてましますを、賀美能とも申奉るなり。宇合を、のきあひとかなをつけたるは、馬養の反名なることをしらて、その比の人の名、まことにのきあひともよむへけれは、おしてよめるなり。作者をあくる所に注せり
 
枕之邊、【官本作2枕邊人1、非也、】
 
玉モカルはたゞ沖といはんとてなり、沖にはこぎ出てうき寐せじ、波の音の枕のあたりに聞えつるがわびしさの忘れぬにとか、又は波の音に寐られねば故郷にてなれにし人の枕の邊忘れがたきとか、藤原(ノ)宇合は淡海公第三子なり、式部卿馬養、聖武紀云、廣嗣式部卿馬養之第一子也といへり、又馬飼とかける所もあり、此を以て知れり、宇合は反し名なるべし、國の名の美作但馬等の例を思ふべし、反名とは淡海公の諱は史《フヒト》なるを不比等とかき、石川君子を此集第三に吉美侯とかく類なり、ノキアヒ(47)と點ぜるはいかゞ、懷風藻に此人の詩を載せ、題下に記して云く、年五十四、聖武紀を考ふるに天平九年に薨ぜらる、引合て逆推すれば天武十三年に生る、此行幸慶雲の比ならば廿餘歳なるべし、式部卿は極官なれば今は撰者の加へたるなるべし、
 
初、玉もかるおきへはこかし。玉もかるは、たゝおきといはむとてなり。おきには、こき出てうきぬせし。おどろ/\しき《・續日本紀驚字》浪の音の、枕のあたりに、きこえつるかわひしさのわすられぬにとか。又波の音に、ねもいられねは、玉手さしかへし、故郷の枕のあたりの、いとゝわすられかたきにとか
 
長皇子御歌
 
73 吾妹子乎早見濱風倭有吾松椿不吹有勿勤《ワキモコヲハヤミハマカセヤマトナルワカマツツハキフカサルナユメ》
 
初二句はわきもこに早き濱風なるべし、上に籠もちと云ふを注せるが如し、又第十一に泊瀬川速見早瀬《ハツセカハハヤミハヤセ》とよめるも早き早瀬なり、奥義抄に早見濱と名所に出されたれど、難波に早見濱といふ所なし、是は第十一に我背子が濱ゆく風のいやはやにとよめる如く、濱風は物のさはりなくとく吹過ぐれば、早く故郷の我植置ける松椿に吹て我戀思ふ心を妹に告知らせよとよみ給へる歟、結句はゆめ/\吹かずあるな吹けよと下知するなり、風の便と云ふ事あればなるべし、又吾を官本にワレと點ぜり、我を待つとつゞけて、松の字はたゞ待にて、椿は此集にほめたる物にて、第二十に吾門の片山椿と防人がよめる歌も女によせたれば、此も上の吾妹子を椿とはのたまへるか、意はさきの如し、
 
初、わきもこをはやみはま風
このはやみはま風を、奥義抄に、早見濱と、名所に出さる。なにはに、はやみ濱といふ名は、聞及はさることなり。これは、第十一に、わかせこか濱ゆく風のいやはやにとよめることく、濱風は、物のさはりなく、とく吹過る物なれは、早く歸りて、妹をみんといふ心をかくつゝけたまへるなるへし。又早見の見は、みるにはあらず。詞の字にて、雄畧天皇のこもよみこもちとよませたまへるに、おなし事にもあるへし。しかれは、憶良のやまとへはやくと、よまれしことく、見をみるにかりても、はやくあひみんといふになるへし。禁裏に、公事をこなはるゝ時人をめす詞に、はやくとのみあるに推すへし。下の句の、吾をは、われとよむへし。われをまつとつゝけて、うへをかせたまへる松椿なとの、ときはなることく、心かはらて、われを待妹を、早歸てみんとおもふ心を、さきたちて、告しらせよといふ心を、松椿に、ふかすあるなとなり。ふかす《・ズアノ反ザ》あるなは、ふけと下知したまふなり。風のつかひといふことあるゆへに、かくはよませたまへり
 
(48)大行天皇幸于吉野宮時歌
 
74 見吉野乃山下風之寒久爾爲當也今夜毛我獨宿牟《ミヨシノヽヤマシタカセノサムケクニハタヤコヨヒモワカヒトリネム》
 
我獨宿牟、【官本云、ワカヒトリネン、】
 
ハタヤとはまさにやなり、爲當とかく心も是なるべし、歌の心明かなり、
 
初、みよしのゝ山下風。はたやとは、まさにやなり。爲當とかく心も、これなるへし。我獨ねんとよませたまへるは、そのかみ、天武天皇とゝも、此山にみゆきし給ひしことなとおほし出てなるへし。或云天皇御製歌と注したれは、持統天皇の御哥にては、なきこともあるへし
 
右一首或云天皇御製歌
 
天皇は題の大行天皇にて即文武天皇なり、歌の下句も亦此帝の御歌と見えたり、
 
75 宇治間山朝風寒之旅爾師手衣應借妹毛有勿久爾《ウチマヤマアサカセサムシタヒニシテコロモカスヘキイモヽモアラナクニ》
 
右一首、長屋王
 
宇治間山は吉野の路次なるべし、歌は明かなり、第三赤人歌に秋風の寒き朝けをさのゝ岡越らむ君にきぬかさましを、長屋(ノ)王は天武帝孫、高市(ノ)皇子之子也、正二位左大臣に至る、佐保左大臣と云ふもこれなり、事見2于續日本紀1、懷風藻に詩を載す、年を記して云、五十三、文武紀云、慶雲元年春正月、無位長屋(ノ)王授2正四位上1といへり、
 
初、うちま山朝風さむし。これは、御供の路次の哥なり。旅にても、衣かすへき妹あるものならは、寒さもふせきて、なくさみぬへし。妹もなく、衣もうすきに、朝風さへにはけしきおりふしなれは、いとゝわひしきにつけて、家を忍ふとなり。目録に注せしことく、此間に、寧樂宮御宇天皇代と標すへきろころなり
 
(49)和銅元年戊申天皇御製歌
 
此天皇は元明天皇也、今案此御歌は元明天皇和銅元年十一月二十一日大甞會を行はせ給ふ時御製なり、此時橘左大臣の母三千代祭祀を助奉て橘の姓を賜れり、聖武紀に載せたる左大臣の表に見えたり、
 
76 大夫之鞆乃音爲奈利物部乃大臣楯立良思母《マスラヲノトモノオトスナリモノヽフノオホマウチキミタテタツラシモ》
 
大臣、【校合本紜、オホマチキミ、】
 
鞆は今の弓小手なりといへり、委くは別に注す、是は弓射る時左手にさして弦に當りて痛まじが爲の具なるを、下句を見るに楯立つらしもとあれば、楯立つる時もさる用意にはくにや、第七に、よし行て又かへり見むますらをの、手にまきもたる鞆の浦わをとよめるも弓矢とも云はざるになずらへて心得べきか、されども大甞會に若はく物ならば延喜式の大甞式にも見ゆべきを載せたることなければ、最不審なり、音スナリとは、弓射る時とても鞆は音ある物ならねど、是は會の時至て取出て用意するを言へり、物部をモノヽフとよめるは此にては誤なり、モノヽベとよむべし、ものゝふは武勇の者の※[手偏+總の旁]名、ものゝべは氏の名、則上の石上麿大臣の下に云ふが如(50)し、延喜式曰、凡大甞宮南北門所v建神楯四枚、【各長一丈二尺、上廣四尺七寸、下廣四尺四寸五分、厚二寸、】八竿云云、又曰、卯日平明、諸衛立v仗、諸司陳2威儀物1、如2元日儀1、石上榎井二氏各二人、皆朝服率2内|物部《モノヽヘ》四十人1立2大甞宮南北門門神楯戟1訖、即分就2左右楯下|胡床《アクラニ》1云云、持統紀曰、四年春正月戊寅朔物部磨朝臣樹2大盾1云云、其外文武紀等載v之、ものゝべは氏にて饒速日《ニギハヤヒ》命の裔なり、後は石上、榎井兩氏に分れてともに大甞會の楯戟を立つることをつかさどる氏なり、大臣とは石上(ノ)朝臣磨なり、此時左大臣正二位なれば物部氏にして大臣といへる明なる事なり、楯戟を立つるは此祭祀第一の守護なるべし、諸社に物を奉り給ふにも男神には楯戟等、女神には麻笥《ヲケ》、線柱《タヽリ》等なり、これを以て思ふに神事をつゝしみ思召す故にかくはよませ給ふなるべし、
 
初、大夫之鞆乃音爲奈利|物部《モノヽベ》乃大臣楯立良思母
これは、元明天皇、和銅元年十一月大甞會をこなはせたまふ時の御哥なり。續日本紀曰。慶雲四年秋七月壬子即2位於太極殿1。六月十五日に文武《・御子》天皇崩し給ふに、御位につかせたまふへきよし、遺詔ありて、諸臣も勸奉るゆへに、七月に御即位は有けれとも、次の年を元年として、和銅と改らる。紀曰。元年春正月乙巳武藏國秩父郡獻2和銅1。詔曰。聞看食《キコシメス》國(ノ)中乃|東《アツマノ》方武藏國爾|自然成《ヲノツカラナレル》和銅出|在《タリ》止|奏《マヲシ》而獻(レリ)焉。此物(ハ)者天(ニ)坐(ス)神、地(ニ)坐(ス)神乃相【于豆奈比】奉(リ)福《サイ》【波倍】奉(ル)事爾依(テ)而|顯久《ウツシク》出【多留】寶爾在【羅之止奈母】神(ノ)隨《マニ》所念行《オホシメ》須。○故改2慶雲五年1而和銅元年(ト)爲(シ)而云々。又云。十一月己未(ノ)朔己卯|大甞《オホナメ・オホムヘ》《シタマフ》。遠江但馬(ノ)二國供2奉其事1。辛巳宴2五位以上(ヲ)于殿1奏《カナツ》2諸方(ノ)樂(ヲ)於庭(ニ)1賜v禄各有v差。癸未賜2禄(ヲ)職事(ノ)六位以下1設2賜※[糸+施の旁]1各一疋。乙酉神祇官、及(ヒ)遠江但馬二國郡司、并國人男女※[手偏+總の旁]一千八百五十四人叙v位賜v禄各有v差。延喜式第七云。凡賤祚大甞(ハ)七月以前即位者當年行v事。八月以後明年行v事【此據2受v禅即1v位。非v謂2諒闇登極1。】元明天皇は、七月に位につかせたまへとも、式の文のことく、諒闇の御即位なるゆへに、明る年十一月に、大甞はおこなはるゝなり。大嘗の濫觴は、神代紀云。是(ノ)後(ニ)素戔嗚(ノ)尊(ノ)之|爲行《シワサ》也甚(ハタ)無状《アチキナシ》。何(ント)則天照(ス)大神以2天|狹《サナ》田長田(ヲ)1爲《シタマフ》2御田(ト)1。○復見(テ)2天照大神|當新甞時《ニハナイキコシメストキヲ》1、則(チ)陰《ヒソカニ》放2〓《ケカシヌ》於|新《ニハナイノ》宮(ニ)1。といへり。此神代の法によりて、御即位の後、毎年新穀をもて、十一月中卯日作法ありて、諸神にも供し、みつからもきこしめすを、新甞といひ。御即位の年、あるひは次の年悠紀主基の國《・齋日本紀次同上》をうらなひさため、拔穗の使をつかはして、新穀をおさめ、大甞宮を造、儀式殊に嚴重にして、御一代に一度をこなはるゝを、大甞といふ。これ大體なり。委は延喜式に見えたり。ますらをのとものおとすなりとは、鞆は今弓小手といふ物なりといへり。和名集云。蒋魴切韻云。〓【音旱。和名止毛。楊氏漢語抄、日本紀用2鞆字1。俗亦用v之。本文未v詳。】在v臂避v弦具也。毛詩注云。袷【今案即裙袷之袷也。見2玉篇1】〓也。禮弓矢圖云。〓【音遂】臂〓。以朱韋1爲v之。戰國策云。其君好v發《ヤハナツ》者【發(ハ)々v矢】其臣|決拾《・コカケヌ》(ス)【車攻注決(ハ)鈎v弦拾(ハ)遂也遂發也□詩注無2此三字1。決以2象骨1爲v之著2於右手大指1。所2以鈎v弦〓1v體。拾以v皮爲v之著2於左臂1以遂v弦亦名v遂。】神代紀曰。臂《タヽムキニ》著《ハタ》2稜威《イツノ》之高|鞆《カラヲ》1。この神代紀のことくならは、からともいふへきを、此外にはともとのみいひて.からといへること、いまた見及はす。延喜式兵庫式云。熊革一條【鞆(ノ)料。長八寸、横五寸】牛革一條【鞆手料。長八寸、廣二寸】鞆緒紫組一條【長二寸五分】鞆袋料。紫表緋裏帛各一條【各長尺三寸。廣一尺八寸】これは弓いる時、ひたりの手にさして、つるにあたりていたましがための具なるを、下句をみるに、楯立らしと侍れは、をもきたてを、たつるにも、ひちかひななとを、楯の板のかとにあたりて、いたましめしと、用意して、さすことにこそ侍るらめ。物部を、ものゝふとかんなつけたるは誤なり。これは、ものゝへとよみて、饒速日命裔《ニキハヤヒノミコトノハツコ》にて、大甞會の時、神楯《カンタテ》鉾たつることをつかさとりきたれる、ひとつの氏なり。後には、石上《イソノカミ》榎《エノ》井の兩氏にわかれて、兩氏をの/\二人つゝ出てつとむるなり。此楯鉾をたつるは、元日と大甞會となり。延喜式曰。凡大甞宮(ノ)南北(ノ)門所v建神楯四枚【各長一丈二尺、上(ノ)廣(サ)三尺九寸。中(ノ)廣(サ)四尺七寸。下(ノ)廣(サ)四尺四寸五分。厚二寸】戟八竿【各長一丈八尺】左右衛門府九月上旬申v官令d2兵庫寮1依(テ)v樣《タメシニ》造備u。【楯(ハ)丹波國楯(ノ)縫氏造v之。戟(ハ)紀伊國(ノ)忌部氏造v之。祭畢便收2造衛門府1】又朱雀、應天、會昌等門所v建大楯六枚。戟十二竿。亦令2同寮(ヲシテ)修理1。凡十一月中寅日○卯日平明○諸衛立v仗諸司陳2威儀物1如2元日儀1。石上榎井二氏各二人皆朝服率2内(ノ)物部《モノヽヘ》四十人1【著2紺布盞】立2大甞宮南北門(ニ)神(ノ)楯戟1訖【門別楯二枚。戟四竿。木工《ムク》寮|預《アラカシメ》設2格木於二門左右1。其楯等祭事畢即收2左右衛門府1】訖(テ)、即分(テ)就2左右(ノ)楯(ノ)下(ノ)胡床《アクラニ》1。【門別内物部二十人左右各十人。五人爲v列六尺爲v間。】持統紀曰。四年春正月戊寅(ノ)朔|物部《モノヽヘノ》麿(ノ)朝臣【契沖曰。是前(ノ)石上大臣也。】樹《タツ》2大盾(ヲ)1、神祇伯《カンツカサノカミ》中臣(ノ)大島(ノ)朝臣讀2天神|壽詞《ヨコトコトフ・コトホキコト》1畢、忌部(ノ)宿禰|色《シコ》夫知奉2上神璽|劔《タチ》鏡(ヲ)於皇后(ニ)1。々々即2天皇位1。公卿百寮|羅列《ツラナリテ》匝《カサナリ》拜(テ)而|拍《ウツ》v手(ヲ)焉。文武紀云。二年十一月丁巳(ノ)朔己卯、大甞。直廣肆榎井朝臣倭麻呂竪2大楯1。直廣肆大伴宿禰手拍竪2楯桙1。神龜元年十二月己卯大甞。○從五位下石上朝臣雄男、石上稠臣乙麻呂、從六位上石上朝臣諸男、從七位上榎井朝臣大島等、率2内物部1立2神楯於齋(ノ)宮(ノ)南北二門1。天平十四年春正月丁未朔百官|朝賀《ミカトヲカミス》。爲2大極殿《オホアムトノ》未1v成|權《カリニ》造2四阿《アツマヤノ》殿1於v此受v朝焉。石上榎井兩氏始樹2大楯槍1。兩氏楯桙を建らるゝ事かくのことし。もし兩氏のうち、さはり有時は、大伴氏の人なともくはへられけると見えたり。大伴佐伯の兩氏は、開門をつかさとらるゝ家なり。さて御哥の惣しての心は、神事を大事におほしめすゆへに、かくよませたまふなり
 
御名部皇女奉和御歌
 
御名部皇女は天智帝の皇女なり、上に云ふ如く元明天皇の御爲には同腹の姉也
 
初、御名部皇女奉和御歌。御名部皇女は天智帝皇女也。上に云ふことく元明天皇の御爲には同腹の妹なり
 
77 吾大王物莫御念須賣神乃嗣而賜流吾莫勿久爾《ワカミカトモノナオモホシソスメカミノツキテタマヘルワレナラナクニ》
 
吾大王、【幽齋本云、ワカオホキミ、】 物莫御念、【校合本曰、物ナオホシソ、】
 
吾莫勿久爾は常に我にあらなくにと云ふ詞なり、それは此に叶はず、此集には我に(51)てあるにと云ふ所にも用ひたり、其例は第四に、わがせこは物な思ひぞことしあらば、火にも水にも我ならなくに、是は火にも入り水にも沈みて死を共にせんと云意なれば我成むにといふ詞なり、第十五に、思はずもまことありえむやさぬる夜の、いめにも妹がみえざらなくに、是は夢にも妹がみえぬにといふ心なり、此なくは無の字の心に非ず、あらさをあらけなきといひ、大膽なるをおほけなきと云ふ如くたゞ詞の字なり、又按ずるに今の書きやうワレナラナクニとは讀れず、ワレナケナクニとよむべきか、十五に、旅といへば言にぞ易き少なくも妹に戀ひつゝすべなけなくにとよめり、此下句の心は、妹を戀ふる心の少すべなきに非ず、多くすべなきとなり、今此に准ずるに我なきにあらぬにと云ふやうの意なり、我とは物部氏の人に成てのたまふなり、歌の心は、女帝にて大事のおほなめを行はせ給ひてよろづに叡心をつけて慎み給ふなれば、天位をつぐ事は凡慮の計る所に非ず、すめ神の計はせ給ひてかく次にあたり給へば思召すまゝにてさはる事はましまさじ、物な思召しぞと御心を慰め給ふなり、物部氏をばかゝる時供奉して楯を立て守護し奉れと祖神の定めて後々の帝に賜ひたれば、其職に仕ふまつること敢て怠らねば思召あつかふことましますなとなり、
 
初、わかみかと物なおほしそ。大王は、おほきみとも、よむへし。われならなくには、常は、我にあらなくにといふ詞なり。それはこゝにかなはす。此集には我にてあるにといふ所にも用たり。その例は、第四阿倍女郎哥に、わかせこは物なおもひそことしあらは火にも水にも我ならなくに。これは、もし事出來なは、君とゝもに火に入も、水にしつみもして、死をともにせむとなり。第十五、中臣宅守か哥に、おもはすもまことありえんやさぬる夜のいめにもいもか見えさらなくに。是は夢にも妹か見えぬにといふを、見えさらなくにとよめり。此なくは、無の字の心にあらす。あらきをあらけなくといひ、大膽なるをおほけなきといふことく、只詞の字なり。此御かへしの心は、天子女體にて寶位にのほらせたまひ、御一世に一度の大事のおはなめを、をこなはせたまひて、よろつに、御心をくはりて、おほしめさるゝ御哥なれは、物なおほしそと、御心をなくさめたてまつりたまふなり。すめ神のつきてたまへるとは、天位をつぐことは、凡慮のはかるところにあらす。すめ神の、はからせたまひて、かくついてにあたりて、天位にのほらせたまへは、何事もおほしめすまゝにて、さはることおはしまさしとなり。つきてたまへる我とのたまふは、御名部皇女は、元明天皇の御あねにて、ともに天照太神の御子孫なれは、その御姓のかたにて、のたまへるなり。われとはのたまへとも.天皇の御うへなり。そも/\、此國は、日神皇統を垂させ給て、人代にいたりても、いく久しく.一姓あひつきさて、今に連綿せさせたまふ事、地は東海にせまれとも、中華とおもひあかれる漢朝も、及はさる所なり。これ神力のいたすなり。かの異朝のこときは、昔より、一姓相うけ來らさるゆへに、弑奪して、世を移し、姓をかふ。佛説を引て、種姓尊貴の益を證すへし。佛爲優  王説王法正論經(ニ) 不空三藏譯 云(ク)。云何(ナルカ)王(ノ)之過失(ナル)。大王當v知。王(ノ)過失(ト)者畧(シテ)有2十種1。○一(ニ)者種姓不v高二(ハ)不v得v自在(ヲ)1云々。云何(ヲカ)名(クル)2王(ノ)種姓不(ト)1v高(カラ)。謂(ク)有(テ)2庶臣1不類(ニシテ)而生非2宿《ムカシヨリノ》尊貴(ニハ)1簒《ウハツテ》紹《ツクナリ》2王位(ヲ)1。是(ヲ)名2種姓不(ト)1v高(カラ)。○當(ニ)知此(ノ)過失(ハ)初(ノ)一(ハ)時(ノ)王(ノ)種姓(ノ)過失、餘(ノ)九(ハ)是(レ)王(ノ)自姓(ノ)過失(ナリ)。又云(ク)。云何(ヲカ)名(クル)2王之功徳(ト)1。大王功徳(ト)者畧(シテ)有2十種1。一(ニ)者種姓尊高二(ニ)者得2大自在1云々。云何名2王(ノ)種姓(ト)1。謂(ク)有(テ)2國王1宿(ニ)植(テ)2善根(ヲ)1以(テ)2大願力1故生(レ)2王族(ニ)1紹2繼國位(ヲ)1恩2養(シ)萬姓(ヲ)1淨2信(ス)三寶(ヲ)1。如(ヲ)v是(ノ)名(ク)2王(ノ)種姓尊高(ト)1。○大王當(ニ)v知如(ノ)v是(ノ)十(ノ)種(ノ)王(ノ)功徳(ハ)、初(ノ)一(ヲハ)名(ク)2種姓(ノ)功徳(ト)1。餘(ノ)九(ハ)身性(ノ)功徳(ナリ)。此全文を見て、此國の土域なることをしるへし。あるものゝかたりしは、洛陽にある禅僧の、儒書を講するものありて、本朝の天子は、周の太伯の苗裔なるよしを、しきりに談しけれは、時の天子、逆鱗したまひて、將軍家へ勅を下し給ひけれは、將軍家より、彼僧を遠流に處せられけるとかや。時代も、僧の名も承しを、わすれ侍り。孔子その至コをほめたまひて、まことに此國のみかとの御先祖にも、きらはしからぬ恭伯なれとも、歴代の紀録たしかなるうへ、をのれも、その日月の恩光にて、晝夜をわきまへなから.かゝる浮説に阿黨しけむは、嶋人となれるも、神のめくみにはなたれたるなり
 
(52)和銅三年庚戍春二月從藤原宮遷于寧樂宮時御輿停長屋原※[しんにょう+向]望古郷御作歌
 
※[しんにょう+向]、【胡頂切、遠也、】
 
元明紀曰、三月辛酉始遷2都于平城1云云、これによれば二月の二は三の字の誤か、長屋原は和名曰、山邊郡長屋、【奈加也、】
 
初、元明紀云。三月辛酉始遷于平城
 
一書云太上天皇御製
 
按ずるに此時太上皇なし、此注最不審、若元明天皇讓位の後記せる詞と云はんか、それもいはれず、端作に御輿停2長屋原1とあれば注に及ばず、若他處の注錯つて此に來るか、
 
初、一書云太上天皇御製。此時無2太上皇1。恐(ハ)是衍文。紀云。和銅元年二月戊寅詔畧云。方今平城之地(ハ)、四禽叶v圖三山作(タリ)v鎭。龜筮竝從。宜v建2都邑1
 
78 飛鳥明日香能里乎置而伊奈婆君之當者不所見香聞安良武《トフトリノアスカノサトヲオキテイナハキミノアタリハミエスカモアラム》【一云君之當乎不見而香毛安良牟】
 
飛鳥はあすかの枕詞なり、別に注す、君ノ當とは持統文武の陵をさしたまふにや、義(53)は明かなり、君ノアタリ、君ガとよむべきか、
 
初、とふ鳥のあすかのさと。持統文武なとの御事をおほしめして、そのおはしましたるあたりの、とをさかるなこりをおしませたまふなるへし
 
或本從藤原京遷于寧樂宮時歌
 
79 天皇乃御命畏美柔備爾之家乎擇隱國乃泊瀬乃川爾※[舟+共]浮而吾行河乃川隈之八十阿不落萬段顧爲乍玉桙乃道行晩青丹吉楢乃京師乃佐保川爾伊去至而我宿有衣乃上從朝月夜清爾見者栲乃穗爾夜之霜落磐床等川之永疑冷夜乎息言無久通乍作家爾千代二手來座多公與吾毛通武《スメロキノミコトカシコミニキヒニシイヘヲヱラヒテコモリクノハツセノカハニフネウケテワカユクカハノカハクマノヤソクマオチスヨロツタヒカヘリミシツヽタマホコノミチユキクラシアヲニヨシナラノミヤコノサホカハニイユキイタリテワカネタルコロモノウヘニアサツクヨサヤカニミレハタヘノホニヨルノシモフリイハトコトカハノヲヒコリテサユルヨヲヤムコトモナクカヨヒツヽツクレルイヘニチヨニテニキマセオホキミトワレモカヨハム》
 
天皇、【別校合本、スメラキ、】 ※[舟+共]浮、【校本、※[舟+共]作v船、】
 
カシコミはおそろしきなり、おそる同じ、恐懼等の字をもよめり、ニギヒは第三にもにぎひし家をも出てとよめり、源氏帚木になつかしくやはらびたるかたと云へるに同じ、上下和睦して能く住みなれたるを云ふ、熟の字をもにぎとよめり、一説に賑ふ義といへり、き〔右○〕文字清濁ことなれどそれは通ずる例多し、和睦したる所はおのづ(54)からにぎはふ理なれば任ては同じ、されど柔をもとゝして賑ふと云ふ義をば兼ぬべし、擇ビテは捨つる義、元より住みし家をすておく心なり、第十一にえられし我ぞ、夜獨ぬるとよめる擇に同じ、又擇て取る義もあれど今の義にあらず、八十阿《ヤソクマ》は川くまの多きを云ふ、神代紀曰、【如上引、】玉篇曰、※[さんずい+畏]、【於囘、切、水※[さんずい+畏]曲也、亦作v隈、】玉桙ノ道ユキクラシ、玉桙は道の枕辭、別に注す、佐保川まで舟にて行程を道ゆきくらしとは云ふなるべし、イユキのい〔右○〕は助字なり、タヘノ穗、たへは白きを云ふ前に注す、穗は物のあらはれ出づるを云ふ、稻の穗等同義なり、しかれば今は霜の白くみゆるをたへの穗と云ふなり、後に赤きを丹の穗ともよめり、イハトコは八雲に牀の部に出し給へり、磐石の平にて床の如くなるを譬へて名付たるにや、第十三にも石床之根はへる門と二首までよめるに此と同じく皆床の字をかけり、今は氷のこりたるを其石牀の如しとたとへたり、堅く平なればなり、冷《サユル》夜乎はヒユルヨヲとよむべきか、さゆるは※[さんずい+互]の字にて極めて寒きなり、來座はキマスとよむべきか、意は此都に遷來て千代までもまします大君と共に我も營み作れる私の家に通ひ來て仕へ奉らむとなり、キマセとよみては叶ひがたし、マデと云ふに二手とかけるは二手を眞手といへばなり、此後兩手とも左右ともかける此義に同じ、是は長谷の邊に住人の遷都の時奈良にも宅地を賜ひ(55)て家を作り、暇あれば本宅へも歸れるが詠ぜるなるべし、
 
初、すめろきのみことかしこみ。かしこきは、おそろしきなり。畏恐懼惶等の字みなかしこしとよめり。貴の字をよむは尊貴の人は、おそるへきことはりあれはなり。賢の字をよむは、賢徳ある人は、その徳をうやまひておそるゝゆへなりり。にきひにしは、こはきものを、やはらけたらんやうに、よく住なしたるをいふ。えらひては、をきてなり。えりとる、えりすつるなといふ。今はそのえり捨るかたなり。※[舟+共](ハ)釋名(ニ)云。艇(ノ)小而深者(ヲ)曰v※[舟+共]。今の高瀬なり。玉鉾の道ゆきくらしは、舟にてもいふへし。又舟よりあかりて、陛をもゆくか。いゆきいたりて、いは發語の詞。たへのほには、たへは白きをいふ。さきに尺せり。ほとは、物のそれとあらはれ出るをいふ。霜のをくが白くて霜よとみゆるをいへり。あかき色の、それとあらはれてみゆるを、此集にも延喜式にも、丹の穗といふかことし。舟の帆、稻の穗、みなあらはれてみゆれは、同し心なり。いはとこは、床の字はかきたれと、只とこいはなり。氷のこりてかたきをたとへたり。までといふに、二手とかきたるは、兩手を眞手といふゆへなり。來座はきますとよむへし。此都にうつり來ませる大君の御代の久しさと、我もおなしくかよひきて、つかへたてまつらんとなり。これは長谷《ハセ》のあたりに、やところをたまはりて住人の、藤原よりならへ都をうつさせたまふ時、奈良にてもやところを給はりて、家を作り、又いとまある時は本宅へも歸るか、よまれたるとみえたり
 
反歌
 
80 青丹吉寧樂乃家爾者萬代爾吾母將通忘跡念勿《アヲニヨシナラノイヘニハヨロツヨニワレモカヨハムワスルトオモフナ》
 
しばし本宅へ歸る時、君の御事を忘るらんと思召すなとなり、
 
初、あをによしならの家には。わすると思ふなとは、しはし本宅のかたへ歸る時も、君の御ことをわするらんとは、おほしめすなとなり
 
右歌作主未詳
 
和銅五年壬子夏四月遣長田王于伊勢齋宮時山邊御井作歌
 
長田王は元明紀云、和銅四年夏四月丙子朔壬午、從五位上長田王授2正五位下1、聖武紀云、天平九年六月甲辰朔辛酉、散位正四位下長田王卒、猶元正紀聖武紀に委し、山(ノ)邊(ノ)御井は十三に山(ノ)邊のいそしの原とも山(ノ)邊のいそしの御井ともよめり、即伊勢なり、按ずるに此下の寧樂宮、長皇子といへる處の寧樂宮の三字、彼處におくべき理なければ題より上にありて※[手偏+總の旁]標なるべし、其故は第二卷挽歌に和銅二年までの歌は藤原の宮に屬し和銅四年以後の歌の※[手偏+總の旁]標には寧樂とかけり、彼に準じて(56)見るべし、
 
81 山邊乃御井乎見我?利神風乃伊勢處女等相見鶴鴨《ヤマノヘノミヰヲミカテリカミカセノイセヲトメラアヒミツルカモ》
 
伊勢處女等、【官本曰、イセヲトメラヲ、】
 
ミガテリはみがてらの古語なり、下に片待香光《カタマチガテラ》、月待香光《ツキマチガテラ》などあるを皆此例になずらへてよむべし、御井をみがてらにきて其井を汲美女をさへ見つるとなり、長田(ノ)王の歌か、神風ノ伊勢、別に注す、
 
初、山のへのみゐをみかてり。みかてりは、みかてらなり。山のへの御井をみにきつれは、その井をくむとて、伊勢のをとめともの、かほよきか、くるをさへそへて見つるとなり。長田王の哥歟。御供の人なとのよめる歟。長田王の歌なるへし
 
82 浦佐夫流情佐麻彌之久堅乃天之四具禮能流相見者《ウラサフルコヽロサマミシヒサカタノアマノシクレノナカレアフミハ》
 
情佐麻彌之は今按ずるに彌は禰の字の誤なるべし、十七十八に見ぬ日さまねみとよめるは、見ぬ日は間なくなり、第二第四等にまねくとあまたよめる皆間無くなり、ね〔右○〕とな〔右○〕と通ずれば古語にかく云ひ習へるなるべし、さ〔右○〕は添えて云ふこと多ければ、さまねしもたゞまなしなるべし、又直に間をさまともいへり、第十六に美彌良久埼を彌を誤て禰とせるに翻して今の誤れることを知るべし、久方ノ天、別に注す、流相はナガラフともよむべし、此集に雪のふるをも花の散るをも流るとよめり、歌の心(57)は旅にしてしぐるゝ空を見れば間もなく心のうらさびしきとなり、四月の歌に九、十月のしぐれをよみたれば、注の如く下の歌共に御井の歌とは見えず、
 
初、うらさふる心さまみし。長流か抄に、さまみしは寒しといふ事といへり。流相はなからふともよむへし。雪のふるをも、此集になかるとよめり。詞は四月にて、此哥は九月十月の頃の哥なり。次下の哥とゝもに、後注のことく、御井の哥とはみえす
 
83 海底奥津白浪立田山何時鹿越奈武妹之當見武《ワタツミノオキツシラナミタツタヤマイツカコエナムイモカアタリミム》
 
海底を喜撰式にワタツミとよむ由古今の顯注に引けり、今の点並に六帖わきもこの歌に此を載せたるも亦同じ、されども官本にもワタノソコと點じ、第五に和多能曾許意枳都布可延《ワタノソコオキツフカエ》、又七卷に綿之底奥己許具舟乎《ワタノソコオキコグフネヲ》、第十二に海之底奥者恐《ワタノソコオキハオソロシ》など明白に書けり、わたつみは別にさま/”\に書きたれば唯ワタノソコとよむべし、上句は次第に立田山といはむ序なり、古今集に風ふけば沖津白浪の顯注に此歌を引、定家卿甘心し給へり、義明かなり、
 
初、海底おきつ白浪。上句は立田山といはむ序なり。古今集の顯注に、風ふけはおきつしら浪たつた山といふ哥に、此哥を引て尺せられけるを、定家卿甘心し玉へり。喜撰式に、海底とかきてわたつみとよむよしをいひ、此集にも、かんなをしかつけたり。わたつみとよむ字は、此集にもさま/\見えたり。これは、字のまゝにわたのそこともよむへし。そのゆへは、第五に、山上憶良哥に、和多能曾許意枳都布可延《ワタノソコオキツフカエ》とつゝけよめり。おきもおくにて、深きをいへはふかしとつゝけたるにおなし
 
右二首今案不似御井所作若疑當時誦之古歌歟
 
寧樂宮長皇子與志貴皇子於佐紀宮倶宴歌
 
此に寧樂宮とあるまじき由上に云へる故は、此宮は内裏にして私の宮に非ず、佐紀宮〔三字右○〕、延喜式云、大和(ノ)國添(ノ)下(ノ)郡佐紀(ノ)神社、光仁紀曰、葬2高野(ノ)天皇於大和(ノ)國添(ノ)下(ノ)郡佐貴(ノ)(58)郷高野(ノ)山陵1、和名云、添(ノ)上(ノ)郡春日、第十に春日なる三笠の山に月も出ぬかも、さき山にさける櫻の花の見ゆべく、
 
初、佐紀宮、延喜式曰。大和國添下郡、佐紀神社。光仁紀曰。寶龜元年八月丙午葬2高|野《ヤノ》天皇(ヲ)於大和國添下郡佐貴郷(ノ)高|野《ヤノ》山陵《ミヽサキニ》1。和名集云。添上郡春日【加須加。】第十に、かすかなるみかさの山に月も出ぬかも佐紀山にさけるさくらの花のみゆへく
 
84 秋去者今毛見如妻戀爾鹿將鳴山曾高野原之宇倍
 
秋サレバは秋くればなり、別に注す、歌の心は已に野山も面白くみゆる秋になりたれば、此後も今見る如くにて妻戀する鹿の音さへ興を添て聞ゆべければ又來り遊ばんとなり、
 
初、秋されは今もみること妻こひに鹿なかん山そ高野原のうへ
秋されはとは、秋にあれはなり。すてに野山もおもしろくみゆる秋になりたれは、今みることく、此後も萩なとの咲みたれたる中に、妻こひするおかしき鹿のねも聞ゆへけれは、又參りきて、あそひたまはんの心なり。高野原は、第九卷にも、衣手の高屋のうへとよめり。いまもみることゝよめる哥は、第十八に、とこよ物此橘のいやてりにわか大きみは今もみること。第廿卷に、はしきよしけふのあろしはいそまつのつねにいまさねいまもみること。共に、いまみることく、おもかはりせすましませなり。もの字を捨て聞へし
 
右一首長皇子
 
萬葉集卷第一終
 
萬葉集代匠記卷之一下      〔2009年5月26日.午前9時35分、卷一入力終了〕
                〔2019年6月23日.午前10時45分、初稿本入力終了〕
 
(1)萬葉集代匠記卷之二上
                 僧契冲撰
                 木村正辭校
[早稲田版精撰本は卷一の奥書及び卷二の目録を載せていない。]
 
初、萬葉集卷第二目録
内大臣藤原卿娉鏡王女時――
娉を嫂に作れるはあやまれり。下の嫂石川郎女、嫂巨勢郎女、これにをなし
 
初、天皇賜藤原夫人御歌一首
此夫人は藤原大臣史の女、但馬皇女の母なり。第二十卷云。字曰氷上大刀自。天武紀云。十一年春正月乙未朔壬子、氷上夫人薨于宮中。【夫人の和訓惣しておほとしか。氷上の大刀自なるゆへに義をもてこれに限て訓するか】
 
初、石川郎女奉和一首
詞書には和の下に歌の字あり
 
初、勅穗積――
但馬皇女をあやまりて皇子とす
 
初、挽歌
下竹林樂の三字恐衍文
 
初、日並皇子尊
并の字誤て並に作る。下に至ておなし。准之
 
初、皇子尊舍人等慟タ
至下タ作傷。後もて正とすへし
 
初、高市皇子尊城上殯【脱宮字】之時――
 
初、靈龜元年――薨時【下有作字】歌一首
下にいはく并短歌
 
相聞
 
難波高津宮御宇天皇代 大鷦鷯天皇
 
難波高津(ノ)宮(ノ)御宇天皇(ノ)代、舊事記、第八、仁徳紀云、元年歳次癸酉云云、都遷2難波1、謂2高津宮1、大鷦鷯天皇 第十七代、仁徳の御諱なり、かく名付奉る故は、日本紀曰、初(メ)天皇|生《アレマス》日、木兎《ツク》入《トビイレリ》1于|産殿《ウフトノ》1、明旦|譽田《ホムタ》天皇、喚《メシテ》2大臣武内(ノ)宿禰1語(テ)之曰、是何(ノ)瑞(ソ)也、大臣對(ヘテ)言(サク)吉(キ)祥《サカ》也、復當(テ)2昨日臣妻|産《コウム》時(ニ)1、鷦鷯《サヽキ》入《トビイレリ》1于|産屋《ウブヤ》1、是亦|異《アヤシト》焉、爰天皇曰、今朕之子、與2大臣之子1同日共(ニ)産(メリ)、兼《ナラヒニ》有v瑞、是|天之表《アマツシルシナリ》焉、以爲、取2其鳥名1、各相|易《カヘテ》名v子、爲2後葉之契(シト)1也、則取(テ)2鷦鷯《サヽキノ》名1以名2太子(ニ)1、曰2大鷦鷯皇子1、取(テ)2木兎名(ヲ)1號(テ)2大臣(ノ)之子1、曰2木兎宿禰(ト)1也、是平群臣之始祖也、和名(2)云、文選鷦鷯賦云、鷦鷯、【焦遼ノ二音、和名佐々木、】小鳥也云云、古事記には、大雀命《オホサヽキノミコト》とかけり、みそさゞいと云ふ鳥なり、俗に、溝三歳と書きて、溝に三歳住故に名づくと云ふは暗推なり、いかさまにも、溝の邊を飛びありく故に、溝鷦鷯《ミソサヽイ》と、俗に呼ぶなるべし、い〔右○〕とき〔右○〕と同韻相通なれば、呼びよきに付て、さゝいとはいへり、氏の雀部を、さゝいべと云ふが如し、又或物に、此帝、形の小さくまし/\ける故の名なりと書き侍り、云ふに足らざる愚推なり、
 
初、相聞
難波高津宮
仁徳紀云。元年春正月都2難波1、是謂2高津宮1。天皇令第六儀制令云。天皇詔書初v稱。同義解云。凡自天子至車駕、皆是書記所用、至風俗所稱別不依文字。假如皇孫命及須明樂美御徳之類也
大鷦鷯天皇
仁徳紀云。初天皇生日木兎入于産殿。明旦、譽田天皇喚大臣武内宿禰語之曰。是何瑞也。大臣對言。吉祥也。復當昨日臣妻産時、鷦鷯入于産屋是亦異焉。爰天皇曰。今朕之子與大臣之日同日共産、兼有瑞、是天之表焉。以爲取其鳥、各相易名子、爲後葉之契也。則取鷦鷯名以名太子曰大鷦鷯皇子。取木兎名號大臣之子曰木兎宿禰。是平羣臣之始祖也
 
磐姫皇后思天皇御作歌四首
 
武内(ノ)宿禰の孫、葛城(ノ)襲津彦の女、仁徳天皇二年三月に、后に立給ふ、履中天皇の御母なり、仁徳と共に世を治め給へる由、聖武紀に、立后の時の宣命に見えたり、御妬の深くて、帝も恐させ給へる事、日本紀に具なり、紀に、磐之媛とありて、古事記にも石之日賣命と書る上は、六帖に、今の第四の歌を載るに、いはひめの后と書けるは誤なるべし、
 
初、磐姫皇后
同紀云。二年春三月辛未朔戊寅、立磐之媛命爲皇后。第十二履中紀云。葛城襲津彦女也。履中天皇の御母なり。續日本紀の聖武紀に、光明皇后を后に立たまふ時の詔にも、仁徳天皇の磐姫とゝもに世をおさめたまへるを例に引せたまへり。されとも此后あまりにねたみふかくまし/\て、天皇の御心にまかせたまはぬことおほし。八田皇女の事によりてつゐに山城の國筒城宮にこもりおはしませるを、天皇みゆきせさせたまひて、さま/\になためさせたまへれと、たいめんもしたまはて、みかとすこ/\となにはへかへりおはしましぬ。筒城宮にして薨したまひしを、なら山におさめ奉らる。口持臣といふ人、難波へ歸らせたまふへきよし申勅使にまいりて、雪のふるにぬれて后の宮の御庭にまかりさらす侍りける時、口持臣か妹國より姫、后の宮につかへて有けるかかなしひて歌《ウタをよみ、みかと筒城宮へみゆきし給ひける道すからの御製あはれなることおほきみまきなり
 
85 君之行氣長成奴山多都禰迎加將糖行待爾可將待《キミカユキケナカクナリヌヤマタツネムカヘカユカムマチニカマタム》
 
(3)氣長〔二字右○〕は、第一の注に云へるが如し、山タヅネ迎とつゞくる事は、惣釋の如し、下の山たづの迎、此に效ふべし、袖中抄に、下に、山多豆乃迎乎とあるを注するに、此歌を引て、ね〔右○〕との〔右○〕通ずれば、山たづのなりと釋せり、さて云、考2萬葉1云、此云2山多豆1者、是今造v木者云云、今案に、たづきと云て、木きる物に、山を添て、山たづきと云ふべきを、き〔右○〕の詞を略して、山多豆と云ふか、山たづの迎と云ふは、きさかり、よきなどは、刀のやうに、たゞさまに、木を切りわるなり、たづき〔三字右○〕は、手斧の刃のやうなれば、横さまに木を伐れば、迎とよむなり、綺語抄云、山に木造物を云、童蒙抄云、杣人を云、山だちと云ふ詞なり、今云、造木者といひつれば、者の字に付て、杣人ともいへる歟、若たつきを云ふといはゞ、器物なれば、造木物と云ふべきにや、杣人ならば、迎とつゞけむ事如何と聞ゆ、又山たづねといはむもいかゞ、者と物とは、通ひて書る常の事なり、或説云、山たづとは杣人の造り木なり、山たづとよみては、必迎とよめり、杣には、木を作り置て、一二月もありて、取に又更にくる心なるべし、云云、今云、此義にては、迎と云ふ事はさもありなん、さらば萬葉の注を、今の造木者《ヤマタツトハト》可v毒歟、以上顯昭の義なり、今案、和名云、唐韻云、※[金+番]【音繁、漢語抄云、多都岐】廣刃斧也、かゝればたづきは、今杣人の持つ末の廣き斧なり、此にて木をも伐り、又木を打|皮《ハツリ》て、柱などをも造り出すとぞ承る、顯昭の義ならば、刃《ハ》の廣き手斧の如なる物と意(4)得られたるか、横さまに伐とは、手斧にて切やうにや、されば其刃の我方に向ふ心に、迎ふとも繼くるとや、さやうにて木を切ること承及ばず、若たづきを側めて切るを、横さまと云ふ歟、然らば迎につゞかず、又※[金+番]ならば、山※[金+番]と云ふべし、又、是今造木者之所操※[金+番]也、或(ハ)斧也、廣刃斧名也、などぞ注すべき、者は器物にも通はして申す事なきにあらず、されど、今の注は即下に載せたる歌の古事記の自注なれど、彷彿にして、迎とつゞくる心諸説いはれても聞え侍らぬにや、第六に、高橋蟲丸が歌に、山多頭能迎とかけり、頭の字は集中の例、必らず濁音の處にのみ書たれば、山※[金+番]を略せるにも、又山立の義にもあらず、又山多都禰は、山多都乃とすべきを、乃を禰に通はしてよめるにあらず、山に入て木を尋ぬる杣人を、やがて山尋と名付たるか、假令ば、木こり草かりの如し、山多豆は其山たづねのね〔右○〕を捨て云へり、たづねとも、たづぬともいひて、禰は奴と動けば、多豆の二字は主にて、禰の字は伴なる故に、捨て體を取て名付しなるべし、迎とつゞくる意は、杣人は、大形の木をば、山にて面々の印を押て、河下に綱を張渡して流し懸け留る所にて分取と申せば、河上にて流し置きて、下にて待取意を、迎とはつゞけたるか、又深山幽谷に入りて木を切るには、山神、樹神なども祟り、毒獣、毒蟲などの恐もあれば、歸るべき程の、少遲くなれば、家人のおぼつかながりて、迎を遣はす(5)意にや、
 
初、君かゆきけなかくなりぬ山たつねむかへかゆかむ待にかまたん
けは息なり。ものおもひのむねにたまりて、くるしき時なかきいきのつかるることなり。此集におほくよめり。もろこしに長太息といふにおなし。山たつねはみゆきしたまひし山ちをたつねてなり.此下に古事記を引て又この歌を載たるには、山たつのとありて、すなはち自注あり。下の句はきこえたるまゝなり
 
右一首歌山上憶良臣類聚歌林載焉
 
86 如此許戀乍不有者高山之盤根四卷手死奈麻死物乎《カクハカリコヒツヽアラスハタカヤマノイハネシマキテシナマシモノヲ》
 
戀ツヽアラズバといふ詞、集中に多し、戀る驗のあらずばとも聞えず、さてもあられずばとも聞ゆ、又第十に、長夜を、君に戀つゝ、いけらずば、咲て散にし、花にあらましを、此歌によりて思へば、あらずば〔四字右○〕とは、なくなるを云ふにもあるべし、イハネシマキテは、石根を枕にしてなり、下の人丸の死に臨みてよまれたる歌にも、此詞あり、し〔右○〕を助語として、上四字、下三字によむべきか、又ありく〔三字右○〕をしありく〔四字右○〕と云ひ、此集に、旅行しらぬ〔三字右○〕と云ふをしゝらぬ〔四字右○〕とよみたれば、まくらしまくといへるか、岩をかまへて、中に死人を臥せて葬る故に、かくはよませ給へり、末に、中々に、しなば安けむとよめる如く、思の切なる時は、死なばやとも思ふは、人の情の常なり、
 
初、かくはかりこひつゝあらすは高山のいはねしまきてしなましものを
此こひつゝあらすはといふ詞、集の中におほし。こひてもこふるかひのなくはといふ心なり。いはねしまきてとは、しはやすめ字なり。此卷下にいたりて、人まろの石見にて、死に臨まれける時の歌にも、この詞あり。いはねをまくらとなすなり。まくとは.枕袖妹妻なとにつけていふ。纒の字をまくとよめり。身になれまつふ心なり。君をこひしてこふるかひなく物おもひてあらんよりは、しにたらんかまさらんとなり
 
87 在管裳君乎者將待打靡吾黒髪爾霜乃置萬代日《アリツヽモキミヲハマタムウチナヒキワカクロカミニシモノオクマテニ》
 
在ツヽモとは、有々ても、待得て、君に逢べくばなり、
 
初、ありつゝも君をはまたむうちなひくわかくろかみに霜のをくまては
ありつゝもはあり/\て來ますともまたむとなり
 
(6)88 秋之田穗上爾霧相朝霞何時邊乃方二我戀將息《アキノタノホノウヘニキリアフアサカスミイツヘノカタニワカコヒヤマム》
 
霧相〔二字右○〕はキラフともよむべし、日本紀齊明紀に、あすか川、みなぎらひつ、行水の、とよませ給へるも、水|霧合《キラヒ》つゝなり、朝霞〔二字右○〕とは、霧も霞も、互に春秋に通じて立つ物なる故、此集には、七夕の歌にも、霞立、天川原など、あまた秋の歌にもよめり、文選、謝宣遠が重陽詩にも、輕霞冠2秋日1と作れり、邊ノ方とは、渺々と見え渡る田の、其かたはらなり、歌の心は、君に久しくあはで、我胸に思の滿たるは、朝霞の田面に棚引あへるが如し、されど、霞は、かたへに晴行くこともあるを、いつか、我もその如く、胸の晴れて、戀の止まんぞとなり、穗ノ上ニとあるは、穗は、顯はれ出づる物なるを、霞の、立隱せるは、人知れぬ思に似たれば、よそへてよみ給ふなるべし、右二首に依るに、九月中、下旬の御歌なるべし、
 
初、秋の田のほのうへにきりあふ朝霞いつへのかたにわかこひやまむ
きるといふはとつる心へたつる心なり。日本紀にも霧の字をきりてとよめり。源氏物語にも、目もきりてといへり。闔の字は戸をさすことなるを、戸をきるとて、此字を用るもおなし心なり。霞は秋も立つ物にて、此集末にもよめり。文選謝宣遠九日從定公〓馬臺送孔令詩にも、輕霞冠秋日、迅商薄清穹と作れり。へのかたとは、海におきへとよめるかことし。ひろ/\とみわたさるゝ田の面に、たなひきあひたる朝霞のかた/\よりはれて、ほとりばかりのこりてそれもはれつくることく、いつみかとの還御をきゝて、なくさみそめて我こひのやまんとなり
 
或本歌曰
 
89 居明而君乎者將待双婆珠乃吾黒髪爾霜者零騰文《ヰアカシテキミヲハマタムヌハタマノワカクロカミニシモハフルトモ》
 
第十八に、乎里安加之、許余比波能麻牟云云、これによれば、今も居明而〔三字右○〕をヲリアカシ(7)テとよむべき歟、ヌバ玉は、黒しとつゞくる枕辭、別に釋す、此歌を此に載するは、在つゝも、君をば待たむといふ歌と、大形同じければ、或本の異説と思ふなるべし、
 
右一首古歌集中出
 
古事記曰|輕《カルノ》太子|奸《タハクル》輕(ノ)太郎女《オホイラツコヲ》故其太子流於伊豫湯也此時衣通王不堪戀慕而遣徃時歌曰
 
此は、古事記の全文には非ず、意を得て綴れり、衣通王は、即、輕大郎女なり、古事記曰、次ぎ輕大郎女、亦名衣通郎女、【御名所3以負2衣通王1者、其身之光、自衣通出也、】日本紀には、允恭天皇の后、忍坂大中姫の妹、弟姫を、衣通郎女《ソトホリノイラツメ》と載せらる、世にいふ衣通姫なり、名づくる由同じくて、同時なれば、古事記は異説なるべし、又古事記には、常に云、衣通姫をば、藤原之琴節郎女といへり、太郎女の太は、下の點を去るべし、遣は誤れり、記は追の字なり、左傳曰、昔有仍氏、生v女、※[黒+真]黒、【有仍、古諸侯也、美髪爲v※[黒+真]、】而甚美光、可2以鑑1、【髪膚光色、可2以照1v人、】名曰2玄妻1、【以2髪黒1故、】衣通の名、此類なり、
 
初、古事記曰――
日本紀曰。四十二年【允恭】春正月天皇崩――○大前宿禰答歌之曰○乃啓皇子【安康天皇】曰。願勿害太子、臣將議由。是太子自伎于大前宿禰之家【一云流伊豫國。】此集第十三に、輕太子自死之時所作とて古事記を引て、載たる歌もあり、輕大娘皇女を伊與になかしつかはさるといひ、大君を島にはふりと輕太子のよみたまへる歌も、日本紀に載たれと、かゝる異説不審なから和漢例あることなり。衣通王は衣通姫のことか。日本紀第十三允恭紀云。弟姫容姿絶妙無比。其艶徹衣而晃之。是以時人號曰衣通郎姫也といへり。稚渟毛二岐皇子の女にて、忍坂大中姫の妹なり。輕太子は、允恭天皇第一の御子、御母は大巾姫なれは、そとほり姫はをはにてましますゆへに、をひゆきたまへるか。左傳云。昔有乃氏生女【有仍古諸侯也美髪爲※[黒+真]】而甚美光可以鑑【髪膚光色可以照人】名曰玄妻【以髪黒故。】そとほり姫の名におなし心なり。遣往の遣は、追の字の誤なり。輕大郎女、大を太に作るも非なり
 
90 君之行氣長久成奴山多豆乃迎乎將徃待爾者不待《キミカユキケナカクナリヌヤマタツノムカヘヲユカムマチニハマタシ》 此云(8)山多豆者是今造木者也
 
迎ヲのを〔右○〕は、休字なり、又古歌には、に〔右○〕とを〔右○〕と通用したる事多ければ、迎にゆかんにてもあるべし、袖中砂に、迎かゆかむとあるは、乎〔右○〕の字疑の歟〔右○〕と思はれけるにや、此集の歌には、此字、必を〔右○〕の音に用ゆ、こ〔右○〕の音なれど、を〔右○〕、こ〔右○〕通ずればにや、弘の字を、日本紀にはを〔右○〕に用らるゝに同じ、待〔右○〕は、古事記に、麻都とかければ、マツニハマタジとよむべきか、さきの歌准v之、
 
初、君かゆきけなかく成ぬ山たつのむかへをゆかん待にはまたし
山たつは自注あきらかなり。第六に高橋蟲麿の歌にも、さくらはなさきなん時に山たつのむかへまゐてむきみしきまさはとよめり。山たつのむかへとは山には山神木魅あるゆへに、そま人なとのをそけれはおほつかなくてむかへをつかはすなるへし
 
右一首歌古事記與類聚歌林所説不同歌王亦異焉因※[手偏+僉]日本紀曰難波高津宮御宇|大鷦鷯《オホサヽキノ》天皇廿二年春正月天皇語皇后|納《メシイレテ》八田(ノ)皇女《ヒメミコヲ》將|爲《セント》妃《ムカヒメト》時(ニ)皇后|不《ス》聽《ウナツルサ》爰天皇|歌以《ミウタヨミシテ》乞於皇后之三十年秋九月乙卯朔乙丑皇后|遊行《イテマシテ》紀伊國到熊野|※[山+卑]《ミサキニ》取其處之御綱葉而|還《マヰカヘル》放是天皇|伺《ウカヽヒテ》皇(9)后不在而娶八田皇女|納《メシイレタマフ》於宮中時皇后到難波|濟《ワタリニ》聞天皇|合《メシツト》八田皇女大恨之云云亦曰遠飛鳥宮御宇雄|朝嬬雅子《アサツマノワカコ》宿禰天皇二十三年春正月甲午朔庚子|木梨軽《キナシノカルノ》皇子爲太子|容姿《カホ》佳麗《キラ/\シ》見着自|感《メツ》同|母《ハラノ》妹《イロト》輕(ノ)太娘皇女《オホイラツノヒメミコ》亦|艶妙《カホヨシ》也云云遂竊|通《タハケヌ》乃|悒懷《イキトホリオモフコト》少|息《ヤスム》廿四年夏|六月《ミナツキ》御美汁《オモノヽシル》疑《コホレリ》以作氷天皇異之卜其|所由《ユヘヲ》卜《ウラヘノ》者曰有内亂盖|親親《ハラカラトモ》相|姦乎《タハケタルヲヤ》云云仍移太娘皇女於伊與者今案二代二時不見此歌也
 
右一首歌−亦異焉、歌林には、磐之姫の和歌とし、古事記には、衣通王とすれども、撰者.日本紀を考らるゝに、仁徳、允恭兩紀に、此歌見えねば.不審して兩紀を引かるゝ歟、誠に日本紀に載せられぬは、不審殘らぬにあらねど、天武の勅にて、稗田阿禮が誦博へたるを、元明の勅を奉て、太(ノ)朝臣安万侶の撰ばれたる(10)古事記なれば、此も亦信ずまじきに非や、※[手偏+總の旁]じて、舊事紀、古事記の説を、日本紀に漏されたる事多し、其所以知り難し、憶良の説も、亦慥に據なくんば非とも定めがたかるべし、因※[手偏+僉]日本紀−不見此歌也、以下、兩紀の文、意を得て引けり、連屬せる全文にはあらず、語2皇后1の下に、紀には曰の字あり、八田皇女は宇治(ノ)皇子の同母の妹なり、乞2於皇后1の下の之の字、紀には、曰の字にて、問答の御歌五首あり、今は、之の字を助語に置て、皆略せり、三十年より、大恨之まで、全、紀の文なり、其中に、紀伊國は、紀には、伊の字なし、彼も、他處には添たれば、紀の今の本脱たるか、※[山+卑]は、紀に岬なり、和名云、唐韻云、岬(ハ)山側也、古狎反、日本紀私記云、【三左木】、又云、牟婁郡|三前《ミサキ》、かゝれば、此本誤れり、葉の下、紀の自注云、葉、此云2箇初婆《カシハ》1、於是の下に、紀に、日の字あり、此日と云ふは。此時といふ意にて、出立給ふやがて其日にはあるまじけれど、今の如く、日の字なきが勝るべきか、後の皇女の下に、紀には、而の字あり、云云とは、説文云、象2雲氣在v天廻轉之形1、言之在v口、如2雲潤v、廣雅云、云|者《ハ》有也、下文、尚有2如v雲之言1也、漢の汲黯が、云云せむと欲すと云ひ、日本紀に、云云を、シカ/”\とよみ、此集には、カニカクニとよめる、皆同意なり、書を引く時、全は引かずして、末を略する詞なり、今も、紀の文長ければ、引(11)殘す故に此言を置けり、然るを、引はてゝも此言を置は、云云の意をしらぬなるべし、今按、此紀の文を、今引かれたる事不審なり、應神天皇の御時、大鷦鷯(ノ)皇子とて、まし/\ける時より、磐之媛は、妃にておはしけむか、さらずして、二年に召て、即后に立させ給ふとも、二十八年までに、此歌よませ給ふまじきに非ず、王仁が、咲や此花の歌、舊事紀、古事記、日本紀に、皆漏され、此集にも入られず、又續日本紀に、彼子孫.文|忌寸最弟《イミキハツヲト》、武生連眞《タケフノムラジマキサ》等、宿禰|姓《カハネ》を賜はらむと請ふ奏状にも見えざれど、世に傳はりて、疑をなさねば、其類とすべし、况、此歌は、八由(ノ)皇女の事に預てよみたまへる由をいはず、嫉妬は、帝を戀ひ思召す事の過るより起れば、恨させ給はぬ先に、いつにてもよませ給ふべくや、亦曰といふより、允恭紀の文を略して引けり、是は、文の面に、共に見えたれば、引ける所、其謂あり、(ノ)宮は、古事記の下、履中天皇段、故《カレ》上幸《イデマシテ》.坐《マス》2石上《イソノカミ》神宮1也、於是.其伊呂|弟《ト》水齒別命《ミツハワケノミコト》云云、乃|明日《アクルツヒ》上幸《イデマス》、故號2其|地《トコロヲ》1謂2近飛鳥《チカツアスカ》1也、上2到于倭1、詔之、今日留2此間1、爲2祓禊《ハラヘヲ》1而|明日《クルツヒ》參出、將v拜2神宮1、故號2其地1、謂2遠飛鳥《トホツアスカ》1也、文長ければ、具には引かず、初の上幸とあるは、履中帝の御事なり、後の上幸は、水齒別命なり、帝の御弟、住吉中《スミノエノナカツノ》皇子、難波の宮を燒て、帝を弑しまつらむとし給ひし時、帝、逃て石上(ノ)神宮に(12)幸し給ふ、其後、又、中(ツ)皇子の御弟瑞齒別(ノ)尊、中(ツ)皇子の召仕給ひし隼人《ハイト》、名は曾婆加理《ソバカリ》といふ者を欺て中(ツ)皇子を殺さしめ、彼隼人にも、約束の如く、功をば報ながら、無道を惡て殺し給ひて、彼處より、帝の御許へおはします時の事なり、此時、未だ難波の都なれば、西の方を近と云ひ、東の方を遠とは云ふなり、後に、顯宗天皇、近飛鳥|八釣《ヤツリノ》宮にて、天下を治め給ふに對して、それより前なれば、遠飛鳥宮と云ふには非ず、雄朝嬬《ヲアサツマ》稚子|宿禰《スクネ》は、第二十代允恭天皇の御諱なり、仁徳天皇の第五の皇子、御母は、履中天皇、住吉仲皇子と同じく、盤之媛皇后なり、稚を雅に作れるは、誤れり、改むべし、輕太娘の太、紀に依て大とすべし、下同じ、御の下に、紀に、膳の字ありて、ミニヘと點ぜり、美は羮の字なり、汁の字を并せて、アツモノと點ず、疑は、凝の誤なり、仍移は、紀に則流なり、流の下に輕あり、伊與の與、紀は豫なり、者は、今の撰者の加へたるなり、
 
初、納八田皇女將爲妃
應神紀云 日觸使主之女宮(主、脱カ)宅媛生菟道稚郎子皇子矢田皇女雌鳥皇女。仁徳紀云。爰大鷦鷯尊語太子曰。悲兮惜兮何所以歟自逝之、○太子啓兄王曰。天命也。誰能留焉○乃進同母妹八田皇女曰。雖不乞納綵僅充掖庭之數。うなつるさすはうなつきゆるさすなり。きこしめさすとも。〓は岬の字あやまれるなり。和名集云。唐韻云。岬山側也。古狎反。日本紀私紀云。【三佐木。】又云。牟婁郡三前
日本紀の今の本には、紀伊の伊なし。葉の字の下、日本紀自注云。葉此云箇始婆。延喜式供奉料、三津野柏二十杷【曰八把】長女柏四十六把。難波濟、景行紀曰。既而從海路還倭到吉備以渡穴海、其處有惡神、則殺之。亦此至難波殺柏之惡神【濟此云和多利。】和名集云。爾雅注云。濟【子禮反和名和太利】渡處也。聞天――今の本、皇女の下に而の字あり。恨之下、怒載其御船之御鋼柏――○妙也の下、允恭紀云。太子恒念合大娘皇女、畏有罪而黙之。然感情既盛、殆將至死。爰以爲徒非死者、雖(有、脱カ)罪何得忍乎。少息の下、因以歌之曰。阿資臂紀能摩娜烏兎〓利、椰摩娜烏箇彌、斯〓媚烏和之勢、志〓那企貳、和餓儺句兎摩、箇〓儺企貳、和餓儺句兎摩、去〓去曾、椰主區津娜布例。羮誤作美。凝偏脱成疑
姦乎の下、時有人云。木梨輕太子※[(女/女)+干]同母妹輕大娘皇女、因以推聞焉。辭既實也。太子是爲儲君、不得罪、則流輕大娘皇女於伊豫。是時、太子歌之曰云々。文字のたかひ比校すへし
 
近江大津宮御宇天皇代 天命開別天皇
 
天皇賜鏡王女御歌一首
 
初、天皇賜鏡王女和歌一首
天武紀云。天皇初聚鏡王女額田姫王生十市皇女。又云。十二年秋七月丙戌朔己丑天皇幸鏡姫王之家、訊病。庚寅、鏡姫王薨
 
91 妹之家毛繼而見麻思乎山跡有大島嶺爾家母有猿尾《イモカイヘモツキテミマシヲヤマトナルオホシマミネニイヘモアラマシヲ》【一云妹之(13)當繼而毛見武爾一云家居麻之乎】
 
繼テは、不斷の心なり、大島嶺に家居してあらましかば、妹が住家をだに、相繼て見ん物をとなり、逢ふことの稀なれば、せめての心によませたまへるなり、
 
初、妹か家もつきてみましをやまとなる大嶋みねに家もあらましを
つきては打つゝきてなり。大しまみねにおはしまさましをなり
 
鏡王女奉和御歌一首 鏡王女又曰額田姫王也
 
目録には、御の字なし、按ずるに、天子、皇后、皇子皇女の外には、此集に、御の字を用ひざる事例なれば、今は衍文にて、目録をよしとす、鏡王女又曰額田姫王也、後人の私に注せるなるべし、
 
92 秋山之樹下隱遊水乃吾許曾益目御念從者《アキヤマノコノシタカクレユクミツノワレコソマサメミオモヒヨリハ》
 
遊水、【校本、遊作v逝、此當v爲v正、】
 
上句は、我人知れぬ思ひの、止む時なきに喩へむためなり、繼て見ましをとあるは、身に取て忝けれど、木の下水の沸返て行くが如くなる我下思は、君が御念よりは、猶勝らむとなり、六帖、相思ふと云ふ題に、此を入れたるには、おく山の、ゆづるはがくれ、結句を、おもひよりなばとあり、不審なり、
 
初、秋山の木の下かくれ遊水の。つきてみましをとあるは、身に過てかたしけなき御おもひなれと、わか思ひにおもひ奉ることは、木の下かくれて行水の、人にはしられねと、たきりて行かことくにて、猶みおもひよりはまさるとなり、遊は逝の字のあやまれるなり
 
(14)内大臣藤原郷娉鏡王女時鏡王女贈内大臣歌一首
 
禮記曰、娉則爲v妻、注曰、聘、問也、今按、聘と娉と通ず、郷當v作v卿、下傚v此、
 
初、内大臣藤原卿――
 
93 玉匣覆乎安美開而行者君名者雖有吾名之惜毛《タマクシケヲヽフヲヤスミアケテユカバキミカナハアレトワカナシヲシモ》
 
オホフヲヤスミとは、蓋《フタ》といはざれども、蓋を覆ふなり、函《コ》蓋《フタ》相稱とて、物の能相應ずるには、函の大小によりて、蓋の大小、此に隨て打おほふに喩ふるなり、人に逢ふは、箱のふた〔二字右○〕と、み〔右○〕と、よくあひたるやうに、心やすければしばし/\と別を惜みて、夜の明はてゝ歸り給はゞ、君が名の立たむ事の惜さもさることなれども我は手弱女《タヲヤメ》にて、いとゞ人に云ひさわがれむ事のわびしく、其によりては、又逢ひがたきことの出來などもすべければ、行末長くと我を思はゞ、別はいと悲しけれど、明闇の紛に皈て又こそ來ませとなり、古今に、玉くしげ、明ば君が名、立ちぬべみ、夜深く來しを、人見けむかも、此は、今の歌の心を、男のよめるなり、小大君が、朝光に逢ての旦に、明るわびしき葛木の神、とよみしも、此歌に意同じ、今按、六帖に此下句、我名は有とも、君が名惜も、とあり、名を惜むと、玉くしげと、兩所に出せるに、共に上の如し、此集第四に・坂上|大孃《エオトメ》が、家持に贈る歌に、吾名はも、千名の五百各に、立ぬとも、君が名たゝば、惜みこそなけ、如(15)此、人を先にして吾を後にするは道なれば、古本は、上は吾、下は君なりけるを、今の本誤て引替たるか、然りとも、ワガナハアレド、キミガナシヲシモ、とよむべし、
 
初、玉くしけおほふをやすみあけてゆかは君か名はあれと我名し惜も
くしけははこなり。ほめて玉くしけとはいへり。長流か老後にかけるには、おほひをやすみとかけり。用を體にいひなして、ふたの事なり。おほふといふ用も、ふたをおほふにておなしこゝろなり。人にあふは、筥のふたとみとよくあひたることく、心やすけれは、わかれをおしみてしはし/\とためらひ、夜の明はてゝ歸り給はゝ君か名のたゝん事のおしさもさることなれとも、我はたをやめにていとゝ人にいひさはかれん事のわひしく、それによりては、又あひかたき事のいてきなともすへけれは、行末なかくと、我をおもひたまはゝ、わかれはいとかなしけれと、あけくれのまきれに歸りて、又こそきまさめとなり。古今集に、玉くしけあけは君か名たちぬへし夜ふかくこしをひとみけんかもとよめるは、此歌のこゝろを、男のよめるなり。小大君か、岩橋のよるのちきりもたえぬへしあくるわひしきかつらきの神とよめるも此歌の心にひとし。内大臣は鎌足なり
 
内大臣藤原郷報贈鏡王女歌一首
 
六帖に、さねかづらの歌に、此を載るに、作者を、みまかりの内大臣とあるは、いかに寫しあやまれるlこか、
 
 
94 玉匣將見圓山乃挾名葛佐不寐者遂爾有勝麻之目《タマクシケミムマトヤマノサネカツラサネスハツヰニアリカツマシモ》 【或本歌云玉匣三室戸山乃】
 
玉クシゲは、上の歌を受て、ミムマト山とは、鏡といはざれども、鏡に隨て、匣も丸ければ、まどかに見むと云ふ心につゞく、みむまと山〔五字右○〕と云名にはあらず、後に、石上、袖ふる川、雨ふる川などつゞけたるに同じ、圓山〔二字右○〕は高圓山か、香《カク》山を天香山とも云ふ如く、圓山を譽て、高圓山はといへるにや、此は愚推なり、後人考べし、六帖には、みまとの山〔五字右○〕とあり、将の字和せられず、狭名葛を、六帖にも、袖中砂にも、今の本の如く、さね〔右○〕かづらとあれど、只、字に任せて、サナカヅラとよむべし、古事記中、應神天皇の段に云、舂2佐那【此二(16)字、以v音、】葛之根1、取2其汁1、滑而塗2其船中之※[竹/青]椅1云云、此集にもあまた兩樣によめり、な〔右○〕とね〔右○〕通ずれば、さな葛を受けて、さねずばと云ふも、便惡しからず、アリガテマシモは、がて〔二字右○〕はかね〔二字右○〕なりだ、て〔右○〕とな〔右○〕は、同韻の字にて通ぜり、後に、ありがてぬなどよめるは、ありてえ堪ぬにて、意かはれり、も〔右○〕は助語なり、歌の心は、誠に別れの惜しさに明しはてば、互の名立ちて、それ故又逢ふ事のなくばありかねぬべし、諫にまかせて、明けはてぬ程に出てゆかむの心なり、鏡王女なる故に、見んとは、鏡にそへて見あかぬ心にや、尾の句、六帖には、有とてまたむとあり、心得がたし、或本のミムロト山は、くしげ〔三字右○〕のみ〔右○〕とつゞけたり、三室戸山は、山城宇治郡にあり、第七にも、玉匣、みむろ戸山を行しかば、面白くして、昔思ほゆ、續古今は或本によりて、尾の句は、有と見ましやとあり、此改めやう不審なり、
 
初、玉くしけみむまと山のさなかつらさねすはつゐに有かてましを
鏡の箱なとは、まろなれはまろにみんといふ心にてつゝけて、高圓山のこと歟。みむまと山といふ名はあるへからす。たゝまと山といふをはきかす。天のかく山をたゝかく山といふことく、まと山なるか高きをほめて、つゐに高まと山とのみいひならはせるを、今は名をよひて、まと山とよみ給へるなるへし。さなかつらはさねかつらなり。さねすはのさは、わたるをさわたるといふかことく、そへたる字なり。すこしぬると心得るはわろし。ありかてましもはあり兼ましにて、もは助語なり。ねとてと同韻なれは通してかねをかてといへり。有かてぬなといふは、有てえたへぬといふ事にて、心かはれり。さねすとは此後の事なり。まことに別のおしさに明はてなは、たかひに名のたて、それにより又あふことのなくは有かねぬへし、いさめにまかせて、明はてぬほとに出ていかんの心なり。或本玉くしけみむろと山とは、箱にふたとみとあれはつゝくるなり。三室戸山は、山城宇治郡に有。第七にも、玉くしけみむろと山をゆきしかはおもしろくしてむかしおもほゆとよめり。續古今集には、今の歌或本のやうに載らる。されとも末の句を、ありとみましやとあらためられたり。大臣の本意にはおほきはたかふへし
 
内大臣藤原郷娶釆女安見兒時作歌一首
 
釆女は、青衣を著、領巾《ヒレ》、手襁《タスキ》など掛て、帝の陪膳を宰る女官なり、延喜式に、古は青衣と書きて、うねめ〔三字右○〕とよめる由見えたり、安見兒は名なり、
 
95 吾者毛也安見兒得有皆人乃得難爾爲云安見兒衣多利《ワレハモヤヤスミコエタリミナヒトノエカテニストイフヤスミコエタリ》
 
(17)吾ハモヤは、も〔右○〕は休字にて、我者やなり、古事記に、須勢理※[田+比]賣の歌に、阿波母輿賣邇斯阿禮婆《アハモヨメニシアレハ》云云、此あはもよ〔四字右○〕もあれはもやと云にや、亦あればよにや、何れにても、今の語勢なり、安見兒得タリは、幸にて易く相見ると云心を名にそへたり、又悦て少誇る意歟、古事記の仁徳天皇の段に云、故茲神之女、【上云、伊豆志之八前人神、】名、伊豆志袁登賣《イヅシヲトメ》神|坐《イマス》也、故八十神、雖v欲v得2是(ノ)伊豆志袁登賣1、皆不v得v婚、於是有2二神1兄《イロエ》號2秋山之下氷壯夫《アキヤマノシタヒヲトコ》1、弟《イロト》名2春山之霞壯夫《ハルヤマノカスミヲトコ》1、故其兄謂2其弟1、吾雖v乞2伊豆志袁登賣1、不v得v婚、汝得2此|孃子《ヲトメ》1乎、答曰、易v得也云云、即婚、故生2一子1也、爾白2其兄1曰、吾者得2伊豆志袁登賣1云云、此頻歟、
 
初、われはもややすみこえたり
もはやすめ字にてわれはなり。さいはひにやすくあいみるとよろこふ心を安見兒といふ名によせてよみたまへり
 
久米禅師娉石川郎女時歌五首
 
久米禅師、考ふる所なし、久米は氏にて俗なれども、禅師を名に付たる人歟、又在家の入道なりけるか、後に三方沙彌あり、此頻なるべし、石川郎女は、此下に、打つゞき見えたる人か、
 
96 水薦苅信濃乃眞弓吾引者宇眞人佐備而不言常將言可聞《ミクサカルシナノノマユミワカヒカハウマヒトサヒテイナトイハムカモ》
  禅師
 
(18)水薦、【六帖、ミコモ、仙覺云、古點、別校本、ミコモ、下歌同、】 不言、【仙覺抄、并別校本、作2不欲1、今案、不v許歟、】
 
發句をミクサカルとよめる仙覺新點は、字書に薦、作甸切、音箭、草稠、曰v薦、とあればミクサと點ずるか、薦は薦席にて敷物のこもなり、池に正ふるこもには、菰、蒋、※[草冠/交]、等の字を用れど、敷こもゝ、菰にて編む故の名なるべければ、通じて用ひたり、第十一に、獨ぬと、こも朽めやもと云ふに、※[草冠/交]をかけるも、通じてなめり、それまでもなく、和語には、雲に蜘をも、土に槌をも借りて用ふるに難なし、信濃〔二字右○〕、古事記にも、日本紀にも、科野《シナノ》と書きたれば、草苅野とそへたり、但此は仙覺點なり、古點といへるみこも〔三字右○〕につかば、野には池も澤もあれば、此も野とつゞくるなるべし、眞弓は、檀《マユミ》と云ふ木は、弓の良材なれば、やがて木の名にも負はせたるべし、さてそれにて作れる弓なり、木をほめて、眞木と云ふやうに、弓を眞弓と云ふにはあらず、梓弓眞弓槻弓と、伊勢物語の歌によめるにて得べし、彼木にて作れるは眞弓なりと譽めて、木に名付事は侍らむ歟、今の弓は、なべて竹にて作りて、中に少木を挿侍れど、根本は和漢ともに木にて作る故に、易繋辭曰、弦《ハケテ》v木爲v弧《ユミ》、※[炎+立刀]《ケツテ》v木爲v矢、と云へり、信濃の弓は名物なる故に、文武紀曰、大寶二年三月甲午、信濃國獻2梓弓一千二十張1、以充2太宰府1、又云、慶雲元年夏四月庚午、以2信濃國獻弓一千四百張1、充2太宰府1、延喜式云、凡甲斐信濃兩國所v進、祈年祭料、雜弓百八十張、【甲斐國、槻弓八(19)十張、信濃國、梓弓百張、】ウマ人サビテは、よき事をうましと云ふ、日本紀に可美とかけり、末の世に至りて味のよきをのみ云ふやうになれり、さればうま人とは、種姓も、人がらも、よきを云ふ、故に日本紀に、君子とも、良家とも、※[手偏+晉]紳ともかけり、さびては上に云ふが如し、歌の意は、郎女を弓に喩へて、弓を手に執て引く如く、君を云渡て我物にせむとすとも、よき人びて、若いなと云はんかとなり、此方より如此人の心を量て云は、いなと云はせじとてなり、弓、劔は、男の常に手に取る物なる故に、女に能く喩るなり、
 
初、みくさかるしなのゝまゆみわかひかはうま人さひていなといはん鳧
みくさは水薦とかけり。よりてこれをみこもかるとよめること有。惣してこもといひかやといふは、皆草の惣名なり。されはみこもとよめるも強てあしからす。文字にはよるへからす。薦を草とよめるは字書に薦作甸切、音箭、草稠曰薦といへり。此意歟。又池におふるこもは菰蒋※[草冠/交]これらの字なり。薦は薦席とてしきものゝこもなるを、此集には池におふるこもにもみな此字をかりてかけり。獨ぬとこも朽めやもといふに※[草冠/交]といふ字をかけるも、かへりてかれるなり。今のつゝけやうは、眞草かる野といふ心なり。齊明紀云。科野國言《シナノヽクニマウス》。蠅羣向西飛喩巨坂、大十圍高至蒼天。しなのゝくにとはむさしのくにとむさし野の名をおなしうせるやうに、彼國に埴科郡あり。もしそこにおほきなる野のあるより、科野國とはなつけたるを今は信濃とかくにや。眞弓は眞はほむる詞、眞砂眞菅なとのことし。まゆみの木も弓につくりてよけれは名つけたるなるへし。わかひかはとは、弓は惣して男の手にとるものなるゆへに、女をたとへてよめることおほし。伊勢物語には、あつさゆみまゆみ月弓とさへよめり。又弓は愛敬の徳を具するものなるゆへ、愛染王三十七尊の中の金剛愛菩薩なとこれを取て大悲慈愛の三味を表示したまへり。うま人は人をほむる詞なり。酒のよきをうまさけといひ、國のよきをうまし國といふかことし。日本紀には、君子  ?紳、良家なとかきて、うま人とも、うま人の子ともよめり。さひてはさはそへたる字にて、うま人ひてなり。みやこめきたるを、みやひ、といひ、ゐなかめきたるを、ひなひたるといふ心におなし。おきなさひ、をとこさひ、をとめさひ、みなおなし心なり。俗語に何たて、何ふる、何めくといふたくひなり。上ひたる、下ひたるといふは、やかてこれなり。日本紀に仁徳天皇の御歌にもうま人のたつることたてとよませたまひ、おなし神功皇后紀に忍熊王《オシクマノオホキミ》の方にて軍の先鋒《サキ》をせし熊之凝《クマノコリ》か歌にも、うま人は、うま人とちや、いつこはも、いつことち、いさあはなわれは、とよめるも、うま人はよき人とち、やつこはやつことち、あひたゝかはむとなり。惣しての心は、弓は手にとりてひけはわかかたによる物なるか、人そのことくわか手にいれんとするも、良家子なれはよき人びていなひかれじといはんかとなり。不言は不許のあやまれるなるへし
 
97 三薦苅信濃乃眞弓不引爲而強作留行事乎知跡言莫君二《ミクサカルシナノノマユミヒカスシテシヒサルワサヲシルトイハナクニ》
  郎女
 
官本に此歌ミコモカルとあり、上に云が如し、強作留は、按ずるに強は弦の誤にて作は日本紀に、矢作部と書きて、ヤハギベとよみたれば、ツルハグルとよむべきか、我は女にて、弓の事は知らねば人に尋ねとへども、引かぬ弓に弦はぐるやうを知るとは云はぬとなり、戀しき由を盡して逢はむとは云はずして、うま人さびてなど云へば、君が方によらむと云ふべき由なしとの心なり、
 
初、みくさかるしなのゝまゆみひかすして強作留わさを知といはなくに
強は弦の字の誤れりと見えたり。作留ははぐるとよむへし。矢作部といふ時はくとよめはなり。心はつる著《スグ》るなり。ひかは君かかたによりぬへき心なれとも、ひかぬ弓につるはくるわさを知と、人のいはぬがことく心をかけていひよらぬ人にはよらんといふへきよしのなきとなり。しひさるわさとは、字のあやまれるを、あやまれるまゝに後の人のつけたるかんなゝるへし
 
(20)98 梓弓引者隨意依目友後心乎知勝奴鴨《アツサユミヒカハマニ/\ヨラメトモノチノコヽロヲシリカテヌカモ》【郎女】
 
梓は、和名云、孫※[立心偏+面]切韻云梓、【音子、和名、阿豆佐、】木名、楸屬也、と云へり、※[土+卑]雅曰、梓、百木長、故呼爲2木王1、知リガテヌは、知りあへぬなり、不勝と書きて不堪と同じやうに詩文に用ゆる意なり、かてぬ〔三字右○〕はかたぬ〔三字右○〕なり、相撲《スマヒ》などにも力に堪ざる者負くる、其意同じ、六帖に、知がちぬとあるは、心叶はず、思煩ふと云ふ題に入たるは、誠に其心なり、右の歌の心を云ひあらはして、行末をあやふむ心を添へたり、
 
初、梓弓ひかはまに/\よらめとも後のこゝろをしりかてぬかも
上に信濃のまゆみとよめるを重疊してわつらはしきゆへに、弓とのみいへり。昔は甲斐信濃よく弓を作れるにや。續日本起云。大寶二年三月甲午、信濃國(ヨリ)獻(ツル)2梓弓一千二十張(ヲ)1以充(ツ)2太宰府(ニ)1。又云。慶雲元年夏四月庚午以2信濃國(ヨリ)獻(レル)弓一千四百張(ヲ)1充(ツ)2太宰府(ニ)1。延喜式(ニ)云。凡甲斐信濃兩國(ヨリ)所(ノ)v進(ツル)祈年《トシコヒノ》祭料(ノ)雜弓百八十張【甲斐國、槻弓八十張、信濃國、梓弓百張】並(ニ)十二月以前(ニ)差(シテ)v使(ヲ)進上(セヨ)。かゝれは、梓弓はことに信濃の名物なり。かてぬはあへぬなり。右の歌の心をまたいひて、引たにせは、人の心のまゝによりはよりぬへきを、男の心さためなきものなれは、後いかならんともしりあへねは、心もとなしとなり。陸士衡(カ)爲(メ)2顔彦先(カ)贈(ルカ)v婦(ニ)詩(ニ)、離合非v有(ニ)v常、譬2彼(ノ)弦與(ニ)1v筈《ハヤス》。是は離別と會合との常ならぬにたとへたれと、轉用すれは今の心なり
 
99 梓弓都良絃取波氣引人者後心乎知人曾引《アツサユミツラヲトリハケヒクヒトハノチノコヽロヲシルヒトソヒク》 禅師
 
ツラヲは、つるを〔三字右○〕なり、右の歌を受けて、男は弓を知るものなれば、初よりよからじと思ふには手も觸れず、よしと思ふをば愛して後まで引遂ぐる如く、思ひ初めては、絶ゆる事あらじ、うたがひ思すなとなり、
 
初、梓弓つらを。是は禅師か右の郎女か歌にかへすなり。つらをはつるをなり
 
100 東人之荷向※[しんにょう+(竹/夾)]乃荷之結爾毛妹情爾乘爾家留香問《アツマ ノノサキノハコノニノヲニモイモカコヽロニノリニケルカモ》 禅師
 
東人を、仙覺、又或本に、アヅマヅと點ず、和名云、邊鄙、【阿豆万豆、】とあり、又、|、置始東人《オイソメアヅマヅ》、中臣(ノ)東人《アヅマヅ》(21)もあれば、然るべけれど、流布の本、官本、ともに如v今なれば、此も惡からず、荷向ノ篋とは、坂東の國々より、初穗のみつぎ物を、箱物にして奉るを云ふ、荷の前と云ふ心なり、に〔右○〕との〔右○〕音通ずれば、のさき〔三字右○〕と云ふ、神功紀云、且荷持田村、【荷持此云2能登利1、】有2羽白熊鷲者1、云云荷前を義訓して、ハツホともよめり、年毎の十二月に十陵九墓に荷前使を立てらるゝ事あり、延喜式、祈年祭|祝詞《ノツト》曰、荷前者《ハツホヲハ》、皇|太《オホム》御神太前《フトマヘ》、如2横山1打積置?、云云荷ノ結ニモは、荷の緒の如くになり、結を仙覺抄には、緒に作れり、されど第七の三十一葉、第十二の十五葉にも、玉の緒に此字を用ひたり、前に引ける祝詞に亦いはく、自v陸行道者、荷緒|縛堅《ユヒカタメ》?、云云西國よりも奉るべけれど、それは海路なる上、東を先として歌も東歌とてわきてあれば、東人とは云ふなるべし、妹ガ心ニは、心に妹がと云ふべきが〔右○〕を、かく云へば妹が心に我乘るやうなれど、緒の上に凾の乘たる如く我心に妹が乘るとなり、面影にも立忘られぬをいふ、諺にも心|魂《タマ》に乘るなど申すめる詞なり、此下句後にあまたあり、
 
初、東人のゝさきの箱の荷のをにもいもかこゝろに乘にけるかも
荷向篋とは、坂東の國々より初穗のみつきものを箱にいれ、馬におほせて上るをいふ。およそ新穀をもて十一月には新嘗と云ををこなひて諸神を祭たまひ、御みつからもきこしめし、十二月には、荷前使とて、十陵九墓に勅使をたて、はつほをたてまつらるゝなり。延喜式第八、祈年祭(ノ)祝詞《ノツトニ》曰。荷前《ハツホヲ・ノサキ》者|皇太《スメオホ》御神能|太前爾如(ク)2横山(ノ)1打積置※[氏/一]。同陰陽式曰。凡獻(ル)2荷前(ヲ)1日者、預《カネテ》擇(ヒ)2定(テ)大神祭(ノ)後、立春以前(ヲ)1十二月五日申(セ)v省(ニ)。荷の緒にもとは箱は下に緒をつけあるひは下に緒を敷て、それに箱を載て、馬にもおほせ、人もになへは、それにたとへてわか心も常に妹かうへにあるといふ心をよめるなり。又わか心に常に妹かのりゐるとたとへたりともいふへし。後撰集に、おくれすそ心にのりてこかるへきこきつゝしほのなかにきえすは。延喜式第八祈年祭祝詞云。自陸行(ク)道者荷緒|縛堅《ユヒカタメ》※[氏/一]云云
 
大伴宿禰娉巨勢郎女時歌一首
 
官本に注して云、或本注曰、大伴宿禰、諱曰2安麻呂1也、難波朝右大臣大紫長徳卿之第(22)六子、平城朝任2大納言兼大將軍1、薨也、今按、第四に、此卿の歌を載せたるには、大納言兼大將軍大伴卿とあれば、今の作者も安麻呂ならば、第四の如く載すべし、大伴氏の尸は、定めて皆宿禰なるを、たゞ氏と尸とのみを書ける事不審なり、若大津宮御宇には、安麻呂官位未微なれば、撰者の意、氏の長たる意を以て、如此書ける歟、下に、石川女郎が、大伴田主に贈る歌にも官本に、或本注云、即佐保大納言大伴卿第二子、妣曰2巨勢朝臣女1也、と注せり、此或本、何の據あるか、未だ考へず、
 
初、大伴宿禰娉――。是は宿禰某と名ありけんを轉寫しておとせる歟。名闕と注したるがうしなへるかの間なるへし
 
101 玉葛實不成樹爾波千磐破神曾著常云不成樹別爾《タマカツラミナラヌキニハチハヤフルカミソツクトイフナラヌキコトニ》
 
玉は玉松玉椿など萬の物をほめていふ事多し、今も其心なり、葛は木によりてはひ、女は男によりて世をふるものなれば多く喩に取れり、木とは即葛をさして云ふ、葛のはひかゝれる木には非ず、返歌に、唯葛とのみよめるにて知るべし、チハヤブルとは神の枕詞なり、別に注す、神ゾ著ト云とは、古き草木には神靈の依託するなり、一首の心は、實ならぬ葛は引攀て何を採るべき由なければ、冷じぐ物ふりて、神のよる杜とのみなる如く、戀ふれども逢ふ事なき人も、さてのみやまば、手觸れぬ神木の如く徒に考へぬべし、さらぬ間に早く相見えよとなるべし、和名云、蘇敬本草注云葛穀、一(23)名鹿豆、【葛、音割、和名、久須加豆良乃美、】葛實名也、これによるに、葛※[草冠/儡の旁]は類多き物なれば、實のなるとならぬとあるなるべし、仙覺抄に、女の男すべき程に成て、其男なければ、鬼魅に領せらると云ふ事あれば、それによそへて、吾懸る思ひをば遂げさせずして、神に領せらるなとよめるなりと侍り、此は本説ある事にや、神ぞ著と云といへるを以て、かく釋せられたるならば、たゞ初の義にてや侍りなむ、
 
初、玉かつら實ならぬ木にはちはやふる神そつくといふならぬ木ことに
玉かつらは惣してかつらのたくひをほめていふ詞なり。葛に實のならぬものといふにあらす。いまたみのならぬ心なり。かやうの事心得損してわろき説もいてくるなり。いそのかみふるのわさ田のほには出すといふ歌をよくおほえて見るへし。此木といへるはかつらのはひかゝれる木にはあらす。かつらをさしていへり。これは女にたとへていへるなり。毛詩に南有穆木葛※[草冠/儡の旁]?之なとつくり、此國の歌にもおほく女をかつらにたとふることは、かつらは木によらされははひのほる事あたはす。女も家なくしてをとこによる物なれはたとふるなり。をとこ有へきよはひまてもたされは、鬼神のわか物に領して男もなきといひつたふれは、われはやくぬしとならんといふこゝろなり
 
巨勢郎女報贈歌一首
 
官本に注して云、即近江朝巨勢人卿之女也、巨勢人卿は天武紀上に見えたり、
 
102 玉萬花耳開而不成有者誰戀爾有目吾孤悲念乎《タマカツラハナノミサキテナラスアルハタカコヒニアラメワカコヒオモフヲ》
 
玉萬、【葛、誤作v萬、】 有目、【目、當v以v音、點、阿良毛、】
 
其花のみ咲て實ならぬ葛の如く、言のみして誠なきは、君が戀にこそあらめ、吾は眞實に戀しく思ふ物をとなり、有目を、アラメとよみては今のてにをはに叶はねど、此集には此類あり、音をも用ひたれば、アラモとよみて、あらむと心得べきか、
 
初、玉かつら花のみさきてならすあるはたか戀にあらもわかこひおもふを
葛をあやまりて萬につくれり。目は音を取てもとよむへし。あらもはあんなり。行成卿の比まてかやうのかんなは作者ならねと、筆者も通してかゝれたりと見えたり。ゆるやかにておもしろきことなり。ことに此集には作者通してよめること數しらす。めとよみては、てにをはたかひてあしきなり。かへしは心は實ならぬ木といはれて、その花のみさきて實ならぬことく、まことなきはたかうへのこひにかあらん。われまたしらす。我は花さけは、實になることくいひそめしより、眞實にこひおもふ物をとなり
 
明日香清御原宮御宇天皇代 天停名原瀛眞人《アメノヌナハラオキノマヒトノ》天皇
 
(24)下の注に、渟を誤て停に作れり、
 
初、明日香――天停名原
渟も停の心にて出來たる文字にはあらめと、今の停の字をあやまれるなり
 
天皇賜藤原夫人御歌一首
 
天武紀下云、又|夫人《オトシ》藤原(ノ)大臣(ノ)女氷上(ノ)娘生2但馬皇女1、次夫人氷上(ノ)娘|弟《イロト》五百重《イホヘノ》娘生2新田部(ノ)皇子1、此集第八夏雜歌の最初に、藤原(ノ)夫人歌ありて、注云、字曰2大原(ノ)大刀自1、即新田部(ノ)皇子之母也、とあれば、今の御製の詞に引合せて、心得るに、大織冠の女二人夫人となり賜ふ中に、五百重(ノ)娘に賜はるなり、
 
初、天皇賜藤原夫人――
釋名云。夫人、夫扶也.扶助其君也
 
103 吾里爾大雪落有大原乃古爾之郷爾落卷者後《ワカサトニオホユキフレリオホハラノフリニシサトニフラマクハノチ》
 
大雪は左傳曰、平地尺爲2大雪1、かゝれば寒温等分の所に一尺ばかり積るを、大雪と云ふなり、大原は第四、第十一にもよめり、中にも第十一に、大原の、古にし里に、妹を置てと、今のつゞきと同じくよめり、和州高市郡なり、續日本紀曰、天平神護元年十月已未朔辛未、行2幸紀伊國1、云云、是日到2大和國高市小治田宮1、壬申、車駕巡2歴大原長谷1、臨2明日香川1而還、此所さきに都のありし邊などにてや、古にし里とはよませ給ひけむ、御製の心は、大雪の珍らしきを戯にほこらせ給ひて、そこは古里なれば、雪も此許《コヽモト》に隆り(25)はてゝ後こそふらめ、あはれかゝる折を見せばやと、都を羨ましめ給ふ意なり、
 
初、わかさとにおほゆきふれり大原のふりにしさとにふらまくはのち
隱公九年左傳曰。平地尺爲大雪。大原は和州なり。續日本紀曰。天平神護元年十月己未朔辛未、行幸紀伊國。○是日到大和國高市小治田宮。壬申、車駕巡歴大原長谷臨明日香川而還とあれは、小治田宮より長谷のあひたに有と見えたり。――雪のふかうおもしろくふれるをたはふれにほこらせたまひて、そこはふるさとなれはかゝるおもしろき雪もかくこゝもとにふりはてゝのちこそふらめ、あはれみせはやとうら山しめたまふなり
 
藤原夫人奉和歌一首
 
104 吾崗之於可美爾言而令落雪之摧之彼所爾塵家武
 
令落、【官本點、フラシムル、仙覺抄同v是、】 摧之、【幽齋本點、クタケシ、仙覺同v此、】
 
オカミは、龍なり、神代紀上曰、伊弉諾尊、拔v釼斬2※[車+可]遇突智《カグツチ》1爲2三段1、云云、一段、是爲2高※[靈の巫が龍]1、自注云、※[靈の巫が龍]、此云2於箇美《オガミ》1、音、力丁反、延喜式神名帳に、河内、和泉等を初て、諸國に多く意加美《オカミ》神社あり、又豐後風土記云、球珠(ノ)郡、球覃《クサミ》郷、此村有v泉、昔景行天皇行幸之時、奉膳《かしはて》之人、擬2於御飯1、令v汲2泉水1、即有2?※[雨/龍]1、謂2於箇美《オガミ》1、於茲《コヽニ》天皇勅云、必將v有v※[自/死]、莫v令2汲用1、因v斯名曰2※[自/死]泉1、因爲v名、令謂2球覃郷1者、訛也、玉篇云、※[靈の巫が龍]、【力丁切、龍也、又作v靈、神也、善也、或作v※[虚+鬼]、】※[雨/龍]、【同上】歌の心は、此大原の里のあたりの崗に住むおかみに降らしむべき由、我仰せて、とく此《コヽ》に雪のふれる其あまりのそこには降りたるにこそさふらはめとなり、摧〔右○〕は物の摧けたるかたはしの意なり、
 
初、わか岡のおかみにいひてふらしめし雪くたけのそこにちりけん
ほこりておとしむるやうによませたまへは、御かへしもまたたはふれて、あさむくやうによみたまへり。おかみは日本紀第一云。伊弉諾尊、拔釼斬※[車+可]遇突智爲三段、其一段是爲雷神、一段是爲大山祇神、一段是爲高※[靈の巫が龍]。又云。復劔頭垂血激越爲神、號曰闇※[靈の巫が龍]至後自注云。※[靈の巫が龍]此云於箇美、音力丁反。
延喜式神名帳、河内和泉等をはしめて諸國におほく意加美神社あり、又豐後國風土記云。球珠郡。○――おかみは地龍なるへし。此大原の里のあたりの岡に住おかみにわかふらしむへきよしをおほせて、とくこゝにふりし雪のくたけたるか散て、そこにもふりたるにてこそさふらはめとなり
 
藤源宮御宇天皇代 天皇謚曰持統天皇
 
(26)後人の誤て注したるを、其まゝ書付けたるなり、其故は終に人丸の妻、依羅娘子の歌あり、是文武の朝の歌なり、下に至て見るべし、然れば兩代に亘る故に、誤れること明なり、
 
大津皇子竊下於伊勢神宮上來時大伯皇女御作歌
 
目録には御作歌二首とあり、ありぬべき事なり、天武紀下云、先納2皇后姉大田(ノ)皇女1、生3大來(ノ)皇女、與2大津(ノ)皇子1、又云、二年夏四月丙辰朔己巳、欲3遣2侍大來(ノ)皇女于天照大神宮1、而令v居2泊瀬(ノ)齋宮1、是先|潔《サヤメテ》v身稍近v神之處也、三年冬十月丁丑朔乙酉、大來(ノ)皇女自2泊瀬齋宮1、向《マウツ》2伊勢(ノ)神宮1、天武天皇十五年九月九日に、帝崩御し給ひしやがてより、大津(ノ)皇子、御謀反の志出來て、持統天皇元年十月二日に其事顯はれ、三日に死をたまふ、然れば※[手偏+總の旁]標と、歌に秋山とよませ給へるを合せて案ずるに、天武天皇の一周の御國忌事をはりて、九月中旬より下旬の間に、伊勢へ密《シノビ》に下て、皈上らせ給ふ時、皇女のよませ給へるなり、和名云、備前國、邑久【於保久、】郡、此郡に屬する海にて生たまふ故に御名とす、第一卷に齊明紀を引くが如し、
 
初、大津皇子竊下――
大伯皇女、大津皇子は共に天武の御子、御母もともに大田姫皇女なれは、ことにむつましうおはしませり。大伯皇女は、天武天皇白鳳三年に、十四歳にて齋宮に立せ給ひて、持統天皇朱鳥元年十一月に二十七歳にて京へ歸りたまへり。今案するに、大津皇子は天武天皇十五年九月九日崩御のやかてより、御謀反の心出來て、持統天皇元年十月二日に其事覺れて三日に譯語田《オサタノ》舍にして賜死たまひけるに今藤原宮御宇と標したる下に御歌にも秋山とよませたまひ詞書にも竊下とあれは、天武の一周の御國忌はてゝ後九月中旬より下旬の間にひそかに伊勢へ下り太神宮に祈なとも申給ひ大伯皇女にも御謀反のこゝろさしをも語申させ給けるなるへし
 
105 吾勢枯乎倭邊遣登佐夜深而?鳴露爾吾立所霑之《ワカセコヲヤマトヘヤルトサヨフケテアカツキツユニワカタチヌレシ》
 
(27)背子《セコ》は男女に通ずれども、先は女の男を呼詞なれば、御弟なれどもかく讀給へり、鷄鴫と書ては、日本紀の推古紀にも、曉とよめり、歌の意明なり、
 
初、わかせこをやまとへやるとさよふけてあかつきつゆに我立ぬれし
日本紀にも鷄鳴とかきてあかつきとよめり
 
106 二人行杼去過難寸秋山乎如何君之獨越武《フタリユケトユキスキカタキアキヤマヲイカテカキミカヒトリコユラム》
 
二人とは此は必夫婦の心に非ず、只睦まじき間、友々に行だに秋山なれば鹿なき紅葉散て心細く行過がたきをとなり、よはにや君がと云歌に、感情ひとしき御作なり、同腹のむつまじき御はらからの診しき御對面に、程もなく皈上らせ給ふ飽ぬ御別には、さらでもかくよませ給ふべきながら、殊に身にしむやうに聞ゆるは、御謀反の志をも聞せ給ふべければ、事の成るならずも覺束なく、又の對面も如何ならむと思召御胸より出ればなるべし、
 
初、ふたりゆけと行過かたき秋山乎いかてか君かひとりこゆらん
むつましきあひた、とも/\に行たに、鹿の音きこえ紅葉打散て行過かたきを、いかにしてか只ひとり赴給ふらんとなり。古今集のよはにや君かとよめる歌の感情にひとしき御歌なり。むつましき御はらからのめつらしき御對面にてほともなく歸らせ給ふ御別には、かくもよませたまふへき事なから、身にしむやうにきこゆるは、謀反のことをきこしめして、事のなりならすもおほつかなけえは、又の御對面もいかならんと、おほしめしける御むねより出れはなるへし
 
大津皇子贈石川郎女御歌一首
 
懷風藻に此皇子の詩を載る傳に、性頗放蕩、不v拘2法度1、とあれば、天武の御周忌いまだ終らぬ程、忍に有ける事なるべし、
 
初、大津皇子贈石川郎女御歌一首
此御歌はいまた天武天真御治世のほとの事なるへし。君臣の道に背き、天倫のことはりに違ひて、謀反に身まかりたまふとはいひなから、さはかりの大事を思しめしたまふ御身の、ことに天皇の諒闇のあひたに、かゝる御事はあるへからしとおもふゆへなり。二首の贈答よくきこゆる歌なり
 
107 足日木乃山之四付二妹待跡吾立所沾山之四附二《アシヒキノヤマノシツクニイモマツトワレタチヌレヌヤマノシツクニ》
 
(28)妹待と、山のしづくに、吾立ぬれぬと、句を打返て見るべし、
 
石川郎女奉和歌一首
 
108 吾乎待跡君之沾計武足日木能山之四附二成益物乎《ワレヲマツトキミカヌレケムアシヒキノヤマノシツクニナラマシモノヲ》
 
吾〔右○〕はわ〔右○〕とひと文字にも讀べし、下にさもよめり、滴は人を潤して、身に觸れば、ならまし物をとはいへり、
 
大津皇子竊婚石川女郎時津守連通占露其事皇子御作歌一首
 
元明紀云、和銅七年正月、正七位上津守(ノ)連通、授2從五位下1、同十月美作守元正紀云、養老五年春正月戊申朔甲戌、詔曰云云、文人武士國家所v重、醫卜方術古今斯崇云云、通も此時陰陽道に長じたるに依て、樣々の物を賜へり、同七年正月、從五位上に轉ず、
 
初、大津皇子竊婚――
この御歌もまた疑ひさきのことし
津守連通は、績日本紀にいはく。和銅七年正月、正七位上津守連通授從五位下。十月、美作守。養老五年正月戊申朔甲戌、詔曰。文人武士、國家所重、醫卜方術、古今斯崇、宜擢於百僚之内、優遊學業、堪爲師範者、特加賞賜、勸勵後生、因賜○陰陽○從五位下津守連通○各※[糸+施の旁]十匹絲十御布二十端鍬二十口云々。同七年正月、從五位上
 
109 大舩之津守之占爾將告登波益爲爾知而我二人宿之《オホフネノツモリノウラニツケムトハマサシニシリテワカフタリネシ》
 
第七にも大舟のまもる水門とよみて、津には舟の出入を考て守る者を置ば、今の如(29)はつゞけ給へり、津守は住吉の御神を齋く氏にて、やがて住吉に津守の浦もあれば、浦と占とを兼てつゞけ給へるか、マサシニは正しくなり、西行もまさしに見えてかなふ初夢と、立春の歌によまれたり、汝が占にあらはされむとは、我心の占にも兼て正しく知ながら、思かねて云初て逢つるぞと、不v爭して讀たまへり、古事記、神武天皇段云、後其|伊須氣余理比賣《イスケヨリヒメ》參2入宮内1之時、天皇御歌曰、阿斯波良能《アシハラノ》、志祁去岐袁夜邇《シケシキヲヤニ》、須賀多々美《スガダヽミ》、伊夜佐夜斯岐弖《イヤサヤシキテ》、和我布多理泥斯《ワガフタリネシ》、
 
初、大舟のつもりのうらにつけんとはまさしにしりてわかふたりねし
大舟の入津とつゝけて住吉につもりのうらあれは、通か氏よりうらなひまてにかけたまへり。又津をもるものは船の出入をかんかへてみたりなることあらしめねは.かれこれ心かよへり。まさしにしりてはまさしく知なり。これはうらなひにつける詞なり。うらなひあらはされむことは、かねてわか心のうらにもまさしくしりなから、あひつるなりとあらかはてよみたまふ中に、通か占をほめたまふ心なり
 
日並皇子尊贈賜石川女郎御歌一首【女郎字曰】
 
注の曰の字の下に大名兒の三字を脱せり、目録にあり、此は撰者の自注なるべし、注なければ御歌の發句心得がたき故に知れり、
 
初、日並皇子尊
自注曰の字の下に大名兒の三字脱たり
 
110 大名兒彼方野邊爾苅草乃束間毛吾忌目八《オホナコヲヲチカタノヘニカルカヤノツカノアヒタモワレワスレメヤ》
 
此發句、古点は大名兒ヤ、仙覺此を嫌て今の点に改らる、古點も押照なにはを押照哉なにはとも云やうの詞にて、や〔右○〕に心なければ惡からず、又呼懸る意にてもさも侍るべし、又唯四もじによみても、大名兒よと云意にて苦からじ、六帖忘ずと云題に、大な(30)かの〔四字右○〕とあるぞ心えがたき、彼方野べとは、草刈野は都の外に遠くあればなり、第十一に彼方のはにふの小屋とつゞけたるも同意なり、刈カヤノ束ノ間とは、草は束ぬる物なれば、刈草を束ねとつゞけて、手にて矢などの長さを量る一束は短ければ、暫の程といはむとて束の間とは云なり、第四に夏野行、をじかの角の束のまもとよめるに同じ、歌の義は明なり、
 
初、大名兒をゝちかた野へに苅かやのつかのあひたもわれわすれめや
初の句を第四に置てみるへし。をちかた野へは草なと刈野はとをくあれはなり。草をつかぬるとつゝけて、束のあひたとは、矢のなかさなとをはかる一束なり。一束はみしかけれは、すこしのほともわすれぬといはんとて、つかのあひたもとはよませたまへり。夏野ゆくをしかのつのゝつかのまもといへるにおなし
 
幸于吉野宮時弓削皇子贈與額田王歌一首
 
歌の上に御の字脱たり、
 
111 古爾戀流鳥鴨弓絃葉乃三井能上從鳴渡遊久《イニシヘニコフルトリカモユツルハノミヰノウヘヨリナキワタリユク》
 
古ニ戀ルは古を戀るなり、鳥は奉和の歌によるに郭公なり、六帖には唯鳥の歌に載たり、郭公は聲の悲しき鳥なれば、故郷と旅行と并せて感あるべし、ユヅル葉ノ三井は吉野宮の井の名なるべし、歌の心は、郭公の今此所に鳴渡るは、古を戀るにやあらむと、昔父帝の行幸し給ひし時、御供に侍し事を、今も持統天皇の行幸の御供に有て、戀思召す御心より、感を興してよませ給へるなるべし、天武、持統御兩代の行幸、第一卷に、日本紀を引るが如し、朱鳥三、四、五の三年、各年に再行幸し給ふ中に、四年五月、五(31)年四月、此兩度の内の御供にて、詠せたまふなるべし、
 
初、いにしへにこふる鳥かもゆつる葉のみゐのうへより鳴わたりゆく
いにしへにこふるはいにしへをこふるなり。返しの歌によれは、此鳥とよませたまへるは郭公なり。ほとゝきすも昔をこひて鳴ゆくか、われもみゆきの御供なから、天武のもろともにみゆきしたまひし折をこひおほしめすとなるへし。第一卷に、日本紀を引るかことく、朱鳥三年四年丑五、此三年のあひた、年にをの/\ふたゝひみゆきしたまふ中に、四年五月、五年四月、此兩度のうちの御供にてよませたまふなるへし。いにしへには、ほとゝきすを.杜宇といふ説はなしとみゆれは、たゝ當意の感にてよませたまふと見るへし。弓絃葉は弦絃通するゆへなるへし
額田王奉和歌一首
 
官本傍注云、從2倭京1進入、
 
112 古爾戀良武鳥者霍公鳥盖哉鳴之吾戀流其騰《イニシヘニコフラムトリハホトヽキスケタシヤナキシワカコフルコト》
 
其騰、【官本、其作v碁】
 
蓋は疑の辭なり、歌の心上の兩義に依り隨て見るべし、
 
初、いにしへにこふらん鳥はほとゝきすけたしやなきしわか戀ること
けたしは此集にけたしくともよめり。疑の辭なり。ごとは如なり。わかこゝにきて、むかしをこひて鳴ことく、郭公もおなし心になくかとなり。古今集忠岑うたに、むかしへや今もこひしきほとゝきすふるさとにしもなきてきつらん
 
從吉野折取蘿生松柯遺時額田王奉入歌一首
 
和名云、辨要決云、松蘿、一名、女蘿、【和名、萬豆乃古介、一云、佐流乎加世、】六帖云、逢ことをいつか其日と松の木の、苔の亂て物をしぞ思へ、元輔集云、松の苔千年を兼て生ひ茂れ、鶴のかひこの巣とも見るべく、遺は贈と同訓歟、下に遣近江の遣を誤て、遺に作たれば、今も遣を誤て遺に作れるにや、此端作の詞、上を承る故に、弓削(ノ)皇子と云はざれども、奉入と云に、意顯はれたり、
 
初、従吉野折収――。和名集云。辨要決云。松蘿、一名女蘿【和名萬豆乃古介、一云佐流乎加世。】六帖に、逢ことをいつかその日とまつの木の苔のみたて物をこそ思へ。元輔家集に、松のこけちとせを兼ておひしけれ鶴のかひこのすともみるへく。兎絲といふものも、女蘿なりといへはこれなるへし。奉入とは、右のつゝきをおもふに、弓削皇子へたてまつるなり
 
(32)113 三吉野乃玉松之枝者波思吉香聞君之御言乎持而加欲波久《ミヨシヌノタママツカエハハシキカモキミカミコトヲモチテカヨハク》
 
玉松は松をほめて云、ハシキは、愛の字、なつかしき心なり、下の句の心は、我を思召出て見せ給ふ御心やがて松が枝に見ゆれば、志を傳る使なる故なり、太宰を、みこともちと訓じ、國司を、くにのみこともちと訓ずるも此意なるべし、
 
初、みよしのゝ玉松かえははしきかも君かみことをもちてかよはく
玉松はほむる詞なり。はしきは愛の字なり。此集に尤おほし。こゝろすなはち字のことし。松かえをたまはるにつけて、教命をも|う《愛》けたまはれは、松かえは愛するによしとなり
 
但馬皇女在高市皇子宮時思穗積皇子御歌一首
 
114 秋田之穗向乃所縁異所縁君爾因奈名事痛有登母《アキノタノホムケノヨスルカタヨリニキミニヨリナヽコチタカリトモ》
 
第十に上句全同にて、吾は物思ふつれなき物をと云歌を新古今に入られたるに、ホムケノヨスルを、ほむけの風のと改られたるを以、今の點の意を案ずるに、ほむけ〔三字右○〕は田面を渡る秋風にやがて名付たりと見えたり、今按第十七に家持、秋の田の穗牟伎見がてりとよまれたるを證として、ホムキノヨレルと讀べきか、若内典の能所に依て云はゞ、能倚の風に、所倚の稻、相對する時、よすると云詞は風に付ていへり、風によらねど實のるに隨て、おのづからも片靡に傾き、又さきより風に靡たれども、今は唯(33)其なびきたるをのみ云ば,よれる〔三字右○〕なり、上下の所縁〔二字右○〕、上をよれる〔三字右○〕とよみ、下をよりに〔三字右○〕とよめば一意なり、現點の意は、風のよするに因て穗のかたよるなれば、上下意替れり、君ニヨリナゝは、稻の片依による如く、我も君に因なんなどのたまふなり、コチタカリトモには、二の心あり、後に言痛と書てコチタミとよめるは、痛く人の名をたてゝ云躁ぐ心、又其言を我痛む心と見ゆ、第十に、甚《ハナハダ》もふらぬ雪ゆゑこちたくも、あまのみ空は、曇あひつゝとよみ、源氏、清少納言等に用たるは、こと/”\しくといはんやうに聞ゆ、然れば、人は事々しく云なすともと、兩樣に意得むに違ふべからず、六帖に此歌を秋の田と載たるは誤なり、
 
初、秋の田のほむけのよするかたよりに君によりなゝこちたかりとも
穗向といふに風の心あり。所縁はよれるとよむへきにや。よするといはゝ令縁とかくへく覺侍り。よれるといふ時は、みつから打かたふき、よするといふ時は、ほむけといふにかぜの心ありて、かたよらしむるなり。異の字を片とよむは、ことゝかたと五音かよへはか。又もとより片の心もある歟。君によりなゝは、よりなんななり。上はこの句をいはんための序なり。こちたかりともは、此集に、言痛とかきてこちたみとよめるをおもへは、こといたみといふを、といの切はちなるゆへに、つゞめてこちたみとはいへるとおもふに、清少納言、源氏物語なとには、たゝ事おほく、らうかはしき事にいへれは、言痛の心にはあらさる歟。第四に、他辭乎繁言痛《ヒコトコトヲシケミコチタミ》あはさりき心あることおもふなわかせとよめるは、まさしく人の物いひのおほけれは、その詞をいたみて、あはぬほとを、わかことなる心あることくなおもひそといふ事なれは、中ころよりすこし用あやまれるにや。此下におなし皇女、ひとことをしけみこちたみとよませたまへるも、初の歌におなし。おなしことをかさねていふならひもあれと、しけみといへるか、人の物いひのおほきなれは、こちたみは、そのことはをきゝてわか心のいたむとそ聞えたる。こゝには事の字を書たれとも、實は言の字なるへし。第十に此歌と上の句はおなしくて、われはものおもふつれなきものを
 
勅穗積皇子遺近江志賀山寺時但馬皇女御作歌一首
 
遣を誤て、遺につくれり、志賀山寺は天智天皇の御願の崇《シユ》福寺なり、文武紀云、大寶元年八月甲辰、太政官處分(スラク)、近江國志我山寺封起2庚子【文武四年】年1、計滿2三十歳1、云云並停2止之1、皆准v封施v物、又云、聖武紀云、天平十二年十二月癸丑朔乙丑、幸2志賀山寺1禮v佛、菅家文草第七、崇福寺綵錦寶幢(ノ)記(ニ)云、勅、近江崇福寺者、天智天皇之創建也、逢v師感應得v地、因縁誓念、至心稱2成細目1、辛未之年(ノ)勅旨詳(ナリ)矣云云、元亨釋書云云、天智天皇の御國忌(34)は、此寺にて行るゝ由延喜式に載らる、志賀の山越と云事して、歌をもよめること、古今集以來見えたるは、此寺に詣るを云なり、
 
初、勅穗積皇子遺【遣(ヲ)誤(テ)作v遺】近江志賀山寺――
志賀山寺は、崇福寺なり。天智天皇の御願にて建立せらる。これによりて、後にも十二月三日の御國忌も彼寺にて行はる。志賀の山こえとよめるも、此寺にまうつるがためなり。文武紀云。大寶元年八月甲辰太政官處分(スラク)。近江國志我山寺(ノ)封《・ヘヒト日本紀》起庚子年計滿三十歳。○並停止之、皆准之封施物。聖武紀云。天平十二年十二月癸丑朔乙丑、幸志賀山寺禮佛
 
115 遺居而戀管不有者追及武道之阿回爾標結吾勢《オクレヰテコヒツヽアラスハオヒユカムミチノクマワニシメユヘワカセ》
 
戀管、【別校本、管作v乍、】
 
腰の句オヒユカムと点ぜるは誤れり、及〔右○〕は日本紀にも、此集の未にもシクとよみたれば、オヒシカムと、点ずべし、おひつく心なり、仁徳紀に、皇后の八田(ノ)皇女の御事を恨給て、御舟にて直に山背へ越させ給たる由帝聞食て、鳥山《トリヤマ》と云舍人を急て御使に遣はさるゝ時の御歌に、山城に、急げ鳥山、いしけしけ、吾思ふ妹に、いしき逢むかも、い〔右○〕は發語の詞にて、しけ〔二字右○〕は皆追付けとのたまふなり、しきる〔三字右○〕も同じ、天武紀上に、騎士《ウマイクサ》、繼踵《シキリテ》而進之といへり、下句の心は、道の隈々ありて迷ぬべき所には、しるしを爲置《シオカ》せたまへとなり、六帖しめの歌に載て、三島皇子の歌とす、不蕃なり、
 
初、をくれゐてこひつゝあらすはをひしかん道のくまわにしめゆへわかせ
こひつゝあらすは、こひつゝさても得あらすはなり。追及武をゝひゆかむとかなのつきたるはあやまれり。及の字は、此集にも、日本紀なとにも、おほくしくとよめり。すなはち、をよふといふ心なり。しく物そなき、しかしといふも、心は此しくにて、をよふ物そなき、をよはすなり。仁徳天皇、后宮の高津の宮へはかへらせ給はて、山背の筒城宮へおはしますよしきかせたまひて、かへらせたまふへきよしの御使に、鳥山といふ人をつかはされける時の御歌に、山しろにいそけ鳥山、いしけしけとよませたまへるも、いは發語の詞、しけしけは及々なり。をひつけ/\といはんかことし。道のくまわは、くま/\のまとふへきところに、しをりをしをかせたまへ、われもをひつきてゆかんとなり
 
但馬皇女在高市皇子宮時竊接穗積皇子事既形而御作歌一首
 
(35)目録に而の下に後の字あり、有を以てよしとすべし、此には脱せるなるべし、六帖に誤て穗積皇子の御歌とす、
 
初、但馬皇女――
形而の下に後の字をおとせり
 
116 人事乎繁美許知痛美巳母世爾未渡朝川渡《ヒトコトヲシケミコチタミオノカヨニイマタワタラヌアサカハワタル》
 
人コトは他言なり、腰の句、現点字に叶はず、六帖においのよに〔五字右○〕とあるもまた同じ、其上、此時共に盛におはしまして、互に戀かはしたまへば、老の世と云べき理なし、字に任てイモセニと四文字に讀べし、下句は此集よそにも、朝川わたる、夕川わたるなどよめり、古今に人目つゝみの高ければ、川と見ながらとよみ、まだきなき名の立田川、渡らでやまむ物ならなくに、などよめる、皆男女の中を川に喩て、ならぬをば渡らぬに喩へ、成をば渡るに喩ふ、然れば纔に逢といへども、妹背と云ばかりにもあらぬ墓なき事により、まだ渡らぬ川を既に渡れりといはむやうに云さはがるゝが佗しき事と、譬て讀せたまへるなり、朝川渡は速くより事の成やうの意なり、
 
初、人事乎繁美許知痛美巳母世爾未渡朝川渡
人事とかきたれとも、他言なり。第三の句をゝのかよにとよめるはあやまれり。母の字、我の音あるへきやうなし。これをはいもせにとよむへし。朝川はあさ川わたり、夕川わたるなと此集によめり。老人晨渡朝歌水面怯。紂曰、老者髓不實、故晨寒、因〓脛以視髓。今は朝の字に心なし。古今集に、おもへともひとめつゝみの高けれはかはとみなからえこそわたらねとよめることく、おもふ事のなりならすを、川をわたりわたらぬにおほくたとふるなり。妹背といふは、かりにもあらぬはかなきことにより、またわたらぬ川をすてにわたれりといはんやうに、いひさはかるゝか、わひしさとよませたまへるなり
 
舍人皇子御歌一首
 
天武紀云、次妃新田部(ノ)皇女生2舍人(ノ)皇子1、聖武紀云、天平七年十一月乙丑、知太政官事(36)一品舍人親王薨云云、廢帝紀云、寶字三年六月庚戌、詔曰、自今以後、追2尊舍人親王1、宜v稱2崇道盡敬皇帝1、此皇子の御名をいへひと〔四字右○〕とよむは、とねりが閏、海士のとね、盗人を兼盛が歌に、山のとねともよみたれば、賤しき事とのみ思て、後人のよみなせるなり、六帖戀に、此御歌を載たるに、とねりのわうじとあれば、是を證として、さよむべし、日本紀、續日本紀に、馬飼、牛飼と名乘たる人諸氏の中に多し、大鏡に、小野(ノ)宮殿の童名牛飼と申ける故、藤氏の人牛飼を牛つきと呼れける由、見えたり、况舍人はもとより賤しきに限らぬをや、
 
117 大夫哉片戀將爲跡嘆友鬼乃益卜雄尚戀二家里《マスラヲヤカタコヒセムトなけヽトモシコノマスラヲナホコヒニケリ》
 
鬼乃益雄、【別校本点又云、オニノマスラヲ、】
 
鬼の字古点オニなるを、仙覺今の点に改られたる由彼抄に見えたり、今按、六帖にも袖中抄にも、古点の如くあれば昔に返してよむべし、第十三には、人を罵て鬼のしき屋鬼のしき手と云ひ、第四第十二には、萱草を見て鬼のしこ草といへり、しこ〔二字右○〕とおに〔二字右○〕と同じくよからぬ事いゞへば、新点の義訓よりは有|來《ク》るを好とすべし、鬼とはみづから罵詞なり、遊仙窟に窮鬼《・イキスタマ》(ノ)故《コトサラニ》調《・アサムクヤ》v人(ヲ)といへるは他を罵れど意は同じ、ますらをの武(37)かるべき身にて、諸友に心を通はしても、思はぬ人を我のみや片戀せんと勵ましなげゝども、きたなき大夫にて猶戀らるゝと讀たまへり、第十一に、巖すら行通るべき大夫も、戀てふ事は後の悔あり、
 
初、ますらをやかたこひせんとなけゝともしこのますらを猶こひにけり
ますらをは丈夫をいふ。此集にますら我すら、又ますらたけをなともよめり。神代紀曰。吾是男子。神武紀曰。時五瀬命矢瘡痛甚。○慨嘆哉大丈夫云々。皇極紀曰。山背大兄曰。豈其戰勝之後、方言大夫哉。夫損身固國不亦大夫者歟。しこは字のまゝに.おにとよめり。共にみつからのることはなり。和名集云。日本紀云。醜女【和名志古女。】みにくしとよむ字のことく、しこも、きたなきを云ふ。神代紀にまたいはく、伊弉諾尊、既還乃迫悔之曰、吾前到於不須也凶目?穢之處。おにといふも、遊仙窟にたはふれに他を罵て窮鬼故調人といへるかことし。此集におにのしこ草、しこほとゝきすなとよめる、皆此こゝろなり。我かねて丈夫なりとおもひて、丈夫といふものやは、人ももろ心におもはぬかたこひすへきと、みつからなけきていさむれと、おもひしに似す、きたなきますらをにて、心よはくこひらるゝとなり
 
舍人娘子奉和歌一首
 
118 歎管大夫之戀亂許曾吾髪結乃漬而叔禮計禮《ナケキツヽマスラヲノコノコフレコソワカユフカミノヒチテヌレケレ》
 
大夫之戀亂許曾、【六帖云、マスラヲガケヲコフレコソ、古点云、マスラヲノカクコフレコソ、別校本、亂作v禮、點云、マスラヲノコフレコソ、同異本、有2亂字1、点云、マスラヲノコヒミタレコソ、】 吾髪結乃、【六帖云、ワカモトユヒノ、古点云、ワカヽミユヒノ、亦点、如2六帖1、】 漬而、【六帖、ツキテ、】
 
今按、右の如く諸点まち/\なるは文字に同異あり、又脱たる字ある本も有ける故なるべし、今の本に依て点のかなへるを撰び取らば、マスラヲノ、コヒミダレコソ、ワガモトユヒノと讀べし、亂コソは、亂るればこそなり、和名集云、孫※[立心偏+面]切韻云、※[髪の友が會]、【音治、和名、毛度由比、】以v組束v髪也、髪を云物を、もとゆひと云へども、髻の字をもとゞりと云心も本取にて、髪の本を取て、結《アグ》る故なるべければ、本を結ふ意にてもとゆひを髪の名ともするなるべし、※[髪の友が思]の字を和名に髪の根と訓ぜり、根は本なり、漬而〔二字右○〕は、六帖につきて〔三字右○〕とよめるを除《オキ》て、今ヒヂテと云に付べし、歌の心は、ますらをのやうにもあらず戀亂るとのた(38)まふが身に過ておぼゆれば、片戀と宣ふとも、我も終夜なき流す涙に、打敷て寢る黒髪さへひたりて沾るゝとなり、末にぬば玉の黒髪しきてとよめり、
 
初、歎つゝ大夫の戀亂こそ吾髪結のひちてぬれけれ
ますらをのこのこふれこそとある點はあやまれり。ますらをのこひみたれこそとよむへし。みたれこそはみたるれはこそなり。髪結をゆふかみとよめるもわろし。長流の本のことくもとゆひとよむへし。もとゆひといへとも、唯髪なり。ますらをのやうにもあらす、こひみたるとのたまふか、身に過ておほゆれは、かたこひとのたまへとも、われもなきしほるゝ涙に、よもすから打しきて、ぬる髪さへひたりてぬるゝとなり
 
弓削皇子思紀皇女御歌四首
 
119 芳野河逝瀬之早見須臾毛不通事無有巨勢濃香毛《ヨシノカハユクセノハヤミシバラクモタユルコトナクアリコセヌカモ》
 
不通をタユルとよめるは義訓なり、今按、末に至て不行とも不逝とも書て、ヨトムとよめれば、今もヨトムとも和すべきか、有コセヌカモは、今を初として此詞集中に多し、此に二義あるべし、一つには不有越歟にて、有こす事は成まじきか有こせかしと願ふ意なり、越は、過るにて、さて有過るなり、二つには不有乞歟なり、乞の字をこそ〔二字右○〕とも、こせ〔二字右○〕ともよめるは乞ひ願ふ意なり、然ればあれこそと願ふ如くは成まじきかと云て、落著は有れこそと希ふ意なり、下に至て、多分は後の義なるべしと思しき所あり、されど古語なれば慥に心得がたく、又思ふばかりは云がたし、歌の心は、吉野川の水は瀬の早きに依て暫も絶る事なき如く、我が人を思ふ心も彼早瀬に劣らぬを、など逢ことのよどみがちなるらむ、あはれ彼水の流れつゞくやうに、逢見ることも繼て有ばやとなり、
 
初、よしの川ゆくせの――
不通とかきてたゆるとよめるは義訓なり。有こせぬはありこさぬにて、有ても過ぬなり。よしの川のはやくてしはしもたゆることなきかことく、おもふか中は、おもふまゝに有てもえ過ぬかなとなり。さま/\のさまたけにさはりて、よとみかちなれはわひてのたまへり
 
(39)120 吾妹兒爾戀乍不有者秋茅之咲而散去流花爾有猿尾《ワキモコニコヒツヽアラスハアキハキノサキテチリヌルハナニアラマシヲ》
 
秋茅、【別校本、茅、作芽、今本决v誤、】
 
腰の句以下の心は、秋萩の散て惜まるゝやうに、中々に戀死て人にもあはれと、云はれたらむがまさるべきの心なり、六帖には秋萩の歌に入れて、作者をゆはらの大君とする事、不審なり、
 
初、わきもこにこひつゝ
これはさきに磐姫の御歌に、いはねしまきてとよませ給へる心におなし。萩のちり過るやうにしなはやとなり
 
121 暮去者塩滿來奈武住吉乃淺香乃浦爾玉藻苅手名《ユフサレハシホミチキナムスミノエノアサカノウラニタマモカリテナ》
 
淺香、【幽齋本、香作v鹿、】
 
此發句の心別に注す、今按塩滿來ナムとは、後をかけて云詞なれば、發句をユフサラバと和すべし、此歌は譬喩なり、夕塩の滿來れば玉もの刈られざるごとく、程過なば障出來て逢がたき事もありぬべし、塩干の程に玉藻刈やうに早逢ばやとなり、第六之二十二紙、第七之十四紙に似たる歌あり、
 
初、夕されはしほみちきなん
夕しほのみちくれは、玉ものかくれさることく、とかくしてほと過れは、さはること出來て、逢かたき事もありぬへし。しほひのほとに玉藻をかることく、さはりなきほとに、はやくあはゝやとなり
 
122 大舩之泊流登麻里能絶多日二物念痩奴人能兒故爾《オホフネノハツルトマリノタユタヒニモノオモヒヤセヌヒトノコユヱニ》
 
(40)舟を泊るをハツルと云は古語なり、六帖には、とまるとまりとあれど、集中に類多き古語に付べし、タユタヒは末に猶豫不定とかけり、とやせむかくやせむと定得ぬ心なり、大舟に寄て此集に多此詞を云へるは、諺にも事の行かぬるを、大舟こぐやうに喩とて云ごとく、順風などなければ礒へも寄がたく、奥へも出しがたくてもてなやむを、思ひの成がたく、さりとて、え思ひやまずして有程に喩るなり、人ノ子とは、親の手に有をも人妻をもいへど、今歌にては、廣く我手に入らぬ人と心得べきか、異母の御妹を指てのたまへばなり、
 
初、大舟のはつるとまりのたゆたひに
大舟のおろすにも、とむるにも、ゆきかたきにたとへて、俗語にも大舟こくといふかことく、とにかくにおもひめくらす心のゆきかたきをたゆたひといへり。ゆたのたゆたもおなし心なり。人の子とは人つまをもいひ、またいまたわか妻とさためぬをもいへり
 
三方沙彌娶園臣生羽之女未經幾時臥病作歌三首
 
三首の中に、十首は生羽女の返しの歌なれど、※[手偏+總の旁]じて三首とはいへり、三方沙彌并園臣生羽、系譜未v詳、持統紀云、六年冬十月壬戌朔壬申、授2山田史御形務廣肆1、前爲2沙門1、學2問《モノナラフ》新羅(ニ)1、若此を三方沙彌と云歟、又聖武紀云、天平十九年十月癸卯朔乙巳、勅曰、東宮少屬從八位上御方大野所v願之姓、思2欲許賜1、然大野之父、於2淨御原朝庭1在2皇子之列1、而縁2微過1、遂被v廢退、朕甚哀憐、所2以不1v賜2其姓1也、今此に依に、磯城(ノ)皇子の事後に見えねば、此皇子廢せられ給へるか、此沙彌と云者は若それなどにや、桓武紀云、延(41)暦三年正月、授2三方宿禰廣名從五位下1、
 
123 多氣婆奴禮多香根者長寸妹之髪比來不見爾掻入津良武香《タケハヌレタカネハナカキイモカカミコノコロミヌニミタリツラムカ》 三方沙彌
 
タゲバとは、あ〔右○〕とた〔右○〕と同韵にて通ずれば、あぐると云古語か、皇極紀(ノ)童謠《ワサウタニ》云、伊波能杯※[人偏+爾]古佐屡渠梅野倶《イハノヘニコザルマメヤク》、渠梅多※[人偏+爾]母《コメタニモ》、多礙底騰〓※[口+羅]栖《タケテトホラセ》、歌麻之之能烏〓《カマシシノオシ》、此多礙底《タケテ》も、あげてなるべし、又、此集第九にも、小放《ヲハナリ》に髪たぐまでにとよめり、又末に馬をも舟をもたぐとよめるは、馬は手綱かいくり、舟は鋼手を引《ヒケ》ば、たぐると云詞にや、ヌレとは、膏づきて滑らかなるを云、水にぬるゝにはあらず、第十四東歌に、いはゐつら、ひかばぬれつゝとも、ひかばぬる/\ともよめる同じ詞書なり、諺にも繩などの能くらるゝを、ぬら/\ぬる/\と申めり、第十一に、我黒髪を引ぬらし亂て反り、とよめるを思へば、結《ユ》へば滑にてすべり、すべるとてあげねば、餘なるまで、長き髪と云にや、天武紀に、垂2髪于背1をスベシモトヾリと点ぜるは、俗に云さげ髪なるべし、すべしは、すべらしなり、掻入〔二字右○〕を今はミダリと点じ、六帖には、みだれとあり、今按ことはりは明なれど、しかよむべきやう心得がたし、カキレと讀て、かきいれと心うべきか、入は収る義なれば掻上(42)て結なり、第二十に、あしびの花を袖にこきれなと讀るは、袖にこき入むななり、其外コキレとあまたよめり、此に准ずべし、本点によらば、我煩て久しく相見ぬ程打嘆て髪をさへあげずして、亂てか有らむとなり、今按の意は、結も物うく長きも煩らはしければ、纔にそゝげたる髪を掻入れてや有らむなり、女は髪を先とするものなれば、髪を云に、かたちつくり皆籠れり、
 
初、たけはぬれ――
たけとはたくれはなり。ぬれは水なとにぬるゝにはあらす。第十四に、ひかはぬる/\とよめるにおなし。あふらつきたる髪のなめらかなるをいへり。俗にぬら/\といへり。すへ/\さら/\といふも似たる俗語なり。たかねは長きとは、たくりあけねは長きなり。日本紀に、垂髪于背とかきて、すへしもとゝりとよめるかことし。但今はつくろはぬ心すこしかはれり。掻入をみたりとよめるは、ことはりはさることなから心得かたし。末にいたりて袖にこきいれつといふへきを、袖にこきれつとよめる例にてかきれとよむへきにや。かきけつりてあけたらんかとなり
 
124 人皆者今波長跡多計登雖言君之見師髪亂有等母《ヒトミナハイマハナカシトタケトイヘトキミカミシカミヽタレタリトモ》
 
亂有等母、【古点、ミダレタリトモ、】 娘子、【官本、歌下有2此注1、今本脱明矣、】
 
たがねば長きと云を承て、此比は髪ゆふ業もせねば、見る人毎にすべりて長ければあげよといへども、君に相見し時の髪なれば、亂たれども其まゝにて居るとなり、君ガ見シ髪とは、結たるを見しなり、第十一に、朝寢髪われはけづらじ、うつくしき君が手枕觸てし物を、これに同意なる上、毛詩に、自2伯之東1、首如2飛蓬1、豈(ニ)無(ラン)2膏沐1、誰|適《アルシトシテカ》爲v容《カタチツクリスルコトヲ》、此意を兼たり、古点の意は、君が見し髪なれば、我ながらなつかしければ、皆人の云如く、たとひ亂たりとも君が病の平復して相見むまでは結も改めじとなり、
 
初、人みなは今は――
かきもけつらす、打亂たるか、あまりなかきに、たきてあけよと、みな人はいへとも、君かやまひにふすより、たかためにけつるへくもなけれは、見たまひし時のまゝにて、みたれたれと、そのまゝ有となり。さきの歌、かきれつらんかとよめは、亂たれともといへる結旬、いよ/\かなへる歟。毛詩云。自伯之東、首如飛蓬、豈無膏沐、誰適爲容。戰國策云。士爲知己者死。女爲悦己者容。この歌の下に園臣生羽女と有けんか失たるへし
 
125 橘之蔭履路乃八衢爾物乎曾念妹爾不相而《タチハナノカケフムミチノヤチマタニモノヲソオモフイモニアハステ》 三方沙彌
 
(43)第六にも、此歌詞少替て再出たり、橘は花も實も賞する物なれば、折につけて其木の下に人の行なり、史記、李廣傳、賛曰、諺曰、桃李不(レトモ)v言、下|自《オノヅカラ》成v蹊、此意に同じ、八チマタは、此方彼方《コナタカナタ》より、道のあまたあるなり、ちまたは、みちまたなり、亦、又、等の詞の字より初て、人の※[月+誇の旁]、木の※[木+叉]《マタアリ》、水の派《ミナマタ》、道の岐《チマタ》等に至るまで、一條ならぬをまた〔二字右○〕といへり、爾雅曰、八達、謂2之崇期1、此は二達三達より、道の名皆替て、入筋とほりたるを崇期といへど、今は橘の蔭ふむ道とつゞけたれば、必しも爾雅によるべからず、延喜式第三に、八衢祭といへるも、第八、道饗《ミチアヒノ》祭(ノ)祝詞を見るに、唯※[手偏+總の旁]じて道を云へり、此歌の意、樣々に妹を思ふ由を云はんとて、上は次第に序にいへり、
 
初、橘のかけふむ道の――
八ちまたは、爾雅曰。八達謂之崇期。延喜式第三衢祭云々。同第八、道饗祭祝詞云。高天之原爾事始※[氏/一]皇御孫之命止稱辭竟奉大八衢爾湯津磐村之如久御名者申※[氏/一]辭竟神等前爾申久。八衢比古八衢比賣久那斗止御名者申※[氏/一]辭竟奉。この歌の八ちまたは八達にかきらす。橘の花の時も實になりたる時も、人のめてゝおほくかた/\より立よるをいふ。それに色々なる思ひをたとふるなり。史記李廣傳曰。諺曰。桃李不言下自成蹊。いまのうた、これに准すへし。此歌第六にまた出せり。詞もすこしかはり作者も異説あり。第十一にも、橘のもとに我たちなとよめり
 
石川女郎贈大伴宿禰田主歌一首
 
官本、此下細注云、即佐保大納言大伴卿第二子、母曰巨勢朝臣女也、此注は後人の加へたるにや、此歌を引る物多けれど此注見えず、歌の後の注に、大伴田主、字曰2仲郎1と云に繼けてこそ書べきを、さもなければ信じがたし、佐保大納言は安麿也、嫡子は旅人にて、田主が字仲郎なれば第二に當り、宿奈麿、稻公等は叔季にや、朝臣の下に人の字脱たる歟、
 
(44)126 遊士跡吾者聞流乎屋戸不借吾乎還利於曾能風流士《タハレヲトワレハキケルヲヤトカサスワレヲカヘセリオソノオソノタハレヲ》
 
タハレヲとは、好色の人の風流なるを云、袖中抄に、聞流乎を、きゝつるをとよめり、同じ意ながら今の点に付べし、不借は、今案カサデとも和すべし、オソノタハレヲは、此おそ〔二字右○〕と云詞につきて先達の説々あり、一には獺の戯によす、二には、きたなき(45)たはれをと罵る意、三には、僞のたはれをと云意、以上三義、事舊たれば委は出さず、往て見るべし、先獺戯は和名云、獺、【音脱、和名攷證曾、】今は於曾なれば、假名既にたがへる上に、袖中抄に、獺戯の下に云、又萬葉におそのたはれをと云事ありとて、今の歌を引て終に云、今云を〔右○〕そのたはれを、お〔右○〕とのたはれを紛ぬべければ、記し侍るなり、かゝれば、似たる事の本來別義なり、次に、きたなきをおそ〔二字右○〕と云も假名違へり、其故は此集第十四に、烏とふ於保乎曾杼里とよめり、是大にきたなき鳥と云心なるに、乎曾とかければなり、奥義抄云、或人云、ひむがしの國の者は、虚言をばをそごと〔四字右○〕と云なり、さればそら色好みとよめるにこそとも申す、仙覺抄云、虚言のたはれをと戯れいへりけるなり、此は右の説と同じ、されど虚言を於曾と云所以を出さゞれば事たらず、今云、今の世僞を云をうそつくと申は、奥義抄のをそ〔二字右○〕にや、う〔右○〕はを〔右○〕にもお〔右○〕にも通ず、口をひそめて聲を出すを嘯《ウソフク》と云ひ、うそを吹とも云へば誠なき言もそれがやうになんあれば、うそ云とも、うそつくとも云にや、つくは吐の字なり、此義の用否は後の人定むぺし、今案右の外に兩義あり、一には、第十二に、山城の石田の杜に心おぞく手向したれば妹に逢がたき、此心おぞくと云に鈍の字をかけり、又第九に浦島子をよめる歌の反歌に、常世邊《トコヨベ》に住べき物を釼太刀《ツルギタチ》さが心から於曾也この(46)君とよめるも太刀によせて心おぞしと云へり、源氏物語の、蓬生橋姫などにも心遲といへり、かゝれば心のにぶくて我方便をとくも意得ぬたはれをなりと戯て罵るにや、二つには、古語拾遺に、天鈿女命の下に注して云、古語、天乃|於須女《オズメ》、其神強捍猛固(ナリ)、故(ニ)以爲v名、今(ノ)俗《クニコト》強女謂2之|於須志《オズシ》1、此縁也、源氏|東屋《アツマヤ》に、めのと、はたいと苦しと思て、物つゝみせず、はやりかにおぞき人にて云云、注に、おずきとよむ、恐しき人と云事なりといへり、かゝれば、源氏にいへるおぞきは、古語拾遺の於須志なり、今も男女を別ずおそろしき人と云心に、おぞき人とも云合へり、されば、風流にはあらで、こはくおそろしき人と云にや、此中に注の意を以撰ぶに、心鈍と云義、能叶ふ歟、大伴田主字曰仲郎、 此人早世歟、國史に見えず、見人聞者、 仙覺抄には、人〔右○〕をも者〔右○〕に作れり、袖中抄に引るは今の本と同じ、 雙栖、 文選、潘岳悼亡詩云、如2彼翰林鳥、雙栖一朝隻(アルカ)1、 獨守之難、 文選古詩云、蕩予行(テ)不v皈、空(シキ)牀難獨守、 賤嫗、 和名云説文云、嫗、【和名、於無奈、】老女之稱也、玉篇云、鳥遇切、老嫗母也  自媒 文選、曹植求2自試1表云、夫(レ)、自《ミヅカラ》衒(ヒ)自媒者、士女之醜行也、 諺戯、 袖中抄、諺作(ル)v謔(ニ)
 
初、たはれをとわれはきけるを――
たはれをとは色をこのみ、情あるやうのをのこなり。すなはち、この歌にかける、遊士、風流士の心なり。おそは、東俗の語、きたなきをいふと奥義抄にいへり。日本紀に似鴉食糞とあるをもて見、奥義抄の説によるに、此第十四東歌に、からすとふ大おそ鳥とよめるもおほきにきたなき鳥なり。又高野山にもろ/\のけからはしき物なかすみそ川を、おそ川といひならはせるもこれにかなへり。 しかれは聞をよへるたはれをにはあらで、すご/\とわれをかへせるは、きたなきたはれをなりと、たはふれにのりてよめり。又かはおそのことにいへる説あり。俊頼朝臣これによられたれと、よくかなへりともみえす。又今案おそのその字をすみてよむへき歟。第十二に、山しろのいはたのもりに心おそくたむけしたれは妹に逢かたき。此心おそくに、鈍の字を用たり。今もこれにや。とくこゝろえても宿かさるへきを、心のにふきたはれをやとのるなり。第九に、浦島の子をよめる歌に、とこ世へに住へきものをつるきたちさか心からおそやこの君とよめるも、利鈍は、刃のときとにふきとより、人のさかしきとおろかなるにもたとへて、にふきをおそしともいへは、よせたるへし
 
大伴田主字曰仲郎容姿佳艶風流秀絶見人聞者靡不歎息也時有石川女郎自成雙栖之感恒悲獨守之難意欲寄書未遂良信爰作方便而似賤嫗巳提鍋子而到寢側※[口+更]音跼足叩戸諮曰東隣貪女將取火來矣於是仲郎暗裏非識冐隱之形慮外不堪拘接之計任念取火就跡歸去也明後女郎既恥自媒之可愧復恨心契之弗果因作斯歌以贈諺戯焉
 
初、大伴田主字曰仲郎――。自成2雙栖之感1【潘安仁(カ)悼亡(ノ)詩(ニ)如(シ)2彼(ノ)翰林鳥(ノ)雙(ヒ)栖(テ)一朝|隻(ヒトリアルカ)1】恒悲2獨守之難1【古詩(ニ)曰蕩子行(テ)不v歸。空牀難2獨(リ)守1。張景陽(カ)雜詩(ニ)云。佳人守2〓獨1。】賤嫗(ハ)和名集(ニ)。説文云。嫗【和名於無奈】老女之稱也。跼足【詩云。謂2天(ヲ)葢高1不2敢(テ)不1v局傳(ニ)曰局(ハ)曲也。】冒【亡到(ノ)切覆也。】既(ニ)耻2自媒之可1v愧【毛詩云南山(ニ)云。折v薪如之何。匪v斧不v刻。娶v妻如之何。匪v媒不v得。禮記曰。故男女無v媒不v交。無v幣不2相見1。又引v詩云。〓V麻如之何、横2從其畝1。取v妻如之何、必告2父母1。以v此坊v民民猶有2自|獻《スヽムルコト》2此身1。戰國策曰。燕王謂2蘇代1曰。寡人甚不v喜《コノマ》2〓者言《イツハルノヽヲ》1也。【〓州謂v欺曰v〓。補曰〓(ハ)徒案反(ノ)或作v〓】蘇代對云。固地賤v媒爲2其兩譽1也。之男家1曰2女美1之2女家1曰2男美1。然而周之俗不2自爲取1v妻。且夫處女無v媒老且不v嫁。舎v媒而自衒(ヘハ)敝(テ)而不v售。【敝猶v敗無v成v事也】順而無v敗售而不v敝者、唯媒而已矣。且事非v禮不v立。非v勢不v成。夫使2人坐受1v成v事者唯〓(ル)者《モノ》耳。王曰善矣。史記田敬伸完世家曰。〓王之遇v殺其子法章變2名姓1爲2〓(ノ)太史〓家庸1。太史〓女奇2法章状貌1以非2恒人1憐而常竊2衣食1之與私通焉。〓〓既以去v〓。〓中(ノ)人及齊(ノ)凶臣相聚求2〓王子1欲v立v之、法章懼2其誅1v己也。久之乃敢自言我〓王子也。於v是〓人共立2法章1。是爲2襄王1。○襄王既立2太史氏女1是爲2君王后1生2子建1。太史〓曰。女不v取v媒因自嫁非2吾種1也。〓2吾世1終v身不v覩2君王后1。君王后賢不3以v不v覩故失2人子之禮1。】曹植求2自試1表曰。夫自衒自媒者士女之醜行也
 
大伴宿禰田主報贈歌一首
 
(47)127 遊士爾吾者有家里屋戸不借令還吾曾風流土者有《タハレヲニワレハアリケリヤトカサスカヘセルワレソタハレヲニアル》
 
不借は右に云如くカサデともよむべし、尾の句、仙覺抄には、タハレヲニハアルと點ぜり、是は者の字をは〔右○〕とよみてに〔右○〕をば上によみつくる心なり、されども第四になか/\に、もたもあらましをと云に、中中者とかき、其外數所に者〔右○〕をに〔右○〕とよめる所あれば.今の本惡からす、官本も亦此本と同じ、歌の意は、それとも知らずして還しつるとはいはで、我は實の遊士なり、賤しき老女にまがへてたばからるゝを、打つけに宿かさむと云はゞ、あだなる男と見たまへおとされなむを、たゞに返しつるが、聞ゆるたはれを故なりと、此も戯てよめるなり、
 
初、たはれをにわれはありけりやとかさすかへせるわれそたはれをには有
しらすしてはかへしつれと、さはいはて、われはまことのたはれをなり。たはれをならすは、打つけにやとかさむともとむへし。しからは、あさはかなるあたものと見たまへおとされなんを、よく念してかへしつるが、まことのたはれをゆへなりと、ざれてよめり
 
同石川女郎更僧大伴田主中郎歌一首
 
中郎は、上の如く仲に作るべし、後注同じ、
 
初、同石川――
中當从人。歌左注中亦同
 
128 吾聞之耳爾好似葦若未乃足痛吾勢勤多扶倍思《ワカキヽシミヽニヨクニハアシカヒノアナヘクワカセツトメタフヘシ》
 
吾聞之、【仙覺点、ワガキヽノ、幽齋本、與2仙覺1同、】 好似、【古点ヨクニル、】 葦若未乃、【古点云、アシノハノ、】 足痛吾勢、【古点云、アシイタワガセ、官本又云、アシヒクワガセ、】
 
(48)初の二句は、古点のまゝに、ワガキヽシ、ミヽニヨク似ルと讀べきか。其故は、吾聞シとは兼て脚氣ありと聞なり、耳ニヨク似ルとは火を乞に行て見たる時聞し如くなるなり、又好と云に當て、聞に似ばと云は少叶はずや、耳とは音を開所なればきゝに能く應ずると云はんが如し、第十一に、ことにいへば耳に輙しとよめる耳〔右○〕の如し、アシカビは、神代紀には、葦牙とかけり、又はあしつのと云、和名云、※[草冠/炎]【音、毯、和名、阿之豆乃、】蘆之初生也、六帖に、蘆つのゝ生てし時に天地と、人とのしなは定まりにけり、諺に草木の芽《メ》の出るをめかび〔三字右○〕と云も、同詞を重て云なり、今按第十夏雜歌の初の長歌に、小松がうれと云々、若未〔二字右○〕と書たれば、アシワカノと讀べきか、歌仙家集の中に元眞、難波のあしわか〔四字右○〕とよめり、葦の若きをやがて體になして呼なり、譬ば童の名に某若と云がごとし、あしかびは、纔に萠して角ぐむ程を云、あしわかは、水を出もし出もせぬ程を云べければ、若未とかける意これなるべき歟、第十に、吾宿の萩の若未長、此下の三字を、ワカタチと点ぜり、此には今按の義あり、彼處に至て注すべし、若未の二字彼に同じ、葦牙よりは長じて後なる事准じて知べし、アナヘグは、和名云、説文云、蹇(ハ)、【音犬、訓、阿之奈閉、此間云、那閉久、】行不v正也、かゝれば足なへ〔三字右○〕と云もなへぐ〔三字右○〕を略して体に呼なり、足の痿《ナユ》ると云には非ず、痿る意ならば奈江《ナエ》の假名なるを、奈閉《ナヘ》とあれば別の義明なり、史記呉太伯世家云、公(49)子光、詳《イツハテ》爲《マネシテ》2足|疾《ナヘク》1、入(ル)2于窟室1、左傳云、光僞(テ)足|疾《ナヘク》、和名又云、脚氣、一名脚病、俗云、阿之乃介、源順家集云、今は草の菴に難波の海のあしのけにのみ煩らひてこもり侍れば、云云、此病をば賤からぬ物にして清少納言云、病は、胸、物氣、足の氣、又そこはかとなく物くわぬ、うつぼ物語第十五云、源中納言、嵯峨院に參給て、みだびかくびやう、いたはりについて、云云、源氏若菜下に、亂脚病と云物おこりて、所せく發り煩らひ侍て、墓々しく蹈立る事も侍らず云云、續博物志云、脚弱病、用2杉木1爲v桶濯v足、排2樟脳於兩股間1、以2脚棚1繋定(ムレバ)、月餘即效(アリ)、此兩句、古点は淺※[獣偏+爰]かりしを、新点の古き心は昔に叶て仙覺の功なり、さてかくつゞくる心は、仙覺云、葦芽と云は葦の角ぐみ生たるなり、あなへぐとは足痛みて引なり、葦芽は、葦の苗なれば、あなへぐと云詞の葦苗に通へばよそへよめるなりと、此義謂れたる上に猶今按を加ふるに、上の今按の如くば、蘆筍は白くて細くうつくしき物の柔らかに弱ければ、葦を足によそへて承る上に、仲郎がうつくしき足をやむによそふるなり、荀子(ニ)云、南方烏名2蒙鳩1、爲《ツクルトキ》v巣編v之以v髪、繋2之葦※[草冠/召]1、々折(レテ)卵破、巣非ケレハナリトタグー!ナ カタ′ノヒ一カ(シテ  レは キ チエキリウツナ  ケ
v不v牢、所v繋之弱(ケレハナリ)也、舊事紀云、爾《スナハチ》欲v取(ト)2健御名方《タケミナカタノ》神(ノ)手1、乞歸而《コヒカヘシテ》取(レハ)者、如v取2若(キ)葦(ヲ)1、※[手偏+益]※[木+此]而《ニキリウツテ》投(ケ)離、即逃去、【古事記、同v之、】貫之の歌に、白浪のよすれば靡く葦の根とも、難波なる葦の白根ともよめり、ツトメタブベシは日本紀に自愛をツトムとよめり、みづから保重する意なり、(50)能醫療を加へて保養したまふべしとなり、
 
初、わかきゝしみゝによくにはあしかひのあなへくわかせつとめたふへし
わか聞しみゝによくにはとは、わかきくかことくならはなり。あしかひは蘆のはしめてもえ出るをいふ。俗にも木のめをめかひといへり。日本紀第一云。于時天地之中、生一物、状如葦牙。和名集曰。玉篇云。〓【皆亂】〓也。〓【音〓和名阿之豆乃】蘆之初生也。あしのわかきはおれやすくて物にいためはあなへくにつゝけんとていへり。荀卿子曰。南方烏名蒙鳩、爲巣編之以髪、繋之葦※[草冠/召]、々折卵破、巣非不牢、所繋之弱也。あなへくはあしなへくにて、脚のいたむなり。あしかひ
は色しろううつくしきか、やはらかなる物なれは、その心こもりて、こゝにはよき枕詞なり。和名集云。説文云蹇【音犬、訓阿之奈閉、此間云那閉久】行不正也。又云。醫家書有脚氣論註云、脚氣、一云脚病、俗云阿之乃介。史記呉太伯世家云。公子光詳爲足疾、入于窟室。左傳曰。光僞足疾。續博物志曰。脚弱病用杉木爲桶濯足、排樟脳於兩股間、以脚棚繋定、月餘即效。うつほ物かたり第十五、源中なこん嵯峨院にまゐりたまひて、みたりかくひやういたはりについて云々。清少納言に、やまひは、むね.ものゝけ、あしのけ、たゝそこはかとなくものくはぬ云々。源氏わかな下に、みたりかくひやうといふものおこり、所せくおこりわつらひ侍て、はか/\しくふみたつることも侍らす云々。つとめは、日本紀に自愛とかきてよめり。たふはたまふなり。平家物語に、木曾か鼓判官にあひて、鼓といふよしを問ふ詞にも、うたれたふたか、はられたふたかとかけり。つとめたまふへしとは、保養をくはへて早く平復し給へとなり
 
右依中郎足疾贈此歌問訊也
 
大津皇子宮待石川女郎贈大伴宿禰宿奈麿歌一首
 
待は侍に改むべし、諸本侍なり、遊仙窟に、婢とも侍婢とも有をマカタチと點ぜり、官本注云、女郎字(ヲ)曰2山田(ノ)郎女1也、宿奈麿宿禰(ハ)者大納言兼大將軍卿之第三之子也、此石川女郎は、此よりさき四度見えたる女か、今の歌によれば、年少し古たりと見えたり、其中に日並皇子の歌を賜たるは別の女か、彼端作の下の注、撰者みづから加へたりと見ゆればなり、又此歌は持統天皇元年の事なるべし、大津皇子宮侍とて藤原宮に繋たるが故に、
 
初、大津皇子宮侍――
まかたちは今俗こしもとなといふなるへし。遊仙窟には婢とも侍婢ともかけり。侍兒とかきて、長恨歌にはおもとひとゝよめり。今案、藤原宮御宇となりては、大津皇子わつかに十月の初まて世におはしまし、そのうへ天武天皇諒闇のうちなれは、うたかふらくは、此歌も淨御原御宇のほとの事なるへくや
 
129 古之嫗爾爲而也如此許戀爾將沈如手童兒《イニシヘノヲウナニシテヤカクハカリコヒニシツマムタヽワラハコト》
 
嫗、【六帖三、ヲムナ、】 如手童兒、【六帖、テワラハノゴト、仙覺抄云、タワラハノゴト、幽齋本同v之、】
 
古ノ嫗と我身を云は、年のねびたるを卑下して云なり、嫗は上に和名を引ごとく老女之稱にて、和訓|於無奈《オムナ》なれば假名も別なり、枕草紙に、冷じき物をいへる中に、おう(51)なのけさうと云ひ、源氏に、おうなになるまで、又人からやいか ゞおはしましけん、おうなとつけて心にもいれず、と云へる如きは皆嫗なり、戀ニ沈マムとは臥沈て泣なり、第四に、玉きぬの、さゐ/\沈み家の妹に、物いはず來て思かねつも、とよめる沈に同じ、タヽワラハゴト、此點字に叶はず、注にタワラハノゴトとあれば、仙覺のタワラハノゴトと點ぜるは叶へども、六帖に依てテワラハノゴトとよむべし、其|所以《ユヘ》は、集中に異《イ》を注する傍例、一句にても二三句にても、異あるをば注なし、異なきをば注せず、然れば仙覺の如くよまば、注には唯、一云戀乎太爾忍金手武と三四兩句の異をのみ注すべきに、三句の異を注せるにて六帖に依べしと申なり、稚子《イトケナキコ》を手兒《テコ》と云へるを、多古《タコ》とはよまざれば、テワラハ此に准ずべし、歌の意は、嫗になりたるしるしには、物の情を知て戀にも能堪忍すべき理なるに、幼兒の母や乳母などを慕て物も聞入れず泣ごとく、戀に堪ずして臥沈て泣む物かとなり、第四に坂上郎女が歌にも、たをやめといはくも知く、手わらはのねのみ泣つヽとよめり、
 
初、いにしへのおうなにしてや――
いにしへのおうなとは、年ふりたる女といふ心にて我身を卑下していへるなり。嫗はさき/\ことく、老女なり。清少納言に、すさましき物をいふ中に、をうなのけさうといへるもこれなり。三十にもあまる比にていへるなるへし。をうなになりて戀もさむへさほとのわか身にて、きひはなるたわらはのおやなとをこふることくこひになきしつまん物かとみつからいさむれと、ひとへにわらはのことしとなり。たゝわらはのことゝあるはわろし。たわらはのことゝよむへし。六帖にもたわらはなり。たわらはとはゝめのとなとの手をはなれぬをいふへし。第十一に、あちきなくなにのまかこと今更にわらはことするおいひとにして
 
一云戀乎大爾忍金手武多和郎波乃如
 
大は太に作り、郎は良に作るべし、此異本の心は、唯心をさなく戀を忍がたかるを(52)童に喩るなり、
 
長皇子與皇弟御歌一首
 
同母の御弟、弓削(ノ)皇子を初て、異母の御弟あまたおはしませど、歌に依に、妹を女弟といへば、此皇弟は異母の御妹なるべし、それもあまた坐せば何れと指がたし、
 
初、長皇子與皇弟御宇一首――
長皇子は、御母は大江皇女にて、同母の御弟は弓削皇子なり。されともこれはいつれにてもことはらの御妹の皇女につかはされたる御歌と見えたり
 
130 丹生乃河瀬者不渡而由久※[しんにょう(竹/夾)]久登戀痛吾弟乞通來禰《ニフノカハセノハワタラテユクユクトコヒイタムワカセコチカヨヒコネ》
 
※[しんにょう(竹/夾)]久、【※[しんにょう(竹/夾)]、當2改作1v遊】
 
丹生ノ川は、大和宇智郡にあり、丹生神社あり、專雨を祈る所なり、第二の句の點惡からねど字に叶はず、今按セハワタラズテと讀べし、これにて能く字に叶へり、此二句に、結句を合せて心得るに、皇女の宮は丹生川の彼方に有れば、えあひ給はぬ中を、やがて彼川を渡らぬに譬たまへるか、上の但馬(ノ)皇女の、朝川わたるとよませ給へるに注せしが如し、若は同じ都の内ながら、只相見ぬ中に譬出し給へるにや、ユク/\トとは、末に大舟のゆくら/\などよめるに同じ、上の弓削(ノ)皇子の、大舟のはつる泊のたゆたひにと云御歌に付て注せり、思ふ心のはかゆかでのび/\なる意なり、戀イ(53)タムは、戀佗て心の痛むなり、ワガセとは、せ〔右○〕は、男女に通ずる詞なり、此に弟の字をかけるは、端作に皇弟とあれば意を得て義訓せり、此卷下に至て、大來の皇女の、二上山をいもせと吾みむとよませ給へるには、弟の字も妹に用たり、コチカヨヒコネは、こなたへかよひ來よなり、今按、此集に乞の字をイデとよめり、いで〔二字右○〕は即物を乞詞なり、允恭紀云、且曰、壓乞戸母《イデトジ》、其|蘭《アラヽキ》一莖焉、【壓乞、此運2異提1、戸母、此(ヲハ)運2覩自《トジト》1、】云云、これらに依て今もイデと点ずべきか、
 
初、丹生の川せはわたらすてゆく/\とこひいたむわかせこちかよひこね
丹生の河は大和なり。瀬をはわたらてといふもおなしことはりなから文字にあたる時わろし。瀬者不渡而とかきたれは、わたらてと濁るては不の字なれは、上に瀬をと、をの字をよみつけて、下に而の字をあませり。瀬はわたらすてとよめはよくかなへり。川をわたらぬは、あはゝやとおもふ心のみありて、事のならぬにたとへていへり。ゆく/\とゝは第十二十三十七なとに、大舟のゆくら/\とよめるにおなし。俗語にゆくりとしてといふもこれなり。ゆる/\とゝつねにいふ心なり。こふる心のたゆむにあらす。こふるあひたのさすかにこともきれす、なるゝともなくほとをふるをいへり。後のゆの字は遊を誤て〓につくれるなるへし。こちはこなたへなり。乞の字は、いてともよめり。いては、日本紀にも、物を乞ふ詞にいへり。いてその物ひとつえさせよといふかことし。よりてこゝにもさもよむへし
 
柿本朝臣人磨從石見國別妻上來時歌二首并短歌
 
妻、釋名云、士庶人曰v妻、々齊(ナリ)也、夫賤、不v足2以v尊稱(スルニ)1、故齊等言也、和名云、白虎通云、妻【西反、和名米、】者齊也、與v夫齊v体也、人麿に前後兩妻あり、今此妻は初なり、後に呼上せて輕市邊に置歟、此卷下に、人磨妻の死を悼て作れる歌多き中に、第一の歌に見えたり、第四に、此妻の歌一首あり、姓名をいはずして人麿妻と云は、此人なり、後の妻は依羅娘子なり、即、此卷に歌あり、姓名の有無に依て辨ふべし、
 
初、柿本朝臣――別妻
和名集云。白虎通云、妻【西反和名米】者齊也、與夫齊体也。釋名云、庶人曰妻、妻齊也、賤不足以尊稱、故齊等言也。人まろの妻に前後あり。是は前妻なり。此妻は姓名見えす。今は石見にをきてわかれてのほらる。そのゝちやまとへよひとりて高市郡輕郷にすへをかる。此卷下に至りて此妻にをくれてかなしひてよめる長歌短歌或本歌合せて十首あり。子もありけるよしそこに見えたり。第四に柿本人麻呂妻歌一首とて載たるは此妻の歌なり。第九卷にも與妻歌妻和歌とて二首を載て、後に右二首柿本朝臣人麻呂之歌集中出としるせり。但第九の卷は惣して名を載ること分明ならされは、前妻後妻わきかたし。そのうへ誰の集に出たりといふは、かならすその人の歌とはさためかたけれは、ひとまろの集に出たりといふも、別人の夫妻贈答せるか、歌のよろしけれはかきつけをかれたるも侍へし。後妻は依羅氏なり。やかて此下に依羅娘子與人麻呂相別歌とて載。人丸石見にて死去のよしを聞てよめるかなしひの歌も、此下に依羅娘子とて載られたり
 
131 石見乃海角乃浦回乎浦無等人社見良目滷無等【一云礒無登】人社(54)見良目能嘆八師浦者無友縱畫屋師滷者《イハミノウミツノヽウラワヲウラナミトヒトコソミラメカタナミトヒトコソミラメヨシヱヤシウラハナクトモヨシヱヤシカタハ》【一云磯者】無鞆鯨魚取海邊乎指而和多豆乃荒礒乃上爾香青生玉藻息津藻朝羽振風社依米夕羽振流浪社來縁浪之共彼縁此依玉藻成依宿之妹乎《ナクトモイサナトリウナヒヲサシテニキタツノアライソノウヘニカアヲナルタマモオキツモアサハフルカセコソヨラメユフハフルナミコソキヨレナミノムタカヨリカクヨリタマモナスヨリネシイモヲ》【一云波之伎余思妹之手本乎】露霜乃置而之來者此道乃八十隈毎萬段顧爲騰彌遠爾里者放奴益高爾山毛越來奴夏草之念之奈要而志怒布良武妹之門將見靡此山《ツユシモノオキテシクレハコノミチノヤソクマコトニヨロツタヒカヘリミスレトイヤトホニサトハワカレヌマスタカニヤマモコエキヌナツクサノオモヒシナエテシノフラムイモカカトミムナヒケコノヤマ》
 
浦無等、【官本、ウラナシト、亦如2今点1、】 滷無等、【官本、点、准v上、】 能嘆八師、【別校本、嘆、作v咲、當v從v此、】 海邊乎指而、【仙覺点云、ウミヘヲサシテ、】 念之奈要而、【別校本、之、作v思、】 志怒布良武、【仙覺抄、志怒、作2悉努1、】
 
角ノウラワは、和名云、那賀(ノ)郡、都農【都乃】、ウラナミト人コソミラメとは、能浦なしと、人こそみるらめなり、る〔右○〕もじなきは古語なり、和名云、四聲字苑云、浦、大川旁曲渚、船隱v風所也、【傍古反、和名、宇良、】滷ナミト、人コソ見ラメ、玉篇云、滷、音魯、鹹水也、又云、潟、【齒又切、或、滷字、】和名云、文選(55)海賦云、海溟廣潟、【思積反、與v昔同、師説加太、】義は上の如く知べし、能嘆八師は、よしやの古語なり、古事記上に、阿那邇夜志《アナニヤシ》とあるは、日本紀の神代紀に、妍哉、此云2阿那而惠夜《アナニエヤ》1、とあるに同じ、然ればあなにやし〔五字右○〕のし〔右○〕は語の、助なり、又神武紀に、妍哉、此云2鞅奈珥夜《アナニヤト》1、とあれば、あなにゑやのゑ〔右○〕も休め字なるを以て、今のよしゑやしのゑ〔右○〕とし〔右○〕との二字助語なること准じて知べし、後に吉哉と書てよしゑやしとよめる此なり、嘆〔右○〕は上に注する如く咲の字の訛れるなり、咲はゑむ〔二字右○〕とよむを下を略して用るは、諺に笑ふ顔のうるはしきをゑがほよしと云が如し、カタハナクトモ、此にて讀切るべし、人は浦もなく、潟もなしと見るとも、吾ためには故郷にして妻とたぐひてすめば、浦なし滷なしとも思はず住よしとなり、第十三に此つゞきに似たる歌あり、以上一段は下の終までの第二段の離別の情の殊に悲しき由を云はむ料なり、イサナ取は、海の枕言、別に注す、ウナヒヲ指テとは、出立て舟に乘て來るなり、ニギタヅノ荒礒ノ上ニ、熟田津は第一に出たり、荒磯はアリソともよめり、カアヲナルは、か〔右○〕も發語の詞なり、此集に黒きをか〔右○〕くろきともよめり、源氏に易さをかやすき、弱きをかよはき、よれるをか〔右○〕よれるなどあり、俗にも細きをか〔右○〕ほそきと云へり、玉モオキツモとは、玉もは藻をほめ、おきつ藻は、奥に有藻なり、共に藻の※[手偏+總の旁]名にて、あながちに替らねど、かく重ねて云るは古歌の(56)習なり、朝羽振、風コソヨラメとは、和名に、鳥の羽振に、※[者/羽]の字を出せり、はふくと云も同じ詞なり、風の海水をうちて吹來る音は、鳥の羽を打て振ふ樣なれば喩てかくいへり、郭璞が江賦に、宇宙澄〓、八風不v翔《フカ》、此翔〔右○〕の字を用たるも此意なるべし、依らめは上の玉もの事なれば、風にこそよるらめと云るなり、夕羽振浪コソ來ヨレとは、此浪も風に依て立てば、夕はぶるといへり、浪こそ來よれといふ心上の如し、浪ノムダカヨリカクヨリとは、むた〔二字右○〕はともに〔三字右○〕と云古語なり、第十五に、可是能牟多《カセノムタ》、與世久流奈美爾《ヨセクルナミニ》、また君我牟多《キミガムタ》、由可麻之毛能乎《ユカマシモノヲ》、など其外あまたよめり、依て古點は浪のともなりけるを、仙覺の改られたる由、彼抄に見えたり、尤叶へり、かよりかくよりは、此集にと〔右○〕にかくにと云を、か〔右○〕にかくにとあれば、と〔右○〕よりかくよりなり、玉モナス依ネシ妹ヲは、日本紀に如2五月蠅1とかきて、サバヘナスとよめれば、玉もの如く、こなたかなたより依合て寢しなり、後に玉藻なす靡かぬらむともよめり、これは、伊與の地について渡る舟の上に見る物に寄て云なり、注に〓之伎余思とは、愛の字をはしき〔三字右○〕とよめり、此字を、うるはし〔四字右○〕ともうつくし〔四字右○〕ともなつかし〔四字右○〕ともをし〔二字右○〕ともよめり、はしきも、それらにかよへる詞なり、〓は波の字を誤れり、改むべし、露霜は、露と霜となり、露結て霜となる故に、霜に初を呼加へて云には非ず、下の歌にも、秋山に落るもみぢばとあれば、此時、(57)九月の末と見ゆれば、折ふしのものに寄て置テシクレバとつゞけられたり、夏草ノ念シナエテとは、此卷の下に、同作者、明日香皇女を悼奉てよまれたる歌にも此詞あるに、しなえ〔三字右○〕を之萎〔二字右○〕とかけり、萎は痿なり、し〔右○〕は上の磐之媛の御歌の石根しまきてのし〔右○〕の如し、夏日盛に草のよられてしほるゝを、歎ある人の物思ふ時、心もよはり身もうなだるゝに譬たり、ナビケ此山は山は動きなき事のためしにもすなるを、そなたの方の見えぬを侘てせめての事にいへるは、和歌の習面白き物の妻を思ふ心あはれ深し、第十二に、あしき山梢こぞりてあすよりは、なびきたれこそ妹があたりみむ、十三にも、我かよひ路のおきそ山みのゝ山靡かすと人はつげども、かくよれと人はつげども、などよめるに心おなじ、
 
初、石見の海
後の歌にも、恨はふかきとそへてよめる所なり。角のうらわ、和名集云。那賀郡都農【都乃】。浦なみと、浦は和名集云。四聲字苑云、浦大川旁曲渚船隱風所也。傍古反【和名宇良】。滷なみと、玉篇云、滷音魯鹹水也。潟の字の注にいはく、齒又切、或滷字。和名鈔云。文選海賦云、海溟廣潟、思積反與昔同、師説【加太】。ふたつのみらめは、ともにみるらめなり。能嘆は、よしやよしなり。やとゑとかよひ、よとやとかよへは、よしゑやしとはいへり。此集に尤おほし。嘆は咲の字を誤れるなり。後々に咲の字をかけり。咲はゑむといふ方を用るなり。俗にわらふかほのうるはしきを、ゑかほよしといふ、これなり。かたはなくともといふまての心は、角の浦にはよき浦もなく潟もなしとこそよそ人はみるらめ、よしよき浦はなくとも、よしよきひかたはなくともなり。第十三に、はつせの川は浦なきか舟のよりこぬ、いそなきかあまのつりせぬ、よしゑやし浦はなくとも、よしゑやし磯はなくともとよめる、此作にゝたり。いさなとりうなひをさして、これよりわかれきての海路にみる物によせて別をなけくなり。にきたつは、伊豫の國温湯郡なり。第一卷に見えたり。かあをなるは、此集に、かくろき、かよりあふなといへる、みな發語のことはなり。同韻にてすこし眞にかよひてもきこゆ。源氏物語にもよはきを、かよはき、やすきを、かやすき、よれるを、かよれるなといへり。これは下に、玉もなすよりねし妹といふことをいはんためなり。朝はふる、夕はふるは、鳥の羽を打ふるふにたとへて、朝風夕浪のたちさはくことをいへり。羽ふるは〓の字なり。紀納言の春雪賦にも、或逐風不返、如振群鶴之毛といへり。波のむたは、浪とゝもになり。むたは今の俗語に、めたといふにもかよひてきこゆることあり。ともにといふ詞の古語なるへし。かよりかくよりは、とよりかくよりなり。此集にとにかくにといふを、かにかくにといへり。玉もなすは、玉ものことくなり。如の字を神代紀に、なすとよめり。藻の風になひくことく、しなやかなるをもいひ、又かなたこなたの藻の、なひきあふことくそひふすにもよせたり。露霜は、露と霜となり。ともにをくものなれは、をきてしくれはといはん料なり。此道のやそくまより下は、難波につきて、それより藤原の都へのほる陸路なり。八十隈は、第一卷に、神代紀を引かことし。いやとをに以下の四句、十三卷にもあり。夏草のおもひしなえてとは、夏草はしけき物なれは、それにおもひをよせ、西行法師の、よられつる野もせの草とよまれたるかことく、みな月のてる日になよ/\となる草によせて、われをこふとて打しほるらんといへり。なひけこの山は、うこきなき物なるを、故郷のみえぬをわひて、せめてのことにいふは、歌のならひ、おもしろき事なり。第十二に、あしき山木末こそりてあすよりはなひきたれこそいもかあたりみん。第十三長歌の中に、わかかよひちのおきそ山みのゝ山、なひかすと人はふめとも、かくよれと人はつけともなともよめり。項羽歌云。刀拔山兮氣蓋世。文選呉都賦曰。雖有石林之〓〓、請攘臂而靡之。そも/\此歌よしゑやしかたはなくともといひて、ことはりをいひはてすして、海路のみる物によせて妻をこふることをいへるは、胸中に山海をこめて、のとかなるよみやうなり。かたはなくともといひては、やかてわれは住なれたるうへ、妻をさへをきてくれはなと、ことはりはてゝそ海路にはかゝるへき。まことに獨歩古今といひつへし
 
反歌
 
132 石見乃也高角山之木際從我振袖乎妹見都良武香《イハミノヤタカツノヤマノコノマヨリワカフルソテヲイモミツラムカ》
 
拾遺には、石見なるたかまの山のと載らる、歌仙集の中の人麿集も如此あれば、若家集より撰て載らるゝ歟、家集は後人のしわざにて信じがたき物なり、此歌下の句を打返して、妹見つらむか我ふる袖をとなせば、意注を待ずして意明なりり、後鳥羽院御(58)歌に、石見がた高角山に雲晴て、ひれふる嶺を出る月影、此御傳にや、八雲御抄にも、領巾を袖と思召けむ、猶今の歌を取らせ給ふに付ては、不審なる御歌なり、
 
初、石見のや高角の山のこのまよりわかふるそてをいもみつらんか
此歌人の心得あやまる歌なり。そのゆへは、このまより妹みつらんかわかふる袖をといふ心なれと、さいへは、てつゝなれは、我ふる袖をといふ句を第四にをかれたるゆへに、第三のこのまよりといふに引つゝけて心得るゆへに、かへさまになるなり、昔もさりけるにや、後鳥羽院の御製に、石見かた高角山に雲はれてひれふるみねを出る月影。今の人丸の歌は、わかれきてこなたよりわかふる袖を、故郷の高角山にのほりて見おこす妹か、木のまよりみつらんかとよまれたるを、さよひめならぬ人丸、妻のひれを高角山にふらさせたまへるは、袖とひれと物たかひて男女たかひ、所たかへり。いかめしき御製なるにおとろきて、新後拾遺集に載られたれは彼撰者もさこそ心得られけめ。又此歌を拾遺集には石見なるたかまの山と載らる。この集に異本なとも有けるにや。毎々かく所の名さへ改らるゝは、心得かたきことなり。袖ふるは文選劉休玄擬古詩云。眇々長陵道、遙々行遠之、囘車背京里、揮手從此辭
 
133 小竹之葉者三山毛清爾亂友吾者妹思別來禮婆《サヽノハヽミヤモサヤニミタレトモワレハイモオモフワカレキヌレハ》
 
清爾、【六帖云、ソヨニ、】 亂衣、【家集、ミダルラム、新古今、ミダルナリ、六帖云、ワカルラム、仙覺、云古點、ミダルトモ、】 妹思、【六帖云、イモニシ、】
 
發句はサヽガハニと和すべきか、第二十に、佐左賀波乃《サヽガハノ》、佐也久志毛用阻《サヤクシモヨニ》云云、古歌の習、の〔右○〕と云べき所を、多くが〔右○〕といへば、何れにても有ぬべけれど、引る歌を證として驚かし申なり、ミヤマは直山にて、サヤニは山のさやぐと同じくさわぐなり、神代紀に聞喧擾之響焉、【此云2佐椰霓利奈離《サヤケリナリ》1、】又未平をもサヤゲリと訓ぜり、此皆さわぐなり、此集にもあまたあれば、煩はしければさのみは引ず、わ〔右○〕とや〔右○〕と同韻にて通ぜり、清の字は借てかけるなり、亂友は、六帖は一向に改たれば云に及ばず、古點は假令の意にて下句に叶はず、仙覺の今の点尤當れり、今按マガヘドモと和すべし、歌の心は、み山は靜けきものなるに、さゝ原に風吹わたれば、其み山さへさわがしくみだるれども、我は狎にし故郷を別て來ぬれば、妻を思ふ意更に紛るゝ方なしとなり、第九に、高嶋のあと川なみはどよめども、吾は家思ふたぴねかなしみ、全此心なり、又源氏野分に、風さわぎ村(59)雲まよふ夕にも、忘るゝまなく忘られぬ君、六帖にも清爾をそよに〔三字右○〕とこそ改めつるを、後の人歌に、そよにさやぐと重てよまれたるは不審なり、又新古今に、腰の句を、亂なりと改られたるは、六義の興にして比の意に、彼み山を見れば、小竹原に風吹て亂る、此我妹を思ふ心も、古里を別きぬればさわぐごとそれが如しとにや、作者の意さには侍らざるべきにや、
 
初、さゝの葉はみやまもさやにみたれともわれはいもおもふわかれきぬれは
此歌は陸にあかりて、山ちをふる時の歌なるへし。さやといふにまかふ事おほし。ひとつにはさやかなり。ふたつにはさゆるなり。霜さやくといふこれなり。三にはかたなのさやによせて、さやつかのまになとよみ、さやはちきりしなといふは、さしもやはなり。こゝにさやとよめるはさはくなり。古語拾遺曰。阿那佐夜憩【竹葉之聲也。】さゝも小竹とかきて竹の類なり。日本紀云。聴喧擾之響焉【此云左椰霓利奈離。】又同紀に未平とかきてもさやけりとよめり。古今集にもとふ鳥のこゑもきこえぬおく山とよみて、み山は物音もなく、しつかなる物を、さゝ原に風吹わたれは、そのみ山をもさはかしてみたれとも、わかわかれきて妹をおもふ心はまきれすとなり。亂友とかけるをは、まかへともともよむへし。此下の長歌よりはしめて、亂の字おほくまかふとよめり
 
或本反歌、
 
134 石見爾有高角山乃木間從文吾袂振乎妹見監鴨《イハミナルタカツノヤマノコノマユモワカソテフルヲイモミケムカモ》
 
石見爾有、【官本亦云、イハミニアル、】 吾袂振乎、【官本或作2吾振袂乎1、点云、ワガフルソデヲ、》
 
今按從〔右○〕はゆ〔右○〕ともよむべし、此集により〔二字右○〕をゆ〔右○〕とよめる所おほし、日本紀に神武天皇の御歌にもあり、古語なり、
 
初、いはみなる高角山の――
從の字は、をとも、にとも、ゆともよめり。ゆはよりなれは、今もゆとよむへし。さきの歌の異説のみ
 
135 角※[章+おおざと]經石見之海乃言佐敝久辛乃埼有伊久里爾曽深海松生流荒礒爾曾玉藻者生流玉藻成靡寐之兒乎深海松乃深(60)目手思騰左宿夜者幾毛不有延都多乃別之來者肝何心乎痛念乍顧爲騰大舟之渡乃山之黄葉乃散之亂爾妹袖清爾毛不見嬬隱有屋上乃《ツノサハフイハミノウミノコトサヘクカラノサキナルイクリニソフカミルオフルアライソニソタマモハオフルタマモナスナヒキネシコヲフカミルノフカメテオモフトサヌルヨハイクハクアラスハフツタノワカレシクレハキモムカヒコヽロヲイタミオモヒツヽカヘリミスレトオホフネノワタリノヤマノチリノマカヒニイモカソテサヤニモミエスツマコモルヤカミノ》【一云室上山】山乃自雲間渡相月乃雖惜隱比來者天傳入日刺奴禮大夫跡念有吾毛敷妙乃衣袖者通而沾奴《ヤマノクモマヨリワタラフツキノヲシメトモカクロヒクレハアマツタフイリヒサシヌレマスラヲトオモヘルワレモシキタヘノコロモノソテハトホリテヌレヌ》
 
ツノサハフは石の枕詞、別に注す、言サヘグは言のさはるなり、此もからの埼の枕詞なり、此には、辛〔右○〕の字を書たれども、三韓の韓〔右○〕の字の心になしてなり、日本紀に所々に、からの人の言を擧て、訛《ヨコナマリ》て詳にしがたしと云ひ、敏達紀に韓婦《カラメノコ》、用2韓語《カラサヘツリヲ》1、云云、此れ源氏に海人の物云をきゝ知らぬ事どもさへづりてと云ひ、孟子に、南蠻|鴃《ケキ》舌之人など云へる心に、語をサヘヅルとは点ぜり、さればからの人の言は、こゝの人の耳にさはる心にかくはいへり、此卷の下に、ことさへぐくだらの原とあるも此心なり、イクリは仙覺抄に、い〔右○〕は發語の詞、くり〔二字右○〕は石なり、山陰《セムオム》道の風俗、石をばくり〔二字右○〕と云なりといへり、(61)今の世なべてくり石〔三字右○〕と申は、ちひさきを申せば、栗〔右○〕ばかりの石と云心にや、山陰道には大小を問ず皆くり〔二字右○〕と云にこそ、今按、應神紀の御製に、由羅能斗能《ユラノトノ》、斗那珂能異句離珥《トナカノイクリニ》と遊ばされ、此集第六、赤人の歌にもよまれたれば、伊は發語の詞ならず、くり〔二字右○〕は山陰道の風俗によらずして元來いくり〔三字右○〕と云なるべし、又舊事紀第三云、櫛八玉《クシヤタマノ》神、化《ナリテ》v鵜入2海底(ニ)1咋《クヒ》2出底之埴1、作2天(ノ)八十毘良迦《ヤソヒラカ》1、云云、此を合せて思ふに、泥の黒きを※[さんずい+(日/工)]《クリ》と云へば、發語の詞を加て,いくり〔三字右○〕と云にや、深海松は、延喜式の宮内に、志摩、【深海松、】又長海松と云も見え、又此集に俣海松《マタミル》ともよめれば、此等は梅松の中の別名なり、荒礒は前に云ごとくアリソとも讀べし、深メテ思フトサヌル夜ハ、イクバクモアラズとは、餘に人目を忍び過し、又は後を頼過して逢夜の少き心なり、十一に、かくばかり戀む物ぞとおもはねば、妹が袂をまかぬ夜も有き、十四東歌に、梓弓未に玉まきかくすゝぞ、寢なゝ成にし奥をかぬ/\、此奥は後の心なり、人に深くかくすとてぞ、ねず成し後も逢むと末かけてたのむまにと云るなり、今も此意なり、此に依て見れば、迎てすゑ置たる妻にはあらで、時々通ひすまれたるなるべし、ハフツタノとは、蔦は末々にはひわかるゝ物なれば、別るとつゞけむ爲なり、後に至ても多し、肝向心ヲ痛ミとは、憂ある時に心と、肝との二つを痛ましむる心か、遊仙窟云、下官《ヤツカレ》當v見2此詩1、心膽倶(ニ)碎(ク)、文選、歐陽建、臨(62)終詩云、痛哭摧2心肝1、今按遊仙窟に、心肝恰欲v摧とあるを心肝の二字を引合てキモと點じ、雄略紀に心府をコヽロキモと点ず、玉邊云、府聚也、かゝれば、心も肝も互にこゝろ〔三字右○〕ともきも〔二字右○〕とも云へば、大守の國府に居る時諸郡此に向ふやうに、あらゆるきも心を主として此に向ふ意にて、心肝相對するにはあらで、村肝の心とあまたよめるに同じかるべし、兩義何れにもあれ、肝向ヒと点ぜるは叶はず、向フと改むべし、古事記下、仁徳天皇の御歌末云、岐毛牟加布許々呂袁陀邇迦《キモムカフコヽロヲタニカ》、阿比淤母波受阿良牟《アヒオモハズアラム》、此を證とすべし、大舟ノ渡ノ山とは、舟にて海川を渡る心にそへたり、此山何れの國に有と云事を知らず、妹ガ袖サヤニモ見エズとは、妹も袖ふるらめど、黄葉の散まがひて、さやかにも見えぬなり、ツマコモル屋上ノ山とそへたるは、人の妻は深き屋にすゑおく物なる故なり、第十二、妻こもるやのゝ神山とよめるも同じ心なり、凡家は南陽をうけて作る故に、女は北に陰の位に當て深く住めば、北堂北の方など云ことも有なり、或者に尋るに、備前赤坂(ノ)郡に、八上と云所有と申き、此に依て和名を考るに、げにも赤坂郡に宅《ヤカ》美あり、流布の本注を失へる故にえよまず侍りき、かゝれば備後備前海路の次なり、一本の室上山、此山は何處と云ことをしらず、山の字は衍文か、さらずば乃の字なるべし、クモマヨリ渡ラフ月とは.雲の絶間に見えて西に渡月なり、雲間の(63)月としも云ことは、下の二句を云んが爲なり、雖惜はヲシケレドとも讀べし、カクロヒクレバとは、故郷も妹が袖も隱るゝなり、此は別の悲を別來てよむ故に、經る所の次に寄て言を綴るなり、孟子のいはゆる志をむかへて見るべし、筌を忘ずして強て理窟を探らざれ、天傳入日サシヌレとは、日は天路を傳ひ行故にかくつゞく、下にも多し、第三には久方天傳來自《ヒサカタノアマツタヒコシ》とのみもよめり、第七に天傳日笠浦《アマツタフヒガサノウラ》とあるを六帖にあまつたひ〔五字右○〕とよみたれば、今もしかよむべし、第三を以て證すれば、やがて日の名なり、さしぬればと云ざるは古語なり、加て意得べし、夕になれば彌陰氣に催されて、日比大丈夫と思あがりしかひなく離別の悲に袖をしぼるとなり、
 
初、角さはふ石見の海の
此つのさはふをすふさはふとよめるは、あやまりなり。仁徳紀に、天皇の、兎怒瑳破赴以破能臂謎餓とよませたまい、繼體紀に、春日皇女、勾大兄皇子【安閑天皇】にこたへ給ふ御歌にも、つのさはふいはれの池とよみたまへり。つのはかとなり。石にはかと/\のありて物にさはれはかくはつゝくるなり。顯昭法師の説に、つのとは石見の國に角といふ所あり。その所をさへてみせぬ石といふ心といひ、かもしゝの角を石にかけてぬれはいふなといへる説、みな用るにたらす。ことさへぐからの崎とつゝくるは.ことさへくは、ことはのさはるなり。日本紀に韓婦用韓語言といへるかことく、からの人はもとよりものいひよからねは、からさえつりともいひ、また國のかはりて、ことはもかはれは、此國の人のみゝにさはりてきこゆるゆへに、かくはつゝくるなり。下にいたりて、ことさへく百濟の原とつゝけたるもこれなり。いくりにそ、いくりは石なり。第六にも、わたのそこおきついくりにともよめり。日本紀第十應神天皇御歌にも、ゆらのとのとなかのいくりにとよませたまへり。ふかみるは、みるの中の一種にや。延喜式三十一宮内式、諸國例貢御贄のうちに、志摩【深見松】。又同式に、長海松といふもあり。あらいそにそ玉もはおふる、これは玉もなすをひきねしこをといひ、ふかめておもふともいはんために、所からのにつかはしき物よりいへり。六義の中の興の心に似たり。第十三に朝なきにきよるふかみる、夕なきにきよるなはのり、ふかみるのふかめしこらを、なはのりのひけはたゆとやといへるつゝき、こゝにゝたり。さぬるはよく物につけていふ詞にて、たゝぬるなり。すこしぬるといへるは誤なり。いくはくもあらすとは、あかぬ心からいく夜もねぬやうなるをいへり。はふつたのわかれしくれはとは、つたかつらのたくひは末々はひわかるれは、わかるといはむとてなり。第九に哀弟死去作歌にも、とをつくによみのさかひに、はふつたのをのかむき/\、天雲のわかれしくれはとよめり。肝むかふ心をいたみとは、物を思なけく時、肝と心とのふたつの臓をいたましむるといふ心なり。禮記曰。祭肺肝心、貴氣主也。肝は木、心は火なるゆへに、肝まついたみて心にをよふなり。文選歐陽建臨終詩にも、痛哭摧心肝といへり。むかふは對する心なり。今案、これを第一卷にむらきもの心をいたみといふに同し心にて、むかふは群臣の王にむかふ心にて、みな心に歸して、心の命をうくるをいふにや。大舟のわたりの山、いつれの國ともしらす。ありあひたるよき枕詞なり。つまこもるやかみの山とは、人のつまはおくふかきやにかくれゐて、外の人にま見えぬものなれはかくはつゝくるなり。つまこもるやのゝ神山ともよめり。やかみといふ所の備前にありといへはそこにや。雲まよりわたらふ月のおしめともとは、雲まの月のたま/\はれたるか又村雲に入ゆくをおしと思ふに、故郷の見えすなりゆくをおしむによそへたり。天つたふ入日さしぬれ、天路を日のつたひ行を、天つたふといへり。あまつたふひかさのうらともつゝけよめり。さしぬれはといふへきに、はの字なきは古風なり。夕になれは陰氣に感していよ/\心ほそくなるなり
 
反歌二首
 
136 青駒之足掻乎速雲居曾妹之當乎過而來計類《アヲコマノアカキヲハヤミクモヰニソイモカアタリヲスキテキニケル》 【一云當者隱來計留】
 
青駒は、和名云、説文云、※[馬+怱]【音聰、漢語抄云※[馬+怱]青馬也、】青白雜毛馬也、アガキは、文選東都賦云、馬|※[足+宛]2餘(リノ)足1、輸曰※[足+宛](ハ)屈也、言(ハ)馬之足力有v餘、】異を注する中に、一云の下に妹之の二字脱たるべし、如此句を斷て注する例なし、
 
初、青駒のあかきをはやみ雲居にそ妹かあたりを過てきにけり
和名集説文云。※[馬+總の旁]【音聰、漢語抄云※[馬+總の旁]青馬也。】あかきは※[足+宛]の字なり。第十一に、赤駒のあかきはやくは雲居にもかくれゆかんそゝてまけわきも。此歌は舟にのる所まて馬にて出立れけるなるへし
 
(64)137 秋山爾落黄葉須臾者勿散亂曾妹之當將見《アキヤマニオツルモミチハシハラクハナチリミタレソイモガアタリミム》【一云知里勿亂曾】
 
今按、是は渡の山のもみぢ葉の、散のまがひにと云をかへしてよまれたれば、第四の句ナチリマガヒソと和すべきにや、注可v准v之、
 
或本歌一首并短歌
 
138 石見之海津乃浦乎無美浦無跡人社見良目滷無跡人社見良目吉咲八師浦者雖無縱惠夜思滷者雖無勇魚取海邊乎指而柔田津乃荒礒之上爾蚊青生玉藻息都藻明來者浪己曾來依夕去者風己曾來依浪之共彼依此依玉藻成靡吾宿之敷妙之妹之手本乎露霜乃置而之來者此道之八十隈毎萬段顧雖爲彌遠爾里放來奴益高爾山毛越來奴早敷屋師(65)吾嬬乃兒我夏草乃思志萎而將嘆角里將見靡此山《イハミノウミツノウラヲナミウラナミトヒトコソミラメカタナミトヒトコソミラメヨシヱヤシウラハナクトモヨシヱヤシカタハナクトモイサナトリウナヒヲサシテニキタツノアライソノウヘニカアヲナルタマモオキツモアケクレハナミコソキヨレユフサレハカセコソキヨレナミノムタカヨリカクヨリタマモナスナヒキワカネシシキタヘノイモカタモトヲツユシモノオキテシクレハコノミチノヤソクマコトニヨロツタヒカヘリミスレトイヤトホニサトサカリキヌマスタカニヤマモコヘキヌハシキヤシワカツマノコカナツクサノオモヒシナエテナケクラムツノヽサトミムナヒケコノヤマ》
 
此點の同異、今案の點等上の歌に准ず、第二の句津乃浦ヲナミは、上に角乃浦囘と云所の名にあらで.大舟などあまた泊る浦となる浦のなしと云心なるべし、若然らずばつの浦をなみと云こと不審なり、さきの如く先角浦と名をば定置て、よき浦なしと人こそ見らめとぞ有べき、さらずば、津乃浦無美、うらなみとと云べし、さるにても元來みづから能浦なしと見ば、人を待ずして浦はなけれど滷はなけれどと云べき理なれば、それもいはれず、津乃浦とかけるに付て思ふに、唯初に申つる義なるべし、其外は替れる義なし、
 
反歌
 
139 石見之海打歌山乃木際從吾振袖乎妹將見香《イハミノウミウツタノヤマノコノマヨリワカフルソテヲイモミツラムカ》
 
初、いはみの海うつたの山の――
長門の國の僧のかたりしは、長門より石見へ濱つたひに行道に、長門のうちに、うたといふ所あるよし申き。そこなとにもや侍らん
 
右歌體雖同句句相替因此重載。
 
柿本朝臣人麿妻依羅娘子與人麻呂相別歌一首
 
(66)人麿の前妻は文武天皇四年以後死去と見えたり、子細は北卷末に至て見ゆべし、然れば此妻は大寶慶雲の間に迎られたるべし、人麿の旅行は、第三に筑紫へ下らるゝ時の海路の歌、又第一第三に近江へ下られたる時の歌あり、又第三に、けびの海のにはよくあらじとよみ、第十に、やたの野に淺茅色付とよまれたる歌もあれば、越前へも赴かれたりと見ゆ、文武の朝に、行幸の供奉、又は勅を奉てよまれたる歌見えぬは、右の國々の屬官などに年を送られ、此歌もそれらの別の時によめるか、又此卷下に、人丸石見へ下て死せらるゝ時の歌あれば其度の別にや、何れの度とも知がたし、
 
初、柿本朝臣人麿妻依羅娘子與人麿相別歌一首
さきにいへるかことく、依羅娘子は後妻なり。前妻の身まかれる時代をかんかへ、後妻をめとられけるころをはるかに、前妻の身まかれる事をかなしふ歌の或本の歌の終に、うつそみとおもひし妹かはひしてませはといへり。續日本紀第一、文武紀云。四年三月己未、道昭和尚物化。○弟子等奉遺火葬於栗原、天下火葬從此而始也。かゝれは文武天皇四年の後、大寶慶雲のあひたにみまかりて火葬せられたるへけれは、依羅娘子をめとられけるはまたそのゝちの事なり。第三に、柿本朝臣人麻呂下筑紫海路作歌とて二首を載たれは、筑紫へもおもむかれ、笥飯の海のにはよくあらしといふ歌も、同卷に人麿の※[覊の馬が奇]旅歌八首の中に入たれは、北國へも下られたりと見えたれと、いつのころとは知かたし。石見へ下りて身まかられたれは、そのたひの別の歌にやとそ覚え侍る。いつれにまれ、藤原宮御宇天皇代と標したるは、文武天皇にもわたるを、惣標の下に注して、天皇謚曰持統天皇といへるは、此集いまたよく檢閲をくはへぬ草案にして世に流布せるゆへに、あやまれる歟。あるひは下の注は、後人のしわさなとにもあるへし
 
140 勿念跡君者雖言相時何時跡如而加吾不戀有牟《オモフナトキミハイフトモアハムトキイツトシリテカワカコヒサラム》
 
拾遺、家集、六帖、一同なる上、義尤然るべし、相時はアフトキヲともよむべし、終の乎の字は牟の字の誤れるなり、歌の心明なり、拾遺には此歌を人丸の歌として戀に載らる、似たる歌にて、第十二人丸集の歌に、後にあはむ吾《ワレ》を戀なと妹はいへど、こふる間に年はへにつゝ、相聞なれば此(レ)こそ叶ひ侍らめ、六帖に、別に入たるは得たるを、君を妹に改て此も人丸の歌とす、此等は家集に、さみの郎女相別侍ける時のと有を取用(67)たるか、郎女にといはざれば、郎女が歌を書入たらむとも申なすべくや、
 
初、おもふなと君はいへともあはむ時いつとしりてかわかこひさらん
雖言はいへともとよむへし。いふともとよめるはむつかし。有牟の牟をあやまりて乎に作れり。第十二に後にあはん我をこふなと妹はいへとこふるあひたに年はへにつゝ。この歌今の歌に似たり。拾遺集に、題不知、人まろとて載られたるは誤なり。此歌ことはかきなくとも、女のうたとはきこゆへくや
 
萬葉集代匠記卷之二上
 
(1)萬葉集代匠記卷之二中
 
挽歌
 
此義別に注す、後の集の哀傷なり
 
後崗本宮御宇天皇代 天豐財重日足姫天皇
 
有間皇子自傷結松枝歌二首
 
孝徳紀云、立2二妃(ヲ)1、元妃阿倍(ノ)倉梯《クラハシ》麻呂大臣(ノ)女曰2小足媛《ヲタラシヒメ》1生2有間(ノ)皇子1、齊明紀云、三年九月。有間(ノ)皇子|性黠《ヒトヽナリサトシ》陽狂《イツハリタワレテ》云云。徃2牟婁(ノ)温湯(ニ)1僞v療《ヲサムル》v病來|讃《ホメテ》2國(ノ)體勢1曰|纔《ヒタスラ》觀2彼(ノ)地1病自※[益+蜀]消《ノソコリヌト》云云、天皇聞悦、思3欲徃觀2彼地1、四年冬十月庚述朔甲子、幸2紀温湯(ニ)1云云、十一月庚辰朔壬午、留守官蘇我(ノ)赤兄(ノ)臣語2有間皇子1曰、天皇所v治政事、有2三失1矣云云、有間(ノ)皇子乃知2赤兄之善1v己、而欣然報答之曰、吾年始可v用v兵時矣、甲申有間(ノ)皇子向2赤兄(ノ)家1登v樓而謀、夾膝《オシマツキ》自斷、於v是知2相之不祥1倶盟而止、皇子歸而宿之、是夜半赤兄遣2物部|朴《エ》井連鮪1率2造v宮|丁《ヨホロ》1圍2有間(ノ)皇子於|市經《イチフノ》家1、便遣2驛使1奏2天皇所1、戊子捉3有間(ノ)皇子與2守君大石、坂合部(2)連藥、鹽屋連鯏魚1、送2紀温湯1、舎人新田部末麻呂從焉。於v皇太子親問(テ)2有間皇子(ニ)1曰、何故(カ)謀人《ミカトカタフケントスル》、答曰、天與2赤兄1知、吾全不v解、庚寅遣2丹比(ノ)小澤《ヲサハノ》連國襲1、絞《クヒル》2有間(ノ)皇子於藤白(ノ)坂1、是日斬2鹽屋連|※[魚+制]魚《コノシロ》、舎人新田部連末麻呂於藤白(ノ)坂1、鹽屋連※[魚+制]魚、臨v誅言、願(ハ)令3右(ノ)手作2國寶器1、流2守君大石於上毛野國(ニ)坂合部藥於尾張國1、此下の注に異設を擧る中に、皇子年始十九未v及v成v人と云へり、先達の設の中に日本紀を能考へざる事ある故に今引て始終を明せり、十一月九日補へられて牟漏(ノ)郡へおはしまし、十一日に藤白にて絞られたまへば、此は十日に帝の御許へおはする道に磐代を過とて、我運命いまだ盡ずして事の樣を申ひらき、其を聞召分て助け給ふ事もあらば、又歸て此松を見んと引結て讀せたまふなるべし、他の皇子に准ずるに、此皇子も御歌と云ふべきを、歌とのみあるは若脱たるか、罪有て經《ワナカ》れ給ふ故なりといはゞ、大津皇子も御歌と云べからざるをや、
 
初、有間皇子自傷結松枝歌二首
有間皇子は孝徳天皇の御子なり。齊明天皇四年に、謀反の御心あらはれ給ひ、十九歳にして紀州藤白坂にしてくひられたまへり。孝徳紀云。立二妃、元妃阿倍倉梯麿大臣女、曰小足媛、生有間皇子。○齊明紀云。三年九月、有間皇子性黠陽狂云々。かくのことくなれは、十一月十日に磐代の濱を過たまふとて、我運命いまた盡すして、事の始終を申ひらき、それをきこしめしわけてたすけたまはゝ、又かへりて此松をみんと神のたむけに引むすひてつゝかなからんことをいのりてよませたまへるなるへし。されともそのかひなくて、十一日に藤白坂にして身まかりたまへれは、後の人、その松の猶結はれなからあるをみてなけきける歌をも、此つゝきに載たり。一條禅閤の歌林良材集にかゝせたまへる注もあやまりたまへるゆへに、今つふさに日本紀をひけり。長流かわかゝりし時かけるものに、松を結ひたまへるは、始むろの湯に往たまひし時のことかとあれとしからす。自傷結松枝といへるにてこゝろうへし
 
141 磐白乃濱松之枝乎引結眞幸有者亦還見武《イハシロノハママツカエヲヒキムスヒマサキクアラハマタカヘリミム》
 
歌の心明なり、六帖に昔を戀と云に載たる心知がたし、
 
初、いはしろのはままつかえを
第一卷のはまゝつかえの手向草といふ歌に注しつ。歌のこゝろあきらかにあはれなる御歌なり
 
142 家有者笥爾盛飯乎草枕旅爾之有者椎之葉爾盛《イヘニアレハケニモルイヒヲクサマクラタヒニシアレハシヒノハニモル》
 
(3)笥は玉篇云、思吏切、竹作盛v飯方器也、和名云、禮記註云、笥【思吏反、和名計】盛v食器也、さらぬだに旅侘しきを、殊に謀反の事によりて捕はれて物部《モノヽフ》の中に打圍まれておはします道なれば、萬引かへたる樣、笥にもる飯を椎の葉に盛とよませ給へるにこもれり、孝徳天皇の御子なれば、位に即かせたまふまでこそなくともさておはしまさば世に重んぜられておはすべきに、由なき事思ひ立給て刑戮の辱に遇たまふは不思儀の事なれど、此二首の御歌殘りて今の世の人まであまねく知參らするも、偏に此道の徳なり、端作の詞には此歌は叶はぬ樣なれど、初の歌を先として云へり、かゝる事あやしむべからず、
 
初、家にあれはけにもるいひを草枕たひにしあれはしひのはにもる
和名集云。禮記註云、笥【思吏反和名計】盛食器也。武烈天皇紀に、物部影媛か歌にも、玉笥にはいひさへもり、碗に水さへもりとよめり。さらぬ旅たにあるをことに謀反の事によりてとらはれてものゝふの中に打かくまれておはします道なれは、椎の葉にもるまてのことはなくとも、よろつ引かへてあさましかるへけれは、此二首の御歌に、その折の御こゝろ、たましゐとなりてやとれるにや、かなしきことかきりなし。孝徳天皇の御子にて、御位につかせたまふことはなくとも、さておはしまさは世におもくせられておはしますへきに、よしなき事おもひたゝせたまひて、刑戮のはつかしめにさへあはせたまふは、不思議のことなれと、此御歌の殘りて、他の皇子たちの身をたもちて世を過させたまひなから、何のしるされ事もおはしまさぬよりも、末の世まて人の知まいらすることはひとつに和歌の徳なり。此歌は結松枝といふにはかなはねと、はしめの歌につけて、同時の歌にもあれは、結松枝歌二首とはいへり。聖教に文證なとを引時、そこにかなはぬ事もましれと、同文故來の例とするかことし
 
長忌寸意吉磨見結松哀咽歌二首
 
143磐代乃岸之松枝將結人者反而復將見鴨《イハシロノキシノマツカエムスヒケムヒトハカヘリテマタミケムカモ》
 
又見給はぬ事は知ながらかやうによむ事歌の習なり、たゞ又も見給はずといはんより悲しく聞ゆるなり、
 
144磐代乃野中爾立有結松情毛不解古所念《イハシロノノナカニタテルムスヒマツコヽロモトケスムカシオモヘハ》
 
(4)未詳
 
結松を承て心モトケズといへるは題の哀咽なり、ムカシオモヘバの點、字に叶はず、六帖にはむかしをぞ思ふとあり、今按、イニシヘオモホユと和すべし、人丸集と云物に入たるを見て拾遺には載られたるか、注の未詳こそ又何故にいへるにかと詳ならね、衍文にや、若下の大寶元年の歌に作者なければ、そこより此にまじはり來れるか、
 
山上臣憶良追和歌一首
 
此は有間(ノ)皇子の歌を和するか、意吉麿が歌を和するか、按ずるに意吉麿が歌に次て追和と云ひ、歌の樣も二首の中の初を和すと見えたり、
 
145 鳥翔成有我欲比管見良目杼母人社不知松者知良武《トリハナスアリカヨヒツヽミラメトモヒトコソシラネマツハシルラム》
 
鳥翔ナスは鳥の羽の如なり、有カヨフは此に兩義あるべし、一つには有て常に通なり、二つには此集に蟻通と書たれば、蟻は同じ道を絶ず往來すればそれに喩て云か(5)集中に多き詞なれば委は別に注す、されば皇子の神魂は鳥の飛が如く天かけりて見給らめどもなり、履中紀云、有2如v風之聲1呼2于大虚1曰、鳥往來羽田之汝妹羽狹丹葬立往《トリカヨフハタノナニモハサニハフリヌ》云云、源氏に、中宮の御事にても、いと嬉しく參となん、天翔でも見奉れど、道ことに成ぬれば云云、これは奥丸が、人は反て又見けんかもといへる所を押へて和する心なり、下の句の心は、生死道殊なれば、靈魂ばかりの空にかよひて見るをば、我等こそしらね、無心の松は却て知らんとなり、第三第七に木の葉知らんとよめり、
 
初、鳥翔なすありかよひつゝ――
鳥の羽のことく、有間皇子のたましひは、今もあまかけりてみたまはんといふ心なり。履中紀云。有如風之聲、呼于大虚曰。○鳥往來羽田之汝羽狭丹葬立往、源氏物語澪標に、ふりみたれひまなき空になき人のあまかけるらんやとそかなしき。ありかよふは、此集におほき詞なり。文選に蟻同とかきて、ありのことくにあつまるとよめり。あひあつまりておなし道をたえすゆきかへり.ゆくと歸るとあひ逢ては何やらん物いひて、色代なとするやうなれは、唐劉禹錫詩にも、※[土+皆]蟻相逢如2偶語(・スルカ)1と作れり。かゝれはありかよふといふなり。人は神と境界ことなれは、人こそしらね、無心の松はかへりて皇子のみたまのありかよひたまふことをしるらんとなり。玄奘三蔵の摩頂松の故事なとおもひあはすへし
 
右件歌等雖不挽枢之時所作唯擬歌意故以載于挽歌類焉
 
玉篇云、挽、亡遠切、柩、【渠久切、尸在v棺其棺曰v柩、】白虎通曰、在v柩(ニ)曰v柩、究也、久也、不2復(タ)彰1也、釋名曰、柩(ハ)究也、送v終隨v身之制、皆究備(スルナリ)也、文選曹子建悼(ム)2王仲宣1誄曰、喪柩既臻、將v反2魏京1、此注は次下の歌の後に有けんが、傳寫の後誤て此に來れるなるべし、其故は齊明天長の御代と標して載たるは有間(ノ)皇子の二首にて、以下の四首は類を以て此に載る故に後人の難を避む爲に注するなり、
 
初、挽柩、玉篇云。柩【渠救切、尸在棺、其棺曰柩。】白虎通曰。在棺曰柩、柩究也、久也、不復彰也。釋名曰。柩究也、送終隨身之制、皆究備也。曹子建悼王仲宣誄云。喪柩既臻、將反魏京
 
大寶元年辛丑幸于紀伊國時見結松歌一首
 
(6)寶を誤て實に作れり、歌の上に例に依に作の字脱たるか、此行幸第九に見えたるを、第一につら/\椿の歌の所に既に引合て注せり、
 
初、大寶元年――寶作v實誤
 
146 後將見跡君之結有磐代乃子松之宇禮乎又將見香聞《ノチミムトミキカムスヘルイハシロノコマツカウレヲマタミケムカモ》
 
君を誤て若に作れり、ウレは末の字なり、藤のうら葉など云うら〔二字右○〕と同じ言なり、歌の意明なり、
 
初、後見んと君かむすへる。君を若につくれるはあやまれり。うれとは、末の字をうれともうらともよめり。此歌のひたりに作者の名をおとせる歟。あるひは作者未v詳なといふことをうしなへる歟。又さきの右件歌等以下の詞こゝにありぬへくおほゆ
 
近江大津宮御宇天皇代 天命開別天皇
 
天皇聖躬不豫之時太后奉御歌一首
 
天智紀云、十年九月天皇寢疾不豫【或本、八月天皇疾病、】冬十月甲子朔庚辰、天皇疾病|彌留《オモシ》、同紀云、七年二月丙辰朔戊寅、立2古人(ノ)大兄(ノ)皇子女倭姫王1爲2皇后1、舒明紀云、夫人《オホトシ》蘇我(ノ)嶋(ノ)大臣女|法提郎媛《ホヽテノイラツメ生2古《フル》人(ノ)皇子1、【更名(ハ)大兄皇子】
 
初、天皇聖躬不豫之時。天智紀云。十年九月天皇|寢疾不豫《ミヤマヒシタマフ》【或本八月天皇疾病】冬十月甲子朔○庚辰天皇|疾病彌留《ミヤマヒオモシ》
 
147 天原振放見者大王乃御壽者長久天足有《アマノハラフリサケミレハオホキミノミイノチハナカクテタレリ》
 
下句、【古点云、イノチハナカクアマタリアリシ、官本更點云、ミイノチハナカクアマタラシタリ、幽齋本更點云、オホミイノチハナカクアタリシアリ、
 
(7)振放ミレバは振は打掻等の類にて語の字、放は遠さけなどのさけにて、近より遠くなるを云のみならず、おのづから遠をも云なり、末に振仰とも書り、空を望むに高ければ振あふぐ故なり、歌の意は、詩の興の如く、空を望めば遙に遠く遙に長し、かくのごとく、御命も長く足り滿てましまさんと、御悩の早く平愈し給はむ事を祝て奉りたまふなるべし、今按、第十三の十七紙に長歌の終の句に、天之足夜于、此結句を今の歌に引合せてアメノタルヨニと和し替べきにやと存ずる按あり、委はそこに注すべし、彼を以て此を思ふに長久天足有をば長クアメタレリと点ずべきか、幸に右に出す諸點此意なり、されども古點は御の字を忘れたる上にアマタリアリシの点拙し、官本の又の点はアマタラシタリ快からず、幽齋本の又の点は、御命よりも長過て、あまたりしあり、甚拙し、
 
初、あまの原ふりさけみれは。老子經に天長地久といへり。此御歌は、天のとこしなへなることく、君も天子にてましませは、すなはちみいのちは、天とひとしく長からんといはひて奉れたまふなるへし。又あるか中に、天のみかとゝ申奉りて、中興の君にて、十陵の第一にあかめ、七廟の太祖にあて、他のみささきは昭穆に准して、うつしかふる事あれとも、此天皇のみさゝきをのそく事なけれは、元來天とひとつにてましますことを、后はよくしらせたまひて、かくはよみたまへる歟
 
一書曰近江天皇聖體不豫御病急時太后奉獻御歌一首
 
148 青旗乃木旗能上乎賀欲布跡羽目爾者雖視直爾不相香裳《アヲハタノコハタノウヘヲカヨフトハメニハミレトモタヽニアハヌカモ》
 
雖視、【官本視作v見、校本與v今同、】 不相香裳、【幽齋本又云、アハシカモ、】
 
青旗は禮記云、前有v水則|載《タツ》2青旗1、同月令云、載《タツ》2青|※[旗の其が斤]《キ》1【渠希切、縣2旌於竿1】此は木幡といはん爲の枕(8)辭なり、木のしげりたるは青き旗を立たらんやうに見ゆればなり、第四に青旗の葛木山と云ひ、十三に青幡|忍坂《オサカノ》山と云へる皆同じ意なり、仙覺抄に常陸の風土記を引れたるは此に用なし、此御歌下句今の點にては如何なる意をよませ給へりとも辨じ難し、今按、目ニハ見ルトモタヾニアハジカモなるべきか、其故は此帝の御事を日本紀には崩御の由慥に載られたれども、日本靈異記と申す書には、御馬にめして天へ上らせ給ひければ、其御沓の落たる所に御陵は築れたる由侍るとかや、然れば彼陵の山科と木幡とは近く侍れば、神儀の天かけりて木幡を過、大津宮の空にも通はせ給はん事を皇后兼て能く知食せども、神と人と道異なれば、よそには見奉るともうつゝに直にはも、えあひ奉らざらんかと歎てよませ給へるか、黄帝の龍に騎て鼎湖の雲に入りし例なきにあらず、又登天の説につかずとも、假に崩御の儀を示して山陵をば山科にしめ給ふとも、神靈は天翔給はむ事をよをせ給へるか・唯ならぬ御歌なり、此卷下に至て人丸死去の時、依羅《ヨサミノ》娘子がたゞにあはゞ逢もかねてんとよめる歌思ひ合すべし、幽齋本の又の点、結句のみをタヾニアハジカモと有はいかなる心とも知侍らず、
 
初、青はたのこはたの。青はたは、此集に今の歌、又第四に青旗のかつらき山、第十三に青はたの忍坂山ともよみたれは、別に尺してつけぬ。第十九に、わかせこかさゝけてもたるほゝかしはあたかもにるかあをきゝぬかさともよめることく、木のあまた青やかにてたてるか、青き旗をさしならへたるやうなれは、つゝくるなるへし。雖視をみれともとよみ、不相をあはぬとよめるはあやまれる歟。みるともとよみ、あはじとよむへし。そのゆへは、日本紀には、十二月三日に崩御したまふよしはしるされたれとも、世には御馬にめしなから天へのほらせたまひて、その御沓のおちたるところに、陵はつくれるよし申傳たるか、后の此御歌をみれは、いかさまにも只ならぬ御詞なり。崩御の後こそ根の所も點せらるへきに兼て木幡の上をなとよませたまへるは、尤はかりかたきことなり。よりてこれは後の事をかねてよませたまふとみゆれは、みるともとよみ、あはしとよむへしとは申なり。崩し給はん後、よそめには見奉るとも、今のことくまのあたりはあひ奉ることあたはさらん歟となり。淮南王劉安は謀反して自殺せられたるよし、史紀にたしかに載たれとも、彼淮南子をみれは.謀反なとすへき人からとも見えす。劉向か列仙傳に登仙のよしをのせ、八公山に後まてその跡ありといへは、和漢ともにはかりかたきことおほし。ことに本朝は神國にて、人の代となりても國史に記する所神異かそへかたし。たゝ仰てこれを信すへし
 
天皇崩御之時倭太后御作歌一首
 
(9)天智紀云、十二月癸亥朔乙丑、天皇崩2于近江宮1、曲禮云、天子死曰v崩、左傳注疏云、天子崩若2山崩1然、倭太后は前後たゞ太后とのみあれば倭は衍文か、若倭姫太后といへる姫の字脱たるか、
 
初、天皇崩御之時倭大后御作歌一首
天智紀云。十二月癸亥朔乙丑、天皇崩于近江宮。曲禮云。天子死曰崩。左傳注疏曰。天子崩若山崩然。爾雅(ニ)曰。崩落死也。倭太后は古人大兄皇子の御女、さきに太后といへ石におなし。天智紀云。冬十月甲子朔庚辰、天皇疾病彌留。勅喚東宮引入臥内。詔曰朕疾甚以後事屬汝云々。於是再拜、稱疾固辭不v受曰、請擧洪業付屬大后、令大友王奉宣諸政、臣請願爲天皇出家修道。天皇許焉。東宮即入於吉野
 
149 人者縱念息登母玉※[草冠/縵]影爾所見乍不所忘鴨《ヒトハイサオモヒヤムトモヤマカツラカケニミエツヽワスラレヌカモ》
 
縦をイザと讀たる傍例いまだ見及ばず、今按上の十八紙にある人丸の歌に、よしえやしと云に從畫屋師と書き、第六の元興寺の僧の歌にも、此をよしとよめり、延喜式第十一云、縱【讀曰2與志1】かゝれば人ハヨシと讀べし、他の人はよしたとへかゝる歎を思ひやむともなり、奥儀砂云、玉かづらはふ木あまたに成ぬればと云歌を釋する中に、又女のする鬘をも玉かづらと云、それにまがはしてかしく心うる人もやあらんといへり、かゝるに仙覺抄云、玉※[草冠/縵]とは冠の纓を云なり、此兩説一六なるに依て和名を考ふるに纓、【於盈反、俗云2燕尾1】とのみ有てかづらと云はず、然るを安康紀雄略紀に亘て、坂本(ノ)根使主《ネノオミ》と云人、大草香(ノ)皇子の押木珠縵《オシキノタマカツラ》と云寶物を盗取て呉人に饗《ミアヘ》賜ふ時、此を著て共食《アヒタケ》者となれる事見えたり、凡冠の製は推古天皇十一年十二月に定らるゝを濫觴とすれば、女の懸るは勿論にて纓にはあらずして昔は男も珠縵を首の飾に懸けるな(10)るべし、又持統紀云、以2華|縵《カヅラ》1進2于殯《ムカリノ》宮1此曰2御蔭《ミカゲ》1、此は天武天皇崩御の時の事なり、此に准ずるに天智天皇の崩じ絵ひし時も此事有けるにや、彰ニ見エツヽは面影に見えつゝなり、容鳥《カホドリ》のかほに見えつゝなどもよめるも此類なり、貫之歌に、かけて思ふ人もなけれど夕暮は面影絶ぬ玉かづらかな、かやうに多く影をそへてよめるは、美麗なる容顔の上に玉縵をさへ懸たらんは誠に面影あるべき物なり、又白川のみづわくむまでとも、玉だれの見ずばとむつゞけたる樣に、懸を影に兼てつゞくとも申べけれど、多は句を隔てゝ面影とつゞけたれば其義なるべからず、又ワスラレヌを後にワスラエヌとよめり、聲を捨て韻を取て讀こと例多ければ古語なるべし、今も傍例に依べきか、
 
初、人はよしおもひやむとも玉かつら
縱をいさと訓したるはあやまれり。よしとよむへし。よしは善惡のよしにはあらす。よしたとひといふ心にて、かりにゆるす詞なり。延喜式第十一云。縱【讀曰與志】。此集第六の三十五葉にも、よしとよめり。玉かつらとはかほよきうへにうるはしきかつらかけたらんは、まことにおもかけにみゆへきものなれは影に見えつゝといはんために、玉かつらとはのたまへり。貫之歌にも、かけておもふ人もなけれは夕くれはおもかけたえぬ玉かつらかな。又懸をかぬる心も有へし
 
天皇崩時婦人作歌一首 姓民未詳
 
和名云、婦人【太乎米來、】民は氏に作るべし、
 
初、婦人
和名抄云。日本紀云。婦人【太乎夜米】。姓氏之氏誤作民
 
150 空蝉師神爾不勝者離居而朝嘆君放居而吾戀君玉有者手爾卷持而衣有者脱時毛無吾戀君曾伎賊乃夜夢所見鶴《ウツセミシカミニタヘネハハナレヰテアサナケクキミハナレヰテワカコフルキミタマナラハテニマキモチテキヌナラハヌクトキモナミワカコフルキミソキソノヨユメニミエツル》
 
(11)脱時毛無、【別校本云、ヌグトキモナク、】
 
空蝉は第一に注せしごとく枕同を以て世とす、神ニタヘネバとは、天地と等しき神の壽命の如くならねばなり、第九に、朝露のけやすき命神のむだ、あらそひかねてとよめるに同じ、早く崩じ給ふを云、朝嘆とは今按下に夕嘆とも云ざればアサと点ずる事叶はずや、マヰと點ずべきか、まゐ〔三字右○〕は參るなり、おはしましつる所へかくれさせ給ひても參て嘆なり、又字書に朝覲朝廷等も朝夕の字を借と云へり、朝臣と云尸も朝廷の臣と云意にて和訓もあさおみ〔四字右○〕の中のさお〔二字右○〕を反せばそ〔右○〕となる故にあそみ〔三字右○〕即あさおみ〔四字右○〕なり、此に推せばあさ嘆くは下の吾に對し廣く朝廷の内の人皆嘆といへるにや、放居テは、今按サカリ居テと點ずべし、玉ナヲバ手ニ卷持テとは手玉とて玉を貫て手に卷を云、又環の玉とて指にぬくをも云、催馬樂大宮人ちいさ小舍人《コトネリ》玉ならば、ひるは手に取夜はさねてん、此集下に此意あまたよめり、衣ナラバヌグ時モナクとは、此意また多し。此四句は世にましましける時かく思へる事をよめるかとも見え、又君が世にましまさんには玉ならば手を放たず、衣ならば身をさけぬやうに常に見奉らんをと、かくれさせ給ひての心を述たりとも見ゆ、キゾノ夜は日本紀に昨日とも昨夜とも書てキスとよめり、そ〔右○〕とす〔右○〕は同内にて通ずればきのふの夜なり、(12)第十四にあまたよめり、これは戀しのび奉て思寢の夢に見奉しとなり、
 
初、うつせみし神にたへねは――
うつせみの世といふへきを、此集にうつせみといひて、すなはち世といふ心に用たる歌おほし。神にたへねはとは後撰集に、君かため松のちとせもつきぬへしこれよりまさる神の世もかなとよめるやうに、神は天地とをへはしまる壽命なれは、世間はその神の壽命のなかく久しきにたへねはといふ心なり。放居而はさかりゐてとよむへし。玉は緒を貫きて手にまとひもつにあかす、きぬの身になつさひてぬく時もなけれは、玉ならは、きぬならはといへり。催馬樂に、大宮のちひさ小舎人、玉ならはひるは手にとりよるはさねてん。きその夜は、日本紀に昨日とも昨夜ともかきて、きすとよめり。そとすとは五音通すれは、おなしことなり。夢にみえつるは、玉ならは手にまき、きぬならはぬかしものをと、こふるおもひに見るなり。古今集に、みつね、君をのみおもひねにせしゆめなれはわか心からみつるなりけり
 
天皇大殯之時歌二首
 
殯(ハ)斂也、
 
初、天皇大殯之時歌二首
殯斂也。作者の名をおとせる歟。作者未詳といふ注をうしなへる歟。はしめの歌の作者の婦人歟。されとも此集にはさやうにかぬる例なきにや
 
151 如是有乃豫知勢婆大御船泊之登萬里人標結麻思乎《カヽラムトカネテシリセハオホミフネハテシトマリニシメユハマシヲ》
 
人【官本或作v爾、】 官本注2作者1云2額田王1、
 
今按、乃〔右○〕は刀〔右○〕を寫あやまれるなるべし、人は音を用、第十〔二字左○〕、人は尓の字の缺たるか、元來音を取て用たるか、歌の心は、悲の餘に樣々に思めぐらして、世におはしける時、湖水に御舟を浮て御遊有て還幸の時、舟を繋せ給ひし處にだに、しめゆひおかましかば、かゝる時それをだに御名殘と見るべきに、かゝるべしと知らで、標もゆひおかねば、御舟とめましし所々に、そのほどゝもなくて、何を名殘ともなくて悲しき由なり、
 
初、如是有乃
乃は刀の字の誤れるなり。御舟をとめたまひし所にたにしめゆひをきてそれをたにかたみに見ましものをなり
 
152 八隅知之吾期大王乃大御舩待可將戀四賀乃辛崎《ヤスミシシワカオホキミノオホミフネマチカコヒナムシカノカラサキ》
 
將戀、【古点云、コフラム、】 官本注2作者1云2舍人|吉年《エトシ》1、
 
(13)歌の趣、第一卷人丸の歌に同じ、今の大殯によめれば待カコフランと云よりはコヒナンと末をかけたる點まさりぬべくや、期はか〔右○〕とこ〔右○〕と通ずれば假て用なり、後にも多し、
 
初、やすみしゝわか大君の
是は第一に人まろの、しかのからさささきくあれとゝいふ歌の心におなし。待かこひなんはわか待こひんともまたからさきか待こひんとも尺せらるへし
 
大后御歌一首
 
153 鯨魚取淡海乃海乎奥放而榜來舩邊附而榜來榜奥津加伊痛勿波禰曾邊津加伊痛莫波禰曾若草乃嬬之念鳥立《イサナトリアフミノウミヲオキサケテコキクルフネヘニツキテコキクルフネオキツカイイタクナハネソヘツカイイタクナハネソワカクサノツマノオモフトリタツ》
 
嬬之念烏立、【袖中抄讀云、ツマノオモヘルトリモコソタテ、】
 
奥サケテコギクル舟とは、奥をさかりて此方にくると云にはあらず、奥の遠く放れる方より來る舟なり、奥ツカイは奥よりくる舟の棹《カイ》なり、邊ツカイは邊に附て來る舟の棹なり、イタク莫反ソとは、棹をつよくはぬれば音に驚き浪に驚て鳥の立去ん事を惜たまふなり、若草は妻の枕詞なり、仁賢紀云|弱草吾夫※[立心偏+可]伶《ワカクサアガツマハヤ》矣【言2吾夫※[立心偏+可]伶矣1此云2阿我圖摩播耶(ト)1、謂(ハ)古者以2弱草1喩2夫婦1、故以2弱草1爲v夫、】古事記|大己貴《オホナムチノ》命歌には和加久佐能都麻能美許登《ワカクサノツマノミコト》云云、男女互につまと云こと此等にて論に及べからぬ事なり、弱草《ワカクサ》は柔になつかしくなびき合て(14)見ゆる物なれば、夫婦の中に喩來たるなるべし、延喜式に交の字をツマとよめるは、今も羮《アツモノ》など調ずるにつまと云事あり、その心なれば、夫婦を妻と云も交の字の心なるべし、オモフ鳥とは、帝の御在世に叡覽有てめでさせ給ひしものなれば、餘愛に不堪してかくはよませ給ふなり、袖中抄の點は、今樣には句も叶てよけれど、古の口つきならず、又さよむべき詞の字もなければ、今の點をよしとすべし、
 
初、いさなとりあふみの海を
いさなとりは、海の枕詞別に注してつけたり。いさなはくちらなり。とるは領するなり。鯨は大魚なれは海を領する心にていへは、今は水海なれはかなはぬやうなれと、歌はかくのみいふことつねのならひなり。鳥といへは雲井まてかけらぬも有、木にねぬもおほけれとも、をしなへて雷をかけり、木をすみかとするやうによみなすなり。川にはいはるまし。海といはんにはなとかあしからん。鯨取とかきたれは字のまゝにくちらとるともよめり。おきさけては、おきから遠くさけてなり。へにつきては、なきさにつきてなり。おきつかいは、おきよりくる舟のかいなり。はねそは、つよくはねて浪をなたてそなり。へつかひは、へにつきてこく舟のかいなり。わか草のつまは、仁賢紀云。弱草吾夫※[立心偏+可]怜矣。注云。古者以弱草喩夫婦、故以弱草爲夫。嬬の字をかけるは、たゝつまとよまるれはかけるなり。男女につきてきひしくはみるへからす。おもふ鳥たつは世におはしましける時、なかめやらせ給ひて、水鳥の心よくあそふを、愛せさせたまへるか、崩御したまふともしらす、その折のことくをりゐるを、これをたに今はかたみとおほしめす心にて、おとろかしたつなとよみたまへり。詩曰。白鳥鶴々
 
石川夫人歌一首
 
天智紀云、遂(ニ)納2四嬪1、有2蘇我(ノ)山田(ノ)石川(ノ)麻呂大臣女1曰2遠智娘1、【或本云美濃津子娘】云云、次有2遠智娘弟1曰2姪娘1、【或本云名姪娘曰2櫻井娘1】云云此二人の間か、按ずるに石川麻呂は大臣の諱なれば、此石川を以て石川夫人と云べきに非ず、此外にも紀に見えたる人あれど、今の名なければ此を缺けり、
 
初、石川夫人哥
これは蘇我山田石川麻呂大臣女姪娘にて、御名部皇女と阿部皇女【元明天皇】の御母にて、持統天皇の御母遠智娘のためには妹なり
 
154 神樂浪乃大山守者爲誰可山爾標結君毛不有國《サヽナミノオホヤマモリハタカタメカヤマニシメユフキミモマサナクニ》
 
不有國、【六帖并六條本袖中抄等アラナクニ、】
 
こゝに大山といへるは孝徳紀に畿内を定給ふ詔に、北自2近江|狹々波《ササナミノ》合坂山1以來爲2(15)畿内國1といへり、長等山此中に有べし、山守は應神紀云、五年秋八月庚寅朔壬寅、令2諸國1定2海《アマ》人及|山守《ヤマモリ》部1、歌の心は.花紅葉を叡覽し給はん爲に雜人を※[門/(幺+言+幺)]入せしめじとて山守を置せたまへるが、崩御の後も猶堅く守るを、今は誰ためとか標ゆふらん、めでさせ給ひし君もましまさねば、山も用なきにとなり、第一に春山秋山の興いづれまさると、王臣をして爭はしめたまひし風流思ひ合すべし、不有國をマサナクニとは帝の御上を申せば、此點もさもあるべし、
 
初、さゝ浪の大山守は――
さゝ浪の大山もりとは、なから山の山つゝきにすへて、まもらせたまふものなり。山もりをゝかるゝ事應神紀五年秋八月庚寅朔壬寅、令諸國定海人及山守部。花もみち御覽のため、山もりをゝかせたまへるか、崩御の後も猶しめゆひてまもるを、何のためにかまもるらん。君もまさねは山も用なきにとなり。第一卷に、春山秋山のあらそひを、額田王の判したまふ歌おもひあはすへし。不有國を、常の歌ならはあらなくにと點すへきを、今まさなくにとよめるは義よくかなへり
 
從山科御陵退散之時額田王作歌一首
 
天武紀上云、是月【元年五月】朴井連雄君奏2天皇1曰、臣以v有2私(ノ)事1獨(リ)至2美濃1、時|朝廷《ミカト》宣2美濃尾張兩國(ノ)司1曰、爲v造2山陵(ヲ)1豫差2定人夫1則人|別《コトニ》令v執v兵、臣|以爲《オモハク》非v爲2山陵1必有v事矣、若不2早(ク)避1、當v有v危歟、延喜式第二十一諸陵式云、山科陵、【近江大津宮御宇天智天皇、在2山城國宇治郡1、兆域東西十四町、南北十四町、陵戸六烟、】
 
初、從山科御陵――
日本紀二十八云。天武元年五月、朴井連雄君奏天皇曰、臣以有私事、獨至美濃時、朝廷宣美濃尾張兩國司曰、爲造山陵豫差定人夫、則人別令執兵。臣以爲非爲山陵必有事焉。若不早避當有危歟。延喜式第二十一諸陵式云、山科陵【近江大津宮御宇天智天皇、在山城國宇治郡、兆域東西十四町、南北十四町、陵戸六烟、】
 
155 八隅知之和期大王之恐也御陵奉仕流山科乃鏡山爾夜者毛夜之盡晝者母日之盡哭耳呼泣乍在而哉百磯城乃大宮(16)人者去別南《ヤスミシシワカオホキミノカシコキヤミハカツカヘルヤマシナノカヽミノヤマニヨルハモヨノツキヒルハモヒノツキネニノミヲナキツヽアリテヤモヽシキノオホミヤヒトハユキワカレナム》
 
夜之盡日之盡、此詞下にもあまたあり、今按、ヨノコト/\日ノコト/\と和すべきか、神代紀に妹は忘れじ世のこと/\にとある御歌は、世の限にとのたまふ心と聞ゆれば、今も彼に准じて夜のかぎり日のかぎりと心得べし、呼はをめく心にを〔右○〕と用たり、下に叫をを〔右○〕と用たる此に同じ、七條后のかくれ給へる時、伊勢がよめる歌に、秋の黄葉《モミヂ》と人々は、己がちり/\別れなばといへると、今のゆきわかれなんと、感慨ひとし、
 
初、やすみしゝわかおほきみの
よるはも、ひるはもの、ふたつのものしは助語なり。呼の字をゝとよむはよふにはをのこえを出し、をめくといふ詞もあれはなり。叫の字をも、をとよめるは、これにおなし。大宮人はゆきわかれなん、古今集、いせか長歌に、秋のもみちと人々はをのかちり/\わかれなは、たのむ陰なくなりはてゝなとよめるこれにゝたり
 
明日香清御原宮御宇天皇代 天渟中原瀛眞人天皇
 
十市皇女薨時高市皇子尊御作歌三首
 
聖武紀下云、七年是春將v祠2天神地祗1而天下悉祓禊之、竪2齋宮(ヲ)於|倉梯《クラハシノ》河上1、夏四月丁亥朔、欲v幸2齋(ノ)宮(ニ)1卜v之、癸巳食v卜、仍取2平旦《トラ》時1警蹕《ミサキオヒ》既動、百(ノ)寮《ツカサ》成v列、乘輿《キミ》命v葢以未v及2出行《オハシマス》1、十市皇女卒然病發薨2於宮中1、庚子葬2十市皇女於赤穗1、【神名帳云、赤穗神社、】天皇臨之降恩以發v哀、十市(ノ)皇女、初は大友(ノ)皇子の妃なり、今此御歌を見れば、更高市皇子妃となり給へる(17)か、或はしのびて心を通はされけるなるべし、皇子尊と書るは、日並皇子かくれさせ給ひて後、此皇子太子に立せ給へば、撰者後を以て通してかけり、日本紀に、皇子尊をミカドミコトとよめり、
 
初、十市皇女薨時高市皇子尊御作歌三首
天武紀云。天皇初娶鏡王女額田姫王生十市皇女。懷風藻、葛野王傳云。王子者淡海帝之孫、大友太子之長子、母淨御原之帝|長女《・上ムスメ日本紀》内親王。天武紀云。七年○是春將祠天神地祇、而天下悉祓禊。○庚子、葬十市皇女於赤穗、天皇臨之降恩以發哀。尊【神代紀云、至尊曰尊、自餘曰命。竝訓美擧等也。】草壁太子薨したまひて後、皇子尊とは申を、撰者はしめにめくらしてかけり
 
156 三諸之神之神須疑已具耳矣自得見監乍共不寐夜叙多《ミモロノヤカミノカミスキイクニヲシトミケムツヽトモネヌヨソオホキ》
 
ミモロノヤは、今按、難波の枕詞の押照を押照哉ともあれば、今もやの字を添へたる、あしくはあらねど三諸之とかきたればたゝみもろのと讀べしみもろともみむろとも云同じ山なり、此山にます神も三輪の大神なり、神杉は神木なり、イクニヲシト此句意得がたし、次の句も亦同じ、今按、此三首の次第を見るに、此歌は皇女の世におはせし時の事を重て悔て讀給へば、いくに惜とは行を惜とにて、第二の句までは杉〔右○〕を遇〔右○〕にからん爲の序なるべし、徒に逢ぬ月日の過行を惜となり、見監乍共はミケムツヽムタと點すべきか、むた〔二字右○〕は前に云ごとくともにといふ心なり、互に目には見つゝ人目を憚りて寢ぬ夜の多かりしが悔しくおぼさるゝとなるべし、見けむこそ心得がたきやうなれど、古語は今の耳には彷彿なる事多かり、或は監〔右○〕を見るともよめば、ミヽツヽトモニと点ぜば心得やすかるべし、
 
初、三諸之神須疑已具耳矣自得見監乍共不寐夜叙多
此御歌第四のみけんつ」ゝともの句、その心得かたけれは、一首さなから置侍りぬ。今の本にみもろのやとやの字のそひて侍るも、あしからねと、もしたらぬ歌例おほく侍るうへに、三諸之とかゝれたれはやの字なくて有なん。已具耳矣自得を、長流か昔の本には、すくにをしとゝあれと、已具をすくとよむへきやう心得かたし。いくとよみても過ゆく心なれはつゝくをや
 
(18)157 神山之山邊眞蘇木綿短木綿如此耳故爾長等思伎《ミワヤマノヤマヘマソユフミチカユフカクノミユヱニナカクトオモヒキ》
 
此發句、今按字のまヽにカミ山と讀むべし、即上の三諸山の別名なり、後に雷山|神岳《カミオカ》山などよめる皆同じ、雄略紀を引て別に注す、共に高市(ノ)郡にて都に近ければ假てよみ給ふなり、第二の句は仙覺云、山へまそゆふ短ゆふといへるは二つにはあらず、苧と云に二つのしなあり、麻苧は長木綿と云、長きが故なり、眞苧《マヲ》をば短木綿と云、短きが故なり、筑紫風土紀に長木綿短木錦といへるは是なり、今按、木綿は和名祭祀具云、本草注云、木棉、【和名由布、】折(ハ)v之多2白絲1者也、又木誄云、杜仲(ハ)、陶隱居、本草注云、杜仲一名木緜【杜音度、和名、波比末由美、】折v之多2白絲1者也、此ゆふの木の絲を取て祭祀の具につくれば、やがて木綿といふなり、古語拾遺云、天富命更(ニ)求2沃壤《ヨキトコロヲ》1、分2阿波(ノ)齋部1率往2東土1、播2殖麻殻1好麻所v生、故謂2之總國1、穀木所v生故謂2之|結城《ユフキノ》郡1、【古語麻謂2之總1也、】和名云、玉篇云、楮、【都古反、】穀木也、唐韻云、穀(ハ)【音穀和名加知】木名也、麻穀などにてするをも木棉と云は、從本立名の例と云、假令ば楊枝はかはやなぎにてする故の名なれど、それより起て後は何の木にてしたるをも松枝杉枝などはいはずして、楊枝と云がごとし、カクノミ故は上句は皇女の御命の短き事をのたまふべき譬なれば、短と云を承てかく許の短かき命にておはせんと知らず(19)して、行末長く相見んと思し事よと歎たまふなり、古點はナガシト思キと有しを、仙覺今の如く改らる、古點誠にことわり違へり、
 
初、神山の山邊まそゆふみしかゆふかくのみゆへになかくとおもひき
眞苧にて作る木綿をまそゆふとはいふ。麻にてするはあさゆふなり。眞苧は麻の苧よりみしかけれは、まそゆふといひて、やかてそれをみしかゆふとかさねてのたまへり。麻にてしたるは長ゆふといへるなり。かくのみゆへにとはみしかきゆふを皇女の御命にたとへてかくみしかき御命ゆへになかくましまさん事のやうにおほしめしけるかくやしきといふよしによませたまへり。第十六に、かくのみに有ける物をゐな川のおきをふかめてわかおもへりけるとよめる歌もこの心におなし
 
158 山振之立儀足山清水酌爾雖行道之白鳴《ヤマフキノサキタルヤマノシミツヲハクミニユカメトミチノシラナク》
 
今按、立儀足をサキタルとは如何よめるにか其意を得ず、清水の下にてにをはの字もなければ、立ヨソヒタル山シミヅと讀べきにや、皇女四月七日に薨じ給て、十四日に赤穗に納む、赤穗は添(ノ)上(ノ)郡にあり、此歌によれば赤穗は山なるべければ、其比猶山吹有たるべし、山吹の匂へる妹などもよそへよめる花なれば、立よそひたると云べし、さらぬだにある山の井に山吹の影うつせらんは殊に清かりぬべし、下句の心は、其山の井を酌てだに今はなき人の手向にすべきを、歎にくづほれてうつゝの心もなければ、道をもしらせ給はずとなり、武烈紀に、平群眞鳥《ヘクリノマトリ》大臣の子|鮪《シビ》と云人を罪によりて殺し給ける時、其妻物部(ノ)影媛が慟きてよめる歌に、玉|笥《ケ》には飯さへ盛り玉|※[怨の心が皿]《モヒ》に水さへ盛とよめるは、鮪が靈魂に祭れるなり、
 
初、山ふきのさきたる山のしみつをはくみにゆかめと道のしらなく
十市皇女は四月朔日にうせたまへは、山ふきの花ある比な。立儀足とかきてさきたるとはいかてよめりけん。心得かたし。清水下にをはとよむへき字も見えねは、立よそひたる山しみつとやよむへからん。日本紀の武烈紀に、大臣平群眞鳥臣か子鮪を殺し給ひける時、物部麁鹿火か女影媛か心まとひしてよめる歌にも、玉笥には飯さへもり玉  盟に水さへもりとよめり。なき人には水をもたむくれは山吹の花の影みゆるきよき水をくみてたに、たむけんとおほせと、涙にくれみこゝろまとひたまひて、其くみにゆきたまはん道をもしろしめさぬとなるへし
 
天皇崩之時太后御作歌一首
 
(20)在位十五年に當り給ふ朱鳥《アカミトリ》元年九月九日崩ず、太后は持統天皇なり、
 
初、天皇崩之時太后御作歌一首
天武天皇は御在位十五年九月九日に淨卸原宮に崩したまへり。太后は持統天皇なり
 
159 八隅如之我大王之暮去者召賜良之明來者問賜良之神岳乃山之黄葉乎今日毛鴨問給麻思明日毛鴨召賜萬旨其山乎振放見乍暮去者綾哀明來者裏佐備晩荒妙乃衣之袖者乾時文無《ヤスミシシワカオホキミノユフサレハメシタマヘラシアケクレハトヒタマヘラシミワヤマノヤマノモミチヲケフモカモトヒタマハマシアスモカモメシタマハマシソノヤマヲフリサケミツヽユフサレハアタニカナシヒアケクレハウラサヒクラシアラタヘノコロモノソテハヒルトキモナシ》
 
神岳乃、【仙覺云、古點カミヲカノ、八雲云、カミヲカ有v憚、
 
召賜良之問賜良之、此を古點にはメシタマフラシトヒタマフラシと有けるを、仙覺今の點に改らる、誠によし、然るを注に召たまへらしとは、召たまへらましと云詞なるべし、されば後にはけふもかも問賜はましあすもかも召賜はましといへり、さてこそ上下かけ合て心得合せらるべき事なれといへり、此注の點のよきに叶はぬ事惜むべし、此は見がてらなど云、がてらを良〔右○〕と里〔右○〕と通じて見がてりと云如く、給へりしと云を、古語に通してたまへらしといへり、御在世に年毎に秋の此比になれば、如何に三室山はもみぢつやと臣下にも問せたまひ、折らせても叡覽ありし事なり、又(21)此年五月より悩ませ給へば、崩御の前もみぢすべき程の事にも侍るべし、第三に大納言旅人、天平三年七月に薨せられし時、資人金明軍がよめる歌に、かくのみに有ける物を萩の花、咲て有やと問し君はも、此を思ひ合すべし、神岳乃、此句は古點の如くカミヲカノと讀むべし、第三に赤人の神岳に登てよまれし歌に、みもろのかみなび山に云云、あすかのふるき都は云云、今の歌下に其山をふりさけみればとあれば、遠き城《シキノ》上(ノ)郡の三輪ならぬ事明けし、又八雲御抄も良證なり、但此歌によりて有憚と仰られたるは如何侍らん、赤人の歌の外に第九にも、せの山に黄葉|常敷《トコシク》神岳《ミワヤマ》の、山のもみぢはけふかちるらん、此歌も仙覺のしわざにや、今の本にはもみぢとこしくみわ山のとあるを、顯昭の古今秘注に引かれたるには、もみぢつねしくかみをかのといへるは古點なるべし、猶上に別名を出せるが如し、顔氏家訓に、父物に噎て死たりとも孝子飲食を斷べからずと侍るにや、此集に吉野にても泊瀬《ハツセ》にても水に溺れて死せる娘子を火葬せる時、人丸悼みてよまれたる歌も侍るかし、問タマハマシ召タマハマシとは、問たまはましやめし給はましや、問もたまはじ召もたまはじなり、上には初に召たまへらしと有て、此には後には〔三字左○〕のたまひたるは文法にや、自らしかるか、アヤニ悲シビ、此あやといふ言は古事記に大穴持《オホナムヂ》の神詠に和し給ふ高志《コシノ》【越也】沼河《ヌカハ》姫(22)の歌に、阿夜爾那古斐岐古志《アヤニナコヒキコシ》とあるより見えたり、集中あまたあれば別に注す、いろ/\にとも、ねむごろにとも聞ゆ、荒妙ノ衣は※[手偏+總の旁]じて絹を和妙《ニギタヘ》と云ひ、布をあらたへと云、古語拾遺云、織布、【古語阿良多倍、】和名葬送具云?衣、唐韻云、?、【倉囘反、與催同、和名布知古路毛、】喪服也、第一卷に荒妙の藤原とつゞけたり、
 
初、やすみしゝわか――
めしたまへらしは、めしたまへりしなり。下のとひたまへらしは、とひたまへりなり。神岳の山のもみちを、此神岳はみむろ山なり。八雲御抄には、かみをかとよませたまひて、有憚と注したまへと此太后の御歌のみならす、此集中に猶見えたり。第三卷に、登神岳山部宿禰赤人作歌といへり。又第九にもよめり。神岳をみわやまとよめるはあやまれるなるへし。およそみわ山をみむろ山とはよめとも、みむろ山をみわ山とよむ例いまたかんかへす。此かみをかは高市郡、彼みわ山は城上郡なり。毎年秋になりて、みむろ山のもみちするころは、朝夕にめしよせても御覽し、いかに今はさかりになりつやとゝはせたまひしなり。けふもかもとひたまはまし、あすも――ましとは、けふもやとひたまはまし、あすもやめしよせて御覽すへき。すてに神去たまへはとはせたまふこともあらし。めしよせたまふ事もあらしなり。あやにかなしひ、此あやにといふ詞此集におほし。長流か昔の抄に、きぬなとのあやによせて、いろ/\にといふ心なりといへり。ねんころにといふにもかよひてきこゆることはなり。あらたへの衣は服衣なり。古語拾遺云。織布【古語阿良多倍。】布の惣名なれとも今は?《フチコロモ》をのたまへり
 
一書曰天皇崩之時太上天皇御製歌二首
 
此一書と云は、文武天皇崩御の後久しからずして或人の記し置るを取て撰者かくことわるか、さらねば右に太后と申たるは能叶へればさこそ書ぺけれ、
 
初、一書曰天皇崩之時太上天皇御製歌二首
此太上天皇おほつかなし。天武御時太上天皇なし。もし文武の朝の人のしるしをけるに、持統天皇の御ことを申けるを、それに打まかせて載たるにや。天皇に對する太上天皇なれは、あやまれりときこゆ。たとひ持統の御事ならは、さきのことく太后とこそ申へけれ
 
160 燃火物取而※[果/衣]而福路庭入澄不言八面智男雲
《トモシヒモトロテツヽミテフクロニハニハイルトイハズヤモチヲノコクモ》
 
面智、【仙覺抄、智作v知、】
 
燃火物は、今按、モユル火モとよむべきか、結句はオモシルナクモとよむべし、第十二に、面知《オモシル》君が見えぬ此頃とも、又|面知兒等《オモシルコラ》が見えぬ比かもとよめるは、面知とは常に相見馴る顔を云なり、幸に仙覺抄に智を知に作れり、此今按に付ても二義あるべし、一つには、如何なるもゆる火をも能方便してつゝみつれば、袋に入れても持と云に(23)非ずや、寶壽がぎりまし/\て昇霞し給をば、冥使の來る時如何にも隱し奉るべき方なければ、明暮見馴奉し龍顔を今は見參らせぬが悲しき事とよませたまへるか、二つには、如何なるもゆる火も方便ある物は裹て袋に入るやうに威勢ましませし君も、無常のさそひ參らせて何所《イツチ》か率《ヰ》て奉けん、又も見えさせ給はずとや、燃る火を袋に入るといふ事物に見えたる事歟、諺などを讀せ給へる歟、後人當v考、
 
初、燃火物とりてつゝみて袋にはいるといはすや面智男雲
此初の五もし、今の本にはともし火もとあるを、長流か抄にはもゆる火もとよみて、これは火うちを物につゝみて袋にいれてもつ心なりといへり。しかれは、佛法の因中説果の例のことく、火うちすなはちもゆる火にあらされとも、もゆへき火の性こもれるゆへにかくいふにや。歌の語勢を案するに、只そのまゝもゆる火にてあるへくもきこゆる歟。面智男雲を、もちをのこくもと和點をくはへたるは後人のしわさなるへし。おもしるなくもと讀へし。智は知の字なるへし。おもしるはつねにあひみる顔をいふなり。第十二におもしる者かみえぬ此ころとも、おも知こらか見えぬ比かもともよめり。もゆる火たにも方便をよくしつれは、ふくろに取いれてもかくすを、寶壽かきりまし/\てとゝめ奉るへきよしなくて、見なれたてまつり給へる御おもわの見えたまはぬをこひたてまつれたまへるなり
 
161 向南山陣雲之青雲之星離去月牟離而《キタヤマノタナヒクヽモノアヲクモノホシワカレユキツキモワカレテ》
 
此御歌も亦解しがたし、北山よりたなびき出る雲間に星も月も雲に連て見ゆるが雲の消移り行まゝに星も月も雲に遠ざかる如く、萬の御名殘も月日を經て替り行く由などにや、六帖に雨ふれば北にたなびく白雲の云云、向南は義をもてかけり白からずと云が黒き義なるやうの心なり、
 
初、きた山のたなひく雲の青雲のほしわかれゆき月もわかれて
此御歌ゆへありけにきこゆ。しはらくひとすちを尺せは、きた山よりたな引出る雲まにみゆる、星も月も雲につらなりてみゆるが、雲のきえゆくまゝに、ほしも月も雲にとをさかることく、よろつの御なこりも、月口をふるまゝにかはりゆく心にや
 
天皇崩之後八年九月九日奉爲御齊會之夜夢裏習賜御歌一首
 
持統紀を考るに此事見えず、習賜とは帝の御夢ごゝに御みづから誦習したま(24)ふか、又賜の字の心を思ふに先帝の神靈の帝の御夢に入らせたまひて、此歌を奉られて誦習せしめ給へるか、第十六に夢裡作歌の注に云、右歌一首忌部首黒磨夢裡作2此戀歌1贈v友、覺而不誦習如v前、今の習賜此に同じ、齊は齋に作るべし、官本注して云、古歌集中出、
 
162 明日香能清御原乃宮爾天下所知食之八隅知之吾大王高照日之皇子何方爾所念食可神風乃伊勢能國者奥津藻毛靡足波爾鹽氣能味香乎禮流國爾味凝文爾乏寸高照日之御子《アスカノキヨミハラノミヤニアメノシタシラシメシヽヤスミシシワカオホキミノタカテラスヒノワカミコハイカサマニオホシメシテカカミカセノイセノクニヽハオキツモモナヒキシナミニシホケノミカヲレルクニヽアチコリノアヤニトモシキタカテルヒノノミコ》
 
高照日之御子、【官本更點、云、タカテラスヒノミコ、】
 
靡足は今按ナミタルとも讀べし、塩氣ノミカヲレル國とは即上の伊勢なり、神代紀云、伊奘諾《イザナギノ》尊(ノ)曰、我|所v生《ウメル》之國(ニハ)唯有2朝霧1而薫滿之哉、神樂歌云、伊勢嶋や海人のとねらが燒|火《ホ》の氣、をけ/\、燒火の氣、いそらが崎にかほりあふ、をけ/\、此集第九人丸集歌云、鹽氣立荒礒《シホケタツアライソ》にはあれど云云、今案此下に落句あるべし、香乎禮流の乎〔右○〕は保〔右○〕なるべ(25)きを同韻なれば通せるか、若は草案にて矢錯せるか、味凝はあやと云んためなり、第六にもよめり、別に注す、高照罵は官本の又の点に上とおなじくタカテラスと和せるに從ふべし、此御歌も亦何事にかと心得がたし、今試に釋すべし、此は壬申の亂あるべき事を太神宮かねて遙に知食て御みづから天武天皇とならせ給ひ、或は末社の神等を降させ給て天皇となし參らせ給へるが、事成り世治て後誠に崩じ給ふにはあらで神靈の伊勢へ皈らせ給ふ意か、天武紀云、丙述旦於2朝明《アサケノ》郡(ノ)迹太川《トホカハ》邊1望2拜天照太神1、此卷の下に人丸高市(ノ)皇子(ノ)尊(ノ)殯宮を悼て作らるゝ歌に云云、此等にて知べし、其外古事記の序天武紀の神託卜筮等誠に天の縱《ユル》せる帝なれば、必ず神の化現なるべし、懷風藻の大友(ノ)皇(ノ)傳(ノ)の皇子の夢を記せるこそ少天皇をほめ申さぬ意なれど、大友(ノ)皇子葛野(ノ)王の傳を殊にゆゝしく書て、撰集も寶字年中なれば、疑らくは彼時の文者淡海眞人三船の撰にて、先祖の事とて筆を振はれければ、家に深く藏されける故久しく世にも弘まらで、遙に後に出たるにや、凡不測なるを神と云へば、權迹を以て輙く論ずべからず、若事迹を堅く執せば、應神天皇|甘美《ウマシ》内宿禰讒を信じて武内宿禰を殺さんとし給へり、これ神の定給へる胎中天皇に叶はざるに似たり、神代も亦然り、儒道佛道などによらば違る事あるべし、水火相せまれば互に爭て婦姑の如くな(26)れど、其牲天地に在て増減なし、唯凡慮を捨べし、かをれる國にと云下に句の脱たらむと申は、終りの二句は上の高照日のみこを再び云てほめ申詞にて、いかさまに思召てかと云より此方を收拾する詞なければなり、若はあやに乏しきと云所句絶にて、上を收拾して高照日のみこの一句を立て上を呼返して稱嘆し奉るか、後の人定むべし、天武の御歌にて御みづからかく勅すとも違べからず、
 
初、あすかのきよみ原の宮に――。此一首はゆへありけなる御歌なり。今案するに壬申の乱あるへきをしつめむとて、太神宮の御はからひにて、末社の神霊なとを、降させたまひて、天武天皇となしたまへるが、事なりて後、まことに崩したまふにはあらて、神靈の伊勢へ歸らせたまふにや。かくおもひよれるゆへは、こゝに神風のいせのくにゝはなといひて、あちこりのあやにともしき高照す日の御子とよみ、又下にいたりて、高市里子の薨したまへるをいためる人麿の歌の中に、さおほしきことあり。くはしくは、かの歌にいたりて釋すへし。塩氣能味の味の字を、八雲御抄には、むまきと義をつけさせたまへと、只音をかりて用るのみなり。かをれる國とは、日本紀第一云。伊奘諾尊曰、我所v生之國、唯有2朝霧1而無|薫《カホリ》滿(ル)之|哉《カナ》。神樂歌弓立に、いせしまやあまのとねらかたくほのけ、をけ/\本。たくほのけいそらかさきにかほりあふ、をけ/\末。此集第九に、しほけたつありそにはあれとゝもよめり。荊溪の弘決に、成論を引て、兎角、龜毛、鹽香、?足、風色等是名爲v無と釋せらる。されともこれは、世のことわさに、いそくさしといふをかをれるといふなるへし。霧にも香のあれば、日本紀纂疏にも、にほふよしに注したまへり。今案鹽くもりとて、海のくもるか、けふりのふすふるに似たるを、かをれるとはいふにや。日本紀の薫の字も、香にはあらて、ふすふるやうなるをもいへるへし。ありこりのあや此集におほきことはなり。よきことのあつまりよれるを味凝といふ。禮記(ノ)中庸(ニ)云。苟(モ)不(レハ)2至徳(ニアラ)1至道不v凝《アツマラ》焉。朱子章句云。凝(ト)者聚也。又こるといふは、水のこほるといふとおなし詞にて、かたまるをもいへり。あやは錦なとにをり付たる紋をいふなり。うつくしく目につける紋は見たらぬ心にて、ともしきとはいふなり。見のともしき、聞のともしきとよめるも、見たらす聞たらすなり。また味凝は、今案色々のあつまれるといふ心もあるか。色をあちといふ事、※[田+比]盧遮那經(ニ)云。染(ルニ)彼(ノ)衆生界(ヲ)以(テ)2法界(ノ)味(ヲ)1。疏釋(シテ)云。味(ハ)則色(ノ)義、如(シ)2加沙味(ノ)1。これは律の中に、加沙色につきて加沙味といふことあるに准せり。此集末にいたりて、あやとつゝけされとも、味こりといへることあれは、初の説しかるへし。異聞にそなへんとて、今案をもかけるなり。
 
藤原宮御宇天皇代 高天原廣野姫天皇
 
此注殊に誤れり、下に至て自から顯はるべし、
 
初、藤原宮――。高天原廣野姫天皇。此總標につきて、下に高天原廣野姫と注せるはあやまれり。此は持統天皇なり。下にいたりて、明日香皇女、弓削皇子のかくれたまへるは、文武天皇の御時なり。但馬皇女は元明天皇和飼元年に、かくれ給へり。そのほか文武元明のあひた、しりかたきことをも戯たるに、いかてか廣野姫天皇とは注すへき。後の人のくはへたる歟。さらすは草案のあやまれるをそのまゝ流布せるにや
 
大津皇子薨之後大來皇女從伊勢齊宮上京之時御作歌 二首
 
持統紀云、朱鳥元年十一月丁酉朔壬子、奉2伊勢神宮1皇女大來還2至|京師《ミヤコニ》1、十四歳にて齋宮に立たまひ、十四年に當て還たまへり、文武紀云、大寶元年十二月乙丑、大伯《オホクノ》内親王薨ず、齊は齋に改むべし、
 
初、大津皇子薨之後――。大津は天武天皇第三の皇子、天武十五年崩御のやかてより謀反の御心つきて、持統天皇朱雀元年十月二日、事あらはれて。三日に賜死、委は第三卷に注すへし。大來皇女齋宮に立たまへることは、天武紀(ニ)云。二年夏四月丙辰(ノ)朔己巳欲3遣2侍大來皇女(ヲ)于天照大神宮(ニ)1而令v居2泊瀬(ノ)齋《イツキ》宮(ニ)1、是(レ)先(ツ)潔《サヤマテ》v身(ヲ)稍近(ツク)v神(ニ)之處(ナリ)也。又云。三年冬十月丁丑朔乙酉大來(ノ)皇女自2泊瀬(ノ)齋(ノ)宮1、向《マウツ》2伊勢(ノ)神宮(ニ)1。持統紀云。元年十一月丁酉(ノ)朔王子奉2伊勢神社(ニ)1皇女大來還(リ)2至(ル)京師《ミヤコニ》1。齊明紀(ニ)云。七年辛酉春正月丁酉(ノ)期壬寅御船西(ニ)征(テ)始(テ)就(ク)2于海路(ニ)1。甲辰御船到(ル)2于大伯(ノ)海(ニ)1時大田姫(ノ)皇女産(メリ)v女爲。仍(テ)名(ケテ)2是(ノ)女(ヲ)1曰2大伯(ノ)皇女(ト)1。大伯(ノ)海(ト)は備前なり。和名集云。備前(ノ)國|邑久《オホクノ》【於保久】郡。しかれは日本紀并此集には大來とも大泊ともかき、和名集には邑久とかけるみなおなし。此皇女十四歳にして齋宮に立たまひ、二十七歳にして京に歸り給ひ、四十一歳にして薨したまへり。續日本紀云。大寶元年十二月乙丑大伯内親王薨。天武紀云。先納2皇后姉大田皇女1爲v妃生2大來皇女與2大津皇子1。同腹の御はらからなるゆへに、さきにも、ことにむつましき御歌あり。今の御歌あはせてみるへし
 
163 神風之伊勢能國爾母有益乎奈何可來計武君毛不有國爾《カミカセノイセノクニヽモアラマシヲナニヽカキケムキミモアラナクニ》
 
(27)アラマシヲは、皈らずしてさて有まし物をと悔たまふなり、
 
164 欲見吾爲君毛不有爾奈何可來計武馬疲爾《ミマクホリワカセシキミモアラナクニナニヽカキケムウマツカラシニ》
 
詩云、陟《ノホレハ》2彼高岡1、我馬玄黄、遊仙窟云、日晩途遙、馬疲人|乏《タユミヌ》、
 
初、みまくほりわかせし君もあらなくになにゝかきけん馬つからしに
詩曰。陟《ノホレハ》2彼(ノ)高(キ)岡《ヤマニ》1、我(カ)馬|玄黄《クロカシカキニナンヌ》。遊仙窟曰。日晩途|遙《トヲウシテ》、馬|疲《ツカレ》人|乏《タユミヌ》
 
移葬大津皇子屍於葛城二上山之時大來皇女哀傷御作歌二首
 
日本紀には初何處に葬とも見えざれども、此によれば初葬りける處より二上山に移し葬らると見えたり、此事も亦紀には載られず、
 
初、移葬大津皇子屍於――。日本紀には、初いつれの所に葬ともみえす、うつしはうふるよしも載られす。葛城の名は、神武紀云。又高尾張(ノ)邑(ニ)有(リ)2土蜘蛛1。其(ノ)爲v人(ト)也|身《ムクロハ》短(シテ)而手足(ハ)長(シ)、與2侏儒《ヒキヒト》1相類(タリ)。皇軍《ミイクサ》結(スキテ)2葛(ノ)網(ヲ)1而掩(ヒ)襲(テ)殺(ス)v之(ヲ)。因(テ)改(テ)號(テ)2其邑(ヲ)1曰2葛城(ト)1。
 
165 宇都曾見乃人爾有吾哉從明日者二上山乎弟世登吾將見《ウツソミノヒトニアルワレヤアスヨリハフタカミヤマヲイモセトワレミム》
 
ウツソミはうつせみに同じ、此集いづれをも用たり、世とすること上の如し、イモセは、いもは妹、せは兄なり、大津(ノ)皇子は、皇女には御弟なれど、せ〔右○〕は女の男を呼詞なり、歌の心は我はかひなくながらへて世上の人にてあるを、皇子の尸を移し葬らば、明日より、かけても思はぬ二上山をいもせと見む事よと嘆たまふなり、二上は山二つ(28)並たる故に、第七にも、紀路にこそ妹山有けれ葛戒の二上山も妹こそ有けれ、とよめり、さればせ〔右○〕とみむとこそよみ給ふべけれど、歌の習なれば大樣に廣くいもせとのたまへり、又オトセと云ふによらば弟〔右○〕を豈〔右○〕といふべき理はなけれど、せ〔右○〕は唯男を貴て呼詞と意得れば、あすよこりや山を弟と見んとのたまふなり、
 
初、うつそみの人にある我や――。うつそみはうつせみにて、世の枕詞なるを、やかて世に用るなり。我はまたなからへて世上の人にて有を、けふ大津皇子をかつらきにうつしはうふらは、あすよりはおもひよらぬふたかみ山を、いもせとみんことよとなけかせたまふなり。いもせははらからなり。此集に、人ならは親のまなこそあさもよひきの川つらのいもとせの山とよめるも、いも山とせの山とか、人にもあらは、おやの愛する子の、あにといもうとのやうなるとよめるなり。夫婦をいもせといふも、ゝとはあにといもうとよりなつくるなり。又二上は、山ふたつならひ立ゆへに、此集に、紀路にこそ妹山ありけれかつらきのふたかみ山も妹こそ有けれとよめれは、此御歌そのよせあるものなり
 
166 礒之於爾生流馬醉木乎手折目杼令視倍吉君之在常不言爾《イソノウヘニオフルツヽシヲタヲラメトミスヘキキミカアリトイハナクニ》
 
イソノ上は石の上なり、神功皇后紀に、登2河中石上(ニ)1、とあるをイソノウヘと点ぜり、大和の石上又同じ、於〔右○〕は上なり、文武紀に憶良の氏|山上《ヤマノウヘ》を山於《ヤマノウヘ》とかけり、南京の法相宗の學者内典を讀時某において〔三字右○〕を某のうへに〔三字右○〕と讀習へるは古風の故實なるべし、馬醉木は集中|數《アマタ》あり、点今の如し、別の歌の馬醉木を六帖にもあせみ〔三字右○〕とよめり、別に注す、歌の意明なり、此皇女の御歌、以前共に六首、何れも悲しきは、皆大津(ノ)皇子によりて讀給ふ故なり、
 
初、いそのうへにおふるつゝしをたをらめとみすへき君か有といはなくに
いそのうへは石のうへなり。神功皇后紀云。登(テ)2河(ノ)中(ノ)石《イソノ》上(ニ)1而投(テ)v鉤|祈《ウケヒテ》之|曰《ノタマハク》といへり。布留につゝくいそのかみもおなし。於の字をうへとよむ事おほし。文武紀には、憶良の氏をも、山(ノ)於《ウヘ》とかけり。南京法相宗の學者、聖教をよむ時、何にをいてとはよまて、何のうへにとよみならはせるは、彼宗いにしへよりありくる宗なれは、古風のゝこれるなるへし。此御歌は、朱鳥二年の春になりて、二上には移しはうふりたまふなるへけれは、皇女の御なけき更にあらたにして、つゝしのさかりなるを御覽するにつけても、いとゝ皇子の御ことをなけきて、かくはよみたまふなり。此皇女の御歌、此集に以上六首を載たり。ともに恩愛ふかく、あはれなる御歌なり
 
右一首今案不似移葬之歌盖疑從伊勢神宮還京之時(29)路上見花感傷哀咽作此歌乎
 
移葬の下に時の字脱たるべし、此注は撰者の誤なり、所謂智者千慮必有2一失1とは此事なり、皇女は十一月十六日に都へ皈たまへば、此は明る年の春花盛の比、皇子の尸を移葬に因て感じてよみ給ふなるべし、有間皇子の松枝を結歌二首の後の歌に准ずべし、
 
初、右一首今案――。移葬の下に、時の字をおとせる歟。
此注は帥爾にくはふるとてあやまれり。十一月十六日京へ歸りたまへはなり。うつしはうふる時、あるひはそのゝちによみたまふへし。さきにいへるかことし。朱鳥二年の春なるへし
 
日並皇子尊殯宮之時柿本人磨作歌一首并短歌
 
此皇子薨じ給ふ年月等は後の注にあり、持統紀云、天命開別天皇元年、生2草壁(ノ)皇子(ノ)尊於大津宮1、かゝれば薨じ給ふ時二十八歳なり、草壁(ノ)皇子又の御名は今の如し、天武紀云、十年春二月庚子朔甲子、云云、是日立2草壁(ノ)皇子(ノ)尊1爲2皇太子1、因(テ)以令v攝2、萬機1、續日本紀第一云、日並知(ノ)皇子(ノ)尊者、寶字三年有v勅進2崇尊號1、稱2岡宮御宇天皇1也、又云、慶雲四年夏四月庚辰、以2日並知(ノ)皇子(ノ)命薨日1、始入2國忌1、此端作上の注に引つゞけたるは後人の誤なり、柿本の下に朝臣を脱せり、目録には尸あり、
 
初、日竝皇子尊殯宮之時柿本【脱朝臣二字目録有之】――
持統紀云。天命開別天皇元年、生草壁皇子尊於大津宮。天武紀云。十年春二月庚子朔甲子、天皇々后共居于大極殿、以喚親王諸王及諸臣詔之曰。○是日立草壁皇子尊、爲皇太子、因以令攝萬機。十四年春正月丁未朔丁卯.授淨廣壹位。天智天皇元年に.むまれたまひて、持続天皇三歳に二十八歳にして薨したまへり。續日本紀第一、文式紀云。日並知皇子尊者、寶字三年有勅、追崇尊號、稱岡宮御宇天皇也。又云。慶雲四年夏四月庚辰、以日並知皇子命薨日1、始入國忌。延喜式二十一諸陵式云。眞弓丘陵【岡宮御宇天皇、在大和國高市郡、兆域東西二町、南北二町、陵戸六烟。】續日本紀第二十六云。天平神護元年十月己未朔辛未、行幸紀伊國。○癸酉、過檀山陵、詔陪従百官悉令下馬、儀衛卷其旗幟。今案、慶雲四年とは、今年光仁天皇位につかせ給ひて、寶龜と改元したまへとも、十月なれは四月は猶慶雲なり
 
167 天地之初時之久堅之天河原爾八百萬千萬神之神集集座(30)而神分分之時爾天照日女之命《アメツチノハシメノトキシヒサカタノアマノカハラニヤホヨロツチヨロツカミノカミアツメアツメイマシテカムハカリハカリシトキニアマテラスヒナメノミコト》【一云指上日女之命】天乎波所知食登葦原乃水穗之國乎天地之依相之極所知行神之命等天雲之八重掻別而《アマツヲハシロシメサムトアシハラノミツホノクニヲアメツチノヨリアヒノカキリシラシメスカミノミコトトアマクモノヤヘカキワケテ》【一云天雲之八重雲別而】神下座奉之淨之宮爾神隨太布座而天皇之敷座國等天原石門乎開神上上座奴《カミクタリイマシツカヘシタカテラスヒノワカミコハアスカノキヨメシミヤニカミノマニフトシキマシテスメロキノシキマスクニトアマノハライハトヲヒラキカムアカリアカリイマシヌ》【一云神登坐尓之可婆】吾王皇子之命乃天下所知食世者春花之貴在等望月乃滿波之計武跡天下《ワカキミノミコノミコトノアメノシタシラシメシセハハルハナノカシコカラムトモチツキノミチハシケムトアメノシタ》【一云食國】四方之人乃大舩之思憑而天水仰而待爾何方爾御念食可由縁母無眞弓乃崗爾宮柱太布座御在香乎高知座而明言爾御言不御問日日月之數多成塗其故皇子之宮人行方不知毛《ヨモノヒトノオホフネノオモヒタノミテアマツミツアフキテマツニイカサマニオホシメシテカユヱモナキマユミノヲカニミヤハシラフトシキマシテミアリカヲタカシリマシテアサコトニミコトトハセスヒツキノアマタニナリヌソコユヱニミコノミヤヒトユクヘシラスモ》【一云刺竹之皇子宮人歸邊不知爾爲】
 
所知食登、【官本亦云、シラシメサムト、】 依相之極、【官本亦云、ヨリアヒシキハミ、】 所知行、【官本亦云、シロシメス、】 飛鳥之、(31)【官本亦云、トフトリノ、】 天皇之、【官本亦云、スヘラキノ、】
 
神集集座而は、今按、神代紀に依て、カムツドヘニツドヘイマシテと和すべし、神分分之時爾もカムハカリニハカリシトキニとよむべし、舊事紀云、于v時八百萬神、於2天(ノ)八湍《ヤセノ》河(ノ)々原1神會集而《カムツトヘニツトヘテ》議d計《ハカラフ》其(ノ)可v奉2祈謝《コヒノミ》1之|方《サマ》u矣、今按、分の字、字書に別也判也とありて議也といはざれば、カムワカチニワカチシ時ニと點を改むべきか、但分別して議定すれば、任ては陶じ心か、アマテラスヒナメノミコトは、御名の日の字によりて初より後の神のみことと云までは日神に比し奉て申さるゝなり、御名を申ことは臣としては有まじき事なるを、日本紀には草壁(ノ)皇子とのみあれば、日並は御徳をほめ申謚にてやかくはよまれたるか、アマツヲバ、シロシメサントとは、神代紀云、伊弉諾《イザナギノ》尊|勅2任《コトヨザシテ》三子1曰、天照太神者、可3以|御《シラス》2高天之原1也云云、これを借て用たれども、心は只天下なり、葦原ノミヅホノ國は別に注す、天地ノヨリアヒノカギリは、極はキハミとよむべし、天は地をつゝめば依相なり、神ノ命トとは此所に議り定給てと意を入てよむべし、天雲ノ八重掻別テ神下とは、皇子の生れ出させ給へるを、天照大神の皇孫を天降し奉らせ給へるに譬るなり、神代紀云、皇孫乃離2天(ノ)磐座《イハクラヲ》1、且排2分天(ノ)八重雲1稜威之道別《イツノチワケニ》道別而天2降件於日向襲之|高千穗峯《タカチホタケニ》1矣似合たる事を借て用られたれば、さきと今、事替り(32)たれども意つゞけり、高テラス日ノ皇子は此亦日並の御事なり、飛鳥之、官本|更《マタノ》點にトブトリノと和したるは、ちはやぶるは、神の枕詞なる故意を得て賀茂の社などもつゞくるやうに、明日香の淨御原なれば此も苦かるべからねど、飛鳥をアスカとよむ上は今の點に隨ふべし、キヨメシ宮、此點は誤れり、キヨミノ宮と改むべし、御の字は、めでたき字なれば、てにをはに假て二字に足すか、淨見原ともかけり、今彼舊地の俗には淨御《キヨミ》の二字を音に呼て申とかや、天武天皇は申すに及ばず、持統天皇も此時はいまだ淨御宮にまし/\ければ、我なくても世は安らかに治りぬべしと思召て再天へ歸らせ給ふと申しなす心なり、一本の異を注するに、カムノボリイマシニシカバとは、是にて末の收拾慥ならぬやうなれど、先是に我思ふやうと意ををへて、いかさまに思召てかを思召てやらんとなしてみれば、日月のあまたになりぬと束ねたる所までのつゞき、能意得らるゝなり、本文のまゝにてもいかさまに思召てと意得る事是に同じ、春花ノ貴在トとは日本紀に貴盛をタノシと訓じたれば、彼に依てタノシカラントと讀べきか、望月ノ滿ハシケムト、此をば第十三に高市(ノ)皇子の薨じ給へるを慟み奉る歌に、十五月之《モチツキノ》、多田波思家武登《タヽハシケント》、とよめるに合て、此をもタヾハシケムトとよむべきか、鹽時の湛へ、水の湛と云も、滿て動かぬをいへば、花の盛を見る(33)やうにたのしく、十五夜の滿たゝへたるを見るごとく望足なむと思ふなり、日本紀に偉の字をタヽハシと讀たれど、それとは意かはれり、大舟ノ思タノミテとは此詞後もあまたあり、大舟はいかにも乘てたのもしき物なればなり、天ツ水仰テ待ニとは雨の事なり、景行紀云、山神之興v雲|零《フラシム》v水《アメヲ》日でりする時空を仰雲を望て皇子の天つ日繼知しめさむ事を天下の人民|何時《イツ》かと待つなり、文選相如難2蜀(ノ)父老(ヲ)1檄云、擧v踵思慕(スルコト)若2枯旱之望1v雨、所以モナキは、今按由縁は引合てヨシと點じ改むべし、下に舍人が歌の中にも、よしもなきさたのをかべとよめり、おはすべきよしもなき所へおはしますらんなり、マユミノ岡は延喜式諸陵式云、眞弓丘陵、【岡宮御宇天皇、在2大和國高市郡1、兆域東西二町、南北二町、陵戸六畑、】或者云、味橿岳の西一里許に越村あり、越村の南に眞口の村ありといへり、皇極紀云、二年九月丁巳朔丁亥、吉備嶋皇祖母命薨、乙末葬2皇祖母命于檀弓崗1、これも同所なり、續日本紀第二十六云、天平神護元年十月己末朔辛未、行2幸紀伊國1、云云、癸酉過2檀山陵(ヲ)1詔2陪從(ノ)百官(ニ)1悉令2下馬1、儀衛卷2其旗幟1、御在香《ミアリカ》は殿なり、古語拾遺云、古語正殿謂2之|麁香《アラカ》1、然ればミアラカヲと讀べきか、ありか、かくれが、すみかなど云を思ひ合すれば、か〔右○〕は所の心ある詞にや、アサゴトニ、ミコトトハセズは、あさは日の意にて日毎になり、とはせずはいはずと云古語なり、崇神紀に不言をマコトトハズと點ぜり、ことゝはぬ(34)木すらなど下によめるも物いはぬ木なり、日毎に舍人等が、殯宮へ祇候すれども、昔に替て物をも仰られぬなり、ユクヘシラズモは、下にもゆくへをしらずとねりはまどふと有ごとく、假令ば、道ゆく人のしるべを失へるごとく迷ふてゆくへをしらぬなり、人丸の舍人にてよまれたるにはあらず、舍人は殊に朝夕馴つかふまつる故に、下にもかやうの事には多く舍人の歌をよめり、注のサス竹は、君とも宮とも云に置辭なり、別に注す、ヨルベシラニスはよるべしらでなり、しらずをしらにといふは古語なり、日本紀の歌にも續日本紀の宣命の詞にもあり、
 
初、あめつちのはしめの時し――
先此歌のよみやうは、日なめの皇子といふ御名につきて、天照大神になすらへて申奉れるなり。神代紀云。乃入于天石窟、閉磐戸而幽屋焉。六合之内常闇而不知晝夜之相代、于時八十萬神會合於天安川邊、計其可  廂之方云々。神集はかんつとよみて下もつとへいましてとよむへし。あしはらのみつほのくにを、神代紀云。天神謂伊奘諾尊伊奘册尊曰。有豐葦原千五百秋瑞穗之地。みつほのくには此國をほむる名なり。あめつちのよりあひのきはみとは、きはみははてなり。地のはては天もひとつによりあふ心なり。天雲のやへかきわけて、やへをかきわけてなり。神代紀云。皇孫乃離天磐座、且排分天八重雲、稜威之|道別道別《チワキニチワキテ》而、天降於日向襲之高千穗峯矣。かみくたりいましつかへしとは、太子といへとも、臣に屬すれはいへり。淨之宮爾、これをはきよみのみやとよむへし。しきます國といふまては、持統天皇の御ことなり。春花のかしこからんとは、榮花にたとふ。かしこきはおそろしきなり。尊貴の人は威勢あるゆへにをのつからしかり。又たのしからんとゝもよむへし。日本紀に貴盛とかきてたのしとよめり。望月の滿波之計武跡、これをはもち月のたゝはしけんとゝよむへし。第十三卷に十五月之多田波思家武登とよめり。湛の字の心なり。潮なとのみちたゝへたることく、十五夜の月の圓滿なるによせて、のそみたりてかけたる事あらしと、皆人のおもふなり。大舟のおもひたのみてとは、大舟は、のれる心たのもしけなる物なれはなり。此集におほき詞なり。和名集云。唐韻云。舶【傍陌反、楊氏漢語抄云、都具能布禰】海中大船也。あまつ水あふきて待とは、あまつ水は雨なり。日てりに雨のくたるを待心なり。景行紀云。山神之興雲零水。文選司馬長卿難蜀父老檄云。擧踵思慕、若枯旱之望雨。由縁母無、これをはよしもなきとよむへし。下のとねりか歌にも、よしもなくさたのをかへにかへり居はとよめり。みありかは、みあらかなり。古語拾遺云。古語正殿謂之麁香。明言爾とは、朝毎になり。物のたまふ事は、朝にかきらされとも伺候する人はことに朝とくより御あたりちかくはへりて、物おほせらるれはなり。みこのみや人ゆくゑしらすもとは、身のなりゆくへきやうをしらぬなり。又ちり/\になりて宮の内に人もなくなるをいへるにもあるへし
歌の下に異を注する中に、爾爲の二字よみときかたし。もしのあやまれるにや(以上似閑本卷二上册)
 
反歌二首
 
168 久堅乃天見如久仰見之皇子乃御門之荒卷惜毛《ヒサカタノアメミルゴトクアフキミシミコノミカトノアレマクヲシモ》
 
天見、【官本亦云、ソラミル】
 
歌の心明なり、
 
169 茜刺日者雖照有烏玉之夜渡月之隱良九惜毛《アカネサスヒハテラセレトヌハタマノヨワタルツキノカクラクヲシモ》 【或本云件歌爲後皇子貴殯宮之時歌反也】
 
(35)茜刺は日の赤みて匂ふ心なり、日ハテラセレドとは皇子の薨じ給ふを月の隱るゝに譬へむためなり、ヌバ玉は黒き物にて黒しとつゞくる意をもて夜ともそへよめば、文章の隔句對の如く、茜刺に鳥玉と対し、日はてらせれどに夜わたる月と對せるか、和語の對は痛く覿面には非ず、又思ふに其比對までの沙汰は有まじければおのづから然るや、下の注に或本云、以2件歌1爲2後皇子貴殯宮之時歌反1也、貴を官本には尊に作れり、後の例尤然るべし、但神代紀に日神の御名の注に、貴此云2武智1、大己貴命もあれば、後皇子ムチと云が、歌反は反歌の顛倒せるか、但歌は長歌をさし、反は其反歌と云意なるべし、
 
或本歌一首
 
170 島宮勾乃池之放鳥人目爾戀而池爾不潜《シマノミヤマカリノイケノハナチトリヒトメニコヒテイケニカツカス》
 
島宮勾乃池之、【仙覺云二條院御本點如2今本1、】 不潜、【袖中抄、仙覺抄、并幽齋本點云、クヽラズ、】
 
初の二句仙覺抄にシマミヤノマナノ池、或マヽノ池など云點を破して今の点に定らる、島宮は天武紀にあまた見えたり、皆シマノミヤと點ぜり勾の字繼體紀に、勾大兄《マカリノオヒネ》皇子まします、此皇子後は安閑天皇にて勾金橋宮にて世を治めたまへり、其讀み(36)なマガリなれば、尤今の點を正義とすべし、天武紀云、十年秋九月丁酉朔辛丑、周芳《スハウ》國貢2赤龜、乃放2島宮池1、放とはもとより翅など切て放置せ給へる水鳥なり、人メニ戀テは人目を戀てなり、妹を戀と云べきを妹に戀と云が如し、すべて鳥は人を恐るゝものにて、水鳥は水にかづき入て隱るゝを、此池の放鳥は能なづきたる故に、人を戀慕ひて池にもかづかずとよめるなり、皇子隱させ給ひて後も猶此鳥の池を放れずして、人なつかしうするをあはれと見てよめる心なり、放鳥の事或は主人の死したる時、其飼置たるを放を云とも申、又さなくても籠にかふ鳥を用なしとて※[しんにょう+外]しやるをも申なり、此歌も皇子薨じ給へば放たる由に云説あれど、下の舍人が歌にあらびな行そ君まさずともとよみたるを以て、此歌の心に引合するに、初の心なる事疑なし、
 
初、嶋の宮勾の池のはなちとりひとめにこひて池にかつかす
嶋の宮は、下のとねりか歌に、橘の島の宮とよめれは、橘寺あるあたりなるへし。又此集に橘の嶋にしをれは川遠みさらさてぬひしわか下衣なともよめり。天武紀云。十三年秋九月丁酉朔辛巳、周芳國貢赤龜、乃放島宮池。これ此歌のまかりの池なり。はなち鳥とは、水鳥の翅なときりて放かふをいふなり。人めにこひては、ひとめをこひてなり。いもをこふるをは、妹にこひなとよめる同しこゝろなり。總して鳥は人を恐るゝものなるにより、水鳥なとは水にかつきいりて人にかくるゝものなり。しかるを此池の放鳥はよくなつきたるゆへに、人を戀したふて、池にもかつかすとよめるなり。皇子かくれさせたまひて後も、此鳥の猶池をはなれすして人なつかしくするをあはれと見てよめる心なり。放鳥の事、或は主人の死したる時、その飼置たる鳥をいふとも申、又さなくても籠にかふ鳥を用なしとてにかしやるをも申なり。此歌も皇子薨し給へは、はなちたるよしにいふ説あれとも、もとよりはなちをかせたまふ鳥とそ歌の心はきこたたる。此下の舎人等かよめる歌の中にも、嶋の宮上の池なる放鳥あらひな行そ君まさすともとよみたれは、もとよりはなち飼せたまひたる鳥といふに疑なし。まかりの池を、まなの池ともよめり。安閑天皇を繼體天皇の御時は、勾大兄と申奉り、御位につかせ給ひて後都をうつし給ふ所をも勾金橋といふに、ともに勾の字はまかりとよみたれは、只まかりの池なるへし
 
皇子尊宮舍人等慟傷作歌二十三首
 
日本紀には帳内をもトネリとよめり、
 
初、皇子尊宮舍人等慟傷作歌二十三首
目録には傷の字をタに作れり。字の似たる上にともに義もあるゆへにかきたかへたるなるへし。おもふに傷の字にてや侍りなん
 
171 高光我日皇子乃萬代爾國所知麻之島宮婆母《タカテラスワカヒノミコノヨロツヨニクニシラレマシシマノミヤハモ》
 
高光は、タカヒカルと讀べし、古事記下、仁徳天皇投、建内宿禰歌、并雄略天皇段、大后御(37)歌、并云|多迦比迦流比能美古《タカヒカルヒノミコ》、是を證とす、下此に傚ふべし、所知麻之は今按シラレマシと云點は、其意叶はず、シラサマシとよむべし、萬代に國を知しめさまし島の宮はいづらやと、物を失て尋ぬるやうに云は歎餘なり、景行紀に日本武尊弟橘姫を戀しのびて碓日嶺に登て東南を望みて三たび吾嬬者耶《アカツマハヤ》とのたまひ、仁賢紀に、弱草吾|夫※[立心偏+可]怜《ツマハヤ》矣と泣て人をさへ悲しましめし女あり、※[立心偏+可]怜をハヤと和せるにて今の歌をも見るべし、
 
初、高てらすわか日のみこの――
嶋の宮はも、此はもといふは、もの字は助語なり。はといふは、かなしひのあまり、萬代もこゝにして天か下しろしめさんとおもひしに、いつくやその嶋の宮はとうたかひて問ふ詞なり。仁賢紀に、弱草吾夫※[立心偏+可]怜矣。この※[立心偏+可]怜の字を、はやとよめるも、今の心におなし。又日本紀に、日本武尊うすひの坂にのほりて東南のかたを望て、弟橘姫をおほしめし出て吾嬬者耶とのたまひしも、はやはなけきてとひもとむるやうの詞なれは、※[立心偏+可]玲はあはれともかなしとも讀へきを、はやといふ虚語に訓したるはよく心を得たるものなり。これらにて今の歌をも見るへし。此詞集中にあまたあり
 
172 島宮上池有放鳥荒備勿行君不座十方《シマノミヤウヘノイケナルハナチトリアラヒナユキソキミマサストモ》
 
上池、【官本或作2池上1、】
 
アラビナユキソは荒振神など云心にはあらず、住あらしてなゆきそとなり、竹取物語に、あなゝひに【和名云、辨色立成云、麻柱、阿奈々比、】驚々しく二十人登りて侍れば、あれて寄まうで來《コ》ぬなりと云へるも、燕の住あらしたるなり、
 
初、島の宮うへの池なる放鳥あらひなゆきそきみまさす友
竹取物語云。あなゝひにおとろ/\しく廿人のほりてへ侍れは、あれてよりまうてこぬなり。これもつは
 
173 高光吾日皇子乃伊座世者島御門者不荒有蓋乎《タカテラスワカヒノミコノイマシセハシマノミカトハアレサラマシヲ》
 
蓋、【別校本作v益、當v從v此、】
 
初、高光わか日の皇子の
蓋は益をあやまれり
 
(38)174 外爾見之檀乃岡毛君座者常都御門跡侍宿爲鴨《ヨソニミシマユミノヲカモキミマセハトコツミカトヽトノヰスルカモ》
 
ヨソニ見シとは皇子(ノ)尊を納奉らぬさきをいへり、
 
175 夢爾谷不見在之物乎欝悒宮出毛爲鹿作日之隅回乎《ユメニタニミサリシモノヲオホツカナミヤイテモスカサヒノクマワヲ》
 
作日、【別校本作2作佐1、當v從v此、】 隅回、【今按隅當v作v隈、】
 
欝悒はオホヽシクともよめば、同じ心ながらさよむべきか、オボツカナクと云は如何にぞや、叶ても聞えぬにや、宮出はミヤデとよむべきか、第十八に美夜泥之理夫利《ミヤデシリブリ》とよめるみやでも今と同じく出仕なり、作日ノクマは第七に、さひのくまひのくま川とよめる所なり、三吉野の吉野などよめるやうに、ひのくまにさ〔右○〕もじを添へて再いへるなり、和名云、高市郡|檜前《ヒノクマ》【比乃久末、】眞弓岡同じ郡なれば檜隈のあたりにや、
 
初、夢にたにみさりしものを――
宮出は宮の中にのみ有しに、宮を出て夢にもみぬさひのくまのめくりを行となり。まゆみの岡の道にこそ。第七第十二に、さひのくまひのくま川とよめる所なり。古今集に、さゝのくまひのくま川とあるはうたひあやまり、かきあやまれり。高市郡なり。但馬國氣多郡にそ、さゝのくまは侍る
 
176 天地與共將終登念乍奉仕之情違奴《アメツチトトモニヲヘムトオモヒツヽツカヘマツリシコヽロタカヒヌ》
 
莊子任宥云、吾與2天地1爲v常、楚辭九章云、與2天地1兮比v壽、與2日月1兮齊v光(ヲ)、マツルはたてまつるなり、
 
初、あめつちとゝもにをへむと――
第四大伴三依悲別歌あり。此歌にゝたり。莊子在宥云。廣成子曰。吾與日月參光、吾與天地爲常。楚辭九章云。與天地兮比壽。與日月兮齊光。史紀葵澤列傳云。澤説應侯曰。富貴顯榮、成理萬物、使客得其所、性命壽長、終其天年而不夭、傷天下繼其統、守其業傳之無窮、名實純粹、澤流千里、世々稱之無絶、與天地終始、豈道徳之符、而聖人所謂言吉祥善事與。抱朴子曰。服丹守一、與天相畢。又云。與天地相畢日月相望
 
(39)177 朝日弖流佐太乃岡邊爾羣居乍吾等哭涙息時毛無《アサヒテルサタノヲカヘニムレヰツヽワカナクナミタヤムトキモナシ》
 
朝日テル佐太ノ岡とつゞけたるは、古今に夕月夜さすや岡邊と云ひ、拾遺に朝彦がさすや岡邊といへる如く岡といはんためなり、朝日の光もいづくはあれど、先岡にあたりたるがはなやかに見ゆる故なり、下に朝ぐもり日の入ゆけばとよめるに思ひ合すれば、東宮を明日によそへて、日の替らず照につけて東宮のかくれ給へるを嘆く意にやともおぼしきを、又下に朝日てる佐太の岡邊に鳴鳥とよめるは、其意なければ、唯初の義なるべし、佐太の岡は眞弓丘の別名か、其故は上にはまゆみの岡にとのゐするとよみ、下には佐太の岡邊にとのゐしに行とよめればなり、或者の云、眞弓村近く西南の方に佐太村あり、
 
初、朝日てるさたのをかへ
下にも朝日てるさたの岡とつゝけたるは、さたの岡にかきらす、いつくにもあれ、岡へには朝日夕日なとのさす時、ことに景趣あれは、ゆふつくよさすやをかへなともよむなり
 
178 御立爲之島乎見時庭多泉流涙止曾金鶴《ミタチセシシマヲミルトキニハタツミナカルヽナミタトメソカネツル》
 
止曾、【官本更點云、ヤメソ、】
 
御立爲之は、今按日本紀に二神|立天《タヽシテ》2天浮橋1、此自注訓v立云2多々志1、とあれば古語によりてミタヽセシと点ずべきか、島は宮の名にはあらず、やがて下に見ゆるも勾池の中(40)嶋なり、ニハタヅミは和名云、唐韻云、潦、音老、【和名、爾八太豆美、】雨水也、此にはたづみを又はいさらみづとも云、皇極紀云、雨下潦水|溢v庭《イハメリ》、かゝればにはたづみと云和語の心、にはは庭にて、たづみは此集第十一に、隱津《コモリツ》の澤立見《サハタツミ》なる石根をもとよめるに、同卷に此と同じ歌の少し替れるには、澤泉《サハイヅミ》なるとあれば、たづみ〔三字右○〕は泉なり、夕立村雨などによりて、庭に流るゝ水の泉の涌やうなれば名づくるにやと意得らるゝに、文選馬融長笛賦云、秋(ノ)潦《ニハタツミ》漱2其下趾1、兮云云、是は竹のまだ笛にきらで※[山+解]谷にある時をいへり、王勃が膝王閣序云、潦水盡而寒潭清、かゝればには〔二字右○〕は俄、たづみ〔三字右○〕はさきの如にて雨によりて俄にまさる水の心なるべし、第二十に防人が歌に、にはしくもとよめるも俄なり、後の心にては川にも庭にも通ずるなり、島を見時と云につゞけば、雨に依て池ににはたづみのまさるを承て、皇子の遊覽し給ひし折を思ひ出る涙も、潦の流るゝ如くして留あへぬとなり、
 
初、にはたつみ
雨ふりて庭になかるゝ水なり。和名集云。唐韻云。潦音老【和名爾八太豆美】雨水也。王勃膝王閣序云。潦水盡而寒潭清
 
179 橘之島宮爾者不飽鴨佐田之岡邊爾侍宿爲爾徃《タチハナノシマノミヤニハアカヌカモサタノヲカヘニトノヰシニユク》
 
不飽鴨、【仙覺抄云、アカヌカモ、】
 
橘ノ島ノ宮とは第七にも橘の島にしをればとよめり、橘寺と云も彼地にあれば、橘(41)も所の名なるべし、古今に橘のこじまの隈とよめるも彼處にや、アカズカモは足らぬかもなり、意は何の飽足らぬ所有てか此宮を除て佐田の岡邊にとのゐしには行、と悲しみの餘に設て云なり、島の宮におはしましける時の宮仕にあかでと云にはあらざるべし、
 
初、橘の島の宮にはあかすかも
嶋の宮にて恩顧をかうふりて宮つかへせしなこりのあきたらぬ心にや、めして物のたまふ事も、佐田の岡にはとのゐしにゆくらんと、身を人の上のやうによめり
 
180 御立爲之島乎母家跡住鳥毛荒備勿行年替左右《ミタチセシシマヲモイヘトスムトリモアラヒナユキソトシカハルマテ》
 
島ヲモ家ト住とは、水鳥は水をすみかとする物なれど、能飼ならし置たまへば、なづきて中嶋にもあがりて心やすく遊ぶ意なり、
 
181 御立爲之島之荒礒乎今見者不生有之草生爾來鴨《ミタチセシシマノアライソヲケフミレハオヒサリシクサオヒニケルカモ
 
今見者、【官本又點云、イマミレハ、同本或作2今日見者1、】
 
島ノ荒イソとは、今案アリソともよむべし、礒は海に限らず川にも池にもよめり、されば歌の習なれば必あら浪のよする所ならずとも大形に礒をあらいそといへるか、若は海邊を學びて作らせ給へば云か、今見者は此本に付てはイマミレバとよむべし、下句道あると道なきとは異なれど、姑蘇臺の感あり、
 
(42)182 鳥〓立飼之鴈乃兒栖立去者檀崗爾飛反來年《トクラタテカヒシカリノコスタチナハマユミノカニトヒカヘリコネ》
 
島〓立、【官本又點云、トクラタテ、古點云、トカキタチ、別校本〓作v垣、】
 
發句の點官本の又の點をよしとすべし、タチと云は叶はず、今〓の字垣に作れる本もあり、或は今のまゝにてトカキタチと點ぜるもあれど不審なり、いかさまにも、〓は傳へ寫せる誤字なるべし、今按栖の字なるべきか、和名云、孫※[立心偏+面]切韻云、穿v垣栖v?曰v塒、【音時、和名、止久良、】又云、辨聲切韻云、椙、【毛報反、】今之門?栖也、辨色立成云、?栖、【鳥居也、楊氏説同、】凡栖は棲と同字にて鳥の木にすむと云に用る字なり、鴈乃兒は鴨の子を云、うつぼ物語源氏枕草子にあまた處見えたり、東國に鴨の中の一種に、かる〔二字右○〕と云物ありと申す、此卷一下に天飛やかるの路とつゞけたるは天飛雁とそへたり、さればかる〔二字右○〕はかり〔二字右○〕なり、後撰に貫之の歌に、秋の夜にかりかも鳴て渡るなりとあるは雁も水鳥なれば、さては鳧は水鳥の※[手偏+總の旁]名にて、かりの名もまた※[手偏+總の旁]に通じて云か、仁徳紀に五十年春三月に河内の茨《マム》田塘に雁子うむと有は誠の雁にて珍らしき事の別義なり、今按彼仁徳紀には雁を誤て鷹に作れり、今は鷹を誤て鴈に作れるか、玉篇云、鴈、【於陵切、今作v鷹、】何れにてもまがひぬべき字なり、誤れるにやと申故は、和名云、廣雅云、一歳名2之黄鷹1、【俗云、和賀太賀、】催(43)馬樂に、鷹の子はまろにたぶはらむともいへり、さきの和名の説によらず、?のすむ所をとくらといへども、鷹を飼|鳥屋《トヤ》をも第十九に家持の鷹をよまれたる歌には、妻屋の内、に烏座由比《トクラユヒ》とよまる、此外の水鳥などには聞及ばず、又鴨の子ならば唯島の宮の池を去らですめとこそ云べけれ、彼に似つかぬ眞弓の岡にこよといはゞ、是ぞ誠の由もなき事なるべき、阿騎野に狩したまひし事は第一に見え、下には宇陀野に狩したまひし由よみたれば、其料に鷹の子を飼せ給へるにつけてよめるにこそ、
 
初、鳥〓立飼之雁乃兒
〓は栖の字のあやまれるなるへし。和名集云。孫※[立心偏+面]切韻云。穿垣栖v※[奚+隹]曰塒、【音時和名止久良。】玉篇云。棲【思奚切、鳥栖木作栖。】雁乃兒はかもの子をいふ。かるのこともいふと、源氏物語の抄に見えたり。されともいかにしてかりのこといふよしは見えす。細流は逍遥院殿の御作なれと、只かものことのみのたまへり。源氏眞木柱に、かりのこのいとおほかるを御覽して、かむしたちはなゝとやうにまきらはして、わさとならす奉れたまふ。同橋姫に、春のうらゝかなる日影に、水鳥とものはね打かはしつゝ、をのかしゝさえつるこゑなとを、つねははかなきことも見たまひしかとも、つかひははなれぬをうら山しくなかめ給ひて、君たちに御琴ともおしへきこえ給ふ。いとおかしけにちひさき御ほとにとり/\かきならし給ふものゝねとも、あはれにおかしく聞ゆれは、涙をうけたまひて、打すてゝつかひさりにし水鳥のかりのこのよにたちをくれけん。うつほ物語第二ふちはらのきみにいはく。宰相めつらしくいてきたるかりのこにかきつく。かひの内にいのちこめたるかりのこは君かやとにてかへさゝらなん。兵衛たまはりて、あて宮に、すもりになしはしむるかりのこ御覽せよとてたてまつれは、あて宮くるしけなる御物ねかひかなとのたまふ。枕草子に、うつくしき物、かりのこ.さりのつほ、なてしこの花。同草子に、あてなる物、かりのこもたりたるも、水精のずゝ。これらみなかもの子をいへり。此かもは家にかふ鴨のたくひの鶩にて、俗語にあひるといふなるへし。かもをかるといふは、水にうくことのかろきゆへなるへし。文選、屈原卜居云。將〓々若水中之鳧乎、與波上下、偸以全我躯乎。荊楚歳時記云。南方競渡者、冶其船使輕利、謂之飛鳧。木玄虚海賦云。鷸如鶩鳧之失侶。これらみなかろきこゝろなり。雁をかりと名付たるもかろくとふ心にていへるにや。日本紀木梨輕太子の御歌にも、あまとふかるをとめと讀たまひ、此集にも、天とふやかるの社とも、此卷の下に、天とふやかるのみちともつゝけよめるは、輕の字につゝけたれはなり。鳧は類おほき物にて、鴛をもおしかもといひ、おほかた水鳥の惣名なれは、鴈も水鳥にて名さへ通するにや。後撰集第七、秋下、こしのかたにおもふ人侍ける時に、貫之
秋の夜にかりかもなきてわたるなりわかおもふ人のことつてやせし
この歌、かりかねにやとおもへと、昔よりかりかもとのみあれは、惣名をくはへてよめるなるへし。又鴨の中にゐなかに一種かるとなつくるあり。ひなよりかへはよくなつきて道をゆけはしりにたちてくるといへり。都あたりには昔よりすくなくて皆の人もしらさりけるにや。今案に又一説あり。これは鷹の兒を雁の兒とかきあやまれるにや。そのゆへは、とくらたてといへるも、鷹と聞ゆ。第十九に、家持の、鷹をよまれたる長歌に、枕つくつまやのうちにとくらゆひすゑてそわがかふましらふのたかとよめり。これ、鳥屋のことなり。かもならは、すなはちまかりの池に、かはせたまふへし。又まゆみのをかにとひかへりきねも、につかはしからす。下に、けころもを春冬かたまけてみゆきせしうたの大野はおもほえむかもとよめるは、鷹狩のみゆきときこゆ。第一に|ひなへし《・日雙斯》みこのみことの午なへてみかりたゝしゝ時はきむかふともよめれは、御狩のために鷹の子をかひをかせ給ふ間に、薨したまへは、人なりてはねもつよくなりなは、こゝろ有て、此まゆみの岡に飛來よとよめる歟。催馬樂に、たかのこは、まろにたふはらむ。手にすゑて、あはつのはらの、みくるすの、つぐりの、鶉とらせん。玉篇云。〓《イヨウ》【於陵(ノ)切。今作v鷹(ニ)】〓を今今鷹とかけとも、猶やゝ似たれは、あやまれる歟とおほしきなり。仁徳紀云。五十年春三月壬辰(ノ)朔丙申、河内(ノ)人|奏言《マウサク》。於2茨《マム》田(ノ)堤(ニ)1鷹|産《コウメリ》之。即日《ソノヒ》遣《マタシツ》v使(ヲ)令《タマフテ》v視|曰《マウサク》。既(ニ)實也。天皇於v是|歌《ウタヨミシテ》以問(テ)2武内(ノ)宿禰(ニ)1曰(ハク)。多莽耆破屡《タマキハル》、宇知能阿曾《・内朝臣》、儺《ナ・汝》虚曾破、豫能等保臂等《壽也・世遠人》、儺《ナ・汝》虚曾波、區珥《クニ》能|那餓臂等《壽也・長人》、阿耆豆|辭莽《シマ》、揶莽等能區珥々、箇利古武等《・雁子産》、儺波企箇|輸《ス》椰《・汝不聞耶》。武内(ノ)宿禰|答歌《カヘシウタ》曰。夜|輸瀰《スミ》始之、和我於朋枳瀰波《・我大君》、于陪儺《・諾》々々々、和例|烏《ヲ》斗波輸儺《・我問》、阿企菟辭摩、椰揶莽等能倶珥々、箇利古武等《・雁子産》、和例破枳箇儒《・我不聞》。なこそはとは汝こそはなり。かりこむとは、かりこうむなり。うへな/\は、むへな/\にて、けにも/\といふかことし。われをとはすなとは、われにとひたまふなり。長命のわれなれは、とはせたまふは、尤ことはりなれと、此國にて、かりのこうみたることは、いまたうけたまはらすと、勅答を申さるゝなり。此一段初に、於2茨田(ノ)堤(ニ)1鷹|産《コウメリ》之とありて、歌にはともにかり|こむ《子産》とあれは、今案の良證なれとも、ふかくかんかふるに、これはかへりて鴈産《カリコウメリ》之を鷹にあやまれり。そのゆへは、仁徳紀(ニ)云。四十三年秋九月庚子(ノ)朔、依網屯倉《ヨサミノミヤケノ》阿弭古、捕(テ)2異《アヤシキ》鳥(ヲ)1獻(テ)2於|天皇《スメラミコトニ》1云。臣《ヤツカレ》毎《ツネニ》張(テ)v網(ヲ)捕(ルニ)v鳥(ヲ)未(タ)曾(テ)得2是(ノ)鳥(ノ)之類(ヲ)1。故《カル ニ》奇(シンテ)而獻(ツル)v之(ヲ)。天皇召(テ)2酒君(ヲ)1示(シテ)v鳥(ヲ)曰《ノ ハク》。是(レ)何(ノ)鳥(ソ)矣。酒(ノ)君對(テ)言《マ サク》。此(ノ)鳥(ノ)之類|多《サハニ》在(リ)2百濟(ニ)1。得(テハ)v馴《ナツクコトヲ》而能從(フ)v人(ニ)。亦捷(ク)〓(テ)之|掠《カスフ》2諸鳥(ヲ)1。百濟(ノ)俗《クニコトニ》號(テ)2此(ノ)鳥(ヲ)1曰2倶知(ト)1。【是今時(ノ)鷹也】乃授(テ)2酒君(ニ)1令2養馴《カヒナツケ》1。未《・ルニ》2幾時《イクハクナラ》1而得(タリ)v馴(コトヲ)。酒(ノ)君則以|韋緡《オシカハアシヲ》著(ケ)2其足(ニ)1以2小鈴(ヲ)1著2其(ノ)尾(ニ)1居《スヱテ》2腕《タヽムキノ》上(ニ)1獻(ツル)于天皇(ニ)1。是(ノ)日|幸《イテマシテ》2百舌鳥野(ニ)1而|遊獵《カリシタマフ》。時(ニ)雌雉《メキシ》多(ク)起(ツ)。乃放(テ)v鷹(ヲ)令(ルニ)v捕(ラ)忽(ニ)獲(タリ)2數十(ノ)雉(ヲ)1是(ノ)月|甫《ハシメテ》定(メタマフ)2鷹|甘《カヒ》部(ヲ)1。故(ニ)時(ノ)人|號《ナツケテ》2其(ノ)養(フ)v鷹(ヲ)之處(ヲ)1曰2鷹甘(ノ)邑1也。いま此一段をみるに、諸臣にとはせたまふとはみえねと、ことはりのをすところ、諸臣にとはせたまへとも、知人なきによりて、酒君に尋させたまへるなり。酒君は、百濟王の孫なり。四十三年に、知人なくて、百濟王の孫にとひて初て鷹といふことをしらせたまへるを、五十年にいたりて、武内宿禰に問せたまふへきことはりなし。(以下頭書)和名集云。蒋魴切韻云〓【音四和名太加今案古語云倶知急讀屈百濟俗 鷹也見日本紀私記】鷹〓※[手偏+總の旁]名也(以上頭書)雁は神代よりあれとも(以下傍書)神代紀下云。時有2川雁《カハカリ》1嬰《カヽリ》v羂《ワナニ》困厄《タシナム》(以上傍書)中秋にはしめて渡りきて、春になれはかへりて、終にとまりゐて、すをくふことをきかせたまはねは、さてぞ長壽の宿禰に、昔よりさること有きやととはせたまへるなり。しかれは鷹雁の二字相似てまかふ證とすへし。和名集に廣雅を引ていはく、一歳名之黄鷹【俗云和賀太加。】皇子薨したまふ後、黄鷹をはなさるへけれは、まゆみの岡にとひかへりきねといはん事相應せるにや。大鏡云。 延喜九月にうせたまひて、九日の節のそれよりとゝまりけるなり。その日左衛門陣の前にて御鷹ともはなたれけるなり云々。これははるかに後の事なれと、かゝる時ははなちやる例なり。仁徳紀云。依網屯倉阿弭古とあるをは、弭を漢音によみて、阿弭古《アビコ》といふへし。住吉郡に我孫子村といふ村あり。住吉神社の東南にて依羅神社ならひに依羅池よりは西北にあたれり。これはかの何弭古かすみける所にて、名におひけるなるへし。續日本紀の孝謙紀にも、依羅我孫忍麿を外從五位下に叙せられ、祝部弓月等五十餘人に物忌姓を贈るよし見えたり。彼阿弭古は長壽の人なり。神功皇后紀に皇后三韓を征し給ふ時、筑紫にて阿弭古か子【本ノ垂見カ】を神主として住吉明神をまつらせたまへることあり。忍麿はその裔なるへし。今我孫子とかくことはひこといふはすなはちまこなれは、下の子の字をあませり。世俗に曾孫をあやまりてひこといふゆへに、こさかしきものゝ後にそへけるなるへし。鷹甘邑はかの我孫子より東北にあたりて、鷹合村といふ村あり。これなるへし。日本紀の中にも、人の名、所の名、文字をたかへてかけることあり。いはんや世をへて後をや。又依羅をも日本紀には河内依羅屯倉といへり。此阿弭古鷹甘邑の事なとは、こゝに用なくて事なかくわつらはしけれと、第十七第十九にも、鷹をよめる歌侍れは、かの我孫子わたりにはすこしのほとすみて、所をもしれるゆへに、事の次に末をかねて、事のおこりを注しをき侍るなり
 
183 吾御門千代常登婆爾將榮等念而有之吾志悲毛《ワカミカトチヨトコトハニサカヘムトオモヒテアリシワレシカナシモ》
 
ミカドとは帝の字の意にあらず、第九にはわきも子が家のみかどともよめり、此御門は宮の意なり、トコトハは此集に、不止を、トハとよめり、同じ意の詞を重て云なり、
 
184 東乃多霓能御門爾雖伺侍昨日毛今日毛召言毛無《ヒムカノタキノミカトニサモラヘトキノフモケフモメスコトモナシ》
 
儲の君は天子より東に渡らせ給ふべき理なれば、今東と云は淨御宮の東にや、タギノ御門とは、島宮は元來《モトヨリ》の所の名にて、それをたぎの宮と名付られたる歟、又は島(ノ)宮の東に當て別に瀧宮ありけるか決しがたし、召言モナシとは上の人丸歌に、あさご(44)とにみこととはせずと云に合すれば召事もなしと云にはあらで、召給御言もなしとなるべし、
 
初、東のたきのみかとに――
これは嶋の宮のうちに、東をかく名つけらるゝにや。又別に、かくいふ宮をつくらせたまへる歟
 
185 水傳礒乃浦回乃石乍自木丘開道乎又將見鴨《ミツツテノイソノウラワノイハツヽシモクサクミチヲマタモミムカモ》
 
初、水つたふいそのうらわのいはつゝし――
これは嶋の宮につくらせたまへる庭の泉水のあたりの事をよめり。水つたふとは、いそへは水につきてつたひゆけはなり。山海の體勢をまなひてうつさるれは、さきの歌には嶋のあらいそとさへよめり。いはつゝしは、羊躑躅とかきて、いはつゝしとも、もちつゝしともよむは、つゝしの中の一種の名なれとも、惣してつゝしはよくいはねにさく物なれは、あいつゝし、をかつゝしをもすへていはつゝしといふへし。もくさくはしけくさくなり。茂の字をもゝしとよみ、日本紀には薈の字をよみたり。書禹貢(ニ)云。厥草惟?、厥木惟條
 
186 一日者。干遍參入之。東乃。大寸御門乎。入不勝鴨。
 
木丘、【仙覺云、古点、コク、】
 
八雲御抄に、磯の浦、紀伊と注せさせ給ひて注中にのたまはく、みづゞてのいそのうらわと云水傳也、水傳は今按ミヅヾタフとよむべきか、イソは水そひてつたひ行意なり、イソノウラワとは上にも云如く海邊の景趣なるべし、石ツヽジは和名に羊躑躅と書て、一の名はもちつゝじにてつゝじの中の一種なれど、つゝじは※[手偏+總の旁]じて石根によく生ればいづれのつゝじも云べし、モクサクは仙覺の新點なり、禹貢云、厥草惟|※[謠の旁+系]《モシ》、厥木惟|條《ナカシ》、日本紀に、※[草冠/會]をモシとよみ、扶疏を、シキモシとよめり、もしはしげき意なれば此點尤好、又モ見ムカモとは時移事去て、こと皇子などの住せ給はゞ又も見むとなり、
 
初、ひと日には――
入かてぬは、入あへぬなり。不勝とかきてたへすとよむにおなし心なり。孫卿子曰。孔子謂魯哀公曰。君入廟而右登自階、仰視〓棟〓見几莚、其器存其人亡。君以此思哀則袁將焉不至矣。この歌も此こゝろなり。宮殿をみるにつけて、かなしきゆへに入にたへぬなり
 
186 一日者千遍參入之東乃大寸御門乎入不勝鴨《ヒトヒニハチタヒマヰリシヒムカシノタキノミカトヲイリカテヌカモ》
 
(45)入ガテヌは入あへずなり、物は是にして皇子は非なる故に悲にたへぬ心なり、荀子云、孔子謂2哀公1白、君入v廟而右、登v自2※[こざと+乍]階1、仰|視《ミ》2※[木+衰]棟1、俛見2几莚1、其器存其人亡、君以v此思v哀、則哀將焉(クカ)不v至矣、此意を得て見べし、
 
187 所由無佐太乃岡邊爾反居者島御橋爾誰加住舞無《ヨシモナクサタノヲカヘニカヘリヰハシマノミハシニタレカスマハム》
 
所由無、【幽齋本云、ヨシモナキ、】
 
發句幽齋本の點によるべし、カヘリ居バとは、假初に島(ノ)宮へ參れども、眞弓(ノ)岡に侍宿《トノヰ》する我等にて歸たらばなり、又反《カヘル》とはそむく心にも有べし、あらぬ處に侍宿すればなり、島ノミハシニ誰カスマハムとは御橋とは書たれど御※[土+皆]なるべし、我等こそ御※[土+皆]のもとに有て仰事をも承つれ、誰か今よりはすまむとなり、
 
188 旦覆日之入去者御立之島爾下座而嘆鶴鴨《アサクモリヒノイリユケハミタチセシシマニオリヰテナケキツルカモ》
 
日は一日を渡て暮てこそ入なるを、朝の程に雨雲などの立重りたらむに、雲隱ゆかんやうに、皇子の後は天つ日繼をも知召て御年久に天が下をも照し臨ませ給ふべき御身の纔に三十にもたらせ給はで隱ませば初の二句はあるなり、島ニオリヰテ(46)は昔の御名殘にあかねば、己がどち打ながめをりて慕ひ奉る由なり、
 
初、朝くもり日のいりゆげは――
日のいるは夕にこそあれ、朝日の入とよめる心は、皇子の東宮にてましませしかは、朝の日の出のことくおもひ奉れるを俄にしてかくれ給へは、朝の間にくもりて日の入たると申心なり。御立せしとは、件の地にのそみて、常に立せたまひし御かけを戀たてまつりて、舍人等かをりたちなけくよしなり
 
189 且日照島乃御門爾欝悒人音毛不爲者眞浦悲毛《アサヒテルシマノミカトニオホツカナヒトオトモセスハマウラカナシモ》
 
不爲者、【校本云、セネハ、】
 
欝悒は今按集中にイブセクともオホヽシクとも今の如くもよめり、こゝはイブセクモとよむべきか、人オトモセズハは叶はず、セネバと云によるべし、マウラカナシモ、新實に心の悲しきなり、歌の心は、金門玉殿に朝日の指入ほどは、殊に出仕の人も花やかにつくろひて多くつどふを、薨じ給て後は人音も絶て物がなしきとなり、
 
初、まうらかなしも
まことにこゝろのかなしきなり
 
190 眞木柱太心者有之香杼此吾心鎭目金津毛《マキハシラフトキコヽロハアリシカトコノワカコヽロシツメカネツモ》
 
眞木柱は眞木は木をほめたる詞にて檜などの柱なり、フトキ心とは太き柱によせて慥なる心をいへり、顯宗紀云、築立《ツイタツル》柱者、此家|長《キミノ》御心之|鎭也《シツマリナリ》、神代紀云、其造宮(ヲ)之制者、柱則高(ク)太、板則廣厚、慥なる心はあれど悲をばえしづめぬなり、
 
初、眞木柱ふとき心は
神代紀下云。其造宮之制者、柱則高大、板則廣厚。神式紀云。古語稱之曰。於畝傍之橿原也太立宮柱於底磐之根云々。顯宗紀云、天皇室壽詞曰。築立稚室葛根、築立柱者此家長御心之鎭也。此集第二十にいはく。まけはしらほめてつくれるとのゝこといませはゝとしおめかはりせす。まけ柱は眞木柱、おめかはりは、おもかはりなり。ふとき柱は、たしかにて、たのもしく見ゆるものなり。その柱のたてることく、よろつの事にたはみてひるむことあらしとおもひしを、こゝろもうせてたをやめなとのやうになけかるゝをおさめかぬるとなり
 
191 毛許呂裳遠春冬片設而幸之宇陀乃大野者所念武鴨《ケコロモヲハルフユマケニミユキセシウタノオホノハオモホエムカモ》
 
(47)ケゴロモは和名云、※[敝/衣]、【介古呂毛】春冬カタマケテは、春かたまけて冬かたまけてなり、下に片待と云詞あり、かたまけてとかよひて聞ゆ、諺に待まうけてと云も物をかまへ置て持得る意にいへり、※[敝/衣]を調置て春冬の來るや遲きと狩に出給ひつる心なり、落句の心は其時節に至らば有し事の忘られず思ひ出られむとなり、
 
初、けころもを春冬――
けころもは、烏けた物の毛をもてをれる衣なり。和名集云。※[敝/衣]、【介古呂毛】。晉書、王恭字孝伯云々、恭美姿儀人、多愛悦或目之云、濯々如春月柳、披鶴鼈裘渉雪而行。孟昶窺見曰、此眞神仙中人也。かたまけてとは、時にさきたちてまふけをきて、時をまつやうの心なり
 
192 朝日照佐太乃岡邊爾鴨島之夜鳴變布此年巳呂乎《アサヒテルサタノヲカヘニナクトリノヨナキカヘラフコノトシコロヲ》
 
仙覺抄に、變の字の下に而の字ありてカヘラフと點ぜらる、其意を得ず、此本并に諸本幸に而の字なし、此に付て今按ヨナキカハラフと點ずべきか、さて句絶として落句は此年比はとして意得べし、歌の心は此年比此さたの岡邊に凶鳥の夜鳴にあしきね鳴つるは、かゝらむとてのさとしなりけるよと思ひ合てなげく意なり、
 
初、朝日てるさたのをかへに鳴鳥のよなきかはらふこの年ころを
年ころぬえふくろふやうの凶鳥の夜なきにあしきねなきなとせしことは、今かゝることあるへきさとしなりけるよとおもひあはせてなけく歌なり
 
193 八多籠良家夜晝登不云行路乎吾者皆悉宮道叙爲《ヤタコラカヨルヒルトイハスユクミチヲワレハサナカラミヤカトソスル》
 
宮道叙爲、【校本云、ミヤチトソスル】
 
ヤタコラガはた〔右○〕とつ〔右○〕と通ずれば奴等がと云にや、神功皇后紀に、忍熊《ヲシクマ》王の方にて軍の先鋒《サキ》をせし熊之凝《クマコリ》と云者の歌に、うま人はうま人どち、やいとこはもいとこどち、(48)いざあはなわれは、上下略v之、此いとこ〔三字右○〕もやつこ〔三字右○〕と聞ゆれば引合せて心得べし、又一つの今按、八の字は音訓共に用れば、音を取てハタコラガと讀べきか、和名云、唐韻云、、※[竹/兜]、【當候反、漢語抄云、波太古、俗用2旅籠二字1、】飼v馬器、籠也、かゝれば馬を追男を彼が持ところの具によりてはたこらと云か、旅人に宿かす所を俗にはたご屋と云を思ふべし、八多籠とかける籠の字も此意にや、馬追ふ男は詞なめげにて賤しき者の限なれば、それらのみ行道といへるか、夜トイハズ行ミチとは官路には道守ありて、夜行などゆるさぬ事あり、是はさる道ならねば賤しき者も恣に行なり、皆悉〔二字右○〕をサナガラとよめるは意を得て義訓したるなり、宮道はミヤヂとよむべし、歌の心は、然るべき大路にもあらず、唯卑賤のものゝみ夜晝となくかよふ道を、思ひがけぬ宮路として侍宿《トノヰ》に參ることと悲しぶなり、
 
初、八多籠良家よるひるといはす――
やたこは、つとたと通すれは、やつこにや。第五によちこらと手たつさはりてあそひけんなといへるも、よちこはやつこときこゆ。神功皇后紀に、忍熊王軍の先鋒をせし熊之凝といふもの、軍衆をいさましめんとてよめる歌に、うま人はうま人とちや、いとこはも、いとことち、いさあはれわれはなとよめり。いとことよめるもやつこなれは、やたともいふへし。又八の字を、はとよみてはたこらともよむへきか。そのゆへは、旅人に宿かす所をはたこといふは、馬のはみ物なといるゝ籠をはたこといふ。かの宿にはかねて其義をまふけて、出し置なとするゆへになつけたり。しかれは、馬をかしてくちをとるをのこをも、おなし名によひて、はたこらといへるにや。よるひるといはすとつゝけたるは、馬をふをのこかときこゆ。さるいやしきものゝみゆく道を、おもひかけぬみやぢとして、かよふよとよめるなるへし。さたの岡へ、かよひてとのゐする事をいへるなり。戰國策(ニ)云。蘇子爲(ニ)v趙(ノ)合從(シテ)説(テ)2魏王(ニ)1曰。大王之地○民(ノ)之|衆《オホキ》、車馬(ノ)之多(キ)、日夜軒(テ)不v休(マ)。已(ニ)無(シ)1以異(ナルコト)2三軍(ノ)之衆(ニ)1
 
右日本紀曰三年巳丑夏四月癸未朔乙未薨
 
要を取て引り全文にはあらず、
 
柿本朝臣人磨獻泊瀬部皇女忍坂部皇子歌一首并短歌
 
天武紀云、次納2宍人《シヽムト》臣大麻呂女|擬《カチ》媛娘1、生2二男二女1、其一曰2忍壁皇子1、其二曰2磯城皇(49)子1、其三曰2泊瀬部皇女1、其四曰2託基《タキ》皇女1、此歌を獻らるゝ故は下の注に見えたり、泊瀬部皇女をむねと奉りて兼て忍坂部皇子へは奉らるれば、兄にてましませど後にかけるか、其意は歌にて知べし、今按拍瀬部皇女の下に兼并等の字脱たるか、
 
初、柿本朝臣人麿獻泊瀬部皇女――。此歌後の注をみるに、泊瀬部皇は、天智天皇第二皇子河島皇子の妃《ミメ》にておはしましけると見えたり。川島皇子、御年三十五にして、朱鳥五年九月に薨したまひし時、人丸、皇女の御なけきをおもひやりて、いたみ奉られけるなり。忍坂部《オサカヘノ》皇子へ奉らるゝ心は、歌に見えねと共に天武の御子にて、御母は宍人臣《シヽウトノオム》大麻呂の女、擬媛娘《カヂヒメノイラツメ》同腹の御はらからなれは、兼て忍坂部皇子へも奉られけるなるへし
 
194 飛鳥明日香乃河之上瀬爾生玉藻者下瀬爾流觸經玉藻成彼依此依靡相之嬬乃命乃多田名附柔膚尚乎釼刀於身副不寐者烏玉乃夜床母荒良無《トフトリノアスカノカハノノホリセニオフルタマモハクタリセニナカレフレフルタマモナスカヨリカクヨリナヒキアヒシイモノミコトノタタナツクヤハハタスラヲツルキタチミニソヘネヽハヌハタマノヨトコモアルラム》【一云何禮奈牟】所虚故名具鮫魚天氣留敷藻相屋常念而《ソコユヘニナクサメテケルシキモアフヤトヽオモヒテ》【一云公毛相哉登】玉垂乃越乃大野之旦露爾玉藻者?打夕霧爾衣者沾而草枕旅宿鴨爲留不相君故《タマタレノコスノオホノノアサツユニタマモハヒツチユフキリニコロモハヌレテクサマクラタヒネカモスルアハヌキミユヘ》
 
嬬乃命乃、【官本又点云、ツマノミコトノ、】 鳥玉、【鳥當v作v烏、】 越乃大野之、【別校本云、ヲチノオホノヽ、】
 
上瀬下瀬は今按ノボリセ、クダリセとよめるは誤なり、カミツセ、シモツセと讀べし、神代紀上云、遂將3盪2滌身之|所汗《キタナキモノヲ》1、乃(チ)興言《コトアケシテ》曰、上瀬《カムツセハ》是太|疾《ハヤシ》、下|瀬《セハ》是太弱、梗濯2之中瀬1也、此集第一第十三にもカミツセ、シモツセと點ぜり、流フレフルとは、上瀬の玉藻のなび(50)き下て下瀬の玉もにふれふるゝなり、經の字日本紀に觸と同じくフルと訓ず、又此集第十二にも妹とふれなば我とふれなむと云に二つのふれ〔二字右○〕に此字を用たり、字書にいまだ見及ばずといへども定て子細あるべし、假令此所は觸の訓ならで經歴のふる〔二字右○〕を借て用と云とも子細なし、以上六句は次の三句をいはむ序なること上に注せしが如し、嬬をイモと點ぜるは誤なり、ツマと和せるを正義とす、此嬬は假てかけり、注に依に河島皇子の御事なれば正しくは夫の字を書べし、タヽナツクヤハハタとは和なる膚のたゝまれつくなり、たゝなはると云詞源氏枕草子等におほし、遊仙窟云、輝々|面子《カホツキハ》、荏苒《ヘベヤカニシテ》畏2彈穿1、細々腰支參差疑2勒斷1、ツルギタチ身ニソヘネヽバ、釼は兩刃なるを云のみにあらず、太刀を釼とも釼を太刀ともいふ中に、諺にも利《トキ》をつるぎのやうにと云ならへり、然れば眼目など云如く同詞を重ていへるにも亦とき刀《タチ》と云心にも侍るべし、第四に笠(ノ)女郎が家持に贈る歌の中に、釼太刀《ツルギタチ》身に取そふと夢に見つ、何のさとしぞも君に逢む爲とよめるは、太刀は男の具なればなり、されば男こそ太刀を身に佩副れ、今は皇子をやがて男子の具になしてかくはいへり、ソコ故ニナグサメテケルとは、そこは等輩なる人をさしてそこと云へるにはあらで、此集にあるは多分それゆゑと云心なり、今按此下には數句の脱たるか、敷藻相屋常念而、此(51)敷藻はケタシクモの上を脱せるか、相の字より下はアフヤト思ヒテと七字一句なるべし、其故は屋の字一字を此集にヤドとよめる傍例なし、屋戸屋前など二字にかけり、其上一本を注するにキミモアフヤトとあるは、あふやとおもひての異なる事明けし、又落句も此あふやと思てと云を踏て終れり、皇子を葬たる野に行かば、今一度逢ことの有やと皇女の思召ておはしますと云心なれば、今按の如くけたしくもあふやと思ひてにても、なぐさめてけると云下に上を收拾して下を起す句なければ連屬せず、玉ダレノ越ノ大野ニとは、玉だれは玉すだれなり、越をコスと點ぜるは第七第十一に玉|垂小簀《タレノコス》とつゞけよめる如くに玉だれの小すだれと云心にこすの大野と云所の名につゞくと思へり、此點によりてこすの大野とよめる歌末の集にも見え侍り、然れどもヲチノ大野と點ぜるを正義とす、其證はまちかく反歌の下の注に、一云|乎知野爾過奴《ヲチノニスキヌ》と云ひ、又後注に葬2河島皇子越智野1之時といへり、第七に眞珠村越能菅原《マタマツクヲチノスカハラ》、第十二に眞玉就越乞兼而《マタマツクヲチコチカネテ》とよめるも玉の緒とつゞけたり、拾遺に玉簾糸のたえまに人を見てとよめる糸はあめる糸なり、上に鈎あり下に総あり、何れに付ても緒とつゞくべし、天智紀云、六年春二月壬辰朔戊午合d葬(マツル)天豐財重日足姫天皇與2間人皇女(ヲ)1於小市岡上陵(ニ)u、延喜式諸陵式云、越智崗上陵、【皇極天皇、在2大和國高市郡1、】大市《オホイチ》と云所(52)もあれば小市は彼に對する名にて越とも越智ともかけるは其假名なり、玉モハヒヅチは玉裳はひぢなり、曲禮云、送v葬不v避2塗潦(ヲ)1、夕霧ニと云より下を六帖には裁取て一首として霧と、くれどあはずと云戀の歌と兩所に出せり、
 
初、飛鳥の明日香の川の――。上瀬下瀬は、かみつせしもつせと讀へし。なかれふれふるといふまては、玉藻なすといはむ序なり。經の字は、日本紀にも觸と訓し、此第十二にも、妹にこひいねぬあしたに吹風の妹にふれなは我とふれなんといふふたつのふるゝに、ともに此字を用たれは、ふれふるは、ふれふるゝなり。かみつ瀬に、生たる玉もの、なかくなひきて、下つせの玉もにあひふるゝなり。嬬をいもと訓したるは、こゝにてはあやまりなり。つまのみことゝよむへし。川島皇子の御事なり。字にはかゝはるへからす。つまとよまるゝまゝにかけり。たゝなつくやははたすらをとは、やはらかなるものは、よくたゝまりて物につくなり。これも皇子の御ことなり。禮記曰。主佩《キミノオモノ》垂(ルヽ)則臣(ノ)佩|委《タヽナハル》。うつほ物語に、御くしよれたり。しもに打たゝなはれたる、いとめてたし。枕草子に、かたはらのかたに髪のうちたゝなはりてゆらゝかなるほと、ながさをしはかられたるに云々。遊仙窟云。輝々《・テレル》(ト)|面子《・カホツキ》(ノ)、荏苒《・ヘヘヤカニシテ》(ト)畏(ル)2彈穿《ハシカハウケナンコトヲ》1。細々(ト)腰支(ノ)參差(ト)《・ホソヤカナルコシハセハタヲヤカニシテ》疑勒斷。つるきたち身にそへねゝは、太刀はをのことあるものゝ身をはなたすよるもあたりをさけぬものなれは、此集におほくかやうによめり。只身にそへねゝはといはんためなり。皇女にあはぬやうにはみるへからす。意をうるといふことこゝにあり。烏玉を鳥玉につくれるは、かきあやまてるなり。敷藻相屋當念而。此二句こゝろえかたし。第十六竹取翁歌に、信巾裳成者之寸丹取爲支といふ二句あれと、彼もいかなることゝもえしり侍らす。今案するに敷の字の上に落字ありて何しくもあふやとおもひてと、相の字を下の句につくへしとおほゆ。そのゆへは屋の一字を此集にやとゝよめる例なし。屋戸とかきてよめることはあり。又自注に、一云公毛相哉登。これ下の一句の異を注するにあふやとゝあれは、うたかひなく上の句に落字ありと見えたるにつきて、敷の上ならんとは申なり。但敷藻成なといふ成の字のおちて侍るか。心はおひしきたる藻のなひきあふことくあふこともやあらんとおほしめしてなり。玉たれの越の大野の。此越の字をこすといふ訓をかりて用とみて、玉たれの小簀とつゝけたりとおもひてこすの大野とよみ來れり。これは呉音を用てをちの大野なり。すなはち左の注に、葬河島皇子越智野之時といへはうたかひなし。延喜式廿一、諸陵式云。越智崗上陵【皇極天皇在大和國高市郡。】此第七には眞珠村越能菅原といひ、第十二には、眞玉就乞兼而なとよめるに、越の字、呉音の入聲をかり用たれは、今もこれらに准して意得へし。玉を弦をねきてたるるを玉たれといふゆへに、玉たれのをち野とはつゝくるなり。拾遺集に、玉すたれいとのたえまに人を見てすける心はおもひかけてき。又上下に緒をつけて、かみは鈎をむすひ、下は總をたるれは、かれこれかよはして心得へし。玉もは玉藻とかきたれとも玉裳なり。皇女のめす裳をほめていへり。ひつちはひちなり。曲禮云。送葬不避塗潦
 
反歌一首
 
195 敷妙之袖易之君玉垂之越野過去亦毛將相八方《シキタヘノソテカヘシキミタマタレノコスノヲスキテマタモアハヌヤモ》 【一云乎知野爾過奴】
 
袖カヘシ君とは袖指かはしてぬるなり、君は河島(ノ)皇子なり、越野過去〔四字右○〕、今按越野は前の如くヲチノとよむべし、過去はスギテとよみては字に叶はず、スギユクとよむべし、皇子の神靈去て留らぬなり、此二首によれば泊瀬部(ノ)皇女は河嶋(ノ)皇子の妃となりたまへると見えたる故、題注に忍坂部皇子には兼て奉るとは申き、
 
初、敷妙の袖かへしきみ――
袖かへしは、袖さしかへて玉手さしかへなとよめるにおなし。手枕をかはすなり。越野過去、をち野を過ぬとよめは、河島皇子の御ことなり。をちの過ゆきとよめは、又あふ事もやとおほしめして、をち野を行ゆかせ給ふとも、生を隔たまへれは又あひたまはんやあひたまはしといたみたてまつるなり。過てとかんなのつきたるはわろし
 
右或本曰葬河島皇子越智野之時獻泊瀬皇女歌也日本紀曰朱鳥五年辛卯秋九月己巳朔丁丑淨太參皇子川島薨
 
淨太參、太は大に作るべし、天武紀云、十四年春正月丁未朔丁卯、更改2爵位之號1、(53)増2加階級1、明位二階、淨位四階、毎v階有2大廣1、并十二階以前諸王已上之位云云、是日川島(ノ)皇子忍壁(ノ)皇子授2淨大參位1、懷風藻、河島皇子詩傳云、位終2于淨大參1、時年三十五、端作に葬2河嶋皇子越智野1之時柿本等とかゝざるは或本の説なる故此に注すべきためなり、
 
初、注中。淨大參の大の字、太に作れるはあやまれり。天武紀云。十四年春正月丁未朔丁卯、更改2爵位之號1。○日本紀を考るに、忍海造小龍女宮女色夫古娘、生大江皇女與川島皇子泉皇女。泊瀬部皇女は續日本紀にいはく。天平九年二月、四品長谷部内親王授三品。十三年三月壬午朔已酉、三品長谷部内親主薨
 
明日香皇女木※[瓦+缶]殯宮之時柿本朝臣人麿作歌一首 并短歌
 
天智紀云、次有2阿部(ノ)倉梯(ノ)磨大臣(ノ)女1曰2橘娘1、生3飛鳥(ノ)皇女與2新田部皇女1、文武紀云、四年夏四月癸未、淨廣肆明日香(ノ)皇女薨、遣v使弔2賻之1、智天皇女也、※[瓦+缶]は字體正しからず、歌の中にあるも同じ若、※[缶+瓦]〔右○〕此字を※[瓦+缶]に作れるか、玉篇云、※[缶+瓦]、方負切、與v缶同、※[央/皿]也、とあればかめとよむべからず、若瓶を※[瓦+并]に作れるを傳寫の者誤て今の如く作れるか、
 
196 飛鳥明日香乃河之上瀬石橋渡《トフトリノアスカノカハノノホリセニイハハシワタシ》【一云石浪】下瀬打橋渡石橋《クタリセニウチハシワタシイハハシノ》【一云石浪】生靡留玉藻毛叙絶者生流打橋生乎爲禮流川藻毛叙干者(54)波由流何然毛吾王乃立者玉藻之如許呂臥者川藻之如久靡相之宜君之朝宮乎忘賜哉夕宮乎背賜哉宇都曾臣跡念之時春部者花折挿頭秋立者黄葉挿頭敷妙之袖携鏡成雖見不※[厭のがんだれなし]三五月之益目頬染所念之君與時時幸而遊賜之御食向木※[瓦+缶]之宮乎常宮跡定賜味澤相目辭毛絶奴然有鴨《オイナヒカセルタマモモソタユレハオフルウチハシオフルヲスレルカハモモソカルレバハユルナニシカモワカオホキミノタチタレハタマモノモコトクコロフセハカハモノコトクナヒキアヒシヨロシキキミカアサミヤヲワスレタマフヤユフミヤヲソムキタマフヤウツソミトオモヒシトキノハルヘニハハナヲリカサシアキタテハモミヂハカサシシキタヘノソテタツサハリカヽミナスミレトモアカスモチツキノマシメツラシミオモホヘシキミトトキ/\ミユキシテアソヒタマヒシミケムカフコカメミヤヲトコミヤトサタメタマヒテアチサハフマコトモタエヌシカアルモ》【一云所己乎之毛】綾爾憐宿兄鳥之方戀嬬《アヤニカナシミヌエトリノカタコヒツマ》【一云爲乍】朝鳥《アサトリノ》【一云朝露】徃来爲君之夏草乃念之萎而夕星之彼牲此去大舩猶預不定見者遣悶流情毛不在其故爲便知之也音耳母名耳毛不絶天地之彌遠長久思將往御名爾懸世流明日香河及萬代早布屋師吾王乃形見何此焉《カヨヒシキミカナツクサノオモヒシナエテユフツヽノカユキカクユキオホフネノタユタフミレハオモヒヤルコヽロモアラスソノユヱヲスヘモシラシヤオトノミモナノミモタエスアメツチノイヤトホナカクオモヒユカムミナニカケセルアスカカハヨロツヨマテニハシキヤシワカオホキミノカタミニコヽモ》
(55)上瀬、【官本又云、カミツセニ、】 石橋渡、【古點云、イシハシワタシ、】 下瀬、【官本亦云、シモツセニ】 宜君之、【幽齋本云、ヨロシキキミノ、】 黄葉挿頭、【官本亦云、モミチヲカサシ、】 雖見不※[厭のがんだれなし]、【校本云、ミレトモアカヌ、】 綾爾憐、【幽齋本云、アヤニカナシミ】
 
アスカ川は下に玉藻川藻を譬に取む爲にいへり、其藻の有所なれば何れの川にても有ぬべきを、歌の終にも皇女の御名にかけてあすか川萬代までになど云たれば、其爲に云出せるなり、躬恒が春立しよりと云ん爲に梓弓と置てやがてそれを以年月の射るが如くもとつゞけたる類なり、上瀬下瀬は上に云が如し石橋渡はこれは古點の如くイシバシワタシとよむべし、石橋に二つあり、一つには石を能切てうるはしくして懸るを云ふ、和名云、爾雅注云、※[石+工]、【音江、和名、以之波之、】石橋なり、二つには河中に跨ぐばかりに大きなる石をすゑ、或は小石を集め置て渡るに便あらするを云ふ、下にあまたよみて、字は石走ともかける是なり、今も其石走なり、爾雅云、石杠謂2之|※[行人偏+奇]《キ》1、郭璞註、聚2石水中1以爲2歩渡※[行人偏+勺]1也、孟子、四歳十月徒杠成、或曰、今之石橋、字書に杠と※[石+工]と通ずといへり、和名に爾雅注とて引かれたるは或説を取れたりと見えたり、正くは※[石+工]も今の石ばしなり、注にイシナミといへるも石走なり、第二十に家持の七夕の歌に、天川いしなみおかばとよまれたるも是なり、いま石浪とは書きたれども石並なり、石を並ぶるをやがて体になして呼ぶなり、打橋渡は是にも二つの意あるべし、一つには(56)神代紀云、時|高皇産靈《タカミムスヒ》尊乃還2遣二神1、勅2大己貴《オホナムナ》神1曰云云、又爲2汝往來遊v海之具1、高橋浮橋及天烏船亦將供造、又於2天安河1亦造2打橋1云云、此によれば常の橋を云ふか、高橋浮橋橋に望〔左○〕ては唯打渡すと云ふ意の名にや、二つには清少納言云ふ、道の程も殿の御さるかふ事にいみじく笑て殆《ホト/\》打渡橋よりも落ぬべし、源氏夕貌云、打橋だつ物を道にてなむかよひ侍る、急ぎ來る者はきぬの裾を物に引懸て、よろぼひ倒れて橋よりも落ぬべければ、いで此葛木の神こをさかしうしおきたれとむづかりて物のぞきの心もさめぬめり、此等によれば假初に板など打渡置きたるを云ふにや、此下に又いくらもよめり、此なるは上の石橋に對すれば、水の少き時平瀬は河原となりて中に水の少し深く流るゝ所に假初に板打渡しおきて、水の出來る時は引やうにかまへたるをいふと見えたり、石橋ノは今按これをば石バシニと改むべし、生靡留はオヒテナビケルともよむべし、玉モヽソはも〔右○〕は助語のやうに見るべし、下の川モヽソ此に准ず、絶レバ生フルと云事は皇女のたをやぎ給へるに喩へて、藻は絶ゆれども又も生ふるを、此に似給へる皇女は又も見え給はずといはむとてなり、下の朝宮を忘れたまふやなど云ふ是なり、カルレバハユル准v之、オフルヲスレルは今按オヒヲセレルとよむべし、古語なればせる〔二字右○〕をせれる〔三字右○〕とは云ふべし、する〔二字右○〕をすれる〔三字右○〕とは云ふ(57)べからぬ故なり、玉モ川モはたゞ藻を詞を替ていへるまでなり、上の玉藻おきつもと海にて云るが如し、ナニシカモはし〔右○〕は休字にてなにかもなり、又何然毛と書けるに付ては何かさもとも意得べきか、立者は今按タヽセレバとよむべきにや、コロフセバは、仙覺ころびふせばと云事と釋せり、起立坐臥皆しなやかなる御貌をほめまつるなり、朝宮夕宮は後に朝庭夕庭とよめる類にて朝夕につけて景趣ある宮殿なり、それを何が心に入らぬ物を打忘るゝ如くしたまふや、何が嫌はしき物に向はで背く如くし給ふやとなり、ウツソミト思ヒシ時ノとは、美人を蝉鬢蛾眉など云其蝉鬢に付て云へり、此卷下にも此二句あり、第十一にも、うつせみの妹がゑまひとよめり、崔豹古今注云、魏文帝(ハ)絶《ハナハダ》所v愛宮人莫瓊樹始製爲2蝉鬢1、望v之※[目+票]眇如2蝉翼1、故曰2蝉鬢1也、臣〔右○〕をみ〔右○〕とよめるはおみ〔二字右○〕の、上略なり、末に多し皆准v之、雖見不※[厭のがんだれなし]を校本に見レドモアカヌと點ぜるは、もち月のましめづらしきとつゞけて月の如く見あかぬことをいはむとて月の爲にいへる鏡なり、これもいはれざるにはあらねど、鏡の見あかぬ如く又夜毎の月はあれど望月のます/\めづらしきが如くと、二つに分て譬へたる作者の意なるべきにや、第三に此朝臣長(ノ)皇子の御供にてよまれたる歌にも、久方の天見る如くまそ鏡仰て見れどわか草のましめづらしきとつゞけられたり、此に例(58)すべし、君ト時々ミユキシテ、此君といへるは天武の皇子たち或は諸みめの御中に何れにても夫君にておはしけむそれを指せり、時々は時々に付てなり、諺に云ふには替れり、ミケ向フは第六第九にもよめり必しも木※[瓦+缶]宮の枕詞には非ず、御食めす時膳にさし向ひ給ふ如く、まぢかく指向ふと云意なり、持統紀に、於是奉膳乳朝臣眞人等奉v奠、奠畢膳部釆女等發哀とあるは、天武天皇の神靈に祭奠するをいへば、今も皇女の尊靈に奠《ミケ》奉るを云ふかとも申すべく、又みけは前の如くにて、御食《オモノ》参る時酒を※[瓦+并]に入れて奉る意にこかめとつゞくるにやとも申すべけれど、傍例たゞ膳に指向ふ意なれば異義あるべからず、アヂサハフは集中に多き詞なり、よきことのおほくよりあふ心なり、別に委注す、マコトモ絶エヌは唯御言も絶るなり、シカアルカモは世のことわりはさあるかなと初て領承して歎心なり、アヤニカシコミは此點誤れり、幽齋本の如くアヤニカナシミとよむべし、ヌエ鳥ノ片戀ツマは夫君の咽びて歎き給ふを喩ふる心、第一卷軍王の歌の如し、朝鳥ノカヨヒシ君とは鳥は夜の明くればねぐらを出てこなたかなた徃來すれば喩て云へり、−本に朝ツユニとは朝露にぬれてかよふなり、君とは上云ふ夫君なり、夕ヅヽは和名云、兼名苑云、太白星、一名長庚、暮見2西方1爲2長庚1、【此間云由不豆々、】力ユキカクユキはとゆきかくゆきなり、夕づヽ、夜の(59)長短に隨て出所の南に倚り北に倚るによせて云ふか、オモヒヤルは此に遣悶とかける如く思を過しやるなり、集中に多し、皆此心なり、想像をおもひやるとよめる心に用ひたるは一首もなし、其故ヲは今按此點誤れり、ソノユヱニと點ずべし、古點の心は其故を如何にせむともするすべ知らぬ心にや、叶はず、上を踏て其故にいかにせむともすべも知らめやと云心なり、思將徃は今按思は偲にてしのびゆかむなるべし、偲〔右○〕の字シノブと讀むべき義も字書に見えざるか、されども集中多し、早布屋師は上の明日香川を承て水の早きとつゞくるか、早く流るゝ水は絶えぬなり、第十二に垂水の水のはしきやしとつゞけたるに准ずべし、ハシキヤシは上の玉松が枝ははしきかもと云ふを注するが如く愛哉とかく心なれば所によりて少し心替るべし、今はなつかしき心に聞ゆ、此焉は今按コヽヲと改むべきか、焉の字助語ながらを〔右○〕とよめる傍例はありてコヽモなどやうに止める所なし、後の人考見るべし、
 
初、飛鳥のあすかの河の
上瀬下瀬はよむへきことさきのことし。石橋わたしの下の注に、石浪とは、浪とは書たれとも、並の字にて石ならへわたすなり。此集に又石なみをかはともよめり、打橋わたしは、日本紀第二云。又於天安河亦造打橋。清少納言に、道のほとも殿の御さるかう、ことにいみしくわらひて、ほと/\うちはしよりもおちぬへし。源氏物語夕かほに、うちはしたつものを道にてなんかよひ侍る。いそきくるものはきぬのすをを物に引かけてよろほひたふれてはしりもおちぬへけれは、いてこのかつらきの神こそさかしうしをきれとむつかりて、物のそきの心もさめぬめり。此集に、第四第七第十にも見えたり。日本紀に見えたるは、天神大己貴命もし此國を天孫に奉りたまはゝ何事もねかはしからんまゝにたまはせんとのたまふ所にかくあれは、うるはしくきよらにつくる橋の名ときこゆれと、いかなるをうちはしといふと注せることもなし。源氏に見えたるはかりそめに橋なと打わたせるやうにきこゆ。玉もゝそ、下の川もゝそ、此ふたつのてにをはのもの字助語なり。生乎爲禮流は、おひをせれるとよむへし。ころふせはとはころひふせはなり。たちゐおきふし、みなしなやかなる御ありさまをほめ奉るなり。朝宮をわすれたまふや、夕宮をそむきたまふやとは、金玉をちりはめて朝夕にたのしひたまふへき宮のうちを、なとかわするゝことくにすてそむきてはかくれさせたまへるそとなり。うつそみとおもひし時とは、此世の人にておはしませし時なり。君と時々は夫君と花もみちのおりふしことになり。みけむかふは、食を備ふる時、其食にむかふことく前ちかく有ものを、皆かくはいふなり。第六にはみけむかふ淡路の嶋とよみ、第九にはみけむかふみなふち山とよめり。味さはふは、味こりといふことく、よきことのおほくよりあふ心なり。あちはよきことなり。さはゝ多の字をさはとよむ、それなり。ふはあふと詞の上を畧せるなり。まこととはぬは、物のたまはぬなり。ぬえ鳥のかたこひつまとは、第一卷軍王の歌に注せしことく、下なきになきて、夫君のこひたまふなり。皇子諸王の中にこそみあひたまひけめ。夕つゝは和名集云。兼名苑云。太白星、一名長庚、暮見西方、爲長庚、此間云【由不豆々。】大舟のたゆたふみれは、大なる舟は早くもゆかす、ゆるきにたとへてやすらふ心をいへり。たゆたふは猶豫不定とかける字のことし。俗にゆたふといふ詞にも此こゝろあり。おもひやるはおもひをやるなり。そのゆへにすへもしらしや。しらしのしもし、清てよむへし。せんすへも知たまはんや、知たまはしなり。みなにかけせるは、明日香皇女と申せはなり。はしきやしははしきよしなり。はしきは.愛の字なり。此焉はこゝをとよむへし
 
短歌二首
 
197 明月香川四我良美渡之塞益者進留水母能杼爾賀有萬思《アスカカハシカラミワタシセカマセハナカルヽミツモノトニカアラマシ》
 
【一云水乃與杼爾加有益】
 
(60)能杼、【官本、或能作v乃、】
進留は人丸集拾遺六帖皆今と同じくながるゝとよめり、義訓也、第十三に、吹風も和《ノドニ》は吹かずと云ひ、源氏の蜻蛉に、悲しく心うき事のどまるべくもあらねばなどいへる皆のどか〔三字右○〕なり、しかれば歌の心、あすか川にすゝみてとく流るゝ水も、しがらみ掛渡してせかましかば、とゞめはてずとも猶行ことののどかにだにありなまし、人の命は暫だに留べき由なしといへる意、忠岑が別を留るしがらみぞなきと云に同じ、
 
初、あすか川しからみわたしせかませはなかるゝ水ものとにかあらまし
のとはのとかなり。第十三に吹風ものとにはふかすといふに和の字をかけり。拾遺集に、涙川のとかにたにもなかれなんこひしき人の影やみゆると。源氏の蜻蛉に、はゝ君もさらに此水のをとけはひをきくに我もまろひちりぬへくかなしく心うきことのとまるへくもあらぬはといへり。拾遺集に、此歌の結句をのとけからましとあらためて載らる。水のすゝむはなかるゝなれは、義をもて進の字をなかるとはよめり。さて此歌の大意は、古今集に、あねの身まかりける時よめる忠岑かうたに、せをせけは淵となりてもよとみけりわかれをとむるしからみそなき。此心におなし
 
198明日香川明日谷《アスカカハアスタニ》【一云左倍】將見等念八方《ミムトオモヘヤモ》【一云念香毛】吾王御名忘世奴《ワカオホキミノミナワスレセヌ》【一云御名不所忘】
 
アスダニミムとは、あすは明日にかぎりて云ふにあらず、今より後の意なり、念ヘヤモは思はむやなり、歌の心は、水の流るゝ如く過ゆかせたまへる皇女をば、明日川のあすさへ又も見奉らむと思はむや思はぬ物を、中々なる川の名の通ひて、御上の忘られ參らせぬ由なり、
 
初、あすか川あすたにみんと――
あすか川の名をうけてやかてあすとつゝけたり。たにといふにふたつの心あり。さへにかよふとなりともといふやうに聞ゆるとなり。今はさへの心なり。おもへはおもはんやなり。あすか川といふ名は、あすさへ見奉らんやうにたのもしく聞ゆれと、うせさせたまへはあすもみんとはたのまんやは。中々なる御名にかよひて、わすれたてまつらぬとなり
 
萬葉集代匠記卷之二中
 
(1)萬葉集代匠記卷之二下
 
高市皇子尊城上殯宮之時柿本朝臣人麿作歌一首并短歌
 
天武紀下云、次|納《メシテ》2※[匈/月]形《ムナカタノ》君|徳善《トクセカ》女尼子娘1生2高市(ノ)皇子(ノ)命1、十四年正月、授2淨廣貳(ノ)位1、持統紀云、四年秋七月丙子朔庚辰、以2皇子高市(ヲ)1爲2太政(ノ)大臣《マヘツキミト》1、六年春正月、増2封皇子高市二千戸1、通前五千戸、七年正月以2淨廣壹1授2子高市1、城上〔二字右○〕、武烈紀云、三年十一月詔2大伴室屋大連1發2信濃國(ノ)男丁《ヨホロヲ》1作2城像(ヲ)於水|派《マタ》邑1仍曰2城上《キノヘ》1、和名集云、廣瀬郡|城戸《キノヘ》とあればキニヘと讀べし、人丸家集にしきのかみとあるは大に誤れり、城上郡は別なり、此集第十三云、朝裳吉城於道從角障經石村乎見乍神葬葬奉者《アサモヨシキノヘノミチユツヌザハフイハレヲミツヽカミハフリハフリマツレハ》云云、これ詞書なけれども正しく此皇子を慟奉れり、延喜式第二十一諾陵式云、三立岡墓、【高市皇子、在2大和國廣瀬郡1、兆域東西六町、南北四町、無2守戸1、】引合て見るべし、薨じ給ふ年月は歌の後の注に見えたり
 
初、高市皇子尊城上殯宮之時――
次第をいはゝ河島皇子の挽歌の次に此歌以下の四首をのせ、次弓削皇子の挽歌を載、次に明日香皇女の挽歌、次に穗積皇子の歌を載へし。高市皇子は天武天皇の御子、御母は尼子始凶月形徳善か女なり。此兇月形の氏、日本紀にも點をくはへす。いかによむへきにか。今案※[匈/月]形をうつしあやまりてかくはなれるなるへし。日本紀第二十八云。先遣高市皇子於不破、令監軍事。○懐風藻葛野王【大友皇子之子】詩傳云。高市皇子薨後。皇太后引王公卿士於禁中、謀立日嗣、時群臣各挟私好、衆議紛紜、王子進奏曰云々。薨したまへる年は、下に日本紀を引て注せるかことし。延喜式第二十一諸陵式云。三立岡墓【高市皇子在大和國廣瀬郡、兆域東西六町南北四町無守戸】
天武元年壬申の歳の大友皇子との大亂は、ひとへに此高市皇子の大功により勝利を得たまへるなり。すてに日本紀を引かことし、文大伴男吹負か大功を立し時も此皇子の威名をかりて謀をめくらしけるなり。日本紀を讀て知へし。此故に人麿の長歌おほき中にも、此歌ことに長篇にてつふさに壬申の亂をしつめたまへる事をしるされたれは、皇子の威名大功此歌により不朽を日月に懸たりといふへし。皇子と作者とあひにあひたれは、その初には雄壯にして、たとへは漢の高祖項羽と鴻門に會せし時、樊將軍か項羽をにらめる眼をみるかことし。薨したまへる後を述たるに至りては、晉の羊〓か〓山の碑に向ふかことし。千歳の英魂、皇子の精神にそひて、此歌にとゝまれり。後に長歌を取に、只艶麗にして當世にかなへるをのみいひて、これらの歌にをよはぬは、人まろ赤人とのみ聲にほえてすこしもその心はしらぬなるへし。又第十三に挽歌二十四首を載たる中に、初三首詞書なしといへとも、その心詞まきれなく、此皇子を石村山に葬たてまつりける時の作なり。作者も誰となし。延喜式に三立岡とあるは石村山のうちなるにや。をの第一首のはしめにいはく、かけまくもあやにかしこし、ふちはらの都しみゝに人はしもみちてあれとも、君はしもおほくいませと云々。皇子のほとこれらの歌をあはせてみるへし。さて此皇子は天武天皇の御子たちの中には第いくはしらにあたらせたまへるにや。是につきて不審有。先草壁太子の御年を逆釋推するに、天武元年八十一歳にならせたまふ。大津皇子は天智三年にむまれたまひて、壬申の年八九歳にてましませは、天武天皇高市皇子にむかひのたまへるみことのりにも、唯有幼小孺子耳、奈之何とおほせられ、皇子攘臂按劍奏言、近江群臣雖多、何是敢逆天皇之靈哉、天皇雖獨、則臣高市頼神祇之靈、請天皇之命、引卒諸將而征討、豈有距乎とあるをみるに、嫡子にて、そのころ十六七歳以上にてもおはしましけるなるへし。天武紀云。八年己卯五月庚辰朔甲申、幸于吉野宮。乙酉、天皇詔皇后及草壁皇子尊大津皇子高市皇子河島皇子忍壁皇子芝基皇子曰。朕今日與汝等倶盟于庭、而千歳之後欲無事、奈之何。皇子等共對曰。理實灼然云々。又さきの川島皇子の挽歌のひたりの後の注に、天武紀を引るかことく、十四年二月に爵位の號をあらためて皇子たちに位を授させたまふ時、草壁皇子尊には淨廣壹をさつけ、大津皇子には淨大貳高市皇子には淨廣貳の位を授給。淨位四階、毎階有大廣といへり。草壁太皇子は正后の御腹なれは、太子に立たまひ、大津皇子は太田皇女の御腹なるゆへに位階も一等高く授たまふにや。紀の文皆第三につらねたるは、此皇子はおとり腹におはします故にや。懷風藻には大津皇子を長子といひたれとも、薨したまふ時二十四歳なるをもてかそふるに誤れり。日本紀に第三子と載られたれは、此皇子は第一、草壁は第二なるへし。此皇子いつ太寸に立たまへりとは、日本紀にもみえねとも、後皇子尊といひ、懷風藻葛野玉の傳によるに、まさしく太子に立たまひけるなり。皇子尊をは日本紀にみかとみことゝよめり
 
199 挂文忌之伎鴨《カケマクモユヽシキカモ》【一云由遊志計禮杼母】言久母綾爾畏伎明日香乃眞神之(2)原爾久堅能天津御門乎懼母定賜而神佐扶跡磐隱座八隅知之吾大王乃所聞見爲背友乃國之眞木立不破山越而狛釼和射見我原乃行宮爾安母理座而天下治賜《イハマクモアヤニカシコキアスカノマガミノハラニヒサカタノアマツミカトヲカシコクモサタメタマヒテカムサフトイハカクレマスヤスミシシワカオホキミノキカシミシソトモノクニノマキタテルフハヤマコエテコマツルキワサミカハラノカリミヤニヤスモリマシテアメノシタヲサメタマヒシ》【一云拂賜而】食國乎定賜等鳥之鳴吾妻乃國之御軍士乎喚賜而千磐破人乎和爲跡不奉仕國乎治跡《ヲシクニヲシツメタマフトトリカナクアツマノクニノミイクサヲメシタマヒツヽチハヤフルカミヲナコシトマツロハヌクニヲオサムト》【一云掃部等】皇子隨任賜者大御身爾大刀取帶之大御手爾弓取持之御軍士乎安騰毛比賜齊流皷之音者雷之聲登聞麻低吹響流小角乃音母《ワカミコノマヽニタマヘハオホミミニタチトリ シオホ ニユミトリモタシミイクサヲアトモヒタマヒトヽノフルツヽミノコヱハイカツチノコヱトキクマテフキナセルヲツノノコヱモ》【一云笛之音波】敵見有虎可※[口+立刀]吼登諸人之恊流麻低爾《アタミタルトラカホユルトモロヒトノオヒユルマテニ》【一云聞惑麻低】指擧有幡之靡者冬木成春去來者野毎著而有火之《サシアクルハタノナヒキハフユコナリハルサリクレハノヘコトニツキテアルヒノ》【一云冬木成春野燒火乃】風之共靡如久取持流弓波受乃驟三雪落冬乃林爾《カセノムタナヒクカコトクトリモタルユハスノウコキミユキフルフユノハヤシニ》【一云由布之林】飄可母伊卷渡等(3)念麻低聞之恐久《アラシカモイマキワタルトオモフマテキヽノカシコク》【一云諸人見惑麻低爾】引放箭繁計久大雪乃亂而來禮《ヒキハナツヤノシケラクオホユキノミタレテキタレ》【一云霰成曾知余里久禮婆】不奉仕立向之毛露霜之消者消倍久去鳥乃相競端爾《マツロハヌタチムカヒシモツユシモノケナハケヌヘクユクトトリノアラソフハシニ》【一云朝霜之消者消言爾打蝉等安良蘇布波之爾】渡會乃齊宮從神風爾伊吹惑之大雲乎日之目毛不令見常闇爾覆賜而定之水穗之國乎神隨太敷座而八隅知之吾大王之天下申賜者萬代然之毛將有登《ワタラヒノイツキノミヤユカムカセニイフキマトハシアマクモヲヒノメモミセストコヤミニヲヽヒタマヒテシツメマシミツホノクニヲカミノマニフトシキマシテヤスミシシワカオホキミノアメノシタマヲシタマヘハヨロツヨニシカシモアラムト》【一云如是毛安良無等】木綿花乃榮時爾吾大王皇子之御門乎《ユフハナノサカユルトキニワカキミノミコノミカトヲ》【一云刺竹皇子御門乎】神宮爾装束奉而遣便御門之人毛白妙乃麻衣著垣安乃御門之原爾赤根刺日之盡鹿自物伊波比伏管烏玉能暮爾至者大殿乎振放見乍鶉成伊波比廻雖侍侯佐母良比不得者春鳥之佐麻欲比奴禮者嘆毛未過爾憶毛未盡者言(4))右敝久百濟之原從神葬葬伊座而朝毛吉木上宮乎常宮等高之奉而神隨安定座奴雖然吾大王之萬代跡所念食而作良志之香來山之宮萬代爾過牟登念哉天之如振放見乍玉手次懸而將偲恐有騰文《カムミヤニカサリマツリテタテマタスミカトノヒトモシロタヘノアサノコロモキハニヤスノミカトノハラニアカネサスヒノツクルマテシヽシモノイハヒフシツヽヌハタマノユフヘニナレハオホトノヲフリサケミツヽウツラナスイハヒモトホリサモラヘトサモラヒエネハウクヒスノサマヨヒヌレハナケキモイマタスキヌニオモヒモイマタツキネハコトウヘククタラノハラニタマハフリハフリイマシテアサモヨヒキノウヘノミヤヲトコミヤトタカクシタテテカミノマニシツマリマシヌシカレトモワカオホキミノヨロツヨトオモホシメシテツクラシシカクヤマノミヤヨロツヨニスキムトオモヘヤアメノコトフリサケミツヽタマタスキカケテシノハムカシコケレトモ》
 
所聞見爲、【官本亦云、キコシメス、】 定賜等、【官本亦云、サタメタマフト】 不奉仕、【官本亦云、ツカマツラヌ、】 鼓之音者、【官本亦云、ツツミノオトハ】 大雲、【大當v作v天、】 定之、【官本亦云、サタメテシ、】 申賜者、【マウシタマヘハ、】 遣便、【別校本便作v使、】 雖侍侯、【官本亦云、サフラヘト、】 安定座奴、【官本亦云、ヤスモリマシヌ、】
 
カケマクモ、ユヽシキカモとは、貫き御上を賤しき者の言の葉にかけて申もいまはしきなり、イミジキとも讀べし、同じ心なり、諱《イミナ》と云も帝の御名は天下禁忌して申奉らず、父祖の名などは一家此を忌て云はねばいみな〔三字右○〕と云が如し、ゆゝしきと云詞は此外によき事にもあしき事にも云詞なり、イハマクモ、アヤニカシコキは、申さむも恐あるなり、以上四句は皇子の薨去を悼奉るに天武天皇元年に大友(ノ)皇子の亂を静め玉ひし生前の勲功より述らるれば、先天武の御事を申さむとて、敬て端を發す也、明(5)日香ノ眞神ノ原ニ云云、カミサブトイハカクレマスとは.天武崩御の後、持統天皇の朱鳥二年十一月に至て、高市郡大内陵に葬奉らる、彼處を眞神原とも云か、崇峻紀云、蘇我(ノ)馬子(ノ)宿禰壞2飛鳥(ノ)衣縫造祖|樹葉《コノハ》之家(ヲ)1始(テ)作2法興寺1、此地名2飛鳥眞神《アスカノマカミノ》原1、亦名2飛鳥(ノ)苫田《トマダ》1、此集第八第十三には大口の眞神原といへり、其名づくる由は別に注す、神さふととは上に注する如し、石《イハ》がくれますは石槨にをさめて葬《カクシ》まつるを磐戸にこもらせ給ふによそふるなり、當帝もまします故に、先帝の御事を山陵を以て申さるゝなり、いはがくれますと云所句絶にあらずして八隅《ヤスミ》シヽとつゞく所心を著べし、キカシミシはきこしめすなり、しろしめすに意同じ、ソトモノ國とは上に成務紀を引くが如く山陰曰2背面《ソトモ》1とあれば、美濃は東山道にて東海道より北の山路を經る故にそともといへり、山陰道に限るに非ず、宅地にても後の方を云にて知ぬべし、真木《マキ》タテルは此まき又木の名なるぺし、上に云へるが如し、狛釼《コマツルギ》ワザミガ原、こまは高麗なり、高麗の釼には柄《ツカ》頭に環を著るか、環の類をわ〔右○〕といへば、さてわ〔右○〕と云詞まうけむとてかくはつゞくるにや、戰國策(ニ)云、軍之所v出矛戟折v鐶(ヲ)※[金+玄]絶、【鐶刀鐶(リ)補云、※[金+玄](ハ)姚本作弦、】古樂府云、藁砧今何在、山上更有v山、【山上山、意、出也、】何日太刀頭、【釼柄頭有v鐶、假v鐶以爲v還、】破鏡【破鏡、初月也、状如2鏡片1、】飛上v天、之は藏頭格なり、第三句は、何れの日か還らむと云事を太刀頭に鐶あれば還と通じていへり、これらを(6)以て見れば狛劔にも有なるべし、第十一に笠の借手のわさみ野とつゞけたるも、わ〔右○〕と云につゞくといへり、彼に至て注すべし、天武紀上云、先遣2高市皇子(ヲ)於不破1令v監2軍事(ヲ)1云云、五月辛卯朔丁亥、高市皇子遣2使於桑名郡家1以奏言、遠2居御所1行v政不v便、宜御2近處1、即日天皇留2皇后1而入2不破1云云到2于野上1、高市皇子自2和※[斬/足]《ワザミ》1參迎以便奏言云云、既而天皇謂2高市皇子1白、其近江朝(ニハ)左右大臣及智謀群臣共(ニ)定v議、今朕無2與(ニ)計v事者1、唯有2幼少孺子耳|奈之何《イカヽセム》、皇子攘v臂按v劔奏言(ス)、近江(ノ)羣臣雖v多何(ソ)敢逆2天皇之靈1哉、天皇雖v獨則臣高市頼2神祇之靈1請2天皇之命1、引2率(テ)諸(ノ)將而|征討《ウタム》豈有v距(コト)乎、爰天皇譽v之|携《トリテ》v手撫v背(ヲ)曰、愼(テ)不v可v怠、因賜2鞍馬1悉(ニ)授2軍事1、皇子則還2和※[斬/足]1、天皇於v茲行宮興2野上1而居焉、和名云、不破郡野上、かゝればわざみも不破郡なるべし、ヤスモリマシテは安まりますか安く守ますか、治賜はヲサメタマフトとよむべし、鳥ガナクはあづまの枕詞なり、別に注す、天武紀云、遣2山背部小田|安斗《アトノ》連阿加布1發2東海軍1、又遣2稚櫻部臣五百瀬土師連馬手1發2東山軍1、チハヤブルカミヲナゴシト、今按チハヤブル人ヲナゴセトとよむべし、第七第十一並に日本紀にもチハヤ人といへり、殘賊強暴を日本紀にチハヤブルとよみたれば、さやうの人を能なごめよと皇子に勅し給ふなり、猶別に注す、マツロハヌ國ヲヲサムト、日本紀に不順をマツロハヌとよめり、意字の如し、今按クニヲシラセと讀べき(7)か、しらせは、をさめよなり、注の一本ハラヘトとあるによるに人をなごせ國をしらせと天皇の皇子に下知し給ふなり、ワカミコノマヽニタマヘバ、今按此句は日本紀並此集後の歌どもに依るに、ミコノマニヨザシタマヘバとよむべし、まにはまゝになり、よざすはまかするなり、軍事を授けたまふ事前に引く紀の如し、諸皇子多くましますにいかで此皇子にのみ任せ給ふとならば其故あり、此時|草壁《クサカベノ》皇子纔に十一歳大津(ノ)皇子九歳なれば其餘は知ぬべし、高市(ノ)皇子の御歳は物に見えねど、上に引ける紀文の勅問勅答、及び天武六年に嫡子長屋(ノ)王出生、是等を以て案ずるに、此皇子は長子にて此亂の比二十歳にも及びたまひけるか、大伴(ノ)吹負《フケヒ》が大和にて大功を立しも此皇子の威名を借て謀をなせり、御年の程推量すべし、以上は大任を受給ふ事をいひ、大御身にと云よりあらそふはしにと云ふまでは、勇氣を奮つて軍勢を帥ゐ瀬田にして合戰し給ふ由を述べらる、紀には瀬田の軍の時皇子何處におはしましけるとも見えねど此歌を證とすべし、アトモヒタマヒ、此あとまふと云詞集中に多し、日本紀に誘の字をアトフとよめる是なり、いざなひたまひと云ふなり、トヽノフル皷ノコヱ、軍衆をとゝのふる故なり、或點にトヽノホルとあるは、軍令に叶て皷の聲のとゝのほる意なれば此に叶はず、音は下に雷の聲とあればオトと和すべきか、吹ナ(8)セルは吹ならせるなり、古今に、秋風にかきなす琴とよめるに同じ、小角は今按クダとよむべきか、天武紀に大角を波良《ハラ》、小角を久太《クダ》とよめり、和名云、兼名苑注云、角本出2胡中1、或云出2呉越1以象2龍吟1也、楊氏漢語抄云、大角、【波良乃布江、】小角、【久太能布江、】令第五軍防令云云、延喜式民部上云云、胡笳咸角栗など云同じ物なり、胡人の蘆葉を卷て吹くに習へり、猶異説多し、アダミタル虎ガホユルトとは敵も虎なり、兩虎の爭ふ時威を奮つて鳴くをいへり、詩云、王奮厥武、如v震如v怒、進厥虎臣、※[門/敢]如v〓虎、ユハズノ驟《ウゴキ》は、今按サハギとよむべきか、アラシカモイ卷渡ルトとは、い〔右○〕は發語の詞、林の梢を風の吹まくなり、文選云、囘※[火三つ+風]卷2高樹1、引放矢ノ繁計久は、今按あきらけくなど云に准ずればシゲラケクとも云べきを、傍例シゲヽクと侍れば今もさよむべくや、亂テキタレ、來ればといはざるは例の古語なり、一本の霰成曾知余里久禮婆《アラレナスソチヨリクレバ》とはそち〔二字右○〕はそなた〔三字右○〕》なり、そなたは遠き心なれば、矢の彼《ヲチ》方より霰の降りくるやうに來るなり、景行紀云、時賊虜之矢横自v山射之流2於官軍前1如v雨、マツロハヌ立向シモとは、天皇にまつろひ奉らぬ敵の兵の向しもなり、不奉仕はマツロハデともよむべし、マツロハヌの點も古体しかるべし、露霜ノ消ナバケヌベクとは、敵も命を惜まず死なば死なむと挑む心なり、去鳥ノアラソフハシニとは、はしはあひだなり、間人皇女、間人宿禰など云ふ間の字なり、十(9)七に家持の郭公をよまれたる歌にも此句あり、十九に、玉ほこの道はし遠とよめるも道のあひだなり、群鳥の飛立つ時我先にと急ぐ如く互に先鉾を爭ふあひだになり、一本に朝霜之消者消言爾《アサシモノケナバケテフニ》とは、消ば消へよといはむやうにの意なり、末にけなばけぬかにとよめる歌あれば、言の字は何れはしらずか〔右○〕の字を書きあやまてるか、集中に何といふといふべきを何てふとつゞめて云時は皆云の字を書きて言の字書きたる所なし、ウツセミトアラソフハシニとは、第十九に家持|處女墓《ヲトメツカ》をよまれたる歌にうつせみの名をあらそふとゝあれば、此所もうつせみと云にものゝふの名を惜て爭ふ意あるか、それに取てうつせみの名とつゞくる心は、聖賢に堯舜伯夷柳下惠等の名あるは求ざれどおのづから徳にそなはれる名なり、唯名をのみ思ふは莊子がいはゆる名者實之賓なればむなしき名と云意につゞくる歟、又今は名にはかゝらで武士なれば世間の習に爭ふ間にとにや、ワタラヒノ齊宮ニ、今按齊は齋なるべし、從はゆ〔右○〕と讀むべし、ゆ〔右○〕は即より〔二字右○〕なり、神風ニイ吹マドハシ云云オホヒタマヒテとは、伊は例の發語の詞、トコヤミは神代紀云、乃入2于天(ノ)石窟《イハヤ》1閉2磐戸1而幽居《カクレマセリ》焉、六合《クニノ》之内|常闇《トコヤミニシテ》而不v知晝夜之相代(ルコトヲ)1、神功皇后紀云、更遷2小竹《シヌ》1、【小竹此云2之努1、】適2是時1也晝暗如v夜已經2多日1、時人曰|常夜行之也《トコヤミユクト云ナリ》云云、天式紀を考ふるに瀬田にての合戰にかゝる事ありつ(10)とは見えねど、彼亂より此歌よまれたる年までは纔に二十五年、殊に人丸の歌なれば實録なること誰か信ぜざらむ、上の持統天皇の夢中の御歌に注せしが如し、史記項羽本紀曰、楚又追撃至2靈壁東雎水上1、漢(ノ)軍却(テ)爲v楚所v※[手偏+齊]《ナシオトサ》多殺漢卒、十餘萬人皆入2雎水1、雎水爲之不v流、圍(コト)2漢王1三匝、於v是大風從2西北1而起、折v木發屋揚2沙石1、窈冥晝晦、逢2迎楚軍1、楚軍大亂壞散、而漢王乃得d與2數十騎1遁去u、又韓王信傳(ニ)云居七日胡騎稍引去、時天大霧、漢使人徃來胡不v覺、異國も本朝も運に當れる君には天與へ神助くる事此の如し、神ノマニは、帝を神と云事さきの如し、是は先帝を申奉て、下の八隅シヽ吾大君は、當帝持統にわたれり、天下申賜ヘバとは、第五第十九にも此詞あり、事を奏して勅を受てよきに執行ふを云、關白をあづかりまふすとよむに准ずべし、萬代ニシカシモアラムトとは、天下の政を執奏し給ひて万代までもさておはしまさむと思ふなり、木綿花《ユフハナ》ノ榮ユル時とは、木綿をやがて花と云、下にも白ゆふ花とも、ゆふは花かもなどあまたよめり、榮華の盛にと云なり、神宮ニカサリマツリテとは、殯宮にかざるなり、遣便《タテマダス》ミカドノ人モとは、此皇子につかへ奉る人もなり、便は使に作れるをよしとす、今の本誤れり、日本紀に奉遣を今の如くよめり、日之盡、今按上にも下にもヒノツキとよめるを、此に俄にヒノツクルマデとよむべからず、上に云如く日ノコト/”\と和(11)すべきか、鹿《シヽ》ジ物イハヒフシツヽは、いあ〔右○〕は發語の詞、匍伏なり、鹿《シヽ》は能はひふせば借て殯宮に向て禮儀をなすにたとふ、第三にも鹿《シヽ》じ物|膝折《ヒザヲリ》ふせてなど其外あまたよめり、古今序にもたなびく雲のたちゐ鳴鹿のおきふしとかけり暮爾至者《ユフヘニナレハ》、此をばクレニイタレバとも讀べし、鶉《ウヅラ》ナスイハヒモトホリは、い〔右○〕は又發語の詞、もとほるは、めぐると云古語なり、神武天皇の御歌にもいはひもとへるしたゝみと讀たまへり、和名に鷹具に旋子をとほりと云も此義なり、鶉の草隱をはひめぐれるに喩て、禮儀を云こと上の如し、肘行膝歩の体を云、サモラヘド、サモラヒエネバとは、祇候すれども御在世の時に替て悲に堪ぬなり、ウグヒスノサマヨヒヌレバは、神代紀に愁吟をサマヨフとよめり、吟呻するを鶯に喩るなり、春鳥とかけるは、和名云、陸詞切韻云※[(貝+貝)/鳥]【鳥莖反楊氏漢語抄云、春鳥子、宇久比須、】春烏也、かゝれば撰者の義訓には非ず、オモヒモイマダツキネバ、これはおもひもいまだつきぬにと云心なるを古語にてかくいへるは唯今の詞づかひに違へるやうなれば、意得がたし、下に至て尤多し、者の字をに〔右○〕と用たる所もあれば、イマダツキヌニと讀べきにやと思ふを、第五に憶良の哀(シム)2世間難1v住歌に、またまでのたまでさしかへさねしよの、伊久※[こざと+施の旁]母阿羅禰婆《イクダモアラネバ》とよめるも同じてにをはなるを如比かきたれば、よみやう慥に前の如し、只新語にて心得てさて有べし、言右敝久《コトウヘク》ク(12)ダラノ原ニ、仙覺本も今の如にて其注穿鑿なり、今按右は左の字を誤れるなり、ことさへぐは、以前釋、百濟も三韓の内にて詞のさはりあればからのさきとそへたるに同じ、百濟の原は廣瀬郡にて、第八に百濟野とよめるも同所なるべし、但舒明紀云、十一年秋七月詔曰、今年造2作大宮及(ヒ)大寺1、即以2百濟川側1爲2宮處1、十二月、是月於2百濟川側1建2九重塔1、延喜式に引合するに、三立岡は此百濟原に屬せる所なるべし、アサモヨイ木上《キノウヘノ》宮は、第十三にもかくつゞけたり、此はあさもよいは紀の國の枕詞なるを、木と云詞の通へるに依て假て移し用るか、いそのかみふるから小野、異説あれど一説につかば例とすべし、尊骸をば三立岡に葬て、尊靈をば城上宮に崇め祭るなり、神ノマニシヅマリマシヌ、皇子を神と云なり、以て皇子の全盛と薨去と殯宮との事を次第に述ぶ、しかれどもと云より一轉して後代まで御名の朽失ずして慕ひ參らせむことを云て一篇を収拾せらる、吾大君は皇子の御事なり、天ノ如振サケ見ツヽは、万代に御子孫相續して香久山の宮の殘べければ仰見むとなり、結句のカシコケレドモは皇子を敬て云、發端には替れり、以上百四十九句集中第一の長篇なり、人麿の獨歩の英才を以て皇子の大功を述て薨去を奉慟らるれば、誠に不朽を日月に懸たる歌なり、歌の中ごろは能天武紀を引て見るべし、
 
初、かけまくもゆゝしきかも――
いやしき身をもて、ことのはにかけて申たてまつるもいま/\しと、上をたふとひてことに卑下する詞なり。つゝきは天武の御事なれとも、皇子尊をもひとつにうやまひたてまつりていへるなり。神さふといはかくれますやすみしゝわか大君とは、天武の御事なり。崩御の後、立かへりそのかみの事をのふるゆへにかくはいへり。そともの國は、第一卷に成務紀を引かことく、こゝにては美濃は東山道にて大和より北うしとらのかたにもあたるへけれはなり。こまつるきわさみか原とは、狛劔は高麗の劔なり。もろこしの劔には〓のかしらに鐶をつくれは、高麗にもつくるなるへし。鐶のたくひをもわといへは、わさみとつゝけんためにいへり。戰國策云。軍之所出矛戟折鐶※[金+玄]絶【鐶刀鐶補云※[金+玄]姚本作弦。】古樂府曰。藁砧今何在【藁砧※[石+夫]也※[石+夫]借爲夫】山上更有v山【山上山意出也】何日太刀頭【太刀頭有鐶鐶借爲還】破鏡飛上天【破鏡微月也。】第十一に笠のかりてのわさみのにとよめるも笠のうらにちひさきわをつけてそれよりをゝすくかをかりてといふゆへに、これもわとつゝくるためは今とおなし心なり。やすもりましては、やすまりまし/\てなり。又安穩に守護したまふといふにもあるへし。治賜、おさめたまひと、もしたらすによむか。又おさめたまふとよむへし。たまひしとしたる點はわろし。鳥かなくあつま、前に注して附たり。喚賜而、めしたまひつゝとよめるもあしからす。字のまゝによはひたまひともよむへし。ちはやふる人をなこすと。此人をかみとかんなつけたるはわろし。字のまゝによむへし。ちはやふるといふ詞は、おほかた神にのみ聞なれたるゆへに、昔の點にはあらて、後にくはへたるなるへし。第七第十一に、ちはや人宇治とつゝけてよめる歌あり。委はそこに注すへし。神代紀に、殘賊強暴横惡之神とかきて、ちはやふるあしき神とよみたれは、殘賊強暴の人を、ちはやふる人とも、ちはや人ともいふなり。和爲跡をは、なこせととよみ、治跡をは、しらせとゝよむへし。天皇の皇子に下知したまふ詞なり。されはこそ治跡の下に一云掃部等とは注したれ。一本にはらへとゝある心にて、なこせ、しらせとよむへしとはいふなり。皇子随任賜者、これをは、わかみこにまかせたまへはとよむへし。まゝにたまへはとあるもおなし心なれと、まかせたまへはは心得やすし。あともひたまひ、このあともふといふ詞、此集中にあまたあり。いさなふ義なり。日本紀に誘の字をあとふとよめるこれなり。同字をわかつるとも、をこつるともよめるはすこしあさむく心なり。とゝのふる鼓のこゑはとは、軍衆をとゝのふる鼓なり。〓の字を、ふりつゝみとよむ。騎鼓なり。楽天か長恨歌に、漁陽〓鼓動地來といへる物なり。吹なせるは吹ならせるなり。此集に鳴の字をもなすとよめり。古今集に、秋風にかきなすことゝよめるも、かきならすなり。小角、これを、をつのとよめるはあやまりなり。こふえとよむへし。下にある本を引て、自注に、笛乃音波とあるにおなし。又くたのこゑもと、もしたらすにもよむへし。天武紀云。大角小角《波良久太》。又云。○あたみたるとらかほゆると、あたをみたるなり。あたはあひてなり.詩曰。王奮厥武、如震如怒、進厥虎臣、※[門/敢]如〓虎。野へことにつきてある火の。和名集云。野火字統云〓【蘇典反又作〓、野人説云保曾介】防野火也。孫〓切韻云〓【音與銑同】逆燒也。冬の林に飄かもいまきわたると。莊子云。冷風則小和、飄風則大和。文選云。囘※[火三つ+風]卷高樹。いまきのいは、發語のことはなり。大雪のみたれてきたれ。きたれはといはて、きたれとのみいへるは、例の古語なり。景行紀云。時賊虜之矢、横自v山射之、流於官軍前如雨。不奉仕を、まつろはぬとよめるもあしからねと、まつろはてとよめは、とく心得やすし。あらそふはしに、鳥の打つれて行は我さきたゝんとするものなり。そのことく軍に兵の先鋒をあらそふなり。露霜のけなはけぬへくは身をかへりみねなり。はしは長流か昔の抄に、はしめなりと注したれとも、さにはあらす。あひたにといふ詞ななり。すなはち間の字をはしとよめり。用明天皇の后、聖徳太子の御母を、穴太部間人皇女と申、日本紀に見えたり。此集にも、第一に、間人連老、第三に、聞人宿禰大浦あり。みな間の字、はしとよめり。古今集に、高津内親王の御歌に、木にもあらす草にもあらぬ竹のよのはしにわかみはなりぬへらなりとよませたまへり。竹は草木のあひたにて、よはまた兩節の間なれはいつかたへもつかぬうきたる御身と、竹によそへたまへるなれは、此はしもあひたなり。又川にわたすをはしといふも、両岸の間なれは、間の字の心を、橋の體につけたる名なるへし。第十九に、家持の、ほとゝきすならひに時の花をよめる長歌に、また此あらそふはしにといふ詞あり。そこはます/\あひたの心なり。はしめといふ心更にかなはす。あとさきなかきゆへにこゝにかゝす。わたらひのいつきの宮ゆ、神風にいふきまとはし――おほひたまひてしつめてし。これは七月廿二日瀬田にての合戰の時をいへり。天武紀云。元年秋七月庚寅(ノ)朔辛辛亥|男依《ヲヨリ》等到(ル)2瀬田1(ニ)1。時(ニ)大友(ノ)皇子及(ヒ)群臣等共(ニ)營2於橋(ノ)西(ニ)1《村國》而大(ニ)成(シテ)v陣(ヲ)不v見2其(ノ)後(ヲ)1。旗幟蔽(ヒ)v野(ヲ)埃塵連(ナル)v天(ヲ)。鉦皷《ドラツヽミノ》之聲聞(エ)2數十里(ニ)1列弩亂發矢下(ルコト)如(シ)v雨(ノ)。其(ノ)將智尊率(テ)2精《ヨキ》兵(ヲ)1以|先鋒《サキト テ》距(ク)v之(ヲ)。仍切(リ)2斷(コト)橋(ノ)中(ヲ)1須v容(ル)2三丈(ヲ)1。置2一(ノ)長(キ)板(ヲ)1。設(ヒ)有2蹈(テ)v板(ヲ)度(ル)者2乃引(テ)v板將v墮(サント)。是(ヲ)以不v得2進(ミ)襲(フコトヲ)2。於v是(ニ)有2勇敢士1曰2大|分《キタノ》君|稚臣《ワカオムト》1。則棄2長矛(ヲ)1以重(ネキテ)2〓甲(ヲ)1拔(キ)v刀(ヲ)急蹈(テ)v板(ヲ)度之。便斷2著(シ)v板(ニ)綱(ヲ)1以被v矢(ヲ)入(ルニ)v陣(ニ)衆悉(ク)亂(レテ)而|散走《アラケテ》之不v可v禁。時將軍智尊拔(テ)v刀(ヲ)斬(レトモ)退(ソク)者(ヲ)1不v能v止(ムルコト)。因(テ)以(テ)斬2智尊(ヲ)於橋(ノ)邊《アタリニ》1。則大友(ノ)皇子左右(ノ)大臣等僅(ニ)身免(レテ)以逃(レ)之。男依|等《ラ》即軍2于粟津(ノ)岡(ノ)下(ニ)。是(ノ)日羽田(ノ)公矢國、出雲(ノ)臣《オム》狛合(テ)共(ニ)攻(テ)2三尾(ノ)城(ヲ)1降(ス)之。壬子男依等斬2近江(ノ)將犬養連五十君、及|谷《ハサマノ》直鹽手(ヲ)於粟津(ノ)市(ニ)1。於v是大友(ノ)皇子走(テ)無(シテ)v所v入(ル)乃還(テ)隱(レテ)2山前(ニ)1以|自《ミ》縊《ワナク》焉。時(ニ)左右大臣及(ヒ)群臣皆散(ケ)亡(ケテ)唯《タヽ》物(ノ)部(ノ)連麻呂且(ツ)一二(ノ)舍人從(カヘリ)之。かやうにしるして、伊勢より神風の吹きて、大友皇子の軍のまとひけるよし、日本紀に見えぬ事なれと、此歌にかくよまれたれは、尤實録とすへし。そのうへ、日本紀をみるに、夏五月辛卯(ノ)朔丙戌(ノ)旦於2朝明(ノ)郡|迹太《トホ》川邊(ニ)1望《タヨセニ》拜(タマフ)2天照太神(ヲ)1。又云。軍2金綱井(ニ)1之時、高市(ノ)郡大領高市(ノ)縣主許梅|〓忽《タチマチニ》口|閉《ツクヒテ》而不v能v言《モノイフコト》也。三日(ノ)之後方(ニ)著《カヽリテ》v神以言。○便亦言(ク)。吾(レ)者立2皇御孫(ノ)命(ノ)之前後(ニ)1以送3奉(テ)于不破(ニ)1即還(レリ)。今旦立(テ)2官軍(ノ)中(ニ)1守護之。○又村屋(ノ)神著v祝曰云々。又さきに、天皇崩之後八年九月九日|奉爲《オホムタメニセシ》御齋會之夜(ノ)夢(ノ)裏(ニ)習賜御歌に、神風のいせのくにゝは、おきつもゝなひきし浪に、鹽氣のみ、かをれるくにゝ、あちこりの、あやにともしき、高てらす日のみことあるは、そこに申つることく、太神宮のはからはせたまふやう有けることなるへし。かれこれを見合て信すへし。こゝに神風とあるは、伊勢國風土記とおほきにたかへり。風土記の説、ならひにくはしくは、別に注してつけぬ。又神風といふことは、異國にも有と見えたり。文選(ニ)陸士龍(カ)大將軍(ノ)宴會(ニ)被(テ)v命(ヲ)作(レル)詩(ニ)【〓〓緒晋書曰。成都王穎字(ハ)章度趙王倫簒v位。穎|與《ト》齊王間誅v之進2位(ヲ)大將軍(ニ)1】在昔姦臣|〓《アケタリ》2亂(ヲ)紫微(ニ)1。神風潜(ニ)駭(テ)、有2赫(タル)茲(ノ)凱1。靈旗樹〓《ハタヲ》、如(シ)2電(ノ)斯(ニ)揮(フカ)《・アラクルカ》。致(スコト)2天之|屈《キハマリテ》1于《・ヲイテナリ》2河之〓《ホトリニ》1。有命再集、皇輿凱歸。江文通(カ)擬古詩(ニ)、神〓自v遠至(ル)。また軍に神助あることは、史記項羽本紀曰。楚又追撃(テ)至(ル)2靈壁(ノ)東(ノ)雎水(ノ)上1。漢軍却爲v楚(ノ)所v※[手偏+齊]《ヲシオトサ》、多殺2漢(ノ)卒1。十餘萬人皆入2雎水(ニ)1、々々爲(ニ)v之不v流。圍(ムコト)2漢王(ヲ)1三匝。於v是大(ニ)風細西北而越折v木發v屋揚2沙石(ヲ)1窈冥(トシテ)晝晦逢2迎楚軍1。々々大亂壞散。而漢王乃得(タリ)d與2數十騎1遁去u。又韓王信(カ)傳(ニ)曰。居七日胡騎稍引去。時(ニ)天大(ニ)霧漢(ノ)使人往來(スれとも)胡不v覺。およそ、上は王者の天下を知と知らさるとより、下は士庶人の時にあふとあはさるとにいたるまて、そのしるあ見て、しかあるゆへをしらぬ事有。班叔皮か王命論、李蕭遠か運命論、劉孝標か辯命論等のことし。大友皇子に肩をぬかんとして、天武天皇を纂逆のやうにいひなせるもの有。日本紀は、婉微にして決しかたし。いかさまにも、漸々ゆへ有けなるうへ、蘇我赤兄は、有間皇子にも、不臣の心をつけて、かへりて捕奉りて、紀温湯へをくりしほとの人なるが、ともに佛前にしてちかはれし事も、おほつかなし。赤兄の後、蘇我氏は絶たるか、微になりたるか日本紀、續日本紀等にも見えぬやうにはおほゆ。懷風藻の大友皇子の傳には、すこし皇子にこゝろあるやうにかゝれたれと、天武紀さきの御齋曾の夜の夢の歌、此歌なとをよく/\見は、疑おのつからのそかるへし。秦始皇は、阿房宮に安坐せられしを、そのゝち、趙高印璽を佩てのほりけれは、宮殿ふるひうこきてゆるさゝりき。いはむや徳あり功あるみかとを、誰かたやすく論せむ。稱徳天皇崩御の後、不慮に、天智天皇の御孫、光仁天皇、高みくらにのほらせたまひて、今にいたるまて、その御子孫のみ御位におはしますも、そのゆへ又誰か知らん。日本紀を見るに、瀬田の戰は村國男依等か功にして、天皇々子は、猶和暫野上におはしましけれとも、元來皇子の御威勢によりけるゆへ、又は亂のおさまりたる事をつふさにのへらるゝなり。みつほのくにを、みつほは、本朝の名なり。みつは瑞、ほは穗なり。ほはものゝそれとあらはれてみゆるを、ほに出つるといふ。舟の帆、薄稻なとの穗、この心にて名付て見えたり。されは神代よりさま/\嘉瑞のあらはれて、めてたき國とほめて、なつくるなり。神のまにふとしきまして、神はさき/\にもいふことく、君をいふ。ふとしきますは、たしかにおちつきて、世をしろしめすなり。天下申たまへは、まうすは、天下の成敗を君に申あけて、取をこなふをいふ。第五にも、天下まうしたまひし、家の子と、ゑらひたまひてなどよめり。是は持統天皇四年に、太政大臣となりて、天下の政を聞しめしけるをいへり。天武紀云。十年春二月庚子(ノ)朔甲子○是日立2草壁皇子尊1爲2皇太子1。因以令v攝《フサネオサメ》2萬機1。又云。十二年二月己末(ノ)朔大津皇子始(テ)聽2朝政1。これらの後をいふへし。およそ太政大臣は、徳望その人にあらされは、かきてをかさる官なれは、今の皇子の御人から、これにて知へし。令義解職員令云。太政大臣一人師2範一人1儀2形四海1。【謂師者教v人以v道者之稱也。範者法也。儀者善也。形者亦法也。四海者、九夷、八狄、七戎、六蠻也】經v邦諭v道〓2理陰陽1。【謂〓(ハ)者和也。理(ハ)(ハ)治也。言《コヽロハ》太政大臣佐v王論v道以經2緯國事1和2理陰陽1。則有徳之選非2分掌之職1。爲v無2其分職1故不v稱v掌。設v官待v徳故無2其人1則闕也。】無2其人1則闕。ゆふ花の、さかゆる時に。白ゆふ花ともいふは、只ゆふなり。ゆふはもとゆふといふ木を折は、白き糸おほきを、とりてつくるゆへに、なつけたるを、後は苧なとにてするをもゆふとのみいふ事は、從本立名とて例おほし。たとへは楊枝はやなきをけつりてしたれば、さはなつくるを後はこと木をけつるをも、をしなへて楊枝とのみいふかことし。ゆふはゝひまゆみといふ木とかや。安藝の國なとよりおほく出すと見えたり。和名集云。杜仲、陶隠居本草注云。杜仲一名木緜【杜音度、和名波比末由美】折之多白絲者也。又祭祀具云。本草注云。木綿【和名由布】折之多白絲者也。くすりに杜仲とて用るもこれなるへし。和名集には、杜の字音度と注したれは、昔はにこりていひけるを、今の醫家にはならひのすたれて、清てはいふなるへし。木綿に木と草との兩種、異國にも有と見えたり。陸龜蒙か木綿花時猩々啼と作れるはいつれをいへるにか。ゆふをつくりたるか花のやうにみゆるを、榮花にたとへて、さかゆる時にとはつゝくる也。神宮にかさりまつりてとは、かりもかりの宮をいへり。かゝるたふとき人のかくれたまふを、神あかりといふは、もとより神明なるか、和光同塵して世をすくひて、事をはれは本位にかへらせたまふ心にかくいへり。いにしへはおほくさも侍りけん。遣便。便とは、使の字の誤れるなり。日本紀に奉遣とかきてたてまたすとよめり。またすはつかはすといふ古語なり。またす、つかはす、昔はならへて用ると見えたり。たてまたすは、めしつかひたまふ人ともなり。白妙の麻の衣著は、服衣なり。和名集云。〓衣【不知古路毛】喪服也。埴安は所の名なり。神武紀云。天皇以前年秋九月、潜取天香山之埴土、以造八十平瓮、躬自齋戒祭諸神、遂得安定區宇、故號取士之處曰埴安。神代紀上云。上神號埴安神。しゝしものいはひふしつゝ。鹿し物のしは、第一卷に、かもし物といふところに注せしことく、助語なからしゝといふ物といはんやうにきこゆる詞なり。常のやすめ字のみなれは、物といふ字つゝかぬなり。此集に此詞おほし。いはひのいは.發語のことはなり。しゝはよくひさおりふす物なれは、これもまたおほくよめり。古今集の序に、空ゆく雲のたちゐ、なくしかのおきふしはとかゝれたるもこれなり。禮儀をたゝして神靈につかふまつるをいへり。うつらなすいはひもとほりは、いはまた發語の辭、もとほるはまはるといふことはなり。今の俗にも舌のこはくてよくもまはらぬをもとほらぬといひ、中風なとにて手足心にまかせぬを、手のもとほらぬ、あしのもとほらぬなと申めり。神武天皇の御歌に、かむ風のいせのうみの、大石にやいはひもとへるしたゝみのとよませたまへる、もとへるといふもこれなり。第三卷に、長皇子、獵路池に遊獵したまふ時、又人まろの歌に、しゝしものいはひふせりて、鶉なすいはひもとほりとあり。うつらの草かくれてはひまはるによせて、これもうやまひのすかたをいへり。春鳥のさまよひぬれは。長流か昔の抄に、春の鳥は霞にまよふ心なりといへり。しかれは字にまかせてよめるなり。現本にうくひすとあり。これを正説とすへし。和名集云。陸詞切韻云。※[(貝+貝)/鳥]【鳥莖反。楊氏漢語抄云。春鳥子、宇久比須】春鳥也。うくひすは鳥をもて春になる中にもことに名高けれは、總即別名の例にて春鳥の名をうるを、こゝにうくひすといふに用たるなり。さまよふは、霞に迷ふにあらす。うれへて坤吟するなり。うめくによふなとおなし心なるへし。神代下云。弟愁吟在海濱。文選屈原か漁父辭にも、行吟澤畔といへり。第十に、春されは霞をもとむと鶯のこすゑをつたひて、鳴つゝもとなともよみたれは、さまよふ心もあるへし。ことさへくは、此卷の上に、ことさへくからの崎といふ所に注せしことく、くたらの人なとの物いふは、ことはもたみ、異國なれはたかふ事のみありて、聞得られねはかくはつゝけたり。左を右につくりて字のまゝにかんなを付たるは、傳寫の後のあやまりなるへし。朝毛吉木上宮をとは、あさもよいは、紀伊の國につゝくる枕詞なり。別に注して附ぬ。いそのかみとは、やまとのふるにこそつゝくるを。此処に、いそのかみふるとも雨にさはらめやなとかりて用る例あれは、こゝもきといはんとて借用たりとみるへし。第十三にもかくのことくつゝけたり。城上はもとよりある所の名なるへし。武烈紀云。三年十一月、詔大伴室屋大連、發信濃國男丁作城像於水派邑、仍曰城上。かくあれは、こゝにつくれる宮なるへし。城上郡、城下郡あれは、その城上にやともいふへけれと、磯城なるを、延喜式のこゝろ郡のの名郷の名もよき字をもて二字つゝにさたむる時、上下の字をそへてふたこほりにわかつゆへに、城の字に上の磯の字をよみつけて、しきの郡とはいふなるへし。武烈紀は、初より城上とあれは、此歌にいふ所なるへしとはさため申なり。神のまにしつまりましぬは、方便ことをはりて、本性のまゝにおはしますなり。日本紀第十九、蘇我稻目、百濟太子〓に對して聖明王の、賊のために害にあふことをとふらふことはの中にいはく。豈圖一旦眇然昇遐、與水無歸、即安玄室。よろつよに過んとおもへや、過んとおもはんやなな。萬代ふとも此宮昔かたりにならんとおもはねは、皇子の御かたみと、天を仰ことくあふきみて、つねにしのひたてまつらん、おそれおほけれともといふ心なり。以上百四十九句
 
(13)短歌二首
 
200 久堅之天所知流君故爾日月毛不知戀渡鴨《ヒサカタノアメニシラルルキミユヱニヒツキモシラスコヒワタルカモ》
 
天ニ知ラルヽとは、神と成て天へ皈り給ふ意なり、下にも多くよめり、此歌新古今には、詞書に奈良の帝をゝさめ奉るを見てと有り、不審なり、天にしらるゝをあめにしほるし、下句をつき日もしらで戀渡るらむとあるは人丸家集と云物に同じきを、彼詞書にもたけちのみこをしきのかみにかりに納奉る時の歌とこそ侍れ、
 
初、久かたのあめにしらるゝ君ゆへに
神靈の天に歸りたまふ心を、あめにしらるゝといへり。櫻ちるこの下風はさむからて空にしられぬ雪そふりけるとよめるは、雪とは見ゆれと、空よりふらぬ物なれは、空にしられぬとよめるその裏なり
 
201 埴安乃池之堤之隱沼乃去方乎不知舍人者迷惑《ハニヤスノイケノツヽミノカクレヌノユクヘヲシラストネリハマトフ》
 
隱沼乃、【幽齋本云、コモリヌノ、】
 
埴安ノ池を奥義抄にうへやすの池と載られたるは、彼所覽の本埴を、誤で植に作けるにや、家集にしきやす〔四字右○]とあるは、埴は常職反、呉音を取てよめるか、用べからず、隱沼は、幽齋本に隨てコモリヌと讀べし、第十二に、隱沼の下ゆ戀あまりと云歌の十七に再出たるに、許母利奴能とあれば、かくれぬも同意ながら古語に付べし、沼は和名に唐韻を引て池也とあれば、即上の埴安池なり、不知はシラニとも讀べし、歌の心、上句(14)は池水はこめ置物なれば、ゆくへをしらずといはむ料の序なり、
 
初、はにやすの池のつゝみの――
第一卷にいへるかことく、八雲御抄に、うへやすの池と載させたまへるは、御本に埴をあやまりて植の字に作けるによりて、あやまらせたまへるにや。みくさなとにかくれたる池水は、ゆくゑしられねはそれによせてちり/\に舍人とものわかれさりてゆくゑしらすなれるをも、又道にまとひてゆくゑしらぬやうに心まとひしてなけくをもいふへし。日本紀に慟の字をもまとふとよめり
 
或書反歌一首
 
202 哭澤之神社爾三輪須惠雖祷祈我王者高日所知奴《ナキサハノモリニミワスヱイノレトモワカオホキミハタカヒシラシヌ》
 
ナキサハノモリは、神代紀上云、于v時伊弉諾(ノ)尊恨(テ)之曰云云、其涙墮而爲(ル)v神、是即|畝丘《ウネヲノ》樹(ノ)下(ニ)所v居之神、號2哭澤女《ナキサハノメノ》命1矣、同纂疏云、畝田之高也、樹下所v居之神、猶v言2山林塚※[まだれ/苗]之神1也、涙痕化神、則莫v不2物而神1矣、啼澤女者、吟澤而無v所v歸焉、神之甚可v哀者也、此纂疏の意は、唯何の處にもあれ、田の高き所の木陰にある神と御覧じけるか、哭澤を吟澤と釋せられたるも、楚辭の漁父辭に、行吟澤邊と云るを取て釋し給ふと見えたり、澤は多の字の、和訓さは〔二字右○〕なれば泣こと多しと云心にや、畝丘は地の名と見えたり、舊事本紀云、(15)伊弉諾尊深(ク)恨(テ)曰、云云、御波墮爲v神(ト)、坐《マシテ》2香《カク》山之|畝尾丘《ウネヲノヲカニ》1樹下《コノモトニ》所v居之神(ナリ)、號|曰《マウス》2啼澤女(ノ)神1、古事記云、時於2御涙(ニ)1所v成神、坐2香山之畝尾木下1、名2泣澤女神1、此三本を以考合するに、舊事紀の畝尾丘の尾は、音にてうねびのをか〔六字右○〕にや、然るを日本紀には和訓と御覽じて、尾、丘、重疊すれば、尾を省き、古事記には、丘を省かれたるか、延喜式には載ざる神にや、ミワスヱは和名云、神酒、【和語云、美和、】、祷祈は、今按日本紀にクミノムとよみたれば此にもクミノメドと讀べきか、高日シラレスは天に知らると云に同じ、歌の心は、皇子の煩はせ給ふ時、なほらせたまはむことを祈てなきさはの神社に神酒を奉り、誠をつくしゝかひなく神さらしめ給ふが恨めしきと神を恨るなり、歌の心歌林の説實なるべし、檜隈女王は考る所なし、皇子の妃なるべし、後皇子尊は、日本紀にノチノミカドミコトと點ぜり、懷風藻、葛野王子傳云、高市皇子薨後、皇太后引2王公卿士於禁中(ニ)1、謀v立2日嗣1時、群臣各挾(テ)2私好1衆議紛紜(タリ)云云、
 
初、なきさはのもりにみわすゑ
なきさはのもりは、啼澤女命をいはへる社なるへし。大和國にありとはしらるれとも、延喜式神名帳にも載す。神代紀上云。于時伊弉諾尊恨之曰。唯以一見替我愛之妹者乎。則匍匐頭邊、匍匐脚邊而哭泣流涙焉。其涙墮而爲神、是則畝丘樹下所居之神號啼澤女命矣。纂疏曰。畝田之畔也。丘地之高也。樹下所居之神猶言山林塚※[まだれ/苗]之神也。涙痕化神、則莫不物而神矣。啼澤女者、吟澤而無所歸焉。神之甚可哀者也。此疏のこゝろは、いつくにもあれ、高くひきゝ所の木のもとにある神なり。今此歌はさためていはへる社と聞ゆ。もし畝丘といふは、畝傍山の事にもや侍らん。啼澤は.さはゝ多の聞にかりて書てなく事おほきなるへし。しかるを吟澤而無所歸焉と尺し給へるは、漁父辭よりおもひよりて、たくみにこゝろえたまへるか、かへりて和漢を混してあやまりたまへるなり。みわは神に奉る酒なり。和名集云。日本紀私記云。神酒【和語云美和。】高日しられぬは、天にしらるゝといふにおなし
 
右一首類聚歌林曰檜隈女王※[死/心]泣澤神社之歌也案日本紀曰持統天皇十年丙申秋七月辛丑朔庚庚戌後皇子尊薨
 
初、右一首類聚――
此後注につきておもふに、右の歌の前に、或書反歌一首とあるは、反の字あやまりてくはゝれる歟。目録には或本歌一首といへり。もし右の人丸の長歌に、二首の短歌なくて、此なきさはの一首反歌なる本あるゆへに或書反歌と載て、又類聚歌林には檜隈女王歌とあるゆへに異を注せるにや。目録と注とをあはせてみれは、反の歌あまれりとみゆ。檜隈女王は高市皇女の妃なるへし。系圖かんかふる所なし。檜隈はうねひにちかけれは、此女王のうらみ給ふにいよ/\日本紀の畝丘はうねひ山のことにやとうたかはる
 
但馬皇女薨後穗積皇子冬日雪落遙望御墓悲傷流涕御作歌一首
 
(16)元明紀云、和銅元年六月丙戌、三品但馬内親王薨、天武天皇之皇女也、此に依に、其年の冬よませ給へるなり、さきに有し皇女の御歌どもにて、御歎の心推量るべし、初に藤原宮と標せしは、和銅三年三月に寧樂へ遷らせ給ふ、それより此方の歌、若猶あらば皆載すべし、
 
初、但馬皇女薨後――
元明紀云。和銅元年六月丙戌、三品但馬内親王薨。天武天皇之皇女也
 
203 零雪者安幡爾勿落吉隱之猪養乃岡之《フルユキハアハニナフリソヨコモリノヰカヒノヲカノ》塞爲卷爾
 
アハニナフリソとは、和名云、日本紀云、沫雪【阿和由岐】、其弱如2水沫(ノ)1、これ田公望が私記を略して注せらる、袖中抄に引る私記の此末の文に云、或説如v沫雪者非也、かゝればたゞ消易き方に名付たり、今の意も是なり、袖中抄に、此集第八、しはすにはあはゆきふるとしらぬかもと云歌を引て世人春雪と思へり、冬も春もよむべしと决して又今の歌をも引り、ことわり分明なり、此集にも他處には和名の如く阿和と書たるを、此に安幡とかけるは同韻にて通ずる故なるべし、ヨコモリとは猪は野山に住によく草木の中にこもる故にかくつゞくる意か、顯昭もよこもりのゐかひと引かる、八雲にはみこもりのと載給へり、未だ其心をしらず、今按吉韻はよこもりにもあらず、みこもりは云に及ばず、是はヨナバリと讀て地の名也、持統紀云、九年十月乙亥朔乙酉、幸(17)菟田(ノ)吉隱1、丙戌至v自2吉隱1、和州の者に尋侍しかば、宇※[こざと+施の旁]郡によなばり〔四字右○]と云村あり、今も吉隱と書侍り、長谷のけはひ坂を越て十町餘もや過侍らむと申き、しかればよなばりは※[手偏+總の旁]名にて其中の猪養の山なり、延喜式諸陵云、吉隱陵、【皇太后紀氏、在2大和國城上郡1、】これには點なし、日本紀を以てよむべし、宇※[こざと+施の旁]と城《シキノ》上と郡の違たるは、兩郡相つゞきて延喜の比は城上に屬せるか、長谷は城上郡なるにそれより近き所ときけばげにもまがひぬべし、又廣き所は兩郡にかゝるもあり、今巨勢は高市郡なるを、延喜式に亦葛(ノ)上(ノ)郡に巨勢山口(ノ)神社有が如し、吉隱陵は城上郡にかゝのる方に有にや、隱の字をナバリとよめるは、かくる、こもるなどの古語にや、天武元年紀云、及2夜半1到2隱郡1焚2驛家1、是は伊賀名張郡なるをかく一字にかゝれ侍り、げにもよなばりと云所をしらず、日本紀を考るまでもなくば一定よこもり〔四字右○]とよむべき事なり、第八に坂上郎女が吉名張乃猪養山爾伏鹿乃《ヨナバリノヰカヒノヤマニフスシカノ》とよめるも今の如くヨナバリなるを、それをばフナバリと點じ侍り、それのみならず第十にも三所吉名張とあるを皆第八と同じく點ぜるは、よなばりと云所をふなばりと聞あやまてるにや、彼もふなばりとはいかゞ讀侍るべき、歌の意は、雪だにも沫にふらずいやかたまりて皇女の魂を猪養岡のよそへうからし參らせぬ關となれ、魂だに彼處《ソコ》におはしますと思はゞせめての慰さめにせむとよ(18)ませ給ふなり、程經ての御歌なれば、なく涙雨とふらなむなど時に當てよみたる意には見るべからず、
 
初、ふるゆきはあはになふりそ吉隱之猪養のをかのせきにせまくに
長流か枕詞燭明抄にいはく、よこもりは、吉隱とかけり。よくこもるといふなり。猪のしゝのね所は、よくかまへてふすものなり。かるもかき臥猪とよめるは、草根かつらなとやうのものを、海人の藻をかきたることくに、ねところにかきあつめてふすなり。同し所に七夜ふして、亦ね所をかふるといへり。されは猪といふ詞まうけむとて、よこもりとはをけるなり。後のうたに、みこもりのゐかひの岡とよめるそ心得ぬ。水のこもるゐといふ心にてもいへるか。されと本歌にはたかへり。以上燭明抄のことはなり。これ古來の説なり。まことに、みこもりはあやまりにて、よこもりの尺はよくいひとかれて侍るを、夢のうちの是非は、是非ともに非なりといへる風情にて、みこもりよこもりみなあらぬことに侍るなり。げにも吉隱とかけるは、打まかせては、誰もよこもりとのみよむへきことに侍れは、これは此集にかんなのつきそめけるよりのことに侍らんを、末代の今にいたりて、ことにおろかなるをのれしも、はしめて見出たるは、物の隱顯もまたはかられぬことに侍るかな。これは枕詞にはあらす。ふなはりのゐかひの山とよみ侍るなり。ふなはりは、宇陀郡にありて、そのふなはりにある、猪養の岡なり。第八卷に坂上郎女歌に、吉名張《フナハリ》の猪養《ヰカヒノ》山にふすしかのつまよふこゑをきくがともしさ。第十には、吉魚張《フナハリノ》の浪柴《ナミシハ》の野とも、吉名張《フナハリ》の夏身《ナツミ》のうへとも、吉名春《フナハリ》の野ともよめり。さて吉隱をふなはりとよむ證は、日本紀第三十持統紀云。幸《イテマス》2兎田吉隱《ウダノヨナハリニ》1。日本紀のよなはりの點を推量するに、もとはふなはりにて有けむを、吉の字を、ふとよむへきことの心得かたけれは、かたかんなのよの字の、横の二點のうせたるかとおもひて、こざかしき人、片かんなのふの字の中に、横さまに二點をくはへて、よの字になしけるなるへし。隱の字をなばりと讀ほとの人吉の字をふとよますして、初よりあやまらんやは。吉の字をふとよむ事、今ひける、此集第八、第十の四首、みなその證なり。俗に、ふのよきといへるも、此字なるへし。なはりといふは、かくるゝ、こもるなといふにかよへる古語にもあるにや。天武元年(ノ)紀(ニ)云。及(テ)2夜半(ニ)1到(テ)2隱《ナハリノ》郡(ニ)1焚2隱(ノ)驛家《ムマヤヲ》1。これ天武天皇伊勢へおはします時、今の伊勢國|名張《・日本紀亦名墾》【奈波利】郡にいたらせたまふ事をいへり。ともに隱の字をなはりとよみたれは、かくはいふなり。又延喜式二十一、諸陵式云。吉隱陵【皇太后紀氏。在(リ)2大和(ノ)國|城《シキノ》上(ノ)郡(ニ)1。】これは、志貴皇子(ノ)妃《ミメ》光仁帝の御母、贈太政大臣正一位|諸人《モロヒト》の女紀(ノ)朝臣|橡《クス》姫の御墓を、光仁天皇御位につかせたまひ後、陵には准せられけるなり。城《シキノ》上(ノ)郡と有は、日本紀と相違すれとも、かゝる事例おほし。いつれもあやまりには有へからす。そのゆへは、宇陀と城上と隣近にて、養老の比は宇陀に屬したるが、いつとなくかはりて、延喜比は城上に屬せるなるへし。延喜式には、吉隱陵にかんなゝし。八雲御抄には、みこもりのゐかひの岡と載たまへり。奥義抄には、只ゐかひのをかとのみあり。此御歌は、和銅元年六月に但馬皇女のかくれさせたまへる、その年の冬よませたまへるなるへけれは、古今集に、篁朝臣いもうとの身まかりける時、なく涙雨とふらなんわたり川水まさりなは歸りくるかにと、時にあたりたるわかれに、とめまほしみしてよめるやうには心得へからす。たましゐたにそこにおはしますとおもはゝ、又もなかめやりて、せめてのなくさめにせんに、雪たに泡にはふらす、いやかたまりて、關となりてたましゐをよそにうからしめ奉らで、そこにとめまいらせよと、よませたまへるなり。あは雪は、和名集(ニ)云。日本紀(ニ)【疑日本紀下脱私記二字乎神代紀有沫雪二字其弱如水沫當私記注】云(ク)沫雪【阿和由岐】其(ノ)弱(キコト)如2水沫(ノ)1。別腹の御はらからにて、かねて密通の御歌さきに見えたり。よりてことさらに別をかなしひてしたはせたまふなるへし
 
弓削皇子薨時置始東人歌一首并短歌
 
文武紀云、三年秋七月癸酉、淨廣貳弓削皇子薨、遣2淨廣肆大石王直廣參路眞人|大人《ウシ》等1監2護喪事(ヲ)1、皇子(ハ)天武天皇之第六皇子也、次第をいはゞ右の歌の上に有べし、東人は日本紀續日本紀に共に見えず、天武紀に置始|連《ムラシ》兎《シウサキ》と云人あり、今も氏の下に連の尸有けむを脱せるか、
 
初、弓削皇子薨時――。續日本紀云。文武天皇三年秋七月癸酉、淨廣貳弓削(ノ)皇子|薨《ミウセヌ》。遣(ハシテ)2淨廣肆大石(ノ)王、直廣參|路《オホチノ》眞人|大人《ウシ》等(ヲ)1監2護(セシム)喪事(ヲ)1。皇子天武天皇之第六皇子也。御母は天智天皇の御女大江皇女也。長皇子の御ためには同腹の御弟なり
 
204 安見知之吾王高光日之皇子久堅乃天宮爾神隨神等座者其乎霜文爾恐美晝波毛日之盡夜羽毛夜之盡臥居雖嘆飽不足香裳《ヤスミシシワガオホキミノタカテラスヒノワカミコハヒサカタノアメノミヤニカミノマニミトイマセハソレヲシモアヤニカシコミヒルハモヒノツキヨルハモヨノツキフシヰナケヽトアキタラヌカモ》
 
大君は弓削(ノ)皇子なり、第一卷、輕(ノ)皇子宿2于阿騎野1時人丸のよまれたる歌に注するが如し、上古より讀來れり、古事記中、景行天皇段に、美夜受比賣《ミヤズヒメ》の歌云、多迦比迦流比能(19)美古《タカヒカルヒノミコ》、夜須美斯志和賀意富岐美《ヤスミシヽワガオフキミ》、云云、是は日本武(ノ)尊を指してかくよめり、又繼體紀に春日(ノ)皇女の勾(ノ)大兄(ノ)皇子の御歌に答奉り給ふにも、皇子を指奉て野須美矢矢倭我於朋枳美能《ヤスミシヽワガオホキミノ》とよみ給へり、天(ノ)宮とは皇子の神魂天に歸り給ふ由なり、日之盡夜之盡、今按の點さきに同じ、
 
反歌一首
 
205 王者神西座者天雲之五百重之下爾隱賜奴《オホキミハカミニシマセハアマクモノイホヘノシタニカクレタマヒヌ》
 
神ニシのし〔右○〕は助語なり、五百重はおほくかさなる意、千重とも百重とも所に隨て云が如し、
 
初、おほきみは神にしませは――
第三第十九にも此歌に似たる歌あり。天子崩御をも皇子の薨したまふをも神あかりといへはかくよめり
 
又短歌一首
 
引つゞけてもかゝず、又といへるは或本に依か、
 
206 神樂波之志賀左射禮浪敷布爾常丹跡君之所念有計類《サヽナミノシカサヽレナミシクシクニツネニトキミカオホシタリケル》
 
サヾレ浪は、さゞら浪に同じ、和名云、泊※[さんずい+狛]、唐韻云、淺水貌也、白柏二音、文選、師説、【左々良奈三、】
 
(20)さゞら波を略してさゞ浪と云、今の歌、上は志賀の枕詞、下のは志賀の浦に立小浪なり、袖中抄には、しがのさゞれ浪と引れたれど、さらばしがのさゞ浪と云て、無用に長く云べからず、古歌なれば後に豐國のゆふ山雪ともよめる如く、志賀の賀を上聲に七字引つゞけて讀べし、此二句しく/\にと云ん序なり、シク/\は垂仁紀に重浪をシキナミとよめる如く重々なり、されば立かさなる浪のやまぬやうに常にとつゞくるなり、常と云に不斷の義と相續の義とあり、此は後の義なり所念は、今按今點かなはずや、無常變易の理をも知たまはで常にもおはさむ事のやうに思食けるよといへばなり、第三に此皇子吉野にて讀給ふ歌に、瀧の上のみふねの山に居る雲の、常にあらむと我思はなくに、これ能く常住ならぬ事を知し召御歌なり、さらぬともかくはよむべからず、然れば落句をオモホエタリケルと讀てしき浪の如く常にまし/\て久しく仕へ奉らむと思ひし事のはかなかりけるよと東人がみづからの心を述たるなり、袖中抄におもはざりけると有は、傳寫の誤か、沙汰に及ばず、
 
初、さゝ浪のしかさゝれ波――
さゝ浪は波のあや水のあやなといふ小浪なり。和名集云。泊〓、唐韻云淺水貌也。白拍二音。文選師説【左々良奈三。】さゝれいし、さゝれ萩といふもちいさき石、ちひさき萩なり。遊仙窟に、細々許とかきて、さゝやかとよめる、さゝ浪の心もこれにおなし。しはしははしきりになり。又日本紀に重浪とかきて、しきなみとよめは、たえす志賀のうら浪の立かさなるによせて、かくなかゝらぬ御命を、つねにおはさん事のやうにおほしつることよとなけきてよめり
 
柿本朝臣人麿妻死之後泣血哀慟作歌二首并短歌
 
此妻は上に云如く石見にて別し妻なるべし、泣血は易云、泣血漣如(タリ)、詩云、鼠思泣血、(21)韓非子云、楚人和氏云云、和乃抱2其璞1而哭2於楚山之下(ニ)1三日三夜、泣《ナムタ》盡(テ)而繼(ニ)之以v血、云云、
 
初、柿本朝臣人麿妻死之後泣血哀慟――
これはさきに石見にてわかれけるを、都に住つきて後よひのほせて輕の里におけるなるへし。泣血は、易曰。泣血漣如。詩云。鼠泣血、無言不疾【鼠思猶言痛憂也。禮記曰。高子皐之執親之喪也。血三年、未嘗見齒、君子以爲難。韓非子曰。楚人和氏、得玉璞楚山中、奉獻脂、。王使玉人相之曰、石也。王以和爲詐而※[月+立刀]其右足。及武王即位、和乃抱其璞而哭於楚山之下三日三夜、泣盡而繼之以血、云云。又經にも佛も血になきたまへること見えたり。寶篋印陀羅尼経云。爾時――○
 
207 天飛也輕路者吾妹兒之里爾思有者懃欲見騰不止行者人目乎多見眞根久往者人應知見狹根葛後毛將相等大舩之思憑而玉蜻磐垣淵之隱耳戀管在爾度日之晩去之如照月乃雲隱如奥津藻之名延之妹者黄葉乃過伊去等玉梓之使乃言者梓弓聲爾聞而《アマトフヤカルノミチハワキモコカサトニシアレハネモコロニミマクホリストヤマスユカハヒトメヲオホミマネクユカハヒトシリヌヘミサネカツラノチモアハムトオホフネノオモヒタノミテカケロフノイハカキフチノカクレノミコヒツヽアルニワタルヒノクレユクカコテルツキノクモカクルコトオキツモノナヒキシイモハモミチハノスキテイユクトタマツサノツカヒノイヘハアツサユミオトニキヽツヽ》【一云聲耳聞而】將言爲便世武爲便不知爾聲耳乎聞而有不得者吾戀千重之一隔毛遣悶流情毛有八等吾妹子之不止出見之輕市爾吾立聞者玉手次畝火乃山爾喧鳥之音母不所聞玉桙道行人毛獨谷似之不去者爲便乎無見妹之名喚而袖曾振鶴《イハムスヘセムスヘシラニオトノミヲキヽテアリエネハワカコヒノチヘノヒトヘモオモヒヤルコヽロモアレヤトワキモコシヤマスイテミシカルノイチニワカタチキケハタマタスキウネヒノヤマニナクトリノオトモキコエスタマホコノミチユクヒトモヒトリタニニテシユカネハスヘヲナミイモカナヨヒテソテソフリツル》 或本有謂之|名耳聞而有不得(22)者《ナヲノミキテアリエネハ》句
 
有八等、【官本又云、アリヤト、】 吾妹子之、【官本又云、ワキモコカ、】 音母、【官本又云、コヱモ、】
 
天飛ヤ輕ノ路とは天とぶ雁とそへたり、猶別に注す、輕は高市(ノ)郡なり、或者の云、久米村の東北にして村の東に大路今にありといへり、マネクユカバは、まなくゆかばなり、第一卷に注せる如し、サネカヅラ後モアハムトとは、※[手偏+總の旁]じて葛ははひわかるゝが行末に又はひもかへばかくはよそふるなり、後にも數多よめり、カゲロフノイハガキ淵、かげろふ、説々あり別に注す、いはとつゞくるは火なり、石の中には火ある故なり、石垣淵とはいはほの立めぐりて垣の如くなる中の山川の淵なり、隱耳は今按集中に此を今の如くも又シタニノミともコモリノミとも點ぜり、されど第十七に、大伴(ノ)池主が歌に己母理古非伊枳豆伎和多利《コモリコヒイキヅワタリ》とあれば今もコモリノミと讀べきか、此は本妻なれども官人の身にて夙夜に公に在て慎めばかやうなるにや、モミヂバノ過テイユクト第一に注せしが如し、伊は發語の詞なり、玉ヅサノ使とは、これ又集中多し、使は文をもてくるものなればかくつゞく、アヅサ弓オトニキヽツヽ、第四に梓弓爪引夜音《アヅサユミツマビクヨオト》とよみ、第一には長弭《ナガハヅ》の音《オト》とよめる如なれば、かくつゞけたり、吾戀ノチ(23)ヘノヒトヘモとは千の中に一つもと云が如し、思の胸に滿るは、雲霧の深く立重なれるやうなれば千重といへり、ワキモコシは誤なり、ワキモコガと點ぜるにしたがふべし、ヤマズ出見シとは、人丸のかよひくるやと出見るなるべし、ナク鳥とは妻の聲もせぬといはむ爲なり、うねび山に、鳥の鳴ずと云には非ず、道行人モ獨ダニ似テシユカネバとは、似たる人だにゆかば、それをだに見てはなぐさむべきを、似たる人もかよはぬとなり、容儀をほめて云には非ず、莊手云、子不v聞2夫越(ノ)之流人(ヲ)1乎、去v國數日、見2其(ノ)所1v知而喜、去v國旬月、見d所(ノ)2甞見2於國中1者u而喜、及2期年1、見2似v人者1而喜矣、不2亦去v人滋久思v人滋深1乎、神代紀下云、味耜高彦根《アチスキタカヒコネノ》神、容貌《カタチ》正(ニ)類《ニタリ》2天稚彦平生之儀《アメワカビコガイケリシトキノヨソホヒニ》1、故天稚彦親屬妻子皆謂吾君猶在、則攀2牽衣帶1且喜且慟、云云、妹ガ名ヨビテ袖ゾ振ツルとは、心まどひして生たる人の別を慕ふやうに招く意なり、さはあるまじけれどかくよむは歌の習なり、又揮涙と云ことあれば妹が名を云て泣とにや、或本ナヲノミキヽテアリエネバ、此注彷彿なれどオトノミヲキヽテ有エネバと云次に有べし、然らばおとのみをと云ふにつゞく語勢なれば、ナノミヲとよむべし、
 
初、天とふやかるのみちをは――
天飛鴈とつゝけたり。木梨軽太子の和歌にも、天とふかるをとめとよみたまへり。此集にもまた、天飛やかるのみちとつゝけたり。第十に、天とふやかりのつはさのおほひ羽のいづこもりてか霜のおくらんとよめるにおなし。五音通すれは、いそのかみふるとつゝく心にて、いそのかみふりにしさとゝもかり用ひ、栗はうこくましきものなれと、くるすのをのといふ時、くるともいはるゝたくひなり。まねくゆかはは、まなくゆかはなり。さたまれる妻なれともまなくかよふと人のおもはん事を遠慮するなり。さねかつら後もあはんとは、かつらははひわかれ又すゑにあへはなり。あはぬもあれとあふにつきていへり。かけろふのいはかきふちの。かけろふは火なり。石の中には火を具するゆへに、かけろふの石ともいはともつゝくるなり。いはかき淵は山川の岸に岩の垣のやうに立めくれる所にある淵をいへり。山のめくれるを青垣山といふかことし。又楚辭に、壁の字をかきとよめり。壁立萬仞といふことくなるをもいふへし。隱耳。此集末にかくかきて、下にのみとよみたれは、いつれにつきてもよむへし。もみち葉の過ていゆくと。第一卷に注せることく、此集におほき詞なり。錦にもまかひてみゆるを愛するに、ほとなく散過るやうなれはたとへていへり。いは發語のことはなり。梓弓をとに聞つゝ、これも此集にあまたある詞なり。つねに射るにも音あり。鳴弦をもするものなれは、いつれにもわたるへし。あつさゆみつま引夜音の遠音にもとよめるは、鳴弦するによせたりときこゆ。せんすへしらに、しらすといふへきをしらにとよめるは古語なり。此集にもともおほし。日本紀に、不知所如とも、不解所由とも、〓身無所とも、不知所圖ともかけるを、皆せんすへしらすとよめり。わかこひのちへのひとへもとは、千中無一といはんかことし。思ひの胸にみちて、雲霧のあつく立へたてたるやうなるを、ちへとはいへり。名草山ことにし有けりわかこひのちへのひとへもなくさまなくになとあまたよめり。おもひやる心もあれやとは、おもひをはらしやる心もあるやとてなり。わきもこかやます出見しは、我かよひくるやと待とて、立出て見しなり。うねひの山になく鳥のこえもきこえすとは、うねひ山に鳥のなかすといふにはあらす。聲あるものをかりて、聲をたにきかぬ別をなげくなり。玉ほこの道ゆき人もひとりたに似てしゆかねはとは、おもかけの似たる人をみてたになくさむへきに、似たる人さへゆかぬ、市はよもより人のあつまる所なれは、はしめより似たる人たにあらは見てなくさまん、似たる聲たにきかんと立ましるなり。第三にも、河風の寒きはつせをなけきつゝ君かあるくににる人もあへやとよめり。日本紀第二云。此神【味耜高彦根也】○袖そふりつるとはさはあるましけれと、かなしひをきはめていはんとなるへし。注或本――。をとをのみ聞て有えねは。名をのみきゝて有えねはとある本の有けるを、注せるなるへし。人まろの長歌の體かれこれをあはせてみるにさもあるへし
 
短歌二首
 
(24)208 秋山之黄葉乎茂迷流妹乎將求山道不知母《アキヤマノモミチヲシケミマトヒヌルイモヲモトメムヤマチシラスモ》【一云路不知而】
 
此は次の長歌によるに羽易山に葬たるを黄葉をめでゝ見に入たるが、道まどひして歸らぬさまに云なせり、第七に、秋山に黄葉あはれとうらぶれて、入にし妹はまてどきまさぬ、これ能似たる歌なり、之に依に妻の死去九月下旬なりけるにや、
 
初、秋山のもみちをしけみまとひぬるいもをもとめん山ちしらすも
第七に、秋山のもみちあはれとうらふれて入にし妹はまてときまさす。似たる歌なり。ともにもみちをめてゝ山にいりて道まとひして歸らぬやうにいひなせり
 
209 黄葉之落去奈倍爾玉梓之使乎見者相日所念《モミチハノチリユクナヘニタマツサノツカヒヲミレハアヒシヒオモホユ》
 
黄葉ノ落は、長歌の落て過ぬといへる所を重て云なり、かく告來る使を見るにつけて、相見し日の事を思出て悲しき心なり、
 
初、もみち葉のちりゆくなへに
死せるをもみちの散といへり。おりふしもかなへり。玉つさの使とは、妻の親屬のもとより死を告るに文あれはなり。又いけりし時、文なともてきけん使なるへし。そのつかひをみるにつけてもいつの月いつの日あひけるものをと、おもひ出られてかなしきなり
 
210 打蝉等念之時爾《ウツセミトオモヒシトキニ》【一云宇都曾臣等念之】取持而吾二人見之※[走+多]出之堤爾立有槻木之己知碁智乃枝之春葉之茂之知久念有之妹者雖有憑有之兒等爾者雖有世間乎背之不得者蜻火之燎流荒野爾白妙之天領巾隱鳥自物朝立伊麻之弖入日成隱去(25)之鹿齒吾妹子之形見爾置若兒乃乞泣毎取與物之無者鳥穗自物腋狹持吾妹子與二人吾宿之枕付嬬屋之内爾晝羽裳浦不樂晩之夜者裳氣衝明之嘆友世武爲便不知爾戀友相因乎無見大鳥羽易乃山爾吾戀流妹者伊座等人之云者石根左久見手名積來之吉雲曾無寸打蝉跡念之妹之珠蜻髣髴谷裳不見思者《トリモチテワカフタリミシワシリテノツヽツミニタテルツキノキノコチコチノエノハルノハノシケキカコトクオモヘリシイモニハアレトタノメリシコラニハアレトヨノナカヲソムキシエネハカケロフノモユルアラノニシロタヘノアマヒレコモリトリシモノアサダチイマシテイリヒナスカクレニシカハワキモコカカタミニオケルミトリコノコヒナクコトニトリアタフモノシナケレハトリホシモワキハサミモチワキモコトフタリワカネシマクラツクツマヤノウチニヒルハモウラフレクラシヨルハモイキツキアカシナケヽトモセムスヘシラニコフレトモアフヨシヲナミオホトリノハカヘノヤマニワカコフルイモハイマストヒトノイヘハイハネサクミテナツミコシヨケクモソナキウツセミトオモヒシイモカカケロフノホノカニタニモミエヌオモヒハ》
 
※[走+多]出之、【別校本云、ハシリイテノ、】 形見爾置、【官本、置下、有v有校本與v今同、】 羽易、【官本又点云、ハカヒ、】 伊座等、【校本云、イマスト、】
 
※[走+多]出ノ堤とは、常にもはしり出てなど申は、かりそめに立出てと云心なれば、これもまちかく有池の塘をいへるにや、第十三にかみなびの清きみたやの、かきつたの池の塘の、百たらぬみそのつきえとよめるつゞきこゝに似たり、郡も同じく高市なれば若これなどにや、堤に木を植るは令義解第六、營繕式云、凡堤(ノ)内外並堤上多殖2楡柳雜樹1充2堤堰用(ニ)1、【謂堰所2以畜v水而流1者也、】こち/\ノ枝とは、あちこちの枝也、古事記に、雄略天皇の(26)御歌にも、草香部《クサカベ》のこちの山と、疊薦《タヽミコモ》平群《ヘグリ》の山の、許知碁知《コチゴチ》の山のかひに、云云、春ノ葉ノシゲキガ如クオモヘリシとは、青葉の日を逐て盛なる如く、いよ/\思ひまさる譬なり、世ノ中ヲ脊《ソムキ》シエネバとは無常は有爲の世のことわりなるを免れねば背得ぬといへり、カゲロフノモユルアラ野とは、遊絲を菅家萬葉にもかげろふに用たまへり、野馬、陽炎、皆同物なり、日本紀にも和名にも曠野をアラノラと讀たれば、陽炎は遠き所に見ゆる物なればかく續くるにや、下の或本の歌によるに火葬したりと見ゆればかく云るか、野にて火葬して追骨を羽易《ハカヘ》の山には納たるか、白妙ノ天ヒレコモリとは、第十に、秋風の吹たゞよはす白雲は、たなばたつめの天つひれかもとよめるによれば、白雪がくれといへるかとおぼしければ、天ヒレガクレと點ずべきか、若兒乃は今按字のまゝにワカコノともよむべし、烏ジ物以下四句は、朝鳥のたつごとく忽に入日の如く隱れさるなり、鳥ホシ物は此句心得がたし、下のワキバサミモチとつゞくるは、若兒《ワカコ》をわきばさむを、若彈丸を腋挾に譬て云か、彈丸は鳥の欲《ホシ》さに操は愚推なり、又或本歌には、男自物脅挿持と云ひ、第三に高橋氏が歌にもヲノコジモノ負見抱見《オヒミイタキミ》とよめり、かゝれば若鳥は烏の字を誤れるにてヲホシモノにや、をとほは同韻にて通ずれば、おほしは、第一卷のうねびををしのをゝしにて、をのこじもの(27)と云意なり、高橋氏が歌の雄自毛能《ヲノコジモノ》もヲヽシモノともよむべし、潘岳寡婦賦云、鞠2稚子於懷抱1兮、嗟低徊而不v忍、狹は挾に作るべし、枕付ツマヤとは、枕に就て諸共に臥妻とつゞく、妻屋は第十九に家持の鷹の歌にも枕付妻屋《マクラツクツマヤ》の内《ウチ》にとくらゆひとあれば、妻を置屋と云にはあらで、心安く馴て住處をも云なるべし、浦不樂《ウラフレ》クラシは今按ウラフレの點は叶はず、第三に鴨(ノ)君足人が歌に不樂をサビシとよみたれば、今もウラサビクラシと讀べし、大鳥羽易乃山《オホトリノハガヘノヤマ》、大鳥は和名云、本草云、鸛、【音館、和名於保止利、】水鳥、似v鵠而巣v樹者也、羽易ノ山は第十に春日なる羽買《ハカヒ》の山とあれば、ハカヒと點ぜるに依べきか、易はカヒとも讀べし、買はカヘとは讀がたければなり、妹者伊座等《イモハイマセト》、今按イマストと云によるべし、石根左久見乎《イハネサクミヲ》、今按此乎の字は手を誤れり、イハネサクミテと讀べし、其證は此次の歌第六第二十にもさくみてとよめり、又延喜式第八、祝詞中云、自v陸徃道者荷緒結堅?磐根木根|履《フミ》佐久彌?云云、さくみては常の詞に物のくぼみて斜なるをさくむと云へば、石根を踏くぼむるを云か、又心くゝ思ほゆるかもとも茅生に足ふみ心くみともよめるは心苦しみなり、さは添たる字にて、石根に苦みてといへるか、按ずるに後の義なるべきは、第四第廿に浪の間をいゆきさくゝみとよめるも同じ詞と聞ゆればなり、波は踏くぼむと云べきことわりなけれなり、ナヅミコシ、(28)此下句絶なり、或はナヅミコシモと意得べきか、ヨケクモゾナキは能もぞなきにて、何のよい事もなしとなり、珠蜻《カケワフ》ノホノカニとつゞくるは、かげろふはえむばにて、彼が飛は、物の影ろふやうなればかくはつゞけたり、珠の字を加へ、玉の字をもそへたるは推するに彼が頭の青く透て珠の如くなればなるべし、ミエヌオモヒは今按此點叶はず、見エヌ思ヘバと改むべし、
 
初、うつせみとおもひし時に
此下の注に、うつそみといへるもおなし事なり。せみそみ音かよへり。臣の字をみとよめるは、おみといふを上略せるなり。うつせみとは此世の人なりし時なり。とりもちては下にある槻の枝なり。槻は俗にいふけやきとかや。わしり出の堤は、まちかき所のつねに立出てみるをいへり。堤に木竹なとうふるは、令義解第六、營繕式云。凡堤内外并堤上、多殖楡柳雜樹、充堤堰用【謂堰所以畜水而不流者也。】こち/\の枝は、をちこちにて、かなたこなたの枝なり。春の葉のしけきかことくとは、葉の數のかきりなきによせて、かす/\におもふをいへり。又わかはのうるはしきによせて、あかぬ心にもあるへし。よのなかをそむきしえねとは、つねならぬ世の習をそむきて、ひとり神記のよはひをたもつことあたはぬをいへり。第三に、坂上郎女か新羅の尼理願か死たるをいためる歌にも、いける人しぬといふ事にまぬかれぬものにしあれはといへるおなしことなり。さきにうつせみし神にたへねはともありき。かけろふのもゆるあら野は、陽光はとをくみゆるものなり。あら野は曠野とかきて、はる/\むなしき野なり。ひろくはてなき野といはんとて、かけろふのもゆるとはいへり。又下に或本の歌とて載たるに、うつそみとおもひし妹かはひしてませはとあれは、火葬のもゆるをもいへる歟。天領巾隱、あまひれかくれともよむへし。白雲かくれといふことなり。第十に秋風の吹たゝよはす白雪はたなはたつめのあまつひれかもとよめり。鳥し物、鳥のとふことく此世をさりて、入日のことくにかくるゝなり。鳥し物朝たちいましてといひて、いりひなすかくれにしかはといふつゝき、詩なとのやうにきひしくこそいはね、いりひを朝鳥に對して、隔句對に似たり。鳥穗自物腋扶持。この鳥といふ字は、烏の字なるへし。ほとをとかよへは、をゝし物にて、をのこし物といふなるへし。そのゆへは下の或本歌に、男自物わきはさみもちとよめり。母こそ子をいたくものなれと、母のなくて子のなけはにつかぬをのこのいたくとなり。第三にも、わきはさむ兒のなくをも、をのこしものおひみいたきみとあり。詩蓼莪云。父兮生我、母兮鞠我。○出入腹我。潘安仁寡婦賦曰。鞠稚子於懷抱兮嗟低徊而不忍。又云。提孤孩於坐側。もし鳥穗自物を、字のまゝによみてしゐて尺せは、鳥欲物といふ心にて、蝉丸雀竿なとなるへし。鳥をほしとおもふ心にてこれをもてねらひよるを、子をわきはさむといはんために取出ていへるなり。潘岳か傳に、岳美姿儀辭藻絶麗、少時常挾弾出洛陽道、婦人遇之者、皆連手〓繞、投之以果、滿車而歸。これにも弾を挾てとあれは、そのよしなきにあらねと、さいとりなとを鳥ほし物といはんもいかにそやあるうへに、或本の歌、并第三の高橋朝臣か歌をもて證するに、をゝし物といふなるへし。をゝしは第一卷に注することく日本紀に雄拔雄壯なとかきてよめり。浦不樂晩之、これをはうらさひくらしとよむへし。不樂とかきて此集にさひしとよめり。うらふれとあるはあやまれり。大鳥の羽かへの山に。第十に、春日なる羽買の山とよめるひとつなり。鳥の翅をはかへともはかひともいふにおなし。妹はいませと、いますとゝよむへし。いませはあやまりなり。上に羽かへの山にこそなといはねは、いませのてにをはたかふゆへなり。石根左久見乎、この乎の字は手の字のあやまれるを、字のまゝにをとかなを付たるなり。或本歌に、石根割見而とあるをよしとす。延喜式第八祝詞の中に、自陸徃道者、荷緒結堅※[氏/一]磐根木根履佐久彌※[氏/一]といへり。此集第二十に、あともひてこきゆくきみは、浪のまをいゆきさくゝみとよめるも、おなし心歟。俗に人の顔なとの斜なるを、さくむといへは、岩根の斜なるをふみこゆるをふみさくみてとはいへるにや。第二十の歌は、それもかなはねは、さくみてといふもなつむ心か。なつみこしといひて、今の世は句絶とならねとも、昔の歌はかゝる事おほけれと、こゝを句とすへきか。そのゆへ、よけくもそなき、上につゝきかたけれはなり。これまた一句にてきれて結句のほのかにたにも見えぬおもへはといふまて、此句のゆへを尺するなり。なつみきてもよきこともなしとは、骨折たるかひなしとなり。うつせみはさきにわすれていはさりき。蝉鬢によせてかほよきをほむる心も有へし
 
短歌二首
 
211 去年見而之秋乃月夜者雖照相見之妹者彌年放《コソミテシアキノツキヨハテラセトモアヒミシイモハイヤトシサカル》
 
此歌拾遺の詞書に妻に罷おくれて又の年の秋月を見侍りてとあり、今の端作に妻死之時と云はずして後とある上に歌の心も然るべし、
 
初、こそみてし秋の――
此反歌によりてみれは、後の歌ならひに此短歌二首は、一周忌によまれたるを、類聚して一所にをけるなるへし
 
212 衾道乎引手乃山爾妹乎置而山徑往者生跡毛無《フスマチヲヒキテノヤマニイモヲオキテヤマチヲユケハイケリトモナシ》
 
衾道《フスマヂ》ヲは衾道ノと云べきを古語にを〔右○〕との〔右○〕と通していへり、第十三にみはかしの劔の池といふべきを、みはかしをといへるに同じ、衾は山邊郡にある所の名にや、延喜式諸陵云、衾田墓、【手白香皇女、在大和國山邊郡令d2山邊(ノ)道(ノ)勾(ノ)上陵戸1兼守u、】此衾田といへる所の道なるべし、引手《ヒキテ》ノ(29)山は長歌に羽易の山といへる別名にや、落句は集中に多き詞なり、いける心ちもせぬなり、今按第十九に伊家流等毛奈之《イケルトモナシ》と書たれば彼に准じて皆イケルトモナシと點ずべきか、
 
初、衾道を引手の山に――
ふすまちとはふすまは所の名にてそこに往還する道あるを、ふすまちといふなるへし。」延喜式第二十一諸陵式云。衾田墓【手白香皇女、在大和國山邊郡、兆域東西二町南北二町、無守戸、令山邊道勾上陵戸兼守】衾田とありて、注の中に山邊道といへれは、うたかふらくは衾路といふはこゝなるへし。引手の山は、長歌に羽易の山とあり。春日に羽易の山ありて、引手の山はまた羽易の山の中の別所の名なるへし。春日は添上郡、衾路は山邊郡なれと、山邊添上は、となりてちかけれは、高市郡より、衾路をへて、引手の山には行なるへし。石上は、山邊郡なるを、古今集に、ならのいそのかみ寺とかけるにて心得へし。衾路をといへる、をの字心得かたきやうなれと、古歌のならひとかろくみるへし。此集に此類おほし。みはかしを《・第十三》つるきの池とつゝけたるも、みはかしの剱の池といふ心なれは、今も衾路のといふへきを、ふすまちをといへり。同韻にて通せるにもあるへし。下の或本は、衾路とのみあれは、ふすまちのともよむへし。いけりともなしは、我さへいけるこゝちせぬなり
 
或本歌曰
 
213 宇都曾臣等念之時携手吾二見之出立百兄槻木虚知期知爾枝刺有如春葉茂如念有之妹庭雖在恃有之妹庭雖有世中背不得者香切火之燎流荒野爾白栲天領巾隱鳥自物朝立伊行而入日成隱西加婆吾妹子之形見爾置有緑兒之乞哭別取委物之無者男自物脅持吾妹子與二吾宿之枕附嬬屋内爾且者浦不怜晩之夜者息衝明之雖嘆爲便不知雖戀相緑無大鳥羽易山爾汝戀妹座等人云者石根割見而奈(30)積來之好雲叙無宇都曾臣念之妹我灰而座者《ウツソミトオモヒシトキニタツサヘテワカガフタリミシイテタテルモヽエツキノキカチコチニエタセルコトハルノハノシケレルカコトオモヘリシイモニハアレトタノメリシイモニハアレトヨノナカノソムキシエネハカケロフノモユルアラノニシロタヘノアマヒレコモリトリシモノアサタチイユキテイリヒナスカクレニシカハワキモコカカタミニオケルミトリコノコヒナクコトニトリマカスモノシナケレハヲノコシモワキハサミモチワキモコトフタリワカネシマクラツクツマヤノウチニヒルハウラフレクラシヨルハイキツキアカシナケヽトモセムスヘシラスコフレトモアフヨシモナミオホトリノハカヘノヤマニナカコフルイモハイマストヒトノイヘハイハネサクミテナツミコシヨケクモソナキウツソミトオモヒシイモカハヒシテマセハ
 
座者、【幽齋本云、イマセハ、】
 
出立はイデタチノと讀べし、前のわしりでに同じ、モヽエツキノ木は百枝の槻なり、只枝の繁き心なり、古事記下云、又天皇坐2長谷之百枝槻下1、爲2豐樂1之時云云、虚の字の點カ〔右○〕誤れりコに改むべし、取委物之無者《トリマカスモノシナケレバ》とは、啼をすかしこしらへて止べき玩の具もなければなり、マカスは緑兒に持せて彼が心に任するなり、今按トリユダヌルともよむべし、男自物《ヲノコシモノ》は今按第十一にもをのこじものやこひつゝをらむとよみ、上に引ける高橋氏が歌もあれば、彼等に准じてヲノココジモノと讀べし、浦不怜《ウラフレ》は下にもサビシとよめれば、上に云如くウラサビと讀べし、此怜の字は俗に燐にかよはし用たり、怜は玉篇に魯丁切、心了也と注して、燐は力田切、矜之《アハレブ》也と注して音も義も別なるを今俗に從がへり、灰シテマセバは火葬して灰となりていませばなり、此落句によれば文武天皇四年以後此妻は死せり、其故は文武紀云、四年三月己未、道昭和尚物化云云、弟子等奉v遺火2葬於栗原1、天下(ノ)火葬從v此而始也、歌の意さきの如し、
 
初、うつそみと――。出立、これをはいてたちのとよむへし。さきの歌に、わしり出といへる心なり。百兄槻の木はもゝは万葉といふことく、數おほきをいふ。えは枝なり。神代紀下云。井(ノ)上《ホトリニ》、有(リ)2百枝杜樹《モヽエノカツラノキ》1。虚知期知爾、かちこちにとあるは、かんなのあやまりなり。さきの歌のことく、こち/\なり。浦不怜、うらさひなり。うらふれは、あやまれり。相縁無、あふよしをなみとよむへし。はひしてませは、灰となりていませはなり。文武紀云。【續日本紀第一】四年三月己未、道昭和尚物化(ス)。弟子等奉(テ)v遺(ヲ)火2葬(ス)於栗原(ニ)1。天下(ノ)火葬従(シテ)v此(レ)而始(マレリ)也。かゝれは、此妻の身まかりたるは、四年以後なるへし
 
短歌三首
 
(31)214 去年見而之秋月夜雖度相見之妹者益年離《イコソミテシアキノツキヨハワタレトモアヒミシイモハヤトシサカル》215 衾路引出山妹置山路念邇生刀毛無《フスマチヲヒキテノヤマニイモヲオキテヤマチオモフニイケリトモナシ》
 
落句、上に云が如し、
 
初、こそみてし秋の月夜はわたれともあいみしいもはいやとしさかる
こそもろともにあひ見たりし月は、ことしの秋もさやけきを、此世たに、さはる事有て、まれにあひみし妹か、秋のことく歸りこぬ、なかき別路におもむきぬれは、いやましに、年をゝひてへたゝりて、又もやとあふ事のたのまれぬを、かなしふなり。わかれは今なれとも、かならすいやとをさかるならひなれは、後をかねていやとしさかるとはいへり。古今集の、みつねか冬の長うたに、ちはやふる、神な月とや、けさよりはといひて、はてに、冬くさの、うへにふりしく、白雪の、つもり/\てなとよめるたくひなり(自筆斷片、コノ一項ハ家にき云々ノ一項ノ次ニアリ)
 
216 家來而吾屋乎見者玉床之外向來妹木枕《イヘニキテワカヤヲミレハタマユカノホカニムキケルイモカコマクラ》
 
拾遺に家にいきて玉ざゝの外におきたるとあるは、又家集より出たり、※[手偏+總の旁]じて右の歌ども悼亡詩三首を引合てかなしびを思ひやるべし、潘岳悼亡詩云、展轍眄2枕席1、長※[竹/覃]|竟《ワタテ》v牀(ニ)空(シ)、
 
初、家にきてわか屋をみれは玉床のほかにむきけるいもか木まくら
潘安仁(カ)悼亡(ノ)詩第二(ニ)云。展轉(シテ)眄《ミル》2枕席(ヲ)1、長※[竹/覃]|竟《ワタレリ》2牀(ノ)空(シキニ)1。後の作なれと白氏(カ)長恨歌(ニ)云。鴛鴦瓦冷(シテ)霜華重(シ)。舊(キ)枕古(キ)衾誰(ト)與(ニカ)共(ニセン)。潘安仁か悼亡詩三篇は、これらの歌に心わたれる所おほし
 
吉備津采女死時柿本朝臣人麿作歌一首并短歌
 
下の二首短歌に依に津は釆女が名なれば吉備氏なり、吉備ノ津ノ釆女と讀べし、拾遺に初の短歌を載らるゝに吉備津の釆女なくなりて後よみ侍けるとあるは三字を合て氏とせられたるか名とせられたるか知がたし、
 
217 秋山下部留妹奈用竹乃騰遠依子等者何方爾念居可栲紲(32)之長命乎露己曾婆朝爾置而夕者消等言霧已曾婆夕立而明者失等言梓弓音聞吾母髣髴見之事悔敷乎布栲乃手枕纏而劔刀身二副寐價牟若草其嬬子者不怜彌可念而寐良武時不在過去子等我朝露乃如也夕霧乃如也《アキヤマノシタヘルイモナユタケノトヲヨルコラハイカサマニオモヒヲリテカタクナハノナカキイノチヲツユコソハアシタニオキテユフヘニハキエヌイヘキリコソハユフヘニタチテアシタニハウセヌトイヘアツサユミオトキクワレモホノニミシコトクヤシキヲシキタヘノタマクラマキテツルキタチミニソヘネケムワカクサノソノツマノコハサヒシミカオモヒテヌラムトキナラススキニシコラカアサツユノコトヤユフキリノコトヤ》
 
奈用竹乃、【官本亦云、ナヨタケノ、】 念而寐良武、【別校本、此下有2悔彌可念戀良武之二句七字1、】 過去、【幽齋本云、スキヌル、】
 
秋山ノ下ベル妹は、第十三に、春山のしなびさかえて秋山の、色な付《ツカ》しきとよめるを以て思ふに、たとなと同韻にて通ずればしたべるはしなべるなるべし、秋山と云は此にては紅葉なり、第十二、のと川の水底さへにてるまでに、みかさの山は咲にけるかもとよめるは花のことなるに准じて知べし、もみぢの色うるはしげにて枝しなやかなるに譬るなり、奈用竹《ナユタケ》はナヨタケと點ぜるに從ふべし、俗に女竹と云なるは他の竹を男竹と云て、それに方ればなよゝかなる故なり、又、しのめと云云、和名云、兼名苑注云、長間笋、【今案和名、之乃女、】笋青(ノ)最晩生、味(ハヒ)大苦(シ)也古今に、なよ竹のよながき上にとよ(33)める此意なり、又笋の味苦き故に苦《ニカ》竹ともいへり、トヲヨルコラとは、舊事紀に折竹之登遠々邇《サキタケノトヲヽニ》と云ふ如く、なよ竹の攀ればたわみ易きやうにたをやかなる意なり、タクナハは白き繩なり、神代紀下云、即以2千尋栲繩1結《ユヒテ》爲2百八十紐1《モヽムスヒアマリヤソムスヒセシ》、篁の朝臣海人の繩たきとよまれたるにて疑殘るべけれど、それはたぐる意にて別義なり、いかさまに思ひをりてか采女が日比の心の中はかりがたき故なり、下に時ならず過にしと云ひ、短歌を思合すれば思故ありて川に行て身を投ぐと見えたり、露コソハ以下の八句、譬の上を委いひて釆女が俄に死たるはかなさを籠るなり、今按|何方爾念居可《イカサマニオモヒヲリテカ》の二句は矢等吉《ウセヌトイヘ》の下に二句四句ばかりにて結合して梓弓等とは云べし、然れば收拾の句の脱したるにや、ホノニ見シ事侮シキヲとは、打きくには見ぬ人にはかゝる事を聞ても悲すくなき習なれば、兒たる事ありしを悔ゆるやうに聞ゆれど、第二の短歌に合せて見れば能見おかざりしが悔しき意なり、念而寐良武《オモヒテヌラム》の下に別の校本に悔彌可念《クヤシミカオモヒ》コフラムと云二句あり、上の語勢を以て案ずるにサビシミカ念テヌラムとのみ、にては夫君が心を想像たるほど略にて情すくなきやうなれば、諸本に此二句脱たるか、後人能味はふべし、時ナラヌは今按時ナラズとよむべし、誤れるか、過去は本點幽齋本の點の外にスギユクとも心に任て讀べし、朝露夕霧は誠にその如しと(34)上を承て括《クヽ》れり、
 
初、秋山のしたへる妹。したへるはしなへるなり。たとなとは五音相通なり。第三に、まきの葉のしなふせの山とよみ、第十に秋山のしたひか下に啼鳥とよみ第十三に春山のしなひさかへてとよめり。秋山に、しなひてたてる木の、うるはしくもみちしたるに、たをやかなるさまをたとへていふなるへし。もろこしにも、此國にも、いにしへには、後のことく、詞をくはしくいひて、心をのみいへる事にほし。なよ竹のとをよるこらとは、なよ竹は、名のことくなよゝかなれは、今の俗、をむな竹とも申めりり。和名集云。長間笋(ハ)兼名苑注云。長間笋【今案和名之乃女】笋青最晩生、味大苦也。俗ニカタケナヨタケシノメヲナコ竹。なよたけをないたけといひしのめをしのひ竹しのへ竹なといへり。とをよるは、此集に味村のとをよる海とよめるは、遠さかる事と聞ゆ。こゝはたはむれは、とほくよりくるを、しなやかなるにたとへていへり。上の妹、下のこら.吉備津釆女ひとりの事を、詞をかへて、隔句對の體にいへり。いかさまにおもひをりてかたくなはのなかきいのちを、たくなはゝたぐるなはなり。あまのなはたきともよめり。たくる心なれとも、くの字はにこるへからす。此釆女は、おもふ事の有て、身なとなけて死けるにや。さはなくとも、みつわくむまてなからふる人もあるを、さかりなる比、おもひかけすしにたれは、かくはよまるゝ歟
 
短歌二首
 
218 樂浪之《サヽナミノ》志我津子等何【一云志我津之子我】罷道之川瀬道見者不怜毛《ユクミチノカハセノミチヲミレハサヒシモ》
 
罷道之、【官本更點云、マカリリノ、】
 
釆女が名の津ノ子をいはむとてサヾ浪ノシガとは云出せり、川瀬ノ道は身を投げむとて行しを云なるべし、拾遺にはさゞ浪や志賀のてこらがまかりにし、かはせの道を見ればかなしもと改らる、第二の句の改やう其意を得ず、不怜毛をかなしもと改られたるはことわり一六なれど會通のやう侍るべし、先一六なりと云は※[立心偏+可]怜をあはれともかなしともおもしろしともよめるは共に面白きなり、此中のかなしは悲痛の意にあらず、然れば不怜をサビシとよめるはかなしからぬ意なれば表裏なり、會通せばサビシには悲哀の心あれば時にかなへて悲しと改むるなるべし、
 
初、さゝ浪のしかつのこらか――。津の子といはんために、さゝ浪のしかとはいへり。これにつきて不審あり。次下の、歌にも、おほしつのことよめり。長歌に、わか草のそのつまのこといへるは、凡直氏なとにて、名を津の子といひけるか。又吉備津釆女か氏凡直にて、名を吉備津といひけれは、上の吉備を畧して、津子といへるか。歌はいつれにつきてもきこゆへし。上の歌に、いかさまにおもひをりてかといひ、時ならす、過にしこらといふにあはすれは、川瀬の道といふは、身をなけけんやうにきこゆるなり。さひしもは、つねに蕭條蕭索寂寞寂寥なといふにおなしくさひしきといふよりはおもく聞へし。※[立心偏+可]怜とかきて、おもしろしとよむを、今は不怜とかけるにて心得へし。又不樂ともかけれは、おもきことうたかひなし
 
219 天數凡津子之相日於保爾見敷者今叙悔《アマカソフオフシツノコカアヒシヒヲオホニミシカハイマソクヤシキ》
 
(35)此一二の句のくさりやうを案ずるに物の數をよむにひとつふたつと云よりよろづに至るまで凡いくつと云此つ〔右○〕は助語のみなる事あり、又義ある事も有べし、日本紀に五百箇御統《イホツミスマル》、五百箇野薦《イホツノスヽ》など云時筒をつ〔右○〕とよめり、箇は枚なりと注してかずなればつ〔右○〕と云に數の心あり、日本紀に十ちあまり百ちあまり千ちあまりと云ひ、又二十をはたちと云、これらのち〔右○〕も五音通じてつ〔右○〕に同じ、又津と止と音通じ義も通ぜり、然れば一つ〔右○〕は一の處、二つ〔右○〕は二の處なり、かくの如く千万に至るまで皆天然の數にていくつ〔右○〕といへば津〔右○〕と云名にそへむとてあまかぞふとは云出せるか、オフシはおよその心なり、今按の如くならばアメノカズオヨソとよむべきにや、アヒシ日ヲとは彼も官女我も官人にて相見し時なり、日をは日にと云心なり、オホニ見シカバとは、おほはおほよそなり、かく早くなき人とならむとしらでおほよそに見たりしがくやしきとなり、
 
初、天かそふ、これはおほしといはむためなり。おほしはおほよそなり。日月の行度、星辰の舍次なとをかそふることは、おほよそなることなれは、かくつゝくるなり。あひし日とは、夫にあひそめし日なり。おほは此集に、疎の字、凡の字なとをかけり。これはさきの長歌に、梓弓をときくわれもほのに見しことくやしきをといへる心なり。見すしらぬ人ならは死すと聞とも、心のいたましからじをとくゆるなり。もし凡直津子といふ夫ならは、初の歌はうねめ死して後、うねめかもとへかよひし道を、宮つかへなとに心にもそますなから、うなたれて行かよふをみるかかなしきなり。後の歌は、津子か、うねめにあひしを、したしからねと、みし事なれは、かれかかなしさ、いかならんとおもひやるにも、いたましけれは、みずしらであらまし物をと、くやしきなり。ふたつのあひた、後の人さたむへし
 
讃岐狹岑島視石中死人柿本朝臣人磨作歌一首并短歌
 
狹岑島は那珂郡にあり、所の者さみじまと云、反歌にも佐美乃山とよまれたれば(36)サネとはよむまじきなり、石中とは石をかまへて葬るには非ず、石の中に交るなり、
 
初、讃岐狹岑。下の短歌には、佐美の山とよめれは、狭岑をさみとよむ歟。又ねとのと五音通すれは、さみね山をさみの山とよめる歟。又さみねの嶋ともいひ、さみの山ともいふ歟
 
220 玉藻吉讃岐國者國柄加雖見不飽神柄加幾許貴寸天地日月與共滿將行神乃御面跡次來中乃水門從舩浮而吾榜來者時風雲居爾吹爾奥見者跡位浪立邊見者白浪散動鯨魚取海乎恐行舩乃梶引折而彼此之島者雖多名細之狹岑之島乃荒礒面爾廬作而見者浪音乃茂濱邊乎敷妙乃枕爾爲而荒床自伏君之家知者往而毛將告妻知者來毛問益乎玉桙之道太爾不知欝悒久待加戀良武愛伎妻等者《タマモヨキサヌキノクニハクニカラカミレトモアカスカミカラカコヽハカシコキアメツチノヒツキトトモニミチユカムカミノミオモトツキテクルナカノミナトユフネウケテワカコキギクレハトキツカセクモヰニフクニオキミレハアトヰナミタチヘヲミレハシラナミトヨニイサナトリウミヲカシコミユクフネノカチヒキオリテヲチコチノシマハオホカレトナクハシサミネノシマノアライソモニイホリツクリテミレハナミノトノシケキハマヘヲシキタヘノマクラニナシテアラトコトコロフスキミカイヘシラハユキテモツケムツマシラハキテモトハマシヲタマホコノミチタニシラスオホヽシクマチカコフラムヲシキツマラハ》
 
幾許貴寸、【別校本更點云、ココタカシコキ、】 枕爾爲而、【官本亦云、マクラニシツヽ、】 荒床、【官本亦云、アラトコニ、】
 
玉モヨキは讃岐の枕詞なり、其所の名物をもてほめて云出す事|青丹吉《アヲニヨシ》なら、眞菅吉《マサカヨシ》(37)宗我《ソガ》などの如し、今按奈良の枕詞に例して玉モヨシと讀べきか、玉もよきといへば用となり、玉もよしといへば体となる事住よきと云意をすみよしといへば所の名となるが如し、延喜式云、讃岐(ノ)國中男作物云云、海藻といへり、三教指歸に然(トモ)頃日《コノコロ》間刹那幻(ノ如ニ)住(ス)2於南閻浮提陽谷輪王所化之下1玉藻所v歸之島橡樟蔽(フ)v日之浦(ニ)とある、覺明注に今の歌を引り、國ガラカとはひとゝなりのよきを人がらのよきと云が如し、神ガラカとは神もまた國なり、舊事本紀云、次生2伊豫二名嶋1、謂(ク)此島(ハ)身一而有2面四(ツ)1毎v面有v名、伊豫國云云、讃岐國謂2飯依比古1、【西北角、】阿波國云云、土左國云云、國がら神がらと云は神は本体、國は体の上の相なるべし、人の體性かはらねども好醜の相異なるが如く、國にもよきとあしきとあり、コヽバはこゝばくなり、そこばくの心數多の心なり、貴寸は今按タフトキともよむべし、カシコキも同じ意なり、以上四句の心は飯依彦《イヒヨリヒコ》の神靈がらや此國はたふとくおぼゆる、又飯依彦のあらはし給へる國がらのよさにや見れどもあかぬとなるべし、日月トトモニ滿ユカム神ノ御面トとは、滿ゆかむは初闕たるが漸々滿むの心にはあらず、神の面と云も上に引る舊事紀に云が如く國の事なれば、天地と久しく此國も有て神の面も日月の失る時なきと共にいつまでも圓滿ならむの意なり、次テ來ルとは斷ずつゞきて來る意にて、中とつゞけん爲にや、(38)那珂と云はもと中の假名なり、此より國郡等の名三四字なるをば裁き、一字なるをば足して定て二字とはなれり、中は上下前後等に對せざればなきことなり、讃岐に賀美《カミ》資母《シモ》はなけれど那珂は對する事ある名なるべし、時ツ風、時に隨て吹風なり、下に時つ風とよめる歌どもいかさまにも春にまれ秋にまれ微風《コカセ》を云事とは見えず、意を著べし、跡位浪タチとはいかなるを申にか、第十三に立浪母踈不立跡座浪之《タツナミモホニタヽストタカナミノ》、立塞道麻《タチケルミチヲ》云云、今按夜此点を改てタツナミモオホニハタヽズ、アトヰナミノタチフサグミチヲとよむべきかと存ず、其に付て座の字位の字は共にクラとよめば、若あとゐ浪と云事なくばアトクラナミと云べきか、跡より闇がりて浪の立かさなるなり、第十五に、おきつしはさゐ高く立來ぬとよめり、若さゐのさは添たる詞にて、さゐと云は浪俄に恐しく高く立來る名ならば、此跡位浪のゐもそれなるべきか、和名云、説文云、※[舟+鑁の旁]、【子紅反、俗云、爲流、】船著(テ)v沙不v行也、此は今の諺にすわると云なり、共に居の字の意なり、舟うけすゑてともいへば沙に黏《ツク》のみならず、浪にあひても動かしやられぬをも申べきか、然れば此※[舟+鑁の旁]の字の意に名付たるか、意得がたきまゝに思ひよる事を記し置て事長けれど驚し置くに侍り、梶引折《カチヒキヲリ》とは梶といへども櫓の事なり、八十梶懸《ヤソカチカケ》など集中多分櫓をいへり、梶取間なくなど云のみぞ※[楫+戈]にては侍る、歌によりて意得べし、梶(39)は和國の俗字なり、引折とは、横に引たをりて舟をやるなり、狹岑は端作に云如くサミと讀べし、荒礒面爾《アライソモニ》は今按面は傍例に依に回なるべし、さてアライソワニともアリソワニとも意に任てよむべし、此下に若句を脱し或は字を脱せるか、さらずば句の次第によらず廬《イホリ》ヲ作テミレバと讀べきか、荒床は和名云、野王曰槨、【古博反、與v郭同、和名、於保土古、】周v棺者也、此おほとこの意にて濱邊の石間をやがて棺郭とする意か、又常の床にてそれがあらゝかなるを云か、自伏《コロブス》は上の如し、自は南京の法相宗に此字常におのづからとよむ所をころと〔左○〕とよむを故實とするは相傳の古語なるべし、道ダニシラズは、妻がしらぬ也、オホヽシクは、おぼつかなきなり、愛伎《ヲシキ》は今按ハシキとよむべし、第廿家持の長歌の終に、麻知可母戀牟波之伎都麻良波《マチカモコヒムハシキツマラハ》、是今の歌に習たりと見ゆれば證據也、又第六に湯原王の歌に愛也思不遠里乃君來跡、此發句を今の本にはヨシヱヤシと點ぜるを袖中抄にははしきやしとあり、げにも彼歌よしやと云意叶はねば袖中抄にあるは正義なり、又第十一に早敷哉《ハシキヤシ》あはぬ子故に徒に、此川の瀬にものすそぬらす、又同卷に愛八師あはぬ君故徒に、此川のせに玉裳ぬらしつ、然るに袖中抄おしゑやしを釋する所に愛八師あはぬこゆゑに徒に、此川のせにものすそぬらしつ、此は右の二首同歌なれば混じたり、今云、早敷哉を愛八師と書替たればヨシヱヤ(40)シとよめるは誤なる上に、よしゑやしはよしやと云意にて叶はず、はしきやしは彼歌にては惜哉の心にて叶へり、今のはしきはうるはしき意なり、
 
初、玉もよきさぬきのくには。青によしなら、ますけよきそがのらなといふことく、讃岐は海邊にて、よき海藻を出しけれは、名物をもて枕詞とするなるへし。延喜式云。讃岐國中男作物。○海藻。三教指歸(ニ)云。然(トモ)頃日《コノコロノ》間刹那幻(ノ如ニ)位(ス)2於南閻浮提(ノ)陽谷、輪王所化(ノ)之下、玉藻|所(ノ)v歸《ヨル》之島、橡樟《クス》蔽v日(ヲ)之浦(ニ)1。覺明か注に此歌をひけり。神のみおもと。舊事本紀云。次生(ム)2伊豫二名(ノ)島(ヲ)1。謂(ク)此島者、身一(ニシテ)而有2面四(ヲ)1。毎(ニ)v面有v名。讃岐(ノ)國(ヲ)謂2飯依比古(ト)1【西北角。】餘はこれを畧せり。つきてくる中のみなとゆとは、上中下とも、始中終ともいふ時、上より中につぎ、始より中に次ゆへに、中といはんとて、つぎてくるといふ歟。彼國に那珂《ナカノ》郡あり。中のみなとはそこなるへし。おきみれはあとゐなみたち。これは、第一卷人丸の歌に、鹽さゐにいらこかしまへこく舟に妹のるらんかあらきしまわをといふ所にいへることし。第十三に、跡座浪之立塞通麻とつゝける歌あり。そこには、此上に立浪母踈不立といふ二句を、たつなみもおほにたゝすとよみて、跡の字を上につけて、たかなみのふさけるみちをと、下をよめれど、今の歌によりて、かれをおもふに、踈不立をは、おほにはたゝすとよみて、趾を下の句につけて、あとゐなみのたちせくみちをとよむへしとおほゆ。されとも、しほさゐも、あとゐなみも、いかなるをいふとはしらす。又位も座も、ともに此集に、くらとよみたれば、とくらなみ、あとくらなみなともよまるへし。されどさいふ名有ともしらす。これは後の人に心をつけしめむとていふなり。あとゐなみなと、今も海邊にはいふことにや。しり侍らす。まづ、舟にのりて、大事にすることゝ心得てみ侍るへし。かち引おりては、かちといへとも、櫓の事なり。此集に櫓をかちとよめる事おほし。やそかかけなといへるは、八十梶にて、櫓を八十丁もたてたるをいへり。引おるとは横に引たをりて、舟をやることなり。名くはしは、第一卷にも、第三にも有。くはしはほむる詞、名はよそにもきこゆる物なれは、さみねと音に聞えてよき嶋といふ心なり。名くはしは枕詞にはあらす。荒磯面爾。面は囘のあやまれるなるへし。しかれはありそわにとよむへし。見者の上に一句半をおとせりとみえたり。ころふすはころひふすなり。まろきものなとのおちてほとはしるを俗にころ/\するといふにおなし。自の字をころとよめるは、をのつからといへる古語なり。南京の法相宗には聖教をよむにも、講することはにも、をのつからとはいはて、ころとゝよめり。いにしへより相傳ていへる詞なるへし。おほゝしくは、おほつかなきなり。欝悒をはいふかしくともよむへし。さも此集によめり。愛伎は、おしきともはしきともよむへし。おなしこゝろなり
 
反歌二首
 
221 妻毛有者採而多宜麻之佐美乃山野上乃宇波疑過去計良受也《ツマモアラハトリテタキマシサミノヤマノカミノウハキスキニケラスヤ》
 
トリテはうはぎをつむなり、タギマシは今按宜の字集中にぎ〔右○〕ともげ〔右○〕とも用たればタゲマシと讀べし、たげは上にたげばぬれとよめる歌に注せる如く今もつみあげましなり、宇波疑《ウハギ》は第十にもよめり、和名云、七卷(ノ)食經云、薺菜、一名莪蒿、【莪、音鵝、和名、於八木、】崔禹錫食經云、状似2艾草1而香、作v羮食v之、延喜式第三十九、内膳式(ニ)曰、漬《ツケモノ》年料雜菜|莪蒿《オハギ》一石五斗、料塩六升、右漬2春菜1料、宇と於とは和爲于惠於の五音通ず、過ニケラズヤは過いにけるにあらずやと云んが如し、落著は過いにけり也、過るとは時の過るなり、けらずやは古語集中に多し、歌の心は、死人をおはぎに譬て、此人妻だに諸共にあらば薺蒿の盛を摘あぐる如くして空しくなさじを、あはれにもおはぎの時過て葉落枝枯た(41)るやうにもなれるかなと憐れぶなり、又、薺蒿の時過たる如く空しきからに成つれば、妻もあらば取収めて葬だにせましをと云心にや、
 
初、つまもあらは採而多宜麻之
とりてはつみてともよむへし。下のうはきにかゝる詞なり。たきましは心得かたし。宜は此集けといふ所にも用たれは、たとつと通して、告ましといへるにや。うはきは第十にもよめり。延喜式三十九、内膳式曰。漬年料雜菜薺蒿、一石五斗。○いまこれを案するに、俗によめが萩といふ物にや。第十に、春の野にけふり立みゆをとめらし春日のうはきつみてにらしもとよめり。今も野遊に出てはよめかはきをつむなり。艾草には似ねとかうはしとあるはたかはす。秋にいたりて一重にうすくれなゐなる花のさくか、よく菊ににたれは野菊と申めるを、今その盛過たるによせて、此人も此世を過ずや過にけりと、落著をいふ歌なり。けらすやのす、濁るへし。ことはりもしかるうへに、此受の字、此集に大かたにごる所に用たり。あるものによめかはきは、※[奚+隹]腸草なりといへり。いまたかんかへす
 
222 奥波來依荒礒乎色妙乃枕等卷而奈世流君香聞《オキツナミキヨルアライソヲシキタヘノマクラトマキテナセルキミカモ》
 
アライソは上に云ごとくアリソともよむべし、ナセルは枕となせるなり、荒礒をまきてしきたへの枕となせると句を交へて心得べし、又な〔右○〕とね〔右○〕と音通すれば、ねせるといへるにや、第五に憶良の歌に、やすいしなさぬといへるも兩やうに意得らるべし、
 
初、おきつなみきよる――
下句はまきて枕となせるなり
 
 
柿本朝臣人麿在石見國臨死時自傷作歌一首
 
延喜式云、凡百官身亡者、親王及(ヒ)三位以上(ニハ)稱(シ)v薨、五位以上及皇親稱v卒、六位以下達2於庶人1稱v死(ト)、これによれば人丸は六位以下なる事明けし、
 
初、柿本――臨死時
延喜式曰。凡百官身亡者、親王及三位以上稱薨、五位以上及皇親稱卒、六位以下達於庶人稱死
 
223 鴨山之磐根之卷有吾乎鴨不知等妹之待乍將有《カモヤマノイハネシマケルワレヲカモシラストイモカマチツヽアラム》
 
シラズとはしらぬ事とてと云はむが如し、拾遺にいも山の石根にをけるしらずて妹がとあるは家集と同じ、六帖にはかみ山のとあり、
 
初、かも山のいはね
いはねしまくは、上に磐姫の御歌にも見えたり。此歌を拾遺集にふたゝひ載らるゝには、いも山のいはねにをける我をかもしらすて妹か待つゝあらんとあらためらる。鴨山をはなとかあらためられけん。但拾遺も、かも山にて有けるか、傳寫の誤にていも山となれるにや。されとも彼集にはかゝる事おほし
 
(42)柿本朝臣人磨死時妻依羅娘子作歌二首
 
224 旦今日且今日吾待君者石水貝爾《ケフケフトワカマツキミハイシカハノカヒニ》【一云谷爾】交而有登不言八方《マシリテアリトイハスヤモ》
 
石水、【幽齋本、水下有2之字1、】
 
ケフ/\トはけふもや/\の意なり、凡集中に此心に用たる時は皆且の字を加へたり、苟且はかりそめにてたしかならねばなり、此歌によれば鴨山は海邊の山にて其谷川を石川とは云なるべし、水の字第七にもカハとよめり、神武紀云、縁《ソヒテ》v水《カハニ》西行、雄畧紀云、久目水《クメカハ》などあり、貝ニマジリテは鴨山の麓かけて川邊に葬れるにこそ、仙覺抄に源氏蜻蛉を引て云、水の音の聞ゆる限は心のみさはぎ給てからをだに尋ず、淺ましくてもやみぬるかな、いかなるさまにて、いづれの底のうつせに交りにけむなどやるかたなげおぼす、
 
初、けふ/\と
けふもや/\と、日ことに待なり。第十六にも、けふけふとあすかにいたりとよめり。後撰集にも聖寶僧正の寛平法皇の修行の御供にてよまれける歌に、人ことにけふ/\とのみこひらるゝ都ちかくもなりにけるかな。且今日とかける且は、苟且の義にて、かりそめなれはたしかならぬ心有。鴨山のいはねしまきてとよまれたるを、此歌には石水のかひにましりてとあるは、鴨山のふもとに石川といふ河ありて、そのあたりにはうふりけるよしをきゝてなるへし。石水といしかはとよむは、日本紀第三神式紀云。縁《ソヒテ》水《カハニ》西行。雄略紀云。於是日晩田罷神【一事主神也】侍送天皇至來目|水《カハマテニ》
 
225 直相者相不勝石川爾雲立渡禮見乍將偲《タヽニアハハアヒモカネテムイシカハニクモタチワタレミツヽシノハム》
 
石川のほとりに雲なりともたちわたれかし、せめて其人のかたみにみむとなり、新勅撰にも、なき人のかたみの雲やしぐるらむ、
 
初、たゝにあはゝあひもかねてむ
此たゝはたゝちになり。此歌はさきに見たたる天智天皇の后の、青はたのこはたのうへをかよふとはめにはみるともたゝにあはしかもとよませたまへるに似て、此依羅娘子も人まろのたゝ人ならぬ事を知て、よまれたりと見えたり
 
(43)丹比眞人 名闕 擬柿本朝臣人磨之意報歌一首
 
是は丹比某が人麿の意に擬して娘子が右の歌の報によめるなり、
 
226 荒浪爾縁來玉乎枕爾置吾此間有跡誰將告《アラナミニヨリクルタマヲマクラニヲテワレコヽナリトタレカツケナム》
 
將告、【紀州本云、ツケヽム、】
 
此玉といへるは石なるべし、文選、郭景純江賦云、碧沙|※[さんずい+遣]〓(ト)《・メクリワイテ》而往來、巨石〓〓(トシテ)前劫、枕爾置は、今按マクラニオキと讀べし、將告は詞書に依るに紀州の本の點よく叶ふ歟、歌の意は誰有てか我死を告て妹を歎かしむるとなり、娘子が二首を※[手偏+總の旁]の意を以てかへすなり、
 
初、あらなみによりくる玉を枕にをきわれこゝなりと誰かつけなん
此よりくる玉は浪の玉をもいひ、又石をもいふへし。此集家持歌に、藤浪のかけなる海の底きよみしつく石をも玉とわかみるとよめり。郭景純江賦曰。碧沙|※[さんずい+遣]〓而往來、巨石〓〓前却。枕爾置、まくらにてとあるは誤なり。有をなりとよめるは、吾此間有跡とつゝく時、こゝにありといふ事なれは、爾阿切奈なれは、なりと讀なり
 
或本歌曰
 
227 天離夷之荒野爾君乎置而念乍有者生刀毛無《アマサカルヒナノアラノニキミヲオキテオモヒツヽアレハイケリトモナシ》
 
落句イケルトモナシと讀べき例上に記せり、此は女の歌なるべし、
 
右一首歌作者未詳但古本以此歌載於此次也
 
(44)寧樂宮
 
前々に准ぜば寧樂宮御宇天皇代と云べきを唯寧樂宮と他に異して云ことは、撰者の當代も猶同じ宮なれば纔に表して先代に簡べるなり、
 
和銅四年歳次辛亥河邊宮人姫島松原見孃子屍悲歎作歌二首
 
河邊宮人、系圖未v詳、姫島松原は攝津國風土記云、比賣島(ノ)松原者、昔輕島豐阿伎羅宮(ニ)御宇天皇之世、新羅國(ニ)有2女神1、遁2去其夫1來(テ)住2筑紫國伊岐比賣嶋(ニ)1、【地名】乃曰、此(ノ)嶋者猶不v遠、若居2此島1男神尋來、乃遷來停(マレリ)2此島1、故(ニ)取(テ)2本所住之地名1以爲2島号1、和名集云、肥前國基肄【木伊】郡姫社、上の風土紀は垂仁紀と違へり、垂仁紀の外に安閑紀敏達紀に姫島の事見えたり、續日本紀の元正紀にも見えたり、
 
初、姫島松原
攝津國風土記云。比賣島松原者、昔輕島豐阿伎羅宮御宇天皇之世、新羅國有女神、遁去其夫、來住筑前國伊岐比賣島、【地名契沖今案、伊岐者疑倒乎。和名集曰。肥前國基肄【木伊】郡姫社】乃曰。此島者猶不遠、若居此島、男神尋來、乃遷來停此島。故取本所住之地名以爲島號。おほよそ風土記は、養老年中より撰はれたる書なるに、久しく世に絶て見たる人なけれは、こゝろを得てかんなゝとに引なをして物に引なとせしを、後の文章もよからぬ人の又眞字になせるにや。すこしつゝ引とひけることはの古文とも見えす、いかにそやあるは、かへりて文章しらぬをのかひかめにや。今日本紀を見るに、風土記の此文に似て、たかへる事あり。垂仁紀云。一云。御間城天皇之世、額有角人乗一船、泊于越國笥飯浦故。○延喜式を考るに、姫社は東生郡の大社にて、下照姫と注せり。姫島も東生にありて、そこにひめこそはましますにや。今は姫島とも姫こそともいふ所きこえす。以上日本紀風土記和名集延喜式、こと互にあひかはれり。又日本紀第十八安閑紀云。秋八月丙辰。○二首の歌、別義なし
 
228 妹之名者千代爾將流姫島之子松之末爾蘿生萬代爾《イモカナハチヨニナカレムヒメシマカコマツノウレニケムスマテニ》
 
姫島之子松之末、ヒメジマノコマツガウレとよむべし、
(45)229 難波方塩干勿有曾禰沈之妹之光儀乎見卷苦流思母《ナニハカタシホヒナアリソネシツミニシイモカスガタヲミマククルシモ》
 
二首ともに明なり、
 
靈龜元年歳次乙卯秋九月志貴視王薨時作歌一首并短歌
 
靈龜は第四十四代元正天皇の年號なり、視は親に改むべし、志貴親王は靈龜二年八月九日に薨じ給へば、撰者の覺誤歟、元正紀云、靈龜二年八月甲寅、二品志貴親王薨、遣2從四位下六人部王正五位下縣犬養宿禰筑紫1監2護喪事1、親王(ハ)天智天皇第七之皇子也、寶龜元年追尊稱d御2春日宮1天皇u、光仁紀云、寶龜元年十一月己未朔甲子詔曰、迫皇掛恐御2春日宮1皇子奉v稱2天皇1、二年五月甲寅始(テ)設2田原天皇(ノ)八月九日(ノ)忌齋(ヲ)於川原寺(ニ)1式二十一、諸陵式曰、田原西陵、【春日宮御宇天皇、在2大和國添上郡1、兆域、東西九町、南北九町、守戸五烟、】かゝれば大に違へり、若是は穗積親王此年薨じ給へるを思ひ誤れるか、或は後人寫誤れるか、元正紀云、靈龜元年秋七月丙午、知太政官事一品穗積親王薨、但これも七月なれば月違へり、不審の事なり、又按ずるに磯城《シキノ》皇子歟、十三の十葉に礎城島《シキシマ》を志貴島《シキシマ》とか(46)けり、是證なり、磯城(ノ)皇子の薨じ給へる年月續日本紀に見えず、記し漏せる歟、今の本落て失なへる歟、
 
初、靈龜元年歳次乙卯秋九月志貴親王薨時作歌一首并 短歌
乙卯九月庚庚、元正天皇位を元明天皇に受たまひて、靈龜と改元せらる。元正紀云。元年八月丁丑、左京人大初位下高田首久比麿獻靈龜、長七寸闊六寸、左眼白右眼赤、頭著三台、背負七星、前脚竝有離卦、後脚竝有一爻、腹下赤白兩點相次八字。志貴親王は二年八月九日に薨したまふを、これは年も月もいかてあやまりけん。撰者おもいたかへられけるなるへし。元正紀云。靈龜二年八月甲寅、二品志貴親王薨。遣從四位下六人部王、正五位下縣犬養宿禰筑紫監護喪事。親王天智天皇第七之皇子也。寶龜元年追尊稱御春日宮天皇。光仁紀云。寶龜元年十一月己未朔甲子、詔曰。迫皇掛恐御春日宮皇子奉稱天皇。二年五月甲寅始設田原天皇八月九日忌齋於川原寺。天智紀云。又有道君女伊羅都賣、生施貴皇子。延喜式第二十一、諸陵式云。田原西陵【春日宮御宇天皇、在大和國添上郡、兆域東西九町南北九町、守戸五烟】
 
230 梓弓手取持而丈夫之得物矢手挿立向高圓山爾春野燒野火登見左右燎火乎何如問者玉桙之道來人乃泣涙霈霖爾落者白妙之衣?漬而立留吾爾語久何鴨本名言聞者泣耳師所哭語者心曾痛天皇之神之御子之御駕之手火之光曾幾許照而有《アツサユミテニトリモチテマスラヲノトモヤタハサミタチムカフタカマトヤマニハルノヤクノヒトミルマテモユルヒヲイカニトトヘハタマホコノミチクルヒトノナクナミタコサメニフレハシロタヘノコロモヒツチテタチトマリワレニカタラクイツシカモモトノナトヒテキヽツレハネノミシソナクカタラヘハコヽロソイタキスメロキノカミノオホミコノオホムタノタヒノヒカリソコヽタテリタル》
 
霈霖、【官本、或作2※[雨/泳]※[雨/沐]1、】 天皇、【官本亦云、スヘラキノ、】
 
初の五句は、高マドを的にそへむとていへり、霈霖は今按ヒサメとよむべきか、和名云、文字集略云、霈(ハ)大雨也、日本紀私記云、火雨、【和名比左女】※[雨/泳]、【同上、】今按俗云、【比布留、】又云、兼名苑云、霖(ハ)三日以上雨也、【和名、奈加阿女、】官本の※[雨/泳]※[雨/沐]は、上は※[雨/脉]か、和名云、兼名苑云、細雨一名(ハ)※[雨/脉]※[雨/沐]、小雨也、麥木二音、【和名、古左女、】土左日記に、行さきに立白浪の聲よりも、をくれてなかむ我や(47)まさらむと云別の歌をいと大聲なるべしとかけるをおもへば火雨もあまりにて、今の本は此※[雨/脉]※[雨/沐]の誤なるべし、何鴨以下四句、今按ナニトカモ、モトナイヒシヲ、キヽツレバ、ネノミシナカルとよむべきか、もとなはよしなの古語なり、由と云も本と云も心かはらず、皇子の薨じたまへるたびの火なりと答るをほのめかして云なり、やがて下に云あらはすべき故なり、手火は葬の時の火なり、神代紀に秉炬とかけり、仲哀紀云、殯2于豐浦宮1爲2旡v火殯斂《ホナシアガリヲら1、【旡火殯斂、此(ヲハ)謂2褒那之阿餓利1、】これは手火をとらぬ葬なるべし、
 
初、梓弓てにとりもちてますらをの――
ともやは第一卷に尺せるかことし。高まと山のまとをいはん序なり。野火と見るまてもゆる火、下にいふ手火ななり。〓霖をこさめとよめるはあやまりなり。ひさめとよむへし。ひさめは大雨なみ。和名集云。文字集畧云。〓大雨也。日本紀私記云。火雨【和名比左女】雨冰【同上。】今案俗云【比布留。】又云。兼名苑云。霖、三日以上雨也【和名奈加阿女。】垂仁紀云。天皇則寤之語皇后曰。朕今日夢矣。○復大雨從狭穗發而來之濡而云々。和名集謂大雨也といひて、日本紀私記をひけるは、大雨をひさめとよむゆへに、〓もひさめとよむ心なり。火雨は垂仁紀の文も大雨なるを、ひさめといふゆへに後人火をあやまりて大となせるかとおもひて、あらたむとてあやまれるなるへし。何鴨本名言。これをはいつしかももとのなとひてとよめるはわろし。なにとかもゝとないへるをとよむへし。こゝろは火のもゆるを道行人に何事そととへは、此皇子のかくたまひて、御をくりの人々の手火なりとこたふるを、その事は末にいへは、こゝにはほのめかして、なにとかやよしなきこときかせて、われをなかしむるといへり。何とかもは文章に云々なといへることし。もとなは此集におほき詞なり。よしなきといふ詞なり。こゝに本名とかきたれとも、本無といふ事なり。由といふも本なれはおなし詞なれと、後はよしなきとのみいへり、所哭はなかるともよむへし。御駕は日本紀に車駕とかきてもおほむたとよめり。手火は御葬送の御供に火をともしつれて御をくり仕るをいへり。日本紀第一云。伊弉冊尊曰。○
 
短歌二首
 
231 高圓之野邊秋茅子從開香將散見人無爾《タカマトノノヘノアキハキイタツラニサキカチルラムミルヒトナシニ》
 
茅は、芽を誤り、從は徒を誤れり、此歌下の或本の芽子をよめる歌とに依に九月にはあるべからざる歟、玉葉秋部にのせられたること不審なり、
 
初、高圓乃野邊乃秋萩いたつらに。芽子を茅子に、徒を從につくれるは、ともに傳寫のあやまりなり
 
232 御笠山野邊往道者巳伎大雲繁荒有可久爾有勿國《ミカサヤマノヘユクミチハコキバクモシケクアレタルカヒサニアラナクニ》
 
コキバクモ、そこばくに同じ、大は太に作るべし、
 
初、みかさ山野邊ゆくみちはこきたくも
こきたくもこゝらにおなし。おほくなり。かくれたまひてほとなきに、しけくもあれたるかなとなけくなり
 
右歌笠朝臣金村歌集出
 
(48)かやうに注したるに金村が歌か又は他人の歌をも書載たるか詳ならぬ事あり、別に注す、人丸、蟲丸、福丸等の集准v之、
 
或本歌曰
 
本の下に反の字落ちたる歟、
 
233 高圓之野邊乃秋芽子勿散禰君之形見爾見管思奴幡武《タカマトノノヘノアキハキナチリソネキミカカタミニミツヽシノハム》
 
234 三笠山野邊從遊久道已伎太久母荒爾計類鴨久爾有名國《ミカサヤマノヘニユクミチコキタクモアレニケルカモヒサニアラナクニ》
 
萬葉集代匠記卷之二下
 
(1)萬葉集代匠記卷之三上
                  僧契沖 撰
                  木村正辭 校
 
初、萬葉集卷第三目録
 
弓削皇子遊吉野之時御歌一首
弓誤作引
 
初、春日藏首老即和歌一首
即誤作郎
 
初、幸伊勢國之時安貴王作歌一首
脱時字
 
初、沙彌滿誓詠綿歌一首
脱歌字
 
初、大網公人主宴吟歌一首
網誤作綱
 
初、天平元年己巳攝津國――
〓誤作經
 
初、天平二年庚午冬十二月――
帥誤作師
 
雜歌
 
天皇御遊雷岳之時柿本朝臣人麻呂作歌一首
 
雄略紀云、七年秋七月甲戌朔丙子、天皇詔2少子部《チヒサコヘノ》連|※[虫+果]羸《スカル》1曰、朕欲v見2三諸岳神之形1、【或云此山神爲2大物代主神1、或云、兎田墨坂神也、】汝|膂力《チカラ》過v人、自行捉來、※[虫+果]羸答曰、試徃捉之、乃登2三諸岳1捉2取大?1奉示天皇、不|齋戒《モノイミシタマハ》雷|※[兀+虫]※[兀+虫]《ヒカリヒロメキ》目精《マナコ》赫々、天皇畏蔽v目不v見却2入殿中1、使v放2於岳1、仍改賜v名爲v雷、高市郡三諸山を雷岳と云ふこと、かゝれば此時よりの名なり、雷の字かみとのみも讀めば、神山神岡と云ふも同じ事なり、
 
初、雜歌
天皇御遊雷岳之時柿本朝臣人麻呂作歌一首
雄略紀曰。七年秋七月甲戌朔丙子、天皇詔少子部連|※[虫+果]羸曰。朕欲見三諸岳神之形。【或云。此山神爲大物代主神或云兎田墨坂神也。】汝膂力過人、自行捉來。※[虫+果]羸答曰、試徃捉之。乃登三諸岳捉取大※[虫+也]、奉示天皇。不齋戒、其雷|※[兀+虫]目精赫々。天皇畏蔽目不見、却入殿中、使放於岳。仍改賜名爲雷。王充論衡曰。○五雜俎云。○山海經曰。○本朝文粹、都良香同情法師傳曰。○金光明最勝王經卷第七
みむろ山を、又は神岳といふは、雷岳といふにつきてその別名なり。いかつちといふ名は、瞋槌といふ心なるへし。いかつちをなるかみといひ、また只神とのみもいへは、神岳とはいへり。後撰集に、ちはやふる神にもあらぬわか中の雲井はるかになりもゆくかな
これいかつちによせたるを、只神とのみいひて下にその縁の詞をいへり【易説卦云。動萬物者莫疾乎雷】
 
235 皇者神二四座者天雲之雷之上爾廬爲流鴨《スメロキハカミニシマセハアマクモノイカツチノウヘニイホリスルカモ》
 
(2)右或本云獻|忍壁《オシカヘ》皇子也其歌曰|王神座者雲隱伊加土山爾宮敷座《オホキミハカミニシマセハクモカクレイカツチヤマニミヤシキイマス》
 
皇者、【紀州本、者作v葉、】
 易繁辞云、陰陽不v測之謂神、説卦傳云、神也者妙2萬物1而爲v言者也、されば聖徳の玄微に入る處を神と云ひて凡慮の思議すべきにあらざれば、かく雷の上にさへ登り立給ふとよめるなり、イホリスルは行宮なり、注右或本云獻忍壁皇子也、忍壁をオシカベと點ぜるは誤なり、オサカベとよむべし、皇子に奉る歌なればおほきみといひてすめろぎにかへたり、其實ひづれにか侍らむ、
 
初、すめろきは神にしませは天雲のいかつちのうへにいほりするかも
凡慮のはかることあたはす、聖徳の玄微に入けるを神といふ。易繋辭云。陰陽不測、之謂神。又云。子曰、知變化之道者、其知神之所爲乎。説卦傳云。神也者妙萬物而爲言者也。この本朝はもとより神國にて、人の世となりても天子は猶ことに神道にしたかひてをこなはせたまひ、又御みつからも神道まし/\けるゆへにやかて神と申奉れり。推古紀云。爰新羅○孝徳紀云。巨勢徳大臣○天武紀云。十二年春正月己丑朔丙午○續日本紀にもかくのこときみことのりあまたあり。末にこいたりて、神とも、神なからとも申奉ること、あまたあれは、わつらはしけれとここにかく引置なり。いかつちのをかを、まことのいかつちにいひなして、神にてましますゆへに、猶そのいかつちのうへにやとりたまふとなり。いほりするは行宮をいへり。注のある本、心おなし
 
天皇賜志斐嫗御歌一首
 
さきの歌の天皇、此天皇は共に持統天皇なるべし、今の御歌老女に昔物語など聞食しければ女帝に似つかはしき故なり、志斐は氏なり、續日本紀第八云、算術正八位上悉斐連|三田次《ミタスキ》、
 
初、天皇賜志斐嫗御歌一首
さきの天皇はともに持統天皇なるへし。そのゆへは老女に昔物語なとさせてきこしけるとみゆれは、女帝ににつかはしきゆへなり。志斐は氏也。續日本紀八云。算術正八位上悉悲連三田次。和名集云。説文云。嫗【和名於無奈】老女之稱也。源氏物語藤はかまに、人からやいかゝおはしけん、おうなとつけて心にもいれす
 
236 不聽跡雖云強流志斐能我強語此者不聞而朕戀爾家里《イナトイヘトシフルシヒノカシヒコトヲコノコロキカテワレコヒニケリ》
 
(3)聽は、聽聞の聽にあらず聽許の聽なり、此集に猶不欲をイナとよみ、日本紀に不須をイナとよめる皆同意なり、志斐能我は志斐の嫗がと宣ふなり、椎野と云氏には殊なり、此者は今按此は比に作るべし、集中例皆然り、不聞兩は今按キカズテと和すべし、今の點にては而の字に叶はず、御歌の意は、考女なれば繰返し同じ物語を聞え上ぐるを否と仰せらるれど猶聞しめせとて強て申すをうき事と思食しつるが、久しく參らねば更に戀しく思食すとなり、志斐と云ふ氏に付て強語とはつゞけ給ふなるべし、君にまし/\ては有難き御歌なり、
 
初、いなといへとしふるしひのかしひことをこのころきかてわれこひにけり
おうなゝれはくりことに物かたりするをいなきかしなかたりそといへと、しひてきこしめせとてかたるをうしとおもひつるか、久しく御前へも出てかたらは、更にこひしくおほしめすとなり。かたしなきまて仁愛ふかき御哥なり。君とまし/\てかゝる御心あらは御めくみにもるゝ人あらしとそおほえ侍る。不聽の聽は、聽聞にあらす。聴許の義也。志斐能我とは、志斐をしひのとよむにあらす、しひのおうなかといふことなり。不聞而は、きかすてとよむへし。【志斐の氏によせてしひことゝのたまへり】
 
志斐嫗奉和歌一首 嫗名未詳
 
237 不聽雖謂話禮話禮常詔許曾志斐伊波奏強話登言《イナトイヘトカタレカタレトノレハコソシヒテハマウセシヒカタリトノル》
 
ノレバコソ、此所句絶なり、今按、シヒテ〔右○〕ハマウセ〔右○〕の點、字に叶はず、シヒヤ〔右○〕ハマウス〔右○〕と讀むべし、い〔右○〕とや〔右○〕と通ずる故なり、神功皇后紀に爾汝移と云人の名に移をや〔右○〕とよめり、又一つの今按、のればこそを句絶とせずして、シヒイ〔右○〕ハマウセとよみてこゝを句とすべきか、い〔右○〕は斐の韻《ヒヽキ》なり、木の國を紀伊と韻を加へて二字とせるに同じ、同じ言するを欣感《オカシ》がらせ給ひて、猶語れと仰られし折もあるべければ、それを實と心得て(4)語れとのたまへばこそ語り參らせしを、却て己が強語になさせ給ふとなり志斐伊波奏といふに、又みづからの氏をかけたり、
 
初、いなといへとかたれ/\とのれはこそ志斐伊波僧奏しひことゝのる
おなしことするをおかしからせたまひて、猶かたれとおせられける折も有へし。それをまことゝ心得てかたれとのたまへはこそかたりまいらするを、かへりてしひことになさせたまふとなり。のれはこそといふか句なり。のれはこそあれ、のれはこそかたりまいらすれといふ心なり。句といふゆへは志斐伊波奏をしひてはまうせといふ點はあやまれるゆへなり。いとやと通するゆへに、これをはしやはまうすとよむへし。その證は、神功皇后紀云。爰斯摩宿禰即以※[人偏+兼]人爾波移與卓淳人過古二人、遣于百濟國、慰勞其王。此移の字、伊とおなしく用たる字なれは、伊をも野とよむへし。移のひたりのかたはらに、野の字をつけて私と注したるは、和名集に順のひかれたる田公望か日本紀の私記なり。此集第五房前の哥にも、ことゝはぬ木にもありともわかせこかたなれのみことつちにおかめ移母とあるに、いもとかなをつけたれとも、やもとよむへし。また此集にやといふに和の字をかけるも同韻相通なり
 
長忌寸意吉麻呂應詔歌一首
 
238 大宮之内二手所聞綱引爲跡網子調流海人之呼聲《オホミヤノウチマテキコユアヒキストアコトヽノフルアマノヨヒコヱ》
 
アビキは網を引を体に云ひなせり、網子調ルはし、海士の中にむねとつかさどる者ありてそれを助けて引く者を網子と云ふ、その網子どもの列次進退をとゝのふる聲なり、下に右一首と云下に注ありけむが落ちたるなるべし、按ずるに難波へ行幸の時などよめるにや、
 
初、大宮の内まてきこゆあひきすとあことゝのふるあまのよひこゑ
此哥のひたりに、右一首とあるは、下に何とそ注の詞ありけんかうせたるへし。此哥のやうを案するに、難波宮にみゆきしたまひける時の歌なるへし。網子とゝのふるとは、舟おさのふなこをそろゆることく、あまの中につかさとるものゝ下知するこゑの、まちかく聞ゆるなり。二手は兩の手を眞手といふ故にかくなり
右一首
 
長皇子遊獵路池之時柿本朝臣人磨作歌一首并短歌
 
獵道池を八雲には石見の由注し給ひ、藻塩草には加賀とす、共に不審なり、長皇子の御獵に出給ふ所なれば、此時の都藤原より近き程の大和の國の内なるべし、
 
初、長皇子遊獵路池之時
第十二にとをつかりちの池とよめるもおなし所なり。いつれの國とはしるされねと、長皇子の出てあそはせ給所なれは、大かたはやまとなるへし。藻鹽草に加賀といへるはあやまれり。此詞書にてしるへし
 
239 八隅知之吾大王高光吾日乃皇子乃馬並而三獵立流弱薦(5)乎獵路乃小野爾十六社者伊波比拜目鶉巳曾伊波比回禮四時自物伊波比并鶉成伊波比毛等保理恐等仕奉而久堅乃天見知久眞十鏡仰而雖見春草之益目頬四寸吾於富吉美可聞《ヤスミシシワカオホキミノタカテラスワカヒノミコノウマナメテミカリニタタルワカクサヲカリチノヲノニシヽコソハイハヒフセラメウツラコソイハヒモトホレシシシモノイハヒフセリテウツラナスイハヒモトホリカシコシトツカヘマツリテヒサカタノアメミルコトクマソカヽミアフキテミレトワカクサノマシメツラシキワカオヒキミカモ》
 
立流、【官本又云、タテル、】 恐等、【幽齋本云、カシコミト、】
 
三獵立流は今按ミカリタヽセルとよみて然るべきか、弱薦もワカコモとも讀むべし、獵道池に縁あり、延喜式典藥式云、五月五日進2菖蒲生蒋1、掃部式云、穉蒋食薦《ワカコモノスコモ》一枚、十六社者〔四字右○]、此十六とかけるは四々なり、後に木の間立くゝ、又くゝりの宮など云ふに八十一とかき、いさとをきこせと云ふに二五とかける類此に准ず、伊波比以下の四の伊皆發語の詞なり、此鹿鶉は御獵に付ての事によれり、春草《ワカクサ》はハルクサともよむべし、春草はつやゝかにて見あかねばマシメヅラシキとそへたり、伊勢物評に初草のなどめづらしき言の葉ぞとよめるも此に同じ、
 
初、わかこもをかりちの小野
題にかりちの池に遊たまふ時とあれは、こもをかるとつゝけたり。典藥式【延喜式】云。五月五日進菖蒲生蒋。大膳式下云。五月五日節料粽科。○青蒋十一圍、生絲三兩〓。掃部式云。穉蒋食薦一枚。かゝれはちまきなとの料に、わかこもをは大かたはかるなるへし。しゝこそは――。いの字は皆例の發語の詞なり。もとほるは第二にもいへることく、まはるなり。薦のあしかはと大緒とのあひたに、もとほりといふ物つくるもその名はこの心なるへし。はふは天武紀云。十一年九月辛卯朔壬辰、勅、自今以後跪禮匍匐禮竝止之、更用難波朝廷之立禮。戦國策云。妻側目而視、側耳而聽。嫂蛇行匍伏。【蛇不直行、伏音匍、匍匐伏地也】四拜自跪而謝。しゝを十六とかけるは、四々の心なり。しといふかんなに重二とかける所もこの心におなし。わか草のましめつらしきとは、霜かれたる冬草の春になりて立かへりもえ出れはつやゝかにて日にそひてめつらしき物なれは、よそへてほめ奉らるゝなり。伊勢吻語に、初草のなとめつらしきことのはそとあるもおなし
 
(6)反歌一首
 
240 久堅乃天歸月乎網爾刺我大王者盖爾爲有《ヒサカタノアメユクツキヲアミニサシワカオホキミハキヌカサニセリ》
 
天歸月乎、【仙覺云、古点ソラユクツキヲ、官本又点同v之、濱成式、アマユクツキヲ、】 蓋爾爲有、【仙覺云、古点カサニナシタリ、官本又点同v之、六帖云、カサニツクレリ、】
 
第二の句式の點よりは今のやまし侍らむ、天津風、天川などつゞくこそわれ、あまゆくは聞よからず、落句の今の點は仙覺も式によらる、此は何れよりも勝るべし、月を網に結《スキ》てきぬがさにすとは形を思ふに然るべく、皇子の蓋なれば似つきて奇妙なり、和名云、兼名苑注云、華蓋、【和名、岐奴加散、】黄帝征2〓尤1時、當2帝頭上1有五色雲、因2其形1而造也、令第六儀制令云、凡蓋親王紫大|纈《ユハタ》云云、楚辭賈誼惜誓曰、建2日月1以爲v蓋《キヌカサ》兮、菅家萬葉云、春霞網に張こめ花ちらば、移ろひぬべき鶯とめむ、
 
初、久かたの空行月をあみにさしわかおほきみはきぬかさにせり
皇子の御かりにさゝせたまへるきぬかさのまろなるをほめんとて天行月をあみにさしてしたるみかさなりとよめるなり。長哥のことはにも、天見ることくとあれは、やかて御笠をも月とは見たるなるへし。後撰集に、河原左大臣の、てる月をまさきのつなによりかけてあかてわかるゝ君をとゝめんとあるは、もしこのあみにさしとあるを用られけるにや。和名集云。兼名苑注云。華蓋【和名伎奴加散】黄帝征〓尤時、當帝頭上、有五色雲、因其形所造也。令義解第六儀制令云。凡○
或本反歌一首
 
241 皇者神爾之坐者眞木之立荒山中爾海成可聞《スメロキハカミニシマセハマキノタツアラヤマナカニウミヲナスカモ》
 
皇者、【官本又云、スメラキハ、幽齋本又云、スヘラキハ、】
 
眞木は木の名なるべし、荒山中とつゞけばなり、此歌に依るに獵路池は其比帝の堀(7)させ給ふと見えたり、君の徳をほめ奉りて神にておはしませばこそかゝる荒山中に思ひよらぬ海をばなさせたまへと申しなさるゝなり、文選飽明遠詩云、築v山擬2蓬壺1、穿v池類2溟渤1、
 
初、すめろきは神にしませはまきのたつあら山なかに海をなすかも
此哥によるに、かりちの池はそのころほらせたまひけると見えたり。これは君の徳をほめたてまつりて、神にてましませはこそかゝる山中におもひよらぬ海をはなさせたまへと、池をいかにもおほきによみなされたるなり。楊子雲羽獵賦序云。武帝廣開土林○文選飽明遠代君子有所思詩。築山擬蓬壺、穿池類溟渤。まきは※[木+皮]なるへし。み山にあるものなれはなり
 
弓削皇子遊吉野時御歌一首
 
242 瀧上之三船乃山爾居雲乃常將有等和我不念久爾《タキノウヘノミフネノヤマニヰルクモノツネニアラムトワカオモハナクニ》
 
瀧上とは三舟山吉野の瀧の上にあるなるべし、雲の起滅定めなきが如くなる世なれば、我も常にあらむ物とは思はずとよみ給へり、第一卷吹黄刀自が歌に注せし如く、山を面白く御覺ずるより此感生ずるなり、漢武秋風辭云、歡樂極兮哀情多、少壯幾時兮奈老何、
 
初、瀧のうへのみふねの山にゐるくものつねにあらんとわかおもはなくに
雲の起滅さためなきかことくなれは、我も常にあらん物とはおもはすとよませたまへり。第一卷吹黄刀自か、常にもかもなとよめる哥に注せしことく、これも山のおもしろきあまりに.常ならぬことをなけかせたまふなるへし。丈邁漢武帝秋風辭云。歡樂極兮哀情多、少壯幾時兮奈老何
 
春日王奉和歌一首
 
文武紀云、三年六月庚戌淨大肆春日王卒、遣v使弔賻、
 
初、春日王奉和歌一首
文武紀云。三年六月庚戌、淨大肆春日王卒。遣使弔賻
 
243 王者千歳爾麻佐武白雲毛三船乃山爾絶日安良米也《オホキミハチトセニマサムシラクモヽミフネノヤマニタユルヒアラメヤ》
 
(8)これは雲の絶えず居るによせて祝ひ奉られたり、
 
初、おほきみはちとせにまさん白雲もみふねの山にたゆる日あらめや
かたわ車をみて、かたわかあるといひ、今ひとりはかたわかなしといひけんやうに、物はいかにもいひなさるれは、弓削皇子は、雲のつねなきによせてよませたまへは、これはまたたゆるまもなく居る雲によせて、常にましまさんといはひたまへり
或本歌一首
 
244 三吉野之御舩乃山爾立雲之常將在跡我思莫苦二《ミヨシノヽミフネヤマニタツクモノツネニアラムトワカオモハナクニ》
 
右一首柿本朝臣人麿之歌集出
 
長田王被遣筑紫渡水島之時歌二首
 
日本紀第七景行紀云、壬申自2海路1泊2於葦北小島1而進食時、召山部阿弭古之祖小左令v進2冷水1、此時島中無v水不v知v所v爲1、則仰之祈2于天神地祇1、忽寒泉從2崖傍1湧出、乃酌以獻焉、号2其島1曰2水島1也、其泉猶今在2水島崖1也、【和名云、菊池《クヽチ》郡水島、】葦北は肥後の國の郡の名なり、仙覺抄に肥後國風土記を引て云く、球磨乾七里海中有v島、稍可七十里、名曰水島、出2寒水1、逐潮高下云云、今の第二の歌に依るに、葦北球磨兩郡つゞきて葦北郡ながら球磨郡に近きにや、
 
初、長田王被遣筑紫渡水島之時
日本紀第七景行紀云。壬申自海路泊於葦北小島、而進食時、召山部阿弭古之祖小左、令進冷。是時島中無水不知所爲。則仰之、祈于天神地祇、忽寒泉崖傍涌出。乃酌以獻焉。號2其1曰水島也。其泉猶今在水島崖也。葦北は肥後の國の郡の名なり
 
245 如聞眞貴久奇母神左備居賀許禮能水島《キヽシコトマコトタフトクアヤシクモカミサヒヲルカコレノミツシマ》
 
(9)今按發句はキクガゴトともよむべきか、神サビヲルカとは此水もと小左が神祇に祈て俄に出來たれば今も奇異に見ゆるを云ふコレノとは此なり、第二十防人が妻の歌に、これのはるもちとよめるも此針なり、
 
初、聞しことまこと――
これの水島は此水しまなり
 
246 葦北乃野坂乃浦從船出爲而水島爾將去浪立莫勤《アシキタノノサカノウラニフナテシテミツシマニユカムナミタツナユメ》
 
浦從、【官本亦云、ウラユ、】
 
六帖浦の歌に此を載するにみしまにゆかむ、續後撰も彼に同じ、上の歌コレノミシマとよみてはすわるまじければ此歌准じて知るべし、
 
初、あしきたの野坂の――
續後撰旅部に、みしまにゆかんとあるはあやまれり。さきの歌これのみしまとてとまるへしや
 
石川大夫和歌一首 名闕
 
六帖泊の歌に載するに作者を石川のおほきみといへるは如何、
 
247 奥浪邊波雖立和我世故我三舩乃登麻里瀾立目八方《オキツナミヘナミタツトモワカセコカミフネノトマリナミタヽメヤモ》
 
雖立、【官本亦云、タテトモ、】
 
ワガセコは長田王をさせり、
 
右今案從四位下石川宮麻呂朝臣慶雲年中任大貳又(10)正五位下石川朝臣吉美侯神龜年中任少貳不知兩人誰作此歌焉
 
吉美侯は君子なり、下に歌ある人なり、神龜元年二月正五位下、同三年正月從四位下に叙せられたれば其間の事なり、極官にあらず、
 
又長田王作歌一首
 
又と者同時に又よめばなり、
 
248 隼人乃薩摩乃迫門乎雲居奈須遠毛吾者今日見鶴鴨《ハヤヒトノサツマノセトヲクモヰナストホクモワレハケフミツルカモ》
 
隼人は薩摩の枕詞なり、別に注す文武紀に唱更國と云下に注して云、今薩摩國也、かゝれば薩摩國とは光仁帝桓武帝の初などに名付られたるか、未考唱更國といひし時なれば、此薩靡ノセトと云ふは、薩摩郡に屬せる海なるべし、雲居ナスは空を見る如く遙に見やるとなり、
 
初、隼人のさつまのせとをくもゐなす――
神代妃下云。一云、狗人請哀之、弟還出涸瓊、則潮自息。於是兄知弟有神徳、遂以伏事其弟。是以、火酢芹命苗〓諸隼人等、至今不離天皇宮垣之傍、代吠狗而奉事者也。此ことのもとは、彦火々出見の尊はをのつから山の幸【幸此云左知】まし/\て、獵したまへは獲物おほく、兄の火酢芹命は、をのつから海の幸ありて、よく魚を釣えたまふ。ある時ふたりあひかたりてのたまはく。こゝろみにさちかへせんとて弓箭と釣鉤とを取かへたまふに、をの――そのさちを得たまはす。このかみくゐて弟の尊に弓箭を還して、もとの釣鉤をこひたまふに、弟尊、鉤を失たまひけるゆへに、あたらしき鉤をおほく作りて還したまひけれとも、兄いかりてもとのをせめはたられけるゆへに、彦火々出見尊うれへたまひて、海邊をうなたれめくりたまふ時、鹽士老翁といふにあひたまひてその老翁のはかりことにて、海神の宮に到りたまひ、海神さま/\にもてなして、こゝに出ませる御意をとふ時、尊あるかたちをこたへたまふ。海神あらゆる魚を集《ツトヘ》てせめとふに、みなしらす。たゝし鯛のみ、此ころ口の疾ありてまいらぬを、しひてめしてその口をさくれは、はたしてうせたる鉤を得たり。そのほとに尊、海神の女豊玉姫を娶て、海神の宮にとゝまりますこと三年になりぬ。やすらかにたのしけれ、猶くにをおもふ御心ましてなけきたまふを、豊玉姫きゝて其父の海神にかたらる。これによりて海神、尊に申さく。天孫もし郷に歸らんとおほされは、われまさに送りたてまつらんとて、すなはち彼鉤を奉りてをしへまうさく。此鉤をもて兄にかへし給はん時、ひそかに此鉤を呼て貧鉤とのたまひてあたへ給へ。潮滿瓊と潮涸瓊とを奉りていはく。潮滿瓊を漬たまはゝ、潮急にみちなん。これをもて汝尊の兄をおほれしめたまへ。もし兄悔てあはれひたまへとこはれん時、更に潮涸瓊を漬たまはゝ、潮をのつからひなん。かくなやましたまはゝ、兄をのつからしたかひなんと。天孫此誨にまかせたまひし時、さきに引る文のことく、火酢芹命したかひたまへり。日本紀につふさなるを、今略をとりて事始終をあかせり。彼天孫もと日向に天降りたまひて、おはしましけるゆへに、日向大隅薩摩に、火酢芹命の子孫ひろまりけるなり。其猛烈なること隼のことしと、風土記に見えたり。兵の名を薩男とも薩人ともいふは、薩摩男薩摩人といふ義なり。よりて隼人のさつまとはつゝけたり。弓をさつゆみ、矢をさつ矢といふも、其さつ人か具なれはなり。欽明記云。元年三月、蝦夷隼人竝卒衆歸附。天式紀云。十一年秋七月壬辰朔甲午、隼人多來貢方物。是日、大隅隼人與阿多隼人相撲於朝廷、大隅隼人勝之。文武奇云。大寶二年冬。延喜式の中に、隼人式あり。節會の日なと狗の吠るまねすることなと委見えたり。隼人正はかれらを預りてつかさとるなり。今の歌は題に又長田王作歌とある心は、さきにつくしへつかはされて、水嶋をわたる時とあるをふまへてなり。それによりて音に聞さつまのせとをも、役をつゝしみて只雲居のことく遠くみやるとなり。雲居は空の名なり。空は雲の居る所なるゆへにいへり。第六卷に、隼人のせとのいはほもあゆはしるよしのゝ瀧に猶しかすけり。これもおなしさつまのせとなり。おもしろくみゆる所にこそ
 
柿本朝臣人麻呂※[羈の馬が奇]旅歌八首
 
(11)249 三津埼浪矣恐隱江乃舟公宣奴島爾《ミツノサキナミヲカシコミコモリエノフネコクキミカユクカノシマニ》
 
舟コグキミは梶取を云べし、君臣に限らず賤しき業にも其事をつかさどるをばきみと云ふにや、和名云、漁父一云漁翁、【無良岐美、】顯宗紀の室壽《ムロホギ》の御詞には家長をイヘキミとよめり、今舟公とのみかけるは榜と云字の落ちたるにやと思ふを、第十卷人丸集の七夕歌に、ふねこぐ人と云人にも舟人とのみあり、※[手偏+總の旁]じて人丸集の歌は殊に文字簡略にして讀加へたる事多し、第十一の相聞の歌など心を著くべし、宣の字のよみやう未v詳、か〔右○〕は疑の詞なり、奴島は淡路の野島なり、奴農これらの字互にぬ〔右○〕ともの〔右○〕とも用ひたれば今の奴島も或本にはヌジマと點ぜり、假令ヌジマとよむともたゞ音を通して意得べし、歌の心は、三津の浪を恐れて漕出す入江にとまり居し舟人の、今は、にはよしとてや、野島を指て漕行くらむとなり、
 
初、みつのさき浪をかしこみこもりえのふねこくきみかゆくかぬしまに
奴島は次下の野しまにて淡路なり。ぬとのと五音相通なり。此集并に日本奇等にかよはせる事おほけれは、奴嶋とかきても、のしまとよむへし。又もとよりぬしまとも、のしまとも、兩やうにもいひきたりけん。ふねこくきみは、舟おさにて、今の世にいふ船頭なり。きみといふは、かならす君臣といふ時のたふときにかきらす。いやしきわさにもその事をつかさとるをは、その君といふへし。漁父とかきてむらきみとよめり。顯宗紀には、家長とかきていへきみとよめるは、その家をおさむる人をいへり。舟公宣とかきて、ふねこくきみかゆくかとよめる、簡略なる書やうなり。もし字の落たるにや。舟公はふなきみとよみて、此下に字の落たるにや。宣をゆくとよめる、心得かたし。いまた字書をかんかへす。ゆくかのかは哉なり。歌の惣しての心は、三つのさきの浪の音は、おそろしく聞ゆるを、舟長は日をよくはからふものなれは、にはよからんと見さためたるにや。こもり江にかゝりて、さてあらぬ奴島をさしてこき出てゆくかなゝり。浪をかしこみといひては、大かたは浪をおそろしかるといふ心なれと、こゝは舟にのれる人は、浪をおそろしくおもふにといふ心にて、かちとりのおそるゝにはあらす
 
250 珠藻苅敏馬乎過夏草之野島之埼爾舟近著奴《タマモカルミヌメノヲスキテナツクサノノシマカサキニフネチカツキヌ》
 
一本云|處女乎過而夏草乃野島我埼爾伊保里爲吾等者《ヲトメヲスキテナツクサノノシマカサキニイホリスワレハ》
 
玉藻カルは必しも敏馬の枕詞にはあるべからず、敏馬乎過は仙覺抄云、古點にはと(3)しまをすぎてと點ぜり、又或本にははやまをすぎてと點ず、共に不2相叶1、みぬめ〔三字右○〕と和すべし、む〔右○〕とぬ〔右○〕と同韻相通なり、讃岐をさぬきといひ珍海をちぬの海と云ふが如し、されば此集第六卷過2敏馬浦1時山部宿禰赤人作歌、御食向淡路島二直向三犬女乃浦能とかけり、又同卷、過2敏馬浦1時作歌詞中云、八島國百船純乃定而師三犬女乃浦者とかけり、同反歌云、眞十鏡見宿女乃浦者云云、然則爭なくみぬめと和すべきなり、已上最も明なれば今の點に從ふべし、六帖八雲新拾遺皆古點に同じ、又仙覺攝津國風土記を引て云、美奴賣松原、今稱美奴賣者神名、其神本居2能勢郡美奴賣山1、昔息長足比賣天皇幸2于筑紫國1時、集2諸神祇於川邊郡内|神前《カムサキ》松原1以求2禮福1、于v時此神亦同來集曰、吾亦護治、仍諭之曰、吾所住之山有須我乃木、各宜2v材採爲v吾造1v船、則乘此船而可行幸當有幸福、天皇乃隨神教遣命作船、此神船遂征新羅、【一云、于時此船大鳴響如牛吼、自然從對海還到此處不得乘、仍卜占曰、神靈所欲、乃留置】還來之時祠祭此神於斯浦、并留船以獻、亦名2此地1曰2美奴賣1、夏草は野島といはむ爲なり、夏草のしげき野とつゞくる心なり、ノシマノサキと點じたる本もあれど、注の一本にも野島我埼とあれば今の點を叶へりとす、さきの歌は三津埼を出づる時よみ、此歌は次でよまれたりと見えたり、一本に處女ヲ過テとは、第九に葦屋處女墓をよめる歌あり、彼由緒によりて兎原郡葦屋浦を處女とのみもいへるなり、
 
初、玉もかるみぬめを過て――
夏草とは夏草のしける野といふ心にてつゝけらる。此哥を、新拾遺集旅部にふたゝひ載らるゝには、敏馬をとしまとあり。としまともよまんに、みねめといふことたしかならすは、よまるましからねは、あやまりてとしまとも、むかしよりよめるなるへし。二字なから呉音をかりて用るなり。讃岐とかきてさぬきといひ、此集に、珍海とかきてちぬのうみとよめる例にて、敏をみぬとよめるは心得へし。此集に三犬女浦なとかけるにて、としまとよめるは、此集を始終よく見すして、一首一首をみてふと心得てあやまれりと知へし。此みぬめは津國なり。津も國に豐嶋郡もあれは、それらにもおもひわたれるなるへし。野嶋を八雲御抄に津の國と注したまへるは、あやまらせたまへるなり。此下に一本の哥を注するに、處女を過てとは、處女塚ある所をやかてをとめとのみいへり。末にいたりて、うなひをとめの事よめる哥おほけれはこゝに注せす
 
(13)251 粟路之野島之前乃濱風爾妹之結紐吹返《アハミチノノシマノサキノハマカセニイモカムスヒシヒモフキカヘス》
 
此發句を謬てアハミチノと點ぜるに依て古來此集をよく考見ずして近江なりと思ひ、東路の野島が埼などもよめる歌あり、玉葉に此歌を載せられたるにもあふみぢのとあり、彼國はもと淡海とかけるは鹽ならぬ海なればあはき海と云心なり、あはうみを波宇を反て約むれば布となる故に假名にもあふみと書き侍り、和名云、近江【知加津阿不三、】遠江、【止保太不三、】此爾國各江ある故に遠近の字をもて名を簡べり、されども近江を本とする故に彼をば必ずとほたあふみといへど此をばたゞあふみとのみ云習へり、古點あやまれども、アフミチとはかゝず、此をばアハヂノと四文字によむべし、第六に赤人歌に、淡路乃野嶋之海子乃云云、此をもアハミチと點ぜり、若今の歌を堅く執せば彼赤人の歌に鰒珠左盤爾潜出といひ、神龜二年冬難波宮へ行幸し給ふ時の御供にて歌の初にも其趣をよまれたるをば如何せむ、舊事紀云、先産生淡路洲爲v胞、意所不快故曰2淡道州1、即謂2吾恥1也、後こそ淡路とは書きなしたれ、元來名づくる意如此なれば、アハミチと點ずべきやうなし、和名云、淡路、【阿波知、】いまだあはみちとかける事外に見及ばず、仙覺いかで此點を破せられざりけむ不審なり、野島は履中紀に(14)も慥に淡路野島海人とかゝれて侍り、歌の意は濱風の紐を吹返すに付て其紐を結びし妹を思ひ出づるなるべし、
 
初、粟路の野嶋のさきの濱風に妹かむすひしひもふきかへす
粟路はあはちなるを、あはみちとかんなのあるは、昔の人はしめて點をくはへたるにはあらて、後の人もしもたらねはきく所もみしかくおほえ、路の字なれはみちとよむましきにあらねは、みの字をそへて後の人をして又後の人をまとはし侍るなり。第六、赤人の長哥に淡路の野嶋之海子乃とあるにさへ、あはみちとつけたり。しかれはみちといふ時、ちの字にこらねは今もすみてよみ、あはちといふ時もすむへし。神代起上云。及至産時、先以淡路洲爲朋、意所不快、故之曰淡路洲。これ神道家に尺する時、大なる國をうまんとおほしめすに、小洲のまつむまれけるゆへに、心よからすおほしめしけるゆへ、あはちといふは吾恥の心なりといへり。太平記にもおなしやうにかけり。けにも故といふ字をおもふにさも侍るへし。本來和國に文字なくして、もろこしの文字をかりて、文字にかゝはらす音訓うちましへ、時のよろしきにしたかひて、國史よりはしめてかゝれたれは、魚を得て筌をわすれ、兎を得て蹄をすつへき事、こに此國の書なり。吾恥の心なれは、いよ/\みの字あるへからす。千載集雜下顯輔卿の旋頭歌に、あつまちの野嶋の崎の濱風に、わかひもゆひし妹か顔のみおもかけにみゆとあるは、推量するにあはみちといふかんなにつき、又人丸のあふみにいたられける事もあれは、その時の哥にやとおもひてかくはよまれけるにや。近來の類字名所抄といふ物に、安房近江淡路有同名といへるは、三ケ國の名あひにたれは、根本の哥に目をよく付すして、後の人にまとはさるゝなり。哥の心は濱風のひもを吹返すにつきて、その紐をむすひし妹をこひしくおもひ出る心なるへし
 
252 荒妙藤江之浦爾鈴寸鉤白水郎跡香將見旅去吾乎《アラタヘノフチエカウラニスヽキツルアマトカミラムタヒユクワレヲ》
 
藤江浦、【六帖云、フチエノウラ、幽齋本同v之、】
 
荒妙の藤衣と云心につゞけたり、藤江は播磨なり、和名云、明石郡葛江、【布知江、】仙覺抄云、昔住吉大明神藤の枝をきらせ給ひて海上に浮べて誓てのたまはく、此藤のよりたらん所を我領とすべしとのたまひけり、然るに此藤浪に淘《ユラ》れてよりたなければ此を藤江浦と名づく、住吉の御領なり、此は風土記などの説にや、げにも和名を見るに、明石郡に住吉【須美與之】と云所の侍るは御領なる故に勸請しけるにや、第六に赤人の荒妙の藤井の浦とよまれたるも同所なり、第一に藤原を藤井ともいへる如く、一所を兩名に呼び來れるにこそ、鉤は釣の字の誤か、鉤にてつる物なれば義をもて書けるか、白水郎は此集に泉郎とかける所もあるは、人麻呂などの麻呂を麿と一字にも作りたるに同じきか、若は深く入て潜するものなれば、泉郎を引合て二字となせるか、日本紀にも二字なり、和名云、辨色立成云、白水郎、【和名阿萬、】今按云、日本紀云、用2漁人二字1、一(15)云用2海人二字1、歌の心は、此所の面白さにながめをれば旅人とはしらで釣する海人とや人は見んとなり、此下句後にも出でたり、又海人とや見らむとよめる歌いづれも此心なり、又按ずるに鹽燒あまの藤衣とよめる歌もあれば、今荒妙の藤江とつゞけたるを承て旅やつれしたる我なれば藤衣著たる海人とや見んとよまれたる歟、
 
初、あらたへのふちえかうら――
あらたへはぬのゝ惣名なり。あらたへの藤衣といふ心にてつゝけたり。第一卷あらたへの藤井か原といふ哥につきてくはしく尺せり。藤江の浦を、藤井の浦ともよめり。意通(ス)れはなるへし。鉤は釣の字のあやまりなるへし。たゝし鉤にてつれは、義をもてかけるにや。白水郎は、此集に白水をひとつにして、泉郎にもつくれり。もろこしにもいふ事歟。此國にて義をもてかけるにや。しからはそのふかく入こと黄泉にもいたるはかりなる故に、もとは泉郎にて、白水は泉の字を引分たるなるへし。此哥に似たる哥此集におほし。一本の白たへは白たへの藤衣なり
 
一本云|白栲乃藤江能浦爾伊射利爲流《シロタヘノフヂエノウラニイザリスル》
 
第十五には此上句にて再出でたり、
 
253 稻日野毛去過勝爾思有者心戀敷可古能島所見《イナヒノモユキスキカテニオモヘレバコヽロコヒシキカコノシマミユ》 一云潮見
 
和名云、印南、【伊奈美、】常にもいなみ野とこそ云ふを此集には兩樣なり、心戀シキはうらこひしきなり、印南野の面白くて過ぎうきに又かこの島も見ゆれば彼へも早く行きて見まくほしければ彼方此方に引かるゝ心をよめり、稻日野をといはずして野もといへるは可古の島も見ゆと云ふ心を兼ねたり、稻日野は印南郡、可古の島は賀古郡なり、かこと名付くる由は第七卷の終に、海中にかこそ鳴くなると云歌に應神(16)紀を引て注すべし、そこに明かなるべし、一云潮見とは此潮の字下にミナトともハマとも訓じたればカコノミナト見ユといへるか、カコノハマとよめるか、字のまゝにシホとよふてかこの嶋より舟に乘るべき潮時になりぬれば印南野を見捨てむなとりを思ふにや、幽齋の本には此潮を湖に作れり、又此前後を案ずる一云は一本云の本の字脱たるか、
 
初、いなひのもゆき過かてに――
常はいなみのといふを、是は稻日野とかけり。同韻の字にて通せり。哥の心は、いなみのもおもしろくて過うきに、又聞をよひて見はやと心に戀しかこの嶋もみゆれは、かれへも早くゆきて見はやとおもへは、いやしきことわさにいへる左右の手にむまき物もたるといふやうにて、かなたこなたにひかるゝ心をよめり。稻日野は印南郡、可古の嶋は賀古郡なり。かこと名付るよしは.第七卷のをはりに、なこの海を朝こきくれはうみなかにかこそ鳴なるあはれそのかこといふ哥の所に、應神奇を引て注すへし。それかこゝの名をも尺する注なり
一云潮見とは、ある本にかこのしほみゆとあるとなり。潮時のよくなりぬれは、いなみ野を見すてんなこりをおもふなり
 
254 留火之明大門爾入日哉措將別家當不見《トモシビノアカシノナタニイルヒニヤコキワカレナムイヘノアタリミユ》
 
不見、【官本亦云、ミデ、別校本云、ミズ、】
 
トモシ火は、アカシとつゞけむ爲なり、此卷下には居待月あかしと續け、第十五には我心あかしと續け、古今にはほの/\とと置く、皆時に隨ひ事によりて心に任せたるなり、此留火をトモシビと點ぜるやう未だ意得ず、大門は仙覺云、古點にはせとと和せり、せととは多くは迫門《ハクモム》と書きてよめり、せばき所と聞えたり、大門と書きてせとゝ和すべからず、仍今なだと和するなり、なだは、なと云ふは浪なり、たと云ふは高き義なり、阿波國風土記云、奈汰、【奈汰云事者、其浦波之音無止時、依而奈汰云、海邊者波立者奈汰等云、】播磨灘といへる心なるべし、よりて明石のなだと和するなり、今云、ナダのた〔右○〕は風土記の意立の略なるべ(17)し、不見をミユと點ぜるは傳寫の誤なるべし、右の二つの點に從ふべし、以上六首は石見へ下らるゝ時の歌なるべし、筑紫へ下らるゝ時の歌は下に別にあればなり、古今の朝霧に島隱れ行くとある歌も此時の歌の爰に漏れたるにや、
 
初、ともし火のあかしのなたに入日にやこきわかれなん家のあたりみず
ともし火のとは、此卷の下にいたりて、ゐまち月あかしのとにはといふかことくあかしといはんとてなな
なたは、阿波國風土記に、なたといふ事は、其浦浪の音やむ時なし。よりてなたといふ。海邊には浪の立をは奈汰といふといへり。これはかの國に奈汰の浦といふ所ありて、その名のゆへをいへるなるへし。こゝにをたといふに大門とかける、こゝろえかたし。もしこれは水門とかきて、みなとにや。家のあたりみゆとあるは、かんなをつけあやまれるなり。これまての六首は、石見の國へ下らるゝ時の哥なるへし。そのゆへはつくしへ下らるゝ時の哥は、下に別は二首あるゆへなり
 
255 天離夷之長道從戀來者自明門倭島所見《アマサカルヒナノナカチヲコヒクレハアカシノトヨリヤマトシマミユ》 一本云|家門當見由《ヤトアタリミユ》
 
今按從はゆ〔右○〕ともよむべし、倭島はたゞ大和の國なり、大和は伊駒山のつゞき南北に亘て見ゆべきにあらねど、そなたを見やるほどになれば心を歌の習なればかくはよめり、一本にはヤドアタリ見ユとさへよめるにて知るべし、倭島名所ならぬ證は此卷下に至て笠金村敦賀にてよまれたる歌の反歌にも、懸てしのびつ大和島根をとあり、第十五には豐前にしてよみ、第二十には奈良の京にしてよまる、それは※[手偏+總の旁]じて此國をいへり、但播磨國風土記云、明石驛家駒手御井者、難波高津宮天皇之御世、楠生2於其上1、朝日蔭2淡路島1、夕日蔭2大倭嶋根1云云、此によれば大倭嶋あるか、されども此風土記信じ難し、其故は明石より南に當れる淡路島にいかでか影の至るべき、又淡路島に陰の至る木ならば明石の東北五六里にもや倭島はあるべき、東北に當らば(18)嶋と云ふべからず、仮令あるとも難波を指して漕舟なればたゞ難波の方の見ゆるをぞ悦ぶべき、此歌は筑紫より上らるゝ時の歌なるべし、又今按注の中家門の門は能の字或は乃の字を誤るか、第十五には伊敝乃とある故なり、
 
初、天さかるひなのなかちをこひくれはあかしのとよりやまとしまみゆ
あまさかるはこゝには天離とかけり。又天放天疎なともかけり。ひなは田舍をいふゆへに都の方より遠くさかり身たれは、あまさかるといへり。天の字はいつくもともに天をいたゝきて居るゆへにいへり。此集にひなさかるともよみたり。文選王子淵聖主得賢臣頌曰。今臣僻在西蜀。史記張儀列傳曰。今叉蜀西僻之國、而戎〓之倫也。陶淵明雜詩曰。心遠地自偏。神代紀下に、下照姫の哥にも、あまさかるひなつめの云々。仲哀紀に神託の詞にも、天疎向津媛命焉云々。和漢ともにさかるは遠さかるなり。天原ふりさけみれはなといふ、さくるといふ詞もおなし。かの字をにこりて天のひきくさかれるといふ説は用へからす。古詩に相去萬餘里、各在天涯。今のあまといへる、この心なり。こひくれはを後にはこきくれはとあらためられて、皆人もさのみおほえたれと、下の句をみる時、こひくれはこそ心はふかく侍れ。石見よりはしめて都へのほらるゝ時の哥は、第二に載て、すてに注しぬ。これは筑紫へ下りてのほらるゝ時、前妻後妻はいつれにか侍らん、妻にわかれ、なれし都ををきての事なれは、いつかとくやまとへ歸りつかんとこひ/\てくるに、あかしのとよりやまとのかたのみゆるをよろこふ心、こひくれはといふ詞にてめつらしさもうれしさもいはすしてきこえ侍り、此やまと嶋といへるを、昔よりはりまにさいふ名所のあるかとおもひ、類字抄に淡路に載たる、ともにあやまりなり。つくしへ下らるゝ時の歌にも、やまとしまねはとあれは、明石の門といひ、稻見の海とよみあはせたるによりて、まとへるなり。やまとの國なる證は、此卷下に至りて、笠朝臣金村、角鹿津にてよまれたる哥に、玉たすきかけてしのひつやまと島根をといへり。いはんや反哥に、こしのうみのたゆひのうらをたひにしてみれはともしみやまとおもひつ。此歌はやまとゝのみいひて、島といはす。第十五に豐前國下毛郡分間浦にしてよめる哥にも、うな原のおきへにともしいさる火はあかしてともせやまとしまみんとよめるは、みなやまとの国なり。やまとはいこまの峯つゝき、南北にわたりてみえねと、そなたちかくみゆるを歌のならひ、まことにみゆるやうによむとも難すへきにあらず。そのうへ神代紀上云。及至産時、先以淡路洲爲胞、意所不快、故名之曰淡路洲。廼生大|日本《ヤマト》豐秋津洲云々。疏云秋津一洲云々。かゝれは、やまと嶋といふには、つの國かほちもこもれは、昔になすらへてみゆともいふへし
一本に、やとあたりみゆといへる、初に尺するかことし。第十五には、家のあたりみ喩とあり。門の字はのゝ字のあやまれるなるへし
 
256 飼飯海乃庭好有之苅薦乃亂出所見海人鉤舩《ケヒノウミノニハヨクアラシカリコモノミタレテイテミユアマノツリフネ》
 
飼飯海は越前なり、古事記中神功皇后の段に云、於是御子令v白2于神1云、於v我給2御食之魚1、故亦稱2其御名1號2御食《ミケ》津大神1、故於v今謂2氣比大神1也、これ應神天皇未た品陀皇子にておはしましける時氣比宮へ詣給ひけるに、大神皇子の爲に入鹿を多くよせて奉らせ給へる時の事なり、日本紀には笥飯とあるを此集には第十二にも今の如くかけり、ニハヨクとは風波なくなぎたる日を舟人の詞にいへり、苅薦は亂るゝ物なれば、集中後にも思ひ亂れてなどあまたつゞけたり、古事記|木梨輕《キナシカルノ》太子(ノ)歌云、加理許母能美陀禮婆美陀禮《カリコモノミダレバミダレ》云云、宇流波斯登佐泥斯佐泥弖婆《ウルハシトサネシサネテバ》佐泥斯佐泥弖婆、清少納言に舟をいへる所にもこと舟見やるこそいみじけれ遠きは誠に篠の葉を作て打散したるやうにぞいと能似たるとかけり、鉤はさきにも云ふ如く釣にや、
 
初、けひのうみのにはよくあらしかりこものみたれていてみゆあまのつりふね
飼は笥のあやまれるなるへし。日本紀にも笥の字なり。由緒はしらねと、文字のつゝき、筍にもる飯の心にてつけたる名たるへし。越前國敦賀郡なり。にはゝ、海上にて日よりのよきをいへり。苅こもはみたるゝ物なれは、みたるといふにつゝけんためなり。第十二にも、草枕旅にしをれはかりこものみたれて妹にこひぬ日はなし。古今集にも、かりこものおもひみたれて我こふと妹しるらめや人しつけすは。また釣をあやまりて鉤に作れり。和名集云。唐韻云。〓〓【責猛二音。和名豆利布禰】小漁舟也。今此歌によりてみるに、人丸、越前へもおもむかれけるにや。後の人こそ二首三首より五十首百首も、あるひは一字題あるひは結題なとにてよめは、見ぬさかひ、しらぬ所をおもひめくらさぬ事なくはよむなれ。昔の人はおほくはその所にのそみてよみ、物によすれとも、いとはるかなる所おほかたよます。いはんや此歌は眠前にみてよめる歌なれは、外にかんかふる事なしといへとも、越前におもむかれたりとしらる。こゝに一本と注するにも、第十五にも、むこの海のとあれは、前の歌に、あかしのとよりやまと嶋見ゆと下うれしく漕つゝくれは、むこの浦のあまともゝ、にはよしとにやまきちらしたるやうにつりふねの出たると、次第もよくつゝけと、第十五に注して、柿本朝臣人麿歌曰。けひのうみとあれは、二首ははなれたる歌なり
 
一本云|武庫乃海舶爾波有之伊射里爲流海部乃釣舩浪(19)上從所見《ムコノウミニハヨクアラシイザリスルアマノツリフネナミノウヘユミユ》
 
此歌玉葉雜二に武庫の浦の泊なるらしと載せらる、今此舶の字用なきに似たれば、古本泊にて泊ニハナラシなりけるを誤て舶に作りたるにや、仍第十五新羅使の誦せる古歌を考ふるに、爾並余久安良之とありて注に人麿歌曰とて初のけひの海とよめる歌此第二句を殘して引きたれば彼を證とすべし、泊に作るも非なり、又今按珠藻苅敏馬乎過と云歌より此方稻日野毛去過勝爾と云歌の注を除て一本云とある四首の注は、後人第十五を見て意を得ず此に注せるか、其故は新羅の使或は句を替へ、又飼飯海などは時に叶はねば武庫の海と改め、第一のあみの浦と云ふも其定に安胡乃宇良爾と誦しける故に彼卷に柿本朝臣人麿歌曰とて一々に注せり、彼時に叶へて仮に誦したるを以て撰者何ぞ此に注せむや、君子これを思へ、
 
鴨君足人香具山歌一首并短歌
 
作者の系圖未v詳、
 
(20)257 天降付天之芳來山霞立春爾至婆松風爾池浪立而櫻花木晩茂爾奥邊波鴨妻喚邊津方爾味村左和伎百磯城之大宮人乃退出而遊舩爾波梶棹尾無而不樂毛已具人奈四二《アモリツクアマノカクヤマカスミタチハルニイタレハマツカセニイケナミタチテサクラハナコノクレシケニオキヘニハカモメヨハヒヘテヘツカタニアチムラサワキモヽシキノオホミヤヒトノタチイテヽアソフフネニハカチサホモナクテサヒシモコクヒトナシニ》
 
木晩、【幽齋本作2木之晩1、】 鴨妻喚、【幽齋本又云、カモノツマヨビ】 退出而、【紀州本云、マカリテヽ、】
 
天降付はあめふりつくを米布の反牟なるを三五相通してアモリとはいへり、十九等には安母里とかけり、博物志云、泰山一曰2天孫1、言爲2天帝孫1也、主v召2人魂魄1、東方萬物始成、知2人生命之長短1、カグ山も此に准へて知るべし、霞立はカスミタツともよむべし、木晩茂爾とは青葉の茂りて木ぐらきなり、唐李嘉祐詩云、江花舗2淺水1、山木暗2殘春1、鴨妻喚は鴨のめを呼ぶと云心に點ぜるか、鴎の呼ぶと云心か、六帖には鳧の歌の中に鴎の歌をも入れたり、今按下の或本歌にも同じさまに書きたれば、鴨の妻を喚ぶなるべければ鴫ツマヨバヒとも和すべきか、梶棹モナクテ、韋應物詩云、野渡無v人船自横、鄭巣詩云、秋萍滿2敗船1、これら同じ感情あり、
 
初、あもりつく天のかく山
あもりつくは、あめふりつくなり。天くたりつくといふこゝろなり。米布切牟なれはあむりつくといふへきを、きゝのよろしからねは三五を通してあもりとはいへり。この集末にいたりて、第十九に家持のよめる長歌に、安母里麻之といへり。前後のつゝきなかけれはこゝにひかす。かく山は神代より名高き山なり 神代紀上云。亦以香山之眞坂樹爲鬘云々。風土記曰。天上有山、分而墮地、一片爲伊與國之天山、一片爲大和國香山。もろこしにもかゝることあり。博物志曰。泰山一曰天孫、言爲天帝孫也。主召人魂魄、東方萬物始成、知人生命之長短。あもりつくといへは、天上に有ける山のあまくたりけるなるへし。木のくれしけにとは、わかはのしけりて木くらくなるといへり。李嘉祐詩曰。江華錦淺元、山水暗殘春。鴨妻喚。かものつまをよふなり。あちといふ鳥ほおほく打むるゝものなれは、あちむらさはきとおほくよめり。たちいてゝあそふ舟には。韋應物詩曰。野渡無人船自横。鄭巣詩云。秋萍滿敗船
 
反歌二首
 
(21)258 人不榜有雲知之潜爲鴦與高部共舩上住《ヒトコカスアラクモシルシイサリスルヲシトタカヘトフネノウヘニスム》
 
潜爲は今按カヅキスルとよむべし、和名云、潜女、【加豆岐女、】イサリとは此集にもよめる例なし、高部は和名云、爾雅集注云、※[爾+鳥]、【音彌、一音施、漢語抄云、多加閉、】一名沈鳧、貌似v鴨而小、背上有v文、
 
初、潜爲
かつきすとよむへし。高部は、和名集云。爾雅集注云※[爾+鳥]【音彌一音施、漢語抄云多加閉】一名沈鳧。貌似鴨而ヽヽ背上有文
 
259 何時間毛神左備祁留鹿香山之鉾椙之本爾薛生左右二《イツシカモカミサヒケルカカクヤマノムスキカモトニコケムスマテニ》
 
香山之、【官本又云、カコヤマノ、同本或作2香久山之1、】 鉾※[木+温の旁]之、【官本又云、ホコスキノ、】 薛生、【官本又云、コケオフル、】
 
發句は今按イツノマモとよむべきか、其故は何時を此集にイツとよみ.何時鹿などかきてイツシカとよめる時も何時はいつなり、何の一字をイツとよめる事なし、いつのまもは、いつのまにかもなり、神サビ、此所にては物ふりたる心也、鉾※[木+温の旁]はホコスギとよめるに依るべし、※[木+温の旁]は直き木にて、鉾を立てたるさまに見ゆればなり、※[木+温の旁]の字は和名杉の字の下の注に云、今按俗用2※[木+温の旁]字1非也、※[木+温の旁]音於粉反、柱也、見2唐韻1、昔は通して此字を用ひたるか、顯宗紀云、石上振之神※[木+温の旁]、【※[木+温の旁]此云2須擬1、】此集第十九にすぎの野て云所の名にも此字を用ひたり、歌の心は、香山の杉の代を經て苔むしたるやうに、いつの間にか此繁華なりし處のかくまでは物古りつらんとなり、
 
初、鉾※[木+褞の旁]
ほこすきとよむへし。むすきとよみたれとも、音によみてこゝろは和訓を用る事ことはりたかへり。杉のたてるかなをくて、ほこのやうなれはほこすきといふなるへし。※[木+褞の旁]の字を椙につくれるはあやまれり。※[木+褞の旁]の字、すきとよむ事、和名集にも未詳とあれともそのかみかんかふる所ありけるにや。日本紀にもおなしく用たり
 
(22)或本歌云
 
260 天降就神乃香山打靡春去來者櫻花木晩茂松風丹池浪※[風+火三つ]邊津返者阿遲村動奥邊者鴨妻喚百式乃大宮人乃去出※[手偏+旁]來舟者竿梶母無而佐夫之毛榜與雖思《アモリツクカミノカクヤマウチナヒキハルサリクレハサクラハナコノクレシケミマツカセニイケナミタチテヘツヘニハアチムラサワキオキヘニハカモメヨハヒテモヽシキノオホミヤヒトノユキイテヽコキコシルフネハサヲカチモナクテサフシモコカムトオモヘト》
 
打靡は春の枕詞にて集中に多し、霞む意なるべし、今按六帖にも此集の他の歌を載するにうちなびきとあり、後の人もさよみたれどウチナビクと點ずべし、其證は第五第二十に有知奈※[田+比]久波流《ウチナビクハル》、宇知奈妣久春《ウチナビクハル》などあまた所かけり、こゝの如く書けるも多し、皆假名にかけるを證としてよむべし、打なびく春とつゞくは春の枕詞と聞え、打なびきど云つれば押なべてと云ふやうなれば、春ならで秋冬にもつゞけぬべし、鴨妻喚は上の如し、榜與雖思は舟を榜出て遊ばむと思へども、ありし昔を思へば物がなしくてさるわざもせずとなり、榜は和名に佐乎とあるをコグとよむは、水手はかこなるをこぐともよめる加く、佐乎は舟を行《ヤ》る具なれば義訓せるなり、
 
(23)右今案遷都寧樂之後怜舊作此歌歟
 
此は香具山歌といへども舊都を感じたる讀みやうなればかくは注せられたり、其に取て香具山宮は第二卷人麿の歌に高市皇子尊の造らせ給ふ由よまれたれば、此はそれをよめるにはあらで、藤原都なりし時は官人も香久山に登り埴安池に臨みなどして遊びし事を思ひてよめるなるべし、
 
柿本朝臣人麻呂獻新田部皇子歌一首并短歌
 
天式紀云、藤原大臣女氷上娘弟五百重娘、生2新田部皇子1、聖武紀云、神龜五年秋七月、勅2一品大將軍新田部親王1授2明一品1、七年九月壬午、一品新田部親王薨、天渟中原瀛眞人天皇之第七皇子也、
 
初、新田部皇子
天武紀云。天式紀云。藤原大臣女氷上娘弟五百重娘、生新田部皇子。聖武紀云。神龜元年二月、二品新田部親王授一品。五年秋七月、勅二品大將軍新田部親王授明一品。天平三年十一月丁卯、初置畿内惣管諸道鎭撫使以一品新田部親王、爲大惣管、從三位藤原宇合、爲副惣管。天平七年九月壬午一品新田部親王薨○
 
261 八隅知之吾大王高輝日之皇子茂座大殿於久方天傳來自雪仕物徃來乍益及常世《ヤスミシシワカオホキミノタカテラスヒノワカミコノシケクマスオホトノヽウヘニヒサカタノアマツタヒコシユキシモノユキヽツヽマセトコヨナルマテ》
 
茂座、【幽齋本云、シキイマス、別校本云、シキマセル、】
 
(24)茂座は今按反歌に依るに此上に二句許り落ちたるか、今私に補て云はゞ、釣山嶺之木立登などの意なるべし、大殿をホホトノヽと點ぜるは書生の誤なり、オホトノヽと改むべし、此大殿といへるは反歌によるに矢釣山の山本にある親王の宮なるべし、久方夫傳來自は天傳は日の異名なり、第二に天傳入日刺奴禮とあるに付て注せしが如し、凡第二第七第十三第十七今と五處に天傳といへるは皆日に付ける詞なり、來自は不來なり、山に礙られて、日影のあたらじとなり、然れば於の字の點をウヘハと改むべし、雪仕、折節冬にて雪もふれゝばななり、往來乍益と云はむ料にて日の當らぬ雪は久しく殘れば及常世とよそへて祝ひ奉れり、往來ツヽとは年月なり、第九に詠仙人形歌に常之陪爾夏冬往哉とよめるが如し、遊仙窟に安隱をマセとよめり、今のマセも其意なり、
 
初、茂座
しけくますはあやまれり。しきませるとよむへし。雪しものは雪といふ物なり。ませはましませなり。遊仙窟に、安穩をませとよめり
 
反歌一首
 
262 矢釣山木立不見落亂雪驪朝樂毛《ヤツリヤマコタチモミエスチリマカフユキモハタラニマヰテクラクモ》
 
第十二には矢釣河ともよめり高市郡なり、顯宗紀云、乃召2公卿百寮於近飛鳥八釣宮1即2天皇位1、古事記には八瓜《ヤツリ》とかけり、或者云、八釣宮は山田村と大原の中路、大原より(25)四町ばかり北に當りて俗にやどり村と云此なりといへり、然れば其邊の山なるべし、落亂はフリマガフともチリミダルともよむべし、下句は古點ユキノウサギマアシタタノシモなりけるを仙覺今の點に改められたる由彼抄に見えたり、今按上句古點はイコマヤマコダチモミエズチリミダレなりけるを今の如く改められたるは仙覺の功なり、ハタラはまだらなり、下句は新古の點共に意得がたし、先づ古點に驪をウサギマとよめるは思ふに驪の字誤れる歟、次に新点にハタラとよまれたるは如何なる字書によられたるか、和名云、毛詩注云、驪、【音離、漢語抄云、驪馬、黒毛馬也、】純黒馬也、又設文にも馬深黒色と注す、はたらはまだらなれば馬斑毛など云注あらばこそハタラとは和せめ、集中に雪をハタレ、ハタラなどよめる事多ければ推量にて點ぜられたるにや、今按ユキニクロコママヰテクラクモと和すべきか、水碧鳥逾白と云ふが如く雪の白妙なるにあひて黒駒のいとゞ黒く見えむに騎てまゐで來むは眞ありぬべし、
 
初、矢釣山
此集にやつり河ともよめり。顯宗紀云。乃召公卿百寮於近飛鳥八釣宮、即天皇位。雪もはたらは、またらなり。はたれはたらにおなし。雪のはたれにふるにもまいりきてつかふとなり。雪もはたらの、あしたゝのしもとよむともたかふまし
 
從近江國上來時刑部垂麿作歌一首
 
作者の系譜未v詳
 
263 馬莫疾打莫行氣並而見?毛和我歸志賀爾安良七國《ウマナイタクウチテナユキソイキナメテミテモワカコムシカニアラナクニ》
 
(26)氣並而は今按ケナラヘテと和すべきか、後に日並而夜ならへてと云詞あり或は第二の磐城皇后の御歌に付て注する如く旅をいへば度々來て見て歸るべき我にてもなければ、馬をな打て催しそ、今暫心とめて見むとなり、歸はカヘルともよむべし、コムとよめるもたがはず、
 
初、いきなへて
これは馬をならふれは馬のいきもならひてつくゆへにいふなるへし。此下に、田口廣麿死之時、刑部垂麿作歌とて載たる歌をみれは、得意の人と見えたり。もしその事なとを感してもよめるにや。第二に大伯皇女の、なにゝかきけん馬つからかしにとよみたまへるに似たり。歸の字かへるとよむへし
 
柿本朝臣人麻呂從近江國上來時至宇治河邊作歌一首
 
264 物乃部能八十氏河乃阿白木爾不知代經浪乃去邊白不母《モノヽフノヤソウチカハンアシロキニイサヨフナミノユクヘシラスモ》
 
網代は氷魚を取る所なり、四の角に立たる柱網代木なり、イザヨフは徘徊と書けり、ヤスラフともよめり、たゞ流れにながるゝ所よりは網代木にふれて少やすらふ心なり、人の世の生住異滅の四相の中に暫く住するよと思ふに程なく異相に遷され行くを水の網代木にふれて暫やすらふと見ゆるがやがて流過ぐるに感じてよまれたり、第七に同じ人、みなわの如し世の人我は、又みなわの如く世をば我見るとよめるに合せて見るべし、論語云、子在2川上1曰、逝者如v斯不v舍2《トヽメ》晝夜1、志邊は六帖にも袖中抄にもよるべとあれど今の點に從ふべし、
 
初、ものゝふのやそうち川――
ものゝふは氏姓おほきものなれは、やそうち川とつゝけたり。八十は數のかきりにて、おほきことには皆やそと讀り。また此集に只ものゝふのうち川わたりともよめり。これはものゝふはみな氏姓あれはなり。舊事紀に、天孫あまくたり給ふ時に、兵杖を帶して供奉して、天の物部廿五部人下れり。當麻物部、芹田物部、馬見物部、久目物部、足部等なり。そのものゝふの末々相わかれては、數しらぬものゝふなるへし。應神天皇の御時、吉野よりものゝふ參れり。其名をやそ氏と申と奏す。みかとそれに所を給りて宇治に住しめたまふ。よりてものゝふのやそうち川とはいふなりといへる説は、とるにたらぬことなり。歌の心は、うち川のいさきよくおもしろきにのそみて、なかめを、興きはまれは、かなしみたるならひにて、あしろ木のもとにしはしいさよふとみゆる浪の、ゆくゑもしらすなるに感して、人の世にふるほともこれにことならぬよと觀するなり。論語曰。子在川上曰。逝者如斯夫、不舍晝夜。今の歌此心なり。昔より此詞を孔子の逝川の歎とて、詩文にもその心を心を用きたるを、宋儒にいたりて、自漢以來、儒者皆不識此義とて、物生してきはまらぬ喩にこゝろをとれり。孟子に、徐子曰。仲尼丞稱於水、曰水哉水我、何取於水也。孟子曰。原泉混々不舍晝夜、盈科而後進放於四海、有本者如是、是之取爾。これは宋儒のいへるに似たれとも、聖人の喩を取こと、なんそ一隅を守らん。すてに逝者如斯夫といへり。生々の窮なきをいはんとてならは、此發端の詞かなはすや。春秋の微言にいたりては、游夏の輩も一字をたすくる事あたはされは、春秋にあらすとてかろ/\しく語を下さんや
 
長忌寸奥麻呂歌一首
 
(27)265 苦毛零來雨可神之埼狹野乃渡爾家裳不有國《クルシクモフリクルアメカミワノサキサノノワタリニイヘモアラナクニ》
 
雨カは雨かななり、神之埼を古來大和の三輪の明神おはする所と沙汰し來れど、彼邊に狹野の渡と云所も聞えず、又彼地は家などまたくなき所にもあらず不審なり、今按第七に紀の國の名所を前後よみたる中に、神前《ミワノサキ》あらいそもみえずとよめる歌あり、又此卷下に至て赤人の歌に、佐農能崗將超公爾《サノヽヲカコユラムキミニ》とよめる所は紀州にありと定たるに、神武紀云、遂越2狹野1到2熊野神邑1、かゝれば彼是紀州と思しき上に、或僧の紀州に縁ありて度々徃來せしが語り侍りしは、熊野より西の海邊にみわさき、さのとて兩處つゞきて侍ると申しき、彌疑なき事なり、神邑もみわのむら、みわのさとなど云ふにてもや侍らむ、
 
初、くるしくもふりくる雨かみわのさきさのゝわたりに家もあらなくに
雨かは、あめかなゝり。此みわのさきを大和のみわといひきたれと、さのゝわたりといふところもきかねは、みわのさきといふにつきて、三輪の明神まします所ならんとおもひていへるなるへし。それならは、みわの山にてこそあらめ、みわのさきといへるもおほつかなし。今案、是はふたつなから紀州の名所なり。ある僧の、紀州に縁ありてたひ/\まかりけるかかたれるは、熊野にちかき海へにみわさきといふ所ありて、やかてとなりてさのといふ所あり。ともに家もあまたある所なりと申き。これによりておもふに、第七卷に、神前あらいそも見えす浪たちぬいつこよりゆかんよき道はなしに。此哥のまへにあまた紀の國の名所をつゝけてよみて、さて此歌につゝきたれは、かの或僧のかたりしみわさきなるへし。此卷下に至て、赤人の歌に、秋風の寒きあさけをさのゝ岡こゆらん君にきぬはかさましをとよめるは、牟漏郡なりとさたむ。そのうへ、日本紀第三云。遂越狭野到熊野神邑。しかれはおきまろ、熊野なとにまうつる道なとに、雨にあひてよまれけるなるへし
 
柿本朝臣人麻呂歌一首
 
266 淡海乃海夕浪千鳥汝鳴者情毛思努爾古所念《アフミノウミユフナミチトリナカナケハコヽロモシノニイニシヘオモホユ》
 
夕浪千鳥とは夕浪につれて立さわぐ千鳥なり、シノニとはしげくなり、心モとは夕浪子鳥のさわぎのしげきに懸ていへり、古所念とは第一卷にありし長歌の如く近(28)江の宮の昔をしのぶなり、上のいざよふ浪も千鳥網代同時の物なれば此歸るさによまれけるなるべし、
 
初、心もしのに
しけくなり。いにしへおもほゆは、天智天皇の御時なり
 
志貴皇子御歌一首
 
267 牟佐佐婢波木末求跡足日木乃山能佐都雄爾相爾來鴨《ムサヽヒハコスヱモトムトアシヒキノヤマノサツヲニアヒニケルカモ》
 
ムサヽビは※[鼠+吾]鼠なり、別に注す、木末は此集後の例コヌレとよむべき歟、古乃宇列と云べきを乃宇反奴なれば約めて、コヌレと云ふなり、山ノサツヲは※[獣偏+葛]師なり、此歌はむさゝびの取れたるを御覧じてなどよませ給へるか、又人は物に求あるより禍の出來る事もあればさやうの事に思食すゆゑありてよみ給へるか、又按ずるに上の垂麿歌より下門部王歌に至るまで旅にてよめるを一類とすと見えたれば、是も旅にて御覽じける事をよせたまへるか、若くは次の長屋王と人がらを類するか、
 
初、むさゝひは。和名集云。本草云、〓鼠【上音力水反、又力追反】一名〓鼠【上音吾、和名毛美俗云無佐々比】兼名苑注云。○〓鼠飛生五枝鼠なとゝもいふ。五|枝《キ》あれともいつれも長せぬゆへに常にうゆれは、朗詠集にも、飢〓性躁〓々乳とつくり、山谷か詩にも、五枝〓鼠笑鳩拙とも作れり。此集第六第七にまた讀り。よき梢もとむとて、さつをに見つけられてとらるゝなり。さつをはさきに、はや人のさつまのせとゝいふ歌に注せるかことし。かり人なとをもいふ。今はそれなり
 
長屋王故郷歌一首
 
268 吾背子我古家乃里之明日香庭乳鳥鳴成島待不得而《ワカセコカイニシヘノサトノアスカニハチトリナクナリシママチカネテ》
 
右今案從明日香遷藤原宮之後作此歌歟
 
(29)此セコは妻なり、長屋王の妻は草壁太子の御女吉備内親王にて文武天皇の御妹なり、第十一に鶉鳴人の古家《イニシヘ》にともよめり、昔と云ふのみならずいにしいへにて故郷の心なるべし、島は河の洲なり、千鳥は河洲に遊ぶものなるに、水などまさりて河洲の隱れたる時は、居處なきまゝに其島の出來るを待かぬるなり、明日川近き家のふるさとゝ成て人影もなければ、島待千鳥の所得がほに庭などに來て鳴くなり、注の今按誠に然るべし、我ふるさとゝはのたまはで吾背子がとあるは歌なり、
 
初、わかせこかいにしへのさとのあすかにはちとりなくなり嶋待かねて
此せこは妻なり。いにしへの里はふるさとをいふ。此集に、うつらなく人のいにしへにとよめる歌もあり。こゝにも古家とかけは、昔といふ心より外に、いにしへといふ心あるか。嶋は河の洲なり。ちとりは河洲のかくれたる時は居所なきまゝに、その嶋の出來るを待かぬるなり。わかせこかすみし明日香川ちかき家の、ふるさとゝなりて人影もなけれは、河洲を待かぬるちとりの、所得かほに庭なとにきてなくなり。注の今案、さも侍るへし。わかふるさとゝはのたまはて、わかせことのたまへるおもしろし。長屋王の妻は、草壁の太子の御女.吉備内親王なり
 
阿倍女部屋部坂歌一首
 
屋部坂は大和にあるべし、三代實録第三十七云、高市郡夜部村云云、此處歟、未2考得1、此端作舊本に上の注に引續けてかけるは誤なり、
 
初、阿部女郎屋部坂歌一首
屋部坂いつれの國ともしらす
 
269 人不見者我袖用手將隱乎所燒乍可將有不服而來來《シノヒニハワカソテモチテカクサムヲヤケツヽカアラムステキニケリ》
 
發句の讀やうは義訓なり、第十二にもあり、此歌は意得がたき歌也、推量するに屋部坂歌とあれども旅に出づとて屋部坂にてよめるなるべし、此坂を越て彼方に下らば故郷さへ見えじと思ひて顧る時、さらぬだに墓なき女の心に此所を限りとなが(30)めやれば思ひに戀に胸もやくるばかり悲しければ、さすがにそれも人目を耻らひて、衣だにあまたもてこましかば厚く取著て胸の火をもつゝみ隱して行くべきに、衣もあまたは著てこねば燒ともやけながら得隱さでや行かむと別れのやるかたなさをよめるにや、第二に持統天皇の、もゆる火も取てつゝみてとよませ給ひ、第十二に衣しも多くあらなむ取替て、著てばや人の面忘るらむとある歌など引合せて見るべし、
 
初、しのひにはわか袖もちてかくさむをやけつゝかあらんきすてきにけり
これは心得かたき歌なり。推量するに遠き旅なとに出とて、屋部坂にいたりてこゆる時、此坂をこえはてゝかなたに下らは、ふるさとさへ見えしとおもひてかへりみる時、さらぬたにはかなき女の心に、こゝをかきりとなかめやれは、おもひにこひに胸もやくるはかりかなしけれは、さすかにそれも人めをはちらひて、衣たにあまたもてこましかは、あつくとりきてむねの火のもえ出とも、つゝみかくして行へきに、衣もあまたはきてこねは、やくともやけなから得かくさてやゆかんと、わかれきてふるさとさへ見えすなるへきおもひの、やるかたなさをよめるなるへし。第二に、もゆる火もとりてつゝみて袋にはいるといはすやおも知なくも。又此後に、衣しもおほくあらなん取かへてきてはや人のおもわすれなん。これらをもて見合すへし。屋部坂の歌とあれとも、屋部坂にしてよめる歌と意特へし
 
高市連黒人※[羈の馬が奇]旅歌八首
 
270 客爲而物戀敷爾山下赤乃曾保舩奥※[手偏+旁]所見《タヒニシテモノコヒシキニヤマモトノアケノソホフネオキニコクミユ》
 
山下は仙覺云、地名なり、筑後國にあるにや、今按下の七首のつゞきを見るに東海道の内尾張より次第に都の方へ歸る歌なれば、尾張守の屬官などにて任はてゝ上る時よめる歟、此歌も筑後の山本郡にはあるべからす、たゞ常の山本なるべし、赤ノソホ舟は赤くぬりたる舟なり、後にもよみ、又あからを舟、さにぬりの舟などもよめれば別に注す、さらぬだに旅の身にして物戀しきに、礒邊の山もとより朱のそほ舟の奥にこぎさかるを見るにも由ある人の別を重ずるや乘つらむなど思ひやる心な(31)り、
 
初、旅にして物こひしきに山下のあけのそほふねおきにこくみゆ
舟をぬりていろとれるすこしき舟をあけのそほふねといへり。第十三第十六にもよめり。さらぬたに旅にしては心ほそくて物こひしきに、磯邊の山もとよりよしある人の乘けなる朱のそほ舟のおきにこきさかるをみるにも、我とおなしく離別をおもむする人や乘つらんなと、おもはぬ事なくかなしき心をいへり。又山下は此集に、山下ひかりにしきなすとよめるも秋山の下ひか下とあるも、下ひは下ひかる心にて、もみちと聞ゆれは、あけをもみちになしてつゝけんとて山下といふ歟
 
271 櫻田部鶴鳴渡年魚市方塩干二家良進鶴鳴渡《サクラタヘタツナキワタルアユチカタシホヒニケラシタツナキワタル》
 
櫻田、紀國と云説あれど、年魚市方、尾張なればつれて尾張なるべし、景行紀云、初日本武尊、所佩《ハカセル》草薙横刀、是今在2尾張國|年魚市《アユチ》郡熱田社1也、和名集云、尾張國愛智【阿伊知、】郡、催馬樂云、櫻人其舟ちゝめ島津田を、十町《トマチ》作れる見て歸り來む、櫻は地の名にて、櫻人と云ふは難波人の類なるべし、其舟といひ嶋津田といへるは、櫻は田多き嶋にて今櫻田と云へると同處にや、
 
初、櫻田へたつなきわたるあゆちかたしほひにけらしたつ鳴わたる
此櫻田を紀伊の國なりといへるはあやまれり。あゆちかた尾張なるうへは櫻田もをはりなり。神代紀云。其※[虫+也]飲酒而素戔嗚尊拔剱斬之。至尾時、剱刃少缺。割而視之、則剱在尾中、是號草薙。此今在尾張國吾湯市村、即熱田祝部所掌之神是也。景行紀云。初日本武尊所佩草薙横刀、是今在尾張國年魚市郡熱田社也。和名集云。尾張國愛智【阿伊知】郡。ふたゝひたつなきわたるといへるは、古歌例おほし。丁寧なるゆへなり
 
272 四極山打越見者笠縫之島※[手偏+旁]隱棚無小舟《シハツヤマウチコエミレハカサヌヒノシマコキカクルタナヽシヲフネ》
 
四極山を八雲には備前と載せ給ひ、近比の類字名所抄には豐後|大分《オホイタ》【於保伊多、】郡に載す、考ふる所ありけるにや、笠縫を古今には笠結とあり、八雲に笠縫は豐前に、笠結は豐後に載せたまへり、類字には笠結豐後大分郡と注す、和名に大分郡に笠祖笠和など云所あれば、笠縫と名づくるも故ありけるにや、今按此歌前後を引合せて案ずるに東海道の内參河尾張より此方をよめる中に此歌のみ西海道をよまむこと不審な(32)り、和名集云、參河國|幡豆《ハツ》郡磯泊、【之波止、】是今の四極と同じき歟、然らば笠縫島も知るべし、孝徳紀に河邊臣磯泊と云人あり、又住吉にも磯齒津あり、第六卷に見ゆべし、
 
初、しほつ山うちこえみれは
しほつ山笠ぬひの嶋を、八雲御抄には、豐前に載たまひ、ある物には豐後といへり。古今集第二十には此歌をのするに、かさゆひの嶋とありて、かさぬひかさゆひ、兩方なから用ゆ。いかにしてかさぬひと名付とはしらねと、かさゆひはうたひあやまり、かきあやまれるなるへし
 
273 礒前榜手回行者近江海八十之湊爾鵠佐波二鳴《イソサキヲコキタミユケハアフミノウミヤソノミナトニタツサハニナク》 未詳
 
榜手回行者、【官本又云、コキテメクレハ、紀州本同v之、袖中抄云、コキマヒユケハ、】 鵠、【紀州本作v鶴、】
 
囘の字はタムとよみたれど上に手あれば玉葉等の訓然るべきか、コギテタミユケバともよまるべし、袖中抄の点は用ゆべからず、八十ノ湊はたゞ湊の多かるなり、第七に近江の海みなとはやそぢとも、亦十三に近江の海泊やそありともよめり、ひとつの名所とするは非なり、鵠は和名云、野王案鵠、【胡篤反、漢語抄云、古布、日本紀私記云、久久比、】大鳥也、かくはあれども亦鶴と通し用ゆるなり、史紀陳渉世家云、陳渉大息曰、嗟乎燕雀安知2鴻鵠之志1哉、【索隱曰、尸子云、鴻鵠之〓羽翼未v合而有2四海之心1、是也、鴻鵠是一鳥,若2鳳皇1、然非3鴻鴈與2黄鵠1也、鵠、音戸酷反、】五雜爼云、鵠即是鶴、漢書黄鵠下2建章1而歌、則曰2黄鶴1是已、歌の下の未詳の注は衍文か、今案漢書に依るに索隱は誤れり、鴻者雁之大者也、鴻は鶴、今案索隱に鴻鵠是一鳥といへるは誤れり、鴻鵠といへるにて燕雀に對す、遊仙窟注引琴操云、商陵穆子娶v妻云云、援v琴而歌爲別鶴操、鶴或作v鵠、文選劉孝標辨命論云、朝秀晨終、龜鵠千歳年之殊也、
 
初、いそさきをこきたみゆけはあふみの海やそのみなとにたつさはになく
玉葉集旅部には、こきてめくれはあふみちやと改らる。八十のみなとを所の名とおもへるはあやまれり。第十三に、あふみの海とまりやそあり、やそしまの島のさき/\なとよめるにて意得へし。鵠は、和名集云。野王案鵠【胡篤反、漢語抄云、古布、日本紀私記云、久久比、】大鳥也。いまは此こゝろにあらす、鶴なり。史紀陳渉世家曰。陳渉大息曰。嗟乎燕雀安知鴻鵠之志哉【索隱曰。尸子曰、鴻鵠之〓羽翼未合而有四海之心是也。鴻鵠是一鳥若鳳皇然。非鴻鴈與黄鵠也。鵠音戸酷反。】此索隱に鴻鵠是一鳥といへるは誤なるへし。鴻鴈を鴻鵠といへることを聞す。陳渉か詞も、燕と雀とのちひさき物ふたつをあけて、鴻と鵠とのおほきなる鳥ふたつに對して、およそ小人は大人の志をしらぬにたとふときこゆ。又尸子の鴻鵠といへるも、鴻鵠とふたつをいへるに妨なし。五雜爼云。漢書黄鵠下建章而歌、則曰黄鶴是已。遊仙窟注、引琴操曰。商陵穆子娶妻。○乃援琴而歌、爲別鶴操、鶴或作鵠。文選劉孝標辨命論云。朝秀晨終、龜鵠千歳年殊也。未詳と注したるは、黒人か歌に、決定せさる歟。もしは此二字衍文歟
 
(33)274 吾舩者牧乃湖爾※[手偏+旁]將泊奥部莫避左夜深去來《ワカフネハヒラノミナトニコキハテムオキヘナユキソサヨフケニケリ》
 
ヒラノ湊は近江なり、牧は枚に改むべし、枚は箇也と注して數なれば、何にても一つ二つと云ふをは一枚二枚とこそ云ふなるを、此國には紙板などのひらき物を一枚など云ひ習へり、古より然るにや、日本紀にも此字をヒラとよみ、延喜式に河内のひら岡をも枚岡とかけり、莫避は今按傍例に依るにナサカリとよむべし、或はサカルナとも、
 
初、わかふねはひらの――
牧は枚の字のあやまれるなり。河内のひらをかにも枚岡とかけり。枚は箇也と注して、數なれは何にてもひとつある物は、ふたつやある物は二枚とそいふめる。此國には俗語にもひらき物のたくひを、紙一枚板一枚なとやうにいひならはせり。こきはてむはこきとめんなり。莫避は、なさかりともさかるなともよむへし。さかるなといふことを、第五になさかりといへり
 
275 何處吾將宿高島乃勝野原爾此日暮去者《イツコニカワカヤトリセムタカシマノカチノヽハラニコノヒクレナハ》
 
吾將宿、【六帖云、ワレハヤトラム、】
 
高島は近江國の郡の名彼郡に別に高島あり、今の高島※[手偏+總の旁]別いづれといふ事を知らず、
 
初、高島のかち野は近江の高島郡なり
 
276 妹母吾母一有加母三河有二見自道別不勝鶴《イモヽワレモヒトツナルカモミカハナルフタミノミチニワカレカネツル》
 
妹と我と相思ふ心のひとつになりてふたつなければにやあらむ、三河のふたみに(34)ゆかむと思ひて別れむとするに別れかねけるとなり、二見を二身になしたるか、さらずともふたみと云名よりヒトツナルカモとはいへり、文選古詩云、以v膠投2漆中1、誰能別2離此1、今按自道はミチユともよむべし、
 
初、いもゝ我もひとつなるかも三河なるふたみのみちにわかれかねつる
いもとわれとあひおもふ心の、ひとつになりてふたつなけれはにやあらん。三河のふたみにゆかんとおもひてわかれんとするに、わかれかねけるとなり。ふたみといふ名よりひとつなるかもといへり。古詩云。以膠投漆中、誰能別離此。自道は、みちゆともよむへし
 
一本云|水河乃二見之之道別者吾勢毛吾毛獨可毛將去《ミカハノフタミノミチニワカルレハワカセモワレモヒトリカモユカム》
 
此歌によれば、黒人と妻と諸共に東路に出立て三河の二見と云所より道を替て別れけるか、又是は別本なればワガセといへるは前の歌の妹とは見ずして兄弟朋友と中路に別るヽ心にや、
 
277 速來而母見手益物乎山背高槻村散去奚留鴨《トクキテミテマシモノヲヤマシロノタカツキムラノチリニケルカモ》
 
山背は大和の國四面山なるに其北に當れば履中紀の心にて山のうしろと云ふをう〔右○〕を略したる名なり、延暦十三年七月より山城に改めらる、高槻村今は世に聞えぬにや、高き槻の木あるに依て名を得たるか、散とは槻のもみぢをいへり、
 
初、山背の高槻村
山しろは山うしろなり。あふみの國を山のおもてにして、山のうしろの國といふ義なるを.延暦十三年七月に、山城とはあらためてかゝれけるなり。高槻村いつれの郡といふ事をしらす。今高槻といふは津國なり。ちりにけるかもはもみちを惜むなり
 
石川少郎歌一首
 
(35)278 然之海人者軍布苅塩燒無暇髪梳乃少櫛取毛不見久爾《シカノアマハメカリシホヤキイトマナミツケヲクシヲトリモミナクニ》
 
髪梳、【新勅撰云、クシケ、校本又點同v之、】
 
シカ故築前糟屋郡なり、和名に志阿とあるは阿※[言+可]相通とて悉曇家に殊に習ある由なり、さらでも通ずればしかなるべし、仲哀紀云、又遣2礒鹿《シカノ》海人名草1而令v覩、軍布をめ〔右○〕とよむやう未v詳、今按混渾通用するを思ふに昆と軍と音近ければ昆布にや、昆布は和名比呂米、一名衣比須女なり、又軍中兵粮の羮の料にめをも藏めおくと申せば其心にや、第四の句仙覺抄に古點にはカミケヅリノヲグシと點ず、其和いたく長しとて大隅風土記を引てクシラノヲグシと和すべしと申されたれど、隼人の俗語を都人のよむべきにあらず、今の點はやさしけれど髪梳を黄楊とよむべき理なし、但伊勢物語につげのをぐしもさゝずきにけりと云ふは、今の歌をとりてよめりと見ゆれば、古も此歌をつげのをぐしとよみけるか、亦詞を替て用ひたるか知りがたし、くしげとよめるも櫛笥を髪梳とは書くべからぬにや、櫛入れぬ篋をもくしげと云ふは櫛笥を本として云ふか、假令桶を和語に乎介と云ふは麻笥《ヲケ》より初まる名なる故に神祇令に大神宮に奉る物の中に線柱水桶《タヽリヲケ》などいへり、麻筍を水桶とかゝれたる(36)にて知るべし、然れば今按梳の字もくしとよめばクシノヲグシモと讀べきか、櫛はけづる具なれば髪梳とも書くべきにや、後の人定むべし、
 
初、しかのあまはめかり――
日本紀第九云。又遣磯鹿海人名草而令覩。めを軍布とかけるはいまたかんかへす。軍昆音相近けれは、昆布なとにや。又あらめは軍中の兵糧にもそへてたくはへ置よしなれは、その心にてかけるにや。髪梳の少櫛は、くしけのをくしとよむへし。つけは黄楊とかきて、櫛つくる材なれは、髪梳とあるを黄楊とよまんは義あたらすして無理なり。伊勢物語に、なたのしほやきいとまなみとある歌はこれをとれり
 
右今案石川朝臣君子號曰少郎子也
 
元明紀云、和銅六年正七位上石川朗臣君子授2従五位下1、聖武紀云、神龜三年正月従四位下、此中間に所々見えたり、上に神龜年中少貳に任ずとあれば其時見る所をよまれたるなるべし、此注官本に朝臣までは今の如くにて下を少郎號曰君子也に作り、目録には名曰2君子1と注せり、何れ是非を知らず、今按君子は本名なるか、續日本紀に今皆君子とあり、元正紀に養老四年十月従五位上石川朝臣若子爲2兵部大輔1とあるは若君字相似たれば紀寫者の誤れるなるべし、然らば少郎は別號なり、若初に君子歌とかゝば此注あるまじけれど、古本に依て別號をかける故に此注はあれば、君子號曰2少郎1とは云べし、官本の如くは云まじくや、是も亦後の人に任す、少郎子の子は男子の通稱か衍文か、
 
初、注君子少郎
續日本紀にも、君子若子ならへてかけり。和銅六年正七位上石川朝臣君子授從五位下。養老四年正月、從五位上。養老四年十月、從五位上石川朝臣若子爲兵部太輔。靈龜元年五月、爲播磨守。養老五年六月辛丑爲侍從。神龜元年二月、正五位下。同三年正月、從四位下。此集をみぬ人、續日本紀を見は、君子若子は字の似たれは、今の板本誤おほきゆへにいつれそあやまれるならんとうたかひぬへし
 
高高連黒人歌二首
 
(37)次の高は誤なり、改めで市とすべし、
 
初、高市連黒人
市をあやまりて又高の字をつくれり
 
279 吾妹兒二猪名野者令見都名次山角松原何時可將示《ワキモコニヰナノハミセツナツキヤマツノヽマツハライツカシメサム》
 
名次山、【幽齋本亦云、ナスキヤマ、】
 
猪名野は河邊郡か、和名云、河邊郡爲奈といへり、但延喜式云、豐島郡爲那都比古神社二座、かゝれば兩郡にわたれるか、名次山は武庫郡なり、延喜式云武庫郡名欠神社、角松原は第十七にもよめり、何れの郡にわなと云事を知らず、和名を考るに武庫郡に津門【津止】あり、乃と止とは同韻の字なれば若これなどにや、名次と同郡なるにも思ひよられ侍り、
 
初、名次山 延喜式第九神名帳上云。武庫郡名次神社鍬靱、第十七にもつのゝ松原とよめる歌有。名次山のふもとにや。猪名野は豐嶋郡なり。同式同卷云。豐嶋郡爲那都比古神社二座。
 
280 去來兒等倭部早白菅乃眞野乃榛原手折而將歸《イサヤコラモヤマトヘハヤクシラスケノマノヽハキハラタヲリテユカム》
 
去來兒等、【官本亦云、イサコトモ、】
 
發句の點官本によるべきこと、第一に憶良の歌にもいざこどもはや日のもとへとありき、第二十に内相藤原卿の歌に伊射子等毛とかける、是を證とすべし、白菅は仙覺云、菅は花の白きものなればいへるにや、白萩白菊と云が如し、郭知玄菅を釋して(38)云く、白花似v茅無v毛といへり、今云、是もいはれざるにはあらねど、郭知玄は菅の状を釋するに付て白花など云たれど、白菊などやうに菅の花賞すべき物にあらず、菅を能乾つれば雪はづかしう白ければ白菅といへり、第一にある大和の青菅山の名あるに對しても思ふべし、眞野とつゞくるには二つの心あるべし、一には眞菅と云ふ心に眞の字につゞく、衣手の眞若の浦とそへたるに准ふべし、二には眞野の浦の小菅眞野の池の小菅とよめるも今と同所にて管に名ある所なる故にかくつゞくるにや、此榛原又はり原なり、第七に寄木歌に白管の眞野の榛原心にも思はぬ君が衣にぞ摺ると今の如くよめるにて知るべし、古く此眞野の榛原は大和にて榛を萩と思へるはこれらの歌をよく考合せざるなるべし、手折てゆかむなど誠にまがひぬべき事なり、又按ずるに手折而を而の字は音詞共にに〔右○〕なれば古點タヲリニユカムと讀みけるにや、さきの歌につゞき、又妻の答歌に心を著けばあやまるべきにあらず、
 
初、いさやこらやまとへ早く白菅のまのゝはきはらたをりてゆかん
菅はほすまゝに白くなるゆへに白菅といふ。眞野とつゝくる心は、眞菅といふゆへに眞の字につゝくるなり。はきはらは、はりの木原なり。第七卷、寄木歌に、白菅のまのゝ榛原心にもおもはぬ君か衣にそする。きぬをそむる物なれは、其料にや。妻のかへしに、きみこそみらめといへるをおもへは、もみちなるへし。此眞野は津の國なり。やまとゝあるはあやまれり。又菅は此所の名物か。此集に、わきも子か袖をたのみてまのゝ浦の小菅の笠をきすてきにけり。眞野の池の小菅を笠にぬはすして人のとを名を立へきものか。長流か枕詞燭明抄に、此所菅の有所にて、しら菅のまのとつゝくるかとも聞えたりと。今案をくはふ。ますけよきそかの川原の例なれは、めつらしくおもひよれり。されと、衣手のまわかのうらとよめるも眞の字にかゝれは、初を正説とすへし。兒等は、こともよむへし。第一卷に憶良の、いさこともはや日のもとへとよまれたるにおなし二句なり
 
黒人妻答歌一首
 
281 白管乃眞野之榛原往左來左君社見良目眞野之榛原《シラスケノマノヽハキハラユクサクサキミコソミラメマノヽハキハラ》
 
(39)徃左來左はゆきさまかへりさまなり、君コソ見ラメは君こそ見るらめなり、見るとは眞野の面白きを見るなり、榛に懸ていへばにはあらず、人には告げよ海人の釣舟とよめるに准らへて思ふべし、歌の心は、君こそますらをにて度々行返ても見給はめ、我は手弱女にて又來て見る事も難かるべければ今暫よく見てこそ歸りざぶらはめ、さのみなもよほしたて給ひそとなり、倭へ早くと云處に當てかへすなり、
 
初、ゆくさくさ
ゆくさまくるさまなり。くるはかへりくるなり
 
春日藏首老歌一首
 
282 角障經石村毛不過泊瀬山何時毛將超夜者深去通都《ツノサハフイハムラモスキスハツセヤマイツカモコエムヨハフケニツヽ》
 
石村を集中皆イハムラと點ぜり、これは磐余におなじくイハレなり、其證は續日本紀云、從五位下狛朝臣秋麻呂言、本姓是阿倍也、但當2石村池邊宮御宇聖朝1、秋麻呂二世祖比等古臣使2高麗國1、因即號v狛、實非2眞姓1、請復2本姓1、許v之といへり、是は用明天皇の磐余池邊|雙槻《ナミツキ》宮の事なり、又仙覺秒に引ける常陸國風土記云、石村玉穗宮大八洲所馭天皇之世云云、是は繼體天皇の磐余(ノ)玉穗宮の事なり、共に日本紀に見えたり、村の字日本紀にアレともフレとも點ぜる所あり、今はあれを上略せるなり、磐余の余の字を用ひたるに同じ、深去ツヽはふけいにつヽなり、此去の字をぬ〔右○〕ともに〔右○〕とも云に用(40)ひたるは、いに、いぬの上略なり、
 
初、つのさはふ石村も過す
此石村、大和にありて、此集にあまたよめるに、みないはむらとかんなつきたり。字にあたりたれは心もつかて過侍りしに、續日本紀を見てあやまりたることをしれり。續日本紀第 云。從五位下狛朝臣秋麻呂言。本姓是阿倍也。但當石村池邊宮御宇聖朝、秋麻呂二世祖比等古臣、使高麗國因即號狛、實非眞姓、請復本姓。許之。この中に石村池邊宮といへるは、日本紀に出たる磐余池邊雙槻宮にて、用明天皇の御事をいへり。傾向紀に、荷持田村【荷持此云能登利】といふ所有。筑紫の地の名なり《神功皇后紀歟忽忘》。村をふfLと點したり。又村をむらといふは、群の字の心にて、衆人むれてをるゆへなれは、むらむれおなし事なり。かた/\上畧して、上の石にあはせていはれとよまん事、そのことはり有。いはれは磐余とつねにはかけと、それも文字に心あるにあらねとはかゝはるへからす。延喜式二十二民部上。凡勘藉之徒、或轉蝮武姓注丹比部、或變永吉名爲長喜、如此之類莫爲不合。夜はふけにつゝは、ふけいにつゝにて、ふけゆきつゝなり
 
高市連黒人歌一首
 
283 墨吉乃得名津爾立而見渡者六兒乃泊從出流舩人《スミノエノエナツニタチテミワタセハムコノトマリヲイツルフナヒト》
 
得名津は所の名なり、知名云、住吉郡榎津、【以奈豆、】え〔右○〕とい〔右○〕とは音通ぜり、和名は後にかくいひなせるにつきて以奈豆とあるなるべし、國々の所の名此例多し、
 
初、すみのえのえなつに立て
和名集云。住吉郡榎津【以奈豆】
 
春日藏首老歌一首
 
284 燒津邊吾去鹿齒駿河奈流阿倍乃市道爾相之兒等羽裳《ヤイツヘニワカユキシカハスルカナルアヘノイチヽニアヒシコラハモ》
 
燒津邊、【幽齋本云、ヤキツヘニ、】
 
燒津は駿河國益津【末志豆、】郡にあり、神名帳云、益頭郡燒津神社、日本紀にはヤツと點じたればヤツベニともよむべきか、此名の由は景行紀云、是歳【二十八年】日本武尊初至2駿河1云云、放v火燒2其野1云云、故號2其處1曰2燒津1、今按和名を見るに益頭郡に益頭【萬之都、】郷あり、これは昔は共にやつの音を似て燒津とせるを火災に忌はしき名なれば益の字を又訓を取てましつとなせるか、其例證は景行紀云、日本武尊既而從2海路1還v倭、到2吉備(41)以渡2穴海1、有2惡神1則殺之、舊事本紀第十云、吉備穴國造、和名云、備後國安那【夜須奈】郡、これ舊事紀の穴國は今の安那郡なるを安の字を訓に轉じてやすな〔三字右○〕とせりと見ゆ、此を以て思ふべし、阿倍は此も駿河の郡の名にて國府此郡にあれば市ありて人皆こゝに集ふなるべし、相之兒等はもとは容儀ある女どももあまた見ゆれば、誰が家の娘ぞなど思ふ意なり、
 
初、やいつへにわかゆきしかは
日本紀第七云。是歳【景行天皇二十八年】日本武尊初至駿河。其處賊、陽從之、欺曰。是野糜鹿甚多、氣如朝霧、足如茂林、臨面應狩。日本武尊、信其言入野中而覓獣。賊有殺王之情【王謂日本武尊也。】放火燒其野。王知被欺、則以燧出火之、向燒而得免。【一云王所佩剱豐雲自抽之、薙攘王之傍草、因是得免、故號其剱曰草薙也叢雲此云茂羅玖毛】王曰。殆被欺。則悉焚其賊衆而滅之。故號其處曰燒津。延喜式神名帳云。駿河國益頭郡燒津神社。こらはもとは、もは助語にて、こらはと心をとめてたつねしたふなり。古今集に、忠峯か春日野の雪まをわけておひ出くる草のはつかに見えし君はもといへるに同し
 
丹比眞人笠麻呂往紀伊國超勢能山時作歌一首
 
系譜未v詳、
 
285 栲領巾乃懸卷欲寸妹名乎此勢能山爾懸者奈何將有《タクヒレノカケマクホシキイモカナヲコノセノヤマニカケハイカヽアラム》 【一云可倍波伊香尓安良牟】
 
栲領巾は白ひれなり、領巾は女の飾に懸くる物なれば懸といはむ爲ながら其由あり、勢の山もうるはしき山なれば向ひにある妹山と云名を移し來て此山を妹山といはゞ似つかはしからむやいかゞあらむとなり、勢の山をほめて設けてよめるなり、
 
初、たくひれのかけまくほしき――
たくは白きといふにおなし古語なり。領巾は女のかさりなれは、かけまくほしきといはんためなり。妹か名を此せの山にかけはとは、せの山もいとうるはしき山なれは、いも山といふ名を移して.此兄山をいも山といはゝにつかはしからしや、いかゝあらんとなり
 
(72)春日藏首老郎和歌一首
 
即誤作v郎、
 
初、春日藏首老即和歌一首
即誤作郎
 
286 宜奈倍吾背乃君之負來爾之此勢能山乎妹者不喚《ヨロシナヘワカセノキミノオヒキニシコノセノヤマヲイモトハヨハム》
 
君之、【或本lキミカ。】  不喚、【校本云、ヨハシ、】
 
吾背乃君は笠丸を指せり、不喚は今の點あやまれり、校本に從てヨバジと讀むべし、歌の意は君がますらをなるに似付てよろしく吾背の君とよばるゝ名に同じければ、たゞ聞よきせの山にてもあらむ、たよわき妹の名をばよばじと笠丸を兼てほむる意なり、
 
初、よろしなへわかせのきみの
よろしなへは第一卷にもよめり。只よろしくなり。につかはしきなり。わかせの君は笠麻呂をさせり。せのきみと君かよはれて、よろしくにつかはしき名を、この山もおもひたれは、たゝせの山にてあらん。たよはき妹の名をはよはしといひて、かねて笠麻呂をほめたるなり
 
幸志賀時石上卿作歌一首 名闕
 
六帖に此歌を雲の歌とし、遠道隔てたる兩所に出せるに石上乙磨卿とあるは誤れり、
 
287 此間爲而家八方何處白雲乃棚引山乎超而來二家里《コヽノニシテイヘヤモイヅコシラクモノタナヒクヤマヲコエテキニケリ》
 
此間爲而、【幽齋本云、ココニシテ、】
(43)發句今の點本誤てノ〔右○〕文字をあませり、幽齋本によるべし、第四に大納言旅人の歌に能くこれに似たるあり、
 
初、こゝにして家やもいつこ
第四に、こゝにありてつくしやいつこ、白雲のたな引山のかたにし有らしといふ大伴卿の歌、これに似たり
 
穗積朝臣老歌一首
 
元正紀云、養老二年正月正五位上、同八月爲式部大輔、
 
288 吾命之眞幸有者亦毛將見志賀乃大津爾縁流白浪《ワカイノチシマサキクアラハマタモミムシカノオホツニヨスルシラナミ》
 
命之、【或本、イノチノ、】
 
第十三にも、同人志賀にてよめる歌あり、
 
右今案不審幸行年月
 
二首は同時の歌なる故此に注せり、
 
問人宿禰大浦初月歌二首 大浦紀氏見六帖
 
大浦國史に見えざるか、注は後人の注し置けるを寫し加へたるなり、見の字廻らして浦の下にあるべし、
 
初、間人宿禰大浦初月哥二首
大浦見紀氏六帖。見の字誤て紀氏の下にあり。これは誰にまれ後の人のわたくしに注し置たるを、又後の人そのまゝかけるなり。和漢例おほし
 
(44)289 天原振離見者白眞弓張而懸有夜路者將吉《アマノハラフリサケミレハシラマユミハリテカケタルヨミチハヨケム》
 
白眞弓といへるは三日月なり、懸有は、今按カケタリと讀て句ともすべし、次の歌を思ふにも又前後旅にてよめる中に入たるに付て思ふにも、白眞弓を張て天に懸けつれば山賊などの恐なくして今行夜道はあしからじとなるべし、古詩に南箕北有v斗、牽牛不負|軛《クヒキ》と作れるやうに、月の弓に實に矢を發つ用はなけれど物を興じてさるはかなき事をもよむが歌の道はおかしきなり、
 
初、天原ふかさけふれは――
ふりは、ふりあふのくといふふりのことし。さけは遠をさけてなり。懸有は、かけたりとよみて句ともすへし。又かけたるとよみて、よけんといふまてひとつゝきともすへし。白まゆみはりてかくとは、みか月をたとふる事めつらしからす。されはいかなる夜道ゆく人ありとも、白まゆみを天に張て懸たれは、山賊なとのおそれあらしとなり。まことは月の弓に似たるに、弓の用なきことは、古詩に南箕北有斗、牽牛不免軛といふにおなしけれと、かうはかなき事もよむか哥はおかしきなり
 
290 椋橋乃山乎高可夜隱爾出來月乃光乏寸《クラハシノヤマヲタカミカヨコモリニイテクルツキノヒカリトモシキ》
 
夜隱爾、【官本亦云、ヨカクレニ、】
 
椋橋山は或者の去、大和國十市郡に在りて西は高市郡に亘るといへり、八雲御抄、一説むかはしとあるは一説の誤なり、夜隱は此歌第九に重ねて出たるには夜※[穴/牛]とあればヨカクレにや、されど共にヨコモリとよまむ事又かたからず、殊に第四に月しあれば夜は隱良武とよみ、第十九には欲其母理爾鳴霍公鳥とよみたれば今の點を正義とすべし、それに取てよこもりとは、さきに引る何れも、曉のまだ夜をこむる意(45)にいへり、是は三日月の歌なれば夜を懸る意なり、山なき所にては夕にとく見ゆるを椋橋山の高きに障らるゝにや、遲く見えて光もすくなきはとなり、三日月は西に見えて漸々に下る物なれば出來ると云ふを東の山に向て見る如くは意得べからず、たゞ倉橋山の東より峯のひきゝ所にあらはるゝを云へるにこそ、文選謝靈運遊南亭詩云、遠峰隱2半規1、
 
初、くらはしの山を高みか
くらはし山は大和なり。八雲御抄一説に、むかはしとあるは、椋をむくともよむゆへなり。此説は用へからす。ひかりともしきは、此ともしきにふたつのあり。こゝはすくなきなり。夜こもりは、みか月なれはくれに見えて、夜にいれは山ちかき所はやかて山にかくるゝを、夜こもりとはいへり。文選謝靈運南亭詩。遠峰隱半規。第九に、沙彌女王哥とて、又此哥を載。ひかりともしきを、かた待かたきとあり。歌後有注
 
小田事勢能山歌一首
 
六帖に此歌を載せたるに作者を小田ことぬしといへり、事主なりけるを後の本に主の字を落せるか、此人考ふる所なし、
 
291 眞木葉乃之奈布勢能山之努波受而吾超去者木葉知家武《マキノハノシナフセノヤマシルハステワカコエユケハコノハシリケム》
 
眞木葉、【別校本作2眞木之葉1、】 之奴波受而、【官本亦云、シノハステ、或本奴作v努、】
 
眞木は惣名別木名いづれにてもあるべし、シナフはしなやかにしたる心、奥義抄になふせの山と云名を出されたるは若これを意得損ぜられたるか、丘希範が詩に藤垂島易v陟、二三の句せ〔右○〕とし〔右○〕とは通ずる故にセノ山と云ふを承けてシノバズテと云へり、シルハスとあるは寫せる者の誤なるべし、故郷を戀ふる心にえたへしのばで(46)越行けば、木の葉も我心を知りけるにや、うなだるゝやうに打しだりて見ゆるとなり、木の葉といへるは上の眞木の葉なり、上に人こそ知らね松は知らんといへる思ひ合すべし、
 
初、まきのはのしなふせの山――
此まきは只木をもいふへし。また※[木+皮]の葉はしなやかなる物なれは、別名にもあるへし。しなふはしたる心なり。文選司馬長卿上林賦曰。垂條扶疏。張平子南京賦曰。敷華蘂之蓑々。又云。望翠華兮〓〓。天台山賦曰。〓樹〓〓而垂珠。丘希範旦發漁浦潭詩。藤垂島易陟。神代紀上云。其秋垂穎八握莫々然甚快也。此集第十三に、はる山のしなひさかへてともよめり。せの山しのはすは、せとしとは相通するゆへに、せの山といふをうけて、しはすしてといふなり。しのはぬとは、故郷をこふる心にえたへしのはて、こえゆけは、このはもわか心を知けるにや、うなたるゝやうに打したりてみゆるとなり。下のこの葉といふは、上のまきのはなり。第七寄木歌に、天雲のたな引山にかくれたるわか心さしこのはしりけん。第十一、わかせこをわかこひをれはわかやとの草さへおもひうらかれにけり。第二には、人こそしらね松は知らむ。屋船句々〓馳命もませは、ものしることはり有へし
 
角麻呂歌四首
 
是は角兄麻呂を兄の字を落せるか、元正紀云、養老五年正月、詔曰、文人武士國家所v重、醫卜方術古今斯崇、宜d擢2於百僚之與1、優2遊學業1堪v爲2師範1者、特加2賞賜1勸c勵後生u、云云、陰陽從五位下角兄麻呂等、各|※[糸+施の旁]《アツマキヌ》十疋布二十端鍬二十口、聖武紀云、神龜元年五月辛未、從五位下都能兄麻呂賜2姓羽林連1、四年十二月丁亥、先v是遣2使七道1、巡2※[手偏+僉]國司之状迹1、使等至v是復命云云、其犯v法尤甚者丹後守從五位下羽林連兄麻呂處v流、
 
初、角麻呂歌四首
是は續日本紀に見えたる角兄麻呂を、兄の字をおとせるなるへし。目録にもなきは、さきにいへることく、目録は後の人集のまゝにひろひあけたるゆへに、集にあやまり、あるひはおつれは、目録またそれにしたかへり。元正紀云。養老五年正月、詔曰。武士國家所重、醫卜方術、古今斯崇、宜擢於百僚之内、優遊學業、堪爲師範者、特加賞賜勸勵後生。○陰陽從五位下角兄麻呂等各※[糸+施の旁]十疋布二十端鍬二十口。聖武紀云。神龜元年五月辛未、從五位下都能兄麻呂賜姓羽林連。四年十二月丁亥、先是遣使七道、巡檢國司之状迹、使等至是復命。○其犯法尤甚者、丹後守從五位下羽林連兄麻呂處流
 
292 久方乃天之探女之石舩乃泊師高津者淺爾家留香裳《ヒサカタノアマノサクメカイハフネノハテシタカツハアセニケルカモ》
 
天探女は神代紀下云、時天|探女《サクメ》【天探女此云2阿麻能左愚謎1、】見而謂2天稚彦1曰云云、天稚彦に仕たる女なり、石船は神武紀云、長髄彦乃遣2行人1言2於天皇1曰、甞有2天神之子1、乘2天磐船1自v天降止、號曰2櫛玉饒速日命(ノ)命1、或物に津國風土記を引て云、難波高津は天稚彦天降りし時天(47)稚彦に屬《ツキ》て下れる神天探女、磐船に乘て此に到る、天磐船の泊る故に高津と號く云云、饒速日命の例を思ふにさも侍るべき事なり、
 
初、久方のあまのさくめかいはふねのはてしたかつはあせにけるかも
神代紀下云。時天探女【天探女、此云阿麻能左愚謎】見而謂天稚彦曰。前後は事なかく又こゝに用なきゆへにかゝす。天わかひこにつかへける女なり。和名集云。日本紀云。天探【和名阿萬佐久女】一云【安萬乃佐久女】神武紀云。長髄彦乃遣行人言於天皇曰。甞有天神之子、乘天磐船自天降止、號曰櫛玉饒速日命。又云。抑又聞於鹽土老曰。東有美地青山四周、其中亦有乘天磐舟飛降者。○厥飛降者、謂是饒速日歟。みぎ神武紀を引ことは、こゝにあはねと、天の磐舟といふ事おなしゆへに引なり。此さくめか磐舟は、津國風土記云。難波高津は、天稚彦天くたりし時、天稚彦に屬て下れる神、天探女、磐舟にのりて此に至る。天磐舟の泊る故に高津と號云々。此集一本に、天のさくめか鳥舟とよめりとかや。昔さる本有けるにこそ
 
293 塩干乃三津之海女乃久具都持玉藻將苅率行見《シホカレノミツノアマメノククツモチタマモカルラムイサユキテミム》
 
仙覺云、くゝつとは細き繩をもて物入るゝ物にして田舍の者の持つなり、それをくゝつと云、袖中抄同v之、
 
294 風乎疾奥津白波高有之海人釣舩濱眷奴《カセヲイタミオキツシラナミタカヽラシアマノツリフネハマニカヘリヌ》
 
六帖に舟の歌につのまろとて、落句をこぎかへるみゆと改めて載す、又釣の所に入たるには作者をいはず、
 
295 清江乃木笶松原遠神我王之幸行處《スミノエノキシノマツハラトホツカミワカオホキミノミユキシトコロ》
 
笶は俗の矢字なり、遠神は君を云ふこと以前の注の如し、
 
初、遠つ神わか大きみ
第一卷軍王の歌に注せり。笶俗矢字也
 
田口益人大夫任上野國司時至駿河淨見埼作歌二首
 
元明紀云、和銅元年三月、從五位上田口朝臣益人爲2上野守1、かゝれば此二首は和銅(48)元年の歌なり、元正紀云、靈龜元年、授2正五位下田口朝臣益人正五位上1、
 
初、田口益人大夫任上野國司時
文武紀云。慶雲元年春正月丁亥朔癸巳、從六位下田口朝臣益人授從五位下。元明紀云。和銅元年三月、從五位上田口朝臣益人、爲上野守。二年十一月甲寅從五位上田口朝臣益人、爲古兵衛|率《・カミ》。元正紀云。靈龜元年、授正五位下田口朝臣益人正五位上。此歌は和銅元年の作なり
 
296 廬原乃浄見乃埼乃見穗之浦乃寛見乍物念毛奈信《イホハラノキヨミノサキノミホノウラノユタニミエツヽモノオモヒモナシ》
 
廬原は駿河の國の郡名なり、和名に廬原郡の内に又廬原郷あり、ミホもいほはらにあり、延喜式云廬原郡御穗神社、ユタニ見エツヽとは、折節三月にて海上なぎ渡りたる時、國司に任ぜられて見たらむ思ふ事なく面白かりぬべし、
 
初、いほはらのきよみのさきの――
延喜式云。廬原郡御穗神社。ゆたに見えつゝ物おもひもなしとは.上野の國司を賜りてみほの浦の絶景にむかへは心境相應してさこそ侍らめ。海賦云。則乃〓〓瀲〓、浮天無岸。江賦云。若乃宇宙澄寂、八風不翔、舟子於是搦掉、渉人於是〓榜
 
297 畫見騰不飽田見浦大王之命恐夜見鶴鴨《ヒルミレトアカヌタノウラオホキミノミコトカシコミヨルミツカモ》
 
役をつゝしみて怠らぬ意なり、詩云、王事靡v監《モロイコト》、
 
初、ひるみれとあかぬたこのうら
詩曰。王事靡靡〓。熊孺登祗役遇風謝〓中春色詩曰。只見公程不見春。下の赤人の哥に合てみるへし
 
弁基歌一首
 
初、弁基歌
文武紀云。大寶元年三月壬辰、令僧弁紀還俗、代度一人、賜姓春日倉首名老、授追大壹。元明紀云。和銅七年正月、正六位上春日〓首老授五位下。懷風藻云。從五位下常陸介春日藏老絶【年五十二】。弁の字は、辨辯兩字の内なるへし。昔は和漢ともに畫なとおほき字をは音相通してやすきをかりてかけりと見えたり。本朝ことにしかるゆへに、内典外典ともに、釋には尺、慧には惠、には弁を借て用たり。此類おほし。基の字も續日本紀は紀なり
 
298 亦打山暮越行而廬前乃角太河原爾獨可毛將宿《マツチヤマユフコエユキテイホサキノスミタカハラニヒトリカモネム》
 
亦打山は八雲に、まつち、大和、又在2駿河1と注したまひ、角太河は下總、いほざきの、駿河ともと注せさせたまへば、古來未決なりけるか、仙覺抄に廬崎の角太河原は紀伊國なりといへるは據あるか、亦打山といふに依て推ていへるか、或歌枕云、範兼類聚に(49)駿河國入之、但角田川大和信土山の邊に有之、同名異所かといへり、今按角太川は伊勢物語によめると、六帖國の題に、出羽なるあほとの關のすみだ川、流れても見む水や濁るととよめるは、此外に同名異所、書には見えざるか、亦打山は大和慥なれど廬崎の角太川おぼつかなし、角太河は下總に名高けれど武藏の方に亦打山廬崎共に慥ならず、駿河は三つながら慥ならねど、今の歌益人が清見崎田兒浦をよめるつゞきなれば廬前は廬原崎と云畧にて駿河にや、今廬原河とて海道に渡る川などを角太川と云ひけるにや、後の人定むべし、
【右或云弁基者春日藏首老之法師名也】
續日本紀には辨紀に作れり、弁は本朝の習畫多き字をば大形音の通ずるやすき字をかりて、參議を三木、几帳を木丁、目録を目六、釋迦を尺迦、智慧を智惠など書く如く辨をも弁とかけり、
 
初、まつち山ゆふこえゆきて
亦打山とかきてまつちとよむは、多宇反津なるゆへなり。此まつち山を、八雲御抄に駿河と注せさせたまへるは、あやまらせたまへり。すみた河は下總に屬すといひ、武藏と兩國にわたるといひ決せさる歟。いかにもあれ、兩國の間にあるを、まつち山もしするかならんに、ゆふこえゆきてひとりかもねんといふ路次にあらす。駿河よりは三日もゆかすは、すみたかはにはいたるへからす。むさしのかたに、すみた河には遠からぬほとにありぬへく聞ゆる歌なり。これなんそれと今いふも、昔よりさためぬは信しかたし
 
大納言大伴卿歌一首 未詳
 
未詳と注せるは作者か歌か、按ずるに此下に至て此卿未だ中納言なりし時の歌(50)あれば、此に大納言にてよまれたる歌あらん事誠に不審なり、又歌も第八の冬に載すべく、此あたりにあるべき歌ならねば、後人そこを思ひて此注を加へたるか、
 
299 奥山之菅葉凌零雪乃消者將惜雨莫容行年《オクヤマノスカノハシノキフルユキノケナハオシケムアメナフリコソ》
 
シノグは侵すと云に通ふ詞なり、行年は去年なり、清濁をいはず借て用ひたり、こそは願ふ詞なり、
 
初、おく山の菅の葉しのきふる雪のけなはおしけん雨なふりこそ
此哥は第八の冬の所に入ぬへき哥なり。しのくは侵といふにおなし心なり。此菅といふは、上の山といふにつゝきて、山すけときこゆ。山すけは麥門冬なり。此集に菅と山菅と聞まかふ所有。あめなふりこそは、此こそはてにをはのこそにあらす。乞の字をよみてこふ心なり。こふ雨なふりそといはんかことし。集中におほし。伊勢物語に、秋風ふくと鴈につけこせといへる、こせも、そとせ相通すれは、これなるへし。社の字をこそとよむも、やしろにまうてゝは、よろつの事こひねかふゆへなるへし。神につかふるをねぎといふも、祈の字をねぐとよみ、願ふといふもおなし詞なれは、身のため人のためよろつに神にねぐによりて名付たるなるへし。行年とかけるは、去年の意なり。清濁は通して用る事おほし。第八に、高山のすかはしのきふる彗のけぬとかいはもこひのしけゝく
 
長屋王駐馬寧樂山作歌二首
 
300 佐保過而寧樂乃手祭爾置幣者妹乎目不雖相見染跡衣《サホスキテナラノタムケニオクヌサハイモヲメカレスアヒミシメトソ》
 
佐保は長屋王の宅ある所なり、寧樂山は崇神紀云、復遣2大彦興2和珥臣遠祖彦國葺1向2山背1撃2埴安彦1、爰以2忌瓮《イハヒヘ・イムベ》1鎭坐於和珥武|※[金+操の旁]《スキノ》坂上、則率精兵進登2那羅山1軍之時、官軍屯聚而※[足+滴の旁]2※[足+且]草木1、因以號2其山1曰2那羅山1、【※[足+滴の旁]※[足+且]此云2布瀰那羅須1、】和爾は添上郡にて山村の南なれば、山村より北の山をなら山といふなるべし、手向は東大寺に近き法華堂の邊にありて俗に八幡山と云由なれど不審なり、古今旅部に管家の紅葉の錦とよませ給ふ歌の詞書に.朱雀院の奈良におはしましける時に手向山にてよめるとあり、第六に相坂を(51)手向山と云ひ、又餘所にても手向に立て、手向の神にぬさ祭るなどよめるも多く兩國さかふ所と聞ゆれは、此も山城に入らむとする所にありぬべくや、雖は離の字を誤れり、アヒミシメトゾは相見せしめよとぞなり、此歌は他國へ赴かるゝ時の作なるべし、
 
初、さほ過てならのたむけに
たむけは手向なり。古今集※[羈の馬が奇]旅部に、朱雀院のならにおはしましける時、たむけ山にてよめるとて、菅家の、此たひはぬさも取あへすとよませたまひ、素性法師の、手向にはつゝりの袖もきるへきにとよまれたる所なり。不離を不雖に作れる、傳寫のあやまりなり。あひみしめとそは、あひみしめよとの心にて、ぬさをたまつるなり。これはならより他國なとへおもむきたまへる時の歌なるへし。新千載集戀部に、下の句を、妹にあひみんしるしなりけりとあらためて聖武天皇の御哥とせるは心得かたし
 
301 磐金之凝敷山乎超不勝而哭者泣友色爾將出八方《イハカネノコヽシキヤマヲコエカネテネニハナクトモイロニイデメヤモ》
 
磐金は磐之根なり、雁金は雁之音なるが如し、凝敷をコリシクと點ぜる本あり、仙覺云、こりしくは和の詞なだらかなるに似たれども、古語の傍例見えずといへり、誠に皆こゞしくとのみよめり、されども意はかりしくなるべし、今按凝の字をかける所、第七には己凝敷又凝木敷とかき、第十三には興凝敷又許凝敷と書きたれば、たゞ音を借りて書きて今は落字あるにや、色ニ出メヤモは別れの悲しければしのび/\に音にはなくとも心弱げなる色を人には見えじとなり、陸魯望離別詩云、丈夫非v無涙、不v灑1離別間1、伏v劔對2※[缶+尊]酒1、恥v爲2遊子顔1、今の歌同じ意なり、新千載集に右二首を載せられたるやうおぼつかなし、
 
初、いはかねのこゝしき山を
こゝしきはこりしくなり。すなはちこりしく山ともよむへし。色に出めやもとは、妻子親屬にわかるゝ事のかなしけれは、しのひ/\にねにはなくとも、心よはけなる色に出て人には見えしとなり
 
中納言安倍廣庭卿歌一首
 
(52)聖武紀云、神龜四年十月、以2從三位阿倍朝臣廣庭1爲2中納言1、天平四年二月甲戌朔乙未、中納言從三位兼催造宮長官知河内和泉等國事阿倍胡臣廣庭薨右大臣從二位御主人之子也、懷風藻云、從三位中納言兼催造宮長官安倍朝臣廣庭二首、【年七十四、】
 
初、中納言安倍廣庭卿歌二首
懷風藻云。從三位中納言兼催造宮長官安倍朝臣廣庭二首 年七十四。元明紀云。和銅四年四月、正五位下安倍朝臣廣庭、授正五位上。元正紀云。養老二年從四位上。五年六月.以正四位下安倍朝臣廣庭、爲左大辨。六年二月壬申、參議朝政。同三月壬寅朔戊申、知河内和泉事。七年正月正四位上。聖武紀云。神龜四年十月、以從三位阿倍朝臣廣庭、爲中納言。天平四年二月甲戌朔乙未、中納言從三位兼催造宮長官知河内和泉等國事、阿倍胡臣廣庭薨。右大臣從二位御主人之子也
 
302 兒等之家道差間遠烏野干玉乃夜渡月爾競敢六鴨《コラカイヘチヤヽマトホキヲヌハタマノヨワタルツキニキホヒアヘムカモ》
 
是は物より歸來るに妹が許へいかでとく到らむと思ひて夜をかけて急げども、道の程やゝ間遠なれば月に競ひて行とも至りがたからむやとなり、夜渡ル月は明るまである月を云ふ、月ニキホフは後の勅撰の歌の詞書などにもあり、月に乘じてと云ふが如し、
 
初、こらか家路やゝ
これは外より歸りくるに、妹かもとへいかてとくいたらんとおもひて、夜をかけていそけとも、道のほとやゝまとをなれは、月にきほひてゆくともいたりかたからんとなり。よわたる月は、夜ひとよある月なり。ゆふ月なとにはよむへからす。月にきほふは後の勅撰の詞書なとにも有。月に乘してといふかことし
 
柿本朝臣人麻呂下筑紫國時海路作歌二首
 
303 名細寸稻見乃海之奥津浪千重爾隱奴山跡島根者《ナクワシキイナミノウミノオキツナミチヘニカクレヌヤマトシマネハ》
 
名細寸も山跡鳥根も皆上に注せしが如し、
 
初、名くはしきいなみの
名くはしきも、やまとしまねも、さきにすてに釋しつ。玉葉集旅部には、名に高きと改らる。印南郡は播磨にあり。そこの海なり
 
304 大王之遠乃朝庭跡蟻通嶋門乎見者神代之所念《スメロキノトホノミカトトアリカヨフシマトヲミレハカミヨシソオモフ》
 
(53)大王之、【官本亦云、オホキミノ、】
 
發句オホキミノとよむべし、第五第十七にも如此かけるをば皆しか點ぜり、遠ノミカドとは太宰帥などのみならず、およそ國司の府中に在て君命を行ふを云べし、第十五にはすめろぎの遠のみかどとから國に、わたる吾背ともよめり、所念は今按オモホユと讀むべし、神代を思ふとは君命を重じて海上の風波を凌ぎて徃來するを見れば、神の初めおかせ給ひし威徳までを思ふなり、
 
初、すめろきのとをのみかとゝ
大王はおほきみともよむへし。とをのみかとは、とをきみやこなり。家持の歌に、ひなのみやこともよまれたり。宰府なとをこゝにはいふなるへし。又伊勢物語に、わかみかと六十餘州といへるは、我朝といふことにて、日本國中を惣していへり。君命をおもんしてあやうき海上ともいはす、ふなかちほさすのほりくたるをみるに、國をはしめたまひし神代の神徳まてをおもふなり。所念は、おもほゆとも讀へし
 
高市連黒人近江舊都歌一首
 
305 如是故爾不見跡云物乎樂浪乃舊都乎令見乍本名《カクユヱニミシトイフモノヲサヽナミノフルキミヤコヲミセツヽモトナ》
 
舊都のさまを見ば悲しみに堪へじとかねて思ひし故に、人のいざなふをもいなひつるを、由なく強て見せて案の如く悲しみに堪へぬとなり、
 
初、かくゆへに見しといふ物を
舊都のさまを見は、かなしひにたへしとかねておもふゆへに、人のいさとすゝめける時、いな見しといひし物をよしなくしゐてみせて、案のことくかなしひにたへぬとなり
 
右謌或本曰小辨作也未審此小弁者也
 
幸伊勢國之時安貴王作歌一首
 
聖武紀云、天平元年三月、無位阿紀王授2改五位下1、十七年正月從五位上、市原王の父(54)なり、第六に見えたり、是は天平十二年行幸の御供にてよみたまへるか、
 
306 伊勢海之奥津白浪花爾欲得※[果/衣]而妹之家※[果/衣]爲《イセノウミノオキツシラナミハナニモカツヽミテイモカイヘツトニセム》
 
花爾欲得、【官本亦云、ハナニカナ、今按云、ハナニカモ、】
 
初、花爾欲得
花にもかとよめるもあしからねと、花にかなとよむへし。欲得とも願とも冀ともかきて、ねかひかなによめるは義訓なり
 
博通法師徃紀伊國見穗石室作歌三首
 
博通法師未v詳、三穗石室何れの郡に在りと云事を知らず、此卷下にかざはやのみほの浦、又第七にもしかよめる所なり、
 
307 皮爲酢寸久米能若子我伊座家留《シノスヽキクメノワカコカイマシケル》【一云家牟】 三穗乃石室者雖見不飽鴨《ミホノイハヤハミレトアカヌカモ》【一云安禮尓家留可毛】
 
皮薄、【袖中抄云、ハタスヽキ、】
 
皮薄は、袖中抄にはたすゝきを釋する所に、初にはたすゝき尾花さかふきと云を引て樣々にいひて、又此歌をもはたすゝきと書きなして引きて云く、此皮の字に付てはた薄、かは薄、しのすゝきと三つの字に詠めりとて第十の皮爲酢寸とかける歌二首をひけり、其中に吾妹子に相坂山の皮爲酢寸とあるはしのすゝきと點じ、皮爲酢(55)寸ほには咲出ぬ戀を我するとある旋頭歌を、此はしのすゝき共はたすゝきとも讀めりとあり、今按撰者の各自注を加へて、此はしのすゝき、彼ははたすゝきなど云はんはしらず、同じく皮爲詐寸とかけるを別によみわくる事はかたかりぬべし、相坂山のとよめるは古今の滅《ケシ》歌にしのすゝきと載たり、字に任せてよまばカハスヽキなるべし、ハタスヽキとよまば皮、膚は義相通ずる故に膚をかはべともいひ、檜皮をひはだ、黄檗皮をきはだといひ、又和名に唐韻云、※[角+少]、【和名、沼太波太、】角上浪皮也、又云、王篇、樸、【和名、古波太、】木皮也、此等の心にして、皮を膚とし膚を旗に借りたりと云ふべし、シノスヽキとは如何でよみけむおぼつかなし、若皮ある薄をしのすゝきと云ひてそれを義訓に轉ぜるか、是は文字に付て云なり、ハタスヽキの方に心引かれ侍り、今は何れによみても同じかるべし、これを久米の若子といはむとて發句をいへるやう又心得がたし、推量するに、角ぐむと云心か、くむはきざす心にや、涙ぐむと云ふも涙の出むとする目もとをいへり、或抄云、夜の明方をしのゝめと云根本は、出雲國みほの岩屋と申す所に久米の若子と云神まし/\ける、きはめて目の細くしてしのを立てたる跡の如し、それをしのゝめと異名に申すにより、それより事起れり、明方のまだほのぐらきを寄せて申しならはしたり、今云、是は此紀伊國三穗石室を神代紀下に見え(56)たる出雲の三穗之碕にまがへたるか、久米若子を神といへるは天※[木+患]津大來目《アメクシツオホクメ》の事か、好事の者しのゝめと云意を證せんとて此歌を以て作りなせるにや、久米若子を神といはゞ却て目の大きなるべき義あり、此卷下に至て河邊宮人が歌に至て云べし、顯宗紀に弘計天皇【更名來目(ノ)稚子、】とあれど、此さすらへ給ひし時も、丹後へ逃給ひて播磨へおはしつれば此に叶はず、其上それは仁賢天皇と共にさすらへ給へば御一所のみも申すべからず、若是は久米仙人の仙術を條練せし程此窟にありけるにや、
 
初、皮すゝきくめのわかみこか
第十にも五十五葉五十九葉に、皮すゝきとかきて、今とおなしくしのすゝきとよめり。皮の字いかにしてしのとはよめるにか。おろかなる心にておもひめくらすに、すへてこゝろえかたし。今案、これをははたすゝきとよむへきにや。其ゆへは檜皮とかきてひはたとよめり、皮膚は義相通するゆへに、和語も大かた通して、肌膚の字をかはへとよめるは皮邊といふ心ときこゆ。又和名集云。唐韻云※[角+少]【和名反、上聲之〓、和名沼太波太、又用〓字、音旨善反上聲】角上浪皮也。又云。王篇樸【音璞、字亦作朴和名古波太】木皮也。これらの例にもよせておもふに、膚とおなしやうによむ事疑なし。しかれは此集に、雉をかりて岸に用る例にて、旗にかりてよまんこと妨なし。くめのわかことつゝくること、長流か老後に申けるは、くめのわかこは、めのいとほそき神なれは、しのすゝきくめのわかことつゝく。俗にもめのほそきをは薄にてきれるはかりといふは、此ゆへなり。されは夜のあくる時、山のはほそくしらむを、しのゝめとも、いなのめともいふは此ゆへなり。古今集夏部に、貫之、夏の夜はふすかとすれはほとゝきすなくひとこゑにあくるしのゝめ。此哥の口傳なるよし申き。此くめのわかこといふ神、日本紀等にも見えす。紀伊國の風土記なとには侍りけるにや。顯宗紀云。弘計天皇【更名來目稚子】とあれとも、御父市逢押磐皇子雄略天皇にころされ給へる後も、ひそかにかくれて播磨へこそおはしましけれは、それすこしもかなはす。又久米仙人あれとも、三穗石室にをこなへりともきかす。まつさる神のむかし有けるにてさてをくへし。いはやは、和名集云。説文云。窟【骨反和名伊波夜】土屋也。一云。掘地爲之
 
308 常磐成石室者今毛安里家禮騰貴住家類人曾常無里家留
 
常生成、【幽齋本點云、トキハナス、又云、トキハナル、】
 
發句は古風を思ふにトキハナスなるべし、ナルは今に叶へり、
 
309 石室戸爾立在松樹汝乎見者古人乎相見如之《イハヤトニタテルマツノキナヲミレハムカシノヒトヲアヒミルコトシ》
 
汝をな〔右○〕とのみ云ふは古語なり、な〔右○〕はなせ〕、なにも〔五字右○〕など云時人を敬ふ詞、此集に名の字をかける其意か、賤しきを名もなき者と云ふに反すべし、なむぢ〔三字右○〕と云ふは名持の意か、大己貴命を大汝とも大名持ともかけり、又|名貴《ナムチ》にや、汝を常には我より下に向て(57)云ふを、佛をも汝佛と云ひ、神をも汝尊といへる事あれば通局あり、六帖木類に、ねはふむろの木なれみればと改てむろの歌とせるはおぼつかなし、
 
初、いはや戸にたてる松の木なをみれは昔の人をあひみることし
なをみれはゝなんもをみれはなり。紀氏六帖には、いはやとにねはふむろの木なれみれは昔の人をあひみるかこと
 
門部王詠東市之樹作歌一首
 
元明紀云、和銅三年春正月壬子朔戊午、授2無位門部王從五位下1、聖武紀云天平十七年四月戊子朔康戌、大藏卿從四位上大原眞人門部卒、市は都の東西にある故に、此を宰る官にも東市正西市正あり、第七には西の市にたゞ獨出てなどよめり、これは奈良都の東市なり、但帝王編年に東西の市は文武天皇大寶三年に初て立てられたりと見えたればいまだ藤原宮在りし時彼東市樹をよまれたるか、然らば東市西市共に地の名なるべきか、又地の名ならねど都の東西に置かるゝを云ふか、後の東西市是を濫觴とするなるべし、
 
310 東市之殖木乃木足左右不相久美宇倍戀爾家利《ヒムカシノイチノウヱキノコタルマテアハヌキミウヘワレコヒニケリ》
 
木タルは木垂なり、木の老ひぬれば枝のさがるなり、久美は|き《・吉》〔右○〕と|く《・久》〔右○〕と音通ずれば君をかくかけるか、宇倍は諾にてげにもの意なり、歌の意は、東の市なる木の若かりし(58)が枝をたるゝまで人にあはねば、我ながら戀ひ思ふもことわりなりと云ふなり、第十四に鎌倉山に木たる木を、まつと汝がいはゞとよめるも、こたるは久しきを云へり、元正紀云、養老三年秋七月、始置按察使、令d伊勢國守從五位上門部王管c伊賀志摩二國u云云、此任はてゝ歸りて後などよまれたるか、異義は題注の如し、
 
初、ひんかしの市のうへ木のこたるまて不相久美宇倍われこひにけり
市に東西あるゆへに市正も東西あり。第七には、西の市にたゝ獨出てなとよめり。こたるは、木の年ふりて枝のさかるなり。第十四東哥にも、薪こるかまくら山にこたる木をなとよめり。不相久美宇倍を、あはぬきみうへとよめる、義理は有なから久の字きとよむへきやうなし。そのうへ詠樹といい、雜歌なれは、相聞にはあるへからす。もし久美は茱※[草がんむり/臾]、宇倍は植にや。實のなる物にならさる木もあるを、そのならぬ木をしちすしてうへをきて、ことしもや/\と他の木のこたるまて實のならん事を待こひにけりとにや。あはぬといふは、實のなる時にあはぬなり。植は此集宇惠と大かたかきたれと、第五に、春やなきかつらに折し梅の花誰かはうへしさかつきのへに。此歌有倍志とかきたれは、なつむへからす。此説たしかにこれならんとにはあらす
 
※[木+安]作村主益人從豊前國上京時作歌一首
 
※[木+安]は、昔鞍と通じけるか、益人が傳未v詳、第六天平六年歌注に、右内匠寮大屬※[木+安]作村主益人云云、
 
初、※[木+安]作
此※[木+安]の字は鞍と通する歟。惣して此集に鉾は桙に作り、崎は埼に作り、鬘は縵に作りなと、かやうの事おほし
 
311 梓弓引豊國之鏡山不見久有者戀敷牟鴨《アツサユミヒキトヨクニノカヽミヤマミテヒサナラハコヒシケムカモ》
 
梓弓引音とつゞけたり、第四に梓弓爪引夜音の遠音とよめる歌、音の字皆上賂せり、鏡山を承て見デ久ナラバと云、鏡山は豊前國風土記云、田河郡鏡山、【在2郡東1、】昔者氣長足姫尊在2此山1遙覽2國形1、勅云、天神地祇爲v我助v福、便用2御鏡1安2置此處1、其鏡即化爲v石、見在2山中1、因名曰2鏡山1、仙覺抄に引けり、
 
初、梓弓引豐くに
ひく音といふ心にかくつゝく。見てひさならはは、鏡山の縁なり
 
式部卿藤原宇合卿被使改造難波堵之時作歌一首
(59)聖武紀云.神龜三年冬十月庚午、以2式部卿從三位藤原宇合1爲知難波宮事、四年二月壬子、造2難波宮1、同三月己巳、知造難波宮事從三位藤原朝臣宇合等已下仕丁已上賜物各有v差、かくあれば此は神龜四年の歌なるべし、
 
初、式部卿藤原宇合卿
聖武紀云。神龜三年九月壬寅、以正四位上六人部王○堵の字は第一卷に尺しつ。されとも聖武紀によるに、ついひちのみつくろはるゝにあらす。難波宮を造るとあれは、此堵の字も都と通するにや
 
312 昔者社難波居中跡所言奚米今者京引都 備仁鷄里《ムカシコソナニハヰナカトイハレケメイマハミヤヒトソナハリニケリ》
 
奚米、【校本米作v目、】
 
京引都は宮人なり、備ニケリとは宮人式々にそなはりたれる意なり、今按此和しやうおぼつかなし、イミヤコヒキ、ミヤコヒニケリと讀むべきか、上に昔者をムカシとよみつれば今者は對してイマなるべし.第六に恭仁《クニ》の都へ遷りたまひて平城の故郷となる事をよめる歌にも、あたら世の事にしあればすべろぎの、引のまに/\とよみ.第十九にもますらをの引のまに/\とよめり、
 
初、昔こそなにはゐなかといはれけめいまはみやひとそなはりにけり
田舎とかきてゐなかとよめる。宮人そなはりにけりとは、あらたに宮つくりして百官をの/\式々にそなはるとなり。今案此下句かうはよむましくや。今者京引都備仁鷄里とかきたれは、いまみやこひきみやこひにけりとよむへしとみゆ。今都をこゝに引たれは、みやこめくといふ心なり。第六ならの京の故郷となることをかなしひてよめる歌にも、あたら世のことにしあれは、すへらきのひきのまに/\とよめり。十九にも、ますらをの引かまに/\なとよめり
 
土理宣令歌一首
 
元正紀云、養老五年春正月戊申朔庚午、詔從五位上佐爲王從七位下塩屋連吉麻呂刀利宣令等.退朝之後令v侍2東宮1焉、此時は宣令も從七位下なる故、吉麻呂が位階を(60)承て姓名をのみかけり、懷風藻云、正六位上刀利宣令二首、【年五十九、】元明紀云、和詞三年正月王子朔甲子、正六位上刀利康嗣授2從五位下1、懷風藻云、大學博士刀利康嗣一首、【年八十一、】宣令は此康嗣が子などにや、
 
初、士理宣令歌
續日本紀ならひに懷風藻には、土理を刀利に作れり。元正紀云。養老五年春正月、戊申朔庚午、詔。從五位上佐爲王。從七位下鹽屋連吉麻呂、刀利宣令等、退朝之後令侍東宮焉。懷風藻曰。正六位上刀利宣令二首 五十九。又明紀云。和詞三年正月王子朔甲子、正六位上刀利康嗣、授從五位下。懷風藻云。大學博士刀利康嗣一首 年八十一。このほか土理氏の人見えす。康嗣は宣令か父などにや
 
313 見吉野之瀧乃白浪雖不知語之告者古所念《ミヨシノヽタキノシラナミシラネトモカタリシツケハムカシオモホユ》
 
白浪を承てシラネドモと連ねたり、告は繼に假てかける歟、今按ツグレバと讀むべきにや、
 
初、かたりしつけは
告者とかきたれとも繼者なり
 
波多朝臣少足歌一首
 
系圖未v詳、孝謙紀云、波多朝指足人、もし此足人の父などにや、
 
初、波多朝臣少足
文武紀云。波多朝臣牟後閉。孝謙紀云。波多朝臣足人
 
314 小浪礒越道有能登湍河音之清左多藝通瀬毎爾《サヽレナミイソコセチナルノトセカハオトノサヤケサタキツセコトニ》
 
小浪、【官本亦云、ササラナミ、】
 
一二の句はさゞ浪の磯をこすとつゞけたり、所から似合はぬやうなれど、おきつ白浪立田山とつゞけたるに例すべし、巨勢路は第一にもありつ、能登瀬川を八雲には河内と定めたまひて攝津にもあるよし注し給へど、此にこせぢと云ひ、第十二に高(61)瀬なる能登瀬の川とよめる歌も、前後大和の名所に寄せてよめる歌の中にあれば、彼是を思ふに高市郡なるべし、
 
初、さゝれなみいそこせちなるのとせ川
さゝなみのいそをこすとつゝけたり。こせちとあれはやまとのくになり。今案越路にて北陸道にや。能登湍河といふは、能登の國にあるか
 
暮春之月幸芳野離宮時中納言大伴卿奉勅作歌一首井短歌 未※[しんにょう+至]奏上歌
 
元正紀云、養老二年三月乙巳、大伴宿禰旅人爲2中納言1、※[しんにょう+至]は逕に改むべし、
 
初、中納言大伴卿
元正紀云。養老二年三月戊戌、車駕自美濃至。乙巳○大伴宿禰旅人爲中納言
 
315 見吉野之芳野乃宮者山可良志貴有師永可良思清有師天地與長久萬代爾不改將有行幸之宮《ミヨシノヽヨシノヽミヤハヤマカラシタフトカルラシナカカラシイサキヨカラシアメツチトナカクヒサシキヨロツヨニカハラスアラムミユキシミヤ》
 
行幸之宮、【官本亦云、ミユキセシミヤ、同本或宮作v處、或點云、ミユキシトコロ、】
 
貴有師はタフトクアラシともカシコクアラシとも讀むべし、永は按ずるに水の字の誤なり、是をば字のまゝにミヅカラシともよみ、又第二の依羅娘子の歌に石川を石水とかけるに准じてカハカラシともよむべし、意は第二に人丸の狹岑島にてよまれたる神がら國がらの如し、長久はナガクヒサシクとも和すべきか、行幸之宮は今按日本紀に行幸をイデマスと點じたればイデマシノミヤとよむべきにや、天智(62)紀の童謠《ワサウタ》に伊提麻志能倶伊播阿羅珥茄《イデマシノクイハアラニソ》といへる初の句に例すべし」、ミユキシミヤは留まらず、ミユキセシは過たる方を云ふに似たり、若宮を處に作れる本に從はゞ
ミユキノトコロとよむべくや、
 
初、永可良思
これは水からしなるを、水を永にあやまれるを、字のまゝにかんなをつけたるは、後のしわさなるへし。
山からし水からしのふたつのしは、やすめ詞なり。結句の行幸之宮はみゆきせしみやとよむへし
 
反歌
 
316 昔見之象乃小河乎今見者彌清成爾來鴨《ムカシミシキサノヲカハヲイマミハイヨ/\キヨクナリニケルカモ》
 
玉葉に作者を家持と載せられたるは中納言大伴卿といへるを家持の極官にもやまがへられけむ、
 
初、昔みしきさの小河
同卿太宰帥になりて後よめる歌、此卷下にあり。きさのを川をよめり。互にみるへし
 
山部宿禰赤人望不盡山歌一首并短歌
 
本朝文粹に郡良香の富士山記あり、これらの歌引合せて見るべし、不盡不死不二などかけるも義あるべからざるか、記云、山名富士、取2郡名1也、
 
初、望不盡山歌
本朝文粋に、都良香の富土山の記を載たり。こゝの歌ともにあはせてみるへし。不盡、不死、不二なとかけるも.唯音をかるのみにて義あるへからす。記云。山名富士、取郡名也
 
317 天地之分時從神左備手高貴寸駿河有布士能高嶺乎天原振放見者度日之陰毛隱比照月乃光毛不見白雲母伊去波(63)伐加利時自久曾雪者落家留語告言繼將徃不盡能高嶺者《アメツチノワカレシトキユカミサヒテタカクタフトキスルカナルフシノタカネヲアマノハラフリサケミレハワタルヒノカケモカクロヒテルツキノヒカリモミエスシラクモヽイユキハヽカリトキシクソユキハフリケルカタリツキイヒツキユカムフシノタカネハ》
 
分時從、【六帖云、ワカレシヨヽリ、別校本云、ワカレシトキニ、】 高貴寸、【六帖云、タカクカシコキ、官本亦點與2六帖1同、】 伊去、【六帖、イサリ、袖中抄同v之、】
 
天原フリサケミレバ、此は例の詞ながら、第十四に六原ふじのしば山とよめり、是他の山に勝れて絶巓天を衝くが故に天原を以て枕詞とせり、定家卿もかれを取て、天の原富士のしば山しばらくも、煙たえせず雪もけなくにとよまれたり、記云、富士山者在2駿河國1、峯如2削成1、直聳屬天、其高不可測、歴亂史籍所記、未有高於此山也、其聳峯欝起在天際、臨瞰海中、觀其靈基所盤、連亘數千里間、行旅之人、經歴數日、乃過其下、去之顧望、猶在山下、蓋神仙之所遊華也、度日之〔三字右○〕以下の四句は、史記大宛列傳賛云、崑崙其高二千五百餘里、日月所2相避隱爲2光明1也、屈原九章云、山峻高以蔽v日兮、相如子虚賦云、其山則盤紆※[山/弗]欝、隆崇〓〓、峯※[山/金]參差、日月蔽虧、交錯糾紛、上2于青雲1、白雲モイユキハヾカリ、い〔右○〕は發語の詞、ゆきはゞかるは下の虫丸集歌に高み恐みといへば、雲もおそれはゞかりてのぼらぬなり、唐幹雄宿2石邑山中1詩云、浮雲不d共2此山1齊u、語告〔二字右○〕は六帖にもかたりつぎとあれば字のまゝにカタリツゲとよむべきにや、イヒツギユカムは將來も此山の事は言ひつゞけむとなり、
 
初、あめつちのわかれし時ゆ――
天原ふりさけみれは。記云。富士山者、在駿河國、峯如削成、直聳屬天、其高不可測、歴亂史籍所記、未有高於此山也、其聳峯欝起、在天際、臨瞰海中、觀其靈基所盤連、亘數千里間、行旅之人、經歴數日、乃過其下、去之顧望、猶在山下、蓋神仙之所遊華也、度日之經歴數日、乃過其下、去之顧望猶在山下、盖神仙之所遊萃也。わたるひのかけもかくろひてる月の光も見えす。史記大宛列傳賛曰。崑崙其高二千五百餘里、日月所相、避隱爲光明也。屈原九章曰。司馬長卿子虚賦曰。○班孟堅西都賦曰。○謝玄暉敬亭山詩。○白雲もいゆきはゝかり。いは發語のことは、はゝかるは、ゆくことをはゝかりてゆきかぬるなり。時しくとは日本紀に非時とかきてときしくと讀り。語告は、かたりつきとあれとも、字のまゝにかたりつけとよむへし。かたりつけいひつきゆかんは、將來も此山の事はいひつかんとなり
 
(64)反歌
 
318 田兒之浦從打出而見者眞白衣不盡能高嶺爾雪波零家留《タコノウラユウチテヽミレハマシロニソフシノタカネニユキハフリケル》
 
題に望といひしは田兒浦よりなり、上に晝見れどあかぬ田兒の浦とよめる所より見たらむ興思ひやるべし、長歌に時じくど雪は降りけるとよめるを思ふに、眞白にぞといへるも必ず極寒の時よめるにはあるべからず、
 
詠不盡山歌一首并短歌
 
此歌作者見えず、其由も注せぬは作者未v詳と云事の脱たるか、但上の赤人の歌に一首并短歌と云ひ、下に右一首高橋連等と斷れば注せざれども作者しれざる事自ら顯るゝ故歟、譬ば物の十あらんに、九つにしるしなしつれば一つはしるしなきを以てしるしとするが如し、此歌のさま山に叶ひていかめしう聞ゆ、大方の人のよめるにはあらじ、
 
初、詠不盡山歌
この歌作者見えす。昔より作者しれすは知さるよし注あるへきにおちけるにや。歌のさまふしにかなひて、いかめしくきこゆ。大かたの人のよめるにはあらし
 
319 奈麻余美乃甲斐乃國打縁流駿河能國與巳知其智乃國之(65)三中從出之有不盡能高嶺者天雲毛伊去波代加利飛鳥母翔毛不上燎火乎雪以滅落雪乎火用消通都言不得名不知靈母座神香聞石花海跡名付而有毛彼山之堤有海曾不盡河跡人乃渡毛其山之水乃當烏日本之山跡國乃鎮十方座神可聞寳十方成有山可聞駿河有不盡能高峯者雖見不飽香聞《ナマヨミノカヒノクニウチヨスルスルカノクニトコチコチノクニノサカヒニイデヽシアルフシノタカネハアマクモヽイユキハヽカリトフトリモトヒモノホラスモユルヒヲユキモテキヤシフルユキヲヒモテケシツヽイヒカネテナヲモシラセヌアヤシクモイマスカミカモセノウミトナツケテアルモソカヤマノツヽメルウミソフシカハトヒトノワタルモソノヤマノミツノアタリソヒノモトノヤマトノクニノシツメトモイマスカミカモタカラトモナレルヤマカモスルカナルフシノタカネハミレトアカヌカモ》
 
彼山之、【別校本云、ソノヤマノ、】 座神、【校本神作v祇、】
 
ナマヨミノカヒノ國とそへたるやう意得がたし、仙覺の釋あれど取るに足らず、一且愚推を似て試に釋せば生吉貝《ナマヨミノカヒ》と云心歟、鰒、榮螺《サヽエ》等の貝の類皆なましきを賞すればなり、打ヨスル駿河とつゞくるは仙覺云、洲は浪の打よするものなればすと云出でむ爲に置ける諷詞なりといへり、此説やすらかなり、顯昭云、此國の古老傳へて云、昔は富士山と葦高山との間を、東海道の驛路としき、横走の關とて侍りしも此ふたつ(66)の山の間にありける關の名なり、驛路なれば朝夕に重服、觸穢の者の行き通ひけるを淺間大明神の※[厭の雁だれなし]はせ給ひて、今の浮島が原と云ふは遙の南海に浮びありきけるを此に打よせさせ給ひてより今の道は出來にけりと申傳へて侍るなり、今按これは唯俗説なれば取らに足らざるか、和名集云、駿河郡横走、【與古波之里、】延書式第二十八云駿河國驛馬、横走二十疋、傳馬、横走驛五匹、既に延喜延長の比まで横走の道を往還すればこそ驛馬をば置れけめ、然れば浮島を南海より打寄給ふは後の事なるべければそれに依て云詞此集にあらむや、浮島と云名によりて所の者の云出せる説なるべし、コチ/\ノ國はをちこちの國、上の甲斐駿河なり、三中は今按ミナカとよむべし、神代紀上に誓約《ウケヒノ》之|中《ミナカ》の中の字を美難箇《ミナカ》と自注を加へ給へり、眞中《マナカ》に同じ、此第十四にも佐刀乃美奈可とよめり、出テシアルは成出てあるなり、波代加利、代は伐に改むべし、飛鳥モトビモノボラズは山の極て高き故なり、説文曰、岱山高、峻鳥飛不v越、惟有2一缺門1雁往來、向2此缺中(ニ)1過人號曰2雁門1、モユル火ヲ以下の四句水火互に爭へども奪ふ事なく奇異なる由を賦せり、神異經云、南方有2火山1、長四十里廣四五里、生2不v燼《モエツキ》之木1、晝夜火燃、得2烈風1不v猛、暴雨不v滅、此類なり、言不得名不知は按ずるに今の點叶はず、此卷下に家持歌に言毛不得名付毛不知とあるをイヒモカネ、ナツケモシラズと和せ(67)り、今もしかよむべし、かゝるあやしき事は其理を云ことあたはず、何と名づくべきやうをもしらぬと稱美するなり、アヤシクモイマス神カモ、是は山を即神といへり、記云、山有v神名2淺間(ノ)大神1、神名帳云、富士都淺間神社、【名神大、】此神もやがて山の精靈にておはしますなるべし、孔雀經に佛諸の大山大河等の名を説て此名を知る者は利益あらむと説たまへるを思ふべし、石花海は仙覺抄に山の乾《イヌヰ》にある水海なり、すべて山を廻りて八の海ありと申といへり、今按下につゝめる海ぞと云へるは鳴澤の事にやとおぼしきなり、上に池を海といひつれば鳴澤を海と云まじきにあらず、石花は貝の名を借てかけり、和名云、崔禹錫食經云、尨蹄子、【和名勢、】貌似2犬蹄1而附v石生者也、兼名苑注云、石花、【花或作v華、】二三月皆紫舒v花附(テ)v石(ニ)而生、故以名(ク)之、記云、此山高極雲表不知幾丈、頂上有2平地1廣一許里、其頂中央窪下(テ)體如2炊甑(ノ)1、甑底有2神池1、池中有大石、石體驚奇、宛如蹲虎、亦其甑中常有氣蒸出、其色純青、窺2其甑底1、如湯沸騰、其在v遠望者、常(ニ)見2煙火1、亦其頂上、匝池生竹、青紺柔※[車+(而/大)]、セノウミを八雲には神の名とし給へり、彼山はソノ山とよめる、よし、堤有は堤は水をつゝみて貯る故につゝむと云用の詞をもて體に名づくればなり、フジ川は記云、有2大泉1出v自2腹下1遂成2大河1、其流寒暑水旱無v有2盈縮1、或は雪消或は雨などに山より濁くる故に富士川は清ことなきに依る、六帖には富士河の世に(68)すむべくも思ほえずとよみ、躬恒集には富士川の遂にすまずばとよめり、烏をそ〔右○〕と用たるは、をそ鳥は烏の名なればをそ〔二字右○〕を上畧したるなり、山跡ノ國ノ鎭とは唐にも五岳ありて五方を鎭るやうに富士も鎭國の靈山など云なり、東都賦云、太室作鎭、注云、太室嵩高別名、言(ハ)以2嵩高之嶽1爲2國之鎭1、呉都賦云、指2衡嶽1以鎭(タリv野(ヲ)、
 
初、なまよみのかひのくに
燭明抄に、なまよみはなましきかよしといふ詞なり。甲斐は香火によせたり。香はなましきよしといふこゝろなり云々、此云々とかけるは、古人の説を畧してとれるなるへし。今案、なまよみはしかり。香火は心得かたし。そのゆへはたゝ沈檀等の香はなましき物ならねはいふへからす。これはあはせたるたき物をいへるへし。薫は諸家の名方も蜜なとの氣を化せしめんかために、久しくつちにもうつみをきて後たく事なれは、なまよみの香火とはいふへからす。おもふに貝によせていふなるへし。あはひさゝゑ等の貝、いつれもなましきをよしとすれはなり。うちよするするかのくに。第廿に防人か歌にも打えするするかのねらとよめるは、あつま人なれはうちよするをよこなまりて、うちえするといへり。燭明抄に、風土記に云。國に富士河あり。其水きはめてたけく疾し。よりて駿河の國となつくと云々。しかれは其川の早くして浪打よするするかといふ心にや。亦此國の古老傳ていはく。昔はするかの國ふしの山とあしたか山の間を、東海道の驛路としき。構走の關とて侍しも、此ふたつの山の間に有ける關の名なり。驛路なれは、朝夕に重服觸穢のものゝ行かよひけるを、淺間大明神のいとはせ給て、今のうき嶋か原といふははるかの南海にうかひありきけるを、こゝに打よせさせたまひてより、今の道は出來にけりと申傳へて侍るなりと云々。このふたつの古説の中に、さきの浪打よするといふ心にやといへるはさも侍るへし。後の古老の傳は、虚實はしらされとも、こゝにはかなへらす。延喜式第二十八云。駿河國驛馬、横走二十匹、傳馬横走驛五匹。和名集云。駿河郡横走【與古波之里。】八雲御抄云。横走關【清少納言草紙又在天智御記駿河也。】すてに延喜延長の比まて驛馬を横走に置れたれは、今の浮嶋か原を行道は延喜より以後の事なるへし。淺間明神の觸穢のものをいとはせたまひて、浮嶋か原を南海より打よせたまふにより、打よする駿河といはゝ、此散なといまたよまぬさきの事なれは、從來のものもはやく浮嶋か原よりかよひて、驛馬もそこにこそはをかれめ。こち/\の國は、をちこちの國なり。上のかひするかなり。三中從さかひとはよむへからす。もしのまゝに、みなかとよむへし。眞中なり。出てしあるは、なりて出てあるなり。天雲もいゆきはゝかり。上の赤人の哥、下の釋通觀歌にもよめり。韓〓宿石邑山中詩云。浮雲(ハ)不d共《トモニ》2此山(ト)1齊《ヒトシカラ》u。飛鳥もとひものほらす。説文曰。〓山高峻、鳥飛不越、惟有一缺門、雁往來向此缺中過、人號曰雁門。遊仙窟云。人跡罕及鳥路纔通。王維詩云。鳥道一千里、猿聲十二時。天隱注曰。南中八志曰。鳥道四百里、山其險絶獣猶無蹊、特上有飛鳥之道耳。もゆる火を雪もてきやしふるゆきを火もてけしつゝ。神典經曰。南方有火山、長四十里、生不燼之木、晝夜火燃、得烈風不猛、暴雨不滅。言不得名不知。これをいひかねてなをもしらせすとよめるはあやまりなるへし。こゝの心は言語道斷、心行處滅といふかことく、かゝるあやしきことは、そのことはりをいふ事もあたはす。何となつくへき名をもしらぬと、稱美する詞なれは、いひもかねなつけもしらすとよむへし。上はいひかねてとても聞ゆるなり。あやしくもいます神かも。是はすくに山をさしていへり。記云。山有神、名淺間大神。延喜式神名帳云。駿河國富士郡淺間神社【名神大。】此浅間と申神も、すなはち山の精靈にておはしますなるへし。孔雀經に、佛諸の大山の名を説て、此名を知て唱るものは利益あらんと説たまへるをもておもふへし。せのうみとなつけてあるも、その山のつゝめる海そ。古抄にふしの山のいぬゐの角に侍る水海なり。すへてふしの山のふもとには、山をめくりて八の海有となん申す。せの海と申は、かの八の海の其一なりといへり。今案、此抄にいへるは、世に富士蓮肉とて、常のよりはまろにおほきなるを數味なとにするを出す沼をいへる歟。蓮肉といへるは※[草がんむり/欠]實とそみゆる。さて今こゝにその山のつゝめる海そといへるは、鳴澤の異名なるへきにや。さらてはつゝめる海といふ詞かなはす。海とはいかていはんと難せは、澤ともいふへからす。さきに.あらやまなかに海をなすかもとよめるも、池のひろく深きをいへるに准して知へし。記云。此山高極雲表、不知幾丈、頂上有平地、廣一許里。○第十四東哥に、さぬらくは玉のをはかりこふらくはふしのたかねのなるさはのこととよめるこれなり。此記の心をおほえて、石ありや竹ありやと.のほれりといふ人ことに問ふに、竹はなし、石は、池の中、氷と大雪ありて見えすとのみいへり。せのうみを、八雲御抄に神の名としたまへるは心得かたし。石花とかきてせとよむは、石花といふ貝、和名せといへは、かりてかけり。和名集云。兼名苑注云。石花【花或作華。】二三月皆紫舒花、附石而生、故以名之【和名勢。】ふし川と人のわたるもその山の水のあたりそ。記云。有大泉、出自腹下、遂成大河、其流寒暑水旱、無有盈縮。六帖に、ふし川のよにすむへくもおもほえでこひしき人の影しみえねは。躬恒家集に、あはんとはおもひわたれとふし川のつゐにすますは影も見えしを。此二首、よにすむへくもおもほえすといい、つゐにすますはといひて、すまぬ事によせたるは、あるひは雪け、あるひは雨なとに、山よりにこりくるゆへにすむことまれなるによせたり。今もあつまにかよふ人の、餘に大河あれと大かたかちわたりし侍るを、此河のみ、夏冬となく舟にてこし侍る。鳥を、そのにこるかんなにつかふは、をそといふか、からすの事なれは、上畧して用侍るなり。第十四に、からすてふ大をそ鳥とよめり。おそはきたなき事なり。えはみきたなき鳥なるゆへになつくるなるへし。やまとの國のしつめとも。文選東京賦云。太室作鎭。注云。太室崇高別名、言以崇高之嶽爲國之鎭山。呉都賦曰。指衡嶽以鎭野
 
反歌
 
320 不盡嶺爾零置雪者六月十五日消者其夜布里家利《フシノネニフリオクユキハミツキノモチニケヌレハソノヨフリケリ》
 
消者はキユレバともよむべし、仙覺抄に富士の山には雪の降積てあるが、六月十五日に其雪の消て子の時より下には又降替ると駿河國の風土記に見えたりと云へり、今云、仙覺も駿河風土記は唯人傳に聞れたりと見えたり、此は消る間のなきをせめていはむとて其夜降けりとはいへり、業平のかのこまだらとよまれたるは五月なり、今富士に上る者に尋ぬれば六月にも所々に消殘てありとは申せど降るとは申さず、詩歌は心して見るべし、順徳院此歌の意を得てよませ給へる御歌、限あれば富士のみゆきの消る日も、沍る氷室の山の下柴、記云、宿雪春夏不消、漢書西域傳云、天山冬夏有雪、山海經云、由首山小威山空桑山皆冬夏有雪、
 
初、ふしのねにふりをく雪はみな月のもちにきゆれはその夜ふりけり
駿河國の風土記に、此山につもりてある雪の、六月十五日にきえて子の時より下には又降かはると古抄に見えたり。たしかに其書を見されは信しかたし。此歌はふりつくよしをいはんとて、その夜ふりけりといふなるへし。記云。宿雪春夏不消。のほれるものにきくに.きゆるといふもむらきえにて消つくすといふ事なしとそ。順徳院此歌の心を得させたまひて、かきりあれはふしのみゆきのきゆる日もさゆるひむろの山のしたしは。山海經云。由首由小威山空山、皆冬夏有雪。漢書西域傳云。天山冬夏有雪
 
(69)321 布士能嶺乎高見恐見天雲毛伊去羽計田菜引物緒《フシノネヲタカミカシコミアマクモヽイユキハハカリタナヒクモノヲ》
 
伊去、【校本云、イユキ、】 羽計、【官本或計作v斤、】
 
伊去の點校本をよしとす、今の點は印行の誤なるべし、莱は菜に改むべし、タナビクは立はのぼらでとよめるに同じ、
 
初、たなひく
立はのほらて山にたな引とよめるにおなし。菜を誤て莱に作
 
右一首高橋連蟲麻呂之歌中出焉以類載此
 
蟲丸世系考る所なし、
 
山部宿禰赤人至伊豫温泉作歌一首并短歌
 
和名曰、伊豫國温泉 湯郡、源氏に伊與の湯桁の敷といへるも此湯にて今の世も名ある温泉なり、元は大穴持命宿奈※[田+比]古那命のために大|分《イタ》速見《ハヤミノ》湯を下樋より特度來とあり、大分速見も豐後の郡の名なり、彼處にも湯あり、湯を神力を以て底より通はし給ふ意なり、天皇等於湯幸行降坐五度也、釋日本紀第十四に伊豫國風土記を引るに委見えたり、今此歌第一卷にも見えたる舒明天皇齊明天皇の行幸の昔と聖徳太子との御事とを殊懷てよまれたるなり、
 
初、伊豫温泉
伊豫國風土記云。湯郡、天皇等於湯幸行降坐五度也。景行天皇、以大帯上日子天皇、於湯與大后八坂入姫命二?爲一度也。仲哀天皇、以大帯中日子天皇、與大后息長足姫命二?爲一度也、以上宮宮聖徳皇子爲一度、及侍高麗慧慈僧、葛城臣等也。立湯岡側碑文。其碑文處、謂伊社波者、當土諸人等其碑文欲見而、伊社那比來因謂伊社邇波本也。以岡本天皇并皇后二?爲一度。于時於大殿戸有椹云臣木、於其上、集鵤云比米鳥。天皇爲此鳥、繋穗等養賜也。以後岡本天皇、近江大津宮御宇天皇、淨御原宮御宇天皇三?爲一度。此謂幸行五度也。延喜式神名帳云。伊與國温泉伊佐爾波神社、湯神社
 
(70)322 皇神祖之神乃御言乃敷座國之盡湯者霜左波爾雖在嶋山之宣國跡極此疑伊豫能高嶺乃射狹庭乃崗爾立而歌思辭思爲師三湯之上乃樹村乎見者臣木毛生繼爾家里鳴鳥之音毛不更遐代爾神左備將徃行幸處《スメロキノカミノミコトノシキマスクニシシユハシモサハニアレトモシマヤマノヨロシキクニトコヽシキイヨノタカネノイサニハノエオカニタヽシテウタフオモヒイフオモヒセシミユノウヘノコムラヲミレハヲミノキモオヒツキニケリナクトリノコヱモカハラストホキヨニカミサヒユカムミユキシトコロ》
 
敷座、【官本亦云、シキイマス、】
 
敷座は今按シカシマスともシキマセルとも讀べきか、國之盡は今の本の點意得がたし、クニノコト/”\と讀べきか、上に云が如し、湯ハシモのしも〔二字右○〕は助語なり、初よりサハニアレドモに至るまでの七句は今の湯をほめん爲に諸國に湯は多けれどと云なり、雖は縱奪の詞にて、島山は伊與の新居《ニヒキノ》郡に島山あれどそれを云にはあらず※[手偏+總の旁]じて彼國をさせり、極此疑は島山なればいへり、射狭庭乃等の四句は聖徳太子の御事なり、仙覺の引れたる風土記云、以2上宮聖徳皇子1爲2一度(ト)1、及侍高麗慧※[耳+怱]僧葛城臣等也、立2湯岡(ノ)側碑文1、其立2碑文1處謂2伊社邇波之岡1也、所2以(ハ)名2伊社邇披1者、當土諸人等其碑文欲v見而伊社那比來、因謂2伊社邇波1本也云云、釋日本紀には碑文は出たれども此(71)伊社邇波岡の事は略せるか引れず、延喜式神名帳云、温泉郡伊佐爾波神社、又湯神社、歌思はウタオモヒとよみ、辭思はコトオモヒとよむべし.太子彼岡に立て歌を案じたまひ碑文の辭を案じ給へるを云へり、御歌は傳はらねどよみたまへるなるべし、コムラは木の茂れるなり和名云、纂要云、木枝相交下陰曰※[木+越]、【音越、和名、古無良、】臣木はもみの木なるべし、於と毛と同韻にて通ぜり、和名云、爾雅云、樅、松葉柏身、【七容反、和名、毛美、】是は第一卷に軍王歌の注に一書云とて引る事なり、彼處には二樹と云ひて何の木とさゝず、仙覺の引れたる風土記云、以2岡本天皇并皇后二?1爲2一度1、于v時於2大殿戸1有v椹云2臣(ノ)木1、於其集上鵤云2比米鳥1、天皇爲2此鳥1枝繋2穗等(ヲ)1養賜也、此文も亦釋日本紀には引ず、今按椹の下の云、鵤の下の云は共に與の字の草書を誤て云に作れるなるべし、於其集上は於其上集なるべし、比米鳥は此米鳥なるべし、第一卷に二樹といへると有椹與臣木といへる符合せり、斑鳩此米二鳥大集といへると於2其上1集2鵤與2此米鳥1といへると又叶へり、椹は桑子の名なれば桑か、但桑と樅とは似つかぬ木なり、今俗此椹の字をさはらとよめり、さはらと云木はもみに類したれば昔もさはらとよみけるにや、鵤は和名に斑鳩と同訓なり、此米は和名云、孫※[立心偏+面]切韻云、※[旨+鳥]、【音脂、漢語抄云、之女、】小青雀也、此集第十三にもいそはひをるよいかるがとしめととよめり、小鳥の事能知たる者の申け(72)るは、斑鳩此米は打つれありく鳥と申き、此米は和名云、陸詞切韻云、※[令+鳥]、【音黔、又音琴、漢語抄云、比米、】白喙烏也、鳴鳥ノ聲モカハラズと云は何れの鳥もあるべけれど上の二鳥より云なり、神サビユカムは物ふりて彌かう/”\しく成ゆかむとなり、
 
初、すめろきの神のみこと
君を神といふ、さき/\のことし。しきませる國のかきりに湯はしもさはにあれとも。しろしめす國々に、いてゆはおほくあれともなり。島山のよろしきくにときはめしか。和名集云。伊與國新居郡島山。いまはこれにはあらす。惣していよは四國の惣體にて、四國みな島國なれは嶋山といへり。日本紀云。〓生大日本豊秋津洲、次生伊豫二名洲。舊事紀云。伊豫二名洲、此島者、身一而面四、毎面有名、伊與國謂愛止毘賣云々。きはめしかは、諸臣まても評議して、島山のよき國と伊與を定にしゆへ歟といふ心なり。疑の字を、かとよむことは、此かはうたかひの詞なれはなり。又此集に此疑の字をらしとよめるも、らしも凝の辭なれは、義に随てさま/\轉し用るなり。楞嚴に、若能轉物、則同如來といへり。これらもその一分なるへし。歌思辭思せし。これをは、うたおもひことおもひせしとよむへし。うたふおもひいふおもひはあやまれり。これは風土記にいへる、聖徳太子の湯の碑を立たまふとて、文章の樣を案したまふを、ことおもひといひ、歌をもよませたまひけんなれは、うたおもひとはいへり。みゆのうへのこむらをみれは。みゆは眞湯なり。こむらは和名集云。纂要云、木枝相交、下陰曰※[木+越]【音越、和名古無良。】おみの木もおひつきにけり。おみはもみの木なり。和名集云。樅松葉柏身【七容反、和名毛美。】これは舒明天皇の彼湯宮におはしましける時、風土記にいへるかことく、おみの木有ていかるかしめのあつまりけるかために、いなほをかけてやしなはせたまひける、其時の木なり。第一卷軍王の歌の後の注の中にひける山上憶良の類聚哥林にいはく。一書云。是時宮前有一樹木、此之二樹、斑鳩此米二鳥大集、時勅多掛稻穗而養之、乃作歌云々といへるよりみれは、うたおもひことおもひも岡本天皇の御事を申かとも聞ゆ。其時は歌はうたの惣體にて、ことは歌のなかのことはなり。又おなし事を詞をかへてふたゝひいふ事もあれは、ことゝいふも歌にても有なん。啼鳥のこゑもかはらすとは、昔のいかるかしめのことをふみていへり。神さひゆかんみゆきし所とは、かくよしある所なれは、みゆきにより名高くかう/\しく後の代はるかにきこえつかんとなり
 
反歌
 
323 百式紀乃大宮人之飽田津爾舩垂將爲年之不知久《モヽシキノオホミヤヒトノニキタツニフナノリシシケムトシノシラナク》
 
仙覺抄云、伊豫風土記には後岡本天皇御歌云、美枳多頭爾波弖丁美禮婆云云、にとみと同韻相通の故ににぎたづともいひみぎたづとも云と上られたり、み〔右○〕とに〔右○〕とは殊にかよはしていはるゝ字と聞えたり、いはゆる浪速をなにはといひ、にほをみほといひ、蜷をになと云が如し、第一卷に引る齊明紀に合て見るべし、垂は乘の字の誤なり、
 
初、にきたつ
第一卷に見えり。乘誤作垂
 
登神岳山部宿禰赤人作歌一首井短歌
 
初、登神山
 
324 三諸乃神名備山爾五百枝刺繁生有都賀乃樹乃彌繼嗣爾(73)玉葛絶事無在管裳不止將通明日香能舊京師者山高三河登保志呂之春日者山四見容之秋夜者河四清之且雲二多頭羽亂夕霧丹河津者驟毎見哭耳所泣古思者《ミモロノカミナヒヤマニイホエサシシヽニオヒタルトカノキノイヤツキツキニタマカツラタユルコトナクアリツヽモヤマスカヨハムアスカノフルキミヤコハヤマタカミカハトホシロシハルノヒハヤマシミカホシアキノヨハカハシサヤケシアサクモニタツハミタレユフキリニカハツハサワクミルコトニネニノミナカルムカシオモヘハ》
 
繁、【六帖、シケク、官本亦點同v之、】  河四清之、【六帖、カハシモキヨシ、】  驟、【六帖、サワキ、】  哭耳所泣、【六帖、ナキノミソナク、】
 
右の六帖の點何れも今の點には及ぼざるか、驟の字はサワグ、サワギ、同等なるべきか、此外三諸乃をミムロギノといひ、明日香能をアスカノノと云へるは意得がたし、川トホシロシとは大きにゆたけき意なり、神代紀下云、集《ツトフ》2大小之魚《トホシロクイヲトモヲ》1、山シ見カホシ、山を見ることのあかずほしきなり、上のし〔右○〕は助語、見容之と書たれど見之欲《ミガホシ》なり、但今の如くも書又見※[日/木]之とも書たればよむ事は顔の如くなるべし、且雲二以下の四句并反歌によれば赤人の此歌よめる時秋とみられたり、第十秋部に詠鶴とて鶴の歌あり、蛙は多分秋によめればなり、鶴も蛙も鳴物なれば舊都を感じてなくといはむために二の物を上にいへり、此舊都は近く藤原宮を指か、
 
初、とかの木
第一卷に注す。河とをしろし。第十七にも此詞あり。とをしろしと、おほきなるをいふ。神代妃下云。集大小之魚。山しみかほし、見容之とかきたれと、見之欲にて、みまくほしきなり。朝くもにたつはみたれて、夕きりにかはつはさはく。これはみることにねにのみなかるといはんためなり。朝雲にみたるゝ鶴も、夕霧にさはく蛙もともになけは、みることにねのみしなかるとよせたり。景と情とを兼たり。赤人にあらすは、かやうにはよみかたかるへし。むかしおもへはとは、赤人はならの京につかへられて、岡本、後岡本、淨御原、藤原宮みな此みもろ山あすか川のあたりにおはしまして、さかえし所なるに、今ふるさとゝなりはてたるゆへに、いにしへをこふるなり
 
反歌
 
(74)325 明日香河川余藤不去立霧乃念應過孤悲爾不有國《アスカカハカハヨトサラスタツキリノオモヒスクヘキコヒニアラナクニ》
 
川ヨドサラズとは常にの意なり、霧は水氣の故なり、思スグベキとはよしやとやり過しがたきなり、下に此詞多し、新千載に戀に入られたる事おぼつかなし、此戀と云は故郷を戀る感慨なり、
 
初、川よとさらす
朝夕立霧のはるゝまなきかことく、わがいにしへをこふる心もおもひ過してやらんとすとも、はらされしといふ心なり。此集に、おもひ過へき、おもひやるといへそは、みなおもひを過すへきおもひをやるなり
 
門部王在難波見漁父燭光作歌一首
 
初、門部王
元明紀云。和銅三年春正月壬子朔戊年、授無位門部王葛木王從六位上神社忌寸河内、並從五位下。六年正月、授無位門部主從四位下。元正紀云。養老元年正月、從五位上。養老三年秋七月、始置按察使、令伊勢國守從五位上門部王、管伊賀志摩二國云々。五年正五位下。聖武紀云。神龜元年二月、正五位上。五年五月.從四位下。天平三年、従四位上。九年十二月壬戌右京大夫。十四年四月戊戌、授從四位下大原眞人門部從四位上。天平十七年四月戊于朔庚戌、大藏卿從四位上大原眞人門部卒。【聖武紀位階次第有疑】見漁父燭光。和名集云。漁父、一曰漁翁【和名無良岐美】
 
326 見渡者明石之浦爾燒火乃保爾曾出流妹爾戀久《ミワタセハアカシノウラニタケルヒノホニソイテヌルイモニコフラク》
 
火ノホニ出ルとは※[火+稻の旁]なり、※[火+陷の旁]は火の穗の意に名付たり、久しく旅に在て妹を戀る心を忍べども、あの海人の燒火ももゆれば※[火+稻の旁]の上りて遠く見ゆるやうに我下思ひも餘りては色に出で見えぬべしとなり、
 
初、たけるひのほにそ出ぬる
火をほともいふゆへに、たけるひのほに出るとうけたり。色に出ことに出るをほに出るといふなり
 
萬葉集代匠記卷之三上
 
(1)萬葉集代匠記卷之三中
 
或娘子等賜※[果/衣]乾鰒戯請通觀僧之咒願時通觀作歌一首
 
賜は按ずるに贈なるべし、賜は我より上なる人の物を給はる時に用る字なれば今は叶はず、下にも贈を賜に作れる所あり、偏同じく意似たる故うつす人の誤れるなるべし、乾鱒鰒は和名云、四聲字苑云、鰒、魚名、似v蛤(ニ)偏(ニ)著v石、肉乾可v食、本草云、鮑、一名鰒、【和名、阿波比、】通觀は傳未v詳、僧は梵語の略なり、具には僧伽と云、唐には衆とも和合とも翻す、日本紀にはホウシと點じたるは法師の二音を和語とせり、尼をあまと云も日本紀私記に阿魔と云梵語と云へり、此等に例すれば佛をほとけと云も、ほと〔二字右○〕は梵語浮屠家にや、咒願は僧家の祝言なり、十誦律云、佛言、應d爲1施主1種種讃歎咒願u、若上座不v能《・アタフ》即次(ノ)座|能《・アタフ》者作(セ)、
 
初、或娘子等賜
賜字贈の字のあやまれるにや○咒願は十誦律云。佛言○
 
327 海若之奥爾持行而雖放宇禮牟曾此之將死還生《ワタツミノオキニモチユキテハナツトモウレモソコレカシニカヘリイカン》
 
持行而、【官本云、モテユキテ、】
 
(2)宇禮牟曾、今按牟の字常の呉音にてウレムゾと讀べきか、第十一人丸集の哥に、平山子松末有廉叙波《ナラヤマノコマツカウレニアレコソハ》、云云、これをナラヤマノコマツガウレニアレコソハと點じたれど、こ〔右○〕とよむべき字なし、今按に彼もコマツガウレノウレンゾハとよむべきにやと存ず、委は彼處に注すべし、此詞日本紀等にも見えず、唯これのみなるが、語勢を以て推するに、なんど、いかんぞなど云に同じく聞ゆ、是は莊子に轍魚の事を云へる中に、我且南遊2呉越之王1、激2西江之水1而迎v子可(ナラムヤ)乎、云云、曾不v如早索(メンニハ)2我於枯魚之肆1、此意をもてよめるなるべし、
 
初、わたつみのおきにもちゆきて放ともうれもそこれかしにかへりいかむ
うれもそはこれよりほかに見及はぬ詞なり。いかんそ、なんそといふこゝろときこえたり。莊子曰。莊周家貧故往貸粟於監河侯。々々々曰。諾我將得邑金、將貸子三百金可乎。莊周忿然作色曰。周昨來有中道而呼者、周顧視車轍中、有鮒魚焉。周向之曰。鮒魚来、子何爲者哉。對曰。我東海之波臣也。君止之有斗升之水而活我哉。周曰。諾。我且南遊呉楚之王激西江之水而迎子、可乎。鮒魚忿然作色曰。吾失我常與吾無所處、吾得斗升之水然活耳。君乃言之、曾不如早索我於枯魚之肆。この心にてよまれけると見えたり
 
太宰少貳小野老朝臣歌一首
 
職員令云、大貳一人掌同v帥、少貳《・スナイスケ》二人掌同2大貳1、老は聖武紀云、天平元年三月從五位上三年正月正五位下、此集第五に天平二年正月に帥大伴卿の宅にて三十二人梅の哥よめる中に少貳小野大夫とあるは此人なれば此歌も其比なるべし、紀云、九年六月甲辰朔甲寅、太宰大貳從四位下小野朝臣老卒、
 
初、太宰少貳小野者朝臣
職員令云。大貳一人、掌同帥。少貳二人、掌同大貳。元正紀云。養老三年正月.授正六位下小野朝臣老従五位下。四年十月、右少辨。聖武紀云。天平元年三月、從五位上。三年正月、正五位上。六年正月從五位下。九年六月甲辰朔甲寅、太宰大貳從四位下小野朝臣老卒。天平勝寶六年二月丙戌、勅。太宰府去天平七年故大貳從四位下小野朝臣老遣高橋連牛養於南嶋樹牌、而其牌經年今既朽壞、宜依舊修樹、毎牌顯著島名并泊船處有水處及去就國行程遙見嶋名、令漂著之船知所歸向
 
328 青丹吉寧樂乃京師者咲花乃薫如今盛有《アヲニヨシナラノミヤコハサクハナノニホフカコトクイマサカリナリ》
(3)此は朝集使などに差れて、都に上りてよまれたるか、今ニホフと云は色の匂ふなれば、此集にては艶の字なるべきを薫の字をかけるは同訓なれば假てかけるなるべし、
 
防人司祐大伴四繩歌二首
 
職員令云、防人|正《カミ》一人掌2防人名帳戎具教閲及食料田事1、佑一人掌同v正(ニ)、防人の事は後に委注すべし、大伴の下に宿禰の姓有ぬべきを若脱せるか、但官を云へば略せる例あれば其意歟、四繩は世傳未v詳、六帖にはよつつな〔四字右○〕とあり、
 
初、防人司祐大伴四繩歌
大伴の下は宿禰の字のおちたるなるへし。家持の歌なと、末にいたりてつゝきておほき所には、大伴家持とのみもさらては皆姓をそへてかけり。又此大伴をともとのみよむは、淳和天皇の御諱大伴にておはしますゆへに、それにははかり奉りてなり。されともこれらはこさかしきものゝわつかに見たる事をもていへるなるへきにや。續日本紀云。延暦四年五月乙未朔丁酉、詔曰。○又臣子之禮必避君諱、比者先帝御名、及朕之諱、公私觸犯、猶不忍聞、自今以後宜並改避。於是改姓白髪部爲眞髪部、山部爲山。これ光仁天皇を白壁皇子と申けるゆへに白髪部をいみ、桓武天皇を山部王と申けるゆへに山部をいみけるなり。しかれは赤人の氏をも山の赤人とよむへき事なり。すてに詔あるをはいまてさもなきをいむゆへにかくは申なり。後宇多院御諱世仁にてまし/\ける故、よひとゝあるをは人とのみよむよしは、その比よりはさも侍なん。白髪部は、清寧天皇の御子おはしまさて、御くしの白くまし/\けれは御名の後まて、殘るへきことをおほしめして、白髪部ををかせたまへるなり。職員令云。太宰府【帶筑前國】防人正一人、掌防人名帳戎具教閲及食料田事、佑一人掌同正
 
329 安見知之吾王乃敷座在國中者京師所念《ヤスミシシワカオホキミノシキマセルクニノナカニハミヤコシソオモフ》
 
落句は今按京師引合てミヤコとよむ傍例あればミヤコオモホユと讀べし、
 
初、京師所念
京師とつゝけて、みやこなれは都おもほゆともよむへし
 
330 藤浪之花者盛爾成來平城京乎御念八君《フチナミノハナハサカリニナリニケリナラノミヤコヲオモホスヤキミ》
 
君と指せるは大伴卿なり、次の歌これに和する心と見えたり、第十二春日野の藤は散行てとよめり、若は大伴卿の奈良の宅に藤の有けるを筑紫にて藤さく比かくよめるか、第六に少貳石川足人が佐保の山をば思ふやも君とよみて大伴卿に贈れる(4)の和あり、今の歌に似たり、
 
帥大伴卿歌五首
 
職員令云、帥一人云々、彼に委し、
 
331 吾盛復將變八方殆寧樂京師乎不見歟將成《ワカサカリマタカヘレハモホト/\ニナラノミヤコヲミスカナリナム》
 
八方、【校本云、ヤモ、】
 
復將變八方は今按變は反にてまたかへらめやもなるべし、變にてはまたかはらめやもなれば今の意にあらず、殆は危殆にて如何ならむとあやふみ思ふなり、
 
初、將變八方
かへらめやと讀へし。ほと/\は危殆の心にていかゝあらんとあやふみおもふ心なり
 
332 吾命毛常有奴可昔見之象小河乎行見爲《ワカイノチモツネニアラヌカムカシミシキサノヲカハヲユキテミムタメ》
 
ツネニアラヌカは願ふ詞にて落著は常にあれかしなり、第一に吹黄刀自が常をとめにてとよめる歌思ひ合すべし、又さきに中納言の時よまれたる歌に合てみるべし、
 
初、我命も常にあらぬか
第一卷吹黄刀自か歌に注せし心なり。昔見しきさの小川は、さきに中納言の時よまれける歌に合てみるへし。常にあらぬかは、常にあられぬ物か、常なれかしとねかふ心なり
 
333 淺茅原曲曲二物念者故郷之靡念可聞《アサチハラトサマカクサマニモノオモヘハフリニシサトノオモホユルカモ》
 
第二の句は今案ツバラ/\ニと讀べし、舒明紀云、仍|曲《ツハヒラケク》擧2山背(ノ)大兄《オヒネノ》語1、これによるに(5)つまびらかに同じ、此集第十八に、梶の音のつばら/\に、第十九に、やつをの椿つばらかに、是皆同意なり、淺茅原とおけるは、知と豆と五音通ずる故に茅針をもつばなといへばちはらをたゝむで云意にさてかくつゞくるなり、さま/”\に物を思ふに付て彌故郷の戀しきとなり、
 
初、あさちはらとさまかくさまに
淺茅原の打みたれたるか、ひとかたならぬに、さま/\物をおもふ心をよせていへり。故郷に淺茅原は縁ある詞なり。今案、曲曲二とかけるをは、とさまかくさまとはいかてよめりけん。これをはつはら/\とよむへきにや。つはらはつまひらかなり。第十八に、朝ひらき入江こくなるかちのをとのつはら/\にわきへしおもほゆ。第十九に、おく山のやつをのつはきつはらかにけふはくらさねますらをのとも。?曲のこゝろをつくしてあそひくらせといふこゝろなり。日本紀第二十三云。仍曲擧山背大兄語。さてあさち原といひて、いかてつはらとはつゝくるといはゝ、ちとつと通するによリて、かの花をもちはなとはいはて、つはなといへは、その心にあさちといふことはをうけてつゝくるなるへし
 
334 萱草吾紐二付香具山乃故去之里乎不忘之爲《ワスレクサワカヒモニツクカクヤマノフリニシサトヲワスレヌカタメ》
 
香具山、【校本具作v久、】
 
萱草は毛詩云、焉《イツクンソ》得2※[言+爰]草1、言《ワレ》樹《ウエム》2之|背《キタニ》1、毛萇云、萱草(ハ)令2人忘1v憂、第四第十二にも紐に著とよめり、香具山ノフリニシ里とは、第六に此卿奈良にて思郷歌に、行て見てしか神名火の、淵は淺びて、又栗栖の小野の芽花ともよまる、香具山は十市郡、神南備は高市郡、栗栖は忍海郡なれば、本宅別業或は所領など此等の三郡に亘て宥けるか、彼遠祖道臣命は高市郡築坂邑に宅地を賜はりける由神武紀に見えたり、此等も相傳せられける歟、
 
初、わすれ草わかひもにつくかく山の
毛詩云。焉得※[言+爰]草、言樹之背。毛萇詩傳云。萱草令人忘憂。兼名苑云。萱草一名忘憂。名醫別録云。萱草是今之鹿葱也。※[禾+(尤/山)]叔夜養生論云。合歡?忿、萱草忘憂、愚智所共知也。第四に、わすれ草わか下ひもにつけたれとおにのしこ草ことにしありけり。第十二に、わすれ草わか紐につく時となくおもひわたれはいけりともなし。大伴氏先祖道臣命、橿原宮のあたりに宅地を賜られけるを相傳して領せるなるへし
 
335 吾行者久者不有夢乃和太湍者不成而淵有毛《ワカユキハヒサニハアラシヨコヽノワタセトハナラステフトトアリトモ》
 
(6)夢乃和太、【校本云、ユメノワタ、】
 
ユメノワタは第七に芳野作とて五首ある中にも讀たれば吉野川の水の入囘る處にかく名付たる處有けるなるべし、落句今の點意得ず、有の下に也八等の字脱たるか、フチニアレヤモなるべし、
 
初、わかゆきは久にはあらしゆめのわたせとはならすてふちにあれやも
わかゆきとは、わか旅といふ心にて、帥にてあらんほとをいへり。ゆめのわたは、長流か昔の抄に、夢のあひたといふ心なり。すこしの間といはんとてなりと注せり。今案、これは大和にある所の名ときこえたり。第七に、芳野作とて五首ある中にも、ゆめのわたことにしありけりうつゝにもみてこしものをおもひしおもへは。これゆめのわたと名づけたるは唯ことはのみにてありけり。みんとたにおもひ立ぬれは、うつゝにもみてこしものをといふ心なり。こゝにもきさのを川をゆきてみんためともあれは、よしのにある川の水のいりこみてゆたふ所をなつけたる名なるへし。今やかて歸て見にゆくへけれは、それをまちつくるまて、せとならて昔見しまゝのきよきふちにてあれとなり
 
沙彌滿誓詠緜歌一前
 
前は首なり、改むべし滿誓は笠朝臣麻呂と云人の入道せし名なり、元正紀云、養老五年五月己酉、太上天皇不豫大赦天下、戊午右大弁從四位上笠朝臣麻呂、請d奉2爲太上天皇1出家人道、勅許v之、在俗の時美濃守たりし時美政の譽あり、岐蘇路を開かれし功あり、彼國多藝郡に禮泉出しに付て靈龜三年を養老元年と改られしも此人任國の時にて、勘賞に預り位階を加へらる、此歌は觀音寺の別當になされし時筑前に有てよまれたる歌なり、
 
336 白縫筑紫乃綿者身著而未者伎禰杼暖所見《シラヌヒノツクシノワタハミニツケテイマタハキネトアタヽカニミユ》
 
白縫と書たれど不知火なり、不知火は筑紫の枕辭なり、別に注す、筑紫ノ綿とは綿は(7)筑紫の名物なり、稱徳紀云、神護景雲三年三月乙未、始毎v年運2太宰府綿二十萬|屯《ミセヲ》1輸《イタス》2京庫1、延喜式第五十雜式云、凡太宰貢(ツル)2綿穀(ヲ)1船者擇d買|勝《タヘタルヲ》uv載2二百五十石以上三百石以下(ヲ)1、著v※[木+施の旁]《カチヲ》進上、便即令v習v用(ルコトヲ)v※[木+施の旁]、其用度充2正税1、江次第第十一、十二月補(スル)2次侍從1次第云、上古(ニハ)以v預2節會1爲2大望1、多(クハ)依v給2禄綿1也、件綿本太宰府所v進也、而近代帥大貳申2色代1、三百兩代絹一匹、仍無d望v預2節會1人u、下の句聞えたるまゝにて綿を多く積置けるを見て綿の功用をほむるなり、源氏末摘花の卷に、松の雪のみ暖氣にて降つめるとかけるを、花鳥餘情に今案松の雪は白き綿をむしりかけたるやうなればあたゝかげなりと云にやと注せらる、今思はく、注の意ならば此歌を以てや書侍りけむ、温和の相ある人は打見るより仁愛ありぬべくをぼゆれば、世の誡とも成ぬべき歌なり、
 
初、しらぬひのつくしのわたは身につけていまたはきねとあたゝかに見ゆ
白縫とはかきたれとも、不知火のつくしといふことは、日本紀第七、景行紀云。十八年春三月、巡筑紫國。夏五月壬辰朔、從葦北發船、到火國。於是日没也。夜冥不知著岸。遙視火光。天皇挟〓者曰。直指火處。因指火往之、即得著岸。天皇問其火光處曰。何謂邑也。國人對曰。是八代縣笠村。亦尋其火、是誰人之火也。然不得主、茲知非人火。故名其國曰火國。これことのもとにて、しらぬひのつくしといふなり。筑前筑後をつくしといひ、肥前肥後をひのくにといひ、豊前豊後をとよくにとわかちていへることもあれと、薩摩日向大隅をかけて九ケ國を惣して筑前をもとゝして筑紫といふなり。神代紀云。〓生大日本豊秋津洲。次生伊與二名洲。次生筑紫洲。舊事紀云。筑紫島身一而面四、毎而有名、筑紫國謂白日別、豊國言豊日別、肥國謂速日別、日向國、謂豊久士比泥別。續日本紀には、筑紫を竺志ともかけり。つくしといふことは、日本紀纂疏云。地之形似木兎、和名曰郡久、俗謂耳附之鳥也。爾雅云.木兎似鴎而小、兎頭毛角。此木兎に似たるによりてつくしとなつくるよしは、物に見えたる事にや。もし疏主、秋津嶋となつくる例を心得て、わたくしに尺したまへる歟。又肥前肥後は、もと火のくになるを、火災なとに心にかくへけれは、よき字の音をかりて肥となせは、とよくにを豊前豊後といふにはかはりて、肥前肥後、實には和漢音訓ましはれるなり。つくしのわたは、續日本紀第二十九云。神護景雲三年三月乙未始毎年運太宰府綿二十萬屯、輸京庫。【史記蘇秦傳曰。白璧百隻、綿繍千純。注純匹端云々。索隱曰云々。純音淳。高誘注戰國策音屯、々束也云々。日本紀四屯和名阿施。唐書順宗本紀曰。百姓百歳已上賜米五石絹二疋綿一屯羊酒。】延喜式第五十雑式云。凡太宰貢綿穀船者、擇買勝、載二百五十石以上、三百石以下、不著〓進上便即令習用〓、其用度充正税。江次第十一、十二月補次侍從次第云。上古以預節會爲大望、多依禄綿也。件綿本太宰府所進也。而近代帥大貳申色代三百兩代絹一匹仍無望預節會人。下の句はきこえたるまゝにて、わたをおほくつみをけるをみて、綿の徳をほむるなり。源氏末摘花の卷に、松の雪のみあたゝかけにてふりつめるとかけるを、花鳥餘情に、今案、松の雪は白き綿をむしりかけたるやうなれは、あたゝかけなりといふにや。今おもはく、此歌にてかきけんをなとか引たまはさりけん。此哥はたゝ聞まゝにこそ作らめと、わたのみるよりあたゝかけなりといふに心を得は、慈悲ある人には慈悲の相あらはれ、〓慢の人には〓慢の相あらはれ、よろつにかゝるへきことはりなれはいましめとなりぬへき哥にや
 
山上臣憶良罷宴歌一首
 
筑前守となられし事第五に見えたれば此つゞきを見るに太宰帥大伴卿の宅などの宴か、
 
337 憶良等者今者將罷子將哭其彼母毛吾乎將待曾《オクララハイマハマカラムコナクラムソノカノハヽモワレヲマタムソ》
 
憶良は殊に妻子を憐愍したる人なり、第五を見るべし、
 
初、子なくらん
われを待わひてなかんなり。母ものもの字、上を兼たり
 
(8)太宰帥大伴卿讃酒歌十三首
 
酒は内典には一向是を斷て用ず、外典にも尚書禮紀論語等に酒失を防ぐ文多し然れども※[身+矢]義云、酒者所2以以養1v老也、所2以養1v病也、漢書食貨志云、夫鹽食肴之將、酒百藥之長也、晋の劉伶が酒徳頌、唐の李白が獨酌詩のみならず、蒙邁不羈の輩此趣を得る者多し、此歌并懷風藻に載たる藤原麻呂朝臣の詩序を見るに彼輩なるべし、
 
初、太宰帥大伴卿讃酒歌十三首
此卿、酒をこのまれけることは、此十三首の哥をもて知へし。又第四卷に、丹生女王、すなはちこの卿の帥なりける時をくり給ふ歌に、いにしへの人のゝませるきひの酒やもはゝすへなぬきすたまはん。今一首の歌をみるに、都にて心をかはされけると見えたり。されはいにしへの人とよまれたるは、昔あひかたらひし人といふ心ななり。昔上戸にておはせしかは、今もさそあるらん、さかやまひしたまはゝせんすへなかるへし。嘔吐に座をけかされぬためにぬきすをまいらせんとたはふれてたまへるなり。されはかくれなき大戸と見えたり。そも/\酒を用るに得あり。失あり。先その失をいはゝ、佛法の中には一向にこれを制して乃至草葉をもても口をうるほすことをゆるさす。性戒度戒をわかつ時、飲酒はこれ度戒なれとも、五戒の優婆塞飲酒を破せしゆへに其他の四戒一時に違犯せり。かゝるゆへに梵網經云。若佛子故飲酒。○この輕垢罪といふは、〓酒の重禁に對せるなり。〓酒は、十重の第五に説り。其文にいはく。若佛子自〓酒、教人〓酒。○要略念誦輕云。遠離諸酒、如霜雹。諸酒とは、穀酒の下に藥酒菓酒等のおほよそ人を薫醉せしむるなり。あらゆる善心の萠芽を涜する事、彼災霜災雹の草木をからすにたとへたり。乃至智度論には三十五失を立らる。外典には書胤征云。義和廢厥職酒荒于厥邑、胤后承王命徂征。伊訓、制官刑〓于有位曰。敢有恒舞于宮、〓歌于室、時謂巫風微子曰。父師若曰王子、天毒降災荒殷方與沈〓于酒。周書泰誓曰。今商王受。○沈湎冒色取行暴虐。酒誥曰。天降威我民用大亂葬徳、亦罔非酒惟行、越小大國、用喪亦罔非洒惟辜。文王教小子○庶羣自酒腥聞在上、故天降喪于殷。禮樂記曰、賓人王百拜。○論語子罕曰。子曰。郷黨云。惟酒無量不及亂。戰國策曰。儀狄作酒。その得は、禮射義曰。酒者所以養老也。所以養病也。前漢書食貨志云。夫鹽食肴之將酒百藥之長也。いにしへは藥を用るに、おほく酒をもてしけるゆへに、醫の字酉に從かへたり。宗廟社稷を祭るにも是を用ゐ、本朝に大小の神祇を祭るにも、神酒をもちゆ。されとも人のためには失おほきゆへに郷飲酒の禮なとをまふけてそのゑひてみたれんことをふせく。世教にはひたすらこれをたつにあらされとも、その失なくて得のみあらんやうには用かたかるへし。但七賢等の曠達の士ありて、凡俗のさかひをしらさる事あり。詩人文人このまさるはまれなり。劉伯倫は酒徳頌を作り、白居易は晒功讃を作れり。李太白か獨酌詩云。天若。○もろこしには豪邁不羈のともから、やゝもすれは此おもむきを詩文にも作れり。本朝にはふるくはこれらの哥、懷風藻に出たる藤原麻呂朝臣の詩序なともそのたくひならん。此集には猶酒をよめる歌あり。古今より後の集には、酒宴のむしろにありて讀るよしの詞書なとはあれと、酒なとよめることまれなり。大底異國は、飲食にふけりて、此國は色をこのめり。路逢麹車口流涎といへるは、杜子美か詩なれと、きたなく侍り。たかまの山のみねのしら雲とよせたるはいと風流なり。およそ此國にはなさけといふことをたふとへり。性情につきていはゝ、むつかしかりなん。なさけをたふとふといふゆへは延喜式をみるに、二月釋奠の日もし神事にあたれは、三牲をかふるに鯉鮒のたくひをもてす。これは異國にたかひて四足をいまるゝゆへなり。大甞會のまへなとには、僧尼のことき、情を奪て公に隨ふ輩を禁裏に出入せしめされといへり。佛制の公道に隨ふ故に崇敬したまへとも、人情をすてゝ俗を出、すけなきやうなるか神事にかなはされは、僧尼の出入をゆるさす。忌詞なといふこともあるなるへし。されはそのなさけにつきていはゝ、兼好法師よくこゝろえてつれ/\草におかしくかけり。色をいふにはある所には、色このまさらんをのこは、玉のさかつきのそこなきここちそすへきといひ、ある所には、色このまさらんにはしかしといへり。酒をいふには、いたましくするものから、けこならぬこそをのこはよけれといひ、ある所には、酒をしひることをこゝろえぬことゝいひ、梵網經の五百世無手の文のこゝろを引なとし、具覺房か事なとをもかき、又さてもあらてかくうとましとおもふ物からともたすけたり。これらをこゝろえて中ころをとり用たらんそ、風流士なるへき。いたましうする物からといへる、やさしくおもしろし。宇陀の法皇の御前にて、大なる盃にしるしつけて、これかれの上戸に大みきたまひける時、伊衡朝臣ひとりみたれさりけんも、哥人にはふっゝかにこそ
 
338 驗無物乎不念者一坏乃濁酒乎可飲有良師《シルシナキモノヲオモハスハヒトツキノニコレルサケヲノムヘクアラシ》
 
有良師、【幽齋本云、アルラシ、】川畑叫沌‥
 
物ヲ思ハズバとは物を思はじとならばの意なり、濁酒は淵明が詩に云く、濁酒聊々自適(ス)、
 
初、しるしなき物をおもはすは
しるしなきは、さま/\のことをおもひてもかひなきをいふ。たとへは千金を得はやとあけくれおもへとも、つゐに一錢の用なきかことし。物をおもはすはとは、此哥にては物をおもはしとならはといふ心なり。にこれる酒は淵明か詩にいはく、濁酒聊自適
 
339 酒名乎聖跡負師古昔大聖之言乃宜左《サケノナヲヒシリトオヒシイニシヘノオホキヒシリノコトノヨロシサ》
 
負師は今按オフセシとよむべし、是は酒の徳を知て名を聖と付し、人は猶聖の上の聖なりと云心に大聖と云なり、宜とは其名尤相當すとなり、酒を聖と云事は蒙求云、魏徐※[しんにょう+貌]字景山、爲2尚書郎1時禁酒、而※[しんにょう+貌]私《ヒソカニ》飲沈醉、趙達問以2曹事1、※[しんにょう+貌](カ)曰、中2聖人1、達白、大祖怒(ル)(9)鮮于輔進曰、醉客謂(テ)2酒清者1爲2聖人(ト)1、濁(ル)者(ヲ)爲2賢人1、※[しんにょう+貌]偶醉言耳、和語のひじりは日知なり、第一に橿原乃日知之御世とかけるが如し、日は此國は日神を尊めば男女をほむるにも日子日女の名あり、知は生れながらによく知なり、
 
初、酒の名をひしりとおひし
負師とかけるは、おふせしとかつけしとかよむへし。魏徐※[しんにょう+貌]、字景山、爲尚書郎。時禁酒、而※[しんにょう+貌]私飲沈醉。趙達問以2曹事。※[しんにょう+貌]曰。中聖人。達白。大祖怒。鮮于輔進曰。醉客謂酒清者爲聖人、濁者爲賢人。※[しんにょう+貌]偶醉言耳。おほきひしりは、誰にてもあれ、はしめてひしりと名つけしものをさせり
 
340 古之七賢人等毛欲爲物者酒西有良師《イニシヘノナヽノサカシキヒトトラモホリスルモノハサケニシアルラシ》
 
人等毛、【幽齋本云、ヒトヽモヽ、】
 
人等毛は幽齋本の如くよむべし、今の點は誤なり、或はヒトタチとも讀べし、七賢は※[稽の旨が山]康阮籍山濤劉伶阮咸|向《シヤウ》秀王戎なり、人の常に知が如し、
 
初、いにしへのなゝの――
人等毛は、人ともとかよむへし。人とらと有はひとゝものかんなのあやまれるなるへし。七賢は、※[禾+(尤/山)]康阮藉、山濤、劉伶、阮咸、向秀、王戎
 
341 賢跡物言徒者酒飲而醉哭爲師益有良之《カシコシトモノイフヨリハサケノミテヱヒナキスルシマサリテアルラシ》
 
醉哭はよからねど我かしこげに物言よりは勝るとなり、源氏篝火に、醉泣して次てに忍ばぬ事もこそあれとのたまへば云云、行幸にをさ/\心弱からぬ六條殿も醉泣にや打しをれ給ふ、
 
初、ゑひなきする――
源氏物蕗におほし。かゝり火に、ゑひなきのついてにしのはぬ事もこそあれとのたまへは。みゆき、おさ/\心よはくおはしまさぬ六條殿もゑひなきにや打しほれたまふ
 
342 將言爲便將爲便不知極貴物者酒西有良之《イハムスヘセムスヘシラスキハマリテタカシコキモノハサケニシアルラシ》
 
貴物者、今按タフトキモノハともよむべきか、
 
初、かしこき物
貴物とかける字のことくたふとさものなり
 
(10)343 中々二人跡不有者酒壺二成而師鴨酒二染甞《ナカ/\ニヒトヽアラスハサカツホニナリテシカモサケニシミナム》
 
中々二、【校本或二作v爾、】
 
甞はなむるに非ず、なんと云に借れり、仙覺抄云、人にあらずば酒の壺にならばやと云ことは本文に云、昔酒を好む者ありけり、それが我死なむには酒の壺にならずば人の酒飲にうけしたみてむ所の土とならむと願ひて死けるなり、其意をよめる歌也、
 
初、中々に人と
中々に人とても人めくほとの人にもあらずはといふ心なり。鴨はにこりてよむへし。ねかひかなゝり。甞はなむるにあらず。唯なんといふてにをはにかれるなり
 
344 痛醜賢良乎爲跡酒不飲人乎※[就/火]見者猿二鴨似《アナミニクサカシラヲストサケノマテヒトヲニクムハサルニカモニル》
 
痛醜は神武紀云、大醜乎《アナミニクヤ》、【大醜、此云2鞅奈瀰※[人偏+爾]句(ト)1、】賢良は賢良方正など云時の如く二字連綿か、思ふにさかしらは俗にかしこたてと云程の詞、第十六には情出情晋とも書たればすすどき者など云證在れば、良の字は唯ら〔右○〕の音を用たるのみなるべし、※[就/火]は熟の字なり、熟見をニクムとよませたるは第一ににぎたづを熟田津とかけり、き〔右○〕とく〔右○〕と通ずれば熟をニクとよむか、但五音通ずといへども又通局なきに非ず、假令きつねをくつねとはいへどかつねこつねと云はぬが如し、にこ、にきとは通ずれど、にくとは通(11)ずべからず、み〔右○〕とむ〔右○〕と通ずる故に六人部王を身入部とも書たれば見〔右○〕をむ〔右○〕ともよむべきか、賢人だてをするとてのまゝほしき酒をも飲ずしてのむ人を惡み嫌ふ其人は、譬ば猿の人に似て人にも非ずこざかしきが如しと云意か、されども猿ニカモ似ルと云てに〔右○〕をば落着ず、亦はゑへる人を惡むは顔の赤きが猿に似たるを嫌歟とも意得つべけれども、飲ずしてさかしらする者をあなみにくと謗る歌なればそれも叶はず、今按酒ノマヌ人ヲヨク見バ猿ニカモ似ンと和すぺし、さかしらすとて酒をも飲ぬ人をつら/\能見ば猿の人に似て人にあらぬがさすがにこざかしきに似むとなり、涅槃經に、天竺の人は?は龍に似たる故に、馬は寶なる故に、猪狗は穢はしき故に、猿は人に似たる故に皆食はずといへり、此歌は李白が但得(ハ)2醉中趣1、勿v謂2醒者傳1といへるに似たり、
 
初、痛醜
古語拾遺云。事之甚切、皆稱阿那。神武紀云。大醜乎【大醜此云鞅奈瀰※[人偏+爾]句。】さかしらは俗にこさかし.かしこたてといふほとのことなり。此集第十六に、情出情進ともかきたれは、すゝときもの指出たるものなともいふたくひなり。※[就/火]は熟の字のあやまれるなり。熟見をにくみとよあるは、にきたつの時、熟田津とかき、みとむとは通する音なれはなるへし。今案、酒のまぬ人をよく見は猿にかもにんとよむへし。古點の心は、賢人たてをするとてのまゝほしき洒をのますして、のむ人をにくみきらふその人は、たとへは猿の人に似て、人にもあらぬか、こさかしきかことしといふ心なり。されともさるにかもにると、てにをはすこしおちつかぬなり。又はゑへる人をにくむは、ゑへるかほのあかきか猿に似たるをきらふかともこゝろえつへけれとも、あなみにくといふ一句を本意とする哥なるに、此句のますしてさかしらするものをいへはそれはかなはぬなり。今案の心は、さかしらするとて酒をものまぬ人をつら/\能見は、あたかも猿の人に似て人にあらぬか、さすかにこさかしきに似んとなり。さかしらも賢人に似たれは猿にたとふるなり。涅槃經に、天竺國の人は、蛇は龍に似たるゆへにくはす、馬は寶なるゆへに食ず、猪狗はけからはしとてくはす、猿は人に似たるゆへにくはすと見えたり。此哥は李白か但得醉中趣、勿謂醒者傳といへる心あり
 
345 價無寶跡言十方一杯乃淘酒爾豈益目八《アタヒナキタカラトイフトモヒトツキノニコレルサケニアニマサラメヤ》
 
豈益目八、【紀州本、八下有v方、】
 
アタヒナキ寶は法華經云、以無價寶珠繋其衣裹、紀州本によるに次歌下の注は此下に有べきか、其故は八目、八方、同事なれば次下の歌に用なし、
 
初、あたひなき寶といふとも
法華經云。譬如有人、至親友家醉酒雨臥、是時親友官事當行、以無價寶珠、繋其衣裏與之而去。大般若經四百二十九云。譬如無價寶珠、具無量種勝妙威徳、隨所生處者、此神珠人及非人無所能害。續博物志云。魏田父耕於野而得玉弗識也。隣人陰欲得之。紿曰。此怪石也。田父置玉於室。其光燭夜、果以爲怪、棄之於野。人從而盗之、以獻魏王。玉工望而拜曰。此無價之寶
 
(12)346 夜光玉跡言十方酒飲而情乎遣爾豈若目八目《ヨルヒカルタマトイフトモサケノミテコヽロヲヤルニアニシカメヤモ》 【一云八方】
 
夜光玉は史紀云、隋公祝元暢因之v齊、道上見2一蛇將1v死(ント)、遂以v水洒、摩2傳之神藥1而去(ヌ)、忽(ニ)一2夜中庭皎然有v光、意謂有(リト)v賊遂(ニ)案《トクシハリテ》v劔視(ルニ)v之、廼(ハチ)見2一蛇※[口+銜]v珠在v地而徃1、故知2前蛇之感報1也、以2珠光能照1v夜故曰2夜光1、李斯上書云、必秦國所v生然後可(ナラハ)則夜光之璧不(シ)v飾(ラ)2朝廷1、三の句以下は文選魏武帝短歌行云、慨(テ)當(ニ)2以慷1、憂思難v忘、何以解v憂、惟有2杜康1、注謂、杜康古之造v酒者、陶潜(カ)責v子詩云、天運苟(ニ)如v此、且進2盃中物(ヲ)1、
 
初、夜光玉といふとも
史紀云。隋公祝之暢因之齊、道上見一〓將死、遂以水洒、摩傳之神藥而去、忽一夜中庭皎然有光、意謂有賊、遂案劔視之、〓見一蛇※[口+銜]珠在地而徃、故知前蛇之感報也。以珠光能照夜、故曰夜光。李斯上書云。必秦國所生、然後可、則夜光之璧、不飾朝廷。酒のみて心をやるに。魏武帝樂府歌行曰。慨當以慷、憂思難忘、何以解憂、惟有杜康。注謂、杜康古之造酒者。陶潜責子詩云。天運苟如此、且進盃中物
 
347 世間之遊道爾怜者醉哭爲爾可有良師《ヨノナカノアソヒノミチニマシラハヽヱヒナキスルニアリヌヘカラシ》
 
冷者をマシラハヾと點ぜる意いまだ得ず、假命《タトヒ》交者と云心によまるとも歌の意首尾とほるまじきにや、今按オカシキハと和すべきか、崔魯が詩云、獨立2空山1冷2笑春1、此冷の字なるべきか、誠に面白きをおかしかるなど物にかけるは日本紀に欣感をオムカシミスとよめる是なり、笑て興ずるをおかしといへるか、冷笑なるべし、誠は醉泣をおかしむにはあらねど、他の遊興の諍論などに亘らむよりは醉泣は猶おかしき方ありてまさらむとなり、
 
初、冷者
ましりらはゝとよめる、そのこゝろ得かたし。おかしきはとよむへきか。崔魯詩云。獨立空山冷笑春。これは俗にしらわらひといふ心にかよふへし。冷眼といへる冷の字も似たる心にや。さきにも、かしこしと物いふよりは酒のみてゑひなきするしまさりたるらしといふことく、まことはゑひなきをおかしむにはあらねと、他のましはりの諍論なとにわたらんよりは、ゑひなきも猶おかしきかた有ぬへしとなり。兼好か上戸はおかしくつみゆるさるなとかける心なるへし。日本紀に、欣感とかきて、おむかしみすとよめるは、おかしみすといふ詞にて、まことにおかしきなり
 
(13)348 今代爾之樂有者來生者蟲爾鳥爾毛吾羽成奈武《コノヨニシタノシクアラハコムヨニハムシニトリニモワレハナリナム》
 
列子云、且趣2當生(ニ)1、奚(ソ)遑2死後1、荘子云、泰氏其臥徐々(タリ)、其覺干干、【玄英疏云、自得之貌、】一以v己爲馬、一(タヒハ)以v己爲v牛、【郭象注云、夫如是人、奚是人非人之有哉、斯(テ)可謂出於非人之域(ヲ)、】賈誼鵬鳥賦云、忽然爲v人兮、何足2控搏1、化爲2異物1兮、又何足v患(ルニ)、小智自私兮、賤v彼貴v我、達人大觀兮、物無2不可1、これらの趣を知れるにや、
 
初、このよにしたのしみあらは
列子曰。且趣當生、奚遑死後。この卿、莊老の心により、又酒をこのまれけるは、天性一僻なりけれとも、まことにはさもなかなけるにや。下に此卿の女坂上郎女か新羅の尼理願か死せるをいためる歌の後の注に、右新羅國尼曰理願也。遠感王徳、歸化聖朝。於時寄住大納言大將軍大伴卿家、逕數紀焉。哥にもうちひさすみやこしみゝに、さといへはさはにあれとも、いかさまにおもひけめかも、つれもなきさほの山へに、なくこなすしたひきましてなとよめれは、俗人ならぬ曠達の人なるへし。莊子應帝王篇云。泰氏其臥徐々、基覺于々。【玄英疏曰。自得之貌】一以己爲馬、一以己爲牛【郭象注曰。夫如是人、奚是人非人之有哉、可謂出於非人之域】
 
349 生者逐毛死物爾有者今生在間者樂乎有名《イケルヒトツヰニモシヌルモノニアレハコノヨナルマハタノシクヲアラナ》
 
史記孟甞君傳云、憑驩曰、生者必有v死(コト)、物之必至(ルナリ)也、を〔右○〕は助語なり、
 
初、いける人つゐにもしぬる
史記孟嘗君列傳、憑驩曰。生者必有死、物之必至也
 
350 黙然居而賢良爲者飲酒而醉泣爲爾尚不如來《タヽニヰテサカシラスルハサケノミテヱヒナキスルニナヲシカスケリ》
 
黙然居而とはまことしく道をも學ばず行ひもせぬ人の己が心を師としてさかしらするものなり、凡さかしらとよめる歌二首、かしこしと物云よりはとよめるも同じ時にあたりてさる者あるを惡て酒をほむるに寄て謗れるなるべし、
 
沙彌滿誓歌一前
 
首を誤て前に作れり、改むべし、
 
初、沙彌滿誓歌一首
首誤作前
 
(14)351 世間乎何物爾將譬且開※[手偏+旁]去師舩之跡無如《ヨノナカヲナニニタトヘムアサヒラキコキイニシフネノアトナキカコト》
 
仙覺の云、此歌の中の五文字、古點にはあさぼらけと點ぜり、此詞古くはあさびらきと云けりと見えたり、此集の眞名假名の所にあまたあり、朝びらきといへる何の聞にくゝあはざる心あればやあさぼらけと點じたるとおぼつかなし、今はかつはきゝの宜しきにより、かつは古點に任てあさびらきと點ずるなり、以上義明なり、中に古點を嫌て又古點に任せてと云はアサボラケと中比點じたるを捨てそれよりさきアサビラキと點ぜる實の古點を取なり、誠に萬葉の比はあさぼらけとよみて後にあさびらきとは讀べき詞なるに、古今の作者を始てあさぼらけと音を通はして讀かへけん事如何なる故にか知がたし、拾遺六帖共にあさぼらけなり、仙覺の申されたる眞名假名の中に假名の列證を一首出さば、第十七に家持歌云、珠洲能宇美爾安佐比良伎之底《ススノウミニアサヒラキシテ》、云云、去師は今按イニシとも讀べし、落句を六帖拾遺ともに跡の白波とあるは作者の本意にも違ふまじく時にも能叶へり、源順朝臣の子を失はれける時も此上の二句を同樣にすゑて此体の歌十首までよまれて侍り、佛菩薩の經論の中に無常を示し給へる事數しらず、此一首はそれにもむかふばかり歌よまぬ人(15)もおぼえぬはなくて纔に世の中を何にたとへむと誦しつれば胸中のこ常見をやる事やがて順流の舟の如くなるは、此國に相應の故なり、
 
初、こきいにしふねの跡なきかこと
拾遺集にはこき行舟の跡のしらなみ
 
若湯座王歌一首
 
此王の傳見えず、若湯座は座は坐に作るべきか、神代紀下云、亦云彦火火出見尊取(テ)2婦人《ヲミナ》1、爲《シタマフ》2乳母《チオモ》湯母《ユオモ》及|飯嚼《イヒカミ》湯坐《ユヱヒト》、【纂疏曰、湯坐、謂v洗2欲兒1者、】古事記中、垂仁天皇段にも定2大湯坐若湯坐1宜|日足《ヒタシ》奉(タマヘ)とあり、兒に産湯《ウブユ》あぶするに身のいたく柔なるを能すゑてあぶすればゆすゑ〔三字右○〕と云べきをすゑを上略してゆゑと云か、むねとあぶするを大湯坐と云ひ、大湯坐をたすくる者を若湯坐と云なるべし、若湯坐は氏にも見えたり、雄畧紀云、湯人蘆城部連武彦、【湯人、此云2臾衛1、】此湯人は地の名なり、
 
初、若湯座王
神代紀下云。又云。彦火々出見尊、取婦人、爲乳母湯母及飯嚼湯坐【疏曰湯坐謂洗浴兒者。】わかゆゑは所の名にや。此王系圖見えす
 
352 葦邊波鶴之哭鳴而湖風寒吹良武津乎能埼羽毛《アシヘニハタツカネナキテミナトカセサムクフクラムツヲノサキハモ》
 
葦邊波、【袖中抄云、アシヘナミ、】 湖風、【官本、或湖作v潮、】
 
仙覺云、此歌古點にはあしべなみたづのみなきてうしほかぜ、さむくふくらんつをのさきはもと點ぜり、又或本の和には、第二句たづのもなきてと點ぜり、此和あひ叶(16)ても見えず、發句葦邊波の波の字は、てにをはの字に用る事常の習なり、あしべなみと云べきに非ず、仍今和し換るに云く、あしべにはたづがねなきてみなと風と云べし、たづがね常の事なり、湖の字訓うしほ不審なり、みなとにつかへる事は阿波國風土記に中湖具湖などにも用之たり、就中今の歌の心詞勘(ルニ)2其傍例1、此集第七卷歌云、美奈刀可世佐牟久布久良之奈呉乃江爾、都麻欲比可波之多豆佐波爾奈久といへり、都尾崎は伊豫國野間郡に有と見えたり、今按抄の意明なり、ツヲノサキハモとはおもひやる事有てよまれたるべし、
 
初、つをのさき
和名集をみるに.近江國淺井郡に、都宇の郷あり。湖風をみなと風とよめるは、この所にや。つをのさきはもとはいかならんとおもふ心あり。ゆへありてよみたまへるなるへし
 
釋通觀歌一首
 
353 見吉野之高城乃山爾白雲者行憚而棚引所見《ミヨシノノタカキノヤマニシラクモハユキハヽカリテタナヒキテミユ》
 
高城の名を以てよめる意もあるべし、
 
日置少老歌一首
 
少老考る所なし感本、少作v小、本朝の古書少小通じて書る事多し、少納言少將なども大中に對すれば小なるを少の字を用たるが如し、
 
(17)354 繩乃浦爾潮燒火氣夕去者行過不得而山爾棚引《ナハノウラニシホヤクケフリユフサレハユキスキカネテヤマニタナヒク》
 
繩の浦はやがて下にある赤人の歌に繩浦武庫浦阿倍嶋、如是つゞけてあれば攝津國なるべし、第七に似たる歌あり、
 
生石村主眞人歌一首
 
孝謙紀云、天平勝寶二年正月庚寅朔乙巳、正六位上大石村主眞人授2外從五位下1、かゝれば生石をもオホイシと讀べし、
 
初、生石村主眞人
孝謙紀云。天平勝寶二年正月庚寅朔乙巳、正六位上大石邨主眞人、授外從五位下。かくあれはおほいしのすくりのまつとゝよむへし。目録にすくりのまひととあるはわろし。生石は氏、村主は姓、眞人は名なり。すくりを名と心得て、眞人を姓とおもへるにや。只のゝ字は後の人あやまりてくはへたるなるへし
 
355 大汝小彦名乃將座志都乃石室者幾代將經《オホナムチスクナヒコナノイマシケムシツノイハヤハイクヨヘヌラム》
 
將經、【官本亦云、ヘニケム、】
 
大汝は大己貴命にて三輪大神なり、大穴持とも今の如くも書るは和語の習なり、少彦名は高皇産靈尊の御子にて大己貴命と共に此國を能作給へる神なり、神代紀上云、夫大己貴《カノオホアナムチ》命與2小彦名命1戮《アハセ》v力一v心經2營天下1、大汝少彦の事具に日本記舊事紀古事記等に見えたり、志都ノ窟は八雲にも書載たまひながら何處とも注し給はねば、昔かく云傳へたる事をよみて物には見えぬことにや、此歌さきの博通法師の歌の類(18)なり、宗祇抄にしつの石屋といへり、大峯などに有にや、未v考、
 
初、大汝すくひなひこなの
大汝は大己貴命にて、みわの明神なり。あなのあを上畧して、むちのちを濁て、大汝になせり。和語は此例あけてかそへかたし。すくなひこ名は、高皇産靈尊の御子にて、おほあなむちとともに.此國をよく作たまへる神なり。神代紀上云。夫大己貴命與少彦名者戮力一心經營天下。又云。○しつのいはや、いつくともれす。此二神いはやにましけるといふ事、しるせる事なし。風土記なとには見えけるにや。此歌、さきの博通法師の歌の類なり
 
上古麻呂歌一首
 
系圖等未v詳、元正紀云、靈龜元年四月癸酉、上|村主《スクリ》通政(ニ)腸姓阿刀連、此上村主と同姓か、
 
初、上古麻呂
元正紀云。靈龜元年四月l癸酉、上村主通政、賜姓阿刀連
 
356 今日可聞明日香河乃夕不離川津鳴瀬之清有良武《ケフモカモアスカノカハノユフサラスカハツナクセノキヨクアルラム》【或本歌發句云明日香川今毛可毛等奈】
 
今日モカモとは今もかもの意なり、一日の事のみには非ず、夕不離はゆふべ/\かれずなり、
 
山部宿禰赤人歌六首
 
357 繩浦從背向爾所見奥島榜回舟者釣爲良下《ナハノウラヲソカヒニミユルオキツシマコキタムフネハツリヲスラシモ》
 
榜回、【幽齋本、囘作v廻、】
 
繩浦從は今按ナハノウラヲと點ぜるは叶はず、ナハノウラユともウラニともよむ(19)べし、ソカヒは日本紀に背をソビラと訓ぜり、せ〔右○とそ〔右○〕と通ずればせむくをそむくと云如くそむかひと云べきをむを上略してそかひとは云なり、そむくと云に同じ意なり,奥島は八雲に攝津國の名所に載させ給へどもしか云所も聞えず、他に奥島とよめるも唯奥の方にある島を※[手偏+總の旁]じていへば此も其例にや、
 
初、なはの浦を
なはの浦、いつれの國ともかんかふる所なし。從の字、こゝにてはゆとよむへし。そかひ、此集におほきことはなり。うしろむきにみゆるなり。背向とかける字のことし。こきたむは、こきめくるなり。次の歌には轉の字をかけり
 
358 武庫浦乎※[手偏+旁]轉小舟粟島矣背爾見乍乏小舟《ムコノウラヲコキタムヲフネアハシマヲソカヒニミツヽトモシキヲフネ》
 
背爾、【官本或背下有v向、】
 
粟嶋は、阿波國なり、第四に淡路を過て粟嶋乎|背《ソカヒ》爾見管とよみ、第六には難波にて船王の讀たまへる歌にも、雲居にみゆる阿波乃山といひ、其外あまたよめり、神代紀云、次生2淡洲1、此亦不3以充2兒數1といへる所は第十五に周防國にてよめる所にや、舊事紀に吉備國造の次に阿波國造大嶋國造、などつゞきたるそれなるべし、乏は少なき心もめづらしき心も叶ふべし、
 
359 阿倍乃島宇力住石爾依浪間無比來日本師所念《アヘノシマウノスムイシニヨルナミノマナクコノコロヤマトシオモホユ》
 
阿倍ノ島、八雲に津の國と注したまへり、仙覺抄同之、
 
初、阿倍の島
八雲御抄、攝津國のよし注したまへり
 
(20)360 塩干去者玉藻苅藏家妹之濱※[果/衣]乞者何矣示《シホヒナハタマモカリツメイヘノイモカハマツトコハヽナニヲシメサム》
 
濱ツトは濱邊より似付たる物を家に持て歸て人に贈るを云、此処に猶山づと道ゆきづととよめる此に例すべし、家づととよめるは何處よりも家にもて歸るを云て家よりのつとlこあらねば同物の意少替るなり、
 
初、濱つと
此集に猶家つと山つと道ゆきつとなとよめり
 
361 秋風乃寒朝開乎佐農能崗將超公爾衣借益矣《アキカセノサムキアサケヲサノヽヲカコユラムキミニキヌカサマシヲ》
 
サノヽ岡は仙覺抄紀伊國といへり、八雲御抄同v之、日本紀は上のみつが崎さのゝ渡とよめる歌に引しが如し、
 
初、さのゝをか
紀伊國牟漏郡なり。さきにみわか崎といふ歌につきて注しつ。きぬかさましをは、おもひやりてかさはやとねかふなり
 
362 美沙居石轉爾生名乘藻乃名者告志五余親者知友《ミサコヰルイソワニオフルナノリソノナハツケシコヨオヤハシルトモ》
 
イソワは礒のめぐりなり、名ハツゲシコヨはし〔右○〕は助語にて名は告來よなり、名を告よととは昔は逢むと思ふ人には男女互に名を云きかせ、逢じと思ふには名を告ねばなり、名乘藻のなのりと云を承てかくはつゞけたり、是は旅に出て海邊にてよしある處女などを見て云かけられたるにや、
 
初、なのりそ
允恭紀云。春三月癸卯朔丙午、幸於茅渟宮、衣通郎姫歌之曰。等虚辭倍邇、枳彌母阿閉椰毛、異舍儺等利、宇彌能波摩毛能、除留等枳等枳弘。時天皇謂衣通郎姫曰。不可聆他人、皇后聞必大恨。故時人號濱藻、謂奈能利曾毛也
つけしこよは、しは助語にて、告來よなり。此哥はこゝに類せぬやうなり。されとたひにしておもひかけすおかしき人なとをみてよみてつかはれけるにや
 
或本歌曰
 
(21)363 美沙居荒礒爾生名乘藻乃告名者告世父母者知友《ミサコヰルアリソニオフルナノリソノナノリハツケヨオヤハシルトモ》
 
第十三に此歌再出、
 
笠朝臣金村塩津山作歌二首
 
笠金村は考る所なし、鹽津山は近江なり、和名集云、淺井郡鹽津、此集第九にも、高島のあとのみなとに讀合せたり、此鹽津の北、越前とさかへる山の近江の方を鹽津山とは云べし、但仙覺も超前と注せられ、八雲其外も同説なる上、續古今に載られたる紫式部が歌に、知ぬらむゆきゝになれて鹽津山、世に經る道は辛き物ぞと、是を思へば山は越前にもかゝるか、假令伊駒は大和なるを伊勢物語には河内國と云へる類にや、又會釋せば淡海の方なりとも鹽津の名につきて辛き物ぞとは云べくや津守國助も干潟を懸て鹽津山吹こす風になどよみたれど、其比は人の説につきて大形のに意得てもよみ侍りなむ、今の第二の歌に打越ゆけばといへるは近江の方より越す時と聞ゆれば猶近江にやと順の朝臣にしたがひぬべくおぼえ侍り、又敦賀の鹽は古の天子是を供御にきこしめしければ、敦賀より運び來て舟にて大津までは送るべければ、彼鹽を舟に積なれば鹽津とは名付たるにこ(22)そ、敦賀の鹽の事は第十二に、大きみの鹽やく海人とよめる歌について注すべし、八雲御抄にも山と云はで唯鹽津と云へるをば近江と注せさせ給へり、
 
364 大夫之弓上振起射都流矢乎後將見人者語繼金《マスラヲノユスヱフリオコシイツルヤヲノチミムヒトハカタリツクカネ》
 
振起、【六帖云、フリタテ、官本同v此、】
 
弓上振起は神代紀云、振2起《フリタテ》弓※[弓+肅]《ユハスヲ》云云、此集第七にも今の二句文字も替らずあるを日本紀の如くよみたれば今もたがふべからず、カタリツグカネは、ね〔右○〕とに〔右○〕通ずる故に末の代までも語りつぐかになり、此歌如何なる意をよまれたるか知がたし、もし究竟の精兵にて後の世までの形見に彼山の木などに一矢射立置てゆかんと云ことを云殘されたるか、第十八に家持、白玉を包てやらば菖蒲草、花橘にあへもぬくがにとよまれたるも、いざ※[果/衣]てやらばやと云事を云殘したりと見えたり、引合て見るべきか、又按ずるに腰の句射ツルと云て矢ヲとことわりて此所句絶か、矢を射つると云べけれども拙なければかく云にや、初の云殘す義にては射つると云詞少叶ひがたし、後の人能案ずべし、
 
初、ますらをのゆすゑふりおこし
神代紀上云.振起弓|〓《ハス》云々。此哥六帖にも、こゝのことくのせたり。されともいかなる心にてよまれたるにか、心得かたし。もし究竟の精兵にて、後の世まてのかたみにとて、彼山の木なとに矢なと射たてゝとほらるゝことにや。今のよみやうにては歌の心とゝまる所なし。振起をふりたてよとよみて、句絶とすへきにや
初、我のれる馬そつまつく家こふらしも
第七にも、わか馬つまつく家おもふらしもとよみ、第十三にも、馬しもの立てつまつきとよめり。旅行人を、家にてこふる妻のあれは、乘馬つまつきなつむといへり。しかれは家人のわれをこふらしといふ心なり。つまつくは蹶の字なり
 
365 鹽津山打越去者我乘有馬曾爪突家戀良霜《シホツヤマウチコエユケハワカノレルウマソツマツクイヘコフラシモ》
 
(23)馬ゾツマヅクとは彼も故郷を戀て心こゝはあらねばや、つまづきはすらんとなるべし、離騷曰、忽臨(テ)睨(ル)2夫舊郷1、僕夫悲余馬|懷《カヘル・オモヘリ》蜷局顧而不v行、第四に此人或女に替てよまれたる歌に、立てつまづくとあるも此心なり、第七第十三にも馬のつまづくとよめるは同意なるべし、一説旅行人を家にて戀る妻のあれば乘馬のつまづきなづむといへり、本文などある事にや、さらずば此等の歌をしか意得ていへるか、家人の戀らんにはあらず、家を戀らしなり、
 
初、鹽津山
鹽津は和名集近江淺井郡に載たり。八雲御抄には、越前と載らる。次長哥題に、角鹿津とあるゆへに、おなし國とおほしめしけるなるへし
 
角鹿津乘船時笠朝臣金村作謌一首并短歌
 
垂仁紀云、一《アルニ》云|御間城《ミマキノ》天皇之世、額|有《オヒタル》v角人乘2一船1泊(レリ)2于越國|笥飯《ケヒノ》浦1、故《カレ》號(テ)2其(ノ)處1曰2角鹿《ツノカ》1也、今、敦賀【都留我、】と云郡は此訛れるなり、
 
初、角鹿津乘船時
日本紀第六、垂仁紀云。一云。御間城天皇之世、額有角人、乘一船、泊于越國笥飯浦、故號其處、曰角鹿也。くはしくは、第二卷に、ひめ嶋につきて引かことし。今敦賀とかきて、つるかといふは、つのかをよこなまれるなり
 
366 越海之角鹿之濱從大舟爾眞梶貫下勇魚取海路爾出而阿倍寸管我※[手偏+旁]行者大夫之手結我浦爾海未通女塩燒炎草枕客之有者獨爲而見知師無美綿津海乃手二卷四而有珠手(24)次懸而之努櫃日本島根乎《コシノウミノツノカノハマユオホフネニマカチヌキオロシイサナトリウミチニイテヽアヘキツヽワカコキユケハマスラヲノタユヒカウラニアマヲトメシホヤクケフリクサマクラタヒシニシアレハヒトリシテミルシルシナミワタツミノテニマカシタルタマタスキカケテシヌヒツヤマトシマネヲ》
 
獨爲而、【官本亦云、ヒトリヰテ、】
 
阿倍寸管は喘つゝなり、大夫乃手結ガ浦は延喜式云、敦賀郡田結神社とあれば敦賀の一所なるべし、大夫乃とつゞけたるは第七に、物部の手に卷もたる鞆の浦とつゞけたるを思へば鞆の一名か、又仁徳紀云、五十五年|蝦夷《エミシ》叛(ナリ)之、遣2田道1令v撃(タ)、則爲2蝦夷1所v敗、以死2于|伊寺《イシノ》水門(ニ)1、時(ニ)有2從者《ツカマツリヒト》1、取2得田道(カ)之手纏1與2其妻1、乃抱2手纏1而|謚《ワナキテ》死、時人聞之|沈涕《カナシフ》矣といへり、此手纏も何物か、雄略紀にあゆひを脚帶とかゝれたるに准ぜばたゆひも手帶と書ぬべし、獨シヲ見ルシルシナミとは妻と共に見ざれば目なれぬ珍しき事もかひなしとなり、ヒトリヰテと云和あれど反歌にもたびにしてと云ひたれば本點に任すべし、ワタツミ、此わたつみは海神なり、手ニマカシタル玉手次とは手に纏たる環の玉と云てやがて玉手次かけてとつゞけたり、手にまく玉は人のをも云べけれど、海上なれば海童の環といへり、日本嶋は故郷の和州なり、
 
初、あへきつゝ
喘なり。舟子ともの息もつきあへすあへきてこくをいへり。ますらをのたゆひの浦。手結とは、武士の籠手をいふと長流か昔の抄にかけり。日本紀にあゆひを脚帶とかきたれは、手帶とかくへきにや。たゆひはつるかなり。延喜式云。越前國敦賀郡田結神社と載たり
わたつみの手にまかしたる玉たすきかけてしのひつ。此わたつみは、海神なり。手にまく玉とは、玉をつらねて手にぬきもつを手玉といひ、足にかさるを足玉といふ。海神にかきらぬ物なれとも、海底よりはよろつの玉の出來るによりて、かくはよめるなり。此歌殊に海路の作なれは、そのより所ある詞なり。玉たすきといひつゝけたるは、かけてといふ詞まうけんためなり。やまとしまねは、和州なり
 
反歌
 
(25)367 越海乃手結之浦矣客爲而見者乏見日本思櫃《コシノウミノタユヒノウラヲタヒニシテミレハトモシミヤマトオモヒツ》
 
見者乏見はめづらしきなり、思櫃は今按思は偲にてシノビツなるべし、長歌のかけてしのびつ、これを反して云へり、
 
初、やまとおもひつ
偲をこの集にしのふとよめれは、思は偏の人をおとせるならんか。みれはともしみは、見たらぬこゝろなり
 
石上大夫歌一首
 
368 大舩二眞梶繁貫大王之御命恐礒廻爲鴨《オホフネニマカチシヽヌキオホキミノミコトカシコミアサリスルカモ》
 
此梶は櫓なり、眞梶は具袖眞手など云ごとく舟の左右にあるを云、シヾヌキとはしゞはしげしと云古語、櫓をあまた立るなり、第十二にも八十梶懸といへり、アサリと云は必しも物を求るのみにあらず、いそべをめぐるをも云か、第十九にも藤浪をかりほに造り灣廻《アサリ》する、人とはしらにあまとか見らむとよめり、
 
初、まかち
おもかちとりかちなり
 
右今案石上朝臣乙麻呂任越前國守蓋此大夫歟
 
續日本紀には見えず、
 
和歌一首
 
(26)369 物部乃臣之壯士者大王任之隨意聞跡云物曾《モノヽフノヲミノタケヲハオホキミノヨサシノマヽニキクトイフモノソ》
 
任乃隨意、【官本亦云、マケノマニ/\、】
 
物部乃は今按此物部も第一卷元明天皇の大甞の御歌に注せし如くモノヽベと和すべきか、石上は物部氏にて饒速日命の御子宇摩志麻治命、神武天皇の御時大功を建られし後代々朝家の重臣なりければなり、舊事紀を見るべし、
 
初、ものゝふのおみの
此物部は、ものゝふとも、ものゝへともよめり。ともに、武勇のものゝ惣名なる中に、物部といふ別姓あり。饒速日の命の裔にて、石上朴井にわかれたり。今石上大夫の哥を和すれは、ものゝへとよむへきにや
 
右作者未審但笠朝臣金村之歌中出也
 
此れ一家の集に他人の歌をも載たる證なり、
 
安倍廣庭卿歌一首
 
370 雨不零殿雲流夜之潤濕跡戀乍居寸君待香光《アメフラテトノクモルヨノヌレヒテトコヒツヽヲリキキミマチカテラ》
 
との〔二字右○〕とたな〔二字右○〕と五音通ずればトノクモルはたなくもるなり、たなびくと云に輕引とかけるを思へばたなくもるは薄曇なり、今按雨ふらで曇るのみにぬれひづといはむ事其理なし、和し替へてトノクモルヨシヌレヒヅトと讀べきか、夜しは唯曇りて(27)雨はふらぬ夜しもなり、ぬれひづととは涙にぬるヽを雨にぬれひづるばかりと云なり、此歌相聞に入ぬべきをいかで此には載られけむ不審なり、
 
初、とのくもる夜
此集にあまたある詞なり。たなくもるといふひとつ詞なり.たなとの五音通せり。輕引とかきて、たなひくとよむをおもふに、うすくもるなり。君まちかてらとは、相聞にあらされは朋友なとのいりこんといふをまつなるへし
 
出雲守門部王思京歌一首
 
371 飫海乃河原之乳鳥汝鳴者吾佐保河乃所念國《オウノウミノカハラノチトリナカナケハワカサホカハノオモホユラクニ》
 
飫海は出雲なり、和名云、意宇【於宇】郡府、今按此集にも第四には飫宇乃海とあれば今は宇の字を脱せるか、飫宇海に流れ入る河原に、千鳥の鳴を聞につけて故郷に有て佐保河に聞し事を思ひ出て戀しきとなり、
 
初、飫海
和名集云。出雲國意宇【於宇】郡【府】。さほ河はちとりある所なれは、おうの海になかれいる川原に、ちとりの鳴を聞につけておもひ出となり
 
山部宿禰赤人登春日野作歌一首并短歌
 
372 春日乎春日山乃高座之御笠乃山爾朝不離雲居多奈引容鳥能間無數鳴雲居須奈心射左欲此其鳥乃片戀耳爾晝者毛日之盡夜者毛夜之盡立而居而念曾吾爲流不相兒故荷《ハルノヒヲカスカノヤマノタカクラノミカサノヤマニアサヽラスクモヰタナヒキカホトリノマナクシハナククモヰナスコヽロイサヨヒソノトリノカタコヒノミニヒルハモヒノツキヨルハモヨノツキタチテヰテオモヒソワカスルアハヌコユヘニ》
 
朝不離、【官本亦云、アサカレス、】
 
(28)春日乎は春日の枕詞、其所以をしらず、春日のと云べきをかく云は古語を〔右○〕との〔右○〕と音通ずればなり、みはかしを劔の池とよめる例なり、繼體紀に安閑天皇いまだ勾(ノ)大兄《オヒネノ》皇子にておはしませし時よませたまへる御歌には、播屡比能賀須我能倶※[人偏+爾]々云云、高座ノ御笠乃山、此枕詞別に釋す、朝不離は上にも夕不離をユフサラズとよめり、アサカレズとよめる點も捨べからす、容鳥は説々あれどさだかならず、春の鳥の色うるはしきを云なるべし、猶別に注す、雲と鳥とを云てやがてそれにたとへて雲の居も定まらずいざよふ如く心もとやせんかくやせんといざよひ、容鳥の片戀に間なくしばなく如く相も思はぬ人を泣て戀るとなり、日之盡夜之盡、上に云如くヒノコト/”\ヨノコト/”\と讀べきか、此歌は相聞に入べきを、野望に因て物に感じてよまれたる故こゝには載る歟、
 
初、春の日をかすかの
春の日のかすかといにおなし。開化紀春日【春日此云箇酒鵝。】かくは注せられたれとも、羞春日とかきてかすかとよむゆへはつたはらす。文字をもて文選よみにいひかさねたると心得へし。飛鳥のあすかのことし。高くらのみかさの山とは、天子の高御座の上に蓋をかけらるゝゆへに、みかさ山といはんとて、高くらのとはいへり。高みくらは、御即位の時、毎年正月元日と、蕃客朝參の時、これらに大極殿に飾らるゝを申なり。延喜式第十五内藏寮式云。元正預前裝飾大極殿、凰形九雙、〓鏡二十五面、玉幡八流、玉冑甲十六條、〓子十二枚【韓紅花綾表、白綾裏、】帳二條【淺紫綾表、緋綾裏】上敷兩面二條、下敷布帳一條【已上高座料】大極殿高御座〓一條【黄表帛裏、長一丈五尺、六幅。】若有破損、隨郎申省。同十七内匠寮式云。凡毎年元正前一日、宮人卒木工長上雜工等、裝飾大極殿高御座、【蓋作八角、角別上立小鳳凰像、下懸以玉幡、毎面懸鏡三面、當頂著大鏡面、蓋上立大鳳像、惣鳳像九隻、鏡二十五面、幔臺一十二基、立高御座東西各四間。】又云。其蕃客朝參之時、亦同元日高御座飾物、收内藏寮當時出用。三十八掃部式云。天皇即位、設御座於大極殿、同元日儀。高みくらのやう右のことし。みかさ山は、春日山の中に社あるかたにすこしひきゝ山をいふとそ。朝さらすは、朝ことになり。夕さらすといふ、おなし心なり。かほとりのまなくしはなく。かほ鳥はいかなる鳥をいふともしらす。八雲御抄にも、かほ鳥は春日山によめり。かたこひする物といへり。よるひるたえすこひすといへり。されはまなくしは鳴春の野といへり。源氏物語にもあり。是その鳥と難定歟。定家卿不知之といふ。推之、たゝうつくしき鳥なり。未決。かくしるさせたまへは、たゝ春の此なく鳥と心得て有なん。此集にまた、朝ゐてにきなくかほ鳥、なれたにも君にこふれや時をへすなく。かほ鳥のまなくしはなく春の野の草根のしけきこひもするかも。六帖には人まろの歌とて、夕されは野へになくてふかほ鳥の貌に見えつゝわすられなくに。源氏物語やとり木に、かほ鳥の聲も聞しにかよふやとしけみをわけてけふそ尋る。これは薫大將、手習君のあね君しにたまひて後、う月の末に宇治へおはしての哥なれは、春の鳥そのころまても有ぬへけれは、あね君に心かけたる人とて、かほ鳥の聲もにたるやとはよせられたるなり。かほといふ名をおもふに、うつくしき鳥なるへし。今見る中にもあるらめと、草木鳥けたものゝ名も、つねに見なれいひなれぬは、いつとなくしる人まれになるまゝに、いやしきものゝわたくしによめる名を、しかるへき人もともによひて、それかやかてまことの名のやうになり侍るゆへに、今の物の名の昔に見えぬいやしきかおほく侍るなり。ある人大和の國へまかりて、こゝもとの池に蓴菜やある、えさせよと.所の土民に申侍しかは、さる物はしり侍らすとこたふ。池にうきてしかくなるものなりといへは、さてはおほく侍り。所にては、とひやくしやうとなん申すとて、おほくとりてえさせつ。むかしは、ぬなは、ねぬなはなとこそ申けめ。神樂の時なとみる突拍子に、葉のにたるをおもひて、突拍子といふとて、猶とひやくしやうにさへいひなされたれは、よろつこれになすらへて淺ましうなり侍りにたり。雲居なす。上にまなくしはなくといふまては、雲と烏とをいひて、やかてそれにたとへて、雲のゐるとすれと、居もさたまらすいさよふことく心もとやせんかくやせんとおちゐす、かほ鳥のかたこひにまなくしは/\なくことく、あひもおもはぬ人をなきてこふとなり。序歌の體なり。詩にていはゝ興而此なりともいふへくや。立て居て。舒明紀云。立思矣、居思矣、未得其理。この歌は、おもひかけたる人ありてよまれたると見え哥なれは、第四の相聞の部に入ぬへきを、春日野にして野望の次、物に感してよまれけれは、こゝには載たるなるへし
 
反謌
 
373 高※[木+安]之三笠之山爾鳴鳥之止者繼流戀哭爲鴨《タカクラノミカサノヤマニナクトリノヤメハツカルヽコヒモスルカモ》
 
鳴鳥とは長歌の貌鳥なり、止バツガルヽとは鳴やむかときけば又鳴繼に寄て戀する人も人の聞を憚て暫泣やめども堪ずしてなかるゝを譬るなり、第十一に君が著(29)る三笠の山に居る雲の、立ば繼るゝ戀をするかも、同意なり、哭は喪には哭する故にも〔右○〕と義訓するなり、
 
初、高くらのみかさの山に1
此なく鳥は長哥の貌鳥なり。やめはつかるゝとは.鳴やむかときけは、又鳴つくによせて、戀する人も人のきくをはゝかりて、しはしなきやめとも堪すしてなかるゝを、かの鳥にたとふるなり。第十一に、君かきるみかさの山にゐる雲のたてはつかるゝこひをするかも。同しやうの作なり。哭の字、もとよめるは、喪に哭するゆへにや
 
石上乙麻呂朝臣歌一首
 
孝謙紀云、天平勝寶二年九月丙戌朔、中納言從三位兼中務卿石上朝臣乙麻呂薨、左大臣贈從一位麻呂之子也、歴任等の次第聖武紀に委見えたり、又懷風藻に詩四首を載て具に傳をかき人がらをほめたり、左大臣第三子也といへり、大納言宅嗣の父なり、
 
374 雨零者將盖跡念有笠乃山人爾莫令蓋霑者漬跡裳《アメフラハサヽムトオモヘルカサノヤマヒトニナサヽスナヌレハヒツトモ》
 
雨零者將盖跡、【六帖、アメフラハキムト、】  莫令蓋、【六帖、ナキセソ、】  漬、【六帖、ヌル、】
 
點は今の本と六帖と勝劣なし、但漬は此集にヌルとよめる事なし、今の本をよしとすべし、笠ノ山は大和國城上郡にあり、人はぬれひづともさゝすなと笠山の名にそへていへるは乙麻呂卿の宅地山邊郡石上と笠山は遠からぬに、彼邊にちぎれる女を云て相聞の心にや、此前後地の名をよめる類にてこゝに置か、もし相聞ならばヌ(30)レハヒヅトモは涙を云べし、
 
初、笠の山
これもみかさ山なるへし。三笠といふも眞笠なるへけれは、木ともま木ともいふことく、みかさ山を、かさの山ともいふへし。此歌は戀なとにたとへてよまれたるか。相聞ならねは彼わきも子かあかもひつちてうへし田をかりておさめんてらなしのはまも、唯くらなしの濱といふ名をいはんためなれは、此歌もその類にて、かさの山をよまんため歟
 
湯原王芳野作歌一首
 
志貴皇子の御子と云説あり、未v考、六帖にゆはらのおほきみと有てゆのはらといはず、
 
375 吉野爾有夏實之河乃川余杼爾鴨曾鳴成山影爾之?《ヨシノナルナツミノカハノカハヨトニカモソナクナルヤマカケニシテ》
 
鴨は寒きに依て鳴ば山陰ニシテとは山陰にして早く寒ければ鳴となるべし、
 
湯原王宴席歌二首
 
六帖に此二首を初のは玉笥、後のは二人をりと云に載たるに共にゆげのおほきみとあるは不審なり、
 
376 秋津羽之袖振妹乎珠※[シンニョウ+更]奥爾念乎見賜吾君《アキツハノソテフルイモヲタマクシケオクニオモフヲミタマヘワカキミ》
 
※[シンニョウ+更]、【當2改作1v匣、】
 
秋津は蜻蛉なり、其羽のうつくしきに舞妓の袖の翻を寄ていへり、仁徳紀に磐之媛の御哥に、夏虫の火虫の衣と詠たまひ、毛詩に蜉蝣(ノ)之羽、衣裳楚々(タリ)と云へる類なり、第(31)十に秋相聞に、秋津葉ににほへる衣とよめるは詞は同じけれど別なり、そこに至て注すべし、玉匣奥ニオモフとは匣の中を奥といへり、宴席の歌なれば君をもてなさむが爲に何をがなと秘藏の妓女を出して舞しむれば、何をがなと此妹が袖を振るを能御覽ぜよとなり、
 
初、秋つはの袖ふるいもを
あきつは、蜻蛉なり。其羽のうつくしきに.妹か袖をよせていふとなり。仁徳紀に、磐之姫御哥に、夏虫の火むしの衣とよませたまふ類なり。毛詩にも、蜉蝣之羽、衣裳楚々。第十に、秋津葉にゝほへる衣は我はきしとよめるは、秋相聞の哥にて、秋津葉といへる外、秋の心なけれは、正しく秋の木葉なり。紅なる衣といふ心なり。女の衣にはくれなゐを賞翫すれはなり。そこには秋津葉とかき、こゝには秋津羽ろかきて、ともにことはりあれは、ことはゝかよひて、心は別なり。玉くしけおくにおもふとは.箱の中をおくといへり。家のいぬゐのかたを奥といひて、ふかきをおくといふ。此集に此詞おはし。宴席の哥なれは、客をもてなさんかために、秘藏の妓女あるひは妾なとを出してまはしめて、君かため何をかな御なくさみにと、此妹か袖をふらしむれは、よく御覽せよとなり。※[シンニョウ+更]は匣をあやまれり
 
377 青山之嶺乃白書朝爾食爾恒見杼毛目頬四吾君《アヲヤマノミネノシラクモアサニケニツネニミレトモメツラシワカキミ》
 
第四に青山を横截雲のいちしろくともよみて晴たる日山は青く雲は白くてうるはしき目の中を見るやうなるはあかぬ物なれば、よき客人のあかれぬ事をそへたり、梁の陶弘景が隱居して後、武帝の汝が山中に何の景趣かあると問せ給ひけるに、山に白雲あれども君に奉ることあたはずと勅答せられしも思ひ合すべし、朝ニケニは、日に異にと集中にあまたよめるに同じ、日々にまさる心なり、爾〔右○〕と奈〔右○〕と通ずれば朝なけともよめり、
 
初、青山のみねのしらくも
此集に、青山をよこきる雲のいちしろくともよめり。雨氣の雲なとは、濛々として心さへはれすみゆるを、晴たる日、山は青く雲は白くて、うるはしき目のうちを見るやうなるは、見るにあかぬ物なれは、それによせて、よきまらうとのあかれぬことをのたまへり。朝にけは、朝なけにて、朝夕といふ心なり。陶弘景か隱居して後、粱の武帝、汝か山中に何の景趣かあると尋させたまひけるに、山に白雲あれとも、とりて君にたてまつることあたはすと勅答を申されき
 
山部宿禰赤人詠故大政大臣藤原家之山池歌一首
 
此大政大臣は淡海公贈官なれば故の下に贈の字あるべきにやと思へど、但第十(32)九にも大政大臣藤原家とのみあれば脱たるには非ざるか、淡海公の御事は日本紀の天武紀より續日本紀の文武紀及び廢帝紀に至るまで歴々と見えたり、此卷の端に至て誰人の記したるにかあらむ官位等の轉昇大底見えたり、諸紀の中に元正紀云、養老四年三月甲子、有v勅特加2右大臣正二位藤原朝臣不比等授刀資人三十人1、八月辛巳朔、右大臣正二位藤原朝臣不比等病、賜2度者三十人1、詔曰・右大臣正二位藤原朝臣、※[病垂/尓]疾漸留寢膳不v安、朕見2疲勞1惻2隱於心1、思(フニ)2其平復1計無v所v出、宜d大2赦天下1以救uv所v患云云、壬午命d2都下四十八寺1、一旦夜讀c藥師經u云云、癸未是(ノ)日右大臣正二位藤原朝臣不比等薨、帝深(ク)悼惜焉、爲v之廢朝擧2夜内寢1、特有(テ)2優勅1弔賻之禮異2于群臣1、大臣近江朝内大臣鎌足之第二子也、十月壬寅詔遣2大納言正三位長屋王中納言正四位下大伴宿禰旅人1、就2右大臣第1宜v詔贈2大政大臣正一位1、五年三月甲午詔曰、世諺云、歳在2申年1常有事故、此如v所v言云云、遂則朝廷儀表藤原大臣、奄然薨逝、朕心裏慟云云、孝謙紀云、天平寶字二年六月乙丑、大和國葛上郡人、從八位上桑原史年足等云云、同言曰、伏奉去天平勝寶九歳五月二十六日勅書※[人偏+稱の旁]、内大臣大政大臣之名不v得v稱《イフコト》者《テヘリ》云云、廢帝紀云、寶字四年八月甲子勅曰、子(ハ)以v祖爲v尊、祖以v子亦貴、此則不易之彝式聖主之善行也、其先朝大政大臣藤原朝臣者、非3唯功高2於天下1是復皇家外戚、是以先朝(33)贈2正一位大政大臣1、斯實依我已極2官位1、而准2周禮1猶有2不足1、竊思勲績蓋2於宇宙1朝賞未v允《カナハ》2人望1、宜d依2太政公故事1追以2近江國十二郡1封爲c淡海公u、餘官(ハ)如(シ)v故、以2繼室從一位縣狗養橘宿禰1贈2正一位1爲2大夫人1、懷風藻序云、神納言(カ)【大神朝臣高市麻呂、】之悲2白※[鬢の賓が兵]1、藤大政詠2玄造1、騰2茂實於前朝1、飛2英聲1於後代1、贈正一位大政大臣藤原朝臣史五首、【年六十三、】延喜式諸陵云、多武岑墓、【贈大政大臣正一位淡海公藤原朝臣、在2大和國十市郡1、】藤原家とは藤原にある家地と云には非ず、前に引る十九卷を思べし、大臣を敬て云なり、此は奈良の京にある宅の庭に山を築き池を堀られたる其池をよめるなるべし、河原院にて貫之の烟絶にし鹽竈のとよまれたるが如し、
 
初、詠故太政大臣藤原家之山池
故の字の下に、贈の字をおとせるにや。贈官なるかゆへなり。これは淡海公、諱は不比等のつくらせたまひける庭の面の池を見てよまれけるなり。川原院にて、つらゆきの、けふりたえにししほかまとよまれし心におなし。淡海公の時代官位は、此卷の末に、仙覺のかんかへて附載られたるにやあらん。大かた見えたり。猶續日本紀を引て、こゝに朝廷にもことに重んしたまひし大臣なることをしるさん。文武紀云。四年六月甲午、勅淨大參刑部親王、直廣壹土原朝臣不比等。○大寶元年八月癸卯、遣三品刑部親王、正三位藤原朝臣不比等へ○元正紀云。養老四年三月甲子、有勅、特加右大臣正二位藤原朝臣不比等授刀舍人三十人。八月辛巳朔、右大臣正二位藤原朝臣不比等病、賜度者三十人。詔曰。右大臣正二位藤原朝臣、疹疾漸留、寢膳不安、朕見疲勞、惻隱於心、思其平復、計無所出、宜大赦天下、以救所患云々。壬午、令都下四十八寺.一日一夜讀藥師經云々。癸未是日右大臣正二位藤原朝臣不比等薨。帝深悼惜焉。爲之廢朝、擧哀内寢、特有優勅、弔賻之、禮異于群臣。大臣、近江朝内臣大織冠鎌足之第二子也。十月壬寅、詔。遣大納言正三位長屋王、中納言正四位下大伴宿禰旅人、就古大臣第、宣贈太政大臣正一位。五年二月甲子詔曰。世諺云。○孝謙紀云。天平寶字二年六月乙丑。○廢帝紀云。寶字四年八月甲子勅曰。○懷風藻序云。龍○延喜式諸陵式曰。多武岑墓【贈太政大臣正一位淡海公藤原朝臣、在大和國十市郡。】なを續日本紀には、此大臣の徳をしるせる事あり。不比等は史の反名なり。太織冠の墓所は、日本紀にも延喜式にも見えす。多武峯淡海公墓とありて、九墓に荷前の使を立らるゝにも、其一なり。しかるを今は一向大織冠の廟所なるやうにいへるは、いかなるゆへにか。大織冠をは、武内宿禰と其功おなしやうに、續日本紀の天勅の詞にも見えたり。ともに神といはゝれたまひ、ともに墓所をしるさす。又元亨釋書の定惠和尚の傳に、不比等大織冠薨去の後入唐のよし見えたるは誤なるへし。律令はひとへに此大臣撰と皆人おもへり。令議解序にもしかそ見えたる
 
378 昔者之舊堤者年深池之瀲爾水草生家里《イニシヘノフルキツヽミハトシフカキイケノナキサニミクサオイニケリ》
 
年深、【六帖、トシフカミ、】
 
禮記にも古き禮を拾る、以て舊き防《ツヽミ》に譬へたれば、此も大臣の在世朝廷に在て邪を禦正を護る 堅き堤の池水を貯はへて又能洪水のために崩されざるに譬る意あるぺし、水草生ニケリは第二に草壁太子の舍人が、おひざりし草おひにけるかもとよめるに似たり、謝靈運登(リシニ)2池上樓1云、池塘生2春草1、園柳變2鳴禽1、
 
初、いにしへのふるきつゝみは年ふかき池のなきさに水草生にけり
ふるき堤といふは、大臣の朝廷に功ある事、堅き堤のよく水をたくはへたもつにたとへらるゝ心あるへし。禮記にも、ふるき堤を用なしとてくつせは、水難にあふよしあり。それはこゝにはかなはねと、朝廷のまもりとなる心は似よるへし。みくさおひにけりは、謝靈雲登池上樓云。池塘生春草、園柳變鳴禽。第二卷に、草壁太子の薨じたまひし時、舍人かよめる歌に、みたちせし嶋のあらいそをけふみれはおひさりし草生ひにけるかも。當時と後とはおなし感なり
 
(34)大伴坂上郎女祭神歌一首并短歌
 
此郎女の事第四卷に撰者委く注したれば今煩らはしうせず、神は後の注を見るに忍日《オシヒ》命なり、
 
379 久堅之天原從生來神之命奥山乃賢木之枝爾白香付木緜取付而齊戸乎忌穿居竹玉乎繋爾貫垂十六自物膝折伏手弱女之押日取懸如此谷裳吾者折奈牟君爾不相可聞《ヒサカタノアマノハラヨリアレキタルカミノミコトハオクヤマノサカキカノエタニシラカツケユフトリツケテイハヒヘヲイハヒホリスヱタカタマヲシヽニヌキタレシヽシモノヒサオリフセテタヲヤメカアフヒトリカケカクタニモワレハヲラナムキミニアハシカモ》
 
神之命、【官本亦云、カミノミコトヲ、】  賢木之枝爾、【二條院御本云、サカキカエタニ、六條本同v之、】
 
初の四句、忍日命は高皇産靈尊の五世孫にして天孫の御前に立ち天降たまへば、天ノ原ヨリアレキタルとは云へり、神ノミコトハと云よりもミコトヲと點じたるまさるべし、白香付《シラカツケ》は第十二にはシラカツクと點じ、第十九にはシラカツキと點ぜり、今按今の點と十九とは体に呼び、十二には用に點ぜり、十九には白香|著《ツキ》我が裳のすそにしてつゝとあれば殊に体にあらざれば何のわきもなきが故に用に點ぜるは(35)用べからず、其二つの中には人の著《ツク》る物なれば今シラカツケと點ぜるや勝り侍なむ、香は鼻に入をのみ云に非ず、物をほむる事にもいへば今は木綿四手の白きを白香と云なり、神代紀云、掘《ネコシニシテ》2天香山之五百箇眞坂樹1、而|下枝《シツエニハ》懸《トリシテゝ》2青|和幣《ニキテ》白|和《ニキ》幣1相與致祈祷《アヒトモニノミイノリマウス》焉、齊戸乎忌穿居とは齊は齋に作るべし、神武紀に八十|平※[分/瓦]《ヒラカ》といへるを釋日本紀に兼方の云、平賀者盛供神物之土器也、今世伊勢太神宮御殿下多(ク)以安2置之1、或説諸神參候之神座(ト)云云、爰以|忌瓮《イハヒヘ・イムヘ》(ヲ)鎭2坐《スウ》於和珥武|※[金+噪の旁]《スキノ》坂上1、兼方云、如3神武天皇之作2嚴※[分/瓦]1也、竹玉は仙覺抄云、陰陽家に祭の次第を問侍りしかば、祭祠の中に異國より習ひ傳へたる祭もあり、我朝に本來祭り來れる法もあり、たかだまといへるは我朝の祭の中に昔は竹を玉のやうに刻みて神供の中に懸て飾れる事有となむ申す、さてそれをばたかだまと云ひける歟、たけだまと云ひけるかと問侍りしかばたかだまと云と申侍りしなり、今按竹玉の事此集にはあまた讀たれど日本紀古事記延喜式等の祭祀の具をいへる中にすべて見えぬ事なれば、彼陰陽家も似つかはしく時に當て申けるにや、智度論第十云、眞珠出2魚腹中竹中?脳中1、竹取物語にもとの光る竹を得たる由かけるもこれによる歟、しかれば竹より出る例もある故に眞珠をたかだまと云べきか、允恭紀云、嶋神祟之曰、不得|獣《シヽヲ》者是我(カ)之心也、赤石海底有2眞《・シラ》珠1、其珠祠2於我(ニ)1(36)則悉皆|得《・エシメム》獣、これによる眞珠は神もほしく思食物なれば眞珠を緒に貫て捧るをしも云にや、延喜式山口祭の支具にも五色玉二百八十丸といへり、押日取懸は昔は賀茂の祭のみならで、唯神を祭るにも葵を鬘などに懸るか、今按オスヒ取懸とよむべきにや、おすひはおそひにてうはおそひ、第十四に君がおそきとよめるも是なり、又仁徳紀にめとりがおるかなはたは、はやぶさわけのみおすひがねと雌鳥の皇女の召仕ひたまへる女どものよめるも雌鳥皇女の織せたまふ機は隼別皇子のうはぎのためかと云意なり、又古事記に宮簀姫の衣の裙に月經の著たるを日本武尊のよませ給へる歌并に宮簀姫の御和に讀て奉られたる歌にも共に意須比能須蘇爾《オスヒノスソニ》とあれば、今おすひと云證なきに非ず、女は先衣裳を詮とする上に殊に神を敬ふが爲に衣服をも改ため著て祭るならむ、カクダニモはかくさへなり、吾者折奈牟は按ずるに反歌に吾波乞甞とあれば、折は祈の字にて祈をこふとよめば、かくばかりさへ我はこひなむにとなり、君ニアハジカモは夫君の旅などに出たる程にて云へるか、又思ふ人有てそれにあはさせ給へと祈る歟、
 
初、賢木の枝
和名集云。揚氏漢語抄云。龍眼木【佐加岐。】○白香つくとは、又此集に、しらか付ゆふは花かもなとよめり。木綿してのしろきをほめていふなり。香は鼻に入をのみいふにあらす。ものをほめていふ詞なり。いはひへ日本紀に忌※[分/瓦]とかける、これ正字なり。此集にも末にいたりてしかかけり。神武紀云。潜取天香山之埴土、以八十平※[分/瓦]、躬自齋戒、祭諸神、遂得安定區宇。又云。天皇往嘗嚴※[分/瓦]粮、出軍西征。崇神紀に、十年秋七月、大彦と彦國葺とつかはして.山背に向て.武埴安彦をうたしめたまふ時、忌※[分/瓦]を以て、和珥武〓坂の上に、鎭座てなといへり。神供を清淨なる器物にもらんとて、其料にうるはしき埴をもて盆體の物を造るをいはひへといふへし。神殿なと造る時の具をは、忌斧忌鍬なといへる類なり。酒瓶と長流か者年の時の抄に書たれと、※[分/瓦]と瓶、ことの外にたかへるものなり。竹玉をしゝにぬきたれとは竹をつふ/\と切て、糸につらぬきて神に奉るものなり。しゝは、しけきなり。今案、この事、神道家に今もあることにや。鬼道に紙錢なと供する躰のことにこそ。もし竹玉は眞珠の事にもあらん。智度論第十云。眞珠出漁腹中、竹中、蛇腦中。竹の中よりもいつれは、眞珠を竹玉ともいふへし。されは眞珠をぬきたれて、たむけは、神もうけたまふへきものなり。允恭天皇の時、淡路島の神、あかしの海の底なるしら玉を取て奉り給はゝ、御狩にえものおほからしめんと託宣したまひし事なとおもひあはすへし。たをやめかあふひとりかけとは、葵をかつらにしてかしらにかくるゆへに、女の鬘によせて、たをやめかといひかけたりといへり。今おもはく。たをやめのとよみて、郎女かみつからのことをいふと心得へし。あふひは今は賀茂の祭のみにもちゆ。昔はなへて神を祭るにかつらにかけゝるなるへし。かくたにもは、かくさへもなり。これほとさへことをつくしての心なり。われはこひなん。祈の字を折にあやまりて、あまさへおらなんとよめるは、一盲の衆盲を導なり。すなはち歌に乞甞といへるにおなし。なむはのむなり。日本紀にも、此集にも、祈の字、祷の字なとを、のむとよめり。その心、字のことし。なとのと通すれは、のむをなむといへり。日本紀には、叩頭とかきても、のむとよみたれは、罪過を謝する心もあるなり。叉神武紀に、甞嚴※[分/瓦]粮とあるは、神供のひもろきなとにや。歡喜天儀軌に、本尊を供養する飲食を行者とりて食すれは、本尊行者をしたしひたまふよし見えたれは、こゝも所願をはたさしめたまへと祈て、ひもろきをなむとにや。さきの義まさり侍るへし。君にあはしかもとは、夫の旅にあるさまなるへし
 
反謌
 
(37)380 木綿疊手取持而如此谷母吾波乞甞君爾不相鴨《ユフタヽミテニトリモチテカクタニモワレハコヒナムキミニアハシカモ》
 
ユフダヽミは木綿を裁かさねたるななり、八雲御抄云、ぬさなり、
 
初、ゆふたゝみ
木綿をきりかさねたる心なり
 
右歌者以天平五年冬十一月供祭大伴氏神之時聊作此謌故曰祭神歌
 
十一月には天子も新甞を行はせ給ひ神樂のあれば、私の家にも祖神などを祭るにや、
 
筑紫娘子贈行旅歌一首
 
官本注云、娘子、字曰兒嶋、注によらば第六に歌ある遊行女婦なり、
 
381 思家登情進莫風俟好爲而伊麻世荒其路《イヘオモフトコヽロスヽムナカセマチテヨクシテイマセアラキソノミチ》
 
情進を第十六志賀海人荒雄をよめる歌にサカシラと讀たれば此もサカシラスルナともよむべし、楫取などをもとくを云べし、今の點にてもよし、
 
初、家おもふと
情進と書き手、第十六にさかしらとよみたれは、こゝもさかしらするなともよむへし。かしこたてすなといはんかことし。かちとりなとをもとくをいふ。あらきその道は海路なり。第四にすはうなるいはくに山をこえん日はたむけよくせよあらきその道
 
登筑波岳丹比眞人國人作歌一首并短歌
 
(38)或本に岳の傍に山の字を付て異と注せ、國人は聖武紀云、天平八年正月、正六位上多治比眞人國人授從五位下、孝謙紀云、天平勝寶三年正月從四位下、寶字元年六月遣使追召遠江守多治比眞人配2流於伊豆國(ニ)1、聖武孝謙兩紀の間に猶處々見えたり、國人を或點にトキヒトとあるは後嵯峨院の御諱邦仁なれば憚てなるべし、然らばクニトと讀べし、
 
382 ?之鳴東國爾高山者左波爾雖有明神之貴山乃儕立乃見果石山跡神代從人之言嗣國見爲筑羽乃山矣冬木成時敷時跡不見而徃者益而戀石見雪消爲山道尚矣名積叙吾來前二《トリカナクアツマノクニヽタカヤマハサハニアレトモアキツカミノカシコキヤマノトモタチノミカホシヤマトカミヨヨリヒトノイヒツキクニミスルツクハノヤマヲフユコナリトコシクトキトミステイナハマシテコヒシミユキケスルヤマミチスラヲナツミソワクルニ》
 
時敷時跡、【幽齋本云、トキシクトキト、】
 
明神之貴山とは神名帳云、常陸國筑波郡筑波山神社二座、【一名神大、一小、】儕立とは此山二つの嶺相並べる、其高き方を男の神と云ひ、卑き方を女の神と云、神名帳の大小次の如く是なり、第九に二並の筑波の山とよめるも同じ、儕は左傳云、晋鄭同儕(ナリ)、杜預注云、儕(39)等也、見※[日/木]石山は見之欲《ミカホシ》山にて筑波山のしば/”\も見たきを云、八雲御抄には山の名とし給へども、第六に寧樂の古京をよめる歌にも、山見れば山も見かほし、里見れば里も住よしとあれば唯いづくにも見あかぬを云べし、顯宗紀に飯豐《イヒトヨノ》皇女の忍海《オシノミノ》角|刺《サシノ》宮を時の人のよめる歌にも、野麻登陛※[人偏+爾]瀰吾保指母能婆《ヤマトベニミカホシモノハ》云云、果は※[日/木]の字を誤れり、第十にあさがほと云に朝※[日/木]とかけり、芭蕉をばせをと云やうに※[日/木]の字のかう〔二字右○〕の音をかほ〔二字右○〕となせり、顔の心にはあらず、冬木成の下には今按句を落せり、私に補なはゞ春|去來跡《ハルサリクレト》白雪乃と云べし、時敷時跡は幽蓉齋本の點よし、時じくは非時とかけば、高山は春も猶時ならぬ雪のふればなり、ミズテイナバ益テ戀シミは見ずして都へ皈らばまして戀しからむと思ふ意なり、後をかねて云詞なれど今を云やうなるは古語なり、意を得て聞べし、吾來前二は今推するに前は並にて並二は重二とかけるに同じう四の謎《ナソ》なるべければワガコシと讀べきか、
 
初、明神のかしこき山のともたちのみかほし山
日本紀には、明神とかきてあらかゝみとよめり。かしこき山は、たふとき山なり。ともたちとは、此山ふたつの嶺相ならへるゆへに、第九には、ふたなみのつくはの山ともよめり。たかきを男の神といひ、ひきゝを女の神となつく。第九に.をの神もゆるしたまへ、女のかみもちはひたまひて、時となく雲居雨ふりなとあり。すなはちふたはしらの神います。ひこ神ひめ神なるへし。延喜式云。筑波山神社二座【一名神大一小。】儕は、左傳云。晋鄭同儕。杜預注云。儕等也。吾儕とかきて、わなみとよむも、われなみにて、わか輩といふことにや。見杲石山。これは見之欲山といふことにて、あかすみまほしき山なり。此集におほき詞なり。八雲御抄には、山の名としたまへるは御誤なり。杲の字を、果に作れるは誤れり。此集にあさかほの花にも朝杲とかけり。此字、顔と和訓をおなしうするにはあらす。音をかりて轉して通せり。芭蕉を古今集物名に、はせをとよみ、拾遺集の物の名に、紅梅をこをはいとよめるに准すへし。みかほしなれとも、みかをしといふやうによむへくや。冬木なりの下には、二句おちたるへし。そのゆへは、時しく時とゝいふは、下に雪消するといふをもてみれは、雪のふりしきてあるをいへるなり。それにつきて、字のまヽに時しく時とよめは、時しくは非事とかきて、いつともなき心なり。とこしく時とゝあるかんなにてよまは、第九卷に、せの山にもみちとこしくとよめるも、つねにしくといふ心なれは、こゝもつねに雪のふりしく時とてといふなり。今こゝろみに二句をゝきなはゝ、春はくれともしら雪のといふへし。みすていなはまして戀しみ。此二句、今ならはいひたらす。見すして都へ歸らほましてさひしからんとおもひてといふ心叫なれはなり。山みちすらを。此集に此すらといふ詞、今の世につかふにはたかひて、心得かたきやうなれと、よく/\おもへは、たかはす。よそにも尚の字をかけり。すなはちなをといふ心あり。つねいふは、それさへこれさへといふにかよはして、それすらこれすらといへり。たにと、さへと、すらと、三つはおなしやうなり。雪消して行かたき山ちをさへ、なつみなからくるとなり。消の字をけとよむは、幾江切のこゝろなり。法華經をほくえきやうとかくかことし。音と和訓ことなれと、かへすはおなし心なり。前二の二字、不審なり。推量するに、前は並のあやまりなるへし。此集に、しといふかんなに、重二とも二二ともかけるは、四のこゝろにて、それか音をとるなれは、竝二も四なるゆへに、上を、わかくるとはよまて、わかこしとよめるなるへし。曾娥か碑の裏に、蔡?か黄絲幼婦外孫薤曰の八字をえれる所、これらの書やうの本祖なるへし
 
反歌
 
383 筑波根矣四十耳見乍有金手雪消乃道矣名積來有鴨《ツクハネヲヨソニミナカラアリカネテユキケノミチヲナツミクルカモ》
 
第二の句は、今按ヨソノミ見ツヽと讀べし、第六に笠金村の歌にも、天雲のよそのみ(40)見つゝとよめり、よそにのみといはぬは例の古語なり、乍の字此集にはツヽと云にのみ用てナガラとよめる事なし、
 
初、四十耳見乍――
よそにみなからとよむも心はたかはねと、乍の字、此集には唯つゝとのみよみて、なからとよめる所なし。よそのみ見つゝとよむか此集の心なり。よそにのみといはぬは古歌の例なり
 
山部宿禰赤人歌一首
 
384 吾屋戸爾幹藍種生之雖于不懲而亦毛將蒔登曾念《ワカヤトニカラアヰツミハヤシカレヌレトコリステマタモマカムトソオモフ》
 
雖于、【校本云、カレヌレト、】
 
幹藍は?頭花なるべし、第十一に、みそのふのからあゐの花とよめる處に?冠草花と書て歌の下に後人の加たる注あるに付て委釋すべし、種生之は今按今の點は第十一の吾屋戸之穗蓼古幹採生之と云歌と同じく意得て和したるか、採と種とは義別なり、今はマキオフシ或はウヱオフシと讀べし、紀州の本にマキオフシと點じたれど種は蘇に作たるは不審なり、此歌幹藍をのみよみたらば其種をまきなほさんと云は春の末夏の初なるべければ、第八卷に入ぬべし、又戀の譬などによめらば此下の譬喩に入ぬべきに似たり、
 
初、幹藍種生之 これをからあゐつみはやしとよめるは誤なり。からあゐうへおふしとよむへし。からあゐは、※[奚+隹]頭花なるへし。第十一に、しのひにはこひてしぬともみそのふのからあゐの花の色に出めやも。此歌に鷄冠草とかきて、哥をはりに注していはく。類聚古集云。鴨頭草又作鷄冠草云々。依此義者可和月草歟。しか注したるは順なとの初て和點をくはへられける時、まつ鷄頭花とこゝろえてからあゐと訓せられたれとも、又類聚古集に一説あるによりて注せられたる歟。又後の人の、類聚古集を見て注しかへたる歟。類聚古集といふ書、和漢いつれとも、時代いつの此出來りともこゝにひける外はきこえぬ書にや。からあゐの花の色に出めやもといへるも、鷄頭花の、火よりもあかきによせてはよくきこえ侍り。月草にても色に出といはれしとにはあらねと、あゐよりもあをきはすこしかなひかたき歟。第七に、秋さらは陰にもせんとわかまきしからあゐの花を誰かつみけん。第十に、こふる日のけなかくあれはみそのふのからあゐの花の色に出にけり。いつれもおなし心に聞ゆれは、鷄冠草花とかけるにて、鷄頭花ならんとはおもへり。鷄顕花はことにいろ/\\おほき花なれと.あかき花の鷄冠のなりしたれは鷄頭となつく。清少納言にいへる、雁來花とかきてかまつかといふ花も、鷄頭中の一種とみえたり。これもかゝやくはかりなる色なり。和名集、辨色立成云。紅藍【久禮乃阿井】呉藍【同上。】本朝式云。紅花【俗用之。】くれなゐといふは、くれのあゐを、乃阿をかへして奈になしてよへは、呉藍なり。紅も物をよくそむる事、あゐに似て、呉國より出來たれは、青赤色はことなれと、さはなつけたり。此花の色も虹にして三韓のうちよりつたへきたれはからあゐといふなるへし。此赤人の歌はたとふる所ありてよめる歟。しからは下の譬喩に入へし。からあゐのうへをのみよまは、第八卷秋の哥に入へくや
 
仙柘枝歌三首
 
(41)仙は日本紀にヒジリとあれば今もさよむべし、柘枝は仙女の名なり、和名集云、毛詩注云、桑柘、【音射、漢語抄云、豆美、】蠶所v食也、仙覺抄に似桑有刺木也といへりと注せり、下につみのさえだとよみたればツミエ或はツミノエと讀べきか、枝は木ともよめり、仁徳紀云、天皇|浮江《カハフネヨリ》幸《イテマス》2山背1、桑(ノ)枝《キ》沿《シタカフ》v水(ニ)而流(ル)之、
 
初、仙柘枝歌三首
柘枝は仙女の名なり。下に注すへし
 
385 霰零吉志美我高嶺乎險跡草取可奈和妹手乎取《アラレフルキシミカタケヲサカシミトクサトルカナヤイモカテヲトル》
 
仙覺抄云、此歌肥前國風土記に見えたり、杵島郡縣有二里有(リ)2一孤山1、從v坤指(テ)v艮(ヲ)三峰相連、是名(ヲ)曰2杵嶋1、坤者曰2比古神1、中者曰2比賣神1、艮者曰2御子神1、【一名耳子神、靱則兵與矢、】閭士女提v酒抱v琴毎v歳春秋携(テ)v手登望、樂飲歌舞曲盡而歸、歌詞曰、阿羅禮符縷耆資麼加多※[土+豈]塢嵯峨紫彌苫《アラレフルキシマカタケヲサカシミト》、區縒刀理我泥底伊謀哉提塢刀縷《クサトリカネテイモカテヲトル》、【是杵島|曲《フリナリ》、】然るに此集の歌にはきしみがたけをとかけり、しま〔二字右○〕といひしみ〔二字右○〕といへる同内相通の故歟、歌の心はきしまがたけをさかしみと草をとるか、妹が手をぞ取といへる意なり、今按此仙覺注に肥前風土記を引れたるはよくて其他は分明ならず、霰零吉志美とそへたるは第二十に、阿良例布理可志麻とつゞけたる如し、加〔右○〕と吉〔右○〕と通し、麻〔右○〕と美〔右○〕と通して、霰の音のかしましとよせたり、今の歌にては吉野に吉志美我高嶺有と見えたり、草取カナヤは險しき處にては(42)木の根に縋葛を攀る習なり、文選班孟堅幽通賦云、夢(ニ)登v山而※[しんにょう+囘]眺兮、覿2幽人之髣髴(ニ)1、攬《トツテ》2葛※[草冠/儡の旁]1而授v余兮、眷《カヘリミテ2峻谷1曰勿v墜(ルコト)孫綽天台山賦云、攬《トリ》2樛《キウ》木之長蘿1、援《ヒク》2葛※[草冠/儡の旁]之飛莖1、和の字は十一にも十三にもや〔右○〕とよめり、わ〔右○〕とや〔右○〕と同韻相通なり、妹ガ手ヲ取とは注にある味稻が仙女の手を取をいへり、古事記に隼別皇子雌鳥皇女と倉梯山を越たまふとての御歌に、※[土+皆]立の倉梯山を險しみと、妹は來かねて我が手とらすも、此と似たり、草取かなやは草にはあらず、妹が手を取といはむ爲なり、古事記に仁徳天皇八田若郎女に賜ふ御歌に、矢田の一本管は、子持たす立か荒なむ、借ら菅原、言をことすげ原と云はめ、惜らすがし女とよませ給ふ如く、言をこそ草取といはめ、妹が手を取なり、仙覺の引る肥前風土記の歌の中の耆資熊の熊は愍にや、熊をま〔右○〕と用べぎやうなし、麻〔右○〕と美〔右○〕と通していへるか、和名云、杵島郡杵島、【木之萬、】同郡に島見【志萬美、】と云所あるは杵島を見る處とて名付たるか、景行紀に筑後の御木郡の九百七十丈の歴木《クヌキ》、朝日の輝に當て杵島山を隱しきとあるは此島なり、
 
初、あられふるきしみかたけをさかしみと草とるかなや妹か手をとる
あられふるきしみとつゝくることは、あられふる音のかしましきといふ心なり。かときと通し、まとみと通するなり。第七第二十に、あられふるかしまとつゝけたるは、やかてかしましといふ心につゝけたり。和の字をやとよめるは、同韻の横通なり。此哥の心こゝにありては心得かたし。きしみかたけ、肥前の國なれは、吉野に相應せす。肥前國風土記云。杵島郡。○和名集云。杵島郡杵島【木之萬】。同郡島見【志萬見】といふ所も出せり。杵島を見るといふ心にてなつけたるなるへし。景行紀に、天皇筑後の御木郡にいたりまして、高田行宮おはしましける時樹の長さ九百七十丈なるあり。所の者申けるは、此木いまたたふれさる時、朝日の暉にあたりては、杵島山をかくしきと。すなはち此島なり。古事記に、隼別皇子雌皇女と倉梯山をこえ給ふとての御歌に、はしたてのくらはし山はさかしけといはゆきかねて我手とらすも。文選班孟堅幽通賦曰。○曹子建七啓云。○孫綽天台山賦曰。○
 
右一首或云吉野人味稻與柘枝仙媛歌也但見拓枝傳無有此歌
 
(43)味稻を懷風藻には美稻とあればうましね〔四字右○〕或はうまいね〔四字右○〕と云名なるべし、此注下の歌并に懷風藻に諸公の吉野にて作れる詩あるを引合で按ずるに、味稻は、吉野川に魚梁《ヤナ》打つ者なりけるが、はからざるに仙女柘枝に逢ける事浦嶋子が蓬莱に到れる如なりける事を或人柘枝傳とて記せるなるべし、彼詩粗此に引べし、太宰大貳正四位下紀朝臣男人、七言、遊2吉野川1、萬丈崇巖削成秀、千尋素濤逆析v洗、欲v訪2鍾池越潭跡1、留連美稻逢2槎洲1、五言、扈2從吉野宮1、鳳蓋停(マル)2南岳1、追尋智寺山、嘯v谷將v※[獣偏+孫]語、攀v藤共許v親、峯巖夏景變、泉石秋光新、此地仙靈宅、何須2姑射倫1、大伴王、五言、從2駕吉野宮1應v詔(ニ)、山幽仁趣遠、川淨智懷深、欲(シテ)v訪(ハント)2神仙迹1、追2從吉野※[さんずい+尋]1、從三位中納言丹※[土+穉の旁]眞人廣成、五言、遊2吉野山1、山水隨v臨賞、巖谿逐v望新、朝(ニハ)看2度v蜂翼1、夕翫2躍v潭鱗1、放曠多2幽趣1、超然(トシテ)少(ナク)2俗塵1、栖(シメテ)2心佳野域1、尋2問美稻津1、七言、吉野之作、高嶺嵯峨多2奇勢1、長河渺漫作2廻流(ヲ)1、鍾池超v潭豈凡類(ナランヤ)、美稻逢v仙月氷洲、從五位下鑄餞長官高向朝臣|諸《モロ》足、五言、從2駕吉野営(ニ)1、在昔釣v魚士、方今留v風公、彈v琴與v仙戯、投《イタテ》v江將2神通1、柘歌泛2寒渚1、霞景飄2秋風1、誰謂姑射(ノ)嶺、駐v蹕望2仙宮1、淡海公、五言、遊2吉野1二首、飛(ハス)v文山水地、命v爵薛蘿中、漆姫控v鶴擧柘媛接莫【疑魚乎、】通、煙光巖上翠、日影〓前紅、翻知玄圃近、對翫入2松風1、夏身夏色古、秋津秋氣新、昔者同汾后、(44)今之見2吉賓1、靈仙駕v鶴去、星客乘v査逡、諸性※[手偏+互]流水、素心開2靜仁1、此詩どもの中に柘歌とあるは、柘枝が歌へる曲、傳に見えたる事有べし、淡海公の詩に漆姫とあるは七姫なるべし、此集を見るに卷の第の七八等に多く漆捌などあり、しかれば竹取翁があへる九箇仙女の類なるべし、
 
初、右一首或云吉野人味稲
此注を見るに、よしのに昔味稻といふ者ありて、柘枝といふ仙女にあひて、その柘枝仙女傳をかけるもの有けると見えたり。此事絶て世にいひつたふる事もなく、しる人もなし。第一卷の注にいへるかことく、いかさまにも仙境のやうにいひて、聖主賢臣いつくはあれとまつ芳野にのほられさるはまれなり。今懷風藻をみれは、こゝにかなへる詩とも有。太宰大貳正四位下紀朝臣男人七言遊2吉野川1。萬丈崇巖削成秀、千尋。○此中に美稻とあるは、味稻とおなし。柘歌とあるは柘枝仙媛の事なり。淡海公卿詩に、漆姫とあるは七姫にや。對句に媛の字の上の字失たる故に知かたし。漆姫もし七姫ならは、第十六に竹取翁か九箇の仙女にあへるたくひなるへし。味稻は懷風藻に美稻とあれは、うまいねとか、うましねとか讀へし。顯宗紀に、十握之稻穗とあり。常もうるしねといへり。柘枝は和名集云。毛詩注云。桑柘【音射漢語抄云豆美】蠶所食也。此木桑に似て枝に刺ありといへり。下の哥につみのさえたと讀たれは、つみのえとよむへき歟。枝を木ともよめり。仁得紀云。浮江幸。○懷風藻大伴王
 
386 此暮柘之左枝乃流來者梁者不打而不取香聞將有《コノクレニツミノサエタノナカレコハヤナハウタステトラスカモアラム》
 
梁は和名云、毛詩注云、梁、【音良、和名、夜奈、】魚梁也、打とは梁を作るを云、神武紀云、亦有2作v梁取v魚者1、【梁、此云1椰奈1、】天皇問之、對曰、臣《ヤツカレ》是|苞苴擔之《ニヘモツカ》子、【苞苴擔、是云2珥倍毛兎1、】此則阿太|養※[盧+鳥]部《ウカヒラカ》始祖也、味稻も此苞苴擔が裔にて、此歌の意を按ずるに、味稻が吉野川に魚梁打て有ける時に川上より柘の枝の流れ來けるを取上げたるが、忽に變じて仙女となりて味稻と接て誘引して仙境へ皈りけるにや、漆姫控鶴擧と淡海公の作らせ給へる此意なるべし、されば昔かゝりける事なれば、若今も柘の枝の流れ來る物ならば魚梁は打捨て先取擧こそせめといへるなり、
 
初、此くれにつみのさえたの
仙女の名をつみの木にいひなせり。やなうつとは、つくるなり。日本紀第三、神武紀云。更少進亦。○やなほつくりすてゝも、その仙女につかんとなり。懷風藻高向諸足詩に、在昔釣魚子とあるにあはすれは、美稻はやなことにうちて、わたらひとせしものと見えたり。漁郎か桃源にいりたる類にこそ有けめ
 
右一首 此下無詞諸本同
 
(45)此注七字は仙覺の私に注せられたるを後の人やがて本に書加へたるなるべし、第十三などに右幾首とのみ注したる事多し、作者をいはざればおのづから未v詳と云事あらはるれば其意にや、若は後に闕たる所も有べし、
 
387 古爾梁打人乃無有世伐此間毛有益柘之枝羽裳《イニシヘニヤナウツヒトノナカリセハコヽモアラマシツミノエタハモ》
 
梁、【別校本、作※[木+梁]、】
 
此間をコヽとよむ事勿論なり、今按第七第十二にはコノマと字のまゝにもよめれば、今按今はコノマとよむべきか、このまは此あひだにて今と云に同じ、昔味稻が柘枝を取らずば今までも有べき物をとなり、下句意は味稻が仙女を具して仙宮へゆかずば今も其仙女はさてあらましものをと云へるなり、はてのも〔右○〕の字捨て聞べし、
 
初、いにしへにやなうつ人の
彼味稻か仙女にあへるやうをよくしらねは、此歌いかによめりとも釋しかたし
 
右一首若宮年魚麻呂作
 
年魚麻呂傳未v詳、下の※[羈の馬が奇]旅の歌の注并に第八櫻花の歌二首の後の注を見るに撰者と同時の人なり、
 
※[羈の馬が奇]旅歌一首井短歌
 
(46)388 海若者靈寸物香淡路島中爾立置而白浪乎伊與爾回之座待月開乃門從者暮去者塩乎令滿明去者塩乎令干塩左爲能浪乎恐美淡路島礒隱居而何時鴨此夜乃將明跡待從爾寢乃不勝宿者瀧上乃淺野之雉開去歳立動良之率兒等安倍而※[手偏+旁]出牟爾波母之頭氣師《ワタツミハアヤシキモノカアハチシマナカニタテオキテシラナミヲイヨニメクヲシヰマチツキアカシノトニハユフサレハシホヲミタシメアサヽレハシホヲホサシメシホサヰノナミヲカシカシコミアハチシマイソカクレヰテイツシカモコノヨノアケムトマツヨトニイノネラレネハタキノウヘノアサノヽキヽスアケヌトシタチサワクラシイサコトモアヘテコキイテムニハモシツケシ》
 
明去者、【幽齋本云、アケサレハ、】 座待月、【校本云、ヰマツツキ、】
 
此海若は海神なり、物カは物かななり、文選海賦云、惟神|是《コヽニ》宅、亦祇是廬、何奇不v有、何怪不v儲とあり、淡路島中爾立置而とは、東は和泉の海、南は鳴門ありて阿波を界ひ、西北は播磨の海※[しんにょう+囘]れり、古今に浪もてゆへるとよめるに同じ、白浪乎伊與爾廻之は南海渺々たり、西と北とは豊後安藝等の海に連れり、座待月は十八夜の月を云、アカシとつゞけむ爲ながら此歌よめる時其夜なりけるにや、暮去者以下の四句は文を互にして意得べし、必潮の夕に滿て朝にひるには非ず、莊子云、海若(カ)云、天下之水莫v大2於海1、(47)萬川歸v之不v知2何時止1而不v盈、尾閭泄v之不v知2何時已1而不v虚、春秋不v變、水旱不v知、此其過2江河流1、不v可v爲2量數1、郭璞江(ノ)賦云、呼2吸萬1吐2納靈潮1、自然往(キ)復(ル)或(ハ)夕(ニシ)或朝、激2逸勢1以前驅、乃皷怒而作v濤(ヲ)、侍從は從をヨドとはよみがたかるべし、今按マツカラニと讀べし、瀧上乃淺野とは瀧上の三舟山とよめるは吉野の瀧の上にある故と聞ゆれど、野の下に瀧は有まじき理なれば是は瀧の水上は淺ければ淺野といはむ料なるべきか、又高野吉野と云も皆山なれば今も瀧ある上の淺野山にや、淡路の國に今もさる處のあるや所者に尋て定むべし、アケヌトシはし〔右○〕は助語にて夜の明ぬと雉の鳴なり、毛詩云、雉之朝※[口+句]繼体紀云.奴都等利枳蟻矢播等余武《ヌツドリキギシハトヨム》、私記云、師説、雉好鳴2於欲v曉之時1也今按開去歳をばアクレコソとも讀べきか、あくればこそといはぬは此例の古語多し、こそ〔二字右○〕と云詞に去年とも行年とも借て書たれば去歳〔二字右○〕此に准ふべし、安倍而《アヘテ》は仙覺云、喘吐《アヘツク》なり、上の金村歌云、阿倍寸菅我榜行者《アヘギツヽワガコギユケバ》云云、但第九云・湯羅乃前鹽乾爾祁良志白神之礒浦箕乎敢而榜動《ユラノサキシホヒニケラシシラカミノイソノウラミヲアヘテコギトヨム》、此に依ればあへぎのき〔右○〕を略してあへてと云にはあらずして榜出るに堪たる意なり、此歌上の半は海賦とも云べく大きにいかめしきを、下の半のかけあはぬにや、又海を賦せるにあらずば上は少し※[羈の馬が奇]旅の歌には過たりとも申べくや、
 
初、わたつみはあやしきものか
木玄虚海賦云。惟神是宅、亦祇是廬、何奇不有、何怪不儲。ゐまち月あかしのとには。十八夜をゐまち月といふ。十七夜は立まち月十九夜はねまちなり。これはあかしといはふんめなり。もし此哥よめるか十八日な にもや有けん。さらすは、文字をた  とていふなり。ゐまちに用あるにあらす。ゆふされはしほをみたしめ、あさゝれはしほをほさしめ。これは文をたかひにして意得へし。かならす夕にみちて朝にひるにあらす。莊子云。海若云。○郭璞江賦曰。○しほさゐのなみを。待從爾まつからにとよむへし。從の字を此集にからと用ゐたり。瀧のうへのあさ野のきゝす.瀧のかみはあさきものなれは、あさ野とつゝけたり。毛詩云。雉之朝※[口+句]。あへてはあへきての略語なるへし。此歌、上は海賦ともいふへく、おほきにいかめしくいひ出て、末のほそりたるかおかしきなり。又海を賦してよますは、上はすこし※[羈の馬が奇]旅の歌に過たるともいふへきにや
 
(48)反歌
 
389 島傳敏馬乃埼乎許藝廻者日本戀久鶴左波爾鳴《シマツタヒミヌメノサキヲコキタメハヤマトコヒシクタツサハニナク》
 
結句上の黒人が歌の如く鶴の聲に感じて故郷を思ふとなり、
 
初、たつさはになく
物に感して故郷をおもふなり
 
右歌若宮年魚麿誦之但未審作者
 
譬喩謌
 
たとへてよむなり、委は別に注す、
 
紀皇女御歌一首
 
初、萬葉集第三下抄
紀皇女
天武天皇の御女、母は曾我大臣赤兄女大〓娘。穗積皇子の同腹の御妹なり
 
390 輕池之納回徃轉留鴨尚爾玉藻乃於丹獨宿名久二《カルノイケノイリエメクレルカモスラニタマモノウヘニヒトリネナクニ》
 
往轉留、【官本亦云、ユキメクル、】
 
輕池は應神紀云、十一年冬十月作2輕池1、大和國高市郡なり、或者の云、今大《オホ》輕と云處に有といへり、往轉留は、ユキメグルと點ぜるもことわりあり、六帖に獨寢の歌とす、意は何の意あるべからぬ鴨だに、昼はこなたかなたにあされども夜は玉藻の上に友(49)寢するを、いかなる意にて問もきまさぬぞと夫君を恨給ふ意なり、
 
初、輕の池のいり江
應神紀云。十一年冬十月作輕池。□轉留、これをはゆきめくるとも□むへし。これは戀の哥の譬喩なり
 
造筑紫觀世音寺別當沙彌滿誓歌一首
 
元明紀云、和銅二年二月戊子、詔曰、筑紫觀世音寺淡海大津宮御宇天皇、奉2爲《オホムタメニ》後岡本宮|御宇《アメカシタシロシメス》天皇1誓願所(ナリ)v基也、雖v累2年代1迄v今未v了、宜3太宰商量充2驅使(ノ)丁《ヨホロ》五十許人1、及遂2閑月1差2發人夫1專加2※[手偏+僉]※[手偏+交]1早(ク)令(メヨ)2營作1、元正紀云、養老七年二月丁酉、勅2僧滿誓1【俗名從四位三笠朝臣麻呂、】於2筑紫1令v造2觀世音寺(ヲ)1、元亨釋書の資治表にも有司の懈怠を謗て滿誓の成功を譽たり、
 
初、觀世音寺
元明紀云。和銅二年二月戊子詔曰。筑紫觀世音寺、淡海大津宮御宇天皇□後岡本宮御宇天皇誓願所基也。雖□年代迄今未了。宜太宰商量充驅使□五十許人及遂閑月差發人夫專加※[手偏+僉]使早令營作。元正紀云。養老七年二月丁酉勅。僧滿誓【俗名從四位上笠朝臣麻呂】於筑紫令造觀世音寺。滿誓いまた俗たりし時の昇進は、文武紀云。○元明紀云。○元正紀云。○戊午右大辨從四位上笠朝臣麻呂請奉爲太上天皇出家入道勅許之。此人美濃守なりし時當耆郡多度山美泉わき出け□元正天皇みゆきし給ひ靈□を改て養老元年とした□り。其年麻呂朝臣等に物なとた□その十一月に從四位上を授た□り。功成名遂て身退とは此人なと□ふへきにや
 
391 鳥※[糸+怱]立足柄山爾舩木伐樹爾伐歸都安多良舩材乎《トフサタテアシカラヤマニフナキキリキニキリヨセツアタラフナキヲ》
 
發句は第十七にも登夫佐多?船木伎流等伊有〔左○〕能登乃島山《トブサタテフナギキルトイフノドノシマヤマ》、云云、仙覺これを引てトフサタツと云古點を破せらる、但古點も一准ならざる歟、袖中抄にはとふさたてとあり、さて説々あり、別に是を注す、足柄山は相模なり、彼國の風土記に足柄山の杉を伐て舟に造けるに其舟の足の輕かりければ山の名とせるとかや、さてこそ第十四にも百津島足柄小舟あるきおほしなどはよみけめ、伐歸都とは舟造るべきほど伐(50)集め寄るなり、此譬る意は彼觀音寺の造營題の下に云如く久しく事ゆかずして元正天皇養老七年までに及ける故に滿誓を別當に成し給ふにより、滿誓觀音寺に到て※[手偏+僉]校せらるゝに、寺作るべき良材をば多く運び寄ながら有司怠慢にして徒に年月を積るを、足柄山の上品の舟木は伐寄せながら造ること延引して徒に腐すに事よせて前の有司を刺らるゝなるべし、かゝる事を近く云へば勅を奉れる人の爲にもあしければ、遠くあらぬ事に云成して誡しめ諌めらるゝなるべし、是諷諭の法なり、撰者此微意を顯はさんために此に至て造觀音寺別當とはいへり、第十九に、春の日にはれる柳を取持て、見れば都の大路思ほゆと云歌の詞書に、攀2楊黛1思2京師1とかけるも攀柳條などは云はで黛の字を加へたれば、春女の群がり行緑黛を想像意を露はさんとなり、叉木に伐よせつとは誤て傍なる繁き木の中に伐懸つれば取事の煩らはしさにたゆみて捨置を懈怠に譬るか、仙覺の云、若そばなる木にも伐懸つればいかによき木なるとも舟木にせぬなり、舟は物にさへらるゝを忌べき故なるべし、されば木に伐よせつあたら舟木をとよめり、舟木伐やう如此なるか、推量て申されけるにや、
 
初、□さたて足柄山にふな木きる
此とふさは木をきるものゝきりおをはりて木の末をかの木のもとにたてゝ、山の神木の神なとに祭るをいふともいひ、又柿のたつをいふとも□へり。第十七にも、とふさたてふな木□るといふ能登のしま山なとよめ□。先山神なとを祭るといふは、□喜式第八、大殿祭祝詞云。○推古紀□。是年【二十六年】○これ舟木をきる□も宮木をきるにも山神樹神をまつるよしなり。本末をは山の神に祭てとあれは、ことはりなきにあらす。されとも其本末をとふさといふことをいまたみす。次にこけらをとふさといふ事もたしかならぬにや。後拾遺集第十三、戀三にいはく。源遠古かむすめに物いひわたり侍りけるに、かれかもとに有けるをんなをまたつかへ人あひすみ侍りけり。いせのくにゝくたりて都□ひしうおほえけるに、つかへ人も□なし心にやおもふらんとおしはかりてよめる、祭主輔親。我おもふみやこの花のとふさゆへ君もしつえのしつ心あらし
ふるき歌には是ならては見をよひ侍らす。此歌木をきる詞はなけれ□きみもしつえのしつこゝろあらしといへは、花のちるをこけらのやうにいひなして人の心のほかにうつりやすらんなとおほつかなくおもふ心なるへし。ふるき連歌師の發句に、木をきれは花こそとふさ春の風としたるは、朗詠集に、春風暗剪庭前樹といふ句と右のうたならひに此集の歌ともを取合てなるへし。輔親は太神宮の託宣にて神詠をたまはり、おやおほちむまこすけちかみよまてにいたゝきまつるすへら御神といふ奉和したる人なれは、とふさも相傳してよまれたるへけれは、こけらをたつるかたにつくへし。あしからは相模なり。かの國の風土記に、足柄山の杉をきりて舟に造りけるに、そのあしのいとかろかりけれは山の名とせるとかや。第十四東歌にも、百つしまあしからをふねあるきおほみなとよめり。造觀世音寺別當と題にあるにつけて、此あしからつくしにあるかなといふ説あれと、彼寺の別當になられける後の歌なれは、かくはかけるとみて、歌は譬喩の歌なれは別にみるへし。もしは彼寺天智天皇の御願にてはしめられけれと久しく事ならて猶養老七年まてとゝのはさりけれは、此滿誓を別當になさせたまひけるにおほくの良材なと打つみたるかいたつらに朽るをみていと遠きあしから山の舟木はきりよせなから舟にも造らてくたすによせてよまれけるにや。ちかくいへは勅をうけたまはれるさき/\の人のためにもあしけれは、あらぬやうにいひなされけるにや。たとへによせてそしるは尤さるへき事なり
 
太宰大監大伴宿禰百代梅歌一首
 
(51)職員令云、大監二人掌(トル)d糾2判府内1審2署文案1勾2稽《カンカヘ》失1察c非違u、百代大監なりし事第四第五にも見えたり、聖武紀云、天平十五年十二月辛卯、始置筑紫鎭西府1、以2從四位下石川朝臣加美(ヲ)1爲2將軍1、外從五位下大伴宿禰百世爲2副將軍1、十九年正月丁丑朔、從五位上、
 
初、太宰大監
令義解職員令云。大監二人、掌糾判府内審署文案勾稽失察非違【謂巡察所部非違、其諸國判官察非違、亦同此義也。】少監二人、掌同大監
 
392 烏珠之其夜乃梅乎手忘而不折來家里思之物乎《ヌハタマノソノヨノウメヲタワスレテヲラテキニケリオモヒシモノヲ》
 
手忘而、は手は詞の字、唯わすれてなり、六帖にたわすれていをぞ寢にける茜刺、晝はさばかり思し物をともよめり、今の思シ物ヲとは折らむと思ひし物をとなり、思ひ懸たる人の許に至れども逢ずして返さるゝを、晝見し梅に飽ずして手折らばやと思て花のくらきに其當りに行ども有所を忘てえをらで皈るに譬るなり、六帖に來《ク》れどあはずと云題に入る、
 
初、たわすれて
打わするといはんかことし。戀にたとへたるへし
 
滿誓沙彌月歌一首
 
393 不所見十方孰不戀有米山之末爾射狹夜歴月乎外爾見而思香《ミエストモタレコヒサラメヤマノハニイサヨフツキヲヨソニミテシカ》
 
(52)タレコヒザラメは古歌の詞づかひなり、今よまゝしかばこひざらむとぞ云べき、ヨソニ見テシカもよそにも見てしかなの意なり、よそにと云ひつれば意得まどふべきなり、第十二に、さひのくま檜隈川に馬とめて、馬に水かへ我よそに見むとよめるもよそにだに見むなり、是らを合せて意得べし、歌の意は、山のあなたの月の如く我に隱て見えずとてさてそれに依て思やむべき戀にもあらねば、山のはに纔にいざよふ月ばかりはつ/\なるよそめにだに見て戀る心を慰さめてしかなとなり、中天に到て心ゆくまで見ゆる月をばまさしく人に逢によそへてかくはよめり、※[獣偏+來]は狹を誤れり、
 
初、たれこひさらめ
今のてにをはにはかなはす。今ならはたれこひさらんとよむへし。〓は狹の誤なり。見てしか、此集には此かの字すみてよめるもねかひのかなに通してきこゆ。よそには、よそにたに、よそにもといふ心なれと、古歌の詞くはしからぬなり
 
金明軍歌一首
 
明軍が事此卷下に見えたり、
 
394 印結而我定義之住吉乃濱乃小松者後毛吾松《シメユヒテワカサタメテシスミノエノハマノコマツハノチモワカマツ》
 
小松とはまだ童女なるに契りてよめる譬なり、松は色かへぬ物なれば互に約を變ぜぬ意なり、義之は此義の字集中に使たるに意を得ざる事多し、
 
初、義之
惣して此義の字を用たるに心得かたき事あり
 
笠女郎贈大伴宿禰家持歌三首
 
(53)395 託馬野爾生流紫衣染未服而色爾出來《ツクマノニオフルムラサキキヌニソメイマタキスシテイロニイテニケリ》
 
託馬野は近江國坂田郡朝妻郷にあり、衣をば人にたとへ、紫をば我が深く思ひしむ心にたとへ、未服而とは、まだ相見ぬにたとへ、色ニ出ニケリとは、忍ぶれど戀る心の色に出てよそ人にかくと知らるゝに譬ふるなり、
 
初、つくま野におふる紫
つくま野は近江國坂田郡に有。いまたきすして色に出とは、ちきりをきたるのみにてあふ事はなきを、人の聞つけてとくいふにたとへたり。此集に此こゝろにおなし歌あまたあり
 
396 陸奥之眞野乃草原雖遠面影爲而所見云物乎《ミチノクノマノヽカヤハラトホケレトオモカケニシテミユトイフモノヲ》
 
和名云、行方郡にあり、雖遠は第四第十七第二十に皆トホケトモとよみたれば古語の例にしか讀べし、新千載にも六帖にもとほけれどとあるはそれは亦今に叶ひてよし、此間を思ひわきまふべし、歌の意は、眞野のかや原の遠きも一たび見て面白しと思ひつれば、面影となりて見ゆる如く逢見ぬ中の遙けさも眞野ばかりなれど、一たび見しより忘られぬとなり、玉葉に此歌を取て白菅の眞野のかやはらとよめる歌は、津の國の眞野を思ひたがへられけるなるべし、
 
初、みちのくの真野のかやはら
和名集云。陸奥國行方郡眞野。此歌ははるかなるところもひとたひ見て後おもひやれは、おもかけにみゆるにたとへて、ひとめの關なとにさはりてあはて年月はふとも、君たはあひおもはゝ心はかよはしやとなり。玉葉集秋下に、藤原秀長、分わひていつく里ともしらすけのまのゝ萱原きりこめてけり。白菅の眞野は津の國なるを、かくつゝけたるは眞野といふ名にまとひて白菅のまのといふもみちのくなりとおもひけるにや
 
397 奥山之磐本管乎根深目手結之情忘不得裳《オクヤマノイハモトスケヲネフカメテムスヒシコヽロワスレカネツモ》
 
(54)人しれず深く的せし事をたとへたり、
 
藤原朝臣八束梅歌二首
 
称徳紀云、天平神護二年三月丁卯大納言正三位藤原朝臣眞楯薨、平城朝贈正一位大政大臣房前之第三子也、眞楯度量弘深有2公輔之才1、起家春宮大進、稍遷至2正五位下式部大輔兼左衛士督1、在v官公廉、慮不v及v私、感神聖武皇帝寵遇特渥、詔特令v參2奏宜1、吐納明敏有v譽2於時1、從兄|仲滿《ナカマロ》心害2其能1、眞楯知之稱v病家居、頗翫2書籍1、天平末出爲2大和守1、勝寶初授2從四位下1拜2參議1、累遷2信部卿1兼2大宰師1、于v時渤海使揚承慶朝禮|云《コヽニ》畢欲v歸2本蕃1、眞楯設v宴餞焉、承慶甚稱2歎之1、寶字四年授2從三位1更賜2名眞楯1、本名八束、八年至2正三位勲二等1兼2授刀大將1、神護二年拜2大納言兼式部卿1、薨時年五十二、賜以2大臣之葬1、使2民部卿正四位下兼勅旨大輔侍從勲三等藤原朝臣繩麻呂、右少辨從五位上大伴宿禰伯麻呂1弔(ス)v之、聖武天皇天平十二年以後次第に見えたり、寶字二年紀に眞楯とあるは紀の誤なり、此集寶字三年までの歌あれど八束とのみ云ひ、傳にも寶字四年に名を眞楯と賜ふとあればなり、大職冠の曾孫《ヒヽコ》、閑院左大臣の祖父、北の藤波此人にかゝれり、
 
初、藤原八束
後には眞楯とあらためられけるなり。聖武紀云。天平十二年正月戊子朔庚子、正六位上藤原朝臣八束授從五位下。同十一月從五位上。○孝謙紀云。天平勝寶四年四月爲攝津大夫。○廢帝紀云。三年六月正四位上。○稱徳紀云。天平神護元年正月授勲二等。○三月丁卯大納言正三位藤原朝臣眞楯薨。平城朝贈正一位太政大臣房前之第三子也。眞楯度量弘深有公輔之才。○寶字二年八月の紀に眞楯とありて、こゝには四年に更賜名眞楯とあるは、前後のうちあやまり有へし。此集には八束とのみあり
 
(55)398 妹家爾開有梅之何時毛何時毛將成時爾事者將定《イモカイヘニサキタルウメノイツモイツモナリナムトキニコトハサタメム》
 
イツモ/\に二つの意あり、六帖に八雲立出雲の浦のとつゞけ、此集第四に河上のいつもの花のなどつゞけたるは常の詞にて聞が如し、今の歌及び第十一に道の邊のいつしば原のいつも/\とよめるは、いつにても/\と云はむが如し、成ナム時とは實に成ん時なり、花はうるはしけれど實とならぬもあり、言はよけれど誠なきも有り、花をのみ見て實を定がたく、言をのみ聞て誠を知がたければ、實になりかたまれる如くなる誠を見ん時こそ相思ひけりと知て夫婦の契をば定め、と云心を梅の上に云が譬喩なり、
 
初、いつも/\
こゝはいつなりとも/\といふ心なり。此集に、川上のいつもの花のいつも/\とよみ、六帖に.やくもたついつものこらのいつも/\とよめるには心たかへり。なりなん時は、實のある時なり。花はうるはしけれと實のならぬもあり。ことはよけれと、まことなきもあり。花をのみ見て實をさためかたく、ことをのみきゝてまことを知かたけれは、實になりかたまれることくなるまことを見ん時こそ、けにあひおもひけりと、事をはさためゝといふ心を、花の上にいふか譬喩なり
 
399 妹家爾開有花之梅花實之成名者左右將爲《イモカイヘニサキタルハナノウメノハナミニシナリナハカモカクモセム》
 
カモカクモはともかくもの古語なり、大底右の歌に同じ、古人は同じ意を少詞を替てかくの如く云は慇懃を盡すなり、
 
初、かもかくも
ともかくもなり。みきにおなし心なり
 
大伴宿禰駿河麻呂梅歌一首
 
(56)第四云、駿河麻呂、此高市大卿之孫也、今按高市大卿とは右大臣御行の事か、駿河麻呂の事迹聖武紀より光仁紀までに、委見えたり、光仁紀云、寶龜七年七月壬辰、參議正四位土陸奥按察使兼鎭守將軍勲三等大伴宿禰駿河麻呂卒、贈2從三位1賻2※[糸+施の旁]三十匹布一百端1、此人寶字元年に橘奈良麻呂の事に繋て久配流せられける後、光仁聖王召返させたまひ、寶龜三年陸奥按察使に遣されける時も駿河麻呂宿禰唯稱2朕心1とある明詔を蒙り、四年に朕守將軍となり、五年に果して大功を立、卒去の後も贈位賻賜に預られけるは、文才武略相兼たる人なるべし、
 
初、大伴宿禰駿河麻呂
聖武紀云。天平十五年五月正六位上轉從五位下。○光仁紀云。寶龜元年五月。○七年七月壬辰、參議正四位陸奥按察使兼鎭守將軍勤三等大伴宿禰駿河麻呂卒。贈從三位。賻※[糸+施の旁]三十匹布一百端。此人橘奈良麿の事にかゝりて久しく配流せられける後、光仁の明主にあひ奉りて、陸奥按察使につかはされける時、駿河麻呂宿禰唯稱朕心とある恩詔をかうふり、はたして大功をなし、卒去の後も、贈位賻弔にあつかられけるは文才武畧相兼たる人なるへし
 
400 梅花開而落去登人者雖云吾標結之枝將有八方《ウメノハナサキテチリヌトヒトハイヘトワカシメユヒシエタニアラムヤモ》
 
枝將有八方、【六帖云、エタナラメヤモ、仙覺點云、エタニアラメヤモ、幽齋本同v此、】
 
結句は仙覺、古點エダハアラメヤモ、其理不相叶とてユダニアラメヤモと改らる、此に從ふべし、六帖の讀やうも同意なり.歌の心は仙覺の云、人の心の外に移りぬと人はいへども我が堅く契り置つればよもさはあらじ、こと人の事にこそあらめと云意なり、下の意は變ぜんとする人を心替りさせんとてかくよめるなるべし、
 
初、將有八方
あらめやもとよむへし。されともさきの滿誓の歌に見えすともたれこひさらめとよまれたるをみれは、あらむあらめのたくひ、昔はかよはしてよみけるとみえたり。君か心のかはりて人につきぬなときけとも、すてにわかかたくたのめをきつれは、よもさはあらしとおもふよしを梅にたとへたるなり
 
大伴坂上郎女宴親族之日吟歌一首
 
(57)401 山守之有家留不知爾其山爾標結立而結之辱爲都《ヤマモリノアリケルシラニソノヤマニシメユヒタテヽユヒノハチシツ》
 
此歌、駿河麻呂の答歌を見、又下に娉坂上家之二孃歌とて有を見るに、駿河麻呂を聟にせんと思はるゝ心を其山にしめ結とたとへ、外の人の聟に心を寄せ、或は駿河丸の通はれけむ女などの夫君と思ふばかりなるを山守にたとへて、さる人の有とも知らで我聟にせむと思ひしは、我が物ならぬ山に標結て山守に其しめを取られたらむ辱かしさに同じとよめるなり、是も我聟にならむと云はせんとて設て讀懸らるゝなるべし、後に家持と駿河麻呂とは※[女+亞]《アヒムコ》なり、
 
初、山もりの有けるしらに
應神紀云。五年秋八月庚寅朔壬寅、令諸國定海人及山守部。ゆひのはちしつとは、先此歌に、山もりといへるは、わかむこにさためんとおもふ人人かねてこと人のむすめを本妻にもとちきりかはして、山もりの山をもることく外の人をふせくをしらて、心のしめをその人にゆひける事のとりかへさまほしくはつかしきとたとへたり。下云。大伴宿禰駿河麻呂娉同坂上家之二孃哥一首。家持はあねを得、駿河麻呂は妹を得てあひむこと見えたり
 
大伴宿禰駿河麻呂即和歌一首
 
402 山主者蓋雖有吾妹子之將結標乎人將解八方《ヤマヌシハケタシアリトモワキモコカユヒケムシメヲヒトトカメヤモ》
 
此發句六帖にも八雲御抄にもやまぬしはと有れども、山守之有けるしらにと云和なれば今の點かなふべし、第四にも玉主をタマモリと點じ、官の主殿をもトノモリといへり、山守有とのたまへど我まだしらず、よし有ともそこにだに標ゆはれむには誰か其しめを解むや、君山守とならむとならば我其山となりて領せられんとな(58)り、
 
初、山もりはけたし有とも
山主者とかけるゆへに、八雲御抄に山ぬしとよませたまへと、みきの歌に、山守の有けるしらにとよみ、又此集には、玉もりに玉はさつけてといふ歌にも玉主とかきて玉もりとよみ、主殿とかきて殿もりともよめは、山もりともよめるを正とすへし。けたし有ともとは、山もり有とのたまへとも我を山ともるへき人はいさまたしらす。よしありともそこにたにわれをむことしめゆはれんには、たれかそのしめをはとかむや。心は、君、山もりとならんとならは、われその山となりて領せられんとなり。坂上郎女は此人をむこにとらんとかねておもはれけれは、宿禰此かへしはせられけるなるへし
 
大伴宿禰家持贈同坂上家之大孃歌一首
 
403 朝爾食爾欲見其玉乎如何爲鴨從手不離有牟《アサニケニミマクホリスルソノタマヲイカニシテカモテニサケサラム》
 
如何爲鴨、【校本云、イカニシテカモ、當v從v之、】
 
初、朝にけに
さきにも注しつ。あさなけといふにおなし。有しよりけになといふは、勝の字異の字なとを、此條に用て、まさるなり。今はそれにはあらず
 
娘子報佐伯宿禰赤麿贈歌一首
 
赤麻呂無v所v考、
 
404 千磐破神之社四無有世伐春日之野邊粟種益乎《チハヤフルカミノヤシロシナカリセハカスカノノヘニアハマカマシヲ》
 
春日四座明神は稱徳天皇神護景雲二年に一時に鎭坐し給ふとも云ひ、天兒屋根命は先立て孝徳天皇御宇に鎭座したまふとも彼社家の記録には侍るとかや、今按寧樂の京と成て後淡海公或は四人の御子の時勸請し給へるが、慥なる傳記は失けるなるべし、其證は此歌并に第十九に天平勝寶三年の歌に、春日祭神之日藤原大后御作歌一首あり、次に藤原清河の歌にも春日野ににいつくみもろとよまる、此歌を合て案ずべし、社シのし〔右○〕は助語なり、譬ふる意は、春日野には神のましませば恐て粟をま(59)かぬやうに、君にも定たる妻あれば後にあはんとも云はぬ由なり、仙覺云、諸の穀多かる中に粟をよめる事はあはましと云心によそふるなる、又あはまかましをとは粟のたねを蒔置なば終には實に成べければ、それが如くやがてこそあはずとも恐るべき事だになかりせば、後にもあはむと契り置かましとよめるなりといへり、今按第十四東歌に、足柄の箱根の山に粟蒔て、實とはなれるをあはなくもあやしと讀たれば仙覺の注叶ふべし、又神の社と云に六帖の、ひとつまは森か社かもろこしの虎臥野邊か寢て試みむと云をも引かる、此ひとつまと云は夫ある女をいへど意を得て引ば相違すべからず、
 
初、ちはやふる神のやしろし
たとふる心は.春日の社のおはしたまはすは、春日野をわか物としめてあはまくへきを、すてに領したまふ神のましませは、たゝりをおそれてあはをまかぬかことく、そこにもわれをさま/\のたまへはわかせとさためてもあるへきを、われよりさきにいひわたりたまふ人の、すてに君を領することくおもふ人のあれは、えうけひかぬといふにたとふるなり
 
佐伯宿禰赤麿更贈歌一首
 
405 春日野爾粟種有世伐待鹿爾繼而行益乎社師留烏《カスカノニアハマケリセハマタムカニツキテユカマシヲヤシロハシルヲ》
 
此歌の腰と尾と古點はマツシカニ、モリシルカラスなりけるを仙覺今の如く改らる、古點の意は粟の熟するを待鹿を、娘子が夫の、あはんと娘子がもとへ行にたとへ、烏の春日の杜を知を我身にたとへて、鹿のなき間に烏のはむ如く、實の夫の通はぬ隙を知て我も通はむといへるにや、尾の句の古點然るべからず、仙覺腰の句今の點(60)の意を釋して云く、待やすらむとつぎてゆかましをとよめるなり、然れば鹿を疑の歟になされたり、今按古點を用べし、鹿は春日野に多き獣にて粟などをもはむなれば、なりたらば、はまむと待意なり、あはむとだに契らましかば、粟のなる時を鹿の侍得て絶ずかよふ如く、我もゆかましをとなり、落句の意は、娘子は赤丸が本妻を神といへるを、是はまた娘子が別に相知れる男有を神の社といへるに聞なせる体にて、粟はむ鹿を神の禁《イサメ》たまはぬ如く、物の心知らむ男はとがめもせじと云へる心歟、又社の有處を知置つれば、桁觸て神の祟にもあはぬやうに男のなき間をはかりて逢むと云か、
 
初、かすかのにあはまけりせはまたんかに
待鹿爾、これをまたんかにとよみたるもおなし心なから、唯字のまゝにまつしかにとよむへし。粟もしかのはむ物にして、なりたらははまむとまつ心を、まつ鹿とはいへり。その鹿につゝきてといふにはあらす。粟の熟するを待鹿の、熟したる時ひまなくゆくかことくたえすゆかんとなり。社はしるをとは、我やしろのある所を知といふにはあらす。社は神のます所なれは、神のことをやしろといひて、もとより神は知てまします物をといふ心なり。歌の惣しての心は、娘子か歌に神といへるは、大和物語に、かしは木に葉守の神のましけるをしらてそおりしたゝりなさるなとよめるかことく、さきよりつまとたのむらん人のうらみん事にたとへたるを、此赤丸の歌は、それをはしらぬよしにて、まことの神になして、鹿はことに春日明神の使者なといひて、おほくゆきかよふことをもしろしめし、又おとこ女の中も、神のいさめぬ道なれはとかめたまふ事あらし。野を領して粟まくことくわれを夫とおもはゝ、われ鹿のことくつきてゆかんとなり
 
娘子復報歌一首
 
406 吾祭神者不有丈夫爾認有神曾好應祀《ワカマツルカミハアラスマスラヲニトメタルカミソヨクマツルヘキ》
 
認有は離れやらぬ意なり、吾が先に神の社と云は、我方に恐るべき人ありて譬て云には侍らず、君につきて離やらぬ人をこそ神を祭るやうになごめたまはめとなり
 
初、かすかのにあはまけりせはまたんかに
待鹿爾、これをまたんかにとよみたるもおなし心なから、唯字のまゝにまつしかにとよむへし。粟もしかのはむ物にして、なりたらははまむとまつ心を、まつ鹿とはいへり。その鹿につゝきてといふにはあらす。粟の熟するを待鹿の、熟したる時ひまなくゆくかことくたえすゆかんとなり。社はしるをとは、我やしろのある所を知といふにはあらす。社は神のます所なれは、神のことをやしろといひて、もとより神は知てまします物をといふ心なり。歌の惣しての心は、娘子か歌に神といへるは、大和物語に、かしは木に葉守の神のましけるをしらてそおりしたゝりなさるなとよめるかことく、さきよりつまとたのむらん人のうらみん事にたとへたるを、此赤丸の歌は、それをはしらぬよしにて、まことの神になして、鹿はことに春日明神の使者なといひて、おほくゆきかよふことをもしろしめし、又おとこ女の中も、神のいさめぬ道なれはとかめたまふ事あらし。野を領して粟まくことくわれを夫とおもはゝ、われ鹿のことくつきてゆかんとなり
 
大伴宿禰駿河麻呂娉同坂上家之二孃歌一首
 
(61)407 春霞春日里爾殖子水葱苗有跡云師柄者指爾家牟《ハルカスミカスカノサトニウヱコナキナヘナリトイヒシエハサシニケム》
 
一二句のつゞけやうは霞たちてかすむと云意なり、第八に霞たち春日とつゞけたるに同じ、腰の句六帖にはウヱシナキとあれど、第十四にも伊可保乃奴麻爾宇惠古奈宜とあれば今の本を用べし、子の字は假てかけるにて小水葱なり、第十四に又なはしろの小水葱が花ともよめり、苗は草も木も少さき程を云なり、柄も假字にて枝なり、またをさなしと承しも今は程よく成ぬらむ、我に得させよと云意を、母の郎女に向ひてかく譬ふるなるべし、
 
初、春霞かすかの里に――
はるかすみかすかとつゝくるは、春日といふもしにあたりて、春霞のたつ春の日とつゝけたりともいふへし。又かすみといふことはをうけて重ていふとも心得へし。また春霞のたちて、野山のかすかに遠き心にてもつゝくへし。うへこなき、子の字はかきたれと小水葱なり。あるひは音を取てうへしなきともよむへし。此水葱は、春の水菜にて、花もうつくしき物と見えたり。延喜式には供御にも奉ると見えたり。此集におほくよめり。第十六には、なきのあつ物ともよめり。今も知たる人あまたこそ侍らめと、審とひてもかんかへ侍らす。又これもいつとなく名のかはれるか。延喜式、供奉雜菜水葱四把【准四升五六七八月。】かくあれは春にかきるともみえす。今も田の中にありて土民のなきといふものは、その葉なきの木の葉に似て、花は紫にさけり。池邊にあるはおなし物なれとおもたかはかりありて花もおかしうみゆるを、水あふひと申ならへり。これらはをのつからありてうふるまてもなく、なへてくふ人も侍らねは別の物なるへし。なへとはいねにかきらす、草も木もをしなへてちひさきほとをいへと、いつとなくいねにのみいひならへり。此集には猶、みしま菅いまたなへなりともよめり。えはさしにけんは、枝はさしつらんなり。これはさきに坂上郎女の、その山にしめゆひたてゝとよめる返しに、ゆひてんしめを人とかめやもとよめるか、年もよきほとになれは、なへにてあると聞しも今はえたさすほとになりぬへけれは、むかへんの心をたとへてよんてをくれるなり
 
大伴宿禰家持贈同坂上家之大孃歌一首
 
408 石竹之其花爾毛我朝且手取持而不戀日將無《ナテシコノソノハナニモカアサナサナテニトリモチテコヒヌヒナケム》
 
腰の句は日毎の意なり、落句はこれわろく意得ば違ひぬべし、常に戀ぬ日はなしなどよむは、人をよそに置て見ねばこひしく見れば戀しき心の意なり、此は見ながら深く愛するの戀と云なり、第十二白露と秋の萩とは戀亂とよめり、其外あまたこれ体によめるが如し、古今にも見る物からや戀しかるべきとよめり、なでしこの名は(62)撫子の心にて親の撫育する子の譬に名付たれば、女に寄て手ニ取持テと云わたりたぐひをらんの心なる故にや、
 
初、その花にもか
花にもかなゝり。こひぬ日なけん、これわろく心得れは、心たかふなり。つねにこひぬ日はなしとよむは、よそに置て、みねはこひ、みれはこふる心のやむなり。こゝによめる心はそれにはかはれり。こふるは愛する心なり。古今集に、みる物からやこひしかるへきとよめるをおもふへし。藤原高光家集に、みても又またもみまくのほしかりし花の盛は過やしぬらん
 
大伴宿禰駿河麻呂歌一首
 
409 一日爾波千重浪敷爾雖念奈何其玉之手二卷難寸《ヒトヒニハチヘナミシキニオモヘトモナトソノタマノテニマキカタキ》
 
千重浪敷は千重のしき浪なり、奈何はナゾとも讀べし、其玉といへるは上に千重浪敷といへる海の意なれば、眞珠は海にあれば其〔右○〕と云ひて、玉を女にたとへて、など我物と領しがたきと云意を手ニマキガタキといへり、
 
初、ちへ浪しきに
千重しき浪にて、立かさなる浪のひまなきに、おもひのひまなきをたとふるなり
 
大伴坂上郎女橘歌一首
 
410 橘乎屋前爾殖生立而居而後雖悔驗將有八方《タチハナヲヤトニウヱオホシタチテヰテノチニクユトモシルシアラメヤモ》
 
殖生、【校本亦云、ウオフシ、】
 
生の字、校本の點よし、橘を殖て生したつるやう、我娘をもよくおふしたてたれど、來て見る人もなくば徒に散過ぎる如く、時過色衰ろへて後は、立て悔居て悔ともかひなからむと譬ふるなり、和歌に依に駿河麻呂を催ほすなるべし、
 
初、橘をやとにうへおほし――
立て見居て見、たゝよそにのみ見てたをられぬほとに、もしあらぬ人のきており取て歸りなとせん後はかひあらしとなり。垂仁紀に、何益とかきて、なにのしるしかあらんとよめり。左傳云。若不早圖、後君噬齊、其及圖之乎。杜預云。君齧齊、喩不可及。臍通作齊。これも駿河麿をもよほせる歌と見えたり
 
(63)和歌一首
 
411 吾妹兒之屋前之橘甚近殖而師故二不成者不止《ワキモコカヤトノタチハナイトチシウヱテシユヱニナラスハヤマシ》
 
甚近、【幽齋本云、イトチカク、】
 
腰の句は親族なるを近きにたとふ、落句は實によせて聟にならずばやまじとなり、上よりのつゞき、歌の意、尤駿河麻呂の作なるべし、
 
初、うへてしゆへにならすはやまし
なりは實によせて成就をいへり。親屬にてもあるを宿のちかきにたとへて、君かうへおきし橘なれは、それをおることくむかへとりて、我ぬしとならんといふ心を、ならすはやましといへり。尤駿河麿の歌なるへし
 
市原王歌一首
 
第六に安貴王子と見えたり、聖武紀云、天平十五年五月、無位市原王授2從五位下1、孝謙紀云、天平勝寶二年十二月癸亥、正五位下、廢帝紀云、寶字七年正月、攝津大夫、同四月、造東大寺長官、
 
初、市原王歌一首
第六云。市原王宴祷父安貴王歌一首。聖武紀云。天平十五年五月、無位市原王授從五位下。孝謙紀云。勝寶元年四月、從五位上。二年十二月癸亥、正五位下。廢帝紀云。寶字七年、攝津大夫。四月造東大寺長官
 
412 伊奈太吉爾伎須賣流玉者無二此方彼方毛君之隨意《イナタキニキスメルタマハフタツナシコナタカナタモモキミカマニ/\》
 
伊奈太吉爾伎須賣流とは頂に令v著なり、神代紀云、便(チ)以2八坂|瓊五百箇御統《ニノイホツミスマルヲ》1纏《マツヒ》2其髻鬘《ミイナタキニ》1云云、法華經第五安樂行品云、文殊師利如2轉輸王1、見d諸兵衆有2大功1者u心甚歡喜、以(テ)d此難v得之珠u久(シク)在2髻中1不d(リニ)與uv人而(モ)今與v之云云、此經文を本據とし、神代紀の詞を合せてよみ(64)給ふなるべし、此方彼方はともかくもの意なり、女を髻珠の二つなきに譬へて、君がいはむ事をば水火に入ることをも辭せず、ともかくも君が意に隨がはむとなり、第十三に、式島の大和の國に人ふたり、有とし思はゞ我戀めやもとよめるおなじ意にや、又按ずるに第六に、市原王悲獨子歌一首あり、それを可然人の得んと云時に、髻珠の如く愛する娘なれども君がのたまふ事なれば、仰に從がひて參らせむとにや、
 
初、いなたきにきすめる玉はふたつなしこなたかなたもきみかまに/\
いなたきはいたゝきなり。神代紀には髻鬘とかきてみいなたきとよめり。きすめる玉はふたつなしとはきすめるは令著なり。いたゝきにつくをいふ。法華經第五、安樂行品云。文殊師利如轉輸王、見諸兵衆有大功者、心甚歡喜、以此難得之珠、久在髻中、不妄與人而今與之云云。経文を本據としてよみたまへり。いかなることをかくはよみたまふとならは、第六に、市原王悲獨子歌一首とて、こととはぬ木すらいもとせ有てふをたゝひとり子に有かくるしさ。此歌によりてみるに、此ひとり子は姫君にて、容儀もならひなくおはすをいつきて、髻中の明珠にたとへるなり。これにつきて不審あり。光紀云。天應元年二月庚寅朔丙午、三品能登内親王薨。○内親王天皇之女也。適正五位下市原王、生五百井女王、五百井王、時年四十九。かゝれは此姫君は御名を五百井女王と申て、光亡天皇の御外孫也。五百井王もおはしますを、何とて第六にたゝひとり子とはよみたまひけん。續日本紀にも、五百井女王、五百井王の事、此外見えす。女主の事は見えすとも、五百井王ましまさはしるすへきことあらんを、ひとり子とよみたまへるは、いときなきほとにうせたまひけるなるへし。さてそ、ふたつなき玉にもくらへたまふなるへき。下の句の心は、かくまておもふうへは、何事もわれはおやなからはからはし。ともかくもきみか心にまかせよとよみたまふにや。君は女王をさせり。又右の歌のつゝきによりておもへは、こなたかなたは女王をむかへんと、おもひかけ、いひいるゝ家々にもあるへし。ふたつのかたをぬきておほきにわらひけん女は、ふつゝかにもにくゝもあれと、例とはすへし
 
大網公人主室吟歌一首
 
人主が傳考ふる所なし、光仁紀云、寶龜九年十二月、正六位上大綱〔左○〕公廣道爲2送高麗使1、此父祖などにや、今按和名云、攝津國住吉郡大羅、【於保與佐美、】これ大依羅なるを養老年中の勅國郡等の名二字に限故に、依の字を省きながら讀付たり、依羅を依網とも書けば大網をも於保與佐美とよむにや、
 
初、大網公人主
光仁紀云 寶龜九年十二月、正六位上大網公廣道爲送高麗客使。これは氏姓につきて見出したるまゝに引なり
 
413 須麻乃海人之塩燒衣之藤服間遠之有者未著穢《スマノアマノシホヤキキヌノフチコロモマトホニシアレハイマタキナレヌ》
 
間遠とは、古今に鹽燒衣|筬《ヲサ》を荒み、間遠にあれやとよめる如く升《ヨミ》の少なきなり、間遠にたま/\きませる君達と酒宴すれば、きなれの衣の如く新にしてめづらしくあ(65)かれずと譬てもてなす意なり、數ならぬ身を藤衣に寄て藤衣をよしとするにはあらねど、著なれぬとは縁に云へるなり、
 
初、すまのあまのりしほやきゝぬの――
古今集の歌に、すまのあまのしほやきころもをさをあらみまとをにあれやきみかきまさぬ。大かた似たる歌なり。藤衣は服衣をいふのみにあらす。いやしきものゝ藤をよく調して、うみつむき布にをりてきるをもいふなり。おく山の山かつなと、さきをりとも、藤こきぬともいふめり。此歌に、まとをといへるは、古今の歌の、をさをあらみといへるかよき注なり。此歌のたとふる心は、しほやききぬは、まとをといはんためにて、その藤衣のまとをにたま/\きませるよき賓客たちと酒宴すれは、あかつかぬをきたることくあらたにしてまつらしとよろこひてもてなすなり
 
大伴宿禰家持歌一首
 
414 足日木能石根許其思美菅根乎引者難三等標耳曾結鳥《アシヒキノイハネココシミスカノネヲヒケハカタミトシメノミソユフ》
 
足日木は、山の枕辭なるを、やがて山になしてよめる事後にも多し、引者をば、今按ヒキハと改むべし、ヒケバと讀ては難三等は根の堅き心なり、然らず、引がたきなり、仙覺も堅みとと云へると意得損ぜられたり、堅き心は石根こゞしみと云にあり、石根より生たる菅の引がたけれど終に來て引くべしと標のみはこりず結如く、障ありて我手に入がたき人にも終にはあはむと心の標を結置く意なり、烏は焉にて助語に加へたるを今誤るか、今按集中に猶焉なるべきを烏に作れる所あり、和名に烏帽の注に云、烏帽子俗訛v烏爲v焉、今按烏焉或通、見2文選注玉篇等1、これに依らば焉に通して烏をかける歟、
 
初、いはねこゝしみ
あしひきとのみいひても山に用るゆへに、山のいはねといふ心にあしひきのいはねとはつゝけたり。ここしみは石根のこりかたまれるなり。こりしくといふおなし詞なり。此歌は戀にたとふるなり。いはねの菅のねなから引とる事は、いとかたきをつゐにはひきとらんと、そこにしめさすかことく、さはることありていとあひかたき人にもさてのみやはやまん。さりともあふ時あらんと心のしめをゆふにたとふるなり。結鳥は烏のあやまるなるへし。和名集に唐韻を引て、焉と烏と通するよし見えたり。こゝならても猶あれは、この心にや。あるひは焉の字にてもあるへし。今の板本誤字すくなからす
 
萬葉集代匠記卷之三中
 
(1)萬葉集代匠記卷之三下
 
挽歌
 
上宮聖徳皇子出遊竹原井之時見龍田山死人悲傷御作歌一首
 
推古紀云、父天皇愛之令|居《ハムヘラ・スヱマツラ》2宮南上殿《オホミヤ・オホウチノカムツミヤ》1、故|稱《タトヘテ》2其(ノ)名(ヲ)1謂2上宮《・カムツミヤ》厩戸豐|聰《ト》耳(ノ)太子(ト)1、舊事本紀第九用明紀云、初居2上宮1、後(ニ)移(タマフ)2斑鳩(ニ)1、今按上宮は日本紀は磐余池邊|雙《ナミ》槻(ノ)宮の内の南の上殿と云意歟、舊事紀は別の宮の名と見えたり、或者の云、十市郡櫻井の南七八町許に上(ノ)宮村あり、後鳥羽院宸翰の上宮寺の額于今彼處にありと、太子の卿事は用明紀推古紀日月の如くに明なり、慧思禅師の再誕なりと云事鑑眞和尚傳教大師等のたまへり、性靈集第五與2唐越州節度使1求2内外經書1啓云、甫嶽大士(ハ)後身始(テ)到2楊江1、應眞(ハ)鼓《タヽイテ》v棹船破、異朝までも明に知て信ずる事ならずばかくは書るべからず、竹(2)原井は平群郡に有か、元正紀云、養老元年二月壬午、天皇幸2難波宮1、丙戌自2難波1至2和泉宮(ニ)1、庚寅|車駕《キミ》至2竹原井(ノ)頓宮(ニ)1、聖武紀云、天平十六年九月庚子、太上天皇行2幸|珍努《チノ》及(ヒ)竹原井(ノ)離宮(ニ)1、光仁紀云、寶龜二年二月庚子、車駕幸2交野1、戊申車駕取2龍田(ノ)道1還到(リマス)2竹原井(ノ)行宮(ニ)1、
 
初、上宮聖徳皇子
元亨釋書云。○推古紀云。元年是四月庚午朔己卿立厩戸豐聰耳皇子爲皇太子。仍録攝政以萬機悉委焉。二十九年春二月己丑朔癸巳、半夜厩戸豐聰耳皇子尊薨于斑鳩宮。是時諸王諸臣及天下百姓、悉長老如失愛兒、而鹽酢之味在口不嘗、少幼者如亡慈父母、以哭泣之聲滿於行路。乃耕夫止耕舂女不杵、皆日月失輝天地既崩、自今以後誰恃哉。是時高麗僧慧慈聞上宮太子薨、以大悲之。爲皇太子請僧而設齋、仍親説經之日誓願曰。於日本國有聖人曰上宮豐聰耳皇子。固天所縱以玄聖之徳、生日本之國苞貫三統、纂先聖之宏猷、恭敬三寶、救黎元之厄、是實大聖也。今太子既薨之。我雖異國、必在|斷金《ムツマシキニ》、某獨生之、有何益矣。我以來年二月五日必死、因以遇上宮太子於淨士、以共化衆生。於是慧慈當于期日而死之。是以時之人彼此共言、其獨非上宮太子之聖、經慈亦聖也
出遊竹原井
元正紀云。養老元年二月壬午、天皇幸難波宮。丙戌自難波至和泉宮。○庚寅、車駕至竹原井頓宮。聖武紀云。天平十六年九月庚子、太上天皇行幸珍努及竹原井離宮。光仁紀云。寶龜二年二月庚子、車駕幸交野。辛丑進到難波宮。戊申車駕取龍田道。還到竹原井宮
龍田山死人。令義解第九補亡令云。凡有死人不知姓名家屬者、經隨近、官司推究【謂有死人不知姓名家屬官司審推究其論緒也。】當界蔵埋、立?於上、書其形状訪家屬【謂於藏埋上標?記状齒老幼屬也】
 
415 家有者妹之手將纏草枕客爾臥有此旅人※[立心偏+可]怜《イヘナラハイモカテマカムクサマクラタヒニフシタルコノタヒトアハレ》
 
今按發句はイヘニアラバとも讀べし、此太子遠くは觀音薩※[土+垂]の權化、近くは慧思禅師の後身におはしますを、此御歌凡失に共同して、家に有せば妻の手枕に和らかにこそ臥べきを、さる嶮しき山路の草枕に獨身まかりたるを御覽ずるがあはれなると易らかに詠せ給へるか、法門などによせて煩らはしうあらむより和光同塵の方便有難う聞ゆるにや、太子みづから十七條の憲法を作らせ給へる第一條の發端に云、以v和(ラキヲ)爲(シ)v貴、無v忤《サカフルコト》爲v宗とのたまへり、此國の風儀に忤はせ給はでやはらげける御歌彼第一條に齊しくも侍るかな、推古天皇二十一年に片岡にして飢人に逢たまひて賜はせたる御歌も亦相似たる事なり、
 
初、家ならは
家にあらはとよむへし。此太子とをくは觀音菩薩の權化、ちかくは南嶽大士の後身におはしますを、此御歌凡夫に共同したまひて、家にありせはつまのたまくらにやわらかにこそふすへきを、さかしき山ちの草まくらにふして妻子眷屬ひとりもそはす、身まかりたるかあはれなると、やすらかによませたまへるか、法門なとによせてわつらはしうふかゝらん。和光同塵の方便はありかたうやさしきなり。推古天皇十二年夏四月、太子みつから十七條の憲法をつくりたまふ。その第一條のはしめにいはく、以和爲先無忤爲宗とのたまへり。此國の風儀にさかはせたまはて、やはらける御うた、やかて此第一條にひとしくも侍るかな。推古紀云。二十一年冬十二月庚午朔皇太子遊行於片岡。時飢者臥道|垂《ホトリ》、仍問姓名而不言。皇太子視之、與飲食、即脱衣裳覆飢者而言。安臥也。則歌之曰。云々。辛未、皇太子遣使令視飢者、使者還來之曰。飢者既死。爰皇太子大悲之。即因以葬埋於當處墓固封也云々。拾遺集第二十にいはく。聖徳太子片岡山邊道人の家におはしけるに、うえたる人道のほとりにふせり。太子のゝりたまへる馬とゝまりてゆかす。むちをあけてうちたまふにしりそきてとゝまる。太子すなはち馬よりをりて、うえたる人のもとにあゆみすゝみたまひて、紫の上の御そをぬきてうえ人のうへにおほひたまふ。歌をよみてのたまはく。しなてるやかたをか山に飯にうえてふせるたひ人あはれおやなし。うえ人かしらをもたげて御返しをたてまつる。いかるかやとみのを河のたえはこそわか大きみのみなはわすれめ。元亨釋書達磨傳云。吾推古二十一歳。○これ拾遺の二首なり。こゝに國史といへるは、菅家の類聚國史にや。日本紀の推古紀にあるは長歌なり。心は今引短歌におなし。飢人の御かへしなし。古今集序云。至如難波津之什獻天皇、富緒川之篇報太子、或事開神異、或興入幽玄。この富緒川之篇報太子といひ、或事開神異といへるは、此飢人の返歌をさせり。清輔朝臣の抄等には、文殊のうえ人に化し給ふとしるされたり。或説には、觀世音菩薩にてまし/\けりともいへり。傳教大師の御弟子、光定、台家にたふとひて別當大師と申か作りたまへる一心戒文といふ物に、達磨大師とはしるたり。本朝文粹第十一、藤後生作、奉賀村上天皇四十御算和歌序云。行基菩薩臨難波津贈於婆羅門僧正、達磨和尚至富緒川寄於斑鳩宮太子。これもたしかに達磨といへり。此序に至富緒川といへるは誤れり。以上これらこゝに詮なけれと、目録の下には小墾田宮御宇天皇代とありて、ともに推古天皇の時なれは、似たる事なるゆへまかふへけれは、ちなんて引なり。また太子は、慧思禅師の再誕といふ事、いにしへよりかくれなし。元亨釋書に處々に見えたり。傳教大師もまさしくのたまひ、平氏か太子傳にもかけり。弘法大師の性靈集第五云。南嶽大士の後身、始到楊江、應眞鼓棹船破。上は太子の事をいひ、下は鑑眞和上なり。與唐越州節度使求内外經書啓の詞なれは、和漢共許の事にあらすはかくは書たまふへからす
 
大津皇子被死之時磐余池般流涕御作歌一首
 
(3)天式紀云、十五年九月戊述朔丙午、天皇遂不v差《イヘタマハ》崩《。カムアカリ》(タマフ)2于正宮1、戊申云云、當2此時大津皇子謀2反於皇太子(ニ)1、持統紀云、元年冬十月戊辰朔己巳、貞子大津|謀反發覺《ミカトカタフケムト》、逮(テ)v捕2皇子大津1、并捕d爲2皇子大津1所c※[言+圭]誤《アサムカレ》u、庚午|賜2死《ミマカラシム》皇子大津於|譯語《ヲサ》田|舍《イヘニ》1、時(ニ)年廿四、妃《ミメ》皇女山邊【天智天皇皇女、母蘇我赤兄大臣女、常陸娘、】被《クタシテ》v髪《クシヲ》徒跣《スアシニシテ》奔赴《ユキテ》殉焉、見者皆|歔欷《ナケク》、皇子大津天渟中原瀛眞人天皇第三子也、容止墻岸《ミカホタカクサカシクテ》、音辭《ミコトハ》俊朗、爲2天命開(カス)別天皇1所v愛《メクマ》、及(テ)v長|辨《ワイ/\シクシテ》有2才學1、尤愛2文筆1、詩賦之興自2大津1始也、懷風藻大津皇子詩傳云、時有2新羅僧行心1、解2天文卜筮1、詔《ツケテ》2皇子1曰、太子骨法不2是人臣之相1、以v是久在2下位1恐不v全v身、因進2逆謀1、迷2此※[言+圭]誤1遂圖2不軌1云云、河島皇子詩傳(ニ)曰、始與2大津(ノ)皇子1爲2莫逆之契1、及2津謀1v逆島則告v變云云、磐余池は履中紀云、二年十一月、作2磐余池1、三年冬十一月丙寅朔辛未、天皇泛3兩枝《フタマタノ》船(ヲ)于2磐余(ノ)市磯池1、與2皇妃1各分乘而遊宴云云、二年に作らせ給へる池を市磯池と名付たまふなるべし、帝王編年云、神功皇后磐余若櫻宮、十市郡磐余池里是也、或者の云く、今の池内村是なり、履中天皇の稚櫻宮も神功皇后の宮の舊地にや、或者又云く、市磯池彼池内村の前にありと、般は史記封禅書云、鴻漸2于般1、【漢書音義曰、般(ハ)水涯堆也、】かくはあれども目なれぬ字用べき所にあらず、目録に陂に作れり、今は陂を誤て般に作れるなるべし、和名曰、禮記云、畜v水曰v陂、音碑、【和名、豆豆三、】持統紀に賜2死譯語田舍1とあれば同所歟、敏達天皇の磐(4)余幸玉宮を譯語《ヲサ》田宮とも申せば同所に※[手偏+總の旁]別の名あるなるべし、
 
初、大津皇子被死之時
天武紀云。十二年二月己末朔大津皇子始聽朝政。○持統起云。元年冬十月。○古今和歌集叙云。自大津皇子之初。○懷風藻序云。龍潜王。川島皇子詩傳曰。○磐余池般。神武紀云。夫磐余之地、舊名片居【片居此云伽〓婁】又日片立【片立此云伽〓〓知】逮我皇師之破虜也、大軍集而滿於其地。因改號爲磐余。或曰。天皇往嘗嚴〓粮、出軍西征、時磯城八十梟師於彼處屯聚居之【屯居此云怡波瀰萎】果而天皇大戰遂爲皇師所減、故名之磐余邑。履中紀云。二年十一月作磐余池。般、史記封禅書云。鴻漸于般【漢書音義曰般水涯堆也】版の字、義理なきにはあらねとも、かゝるめなれは字用へき所にあらす。目録に陂につくれり。是を正とすへし。すこし似たるによりて、見あやまりて般につくれるなるへし
 
416 百傳磐余池爾鳴鴨乎今日耳見哉雲隱去牟《モヽツタフイハレノイケニナクカモヲケフノミミテヤクモカクレナム》
 
百傳とは五十と書てい〔右○〕とよむ故に五十六十等と數へて百に至れば百に傳ると云意にい〔右○〕と云詞設けむとておけり、第一に百たらぬ筏に作とありし同じ意なり、第九には百傳之八十之島廻ともあれば今もモヽヅテノと讀たらむも違ふまじ、神功皇后紀の神託に百|傳度會縣之拆《ツタフワタラヒアカタノサク》鈴|五十鈴《イスヽノ》宮(ニ)所居神云云、これは遠く五十鈴にかゝる詞か、又川を渡るもあまたの歩を經ればやがて度會につゞける歟神慮測がたし、顯宗紀に天皇の御歌に、淺茅原《アサチバラ》をそねを過《スギ》百傳《モヽツタフ》、鐸《ヌデ》響《ユラ》ぐもよ置目《オキメ》來《ク》らしも、是は置目と云老女をめぐみ給故あり、委紀に見えたり、彼老女を宮の傍におかせ給ひて御殿へも鐸《ヌリテ》を懸たる繩を引わたしてそれにかゝりて參らさせ給ふ其事を詠せ給へば、百傳とは歩の數の意にて今とは少替れり、歌の意は、まちかく常に御覽ずる磐余池の面白きに、鴨などのこゝちよげに多く群て遊ぶをも今日を限に見てや黄泉に赴むかんと詠せ給ふなり、時しも十月にて鴨の鳴べき程なり、劉公幹詩云、方塘含2白水1、中有2鳧與1v雁、詩人此詩を評して、天然の景趣高手のしわざにして謝眺が澄江淨而如v練と(5)云句の及ぶ所に非ずと云へるに、此よませ給へる池のさま劉※[木+貞]が詩の景趣なれば涙を落させ給へるもことわりなり、皇子此時また詩をも作らせ給へり、懷風藻云、五言臨終一絶、金烏臨2西舍1、鼓聲催2短命1、泉路無2賓主1、此(ノ)夕離v家向、歌と云ひ詩と云ひ聲を呑て涙を掩ふに遑なし、
 
初、百つたふいはれの池に鳴かもをけふのみみてや雲かくれなん
是は五十とかきてはいとよむゆへに、五十六十七十八十九十といひて、百につたふるの心なり。いといふ詞まうけんとて百傳ふとはをくなり。もゝつての八十の嶋わともよめり。又もゝたらぬ八十隅坂とも、百たらぬ三十の槻枝ともよめり。百よりうちの數をはもゝつたふとも百たらぬともよめり。神代紀下云。大己貴神曰。今我當於百不足之八十隅將隱去矣。神功皇后紀云。先日教天皇者誰神也。願欲知其名、逮于七日夜、乃答曰。神風伊勢國之百傳度會縣之拆鈴五十鈴宮所居神、名撞賢木本嚴御魂天疎向津媛命焉。これらをもてみるに、もゝつたふ、百たらぬともに神語なり。神功皇后紀の百つたふはわたらひにつゝけるか、又下の五十鈴宮にかゝる詞歟。神慮はかりかたし。わたらひにつゝけるかといふは、顯宗紀云。詔老嫗置目居于宮傍近處。○この老嫗は御父市邊押磐皇子御骸をおさめたる所を知て、をしへまいらせけるゆへ、かくまてめくませたまへり。もゝつたふぬてゆらくは、彼おきめかなはにすかりてつたひくるにや、ぬりてのゆらく音のきこゆるとよませたまふなり。これ五十六十とはいはて、百つたふとよませたまへは、道をも水をも百つたひてわたるといふ心にもつゝくへし。三十四十より八十九十も、みそよそなとこそいふを、いかて五十にかきりていそともいへと、只いとのみおほくはよむらん。そのゆへ知らす。かもをけふのみみてやとは、さきの持統紀に、庚牛賜死皇子大津於譯語田舍とあれは、まちかくつねに御覽しなれたる池のおもしろさに、かもなとの水鳥おほくむれてあそふを、唯けふのみ見てやよみちにおもむかんとよませたまへり。文選劉公幹雜詩云。方塘含白水、中有鳧與雁。これ天然の景趣にして高手のしわさなり。謝眺か澄江淨如練といへる句なとの及ふ所にあらすとさためたり。今いはれの池に鳴鳧とよませたまへる。劉※[木+貞]か詩にひとしく聞ゆる景趣なれは、けふのみ見てやとなみたをおとさせたまふも御ことはりなり。履中紀云。三年冬十一月丙寅朔辛未、天皇泛兩枝船于磐余市磯池、與皇妃各舟乘而遊宴。膳臣余磯献酒。時櫻花落于御盃。天皇異之、則召物部長眞膽連、詔之曰。是花也、非時而來。其何處之花矣。汝可求。於是長眞膽連獨花獲于掖上室山而獻之。天皇歡其希有、即爲宮名。故謂磐余稚櫻宮者此之縁也。かゝれはおもしろき池なるへし。列子云。齊景公游於牛山、北臨其國城而流涕曰。美哉國乎、欝々〓々。若何滴々、去此國而死乎。使古無死者、寡人將去斯而之何。此時皇子また詩をも作らせたまへり。懷風藻云。大津皇子、五言臨終一絶。金烏臨西舍、鼓聲催短命、泉路無賓主、此夕離家向。詩歌をあはせてみるに卷をすてゝ千歳の涙をのこふにいとまなし
 
右藤原宮朱鳥元年冬十月
 
河内王葬豐前國鏡山之時手持女王作歌三首
 
持統紀云、三年閏八月辛亥朔丁丑、以2淨廣肆河内(ノ)王1爲2筑紫|太宰帥《・ミコトモチノカミ》1、八年夏四月甲寅朔戊午、以2淨大肆1贈(リ)2筑紫太宰帥河内王1并賜2賻物1、かくはあれど系譜未v詳、手持女王は河内王の妻なるべし、
 
初、河内王葬豐前國鏡山之時
持統紀云。三年閏八月辛亥朔丁丑、以淨広肆河内王爲筑紫太宰帥。八年夏四月甲寅朔戊午、以淨大肆、贈筑紫太宰|師《カミ・卒》河内王併贈賻物
 
417 王之親魄相哉豐國乃鏡山乎宮登定流《オホキミノムツタマアヘヤトヨクニノカヽミノヤマヲミヤトサタムル》
 
大君は天子皇子諸王までに亘りて云へり、親魄相哉、むつまじき魂の相ばにやなり、心に叶ひたる處なればにやと云はむが如し、第十二に玉あへば相|寢《ヌ》る物をとよめるも互の心の相思ふを云へり、宮と定るは鏡の山を住處とすと云なり、
 
初、おほきみのむつたまあへや
おほきみは天子皇子諸王まてにわたる詞にて、心はかはれり。むつたまあへやは、むつたまあふなり。あへとねかひて下知するにはあらす。心にかなひたる處なれはにやといはんかことし。第十二に、たまあへはあひぬるものを小山田のしゝ田もること母しもらすも。これもふたりの心たにあひかなへは、つゐにはあふものをといふ心なり
 
(6)418 豐國乃鏡山之石戸立隱爾計良思雖待不來座《トヨクニノカヽミノヤマノイハトタテカクレニケラシマテトキマサス》
 
巖を構へて藏むるを天の石戸をさすによそへたり、神代紀云、乃入2于天石窟1、閉2磐戸1而|幽居《コモリマス》焉、
 
初、とよくにの鏡の山のいはとたて
鏡の山におさむるを、天照太神の天のいはとにこもらせたまふになすらへていへり。神代紀云。乃入于
 
419 石戸破手力毛欲得手弱寸女有者爲便乃不知苦《イハトワルタチカラモカナテヲヨハキヲトメニシアレハスヘノシラナク》
 
神代紀云、乃以2御手1細2開磐戸1窺之時(ニ)、手力雄神則|奉《タマハリ》2承天照大神之手1引而奉出《ヒキイタシタテマツル》、手弱寸はタヨハキとよむべし、タヲヤメも手弱女にて手力なく羅綺にも猶堪ざる意なり、
 
天石窟閉磐戸而幽居焉
いはとわるたちからもかな
同紀云。乃見御手細開磐戸窺之時、手力雄神、即奉承天照太神之手、引而奉出。手弱寸はたよはきとよむへし。つねにもいふ詞なり。たをやめといふも、手弱女といふことなり。女の性をのつからしかり
 
石田王卒之時丹生作歌一首井短歌
 
丹生の下に王の字落たり、仙覺本にもなし、目録にはあり、幽齋本紀州本にも共にあり、二人ともに未v詳、
 
初、石田王卒之時丹生王
下の王の字をおとせり。目録には有。ふたりなからかん」かふる所なし
 
420 名湯竹乃十縁皇子狭丹頬相吾大王者隱久乃始瀬乃山爾神左備爾伊都伎坐等玉梓乃人曾言鶴於余頭禮可吾聞都流枉言加我聞都(7)流母天地爾悔事乃世間乃悔言者天雲乃曾久敝能極天地乃至流左右二杖策毛不衝毛去而夕衢占問石卜以而吾屋戸爾御諸乎立而枕邊爾齊戸乎居竹玉乎無間貫垂木綿手次可此奈爾懸而天有左佐羅能小野之七相菅手取持而久堅乃天川原爾出立而潔身而麻之乎高山乃石穗乃上爾伊座都流香物《ナユタケノトヲヨルミコサモツラフワカオホキミハコモリクノハツセノヤヤニカミサヒニイツキイマストタマツサノヒトソイヒツルオヨツレカワカキヽツルマカコトカワカキヽツルモアメツチニクヤシキコトノヨノナカノクヤシキコトハアマクモノソクヘノキハミアメツチノイタレルマテニツエツキモツカスモユキテユフケトヒイシウラモチテワカヤトニミモロヲタテヽマクラヘニイハヒヘヲスヱタカタマヲマナクヌキタレユフタスキカヒナニカケテアメニアルサヽラノヲノヽナヽニスケテニトリモチテヒサカタノアマノカハラニイテタチテミソキテマシヲタカヤマノイハホノウヘニイマシツルカモ》
 
ナユ竹はなよ竹に同じ、此つゞき第二卷に人丸の吉備津采女を慟める哥に在て注しつ、サニヅラフはさにづかふとも亦さ〔右○〕を捨てにづらふともにづかふともよめり、にほへると云に皆同じ意なり、なよ竹の如くたをやぎたるみこ、丹を著たる如く紅顔なる大君と隔句對のやうに譽て云出せり、少年壯年にて卒せられけるなるべし、神ナビニイツキイマストとは、神あがりしていつかるゝなり、玉梓ノ人ゾ言ツルは使の來て云なり、オヨヅレは妖言なり、委は別に注す、枉言カは、まがれる言なり、別に(8)注す、天地ニ以下の四句は天地の中に至て悔しく世間に至て悔しきなり、天雲ノソグヘノキハミは、そぐへはしりへの意なり、天雲の退ぞき至りてはつる所をいへり、莊子應帝王篇云、以出2六極之外1、而遊2無何有之郷1、【幻英疏云、六極猶六合也、】天地ノイタレルマデニは、至るは極まるなり、杖策モツカズモ行テとは、杖をつきても行或はつかずしても行てなり、第十三にも、杖つきもつかすも我はゆかめどもとよめり、夕占トヒ、辻占を問なり、未に道行占ともよめり、石とは石を踏て占なふなり、景行紀云、十二年、天皇初將v討v賊《アタヲ》次《ヤトリタマフ》2于柏峽《カシハヲノ》大野(ニ)1、其野有v石、長(サ)六尺《ムサカ》廣|三尺《ミサカ》厚一尺(アマリ)五|寸《キ》天皇|祈《ウケヒテ》之曰、朕得(ントナラハ)v滅2土蜘蛛1者|將|蹶《クエムニ》2茲石(ヲ)1如2柏葉1而擧焉、因(テ)蹶(タマフニ)之則如v柏上(リヌ)2於|大虚《オホソラニ》1 故號(ケテ)2其石(ヲ)1曰2蹈《ホミ》石1也、これや石占の初ならむ、又足占ともよめるは何にても踏試て占なふを云なり、御諸ヲタテヽは神の御室にて社なり、三室の山も神の坐ます故の名なり、枕邊は枕|上《カミ》なり、神代紀云、則匍2匐《ハラハヒ》頭邊《マクラヘニ》1匍2匐《ハラハフ》脚邊《アトヘニ》1、自注云、頭邊此云2摩苦羅陛(ヘト)1、脚邊此云2阿度陛1、齊戸は齊は齋に作るべし、木綿手次可比奈爾懸而、木綿を著たると木綿を以てしたる手次との兩義あるべし、神代紀云、乃使2太玉命(ヲ)1以|弱肩《ヨハカヒナニ》被《トリカケテ》2太手襁《フトタスキヲ》1而代御手《ミテシロニシテ》云云、天有左佐羅能小野はこれに二つの樣有べし、一つには第十六に怕物歌に、天|爾有《ナル》哉|神樂良《サヽラ》能小野爾|茅草《チカヤ》苅、草《カヤ》苅婆可爾鶉乎立毛とよめるは地に有野なり、始瀬山と云ひ反歌に振乃山とあれば(9)此野も大和にあるべし、天有と云事は第六に坂上郎女が月歌に、山葉左佐良榎壯子云云、注云、或云、月別名曰2佐散良衣壯士1也今榎の字なけれども天に在月と云心につゞけたる歟、允恭天皇御製歌云、佐瑳羅俄多邇之枳能臂毛弘等枳舍氣帝、阿麻※[口+多]絆泥受迹多※[人偏+嚢]比等用能未、此さゞらがたは少さき紋とこそ申すを、袖中抄に小車の錦の紐を解たれど、あまた寢もせず君一人なりと云を小車の錦とは小車をちがへてまろにて紋におれる錦なり、伊勢太神宮の御衣には此錦を用ると云へり云云、月面小事と云風俗の歌は今は説絶たりと申せば道の人も慥に不知や侍らむ、以上顯昭の詞なり、今按袖中抄に出されたる歌は允恭天皇の御歌の異説歟、元來別の歌歟、異説ならば紋の丸なるに付て月とも車とも云べきにや、さればさゞら形は月形と云にや、繼体紀にある春日皇女の勾大兄皇子に和し給ふ歌云、倭哉於朋枳美能於|魔《バ》細屡、娑佐羅能美於寐能云云、此さゞらの御帶もさゞらがた錦の紐とあるに同じ、神代紀に衣帶をコロモヒモとよめる、然れば月の紋と云意にさゞらの帶とは云べし、少さき紋と云意ならばさゞらの帶とよみ給ふべくもなし、天顯昭の月面小車と云へるは月の面と小車と二つの風俗の名か、月面の小車と云唯一つの名か、一つの名ならば月面も車輪も同じくまろなれば月面小車と云なるべければ彌さゞらがたは月(10)形にて小車の錦と云に同じかるべし、然らば天に在月とつゞくる證となるべし、又たとひ左佐良榎と云はざれば月にあらずとも枕詞を置てかやうに云時は其事と聞ゆる程なれば大形なる事例ある事なり、二つにはかく云野の實に天に有か、神代紀云、野槌者|採《トラシム》2五百|箇野薦八十玉籤《ツノスヽノヤソタマクシヲ》1といへり、天上にての事なれば此れ天にある野にて取と見えたり、天香山天高市天垣由など皆天にあれば野も有べし、下に天川原爾出立而といへば天上の事と聞ゆ、七相菅を今の本にナヽニスゲとあるは幽齋本の點にナナミスゲとあり、それをミ〔右○〕を誤てニ〔右○〕に作れるなるべし、相の字|相《ミル》v※[修の彡なし]など云時見と同訓なればなり、さありて此なゝみすげと云は如何なるを云る歟いまだ慥なる釋を見及ばず、今黯なゝあひを畧してナヽヒスゲと讀べきか、菅は幾重もかさなれる物にて纏へる皮の左右の端の相たれば云にや、菅を以て祓の具とするは其性清き故なり、委は第六に注すべし、天川原ニ出立テとは上に天雲乃曾久敝嚢極などいへる首尾なり、天川までも至て祓をして此君の罪を清めて壽命延長ならしめん物をと云意を切に極て云なり、水邊に至て祓する事亦後に注す、高山乃以下は初瀬の山に葬て石を敷、あたりにも立廻らしたるを云へり、落句は今黯イマセツルカモとも讀べし、かゝるべしとも知らで祓などもせざりし故に初瀬の山へ君をやり(11)つるかなと悔る意なり、今の點にては石田王のみづから行なり、共に違ふべからず、高山を仙覺抄に大和國とかけり未v詳、今按高山は何處にも高き山を云故に上にも筑波山をよめる歌に、東國に高山はさはにあれどもと云へり、此歌の始終を能意得ぬ人や一つの地の名と思ひて大和國と書て侍りけむを、仙覺もまた此に迷はれけるなめり、
 
初、なよたけのとをよる
なゆたけはなよたけなり。第二に、吉備津采女か死たる時、いたんて、人丸のよまれたる歌にも、なよたけのとをよるこらと有。そこに注しつ。たはむを、たはゝとも、とをゝともよめは、とをよるもたはみよるにてもあるへし。さにつらふ、さにつかふともよめり。おなし詞なり。らとかと同韻の字にて通せり。さは付字にて、には丹の字、朱の字なり。あかきをいふ。つかふは著なり。なよたけのことくしなやかにたをやきたるみに、丹をつけたることく、紅顔なるおほきみと隔句對にいひて、ほめてよめり。少年壯年にて卒せられけるなろへし。神さひにいつきいますと、いつきはいはふとおなし言なり。齋の宮をいはひの宮ともよめり。たふとき人の死を神あかりといへは、かくはいふなり。玉つさの人そいひつる、第二にも、玉つさのつかひのいへはとよめり。玉つさをつたふる人をおしてかくいふなり。およつれか、妖怪の詞なり。天智紀云。九年春正月乙亥朔戊子。○復禁斷誣妄妖僞。天武紀云。四年十一月辛丑朔癸卯、有人登宮東岳妖言而自刎死之。光仁紀云。左大臣藤原朝臣永手薨時詞中曰。天皇朝乎置而罷還止聞看而於母富佐久、於與豆禮加母、多波許止乎加母云云々。まかことかもわか聞つるも、延喜式第八御門祭祝詞云。四方四角與利、踈備荒備來武天能麻我都比古登云神乃言武、惡事爾、古語麻我許登相口會事無久云々。およつれ、まかこと、さかさまことなと、此集末にあまたある詞なり。あめつちに悔しきことの、世の中のくやしき事は、天地のうちにこれほとくやしきことなく、世の中にかくはかりくやしき事なしとなり。いたりてくやしきなりり。天雲のそくへのきはみ、これも此集に猶ある詞なり・そくへは、しりへといふ心なり。天雲のしりそきいたりてはつる所をいへり。きはみは、さはまりにて畢竟天のはてなり。あめつちのいたれるまてに、いたれるは至極なり。天のはて地のをはりまてもなり。杖つきもつかすもゆきて、第十三に、杖つきもつかすも我はゆかめとも君かきまさん道のしらなく。ゆふけとひ、つしうらを問ことなり。占をきかむとするものは、夕さりつかたちまたに出てきくなり。よりてゆふけとふとも、又ゆふうらともよめり。又此集に、みちゆき占ともよめり。ゆふけは、此集末におほし。石うらもちて、石を踏てうらなふなり。景行紀云。十二年、天皇初將討賊、次于柏峽大野。其野有石、長六尺廣三尺、厚一尺五寸。天皇祈之曰。朕得滅土蜘蛛者、將蹶茲石、如柏葉而擧焉。因蹶之。則如柏上於大虚、 故號其石曰蹈石也。これや石うらのはしめなるへき。又あしうらしてとよめるは、何にても踏みこゝろみて、占をいふなり。神代紀下云。於是兄乃擧足踏行、學其溺苦之状、初潮漬足時則爲足占。謂不安足於一處、以占名之者不定故也。この神代紀のあしうらは心かはれり。疏に釋したまふことし。わかやとに御もろをたてゝ、みもろはみむろなり。神社をみもろといふ。みむろの山も神のいます山の名なり。ゆふたすきかひなにかけて、神代紀云。乃使太玉命以弱肩被太手襁而代御手云々。ゆふをつけたるたすきなれは、ゆふたすきといふ。次の字をすきとよむは、此集にめつらしからす。つとすとは同韻相通なり。源氏柏木に、すきすきみゆるにひ色ともの、きかちなる、今やう色なときたまひてといへり。此すき/\も次々なり。ささらのをのゝ、なゝふすけ、第十六にも、天爾有哉神樂良能小野爾ちかやかりとよめり。これをは八雲御抄に、かくらの小野とよませたまひて、山城と注せさせたまへり。今の本にはそれもさゝらのをのと和點をくはへたり。此歌をあはせてみるに、尤正とすへし。神樂はかくらとよむ事勿論なり。下に良の字のそひたれは、さゝ波といふを神樂浪とかけるやうに、さゝらとよまんことあたれることはりなり。さてあめに有といへるはさゝらの小野の天上にあるにあらす。第六に、大伴上郎女の歌に、山のはのささらゑおとことよみて、歌後註に、或云月別名曰佐散良壯、士也なりといへり。されはこれも天にあか月といふ心にて、さゝらの小野を月の別名になしていひかけたるなり。なゝふすけは心得かたし。延喜式第八六月晦大祓詞云。大津菅【曾乎】本刈斷末刈切※[氏/一]八針爾取辟※[氏/一]云々。これにつきての事なるへし。さゝらの小野は大和國なるへし。第十四の東歌に、をのか國々の名所をのみよめることく、都の歌人も昔は物によせてひろくよむ歌ならては名所もたゝそこ/\をよめるゆへなり。久堅の天川原に出たちてみそきてましを、おほよそはらへは水邊に出てはするならひなるを、こゝに天川といへるは、さきにあま雲のそくへのきはみ、あめつちのいたれるまてに、つえつきもつかすもゆきてといへる、首尾をあはするなり。所詮張騫か河源をきはめしことくして、天川まてもいたりてはらへをして、此君の罪をきよめて、壽命延長ならしめん物をといふことを切にいへるなり。水邊にはらへする意は、彼延喜式六月大祓祝詞云。高山末。○もろこしにも祓は水邊にてすると見えたり。高山のいはほの上にいましつる鳧。上に注することく岩を下にしきめくりにもたてゝ、中に其棺槨をおきてはらふる心なり
 
反歌
 
421 逆言之柾言等可聞高山之石穗乃上爾君之臥有《サカコトノマカコトヽカモタカヤマノイハホノウヘニキミカフシタル》
 
サカコトは物をかへさまに云なり、假令有を無と云如きなり、神武紀云、大伴氏之|遠祖《トホツオヤ》道(ノ)臣《オミノ》命|奉2承《ウケタマハリテ》密策《シノヒオホコトヲ》1、能以2諷歌倒語《ソヘウタサカシマコトヲ》1掃2蕩(ヘリ)妖氛《ワサハヒヲ》1、倒語之用始起2於|茲《コレヨリ》1、和名云、蘇敬本草注云、
三白草、【和名、加多之呂久佐、】葉上有2三黒點1、古人秘v之隱(シテ)v黒爲v白耳、此も三黒草と云べきを三白草と名付たれば倒語なり、此歌使の言を誠とも思はれぬやうに云へるは歎をいはむとてなり、
 
初、逆言のまかこと
神武紀云。大伴氏之遠祖道臣命○能以諷歌倒語、掃蕩妖氛、倒語之用始起於茲。和名集云。蘇敬本草注云三白草【和名加多之呂久佐】葉上有三黒點、古人秘之、隱黒爲白耳。これも三黒草となつくへきを、三白草となつけたれは倒語なり。此歌は使のことはをまことゝおもはれぬやうにいへるは、かならす常にもさあることなり
 
422 石上振乃山有※[木+久]村乃思過倍吉君爾有名國《イソノカミフルノヤマナルスキムラノオモヒスクヘキキミニアラナクニ》
 
(12)君爾有名國、【六帖、キミナラナクニ、】
 
上の句は杉を承て思ひ過べきといはむ爲の序なり、世の習はさこそあむなればよしやと思ひをやり過されず慕はるゝ君となり、六帖社の歌として第二の句を振の社のと有は此歌に取て殊に不審なり、第四厚見王の歌に下句此と同じきあり、
 
初、いそのかみふるの山なる杉村の
是は序歌にて、おもひ過へきといはんためなり。思ひ過へきは思ひを過しやるへきなり。又死したまへるをきゝて、よのならひはさこそあれ、よしやなとことはりのまゝに、一往にておもひ過へき者にはあらぬとなり
 
同石田王卒之時山前王哀傷作歌一首
 
續日本紀第二十三云、三品|忍壁《オサカヘノ》親王之男從四位下山前王、文武紀云、慶雲二年十二月癸酉、無位山前王(ニ)授2從四位下1、元正紀云、養老七年十二月辛亥、散位從四位下山前王卒、懷風藻云、從四位下刑部卿山前王一首、山前はやまざきかやまくま歟後人當v考、くまと讀例は和名云、大和國高市郡檜前、【比乃久末、】但馬國氣多郡樂前、【佐々乃久萬、】
 
初、山前王
文武紀云。慶雲三年十二月癸酉、無位山前王授從四位下。元正紀云。養老七年十二月辛亥、散位從四位下山前王卒。續日本紀二十三云。三品忍壁親王之男從四位下山前王。懷風藻云。從四位下刑部卿山前王一首。前の字くまとよむ例は、和名集云。但馬國氣多郡樂前【佐々乃久萬。】大和國高市郡檜前【比乃久末】
 
423 角障經石村之道乎朝不離將歸人乃念乍通計萬四波霍公鳥鳴五月者菖蒲花橘乎玉爾貫《ツノサハフイハムラノミチヲアサカレスヨリケムヒトノオモヒツヽカヨヒケマシハホトヽキスナクサツキニハアヤメクサハナタチハナヲタマニヌキ》【一云貫交】※[草冠/縵]爾將爲登九月能四具禮能時者黄葉乎折挿頭跡延葛乃彌遠永《カツラニセムトナカツキノシクレノトキハモミチハヲヲリテカサストハフクスノイヤトホナカク》【一云田葛根乃彌遠長尓】萬(13)世爾不絶等念而《ヨロツヨニタエシトオモヒテ》【一云大船之念憑而】將通君乎婆明日從《カヨヒケムキミヲハアスヨリ》【一云君乎從明日香】外爾可聞見牟《ヨソニカモミム》
 
將歸人乃、【紀州本云、カヘラムヒトノ、】
 
石村は上に云如くイハレなり、朝不離は日毎の意なり、將歸人とは歸は歸依にて朝廷を歸《ヨリ》所として日々に參るなり、反歌によれば石田王は長谷の邊に宅ありて磐余の道を經て藤原宮に通はれけるか、カヘラム人ノと云點につかば朝政事をはりての歸るさなり、念乍通計萬四波とは道すがら思はれけむ心はと云はむが如し、推量らるゝ物から云ひ解がたし意を得て見るべし、第十八に家持の尾張少咋を教喩せられし歌に、波之吉余之曾能都末能古等、安沙余比爾惠美々惠末須毛、宇和奈氣伎可多里家末久波云云、と今と同じ詞づかひなり、花橘ヲ玉ニ貫とは藥玉なり、別に注す、※[草冠/縵]ニセムト、此所にて一先よみ切べし、句絶にはあらず、折挿頭跡、今按ヲリカザヽムトと讀べきか、折の下に將の字落たるか、此所も亦上に云如く讀切るべし、以上朝廷に仕るに時に從てかやうにせむと思けんとおしはかりて云なり、延葛乃彌遠永とは、葛はいづくまでもはひ行けばかく喩るなり、下の不絶等念而と云も葛の縁な(14)り、君乎婆明日從、此下の異を注する中に香の字紀州本に者に作れり、落句にヨソニカモ見ムとあれば、今の本誤れり、
 
初、角さはふ石村の道を
つのさはふは、いはともいしともつゝけんためなる事、第二卷にくはしく釋しぬ。石村はいはれとよむへしといふ事も、此卷春日藏首老か歌の、つのさはふ石村も過すといふ所に注しつ。繼體紀に、春日皇女勾大兄皇子【安閑天皇】にかへさせたまふ御歌の中にも、都奴娑播符、以簸例能伊開能、美儺矢駄府、紆鳴謨紆陪※[人偏+爾]提那皚矩。朝かれすは、毎朝なり。朝にはかきらす日ことにといふなるへし。將歸人の、これをよりけん人のとよめるは、歸は歸依にてみかとをより所にたのみたてまつるなり。石村の道を朝かれすとつゝけたれは、ゆきけん人のなとよむへき歟。毎朝おもひつゝかよひけましはとは、出仕なとに出る道すからもおもはれけん心はといふことなり。心しられて詞は聞えかたし。ほとゝきす――玉にぬき、此つゝき此集におほし。これは五月五日に五色の糸をくみて玉につらぬき、長命縷と號して居たる屋の内にもかけ、また肘にもかくる、これを藥玉といふなり。くす玉といふ心は、此糸をかけつれは惡氣をはらひて命なかく生るといふ故に、かくは名付たり。是にあやめの根、花橘をも具するは、其時に相あふものゝ共にいはふ物なれはかくのことし。かつらとは、糸を色々にしてなかくかくる故なり。風俗通云。五月五日以五彩絲繋臂者辟鬼及兵、一名長命縷、一名續命縷。天智紀云。十年春正月。○是月以大錦下授。○以小山下授餘達率等五十餘人也。童謠云。多致播都播、於能哉曳多曳多、那例例騰母、陀麻爾農矩騰岐、於野兒弘〓農倶。これは王化を慕て異國よりわたりきけるもの共にさま/\才能あるものを官位をたまひけれは、才能はかほれともあるものはおなし官位を給はるといふ心をたとへる歌なり。かつらにせんとゝよみきるやうに心得へし。下へつかさるゆへなり。しくは此集に字なし。和名集云。〓雨小雨也【之久禮。】今用る時雨とは、いつのほとよりかくことにか。はふくすのいやとをなかく、葛のかつらはなかくはふ物なれはなり
 
右一首或云柿本朝臣人麻呂作
 
異説を注せり、
 
或本反歌二首
 
424 隱口乃泊瀬越女我手二纏在玉者亂而有不言八方《コモリクノハツセヲトメカテニマケルタマハミタレテアリトイハスヤモ》
 
越女をヲチメとよめる本もあれど意を得ぬ點なり、幸に今考る諸本皆ヲトメなり、泊瀬女と云に同じ、落句は今按アリトイハズヤモと讀べし、第二に依羅娘子の貝にまじりて有といはずやもとよめる點に同じ、命を玉の緒に譬ふれば手玉の緒の絶て玉の亂たりといはずやと云て、落著は亂れ落て手を放たるが如しといためり、
 
初、越女
長流か本にはをちめとありて、をちめはをとめなり。小女のいまた男せぬを、をとめとはいふなりといへり。今の本にはをとめと點せり。これもよし。未通女とかきて、をとめとよむゆへに、まつは小女なれとも、唯女の惣名なり。俗語にもをとむすめなといひて、かしつきもてなすことにいへは、惣名とするなるへし。玉はみたれて有といはすやもとは、落著は、すてに緒絶してみたるゝなり。命を玉のをといへは、愛して手にまく手玉の緒絶したることく、あかすおしとおもふ人のうせたることをいたむなり
 
425 河風寒長谷乎歎乍右之阿流久爾似人母逢耶《カハカセノサムキハツセヲナケキツヽキミカアルクニニルヒトモアヘヤ》
 
此歌に二つのやう有べし、一つには石田王の事のさてもあられぬまゝに泊瀬路は(15)人の繁く往來すれば若似たる人にも逢て見ても慰さむやと河風の烈しく寒きを忍て見ありき給ふらんに似たる人だに逢て慰さめよとなり、此時は妻を指て君があるくにと云なり、二つには君は石田王を指て、河風の寒きに妻の打歡つゝ長谷路には若面影の似たる人にも逢やと求むらんに石田王のあるく體勢に似たる人だにも行逢へやとなり、第二に人丸の妻の死せる時、道行人も獨だに似てしゆかねばと歎かれしを思ひ合すべし、
 
初、河風のさむきはつせを
此歌上の長歌の反歌と見は、さきの春日藏首老か歌にも、つのさはふいはれも過すはつせ山いつかもこえん夜はふけにつゝとあれは、いはれよりはつせはさしも遠からすとみゆれは、長歌によめることく時につけてさま/\の事ともおもひてかよはれし、そのすかたににたるひとも、道にゆきあへやといふ心歟。後の注によりて心得は紀皇女諸王なとに嫁したまひて薨したまへる後、山前王、石田王にかはりて讀てかの夫君をとふらひたまふなるへし。其時は河おろしのいと寒き泊瀬路を、皇女にわかれし事を打なけきつゝ心にもそまぬ宮つかへなとに君かあるくに、おほき人の中にせめて皇女に似たる人たにみちにゆきあへかし。それにたにすこし心のなくさみやせんにととふなり。第二に人まろの妻死せし時、人まろのよまれたる歌引てみるへし
 
右二首者或云紀皇女薨後山前代石田王作之也
 
山前の下に王の字落たり、
 
紀皇女の薨じ給へる年月續日本紀に見えず、此注に依て前後を見合するに文武天皇の御宇おなるべし、此注に依らばさきの注を表裏すべし、
 
柿本朝臣人麻呂見香具山屍悲慟作歌一首
 
426 草枕※[覊の馬が奇]宿爾誰嬬可國忘有家待莫國《クサマクラタヒノヤトリニタカツマカクニワスレタルイヘマタナクニ》
 
誰嬬と書たれど端作に見2孃子屍1と云はざれば男子なるべし、第二に吉備津釆女が(16)死せるを慟む歌に、夫をつまと云へるにも此字を借て書けり、國忘タルは郷の字土の字をもくに〔二字右○〕とよめば故郷を忘たると云意なり、第二にも人丸妻の死せるを紅葉見に山に入て道忘て皈らぬとよまれし意に、故郷の道を忘て皈らぬと云ひなされたるか、道のみならず第十六に、荒雄等は妻子の業をば思はずろ、年八《トシノヤ》とせをまてどきまさぬとよめる如く、元來家の事を忘たる物に云ひなされたる歟、家マタナクニは家人の待んにと云意なり、物ならなくになど云なく〔二字右○〕には非ず、荒きをあらけなくと云如くな〔右○〕は助語に似たり、古今にいつしかとまたく心をとあるも待心なれば彼に同じ、第四に我せこは物な思ひそ事しあらは、火にも水にも我成らなくに、此てにをは今と同じ、
 
初、草枕たひのやとりに
國わすれたるとは、歸るへき國をわすれたるやうにいひなせり。家またまくに、これは家人のまたんにといふことなり。莫の字を書たれとも此なくはいにしへのてにをはにて物ならなくにといふ時のなくには同しからす。第四に、わかせこは物なおもひそ事しあらは火にも水にもわれならなくに。これ事いてきなは火とも水とも君とゝもにならんといふ心なり。第一第十五にも此てにをはあり。さきに第一卷にもすてに釋しつ。此たかつまといふは、嬬の字はかきたれとも男ななるへし。長流か昔の抄に、またんなといふなもしなり。くにとをけるは戀らくになといふ心なりといへるはよろしからす。おほけなく、あらけなくのなくには通す
 
田口廣麿死之時刑部垂麻呂作歌一首
 
廣麿未v詳、
 
427 百不足八十隅坂爾手向爲者過去人爾盖相牟鴨《モヽタラヌヤソスミサカニタムケセハスキユクヒトニケタシアハムカモ》
 
過去は今按スギニシとも讀べし、一二の句は二つの意あるべし、大己貴命の百不足(17)八十隈將隱去矣とのたまへるも顯露の事をば天孫に讓たまへば、凡人に取ては黄泉に行に似たり、隈と隅とも意相似たり、坂と云は泉津平坂と云に同ければ彼平坂に到て手向せば伊弉諾尊の伊弉冊尊に逢たまひしやうに蓋逢こともあらむや、凡夫は泉津平坂に到て手向する事あたはねば此人に又逢ことなけむと慟めるか、又一つの意は神式紀云、國見岳(ノ)上有2八十|梟帥《タケル》1、墨坂置2※[火+赤]《オコシ》炭1、墨坂之號由v此起也、かかれば八十梟帥が※[火+赤]炭おける墨坂なれば八十墨坂と云へるか、墨坂は大和國宇※[こざと+施の旁]郡なり、第四に君が家に我住坂と人丸の妻のよまれたるも此所歟、雄略紀に墨坂神と云も見えたり、廣麿を墨坂を越て葬れるに依てやかうよめりけむ、旅に出る人の爲にする手向を神の受給へば行到りて皈來るまで恙なきも、此黄泉をはてと行人の爲に手向すとも其驗有て又皈來てあはむや逢べからずとなり、堀河院初度の百首に八十隅坂の白つゝじとよめる哥は名所と定てこそ、
 
初、百たらぬやそすみ坂にたむけせは
百たらぬはやそといはんため、さきに釋せしかことし。やそすみ坂といふ名にはあらす。すみさかにやその詞をくはへたり。これにふたつの心あるへし。ひとつにはやそは數のかきりにておほきことをいふ時の詞なり。坂はくま/\おほくてのほりゆく物なり。そのくまは隅なれは、八十隅なといふ心にて八十のすみある坂といふ心につゝくともいふへし。ふたつにはこれは由緒あることなり。神代紀云。戊午年九月甲子朔戊辰、天皇陟彼兎田高倉山之巓、瞻望城中、時國見岳上有八十梟帥【梟帥此云多稽婁】又於女坂置女軍、男坂置男軍、墨坂置2※[火+赤]炭、具女坂男坂墨坂之號、由此起也。これをもておもふに八十たけるかおこし炭をゝけるゆへに墨坂となつけ、また八十梟帥によりて八十すみさかといふなるへし。此卷の初、雷岳といふにつけて引る雄略紀にも兎田墨坂神とあれは、社もあるなるへし。第四に、君か家に我住坂と人まろの妻もよまれたる所なり。たむけせはといへるは、彼墨坂の神をいふなるへし。旅に出る人のたむけを神のうけたまへは行つきて歸るまてつゝかなきを、此よみちをはてとゆく人のためにたむけすとも、そのしるしありて又歸りきてあはんや、あふへからすとなけくなり
 
土形娘子火葬泊瀬山時柿本朝臣人麻呂作歌一首
 
應神紀云、大山守皇子、是土形君榛原君凡二族之始祖也、和名云、遠江國|城飼《キカフノ》郡土形、【比知加多、】
 
初、土形娘子火葬泊瀬山時
應神紀云。大山守皇子是土形君榛原君凡二族之始祖也。和名集云。遠江國城飼郡土形【比知加多。】第二卷に注するかことく、火葬は文武天皇四年にはしまりたれは、此歌此次の歌はそれより後の歌なり
 
(18)428 隱口能泊瀬山之山際爾伊佐夜歴雲者妹鴨有牟《コモリクノハツセノヤマノヤマノハニイサヨフクモハイモニカモアラム》
 
隱口能泊瀬山、【六帖、カクラクノトマセノヤマ、莫v用v之、】  山際、【六帖云、ヤマキハ、袖中抄同v之、】
 
雲とは火葬の烟を云て、イザヨフとは名殘を惜むやうに立もさらぬを云意あるべし、猶巫山の故事などをも含めるにや、第七に相似たる歌あり、
 
初、こもりくのはつせの山の山のはにいさよふ雲はいもにかもあらん
いさよふ雲とは火葬の煙をいひて巫山の朝雲なとをおもひてよまれけるなるへし。いさよふとは徘徊とかきて雲のたちもさらす、さすか居もさためぬか、別るゝ時になこりをおしむやうなるをいへり。第七に、こもりくのはつせの山に霞たちた友な引雲はいもにかもあらん。大かたおなし歌なり
 
溺死出雲娘子火葬吉野時柿本朝臣人麿作歌二首
 
溺死といへるは渡り損じたるべし、身を投たるにはあるべからず、
 
429 山際從出雲兒等者霧有哉吉野山嶺霏※[雨/]《ヤマノハニイツモノコラハキリナレヤヨシノヽヤマノミネニタナヒク》
 
霏※[雨/徽]、【校本、※[雨/徽]作v※[雨/微] 、今本誤、】
 
發句は今按山ノハニとも山ノハヲとも讀べし、雲は山のはより立出る物なれば出雲娘子を云はんとて山のはにとは置けり、火葬の烟の山にたな引たるを彼娘子が身の霧にて有かとよめるなり、第二に吉備津釆女死を悲てよまれたる歌に、霧こそは夕に立て朝には、失ぬといへどあれは霧なれやと云にはもとよりかくはかなかるべき身なればにやの意籠るべし、
 
初、山のはにいつものこらはきりなれやよしのゝ山のみねにたなひく
雲は山のはより立出る物なれは、出雲娘子をいはんとて、山のはにとはをけり。火葬のけふりの山にたなひきたる、かの娘子か身の霧にてあるかとよめるなり。此よしの山は出雲に有といふ説、とり出ていふへくもなきひかことなり
 
(19)430 八雲刺出雲子等黒髪者吉野川奥名豆颯《ヤクモタツイツモノコラカクロカミハヨシノヽカハノオキニナツサフ》
 
此發句今按素戔嗚尊の神詠に依てヤクモタツと點ぜれど、ヤクモサスと讀べきか、崇神紀の歌に椰句毛多菟伊頭毛多鷄流餓《ヤクモタツイヅモタケルガ》云云、此發句を古事記には衣都米佐須《エツメサス》とあり、え、めの二字は五音相通、つ、さ、すの三字は同韻相通歟、又は衣都米は椰句毛に通じ、佐須は多菟と通ずるにはあらで立と刺と別義歟、此を案ずるに別義なるべきは聖武紀云、爲《ナス》2難波曲《ナニハフリ》倭部曲《ヤマトヘフリ》淺茅原曲《アサチハラフリ》廣瀬曲《ヒロセフリ》八裳刺曲《ヤツモサスフリ》之《ノ》音1云云、八雲を八裳と通ぜるは古事記の衣都米と通ずるに同じ、刺は古事記の佐須にて今の哥と字同じ、今の哥八雲は神詠と同じければ多菟をのみ佐須と通すべからず、然ば立と刺と言|別《コト》にして意同じと云べし、奥は河にもよめり、第十六にも猪名河の奥を深めてと云へり、ナヅサフはなづき隨ふ意なり、な〔右○〕とた〔右○〕と通ずれば携さふと云と同じきか、集中になづさふとも並てよめり、携とは少し通ぜぬにやと見ゆる所もあるか、同異能考がふべし、一首の意は女の黒髪なれば男の手にこそ觸ぬべきを思ひかけぬ川水になづさふ事よとよめるなり、
 
初、八雲さすいつものこらかくろかみはよしのゝ川のおきになつさふ
八雲刺を、今の本にやくもたつとあるはあやまりなり。もとより八雲たつともやくもさすともいひきたりて、いつれもふるき語なり。古事記に、ゑつめさすいつもとよめる敵は、ゑとやとめともとは五音にて通し、つとくとは同韻にて通すれは、ゑつめは八雲なるゆへに、ゑつめさすは、すなはちやくもさすなり。又聖紀曰。爲難波曲倭部曲茅原曲廣瀬曲八雲刺曲之音。これ今におなし。古事紀云。茲大神初作須賀宮之時、自其地雲立騰、爾作御歌。其歌云。夜久毛多都、伊豆毛夜弊賀岐、都麻碁微爾、夜弊賀岐都久流、曾能夜弊賀岐哀。日本紀云。或云。時武素戔嗚尊歌之曰。夜句茂多兎、伊都毛夜覇餓岐、兎磨語味爾、夜覇餓枳兎倶盧、贈廼夜覇餓枳廻。古今集序にいはく。すさのをのみことは、あまてるおほん神のこのかみなり。女とすみたまはんとて、いつものくにゝ宮つくりしたまふに、そのころにやいろの雲のたつをみてよみたまへるなり。やくもたつ云々。八重垣上下共に濁てよむへし。餓の字を用たる心これなり。上句には清、下句には濁といふは、後人しゐて陰陽の理に合せんとするなり。もししからはいつもゝつまこめもすみてよむへきことはりなり。盗跖かいはゆる口をあきてわらふ日ありぬへし。出雲の國とは是によりて名付たり。出雲といふ女なるによりてかくはいへり。歌の心は女の黒髪なれはおとこの手にこそふれぬへきを思ひかけす川水になつさふことよとよめるなり。河にも奥といふ事はよめり。溺死と題したるは身をなけたるにはあらてよしの川をわたり損して沈みけるなるへし。なつさふはなつき隨ふ心なり
 
過勝鹿眞間娘子墓時山部宿禰赤人作歌一首并短歌
 
(20)勝鹿は下總國|葛餝《カツシカ》【和名云、加止志加、】郡なり、葛飾の眞間浦と云所に昔一人の美女あり、名を眞間の手兒名と云、彼此の壯士我先得むと挑むを佗て彼湊に身を役て死せるを墓にをさめたる其墓を見てよまれたるなり、第九に彼娘子が事を委よめる歌あれば彼を見て明らかに知べし、共に往古の事のやうによめり、又第十四東歌にも此娘子に懸てよめる歌二首見えたり、上に田兒浦より富士を望てよまれたる歌ありき、此歌も其|度《タヒ》の作なるべし、何れの代何れの年と云事をしらず、次下に和銅四年の歌あればそれよりさきの哥にやとも申べきを、第六に赤人の歌を載るに神龜元年より後の歌のみ見えて以前の作見えず、又上の富士の歌は養老二年より後の歌に次て載其前には神龜四年の歌あれば次第を以も定がたし、
 
初、過勝鹿眞間娘子墓
下河邊長流かあつめし續歌林良材集に、此集第九に載たるおなし娘子か墓をよめる歌を引ていはく。右下總國葛飾郡眞間といふ所に、昔ひとりの美女ありけり。賤しき家の女にて、あやしき衣をきくつをもえはかすして、或時はまゝの江にをりて玉もをかり有時はまゝの井に出て水くみはこひなとしけれと、かたちのうつくしきことは高貴良家の女にも猶ならひなかりしかは、みる人きく人相きほひあらそふ事飛蛾の火に入ことくみなと入する舟の我をくれしときそふかことくなりけれは、女おもひあつかひて、一生いくはくもあらぬことをおもひとりてかの湊に身をなけてはかなく成にけり。されは其所に墓つくりて後人にはしめしけるなりとかけり。これ此娘子か始終なり。第十四、下總國相聞の歌の中にも此娘子にかけてよめる歌二首あり。蘆屋のうなひをとめに似たる事なり
 
431 古昔有家武人之倭父幡乃帶解替而廬屋立妻問爲家武勝壯鹿乃眞間之手兄名之奥槨乎此間登波聞杼眞木葉哉茂有良武松之根也遠久寸言耳毛名耳母吾者不所忘《イニシヘニアリケムヒトノシツハタノオヒトキカヘテフセヤタテツマトヒシケムカツシカノママノテコナカオクツキヲコヽトハキケトマキノハヤシケクアルラムマツカネヤトホクヒサシキコトノミモナノミモワレハワスラレナクニ》
 
倭父、【幽齋本、或父作v文、】
 
(21)倭父幡は布の名、弟十一にもよめり、別に注す、父は文に作れるに從がふべし、神代紀下云、倭文神《クワフンシン》此云2斯圖梨俄未《シツリカミト》1、天武紀下云、倭文連、【倭文、此云2之頭於利(ト)1、】此を以て證とすべし、帶解替テと云へるは語らへる男有やうに聞ゆ、第九の歌は定たる男なしと見ゆ、異義にや、フセヤは賤しき者の住家なり、別に注す、家には妻と云物の有故に妻と云はんとて此句あるか、又賤しき者なれど此女をすゑむとて別にふせ屋を立と云か、又按ずるに第九に處女墓をよめる歌に、ふせやもえすゞしきほひてあひたはけ、しける時には云云、此はすゞしと云はむ爲にふせやもえとおきたれば今もふせ屋立は妻とつゞけむ爲にはあらで此下に二句ばかり落たるにや、然らば帶解替てと云も賤しき者の爭ひの樣なるべし、左右の肩など脱垂れ或は犢鼻《タフサキ》ばかりして相爭ふこと尋常の事なり、勝壯鹿は壯は牡にや、雄略紀云、牡鹿此云2左嗚子加1、此集にも多くしか〔二字右○〕と云に牡鹿とかけり、但下の反歌にも壯の字を用、第六には左壯鹿をサヲシカとよみ、第十にはしか〔二字右○〕と云に雄鹿と書たれば誤れるにはあらざる歟、奥槨は墓なり、日本紀に墓とも丘墓ともかきてオクツキとよめり、此集第十八にも大伴の遠つ神祖の於久都奇波云云、此に准じて、後までも皆オクツキとよむべし、槨の字は和名云、野王曰、槨、【古博反、與郭同、和名、於保土古、】周v棺者也、棺をひつぎと云、ひめおくと云詞は物を秘しおく心なれ(22)ばひ〔右○〕は其意にてつぎ〔二字右○〕はつかと同詞にや、屍を深く葬る處とておくつきと云なるべし、眞木葉ヤシゲクアルラムは第一に人丸の近江の舊都をよまれたる歌に、大殿はこゝと云へども、若草が茂く生たると云に同じ、松之根也遠久寸は墓の上に枝打垂たる松の其根の末遠くはへる如く娘子が時代の遠く久しければ見えぬかとなり、言耳モ以下は此娘子が事を云つたふる言のみにも娘子が名を聞のみにも悲しさの忘られぬとなり、
 
初、いにしへにありけん人のしつはたのをひときかへて
此娘子か事いつの比ありけん事ともかんかふる所なし。第九の歌は高橋連蟲麻呂之歌集中出とあり。此虫まろもかんかふる所なしといへとも、赤人よりは猶さきに生出たる歟とおほしきに、その歌にも.いにしへに有けることゝ今まてに絶すいひくるかつしかのまゝのてこなかなとよまれたれは、はるかに古代の事なり。しつはたの帶とはこれも古昔用ひける物なるにや。此集に猶いにしへのしつはたおひをむすひたれなとよめり。倭文ともかけり。和文とかきて、しつをりともしとりともよめり。延喜式には神を祭る具の注文におほくみえたり。後々もある物なれとももてはやしける事は昔なれは、いにしへのしつはたをひとはいへるなるへし。こゝも上代の事をいふゆへにしつはたの帶ときかへてとはいへるなり。ふせやたてとは、家にはつまといふものゝあるゆへにつまといはんとてふせやたてとはいへり。ふせやはいやしきものゝすむ家にてまろやといふにおなし事なれはこゝによくかなへり。まゝのてこな、てこといふは人のめにさたまりたるをまつはいへり。第十四に、てこにあらなくにとよめるもさこそきこえたり。されは此娘子もいやしきものゝめにてかたちのきら/\しかりけれは、みな人めてまとひ、おとこをあなつりてさま/\にいひかゝりけるをうむして身をなけゝるなるへし。てこなは人のめの心にて、かならすかれか名にはあるへからす。おくつきを、はかなり。日本紀には、墓とも丘墓ともかさておくつきとよめり。槨は和名集云。野王曰槨【古博反、與郭同。和名於保土古】。周棺者也。まきのはやしけく有らん、そこともみえぬなり。第十一に、近江荒都を過る時の人丸の歌に、大殿はこゝといへともわか草かしけくおひたるといふにおなし。松かねや遠くひさしき。おくつきの上に枝うちたれたる松のその根のとをくはへることく、娘子か時代のとをく久しけれは見えぬかとなり
 
反歌
 
432 吾毛見都人爾毛將告勝壯鹿之間間能手兒名之奥津城處《ワレモミツヒトニモツケムカツシカノマヽノテコナカオキツキトコロ》
 
勝壯鹿、【官本、壯或作v牡、】  手兒名之、【別校本云、テコナノ、】
433 勝壯鹿之眞々乃入江爾打靡玉藻苅兼手兒名志所念《カツシカノマヽノイリエニウチナヒクタマモカリケムテコナシソオモフ》
 
今按打靡はウチナビキともよむべきか、然よまば二つの意あるべし、一つには第二に靡曼〔左○〕の体を人丸のよまれたるに、立たれば玉藻の如くとあれば娘子が体をほむる詞なり、二つには眞間の入江に身を投たるを云べし、煩らひて床に臥をなびきこ(23)ひふしと後にあまたよめり、玉藻刈とはも〔右○〕を刈に行たるに云なすなり、山に葬れるを紅葉見に行たるとよみなせるに准ずべし、但第九に此娘子をよめる反歌に、まゝの井見れば立ならし、水をくみけむ手兒名しぞ思ふとよみたると同意なれば後の意には非ざる歟、所念はオモホユとよむべし、
 
和銅四年辛亥河邊宮人見姫島松原美人屍哀慟作歌四首
 
此事第二に已に見えつ、今亦こゝに重て載る由は下に自注あり、四首ともに不審なり、歌毎に注すべし、
 
初、和銅四年辛亥
第二に此事をよめる歌二首ありてすてに注しつ。ここにも歌の後の注にそのよし見えたり。今この四首の歌をみるに、美人の屍をみていたみて作れる歌ともとはみえす。第二に出たる歌はまさしく悲歎してよめる歌なり
 
434 加麻※[白+番]夜能美保乃浦廻之白管仕見十方不怜無人念者《カサハヤノミホノウラワノシラツヽシミレトモサヒシナキヒトオモヘハ》或云|見者悲霜無人思丹《ミレハカナシモナキヒトオモフニ》
 
三穗ノ浦は紀の國なり、風早とおけるは其處よのつね風の外よりは風のはやきなるべし、第七にも風早のみほの浦廻をこぐ舟のとよめり、八雲に此風早を名所としたまへど歌のやう唯風の速きなるべし、風速浦と云は第十五に載たるは備後にぞ(24)あなる、麻はあさの和語を上略して用たり、白ツヽジは第九にも鷺坂山によめり、三穗の浦に白躑躅の咲たらむ盛はえもいはぬ面白さなるべきを、なき人を思ふ故に唯物がなしといへり、次の歌を以て見るにナキ人とは久米の若子なり、
 
初、かさはやのみほのうらわの白つゝし
第七にも風早之三穗の浦廻とよめり。これは紀伊國なるへし。次下の歌の注にそのゆへをいふへし。八雲御抄には此風早を名所としたまへとも備後にこそ風早浦はあれ、これはたゝつねに風の早き浦なりといふ心にてつゝけたるなり。白つゝしのなけきもなき身ならは、おもしろかりぬへき盛なれとも、なき人をおもふゆへにおもしろからすとなり。第二卷の注にもいへるかことく、さひしは常にいふよりはおもく聞へし。※[立心偏+可]怜をおもしろしともあはれなりとも、神代紀にはうましともよめり。今はそれに反して不怜とかくゆへなり
 
435 見津見津四久米能若子我伊觸家武礒之草根乃干卷惜裳《ミツミツシクメノワカコカイフレケムイソノクサネノカレマクヲシモ》
 
ミヅ/”\シは久米の枕辭、神武紀の歌にあり、別に注す、久米の若子は上の博通法師が歌に見えたり、彼歌三穗石室にしてよめれば上の歌の三穗浦其處なり、伊觸ケムはい〔右○〕は發語の詞、觸けんとは身を觸けむなり、久米若子が身に觸けむ物をと思へば何となき礒の草根さへかれなむ事の惜きとなり、孫綽天台山賦云、藉《シキヰニシ》2萋々《タル》之織草(ヲ)1、陰(ス)2落々(ノ)之長松(ニ)1、道人(ノ)風情(アリ)、第九に玉つ嶋礒のうらまのまなこにも、匂ひてゆかな妹にふれけむ、名殘を思ふ心おなじ、久米若子は昔の事にて草は年ごとに生かはれば如何と思ふ人も有べし、詩歌の習はさる事なり、情の字の事第一に申つ、此二首は紀州にての作なるべし、
 
初、みつ/\しくめのわかこかいふれけんいその草根のかれまくおしも
みつ/\しはみつは瑞の字なり。くめのわかこは此卷のさきに博通法師か紀伊の國にいたりて三穗のいはやをみてよめる歌に、くめのわかことよめれはそれにおなしけれは神なりといへり。そこに注しぬ。み/\しくめのわかことつゝくるは日本紀第三道臣命歌云。瀰都瀰都志倶梅能固邏餓、勾《コ》〓都|都伊《ツイ》云々。同卷神武天皇の來目歌二首にもまた瀰都瀰都志倶梅故邏餓とよませたまへり。此くめのこらとは道臣命なり。道臣命は大伴氏の遠祖にて來目部をつかさとられけるゆへなり。それをみつ/\しとは此道臣命、神武天皇の御心を得ておほしめすまゝに大功を立られけれは、此人のある事は世をしろしめすへき天瑞なりといふ心歟。さりなから道臣命みつからもさよまれたれはかなはすやともいふへけれと、聖賢はかへりて私なきゆへに理にあたる時おろかなるものは自讃のやうに聞ほとの事をもはゝからすいふなり。いふれのいは、發語のことはなり。情は惜の字のあやまれるなり。此二首は紀州にゆきて久米の稚子といふ優婆塞の、三穗のいはやに入てをこなひてそこにてみまかりける跡をみてよめるなるへし
 
436 人言之繁比日玉有者手爾卷以而不戀有益雄《ヒトコトノシケキコノコロタマナラハテニマキモチテコヒスアラマシヲ》
 
(25)不戀有益雄、【六帖、コヒサラマシヲ、】
 
初、人ことのしけきこの比玉ならは
此こひすあらましはさきに家持の歌に、なてしこのその花にもか朝なさなてにとりもちてこひぬ日なけんとよまれたるこひぬ日といふには心かはれり。その歌のこゝろはそこに注しつ。これはきこえたるままなり。歌のこゝろは人のものいひのしけくてあひかたき此ほとに、玉のことくあかす思ふ君か、まことの玉ならは、玉はをゝぬきて手玉とて手にまつひてもつ物なれは、そのことくしてかくのことくよそなからはこふましきものをとなり
 
437 妹毛吾毛清之河乃河岸之妹我可悔心者不持《イモヽワレモキヨメシカハノカハキシノイモガクユヘキコヽロハモタシ》
 
仙覺抄の意第二の句古點はサヤケノ川なりしを今の如く改られたり、今按第二に日並皇子殯宮の時の歌に、飛鳥之淨之宮爾をアスカノキヨメシミヤと點ぜるをキヨミノミヤと讀べしと申つる如く是をキヨミノ川ノとよむべし、大井川下は桂と忠岑がよめるやうに、飛鳥河を淨御原の辺にてはきよみの川とも申べし、男女の中の互に二心なきを水のすめるに喩る故に、二心あるをば六帖にも、とね川は底は濁て上清てなどよめり、されば今二心なきを川の名によせて云なり、岸はくえて崩るゝ故に妹が悔べき心はもたじとそへてよめり、第十四にいはくえの君がくゆべきとつゞけたるに同じ、悔とはまめならぬ人と知らで語らひし事と侮るなり、以上二首は相聞なり、
 
初、いもゝわれもきよめし川の河きしの妹かくゆへき心はもたし
きよめし川は清活之河とかきたれは、これをはきよみの川とよむへき歟。あすかに淨御原あれはそこにやとおほしく侍り。第二に、日並皇子尊殯宮の時人まろ朝臣のよまれたる長歌の中に、飛鳥之淨之宮爾とある二句をも、あすかのきよめしみやにと點あれと、それもきよみの宮をあやまりてきよめしとはよみたれは、こゝもそのあやまりにおなしきなるへし。河きしの妹かくゆへきとつゝけたるは、くつるゝをくゆるといへはそれによせていへり。第十四、相模歌に、かまくらのみこしのさきのいはくえのきみかくゆへき心はもたしとよめるにおなし。歌のすへての心は妹もわれも下きよく二重なる心あらしといふことを、きよみの川とよせて、川きしのくゆるによせて、我はさらに妹かかゝる人としらは、あふ事をゆるさしものをと後悔するやうなるふた心はもたしとなり。川きしのくつるれは水のにこるにもよせていふなるへし。明日香川を、淨御原ある所にてきよみ川とはいふへけれは、かのあすか川はきのふのもけふはせとなれは、さやうにかはりて人に後悔せしむる心あらしとなるへし。六帖に、とね川はうへはにこりて下すみてありなける物をさねてくやしき。此歌に心おなし。又此集第十に、雨ふれはたきつ山川いはにふれ君かくたけん心はもたし。これも心は通する作なり。右二首はたゝ相聞の歌なるへきを、いかにして古集に四首なから姫島にて河邊の宮人か美人の屍をみてかなしひてよめる歌とはいひけん。下の注の中にもなとかよく辨せさるや。注の中に、乃娘子と有乃は、及のあやまれるなり
 
右案年紀并所處乃娘子屍作歌人名已見上也但歌辭相違是非雜別因以累載於茲次焉
 
(26)乃は及に作るべし、注の如く一首も端作の詞に叶はず、
 
神龜五年戊辰太宰帥大伴卿思戀故人卿三首
 
故人は亡妻大伴郎女なり、第五第八兩卷に見えたるを以て考るに今年の春死去せられたりと見えたり、後の卿の字は歌を誤れり、
 
初、神龜五年戊辰――
第五にいはく。太宰帥大伴卿報兇問歌一首。歌のひたりに記していはく。神龜五年六月二十三日。第八卷に、式部大輔石上堅魚朝臣歌に、ほとゝきすきなきとよますうの花のともにやこしと問ましものを。歌後注にいはく。神龜五年戊辰太宰帥大伴卿郎女遇病長逝焉。于時勅使式部卿大輔石上朝臣堅魚遣太宰府弔喪並贈物色。其事既畢、驛使及府諸卿大夫等。共登記夷城而望遊之日乃作此歌といへり。大伴卿返歌をも載たり。此堅魚朝臣の歌に、ほとゝきすきなきとよますうの花といひ、大伴卿の返歌に、橘の花ちるさとのほとゝさすかたこひしつゝなく日しそおほきとよまれたれは、此歌よまれたる比は四月の末五月の初のあひたなるへし。大伴郎女うせぬときこしめして、勅使を下されけるほと、又大伴卿の返歌にかたこひしつゝこふる日そおほきとよまれたるによりておもふに、此妻のうせられけるは春の末なるへし。第五に、六月二十三日とあるは、都の人の聞つけての凶問にこたへられたらはしかあるへきことなり。そのゝち後妻を迎られけるか。光仁紀云。天應元念八月丁亥朔甲午.正四位上大伴宿禰家持爲左大辨兼春宮大夫。先是連母憂解任、至是復焉。歌をあやまりて卿に作れり
 
438 愛人之纏而師敷細之吾手枕乎纏人將有哉《ウツクシキヒトノマキテシシキタヘノワカタマクラヲマクヒトアラメヤ》
 
愛人、【別校本、人下存v之、】
 
初、うつくしき人の
うつくしきは愛の字をかける、すなはちその心なり。今の俗、かほよきをうつくしき人といひて、うつくしきはやかてかほよきをいふやうにおもへるは非なり。かほよけれはやかて人の愛するゆへに用をもて體をよふなり。心ある人をやさしき人といふかことし。やさしきははつかしきなり。情あり風流なる人は、うちむかふにも心つかひせられてはつかしけれはやさしきとはいふを、すくに情あるといふ事とおもへるはあやまりなり。又俗に人の恩を得物なとを得ても、過分に侍といふは、をのか分に過たる恩をかうふりたりといふ詞、かたしけなしといふもかゝる厚恩を得て身をかへりみるに非分にてはちたてまつるといふ詞なるを、すくに恩を荷ひ徳を被るといふ詞なるとおもへる、これらのたくひおほし。過分と上聲によへは分に過ときゝ、過分と平聲の輕と平聲によへは恩を荷する義と心得るは、本朝今の俗の約束なり
 
右一首別去而經數旬作歌
 
439 應還時者成來京師爾而誰手本乎可吾將枕《カヘルヘキトキニハナリヌミヤコニテタカタモトヲカワカマクラセム》
 
一二の句今按來の字の點叶はず、和し替てカヘルベク、トキハナリケリと讀べし、
 
初、かへるへき時にはなりぬ
 
440 在京師荒有家爾一宿者益旅而可辛苦《ミヤコナルアレタルイヘニヒトリネハタヒニマサリテクルシカルヘシ》
 
二首共に義明なり、
 
初、みやこなるあれたる家に
旅にまさりてといへる感情ふかし。此二首は此下にいたりて、天平二年庚午冬十二月向京といひ、仙覺律師のかんかへてしるし附られたるか、此卷の奥に、旅人家持淡海公の履歴を大略しるせるに、天平二年十月一日任大納言といへり。聖武紀には漏脱せるにや、しるさす。任官の後拜任のよしをうけたまはりて、例の事ともみなしをへて、やうやく歸京せんとする時の歌なるゆへ、歌のおくに、右二首臨近向京之時作歌といへり。十月の末より十二月あはひの歌なるへし。此卿いつより帥となりて下られける歟、紀にも見えす。およそ國司なとの任の限は、いにしへは四年にて得替しけるを寶字二年に詔ありて六年を限と定らる。孝謙紀云。寶字二年冬十月甲子、勅。如聞、吏者民之本也。數遷易則民不安。居久積集習則民知所從。是服其徳而從其化、安其業而信其令。頃年國司交替以四年爲限。斯則適足勞民。未可以化。孔子曰、如有用我、三年有成。夫以大聖之徳猶須三年。而況中人乎。古者三載考績、三考黜陟、所以表善簡惡盡臣力者也。自今以後、宜以六載爲限、省送故迎新之費。其毎至三年、遣巡察使推?改遠慰問民憂、待滿雨〓、随状黜陟。庶令移易貧俗悉變清風、黎元息肩倉廩有實。普告遐邇知朕意焉。仁明天皇承和元年七月勅曰。任四年可爲限。但陸奧出羽太宰、是云官國、始自筑前等僻在千里、以五年爲任限云々。太宰帥も國司に准せは、寶字二年以前者、四年を限とすれは、神龜三年の冬下向なるへし。又日本紀に吉備太宰といふ事も見えたれと後は筑前にかきる歟。此兩首は天平二年向京上道之時作歌五首とある前に載らるへき歌なり
 
(27)右二首臨近向京之時作歌
 
此に疑がはしき事あり、大納言に任ぜられて京へ皈られける事は天平二年十二月なるに神龜五年の歌三首と云て此後の二首注の詞共に相叶はざる歟、但第二に後岡本宮御宇と標して有間皇子の歌を載るに因て意吉麻呂憶良等の後の歌をも一所における例にや、
 
神龜六年巳巳左大臣長屋王賜死之後倉橋部女王作歌一首
 
聖武紀云、神龜六年六月庚申朔己卯、左京職獻v龜、長(サ)五寸三分、闊(サ)四寸五分、其背有v文云、天王貴平知百年、因v茲八月癸亥、有v詔、改2神龜六年1爲2天平元年1、同年紀云、二月辛未、左京人從七位下|漆《ヌリ》部造君足、無位中臣宮所連東人等告v密稱左大臣正二位長屋王私(カニ)學2左道1欲v傾2國家1、其夜遣v使固(ク)2守三關1、因(テ)遣2式部卿藤原朝臣宇合、衛門佐徒五位下佐味朝臣忠麻呂、左衛士佐外征五位下津嶋朝臣家道、右衛土佐外從五位下紀朝臣佐比物等1、將(テ)2六衛兵1、圍2長屋王宅1、壬申以2太宰大貳正四位上多治比眞人縣守、左大井正四位上石川朝臣石足、彈正尹從四位下大伴宿禰道葦1權爲2參議1、巳時遣2一品舍人(28)親王、新田部親王、大納言從二位多治比眞人池守、中納言正三位藤原朝臣武智麻呂、右中弁正五位下小野朝臣牛養、少納言外從五位下巨勢朝臣宿奈麻呂等1、就2長屋王宅1窮2問其(ノ)罪1、癸酉令d2長屋王1自盡u、其室二品吉備内親王、男從四位下膳夫《カシハテノ》王、無位桑田壬、葛木(ノ)王、釣取王等、同(シク)亦|自《ミヅカラ》縊《ツナク》、乃悉捉2家内(ノ)人等1禁2著於左右衛士兵衛等府1云云、長屋王(ハ)天皇之孫高市親王之子、吉備内親王日並知皇子尊之皇女也、文武天皇慶雲元年正月に初て正四位上を授たまひしより次第に昇進して神龜元年二月正二位左大臣となさせ給ひ榮耀並びなかりし人の、如何にして不軌の意は著給ひけむ不審なり、但紀に君足東人等が功田を論ずる時隱密を告る事慥ならぬやうに見えたり、さればにや聖武紀又云、天平十年秋七月丙子、左兵庫(ノ)少屬《スナイサクワム》從八位下大伴宿禰子虫、以v刀衾斫2殺右兵庫頭外從五位下中臣宮處連東人(ヲ)1、初子虫事2長屋王1頗蒙2恩遇1、至v是|適《タマ/\》與2東人1任2於此寮1、政事之隙相共圍v碁、語及2長屋王1憤發而罵、遂引v劔斫而殺(セリ)v之(ヲ)、東人(ハ)即誣(ヒ)2告長屋王事1之人也、此誣告と云へるを見るに大臣の罪未決なるか、元亨釋書第一鑑眞|和尚《ワジヤウノ》傳云、眞曰、我聞南嶽思公生2和國(ニ)1弘2佛法1、太子事我知v之、又聞、日本長屋王崇2敬三寶1製2千袈裟1、縁各繍2一偈1曰、山川異v域、風月一v天、遠寄2淨侶(ニ)1、誓(テ)結2勝縁1、【大宋高僧傳鑑眞傳云、山川異v域、風月同v天、、寄2諸佛子1、共結2來縁1、】就v舶便施2此土一千沙門1、我思(ヘハ)2此等事1彼方必有2淨信人1、同第(29)二十二資治表云、天平元年二月、於2元興寺1設2大齋會1、僕射長|室《ヤノ》皇子【以王爲皇子、錯耶、】爲2監護1、時一沙彌連(テ)2比丘座1捧v鉢受v飯、僕射以2牙笏1撃2沙彌頭(ヲ)1、血流下v面(ニ)、沙彌拭v血而哭、忽然(トシテ)不v見、經(テ)2二日(ヲ)1或奏2此事1、帝怒賜2僕射死1、此は傳説の誤なるべし、紀に謀反を告るに依ると明に見えたり、正二位左大臣に齋會の監護を課せたまふべからず、一千の袈裟を異域の僧に施す人一小事に依て衆中にして沙彌を撃て血を流さしむべからず、纔の事に依て天子亦大臣を死刑に處すべからず、信じがたし、懐風藻に蕃使來朝の時此大臣の亭にて饗餞の席に在て作ると云詩多し、倉橋部女王は姉妹か女か未v詳、第十八に見えたる河内女王は高市皇子の御女なれば大臣には姉妹の間也、
 
初、神龜六年己巳左大臣長屋王
聖武紀云。六年庚申朔己卯、左京職獻亀、長五寸三分、闊四寸五分、其背有文云、天王貴平知百年。因茲八月癸亥、有詔、改神龜六年爲天平元年。同紀云。二月辛未左京人從七位下漆部造君足、無位中臣宮所連東人等告密稱、左大臣正二位長屋王私學左道、欲傾國家。其壬申巳時遣一品舎人夜遣使固守三關。因遣式部卿藤原朝臣宇合、衛門左從五位下佐味朝臣忠麻呂、左衛士佐外從五位下津島朝臣家道、右衛士佐外從五位下紀朝臣佐比物等、將六衛兵圍長屋王宅。壬申以太宰大貳正四位上多治比眞人縣守、左太辨正四位上石川朝臣石足、弾正尹從四位下大伴宿禰道足、權爲參議。巳時遣一品舎人親王、新田部親王、大納言從二位多治比眞人池守、中納言正三位藤原武智麻呂、右中辨正五位下小野朝臣牛養、少納言從五位下巨勢朝臣宿奈麻呂等、就長屋王宅問其罪。癸酉令長屋王自盡。其室二品吉備内親王、男從四位下膳夫王、無位桑田主、葛木王、鈎取王等、同亦自縊。乃悉捉家内人等、禁著於左右衛士兵衛等府。甲戌遣使葬長屋王吉備内親王屍於生馬山。仍勅曰。吉備内親王者無罪。宜准例送葬、唯停鼓吹。其家令帳内等並從放免。長屋王者依犯伏誅、雖准罪人莫醜其葬矣。長屋王、天武天皇之孫、高市親王之子。吉備内親王、日並知皇子尊之皇女也。懷風藻云。左大臣正二位長屋王三首【年五十三。】懷風藻には外國朝貢使等來朝の時、此大臣の亭に宴饌を設けられ、諸の騷人其席にて作れる詩文あまた出せり。文武紀云。慶雲元年春正月丁亥朔癸巳、無位長屋王授正四位上。元明紀云。和銅二年甲寅以從三位長屋王爲宮内卿。三年三月爲式部卿。元正紀云。養老二年三月乙巳、以正三位長屋王爲大納言。同五年正月從二位。同日爲右大臣。五年三月賜帶刀資人十人、其考選一准職分資人。六年五月己卯賜右大臣稻十萬束籾四百斛。聖武紀云。神龜元年二月甲午正二位左大臣。續日本紀に君足東人等か功田を論する時、隱密を告る事たしかならぬやうに見えたり。しかれはにや、聖武紀に云。天平十年秋七月丙子、左兵庫少屬從八位下大伴宿禰子虫、以刀斫殺右兵庫頭外從五位下中臣宮處連東人。初子虫事長屋王頗蒙恩遇。至是適與東人任於此寮。政事之隙相共圍碁。語及長屋王、憤發而罵。遂引劔、斫而殺之。東人即誣告長屋王事之人也。此誣の字によるに大臣の罪なきににたり。誅にふせることおしむへし。元亨釋書二十二、資治表云。天平元年二月、於元興寺設大齋會。左僕射長室皇子爲監護。時一沙彌連比丘座、捧鉢受飯。僕射以牙笏撃沙彌頭、血流下面、沙彌拭血而哭、忽然不見。經二日、或奏此事、帝怒賜僕射死。同第一卷、鑑眞和尚傳云、眞曰。我聞南嶽思公生和國弘佛法。太子事我知之。又聞日本長屋王崇敬三寶、製千袈裟縁各繍一偈曰。山川異域、風月一天、遠寄淨侶、誓結勝縁。【宋高僧傳、鑑眞傳云。山川異域風月同天寄諸佛子共結來縁。】就舶便施此土一千沙門。我思是等事彼方必有淨信人云々。此鑑眞和尚の傳によりてみるに淨信の人いかてか衆中にして沙彌を打給はん。又正二位の左大臣に、齋會の監護をおほせ付たまふへきにあらす。後の勅撰に佐保左大臣といへるは此御事なり。倉橋部女王は御女にや。御妹にや。いまたかんかへす。第十八に見たたる河内女王は、高市皇女の御女なれは、長屋王の姉か妹かにておはすへし。又長屋王の御子も淡海公の御娘の腹なるは皆別儀をもて死を賜はらす。黄文王安宿王山背王等なり。又長屋王の御弟鈴鹿王等も科をきよし勅せらる。鈴鹿王は後に太政大臣にいたり給へり。元正紀云。靈龜元年二月丁丑、勅、以三品吉備内親王男女、皆入皇子之列焉。これ膳夫王等なり
 
441 太皇之命恐大荒城乃時爾波不有跡雲隱座《スメロキノミコトカシコミオホアラキノトキニハアラネトクモカカクレマス》
 
太は大に改たむべし、大荒城ノ時ニハアラネドとつゞきたるに付て袖中抄云大荒木の社と云所の有なり、それに付て杜をば大荒木と云と萬の文にいへり、此歌は詞に長屋王賜v死とかけるもおぼつかなし、殺さるゝにはよもあらじ、死なんずる暇を賜はる事にや、さて死る時にこそ雲がくるべきに、大君の命恐さに兼て雲隱るとよめるにや、大あらきと云事森ならねど人の死する事にも云べきにや、墓を云にや、奥(30)城と書ておくつかともよみおくつきともよめり、奥槨ともかけり、奥城所ともよめり、されば大荒城とはおほきにあらきつかともいひつべし、あらがきなど云同意なり、玉鉾は道なれど君ともつゞけ、茜刺は日なれども月とも云、あらぶる神をもあらぶる妹といへり、大荒城の杜にはあらで大あらきの時とよまむかたからずや、以上此推説甘心せられず又誤多し、今按大荒城は大和の地の名なり、委は別に注す、大荒木ともかけば木の葉の散てあるゝ心になして、時しも二月上旬の事なれば、木の芽の萠出る如く榮まさり給ふべき人の勅命に畏まりて榮し杜の時ならず枯行やうに天年を終ずして身まかりて月の雲隱るゝ如く成たまふ事と歎かるゝなり、古歌は大形をよみて委からぬ事おほし、
 
初、すめろきのみことかしこみ大あらきの時にはあらねと雲かくれます
大の字點うてるはあやまれり。大あらきは大和なり。和名集云。宇知郡荒木神社と載たり。續日本紀に大荒木氏を、大の字を除たる事あれはかく山ともあまのかく山ともいふことく、あらきとも大あらきともいふなるへし。山城といふはあやまりなり。延喜式和名集等にも見えす。そのうへに辨せしことく、東人のわか國の名所をよるかことく昔の人は物なとによせて遠くいふをはをきぬ。大かたはちかき所をのみ都人も讀けれは、何ゆへににつかぬ山城の名所をはよむへき。歌の心は、時にはあらねとゝは、大あらきといふ名を、木の葉もちりてあるゝ心になして二月上旬の事なれは、このめのもえ出ることくさかえまさりたまふへき人の、勅命にかしこまりてさかゆる木の時ならすかれはつるやうに身まかりて、月のくもかくるゝことくなりたまふ事となけかるゝなり。年も五十三歳にて、大功ありし高市の皇子の御子なれは、なからへたまはゝ太政大臣にもいたりていよ/\國家の儀表ともなりたまふへきに、大臣にてはさかりなる齡のほとにうせ給ふをも.時にはあらねとゝよせたるにこそ
 
悲傷膳部王歌一首
 
長屋王の長子、上に引る紀の中に見えたり、又聖武紀云、神龜元年二月丙申、無位膳夫王授2從四位下1、元正紀云、靈龜元年二月丁丑、勅以2三品吉備内親王男女1皆入2皇子之列1焉、此は膳夫王を初として上に見えたる四人なり、淡海公の御娘に出來たる黄文王、安宿《アスカヘ》王、山背王等は別義をもて赦し給へり、膳部は氏にもあり、又十市郡の(31)地の名にもあり、膳の一字をもかしはでと云事は往古は神供をも帝の供御をも柏を折敷てそれに盛て奉り、臣民に至るまでさる習なれば本に從て名づくるなり、仁徳紀に葉の字をカシハとよめり、諸の草木の葉多かる中に柏をしも用るは故あるべし、和名集云、本朝式云、十一月辰日宴會、其飲器參議以上朱漆椀、五位以上葉椀、【和語云久保天、】漢語抄云、葉手【比良天、】日本紀云、葉盤《ヒラテ》八枚、【葉盤、此云※[田+比]羅耐、】廷喜式供奉料注文に青|※[木+解]《カシハ》干※[木+解]とあまた見えたる此用なり、食物居る物を折敷と云も此所以なり、
 
初、悲傷膳部王歌
膳部王は、長屋王の長子なり。さきに引續日本紀の長屋王の下に見えたな。又聖武紀云。神龜元年二月丙申、無位膳夫王授從四位下。膳とも、膳部とも、膳夫ともかきて、ともにかしはてとよむ事は、いにしへは、神供をもみかとにたてまつる供御をも、かしはを折しきてそれにもりてそなへけれは、その心にてかしはてとはいふなり。和名集云。本朝式云。十一月辰日宴會、其飲器、參議以上朱漆椀。五位以上葉椀【和語云久保天。】漢語鈔云。葉手【比良手。】日本紀云。葉盤八枚【葉盤此云※[田+比]羅耐。】延喜式供奉料の注文に、青※[木+解]干※[木+解]といふことあまた見えたり。曾丹か歌に、榊とる卯月になれはかみ山はならのはかしはもとつ葉もなしとよめるも、神供もるとて下葉まて取つくす心なり。今の世、下さまのものまてくふ物すゆるを、おしきといふも、かしはを折敷しよりいひつたへたるなり
 
442 世間者空物跡將有登曾此照月者滿闕爲家流《ヨノナカハムナシキモノトアラムトソコノテルツキハミチカケシケル》
 
此は痛み/\て立返て物の理を思ふなり、易云、日中(スルトキハ)則|※[日/仄]《カタフキ》、月盈(ルトキハ)則食、釋名曰、月缺也、滿則必(ラス)缺《カク》、
 
初、よのなかはむなしき物とあらんとそ此てる月はみちかけしける
是はいたみ/\てかへりて物のことはりをおもふなり。易云。日中則〓、月盈則食。釋名曰。月缺也。滿則必缺
 
右一首作者 未詳
 
天平元年己巳攝津國班田史生文部龍麿自經死之時判官大伴宿禰三中作歌一首并短歌
 
(32)舊事紀第十云、攝津國造、據2准(スルニ)法令1、謂2攝津職1、初爲2京師1、柏《カシハ》原帝(ノ)代、改v職爲v國(ト)、和名云、攝津國、【延暦十三年(ニ)停(テ)爲v國、】舊事紀の意諸國に准ぜば攝津國造と云べきを攝津職と云しは京師とする故に左右京職に准ずとなるべし、内々には津の國と云云、故に第二十に勝寶七載の防人が歌にも、津の國の海のなぎさにとよめり、今云へるも此意なるべし、班田は令義解云、班(ハ)頒也、田(ハ)所2以殖2五穀1之地也、班田の法、令義解第三に委見えたり、聖武紀云、天平元年十一月癸巳、任2京及(ヒ)畿内班田司1、史生は履中紀云、四年秋八月辛卯朔戊戌、始之於2諸國《クニ/\》1置2國史1、記2言事1達《イタセリ》2四方|志《フミヲ》1、文部龍麿は考る所なし、歌を以て按ずるに遠國の人と見えたり、和名云、安房國長狹郡文部、【波世豆加倍、】此所より出けるにや、第二十に防人の姓名多き中に安房上總に文部氏の者見えたり、經は廣韻云、絞也、縊也、三中は聖武紀云、天平九年三月壬寅、遣新羅使副使正六位上大伴宿禰三中等染病四十人拜朝、十二年正月外從五位下、十九年三月刑部大判事、猶此間處々に見えたり、
 
初、攝津國班田史生
聖武紀云。天平元年十一月癸酉、任京内畿内班田司。令義解云。班領也。田所以殖五穀之地也。およそ田に位田職分田功田公田私田神田守田なとのわかちあり。委令に見えたり。令義解第三云。凡田長三十歩廣十二歩爲段、十段爲町。【謂段地獲稻五十束、束稻舂得米五升也。即於町者、須得五百束也。】段租稻二束二把、町租稻二十二束。【謂田賦爲租也。】凡給口分田者、男二段、女減三分之一。五年以下不給其地。有寛狹者、從郷土法。【謂受田足二段者爲寛、不足者爲狹也。言依上文男女口分既有足法、若郷土少田者、不可必滿其數、故云郷土法。即雖寛博而不餘亦依二段法。不須過越也。】易田倍給。【謂易田者其地薄※[土+脊]隔歳耕種也。倍給者假令應給二段者、即給四段之類也。】給訖具録町段及四至。【謂田之四面所至表〓也。】凡田六年一班。【謂此據未給口分人也。其先已給訖者、不可更收授也。若田有崩埋侵食亦依改班例也。】神田守田不在此限。【謂此則不税田也。縱有崩埋侵食、不可更復加授也。】若以身死應還田者、毎至班年、即從收授。凡應班田者、毎班年、正月三十日申太政官。【謂京國官司各申也。】起十月一日、京國官司、預※[手偏+交]勘造簿。【謂※[手偏+交]勘田反應給人數造簿。】至十一月一日、※[手偏+總の旁]集應受之人、對共給授。二月三十日内使訖。【謂班田之事既連延兩年、恐以兩年※[手偏+總の旁]爲班田年、依上文云毎班年、即知先年、爲班田年。】丈部龍麿。和名集云。安房國長狹郡丈部【波世豆加倍。】史生。履中紀云。四年秋八月辛卯朔戊戌、始之於諸國置國司史、記言事達四方志。自〓死之時。〓をあやまりて經に作る。凡和漢書に、此字やゝもすれは經に作れり。三中、聖武紀云。天平九年正月辛丑、遣新羅使大判官從六位上壬生使主宇太麻呂、少判官正七位上大藏忌寸麻呂等入京。大使從五位下阿部朝臣繼麻呂、泊津嶋卒。副使從六位下大伴宿禰三中、染病不得入京。三月壬寅、遣新羅使副使正六位上大伴宿禰三中等四十人拜朝。十二年正月、外從五位下。十五年六月、兵部少輔。十六年九月甲戌、爲山陽道巡察使。十八年四月、長門守。同月、從五位下。十九年三月、刑部大判事
 
443 天雲之向伏國武士登所云人者皇祖神之御門爾外重衝立侯内重爾仕奉玉葛彌遠長祖名文繼往物與母父爾妻爾子(33)等爾語而立西日從帶乳根乃母命者齋忌戸乎前坐置而一手者木綿取持一手者和細布奉乎間幸座與天地乃神祇乞祷何在歳月日香茵花香君之牽留鳥名津匝來與立居而待監人者王之命恐押光難波國爾荒玉之年經左右二白栲衣手不于朝夕在鶴公者何方爾念座可欝蝉乃惜此世乎露霜置而往監時爾不在之天《アマクモノムカフスクニノモノヽフトイハレシヒトハスメロキノカミノミカトニトノヘニタチマチウチハニツカヘタマカツライヤトホナカクオヤノナモツキユクモノトハヽチヽニツマニコトモニカタラヒテタチニシヒヨリタラチネノハヽノミコトハイハヒヘヲマヘニスヱオキテヒトテニハユフトリモチテヒトテニハヤマトホソヌノマツラフヲマサキクマセトアメツチノカミニコヒノミイカナラムトシノツキヒカツヽシハナニホヘルキミカヒクアミノナツサヒコムトタチテヰテマチケムヒトハオホキミノミコトカシコミオシテルヤナニハノクニヽアラタマノトシフルマテニシロタヘノコロモカハカスアサユフニアリツルキミハイカサマニオモヒマシテカウツセミノオシキコノヨヲツユシモノオキテユキケムトキニアラスシテ》
 
一二の句は遠國の意なり、遠く望めば天雲も地に落たるやうに向ひ伏て見ゆるなり、延喜式祈年祝詞云、皇神  見|霽《ハルカ》  坐四方《マスヨモノ》國者、天壁立|極《キハミ》國退《ソキ》立限青雲靄極《タナヒクキハミ》白雲墜坐《オロヰ》向伏限云云、神之御門〔四字右○〕、神は上にも多かりし君の御事なり、外重爾以下の四句は今の點誤れり、今按侯は候にて、トノヘニタチサモラヒ、ウチノヘニツカヘマツリテとよむべし、禁内には外重中重内重あり、近衛兵衛衛門位に依て面々の護あり、龍麿外衛の勞ありて授刀寮などに遷けるにや、玉葛彌遠長は上にはふ葛の彌遠(34)永くとつゞけたりしに同じ、祖の名とは先祖なり、下に母父にと云故に上は親にはあらず、祖の字をかける其意なり、タラチネは母の枕詞なり、別に注す、帶の字をかけるは古事記序云、亦於2姓日下1謂2玖沙※[言+可]1、於2名(ノ)帶字1謂2多羅斯1、如是此之類隨v奔不v改、これをかれるなり、第十三にもかくかける所あり、和細布は今按今の點の如ば和州より織出すほそ布と云意か、幽齋本の更《マタノ》點にニゴタヘヌノと和せり、絹をにぎたへ、布をあらたへと云は大きに分る時の事なれば、布の中にも細くてやはらかなるあればニギタヘノヌノと讀べきにや、上に木綿取持てと云語勢あれば和細布と云に取持てと云意聞ゆるなり、此所絶句にはあらねど假によみ切て意得べし、茵花は和名云、本草云、茵芋、【因子二音、和名、仁豆々之、一云乎加豆々之、】つゝじの中の別種なり、にほへる君といはむ爲なり、第六にも、につゝじのにほはむ時にとよめり、牛留鳥を引網とよめるは、先牛は人の牽物にて又車を弘田を耕に犂をも引けば何れに付てもヒクと義訓すべし、網は鳥を留る物なれば是また義訓なり、第十一に中々に君に戀ずばあみの浦の、あまならましを玉もかる/\とよめる歌にも留鳥浦とかけり、ナヅサヒコムとつゞけたるは網を手に懸て引時網のより來る意なり、或説にはクロアミとよみて、あみ〔二字右○〕と云は海に住鳥なり、みなくゞるあみのはがひと古歌にもよめる鳥なり、其鳥はせなか(35)の黒き物なり、夫婦よくさそはれありく故になづさひ來むとはよめりといへり、今按烏麻烏帽など黒き物にはからすを云如く、又牛をも黒きためしにいへば、あみ〔二字右○〕だに黒き鳥ならばクロアミと義訓せる方まさりぬべきか、第十五に奥になづさふ鴨とも、にほ鳥のなづさひゆけばとも同じ水鳥によせてよめればなり、牛を引物とても又彼が車などを引とても義訓クロシとよまむよりは髣髴なる上、引網ならば留魚とぞかゝまし、但牛は引、留鳥は網と別に義訓して取合せたりとも云ひ遁るべき歟、又それは猶あみの鳥とても借て書ば同等なるべし、二つの間好まむに隨がふべし、匝の字は音をかやうに轉じて用たること多し、立居而は今按タチヰツヽとも讀べし、而をツヽとよめる例多し、待ケム人ハとは待けむは父母妻子の意なり、人は龍磨なり、押光は難波の枕辭なり、第六に注すべし、オシテルと讀べし、難波ノ國は吉野國泊瀬國の類なり、難波の名は西生郡より起りて府も西生なれども攝津國の中に東|生《ナリ》西|生《ナリ》二郡を難波の大郡と日本紀に云ひ、延喜式には東生に坐ます生國魂《イクタマノ》神社を難波大社と載られたれば、兩郡にも亘り、又一國の※[手偏+總の旁]名ともせり、假令火國の名は肥後國八代郡より始まれども、肥前肥後兩國の惣名とするが如し、今は一國の班田の官人なれば惣名なるべし、衣不干とは事を務むるに勞して汗の出て衣の濕をも(36)脱ほす暇なきなり、朝夕ニ在ツルとは詩に夙夜在v公と云が如し、落句は其天年を終ざる事をいへり、
 
初、天雲のむかふす國の
遠國の心なり。遠く空をのそめは天雲も地に落たるやうに、むかひふしてみゆるなり。神功皇后紀に、天踈向津媛命焉と神託の詞の中にあるも此心なり。延喜式第八、祈年祝詞云。皇神能霽志坐四方國者、天能壁立極、國腦退立限、青雲能靄極、白雲能墜坐向伏限云々。丈部は安房國長狹郡にある郷の名なれは、此龍麻呂はそこより出てみやつかへしけるゆへにかくはつゝくるなるへし。第二十卷に、防人ともの姓名あるをみるに.安房上總に丈部氏のもの見えたり。神のみかとにとは、君の朝廷なり。外重爾立侯内重爾仕奉。此四句をは、とのへに立さふらひてうちのへにつかへまつりてとよむへし。侯は候の字のあやまれると見えたり。禁裏には、外重中重内重あり。玉かつらいや遠なかくとは、かつらはなかくはひてとをくいたる物なれは、をのことく父祖の名をもものゝふはつきゆくへきものなり。されは先祖の名をもつたへんとおもふには、朝廷につかへ、身をたて功をなさてはつたへかたけれは、都にのほるよしをいひて、父母妻子をなくさめてこしらへをくよしをのふるなり。和細布、これをやまとほそぬのとよめるは古語にかなはし。長流か本には、にきたへの布とよめり。にきたへはきぬの惣名、あらたへは布の惣名なる事は治定なれともそれもきぬのやはらかなるにくらふれは布は身にふるゝところもあらけれはこそ、まっはあらたへとはいへ。布の中にもほそくこまやかにをれれを、にきたへといはんことたかふへからす。和布とかきてしつとよめり。しつぬさなといひて、神にたてまつる物なれは、しつのほそぬのなともよむへきか。ひとてにはにきたへの布といふをは、上にゆふ取もちてといへるかことし。にきたへの布取持てといふやうに心得て、まつかりによみきるへし。まつろふをとは、龍麻呂か君につかへまつるをなり。まさきくませとは、眞幸いませなり。日本紀に平安とかきてさきくとよめり。神にこひのみ、のむもいのるなり。こゝに?の字をかける、すなはち字のことし。是まては、故郷にて母の龍麻呂か道すからもつゝかなく都にいたりても平安ならんことを神にいのり申てまつるなり。日本紀に叩頭とも請罪ともかきて、ともにのむとよめるは、とかあるをゆるされよと謝する心なれは、?の字をかけるよりはちとおもし。茵花、和名集云。本草云。茵芋【因于二音。和名仁豆豆之。一云乎加豆々之。】第六に、龍田路のをかへのみちににつゝしのにほはん時のなとよめるこれなり。延喜式に、にはつゝしと點をくはへたるは、もとはにつゝしにと有けんを、此集なともみす、和名集をもか人かへさる人、につゝしといふかかたことのやうになれは、庭つゝしにてありけんにはの字の落たるかとてそへたるなるへし。和名集をみるに、羊躑躅は、いはつゝし、もちつゝし、山榴は、あいつゝしとあれは、いはつゝしはもちつゝしの事にて、あいつゝしは山榴とかける心、俗にいふさつきか。につつし、をかつゝし、おなし名ならは、野山にあかくておほくさくをいふなるへし。羊躑躅は、大かた總名にいへり。にほへる君かとは、鼻に入香を匂ふといふにはかはれり。此集に艶の字をもよみて、紅顔のうるはしき色なとをいへり。月日、霞なとのにほふといふも色なり。牛留鳥のなつさひこんと、此牛留鳥とかけるを、今の本には、ひくあみのとよみ、長流か昔の抄に、くろあみともよめり。先牛の字を引とよめるは、牛は人のひくものなり。又車をも引、田をすくにからすきをもひけは義をもてよめり。網は鳥をとゝむる物なれは、是も義をもてかけり。あみ引時其網を手にかけてひけは、いつくまてもしたかひ來る物なれはかくよめり。くろあみとよむ心は牛にもくろきにあらぬもあれと、おしなへてくろうしといへは、牛といふ字をくろとも讀へし。くろき物に烏の字をつけて、烏麻、烏〓、烏梅、烏蛇なといふかことし。あみといふは海に住鳥なり。水くゝるあみのはかひなとよめる鳥なり。其鳥はせ中のくろきものなり。夫婦よくさそはれありくゆへに、くろあみのなつさひこんとはよめりといへり。にほ鳥あしかもなとを、なつきひゆくとおほくよみたれは、けにもあみといふ鳥の事ともいふへし。待けん人は待けんは故郷の父母妻子の心なり。人は龍麻呂なり。以上は故郷の人の心中をおしはかりてのへ、おほきみのといふより下は龍麻呂か奉公の勤勞をいへり。衣かはかすとは、あせなとにぬれたるをもぬきほすまなく、詩に夙夜在公といふかことく、をこたらぬなり。時にあらすしては、その天年をゝへさることをあはれふなり
 
反歌
 
444 昨日社公者在然不思爾濱松之上於雲棚引《キノフコソキミハアリシカオモハヌニハママツノウヘニクモニタナヒク》
 
此發句、昨日こそ早苗取しか昨日こそ年は暮しかとよめるには替て意得やすからず、昨日までこそ慥に在しかの意なり、西行の、昨日の人も今日はなき世にとよめる是なり、雲ト棚引とは火葬の煙なり、社の字をコソとよむことはこそは願ふ詞なり、社は古今にねぎごとをさのみ聞けむ社とよめる如く萬の人の詣てさま/”\の事をいのる所なればなるべし、神に仕ふる者を禰宜と云も自他の事を神にねぐ者なればこそと同じく用を以て体に名付る歟、巨曾部と云氏を日本紀に社部とかけり、今それを借て書なり、六帖にかなしひの歌に此二首を載たるに公者在然を妹はと改たるは如何、
 
初、きのふこそきみは有しか
西行上人の、きのふの人もけふはなき世にといへるにおなし。雲とたな引は火葬せしなるへし
 
445 何時然跡待牟妹爾玉梓乃事太爾不告徃公鴨《イツシカトマツラムイモニタマツサノコトタニツケスイヌルキミカモ》
 
(37)イツシカのし〔右○〕は助語なり、往を六帖にはいにしとあり、
 
天平二年庚午冬十二月太宰帥大伴卿向京上道之時作歌五首
 
446 吾妹子之見師鞆浦之天木香樹者常世有跡見之人曾奈吉《ワキモコカミシトモノウラノムロノキハトコヨニアレトミシヒトソナキ》
 
鞆浦は備後なり、鞆浦のむろの木は第十五にもよめり、昔名木有けるなるべし、常世ニアレドとはときはにあれどなり、彼木も常葉木なれど、此は昔より今に至るを云なり、むろを第十六には天木香とかけり、今に依に水は木を誤れる歟、天木香と云香あり.若外國のむろの木に香あるか、和名云、爾雅注云、※[木+聖]、一名河柳、【※[木+聖]音勅貞反、和名無呂、】とのみありて、天木香と書よし見えず.後人考ふべし、今按※[木+聖]をむろとする事も亦分明ならざる歟、爾雅云、※[木+聖]、河柳、註、今河旁赤莖小楊(ナリ)、疏、※[木+聖]、一名河柳、郭云、今河旁赤莖小楊、陸機疏云、生2水旁1、皮正赤如v絳、一名雨師、枝葉如v松、これに依るに河柳と注せるにては楊の類にてかはやなぎと訓ずべし、和名云、本草云、水楊、【和名、加波夜奈木、】楊と柳との外に出されたれば是にや、野王が玉篇に、楊、柳の字と一處における此意なり、然れば和名に爾雅注(38)を引れたる疑はし、但陸機疏に一名雨師、枝葉如v松といへるはむろにやと聞ゆるを、一名といへるは猶河柳と定て其別名と聞ゆるにや、又雨師と云も柳に付ての名にや、水に宜しき木なればなり、むろは水邊を好む木にあらず、又むろをば枝葉如v松とは云べし、皮赤き木にあらず、又陸機疏に付ても雨師は河柳の別名ならば枝葉如v松といへるも甚非類なるか、和漢ともに疑殘れり三代實録に和州宇※[こざと+施の旁]郡室生山を※[木+聖]生山とかゝれ、本朝文粹三善清行の意見封事の第十二條に、山陽西海南海三道舟船海行之程、自2※[木+聖]生《ムロフノ》泊1至2韓泊1一日行云云、昔よりむろと定めて用來る事、かくの如し、
 
初、天木香樹
いまたかんかへす。和名集云。爾雅注云。〓一名河柳【〓音勅貞反和名無呂。】今案此〓にかはやなきと、むろとのふたつの訓ありとみえたり。一名河柳といへるは、川やなきなるを、こゝに引なから辨せすして和名無呂といへるは、順のあやまりなり。唐詩に〓陰なと作れるは、川やなきなり。楊も川やなきなれは、一物の上の二名にや。玉篇に楊柳二字に繼て〓の字を出して、説文河柳とのみありて、無呂の別訓なし。とこよにあれとゝは、ときはにあれとゝいふ心なり。第十五にも、とものうらのむろの木をよめる歌二首あり。其此名高き大木にてこそ有けめ
 
447 鞆浦之礒之室木將見毎相見之妹者將所忘八方《トモノウラノイソノムロノキミムコトニアヒミシイモハワスラレメヤモ》
 
腰の句新勅撰にはみるごとにとあり、意を改られけるなり、今の點字に叶へり、落句もわすられむやはとあり、昔の點にこそ、
 
448 礒上丹根蔓室木見之人乎何在登問者語將告可《イソノウヘニネハフムロノキミシヒトヲイカナリトトハハカタリツケムカ》
 
落句は物いはぬ木なれば語りだにえ告じとなり、
 
右三首過鞆浦日作歌
 
(39)449 與妹來之敏馬能埼乎還在爾獨而見者涕具末之毛《イモトコシミヌメノサキヲカヘルサニヒトリシテミレハナミタクマシモ》
 
涙グマシモは仁徳紀に國依媛が歌にも、山背の筒城の宮に物申す、我が背を見れば涙ぐましもとよめり、
 
450 去左爾波二吾見之此埼乎獨過者惰悲喪《ユクサニハフタリワカミシコノサキヲヒトリスクレハコヽロカナシモ》 【一云見毛左可受伎濃】
 
悲哀は二字を并せてカナシと讀ても〔右○〕はよみつくるなり、若は哀は裳の字喪の字などのまがひたるか、注の見毛サカズキヌとは第一に見さけん山と云歌に注せし如く見ても思ひをさけて慰まずして來るとなり、
 
初、ゆくさには
筑紫へ下りさまはなり。悲哀とかさてかなしもとよめるは、哀の字は裳のあやまれる歟。又悲哀をかなしとよみて.ものかんなはよみつけたる歟。ゆくさかへるさのさの字は、さまの略字なり。古今集に、かへるさまには道もしられすとよめるは、つふさにいへるなり。注の、みもさかすきぬとは、見もさけす來ぬにて、ふたり見し此崎そとおもへは、なこりおしくてめもはなたす見て過くるとなり
 
右二首過敏馬埼日作歌
 
還入故郷家即作歌三首
 
451 人毛奈吉空家者草枕旅爾益而辛苦有家里《ヒトモナキムナシキイヘハクサマクラタヒニマサリテクルシカリケリ》
 
上に臨近向v京之時作歌に、都なるあれたる家に獨りねばとある歌を踏たるなり、案の如く旅に益てくるしとなり、
 
初、人もなきむなしき家は
これはさきに、都なるあれたる家にひとりねは旅にまさりてくるしかるへしといふ歌をふみて、我なから返歌のやうにまことにしかりとよめるなり
 
(40)452 與妹爲而二作之吾山齋者木高繁成家留鴨《イモトシテフタリツクリシワカヤマハコタカクシケクナリニケルカモ》
 
爲而、【六帖云、ヰテ、】  山齋、【六帖云、ヤト、】
 
一二の句は妹と二人。とや作らましかくや作らましと談合して作るなり、山齋は築山の間に作れる書齋歟、山は※[手偏+總の旁]にして齋は山の中の別なれば別を※[手偏+總の旁]に屬して引合せてヤマとは點ぜるか、第二十にも屬《ツケテ》2目(ヲ)山齋1作歌といへり、共に作りし妻は歸らで老たる人の獨皈て見られけむ心思ひやるべし、土佐日記の末に此感に似たる事あり、
 
初、いもとしてふたり作りし
妹とふたりしてつくるなり。山齋とかけるは築山なとの陰につくれる書齋なり。山は惣にして齋は山の中の別なれは、別を惣に屬して引合てやまとはよめるなり。第二十云。屬目山齋作歌三首。假山を作る事は、往古も有けるにや。尚書云。爲山九仞、功虧一簣。論語子罕篇云。子曰、譬如爲山、未成一簣、止我止也。譬如平地、雖復一簣進我往也。これはまうけていへる事歟。西京雜記云。茂陵富人袁廣漢、築園四五里、激流水注其内。構已爲山、高十餘丈。此假山之始也。木高くしけくなりにけるかもとは、ともにかへりてみるも、よろつうつりかはりて心ほそかるへきに、ふたり談合してつくれる庭を、老たる人のひとり歸てみられけんは、今たに心をいたましむるにたれり。土佐日記に、京の家にかへりてつけることをかけるにいはく。さて池めいてくほまり水つける所あり。ほとりに松もありき。いつとせむとせのうちに千年や過にけん、かた枝はなくなりにけり。今おひたるそましれる。大かた皆あれにたれはあはれとそ人々いふ。おもひ出ぬ事なくおもひ戀しきかうちに、此家にてうまれし女兒のもろともにかへらねは、いかゝはかなしき。舟人もみな子抱てのゝしる。かゝるうちに猶かなしひにたへすして、ひそかに心しれる人といへりける歌
むまれしもかへらぬものをわかやとに小松のあるをみるかかなしさとそいへる。なをあかすやあらん、又なん
見し人を松の千とせにみましかは遠くかなしき別せましや。妻をうしなふと子をうしなふと相似たり。任所より歸て故郷をみる感猶あひおなし
 
453 吾妹子之殖之梅樹毎見情咽都追涕之流《ワキモコカウヱシウメノキミルコトニコヽロムセツヽナミタシナカル》
 
心ムセツヽは毛詩云、中心如v噎《ムスルカ》、
 
初、わきもこかうへし梅の木みることに
第十一に、君こすは形見にせんと我ふたりうへし松の木きみをまち出ん
 
天平三年辛未秋七月大納言大伴卿薨之時謌六首
 
明軍五首人上一首合て六首なり、
 
初、天平三年辛未――
聖武紀云々。天平三年秋七月辛未、大納言從二位大伴宿禰旅人薨。難波朝右大臣大紫長徳之孫、大納言贈從二位安麻呂之第一子也。懷風藻云。從二位大納言大伴宿禰旅人一首【年六十七】
 
454 愛八師榮之君乃伊座勢波昨日毛今日毛吾乎召麻之乎《ヨシヱヤシサカエシキミノイマシセハキノフモケフモワレヲメサマシヲ》
 
(41)發句は第二に云如くハシキヤシとよみて惜きかなと意得べし、榮シ君も亦第二の如し、下の句も第二に日並皇子の舍人が昨日も今日もめすこともなしとよめるに同じ、
 
初、よしゑやし
愛八師と書たれは、はしきやしともよむへし。第二卷日並皇子尊薨し給ひし後、舍人等かよめる歌の中に、ひんかしのたきのみかとにさもらへときのふもけふもめすこともなし。下の句おなし心なり
 
455 如是耳有家類物乎芽子花咲而有哉跡問之君波母《カクシノミアリケルモノヲハキノハナサキテアリヤトトヒシキミハモ》
 
發句は今按第十六の歌に如是耳爾有家流物乎云云、これに准ずるにカクノミニとよむべし、腰の句以下は第六云、大納言大伴卿在寧樂家思故郷歌二首、これ天平三年と標したるに其歌に云、さしすきのくるすの小野のはぎの花、ちらん時にし行て手向む、此卷の終に此卿の事を後人の注したるに七月朔日薨とあれども聖武紀には秋七月辛未薨とのみありて某支干の朔日辛未といはざれば何の日と知がたし、されども第六の歌を思ふに秋に入てよまれたるべければ初萩の咲ぬべき比になりて咲たりやととはれたる事をよめるなるべし、第二に天武天皇崩御の時太后のよませ給へる御歌に此歌を引て注せり、今は又彼を引
 
初、かくしのみ有けるものを
これは第二に、天武天皇崩御の時太后のよませたまへる御歌に、夕されはめしたまへらし.あけくれはとひたまへらし、神をかの山のもみちを、けふもかもとひたまはまし、あすもかもめしたまはましとある心にゝたり
 
456 君爾戀痛毛爲便奈美蘆鶴之哭耳所泣朝夕四天《キミニコヒイトモスヘナミアシタツノネノミナカルヽアサヨヒニシテ》
 
(42)哭耳所泣は今按ネニノミナカルと讀べし、
 
初、哭耳所泣
これをはねをのみそなくとよむへし
 
457 遠長將仕物常念有之君師不座者心神毛奈思《トホナカクツカヘムモノトオモヘリシキミシマサネハタマシヒモナシ》
 
458 若子乃匍匐多毛登保里朝夕哭耳曾吾泣君無二四天《ミトリコノハヒタモトホリアサヨヒニネニソワカナクキミナシニシテ》
 
タモトホリはた〔右○〕は助語にてもとほりなり、哭耳はネノミとよむべし、
 
初、みとりこのはひたもとほり朝ゆふにねのみそわかなく君なしにして
垂仁紀云。詔羣卿等曰。譽津別王、是生年既三十、髯鬚八掬、猶泣如兒、常不言.何由矣。神代紀上云。伊弉諾尊、則匍匐頭邊、匍匐脚邊而、哭泣流涕焉。雄略紀云。於是大泊瀬天皇、彎弓驟馬而陽呼曰。猪有。即射殺市邊押磐皇子。皇子帳内佐伯部賣輪【更云伸子】抱屍駭※[立心偏+宛]不解所由、反側呼號、往還頭脚。詩注云。匍匐、兒以手行也。たは助語なり。耳は此集大かたのみとよむ所に用たり
 
右五首仕人金明軍不勝犬馬之慕心中感緒作歌
 
官本に仕を資に作れり、元正紀云、養老五年三月辛未、賜帶人資人四人とあれば其中の一人なるべし、不v勝2犬馬之慕1は史記三王世家云、臣竊不v勝2犬馬心1、文選曹子建上2責v躬應v詔(ニ)詩1表云、不v勝2犬馬戀v主之情1、謹拜表并獻2詩二篇1、慕下に述等の字を脱せるか、
 
初、犬馬
史記三王世家云。臣竊不勝犬馬心。文選劉※[王+昆]勸進表云。不勝犬馬憂國之情、遲覩人之神開泰之路。曹子建上責躬應詔詩表云。不勝犬馬戀主之情、謹拜表并獻詩二篇。謝玄暉拜中軍記室辭隨王牋尾云。攬涕告辭、悲來横集、不任犬馬之誠。遊仙窟云。犬馬何識尚解傷離。莫の下に字をおとせり。述の字なとにもやあらん
 
459 見禮杼不飽伊座之君我黄葉乃移伊去者悲喪有香《ミレトアカヌイマセシキミカモミチハノウツリイユケハカナシクモアルカ》
 
不飽、【幽齋本云、アカス、】
 
不飽は幽齋本の如くよむべし、三四の句伊は發語の詞、第一に人麿のみくさ刈あら(43)野にはあれど葉過行とよまれたる歌に注せし如し、落句の香はカモにて哉なり、
 
右一首勅内禮正縣犬養宿禰人上使※[手偏+僉]護卿病而醫藥無驗逝水不留因斯悲慟即作此歌
 
人上系圖等未v詳、聖武紀云、神龜四年十二月丁丑、正三位縣犬養橘宿禰|三千代《ミチヨ》言、縣犬養連五百依、安麻呂、小山守、大麻呂等、是一祖子孫骨肉|孔《ハタ》親、請共(ニ)沐2天恩1同給2宿禰姓1、詔許v之、逝水不留〔四字右○〕は論語云、子在(シテ)2川上(リニ)1曰、逝者如v斯、夫不v舍《トヽメ》2晝夜1、悲慟〔二字右○〕、又云、顔淵死、子哭v之慟(ス)云云、
 
初、縣犬養宿禰
聖武紀云。神龜四年十二月丁丑、正三位縣犬養橘宿禰三千代言【三千代者淡海公之後妻左大臣橘朝臣諸兄之外祖母也】縣犬養連五百依、安麻呂、小山守、大麻呂等、是一祖子孫、骨肉孔親。請共沐天恩、同給宿禰。詔許之。逝水不留、論語云。子在川上曰。逝者如斯夫、不舍晝夜。悲慟、論語云。顔淵死。子哭之慟。從者曰。子傷矣。曰有慟乎、非夫人之爲慟而誰爲
 
七年乙亥大伴坂上郎女悲嘆尼理願死去作歌一首并短歌
 
460 栲角乃新羅國從人事乎吉跡所聞而問放流親族兄弟無國爾渡來座而太皇之敷座國爾内日指京思美彌爾里家者左(44)波爾雖在何方爾念鷄目鴨都禮毛奈吉佐保乃山邊爾哭兒成慕來座而布細乃宅乎毛造荒玉乃年緒長久住乍座之物乎生者死云事爾不免物爾之有者憑有之人之盡草枕客有間爾佐保河乎朝川渡春日野乎背向爾見乍足氷木乃山邊乎指而晩闇跡隱益去禮將言爲便將爲須敝不知爾徘徊直獨而白細之衣袖不干嘆乍吾泣涙有間山雲居輕引雨爾零寸八《タクツノヽシラキノクニニヒトコトヲヨシトキカシテトヒサクルヤカラハラカラナキクニヽワタリキマシテスメロキノシキマスクニニウチヒサスミヤコシミミニサトイヘハサハニアレトモイカサマニオモヒケメカモツレモナキサホノヤマヘニナクコナスシタヒキマシテシキタヘノイヘヲモツクリアラタマノトシノヲナカクスマヒツヽイマシヽモノヲイケルヒトシヌトイフコトニマヌカレヌモノニシアレハタノメリシヒトノコト/\クサマクラタヒニアルマニサホカハヲアサカハワタリカスカノヲソカヒニミツヽアシヒキノヤマヘヲサシテユフヤミトカクリマシヌレイハムスヘセムスヘシラニタチトマリタヽヒトリシテシロタヘノコロモテホサスナケキツヽワカナクナミタアリマヤマクモヰタナヒキアメニフリキヤ》
 
國從、【幽齋本云、クニユ、】  所聞而、【幽齋本云、キカシテ、】
 
栲角はシラキを白と云意につゞけむとての枕詞なり、委は別に注す、は古事記上|沼河日賣《ヌナカハヒメ》歌云、多久豆怒能斯路岐多陀牟岐云云、所聞而はキカシテとよめるに從がふべし、よしと聞てなり、風俗淳厚にして三寶を淨信すなど我國の事なれば有るにも過て語るべし、問サクルとは問は云なり、さくるは思ひをさくるなり、光仁紀に左大臣(45)藤原永手の薨じ給ける時の詔詞に云|朕《ワカ》大臣、誰【爾加毛】我語【比佐氣牟、】孰【爾加毛】我問【比佐氣牟、】云云、此れ思召す事を誰に語りてか思ひをさけむ誰に云ひてか思ひをさけんとのたまふなれば、今もうしろやすく物など云て思ひをさけやるべき親族もなき國に來ると云なり、内日指は宮の枕詞なり、別に注す、都とつゞくるもみやと云につゞく、又都は宮ある處なればなり、ツレモナキ佐保ノ山ベニとは此つれもなきは戀などに心づよき人を云には替れる歟、第六に押照や難波の國は、蘆垣の古にし里と、人皆の思ひ休て、つれもなく有し間に云云、第十三には式島の大和の國に、いかさまに思し召てか、つれもなき城上の宮に云云、此等獨行旅人などのつれもなしと云やうにつれ/”\とある心に聞ゆるにや、哭兒成慕來マシテとは若子の泣て親を慕ひ來る如くなり、布細ノ家とは帝の天が下を知召を敷ます國とよめる如く平人も分々に家は敷治むる物なれば云へり、タノメリシ以下の四句は理願がたのみし人々の有馬の湯にある間になり、夕闇ト隱レマシヌレは夕やみに物の見えぬ如く隱行なり、ましぬればと云はぬは古語上に云が如し、
 
初、たくつのゝしらきのくにゆ
仲哀紀云。八年秋九月乙亥朔己卯、詔群臣以議討熊襲。時有神託皇后、而誨曰。○有寶國、譬如美女之〓、有向津國、眼炎之金彩色多在其國。是謂拷衾新羅國焉。若能祭吾者、則曾不血刃、其國必自服矣。まつこのたくふすまとのたまへるは、しらきといはん枕詞なり。神託の詞には、かう/\しく優長なる事此類おほし。拷の字、たくともたへともよみて.ともに白きといふ古語なり。衾は夜の物なり。しらきといふを、白きといふことになして、拷衾しらきとはのたまへり。又此集第十四東歌に、たくふすましら山風ともつゝけよめり。これまた白きといふ詞まうけんとていへるおなし心なり。所詮白き心にいはんとてなれは.こゝにはたくふすまとはいはて、たくつのゝしらきとつゝけられたり。第二十に、家持防人の別をかなしふ心をよまれける歌には、ちゝのみのちゝのみことはたくつのゝしらひげのうへゆ、なみたたりなけきのたはくなとつゝけたるも、老たる父のひけのしろきをいはんとて、たくつのといへは、白きをいほんに何にもつゝくることはなり。拷の字此集には栲に作る。顧野王玉篇云。【苔道木名山切栲也。】拷【苦老切、打也。】二字ともにたくともたへともよむへきことはりをしらす。二字の中には拷の字を正とすへき歟。舟をたくといふ詞もあり。繩をたくといふ詞もあれは、他の義をひろく擧たる字書には、此字にたくといふ心も有ぬへし。されとも和訓をかりて用るなり。白の字の體にあたりて用るにはおなしかるへからす。神代に、栲幡千々姫と申名も、拷は白なるへし。新羅は、崇神紀に※[奚+隹]林とかきてもしらきとよめり。舊唐書東夷傳云。新羅國本辨韓之苗裔也。其國在漢時樂浪之地、東及南方倶限大海、西接百濟、北隣高麗。東西千里、南北二千里。城邑村落、王之所居、曰金城、周七八里、兵衛三千人、設獅子隊、文官凡有十七等云々。高僧傳云。其新羅國、魏曰斯慮、宋曰新羅、本東夷辰韓之國矣。人ことをよしときかれて、人事とは書たれとも人言なり。新羅に有し時、かの國の人とち、日本はよき國にて、人も三寶を淨信すなとかたるを聞てなり。又その國より新羅へゆく人もわか住方なれは、あるよりはよくかたりなすなるへし。とひさくるやからはらからなき國にわたりきまして。とひさくるとは、ことゝひてうれへをとをさけてなくさむるなり。第五に山上憶良の妻の身まかりける時の挽歌にも、石木をもとひさけしらすとよめり。此集ならひに日本紀なとの歌の習、をといふへきをも、にといひ、にといふへきをは、をといへることおほし。石木をもといふは、いは木にもなり。石木は物いはぬ物なれは、石木にむかひてもなけきをかたりておもひをさくへきやうをしらぬとなり。ことゝはぬといふは、ものいはぬといふ事なれは、とひさくるは、いひさくるなり。第十九に家持、白大鷹をよまれたる歌にも、都をもこゝもおやし【國也】と、心にはおもふものから、かたりさけみさくる人め、ともしみとおもひししけしなとよめり。見さくるは、心ある人なとにあひ見ておもひおをやるをいへり。光仁紀に、藤原左大臣永手の薨したまひける時の詔詞にいはく。朕大臣誰【爾加毛】我語【比佐氣牟。】孰【爾加毛】我問【比佐氣牟止。】内日さすみやこしみみに、うちひさすは、高き宮殿の軒をとそりたるより内に日のさしいるゆへに、つゝくるなり。委は別に注して附たり。しみゝは、しけきなり。集中におほきことはなり。つれもなきさほの山へに.なくこなすしたひきまして.つれもなきは、心つよきなり.此さほの山への、かゝるあさましき所に、心つよくたへてすむといふ心なり。第六に、笠朝臣金村の歌に、おしてるやなにはの國は、あしかきのふりにしさとゝ.人みなのおもひやすみて、つれもなく有しあひたにとよめり。第十三には、しきしまのやまとのくにゝ、いかさまにおほしめしてか、つれもなききのうへの宮に、大殿をつかへまつりてとよめり。又旅なとにともなふ人をつれといふことく、あたりにさしならふ隣もなきをいふにや。又三首なからつれ/\とあるやうにもきこゆれと、つれ/\なるをつれもなきといへることをいまたきかねは、先心つよきにつくへきにや。なくこなすはちこのおやをしたふことくなり。しきたへのいへをもつくり、家は人の住なれ、敷ふるすゆへにかくそいへる。又みかとの天か下をしろしめすを、しきます國なとよめることく、常人も分々に家はしきおさむる物なれはともいふへし。いける人しぬといふことにまぬかれぬ、生者必滅のことはりなり。第二に、世間をそむきしえねはといひたるにおなし。たのめりし人のこと/\、こと/\はこと/\くなり。草枕旅にあるまに、理願か何事も頼ける人の、有馬の湯に有ほとになり。後の注に見えたり。かくれましぬれ、かくれいましぬれはなり。さほ川といふより葬送をいへり
 
反歌
 
(46)461 留不得壽爾之在者敷細乃家從者出而雲隱去寸《トヽメエヌイノチニシアレハシキタヘノイヘヲハイテヽクモカクレニキ》
 
右新羅國尼曰理願也遠感王徳歸化聖朝於時寄住大納言大將軍大伴卿家既※[しんにょう+至]數紀焉惟以天平七年乙亥忽沈運病既趣泉界於是大家石川命婦依餌藥事往有間温泉而不會此哀但郎女獨留葬送屍枢既訖仍作此歌贈入温泉
 
官本尼の下に名の字あり、尤有ぬべし、今の本脱たり、大納言大將軍大伴卿は安麻呂にて坂上郎女の父なり、※[しんにょう+至]は逕に改たむべし、此集中經の字に通用したる事多し、紀は十二年を一紀と云へば數紀は四五十年なるべし、大家は後漢書曹大家傳云、和帝數々召(シテ)入v宮、令d2皇后貴人1師(トシ)c事焉u、號(ヲ)曰2大家(ト)1、石川命婦は第四云、大伴坂上郎女之母石川内命婦云云、第二十云、内命婦石川朝臣諱曰色婆云云、依餌藥事往有間温泉〔依餌〜右○〕とは、病氣に依て藥を用らるゝ事あるに付て又湯治(47)も、然るべからむ歟とて行なり、服藥の爲に有間へ往と云にはあらず、肝哀〔二字右○〕、官本哀を喪に改たむ、
 
初、大納言大將軍
元明紀云。和銅七年十一月爲左將軍。既逕數紀、集中經多作逕。十二年紀曰。大家石川命婦、大家、如〓。石川命婦者大伴卿之後妻耶。光仁紀云。天應元年八月丁亥朔甲午、正四位上大件宿禰家持爲左大辨兼春宮大夫。先是連母憂解任、至是復焉。懷風藻によるに大伴卿六十七歳にて、天平三年に薨せらる。前妻は神龜五年戊辰に身まからる。此年大伴如卿六十四歳なれは、そのゝち後妻をまうけらるへきよはひにあらすやとおもへと、光仁紀の文と、こゝの注とをもて見るに、まうけられけるなるへし。しかれは此坂上郎女とあるは、末にいたりて家持妹といへるもの有。それなるへし。あはれにやさしき歌なり。右新羅國尼此下に名の字あるへきをおとせる歟
 
十一年巳卯夏六月大伴宿禰家持悲傷亡妾作歌一首
 
462 從今者秋風寒將吹烏如何獨長夜乎將宿《イマヨリハアキカセサムクフキナムヲイカテカヒトリナカキヨヲネム》
 
家持集と云物には雜に入、六帖は悲しひに入る、新古今に秋に入られたる事おぼつかなし、
 
弟大伴宿禰書持即和歌一首
 
早世せられたる由第十七に見えたり、其故にや續日本紀に載られず、
 
463 長夜乎獨哉將宿跡君之云者過去人之所念久爾《ナカキヨヲヒトリヤネムトキミカイヘハスキニシヒトノオモホユラクニ》
 
六帖に上の歌と同じく載たるを君ガイヘバを妹がとあるはいかにぞや、
 
又家持見砌上瞿麥花作歌一首
 
464 秋去者見乍思跡妹之殖之屋前之石竹開家流香聞《アキサラハミツヽオモヘトイモカウヱシヤトノナテシコサキニケルカモ》
 
(48)秋サラバを六帖に秋さればとあるは非なり、上に六月と有て此次下に移朔而後とあれば此歌は夏にして秋を末に懸て秋の來らばと云意によめる故なり、
 
移朔而後悲嘆秋風家持作歌一首
 
465 虚蝉之代者無常跡知物乎秋風寒思努妣都流可聞《ウツセミノヨハツネナシトシルモノヲアキカセサムクシノヒツルカモ》
 
秋風寒、【幽齋云、アキカセサムミ、】
 
第四の句アキカゼサムミと讀べし、無常の理を思ひて歎く心を制すれど、時しも秋風寒き折節なればことわりを知かひなくなき人の偲ばるゝとなり、古今に秋風の身に寒ければつれもなき人をぞ憑むくるゝ夜ごとにとさへ讀たれば、相思ふ中の長き別には誠にさりぬべし、
 
初、うつせみの代はつねなしと知ものを秋風さむみしのひつるかも
もとより世は常なき物にて、會者定離のことはりありと知なから、時しも秋風さむきおりふしなれは、ことはりを知かひなく、なき人のしのはるゝとなり
 
又家持作歌一首并短歌
 
466 吾屋前爾花曾咲有其乎見杼情毛不行愛八師妹之有世婆水鴨成二人雙居手折而毛令見麻思物乎打蝉乃借有身在(49)者露霑乃消去之如久足日木乃山道乎指而入日成隱去可婆曾許念爾※[匈/月]己所痛言毛不得名付毛不知跡無世間爾有者將爲須辨毛奈思《ワカヤトニハナソサキタルソヲミレトコヽロモユカスヨシヱヤシイモカアリセハミカモナスフタリナラヒヰタヲリテモミセマシモノヲウツセミノカリノミナレハトケシモノキエユクカコトクアシヒキノヤマチヲサシテイリヒナスカクレニシカハソコオモヒニムネコソイタメイヒモカネナツケモシラスアトモナキヨノナカニアレハセムスヘモナシ》
 
雙居、【袖中抄云、ナミヰテ】  霜霑乃、【校本點云、シモトケノ、官本、作點霜乃、點云、トケシモノ、】
 
愛八師は前々に云如くハシキヤシと讀べし.ミカモナスは鴨の如くなり、毛詩云、關々雎鳩、在2河之洲1、窈窕淑女、君子好逑(ナリ)、蘇武が李陵に別るゝ辞云、雙鳧倶北飛、一鳧獨南翔、張華が鷦鷯賦序云、乘居(ト)匹遊(ト)、孝徳紀云、皇太子聞造媛|徂逝《シヌト》、愴然傷怛《イタミタマフテ》、哀泣(コト)極甚、於是野中川原史滿進而奉v歌、々曰、耶麻鵝播爾烏志賦※[手偏+施の旁]都威底陀※[鹿/呉]※[田+比]預倶《ヤマガハニヲシフタツヰテタグヒヨク》、陀※[鹿/呉]陛屡伊慕乎多例柯威※[人偏+爾]?武《タグヘルイモヲタレカヰニケム》、惜有身在者〔五字右○〕、投此句は惜を借に作てカレルミナレバと讀べし、第二十にもみづほなすかれる身なればとよめり、今の點にては有の字に叶はず、霜霑乃は校本の如くシモトケノとよまばよく字にかなふべきか、ソコオモヒニは、其事を思になり、世間爾有者は、ヨノナカナレバともよむべし、
 
初、わかやとに花そ咲たるそれをみれと
それをみれともなり。心もゆかすとは、水なとのせかれたるやうに心のふさかるなり。愛八師、これをははしきやしと讀へし。みかもなすふたなならひゐ、かものことくなり。文選に、蘇武か李陵にわかるゝ時の詩にも、雙鳧倶北飛、一鳧獨南翔と作れり。惜有身在者、これをかりの身なれはと點せり。今の本のまゝならは、おしかる身なれはとよむへし。和鮎のこゝろならは、惜を借にあらためて、かれる身なれはとか、かりなる身なれはとかよむへし。霜霑乃これをとけしもとよむは義訓なり。日本紀に、日月とかきて、つきひとよめる心は、もろこしには日月といひなれ、此國にはつきひといひなるれは、字にあたりてはさかさまなれともその國のたよりにしたかひてよめり。そこおもひにとは、そこはくのおもひといふにはあらす。此集にそれをおもふといふを、そこおもふとよめることおほし
 
反歌
 
(50)467 時者霜何時毛將有乎情哀伊去吾妹可若子乎置而《トキハシモイツモアラムヲコヽロイタクイユクワキモカミトリコヲオキテ》
 
發句のしも〔二字右○〕は助語にて死してゆかむと思はゞ行時はいつにてもあらむ物をとなり、イユクは發語の詞を加へたり、ワキモカのか〔右○〕は哉なり、上の時ハと云は時しもあれ秋やは人の別るべきとよめる如くはあらず、若子の人ならぬを置て行をいへり、
 
468 出行道知末世波豫妹乎將留塞毛置末思乎《イテヽユクミチシラマセハカネテヨリイモヲトヽメムセキモオカマシヲ》
 
469 妹之見師屋前爾花咲時者經去吾泣涙未千爾《イモカミシヤトニハナサクトキハヘヌワカナクナミタイマタヒナクニ》
 
悲渚未息更作歌五首
 
470 如是耳有家留物乎妹毛吾毛如千歳憑有來《カクシノミアリケルモノヲイモヽワレモチトセノコトクタノミタリケル》
 
發句上に云如くカクノミニと讀べし、
 
初、かくしのみ有けるものを
かくはかりみしかき妹か命にて有けるものを、さるへしともしらてといふこゝろなり
 
471 離家伊麻須吾妹乎停不得山隱都禮情神毛奈思《イヘサカリイマスワキモヲトヽミカネヤマカクシツレタマシヒモナシ》
 
山隱都禮は山がくれつればなり、
 
初、家さかりいますわきもを
家をとをさかるなり。山かくれつれとは、山かくれつれはなり。墓おさむることなり
 
(51)472 世間之常如此耳跡可都知跡痛情者不忍都毛《ヨノナカノツネカクノミトカツシレトイタムコヽロハシノヒカネツモ》
 
世間之常とつゞけて常に定まれる理と云なり、不忽都毛は今按不の字の下に得の字を脱せるか、或は忍不得なるべし、今のまゝにては義通ぜず、集中に不得をカネとあまたよめり、
 
初、不得忍とか忍不得とかきて、しのひかねとはよむへし。不忍とかきたるは字のおちたるなるへし
 
473 佐保山爾多奈引霞毎見妹乎思出不泣日者無《サホヤマニタナヒクカスミヽルコトニイモヲオモヒイテヽナカヌヒハナシ》
 
霞を春秋に通じて讀こと第二に磐之媛の御歌に注せしが如し、霞はうるはしきに付てもはかなきに付ても思ひ出べし、古今にもかず/\に我を忘ぬ物ならば、山の霞をあはれとは見よ、
 
初、さほ山にたな引く霞
秋もかすみはたつなり。第二の初に注するかことし
 
474 昔許曾外爾毛見之加吾妹子之奥槨常念者波之吉佐寶山《ムカシコソヨソニモミシカワキモコカオキツキトオモヘハハシキサホヤマ》
 
奥槨、【袖中抄云、オクツキ、】
 
奥槨は袖中抄のよみ日本紀に叶へり、波之吉はなつかしきなり、
 
十六年甲申春二月安積皇子薨之時内舍人大伴宿禰家(52)持作歌六首
 
聖武紀云、天平十六年正月乙丑朔乙亥、天皇行2幸難波宮1、是日安積親王縁(テ)2脚疾1從2櫻井頓宮1還、丁丑薨、時年十七、遣2從四位下|大市《オホチノ》王、紀朝臣飯麻呂等1監2護葬事1、親王天皇之皇子也、母夫人正三位縣犬養宿禰廣刀自、從五位下|唐《モロコシ》之女也、廢帝紀云、寶字六年冬十月丙午朔己未、夫人正三位縣犬養宿禰廣刀自薨、此皇子并に井上内親王不破内親王も同腹なり、内舍人《ウトネリ》、令義解職員令云、内舍人九十人掌2帶v刀宿衛(シ)供2奉雜使1、若駕行分衛2前後1、軍防令云、凡五位以上子孫年二十一以上見無2役任1者、【謂役猶使也、任亦其得考、以上不須使送、但帳内資人是叙外位、故須申送、即申雖已叙位、早於蔭位者亦須申送也、】毎年京國官司勘※[手偏+僉]知v實、限2十二月一日1并身送(テ)2式部1申2太政官1、※[手偏+僉]2簡性識聽敏儀容可1v取充2内舍人(ニ)1、【謂、二事相須乃充内舍人也、】三位以上子(ハ)不v在2簡限1、以外式部隨v状充2大舍人及東宮舍人1、【謂、中宮舍人亦准此也、】職原鈔上云、内舍人九十人、唐名通事、舍人可v然之侍任v之云云、第六卷に天平十二年の歌に初て内舍人大伴宿禰家持と書けり、軍防令に年二十一以上なるを以て補すと見えたれば此歌は廿六七歳の比の作なるべし、
 
初、安積皇子薨之時内舍人家持
聖武紀云。十六年正月乙丑朔乙亥、天皇行幸難波宮。○是日安積親王縁脚疾從櫻井頓宮還、丁丑薨。時年十七。遣從四位下大市王、紀朝臣飯麻呂等、監護葬事。親王天皇之皇子也。母夫人正三位縣犬養宿禰廣刀自、從五位下唐之女也。廢帝紀云。天平寶字六年冬十月丙午朔己未、夫人正三位縣犬養宿禰廣刀自薨。安積皇子は井上内親王不破内親王と同腹なり。内舍人、令義解職員令云。内舍人九十人、掌帶刀宿衛供奉雜使、若駕行、分衛前後。軍防令云。凡五位以上子孫年二十一以上、見無役任者【謂役猶使也。任亦使。其得考不須申送。但帳内資人、是叙外位、故須申送。即雖已叙位、卑於蔭位者亦須申送也】毎年京國官司勘※[手偏+僉]知實、限十二月一日、並身送式部申太政官、※[手偏+僉]簡性識聰敏儀容可取、充内舍人【謂二事相須乃充内舍人也。】三位以上子不在簡限、以外式部隨状充大舍人及東宮舍人。【謂、宮舍人亦准此也。】職原抄上云。内舍人九十人、唐名通事。舍人可然之侍任之。攝政關白給内舍人隨身時、殊撰其器召使之。帶劔之官也【按中務省屬官也。】第六卷をみるに、天平十二年の歌に、内舍人大伴宿禰家持と初てかけり。軍防令に年二十一以上なるをもて補すと見えたれは、此歌は廿六七歳の作なるへし
 
475 掛卷母綾爾恐之言卷毛齋忌志伎可物吾王御子乃命萬代(53)爾食賜麻思大日本久邇乃京者打靡春去奴禮婆山邊爾波花咲乎爲里河湍爾波年魚小狹走彌日異榮時爾逆言之枉言登加聞白細爾舍人装束而和豆香山御輿立之而久堅乃天所知奴禮展轉泥士打雖泣將爲須便毛奈思《カケマクモアヤニカシコシイハマクモイハヽシキカモワカキミノミコノミコトノヨロツヨニメシタマハマシオホヤマトクニノミヤコハウチナヒキハルサリヌレハヤマヘニハハナサキヲセリカハセニハアユコサハシリイヤヒケニサカユルトキニサカコトノマカコトトカモシロタヘニトネリヨソヒテワツカヤマミコシタチシテヒサカタノアメシラシヌレコヒマロヒヒツチナケトモセムスヘモナシ》
 
泥土打、【幽齋本、作?打、】
 
齋忌志伎可物は今按ユヽシキカモと讀べし、食賜麻思はヲシタマハマシと讀べし、古事記云、月讀命、汝命者|所2知《シラセ》夜《ヨルノ》之食國1矣事依也、【訓v食云2袁須1、】此集にも上下に多き上に古語の例かくの如し、大日本久邇乃京者とは聖武紀云、天平十三年十一月戊辰、右大臣橘宿禰諸兄奏、此間(ノ)朝廷以2何名號1傳(ヘム)2於萬代1、天皇勅(シテ)曰、號(ケテ)爲2大養徳恭仁《オホヤマトノクニノ》大宮(ト)1也、天平十二年の冬山|背《シロノ》國相樂【佐加良加、】郡水泉【以豆美】郷に此宮を造らせ給ひて同十七年まで彼宮にまし/\けるなり、委は第六彼宮の興廢をよめる歌に至て注すべし、此時本朝の惣名も和州の別名も文字を養徳としたまへり、十三年の勅に大養徳恭仁宮とあれ(54)ば、宮の名は國の意にて大養徳は惣名なり、打靡はウチナビクと讀べし、春サリヌレバとは春來ぬればなり、第十にも霞たな引春去にけりとよめり、花咲ヲセリとは咲ことをするなり、第二に生をせれる玉藻とよめる同じ心なり、此後此詞多し、年魚小狹走は鮎をあゆこと云故にアユユクムナともよめり、今小の字は下に付べきに似たれども例の假てかけるなり、第十九に家持の潜※[盧+鳥]歌には年魚兒狹走とかけり、鮎を年魚と云故は和名鮎の下に崔禹錫(カ)食經を引て云、春生夏長秋衰冬死、故名2年魚1也、又|※[魚+生]《サケ》をも年魚と云、※[魚+生]の下に同食經を引に云、一名年魚、春生年中死故(ニ)名v之、かゝれども鮎にのみ用來れり、狹は河にそへたるなり、彌日異榮時爾とは花を御覽じたまひ年魚を捕せなどして遊翫して日にそひて榮華にまします間にと云意なり、白細ニ舍人ヨソヒテは第二に白妙の麻の衣著とよめる如く俄に薨逝したまひて舍人等葬送の装束するなり、白細布をシロタヘとよみたれば今白細といへる即白布なり、雄略紀にたへの袴を七重をしとよめるも布の袴なり、和豆香山は今も甕原の邊に名を聞所なり、仙覺知られざりけるにや、反歌のわづか杣山と云に穿鑿の注あり、和豆香山に御墓を築なり、天シラレヌレ、例の古語なり、者の字を加へて意得べし。展轉は毛詩云、輾點反側《・フシマロヒイネカヘル》、點にコヒとあるはあやまれり、コイなり、こやる、こやすなど云同(55)詞なり、集中に眞名には、反の字をも用假名には許伊布之などあまた所あり、也伊由要與の五音を思ふべし、泥土打は幽齋本に?打と二字に作れるを正義とす、第二に人丸の泊瀬部皇女に奉らるゝ歌の中にも玉裳はひづちと云に?打に作れり、玉篇云、?【蒲鑒奴兮二切、泥塗也、】ヒヅチは袖のぬるゝなり、
 
初、齋忌志伎可物 これをいはゝしきかもと讀へし 天武紀云。五年九月丙寅朔丙戌、神官奏曰。爲新甞卜國郡也。齋忌【齋忌此云踰既】即尾張國山田郡、次【次此云須岐也】丹波國※[言+可]河郡並食卜。これ悠紀方主基方とのちにかけるにおなし。古語にゆといへるは、きよまはる心なり。湯もあみて身をきよむれは、ゆといふなるへし。されはたふとき御上をいやしき人の言にかけて申さは、けからはしくおほしてはらへなとをもして身をきよきりたまはんと謙退していふことはなり。もしいはゝしきといふことはもいまはしきといふに通せは、あやまりにあらさるへし。されと此集にはゆゝしきとよめることたくひおほし。めしたまはまし、しろしめさるへきの心なり。おはやまとくにのみやこは、久邇の京、續日本紀には、恭仁とかけり。聖武天皇天平十二年に、藤原廣嗣筑紫にて謀反しける時、天子軍勢をもよほし、かつは御祈願のために伊勢へみゆきしたまひ其年十二月橘諾兄公時に右大臣なりけるを、まつ山背の國相樂郡恭仁郷につかはして宮つくりの所をさため、都をうつさんとしたまふ。やかてみかともみゆきしたまひて、明る十三年正月朔日朝拜を此宮にしてうけさせたまへり。くはしくは第六にいたりて注すへし。續日本紀云。十三年十一月戊辰、右大臣橘宿禰諸兄奏。此間朝廷以何名號傳於萬代。天皇勅曰。號爲大養徳恭仁大宮也。この大やまとは、日本の惣名ななり。これより和州をも養徳とかきけれと、くにのみやこすたれてのちは.又惣名別名ともに昔は復せり。はるさりぬれは、これは春きぬれはなり。第十に、はるされはつまをもとむと鶯のこすゑをつたひなきつゝもとなといふ歌にも、春之去者とかき、うちなひきはるさりくれはといふ歌も、春去來者とかき、風ましり雪はふりつゝしかすかに霞たなひきはるさりにけりともよめり。月令に孟春之月鴻雁來といふをおもふへし。うちなひきは春といはん枕詞なり。なひくはなひきしたかふ心なり。おしなへてなひき來れるといふ心なり。四季いつれもおなしことゝいへとも、古としあらたまりてあたらしき春になれは、とり分てかくはいへり。花さきをせりとは、さくことをせりなり。あゆこさはしり、さは助字なり。鮎は石川にすむゆへに石をはしる魚といふ心なり。あゆは一年のうちにむまれしぬれは、年魚とはいふなり。鮭も一年の物なれは、年魚といふ名をおなしうすれと、大かたは鮎に用なれたり。いやひけにさかゆる時に、いや日けにとは、日をへていよ/\まさるをいへり。異の字ならて、殊の字、勝の字、此集にけとよめるにて心得へし。花さきをせりといふも、あゆこさはしりといふも、今年のみのことにあらす。年ことにおりふしにつけておもしろきみあそひなと有けることをひとつふたつをあけて餘を准していへり、わつか山みこしたてして、反歌に、わつかそま山とよめり。相樂郡にある所なり。みこしたてしては、御葬送の儀式なり。あめしられぬれは、あめにしられぬれはといふ詞の、くはしからぬなり。あめにしらるといふ事、第二にありて注しつ。輾轉、こいはこやしとも、第五にはよめり。日本紀に、聖徳太子の飢人にたまへる御歌に、しなてるかたをか山の、いひにゑてこやせる、そのたひとあはれ。おやなしになれななけめや、さすたけの君はやなき、いひにゑてこやせるそのたひとあはれ。此ふたつのこやせるは、ふせるなり。拾遺集に、ある御歌に、ふせる旅人とあるにおなし。又くやるともいへり。こいといふもおなし詞なり。こひとひの字をかけるはわろし。詩關雎篇云。輾轉反側。ひつちなけとも、衣はひつちとも、あかもはひつちともよめることく、ひつちはひちにて、涙にぬるゝなり。又葬送のみきり、女なとは今もふしまろひて地をうちてなけゝは、ひちをうつといふ心にて泥士打とかける歟ともきこゆ
 
反歌
 
476 吾王天所知牟登不思者於保爾曾見谿流和豆香蘇麻山《ワカオホキミアメシラレムトオモハネハオホニソミケルワツカソマヤマ》
 
オホニはおほよそになり、
 
初、わかおほきみあめしられんと
おほには、疎の字、凡の字なとかけり。おほよそなり。神さりたまひて此わつか山におさめたてまつらんとは、かねておもひよらぬことなれは、おほよそに見しとなり
 
477 足檜木乃山佐倍光咲花乃散去如寸吾王香聞《アシヒキノヤマサヘテリテサクハナノチリユクコトキワカオホキミカモ》
 
二首ともに義明なり、
 
右三首二月三日作歌
 
安積皇子は正月十三日に薨じ給へば廿日許過てよまれたるなり、
 
478 掛卷母文爾恐之吾王皇子之命物乃負能八十伴男乎召集(56)聚率比賜比朝獵爾鹿猪踐起暮獵爾鶉雉履立大御馬之口押駐御心乎見爲明米之活道山木立之繁爾咲花毛移爾家里世間者如此耳奈良之大夫之心振起劔刀腰爾取佩梓弓靱取負而天地與彌遠長爾萬代爾如此毛欲得跡憑有之皇子之御門乃五月蠅成驟騷舍人者白栲爾服取著而常有之咲比振麻比彌日異更經見者悲呂可毛《カケマクモアヤニカシコシワカキノミコノミコトモノヽフノヤソトモノヲヽメシアツメイサヨヒタマヒアサカリニシヽフミオコシユフカリニトリフミタチヽオホミウマノクチオサヘトメミコヽロヲミセアキラメシイクメチヤマコタチノシヽニサクハナモウツロヒニケリヨノナカハカクノミナラシマスラヲノコヽロフリオコシツルキタチコシニトリハキアツサユミユキトリオヒテアメツチトイヤトホナカニヨロツヨニカクシモカナトタノメリシミコノミカトノサハヘナスサワクトネリハシロタヘニコロモトリキテツネナリシヱマヒフルマヒイヤヒケニカハラフミレハカナメシカモ》
 
吾王皇子之命、此をばワガキミノミコノミコト、又はミコトノと讀べし、物部の八十伴男は延喜式祝詞にも伴男《トモノヲ》之八十|伴男《トモノヲ》と云へり、此集にもものゝふの八十の心などもよみて武士は種姓多ければ八十といへり、召集聚をば、メシツドヘともよむべし、率比をイザヨヒとあるは書生の誤れる歟イヂナヒと點ずべし、朝獵爾以下の四句初の二句は獣狩なる故に鹿猪を引合てシヽとよめり、獣狩は鹿猪を先とする故に、日本紀には獣をシヽとよめり、後の二句は鷹狩なり、秋の小鷹狩には鶉をむねと(57)し、冬の大鷹狩は雉をむねとする故に鶉雉を引合てトリとよめり、獣狩にも鷹狩にも共に朝獵夕獵あるを今は文を互にせり、御心ヲミセアキラメシとは見明らむるなり、それを見せといへるは古語なり、見明らむるとは物を見て心にふさがれる思ひをやれば譬ば朝戸をあくるやうになればなり、活道山を八雲御抄にはいくぢと載させたまへど、此本諸點及び袖中抄にも同じくいくめぢと云へり、活目道などにて有けむを養老年中より地の名二字に限るべき由定めさせ給てより、目の字は省きながら猶讀つけ來れるを點ぜる人其由存知にてかくはあるにや、初の反歌の第四の句、イクメヂとよまざれば歌と成がたし、五月蠅成は神代紀下慍、晝者《ヒルハ》如《ナス》2五月蠅《サハヘ》1而|沸《ワキ》騰(カル)之、又云、然|彼地《ソノクニ》多《サハニ》有2螢火|光《カヽヤク》神及|蠅聲邪神《アハヘナスアシキカミ》1、これらは邪神の多きに譬へたり、今は多くの舍人の迷ひさわぐにたとへたり、第五に憶良のさばへなすさわぐこどもとよまれたるに同じ、悲召可聞は心をかなしましめし哉なり、今按召は呂の字にて、カナシキロカモにや、唯助語にて悲きかもなり、仁徳紀に衣こそ二重も吉き狹夜床を、並べむ君はかしこきろかも、古事記に雄略天皇の御時赤猪子と云老女が歌にも、草香江の入江の蓮はなはちす、身の盛人乏しきろかも、此集第五憶良の鎭懷石をよまれたる歌の終にも、今のをつゝにたふときろかも第十六に荒雄らは妻子の業を(58)ば思はずろ此等の助語に同じ、
 
初、八十伴男
廷喜式祝詞にも伴男之八十伴男といへり。伴氏は皆武士なり。八十は其氏族のおほきなり。大伴といへるは其長なるへし。率比、いさよひとあるはかきあやまてるなるへし。みこゝろをみせあきらめし、よもを見はるかして、心をあきらかにしたまふなり。活道山、八雲御抄には、いくちとよみて、山城と注せさせたまへり。今の本にはいくめもちよめり。字のまゝによまは、いくちにて侍へきを、所の名なとは、字のまゝによまぬ事もあれは、いつれとさためかたし。第六云。同月【正月】十一日登活道岡集一株松下飲歌二首。これも天平十六年のうたなり。活道山活道岡同所にて相樂郡なるへし。こたちのしゝに、しゝはしけきなり。繁の字、しともよむへし。靱は靫の字のあやまれるなり。集中みなしかり。今の俗、うつほといふ物なり。つるきたちは兩刃ならぬとかたなをもなへてつるきとよめり。さはへなす、神代紀下云。晝者如五月蠅而沸騰之。又云。然彼地多有螢火光神、及蠅聲邪神。これらはわろき神のおほきを五月に蠅のおほきにたとへていへり。今はめしつかはれしおほくのとねりをいはんために、さはへなすさはくとねりとはいへり
 
反歌
 
479 波之吉可聞皇子之命乃安里我欲比見之活道乃路波荒爾鷄里《ハシキカモミコノミコトノアリカヨヒミシイクメチノミチハアレニケリ》
 
此ハシキは惜哉の意なり、
 
初、はしきかもみこの
はしきは愛の字なり。此初の五もしの心は、愛したまひけれはかもといふ心なり。又愛はおしむともよめは、惜哉といへるにもあるへし。あれにけりとゝめたるには、後の心いよ/\かなふへし。此第四の句にてみれは、いくめちとよめるかまされり。もしのたらぬ歌もおほけれと、みしいくちのとよめらはきゝのわろかりぬへし
 
480 大伴之名負靱帶而萬代爾憑之心何所可將寄《オホトモノナニオフユキオヒテヨロツヨニタノミシコヽロイツクニカヨセム》
 
今按、帶而はハキテともよむべし、大伴ノ名ニ負とは神代紀云、于v時 大伴連遠祖天忍日(ノ)命|帥《ヒキヰテ》2來目部(ノ)遠祖天|※[木+患]津《クシツ》大來目、背《ソヒラニハ》負2天|磐靱《イハユキ》1臂《タヽムキニハ》著2稜威《イツノ》高鞆1云云、景行紀云、日本武尊至甲斐國居于酒折宮、則居是宮以2靱部《ユルシヒヘ・トモノヘ》(ヲ)1賜2大伴連之遠祖武日1也、孝徳紀云、輕皇子不v得2固辭1升v壇《タカミクラニ》即祚《アマツヒツキシロシメス》、于時大伴長徳連|帶《ハイテ》2金(ノ)靱《ユキヲ》1立2於壇(ノ)右(ニ)1云云、大伴氏は神代より武將の最にてみづから靱を帶て供奉する事相傳はれば名に負靱負てとはいへり、
 
初、大伴の名におふゆきおひて
神代紀下云。一書曰。高皇産靈尊、以眞床覆衾裹天津彦國光彦火瓊々杵尊、則引開天磐戸、排分天八重雲奉降之。于時大伴連遠祖天忍日命、帥來目部遠祖天※[木+患]津大來目、背負天磐靫臂著稜威高鞆云々。孝徳紀云。輕皇子不得固辭升壇即祚。于時大伴長徳【宗馬飼】連帶金靫立於壇右、犬上健部君帯金靫立於壇左。大伴氏は神代より武將なれは名におふ靫おひてとはいへり。帯の字、負の和訓によむへし
 
右三首三月二十四日作歌
 
(59)悲傷死妻高橋朝臣作歌一首井短歌
 
481 白細之袖指可倍?靡寢吾黒髪乃眞白髪爾成極新世爾共將有跡玉緒乃不絶射妹跡結而石事者不果思有之心者不遂白妙之手本矣別丹杵火爾之家從裳出而緑兒乃哭乎毛置而朝霧髣髴爲乍山代乃相樂山乃山際徃過奴禮婆將云爲便將爲便不知吾妹子跡左宿之妻屋爾朝庭出立偲夕爾波入居嘆合腋狹兒乃泣毎雄自毛能負見抱見朝鳥之啼耳哭管雖戀効矣無跡辭不問物爾波在跡吾妹子之入爾之山乎因鹿跡叙念《シロタヘノソテサシカヘテナヒキネシワカクロカミノマシラカニナリキハマリテアタラヨニトモニアラムトタマノヲノタエシヤイモトムスヒテシコトハハタサスオモヘリシコヽロハトケスシロタヘノタモトヲワカレニキヒニシイヘヲモイテヽミトリコノナクオモオキテアサキリノホノメカシツヽヤマシロノサカラカヤマノヤマノマヲユキスキヌレハイハムスヘセムスヘシラニワキモコトサネシツマヤニアシタニハイテタチシノヒユフヘニハイリヰナケクヤワキハサムコノナカンメハヲノコシモノオヒミイタキミアサトリノネノミナキツヽコフレトモシルシヲナミトコトトハヌモノニハアレトワキモコカイリニシヤマヲヨスカトソオモフ》
 
相樂山乃、【校本點云、サカラカヤマノ、】
 
(60)吾黒髪乃以下の三句は、西京雜記、卓文君白頭吟(ニ)云、願得2一心人1、白頭不2相離1、此集第十一に最髪の白髪までと結ぶ君云云、丹杵火爾之家は第一に見えたり、相樂山は和名集八雲御抄は校本と同じくさがらか、日本紀にはサガラなればサガラと點ぜるも然るべし、古事記垂仁天皇段云、又隨2其后之白1喚2上|美知能宇斯《ミチノウシノ》王之女等1云云、於是|圓野比賣《マドヌヒメ》慚(テ)云云、而到2山代國之相樂1時取2懸樹枝1而欲v死、故號2其地1謂2懸《サガリ》木1、今云|相樂《サガラ》、將爲便〔三字右○〕は將爲爲便なるを一つの爲を脱せるなるべし、脇狹は狹は挾に改たむべし、兒乃泣母、此句按ずるに點叶はず、チゴノナクヲモとか、或はコノイサツルモとか讀べし、落句は欽明紀云|懃《ネムコロニ》修《オコナテ》2出(ル)v世業1爲v因《ヨスカト》、又資の字をもヨスガとよめり、たよりと云意なり、
 
初、悲傷死妻高橋朝臣作歌
わか黒髪のましらかに
西京雜記、卓文君白頭吟曰。願得一心人、白頭不相離。此集第十一に、くろかみのしらかみまてとむすふきみ心ひとつを今とかめやも。さいはひのいかなる人か黒髪のしろくなるまて妹か音きく。にきひにし家をも出て、第一にも、すめろきのみことかしこみにきひにし家をえらひてとよめり。そこに注しつ。朝霧のほのめかしつゝ、霧のひまに物をみることくおもかけのみほのかにみゆるなり。文選班孟堅か幽通賦云。夢登山而廻眺兮〓幽人之髣髴。注銑曰。髣髴不分明貌。相樂山、これをよむにみつの異なり。ひとつは今のことし。二つには、日本紀にはさはらとよめり。三には、和名集ならひに八雲御抄にはさからかなり。腋狹兒乃泣母、このなかしめはとある點はあやまれり。このいさつるもとか、ちこのなくをもとかよむへし。ことゝはぬものにはあれと、ものいはぬ物なれともといふ心なり。下の山のことなり。よすかとそおもふ。資の字、因の字なとをよすかとよめり。欽明紀云。懃修出世業爲因。つねにはたよりといふ心なり。今はかたみといへるやうなり。されとその山たになくはたとりもなからまし。からをたにそこにおさめをきつとおもふをたすけにてなからふれは、たよりといふ心もかよへり。歌の調なれは、心とをきもなとかなからん
 
反歌
 
482 打背見乃世元事爾在者外爾見之山矣耶今者因香跡思波牟《ウツセミノヨノコトニアレハヨソニミシヤマヲヤイマハヨスカトオモハム》
 
事爾在者、【六帖云、コトナレハ、】  因香爾、【六帖云、ヨスカト、校本爾作v跡、】
 
(61)世之事爾在者とは定まれる世上の事なればせむ方もなしと云なり、因寄爾は此本の如くならばヨスガニとよむべし、されども右歌の落句をふたゝび云歌なれば爾を跡に作てヨスガトとよめる正義なるべし、
 
初、うつせみの世のことなれは
第十六筑前國志賀白水郎歌十首の中にも、しかの山いたくなきりそあらをらかよすかの山とみつゝしのはん。因香爾、よすかになり。よすかとゝあるはわろし
 
483 朝鳥之啼耳鳴六吾妹子爾今亦更逢因乎無《アサトリノネノミヤナカムワキモコニイマヽタサラニアフヨシヲナミ》
 
右三首七月廿日高橋朝臣作歌也名字來審但云奉膳之男子焉
 
上の家持の歌を承て云故に天平十六年の歌なり、高橋朝臣等聖武紀には高橋氏の人見えざる歟、廢帝紀云、寶字六年四月庚戌朔、從五位下高橋朝臣子老爲2大膳亮1、從五位下高橋朝臣老麻呂爲2内膳奉膳1、稱徳紀云、神護景雲二年二月丙子朔癸巳、勅准v令以2高橋|安曇《アツミ》二氏1任2内膳司1者爲2奉膳1、其以2他氏1任(セハ)之者宜2名(ケテ)爲1v正《カミト》、職員令云、内膳司奉膳二人掌d※[手偏+總の旁](シテ)知2御膳1進v食《ミヲシヲ》先甞(ルコトヲ)u、【謂、在2御前1而甞之、凡(ソ)玉食※[王+周]※[にすい+食]欲v登2天供1、膳官營造清戒倶至、然猶慮2其誤犯1、在2照臨1而先甞、】典膳六人掌(トル)造2供膳1調2和(シ)庶味1寒温之節(ヲ)u、延喜式第七踐祚大甞會式云、次内膳司高橋朝臣一人、【執2鰒汁漬1、】安曇宿禰一人、【執2海藻汁漬1、】和名云、長官内膳司(62)曰2奉膳1、【今案令有2奉膳二人1、後停2奉膳一人1爲v正、和名加美、】
 
初、右三首七月廿日
上の安積皇子をいたみ奉る歌題に、十六年甲申とあるは、天平十六年なり。此注はそれをうけて月日のみをいへり。續日本紀廢帝紀云。寶字六年四月庚戌朔、縱五位下高橋朝臣子老、爲大膳亮、從五位下高橋朝臣老麻呂、爲内膳奉膳。これらならては、天平の比の紀には見えさる歟。稱徳紀云。神護景雲二年二月丙子朔癸巳、○職員令云。内膳司奉膳二人○延喜式第七踐祚太甞會式云。○(以上似閑本卷三下冊)
 
萬葉集代匠記卷之三下
 
明治三十三年八月廿五日印刷
明治三十三年八月三十一日發行
 
       東京市神由區淡路町一丁目−番地
編輯兼發行者  三好伸雄
       東京市本郷區湯島切通坂町五十一番地
印刷者     植原儀直
       東京市本郷區湯島切通坂町五十一番地
印刷所     建昇堂
發兌元    東京市神由區淡路町一丁目−番地
        四海堂
 
 
明治三十四年八月廿五日印刷
明治三十四年九月二日發行
 
       東京市神由區淡路町一丁目−番地
編輯兼發行者  三好伸雄
       東京市本郷區湯島切通坂町五十一番地
印刷者     植原儀直
       東京市本郷區湯島切通坂町五十一番地
印刷所     建昇堂
發兌元    東京市神由區淡路町一丁目−番地
        四海堂
          〔2010年1月19日(月)午後4時45分、入力終了〕
 
(1)萬葉集代匠記卷之四上
                  僧契冲撰
                  木村正辭校
 
初、萬葉集卷第四目録
吹黄刀自歌。刀誤作v力
 
初、田部忌寸|櫟子《イチヒコ》任2太宰1時歌。脱2帥字1歟【至v歌亦同。如d筑前守(ヲ)等云v任(スト)2筑前等1例u歟】
 
初、京職大夫云々。藤誤作v草。大伴作2太伴1非
 
初、大伴宿奈麻呂宿禰歌二首。脱2歌字1
 
初、二年乙丑春三月|幸《イデマス》2三香原離宮1之時。脱2幸字1
 
初、湯原王人贈歌。人疑又字誤。至v歌作v亦
 
初、安都宿禰年足歌。足作v之誤。脱2歌字1。都(ヲ)至v下作v部誤
 
初、大伴像見歌一首。至下氏下有宿禰姓、今恐脱
 
初、廣河女王二歌二首。二歌之二剰
 
難波天皇妹奉上在山跡皇兄御謌一首
 
應神紀云、凡(テ)是(ノ)天皇男女并(テ)二十《ハタハシラノ》王也とあれども、男王十女王九、合て十九柱ましませば一柱を落せるか、古事記の應神記には此天皇之御子|等《タチ》并(テ)廿(アマリ)六王、【男王十一、女王十五、】具に名を擧たれども今妹とのみあるは何れの皇女と知れざるなるべし、王神天皇の御代の歌ならば王神天皇皇女と云べし、今の如くかけるは仁徳天皇の御代に是皇女も難波にまして異腹の皇兄等の御中に御心を通はされたるが、常は難波に坐ますが假初に大和へおはしましたるを待侘て贈らせ給ふと見えたり、
 
初、相聞
難波(ノ)天皇(ノ)妹|奉《タテマツリタマフ》d在《イマス》2山跡(ニ)1皇兄(ニ)u御謌一首【第二卷の初に出たる磐姫皇后思天皇御作歌といふに似たり】
難波天皇は、仁徳なり。日本紀に、應神天皇の御子十九人を擧られたる中に、皇子は十人、皇女は九人なり。難波天皇妹といひて、奉上在山跡皇兄といへる心、ならひに哥の心を案するに、仁徳天皇和州へ行幸せさせたまへる時、妹の皇女いつれにまれ、よみて奉れたまふなるへし。應神紀をみるに、《モアノ反》皇后仲姫の御腹《源氏ニ》に、荒田皇女、大鷦鷯皇子、根鳥皇子、以上三人おはしませと.かくのことくついでたれは、荒田皇女は、仁徳天皇の御姉なるへし。そのうへ、九人の皇女の御名、みな日本紀に見えたるを、天皇妹といへる心は、いつれの皇女ともしれさるなるへし。又難波天皇妹といひて、下に皇兄といへるは、皇兄は、額田大中彦皇子等の、別の皇子にや.應神天皇の御治世の哥にて、皇女いつれともしれすは、應神天皇(ノ)々女といふへし。しかれは、仁徳の御在位の時の哥なるゆへに、今のことくかけれは、天皇をさしては、皇兄とは申ましけれは、別の皇子の御中なるへし
 
(2)484 一日社人母待告長氣乎如此所待者有不得勝《ヒトヒコソヒトモマツツケナカキケヲカクマタルレハアリエタヘスモ》
 
待告、【幽齋本云、マチツケ、】
 
一日社とは古歌にて詞委しからぬにや、一日ばかりをこそとのたまふ意なり、待告は今の本の點寫生の誤れ亘る歟、幽齋本によるべし、告は繼に借れるなる、又マツトイヘとよめる本もあり、此歌第二の初の磐之媛皇居の御歌に似たり、
 
初、一日こそ人も待告なかき氣をかくまたるれはありえたへすも
待告とかきたれとも待繼なり。一日なとこそ人も待つゞくれといふ心なり、又待といへともよむへし。なかき氣をは、なかきけになり。長太息なといへることく、物おもふ時、ためいきをつくをいへり。
 
岳本天皇御製一首并短歌
 
485 神代從生繼來者人多國爾波滿而味村乃去來者行跡吾戀流君爾之不有者晝波日乃久流留麻弖夜者夜之明流寸食念乍寐宿難爾登阿可思通良久茂長此夜乎《カミヨヨリアレツキクレハヒトサハニクニヽハミチテアチムラノイサトハユケトワカコフルキミニシアラネハヒルハヒノクルヽマテヨルハヨノアクルキハミオモヒツヽイネカテニトアカシツラクモナカキコノヨヲ》
 
生繼來者を袖中抄其外先達の點にウミツギクレバとあれど然るべからず、神代紀云、故天先成而地後(ニ)定(マル)、然後神聖|生《アレマス》2其中(ニ)1焉、文武紀第一詔云、高天(カ)原 乎 事始而遠天皇|祖《ミオヤノ》御世《シラシメス》中至【麻?爾】天皇御子之阿禮坐 牟 彌繼々《イヤツキツキ》 爾 云云、此集第一第六にも阿禮座師《アレマシヽ》、安禮衝(3)之乍《アレツギシツツ》などあれば、古語によるべし、人多をも袖中抄には、ひとおほくとあれどこれまた古語にもおほくといはざるにはあらねど今の點猶まされり、味村乃去來者行跡とは、味村は味《アヂ》と云鳥のむらがりたるを云、彼鳥は能く群をなして立時も諸友に打さわぎて立を男女の思ふどちいざ/\とさそひ行に喩てよませ給へり、いざなふと云詞も、いざとそゝのかし立るをいへばいざと云意なり、第七に、はねかづら今する妹をうら若み、いざ率川の音のさやけさとよみ、第十六に、いざにとや思ひてあらむとよめるいざ、皆今と同じ意なり、さて是は仙覺の點なり、袖中抄にはさわぎはすれどゝあり、去來をサハギともよみがたく、行跡をスレドとは一向によまれず、或點にはサリキハユケド、此等引に足らざれど仙覺點のまされることを顯はさん爲なり、但兩義を注せらるゝ中に村鳥の立羽音さときこゆれば云とあるを見れば、うなゐが雀弓射てたま/\あたり、杭をたてゝ兎を得たらむこゝちす、吾戀流、君爾之不有者は第十三にも、式嶋の大和の國に人多に、いはみてあれど云云、反歌に、やまとの國に人ふたり、有とし思はゞなどよめる意なり、毛詩鄭風(ニ)、出(レハ)2其東門1、有v女如(シ)v雲、雖2則如(ナリト)2v雲(ノ)、匪2我(カ)思(ノ)存(スルニ)1、出2其※[門/堊]闍(ヲ)1、有v女如v荼(ノ)、雖2則如(シト)1v荼、匪2我思1とあり阿可思通良久茂《アカシツラクモ》は明しつるもなり、見るを見らく、戀るを戀らくと云類なり、
 
初、神代よりあれつきくれは、神代紀上云。故《カレ》天(ノ)先(ニ)成(テ)而地後(ニ)定(マル)。然(シテ)後|神《カミ》聖|生《アレマス》2其中(ニ)1焉。續日本紀第一、文武天皇(ノ)詔(ニ)曰。高天(カ)原乎事始而、遠(キ)天皇祖御《スメラミコトノミオヤノシラシメス》世(ノ)中、今(ニ)至【麻天爾、】天皇(ノ)御子之阿禮坐牟彌繼《イヤツキ》々爾云々。人さはに國にはみちて味村のいさとはゆけと。あち村は、あちといふ鳥は、己か友をさそひて、むらかりとふ物なれは、あちの村鳥といふ心にて、あち村といふなり。國にみちたる人の、おもい/\にいさないゆくにたとへてのたまへり。第十三相聞長哥に、しきしまの、やまとのくにゝ、人さはに、いはみてあれと、藤浪の、おもひまとはし、わかくさの、おもひつきにし、君により、こひやあかさむ、なかき此夜を。反哥に、しきしまのやまとのくにゝ人ふたり有としおもはゝなにかなけかん
此御哥も、首尾これにおなし。繼體紀に、安|閑《カム》天皇、いまた勾大兄《マカリノオヒネノ》皇子と申奉りける時、みつから春日皇女をよはひたまひける時の御哥に、やしまくに、妻卷かねて、はるの日の、かすかのくにゝ、くはしめを、有ときゝて、よろしめを、有と聞てなと、よませたまへるもおなし心なり、わかこふるきみにしあらねは。毛詩(ノ)鄭風出(レハ)2其東門(ニ)1有(リ)v女如(シ)v雲(ノ)。雖2則如(ナリト)1v雲(ノ)匪(ス)2我思(ノ)存(スルニ)1。出(レハ)2其|〓〓《イシヤヲ》1有v女如2荼【茅華。】雖2則如(シト)1v荼匪(ス)2我(ガ)思(フニ)且。遊仙窟(ニ)云。天(ノ)上《ウラニ》無(ク)v雙《ナラヒ》人間《ヨノナカニ》有v一《ヒトリノミ》。これらの心とおなし。又第十一に、うちひさすみやちの人はみちゆけとわかおもふ君はたゝひとりのみ。此類おほかるへし。きはみはきはめにて限なり。あかしつらくも、あかしっるもといふ詞なり。らくは、みるをみらく、こふるをこふらくといふかことし。もは助語なり
 
(4)反歌
 
486 山羽爾味村騷去奈禮騰吾者左夫思惠君二四不在者《ヤマノハニアチムラサワキユクナレトワレハサフシヱキミニシアラネハ》
 
騷、【袖中抄、仙覺抄、共作v驂、官本或作、亦然、】
 
此第二の句、騷は古き諸本驂にて僻《ヒカ》點|僻《ヒカ》説多し、袖中抄に、此萬葉集にては尤さはぎと可v讀也とて證歌ども引れて甚明なり、今本の騷の字は若後人の驂を改たるにや、彌さわぐとよむべきにまがひなし、此つゞきは上の味村のいざとはゆけどとあるを再たび詠せたまふなり、物に譬へて其物の上にてやがてことわりをあらはしたまへり、山ノハニと有は第七に、山のはに渡る秋沙とつゞけ、第十一に高山に高部さわたりとつゞけたるに同じ、サブシヱは、さぶしは上にも有しさびしなり。ゑ〔右○〕は助語なり
 
初、山のはに味村さわきゆくなれと。これは、長哥に味村のいさとはゆけとわかこふる君にしあらねはといふ心を。かへしてよませたまへるなり。宮路の人は滿ゆけとゝいへる心に、あちむらをたとへに出したまひて、やかてたとへの上を、ゝさへて人になしてのたまへるなり。われはさふしゑは、われはさひしよなり。ひとふ、よとゑは、音相通せり
 
487 淡海路乃鳥籠之山有不知哉川氣乃己呂其侶波戀乍裳將有《アフミチノトコノヤマナルイサヤカハケノコロコロハコヒツヽモアラム》
 
第十一に、狗上之烏籠山爾有不知也河云云、かヽれば近江國犬上郡に鳥籠山ありて(5)其山より流出る川を不知哉川と云なるべし、天武紀上云、戊戌男依等討2近江將秦友足(ヲ)於鳥籠山(ニ)1、亦云時(ニ)近江命2山部王蘇我之臣《オム》果安《ハタヤス》巨勢臣比等1、率2數萬衆1將v襲《オソハムト》2不破1而軍2于犬上川|濱《ホトリニ》1、此犬上川と云は即不知哉川なるべし、第十一の歌は古今にも載ぬれど滅歌なり、それに什て六帖、後拾遺にはいさヽ川、源氏の朝貌にはいさら川など有によりて異義あれど、他書をばしばらく置て此集には兩處までいさや川とあれば異義に及べからず、束乃巳呂其伴波とは、氣は上にも云如く旅の氣なり、旅の異名ばかりの事なり、ころ/\は比なり、ねむごろをねもころ/\とも云へるに同じ、川につゞきたるは氣は水の氣にて霧なり、文選潘安仁河陽縣作云、日夕陰雪起、登(テ)v城望2洪河(ヲ)1、川氣冐2山嶺1、驚く湍激2巖阿(ニ)1、此集第七に、此小川霧ぞ結べると云歌の霧を白氣とかけり、御製の意此戀思しめす女は近江國の人にて父母などに省覲せむ爲に御暇申て下られける程なるべければ、彼處の地名所によせて、よしや假初の旅なれば今やがて歸るべければ暫らく御心を取のべて待せたまはむと思召かへすなるべし、犬上の鳥籠山とはなくて淡海路の不知哉川とあるは逢給はむ事はいつと知しめさねどもの意をそへさせ給へるか、古歌なればそれまでは有まじき歟、後人靜に案ずべし、天下を掌に居《スヱ》さ廿給ひて萬御心に任せぬ事なき帝の御上にてだに戀にはさしも御(6)心を摧かせ給ひけむは如何なる人にてかくまでは思はれ參らせられけむ、
 
初、あふみちのとこの山なるいさや川けのころ/\はこひつゝもあらむ
第十一に、狗上之鳥籠山爾有不知哉也川《イヌカミノトコノヤマナルイサヤカハ》とよめり。遠江の國に犬上(ノ)郡あり。そこにとこの山は有て、山よりいさや川は出るなるへし。此いさや川を、後にはさま/\にいへり。古今集に、あめのみかとの、あふみのうねめにたまふとい へる滅哥は、此集第十一の哥なるを、六帖には、いさゝ川といひ、後拾遺集の序にも、よしの川よしといひならさん人に、あふみのいさゝ川、いさゝかに此集をえらへりといへり。古今の一本に、なとり川ともいへり。源氏槿に、いとかく世のためしになりぬへきありさまもらしたまふなよ。ゆめ/\いさら川なともなれ/\しやとてなとかけり。抄に、玉さかにゆきあふみなるいさら川いさとこたへてわかなもらすなといふをひけり。同物語に、とこの山なるとくちかためてとかけるは、不知哉川といふ名につけりときこゆれと、槿の卷によれは、いさら川のいさといふにつけるにや。天武紀云。時(ニ)近江命(シテ)2山部(ノ)王、蘇我(ノ)臣《オム》果安《ハタヤス》、巨勢(ノ)臣比等(ニ)1率(テ)2數萬(ノ)衆(ヲ)1將《・シテ》v襲《オソハムト》1不破(ヲ)1而軍(ス)2于犬上川(ノ)濱《ホトリニ》1。此犬上川といふが、すなはちいさや川にや。いさや川といひて、けのころ/\とつゝけさせたまふ心は、氣は水の氣にて、川きりなり。第七に、此小川きりそむすへるといふに、白氣結《キリソムスヘル》とかけるをおもふへし。此集に又歎の霧とよめるも、いきをいひ、日本紀にけふきのさぎりともいへり。ころ/\は只比なり。ねもころを、ねもころ/\といへるにおなし。君をこひをりて、けなかきこの比は、こひてもありなんを、此行末をしらすといふ心を、いさや川とよせたまふなるへし。これは、ひるは日のくるゝまてといふより後を、かへしてよませたまふなるへし。又きのふといふは、さきのひといふ心、けふといふは、この日といふことなれは、川といひて、けとつゝくはさきにおなしくて、けのころ/\はとは、此ころはこひなからさても有なんをとよませたまふにや。兼好か、さるはひとりねかちにて、まとろむ夜なきこそおかしけれとかけるは、凡人の上にていへるを、天子の御身にて、天下をたなこゝろににきらせたまひなから、かゝる御哥あるは、いともかしこけれと、おかしきが中に、いとおかし。いかなる人にて、かくまてはおもはれまいらせられけむ、爲(ニ)2君(カ)一日(ノ)恩(ノ)1誤(マル)2妾(カ)百年(ノ)身(ヲ)1とも、悔あらしかし
 
右今案高市岳本宮後岡本宮二代二帝各有異焉但※[人偏+稱の旁]岡本天皇未審其指
 
後岡本宮、【官本、岡或作v岳、下岡本天皇亦然、】
 
此注疑あり、岳本天皇と云ひて後岳本といはず、歌も女帝の御製の意ならねば定て舒明天皇の御歌なり、撰者の詞には非ずして後人の傍に注したるを書加へけるにや、
 
初、後注に右今案云々。高市岳本宮は、人王三十五代舒明天皇、後岡本宮は、三十八代齊明天皇なり。齊明は女帝なり。かゝる御哥あるへくもなし。これかならす舒明天皇の御製なり。なとか此料簡をくはへさりけむ
 
額田王思近江天皇作歌一首
 
六帖にぬかだのみことあるは誤歟、親王とも皇子とも書てはみことよむべし、歌には諸王に亘れどさらでは皇子に限るべし、おほきみは歌にては天皇にも皇子にも諸王にもわたれどさらでは諸王に限れり、
 
488 君待登吾戀居者我屋戸之簾動之秋風吹《キミマツトワカコヒヲレハワカヤトノスタレウコカシアキノカセフク》
 
簾ウゴカシとは、君が來るやと餘念なく待時しも、秋風我を欺きて悩ませがほに簾(7)を打上げて來ますが音と迷ふまで吹來る意なり、今按此歌は額田王の大かたの相聞の歌とは見えず、額田姫王と云へる姫の字の落たるか、さてぞ能叶ふべき、されど次の歌と共に二首、第八秋相聞の初に再出たるにも此端作今の如くにて姫の字なし、又首の兩處に並てあるも不審なり、次の歌、唯雜風に寄て秋の詞なければ、此歌に秋風とあるにより秋相聞に入ぬべしと思ひて後人第八には注したるを、又後の人の本文には書加へたるにや、此歌六帖lこは簾と雜風と二の題に入たり、各句に異あり、官本朱を以て注して云く、此歌入2第八卷秋(ノ)相聞初1可v尋、但讃州本江本梁園御本孝言本宇治寶藏(ノ)本等皆有v之、次歌の頭に同前と注せるも此注を承たり、
 
初、君まつとわかこひをれは。此哥を六帖には、簾のところに、ひとりしてわかこひをれはわかやとのすたれとをりて秋風そ吹と載たり。ぬかたのみこと名をかけるは誤なるへし。此集には、皆額田王とのみあり。五世のおほきみの内なるへし。簾うこかし秋の風ふくとは、もし君やおはしますとおもふ心に、簾をうこかす秋風の音も君かとおもひてはからるゝなり。又河圖帝通記(ニ)云。風(ハ)者天地之使(ナリ)也。和漢ともに風の使といふことあれは、君をわか戀をれは、心の通するにや、秋風の、君か使のやうに簾をうこかして吹くるとよみたまへる歟。第十一に、わかせこにわか戀をれは、わかやとの草さへおもひうらかれにけり。此哥第八秋相聞に、次下の哥とならへて又出たり
 
鏡王女作歌一首
 
初の歌の作者額田姫王ならば、初に二首と云ひて此端作なかるべし、又此歌は別人を思てよまれたりとも、名をば初と同じ樣に載すべきにやと云難もあるべし、別事に依てよめばこそ別に端作はしたるなればそれは云までもなし、同人の別名又恠しむべからず、石川朝臣君子を少郎とも吉美侯とも載たるが如し、
 
489 風乎太爾戀流淡乏之風小谷將來登時待者何香將嘆《カセヲタニコフルハトモシカセヲタニコムトシマタハイカヽナケカム》
 
(8)此風と云ふは使なり、河圖帝通記云、風(ハ)者天地之使也、陸士衡擬古詩云、驚※[風+火三つ]|※[塞の土が衣]2《ウシナフ》反信1、歌の意は、君にこそまほに逢はざらめ、使をだに得てしかなと戀るにそれだに來る事の少なきなり、又珍らしき事をもともしといへば戀る人故には使もめづらし、されば其使さへ常に通ひ來て今日も來ぬべしと待むには何をか嘆かむ、使だに來ぬ故に戀て嘆くとなり、何香はナニカと讀べきに似たり、されども第八に何如とかきてイカヾと點じたればいかゞとよみてなにかと意得べし、
 
初、風をたにこふるはともし。此風とよみたまへるは使なり。君にこそまほにあはさらめ。使をたに得てしがなとこふるに、それたにくることのすくなきなり。又めつらしき事をも、ともしといへは、こふる人ゆへには、使もめつらし。されはその使さへつねにかよひきて、けふもきぬへしとまたむには、何をかなけかむ。使たにこぬゆへにこひてなけくとなり。何香はなにかとよむへし。されとも第八に何如とかきていかゝと點したれは、いかゝとよみてなにかといふ心に心得へし
 
吹黄刀自歌二首
 
初、吹黄刀自歌。此吹黄刀自は女なり。第一卷に、十市皇女の、太神宮へまうてたまひける時、波多(ノ)横山の巖をみて、つねにもかもなとこをとめにてとよみし人なり。其哥の後の注に吹黄刀自未v詳也。これに不審あり。哥の下に注すへし。刀自は老女の名なり。和名集に云。劉|向《シヤウカ》列女傳云。古語(ニ)老母(ヲ)爲v負(ト)。漢書五娼武負位引v之。今案俗人謂(テ)2老女(ヲ)1爲v※[刀/目](ト)字從v人也《・負字之下二畫如八字爲人歟》。今訛以v貝爲v自歟【今案和名度之。】順の此今案あたらす。惣して和名集の今案にかゝる事あり。字從人也はもし脱字なとあるか心得かたし。史記にも老女を負といへることあり。まつこれより引へし。陳丞相(ノ)世家(ニ)曰。久(シテ)之戸〓(ノ)富人(ニ)有2張負(トイフモノ)1 【索隱曰。按負是(ハ)婦人老宿之稱。猶武負之類也。】云々。絳侯周勃邵世家曰。倏侯亞父自(リ)d未(タ・スシテ)v侯(タラ)爲2河内(ノ)守1時u許負(トイフモノ)相(ス)v之(ヲ)【索隱曰。應切云負(ハ)河内温人老嫗也。姚氏按2楚漢春秋1高祖封v負爲2〓亭侯1是知婦人亦有2卦邑1。】昔は刀自を、麿《マロ》の例に、合してもかけりとみゆ。それが負の字に似たれは、順は貝をあやまりて自となせるかと推量せられたれど、それはたま/\似たる事にて、昔より刀自といふことの、日本紀にあるをかんかへられさりけるなり。允恭紀云。二年春二月丙申朔己酉立(テヽ)2忍坂大中姫(ヲ)1爲2皇后(ト)1。○初(メ)皇后隨v母《イロハニ》在v家獨遊2苑(ノ)中(ニ)1。時(ニ)闘※[奚+隹]《ツケノ》國(ノ)造《ミヤツコ》從2傍《ホトリノ》徑1行之乘(テ)v馬(ニ)而莅(テ)v籬(ニ)謂(テ)2皇后(ニ)1嘲(テ)之能作(ンヤ)v園(ヲ)乎。汝《ナヒト》者也。【汝此(ヲハ)云2那鼻苫1也。】且《マタ》曰(ク)壓乞刀母《イテトヲ》其、蘭《アラヽキ》一莖焉。【壓乞《アツコツ》此云2異提1。戸母此云2覩自1。】皇后則採(テ)一|根《モトノ》蘭(ヲ)1與2於乘v馬|者《ヒトニ》1因(ニ)以問(テ)曰。何用《ナニヽセムトカ》求v蘭(ヲ)耶。乘v馬(ニ)者《ヒト》對(テ)曰。行v山撥《ハム》v※[虫+蔑]《マクナキ》也。【※[虫+蔑]此(ヲハ)云2摩愚那岐1】時皇后|詰《オモヒムスムテ》2之|意《ミコヽロノ》裏(ニ)乘(レル)v馬(ニ)者《ヒトノ》辭(ノ)無(コトヲ)1v禮《イヤ》即謂(テ)曰《ノ》。首《オフト》也余(レ)不《シ》v忘矣。是後皇后|登祚《ナリイイェタマフ》之年|覓《マク》乘(テ)v馬(ニ)乞v蘭|者《ヒトヲ》1。而|數《セメテ》2昔日《ムカシノ》之罪(ヲ)1以欲v殺(サント)。爰乞v蘭(ヲ)者(ヲ)〓搶《モテタイテ》v地《ツチヲ》叩v頭《ノミテ》曰。臣《ヤツカレ》之罪實(ニ)當(レリ)2萬死《ツミニ》1。然(モ)當(テハ)2其日(ニ)1不(ト)v知《オモハ》2貴者《カシコキヒトニマサムトイフコトヲ》1。於v是皇后赦2死刑《シメコロスツミヲ》1貶(トシテ)2其|姓《カハネヲ》1謂2稻置《イナキト》1。この中に戸母を覩自と注したまへるが刀自とおなし。民の一家の老女といふことにて、和語に刀自といふなり。されは大中姫の、またをとめこにておはしましけるに、申ける詞の皆無禮なる中に、俗にうばといふことく、おうなになして、刀自と申けれは、われわすれしとは、いきとほらせたまへるなり。允恭天皇も大中姫も、ともに八幡宮といはゝれたまへる應神天皇の御孫にて、はるけさ世なれは、※[刀/目]は負歟といへるはあやまりなり。刀自といふ詞も、後はかならす老女にもかきらすいへるにや。此卷に、坂上郎女、むすめの大孃にをくる哥に、わかこの刀自とよめり。平家物語に、妓王か母の名も、刀自とあれは、その比まてはのこれる詞なるへし。
 
490 眞野之浦乃與騰乃繼橋情由毛思哉妹之伊目爾之所見《マノノウラノヨトノツキハシコヽロユモオモフヤイモカイメニシミユル》
 
眞野ノ浦は津の國なり、淀ノ繼橋と云へるは彼浦の鹽海に入る處の河の淀みなどに有橋にや、繼橋とは常の橋にはあらで橋材を立置て水のよのつねなる時は板を渡し、みかさのまさる時は引などするやうにかまへ置たるを云べし、惰由毛思哉は妹が心にも相思ふやなり、イメは夢なり、い〔右○〕とゆ〔右○〕と五音にて通ぜり.下に至て多し、め〔右○〕とみ〔右○〕と通ずれば寢見《イミ》の意に名付たるか、見るは目より起る詞なれば寢目《イメ》の心歟、歌の意は繼橋のこなたかなたにつぎ渡して人も兩方より行かふ如く、妹も我と同じ(9)く相思ふやらむ夢に見ゆるとなり、相思へば夢に見ゆとも、相思はねば見えずとも集中あまたよめり、此歌に付て疑あり、吹黄刀自は第一に波多横山にて巖を見て、常にもがもな常處女にてとよめる女なり、然るを此歌に妹之とあるは、若君か背奈かなどよめるを誤て傳へたるにや、次の歌に我背子と云へる背子は男女に通ずる中に歌のやう男を指せる歟とぞ見ゆる、
 
初、まのゝうらの淀のつきはし心ゆも。此眞野の浦は津國なり。よとのつき橋といへるは、心からつぎておもへはにや、妹か夢にはみゆらんといはむためなり。心ゆもは、此集に、よりといふことを.ゆといへる事すくなからす。いめは夢なり。いとゆと相通するうへに.ねてみる物なれは、寢見《イミ》といふことを、みとめ又相通なれは、いめとは名付けるなるへし。此哥は古今集躬恒哥に、君をのみおもひねにねしゆめなれはわか心からみつるなりけり。これとおなし心なり。おもふやはおもへやとよむへき歟。今の詞にてはおもへはにやの心なり。さてさきにこれに不審ありといひつるは、吹黄刀自未v詳也とは、うたかふらくは、撰者男子なりとおもひていへる歟。そのゆへは、此哥に妹がといへる、女にかなはされと、さも注せねはなり。吹黄刀自か哥ならは、妹かにてはなくて、君かにてあるへし。もしもとより妹かならは、別人の哥なるへし。刀自と名におひて、第一卷の哥に、常にもかもなとこをとめにてとよみたれは、まきれなく女なり。此次の哥に、きませわかせこといへるも、せこは女にも通すれと、かよふは男のならひ、待は女のならひなれは、此いもといふ詞、かならすかなはぬなり
 
491 河上乃伊都藻之花乃何時何時來益我背子時自異目八方《カハカミノイツモノハナノイツモイツモキマセワカセコトキシカメヤモ》
 
時自異目八方、【幽齋本云、トキシケメヤモ、】
 
イツモノ花の名に付て仙覺抄に、神武紀に丹生川上にして諸神を祭り給ふ時|嚴※[分/瓦]《イツヘ》を始て、萬の物に嚴の名を付給へる事をひかれたり、然れども彼嚴と云は稜威《イヅ》と同じ意にて時に當て虜《アタ》賊等を壓む爲に、言靈の祝に假に名付給へり、今此いつもと云は、湯津杜木など云は繁き心と聞ゆれば、由と伊と通ずる故にゆつもと云意にて、藻のしげきを云にや、此二句はいつも/\と云ん料の序なり、落句は幽齋本の點尤好し、今の本の鮎を仙覺よきやうに云ひなされたれど、自異の二字ワガとよむべきことわり音訓いづれに付ても意得がたし、幽齋本の點は第十八の歌に、牟都奇多都波(10)流能波自米爾可久之都追《ムツキタツハルノハジメニカクシツヽ》、安比之惠美天婆等枳自家米也母《アヒシヱミテハトキシケメヤモ》、此落句に叶へり、非時をときじくとよめば時じけむやと云は常の事にして、めづらしく思はざらむやいつもめづらしく思はむの意なり、上は序ながらいつもの花の見れどもあかぬ心にも寄たるべし、此歌第十春相聞に再出たるには問答の答歌にて作者なし、
 
初、川上のいつもの花のいつも/\きませわかせこときしけめやも
第十に此哥ふたゝひ載たり。作者なきをかはれりとす。いつもの花は.いつくしきもの花なりといへと心得す。いつも/\といはむとて、かくいひ出たれは、藻の中の一種の名なるへし。いつもといはんために、いつもといふ名もなきに、いつくしきもといふことはつくり出へからす。時自異目八方を、時わかめやもと點したるは非なり。時しけめやもとは、いつもきますとも、常のことにして、めつらしからぬやうにはおもはしといふ心なり。落著はつねにきますとも、いつもめつらしくおもはんとなり。時しくは、日本紀に非時とかきて、ときはの心なり。いつもの花のいつも/\。此つゝきの哥あまたあり。第十一に、道のへのいつしはゝらのいつも/\。第二十防人かうたに、我門のいつもとやなきいつも/\。六帖に、塩のみついつものうらのいつも/\君をはふかくおもふ我はや
 
田部忌寸櫟子在大宰時歌四首
 
櫟子、系圖未v詳、任2太宰1とのみ云へるは帥なり、後の集に能登にて下る、加賀になりてなどかけるは皆能登守等なるが如し、
 
492 衣手爾取等騰己保里哭兒爾毛益有吾乎置而如何將爲《コロモヲニトリトトコホリナクコニモマサレルワレヲオキテイカヽセム》
 
母の立て行時に袖に縋《スガリ》て泣兒よりも別を慕ふ心はまさるを、如何にせよと置ては行らむなり、第二十防人が歌にも、唐衣裾に取つき泣子らを、置てぞきぬやおもなしにして、源氏薄雲に、母君みづから抱て出給へり、片言の聲はいとうつくしうて袖をとらへて載たまへと引もいみじうおぼえて云云、同早蕨に、いとゞわらはべの戀て泣やうに心とらむ方なくおぼしゐたり、此歌は櫟子が妻の別るゝ時よめる歌、次は櫟子が答歌と見えたり、後の二首は立て行道にてよめるなるべし、端作に櫟子作歌(11)四首などかゝざるは此故なり、官本に此歌の下に舍人吉年と注あれど上に申つることわりにや侍らむ、
 
初、田部忌寸櫟子任太宰時歌四首
衣手に取とゝこほりなくこにもまされるわれをゝきていかにせん
母なとの立てゆく時、袖にすかりてなく兒よりも、別をしたふ心はまさるを、いかにせよと、置てはゆくらむなり。第二十防人か哥に、から衣すそに取つきなくこらを置てそきぬやおもなしにして。源氏物語薄雲に、はゝ君みつからいたきて出給へり。かたことの聲はいとうつくしうて、袖をとらへてのりたまへとひくもいみしうおほえて云々。又云はく。君の見えぬをもとめて、らうたけに打ひそかたまへは、めのとめし出てなくさめまきらはし聞え給ふ。同早蕨に、いとゝわらはへのこひてなくやうに、心とらんかたなくおほれゐたり。今の哥は、櫟子太宰に任せられゆく時、妻のよめる哥、衣は櫟子か返し、後の二者は櫟子か、妻にわかれて行なけきを、みつからのふる哥なれは、哥の下にをの/\注あるへきがおちたるにや
 
493 置而行者妹將戀可聞敷細乃黒髪布而長此夜乎《オキテイカハイモコヒムカモシキタヘノクロカミシキテナカキコノヨヲ》
 
行者、【六帖、ユカハ、】
 
歌の心明かなり、六帖によひのまと云題に入たるは置而行者を假名に書たるを起《オキ》てゆかばと意得て戀の歌としたるか、紀州本此歌の下に田部忌寸櫟子と注す、
 
494 吾妹兒矣相令知人乎許曾戀之益者恨三念《ワキモコヲアヒシラセケムヒトヲコソコヒノマサレハウラメシミオモヘ》
 
令知、【六帖云、シラセタル、紀州本點云、シラシメシ、】
 
一二の句は媒をも云べし、別て戀しき餘りに互に相知らせそめし人さへ恨めしきなり、初に逢ことなくば別るゝ悲あるまじければなり、又ワキモコとは指あたりたる妻をいへど※[手偏+總の旁]じて戀と云事を知らせ初たる人の恨めしさといへるか、古今に、足引の山ほとゝぎす我ごとや、君に戀つゝいねがてにする、是も我が人を戀るにかけてよむ故に郭公の妻ごへるをも君に戀つゝとはよめり、唯郭公の妻を戀と云心を(12)君にこふれやといはゞたがへる事なるべし、今の吾妹子此に准らふべし、
 
初、わきもこをあひしらせ《・令知《・シラシメシ》》けむ人をこそ戀のまされはうらめしみおもへ
あふといふ事なくは、わかるゝこともあらし。わかれてこひしきあまりに、たかひにあひしらせそめし人さへうらめしきなり。されとなかたちなとを恨むにはあらず。惣して夫婦といふ事をはしめし人をさすなり。伊弉諾伊弉冊こそ、それにあたりたまへと、唯大體にいひて、それまての沙汰にをよふへからす。わきもこをあひしらせけむといふに、まとふへけれは注するなり。これは古今集に、あしひきの山ほとゝきすわかことや君にこひつゝいねかてにするとよめるにおなし。をのかつまこひてなくやなとよめるこそほとゝきすにはかなふを、わか君をこひて、いねかてにすることをいはむとて、郭公をかりていへは、をして君にこひつゝとよめるが上手のしわさにておもしろし。今も惣して逢ことを知そめし人の、うらめしきといふことを、わきもこをといへり。明ぬらん空さへけさはつらきかな天のいはとを今はさせかし。これもきぬ/\のかなしきより、天のいはとをかけて恨る、今のこゝろに似たり
 
495 朝日影爾保敝流山爾照月乃不※[厭のがんだれなし]君乎山越爾置手《アサヒカケニホヘルヤマニテルツキノアカスカキミヲヤマコシニオキテ》
 
不※[厭のがんだれなし]、【官本亦云、アカサル、】
 
不※[厭のがんだれなし]をアカズカと點じたるは此を句にして君を山越に置てあかすかと返て意得るにや、仙覺抄にはあかずやとあり、唯官本の又の點に依り、或はいとはぬ、あかれぬ、うとまぬなどの内心に任てよみて、下まで連ね下して心を云ひ殘せる歌とすべきにや、大和の國より立田路大坂路などを越來て朝ぼらけに顧みれば、日の出なんずる粧に匂へる山のはに折しも有明の月も猶光のをさまらで艶なるに故郷の妻を思ひよそへて、今見る月の如くあかれぬ人を山越に置て何處をはかりともなき海路にや趣かむと來し方行末を思ふ意なり、第十一にも、淺香がた山越に置てなどよめり、六帖に此歌を葛《カヅラ》の日蔭の歌とせるは如何ぞや、
 
初、朝日影にほへる山にてる月の不※[厭のがんだれなし]《アカサル、アカレヌ・イトハヌ、ウトマヌ此集ニ》きみを山こしにをきて
不※[厭のがんだれなし]をあかすかと點したるは、こゝを句にして、君を山こしにおきてあかすかとかへりて心得るにや。かとよむへき字もなし。用ゆへからす。あかさる、あかれぬ、此ふたつの内いかにもよむへし。又いとはぬとも、うとまぬともよむへし。いつれもおなし心なり。朝日影にほへるとは、うす霞、うす霧なとの中より、はなやかにさし出るなとをいへり。艶字を此集にかけり。朗詠集に菅三品の文には、匂の字をよめり。鼻にいるかほりを、にほひといふも、花の上香の上の艶なれは、わたしていへるなり。かほのにほひなといふは、俗語にしほらしといふにかよはしてきけは、おほかたゝかはぬなり。源氏に、曉かけて月出る比なれはとかけるやうに、廿五六夜の後の月の、みるほともなく明るが、名こりおしきによそへて、あかれぬ君とはいへり。序哥の體なり。山こしに置ては、此いひもはてぬやうなるに、かきりなき意こもりて.いはぬがいふにまさるなり。第十一にも、ゆきてみてきてそこひしきあさかかた山こしにをきていねかてぬかも《不勝アヘヌナリ》
 
柿本朝臣人麻呂歌四首
 
496 三熊野之浦之濱木綿百重成心者雖念直不相鴨《ミクマノノウラノハマユフモヽヘナルコヽロハオモヘトタヽニアハヌカモ》
 
(13)綺語抄云、濱木綿は芭蕉葉に似たる草の濱に生るなり、童蒙砂には莖の皮の薄くて多く重なれるなりと注し、袖中抄には葉の重なりたるなり、多く重なりたれば八重ともよみ百重ともよむなりといへり、三熊野は、綺語抄には紀伊國と云ひ、童蒙抄には是は伊勢に三熊野の浦と云浦の有なり、大饗の時は鳥の足裹む料に伊勢國三熊野の浦へ濱木綿を召すと云とあり、顯昭も此定にて道命阿闍梨の紀伊國の三熊野にて濱木綿をよまれたる歌をも引ながら會釋を設て伊勢なりと存せらる、今按伊勢の熊野いと名高からず、歌に獨ても聞えずや、又大臣の大饗に鳥の足包む料とかやは後代の故實も侍るぺければ、往古の歌の證とは成がたき事も有けむ、紀伊國なるは名高き上道命も彼處に到てよまれ、仲實朝臣も同じ定にて又此歌を本歌としてよめる人々も皆さこそは思はれたらむなれば聞馴たる所とすべし、初の二句は百重と云べき序なり、百重成は今按百重ナスとも讀べきか、假て書字なれどモヽヘナルと云は、もゝへにあると云べきを爾阿を反て約むれ百重ば奈と成故に、他處に用たる所、假令百重爾有、百重有、百重在、百重爾在、かやうにかけり、もゝへなすとよみても物を思ふ心の重々をなすにて、もゝへなると云に替る處なけれど、古語の意を顯はすなり、集中を解見たまへらむ人はげにもとや思はれ侍らん、第十二にも腰の句に(14)百重成とある歌侍れどモヽヘナルと點ぜり、
 
初、みくまのゝ浦の濱ゆふもゝへなる心はおもへとたたにあはぬかも
濱ゆふは草の名なり。其葉芭蕉に似たるとなり。其皮は紙のやうにて、白くいく重ともなくかさなれるものなれは、もゝ重なるとはよめり。皮の白くかさなるが、ゆふをたゝめるに似たれは、濱ゆふとも名付たり。榮華物語第二十云。袖くちきぬのかさなりたるほと、浦のはまゆふにやあらん。いくへと知かたし。源氏物語乙女に、濱ゆふはかりのへたてさしかくしつゝ、何くれともてなしまきらはしたまふめるも、むへなりけりとおもふこゝろそはつかしかりける。これらみな此哥にてかけり。今案はまゆふは浪をいへる歟。此集に、濱波ともよめり。波をゆふにたとへてよめる事、此集にあまたあり。あふ坂を打こえみれはあふみの海しらゆふ花に波立ちわたる。泊瀬女のつくるゆふ花みよしのゝ瀧の白あはにさきゝたらずや。泊瀬川白ゆふ花に落たきつせをさやけくとみにこしわれを。此たくひなり。第二卷に、白妙のあまひれこもりとよめるは、白雲かくれなり。第九に空ゆふのかくれてませはとよめるは、遊絲の事ときこゆ。いとゆふとなつくるも、糸のことくして、木綿に似たれは、名つけたるへし。されはかれこれを合せて案するに、かの熊野はあら海にて、浪のひまなくよせくるに、おもひのいやましなるをたとへて、されともおもふかひなくまほにあふことのなきをなけくなり。百重成は、もゝへなすともよむへし。もゝへなるとよむ時は、もゝへにあるを、爾阿(ノ)切奈なれは、成といふ字をかりてかけるなり。もゝへなすとよむ時は、なす日本紀に如の字をなすとよみたれは、はまゆふのもゝへあることく、重々におもふとなり。たゝにといふにふたつあり。此集にたゝにゐてとよみ《・黙然居而第三之三十二葉》、文章に徒の字をたゝにとよねるは、すなはちいたつらにといふにおなし。いま直の字をか
 
497 古爾有兼人毛如吾歟妹爾戀乍宿不勝家牟《イニシヘニアリケムヒトモワカコトカイモニコヒツヽイネカテニケム》
 
不勝は今按ガテズと讀べし、上にも云如くいねあへずと云に同じ、若ガテニと今のまゝに讀ば不知をしらに〔三字右○〕とよめるやうにがてず〔三字右○〕をがてに〔三字右○〕と云へるなり、宿難《イネガテ》に紛るべからず、
 
初、いにしへに有けむ。第七人麻呂集に出といふ哥にも、上句これとおなし哥有。いねかてにけむ、かもしすむへし。かてには、かたずといふことなり。不知をしらにといふかことし。かたすは、あへずたへずといふにおなし心なり。すなはち不勝とかきて、たへすともよめり。不v堪不v耐といふにおなし。かてずけんともよむへし。難の字をかきていねがてといふにはかはれり。それにはかもしにこるなり。
 
498 今耳之行事庭不有古人曾益而哭左倍鳴四《イマノミノワサニハアラスイニシヘノヒトソマサリテネニサヘナキシ》
 
此は上の歌とみづから問答して心を寛め慰むるなり、文選※[禾+(尤/山)]康養生論云、以v多(ヲ)自《ミズカラ》證、以v同(ヲ)自《ミズカラ》慰、古今集云、何か其名の立ことの惜からば、知て迷ふは我一人かは、
 
初、今のみのわさにはあらす。これはさきのうたに、みつからこたへて、しゐて心をひろめてなくさむるなり。文選※[禾+(尤/山)]叔夜(カ)養生論(ニ)云。以v多(ヲ)自證(シ)以v同(ヲ)自《ミ》慰(ス)。此後の句よくかなへり。古今集に、何かその名の立ことのおしからん知てまとふはわれひとりかは
 
499 百重二物來及毳常念鴨公之使乃雖見不飽有哉《モヽヘニモキヲヨヘカモトオモヘカモキミカツカヒノミレトアカサラム》
 
不飽有哉、【官本、哉作v武、點云、アカサラム、】
 
百重とは使の百度も重なり來るなり、二の句は今按キシケカモトと讀べきか、及をシクとよむ事第二に但馬皇女の御歌に付て釋しつ、集中にヲ〔右○〕ヨブとよめる事なし、古語ならぬにや、前の使のまだ皈らぬに後の使の來る意なり、落句は官本に哉を武(15)に改てアカザラムと點ぜるに從ふべし、君が使の日に百度も來重なれと、思へばにや絶ず來れども猶心に飽足らずあるらんと、吾ながら餘りなる心をよめるなり、毳は假てかけり、毛氈の類の惣名なり、欽明紀に百濟王(ノ)表云、奉2好錦二匹|※[(日/羽)+毛]※[登+毛]一領|斧《ヲノ》三百口《・ミホクチ》1、
 
初、百重にもきをよへかもとおもへかもきみかつかひのみれとあかされや
不飽有哉をあかさらんと點したるは誤なり。おもへかもは、おもへはかもなり。もゝへは、使のしけく百度もかさなりくるなり。きをよへかもとゝは、たとへは人を追て、をひつくなとをいふなり。さきの使のまた歸らぬに、又使のくるをいへり。きみか使のたえすくれと、あきたりてもおもはぬは、百度も來かさなれとおもふ心かと、われなからいぶかりてとふ心なり。結句の心得かたきやうなるは、例の古哥のならひなり。又あかれぬやともよむへし。毳《カモ》は毛氈の類の惣名なり。欽明紀百濟王(ノ)表云。奉2好錦二匹|〓〓《アリカモ》一領|斧《ヲノ》三百口《・ミホクチ》(ヲ)1
 
碁檀越往伊勢國時留妻作歌一首
 
奇異なる姓名なり、系譜等未v詳、第九に碁師歌と載たるも此人歟、還俗の僧などの在家の沙彌にて有けるにや、三方沙彌、久米禅師など一類の名なり、唐に羅漢、維摩など名づけ、王右丞が、名は維、字は摩詰とつけるに似たり、檀越は舊譯の梵語、新譯には檀那、共に翻すれば布施なり、
 
初、碁|檀越《ダンヲチ》徃2伊勢國1時。めつらしき姓名なり。姓も音によむにや。檀越は梵語。布施と翻す。舊譯の音なり。新譯には檀那といふ.翻名かはらす。此集に、三方(ノ)沙彌、久米(ノ)禅師みな一類の名なり。もろこしに、羅漢、維摩なとつき、王右丞か名は維、字は摩詰とさへつけるかことし。孝謙紀やらんに、佛の名なとつく事を禁せらるゝよし見えたり
 
500 神風之伊勢乃濱荻折伏客宿也將爲荒濱邊爾《カムカセノイセノハマヲキヲリフセテタヒネヤスラムアラキハマヘニ》
 
和名集云、野王案云、荻、【音狄、字亦作v※[草がんむり/適]、和名乎木、】與v※[草がんむり/亂]相似(テ)而非2一種1矣、※[草がんむり/亂]、【音亂、】※[草がんむり/炎]也、※[草がんむり/炎]、【音※[毛+炎]阿之豆乃、】此集第十四東歌云、妹なろがつかふ川づのさゝら荻、あしとひとこと語りよらしも、濱にある荻を濱荻といへるにや、此歌より起て又荻は葦の類なれば葦を濱荻と云歟、葦を伊(16)勢には濱荻と云とは後の人の限れるなるべし、此集に猶蘆邊なる荻の葉さやぎと讀たれば、本は何處にも濱に在荻を濱荻と云ひて必らずしも蘆の異名にはあらざるか、神功皇后紀に、はたすゝきと云に幡荻とかゝれ、孝徳紀にすゝきと云人の氏に蘆の字をかゝれたるを思へば此等はもと一類なる故なるべし、此歌はあまねく人の知て後世の體にも叶ひ、感情かぎりのなき歌なり、
 
初、神風のいせのはまおき折ふせてたひねすやらんあらきはまへに
和名集曰。野王案云。荻【音狄、字亦作v※[草がんむり/適]。和名乎木】與v※[草がんむり/亂]相似(テ)而非2一種(ニ)1矣。※[草がんむり/亂]【音亂、】※[草がんむり/炎]也。※[草がんむり/炎]【音※[毛+炎]。和名阿之豆乃。】かくはあれとも、詩には蘆花荻花通していへるやうにきこゆ。難波の蘆はいせの濱荻とは、いにしへよりさたまれる名目か。もし此うたなとにていへるか。又ある人、荻はうみかやといふ物なりといへり。此集第十四東哥に、妹なろかつかふかはつのさゝらをきあしとひとことかたりよらしも。此哥にては、和名葉のことくきこゆ。神功皇后紀に、幡荻とかきて、はたすゝきとよみ、孝徳紀に、すゝきといふ人の名に、蘆の字をかきて、すゝきとよむよし注せられたれは、あしと、をきと、すゝきとは、もとはひとつにこそ。此哥は、人のよくおほえて、後々の體にもかなひ、感情かきりなきうたなり
 
柿本朝臣人麻呂歌三首
 
501 未通女等之袖振山乃水垣之久時從憶寸吾者《ヲトメラカソテフルヤマノミツカキノヒサシキヨヽリオモヒキワレハ》
 
久時從、【官本、或久下有v寸、】
 
未通女等之袖は、振山の枕詞なり、水垣は久しと云はん爲なり、共に別に注す、久時從は今按ヒサシキトキユとも讀べし、第十三に、※[木+若]垣久時從戀爲者《ミヅガキノヒサシキトキユコヒスレバ》云云、此をもヒサシキヨヨリと點ぜり、より〔二字右○〕をゆ〔右○〕と云は古語なれば、拾遺にも六帖にも久しき世よりと改て入られけむを、それを以て又此集に點ぜるなるべし、歌の心は思ひ初たる事の久しうなる事を強く云なり、
 
初、をとめらか袖ふる山のみつかきのひさしき時從《ヨヨリ・トキユ》おもひきわれは
第十三云。みつかきのひさしき時從《ヨヨリ・トキユ》こひすれはわか帶ゆるふ朝夕ことに。下河邊長流か撰せる枕詞燭明抄に、此二首を引ていはく。袖ふる山のみつかきとよめるは、大和國山邊都石上といふ所に、布留のやしろの立たる山を、ふるの山といふ。布留山といはむとて、をとめ子か袖とはをけり。女の舞をまふにも、人をまねくにも、軸をふるによりてなり。布留の川をは、袖ふる川ともよめり。同集云第十二。わきもこやあをわすらすないそのかみ袖ふる川のたえんとおもへや。同國吉野に袖ふる山といふ山有。天女の下りて舞をまひし山なり。人丸の哥は、其山にはあらす。みつかきの久しき世といふことは、日本紀崇神三年秋九月、遷都於磯城是謂瑞籬宮。舊事本紀云。磯城瑞籬宮《シキミツカキノミヤノ》天皇(ノ)御世(ニ)布都《フツノ・〓》大神(ノ)社(ヲ)大倭(ノ)國山邊(ノ)郡石上(ノ)邑(ニ)移(シ)建(テ)、天(ノ)璽《シルシ》瑞《ミツノ》寶同(ク)共(ニ)藏(シテ)號2石上(ノ)大神(ト)1。以爲(ニ)2國家(ノ)1爲2氏神1云々。しかれは、布留の社は、瑞籬の宮の御宇にたてられて、我國にては神社のはしめとす。よりて布留のやしろは、ふるき事に別してよめり。此故に久しきことをは、みつかきの御代を申なり。ふるの社の神垣をもて、皇后のみつ垣の宮に相兼て、みつかきの久しき世とはよめるなり。瑞籬の宮は、人王第十代崇神天皇の皇居の名なり。伊勢物語に、住吉のおほん神けきやうしたまひて、むつましと君はしらなみみつかきの久しき世よりいはひそめてきと有けるも、人まろの哥によりて、かの神も仰られしなり。以上燭明抄なり。拾遺集には、此哥の結句おもひそめてきとあらためて載られたり。まことに、此哥によりて袖ふる山といふ山なりとおもへるは、いまたかんかへさるなり。第十二の袖ふる川といふ、さきに燭明抄にひける哥の次上に、とのくもり雨ふる川のさゝれなみまなくもきみはおもほゆるかもともよめる、すなはち布留川なれは、袖は舞とてもまねくとてもふるゆへに、ふるといふ詞まふけむとてをとめらか袖といへる、正説なり。瑞籬はいかきともよめり。久|時從《ヨヨリ》は、ひさしき時ゆともよむへし。今一首の哥にあるもおなし。此哥は、おもひそめたる事のひさしきことを、物によせてつよくいひなして、をのかこりぬ心を人にもしらせ、人のつれなきをもうらむるなり。今のみのことにはあらずおく山の岩にこけおひて久しきものを。此哥におなし
 
502 夏野去小牡鹿之角之束間毛妹之心乎忘而念哉《ナツノユクヲシカノツノヽツカノマモイモカコヽロヲワスレテオモヘヤ》
 
(17)月令云、仲夏之月鹿角(ヲ)解《オトス》、されば角の落て生ひ替るが、まだ短くて一束許なればツカノマと云ひて、少の程も忘るゝ間なしとなり、落句は忘て思はむや忘れずとなり、第二に、日並皇子尊石川女郎に賜へる歌の下句同意なり、
 
初、夏野ゆくをしかのつのゝ。六帖には、下の句をみねはこひしき君にも有かな。新古今には、わすれすおもへいもか心を。禮記月令には、仲夏の月鹿角(ヲ)解《ヲトス》と見えたれと、夏のはしめにおとして、さておひかはるか、いまたみしかくて、手一束はかりなれは、つかのまといひて、すこしのほともわするゝまなしといふなり。わすれておもへやは、わすれておもはんやなり。落著はつかのまもわすれぬなり。第二に日竝皇子尊、石川女郎大名兒にたまへる御哥に、大なこををちかたのへにかるかやのつかのあひたもわれわすれめや。これにおなし心なり
 
503 珠衣乃狹藍左謂沈家妹爾物不語來而思金津裳《タマキヌノサヰサヰシツミイヘノイモニモノイハスキテオモヒカネツモ》
 
第十四に此歌再たび出たるには、安利伎奴乃佐惠佐惠之豆美家《アリキヌノサヱサヱシツミイヘ》云云,玉衣とは、玉は例の讃る詞なり、葬具の珠衿、珠衣の沙汰に及ぶべからず、サヰ/\は狹《サ》はそへたる詞、ゐ〔右○〕はあゐ〔二字右○〕の上略にて唯藍の事なり、沈むとは衣を藍に染る時色をこくせんとて藍を出し置たる器に度々押沈めて染るなり、それを旅に出立とて別を悲しむ涙に泣沈むによせて、咽て泣沈みし故に物をさへ能く云ひ置かずして來て思ひかぬるとなり、思ひかぬるとは物の理を思ひ定めかぬるなり、沈は第二に戀に沈まむとありしが如し、袖中抄にはしづむとあれどそれは妹が泣沈むなり、これは我が泣沈む意なれば叶はず、第十四に之豆美とあれば異議に及ぶべからず、鮑昭行路難(ニ)云、心非2木石(ニ)1豈(ニ)無(ンヤ)v感、呑v聲(ヲ)躑躅(シテ)不2敢言1、第十四東歌にも、水鳥のたゝむよそひに妹のらに、物云はず來にて思ひ兼つも、古も今も別はかゝる物なり、袖中抄に説あれど叶はねば引(18)かず、
 
初、玉きぬのさゐ/\しつみいへのいもに物いはすきておもひかねつも
第十四東哥の中に、此哥重出。そこには、ありきぬのさゑ/\しつみいへのいもにものいはすきにておもひくるしも。歌後注云。柿本朝臣人麻呂歌集中出。見上已詮也。こゝをさせり。長流か管見抄に、先賢の説に、さゐ/\はきぬの音なひの、さは/\とする心なり。しつみは其音のしつまりて居る心といへり。されと哥の心に難叶にや。此哥さゐ/\は、さあゐ/\といふ心なり。さは例の助字にして、ゐは藍なり。衣を藍にそむるを、度々其藍入たる器にをししつめてそむれは、色のこくなるなり。しかれは藍といふを、相みるといふ心によせて、家のいもに相みるたひ/\に、思ふ色の増るといふ義なり。玉きぬはきぬをほむる詞。是も下心にわか妹をうつくしゝといふ心をこめたり。奇妙の詞、凡慮不v可v及。以上管見抄なり。今案玉きぬはほむる詞、さゐ/\はさあゐ/\なりといへる、正説とすへし。すへての心はしからし。おもふに、これは旅に出立とて、別をかなしふ涙にしつむを、藍にこくそむるきぬを、たひ/\藍にをしひたしてしつむるにたとへて、その涙にむせひて、物もいはれす、又ますらをの、たをやめのやうになきて見えんもさすかにはつかしくて、いとまこひもよくせて、わかれきて、えおもひしつめぬをよめる哥にこそとうけたまはり侍る。第二十防人か哥に、水鳥のたちのいそきにちゝはゝにものはす【いはすなり】けにて【きてなり】今そくやしき。第十四東哥に、水鳥のたゝむよそひにいものらにものいはすきにておもひかぬつも。此二首とおなし心なり。ことに後の哥は下の句もおなし
 
柿本朝臣人麻呂妻歌一首
 
此は第二に云如く前妻なるべし、後の妻ならば依羅娘子と云べし、
 
初、柿本朝臣人麻呂妻歌。これは前妻《・コナミモトツメ》の哥なり。後妻《・ウハナリ》にはあらす。第二にくはしく注せるかことし。
 
504 君家爾吾住坂乃家道乎毛吾者不忘命不死者《キミカイヘニワレスミサカノイヘチヲモワレハワスレシイノチシナスハ》
 
住坂は宇陀郡の墨坂歟、第二に輕の道をば、吾妹子が里にしあればとよまれたるは、人丸の宅地にて彼處《ソコ》に居《スヱ》おかれけるを君が家に住とはつゝけたるべし、夫婦となりて語らふを相住むといへばなり、住坂の家道としもいへるは此女の父母の宅地は宇※[こざと+施の旁]郡なりけるにや、彼處より輕地に到る道に譬へて、命死なむは知らず死なぬ限は婦道を忘れじとにや、
 
初、君か家にわれすみ坂の家路をも。すみさかは、第三卷百たらぬやそすみさかに手向せはといふ哥の下につふさに注しつ。此妻みまかられける時、人まろのなけきてよまれたる哥に、天とふやかるのみちをはわきもこか里にしあれはといへり。輕の里は、高市郡、すみ坂東は宇陀郡にて、高市郡の凡(ソ)東にあたりて、其あひたすこし隔たるへし。夫婦となりてかたらふを、あひすむといへは、かならす墨坂に家はなけれと、住といふことによせていへるにや。家路は家とすむ所にゆきかよふみちをいふ。それを婦道をたかへしといふにたとへていへり。命しなすはとはいけらん限(ハ)なり
 
安倍女郎歌二首
 
505 今更何乎可將念打靡情者君爾緑爾之物乎《イマサラニナニヲカオモハムウチナヒキコヽロハキミニヨリニシモノヲ》
 
六帖に相思ふと云歌とせり、一二の句は今更に君を除《オキ》て何をか思はむにて心をふたつにせじとなり、第十二、尾花が下の思草とよめる歌の下の句も亦此意なり、腰の(19)句以下は草の風に靡き玉藻の水に靡く譬を含めるにや、楚辭思2美人1云、言不v可2結(テ)而|※[言+台]《オクル》1、此は約の堅からむ事を表して絲を結びて贈る事などあるに付て云へるにや、和漢古くはかゝる事多し、
 
初、今更に何をかおもはん打なひきこゝろは君によりにしものを
 
506 吾背子波物莫念事之有者火爾毛水爾毛吾莫七國《アカセコハモノナオモヒソコトシアラハヒニモミツニモワレナラナクニ》
 
此落句前々に申つる如く火にも水にも我れ君と共にならんの意なる詞なり、不の字をなく〔二字右○〕とよむそれにはあらず、第十六に、事し有らば小泊瀬山の石城にも、籠らばともに思ふな我背とよめる歌に同じ、火にも水にもは第九處女墓歌に、水に入火にも入らむと立向ひ云云、史記孫子列傳云、於v是孫子使(シテ)v使報v王曰、兵既整齊(ナリ)、王可2試(ミニ)下(テ)觀1之、唯王(ノ)所(ノマヽニシテ)v欲(スル)用之、雖v赴2水火1猶可也、新序云、昭奚恤(カ)曰、使d皆赴2湯火1踏(ミ)2白刃1出2萬死(ヲ)1不uv顧2一生1、六帖にはたのむると云歌とす、
 
初、わかせこは物なおもひそ事しあらは火にも水にもわれならなくに
第十六に、事しあらはをはつせ山の石城《イハキ・廓也》にもこもらはともに《句》おもふなわかせ《・物なおもひそとなり》。これとおなし心なり。われならなくには、われ火にも水にもならんにとなり。常に物ならなくにとよめるなくは不の字なり。それにはあらす。第一の廿九葉、第三の四十七葉、第十五の三十三葉にも、此なくといふ詞あり。すてに第一に尺しつ。火にも水にもとは、第九見(ル)2菟原(ノ)處女墓(ヲ)1歌にも、水に入火にもいらんと立むかひ云々。論語曰。子曰民(ノ)於(ル)v仁(ニ)也甚(シ)2於水火(ヨリモ)1。水火(ヲ)吾(ハ)見(ル)2踏(テ)死者(ヲ)1矣。未v見2踏(テ)v仁(ヲ)死者(ヲ)1也。史記孫子列傳云。於v是孫子使(ハシテ)v々報(シテ)v王(ニ)曰。兵既整齊(ナリ)。王可2試(ミニ)下(テ)【下樓】觀1之。唯王(ノ)所(ノマヽニ)v欲(スル)用(ヨ)之。雖v赴(ト)2水火(ニ)1猶可也。新序曰。昭美恤(カ)曰。使d皆赴(ムキ)2陽火(ニ)1踏(ミ)2白刃(ヲ)1出2萬死(ヲ)1不(ヲ)uv顧(ミ)2一生(ヲ)1。敏達紀云。足v食足v兵以悦使(ハヽ)民(ヲ)不(シテ)悼(カラ)2水火(ニ)1同|恤《ウレヘム》2國(ノ)難《ワサワヒヲ》1。延喜式二十八、兵庫式云。凡(ソ)武藝優長(ニ)性志耿介(ニシテ)、不v問(ハ)水火(ヲ)1、必達v所(ニ)v向(フ)、勿v顧(ミルコト)2死生(ヲ)1、一以當(ル)v百(ニ)者(ニハ)、竝(ニ)給(ヘ)2別禄(ヲ)1
 
駿河※[女+采]女歌一首
 
507 敷細乃枕從久久流涙二曾浮宿乎思家類戀乃繁爾《シキタヘノマクラヲクヽルナミタニソウキネヲシケルコヒノシケキニ》
 
古今に、涙川枕ながるゝうきねにはとよめるに似たり、浮宿とは旅泊によそへて云(20)へり、
 
初、敷妙の枕をくゝるなみたにそ。古今集にも、なみた河まくらなかるゝうきねにはゆめもさたかに見えすそありける
 
三方沙彌歌一首
 
508 衣手乃別今夜從妹毛吾毛甚戀名相因乎奈美《コロモテノワクコヨヒヨリイモヽワレモイタクコヒシナアフヨシヲナミ》
 
第二の句は今按ワカルコヨヒユと讀べし、甚戀名、これをもコヒムナとよむべし、落句後の事をかけていへばなり、
 
丹比眞人笠麻呂下筑紫國時作歌一首并短歌
 
系圖未v詳、
 
509 臣女乃匣爾乘有鏡成見津乃濱邊爾狹丹頬相紐解不離吾味兒爾戀乍居者明晩乃旦霧隱鳴多頭乃哭耳之所哭吾戀流千重乃一隔母名草漏情毛有哉跡家當吾立見者青※[弓+其]乃葛木山爾多奈引流白雲隱天佐我留夷乃國邊爾直向淡路(21)乎過粟島乎背爾見管朝名寸二水手之音喚暮名寸二梶之聲爲乍浪上乎五十行左具久美磐間乎射往廻稻日都麻浦箕乎過而鳥自物魚津左比去者家乃島荒礒之字倍爾打靡四時二生有莫告我奈騰可聞妹爾不告來二計謀《マウトメノクシケニノスルカヽミナスミツノハマヘニサニツラフヒモトキサケスワキモコニコヒツヽヰハアケクレノアサキリコモリナクタツノナキノミソナクワカコフルチヘノヒトヘモナクサムルコヽロモアリヤトイヘノアタリアカタチミレハアヲハタノカツラキヤマニタナヒケルシラクモカクレアマサカルヒナノクニヘニタヽムカフアハチヲスキテアハシマヲソカヒニミツヽアサナキニカコノオトヨヒユフナキニカチノオトシツヽナミノウヘヲイユキサククミイハノマヲイユキモトホリイナヒツマウラミヲスキテトリシモノナツサヒユケハイヘノシマアライソノウヘニウチナヒキシヽニオヒタルナノリソガナトカモイモニツケスキニケム》
 
紐、【校本作v※[糸+刃]】  居者、【官本云、ヲレハ、】  旦霧隱、【別校本云、アサキリカクレ、】  有哉跡、【別校本云、アレヤト、】  青※[弓+其]乃、【官本或作v旗、】  射往廻、【校本、廻作v囘】  魚津左比、【校本、魚作v莫、】
 
臣女は官女を云へる歟、今按申の字をまうす〔三字右○〕ともまをす〔三字右○〕ともよみ、芭蕉をばせを〔三字右○〕ともよめば、臣女は眞處女《マヲトメ》なるべきにや、初の二句は鏡成と云はん爲にて、鏡成は見の字を云はん爲に次第に序なり、又文選顔延年詩云、天臨海如鏡、土佐日記に、打つけに海は鏡のごと成ぬれば云云、是等の意にてなぎ渡たる海をほめて云心をもそへたるか、サニツラフ紐は、錦の紐さへあれば色よき絹にてしたるにほへる紐なり、居者は今の點わろし、官本の如く讀べし、明晩は明んとする折に却て暫くらかるを云、朝ぼらけ日ぐらしの聲聞ゆなり、こや明晩と人の云らむとよめる是なり、哭耳之所(22)哭は、今按ネノミシナカルと讀べし、千重をモヘと點ぜるは寫生の誤なるべし、チヘなり、名草漏はナクサモルとも讀べし、後にもかやうに書ける所あり、三室の山を三諸とも云に同じ、青※[弓+其]乃葛木山、※[弓+其]は官本に從て旗とすべし、今の本誤れり、其意、青旗は枕詞別に注す、粟島は阿波なり、浪上ヲイユキサクヽミは、い〔右○〕は發語の詞、さ〔右○〕もそへたる字にて、くゝみは苦しみと云にや、第二に人丸の石根さくみてとよめるも、末に心くゝ、心くしなどよめるも同じかるべし、行《ユキ》くるしむなり、イユキモトホリ、い〔右○〕は發語の詞なり、稻日都麻、第六第十五にもよめり、印南をイナヒヅマと云事いまだ其心を知らず、或説に我をいなとていなむ妻を恨むる意に云といへど、唯此歌のつゞきのみを見て強て云へり、もとより稻日妻とはいはざるをいなぶ心になさんとていなびづまと云ひて浦箕とつゞくるやうやは有べき、又第六赤人の歌には、伊奈美嬬辛荷乃島之島際從《イナミツマカラニノノシマノシママヨリ》云云、第十五には、印南都麻之良奈美多加彌《イナミツマシラナミタカミ》とあれば、唯印南を指ていなみづまと云故あるべし、若《モシ》山に雌山雄山あれば浦にも雌雄ありて印南はいづれの雄浦などの爲の雌にて稻日妻と云にや、又家の妻などに類する事ありて云か、是等は餘の事なれど先疑がはしさを闕上に後人の爲に驚かし置なり、浦箕は、箕は曲りたる物なれば浦囘の意か、弓作が子の先箕を作ると云も共に曲れる物なる(23)に依てなり、魚をな〔右○〕とよめるは、日本紀云、魚此(ヲハ)云v儺(ト)、此集第五に、なつらすととよめるも魚釣なり、家乃島は延喜式云、播磨國揖保郡家嶋神社、四時ニ生タルは、繁の字をシジとよみてしげく生たるなり、四時とかけるによりトシと義訓したる本もあれど廣く集中を考ざる故なり、あまた如此かける所あり、義も通ぜず、莫告我《ナノリソガ》といへるは、落句の不告《ツゲズ》を云はん爲なり、不告とは勅命にて俄に立故に忍たる妻などにかくと云ひ置べき由のなかりけるなるべし、
 
初、臣女のくしけにのする。まうとめは、宮つかへする官女のことなり.今案臣女とは書たれとも、眞をとめなるへき歟。拾遺集物名に紅梅、よみ人しらす。鶯のすつくる枝を折つれはこうはいかてかうまんとすら止り これ子をはいかてかといふことを.こうはいかてかといへり。うとをと通すれは、今も眞處女《マヲトメ》を臣女といふなるへし。芭蕉をはせをといふもおなし。鏡なす、鏡のことくなり。見の字をいはむとてなり。又海の波もたゝす、なきわたりたるをいへり。文選顔延年應v詔讌2曲水1作(ノ)詩(ニ)云。天臨(テ)海鏡(ノコトシ)。土佐日記に、眼もこそふたつあれ。たゝひとつあるかゝみを、たいまつるとて、海にうちはめつれは、くちおし。されは、うちつけに海はかゝみのことなりぬれは云々。さにつらふは、さきに注しつ。あけぐれは、夜の明はてんとてかへりてくらくなる時をいふ。昧爽といふも此時なるへし。朝ほらけひくらしの聲きこゆなりこやあけくれと人のいふらん。哭耳之所哭。ねのみしなかるとよむへし。千重のひとへも。名草山ことにし有けりわかこふるちへの一ひとへもなくさまなくに。家のあたりは故郷のあたりをなり。あをはたのかつらき山、第二卷あをはたのこはたの上といふ哥に注しぬ。かつらの木にまつひてしけれるが、青き旗を立たるやうなれは、かくはつゝけたり。天さかる、こゝに天佐我留と書たれとも、まゝにすむ所に濁る字をもかけり。天のひきくさがれりといふ説は用へからす。あはしまをそかひにみつゝ、阿波の國なり。神代紀云。水次生(ム)2淡洲《アハノシマヲ》1此(レ)亦|不《ス》2以(テ)充《イレ》2兒(ノ)數(ニ)1。今の粟嶋はこれにはあらす。次生2伊豫二名(ノ)洲《シマヲ》1といへる中に、四國あり。舊事紀のことし。阿波國(ヲ)調2大《オホキ》宜都比賣(ト)1。在2東北角(ニ)1。これなり。又紀州に粟嶋あり。それにまきるへからす。いゆきさくゝみ、いは發語のことは。さくゝみはさくむといふ詞とおなし。第二卷に注し畢ぬ。いなひつまうらみを過て、播磨國印南郡に屬するいなみの海の浦を過るなり。管見抄に、いなひは、いやといふ心なり。我をいやとていとふ妻を、いなひつまといへは、所の名をもそれにいひなす、浦みは浦邊なりといへり。第六赤人の哥にも、あはちの野嶋も過ぬ伊奈美嬬からにのしまの嶋まより云々。今案いなひつまは、我をいとふ妻に、所の名をいひなすといふ説信しかたし。山にもめ山を山あれは、浦にもをとめとのありて、かくはよめるか、これを闕てをくへし。鳥しものなつさひゆけは、よろつの鳥は、友とち打むれて、むつましくなれあそへは、それに、つかへ人なと打つれて、ゆくをたとへていへり。家の嶋、演技式云。播磨國|揖保《イヒホ・粒トモカケリ》郡家島神社。しゝに生たる、しけくおひたるなり。なのりそか。和名集云。本朝式云。莫鳴菜【奈々里曾。漢語抄云。神馬藻三字云2奈乃里曾1。今案本文未v詳。但神馬莫v騎之義也。】今案源重之か、但馬國出石社にて、なのりそといふ事を物の名によめる哥に、ちはやふるいつしの宮の神のこまひとなのりそやたゝりもそする。順、重之、同時なるに、神馬藻の説と此哥と同意なる心得かたし。なのりそといふ名は、日本紀に由緒あるを、順かんかへもらされたるなり、神馬莫v騎の義うけられす。物名は何事にもあれ。なのりそを、いひかくしてよむ事なれは、重之哥はよし。日本紀第十三、允恭紀云。十一年番三月癸卯朔丙午、幸《イテマス》2於|茅渟《チヌノ》宮(ニ)1。衣通(ノ)郎《イラツ》姫歌之曰。等虚辭陪邇、枳彌母阿閉椰毛。異舍儺等利、宇彌能波摩毛能、余留等枳等枳弘。天皇|謂《カタテ》2衣通(ノ)郎姫(ニ)1曰。是(ノ)歌不v可v聆《キカシム》2他人《アタシヒトニ》1。皇后聞(タマハヽ)必(ラス)大(ニ)恨(ミタマハム)。故(ニ)時(ノ)人|號《ナツケテ》2濱菜(ヲ)1謂(フ)2奈能利曾毛(ト)1也。これよりなのりそとはいふなり。莫告藻とおほくかけるゆへに、なつけもとよめることあるは、あやまりなり。なつけそといふ事なれは、そは詞の字なれは、日本紀のことく、奈能利曾毛といふへき事なるを、もの字を付すしてのみよみならへり。なとかもいもにつけすきにけむ。此つけすといはむために、なのりそをは取出たるなり。つけすとは、今つくしへ出たつとつけぬをくゆるなり。告ぬにはあるましけれと、ふためきて立てこしをいふなるへし。丹比氏は、宣化紀云。元年三月壬寅朔|有司《ツカサ》請《マウス》v立2皇后(ヲ)1。己酉詔曰。立2前(ノ)正妃《ムカヒメ》億計天皇女橘仲皇女(ヲ)1爲(セ)2皇后(ト)1。是(レ)生2一男三女(ヲ)1長(ヲ)曰2石姫皇女(ト)1。次曰2小石姫皇女(ト)1。次曰2倉稚綾姫(ノ)皇女(ト)1。次(ヲ)曰2上殖葉《カムウウェハノ》皇子(ト)1。亦名2椀子《マリコノ》皇子(ト)1。是(レ)丹比(ノ)公《キミ》、偉《イ》那(ノ)公|凡《スヘテ》二|姓《ヤカラ》之|先《オヤ》也。文武紀【續日本紀】云。大寶元年七月壬辰、左大臣正二位多治比(ノ)眞人島薨。○大臣(ハ)宜化天皇之|玄孫《・ヤシハコ》、多治比(ノ)王(ノ)之子也。かゝれは椀子皇子の曾孫なり。笠麻呂は考る所なし
 
反歌
 
510 白妙乃袖解更而還來武月日乎數而徃而來猿尾《シロタヘノソテトキカヘテカヘリコムホトヲカソヘテユキテコマシヲ》
 
白妙、【校本、妙作v細、】
 
袖解更而は袖さしかへてと云意歟、又寒暑かはれば衣も隨て厚薄ある意歟、月日乎數而は今按袖中抄に月日をほどと讀よしいはれたるは此歌に依か、されど六帖につきひかぞへてとあれば古き讀やう一准ならずと見えたり、第十七第十八につきひよみつゝと云句あれば彼に依て今もツキヒヲヨミテと點ずべきか、數の字ヨムと義訓すべきことわりあらはなる上、第十三に然よむべき證あり、彼處に至て注す(24)べし、
 
初、白妙の袖ときかへてかへりこむほとをかそへてゆきてこましを
袖ときかへては、諸共にふすなり。二句にてきりて心得へし。月日乎數而、これをは月《ツキ》ひをよみてともよむへし。ゆくほと、かへるほと、かなたにとゝまらんほと、おほよそいかはかりのつきひをへてはかへらむと、もろともに期をちきりてゆきてこんする物をとなり。なとかも妹につけすきにけむの心なり
 
幸伊勢國時當麻麻呂大夫妻作歌一首
 
511 吾背子者何處將行巳津物隱之山乎今日歟超良武《ワカセコハイツチユクラムオキツモノカクレノヤマヲケフカコユラム》
 
第一已出、
 
初、わかせこはいつちゆくらん。此哥在第一卷。此重出
 
草孃歌一首
 
初、草孃歌。この名は、第九卷のやうに、簡略にかける女の名なるへし
 
512 秋田之穗田乃刈婆加香縁相者彼所毛加人之吾乎事將成《アキノタノホタノカリハカカヨリアハヽソコモカヒトノワレヲコトナサム》
 
穗田は穗に出たる田なり、第八第十にもよめり、刈婆加も亦第十第十六によめり、婆は場なるべし、加はありか〔右○〕、かくれが〔右○〕の如く所と云意あるやうなり、カヨリアハゞのか〔右○〕は助語なり、催馬樂に、総角やひろばかりやさかりてねたれども、まろびあひにけりかよりあひにけり、源氏初音に、竹川歌ひてかよれるすがたといへり、又匂兵部卿に、求子舞てかよれる袖どもの打返す羽風に云云、田を刈に此方彼方より刈て中比行逢ふ如く實に逢にはあらでおのづからの人間《ヒトマ》に指寄て物云ほどの事あるにも、それさへをかにかく人の云ひて事あらせむと侘てよめるなり、又|彼所《ソコ》は穗田を指(25)て、穗田の刈場を見に出てそれを由にて逢たりとも彼處も人目のあれば云ひさわぎてや、吾を事あらせむとよめる歟、山澤惠具をつみゆかむ日だにもあはむともよみたれば田面にも行逢べし、吾乎は今按ワヲと讀べし、第十四にもあをことなすなとよめり、
 
初、秋の田の穗田のかりはかかよりあはゝそこもかひとのわを事なさん
穗に出る田をほたといふ。八之三十六葉、十之四十三葉にもよめり。かりばかは、かりしほになるをいふ。十之三十八葉、十六卷三十一葉にもまた此詞あり。かよりあはゝのかは助字なり。催馬樂に、あけまきや、ひろはかりや、さかりてねたれとも、まろひあひにけり。かよりあひにけり。源氏物語初子に、竹川うたひてかよれるすかたといへり。又匂兵部卿に、もとめこまひてかよれる袖とものうちかへすはかせに云々。これらはすこし常に身をよりてといふにかよひてきこゆ。穗に出たるいねのなひきあふことく、よりあはゝとよせていへり。此集にそこといふは、つねにその所といふを、そこといふのみにあらす。それといふへきをもをこといへり。まことにあふにはあらて、すこしのひとまに、まちかくさしよりて物いふ事ある、それにも人のはや我をあひたるやうにいひて、ことならぬをも、事なれるやうにいひなされむの心なり
 
志貴皇子御歌一首
 
513 大原之此市柴乃何時庶跡吾念妹爾今夜相有香裳《オホハラノコノイツシハノイツシカトワカオモフイモニコヨヒアヘルカモ》
 
市柴、【六帖、續古今、共イチシバ、別校本亦同、】
 
大原は大和なり、第二に云が如し、此とは、按ずるに藤原、大原同所と云へば、藤原に皇居を卜したまひし時此皇子も彼處におはすべければ、さて此とはのたまふなり、市柴は第八第十一には五柴とかける故に今もイツシバと點ぜるか、袖中抄云、いつしば、いちしば同事なりと云へり、平家物語大原御幸に此歌を引たるは大原を北山の大原と心得て市柴をば市にもて出る柴と思へるにや、第十二に、御獵する狩場の小野の櫟柴之とあるを今の本にはナラシバノと點ぜれど、顯昭は、先かしはぎのと引て或本に櫟柴之とかけり、いちしばは、いちひしばと云歟、常には楢柴のとも云へり(26)とあれば櫟柴をイチシバと點ぜりと見えたり、六帖に今の歌を草部にいちしの歌とせるは、いちしの交りたる芝と心得たるか、僻事なるべし、此市柴はいつしかとのたまはむ爲に所にあひたる物を取出たまへり、イツシカはし〔右○〕助語にていつか逢はむと思召つる人に嬉しく今宵あひ給ふとなり、庶は鹿に改むべし、
 
初、大原の此いつしはのいつしかとわかおもふいもにこよひあへるかも
續古今集には、大原や此いちしは、こよひあひぬると載られたり。大原は、第二卷天武天皇の御哥にもありて注せり。山しろにあらす。やまとなり。管見抄に、大きなる原なり。名所にはあらす。たとへは大野らとよめるかことしといへるは、いまた續日本紀を考さりけるなり。市柴は、第十一にも、道のへのいつしは原のいつも/\人のゆるさんことをしまたんといふ哥に、五柴原とかきたれは、今も市をいつとよむへし。市に出てうる柴のことなといふ、さにはあらす。續古今集にも、しか心得て載られ、平家物語には、所をも八瀬大原の大原とさへ心得たりと見えたり。又管見抄に、いつくしき心なり。柴は燒柴にはあらす。芝柴よみひとつなれは、いつくしき芝原といふことなりといへり。いかゝ侍らん。今案なら柴、くり柴、なと申ことく、もしいちひの木のちひさきを、かりはやすなとをもいふ歟。みかりするかりはのをのゝなら柴のといふ哥に、櫟柴とかけり。楢の字をこそならとはよめ。されとも、なれはまさらてとつゝけたれは、なら柴ならて、いちしはといひてはつゝかす。もしならとかしはとのかよふことく、いちひとならとも一類にて、かよはしかける歟。通する物ならは、なら柴のことく、いちしはともいふへくや。鹿誤作v庶
 
阿倍女郎歌一首
 
514 吾背子之盖世流衣之針目不落入爾家良之母我情副《ワカセコカキセルコロモノハリメオチスイリニケラシナワカコヽロサヘ》
 
キセルは著《キ》るをかく云は例の古語なり、針目不落は針目ひとつもおとさずにて針目毎にと云なり、一夜も不落に意同じ、家良之の下には奈の字の落たるなるべし、第十二にも、紐の緒の心に入て戀しとよみ、古今集に、あかざりし袖の中にや入にけむ、我魂のなき心ちするとよめる意なり、
 
初、わかせこかきせる衣のはりめおちすいりにけらしなわかこゝろさへ
きせるは著るなり。はりめおちすは、ひとよもおちすといふにおなし。しけきはりめことに、わか心の入なり。古今集に、あかさりし袖の中にやいりにけむわかたましゐのなきこゝちする。又心は君か影となりにきとよめるにおなし
 
中臣朝臣東人贈阿倍女郎歌一首
 
元明紀云、和銅四年四月、從五位下、元正紀云云、聖武紀云、天平五年三月、從四位下、
 
初、中臣朝臣東人。和銅四年四月従五位下。養老二年八月式部少輔。四年十月從五位上。○爲2右中弁1。神龜元年二月正五位下。三年正月正五位上。天平四年九月兵部大輔。五年三月從四位下
 
515 獨宿而絶西紐緒忌見跡世武爲便不知哭耳之曾泣《ヒトリネテタエニシヒモヲユヽシミトセムスヘシラニネノミシソナク》
 
(27)紐緒は紐の緒と云なるべし、又緒は詞に假たらんも知がたし、第九にも足柄坂見2死人1作歌に、白細乃紐緒毛不解《シロタヘノヒモヲモトカズ》とあり、紐を結ぶを契を結ぶによすればそれが絶ればいま/\しとは云へり、
 
初、獨ねてたえにしひもをゆゝしみとせんすへしらにねのみしそなく
第十二にも、はりはあれといもしなけれはつけむやとわれをなやましたゆるひものをとよめり。ひもをむすふを、契をむすふによするに、それがたゆれはゆゝしみとはいへり。ゆゝしみはいま/\しきなり
 
阿倍女郎答歌一首
 
516 吾以在三相二搓流絲用而附手益物今曾悔寸《ワカモタルミツアヒニヨレルイトモチテツケテマシモノヲイマソクヤシキ》
 
以は持に通して用る事あり、三相は絲三條を合せたるなり、孝徳紀云、始我遠皇祖之世、以2百濟國1爲2内|官家《ミヤケト》1、譬(ハ)如d三絞《ミセノ》之綱u、中間《ナカコロ》以2任那《ミマナ》國1屬2賜百濟1云云、此三絞之綱と麁細は異なれど同じ事なり、意はつよき絲をもて堅く縫著まし物をさもせざりしが悔しきとなり、此第二句に種々の點あり、今此を取らず、今の點は仙覺抄に江家の本の點といへり、
 
初、わかもたるみつあひによれる糸もちて。糸みすちをより合せたるなり。つよき糸といふ心なり。つけてましものをとは、そのひものをかたくつけまし物をなり。孝徳紀云。始我(カ)遠(ツ)皇祖《ミオヤノ》之世以2百濟(ヲ)1爲2内(ツ)官家《ミヤケト》1。譬(ハ)如頁2三絞之《ミセノ》綱(ノ)1。中間《ナカコロ》以2任那《ミマナノ》國(ヲ)1屬2賜百濟(ニ)1
 
大納言兼大將軍大伴卿歌一首
 
六帖には大伴のやすまろとて此歌を載たり、
 
517 神樹爾毛手者觸云乎打細丹人妻跡云者不觸物可聞《サカキニモテハフルトフヲウツタヘニヒトツマトイヘハフレヌモノカモ》
 
(28)神樹は義を以てかけり、榊の字を作れる意に似たり、今按サカ木と云はひろし、字のまゝにカミ木とよみて輕の社の齋槻、三輪布留の杉、住吉の松などの如く神木と意得べきにや、燭云乎はフルテフヲともよむべし、打細丹は偏にと云意なり、別に注す、神の領し給ふ坂木にだに手は燭なるに、他の妻と定まりぬればひたすらに手をだに燭れぬ物かとなり、思ひ懸られける人に主出來て後よまれけるなるべし、
 
初、さかきにもてはふるといふをうつたへにひとつまといへはふれぬ物かも
下四十八葉云。うまさかをみわのはふりかいはふ杉手ふれしつみか君に逢かたき。これにはたかひて、神の領し給ふ坂木にたに、手はふるなるに、他の妻とさたまりぬれは、一向にふることあたはぬ物かなとなり。おもひかけられける人の、ぬし出來て後よ まれけるなるへし。打たへは、源氏の細流に、一向の義を用うる 河海には、打付やかてなといふに同し心に釋せらる。細流には、此説をうけかはれす。此集には、下の五十七葉に、打たへにまかきのすかたみまくほりゆかむといへや君をみにこそ。第十の九葉に、打たへに鳥はゝまねとしめはへてもらまくほしさ梅の花かも。土佐日記(ニ)こゝにむかしへ人の母、一日かた時もわすれねはよめる。住のえに舟さしよせてわすれ草しるしありやとつみて行へくとなん。うつたへに忘なんとにはあらて、こひしきこゝちしはしやすめて、又もこふるちからにせんとなるへし。長流か注に、打たへは偏なりといへり。一向の義におなし。忠見家集、春雨はふりそめしかとうつたへに山をみとりになさむとやみし。蜻蛉日記に、うつたへに秋の山へをたつねたまふにはあらさりけり。言辞物語藤はかまに、らにの花のいとおもしろきをもたまへりける手、みすのつまよりさしいれて、これも御覽すへきゆへは有けりとて、とみにもゆるさてもたまへれは、うつたへに思ひもよらてとりたまふ。御袖をひきうごかしたり。定家卿、まつかねをいそへの浪のうつたへにあらはれぬへき袖のうへかな
 
石川郎女歌一首
 
六帖に石川女わうとて此歌を入たるは非なり、若は女らうなりけるを寫し誤れるか、官本此下に注云、即佐保大伴大家也と、然らば第二卷より度々石川郎女とあるは皆此人歟、
 
518 春日野之山邊道乎與曾理無通之君我不所見許呂香裳《カスカノヽヤマヘノミチヲヨソリナクカヨヒシキミカミエヌコロカモ》
 
ヨソリナクは伴なひてより所とする人もなきなり、第十四にもよめる詞なり、山邊の道なれば猛き獣、山だちなどの恐もあるを、それをも憚からずたよりとする人もなくて通ひ來し君が、此比見え來ぬは如何なる故ならむと切なる志ある人の日を經て來ぬをいとゞおぼつかなく思ふ意なり、
 
初、かすかのゝ山への道をよそりなくかよひしきみか見えぬころかも
よそりなくはおそりなくなり。よとおとは同韻相通なり。山への道には、山賊猛獣なともあるを、それにもおそれすかよひこし君が、いかにしてか此ころ見えぬと、心もとなくおもふなり。第十四東哥、にひた山ねにはつかなゝわによそりはしなるこらしあやにかなしも.此哥はその所にいたりて注すへし。山への道をよそりなくは、古今集に、よはにや君かとよめる哥を引かへて、高安の女かよめらんにかなふへし
 
(29)大伴女郎歌一首
 
519 雨障常爲公者久堅乃咋夜雨爾將懲鴨《アマサハリツネスルキミハヒサカタノヨフヘノアメニコリニケムカモ》
 
昨夜雨爾、【六帖云、ヨムヘノアメニ、別校本同v之、】
 
一二の句は常にだに雨にさはりて來ぬ人の昨夜いたく雨にあひつれば、いとゞ懲て今よりは晴渡りて降ぬべき疑なき夜ならでは向ひも來ざらんかの心なり、伊勢物語に、雨のふりぬべきになむ見わづらひ侍るとある所廣く引べし、久堅は雨にかゝる枕詞なり、昨夜はヨウベと點じても、よむべと讀習へば初よりヨムベと有にも付べし、ヨフ〔右○〕ベは叶はず、
 
初、雨さはり常する君は久堅のよふへのあめにこりにけむ鳧
雨さはりは、雨にさはりてこぬなり。伊勢物語に雨のふりぬへきになん見わつらひ侍る。みさいはひあらはこの雨はふらしといへりけれは、れいのおとこ、女にかはりてよみてやらす。かす/\におもひおもはすとひかたみ身をしる雨はふりそまされる。久かたは、下のあめといはむためなり。よふへを詞書にはよんへとよめと、哥なれは字のまゝに讀へし。俗に昨夜をゆふへといひて、夕の字とひとつになすはあやまりなり。知たりともさて有なん
 
後人退同歌一首
 
此は夫君の答歌にはあらず、別人ありて夫君が答歌の意によめるなり、
 
520 久竪乃雨毛落※[禾+康]雨乍見於君副而此日令晩《ヒサカタノアメモフラヌカアマツヽミキミニタクヒテコノヒクラサム》
 
落※[禾+康]、【官本、※[禾+康]或作v糠、】
 
※[禾+康]は官本の或作に從ふべし、フラヌカは降れかしと願ふ詞なり、雨ツヽミは雨を慎(30)しむなり、令晩はくれしめんの意なる故令の字を加ふるか、今按かやうよむ所は傍例、將晩暮などかけり、第五の終の歌の落句に阿麻治思良之米《アマヂシラシメ》とあるは天路を知らしめよの意なれば、彼を證としてクレシメと點ずべきか、意は、昨夜のみならす今日さへも降れかし、ふりて雨つゝみを由にして君に副居て此日をも晩しめよとなり、
 
初、久堅の雨もふらぬか雨つゝみ 此集に、此あめもふらぬかとやうにいへるは、ねかふ心なり。雨つゝみは、雨かくれたり、亦云雨をつゝしむなり。くらさむは、くれしめんの心なれは令晩とかけり
 
藤原宇合大夫遷任上京時常陸娘子贈歌一首
 
元正紀云、養老二年七月、開置2按察使1、常陸(ノ)國(ノ)守正五位上藤原宇合、管(セシム)2安房、上總、下總三國1、懷風藻云、七言在2常陸(ニ)1贈(ル)2倭判官(ノ)留(テ)在(ルニ)1v京(ニ)一首并序、昔は一任四年にて交替しければ、此歌は養老五六年の間の作なるべし、常陸娘子は常陸は國を擧、娘が名にはあらず、
 
初、藤原宇合大夫選任上京時常陸娘子贈歌。元正紀云。養老三年七月始(テ)置(ク)2按察使(ヲ)1。常陸(ノ)國(ノ)守正五位上藤原宇合(ニ)管(セシム)2安房上總下總三國(ヲ)1。懷風藻曰。正三位式部卿藤原宇合六首【年五十四】七言在(テ)2常陸(ニ)1贈(ル)2倭判官(ノ)留(テ)在(ルニ)1v京(ニ)一首并序。いにしへは一任四年にて交替しけれは、此哥は養老五六年の間の作なるへし。常陸娘子は常陸國の娘子なるへし。娘子が名にはあらし。聖武紀云。神龜元年夏四月庚寅朔丙申、以2式部卿正四位上藤原朝臣宇合1爲2持節大將軍(ト)1。十一月辛未遣(シテ)2内舍人(ヲ)於近江國(ニ)1慰2勞持節大使藤原宇合朝臣宇合(ヲ)1。二年正月授2從三位勲二等1。天平三年八月丁亥詔(シテ)2諸司(ノ)擧(ニ)1擢(テヽ)2式部卿從二位藤原宇合、民部卿從三位多治比眞人縣守、兵部卿從三位藤原朝臣麻呂、大藏卿正四位上鈴鹿王、左大辨正四位下葛城王、右大辨正E四位下大伴宿禰道足等六人1並爲2參講1。六年正月癸亥朔已卯正三位。九年八月丙午參議式部卿兼太宰帥正三位宇合薨。贈太政大臣不比等之第三(ノ)子也。聖武紀云。廣嗣(ハ)式部卿|馬養《ウマカヒ》之《カ》第一(ノ)子也。今按これによりてみれは、宇合は馬養の反名なるを、のきあひと點したるはあやまりなり。
 
521 庭立麻手苅干布暴東女乎忘賜名《ニハニタツアサテカリホシシキシノフアツマヲトメヲワスレタマフナ》
 
東女、【幽齋本亦云、アツマヲウナ、別校本亦云、アツマヲウナ、】
 
第十四東歌にも、庭に立麻手小衾とよめり、庭ニ立とはよき人の家ならば庭として石をたて草木を植て見るべき所までも賤しき家は園にして麻など植るなり、依て(31)庭に立麻といへり、第九にも、小垣内の麻を引|干《ホシ》とよめり、手とは麻の葉は人の手をひろげたるに似たれば云へり、兒手柏|蝦手《カヘテ》なども似たる物に名を得たり、蕨をも、紫塵※[女+頼]蕨人|拳《ニギル》v手と作れり、此等に准ずべし、布慕《シキシノブ》はしきりにしたふなり、麻は刈て後敷並べてほせばかくつゞけたり、東女はアヅマヲミナ、とよめるもあしからじ、頼政の歌にはあづまめともよまる、大和女、河内女の類然るべし、
 
初、にはにたつ麻手かりほししきしのふ。第十四東哥にも、にはにたつあさてこふすまとよめり。庭にたつとは、いやしき家には、よき人ならは、庭として、石をたて、草木をうへてみるへき所まても、そのにしてあさなどうふるなり。よりて庭にたつ麻といへり。手といふは、麻の葉は、人の手をひろけたるに似たれは、麻手といへり、このてかしは《・兒手柏》、かへて《・蝦手》なと似たる物に名を得たり。蕨をは、紫塵嬾人拳v手と作れり。これらに准すへし。しきしのふは、しきりにしたふなり。麻はかりてしきならへてほせは、しきしのふといはむとて取出たり
 
京職大夫藤原大夫賜大伴良女歌三首
 
目録に藤原の下に麿と名を書けり、尤書べし、今此には落たるなるべし、官本注云、卿諱曰v麿也とあるは落たるに付て後人の加へたるなり、其故は當時の官に依て大夫と書て頓て卿と云べき理なし、若大納言以上ならば諱曰b麿とも注すべし、いまだ微官なる上に誰々をも皆名を擧る中に此人のみかゝずして注すべきにもあらず、賜は目録に贈に作れるを證として改むべし、賜と云べきにあらざる事以前評するが如し、良は郎に改たむべし、京職は、職員令曰、左京職、【右京職、准v此、】管司一、大夫一人云云、左右京職を一人奉はらるゝ故唯京職大夫といへり.職は世本(ニ)識(ト)通用(ス)、職主也業也執掌也、周禮有職方氏、後因v官爲v誤、京職、和名云、京職【美佐止豆加佐、】大夫、又云、長官(32)職曰2大夫1、【加美、】今の編作の詞によるに、養老五年以後神龜五年以上の歌なり、元正紀云、養老元年十一月丁酉朔癸丑、授2正六位下藤原朝臣麻呂從五位下1、五年從四位上、同六月辛丑從四位上藤原朝臣麻呂爲2左右京大夫1、聖武紀云、神龜六年三月從三位、六月庚申朔己卯、左京職(ヨリ)獻v龜云云、八月癸亥、詔曰、京職大夫從三位藤原朝臣麻呂等 伊 負v圖龜一頭獻 止 奏賜【不爾】所聞行驚賜云云、天平九年六月甲辰朔乙酉、參議兵部卿從三位藤原朝臣麻呂薨、贈大政大臣不比等第四子也、懷風藻云、從三位兵部卿兼左右京大夫藤原朝臣萬里五首、【萬里、一本作2麻呂1、】此卿詩の自叙を見るに極めたる愛酒にて、榮華を好まず俗塵に汚れざる閑曠の人と見えたり、藤氏四家の中に京家は此人を祖とす、
 
初、京|職《シキ》大夫《・ミカトノツカサノカミ》。世本《・日本紀》(ニ)識(ト)通用(ス)。職(ハ)主也。業也。執掌也。周禮(ニ)有2職方民1。後因官爲v誤。神龜六年六月庚申朔己卯左京職(ヨリ)献v龜。長五寸三分。闊四寸五分。其(ノ)背(ニ)有(テ)v文云。天王貴平知百年。八月癸亥(ノ)詔(ノ)畧(ニ)曰。京職大夫從三位藤原朝臣麻呂等伊負v圖龜一頭獻止奏賜【不爾】所聞行《キコシ》驚賜(ヒ)、恠賜、所聞行歡賛嘉※[氏/一]所思行《オモホサ》久者、于都斯久母、皇朕《スメラワカ》政乃所v致物爾在米耶。此(レハ)者太上天皇(ノ)、厚(ク)廣支徳乎蒙而、高支貴支行爾依而、顯來大瑞物曾止詔命乎衆聞宣。辭別此大瑞物者、天(ニ)坐神、地(ニ)坐神乃相【宇豆奈比】奉、福《サイハヘ》事爾依而、顯奉留貴瑞以而、御世(ノ)年號改(タメ)賜(ヒ)換(ヘ)賜(フ)。是(ヲ)以神龜六年(ヲ)爲2天平元年(ト)1。養老元年十一月丁酉朔癸丑授2正六位下藤原朝臣麻呂(ニ)1從五位下(ヲ)1、五年從四位上。同年六月辛丑從四位上藤原朝臣麻呂(ヲ)爲2左右京大夫1。神亀三年正月正四位上。天平元年三月從三位。天平九年六月甲辰朔乙酉參議兵部卿從三位藤原朝臣麻呂薨。贈太政大臣不比等第四子也。懷風藻云。從三位兵部卿兼左右京大夫藤原朝臣萬里五首【萬里一本作2麻呂1、】懷風藻の此卿詩序をみるに、きはめたる上戸にて、榮華を好ます、俗塵にけかれさる人と見えたり。令義解職員令云。左京職【右京職准v之】管司一。大夫一人。掌d左京戸口(ノ)名藉、字2養百姓1【謂字亦養也】糾2察(スルコトヲ)所部(ノ)貢擧、孝義、田宅、雜徭、良賤】訴訟、【謂凡(ソ)訴訟者自v下始故先曲2京國1而後至官省也】市? 、」度量、倉廩、租調、兵士、器仗【謂案2前令1有2兵士1無2器仗1。今於2此令1、兵士器仗並注。即、知非2兵士之器仗1。〓有2官器仗1、與2諸國1同。】道橋、過所、闌遺(ノ)雜物、僧尼(ノ)名籍(ノ)事(ヲ)u。亮一人。大進一人。少進二人。大屬一人。少屬二人。坊令十二人。使部三十人。直丁二人。藤原の下に麻呂を脱し、贈を誤て賜に作り、郎を良にあやまれり。京職大夫とかけるにてしりぬ。此哥は養老五年以後の哥なり
 
522 ※[女+感]嬬等之珠篋有玉櫛乃神家武毛妹爾阿波受有者《ヲトメラカタマクシケナルタマクシノメツラシケムモイモニアハスアレハ》
 
阿波受有者、【六帖、爲2櫛歌1云、アハサレハ、】
 
六帖に此歌をめづらしと云に入れて下句を見ること今はめづらしや君とす、又櫛の歌として、いぶかし今も妹にあはざればとあり、いふがし今もは一向改たるか、めづらしと云題に、めづらしや君とあるは神の字を此にめづらしとよめるに同じ、メ(33)ヅラシケムモはめづらしからんの意なり、妹にあはざればめづらしからむとは、度々逢し時は我をうき物にも妹が思ひけむ、あはぬ事の久しければ今はめづらしからむとにや、櫛は女の愛する物なればよせて云なるべし、今按第四の句はカミサビケムモと讀べきにや、逢見ぬ事の久しき程を思へばあたらしき櫛もふりぬらむとなり、神に髪を兼べし、題十一云、朝月日向ふつげ櫛ふりぬれど、何しか君がみれどあかれぬ、うつぼ物語樓上に、そのかみに古にし物を改むる、是こそ黄楊の小櫛とは見れ、源氏物語若菜に、さしながら昔を今に傳ふれば、玉の小櫛ぞ神さびにける、此二首共に髪によそへて云へり、髪も人の頭にあり、神は天にまし又は人の上にませば、共に上の意に名付たるにや、國の守《カミ》諸官の頭《カミ》正《カミ》等も亦此意歟、
 
初、をとめらか玉くしけなる玉くしの神《メツラシ》けむもいもにあはすあれは
神家武毛、これをはかみさひけんもとよむへき歟。うつほ物語樓上に、そのかみにふりにしものをあらたむるこれこそつけのをくしとはみれ。この歌そのかみに髪をかねたり。源氏物語若紫上、さしなから昔を今につたふれは玉のをくしそかみさひにける。此哥も神さひけむもにて、髪をもたせたるなるへし。神は壽命かきりなけれはふりぬる事を神さふるといふ也
 
523 好渡人者年母有云乎何時間曾毛吾戀爾來《ヨクワタルヒトハトシニモアリテフヲイツノマヽソモワカコヒニケル》
 
一二の句は戀に能く堪忍して有渡る人は一年あはでもさてこそあると云をなり、有云乎はアリトイフヲとも讀べし、第十三に年渡るまでにも人は有と云をとて、下句は今と全同なる歌あり、何時間曾毛はイツノマニゾモとよめり、今按此二句のてにをは今の樣には叶はぬにや、イツノホドゾモワレコヒニケリと讀べきか、意は、我(34)が逢見しはいつのほどぞ、まだ久しからぬに、われ戀にけりとなり、第四の下絶句なり、
 
初、よくわたる人は。第十三に、としわたるまてにも人は有といふを、下句今の哥と全同。大かたもおなし哥なり
 
524 蒸被奈胡也我下丹雖臥與妹不宿者肌之寒霜《アツフスマナコヤカシタニフセレトモイモトシネヽハハタシサムシモ》
 
蒸被は厚被なり、毛詩(ニ)云、蒸々皇々、注(ニ)蒸々(ハ)厚(ナリ)也、奈胡也はなごやかにて柔らかなるなり、今蒸被は六帖にもあつぶすまとありて能點ぜるに似たれども非なり、ムシブスマと讀べし、古事記に須勢理※[田+比]賣命の大己貴命に返し給ふ御歌の中に、牟斯夫須麻爾古夜賀斯多爾《ムシブスマニコヤカシタニ》云云、爾と奈と通ずれば今の蒸被奈胡也我下とあるは引所の神詠の詞と同じ、今も被のあまりに暖なるをばむすといへば蒸被は其意歟、若は色、若は紋、若は裁製の樣によりて別にさ云ふ衾のあるにやいまだしらず、毛詩云、角(ノ)枕粲(タリ)、錦衾|爛《キラヽカナリ》兮、予(カ)美(トスル人)亡《ナシ》、此(ニ)誰(ト)與(ニカ)獨|旦《アカサン》、第二十に防人か歌に、旅衣八つ著重ていぬれども猶肌悲し妹にしあらねば、同意なり、又第十一に、刈薦の一重を敷てさぬれども、君とし寢《ヌ》ればひやけくもなし、此もよきと云をあしからずと云程の事にて亦同意なり、
 
初、あつふすまなこやか下にふせれとも。和の字をなこむとよめり。なこやかなりといふも、おなしくやはらかなるなり。毛詩曰。角(ノ)枕粲(タリ兮。錦(ノ)衾爛《キララカナリ》兮。予(カ)美(トスルヒト)亡《ナシ》v此(ニ)。誰(ト)與(ニカ)獨|旦《アカサン》。烝被とかけとも厚被《アツフスマ》なり
 
大伴郎女和歌四首
 
(35)525 狹穗河乃小石踐渡夜干玉之黒馬之來夜者年爾母有※[禾+康]《サホカハノサヽレフミワタリヌハタマノコマノクルヨハトシニモアラヌカ》
 
有※[禾+康]、【官本※[禾+康]、或作v糠、】
 
小石は和名云、説文云、礫水中細石也、音歴、【和名、佐佐禮以之、】此集第十四にはさゞれいしともさゞれしとい〔右○〕を略してもよめり、今按さゞれ浪、さゞら荻などいへるも、ちひさきをさゝやかと云より出たる詞なれば、さゞれとのみ讀ては用ありて体なければ、東歌にちくまの川のさゞれしもとよめるを證として今もサヾレシと讀べきにや、但袖中抄すくろのすゝきの注の中に云、荻とも薄とも草とも云はで唯すくろと云はむ事意得ねど、萬葉歌はさのみ侍なり、はたれ雪をも唯はたれと云ひ、さゞれ石をも唯さゞれとよめり、此さゞれ石を唯さゞれとよめりとは今の歌をさせり、雪をはたれとのみよめる例證明なればさて有べきにや、黒馬もクロマとよむべし、其故はぬば玉は黒と云ん爲の枕詞なるに、こま〔二字右○〕は.小馬と云義なれば意も字も叶はず、第十三に、川瀬のいはと渡て野干玉之《ヌハタマノ》、黒馬之來《コマノクル》夜者常にあらぬかも、是歌も似てコマの點も同じ、又改たむべし、同卷に烏玉之黒馬爾乘而《ヌハタマノクロウマニノリテ》云云、此點を證とすべし、又第十六に黒色の人を嘲てぬば玉の斐太の大黒とよみ、雄略紀にぬば玉の甲斐の黒駒鞍著せば(36)とよめるもぬば玉はくろしとこそつゞけたれ駒とはつゞかず、落句は年にもあらぬか年にだにあれなり、來ぬ事のせめて久しきをいへり、
 
初、さほ川のさゝれふみわたり。和名集に、礫とも細石ともかきて.さゝれ石とよめり。さゝれとのみいふ事、此哥に見えたり。黒馬はくろまとよむへし。そのゆへは、ぬは玉はくろしといふ枕詞なり。こまは小馬といふことなれは、ぬは玉のつゝきにかなはねはなり。又色によらぬことはなれは、黒馬とかきて、こまとよむへきことはりなし
 
526 千鳥鳴佐保乃河瀬之小浪止時毛無吾戀爾《チトリナクサホノカハセノサヽレナミヤムトキモナシワカコフラクニ》
 
小浪、【玉葉、サヽラナミ、別校本同2玉葉1、】  吾戀爾、【六帖云、ワカコフラクハ、紀州本、爾作v者、點如2六帖1、】
 
止時毛無は今按今の本につかばヤムトキモナクと落句につらねて讀て意得べし、なしと切てはことわり叶はず、
 
527 將來云毛不來時有乎不來云乎將來常者不待不來云物乎《コムトイフモコヌトキアルヲコシトイフヲコムトハマタシコシトイフモノヲ》
 
不來云物乎、【六帖云、コシテフモノヲ、紀州本云、コシテフモノヲ、】
 
紀州の本の落句の點に准ぜば發句をコムテフモと讀、腰の句をコシテフヲとも讀べし、
 
528 千鳥鳴佐保乃河門乃瀬乎廣彌打橋度須奈我來跡念者《チトリナクサホノカハトノセヲヒロミウチハシワタスナカクトオモヘハ》
 
落句は汝が來ると念へばなり、河門は海の迫門など云如く川の行當りてせまれる(37)所にて水も殊に早かるべきに、瀬もいと廣ければかち渡のなやむべきに依り、君が來る道ぞと思へば打橋を渡しつるをとなり、
 
初、ちとりなくさほのかはとの。打橋は第二卷に注せり。第七第十にも有。なかくとおもへはとは、汝か來るとおもふゆへなり
 
右郎女者佐保大納言卿之女也初嫁一品穗積皇子被寵無儔而皇子薨之後時藤原麻呂大夫※[女+〓]之郎女焉郎女家於坂上里仍※[弓+矣]号曰坂上郎女也
 
坂上里、古事記開化天皇段云、御陵在2伊耶《イザ》河之坂上1也、日本紀第四、開化紀云、六十年文四月、天皇崩、冬十月葬2于春日率川坂本1、【一云、坂上陵、】坂上刈田麻呂も此坂上里に有りて宅地の名を以氏とせる歟、
 
初、佐保大納言卿は、大伴宿禰安麻呂なり。此郎女は家持のをはにて、又しうとめなり。家持の妻坂上大孃は、大伴宿奈麻呂卿のむすめなり。一品穗積皇子、母(ハ)蘇我(ノ)赤|兄《エノ》大臣(ノ)女、大〓〓娘《メイラツ》。文武紀云。慶雲二年九月壬午詔(シテ)2二品穗積(ノ)親王(ニ)1知(ラシム)2太政官(ノ)事(ヲ)1。三年二月戊巳知太政官事二品穗積親王(ノ)季禄准(シテ)2右大臣(ニ)1給(フ)之(ヲ)。元正紀云。靈龜元年秋七月庚辰朔丙午知太政官事一品穗積(ノ)親王|薨《ミウセタマヒヌ》。遣(シテ)2從四位下石上朝臣豐庭、從五位上小野朝臣馬養(ヲ)1監護(セシム)喪事(ヲ)1。天武天皇第五(ノ)皇子也。紀(ノ)皇女、田形皇女(ノ)の御ためには、同母の兄なり
 
又大作坂上郎女歌一首
 
又と云へるは麻呂大夫と語らひし時の歌なるによりてなり、
 
529 佐保河乃涯之官能小歴木莫刈鳥在乍毛張之來者立隱金《サホカハノキシノツカサノシハナカリソアリツヽモハルシキタラハタチカクルカニ》
 
此は旋頭歌なり、涯ノツカサは仙覺抄に岸のつゞきと注せられたれど岸の高き意なり、官をつかかさと云ひ、物をつかさ取と云ひ、山軍などにかさにまはると云ひ、水の(38)高きをみかさと云類を案ずべし、何れも,つゞきの意にあらず、後に野づかさ山のつかさとよめるも、各其所に隨て高きをいへり、古事記下雄略天皇の段に皇后の天語《アマコト》御歌云、夜麻登能許能多氣知爾《ヤマトノコノタケチニ》、古※[こざと+施の旁]加流伊知能都加佐《コダカルイチノツカサ》云云、こだかるはこだかゝるなり、こ高き市の官とあるは高き所を云ふ證なり、小歴木は古點ワカクヌギなりけるを仙覺今の點に改られたる由、抄に見えたり、六帖にも岸に生たるわかくぬぎ、それなかりぞとあり、今按ワカクヌギは義訓入過ぎ、仙覺點は無理なり、唯やすらかにヲクヌギと讀べし、景行紀に歴木をクヌギとよめり、和名には釣樟とも擧樹ともかけり、鳥は烏を誤れり、在乍毛とはあり/\つゝなり、張之來者とは張は春に假れり、春になりて此小歴木の萠出なん後あり/\ても君が來たらば、諸共に立隱て逢事もあるがに、あらはにな刈盡しぞとなり、又落句は、待とて立隱るゝをも云べし、金〔右○〕はがに〔二字右○〕なり、
 
初、さほ川のきしのつかさのくぬきなかりそ。此哥は旋頭哥なり。此つかさといふ詞、第十には山のつかさとよみ、第十七第二十には野つかさともよめり。つかさはものゝたかき所をいふ詞なり。山の高きをかさといふ。しかれは山も野もきしも高き所をつかさといふへし。野の高き所を野上といへは、かみとつかさ又通せり。小歴木をしはと點したるは、ちひさきくぬ木は柴にかるゆへに、心を得て、柴とよめる歟。管見抄にわかくぬきとあるも、心を得たれと、なかりそといふことのあまれは、あやまれり。日本紀の景行紀にも。歴木とかきてくぬきとよめり。今の俗、くのきといひて、つるはみのなる水木なり。烏の字をあやまりて鳥に作れり。鳥をゝそ鳥といふゆへに、をそを上畧して、烏の字をそとは用るなり。ありつゝもは、あり/\てなりともの心なり。立かくるかねは立かくるゝかになり。これは春になりてもえ出なん後、あり/\ても君かこん時、もろともに、そのくぬき原に立かくれてあふ事もあるかに、あらはにかりなつくしそとなり。又立かくるゝは待ほとをもいふなるへし。題に又といふは、さきの四首の返哥につゝけはいふ歟。麻呂朝臣にをくる歟
 
天皇賜海上女王御歌一首
 
天皇は聖武天皇なり、海上女王は志貴皇子の御女と云へり、元正紀云、養老七年正月、從四位下、聖武紀云、神龜元年二月、從三位、
 
初、海上《ウミカミノ》女王。元正紀に、養老七年正月從四位下。聖武紀に、神龜元年二月從三位。長流かかける物か中に、志貴皇子の御女といへり。未考。天皇は聖武なり
 
(39)530 赤駒之越馬柵乃緘結師妹情者疑毛奈思《アカコマノコユルウマオリノシメユヒシイモカコヽロハウタカヒモナシ》
 
馬柵は柵《サク》の木とて垣の如く結ひて馬防にする物なり、越るとは柵を馬の越るには非ず、越る所に結馬柵なり、馬柵を能しめゆひて堅めつれば放れや出むと心づかひする事なきが如く、堅く約束し置つれば二心あらむんかと疑かひ思食心のなきとなり、
 
初、赤こまのこゆる馬おりのしめゆひし。馬おりはさくの木とて垣のことく結て馬ふせきにするものなり。うまおりをよくしめゆひてかためつれは、はなれや出んと心つかひする事なきかことく、おなし心にちきりをきつれは、ふた心あらんかとうたかふ心のなきとなり
 
右今案此哥擬古之作也但以徃當便賜斯歌歟
 
文選の中に擬古の作多し、古人の意に准擬して作るなり、和歌も亦同じ、此注に依に此帝の御宇の間に古體新樣分れけるなるべし、天平の比より後の歌は少なだらかには聞ゆれど又痛く古質に聞ゆるも交れゝば、如何なるを古體、如何なるを新樣と辨まへ知ことかたし、
 
初、注に擬古之作也。文選に擬古詩あるかことく、哥にもあるへし。されとも此集にて、いつれを古風、いつれを新樣と、今にてはわきかたし。但以往當v便賜2斯歌1歟。この詞にてみれは、聖式の御宇のうちに、古體新樣わかれけるなるへし。天平の比より後の作者の哥は、すこしなたらかにはきこゆれと、又いたく古風にきこゆるもましれゝは、ゑわきまへすといふがまことなり
 
海上《うなかみ》女王奉和歌一首
 
六帖云、うみの上女わう、
 
(40)531 梓弓爪引夜音之遠音爾毛君之御幸乎聞之好毛《アツサユミツマヒクヨトノトホトニモキミカミユキヲキクハシヨシモ》
 
夜音之遠音は、よるの音の遠き音なり、隨身が夜の陣にて弦打する音なり、其弦打の音の遠く聞ゆる如くほのかにも我方に御幸したまふと聞が嬉しきとなり、妹が心は疑もなしとある御返しなれば、かくは讀たまふなり、聞之は今按キカクシと讀べし、
 
初、梓弓つまひくよとのとをとにも君かみゆきをきかくしよしも
よとのとをとは、よるのをとの遠きをとなり。隨身か夜の陣にて弦うちする音なり。その弦打の音の遠くきこゆることく、たしかならねと、わかかたにみゆきしたまふときくがうれしとなり。いもか心は疑もなしとのたまふ御返しなれは、かくはよみたまふなり
 
大伴宿奈麻呂宿爾歌二首
 
元明紀云、和銅元年正月十一日、從六位下大伴宿禰宿奈麻呂等授2從五位下(ヲ)1聖武紀云、神龜元年二月、從四位下、此間所々に見えたり、
 
大伴|宿《スク》奈麻呂。元明紀云。和銅元年正月十一日從六位下大伴宿禰宿奈麻呂等(ニ)授2從五位下1。元正紀云。靈龜元年五月從五位上大伴宿禰宿奈麻呂(ヲ)爲2衛士(ノ)督(ト)1。養老元年正月正五位下。三年七月備後國守正五位下大伴宿禰宿奈麻呂(ニ)管(セシム)2安藝周防二國(ヲ)1。四年正五位上。聖武紀云。神龜元年從四位下
 
532 打日指宮爾行兒乎眞悲見留者苦聽去者爲便無《ウチヒサスミヤニユクコヲマカナシミトムレハクルシヤレハスヘナシ》
 
留者、【官本云、トムルハ、】
 
打日指は宮の枕詞、第三に大伴郎女が、打日刺、みやこしみゝにとよめる所に云が如し、委は別に注す、宮に行兒とは、宮仕に出るなり、マカナシミは眞實に憐愛するなり、(41)留レバ苦シとは、官女なれば留むる事も後の聞こえを恐るれば苦しきなり、ヤレバスベナシとは、さりとて、留ねずしてやれば如何にせむすべもなく悲しくて、とにかくに思わづらふなり、聽去は、ゆくことをゆるすなればヤルと義訓せり、
 
初、うちひさす宮にゆくこをまかなしみとむれはくるしやれはすへなし
宮にゆくこは宮つかへに出る女なり。まかなしみは憐愛の心なり。悲嘆にはあらす。古今集に、つなてかなしもよめるかことし。聽去者とかける聽は、聽許なり。さることをゆるすはやるなれは、義をもてかき、義をもてよめり。此集に此哥と同意なる、後にも有。古今集みちのく哥に、あふくまにきりたちくもり明ぬとも君をはやらしまてはすへなし。下の句心はかはれとまた似たり
 
533 難波方鹽干之名凝飽左右二人之見兒乎吾四乏毛《ナニハカタシホヒノナコリアクマテニヒトノミルコヲワレシトモシモ》
 
ナゴリは史記には波の一字をもよみ、陳鴻、長恨歌傳には、餘波の二字をもよめり、文選海賦云、若乃|〓〓《ハイエイ》潜《カクレ》※[金+肖](テ)、莫(ク)v振《ウコクコトモ》莫v竦、輕塵不v飛、繊蘿不v動、猶尚|※[口+牙]呻《・カマヒスシウシテ》、餘披獨|湧《ワク》、江賦云、鼓(テ)2洪濤(ヲ)於赤岸(ニ)1、淪《シツム》2餘波(ヲ)乎柴桑(ニ)1、常になごりと云詞も是より出たる歟、武烈紀に鹽瀬のなをりとよませ給へるも、こ〔右○〕とを〔右○〕は通ずれば、なごりなるべし、源氏物語明石に、月指て鹽の近くみちきける跡もあらはになごり、猶よせかへる波のあらきを云云、鹽の干たる跡には、玉藻、貝つ物あり、窪まれる處々には、魚なども殘り、何くれと珍らしき物あれば皆人ゆかしがりて、ひる時をまちて遠くおり立て遊ぶ習ひなれば、第六にも難波がた鹽干のなごりまぐはしみとよめり、さればそれに寄せて、人は飽まで見る人なれども、吾は見ることだにすけなきとわぶるなり、吾シのし〔右○〕は助語なり、六帖に此歌をこと人を思ふと云に入れたるは飽までに見ると云を此女の異人にあふと見(42)たるか、初の歌と引合て意得るに然らずや、又人を飽まで通はせて我にもまれ/\見ゆる人ならば何のしたふ所かあらむ、
 
初、なにはかた塩干のなこりあくまてに人のみるこをわれしともしも
塩のひかたにのこれるたまり水をなこりといふ。第六に、なにはかた塩干のなこりまくはし見むいへなるいもか待とはんため。第七に、なこの海のあさけのなこりけふもかもいそのうらわにみたれてあらん。武烈紀に、天皇いまた太子なりし時よませたまふ御哥に、しほせのなをりをみれはとあるも、をとこと同韵の字なれは、なこりなるへし。陣鴻か長恨歌傳に、餘波をなこりとよめり。海賦云。若乃|〓〓《ハイエイ》潜《カクレ》銷(テ)莫(ク)v振《ウコクコトモ》、莫(シ)v疎《アカルコトモ》。輕塵不v飛(ハ)、繊蘿不v動(カ)。猶尚|〓呻(ト)《・カマヒスシウシテ》、餘(ノ)波獨|湧《ワク》。江賦云。鼓(テ)2洪濤(ヲ)於赤岸(ニ)1、淪《シツム》2餘波(ヲ)乎柴桑1。源氏物語あかしに、あかしいてゝ、塩のちかくみちきけるあともあらはに、なこり猶よせかへる波のあらきを、柴の戸おしあけてなかめおはします。しほのなこりあくまてに人のみるとつゝくるは、第六に、しほひのなこりまくはし見むといへる心なり。今も此わたりのおとこ女、しほひとて三月三日住吉にまうてかてら、ひかたに、もをひろひはまくりなともとむめり。さらぬ時も、ひかたに立て玉もなとひろひてあそふはおもしろき事なれは、その眺眺によせて、人はあくまてみてもなくさむ人を、われはみる事たにすくなしといへり
 
安貴王歌一首并短歌
 
歌の意、後の注に見えたり、
 
534 遠嬬此間不在者玉桙之道乎多遠見思空安莫國嘆虚不安物乎水空徃雲爾毛欲成高飛鳥爾毛欲成明日去而於妹言問爲吾妹毛事事無爲妹吾毛事無久今裳見如副而毛欲得《トホツマノコヽニアラネハタマホコノミチヲタトホミオモフソラヤスカラナクニナケクソラヤスカラヌモノヲミソラユククモニモカモナタカクトフトリニモカモナアスユキテイモニコトトヒワカタメニイモヽコトナクイモカタメワレモコトナクイマモミルコトクタクヒテモカナ》
 
今裳見如、【官本云、イマモミルコト、幽齋本同v此、】  副而毛欲得、【幽齋本云、タクヒテモカモ、】
 
み〔右○〕とま〔右○〕と通ずれば、眞そらなり、雲爾毛欲成は第十一にも、久堅の天飛雲に有てしか、君に相見て落る日なしにとよめるに同し、次の二句は遊仙窟云、但令d2翅羽1爲v人生u、會些高飛(テ)共v君去《・ユカマシ》(ム)、今按二つの欲成は欲は樂欲なればカモとよみ、成はなるを略して用(43)たり、されども此處はならばやと願ふ意なるにかくかければ、共にナリシガと讀て成てしがなと意得べきにや、妹毛事事無は一つの事の字は衍文なり、事なくとは、こゝにては口舌なり、第十四東歌に、みそら行雲にもがもや今日行て、妹に事問ひ、明日歸來む、語意、此歌を摘て成せるに似たれど、古歌はさる事のみ多し、吾毛事無久の下には句の落たる歟、意足りたれば落ざるにても侍なむ、今裳見如とは今目の前の物を見る如くなり、
 
初、とをつまのこゝにあらねは。左注をみるに、因幡八上【郡名】采女をむかへて、愛したまひけるを、不敬の罪によりて、本郷へしりそけかへされけれは、かくのたまへり。道をたとをみ、たは助字なり。わかためにいもゝ事なく、いもかため我もことなくとは、空行雲となり、高くとふ鳥となりてかよはゝ、とかめもあるましけれはなり。第十四東哥、みそらゆく雲にもかもなけふゆきていもにことゝひあす歸こん。われもことなくの下に、一句五字のおちたるにや。今もみることは、今のめまへの物をみることくなり。にこれるかなはねかふ詞なれは、欲とも欲得ともかけり。注に悼〓上は徒到切傷也。下は丁割切悲也
 
反歌
 
535 敷細乃手枕不纏間置而年曾經來不相念者《シキタヘノタマクラマカスヘタテオキテトシソヘニケルアハヌオモヒハ》
 
六帖に年隔てたると云所に、落句をあはずと思へばとあるは意得がたくて、よしとは見えぬにや、
 
右安貴王娶因幡八上釆女係念極其愛情尤盛於時勅斷不敬之罪退却本郷焉于是王意悼怛聊作此歌也
 
和名云、因幡八上、【夜加美、】郡、舊事紀古事記に八上姫の事ある所なり、係念は、係(ハ)繋(44)也、不敬之罪は其所以あるぺし、悼怛、【上、從到切、傷也、下丁割切、悲也、】司馬遷報(スル)2任少卿(ニ)1書云、僕竊不3自料2其卑賤1、見2主上(ノ)慘愴怛悼(シタマフヲ)1、誠欲v效《イタサムト》2其※[疑の旁が欠]々之愚(ヲ)1、
 
門部王戀歌一首
 
536 飫宇能海之鹽于乃滷之片念爾思哉將去道之永手呼《オウノウミノシホヒノカタノカタオモヒニオモヒヤユカムミチノナカテヲ》
 
第三にも此王出雲守にておうの海の川原の千鳥とよまれたり、滷を承て片思とつゞけたり、今は君は忘ぬらんを我はさても得有まじければ、くれ/”\なる道を片思に思ひつゝや、君が許に行んとぞ、
 
初、おうの海のうみのしほひのかたのかたおもひにおもひやゆかむ道のなかてを
出雲に意宇《オウノ》郡あり。そこの海なり。上はかたおもひといはむ序なり。今は君は忘ぬらんを、我はさてもえあるましけれは、くれ/\なる道をかたおもひにおもひつゝもゆかむとそ
 
右門部王任出雲守時娶部内娘子也未有幾時既絶徃來累月之後更起愛心仍作此歌贈致娘子
 
部内は出雲守のつかさどる領内なり、
 
高田女王贈今城王歌六首
 
高田女王は第八に注して高安之女也とあれば高安王の女なり、今城王は第八卷(45)以下に大原眞人今城と云人あり、官本餘所の注に大伴坂上郎女が子とあれば穗積皇子に寵せられし時の子なるべきを、さらばとくも然るべき位階を賜はるべきに、孝謙紀に寶字元年正月正六位上大原眞人今木授2從五位下(ヲ)1といへり、又穗積皇子の子ならば初より正六位などには叙せらるまじければ、若大原眞人櫻井王などの子にや、今と同人か別人か後人考ふべし、同人ならば廢帝紀に寶字八年正月、從五位上、光仁紀云、寶龜二年閏三月戊子朔乙卯、無位大原眞人今城復2本位從五位上(ニ)1、此紀の前後處々に見えたり、此前後を見るに彼今城よりは古き人々の歌なれば別人にや、
 
537 事清甚毛莫言一日太爾君伊之哭者痛寸取物《コトキヨクイタクモイハシヒトヒタニキミイシナクハイタキヽスソモ》
 
痛寸取物、【仙覺云、古點、イタキトリモノ、幽齋本并別校本同v此、】
莫言は今の點叶はず、イフナと讀べし、君伊之哭者、此伊之には二義あるべし、一には神代紀上云、一書《アルフミ》曰、古《イニシヘ》國|稚《イシ》地《ツチ》稚《イシ》之時譬(ヘハ)猶《コトクニ》2浮膏1漂蕩《タヽヨヘリ》、此|稚《イシ》は字の如く國地のいまだ能成りかたまらで若子の生れ出たる初のやうなるを云詞と聞ゆれば、君が我を戀て若子の如くなくと云へるにや、二には繼體紀に春日皇女の勾大兄皇子に答《カヘシ》給ふ歌(46)に、駄例夜矢比等母とある句の夜矢は古の語の助と見ゆるに、此集第十二の歌に、家なる妹やと云句のや〔右○〕に此伊を書たれば、今も君ヤシと讀て助語とすべきか、結句は仙覺新點意得ず、今按イタキトルモノと讀て乞丐の名と意得べきにや、委は第五卷貧窮問答の歌に、楚取五十戸良我許惠波とよめる所に至て注すべし、歌の意は、君が心に隨がへる今とても、我を戀てなかざなし事のやう、事清くは痛くなのたまひぞ、一日なりとも君が我を戀て逢ことを切に乞て泣しは、偏に乞兒《カタヰ》の物を乞やうにこそ有しかと云へるにや、戯ふれてよめる歌なり、
 
初、事清甚毛|莫言《イフナ》一日太爾君伊之哭者寸取物
此哥下句を、今の本にきみいしなくは、いたきゝすそもとよみたれと、かなへりとも見えす。哥のこゝろすへて得かたけれは、注をかきぬ。いしは、神代紀上云。一書曰古國地稚稚之《アルフミニイニシヘクニイシノ》時譬(ヘハ)猶《・コトクシテ》2浮(ヘル)膏《アフラノ》1而|漂蕩《タヽヨヘリ》。もし此|稚《イシ》歟
 
538 他辞乎繁言痛不相有寸心在如莫思吾背《ヒトコトヲシケミコチタミアハサリキコヽロアルコトオモフナワカセ》
 
吾背、【幽齋本、背下有v子、點云、ワカセコ、】
 
言痛はこといたみなるを登伊(ノ)切知なればつゞめてコチタミとよめり、第二に注せし如く他《ヒト》言を痛む意、こと/”\しき意、兩義ともに通ずべし、心在如莫思とは、ことなる心もやあるとな疑ぞとなり、古今に、絶ず行明日香の川の淀みなば、心あるとや人の思はむ、此に同じ、莫思は今按ナオモヒとも讀べし、雲なたなびきの例なり、
 
初、人ことをしけみこちたみ。こちたみは第二卷に尺せしかことし。こゝに言痛とかけるは、字のことくことをいたむなり。登伊(ノ)切知なれは、こちたみはこといたみなり。心あるごとゝは、あたし心ありてあはぬかとおもふなとなり。古今集に、たえすゆくあすかの川のよとみなは心あるとや人のおもはん。これにおなし。右の哥此集第七にあるは、下句ゆへしもあること人のみらくになり。心あるは、ゆへしもあることゝいふにおなし
 
539 吾背子師遂常云者人事者繋有登毛出而相麻志呼《ワカセコシトケムトイハヽヒトコトハシケクアリトモイテヽアハマシヲ》
 
(47)遂常云者とはさきの志をはたさんと云はゞなり、上の歌を踏てより、
 
初、とけんといはゝ。本意をとけむなり。とくるは果遂なり。初の哥をよめり
 
540 吾背子爾復者不相香常思基今朝別之爲便無有都流《ワカセコニマタハアハシカトオモヘハカケサノワカレノスヘナカリツル》
 
思ヘバカは思へばにかなり、基は墓に改たむべし、
 
初、おもへはかは、おもへはにかなり。おもへはにやの心なり。莫誤作v基
 
541 現世爾波人事繁來生爾毛將相吾背子今爾不有十方《コノヨニハヒトコトシケミコムヨニモアハムワカセコイマナラストモ》
 
繁、【六帖云、シケシ、官本同v此、】
 
542 常不止通之君我使不來今者不相跡絶多比奴良思《トコトハニカヨヒシキミカツカヒコスイマハアハシトタユタヒヌラシ》
 
二首義分明なり、
 
初、たゆたひぬらし。猶豫とかきてたゆたふとよめり
 
神龜元年甲冬十月幸紀伊國之時爲贈從駕人所※[言+非]娘子笠朝臣金村作歌一首并短歌
 
此行幸第六にも見えたり、聖武紀云、神龜元年冬十月丁亥朔辛卯、天皇幸2紀伊國1云云、※[言+非]は誂に改たむべし、史記、呉王※[さんずい+鼻]傳云、於v是乃使d2中大夫應高1誂c膠西王u、
 
初、所誂。史記呉王※[さんずい+鼻]列傳云。於是乃使2中大夫應高1誂2膠西王1
 
(48)543 天皇之行幸乃隨意物部乃八十件雄與出去之愛夫者天翔哉輕路從玉田次畝火乎見管麻裳吉木道爾入立眞土山越良武公者黄葉乃散飛見乍親吾者不念草枕客乎便宜常思乍公將有跡安蘇蘇二破旦者雖知之加須我二黙然得不在者吾背子之徃之萬萬將追跡者千遍雖念手嫋女吾身之有者道守之將問答乎言將遣爲便乎不知跡立而爪衝《スメロキノミユキノマヽニモノヽフノヤソトモノヲトイテユキシウツクシツマハアマトフヤカルノミチヨリタマタスキウネヒヲミツヽアサモヨイキチニイリタツマツチヤマコユラムキミハモミチハノチリトフミツヽムツマシキワレヲハオモハシクサマクラタヒヲタヨリトオモヒツヽキミハアラムトアソソニハカツハシレトモシカスカニモタエアラネハワカセコカユキノマニ/\オハムトハチタヒオモヘトタヲヤメノワカミニシアレハミチモリノトハムコタヘヲイヒヤラムスヘヲシラニトタチテツマツク》
 
天皇之、【官本亦云、スヘラキノ、】  親、【別校本亦云、シタシクモ、】  吾者不念、【幽齋本亦云、ワレヲハオモハス、】  吾背子之、【校本云、ワカセコカ、】  手弱女、【官本亦云、タワヤメノ、】
 
八十伴雄與は、八十伴雄と共になり、愛夫は女の歌なる故に夫をツマとよめり、輕路從はこれより下は奈良の京よりの路次を云へり、木道爾入立眞土山、今按眞土山は大和國宇智郡なり、新古今集雜上云、能宣朝臣大和の國まつち山近く住ける女の許に夜深て罷りてあはざりけるを恨侍ければ、讀人知らず、憑め來し人をまつちの山(49)風に、さよふけしかば月も入にき、是慥なる證なり、然るを、今此詞のつゞきによりて紀州と云一説もあり、入立をばイリタツとよみて眞土山を越てそれより紀路にいりたつと意得べし、第一に孝徳紀を引如く南は兄山より此方を畿内と定給へば、眞士山は此方なり、若眞土山紀の國ならば眞土山より此方とぞ勅し給ふべき、第九に大寶元年紀の國へみゆきし給ふ時の歌十三首、多分彼國の名所を讀たれど、眞土山をばよまず、後《オクルヽ》人歌二首の初に、木へ行君が信土山、越らむ今日ぞとよめるは信土山を越て國を隔つればなり、第十三に、木の國の濱によるといふ、鰒珠拾はむと云ひて、妹の山勢能山越て云云、眞土山勢能山越てと云はぬも意あるべし、黄葉ノ散飛見ツヽは面白きに紛れんの意なり、旅ヲ便トは、家に有ては我意を護る事のうるさき事もあらむを、旅せ能かこつけの便と君は思はむとなり、アソヽニハとは、仙覺抄云、あそ/\と云詞也、人の物を云にさぞあるらむと云心也、和語の習重點を云には後には上の字を略する也.たとへばきら/\といはむとてはきらゝと云ひ、はら/\といはむとてははらゝと云ひ、とを/\と云はむとてはトヲゝなど云類也、今按仙覺の云はれたるあそ/\はあ〔右○〕は諾する詞の唯の意、そ〔右○〕は其なる歟、假令主人のあの山に雪の如くみゆるは櫻の咲たるにてはなきかと問はむ時、あゝそれにてさぶらふと(50)下人の答ふる意歟、今此にあるより外いまだ見及ばず、推量し意得たる詞なるべし、シカスガニはさすがになり、然をしか〔二字右○〕ともさ〔右○〕ともよめり、吾背子之、ワレセコガと有點は傳寫の誤なり、ワガセコガと讀べし、手嫋女、嫋は弱歟、日本紀等しかり、嫋も女の軟弱なるより作る字なれば通ぬべし、道守は反歌に云へる紀の關守なり、立テ爪衝とは、心のうはの空なる故なり、淮南子原道訓云、凡人之志各有v所v在、而神有v所v繋者其行也、足|〓〓《ツマツイテ》、頭抵2植木1而不2自知1也、【〓(ハ)〓也。楚人〓v〓爲v〓、】娘子が情を能寫し出されたる歌なり、
 
初、やそとものをといてゆきし、やそとものをとゝもに出行なり。うつくしつま、女の哥なれは、夫の字をつまにかけり。麻裳吉きちにいりたつまつち山、紀伊の枕言のあさもよい、こゝにかけるか正字なり。別に注せり。きちに入たちと點したるはわろし。入たつとよむへし。その故は、まつち山は大和にて、今もまつちたふけとて、紀州へこゆるさかひなるを、類字名所抄に、此哥をあさもよいきちにいりたちまつち山こゆらん君はとよんて、紀州の證とせり。誠にいりたちとよめは、すてにいりたちたるにて、紀州と聞ゆ。いりたつとよめは、今いりたつにて、哥のやうにより、大和とも、紀州ともなさぬへし。第九に、あさもよい木へゆくきみかまつち山こゆらんけふそ雨なふりそね。もみちはのちりとふみつゝむつましき我をほおもはし。紅葉の、錦をひるかへすやうに、ちりとふになくさみてなり。たひをたよりとおもひつゝ君はあらんと。ふかくもおもはぬあたりを旅をよきかこつけのたよりと君はおもはんとなり。あそゝにはかつはしれとも、あそゝはあそ/\なり。ものを推し心得たる詞なり。これ管見抄にいへり。あそゝといふ詞、このほかにいまた見及はねは、あそ/\といふ事ありやなしやもまた知侍らす。いかさまにも推量の詞とはきこゆ。今案俗語に物をほのかに知ことを、うす/\と知なと申めれは、あとうとそとさと、皆音を通して、もしそれにもにや侍らん。しかすがにはさすかになり。もだえあらねは、もたしても得やまぬなり。此黙然を、なをとも古點によみけるか。源氏物語に、なをありしにといふ詞に、此集のもたあらしとことのなくさにいふことを聞しるらくはすくなかりけりといふ哥を初めの五もしを、なをあらしとゝ抄にひけり。たをやめの手力といへはちからよはきをたよはきといふ。たよはき女といふ心にて、たをやめとはいへり。こゝに手嫋女とかける嫋は、弱の字なるへし。但嫋娜といふ時、嫋の字弱の心にて、女に从かへたらはさても有なん。立てつまつく、第三卷に注せり。これはあとをしたひてゆきやせましとおもひてたてれと、道もるものゝ、いつくよりいかなる事にていつちゆくなとゝはん時、こたへやらんすへをしらすと、心こゝにあらねは、ふと物につまつくなるへし。此哥娘子の誂《アツラヘ》にかなひて、あはれにはかなくよまれたり。物にまかせて體を變せられけるなるへし。高橋蟲まろ、山上おくら、田邊福まろ、此笠金村、家持なと、人まろあか人につゝきて、おもしろき長哥なとよめる人々なり
 
反歌
 
544 後居而戀乍不有者木國乃妹背乃山爾有益物乎《オクレヰテコヒツヽアラスハキノクニノイモセノヤマニアラマシモノヲ》
 
戀乍不有者、第二卷の初に磐之姫の御歌に注するが如し、
 
初、をくれゐてこひつゝあらすは。此こひつゝあらすはの詞、第二卷のはしめに注せり。いもせの山にあらまし物をといへるは、伊勢物語に、桑子にそなるへかりけるといへるかことし。人にて夫婦つねにたくひてえあらすは、妹背の山とならはやといふなり
 
545 吾背子之跡履求追去者木乃關守伊將留鴨《ワカセコカアトフミモトメヲヒユカハキノセキモリヤイトヽメムカモ》
 
落句の伊は發語の詞、二首共に義明なり、
 
(51)二年乙丑春三月幸三香原離宮之時得娘子作歌一首并短歌  笠朝臣金村
 
作者の名.幽齋本に娘子の下にあり、例尤然るべし、六帖長歌の部に詞書して云く、みかの原に帝のみゆきし給ふ時、めをはなれてよめる、此めをはなれては意得がたし、
 
初、二年乙丑、笠朝臣金村は娘子の下、作哥のあひたにあるへし。例もしかり。目録もしかり
 
546 三香之原客之屋取爾珠桙乃道能去相爾天雲之外耳見管言將問縁乃無者情耳咽乍有爾天地神祇辭因而敷細乃衣手易而自妻跡憑有今夜秋夜之百夜乃長有與宿鴨《ミカノハラタヒノヤトリニタマホコノミチノユキアヒニアマクモノヨソノミミツヽコトトハムヨシノナケレハコヽロノミムセツヽアルニアメツチノカミコトヨセテシキタエノコロモテカヘテワカツマトタノメルコヨヒアキノヨノモヽヨノナカサアルヨイモカモ》
 
道能去相爾は、第十二にも玉桙之道爾行相而とよめるに同じ、ヨソノミ見ツヽは、よそにのみ見つゝなり、天地神祇辞因而とは神の助てあはしめ給意なるべし、又は逢見たる上に約を變ぜじと神をかけて誓にや、自妻は、今按自の字ワガとよむべきこ(52)とわりはさる事なれど、傍例も見えず、第十四に於能豆麻乎比登乃左刀爾於吉《オノヅマヲヒトノサトニオキ》とよめるも己が妻をと云なれば、今もオノヅマと讀べし、有與宿鴨は、今按今の點は誤れり、アリコセヌカモと讀べし、此ありこせぬかもと云詞は第五の梅の歌三十二首の中にも有て、それより後集中にあまたある詞なり、有こせぬか、有こせと願ふ詞なり、乞の字社の字をこそとよむに同じ、此與の字を今の如く用たるは六之廿九、七之廿三、十之廿一、廿二、廿六、十一之四、同五、十二之十三、此等なり、皆點じ損ぜり、心を著て考て、知べし、古事記上、八千戈神御歌に、宇禮多久母那久那留登理加許能登理母宇知夜米許世泥《ウレタクモナクナルトリカコノトリモウチヤメコセネ》とよませ給へるは此詞の初なり、秋夜以下はねがふ意なり、時しも春にしてかく云ことは至りて長からむことを伊勢物語に、秋の花の千夜を一夜になずらへて、八千夜し寢ばや飽時のあらむとよめる同じ意なり、第六月歌に、今夜の長さ五百夜《イホヨ》つきこそともよめり、
 
初、みかの原、出水郡にあり。あま雲のよそのみ見つゝ、よそにのみなり。神ことよせて、天神地祇をかけてちかふなり。有與宿鴨、これをあるよいもかもとある點はあやまれり。あれと、ぬるかもとよむへし。伊勢物語に、秋の夜のちよをひとよになすらへてやちよしねはやあく時のあらん
 
反歌
 
547 天雲之外從見吾妹兒爾心毛身副縁西鬼尾《アマクモノヨソニミシヨリワキモコニコヽロモミサヘヨリニシモノヲ》
 
外從見、【六帖云、ヨソヨリミエシ、】  身副、【六帖云、ミソヘ、】
(53)外從見は此集の例六帖によめるより今の點まされり、身副も副をさへとよめる事又例あり、そ〔右○〕とさ〔右○〕と通じてさへは即そへなり、拾遺に、今日そへに暮ざらめやはと、思へどもとよめるに准ずれば、六帖にみそへとよめる、いはれある事なれど多分に從て今の點に付べし、心毛身副ヨリとは、心さへ身さへよると云ひ、心も身もよるといはむが如し、六帖の點は若は心も身をそへてよると意得たるにや、ヨリニシのし〔右○〕は助語なり、これは長歌の初を再いへり、鬼を物に用たるは和名云、日本紀云、邪鬼、【和名、安之岐毛乃、】史記、齊悼惠王世家云、及2魏勃(カ)少時1欲v求v見2齊(ノ)相曹參(ニ)1、家貧無2以|自《ミヅカラ》通(スルコト)1、乃常(ニ)獨早夜掃2齊相(ノ)舍人(カ)門外(ヲ)1、相舍人怪v之以爲v物(ナリトシテ)而伺v之、【索隱曰、姚氏云、物、怪物、】
 
初、心も身さへ、心も身もなり。此集副の字を所々にさへとよめり。そへといふにおなし。鬼の字を此集に物とよめる事おほし。人の死して鬼となる事を、異物となるといへは、鬼は人に對すれはものなり。史記齊悼惠王世家云。及魏勃少時欲v求(メント)v見(ユルコトヲ)2齊相曹 參(ニ)1。家貧(シテ)無2以|自《ミ》通(スルコト)1。乃常(ニ)獨(リ)早夜(ニ)掃(フ)2齊(ノ)相(ノ)舍人(ノ)門外(ヲ)1。相(ノ)舍人怪(テ)之以爲v物(ナリト)而伺之。【索隱(ニ)曰。姚氏云物(ハ)怪物
 
548 今夜之早開者爲使乎無三秋百夜乎願鶴鴨《コノヨラノハヤアクレハスヘヲナミアキノモヽヨヲネカヒツルカモ》
 
六帖には發句こよひのやとあり、時に叶へたり、仙覺云、古點にはこよひのはやくあくればと點ず、古語にはこのよらのと云へり、今按仙覺點は勿論の事にてコヨヒノと四文字によめるもあしからず、若こよひのやなるを寫生や〔右○〕を落せるか、早開者は、今按ハヤクアケナバと點じ換べきか、明て後ならば秋の百夜を願ひても何かせむ、又此歌は長歌の終の意を反してよめば明ぬさきなり、六帖は曉に起と云歌としつ(54)れば今の點の意にして作者の意には叶はず、又按ずるに今の點によみても春の夜なればとく明る物と兼てより知て云意ならば違ふべからず、
 
萬葉集代匠記卷之四上
 
(1)萬葉集代匠記卷之四中
 
五年戊辰太宰少貳石川足人朝臣遷任餞于筑前國麓城驛家歌三首
 
元明紀(ニ)云、和銅四年四月丙子(ノ)朔壬午、授2正六位下石川(ノ)朝臣足人(ニ)從五位下(ヲ)1、聖武紀云、神龜元年二月、從五位下石川(ノ)朝臣足人授2從五位上(ヲ)1、餞は顧野王(ノ)云(ク)、送(ルニ)v行設(クル)v宴(ヲ)也、蘆城驛は此卷の下并に第八にもあり、何れの郡にありと云事を知らず、和名云、志摩郡明敷、【安加之岐、】若は此所などにや、山城の相樂郡は和名にさがらかとあれどさがらとも云ひ、日本紀にはサハラとも點ぜるを思ふべし、
 
初、石川朝臣足人。元明紀云。和銅四年四月丙子朔壬午、授2正六位下石川朝臣足人(ニ)從五位下(ヲ)1、聖武紀云、神龜元年二月、從五位下石川(ノ)朝臣足人授2從五位上(ヲ)1。聖武紀云。神龜元年二月、從五位下石川朝臣足人(ニ)授2從五位上(ヲ)1。
 
549 天地之神毛助與草枕※[羈の馬が奇]行者之至家左右《アメツチノカミモタスケヨクサマクラタヒユクキミカイヘニイタルマテ》
 
550 大舩之念憑師君之去者吾者將戀名直相左右二《オホフネノオモヒタノミシキミカイネハワレハコヒムナタヽアフマテニ》
 
去者、【六帖云、ユケハ、官本云、イナハ、】  直、【官本云、タタニ、】
 
(2)六帖には君之去者をキミユケバとあれば上の二字叶はず、下の二字の點はいづれも叶へり、直は今の點もタヽニなりけんを書生の失錯にてタミとなしけるなるべし、
 
551 山迹道之島乃浦廻爾縁浪間無牟吾戀卷者《ヤマトチノシマノウラワニヨスルナミアヒタナケムニワカコヒマクハ》
 
間無牟、【官本云、アヒタモナケム、】
 
山跡道は大和に都有ける時なれば海陸共に似よりたる所には何處にも云べし、島ノ浦廻は和名に志摩郡に志麻郷あり、御笠郡の國府を立て都へ上るに此所路次にや、さらずば唯大方の島を云べし、間無牟は官本の點に付べし、
 
初、やまとちのしまのうらわに。大和の國に都ある時なれは、嶋々浦々皆やまと路なり。島のうらわ名所にあらす。間無牟、あひたもなけむとよむへし
 
右三首作者未詳
 
大伴宿禰三依歌一首
 
聖武紀云、天平二十年二月、授2外從五位下大伴宿禰御依(ニ)從五位下1、光仁紀云、寶龜元年十月己丑朔、從四世下、五年五月癸亥、散位從四位下大伴宿禰御依卒、此間孝謙廢帝稱徳紀等に見えたり、
 
(3)552 吾君者和氣乎波死常念可毛相夜不相夜二走良武《ワカキミハワケヲハシネトオモヘカモアフヨアハヌヨフタユクナラム》
二走、【幽齋本、走或作v去、】
 
和氣は第八春相聞に紀女郎が家持に贈る歌に、戯奴【反(シテ)云2和氣(ト)1】とあれば謙退して我を指す詞なり、仙覺抄にわけとは男を云なりと云へるは誤なり、第八に紀女郎が贈る歌二首に共にわけとよめるはみづがらの事なり、家持の和答二首の初の歌にも亦みづからの事をよまれたれば男女を分たず卑下の詞なりと知べし、オモヘカモはおもへばかもなり、二走ナラムとは、逢夜もありあはぬ夜もあるを云へり.死常念可毛と云意は、あはゞひたすら逢ひ、あはずばひたすらあはぬは、逢はうれしく、あはぬは中々あくがれて思ひ切方も有ぬべきを、生見殺見《イケミコロシミ》と云如く一方ならぬに、思ひは彌益物なれば云なり、伊勢物語に、とへば云ふ問はねば恨む武藏あぶみ、かゝる折にや人は死ぬらん、此意なり、古今に、戀しねとするわざなららし、うば玉の夜はすがらに夢に見えつゝ、是も現にはあはぬ人の夢には逢へばなり、此集第十一に、戀死ば戀もしねとや玉桙の、道行人に言も告けむ、戀死なば戀もしねとや吾妹子が、わぎへの門を過て行らむ、此等何れも二桃三士を殺すに似たり、ふたゆく此卷下に至ても、空蝉(4)の世やもふたゆくとよめり、其外あまたよめり、
 
初、わか君はわけをはしねとおもへかもあふ夜あはぬ夜ふたゆくならん
わけはわか身を謙下していふ詞なり。第八の廿一葉(ニ)紀女郎、やかもちにをくる哥に、戯奴とかさて自注(ニ)云(フ)。反《カヘシテ》云(フ)2和氣(ト)1。やかもちの返しにもよめり。おもへかもはおもへはかもなり。あふ夜とあはぬ夜とのあれは、あるひはたのみ、あるひはたのまれぬゆへに、われをあくからして、しねとならんといへり。古今集に、こひしねとするわさならしむはたまのよるはすからにゆめに見えつゝ。此集に、こひしなはこひもしねとやわきもこかわきへのかたを過て行らん。伊勢物語に、とへはいふとはねはうらむゝさしあふみかゝるおりにや人はしぬらん。下の五十一葉に、うつせみの世やもふたゆくとよめり。夜と世とはことなれと、ふたゆくはおなし
 
丹生女王贈太宰帥大伴卿歌二首
 
第八卷秋相聞にも、亦此女王同じ大伴卿に贈らるゝ歌あれば當初《ソノカミ》心を通はされけるなるべし、孝謙紀云、天平勝寶二年七月、從四位上丹生女王授2正四位上(ヲ)1、
 
初、丹生女王。孝謙紀云。天平勝寶二年七月從四位上丹生女王(ニ)授2正E四位上1。第八卷秋相聞にも、此女王、おなし大伴卿にをくられし哥あり
 
553 天雲乃遠隔乃極遠鷄跡裳情志行者戀流物可聞《アマクモノヘタチノキハメトホケトモコヽロシユケハコフルモノカモ》
 
遠師乃極は、今按今の點叶はず、ソクヘノキハミ、又はソキヘノキハミと讀べし、第三、石田王卒之時丹生王作歌に天雲乃曾久敝能極《アマグモノソクヘノキハミ》、第十九、安倍朝臣老人歌に天雲能曾伎敝能伎波美《アマグモノソキヘノキハミ》、これを准據とすべし、此外かぞふるに暇なし、トホケドモは遠けれどもの古語なり、此に准じて雖遠とかけるをもかくよむべし、心行とは、物の心のまゝに足れるをいへば、都と筑紫と各天の一方にあれど相かよふ心のゆけば、人も我を戀ひ我も人を戀る物かとなり、
 
初、あま雲のそくへのきはみとをけともこゝろしゆけはこふるものかも
遠隔乃極《ソクヘノキハミ》、へたてのきはめとよむはわろし。とをけどもは、遠けれともなり
 
554 古人乃令食有吉備能酒痛者爲便無貫簀賜牟《イニシヘヒトノノマセルキヒノサケヤモハヽスヘナヌキスタマハム》
 
賜牟、【袖中抄云、タハラム、】
(5)古人とは昔あへる人なり、第十一にふりたる君ともいにしへ人ともよめり、古今に春雨のふる人見ればとよせたるも同じ、令食有は、食は飲なるべきにや、吉備の酒は黍を以て作れる酒歟と云説あれども、それは唐の事なる上に吉備と書たれば今の世も備後の柞原《ミハラ》酒など名あれば、昔も彼國によき酒造けむを筑紫より近ければ、大伴卿それを求て便に女王へ贈られけるにや、ヤモハヾは※[酉+呈]なり、毛詩云、憂心如v※[酉+呈]、莊子云、狂粹三日不v已、晋書、劉伶曰、一飲一石五斗解v※[酉+呈]、説文云、※[酉+呈]病v酒也、貫簀は簀を編て縁を刺て盥《タラヒ》の上に懸て手洗ふ時など其水のとばしりかゝらぬ用意にする物なり、延喜式主殿寮式云、三年一請2貫簀一枚1、伊勢物語に、女の手洗ふ所に貫簀を打やりて云云、うつぼ物階に、銀の御盥、沈を丸に刷りたる貫簀、銀の※[木+泉]、銀のすきはこなどかけり、君が贈て我にのませる吉備の酒なれば、昔をも思ひ出、芳志の程をも感じてみづから強て飲醉て、やもはむ時はせむすべなく吐もすべければ、其料に猶重て便あらむ時貫簀をも賜はせよと戯ふれてよめるなり、
 
初、いにしへの人のゝませるきひの酒やもはゝすへなぬきすたまはむ
いにしへの人とは、もとあひし人なり。古今集に、ふる人なれはとよめるにおなし。のませるはのめるなり。食の字は飲の字にや。吉備の酒は、吉備の國の酒にや。備後の名物にて、今も三原酒ときこゆ。されはいにしへよりかの國の名物なりけるにや。又黍にてつくれる酒をもいふ歟。和名集(ニ)云。爾雅(ノ)注(ニ)云。〓(ハ)【音〓】粟也。本草云。稷米一(ニハ)名v〓。【稷(ハ)音子力反和名木美乃毛智。】陶淵明(カ)傳(ニ)云。爲(テ)彭澤令(ト)1有(シトキニ)v縣公田(ニ)悉(ク)令v種(ヘ)2〓穀(ヲ)1曰。令1v吾(ヲ)常(ニ)醉(ハ)2於酒(ニ)1足(ナン)矣。妻子固(ク)請(フ)v種(ヲ)v〓(ヲ)。乃(ハチ)使《シテ・シム》d2二頃(ヲ)1五十畝(ハ)種(ヘ)v〓五十畝(ニハ)植(ヘ)uv〓。吉備とかけるうへ筑前より備後はあまりに遠からす、名物なれは用らるへし。〓の酒といふ事はあれと、此國にはきこえねは、吉備の國の酒なるへし。やもはゝすへなは、酒にあたりてやまはせんかたなからんとなり。ぬきすたまはむは、ぬきすをたまはせんなり。ぬきすは、すをみふてたらひの上にかけて、手あらふ時、其水の、まへにとはしりかゝらぬ用意にするものなり。延喜式主殿寮(ノ)式(ニ)云。三年一請.貫簀一枚。伊勢物語に、女のてあらふ所に、ぬきすをうちやりて、たらひのかけにみえけるを云々。うつほ物語に、しろかねの御たらひ、ちむをまろにけつりたるぬきす、しろかねのはんさう、しろかねのすきはこなとかけり。さてぬきすをくらんとは、吐逆にそなへんとなり。竹取物語にいはく。大納言これを聞てのたまはく、ふねにのりてはかちとりの申ことをこそ、高き山とたのめ。なとかくたのもしけなく申そと、あをへと《・反吐》をつ《・吐》きてのたまふ。漢書列傳四十四、丙吉(カ)傳(ニ)曰(ク)。告(カ)馭吏嗜(テ)v酒(ヲ)數〓蕩。嘗(テ)從(テ)v吉(ニ)出(テ)醉(テ)嘔(ス)《・ハケリ》2丞相(ノ)車(ノ)上(ニ)1。西曹(ノ)主吏欲(シテ)v斥《サケン》v之(ヲ)。吉(カ)曰。以2醉飽(ノ)失(ヲ)1去(ラハv士(ヲ)使d2此人(ヲ)1將(ニ)復(タ)何所(アラ)uv容(ル)。西曹地忍之、不v過v〓(スニ)2丞相(カ)車茵(ヲ)1耳遂(ニ)不v去(ラ)也。大伴卿はきはめたる愛酒にて、第三卷にも、酒を讃する哥十三首まてよまれたれは.女王よくしりて、かくはたはふれたまひけるなり。
 
太宰帥大伴卿贈大貳丹比※[糸+貝]守卿遷任民部卿歌一首
 
師を帥に改ため、※[糸+貝]を縣に改たむべし、縣守は元明紀云、和銅三年三月癸卯、從五位(6)下多治比眞人縣守爲2宮内卿1、元正紀云、靈龜二年七月、爲2遣唐押使1、聖紀云、天平四年正月、中納言、六年正月正三位、九年六月甲辰朔丙寅、中納言正三位、多治比眞人縣守薨、左大臣正二位島之子也、元正紀に處々に見えたり、養老五年六月辛丑爲2中務卿1とありて聖武の御宇神龜年中の任官は紀に漏脱するか、
 
初、大貳丹比縣守。元明紀云。和銅三年三月癸卯、從四位下多治比眞人縣守(ヲ)爲2宮内卿1。元正紀云。靈龜元年正月甲申朔癸巳授2從五位上多治比眞人縣守(ニ)從四位下(ヲ)1。二年七月爲2遣唐押使(ト)1。養老三年正月庚寅朔壬寅正四位下。同年四月武藏國守正四位下多治比眞人縣守(ニ)官(セシム)2相模上野下野三國1。四年九月庚戌朔戊寅、以2播磨按察使正四位下多治比眞人縣守(ヲ)1爲2持節征夷將軍1。五年正月正四位上。四月内申鎭狄。乙酉征夷將軍正四位上多治比眞人縣守、鎭狄將軍從五位上阿部朝臣駿河等還歸。六月辛丑爲2中務卿(ト)1。聖武紀云。天平元年三月從三位。四年正月中納言。六年正月正三位。九年六月甲辰朔丙寅中納言正二位多治比眞人縣守|薨《ミウセヌ》。左大臣正二位島之子也
 
555 爲君釀之待酒安野爾獨哉將飲友無二思手《キミカタメカミシマチサケヤスノヽニヒトリヤノマムトモナシニシテ》
 
釀之は酒作るをかむ、かもすなど云なり、玉篇云釀、【汝帳切、作酒、】待酒は人を待つ設に作るを云、古事記中云、於v是還上坐時其御祖|息長帶《オキナガタラシ》日賣命釀2待酒(ヲ)1以獻(リタマフ)、是は應神天皇いまだ品※[こざと+施の旁]皇子にてまし/\ける時、越前笥飯神宮へ詣たまひて還らせ給ふ時の事なり、此集第十六に、味飯を水にかみなし我待しなどよめるも待酒なり、安野は筑前國|夜須《ヤス》郡に在り、神功皇后紀云、三月【元年】壬申朔辛卯、至2層増岐《ソソキ》野1、即擧(テ)v兵撃(テ)2羽白熊鷲(ヲ)1而滅v之、謂(テ)2左右《モトコヒトニ》1曰、取2得(テ)熊鷲(ヲ)1我(カ)心則安、故号(ケテ)2其處(ヲ)1曰v安(ト)也、然れば郡の名の夜須は安の假名なり、大帳使朝集使などに都へ上てやがて民部卿に任ぜられてや、待酒を獨飲むとはよまれけむ、
 
初、君かためかみし待酒やすのゝにひとりやのまむともなしにして
待酒は、君か來る時のませんとて、其まちまふけにかもする酒なり。又いはく。かみ酒とは、むかし酒つくるすへをよくしらさる時は、人おほく集りて、面々に米をかみて、水にはきいれて作りしことなり。此こと大隅の國の風土記にみえたり。今案酒は神代よりあれは、つくるすへもつたはるへし。又神に奉るを本とする物なるに、面々にくちに入てかめるは、いかに風土記の説にもあれ、きたなし。いかて神に奉らん。かもするは釀の字なり。玉篇云。釀【汝帳(ノ)切作(ルナリ)v酒。】第十六にいはく。あちいひを酒にかみなしわかまちしかひはかつてなしたゝにしあらねは。やすのゝは、筑前國|夜須《ヤスノ》郡にあり。日本紀第九云。三月【神功皇后元年】壬申朔辛卯至(テ)2層増岐野《ソソキノニ》1而擧(テ)v兵(ヲ)撃(テ)2羽白熊鷲(ヲ)1而滅v之。謂(テ)2左右《モトコヒトニ》1曰。取2得(テ)熊鷲(ヲ)1我(カ)心則安(シ)。故號(ケテ)2其處(ヲ)1曰v安(ト)也。初はそゝき野といひけるを、これより安野といへり。しかれは郡の名もそのゆへなり。此やす野を、八雲御抄に、近江と載たまへるは、此哥太宰帥にてよみ、又神功皇后紀をよく考させたまはさりけるなり
 
賀茂女王贈大伴宿禰三依謌一首
 
(7)賀茂女王は第八に注して云く、長屋王之女、母(ヲ)曰2阿倍朝臣1也、
 
初、賀茂女王。第八云。長屋王之女。母(ヲ)曰2阿部朝臣(ト)1也
 
556 筑紫舩未毛不來者豫荒振公乎見之悲左《ツクシフネマタモコサレハアラカシメアラフルキミヲミルカカナシサ》
 
豫、【幽齋本亦云、カネテヨリ、】
 
未毛不來者はまだこぬになり、此てにをはの事第二に注せしが如し、荒ブルは、日本紀に荒俗とかけるは王化に隨がひがたき者を云へり、今はおとづれなどもせず遠ざかるを云、第二に日並皇子の舍人が、放鳥あらびな行ぞとよめるが如し、おとづれをだにせぬにて筑紫の任官事をへて皈り來たりとも疎からむ事のおしはかられて悲しきとなり、又兼てより心の荒るゝにて筑紫舟の來ん時の海上も荒やしなむと心づかひせられて悲しきとや、
 
初、つくしふねまたもこされはあらかしめあらふるきみをみるか悲しさ
豫の字かねてよりとも讀へし。日本紀に荒俗とかきて、あらふるとよめるは、ゑひすなり。今はたゝ中の遠さかるをあらひゆくといへり
 
土師宿禰水通從筑紫上京海路作歌二首
 
第十六云、有2大舍人土師宿禰水通1、曰2志婢麻呂1也、第五に帥家の宴に諸人梅の歌よめる中に薩摩目高氏海人が次に土師氏御通とのみあれば、上を承て薩摩(ノ)目なりけるなり、其任の限はてゝ上るなり、此集には處々に見ゆれども續日本紀には(8)見えず、薄官にて世を終し人なるべし、菅家は本土師氏なれば先祖などにや、
 
557 大舩乎※[手偏+旁]乃進爾磐爾觸覆者覆妹爾因而者《オホフネヲコキノスヽミニイハニフレカヘラハカヘレイモニヨリテハ》
 
都へ皈りて早く妹にあはゞやと思ふ故に、にはのよからぬにも漕行心なり、第三に筑紫娘子が、風持て能していませと讀しに表裏なり、第十一に、釼太刀もろはのときに足を踏、死にも死なむ妹によりては、此類なり、
 
初、大ふねをこきのすゝみにいはにふれかへらはかへれいもによりては
都にかへりてはやく妹にあはゝやと思ふゆへに、にはのよからぬにもこき行心なり。第三に、家おもふと心すゝむな風まちてよくしていませあらきそのみち。これと表裏なる哥なり。第十一に、つるきたちもろはのときに足をふみしにゝもしなんいもによりては。此心におなし
 
558 千磐破神之社爾我掛師幣者將賜妹爾不相國《チハヤフルカミノヤシロニワカカケシヌサハタハラムイモニアハナクニ》
 
將賜は返したまはらむなり、此は渡海の安くて疾く都に到らむ祈して出立來るに、にはのわるくて海路に日を經れば妻に逢ことの遲きに心いられして、さらば彼幣を返し給はらむと神を少恨み奉るやうによまれたるは、誠には妻を戀る心を切によめるなり、
 
初、ちはやふる神のやしろにわかゝけしぬさはたはらむいもにあはなくに
これは渡海のやすくて、日をへす都にいたらん祈して、出立かへるに、にはのあしくて、海路に日をふれは、妻にあふことのをそきに心いられして、さらばかのぬさをかへしたまはらんと、神をすこし恨み奉るやうによめり。たまはるを、たばるとは、今はいやしきものゝみいふことになりぬ。催馬樂鷹子に鷹の子はまろにたうはらんといへり
 
太宰大監大伴宿禰百代戀歌四首
 
559 事毛無生來之物乎老奈美爾如此戀于毛吾者遇流香聞《コトモナクアリコシモノヲオヒナミニカヽルコヒニモワレハアヘルカモ》
 
(9)生來之は今按アレコシと讀べし、アリコシは誤れり、毛詩云、我(カ)生(レシ)之初尚無爲(ナリ)、我生(テ)之後逢2此百(ノ)罹《ウレヘニ》1、此意なり、老ナミはな〔右○〕との〔右○〕と通ずれば老の身歟、按ずるに奈美は列の字にて年もやゝ老人の列に加はるばかりに成てと云なるべし、
 
初、こともなくあれこしものを老なみに。生來之を、ありこしと點したるは、あやまれり。あれこしは、むまれこしなり。老なみは管見抄に老の身といへり。のとなと音通すれはなり。今案年なみ月なみといふことく、老次なるへし。于は、于v時なといふ時の和訓を用たり
 
560 孤悲死牟後者何爲牟生日之爲社妹乎欲見爲禮《コヒシナムノチハナニセムイケルヒノタメコソイモヲミマクホリスレ》
 
第十一に大方同じ歌あり、遊仙窟云、生(ル)前《トキニハ》有v日2但爲(スニ)1v樂(ヲ)、死後無(ン)v春《トキ》2更著(ニ)1v人(ニ)、祗《マコトニ》2倡佯(トタノシクス・トホシイマヽニス)一生(ノ)意(ヲ)1、何(ヲ)須(テカ)負2持(トナヤマス)百年(ノ)身(ヲ)1、轍魚の譬もまた引べし、
 
初、こひしなむ後は何せむいけるひの。第十一に戀しなん後はなにせむわかいのちいける日にこそみまくほりすれ。大同なる哥なり。遊仙窟曰。生(ルトキニハ)前《メノマヘニ》有v日2但爲(スニ)1v樂(ヲ)。死(ム)後(ム)v春《トキ》2更著(ニ)1v人(ニ)。祗《マコトニ》可v倡佯(トタノシマス・トホシイマヽニス)一生(ノ)意(ヲ)1。何(ヲ)須(テカ)負2持(トナヤマスヘキ・ナヤマスヘキ)百年(ノ)身(ヲ)1
 
561 不念乎思當云者大野有三笠杜之神思知三《オモハヌヲオモフトイハヽオホノナルミカサノモリノカミシシルラミ》
 
不念乎、【續古今云、オホエヌヲ、】  神思知三、【六帖云、カミオモヒシレ、續古今云、カミソシルラム、紀州本、三作v之、】
 
大野有三笠杜とは、和名集に筑前國三笠郡の下に云、御笠、大野、是は兩處別なるやうなれど、今の歌にては大野は※[手偏+總の旁]にて、其中に別に三笠杜有と見えたり、延喜式には載られず、若三笠郡にある大社にて名の替りて載る歟、御笠と云由は神功皇后紀云、皇后欲v撃2熊鷲1而自2橿日宮1遷2于松(ノ)峽《ヲノ》宮(ニ)1、時|飄風《・ツムシカセ》忽(ニ)起(テ)御笠|墮風《フケオトサレヌ》、故時(ノ)人號(テ)2其處(ヲ)1曰2御笠1也、神思知三はみ〔右○〕とむ〔右○〕は通ずれば神し知らむなり、し〔右○〕は助語なり、今按カミシヽラサムと(10)和すべきか、しらさむは知らむの古語なり、知るらむをしるらみと古語にいへる例見えず、第十二に思はぬを思ふと云はゞ眞鳥住、うなての杜の神ししるらむ、是相似たる歌にて唯しるらむと云へり、將御知と書たれば彼をも亦しらさむとしも讀べし、筑紫にての歌なれば處に坐す神の鏡の如く明なる御意にかけて證するなり、齊明紀云、鰐田蝦夷恩荷《アイタノエミシオカ》進而誓(テ)曰、若爲(ニ)2官軍(ノ)1以儲(ハ)2弓矢(ヲ)1、鰐田(ノ)浦(ノ)神知矣、發句、續古今におぼえぬをとあれど今の點能傍例に叶へり、落句を六帖にかみおもひしれとあるは、終の三の字を忘たれば叶はず、續古今は改らる、紀州の本に依らば、カミシ知ルラシとよむべし、
 
初、おもはぬを思ふといはゝ大野なるみかさのもりの神ししるらみ
第十二に、おもはぬをおもふといはゝまとりすむうなてのもりの神し知らむ。此卷の四十葉にも似たる哥あり。みかさのもりは、和名集云。筑前國御笠郡御笠○大野○神功皇后紀云。皇后欲v撃2熊鷲(ヲ)1而自2橿日(ノ)宮1遷2于松(ノ)峽《ヲノ》宮(ニ)1。時|飄風《・ツムシカセ》忽起御笠|墮《・隨歟》風《フケオトサレヌ》。故時(ノ)人號2其處1曰2御笠1也。神し知らみは、神を引て證するなり。齊明紀云。鰐田蝦夷《アイタノエミシ》恩荷《オカ》進而誓曰。不d爲(ノ)2官軍《ミイクサノ》1故(ニ)持《モタラ》c弓矢(ヲ)u1鰐田(ノ)浦(ノ)神知(ナム)矣。筑紫にての哥なれは、みかさの杜とはいへり
 
562 無暇人之眉根乎徒令掻乍不相妹可聞《イトマナキヒトノマユネヲイタツラニカヽシメツヽモアハヌイモカモ》
 
第十二に大方似たる歌あり、眉の痒《カユ》きは人に逢べき相と云習へり、遊仙窟云、昨(ノ)夜|眼皮《メノフチ》※[目+潤の旁]《カユカリテ・ハタラキ》今朝《ケサ》見(ル)2好《ヨキ》人(ヲ)1、注云、※[目+潤の旁](ハ)動也、音如純(ノ)反、言(ハ)人(ノ)眼皮有2自動(コト)1、名(テ)v之曰v※[目+潤の旁](ト)、※[目+潤の旁]則見2好人1兼(テ)得2美食(ヲ)1、今按※[目+潤の旁]を或は瞬に作て本はまじろくまたゝくなど讀て目の動き目を撃を云、眼皮※[目+潤の旁]とは、醫書にいづくにもあれ身の肉の目を撃やうに動くを肉※[目+潤の旁]と云へば、ハタラクと點ぜるは其意には可なり、カユガリテと點ぜるは本文注共に其意見えねば(11)叶はざるやうなれど、此國には眉の痒きを同じ相に習ひ來るに依て意を得て點ぜるにや、下にも弓持方の眉根掻とも、眉かゆみともあまたよめり、無暇は今按イトマナクとも讀べし、今本よりの點は公私に付て暇なきなり、今按の點は眉を掻に暇なきなり、
 
初、いとまなき人のまゆねを。いとまなくともよむへし。いとまなきはもとより公私につき隙なきなり。いとまなくとよめは、まゆねのかゆきをいとまなく掻なり。第十二に、いとのきてうすきまゆねをいたつらにかゝしめつゝもあはぬ人かも。大かた似たる哥なり。猶弓もつかたのまゆねかき、あかひはまゆかゆみなとあまたよめり。遊仙窟云。昨(ノ)夜|眼皮《メノフチ》※[目+潤の旁]《カユカリテ・ハタラキ》今朝《ケサ》見(ル)2好《ヨキ》人(ヲ)1。注云。※[目+潤の旁](ハ)動也。音如純(ノ)反。言(ハ)人(ノ)眼皮有(ヲ)2自動(コト)1名(テ)v之曰v※[目+潤の旁](ト)。々則見2好人1兼得2美食(ヲ)1。およそ醫書に肉※[目+潤の旁]といへるは、またゝくやうにはいつくにもあれ、肉のうこくをいへは、はたらくといふこそかなふを、かゆかりてとも訓したるは、層も近けれは.おなしさとしなるへし
 
大伴坂上郎女歌二頸
 
563 黒髪二白髪交至耆如是有戀庭未相爾《クロカミニシロカミマシリオヒタレトカヽルコヒニハアマタアハナクニ》
白髪交、【官本亦云、シラカマシリテ、】  至耆、【拾遺云、オフルマテ、別校本同2拾遺1、】  未相爾、【拾遺、イマタアハサルニ、官本云、イマタハナクニ、】
 
至耆を今の本オイタレドと點ぜるは叶はず、其故は於以?阿禮杼《オイテアレド》と云べきを?阿の反多なる故においたれどゝは云なれば、雖老有、或は老而雖有など書たらばこそさはよむべけれ、又是は年のやゝねびたるまでかゝる戀にはあはぬと云にこそあれ實に白髪交ならむには戀も似合ず、伊勢物語の、つくも髪のをうな、源氏の源内侍が風情すべし、然れば此をば於由留麻?《オユルマデ》と讀べし、日本紀に、間人連が名の老を於喩《オユ》と自注を加へらる、於以と於喩とは也以由江與《ヤイユエヨ》の五音の中に通ぜり、拾遺の於布留麻?《オフルマデ》は後世のやうにて叶はず、
 
初、くろかみに白髪ましりおゆるまて。下の廿八葉滿誓の哥これに似たり。至耆をおいたれとゝよめるはかなはす
 
(12)564 山菅乃實不成事乎吾爾所依音禮師君者與孰可宿艮牟《ヤマスケノミナラヌコトヲワレニヨリイハレシキミハタレトカヌラム》
 
山菅は和名集云、本草云、麥門冬、【和名、夜末須介、】瑠璃の色して山橘の大きさなる實のなるなり、今按第七に、妹が爲菅の實取に行我を、山路迷て此日暮しつとよみ、其外山に菅を多くよみ、文字を山草ともかけるは必此麥門冬としも聞えねば、唯山に生る菅にや、何れにまれ實はあるを、今實ならぬとつゞけたるはいまだ實ならぬ程によせて云か、又山菅の如く實ならぬと云か、第九に石上振のわさ田の穗には出ずとよめるも穗に出る物を假て穗には出ずとよめり、穗なき物ならばよせて云べきやうなし、此になずらふべし、歌の心は、逢見ることもなき君が名は我故にいはれて深くも思はねば、それにうむじて云ひさしてまことには誰にか相見るらむとなり、
 
初、山菅のみならぬことを。山菅は麥門冬なり。山橘のおほきさして.瑠璃の色なる實のなるなり。いまたならぬ時によせていへり。實のなきといはむためなり。おとこ女の中に、いまたまことに相見ぬをも、人はなき名をいひさわく習なり。君か虚名は我にたちて、いかなる人とか.實にはあひみるらんとよめり。人まろの哥に、妹かためすかのみ取にゆくわれを山ちまとひて此日くらしつとよめるも、山菅か。常の菅にも、春の末穗のやうになれど、何の用ある物にも、見るへき物にもあらす。又山菅は實といはむためのみにて、ならぬといふまてには、かゝらすともいふへし。そのゆへは、いそのかみふるのわさ田のほには出す心のうちに戀やわたらん。此哥をおもふへし
 
賀茂女王歌一首
 
565 大伴乃見津跡者不云赤根指照有月夜爾直相在登聞《オホトモノミツトハイハシアカネサシテレルツキヨニタヽニアヘリトモ》
 
大伴乃見津とは第一に大伴の高師の濱とつゞけたるが如く難波の三津を見ると云心につゞくるなり、古今に、難波なるみつとも云なと有が如し、大伴の三津と云事(13)別に注す、今按此上に此女王大伴の三依に贈れる歌あるを思ふに、三依に逢て彼が氏によせて、かくはつゞけられたるべし、赤根指はあかみて匂ふなり、六帖には口かたむと云に入れて、二の句をみつともいふな、五の句をあひきたりともとせり、今は用がたし、
 
初、大とものみつとはいはし。大伴のみつの浦とつゝくことは、別に釋せり。いそのかみふるとも雨にさはらめやとつゝけたるに同し例なり。古今集にも、君か名もわかなもたてしなにはなるみつとないひそあひきともいはしとよめり
 
大宰大監大伴宿禰百代等贈驛使歌二首
 
566 草枕羈行君乎愛見副而曾來四鹿乃濱邊乎《クサマクラタヒユクキミヲウツクシミタクヒテソコシシカノハマヘヲ》
 
愛見、【六帖云、オモハシミ、】
 
愛見を六帖におもはしみとあるは、第五に憶良の古日と云子を失てよまれたる歌にも、愛久志我可多良倍婆云云、此愛久をオモハシクと點じ、遊仙窟に可愛《・オモハシキ》(ト)語中聲、此等の點と叶へり、猶ナツカシミともウルハシミとも讀べし、
 
右一首大監大伴宿禰百代
 
567 周防在磐國山乎將超日者手向好爲與荒其道《スハウナルイハクニヤヤヲコエムヒハタムケヨクセヨアラキソノミチ》
 
將超、【官本、超作v越、】  荒其道、【六帖云、アラシソノミチ、】
 
(14)磐國山は和名云、玖珂【音如v鵞、】郡石國、長門國の人に尋侍りしかば、石國を越て欽明寺と云寺に至る程、今もけはしき道なりと申き、第三に筑紫娘子が人に贈りし歌、海陸異なれど能似たり、
 
初、すはうなるいはくに山を。和名集云。周防國玖珂【音如鵞】郡石國。第三卷に、家おもふと心すゝむな風まちてよくしていませあらきその道。海陸みちことなれと、心おなし。石國をこえて、欽明寺といふ寺にいたるほと、險難なりとある人申き
 
右一首少典山口忌寸若麻呂
 
職員令云、大典二人云云、少典二人掌(トルコト)同2大典1、若麻呂は第五の梅歌の中にも見えたり、續日本紀には見えず、
 
以※[止/舟]天平二年庚午夏六月1帥大伴卿忽生瘡脚疾苦枕席因此馳驛上奏望請庶弟稻公姪胡麻呂欲語遺言者 勅右兵庫助大伴宿禰稻公治部少蒸大伴宿禰胡麻呂兩人給驛發遣令看卿病而※[しんにょう+至]敷旬幸得平復于時稻公等以病既療發府上京於是大監大伴宿禰百代少典(15)山口忌寸若麻呂及卿男家持等相送驛使共到夷守驛家聊飲悲別乃作此歌
 
※[止/舟]は官本作v前、説文、本作v※[止/舟]不v行而進也、从(フ)3止(カ)在2舟上(ニ)1、徐曰、座(シテ)而至者舟也、隷(ニ)作v前(ニ)庶弟〔二字右○〕、嫡子(ハ)一人(ナリ)、餘爲v庶、説文云、※[庶のれっかが火]、屋下衆也、从2※[麻垂](ニ)※[(庶のれっかが火)の麻垂なし](ヲ)1、※[(庶のれっかが火)の麻垂なし]、古文(ノ)光(ノ)字、稻公〔二字右○〕、聖武紀云、天平十三年十二月乙亥、從五位下大伴宿禰稻君爲2因幡守1、孝謙紀云、寶字元年八月、從四位下、二年正月己巳勅曰、得2大和國守從四位下大伴宿禰稻公等奏1※[人偏+稱の旁]云云、この間しば/\見えたり、姪〔右○〕、爾雅云、所謂昆弟之子爲v姪、胡麻呂〔三字右○〕、聖武紀云、天平十七年正月己未朔乙丑、正六位上、大伴宿禰古麻呂授2從五位下(ヲ)1、孝謙紀云、寶龜元年六月、左大弁正四位下大伴宿禰古麻呂(ヲ)爲2兼陸奥鎭守將軍(ト)1、同月爲2陸奥按察使(ト)1、同月下v獄杖下死、此間しば/\見えたり、獄にくだることは奈良麿の謀反に繋りてなり、治部少蒸〔四字右○〕、蒸當(ニ)2改(テ)作(ル)1v丞(ニ)、※[しんにょう+至]2數旬〔三字右○〕1、※[しんにょう+至]當(ニ)2改(テ)作(ル)1v逕(ニ)、夷守驛家〔四字右○〕、景行紀云、十八年春三月、天皇|將2向《イデマセントシ》京(ニ)1以|巡(リ)2狩《ミソナハス》筑紫國1、始(テ)到2夷守(ニ)1、
 
大宰帥大伴卿被任大納言臨入京之時府官人等餞卿筑(16)前國蘆城驛家歌四首
 
568 三崎廻之荒磯爾縁五百重浪立毛居毛我念流吉美《ミサキワノアライソニヨスルイホヘナミタチテモヰテモワカオモヘルキミ》
 
發句を六帖にはみさきまひ、別校本にはミサキマヒノと點ず、今共に取らず、日本紀云、夫|朝貢《ミツキアケノ》使者恒避2嶋曲《ミサキヲ》1、【謂2海中(ノ)嶋曲、碕岸1也、俗云美佐祁、】
 
右一首筑前掾門部連石足
 
職員令(ニ)云、大國大掾一人云云、餘(ノ)椽准(ス)v此、少椽一人掌同2大椽1、韻會云、漢制以v曹爲v椽、如2屋之椽(ノ)1、言(ハ)有(ナリ)v所2負荷(スル)1、筑前は上國なり、石足は第五梅歌の作者の中にもあり、續日本紀には見えず、
 
569 辛人之衣染云紫之情爾染而所念鴨《アラヒトノコロモソムトイフムラサキノコヽロニシミテオモホユルカモ》
 
辛人之、【官本云、カラヒトノ、】
 
辛人をアラヒトとあるは寫生の誤なり、早くカラヒトと改むべし、染云はソムテフとも讀べし、此國にも紫色を貴て衣を染なむを辛人のとしもいへる意得がたし、此(17)辛と云へるは三韓を指か、からと云名三韓より起てもろこしをも云にや、韓子(ニ)云、齊(ノ)桓公好v服v紫、一國盡(ク)服v紫(ヲ)、當時十素(モ)不v得2一紫(ヲ)1云云、戰國策にも見えたり、陽春は儒生と見ゆれば若此等を以よめる歟、又大納言正三位なれば朝服の色も今一入濃紫なるべければ、韓人とはいへども實には此卿の衣によせたるか
 
初、から人の衣そむといふ。文選任彦升(カ)天監三年策2秀才1文云。昔紫衣(ノ)賤服猶化2齊風1、長纓(ノ)鄙好且變2鄒俗1。戰國策云。
 
570 山跡邊君之立日乃近者野立鹿毛動而曾鳴
 
近者、【官本、近下有v付、】
 
今按、大伴卿は天平二年十一月に大納言に任ぜられて、十二月に都へ上られたれば實には鹿の鳴時に非ず、陽春は大典にて帥の屬官なれば第二第三に鹿じ物いはひふせりてとよめる如く帥を敬ふべき人なる故に、我身を鹿になして別を慕ひて泣をよめるならん、
 
初、やまとへに君かたつ日のちかつけは野にたつしかもとよみてそなく
 
右二首大典麻田連陽春
 
聖武紀云、神龜元年五月辛未、正八位上※[塔の旁]本陽春賜2麻田連(ノ)姓(ヲ)1、天平十一年正月甲午朔丙午、正六位上麻田連陽春授2外從五位下(ヲ)1、懷風藻云、下外從五位下石見守(18)麻田連陽春一首、【年五十六、】孝謙紀に寶字元年に橘奈良麻呂逆心とおぼしき事企られける時、醫師に※[塔の旁]本忠節と云者あり、今の陽春が本姓と同じ、※[塔の旁]本和訓いまだ類を見ず、若陽春が先祖外國より來りて音か、陽春を比波留と訓じたる本あれど、姓を合せて按じ、二字の連綿を思ふに、唯音に讀名なるべし、
 
初、大典。太宰府職員令云。大典二人、掌(トル)受(ヲ)v事(ヲ)上抄《ノセシルシ》、勸2暑(シ)文案(ヲ)1、?2出(シ)稽失(ヲ)1、讀(ミ)2申(スコトヲ)公文(ヲ)u。少典二人、掌同2大典1。聖武紀云。神龜元年五月辛未、正八位上※[塔の旁]本陽春(ニ)、賜2麻田連(ノ)姓(ヲ)1。天平十一年正月甲午朔丙午、正六位上麻田連陽春授2外從五位下(ヲ)1。懷風藻云。下外從五位下石見守麻田連陽春一首【年五十六。】五言和(ス)2藤江守(ノ)詠(セル)2裨叡《ヒエノ》山(ノ)先考(ノ)之舊禅處(ノ)柳樹(ヲ)1之作(ヲ)u。近江(ハ)惟帝里、裨叡《ヒエイハ》寔神山。々靜俗塵寂、谷〓(ニシテ)眞理等。於《アヽ》穆(タル)我先考、獨悟闡2芳緑1。寶殿臨v空構、梵鐘入v風傳。煙雲萬古色、松柏九冬專。日月荏苒去、慈範獨依々。寂寞精禅處、俄爲2積學〓1。古樹三秋落、寒草九月衰。唯餘兩楊樹、孝烏朝夕悲。此作をみれは、藤江守并先考いまた誰ともかんかへしらされとも、初てひえの山をひらけると見えたり。しかれは、傳教大師は、中興したまへるなり。懷風藻は、昔もまれにて見たる人のなかなけれはにや、ひける事なし。世の重寶とすへき書なり
 
571 月夜吉河音清之率此間行毛不去毛遊而將歸《ツキヨヨシカハヲトキヨシイサコヽニユクモトマルモアソヒテユカム》
 
不去毛は、今按字に任せてユカヌモと讀べきにや、
 
右一首防人佐大伴四綱
 
太宰帥大伴卿上京之後沙彌滿誓賜卿歌二首
 
賜は目録にも幽齋本にも贈に作れり、賜の字の事上に云が如し、幸に證あり早く改たむべし、
 
572 眞十鏡見不飽君爾所贈哉旦夕爾左備乍將居《マソカヽミミアカヌキミニオクレテヤアシタユウヘニサヒツヽヲラム》
 
所贈は後而に假てかけり、第十二に、まそ鏡手に取持て見れどあかぬ、君におくれて(19)いけるともなし.此能今の歌に似たるにおくれてを所贈而とかけり、サビツヽは前に云が如し、文選張平子思玄賦云、經(テ)2重陰(ヲ)1乎|寂寞《・モノサヒ》(ト)兮云云、此歌刀ならでもさびてと云べき證なり、
 
初、あしたゆふへにさひつゝをらん。俊成卿の、さひたるといふことを、哥の判の詞にかきたまへるを、定家卿.かたなゝとをこそさふるとはいへともときたまへるは、此哥をかんかへられさりけるなり。さひしきを、さふしきとは、今はわらはへのかたこと、あるひはしつなとこそいふを、此集にはさふしともよめり。されと、さふしといはむは、わろし。さひてとは、貴賤通して今も申めり
 
573 野干玉之黒髪變白髪手裳痛戀庭相時有來《ヌハタマノクロカミカハリシラケテモイタキコヒニハアフトキアリケリ》
 
上の坂上郎女が黒髪に白髪交とよめる歌と同意なり、
 
初、ぬは玉のくろかみ。さきに坂上女郎の哥に、似たる事をいへるはこれなり
 
大納言大伴卿和歌二首
 
574 此間在而筑紫也何處白雲乃棚引山之方西有良思《コヽニアリテツクシヤイツコクシラクモノタナヒクヤマノカタニシアルラシ》
 
第三に有し石上卿の歌と同意なり、方ニシのし〔右○〕は助語なり、新古今に西に有らしと載られたるは古本に方の字や落たりけむ、
 
初、こゝにありてつくしやいづこ。はる/\なる事をいはむとてなり。第三卷石上卿の哥これににたり。そこに出せり
 
575 草香江之入江二求食蘆鶴乃痛多豆多頭思友無二指天《クサカエノイリエニアサルアシタツノアナタツタツシトモナシニシテ》
 
草香江は河内國河内郡なり、神武紀云、戊午年春|三月《ヤヨヒノ》丁卯朔丙子(ノヒ)、遡v流而上《カハヨリサカノホリテ》、徑《タヽニ》至(リマス)2河内國(ノ)草香(ノ)邑(ノ)青雲(ノ)白肩之《シラカタノ》津(ニ)1、古事記下、引田《ヒケタノ》赤猪子(ノ)老女(カ)歌(ニ)云、久佐迦延能伊理延能波知須(20)波那婆知須《クサカエノイリエノハチスハナハチス》、微能佐加理※[田+比]登々母志岐呂母《ミノサカリヒトトモシキロカモ》、蘆鶴を承てタヅ/\シと云へり、第十一第十五にも此つゞきあり、たづ/\しは常にもたど/\しと云に同じ、鶴は群鶴とよみて打むれて遊ぶ物なるが、又孤獨鶴とてさびしげに獨立ても居れば、つれによせて、集會して語らはれし時を戀てかくはかへさるゝなり、二首共に亦雜なるべし、
 
初、草香江の入江にあさるあしたつの。草香江は河州なるを、ある人筑前といへるは、大伴卿太宰帥にて有けることをおもひて、おしあてにいへるなり。これは大納言に任せられて、のほりての返哥なるゆへ、こなたにちかき所をかりてよめるなり。あしたつは、あなたつ/\しといはむ料の序なる中に、友鶴つるむらなといひて、打むれてあそふ物なるが、又さひしけにひとりもをれは、それによせてよまれたり。滿誓の二首の大意を得てよめる返しなり。たつ/\しは、たと/\しきにて、おちつかぬやうのこゝろなり。天平二年十月、大納言に任せらる。そのゝちの哥なり
 
太宰帥大伴卿上京之後筑後守葛井連大成悲嘆作歌一首
 
聖武紀云、神龜五年五月丙辰、正六位上葛井連大成等授2外從五位(ヲ)1、是日始(テ)授2外五位(ヲ)1、仍勅(シテ)曰、今授(クル)2外五位(ヲ)1人等不v可(ラ)v滯(ル)v此、隨(テ)2其供奉1將v叙2打内位1、宜(シク)2悉(ク)努力(シテ)莫(ル)1v怠(ルコト)、元正紀云、養老四年五月壬戌、改(テ)2白猪史(ヲ)1賜(フ)2葛井連姓(ヲ)1、孝謙紀云、寶字二年八月丙寅、外從五位下津史秋主等卅四人言、船(ト)、葛井、津(トハ)、本是一祖、別(テ)爲(ル)2三氏(ト)1云云、かゝれば王辰爾が後なり、今按葛井はふぢゐとよむ歟、第九云、藤井連遷任上v京時娘子贈歌一首、藤井連和歌一首、播磨の藤江を和名に葛江とあれば、彼此引合せて思ふに然るべしや、第五の梅歌の中にも此人あり、
 
初、葛井連大成。聖武紀云。神龜五年五月正六位上葛井連大成授2外從五位下(ヲ)1。是(ノ)日【丙辰】始(テ)授2外五位(ヲ)1。仍勅(シテ)曰《ノ ク》、今授(クル)2外五位(ヲ)1人等不v可(ラ)v滯(ル)v此(ニ)。隨(テ)2其(ノ)供奉(ニ)1將v叙(セント)2内位(ニ)1。宜(シク)2悉(/\クニ)努力(シテ)莫(ル)1v怠(ルコト)。元正紀云。養老四年五月壬戌、改(テ)2白猪(ノ)史(ヲ)1賜(フ)2葛井(ノ)連(ノ)姓(ヲ)1。孝謙紀云。寶字二年八月丙寅、外從五位下津(ノ)史秋主等卅四人|言《マヲス》。船(ト)、葛井(ト)、津(トハ)、本是一祖、別(レテ)爲(ル)2三氏(ト)1。其(ノ)二氏者蒙2連(ノ)姓《カハネヲ》1訖。唯秋主等未v霑(ホハ)2改姓(ニ)1。請(フ)改(メム)2史(ノ)字(ヲ)1於v是賜2姓(ヲ)津(ノ)連(ト)1。桓武紀云。延暦十年正月壬戌(ノ)朔癸酉、春宮亮正五位下葛井連道依、主税(ノ)大屬從六位下船連今道等言。葛井、船、津等本出(テヽ)2一祖(ヨリ)別(レテ)2三氏(ト)1。而(ルニ)今(マ)津(ノ)連等幸(ニ)遇(テ)2昌運(ニ)1先賜(フ)2朝臣(ヲ)1。而(ルニ)道依今道等(ハ)猶滯(レリ)2連(ノ)姓(ニ)1。方(ニ)今聖主照臨(シテ)在(テ)v幽(ニ)盡(ク)燭(ン)。至化潜(ニ)運(テ)稟(ルモノ)v氣(ヲ)歸(ス)v仁(ニ)。伏(テ)望(ラクハ)同(シク)沐(シテ)2天恩(ニ)1共(ニ)蒙(ラン)v改(ル)v姓(ヲ)。詔(シテ)許v之。道依等八人(ニハ)賜(フ)2姓(ヲ)宿禰1。今道等八人因(テ)v居(ニ)賜(フ)2菅原(ノ)宿禰1。又對馬守正六位上津(ノ)連吉道等十人(ニ)賜2宿禰(ト)1。少外記津連巨都雄等兄弟姉妹七人(ニハ)因(テ)v居(ニ)賜(フ)2中科(ノ)宿禰(ト)1。祖は王辰爾なり
 
(21)576 從今者城山道者不樂牟吾將通常念之物乎《イマヨリハキノヤマミチハサヒシケムワカカヨハムトオモヒシモノヲ》
 
城山は第五に百代が梅をよめる歌に此城の山と云ひ、第八にも第十にもよめり、筑後の國府より帥の館へ徃來するに經る道なるべし、今按キノヤマミチハとも讀べし、
 
初、いまよりは城山の道はさひしけむわかかよはむとおもひしものを
和名集云。筑前國下(ツ)座《アサクラノ》郡城邊【木乃倍。】此集第五に、大伴百代か、梅の花ちらくはいつくしかすかに此城の山に雲はふりつゝとよみ、第六《八 八雲御抄にこの城の山筑前載させたまへるはよくかんかへさせ給はさりしなり》に大伴坂上郎女か、今もかも大城の山にほとゝきす鳴とよむらん我なけれとも。今案天智天皇三年に、筑紫におほきなる堤をつき、水をたゝへて、水|城《キ》をきつかせたまへり。第六に注すへし。此水城によりて、城山城邊なといふ名も出來けるにや。わかかよはむと思ひしとは、大伴卿帥にておはするもとへなり。日本紀に、往還をかよふとよめり
 
大納言大伴卿新袍贈攝津大夫高安王歌一首
 
新袍〔二字右○〕、和名集云、楊氏漢語抄云、袍【薄交反、和名宇倍乃岐沼、一云朝服、】著(タル)v襴之袷衣也、史記、范雎列傳、范雎|讓《セメ》2須賈(ヲ)1畢(テ)曰(ク)、然(モ)公(カ)之所2以(ハ)得1v無(コトヲ)v死者以(ナリ)2※[糸+弟]袍戀々(トシテ)有(ヲ)2故人之意1、攝津大夫〔四字右○〕、令義解云、攝津職、【帶2津國1、】、大夫一人云云、亮一人、大進一人、少進二人、大屬一人、少屬二人、史生三人、使部三十人、直丁二人、高安王は元明紀云、和銅六年春正月、授2無位門部王(ニ)從四位下、無位高安王從五位下(ヲ)1、元正紀云、養老元年正月、從五位上、聖武紀云、神龜四年正月,從四位下、天平九年九月己亥、從四位上、かゝれば從四位下の時なり、天平十一年夏四月甲子、詔曰、省2從四位上高安王等去年十月二十五日表1具知2意趣1云云、今依v所v請賜2大原眞人之姓1云云、天平十四年十二月庚寅、正四位下大原眞人高安卒、此間處々に見ゆ、(22)此歌は難波へ著岸の時袍にそへて贈らるゝ歟、其故は上の石川足人遷任の時の歌より次下の三依が歌までは筑紫にての相聞の歌の類を一所に置と見ゆればなり、
 
初、新袍。和名集云。楊氏漢語抄云。袍(ハ)【薄交反、和名宇倍乃岐沼。一云|朝服《ミカトコロモ》】著(タル)v襴《スソ》之袷衣也。史記范雎列傳(ニ)范雎|讓《セメ》2須賈(ヲ)1畢(テ)曰。然(モ)公(カ)之所2以(ハ)得1v無v死者、以(ナリ)2※[糸+弟]袍戀々(トシテ)有(ヲ)2故人之意1。攝津大夫。令義解云。攝津職【帶(ス)2津國(ヲ)1】大夫一人。掌(トル)2祠社【謂(フ)祠(ハ)者祭2百神1也。社(ハ)者檢2校諸社也。凡(ソ)稱2祠社(ト)1者皆准2此例1】】戸口(ノ)簿帳、字2養(シ)百姓(ヲ)1、勸2課(シ)農桑(ヲ)1、糺d察(スル)所部(ノ)貢擧、孝義、田宅、良賤、訴訟、市廛、度量(ノ)輕重、倉廩、租調、雜徭、兵士、器仗、道橋、津濟、過所、上下公使(ノ)郵驛、傳馬、闡遺(ノ)雜物、※[手偏+僉]2校舟具1、及(ヒ)寺僧(ノ)名籍(ヲ)u事(ヲ)(甲)。亮一人、大進一人、少進二人、大屬一人、少屬二人、史生三人、使部三十人、直丁二人
 
577 吾衣人莫著曾網引爲難波壯士乃手爾者雖觸《ワカキヌヲヒトニナキセソアヒキスルナニハヲトコノテニハフルトモ》
 
此をだにと我が心ざせる衣なれば心に叶はずともゆめ外の人にな得させ給ひぞ、たとひ心に叶はずば其わたりの賤しき難波男にたびてそれが手には觸てならすともといへり、故人を親みて謙退せる歌なり、古今集に藤原國經卿宰相より中納言に昇進せられし時、近院右大臣の染ぬ上の衣の綾贈らるゝ時の歌の心ばへ相似たり、
 
初、わかきぬを人になきせそあひきするなにはをとこの手にはふるとも
わかこゝろさせるきぬなれは、心にかなはすともゆめ外の人なとにえさせたまひそ。たとひ心にかなはすは、そのわたりのいやしき、なにはをとこにたひて、それか手にはふれならすともといへり。人をしたしみて、謙退せる歌なり。古今集に、藤原國經卿宰相より中納言に昇進せられける時、近院右大臣、そめぬうへのきぬのあやをくられける時の哥
 色なしと人やみるらんむかしよりふかきこゝろにそめてしものを
此哥は難波につきて、をくられけるなるへし
 
大伴宿禰三依悲別歌一首
 
第五梅の歌の中に豐後守大伴大夫と云へる此人歟、大伴卿の別の後の歌なるべし、
 
578 天地與共久住波牟等念而有師家之庭羽裳《アメツチトトモニヒサシクスマハムトオモヒテアリシイヘノニハハモ》
 
(23)庭ハモと云に物を失て尋ぬるやうの心あるは悲しめるなり、
 
初、あめつちとともにひさしく。第二卷、日並皇子尊薨し給ひける時、舎人等かよめる哥の中に、あめつちとゝもにをへむとおもひつゝつかへまつりし心たかひぬ。生別死別ことなれと.おしむはおなし心なり。此哥は、大件卿大納言になりて、のほらるゝ時の哥なり。したふ人のおほきに、人からおもひやられぬ。家の庭はも。此やうに、はもといふことはゝ、いつかその庭はと尋したふ心なり。おほよそ、はもといひ、はやといへる哥、これに准すへし
 
金明軍與大伴宿禰家持歌二首
 
明軍者大納言卿之資人也
 
579 奉見而未時太爾不更者如年月所念君《ミマツリテイマタトキタニカハラネハトシツキノコトオモホユルキミ》
 
カハラネバは替らぬにの意なり、
 
初、みまつりていまた時たにかはらねはとしつきのことおもほゆるきみ
見まつりては、見たてまつりてなり。神をまつるもさま/\の物奉りてうやまひを表するゆへに此奉の字の義なるへし。時たにかはらねは、此詞今の哥によまは、心たかへるやうなるを、此體に、此集にはあまたよめり。かつ/\その類をいたさは
 秋たちていくかもあらねは《・ぬに、ぬを、ほど、下准之》此ねぬるあさけの風はたもと涼しも
 秋田かるかりほもいまたこはたねは鴈金さむし霜もひぬかに
 さねそめていくたもあらねは白たへの帶こふへしやこひもつきねは
 秋山のこのはもいまたもみちねはけさふく風は霜も置ぬへく
 卷向のひはらもいまた雲ゐねは小松かはらにあはゆきそふる
 うの花もいまたさかねはほとゝきすさほの山へをきなきとよます
此たくひ猶有へし。みまつりていまた時たにかはらぬをとも、かはらぬにとも、かはらねどゝもいへは、今の哥なり。右の哥皆おなし。すゑの世のあさましきは、此ことはなとのかなへらんことを、いかに案すれとも、得わきまへ侍らぬなり
 
580 足引乃山爾生有菅根乃懃心見卷欲君可聞《アシヒキノヤマニオヒタルスカノネノネムコロミマクホシキキミカモ》
 
菅の根の根を重てネモゴロとつゞけたり、又按ずるに菅の根のねもころと下にあまたつゞけたり、菅の根の繁くて能からみ相たるにもよする歟、如の字古語にもころ〔三字右○〕云へば如根《ネモコロ》の意にて木の根のこまやかに繁きによそへたる詞にや、明軍は旅人卿の資人なるに、此二首相聞に入て志もたゞならず聞ゆるに、第三譬喩歌に同じ明軍が、印結て我定こし住吉の、濱の小松は後も吾松とは家持を喩へけるにや、此つゞきにあるは家持のわらはなる程の事なるべし、
 
大伴坂上家之大娘報贈大伴宿禰家持歌四首
 
(24)此大娘は家持の妻なり、父は此卷下云、右大辨大伴宿奈麻呂卿之女也といへり、母は大伴坂上郎女、姉は田村家の大娘、妹は駿河麻呂の妻なり、
 
581 生而有者見卷毛不知何如毛將死與妹常夢所見鶴《イキテアレハマミクモシラスナニシカモシナムヨイモトユメニミエツル》
 
何如毛、【官本亦點、イカニカモ、】
 
發句は今按イキテアラバとも讀べし、又?阿切多なればイキタレバともイキタラバとも讀べし、下句は家持の戀侘て大娘が夢の魂に通ひてかく見えらるゝなり、
 
初、いきてあれはみまくもしらす。今こそあひかたけれ、かたみになからへたれは、又あひみんもしれぬを、なとかわか夢に、君かいりきて、かくあはてあらんよりは、こひしなんとみえけんとなり
 
582 丈夫毛如此戀家流乎幼婦之戀情爾比有目八方《マスラヲモカクコヒケルヲタヲヤメノコフルコヽロニナラヘラメヤモ》
 
一二の句は上の歌の下句を踏歟、又返歌なれば、別に痛く戀る由讀て贈られたるに和答する歟、丈夫さへ心よはくかくばかり戀と云にて知れ、もとよりたをやめと云はるゝ身の戀る情には君が思の相並ばむや、並ぶことあたはじとなり、
 
初、ますらをもかくこひけるをたをやめのこふる心にならへらめやも
かくこひけるといふに、ふたつの心有。ひとつにはみきの、しなんよ妹と夢に見えつるといふ哥をふみたりといふへし。ふたつには、いかなるますらをもこひといへは、かくこそはこふるならひなれとも、猶たをやめのはかなき心に、ひとすちにこふるにくらへみは、あひならひて、ひとしきことを得しとなり。第十一に、ますらをはとものそめきになくさむるこゝろもあらんわれそくるしき
 
583 月草之徒安久念可母我念人之事毛告不來《ツキクサノウツロヒヤスクオモヘカモワカオモフヒトノコトモツケコヌ》
 
徒は徙の字を誤まれるなり、徙、説文云、移也、月草は後に、朝さき夕はけぬる月草とよ(25)みて早くうつろふにも寄せ、又月草の移《ウツシ》とて紙などに染付てそれをおろすにも早く移れば兩樣なり、此方彼方目につく人あればあだなる心のうつるを譬ふるなり、オモヘカモは思へばかなり、
 
初、月草のうつろひやすくおもへかも。此集に、あしたさきゆふへはけぬる月草のともよみて、まことに月草は、うつろひやすき物なり。又月草の花をもて、紙をも布をもそめおきて、それをおろして、物をそむれは、それをもかぬへし。おもへかもは、おもへはかもなり。徙を徒に作れるはあやまれり。こともつけこぬは、音つれもせぬなり
 
584 春日山朝立雲之不居日無見卷之欲寸君毛有鴨《カスカヤヤアサタツクモノヰヌヒナクミマクノホシキキミニモアルカモ》
 
此歌にふたつの意あるべし、春日山に雲の日毎に居る如く常に君を見まくほしきとよめるか、又春日山に雲の居る事なくて常にさやかに見ばさもめづらしかるまじきを、雲の居ぬ日なくて心行までさやかにも見えねば、常にはれやかに見まくほしく思ふ如く、君をも人目人言にさわりて思ふばかり逢ことなければ彌みまくほしくのみ思ふとよめる歟、初の心は淺し、後のやうなるべし、續後給遺集は何に據てか家持の歌とは載られけむおぼつかなし、彼家集と云物にさへ見えぬを、
 
初、春日山あさたつ雲の。雲は朝たちてゆふへはゐるといふ。これは大體にて今の心にあらず。山に朝たつ雲を、すなはちゐるといひて、春日山に雪のゐぬ日なきかことく、いつも/\君かみまくほしきとなり。又古今集序にも、空ゆく雲のたちゐ、なく鹿のおきふしとかけることく、雲はたちつゐつさたまらねは、立ておもひ居ておもふにもよせたる歟
 
大作坂上郎女歌一首
 
585 出而將去時之波將有乎故妻戀爲乍立而可去哉《イテヽイナムトキシハアラムヲコトサラニツマコヒシツヽタチテユクヘシヤ》
 
將去は今按落句に對するにイナムと點ずべし、若イナンとよまば下をもイヌベシ(26)ヤと讀べきなり、時之波のし〔右○〕助語なり、此は夫君の物へ行時いたく別を惜みつゝ行に依てよめる歟、意は、必らす出てゆかむとならば宜しき時も有べきを、心からわざと立て妻戀しながらゆかむ物かとなり、第三に家持妾を失ひて、時はしもいつもあらむをとよまれたる意なり、又古今に、人やりの道ならなくに大方は、いきうしと云ひていざ皈りなむ、此今の歌のよき返しなるべし、
 
初、出ていなん時しはあらむを。しは助語にて、時はあらんをなり。これは夫君の旅にゆく時なとよめるにや。出てゆかむ時もこそあらめ。われをこふるといふ時しも、わさとたちてゆくへき物か。實はこふといふはことはにて、さもあらねはこそ立て行らめとなり。妻こひしつゝ、此つゝに乍の字此集にあまたかけり。今の世此乍の字を、なからとよむ。つゝにもなからの心ふくめり。ほとをふる心あり
 
大伴宿禰稻公贈田村大孃歌一首
 
按ずるに田村大孃も大伴宿奈麿の娘にて坂上大孃が姉なり、此卷下に見えたり、大伴郎女藤原(ノ)麿(ノ)朝臣に逢て後は宿奈麿の妻となりて又離別せるにや、田村大娘は前妻の腹なる故宿奈麿の家に留り、坂上郎女の腹なる二人はつれて坂上宅に皈らるゝ故、坂上大孃、坂上二孃と簡て云歟、田村は大和國山邊郡にあり、
 
初、大伴宿禰稻公。上廿七葉云。以前《サキノ》天平二年庚午夏六月(ニ)、帥大伴卿忽(ニ)生(シテ)v瘡(ヲ)脚疾苦(シム)2枕席1。因(テ)1v此馳(テ)v驛(ヲ)《ハイマ日本紀早馬也隼人ヲハイトヽイフニ同シ也與異音通》】上奏(シテ)望請(スラク)庶弟稻公姪胡麻呂(ニ)欲v語2遺言(ヲ)1者《テヘリ・テヘリハトイヘルナリ登伊反知二四相通シテテトセリ》。此哥後注云。姉坂上郎女作。聖武紀云。天平十三年十二月己亥、從五位下大伴宿禰稻公爲2因幡守(ト)1。十五年五月從五位上。孝謙紀云。勝寶元年四月正五位下。八月兵部太輔。六年四月上總守。寶字元年五月正五位上。同八月從四位下。二年正月己巳勅曰。得(ルニ)2大和國守從四位下大伴宿禰稻公等(カ)奏(ヲ)2※[人偏+爾]《イハク》。部下|城《シキノ》下(ノ)郡|大和《ミワ》神山(ニ)生2奇藤(ヲ)1。其根(ニ)虫彫2成(セリ)文十六字(ヲ)1。王大則并天下人此内任大平臣守具命
 
586 不相見者不戀有益乎妹乎見而本名如此耳戀者奈何將爲《アヒミスハコヒサラマシヲイモヲミテモトナカクノミコヒハイカヽセム》
 
不戀有益乎はコヒズアラマシヲとも讀べし、
 
初、もとなは、よしなゝり。由といふもゝとなれは、おなしことなり
 
右一首姉坂上郎女作
 
(27)郎女のためには繼子にて別家にもあればよませたるなるべし、
 
笠女郎贈大伴宿禰家持歌廿四首
 
此女郎が歌多し、金村などの息女にてよみ口なるにや、
 
587 吾形見見管之努渡世荒珠年之緒長吾毛將思《ワカカタミミツヽシノハセアラタマノトシノヲナカクアレモオモハム》
 
シノバセはしのべなり、
 
初、みつゝしのばせは、みつゝしたへなり。此集に慕の字をしのふとよめるはしたふなり。偲もおなし。忍は堪忍にて、おさへしのふなり。隱を、しのふとよめるは、かくすなり
 
588 白鳥能飛羽山松之待乍曾吾戀度此月比乎《シロトリノトハヤママツノマチツヽソワカコヒワタルコノツキコロヲ》
 
白鳥能、【官本亦云、シラトリノ、】
 
白鳥、景行紀に日本式尊伊勢の能褒野《ノホノ》にて薨じ給ひけるを陵に葬ふり奉しかば、白鳥と化して倭國を指て飛て琴彈原に停まり給ふ、故に又彼處に陵を造る、又飛て河内の舊市邑に至り給ふ、故に又彼處にも陵を造る、故に時の人三陵を共に白鳥陵と云と見えたり、又仲哀紀にも彼陵の域《メクリ》の池に白鳥を養て其鳥を見つゝ父《カゾノ》王をしのび思召す御心を慰めむと、詔して國々に課て白鳥を奉らしめ給ふ事あり、彼處にシラトリと點ぜり、今の俗言に白鳥と云鳥にや、さて是はとば山をとぶはとなしてつ(28)ゞくるなり、第十二に、霍公鳥飛幡之浦爾と云ひかけたるに同じ、此飛羽山は大和なり、何れの郡に有と云事をしらず、下に伊勢海、水瀬河など唯よせて云へるには同じからず、又歌のやうなれば山城の鳥羽にあらずとしられたり、松を承て又待つゝぞといへり、此歌六帖に日ごろへだてたると云に入れたり、此月ごろをと云に少たがへるにや、
 
初、白鳥のとは山松。かくつゝくるに三つの心あるへし。一には白鳥の鳥とつゝけ、二には白鳥の羽とつゝけ、三つには白鳥のとふとつゝくるなり。第十二に、霍公鳥飛幡《ホトトキストハタ》之|浦《ウラ》とよめり。今も飛羽《トハ》山とかけるは.此集の文字、心を用へきと、用ましきとあり。これはふたつなから、とふといふ心につゝけるゆへに、飛の字をかけり。とは山は、山城なり。白鳥は惣して白き鳥なるへし。又仲哀紀云。   ほとゝきすとはたの浦とつゝくるも、かならす郭公に用あるにあらす。今白鳥といふも鳥といひて字のたらねは、白鳥といへり。ともにたゝとふといはむ料なるのみ
 
589 衣手乎打廻乃里爾有吾乎不知曾人者待跡不來家留《コロモテヲウチワノサトニアルワレヲシラテソヒトハマテトコスケル》
 
廻はまはす意なれば袖を振てまねく心に衣手をうちわの里とつゞけて待テドコズケルとはまねけども來ぬと云なり、打廻ノ里、八雲に大和と注せさせ給へり、第十一に神名火打廻前乃石淵《カミナヒヲウチマフサキノイハフチニ》云云、此歌も若は神名火の打廻《ウチワ》のさきの、或はうちわのくまのとよみて今の打廻の里同所などにや、然らば高市郡なるべし、こすけるは古歌の體なり、
 
初、衣手うちわのさとに。管見抄に、衣をうつといひかけたるなり。うちわの里山城といへりとかけり。今案衣手は袖なり。衣うつといふ心につゝけは、から衣なといひ出へくや、打廻のさとゝかけるは、舞なとにふりまはす心にてもつゝけたる歟。第十一に、神なひの打廻前乃《ウチ|・ワノクマ|マフサキノ》いはふちにかくれてのみやわかこひをらん。これをうちまふささとよめる心は.神なひのふちに、水のうすまく心とこゝろえて、うちまふさきとは點せるにや。こゝにうちわのさとゝよめるに.文字もおなしけれは、かれをもうちわのくまとよみて、此うちわの里も、大和の國神なひ川のあたりとみるへきにや。山しろといへるは、上の哥に、とは山松の持つゝそといへるを、待つゝといはむための序と、上を捨すして、鳥羽のあたりにすみて、さはよめるとおもへるゆへに、さてはうちわの里も山しろなりといへるなり。廿四首の内、下に、なら山の小松か下に立なけくかもとも、やをかゆく濱とも、みなせ川とも、いせの海とも、さま/\によめるものを。又やまとにある人を、山しろの鳥羽の邊にまたんはいと遠くや
 
590 荒玉年之經去者今師波登勤與吾背子吾名告爲莫《アラタマノトシノヘユケハイマシハトユメヨワカセコワカナツケスナ》
 
今師波登は、し〔右○〕は助語にて今はとなり、六帖に年へだてたると云に入たるは二の句(29)を逢ぬ間に年のへゆけばとなり、
 
初、今しはと、今はとてなり。しは助字なり。下の五十一葉に、今しはし名の惜けくも我はなしとよめる、家持の哥は、ふたつのしもし皆助辭なり。ゆめはつとめて心にかくるなり。愼の字努の字をも用たり
 
591 吾念乎人爾令知哉玉匣開阿氣津跡夢西所見《ワカオモヒヲヒトニシラスヤタマクシケヒラキアケツトユメニシミユル》
 
夢を占ふ事は和漢ともに多し、玉匣をあくと見るは、げにも戀の顯はるべき相にありぬべくおぼゆ、下に釼を身に副と夢に見つとよめる引合すべし、六帖に玉くしげの歌、又こと人を思ふと云にも入れたり、後の心おぼつかなし、
 
初、わかおもひを人にしらすや。しらすはしらしむるなれは、令知哉とかけり。箱をあくるとゆめにみれは、おもひを人にしらすると、いひならはしける古語ありけるなるへし。かゝる事和漢におほし。下にも、つるきたち身に取そふとゆめにみつなにのさとしそも君にあはむため
 
592 闇夜爾鳴奈流鶴之外耳聞乍可將有相跡羽奈之爾《クラキヨニナクナルタツノヨソニノミキヽツヽカアラムアフトハナシニ》
 
發句はヤミノヨニとも讀べし、くらき夜は鶴は見えずして、聲のみ聞ゆる故に簾中に有てほのかに聲のみ聞によそへたり、
 
593 君爾戀痛毛爲便無見楢山之小松下爾立嘆鴨《キミニコヒイトモスヘナミナラヤマノコマツカシタニタチナケクカモ》
 
鴨、【幽齋本、或作v鶴、點云ツル、】
 
あまりに戀のせむ方なさに、せめても思ひの外に相見る事もやと奈良山の小松が下に立隱れて見れどもかひなければ、なげくとなり、第三に大伴卿奈良宅にてよまれたる歌あり、下に家持又奈良宅にてよまれたる歌多ければ、父祖より傳へたる奈(30)良宅に逗留の程のことなるべし、
 
初、君にこひいともすへなみ。日本紀に、不知所如、不解所曲、不知所圖、〓身無所、不知所爲なとを皆せんすへしらすとよめり。此集には、窮の字をすへなしとよみて、せんかたなきをいへは、せめても、なら山の小松かもとにたちて、不意にあひみる事もやとまてとも、かひなけれは、いとゝなけきをそふるなり
 
594 吾屋戸之暮陰草乃白露之消蟹本名所念鴨《ワカヤトノユフカケクサノシラツユノケヌカニモトナオモホユルカモ》
 
暮陰草は草の名にあらず、此歌を六帖には下草の歌とす、又思ひやすと云へるに陰草とも下草ともよせてよめる歌を入れたり、今も陰草といはむとて、幸露も夕に置物なれば、夕陰草などいへり、物の陰なる草は痩てよろめけば我身の戀痩るによそへて命さへ露の如く消るばかりに物の思はるゝとなり、又此陰草を思草とも云、第十に至て注すべし、
 
初、わかやとのゆふかけ草の。ゆふかけ草は、草の名にあらす。夕の陰草なり。あし引の山の陰草、天の川水かけ草なとよめるたくひなり。けぬかには、きゆるかになり。身もきえうするはかり思ふなり
 
595 吾命之將全牟限忘目八彌日異者念益十方《ワカイノチノマタケムカキリワスレメヤイヤヒニケニハオモヒマストモ》
 
今按此第二句は今の點はよく叶はず、マサケムカギリと讀べし、まさけからむかぎりの意なり、全はま〔右○〕、幸はさき〔二字右○〕、將の字につらねてまさけむ〔四字右○〕なり、其證は景行紀の思邦《クニシノヒノ》御歌の中に、異能知能摩曾祁務比苫破《イノチノマソケムヒトハ》云云、是曾と佐と音通ずれば、まそけむはまさけんなり、
 
初、いや日にけには。けには、ことになり.又まさる心あり。異の字をこゝにかけり。此字をけといふかんなに用るは、此和訓によりてなり。此外殊の字勝の字を用たるにて意得へし
 
596 八百日往濱之沙毛吾戀二豈不益歟奧島守《ヤホカユクハマノマサコモワカコヒニアニマサラメヤオキツシマモリ》
 
(31)八百日徃濱とは數かぎりなき戀をいはむとなり、經に恒河沙と説かれたるが如し、豈不益歟は此中の不の字は衍文なるべし、但寧、豈等の詞の字文章の中にも意得がたく用たる處あればアニマサラジカとよめるにや、奧津島守は奧にます神なり、神代紀上云、於v是《コヽニ》日(ノ)神先|食《ヲシテ》2其十握(ノ)釼(ヲ)2化生兒《アレマスミコ》瀛《オキ》津嶋姫(ノ)命亦(ノ)名(ハ)市杵嶋姫(ノ)命、八百日行濱の眞砂も我戀の數にはまさらじと譬ふるにて、やがて其まさらぬ事は奧津嶋姫の知しめさんと、僞なき事を海邊に便ある神を懸て云なり、拾遺には多く詞を改て入られたり、六帖に落句を奧津白浪とあるはおぼつかなし、土左日記に、我髪の雪といそべの白浪と、何れまされり奧津島守と貫之のよまれしは此歌を思はれけるなるべし、
 
初、やをか行濱のまさこも。數かきりなき戀をいはんとてなり。經に恒河沙といへるかことし。豈不益歟《アニマサラメヤ》、此中に、不は衍文なり。不の字有ては、あにまさらさらんやにて、ことはり相違するなり。奧津島もりは、おきにます神なり。濱のまさこの數も、わか戀にはまさらしといふによりて、やかて、そのまさらぬ事は、神力を得ぬ人はしらし。おきつしまひめのしろしめさむと、いりはりなきことを、海邊にたよりある神にかくるなり。司空圖詩に、鳥紗申上是青天といへるかことし。神代紀上云。於是日(ノ)神共(ニ)2素戔嗚尊(ト)1相|對《ムカヒテ》而|立誓《タヽシテウケヒテ》曰《ノ》。和|汝《イマシカ》心|明淨《キヨウシテ》不v有《アラヌ》2凌奪(ハントイフ)之意1者《モノナラハ》、汝所生兒《イマシカナサンコ》必(ラス)當(ニ)男矣《マスラヲナラント》。言訖(テ)先(ツ)食《ヲシ》2所帶《ミハカセル》十握《トツカノ》劔(ヲ)生《ナス》v兒《ミコヲ》。號《ナツク》2瀛津《オキツ》島姫(ト)1。又|食《ヲシ》2九握(ノ)劔(ヲ)1生v兒(ヲ)。號(ク)2湍津《タキツ》姫(ト)1。又|食《ヲシ》2八握劔(ヲ)1生v兒。號(ク)2田|心《ゴリ》姫(ト)1。凡(ソ)三(ハシラ)女《ヒメ》神(マス)。又云。已(ニ)而天照大神則以2八坂|瓊《ニノ》曲玉(ヲ)1浮(ケ)2寄(テ)於|天《アマノ》眞名井(ニ)1?《クヒ》2斷(テ)瓊(ノ)端(ヲ)1而吹出(ル)氣噴《イブキノ》之|中化生《ミナカニナル》神(ヲ)號(ク)2市杵《イチキ》島姫(ノ)命(ト)1。是(ハ)居(マス)2于|遠瀛《オキツミヤニ》1者《カミナリ》也云々。疏云。市杵嶋姫命(ハ)神名帳曰。安藝國、佐伯《サヘキノ》郡、伊都岐《イツキ》島神社。市與2伊都1五音相通。今作2嚴島1。又云。於是《コヽニ》日(ノ)神先2食其十握(ノ)劔(ヲ)2化生兒《アレマスミコ》瀛津嶋姫(ノ)命、亦(ノ)名(ハ)市杵嶋姫(ノ)命。所をわかちていへは、瀛津島姫は嚴島、田|心《コリ》姫は※[匈/月]肩《ムナカタ・筑前》、湍津姫は宇佐《・筑前》なれと、三所にをの/\みはしらのひめ神をいはへり。又惣して、海に遠瀛《オキツミヤ》中瀛《ナカツミヤ》海濱《ヘツミヤ》ありて、此三神まもりたまふへし。例せは觀音補陀洛山にましませと、また所として觀音ましまさぬ所なくして、念に應して、即時に苦をぬき、樂をあたへ給ふかことし。遠瀛とかけるを、おきつ宮とよめるにて知へし。拾遺集には、八百日ゆく濱のまさことわか戀よいつれまされりおきつしまもり。土佐日記に、我髪の雪といそへのしらなみといつれまされりおきつしまもり
 
597 宇都蝉之人目乎繁見石走間近君爾戀度可聞《ウツセミノヒトメヲシケミイシハシノマチカキキミニコヒワタルカモ》
 
ウツセミノ人目とは世のひとめなり、石走は踏越やすからんがために繁く石を並べおけば間近くとはそへたり、
 
初、うつせみのひとめを。世のひとめなり。石はしとはうるはしく石を作りてかけたる、※[石+工]の字を用る石橋にはあらす。河の瀬に、石をならへて、その上よりわたりこゆるをいふ。そのゆへに、まちかきとはいへり。第二に、石橋におひなひかせる玉ももぞたゆれはおふるとよみ、第七に、はし立のくらはし川の石のはしはもともよめり。古今集に、人しれぬおもひやなそとあしかきのまちかけれともあふよしのなき
 
598 戀爾毛曾人者死爲水瀬河下從吾痩月日異《コヒニモソヒトハシニスルミナセカハシタニワレヤスツキニヒニケニ》
 
水瀬河は津の國なり、人知れぬ下の思ひに痩と云はん爲、河の底によせて水瀬河下(32)ニとはつゞくるなり、古今に友則歌にも、みなせ川下にかよひてとよめり、河は多かるにみなせ川をしも取出たる、やせ/\に成て肌膚に實のなきをみなせと云名にも懸たる歟、かく月日にそひて戀やすれば聞おきし如く戀にも人は死ぬる物にぞあらむなり、六帖に思ひやすと云歌とせり、落句を月に日ごとにとあるは今取らず、
 
初、こひにもそ人は死する。こひにも人はしぬる物にそ有らんなり。みなせ川は、津國なり。下にといはむためなり。下はそこなり。人しれすしのひにおもふことをいへり。古今集に、友則哥に、ことに出ていはぬはかりそみなせ川下にかよひてこひしきものを。文選古詩云。相去日已遠、衣帶日已緩
 
599 朝霧之欝相見之人故爾命可死戀渡鴨《アサキリノホノニアヒミシヒトユヘニイノチシヌヘクコヒワタルカモ》
 
初、朝きりのほのに。霧のたては、物のあきらかに見えねは、ほのかにみたる人をいはむとて、かりていふなり
 
600 伊勢海之礒毛動爾因流浪恐人爾戀渡鴨《イセノウミノイソモトヽロニヨスルナミカシコキヒトニコヒワタルカモ》
 
因流浪、【六帖云、ヨルナミノ、】
 
あら磯浪は恐ろしき物なればかしとこきと云べき序なり、六帖に似なき思と云に入れたる心は、恐人爾と云を我身に似よらぬ貴人を戀る心とせり、女郎と家持とは似なき程の中にはあらねど、女は殊に夫を敬ふべければさも云べし、又按ずるに下に相思はぬ人を思ふはともよめれば、心のあらびたるをかしこき人とも云へる歟、仁徳紀に磐之媛皇居帝に奉たまへる御返しに、衣こそ二重もよき、狹夜床を並べむ君はかしこきろかも、是は矢田皇女をめさんとのたまふをおそろしき君の御心やとよみたまへるなり、可v准v此歟、
 
初、いせのうみのいそもとゝろに。いそもゆるくはかりよせくる浪は、おそろしきものなり。かしこきは、おそろしきなれは、かくはつゝくるなり。かしこきとよめるは、人のうへ、かしこくとよめはわか上なり。人の物いひなとをさしてかしこしといへり
 
(33)601 從情毛吾者不念寸山河毛隔莫國如是戀常羽《コヽロニモワレハオモハスヤマカハモヘタヽラナクニカクコヒムトハ》
 
今按第二の句の點寸の字あまりて應ぜず、又寸の字は集中多分和訓のキ〔右○〕を用て音を取らず、和し替てワハモハザリキと讀べし、おもふを上略してもふとよむ事集中かぞふべからず、山河の河清てよむべし、山と河となればなり、
 
初、吾者不念寸。これを、われはおもはすとよみては、すの字あまれり。また寸の字、此集には、多《・和訓ナリ》分きのかなに用たり。下の第廿三首も、此二句おなし。わはおもはさりきとよむへき歟。山川も、此川はすみてよむへし。山と河となり
 
602 暮去者物念益見之人乃言問爲形面景爲而《ユフサレハモノオモヒマサルミシヒトノコトヽヒシサマオモカケニシテ》
 
物念益、【別校本云、モノオモヒマス、】  言問爲形、【六帖云、コトトヒシカホ、】  面景爲而、【幽齋本、景或作v影、】
 
益はマサルとよめるよし、言問爲形は、今按コトヽフスカタと讀べし、第十一に、はねす色の赤裳のすがたとよめるにも爲形とかけり、文選顔延年(カ)秋胡詩云、日|落游子顔《クレテオモカケアリ》
 
初、言問爲形《コトトヒシサマ・コトトフスカタ》。物いひしさまなり。ことゝふすかたともよむへし
 
603 念西死爲物爾有麻世波千遍曾吾者死變益《オモヒニシシニスルモノニアラマセハチタヒソワレハシニカヘラマシ》
 
發句のし〔右○〕は助語なり、第十一人丸集に出たる歌に大方似たるあり、
 
604 釼太刀身爾取副常夢見津何如之怪曾毛君爾相爲《ツルキタチミニトリソフトユメニミツナニノサトシソモキミニアハムタメ》
 
太刀は男の具なるを女の夢に身に取副と見は逢べきことわりの相なり、六帖に、打(34)靡き獨し宿《ヌ》ればます鑑、取と夢みつ妹に逢むかも、是又鏡は女の具なれば今と表裏して意相通ず、怪は日本紀にはシルマシとよめり、あやしき事を見せて吉凶を鬼神の示すなり、源氏の明石に、さとしのやうなる事どもを、きし方行末をおぼし合せて云云、
 
初、つるきだち身に取そと。此つるきは兩刃にはあらす。太刀をやかていふなり。さきに、玉くしけひらきあけつといへるは、くしけは男女に通すれとも、まつは女の具なれは、わかおもひを人にしらするや、くしけを明とゆめみつといへり。太刀はをとこの具なれは、それを身にそふとみるは、まことに、おと【ヲノカナヲ用タルヲ正トスヘシ。ヒコハ男ヒメハ女、可准之】こにあふへきさとしなるへし。神代紀に、天照大神の帶たまへる劔と、素戔嗚尊の持たまへる八坂|瓊之曲玉《ニノマカタマ》とを相|換《カヘ》て、天照大神、瓊のはしをくひたちて吹出させたまふ氣の中よりは、みはしらのひめ神なり出たまひ、素戔嗚尊、劔の末を囓斷て吹出させたまふ氣の中よりは、いつはしらのひこ神なり出たまへり。これ、玉は温柔にして、女の徳に通し、劔は精剛にして男の徳を具するゆへなり。今もこれに准すへし。六夢の中には、思夢とやせむ。正夢とやせむ。密教(ノ)經軌の中にも、【悉地の成否を夢の吉凶にて悉地梵語此云成就】知こと、處々に委説り。さとしはあやしみなり。源氏物語明石は、さとしのやうなる事ともを、きしかた行末をおほしあはせて云々。日本紀には、怪の字をしるしとよめり
 
605 天地之神理無者社吾念君爾不相死爲目《アメツチノカミモコトハリナクハコソワカオモフキミニアハスシニセメ》
 
不相、【六帖、アハヌ、《イ》幽齋本、同v之、】
 
天神地祇の證據するを神のことわる中などもよめり、舒明紀云、山背(ノ)大兄《オヒネノ》王(ノ)曰、我豈(ニ)餐《ムサホラン》2天下1、唯顯(ハス)2※[耳+令]《キヽシ》事(ヲ)1耳、則天神|地《クニツ》祇、共|證之《コトワリタマヘ》云云、源氏物語明石に、今何の報いにかこゝら横さまなる波風にはおぼれ給はむ、あめつちことわりたまへ云云、第十五中臣宅守が歌これに相似たるあり、
 
初、天地の神もことはりなくはこそ。天神地祇を證據とするを、神のことはる中なとよめり。日本紀第廿三、山|背大兄王《シロノオヒネノオホキミノ》曰。我(レ)豈(ニ)《・ヤ》餐(ムホホラム)天(ノ)下(ヲ)1。唯顯(ハス)2聆《キヽシ》事(ヲ)1耳。則天(ツ)神|地《クニツ》祇共(ニ)證之《コトハリタマヘ》云々。源氏物語明石に、いま何のむくひにか、こゝらよこさまなる波風にはおほれ給はむ。あめつちことはりたまへ
 
606 吾毛念人毛莫忘多奈和丹浦吹風之止時無有《ワレモオモフヒトモナワスルナオホナワニウラフクカセノヤムトキナカレ》
 
腰の句は仙覺の云、おほなわにとはおほかたにと云也、今按第八第十一に、あふさわにと云詞あり、大方にと云意と聞ゆれば、此オホナワニと同じ詞歟、其故は源氏にお(35)ほな/\と云詞あるを彼抄に伊勢物語のあふな/\と同じ詞と云へば、彼に准ずるに此もあ〔右○〕とお〔右○〕と通じ、ふ〔右○〕とほ〔右○〕と五音通じ、さ〔右○〕とな〔右○〕と同韻にて通ずればなり、下の句は浦吹風のいつとてやみはてぬ如く思ひやまざれとなり、後撰第十八には此歌腰をありそ海の、落句をやむ時もなくとてひとしきこのみこの歌とせり、六帖には相思ふと云に入れて君も思へ我も忘れじとて下は後撰と同じ、
 
初、おほなわに。管見抄にねんころなる心なり。おふな/\とよめる同し詞なりといへり。今案第十一に、やましろの《・旋頭歌也》くせのわかこかほしといふわれ、あふさわに、われをほしといふやましろのくせ。此哥のあふさわと、今のおほなわとひとつ詞にや。あふとおほと、かんなかはれとも、あとおと通し、ふとほと通し、さとなと同韵にて通す。そのうへ、源氏の抄に、彼物語におほな/\とあると、いせ物語に、あふな/\おもひはすへしといふを、おなし詞といへは、いよ/\方人をさへ得たり。おほなわは、太繩といふ心なるへし。たとへは俗語に、こゝよりかしこまて、その道のほといかはかりあらんといふ時、丈尺をもてもさためす、おほよそいくらあらんといふやうなるを、おほなはといへり。おほよそといふもちかし。浦風は、ことこゝろよりも、つねにふけは、そのことくおもひやむことなかれとなり
 
607 皆人乎宿與殿金者打奈禮杼君乎之念者寐不勝鴨《ミナヒトヲネヨトノカネハウツナレトキミヲシオモヘハイネカカテニカモ》
 
ネヨトノカネは亥の時の鐘なり、天武紀云、十三年冬十月己卯朔壬辰、逮(テ)2于|人定《ヰノトキニ》1大(ニ)地《ナヰ》震《フル》、これ同日本紀に日没を酉の時、昏時を戌の時などよめる如く亥の時に人の寢て定《シツ》まればかくは義訓せり、延喜式第十六陰陽寮式云、諸時撃v鼓(ヲ)、子午(ニハ)各九下、丑未(ニハ)八下、虎申(ニハ)七下、卯酉(ニハ)六下、辰戌(ニハ)五下、巳亥(ニハ)四下、並《トモニ》v鐘依(レ)2刻數1、イネカカテニカモはイネカテヌカモと改べし、書生の誤なり、かてぬのか〔右○〕、すみて讀べし、いねあへぬかななり、
 
初、皆人をねよとのかねは。ねよとめかねは亥の時なり。天武紀云。十三年冬十月己卯朔壬辰、逮(テ)2于|人定《ヰノトキ》1大|地《ナヰ》震《フル》。これ同(シキ)日本紀に、日歿を酉の時とよみ、昏時をいぬのときとよめるかことし。亥の時に人いねてしつまれは、意を得て人定をゐのときとはよめるなり。延喜式第十六、陰陽寮式云。諸時(ニ)撃(コト)v鼓(ヲ)、子午(ニハ)各(/\)九下、丑未(ニハ)八下、虎申(ニハ)七下、卯酉(ニハ)六下、辰戌(ニハ)五下、巳亥(ニハ)四下、並《トモニ》v鐘(ト)依(レ)2刻數1。いねかてぬかも、いねあへぬなり。かてぬめか、すみてよむへし
 
608 不相念人乎思者大寺之餓鬼之後爾額衝如《アヒオモハヌヒトヲオモフハオホテラノカキノシリヘニヌカツクカコト》
 
大寺之餓鬼ノ後とは、第十六にも寺々の女餓鬼申さくとよめり、昔は伽藍とある所(36)には、慳貪の惡報を示さむために餓鬼を作り置けるなるべし、ヌカヅクは禮拜する時は額をもて地を突を云なり、寺に詣ては佛菩薩等ををがまむこそ滅罪生善の益はあるべけれ、由なく餓鬼の許に行て尚其しりへをさへをがまむは何の益かあらむ、相思ふ人を思へば佛に向ひてをがむが如く、思はぬ人を思ふは餓鬼の後に額衝するが如く其かひなしと恨てよめるなり、
 
初、かきのしりへ。第十六にも、寺々のめかき申さくとよめり。昔は伽藍とある所には、慳貪の惡報をしめさむために、餓鬼をつくりおけるなるへし。ぬかつくは、ひたいをもて、地をつくなり。禮拜のことなり。されは寺にまうてゝは、佛を禮《ライ》拜して恭敬せんこそ、減罪生善の益はあるへけれ。よしなく、餓鬼のもとにいたりて、なをそのしりへにさへ拜せんは、何の益かあらん。思ふ人を思ふは、佛にむかひたてまつりて、禮拜するかことく、おもはぬ人をおもふは、餓鬼を拜するかことくそのかひなしとうらみて、よめるなり。此哥はこゝろを得て、詞を見るへからす。孟子曰。説v詩(ヲ)者(ノハ)不(レ)2以v文(ヲ)害(セ)1v辭(ヲ)。不(レ)2以v辭(ヲ)害(セ)1v志(ヲ)。以v意(ヲ)逆《ムカフル》v志(ヲ)、是(レ)爲(ス)v得(タリト)v(ヲ)之。如《モシ》以(セハ)2辭|而已《ノミヲ》1矣、雲漢(ノ)之詩(ニ)曰。周(ノ)餘(ニ)黎民|靡《ナシトイヘリ》v有(ルコト)2孑遺1。信(セハ)2斯(ノ)言(ヲ)1也周(ニ)無(ナリ)2遺民1也。哥をみるにも、これ肝要なり
 
609 從情毛我者不念寸又更吾故郷爾將還來者《コヽロニモワレハオモハスマタサラニワカフルサトニカヘリコムトハ》
 
二の句又ワハモハザリキと讀べし、下の注に依て按ずるに、上に寧樂山の小松が本に立嘆と有しは、家持寧樂の宅にすまるゝ程の事なるべし、これは香山の邊へ皈りすまるゝ時よめるにや、かく云故は上に大伴卿の歌に兩處に宅ありと見えたれば家持傳へて領せらるべければなり、
 
初、こゝろにも我者不念寸。此二句さきにいへるかことし。さきの哥に、なら山のこまつか下に立なけくとよめるをおもふに、そこにこひもしなすして、つれなく、打廻のさとの故郷まて、かへらんとはおもはさりきといふなるへし
 
610 近有者雖不見在乎彌遠君之伊座者有不勝自《チカクアレハミネトモアルヲイヤトホニキミカイマシナハアリテモタヘシ》
 
一二の句、相見ねども近ければそれを憑てもあらるゝなり、下の句は今按自は目にてキミガイマセバアリカテズモなるべきか、今の點のまゝにては自の字心得がた(37)し、是も下の注によるに家持の、ならの宅に居られし程を云意なり、或は他の歌にありえたへずもとよめる句あれば有の下に得の字の落たるか、
 
初、ちかくあれはみねともあるを。みねとあるをとは、あひみねとも.ちかしとおもふをたのみにて、さてもあるをなり。有不勝自これをありてもたへしとよめるは、いかにそや。不勝をたへしとよめは、自の字あまれり。今案此自は目の字なるへし。目の字は音訓《・以入聲借爲平聲與毛同》ともに用たり。今は音を取て、有かてましもとよむへきにや。かてはかぬるなり。第二卷大織冠の御哥に、有かてましもを、有勝麻自目《アリカテマシモ》とかきて、今の不勝とかけるにたかへるは、そこは勝の字、かつといふ和訓のみをかりて、つとてとを通して用たり。今は不勝を、かねとおなしきかて《・カツヲカテトス》とよみて、ましをよみつけて、めは助字なり
 
右二首相別後更來贈
 
此注の意、二首の歌を以て見るに、別て他所に有て又皈來て後更來贈なり、
 
大伴宿禰家持和歌二首
 
611 今更妹爾將相八跡念可聞幾許吾胸欝悒將有《イマサラニイモニアハメヤトオモヘカモコヽタワカムネイフカシカラム》
 
念可聞はおもへばかもなり、欝悒はイブセクとも讀べし、胸のふたがりておぼつかなきなり、
 
初、おもへかもはおもへはかもなり。いふかしは、欝悒の字のことし
 
612 中々者黙毛有益呼何爲跡香相見始兼不遂等《ナカ/\ニモタモアラマシヲナニストカアヒミソメケムトケサラナクニ》
 
者、【六條本、作v爾、】  等、【幽齋本、作v爾、】
 
者をニ〔右○〕とよめる事第二に云が如し、等は爾に作れるに從ふべし、等にては點叶はず、トゲザラナクニはとげざらぬになり、前々の如し、若元より等の字ならばトゲヌモ(38)ヒトシ、或はトゲヌモオナジと讀べし、中々にかゝらむと兼てしらましかばもだしてもやみなまし物を、何とて相見そめつらん、障る事ども有て本意とげぬなげきもあはざりし時にひとしき物をとなり、
 
初、不遂等。これをとけさらなくにとは、いかてよみけん。しかよむことはりたにあらは、上の第十五葉に、火にも水にも我ならなくにといふ哥を、尺せることくなるへし。とけさらなくの、なくは不の字をなくとよむなくにはあらて、音の助に心なきなくなり。大なるをおほけなく、あらきをあらけなくといふたくひなり。今案とけぬもおなしとか。とけぬもひとしとか讀へきにや。こゝろは、中々にかゝらむとかねてしらましかは、もたしてもやみなまし物を。何とてあひみそめけむ。さはる事ともありて、ほいとけぬなけきも、あはさりし時にびとしきものをといふ心なり。次下の哥、こぞは乞の字のことし
 
山口女王贈大伴宿禰家持歌五首
 
613 物念跡人爾不見常奈麻強常念弊利在曾金津流《モノオモフトヒトニミセシトナマシヒニツネニオモヘリアリソカネツル》
 
不見は今按ミエジともよむべし、奈麻強は※[(來+犬)/心]、【魚覲切、且也、】の字なり、和語の意は生強なり、生《ナマ》は物のまだ熟せぬ心なり、生とも熟とも云べからぬ程の事にはあらで、熟すべき物のまだ熟せぬに云へる詞なり、なま心、なま上達部など云類なり、強は其なましきを打置かで強てなす心なり、今の俗語に或はなまなかとも申めるはなま/\にして半なる意なり、假令水をも飲湯をも飲を、火の氣の入りもはてぬばかりす沸したるは水にもあらず湯にもあらずしてわろきやうなるが※[(來+犬)/心]なり、字書に且也と注せる意是に近し、されば思ひを人に得しも忍びあへぬ物故に色に見せじと思しはなまじひなる事なりとなり、在ゾカネツルは思ひに堪ても在かぬるなり、
 
614 不相念人乎也本名白細之袖漬左右二哭耳四泣裳《アヒオモハヌヒトヲヤモトナシロタヘノソテヒツマテニネノミシナクモ》
 
(39)今按泣裳はナカモと讀むべし、も〔右○〕はむ〔右○〕に通じてなかむなり、集中例多し、あるまゝの點にては上の人乎也と云詞と首尾叶はず、
 
615 吾背子者不相念跡裳敷細乃君之枕者夢爾見乞《ワカセコハアヒオモハストモシキタヘノキミカマクラハイメニミエコソ》
 
六帖には相思はぬと云に入れて夢爾見乞を、みえたへとあり、昔の點も能のみはあらざりき、
 
616 釼太刀名惜雲吾者無君爾不相而年之經去禮者《ツルキタチナノヲシケクモワレハナシキミニアハステトシノヘヌレハ》
 
孟冬、月令云、是月也物(コトニ)勒2工名1以考2其誠1、令義解第六營繕式云、凡營2造軍器1、皆須d依樣令1※[雋の上隹が二つ]c題年月及工匠姓名u、延喜式彈正云、凡市人集時、毎v肆巡行糾2彈非違1、【謂、横刀、鞍等、不v題2鑿造者名1之類、】太刀には鍛冶が名を※[金+雋]著て記す、故に名とつゞくるなり、第十一第十二にもかくつゞけたり、
 
初、つるきたち名のおしけくも我はなし。かたなには、其鍛冶の名をゑりつくるゆへに、名といはむとて、つるきたちといへり。禮記孟冬月令云。是月也。物(コトニ)〓《キサンテ》2工(ノ)名(ヲ)以考2共誡(ヲ)1。令義解第六、營膳式(ニ)云。凡(ソ)營2造(セハ)軍器(ヲ)1皆須2依v樣《タメシニ》令2〓題年月及(ヒ)工匠(ノ)姓名(ヲ)1。【謂(ク)樣者形制(ノ)法式也。雋(ハ)鑿也。題(ハ)者書也。】若有(ラハ)d不(ル)v可(ラ)雋題(ス)1者u不(レ)用2此令(ヲ)1。延喜式(ノ)弾正式云。凡(ソ)市人集時入(テ)v市(ニ)召2市司(ヲ)令d2市〓(ヲ)1靜定u、毎v肆巡行(シテ)糾2彈(セヨ)非違(ヲ)1【謂錦紗綾紵(ノ)若(ハ)濶不3盈2一尺九寸(ニ)1長不v盈2六丈1又賣v物者有v行(フコト)v濫及横|刀《タチ》鞍等不v題2鑿造者(ノ)姓名(ヲ)1之類、】第十一に、わきもこにこひしわたれはつるきたち名のおしけくもおもひかねつも。第十二に、劒太刀名のおしけくもわれはなしこのころのまのこひのしけきに。みそらゆく名のおしけくもわれはなしあはぬ日あまた年のへぬれは
 
617 從蘆邊滿來鹽乃彌益荷念歟君之忘金鶴《アシヘヨリミチクルシホノイヤマシニオモフカキミカワスレカネツル》
 
初の二句は彌益にと云べき序なり、十二十三にも此つゞきあり、念歟は今按例に依(40)てオモヘカと讀べし、おもへばかなり、君ガ忘カネツルは、ようせずば、君が我を忘れかねつると聞まがひぬべき歌なり、然らず、彌益に我が君を思へばにや、つらければ、せめて忘れんと思ふに忘れかねつるとなり、上に相思はぬ人とも、我せこは相思はずともとよめるを思ふべし、伊勢物語には上は同じくて、君に心を思ひますかなと換たり、六帖には山口女王とて、發句をあしまよりと云ひ、おもひはませどあはぬ君かなとて入たり、是心はかわりたれど、おもひはませどとは我が人を思ふなり、菅家萬葉には六帖のと少替りて思ひませどもあかぬ君かなとあり、當時の歌なれば不審の事なり、
 
初、あしへよりみちくるしほの。上はいやましといはむ序なり。第十二に、みなとわにみちくるしほのいやまししにこひはまされとわすられぬかも。第十三の長哥に、うみをなす長門の浦に朝なきにみちくる鹽の夕なきによりくる浪のその鹽のいやます/\にその浪
のいやしく/\に云々。伊勢物語に、上の句今とおなしくして、君に心をおもひますかなとあらためて用たり。菅冢萬葉集に、あしまよりみちくるしほのいやましにおもひませともあかぬ君かな
 
大神女郎贈大伴宿禰家持歌一首
 
618 狹夜中爾友喚千鳥物念跡和備居時二鳴乍本名《サヨナカニトモヨフチトリモノオモフトワヒヲルトキニナキツヽモトナ》
 
和備居時二、【幽齋本云、ワヒヲルトキ、】
 
居の點早く幽齋本に從ふべし、我は人にも、問はれず、獨わびてをるを、千鳥は友を呼べば物思ひを催ほして由なしとよめり、六帖には千鳥の歌として、わびつゝあるにと云ひ、鳴りゝあやなと云へり、
 
初、和備居。わひをるとよむへし。わひたるはあやまれり。わか人をこひてわひをる夜しも、千鳥の友よふ聲さへ、物おもひをもよほすなり
 
(41)大伴坂上郎女怨恨歌一首并短歌
 
此歌こゝに有に付て按ずるに此郎女藤原(ノ)麻呂の朝臣にわかれて後大伴宿奈麿の妻となりて女子ども生て後又離別せるにやと見ゆれば、其氣色のつける比よめるなるべし、第二十歌云云、歌後注云、右一首藤原宿奈麿朝臣之妻石川女郎薄愛離別悲恨作歌也、此類なるべし、
 
619 押照難波乃管之根毛許呂爾君之聞四乎年深長四云者眞十鏡磨師情乎縱手師其日之極浪之共靡珠藻乃云云意者不持大舩乃憑有時丹千磐破神哉將離空蝉乃人歟禁良武通爲君毛不來座玉梓之使母不所見成奴禮婆痛毛爲便無三夜于玉乃夜者須我良爾赤羅引日母至闇嘆知師乎無三雖念田付乎白二幼婦常言雲知久手小童之哭耳泣管俳(42)※[人偏+回]君之使乎待八兼手六《オシテルナニハノスケノネモコロニキミカキヽシヲトシフカクナカクシイヘハマソカヽミトキシコヽロヲユルシテシソノヒノキハミナミノムタナヒクタマモノトニカクニコヽロハモタスオホフネノタノメルトキニチハヤフルカミヤカレネムウツセミノヒトカイムラムカヨヒセシキミモキマサスタマツサノツカヒモミエスナリヌレハイトモスヘナミヌハタマノヨルハスカラニアカラヒクヒモクルヽマテナケヽトモシルシヲナシミオモヘトモタツキヲシラニタヲヤメトイハクモシルクタワラハノネノミナクツヽタチトマリキミカツカヒヲマチヤカネテム》
 
痛毛、【別校本亦云、イタモ、】  成奴禮婆、【官本、或婆作v波、】  手小童之、【別校本云、タワラハノ、】  哭耳法管、【校本云、ネノミナキツヽ、別校本同v此、】  俳※[人偏+回]、【校本云、ヤスラヒテ、】
 
キヽシヲは今按此點かなはず、キコシヲと讀べし、十一にいさとをきこせ、十三に母きこせどもと有に同じ、きかすの古語なり、年深クは、年久しくなり、長四云者は、心長く絶ず云と行末を掛て長く云との兩義あるべし、マソ鏡磨シ心とは、鏡を磨如く心をはげまして心清く思ひはなれて有しなり、此卷下にも此郎女又かくよめり、第十三に、つるぎたち磨し心とよめるは男女各其宜しき具に寄て云なり、ユルシテシとは張たる弓を弛《ハツ》す如く勵ます意をゆるべて人の言を許容するなり、云云はカニカクニとよむべし、此下に、かにかくに人は云ども若狹路のとよめる歌にも、亦第十一に、かにかくに物は思はずひだ人のとよめるにも、又かにかぐく物は思はず朝露のとよめるにも皆今の如くかけり、下の佐伯赤麻呂が歌には鹿※[者/火]藻闕二毛《カニモカクニモ》とかき、第五に令v反2惑情1歌には可爾迦久爾《カニカクニ》とかけり、意はとにかくになれども古語新語を分別すべし、浪之共以下四句の意は浪に靡く玉藻の彼方此方になびく如くなるあだ(43)し心を持ぬなり、神哉カレナンは、今按此點叶はず、カミヤサクラバとも讀べし、二人が中を神のさくるなり、人歟禁良武とは君が我に通ひ來る事をいみきらひやしぬらんなり、又今按サブランとも讀べし、通爲は、カヨヒシとも讀べし、痛毛は、イドモとよむは勿論にてイタモともあまたよめり、十三十五等に見えたり、赤羅引は、此詞第十第十一にもあり、羅《ラ》はあから小舟、あから柏など云如く助語にて唯赤きなり、赤羅引膚ともつゞけてあかみ匂ふ意なれば茜刺と云に同じ、委は別に注す、無三は今按ナミと讀が古体に叶ふべきにや、手小童之哭耳泣管はタワラハノネノミナキツヽと讀べし、緑子の如く泣なり、俳※[人偏+回]は第十一にも今の如くよみたれど古今の戀の長歌にも、庭に出て立やすらへばとよみて、やすらふには物思ふ意あれば校本の點に依るべし、亦イザヨヒテとも讀べし、タチモトホルともよめり、何れも同意なり、今按二字共に人に从がへたるは非なり、※[行人偏]に从がへて徘徊に作るべし、以下の二句第十一の十七葉に二首あり、
 
初、君かきゝしを、ねんころにおもふよしを、われにいひきかせしをなり。此點にては、さは聞えす。きこえしをとか、きかしゝをとか讀へし。まそかゝみときし心を。まそかゝみはますかゝみにて、ますみの略なり。日本紀にも此集にも、白銅鏡とかけり。ときし心は、くもりなきかゝみのことく、心きよく思ひはなれて有しなり。ゆるしてし。下に至りておなし郎女の哥に、まそかゝみときし心をゆるしては後にいふともしるしあらめや。又此集に、あつさ弓引てゆるさすあらませは、かゝる戀にはあはさらましを。所詮この心なり。浪のむた、浪とゝもなり。第二卷人まろの哥にもありき。なひく玉ものとにかくに心はもたす。浪にしたかふ玉もの、かなたこなたになひくやうなる心はもたぬなり。ちはやふる神やかれなん。神やかるらんとよむへし。いもせの中をまもる神やかれぬらんなり。かるゝは捨てはなるゝなり。人かいむらん。禁の字なれは、さふらんとよむへき歟。いむともよめり、わかかたへかよふ事を、いみきらひやしぬらんともこゝろうへし。あからひく日もくるゝまて、あからはたゝあかきなり。あかねさす日とつゝくるかことし。第十一には、あからひくはたもふれすてといへるも、紅顏なる人は、はたへもそのにほひあるゆへなり。たはやめといはくもしるくとは、たよはきゆへに、たをやめと名付たる心もしらるゝなり。たちとまり、ゆかんとする時も、えゆきやらてとゝまるなり。徘徊は。いさよふとも、やすらふとも、たちもとほるともよめは、いさよひてとも、やすらひてともよまは、たちとまりよりもまさるへきにや
 
反歌
 
620 從元長謂管不令恃者如是念二相益物歟《ハシメヨリナカクイヒツヽタノメスハカヽルオモヒニアハマシモノカ》
 
(44)初の二句は年深長四云者《トトシフカクナガクシイヘバ》と云を反して云なり、不念恃者、今按念は令を誤れり、改たむべし、人だのめ、人をたのむるなど云は人をしてたのましむるなり、
 
初、坂郎女恨哥反哥
不念恃《タノメスハ》。念の字は、令をあやまれるなり。たのめすはとは、たのましめすといふ心なるゆへなり。念の字にてはことはりなし
初、西海道節度使判官佐伯宿禰東人。聖武紀云、天平四年八月丁酉、西海道節度使判竹佐伯宿禰東人(ニ)授2外從五位下(ヲ)1
 
西海道節度使判官佐伯宿禰東人妻贈夫君歌一首
 
聖武紀云、天平四年八月丁酉、西海道節度使判官佐伯宿禰東人授2外從五位下(ヲ)1、
 
621 無間戀爾可有牟草枕客有公之夢爾之所見《ヒマモナクコフルニカアラムクサマクラタヒナルキミカユメニシミユル》
 
戀ルニカアランは懸る故にかあらんの心なり、夢ニシのし〔右○〕は助語なり、思ふに依て見るを六夢の中に思夢と云故なり、
 
佐伯宿禰東人和歌一首
 
622 草枕客爾久成宿者汝乎社念莫戀吾妹《クサマラタヒニヒサシクナリヌレハナレヲコソオモヘナコヒソワキモ》
 
汝乎、【紀州本云、ナヲ、】
 
池邊王宴誦歌一首
 
聖武紀云、神龜四年正月、無位池邊王授2從五位下1、天平九年十二月壬戌、爲2内匠頭1、大(45)友皇子孫、葛野《カトノノ》王(ノ)子、淡海眞人三船之父也、桓武紀三船傳に從五位上内匠頭とあり、六帖云、いけのへのおほきみ、
 
初、池邊王宴誦歌。聖武紀云。神龜四年正月無位池邊王(ニ)授2從五位下(ヲ)1。天平九年十二月壬戌爲2内匠頭(ト)1。大友(ノ)皇子(ノ)孫、葛野《カトノ》王(ノ)之子、淡海(ノ)眞人三船(ノ)之父也。三船(ノ)慱(ニ)云。從五位上内匠頭
 
623 松之葉爾月者由移去黄葉乃過哉君之不相夜多鳥《マツノハニツキハユツリヌモミチハノスキヌヤキミカアハヌヨオホク》
 
鳥、【校本、作v焉、】
 
由移去は由と宇は同韻にて通ずればうつりぬなり、集中多し、六帖には松の上に月はうつりぬとあり、歌の意は紅葉にも移りし月の紅葉は散て今松にのみ移るを見れば、もみぢの散すぎぬるやうに君にあはぬ夜も多く過ぬとなるべし、宴の歌なれば此君と指たまふは中よくて交はり給ふ人だちなるべし、鳥は烏歟、焉と通ずる事第三の譬喩歌の家持歌の注に和名を引が如し、
 
初、松の葉に月はゆつりぬ黄葉の過ぬや。ゆつるはうつるなり。同韵相通なり。もみち葉の過ぬやとは、此集にもみち葉のちりて過ぬと讀る哥おほし。もみちにうつりし月影の、松の葉にのみうつるをみれは、君にあはぬ夜もおほく、もみち葉の散過ることく過ぬとなり。此君とさしたまふは、中よくてよるひるましはりたまへる人たちなり。鳥は烏のあやまれるなるへし。和名集に《・和名烏帽下云。烏帽子俗訛鳥為焉。今按烏焉或通。見文選注玉篇等》唐韻を引で烏と焉と通するよしいへり。あるひはやかて焉の字を見あやまりて、烏につくれるか。烏にても焉にても、文法のことく、助語にそへたるなり
 
天皇思酒人女王 御製歌一首
 
酒人女王未v詳、光仁紀云、十一月己未朔甲子、授2酒人内親王三品(ヲ)1、性靈集第四(ニ)云、爲2酒人内公主1l遺言一首、篇中(ニ)云、吾(ハ)齡從v心氣力倶盡(ヌ)云云、若此内親王の昔の事にやと能考ふるに、又光仁紀云、寶龜三年十一月、以2酒人内親王1爲2伊勢|齋《イツキト》1、權《カリニ》居2春日齋宮1、かゝ(46)れば其比童女にておはすべし、又性靈集抄者云、按(スルニ)2古係圖1酒人内親王光仁帝女、母(ハ)皇后高野|新笠《ニヒカサ》、桓武帝能登内親王(ハ)並皆同|母《ハラノ》兄也、二品也云云、天長六年八月薨、然れば遺言の中の從心の詞、縱使滿數に約して七十有餘にして薨じ給ふとも孝謙天皇の末に生れさせ給へば、さだめて別人なり、六帖に思ひ出と云に天の帝とて此歌を載たり、此に付て異義あり、別に注す、
 
初、天皇思(シメス)2酒人《サカヒトノ》女王(ヲ)1。此天皇とさせるは、聖武天皇なり。當時御在位なるにしるせは、天皇とのみいヘり。後にしるせるには、先太上天皇とかけり。酒人女王は、光仁天皇の皇女、寳龜元年十一月己未朔甲子に三品に叙せられたまへる、これなるへし。そのゆへは、弘法大師の性靈集第四卷《・眞性僧正撰集》に、爲(ノ)2酒人(ノ)内公主(ノ)1遺言一首とて、載られたる中にいはく。吾(カ)齡從心(ニシテ)氣力倶(ニ)盡(ヌ)。かくのことくあれは、七十歳にして薨し給ふと見えたり。遺言にも年月見えす、今の御哥も、いつのほとよませたまへりともしらねと、皇女の御年をもて逆推するに、天平の中ころには、御心をかけらるゝほとの御年なるへし。女王といへるは、その比光仁天皇、また白壁(ノ)王にておはしましけるゆへなり。
酒人氏あり。もし御母かた其氏にて、酒人女王とは申けるにや
 
624 道相而咲之柄爾零雪乃消者消香二戀云吾妹《ミチニアヒテヱミセシカラニフルユキノケナハケヌカニコフテフワキモ》
 
吾妹、【六帖云、ワキモコ、幽齋本亦同、】
 
第二の句は、今按ヱマスガヽラニと讀べし、第十四云、爾波爾多知、惠麻須我可良爾云云、此に准ず、ゑますが〔四字右○〕と云ひてからに〔三字右○〕と云は、第六に、高丘河内が歌も三重山こゆるがゝらにとよめり、少意得がたし、今按云は去の字の變ぜるにてコヒユクにや、彌益に戀行心なり、又それならばコヒヌルとも讀べし、吾妹は安康紀にも二字にてワキモコと點じ、引所の六帖并幽齋本も然あれども、此集にはわきもとのみ讀、わきもこの時は兒、子等の字を加へたれば今の例に依べし、但六帖もこふてふとあれば大方に見て意得べきにこそ、
 
初、ふるゆきのけなはけぬかに。君によりては、わか身きゆるものならは、きえもせよとおもふ心なり。上の笠女郎か家持にをくれる哥にも、白露のけぬかにもとなゝとよめり
 
(47)高安王※[果/衣]鮒贈娘子歌一首
 
初、高安王裹v鮒贈2娘子1。元明紀云。和銅六年春正月授2無位門部王從四位下、無位高安王從五位下(ヲ)1。元正紀云。養老元年正月從五位上。三年七月令d2伊豫國守從五位上高安王(ヲシテ)管(セ)阿波讃岐土佐三國(ヲ)u。五年正月戊申朔壬子、正五位下。聖武紀云。神龜元年二月正五位上。四年正月從四位下。同九月衛門督。九年九月己亥從四位上。十一年夏四月甲子詔曰。省(ミテ)2從四位上高安王等(カ)去年十一月二十五日(ノ)表(ヲ)1具(ニ)知(ヌ)2意趣(ヲ)1。王等謙仲之情(ロ)深(ク)懷v辭(センコトヲ)v族(ヲ)、忠誠(ノ)之至(リ)、厚在2慇懃(ニ)1。顧2思所(ヲ)1v執志不v可v奪(フ)。今依(テ)v所(ニ)v請賜2大原(ノ)眞人之姓(ヲ)1。子々相承(テ)歴(テ)2萬代(ヲ)1而無v絶(ルコト)、孫々永(ク)繼(テ)冠2千秋(ニ)1以不v窮(マラ)。十二年+一月正四位下。天平十四年十二月庚寅、正四位下大原眞人高安卒。天平十一年四月に大原眞人の姓を賜たれは、こゝに高安王とあれは、それよりさきなり
 
625 奧幣徃邊去伊麻夜爲妹吾漁有藻臥束鮒《オキヘユキヘニユキイマヤイモカタメワカスナトレルモフシツカフナ》
 
河に奧よむ事第三に人丸の吉野の川の奧とよまれたる歌に注せしが如し、幣は是も音を借て用まじきにはあらねど傍例に依に幣を寫し誤れるなるべし、伊麻夜は此や〔右○〕は疑の詞にあらず、近江のや〔右○〕など云へる類なり、藻臥束鮒は藻に臥て一束許ある小鮒なり、日本紀には握の字をツカとよめるも一束の意なり、親切に思ふ故に勞を辞せずして志をあらはす意なり、
 
初、おきへゆきへにゆき。川にもおきとはよめり。第三卷人丸の哥にも、よしのゝ川のおきとよめり。おきはおくといふにおなし。ふかき心なり。今や、此やもしは疑の詞にあらす。今といふにそへる字なり。もふしつかふなは、藻にふす物なれは、もふしといふ。手一つかねはかりあれは、つかふなといへり。日本紀には、握の字をもつかとよめり。親切におもふゆへに、辛勞を辭せすして、まことをあらはすなり
 
八代女王獻 天皇歌一首
 
聖武紀云、天平九年二月、授2無位矢代(ノ)女王正五位下(ヲ)1、孝謙紀云、寶字二年十二月丙午、毀2矢代女王位記1、以v被(ルヽヲ)v幸2先帝1而改(タメシムトナリ)v志也、彼に矢代とあれば此をもやじろとよむべし、肥後國等に八代【夜豆志呂】あれば紀に依らずばやつしろとよみぬべし、依て注す、
 
初、八代《ヤシロノ》女王獻天皇歌。聖武紀云。天平九年二月授(ク)2無位矢代《ヤシロノ》女王(ニ)正五位下(ヲ)1。孝謙紀云。寳字二年十二月丙午、毀2矢代女王位記(ヲ)1。以v被(ルヽヲ)幸(セ)2先帝(ニ)1而改(タメシムトナリ)v志(ヲ)也。彼日本紀に矢代とあれは八代をもやしろとよむむへし。肥後國に八代《ヤツシロ》郡あるゆへに、八代女王といふゆへはしらねと、やつしろとよみぬへし
 
626 君爾因言之繁乎古郷之明日香乃河爾潔身爲爾去《キミニヨリコトノシケキヲフルサトノアスカノカハニミソキシニユク》
 
(48)孝謙紀を引て此歌を見るに、此女王寵を憑て誇らるゝ事ありて時の人のとかく云事の有けるか、又寵を妬む人の多くてかくはよまれたる歟、六帖に八代女王とて、みそぎする楢の小川の川風に、祈ぞわたる下に絶じとと云歌有て次に此歌あり、案ずるに六帖は作者を記するやう樣々にて、先達も迷へる事有と見ゆる歟、又傳寫の誤すくなからぬ故作者等前後せる事も多し、ならの小川の歌は古風ならざれば作者なき歌などにて歌の後の名の此方に越けるにや、
 
初、君によりことのしけきをふるさとの。ならの京になりて後明日香はふるさとなり。寳字二年に、位記を毀られけるをおもへは、此女王聖武の寵をたのみて聖武の御在位の時より、世のそしりおほかりけるにや。河邊に出てみそきつる事は、第三卷に注しぬ
 
一尾云|龍田超三津之濱邊爾潔身四二由久《タツタコエミツノハマヘニミソキシニユク》
 
娘子報僧佐伯宿禰赤麻呂歌一首
 
娘子は第三譬喩の歌に贈答ありし女なるべし、
 
627 吾手本將卷跡念牟丈夫者戀水定白髪生二有《ワカタモトマカムトオモハムマスラヲハナミタニシツミシラカオヒニタリ》
 
此上句は大夫は定めて吾手本を卷むと念はむずらんと云意にて、下句はされども我は君に逢見ぬ程の久しきに戀て臥沈み泣涙に色衰てをうなとなり白髪生たれば、今は君が來ますとも恥かしくて相見る事あたはじとなり、大夫者と云所句絶な(49)り、戀水は義訓なり、
 
初、わかたもとまかむ。たもとを卷は枕にするなり。心に我を妻として、わか袖を枕とせんとおもふらん人は、まことになみたにしつみて、われをこひけるにや。そのゆへに。白髪の生たるとなり。戀水は義をもてかけり。定は人のねたるを、人定といふ。沈靜とかき
てしめやかとよみ、又沈靜とつゝくる心、まことにしつかといふも、しつむとおなし心なり
 
佐伯宿禰赤麻呂和謌一首
 
628 白髪生流事者不念戀水者鹿煮藻闕二毛求而將行《シラカオフルコトハオモハスナミタヲハカニモカクニモサタメテユカム》
 
求而は今按モトメテとよむべし、白髪の生たらむは※[厭のがんだれなし]ひても念はず、涙に沈むとのたまへる涙をこそ如何にもして徃て承はるばかりなりや求て見んと云へるなるべし、
 
初、かにもかくにも。此集には、とにかくにといふことを、かにかくにといへり。求の字さたむともよむにや。此一字によりて此哥え心得す
 
大伴四綱宴席歌一首
 
629 奈何鹿使之來流君乎社左右裳得難爲禮《ナニシニカツカヒノキツルキミヲコソトニモカクニモマチカテニスレ》
 
左右裳、【官本亦點云、カニモカクニモ、】
 
奈何鹿の點は今按能叶へりともおぼえず、ナニシカと四文字によまば古體なるべし、腰の句も亦官本の點によるべし、是は宴席に約せる人の中に俄にさはる事ありて其由使して云ひおこせたるがあるを本意なく思てよめるなるべし、
 
初、君をこそ。これは宴席にかねて約したるをさせり
 
佐伯宿禰赤麻呂歌一首
 
(50)630 初花之可散物乎人事乃繋爾因而止息比者鴨《ハツハナノチルヘキモノヲヒトコトノシケキニヨリテトマルコロカモ》
 
人の盛を花によそへて初花のめづらかなる盛りも日を經ては散ぬべきを障る事あれば行てもえ見ぬ如く、人の盛りも程過れば衰てしほるゝ花の如くなればさらぬ間に行て相見ばやと思へど、人言の繁きにさへられて心ならず止り居る比かなとわぶるなり、
 
初、初花のちるへき物を。初花といへと、日をふれはちることく、人のさかりもほとなき物をとよせていヘり。とまるとは、人のものいひにとめられて、こゝろならす、とゝこほりたるほとをいへり
 
湯原王贈娘子歌二首
 
631 宇波弊無物可聞人者然許遠家路乎令還念者《ウハヘナキモノカモヒトハシカハカリトホキイヘチヲカヘストオモヘハ》
 
袖中抄に此歌を引て、此歌は湯原王贈2娘子1歌、【志貴皇子女也、】此注不審なり、若湯原王の事を注して志貴皇子子也と云へるを、子を女に寫あやまれる歟、ウハベナキはうはべだになきなり、古歌にはかやうに詞委からぬ事多し、うはべはうはべの情なり、源氏帚木に、唯うはべばかりのなさけにて云云、又云、うしろやすくのどけき所だにつよくば、うはべのなさけはおのづからもてつけつべきをや、此等にて意得べし、無表邊と書べし、すげなしと云ひ、俗ににべもなきと云詞これに通へり、言塵抄にうはべなき(51)とは情なきなりと注せられたるはいまだよく意を得られざる歟、注の詞の足らざる歟、人者と云所句なり、然許はさばかりなり、令還は今按カヘスヲとよまば能叶ふべし、又カヘラスオモヘバとも讀べし、此歌、娘子が返し、又下の此大君が歌ども取合せ按ずるに、公務などに依て外に出らるゝが娘子をも率てそれをば少隔てたる所に置て見渡す程ながら、官制限あれば得かよはで思ひ寢の夢に彼が許へ行て逢と見られけるが、あへなく覺たる事をよみ給ふなり、遠き家路をへて君が夢に入しを留めもおかずしてかへせるを思へばうはべの情もなき人なりと恨む意なり、夢のさむるをかへすとは云ひなせり、まことに恨むるにはあらで夢にだに思ふばかりはえあはぬを嘆たまへり、問、夢ともいはず、見る、覺るなど云縁の詞もなければ娘子もえ意得ず、集に載ともかひなかるべきに非ずや、答ていはく、娘子は文の詞にて知べし、集に在ては娘子が返しを見て知べし、
 
初、うはへなきものかも。下の四十五葉にある、家持の哥、大かたこれと同し。此哥娘子か返しをもてみるに、湯原王旅に出てよみてをくられけると見えたり。まくらかたさりといふは、此返しなり。しかれは遠き家路をへて君か夢にいりつるを情なくとゝめもおかてかへしつるがうさと恨む心なり。かへすといふはおもひねのゆめに娘子かもとにゆきてあふとみつるがさむるを娘子かかへすやうにいひなすなり。畢竟うはへなしといふも誠にうらむにはあらす。夢にたにおもふはかりはえあはね心なり。うはへなきは無2表邊1といふ心なり。源氏物語箒木に、たゝうはへはかりのなさけにて、はしりかき、おりふしのいらへこゝろえてうちしなとはかりは、すいふんによろしきもおほかりと見えたまふれと云々。又いはく。うしろやすくのとけき所たにつよくは、うはへのなさけはをのつからもてつけつへきわさをや。しかはかりは、さはかりなり。さすかをしかすかともいへは。しかとさとおなし詞なり。所詮これほと遠き家路を、つれなくかへすはふかき心よりも、まつさしあたりたる、うはへのなさけもなしといふ心なり
 
632 目二破見而手二破不所取月内之楓如妹乎奈何責《メニハミテテニハトラレヌツキノウチノカツラノコトキイモヲイカニセム》
 
兼名苑云、月中(ニ)有v河、々上(ニ)有v桂、高(サ)五百丈、文選陸士衡(カ)詩云、安寢(ヌ)2北堂上1、明月入2我※[片+(戸/甫)]1、照v之有2餘(ノ)暉1、攬《トルニ》v之(ヲ)不v盈v手、娘子が方を目には見ながら行てもえあはぬを、月はみる/\桂(52)の手に取られぬに喩てよみ給へり、楓は和名云、兼名苑云、楓、一名※[木+聶]、【風、攝二音、和名、乎加豆良、】爾雅云、有(テ)v脂而香(シキ)謂2之(ヲ)楓(ト)1、此歌伊勢物語には尾の句を君にも有かなと改ため、六帖には妹にも有かなとて桂の歌とせり、
 
初、めには見て手にはとられぬ。兼名宛云。月中(ニ)有v河。々上(ニ)有v桂、高(サ)五百丈。文選陸士衡(カ)詩(ニ)安(ニ)寝(ヌ)北堂(ノ)上、明月入(ル)2我(カ)〓(ニ)1。照(スコト)之有2餘(ノ)暉1。攬《トルニ》v之(ヲ)不v盈(タ)v手。かつらにをかつらめかつらあり。楓と桂とついてのことし。かつらは、藥の肉桂桂心なとになる木なり。木犀をも一名桂といへり。下に亦贈哥に、まちかき里を雲居にや戀つゝをらんといふ哥につきて心得るに、公務につきて外に出てさまて遠からねと法令かきりあれは歸りてあふこともなきほとなれは、めにはみて手にはとられぬとはよませたまふなり。此哥、伊勢物語には、結句を、君にもあるかなとあらためて用たり。よそにのみみてやゝみなむかつらきのたかまの山の峯のしらくも。おなし心なる哥なり。
 
娘子報贈歌二首
 
633 幾許思異目鴨敷細之枕片去夢所見來之《イクソハクオモヒケメカモシキタヘノマクラカタサリユメニミエコシ》
 
幾許、【六帖、イカハカリ、】  思異目鴨、【六帖、オモフイモカモ、】
 
今按幾許の和は六帖をも用べし、二の句の和は娘子が返歌なるを、おもういもかもと云へる相違せり、三の句以下或人の云く、此歌いぶかしき所あるなり、枕片さらずと有べき所なり、片の字は心なき助字なり、聞を片聞と云ひ、儲るを片設てとよめるも片の字皆以助語なり、然ればよる/\枕さらずして思ふ人の夢に見ゆると云はむ歌なり、如何樣にも不片去とあらむ不の字落たりと見ゆる歌なり、以上、今云是よく心づけり、第五の歌云、直にあはずあらくも多く布妙の、枕去らずていめにし見えむ、此歌を以て證とすべし、又今按此本のまゝにて意得ば枕カタサルと和し換て十府《トフ》の菅薦《スガゴモ》みふに寢てとよめる如く枕の片つ方をば君が爲に分ちおける夜の夢に(53)見ゆると意得べきか、第十八の歌に、如婆玉乃夜床加多古里《ヌバタマノヨドコカタコリ》とよめるも妻の獨床の片つ方に物の凝たるやうにて打靡てもふさぬ意なれば此に准らふべき歟、
 
初、いくそはくおもひけめかも。いかはかりわれをおもひけれはかといふ心なり。しきたへの枕かたさり夢に見えこし。管見抄云。此哥いふかしき所有なり。枕かたさらすと有へき所なり。片の字は、心なき助字なり。聞を片きくといひ、まふくるを片まけてとよめるも、片の字皆以助詞なり。しかれは、よる/\枕さらすして、思ふ人の夢にみゆるといはむ哥なり。いかさまにも、不片去とあらん、不の字落たりとみゆる哥なり以上。今いはく。これよく心つけるものなり。第五卷の哥に、たゝにあはすあらくもおほくしきたへのまくらさらすていめにし見えむ。此哥を證とすへし
 
634 家二四手雖見不飽乎草枕客毛妻與有之乏左《イヘニシテミレトアカヌヲクサマクラタヒニモツマトアルカトモシサ》
 
乏左は逢ことの少なくて心にたらはぬなり、顯宗紀云、詔2老嫗《ヲムナ》置目1居2于宮|傍《ソハ》近處1、優《アガ》崇賜※[血+おおざと]《アガメクミタマフテ》使v無2乏少《タラハヌコト》1、
 
初、家にして見れとあかぬを。これは第二の哥《・めにはみてなり》の心を得て、おほやうにかへせり。もろともに家に有て、常にみるたにあきたらぬを、つまとする人の、たひにしもあるが、ともしくてわひしきなり。ともしきはたらはぬなり。顯宗紀云。詔2老嫗置目《オムナオキメニ》1居《ハムヘラシム》2于宮(ノ)傍《ソハ》近處(ニ)1。優崇賜〓《アカメメクミタマフテ》使v無(ラ)2乏少《タラハヌコト》1。やすき哥なれと、古哥なれは、詞つゝきのきこえかたきなり
 
湯原王亦贈歌二首
 
635 草枕客者嬬者雖率有匣内之珠社所念《クサマクラタヒニハイモハヰタレトモハコノウチナルタマトコソオモヘ》
 
此三四兩句の點の意は雖率をヰタレドモとよみ、有匣内之をハコノウチナルとよめる歟、今按之の字文章には多く助語に句の中句の下におけど、此集には從における例なし、又有の字下に付物ならば在の字にてこそあるべければ唯各三字に分て、ヰタレドモ、クシゲノウチノ、或はクシゲノナカノとよむべし、歌の意は、旅には妹をひきゐたれど官禁に拘はり人言にさへられなどして相見る事もなければ、匣に收めてもてる玉の光色をも見ず、手に卷て弄びもせずして徒に打有るやうにこそ思(54)へとなり、文選石季倫(カ)王明君辭(ニ)云、昔(ハ)爲2匣中(ノ)玉1。今(ハ)爲《・ナル》(リ)2糞上(ノ)英《・ハナヒラ》1、此上句の詞を取用て讀給へるか、論語云、有(ン)3美2玉於斯1、※[韋+鰮の旁](シテ)v※[櫃の旁]而藏、諸求(テ)2善賈(ヲ)1而沽(ムカ)云云、此集第七に、白玉を手にはまかずに匣《ハコ》にのみ、おけりし人ぞ玉おぼれする、
 
初、草まくらたひにもいもはゐたれとも 此雖率の二字、ゐたれともと點したるは、大にあやまれり。そのゆへは、右の贈答、湯原王は旅に出、娘子は家に残てよみかはせり。ゐはひきゐるにて、すてに引具したれともといふ事なれは、ことはりたかへり。これをはさそはめとゝよむへし。箱の内なる玉とこそおもへとは、文選石季倫(カ)王明君(ノ)辭(ニ)曰。昔(ハ)為《タリ》2匣中(ノ)玉1。今(ハ)爲《タリ・ナル》2糞鎚(ノ)英《・ハナヒラト》1。この上の句をもて、よみたまへりと見えたり。惣しての心は、我のみ旅にあれは、すへなくこひしけれは、妹をもいさとさそはまほしけれと、打かへしおもへは、深窓の中に愛せられて、匣の内の玉のことくなれは、さそひ出ることあたはしと、おもひわふるなり。もしまた雖率有の三字をゐたれともとよみ、匣内之の三字をは、くしけのうちのとよみて、草枕に、妹を夢にみるを、おしてゐたれともといひて、くしけの内の玉とは、はこの内なる玉の、とり出ねは用なきかことく、家にある妹なれは夢にみてもかひなしとよせたるか。有匣内之の四字を、はこの内なるとよまは、有は在の字にて、之は助字歟。但かんなの法は、かならす文章《・有ノ字ノコト》のやうにはなきか。文字のまゝによまは、ゐたれとも、くしけのうちのといふが、順にして過不及なし。論語曰。子貢曰。有(ラン)2美玉於|斯《コヽニ》1。〓《オサメテ》《・以下ナシ》v〓(ニ)而藏(サンカ)諸。求(テ)2善賈(ヒヲ)1而|沾《ウランカ》諸。子曰。沾(ラメヤ)之哉沾之哉。我(ハ)待(ツ)v賈(ヲ)者(ノナリ)也。第七に、白玉を手にはまかすにはこにのみおけりし人そ玉おほれする
 
636 余衣形見爾奉布細之枕不離卷而左宿座《ワカキヌヲカタミニマタスシキタヘノマクラカラサスマキテサネマセ》
 
枕不離は今按娘子が余身者|不雛《サケジ》とかへせるに依れば今もマクラヲサケズと和すべきなり、
 
初、わかきぬをかたみにまたす。またすはたてまつるなり。遣の字をもまたすとよめり。それはつかはすなり。おなし心にて、うやまふと同等なるとのかはりある歟。第十五に、白たへのあが下ころもうしなはすもてれわかせこたゝにあふまてに。第七に、とほるへき雨はなふりそわきもこかかたみのころもわれ下にきたり
 
娘子復報贈歌一首
 
637 吾背子之形見之衣嬬問爾余身者不離事不問友《ワカセコカカタミノコロモツマトヒニワカミハサケシコトトハストモ》
 
嬬は衣の縁につゞけて嬬問に給はれる物なれば身をばさけじ、衣は物云ひてなぐさむる物にはあらねどもとなり、又嬬問は、切に戀しき折は君が著たる衣のなつかしければ、物云はぬ物にはあれど君が事を問て慰めにせむとにや、
 
湯原王亦贈歌一首
 
(55)638 直一夜隔之可良爾荒玉乃月歟經去跡心遮《タヽヒトヨヘタテシカラニアラタマノツキカヘヌルトオモホユルカモ》
 
隔之可良爾は神代紀下に一夜之間をヒトヨノカラとよみたれば隔し間にの意なり、荒玉は集中に年とも月日とも夜ともつゞけたり、別に注す、心遮は今按點のやう心得がたし、第十二に虚蝉之常の言と思へども、繼てし聞ば心遮《コヽロハナギヌ》焉、此落句、焉は助語にて心遮を、コヽロハナギヌと和したれば、今は心不遮とありてコヽロハナガズと讀たりけむを不の字の脱たるなるべし、なぐは慰さむなり、遮をナグと點ぜるは思を遮遣ぬれば心の慰さむ故なるべし、
 
初、へたてしからに 此からは間の字なり。神代紀下云。雖《イヘトモ》2復(タ)天(ノ)神(ノ)之|子《ミコト》1豈《アニ》能《ヨク》一夜《ヒトヨノ》之間《カラニ》使《シテ》v人(ヲ)有身者《ハラマセンヤ》哉。心遮、此二字を、おもほゆるかもとよめるは、心得かたし。今案これも二字の間に不の字あらむ。おちたるなるへし。不の字ありては心はながすとよむへし。そのゆへは、第十二に、うつせみのつねのことはとおもへともつきてしきけは心はなきぬ。此心はなきぬに心遮焉とかきたれは、今は不の字をくはへて、心はながずとよむへきなり。おもひを遮遺すれは、心なくさむゆへに、遮の字をなくとよむなるへし。なぐはなくさむなり
 
娘子復報贈歌一首
 
639 吾背子我如是戀禮許曾夜干玉能夢所見管寢不所宿家禮《ワカセコカカクコフレコソヌハタマノユメニミエツヽイネラレスケレ》
 
カクコフレコソはかくこふればこそなり、右の歌の下句を指せり、落句は古歌の体なり、
 
初、かくこふれこそ。こふれはこそなり。いねられすけれは、ねられす有けれなり。古語は今の耳にきけは、かたことのやうなる、いとおほし
 
湯原王亦贈歌一首
 
(56)640 波之家也思不遠里乎雲居爾也戀管將居月毛不經國《ハシケヤシマチカキサトヲクモヰニヤコヒツヽヲラムツキモヘナクニ》
 
波之家也思ははしきやしに同じ、所によりて心替る事以前云が如し、今は娘子をはしけやしと云て、はしけやしが住まちかき里と云なるべし、第十四に男女互にかなしきがとよめるは、悲しく思ふ人をやがて悲しきがと云へば今も此に准じて意得べし、第六にも此大君の月の歌に又此二句あり、マチカキは義訓なり、
 
初、はしけやしまちかき里を。はしけやし、はしきよし、はしこやし、みな詞の音の轉せるなり。はしきよしなり。はしきは、愛の字をよめり。こゝにては、なでゝつむといふやうに、ほめて、かへりてそしるやうにいへるか。まちかきほとの里を、雲井はるけき海山を隔たらんやうに、月をもまだへぬに、こひつゝをらんは、愛すへくめつらしき事とや
 
娘子復報贈和歌一首
 
641 絶常云者和備染責跡燒太刀乃隔付經事者幸也吾君《タユトイヘハサヒシミセムトヤキタチノヘツカフコトハヨシヤワカキミ》
 
云者は今按イハヾとよむべし、和備染責跡とは侘んとの意なり、燒太刀とは鉄を燒て作れば云なり、ヘツカフは隔付なり、鞘に入れて刺物なればへだゝるによそふるなり、猶下の二鞘の家を隔てゝとよめる所に注すべし、第七に湊より邊つかふ時にとよめるは今と異なり、そこに至て注すべし、歌の意は、誠に隔てゝ在ことはうけれども、世には絶る習もあれば、ひたぶるに絶といはゞいかばかりかわびしからむと思ひくらべて、隔てゝある事をばよしやと思ひ捨よ君となり、幸也は今按サキヤと(57)よむべきか、隔てゝ在を絶る中にくらぶれば猶さいはひなりと強て互の心を寛むるなり、
 
初、たゆといへはわひしみせむと。管見抄云。やきたちとは、太刀に刃をつけたる心なり。へは邊なり。つかふは付といふ心なり。太刀はものゝふの身をはなたぬ物なれは、いつも其人の邊に付經《ツキフ》るの心なり。舟をよめる詞にも、へつかふといへり。これはいそへに舟のつきてあるの心なり。此やきたちの哥も、其定に心得へし。今案刃をやいはといふは、やきてつくれはさはいへと、刃まてもなく、かたなは、鉄をやきてうつものなれは、やきたちとはいへり。へつかふは、右の湯原王にこたへてよめる心、まちかきを隔てあるをよめりときこゆれは、太刀は、ものゝふの身をはなたぬ物なれは、いつもその人の邊に付經るの心なりといへる、かなへりともきこえす。舟をよめる詞にも、へつかふといへるは、第七にことさけはおきにさけなんみなとよりへつかふ時にさくへきものか。これをいへり。邊著經とかきたれは海へたにつく時といふことにてことはゝおなしことなから今とはかはれり。やきたちは、たゝたちといふに、ことはのたらねは、やきたちといへり。燒に用なし。とぶといふにつゝけはたゝ鳥にて有へきをほとゝきすとはたのうらといふかことし。太刀のへたつるとつゝく心は、此卷の末にも、人事をしけみや君をふたさやのいへをへたてゝこひつゝをらむ。これも家をへたてゝといはむために、ふたさやのいへは、かたなは、さやにこめてさす物なれは、隔つる事につゝけたり。へたつるをへつかふといへる事、外にいまた見すといへとも、さにつらふといふを、さにつかふともいへり。古語は其時の人にあらすは、くはしくはいかて聞得む。まつ大意をこゝろうへし。へたつる心を、へとのみいへること、此集末にいたりてあまたあり。今をのか心にて釋せは、云者の二字いへはとはよまて、いはゝとよみて、惣しての心は、右の哥をうけて、まことにまちかき里をもへたつる事はうけれとも、大かたの世をも見たまへ。家なからたゆる中もなきにあらす。たゆといはゝまちかくともわひしかりぬへし。われたにあひおもはゝ、しはしのほとへたゝりをることは、よしやとおもひすてゝ、わすれたまへ。わか君としゐてなくさむるなり。文選古詩、棄捐(テ)勿(レ)2復道(コト)1、努(メ)力(テ)加(ヨ)2餐飯(ヲ)1
 
湯原王歌一首
 
642 吾妹兒爾戀而亂在久流部寸二懸而縁與余戀始《ワキモコニコヒテミタルヽクルヘキニカケテシヨシトワカコヒソメシ》
 
亂在は、今按ミダレリと讀て句とすべし、クルベキは和名云、辨色立成云、反轉、【久流閉枳、】漢語抄説同、又毛詩云、乃生(テハ)2女子(ヲ)1、載(ハチ)寢2之地1、載(ハチ)衣2之|※[衣+易]《ムツキ》1、載弄(ハシム)2之|瓦《ツムヲ・クルメキヲ》1、仙覺抄云、絲を懸て繰《クル》物なり、※[竹/〓]《ワク》と云物に似て大きなるなり、然れば今の俗、まひのはと云物にて、※[木+峠の旁]《カセヒ》にかけたる絲をそれにかけてそれを繰て※[竹/〓]へは移すなり、くるめくを体に云ひなす名なり、和名云、安藝國高宮郡訓覓、【久留倍木、】此郷も故ありて反轉を名に負歟、懸而縁與は今按カケテヨラントと讀べし、絲といはざれど絲に寄て讀たまへり、楚辭惜誦篇(ニ)云、固煩言、不v可2結(テ)而|※[言+台]《オクル》1兮、貫之の離別の歌にも、忘じと言に結て別るれば、相見るまでは思ひ亂るな、此類なり、歌の心は絲は亂るゝ物なれど反轉に懸てくればやすらかによる如く、人にだに相見ば戀亂るゝ事もあらじとこそ戀そめつるを、※[糸+圭]絲などの※[(米/糸)+頁]《フシ》にさはりて、快もくられぬやうに、人目人言などにさはれば吾妹子に戀亂たりとなり、右の娘(58)子によりて讀たまへばこそ此に連ねては載たるべければ、意かやうなるべきにや、
 
初、わきもこにこひてみたるゝくるへきにかけてよらんとわかこひそめし。
長流かいはく。此哥は糸によせて、戀の心をよめるなり。くるへきは、糸をかくる器なり。糸のみたれたるをかけて、より合するによそへて、我戀の今はみたるゝとも、末には思ふ人によらんとこそ戀そめたれとよめるなり。糸といひ出さねとも、かくもよむことなり。貫之か離別の哥に、わすれしとことにむすひてわかるれはあひみるまてはおもひみたるな。此哥も、糸をもてたとへによみたれとも、糸といふ字はよます。くるへきは、くるめきとよむへし。辨色立成云。反轉【和名久流閉枳。】楊氏漢語抄にも同しく此字を用たり。今いはく。此ひけることは、和名集に出たり。蠶絲(ノ)具(ノ)部にあり。同し和名集云。安藝國高宮郡訓覓【久留倍木。】これは郷の名なり。いかにしてくるへきと名付たるらんしらねと、見をよふにまゝに引なり。毛詩云。乃生(テハ)2女子(ヲ)1、載(ハチ)寢(シメ)2之地1、載(ハチ)衣(セ)2之|〓《ムツキヲ》1、載(ハチ)弄(ハシム)2之|瓦《ツムヲ・クルメキ》1。枕草子に、いね《ムキ長流・ほとゝきすなく比なれは麥のわらをいねといへるなるへし》といふものおほくとり出てわかき女とものきたなけならぬ、そのわたりの家のむすめをむなゝとひきゐてきて、五六人してこかせ、見もしらぬくるへきものふしふたりしてひかせて、哥うたはせなとするを、めつらしくてわらふになといへり。此くるへきものといへるは、今すりうすといふものゝことにや。眩の字をめのくるめくといふに用たり。物のまはるを、くる/\と俗にいふ。くるめくといふ用の詞も、くるめきといふ體の詞も、此ことはよりおこりて、まはる心としるへし。かけてしよしとある點はわろし
 
紀女郎怨恨歌三首
 
官本注云、鹿人大夫之女、名曰2小鹿1也、安貴王之妻也、歌のやうを思ふに離別すべきになりてよめりとみゆ、上の坂上郎女怨恨歌の題注に云が如し、
 
643 世間之女爾思有者吾渡痛背乃河乎渡金目八《ヨノナカノヲトメシアラハワカワタルアナセノカハヲワタリカネメヤ》
 
世間之女とはよのつねの女なり、第五にも、世間の常に有けるをとめらがとよめり、痛背乃河は穴師の川なリ、三輪山と穴師山との間より西へ出て北に折たり、し〔右○〕とせ〔右○〕と通ずれば集中に兩樣によめり、痛をアナとよめるは、あなは痛切なる詞なる故なり、歌の意は、尋常の女の如く雖別をさしも重くも思はずば、夫に送られて親の許へ歸るに痛背河を渡かねめや、我渡りかぬる事は人こそ心替てつらけれ、年月なれこし恩愛の忘がたければなりとよめる意なり、又夫を背といへば、つらき心を痛背の名に寄せ、離れ行事を渡るに寄せたるか、
 
初、よのなかのをとめ。よのつねの女なり。わかわたるあなせの川、あなせを、あなしともいひて、痛足ともかきたれは、足のなへくによせて、川瀬の石なとふみて、足のいたむゆへに、えわたらぬといふ心につゝけたる歟。よのつねの女にて、あなしの川をやすくわたるへくは、君にをくれすわたりて、たくひてもゆかんの心なり。此怨恨といふは離別のうらみなり。つらきを恨む哥ともとは見えす。夫君はたれにもあれ。任所なとにおもむく時の哥なるへし
 
644 今者吾羽和備曾四二結類氣乃緒爾念師君乎縱左久思者《イマハワレハワヒソシニケルイキノヲニオモヒシキミヲユルサクオモヘハ》
 
(59)今者吾羽、【別校本、無2者字1、點云、イマワレハ、】  縱左、【別校本、左作v與、或本、左作v久、】
 
氣乃緒《イキノヲ》は命なり、命ある程は息の絶ねば息をつなぐ緒の意なり、又息即緒にて、氣は壽命をつなぐ緒とも云べし、玉の緒と云同じ心なり、氣ノ緒ニ念とは命に懸て思なり、縱左は今按左の下に久の字の落たるにや、ゆるすとは、夫の離別せむと云をせじとてさま/”\に心を取れど、云ひのみつよれば、今は如何はせむと任するを云なり、第十二に、白妙の袖の別は惜けれど、思亂てゆるしつるかも、是は旅に行むと云をゆるせど大方は似たり、
 
初、いきの緒。玉のをといふにおなし。命なり。ゆるさくとはわかれてゆかんとする人を、えとめすして、行ことをゆるさんとおもへはなり。思のうへに久の字おちたるへし
 
645 白妙乃袖可別日乎近見心爾咽飯哭耳四所泣《シロタヘノソテワカルヘキヒヲチカミコヽロニムセヒネノミシナカル》
 
咽飲、【六帖云、ムセテ、】  所流、【官本、或流作v泣、】
 
流は泣に作れるに從がふべし、あはれなる歌なり、女はかく有べき事なり、
 
大伴宿禰駿河麻呂歌一首
 
646 丈夫之思都備乍遍多數嘆久嘆乎不負物可聞《マスラヲノオモヒワヒツヽアマタヽヒナケクナケキヲオハヌモノカモ》
 
遍多は多遍の倒せるにやと思ふを、下の家持の坂上大孃に贈らるゝ歌十五首の終(60)の歌にも.かくかけり、嘆を負とは源氏物語に恨を負と云に同じ、伊勢物語に、むくつけきこと人ののろひごとは、負物にやあらむ、おはす物にやあらむ、今こそは見めとぞ云なるとかける此に似たり、
 
初、ますらをのおもひわひつゝ 遍《・下に至ても遍多とかけり》多は多遍なるへきにや。なけきをおはぬものかもとは、伊勢物語に、むくつけきこと、人のゝろひことは、おふものにやあらん。おはぬものにやあらん。いまこそはみめとそいふなる。源氏物語にもうらみをおふといへり
 
大伴坂上郎女歌一首
 
647 心者忘日無久雖念人之事社繁君爾阿禮《コヽロニハワスルヽヒナクオモヘトモヒトノコトコソシケキキミニアレ》
 
人言のしげき君なる故にさはりてえあはぬとなり、落句はシゲキキミナレとも讀べし、
 
大伴宿禰駿河麻呂歌一首
 
648 不相見而氣長久成奴比日者奈何好去哉言借吾妹《アヒミステケナカクナリヌコノコロハイカニヨシユキヤイフカシワキモ》
 
好去哉はよくて過行やと問なり、好は無v恙意なり、日本紀に好在をサキクハベリヤと點ぜり、今按好去とかける事集中四所あり、第五に憶良の好去好來歌あり、第七第十七にはともにヨシユキテと點ぜり、今起居奈何と問ふにみづからよしと决せる詞叶はず、ヨクユケヤと和し替べし、ゆけやは下知にあらず、ゆくやの意なり、以前お(61)もへやと有し語勢なり、言借は不審なり、第十一に、まゆねかき下いぶかしみ思へるにと云歌にもかやうにかけり、言の字を濁る詞に假たるは、實方の、思ふことえやはいぶきのとよせられたるに同じ、
 
初、いかに好去哉。よしゆきやは、よくて過行かとなり。齊明紀に、好在とかきて、さきくはへりやとよめり。もし今の去の字は、在の字のあやまれる歟。好在ならは、さくあれやとよむへし。此集にさきくあれといふへきを、さくあれとよめり。いふかしは不審なり。訝の字をも用へし。此外猶此集にあり。言借とかけるは、清濁通して用ること、さき/\にいへるかことし。實方朝臣の哥に、かくとたにえやはいふきのさしも草とよまれたるも此ゆへなり
 
大伴坂上郎女歌一首
 
歌の後の注に依に女の下に和を脱せり、
 
649 夏葛之不絶使乃不通有者言下有如念鶴鴨《ナツクスノタエヌツカヒノカヨハネハコトシモアルコトオモヒツルカモ》
 
第七にも夏葛刈とよめり、夏野の葛は繁くはへば絶ぬとつゞけたり、不通有者は今按今の鮎有の字に叶はず、カヨハザレバと改むべし、言下有如は言は事に借て事故なり、しもは助語なり、使をもおこせぬは故あらんやうに思たりつるとなり、
 
初、夏葛のたえぬ使。夏野の葛はしけりてとをくはひわたれは、たえぬとつゝくるなり。不通有者、かよはされはとよむへし。言下有ごとは、事しも有ことくなり。故の字をもことゝよめは、ゆへあらんとおほつかなくおもひしとなり
 
右坂上郎女者佐保大納言卿女也駿河麻呂此高市大卿之孫也兩卿兄弟之家女孫姑姪之族是以題歌送答相問起居(62)高市大卿は右大臣大伴宿禰御行にや、昔は公卿を分たす皆卿と云へるか、大織冠を内大臣藤原卿、井手左大臣を橘卿と云へり、姑は和名云、九族圖云、父之姉妹爲v姑、【和名乎波、】姪は爾雅云.女子謂2昆弟之子(ヲ)1爲v姪、此姪の字は米比なれども亦乎比ともよめり、今は乎比なり、女孫にして姑姪といへるは、此郎女の姉妹高市大卿の男に嫁して駿河麻呂を生めるなるべし、駿河麻呂の父未v詳、
 
初、佐保大納言は、大伴安麻呂なり。高市大卿はいまたかんかへす。やすまろの弟なるへし。
 
大伴宿禰三依離復相歎歌一首
 
歡を誤て歎とす、目録に依て改たむべし、離と云へるは、離別して後又迎返せるか、六帖には昔あへる人と云に入れたり、上に見えたる賀茂女王か、
 
初、大伴宿禰三依離復相歡歌一首【歡誤作歎】
 
650 吾妹兒者常世國爾住家良思昔見從變若益爾家利《ワキモコハトコヨノクニヽスミケラシムカシミシヨリワカヘマシニケリ》
 
常世國は垂仁紀云、時天照大神誨(テ)2倭姫命(ヲ)1曰、是神風伊勢國則常世之浪|重浪歸《シキナミヨスル》國也、又云明年【上云、九十九年、】春三何辛未朔壬午、田道間守至(レリ)v自2常世國1、雄略紀云、水(ノ)江(ノ)浦嶋子到(テ)2蓬莱山《トコヨノクニニ》1、歴2覩《メクリミル》仙《ヒシリノ》寰1云云、此等に云へるに同じ、
 
初、とこ世の國。管見抄にいはく
 
大伴坂上郎女歌二首
 
(63)651 久堅乃天露霜置二家里宅有人毛待戀奴濫《ヒサカタノアメノツユシモオキニケリイヘニアルヒトモマチコヒヌラム》
 
露霜置ニケリとは、他所に久しくある閉に露もやゝ霜と結ぶべきほどに寒く成る意なり、宅ニアル人とは此卷下に至て此郎女跡見庄竹田庄より坂上宅に留おかれたる娘に贈られたる歌あれば、今も娘を指てよまれたるべし、六帖に家童子を思ふと云に載たるは、此集に依れば叶はねど、彼は意を得て取用たる事あればさも有べし、
 
652 玉主爾珠者授而勝旦毛枕與吾者率二將宿《タマモリニタマハサツケテカツカツモマクラトワレハイサフタリネム》
 
玉主は玉を預りて守る者を云、論語(ニ)曰、虎咒出2於|※[木+甲]《オリヲ》1、龜玉毀2於|※[木+賣]《ヒツノ》中(ニ)1、是誰之過(ソヤ)與、官本の亦の點に玉ヌシとあれど、聞ところも劣り、六帖枕の歌にも今の如くにてあれば取らず、此歌の意を按ずるに二人の娘を玉に譬へ、家持駿河麻呂等の聟に約したる人を玉守に譬へて、早く此人どもに娘を與へて何處に有ても待戀んかなど心使をやることもなく心安く枕と共に寢むとなり、枕とふたりとは、娘を傍に臥せて守ればそれに對して云へり、第十二、蛬待喜べる秋の夜を、ぬる驗なし枕と我は、
 
初、玉もりに玉はさつけて。玉もりは、玉を預りてまもるものをいふ。論語曰【虎咒出於※[木+甲]、龜玉毀於※[木+賣]中、是誰之過與。】此哥のこゝろを案するに、玉といふは娘の二孃をいひ、玉守といふは、駿河麻呂なるへし。第三に此郎女と駿河麻呂との贈答の哥あり。おもひ合すへし。枕とわれはいさふたりねむとは、むすめをかたはらにふさせて、まもりつるが、駿河麻呂にあたへて、我は枕を友として今はふさむとなり。第十に、きり/\す待よろこへる秋の夜をぬるしるしなし枕とわれは。此下句に似て、意はたかへり。むすめを玉にたとふる事は、第三卷市原王の哥にも見えたり
 
(64)大伴宿禰駿河麻呂歌三首
 
653 情者不忘物乎儻不見日數多月曾經去來《コヽロニハワスレヌモノヲタマ/\モミヌヒカスオホクツキソヘニケル》
 
數多は、今按二字引合せてアマタニともよむべし、
 
654 相見者月毛不經爾戀云者乎曾呂登吾乎於毛保寒毳《アヒミテハツキモヘナクニコフトイヘハヲソロトワレヲオモホサムカモ》
 
戀云者は今按コフトイハヾともよむべし、乎曾呂とは奧義抄云、或人云、東の國の者は虚言《ソラゴト》をばをそごとゝ云なり、仙覺抄同意にて、相見ては月もへぬに戀しといへばそらごとゝ云はんかとよめるなりと云へり、今按第二におそのたはれをの所に云が如く、をそは今の俗に僞をうそと云これなるべし、を〔右○〕とう〔右○〕五音通ぜり、呂は助語也、
 
初、おそろ。ろは詞のたすけにて、おそしとおほしめさんとなり
 
655 不念乎思常云者天地之神祇毛知寒邑禮左變《オモハヌヲオモフトイハヽアメツチノカミモシルカニサトレサカハリ》
 
知寒、【官本亦點云、シラサム、】
 
知寒はシラサムと讀べし、しらさむはしらむの古語なり、左變のさ〔右○〕は例のそへたる字にて、かはりはかはれる相なり、歌の意は、我今君に誓ふ所、若思はぬを思ふと云物(65)ならば、天神地祇よく知たまはむ、然らば我においてあしくかはりたる事あるべし、されども我まことを神の知しめしてかはりたる事更にあらじ、今やがてそれを試て思ふ所の僞ならぬ事をさとれとなり、サトレは誰知れなり、うつぼ物語の歌の題に春をさとれる草と有が如し、
 
初、おもはぬをおもふといはゝ。上にも此二句あり。第十二にも、おもはぬをおもふといはゝまとりすむうなてのもりの神そ知らむとよめり。天地の神もしるかにさとれさかはり。管見抄に云。神は神通にて、いはぬことをも、またいつはる事をも、よくさとりたまふなり。さかはりのさ文字は例の助字なり。神も人のこゝろに入かはりたるやうにさとれとなり
 
大伴坂上郎女歌六首
 
656 吾耳曾君爾者戀流吾背子之戀云事波言乃名具左曾《ワレノミソキミニハコフルワカセコカコフトイフコトハコトノナクセソ》
 
名具左曾、【校本云、ナクサソ、】
 
四の句はコフテフコトハとも讀べし、言ノナグサは俗にくちなぐさみと云へるなり、ナクセとある點は書生の失錯なり、
 
初、われのみそ君にはこふる。ことのなくさは、俗にくちなくさみといふかことし。われのみ實にきみをはこふるなり
 
657 不念常曰手師物乎翼酢色之變安寸吾意可聞《オモハシトイヒテシモノヲハネスイロノウツロヒヤスキワカコヽロカモ》
 
云ヒテシのては助語なり、ハネスは唐棣花にて赤き色なり、第八に家持の唐棣花をよまれたる歌に至て委注すべし、人のつらきを恨て、さらば我も今は君を思はじと云し物を、唐棣の花の色の移やすきやうに思ひ定めしことの早く變じて又戀しう(66)思はるゝ心かなとよめり、約を變じてうつるにはあらず、
 
初、おもはしといひてしものを これは人を恨て、さらは我も今よりは君をおもはしといひしものを、うつりやすき心にて、又おもはるゝよといふ意なり。はねす色は、天武紀云。十四年秋七月己巳朔庚午、初(テ)定2明位已下、進位己上之|朝服《ミカトコロモノ》色(ヲ)1。淨位己上(ハ)並(ニ)2朱華《ハネスヲ》1。【朱華此(ヲハ)云(フ)2波泥孺(ト)1。】第八卷家持哥に、唐棣花とかけり。くはしくはそこに注すへし。第十一にも、はねす色とよめり。夏さくものなり
 
658 雖念知僧裳無跡知物乎奈何幾許吾戀渡《オモヘトモシルシモナシトシルモノヲナソカクハカリワカコヒワタル》
 
知僧裳無跡は僧をシ〔右○〕とよめるはそ〔右○〕とし〔右○〕を二五相通じてかける歟、此字をほうしと訓ずるも、法師なれば、師僧の意にて師と義訓して用たる歟、冬のはてをしはすと云も師走なりと奧義抄に注せられたれば、後の義なるべし、下句は下に安倍虫丸の歌にも此に同じきあり、點もまた同じ、今按幾許は、上にいくそばく思けめかもと云發句にもかゝり、それを六帖にはいかばかりともよめり、又こゝばくなどよめる所もあれど、いくは不定の詞、かくは治定の詞にて相違すれば、ナニカコヽバクと和し替ふべきにや、
 
659 豫人事繁如是有者四惠也吾背子奧裳何如荒海藻《カネテヨリヒトコトシケクカクシアラハシヱヤワカセコオキモイカヽアラモ》
 
カクシのし〔右○〕は助語なり、有者は今按アレバともよむべし、者四惠也《シヱヤ》はよしや也、奧は海のへたと冲とある如く、へたは前也、冲は後也、後の心にいへり、こゝは荒海藻《アラモ》はあらむ也、すべての意は、かねてより人の物云ひしげゝれば、これより後も云ひさはがむ(67)とてもかくても名の立上は、よしや云はゞいはなむの意にて打ふてゝよめるなり、しゑやと云へる心、かくなるべし、一説、兼て人言のしげゝれば後もいかゞあらんとなり、
 
初、かねてより人こと。しゑやは、よしゑやしの上下を畧せる詞なり。此哥はふてゝよめるなり。おきはおくとよむへし。論語集註、室西南隅為奥。行末のことなり。おくかなしおくかしらすとよめるも皆行末のことなり。いかゝあらもとは、いかゝあらんなり。もとむとは五音通せり。今案奥をおきとよまは、うみのおきにゆく末をたとへて、荒の字は、あれとよみて、これよりほか、おきとてもいかゝあれむ。よしやわかせこ、人のいひさはかは、それはさもあれとたとへて、うちふてゝ、よめりといふへきか
 
660 汝乎與吾乎人曾離奈流乞吾君人之中言聞越名湯目《ナヲトワヲヒトソサクナルイテワキミヒトノナカコトキヽタツナユメ》
 
發句の上のを〔右○〕は助語なり、乞吾君は、乞に二つあり、舒明紀に咄哉をイデヤと點じたるは、いでさらばなど俗にも云詞なり、允恭紀云、且《マタ》曰、壓乞戸母《イテトシ》、其|蘭《アラヽキ》一|莖《モト》焉、これは物を強て乞詞なり、此集今此に同じ、第七には欲得とかける此意なり、吾君《ワキミ》はアガキミと讀べきか、わぎみは和殿原《ワトノハラ》、和御前《ワゴゼ》など云類の新語か、集中に例見えず、聞タツナは俗に耳に立なと云に同じ、
 
初、汝《ナ》をとわを なをのをは助語なり。いてわぎみ、いてといふにふたつの心有。古今集に、いて人はことのみそよきと讀るは發語の詞、常にいて/\といふかことし。日本紀咄哉とかきていてやとよめるこれなり。いて我を人なとかめそとよめるは、今はいてわぎみといふにおなしくこふ《・請》といふ心なり。此集にも、此わかち有へし。わきみはわか君なり。後に和殿原和御前なといへる和はこれなり。毛詩鄭風揚之水篇云。無(シ)v信(スルコト)2人之言(ヲ)1、人實(ニ)〓《タフラカサン》v女《ナンチヲ》
 
661 戀戀而相有時谷愛寸事盡手四長常念者《コヒコヒテアヘルトキタニウツクシキコトツクシテヨナカクトオモハヽ》
 
愛寸は今按集中の例に依にナツカツキともウルハシキともオモハシキとも何れにもよまるべし、
 
市原王歌一首
 
(68)662 網兒之山五百重隱有佐堤乃埼左手蠅師子之夢二四所見《アコノヤマイホヘカクセルサテノサキサテハヘシコノユメニシミユル》
 
袖中秒に發句をあごしやま、四の句をさてはへしゝのと讀て顯昭云、此歌は極て心得ぬを、萬葉の歌をも拔出て古き物に釋しつと云に此歌釋したる文は見えず、誠に押て是を按ずるに云云、かくて、注のやうふつに甘心せられねば中/\に引も出ず、唯先達の釋なき證ばかり引なり、今按集中の書やう無窮なれども、網兒は第三に奧丸が網子とゝのふる海人の呼聲といへる網子に同じ、之〔右○〕は詞の字と見ゆるをアゴシヤマとよめるもよからず、又相聞の歌なれば四の句も義は如何にもあれ、子はコ〔右○〕とよみて女の事なるべきを、是をも、音を以てよめるは心得ねば、先づ點は今のを正義と定むべし、二つの地の名、顯昭は何處とも知られざる由なり、八雲御抄には共に伊勢と注せさせ給へり、第六によめる四泥の崎は伊勢なれど、さての崎とは別なるべし、歌の意を今も亦押て試に釋せむ、山の多く重なれるを五百重山とも讀たれば、上の句はあごの山の五百重に隔かくせるさての崎なり、顯昭の説の如くさての崎と云所を先擧るは、次にさてと云詞を云はむ料なめり、左手は第二に小網さすと云へる物なり、ハヘシとはそれを水に入れて小魚をすくふなり、いたいけしたる小網(69)をはへて小魚をすくひて遊びありきし乙女を、行ずりに見つるが忘がたくて夢に見ゆるとよみ給へるにや、小網こそ、少し女にはいかにぞやとも云べけれど、釣をもすなれば戯にはさも有べし、二つの所の名、如何樣《イカサマ》にも、さいふ所ある國の守などに任ぜられて彼處にての作なるべし、寶字七年に攝津大夫に成られたる事はあれど其外の紀には見えねば考る所なし、
 
初、あこの山いをへかくせる。さではへしこといはむための序に、上の句をいへり。八雲御抄に、さての崎は、伊勢の國の名所としるしたまへるは、物に見えたること歟。今もさいふ所の伊勢にあるか。おほつかなし。もし第六卷に、丹比眞人屋主か、伊勢にみゆきしたまへる御供にて、をくれにし人をおもはく四泥能埼《シテノサキ》ゆふとりしでゝすまんとそおもふ。注云。右案(スルニ)此歌(ハ)者不v在(ラ)2此行宮(ノ)之作(ニ)1乎。所2以(ハ)然(カ)言(フ)1之勅(スラク)2大夫《・屋主一人ヲ指歟諸ノ大夫ヲ指歟》(ニ)1、從2河口(ノ)行宮1還(テ)v京、勿(レト)v令(ルコト)v從(カハ)v駕(ニ)焉。何(ソ)有(ンヤ)d詠(シテ)2思泥(ノ)埼(ヲ)1作(ルコト)uv歌(ヲ)哉。此四泥の崎を、五音を通して心得て、その所なりとおほしけるか。あこの山はいつくそや。今案第六卷に、坂上郎女、筑前園|宗形《ムナカタ》郡名兒山をよめる哥有。あとなと通するゆへに、績日本紀に、吾人《アヒト》と、いへる人の名を、名人《ナヒト》ともかけり。日本紀には、姉をなねといひ、此集には、奈呉の海を、阿胡の海ともよめれは、此あこの山は彼名兒山にて、しての埼も同國にや。又今案文武天皇を檜隈安古山陵に葬奉れり。第二卷に日並皇子奏したまひし時舎人等かよめる哥の中に、朝日てる佐太のをかへとよめり。眞弓の岡ともよめり。同所異名なるへし。眞弓岡も安古山もともに高市郡なれは、さてとさたと音も通すれはこゝにや。さではへしことは、さてをさすこなるへし。女ににつかぬやうなれと、魚をつる事もあれは、いたいけしたる小網《サテ》さして、されありきしさまのなつかしきが、わすられすして、夢にもみゆとにや。さでは、和名集に、※[糸+麗]の字を出し、此集には小網とかけり
 
安部宿爾年足歌一首
 
部は、目録に依に都に改たむべし、安部は阿倍とも書て姓《カハネ》は朝臣なり、安都氏は安斗、阿刀とも書て姓《カハネ》は宿禰なり、年足は未v詳、文武紀云、慶雲元年二月丙辰朔乙亥、從五位上|上村主《カムノスクリ》百濟《クタラニ》改(メテ)賜2阿刀連1、元正紀云、養老三年五月己丑朔癸卯、正八位下阿刀連人足等賜2宿禰姓(ヲ)1、光仁紀云、外從五位下安都宿禰眞足(ヲ)爲2大學助1、名に付て思ふに人足が子、眞足が父などにや、弘法大師の外舅伊豫親王(ノ)文學從五位下阿刀宿禰大足も亦年足の後歟、
 
初、安部宿禰年足歌。部の字は、都の字を誤れるなり。目録に安都とあるを正とす。そのゆへは、安部の姓《カハネ》は朝臣なり。安都氏の姓は宿禰なり。文武紀云。慶雲元年二月丙辰朔乙亥、從五位上|上村主百濟《カムノスクリクタラニ》改(タメテ)賜(フ)2阿刀(ノ)連(ヲ)1。元正紀云。養老三年五月己丑朔癸卯、正八位下阿刀(ノ)連人足等(ニ)賜(フ)2宿禰(ノ)姓(ヲ)1。光仁紀云。外從五位下安都宿禰眞足(ヲ)爲2大學(ノ)助(ト)1。光仁紀(ニ)又云。阿刀宿禰眞足、阿都(ノ)宿禰長人。かゝれは、上(ノ)村主百濟に改て阿刀連を賜て、人足か時宿禰の姓をたまへるなり。年足は人足か子にて、眞足か父なとにや。おなし眞足か氏を、光仁紀に、安都とも阿刀ともかけり。日本紀に、上野(ノ)君|形名《カタナ》といふ人を、同し所にやかて方名《カタナ》ともかきたれは、よろつに文字にかゝはらぬ事おほし。惣して阿刀氏は、人足か後、足の字をおほく名につきけるか。弘法大師の外舅、伊豫親王(ノ)文學從五位下阿刀宿禰大足といふ人も、此|裔《ハツコ・スヱ》なるへし
 
663 佐穗度吾家之上二鳴鳥之音夏可思吉愛妻之兒《サホワタリワキヘノウヘニナクトリノコヱナツカシキオモヒツマノコ》
 
(70)吾家、【官本亦云、ワカヘ、】
 
サホワタリはさほあたりなり、或は古歌なれば佐保山より渡り來てと云へるにもあるべし、鳥は※[(貝+貝)/鳥]、郭公の類の面白きに聞あかぬ聲をよそふる歟、今按第八に坂上郎女が歌に、よのつねに聞は苦き喚子鳥、音なつかしき時には成ぬ、此歌注云、右一首天平四年三月一日佐保宅作、又第十二、春日なる羽買の山ゆさほの内へ、鳴行なるは誰喚子鳥、答へぬになよびとよみそ喚子鳥、佐保の山べを上り下りになどよめるを思ふに、佐保山は殊に呼子鳥の鳴處にて、今鳴鳥とよめるもそれを指て喚子鳥の名に付て殊によそふる歟、落句はハシキツマノコとも讀べし、
 
初、さほわたりわきへの上に。さほ山さほ川のあたりなり。わきへはわかいへといふへきを、我伊(ノ)切|藝《ギ》なれは、つゝめてわきへといへり。我伊(ノ)切なれは、きの字にこるへき理なり。昔はにこりけれはにや、藝の字なとの、にこる字をおほく用たり。わきもゝ我妹なれは、鵞以(ノ)反義にて、にこるへきを、清ていひきたれは、わきへも、それに准すへし。うくひすほとゝきすなとの聲の、あかれぬによせて、おもふ人の聲のきゝあかれぬをいへり。おもひつま、愛の字此集にはしきともよめり。第二十にはしきつまとよめり
 
大伴宿禰像見歌一首
 
廢帝紀云、寶字八年十月、正六位上大伴宿禰形見(ニ)授2從五位下(ヲ)1、光仁紀云、寶龜三年正月、從五位上、
 
初、大伴宿禰|像見《カタミ》。廢帝紀云。寶字八年十月正六位上大伴宿禰形見(ニ)授2從五位下(ヲ)1。稱徳紀云。景雲三年三月左大舎人助。光仁紀云。寶亀三年正月從五位上
 
664 石上零十方雨二將關哉妹似相武登言義之鬼尾《イソノカミフルトモアメニサハラメヤイモニアハムトチキリシモノヲ》
 
言義之、【六帖云、イヒテシ、別校本亦同、】
 
石上とはふると云べきため也、別に注す、雨のふるにも亦古きと云にもおけり、意は(71)雨には妨られまじ、妹に逢んと兼て契り置たれば也、此下の句袖中には、待んと妹がいひてし物を、言義之はワガコシともよまるべし、義の字集中にコ〔右○〕とよめる所あり、今の點は義訓なり、
 
初、石上ふるとも雨に。石上ふるとつゝけてよめるは、やまとの國いその上といふ所に、布留社いますによりてなり。うたのならひ、ふるといふ詞いはむとては、雨のふるにも、又ふるきといふことにも、石上とはいひかくるなり。いそのかみふりにしさと、いそのかみふりにしこひなとさへそつゝけたる。さきに大伴のみつとはいはしとありし類なり。關はゆきゝをさふれは、將關哉とかきて、さはらめやとはよめり。せかれめやともよみぬへし。約をたかへぬは信なり。義なくして信なけれは、言義とかきてちきりとはよめり。伊勢物語に、みのもかさもとりあへで、しとゝにぬれて、まとひきにけり
 
萬葉集代匠記卷之四中
 
(1)萬葉集代匠記卷之四下
 
安倍朝臣蟲麻呂歌一首
 
天平九年九月、從2正七位上1至(リ)外從五位下中務大輔從四位下1、勝寶四年三月卒(ス)、天平十二年藤原廣嗣謀反の時軍功あり、詳2續日本紀1、
 
初、安倍朝臣蟲麻呂。聖武紀云。天平九年九月己亥、正七位上阿倍朝臣虫麻呂等(ニ)授2外從五位下1。同十二月壬戌馬2皇后宮亮1。同月丙寅、從五位上。十年秋閏七月癸卯、從五位上阿倍朝臣虫麻呂爲2少輔(ト)1。十二年九月太宰少貳藤原朝臣廣嗣反(ス)。勅(シテ)以2大野(ノ)朝臣東人(ヲ)1爲2大將軍(ト)1、紀(ノ)朝臣飯麻呂(ヲ)爲2副將軍(ト)1、征2討之1。重(テ)勅(シ)2佐伯宿禰常人、阿倍朝臣虫麻呂等(ニ)1亦發遣(シテ)任2用(ス)軍事(ニ)1。〇十月壬戌、大將軍東人|言《マウス》。逆賊藤原廣嗣率(テ)2衆一萬許騎(ヲ)1到(ル)2板櫃河(ニ)1。廣嗣親自率2隼人(ノ)軍(ヲ)1爲2前鋒《サキ》1。即編(テ)v木(ヲ)爲(テ)v船(ト)將(ニ)渡(ラント)v河。千v時佐伯宿禰常人、阿倍朝臣虫麻呂、發(シテ)v弩(ヲ)射(ル)v之(ヲ)。廣嗣(カ)衆却(テ)到(ル)2河西1。同年十一月從五位上。十三年閏三月正五位下。八月播磨守。十五年五月正五位上。孝謙紀云。勝寶元年八月兼紫微大忠。三年正月從四位下。四年三月甲午、中務大輔從四位下安倍朝臣虫麻呂卒
 
665 向座而雖見不飽吾妹子二立離徃六田付不知毛《ムカヒヰテミレトモアカヌワキモコニタチワカレユカムタツキシラスモ》
 
此吾妹子は下の注に依に坂上郎女を指せり、廣く女を指て云に同じ、六帖には二人をりと云と、別と、二つの題に入れたり、
 
初、むかひゐてみれともあかぬ。第十五にも、むかひゐてひとひもおちすみしかともいとはぬ妹を月わたるまて。六帖に、むかひゐてそむくほとたにきもきえておもひし物を月かはるまて。下の坂上郎女の歌の奥の注をみるに、此わきもこといへるは、坂上郎女せさせり。男女の中によめる哥にはあらす。下の注にくはし
 
大伴坂上郎女歌二首
 
和歌と有けむを和の落たるか、
 
666 不相見者幾久毛不有國幾許吾者戀乍裳荒鹿《アヒミテハイクヒサシサモアラナクニコヽハクワレハコヒツヽモアルカ》
 
(2)幾久毛、【幽齋本亦云、イクヒサヽニモ、】  幾許、【官本亦云、コヽタク、】
 
第十一に此と上の句の同じ歌あるを、拾遺に二の句をいくひさゝにもとて入れらる、荒鹿は有哉なり、
 
667 戀戀而相有物乎月四有者夜波隱良武須臾羽蟻待《コヒ/\テアヒタルモノヲツキシアレハヨハコモルラムシハシハアリマテ》
 
月シのし〔右○〕は助語なり、夜ハコモルランは夜はまだ深かるらんなり、アリマテは此に在て深るを待てゆけなり、詩齊風云、匪(ス)2東方(ノ)明(ナンニ)、月出之光、新古今集に、しばしまてまだ夜は深し長月の、在明の月は人まどふなり、此集第十一に、月しあれば明らむわきもしらずして云云、六帖に、人を留むと、くれどあはずと云二つに入る、くれどあはずは心得がたし、
 
初、こひ/\てあひたる物を。夜はこもるらんは、夜をこめてといふ時のことし。第三、間人大浦か哥にも夜こもりに出くる月とよめり。たゝしそれは、みか月の哥にて、こゝと詞はおなしくて、心かはれり。しはしはありまては、しはし待てあれといふ心なり。第十一に、月しあれはあくらんわきもしらすしてとよめり。新古今集、藤原惟成哥に、しはしまてまた夜はふかし長月の有明の月は人まとふなり。詩(ノ)齊風(ニ)云。東方明(ヌ)矣。朝既(ニ)昌(ナリ)矣。匪(ス)2東方(ノ)則明(ルニ)1。月(ノ)出(ル)之光(ナリ)
 
右大伴坂上郎女之母石川内命婦與安倍朝臣蟲滿之母安曇外令婦同居姉妹同氣之親焉縁此郎女蟲滿相見不疎相談既密聊作戯歌以爲問答也
 
(3)蟲滿は今按麻呂を滿の一字に作る事例多し、所謂此集第十五に、秦田麿を又は田滿に作り、藤原仲麿を此集末に仲滿に作り、阿倍仲麿を承和年中の詔には仲滿とあり、其外多かるべし、恠しむに足らず、滿をま〔右○〕の音になして唯二字に限るがためによみつくるか、又まむ〔二字右○〕、かやうの音はさま/”\に轉じて用る事あり、所謂播磨、因幡、群馬《クルマノ》郡等の類なり、命婦はヒメ、トネヒメ、マチギミ、共に日本紀の點なり、
 
初、命婦、ひめまちきみ、ひめとね、共(ニ)日本紀
 
厚見王謌一首
 
孝謙紀云、勝寶元年四月庚午朔丁未、授2無位厚見王從五位下(ヲ)1、寶字元年五月、授(ク)2厚見(ノ)王從五位上(ヲ)1、和名集云、美濃國厚見【阿都美、】郡、
 
初、厚見王。孝鎌紀云。勝寶元年四月庚午朔丁未、授2無位厚見王(ニ)從五位下1。寶字元年五月、授2厚見王(ニ)從五位上(ヲ)1。和名集云。美濃國厚見【阿都美】郡
 
668 朝爾日爾色付山乃白雲之可思過君爾不有國《アサニヒニイロツクヤマノシラクモノオモヒスクヘキキミニアラナクニ》
 
發句は朝毎に日毎になり、朝に異《ケ》にと云へる意に同じ、色付山乃白雲之と云には二つの意あるべし、一つには、色付山といへるは紅葉の事なれば、紅葉葉の散て過ぬとよめる意につゞくるを、雲も亦有かと見ればやがて過行物なれば、紅葉の散て白雲の過る如くは得思ひ過すべき君にあらぬと序を二重に云へるか、又二つには、第三(4)に湯原王の青山の嶺の白雲と讀たまへる歌に似たれば其意に同じく、紅葉交りの白雲のあかれず見ゆるを戀る人によそへて譬と序を兼て白雲の思ひ過べきと承たる歟、此下句、第三丹生王の歌に有き、
 
初、朝に日にいろつく山の白雲の。朝に日には、朝ことに、日ことになり。日にそひて色つく山にかゝる白雲の、もみちと雲とましりて、見もあかぬことく、一徃に見て、おもひをやり過すへき君にあらすとなり。上の句は序にて、たとへをかねたり。白雲は、ゐるとみれとも、ゆく物なれは、白雲のことく、おもひ過へきといふ心にうけて、つゝけたり
 
春日王歌一首
 
元正紀云、養老七年正月、無位春日王(ニ)授2從四位下(ヲ)1、官本此下に注して云、志貴皇子之子、母曰2多紀(ノ)皇女1也、第三に弓削皇子の御歌に奉和し給へる春日王とは異なり、
 
初、春日王歌。第三に、弓削皇子の吉野にてよませたまへる哥を、御かへし奉りたまへりし春日王は、文武三年に卒去し給へり。第三卷に注しつ。今此つゝきは、聖武孝謙の頃の哥なれは、それなるへからす。元正紀云。養老七年正月無位春日王(ニ)授2從四位下(ヲ)1。此春日王なるへし
 
669 足引之山橘乃色丹出而語言繼而相事毛將有《アシヒキノヤヤタチハナノイロニイテヽカタラヒツキテアフコトモアラム》
 
山橘は言塵抄云、世俗にやぶ柑子と云物也、髪そぎの時山菅にそへたる草なり、今按此集にあまたよめる中た第七寄v草歌の中にあり、六帖にもしかり、清少納言に、木はと云へる中に山橘とあるはおぼつかなし、延喜式(ノ)造酒司式の大甞會神供物の注文に、弓絃葉、寄生《ホヤ》、眞前(ノ)葛、日蔭《ヒカケ》、山|孫組《ヒコクミ》山橘、袁等賣《ヲトメ》草、各二擔とあり、實の珊瑚の如なる物なれば色に出てと云べき序に出來れり、古今に友則歌にも山橘の色に出ぬべしとよめり、此集第十一に此上句全同の歌あり、色ニ出テとはしのび/\ならで顯はれて逢時もあらんに暫思ひなわびぞとなり、(5)
 
初、あしひきの山橘の色に出て。山橘は岩間なとにおふる草の、根の浅くよこにはひて、春にいたりて、その末々より、うるはしくあかき莖のもえ出て、實は秋冬南燭のことくにて、珊瑚をみるはかりなる色なり。延喜式大甞會神供物の注文に、弓絃葉、寄生《ホヤ》、眞前葛《マサキノカツラ》、日|蔭《カケ》、山|孫《ヒコ》組、山|橘子《タチハナ》、袁等賣《ヲトメ》草各二擔といへり。造酒司式に見えたり。色にいてゝとは實につきていへり。古今集友則哥にも、我こひをしのひかねてはあしひきの山橘の色に出ぬへし。此集末にもあまたよめり
 
湯原王歌一首
 
670 月讀之光二來益足疾乃山乎隔而不遠國《ツキヨミノヒカリニキマセアシヒキノヤマヲヘタテヽトホカラナクニ》
 
月讀は神代紀上云、次云生2月(ノ)神(ヲ)1、【一書曰、云2月弓尊月夜見尊月讀尊1、】
 
初、月よみの光にきませ。神代紀上云。次|生《ウミマツリ》2月(ノ)神(ヲ)1。【一書云。月弓尊、月夜見尊、月讀尊。】疏云云々。哥には、三の名同名異音なりとこゝろうへし
 
和歌一首
 
官本傍注云、不v審2作者1、
 
671 月讀之光者清雖照有惑情不堪念《ツキヨミノヒカリハキヨクテラセトモマトフコヽロハタヘスオモホユ》
 
雖照有、【別校本云、テラセレト、】
 
雖照有は、今按テラセレドと讀べし、てらしあれどの中のし〔右○〕を反せばさ〔右○〕となるを初四相通して約むる故にてらせれどなり、今の點は六帖と同じけれど有の字を和せざれば誤なり、六帖に下句こゝろぞまどふたへぬおもひにとあるも心得がたし、情感とも書たらばこそさも和せめ、こゝろぞと云て上へ返す其謂なし、又六帖に、贈答ともに人を呼と云に入れたるもおぼつかなし、
 
初、雖照有。てらせれとゝよむへし。てらしあれともをつゝむる詞なり。てらせともとよめは、有の字すたるなり
 
(6)安倍朝臣蟲麻呂歌一首
 
672 倭父手纏數二毛不有壽持奈何幾許吾戀渡《シツタマキカスニモアラヌイノチモチナソカクハカリワカコヒワタル》
 
倭父、【幽齋本、父作v文、】
 
倭父手纏はしづのをだまきなり、委は別に注す、しづたまきと云へど本はしづにて手纏は詞を足す爲につゞくるなり、假令篁朝臣の人には告よ海人の釣舟とよめる類、聖經の注に同文故來と云が如し、倭文《シヅ》は賤しき者の著る故に數にもあらぬと云ん爲なり、父は幽齋本に文に作れる、日本紀と叶へり、從がふべし、壽は内典に一期爲v壽、連持爲v命と釋する如く身と云意なり、下句は上の坂上郎女が歌に云如くナニカコヽバクとよむべし、
 
初、しつたまき數にもあらぬ。しつたまきは、しつのをたまきなり。をたまきは、麻環《オタマキ》といふ心にて、卷子《ヘソ》といふものなり。臍をへそともいへは、彼をた卷の中に穴ありて、人のへそににたれは、名付るなるへし。しつはいやしきものゝきる物なれは、民をしつといふにこそ。をたまきといはされとも、しつといふが、ぬのゝ名なれは、事たれり。第九にも、しつたまきいやしきわかゆへとよめり。古今集には、いにしへのしつのをたまきいやしきもよきもさかりは有しものなりとよめり。新古今集小野朝臣篁の哥に、かすならはかゝらましやはよのなかにいとかなしきはしつのをたまき。しつをしとりともいへり《・津乎切止なれはしとりもしつおりなるへし》。それをおるものを倭文部とかきてしつおりへといへり。和布倭父は音を通して借てかく歟。父は文のあやまれる歟。かんかふへし
 
大伴坂上郎女歌二首
 
673 眞十鏡磨師心乎縱者後爾雖云驗將在八方《マソカヽミトキシコヽロヲユルシテハノチニイフトモシルシアラメヤモ》
 
磨シ心、上に注せしが如し、
 
初、ますかゝみときし心を。上に此郎女の哥に、此ことは有て注しき
 
(7)674 眞玉付彼此兼手言齒五十戸常相而後社悔二破有跡五十戸《マタマツクヲチコチカネテイヒハイヘトアヒテノチコソクイニハアリトイヘ》
 
一二の句のつゞきは、玉をつくる緒と承て、彼此兼テとは緒の二つの端を結を互に堅く約するによせて、人もさこそ云ひはいへど逢て後云しやうにありはてずして悔しき物ぞとこそ人の云しを聞おきしが、げにもさありけりと思ひあたれる由なり、玉の緒もくゝり合する物なれば、逢と云も縁の詞なり、第十二にも、玉の緒のをちこちかねて結びつる、我下紐の解る日あらめやとよめる、今の上の句の意なり、
 
初、眞玉つくをちこちかねて。第十二にも、眞玉つくをちこちかねてむすひつるわか下ひものとくる日あらめやとよめり。玉をは緒にてつらぬきて付るものなれは、玉をつくるをとつゝけたるなり。をちこちはかなたこなたなり。をゝぬきてそのふたつのはしをよせてくゝれは、をちこちかねてといふ。われはもとより人をおもひ、人もさすかにいひたえねと、わかおもふはかりのかひなけれは、あひみて後くやしきものとこそ世にもいへの心なり。みきの哥にあはせて心得へし。あひては、上の玉のをゝくゝりあはすれは、縁の詞なり
 
中臣女郎贈大伴宿禰家持歌五首
 
675 娘子部四咲澤二生流花勝見都毛不知戀裳摺可聞《ヲミナヘシサキサハニオフルハナカツミカツテモシラヌコヒモスルカモ》
 
都毛不知、【六帖云、ミヤコモシラヌ、別校本同v此、】
 
咲澤は所の名、娘子部四は咲と云はん料なり、咲澤を所の名と知ゆゑは、第八には春山之開乃乎|爲黒《スクル》爾とよみ、第十には姫部思咲野爾生白菅自とよみ、芽子之花開乃乎とつゞけ、第十一には、垣津旗開沼之菅とつゞけ、第十二には垣津旗開澤生菅根とつ(8)ゞく、又新撰萬葉集歌云、女倍芝拆野之郷緒秋來者《ヲミナヘシサクノノサトヲアキクレハ》、花之影緒曾假廬砥者世留《ハナノカケヲソカリホトハセル》、此等に依に紛なき事なり、此處何の國に有と云事をしらず、今按咲、開、拆、此三字いづれもさく〔二字右○〕ともさき〔二字右○〕ともはたらく中にさく〔二字右○〕は定て用の詞、さき〔二字右○〕は体用に亘ればさき野、さき澤、さきぬ等と讀て大和國添下郡の佐紀なるべきにや、日本紀には狹城とかゝる、第一卷に見えたる佐紀宮ある所なり、狹城山、狹城池あり、高野も彼處にあり、此時の都は添上、添下兩郡に亘れども内裏は添下郡に在れば此女郎が家も近かるべければこゝにこそと心よせらる、花カツミは菰を云と云へり、かつてとつゞけむ爲に二段に枕詞を置て惣じて序なり、古今に安積の沼の花かつみ、六帖に八重山吹の花かつみとて、かつみるとつゞけたるも今に同じ、カツテはふつにと云に同じ、都の字皇極紀にもカツテと點ぜり、六帖にみやこもしらぬとあるは其義ひたぶるに叶はず、古くかやうによみ損じたる事多くてや村上の帝源順等に勅しては讀とかさせたまひけむ、
 
初、をみなへし咲さはに。をみなへしは、常のさはにあるものにはあらす。野にても山にても、たひらかなる所の、すこしくほまりて、雨のゝちなと水のたまるほとなるあたりに、よくおひたちて、たけもたかくあるなり。かつみはこもなり。こもはその中に、ふかきかたにおふるなり。これも序哥にて、かつてもといはむためなり。かつてといふにふたつあり。曾の字甞の字なとを用るは、昔といふ心なり。今の都の字をかけるは、すへてといふ心なり。つねに夢にもしらすかつてしらすといふこれなり。日本紀には、此都の字をふつにともよめり。世にひたすら見すきかぬなとを、ふつにみすきかす、かつてみすきかすといふおなしこゝろの詞なり。古今集に、陸奥のあさかのぬまの花かつみかつ見る人にこひやわたらん。おなし體の哥にて心はかはれり。此上句の體集中におほし。をみなへし咲野におふる白つゝしと第十にあるも、秋になれはをみなへしの咲みたるゝ野に、今さく白つゝしなり。今よむ體にあらすとてあやしむへからす
 
676 海底奧乎深目手吾念有君二波將相年者經十方《ワタツミノオキヲフカメテワカオモヘルキミニハアハムトシハヘヌトモ》
 
海底、【別校本亦云、ワタノソコ、】
 
(9)海底はワタノソコと讀べき事第一に云しが如し、
 
初、わたのそこ。喜撰式に、海底とかきて、わたつみとよむよしあり。今もわたつみと點したれと、又ある所には、わたのそことも、字のまゝによめり。わたつみとよまるましきにはあらねと、海の惣名といはゝ、底の字詮なく、海神といはゝ、海童、海若、海神、方便海なとかきたれは、それにもかなひかたし。ことに今は海の惣名をいへは、たゝ字のまゝによむへし
 
677 春日山朝居雲乃欝不知人爾毛戀物香聞《カスカヤマアサヰルクモノオホホシクシラヌヒトニモコフルモノカモ》
 
欝、【六帖、新勅撰、共、オホツカナ、別校本亦點同v此、】
 
オホヽシクもおぼつかなき意なり、第十一に、香山に雲井たなびき於保々思久とも、雲間よりさわたる月の、おほゝしくなどよみたれば今の點古風に叶ふべし、
 
初、おほゝしく。雲のゐる峯のおほつかなきなり。欝の字をかける、おぼゝしくは、すなはち字のことし。おほ/\しくなり
 
678 直相而見而見而者耳社靈剋春命向吾戀止眼《タヽニアヒテミテハノミコソタマキハルイノチニムカフワカコヒヤマメ》
 
見而者の者は助語なり、命ニ向フは命にあたる心なり、二つの詞後にもあまたよめり、第十二に此下句あり、
 
初、みてはのみこそ。みてのみこそなり。はの字助語なり。命にむかふは、命にあたる心なり。命はかり捨かたきものなきに、戀も思捨かたきは、命におなしきなり
 
679 不欲常云者將強哉吾背菅根之念亂而戀管母將有《イナトイハヽシヒムヤワカセスカノネノオモヒミタレテコヒツヽモアラム》
 
將強哉は今按シヒメヤとよむがまさるべきにや。一往にてやまむと云にはあらず、しひ/\て終にいなと云はむ上の事なり、古今に、思ふともかれなむ人を如何せむ、あかず散ぬる花とこそ見めとよめる意なり、下句かくの如く、菅の根の亂てとつゞけたる歌おほし、長くてみだれたる物によりてなり、
 
初、いなといはゝしひむやわかせ。初より中々にいなといひはなたは、しひてはいかていはむ。菅の根のみたれてなかきことく、我も戀て、おもひみたれなから、さても有なんを、いなといはて、がけたるが猶うらめしきといふ心なり。家持は、天平十年に、内舍人なりける事、第八に見えたり。それよりさき、いつれの年補せられけりとはしらす。令に内舍人には、二十一歳より補するよし見えたり。此卷に笠女郎、中臣女郎、そのほかあまた哥をよみかはしけるは、また内舍人になりならすの比、潘岳かくたものを得し紅顔ありけるにこそ。催馬樂に、大宮のちひさ小舍人玉ならはひるは手にまきよるはさねてむ
 
(10)大伴宿禰家持與交遊別歌三首
 
諸本も目録も別の下に久あり、今は落たるなるべし、
 
初、大伴宿禰。目録に別と哥との間に、久の字あり。正とすへし。こゝにはおとせるなり
 
680 蓋毛人之中言聞可毛幾許雖待君之不來益《ケタシクモヒトノナカコトキケルカモコヽタクマテトキミカキマサヌ》
 
681 中々爾絶年云者如此許氣緒爾四而吾將戀八方《ナカ/\ニエネトシイハヽカクハカリイキノヲニシテワカコヒメヤモ》
 
絶年、【官本云、タエムトシ、】
 
682 將念人爾有莫國懃情盡而戀流吾毳《オモヒナムヒトニアラナクニネモコロニコヽロツクシテコフルワレカモ》
 
廂念人爾有莫國、【別校本或將作v相、官本亦云、アヒオモフヒトナラナクニ、幽齋本亦云、アヒオモフヒトニアラナクニ、】
 
大伴坂上郎女歌七首
 
683 謂言之恐國曾紅之色莫出曾念死友《イフコトノサカナキクニソクレナヰノイロニナイテソオモヒシヌトモ》
 
サガナキは俗語にも口さがなきなど云詞なり、日本紀に惡の字をよめる此意なり、又不祥をもよめり、遍昭の人の物云ひさがにくき世にとよまれたるもさがなきに同じ、今按サガナキと點ぜる、ことわり能叶へども、此字集中にをそろしかしこし、此(11)兩訓の外に出ず、又日本紀に出たる字をみればさがなきはわろき意なれば字に付ては叶はざるか、例に依てカシコキと和すべきにや、紅は殊に色の目に立物なれば假て色にな出ぞとつゞけたり、古今にも紅の色には出じとよめり、
 
初、いふことのさかなき國そ。恐の字なれは、かしこき國そとも讀へし。さかなきは、今の俗にも、人のくちさかなきなといひなれたり。拾遺集、僧正遍昭の哥に、こゝにしも何にほふらんをみなへし人のものいひさかにくき世に。さかにくきも、さかなきにおなし。紅の色にな出そは、この集にも、くれなゐの色には出しかくれぬの下にかよひてこひはしぬとも
 
684 今者吾波將死與吾背生十方吾二可縁跡言跡云莫苦荷《イマハワレハシナムヨワカセイケリトモワレニヨルヘシトイフトイハナクニ》
 
今者、【別校本云、イマ、】  生十方、【別校本云、イケルトモ、】
 
生て有とも、我を依り所にすべしと君が云とも人のいはねば、今は我中々に死なるゝ物ならば死なんとなり、
 
初、今はわれはしなんよわかせ。いきてありとも、われをよりところにすへしと君かいふとも、ひとのいはねは、今はわれ中々にこひしなるゝものならはしなんとなり
 
685 人事繁哉君乎二鞘之家乎隔而戀乍將座《ヒトコトヲシケミヤキミヲフタサヤノイヘヲヘタテヽコヒツヽヲラン》
 
二鞘は今按雨枝、刀二つを刺す鞘歟、中に隔のあれば家を隔てと云はむ爲なり、古事記下、仁徳天皇段云、其太后石之日賣命甚多2嫉妬1、天皇聞2看吉備海部直之女名黒日賣其容姿端正1喚上而使也、然畏2其太后之嫉1逃2下本國1、天皇坐2高臺1望2瞻《ホセリタマヒテ》其黒日賣之船出(テ)浮(ヲ)1v海(ニ)以v歌(ヲ)曰(ク)、淤岐弊邇波袁夫泥都羅之玖文漏耶夜能《オキヘニハヲフネツラシクモロサヤノ》、摩佐豆古和藝毛玖邇弊玖※[こざと+施の旁]良須《マサツコワキモクニヘクタラス》、此御歌の文漏邪夜も諸鞘にて二鞘にや、さて皇后の御妬に依て召給はぬを中の(12)隔あるに譬へさせ給へるか、神功皇后紀(ニ)云、五十二年秋九月丁卯朔丙子、久?|等《ラ》從(テ)2千熊長彦1詣《マウケリ》之、則獻2七枝刀《ナツサヤノタチ》一(ツ)口、七(ツ)子《コノ》鏡一(ツ)面、及|種種《クサ/\ノ》重寶1、此七枝刀と云は本は一つにて、末の七つに分れたる刀なるを七つの鞘に收むる故に、なゝつさやのたちと云か、一(ツ)口と云へる意然るべし、又七枝は履中紀に兩枝船をフタマタブネとよめる如くなゝまたのたちとよむべきを義をもてナヽツサヤと訓ぜり、六帖刀の歌に、逢事のかたな刺たる七子の、さやかに人の戀らるゝかな、又鞘の歌に、七子の鞘の口々つどひつゝ、我を刀に刺て行なり、後の歌は讒言を云へるにや、二首共に神功紀に依る歟、神功紀に准ずる故今二鞘を釋する事上の如し、若然らずば物部《モノヽフ》の佩副《ハキソヘ》の太刀に寄て云歟、又七子の鞘の口々とよめる歌、若神功紀に據らずしてさる鞘あらば昔刀多く持たる人のさやうにして收め置けるなるべし、さらば又此歌もそれに准ずべし、鞘を刀室と云は、人の家に有に譬へたれば家を鞘に譬へむ事勿論なり、史記、荊|軻《カ》傳云、秦皇驚(テ)自《ミヅカラ》引(テ)而起(ニ)袖絶、拔v釼(ヲ)、釼長|操《トル》2其|室《サヤヲ》1、室謂v鞘也、春申君(カ)傳(ニ)云、趙(ノ)使欲v夸v楚、爲2※[王+毒]瑁簪(ヲ)1、刀釼(ノ)室《サヤ》以2珠玉1飾(ル)之、歌の惣の意は、人の物云ひの繁きに、佗てや、君と我二鞘の刀の隔たりて面々にある如くまぢかながら家を隔てよそにのみ戀つゝをらんとなり、此歌も六帖に鞘の歌とす、
 
初、人ことをしけみや。管見抄に、二鞘の家は、家ふたつなり。家をさやといふは、人のいりゐるゆへなり。太刀の身を入るゝゆへに、さやといふかことし。以上。今案ふたさやは、まつ表はかたなのさやにて、それを喩にかりてよめるなり。日本紀第九に、七枝刀一口《ナヽツサヤノタチヒトツ》。七子《ナヽツコノ》鏡|一面《ヒトツ》なとあり。なゝつさやならは、七鞘と有へきに、七枝としもかけるは、鞘の惣體はひとつにて、刀七口をさせりとみゆ。たとへもとの木より、なゝつの枝、わかれ出たるやうなれは、七枝とあるなり。おなし日本紀《・履中紀》に、兩枝船とかきて、ふたまたのふねとよめるに准して心得へし。紀氏六帖、かたなの哥に、逢ことのかたなさしたるなゝつこのさやかに人のこひらるゝかな。鞘の哥に、なゝつこのさやのくち/\つとひつゝわれをかたなにさしてゆくなり。此二首、日本紀の七枝刀といへるにおなし。かやうの鞘今は聞えす。又ひとりして、かたななゝつさゝむも用なし。これは今の世かたな箱とていれおくを、昔はなゝつこのさやありてさしおきけるにや。是に准せは、七口にかきらす、おほくもすくなくもさすへし。されはこそ、此哥、ふたさやとよめるは、かたなふたこしをひとつさやに、中をかけこのやうにへたてゝ、さしおくにたとへて、家をへたてゝとはよみけめ。此哥も、六帖に、人ことをしけしやきみにふたさやの家をへたてゝこひしかるらんとて、さやの哥とせり。惣の心は、人の物いひのしけくて、さかなきゆへにや、君をわれ、ふたつさやの、かたなのかけこにへたてられて、面々に身のあることく、となりまちかく有なから、あふこともえせて、よそにのみこひつゝをらんの意なり。鞘を刀室といふは、人の家にあるにたとへたれは、家をさやにたとへん事勿論なり。史記刺客傳の荊何か傳に、秦王驚(テ)自《ミ》引(テ)而起(ニ)袖絶(ユ)。拔(クニ)v劍(ヲ)劔長(シテ)操《トル》2其|室《サヤヲ》1。【室(ハ)謂鞘也。】春申君(カ)傳曰。趙(ノ)使欲(シテ)v夸v楚(ニ)、爲《ツクテ》2※[王+毒]瑁簪(ヲ)1、刀釼(ノ)室《サヤハ》以2珠玉(ヲ)1飾(ル)之。此集人事とかけるは、皆他言なり
 
(13)686 此者千歳八徃裳過與吾哉然念欲見鴨《コノコロニチトセヤユキモスキヌルトワレヤシカオモフミマクホリカモ》
 
欲見鴨、【別校本亦云、ミマホシミカモ、】
 
比者は二字引合てコノゴロなり、次の兩句は今按チトセハユキモスギヌルカと讀て句として、蓋さはなきを人を逢見まくほしければ吾心からやさは思ふらんと意得べし、第十一に、相見ては千年やいぬるいなをかも、我や然思ふ君待がてに、此初の二句今の上句と同じ、いなをかもはをのづからこもれり、毛詩王風云、彼釆(ル)v艾(ヲ)兮、一日(モ)不(レハ)v見、如(シ)2三歳(ノ)1兮、今千歳といへるは見まくほしさの限をいはむとなり、
 
初、この比にちとせやゆきも過ぬると。毛詩王風云。彼(ニ)采(ル)v艾(ヲ)兮、一日(モ)不(レハ)v見、如(シ)2三歳(ノ)1兮。ちとせといへるは、あはぬまのいたく久しうおほゆるよしなり
 
687 愛常吾念情速河之雖塞々友猶哉將崩《ウツクシトワカオモフコヽロハヤカハノセクトセクトモナホヤクツレム》
 
吾念情速河とつゞけたるは頻に思はるゝ事のたけき川の漲行に似たる意なり、古今に芳野川水の心は早くともとよめるに同じ、雖塞々友は今按セクトモ/\と讀べし、今の點にては、せきとせくともと云に同じくて雖の字に叶はず、忍ぶとも/\え忍びあへずして顯はれぬべしの意なり、
 
初、うつくしとわかおもふ心。雖塞々反、せくとせくともとよめるは、心はよくて、文字の心にあたらす。只せくとも/\とよむへし。その故は、せくとゝいふもしは、てにをはにして、雖の字にあらす。せくともといふは、せくといふともなり。惣の心は、君を思ふ心の切なれは、速河のせくとも/\猶くつるへきかことく、しのふとも/\、猶色に出てあらはれむとなり
 
688 青山乎横〓雲之灼然吾共咲爲而人二所知名《アヲヤマヲヨコキルクモノイチシロクワレトヱミシテヒトニシラルナ》
 
(14)〓、【校本作v殺、】
 
青山乎横殺雲とは、青み渡たる山にかゝりたるは殊に分明なれば灼然といはむ爲なり、杜陵翁が句に、水碧(ニシテ)鳥逾々白(シ)と云が如し、殺は第十二|殺目《キリメ》山と云にもかけり、
 
初、青山をよこきる雲のいちしろく。杜子美か句に、水碧鳥逾白といへるかことく、美目の黒白分明なるかことく、春山なとの、いたく青みわたれるに、帶のことくよこきれる白雲の、まきれなきやうにいちしろく、我にむかひてゑみて、されはよと人にしらるなとなり。灼然を日本紀には、いやちこともよめり
 
689 海山毛隔莫國奈何鴨目言乎谷裳幾許乏寸《ウミヤマモヘタヽラナクニナニシカモミルコトヲタニモコヽタトモシキ》
 
目言は今按今の點誤れり、マコトと讀べし、まことはまのあたりのことばなり、第二に明日香皇女木※[缶+并]殯宮の時人丸のよまれたる歌の中に、味澤相目許毛絶奴云云、此目辭と今の目言と同じきに第十一第十二にも味澤相目と連ねたればまのあたり相見て物云をまことと云と知べし、誠にはあらず、目言乎谷裳と云へるは實に逢事をばさて置ての意なり、
 
初、目言《マコト》をたにも。目は物をみる心にて、みるとよみたれとも、日本紀に、物いはぬをまことゝはぬ《・不言垂仁紀》とあれは、こゝもまごとをたにもとよむへし。あふ事はをきて、ことはをさへ聞ことのすくなきなり。みるとよまは、みることたにもにてたりぬへし。此集の哥なから、みることをたにもは、詮もなきにあまりなかゝるへし
 
大伴宿爾三依悲別歌一首
 
690 照日乎闇爾見成而哭涙衣沾津干人無二《テレルヒヲヤミニミナシテナクナミタコロモヌラシツホスヒトナシニ》
 
此別は旅と聞ゆれば、落句はほして得さすべき妹もなきにとなり、
 
初、てれる日をやみにみなして。泪くもりとて、涙におほれぬれは、目も見えぬことはりなり。第十二に、ひさにあらん君をおもふに久堅のきよき月夜もやみにのみ見ゆとよめる、同し心なり。ほす人なしにとは、女はをとこの衣を、ぬひ、あらひ、ほし、たゝみなと、したゝむるものなり。されは涙にぬれとほりたりとて、ほすへき人もなきに、いたつらになけくよとなり。第九に、あぶりほす人もあれやもぬれきぬを家にはやらなたひのしるしに。猶此外に、ほす人なしにとよめる心の哥とも有
 
大伴宿禰家持贈娘子歌二首
 
(15)691 百礒城之大宮人者雖多有情爾乘而所念妹《モヽシキノオホミヤヒトハオホカレトコヽロニノリテオモホユルイモ》
 
百礒城、【別校本、或作v吉、官本或礒作v磯、】
 
初、百しきの大宮人はおほかれと。第十一に、うちひさすみやちの人はみちゆけとわかおもふ君はたゝひとりのみ。第十二に、うちひさす宮にはあれとつき草のうつしこゝろはわかおもはなくに。此卷の初の、岳本天皇の御哥に、山のはにあちむらさはきゆくなれとゝあるもおなし心なり
 
692 得羽重無妹二毛有鴨如此許人情乎令盡念者《ウハヘナキイモニモアルカモカクハカリヒトノコヽロヲツクスオモヘハ》
 
上の湯原玉の歌に似たり、
 
初、うはへなきいもにもあるか。上の湯原汪の哥と大同
 
大伴宿禰千室歌一首 未詳
 
千室は系圖等未v詳、第二十にも此人の歌あり、
 
693 如此耳戀哉將度秋津野爾多奈引雲能過跡者無二《カクシノミコヒヤワタラムアキツノニタナヒククモノスクトハナシニ》
 
秋津野は大和國吉野郡にあり、雄略紀云、四年秋八月辛卯朔戊申、行2幸《イテタマヒテ》吉野宮1、庚戌幸2于河上(ノ)小野1、命2虞人《カリヒトニ》1駈v獣《シヽヲ》、欲《オホシテ》2躬(カラ)射(ント)1而|待《オタヒタマフ》、虻疾(ク)飛來|※[口+替]《クフ》2天皇|臂《タヽムキヲ》1、於v是蜻蛉忽然飛來、齧v※[亡/(虫+虫)]將去、天皇嘉2厥有(コトヲ)1v心詔2群臣1曰、爲v朕讃2蜻蛉1歌|賦《ヨミセヨ》之、群臣莫2能敢|賦者《ヨムモノ》1、天皇乃|口號曰《クチツウタシテ》、云云、因讃2蜻蛉1名2此地1爲2蜻蛉野1、下の句には兩義侍るべし、一には雲はたなびけどやがて散行消失るに、人を戀る心は常に心を離れねば雲の如く過とはなしにと云か、二つには蜻(16)蛉野に雲の立つらなる如く思ひも過やらぬとよめる歟、
 
初、かくしのみこひやわたらん。秋津野を、八雲御抄、勅撰名所抄等に、紀伊國とあるは心得す。日本紀第十四、雄畧紀云。四年秋八月辛卯朔戊申、行《イテタマヒテ》2幸吉野(ノ)宮(ニ)1。庚戌幸2于河上(ノ)小野(ニ)1。命2虞人《カリヒトニ》1駈v獣《シヽヲ》、欲《オホシテ》2躬(カラ)射(ント)1而|待《オタヒタマフ》。虻疾(ク)飛來(テ)※[口+替]《クフ》2天皇(ノ)臂《タヽムキヲ》1。於v是|蜻蛉《アキツ》忽然《タチマチニ》飛來(テ)齧(テ)v※[亡/(虫+虫)](ヲ)將(テ)去。天皇嘉(シテ)2厥(ノ)有(コトヲ)1v心。詔2群臣(ニ)1曰。爲v朕《ワカ》讃(テ)2蜻蛉(ヲ)1歌|賦《ヨミセヨ》之。群臣莫(シ)2能(ク)敢(テ)賦者《ヨムモノ》1。天皇乃|口號《クチツウタシテ》曰。○因(テ)讃2蜻蛉(ヲ)1名(テ)2此(ノ)地《トコロヲ》1爲2蜻蛉野(ト)1。今下市ときく所なりとかや。たな引雲の過とはなしにとは、雲はたなひけと、やかてちりゆき、消うするに、こふる心は、つねに心をはれねは、雲のことく過るとはなしにといへり。又雲のあとより立つゝくことく、思ひも過やらぬとよめりともいふへし
 
廣河女王歌二首
 
或物に穗積皇子之孫女、上道王之女也と系圖を連ねたり、廢帝紀に寶字七年正月甲辰朔壬子、無位廣河王(ニ)授2從五位下(ヲ)1云云、意に此人歟、但流布の續日本紀文字誤脱すれば若是廣河女王なるを女の字落たる歟、
 
初、廣河女王。廢帝紀云。寶字七年正月甲辰朔壬子無位廣河【女歟】王授2從五位下1。今の印本の續日本紀、文字脱落し、そのほかうたかはしき事あり。これも廣河女王なるが、女の字の落たるか。但廣河王といふ人の別におはしけるにや。河内に廣河といふ所あり。それを名におひたまへる歟。あるものに穗積皇子、上道王、廣河女王と系圖を出せり
 
694 戀草呼力車二七車積而戀良苦吾心柄《コヒクサヲチカラクルマニナヽクルマツミテコフラクワカコヽロカラ》
 
戀草は八雲曰、兆草寄v戀と云云、按に第十七に後の世の語らひ草とよめる類なり、詞林釆葉有v評、力車は大車なり、詩、北山之什(ニ)云、無(シ)v將《スヽムルコト》2大車1、注(ニ)大車(ハ)平地任載(ノ)之車、駕(スル)v牛(ニ)者也、色葉和難曰、重き物積む車、牛を數多かく也云云、七車とは戀草の多かるを云んとなり、積て戀らくと切て句なり、吾戀草の茂さは大なる車七つ計に積計なるは、それは人のさするにてもなし吾心から戀しきと也、ワガに車の輪をよせたり、狹衣物語に、七車つむとも、盡じ思ふにも、云にもあまる我戀草は、此の歌を取れり、第十八に、片思を馬にふつまに負せもて、越邊にやらば人かたはんかも、今の七車に似たり、
 
初、こひ草をちからくるまに七くるま。六帖には、車の題に、つみてもあまるわか心かなとあらためて載たり。ちから車は大車なり。詩北山之什(ニ)曰。無(レ)v將《スヽムル》2大車(ヲ)1。注(ニ)大車(ハ)平地任載(ノ)之車駕(スル)v牛(ニ)者也。棧車、役車、柴車なといふ此車なり。こひ草は只こひなり。草はさまさまの事につけて、いふ詞なり。此集にも、めさまし草なとよめり。こひのしけきをいふなり。ちから車は、たきゝなとをもつむ物なれは、こひのおほかるを、それにつまは、なゝくるまはかりあらんといふ心は、なゝつやつは數のおほきをいへり。こふらくとよみきるへし。此所句なり。第十八、坂上郎女か、家持越中守にて下れる時、をくれる哥に、片思ひを馬にふつま《・フトムマナリ》におほせもてこしへにやらは人かたはむ《・アタハンナリ荷コトアタハンカモアタハシナリ》かも。此哥相似たり。狹《サ》衣に、なゝくるまつむともつきしおもふにもいふにもあまるわかこひ草は。これ此哥にてよめるなり
 
(17)695 戀者今葉不有常吾羽念乎何處戀其附見繋有《コヒハイマハアラシトワレハオモヒシヲイツコノコヒソツカミカヽレル》
 
心は鯉と云程の鯉を盡しつれば今は鯉と云物はあらじと思ひしを、何處に殘れる戀のありて我身に※[爪+國]《ツカ》み懸れるぞと也、つかみかゝるは、せめくるなど云類也、第十六に戀の奴のつかみかゝりてとあるに似たり、
 
初、こひは今はあらしとわれは。月日をへし物おもひに戀といふへきほとの戀をつくしつれは、今は戀といふものはあらしとおもひしを、いつくのくまにかくれたる戀ありて、かくおそろしく、ゝま、おほかみ、わし、くまたかなとのつかみつくことくなるそと、俳諧によみたまへり。第十六、穗積親王の御哥に、家にありしひつにさうさしおさめてしこひのやつこのつかみかゝりて。これもおなし心なり。つかむは※[爪+國]攫なとなり
 
石川朝臣廣成歌一首
 
孝謙紀云、寶字二年八月朔、從六位上石川朝臣廣成授2從五位下1、官本注云、後賜2高圓朝臣氏(ヲ)1也、
 
初、石川朝臣廣成。孝謙紀云。寶字二年八月朔從六位上石川朝臣廣成授2從五位下(ヲ)1
 
696 家人爾戀過目八方川津鳴泉之里爾年之歴去者《イヘヒトニコヒスキメヤモカハツナクイツミノサトニトシノヘユケハ》
 
戀過目ヤモは、上の思過めやと云に同じ、泉ノ里は和名に水泉とかけり、山城國相樂郡也、川津鳴は泉と云はむ爲なり、他國に年ふれば故郷の妻の戀しさいやましにて思ひすぎがたしと也、此歌は寧樂より恭仁《クニノ》宮へ遷らせ給て後の作なるべし、
 
初、家人にこひ過めやも。思ひ過めやといふ同し心なり。おもひをえやり過さぬなり。泉の里は山城相樂郡なり。これは天平十二年の冬、奈良の京より恭仁の都へうつらせたまひて後、奈良京の故郷に、妻をゝきて、よめるなるへし
 
大伴宿禰像見謌三首
 
(18)697 吾聞爾繋莫言刈薦之亂而念君之直香曾《ワカキヽニカケテナイヒソカリコモノミタレテオモフキミカタヽカソ》
 
初の二句は我にきかしむるやうに君が上の事をかけてな云ひそとなり、直香とは指當りて見たる姿の意なり、後にあまたよめり、
 
初、わかきゝにかけてないひそ。われにきかしむるやうに、君かうへの事をかけてないひそとなり。かりこもは、みたるゝ物なれは、みたるといはむとていふ事、第三卷人丸哥に注せり。君かたゝ香は、君かまさ香とよめるもおなしことなり。君か事を、有のまゝにさしておもふなり。管見抄に、香はものをほむるには何にも香といふなり。君かことをいふにつけて香とはいふなりといへり。さも侍なんや。いまたかんかへす。たゝ香、集中におほきことはなり
 
698 春日野爾朝居雲之敷布二吾者戀益月二日二異二《カスカノニアサヰルクモノシクシクニワレハコヒマスツキニヒニケニ》
 
雲の立つゞくをシク/\といへり、
 
初、かすか野に朝居る雲のしく/\に。日本紀に、重浪とかきてしきなみとよみたれは、しく/\は重々なり。またしきりなり。それはかならす急なる事をのみいふにあらす。累年連年なと書て、しきりのとしとよむ時のことし
 
699 一瀬二波千遍障良比逝水之後毛將相今爾不有十方《ヒトセニハチタヒサハラヒユクミツノノチモアハナムイマニアラストモ》
 
一瀬二波千遍障良比、【六帖瀬、ヒトツセニナミチヘサハリ、】  今爾、【六帖、瀬、イマニ、同、契る、ケフニ、】
 
仙覺云、此歌古點にはひとつせに、なみちへさらひゆくみづの、のちにもあはむ今にあらすともと點ぜり、第一二の句の和然るべしとも見えず、さらひと云へるも作例もなし、仍和換云、ひとせにはちたびさはらひゆく水の、後もあはなん今にあらずとも、按初の二句仙覺の點好、第四の句は古點叶へり、又六帖瀬に入れたるよみやうもよし、其故は此歌は崇徳院の、瀬を早み石にせかるゝ瀧川の、われても末にあはむとぞ思ふとよませ鈴へると同じ意なれば、末遂にあはむとみづから期するなり、仙覺(19)の點にては人にねがふ意にて叶はず、第十一に、鴨川の後瀬しづけみ後もあはむ、妹には我はけふならずとも、此歌をも思ふべし、第一二の句の和然るべしとも見えずと云はれたれば末は同心なるを流布の本誤て後もあはなむとかけりと救ふべき歟、然らば一二の句のみ摘て擧らるべきに具足してかゝれたれば、一二の句をむねと叶はずと云ひて四の句も心にあはざりけるにこそ、
 
初、ひとせにはちたひさはらひ。さはらひは、さはるなり。のちもあはなん。此點はよろしからす。のちにもあはむとか、のちもあひなんとかよむへし。後もあはなんとは、人にねかふ詞なり。但かくなんこれなんなといふ語の助はまたかはれり。ねかふ詞にあらねは、てにをはかなはす。此哥すへての心は、崇徳院の、せをはやみ岩にせかるゝ瀧川のわれても末にあはむとそおもふ。此御哥の心とおなし
 
大伴宿禰家持到娘子之門作歌一首
 
上の娘子なるべし、
 
700 如此爲而哉猶八將退不近道之間乎煩參來而《カクシテヤナホヤカヘラムチカヽラヌミチノアヒタヲナツミマイリテ》
 
將退、【六帖、マカラム、】
 
猶ヤと云にてさきにも度々徒に皈られたりと見えたり、參來而は今按マヰキテとよむべし、第十九に此人、ふる雪を腰になづみてまゐりこしとよまる、參來之とかけり、
 
河内百枝娘子贈大伴宿禰家持歌二首
 
(20)701 波都波都爾人乎相見而何將有何日二箇又外二將見《ハツハツニヒトヲアヒミテイカナラムイツレノヒニカマタヨソニミム》
 
ハツ/\は第十一に小端とも端々ともかけり、落句は又よそにも見むなり、第三に滿誓の月の歌に云が如し、
 
初、はつ/\に人をあひみて。たとへはきぬなとをたつにやう/\きるはかりありてたちあはするをはつはつとはいふなり。此集末にいたりて、端々とかきてはつ/\とよめり。しかれは、しはしか間人にあひて、相見たらぬ心なり。いつれの日にか又よそにみんとは、はつ/\にみて、あきたらぬたにあるを、かくして、またいつれの日かよそ人にみなさんとおほつかなくおもふなり。又此集は、詞くはしからぬやうなるもあれは、よそにみんとよめるも、よそなからもみんといふ心にや
 
702 夜干玉之其夜乃月夜至于今日吾者不忘無間苦思念者《ヌハタマノソノヨノツキヨケフマテニワレハワスレスマナクシオモヘハ》
 
其夜とは上の歌のはつ/\に相見し夜なり、おぼゆべき程の事にもなかりしかども、切に思ふ故に今までも忘ずとなり、
 
巫部麻蘇娘子歌二首
 
文武妃に巫部宿禰博士と云人あり、
 
初、巫部麻蘇。文武紀云。巫部(ノ)宿禰博士
 
703 吾背子乎相見之其日至于今日吾衣手者乾時毛奈志《ワカセコヲアヒミシソノヒケフマテニワカコロモテハヒルトキモナシ》
 
落句はホストキモナシとも讀べし、
 
704 栲繩之永命乎欲苦波不絶而人乎見欲見社《タクナハノナカキイノチヲホシケクハタエステヒトヲミマクホリコソ》
 
栲繩は永きと云詞まうけむためなり、此歌二つの心あり、一つには、永き命のほしく(21)思ふ故は絶ず人を相見まくほしきが爲にこそあんなるを、かく見る事もなければ永き命も何せむの心とも聞ゆ、二には、上に此比に千歳や行も過ぬるととよめる如、逢はぬ間は暫も久しくおぼゆれば若永き命のほしき人あらば我が如く絶ず人を戀て相見まくほしう思てのみあれ、日も暮がたく夜も明がたくておのづから命の長きこゝちするぞと教ふるやう讀て、實には逢ことを待侘る由を極てつよくよめる歟、
 
初、栲繩。神代紀下云。又汝應往天日隅者、今當供造、即以千尋栲繩、結爲百八十紐。たくはたくるなり。なはゝたくるものなれは、たくなはといへり。此哥はさきの坂上郎女の歌に、この比にちとせや行も過ぬるとゝいへることく、あはぬ間は久しくおほゆれはもしたくなはのことく、なかき命のほしからむ人あらは、あひもみす、たえもせすして、人をあひみまくほしくてのみ、こひをれといふ心なり。一日(モ)不(レハ)v見如2三歳(ノ)1兮といふ心を、みつからおほえて、あふことをいたく待わふるよしを、つよくいはむとてなり
 
大伴宿禰家持贈童女歌一首
 
705 葉根※[草冠/漫]今爲妹乎夢見而情内二戀度鴨《ハネカツライマスルイモヲユメニミテコヽロノウチニコヒワタルカモ》
 
仙覺云、はねかづらとは花かづらなり、花を以て餝たる鬘なり、な〔右○〕とね〔右○〕と同内相通なり、以上袖中抄の義と同じ、今按集中にはねかづら今する妹とつゞけよめる歌四首あり、此外ははなかづらとよめる歌なし、花鬘ならば唯はなかづらと詠ずべし、さねかづらをさなかづらとも通はし云事はあれど未だ花をはねと通はし云へる例なし、此は鬘の飾にはねたる物などの著たるを初て簪する女の懸る歟にて本よりはねかづらと云一種の名なるべし、第十二に、紫の色の鬘の花やかに、今見る妹を後こ(22)ひむかもとよめるも、若此はねかづらにや※[草冠/漫]は※[草冠/縵]に作るべし、夢ニ見テとはうつゝに見ながらほのかなりつるを、夢とは云ひなされたるべし、
 
初、はねかつら今する妹。はねかつらは、花かつらなり。なとねと音通すれは、花をはねといへり。かつらは、女のかんさしすることなり。其かむさしのかさりに、花を作る物なれは、かくいへり。今する妹とは、今始てかむさしする女なり。童女にをくる哥なれはなり。第七にも、はねかつら今する妹をうらわかみいさいさ《・率》川の音のさやけさとよめるも、初の二句今とおなし
 
童女來報歌一首
 
706 葉根※[草冠/縵]今爲妹者無四乎何妹其幾許戀多類《ハネカツライマスルイモハナカリシヲイカナルイモソコヽタコヒタル》
 
初て花鬘すると云を、我身いまだ童女なればよそになして、其夢に見給ひしは何處の妹にてあまた戀給ふらむ、うつゝにはさばかり戀給ふべき妹はなかりし物をとなり、
 
初、はねかつらいまする妹はなかりしを。童女か返しの心は、はしめて花かつらするといふを、わか身また童女なれは、よそになして、そのはしめて花かつらする妹を見たまひし夢は、いつくの妹にて、あまたこひたまふらん。うつゝには、さるこひたまふへき妹は、なかりしものをとなり
 
粟田娘子贈大伴宿禰家持歌二首
 
707 思遣爲便乃不知者片※[土+完]之底曾吾者戀成爾家類《オモヒヤルスヘノシラネハカタモヒノソコニソワレハコヒナリニケル》
 
發句は思ひをやり過すなり、片※[土+完]は延喜式第一云、供2神今食(ノ)料1土(ノ)片|※[土+完]《モヒ》廿口、同三十二大膳式上云、松尾神祭雜給料片|※[土+完]《モヒ》八十七口、大原野祭雜給料片|※[土+完]《モヒ》四十八口、和名集云、説文云、※[怨の心が皿]、【烏菅反、字亦作v椀、辨色立成云、末里、俗云毛比、】小盂也、六帖には片戀と云に入れて、かたこひの底にぞと有は紀氏が比までは片※[土+完]を知べければかたもひと有けむを、後に傳へ寫す時(23)片※[土+完]を知らぬ者題に依るにかたこひなるべしとて押て改ためけるにや、思ふを上略してもふ〔二字右○〕とよめる事集中に多ければ、片思を片※[土+完]の名によせて深く戀沈むを底にこひなるとはよめるものなり、
 
初、おもひやるすへのしらねは。おもひやるは、おもひをやるなり。かたもひは、延喜式第一、供神今食料。土(ノ)片|椀《モヒ》廿口。同三十二(ニ)大膳上(ニ)松尾神祭雑給料。片|※[土+完]《モヒ》八十七口。大原野祭(ノ)雑給料。片|※[土+完]《モヒ》四十八口。和名集云。説文云。〓【烏管反。字亦作v椀。辨色立成云。末里。俗云毛比】小盂也。管見抄に、|※[土+完]とは、土にて作り、それを燒て、食物なともる碗の事なり。そこふかき物なれは、かくいへり。片は上に注することく、只助語なれは心なし。今案上に延喜式を引ことく、もとよりかたもひといふもの有。俗に片口といふ物有。此ことにや。助語といへるは、いまたかんかへさりけるなり。かたおもひなれは、かたもひによせたり
 
708 復毛將相因毛有奴可白細之我衣手二齋留目六《マタモアハムヨシモアラヌカシロタヘノワカコロモテニイハヒトヽメム》
 
又相見る由もありぬかし、人の袖を取持て絶ず逢べきまじなひして我袖に齋留めんとなり、第十五狹野茅上娘子が歌にも、白妙のあが衣手を取持て、齋へ我背子直に逢までにとよめり、
 
初、またもあはむよしもあらぬか。此集に、かやうにいへるには、ねかふ心あり。またあふよしもあるましきか、あれかしといはむかことし。いはひとゝめむとは、いはひて、あふへきことをましなひとゝめて、そのゝち又々あはむなり
 
豐前國娘子大宅女歌一首
 
官本傍注云、未v審2姓氏1、第六云、豐前國娘子月歌一首、【娘子、字曰2大宅1、姓氏未v詳也、】かくあれば官本の今の注は後人の所爲なるべし、其故はまことには初に能注して後にはさて置べき理なれど一准なら偶事あり、坂上大伴郎女が事も、第三には注せずして此卷に委注せるが如し、
 
初、豐前國娘子。第六云。豊前國娘子月歌一首【娘子字曰2大|宅《ヤケ》1姓氏未v詳也】
 
709 夕闇者路多豆多頭四待月而行吾背子其間爾母將見《ユフヤミハミチタツタツシツキマチテユカムワカセコソノマニモミム》
 
行吾背子、【別校本云、イマセワカセコ、】
 
初、行吾背子。これをゆかむわかせことよめるはあやまれり。ゆかせとよむへし。月まちてゆけなり。又ゆけやともよむへし
 
(24)安都靡娘子歌一首
 
710 三空去月之光二直一目相三師人之夢西所見《ミソラユクツキノヒカリニタヽヒトメアヒミシヒトノユメニシミユル》
 
夢ニシのし〔右○〕助語なり、
 
丹波大娘子歌三首
 
目録に大女娘子とあり、此には女の字落たり、丹波國と云はざれば丹波は氏なり、第二の歌も亦證なり、
 
初、丹波大娘子。目六に大女娘子とあり。こゝにはおとせり
 
711 鴨鳥之遊此池爾木葉落而浮心吾不念國《カモトリノアソフコノイケニコノハオチテウカヘルコヽロワカオモハナクニ》
 
上の句はうかべると云はん序なる中に、鴨鳥の池に遊て浮べる心とつゞくるに、折節木の葉も散れば鴨鳥の池に遊て木の葉と共に浮べる心とつゞけたるか、又鴨鳥の木の葉の如くうかべると二重につゞくる歟、又木の葉も落て散うかべるとつゞけて、鴨は用なけれど彼が渡り來て池に遊ぶ比なればかざりに云へるか、ウカベルは、浮虚にて實なきなり、
 
初、かも鳥のあそふ此池に。此上の句は、下にうかへるといはんための序なり。上の句の中にも、猶鴨は用なし。さきにをみなへしさく澤におふる花かつみといへる心におなし。木の葉のおちて池にちりうかふ比鴨もわたりきてあそへは、かくはつゝくるなり。うかへるは浮虚にて、まことなきなり
 
(25)712 味酒呼三輪之祝我忌※[木+久]手觸之罪歟君二遇難寸《ウマサカヲミワノハフリカイハフスキテフレシツミカキミニアヒカタキ》
 
忌杉、【官本亦云、イハヒスキ、】
 
味酒呼は、うまざけのと云べきを、同韻にて通ずればかくも云へり、忌杉は、輕の社の齋槻《イハヒツキ》とよめるに例せば、イハヒスギとよめろも然るべし、三輸の杉は神木なれば祝部等が注連など引て齋ひおけるを吾が誤て手を觸つることの有しが、其罪を神のとがめさせ給ひてや戀侘ても君には逢がたかるらむとなり、上に神樹にも手は觸てこそとよまれたるも、なみ/\にては手觸ぬ心なり、三輪の杉は、第七の旋頭歌にも、みぬさ取みわの祝がいはふ杉原とよめり、
 
初、うまさかをみわのはふりか。みわ山の杉は、神木にて、神のやとらせたまへは、はふりらか、しめなと引て、いはひをけるを、わかあやまりて手ふれつることのありしが、その罪に神のたゝらせたまふゆへにや、わかいのることのかなはすして、君にあふことのかたかるらんとなるへし。第七の旋頭歌に、みぬさとるみわのはふりかいはふすきはらたきゝこりほと/\しくにてをの《・手斧》はとられぬ。さきに大伴卿の哥に、さかきにも手はふるてふをとよめり。うまさかをみわとつゝくは、うまさけのみわなり。此集に同韵相通していへる事おほし。みはかしのつるきの池といふへきを、みはかしをつるきの池とよめるかことし
 
713 垣穗成人辭聞而吾背子之情多由多比不合頃者《カキホナスヒトコトキヽテワカセコカコヽロタユタヒアハヌコノコロ》
 
垣穗成は垣穗は只垣なり、垣穗、石穗など云穗もいはゞ故有ては添へて云なるべけれど沙汰せる事もなきか、垣は物を隔る物なれば思ひ合へる男女の中をとかく云ひへだつるを垣穗成人辭とはいへり、第九にもかきほなす人の横言とよめり、
 
初、かきほなす人こときゝて。垣ほはものをへたつるものなり。なすはさき/\もいへることく、日本紀に如の字をなすとよめれは、かきほのことき人ことなり。又日本紀も、かならす文字にかゝはらす、心を得てよみたる事もあれは、かきほをなすと、成の字の心をすなはち用ても心得へし。思ひ合むとする男女の中を、とかくいひへたてゝ、遠さくるを、かきほなす人ことゝいへり。第九に、かきほなす人のよこゝとしけきかもあはぬ日あまた月のへぬらん。第十一にも、かきほなす人はいへともなとよめり。たゆたふは、猶豫の字をよめるにて知ぬへし。垣ほのほの字は、助語歟。岩をもいはほといふにおなし
 
大伴宿禰家持贈娘子歌七首
 
(26)714 情爾者思渡跡縁乎無三外耳爲而嘆曾吾爲《コヽロニハオモヒワタレトヨシヲナミヨソニノミシテナケキソワカスル》
 
此中の三句、或下の歌、並に下の坂上郎女が、早河之湍爾居鳥之縁乎奈彌とよめる歌を引合せて按ずるに、年月を思渡れど逢べき由のなきと云に佐保河を渡るべき由のなきと云事を兼たり、
 
初、心にはおもひわたれとよしをなみ。よしをなみとはあふへきより處なきなり。下に献2天泉1哥に、あし引の山へにをれはよしをなみといふには心かはれり。それはそこに注すへし
 
715 千鳥鳴佐保乃河門之清瀬乎馬打和多思何時將通《チトリナクサホノカハトノキヨキセヲウマウチワタシイカニカヨハム》
 
何時、【新勅撰六帖共云、イツカ、幽齋本同v此、】
 
何時をイカニと點ぜるは集中の例にも違ひ、文字にも叶はず、六帖等に任せて改たむべし、六帖に瀬をひろみこま打わたしとあるは、清き瀬聞にくからねど、清きと云詞の要ならぬによりて廣みに改たるか、新勅撰も六帖の如くにてこま打かはしとあるのみかはれり、
 
716 夜晝云別不知吾戀情盖夢所見寸八《ヨルヒルトイフワキシラスワカコフルコヽロハケタシユメニミエキヤ》
 
夜晝の替るをさへおぼえずいたく戀れば、我が魂の君が夢に入て見ゆるやとなり、
 
717 都禮毛無將有人乎狩念爾吾念者惑毛安流香《ツレモナクアルラムヒトヲカタオモヒニワレシオモヘハマトヒモアルカ》
 
(27)狩念爾、【官本或狩作v獨、】
 
狩は獨の字をたがへたるなり、第十第十一にかたこひを獨戀、かたおもひを獨念とかけり、惑毛は按にワビシクモとよむべし、第九に過2葦屋處女墓1歌の中に惑人をワビヒトとよみ、第十の秋歌に、惑者をワビヒトとよめり、古事記云、須勢理※[田+比]賣命甚(ハタ)爲2嫉妬1、故其(ノ)日子遲《ヒコヂ》神和備弖【三字以v音、】云云、かゝればわぶるは神代よりの詞なり、菅家萬葉集には侘の字を用させ給へり、今の世これに效へり、
 
初、狩念爾。狩は獨の字の誤なり。後にもかたこひ、かたおもひに、獨の字をかけり。惑の字はわひしくともよむへし。第九に惑者とかきて、わひ人とよめるゆへに
 
718 不念爾妹之咲※[人偏+舞]乎夢見而心中二燎管曾呼留《オモハヌニイモカヱマヒヲユメニミテコヽロノウチニモエツヽソヲル》
 
咲※[人偏+舞]は、ゑみを古語にゑまひと云なり、※[人偏+舞]は假て用たり、後には咲の字ばかりをもよみ、又咲容ともかけり、俗にゑがほともわらひがほとも云てあいぎやうの先とす、モエツヽとは思ひにもゆるなり、六帖には此詞縁なしと思へるにや、こふる此比とて入れたり、
 
719 丈夫跡念流吾乎如此許三禮二見津禮片思男責《マスラヲトオモヘルワレヲカクハカリミツレニミツレカタオモヒヲセム》
 
丈夫、【官本丈作v大、】
 
第十二にも此上句と同じ歌あり、吾乎は吾にて有をなり、三禮は第十夏詠v花歌にも(28)よめり、日本紀の中にも羸の字をアツレと點ぜる所あり、古點阿をも美をも片假名にア〔右○〕、如此書て紛るゝ事多ければ羸は阿豆禮か美豆禮か習傳たる人に尋ぬべし、美豆禮ならば云にも及ばず、彼はたとひ阿豆禮なりとも今のみつれも思ひにやつれつかるゝ意なり、みつれは此集にあり、あつれは日本紀に篤※[病垂/隆]をアツエヒト、彌留をアツシレと點じたれば、此ふたつの中にあつれとも云ぬべく見ゆるによりておぼつかなし、落句に物かの詞をそへて意得べし、
 
初、ますらをとおもへるわれを。俗にわれもをとこひとりといふかことし。みつれは、日本紀に、羸の字をみつれとよめり。やつれつかるゝなり。責は將v爲《セム》にかりてかけり
 
720 村肝之於摧而如此許余戀良苦乎不知香安類良武《ムラキモノコヽロクタケテカクハカリワカコフラクヲシラスカアルラム》
 
於摧而、【官本於作v情、】
 
於の字は、字書を考るに心と同じく訓ずべき義見えず、しかれども上と同じく宇倍と訓すべき義も見えねど宇倍とよめば、古人故有てかけるなるべし、我戀ラクヲは我が懸るをなり、
 
初、むらきもの心くたけて。むらきもの心は、第一卷軍王の哥に注せり。遊仙窟云。心肝《・キモ》(ノ)恰(カモ)欲v摧(ケント)。又云。下官《ヤツカレ》當(テ)v見(ルニ)2此詩(ヲ)1心膽倶(ニ)碎(ク)
 
獻 天皇歌一首
 
官本傍注云、大伴坂上郎女、在2佐保宅1作也、下にも、獻2 天皇1歌二首とて作者をしるさるゝに亦官本に此郎女が歌と注す、げにも六帖に大伴坂上郎女とあれば今の(29)注も官本の如くなりけるを落せるにや、
 
初、獻2 天皇1歌一首。下に亦獻2天皇1歌とて二首あり。ともに作者を出さす。又注もなし。昔より此まゝなりけるにや
 
721 足引乃山二四居者風流無三吾爲類和射乎害目賜名《アシヒキノヤマニシヲレハヨシヲナミワカスルワサヲトカメタマフナ》
 
山ニシのし〔右○〕は助語なり、風流は今按第二に風流士をタハレヲと讀たれば、此にもタハレと讀べき歟、たはれをといはざれど六帖にたはれやせまし身の若き時ともよめり、ヨシはゆゑの心にて風流の字には叶はざる歟、世に由ある人と云も假令賤しき者の中に交り居たれど家居も人の品情ある樣にてさすが目にたゝぬ程なるを云へり、風流の人と云は由ある人と云よりはやゝ華麗にみやびたる方をもてつけたるを云にや、猶やがてミヤビナミとも義訓すべきか、文選等にあまたの字をミヤビと訓じたるは皆都びたる事を義訓せり、此歌は若帝より艶書など賜たる時仰にも隨がはず御返事奉るに付て讀て奉る歟、或は處につけたる物など奉るにそへたる歟、
 
初、よしをなみ。風流無みとかけるは、山にをるゆへに、みやひたるかたをしりまいらせねは、風流ならすとて、とかめ給ふなとなり。もしこれは、山邊より、何にてもみかとへたてまつるとてよめるにや。よしある人なといふ時は、此風流の字の心なり
 
大伴宿禰家持歌一首
 
722 如是許戀乍不有者石木二毛成益物乎物不思四手《カクハカリコヒツヽアラスハイハキニモナラマシモノヲモノオモハスシテ》
 
(30)大伴坂上郎女從跡見庄贈賜留宅女子大孃歌一首井短歌
 
延喜武神名帳を見るに、大和國城上郡と添下郡と兩郡に等彌神社あり、其中に跡見庄は城上郡なり、基故は第八に又此庄にてよまれたる歌あるに、吉名張の猪養の山に伏鹿の、妻呼音を聞が乏しさ、此よなばり城上と宇※[こざと+施の旁]と兩郡に亘る事第二に注するが如し、神武紀云、長髓是邑之本號焉、因亦以爲2人名1、及3皇軍之得2鵄瑞1也時人仍號2鵄邑(ト)1、今云(ハ)2鳥見1是訛也、舊事本紀云、饒速日尊禀2天神御祖詔1乘2天盤船1而天降坐2敦河内國河上※[口+考]峰1、則遷坐2於大倭國鳥見白山1、守屋大連を射し跡見赤檮は此地の名を姓とせるなるべし、贈賜は今按家持の私撰の故なり、
 
初、跡見庄。神武紀云々。鳥見といへるは、此集の跡見なり。守屋を射たる跡見赤檮《トミノイチヒ》か氏も、此所より出けるなるへし。又神武天皇此處にて、天神地祇をまつらせたまひけるよしも見えたり
 
723 常呼二跡吾行莫國小金門爾物悲良爾念有之吾兒乃刀自緒野干玉之夜晝跡不言念二思吾身者痩奴嘆丹師袖左倍沾奴如是許本名四戀者古郷爾此月期呂毛有勝益士《トコヨニトワカユカナクニコカナトニモノカナシラニオモヘリシワカコノトシヲヌハタマノヨルヒルトイハスオモフニシワカミハヤセヌナケクニシソテサヘヌレヌカクハカリモトナシコヒハフルサトニコノツキコロモアリカテマシヲ》
 
(31)刀自緒、【幽齋本云、トシヲ、】
 
常呼は、此上の大伴三依がよめる常世とは替れり、舊事紀云、天照太神謂2素戔烏尊1曰、汝《イマシ》猶有2黒《キタナキ》心1、不v欲2與v汝相見1、乃入2于天|窟《イハヤ》1閉《サシテ》2磐戸1而|幽居《カクレマス》焉、故《カレ》高天(ノ)原皆闇、亦葦原(ノ)中國(ノ)六合之《クニノ》内、常闇《トコヤミニシテ》不v知2晝夜之|殊《ワキヲ》、故《カレ》萬神之聲如2狹蠅1鳴、萬妖悉發、往2常世國1、日本紀第一云、其(ノ)後少彦名命行(テ)至2熊野之御|碕《サキニ》1、遂適2常世郷1、第三(ニ)云、三毛入野(ノ)命亦恨(テ)之曰、我(カ)母《イロハ》及姨並是海神、何爲起2波瀾《ナミヲ》1以|灌溺乎《オホホスヤトイヒテ》、則蹈(テ)2浪秀《ナミホヲ》1而|往《イテマシヌ》2乎常世|郷《クニ》1矣、第十四雄略紀云、不(リキ)v謂(ハ)※[しんにょう+講の旁]疾|彌留《アツシレテ》至2於|大漸《トコツクニニ》1、内典の釋に世隱覆義と云へるが如し、生死を長夜とも云へり、舊事紀に天照大神天窟に入らせ給ふ時六合之内常闇云云とあるを内典に云に引合すれば世と夜と和訓を同じうするは常闇の意に叶へり、かくて一二の句は死して冥途にもゆかぬをなり、小金戸は安康紀に、天皇いまだ穴穗皇子にてまし/\ける時の御歌の句に、※[言+可]那杜加礙《カナドカゲ》、此句を私記に釋して云く、師説、古(ハ)以2金鎖1天子門戸|乎《ヲ》久左禮利《クサレリ》、故曰2※[言+可]那杜加礙1、謂2門戸之蔭1也、今按私記の説不審なり、門をかどとよむは金戸の略語にて具に云時かなどと云にや、かねは※[手偏+總の旁]名にて、金銀銅鉄の類皆金と云へば、扉、柱などを或は堅め、或は装《カサ》るが爲に鐵の金物をうてば鉄《カナ》戸と云なるべし、既に大前宿禰の門を※[言+可]那杜《カナド》とよませたまへるを禁門の金鎖と注する忽に相違せり、此集こゝに(32)よみ、第九に上總末珠名娘子をよめる歌の反歌にも金門にし人の來立ば云云、第十四東歌にも、兒呂家可奈門欲とよめる、此等賤しき家主でも門をかなどゝ云べき證なり、物悲シラは物侘しらにとも妹戀しらにともよめる如くら〔右○〕は助語にて物悲しげにの意なり、念有之は日本紀に色の字をオモヘリと點じたるは思ふ所を云はねども顔色に見ゆれば意を得て義訓せり、今も其意なり、伊勢物語に、何方に求ゆかんと門に出てとみかうみ見けれど、いづこをはかりともおぼえざりければ皈り入とてかけるわたりこゝに似たり、吾兒乃刀自緒は、刀自は女の※[手偏+總の旁]名又は老女の名なり、今は娘を指せば※[手偏+總の旁]名を取なり、允恭紀云、壓乞戸母《イテトシ》、其|蘭《アラヽキ》一|莖《モト》焉、【戸母此(ヲハ)云2覩自(ト)1、】此は允恭天皇の后忍坂大中姫命のまだをさなくで家におはしける時、闘?《ツケノ》國造があなどりて申ける詞なり、戸母とかゝれたるも民戸の老母と云意なれば腹|立《タヽ》せ給へる事紀に具なり、されど夫人をおほとじとよむ時はしからねば一※[既/木]すべからず、和名云、負【俗作2戸自1、】劉向(カ)列女傳云、古語(ニ)老母爲v負、漢書、五娼〔二字左○〕【正辭云、和名には此の如し、原書には王媼に作る、】武負位〔左○〕【正辭云、これまた」原書には注に作る、】引之、今按俗人謂2老女1爲2刀自1、字從v自也、今訛(テ)以v貝爲v自歟、【今案和名、度之、】今按史記、陳丞相世家にも張負が事あり、絳侯周勃世家にも許負が事有て索隱の説和名に引れたるに意同じ、順の料簡にはおぼつかなき所あり、刀自を、昔一字に※[刀/自]と書ける歟、今殘れ(33)る和書には見えぬにや、※[刀/自]と書とも白水郎を泉郎とかき、麻呂を麿とかく類なり、負の字を訛れるにはあらず、戸母此(ヲハ)曰2覩自(ト)1と允恭紀にある明證なり、緒をノ〔右○〕と點ぜるは寫生の訛なり、改むべし、六帖わぎもこの歌に、ひたすらに我がゆかなくに門庭と、うら戀しらに妹たてる見ゆとあるはこの歌の此處までを斷てよめる歟、念二思、歎丹師、本名四、此三つのし〔右○〕は皆助語なり、落句は有かねまじなり、て〔右○〕とね〔右○〕同韻にて通ぜり、此跡見庄に此月の程も有かぬべければ早くそこの坂上宅に皈らむとなり、
 
初、とこよにとわかゆかなくに。日本紀第一云。其(ノ)後少彦名(ノ)命行(テ)至(テ)2熊野之|御碕《ミサキニ》1、遂適《イテマシヌ》2常世郷《》トコヨノクニヽ1。第三云。三毛入野《ミケイリノヽ》命亦恨(テ)之曰(ハク)。我(カ)母《イロハ》及(ヒ)姨(ハ)並(ニ)是(レ)海神(ナリ)。何爲《イカンソ》起(シテ)2波瀾(ヲ)1以灌(キ)溺(ラスヤ)乎。則蹈(テ)2浪秀《ナミホラ》1而往2乎|常世郷《トコヨノクニヽ》1矣。同十四、雄畧紀云。不(キ)v謂《オモハ》〓疾彌留《・ヤマヒシ》《アツレテ》至(ラント)於|大漸《・トコツクニヽ》1。此雄畧紀をもてこゝろうるに、少彦名命三毛入野命の常世郷に往たまふといふも、表はまつ神さりたまふをいへるなるへし。こゝも、わかるとてわがまた歸りこぬ黄泉におもむきたる身にてもなきにといへるこゝろなり。小かなとは小門なり。顧野王案在(ルヲ)2城郭(ニ)1曰(ヒ)v門(ト)在(ヲ)2屋堂(ニ)1曰(フ)v戸(ト)。かとの戸ひら、柱なとのかさりに、金物作りて、つくるものなれは、金門といふなり。しかれは門をかとゝいふは、金戸《カナト》といふの畧語とそ聞えたる。ものかなしらにおもへりし、かなしらはかなしけになり。わひしらに、こひしらになといふたくひなり。日本紀に、色といふ字をおもへりとよめるは、用をもて體になつけたり。論語に色難(シ)とあるを、二義をもて釋する時、父母の色をうくるこゝろの時は、允恭紀によめるおもへりなり。女の身なれは、はしり出て見をこする事もえせて、小門まて立出て、わかかたを見おこすらんことを、おもひやりていふなり。わか子のとしを、刀自は此卷の初に、吹黄刀自といふ下に尺せり。老女の名なれと、またすへて女に通するなるへし。おもふにし、なけくにし、もとなし、此三のしもしみな助語なり。ありかてましを、ありかねましをなり。かて清てよむへし。此跡見庄に、此月のうちも有かぬへし。早く坂上の家にかへらんなり。和名集云。大和園城上郡、登彌《トミノ》神社。かゝれは跡見庄は城上郡なり
 
反歌
 
724 朝髪之念亂而如是許名姉之戀曾夢爾所見家留《アサカミノオモヒミタレテカクハカリナニノコヒソモユメニミエケル》
 
朝髪はねくたるれば亂てと云はんため也、名姉之戀曾《ナニノコヒゾ》、按に此句ナネガコフレゾと點じ替べし、其故は姉を上畧すればね〔右○〕となる、名は、なせ、なにも、なね、かくの如く人を敬て呼時の詞なり、姉と云は※[手偏+總の旁]じて女を貴ぶ詞なり、第九には妻を妹なねとよめり、されば娘なれども對して讀て贈ればなねと云、こふれぞはこふればぞなり、カクバカリとは大方に我をこひばさしも夢には見え來じを、頻に見ゆるにて知ぬ、此夢に見ゆる程こそ戀らめの意なり、
 
初、朝髪のおもひみたれて。ねくたれ髪は、みたるゝ物なるゆへに、たとへていへり。待賢門院堀川か、長からん心もしらすくろかみのみたれてけさはものをこそおもへとよめるもおなし
 
(34)右歌報賜大孃 歌也
 
官本孃の下に進あり、此注の賜、進の二字も亦家持私撰故なり、
 
獻 天皇歌二首
 
官本此下注云、大伴坂上郎女在2春日里1作也、今按今の本に此注落ちたる歟、又昔より別本ありける歟、六帖に二首共に載たる中に後のを鴨の歌として作者を大伴坂上郎女と付たり、
 
725 二寶鳥乃潜池水情有者君爾吾戀情示左禰《ニホトリノカツクイケミツコヽロアラハキミニワカコヒコヽロシメサネ》
 
二|寶《ホ》は和名云、※[辟+鳥]※[遞の中+鳥]、此集中には假名にものみかけり、潜はクヾルも讀べし、六帖並に別校本に、スダクとあれど改たるにや、此字其義にあらざれば取らず、示サネは示せなり、にほ鳥はいかに深き池にも底まで潜き入を、我が戀奉る心の深さをば君はにほの潜て知やうにも知しめさねば、池水もし心ある物ならば如何にもして我戀を表して深さを君に見せ奉れとなり、
 
初、にほ鳥のかつく池水。和名集云。※[辟+鳥]※[遞の中+鳥]【辟低二音。和名邇保。】にほ鳥は、いかにふかき池のそこにもかつきいるを、わかこひ奉る心のふかさを、君はにほのことくもしろしめさねは、池水もし心あるものならは、わか戀を表して、ふかさをしめし奉れなり。しめさねはしめせなり
 
726 外居而戀乍不有者君之家乃池爾住云鴨二有益雄《ヨソニヰテコヒツヽアラスハキミカイヘノイケニスムトイフカモニアラマシヲ》
 
(35)住云、【六帖云、スムテフ、】  鴨二有益雄、【六帖云、カモナラマシヲ、】
 
大伴宿禰家持贈坂上家大孃歌二首【離絶數年後會相聞徃來】
 
727 萱草吾下紐爾著有跡鬼乃志許草事二思安利家理《ワスレクサワカシタヒモニツケタレトオニノシコクサコトニシアリケリ》
 
袖中抄云、鬼のしこ草とは別の草の異名にあらず、萱草をば忘憂草と云て憂を忘るゝ草なれば忘草とは云なり、されば戀しき人を忘れむ料に下紐に著たれど更に忘るゝ事なし、忘草と云名は唯|言《コト》にこそ云ひけれ、猶戀しかりけり、されば此忘草は鬼のしこ草なりけりと云心は、鬼とは實の鬼にはあらず、わるしと云詞也、しこと云もわるしと嫌ふ詞なり、日本紀第一云、不須《イナ》也|凶目※[さんずい+于]穢《シコメキキタナキ》之|處《トコロ》云云、醜女と書てもシコメとよめり、さればしことはわろき心なり、今按此釋明なり、未猶事長けれど紫※[草がんむり/宛]ぞなど云無用の説煩らはしければ引かず、第三に大伴卿、萱草わが紐につくとよまれ、第十二にもさよめり、又萱草垣もしみゝに殖たれど、鬼のしこ草言にし有けりとよめる歌引合て見るべし、事ニシのし〔右○〕は助語なり、
 
初、わすれ草わか下ひもにつけたれと。わすれ草は萱草なり。第三に大伴卿の、わすれ草わか紐につくかく山のふりにし里をわすれぬかためといふ哥に尺しつ。第十二に又、わすれ草我ひもにつく時となくおもひわたれはいけりともなし。毛萇か詩傳にも、文選※[禾+(尤/山)]康か養生論の注なとにも、憂をわするとは有て、紐につくといふ事は見えねと、本朝の習に、しのひに下紐に著て、しるしを頼けるなるへし。鬼のしこ草は、管見抄云。先達紫苑のことにいへる説多し。顯昭法師袖中抄にいへる、そのことはり尤可信。鬼はかたちみにくきものなり。しこは醜の字、日本紀にしこめきゝたなき國といへること有。鬼のしこはかさね詞の趣なり。忘れ草といへとも、えわすれねは、きたなき草なりとそしる心なり。今案第十二に、わすれ草垣もしみゝにうゑたれとおにのしこ草猶こひにけり。これもおなし心なり。ことにし有けりは、しは助語にて、ことはのみに有けり。わすれ草の名かひなしとなり。第二卷|舎人《トネリノ》親王の、ますらをやかた戀せんとなけゝともしこのますらを猶こひにけりといふ御哥の注に、遊仙窟を引しかことく、おにのしこ草は、まことに罵《ノル》ことはなり。上のますらをゝのりて、しこのますらをとのたまへるかことく、此哥も、上句にいへるわすれ草を、しこのわすれ草と、のれる事、ことはり明なり。此集中に、猶しこほとゝきすなといへる事おほし。紫苑といふ説は、俊頼朝臣よりはしまる歟。秀逸の歌人はさる事なれとも、此僻説は一向用へからす
 
728 人毛無國母有粳吾妹兒與携行而副而將座《ヒトモナキクニモアラヌカワキモコトタツサヒユキテタクヒテヲラム》
 
(36)粳、【官本、或作v糠、】  携行而、【校本云、ナツサヒユキテ、】
 
人もなき國もあらぬか、あれかしと願ふ心は、人言を侘てなり、粳は※[禾+杭の旁]と同じくてうるしねなるを、此集處々糠の如く用たるは通ずる歟、如何、
 
初、人もなき國もあらぬか。これもさきにいへることく落著はあれかしとねかふ心なり。有粳とかける粳は和名集云。粳【宇流之禰】與v※[禾+杭の旁]同。これはもし糠《ヌカ》の字と音も似て物も近けれは、まかへたるにはあらぬにや。されとも、此後も、猶粳の字を用たる所あり。此字糠とも通する歟。未v考
 
大伴坂上大孃贈大伴宿禰家持歌三首
 
729 玉有者手二母將卷乎欝膽乃世人有者手二卷難石《タマナラハテニモマカムヲウツセミノヨノヒトアレハテニマキカタシ》
 
730 將相夜者何時將有乎何如爲常香彼夕相而事之繁裳《アハムヨハイツシカアラムヲナニストカカノヨニアヒテコトノシケキモ》
 
何時は今按今の點叶はず、イツモと讀ていつにもと意得ぺし、彼夕も彼は古くは多くそのと讀たれば、此もソノヨと讀べきか、逢はむずる夜は何時《イツ》にても次よき時あらむを、中にも次よからぬ夜逢てうたてく人言繁しとなり、
 
初、あはむ夜はいつもあらんをなにすとかその夜にあひて言のしけきも。
何時をこゝにて、いつしかとよめるはあやまりなり。此卷のはしめに、吹黄刀自か、いつもの花の何時/\とよめる哥のやうに讀へし。しけきものもは、助語なり
 
731 吾名者毛千名之五百名爾雖立君之名立者惜社泣《ワカナハモチナノイホナニタチヌトモキミカナタヽハヲシミコソナケ》
 
發句のも〔右○〕は助語なり、千名ノ五百名ニ立ヌトモとは、多くの名に立とも我事は如何せむなり、此歌六帖に誤て紀女郎が歌とす、
 
初、わか名はもちなのいをなに。わかなはものもは助語なり。ちなの五百名は、たゝ名のおほくたつをいふ。第十二にもゝにちに人はいふ共ともよめり
 
(37)又大伴宿禰家持和歌三首
 
732 今時有四名之借雲吾者無妹丹因者千遍立十方《イマシハシナノヲシケクモワレハナシイモニヨリテハチヘニタツトモ》
 
今時有四は、有は者の字を誤れり、二つのし〔右○〕、皆助語にて今はなり、
 
初、今しはし名のおしけくも。初五もしの、二のしもしともに助語にて今はなり。暫にあらす。有は者の字をあやまれり。千遍はちたひともよむへし
 
733 空蝉乃代也毛二行何爲跡鹿妹爾不相而吾獨將宿《ウツセミノヨヤモフタユクナニストカイモニアハステワカヒトリネム》
 
代也毛二行、とは一たび死しては又來ぬをいへり、第七にも世の中はまことふたよは行かざらしとよめり、春の來るを春去にけりとよめるを思ふべし、再たび生れ來て世をやは經べき、盛過なば悔ともかひあらじ、妹にあはずして名のたゝずとも何かせむ、よし人はいはゞ云へ獨寢はせじと思ひの切なるから打ふてゝよめるなり、
 
初、うつせみの世やもふたゆく。これは、死してふたゝひむまれきて、ふる世かは。さかり過なは、悔ともかひあらし。妹にあはすして、名のたゝすとも何かせん。よし人はいはゝいへ。ひとりねはせしと、思ひの切なるよりいへり。さきに三依か哥に、あふ夜あはぬ夜ふたゆくならむと有しは、夜と代とたかへるうへに、ふたゆくといへるも、詞はおなしくて心はかはれり。第七の挽哥に、よのなかはまことふたよはゆかさらし過にし妹にあはぬおもへは。此心とおなし
 
 
734 吾念如此而不有者玉二毛我眞毛妹之手二所纏牟《ワカオモヒカクシテアラスハタマニモカマコトモイモカテニマカレナム》
 
如此而、【紀州本云、カクテ、】
 
同坂上大孃贈家持歌一首
 
(38)735 春日山霞多奈引情具久照月夜爾獨鴨念《カスカヤヤカスミタナヒキコヽロククテレルツキヨニヒトリカモネム》
 
タナ引は薄霞なれば下に照れる月夜と云へり、心クヽは心くるしきなり、下にあまたよめり、
 
初、かすか山霞たな引心くゝ。かすか山といひて、霞とつゝくるは、重ね詞にいはむとせされとも、をのつからしかきこゆるなるへし。心くゝは心くるしくなり。此卷の末に至りて、家持の、藤原久須麻呂にをくらるゝ哥にも、心くゝおもほゆるかもはるかすみたなひく時にことのかよへはとよめり。くゝ《・此愚案あやまれり》はくゝむなるへし。含の字を、ふくむ、ふゝむとよめる、皆同韻にて、通しておなしことなり。詩なとに含v情といへる心なり。家持の哥も、霞によせたり。たな引は、日本紀には薄靡とかき、此集には霏〓とも、輕引ともかきて、うすらかにたつをいへは、美人なとの情を含めるにたとへていへり。心あるさまのおほろ月夜を、おもふ人ともかたらはすして、ひとりやあかさむといへり
 
又家持和坂上大孃歌一首
 
736 月夜爾波門爾出立夕占問足卜乎曾爲之行乎欲焉《ツキヨニハカトニイテタチユフケトヒアウラヲソセシユカマクヲホリ》
 
足占は物を踏こゝろみて占ふなり、神代紀下云、乃擧(テ)v足(ヲ)踏《フミ》行(テ)學(フ)2其溺|苦《クルシミ》之|状《カタチヲ》1、初|潮《シホ》漬《ツク》v足(ニ)時(ハ)則|爲《ナス》2足占(ニ)1、凡占は心に決せぬ事ある時占によりて定むれば、足のさだかならぬさまを足占する者によせて云へるなるべし、權中納言定頼卿の歌に、行ゆかずきかまほしきは何方に、踏定むらん足のうらの山、
 
初、ゆふけとひあしうらをそせし。第三卷挽哥の中に、丹生王の哥に、ゆふけとひいしうらもちてとある所に注せりき
 
同大孃贈家持歌二首
 
往來しげき故に氏姓を略せらる。
 
737 云々人者雖云若狹道乃後瀬山之後毛將念君《カニカクニヒトハイフトモワカサチノノチセノヤマノノチモアハムキミ》
 
(39)後毛將念君は今按念は合を誤れる歟、若しからずば點かなはねば、後も思はむきみとよまんも餘に長ければ、おもはむを上畧して後モモハムキミとよむべきか、或はノチネムキミと和し換べきか、寢むと云はすなはちあはむなり、將寢を將念とかくやうはあらじとみづからもおぼつかなけれど、將來坐《キマサム》を將來益ともかき、其外無窮にかきたれば驚かし申すなり、家持、これを承て、後瀬山後もあはむととかへされたれば、合の字を誤りたらむと云義に心ひかれ侍り、六帖國の歌に若狹なる後瀬の山の後もあはむ、吾思ふ人に今日ならずともとあるは此歌歟、
 
初、かにかくに。とにかくになり。云々とかけるは我欲2云々1といふがことし。いふへき詞の猶末におほきを、雲の鬱起するにたとへていへり。日本紀には、しか/\とよめり
 
738 世間之苦物爾有家良久戀二不勝而可死念者《ヨノナカノクルシキモノニアリケラクコヒニタヘステシヌヘクオモヘハ》
 
世中ノ苦シキ物とは世界廣き中の苦しき事多き中の苦しき物は戀に有けりと云心なり、第三に、天地に悔しきことの世中に、悔しきことはとよみ、第九に世の中のしれたる人とよめるは皆世と云は此意なり、ケラクは唯けりなり、第五にも云ひづてけらくとよめり、古今の詞にもみこのいひけらくとあり、
 
又家持和坂上大孃歌二首
 
(40)739 後湍山後毛將相當念社可死物乎至今日毛生有《ノチセヤマノチモアハムトオモフコソシヌヘキモノヲケフマテモアレ》
 
念社、【別校本云、オモヘコソ、】  生有、【幽齋本亦云、イケレ、】
 
念社はオモヘコソと讀べし、おもへばこそなり、生有の點も、いきてあるはあるなれば、義訓さもあるべけれど、幽齋本|更《マタノ》點まさしく字に叶へり、用べし、イケレは後世に叶はぬ詞なれば時に叶へむために改たむるは此限に非ず、生をアレとよめるは生るゝなれば、生れて世に在をいくと云には意かはれり、辨まふべし、
 
初、後湍山のちもあはむと思へこそしぬへきものをけふまてもいけれ。
念社を、おもふこそとあるは、印本の點のあやまれるなり。おもへはこそなり。しぬへきものをは、後もあはんとたのむ事なくは、こひしぬへきものを、たのむ心あるゆへに、けふまてもなからへてありとなり。生有をあれとよめるも、心はたかはねと、字にあたらす。いけれとよむを、あたれりとす。神代よりあれつきくれはなとあるは、生るゝなり。いくるといふ時は、心少かはれり。生死といふ時、いひまはせは、ひとつなれとむつかし
 
740 事耳乎後手相跡懃吾乎令憑而不相可聞《コトノミヲノチモアハムトネモコロニワレヲタノメテアハサラメカモ》
 
發句は言のみなり、
 
初、ことのみを。ことはのみをなり。此集に、おほく事の字をかけり。心をつけされはまかへらるゝ所有。たのめては、たのませてなり。たのむるもおなし。此ゆへに令憑とはかけり。こなたの心ひとつにたのむ時は、令の字を用す。たのむといひて、たのめともいはす
 
更大伴宿禰家持贈坂上大孃歌十五首
 
741 夢之相者苦有家里覺而掻探友手二毛不所觸者《ユメノアヒハクルシカリケリオトロキテカキサクレトモテニモフレネハ》
 
夢之相とは夢にあふをあひと体になして云なり、第十二云、うつくしと思ふ吾妹を夢に見て、起て探るになきがさびしさ、これ同意なり、遊仙窟云、少時睡《シハラクマトロメルニ》則夢(ニ)見(ル)2十娘(ヲ)1、(41)驚(ロキ)覺(テ)攪《カキサクルニ》v之(ヲ)忽然(トシテ)空(シウス)v手(ヲ)、余因(テ)乃(ハチ)詠(シテ)曰、夢(ノ)中(ニハ)疑(フ)2是(レ)實(カト)1、覺(テ)後忽(ニ)非(ス)v眞(ニ)、第五に憶良の沈v痾自哀文に遊仙窟をひかれたるを見れば、とく此國にも渡り來て把翫びたりと見ゆれば、兩首ともに仙窟に依てよめるなり、文選長門賦云、遂(ニ)頽《クツシテ》v思(ヲ)就v牀(ニ)、搏《トリテ》2芬若(ヲ)1以(テ)爲v枕(ト)兮、席《シキヰニシテ》2※[草がんむり/全]蘭(ヲ)1而※[草がんむり/(|+臣)]香(アリ)忽(ニ)寢寐(テ)而夢想(ス)兮、魂若2君(ノ)在(ルカ)1v傍(ニ)、※[立心偏+易]寐(・テモ)覺(・テモ)而《オトロキネサメテ》無v見(ルコト)兮、魂|廷々《・オドロイテ》(トシテ)若v有(カ)v亡(ナヘルコト)、同(シキ)樂府(ニ)云(ク)、夢(ニ)見(ルトキ)在(ル)2我(カ)傍(ニ)1、忽覺(テ)在2他郷1、
 
初、ゆめのあひくるしかりけり。夢のあひとは、ゆめにあふなり。此哥第二第四の哥は、皆遊仙窟を本據として、よまれたり。第五卷に、山上憶良遊仙窟をひかれたるをみれは、とく此國にわたり來たりと見えたり。遊仙窟云。少時睡《シハラクマトロメルニ》則夢(ニ)見(ル)2十娘(ヲ)1。驚(ロキ)覺(テ)攪《カキサクルニ》v之忽然(トシテ)空(シウス)v手(ヲ)。○余因(テ)乃(チ)詠(シテ)曰。夢(ノ)中(ニハ)疑(カフ)2先實(カト)1。覺(テ)後忽(ニ)非(ス)v眞(ニ)。此心なり。文選司馬相如(カ)長門(ノ)賦云。遂(ニ)頽《クツレテ》v思(ヲ)就v牀(ニ)搏《トリテ》2芳若(ヲ)1以(テ)爲v枕(ト)兮|席《シキヰニシテ》2※[草がんむり/全]蘭(ヲ)1而※[草がんむり/(|+臣)]香(アリ)。忽(ニ)寢寐(ニシテ)而夢想(ス)兮。魂若(シ)2君(ノ)在(ルカ)1v傍(ニ)。※[立心偏+易]《オトロキ》寐(・テモ)覺(・テモ)而《ネサメテ》無v見(ルコト)兮。魂|廷々(トシテ)若(シ)v有(カ)v亡(ナヘルコト)。同樂府云。夢(ニ)見(ルトキ)在(リ)2我傍(ニ)1、忽覺(テ)在2他郷(ニ)1
 
742 一重耳妹之將結帶乎尚三重可結吾身者成《ヒトヘノミイモカムスヒシオヒヲスラミヘムスフヘクワカミハナリヌ》
 
將結、【六帖云、ムスハム、】  三重可結、【六帖、ミヘニユフヘク、別校本同v此、】
 
將結をムスビシと點ぜるは誤なり、早く六帖に從ふべし、尚を六帖になほとよめるは今取らず、三重可結は六帖によめるやうもあしからねど、上の將結をむすばんと讀つれば今の如く一樣によめるに付べし、是は痛く戀痩てやつれたるをよめり、第九第十三などにも此体によめり、文選古詩云、相去(ルコト)日已(ニ)遠(シ)、衣帶日已(ニ)緩、遊仙窟云、日日衣|寛《ユルヒ》、朝朝帶綬(フ)、
 
初、ひとへのみいもかむすはむ帶をすら。將v結をむすひしとよめるは、あやまれり。むすはむとよむを、正説とす。むすひしといふは以前をいひ、むすはんといふは以後をいふ。あやまり知ぬへし。遊仙窟云。日日衣|寛《ユルヒ》、朝朝帶緩(フ)。文選古詩、衣帶日(ニ)已(ニ)緩(フ)。第十三に、ふたなみに《・ツナキ》こひをしすれは常のをひをみへにゆふへく《・ミヘムスフヘク》わかみはなりぬ。第九過2足柄坂1見2死人1長哥にツナキミヘムスフヘク も、白たへのひもをもとかすひとへゆふおひをみへゆひ云々
 
743 吾戀者千引乃石乎七許頸二將繋母神之諸伏《ワカコヒハチヒキノイハヲナヽハカリクヒニカケナモカミノモロフシ》
 
(42)千引ノ右は千人ばかりして引はたらかす石なり、神代紀云、伊弉諾尊已至(マス)2泉津平坂《ヨモツヒラサカニ》1、故《カレ》便《スナハチ》以2千人所引磐石《チヒキノイハヲ》1塞(ク)2其|坂路《サカチヲ》1、舊事紀云、建御名方(ノ)神千引之石(ヲ)指2捧《モチ》手末(ニ)1而來言云云、五百引《イホヒキノ》石とも云へり、古事記上云、爾握2其神(ノ)之髪(ヲ)1其室毎v椽|縁著《ムスヒツケ》而五百引(ノ)石(ヲ)取(テ)塞2其室(ノ)戸(ヲ)1、七許は七つ許なり、頸二將繋母は今按今の點、字に合するに叶はず、クビニカケムモと讀べし、落句は諸臥と云はむとて社をみもろといへばかくはつゞけたる歟、諸共にふさば秋の夜の千夜を一夜にして千引の石を七つ許頸に繋て起もあがらずねんとよめる歟、又落句は神の社は人の臥す所にあらねど諸共にだにふさば、神の祟はさもからばあれ、千引の石を頸にかけても寢むとよめる歟、神のいがきも越ぬべしとよめる如く切なる心をせめて云なり、
 
初、わかこひはちひきの石をなゝはかり。千引の石は、千人して引磐石なり。神代紀云。伊弉諾尊已(ニ)至(リマス)2泉津平坂《ヨモツヒラサカニ》1。故《カレ》便《スナハチ》以2千人所引磐石《チヒキノイハヲ》1塞(ク)2其|坂路《サカヂヲ》1。將繋母、これをはかけむもと讀へし。かけてもとあるは無理なり。將の字は、さきにもいふことく、將來をさしてかけむとよむ。此集に、上にも下にも置て、牟と用たるはこれなり。もは助語なり。神のもろふしは、管見抄にいふことく、社をみむろとも、みもろともいへは、もろといふ詞をいはむとて、神といへると聞えたり。哥の心は、ちひきの石をなゝつはかり、綱してくひにかけたらむは、くるしさいふはかりあらし。さるにても、君ともろふしをせはやの心なり。又わかこひおもふ心は、君ともろふしせんには、たとへは、千引の石をなゝつはかりも、頭にかけん事をおもふ。もしさらは、たかひにうこくへうもあらて、あくまてもろふしすへけれはの心なり。後の心は、いせ物語に、秋の夜のちよをひとよになすらへて八千夜しねはやあく時のあらん。此心なり。いつれを、いはれたりとかし侍らんや
 
744 暮去者屋戸開設而吾將待夢爾相見二將來云比登乎《ユフサレハヤトアケマケテワレマタムユメニアヒミニコムトイフヒトヲ》
 
第十二に此意と同じ歌數首あり、遊仙窟云、今霄莫(レ)v閇(サスコト)v戸(ヲ)、夢(ノ)裏(ニ)向(ハム)2渠邊《キミカアタリニ》1、何れも此にてよめるなるべし、又播安仁寡婦賦(ニ)云、夢(ミル)2良人(ノ)兮來(リ)遊(ヲ)1、若(シ)2閭闔(ノ)兮洞(リ)開(タルカ)1、怛(トシテ)悟(テ)兮無v聞(コト)、超(トシテ)※[立心偏+尚]※[立心偏+兄](シテ)兮慟(ミ)懷(フ)、
 
初、ゆふされはやとあけまけて。まけてはまふけてなり。遊仙窟云。今霄莫(レ)v閇(サスコト)v戸(ヲ)、夢(ノ)裏(ニ)向(ハム)2渠邊《キミカアタリニ》1。この二句にてよまれたるなり。文選播安仁(カ)寡婦賦(ニ)云。夢(ミル)2良人(ノ)兮來(リ)遊(ヲ)1。若(シ)2閭闔(ノ)兮洞(リ)開(タルカ)1。怛(トシテ)驚悟(テ)兮無v聞(コト)。超(トシテ)※[立心偏+尚]※[立心偏+兄](シテ)兮慟(ミ)懷(フ)。第十二の哥に、人のみてことゝかめせぬ夢にわれこよひいたらんやとさすなゆめ。人の見てことゝかめせぬ夢にたにやますをみえよわかこひやめむ。かとたてゝ戸もとちてあるをいつくゆか妹か入來てゆめにみえつる。かとたてゝ戸はさしたれとぬす人のゑれるあなよりいりて見えけむ
 
745 朝夕二將見時左倍也吾妹子之雖見如不見由戀四家武《アサユフニミムトキサヘヤワキモコカミレトミヌコトナヲコヒシケム》
 
(43)今此戀しさを思へば假令朝夕に見る時有とも猶見あかぬ心から見ぬ時の如く戀しからむとなり、
 
746 生有代爾吾者未見事絶而如是※[立心偏+可]怜縫流嚢者《イケルヨニワレハマタミスコトタエテカクアハレケニヌヘルフクロハ》
 
事絶而は絶妙の意なり、※[立心偏+可]怜は今按アハレケのけ〔右○〕は氣なれば此點は古体なるべからず、オモシロクと和し替べきにや、此歌は坂上大孃が許より嚢を縫て家持へ贈られける、其裁縫のやうをほめてよめるなり、
 
初、いける代にわれはまたみすことたえて。ことたえては、絶妙なり。※[立心偏+可]怜、此あはれけにを、又はおもしろくともよむへし。次の哥に、かたみの衣とあり。坂上大孃衣にそへて袋をゝくれりと見えたり。魚袋なといひて、官位の階級にしたかひて、裝束の上にをふる物あり。そのたくひなるへし。此哥はその裁縫のうるはしくよしありて、絶妙なるをほむるなり
 
747 吾妹兒之形見乃服下著而直相左右者吾將脱八方《ワキモコカカタミノコロモシタニキテタヽニアフマテハワレヌカメヤモ》
 
下ニ著ルとはなつかしみて身に副るなり、此意あまたよめり、
 
初、わきもこかかたみの衣。上三十七葉湯原王哥、第七第十五なとにも形見の衣をよめり。おほよそ六月の大祓に、天子の御贖物にも、御衣を出させたまひ、密教に、人のために息災|増益《ソウヤク》等の法を修する時、其人の代に、衣服を置ことあり。それには甚深の習ありて衣服すなはち其人なり。これらはしはらくをきて、まことに人の身にちかきは、衣に過る物なけれは、その身にふれたる下衣は、かたみの中に、ことになつかしかりぬへし
 
748 戀死六其毛同曾奈何爲二人目他言辭痛吾將爲《コヒシナムソレモオナシソナニセムニヒトメヒトコトコチタクワレセム》
 
辭痛吾將爲、【六帖云、コチタミワカセム、】
 
戀死六も同じとは生てであはぬに替らぬなり、辞痛は人言を痛むなり、コチタクは叶はず、六帖に依てコチタミと改むべし
 
初、こひしなんそれもおなしそ。いたつらにこひしなん思ひも、人にいひさはかれんもおなしことなり。しからは、人ことをいたむことはせしの心なり。こちたみはこといたみなり。登伊(ノ)反知なるゆへ、こちたみといふ。後の物語には、只物のらうかはしき事にいへるは、此集にも、たしかにこといたみとのみもきこえぬ所あれは、いつとなくあやまれるにや。こゝに辭痛とかき、又十二に言痛とかける、これを正字とす。こちたくよりは、こちたみと讀へし
 
(44)749 夢二谷所見者社有如此許不所見有者戀而死跡香《ユメニタニミエハコソアラメカクハカリミエステアルハコヒテシネトカ》
 
750 念絶和備西物尾中々爾奈何辛苦相見始兼《オモヒタエワヒニシモノヲナカ/\ニナニカクルシクアヒミソメケム》
 
ワビニシのに〔右○〕は助語なり、相見そめて後も逢がたくて逢事をば思ひ絶てわびし物をなり、
 
751 相見而者幾日毛不經乎幾許久毛久流比爾久流必所念鴨《アヒミテハイクカモヘヌヲコヽハクモクルヒニクルヒオモホユルカモ》
 
久流必、【別校本、必作v悲、】
 
久流比爾久流必は狂に狂ひなり、物ぐるをしきまで戀らるゝとなり、
 
初、くるひにくるひ。狂ひに狂ひなり。心のたゝしからぬを狂とす。ものくるはしきまてに、人のこひおもはるゝなり
 
752 如是許面影耳所念者何如將爲人目繁而《カクハカリオモカケニノミオモホヘハイカニカモセムヒトメシケクテ》
 
753 相見者須臾戀者奈木六香登雖念彌戀益來《アヒミテハシマシモコヒハナキムカトオモヘトイトヽコヒマサリケリ》
 
彌、【六帖云、イヨヽ、】
 
ナギンカトはなぐさまんかとなり、
 
初、なきんかとは、なくさまんかとなり
 
(45)754 夜之穗杼呂吾出而來者吾妹子之念有四九四面影二三湯《ヨノホトロワカイテヽクレハワキモコカオモヘリシクシオモカケニミユ》
 
念有四九四、【官本云、オモヘリシクシ、】
 
夜之穗杼呂は呂は助語にて夜の程なり、人めをつゝむ故夜の程に皈るなり、四の句の點今の本よからず、官本の點に從ふべし、明てもゆかで夜をこめていぬるは、如何なる故にかと疑ひながらさも云はで我を返すとて、何とやらむ思へりの見えつるが面影に見えて忘られぬとの意なり、
 
初、夜のほとろわか出てくれは。管見抄云。ほとろは夜のほからかに明るのこゝろなり。ものゝひかりあかきを、ほてりといふに同し心なり。以上。今案夜の程といふに、ろの字は助語にくはゝれるにや。心は夜をこめてなり。人めをつゝむゆへなり。おもへりしくしおもかけにみゆとは、さきにいへることく、日本紀に、色の字をおもへりとよめるは、心におもはくのあるが、色にあらはるゝをおもへりといふ。明てもゆかて、夜をこめていぬるは、いかなるゆへにかとうたかひなから、さもいはて、我を出したつとて、何とやらんおもへりのみえつるが、おもかけに見えてわすられぬとなり。おもへりしくよと點したる、後の四の字も、只はしめとおなしく音に讀ておもへりしくしといふへし
 
755 夜之穗杼呂出都追來良久遍多數成者吾※[匈/月]截燒如《ヨノホトロイテツヽクラクアマタヽヒナレハワカムネキリヤクカコト》
 
人目をつゝむと明しも得はてずして還り來ることの一度二たびのみならずあまたゝびに成ぬれば、思ひの身に切なることきるが如く燒が如しとなり、遊仙窟云、未(タ・サリシカトモ)2曾(テ)飲(トハオモハ)1v炭(ヲ)腹(ノ)熱《アツイコト》如(シ)v燒(カ)不(シカトモ)v憶(モハ)v呑(トハ)v刃(ヲ)腸穿(ツコト)似(タリ)v割(ニ)、これを取てよまれたり、
 
初、夜のほとろ出つゝくらく。あまたゝひなれはゝ、あまたゝひになれはなり。わかむねきりやくかことは、又遊仙窟云。未(タ・サリシカトモ)2曾(テ)飲(トハオモハ)1v炭(ヲ)、腹(ノ)熱《アツイコト》如(シ)v燒(カ)。不(シカトモ)v憶(ハ)v呑(トハ)v刃(ヲ)、腸穿(ツコト)似(タリ)v割《サクニ》
 
大伴田村家之大孃贈妹坂上大孃歌四首
 
756 外居而戀者苦吾妹子乎次相見六事計爲與《ヨソニヰテコフレハクルシワキモコヲツキテアヒミムコトハカリセヨ》
 
(46)戀者苦、【幽齋本云、コフルハクルシ、】
 
此吾妹子は實の妹なれど唯親しみ呼※[手偏+總の旁]名に云なるべし、ツギテは打つゞきてなり、事計セヨとは繼て相見るべき事のたばかりをせよとなり、日本紀に方便をも亦慮の字をもタバカルとよめり、常に人を欺き誑かすをたばかると云には替れり、
 
初、よそにゐてこふれはくるし。このわきもこは、まことのいもうとなり。ことはかりは、ことのたはかりなり。日本紀に方便とかきてたはかるとよむ。又慮の字をもよめり。常に人をあさむきたふらかすを、たはかるといふ、それにはあらす
 
757 遠有者和備而毛有乎里近有常聞乍不見之爲便奈沙《トホクアレハワヒテモアルヲサトチカクアリトキヽツヽミヌカスヘナサ》
 
遠き所はわびながら思絶てもあらるゝを、近くて相見ぬがせむすべもなく苦しきとなり、上に笠女郎が、近ければ見ねども有をとよめるとは相違なれど各道理あり、冬の寒きを※[厭のがんだれなし]ふ時は暑きは過しやすかりしをと思ひ、暑きに苦しむ時は寒きはいかにも凌し物をと時に付て我ながらかく心の替はよのつねなれば、鉾と楯とを賣者の共に勝れたりと云はんには似るべからず、
 
758 白雲之多奈引山之高々二吾念妹乎將見因毛我母《シラクモノタナヒクヤマノタカ/\ニワカオモフイモヲミムヨシモカモ》
 
タナ引とは、すまの海人の鹽燒煙風をいたみ、立はのぼらで山にたな引とよめるたな引にて、第三冨士の歌に、白雲もいゆきはゞかるとよめる如く、高山には雲もえの(47)ぼらず横ぎる意なるは高々にと云はん爲なり、高々は第十一に高部さわたり高々にとつゞけ、第十二にふるの高橋高々に、又もちの日に出來る月の高々にとつゞけたる、何れも遠き處を高く望て待心なり、
 
初、白雲のたなひく山のたか/\に。此集に人をうやまひて、たか/\とよめる事おほし。山によする心あきらかなり。わかおもふ妹、次の哥の妹、又おなしくまことのいもうとなり
 
759 何時爾加妹乎牟具良布能穢屋戸爾入將座《イカナラムトキニカイモヲムクラフノケカシキヤトニイリマサシメム》
 
六帖に此歌をむぐらに入れて一二の句を、なにしにかかしこき妹が、落句を入はますらむとあだは語意ともにおぼつかなし、牟具良は和名云、本草云、葎草、【上、音律、和名。毛久良、】
 
初、いかならむ時にか妹を。むくらは、和名集に葎の字を出せり。莖四角にて、葉こまかなる草の、物にはひかゝりてしけるものなり。いらありて、ふるれはかゝるゆへに、さはるとも、それを縁にて貫之はよまれけるなるへし。葎生といふは、むくらのみ一色にしけきをいふ。苧生、蓬生、篠生、芝生の類おなし心なり。けかしきはけからはしきなり。卑下していへる詞なり。第十九橘諸兄左大臣哥に、むくらはふいやしき宿もおほきみのまさんとしらは玉しかましを
 
右田村大孃坂上大孃并是右大辨大伴宿奈麻呂卿之女也卿居田村里号曰田村大孃但妹坂上大孃者母居坂上里仍曰坂上大孃于時姉妹諮問以歌贈答
 
并是は、并は並に作るべし、此注の委しきは家持私撰の故なり、
 
初、注中、并是の并は、並の誤れるなり
 
大伴坂上郎女從竹田庄贈賜女子大孃歌二首
 
贈賜と云へる事前の如し、竹田庄は神武紀云、又|皇師立誥《ミイクサタチフシ》之處是(ヲ)謂2猛田《タケタト》1、又云、又給2(48)弟猾猛田邑1因爲2猛田(ノ)縣主1、舊事紀第十云、誅《ツミナヒテ》2宇※[こざと+施の旁]縣主|兄猾《エウケシヲ》1以2弟猾(ヲ)1、爲2建桁《タケタノ》縣主(ト)1、延喜式第九云、大和國十市郡竹田神社、
 
初、竹田庄 日本紀第三云。又|皇師立誥《ミイクサノタチフシ》之處是(ヲ)謂(フ)2猛田《タケタト》1。延喜式第九云。神名帳云。大和國十市郡竹田神社
 
760 打渡竹田之原爾鳴鶴之間無時無吾戀良久波《ウチワタスタケタノハラニナクタツノマナクトキナシワカコフラクハ》
 
鳴鶴之、【紀州本云、マクツルノ、】  間無時無、【別校本云、マナシトキナシ、】
 
打渡とは必竹田之原とつゞくる枕詞にはあらず、唯はる/\とある所に云詞なり、仁徳紀に御製の中に于知和多須那餓波曳儺須企以利摩韋區例《ウチワタスナカハエナスキイリマヰクレ》、古今云、打渡す彼方人に云云、後撰云、打渡し長き心は云云、鶴は子を思ひて鳴物なれば所につけたる鶴に娘を戀て泣ことをよそへられたり、此歌を山城の竹田の歌と云説は能考へられざるなり、
 
初、打わたす竹田の原になくたつのまなく時なしわかこふらくは
打わたすは、はる/\とある所をみわたす心なり。古今に、うちわたすおちかた人ともよめり。おなし心なり。又うちわたしなかき心はやつはしのともよめり。まなく時なしは、なく聲のひまもなく、又いつといふ時もわかぬに、むすめをおもひてなくをよせたり。樂天か詩に、夜鶴思v子籠中鳴。鶴は子を思ふ鳥なるゆへに、ことによせあり。樂天は此哥よりは後なり。猶古文古詩なとに有なるへし。八雲御妙に、此哥を引て、山城の竹田とおほしめしけるは、よくかんかへさせたまはさりけるなり。續千載集賀部、法皇御製に、ちきりをかむわかよろつよの友なれや竹田の原のつるのもろこゑ。これも本哥をよく考させたまはさりけるなり。惣して此集は、奈良の都の時にえらはれたれは、今の都あたりの名所をよめる哥はすくなかるへきことはりなり。又此哥を、玉葉集に戀部に載られたるも誤なり。此集の相聞はひろく、彼戀部はせはくかきりたるゆへなり。此哥はむすめにをくれるものを
 
761 早河之湍爾居鳥之縁乎奈彌念而有師吾兒羽裳※[立心偏+可]怜《ハヤカハノセニヰルトリノヨシヲナミオモヒテアリシワカコハモアハレ》
 
縁はより所の意なり、早河の瀬には草木もなければ鳥の依所とすべき物なきを譬に取て、はかなく若き心に我を離て依所もなげに思ひ居たりし人を思ひやるにかなしとなり、
 
初、早河の瀬にゐる鳥のよしをなみ。よしはよりところなり。早川の瀬に鳥の居ては、草にもあれ、木にもあれ、より所とすへき物なし。竹田庄にありて、坂上里にとめをくむすめにをくれは、われをはなれて、彼早川のせに居る鳥のやうに、より所なくおもはんがかなしきを、わかこはあはれといへり。古哥の體なり
 
(49)紀女郎贈大伴宿禰家持歌二者【女郎名曰小鹿也】
 
762 神左夫跡不欲者不有八也多八如是爲而後二佐夫之家牟可聞《カムサフトイナトニハアラスヤヽオホハカクシテノチニサブシケムカモ》
 
此神左夫と云へるは我年の古たるなり、二の句はイナニハアラズと讀べし、年は古たれど戀の心は猶古せねば逢事をいなと思ふにはあらずとなり、ヤヽオホハとはやゝおほくはなり、いなにあらずとてかく逢そめては盛りなる人に思ひ移られてやゝおほくはさびしからんかと兼て疑なり、第八に、神佐夫等|不許《キカス》者不有秋草之、結之紐乎解者悲哭、これ似たる歌なり、引合て見るべし、
 
初、神さふといなにあらす。神さふとは、此集にはおほくふるきことをいへり。わか年いとねびたれと、猶こひの心はふりせねは、あふことをいなとおもふにはあらす。やゝおほは、やゝおほくなり。第七旋頭哥に、夏影のねやの下にて衣たつわきもうらまけてわかためたゝは差大裁《ヤ《ヤヽノ重點失タル歟》オホキタテ》。此差大をやおほきとよめり。差の字やゝとは常にもよめは、此哥にておもへは、差大もやゝおほにと讀へし。されともそれはやゝおほきにの心にて今とは違へり。かくして後にさふしけんかもとは、さふしは、ふとひ五音相通して、さひしなり。此卷の初、岳本天皇御哥にも、われはさふしゑとよみたまへり。いなにあらすとて、かくして逢なん後、神さふる身は、初花のやうなる人のかたへおもひうつられて、やゝおほくは、さひしからんかと、かねてうたかふなり。管見抄には、やゝおほやといへり。後のやはうたかふ詞なれは。さふしけんかもと又うたかふてにをはかなはす。おほくのことをいはむとて、八の字をおほくかさねたる詞なりといふ義もまた用へからす。初の二句は、第八巻に、神佐夫等不許者不有《カミサフト|キカス《・イナニハ》ハアラス》秋草之|結之《ムスヒシ》紐乎|解者悲哭《トケハカナシモ》。これとおなし。不許者をきかすとよめるも、いなにはあらすのおなし心なり。不許はいなの義なれは、いなにはあらすと。こゝの哥とひとつにもよむへし
 
763 玉緒乎沫緒二搓而結有者在手後二毛不相在目八方《タマノヲヽアハヲニヨリテムスヘラハアリテノチニモアハサラメヤモ》
 
結有者、【六帖云、ムスヘレハ、】
 
沫緒とは絲の搓やう有て別に一種の名にや、沫雪は弱きを沫に喩へて付たる名なれば沫緒もさる心にやとも云べきを、此歌の意は弱かるべうは聞えねばそれも叶(50)はず、沫も緒も共に結べばやかくは名付らむとも思ひまれど古人の名付る由は然るべからず、拾遺集に貫之歌に、春くれば瀧の白糸いかなれや、結べども猶あはに見ゆらむ、これによりては弱き意にやとも聞ゆ、枕草子に、うす氷沫に結べる紐なれば、かざす日影にゆるぶばかりぞ、是も亦同じ、結有者の今の點は末をかけ、六帖は既に結び今結ぶなり、初の歌にかくして後にと云へるに合ては六帖まさるべき歟、アハザラメヤモは歌の本意の上に逢と云には玉の緒の縁を兼たり、
 
初、玉のをゝあはをによりてむすへらはありて後にもあはさらめやも
管見抄に、水のあはもむすふ物なれは、それによせて、あはをによりて結ふといへるにやとそ覺え侍るといへり。伊勢物語に、むかし、心にもあらてたえたる人のもとにとて、此哥を、玉のををあはをによりてむすへれはたえての後もあはんとそ思ふと引なをしてかけり。拾遺集第十六、貫之歌に、春くれは瀧のしらいといかなれやむすへとも猶あはにみゆらん。枕草子に清少約言哥に、うす氷あはにむすへるひもなれはかさす日蔭にゆるふはかりを、此歌はあはに結へる紐とよめり。もしみなむすひ、あけまきなといふたくひに、むすふやう有名にや。ある物によろひの事をかけるを、昔見侍しに、何の絲かわすれ侍し、それを淡路結にせよとかきて侍るはかりおほえぬ。それもまたいかに結ふ事とはしらさりしかと、ふと此あはをの事思ひ出しゆへ、今にわすれす侍り。用へきことにはあるましけれと、次に書付侍り。あはさらめやもは、玉の緒はふたつのはしをくゝりあはすれはいへるなり。結有者は、むすへれはともよむへし。むすへらはゝ、後をいひ、むすへれはとよめは、すでにむすひ、今むすふなり。初の哥にかくして後にといへは、むすへれはといふもかなへり
 
大伴宿禰家持和歌一首
 
764 百年爾老舌出而與余牟友吾者不厭戀者益友《モヽトセニオイシタイテヽヨヽムトモワレハイトハシコヒハマストモ》
 
此歌はむねと初の神さぶとよめるにかへせり、老たる人は齒のなければ舌の出て見ゆるなり、ヨヽムとは物を云に吃るやうの心なり、よゝと泣と云はさくりあげて泣を云へばよゝむも同じ詞なり、六帖には翁の歌として、老口ひそみなりぬとも我は忘れじとて載たり、字に當たるにはあらで改たるなるべし、翁の歌とせるは上の句を家持のみづからの事をいへると見けるにや、返す心右に云が如し、其上みづからの上をいはゞ白髪生るまでなどは云べし、老舌出てよゝまむには戀られん人(51)先うたてくて※[厭のがんだれなし]ひぬべければ人の上をこそしかりともとは申ぺけれ、
 
初、百年におい舌いてゝよゝむともわれはいとはしこひはますとも
此返しは、神さふといひ、かくして後にさふしけんかもといふ所を返せり。老たる人は、齒のなけれは、舌の出てみゆるなり。よゝむとは、ともるやうの心なり。よゝとなくといふは、さくりあけてなくをいふ。よゝむもおなし詞なり。六帖翁題に、此哥を、おいくちひそみなりぬとも我はわすれしとて載たり。源氏物語箒木に、女のをとこを恨て心みしかく尼になる事をいへる所に、みつからひたいかみをかきさくりて、あへなく心ほそけれは、うちひそみぬかしとかけるに、抄に此哥を引とて、老くちひそみよとむともといへり。すへて彼抄和漢の書を引に、たしかならぬことおほし。六帖はあらためて載たりとみゆ。此集にては、老舌出而とあるを、いかておいくちひそみとはよむへき。ひそむは、古本の本朝の經なとには、?の字をかけり。唐本には顰に作れり。眉をしはむるなり。眉をしはむる人は、口をも箝《ツクメ》は、?には、作れるにや。いまた字書をかんかへす
 
在久邇京思留寧樂宅坂上大孃大伴宿禰家持作歌一首
 
765 一隅山重成物乎月夜好見門爾出立妹可將待《ヒトヘヤマカサナルモノヲツキヨヨミカトニイテタチイモカマツラム》
 
此一隔山は八重山五百重山など云類に唯一重ある山と云にはあらず、是は久邇都と寧樂故郷との間にある山の名なり、其故は第六卷に天平十五年と標して家持の久邇京を讃る歌有て次に高丘(ノ)河内(ノ)連が歌に、故郷は遠くもあらず一隔山、越るかからに思ぞ我が爲る、河内も久邇京にして奈良をふるさととよめるに、彼は一重山の名に付て遠くもあらずと云ひ、此歌は一重山と名には云ひながらそれは言にして幾重もかさなる物をと各山の名に當てよめりと見ゆ、若然らずば唯山の重りて隔る物をとのみ云べし、一重山と云ひて重なると云も忽に自語相違し、又無用の詞なれば必山の名なり、
 
初、ひとへ山かさなるものを。管見抄に、ひとへ山名所にあらす。只ひとへ隔る心なり。百重山五百重山なといふかことし。今案年ころ此説とおなしやうに心得て侍りしに、ちかころより、もし名所にもやとおもふ心つけり。そのゆへは、第六卷に、天平十五年と標して、家持の久邇京を讃る哥有て、次に高丘河内(ノ)連《ムラシ》か哥に、ふるさとは遠くもあらすひとへ山こゆる我からにおもひそわかする。河内も久邇京にして奈良をふるさとゝよめるに、彼は一重山といふにつきて、遠くもあらすといひ、此哥は、一重山とはいひなから、それはことのみにして、いくへもかさなる物をと、をの/\山の名にあたりてよめりとみゆ。もししからすは、山のかさなりて、へたつる物をといはむためならは、一重山としもやはいひ出へき。かならす山の名なるへし
 
藤原郎女聞之即和歌一首
 
右の歌を贈られけるを聞て坂上大孃が心をくみてよめる答歌なり、此郎女は久(52)邇京に有けるなるべし、
 
初、藤原郎女聞v之即和歌。右の哥を坂上大娘にをくられけるを、藤原郎女のきゝて、坂上大娘の心をくみてよめるかへしなり
 
766 路遠不來常波知有物可良爾然曾將待君之目乎保利《ミチトホミコシトハシレルモノカラニシカソマツラムキミカメヲホリ》
 
然曾はさぞなり、落句は君を見まくほりの意なり、集中あまたよめり、君が目を見まくほりえのなどもつゞけたり、齊明紀に天皇崩じ給ひて後天智天皇まだ太子にまし/\て慕はせ給へる御歌にも、かくや戀なむ君が目を欲りとよみ給へり、
 
初、しかそ待らんはさそまつらんなり。君か目をほりは君をみまくほりしてなり。齊明天皇崩御の後、天智天皇のよませ給へる御哥に、きみかめ《・こひしきなり此集第五にも》のこほしきからにさ《立てなり多與左同韻相通》ちてゐてかくやこひけむ君かめをほり。結句此哥とおなし。こほしきは戀しきなり。さちてゐては立て居てなり
 
大伴宿禰家持更贈大孃歌二
 
767 都路乎遠哉妹之比來者得飼飯而雖宿夢爾不所見來《ミヤコチヲトホミヤイモカコノコロハウケヒテヌレトユメニミエコヌ》
 
ウケビテヌレドは、うけふと云に祈て驗を待と、誓て驗を待と、詛《ノロヒ》て驗を待との三つの意あり、今は祈る意なり、祈て驗を待は神武紀云、賊虜《アタドモノ》所(ハ)v據《ヨル》皆(ナ)是(レ)要害地《ヌミノトコロナリ》。故(レ)道路絶塞無v處v可(ニ)v通《トホル》、天皇|惡v之《ニクミタマフ》是(ノ)夜|自《ミヅカラ》祈《ウケヒテ》而|寢《ミネマセリ》、夢有2天神1訓之曰云云、此意なり、神功皇后紀云、時※[鹿/弭]坂王忍熊(ノ)王共(ニ)出(テ)2菟《ツ》餓野(ニ)1而|祈狩之《ウケヒカリシテ》曰、【祈狩、此云2于氣比餓利1、】若有(ハ)v成(コト)v事(ヲ)必獲(ム)2良獣《ヨキシヽヲ》1也云云、此等の外祈の字をうけふとよめる所多し、誓ひて驗を待は神代紀云、于v時天照大神|復《マタ》問(テ)曰、若然(ラハ)者將(ニ)何(ヲ)以|明《アカサム》2爾之赤《イマシカキヨキ》心(ロヲ)1也、對(テ)曰、請《コフ》與《ト》v姉《ナネノミコト》共(ニ)誓《ウケハン》、夫《ソレ》誓約之中《ウケヒノミナカ》、【誓約之中、此(ヲハ)云2宇氣譬能美難箇《ウケヒノミナカト》1、】必(ス)當(サニ・シレ)生《ウム》v子《コヲ》云云、此(53)意なり、詛《ノロ》ひて驗を待は古事記垂仁天皇の段に云、故|科《オホセテ》2曙立(ノ)王(ニ)1令(ム)2宇氣比1曰、【宇氣比三字以v音(ヲ)、】因(テ)v拜(ニ)2此大神(ヲ)1誠(ニ)有(ハ)v驗者、住2是(ノ)※[足+負+鳥]巣(ノ)池(ノ)之樹(ニ)1鷺(ヲ)乎宇氣比給(ヘ)、如此詔之時宇氣比(タマフニ)、其鷺墮(テ)v地(ニ)死(ヌ)、又詔2之宇氣比活(ヨト)1爾者|更活《マタイキヌ》、又在2甜白擣《アマカシノ》之前(ニ)1葉廣熊白擣《ハヒロクマカシヲ》令2宇氣比枯1忽(ニ)令2宇氣比生1云云、此鷺をうけひ殺し擣をうけひ枯らすは詛ふ意なり、伊勢物語の罪もなき人をうけへば忘草、己が上にぞおふと云なるとよめる此意なり、但のろふは日本紀には詛の字を書てトコフと點ぜる是なり、神武紀に呪の字をカシルと點ぜるはまじなひにて吉凶に通ずべし、此外凶事に限てうけひど云へる事なし、古事記も鷺をうけひ落し擣をうけひ生ずれば、呪辭の吉凶に亘り驗ある事を云へる其中に凶に亘る方を伊勢物語にはよめると意得れば、是も祈の字に攝むべし、此うけひの詞下にあまたよめり、
 
初、都路を遠みやいもか。うけひてはいのるなり。日本紀第三、神武紀云。賊虜《アタトモノ》所(ハ)v據《ヨル》皆(ナ)是(レ)要害地《ヌマノトコロナリ》。故道路絶塞(テ)無v處v可(ニ)v通《トホル》。天皇|惡之《ニクミタマフ》。是(ノ)夜|自《ミ》祈《ウケヒテ》而|寢《ミネマセリ》。夢(ミラク)有(テ)2天神1訓《ヲシヘマツテ》之曰云々
 
768 今所知久邇乃京爾妹二不相久成行而早見奈《イマソシルクニノミヤコニイモニアハスヒサシクナリヌユキテハヤミナ》
 
今按發句をイマゾシルと點ぜるは誤にて意も叶がたし、改てイマシラスと和すべし、みかどの今作り給ふなり、其證は第六にも、第八にも同じ家持、今造る久邇の都とよまれたる歌あり、
 
(54)大伴宿禰家持報贈紀女郎歌一首
 
769 久堅之雨之落日乎直獨山邊爾居者欝有來《ヒサカタノアメノフルヒヲタヽヒトリヤマヘニヲレハイフセカリケリ》
 
欝有來、【拾遺云、ウモレタリケリ、】
 
イブセキは思のむねにふたがる意なり、集中にうもるとよめる例なし、意は通ずべし、僻令薪の盛りに燃るを吹けして灰に埋み置に頻に燃出んとすれども燃る事を得ずしてふすぼるやうなるが欝の字の意なれば、此字をさま/”\によめる和訓此下意を以て見るべし、
 
初、いふせかりけり。欝の字をかけり。心、字のことし。おほつかなきなり
 
大伴宿禰家持從久邇京贈坂上大孃歌五首
 
770 人眼多見不相耳曾情左倍妹乎忘而吾念莫國《ヒトメオホミアハサルノミソコヽロサヘイモヲワスレテワカオモハナクニ》
 
人眼、【別校本、眼作v目、】
 
情サヘとは身こそ人目にさへられてえあはねと云よりつゞけり、
 
771 僞毛似付而曾爲流打布裳眞吾妹兒吾爾戀目八《イツハリモニツキテソスルウチシキモマコトワキモコワレニコヒメヤ》
 
(55)一二の句は第十一にも、僞も似付てぞするいづこにか、見ぬ人戀に人の死《シニ》するとよめり、僞を云にも似つかはしき事をするなり、假令春山にかゝる白雲を花なりとは欺くべし、鷺を指て烏なりとは云まじきが如し、打布裳は今按ウチシキモの今の點意得がたし、これをよむに兩やう侍るべし、一つにはウツシクモと讀べし、神代紀云、大國主神亦(ハ)曰《マウス》2顯《ウツシ》國玉(ノ)神(ト)1、顯此(ヲハ)云2于都斯《ウツシト》1、亦顯見蒼生をウツシキアヲヒトグサとよめり、聖武紀云、京職大夫從三位藤原朝臣麻呂等、負《オヘル》v圖《フミ》龜|一頭《ヒトツ》獻奏《マウシ》賜【不爾】所聞行《キコシメシ》驚(キ)賜(ヒ)恠(シミ)賜(テ)、所見行《ミソナハシ》歡(ヒ)賜(ヒ)嘉《ヨミシ》賜?所思行《オモホサ》者、于都斯母|皇朕《スヘラワカ》政所(ノ)v致(ス)物耶云云、此集にも下によめり、あらはなる意なり、げに/”\しく吾に戀と云へどもあにしからめや信じがたしとなり、二つにはウツタヘモとよむぺし、上にも白細布をしろたへとよめり、しかれば細の字なくともたへとよみぬべし、雄畧紀に圓《ツブラノ》大臣の妻の歌に飫瀰能古簸多倍能婆伽摩烏那那陛嗚施《オミノコハタヘノハカマヲナナヘヲシ》とよめるたへの袴も白布の袴なるべし、推するに白き色は布より起て萬に亘りて白きを白妙と云にや、然れば絹布は白きを本とする故に多く白妙の袖とよめり、此等の理に依て布の一字をもたへと讀べければ、うつたへもと訓ずべくば、うつたへは偏の心なれば少は我を戀と云もさもこそと信《ウク》べし、偏に我を戀と云は似付ぬ僞にて信《ウケ》られずとなり、
 
初、いつはりも似つきてそする。第十一にも、いつはりも似つきてそするいつこにかみぬ人こひに人のしにするとよめり。いはりをいふにも、につかはしきことをするなり。たとへは、春山にかゝる白雲を、花なりとはいふへし。鷺をさしてからすなりとはいふましきかことし。打布裳はうつしくもとよむへし。うちしきもとはよむへからす。聖武紀に、神龜六年に靈龜の瑞を得て年號を天平と改たまふ詔の畧にいはく。京職大夫從三位藤原朝臣麻呂等伊負圖龜一頭献止奏賜【不爾】、所聞行驚賜恠賜所見行歡賜嘉賜※[氏/一]所思行久者、干都斯久母《ウツシクモ》皇朕政乃所致物爾在米耶云々。又日本紀に顯の字をうつしとよめり。顯現の心なり。あらはにあきらかなるをいへり。此集ならひに績日本紀に神あひうつなひといへるも、うつなひもあらはすにてうつしくといふに同し詞なり。しかれはうちしきとよめるは語なり。これを正とす。けに/\しく眞實にわれに戀めや。信しかたしとなり
 
(56)772 夢爾谷將所見常吾者保杼毛友不相志思諾不所見有武《ユメニタニミエムトワレハホトケトモアヒシオモハネハウヘミエサラム》
 
保杼毛友は是に三義有べし、一つにはほどこれどもと云心か、ぼどこるはほとばしるなり、文選潘岳(カ)寡婦(ノ)賦云、涙横(シマニ)迸《ホトコリテ》而霑(ホス)v衣(ヲ)、此迸の字ほとばしる、ほどこる、両様によめり、又踊躍、此二字ともにほとばしるとよめり、此集第十五に皈りける人來れりと云ひしかば、ほと/\しにき君かと思ひて、是胸のほとばしる意なり、然れば胸のほとばしるまで思やれどもと云へるにや、二つには、日本紀に流、被、連、延、此字皆ホドコルとよめり、同じくほどこるとよむ中に是は火水などのひろごりて引て外へも及ぶ意なれば、いかで君が夢になりとも入て見えんと思ひやりて心をそこに及ぼせどもと云なるべし、施をはどこすと訓ずるも、彼流、被等の和訓と本はひとつなる歟、猶水に漬れる物の液《ホトブ》と云もかよふべし、三つには日本紀に火熱をホトヲルとよめり、胸のほとをるばかり思ひやると云歟、下の句は我はかく思ひやれども君が夢には見えずと云ひおこするは、魂の共に相てこそ夢には見ゆる物なるに、君は相思はねば見えざらんこそことわりなれと云なり.アヒシのし〔右○〕は助語なり、不相志思と此國の助語を加へて書て下より返りて讀例集中に多し、第七に雖涼常、又雖干跡と書て(57)共にホセドとよみ、從標之と書てシメシヨリとよみ、第十六に將若異をワカケムとよめる皆同じ例なり、又今按アハヌシオモヘバとも讀べきか、我は頻に思ひやれども夢に見えずと云は君が人だのめしつゝあはぬを思べばげにも諸心ならねば見えずは有らむなり、
 
初、夢にたに見えむと吾はほとけとも。管見抄にほとけともは欲すれともといふ詞なりといへり。君か夢に入てたに見えむとわれは欲すれとも、夢にもみえぬときくは、けにも君かもろ心にあひもおもはねは、見えぬらんと心得れは、一筋はとほれとも、猶このほとけともは、欲すれともといふ詞といふ證をしらす。推量なるへし。日本紀に流被連延の四字を皆ほとこるとよめり。心は失火なとのゝひて外へもをよふ心なり。ほとけともといふも此字にや。しからはいかて君か夢にたに入て見えむと心をおもひやりて、引てそこにをよほせともといふ心なるへし。下句の尺は上のことし。不相志思、これをあひしおもはねはともよみかたし。そのゆへは、志は助語のかなゝり。てにをはの字中にありて、下より上へかへる理なし。もし志の字衍文ならは、あひおもはねはと讀へし。志の字もとよりあらは、あはぬしおもへはとよむへし。その時の心は、君か人たのめしつゝあはぬとおもへは、けにもゝろ心にあらねは、見えぬならんの心なり
 
773 事不問木尚味狹監諸茅等之練乃村戸二所詐來《コトトハヌキスラアチサヰモロチラカネリノムラトニアサムカレケリ》
 
味狹監は和名云、白氏文集律詩云、紫陽花、【和名阿豆佐爲、】此集第廿にも、安治佐爲能夜敞佐久其等久とよめる歌の注に、右一首左大臣寄2味狭藍花1詠也、六帖あぢさゐに彼歌を入て次に、茜刺ひるはこちたしあぢさゐの、花のよひらに相見てしかな、木にしてこゝにも木とよれたれど.和名にも六帖にも草に入たり、槿は木ながら爾雅には釋草篇に入たる如く各所存あるべし、此草の名を思ふによき事をほめて味と云、狭藍は此卷の上に、玉衣のさゐ/\沈みとよめる歌に注せし如く、狹はそへたる詞、ゐ〔右○〕は藍なり、あぢさいの花は藍の色したればさてかくは名付たるか、然れば味狭藍とかけるは和語の正字なるべし、三四の句は如何なる事をよまれたるか知がたし、次の歌にも、諸茅等之練乃言羽とあるは諸茅は人の名にて味狭藍を誑かし欺きたると云昔(58)物語などの有ける歟、又草木の物云ひたる事神世には有ければ、諸茅とは淺茅などを云ひて、それが言を巧《ヨク》して味狹藍を誑しける歟、仙覺抄に無窮なる穿鑿の注あれど今取らず、孔子の子路に教へ給へる詞にも、知らぬをば知らずとするを是を知れりとすと侍れば、疑しきを闕べし、古人二皆を以て一意を云ひつる事多ければ、此歌は次の歌を云はむ爲なるべし、
 
初、ことゝはぬ木すら。ことゝはぬは物いはぬなり。心なきゆへに物いはねは、非情といふ心なり。あちさゐは、紫陽花なり。和名集には、あつさゐといへり。ちとつ音通せり。もろちらかねりのむらとにあさむかるとは、これは和漢の間に、昔あちさゐを、もろちかあさむきたる故事あるか。あるひは世にいひつたふる物かたり有けることなるへし。何事ともわきまへかたし。孔子の、子路にたまへる詞にも、しらぬをしらすとするは、すなはちしれるなりとそをしへ給へる
 
774 百千遍戀跡云友諸茅等之練乃言羽志吾波不信《モヽチタヒコフトイフトモモロチラカネリノコトハシワレハタノマス》
 
云友をイフトモとよまば、不信をタノマジとよむべし、是は行末を懸て此上に猶戀ともの意なり、不信をタノマズとよまば云友をトヘドモとよむべし、前々より今まで百千遍戀と云をきけどもなり、諸茅は上に云が如し、練と云は浸潤の※[言+潜の旁]と云如くよく鍛錬して詐く意にや、此三四の句を意得るにも二つあるべし、一つには二句は全く諸茅が上を云ひて大孃が僞にたとふとも云べし、二つには上の歌にも諸茅等が練とまではつゞけて、言羽とは此に初て云へば、諸茅が練の如くなる君が詞と云にや、此歌は上の僞も似付てぞすると云を踏める歟、言羽志のし〔右○〕は助語なり、右五首、初の一首は我が實の替らぬ事を云ひ、後の四首は深く恨める歌なり、上の鬼のしこ(59)草とよまれたる歌の端作の下の注に雖2絶數年(ナリト)1と有しは、今の歌を贈て後の事なるべし、
 
初、もゝちたひこふといふとも。此哥もわきまへさる事、右におなし。此二首は、さきのいつはりもにつきてそするといふ哥にあはせてみれは、大娘をうらむ事ありて、よまれたる哥と見えたり
 
大伴宿禰家持贈紀女郎歌一首
 
775 鶉鳴故郷從念友何如裳妹爾相縁毛無寸《ウツラナクフルキサトヨリオモヘトモナニソモイモニアフヨシモナキ》
 
鶉は草深う荒て人目なき所に鳴物なれば、下にもあまた今と同じ意につゞけよめる歌あり、伊勢物語にも、野とならば鶉と成て鳴をらんとよみ、六帖には我宿は鶉臥まで掃はせじ、など皆荒て悲しきさまなり、故郷從はフリニシサトユとも讀べし、此歌は久邇の京に有て奈良宅に有し時より妹を思へどもと云に久しき思ひをよせたるなるべし、
 
初、うつらなくふるきさとよりおもへとも。うつらは草ふかうあれて、人めなき所になく物なれは、うつらなくふるきさとゝはつゝけたり。第八、第十一、第十七、今とおなし心によめる哥あり。伊勢物語には野とならはうつらとなりて鳴をらんといふ哥を載、六帖には、わかやとは鶉ふすまてはらはせし小鷹手にすへこん人のためといふ哥有。みなあれたるさまにいへり。ふるきさとよりおもふといふには、ふたつの心あるへし。右の久邇京より、坂上大娘かもとへをくりたる哥のつゝきにあれは、此ふるさとはならの家をさして、そこに有しよりおもひそめつれと、なとて今まてにあふよしのなきと、久邇京にてよめるにや。又此集に久しくなるおもひをいはむとては、をとめこか袖ふる山のみつかきとよみ、おく山の岩にこけおひてともよみたれは、此ふるさともその心なるへき歟
 
紀女郎報贈家持歌一首
 
776 事出之者誰言爾有鹿小山田之苗代水乃中與杼爾四手《コトテシハタカコトニアルカヲヤマタノナハシロミツノナカヨトニシテ》
 
有鹿、【別校本云、アレカ、】
 
(60)一二の句は戀き由云ひそめたるは何れよりぞ、君が先立て云へるにはあらずやなり、神代紀云、如何(ソ)婦人《タヲヤメノ》反(テ)先v言《サイタツコト》乎、私記に此先言を古點にコトテとよめる由見えたり、此集第十に、春去ば先鳴鳥の鶯の、言さきだてし君をしまたむとよめり、苗代水ノ中ヨドニシテとは、苗代には河水を任せなどするに流れくるまゝによどみてぬるく絶々なればそれに譬へて、古き里より思へどもなどか逢がたきと、逢ぬを人の咎のやうに云ひなさるれど、言出せし人こそ苗代水の如く中よどみはすれとかへすなり、第十一に、こととくは中はよどまじ水無瀬川、絶てふことを有こすなゆめとよめる引合すべし、
 
初、ことでしはたかことにあらむ。ことでしはとは、おもひそむるよしをいひ出たるは、たかことはそや。それよりいひはしめたまへるにはあらすやなり。神代紀上云。如何(ソ)婦人《タヲヤメノ》反(テ)先《サイタツ》v言《コト》乎。第十に、春されは先なく鳥のうくひすのことさきたてし君をしまたむ。なはしろ水の中よとゝは、たねをおろす時、河水をかけ入なとするなり。田にせき入たる水は、のとかになれは、中よとゝはよめり。よとむ心なり。我はふるきさとよりおもへとも、なとか逢かたきと、あはぬを、人のとかのやうにいひなさるれと、そこにこそ、苗代水のなかよとにして、こひしぬへしなときこえしことは、あとなけれといふ心にかへせるなり。第十一に、ことゝくは中はよとましみなせ川たゆてふことを有こすなゆめ
 
大伴宿禰家持更贈紀女郎歌五首
 
777 吾妹子之屋戸乃※[竹/巴]乎見爾徃者蓋從門將返却可聞《ワキモコカヤトノマカキヲミニユカハケタシカトヨリカヘシテムカモ》
 
※[竹/巴]乎、【官本、※[竹/巴]咲くv籬、】
 
由あるさまに面白う新に結たる君が宿の※[竹/巴]見むと云に事づけて行ぬべし、さりとも呼も入ずしてかへされむやとなり、下の歌どもを見るに此おりふし郎女が家の損じたる處などつくろひたるなるべし、
 
初、わきもこかやとのまかきを。これは、只まかきをのみ見むといふにあらす。次の哥にまかきの姿みまくほりといふにて心得へし。まかきの内には花もみちもあれはそれにことよするなり
 
 
(61)778 打妙爾前垣乃酢堅欲見將行常云哉君乎見爾許曾《ウツタヘニマカキノスカタミマクホリユカムトイヘヤキミヲミニコソ》
 
此歌又上を踏て云なり、前垣《マガキ》はすなはち此かけるやうにまへがきの略語なるべし、スガタは※[竹/巴]の體勢なり、第十六に、つくる屋の形をよしみとよめるに同じ、イヘヤはいはむやなり、偏にまがきのなりを見まくほし、とてのみ行かむと云はんや、事を※[竹/巴]に寄て君を見にこそ參らむとは申せの意なり、古事記仁徳天皇の御歌に、矢田一の、一本菅は、ねもたす、立か荒なむ、あたら菅原《スカハラ》、言をこそ、菅原《スゲハラ》と云はめ、あたら清女《スガシメ》、又輕太子の歌にも此格あり、今の歌語勢似たり、六帖には行とは妹を見にこそきつれと改て籬の歌とす、
 
初、打たへにまかきの姿みまくほり。うつたへは偏になり。これは初の哥をみつから尺するやうによめり。さき/\にも、後にも此體あり。やとのまかきをみにゆかはといふは、一向にまかきの體をのみ見まくほしくてゆかんといふならんや。まことには、君を見にこそゆかんとはいへなり。いへやはいはむやといふ心なり
 
779 板盖之黒木乃屋根者山近之明日取而持將參來《イタフキノクロキノヤネハヤマチカシアスモトリテハモテマヰリコム》
 
板蓋は毛詩(ノ)小戎(ニ)云、在2其板屋(ニ)1、黒木は皮の著たる木を其まゝ用たるを云ひ、白《シラ》木とはよく斬りて用るを云なり、第八にも聖武天草の御製に、ならの山なる黒木もて作れる宿とよませ給へり、明日取而は今按アスモトリツヽ、或はアケム日トリテと讀べし、今の書やう取てはのは〔右○〕の字叶はず、明日を日本紀にはクルツ日と點じたれど此(62)集には例なし、第十一にあけむ日は其門ゆかむと有に例してよむべし、黒木作にて山も近ければ明日は取て參らせむ、心安かれとなり、
 
初、いたふきのくろ木のやねは。いたふきは、毛詩(ノ)小戎(ニ)云。在2其(ノ)板屋(ニ)1。績日本紀(ニ)云。神龜元年十一月甲子、大政官奏(シテ)言(サク)。上古(ハ)淳朴(ニシテ)冬(ハ)穴(ニスミ)夏(ハ)巣(ニスメリ)。後世(ノ)聖人代(ルニ)以(シ)2宮室(ヲ)1亦有2京師1。帝王爲(シ)v居(ヲ)萬民所(ナリ)v朝(スル)。非(ハ)2是(レカ)壯麗(ナルニ)1何(ヲ)以(カ)表(ハサン)v徳。其板屋草舍(ハ)中古(ノ)遺制(ナリ)。難(タク)v營(ナミ)易(シテ)v破(レ)。空(シク)〓(ス)2民財(ヲ)1。請(フ)仰(テ)2五位已上及(ヒ)庶人(ノ)堪(タラム)v營(ナムニ)者(ニ)1構(ヘ)2立(テヽ)瓦舍(ヲ)1塗(テ)爲(サシム)2赤白(ヲ)1。奏(シテ)可《ユルス》v之(ヲ)。くろきのやねは、皮の著たる木を、其まゝ用るを黒木といひ、けつりたるを白木とはいふなり。山もちかけれは、猶あすもふき板を取てもてまいらんなり。紀郎女、此時はやねをふきあらためられけるなるへし
 
780 黒樹取草毛刈乍仕目利勤知氣登將譽十方不在《クロキトリカヤモカリツヽツカヘメトユメシリニキトホメムトモアラス》【一云仕登母】
 
此歌又上をたゝめり、今按第四の句の點叶はざる歟、ツトメシリキトと讀べし、山に水を取野に葺《カヤ》草を刈て君が奴の如くして我は仕へめども、能勤めて事を知きと君がほめむともなしとなり、アラズはなしの心なり、義訓せば即ナシとも讀ぬべし、たとひよく仕ふともほむべき體に見えぬ意なり、第十六に、此ころの我戀力しるし置て、功《クウ》に申さば五位のかうふり、此ころの我戀力給はずば、都に出て訴へ申さむ、源氏物語總角に中納言殿より夜都參らむと思ふ給へしかど、宮仕の勞もしるしなげなる世に思ふ給へ恨てなむ云云、又按ずるに君が勤知きとほめむとの意にて仕へむとにはあらず、本来君が爲にはかゝる事に仕へむと思ふ意なる由歟、仕目利をツカフメリと和せる本もあれど、歌の下に一云仕登母とあるはつかへめどと云に同じ意なれば、此に違へる上、既にさばかり仕へたらむには、※[竹/巴]を見に行を由にて君を見むと云にも叶はねば今取らず、
 
初、くろきとりかやも刈つゝ。此哥又初の哥をふみてよめり。勤知氣登《ツトメシリキト》、これを、ゆめしりにきとゝ點したるは誤なり。管見抄に、つとめしりきとゝいへる、これをよしとす。黒木を山より取來、野のかやをかりて、君かやつこのことく、我はつかへむとおもへとも、よくつとめて、事を知きと、君かほめんともなしといふ哥なり。あらすはなしなり。此集、義をもてよめる事おほけれは、すなはちなしともよむへし。ほめんともあらすといふは、かねておもふに、たとひよくつかふとも、ほむへき體に見えぬ心なり。源氏物語總角に、中なこん殿より、よへまいらんとおもふたまへしかと、みやつかへのらうもしるしなけなる世に、おもふたまへうらみてなん云々。此心よく似たり
 
(63)781 野干玉能昨夜者令還今夜左倍吾乎還莫路之長手呼《ヌハタマノヨフヘハカヘルコヨヒサヘワレヲカヘスナミチノナカテヲ》
 
夜者、【六帖云、ヨムヘ、別校本同v此、】
 
今按二の句はキゾハカヘセリ、又はキソノヨハカヘスと讀べし、第二挽歌に、君ぞきその夜夢に見えつると云歌に注するが如し、中にも令還をカヘルと點ぜるは六帖と同じけれども、使、令、教、遣等の字の意を得ぬ誤なり、
 
初、ぬは玉のよふへはかへす。令還をかへるとあるは、印本のあやまりなり。教、遣、使、令等の字は、命令するこゝろなれは、かへすとよむを正とす。我をしてかへらしむる心なれはなり。道のなかては、上の廿一葉に、門部王の哥にもありき。長手といふは、なをくてなかき道をなはてといふ。その心なり
 
紀女郎※[果/衣]物贈友歌一首【女郎名曰小鹿也】
 
女郎名上に既に注したれば、是は後人の私に記したるを書加へたるにや、
 
782 風高邊者雖吹爲妹袖左倍所沾而刈流玉藻烏《カセタカミヘニハフケトモイモカタメソテサヘヌレテカレルタマモヲ》
 
烏は、今按ヲ〔右○〕と點じたるは非なり、ソ〔右○〕と改たむべし、ソ〔右○〕と用たる故は以前注するが如し、
 
初、風高みへにはふけとも。へは海はたなり。いもかためは、友の女を指ていへり。烏はぞとよむへし。さきにも後にも有。からすをおぞ鳥といふ。第十四にからすてふ大おそ鳥とよめり。そのおそを上畧してぞといふかなに用るなり。をとよむは、音を取てつかへど、こゝにてはそとよむかたしかなり
 
大伴宿禰家持贈娘子歌三首
 
783 前年之先年從至今年戀跡奈何毛妹爾相難《ヲトヽシノサキツトシヨリコトシマテコフレトナソモイモニアヒカタキ》
 
(64)戀跡、【校本云、コフレト、】
 
ヲトヽシは、と〔右○〕とち〔右○〕と、通じてをちとしなり、をちは彼の字にて遠き意なり、貫之の、昨日よりをちをば知らずとよまれたるも昨日のさきををとゝひと云は彼津日《ヲチツヒ》なる故なれば、をとゝしも意此に同じ、去年も今年の爲には前年なれど、それはこぞと云名のあれば前年をヲトヽシとはよめり、をとゝしのさきの年をさをとゝしと云、竹取物語に、さをとゝしのささらぎの十月ごろにとかけり、今ヲトヽシノサキツ年と云は是なり、又をとヽしを、やがてさきつ年と云とも意得つべし、若内典の六種釋に依らば初の義をとゝしがためのさきつ年なれば、依士釋なり、後の義は持業釋なり、戀跡は校本に依べし、今の點は書生の誤なり、
 
初、をとゝしのさきつとし。去々年よりもなをさきよりなり。貫之哥に、きのふよりをちをはしらすとよまれたるは、きのふよりとをきそのさきなり。をとゝしはをちとしといふ心なり。竹取物語には、さをとゝしのきさらきの十日ころになにはより舟にのりて云々
 
784 打乍二波更毛不得言夢谷妹之手本乎纏宿常思見者《ウツヽニハサラニモイハスユメニタニイモカタモトヲマキヌトシミハ》
 
二の句は更ニモイハジとも讀べし、得の字は衍文なり、落句はうれしからましを云ひ殘せり、
 
785 吾屋戸之草上白久置露乃壽母不有情妹爾不相有者《ワカヤトノクサノウヘシロクオクツユノイノチモヲシカラスイモニアハサレハ》
 
(65)不有情、【官本、情作v惜、】
 
第十二にも草の上白く置露とよめり、情の字は惜を誤歟、されども第一の麻續王の歌に注するが如し、
 
初、不有情。情は惜の字をあやまてるなるへし
 
大伴宿禰家持報贈藤原朝臣久須麻呂歌三首
 
孝謙紀(ニ)云、寶字二年八月朔、正六位下藤原朝臣久須麻呂(ニ)授2從五位下(ヲ)1、廢帝紀(ニ)云、寶字七年四月、参議從四位下藤原惠美朝臣久須麻呂(ヲ)爲2兼丹波守1、左右京(ノ)尹如v故《モトノ》、八年八月乙巳、大師藤原惠美朝臣押勝逆謀頗|泄《モル》、高野天皇遣(シテ)2少納言山村(ノ)王(ヲ)1收(メシメタマフ)2中宮院(ノ)鈴印(ヲ)1、押勝聞v之、令d2其男訓儒麻呂等(ヲ)1※[しんにょう+激の旁]《ムカヘテ》而奪(ハ)uv之(ヲ)、天皇遣(ハシテ)2授刀小尉坂上(ノ)苅田麻呂、將曹|牡鹿《ヲカノ》嶋足等(ヲ)1射(テ)而殺(ス)v之(ヲ)云云、此間處々に見えたり、大織冠、淡海公、武智麻呂、仲|滿《マロ》久須麻呂、【仲滿第二男、】訓儒麻呂とも紀にかけるを思ふに、楠《クス》麻麿にはあらず、葛《クズ》麿なり、此三首より下の久須麻呂の報贈の歌までを通はし見るに、久須麻呂の家に童女の有を家持の思ひ懸て其由を久須麻呂へ讀てつかはされたりと見ゆ、此つゞき天平十二三年までの歌と見ゆれば、久須麻呂の娘には有べからず、其故は藤原の嫡家にてさしも殊恩を蒙られし仲滿の息なれど、寶字二年まで正六位下なれば此時いまだ若(66)年なるべければなり、上に贈答有也、童女若は是にや、若は久須麻呂の美少年なるにつかはされたるか、
 
786 春之雨者彌布落爾梅花未咲久伊等若見可聞《ハルノアメハイヤシキフルニウメノハナイマタサカナクイトワカミカモ》
 
彌布落とはいよ/\しく/\降なり、此歌初の二句は我思ひの絶ぬによそへ、後の三句は人のまだいはけなきに喩ふ、
 
初、はるのあめはいやしきふるに。春の長雨の心なり。いよ/\日をかさねて降といふ心なり。往來の哥の始終をもてみるに、これは久須麻呂の美少年にて、家持のおもひかけて、讀てつかはされけるなるへし。寶字二年に正六位下より、從五位下に轉昇せられたるをおもふに、淡海公の孫にて、さしもきり人なる押勝の子、壯年ならは、それまて六位にてあるへしや。此つゝきは、天平十三四年まての哥とみゆれはその比またわらはにて有けるなるへし。思ひのしけきを、ゝやまぬ春雨にたとへ、人のなをいはけなくて、物おもひしらぬを、またさかぬ梅によせたりとみゆ
 
787 如夢所念鴨愛八師君之使乃麻禰久通者《ユメノコトオモホユルカモヨシヱヤキミカツカヒノマネクカヨヘハ》
 
愛八師は上にも云ごとくハシキヤシと讀てなつかしき、うるはしきなど云意に意得べし、麻禰久はまなくなり、
 
初、ゆめのことおもほゆるかも。うつゝの心もせぬなり。まねくはまなくなり。なとねと五音相通せり。第二卷人まろの哥にも、まねくゆかは、人知ぬへみとよめり
 
788 浦若見花咲難寸梅乎殖而人之事重三念曽吾為類《ウラワカミハナサキカタキウメヲウヱテヒトノコトシケミオモヒソワカスル》
 
浦若ミは、うらやかにわかき心なり、それを草木の上によせて云時は末をうらとよむを兼るなり、うらわかみねよげに見ゆる若草などよめるは兼たるなり、今もかねたるべし、第十一に、はねかづら今する妹がうらわかみとよめるはうらやかに若き心のみなり、春の日のうらゝかなると云も通へる詞なるべし、又心をもうらといへ(67)ばそれにも叶ふべし、譬る意前の如し、
 
初、うらわかみ。只わかきことなり。但草木にそへていふ時は、うらは上なり末なり。若立《ワカタチ》末葉なとのわかきをいふ。此哥花咲かたき梅をうゑてといふは、かたなりなるわらはにちきりをく譬なり。人のことしけみおもひそわかする、往來の心こゝに見えたり
 
又家持贈藤原朝臣久須麻呂歌二首
 
789 情八十一所念可聞春霞輕引時二事之通者《コヽロクヽオモホユルカモハルカスミタナヒクトキニコトノカヨヘハ》
 
情クヽは心ぐるしくなり、春霞タナ引時とは、朧々と霞たる比は殊に物の感ぜらるゝ折なるに、君はなつかしく文など通はせど、思ひかけし人は何事もまだ思ひしらねば一方ならず心くるしとなり、此歌第八に坂上郎女が歌に大方同じきあり、古人は歌を盗む意はなくて時に叶へば、古へのをも今のをも詞を少引替て用たると見ゆる事多し、殊に家持は多くさやうの体あれば、此も坂上郎女が歌を、もとゝせられけるなるべし、
 
初、心くゝ。さきに注せり。《・此説用へからす只心くるしくなり茅《チ》生に足ふみ心くみともよめり》さきの哥も、霞たな引心くゝとよみ、こゝも春霞たな引時にとよせたり。心ありていはぬを情をふくむといふ、その心とみえたり。第八の十九葉大伴宿禰坂上郎女歌に、こゝろくき物にそ有ける春霞たな引時にこひのしけれは。大かた同し哥なり
 
790 春風之聲爾四出名者有去而不有今友君之隨意《ハルカセノオトニシイテナハアリユキテイマナラストモキミカマニ/\》
 
春風ノコエニシとも讀べし、志〔右○〕は助語なり、有去而は、今按アリサリテと讀べし、第十二にも、田上山のさな葛、ありさりてしもとよみ、第十七、平群女郎が歌にも阿里佐利底能知毛相牟等とよめり、あり/\て年月去て後なり、マニ/\はまゝの具なる詞(68)なり、風の音に人の聲をよそへて、彼童女が逢時もあらむを、待てとだに聞えさせば、年月あり去て今の事にあらずとも、君が今こそとゆるして云はんまゝに待べしとなり、不有今友は具には今にあらずともと云べきを、仁阿を反して約むれば奈となる故いまならずともと云へば、文章の法に依らば有は在の字なるべき歟、但假名はそれまでもなき故歟、
 
初、春風の音にし出なは。これは風の音を人の聲にたとへて、あふ時あらむまてとたに君かきかせは、あり/\て今ならすとも、君かいはんまゝにまたんとなり
 
藤原朝臣久須麻呂來報歌二首
 
791 奧山之磐影爾生流菅根乃懃吾毛不相念有哉《オクヤマノイハカケニオフルスカノネノネモコロワレモアヒオモハサレヤ》
 
一二の句は心の奧にこめて思ふ譬なり、落句はあひおもはざらむやにて相思ふなり、
 
初、おく山のいはかけにおふる菅の根の。ねんころの、ねの字まふけむとて、上の句は序にいへり。あひおもはされやは、君とゝもにあひおもはさらんやなり
 
792 春雨乎待常二師有四吾屋戸之若木乃梅毛未含有《ハルサメヲマツトニシアラシワカヤトノワカキノウメモイマタクヽメリ》
 
待常二師の師は助語にて待と云意にあるらしなり、未含有は今按イマダフヽメリと讀べし、ふくむをふゝむと云へるは古語なり、花のふゝむと云はつぼむなり、くゝむと云も古語なれど、花などには例としてふゝむと云へり、神代紀云、已而素戔嗚尊(69)含《フヽンテ》2其左(ノ)髻所纏五百箇統之瓊《モトヽリニマカセルイホツミスマルノニヲ》1云云、應神紀御製云、伽遇破志《カグハシ》【香細也、】波那多智磨那《ハナタチバナ》、【花橘也、】瀰菟遇利能《ミツグリノ》、【三栗也、】那伽菟曳能《ナカツエノ》、【中津枝也】府保語茂利《フホゴモリ》、【含隱也】此集第八坂上郎女歌に、しはすには沫雪降と知らぬかも、梅の花咲ふゝめらずして、其外多し、我宿の若木の梅を見れば、春雨の降に時を得て咲むとにや、まだつぼみたり、其如く家なる童女も君に逢べき時到て顔ばせ花の如くならんとにや、今はまだつぼみのやうにてあれば、今暫まてと憑むる意の譬なり、若訓儒麻呂をさして家持の贈られんにも、末を憑むるには我身を譬て吾屋戸の若木の梅とは云べし、後の人聞分べし、
 
初、春雨を待とにしあらしわかやとのわか木の梅もいまたくゝめり
待とにしのしは助語なり。くゝめりは、花の未開ことなり。咲は人の口をひらきてえむにたとへてかく字なれは、くゝめるはつほめるなり。ふゝめり、ふくめり、みなおなし心なり。わかやとのわか木の梅とは、我身をすくにはいはて、梅の上にいひなせり。但又家持と久須麻呂とは、友たちにて、久須麻呂の家にある童女なとに、おもひかけて、久須麻呂にほのめかし出られけるは、家にある童女のことを、わか木の梅とよまれけるか。しからは、上にいかなる妹そこゝた戀たるといふ返しせし童女なとにもや侍らん
 
萬葉集代匠記卷之四下
 
(1)萬葉集代匠記卷之五上
                僧契沖撰
                木村正辭校
 
初、萬葉集卷第五目録
 
初、筑前守山上臣憶良挽歌一首并短歌 挽誤作悦
 
初、太宰帥大伴卿宅宴梅花歌三十二首并序 并誤作並
 
初、山上臣憶良和爲熊凝述志歌一首并短歌 并誤作並
 
雜歌
 
大宰帥大伴卿報凶問歌一首
 
大宰の大は點を加ふべし、大伴卿の妻大伴郎女死去せられけるを聞て都より弔らひ聞えける人に答てよまるゝ歌なり、郎女の死去は神龜五年春夏の間歟、第八夏部、石上堅魚朝臣を御弔の勅使に下し給ひて賻物など給はりける時、堅魚と大伴卿の贈答の歌四五月の間と見ゆればなり、今歌後注に六月廿三日とあるは私の弔は勅使よりも遲く、返事も便に隨ふ故なるべし、みづからの慟の歌は第三に既に出き、
 
初、雜歌
 
太宰(ノ)帥《・ミコヨモチカミ》大伴卿|報《・コタフル》(スル)2凶問(ニ)1歌一首 是は旅人の妻大伴郎女、見まかられける後、都より、時の公卿の間、兩人の許よりとふらひつかはされける時、それにこたへてよまれたる哥なり。返哥なりと見は、報の字かへすともよむへし。第三に、神龜五年戊辰、太宰帥大伴卿、思2戀故人1哥三首とて載、天平二年の冬、大納言に任せられてのほらるゝ時、海路にての五首の哥、故郷にかへり來ての三首の哥、みな此なけきをよまれたり。そこに注せしことく、第八卷に、式部大輔石上朝臣|堅魚《カツヲ》を勅使として、喪をとふらはせたまひ、賻物なと賜ひける時、勅使記夷(ノ)城にのほりて、望遊せられし時、ほとゝきす來なきとよますうの花のともにやこしとゝはましものをと、堅魚朝臣のよまれし返しに、橘の花ちるさとのほとゝきすかた懸しつゝ鳴日しそおほきと大伴卿のよまれたるをおもふに、大伴郎女の逝去は、春の末なるへし。今此哥のおくに、六月二十三日とあるは、私のとふらひは、勅使よりもをそく、酬報もたよりにしたかひてをそかるへし
 
福故重疊、凶問累集、永懷2崩心之悲1、獨流2斷腸之泣1、、但依2兩(2)君大助1傾命纔繼耳。筆不v盡v言古今所v歎
 
官本には福を禍に作れり、今の本誤れり、司馬相如(カ)諫獵(ノ)書(ニ)云、禍故多藏2於隱微1、而發2於人所(ヨリ)1v忽《カロンズル》者也、鄭玄(カ)周禮注(ニ)曰、故災也、據v此則禍災也、史記張丞相列傳云、冀2幸丞相(ノ)物故1也、【物(ハ)無也、故(ハ)事也、】據v此則禍事也、續日本紀(ノ)光仁紀云、寶龜八年五月癸酉、渤海使史都蒙等歸v蕃、弔2彼國王后喪1勅書(ニ)曰、禍故無v常、賢室殞逝(ス)、重疊〔二字右○〕とはこれよりさきにも猶凶事ありける歟、崩心、斷腸〔四字右○〕、捜神後記曰、臨川東興有v人、入v山得2猿子1歸、猿母|自《シタカテ》v後至2其家(ニ)1、此人縛2猿子(ヲ)於庭樹(ニ)1、其母搏v頬(テ)v人欲2哀乞1、此人竟殺v之、猿母悲喚(シテ)自投(シテ)而死(ス)、此人破v腸視v之腸皆(ナ)斷裂、兩君〔二字右○〕は誰と云ことを不v知、筆不(トハ)v盡v言〔四字右○〕、易繋辭云、書不v盡v言(ヲ)。言(ハ)不v盡(サ)v意(ヲ)、
 
初、禍故重疊 禍をあやまりて福につくれり。文選司馬相如(カ)諫獵(ノ)書云。禍故多藏2於隱微1而發2於人所1v忽者也。【史記故作v固。】史記張丞相蒼列傳伝。膚爲2大夫1而丞相次也。共心|冀2幸《ネカヒネカフ》丞相物故1也【高堂隆答2魏朝訪1曰。物(ハ)無也。故(ハ)事也。言(ハ)無2復所1v能2於事1。】匈奴列傳曰。初漢兩將軍大出v國、單于所v殺虜八九萬。而漢土卒物故亦數萬【索隠曰。案釋名云。漢以來謂v死爲2物故1。就v朽故也。又魏臺訪議高堂崇對曰。聞2之先師1云々。如2上張丞相列傳1。故略之。續日本紀光仁紀云。寶亀八年五月癸酉、渤海(ノ)使史都蒙等歸v蕃。弔2彼國王后喪1曰。禍故無v常、賢室殞逝。崩心。断腸。捜神後記曰。臨川(ノ)東興有v人入v山得2猿子1歸。猿母|自《シタカテ》v後(ニ)至2其家1。此人縛2猿子於庭樹1。其母搏v頬向v人欲2哀乞1。此人竟殺v之。猿母悲喚自投而死。此人破v腸視v之腸皆斷製。筆不v盡v言。易繋辭曰。書不v盡v言。言不v盡v意
 
793 余能奈可波牟奈之伎母乃等志流等伎子伊與余麻須萬須加奈之可利家理《ヨノナカハムナシキモノトシルトキシイヨヨマスマスカナシカリケリ》
 
世中ハ空シキ物ト知時とは、指當らぬ程は只空しき物と聞てさこそと思ひつるまでなりしを、かゝる歎に逢て身に知時なり。時シのし〔右○〕は助語なり、イヨヽはいよ/\(3)なり、知時に當て空しき物と思ひし時よりもいよ/\ます/\悲しとなり、此卿酒を讃する歌を見れば荘子が缶を撃たるべき氣象なれど恩愛にはたへられざりけるなり、
 
初、よのなかはむなしき物と知時し。しは助語なり。いよゝ、いよ/\なり
 
神龜五年六月二十三日
蓋聞、四生起滅、方v夢皆空、三界漂流、喩2環不1v息、所以維摩大士在2乎方大1、有v懷2染疾之患1、釋迦能仁、坐2於雙林1、無v免2泥※[さんずい+亘]之苦1、故知二聖至極、不v能v拂2力負之尋至1、三千世界、誰能逃2黒閤之捜來1、二鼠競走、而度v目之鳥且飛、四蛇爭侵、而過v隙之駒夕走、嗟乎痛哉、紅顔共2三從1長逝、素質與2四徳1永滅、何圖階老、違2於要期1、獨飛生2於半路1、蘭空屏風徒張、斷腸之哀彌痛、枕頭明鏡空懸、染※[竹/均]之涙逾落、泉門一掩、無v由2再見1、鳴呼哀哉、
 
(4)此悼亡文一篇并詩、及び日本挽歌并短歌は、山上憶良筑前守たりし時神龜五年に京より妻の慕ひ下りて程なく死去せられし時作らる、反歌の終に楝の花は散ぬべしとあるを見れば死去は五月の初にや、終に七月廿一日憶良上とあるは帥大伴卿などに見せらるゝにや、四生起滅、【四生、胎、卵、濕、化也、起滅、生起、死滅也、】方夢皆空、【莊子齊物論、方2其夢1也不v知2其夢1也、】莊子の意は、方は當也、今は下の喩環と云を思ふに比也の義に用與、三界漂流、【三界者、欲、色、無色也、漂流者譬d生死|之《ガ》令2v人漂蕩流浪1如c大海u也、】喩2環不1v息、【越絶書云、終而復始、如2環之無1v端、】所以維摩大士在2乎方大1有v懐2染v疾之患1【方丈、誤作2方大1、宜v改、維摩|具《ツフサニ》云2維摩羅詰1、舊譯梵語也、新云、※[田+比]摩羅詰、共飜云2淨名1、或無垢稱也、大士菩薩也、維摩經云、長者維摩詰以2如v是等無量方便1饒益2衆生1、其以2方便1現身有v疾、以2其疾1故國王大臣長者居士婆羅門等及諸王子并餘官屬等、數千人皆往問v疾、其往者、維摩詰因以2身疾1廣爲2説法1、注、肇法師曰、同v我者易v信、異v我者難v順、故因2其身疾1廣明v有2身之患1、釋氏要覧云、方丈蓋寺院正寢也、始因唐顯慶年中勅差2衛尉寺丞李義表、前融州黄水令王玄策1、往2西域1、充使至2※[田+比]耶黎城東北四里許1維摩居士宅示v疾之室、遺v趾疊v石爲v之、王玄策、躬以2手板1、縱横量v之得十笏1、故號2方丈1、】釋迦能仁坐2於雙林1無v免2泥※[さんずい+亘]之苦1、【釋迦、比云2能仁1、梵漢並擧、猶v云2悉地成就1、涅槃經云、爾時世尊娑羅林下寢2臥寶牀1、於2其中夜1入2第四禅1寂然無v聲、於2是時頃1便般2涅槃1入2涅槃1已、其娑羅林、東西二雙合爲2一樹1、南北二雙合爲2一樹1垂覆2寶牀1蓋2覆如來1、其樹即時惨然變v白猶如2白鶴1、枝葉花菓皮幹悉皆爆裂墮落漸々枯悴摧折無v餘、泥※[さんずい+亘]、梵語此云2寂滅1、涅槃之訛音耳、】故知二聖至極【二聖、釋迦與維摩也、】不v能v拂2力負之尋至1、【莊子大宗師云、藏2舟於壑1、藏2山於澤1、謂2之固1矣、然而夜半有v力者負v之而走、昧者不v知也、郭象注云、方言2死生變化之不1v可逃、】三千世界【長阿含并起世因本經等云、四洲地心即須弥山、此山有2八山1※[しんにょう+堯]v外、有2大鐵圍山1、周※[しんにょお+囘]圍饒、並一(ノ)日月蒜夜囘轉、照2四天下1、名2一國土1、積2一千國土1、名2小千世界、積2千箇小界1名2中千世界1、積2一千中千界1、名2大千界1、以2三積千1故名2三千大千界1、首楞嚴經云、東西南北四維上下名v界、過去未來現在名v世、】
二鼠競走、【賓頭盧爲2優陀延王1説v法經云、我今爲v王略説2譬喩1、王志心(ニ)聽、昔日有(テ)v人行(テ)在2曠路1逢2大惡象1爲v象所v逐、狂懼(シテ)走(リ)突(ク)無v所2依怙1、見2一(ノ)丘井(ヲ)1即尋2樹根1入(テ)2井中1藏(ル)、上(ニ)有2黒白(ノ)二鼠1牙2齧《キカム》(5)樹根1、此井四邊有2四毒?1欲v螫2其人1、而此井下(ニ)有2三大毒龍1、旁(ニハ)畏2四地1下(ニハ)畏2毒龍1所v攀之樹(ハ)其(ノ)根動搖(ス)、樹上(ニ)有v蜜、三兩滴(リ)墮2其口中1、于v時動v樹敲2壞蜜※[穴/果]1、衆蜂散(テ)飛(テ)※[口+妾]2螫其人1、有2野火(ノ)起1復來燒v樹、大王當v知、彼人(ノ)苦悩不v可2稱計1、而彼人得v味甚少(シテ)苦患多(シ)、大王曠野|者《ヲハ》喩2於生死1、彼(ノ)男子(ヲハ)者喩2於凡夫1、象(ヲ)喩2於無常1、井(ヲ)喩2於人身1、樹(ヲ)喩2於人命1、白黒(ノ)鼠(ヲ)者、喩2於畫夜1、樹根(ヲハ)者喩2念々滅1、四毒蛇(ヲハ)者喩2於四大1、蜜(ヲハ)者喩2於五欲(ニ)1、衆蜂(ヲ)喩2惡覺1、野火(ノ)燒(ヲハ)者喩2其老邁1、下(ニ)有2三毒龍1、喩3其死去墮2三惡道1、是故當v知、慾味(ハ)甚少(シテ)苦患(ハ)甚多(シ)、】而度v目之鳥旦飛(ヒ)〔七字右○〕、文選張景陽雜詩云、人生(レテ)2瀛海(ノ)内(ニ)1忽(タルコト)如2鳥(ノ)過(ルカ)1v目四?爭侵〔四字右○〕、最勝王經偈云、地水火風共(シテ)成v身、如3四毒?居2一篋1、此四大?性各異、雖v居2一處1有2昇沈1、或上(リ)或下(リ)遍2於身1、斯等終歸2於滅法1、於2此四種毒?中1、地水(ノ)二?(ハ)多(ク)沈下(シ)、風火二?性輕擧(ス)、由v此(ニ)乖違衆病生、而過v隙之駒夕走〔七字右○〕、莊子盗跖篇云、忽然無v異2麒※[馬+冀](ノ)馳過1v隙也、史記李斯列傳曰、夫人生處v世也、譬猶d※[馬+聘の旁]2六※[馬+冀]1過c決隙u也、嗟乎〔二字右○〕【官本、乎作v呼、】痛哉紅顔共2三從1長逝〔九字右○〕、禮郊特性云、婦人有2三從之義1無2專用之道1、故未v嫁從(ヒ)v父、既嫁從v夫、夫死(シテハ)從v子、故父(ハ)者子(ノ)之天也、夫(ハ)者妻之天也、四徳〔二字右○〕、禮記云、古者婦人教(ルニ)以2婦徳婦容婦言婦功(ヲ)1、周禮云、九嬪掌2婦學之法1以教2九御婦徳婦言婦容婦功1、階老〔二字右○〕【官本、階作v偕、今本訛、】毛詩云、君子偕(ニ)老(ム)、宜言飲v酒、與v子偕老、執2子之手(ヲ)1、與v子偕老、獨飛〔二字右○〕、漢書、李陵與2蘇武1詩云、雙鳧倶(ニ)北飛、一鳧獨南(ニ)翔(ル)、蘭空〔二字右○〕【室、誤作v空、官本改、】家語、孔子曰、入(ハ)2善人之室1如v入2芝蘭之室1、久而不v知2其香1、染※[竹/均]〔二字右○〕、博物志云、舜南巡不v返、葬2蒼梧(ノ)之野1、堯二女蛾皇女英追v之不v及、至2洞庭之山1、涙下染v竹即斑、(6)妃死爲2湘水之神1、和名云、兼名苑注云、※[竹/均]【王〓反、】竹(ノ)惣名也、又云、斑竹、一名涙竹、泉門〔二字右○〕、服虔左傳注、天玄地黄、泉在2地中1、故言2黄泉1也、按左傳所謂黄泉別義也、後人借v語以爲2冥路1耳、遊仙窟云、九泉下人一錢不v直、神代紀上云、是時伊弉諾尊已到2泉津《ヨモツ》平坂1、
 
初、蓋聞。目録には筑前守山上臣憶良挽歌一首并短歌とのみありて、此詩と序とを闕り。これは臆良の妻逝去の時、いたみてつくれる詩哥なり。終に憶良上とあるは、もし大伴卿、あるひは別人にみせらるゝ故歟。蓋は、孝経云。蓋天子之孝也。注云。蓋猶v畧也。孝道廣大、此畧言v之。疏正義曰。案2孔傳1云。蓋(ハ)者〓較之辭。劉〓云。〓較猶2梗※[既/木]1。孝道既廣。此纔擧2其大畧1也。劉〓云。蓋者不2終盡1之辭。明2孝道之廣大(ナルヲ)1、此略言v之也云々。
 
四生【胎卵濕化。】起滅【生起死滅。】方夢【莊子齊物論。方2其夢1也、不v知2其夢1也。】莊子の心は方は當也。今は下の喩環に對する意、比の訓に似たり。皆空といへるも、如夢幻泡影等の經文の心なれは、あたると訓しては、すこしかなひかたき歟。三界【欲色無色。】漂流【帝生死譬如2海(ニ)漂蕩流没1。】喩環【越絶書(ニ)云。終而復始如2環之無1v端。】維摩大士【維摩經曰。長者維摩詰以2如是等無量方便1饒2益衆生1。其(ノ)以2方便1現2身有1v疾、以2其疾1故、國王大臣長者居士婆羅門等、及諸王子并餘官屬無數千人、皆往問v疾。其往者(アレバ)維摩詰因以2身疾1廣爲説v法。注(ニ)肇法師(ノ)曰。同v我者易v信。異v我難v順。故因2其身疾1廣明2有v身之患1。】方丈【釋氏要覧曰。方丈(ハ)蓋寺院(ノ)正寢也。始因唐顯慶年中勅差2衛尉寺丞李義表、前融州黄水令王玄策(ヲ)1往2西域1充使至2毘耶黎城東北四里許1維摩居士宅(アリ)。示v疾之室(ナリ)。遺趾疊v石爲v之。王玄策躬以2手板1縱横量v之得2十(ノ)笏1。故號(ナリ)2方丈1。】釋迦能仁。【梵漢並擧。涅槃經曰。至下引】二聖【維摩釋尊。】力負。【莊子大宗師曰。藏2舟於壑1藏2山於澤1謂2之固1矣。然而夜半有2力者1負v之而走。昧者不v知也。郭象注曰。方言2死生變化之不1v可v逃。】三千世界。【首楞嚴經云。東西南北四維上下(ヲ)名v界(ト)。過去未來現在名v世。長阿含并起世因本經等云。四洲地心【中名】即須彌山。此山有2八山1遶v外。有2大鐵圍山1周廻圍遶。並一日月晝夜囘轉照2四天下2名2一國土1。積2一千國土1名2小千世界1。積2千箇小界1名2中千世界1。積2一千中千界1名2大千界1。以2三靖1v千故名2三千大千界1。】黒闇。【黒女天也。経云。】二鼠。賓頭盧爲優陀延王説法經云。我今爲v王略説(ム)2譬喩1。王志心聽。昔日有v人行在2曠路1逢2大惡象1。爲v象所v逐、狂懼走突無v所2依怙1。見2一丘井1即尋2樹根1入2井中1藏(ル)。上有2黒白二鼠1牙2齧樹根1。此井四邊有2四毒蛇1欲v螫2其人1、而此井下有2三大毒龍1。旁畏2四※[虫+也]1下畏2毒龍1。所v攀之樹、其根動搖。樹上有2蜜三兩1。滴墮2其口中1。于v時動v樹敲2壞蜜※[穴/果]1。衆蜂散飛※[口+妾]2螫其人1。有2野火1起復來燒v樹.大王當v知彼人苦惱不3可2稱計1。而彼人得v味甚少、苦患多。大王曠野者喩2於生死1。彼男子者喩2於凡夫1。象喩2於無常1。井喩2於人身1。樹喩2於人命1。白黒鼠者喩2於畫夜1。樹根者喩2念々滅1。四毒蛇者喩2於四大1。蜜者喩2於五欲1。衆蜂喩2惡覺1。野火燒者喩2其老邁1。下有2三毒龍1喩3其(ノ)死(シ)去(テ)墮2三惡道1。是故當v知慾味甚少、苦患甚多。度目之鳥。文選張景陽雜詩云。人生2瀛海内1、忽(タルコト)如2鳥過1v目。四蛇。最勝王經云。地水火風共(シテ)成v身、隨2彼因縁1招2異果1。同在2一處1相違害、如3四毒蛇居2一篋1。此四大蛇性各異、雖v居2一處1有2昇沈1、或上或下遍2於身1、斯等終歸2於滅法1。於2此四種毒蛇中1、地水二蛇多沈下。風火二蛇性輕擧、由v此乖違衆病生。而過隙之駒(ハ)、莊子盗跖篇云。忽然無v異2麒※[馬+冀]之馳過1v隙也。史記李斯列傳曰。夫人生處v世也、譬猶d※[馬+聘の旁]2六※[馬+冀]1過c決隙u也。三從(ハ)、禮云。婦人有2三從之義1。無2專用之道1。故未v嫁從v父、既嫁從v夫、夫死從v子。故父者子之天也。夫者妻之天也。四徳(ハ)、禮記云。古者婦人教以2婦徳婦容婦言婦功1。周禮云。九嬪掌2婦學之法1以教2九御1。婦徳、婦言、婦容、婦功。階老、【偕誤作v階。】毛詩云。君子偕老、宜言《アテツクラクハ》飲v酒、與v子偕老、執2子之手1與v子偕老、死生契闊與v子成v悦。獨飛(ハ)、漢書李陵與2蘇武1詩云。雙鳧倶(ニ)北(ニ)飛、一鳧獨(リ)南(ニ)翔(ル)。蘭室屏風(ハ)、家語(ニ)、孔子曰。入2善人之室1、如v入2芝蘭之室1。久而不v知2其香1。【室誤作v空。】染※[竹/均]、博物志云。舜南巡不v返、葬2蒼梧之野1。堯二女蛾皇女英追v之不v及。至2洞庭之山1、涙下染v竹即斑。妃死爲2湘水之神1。今(ノ)印本云。堯之二女舜之二妃曰2湘夫人1。舜崩。二妃啼以涕揮v竹。々盡斑。兼名苑云。斑竹一名涙竹。兼名苑注云。※[竹/均]【王〓反】竹(ノ)惣名也。泉門、服虔左傳注、天玄地黄。泉在2地中1、故言2黄泉1也。遊仙窟云。泉下人一錢不v直。左傳に黄泉といへるは、冥途の事にあらす。されとも陽魂は昇り、陰魂は沈理によりて、借ていふなるへし。神代紀上云。是時伊弉諾尊已(ニ)到(マス)2泉津《ヨモヅ》平坂(ニ)1。これは冥途の事なれと、文章に用るは、和語をからねは右にいふことくなるへし
 
   愛河波浪已先滅、苦海煩悩亦無v結、從來厭2離此穢土1、本願詫2生彼淨刹1、
 
順正理論云、愛〔右○〕者三界(ノ)貪也、隨2所v樂境1轉能※[さんずい+日]2没有情1、喩2之河(ニ)1也、苦海〔二字右○〕、苦(ハ)者三苦、所謂苦苦行苦壞苦也、海(ハ)者譬如2愛河1、厭離〔二字右○〕者淨土教門専示d厭2離穢土1欣c求淨土u、本願無量壽經云、設我得v佛十方衆生至心信樂欲v生2我國1、乃至十念若不v生者不v取2正覺1、唯除(ク)2五逆誹謗1、正v法、
 
初、愛河。順正理論云。愛着三界貪也。随2所v樂境1、轉能汨2没(スレハ)有情(ヲ)1喩2之(ヲ)河(ニ)1也。本願託生彼淨刹、無量壽經曰。設我得v佛、十方衆生、至心信樂、欲v生2我國1、乃至十念、若不v生者、不v取2正覺1。唯(シ)除(ク)2五逆(ト)誹謗正法(トヲ)1。事のたよりにとはむ。念佛の教門は、易修易行にして、小因大果の功あり。二尊慈悲して、かくのことくの方便門をひらきたまはすは、末世の凡夫、いかてか報身の樂邦を望まん。荊溪大師ののたまはく。諸經所讃多在彌陀。まことなるかな此言。たふとふへし。信すへし。しかれとも、彼觀經をひらくに、欲v生2彼國1者、當v修2三幅1。一者孝2養父母1、奉2事師長1、慈心不v殺、修2十善業1。二者受2持三歸1、具2足衆戒1、不v犯2威儀1。三者發2菩提心1、深信2因果1、讀2誦大乗1、勸2進行者1。如v此三事、名爲2淨業1。佛告2韋提希1。汝今知(ヤ)不。此三種業過去未來現在三世諸佛淨業(ノ)正因と説(リ)。又上品中生の人すら、經2於七日1應v時即於2阿耨多羅三藐三菩提1、得v不2退轉1と説り。いはむや下品下生の人は、於2蓮花中1滿2十二大劫1、蓮花方開といへり。唐善導以來、ことに稱名の一業を宗とせられけれとも、猶日々一万遍以上のものを上品の生因とし、あるひは念々歩々聲々在彌陀と釋し、罪業を懺悔するには、随犯随懺と釋せらる。しかのみならす、道綽禅師は、初に三罪ありて、往生いまた決定せす。大明の袁仲郎は、儒典釋教に兼通し、ことに念佛の教門を信して西方合論を作り、淨業の龜鏡とせしかとも、戒行なかりけるゆへに極欒に生することあたはす。されとも西方合論をつくりて阿彌陀佛を讃嘆し、往生をすゝめけるによりて、わつかに懈慢國に生しけるよし、舎弟の袁石公か夢に見えて、則つふさに西方合論の序にしるせり。袁仲郎ほとの人、いかに戒行なくとも、普通の凡夫におとらんや。そのうへ五逆と誹謗正法とは、本朝に滿たり。曇鸞の往生論の注に、五逆の往生はゆるさるれとも、誹謗正法のものはゆるされす。十六親等は、當時をこなはれす。釋名の淨業おほよそかくのことき歟。淨業に猶別の方法ありて、易行にして、極重罪を減し、根鈍障重のものも、たやすく九か中の第一に至るあらんや。こたへていはく。予はこれ一庸僧にして、戒足よはく、慧眼又くらし。人を導て、正道にいたらしむるにたらす。しかれとも、公輸か手なしといへとも、其規矩を家にかくせり。規矩を用るに、又巧拙ありといへとも、履を作て箕をなすにいたらし。今その規矩を出す。方圓は君みつからなすへし。無量壽如來修觀行供養儀軌經云。爾時金剛手菩薩、在2※[田+比]盧遮那佛大集會中(從v座而起、合掌恭敬白v佛言。世隼我爲2當來末法雜染世界惡趣衆生(ノ)1説2無量壽如來陀羅尼1修2三密門1證2念佛三昧1得v生2浄土1入(シメム)2菩薩正位1。不d以2少福無慧方便1得uv生2彼刹1。是故依2此教法1正念修行(セハ)決定(シテ)生2於極樂世界上品上生1獲2得初地1。【即身義云。歓喜地者非2顯教所(ノ)言初地1。是則自家佛乘之初地。具(ニ)説(クコト)如2地位品(ノ)中(ノ)1。】又説2或印(ノ)功能1云。由(ルカ)d結(ニ)2此印1及(ヒ)眞言(ヲ以)加持(スル)威力(ニ)u故、即變2此三千大千世界1成2極樂刹土1、七寶(ヲ)爲v地、水鳥樹林皆演2法音1。無量莊嚴如2經(ノ)所説(ノ)1。又説2阿彌陀眞言功能1云。此無量壽如來陀羅尼(ヲ)纔誦一〓1則滅2身中(ノ)十悪、四重、五無間罪1、一切業障悉皆消滅。若〓蒭、l々々尼、犯2根本罪(ヲ)1【比丘四重比丘尼八重、】誦2七〓1己即時還得2戒品清淨1。誦2滿一萬〓1、獲2得不腐忘菩提心三摩地1、菩提心顯現身中、皎潔圓明、楢如2淨月輪1。臨2命終時1、見d無量壽如來|與《タメニ》2無量倶〓【此云十万】菩薩衆(ノ)1、圍遶(セラレテ)來迎(シテ)安c慰行者u、則生2極禦世界上品上生1、證2菩薩位1。陀羅尼集經(ノ)第三(ニ)云。日々(ニ)誦(シテ)2阿〓佛(ノ)陀羅尼、阿彌陀佛(ノ)陀羅尼等(ヲ)1、滅2叙(セヨ)身中(ノ)五逆四重等(ノ)一切罪障(ヲ)1。若欲(セハ)v生(セント)2阿彌陀佛國(ニ)1、日々(ニ)作(セ)2此供養(ヲ)1。誦(シテ)2陀羅尼(ノ)法(ヲ)1常(ニ)作(セハ)2此法(ヲ)1一切(ノ)法事皆有2證驗1。死(シテ)生(ス)2阿彌陀佛國(ニ)1。若日々(ニ)供養(スル)功徳(ハ)大(ニ)好(シ)。不v可(ラ)2具(ニ)説(ク)1。念佛(ノ)功徳(ハ)非(ス)2是(レ)比對(スヘキ)1。其(ノ)誦(スル)v呪(ヲ)功力(ノ)状(ハ)等(シ)2日月(ノ)之光(ニ)1。念佛(ノ)功徳(ハ)同(シ)2夜燈(ノ)之光(ニ)1。不v得2具(ニ)譬(ルコトヲ)1。若(シ)日々(ニ)供養(シテ)誦(シ)v呪(ヲ)兼(テ)念佛(スル)功徳(ハ)如(シ)2須彌(ノ)之高(ク)大海(ノ)之深(キカ)1。若空(シク)念佛(シテ)不(ル)2兼(テ)誦(セ)1v呪(ヲ)功徳(ハ)如(ク)2香山(ノ)之小(シキカ)1如(シテ)2阿〓達地之細(サキカ)1、不v可2※[手偏+交]量(ス)1。若(シ)日々供2養(シテ)諸佛(ヲ)1誦(シテ)v呪(ヲ)滅(スルコトハ)v罪(ヲ)如(ク)3火(ノ)燒(カ)2草木(ヲ)1滅(スルコトモ)v罪(ヲ)亦爾(ナリ)。若(シ)能(ク)日別三時(ニ)供養(シテ)念(シ)v佛(ヲ)誦(スルヲ)v呪(ヲ)、比2空念佛1不v可2比※[手偏+交]1。口不v能v宣。功徳利益不可思議。理趣經云。〓〓【二合】字【無量壽佛種子(ノ)字也。】亦云2慚(ノ)義1。若具2慚愧1不v爲2一切不善1。即具2一切無漏善法1。是故蓮華部(ヲ)亦名2法部1。由(テ)2此字(ノ)加持(ニ)1於2極樂世界1水鳥樹林皆演2法音1。如2廣經中所1v説。若人持(スレハ)2此一字(ノ)眞言1能除2一切災禍疾病(ヲ)1、命終已後當(ニ)d生(シテ)2安樂國土1得c上品上生u。無量壽如來儀軌經云。即於2圓滿清淨月輪上1【顯教(ニハ)以2月輪1喩2心之明了圓滿(ナルニ)1不v知2本有(ノ)心月(ヲハ)1也【私注】】想(ヘ)2〓哩《キリク》【二合。入。引】字門1。從v字流2出無量光明1。於2一々光明道1觀成2極樂世界聖衆1圍2遶無量壽佛(ヲ)1。廣(ハ)如2無量壽經(ニ)所1v説。寶篋印陀羅尼經云。若有2惡人1死(シテ)墮(シテ)2地獄1受v苦無(ク)v間《ヒマ》【依(ルニ)2此無間二字1、上云(ハ)2地獄(ト)1即阿鼻也。阿鼻飜云无間】其所v造業(ハ)可v知五逆(ト)謗法(トナリ)【私注】免脱無(ランニ)v期、有(テ)2其子孫2稱(シテ)2亡者(ノ)名(ヲ)1、誦2上(ノ)神呪1纔至2七遍(ニ)1、洋銅熱鐵忽然(トシテ)變(シテ)爲2八功徳地(ト)1、蓮生(シテ)承v足寶蓋駐v頂、地獄(ノ)門破(レ)菩提(ノ)道開(ケテ)、其(ノ)蓮如(クシテ)v飛(カ)至2極樂界(ニ)1。一切智種自然(ニ)顯發|樂《ケウ》説無窮(ニシテ)位在(ラン)2補處(ニ)1。大廣智三藏所譯(ノ)光明眞言(ノ)儀軌(ニ)云【不空羂索神變眞言經第二十八、灌頂眞言成就品(ノ)之別譯(ノ)經也】若有2過去(ノ)一切(ノ)十惡、五逆、四重(ノ)諸罪1、燼然除滅。若有2衆生1、隨v處得3此灌頂光明眞言(ヲ)二三七遍經(ルコト)2耳根1者、即得2除2滅一切罪障1。若諸衆生具(ニ)造(ルコト)2十惡五逆四重諸罪1、猶如(ナラム)3微塵(ノ)滿2斯(ノ)世界(ニ)1、身壊命終墮(ンニ)2諸惡道1、以2是眞言1加2持(スルコト)士沙1一百八遍(シテ)散2尸陀林中1散2亡者屍骸上1、或散2墓上遇(トコロ)1皆(ナ)散(セヨ)v之。彼所(ノ)v亡者、若(ハ)地獄中(ニマレ)、若(ハ)餓鬼(ノ)中(ニマレ)、若修儲(ノ)中(ニマレ)、若(ハ)傍生(ノ)中(ニマレ)、以d一切不空如來不空※[田+比]慮遮那如來眞實本願大灌頂光明眞言神通威力(ヲ以)、如2持(スル)沙土1之力(ヲ)u、應v時即得2光明及(コトヲ)1v身(ニ)、除(テ)2諸罪報1捨2所v苦身1往2於西方極樂國土(ニ)1、蓮華(ヨリノ)化生(シテ)乃至(マテ)2菩提1更不2墮落1。元曉大師(ノ)遊心安樂道(ニ)云。問、親《マノ》遇2善緑1預2九品生1、頻見2文義1、憤心雲披。若有2衆生1集2衆惡1、不v識2修1v善、已(ニ)入(ンヲハ)2三途(ニ)1爲(ニ)有2方便1救2彼亡靈1令(メンヤ)d除2業障1生c極樂界u以|不《イナヤ》。答、愚情難v通、聖教有v術。故不空羂索神變眞言經第二十八卷、灌頂眞言成就品曰。爾(ノ)時十方一切刹土三世一切如來※[田+比]廬遮那如來、一時(ニ)皆伸(テ)2右(ノ)無畏(ノ)手(ヲ)1摩(テヽ)2清淨蓮華頂明王(ノ)頂(ヲ)1、同(シク)説(テ)2不空大灌頂光眞言(ヲ)1曰。【已下(ノ)引文大2同上文1故略v之】此(レ)等(ノ)經文注々(ニ)而在(リ)。悔(シイ)哉罪業|自《ミ》造(テ)、苦果影(ノコトクニ)追。痛(イ)哉獨(リ)困(シミ)獨(リ)厄《タシナミテ》、無2人(ノ)救護(スル)1。自(リハ)v非(ス)2同體(ノ)大悲、弘濟(ノ)秘術(ニ)1、誰(カ)能遠(カ)開(テ)2幽鍵(ヲ)1、扶(ケテ)昇(セム)2花臺(ニ)1。雖v無(シト)2他作自受(ノ)之理1而有2縁起難思之力(ラ)1、則(ハチ)知(ヌ)以v遇(ヲ)2呪沙(ヲ)1即成(ス)2有縁(ヲ)1。若不v被2呪沙(ヲ)1何(ソ)論(セム)2脱期(ヲ)1。惟夫(レ)大悲無方(ナリ)。長舌無(シ)v誑(カスコト)。不v可(ラ)v不(ハアル)v信(セ)。後悔無v及(コト)。然(レハ)則不(ル)2信用(セ)1者(ノハ)徒(ニ)負(テ)2厚恩(ヲ)1報(スル)日|轉《ウタヽ》遠(シ)。有(ル)2順行(スルコト)1者(ノハ)攝(シテ)2魂(ヲ)華蓮(ニ)1孝順便(ハチ)立(ス)。幸(ニ)逢(ヘリ)2眞言(ニ)1。合(スルコト)2土沙(ニ)1不v難(カラ)。凡(ソ)有(ン)v心君子誰(カ)不(ラン)2奉行(セ)1。散(スルスラ)2沙(ヲ)墓(ノ)上1尚(ヲ)遊(フ)2彼界(ニ)1。況(ヤ)乎呪(シテ)v衣(ヲ)著(シ)v身(ニ)聆《キヽ》v音(ヲ)誦(セン)v字(ヲ)者(ヲヤ)矣。【已上安樂道。】曇鸞(ノ)往生論(ノ)註(ニ)云(リ)。十念業成(ト)者是(レ)亦通神(ノ)者《ヒト》言(フ)之(ヲ)耳。但積念相續(シテ)不(レハ)v縁(セ)2他事(ヲ)1便(ハチ)罷《ヤミヌ》。復何(ノ)暇(アテカ)須(ン)v知(ルコト)2念(ノ)之頭數(ヲ)1也。若(シ)必(ラス)須v知(ル)亦有2方便1。必須2口授(ス)1。不得|題《アラハスコトヲ》2之(ヲ)筆墨(ニ)1。秘藏記云。【弘法大師述。中(ニ)有2念誦(ノ)法1。永觀(ノ)往生十因(ニ)引(テ)面證(ス)。】十念(ト)者、.十波羅密成就也。往生論(ノ)注(ニ)云。問曰。名(ヲハ)爲2法(ノ)指《シルシト》1。如2《晴澄禅者多有此見》指(ノ)々(ス)1v月(ヲ)。若稱(シテ)2佛(ノ)名號(ヲ)1、便(ハチ)得(ハ)v滿(スルコトヲ)v願(ヲ)者、指(ス)v月(ヲ)之|指《ユヒ》應(シ)2能(ク)破(ス)1v闇(ヲ)。若指(ス)v月(ヲ)之指(ハ)不v能(ク)v破(スルコト)v闇(ヲ)稱(ストモ)2佛(ノ)名號(ヲ)1亦何(ソ)能滿(センヤ)v願(ヲ)耶。答(テ)曰、話法萬差(ナリ)。不v可2一概(ス)1。有2名(ノ)即(スル)1v法(ニ)。有(リ)2名(ノ)異(スル)1v法(ニ)。名(ノ)即v法者諸佛菩薩(ノ)名號、般若波羅密、及(ヒ)陀羅尼(ノ)章句、禁呪(ノ)音辭等是也。乃至有(ト)2名(ノ)異(スルコト)1v法(ニ)者如(キ)2指(ヲ以)指(スカ)1v月(ヲ)等(ノ)名也。右の諸文の中に、寶篋印陀羅尼と光明眞言とは、法然上人の弟子|乘願《竹谷》房《・宗源》の勅答に出たる事、沙石集、つれ/\草に見えたり。又沙石集に、陀羅尼門は、易行の中の易行なる事をいふとして、六字の名號こそ易きに、一字の眞言もあれはといへるは、一字の眞言あまたあれと、理趣釋經に説れたる、無量壽如來の種子の字なり。生前に自身修行するたに、三輩九品の差別ありて、菩提心を起さすして、唯彼土の安閑を聞て、生せん事をねかふものは、往生せさるよし見えたり。無間獄の罪人、寶篋印陀羅尼、光明眞言等の功力を被て、忽に惡報を出て、極樂に生するのみにあらす、一切智種顯發して、位補處に在こと、いかなる易行かこれに及はむ。陀羅尼集經の校量の明文、日月よりも赫て、掌をさすよりも近し。不思議神通乘と號するは、此故なり。紫閣山草堂寺《ノ宋僧傳載有傳本宗天台》飛錫和尚、念佛三昧寶王論三卷を製せらるゝ中にも、無量壽軌によりて、行者則本尊と同して修するよしを明さる。不空三藏の譯場にありて、灌頂の弟子にておはしけるゆへなり。猶今引る外に、秘密藏の中に、往生淨土の文、あけて數ふへからす。又秘經に説れたる阿爾陀は、大日如來の妙観察智の別徳にて《・五智中第三亦名轉法輪智亦名蓮華智》、深くこれをしれは、無量壽《・弘法大師法華經開題意》は法身佛の常恒なるに名けて、則大日本尊なり。此趣をしれは、名號も、則眞言なり。更に別なし。此故に道軌阿闍梨【禅林寺(ノ)靜遍僧都(ノ)弟子高野山正智院住持】秘密念佛抄三卷を作りて、此旨を釋せらる。しかれとも、如來内證智の教は、宿縁なけれは逢かたく、信しかたし。(以下小字傍書長文ニツキ今移シテ本文トス)寶樓閣經曰。復告2金剛手1言。我若不v因2此陀羅尼1不v能v成2等正覺1。不v能v降2伏倶〓魔衆1。不v能3枯2竭煩悩大海1。不v能v然2大法炬1。金剛手、我於2無量倶〓百千劫1來雖2難行苦行1、猶故不v能v成2菩提果1。由d纔聞2此大陀羅尼1加行相應u故、得v成2正覺1。金剛手、此陀羅尼有2大威力1有2大殊勝1。是一切如來眞寶法性。令3諸如來圓2證法身1。金剛手、由v稱2此陀羅尼名號(ヲ)1則爲3已稱2十方諸佛如來名號1。若能纔念則爲4禮2拜2供3養一切如來1。寶樓閣陀羅尼經云。爾時世尊告2金剛手菩薩1言。金剛手衆生下劣 不2勤精進1、心多2惑亂1、愚痴閣鈍(ニシテ)〓2著(シ)諸欲(ニ)1不v信2正法1、不v敬2父母(ヲ)1、不v敬2沙門婆羅門(ヲ)1、不v敬2尊者(ヲ)1。此(ノ)故(ニ)此(ノ)陀羅尼不v入(ラ)2彼人之手(ニ)1。薄幅(ト)少智(ト)少慧(ト)如(ノ)v此(ノ)衆生(ハ)不v能v得(ルコト)v聞(コトヲ)、不v能2受持(スルコトヲ)1、不v生(セ)2浄信(ヲ)1。此陀羅尼(ハ)能滅(ス)2一切罪(ヲ)1。是(レ)諸(ノ)如來(ノ)秘密之歳(ナリ)。此陀羅尼(ハ)是(レ)諸(ノ)如來(ノ)秘密明心(ナリ)。是(レ)諸(ノ)如來(ノ)眞實理趣明心(ナリ)。此陀羅尼(ハ)是(レ)成佛(ノ)根本(ナリ)。若無(ハ)2此(ノ)陀羅尼大明王1、終(ニ)不v能v成(スルコト)2無上正覺(ヲ)1。此陀羅尼(ハ)是(レ)成佛(ノ)種子(ナリ)。是轉大法輪(ナリ)。是(レ)然(スナリ)2大法炬(ヲ)1。是(レ)建(ル)2大法幢(ヲ)1。是(レ)吹(ナリ)2大法螺(ヲ)1。是(レ)撃(ナリ)2大法鼓(ヲ)1。是(レ)法師子座(ナリ)。中ころ慧心院の僧都は、道心名高く、天下普く聞えて、貴き高僧にておはせしかとも、彼製述の往生要集(ノ)序(ニ)云。但顯密教法非(ス)v一(ニ)。事理(ノ)業因其行惟(レ)多(シ)。利智精進(ノ)之人(ハ)未(タ)v爲v難(シト)。如(キ)v予(カ)頑魯(ノ)之者豈敢(ンヤ)矣。此詞まことに密教を下さるゝにはあらねと、をのつから劣を執して勝を潜す過失あるゆへに、末世の愚人これより難行なりとおもへり。元亨釋書に、彼僧都の傳に、小闇鏡の夢あるも理なり。彼僧都も、傳教慈覺の末なれは、密教をも兼て學ひ給ひけめと、機教相應せさるゆへに、江南の橘、河洛にいたりて枳となれること惜むへし。十住心論第九云。經論(ノ)明澄如v此(ノ)。末學(ノ)凡夫不v可(ラ)3強(ニ)任(テ)2※[匈/月]臆(ニ)1、判2攝(ス)難思(ノ)境界(ヲ)1。居(テ)v高(ニ)接(スレハ)v低(ヲ)功徳無量(ナリ)。執(シテ)v劣(ヲ)潜(ス)v勝(ヲ)定(テ)入(ル)2深底(ニ)1。不v可(ラ)v不(ハアル)v愼(シマ)。六婆羅密經第一云。第三(ノ)法寶(ト)者、所謂過去無量(ノ)諸佛(ノ)所説(ノ)正法(ト)、及(ヒ)我(カ)今(ノ)所説。所謂八萬四千(ノ)諸(ノ)妙法蘊(ナリ)。攝(シテ)爲2五分(ト)1。一(ニハ)素怛纜《ソタラン》《・翻云經》。二(ニハ)※[田+比]《・律》奈耶。三(ニハ)阿※[田+比]達摩《・對法論也》。【已上小乘。】四(ニハ)般若《・智慧》波羅蜜多《・到彼岸》。【華厳般若法華涅槃等皆攝2在此中1。】五(ニハ)陀羅尼門《・譯云總持》。此五法蔵(ヲ)教2化(シ)有情(ヲ)1隨(テ)v所(ニ)v應(キ)v度(ス)而爲(ニ)説(ク)v(ヲ)之《・小乘三藏略之》。〇若彼有情樂(フニハ)d習(テ)2大來眞實(ノ)智慧(ヲ)1離(レント)c於我法執著(ノ)分別(ヲ)u而爲v彼(カ)説2般若波羅蜜多藏(ヲ)1。若彼(ノ)者情不v能3受2持(スルコト)契經《・ソタラン》、調伏《・ヒナヤ》、對法《・アヒタツマ》、般若(ヲ)1或(ハ)復有情造(ルヲ)2諸(ノ)惡業(ノ)四重【比丘重禁】八重【比丘尼】五無間罪【五逆】謗方等經【謗法】一闡《・斷善》提等種々(ノ)重罪(ヲ)1、使(シメ)v得2銷滅(スルコトヲ)1、速疾(ニ)解脱(シ)、頓悟涅槃(スヘキニハ)而(モ)爲v彼(カ)説2諸(ノ)陀羅尼藏(ヲ)1。此(ノ)五法藏(ハ)譬(ハ)如(シ)2乳、酪、生蘇、熟蘇、及(ヒ)〓醍醐(ノ)1。契經(ハ)如(ク)v乳(ノ)、調伏(ハ)如v酪(ノ)、對法教(ハ)者如(ク)2彼(ノ)生蘇(ノ)1。大乘般若(ハ)猶如(ク)2熟蘇(ノ)1、惣持門(ハ)者譬(ハ)如(シ)2醍醐(ノ)1。醍醐(ノ)之味(ハ)乳酪蘇(ノ)中(ニ)微妙第一(ニシテ)能除(キ)2諸病(ヲ)1、令《シテ・シム》d2諸(ノ)有情(ヲ)1身心安樂(ナラ)u。惣持門者、契經等(ノ)中(ニ)散爲(タリ)2第一1。能除(キ)2重罪(ヲ)1令d2諸(ノ)衆生(ヲ)1解2脱(シ)生死(ヲ)1、速(ニ)證(セ)c涅槃安樂(ノ)法身(ヲ)u。すてに如來みつから、法の次第淺深を定たまふことかくのことし。見す知らすは、智者にあらす。しかれとも猶、見す知らすはやみなむ。若は見、若は聞とも、猶臆説を執せは、いはゆる三世諸佛の讎と成なん。たとひ磧礫を翫て、玉淵を窺すとも、驪龍の蟠る所を疑され。たとひ敝邑に習て、上邦を覿《ミ》すとも、英堆の〓《ヤトル》る所を恠され。彭蠡の濱には、魚をもて飯をかしき、〓〓の山には、玉をもて鵲をうつ。寶藏、貧女か家をさらされとも唯みつからしらさるのみ。そも/\此一段は、いたつらなる傍論にて侍れと、おもふよし侍て、知なからなか/\しく申侍り。ゆへはとならは、おほよそなすへきをなさゝるを懈怠とし、又なすましきをなすをも懈怠とす。道を障る事おほけれと、遂には、懈怠のみ殘れり。をのれたま/\沙門となれとも、何のなすことなく、還てかゝる過分のことをなし、他の面を見すして、ほしいまゝに先達の事をも評破すれは、其罪をおきぬはんとて、いさゝかの事にたよりて、かゝることゝもは申せり。これはかりは、まけて得分に申うけ侍らん。罪ゆるさるへし
 
日本挽歌一首
 
右の詩に對して日本とはいへり、
 
794 大王能等保乃朝庭等期良農比筑紫國爾泣子那須斯多比(7)枳摩斯提伊企陀爾母伊摩陀夜周米受年月母伊摩他阿良禰婆許許呂由母於母波奴阿比※[こざと+施の旁]爾宇知那比枳許夜斯努禮伊波牟須弊世武須弊斯良爾石木乎母刀比佐氣斯良受伊弊那良婆迦多知波阿良牟乎宇良賣斯企伊毛乃美許等能阿禮乎婆母伊可爾世與等可爾保鳥能布多利那良※[田+比]爲加多良比斯許許呂曾牟企弖伊弊社可利伊摩須《オホキミノトホノミカトトシラヌヒツクシノクニニナクコナスシタヒキマシテイキタニモイマタヤスメストシツキモイマタアラネハココロユモオモハヌアヒタニウチナヒキコヤシヌレイハムスヘセムスヘシラニイハキヲモトヒサケシラスイヘナラハカタチハアラムヲウラメシキイモノミコトノアレヲハモイカニセヨトカニホトリノフタリナラヒヰカタラヒシコヽロソムキテイヘサカリイマス》
 
期良農比、【官本、期作v斯】  宇知那比枳、【校本、比作v※[田+比]、】
 
初より六句は前々に注せり、伊企陀爾母イマダヤスメズとは、都より來凍りてまだ息をもやすめぬなり、程もなくと云意なり、コヽロユモは快もなり、よく〔二字右○〕を反せばゆ〔右○〕となる故なり、ゆ〔右○〕はに〔右○〕也、コヤシヌレとは此集に反の字展の字をコイとよめり、臥て足をのぶる意なり、古事記に輕太子歌云、都久由美能許夜流許夜理母阿豆佐由美《ツクユミノコヤルコヤリモアヅサユミ》、多?(8)理多?理母《タテリタテリモ》云々、此は弓を伏せ置を詐夜流理母とは讀給へり、又推古紀に聖徳太子片岡飢人に賜ひたる御歌に許夜勢屡諸能多比等阿波禮《コヤセルソノタヒトアハレ》とよませ給へると類聚國史にふせる旅人とあると同じ、今の意は病に打臥て死ぬればなり、は〔右○〕の字なきは古歌の體なり、セムスヘシラニはせむすべ知らずなり、石木乎母刀比佐氣斯良受とは、石木乎母は石木にもなり、刀比佐氣は第三に坂上郎女が尼理願が死を怨める歌に、問放るうから兄弟なき國にとよめるに注せしが如し、山に葬て人は見えず、唯石木のみ見ゆれど、彼は非情なれば何を言て思ひを放むやうを知らぬなり、家ナラバ形ハアラムヲとは、家にあらばやみ臥ながらも形だにあらむを見ても慰むべきをなり、かたちとは木像などの意なり、妹ノ命は敬ふ詞なり,アレヲハモは我をばなり、も〔右○〕は助語なり、ニホ鳥ノフタリナラビヰは、第三に家持の妾を失なはれし歌に、みかもなすふたりならびゐと云に注せしが如し、心ソムキテは偕老同穴の詞に背くなり、家放リイマス、いますはいにますなり、行の字徃の字をイマスとよめる所あり、是なり、
 
初、大きみのとほのみかとゝ 第三卷人丸の哥に注せり。しらぬひのつくし、是も以前に注せり。期は斯をあやまれり。なくこなすしたひきまして。なく子の、親をしたひくるにたとふる詞なり。いきたにもいまたやすめす。道なとをいそけは、いきのせはしくゝるしきなり。これは妻の都よりきて、ほとなく死去するをいはむとてなり。年月もいまたあらねは。下りてまだ年月といふほとの間もなけれはなり。心ゆも、心よくもなり。与久を反してつゝむれは、ゆとなるなり。うちなひきこやしぬれ。推古紀(ニ)聖徳太子飢人に賜へる御哥に、許夜勢屡諸能多比等阿波禮《・其旅人※[立心偏+可]怜》《コヤセルソノタビトアハレ》とよませ給へり。こやせるを、くやるとも東俗にいふとかや。此集に、反の字、展の字を、こいとよめるに、今のこやしぬれもおなし。死してなひき臥をいへり。それにとりて、こやは、展《コイ》にて、下は死ぬれはといふ心餘。しは上のこやにつきたる詞歟。こやこいは五音相通なれは、こいふして死ぬるといふにても有へし。はの字のなきは、例の古風なり。いは木をもとひさけしらす。第三に、坂上郎女か、新羅(ノ)尼理願か死せるをいためる哥に注せしがことし。いは木をもは、いは木にもなり。非常の物なれは、かたりておもひをえとをざけぬなり。妹のみこと、妹命なり。たふとふ詞なり。此集に、父のみこと、母のみことゝもよめり。文字にかく時は、第二卷に、神代紀を引ることく、尊の字命の字かはれとも、和語はともにおなし。あれをはも。あれは我なり。もは助語なり。にほ鳥のふたりならひゐ。毛詩云。關々(タル)雎鳩在2河之洲(ニ)1。窈窕(タル)淑女(ハ)君子(ノ)好(キ)〓(ナリ)。孝徳紀云。皇太子【天智帝也】聞2造媛《・蘇我山田倉椅麻呂女持統天皇母》徂逝《ミヤツコヒメシヌト》2愴然《イタミ》〓(タマフデ)哀泣(コト)極(テ)甚(シ)。於是野中(ノ)川原(ノ)史滿進而奉v歌(ヲ)。々日。野麻鵞播爾《ヤマガハニ》、烏志賦〓都威底《ヲシフタツヰテ》、陀虞※[田+比]預倶《タクヒヨク》、陀虞陛屡伊慕乎《タグヘルイモヲ》、多例柯威《・率也》※[人偏+爾]※[奚+隹]武《タレカヰニケム》。この哥は關雎の詩をもてよめり。河の淵を山川とし、みさこを鴛にかへたり。此たくひの鳥、みな夫婦よくかたらひてみゆれは、にほ鳥のふたりならひゐとよめり。第十五にも、にほ鳥のなつさひゆけはなとよめり。文選張茂先(カ)鷦鷯(ノ)賦(ノ)序(ニ)曰。乗居(ト)匹遊(ト)《・ナラヒヰナラヒアソフ》。心背て、本懷にそむきてなり。家さかりいますは、家を遠さかるなり
 
反歌
 
(9)795 伊弊爾由伎弖伊可爾可阿我世武摩久良豆久都摩夜佐夫斯久於母保由倍斯母《イヘニユキテイカニカアカセムマクラツクツマヤサフシクオモホユヘシモ》
 
イヘは故郷の家なり、アカセムはわかせむなり、
 
796 伴之枝與之加久乃未可良爾之多比已之伊毛我巳許呂乃須別毛須別那左《ハシキコシカクノミカラニシタヒコシイモカココロノスヘモスヘナサ》
 
枝、【別校作v伎、本】
 
ハシキヨシは惜我の意なり、枝は技を誤れる歟、仁徳紀に桑枝をクハ ノキと點ぜるは枝をも木と同じく訓ずれど、此卷の例やすらかにのみ書たれば枝は誤なるべし、伎に作れるも例によれば然るべし、カクノミカラニはわづかにかくばかりの命なるからになり、
 
初、はしきよしかくのみからに かくのみからは、かくはかりしたひきても、年月もへぬのみなる物からにといはむかことし。枝は技の誤字なり
 
797 久夜期可母可久斯良摩世婆阿乎爾與斯久奴知許等其等(10)美世摩斯母乃乎《クヤシカモカクシラマセハアヲニヨシクヌチコトコトミセマシモノヲ》
 
クヤシカモは悔哉なり、カクシラマセバはかくと知らましかばなり、アヲニヨシクヌチコト/”\は、あをによしは、ならの枕詞を以てならとす、足引を山とするに同じ、くぬちはくにうちなり、爾宇の反奴なる故に約めて、くぬちとは云へり、第十七に家持の、越の中くぬちこと/”\とよまれたるも同じ、かくあらんと兼て知たらば都に有し時此世の思出に都の内を悉見すべかりしものをとなり、女は簾中にのみ有故に萬に物見を好めども障多くて出がたき物なれば實に聞ゆる悔なり、
 
初、くやしかもかくしらませは あをによしくぬちこと/\とは、あをによしならとつゝくる心なり。くぬちは、くにうちなり。二宇(ノ)切奴なるゆへに、つゝめてくぬちといへり。ならをくにといふは、よしのゝくに、はつせのくに、なにはのくになといふ類なり。ならはことに都なれは、くにといふへし。地、土、郷等の字をも、皆くにとよめり。第十七、家持の立山賦にも、あまさかるひなに名かゝすこしの中くぬちこと/”\・山はしもさはにあれどもとよまれたり。哥の惣の心は、くやしいかな。かくあらんと、かねてしりたらは、都にありし時、此世のおもひでに、みやこのうちを、こと/”\くみすへきものをとなり。女は物見をこのめども、さはり有て、出かたきものなれは、實なる哥なり。第十七に、家持の舎弟|書持《フムモチ》みまかりけるよし聞て、越中にてよまれたる歌の反哥にも、かゝらむとかねて知せはこしのうみのありその浪もみせましものを。これはいさなひきて、かゝる風景を見すへきものをとなり。おなしこゝろなり。こと/\は悉なり
 
798 伊毛何美斯阿布知乃波那波知利奴倍斯和何那久那美多伊摩陀飛那久爾《イモカミシアフチノハナハチリヌヘシワカナクナミタイマタヒナクニ》
 
阿布知は和名云、玉篇云、楝、【音練、本草云、阿布智、】清少納言云、木のさまにくけれど、あふちの花いとおかし、かれはなにさまことに咲て必五月五日にあふもおかし、散ヌベシとは散ぬべくなるなり、下の句の心は月日さへなごりなく過行心なり、
 
初、いもかみしあふちの花は.長哥に、いきたにもいまたやすめすとあるよりみれは、此妹かみしとあるは、ならの家の木なるへし。死去の比は五月の初にや。さきの、家にゆきてといへるも、故郷の家なり
 
(11)799 大野山紀利多知和多流和何那宜久於伎蘇乃可是爾紀利多知和多流《オホノヤマキリタチワタルワカナケクオキソノカセニキリタチワタル》
 
國府は三笠郡にて大野山も同郡なれば、彼山に霧の立渡る如く我嘆く息も霧となりて立渡るとよめる歟、又大野山に立渡る霧はやがて我歎の霧なりとよまれたるか、オキソは息なり、神代紀云、吹棄氣噴之狹霧《フキウツルイフキノサキリ》云云、此集下に八尺のなげき、又嘆の霧ともよめり、
 
初、大野山きり立わたるわかなけく おきそはいきなり。日本紀第一云。吹棄気噴之狭霧《フキウツルイフキノサキリ》。此集第十三に、わかなけくやさかの歎、杖たらぬやさかの歎なとよめるも、物を思ひためたる時、息のなかくつかるゝをいへり。歎といふ詞も長息なり。息の字をやかてなけくともよめり。息風にょりていくる物なれは、いきといふも生をいきとよむ心なれは、體用にわたしてなけきともなけくといふなり。第十五にも、君かゆく海邊のやとに霧たゝはあかたちなけくいきとしりませ。此外あまたよめり。大野山は御笠郡にあり。太宰府も、國府も、皆此郡にあり。憶良は筑前守なれは、國府に居て、大野山ちかかるへし。此上の二句は、興《・起也》なるへき歟。又大野山に立霧は、すなはちわかなけきの霧なりと歟
 
神龜五年七月二十一日筑前國守山上憶良上
 
初、山上憶良上 こはよくおもふに、さきの哥に、いもかみしあふちの花はちりぬへしとあれは、五月の比よまれたるを、後に七月二十一日に人にみせらるゝ時の後批なるへし
 
令v反2惑情1歌一首并序
 
此歌を作らるゝ故は序に見えたり、并序とは序題に歌題を兼る故なり、序とは孔安國尚書序(ニ)云、序者所3以序(ツル)2作者之意1、文選注、濟(カ)曰、序(トハ)舒也、舒2其物理1、菅家には序あはせたりとよみ、江家にはならびに序とよむとかや、
 
或有v人、知v敬2父母1、忘2於侍養1、不v顧2妻子1、輕v於2脱履1、自稱2畏俗先(12)生1、意氣雖v揚2青雲之上1、身體猶在2塵俗之中1、未v驗2修行得道之聖1、盍是亡命山澤之民、所d以指2示三綱1、更開2五教1、遺v之以v歌、令uv反2其惑1、歌曰、
 
脱履、【官本、履作v※[尸/徙]、】
 
脱履は官本の如く履を※[尸/徙]に作るべし、淮南子曰、堯年衰(ヘ)志|憫《カナシメリ》擧(テ)2天下1而傳(ルコト)2之舜1猶2郤行(シテ)而脱(カ)1v蹤《ワラクツヲ》也、史記孝武本紀云、天子(ノ)曰、嗟乎吾(レ)誠得(ハ)v如(ナルコトヲ)2黄帝1吾視v去2妻子1如v脱v蹤也、玉篇云、※[尸/徙]、所倚、所解二切、履也、亦作2?※[革+從]1、自稱畏俗先生〔六字右○〕、畏俗怖2畏※[さんずい+于]俗1之哉(カ)耶、今按畏(ハ)疑(ラクハ)異、魯魚(カ)耶、莊子(ニ)云、刻v意尚v行、離v世異v俗、高論怨誹爲v亢而已矣、此山谷之士非世之人、枯槁赴2淵者之所v好也、又云、天下大器也、而不2以易(ヘ)1v生(ニ)、此有道(ノ)者(ノ)所2以(ナリ)異2乎俗1者也、先生〔二字右○〕、韓詩外傳云、古(ニ)之謂(テ)2知v道者(ヲ)1曰(ハ)2先生1何也、猶2先醒(ノ)1也、不v聞2道術1之人(ハ)、※[草がんむり/毛]々乎(トシテ)其猶v醉也、三都賦(ノ)注、善(カ)曰、先生(ハ)學人(ノ)之通稱也、意氣雖v揚2青雲之上〔八字右○〕1、史記范雎列傳、須賈(カ)曰、賈不v意3君能自致2於青雲之上1、文選、東方曼倩※[草がんむり/合]客難云、抗(ルトキハ)v之則在2青雲之上(ニ)1、身體猶在2俗塵之中〔八字右○〕1、或本俗作v泥、今按塵(ハ)是色、攝以(テ)2塵泥1配2青雲1、雖d於(テハ)2對屬(ニ)1宜《・ヘシト》(シク)uv然亦未(タ)v知2孰(レカ)是(ナルコトヲ)1、未驗修行得道之聖盍是亡命山澤之民〔未驗〜右○〕、官(13)本盍(ヲ)作v葢、今按盍、蓋各有v理乎、亡命〔二字右○〕(ハ)、楊雄解嘲云、柳子(カ)曰、范雎魏之亡命也、輿地志(ニ)云、諸亡命聚(テ)藏(ル)2緑林山中(ニ)1、列子云、有v人去(リ)2郷士(ヲ)1離2六親1廢2家業1遊2於四方1、而不v歸者何人(ナラクヤ)哉、世必謂v之爲2狂蕩(ノ)人(ト)1、所以指示三綱〔六字右○〕、三綱(ハ)、君(ハ)爲2臣(ノ)綱1、父爲2子(ノ)綱1、夫(ハ)爲2婦(ノ)鋼1、更開五教〔四字右○〕、五教、書大禹謨(ニ)、帝(ノ)曰、皐陶汝作v士明2于五刑1以弼2五教1、舜典、契百姓不v親五品不v遜《シタカハ》、汝作2司徒(ト)1、敷(テ)2五教(ヲ)1在《オイテセヨ》v寛《ユタカナルニ》、五教(ハ)、父義、母慈、兄友、弟恭、子孝、遣〔右○〕、贈也貽也、
 
初、淮南子曰。堯年衰(ヘ)志|憫《カナシメリ》。擧(ニ)2天下(ヲ)1而傳2之舜(ニ)1。猶2郤行而脱(カ)1v〓《ワラクツヲ》也。史記孝武本紀曰。天子曰。嗟乎吾(レ)誠(ニ)得(ハ)v如(ナルコトヲ)2黄帝(ノ)1吾視(ルコト)v去2妻子(ヲ)1如(ナラム)v脱(カ)v〓耳。自稱2畏俗先生1。畏(ハ)疑異(ノ)、魯魚耶。莊子曰。天下(ハ)大器(ナリ)也。而不2以易(ヘ)1v生(ニ)。此(レ)有道(ノ)者(ノヽ)所3以(ナリ)異(ナル)2乎俗(ニ)1者也。先生(ハ)、韓詩外傳曰。古(ニ)之謂(テ)2知(ル)v道(ヲ)者(ヲ)1曰(ハ)2先生(ト)1何(ソ)也。猶(シ)2先醒(ノ)1也。不(ル)v聞(カ)2道術(ヲ)1之人(ハ)、※[草がんむり/毛]※[草がんむり/毛]乎(トシテ)其(レ)猶v醉(カ)也。三都賦注善(カ)曰。先生(ハ)學人(ノ)之通稱(ナリ)也。意氣、史記范雎列傳、須賈(カ)曰。賈不(リキ)v意(ハ)君能|自《ミ》致(ントハ)2於青雲之上(ニ)1。文選東方曼倩(カ)答客難(ニ)曰。抗(ルトキハ)之則在2青雲之上(ニ)1。盍(ソ)是、盍疑(ハ)蓋(ナラム)。亡命、文選楊子雲解嘲曰。楊子曰。范雎(ハ)魏(ノ)之亡命(ナリ)也。輿地志曰。諸(ノ)亡命聚(テ)藏(ル)2緑林山(ノ)中(ニ)1。列子云。有(テ)v人去(リ)2郷士(ヲ)1離(レ)2六親(ヲ)1廢(テヽ)2家業(ヲ)1遊(テ)2於四方1而不(ハ)v歸者何人(ナラム)哉。世必謂(テ)v之(ヲ)爲(ン)2狂蕩(ノ)人(ト)1矣。五教、書(ノ)大禹謨(ニ)帝(ノ)曰《ノ》。皐陶○汝作(テ)v士(ト)明(ニシテ)2于五刑(ヲ)1以|弼《タスク》2五教(ヲ)1。舜典(ニ)曰。契、百姓不v親、五|品《ヒン》不v遜《シタカハ》、汝作2司徒(ト)1敷2五教(ヲ)1在《・オイテセヨ》v寛《ユタカナルニ》。五教(ハ)、父義、母慈、兄友、弟恭、子孝
 
800 父母乎美禮婆多布斗斯妻子美禮婆米具斯宇都久志余能奈迦波加久叙許等和理母智騰利乃可可良波志母與由久弊斯良禰婆宇既具都遠奴伎都流其等久布美奴伎提由久智布比等波伊波紀欲利奈利提志比等迦奈何名能良佐禰阿米弊由迦婆奈何麻爾麻爾都智奈良婆大王伊麻周許能提羅周日月能斯多波阿麻久毛能牟迦夫周伎波美多爾具(14)久能佐和多流伎波美企許斯遠周久爾能麻保良叙可爾迦久爾保志伎麻爾麻爾斯可爾波阿羅慈迦《チヽハヽヲミレハタフトシメコミレハメクシウツクシヨノナカハカクソコトワリモチトリノカカラハシモヨユクヘシラネハウキクツヲヌキツルコトクフミヌキテユクチフヒトハイハキヨリナリテシヒトカナカナノラサネアメヘユカハナカマニマニツチナラハオホキミイマスコノテラスヒツキノシタハアマクモノムカフスキハミタニククノサワタルキハミキコシヲスクニノマホラソカニカクニホシキマニマニシカニハアラシカ》
 
字都久志、【官本、志作v思、或本、此下有2遁路得奴兄弟親族遁路得奴老見幼見朋友乃言問交之《ノガロエヌハラカラウカラノガロエヌオイミイハケミトモカキノコトヽヒカハシ》ノ六句二十三字1、】  阿米弊由迦婆奈河麻爾麻爾、【別校本、此二句爲2阿米奈良婆阿米乃麻爾麻爾1、】  伊麻周、【官本、麻作v摩、】
 
序に指2示三綱(ヲ)1と云ひて初に君臣を云はざるは下に云べき爲なり、米具斯《メクシ》、八雲曰、いとをしみなり、神代紀云、鍾《オキテ》2憐変《メクシトオホスミココロヲ》1、此集には愍をメグシとよめり、或本に遁路得奴以下六句を加へたるに付て按ずるに、序に更開2五教1とあれば此等の句なくては足らず、されば今の本落ちたるか、但六句の書樣少し此卷の書樣に類せず、老見幼見の詞も少し意得がたければ、後人此等の句ありぬべき所と見て、私に補へるか、おぼつかなし、余能奈迦波カクゾコトワリとは、かくぞ世間の三綱五教の道理は有るなり、此所句絶なり、モチドリは、もちにかゝれる鳥なり、和名集云、唐韻云、黐(ハ)【丑知反、和名、毛知、】所2以黏1v鳥(ヲ)也、世綱にまつはさるゝをよそへてかゝらはしもよとつゞけたり、雄略紀云、臣聞易産腹者以v褌觸v體即使〓〓《ヤツコウケタマハルハラヤスキヒトハハカマヲカヽラフニミニスナハチハラミヌ》、カヽラハシモは此觸の字なり、易に羝羊觸藩と云へる(15)觸の字と同じ意なり、ユクヘシラネバ、若此上に一句五字の落たるか、此まゝにて意得ば今まではかゝらはしきを忍て其過しつれど、猶此ゆくへ如何ばかりならんともしらねばなり、ウキクツは※[厭のがんだれなし]き履なり、破れたる履の心なり、行チフは行といふなり、登以反知なれば行ちふといへり、石木ヨリナリテシ人カ、智度論第十九云、是身(ハ)爲2臭穢1不d從v華開生u、亦不v從(リモセ)2瞻※[草がんむり/匐]1、又不v出2寶山(ヨリモ)1、禮記問裘篇云、禮義之經(ハ)非2從v天降(レルニモ)1也、非2從v地出(ルニモ)1也、人情而已矣、汝ガ名ノラサネとは石木より自然になり出て三綱五教にも依るまじき人ならば名のれ聞むと痛く責るなり、天《アメ》ヘユカメナガマニ/\とは、登仙の自在を得て天路を凌がば汝が隨意にせよとは、仙術も道に依らざれば成らぬことなればそれも叶ふまじき由を云ひつむるなり、神仙傳云、河上翁漢文帝時結2草庵(ヲ)河上(ニ)1、帝讀2老子(ヲ)1有(ルトコロ)v不v解(セ)、遣(シテ)v使(ヲ)問v之、公(カ)曰、道尊(ク)徳貴、非v可(ニ)2遙(ニ)問1、帝幸(シテ)問曰、普天(ノ)之下莫v非(ストイフコト)2王臣(ニ)1、不(ルハ)v能2自屈(スルコト)1無乃《ムシロ》高(フルカ)乎、公即坐(ナカラ)躍(テ)冉々(トシテ)在v空(ニ)、去(コト)v地數丈(ニシテ)曰、余(レ)上不v至v天中(コロ)不v至(ラ)v人(ニ)下不v至v地、何(ノ)臣民(トイフコトカ)之(レ)有(ン)、帝乃(ハチ)下(テ)v車(ヨリ)稽首(ス)、公授(ク)2素書一卷(ヲ)1、遂(ニ)失(ス)2所在(ヲ)1、地爾有者大君イマス、毛詩小雅、北山、溥2天(ノ)之下1、莫v非(トイフコト)2王土1、率土(ノ)之濱、莫(シ)v非(トイフコト)2王臣(ニ)1、此照ラス日月ノ下は、毛詩云、日居月諸、照2臨下土1、タニグヽノサワタルキハミとは、たにぐゝは第六に高橋蟲丸もかくよみたるに谷潜とかけり、心はたにくゞりなり、或説水を云といへど名に依て強ていへり、今案是(16)は蝦の異名なり、草をくゞる鳥とて※[晏+鳥]をかやくきと云如く、蝦はいかなる谷にも有て水をくゞれば此名を負せたるなるべし、延喜式第八|新年祝詞《トシコヒノノツトニ》云、皇神敷坐島八十島者《スヘカミノシキマスシマノヤソシマハ》、谷蟆狹度極《タニクヽノサワタルキハミ》鹽(ノ)沫留限《アワノトヽマルカキリ》云々、今の延喜式には谷蟆をタニカマと點ぜり、推量するに式に自注もなく相傳もなければ後人蝦蟆の二字の音を以て強て點ぜるなるべし、此集に二首まで谷グヽと讀み、語勢も同じ、上の天雲の向伏極みも、皇神《スヘカミ》見霽《ミハルカ》坐四方《マスヨモノ》國者、天壁《辟《サケ歟》》立|極《キハミ》國退《ソキ》立限青書靄極《タナヒクキハミ》白雲墜坐向伏限《オリヰムカフスカキリ》云云、これと同じ意なれば彼此を合せて案ずるに谷蟆をば此集を證としてたにぐゝとよみて互に證すべきなり、韻會、鮒の字の注の中に云、易(ニ)、井谷|射《ソヽク》v鮒《カヘルニ》、注(ニ)子夏云、蝦蟇、王弼が注を見るに云、谿谷出水、從v上注v下、水常射焉、又宋朝の傳義を見るに井卦の九二の彖云、九二、井谷|射《ソヽク》v鮒《カヘルニ》甕《モタヒ》敝(レ)漏《モル》、【射、食亦反、鮒、音附、】澗谷之水(ハ)則旁出(シテ)而就v下云云、鮒(ハ)、或(ハ)以爲v蝦(ト)或(ハ)以爲v蟇(ト)、射注也、如(キソ)3谷之下流(ノ)注2於鮒1也云云、上に井谷を井而如v谷と注したれど又下にはかくいへば元來谷水の蝦に注ぐに譬へて井谷射v鮒と云と意得たる注なれば、是蝦を谷ぐゝと云べき證の助なり、應神紀云、夫|國※[木+巣]《クスハ》者其(ノ)爲v人《ヒトヽナリ》甚|淳朴《スナホナリ》也、毎(ニ)取(テ)2山(ノ)菓(ヲ)1食、亦煮(テ)2蝦蟆《カヘル》1爲2上《ヨキ》味1、名(テ)曰2毛瀰1、其|土《クニハ》自v京|東南《タツミノスミ》之隔(テ)v山(ヲ)而居2于吉野河|上《ホトリニ》1、峯嶮《タケサカシク》谷深(テ)、道路|狹※[山+獻]《サクサカシ》云云、深き山を云には吉野の奧とこそ云に、彼處にも煮て食ふは、かく多ければにや、鳥獣もある(17)べきに蝦をしも至らぬ處なき物にしてかくためしには引かれ侍りける、キコシヲスはきこしめすなり、きこしは政を聞なり、をすは食の字ををすとよめり、知しめす意なり、クニノマホラゾとは、景行紀に天皇(ノ)思邦《クニシノヒノ》御歌(ニ)云、夜摩苫波區珥能摩保羅摩《ヤマトハクニノマホラマ》云云、此御歌をよく意得ればおのづから知らるゝなり、釋日本紀に私記を引て云、夜摩苫波區珥能摩倍羅摩、【私記(ニ)曰、師説(ニ)謂(ク)鳥乃和支乃之大乃毛乎《トリノワキノシタノケヲ》爲2倍羅磨《ホラマト》1也、摩(ハ)謂(ク)眞實也、言(ハ)鳥(ノ)腋羽|乃古止久《ノゴトク》掩(ヒ)藏(ス)之國也、案奧區也、今俗謂(ハ)2保呂羽《ホロハト》1訛也、云云、】和名集第十八羽族體部云、倍羅麼、日本紀私記云、倍羅麼、【師説、鳥乃和岐乃之多乃介乎爲2倍羅麼1也麼謂眞實也、言鳥(ノ)腋羽乃古止久掩藏之國也、案(ニ)奧區也、今俗謂2保呂羽1訛也】今按先達の釋せる事をうなづかぬは憚あれども所存を盡さゞれば今の注成がたければ試にかつ/\申べし、先末の事は無用なれど、和名に麼謂より案奧區也までの文を引れたるは、無用にて誤なり、私記は思邦《クニシノビ》の御歌を釋すれば麼謂眞實也とは初の麼の字を云へり、言鳥以下は二句の意を惣じて釋すれば私記に在ては好し、和名に在ては詮なくして其上思邦の御歌を釋すと知らぬ人は倍羅麼に用ある事にやと思ひて大きに迷ひぬべし、次に私記に付て云はゞ、摩保邏摩を俗に保呂羽と云、鳥の脇の下の毛の掩ひかくす如くなる別の奧區と譬に意得られたるは如何ぞや、先讀やうより意得ず、マホラマとよむべし、摩は眞なり、保邏摩には二義あるべし、一には保は穗にて眞穗なり、秀たる意に、國をほむる詞なり、葦原(ノ)(18)瑞穗《ミヅホノ》國と云ひ、磯輪上秀眞《シワカミホツマ》國【芳眞國、此(ヲハ)云2袍圖莽句※[人偏+爾]1】と云ひ、應神紀には菟道野《ウヂノ》にてよませ給へる御歌の落句に區珥能朋母彌喩《クニノホモミユ》とよませたまひ、神武紀には浪秀をナミホとよめり、此等にて意得べし、邏摩の二字は共に語の助なるべし、顯宗紀に僕をヤツコラマと點じ、宣命などの中に、詔をミコトラマとよめるに准ずべし、又此集に此歌のみならず第九第十八にも國のまほらとのみ讀たれば、思邦の御歌の後の摩は助語なる事明なり、二つには保羅は保と波と通ずれば原にて、初の眞に合すれば眞原なり、後の摩は助語なり、其故は、今此歌も筑前にてよみ、第九は常陸にてよみ、第十八は家持越中守にてよまる、中にも家持の歌は、すめろぎの神の尊の、きこしをす國のまほらに、山をしもさはにおほみととよまれたればまほらの詞何處に限らず廣く聞ゆれば、國の眞原と云へるかとも聞ゆ、第十九に、天雲をほろにふみわたし鳴神もとある歌も、貫之の天原ふみとゞろかしなる神もとよまれたると同じさまに聞ゆれば、ほろは原にや、さらば彌まほらは眞原なるべき歟、其義は第一の舒明天皇の御歌の國原を注せしが如し、二つの間心引む方を用べし、又上に引日本紀釋日本紀和名集、文字の同異等あり辨ふべし、私記を引に和名は掖羽乃古止久の久を脱し、國を訛て周に作れり、此等は書生の失錯也、落句の然《シカ》ニハアラジカはさはあるまじき事かと决(19)せずして意を含めり、
 
初、めくしうつくし 神代紀下云。特《コトニ》鍾《オキテ》2憐愛《メシツトオホスミコヽロヲ》1以|崇養《カタチヒタシタマフ》焉。この集には、愍の字を用たり。うつくしは、うつくしむなり。愛の字なり。よのなかはかくぞことはり。父母をはたふとひて孝養すへく、妻子をはめくみうつくしむへく、世上はかくのことくぞ、道理は有物をなり。かくそことはり、句絶なり。以上、指示三綱といふ中に、二綱を擧、序の不顧妻子といふまてに應す。もちとりのかゝらはしもよ。もちは、木の枝なとに引て、鳥を取物なり。もちといふ木の皮をもて、こしらふれは、もちといふ。和名集云。唐韻云。黐(ハ)【丑知反。和名毛知】所2以黏1v鳥也。此もちに鳥のかゝる物なれは、かゝらはしもとつゝけむかためなり。第十三に、あふみの海とまりやそありやそしまの嶋のさき/\ありたてる花橘をほつえにもち引かけとよめり。ゆくゑしらねは、此集の長哥、句體さたまらぬ事有といへとも、こゝは、此句の上に、五字の一句おちたりとみゆ。うきくつをぬきつることく。うきはいとはしきなり。※[厭のがんだれなし]の字を、此集によめり。やふれていとはしきはきものをすつることくなり。序に淮南子史記を引かことし。ゆくちふひとは、行といふ人はなり。登伊(ノ)反知なるゆへなり。大かたは、てふといふ。これは、ちふはあたれる反なれとも、きくところよろしからねは、知と※[氏/一]と二四相通して用るなり。又第十四東哥に、からすとふ大おぞ鳥なとゝよめるは、からすといふおほおぞ鳥といふへきを、いふを上略したる歟。又知と登と二五相通していへるなるへし。いは木よりなりてし人か。智度論第十九曰。是(ノ)身(ヲ)爲(ス)2臭穢(ト)1。不2從(リモ)v華開生(セ)1、亦不v從(リモセ)2瞻蔔1、又不v出2寶山(ヨリモ)1。禮記問喪篇曰。禮義之經(ハ)非2從v天降(レル)1也。非2從v地出(ルニモ)1也。人情而已矣。なか名のらさね、汝か名をなのれなり。父母もなくて、石木の中より自然になり出たる人ならは、そのよしなのれとは、五常三綱にそむく事をいたくせむるなり。あめへゆかはなかまに/\。天へのほる自在をも得たらは、汝かまゝにせんなり。天へのほることあたふまじけれは、常の道をゝこなへとなり。史記云。黄帝采(テ)2首山(ノ)銅(ヲ)1鑄2鼎(ヲ)於荊山(ノ)下(ニ)1。鼎即(ニ)成、有(テ)v龍垂(レテ)v髯(ヲ)下(テ)迎(フ)2黄帝(ヲ)1。々々上(リ)騎(ル)。群臣後宮(ノ)從(テ)上(ルモノ)v龍(ニ)七十餘人。龍乃上(リ)去(ル)。餘(ノ)小臣不v得v上(ルコト)。乃悉(ニ)持(ス)2龍(ノ)髯(ヲ)1。々々拔(ク)。墮(セリ)2黄帝之弓(ヲ)1。百姓仰望(ムニ)黄帝即(ニ)上(リヌ)v天(ニ)。乃抱(テ)3其弓(ト)與(ヲ)2龍(ノ)髯1號《ナ》。故(ニ)後世名(ケテ)2其處(ヲ)1曰2鼎湖(ト)1、其弓(ヲ)曰(フ)2烏號(ト)1。神仙傳云。准南王劉安(ハ)高皇帝之孫也。俗間傳、安(カ)之臨(テ)2仙(シ)去(ルニ)1餘(シテ・セル)2藥(・ヲ)器(ヲ)1在2庭中(ニ)1。※[奚+隹]犬舐(テ)v之(ヲ)、皆得(タリ)2飛昇(スルコトヲ)1。故(ニ)※[奚+隹]鳴(キ)2雲中(ニ)1犬吠2天上(ニ)1。又云。河上翁(ハ)漢文帝時結2艸奄(ヲ)河上1。帝讀(ムニ)2老子(ヲ)l有v不(ルトコロ)v解(セ)。遣(ハシテ)v使(ヲ)問v之(ヲ)。公(カ)曰。道尊(ク)徳貴(シ)。非v可(ニ)2遙(ニ)問1。帝幸(シテ)問(テ)曰《ノ》。普天(ノ)之下莫v非2(スト云)王臣(ニ)1。不(ルハ)v能2自《ミ》屈(スルコト)1、無乃《ムシロ》高(フルカ)乎。公即坐(ナカラ)躍(テ)冉々(トシテ)在v空(ニ)、去(ルコト)v地(ヲ)數丈(ニシテ)曰。余(レ)上不v至(ラ)v天(ニ)、中不v至v人、下不v至(ラ)v地。何(ノ)臣民(トイフコトカ)之(レ)有(ン)。帝乃下(テ)v車(ヨリ)稽首(ス)。公授(ク)2素書一卷(ヲ)1。遂(ニ)矢(ス)2所在(ヲ)1。つちならは大君います、つちにあらは、君ありとなり。詩小雅北山、溥天(ノ)之下、寞v非(ストイフコト)2王土(ニ)1。率土之濱、莫(シ)v非(トイフコト)2王臣1。このてらす日月の下は、毛詩云。日居月諸、照2臨(ス)下土(ニ)1。あま雲のむかふすきはみ、延喜式第八、祈年祝詞云。皇神《スメカミ》能|見霽《ミハルカ》志|坐《マス》四方國者、天能|壁《・辟《サケ》歟》立|極《キハミ》、國能|退《ソキ》立限(リ)、青雲能|靄極《タナヒクキハミ》、白雲能|墜坐向伏《ヲリヰムカフス》限云々。第三卷に此詞ありき。たにくゝのさわたるきはみ、此たにくゝを、谷水なりといへるは、推量なるへし。祈年祝詞亦云。皇神能|敷坐《しきます》島能八十島者、谷蟆能|狭度極《ワタルキハミ》、鹽(ノ)沫《あは》能|留限《トヽマルカキリ》云々。此祝詞の中に、谷蟆とあるは、下のさわたるきはみといふ詞も、今とおなしけれは、たにくゝなるへきを、流布の本に、たにかまと和點をくはへたるは、推量するに、古本に和訓なく、又たしかによみつたへたる事もなけれは、蝦蟆の二字の音を取て、後人のしひてよみなせるなるへし。祝詞ならひに神名帳には、ことにおほつかなき和鮎おほし。此集末にいたりて、このま立くゝなといへる、みな潜《クヽル》といふことなり。神代紀に、漏の字をくきとよめるもこれなり。しかれは?といふ鳥は、和名かやくきなり。あつまの俗語には、かやくゞりといふよし、長流もかたりき。ちひさき鳥にて、草の中をくゝりありくゆへの名なるへけれは、谷くゝも、其類にて、谷の草木の中をも、やすく潜るゆへに、名付たるへし。谷蟆のさわたるきはみは、山のはてをいひ、鹽のあはのとゝまるかきりとは、海のはてをいへは、谷くゝは、山のおくまても、いたらぬ所なき小鳥なるへし。かやくき、谷くゝ、名もにたれは、大鵬をしらぬにても侍なんや。さわたるの、さもしは、助語なり。此集に、月をもこのまよりさわたるとよめり。きこしをすは、きこしめすなり。食の字を、めすともをすともよめり。領せさせたまふことなり。國のまほらそ、眞原なり。國の廣きを、國原といふ心なり。眞の字、こゝにては、ほめたる詞なり。日本紀景行天皇の御哥にも、やまとは國のまほらとよませたまへり。古き詞なり。波と保と五音通せり。毛詩註、原は高平曰v原とありて、もろこしにも、中原なといひ、此國にも、天の原、わたの原なと、ひろ/\とある所をはいへり。又應神天皇兎道野にてよませたまへる御哥に、ちはのかつぬをみれは、もゝちとろ、やにはもみゆ。くにのほもみゆ。此御哥の結句にてみれは、くにのまほらは、眞原にてはなきにやともおもはるれと、神詠は、凡慮にをよはされは、沙汰し侍らす。かにかくには、とにかくになり。しかにはあらしが。ほしきまゝに、さはあるましきことかなり。序とあはせてみるへし。始終よくかなへり。文選注濟曰。序(ハ)舒也。舒2其物理1。孔安國尚書序曰。序者所3以以序2作者之音1
 
反歌
 
801 比佐迦多能阿麻遲波等保斯奈保奈保爾伊弊爾可弊利提奈利乎斯麻佐爾《ヒサカタノアマチハトホシナホナホニイヘニカヘリテナリヲシマサニ》
 
阿摩遲は天路なり、文選曹子建(カ)與(ヘシ)2呉季重(ニ)1書(ニ)云、天路高※[しんにょう+貌]良(ニ)無2由縁1、上の天へゆかば汝がまに/\と云へるを再たびよのるなり上は詰難し、今は天路高※[しんにょう+貌]は古人も嘆し事なればとても得昇らじとなり、ナホ/\は直々なり、第十四にもよめり、落句は産業をしまさねなり、爾と禰と通ぜり、孟子云、無(シテ)2恒産1而有(ル)2恒心1者(ノハ)惟士爲v能、若民(ハ)則無2恒産1固《マコトニ》無2恒心1、苟(モ)無(レハ)2恒心1放辟邪侈無v不v爲已、此意に叶へる歌なるべし、
 
初、ひさかたのあまちは遠し あまちは天路なり。曹子建(カ)與2呉季重1書云。天路高?(ニシテ)良(ニ)無2由縁1。これはあめへゆかは、なかまに/\といへる心を、ふたゝひよみたるなり。天へ昇ほとならは、汝か心にまかすへけれと、天路高?は古人も歎し事なれは、とてもえのほらしと、初の哥にははたりて、今の哥は教悔の本意をとけり。なほ/\は直々歟。猶々にても有へし。なりは、産の字業の字なり。しまさには、しまさねなり。五音通せり。只なをく有のまゝに、家に立かへりて家業をつとめよと教訓するなり。孟子梁惠王篇曰。無2恒産1而有2恒心1者惟士爲v能。若民則無2恒産1固無2恒心1。苟爲2恒心1放辟邪侈無v不v爲已
 
思2子等1歌一首并序
 
釋迦如來、金口正説、等思2衆生1、如2羅※[目+侯]羅1、又説愛無v過v子、至極(20)大聖、尚有2愛v子之心1、况乎世間蒼生、誰不v愛v子乎、
 
等思衆生如羅※[目+侯]羅〔八字右○〕1、最勝王經云、普觀2衆生1、愛無2偏黨1、如2羅怙羅1、又説、愛無v過v子、至極大聖尚有2愛v子之心1〔又説〜右○〕、未v考、誰不v愛v子乎〔五字右○〕、繼體紀云、八年春正月、太子(ノ)妃《ミメ》春日皇女、晨朝晏(ク)出有v異2於常(ニ)1、太子意疑入v殿《ミヤ》而見、妃臥v床|涕泣《イサチ》※[立心偏+宛]痛《アツカヒテ・イタミテ》不v能2自勝1、太子恠問曰、今且涕泣有2何恨1乎、妃(ノ)曰、非2餘《アダシ》事1也、唯妾所v悲者|飛《トフ》v天之鳥(モ)爲v愛《ウツクシ》2養|兒《オノガ》1樹巓《コノスヱニ》作《クフ》v巣、其|愛《ウツクシヒノ》深(キナリ)矣、伏《ハフ》v地之虫(モ)爲v護2衛《マモリヲサメンカ》子《オノカコヲ》1土中《ツヽノソコ》作v窟《アナ》、其護(ルコト)厚(ナリ)焉、乃至2於人(ニ)1豈(ニ)得(ンヤ)v無(コトヲ)v慮2無v嗣之恨(ヲ)1方(ニ)鍾《アタレリ》2太子(ニ)1、妾名隨(テ)絶云云、
 
初、釋迦如來――如羅※[目+侯]羅 最勝王經曰。普觀2衆生1愛無2偏黨1如2羅怙羅1。【此翻云覆障。】愛無過子。誰不愛子乎。繼體紀云。八年春正月、太子(ノ)妃《ミメ》春日皇女、晨朝晏(ク)出有v異2於常(ニ)1、太子意疑入v殿《ミヤ》而見、妃臥v床|涕泣《イサチ》※[立心偏+宛]痛《アツカヒテ・イタミテ》不v能2自勝1、太子恠問曰、今且涕泣有2何恨1乎、妃(ノ)曰、非2餘《アダシ》事1也、唯妾所v悲者|飛《トフ》v天之鳥(モ)爲v愛《ウツクシ》2養|兒《オノガ》1樹巓《コノスヱニ》作《クフ》v巣、其|愛《ウツクシヒノ》深(キナリ)矣、伏《ハフ》v地之虫(モ)爲v護2衛《マモリヲサメンカ》子《オノカコヲ》1土中《ツヽノソコ》作v窟《アナ》、其護(ルコト)厚(ナリ)焉、乃至2於人(ニ)1豈(ニ)得(ンヤ)v無(コトヲ)v慮2無v嗣之恨(ヲ)1方(ニ)鍾《アタレリ》2太子(ニ)1、妾名隨(テ)絶云云
 
802 宇利波米婆胡藤母意母保由久利波米婆麻斯提斯農波由伊豆久欲利枳多利斯物能曾麻奈迦比爾母等奈可可利堤夜周伊斯奈佐農《ウリハメハコトモオモホユクリハメハマシテシノハユイツクヨリキタリシモノソマナカヒニモトナカカリテヤスイシナサヌ》
 
陶淵明(カ)責v子(ヲ)詩云、通子(ハ)垂《ナム/\トス》2九齡(ニ)1、但覓(ム)2梨與1v栗、シノバユはしのばるなり、由と留と同韻にて通ず、伊豆久欲利枳多利斯物能曾とは、宿世の因縁に依て親となり子となるとは聞けど、宿命智なければ知られぬ故なり、又故郷に留めたる子どもの夢に見え面影(21)に立を云歟、發端の意後の義か、麻奈迦比爾、母等奈可可利堤は遊仙窟云、千(ノ)嬌眼子《コヒノマナコヰハ》、天上(ニ)失(フ)2其|流星《ヨハヒホシ》(ヲ)1、此眼子をマナコヰとよめると音を通して同じき歟、和名云、遊仙窟云、眼皮、【師説、萬比岐、一説萬奈古井、】又栗を栗本栗栖の時はくる〔二字右○〕ともはたらかし、海邊をうなひ〔三字右○〕ともよみたれば眼邊の意歟、落句は第十九に安寢不令宿《ヤスヰシナサヌ》とあれば今も同じ意にて斯は助語、奈は禰と通し、佐は勢と通して意得べし、子等《コドモ》の事を思へばまのあたりにかげろひて夜をも能は寢ぬなり、
 
初、うりはめは、くりはめは 陶淵明責v子詩云。通子(ハ)垂《ナン/\トス》2九齡(ニ)1但覓(ム)2梨(ト)與(ヲ)1v栗。山谷――(ニ)食蓮子有感詩云々。しのはゆは、しのはるなり。由と流と同韻相通なり。いつくよりきたりし物そ。これにふたつの心あるへし。一には、いかなる過去の宿縁にて、わか子とむまれこしものそといふ心なり。二には筑紫にて、都に留めをける子ともを、瓜をはみ栗をはむにも、さらぬ時もおもかけにみゆるをいへり。まなかひに、管見抄に、眼の邊なりといへり。今案遊仙窟云。千(ノ)嬌眼子《コヒノマナコヰハ》天上(ニ)失(ナフ)2其(ノ)流星《・ヨハヒホシヲ》(ノ)1。此まなこゐとあると、まなかひとおなしき歟。ひとゐと同韻なり。かとこと又五音相通すれはなり。もとなかゝりては、よしなくかゝりてなり。やすいしなさぬ。いは、いぬるなり。おもかけの、めにかゝりて、よるもやすくねられぬなり。又まなかひは、むなかいか。和名集云。四聲字苑云。鞅(ハ)【漢語抄云。無奈加岐】軛(ノ)下(ノ)絆(ク)v頸(ヲ)繩(ナリ)也。又云。後漢書云。拔(キ)2佩刀(ヲ)1截(ル)2馬(ノ)當胸(ヲ)1【楊氏漢語抄云。班※[匈/月](ハ)無奈加岐。】初は牛のむなかき、後は馬のむなかきなり。いときとは、同韻なるゆへ、常にはむなかいといへり。此物常に牛馬のむねにかゝりてあれは、子ともの上の、心にかゝるにたとへていへるにや。きとひともまた同韻の字なり
 
反歌
 
803 銀母金母玉母奈爾世武爾麻佐禮留多可良古爾斯迦米夜母《シロカネモコカネモタマモナニセムニマサレルタカラコニシカメヤモ》
 
腰の句のに〔右○〕は助語なり、此卷終に戀古日歌に、七種の寶も我は何かせむとよまれたると同意なり、
 
初、白かねもこかねも玉も 下三十九葉云。世の人のたふとひねかふ七くさの寶も我は何かせんわか中のむまれ出たる白玉のわか子ふるひは云々
 
 
 
 
哀2世間難1v住歌一首并序
 
(22)易v集難v排、八大辛苦、難v遂易v盡、百年賞樂、古人所v歎、今亦及v之、所d以因作2一章之歌1、以撥c二毛之歎u、其歌曰、
 
八大辛苦〔四字右○〕、八苦(ハ)生(ト)、考(ト)、病(ト)、死(ト)、愛別離(ト)、怨憎會(ト)、求不得(ト)、五陰盛(ト)、 賞樂〔二字右○〕、は賞心樂事の四美の中に擧(テ)v二(ヲ)兼v餘、二毛(ノ)歎〔四字右○〕(ハ)、左傳(ニ)宋公(カ)曰、君子(ハ)不v重(ネ)v傷《キスヲ》不v禽《トリコニセ》2二毛(ヲ)1、【二毛、頭】白(シテ)有(ナリ)2二色1、】潘岳秋興(ノ)賦序(ニ)云、晉十有四年、余春秋三十有二(ニシテ)始見2二毛1、憶良は天平五年に七十四歳にて死去せらると見えたり、此歌の左に神龜五年と記せられたるに依て逆推するに、六十九歳の作なれば、左傳によりて老を歎く心を歌に作て撥ふなり、但歌にも秋興賦の面影もあれば、年の老壯をいはず感ずる所有て作るを潘岳に依て二毛といへる歟、
 
初、八大辛苦 生(ト)、考(ト)、病(ト)、死(ト)、愛別離(ト)、怨憎會(ト)、求不得(ト)、五陰盛(トナリ)。賞樂(ハ)、賞心樂事(ナリ)。四美中擧v二兼v餘。二毛之歎、左傳宋公曰。君子不v重(ネ)v傷《キスヲ》。不v禽《トリコニセ》2二毛(ヲ)1【二毛(ハ)頭白(シテ)有(ナリ)2二色1。】潘岳(カ)秋興(ノ)賦(ノ)序(ニ)云。晋(ノ)十有四年、余春秋三十有二(ニシテ)始(テ)見(ル)2二毛(ヲ)1。憶良は天平五年に、七十四歳にて死去せらると見えたり。此哥のひたりに、神龜五年七月と記せられたるによりて逆推するに、六十九歳の作なれは、秋興賦序に、二毛といへるはかなはす。左傳によりて、老をなけく心を、哥を作りてはらふなり。但二毛之歎といへるには、秋興賦のおもかけ有。それも老を歎く文なれは、兩文かねてみるへし
 
804 世間能周弊奈伎物能波年月波奈何流流其等斯等利都都伎意比久留母能波毛毛久佐爾勢米余利伎多流遠等呼良何遠等呼佐備周等可羅多麻乎多母等爾麻可志【或有此句云之路多倍乃袖布(23)利可佯之久禮奈爲乃阿可毛須蘇毘伎】余知古良等手多豆佐波利提阿蘇比家武等伎能佐迦利乎等等尾迦禰周具斯野利都禮美奈乃和多迦具漏伎可美爾伊都乃麻可斯毛乃布利家武久禮奈爲能【一云尓能保奈須】意母提乃宇倍爾伊豆久由可斯和何伎多利斯【一云都禰奈利之惠麻比麻欲毘伎散久伴奈能宇都呂比尓家利余乃奈可伴可久乃未奈良之】麻周羅遠乃遠刀古佐備周等都流伎多智許志爾刀利波枳佐都由美乎多爾伎利物知提阿迦胡麻爾志都久良宇知意伎波比能利提阿蘇比阿留伎斯余乃奈迦野都禰爾阿利家留遠等呼良何佐那周伊多斗乎意斯比良伎伊多度利與利提麻多麻提乃多麻提佐斯迦閉佐禰(24)斯欲能伊久※[こざと+施の旁]母阿羅禰婆多都可豆惠許志爾多何禰提可由既婆比等爾伊等波延可久由既婆比等爾邇久麻延意余斯遠波迦久能尾奈良志多麻枳波流伊能知遠志家騰世武周弊母奈斯《ヨノナカノスヘナキモノハトシツキハナカルヽコトシトリツヽキオヒクルモノハモヽクサニセメヨリキタルヲトメラカヲトメサヒストカラタマヲタモトニマカシヨチコラトテタツサハリテアソヒケムトキノサカリヲトトミカネスクシヤリツレミナノワタカクロキカミニイツノマカシモノフリケムクレナヰノオモテノウヘニイツクユカシワカキタリマスラヲノヲトコサヒストツルキタチコシニトリハキサツユミヲタニキリモチテアカコマニシツクラウチオキハヒノリテアソヒアルキシヨノナカノツネニアリケルヲトメラカサナスイタトヲオシヒラキイタトリヨリテマタマテノタマテサシカヘサネシヨノイクタモアラネハタツカツヱコシニタカネテカクユキハヒトニイトハエカクユキハヒトニニクマエオヨシヲハカクノミナラシタマキハルイノチヲシケトセムスヘモナシ
 
遠等呼良何遠等呼佐備周等、【幽齋本二呼並作v※[口+羊]、】  周具斯野利都禮、【校本、具作v其、】  久禮奈爲、【校本云、クレナヰノ、】 遠等呼良何佐那周、【別校本、呼作v※[口+羊]、】  多摩枳波流、【別校本、摩作v麻、波作v婆、】
 
世間能周弊奈伎物能波年月波、奈河流流其等斯、文選孔文擧論盛孝章書に、歳月不v居《トヽマラ》時節如v流(ルヽカ)とあり、トリツヽキ以下の四句は、取ツヾキは打つゞきなり、オヒクルは追來るなり、末の歌ならば下に百種《モヽクサ》と云につゞけば、さま/”\の憂の春草の如く生ひ來ると云にやとも意得べけれど、古歌なれば然るべからぬ上に、責寄り來ると承る意怨賊等の追ひ來てせまる譬を含めり、此所句絶にて以上一篇の大意なり、此より下は男女にはかに少壯幾程なく老衰に至て愛せられしものゝ還て※[厭のがんだれなし]ひ嫌はるゝ(25)よしなり、遠等※[口+羊]〔右○〕良何遠等※[口+羊]〔右○〕佐備周等、此二つの※[口+羊]を今の本呼に作れるは書生の誤なり、をとめさびはをとめぶりにて、粉黛を施し※[糸+丸]綺を著、姿態をたをやかにして人の心を悩殺せしむるなり、周等はするとてなり、カラタマは韓玉なり、三韓等より渡せる玉なり、タモトニマカシは袂に纏なり、手玉足玉あり、此は手玉なり、天武天皇吉野にまし/\ける時琴を彈せたまひて御心をすまし給ふに、向ひの嶺に恠しき雲立て天女現形して舞ことしばしなり、其時帝、處女兒《ヲトメコ》が未通女《ヲトメ》さびすも韓玉《カラタマ》を、袂に卷て處女さびすもとよませ給へりと云ひ傳るは、若此四句に古風を思て第二の句を再たび返して一首として云ひ傳るにや、天武天皇の五節の舞作らせ給へる所以は、續日本紀第十五聖武紀に、天平十五年五月に孝謙天皇時に太子にてまし/\けるに、五節を舞しめたまひて橘諸兄公を以て元明天皇の太上皇にてまし/\けるに奏し給ふ詔に見えたり、其上天武の御製ならば如此は取用らるまじき歟、或は天女が歌ひけるともいへど、それにても過量なるべきにや、下に異本を注する中に、佯は伴の字を誤れり、余知古良等は仙覺抄に同じ程の子等と云意なりと釋せり、第十四東歌に、此川に朝菜洗ふ兒ましもあれも、よちをぞもてるいでこたはりに、又第十六竹取翁が歌にもみづからの幼稚の時を云中に、結幡之袂著衣服我矣丹因子等何《ユフハタノソテツケコロモキシワレヲニヨレルコラカ》、(26)四千庭三《ヨチニハミ》名之綿、蚊黒爲|髪尾《カミヲ》云云、いづれもよくは知られねど、いかさまにも同じ程なる童子童女の間に云へる詞と閲ゆ、トヽミカネは留かねなり、め〔右○〕とみ〔右○〕と五音にて通ず、尾の字昔は呉音にはみ〔右○〕と云ひける歟、美微等の呉音の例によらば然るべきにや、過シヤリツレはは〔右○〕の字を略せるは古風なり、ミナノワタカクロキ髪ニは、此みなのわた黒しとつゞけたる詞下にあまたあれば別に注す、か〔右○〕は第二にか〔右○〕あをと云へるか〔右○〕にてそへたる字なり、久禮奈爲能、此能ヲ〔右○〕と點ぜるは云に及ばぬほどの事なれど寫し誤れるなり、下の注に爾能保奈須とは丹穗成なり、丹は赤色なり、穗はたへのほと云穗に同じ、丹穗面《ニノホノオモワ》など下にあまたよめり、毛詩云、顔(ハ)如v渥《ツケタルカ》v丹(ヲ)、延喜式第八祝詞中云、皇御孫命 乃 朝御食夕御食 乃 加牟加比 爾 長御食 乃 遠御食 登 赤丹穗 爾 聞食故云云、是は御唇を云へる歟、佛の相を云時丹菓の唇と云が如くなるべし、伊豆久由可は何處よりかなり、新和何伎多利斯は皺掻垂《シワカキタリ》しなり、皺と云物のいづくに有てか今面に出來てかきたるゝとなり、かきは詞なり、たるゝとは肉の薄らぎて皺の出來れば皮の垂りさがる意なり、何處ゆかと云へば皺が來りしとも意得つべけれど、唯初の意なるべし、下の異本を注する六句は、第三に家持の安積親王の薨じ給へるをいたみ奉らるゝ歌の中に處々に錯て用られたる詞にて心明なり、佐都由美は薩人の持弓(27)と云意なり、志都久良宇知意伎は仙覺云、しつとはしもと云詞なればよくもなき鞍なり、今按是は下枝をしづえと云意にて下品の鞍と意得られたり、しづを下と意得ばしたくらとも云べき歟、和名云、唐韻云、※[革+薦]、【則前反、和名、之太久良、】鞍※[革+薦]也、拾遺集第六別部に、實方朝臣みちの國へ下り侍りけるにしたくらつかはすとて右衛円督公任、東路のこの下くらく成ゆかば、都の月を戀ざらめやは、かくはあれど下鞍のみ置て乘物にあらねば今それと云はゞひが事なるべし、又雄略紀云、大磐(ノ)宿禰|飲《水カフ》2馬(ニ)於河(ニ)1、是時韓子宿禰從v後《ウシロ》而射(ル)2大磐宿禰|鞍瓦後橋《クラホネノシツクラホネヲ》1、これは後《ウシロ》の鞍瓦《クラホネ》を云ばしりへつくゝらほねの意にて今の義に非ず、又雄略紀の御製云、〓磨磨枳能阿娯羅※[人偏+爾]※[こざと+施の旁]※[こざと+施の旁]伺《タママキノアクラニタタシ》、【立2于玉纏胡床1也、】施都魔枳能阿娯羅※[人偏+爾]陀陀伺《シツマキノアグラニタタシ》云云、施都魔枳は倭文纏なるべし、古は質素にして天子の御身に※[車+(而/大)]に觸べき爲にも纔に倭文にて纏ひけるを上品の事にせるなるべし、彼を以て此に准ずるに倭文を以てまつひたる鞍を倭文鞍と云歟、和名云、説文云、鞍、【音安、字或作v〓、和名、久良、俗有2唐鞍、移鞍、結鞍等名1、】馬鞍也、後にもかやうのさま/”\の名あれば古も鞍の別名ありけるなるべし、波此能利提は匐騎《ハヒノル》なり、よくも得のらぬ意なり、阿蘇比阿留伎斯は遊び行く事を爲《ス》るなり、斯はてにをはのし〔右○〕にあらず、余乃奈迦野以下三句は第四に、世の中のをとめにしあらばとよめる如く大形のをとめなり、※[口+羊]は呼を誤れり改むべし、佐(28)那周伊多斗乎とは古事記上に、八千矛《ヤチホコノ》神|沼河比賣《ヌカハヒメ》の許へおはして詠給へる御歌云、遠登賣能那須夜伊多斗遠《ヲトメノナスヤイタトヲ》、淤曾夫良此和何多々勢禮婆《オソフラヒワカタタセレハ》云云、これによるに佐はそへたる詞、那周は那と佐と同韻にて通ずればさすなり、繼体紀に勾大兄《マカリノオヒネノ》皇子の御歌にも、莽紀佐倶避能伊陀圖嗚飫斯※[田+比]羅枳《マキサクヒノイタトヲオシヒラキ》云云、伊多度利與利提〔七字右○〕は伊は發語の詞、たどりよりてなり、摩多麻提乃多麻提佐斯迦閉は眞玉手の玉手|指交《サシカヘ》なり、玉は事をほむる詞、手枕をかはすなり、古事記に沼河比賣の八千矛神の歌に返し給ふ歌にも、麻多麻傳多麻傳佐斯鹿岐《マタマデタマデサシマキ》云云、勾《マカリノ》大兄(ノ)御歌云、伊慕我堤嗚倭例※[人偏+爾]魔柯※[糸+施の旁]毎倭我堤嗚磨伊慕※[人偏+爾]魔柯※[糸+施の旁]毎《イモガテヲワレニマカシメワガテヲバイモニマカシメ》云云、遊仙窟、相思(ノ)枕(ヲ)留(テ)與(テ)2十娘(ニ)1以爲2記念《カタミ》1、詩曰、聊|將《モテ》代(テ)2左(ノ)腕1、長夜枕(セヨ)2渠《キミガ》頭(ニ)1、伊久※[こざと+施の旁]陀母阿羅禰婆〔八字右○〕とはいくらもあらぬになり、多と良と同韻字なればこゝらをこゝだと云如くに通ずるなり、あらぬにと云べきをあらねばと云へること第二よりこなたに云が如し、多都可豆惠は手束杖にて手束弓と云が如し、拳の字握の字掬の字などをもつかと讀めれば手に握る故と云意なり、許志爾多何禰提は多と豆と通ずれば腰に束ねて支ふるなり、檀弓云、孔子|蚤作《ツトニオキテ》負(ヒ)v手(ヲ)曳v杖(ヲ)逍2遙於門(ニ)1、歌曰云云、文選劉越石※[草がんむり/合]2盧ェ1詩(ノ)序(ニ)云、負(テ)v杖(ヲ)行々吟(スルトキハ)則百憂倶至(ル)、可久由既婆比等爾伊等波延、可久由既婆比等爾邇久麻延〔可久由既婆比等爾伊〜右○〕は、二つの既の字共にけ〔右○〕とよむべし、下の鎭懷石をよまるゝ歌の發句に、可(29)|既《ケ》麻久波、是證なり、宜の字をも義と解との二つの音に用たる傍例あり、二つの延は禮と同韻なれば通して用ゆ、或阿以宇江乎は韻となれば禮の聲を捨て韻を取とも云べし、梵語に此法あり、彼方《カナタ》へ行ば人に厭はれ此方《コナタ》へ行ば人に惡まるゝ意なり、惡まるとは嫌はるゝなり、藤原爲頼歌に、いづくにか身をばよせまし世中に、老を厭はぬ人しなければ、此意に同じ、意余斯遠波とは遠は助語にて斯と曾と通ずればおよそはなり、世間(ノ)難(キコト)v住大※[既/木]如(シ)v斯と云はんが如し、一篇の心を盡したれば收拾して結ばむとての詞なり、イノチヲシケドは惜けれどなり、
 
初、よのなかのすへなき物は とりつゝきおひくるものは―― さらぬたに、年月の、山水のことく、たけくなかるゝに、それにとりつゝきて、公私の急務、さま/\のうれへ、春草のことくに、百種に生ひ來て、いつとなく、せまりよせたるとなり。意比久留とかきたれは、老の来るにあらす。せめよりきたるといふによれは、もしは追來るにてもあるへし。せめよりきたる、此所句なり。以上一首の大意なり。これより下は、立かへり昔わかゝりし時の事ともをいへり
をとめらかをとめさひすと。二の※[口+羊]の字、ともに呼に作れるは誤れり。をとめさひすとは、をとめぶりをする、をとめだてをするなといはむかことし。さきにも、神さひといふにつけて、尺せり。これも、さは付たる字にて、をとめびなり。里びたるなといふ類なり。から玉をたもとにまかし、まかしはまくなり。まくは、まとふなり。手玉足玉なといふ物あり。後に注すへし。淨見原天皇、吉野の瀧の室にまし/\て、琴を弾して、御心をすまし給ふに、向ひの嶺にあやしき雲立て、天女の形をあらはし、舞ことしはしなり。其時みかと、未通女兒かをとめさひすもから玉を袂に卷てをとめさひすもと、御うたよませ給ふる、其詞を其まゝとれるなるへし。下細注の中に可伴之を佯に作れるは誤なり。よちこらとは、やつこらといふ事なるへし。やつとよちと、共に五音相通なり。神功紀に、忍熊王の軍の先鋒《サキ》をせし、熊|之凝《ノコリ》といふ人の哥に、うま人は、うま人とちや、いとこはも、いとことち、いさあはなわれはとよめる、いとこは、やつこときこゆれは、よちこともいふへし。第十六竹取翁か哥に、よちにはといふ詞あれど、それはこゝろ得かたき事おほかるむつかしき哥なり。第三に八多籠良家よるひるといはす行道といふ哥も、まつはやつことそきこゆめる。まだをとめの比なれは、何心もなく、めやつこなとゝ手をくみあひなとしてあそひありくさまなり。尾の字、味微の類の例をおもへは、呉音はまことにみといふへきを、今は呉漢おなしく漢音なる歟。過しやりつれ。例のばの字なきは古風なり。みなのわたかくろき髪に、みなといふ貝の腸の黒けれは、髪にいひかけたりといふは、おほつかなし。今案、これは鮭《サケ》の、みなわたの事なるへし。和名集云。本朝式云。年魚氷頭背腸《サケノヒツノミナワタ》【年魚者|鮭《サケ》魚也。氷頭者、比豆也。背腸者美奈和太也。或説云。謂v背爲v皆誤也。】さけのわたは、せのかたに有て、黒き物なりときけは、今みなのわたと、のもしはそはりたれど、是にやとおもひ寄侍り。かのみなといふ貝は、それがわたなといふほともなき小貝なり。和名集云。崔禹錫食經云。河貝子【和名美奈。俗用2蜷字1非也。音拳。速蜷(ハ)虫(ノ)屈貌也。殻上黒小狹長(シテ)似2人身1者也。】名につきて、おしていへるなるへし。年魚といふは、あゆとおなしく年を過ぬ魚なれはなり。背腸とかけるは、背の方にあるゆへなり。また人の腸をも、みのわたといふは、おなし名にや。或説云。謂v背爲v皆訛也。是にふたつの心あり。ある人背腸は皆腸なるを、背皆字相似たるゆへに、背腸に誤て作るといふを、非なりとは順のいへる詞にや。背のかたにあるみのわたなれは、背腸とかくといふ心なり。又は訛也といふまて、或説なるか。そのこゝろは、背腸とかきたれは、せなわたなとこそいふへきに、世にみなわたといふは、背の字を誤て、皆と見て、さは、誤ていひ來れりと、推量して、訛也といへるを、順も同心にて、そのまゝ載置るゝ歟。鮭とかくも、Cの字の誤なるよし見えたり。延喜式曰。信濃國調。鮭(ノ)楚割《スハヤリ》、氷頭《ヒツ》、背腸《ミナワタ》、鮭(ノ)子。越中國。鮭(ノ)氷頭、鮭(ノ)背腸、鮭子。かくろきのかは助語なり。第二卷人まろの哥に、かあをなるといふ詞に注せしかことし。此みなのわたかくろきといふ詞は、これを初にて、第七第十六なとにもあり。紅の、下注に、にのほなすとは、これも此集に多き詞なり。には丹なり。ほは穗なり。日本紀には、秀の字をも、ほとよめり。稲穗、蘆なとの、ほに出たるが、それとさし出てみゆるやうなるをほといふ。丹の色のかゝやくはかりにて、丹とみゆるを、にのほといひて、そのにのことくなる紅顔といふなり。紅は白赤あひましはれる色なれと、哥の習なれは、にのほといへり。いつくゆかは、いつくよりかなり。しわかきたりし。管見抄には皺|之《ガ》來《キタリ》しとこゝろ得たり。しわといふものゝ、いつくより來たりしとなり。此集には、それといふことを、そこといへる事もおほけれは、いつくゆかといへるも、いつよりかといふ心にて、皺掻垂《シハカキタリ》しといふなるへし。をとこさひ、をとこのふるまひするなり。遠刀古とかけるを、今の世於刀古とかくはあやまれるなり。比賣に對する比古のことく、遠刀※[口+羊]に對する遠刀古なれは、これを正とすへし。さニクラホネノシヅクラつゆみ第三卷、はや人のさつまのせとといふに付て、尺せることく、薩摩人ののもつゆみの心にて、さつゆみとはいふなり。たにきりもちて、手握持てなり。赤駒にしつくら打おき、管見抄云。しつくらは下鞍なり。たとつと五音かよへりといへり。今按下枝とかきてしつえとよめは、相通をまたても下鞍なるへし。雄畧紀(ニ)鞍尾後橋《クラホネノシヅクラホネ》。和名集云。説文云。鞍【音安。字或作1v〓。和名久良。俗有2唐鞍、移鞍、結鞍等名1】馬鞍也。又云。〓【則前反、和名之太久良。】鞍〓也。拾遺集第六、別部に、右衛門督公任の、實方朝臣みちのくにへくたり侍けるに、したくらつかはすとて、東路のこの下くらくなりゆかは都の月をこひさらめやは。あそひあるきし、こゝにてよみきるへし。されとも句絶とはならす。あそひあるく事をするといふ心にて、しは爲の字なるへし。若は、古哥はいひたらぬやうなるも、例おほけれは、あそひあるきて有しといふ心にて、しは、てにをはの字と見て、句ともすへき歟。さるにても連哥にいふ過去のしもしにて、きれ字にはあらねと、きれさる字にても、句とする事、此集に例おほし。世中の常にありけるをとめらか。常にありけるとは、さかりの比をいへり。さかりなるほとは、いつあひみても、紅顔のかはらねは、常にありけるとは、いふなり。又※[口+羊]を誤て呼となせり。さなすはさすなり。古語には、かやうにいへる例おほし。玉たれのこすのすきといふへきを、第十一には、すけきといへるも、今の類なり。いたとりよりて、いは發語のことは、たとりよるなり。玉手さしかへ、手枕をかはすなり。日本紀第十七繼體紀に、勾大兄《マカリノオヒネ》皇子歌云。まきさく、檜の板戸を、押開、われいりまし、あとゝり、つまとりして、枕とり、つまとりして、妹か手を、我にまかしめ、我手をは、いもにまかしめ云々。仁徳紀に、天皇の御哥に、つぎねふ、やましろめの、こぐはもち、うちしおほね《下にねといはんためなり》、ねしまの、しろただむき、まかすけばこそ、しらずともいはめ《・次嶺経山背女小鍬持打大根寢間白臂不纏不知》。遊仙窟(ニ)、相思(ノ)枕留與2十娘(ニ)1以爲(ル)2記念《カタミと》1詩曰。聊將(ヲ)代《カヘテ》2左(ノ)腕(ニ)1長夜(ニ)枕(セヨ)2渠《キミカ》頭(ニ)1。さねしよのいくたもあらねは、いくらもあらぬになり。あらねはのてにをはの事、第四卷、金明軍か、家持にをくれる哥に、注せるかことし。第十に七夕哥にも、さねそめていくたもあらねば云々。たつかづえ、手束杖なり。弓を手束弓といふかことし。握の字を、つかとよめは、手にゝきる心なり。こしにたかねて、管見抄に腰につかえてなり。老者のさまなりといへり。たとつと五音通すれは、束てなるへし。禮記檀弓曰。孔子|蚤《ツトニ》作《オキテ》負v手(ヲ)曳v枚(ヲ)逍2遥(シテ)於門1、歌(テ)曰云々。史記孔子せ家云。孔子病。子貢請(テ)見2孔子(ニ)1。方(ニ)負v杖(ヲ)逍2遥(シテ)於門1曰云々。劉越石(カ)答(ル)2慮ェ(ニ)1詩序曰。負(テ)v杖行(/\)吟(スル)則吉憂倶(ニ)至(ル)。かくゆきは、かくていきたらはなり。いとゆと相通せり。人にいとはゑ、人にいとはれなり。れとゑと同韻なり。殊にゑは、本音なれはなり。にくまゑも准之。およしをは、およそはなり。そとしと五音相通せり。をは助語なり。かくのみならし。およそ世上はかくのことくならんなり。いのちおしけと、おしけれとなり
 
反歌
 
805 等伎波奈周迦久斯母等意母閉騰母余能許等奈禮婆等登尾可神都母《トキハナスカクシモトオモヘトモヨノコトナレハトトミカネツヽモ》
 
二の句字ふたつ脱たり、試に補はゞ迦久斯母我母等と云べし、余能許等奈禮婆とは限ある世のことなればと云なり、落句の點誤れり、寫生のしわざなるべし、トヽミカネツモと讀べし、上に時のさかりをとゞみかねと云つるが如し、
 
初、ときはなすかくしもと 第二の句、字ふたつおちたり。ときはなすといふにつゝきておもふに、つねかくしもとにてもや侍けむ。かくしのしは助語にて、長哥に、世の中の常に有けるをとめらといへることく、若盛にて、いつまてもかうてもがなとおもへともなり。世のことなれは、心に、あかせす、壽命限り有 有爲の世のことなれは、流年をとゝめかぬるとなり。みとめと五音通せり
 
(30)神龜五年七月二十一日於嘉摩郡撰定筑前國守山上憶良
 
伏辱2來書1、具承2芳旨1、忽成2隔漢之戀1、復傷2抱梁之意1、唯羨2去留無1v恙、遂待2披雲1耳、
 
是は太宰帥大伴卿より故郷奈良の舊知へ書状并に歌二首を遣はされたる其返事の詞并に歌なり、作者誰と云事を知らず、隔漢は古詩云、迢々(タル)牽牛(ノ)星、皎々(タル)河漢(ノ)女云云、河漢清(シテ)且(ツ)淺(シ)、相去(ルコト)復(タ)幾許(ソ)、盈々(トシテ)一水|間《ヘタヽレリ》、脉々(トシテ)不v得v語(コトヲ)、以上は離別にたとふ、抱梁は荘子盗跖篇云、尾生與2女子1期(ス)2於梁下(ニ)1女子不v來(ラ)水至(レトモ)不v去(ラ)抱(テ)2染柱(ヲ)1而死(ス)、以上交情を忘ざるにたとふ、無v恙神異經(ニ)云、北方大荒(ノ)中、有v獣食(フ)v人(ヲ)、食(トキハ)v人(ヲ)則病、羅(トキハ)v人(ヲ)即疾、名(ヲ)曰v※[獣偏+恙](ト)、※[獣偏+恙](ハ)恙也・常(ニ)近(キ)2人村落(ニ)1入2人(ノ)屋宇(ニ)1、人皆忠v之、黄帝殺(ス)v之(ヲ)、由(テ)v是北方(ノ)人方(ニ)得v無2憂疾1謂v無v恙矣、説文(ニ)云、一(ニ)曰、蟲(ノ)名(ナリ)入v腹食2人心(ヲ)1、古(ノ)人草居(シテ)被害(ラ)1、故(ニ)相問(テ)無(シヤト云)v恙乎、
 
初、伏辱來書 これは帥大伴卿より、都の大伴淡等か方へ状をつかはさるゝに、二首の哥を添られける其返翰ならひに返哥なり。大件卿の哥、すなはち初に載たり。隔藻(ハ)以2離別1比3牛女(ノ)之阻2隔河漢1也。抱梁(ハ)莊子盗跖篇云。尾生(ト)與2女子1期(ス)2於粱下(ニ)1。女子不v來(ラ)。水至(レトモ)不(シテ)v去(ラ)抱(テ)2梁柱(ヲ)1而死(ス)。今(マ)言(コヽロハ)待(テトモ)2歸洛(ヲ)1未2還到1也。無恙、神異經曰。北方大荒中(ニ)有v獣食(フ)v人(ヲ)。食(トキハ)v人則病(ミ)、羅《アミスルトキハ》v人(ヲ)則疾(ム)。名(テ)曰〓(ト)。々(フ)恙也。常(ニ)近(テ)2人(ノ)村落(ニ)1入2人(ノ)屋宇(ニ)1。人皆患v之。黄帝殺(ス)v之(ヲ)。由(テ)v是(ニ)北方(ノ)人方(ニ)得(レハ)v無(コトヲ)2憂疾1謂v無(ト)v恙
 
 
歌詞兩首【太宰帥大伴卿】
 
(31)806 多都能馬母伊麻勿愛弖之可阿遠爾與志奈良乃美夜古爾由吉帝巳牟丹米
 
タツノマは龍馬なり、周禮云、凡(ソ)馬八尺以上(ヲ)爲v龍(ト)、七尺以上(ヲ)爲v※[馬+來](ト)六尺爲v馬(ト)、西域記(ニ)云、屈支國東境、城北(ノ)天祠(ノ)前(ニ)、大龍池諸龍、易v形交2合※[牛+巳]馬(ニ)1遂(ニ)生2龍駒1、※[牛+龍]戻(ニシテ難v馭(シ)、龍駒(ノ)之子(ハ)乃馴v駕|所以《コノユヘニ》此國(ヨリ)多(ク)出2善馬(ヲ)1、欽明紀云、七年秋|七月《フミツキ》、倭國(ノ)今來《イマキノ》郡言(ス)、於2五年(ノ)春《トキニ》1川原(ノ)民(ノ)直《アタヒ》宮【宮(ハ)名】登v樓《タカヤ》※[馬+聘の旁]望《ミヤル》、乃|見《ミエツ》2良駒1、【紀伊國(ノ)漁者《アマノ》負(セル)贄草馬之子《ニヘメウマカ》也、】睨《ミ》v影(ヲ)高鳴、輕(ク)超2母背(ヲ)1、就而買取、襲養兼v年、及(テ)v壯(ニ)鴻(ノゴトク)驚龍(ノゴトク)※[者/羽]《ヒヽリテ》、別《コトニ》v輩越v群《タムラニ》服御《ノリモチヰタルコト》隨心《ヤスラカニ》、馳驟《ウクツクコト》合度《トヽノホレリ》、超2渡|大内丘壑《オホウチノヲカノ》1十八丈《トオヲツエアマリヤツエ》焉、六帖に、十杖あまり八杖をこゆる龍の駒、君すさめずば老はてぬべし.落句は奈良へ皈て又筑紫へ來むためなり、
 
初、龍のまも今も得てしか青によしならの都にゆきてこんため、
周禮云。凡(ソ)馬八尺以上(ヲ)爲v龍(ト)、七尺以上(ヲ)爲v※[馬+來](ト)、六尺(ヲ)爲(ス)v馬(ト)。西域記曰。屈支國(ノ)東境、城北(ノ)天祠(ノ)前(ニ)大龍池(アリ)。諸龍易(テ)v形(ヲ)交2合(ス)牝馬(ニ)1。遂(ニ)生2龍駒1(ヲ)1。※[立心偏+龍]戻(ニシテ難v馭(シ)。龍駒(ノ)之子(ハ)乃《イマシ》馴(ル)v駕(ニ)。所以《コノユヘニ》此國(ヨリ)多出(ス)2善馬(ヲ)1。雄略紀云。九年秋七月壬辰(ノ)朔、河内國言(ス)。飛鳥戸《アスカヘ》郡(ノ)人田邊(ノ)史《フヒト》伯孫《・百損》(カ)女《ムスメ》者、古市郡(ノ)人、書首《フムノオヒト》加|龍《リウカ》之妻也。伯孫聞(テ)2女《ムスメ》産《・ウマハリセリト》|兒《ヲノココ》1往(テ)賀2聟《ムコノ》家(ヲ)1。而|月《ツク》夜(ニ)還(ルニ)於2蓬〓《イチヒコノ》丘(ノ)譽《ホム》田(ノ)陵(ノ)下(ニ)1【蓬〓此(ヲハ)云2伊知寐姑(ト)1】逢d騎2赤|駿《ウマニ》1者《ヒトニ》u。其馬時|〓略《・モコヨカニシテ》而龍(ノコトクニ)〓《トフ》。〓《アカラサマニ》聳擢《タカクヌケテ》而|鴻《カリノコトクニ》驚。異體《アヤシキカタチ》蓬生《カトクナイテ》殊(ナル)相逸《カタチスクレ》發《タテリ・コエリ》。伯孫|就《チカツキ》視而心(ニ)欲(ス)之。乃鞭2所(ノ)v乘|〓《ミタララノ》馬(ニ)1齊《ヒトシウシ》v頭並v轡《クチヲ》。爾乃赤駿超|〓《ノヒテ》絶《ヌケタエ》2於埃塵《クモノチリ》1驅驚迅於滅没《ハシルサキノアキラカナルコトホルモカニシテウセヌ》。於v是〓馬後(レテ)而|怠足《ヲソクシテ》不v可(ラ)2後追(フ)1。其《カノ》乘v駿(ニ)者《ヒト》知2伯孫(カ)所(ヲ)1v欲(スル)仍停(テ)換v馬(ヲ)相|辭《サリテ》取別《ワカレハヘリヌ》。伯孫得v駿《トキウマ》甚觀|驟《ヲトラシテ》而入v厩(ニ)解《オロシテ》v鞍(ヲ)秣v馬(ニ)眠《ネヌ》之。其|明《クルツ》旦(ニ)赤駿|變《カヘテ》爲(レリ)2土馬《ハニマニ》1。伯孫心(ニ)異之還(テ)覓(ニ)2譽田(ノ)陵(ニ)1、見3〓馬(ノ)在(ヲ)2於|土馬《ハニマノ》之|間《ナカニ》1取(テ)而|代《カヘ》而置(ク)2所(ノ)v換(シ)土馬(ヲ)1。欽明紀云。七年秋|七月《フミツキ》、倭國(ノ)今來《イマキ》郡(ノ)言(ス)。於2五年(ノ)春(トキニ)1川原(ノ)民(ノ)直《アタヒ》宮【宮名】登(テ)v樓《タカヤニ》※[馬+聘の旁]望《ミヤル》。乃|見《ミエツ》2良駒(ヲ)1。【紀伊國(ノ)漁者《アマノ》負(セル)v贄《ニヘ》草馬《メムマカ》之子也】睨《ミ》v影高鳴輕(ク)超2母背(ヲ)1。就而買取襲養兼v年。及v壯鴻(ノコトクニ)驚龍(ノコトク)※[者/羽]《ヒヽリテ》別《コトニ》v輩《ヤカラニ》越v群《タムラニ》。服御《ノリモチヰタルコト》御|隨心《・ヤスラカニ》馳|驟《ウクツクコト》合度《トヽノホレリ》。超2渡|大内丘《オホウチノヲカノ》壑(ヲ)1十八丈《トオヲツエアマリヤツエ》焉。川原(ノ)民(ノ)直(ノ)宮(ハ)檜隈邑(ノ)人也。【契沖曰。和名集云爾雅注云。牝《ヒン》馬一名(ハ)〓馬。上(ノ)音(ハ)草。和名米萬。】延喜式第二十一、諸陵式云。檜隈大内陵【天武天皇在2大和國高市郡1。】六帖の哥に、と《・十》つえあまり|やつえ《・八丈憑欽明紀》をこゆる龍のこま君すさめすは老はてぬへし
 
初、うつゝには逢よしもなしぬは玉のよるのいめにをつきて見えこそ
いめは夢なり。いめにをのをは助語なり。こそは乞の字、ねかふ詞
 
807 宇豆都仁波安布余志勿奈子奴波多麻能用流能伊昧仁越都伎提美延許曾
 
奴波多麻能、【官本、奴或作v努、】
 
(32)伊味仁越は夢なり、越は助語なり、
 
答歌二首
 
808 多都乃麻乎阿禮波毛等米牟阿遠爾與志奈良乃美夜古邇許牟比等乃多仁《タツノマヲアレハモトメムアヲニヨシナラノミヤコニコムヒトノタニ》
 
多仁、【校本、或仁作v米、】
 
阿禮波は我はなり、終の多仁はためにと云略語なり、第十四にもあり、今の世は踐しき者のみ云詞となれり、古事記仁徳天皇御歌云、賣杼理能、和賀意富岐美能、淤呂須波多、他賀多泥呂迦母、此落句、泥は爾に通ず、呂は助語なれば誰爲にかもを、たがたねかもとよみ給へるなり、
 
初、あれはわれはなり。君かために求めん。こん人のたには、ためになり。今底下のものゝ詞におほし。わらふへからす
 
809 多陀爾阿波須阿良久毛於保久志岐多閉乃麻久良佐良受提伊米爾之美延牟《タタニアハスアラクモオホクシキタヘノマクラサラステイメニシミエム》
 
(33)オホクと云所句絶なり、枕サラズテは君が夜々の枕|上《カミ》をさらずして夢に入て見えむとなり、し〔右○〕は助語なり、
 
初、たゝにあはす 徑にあはすなり。おほくは句絶なり。枕さらすては、枕をさらすしてなり。第四に枕かたさりといふ所に注しぬ
 
大伴淡等謹状
 
今按公卿補任云、大伴宿禰旅人、天平二年十月朔、任2大納言1改2名淡等1云云、此説信じがたし、其故は此状の終に天平元年十月七日とありて此に淡等とあれば、大納言に任せられて後旅人を改て淡等と云に非ず、又遂に改られず、其證は聖武紀に旅人薨ずと云ひ、又多比登と三字にかける所もあれど、紀中に淡等とはかける事なし、推量するに是は旅人の反名を所存ありてかくもかゝれけるなるべし、反名の事大一卷に藤原宇合卿に付て注するが如し、淡等をたびと〔三字右○〕とはいかでよまむと云難もあるべけれど、それも前に但馬對馬等の例を引が如し、
 
初、大伴淡等謹状 淡は一字の名歟。推量するに淡海なるへし。字のおちたるならん。此人この外には、此集にも、續日本紀にも見えす
 
梧桐日本琴一面【對馬結石山孫枝】
 
陶隱居本草注云、桐有2四種1、青桐、梧桐、崗桐、椅桐、梧《アリ》桐者色白有v子者、齊民要術云、梧桐云云、於2山石之間1生者|爲《ツクル》2樂器(ニ)1則鳴、清少納言云、桐の花、紫に咲たるは猶おかしきを、(34)葉のひろごりやううたてあれども、又こと木どもと等しう云べきにあらず、唐にこと/”\しき名也、増て琴に作りて、さま/”\になる音の出來るなどおかしとはよのつねに云べくやはある、いみじうこそはめでたけれ、和名集云、日本琴、萬葉集云、梧桐日本琴一面、注云、天平元年十月七日、大伴淡等附2使監1贈2中將衛督房前卿1之書所v記也、體似v筝而短小、有2六絃1、俗用2倭琴二字1、夜萬止古止《ヤマトコト》、大歌所、有2鴟尾琴1、止比乃乎古止《トビノヲト》、倭琴(ノ)首(ニ)、造2鴟尾之形1也、今按、やまとこと〔五字右○〕と云はきんのこと、さうのこと〔十字右○〕、新羅《シラキ》琴|箜篌《クダラゴト》、此等の名に簡ぶがためなり、延喜式、雅樂寮式云、和琴一面、長六尺二寸、和琴は本朝樂器の最上とす、鴨長明の無名抄に、昔は弓六張を並て引けるを後に和琴となせる由かゝる、絃の六つなるはさりけることにや、日本紀を見るに往古より琴あるは和琴なるべし、注、對馬結石山孫枝、※[禾+(尤/山)]康琴賦云、乃|〓《ケツテ》2孫枝(ヲ)1准(ラヘ)2量(ル)所(ヲ)1v任《・モチヰル》(スル)
 
初、梧桐|日本《ヤマト》琴一面 陶隱居本草注云。桐有2四種1。青桐、梧桐、崗桐、椅桐。梧桐者色白有v子者。齊民要術曰。梧桐山石間生者(ヲ)爲《ツクル》2樂器(ニ)1則鳴。延喜式雅樂云。和琴一面。長六尺二寸。鴨長明の無名抄に、いにしへ弓六張をならへて引けるを、後に和琴となせるよし委記せらる。さりけることにや。日本紀を考るに、往古より琴は有けるなり。注對馬結石山孫枝。對馬は津島なり。昔三韓へ往來する舟、こゝにて、にはをもうかゝひけるゆへの名なり。聖武紀云。遣2新羅1使、大使從五位下阿倍朝臣繼麻呂泊2津島1卒。※[禾+(尤/山)]康琴賦云。乃|〓《ケツテ》2孫枝(ヲ)1准(ラヘ)2量(ル)所(ヲ)1v任《・モチヰル》(スル)。白氏文集、梧桐老去(テ)長(ス)2孫枝(ヲ)1。此集第十八、家持橘哥云。波流左禮婆孫枝毛伊《・萠》都追《ハルサレハマコエモイツヽ》
 
此琴夢化2娘子1曰、余託2根遙島之崇※[亦/山]1晞2〓九陽之休光1、長帶2烟霞1、逍2遙山川之阿1、遠望2風波1、出2入鴈木之間1、 唯恐3百年之後空朽2溝※[(止/谷)+頁]1偶遭2良匠1、散爲2小琴1、不v顧2質麁音少1、恒希2君子左琴1、(35)即歌曰、
 
託根〔二字右○〕、文選呂康與2※[※[禾+(尤/山)]康1書云、又北土之性難2以託1v根(ヲ)、崇巒〔二字右○〕、爾雅云、巒(ハ)山|※[隋/山]《ホソナガキナリ》、注謂、山形長狹者、荊州謂2之(ヲ)巒(ト)1、疏(ニ)、凡物狹而長(キ)謂2之(ヲ)※[隋/山](ト)1、琴賦云、惟椅桐之所v生、號託2峻嶽之崇岡(ニ)1、晞2幹(ヲ)於九陽(ノ)之休光1〔八字右○〕、琴賦云、且(ニ)晞(ス)2幹(ヲ)於九陽(ニ)1、又云、含(テ)2天地之醇和1兮、吸2日月之休光(ヲ)1、【良曰v休美也、】逍2遙山川之阿1〔六字右○〕、毛詩云、伊人於焉逍遥【顧野王云、逍遥、清暇也、王穆夜釋荘子、逍遥遊云、放狂自得之名也、阿、顧野王云、水岸也、】出2入雁木之間1、〔六字右○〕荘子云、莊子行2於山中(ニ)1、見2大木枝葉盛茂1、伐v木(ヲ)者止2其(ノ)旁(ニ)1全不v取也、問(ヘハ)2其故1曰、無v所v可v用、莊子曰、此木(ハ)以2不材(ナルヲ)1得v終2其天年(ヲ)1、夫子出2於山(ヨリ)1、舍《イコフ》2於故人(ノ)之家(ニ)1、故人喜(テ)命2豎子(ニ)1殺(シテ)v雁(ヲ)而烹v之、豎子請(テ)曰、其一能(ク)鳴、其一不v能v鳴、請奚(ヲカ)殺、主人曰、殺2不v能v鳴者1、明日弟子問2於莊子1曰、咋日山中之木、以2不材(ナルヲ)1得v終2其(ノ)天年1、今主人之雁(ハ)、以2不材(ヲ)1死(ス)、先生將(ニ)何(ンカ)處(ラン)、莊子笑(テ)曰、周(ハ)將(ニ)v處(ント)d夫材與(ノ)2不材1之間u云云、本朝文粹第十一、後江相公詩序云、如v臣者、久積2草螢之耀(ヲ)1、漸老2木雁(ノ)之間(ニ)1、唯恐百年之後(トハ)〔六字右○〕、史記秦紀(ニ)云、晉(ノ)公子|圉《キヨ》、聞2晉(ノ)君病1曰、即《モシ》君百歳(ノ)後秦必留(メン)v我(ヲ)、又高祖紀(ニ)云、陛下百歳(ノ)後、空朽溝※[(止/谷)+頁]〔四字右○〕、【官本作v壑今本訛、】史記范雎列傳云、王稽謂(テ)2范雎1曰、使3v臣卒然填2溝壑(ニ)1、説苑云、子思居2于衛1※[糸+温の旁]袍無v裏、二旬(ニシテ)而九(タヒ)食(フ)、田子方使3v人遺2狐白之裘(ヲ)1、子思辭(シテ)而不v受、子方(カ)曰、我有(リ)子(ハ)無(シ)何(ソ)不(ル)v受、子思(カ)曰※[人偏+及]聞v之、妄(リニ)與(フ)不v如v遺2棄(スルニハ)物(ヲ)于溝壑1、※[人偏+及]雖v貧也不v忍2以v身(ヲ)爲2溝壑1、是以(36)不2敢(テ)當(ラ)1也、偶遭2良匠1〔四字右○〕、琴賦云、至人※[手偏+慮](ヘ)v思(ヲ)、制(シテ)爲(ル)2雅琴(ヲ)1、乃使v離|子(ヲシテ)督《タヽシ》v墨(ヲ)、匠石(ヲシテ)奮(ヒ)v斤《ヲノヲ》、〓襄(ヲシテ)薦《スヽメ》v法(ヲ)、般〓(ヲシテ)騁v神.左琴〔二字右○〕.右(ニシ)v書左v琴也、
 
初、崇巒(ハ)、陸法言(ノ)曰。山小(シテ)而|鋭《トカレルヲ》曰v巒(ト)。音(ハ)萬官(ノ)反。晞2幹(ヲ)於九陽之休光(ニ)1。琴賦云。旦(ニ)晞《ホス》2幹(ヲ)於九陽1。又云。惟椅梧之所v生兮託(ク)2峻嶽之崇岡1。披(テ)2重壤(ヲ)1以|誕載《オホイニオヒタリ》兮。參《チカツイテ》2辰極(ニ)1而高|〓《アカレリ》。含(テ)2大地之醇和(ヲ)1兮吸2日月之休光(ヲ)1【休善也。】雁木、空朽2溝壑1。孟子曰。使d2老稚(ヲ)1轉c乎溝壑(ニ)u惡(ソ)在(ン)3其爲(ルニ)2民(ノ)父母1也。史記范雎列傳王稽謂2范雎に1曰。事有(リ)2不(ル)v可v知者三1。〇使3臣卒然(トシテ)〓2溝壑(ニ)1是(レ)事不v可v知者三也。説苑云。子思居2于衛1。〓袍無v裏。二旬而九食。田子方便3v人遣2狐白之裘1。子思辭而不v受。子方(カ)曰。我(ハ)有(リ)子(ハ)無(シ)。何(ソ)不(ル)v受。子思曰。〓聞(ケリ)v之。妄(ニ)與(ルハ)不(ト)v如3遺2棄(スルニ)物(ヲ)于溝壑(ニ)1。〓雖v貧(ト)也不v忍(ヒ)3以v身爲(ルニ)2溝壑(ト)1。是(ヲ)以不2敢(テ)當(ラ)1也。張平子詠史詩曰。當(テハ)2其(ノ)未v遇(ハ)時(ニ)1憂在v〓(ルニ)2溝壑(ニ)1。戰國策云。左師公曰。孝臣賤息野舒最少不肖。〇願及v未v〓2溝壑1而託v之。値遭良匠。琴賦曰。至人〓思制爲雅琴、乃使離子督墨、匠石奮斤。〓襄薦法、般〓〓神。〓會〓厠、朗密誦均、華繪彫琢、布藻垂文、錯以犀象、藉以翠縁云々。左琴【君子左琴右書。】枕草子に、きりの花、紫に咲たるは、なをおかし。きは、葉のひろこりやう、うたてあれとも、またこと木ともと、ひとしういふへきにあらす。もろこしにこと/\しき名なり、ましてことにつくりて、さま/\になるねの出くるなとおかしとはよのつねにいふへくやはある。いみしうこそはめてたけれ
 
810 伊可爾安良武日能等伎爾可母許惠之良武比等能比射乃倍和我摩久良可武《イカニアラムヒノトキニカモコヱシラムヒトノヒサノヘワカマクラセム》
 
伊可爾安良武、【六帖云、イカナラム、】  和我麻久良可武、【別校本摩作v麻、校本可作v世、】
 
聲知ラムは列子云、伯牙善鼓v琴、鍾子期善聽(ク)、伯牙鼓v琴、志在(レハ)2高山(ニ)1、子期(カ)曰、善哉※[山/我]々乎(トシテ)若(シ)2泰山(ノ)1、志在(レハ)2流水(ニ)1、子期曰、善哉洋々乎(トシテ)乎若(シ)2江珂(ノ)1、伯牙(カ)所v念子期必得(タリ)v之(ヲ)、呂氏春秋曰、鍾子期死(シテ)伯牙|破《ワリ》v琴絶(テ)v絃(ヲ)、終(マテ)v身(ヲ)不2復(タ)鼓1v琴(ヲ)、以d爲《オモヘリ》無c足2爲鼓1者u、ヒトノヒザノヘは膝の上なり、第七にも膝に臥玉の小琴とよめり、史記樊※[口+會]傳云、上獨枕2一官者(ヲ)1臥、垂仁紀云、天皇|幸《イテマシテ》2來目(ニ)1居《マス》2於高宮(ニ)1、時天皇|枕《ミマクラシテ》2皇后膝(ヲ)1而晝|寢《ミネマセリ》、落句の可は今按、字のまゝに、ワレマクラカンと讀べし、其故は第十九に家持の豫作七夕歌に、妹之袖和禮枕可牟、これをも今と同じく點ぜり、又同卷に君が往もし久にあらば梅柳、たれとともにか吾|※[草冠/縵]可牟《カツラセム》、これをも亦セ〔右○〕と點ぜり、然るに又同卷に、ほとゝぎす鳴初こゑを橘の、玉にあへぬきかづらきてと(37)よみ、又青柳のほつえよぢ取かづらくはとも讀たれば、わがかづらかむと讀べき證明なり、彼に准ずるに三處まで此可の字なれば、まくらかんと讀べし、かづらせんと云をかづらかんと云からに枕せむと云べきをまくらかんとはたらかさんこと例證明なりと申すべし、
 
初、いかにあらむ日の時にかも いかにあらむは、いかならむなり。爾阿反奈ゝるゆへに。聲しらむは、列子曰。伯牙善|鼓《ヒク》v琴。鍾子期善聽(ク)。伯牙鼓v琴志在(レハ)2高山1、子期(カ)曰善哉〓々乎(トシテ)若(シ)2泰山(ノ)1。志在(ハ)2流水(ニ)1、子期(カ)曰、善哉洋々(ト)兮若2江河(ノ)1。伯牙所v念子期必得(タリ)v之(ヲ)。呂氏春秋曰。鍾子期死(シテ)伯牙|破《ワリ》v琴絶(テ)v絃(ヲ)終(ルマテ)v身(ヲ)不2復(タ)鼓(カ)1v琴(ヲ)、以d爲《オモヘリ》無(ト)c足(ル)2爲(ニ)鼓(スルニ)1者(ノ)u【蒙求。】ひさのへわか枕かむ、
日本紀第六、垂仁紀云。五年冬十月己卯朔、天皇幸2來目《クメニ》居(マス)2於高宮(ニ)1。時(ニ)天皇|枕《ミマクラシテ》2皇后(ノ)膝(ヲ)1而晝|寢《ミネマセリ》。仁徳紀云。俄而隼別(ノ)皇子枕(ニシテ)2雌鳥(ノ)皇女之膝(ヲ)1以臥。史記樊〓傳云。上濁枕(ラシ)2一宦者(ヲ)1臥(セリ)。此集第七寄2日本琴1歌に、ひさにふす玉の小琴のことなくはいとかくはかりわかこひめやも。わかまくらかんを、まくらせむと、和點をくはへたるは誤れり。後に至りても、まくらかんといふ詞有。こゝのことく可の字をかけり。又あやめ草よもきかつらきともよみたれは、古語の助字なり。およそ此卷に、大伴卿は琴の精、娘子となりて夢にいり、憶良は、松浦川にして仙女にあはる。いにしへの人は、かく神にも通しけれは、世のうすくなり、人のまことなきは、はつるにたれる事なりかし。下に梅の哥を和する四首の中に、梅の花ゆめにかたらくとよみ、又第十七に、家持の秘藏の鷹をそらして、神祇に又えむことを祈られけるに、夢に娘子來りて、ちかきほとにうへしと告たることをよまれたる哥をも取合て、みるへきにこそ
 
僕報詩詠曰
 
歌を詩と云こと此を初て下にも見えたり、稱徳紀に由義宮にての歌垣の事を載たる所に歌一首を擧て後に云く、其餘(ノ)四皆(ハ)並(ニ)是古詩なれば不2復(タ)煩(シク)載1と云へるも歌を詩と云證なり、
 
811 許等等波奴樹爾波安里等母宇流波之吉伎美我※[〒+手]奈禮能許等爾之安流倍志《コトヽハヌキニハアリトモウルハシキキミカタナレノコトニシアルヘシ》
 
※[〒+手]奈禮能、【官本※[〒+手]作v手、】
 
辞※[〒+手]流布の印本の誤なり、官本に依て改むべし、并の字を※[手+手]とかくに似たれど今の(38)義にあらず、琴ニシのし〔右○〕は助語なり、ウルハシキ君とは日本紀に善友をウルハシキトモとあれば、人がらよく我と中よき君といへる意にて、夢中より中衛大將へと思ひ當て大將をうるはしき君とよまれたり、一二の句は、木は非情にて物云はねば、非情なればとあなどりて大形にはせじ、心ある人の琴となさんずるぞと約する意なり、
 
初、うるはしき君かたなれの うるはしき人の手ならす琴となさむ。うしろやすかれなり。手を印本に〓に作れるは、あらたむへし。哥を詩といふこと、此集にはこゝにはしめて見えたり。此巻末にも見え、また第十七卷にも、倭詩といへり
 
琴娘子答曰
 
敬奉2徳音1、幸甚幸甚、片時覺、即感2於夢言1、慨然不v得2黙止1、故附2公使1、聊以進御耳、 謹状不具、
 
敬奉2徳音1〔四字右○〕、毛詩谷風云、徳音莫(ハ)v違、及(ト)v爾同v死、文選李少卿答(ル)2蘇武(ニ)1書曰、時(ニ)因(テ)2北風(ニ)1復(タ)惠(メ)2徳音(ヲ)1、幸甚幸甚〔四字右○〕、亦李少卿書云、榮問|休暢《ヨクノヘタリ》、幸甚幸甚、注、銑(カ)曰、徳美通2時君之道1、遇(コトノ)之甚也、幸(ハ)遇也、善(カ)曰、爾雅曰、非分而得(ルヲ)謂2之(ヲ)幸(ト)1、 進御〔二字右○〕(ハ)、琴賦曰、進2御《・スヽメモチヰラレテ》君子1新聲※[立心偏+樛の旁]亮(タリ)、
 
初、徳音 毛詩谷風云。徳音莫(ハ)v違(コト)及(ト)v爾同(セム)v死。李少卿答2蘇武1書尾(ニ)云。時因2北風(ニ)1復惠(メ)2徳音(ヲ)1。幸甚々々。史記蒙恬列傳云。令(シテ)《・ノリコチテ日本紀》2蒙毅(ニ)1曰。先生欲v立2太子1而卿|難《ハヽム》之。〇乃賜2卿(ニ)死(ヲ)1。亦甚幸矣。文選李陵與2蘇武1書曰。榮問|休暢《ヨクノヘタリ》幸甚々々。注銑曰。徳美(ニシテ)通2時君之道1遇之甚也。再言v之者、美之甚也。幸(ハ)遇也。善曰、爾雅(ニ)曰。非分(ニシテ)而得(ルヲ)謂2之(ヲ)幸(ト)1。進御。琴賦曰。進2御(シテ)《・スヽミモチヰラレテ》君子(ニ)1新聲〓亮(タリ)
 
 天平元年十月七日附使進上
(39)謹通2 中衛高明閤下1謹空
 
中衛は近衛なり、閤下は閣下歟、謹空は本明文粹第七、政江相公爲2清慎公1報2呉越王1書の終に云、呉越殿下謹堂とあり、此に依るに謹堂を空に誤れる歟、謹室にても有けるにや、
 
初、謹空 疑記室乎
 
跪承2芳音1、嘉懽交深、乃知2龍門之恩1、復厚2蓬身之上1、戀望殊念、常心百倍、謹和2白雲之什1、以奏2野鄙之歌1、房前謹状、
 
寵門之恩、【比2得李膺之遇1、】  蓬身、【蓬、和訓、企太奈之、】  白雲之什、【韻會云、詩什、古以2十篇1爲2一什1、過2十篇1、亦稱v什、擧2成數1也、】  房前〔二字右○〕、元明紀云、和銅四年四月、從五位上、元正紀云、養老元年十月丁亥、以2從四位下藤原朝臣房前(ヲ)1参2議朝政1、五年冬十月戊戌、太上天皇詔曰、凡家有(レハ)2沈痼1、大小不v安(カラ)、卒發2事故(ヲ)1、汝卿房前、當(ニ)d作2内臣(ト)1計2會(シ)内外1、准(シテ)v勅(ニ)施行(シテ)、輔2翼帝業(ヲ)1、永(ク)寧(ンス)c國家(ヲ)u、聖武紀云、天平元年九月、正三位、九年夏四月辛酉、參議民部卿正三位藤原明臣房前薨、送以2大臣葬儀1、其家固辭不v受、房前贈太政大臣正一位不比等之第二子也、冬十月丁未、贈2民部卿正三位藤原朝(40)臣房前(ニ)正一位左大臣1、并(ニ)賜2食封二千戸(ヲ)於其家(ニ)1、限以2二十年(ヲ)1、廢帝紀、寶字四年八月甲子、勅曰、子以v祖(ヲ)爲v尊、祖(ハ)以v子(ヲ)亦貴云云、又得2大師、【藤原惠美朝臣押勝也、】奏(テ)1※[人偏+爾]云云、宜v依v所(ニ)v請、南卿(ニ)贈2太政大臣(ヲ)1、北卿轉贈2太政大臣1云云、右の間處々に見えたり、懷風藻云、贈正一位左大臣藤原明臣總前三首、【年五十七、】懷風藻は寶字三年の撰なる故に贈太政大臣と云はず、
 
初、龍門【登龍門李膺。】蓬身。白雲之什
 
 
812 許等騰波奴紀爾茂安理等毛和何世古我多那禮乃美巨騰都地爾意加米移母《コトトハヌキニモアリトモワカセコカタナレノミコトツチニオカメイモ》
 
意加米移母、【六帖云、オカメヤモ、官本亦點同v此、】
 
移の字六帖に依て讀べし、神功皇后紀に爾波移と云人の名をニハヤと點ぜり、也と移と同内相通なり、第十二に、家なる妹やと云句のや〔右○〕にも伊をかけり、ツチニオカメヤモとは我を指てうるはしき君がたなれの琴とのたまへど、足下の手馴の御琴にてこそあむなれば假にも地にはおかじ、膝の上に枕させてこそなつかしみ候はめとなり、
 
初、ことゝはぬ木にも有ともわかせこか わかせこは大伴卿をしたしみてなり。みことは、御琴。つちにおかめやも、かりにも下にはおかしとなり。移はいとよめは、やと五音通せり。又すなはちやとも讀へし。神功皇后紀云。爰(ニ)斯摩(ノ)宿禰即以d〓《シタカヘル》人(ト)爾波|移《ヤト》《・野私》與2卓淳《タクシユノ》人(ト)過古1二人(ヲ)u遣(シテ)2于百濟國(ニ)1慰2勞《ネキラヘシム》其王(ヲ)1。この中に爾波移の移をやとよめる、これは其證なり。かたはらに野の字をかきて、私の字を注せるは、和名集に引れたる、田公望か日本紀私記なり。第三卷には、やといふに和の字をかけり。すてにそこに注せり
 
(41)十一月八日附還使大監
 
此時の大監は大伴宿禰百代なり、
 
勤通 尊門 記室
 
初、大監は大伴宿禰百代なり。第三第四に見えたり
房前(ハ)懷風藻云。贈正一位左大臣藤原朝臣|總前《フササキ》三首【年五十七】元明紀云。和銅四年四月、從五位上。元正紀云。養老元年十月丁亥、以2從四位下藤原朝臣房前(ヲ)1、參2議(セシム)朝政(ヲ)1。三年正月庚寅朔壬寅從四位上。五年正月從三位。同冬十月戊戌、太上天皇詔曰。凡(ソ)家有(レハ)2沈痼1大小不v安(カラ)。卒(ニ)發(スカ)v事(ヲ)故(ナリ)。汝(チ)卿房前、當(ニ)d作(シテ)2内臣(ノ)計會(ヲ)1内外准(シテ)v勅(ニ)施行(シテ)、輔2翼(シ)帝業(ヲ)1永(ク)c寧(ンス)國家(ヲ)u。聖武紀云。天平元年九月正三位〇爲2中務卿1。九年夏四月辛酉、參議民部卿正三位藤原朝臣房前薨(ス)。送(ルニ)以(ス)2大臣(ノ)薨《・葬歟》儀(ヲ)1。其家固辭(シテ)不v受(ケ)。房前(ハ)贈太政大臣正一位不比等第二之子也。冬十月丁未、贈2民部卿正三位藤原朝臣房前(ニ)正一位左大臣(ヲ)1。井(ニ)賜(フ)2食封二千戸(ヲ)於其家(ニ)1。限(ルニ)以(ス)2二十年(ヲ)1。廢帝紀云。寶字四年八月甲子、勅曰。子(フ)以v祖(ヲ)爲(リ)v尊。祖(ハ)以v子(ヲ)亦貴(シ)。〇又得(ルニ)2大師(ノ)奏(ヲ)1※[人偏+爾](ク)。故臣(カ)父及(ヒ)叔(ハ)者、竝(ニ)爲2聖代(ノ)之棟梁(ト)1、共(ニ)作(ル)2明時之羽翼(ト)1。位(ハ)已(ニ)窮(ムレトモ)v高(キコトヲ)官尚未(タ)v足(ラ)。伏(テ)願(ハ)廻(ラシテ)2臣(ニ)所(ノ)v給大師(ノ)之任(ヲ)1欲v讓(ラント)2南北(ノ)兩左大臣(ニ)1者《テヘリ》。宜《・ベシ》(シク)d依(テ)v所(ニ)v請(フ)、南卿(ニハ)贈(リ)2太政大臣(ヲ)1北卿(ニモ)轉(シテ)贈c太政大臣(ヲ)u。庶(ハクハ)使《シメム》d酬(フル)v庸(ニ)之典、垂(レ)2跡(ヲ)於將來(ニ)1事(フル)v君(ニ)之臣、盡(サ)u2忠(ヲ)於後葉(ニ)1。普(ク)告(テ)2遐邇(ニ)1、知(ラシメヨ)2朕(カ)意(ヲ)1焉
 
筑前國恰土郡深江村子負原、臨海丘上有2二石1、大者長一尺二寸六分、圍一尺八寸六分、重十八斤五兩、小者長一尺一寸、圍一寸尺八寸、重十六斤十兩、並皆墮圓、状如2鷄子1、其美好者、不v可2勝論1、所謂徑尺壁是也、【或云、此二石者肥前國彼杵郡平敷之石、當v占而取v之、】去2深江驛家1二十許里、近在2路頭1、公私徃來、莫v不2下v馬跪拜1、古老相傳曰、往者息長足日女命、征2討新羅國1之時、用2茲兩石1、挿2著御袖之中1、以爲2鎭懷1、【實是御裳中矣】所3以行人敬2拜此石1、乃作歌曰、
 
筑前國怡土郡〔六字右○〕、仲哀紀云、又筑紫(ノ)伊覩縣主祖|五十迹手《イトテ》聞2天皇之行1拔《ネコシ》2取五百枝(ノ)賢木(ヲ)1立2于船(ノ)之舳艫《トモヘニ》1、上(ツ)枝《エニハ》掛(ケ)2八尺瓊《ヤサカニヲ》1、中(ノ)枝(ニハ)掛(ケ)2白銅《マスミノ》鏡(ヲ)1、下(ツ)枝(ニハ)掛2十握《トツカノ》劔1、參2迎《マウムカフ》于穴門|引《ヒケ》嶋1而獻v之(ヲ)、因(テ)以|奏《マウシテ》言(サク)、臣《ヤツカレ》敢(テ)所2以獻2是(ノ)物(ヲ)1者、天皇如2八尺瓊(ノ)之勾(レルカ)1以|曲妙御字《タヘニミヨシロシメセ》、且(タ)如2白銅鏡1分(テ)明《アキラカニ》看2行《ミソナハセ》山川|海原《ウナハラ》1、乃提(テ)2是(ノ)十握(ノ)劔(ヲ)1平(タマヘトナリ)2天下1矣、天皇即|美《ホメタマヒテ》2五十迹手(ヲ)1曰2伊蘇志1、故時人號(ケテ)2五十迹手(カ)本(ツ)土《クニヲ》1曰2伊蘇(ノ)國(ト)1。今謂2伊覩1者|訛《ヨコナマレルナリ》也、子負原は、筑紫風土記曰、逸《イ》都縣子饗原有2石兩顆1、一者片長一尺二寸、周一尺八寸、一者長(サ)一尺一寸、周一尺八寸、色白(シテ)而※[革+更]|圓(ナルコト)如(シ)2磨(キ)成(カ)1、俗傳(テ)云、息長足比賣命欲v伐(ント)2新羅(ヲ)1閲v軍之際、懷娠漸動、時取2兩(ノ)石1插2著裙(ノ)腰(ニ)1遂襲2新羅1、凱旋之日至(テ)2芋※[さんずい+眉]《ウミ》野(ニ)1太子誕生(シタマフ)有2此因縁1曰2芋※[さんずい+眉]野(ト)1、【謂v産爲2芋※[さんずい+眉]1者風俗言詞耳、】俗間婦人、忽然娠動(セハ)、裙腰挿v石(ヲ)、壓(テ)令v延v時、蓋由(ル)v此乎、筑前(ノ)國(ノ)風土記(ニ)曰、怡土郡兒饗野、【在2郡西1】此野(ニ)西(ニ)有2白石二顆1、【一顆、長一尺二寸、大一尺、重四十一斤、一顧、長一尺一寸大一尺、重四十九斤】曩者《ムカシ》氣長足姫尊欲(シテ)3征2伐(セント)新羅(ヲ)1到2於此村(ニ)1、御身有v姙忽當2誕生1、登時《スナハチ》取2此二顆(ノ)石(ヲ)1挿2於御腰1祈《ウケヒテ》曰、朕欲2(【征歟定歟】)西堺1來(テ)著2此野1、所(ノ)v姙皇子若(シ)此神(ナラハ)者、凱旋之後誕生(タマハンコト)其可(ナラント)、遂定2西堺(ヲ)1、還來即産也、所謂譽田(ノ)天皇是也、時(ノ)人號(ケテ)2其石(ヲ)1曰2皇子産石(ト)1、今訛(テ)謂2兒饗石(ト)1、神功皇后紀云、于v時也、適(ニ)當(レリ)2皇后(ノ)之|開胎《ウムカツキニ》1、皇后則取v石挿v腰《ミコシニ・ミモノコシニ》而|祈《ウケヒテ》v之曰、事竟(テ)還(ラム)日、産2於|茲土《コヽニ》1、其(ノ)石今(ニ)在2于伊都(ノ)縣道邊(ニ)1、圍一寸尺八寸〔六字右○〕、【官本無2上寸1、衍文也、】重十六斤十兩〔六字右○〕(ハ)、令義解第十、雜令云、凡度(ハ)十分爲v寸(ト)、【謂(ク)度(ト)者分寸尺丈計也、所3以度2長短1也、分(ト)者、北方※[禾+巨]黍(ノ)中(ナル)者一(ツノ)之廣(サヲ)爲v分、※[禾+巨]者、黒黍也、】十寸爲v尺、一尺二寸、爲2大尺一尺1、十尺爲v丈(43)云云、權衡(ハ)二十四銖爲v兩【謂以2※[禾+巨]黍中者百黍重1爲v銖二十四銖爲v兩、】三兩爲2大兩(ノ)一兩(ト)1、十六兩爲v斤、墮圓〔二字右○〕(ハ)、今按墮(ハ)當(ニ)v作v※[隋/山](ニ)※[隋/山]、狹長也、如2上巒字注(ニ)引(ガ)2爾雅及(ヒ)注疏(ヲ)1、又説文云、※[隋/山](ハ)山之墮々(タルヲ)从(フ)2山墮(ノ)省(ク)聲(ニ)1據(レハ)v此(ニ)墮(ニシテ)而通(シテ)v※[隋/山](ニ)用(ルカ)歟、徑凡(ノ)壁〔三字右○〕、【壁當2改作1v璧、】淮南子云、聖人(ハ)不(シテ)v貴(ハ)2尺之璧(ヲ)1而重(ス)2寸(ノ)陰(ヲ)1、文選曹子建(ノ)與2呉季重1書(ニ)曰、人(コトニ)懷(カハ)2盈尺(ヲ)1、和氏而無(ケン)v貴(キコト)矣、注中彼杵郡〔三字右○〕、和名云、彼杵、【曾乃岐、】徃者〔二字右○〕【官本、者、改作v昔、】以爲2鎭懷〔四字右○〕1、【實是御裳中矣、】古事記中云、故其政未v竟之間、其懷妊臨v産、即爲v鎭(ンカ)2御腹(ヲ)1取(テ)v石(ヲ)以纏(テ)2御裳之腰1而渡2筑紫國1其御子者阿禮坐、【阿、禮、二字、以v音、】故號2其御子生(マセル)地(ヲ)1謂2宇美1也、亦所v纏2其御裳1之石者在2筑紫國之伊斗村1也、史記趙(ノ)世家云、賈不v請而|擅《ホシイマヽニ》與2諸將1攻2趙氏於下宮(ニ)1殺2趙朔(ヲ)1、趙朔(カ)妻成公(カ)※[女+弟](ナリ)、有2遺腹1、走2公宮(ニ)1匿(レタリ)、趙朔(カ)客(ヲ)曰2公孫杵臼1、杵曰謂(テ)2朔(カ)友人程嬰(ニ)1曰、胡《ナンゾ》不v死、程嬰(カ)曰、朔(カ)之婦有2遺腹1、若幸而男(ナラハ)吾奉v之、即《モシ》女(ナラハ)也、吾徐死(ン)耳、居(ルコト)無v何而朔婦|免《ヘン》身生(ム)v男(ヲ)、屠岸賈聞(テ)v之(ヲ)索(ム)2於宮中(ニ)1、夫人置(テ)2兒(ヲ)※[糸+袴の旁]《ハカマノ》中(ニ)1祝(シテ)曰、趙宗|滅(トナラハ)乎若《ナンヂ》號《ナケ》、即《モシ》不v滅(トナラハ)若(チ)無v聲(スルコト)、及《マテ》2索v兒(ヲ)竟(ルニ)1無v聲、已脱(シヌ)、依(テ)2皇后之挿(タマフニ)1v石延2産期1蓋此類(カ)耶、
 
初、筑前國怡土郡 仲哀紀云。又筑紫伊覩(ノ)縣主(ノ)祖|五十迹手《イトテ》聞2天皇之行1拔《ネコシ》2取五百枝(ノ)賢木(ヲ)1立2于船(ノ)之|舳艫《トモヘニ》1、上(ツ)枝《エニハ》掛2八尺瓊《ヤサカニヲ》1中(ツ)枝(ニハ)掛(ケ)2白銅《マスミノ》鏡(ヲ)1下(ツ)枝(ニハ)掛(テ)2十握《トツカノ》劍(ヲ)1參2迎《マウムカフ》于穴門(ノ)引《ヒケ》嶋(ニ)1而獻(ツル)v之(ヲ)。因(テ)以|奏《マウシテ》言(サク)。臣《ヤツカレ》敢(テ)所3以(ハ)獻(ル)2是(ノ)物(ヲ)1者、天皇如2八尺瓊(ノ)之勾(レルカ)1以|曲妙御字《タヘニミヨシロシメセ》。且如2白銅鏡(ノ)1以|分明《アキラカニ》看2行《ミソナハセ》山川|海原《ウナハラヲ》1。乃提(テ)2是(ノ)十握(ノ)劍(ヲ)1平(ラケタマヘ)2天下(トナリ)1矣。天皇即|美《ホメタマヒテ》2五十迹手(ヲ)1曰《ノタマフ》2伊蘇志(ト)1。故(ニ)時(ノ)人號(ケテ)2五十迹手(カ)本(ツ)土《クニヲ》1曰2伊蘇(ノ)國(ト)1。今謂(フハ)2伊覩(ト)1者|訛《ヨコナハレルナリ》也。令義解第十雜令曰。凡(ソ)度(ハ)十分(ヲ)爲v寸(ト)。【謂度者、分寸尺丈計也。所3以度2長短1也。分者、北方(ノ)※[禾+巨]黍(ノ)中(ナル)者一(ノ)之廣(サヲ)爲v分。※[禾+巨]者黒黍也。】十寸(ヲ)爲(シ)v尺(ト)、一尺二寸(ヲ)爲(シ)2大尺(ノ)一尺(ト)1十尺(ヲ)爲(ス)v丈(ト)。○權衡(ハ)二十四銖(ヲ)爲v兩(ト)【謂以2※[禾+巨]黍(ノ)中(ナル)者(ヲ)1百黍(ノ)重(サヲ)1爲v銖(ト)。二十四銖(ヲ)爲v兩】三兩(ヲ)爲2大兩(ノ)一兩(ト)1、十六兩(ヲ)爲v斤(ト)。隨圓隨(ヲ)誤(テ)作v墮(ニ)。徑尺璧(ハ)、淮南子曰。聖人(ハ)不(シテ)v貴2尺(ノ)之璧(ヲ)1而重(ス)2寸(ノ)陰(ヲ)1。時難(シテ)v得而易(ケレハナリ)v失也。文選曹子建與(フル)2呉季重(ニ)1書(ニ)曰。人(コトニ)懷(カハ)2盈尺(ヲ)1和氏而無(ケン)v貴(キコト)矣。征討新羅國――以爲鎭懷(ト)。神功皇后紀云。于v時也適(ニ)當(レリ)2皇后(ノ)之|開胎《ウムカツキニ》1。皇后則取v石(ヲ)插v腰《ミコシニ・ミモノコシニ》而|祈《ウケヒテ》之曰。事竟(テ)還(ラム)日産2於|茲土《コヽニ》1。其(ノ)石今(マ)在2于伊都(ノ)縣(ノ)道(ノ)邊(ニ)1。史記趙(ノ)世家(ニ)云。賈不(シテ)v請而|擅《ホシイマヽニ》與2諸將1攻2趙氏(ヲ)於下宮(ニ)1殺2趙朔(ヲ)1。○趙朔(カ)妻(ハ)成公(カ)※[女+弟](ナリ)。有2遺腹1走2公宮1匿(タリ)。趙朔(カ)客(ヲ)曰2公孫杵臼(ト)1。々々謂2朔(カ)友人程嬰1曰。胡《ナンソ》不v死。程嬰曰。朔之婦有2遺腹1。若幸而男(ナラハ)、吾奉之。即《モシ》女(ナラハ)也吾徐(ニ)死(ン)耳。居(ルコト)無v何而朔(カ)婦|免《ヘン》身(シテ)生(ム)v男(ヲ)。屠岸賈聞(テ)v之(ヲ)索(ム)2於宮中(ニ)1。夫人置(テ)2兒(ヲ)※[糸+袴の旁]《ハカマノ》中(ニ)1祝(シテ)曰。趙(ノ)宗滅(トナラハ)乎、若《ナムチ》號《ナケ》。即《モシ》不(トナラハ)v滅若(チ)無(レ)v聲(スルコト)。及《マテ》2索(シテ)v兒(ヲ)竟(ルニ)1無v聲。已(ニ)脱(レヌ)
 
813 可既麻久波阿夜爾可斯故斯多良志比※[口+羊]可尾能彌許等可良久爾遠武氣多比良宜弖彌許々呂遠斯豆迷多麻布等伊(44)刀良斯弖伊波比多麻比斯麻多麻奈須布多都能伊斯乎世人爾斯※[口+羊]斯多麻比弖余呂豆余爾伊比都具可禰等和多能曾許意枳都布可延乃宇奈可美乃故布乃波良爾美弖豆加良意可志多麻比弖可武奈何良可武佐備伊麻須久志美多麻伊麻能遠都豆爾多布刀伎呂可※[人偏+舞]《カケマクハアヤニカシコシタラシヒメカミノミコトカラクニヲムケタヒラケテミココロヲシツメタマフトイトラシテイハヒタマヒシマタマナスフタツノイシヲヨノヒトニシメシタマヒテヨロツヨニイヒツクカネトワタノソコオキツフカエノウナカミノコフノハラニミテツカラオカシタマヒテカムナカラカムサヒイマスクシミタマイマノヲツヽニタフトキロカモ》
 
神功皇后紀云、氣長足姫《オキナカタラシヒメノ》尊(ハ)、稚日本根子《ワカヤマトネコ》彦太日日(ノ)【開化】天皇(ノ)之曾孫、氣長|宿禰《スクネノ》王(ノ)之女也、母(ヲ)曰2葛城(ノ)高|額媛《ヌカヒメト》1、足《タラシ》仲彦(ノ)天皇二年、立(テ)爲(タマフ)2皇后(ト)1云云、新羅を伐給ふ事日本紀等に委し、武氣多比良宜?、日本紀に平の字をムクとよめり、彌許々呂遠、斯豆迷多麻布等、序に鎭懷とある意なり、伊刀良斯?は伊は發語の詞、取てなり、マタマナスは眞玉成なり、イヒツグガネはいひつぐがになり、ワダノソコオキツは深江と云はん料なり、ウナガミは海上なり、唯海邊なり、處の名にはあらず、オカシタマヒテは置給ひてなり、クシミタマは奇御玉なり、反歌に此くしみたましかしけらしもとよめるを以て知べし、そ(45)れに皇后の神靈を奇魂と云を兼たり、神代紀云、大己貴神到2出雲國1乃|興言《コトアゲシテ》曰、今|理《ヲサムル》2此國1唯吾|一身《ヒトリノミナリ》而已、其可2與b吾杏共理(ム)2天下(ヲ)1者蓋(シ)有《アリヤ》v之乎、于v時|神《アヤシキ》光照(シ)v海《ウナハラ》、忽然(ニ)有2浮(ヒ)來(ル)者1曰《ノタマハク》、如《モシ》吾不(ハ)v在者|汝《イマシ》何《イカンソ》能|平《ムケマシヤ》2此國(ヲ)1乎、吾(ハ)是|汝之幸魂奇魂《イマシカサキミタマクシミタマナリ》也、欽明紀云、我|息《オキ》長足姫尊、靈聖聰《クシヒニサトク》明(ニシテ)周2行《メクリマス》天下(ヲ)1、奇の字靈の字をくしひ〔三字右○〕とよめるは神靈無方にして人情を以て測量し難き意なり、此御陵和州添下郡にあり、狹城盾列《サキノタヽナミノ》池(ノ)上(ノ)陵と云と延喜式に見えたり、今に現在せり、昔仁明天皇承和十年三月十八日食時に、此山陵雷の如く鳴出て赤氣南を指て飛行く、又申の時に至て鳴出て西を指て飛行ければ、是直事にあらずとて奏聞を經たり、帝驚き恠たまひて參議正躬(ノ)王を遣して山陵を見せ給ふに、陵の木七十七本其外|※[木+若]《シモト》木は數を知らず伐たり、是陵を守る者の科なりとて勘當せり、天皇猶恠思召て圖録を考させ給ひしかば、楯列《タヽナミ》南北二つの陵は、北は神功皇后、南は成務天皇なるを、南北を違へて云ひ傳へしかば、神功皇后に奉る弓劔の類皆成務天皇の陵に奉りき、依て從四位上藤原朝臣|助《タスク》、從五位下坂上(ノ)太宿禰正野を勅使として彼弓劔等を更に神功皇后の陵に還し納め奉りたまひき、此事類聚國史に載られたりとぞ、是を思ふに崩御年舊りたれども神靈在すが如くして新なる事なり、御在世の事は諸記に明なれば皆讓れり、イマノヲツヽニはを〔右○〕とう〔右○〕》と通じて今のうつゝなり、うつしとも云、(46)此処に.現の字をウツヽとよめり、現在の意なり、タフトキロカモはろ〔右○〕は助語にて貴哉なり、※[人偏+舞]はむ〔右○〕なるをむ〔右○〕とも〔右○〕と通ずればも〔右○〕に用たり、
 
初、むけたひらけて 日本紀に、平の字をむくると讀たれは、たひらくるもひとつ詞なり。しつめたまふ。鎭の字なり。いとらして、いは發語の詞、とらしては取てなり。いひつぐかねと、萬世まてもいひ繼て傳るかにとなり。にとね五音通せり。わたのそこおきつは、おきはふかけれは、ふかえとつゝけんため、所からもよりきたれは、かくつゝけたり。うなかみは海上なり。海邊といはむかことし。おかしたまひて、置たまひてなり。くしみたま、神代紀云。大己貴神到(テ)2出雲國(ニ)1乃|興言《コトアゲシテ》曰。今|理《ヲサムルハ》2此國1唯吾|一身《ヒトリノミナリ》而已。其可(キ)3與v吾杏共(ニ)理(ム)2天下(ヲ)1者(ノ)蓋(シ)有《アリヤ》之乎。于v時|神《アヤシキ》光(リ)照(シ)v海《ウナハラ》忽然(ニ)有2浮(ヒ)來(ル)者(ノ)1曰(ク)。如《モシ》吾(レ)不(ハ)v在者|汝《イマシ》何《イ ソ》能|平《ムケマシヤ》2此國(ヲ)1乎。吾(ハ)是|汝之幸魂奇魂《イマシカサキミタマクシミタマナリ》也【略抄。】今のくしみたまは是にはあらす。くしは奇の字なり。みたまは眞玉とほむる心にて、二の石をいへり。くしはあやしき心なり。又靈の字をもよめり。神代紀云。吾息《ワカコ》雖v多《サハナリト》未v有2若v此靈異《カククシヒニアヤシキ》之兒(ハ)1。欽明紀云。我|息《オキ》長足姫(ノ)尊、靈聖聰《クシヒサトク》明(ニシテ)周2行《メクリマス》天下(ヲ)1。いまのをつゝは、今のうつゝにて、現にといふ心なり。たふときろかもは、ろは助語にて、貴哉なり。仁徳紀に、皇后磐之媛御哥に、衣こそふたへもよき、さゆとこ《・夜牀》をならへ《・將並》むきみはかしこ《・懼》きろ《助》かも。同しやうの助語なり
 
814 阿米都知能等母爾比佐斯久伊比都夏等許能久斯美多麻志可志家良斯母《アメツチノトモニヒサシクイヒツケトコノクシミタマシカシケラシモ》
 
一二の句のつゞきは天地の共に久しき如くと云と、天地と共にと云との意替るべけれど往ては同じ事なり、シカシケラシモはしきたまひけらしなり、しく〔二字右○〕は布置なり、
 
初、あめつちのともに しかしけらしもは、敷けらしもなり。天地と共に久しく世にかたりつたへよとの御心にて、此神異なる石を、こゝにしきをかせたまひけんなり。右憶艮の哥なり
 
右事傳言那珂郡伊知郷蓑島人建部牛麻呂是也
 
これは當時來世の人の疑をさらむがために現證をしるしおかるゝなり、末に至て家持の記せられたる注に此例多し、上にも有き、
 
梅花歌三十二首并序、
 
別校本(ニハ)上(ニ)有d宴2太宰帥大伴卿宅1〔八字右○〕之八字u、疑(ラクハ)後人例(シテ)2近世(ノ)端作(ノ)法(ニ)1加v之歟、此序未v詳2誰之(47)作1、
 
初、梅花歌三十二首井序 并は兼并なり。後の哥の題をこゝにかねあはするゆへに、并と注す。ならひに序と讀は江家、序あはせたりと讀は菅家なりとかや。哥は下に面々名あり。此序は憶良の作なるへし
 
天平二年正月十三日、萃2于帥老之宅1、申2宴會1也、于v時初春令月、氣淑風和、梅披2鏡前之粉1、蘭薫2珮後之香1、加以曙嶺移v雲、松掛v羅勿傾v蓋、夕岫結v霧、鳥對v※[穀の左の禾が米+炎]而迷v林、庭舞2新蝶1、空歸2故鴈1、於v是盖v天坐v地、促v膝飛v觴、忘2言一室之裏1、開2衿煙霞之外1、淡然自放、快然自足、若非2翰苑1、何以※[手偏+慮]v情、請紀2落梅之篇1、古今夫何異矣、宜d賦2園梅1、聊成c短詠u、
 
此序發端は義之が蘭亭記に、永和九年歳在2癸丑1暮春之初、會2于會稽(ノ)山陰(ノ)蘭亭(ニ)1※[修の人偏が示2禊事(ヲ)1也とかけるに效へる歟、篇中に彼記の詞も見えたり、萃は孟子云、出2於其類(ヲ)拔2于其萃(ヲ)1、注曰、萃(ハ)聚(ナリ)也、帥は帥に改むべし、于時初春令月、氣淑風和〔十字右○〕(ハ)、張衡歸田賦云、仲春令月、時和氣清、蘭亭記云、是日也天朗氣清、惠風和暢、杜審言詩云、淑氣催2黄鳥1、梅披2鏡前之粉1〔六字右○〕、宋武帝女壽陽公主人日臥2含章簷(ノ)下(ニ)1、梅花落(チ)2公主額(ノ)上(ニ)1成(ス)2五出(ノ)之花(ヲ)1、拂(ヘトモ)v之不v去(ラ)、自v是後有2梅花(48)粧1、蘭薫2珮後之香1、【未2考得1】加以曙嶺移v雲、松掛v羅勿傾v蓋〔加以〜右○〕【而、誤作v勿、官本改、】羅〔右○〕者、輕雲猶2羅衣1也、傾蓋〔二字右○〕隋煬帝老松詩云、獨留2塵尾(ノ)影(ヲ)1、猶横2偃葢(ノ)陰(ヲ)1、夕岫結v霧〔四字右○〕、陸詞云、岫(ハ)山(ノ)穴(アテ)似(タリ)v袖(ニ)、鳥對v※[穀の左の禾が米+炎]而迷v林〔六字右○〕【※[穀の左の禾が米+炎]、當2改作1v穀、】和名集云、釋名云穀、【胡客反、和名、古女、】其形※[糸+戚]々、視v之如v粟也、唐韻云、※[糸+戚]、【子六反、與v叔同、此間云、之々良岐、】※[糸+曾]文貌也、相如子虚賦曰、於v是鄭女曼姫雜繊垂2霧穀1、郭璞曰、言細如v霧、垂以覆v頭、宋王神女賦曰、動2霧穀1以徐歩兮、盖v天坐v地〔四字右○〕、【坐、恐是座、】淮南子云、以v天爲v蓋、以v地爲v輿、文選劉伶酒徳頌云、幕v天(ヲ)席《シキヰマス》v地(ヲ)、促v膝飛v觴〔四字右○〕、梁陸〓贈2京邑僚友1詩云、促v膝豈異(ナランヤ)v人、戚々皆|姻《イン》※[女+亞]、呂尚(カ)文題注曰、促(ハ)近v膝(ヲ)坐(スルナリ)也、張衡西京賦云、羽觴行(リテ)而無v算、善曰、漢書音義(ニ)曰、羽觴(ハ)作(ルナリ)2生爵(ノ)形(ヲ)1、良(カ)曰、杯上(ニ)綴(テ)v羽(ヲ)以速(ニ)飲(ナリ)也、應休※[王+連]與2滿公※[王+炎](ニ)1書(ニ)云、繁俎板綺(ノゴトクニ)錯(テ)、羽爵飛騰(ス)、忌2言一室之裏1〔六字右○〕、【忌、官本改作v忘當v從、】莊子曰、言者所2以在1v意、得(テ)v意而忘v言(ヲ)、淵明詩云、此間(ニ)有2眞意1、欲v辨(セント)已(ニ)忘v言(ヲ)、開2衿〔二字右○〕、文選宋玉風賦云、有v風颯然(トシテ)而至、王乃披(テ)v襟《コロモクヒヲ》而當(テ)v之(ニ)曰、快哉此風、爾雅云、衿交領與v襟同(シ)、蘭亭(ノ)記曰、或取(テ)2諸懷抱(ニ)1、悟2言(シ)一室之内1、或因2寄(テ)所1v託、放2浪(ス)形骸(ノ)之外(ニ)1、雖2趣舍萬殊(ニシテ)靜躁不(ト)1v同(カラ)、當(テハ)3其(ノ)欣2於所(ヲ)1v遇、暫得(テ)2於己(ニ)1快然自足(テ)、曾(テ)不v知2老(ノ)之|將《・スルコトヲ》1v至(ラント)、若非(ンハ)2輸苑1〔四字右○〕、【官本、輸改作v輪、當v從v此】李善羽獵賦注韋昭曰、翰、筆也、翰林、文翰之多v苦林也、今謂v苑義亦准v此、何(ヲ)以(カ)※[手偏+慮]v情、【博雅曰、※[手偏+慮]、舒也、】請紀落梅之篇【官本、請改作v詩、今按詩(ハ)指2標有梅篇1邪、彼惜2標墜1者實也、雖v然花實雖v異其愛不v異、故指乎、又案三体詩李商隱句云、莫d向2樽前1奏c花落u、天隱註曰、古樂府有2梅華落曲1、其詞云、忿爾零落逐v風※[風+火三つ]、徒有2霜華1無2霜實1、或指2此古樂府1邪、紀亦當v作v記邪、】短詠【此下對長歌1可v稱2短歌1之證也、】
 
初、天平十二年――會也 帥作師誤。これは義之か蘭亭記の開端に、永和九年歳在2癸丑1、暮春之初會(ス)2于會稽(ノ)山陰(ノ)之蘭亭(ニ)1。脩(セントセリ)2禊事(ヲ)1也。この筆法にならへりとみゆ。萃(ハ)孟子曰。出2於其類1拔2于其萃1。注曰萃(ハ)聚也。于時初春令月氣淑風和(ハ)、張衡(カ)歸田(ノ)賦曰。仲春令月時和氣清。杜審言(カ)詩、淑氣催2黄鳥(ヲ)1。鏡前之粉(ハ)、宋武帝女壽陽公主人日臥2含章簷下1。梅花落(テ)2公主(ノ)額(ノ)上(ニ)1成(ス)2五出(ノ)之花(ヲ)1。拂(ヘトモ)v之(ヲ)不v去。自v是後有2梅花粧1。珮後之香。松掛v羅而【作勿誤】傾蓋、隋(ノ)煬帝(ノ)老松詩(ニ)獨留2塵尾(ノ)影(ヲ)1猶横(タフ)2偃蓋(ノ)陰(ヲ)1。夕岫(ハ)陸詞云。岫(ハ)山(ニ)穴(アテ)似(タリ)v袖(ニ)。結霧鳥對v〓【〓誤作〓】而迷v林(ニ)。和名集云。釋名云。〓【胡谷反。和名古女】其形〓々(トシテ)視(ルニ)v之如v粟也。唐韻云。〓【子六反。與v叔同。此間云之々良岐】〓文貌也。宋玉神女賦曰。動2霧〓1以徐歩兮拂(テ)v※[土+穉の旁]《ニハヲ》聲之〓々(タルアリ)。相如(カ)子虚賦曰。於v是鄭女曼姫被2阿|〓錫(セキヲ)1〓《ヒキ》2紵縞(ヲ)1雜(ヘテ)2繊羅(ヲ)1垂(タリ)2霧〓(ヲ)1。郭璞(カ)曰。言(コヽロハ)細(コト)如(ナルヲ)v霧之垂(テ)以覆(フナリ)v頭(ヲ)。范蔚京宦者傳論曰。南金和寶冰?霧〓之積盈仞珍藏。蓋(トシ)v天(ヲ)坐(トシ)v地(ヲ)。【坐恐是座。】文選劉伶(カ)酒徳(ノ)頌云。幕《キヌヤニシテ》v天(ヲ)席《シキヰニス》v地(ヲ)。促《チカツケ》v膝(ヲ)飛(ス)v觴(ヲ)。梁(ノ)陸〓(カ)贈(ル)2京邑(ノ)僚友(ニ)1詩云。促v膝(ヲ)豈2異人(ナランヤ)1、戚々皆|姻《※[女+亞]《インア》。呂尚(カ)文題註(ニ)曰。促(ハ)近(ツケテ)v膝(ヲ)坐(スルナリ)也。張衡西京賦曰。羽觴行(リテ)而無v算。善曰。漢書音義曰。羽觴(ハ)作(ルナリ)2生爵(ノ)形(ヲ)1。良(カ)曰、杯(ノ)上(ニ)綴(テ)v羽(ヲ)以速(ニ)飲也。應休※[王+連](カ)與(ヘシ)2滿公※[王+炎](ニ)1書(ニ)云。繁俎|綺錯(マクハタノコトクマシハテ)羽爵飛騰(ス)。忘【誤作忌】言(ヲ)一室之裏、開襟(ヲ)煙霞(ノ)之外(ニ)、淡然自放快然自足。莊子曰。言者所2以(ナリ)在(ル)1v意(ニ)、得(テ)v意(ヲ)而忘v言(ヲ)。陶淵明(カ)詩、此間有2眞意1、欲v辨已忘v言。蘭亭記曰。或取(テ)2諸懷抱(ニ)1語2言(シ)一室之内(ニ)1、或因2寄所1v託、放2浪形骸之外(ニ)1、雖2趣舍萬殊(ニシテ)靜躁不(ト)1v同(カラ)、當(テハ)3其(ノ)欣(フニ)2於所(ヲ)1v遇(フ)、暫得(テ)2於己(ニ)1快然(トシテ)自足(テ)曾(テ)不v知2老(ノ)之|將(ニ)《・スルコトヲ》1v至(ラント)。翰苑【翰誤作v輪。】請紀【疑記】落梅之篇。古樂府云。念(フ)爾(カ)零落(シテ)逐2風〓(ヲ)1、徒(ニ)有(テ)2霜華(ノミ)1無2霜實1
 
(49)815 武都紀多知波流能吉多良婆可久斯許曾烏梅乎乎利都都多努之岐乎倍米《ムツキタチハルノキタラハカクシコソウメヲヲリツヽタノシキヲヘメ》大貳紀卿
 
初の二句はこれより年毎にと云意なり、カクシコソのし〔右○〕は助語にてかくこそなり、落句は樂きを經めにて樂しき月日を經むとなり、古今に、新しき年の初にかくしこそ、千歳を兼て樂きをつめ、此も今の歌の落句と同じかりけむを、假名のへ〔右○〕の字とつ〔右○〕の字の似たるを書まがへたるなるべし、下の野氏、宿奈麻呂が歌も今の歌に似たり、此作者未v詳、
 
初、むつきたち春の來たらは かくしこそのしは助語にて、かくこそなり。初の二句は向後をいふなり。古今集大哥所御哥に、あたらしき年のはしめにかくしこそ千年をかねてたのしきをつめといふ哥も、此哥の結句のことく、たのしきをへめにて侍りけむを、かんなにかく時、つめへめやゝもせはまかひぬへく、殊に昔の上手のかけるは、手のきゝて、猶なたらかにあれは、へめとかけるを見まかへて、つめとなして侍けむとおしはからる。天台宗の明曠法師の、梵網經の疏に、初に草書に再寫すへからさるよしを注せられたるも、草書は猶魯魚の混おほきゆへなり
 
816 烏梅能波奈伊麻佐家留期等知利須蒙受和我覇能曾能爾阿利己世奴加毛《ウメノハナイマサケルコトチリスキスワカヘノソノニチリコセヌカモ》【少貳小野大夫】
 
知利須蒙受、【刊本、蒙作v義、】
 
古き人のかける物に、義を〓に作り我を〓に作れる和本あれば、今蒙の字に似たるは義を〓に作れるが三寫を經てかゝるにや、官本に依るべし、今咲ルゴトはいつま(50)でも今の如にてなり、有コセヌカ、毛は不有越かもにてさて有て過ぬか、有て月日を過越よと願ふ意なり、此作者は老朝臣なり、
 
初、今さけるごとは、今咲たることく其のまゝなり。蒙は義の誤なり。他書の古本に、義を〓とかけるを見き。それを見まかへて、蒙にはつくれるなめり。わがへは我家なり。いへを上畧せるなり。わきへの花とよめるは、我伊(ノ)反疑なれは、つゝめていへるなり。有こせぬかも、有越ぬか、有越よかしなり。そのまゝにて有て過よの心なり。少式小野大夫は、第三に太宰少貳小野|老《オユ》朝臣と有し人なり。極官は太宰大貳從四位下なり。第三に注しき
 
817 烏梅能波奈佐吉多流僧能能阿遠也疑波可豆良爾須倍久奈利爾家良受夜《ウメノハナサキタルソノノアヲヤキハカツラニスヘクナリニケラスヤ》【小貳粟田大夫】
 
梅と柳とを交へて鬘にすべく成にけるにあらずや、いざおの/\折て鬘にせむとなり、此作者未v詳、
 
818 波流佐禮婆麻豆佐久耶登能烏梅能波奈比等利美都都夜波流比久良佐武《ハルサレハマツサクヤトノウメハナヒトリミツヽヤハルヒクラサム》【筑前守山上大夫】
 
第八にも梅を先咲花とよみ、古今にも、春されば野べに先咲見れどあかぬ花、春來れば宿に先咲梅の花などよめり、下の句は殊にめづらしき折なれば獨のみ見てやはちらすべき、思ふどち寄合てこそみめなり、此歌家持集と云物に載たり、
 
初、はるされはまつさくやとの 古今集に貫之、春くれは宿にまつさく梅の花。旋頭哥に、春されはのへに先さくみれとあかぬ花。此集第八依v梅發v思哥、今のこと心を常におもへらは先咲花のつちにをちめやも。此哥は憶良
 
819 余能奈可波古飛斯宜志惠夜加久之阿良婆烏梅能波奈爾(51)爾母奈良麻之勿能怨《ヨノナカハコヒシキシヱヤカクシアラハウメノハナニモナラマシモノヲ》【豐後守大佯大夫】
 
第二の句の宜は吉と計との濁音に用れば今は計の濁音に上四字下三字に讀べし、戀|繁《シケ》は男女の中のみならず物思ふ事の多かるを云べし、シヱヤは第四にも云如くよしゑやしの略にてよしやなり、カクシアラバのし〔右○〕は助語なり、梅の花にもならばやと云意は、心もなければ物も思はず、又我は問人もなければ戀しきことも多かるを、あまたの人目をかれず又人の心をなぐさむる用もあれば成らばやと云なるべし、此作者は第四に云如く三依なるべし、大佯、官本佯を伴に改たむ、云に及ばぬほどの事なれど證さへあればいよ/\改むべし、
 
初、よのなかはこひし宜《キ》志惠夜 此第二の句に、三の讀やう有。一には、今の本のまゝならは、こひしきと四もしにて切て、しゑやとよむへし。しゑやはよしやといふ心なり。されとも、宜は濁音の字なれは、こひ敷といふ時は、先は用ゆましき上に、世の中はこひしきといひてきる時、ことはりおちゐす。しかれは、これはあやまれる點なり。二にはこひしけしと、五字にて切て、ゑやとよむへし。宜を下の呉音とおなしくよむは、此卷下にいたりて、ならの都にめさげたまはねといふ哥に、※[口+羊]佐宜とかけり。心はそこに注すへし。ゑやはよしやなり。第十八に、こふといふはゑもなつけたりとよめるは、よくもなつけたりといふことなり。日吉をひえとよみ、住吉をすみのえとよむ、これにおなし。よしやといふと、善惡吉凶のよしといふと、すこしかはるへけれとも、ゆきてはひとつなり。三には、こひしげと四もしにて切て、しゑやとよむへし。此ふたつの間、このむにまかすへし。梅の花にならはやの心は、人の心をつけて、めもかれすみれはなり。こひつゝあらすはとよめる哥に、前後此意おほし。作者大伴大夫は、第四卷に、大伴宿神三依悲v別哥に、天地とゝもにひさしくすまはむとおもひて有し家の庭はもとよめるは、大件卿歸洛の時の哥なれは、此人なるへし
 
820 烏梅能波奈伊麻佐可利奈理意母布度知加射之爾斯弖奈伊麻佐可利奈理《ウメノハナイマサカリナリオモフトチカサシニシテナイマサカリナリ》【筑後守葛井大夫】
 
オモフドチは第十に念共とかけり、心の叶ひたる友なり、カザシニシテナは挿頭にしてむななり、此作者も第四に見えたる大成なり、
 
初、おもふとちは、此集に思共とかけり。思ふ友たちなり。筑後守葛井大夫は大成なり。第四卷に見えたり
 
(52)821阿乎夜奈義烏梅等能波奈乎遠理可射之能彌弖能能知波知利奴得母與斯《アヲヤナキウメトノハナヲヲリカサシノミテノノチハチリヌトモヨシ》【笠沙彌】
 
アヲヤナギは後はあをやぎとのみよみなれてめづらしく聞ゆる詞なり、思ふとち寄合て酒宴せぬさきに散なば本意なき事なるべきを、かく心の行まで翫ての後は散ぬともよしとなり、ヨシとはわづかにゆるす意なり、第八に坂上郎女が歌に、下句今と同じくて意も似たる歌あり、
 
822 和何則能爾宇米能波奈知流比佐可多能阿米欲里由吉能那何列久流加母《ワカソノニウメノハナチルヒサカタノアメヨリユキノナカレクルカモ》【主人】
 
此集には雪をも花の散をも流るとよめり、第八第十等にあり、以上八首の作者、此集會にての貴人なれば名を云はず、
 
823 烏梅能波奈知良久波伊豆久志可須我爾許能紀能夜麻爾由企波布理都々《ウメノハナチラクハイツクシカスカニコノキノヤマニユキハフリツヽ》【大監大伴氏百代】
 
(53)コノキノ山は此城の山なり、第四に城山の道とよめる是なり、第八第十に大城の山とよめるも同じ、此歌は古今に春霞たてるやいづことよめるに語勢相似たる歌なり、
 
初、うめの花ちらくは 古今集、春霞たてるやいつこといふ哥に似たり。このきの山は、此城山なり。第四に今よりは城山の道はさひしけんとある哥に注せしかことし。八雲御抄には、このきの山と載させたまへり。筑前なり
 
824 烏梅乃波奈知良麻久怨之美和家曾乃乃多氣乃波也之爾于具比須奈久母《ウメノハナチラマクヲシミワカソノノタケノハヤシニウクヒスナクモ》【少監阿氏奧島】
 
和家、【官本家作v我、】
 
家の字は上に云如く我を〓に作れる本より轉じて家と成たるべし、官本に依らば昔にかへりてむ、
 
825 烏梅能波奈佐岐多流曾能能阿乎夜疑遠加豆良爾志都都阿素※[田+比]久良佐奈《ウメノハナサキタルソノノアヲヤキヲカツラニシツヽアソヒクラサナ》【少監土氏百村】
 
曾能能、【或本作2曾乃乃1、】  阿乎夜疑遠、【或本乎作v遠、】
 
落句は遊びくらさむななり、
 
(54)826 有知奈※[田+比]久波流能也奈宜等和家夜度能烏梅能波奈等遠
伊可爾可和可武《ウチナヒクハルノヤナキトワカヤトノウメノハナトヲイカニカワカム》【大典史大原】
 
和家、【官本家作v我、】
 
ウチナビクは本春の枕詞なり、上に云が如し、さるをかうつゞけたるは柳のなびくを兼てなるべし、落句は何れまさり何れおとるといかにしてか思ひわかんとなり、唯同じやうに感る意なり、第十に白露と秋の芽子とはゆひみだれ、わくことかたき我心かも、此意に同じ、
 
初、うちなひく春のやなきと うちなひく春とつゝくは、をしなへてくる春の日の恩光をいへり。いかにかわかむとは、梅と柳と、いつれまさりおとりとも、えわかぬなり
 
827 波流佐禮婆許奴禮我久利弖宇具比須曾奈岐弖伊奴奈流鳥梅我志豆延爾《ハルサレハコヌレカクリテウクヒスソナキテイヌナルウメカシツエニ》【少典史大原山氏若麻呂】
 
コヌレは木のうれなり、能宇反奴なれば約めてこぬれ〔三字右○〕とよめり、集中あまたよめる詞なり、うれ〔二字右○〕はうら〔二字右○〕と云に同じく末の字をよめり、カクリテはかくれてなり、是も古語なり、顯宗紀に置目と云老女の故郷へ皈るに賜へる御歌にも、置目もよ近江のお(55)きめ明日よりは、みやまがくりて見えずかもあらむとよませ給へり、鳴テイヌナルは鳴て行なるなり、
 
初、春されは 此春されはといふ詞は、春くれはといふ事なり。第十に、初の五もしにおほくよめる哥有には、春去者、春之去者とかけり。又風ませに雪はふりつゝしかすかに霞たな引春去にけり。これも第十に有を、新古今集には、春はきにけりとあらためて載らる。春さりにけりは、すなはち春はきにけりといふ事なり。春されはもすの草くき見えすともといふ哥に、春之在者とかけり。これも春之去者にて有けるが、去と在と字の似たるにあやまられて、在にはなされたるも知へからす。その外は、皆春去者、春之去者とかけれは、おほきにつきて、春くれはと心得へし。さきの憶良の哥にも、此哥にもともに波流佐禮婆とかけり。婆の字は本性にこりてよむ字なれは、さもしをすみて、はの字をば、にこりてよめること知へし。秋されは、ゆふされは、みな此定なりけるを、今は  顛倒してよめり。されとも、心をは得なから、時にしたかふへし。顯注密勘に、定家卿、ゆふされは螢よりけにもゆれともといふ哥につきて、此はるされはをも、春之在者とかきたるに付へし。春にしあれはなり。去とよまは、夏こそ、はるさればとよみ侍らめ。かくれなき事なり。ゆふされはこれにおなしと、密勘をくはへたまへり。まことに、去來は相違の詞なれとも、怛他掲多《タタギヤタ》《・如来去》といふ梵語を、如來とも如去とも譯し、禮記の月令に、孟春之月鴻雁來とあるを、かへるとよめは、再往の心あるへし。春されはゝ、春にしあれはとも申へし。凰ませに雪はふりつゝといふ哥の、春さりにけりは、いかゝ心得へき。先達をは、うやまひて、大かたそむくましき事なれと、又かむかへ残し、おもひのこされたる事も、なとかなくて侍らん、建保年中の哥合に、みかくれてといふ詞は、水によせすはよむましきよしの沙汰有ける時、定家、家隆の兩卿、俊頼朝臣の、玉くしのはにみかくれてとよまれたる哥を引て、證し申されけれとも、八雲御抄には、猶うけぬことにのたまへり。顯注密勘にもしかり。俊頼は、まことに天性器量あるにまかせて、おしてもよまれけむを、六帖に
  月影にみかくれにけりあかほしのあかぬあまりに出てくやしく
此哥をは、後まてかんかへたまへる人なかりけるなり。こぬれかくりては、このうれかくれてなり。うれは、末の字を此集によめり。萩のうらはなといふ、うらもおなし。木のうれを能宇(ノ)切奴なれは、つゝめてこぬれといひ、かくりは、かくれのれとりと、音通すれは、こぬれかくりてといへり。しつえは下えたなり。神代紀に、すなはち下枝とかきて、しつえとよめり。作者山氏若麻呂は、第四卷廿七葉、山口忌寸若麻呂とて、哥有し人なり
 
828 比等期等爾乎理加射之都都阿蘇倍等母伊夜米豆良之岐烏梅能波奈加母《ヒトコトニヲリカサシツツアソヘトモイヤメツラシキウメノハナカモ》【大判事舟氏麻呂】
 
大判事は太宰職員令云、大判事一人云云、少判事一人、掌同(シ)2大判事(ニ)1、
 
初、大判事 令義解太宰府職員令云。大判事一人。掌(トル)d案2覆(シ)犯状(ヲ)1、【謂案2覆(スルナリ)管國(ノ)所(ノ)v申(ス)犯状(ヲ)1也。】斷(リ)2定(メ)刑名(ヲ)1、判(スルコトヲ)c諸(ノ)爭訟(ヲ)u。少判事一人、掌(ルコト)同(シ)2大判事(ニ)1
 
829 烏梅能波奈佐企弖知理奈婆久良婆那都伎弖佐久倍久奈利爾弖阿良受也《ウメノハナサキテチリナハクラハナツキテサクヘクナリニテアラスヤ》【藥師張氏福子】
 
久良婆那、【官本久上有v佐、今本脱v此、】
 
ナリニテのに〔右○〕は助語なり、第十に、鶯の木傳ふ梅の移ろへば、櫻の花の時かたまけぬとよめるに意同じ、宰府職員令云、藥師二人、掌(トル)2診候療(スルコトヲ)1v病、
 
初、うめの花咲て散なはさくらはな さくらのさもしおちたり。佐の字なるへし。藥師、職員令云。醫師二人。掌(トル)2診候(シテ)療(スルコトヲ)1v病(ヲ)
 
830 萬世爾得之波岐布得母烏梅能婆奈多由流巳等奈久佐吉(56)和多流倍子《ヨロツヨニトシハキフトモウメノハナタユルコトナクサキサキワタルヘシ》【筑前介佐氏子首】
 
婆奈、【幽齋本、婆作v波、宜2從v此改1、】
 
此三十二首皆字の有數《アリカズ》に任てかけるを、此發句のみ眞名にかゝれたり、二の句は年者雖2來經1《トシハキフトモ》なり、古事記に宮簀《ミヤス》姫の日本武尊にかへし給ふ歌にも、阿良多麻能登斯|賀《ガ》岐布禮婆、阿良多麻能都紀婆岐閉由久とよみ給へり、此卷下に憶良の歌にも亦第十二にも來經とよめり、作者の名は、こかうべ〔四字右○〕なるべし、日本紀にも別人に此名あり、
 
初、萬世にとしはきふとも 年はきたり經るともなり。三十二首なから、みなもしの有數にかけるを、此萬世の萬の字のみ、いかて三字のかなをあはせてかけりけむ
 
831 波流奈例婆宇倍母佐枳多流烏梅能波奈岐美乎於母布得用伊母禰奈久爾《ハルナレハウヘモサキタルウメノハナキミヲオモフトヨイモネナクニ》【壹岐守板氏安麻呂】
 
發句は春にあればを爾阿反奈なる故につゞめて云へり、春に成ればと云にはあらず、ウペモは諸の字なり、心にうけがふ詞なればげにもと同じ意なり、君とは梅をさせり、王子猷が竹を指て一日不v可v無2此君1と云へる如し、ヨイモネナクニは能宿《ヨイ》も不寢《ネナク》になり、よい〔二字右○〕は第八の七夕長歌にもよめり、此歌の心は、春になればげにもことわりに咲たる梅の花かな、時の至らぬ程は待わぶる心から夜をも能はねざりしにと(57)なり、今や咲と心いられして夜さへ出て見る心あるべきか、
 
初、よいもねなくに 夜|寢《イ》もねなくになり。此哥やすきやうにてこゝろえかたし。春になれは、ことはりにもさけるかな。君を待おもふと待わひて、夜もいねさりしかども、時ならぬほとは、さらさりしをといへるなり。君とは梅をさしていへり。王徽之か、竹を愛して、一日(モ)不v可(ラ)v無(ハアル)2此君1といひ、李白か、蛾眉山(ノ)歌に、月のことを、念(ヘトモ)v君不v見不(ル)2楡州(ニ)1といへる類なり
 
832 烏梅能波奈乎利弖加射世留母呂比得波家布能阿比太波多努斯久阿流倍斯《ウメノハナヲリテカサセルモロヒトハケフノアヒタハタノシクアルヘシ》【神司荒氏稻布】
 
職員令云、主神一人、掌2諸(ノ)祭詞事1、
 
初、神司 職員令云。主神一人。掌(トル)2諸(ノ)祭詞(ノ)事(ヲ)1【大宰府】
 
833 得志能波爾波流能伎多良婆可久斯己曾烏梅乎加射之弖多努志久能麻米《トシノハニハルノキタラハカクシコソウメヲカサシテタノシクノマメ》【大令史野氏宿奈麻呂】
 
トシノハは第十九にかくよみて注(ニ)云、毎年謂2之(ヲ)等之乃波1とあり、カクシコソのし〔右○〕は助語なり、此歌の事最|初《ソ》の歌に引て云ひしが如し、大令史は職員令云、大令史一人、掌3抄2寫(スルコトヲ)判文1、少令史一人、掌同(シ)2大令史(ニ)1、
 
初、としのはに 第十九家持の哥に、としのはとよみて、注云毎年謂2之(ヲ)等之乃波《トシノハト》1。その哥に、毎年とかけるゆへなり。大令史(ハ)、太宰府職員令云。太令史一人。掌(トル)3抄2寫(スルコトヲ)判文(ヲ)1。小令史一人。掌(コト)同(シ)2大令史(ニ)1
 
834 烏梅能波奈伊麻佐加利奈利毛毛等利能己惠能古保志枳波流岐多流良斯《ウメノハナイマサカリナリモヽトリノコヱノコホシキハルキタルラシ》【少令史田氏肥人】
 
(58)モヽトリは百鳥なり、春はあまたの鳥の鳴を百鳥とも百千鳥ともよめり、後に至てあまたよめり、コホシキはほ〔右○〕とひ〔右○〕と音通じて戀しきなり、齊明紀に天皇崩じ給ひて後天智天皇いまだ太子にて歎たまへる御歌にも、君が目のこほしきからにとよませたまへり、作者の名肥人はうまひと〔四字右○〕と讀べし、
 
初、梅の花いまさかりなり もゝ鳥は百鳥なり。聲のこほしきは、こひしきなり。齊明紀に、天皇筑紫にて崩御のゝち、天智天皇、いまた太子にて、よませたまひける御哥に、きみかめのこ《・戀しき也》ほしきからにさ《・立テナリタトナト同韻ナリ》ちてゐてかくやこ《こひしけんなりこひしからんの心なり》ひけむ。君かめをほり。此御哥のこ《・君をみまくほりなり》ほしきもこひしきなり。比と保と五音通せり。さちてゐては、立てゐてなり。多と佐と同韻相通なり。こひけんはこひしけむなり。昔のこひしけむといふやうなるは、こひしからんの心なり。君かめをほりは、君かみかほをみまくほりてなり。かほの中にも、目はたかひにまつ見るものなれはなり。作者の名、肥人はうま人とよむへし。第十一に、うま人のひたいかみゆへるそめゆふのとよめる哥に、肥人とかけり
 
835 波流佐良婆阿波武等母比之烏梅能波奈家布能阿素※[田+比]爾阿比美都流可母《ハルサラハアハムトモヒシウメノハナケフノアソヒニアヒミツルカモ》【藥師高氏義通】
 
發句は春來らばの意なり、モヒシは思ひしの上略なり、
 
初、はるさらはあはむともひし あはむとおもひしなり。おもひを没上して、もひしとはいふなり。上のあはむとのともしは、をのひゝきあれは、かりて用ともいふへし。梵語に其法あり
 
836 烏梅能波奈多乎利加射志弖阿蘇倍等母阿岐太良奴比波家布爾志阿利家利《ウメノハナタヲリカサシテアソヘトモアキタラヌヒハケフニシアリケリ》【陰陽師礒氏法麻呂】
 
今日ニシのし〔右○〕は助語なり、陰陽師は職員令云、陰陽師一人掌(トル)2占筮(ト)相地(トヲ)1、
 
初、陰陽師 大宰府職員令云。陰陽師一人。掌(トル)2占筮(シテ)相(スルコトヲ)1v地
 
837 波流能努爾奈久夜汗隅比須奈都氣牟得和何弊能會能爾(59)※[さんずい+于]米何波奈佐久《ハルノノニナクヤウクヒスナツケムトワカヘノソノニウメカハナサク》【竿師志氏大道】
 
ワガヘは我家の上略なり、竿師、竿は※[竹/卞]を誤れり、職員令云、※[竹/卞]師一人、掌2勘(カヘ)2計(フルコトヲ)物數(ヲ)1、此歌家特家集に載たり、
 
初、※[竹/卞]【誤作竿】師 令云。※[竹/卞]師一人。掌(トル)3勘(ヘ)2計(ルコトヲ)物(ノ)數(ヲ)1
 
838 烏梅能波奈知利麻我比多流乎加肥爾波宇具比須奈久母波流加多麻氣弖《ウメノハナチリマカヒタルヲカヒニハウクヒスナクモハルカタマケテ》【大隅目榎氏鉢麻呂】
 
ヲカビは岡邊なり、※[(貝+貝)/鳥]鳴毛のも〔右○〕は、助語なり、かも〔二字右○〕など云も〔右○〕も助語なれど餘りに多くて常なれば中々いはず、カタマケテは第二に、毛衣を春冬かたまけてと云に既に注しつ、
 
初、梅の花散まかひたる まかふは、繽紛ともかき、亂の字をもよめり。をかひはをかへなり。ひとへとは五音通せり。春かたまけては、片は半の心あり。女なとの、またわらはにて、よくもなりたゝぬほとを、かたおひ、かたなりなといふ時の片なり。又片言なといふ類なり。まけはまふけなり。また初春なれは、十分には春を得ぬゆへに、かたまけてといへり。片の字一向に心なしといふへからす
 
839 波流能能爾紀利多知和多利布流由岐等比得能美流麻提烏梅能波奈知流《ハルノノニキリタチワタリフルユキトヒトノミルマテウメノハナチル》【筑前目田氏眞人】
 
能爾、【官本、能改作v努、】
 
霧の立て雪のふれば、第十にも天霧相ふり來る雪などよめり、作者眞人を官本には(60)人を改て上に作れり、
 
840 波流楊奈那宜可豆良爾乎利志烏梅能波奈多禮可有倍志佐加豆岐能倍爾《ハルヤナキカツラニヲリシウメノハナタレカウヘシサカツキノヘニ》【壹岐目村氏彼方】
 
揚奈那宜、【官本滅v奈、】  有倍志、【官本、有下有v可、】
 
ハルヤナギは第十三にさし柳ねはる梓とも、第十四に青柳のはれる川べともよみたれど、是は目のはる柳と云にはあらで春楊なり、第十一にも、春楊葛木山とつゞけたり、下の句は鬘の影の盃にうつるを盃の上に誰が殖たるぞと云ひなすなり、下の追和梅歌にも酒に泛べこそとよみ、第八にも盃に梅の花うけてとよめり、第七に、春日なる三笠の山に月の舟いづ、たはれをの飲盃に影に見えつゝ、此歌も意似たり、作者の名、彼方は、加奈多か乎知可太か、乎知可太なるべきにや、
 
初、はるやなきかつらにをりし たれかの下に、波の字の落たるなるへし。さかつきのへには、盃の上になり。梅柳の、盃に影のうつるをいへり。後追和梅哥の第四首に、うめの花いめにかたらくみやひたる花とあれもふ酒にうかへこそ。第七巻に、春日なる三笠の山に月の舟出、たはれをののむ盃にかけに見えつゝ。第八、盃に梅の花うけておもふとちのみての後はちりぬともよし。これらを引合てみるへし。作者の名、彼方はをちかたなり。やなきに一の那あまれり
 
841 于遇比須能於登企久奈倍爾烏梅能波奈和企弊能曾能爾佐岐弖知留美由《ウクヒスノオトキクナヘニウメノハナワキヘノソノニサキテチルミユ》【對馬目高氏老】
 
(61)於登、【官本、オト、】
 
今の世の習、こゑ〔二字右○〕は有情に云ひて非情にも通じ、おと〔二字右○〕は非情にのみ云ひならへり、歌によむも此定にいつとなくなれるを、是は※[(貝+貝)/鳥]の聲と云べきを音《オト》とよめり、第四に阿都年足が歌の三四の句に、鳴鳥之音夏可思吉とよめるはコヱと點じたれど作者はオトと讀たらむも知べからず、ナヘニはからに〔三字右○〕と云詞と常に云ひてさもきこえしも、並の字になして共にと意得べきにや、風のむだなど云むだ〔二字右○〕の詞も共の字を書たれば通ふべし、ワギヘは第四に云如く我家なり、
 
初、うくひすのおときく 鶯の聲きくなり。今は物によりて、おとゝいひ、聲といふことの、かはり來れり。わきへはわか家なり。作者の名海人はあまなり
 
842 和家夜度能烏梅能之豆延爾阿蘇※[田+比]都都宇具比須奈久毛 知良麻久乎之美《ワカヤトノウメノシツエニアソヒツツウクヒスナクモチラマクヲシミ》【蒔摩目高氏海人】
 
和家、【校本、或る家作v我、】
 
843 宇梅能波奈乎理加射之都都毛呂比登能阿蘇夫遠美禮婆彌夜古之叙毛布《ウメノハナヲリカサシツツモロヒトノアソフヲミレハミヤコシソモフ》【土師氏御通】
 
(62)落句は都ぞ思ふなり、し〔右○〕は助語、モフは上略なり、
 
初、都しそもふは、都しそおもふなり。御通はみゆきなり。第四に、水通とありし人なり
 
844 伊母我陛邇由岐可母不流登彌流麻提爾許許陀母麻我不烏梅能波奈可毛《イモカヘニユキカモフルトミルマテニココタモマカフウメノハナカモ》【小野氏國堅】
 
マガフは散まがふなり、亂の字をもよみ、繽紛をもマガフとよめり、
 
初、いもかへには、妹か家になり。又あたりをへともいへは、それにも有へし
 
845 宇具比須能麻知迦弖爾勢斯宇米我波奈知良須阿利許曾意母布故我多米《ウクヒスノマチカテニセシウメノハナチラスアリコソオモフコカタメ》【筑前椽門氏石足】
 
マチガテは待難なり、アリコソはあれと願ふ詞なり、オモフ子とは子は人の上ならでも物をほめて添ふる詞なれば梅を待がてにする鶯を指て云へるか、又今日のあるじ帥殿を指歟、第六に安積親王藤原八束朝臣の家にて宴ありし時、家持の、雨は降しく念ふ子の、宿に今夜は明してゆかんとよまれしもあるじを指て申されたれば此になずらふべきにや、さては上句は※[(貝+貝)/鳥]さへ待かねし梅の花なればと意得べし、
 
初、うくひすの まちかては、まちかたくせしにて、待かねしなり。ちらすありこそは、ちらてあれこそなり。あれをありといへるは、五音相通なり。おもふこは、女をも、又外の人をもいふへし
 
846 可須美多都那我比岐波流卑乎可謝勢例杼伊野那都可子(63)岐烏梅能波奈可毛《カスミタツナカヒキハルヒヲカサセレトイヤナツカシキウメノハナカモ》【小野氏淡理】
 
那我比岐、【官本無2比字1、】
 
上句は霞わたる春の長き一日梅をかざしあれどもなり、志阿反佐なれば、かざしあれどをつゞめてかざされど〔五字右○〕と云ふべきを聞のわろければ、初四相通じで移してカザセレドと云なり、作者の名は足《タリ》をかく淡理とはかけるなるべし、百代より此方作者二十四人の内、百代、若麻呂、御通、石足、此四人は集中他所にも見え、其外は考る所なし
 
初、那我岐 我の下の比の字は、あまれり
 
員外思故郷歌兩首
 
員外は、員外郎など云は定まれる官人の外に事務繁多なるに依て加へ置るゝを云歟、員外帥もり少、今員外を以て人を呼べるは誰とも知られねど、高位大官なる老人の罪ありて員外帥に貶されて下りて年久く居て欝憤してよまれたるにや、
 
初、員外思故郷歌 これは、右の三十二首の員数の外の哥なれは、前をうけて員外といへり。官なとに、某の員外郎なといふにはあらす。憶良の哥と見えたり
 
847 和我佐可理伊多久久多知奴久毛爾得夫久須利波武等母(64)麻多遠知米也母《ワカサカリイタククタチヌクモニトフクスリハムトモマタヲチメヤモ》
 
クタツは此集には夜降《ヨクタチ》、望降《ミチクタチ》など皆降の字をかけり、斜の字をも書とぞ申す、古今に篠にふる雪によせて、もとくたちゆく吾盛りはもとよめるも下ると云詞に通ひて聞え侍り、闌の字をたけなはとよむも此意に通へり、雲ニ飛藥は神仙傳云、時人傳(フ)、八公(ト)安(ト)臨(テ)2去時(ニ)1餘藥器、置(テ)在2中庭(ニ)1、?犬舐2啄之1盡得(タリ)v昇(ルコトヲ)天(ニ)、故(ニ)?鳴2天上1、犬吠2雲中1也、落句は又將墮哉《マタオチムヤ》と云意なり、我齡の盛りの痛く傾き斜《クタ》ちて老過ぬれば、假使《タトヒ》不慮に淮南王の仙藥の殘れるを?犬の舐啄て雲中に飛鳴せしやうなる藥を得て食《ハミ》たりとも、暫こそ虚空を凌ぐともやがて又墮下りぬべしとなり、近代の風にて云はゞ遠知牟也母と云ひては、唯此まゝに落む歟の意に未决にて留まる詞にもなり、又落むやおちじと云意にも上より云ひ來るやうに依て兩樣になり、遠知米也母と云ひては必ず落著はおちじと云意にて此歌には叶はぬを、古歌は遠知牟も通知米も唯同じ詞なりけると見えたるは、第三に滿誓の月の歌に、見えずとも誰戀ざらめとよまれたるざらめ〔三字右○〕の詞も誰と云に叶ひても聞えぬを、叶はぬ事よまるまじく、叶はぬを此れにも載まじければなり、又按ずるに墮の和假名は於知とこそ此処にも書きたるを今遠(65)知とかき、次の歌に越知とあるは若墮にはあらずして※[立心偏+習]にや、老衰たる身なれば假令仙藥を得て服餌して雲氣を凌て虚空に昇る時有とも、意に恐出來て※[立心偏+習]戰《ヲチヲノヽ》かん歟とよめる歟、又起の假名は於伎なるを第十九には霍公鳥をよめる歌に乎伎と書き、沫は阿和なるを第二には安幡とあれば通して書て前の如く墮にや、年老て外任にあるを本意に思はぬ心をよめる歌なるべし、
 
初、いたくゝたちぬ くたちはくたるなり。齡のおとろへかたふく心なり。斜の字降の字なとをかけり。古今集に、さゝのはにふりつむ雪のうれをゝもみもとくたちゆくわかさかりはも。此集末にいたりて、夜くたち、もちくたちなともよめり。そこに至て注すへし。雲にとふ藥は、上にひける神仙傳の、淮南王劉安の仙藥の、うすにのこりけるを、犬庭鳥のなめて、天へのほりし事なり。古今集忠岑か長哥に、これをおもへはけた物の雲にほえけむこゝちしてひとつ心そほこらしきとよめるもこれなり。羽化する仙人なれは、これならてもいふへし。又をちめやも、これは今の讀やうとはかはれり。またおちめや又はおちじといふ心に今はいふを、それにてはこゝにかなはす。只藥をはみたりとも、又おちんやとはかりいへる哥なり。おちんやといへるは、おちん歟なり。おちんやといへは、いなおちしともきこえ、又只とへるやうにもきこゆ。おちめやといひては、かならすおちしと、落著のきこゆれど、此集には牟と女と通していへり。今のやうをもて難すへからす。思故郷哥とはあれとも、此哥はその心なし。たゝし次の哥と問答して、所詮の心次の哥にあれは、合する時思故郷哥なり
 
848 久毛爾得夫久須利波牟用波美也古彌婆伊夜之吉阿何微麻多越知奴倍之《クモニトフクスリハムヨハミヤコミハイヤシキアカミマタヲチヌヘシ》
 
此歌上の歌を踏て二首にて意を云ひ盡す事以前に注せしが如し、用は世にて時の意なり、第四第十三に時を世の如く點ぜるも此理なり、雲に飛ぶ藥を食《ハム》時もあらば太虚を凌ぎなむに、若都の空を過て下に都を見る物ならば賤しき我身と思ふ事の薫染つもりて性を成せば、恥かしくて空にもえあらで又墮下りぬべしとなるべし、又、此用は音をゆ〔右○〕とも使ひたれば、藥はむよりはと云へるにや、意は仙藥を食て虚空に飛騰せば齡くたちたる身は落ぬべし、猶それよりは不慮に都に皈る事を得て都を見ば賤しき身は亦得あり得ずして恐ろしき處などに居むやうに※[立心偏+習]《ヲヂ》ぬべしとよ(66)める歟、
 
初、雲にとふ藥はむよは よは、よりなり。さき/\もよりをゆといふ事おほかりき。鷄犬の藥をはみて、天へのはりしよりは、都に歸りて見は、卑賤の我身なれは、都にえありえすして、又あらぬ所にさすらへぬへしとなり。七十にをよふまて、えせ受領にて遠國にあることを述懷にてよまれけるなるへし
 
後追和梅歌四首
 
別校本云、作者未v詳、續千載集に第三歌を讀人しらずと載られたり、此歌を風雅集に家持と載す、彼家集と云物に依たればにや、家持の此宴の梅の歌を和せられたるは第十七に天平十二年十一月に、六首、第十八に勝寶二年三月に一首、以上七首あり、天平の初は家持十歳餘なれば此処に載らるゝ程の歌は有まじきにや、
 
初、後追和梅歌四首 上下のつゝきをみるに、又憶良の哥なるへし
 
849 能許利多流由棄仁末自列留烏梅能半奈半也久奈知利曾由岐波氣奴等勿《ノコリタルユキニマシレルウメノハナハヤクナチリソユキハケヌトモ》
 
ケヌトモはきえぬともなり、吉江反計なれば便に隨ていへり、此歌をも家持集には載たり、
 
850 由吉能伊呂遠有婆比弖佐家流有米能波奈伊麻佐加利奈利彌牟必登母我聞《ユキノイロヲウハヒテサケルウメノハナイマサカリナリミムヒトモカモ》
 
(67)851 和我夜皮爾左加里爾散家留牟梅能波奈知流倍久奈里奴美牟必登聞我母《ワカヤトニサカリニサケルウメノハナチルヘクナリヌミムヒトモカモ
 
牟梅、【校本、或牟作v宇、】
 
牟梅は集中例なし、宇梅に作るをよしとす、和名云、爾雅注云、梅【莫杯反、和名宇女、】似v杏而酢(キ)者也古今集物名にも梅を、あなうめに常なるべくも見えぬかなと隱したれば、延喜天暦の比までも宇米とかける事知べし、
 
852 烏梅能波奈伊米爾加多良久美也備多流波奈等阿例母布左氣爾于可倍許曾《ウメノハナイメニカタラクミヤヒタルハナトアレモフサケニウカヘコソ》。
 
イメは夢なり、ミヤビタルはみやびやかに同じ、都びたるにて都めきたるなり、しなゝきをひなびたると云に翻して知べし、すなはち都の字をみやびやかとよみ、鄙の字をいやしとよめる意是なり、アレモフは我思ふなり、酒ニウカベコソは酒に泛て愛せば幸ならむと庶幾《コヒネカフ》なり、遊仙窟詩云、落(ル)花時(ニ)泛(ヒ)v酒(ニ)、歌鳥或(ハ)鳴(ス)v琴(ヲ)、是は梅花の精靈の(68)娘子などに化して夢に入てかく告たるやうにあれど、唯設て興にいへるなるべし、
 
初、うめの花いめにかたらく いめは夢なり。是は梅花の精靈の娘子なとに化して、夢に入てかく告たるやうなれと、あたらしくいはむとて、まふけていへるなるへし。みやびたるは、都ひたるなり。みやひやかといふもおなし。都の字を、みやひやかとよめるにてこゝろ得へし。其外さま/\の字を、みやひやかとよめとも、本は都の字の心なり。鄙の字をいやしとよむは、其裏なり。又ひなひたりといふ詞あり。みやひに反せり。あれもふは、我おもふなり。さきのことく上畧なり。酒にうかへこそ、こそはねかふ詞なり。われみつからおもへば、みやこびたる花にてあれは、酒にうかへて愛せは、さいはひならんといふ心なり。遊仙窟詩云。落(ル)花時(ニ)泛v酒(ニ)、歌(フ)鳥或鳴(ス)v琴(ヲ)。さきの琴娘子か哥、又|彼方《ヲチカタ》か哥なと引合てみるへし
 
一云|伊多豆良爾阿例乎知良須奈左氣爾于可倍巳曾《イタツラニアレヲチラスナサケニウカヘコソ》
 
萬葉集代匠記卷之五上
   元禄二年歳在2己巳1十二月九日抄出了、
 
萬葉集代匠記卷之五下
 
遊2於松浦河1序
 
此序并に仙女に贈る歌を古來憶良の作とす今按是は旅人卿の作なるべし、其故は太宰帥は九國二島を管攝する故に都督と號すれば、所部を※[手偏+僉]察せむために何れの國にも到るべし、此故に第六には隼人《ハヤビト》の湍門《セト》の磐《イハホ》も吉野の瀧にしかずとよまれたり、是一つ、憶良は筑前守にて輒く境を越て他國に赴く事を得べからず、是二つ、次の吉田連宜が状に伏奉2賜書1と云ひ、戀v主之誠と云ひ、心同2葵※[草がんむり/霍]1と云へるは、同輩に報ずる文躰に非ず、憶良は從五位下、宜も此時從五位上なれば、かやうには書べからず、是帥殿への返簡なる證、是三つ、又兼奉2垂示1、梅花芳席、群英擒v藻帥主人なりける故に經々〔二字左○〕梅花芳席と云へり、松浦玉潭仙媛贈答も同人の体なり、是四つ、又彼次下の憶良の書并歌は帥卿の典法に依て部下を巡察せらるゝに贈らる、書尾に天平二年七月十一日とかゝれたる二三首の歌、何れも憶良は終に松浦河をも領巾麾山をも見られざること明なり、是五つ、聊辨論して後人の發明を待のみ、
 
初、萬葉代匠記 集第五之下
遊於松浦河序 日本紀第九、神功皇后紀云。夏四月壬寅朔甲辰、北(ノカタ)到2火(ノ)前《ミチノクチノ》國松浦縣(ニ)1而|進2食《ミヲシル》於玉嶋里(ノ)小河之側(ニ)1。於v是皇后勾(テ)v針(ヲ)爲(リ)v鉤《チヲ》、取v粒《イヒホヲ》抽2取裳《ミモノ》糸(ヲ)1爲v緡《ツリノヲト》、登2河中(ノ)石《イソノ》上(ニ)1而投(テ)v鉤(ヲ)祈之曰。朕西欲v求2財(ノ)國(ヲ)1。若有v成v事(ヲ)者河(ノ)魚|飲鉤《ツリクヘ》。因以擧v竿(ヲ)乃獲2細鱗魚《アユヲ》1。時(ニ)皇后曰|希見《メツラシキ》物也。【希見此(ヲハ)云2梅豆邏志1】故時人号2其処(ヲ)1曰2梅豆羅(ノ)國(ト)1。今謂(ハ)2松浦(ト)1訛《ヨコナハレリ》焉。是(ヲ)以其國(ノ)女人毎(ニ)v當《イタル》2四《ウ》月(ノ)上(ノ)旬《トヲカニ》1、以v鉤(ヲ)投2河中(ニ)1、捕2年魚(ヲ)1於v今不v絶。唯|男夫《ヲノコ》雖v釣(ト)不v能(ハ)v獲(ルコト)v魚(ヲ)。尓雅云。東西牆爲2之序1。如3世牆序(ノ)在(カ)2堂奥之外1即喩3序文冠2倭詩之表1。此(レ)端序義也。又序即訓v叙。述2始終之義1歴然(トシテ)不v混(セ)。此則次序(ノ)義也。又序訓v緒者如2繰v繭得v緒則餘絲可(カ)1v理《オサメツ》
 
(2)余以暫往2松浦之縣1趙遥、聊臨2玉島之潭1遊覽、忽値2釣v魚女子等1也、花容無v雙、光儀無v匹、開2柳葉於眉中1、發2桃花於頬上1、意氣凌v雲、風流絶v世、僕問曰、誰郷〔左○〕誰家兒等、若疑神仙者乎、娘等皆咲答曰、兒等者漁夫之舍兒、草菴之微者、無v郷無v家、何足2稱云1、唯性便v水、復心樂v山、或臨2洛浦1、而徒羨2王魚1、乍臥2巫峡1、以空望2煙霞1、今以3邂逅相2遇貴客1、不v勝2感應1、輙陳2歎曲1、而今而後、豈可v非2偕老1哉、下官對曰、唯唯、敬奉2芳命1、于v時日落2山西1、驪馬將v去、遂申2懷抱1、因贈2詠歌1曰、
 
余以暫往2松浦之縣1〔八字右○〕、和名云、肥前國松浦【萬豆良】郡、神功皇后紀云、夏四月壬寅朔甲辰、北到2火前國松浦縣1、而進2食於玉嶋里小河之側1、於v是皇后勾v針爲v鈎、取v粒爲v餌、抽2取裳糸1爲v緡、登2河中石上1而投v鈎祈之曰、朕西欲v求2財國1、若有2成事(ヲ)1者河魚飲v鈎、因以擧v竿、乃獲2細鱗魚1、時(3)皇后曰、希見物也、【希見此云2梅豆邏志1、】故時人號2其處1曰2梅豆羅國1、今謂2松浦1訛焉、是以其國女人、毎v當2四月上旬1、以v鈎(ヲ)投2河中1捕2年魚1、於v今不v絶、唯男夫雖v鈎不v能v獲v魚(ヲ)、古事記説亦同、注云、其河名謂2小河1、亦其礒名謂2騰々1、趙遙〔二字右○〕、【趙、官本作v逍、今本訛、】開2柳葉於眉中1、發2桃花於頬上1〔開柳〜右○〕、文鏡秘府論六言句例云、訝(カリ)2桃花(ノ)之似1v頬、笑2柳葉之如1v眉、【論2摘諸家格式1、未v知1誰之句1、】意氣凌v雲〔四字右○〕、史記司馬相如列傳云、相如既奏2大人之頌1、天子大説、飄々有2凌v雲之氣1、似d游2天地之間1意u、誰卿誰家兒等〔六字右○〕、【官本云、卿、當2改作1v郷、】法琳法師辨正論云、州牧郡守、姓(ハ)何、名(ハ)何、郷甚里司、誰(カ)子誰(カ)弟、唯性便v水、復心樂v山〔八字右○〕、【今按、復心、疑倒耶、】論語云、智者樂v水、仁者樂v山、或臨2洛浦1〔二字右○〕、【曹植作、洛神賦、】而徒羨2王魚1〔五字右○〕、【王魚(ハ)、王鮨、王餘(ノ)類乎、】淮南子云、臨河而羨v魚、不v如2歸v家織1v網、乍臥2巫峡1〔四字右○〕、【宋玉、作2巫山神女賦1、峽、考聲切韻云、山間陜處也、】今以3邂逅〔四字右○〕【顧野王云、不v期而會、】相2遇貴客1〔四字右○〕、毛詩鄭風云、邂逅相遇、適2我願1兮、輙陳2歎曲1〔四字右○〕、【歎、當改作1v※[疑の旁が欠]】謝靈雲酬2從弟惠連1詩云、辛2勤風波事1、※[疑の旁が欠]2曲洲渚言1、【※[疑の旁が欠]、應神紀、有d磨古登(ト)、與2禰牟古呂1兩訓u】而今而後〔四字右○〕、張平子東京賦云、而今而後、乃知2大漢之徳馨、咸在2於此1、下官對曰〔四字右○〕、遊仙窟云、余答曰、下官是客、觸v事卑微、唯唯〔二字右○〕、【説文云、唯、諾也、】于v時日落2山西1、驪馬將v去〔于時〜右○〕、文選、應休※[王+連]與2滿公※[王+炎]1書云、白日傾v夕、驪駒就v駕、呂安與2※[(禾+尤)/山]康1書云、日薄2西山1、則馬首靡v託、驪、音離、毛詩註、驪、純黒馬也、
 
初、余以 逍【誤作趙】遙、毛詩云。伊《コノ》人|於焉《コヽニ》逍遙。莊子逍遙遊玄英疏云。逍」者消也。遙者遠也。消2有爲累1遠見2無爲理1以v斯而遊2天下1故曰2逍遙遊1。日木紀には逍遙をたのしふとよめり。又あそふともよめり。古今集の詞書に、秋たつ日うへのをのこともかものかはらにかはせうえうしけるともにまかりてよめる。今時も川へに出て、釣をたれ、すなとりなとしてあそふをのみ、せうえうといひなれたるは、昔よりさる事にいふことのおほかりけるにならへるなるへし。開柳葉――於頬上。文鏡秘府論【弘法大師撰】六言句例云。訝(カリ)2桃花之似(ルニ)1v頬(ニ)笑2柳葉之如(ナルヲ)1v眉(ノ)。【契沖曰此論摘2諸家格式1。未(タ)v知2何人之句1。】意気凌v雲。史記司馬相如列傳云。相如既奏(ス)2大人之頌(ヲ)1。天子大(ニ)説《ヨロ》飄々(トシテ)有2凌(ク)v雲(ヲ)之氣1、似(タリ)d游(フ)2天地(ノ)之間(ニ)1意(ニ)u。誰卿。法琳法師辨正論曰。州牧郡守、姓(ハ)何名(ハ)何(ソ)。郷長里司、誰(カ)子誰(カ)弟(ソ)。唯性−樂山。論語云。子曰知者(ハ)樂《ネカヒ》v水(ヲ)仁者(ハ)樂(フ)v山(ヲ)【集注中云。樂《カクハ》喜好也。】或臨洛浦。【曹植作2洛神賦1。】徒|羨《ネカヒ》2王魚1。淮南子曰。臨v河而|羨《ネカハンヨリハ》v魚(ヲ)不v如(カ)2歸(テ)v家(ニ)織(ンニハ)1v網(ヲ)。王魚之王、疑他字烏焉。或王鮪王餘魚之類邪【批等不應洛浦乎。】乍臥巫峡【宋玉作2巫山神女婦1。】今以邂逅相遇貴客。毛詩鄭風曰。野有2曼(ル)草1零(ル)露溥(タリ)兮。有2美(ナル)一人1。清揚婉(タリ)兮。邂逅(ニ)相(ヒ)遇適(ヘリ)2我願1兮。輙陳歎曲【歎疑歡。】而今而後【後而字恐剰。】下官(ハ)。遊仙窟(ニ)余《ヤツカリ》答曰。下官《ヤツカリハ》是(レ)客《タヒントナレハ》觸(テ)v事(ニ)卑微《・イヤシ》(ト)。于時日落山西、驪馬將v去。文選應休※[王+連]與(シ)2滿公※[王+炎]1書曰。徒恨宴洛始酣、白日傾夕、驪駒就v駕、意不2宜展1。趙景眞與(ヘシ)2※[禾+(尤/山)]茂齊(ニ)1書云。日薄(ルトキ)2西山(ニ)1則馬首靡v託(トコロ)。驪音離。毛詩(ノ)註(ニ)驪(ハ)純黒(ノ)馬也
 
853 阿佐里須流阿末能古等母等比得波伊倍騰美流爾之良延(4)奴有麻必等能古等《アサリスルアマノコトモトヒトハイヘトミルニシラエヌウマヒトノコト》
 
アサリは此集に求食、礒廻、灣廻などかけり、定家卿は早蕨をもあさるとよまる、人のみならず鳥などのゑをもとむるをもいへり、ミルニシラエヌは見るに知られぬなり、しられ〔三字右○〕をしらえ〔三字右○〕と云へること、さきの人に※[厭の雁だれなし]はえ、人に惡まえの如し、此ぬ〔右○〕は決する辭にて句絶なり、ウマ人ノ子は第二のうま人さびてと云に注せしが如し、見るから良家子と知られぬとなり、ウマヒトノコラと點ぜる本あれど此一字のみ和訓を用べきにあらざれば今取らず、
 
初、あさりするあまの みるにしらえぬは、みるにしられぬなり。れとゑは同韻相通なり。うま人の子と、うま人は、よき人なり。うましといふは、すへてよき事なるを、いつとなく、味のよき事のみをいふ詞となりぬ。さきにいふ逍遙のたくひなり。あまの子なりとは、卑下したまへと、良家子なりとは見るからしらるゝとなり。顯宗紀云。屯倉首《ミヤケノオフト》謂2小楯(ニ)1曰。僕見(ルニ)2此秉(ル)v燭(ヲ)者(ヲ)1責v人(ヲ)而賤v己(ヲ)先v人而後v己。恭敬|樽《オモムキ》v節《ヲリニ》退讓以明v禮(ヲ)。【樽猶v※[走+多]也。相從也。止也】可v謂2君子《ウマヒトノコト》1。又云。憫々〓紳《ウレヘウレヘテウマヒトノコ》忻2荷戴v天之慶(ヲ)1。欽明紀云。諸差(テ)2良家子《ウマヒトノコヲ》1爲2使者(ト)1不v可d以2卑賤(ヲ)1爲uv使(ト)。此中に、欽明紀の良家子とあるが、こゝによく似合たり。神功皇后紀に、忍熊《オシクマノ》王の軍の先鋒《サキ》をせし、熊之|凝《コリ》か哥にも、うま人は、うま人とちや、いとこはも、いとことち、いさあはなわれはなとよめり。仁徳紀に、天皇八田皇女をめしいれんことを、皇后に請たまふ時の御哥に、うま人のたつることたてうさゆつるたゆまつかむにならへてもかも《・君子立事立儲弦絶間將續將竝歟或欲得》。うさゆつるは、儲弦とかきて、神功皇后紀に、おさゆつるとよめるこれなり。おとうと五音相通なり。たゆまつかんには、たえまつかんになり。后につゝきて、相ならへ置ことを得てしかなとの御哥なり。うま人のたつることたては、君子のたつる道をたてなり。まつはものゝふの上をのたまへり。うさゆつるは、軍に弓の弦のきれたる時、はりかへむため、まふけ置弦をいへり。委神功皇后紀に見えたり。上の二句はうさゆつるとのたまはんためなり。うさゆつるは、たえまつかむにとおほせられむためなり。此集第二卷に、うま人さひてとよみ、第十一にも、うま人のひたいかみゆへるそめゆふのともよめり
 
答待曰
 
待は詩の字を誤れるなり、改たむべし、
 
初、答詩日 詩の字をあやまりて待につくれり
 
854 多麻之末能許能可波加美爾伊返波阿禮騰吉美乎夜佐之美阿良波佐受阿利吉《タマシマノコノカハカミニイヘハアレトキミヲヤサシミアラハサスアリキ》
 
たましま川は右に引神功皇后紀に玉嶋里小河之側と云へる是なり、松浦の玉島な(5)れば松浦河とも玉島河とも云、同じ河なり、ヤサシミは恥かしみなり、俗に情ある人をやさしき人と云は情ありて恥かしき人と云なり、美麗なる人をば人のうつくしめばうつくしき人と云が如し、然るを美麗をうつくしと體に訓じて云ひ、やさしきをも則情ある事と思ふは誤なり、古今に年の思はむ事ぞやさしきとよみ、竹取物語に、あまたの人の志おろかならざりしを空しくなしてん事こそあれ、昨日今日帝ののたまはむことにつかむ人きゝやさしといへば云云、源氏物語眞木柱に、今はしか今めかしき人を渡してもてかしづかむ片隅に、人わろくてそひ物し給はむも人きゝやさしかるべし、是等みな恥かしきなり、我住所は此川上にあれど君は心ありてはづかしき人なれば、さきに問たまひつれどそこの程と顯はしても答へ申ざりきとなり、續齊諧記云、後漢明帝永平中、※[炎+立刀]縣有2劉晨阮肇1云云、
 
初、玉嶋のこの川上に 陶淵明か桃花源記云。【在集者詳蒙求引者存略乎。】續齊諧記云。漢《後歟》明帝永平中〓縣有劉晨阮肇云々。これらのたくひなり。君をやさしみ、やさしははつかしきなり。此卷下にも、世の中をうしとやさしとゝよめり。古今集に、何をして身のいたつらに老ぬらん年のおもはん事そやさしき。竹取物語に、あまたの人のこゝろさしおろかならさりしを、むなしくなしてしことこそあれ。きのふけふみかとのゝたまはんことにつかむ、人きゝやさしといへは云々。源氏物語眞木柱に、今はしか、いまめかしき人をわたして、もてかしつかむかたすみに、人わろくてそひものし給はむも、人きゝやさしかるへし。俗にこゝろある人をやさしき人なといふは、はつかしき人といふことなるを、何となくいひなるゝまゝに、風流なることを、すなはちやさしといふやうにのみおもひあへり
 
蓬容等更贈歌三首
 
官本改v容作v客今按目録にも蓬客とある上に官本にも改られたれば、蓬客に定むべき歟、轉蓬旅客と云意なり、文選潘安仁西征賦云、飄(トシテ)萍(ノゴトク)浮而蓬(ノゴトクニ)轉、注、張銑曰、言竟如2浮萍轉蓬1無v所2止託1也、又按ずるに上の中衛大將の書にも蓬身と云ひ、第十七家持(6)の池主への返事にも蓬體とあれば蓬容にても有べき歟、後人定むべし、
 
初、蓬容等 容は客の字の誤なり。目録作蓬客爲是。屏前の旅人への返翰に蓬身とも有しかは、蓬容ともいふへけれとも、これは轉蓬の旅の客といふ心なり。文選潘安仁西征賦曰。飄(トシテ)萍(ノコトクニ)浮(テ)而蓬(ノコトクニ)轉(ス)。注(ニ)張銑(カ)曰。言(ハ)竟(ニ)如(シテ)2浮萍轉蓬(ノ)1無v所2止託1
初稿本巻十八「高みくらあまのひつきと」ノ条ニ附箋シテ「蓬客轉蓬の心よりて逢を非とす」トアリ。今仮ニコヽニ附載ス。
 
855 麻都良河波可波能世比可利阿由都流等多多勢流伊毛河毛能須蘇奴例奴《マツラカハカハノセヒカリアユツルトタタセルイモカモノスソヌレヌ》
 
河ノ瀬光リとは仙女の容のかゞやくなり、
 
初、たゝせるはたてるなり。神代紀曰。伊弉諾尊伊弉册尊|立《タヽシテ》2於天浮橋之上(ニ)1共(ニ)計《ハカラヒテ》曰云々。.今ならはみしかく、たちてといふへきを、古語はのひやかなる詞つかひおほし
 
856 麻都良奈流多麻之麻河波爾阿由都流等多多世流古良何伊弊遲斯良受毛《マツラナルタマシマカハニアユツルトタタセルコラカイヘチシラスモ》
 
イヘチは家路なり、仙女の家へ尋ゆかむも道をしらぬとなり、
 
857 等冨都比等末都良能加波爾和可由都流伊毛我多毛等乎和禮許曾末加米《トホツヒトマツラノカハニワカユツルイモカタモトヲワレコソマカメ》
 
遠き所にある人の歸を待とつゞけたり、此下にも此つゞきあり、又第十三にもあり、ワカユは若點なり、
 
初、とほつ人まつらの川 とほき所にある旅人をは、家人のまつ習なれは、待といふ心につゝけんとて、遠つ人といへり。下にも、遠つ人まつらさよ姫、君をまつ松浦のうらなとよめるこれにおなし。わかゆはわかあゆなり。あを没上してわかゆといへり
 
娘等更報歌三首
 
(7)858 和可由都流麻都良能可波能可波奈美能奈美邇之母波婆和禮故飛米夜母《ワカユツルマツラノカハノカハナミノナミニシモハハワレコヒメヤモ》
 
河波は並々と疊んでつゞけんためなり、ナミニシのし〔右○〕は助語なり、モハヽは思はゞの上略なり、我戀メヤモとは今別れなんとする時、君たちを大形の人なみに思はゞ我戀したはむやとなり、古今に、惜むから戀しき物をとも、見る物からや戀しかるべきともよめるが如し、此歌惣じては、古今の、三芳野の大河の邊の藤浪の、なみに思はゞわれこひめやはとよめるに似たり、
 
初、わかゆつるまつらの川の なみにしもはゝとは、なみにおもはゝなり。しは助語にて、おもはゝを上略せり。なみ/\の人たちとおもはゝ、なこりをこひおもはめやとなり。古今集、第十四に、みよしのゝ大川のへのふち波のなみにおもはゝわかこひめやは
 
859 波流佐禮婆和伎覇能佐刀能加波度爾波阿由故佐婆斯留吉美麻知我弖爾《ハルサレハワキヘノサトノカハトニハアユコサハシルキミマチカテニ》
 
ワキヘノ里は我家の里にて仙女のすむ所をいへり、名所に非ず、下句は鮎の清き瀬を走るを客を待とて奔走して今や/\と待わぶるやうにいひなせり、
 
初、わきへのさとの わか家の里なり。我以切義なれは、きの字にこりてよむへき理なれとも、清てよむなり。名所にあらす。あゆこさはしるは、第三卷安積皇子薨したまひし時、家持のよめる哥には、年魚小狹走と書たれは、かならすとは文字の頼まれぬ此集なれとも、上二字下五字によみて、さは助語なれは、あゆの、石川の瀬を小走と心得られたり。又あゆこくむなとよめは、小の字を子になして上三字下四字に、年魚子さはしるともいふへし。君待かてにとは、あゆが待にはあらす。あゆのきよき川瀬をさはしるを見て、心ある君がとくこよかし。見せましものを、つらせましものをと、仙女が待かぬるなり
 
860 麻都良我波奈奈勢能與騰波與等武等毛和禮波與騰麻受(8)吉美遠志麻多武《マツラカハナヽセノヨトハヨトムトモワレハヨトマスキミヲシマタム》
 
(8)七瀬ノ淀とは瀬の多と云ふ明日香川にもよめり、鈴鹿川には八十瀬ともよめり、瀬々の多ければ水のよどみやすければ、川は七瀬の淀有とも吾は其水の如くはたゆまずして君が問來るを待むとなり、君ヲシのし〔右○〕は助語なり、
 
初、まつら川なゝせのよと 七瀬は、たゝせゝのおほきなり。あすか川なゝせのよとゝもよみ、鈴鹿川には八十瀬ともよめり。よとますは、水絃ょせていへり。たゆますなり
 
後人追和之詩三首都帥老
 
此後人をばおくるゝ人と讀べし、此後にもあり、後世、後學などの意には非ず、留後など云意なり、都帥老の三字は後の人の加へたるべし、其故は上に云が如し、帥の追和ならば都帥老聞v之追和詩三首など云べし、官本には都の字を滅し、亦或本には都帥老に大伴卿と傍注せり、都と云へるは都督の都歟、此卷下に至ても後人の加へたる注あれば此も必本よりの注にはあるべからず、
 
初、都帥老は大伴卿なり。都といへるは、ひなのみやこといへるやうに、太宰府は九州の都なれはなり。菅家の御詩に、都府樓(ハ)唯看(ル)2瓦色(ヲノミ)1とつくらせたまへるこれなり
 
861 麻都良河波河波能世波夜美久禮奈爲能母能須蘇奴例弖阿由可流良武《マツラカハカハノセハヤミクレナヰノモノスソヌレテアユカルラム》
 
(9)阿由可流良武、【官本、可下有v都、今本脱、】
 
初、阿由可流艮武 可の字の下に都の字をおとせり
 
862 比等未奈能美良武麻都良能多麻志末乎美受弖夜和禮波故飛都々遠良武《ヒトミナノミラムマツラノタマシマヲミステヤワレハコヒツヽヲラム》
 
ミラムは見るらむなり、
 
初、人みなの みな人のなり。みらんはみるらむなり。此集におほし。古今集には、素性法師の哥に、春たては花とやみらんとよめり。みすては見すしてなり
 
863 麻都良河波多麻斯麻能有良爾和可由都流伊毛良遠美良牟比等能等母斯佐《マツラカハタマシマノウラニワカユツルイモラヲミラムヒトノトモシサ》
 
トモシサはめづらしき事と褒美せる詞なり、
 
初、いもらをみらん人のともしさ 此ともしきはすくなきなり。見たる人をほむる詞なり
 
宜※[(石+戈)/口]、伏奉2四月六日賜書1、跪開2對〔左○〕凾1、拜讀2芳藻1、心神開朗、似v懷2泰初之月1、鄙懷除v私〔左○〕、若v披2樂廣之天1、至若※[覊の馬が奇]2旅邊城1、懷2古舊1而傷v志、年矢不v停、憶2平生1而落v涙、但達人安※[木+非]、君子無v悶、伏冀朝宣2懷v※[擢の旁]之化1、暮存2放v龜之術1、架2張趙於百代1、追2松喬於千齡1耳、(10)兼奉2垂示1、梅花芳席、群英|※[手偏+離の旁]v藻、松浦玉潭、仙媛贈答、類2杏檀各言之作1、疑〔左○〕2衡皐税駕之篇1、耽讀吟諷、戚謝歡怡、宜戀v主之誠、誠逾2犬馬1、仰v徳之心、心同2葵※[草がんむり/霍]1、而碧海分v地、白雲隔v天、徒積2傾延1、何慰2勞緒1、孟秋膺v節、伏願萬祐日新、今因2相撲部領使1、謹付2片紙1、宜謹啓不次。
 
※[(石+戈)/口]、【官本、作v啓、】  對函、【官本、對作v封、】  除私、【官本、私作v※[禾+去]、】  戚謝、【或飜、戚作v感、】
 
右擧る所の異、何れも改られたるに付べし、又或本に答和人歌書并歌四首、吉田連宜とあれども此は後の人の所爲なるべし、和人とは何ぞや、追和人と云へる歟、いたく手づゝなり、必撰者の題せるにはあるべからず、宜は吉田連が名なり文武紀云、四年八月乙丑、勅2僧通徳惠俊1並還v俗、代2度各一人1、賜2通徳陽侯史名久爾曾1、授2勤廣肆1、賜2惠俊姓吉名宜1、授2務廣肆1、爲v用2其藝1也、元明紀云、和銅七年正月、授2吉(ノ)宜從五位下1、聖武紀云、神龜元年五月辛未、從五位上吉宜、從五位下吉智首、並賜姓吉田連1、天平二年三月辛亥、太(11)政官奏※[人偏+稱の旁]云云、又陰陽醫術及七曜頒暦等類國家要道、不v得2腐闕1、但見2諸博士1年齒衰老、若不2教授1恐致v絶v業、望仰 吉田連宜等七人、各取2弟子1將令v習v業(ヲ)、同十二月庚申、圖書頭、九年九月己亥、正五位下、十年閏七月癸卯、爲2典藥頭1、懷風藻云、正五位下圖書頭吉田連宜二首、【年七十、】芳藻〔二字右○〕、【藻、水草有彩者、以比文章、】心神開朗、似v懷2泰初之月1〔心神〜右○〕、魏志云、夏侯玄字太初、世説云、曹〔傍線〕、【皇后弟毛曹〔二字傍線〕、】與v玄〔傍線〕共坐、時人謂、蒹葭倚2玉樹1、又云、朗々如2日月之入1v懷、鄙懷除v私、若v披2樂廣之天1〔鄙懷〜右○〕、晉書云、樂廣〔二字傍線〕、字彦輔〔二字傍線〕云云、常有2親客1、久闊不2復來1、廣〔傍線〕問2其故1、答云、前在v坐蒙v賜v酒方飲忽見2盃中有1v?、意甚惡v之(ヲ)、既飲而疾、于時河南聽事壁上(ニ)有2角弓1、漆畫作v?、廣〔傍線〕意2盃中?即角弓影1也、復置2酒於前處1、謂v客曰、盃中復有v所v見、不、答曰、所v見如v初(ノ)、廣〔傍線〕乃告2其所以1、客豁然意解、沈痾頓愈(ス)、菅家文草、九日侍v宴應v製詩序云、天下之傾v首者、皆是唐堯就v日之民、天下之屬v心者、熟非2樂廣〔二字傍線〕披v霧之士1、年矢不v停〔四字右○〕、文選陸士衡、長歌行云、年往迅2勁矢1、時來亮2急絃1、周興嗣〔三字傍線〕千字文云、年矢毎催、但達人安排〔五字右○〕、文選賈誼、鵬鳥賦云、達人大觀、莊子、大宗師云、安排而去、化乃入2於寥天(ノ)弌1、疏云、安排推移、君子無v悶、懷v※[擢の旁]之化〔君子〜右○〕、玉篇云、※[擢の旁]徒的切、山雉〔二字右○〕、蒙求云、後漢魯恭〔二字傍線〕、字仲康〔二字傍線〕、扶風平陵人、肅宗〔二字傍線〕時、拜2中牟令1、專以2徳化1爲v理不v任v刑、郡國、螟傷v稼、犬牙練界不v入2中牟1、河南尹袁安〔二字傍線〕、聞v之疑2其不1v實、使d2仁恕椽肥親〔二字傍線〕1往察uv之、恭〔傍線〕隨(テ)行2阡陌1、倶坐2桑下1、有v雉過止2其傍1、傍有2童子1、親〔傍線〕曰v兒、何不v捕v之、兒言、雉方將v雛、親〔傍線〕瞿然起與v恭〔傍線〕訣曰、所2以來1者、欲v察2(12)君政迹1耳、今蟲不v犯v境、化及2鳥獣1、豎子有2仁心1、三異也、還v府以v状白v安〔傍線〕、是歳嘉禾生、恭便坐2廷中1、安上書言v状、帝異v之、放v龜〔二字右○〕、又引2晉書1云、孔愉〔二字傍線〕、字敬康〔二字傍線〕、會稽山陰人、與2同郡張茂(ノ)偉康〔二字傍線〕、丁潭(ノ)世康〔二字傍線〕1齊v名、時(ノ)人號曰2會稽三康1、建興初、出爲2丞相(ノ)橡1、後以d討(スル)2華軼(ヲ)1功(ヲ)u、封(セラル)2餘不亭侯1、愉嘗行經2餘不亭1、見d籠2龜於路(ニ)1者u、愉〔傍線〕買而放2之溪中1、龜中流左顧者數囘。及v是鑄2俣印1、而印龜左顧、三鑄如v初、印工以告、愉〔傍線〕乃悟、遂佩焉、架2張趙於百代1〔六字右○〕、孔稚珪〔三字傍線〕、北山移文云、籠2張趙〔二字傍線〕於徃圖1、李善〔二字傍線〕注曰、漢書曰、張敞〔二字傍線〕、字(ハ)子高〔二字傍線〕、稍遷至2山陽大守1、又曰、趙廣漢〔三字傍線〕字子都〔二字傍線〕、※[さんずい+豕]郡人也、爲2陽※[擢の旁]令1、以2化行尤異1、遷2京輔都尉1、松喬〔二字右○〕、赤松子〔三字傍線〕、王子喬〔三字傍線〕也、列仙傳云、赤松子〔三字傍線〕、神農〔二字傍線〕時雨師也、服2水玉1以教2神農〔二字傍線〕1、能入v火不v燒、至2崑崙山1、常止2西王母〔三字傍線〕石室中1、隨2風雨1上下、炎帝〔二字傍線〕少女追v之(ヲ)、亦得v仙倶(ニ)去(ル)、至2高辛(ノ)時1、爲2雨師1間遊2人間1、又云、王子喬〔三字傍線〕、周靈王〔二字傍線〕(ノ)太子晋也、好吹v笙作2鳳鳴1、遊2伊洛之間1、道人浮丘公、接v晋〔傍線〕(ヲ)上2嵩高山1、三十餘年後、見2栢良1謂曰、可v告2我家1、七月七日、待2我於維山頭1、至v期果乘2白鶴1駐2山頭1、可v望(ム)不v可v到、俯v首謝2時人1、數日方去(ル)、後立2祠維氏山下1、群英〔二字右○〕※[手偏+離の左]藻〔右○〕、才兼2万人1曰v英、呉質答2魏太子1※[片+錢の旁]云、窮v理盡v微、※[手偏+離の左]v藻下v筆、※[手偏+離の左](ハ)舒也、玉潭〔二字右○〕、玉嶋河也、或玉褒詞、仙媛〔二字右○〕、玉篇云。爲卷切、美女也、杏檀〔二字右○〕、【當2改作1v壇、】荘子云。孔子〔二字傍線〕休坐2乎杏壇之上1、弟子讀v書、夫子皷v瑟奏v曲、各言之作〔四字右○〕、論語云、顔淵〔二字傍線〕季路〔二字傍線〕侍、子曰、盍3各言2爾志1、疑2衡、【當2改作1v※[草がんむり/衡]】皐税駕之篇〔六字右○〕1、曹子建、洛神賦云、爾廼税2駕乎※[草がんむり/衡]皐1、秣2駟乎芝田1、史記、李斯列傳云、吾未知v所2税駕1、【索隱曰、税駕、猶2解駕1、】葵※[草がんむり/霍]〔二字右○〕、曹子(13)建〔三字傍線〕、求v通2親々1表云、若2葵※[草がんむり/霍]之傾1v葉、太陽雖v不2爲v之※[しんにょう+囘]1v光、終向v之者誠也、潘安仁〔三字傍線〕、閑居賦云、※[草がんむり/襄]荷依v陰、時※[草がんむり/霍]向v陽、緑葵含v露、白薤負v霜、【憑v此葵與v※[草がんむり/霍]也、】相撲〔二字右○〕、和名云。漢武故事云、角觝、【丁禮反、訓、與v突同、】今之相撲也、王隱晋書云、相撲、【撲、音蒲角反、和名須末比、】下伎也、延喜式、掃部云、七月二十五日、相2撲神泉苑1云云、皇極紀云、元年七月甲寅朔乙亥、饗2百濟使人大佐平智積等於朝1、乃命2健兒《チカラヒトニ》1、相2撲《スマヒトラシム》於翹岐(カ)前(ニ)1、聖武紀云、天平六年秋七月丙寅、天皇觀2相撲戯1、【據2此兩紀1、天子觀2相撲戯1、自v古在2于七月1、】垂仁天皇七年、依v勅、野見宿禰與2當麻蹶速1※[手偏+角]力、事詳2于紀1。是本朝相撲濫觴也、部領〔二字右○〕、【推古紀點云、古登里、非d限(ル)2相撲使(ニ)1名u、】
 
初、宜啓 これは吉田連宜が、憶良への返事なり。宜は、文武紀云。四年八月乙丑勅(シテ)2僧通徳惠俊(ニ)1並(ニ)還(ラシム)v俗(ニ)。代度各一人。賜(テ)2通徳(ニ)陽侯史《ヤコノフミヒト》名(ヲ)久爾曾(ト)授2勤廣肆(ヲ)1。賜(テ)2惠俊(ニ)姓(ヲ)吉《ヨシ》名(ヲ)宜(ト)1授(ク)2務廣肆(ヲ)1。爲(ナリ)v用(ンカ)2其藝(ヲ)1也。元明紀云、和銅七年正月、授2吉(ノ)宜(ニ)從五位下(ヲ)1。聖武紀云、神龜元年五月辛未、從五位上吉(ノ)宜《ヨロシ》、從五位下吉智(ノ)首《オフトニ》並(ニ)賜2姓(ヲ)吉田(ノ)連(ト)1。天平二年三月辛亥、太政官奏※[人偏+稱の旁]。○又陰陽醫術、及(ヒ)七曜頒暦等(ノ)類(ハ)國家(ノ)要道(ニシテ)不v得2腐闕(スルコトヲ)1。但見(ルニ)2諸(ノ)博士(ヲ)1年齡衰老(セリ)。若不(ハ)2教授(セ)1恐(ハ)致(サン)v絶(コトヲ)v業(ヲ)。望(ミ)仰(ラクハ)吉田連宜○等七人各取(テ)2弟子(ヲ)1將(ニ)令v習(ハ)v業(ヲ)。同十二月庚申、從五位上吉田連宜(ヲ)爲2圖書(ノ)頭(ト)1。九年九月己亥、正五位下。十年閏七月癸卯、爲2典藥(ノ)頭(ト)1。懷風藻云。正五位下圖書頭吉田連宜二首【年七十。】封函。【封誤作對。】芳藻。【藻水草有彩者。以比文章。】心神――之月。魏志夏侯玄字(ハ)太初、世説云。曹(ト)【皇后弟毛曹】與v玄共(ニ)坐(ス)。時(ノ)人謂(ラク)蒹葭倚(ト)2玉樹(ニ)1。又云。朗々(トシテ)如2日月之入(ルカ)1v懷(ニ)。鄙懷――。晉書(ニ)云。樂廣字(ハ)彦輔○常(ニ)有2親客1。久闊不2復來1。廣問2其故(ヲ)1。答(テ)云。前(ニ)在(テ)v坐(ニ)蒙(テ)v賜(コトヲ)v酒(ヲ)方《・アタテ》(ニ)飲《ノムトキニ》(トキニ)忽見(テ)2盃中(ニ)有(ルヲ)1v〓、意(ニ)甚(ハタ)惡(ム)v之(ヲ)。既(ニ)飲而疾。于v時河南(ノ)聽事(ノ)壁(ノ)上(ニ)有2角弓1。漆(ヲモテ)畫(テ)作(ス)v〓(ヲ)。廣意(ヘリ)2盃中(ノ)〓(ノ)即角弓(ノ)影(ナラント)1也。復置2酒(シテ)於前處(ニ)1謂(テ)v客(ニ)曰。盃中復有(ヤ)v所v見(ル)不《イナヤ》。答(テ)曰所(ロ)v見(ル)如(シ)v初(ノ)。廣乃告(ク)2其所以(ヲ)1。客豁然(トシテ)意解(テ)沈痾頓(ニ)愈(ユ)。安排。莊子大宗師云。安排而去化乃入於寥天弌【疏云安排推移。】文選謝靈運(カ)詩(ニ)居(テ)v常(ニ)以待v終(ヲ)(テ)v順(ニ)故《マコトニ》安(ンス)v排(ヲ)。又云。安(ンスルコト)v排(ヲ)徒(ニ)空(シク)言(ヘリ)。懷〓之化。玉篇曰。※[擢の旁](ヘ)徒的切山雉(ナリ)。蒙求曰。後漢魯恭字仲康扶風平陵人。肅宗時拜2中牟令(ニ)1專以2徳化(ヲ)1爲v理(チヲ)。不v任v刑。郡國螟傷v稼犬牙縁v界不v入2中牟(ニ)1。河南(ノ)尹袁安聞(テ)v之(ヲ)疑2其不1v實、使2仁恕(ノ)椽肥親1往察1v之。恭隨行2阡陌1倶坐2桑下1。有v雉過止2其傍1。々有2童子1。親曰兒何不v捕v之。兒言雉方將v雛。親瞿然起與v恭訣(レテ)曰。所2以來1者欲v察2君政迹1耳。今蟲不v犯v境。化及2鳥獣1。豎子有2仁心1。三異也。還v府以v状白v安。是歳嘉禾生2恭便坐(ノ)廷中1。安上書言v状、帝異v之。放v龜。蒙求引2晉書1曰。孔愉字敬康、會稽山陰人。與2同郡張茂偉康、丁潭世康1齊v名。時人號曰2會稽三康1。建興初出爲2丞相橡1。後以d討2華軼1功u、封2餘不亭侯1。愉嘗行經2餘不亭1見d籠2龜於路1者u。愉買而放2之(ヲ)溪中(ニ)1。龜中流(ニシテ)左顧者數囘。及v是鑄2侯印1而印龜左顧。三(タヒ)鑄如v初。印工以告。愉乃悟遂佩焉。架張趙於百代。班固公孫弘傳賛曰。定v令則趙禹張湯。孔徳璋北山移文云。籠2張趙(ヲ)於往圖1。松【赤松子】喬【王子喬。】群英【才兼萬人曰英。】〓藻。文選呉質答2魏太子1※[片+錢の旁]云、窮v理盡v微※[手偏+離の左]v藻下v筆。潘安仁(カ)夏侯湛(ニ)誄云。飛v辯(ヲ)※[手偏+離の左]藻。仙媛。【爲眷切美女也。】杏檀【壇誤作檀】各言。莊子 漁父篇云。孔子休坐2于杏壇之上(ニ)1。弟子(ハ)讀v書(ヲ)夫子鼓(シテ)v瑟奏(ス)v曲(ヲ)。論語云。顧淵季路侍。子曰。盍(ソ)《・サル》3各《/\》言(ハ)2爾(ノ)志(ヲ)1。又云。子路、曾〓、冉有、公西華侍坐。子曰以3吾一日長2乎爾1毋2吾以1也。居則曰不2吾知1也、如2或知1v爾則何以哉。〇點爾何如。鼓v瑟希鏗爾。舍v瑟而作對曰。異2乎三子者之撰1。子曰何傷乎。亦各言2其志1也。三子者出。曾〓後。曾〓曰夫三子者之言何如。子曰。亦各言2其志1也已矣。衡【當v作v※[草がんむり/衡]】皐税駕之篇。曹子建洛神賦云。爾廼|税《オロシ・トヽメ》2駕(ヲ)乎〓皐(ニ)1秣(カフ)2駟(ニ)芝田(ニ)1。史記李斯列傳曰。當v今人臣之位無d居(ル)2臣(カ)上(ニ)1者u。可謂富貴極矣。物極則衰。吾未v知v所v税v駕也。【索隱曰税v駕猶v解v駕。】犬馬。曹子建求v通2親々1表云。犬馬之誠不v能v動v人。葵〓。又云。若2葵〓之傾1v葉、太陽雖v不2爲v之廻1v光、終向v之者誠也。臣窮自比2葵〓1。潘安仁閑居賦曰。〓荷依v陰、時〓向v陽、緑葵含v露、白薤負v霜。【憑v此葵(ト)與(ハ)v※[草がんむり/霍]二草(ニシテ)別也。】左傳鮑牽爲2齊侯1〓v足。孔子聞曰。鮑莊子之智不v如v葵、々猶能衛2其足1。相撲。垂仁紀云。七年秋七月己巳朔乙亥、左右《モトコヒト》奏言。當麻邑有2勇悍士《スハイヒト》1。言2當麻|蹶速《クエハヤト》1。其爲v人也強v力以能|毀《カキ》v角(ヲ)申(フ)v鉤《カキヲ》。恒語2衆中《ヒトナカ》曰。於2四方1求之、豈v有(ンヤ)d比2我力1者u乎。何《イカテ》遇2強力者1而|不v期《イハスシテ》2死生1、頓(ニ)《・ヒタフルニ》得(ン)2爭力《チカラクラヘ》1焉。天皇聞之詔2群卿1曰。朕聞當麻蹶速者天下之力士也。若有v比2此人1耶。一(ノ)臣進(テ)言。臣聞出雲國有2勇士1曰2野見宿禰1。試召2是人1欲v當《アハセント》2于蹶速1。即日《ソノヒ》遣2倭直祖長尾市1、喚《メス》2野見宿禰(ヲ)1。於v是野見宿禰自2出雲1至《マウイタレリ》。則當麻蹶速與2野見宿禰1令2〓力《スマヒトラ》1。二人相對立、各擧v足相|蹶《フム》。則|蹶2折《フミサク》蹶速之|脇《カタハラ》骨(ヲ)1亦|蹈2折《フミクシキテ》其腰(ヲ)1而殺之。故奪2當麻蹶速之|地《トコロヲ》1悉賜2野見宿禰(ニ)1。是以其邑有2腰折(レ)田1之縁也。野見宿禰乃|留仕《ツカマツル》焉。皇極紀云。元年七月甲寅朔乙亥、饗《アヘタマフ》2百濟使人大佐平智積等(ニ)於|朝《ミカトニ》1。乃命2健兒《チカラヒト》1相2撲《スマヒトラシム》於翹岐(カ)前(ニ)1。聖武紀曰。天平六年秋七月丙寅、天皇觀2相撲戯1。是夕徒2御南苑1命2文人1賦2七夕之詩1賜v禄有v差。延喜式第二十八、掃部式云。七月二十五日相2撲神泉苑1、殿上供2御座1、及設2參議已上座1、又設2左右相撲司、并諸大夫等座1。部領【推古紀讀曰2古登利1】使
 
奉和諸人梅花歌一首
 
864 於久禮爲天那我古飛世殊波彌曾能不乃于梅能波奈爾母奈良麻之母能乎《オクレヰテナカコヒセスハミソノフノウメノハナニモナラマシモノヲ》
 
ナガコヒセズハとは長戀不v爲者なり、我むつまじく思へるあまたの友だちに後れ居てとても有得て長き戀をえせずば、同じくは死し去て御苑の梅と成て、諸人にも見え、我も戀しき人々にも逢見む物をとなり、梅は非情なれば成てもかひあるまじ(14)けれど、歌はかうはかなき事をもよむ習なり、
 
初、おくれゐてながこひせすは ながは汝かなり。諸人あつまりて、梅の花をよめるに、我獨おくれゐたるを、汝かのこりおほしとて、我戀ひすは、中々に身を梅花となしても、ちかつかましものをといふ心なり
 
和松浦仙媛歌一首
 
865 伎彌乎麻都麻都良乃于良能越等賣良波等己與能久爾能阿麻越等賣可忘《キミヲマツマツラノウラノヲトメラハトコヨノクニノアマヲトメカモ》
 
待と云詞をたゝみて松浦とつゞけたり、仙媛が歌に君をしまたむとよみつれば、そこを踏て云へり、トコ世ノ國は蓬莱なり、アマヲトメは天處女と云へる歟、又海人處女といへる歟、上にまつらの浦と云ひつれば後の義なるべし、蓬莱には海人はあるまじきにやと云俗難もあるべけれど、海中にある世界なれば海人處女と云ひ馴たる詞に云ひつゞくべき事何かあらむ、垂仁紀に日神伊勢にて倭姫命に告給はく、是神風伊勢國則常世(ノ)之浪重浪歸國也、傍國可怜國也、欲v居2是國1、蓼の蟲の辛きに習ふ如く人寰に習て仙境を疑ふ人もあれど、仙風道骨なくばやみなむ、あらばありて至りぬべきは此日神の御詞も、蓬莱を指て常世とはのたまへるとぞ聞ゆる、
 
思君未盡重題二首
 
(15)866 波漏婆漏爾於忘方由流可母志良久毛能智弊仁邊多天留都久紫能君仁波《ハルハルニオモハユルカモシラクモノチヘニヘタテルツクシノクニハ》
 
波漏婆漏爾、【官本又點云、ハロハロニ、】
 
發句はハロ/\ニと點ぜるに付べし、第十五にも今の初の二句と同じ歌あるに波呂波呂爾とかけり、第二十にも家持の防人が情をよまれたる歌に二首、波呂波呂爾とあり、はる/\、はろ/\、兩樣によめり、皇極紀云、于v時有2謠歌《ワサウタ》三首1、其一曰、波魯波魯爾渠騰曾枳擧喩屡之麻能野父播羅《ハロハロニコトゾキコユルシマノヤブハラ》、此發句も亦同じ、是は釋日本紀に依てかくひけり、日本紀には、波波魯魯爾とあり、昔は和漢の詞ともに重て云時は其字の下毎に重點を付くるか、漢語には弘法大師入唐請來の經※[車+兀]并に目録を帝へ奉らるゝ表の中に、大好大好と云事を、大々好々と書たまへり、※[手偏+總の旁]じてかゝる事多かるべし、見及ぶに任せたり、和語には古事記上云、故二柱神立2天浮橋1而指2下其沼矛1以畫者、鹽許々袁々呂々邇|畫《カキ》鳴云云、此許々袁々呂々は許袁呂々々々なり、同じき下卷雄略天皇の段に此詞あるには許袁呂許袁呂とあり、波々魯々此に准ずべし、傍論煩はしけれど、事の次に依てなり、第三の句以下は、第四に大伴卿、滿誓の返歌に筑紫やいづこ白雲のと(16)よまれたる同じ意なり、
 
867 枳美可由伎氣那我久奈理努奈良遲那留志滿乃己太知母可牟佐飛仁家理《キミカユキケナカクナリヌナラチナルシマノコタチモカムサヒニケリ》
 
ナラチは奈良路なり、シマは地の名なり、島とも島山とも、あまたよめり、添上郡に八島あり、此處にや、第九に諸卿大夫難波に下りて明日還來る時の歌に、島山をい行もとほる、河ぞひの岡べの道ゆ、昨日こそ吾越こしか、とよめるは殊に此に叶ひて聞ゆるか、カムサビニケリは物ふりにけんなり、此は大伴卿の故郷の木の老たるを見て君が旅にある事の久しきを思ふとなるべし、
 
初、ならちなる嶋のこたち 嶋は所の名なり。第九に、難波經v宿明日還來之時哥に、嶋山をいゆきもとほる川そひのをかへの道にきのふこそわかこえこしかなと有て、はてに名におへるもりにかさまつりせなといへり。此哥のまへにも、同時の哥ありて、白雲のたつたの山の瀧のうへのをくらのみねになとよめれは、立田のあたりなるへし。長流は立田にむまれて、かのあたりをよくしれるが申けるは、川そひのをかへの道いまもしかりと。又第十九にも、嶋山にあかる橘うすにさしなとよめり。ならにかよふ道なれは、ならぢなりといへり。第九の哥符合せり。憶良の家、そのわたりに有けりとしられたり。神さひにけりは、物ふりにけりの心なり
 
天平二年七月十日
 
憶良誠惶頓首謹啓
 
憶良聞、方岳諸侯、都督刺史、並依2典法1、巡2行部下1、察2其風俗1、意内多v端、口外難v出、謹以2三首之鄙歌1、欲v寫2五藏之欝結1、其歌曰、
 
(17)都督判史、【或本、判作v刺、】
 
方岳諸侯〔四字右○〕、于令升晋紀總論曰、方岳無2鈞石之鎭1、潘安仁爲2賈謐1作贈2陸機1詩曰、藩岳作v鎭輔2我京室1、注、呂延濟(カ)曰、藩岳謂2諸侯1也、判史〔二字右○〕、依2今本1大判事史生等也、依2官本1肥前守也、
 
初、方岳諸侯 文選于令升晋紀(ノ)總論曰。方岳無(ク)2鈞石(ノ)之鎭(メ)1、關門無2結(ヘルノ)v草(ヲ)之固(メ)1。潘安仁(カ)爲(ニ)2賈謐(カ)1作贈2陸機(ニ)1詩、藩岳作(シテ)v鎭(ヲ)輔2我(カ)京室(ヲ)1。
 
868 麻都良我多佐欲比賣能故何比列布利斯夜麻能名乃美夜伎々都々遠良武《マツラカタサヨヒメノコカヒレフリシヤマノナノミヤキヽツヽヲラム》
 
佐欲比賣が事次の歌の序に見えたり、猶そこに注すべし、
 
869 多良志比賣可尾能美許等能奈都良須等美多多志世利斯伊志遠多禮美吉《タラシヒメカミノミコトノナツラストミタヽシセリシイシヲタレミキ》
 
一云阿由都流等
 
奈は魚なり、仲哀紀に魚鹽をナシホとよめり、持統紀云、賜2越蝦夷|八鉤《ヤツリ》魚等1各有v差、【魚、此云v儺、】ツラスはつる〔二字右○〕なり、是は神功皇后の點をつらせ給ひし事なり、上に引し紀に明なり、
 
初、なつらすと なは魚なり。日本紀魚【魚此(ヲハ)云v儺《ナト》。】此集になといふ處に、此字をかけるは此ゆへなり。つらすはつるとなり。遊於松浦河序に日本紀を引しかことし。みたゝしせりし、御立したまひし、川中の石を、誰か見しとなり
 
(18)870 毛毛可斯母由加奴麻都良遲家布由伎弖阿須波吉奈武遠奈爾可佐夜禮留《モヽカシモユカヌマツラチケフユキテアスハキナムヲナニカサヤレル》
 
發句は百日もなり、し〔右○〕は助語なり、おほくの日數を經てもゆかぬ道をと云なり、サヤレルはさわれるなり、下にもこらにさやりぬとあり、又神武紀に天皇の御歌の中に、和餓末菟夜辞藝破佐夜羅孺《ワカマツヤシキハサヤラス》、伊殊區波辞區〓羅佐夜離《イスクハシクチラサヤリ》とよませたまへるも是なり、和と也とは同韻にて通ず、さわぐをさやぐとも云へるに准じて知べし、
 
初、もゝかしもゆかぬ もゝかは百日なり。ひさしきをいはむためなり。なにかさやれるは、さはれるなり。此集には、さはるをさわるとかけり。いつれにても、同韻相通なり。下の三十八葉にも、こらにさやりぬといへり
 
天平二年七月十一日筑前國司山上憶良謹上
 
大伴佐提比古郎子、特被2朝命1、奉2使藩國1、艤v棹言v歸、稍赴2蒼波1、妾也松浦【佐用嬪面】嗟2此別易1、歎2彼會難1、即登2高山之嶺1、遥望2離去之舩1、悵然斷v肝、黯然銷v魂、遂脱2領巾1麾v之、傍者莫v不2流v涕、因號2此山1、曰2領巾麾之嶺1也、乃作v歌曰、
 
校本に詠2領巾麾嶺1歌并序、山上臣憶良と、端作をしたるあり、目録には作者をのみ載(19)たり、右の憶良書中并和歌三首ともに、憶良は松浦山玉嶋川ともに終に見られざる由をかけり、典法に依て巡察する次に帥殿の見けるなるべし、歌も序も共に大伴卿の作なるべし、憶良は筑前國司なれば別勅などに依らずばたやすく境を出て他國に赴かるべきに非ず、佐提比古を韓國へ遣はされし事は宣化紀、二年冬十月壬辰朔、天皇以3新羅寇2於任那1詔2大伴金村大連1遣3其子磐與2狭手彦1以助2任那1、是時磐留2筑紫1執2其國政1以備2三韓1、狭手彦往鎭2任那1救2百濟1、第十九欽明紀云、二十三年八月、天皇遣2大將軍大伴連狭手彦1、領2兵敷萬1伐2于高麗1、狭手彦乃用2百濟計1打2破高麗1、其王踰v墻(ヲ)而逃、狭手彦逐乘v勝以入v宮、盡得2珍寶※[貝+化]賂七織帳鐵屋(ヲ)1還來、此兩度の中いづれの度と云事を知らず、藩國〔二字右○〕、三韓之於2我朝1、猶v有3家之有2藩屏1也、繼体紀云、氣長足姫尊與2大臣武内宿禰1毎v國初置2官家1爲2海表之蕃屏1、其來尚(シ)矣、艤棹〔二字右○〕、江賦云、渉人於v是※[木+義]榜、李善注、應劭漢書注曰、※[木+義]正也、王逸楚辭注曰、榜、船(ノ)櫂也、妾也〔二字右○〕、【妾、日本紀訓云、乎奈米。史記點云、波之太毛乃、】松浦〔二字右○〕【佐用嬪面、】袖中抄引、六字直連下、嗟此別易、難2彼會難1〔八字右○〕、遊仙窟云、所v恨別易會難、去留乖隔、黙然銷魂〔四字右○〕、袖中抄卷八引v此黙作v黯、當d據2彼抄1而改正u也。江淹(カ)別賦曰、黯然銷魂者唯別而已矣、李善注曰、言黯然魂將2離散1者、唯別而然也、夫人魂以守v形、魂散則形斃、今別而散明2恨深1也、楚辭曰、魂魄離散、家語孔子曰、黯然而黒、呂向曰、黯然失2色※[白/ハ]1、遂脱2領巾1麾v之〔六字右○〕、和名云、楊氏漢(20)語抄云、領巾、【日本紀私記云、比禮、】婦人項上餝也、天武紀云、亦膳夫釆女等之|手繦《タスキ》肩巾《ヒレ》、【肩巾、此云2比例1、】並莫v服、文武紀云、慶雲二年夏四月丙寅、先v是諸國采女眉巾田依v令停v之、至v是復v舊焉、遊仙窟云、迎風※[巾+皮]子欝金香、注曰、單曰2領巾1、複曰2※[巾+皮]子1、春著2領巾1、秋著2※[巾+皮]子1、皆婦人頭上巾也、東宮切韻曰、※[巾+皮]、靈王翠※[巾+皮]、以2翠羽1餝之、領巾也、云云、玉篇曰、※[巾+皮]。披僞切、在2肩背1、麾〔右○〕、玉篇云、許爲切、指麾、肥前國風土記云、松浦縣之東三十里有2※[巾+皮]搖岑1、【※[巾+皮]搖、此云2比禮府離1、】最頂有v沼、計可2半町1、俗傳云、昔者檜前天皇之世、遣2大伴紗手比古1領2任那國1、于v時奉v命經2過2此墟(ヲ)1、於v是篠原村、【篠(ハ)資農《シノ》也、】有2娘子1、名曰2乙等比賣1、容貌端正、孤爲2國色1、紗手比古便娉成v婚、離別之日乙等比賣登2此峯1擧v※[巾+皮]招、因以爲v名、
 
初、大伴佐堤比古郎子 日本紀第十八、宣化紀云。二年冬十月壬辰朔、天皇以3新羅(ノ)寇2於|任那《ミマナニ》1、詔2大伴金村大連(ニ)1遣3其子磐(ト)與(ヲ)2狹手彦1、以助2任那(ヲ)1。是時磐(ハ)留2筑紫1執2其國政(ヲ)1、以備2三韓1。狹手彦往鎭2任那1、加救2百濟(ヲ)1。第十九欽明紀云。八月天皇遣2大將軍大伴連狹手彦1領2兵敷萬1伐2于高麗1。狹手彦乃用2百濟計1打2破高麗1。其王踰v墻而逃。狹手彦逐乘v勝以入v宮、盡得2珍寶※[貝+化]賂|七《ナヽヘ》織《・ヲリモノヽ》(ノ)帳、鐵屋1還來。藩《トナリノ・マカキノ》國。繼体紀云。氣長足姫尊與2大臣武内宿禰1毎v國初置2官家1爲2海表《ワタノホカノ》之|蕃屏《マカキ・カクレ》1其|來《アリクルコト》尚(シ)矣。抑《ハタ》有v由焉。艤棹|言歸《コヽニオモムイテ》。江賦云。若乃宇宙澄寂、八風不翔、舟子於是搦棹、渉人於是|〓《タヽス・ヨソフ》榜《サヲヽ・フネヲ》。妾《・ヲナメ日本紀ハシタモノ史記歟》。莊子疏云。妾者接也。適可3接2事(ス)君子(ニ)1。嗟2此別易1歎2彼會難1。遊仙窟云。所v恨別易會難、去留乖隔。黙然銷魂。文選江淹別賦曰。黯然(ト)銷v魂(ヲ)者(ノハ)唯別而已矣。【今案黙當v作v黯。】領巾。天武紀云。亦|膳夫《カシハテ》釆女《ウネメ》等之|手繦《タスキ》肩巾《ヒレ》【肩巾、此(ヲハ)云比例(ト)】並|莫服《ナセソ》。文武紀云【續日本紀】云。慶雲二年夏四月丙寅、先v是(ヨリ)諸國采女(ノ)肩巾田《ヒレダ》依v令停v之、至(テ)v是(ニ)復(ス)v舊(ニ)焉。【領上(ノ)巾被(フレハ)v肩意同】
 
871 得保都必等麻通良佐用比米都麻胡非爾比例布利之用利於返流夜麻能奈《トホツヒトマツラサヨヒメツマコヒニヒレフリシヨリオヘルヤマノナ》
 
上にも注する如く遠津人を待とつゞけて松浦と云事は大かたの枕詞なるを、今は佐用姫が佐提比古が皈るを待におのづから叶へり、源氏の花鳥餘情におちくぼの物語の歌を引て云く、今はとて島漕はなれ行舟も、ひれ振袖を見るぞ悲しき、此も今の歌を取てよめるにや、欽明紀云、調吉士|伊企儺《イキナ》爲v人勇烈、終不2降伏1、由v是見v殺、其妻大(21)葉子亦並見v禽、愴然而歌曰、柯羅倶爾能基能陪※[人偏+爾]陀致底於譜磨故幡比例甫羅須母耶魔等陛武岐底、或有v和曰、柯羅倶爾能基能陪※[人偏+爾]陀陀志於譜磨故幡、比禮甫羅須彌喩那※[人偏+爾]婆陛武岐底、これは佐用姫より先立て、夫義ありて死し、妻は異郷の敵の手に在て領巾振けれ、悲しき事相似て猶まさるばかりなれど佐用姫が名は松浦山とともに高く、大葉子が事は任那國の如く隔れり、今佐用姫が別の悲しひをあらはさんとて例に引て并せ案ず、
 
初、とほつ人まつらさよひめ 遠き人を待とつゝけたるこゝろ上に注せるうへに、これは狹手彦の歸らるゝを待ことにやかてかなへり。欽明紀云。調《ツキノ》吉士|伊企儺《イキナ》爲v人(ト)勇(ク)烈終不2降伏1。〇由(テ)v是(ニ)見v殺。〇其妻大葉子亦並見v禽、愴然而歌曰。柯羅倶爾能《カラクニノ・韓國》、基能陪※[人偏+爾]陀致底《キノヘニタチテ・城之邊立》於譜磨故幡《オホハコハ・大葉子》、比例甫羅須彌喩《ヒレフラスミユ・肩巾麾見》、那※[人偏+爾]婆陛武岐底《ナニハヘムキテ・難波方向》。源氏物語花鳥餘情に、おちくほ物かたりの哥を引ていはく。いまはとて嶋こきはなれ行舟もひれる袖をみるそかなしき。さよひめの事、まことにあはれにやさしき事なから、憶良の此哥によりて、世の人あまねくこれをしれり。大葉子か哥は、これよりはるかにさきにて、勇士の死を善道によくせしその妻の、からくににてよめる哥なれは、其かなしひをおもふに、ほねにとほるといへとも、日本紀の哥は、見る人まれに、おほえたる人なけれは、つたふることなし。今こゝに引て、ついてにおなしくつたへ侍らんとなり。きのへは、城之邊なり。ひれふらすもは、ひれふるなり。もは助語なり
 
後人追和
 
誰とも知らず、或本加2歌一首三字1、
 
872 夜麻能奈等伊賓都夏等可母佐用比賣何許能野麻能閉仁必例遠布利家無《ヤマノナトイヒツケトカモサヨヒメカコノヤマノヘニヒレヲフリケム》
 
ヤマノヘは山の上なり、佐用姫が此にして領巾ふる事はひれふりを以て山の名とせよとの意なりける歟となり、
 
初、このやまのへに 此山の上になり
 
最後人追和
 
(22)或本加2歌一首之三字1、
 
873 余呂豆余爾可多利津夏等之許能多氣仁比例布利家良之麻通羅佐用殯面《ヨロツヨニカタリツケトシコノタケニヒレフリケラシマツラサヨヒメ》
 
カタリツケトシのし〔右○〕助語なり、
 
初、このたけに 此嶽になり。たけのたもし、いつよりにこりそめけむ。たけは多加にて、高しといふことをもて名付たりと聞ゆ。元亨釋書第五、叡山皇慶傳云。上(ルニ)2嶽頂(ニ)1小竹叢(カリ)生(フ)。兒【皇慶爲2兒童1初上2叡嶽1也。】復問之。答曰大嶽也。兒曰何有2小竹1乎。【嶽(ト)竹(ト)和語相近。】和語に、はしめよりにこることなし。風《カゼ》水《ミヅ》藤《フヂ》葛《クズ》なとのたくひ、下につくもしは、濁るもおほし。はしめより少々にこる事あるは、あるひは、もろこしの音をやかて和語に用ゐ、又はあやまりをつたふるなり。又良里留連呂、此いつもしを、はしめにをける和語なし。たゝ等の字を良とよめど、それもそれ/\といひて、等取付る時、下につく詞なり。又祝詞の中に、祖の字を呂岐とよめど、それも神祖《カムロキ》とつゝきて下にあり。はなれて呂岐とのみいへることをきかす。事のついて、おもひ出るまゝに附て申侍るなり
 
最最後追和二首
 
官本後下有v人、或本和下有v歌、
 
874 宇奈波良能意吉由久布禰遠可弊禮等加比禮布良斯家武麻都良佐欲比賣《ウナハラノオキユクフネヲカヘレトカヒレフラシケムマツラサヨヒメ》
 
フラシケムはふりけむなり、
 
875 由久布禰遠布利等騰尾加禰伊加婆加利故保斯苦阿利家武麻都良佐欲比賣《ユクフネヲフリトトミカネイカハカリコホシクアリケムマツラサヨヒメ》
 
(23)トヽミはとゞめ〔三字右○〕なり、こほしくは戀しくなり、並如v上、
 
初、ふりとゝみかね ひれにて、ふりとゝめかねなり。こほしくは、上の梅の哥の中にもありて注せしことく、こひしきなり
 
書殿餞酒日倭歌四首
 
此は大伴卿、都へ還り上らるゝを憶良の餞宴を設けらるゝ日の歌なり、書殿と云事は筑前守館は憶良の私の家にあらざる故なり、餞、説文曰、送v去也、徐曰、以2酒食1送也、四首は此宴に預る人々のよめる歟、然らば一々の作者知がたし、終に憶良上とあるは七首に通じて云へる歟、聊布2私懷1と云三首に限るべき歟、憶良も別を惜む一首をよまれざる事あるまじけれど四首の中に有歟、
 
初、書殿餞酒日 餞(ハ)説文曰。送v去也。徐曰以2酒食1送也。玉篇云。自剪切。送(ルニ)v行(ヲ)設(ル)宴也。これは天平二年十二月、帥大伴卿、大納言に任せられて都へのほらるゝ時、憶良、書院にむまのはなむけせらるゝ時の哥なり
 
876 阿摩等夫夜等利爾母賀母夜美夜故摩提意久利摩遠志弖等比可弊流母能《アマトフヤトリニモカモヤミヤコマテオクリマヲシテトヒカヘルモノ》
 
阿摩、【官本、摩作v麻、】
 
オクリマヲシテは送申てなり、トヒカヘルモノは飛還らむ物をなり、文選廿三王粲贈2蔡子篤1詩云、苟非2鴻※[周+鳥]1、孰飛飜、雖2則追慕1、予(カ)思罔v宣、遊仙窟云、但令d2翅羽1爲v人生u、會些高飛共v君去、
 
初、あまとふや鳥にもかもや 文選王粲贈2蔡子篤(ニ)1詩云。翼々(タル)飛鳥、載(ハチ)飛載東(ス)。我友云(ニ)徂(ク)。言(ニ)戻《イタル》2舊邦(ニ)1。〇苟(ニ)非2鴻〓(ニ)1。孰(カ)能飛翻(セム)。雖2則追慕(スト)1、予思罔v宣(ルコト)。遊仙窟曰。但令d2翅羽(ヲ)1爲(ニ)v人(ノ)生(セ)u、會些《カナラス》高飛(テ)共(ニ)v君(ト)去(ン)。欽明紀云。別《コトニ》遺《マタシテ》3使(ノ)迅(コト)如(ナルヲ)2飛鳥(ノ)1、
 
(24)877 比等母禰能字良夫禮遠留爾多都多都夜麻美麻知可豆加婆和周良志奈牟迦《ヒトモネノウラフレヲルニタツタツヤマミマチカツカハワスラシナムカ》
 
多都多都夜麻、【官本、後都滅v之、】
 
多都多都夜麻は仙覺抄にも立田山とありて衍文ありとも注せられざれば古本には後の都なかりけるにや、あらば疑なき衍文なり、ヒトモネは毛と牟は通ずれば一棟と云へる歟、家を數ふる時一軒二軒なども云へば一家の人と云意にや、又美奈と母禰と共に通ずれば人皆のと云へる歟、又古事記開化天皇段云、次(ニ)山代之大筒木眞若(ノ)王、娶2同母(ノ)弟伊理泥王之女|母泥《モネ》能阿治佐波※[田+比]賣1生2子|迦邇《カニ》來雷王1云云、此阿治佐波※[田+比]賣と云名の上の母泥能とあるは所の名歟、いかなる心とも知らず、若今の母禰此と同じくば疑しきを闕べし、愚案の中には一棟近かるべき歟、ウラフレは顯昭物思ひあはしたる意と云へり、集中多し、楚辭に※[立心偏+屯]々をウラフルと點ぜり、注に愁貌とあれば古今秘注に云へる此に叶へり、下の句は御馬近づかば忘なんかとなり、留守の人々一家こぞりて侍侘てうなだれ居る所に、先立て早立田山を越給ひて御馬近付ぬと告るを聞ては久しく侘つる憂をも皆忘れなん歟となり、
 
初、ひともねのうらふれをるに 管見抄に、ひともねは人皆なり。もねみな共に五音かよへりといへり。今案一棟といふことにて、一家の心にてもあるへきにや。うらふれをるは、うれへて居る心なり。此集にあまたよめる詞なり。古今集に、秋はきにうらふれをれは足曳の山下とよみ鹿の鳴らん。多都多都夜麻は、後の都の字あまれり。みまちかつかはゝ、御馬近つかはなり。わすらしなんかは、わすれなん歟なり。一家の人、かへりのほりたまふを待わひてあらんに、龍田山に御馬近つきぬと告きこえは、年ころのうれへをも、わすれんとなり
 
(25)878 伊比都々母能知許曾斯良米等乃斯久母佐夫志計米夜母吉美伊麻佐受斯弖《イヒツヽモノチコソシラメトノシクモサフシケメヤモキミイマサスシテ》
 
一二の句の意は、出立給はむ別のきは、其後の事をも今より想像て云へども、誠には別て後こそ能知らめなり、三四の句は又二義あるべし、一つには毛と乃と同韻にて通ずれば、トノシクモは乏しくもにてすくなくさびしからむや、多くさびしからむなり、二つには孝謙紀云、寶字三年六月庚戌、詔云、又此家自【久母】藤原卿等【乎波、】掛畏聖天皇御世重?於母自門自慈賜上《アケ》賜來家【奈利】此詔の中に家しくもとある類にて、帥殿にておはしますが殿しければ、おはしまさぬもこと人に別たらむよりは殿しくより所を失ひてさびしからむやとなり、此時は末を兼て云へば唯疑て決せずして置なり、
 
初、いひつゝも後こそしらめとのしくもさふしけめやも君いまさすして
いひつゝも後こそしらめとは、立出たまはん別のきは、その後の事を、今よりおもひやりていへとも、まことには、別て後こそよくしらめなり。とのしくを、管見抄にともしくなり。のともとは同韵なりといへり。さふしはさひしなり。第四卷にありき。ふとひと五音かよへり。さふしけめやものてにをはは、藥はむともまたをちめやもとさきに有し哥の所にいへることし。さひしからんやとのみ聞てさてあるへし。今の世の哥ならは、さひしからめやさひしくはあらしと聞ゆるゆへに、本意にそむくなり。今案とのしくは、殿しくといふ詞にや。殿めきたる君がましまさずはさひしからむとなり。孝謙紀寶字二年六月庚戌詔云。又此家|自《シ》【久母】藤原乃|卿等《キミタチ》【乎波】掛畏聖天皇《カケマクモカシコキヒシリノスメラミコトノ》御世重※[氏/一]、於母自岐人乃|自《ヨリ》門波|慈《ウツクシヒ》賜比、上《アケ》賜來流家【奈利。】此みことのりに、家しくもとあるにおなし心なるへきにや。又此集第十九に、立わかれ君かいまさはしきしまの人はわれしくいはひてまたむ。これも面々われこそとおもひての心なり
 
879 余呂豆余爾伊麻志多麻比提阿米能志多麻乎志多麻波禰美加度佐良受弖《ヨロツヨニイマシタマヒテアメノシタマヲシタマハネミカトサラステ》
 
麻乎志、【官本云、乎、異本作v于、】
 
初、よろつよにいましたまひて 天か下まをしたまはねは申たまひねなり。第二卷高市皇子の薨したまひし時、人まろのいたみ奉てよまれし哥にも、やすみしゝわか大君の天の下まをしたまへはよろつよにしかしもあらんとなとよめり。天下の政をとりをこなふをいへり。關白をゝかれしも、その心の名なり。みかとさらずては、都の朝廷をさらすしてなり。我《ワカ》みかとゝ日本國をさしていふは、ひろくいへり。今はせはくかきりて、禁中をいへり
 
(26)聊布私懷歌三首
 
【官本、聊改作v敢、】聊は今の本然るべきにや、此三首は七十に餘て外任に居る事を憂て大伴卿に歸洛の吹擧をあつらふるなり、
 
初、聊|布《ノフル》私懷哥 これもおなし時、憶良のよまれたれとも、さきの哥は、離別の情をのへ、此哥ともは、七十にあまるまて、外任にをることをうれへて、大伴卿の吹擧をあふくなり
 
880 阿麻社迦留比奈爾伊都等世周麻比都都美夜故能提夫利和周良延爾家利《アマサカルヒナニイツトセスマヒツヽミヤコノテフリワスラエニケリ》
 
五年と云へるは神龜三年に筑前國司と成られけるなるべし、孝謙紀云、寶字二年冬十月甲子、勅云、頃年國司交替、皆以2四年1爲v限、斯則適足v勞v民、未v可2以化1、自今以後、宜d以2六歳1爲v限、承和二年七月、勅云、以2四年1可v爲2任限1、但陸奧出羽太宰是去2官國1、始v自2筑前等1僻在2千里1、以2五箇年(ヲ)1可v爲2任限1、孝謙天皇の詔には頃年皆以2四年1爲v限とあれども、天平の初まではそれより久しかりける歟、熊凝が志を下によまれたる天平三年の歌も猶筑前守にてよまれたれば、此五年と云へるは首尾五年に亘るを云て、任限はまだ果ざるべけれど餘命少なき身なれば歸京を急がるゝなるべし、都ノテブリは都のふるまひなり、忘ラエはわすられなり、禮と江と通ずる事上の如し、神代紀下云、此兩首(27)歌辭今號2夷曲1、
 
初、あまさかるひなにいつとせ 神龜三年に、筑前守を拜せられたるなるへし。孝謙紀云。寶字二年冬十月甲子、勅云。頃年國司交替皆以2四年1爲v限、斯則適(ニ)足(レリ)v勞(スルニ)v民(ヲ)。未v可(ラ)2以化(ス)1。自v今以後宜(シク)2以2六歳(ヲ)1爲1v限(ト)。【略抄。】承和元年七月勅云。以2四年(ヲ)1可v爲2任(ノ)限1。但陸奥、出羽、太宰是(ヲ)云2官國(ト)1。始(テ)v自2筑前等1僻(テ)在2千里(ニ)1。以2五箇年1可v爲2任(ノ)限(ト)1。寶字二年の詔に、頃年國司交替皆以2四年1爲v限とあれとも、天平の初まては、それより久しかりけるなるへし。頃年とは、天平の末よりの事にこそ。今四年なれは、始終は、五年にわたることはりなれとも、憶艮は今年も任はてすして、春さらはならの都にめさげたまはねとよみ、下に大伴熊凝か、天平三年六月相撲使某か從人にて、肥前より都へ上る時、安藝國佐伯郡にて煩出して死ける事をいたみてよまれたる哥も、猶筑前守たる時なれは、其年歸洛せられたりとも、六年にわたれは、全五年の任なり。承和元年の勅に、始v自2筑前等1僻在2千里1以2五箇年1可v爲2任限1と定させたまひけるは、六年の長きと、尋常の國の短きとの間を取、昔にかへりて、五年にかきらせたまへる歟。今の心は、任の限の期を過るにはあるましけれと、餘命かきりあれは、歸洛をいそかるゝなり。都のてふりは、都のふるまひなり。神代紀下云。此|兩首歌辭今《フタウタハイマ》號《ナツク》2夷曲《ヒナフリト》1。これはゐなかの風俗なり。古今集に、あふみふり、しはつ山ふりなといふも、其國其所のふるまひなり。わすらゑにけりは、わすられにけりなり。れとゑ同韵なるうへに、ゑはれの本韵なるゆへに、わすらゑにけりとはよめり
 
881 加久能未夜伊吉豆伎遠良牟阿良多麻能吉倍由久等志乃可伎利斯良受提《カクノミヤイキツキヲラムアラタマノキヘユクトシノカキリシラステ》
 
第二の句は、長き息を吐《ツキ》居らむなり、キヘユクは上にも有し來經行なり、
 
初、あら玉のきえ行とし 古事記に、尾張國|美夜受比賣《ミヤスヒメ》の哥には、あら玉の月は消ゆくともよめり。詩には、魚竿消v日酒消v憂なとも作れり。年月の空しく過るは、雪氷なとの、次第にきえゆくことなれはなり。吉惠由久とかゝるへきを、いかて吉倍とはかゝれけむ。同韵のゆへにや。植の字を、此集には宇惠とのみかけるを、さきの三十二首の梅の哥の中に、誰かは有倍志とかきたれは、一概すへからさるものなり
 
882 阿我農斯能美多麻多麻比弖波流佐良婆奈良能美夜故爾※[口+羊]佐)宜多麻波禰《アカノシノミタマタマヒテハルサラハナラノミヤコニメサケタマハネ》
 
農斯、【官本云、ヌシ、】
 
農斯をノシと點ぜるをも通せばぬし〔二字右○〕なれども、官本に隨て讀べし、上の挽歌の中に、しらぬひのつくしと云へるぬ〔右○〕にも此農をかけり、大人とも卿とも君ともかきて日本紀にウシとよめるは主の訓と通じて同じ意なれど、いまだ乃之と云へるを見及ばず、我主とは大伴卿を敬て云へり、ミタマ賜ヒテは日本紀に神祇之靈天皇之頼などある如く靈威を我に假したまへとなり、メサケタマハネは之阿反佐なれば、めしあげたまへなり、我を捨ず御志を賜はり、よきに奏して春にもならば我を奈良の京(28)へ召上させたまへとたのみ入るなり、
 
初、あがのしのみたまたまひて あかのしは我|主《ヌシ》なり。わが主君といふことし。此集に奴の字をのともよみ、農の字を、ぬともよめることめつらしからねは、すなはちあがぬしともよむへし。日本紀に、大人とかきても、又君といふ字をも、うしとよめり。うしは、ぬしといふにおなし詞なり。なりひらのぬし、つらゆきのぬしなとやうにいふ此心なり。みたまは御魂なり。さてたましゐは心なり。御心さし給はりてといふ心なり。日本紀に、神祇之|靈《ミタマ》、天皇之|頼《ミタマノフユ》なといへるかことし。春さらは、梅の哥の中に、春されはといふことを注し侍し。それは春になりていへは、春くれはといふ心に、春されはといへり。これはしはすの歌なれは、春さらはといへり。春されはといふ詞、もし春にしあれはといふ心ならは、此春さらばの詞、かなひかたし。めさけは召上なり。之阿(ノ)切佐なるゆへに、めしあけを、めさけとはいへり。たまはねは、たまひねなり。又たまはれにても有へし。禮と禰と同韻にて、通すれはなり
 
天平二年十二月六日筑前國司山上憶良謹上
 
三島王後退和松浦佐用嬪面歌一首
 
光仁紀云、從四位下三島王之女河邊王葛王配2伊豆國1、至v是皆復2屬籍1、又云、寶龜二年九月甲申朔丙申、從四位上三嶋王之男林王、賜2姓山邊眞人1、此外未v考、徒四位上下未v知2孰是1、
 
初、三島王 光仁紀云。從四位下三島王(ノ)之女河邊(ノ)王葛(ノ)王(ヲ)配2伊豆(ノ)國(ニ)1。至(テ)v是(ニ)皆復(ス)2屬籍(ニ)1
 
883 於登爾吉伎目爾波伊麻大見受佐容比賣我必禮布理伎等敷吉民萬通良楊滿《オトニキキメニハイマタミスサヨヒメカヒレフリキトフキミマツラヤマ》
 
必禮布理伎等敷はひれふりきと云なり、此に付て登以反は知なれば何と云を何ちふと云ひ又知と?と二四相温じてちふ〔二字右○〕を移ててふ〔二字右○〕とも云へば、二五相通してちふ〔二字右○〕をとふ〔二字右○〕と云歟、又等〔右○〕はてにをはのと〔右○〕にて、おもふを上畧してもふ〔二字右○〕と云如く敷《フ》はいふ〔二字右○〕を上略せるか、第十四にも、烏てふ〔二字右○〕大をそ鳥と云べきを烏とふ〔二字右○〕とよめり、上の兩義往ては同じ事なれど初の意得やうに少替れる所あるなり、後の義を用べし、
 
初、ひれふりきとふ ひれふりきといふなり。それにとりて、いふを上畧して、ふとのみいへりとも、こゝろうへし。又登以(ノ)切知なるを、二五相通して、とふといへりともいふへし。おなしやうなることにて、すこしかはれり。第十四に、からすとふ大おぞ鳥とよめるも、これにおなし
 
(29)大伴君熊凝歌二首【大典麻田陽春作】
 
熊凝が事下に見えたり、神功皇后紀に熊之凝と云人あり、聖徳太子熊凝精舍を建てたまへるは和州の地の名なり、熊凝と云は故ある名なるべし、
 
884 國遠伎路乃長手遠意保保斯久許布夜須疑南巳等騰比母奈久《クニトホキミチノナカテヲオホヽシクコフヤスキナムコトヽヒモナク》
 
許布夜、【官本、許改v計、】
 
コフヤは布と比と通ずれば戀やなり、上にも、もゝ鳥の聲のこほしきとよめるに准ふべし、第三に人丸の、ひなの長路をこひくればとよまれたる歌の意なり、
 
初、國遠きみちの長手を おぼゝしくは、欝の字なり。おぼ/\しくにて、おほつかなきなり。こふや過なんは、これにふたつのやうあるへし。ひとつには、今日や過なんなり。計と古と五音かよへり。ふたつには、戀や過なんなり。布と比と又通せり。さきにも、こほしきと有つれは、後《・戀やなり》につくへし。熊凝か事は下にくはし
 
885 朝露乃既夜須伎我身比等國爾須疑加弖奴可母意夜能目遠保利《アサツユノケヤスキワカミヒトクニニスキカテヌカモオヤノメヲホリ》
 
ヒトクニは他國なり、スギガテヌは過あへぬなり、此詞上にも有き、親ノ目ヲ欲は第四の君が目をほりとよめるに注せしが如し、
 
初、朝露のけやすきわかみ けやすきは、きえやすきなり。幾叡《キエノ》切|氣《ケ》なり。ひとくには、此集に他國とかけり。此ひとくにといふは、此裟婆に對して、黄泉をいへるなるへし。しからすは、次の憶良の序と哥とをみるに、親にさきだゝむことをなけゝるに、二首なから常の旅をはよむへからす。過かてぬは、過あへぬなり。不勝といふ詞、さき/\に注せり。おやのめをほりは、おやをみまくほりしてなり。欲の字をほるとよめり。第四の藤原郎女か哥にくはしく注しつ
 
(30) 筑前國司守山上憶良敬和、爲2熊凝1述2其志1歌六首并序
大伴君熊凝者、肥後國|益城《マシキ》郡人也、年十八歳、以2天平三年六月十七日1、爲2相撲使1、某 國司官位姓名從人 參2向京都1、爲v天不v幸、在v路獲v疾、即於2安藝國|佐伯《サヘキ》郡高庭驛家1身故也、臨v終之時、長歎息曰、傳聞、假合之身易v滅、泡沫之命難v駐、所以千聖已去、百賢不v留、况乎凡愚微者、何能逃避、但我老親、並在2菴室1待v我過v日、自有2傷v心之恨1、望v我違v時、必致2喪v明之泣1、哀哉我父、痛哉我母、不v患2一身向v死之途1、唯悲2二〓在v生之苦1、今日長別、何世得v覲、乃作2歌六首1而死、其歌曰、
 
肥前〔二字右○〕之前〔右○〕、官本改作v後、和名云、肥後國益城、【萬志岐國府、】今本誤必矣、身故也〔三字右○〕、今按疑身下脱v物耶、假令之身易v滅〔六字右○〕、官本令作v合、當v依v此也、千聖已去、百賢不v留〔八字右○〕、論語、子曰、自v古皆有v死、列子云、十年亦死、百年亦死、仁聖亦死、凶愚亦死、生則堯舜、死則腐骨、生則桀紂、死則腐骨、一矣、孰知2其異1、史記范雎列傳云、且以2五帝之聖1焉而死、三王之仁焉而死、五伯之賢焉(31)而死。烏獲任鄙之力焉而死。成荊孟賁王慶忌夏育之勇焉而死、死者人之所2必1v免也、古詩云、萬歳更相送、聖賢寞2能度1、古蒿里歌云、蒿里誰家地、聚2斂魂魄1無2賢愚1、必致2喪v明之泣1〔六字右○〕、檀弓上云、子夏喪2其子1而喪2其明1、唯悲二説〔四字右○〕、【官本改v説作v親、當v依v此、】乃作2歌六首1而死〔七字右○〕、實憶良擴2熊凝之孝心1而代而作也、
 
初、相撲 和名集云。漢武故事云。角觝【了禮(ノ)反。訓與v突司】今相撲(ナリ)也。王隱晋書云。相撲【撲音蒲各反。和名須末比】下伎也。すまひといふ和語は、すまふといふ用の詞を、體になして名付たるへし。遊仙窟に、推の字、禁の字、共に、すまふとよめり。すまふといふは、た|ふ《ヲ》さんとするを、たふれしとするやうなるをいへり。伊勢物語に、女もいやしけれはすまふちからなし。後拾遺集に、前律師慶暹
  秋風におれしとすまふをみなへしいくたひのへにおきふしぬらん
佐伯郡。日本武尊、蝦夷《エミシ》をたひらけたまひて、生捕たまへるものともを、安藝阿波讃岐播磨等の國へ、わかち遣して、置せたまへり。又仁徳天皇の御時、兎餓《ツゲ》野の鹿を射て、苞苴《ニエ》にたてまつりける佐伯郡の某をも、安藝國へ、遠さけ遣されけれは、このふたつの内のゆへにて、置れたる佐伯郡なるへし。身故也。これをは、身ことありとよむへき歟。案するに、身の下に、物の字をおとせるなるへし。物(ハ)無(ナリ)也。故(ハ)事(ナリ)也。死すれは又事を能する所なけれは、物故といふ。委は此卷の初、大伴卿報2凶問1哥の詞書に、禍故重畳といへるに付て注せり。長歎息。文選劉公幹公讌詩曰。投(テ)v翰(ヲ)長大息(ス)。屈原離騷云。長《トコシナヘニ》太息(シテ)以|掩《ノコフ》v涕(ヲ)兮。後漢書曰。良久歎息(ス)。張平子思玄武賦曰。顧2金天(ヲ)1而歎息(ス)兮。泡沫【泡(ハ)浮泡如3包2裹物1沫(ハ)微少如2細末1。】金剛般若経云。一切有爲(ノ)法(ハ)如(ク)2夢(ト)幻(ト)泡(ト)影(トノ)1、如(ク)v露(ノ)亦(タ)如(シ)v電(ノ)。應v作2如(ノ)v是觀1。千聖百賢。古詩云。萬歳更(ニ)相送、聖賢莫2能度(ルコト)1。史記范雎列傳云 且以(ミルニ)五帝之聖(ナツシモ)焉而(モ)死(キ)。三王之仁(ナツシモ)焉而(モ)死(キ)。五伯之賢(ナツシモ)焉而(モ)死(キ)。烏獲任鄙(カ)之力(アツシモ)焉而(モ)死(キ)。成荊孟賁王慶忌夏育(カ)之勇(ナツシモ)焉而(モ)死(キ)。死者人之所2必(ラス)不(ル)1v免(レ)也。列子云。十年(モ)亦死(ス)。百年(モ)亦死(ス)。仁聖(モ)亦死(ス)。凶愚(モ)亦死(ス)。生(ルトキハ)則堯舜(ナレトモ)、死(スルトキハ)則腐骨(ナリ)。生(ルトキハ)則桀紂(ナレトモ)、死則腐骨(ナリ)。一(ナリ)矣孰(カ)知(ン)2其異(ヲ)1。望我違時。三體詩註引2戰國策1云。王孫賈(カ)之母謂v賈曰、汝朝(ニ)出(テヽ)晩來(ルタモ)吾則倚(テ)v門(ニ)而望(ム)v汝(ヲ)。喪明(ハ)、禮記檀弓上云。子夏喪2其子1而喪(ナフ)2其明(ヲ)1。過日、違時。景行紀云。日本武(ノ)尊|崩《カンアカリマシヌ》2于能褒野(ニ)1。〇天皇聞之。〇大歎之曰。〇忍v愛以入2賊《アタノ》境(ニ)1、一日(モ)之無v不v顧。是以朝夕|進退《サマヨヒテ》佇《ツマタチ》2待(ツ)還(ラン)日(ヲ)1。何(ノ)禍(ソモ)兮何(ノ)罪(ソモ)兮。不意之間《ユクリモナク》倏亡《アカラメサスコト》2我子(ヲ)1。唯悲二親。【親誤作説】
 
886 宇和比佐受宮弊能保留等多羅知斯夜波波何手波奈例常斯良奴國乃意久迦袁百重山越弖須疑由伎伊都斯可母京師乎美武等意母比都都迦多良比袁禮騰意乃何身志伊多波斯計禮婆玉桙乃道乃麻尾爾久佐太袁利志婆刀利志伎提等計自母能宇知許伊布志提意母比都都奈宜伎布勢良久國爾阿良婆父刀利美麻之家爾阿良婆母刀利美麻志世間波迦久乃尾奈良志伊奴時母能道爾布斯弖夜伊能知周(32)疑南《ウチヒサスミヤヘノホルトタラチシヤハヽカテハナレツネシラヌクニノオクカヲモヽヘヤマコエテスキユキイツシカモミヤコヲミムトオモヒツヽカタラヒヲレトオノカミシイタハシケレハタマホコノミチノマニクサタヲリシハトリシキテトケシモノウチコイフシテオモヒツヽナケキフセラククニニアラハチヽトリミマシイヘニアラハハヽトリミマシヨノナカハカクノミナラシイヌシモノミチニフシテヤイノチスキナム》 一云、和何余須疑奈牟《ワカヨスキナム》
 
袁禮騰、【校本、袁或作v遠】  道乃麻尾爾、【官本、乃下有v久、】  志波、【別校本波作v婆、】
 
内日刺宮ヘノホルとは都へ上るなり、第三に坂上郎女が新羅尼理願が死を痛める歌には、内日刺都しみゝと讀たれば宮と都ともとは同じ詞なり、タラチシヤは母と云はん爲の枕詞なり、別注v之、常シラヌは熊凝十八歳にてよのつね旅と云ことをば知らざりし意なり、國ノオクカは、行末の意なり、カタラヒヌレドは傍輩は語りて慰居れどもなり、第十二にも物語して心やりとよめり、己ガ身シのし〔右○〕は助語なり、イタハシケレバとは煩ひ痛むなり、道乃麻尾爾は官本に久麻尾爾とあるに依るべし、今の本は久の字を脱せり、久麻は隈なり、尾は住吉の岸の浦箕などよめる箕の如し、箕はまがる意なれば隈と云に向じやうの詞なり、草タヲリ、シバ取シキテは旅寢のあはれなる樣なり、左傳云、齊晏桓子卒、晏嬰寢v※[竹/占]枕v草、又云、楚伍擧將v奔v晉、聲子將v如v晉遇2之於鄭郊1、班v荊相與食、文選江文通別賦云、可2班荊兮贈1v恨、李周翰曰、班、布也、日本紀云、藉v草班v荊、等計自母能、宇知許伊布志提〔等計〜右○〕、第三に家持の妾を失てよまれたる歌に、空蝉のかれる身なればとけじもの、消行が如くなどつゞきたるこそあれ、此つゞき(33)意得がたし、若此は等許自母能にてしばを取しきてそれを床とするとよめるを許を計に寫したがへけるにや、チヽ取見マシは執看ましの意なり、取まかなひて看病せましなり、犬シ物は犬は道に打臥物なれば道に臥てやと云はむためなり、
 
初、うちひさす宮へのほると 宮殿のかまへは高けれは、内に日のさしいる宮といふ心なり。班孟堅西都賦云。上(ケ)2反宇《ソレルノキヲ》1以蓋載《・フケリ》(ト)。激《ソヽイテ》2日景(ヲ)1而|納《イル》v光(ヲ)。張平子(カ)西京賦(ニ)云。流2景曜(ノ)之〓々(ト)1。左太沖(カ)魏都賦云。〓日籠2光(ヲ)於綺寮(ニ)1。又云。陽靈停(メ)2曜(ヲ)於其表(ニ)1、陰祇|濛《クラウス》2霧(ヲ)於其裏(ニ)1。何晏(カ)景幅殿賦(ニ)云。晃光内(ニ)照(シテ)流景外(ニ)〓《テル》。又云。爾乃|文《カサルニ》以(シ)2朱緑(ヲ)1飾(ルニ)以(シ)2碧丹(ヲ)1、點(スルニ)以(シ)2銀黄(ヲ)1、〓《テラスニ》以(シ)2琅〓(ヲ)1、光明〓〓(ト)、文彩〓班(ト)。清風萃而成v響(ヲ)、朝日曜(テ)而増(ス)v鮮(ナルコトヲ)。をのつからこれらの心なり。こゝに宮といへるは都なり。都といふ名も、宮より出たるへし。みやけといふにおなしき歟。たらちしやはゝか手はなれ、たらちしは、常にたらちねといふ詞なり。又たらちめともいへり。母の乳味をたれて、やしなひ立らるゝによりての名なり。此集に、これならて猶たらちしといへるに、爲の字をしとよめり。乳味を垂るゝ事をする母といふ心なれは、助語にはあらすと見えたり。俗におやの手をはなるゝ、おやのふところをはなるゝなといへり。熊凝十八歳なれは、似合たる詞なり。第十一に、にたらちねのはゝか手そきてかくはかりすへなきことはいまたせなくにとよめり。常しらぬ國のおくか、常しらぬはまだ若けれは、常にも遠き他國をはしらぬなり。國のおくかは遠き心なり。かの奥州をは、道の奥といふかことし。上にいふかことく、おくかは行末の心なり。かたらひをれと、傍輩とかたりてなくさみゐれともなり。をのかみしいたはしけれは、しは助語なり。いたはしきはわつらひいたむなり。道乃麻尾爾、管見抄に道のまに/\とあるを正とすへし。今の本にてはみちのまみになれは、心得かたし。尾は尼の誤れるにて、麻の字の今ひとつおちたるなり。草たをりしは取しきて、旋寝のあはれなるなり。日本紀云。藉《マクラトシ》v草《カヤヲ》班《シキヰトス》v荊《シハヲ》。とけしもの打こいふして、管見抄に、とけしもは、霜の解るやうに打ふして、命しぬるよしなりといへり。とかきて、又の料簡に、床しものといふ心歟。床にふすといふことかと聞えたり。今案初の説心得かたし。第三卷に、家特の妾みまかりける後、よまれたる哥に、うつせみのかれる身なれはとけしものきえゆくかことくあし引の山ちをさして入日なすかくれにしかはなとよまれたるこそ、よくきこゆれ。とけしものうちこいふすとつゝきたるを、霜のとくるやうに、打ふして命しぬるよしとは、心はさることにて、句のさまつゝかす。後の床し物といふ心歟といへるは、計と古と五音相通の意にていへり。されとも、床をとけといふ事例なし。是は等許を、許の字を誤て計に作れるなるへし。さてやかて後の心なり。草をまくらとし、柴とりしきて、それをたひねの床として、打ふすなり。こいはさきにも有しことく、反の字展の字をよめり。なけきふせらく、景行紀云。日本武尊逮2于|能褒《ノホ》野1而痛甚之。因遣2吉備武彦1奏2之於天皇1臼。冀《ネカヒシク》曷(レノ)日曷(ノ)時|復2命《カヘリコトマウサント》天朝《ミカトニ》1。然|天命《イノチノカキリ》忽至隙(ノ)駟《ヒカリ》難v停。是以獨臥2曠野《アラノラニ》1無2誰(ニモ)語之1。豈惜(ンヤ)2身(ノ)亡《ウセンコトヲ》1唯愁|v不v面《マナタリツカウマツラスナリヌルコトヲ》。くにゝあらは父とりみまし家にあらは母取見まし。毛詩曰。父荊生v我、母荊|鞠《ヤシナフ》v我、撫v我|畜《ツタテ》v我、長《ヒトヽナシ》v我(ヲ)育《ハクヽミ》v我(ヲ)、顧v我(ヲ)復《カヘサフシ》v我、出入|腹《イタク》v我。欲v報2之徳1、昊天罔v極。世の中はかくのみならし。生者必滅、會者常離、愛別離苦、これそのことはり、世のならひとしてかくのみにあるらしなり。いぬしもの、犬し物なり。 犬は道にもうちふせは、道にふしてやといはむためなり
 
887 多良知遲能波波何目美受提意保保斯久伊豆知武伎提可阿我和可留良武《タラチシノハヽカメミステオホヽシクイツチムキテカアカワカルラム》
 
多良知遲、【官本、遲作v子云、異本作v遲、】
 
遲の字にし〔右○〕の音不審なり、
 
初、多良知遲 たらちゝとよむへきを、たらちしとよめるは、相通の心歟。遲の字に志の音あるか。未考
 
888 都禰斯良農道乃長手袁久禮久禮等伊可爾可由迦牟可利弖波奈斯爾《ツネシラヌミチノナカテヲクレクレトイカニカユカムカリテハナシニ》 一云|可例比波奈之爾《カレヒハナシニ》
 
クレ/\トとは遙なるに云詞なり、俗にクレハルカと云も是なり、可利弖は借代にて宿など借直にとらする物なり、物のあたひを手と云故に俗に酒錢を酒代《サカテ》といへり、仁徳紀に雌鳥皇女を誅し給ふ時、佐伯直阿俄能胡潜に皇女の持給へる玉を取ける事あらはれて殺さむとし給ふ時、阿俄能胡私地を獻て死罪を免れん事を請ける(34)時、彼地を納て赦し給ふに依て故地を玉代と名づくと云へり、菅家萬葉にクッテと云に沓代と書たまへり、借代ハナシニとは熊凝が父母の家貧しくして途中の用意もすくなき由不便の樣を述たり、一云、可例比波奈之爾とはカレヒは餉の字にてかれいひなり、
 
初、くれ/\と 世俗にもいと遠き所をは、くれはるかなと申めり。くれ/\とも、野くれ山くれなともいへり。又俗にくれ/\といふなと申は、くりかへし、その事をいふ心なり。此くれ/\といふ詞も、糸をくりかへすに、なかくて限りなき心にて、いひそめたる詞にもや侍らん。かりてはなしにとは、旅に宿をかりて、其かはりに、宿ぬしにとらする錢のことなり。此ての字に、日本紀に代《・玉代地名》の字をかけり。菅家萬葉集にも、沓代《クツテ》とかゝせたまへり。ほとゝきすの哥なり。一本かれひはなしには、かれいひはなしになり。餉の字なり。二首なから現在の旅なり。冥路にはあらす
 
889 家爾阿利弖波波何刀利美婆奈具佐牟流許許呂波阿良麻志斯奈婆利農等母《イヘニアリテハハカトリミハナクサムルココロハアラマシシナハシヌトモ》 一云|能知波志奴等母《ノチハシヌトモ》
 
890 出弖由伎斯日乎可俗閉都都家布家布等阿袁麻多周良武知知波波良波母《イテヽユキシヒヲカソヘツヽケフケフトアヲマタスラムチヽハヽラハモ》 一云|波波我迦奈斯佐《ハヽカカナシサ》
 
阿乎は吾をなり、マタスランは侍らむなり、父母等ハモは父母はいづらやと問て嘆く心なり、
 
初、あをまたすらん あはあれなり。われとおなし。またすらんは、只待らんなり
 
891 一世爾波二遍美延農知知波波袁意伎弖夜奈何久阿我和加禮南《ヒトヨニハフタヽヒミエヌチチハヽヲオキテヤナカクアカワカレナム》 一云|相別南《アヒワカレナム》
 
初、一世には 六首なから熊凝か本意をよく得て、孝の心ふかく、あはれによまれたり
 
(35)貪窮問答歌一首并短歌
 
892 風離雨布流欲乃雨雜雪布流欲波爲部母奈久寒之安禮婆堅鹽乎取都豆之呂比糟湯酒宇知須須呂比弖之可夫可比鼻※[田+比]之※[田+比]之爾志可登阿良農比宜可伎撫而安禮乎於伎弖人者安良自等富己呂陪騰寒之安禮婆麻被引可賀布利布可多衣安里能許等其等伎曾倍騰毛寒夜須良乎和禮欲利母貧人乃父母波飢寒良牟妻子等波乞乞泣良牟此時者伊可爾之都都可汝代者和多流天地者比呂之等伊倍杼安我多米波狹也奈理奴流日月波安可之等伊倍騰安我多米波照哉多麻波奴人皆可吾耳也之可流和久良婆爾比等等波(36)安流乎比等奈美爾安禮母作乎綿毛奈伎布可多衣乃美留乃其等和和氣佐我禮流可可布能尾肩爾打懸布勢伊保能麻宜伊保乃内爾直土爾藁解敷而父母波枕乃可多爾妻子等母波足乃方爾圍居而憂吟可麻度柔播火氣布伎多弖受許之伎爾波久毛能須可伎弖飯炊事毛和須禮提奴延鳥乃能杼與比居爾伊等乃伎提短物乎端伎流等云之如楚取五十戸良我許惠波寝屋度麻※[人偏+弖]來立呼比奴可久婆可里須部奈伎物能可世間乃道《カセマシリアメフルヨノアメマシリユキフルヨハスヘモナクサムクシアレハカタシホヲトリツヽシロヒカスユサケウチスヽロヒテシカフカヒヒヒシヒシニシカトアラヌヒケカキナテテアレヲオキテヒトハアラシトホコロヘトサムクシアレハアサフスマヒキカカフリヌノカタキヌアリノコトコトキソヘトモサムキヨスラヲワレヨリモマツシキヒトノチチハハハウヘサムカラムメコトモハコヒテナクラムコノトキハイカニシツツカナカヨハワタルアメツチハヒロシトイヘトアカタメハセハクヤナリヌルヒツキハアカシトイヘトアカタメハテリヤタマハヌヒトミナカワレノミヤシカルワクラハニヒトトハアルヲヒトナミニアレモツクルワタモナキヲヌノカタキヌノミルノコトワワケサカレルカヽフノミカタニウチカケフセイホノマキイホノウチニヒタツチニワラトキシキテチヽハヽハマクラノカタニメコトモハアトノカタニカコミヰテウレヘサマヨヒカマトニハケフリフキタテスコシキニハクモノスカキテイヒカシクコトモワスレテヌエトリノノトヨヒヲルニイトノキテミシカキモノヲハシキルトイヘルカコトク トルイトラカコヱハネヤトマテキタテヨハヒヌカクハカリスヘナキモノカヨノナカノミチ》
 
風離、【官本、離作v雜、當v依v之、】  之波夫可比、【校本、或之作v波、】  寒夜須良乎、【校本、サムキヨスラヲ、】  可可布能尾、【官本、尾v美、】  圍居而、【別校本亦云、カクミヰテ、】  火氣布伎多弖受、【幽齋本亦云、ホノケフキタテス、】  五十戸良、【別校本亦云、イヘラ、】 
 
(37)風離は今の本誤れり、風雜に作れるに依るべし、堅鹽は和名集云、崔禹錫食經云、石鹽一名白鹽、又有2黒鹽1、今按俗呼2黒鹽1爲2堅鹽1、日本紀私記云、堅鹽、木多師是也、延喜式大膳上云釋奠祭料石鹽十顆、考徳紀云、皇太子妃蘇我造媛、聞2父大臣爲v鹽所1v斬心痛※[立心偏+宛]惡v聞2鹽名(ヲ)1、所以《ユヘニ》近侍2於造媛1者名2稱鹽名1改曰2堅鹽1、大和物語に貧しき家に人をもてなす事を云に、堅い鹽肴にして酒を呑飲せてとかけり、取ツヽシロヒは面々に箸を取てそゝぐ意なるべし、江次第第七六月晦日節折装束次第云、縫殿寮官人舁2豆々志呂比(ノ)御服1云云、此豆々志呂比とはいかなる事にか、若是今の都豆之呂比も同詞にて別の意あるか、糟湯酒ウチスヽロヒテは、酒こそ寒氣を防ぐ物なれど誠の酒もなければ酒の糟を湯に※[者/火]て打〓るなり、貧きことの有樣なり、越後の國に冬の夜の中にも、寒き夜鮭を取漁夫等、酒を飲ては還てこゞゆる由にて寒くなれば幾度となく此糟湯酒をすゝりて業をなすとぞ承る、シカフカヒはしはふきなり、か〔右○〕とは〔右○〕と同韻なればしはふかひと云に同じ、遊仙窟云、十娘曰、兒近來患v※[病垂/漱の旁]、鼻ヒシ/\は糟の氣の鼻に入て鼻梁の痛むやうに覺ゆる事あるを云なるべし、シカトアラヌヒゲカキ撫而とは、然々ともなき髭を掻撫るなり、第八にも、しかとあらぬ五百代小田とよめり、文選劉佰倫が酒徳頌云、奮v髯※[足+其]踞、傲慢の躰なり、枕草子に云く、また酒を飲てあかきくち(38)をさぐり、ひげあるものはそれをなで云云、アレヲオキテ、人ハアヲジトホコロヘド、孟子曰、如欲v平2治天下1、當2今之世1舍v我其誰也、ほころへどはほこれどなり、引カヽフリは引被りなり、第二十防人が歌にも、かしこきやみことかゝふりとよめり、布肩衣はぬのきぬの短くて肩ばかりの掩ふやうなるを云なり、別に肩衣と名づくる物にはあるべからず、アリノコト/\は有ほどを悉くなり、寒夜スラヲは寒き夜さへをの意なり、夜スラモとあるは寫生の誤なるべし、乞乞は乞弖をあやまてる歟、孟子云、今也制2民之産(ヲ)1、仰不v足3以事(ルニ)2父母(ニ)1、俯不v足3以畜2妻子1、樂歳(ニモ)終v身(ヲ)苦(シミ)、凶年(ニハ)不v免2於死亡(ニ)1、此惟救v死而恐v不v贍、奚暇v治2禮儀(ヲ)1哉、天地ハ廣シト云ヘドアガタメハ、狹ヤナリヌル、此狹は今按古語に任てサクとよむべし、文選應休※[王+連]與2廣川長岑文瑜1書云、宇宙雖v廣無2陰以憩1、歐陽堅石臨終詩云、恢々六合間、四海一何寛、天網布2紘網1、投v足不v獲v安、日月波、安可之等伊倍騰、安我多米波、照哉多麻波奴、人皆可、吾耳也之可流〔日月〜右○〕、文選劉公幹贈2徐幹1詩云、仰視2白日(ノ)光1、※[白+檄の旁]々高且懸、兼燭2八紘内1、物類無2頗偏1、我獨抱2深感1、不v得2與比1v焉、ワクラハニ人トハアルヲ、わくらははたま/\の意なり、四十二章經云、佛言、人離2惡道1得v爲v人、人ナミニアレモ作ルヲとは田など作るなり、ミルノゴト、ワヽケサカレル、カヽフノミ、海松のごととは布衣のやれて端々のさがりたる樣を譬ていへり、わゝけはやれて(39)颯たるを云べし、第八に秋はぎのうれわゝら葉ともよめり、かゝふは袖中抄云、世俗に蛬はつゞりさせ、かゝは拾はむと鳴と云へり、かゝはとは絹布のやれて何にもすべくもなきを云也、それらはわらうつ作るに加へて作ればつよきなり、かゝはわらうつと云、又足などを物に踏ききりるには其さいでの端を繩のやうになひて火をつけて其疵を※[火+爰]むるをばかゝは火と云なりといへり、布と波とかよへば彼抄のかゝは〔三字右○〕は此かゝふ〔三字右○〕なり、フセイホノ、マキイホノ内ニとは、ふせいほは第十六河村王歌注に、田廬者多夫世反といへり、廬の字をやがていほりともよめる、ふせもいほも同じ心なり、戰國策注、廬田間屋と云ひ、又字書には粗屋之惣名とも云へり、和語の意は押臥せたるやうなればふせいほ、田ふせ、ふせやなど云名は付たるなるべし、麻宜伊保は今の點よからず、マケイホとよむべし、枉れるいほなり、柱など朽てよろぼひたる家なり、ヒタツチニ、ワラトキシキテとは、すがきもなき家のひたすら土の上に藁を敷たるなり、三輔決録云、孫農、宇元公、家貧織v席爲v業、明2詩書1爲2京兆功曹1、冬月無v被、有2藁一束1、暮(ニ)臥(テ)朝收(ム)、カマトニハ、火氣フキタテス、此火氣を集中處々にケブリと點ずる事今の如し、然るを幽齋本の又の點にホノケと點ぜるも謂れたるか、催馬樂にも海人のとねらがたくほのけと云へり、煙も火氣なれば義訓、叶はぬにはあらねど今は(40)火の氣もなしと云はむ、殊に貧しき家を云に似つかはし、又此卷はやすらかに、字をも假名をもかけり、其間下の好去好來歌には兩處までよむべきやうの自注をさへ加へらる、然れば火氣、もしケフリならば反云v煙など注すべし、然らざればホノケと點ぜる謂あるかと申すなり、コシキニハ、蜘ノスカキテ、後漢書獨行傳范冉傳云、或寓2息客廬1、或依2宿樹蔭1、如v此十餘年、乃結2草室(ヲ)1而居焉、所v止單陋、有v時絶v粒、窮居自若、言貌無v改、閭里歌v之曰、甑中生v塵范史雲、釜中生v魚范莱蕪云云、飲炊事モワスレテ、史記蘇秦傳、妻不v下v機、嫂不2爲炊1、文選應休※[王+連]與2侍郎曹長思1書云、幸有2袁生1、時歩2玉趾(ヲ)1、※[推/烈火]蘇不v〓、清談而已、ヌエ鳥ノ、ノドヨビヲルニとは、ぬえの喉聲に鳴ごとく貧しき事を打うめきて歎くをやがて譬のぬえの上にて云へり、イトノキテはいとゞしくの意なるべし、此下にもよみ、第十二第十四にもよめる、皆いとゞしくと云に通じて聞ゆ、短物ヲ以下三句は下の沈痾自哀文云、諺曰、痛瘡灌漑v鹽、短木截v端、今も此心なり、楚取五十戸良我許惠波、此楚取に付て、八雲抄にはすえだとるとよませたまひて是は木末なりと注せさせたまひたれど五十戸良我聲とつゞく心顯はれず、仙覺はたかのとるとよみてイトラをうづらなりと釋せらる、或はスハエトリ、或はシバトリ、或はイタメトルなど點ぜる本あり、何れもおぼつかなし、今按第四の高田女王歌に君伊之哭者(41)痛寸取物、此落句を今の楚取五十戸良と瓦に證してイタキトルモノと讀べしと申つる如く今もイタキトルイヘラガ聲ハと讀べきか、さていへらは乞丐なるべし、乞食はあまたの家々をめぐりて物を乞て食、されば腹にみつる事あたはねば五十家等と云歟、さて乞食はわびしき聲して乞取れば、いたきとると云歟、又いたく強て乞へばいたき取と云か、光仁紀云、又甞龍潜之時童謠曰、葛城寺前在、豐浦寺西在、於志【止度】刀志【止度】櫻井、白壁【之豆久也、】好壁【之豆久也、】於志【止度】刀志【止度】然爲、國昌【由流也、】 五家【良曾】昌【由流也、】於志【止度】刀志【止度、】于v時井上内夜王爲v妃、識者以爲、井則内親王之名、白壁爲2天皇之諱1、蓋天皇登極之徴也、此中の五家良曾といへるは今の續日本紀衍文脱字多ければ五十家良曾なりけるを十の字を落せるにや、上は國昌え下は乞丐まで昌ゆべしといへるにや、催馬樂にはわはえらをとみせれやと侍れば、五は吾の字の口を脱せるにや、されど催馬樂は證としがたし、既に白壁沈くや好壁しつくやと云へるを白玉しつくや眞白玉しつくやとある類なり、壁を璧と見あやまりけるにや、光仁の御諱は此に云へるのみならず白壁にてまし/\ける故に白髪部氏をも改て眞髪部と呼べきよし桓武紀に見えたり、愚接にて上より云へる意は、いとゞしく短き物を猶其端をきると云如く米もなければ飯炊ぐべきすべもなくて嘆居る處に乞食さへ(42)閨の外まで來て飯給はれといたく乞となり 寢屋度は閨外なり、
 
初、風ましり 雜の字を、誤て離に作れり。下の雨雜を證とす。かたしほを取つゝしろひ、和名集云。崔禹錫食經云。石塩一名白塩。又有2黒塩1。今按俗呼2黒塩1爲2堅塩1。日本紀私記云。堅塩(ハ)木多師是也。延喜式大膳上云。釋奠祭料。石塩《カタシホ》十顆。かくのことく、流布の延喜式に、石塩をかたしほと和點あれとも、和名集に食經を引畢て、黒塩を堅塩といへれは、事たかへり。石塩といふは、今ちひさきつぼにいれてうる、眞白なる塩にや。これはかたまりたるをくたけは、くたけたる氷のことくなれは、一顆二顆ともいふへし。日本紀第二十五云。皇太子(ノ)【天智】妃《ミメ》蘇我|造《ミヤツコ》媛、聞(テ)2父(ノ)大臣爲(ニ)v塩(カ)所(ルト)1v斬(ラ)、傷心|痛※[立心偏+宛]《アツカヒテ》惡v聞2塩(ノ)名(ヲ)1。所以《コノユヘニ》近(ク)侍2於造媛1者名2稱塩名1改(テ)曰2堅塩《キタシト》1。これは、造媛の父山田大臣、弟(ノ)日向かために〓《シコチ》られて、みつから〓死《ワナナキテミマカリ》給ひぬ。日向物部(ノ)造《ミウアツコ》塩をよひて、大臣の頭をきらしめたるゆへに、造媛塩の名を聞ことをもきらひたまへるゆへに、其媛にちかくつかふる女房なと、常の塩をも、塩とはいはて、きたしといへるとなり。しからは、延喜式のことく、石塩を昔はきたしといひけるを、此ことのもとより、黒塩をもきたしといひけるがつたはりて、天暦の比も、きたしといひけるにや。今の世も、塩をやきて出す所によりて、すこし白きと黒きとはあれとも、名を黒白とわかつへしとは見えす。彼壺塩を、白塩とも、石塩ともいひ、常の塩を、それに對して、黒塩といふ歟。大和物語にも、かたいしほ《・塩》さかなにして酒をのませてと、おちふれたる人の事をかけり。きたしは、かたしほのほを畧して、かときとは、五音相通していへるにや。日本紀を見るに、用明天皇の御母の名を、きたしひめと申けるにも、竪塩姫とかけり。此國にも、奥州の會津のあたりには、塩のわき出る井有とうけ給はる。大唐には、おほきよしなり。史記貨殖傳云。倚頓(ハ)用2〓鹽1起。索隱(ニ)曰。〓音古。按周禮〓人云共2苦塩1。杜子春以爲苦讀如2〓鹽1。謂出塩直用不v練也。一説云〓鹽河東(ノ)大塩散塩。東海(ニハ)煮水爲v塩也。正義曰。河東塩池(ハ)是畦塩作畦苦種韮一畦天雨下2池中1、鹹淡得v均、即〓池中水上畔中深一尺許、坑日暴v之五六日則成v塩。若2白礬石1。大小如2雙陸1。及v暮則呼爲2畦塩1。或有2花塩1、緑黄河塩池有2八九所1、而塩州有2鳥池1、猶出2三色塩1、有2井塩畦塩花塩1。其池中鑿v井深一二尺去v泥即到v塩掘取。若至2一丈1則著2平石1無v塩矣。其色或(ハ)白或(ハ)青黒。名曰2井塩畦塩1。若河東者花塩池中有下隨而大小成v塩、其下方〓空上頭隨兩下池中、其滴高起若2塔子形1處曰2花塩1。亦曰即成塩焉池中|心《ソコニ》有泉井水淡所作池、人馬盡汲2此井1、其塩四分入v官一分入2百姓1也。池中又鑿2得塩坑1闊一尺餘高二尺。白色光明洞徹。年貢之也。又云山東食2海鹽1。山西食2塩鹵1。【正義曰。謂西方鹹地也。堅且鹹。而出2石鹽及地鹽1。】嶺南沙北固(ニ)往《トコロ》々出v塩。とりつゝしろひはつきしろふなり。面々箸取てつゝきあふことなり。江次第々七、六月晦日|節折《ヨヲリノ》裝束次第云。縫殿寮官人舁2豆々志呂比(ノ)御服1。このつゝしろひの御服とはいかなるを申にか、見及ふまゝにつゝしろふといふ詞につきて思ひ出たり。かすゆさけ打すゝろひて。酒の糟を水に漬て、〓て打すゝるなり。貧しきことのありさまなり。越後の國に、冬鮭をとる漁翁とも、酒をのめはこゝえてたへず。寒くなれは、いくたひとなく、此かすゆさけ打すゝりて、わさをなすにこゞえすとかや。しかぶかひはしはふきするなり。はとかと同韻なれは、しはふかひといふへきを、しかふかひとはいへり。遊仙窟云。十娘曰|兒《ワラハ》近來|患〓《・シハフキヤミス》。はなひし/\に、管見抄に、鼻ひるなり。ひし/\はかさね言なり。糟湯にむせたる有さまなりといへり。ひし/\をは、鼻ひをし/\と心得たるなるへし。今案これは糟の氣の鼻に入て、鼻梁のいたむやうにおほゆることあるをいふにや。又此集第十三に、此床のひしとなるまてとよめり。源氏物語夕〓に、もやのきはにたてたる屏風のかみ、こゝかしこのくま/\しくおほえたまふに、ものゝあしをとひし/\とふみならしつゝ、うしろよりくるこゝろす。同總角に、よひすこし過るほとに、風のをとあらゝかにうちふくに、はかなきさまなるしとみなとは、ひし/\とまきるゝ音に、人のしのひたまふるふるまひは、えきゝつけたまはしとおもひて云々。これらにつきておもへは、むせてしはふきし、鼻のなるなり。しかとあらぬ髭かきなてゝ、しかとあらぬは、俗にしかともなきといふ詞なり。第八にも、しかとあらぬいほしろ小田をかりみたれとよめり。文選劉伯倫か酒徳頌云。奮(テ)v髯(ヲ)〓踞(ス)。〓慢の躰なり、あれをおきて人はあらしとほころへと。垂仁紀云。都怒我阿羅斯等《ツノカアラシトカ》曰。傳聞日本國有2聖皇1。以歸化之到2于穴門(ニ)1時其國有v人名2伊都々比古(ト)1。謂v臣《ヤツカレニ》曰。吾(ハ)則是(ノ)國(ノ)王《キミナリ》也。除《オイテ》v吾(ヲ)復|無《アランヤ》2二(ノ)王《キミ》1。故|勿2往《イソ》他《アタシ》處(ニ)1。然臣|究《ツラ/\》見(ルニ)2其爲《ナリヲ》1v人(ト)必知v非v王(ニ)也。孟子曰。如《モシ》欲(ハ)3平2治(セマク)天下(ヲ)1當(テ)2今之世(ニ)1舍《ステヽ》v我(ヲ)其(レ)誰(ソヤ)也。枕草子にいはく。また酒のみて、あかきくちをさくり、ひけあるものは、それをなて云々。ほころへとは、ほこれともなり。あさふすまひきかゝふりは、引かふりなり。ぬのかたきぬありのこと/\、肩衣は、つれ/\草に、かたきぬなとのさふらはぬにやとかけるかたきぬにて、昔も有ける衣裳の名にや。管見抄に、ぬのきぬのみしかくて、肩はかりにきるやうなるなり。これにて侍るへし。かはかりまつしき人、肩衣もし衣裳の名ならは、ありのこと/\かなはす。ありのこと/\は、ありとあるを、こと/\くなり。きそへともは、きよそへともなり。ちゝはゝはうえさむからむ。孟子云。今也制(ス)2民之産(ヲ)1仰(テ)不v足3以事(ルニ)2父母(ニ)1、俯(シテ)不v足3以畜(ナフニ)2妻子(ヲ)1、樂歳(ニモ)終(ルマテ)v身苦(シヒ)、凶年(ニハ)不v免(カレ)2於死亡(ニ)1、此(レ)惟救(テ)v死(ヲ)而恐v不v贍《タラ》。奚(ノ)暇(マアテカ)治(メンヤ)2禮儀(ヲ)1哉。韓退之(カ)進學解、冬暖而兒|號《サケビ》v寒《コイタリト》、年|登《ミノレトモ》而妻啼v飢(タリト)。乞乞は乞弖《コヒテ》なるへし。あめつちはひろしといへと、文選歐陽堅石(カ)臨終詩云。恢々(タル)六合(ノ)間、四海一(ニ)何(ソ)寛(キ)。天網布2紘網(ヲ)1、投《イルヽニ》v足不v獲v安(コトヲ)。應休※[王+連]與2廣川長岑文瑜(ニ)1書云。宇宙雖v廣(ト)無2陰(ノ)以〓(フヘキ)1。月日はあかしといへと。詩〓カゼ云。日居月諸、照2臨(ス)下土(ニ)1【集註曰。呼而訴v之也。】文選劉公幹贈2徐幹1詩。仰視2白日光1、※[白+檄の旁]々(シテ)高|且《マタ》懸(レリ)。兼(テ)燭(ム)2八紘之内1、物類無2頗偏1、我(レ)獨抱(テ)2深感(ヲ)1、不v得2與比(スルコトヲ)1v焉(ニ)。人みなか、われのみやしかる。古今集に、よのなかは昔よりやはうかりけむわかみひとつのためになれるか。わくらはに人とはあるを。わくらはゝまれなることなり。第九にも、人となる事はかたきをわくらはになれるわかみはなとよめり。二所ともに和久良婆爾とかきたれは、はの字音は濁てよみけるなるへし。古今集にも、行平の哥に、わくらはにとふ人あらはとよめり。人身の得かたきことは、四十二章経云。彿(ノ)言人離(レテ)2惡道(ヲ)1得(ルコト)v爲《ナルコトヲ》v人(ト)難(シ)。あるひは爪上の土よりもすくなしと説、あるひは天より絲をおろして海底の針孔をつらぬくよりもかたしと説り
人なみにあれもつくるを。人なみ/\に我も田なとをつくれともなり。ぬのかたきぬのみるのことわゝけさかれるかゝふのみ。ぬのきぬのやれほつれて、そのはし/\の海松のことくにさかれるなり。第十六無心所著哥に懸有【懸有(ハ)反《カヘシテ》云2佐家禮流(ト)1。】かゝふとはつゝりの名なり。ふせいほの、ふせやなり。第十六河村王哥注云。田廬者多夫世反といへり。戰國策云。廬田〓舍【盧田間屋。〓(ハ)廊下(ノ)周屋。】まきいほは、麻宜とかきたれは、きの字にこるへし。まかりいほにて、よろばひゆかめるなり。又さきに憶良のならのみやこにめさげたまはねといふ哥に、めさけを、※[口+羊]佐宜とかきたれは、こゝをもすなはちまげいほとよむへし。ひたつちにわらときしきて、ひたすらの土邊なり。すかきもなき家なり。三輔決録云。孫晨字(ハ)元公。家貧(シテ)織(ヲ)v席(ヲ)爲(ス)v業(ト)。明(ナリ)2詩書(ニ)1。爲2京兆(ノ)功曹(ト)1。冬月無v被有2藁一束1暮(ニ)臥(テ)朝(ニ)收(ム)。ちゝはゝは枕のかたにめこともはあとのかたに、禮記檀弓曰。曾子寢v疾病(ナリ)。樂正子春坐(リ)2於牀(ノ)下《モトニ》1、曾元曾中坐2於|足《アシモト・アトモト》1、童子隅(ニ)坐(テ)而執v燭。こしきには蜘のすかきて。蒙求云。後漢范冉字(ハ)史雲、桓帝時爲2莱蕪(ノ)長(ト)1。家貧(シテ)有(テ)v時根粒盡(レトモ)常(ニ)自若(ナリ)。閭里歌(テ)之曰。甑(ノ)中(ニ)生(ス)v塵(ヲ)范史雲、釜中(ニ)生(ス)v魚(ヲ)范來蕪。いひかしく事もわすれて。史記蘇秦傳(ニ)、妻(ハ)不v下v機(ヨリ)、嫂(ハ)不2爲(ニ)炊1。文選應休※[王+連]與2侍郎曹長思1書云。幸有2袁生1、時歩2玉趾1。樵蘇(シテ)不v〓、清談(スラク)而已。ぬえ鳥ののとよひをるに、第一卷軍王の哥に注せることし。かの鳥のゝどこゑに鳴ことく、さまよひなけくなり。さまよふはなけきてうめくことなれは、ぬえ鳥のゝとこゑ、よくかなへり。第十の七夕の哥にも二首あり。いとのきては、いとゝといふ詞ときこゆ。下の三十七葉、第十二卷第十四卷にもあり。いとゝになしてきくに、皆かなへり。みしかき物をはしきる、下の沈痾自哀文云。諺曰痛(キ)瘡《キスニ》灌(キ)v塩(ヲ)短(キ)材(ニ)截(ル)v端。今もこの心なり。楚取、八雲御抄には、此楚の字を、すえたとよませたまひて、これは木末なりと注せさせたまへり。管見抄には、たかのとるとよめり。今案すはえとよむへし。俗にすもしを濁ていへり。毛詩周南漢廣篇云。翹々(タル)錯(ハレル)薪、言《ワレ》刈(ン)2其(ノ)楚《スハエヲ》1。箋曰。楚(ハ)雑薪之中(ノ)尤長(シテ)翹々然(タル)者。史記廉頗藺相如列傳云。廉頗聞v之肉袒(シテ)負v荊《スハエヲ》【索隱曰。負v荊者荊(ハ)楚也。可2以爲1v鞭也。】いとらか聲、これはいつれの鳥とも心得かたし。管見抄には、五音相通の心にて、うつらといへとも、すはえとるとつゝけたれは、それともきこえす。もしいひとよの事にや0和名集云。張華博物志云。〓〓鳥【休留(ノ)二音。漢語抄云。以比止與。】人截2手足(ノ)爪(ヲ)1棄(ルトキハ)v地(ニ)則入2其家1拾取之。皇極紀云。三年三月休留【休留(ハ)茅鴟也】産《コウメリ》2子於豊浦《トヨラノ》大臣(ノ)大津(ノ)宅(ノ)倉(ニ)1。事文類聚(ニ)曰。魏元忠公正寛厚(ニシテ)不v信2邪鬼(ヲ)1未v達時。〇又夜有2〓〓1鳴2於屋端1。家人將(ニ)v弾v之。公曰。彼(レ)晝不v見v物(ヲ)、故夜飛(フ)。此亦天地所v有。不v可(ラ)v使(ム)2南(ノカタ)適v越(ニ)北(カタ)走(ラ)1v胡(ニ)。何(ソ)須《モチヰン》v傷(ルコトヲ)v之(ヲ)。事文類聚に載たるは、趙宋の代の事にて、後のことなれと、引合ておもふに、まつしきものゝ、なけきてのみあるに、うれはしきねなきする、いひとよらまて、ねやのそとまてくるを、みしかき木の、猶はしきるにたとへたるなるへし
(初稿本巻十八「あしはらのみつほの國を天くたり」ノ条ニ附箋シテ「此卷むつかしきかきやうなしあとまくらといへと足はたゝあしとよめるなるへし」トアリ。今仮ニコヽニ附載ス。)
 
893 世間乎宇之等夜佐之等於母倍杼母飛立可禰都鳥爾之安良禰婆《ヨノナカヲウシトヤサシトオモヘトモトヒタチカネツトリニシアラネハ》
 
ヤサシトは論語云、邦有v道貧且賤焉恥也、此意なり、飛立カネチは毛詩栢舟云、靜言思v之(ヲ)、不v能2奮飛1、魏文帝雜詩云、願v飛安得v翼、欲v濟河無v梁、
 
初、うしとやさしとうしは※[厭のがんだれなし]の字をかけり。うけれはいとはしきゆへなり。やさしは、上にもいひつることくはつかしきなり。論語曰。邦有(ルトキ)v道貧(シテ)且(ツ)賤(ハ)焉恥(ナリ)也。このこゝろか。さらても常の人の心なり。飛たちかねつは毛詩栢舟(ニ)日。靜(ニ)言《ワレ》思(ヘトモ)v之(ヲ)、不v能2奮飛(スルコト)1。文選魏文帝(ノ)雜詩云。願(ヘトモ)v飛(コトヲ)安(ソ)得(ム)v翼(ヲ)、欲(スレト)v濟(ラント)河(ニ)無v梁《ハシ》
 
山上憶良頓首謹上
 
これは次の好去好來歌を遣唐使に贈らるゝ書禮なるべければ高く書べきか、但終に謹上の詞あれば此は貧窮問答歌を人に示さるゝ時の詞歟、
 
好去好來歌一首 反歌二首
 
好去好來は旅人を祝の詞なり、事もなくよくて往還せよとなり、是は歌の後の年月の記、大唐大使とあるに依て考るに丹比眞人廣成に贈らるゝなり、聖武紀云、天平五年三月戊午、遣唐大使從四位上多治比眞人廣成等拜朝、閏三月癸巳、遣唐大使多治比眞人廣成辭見授2節刀1、夏四月己亥、遣唐四船自2難波津1進發、此時の歌は第(43)八第九第十九にもあり、壞風藻云、從三位中納言丹※[土+穉の旁]眞人廣成三首、
 
初、好來好去歌 これは天平五年に多治比眞人廣成、遣唐使にて出立るへきに、憶良のよみてをくらるゝなり。好の字は、つねのことくよしとも、又日本紀には、さきくともよみたり。いつれにても、つゐにはおなしこゝろなり。つゝみなくさきくいましてはやかへりませと、ゝめられたれは、さきくといふにつくへし。聖武紀云。天平五年三月戊午、遣唐大使從四位上多治比眞人廣成等拜朝。閏三月癸巳遣唐大使多治比眞人廣成辭見。授2節刀1。夏四月己亥、遣唐四舩自2難波津1進發
 
894 神代欲理云傳久良久虚見通倭國者皇神能伊都久志吉國言靈能佐吉播布國等加多利繼伊比都賀比計理今世能人母許等期等目前爾見在知在人佐播爾滿弖播阿禮等母高光日御朝廷神奈我良愛能盛爾天下奏多麻比志家子等撰多麻比天勅旨《カミヨヨリイヒツテクラクソラニミツヤマトノクニハスヘカミノイツクシキクニコトタマノサキハフクニトカタリツキイヒツカヒケリイマノヨノヒトモコトコトメノマヘニミマチマヒトサハニミチテハアレトモタカテラスヒノミカトニハカミナカラメクミノサカリニアメノシタマウシタマヒシイヘノコトエラヒタマヒテオホミコト》【反云大命】戴持弖唐能遠境爾都加播佐禮麻加利伊麻勢宇奈原能邊爾母奧爾母神豆麻利宇志播吉伊麻須諸能大御神等舩舳爾《ノセモタシメテモロコシノトホキサカヒニツカハサレマカリイマセウナハラノヘニモオキニモカミツマリウシハキイマスモロ/\ノオホミカミタチフナノヘニ》【反云布奈能閇爾】道引麻志遠天地能大御神等倭大國靈久堅能阿麻能見虚喩阿麻賀氣利見渡多麻比事了還日者又更大御神等舩舳爾御手打掛弖墨繩袁播倍多(44)留期等久阿庭可遠志智可能岫欲利大伴御津濱備爾多大泊爾美舩播將泊都都美無久佐伎久伊麻志弖速歸坐勢ミチヒキマシヲアメツチノオホミカミタチヤマトナルオホクニミタマヒサカタノアマノミソラユアマカケリミワタシタマヒコトヲヘテカヘラムヒニハマタサラニオホミカミタチフナノヘニミテウチカケテスミナハヲハヘタルコトクアヲカヲシチカノクキヨリオホトモノミツノハマヘニタタハテニミフネハハテムツヽミナクサキクイマシテハヤカヘリマセ》
 
云傳介良久、【官本、介作v久、點云クラク、】  見在知在、【別校本云、ミマシシリマシ、】
 
云傳ケラクは云ひ來らくなり、けりと云詞に來の字をかけり、虚見通はソラミツとも讀べし、皇神ノイツクシキ國とは嚴の字をいつくしともよみて嚴重にましますを云へり、言靈は第十一第十三にもよめり、いふ詞に靈驗あるなり、假令(バ)神武天皇の賊虜を撃たまはむとて萬の物名を嚴《イヅ》の何と名付させたまへるが如し、サキハフはさいはふなり、伊と吉同韻の字なればさきはひと云ふべきをさいはひとは云ふなり、されば言に魂ありて祝へばさいはひある國となり、云ヒツガヒケリは、云ひ續けりなり、是は下に好去好來と祝はむとての序なり、見在知在をミマシテマスと點ぜるは、今按此點あやまれり、ミマシヽリマスと讀べし、是は今世ノと云より下の四句は言靈のさきはふ國といふ事は唯神代より云ひ傳ふるのみならず、今の人も現前に是を見たまひ是を知と云て祝ふ事に益あるを決するなり、別校本にミマシヽリマシとあるは上をばいひつがひけりにて云ひ終りて今世のと云ふよりまた一段(45)の初と見たるにや、しからず、高光は今按タカヒカルと讀むべし、古事紀に美夜受比賣の日本式尊に答へたまふ歌に、多迦比迦流比能美古、夜須美斯志和賀意富岐美云云、また雄略天皇后三重妹が歌の御かへしにも、多加比加流比能美古爾、登余美岐多弖麻都良勢云云、タカテラスもあしからねど古語の傍例もかゝれば、字のまゝによむべきなり、天下奏たまひし家、左大臣多治比眞人嶋の子孫なる故に云へり、文武紀云、大寶元年七月壬辰、左大臣正二位多治比眞人嶋薨、大臣宜化天皇之玄孫、多治比王之子也、宣化紀云、元年二月壬寅朔、有司請v立2皇后1、己酉詔曰、立2前|正妃《ムカヒメ》億計天皇女橘仲皇女1爲2皇后1、是生2一男三女1、長曰2石姫皇女1、次曰2小石姫皇女1、次曰2倉稚綾姫皇女1、次曰2上殖葉皇子1、亦名椀子、是丹比公偉那公凡二姓之|先《オヤ》也、天武紀云、十三年冬十月己卯朔、賜2眞人姓1勅肯の肯は旨に改たむべし、注に反云2大命1とはオホミコトとよめばなり、載持弖は今按載は戴にてイタヾキモチテなるべし、もたしめてならばしかよむ假名の字などあるべし、なきにて戴なるべしと知ぬ、然らばつかはされといふ詞叶はぬと云難來るべきか、家の子と撰たまひて、唐の遠き境につかはされ、大命いたゞき持ちてまかりいませばと意得べし、まかりいませばと云はぬは例の古風なり、神ヅマリは神あつまりのあ〔右○〕を上略せるなり、ウシハキイマスはこの詞に付て先達の一兩(46)義あれどみな臆説なり、古事記上云、爾天烏船神副2建御雷神1而遣v問2其大國主(ノ)神1言、天照大(ガ)神高木神之命以2問使《使問歟》1之、汝之宇|志波祁流《シハケル》【此五字以v音、】葦原中國、我御子之所v知國言依賜、故汝心奈何、延喜式第八遷却祟神祝詞云、高天之原神【奈我良毛】所知食?神直日大直日給【比?】自此地四方見霽、山川清地遷出坐?、吾地宇【須波伎】坐【世止】進幣帛者明妙照妙和妙荒妙備奉?云云、古事記にはうしはくと云ひ、延喜式にはウスハクと云ひ、此集第六には牛吐とかき、第九には牛掃とかけり、眞名に付假名につきて如何なる意にて如何に定むべしと云事を知らず、唯何となく鎭坐の意ときかば叶ひぬべし、倭はヤマトノと四字に讀べし、ヤマトナルとよまば倭爾有など書べし、大國靈は三輪明神なり、神代紀上云、一書曰、大國主神亦名大物主(ノ)神、亦號2國作大己貴命1、亦曰2葦原醜男1、亦曰2八千戈《ヤチホコノ》神1、亦曰2大國玉神1、亦曰2顯國玉神1、アマカケリ見渡タマヒは、延喜式出雲國造神賀詞云、出雲臣等遠祖天穗比命國體見遺時、天八重雲押別?天翔國翔?天下見廻?返事申給、事了還日者〔五字右○〕、神功皇后紀云、事竟還日産2於茲土1、墨繩ヲハヘタルゴトク、和名集云、内典云、端直不v曲、猶如2繩墨1、【涅槃經文也、繩墨、和名、須美奈波、】離騷云、※[立心偏+面]2規矩1而改、錯背2繩墨1、【繩墨、引繩彈v墨、以取v直者、】雄略紀云、婀※[手偏+色]羅斯|枳《キ》、偉儺謎能陀倶彌柯該志須彌儺※[白+番]《イナメノタクミカケシスミナハ》云云、延喜式八、六月月次の祝詞云、遠國者八十綱打(47)掛而引寄如事云云、アテカヲシはあてがはしにや、物狂はしを物ぐるをしとも云類歟、あてがふは擬の字の意なり、智可能岫ヨリは智可は肥前松浦郡値嘉なり、延喜式追儺祭文云、東方陸奧、西方遠値嘉、南方土左、北方佐渡、云云、肥前風土記云、更勅云、此嶋雖v遠、猶見如v近、可v謂2近嶋1、因曰2値嘉1、或有2一百餘近嶋1、或有2八十餘近嶋1、云云、岫は陸子衡擬古詩云、王鮪懷2河岫1、河にも岫あれば値嘉嶋の岫なるべし、若は岬にて値嘉崎にや、濱備はハマビとよみてはまべと意得べし、タヽハテニは滯なくすぐに舟を泊るなり、ツヽミナクは慎、第六に草つゝみやまひあらせずとよめり、つゝむは身を風寒暑い濕等にあたらじとつゝしむ意にて病なり、うつぼ物語に、いさゝかの足手のつゝかもあらばと書たれば、つゝかはつゝみかと云にて、か〔右○〕はありか、かくれがのか〔右○〕と同じく所の意にてつゝみ所と云にや、
 
初、すへ神のいつくしき國 いつく國といふ心なり。齋の字を、いつくとも、いはふともよめり。いつきかしつくと常いふ詞なり。ことたまのさきはふ國、ことたまといへるも、神靈なり。神も鬼も、惣して目に見えぬ玉しゐのしるしあるをいふなり。さきはふは、幸《サイハヒ》國といふ心なり。さいはひといふ詞も、さきはひなるを、幾と伊と、音通すれは、さいはひといへるがいひよくも、聞よくも有ゆへに、さいはひとのみいひならへり。いひつがひけり。いひつぎけりなり。見まし知ます。此所句なり。天の下まうしたまひし家の子とえらひたまひて、多治比氏は、第三卷丹比眞人笠麻呂の下に注せしことく、宣化天皇の皇子、上殖葉《カムウヘハ》又の名は椀子《マリコノ》皇子と申より出たり。文武紀云。大寶元年七月壬辰、左大臣正二位多治比眞人嶋薨。〇大臣(ハ)、宣化天皇(ノ)之|玄孫《・ヤシハコ》多治比王(ノ)之子也。しかれは、廣成は、左大臣の子か、孫か、もしは甥なとにも有けれは、天か下まうしたまひし家の子といへるなるへし。懷風藻云。從三位中納言丹※[土+穉の旁]眞人廣成三首。此人の極官、これなり。まかりいませ、まかりいませはなり。勅肯、【旨誤作肯。】うなはらのへにも、邊は濱なり。日本紀に、海濱とかきて、うみへたとも、又は、あまはたともよめる、これなり。又此集に、邊の字をすなはちへたとよめり。邊をへとよむは、音をやかて和語に用るにはあるへからす。自然にかよひたるなるへし。又かなたへこなたへといふへの字は、此集に方の字を用たり。神つまりは、あつまりを上畧せる詞なり。神代紀にかんつとひといふに、集の字をかけり。あつまるつどふおなし心なり。神とまりとも、五音を通して心得へけれと、あつまるかたまさるへし。うしはきいますは、ふるき説に、神功皇后三韓をうたんと思しめして、御舟にめして、西の國におもむきたまふに、備前の海にして、ひとつの大牛出來りて、御舟をくつかへさむとす。こゝに住吉の御神、忽に老翁の形にあらはれ出て、件の牛の角をとりて、投倒させたまふ。その所を年|轉《マロヒ》と名つく。今牛〓といふ所これなり。これより神のしるしいますをは、うしはく神とはよむなり。此集の哥に、住のえのわかおほみ神ふなのへにうしはきいましともよめり。上のことをおもひてよめるとそ聞えたる。これ管見抄なり。されと其おこりに、むかし仲哀天皇御宇に、異國より塵輪鬼といふ鬼わか國に來れりなと、うけかたき事ありて、かの牛は塵輪鬼か殺されたる精靈といへれは、われ一向これを信せす。第九に登2筑波嶺1爲2※[女+燿の旁]歌《カヽヒノ》會(ヲ)1日作歌にも、此山乎牛掃神之從來不禁行事叙《コノヤマヲウシハクカミノムカシヨリイサメヌワサソ》とよめり。延喜式第八遷(シ)2却《サクル》崇《タヽリノ》神(ヲ)1祝詞(ニ)云。高天之原爾始志事乎、神【奈我良毛】所知食※[氏/一]、神直日大直日爾直志給【比※[氏/一]】自2此(ノ)地《トコロ》1波、四方乎見霽(カス)山川能清地爾、遷出坐比、吾地止宇【須波伎】坐【世止、】、進|幣帛《ミテクラハ》、明(ル)妙、照(ル)妙、和《ニコ》妙、荒妙爾備奉※[氏/一]云々。此中に、うすはきいませといふと、うしはきいますといふは、須と志と五音通すれは、おなしことなり。吾ところと、うすはきいませといふ心は、わか物と領して、鎭坐したまへといへるやうにきこゆれは、こゝも其定なるへし。牛掃とかけるによりて、好事の者由緒をつくれるなるへし。此うなはらのへにもおきにも神つまりうしはきいますもろ/\の大みかみたちふなのへにみちひかましをといへるは、海にまし/\てまもりたまふ神たちなり。いはゆる住吉《和魂》《・攝津》、志賀《・筑前》、豐浦《荒魂》《・長門》、市杵《イチキ》《遠瀛《トヲツミヤ》》《・安藝》嶋姫、田心《タゴリ》《中瀛《ナカツミヤ》》姫《・筑前宗形》、湍津《タキツ》《海濱《ヘツミヤ》》姫《・宇佐》、これらの神たちなり。みちひかましをとは、神の御事は、人の見すしらぬことなれは、理をもて、推量していへはなり。天地の大御神たち、惣して天神地祇なり。やまとなる大くにみたま、これは別していへり。三輪の明神なり。神代紀上云。一書曰大国|主《ヌシノ》神。亦(ノ)名(ハ)大物主神。亦(ハ)號《マウス》2國作(リ)大|己貴《アナムチノ》命1。亦(ハ)曰《マウス》2葦原醜男《アシハラノシコヲト》1。亦(ハ)曰2八千戈《ヤチホコノ》神(ト)1。亦(ハ)曰2大國玉(ノ)神(ト)1。亦(ハ)曰2顯《ウツシ》國玉(ノ)神1。あまのみそらゆ、みそらよりなり。あまかけりは、天をかけりめくりてなり。延喜式第八、出雲國造神|賀《ホキノ》詞(ニ)云。出雲臣等我遠(ツ)祖、天(ノ)穗比命乎、國(ノ)體《カタ》見爾遣時爾、天能八重雲乎押別※[氏/一]、天翔《アマカケリ》、國翔《クニカケリ》※[氏/一]天下乎見廻※[氏/一]、返事申給久。御手打かけてすみなはをはへたることく、墨繩は、和名集云。内典云。端直(ニシテ)不(ルコト)v曲《マカラ》猶如2繩墨(ノ)1。【涅槃經(ノ)文也。繩墨(ハ)和名須美奈波。】此集第十一の哥に、かにかくに物はおもはすひた人のうつすみなはのたゝひとすちに。雄畧紀に、木工《コノタクミ》猪名部(ノ)眞根《マネ》をころさんとし給ひける時、同伴巧者《アヒタクミ》がおしみてよめる哥に、あたらしき《・おしきなり》ゐなへのたくみかけそすみなはし《・己也》がなけは《・なくは也》たれかゝけんよあたらすみなは。延喜式第八、六月々次祝詞云。遠國者、八十綱《ヤソツナ》打掛而引|寄《ヨスル》如(ク)v事(ノ)云々。はへたるは、うちのはしたる心なり。延の字、はへてとよめり。あてかをしは、あてがはしといふ詞なり。擬の字なり。墨繩を木のもとすゑにあてがふことく、肥前のちかのくきより、なにはのみつの濱へをさして、舟のつかんとなり。ちかのくきより。肥前の國ちかの嶋なり。くきとは其嶋山の岫なり。聖武紀云。大將軍東人等言。進士無位安倍朝臣黒麿以2今月二十三日丙子(ヲ)1捕(ヘ)獲(タリ)賊《アタ》廣嗣(ヲ)於松浦(ノ)郡値嘉(ノ)嶋長野村(ニ)1。又云。廣嗣之船從2知駕(ノ)島1發得2東風1往四箇日行見v島。船上人云。是耽羅島也。于v時東風猶扇船留2海中1不v肯2進行1。漂蕩已經2一日一夜1而西風卒(カニ)起(テ)更(ニ)吹(キ)還v船(ヲ)。〇然猶風波彌甚、遂著2等保知駕《トホチカノ》島色都島1矣。延喜式迫儺祭文云。東方陸奥、西方|遠《トホ》値嘉、南方土左、北方佐渡。仲哀紀云。八年春正月己卯朔壬午、幸2筑紫1。時(ニ)岡(ノ)縣主(カ)祖|熊鰐《クマワニ》聞2天皇(ノ)車駕《オホムタスルヲ・ミユキ》1既而|導《ミチヒキツカマツル》海路(ノ)1。自2山【恐(ハ)血(ノ)訛】鹿(ノ)岬《サキ》1廻(テ)之入(マス)2崗(ノ)浦(ニ)1。○皇后|別船《コトミフネニメシテ》自2洞《クキノ》海1【洞此(ヲハ)云久岐】入(タマフ)之。日本紀并延喜式に、とほちかといふも、ちかの嶋なるへし。くきの海は、筑前なれは、肥前よりは、こなたなるへけれと、海上はちかにもつゝけは、くきといへるは、くきの海にや。知侍らぬ事なれと、あらぬことゝ知も、後學のためにはなるへけれは、しひてはいへるものなり。たゝはてには、すくに舟のつくなり。つゝみなくは、此集に草つゝみやまひあらせすとよみたれは、無v恙といふことなり。無恙は此卷初に有て、すてに注しぬ
 
反歌
 
895 大伴御津松原可吉掃弖和禮立待速歸坐勢《オホトモノミツノマツハラカキハキテワレタチマタムハヤカヘリマセ》
 
速歸坐勢、【別校本亦云、トクカヘリマセ、】
 
カキ掃テは奔走なり、史紀孟子荀卿列傳曰、※[馬+芻]衍如v燕、昭王擁v慧先驅(ス)、
 
初、大伴のみつの松原かきはきて 史記孟子荀卿列傳曰。※[馬+芻]衍如v燕昭王擁v彗先驅。【索隱曰。慧(ハ)帚也。謂爲v之掃v地。以2表袂1擁v帚而却行。恐3塵埃之及2長者1所2以爲1v敬也。】源氏物語椎本に、あしろのひやうふなとの、ことさらに事そきて、みところあるを、さる心してかきはらひ、いといたうしなしたまへり
 
(48)896 難波津爾美舩泊農等吉許延許婆紐解佐氣弖多知婆志利勢武《ナニハツニミフネハテヌトキコエコハヒモトキサケテタチハシリセム》
 
紐解サケテは文選陸士衡、門有2車馬客1行云門有2車馬客1、駕言發2故郷1、念v君久不v歸、濡v跡(ヲ)渉2江湘1、投v袂赴門塗|欖《トツメ》v衣不v及v裳、立ハシリは景行紀云、日本武尊亦進2相模1、欲v往2上總1望v海高言曰、是小海耳、可2立跳渡1、
 
初、ひもときさけてたちはしりせん 景行紀云。日本武尊亦|進《イテマシテ》2相撲(ニ)1欲v往《ミタマハント》2上總(ニ)1望《オセリテ》v海(ヲ)高言《コトアケシテ》曰。是小(サキ)海耳。可2立|跳《ハシリニモ》渡1。毛詩齊風云。東方未v明、顛2倒(ス)衣裳(ヲ)1。顛(シ)之倒(ス)之。自v公召(セハナリ)之。離騷云。何(シ)桀紂(カ)之|昌披《オヒトケヒロケタル・ウハヒホサヘサヽヌ》兮。陸士衡門有車馬客行、門(ニ)有2車馬客1、駕(テ)言《ワレ》發2故郷(ヲ)1。念v君(ヲ)久不v歸(ラ)、濡v跡(ヲ)渉2江湘(ヲ)1、投v袂(ヲ)赴門塗1、欖《トツテ》v衣(ヲ)不v及v裳。欽明紀云。願(ハ)王開v襟《コロモクヒヲ》緩(ヘテ)v帯(ヲ)恬然《シツカニ》自安(シテ)勿(レ)2深疑(カヒ)懼(ルヽコト)1。欽明紀は、常に帶をくつろけて、心をやすくするといふ心なり。ときさけては、ときあけてなり。紐結ふまてもなく、いそき立はしらんとは馳走の心なり
 
天平五年三月一日良宅對面、獻2三日1、山上憶良 謹上
 
良宅とは憶良が宅と云か、又良人の宅にて廣成を褒する辭歟、
 
大唐大使卿記室
 
沈痾自哀文 山上憶良作
 
痾、説文病也、本作v※[病垂/可]、漢書五行傳云、妖※[蘖の木が子]及v人謂2之痾(ト)1、病寢深也、
 
竊以、朝佃2食山野1者、猶無2※[うがんむり/火]害1、而得v度v世、【謂、常執2弓箭1、不v避2六齋1、所v※[がんだれ/自]禽獣、不v論2大小1、孕及不孕、並皆※[殺の異体字](49)食、以v此爲v〓〔左○〕者也、】晝夜釣2漁河海1者、尚有2慶福1、而全v經v俗、【謂、漁夫潜女、各有v所v勤、男者手把2竹竿1、能釣2波浪之上1、女者腰帶2鑿籠1、潜採2深潭之底1者也、】况乎我從2胎生1迄2于今日1、自有2修善之志1、曾無2作v惡之心1、【謂、聞諸惡莫作、諸善奉行之教也、】所以禮2拜三寶1、無2日不1v勤、【毎日誦經、發2露懺悔1也、】敬2重百神1、鮮2夜有1v闕、【謂、敬2拜天地諸神等1也、】嗟乎※[女+鬼]哉、我犯2何罪1、遭2此重疾1、【謂、未v知2過去所v造之罪1、若是現前所v犯之1過、無v犯2罪過1、何獲2此病1乎、】初沈v痾已來、年月稍多、【謂、經2十餘年1也、】是時年七十有四、鬢髪斑白、筋力※[兀+王]羸、不2但年老1、復加2斯病1、諺曰、痛瘡灌v鹽、短材截v端、此之謂也、四支不v動、百節皆疼、身體太重、猶v負2鈞石1、【二十四銖爲2一兩1、十六兩爲2一斤1、三十斤爲2一鈞1、四鈞爲2一石1、合一百二十斤也、】懸v布欲v立如2折翼之鳥1、倚v杖且歩、比2跛足之驢1、吾以身已穿v俗、心思累1v塵、欲v知2禍之所v伏、祟之所1v隱、龜卜之門、巫祝之室、無v不2往問1、若實若妄、隨2其所1v教、奉2幣帛1無(50)v不2祈祷1、然而禰有2増苦1、曾無v減v差、吾聞前代多有2良醫1、救2療蒼生病患1、至v若2楡樹、扁鵲、華他、秦和、緩、葛稚川、陶隱居、張仲景等1、皆是在v世良醫、無v不2除愈1也、扁鵲、【姓秦、字越人、勃海郡人也、割v※[匈/月]採2心腸1而置v之、投以2神藥1、即寤如v平也、】華他、【字無他、沛國※[言+焦]人也、若有v病結積沈重者在v内者、刳v腸取v病、縫復〔左○〕摩v膏、四五日差v之、】追2望件醫1、非2敢所1v及、若逢2聖醫神藥者1、仰願割2刳五藏1、抄2探百病1、尋2達膏肓之※[こざと+奥]處1、【肓※[隔の旁]也、心下爲v膏、攻v之不v可、達v之不v及藥不v至焉、】欲v顯2二竪之逃匿1、【謂、晉景公疾、秦醫緩視而還者、可v謂2爲v鬼所1v※[殺の異体字]也、】命根既盡、終2其天年1尚爲v哀、【聖人賢者、一切含靈、誰免2此道1乎、】何况生録未v半、爲v鬼枉殺、顔色壯年、爲v病横困者乎、在v世大患、孰甚2于此1、
 志恠記云、廣平前太守北海徐玄方之女、年十八歳而死、其靈謂2馮馬子1曰、案2我生録1、當2壽八十餘歳1、今爲2妖鬼1所2枉殺1、(51)已經2四年1、此過2馮馬子1、乃得2更活1、是也、内教云、膽浮洲人、壽百二十歳、謹案2此數1、非2必不1v得v過v此、故壽延經云、有2比丘1、名曰2難達1、臨2命終時1、詣v佛請v壽、則延2十八年1、但善爲者、天地相畢、其壽夭者、業報所v招、隨2其脩短1、而爲v半也、未v盈2斯※[竹/卞]〔左○〕1、而|※[しんにょう+端の旁]死去、故曰v未v半也、任徴君曰、病徒〔左○〕v口入、故君子節2其飲食1、由v斯言v之、人遇2疾病1、不2必妖鬼1、夫醫方諸家之廣説、飲食禁忌之厚〔左○〕訓、知易行難之鈍情、三者盈v目滿v耳、由來久矣、抱朴子曰、人但不v知2其當v死之日1、故不v憂耳、若誠知2羽※[隔の旁+羽]可1v得v延v期者、必將爲v之、以v此而觀、乃知我病、蓋斯飲食所v招、而不v能2自治1者乎、
(52)帛公畧説曰、伏思自※[蠣の旁]、以2斯長生1、生可v貪也、死可v畏也、天地之大徳曰v生、故死人不v及2生鼠1、雖v爲2王侯1、一日絶v氣、積v金如v山、誰爲v富哉、威勢如v海、誰爲v貴哉、遊仙窟曰、九泉下人、一錢不v直、孔子曰受2之於天1、不v可2變易1者形也、受2之於命1、不v可2請益1者壽也【見2鬼谷先生相人書1、】故知生之極貴、命之至重、欲v言言窮、何以言v之、欲v慮々絶、何由慮v之、惟以人無2賢愚1、世無2古今1、咸悉嗟2歎、歳月競流、書夜不1v息、【曾子曰、徃而不v反者年也、宣尼臨川之嘆、亦是矣也、】老疾相催、朝夕侵動、一代歡樂、未v盡2席前1、【魏文惜2時賢1詩曰、未v盡2西花夜1、劇作2北望塵1也、】千年愁苦、更繼2座後1、【古詩云、人生不v滿v百、何懷2千年憂1矣、】若夫群生品類、莫v不d皆以2有v盡之身1、竝求c無v窮之命u、所以道人方士、自負2丹經1、入2於名山1、而合v樂〔左○〕之者、養v性怡v神、以求2長生1、抱朴子曰、(53)神農云、百病不v愈、安得2長生1、帛出又曰、生好物也、死惡物也、若不幸而不v得2長生1者、猶以d生涯無2病患1者u、爲2福大1哉、今吾爲v病見v悩、不v得2臥坐1、向v東向v西、莫v知v所v爲、無福至甚、※[手偏+總の旁]集2于我1、人願天從、如有v實者、仰顧頓除2此病1、頼得v如v平、以v鼠爲v喩、豈不v愧乎、【已見v上也、】
 
竊以朝〔三字右○〕【官本、朝下有夕。今脱、】 佃2食山野1〔四字右○〕者、易繋辭(ニ)云、結繩而爲2罔※[横目/古](ヲ)1、以佃以漁、史記三皇本紀云、太※[白+皐]庖※[牛+羲]氏、結2網※[横目/古]1以教2佃漁1、 猶無※[うがんむり/火]害〔四字右○〕云云、注中、六齋〔二字右○〕、八日、十四日、十五日、廿三日、廿九日、三十日也、所〓〔二字右○〕、官本、〓作値、當從此、爲葉〔二字右○〕、業、誤作v葉、當改、畫夜釣漁〔四字右○〕云云、注、漁夫、【和名、無良岐美、】潜女〔二字右○〕、【和名、加豆岐女、】※[〓/金]〔右○〕、【音昨、和名能美、】龕〔右○〕、【官本、改作v籠、】 况乎我〔三字右○〕云云、注中、諸惡莫作、諸善奉行〔八字右○〕、七佛略戒偈也、出2四分戒本(ニ)1、下半偈云、自淨2其意1、是諸佛教、 所以禮拜〔四右○〕云云、註初、疑脱v謂乎、前後皆有、豈獨無耶、 敬重百神〔四字右○〕云云、詩、雲漢曰、靡2神不1v擧、 初沈痾〔三字右○〕、云云、注中、十余〔二字右○〕之余、當2改作1v餘、 是時年〔三字右○〕云云、班白〔二字右○〕、班、官本作v斑、當v從v此、 〓羸〔二字右○〕、〓、當2v作v〓、或作1v〓、〓、烏光切、短小也、羸、倫爲切、説文、痩也、 吾以〔二字右○〕云云、官本、思〔右○〕作v亦、今按、與2上句1義乖、已〔右○〕改作v未、理當2相串1、 奉弊帛〔三字右○〕、弊(54)當2改作1v幣、 然而禰〔三字右○〕、禰當2改作1v彌、 楡樹〔二字右○〕、樹、官本當改作※[木+付]、周禮、疾醫注、楡※[木+付]、黄帝時醫、一作2兪※[木+付]1、史記、作2兪※[足+付]1、揚雄博、作2臾※[足+付]1、 秦和緩〔三字右○〕、醫和〔右○〕與2醫緩〔右○〕1也、並秦人也、見2于左傳、國語等1、 葛稚川〔三字右○〕、葛洪、字稚川、陶隱居〔三字右○〕、梁陶弘景、字通明、自號2華陽陶隱居1、 張仲景〔三字右○〕、後漢張機、字仲景、 扁鵲、此名、並下華佗〔二字右○〕、共細注也、當2細書而連下1矣、 採2心腸1〔三字右○〕、【官本、腸作易、】列子云、魯公扈、趙齊嬰〔六字傍線〕、二人有v疾、同請2扁鵲〔二字傍線〕1求v治、扁鵲〔二字傍線〕治v之、既同愈、謂2公扈齊嬰〔四字傍線〕1曰、汝曩之所v疾、自v外而干2府藏1者、固藥石之所v已、今有2偕v生疾、與v體偕長1、今爲v汝攻之、何如、二人曰、願先聞2其驗1、扁鵲謂2公扈1曰、汝志彊而氣弱、故足2於謀1而寡2於斷1、齊嬰、志弱而氣彊、故少2於慮1而傷2於專1、若換2汝之心1、則均2於善1矣、扁鵲逐飲2二人毒酒1、迷死三日、剖v胸探v心、易而置之、投以2神藥1、既悟如v初、二人辭歸、於v是公扈反2齊嬰(カ)之室1、而有2其妻子1、妻子弗v識、齋嬰亦反2公扈之室1、有2其妻子1、妻子亦弗v識、二室因相與訟、求2辨於扁鵲1、扁鵲辨2其所1v由、訟乃已、字無他〔三字右○〕、今按、華佗、字元化、寫生誤v元〔右○〕作v旡〔右○〕、再寫轉v旡爲v無耶、化〔右○〕與v佗〔右○〕相似、故混2魚魯1邪、※[こざと+奧]處、班固、西都賦云、天地之※[こざと+奧]區、李善云、※[こざと+奧]、四方之土、可2定居1者也、呂延濟曰、※[こざと+奧]猶2深險1也、玉篇云。烏到切、藏也、 達之〔二字右○〕並二豎〔二字右○〕、左傳云、晋公疾病、求2醫于秦1、秦伯使d2醫緩1爲之、【緩、醫名、爲、猶治也、】未至、公夢、疾爲2二竪子1、曰、彼良醫也、懼傷v我、焉(ンカ)逃之、其一曰、居2肓(ノ)之上、膏(ノ)之下1、若我何、【肓、※[隔の旁]也、心下爲v、】 醫至曰、疾不v可v爲也、在2肓(ノ)之上、膏之下1、攻v之不v可、達v之不v及、藥不v至焉、不v可v爲也、【達、針、】公曰、良醫也、厚爲2之禮1而歸之、 (55)在世大患〔四字右○〕、老子云、吾所3以有2大患1者、爲2吾有1v身、及2吾無1v身、吾有2何患1、※[女+〓]鬼〔二字右○〕、【※[女+〓]、當2改作1v妖、】此過〔二字右○〕、【官本、過、改作v遇、】 内教云〔三字右○〕云云、長阿含經云、閻浮提、人壽百二十歳、中夭者多、阿※[田+比]曇論云、閻浮提、人壽命不v定、有2其三品1、上壽一百二十五歳、中壽一百歳、下壽六十歳、其間中夭者、不v可2勝數1、説有2此三品1、若據2劫初1、壽命無量、或至2八萬四千1、 但善爲者〔四字右○〕、今按、善、爲、兩字、倒耶、或爲〔右○〕、據2上引杜預左傳注1訓爲v治〔右○〕邪、〓短〔二字右○〕〓、當2改作1v脩、脩、長也、 斯竿〔二字右○〕、竿、當2改作1v※[竹/卞]、 病從口入〔四字右○〕、【官本、徒、改作v從、當v從v此、】 不必〓鬼〔四字右○〕、〓當v作v妖、如2上云1、 夫醫方諸家之〔六字右○〕云云、本草序云、眞誥曰、常不v能v慎2事上(ヲ)1者、自致2百痾1之本、而怨2咎於神靈1乎、當v風臥v濕、反責2佗人於失覆1、皆癡人也、夫慎2事(ノ)上(ヲ)1者、謂2擧動之事1、必皆慎思、※[禾+(尤/山)]叔夜〔三字傍線〕、養生論云、而世人不v察、唯五穀是見、聲色是(ヲ)耽、目惑2玄黄1、耳務2淫哇(ヲ)1、滋味煎2其府藏1、醴醪鬻2其腸胃1、香芳腐2其骨髄1、喜怒悖2其正氣1、思慮銷2其精神(ヲ)1、哀樂殃2其平粹(ヲ)1、夫以※[草がんむり/最]爾之?(ヲ)、攻v之者非2一塗1、易v竭之身、而内外受v敵、身非2木石1、其能久乎、其自用甚者、飲食不v節、以生2百病1、好v色不v※[卷+力]、以致2乏絶1、風寒所v災、百毒所v傷、中道夭2於衆難1、世皆知2笑悼1、謂3之不2善持1v生也、 若誠知羽※[隔の旁+羽]〔五字右○〕云云、左傳曰、死|如《・モシ》可v逃、何遠之有、 鬼各先生〔四字右○〕、【官本、改各作v谷、當v従v此、】 未v盡2西花夜1〔五字右○〕、【官本、花、作v苑、當v從v此、】劇作北望塵〔五字右○〕、【官本、改v望作v※[亡+おおざと]、當v從v此、】 人生不v満v百〔五字右○〕、【文選云、生年不v満v百、】 何懐2千年歳憂1矣〔六字右○〕、【文選云、常懐2千歳憂1、】 若夫群生品類〔六字右○〕云云、荘子、養生主云、吾生也有v涯、而知也無v涯、以v有v涯隨v無v涯、殆已、帛出〔二字右○〕、【官本、出、作v公、當v從v此、】 又云、生好物也、死惡物也〔十字右○〕、好物樂也、惡《ヲ》物(ハ)哀也、 人願(56)天從〔四字右○〕、周書、泰誓、上云、天矜2于民1、民之所v欲、天必從(フ)v之、
 
初、竊以朝【恐脱2夕暮等字1。】佃《音田作田也》食。易繋辭云。作2結繩1而爲2罔※[横目/古](ヲ)1以佃以漁(ス)。蓋取2諸離(ニ)1。史記三皇本紀云。太※[白+皐]庖※[牛+羲]氏。○結2網※[横目/古]1以教2佃漁1。注所〓【盾(ハ)疑寫誤遇等字耶。】爲業【業誤作v葉。】鑿籠。【籠誤作龕。】允恭紀曰。爰更集2處處之白水郎1以令v探《カツカ》2赤石海底1、海深不v能v至v底。唯有2一|海人《アマ》1曰2男狹磯《ヲサキ》1。是(レ)阿波國長邑之海人也。勝2於|諸《カタヘノ》海人1。是腰(ニ)繋v繩(ヲ)入2海底(ニ)1、差頃《シハラクアテ》之出曰。於海底有2大蝮1。其處光。諸人皆曰島神所v請之珠殆在2是(ノ)蝮(ノ)腹1乎。亦入探v之。爰男狹磯抱2大蝮1而泛出之息絶以死2浪上1。既而下v繩測v海六十尋。則割v蝮實眞珠在2腹中1、其大如2桃子1。漁夫。【和名集ムラキミ。】潜女。【同カツキメ。】謂聞諸惡――奉行而淨2共1。是(レ)諸佛教。【上是諸佛通戒偈。】百神。毛詩雲漢曰。靡2神(トシテ)不(トイフ)1v擧。幣帛。【幣誤作v弊。】而彌。【彌誤作v禰。】葛稚《洪》川。【葛訛作v〓。】撰2抱朴子及(ヒ)字苑(ヲ)1。二豎。左傳云。晋侯有疾。五月晋立2太子州蒲1以爲v君、而會2諸侯1伐v鄭。〇晋侯夢。大飼穽髪及v地搏(テ)v〓《ムネヲ》踊《ホトハシリテ》曰殺2余孫1不義。【氏iハ)鬼也、趙氏之先祖也。八年晋侯殺2趙同趙括1故怒。】余得v請2於帝1矣。壞2大門及寢門1而入。公懼入2于室(ニ)1又壞v戸。公覺召2桑田巫1。【桑田(ハ)晋邑】巫(ノ)言如v夢(ノ)。【巫言。鬼怒。如2公(ノ)所1v夢。】公日何如。曰不v食v新矣。【言公不v得v及v食2新麥1。】公(ノ)疾病(ナリ)。求2醫于秦(ニ)1。々伯使d2醫緩(ヲ)1爲《ヲサメ》uv之(ヲ)。【緩(ハ)醫(ノ)名爲(ハ)猶v治也。】未至、公夢。疾爲2二竪子1曰。彼(ハ)良醫也。懼傷v我。焉(ンカ)逃之。其一(リノ)曰。居(ハ)2肓(ノ)之上膏(ノ)之下(モニ)1若我(ヲ)何。【肓(ハ)※[隔の旁]也。心下(ヲ)爲v膏。】醫至曰疾不v可v爲(ム)也。在2肓(ノ)之上(ミ)膏(ノ)之下(モニ)1。攻(メンコト)之不可(ナリ)。達(モ)之不v及藥(モ)不(シ)v至(ラ)焉。不v可v爲(モ)也。【達(ハ)針(ソ)。】公曰良醫(ナリトイヒテ)也厚爲2之禮1而歸之。六月丙午、晋侯欲v麥【周(ノ)六月(ハ)今(ノ)四月(ナリ)。麥初(テ)熟(ス)。】使d2甸人1献uv麥。【甸人(ハ)主(ナリ)v爲(ムルコトヲ)2公田1者(ソ)。】〓人|爲《ツクル》之。召2桑田(ノ)巫(ヲ)1示而殺v之(ヲ)。將v食|張《ハラフクレテ》如(テ)v厠(ニ)陷而卒。【張(ハ)腹滿也。】小臣有2晨(ニ)夢(カタリスル)1。負v公以登v天。及2日中1負2晋侯1出2諸厠1逐以爲v殉。【傳言巫以v明v術見v殺小臣(ハ)以v言v夢自禍。】在世大患。老子經寵辱章云。吾所3以有2大患1者|爲《ナリ》2吾(レ)有(カ)1v身(カ)。及吾無v身吾有2何患1。爲〓鬼。【〓當v作v妖。】此過。【過疑遇。】内教云。長阿含經云。閻浮提人壽百二十歳。中夭者多。但善爲【善爲疑倒。】壽〓。【〓夭誤寫。】斯竿。【〓誤作v竿。】從口。【從誤作v徒。】必〓。【〓(ハ)妖寫訛。】羽〓可得延。左傳曰死|如《モシ》可(ハ)v逃《ニク》何(ノ)遠《コトカ》之(レ)有(ン)。鬼谷先生。【谷誤作各。】劇作北〓塵。【〓誤作v望。】古詩云。人生不滿百。【文選云。生年不v滿v百。】何懷千年憂。【選云。常懷2千歳憂1。】帛公又曰。【公誤作v出。】生好物。左傳云。生好物也。死惡物也。好物樂也。惡物哀也
 
悲2歎俗道假合即離、易v去難1v留詩一首并序
 
竊以、釋慈之示v教、【謂2釋氏慈氏1、】先開2三歸【謂3歸2依佛法僧1】五戒1、而化2法界1、【謂、一不※[殺の異体字]生、二不偸盗、三不邪淫、四不妄語、五不飲酒1也、】周孔之垂v訓、前張2三綱【謂2君臣父子夫婦1、】五教1、以齊2邦國1、【謂2父義母慈兄友弟順子孝1、】故知引導雖v二、得v悟惟一也、但以世元〔左○〕2恒質1、所以陵谷更變、人元〔左○〕2定期1、所以壽〓不v同、撃目之間、百齡已盡、申v臂之項、千代亦空、且作2席上之主1、夕爲2泉下之容1、白馬走來、黄泉何及、隴上青松、空懸2信釼1、野中白楊、但吹2悲風1、是知世俗本無2隱遁之室1、原野唯有2長夜之臺1、先聖已去、後賢不v留、如有2贖而可v兎〔左○〕者1、古人誰無2價金1乎、未v聞d獨存遂見2世終1者u、所以維摩大士、(57)疾2玉體千〔左○〕方丈1、釋迦能仁、掩2金容乎雙樹1、内教曰、不v欲2黒闇之後來1、莫v入2徳天之先至1、【徳天者生也、黒闇者死也、】故知生必有v死、死若不v欲、不v知〔左○〕v不v生、况乎縱覺2始終之恒數1、何慮2存亡之大期1者也、三邪※[女+搖の旁]〔三字右○〕、【官本、三下有v不、當v從v此、】 以齊濟郡國〔五字右○〕、【官本、滅v齊、若依2此本1、化法之上、當v有v脱2普等字1、郡、別本作v邦、】陵谷更變〔四字右○〕、毛詩小雅云、高岸爲v谷、深谷爲v陵、壽〓不同〔四字右○〕、【〓、當2改作1v夭、】撃目之間〔四字右○〕、荘子云、目撃而道存、申臂之項〔四字右○〕、【項、當v作v頃、】夕爲泉下之容〔六字右○〕、【容、官本、作v客、當v從v此、】信劔〔二字右○〕、史記曰、季札之初使北過2徐君1、徐君好2季札劍1、口弗2敢言1、季札心知v之、爲v使2上國1未v獻、還至v徐、徐君已死、於v是乃解2其寶劍1、繋2之(ヲ)徐君冢樹1而去、從者曰、徐君已死、尚誰予乎、季子曰、不v然、始吾心已許v之、豈以死倍2吾心1哉、新序云、季子脱v劔、云々、徐人嘉而歌v之曰、延陵季子兮、不v忘v故、脱2千金之劔1兮帶2墳墓1、 野中白楊〔四字右○〕、云云、文選、蕪城賦、注、李善曰、崔豹古今注曰、白楊葉圓、通志云、白楊、一曰高飛、一曰獨搖、種2墟(ノ)墓間1、故曰、白楊多2悲風1、蕭々愁2殺人1、【今按、白楊、當v云2波古也奈義1、今云、筐柳、】疾玉體千方丈〔六字右○〕、【千、當v作v乎、】 不知不生〔四字右○〕、【官本、知傍書v如、注云2異本1、當v從v此、】
 
初、而化 【而下當v有2普遍等字1。】注三邪婬。【三下脱2不字1。】注(ノ)謂、父等準(ハ)2三綱1理當v在2五教之下1。陵谷。詩小雅曰。高岸爲v谷、深谷爲v陵。申臂之頃。經中多d壯士屈2伸臂1之頃(トイフ)語u。【頃誤作v項。】之客【作v容非。】信劔。史記曰。季札(カ)之初使(トシテ)北過(ルトキ)2徐君(ニ)1。々々好(ム)2季札劍1口弗2敢言1。季札心知(トモ)v之爲(ニ)v使2上國1未(タ)v献。還至(ルニ)v徐、徐君已死。於v是乃解2其寶劍1繋2之徐君冢樹1而去。從者曰。徐君已死。尚誰(ニカ)予(ヘン)乎。季子(カ)曰不v然。始吾心已許之。豈以v死(ヲ)倍《ソムカンヤ》2吾心1哉。新序云。季子脱v劔致2之徐嗣君1。々々曰。先君無v命。孤不2敢受1v劔。于v是季子以v劔帶2徐君墓樹1而去。徐人嘉而歌之曰。延陵季子兮不v忘v故。脱2千金之釼1兮|帶《ハカシム》2墳墓1。白楊。古詩云。白楊何蕭々。鮑明遠蕪城賦曰。白楊子落、塞《サイ》草|前《サキニ》衰(フ)。注善曰。崔豹(カ)古今(ノ)注曰。白楊葉圓。通志云。白楊一曰2高飛1一曰2獨搖1。種2墟墓間1。故曰d白楊多2悲風1、蕭々(トシテ)愁c殺人u。體乎。【乎作v千誤。】尺迦能仁。釋迦牟尼、繹迦此(ニハ)云2能仁1。牟尼此云2寂獣(ト)1。今謂釋迦能仁者華梵並擧也。猶v云2摩※[言+可]大迦葉、悉地成就等1。掩金容乎雙樹。涅槃經云。爾(ノ)時世尊婆羅林下寢2臥寶林1、於2其中夜1入2第四禅1寂然無v聲。於v是時頃(ニ)便般涅槃。入2涅槃1已其娑羅林東西二雙合(シテ)爲2一樹(ト)1、南北二雙合爲2一樹1。垂2覆寶牀1蓋2覆如來1。其樹即時慘然變白。猶如2白鶴1。枝葉花果皮幹悉皆爆裂墮落、漸々枯悴。摧折無v餘。内教【指涅槃經。】不知不生。【知疑如字魚邪。或知(ノ)上(ニ)脱2如字1乎。】高僧傳唐嘉祥大師死不怖論云。撃目。莊子曰。目撃而道存。玄英疏曰。撃(ハ)動也。目裁運動而玄道存焉
 
俗道變化猶2撃目1、人事經紀如2申臂1、空與2浮雲1行2大虚1、心力共(58)盡無v所v寄、
 
人事經紀〔四字右○〕、曹子建七啓曰、耗2精神(ヲ)乎虚廓1、廢2人事之紀經、【劉良曰、紀經、常理也、】
 
老身重病經v辛苦及思2兒等1歌七首【長一首短六首】
 
短歌の終に天平五年六月と云へり、第六に同年に藤原眞楯卿河邊朝臣東人を以て憶良の病を訪たまへる時憶良のよまれたる歌あり、引合せて見るべし、上の沈痾自哀文も同年にて、此度卒せられたりと知られて此後の歌なし、
 
初、老身重病 上の沈痾自哀文、又第八葉思2子等1歌、下の戀2古日1歌、第六巻二十六葉山上臣憶良沈痾之時哥といへる、これらを引合てみるへし。憶良は隨分名人なりけれとも、長病にくるしまれけるは、宿業のいたす所なるへし。子をおもふ哥のおほきは、慈愛の深かりけるにや。すこしは王濟か馬なりけるか
 
897 靈剋内限者《タマキハルウチノカキリハ》【謂瞻浮州人壽一百二十年也】平氣久安久母阿良牟遠事母無裳無母阿良牟遠世間能字計久都良計久伊等能伎提痛伎瘡爾波鹹鹽遠灌知布何其等久益益母重馬荷爾表荷打等伊布許等能其等老爾弖阿留我身上爾病遠等加弖阿禮婆晝波母歎加比久良思夜波母息豆伎阿可志年長久夜美志渡禮(59)婆月累憂吟比許等許等波斯奈奈等思騰五月蠅奈周佐和久兒等遠宇都弖弖波死波不知見乍阿禮婆心波母延農可爾可久爾思和豆良比禰能尾志奈可由《タヒラケクヤスクモアラムヲコトモナクモナクモアラムヲヨノナカノウケクツラケクイトノキテイタキキスニハカラシホヲソヽクチフカコトクマス/\モオモキウマニニウハニウツトイフコトノコトオイニテアルワカミノウヘニヤマヒヲトカテアレハヒルハモナケカヒクラシヨルハモイキツキアカシトシナカクヤミシワタレハツキカサネウレヘサマヨヒコトコトハシナナトオモヘトサハヘナスサワクコトモヲウツテヽハシナムハシラスミツヽアレハコヽロハモエヌカニカクニオモヒワツラヒネノミシナカユ》
 
痛伎瘡爾波、【幽齋本、亦點云、イタキカサニハ、】  等加弖阿禮婆、【校本、弖下有v之、】
 
謂瞻浮州の州は水に从がへて洲に作るべし、平ケク以下の四句はせめてはの意なり、モナクモとは、あしき事をも〔右○〕と云は喪の字なり、疱瘡をもがさと云も此意なるべし、伊勢物語に、人のためにとめきつれば我さへも〔右○〕なくとよせたるも今と同じ、此集第十五にもまたよめり、ウケクツラケクはうくつらくなり、オモキ馬荷ニウハニウツトは後撰に貞信公の、重荷に小付とよませ給へる歌の意なり、老ニテアルはに〔右○〕は助語なり、病ヲトカデアレバとは不v解してあれとなり、病苦を解脱せぬなり、今按ヤマヒヲラ、クハヘテアレバと讀べきか、やまひをらは、やまひらをの意、或は良は助語と云べし、歎カヒクラシは歎き暮しなり、コト/\ハ、シナナト思ヘドは異事は死なんなど思へどもなり、異事とは子等を思ふ外の事なり、辛苦の餘りにあらゆ(60)る他事をば打捨て早く死なばやと思ふなり、悉はと云へるとも申べけれど取分て子を思ふ由を云に對して聞ゆるなり、サバヘナスサワグコドモヲとは第三に家持の五月蠅成さわぐ舍人はとよまれたる意なり、ウツテヽハとはうちすてゝはなり、知須反豆なる故に約めて云なり、死ナンハ知ラズとは死ては隔v生、即忘れて思ひ出んや、人猶思はむや、それは兼て知らずとなり、安康紀大草香皇子曰、僕《ヤツカレ》頃患2重病1不v得v愈、皆如2物積v船以待v潮者1、然死之命也何足v惜乎、但以2妹幡梭皇女之孤1而不v能v易v死耳、文選歐陽建石臨終詩云、上負2慈母恩1、痛酷摧2心肝1、下顧2所v憐女(ヲ)1、惻々心中酸、二子棄若v遺、念皆※[しんにょう+構の旁]2凶殘1、不v惜2一身死1、惟此如2循環1、執v紙五情寒、揮v筆涕汎瀾(タリ)、ネノミシナカユはし〔右○〕は助語、ゆ〔右○〕はる〔右○〕と同韻にて通ずればねのみなかるなり、
 
初、たまきはるうちのかきりは 玉きはるの詞こゝに明なり。注は長阿含經上に引かことし。瞻浮新譯は瞻部、舊譯は閻浮なることは、同韻なるゆへなり。閻浮樹によりて、南洲此名を得たり。阿※[田+比]曇論云。閻浮提人壽命不v定。有2其三品1。上壽一百二十五歳。中壽一百歳。下壽六十歳。其間中夭者不v可2勝數1。且依2劫減時1説v有2此三品1。若據2劫初1壽命無量歳。或至2八萬四千1。もなくもあらんを、もは喪の字にて、わさはひなり。第十五に、わたつみのかしこき道を安けくもなくなやみきて今たにもゝなくゆかんと云々。又旅にてもゝなくはやことわきもこかむすひしひもはなれにけるかも。伊勢物語に、我さへもなくとよめる同しことなり。うけくつらけく、うくつらくなり。古今集に、よのなかのうけくにあきぬ奥山のこのはにふれるゆきやけなまし。つらきは、惡の字なり。神代紀、商(ン)皇|産靈《ムスヒノ》尊(ノ)曰。吾所v産兒《アカウメルコ》凡《スヘテ》有《アリ》2一千五百産《チハシラアマリイヲハシラ》1。其中(ニ)一(リノ)兒|最悪《イトツラクシテ》不v順2教義《エオシヘコトニ》1。いとのきて、さきの貧窮問答にも、有し詞なり。いとぬけてなるへし。もつともぬきんてゝの心なり。のきとぬけと五普通すれはなり。第十二第十四にもある詞なり。その第十二の哥に、いとのきてうすきまゆねをいたつらにかゝしめつゝもあはぬ人かも。これは辛苦によりて、まゆのいとうすくぬけたるを、いたつらにかゝせて、まゆかゆけれは人にあふときくしるしもなく、あはぬ君かなといふ心ときこゆ。只いとゝときけとも、通してさはきこゆれと、いとゝしくなともいはて、いとのきてといへは、おもひよれるまゝに注しぬ。されとも下にます/\もおもき馬荷になといへるは、文章の隔句對の體なれは、ます/\に對するいとのきてなれは、いとゝといふ心にさたむへし。いたきゝすには、さきの沈痾自愛文に、諺曰痛(キ)瘡《キスニ》灌(キ)v塩(ヲ)、短(カキ)材截(ル)v端(ヲ)。そゝくちふは、そゝくといふなり。登以(ノ)切知なり。重き馬荷に、地蔵本願經云。【菩提流支三藏譯。】〇これは馬荷にはあらて、俗におもにゝこつけといふにおなしけれと、馬荷も心はひとし。後撰に、今上むめつほにおはしましゝ時たきゝこらせてたてまつりける 大政大臣貞信公
 山人のこれるたきゝは君かためおほくのとしをつまんとそ思ふ
  御かへし         御製
 年のかすつまんとすれはおもにゝはいとゝこつけをこりもそへ南
老にてある。には助語なり。病|遠等加※[氏/一]阿禮婆《ヲラクハヘテアレハ》。これをやまひをと、かてあれはとしたる和點は誤なり。やまひをらくはへてあれはとよむへし。やまひをらは、やまひをさへの心なり。さへといふはそへなり。此集に副の字、并の字をかけり。等は等取にて、物のおほき時、畧していふに、なに/\等といへはなり。又數をつくして擧る時も、上を等し、下を等する事あれとも、只ひとつにかきりたる物を、等といふ事なけれは、さへといふに心かよへり。なげかひくらし、なけきくらしなり。こと/\は、これは異事なり。悉にはあらす。いときなき子をのこしおくほかの事は、辛苦のあまりに、しなんなとおもへどの心なり。さはへなすさわくこともを、第三にも、さはへなすさわくとねりはとよめり。神代紀下云。晝者|如五月蠅《サハヘナス》而沸(キ)騰(ル)之。又上云。欲《オホス》d立《タテヽ》2皇孫天津彦々火瓊々杵尊(ヲ)1爲(ント)c華原中(ツ)國(ノ)之主(ト)u。然(シテ)彼(ノ)地《クニ》多《サハニ》有2螢火(ノ)光《カヽヤク》神及|蠅聲邪《サハヘナスアシキ》神1。この神代紀のさはへなすは、詩(ニ)營々(タル)青蠅|止《ヰル》2子|棘《オトロニ》1。讒人|罔《ナシ》v極《カキリ》交《カハル/\》亂2四國(ヲ)1。此詩にいへるにおなし。邪神の朋黨おほくあつまるを、五月の比の蠅にたとへたり。今いへるはおなし詞なから、たゝあまたさはくをいはむためなり。詩齊風云。※[奚+隹]既(ニ)鳴(ヌ)矣。朝既(ニ)盈(ヌ)矣。匪《アラス》2※[奚+隹](ノ)則(ハチ)鳴(ニ)1。蒼蠅(ノ)之聲(ナリ)。此詩の意におなし。うつてゝは、打捨てはなり。知須(ノ)切津なるゆへに、うちすてゝをつゝめて、うつてゝはといふなり。しなんはしらすとは、死ての後、隔生即忘して、おもはじや、又猶おもはんや、それはかねてしらすなり。日本紀第十三、安康紀云。大草香(ノ)皇子(ノ)曰《ノハク》。僕《ヤツカレ》頃患2重病(ヲ)1、不v得v愈(ルコトヲ)。譬(ヘハ)如2物(ヲ)積(ヲ)v船(ニ)以待(ツ)v潮(ヲ)者(ノヽ)1。然(トモ)死(ハ)之命(ナリ)也。何(ソ)足(ンヤ)v惜(ニ)乎。但以2妹|幡梭《ハタヒノ》皇女之孤(ナルヲ)1而|不《サラク》v能(ハ)v易(キコト)v死(ノミ)耳。文選欧陽建石(カ)臨終(ノ)詩(ニ)云。上|負《ソムキ》2慈母(ノ)恩(ニ)1、痛酷(シテ)摧2心肝(ヲ)1。下|顧《オモヒテ》2所(ノ)v憐(レフ)女(ヲ)1、惻々(トシテ)心中|酸《イタム》。二子〓(テヽ)若v遺。念(フニ)皆〓2凶殘(ニ)1。不v惜2一身死1、惟(モフコト)v此如2循環(ノ)1。執v紙(ヲ)五情塞、揮v筆(ヲ)涕汎瀾(タリ)。ねのみしなかゆ。なかゆはなかるなり。るとゆとは同韻相通なり。莊子太宗師云。俄而子來有v病、喘々然(トシテ)將v死。其妻子環(テ)而泣之。子犂往問之曰。叱避無v怛《オトロカスコト》v化(ヲ)。同至樂云。壽(カキ)者(ハ)〓々(トシテ)久(シク)憂(テ)不v死
 
反歌
 
898 奈具佐牟留心波奈之爾雲隱鳴往鳥乃禰能尾志奈可由《ナクサムルコヽロハナシニクモカクレナキユクトリノネノミシナカユ》
 
雲隱レ、鳴行鳥とは今我が死してゆかむずるをよそへらるゝなり、ナカユはなかるなり、上の如し、
 
899 周幣母奈久苦志久阿禮婆出波之利伊奈奈等思騰許良爾(61)佐夜利奴《スヘモナククルシクアレハイテヽハシリイナヽトオモヘトコラニサヤリヌ》
 
出波之利、【官本云、イテハシリ、】
 
腰の句官本の如く讀べし、コラニサヤリヌは子等にさわりぬなり、上のもゝかしもゆかぬ松浦路と云歌に注せしが如し、餘りにうき時は走り出て何處へも行失ばやと思へど子等に障られてさもえせぬとなり、古今に、世の中のうけくにあきぬ奥山の、木の葉にふれるゆきやけなまし、六帖に、思ひ餘り佗ぬる時は宿かれて、あくがれぬべき心ちこそすれ、
 
初、すへもなく せんかたもなくなり。出はしりいなゝ、あまりにうき時は、はしり出て、いかならん所へもいなんなとおもへとも、こともにさへられてさもえせぬなり。さやりぬはさはりぬなり。さきにありて注せり
 
900 冨人能家能子等能伎留身奈美久多志須都良牟※[糸+包]綿良波母《トミヒトノイヘノコトモノキルミナミクタシスツラムキヌワタラハモ》
 
※[糸+包]、【校本作v※[糸+施の旁]、】
 
キルミナミは著身無なり、上に子等能と云ひつれば着る身有ぬべう聞ゆれど、富人の家の著るべき子等の身なしと意得べし、貧しき人は子等あれど然るべき物をも著せかぬるに、富る人も牙と角とを具せぬ習ひなれば著すべき子等もなく、さるか(62)ら積て能施こす事もせねば、徒に庫中に打積て腐《クタ》し捨らんに、あはれ其きぬわたもがなとなり、※[糸+包]は袍の字の偏を誤れるか、皇極紀云、二年夏四月庚辰朔己亥、西風而雹、天寒、人著2緜袍|三領《ミツヲ》1、
 
初、きる身なみ 著身無なり。くたしすつらん、令v腐棄らんなり。きぬわたらはも。絹綿等者なり。まつしき人は、子ともあれと、しかるへきものをもきせかぬるに、とめる人は、きすへき子もなくて、くたしすつらんに、いでそのきぬわたどもはとなり。あはれそれもがなとねかふ心あり。〓字未考
 
901 麁妙能布衣遠※[こざと+施の旁]爾伎世難爾可久夜歎敢世牟周弊遠無美《アラタヘノヌノキヌヲタニキセカテニカクヤナケカムセムスヘヲナミ》
 
これは右の歌と二首を合せて本意を云なり、
 
初、あらたへの あらたへは、ぬのゝ惣名なり。古語拾遺云。織布【古語阿良多倍。】白氏文集秦中吟(ニ)、幼《ワカキ》者(ハ)形不v蔽《カクレ》、老(タル)者(ハ)體無v温
 
902 水沫奈須微命母栲繩能千尋爾母何等慕久良志都《ミナハナスモロキイノチモタクナハノチヒロニモカトネカヒクラシツ》
 
水のあわをミナワと云は水をみ〔右○〕とのみ云へる事多し、然ればみのあわと云べきをのあ〔二字右○〕を反せばな〔右○〕と成る故にみなわなすとは云なり、人の世にあるほどのはかなさを、水の沫に喩て云へり、微をモロキとよめるは水沫と云に依てか、もろきとよまば反云毛呂吉など注せらるべし、又上に云如く此卷は難義の眞名假名なき例なればもろきにはあらざるべし、日本紀にも此字をイヤシとよめり、微賤は常の事なればイヤシキ命モと讀べし、賤しき身の水沫の如くなる命もと云なり、タククナハノ千尋ニモカは長くもがななり、
 
初、みなはなす 水のあはのこときなり。第廿に、家持の、みつほなすかれる身そとはしれゝともとある心におなし
 
(63)903 倭文手纏數母不在身爾波在等千年爾母何等意母保由留加母《シツタマキカスニモアラヌミニハアレトチトセニモカトオモホユルカモ》
 
シヅタマキ、カズニモアラヌは第四に注せり、父は文なり、此も亦以前云が如し、
 
初、しつたまきかすにもあらぬ しつたまきは、しつのをたまきなり。第四にありて注せり。第九にもあり。哥の下の注に、去神龜二年作v之。但以v類故更載2於茲1。これは此哥一首は、神龜二年に、よみたれとも、みなほなすもろきいのちもといふ哥に類するゆへに、こゝにのすといふ注なり。すなはち憶良の詞なり
 
【去神龜二年作之但以類故更載於茲】
 
天平五年六月丙申朔三日戊戍作
 
此更載2於茲1と云へるは憶良の詞なれば集中處々に撰者云へるには替れり、是は以前五首の反歌に連ねて此に置と云なり、詳にすべし、
 
戀男子名古日歌三首【長一首短二首】
 
此歌は今按神龜年中に憶良のよまれたるを撰者類を以て此に載る歟、其故は上に憶良の妻は神龜五年死せられたるに、今の歌に、父母も表はなさかり、三枝の中にを寢むとあればなり、神龜五年は憶良六十九歳なれば後妻を迎へらるべうもなし、下に歌の數を注せるは後人の私にせるを本文かと思ひて書添へたり、其故は終に至て右一首等と撰者の注せる意尤明なれば此に短二首とあるべきやうなし、此に准ずるに上にも員數を注せる中に作者撰者のせぬ事も交るべし、
 
(64)904 世人之貴慕七種之寶母我波何爲和我中能産禮出有白玉之吾子古日者明星之開朝者敷多倍乃登許能邊佐良受立禮杼毛居禮杼毛登母爾戯禮夕星乃由布弊爾奈禮婆伊射禰余登手乎多豆佐波里父母毛表者奈佐我利三枝之中爾乎禰牟登愛久志我可多良倍婆何時可毛比等等奈理伊弖天安志家口毛與家久母見牟登大舩乃於毛比多能無爾於毛波奴爾横風乃爾母布敷可爾布敷可爾覆來禮婆世武須便乃多杼伎乎之良爾志路多倍乃多須吉乎可氣麻蘇鏡弖爾登利毛知弖天神阿布藝許比乃美地祇布之弖額拜可加良受毛可賀利毛神乃末爾麻仁等立阿射里我例乞能米登(65)須曳毛余家久波奈之爾漸々可多知都久保里朝朝伊布許登夜美靈剋伊乃知多延奴禮立乎杼利足須里佐家婢伏仰武禰宇知奈氣吉手爾持流安我古登婆之都世間之道《ヨノヒトノタフトミネカフナヽクサノタカラモワレハナニカセシワカナカノムマレイテタルシラタマノワカコフルヒハアカホシノアクルアシタハシキタヘノトコノヘサラスタテレトモヲレトモトモニタハフレユフホシノユフヘニナレハイサネヨトテヲタツサハリチヽハヽモウヘハナサカリサキクサノナカニヲネムトオモワシクシカカタラヘハイツシカモヒトトナリイテテアシケクモヨケクモミムトオホフネノオモヒタノムニオモハヌニヨコカセノニモシクシクカニフクカニオホヒキヌレハセムスヘノタトキヲシラニシロタヘノタスキヲカケマソカヽミテニトリモチテアマツカミアフキコヒノミクニツカミフシテヌカツキカカラスモカカリモカミノマニマニトタチアサリワレコヒノメトシハラクモヨケクハナシニヤウヤクニカタチツクホリアサナ/\イフコトヤミタマキハルイノチタエヌレタチヲトリアシスリサケヒフシアフキムネウチナケキテニモタルアカコトハシツヨノナカノミチ》
 
貴慕、【別校本云、タフトヒネカフ、】  立禮杼毛、【官本、毛作v母、】  夕星乃、【別校本亦云、ユフツツノ、】  愛久、【別校本亦云、ウツクシク、】  布敷可爾布敷可爾、【官本云、古本無2後四字1、】  朝朝、【別校本云、アサナサナ、】
 
貴慕は今按にタフトビシタフとも讀べし、七種ノ寶は七寶なり、金、銀、瑠璃、※[石+車]※[石+渠]※[石+馬]※[石+脳の旁]、珊瑚、琥珀と云也.或は金、銀、琉璃、頗梨、車渠、瑪瑙、金剛、とも云へり、上にも銀も金も玉も何せむにと此人よまれたり、康頼入道性照が寶物集にも子にまさる寶なき由かけるも此歌などをふまへけるにや、白玉ノ吾子とは杜子美寄2漢中王1詩、掌中探見一珠新と作れるも子の事を云也、白氏文集にも掌珠一顆兒三歳と作り、源氏物語桐壺にも玉のをのこみこさへうまれたまひぬとかけり、明星は和名集云、兼名苑云.歳星一名2明星1、【此間云、阿加保之、】毛詩云、子興視v夜、明星有v爛、又云、東有2啓明1、西有2長庚1、爾雅云、明星謂2之※[啓の攵なし]明1、注曰、太白星也、晨見2東方1爲2※[啓の攵なし]明1、昏見2西方1爲2太白1、六帖に、月影に見かくれに(66)けり明星の、あかぬ心に出て悔しく、トコノ邊サラズは床のほとり離ずなり、夕星はユフヅヽと點ぜるに付べし、夕ニナレバイザネヨト、手ヲタヅサハリは、童は早く寢て遲く起る由書にも見え、現にしかある物なれば親のさそひてふさする樣なり、父母モ表ハナナカリとは、うへは彼方此方なり、古日が中にあるより云へば兩方ともに表なり、なさかりは、なさかりぞなり、是に二つのやうあるべし、一つには跡の方へさがるなと云なり、二つには奈佐我利とは書たれど濁る文字を清てよむ事もあれば奈佐加利曾にてなとほざかりぞと云なり、三枝ノ中ニヲネムトは和名集云、文字集略云、【音娘、和名佐木久佐、日本紀私記云、福草、】草枝々相値、葉々相當也、延喜式治部式云、福草、瑞草也、朱草別名也、生2宗※[まだれ/苗]中1、顯宗紀云、三年春二月丁巳朔戊辰、置2福草部1、又凡草木の枝葉はかたたがひにこそあるを、此福草は、枝々葉々皆相當て大瑞なる故にさいはひ草と云意にさき草と云へり、是より事起て三枝あるをば草木ともにさきぐさと云、令義解神祇令云、三枝祭、【謂2率川社祭1也、以2三枝華1飾2酒1祭、故曰2三枝1也、】延喜式第一云、三枝祭三座、【率川社、】二月十一月並上酉祭v之、薺※[草がんむり/尼]と云藥草をも和名に佐木久佐奈とあれば是も福草に似たる事あるか、又和名集に加賀國江沼郡、飛騨國大野郡に共に三枝郷あり、並に佐以久佐と注せり、三つある物には必中あれば中といはむ爲に三枝のとは云へり、三栗の中と(67)つゞくるに同じ意なり、檜木の異名をさき草と云説あれど今は用なければ是を置けり、シガニタラヘバとはしが〔二字右○〕はさが〔二字右○〕なり、集中兩樣に云へり、之と左五音通ずる故なり、己の字をさ〔右○〕とよみたればしが〔二字右○〕と云もおのがと云なり、アシケクモヨケクモははあしくもよくもなり、於毛流奴爾、此中り於をホと點ぜるは書生の失錯なり、オに改むべt、思はぬには不慮なり、横風乃、此下十一字句逗成らず、定て有餘不足あるべし、官本に古本に後の四字なしと注あるに依るに誠に衍文なるべし、依て上を試に讀つゞくるに、先横風乃をヨコシマカゼノと讀べし、下の六字を可爾母布敷爾と地を替て可の上に爾波の二字落たらんか、然らばよこしま風のにはかにもしく/\におほひきぬれば、移るに滞なく、風邪に侵されて煩初けるなるべし、タトキは登と豆同内相通にてたつきなり、シラニは不知なり 天神アフギコヒノミは天神なれば仰と云、下の地祇を伏てと云相對なり、こひのみは請祷なり、カヽラズモカヽリモとは神の惠にかゝらずもかゝりもなり、源氏須磨に、海にます神の惠にかゝらずばとよめり、立アサリは俗にあせると云詞にや、世と左と通ぜり、あせるとは心いられするやうの意なり、ヨケクハナシニはよくはなしになり、カタチツクホリは進る意にやと聞ゆ、若都久は久都のさかさまに寫されてクヅホリにや、隱(68)れをかくりと云へばくづほれをくづほりとも云べし、命絶ヌレ、例の古語にてば〔右○〕の字なし、立チヲトリよりムネウチナゲキまでは孝輕云、哭泣〓踊、哀以送、注曰、※[手偏+追]v心曰v※[手偏+辟](ト)、跳(ヲ)曰v※[足+勇]、所2以泄1v哀也、男※[足+勇]女※[手偏+辟]以送v之、手ニモテルアガコトバシツとは假令鷹飼の鷹をそらしやりたらむ意なり、世間之道とは愛別離苦の脱れぬ事を廣く世上に繋て收拾せり、又古今の戀の部の終に、芳野の川のよしや世の中と云へるごとく世上のことわりを思ひてみづから歌を遣てなぐさむるにもあるべし、
 
初、たふとみねかふなゝくさのたからも 七寶は、金、銀、瑠璃、※[石+車]※[石+渠]※[石+馬]※[石+脳の旁]、珊瑚、琥珀。或(ハ)金、銀、琉璃、頗〓、車渠、瑪瑙、金剛。我は何かせん。此卷の初に、思2子等1歌の反哥に同ぬし、白かねも金も玉も何せんにまされるたから子にしかめやも。康頼入道性照か寶物集にも、此心をかけり。白玉のわかこふるひは、杜子美か寄2漢中王1詩に掌《・これ今少引たらす》中探見一珠新。源氏物語桐壺に、玉のをのこみこさへむまれたまひぬ。あかほしのあくるあしたは、毛詩云。東省2啓明1、西有2長庚1。子興視v夜。明星有v爛《キラヽカナルコト》。爾雅曰。明星謂2之|啓《ケイ》明(ト)1。註曰。太白星也。晨見(ルヲ)1東方(ニ)1爲(シ)2啓明1、昏見2西方(ニ)1爲《ス》2太白(ト)1。和名集云。兼名苑云。歳星一名明星。此間云。【阿伽保之。】六帖星、月影にみかくれにけりあかほしのあかぬ心に出てくやしく。とこのへさらす、床のうへさらすなり。又床邊にて、とこのほとりをさらすなり。夕星の、これをはゆふつゝとよむへし。ゆふほしはあやまれり。第二に人まろ、明日香皇女のかりもかりをいたみ奉れる哥にも、ゆふつゝのかゆきかくゆきといふに、夕星とかけり。和名集云。兼名宛云。太白星一名長庚、暮《ユフヘニ》見(ヲ)2於西方(ニ)1爲2長庚(ト)1。此間云。【阿伽保之。】六帖星題に、日くるれは山のはに出る夕つゝのほしとはみれとあはぬ君かな。よひことに立も出なん夕つゝの月なき空の光とおもはん。夕になれはいさねよと、童は早く寝て遲起るよし書に見えたり。ちゝはゝもうへはなさがりさきくさの中にをねむとおもはしくしがかたらへは、うへはほとりにて古日かこなたかなたなり。なさかりはふたつのやうあるへし。ひとつには奈佐我利とかきたれは、かもしをにこりて下へさかるな、眞中にねんなり。ふたつには我とはかきたれともすむ事もあれは、遠さかるなといふ心にても有へし。さきくさはあまたのやう有。一には瑞草なり。和名集云。文字集略云。〓【音娘。和名佐木久佐。日本紀私記云。福草。】草(ノ)枝々相(ヒ)値(ヒ)葉々相當(レルナリ)也。延喜式、治部式云。福草(ハ)瑞草也。朱草(ノ)別名也。生2宗〓(ノ)中(ニ)1。顯宗紀云。三年春二月丁巳朔戊辰。置2福草《サキクサ・サイクサ》部(ヲ)1。又日本紀の中に葛城(ノ)福草《サキクサ》、神社福草《カミコソノサキクサ》といへる人の名もあり。以上は瑞草に付たる事なり。二には瑞草ならねとも、只枝をみつならへたるをさきくさといふ。令義解(ノ)神祇令(ニ)云。三枝祭【謂率川社祭也、以2三枝華1飾2酒1祭故曰2三枝1也。】延喜式第一云。三枝祭三座【率《イサ》川社】二月十一月并(ニ)上(ノ)酉祭v之。同第九神名帳云。大和國添上郡率川坐大神御子神社三座。これは奈良にちかくまします神なり。二月十一月上申に春日祭に勅使ありて、其次に、次の日さいくさ祭あり。三枝の花をもて、神酒の瓶を飾る故に、三枝といふ理は聞えたれとも、さいくさといふ和語の心はいまたあらはれす。今こゝろみに是を釋せは、彼|〓《サイクサ》は枝々相値とあれは、三枝なり。それを福草とす。福の字を此集にさいはひとよめり。前にも尺せることく、さきはふといふ事なれは、さきはひといふへけれと、耳にもさはり、又はいひにくけれは、音をかよはして、さいはひといふゆへに、さきはひ草といふ心にて、さき草とも、さいくさともいへり。第二卷に、人まろの、しかのからさきさきはあれとゝいふさきなり。三座の神にたてまつる神酒の瓶なれは、三枝をもて飾れるが、福草に似たれは、やかてさいくさ祭とはいふにこそ。和名集を見るに、加賀國|江沼《エヌノ》郡、飛騨國大野郡に、ともに三枝《サイクサノ》郷あり。今の世ものゝふの氏にも、三枝と聞ゆるは、郷の名も氏も、そのゆへはしらねと、率川祭を注せる心なるへし。三には、檜の木の實名といへり。これは古今集序に、むつにはいはひうた、此殿はむへもとみけりさきくさのみつはよつはにとのつくりせり。此哥につきていへり。この哥を心得るにも、ふたつのやうあるへし。一には、三枝の心につきて、のきはのおほくてみつはよつはにありといはむとて、みつといはむ料に、さき草とはいへりとも心得へし。拾遺集に、平(ノ)公|誠《サネ》、山さくらを見侍りて、み山木のふたはみつはにもゆるまて消せぬ雪と見えもするかな。これは只櫻のうへにて、ふたはみつはとよめり。二にひの木といふにつかは、神代紀上云。一事曰。素戔嗚尊曰。〇又拔2散|胸《ムナ》毛1是成v檜。〇檜(ハ)可3以爲2瑞《ミツ》宮之材1。まくら草子に、ひの木ひとちかからぬ物なれと、みつはよつはの殿作もおかし。すてにすさのをのみこと、宮木のためとさためをかせたまへる、めてたき良材なる上に、清少納言も、しかつたへたれは、異名といふへし。そのうへ、小枝も葉もいとしけき物にて、今の俗おもひ葉とて、葉々相當を求るにうる事あれは、さき草ともいひつへし。又|齊〓《セイネイ》といふ、藥に用る草をも、延喜式(ノ)典藥寮式(ノ)、ならひに和名集に、さきくさなといへり。これは外にて、さきの三の中に、此さき草の中にをねむといへるは、みつえさしたるをいへり。みつある物はかならす中あるゆへに、中といはむために、さき草とはいへり。應神紀に、天皇、日向の髪長姫を、仁徳天皇いまた大鷦鷯皇子にておはしましけるに給る時の御哥に、かくはし、花橘、しつえらは、人皆とり、ほつえは、とりいからし、みつくりの、中つ枝の、ふほこもり、あかれるをとめ、いさゝかはえな。此集第九那賀郡曝井をよめる哥に、みつくりの中にむかへるさらしゐのたえすかよはんそこに妻もが。これらおほよそ粟は、ひとつのいかの中に、みつある物なれは、中といはむために、みつくりとつゝくるなり。物こそかはれ、心はいまにおなし。第十卷に、春されはまつ三枝のさきくあらはとよめるさき草も、こゝによめるにおなし おもはしくは、俗に、心にかなふ事を、おもはしきといひ、かなはぬをおもはしき事もなしといふ心なり。又愛の字をかきたれは、うつくしくとも、なつかしくともよむへし。しがかたらへはとは、しはさとかよへり。此集に己といふ字を、さとよめり。すなはちしがといふは、をのかといふ詞なり。わらはへのいたひけなるが、かたことしたるは、よそにきくたにおかしき物なるを、父母にてはいかゝいとおしからさらむ。あしけくもよけくもみんと、よくもあしくもなり。大舟のおもひたのむに、第二卷、日並皇子の薨し給へるをいためる、人まろの哥に有て注せり。猶此後もあまたある詞なり。横風の、これは七字あるへき所なるに、五字あるは、此集例おほしといへとも、うたかはし。爾母布敷可爾布敷可爾、以上十字いかにともよみとかれす。布敷の二字は、しく/\なるへし。布敷可爾/\とある下の四もしは、衍文と見えたり。横風は、わろき風の、ひたふきにふきて、風邪に感してわつらひつく心なり。こひのむは、こひいのるなり。祷の字をのむとよめり。請罪または叩頭なと、日本紀にかけり。かゝらずもかゝりも、めくみにかゝらんも、かゝらさらんも神の御心にまかせていのるなり。源氏物語須磨に、海にます神のめくみにかゝらすは塩のやをあひにさすらへなまし。立あさりは俗に心いられしていかにせんとさはくをあせるといふこれなるへし。よけくはなしにはよくはなしになり。かたちつくほり、やせすほる心ときこゆ。管見抄に、かたちくつほりは、形のくつおるゝなりといへり。都久の二字倒せる歟。本のことくなるを、心得かねていへるにや。いのちたえぬれ、はの字のそはぬは、さきにいへることし。そへて心得へし。立をとり、孝經云。突泣〓〓(シテ)哀《カテ》以送(ル)。注曰〓(ヲv心(ヲ)曰v〓(ト)跳(ヲ)曰v〓(ト)。所2以(ナリ)泄(ス)1v哀(ヲ)也。男(ハ)〓(リ)女(ハ)〓(テ)|哀《カテ》以送(ル)之。あしすりさけひ、第九卷浦鳴子をよめる哥にも、立はしりさけひ袖ふりこいまろぴあしすりしつゝたちまちに心きえうせぬなとよめり。伊勢物語に、ゐてこし女もなし。あしすりをしてなけともかひなし。源氏物語蜻蛉に、あしすりといふことをしてなくさま、わかきことものやうなり。蹉〓をあしすりとよむといひ來たれと、文選の今の點には見えす。あか子とはしつは、いつくともゆくさきしらすなるは、手にすへたらん鷹なとを、あやまちてそらしやらんに似たり。白氏文集哭崔兒微之子、掌珠一顆兒三歳、鬢雪千茎父六旬。豈v料汝(カ)先爲(ントハ)2異物(ト)1、常憂吾不v見v成v人。悲傷自斷(ツ)非v因v劔、啼眼|加《マス/\》昏(シ)不2是塵(ニハ)1。懷抱又空(シテ)天黙々、依v前重作2〓〓(カ)身(ト)1
 
反歌
 
905 和可家禮婆道行之良士末比波世武之多敝乃使於比弖登保良世《ワカケレハミチユキシラシマヒハセムシタヘノツカヒオヒテトホラセ》
 
マヒハセンとはまひなひはせんなり、幣をまひ〔二字右○〕ともまひなひ〔四字右○〕ともよめり、日本紀の中の神託にも某物某品などを、我にまひなへとのたまへる事多し、官人などの私に物を取を、賄賂とかきてまひなひ〔四字右○〕と云にはかはれり、シタヘノ使は下邊使にて冥使を云へり、オヒテトホラセは背に負て易く通らしめよとなり、光仁紀に左大臣藤原永手の薨じ給ひし時石川朝臣豐成をして宣せ給ふ詔にも、美麻之大臣罷道(69)、宇之呂輕於意太比念而、平罷【止富良須倍之、】
 
初、まひはせん まひなひをせんなり。幣の字なり。日本紀に、神の託宣なとにも、彼處《ソコ》の田、某《ソノ》物をもて、我にまひなひ給へと、のたまひしことおほし。賄賂を、まひなふとよむにはたかへり。したべの使は下邊の使なり。日本紀の心も、根の國は下邊なり。閻王の使をも通して、冥途をはしかいふへし。おひてとほらせは、背におひてやすくとほらせよなり。とほせとは今もいふを、とほらせはすこしいひたらぬやうなれと、古語のならひなり。光仁紀に、左大臣藤原永手の薨せられし時、石川朝臣豐成をして、宣を給ふ詔に、いはく。美麻之大臣乃罷道母宇之呂輕久心母|意《オ》太比爾念而、平久幸久罷【止富良須倍之】
 
906 布施於吉弖吾波許比能武阿射無加受多太爾率去弖阿麻治思良之米《フシオキテワレハコヒノムアセムカスタタニヰユキテアマチシラシメ》
 
布確、【校本、施作v※[糸+施の旁]、】  阿射無加受、【別校本云、アサムカス、】
 
發句は布施は伏なり、於吉?は起なり、仰ぐなり、腰句はアザムカズと點ぜるよし、射をせ〔右○〕の音に用る事なし、アマチは天路なり、シラシメはしらしめよなり、生天の路を知らせよとなり、
 
初、あせむかすは點あやまれり。射の字なれは、すなはちあさむかすとよむへし。たゝにゐゆきては、たゝちにひきゐゆきてなり。あまちは天路なり、生天の道をしらしめよなり。しらしめとのみいふは、又古哥の躰なり
 
右一首作者未詳但以裁歌之體似於山上之操載此次焉
 
初、但以3裁歌之體似2於山上之操1載2此次1焉 憶良の哥は、質素平淡にして、若詩に准せは、陶淵明に似たりといふへし。清貧も牛角に見えたり
 
萬葉集代匠記卷之五下
 
元禄二年歳次己巳十二月十八日
 
 
(1)萬葉集代匠記卷之六上
                 僧契冲撰
                 木村正辭校
 
初、萬葉集第六目録
 
初、三年丙寅 幸于幡磨國。幡は播の字をあやまれる歟。哥の所にいたりても幡に作れり。針間とかける事もあり。播磨とても、借てかける文字なれは、幡にても有へし。異國にも、音たに通すれは、あらぬ字を借て用たる事めつらしからす
 
初、過辛荷島 辛を誤て、幸に作れり
 
初、授刀寮 刀誤作v力
 
初、幸于難波宮時車持朝臣千年作歌 千作v于非
 
初、帥大伴卿和歌 帥誤作v師
 
初、天平四年 高橋連蟲麿。麿誤作v磨
 
初、中約言安倍廣庭卿 卿誤作v御
 
初、神社《カミコソノ》忌寸老丸 社誤作v杜。丸歌題作v麿【集中稱2某丸1者皆作2麻呂或麿(ニ)1無2作v丸者1
 
初、勘公卿補任今年二十 此九字未v詳。案するに右に湯原王の月の哥有。これに付て、後の人公卿補任にかむかふる事有て、傍に書付けるを、誤て載たるなるへし
 
初、紀朝臣鹿人 次行同鹿人、二鹿字共誤作v庶【下題并續日本紀、皆作v鹿】哥にいたりて見2茂岡之松樹1とあるを、今松樹とのみあるは、見茂岡之の四字をおとせるなるへし。これのみ略すへからす
 
初、六年下、守部王歌二首 二誤作v一
 
初、橘文成 成作v明誤。又此作者の注、目録にほ無用にて煩はし
 
初、石上乙麿卿 麿誤作v磨
 
初、十一年己卯 一誤作v上
 
初、美濃國多藝行宮 藝誤作v勢
 
雜歌
 
養老七年癸亥夏五月幸于芳野離宮時笠朝臣金村作歌一首并短歌
 
元正紀云、養老七年五五月癸酉、行2幸芳野宮1、丁丑、車駕還v宮、
 
初、雜歌
 
養老七年 元正紀云。養老七年夏五月癸酉行2幸芳野宮1。丁丑車駕還v宮
 
907 瀧上之御舟乃山爾水枝指四時爾生有刀我乃樹能彌繼嗣爾萬代如是二二知三三芳野之蜻蛉乃宮者神柄香貴將有國柄鹿見欲將有山川乎清清諾之神代從定家良思母《タキノウヘノミフネノヤマニミツエサシシシニオヒタルトカノキノイヤツキツキニヨロツヨニカクニニシラミミヨシノノアキツノミヤハカミカラカタフトカルラムクニカラカミマホシカラムヤマカハヲサヤケクスメラウヘシカミヨユサタメケラシモ》
 
(2)清清、【別校本亦云、サヤケクキヨシ、】
 
水枝は瑞枝歟、第五に注せし如く※[草がんむり/場の旁]《サキクサ》は瑞草なるに擬して三枝をもさきくさと云に、大形枚は木の左右に指て幹を合すれば三つとなる故に祝ひて瑞枝と云歟、第十三には槻に水指と讀たれば栂に限て云詞にはあらず、シヽニ生有以下の三句のつゞき、第三に赤人の神岳に登てよまれたる歌に注せりき、如是二二知三は今按今の點誤れり、二二は例の四〔右○〕なり、三は音を用てカクシシラサンと讀べし、し〔右○〕は助語、かくしろしめさむとなり、清清は今按同字を重て書たるを一樣によまずしてサヤケクスメリともサヤケクキヨシともよめる事おぼつかなし、今按サヤニサヤケシとよまば然るべき歟、又神代紀云、素盞嗚尊遂(ニ)到2出雲(ノ)之清地1焉、乃言臼、吾心清清之、これに依らばスガ/\シミと讀べきか、古事記に仁徳天皇の御歌に八田皇女をあたらすがしめとよませたまへるも清女なり、スガ/\シはすなはちきよき意なり、
 
初、瀧の上の御舟の山 よしのゝ瀧の上にある御舟山なり。水枝さししゝに生たるとかの木の。水枝とは書たれとも、三枝なり。およそ萬の木皆こなたとかなたとに枝さして、中をそふれは、三戟叉のことくあれは、みつえといへり。それがまさしく枝々相値てたかはねは、さい草なり。されど常にあるは、すこし高くひきく、兩方より出るなり。とかの木は、常に栂といふ木なり。明慧上人のおはせし、高雄の邊の栂尾も、此木を名におへるなり。第一卷に人まろ、かみのあらはすとかの木のいやつき/\とよまれたる哥あり。第三に赤人、みもろの神なひ山にいほえさししゝに生たるとかの木のいやつき/\になとよまれたり。今もその心なり。しゝは繁きなり。四時とかきたれは、わろくせは四季の義に取ぬへし。如是二二《・四也》知三、これをかくにゝしらみとかんなのつきたるは、此集に熟せぬ後人のしわさなるへし。難義の所あるに、はしめて奇特によみときけむ人、これほとの事になつみて、かゝるあさましき和點はくはふへからす。かくししるらみとも、かくししらさんともよむへし。知らみととよめは、今まての代々のみかとを申たてまつるなり。しらさんとよめは、今より行末の萬代なり、蜻蛉の宮、あきつと名付る由緒は、以前注せり。神《此注あやまれり》からは、君を神といふ事すてにふりたり。むへし神代ゆ、けにも神代より、此處に離宮《・カリミヤ》をは定たまひけるは、ことはりなりといふなり。神代はまことの神代にはあらす。離宮はいつれの御代にはしめられけん。いまたかむかへすといへとも、神武天皇をはしめて、おほくのみかと、此山にのほらせたまひけれは、そのはしめて宮つくりせさせたまひたる時をさしていへり。神代ゆは神代よりなり
 
反歌
 
908 毎年如是裳見牡鹿三吉野乃清河内之多藝津白波《トシノハニカクモミテシカミヨシノノキヨキカウチノタキツシラナミ》
 
(3)毎年、【六帖、トシコトニ、別校本同v此、】
 
發句は今の點よし、第五の梅の歌の中に注するが如し、タキツはたぎるに同じ、
 
初、としのはにかくもみてしか 毎年をとしのはといふ。十九卷の家持の自注を引て、さきにすてに證しつ。かくもみてしかに、牡鹿と書たれと、かもし濁て、願ひかなに心得へし。ましのしもし濁てよむ所に、益の字をかけり。一概すへからす。但いにしへは、みてしかなといふかもし、すみてもねかふ心に用たるにや。此集にさみゆる所あまたあるなり
 
909 山高三白木綿花落多藝追瀧之河内者雖見不飽香聞《ヤマタカミシラユフハナニヲチタキツタキノカウチハミレトアカヌカモ》
 
河内、【別校本カフチ、當v依v此、以上歌准v之、】
 
第九に、式部大倭芳野作歌上句、今の歌と同じ、
 
初、次の哥山高みしらゆふ 第九山高み白ゆふ花におちたきつなつみのかはとみれとあかぬかも。上句全同
 
或本反歌曰
 
910 神柄加見欲賀藍三吉野乃瀧河内者雖見不飽鴨《カミカラカミマホシカラムミヨシノヽタキツカウチハミレトアカヌカモ》
 
瀧河内者、【別校本云、タキノカフチハ、校本瀧下有v之、】
 
911 三吉野之秋津乃川之萬世爾斷事無又還將見《ミヨシノヽアキツノカハノヨロツヨニタユルコトナクマタカヘリミム》
 
第一第七に下句同じ歌あり、
 
初、みよしのゝあきつの川の 第一卷人まろの哥に、みれとあかぬよしのゝ河のとこなめの、下句全同
 
912 泊瀬女造木綿花三吉野瀧乃水沫開來受屋《ハツセメノツクルユフハナミヨシノヽタキノミナハニサキキタラスヤ》
 
(4)此落句今按サキニケラズヤと讀べし、來の字をけりとよめる事集中多し、けらずやの詞も亦多し、泊瀬女こそ木綿花を造るを、此吉野の瀧の水沫にも、彼木綿花は咲ずや、さけりとなり、
 
初、泊瀬女のつくるゆふ花 白波を木綿にまかへてよめる哥、此集にあまたあり。はつせめこそゆふ花をは作るを、おもひかけぬ此よしのゝ瀧の白沫に、そのゆふ花はさききたらすや。まさに咲きたれりの心なり。此集に波のたつをさくとよめる哥おほし。神代紀下にも、其《カノ》於|秀起浪穂《サキタナルナミホノ》之|上《ウヘニ》云々。上のゆふ花といふにあはせてさき來らすやといへり
 
車持朝臣于年作歌一首并短歌
 
于は千を誤て作れり、千年は、續日本紀に見えず、聖武紀云、從五位上車持朝臣益、天武十三年十二月戊申朔、車持君等賜2姓朝臣1、延喜式第七大甞式云、宸儀始出、主殿官人二人執v燭奉v迎、車持朝臣一人執2菅葢1云云、
 
初、車持朝臣千年 千年は績日本紀に見えす。聖武紀云。從五位上車持朝臣盆。天平九年正月辛酉、正八位下車持君長谷、賜2朝臣姓(ヲ)。延喜式第七大甞式云。宸儀始出、主殿官人二人執v燭奉v迎。車持朝臣一人、執2菅蓋(ヲ)1、子部宿神一人、笠取(ノ)直一人、並執2蓋(ノ)綱(ヲ)1膝行各供2其職(ニ)1
 
 
913 味凍綾丹乏敷鳴神乃音耳聞師三芳野之眞木立山湯見降者川之瀬毎開來者朝霧立夕去者川津鳴奈拜※[糸+刃]不解客爾之有者吾耳爲而清川原乎見良久之情蒙《アチコリノアヤニトモシクナルカミノオトノミキヽシミヨシノヽマキタツヤマユミクタセハカハノセコトニアケクレハアサキリタチユフサレハカハツナキナヘヒモトカヌタヒニシアルハワレニシテキヨキカハラヲミラクシヲシモ》
 
※[糸+刃]不解、【別校本亦云、ヒモトカヌ、】  客爾之有者、【別校本亦云、タヒニシアレハ、】  吾耳爲而、【官本亦云、ワレノミシテ、】  情、【別校合本作v惜、】
 
(5)右異を擧る所の點何れも異に依るべし、唯情の字は第一に云如く數處にあれば決しがたし、味凍ノアヤは第二にもありき、別に注す、鳴神は音のみ聞しといはむ爲なり、眞木立山湯、此まきも木の名なり、山ユは山よりなり、見降者は遊仙窟(ニ)云、直下則有2碧潭(ノ)千仞1、カハヅナキナヘドは鳴ならべどなり、詳はこと文字を書たがへたるべし、いくつも並びて鳴なり、蛙をば此集には殊に面白き物によめり、やがて此卷には、蛙きかせてかへしつるかもとよみ、第七には、鳴千鳥、蛙とふたつ忘かねつもとよめり、明れば朝霧たち、暮れば蛙鳴て面白く清き川原なれど、妻をも具せぬ旅なれば吾ひとりして見るが惜きとよめり、
 
初、あちこりのあやにともしく 第二に、塩気のみか《香乎禮洗》をれるくにゝ味凝のあやにともしき高てらすひのみこといふ哥の所に注せり。なる神の、和名集云。雷公【伊加豆知奈流加美。】神にしてなれは、なるかみといひ、いかりて槌をもて物をうつやうなれは、瞋槌といふ心にて、いかつちとは名付たりときこゆ。第七にも、なるかみのをとにのみきくまきもくのひはらの山をけふみつるかも。又神のこときこゆる瀧なともよめり。よろつの聲の中にも、ひゝきわたる物なれは、名に高く聞しことをいはむとて、鳴神の音に聞とはいへり。ま木たつ山ゆ、まきは木のしけきをも、又木の名の艪もいふへし。山ゆは山よりなり。みくたせは、遊仙窟曰。直下(トミオロセハ・トミクタセハ)則有2碧潭(ノ)千仞(ナル)1。あけくれは朝きり立て夕されはかはつ鳴奈辨詳、こゝにあけくれはといひて、夕されはといへるにて、夕されはといふ詞は、夕にしあれはといふにてはなくして、夕になりされはといふ心なりとしるへし。去の字ゆくともよめは、夕になりさるはくれゆけはの心なり。かはつなくなへ、此なへといふ詞は、古今集そのゝちの哥にもあり。からにといふ心ときこゆ。鳴奈辨詳、この詳の字は心得かたし。臙文歟。ひもとかぬたひにしあれは、われのみして。ひもとかぬは、心のとけぬよしなり。欽明紀云。願(ハ)王開v襟《コロモクヒヲ》緩《ユルヘテ》v帶(ヲ)恬然《シツカニ》自《ミ》安(シテ)勿(レ)2深(ク)疑(カヒ)懼(ルヽコト)1。たひにしあるはわれにしてとある點よろしからす。さきのことくよむへし。みらくしおしもは、見らくは見るなり。しともとは助語なり。惜を情に作れるは誤なり
 
反歌一首
 
914 瀧上乃三舩之山者雖畏思忘時毛日毛無《タキノウヘノミフネノヤマハカシコケレトオモヒワスルヽトキモヒモナシ》
 
腰の句は山神を敬て、かけて申も恐れあることなれどと云なり、
 
初、みふねの山はかしこけれと かけて申もかしこけれとなり
 
或本反歌曰
 
(6)915 千鳥鳴三吉野川之音成止時梨二所思公《チトリナクミヨシノカハノオトシナミヤムトキナシニオモホユルキミ》
 
公、【幽齋本作v君、】
 
音成は今按今の點意得ず、オトナスと讀べし、川音の絶ぬ如くやむ時なしとつゞくるなり、公とは妻を指せり、上の、紐とかぬ旅にしあれば吾のみしてなどよめる意なり、
 
初、ちとりなくみよしの川の音成 この音成を、おとしなみとよめるはこゝろえす。おとなすとよむへし。よしの川のかはおとのやむ時なきかことく、わするゝまなしとなり
 
916 茜刺日不並二吾戀吉野之河乃霧丹立乍《アカネサスヒヲモヘナクニワカコフルヨシノヽカハノキリニタチツヽ》
 
日不並二は今按ヒモナラベヌニ、或ヒナラベナクニとよむべし、第八に赤人の歌に山櫻花日並而とよまれ、第二十にも宿のなでしこ日ならへてとよめり、第一に馬數而をウマナヘテとよめるは、數ある物は日をも二日三日四日などよみならぶる故なり、されば日もならべぬは日をも經ぬなり、吾戀をば、ワガコヒハと讀べし、戀の霧に立とはなげく息をいへり、
 
初、あかねさす日をもへなくに 日不並二とかきたれは、心を得ては、日をもへなくによむましきにはあらねと、ひもならへぬにと字のまゝによむへし。日ならへてといふ詞此集にあり。第八に足引の山さくら花日ならへてかくしさけらはいとこひめやも。わかこひはよしのゝ川の霧にたつとは、故郷を戀てなけく息の事なり。二首なから旅にして、故郷を思ふ歌なり。吾戀をわかこふるとよめるはあやまりなり
 
右年月不審但以歌類載於此次焉或本云養老七年五月
 
(7)幸于芳野離宮之時作
 
神龜元年甲子冬十月五日幸于紀伊國時山部宿禰赤人作歌一首并短歌
 
聖武紀云、神龜元年冬十月丁亥朔辛卯、天皇幸2紀伊國1、癸巳、行至2紀伊國那賀(ノ)郡玉垣勾頓宮1、甲午、至2海部《アマヘノ》郡玉津島頓宮1、留十有餘日戊戌、造2離宮(ヲ)於岡東1、是日從駕百寮六位已下至于|伊《伴歟》部1、賜v禄各有v差、壬寅云云、又詔曰、登山望v海(ヲ)、此間最好(シ)不v勞2遠行1、足2以遊覧1、故改2弱濱名1爲2明光浦1、宜d置2守戸1勿uv令2荒穢1、春秋二時、差2遣官人1、奠2祭玉津島之神明光浦(ノ)之靈1、忍海手人大海等兄弟六人、除2手人名1從(テ)2外祖父從五位上守連通姫1、玉津島の神を衣通姫と云は推量するに聖武天皇弱浦を明光浦と名を改させたまひ、紀に守連通姫と云事などの有によりて好事の者の云ひ出せるにや、續日本紀をば日本紀などのやうに、古來も翫び來らざるかに依て章句の錯亂文字の差舛等すくなからねば、今引文も津守連通姓と云を津を脱し姓を誤て姫に作れりと見えたり、津守連通が事は第二の注に粗紀を引が如し、養老七年正月に從五位下より從五位上に昇進せり、玉(8)津島祝部大海が母は通が娘なるにより、手人と云は其比賤しき尸の樣なる事にてや、通が性の連に從がはせて忍海連になさせ給へるなるべし、
 
初、神龜元年甲子 續日本紀第九云。神龜元年冬十月丁亥朔辛卯天皇幸2紀伊國(ニ)1。癸巳行至2紀伊國|那賀《ナガノ》郡玉垣(ノ)勾《マカリノ》頓宮(ニ)1。甲午至2海部《アマヘノ》郡玉津島(ノ)頓宮(ニ)1留(ルコト)十有餘日。戊戌造2離宮(ヲ)於岡(ノ)東(ニ)1。是(ノ)日從v駕百寮六位已下至(マテ)于伊部(ニ)1賜(コト)v禄(ヲ)各有v差。壬寅○又詔曰。登(テ)v山(ニ)望(ムニ)v海(ヲ)此間最好(シ)。不(シテ)v勞(セ)2遠行(ノ)足(ヲ)1以遊覧(スルカ)故(ニ)改(テ)2弱濱《ワカノハマノ》名(ヲ)1爲2明光《・アキテリ》(ノ)浦(ト)1。宜(シク)d置(テ)2守戸(ヲ)1勿(ル)uv令(ムルコト)2荒穢(セ)1。春秋二時(ニ)、差(シ)2遣(シテ)官人(ヲ)1、奠2祭(セヨ)玉津島(ノ)之神(ミ)明光(ノ)浦(ノ)之靈(ヲ)1。忍海《オシウミノ》午人大海等兄弟六人除(テ)2午人(ノ)名(ヲ)1從(カハシム)2外祖父從五位上守(ノ)連《ムラシ》通《カヨフカ》姫1。衣通姫といふは、推量するに、聖武天皇明光浦と名をあらためさせ給ひ、守連通姫なといふ事あるにより、好事のものゝいひ出せる事なるへし。津守連通、養老七年正月に從五位下より從五位上に轉昇せり。忍海午人大海といふもの、玉津鳴の祝部なりけるが、午人といふ事は、その時いやしきことなるゆへ、それをのそきて、外租父の、津守連通か、連《ムラシ》の姓《カハネ》にしたかはせて、忍海連《オシノミノムラシ》になさせたまへるなるへし。姫は姓の字を誤れるなるへし。津守連通か履歴は、第二卷に、大洋皇子石川女郎をめしけるを、此連か占ひあらはせる歌の注に有
 
917 安見知之和期大王之常宮等仕奉流左日鹿野由背上爾所見奧島清波瀲爾風吹者白浪左和伎潮干者玉藻苅管神代從然曾尊吉玉津島夜麻《ヤスミシシワカオホキミノトコミヤトツカヘマツレルサヒカノユソカヒニミユルオキツシマキヨキナキサニカセフケハシラナミサワキシホヒレハタマモカリツヽカミヨヨリシカソタフトキタマツシマヤマ》
 
頓宮を常宮とは、祝ひて申詞なり、左日鹿野由は雜賀野よりなり、雜賀は弱浦よりは西の方なり、
 
初、わか大君の常《トコ》宮 いつまてもかはるましき宮所なれは、とこ宮といふなり。又常宮とかきて、とつ宮ともよめり。とこつ宮といふを略せるなり。さひか野ゆ、さひか野よりなり。さひかの浦に野のあるなるへし。そかひにみゆる、此卷にておほき詞なり。こゝには背上とかき、よそには背向とかけり。心は字のことし。波瀲は地神第七代の御名にも、彦波瀲武※[盧+鳥]〓草葺不合尊《ヒコナキサタケウカヤフキアハセスノミコト》
 
反歌
 
918 奧島荒礒之玉藻潮干滿伊隱去者所念武香聞《オキツシマアライソノタマモシホミチテイカクレユカハオモホエムカモ》
 
潮干滿、【官本亦云、シホヒミチ、】  伊隱去者、【官本云、或無2伊字1、別校本、カクロヘユケハ、】
 
腰の句、今の點あやまれり、シホヒミチと讀べし、干潟《ヒカタ》と成れる所へ、又塩の滿來るを云へり、塩干塩滿とよめる心には替れり、イカクレユカバは伊は發語の詞なり、今按(9)次の歌に塩滿來ればとあるに依らば、イカクリユケバとよむべし、落句は塩干におり立し名殘などを忘られざらんかとなり、
 
初、しほみちて 潮干滿とかきたれは、しほひみちと讀へし。こゝろはおもしろくおもひて玉もをかるしほひかたに、塩のみちきて、ひかたのかくれゆかは、玉もかりしなこりのあかすおほえんとなり。いかくれは發語の詞をそへたり
 
919 若浦爾塩滿來者滷乎無美〓邊乎指天多頭鳴渡《ワカノウラニシホミチクレハカタヲナミアシヘヲサシテタツナキワタル》
 
〓邊、【官本、〓作v葦、校本與v今同、】
 
今按〓は字形の似たるを思ふに蘆の字を誤てるにや、腰の句を俗説に片雄浪と云ひ習はし、然意得る者もあるか、口の端にもかくまじき事なり、此に滷乎無美とかき、第二の人丸の歌に角の浦囘をかたなみと人こそ見らめとよまれたるも滷無とかきてを〔右○〕文字もなし、
 
初、わかの浦にしほみちくれほかたをなみは、塩のみちきてひかたのなくなるなり。片男浪なといふあさましき説は、くちのはにもかくへからす。世俗のこのみていふことなり。既にこゝに滷乎無美とかけり。又第二卷に、人丸の石見よりのほらるゝ時の歌に、石見の海、角の浦わを、うらなみと、人こそみらめ、滷無《カタナミ》と、人こそみらめ。よしゑやし、浦はなくとも、よしゑやし、滷者無《カタハナク》ともとよめり。これにていよいよ邪説を取へからす。〓、これは蘆草此兩字のあひたをかきあやまれるなるへし。此歌源道|濟《ナリ》か十體に、第一古體にいたし古今集序にも出せり
 
右年月不記但〓從駕玉津島也因今檢注行幸年月以載之焉
 
〓は※[人偏+稱の旁]に作るべし、
 
神龜二年乙丑夏五月幸于芳野離宮時笠朝臣金村作歌一(10)首并短歌
 
聖武紀漏v之而不v載、
 
初、神龜二年 聖武紀不v載v之
 
920 足引之御山毛清落多藝都芳野河之河瀬乃淨乎見者上邊者千鳥數鳴下邊者河津都麻喚百磯城乃大宮人毛越乞爾思自仁思有者毎見文舟乏玉葛絶事無萬代爾如是霜願跡天地之神乎曾祷恐有等毛《アシヒキノミヤマモサヤニオチタキツヨシノヽカハノカハノセノキヨキヲミレハカミヘニハチトリシハナキシモヘニハカハツツマヨフモヽシキノオホミヤヒトモヲチコチニシシニシアレハコトミモニトモシミタマカツラタユルコトナクヨロツヨニカクシモカナトアメツチノカミヲソイノルカシコカトモ》
 
百磯城、【官本、磯作v礒、】  毎見、【校本云、ミルコトニ、】  文舟乏、【官本舟作v丹、點云、アヤニトモシミ、】
 
シヽニシアレハは、しゞは繁の字なり、し〔右○〕は助語にて、しゞにあればなり.毎見はミルゴトニと點ぜるよし、文舟の舟は丹を誤れり、アヤニとよめるに付べし、如是霜願、し〔右○〕は助語にてかくもがななり、願の字義訓なり、カシコケレドモは君に對して申なり、
 
初、落たきつ たきちなかるゝなともよめり。沸の字をたきつとよみたれは、たきるとおなし詞なり。瀧も、此たきつといふ用の詞を、躰になしてよふ名なり。しゝにしあれは、しけくあれはなり。しゝにしのしもしは助語なり。みることにあやにともしみ、あやは日本紀に、吐嗟とかきて、あやとも、やあともよめり。しかれはあやは發語辭嗟嘆辭の二義あるへし。此集にあるは嗟嘆のかたなり。それにとりて、まことにうれへありてなけくと、物をほむる心のきはまる時、稱嘆讃嘆なといふにかなふ事有。今此あやはほむる詞なり。ともしきも、さきに、尺せしことく、まことにすくなきをいふと、物をほめて見たらぬをいふとあり。今はみたらぬなり。毎見文舟乏、これを、ことみもにともしみと點したるはいふにたらさることなり
 
反歌二首
 
(11)921 萬代見友將飽八三吉野乃多藝都河内之大宮所《ヨロツヨニミトモアカメヤミヨシノヽタキツカウチノオホミヤトコロ》
 
見トモは見る友なり、見るらしを見らんとよめるが如し、
 
初、萬代に見ともあかめや みるともあかんや、あかしなり
 
922 人皆乃壽毛吾母三吉野乃多吉能床磐乃常有沼鴨《ヒトミナノイノチモワレモミヨシノヽタキノトコイハノツネナラヌカモ》
 
人皆乃、【官本云、或本皆人乃、點云、ミナヒトノ、】
 
床磐は床は假てかけり、まことには、常磐なり、古以反吉なれば約めてトキハと云も同じ、磐石の堅くして動かぬ如く常ならぬか、常なれかしの意なり、第一に吹黄刀自が歌に注せるが如し、
 
初、人みなのいのちも 此歌の心、第一卷吹黄刀自か歌に注せしかことし。とこいはゝつねなる石といふ心なり。い《非なり》はとこといへるもおなし
 
山部宿禰赤人作歌二首并短歌
 
923 八隅知之和期大王乃高知爲芳野宮者立名附青墻隱河次乃清河内曾春部者花咲乎遠里秋去者霧立渡其山之彌益々爾此河之絶事無百石木能大宮人者常將通《ヤスミシヽワカオホキミノタカシラスヨシノヽミヤハタヽナツクアヲカキコモリカハナミノキヨキカフチソハルヘニハハナサキヲヲリアキサレハキリタチワタルソノヤマノイヤマス/\ニコノカハノタユルコトナクモヽシキノオホミヤヒトハツネニカヨハム》
 
(12)芳野離、【官本、離改作v宮、】  霧立渡、【官本云、キリタチワタル、】
 
芳野離は離宮と有けん宮の字の落たるか、花咲ヲヽリは仙覺抄に上りと云詞也と釋せられたれどおぼつかなし、下にをゝりにをゝり※[(貝+貝)/鳥]の鳴我嶋ぞとよめるも盛りに鳴意と聞ゆれば、誇る倨るなど云如き詞にや、霧立渡はキリタチワタルと讀て此を句とすべし、百石木能をモノシキノと點ぜるは書生の誤なり、モヽシキノと讀むべし、
 
初、芳野離者 離の字の下に宮の字のあるへきにや。たゝなつくは、疊附なり。重山疊嶂なと詩に作るかことし。第一卷に人丸、たゝなはる青垣山の山つみとよみ、第十二にもよめり。別に注して附侍り。花さきをゝり、管見抄に、花咲のほりといふ詞なりといへり。此集にあまたよめり。すなはち此卷にも、下に至て二首あり。うつほ物語梅花笠の卷に、鶯をむかふといふ題にて
  里に咲花にうつらておく山の松にをゝるなうくひすの聲
弘の字ををとよむ類をおもふに、をゝるは興にやあらん。炭に火のつくをおこるといふことく、さかりになりゆくをいふ詞にや
 
反歌二首
 
924 三吉野乃象山際乃木末爾波幾許毛散和口鳥之聲可聞《ミヨシノノキサヤマキハノコスヱニハココタモサワクトリノコヱカモ》
 
象山際乃、【別校本亦云、キサヤマノハノ、】
 
木末はコヌレとも讀べし、第五梅の歌に春去ばこぬれがくりてとよめるが如し、
 
初、象山際乃木末には きさ山きはのこすゑとも、きさやまのはのこぬれともよむへし。此集によそにさもよめり
 
925 烏王之夜乃深去者久木生留清河原爾知鳥數鳴《ヌハタマノヨノフケユケハヒサキオフルキヨキカハラニチトリシハナク》
 
久木は久しき木にて老木の心なり、楸にはあらず、第十に梅櫻をよめる間に、去年咲し久木今さく徒に、つちにやおちむ見る人なしにと云歌のはさまれたるは梅櫻の(13)内をよめりと見ゆ、又第十一に、浪間より見ゆる小島の濱久木久しく成ぬとよめるも楸なりとも久しくとはつゞくべけれど、皆久木とのみ書て久しくとつゞけぬれば、初にいへる意なるべし、清き川原は唯川原の清きなり、名所にはあらず、吉野にてよまれたれば吉野の川べを指て云へり、チトリシハナク、とは、此歌五月によまれたり、山川近く住て聞侍れば誠に夏も鳴事に侍り、但新古今に冬の歌に入られ、又後の注にも不審あり、彼處に至て見ゆべし、
 
初、久木おふる清きかはら 久木は木の名、楸の字をかけり。桐の葉に似てちひさきものなり。きよき河原、名所にあらす。吉野川をほめたることはなり。さきの赤人の、紀伊國の行幸の御供にてよめる歌に、おきつしまきよきなきさにといひしかことし
 
926 安見知之和期大王波見芳野乃飽津之小野笶野上者跡見居置而御山者射固立渡朝獵爾十六履起之夕狩爾十里※[足+榻の旁]立馬並而御※[獣偏+葛]曾立爲春之茂野爾《ヤスミシシワカオホキミハミヨシノノアキツノヲノノノカミニハアトミスヱオキテミヤマニハセコタチワタリアサカリニシヽフミオコシユフカリニトリフミタテヽウマナメテミカリソタテシハルノシケノニ》
 
射固立波、【官本亦云、イヌタテワタル、幽齋本、固作v目、】  朝獵爾、【校本、或獵作v※[獣偏+葛]、】  御※[獣偏+葛]、【官本、※[獣偏+葛]作v獵、校本作v狩、】
 
跡見とは、鹿の通ふ跡を見る者を用を以て體に名付るなり、左傳云、迹人來告、【注※[しんにょう+午]2禽獣1者、】目、逢澤有2介麋1焉、此迹人と云名も同じ意なり、射固は幽齋本に固を目に作れるに從がひて、イメタチワタリと讀べし、其故は射目と云事は集中あまた所々あり、是一つ、(14)第五卷に注せし如く、射の字、音を用る時は左にして勢にあらず、是二つ、官本に、字は今の本と同じながら又の點にイヌタチワタルとあるは、イメタチワタルを誤ると見ゆる、是三つ、校本には因にも作りたれば固にも定まらざる、是四つなり、射目は射手なり、朝獵以下は第一に有し間人連老が歌の如し、十六は四々なり、四々を以て猪鹿とせり、立爲は今按タヽスと讀べし、
 
初、あきつのをのゝ野上には 野の高き所を野上といふ。第二にも、人丸、つまもあらはとりてたけましさみの山野上のうはき過にけらすやとよまれたり。第八に、霞たつ野上のかたに行しかは鶯なきつ春になるらし。是は美濃の野上なりといへり。只こゝの野上といへるにても侍らめと、野上とのみいへるゆへ、名所と心得きたれるなり。あとみすゑおきて、第八卷の哥に、射《旋頭哥》目たてゝ、とみの岡邉の、なてしこの花、ふさたをり、われはもていなん。なら人のためとよめり。又第九に、射目人のふしみの田井とつゝけよめる哥有。又十三長哥にも、高山の嶺のたをりに射目たてゝしゝ待ことくともよめり。これらみなおなし心なり。野の高き所に、まふしなとさして、人をふせおきて、しゝのかよひくるをうかゝはしめ、落ゆくを射させなとするものを、あと見すゑをきてとはいへり。み山にはせこ立わたり。管見抄にみ山は御山とかけり。御狩の山といふ心なり。たとへは、かたのゝ御野なと申詞なり。せこは山に立わたりて、鳥けた物追出すものなりといへり。御山はよく心を付たり。ふかき山をみ山といふのみならす、すへて山をみ山といふは、眞山とほめていふ心なり。されともかたのゝ御野なとの例あれは、御狩の山にても有へし。せこは責子といふ心なるへし。和名集云。文選云。列卒滿v山【和名加利古。】かりこはすなはちせこなり。延喜式左右衛門式曰。凡(ソ)狩子五十人冠并衣袴布四十端三丈之中、紺布一端一丈五尺。冠料|桃染《モヽソメノ》布二十五端。白布十四端一丈五尺。練絲十八兩三分。朝かりにしゝふみおこし夕狩にとりふみたてゝ。第三に安積皇子薨したまひけるを、いたみ奉て、家持のよまれたる長哥にも、此四句全同。しゝはゐのしゝかのしゝなれとも、日本紀に、獣の子をしゝとよみたれは、けたものゝ惣名なり。狼猿兎やうの物もあれと、まつは猪鹿をかりて、かれらはかたはらに獲るなれは、第三卷には、しゝに鹿猪とかき、とりに鶉雉とかけり。鳥もよろつをきらはねと、小鷹は鶉をむねとし、大鷹は雉をむねとする心を得て、鶉雉とはかけり。こゝに十六とかけるは、四々の義なり。馬なめてみかりそ立爲《タテシ》、たてしとあれとも、たゝすとよむへし。當時のことをよめはなり。第一に玉きはるうちの大野に馬なめて朝ふますらむその草ふけ野
 
反歌一首
 
927 足引之山毛野毛御※[獣偏+葛]人得物矢手狹散動而有所見《アシヒキノヤマニモノニモミカリヒトトモヤタハサミミタレタルミユ》
 
得物矢は第一第二に既に出づ、手狹は挾に作るべし、散動は今按散はみだる〔三字右○〕に叶へども動は叶はぬにや、下の印南野の行幸に赤人のよまれたる歌、並に第二に人丸の狹岑嶋にてよまれたる歌にも同じくトヨムと點じたれば、今もトヨミタルミユと讀べし、又サワグともよめり、
 
初、あし引の山にも 得物矢は、第一第二にもありき。矢一手はふたすちなり。それをもろやとも、共矢ともいふ。矢はおほくおひてもてとも、一手をたはさむ習なるゆへに、ともやたはさみとはいへり。さるを第一第二にもこゝにも、得物矢とのみかきたる故に、狩に得ものある矢といふことなりと釋せるは非なり。されとも、止毛矢とも、跡裳矢ともかゝて、毎度得物矢とわすれすかけるは、淡海公の諱《タヽノナ》は史《フヒト》なれは、反名には布非止《フヒト》、婦悲杼《フヒト》ともかくへきを、さはかゝて、かならす不比等とさためたるは、かんなゝから、別に心有るかことく、得物矢ともその心にてかけるなるへし。養老年中に國郡の名をも、よき文字にてつけよと勅したまひ、延喜式にもよき文字にて、二字にかきりてなつけよと侍るゆへに、たとへは中の郡といふは、國々にあまた有を、那珂なとかけるは、いかに書ても、かれる音は中の義にあたらねと、珂の字のよけれは、心してかけるかことし。こゝらといふは、おほき事にて、此集に幾許とかきて、こゝたとよめるにおなしきを、巨々等とかくよし、後に作り出せるがごときにまとはさるゝ人おほし。挾を狹につくれるは誤なり。散動は下の十七葉赤人の哥にとよみとよめり。又ある所にさはくとよめり。みたるゝもおなし心なり。動の字にあたりては、とよむさはく此ふたつの訓したしかるへきにや
 
右不審先後但以使故載於此次
 
初、右不審先後 初の金村の哥は、夏五月といへり。後の赤人の哥は春のしけ野とよみたれは、同時の哥にはあらす。赤人の哥は年月しれさるゆへに、類をもてこゝに載てかくは注せられたり
 
冬十月幸于難波宮時笠朝臣金村作歌一首并短歌
 
(15)聖武紀云、神龜二年冬十月庚申、天皇幸2難波宮1、
 
初、冬十月 聖武紀云。冬十月庚申、天皇幸2難波(ノ)宮(ニ)1
 
928 忍照難波乃國者葦垣乃古郷跡人皆之念息而都禮母爲有之間爾續麻成長柄之宮爾眞木柱太高敷而食國乎收賜者奧鳥味經乃原爾物部乃八十伴雄者廬爲而都成有旅者安禮十萬《オシテルナニハノクニハアシカキノフリニシサトトヒトミナノオモヒヤスミテツレモナクアリシアイタニウミヲナスナカラノミヤニマキハシラフトタカシキテヲシクニヲヲサメタマヘハオキツトリアチフノハラニモノヽフノヤソトモノヲハイホリシテミヤコトナセリタヒニハアレトモ》
 
都禮母爲、【官本、爲作v無、】  收賜者、【官本、收作v治、】
 
發句はオシテルと四文字にも讀べし、葦垣の古にし郷とつゞけたるは、葦垣はかりそめなる物にて古里めきたればかくつゞくる歟、又葦は弱き物にて、垣に結てもやがて古行物なればかくつゞくる歟、第九第十三に蘆垣の思ひ亂てとつゞけたるも此意とおなじく、蘆垣の古たるがこなたかなたに亂るゝを云へる歟、又第十三に※[木+若]垣久時從とあるをミヅガキノヒサシキヨヽリと點ぜしと、第十二に※[木+巨]※[木+若]越爾とあるをマセコシニと點ぜるに准ずればマセガキノと點ずべきか、※[木+若]を延喜式にはシ(16)モトと點ぜり、日本紀に弱木をシモトとよみたれば、さも有べし、しもと〔三字右○〕とませ〔二字右○〕と通ぜり、ませがきの久しきとつゞくる事は、昔はおほやけも私も華麗を用ず、おろそかなるを風とせし故に、履中天皇の柴籬宮など申名もすなはち御垣の柴なるより名付させたまへる歟、されば昔よりと云心をませ垣の久しき世よりとはいへる歟、然れば今此蘆垣も古代の淳風にかけてふりにしとつゞけたる歟、念息而とは、やすむはやむなり、再たび都めかんとは思ひもよらず、唯古にし里なりとのみ思ひてさて有意なり、ツレモナクは第三に注せるが如し、爲は官本の無に作れるに依るべし、續麻成は長と云詞まうけむためなり、第十三には續麻成、長門の浦ともつゞけたり、奥鳥は味と云鳥は鴨の類なるに、鴨を奥鳥といへばさてかくはつゞくるなり、味經は和名集云、來|生《ナリ》郡味原、此味原に作らしたる宮なれば味經宮と云、孝徳紀云、白雉元年春正月辛丑朔、車駕幸2味經宮1、觀2賀正禮1、【味經、此云2阿膩賦1、】此注の中の初の賦は異文字を寫あやまれるにや、同紀云、二年冬十二月、於2味經宮(ニ)1、請2二千一百餘僧尼(ヲ)1使v讀2一切經(ヲ)1、桓武紀云、延暦四年正月丁酉朔庚戌、遣v使掘(テ)2攝津國(ノ)神下《カムシタ》梓江《アツサエ》鯵生野《アヂフノヲ》1通2宇三國川(ニ)1、延喜式典藥寮式云、凡(ソ)味原牧爲2寮牛(ノ)牧1、味經宮は孝徳紀に初て見ゆれば、孝徳天皇の建させ給へるなるべし、今は味經と聞ゆる處なし、
 
初、なにはのくには、はつせ小國、よしのゝ國なといふ類なり。あしかきのふりにしさと、蘆は難波の名物なる上に、蘆垣はふるさとめきたる物なれは、かくはつゝけたり。おもひやすみてとは、繁華の念をやめてなり。つれもなくありしあひたに、爲は無の字なり。すこし似たるに見あやまりて爲に作れり。第三に、つれもなき、さほの山へに、なくこなす、したひきましてとよみ、第十三に、つれもなき、城の上の宮に、大殿を、つかへまつりてとよめり。第三に尺せりき。つれなき、つれもなき同し詞なり。惰もしらす心つよきなとをつれなきといふは、無v頬《ツラ》《・ラレ音通》といふ心なるへし。物の心をおもひ知てこそかほはあるを、鹿の角を蜂のさすとかいふらんやうに、さりけなくてあれは、つれなしといふなるへし。又内外の道をきはめたらんをはおきて、しはらく人情につきていはゝ、ゐなかにあさましくてあらんは、はつかしくて、住もかふへきことなるを、さもせすしてあるは、心つよきといふ心にて、かくはいふなり。うみをなすなからの宮に、うめるをのなかきとつゝけたり。長柄の宮は、日本紀第二十五云。冬十二月【孝徳天皇元年】乙未朔癸卯天皇遷(ス)2都(ヲ)難波(ノ)長柄(ノ)豐碕《トヨサキニ》1。まきはしらふと高敷て、これは聖武天皇、又長柄に都をうつし給ふにはあらす。孝徳天皇の故宮を改造て、跡をうしなはせたまはす、折々行幸せさせたまへるなり。おきつ鳥あちふのはらに、味村はおきにすむ物なれは、かくつゝけたり。奥といふは、海にかきらす、河にも池にも田にも讀り。水の面のはるかなるをいふなり。されとも、今おきつ鳥といふは海につきてなり。第十六には、奥つとり鴨ともつゝけたり。味経は和名集云。攝津国東生郡|味原《アチフ》。今の本注の失たれと、これあちふなり。原をふとよめる事、則此下にも、みけむかふ味原《アチフノ》宮はみれとあかぬかも。此外あけてかそふへからす。孝徳紀云。白雉元年春正月辛丑朔、事駕《キミ》幸2味經《アチフノ》宮(ニ)1觀《ミソナハス》2賀正禮《ミカトオカミノコト》1。【味經此(ヲハ)云2阿賦賦1。】二年冬十二月於2味經宮1請2二千一百餘僧尼(ヲ)1使v讀2一切經(ヲ)1。續日本紀云。延暦四年正月丁酉朔庚戌、遣v使掘(テ)2攝津國(ノ)神下梓江|鯵生野《アヂフノヲ》1通(ス)2于三國川(ニ)1。延喜式典藥寮式云。凡(ソ)味原(ノ)牧(ヲハ)爲2寮牛(ノ)牧(ト)1。日本紀には、味経を阿賦々とよむへきよし注したまへと、こゝにはおきつ鳥とあちふとつゝけ、續日本紀には、鯵生野とあれは、まきれなくあちふなり。布は入聲にて、知と通すれは、あちふをあふゝともいへるなるへし。此味経といふ所、をのれすみ侍るも、同し東生郡なれは、土民なとにとへと、いつくと知ものもなく、味経の宮有きといひつたふるものもなし。都となせり旅にはあれとも。第十九に、大君は神にしませは水鳥のすたくみぬまを都となしつ。まことの都にあらさるゆへに、たひにはあれともとことはれるなり
 
(17)反歌二首
 
929 荒野等丹里者雖有大王之敷座時者京師跡成宿《アラノラニサトハアレトモオホキミノシキマストキハミヤコトナリヌ》
 
和名云、日本私記云、曠野、【安良乃良】草の字を萬葉にのら〔二字右○〕とよめる由かける物あれど此集中にある事なし、總じて此集廣き物なればいかなる事をも此集に有とだに云ひつれば武藏野に鹿を追失たらむやうに跡の尋がたければ、昔より事を言ひ遁れんとては此集をより所にする事おほし、今事の次に記し侍り、
 
初、あらのら 和名集云。日本紀私記云。曠野【安良乃良】
 
930 海未通女棚無小舟榜出良之客乃屋取爾梶音所聞《アマヲトメタナナシヲフネコキイツラシタヒノヤトリニカチヲトキコユ》
 
車持朝臣千年作歌一首并短歌
 
931 鯨魚取濱邊乎清三打靡生玉藻爾朝名寸二千重浪縁夕菜寸二五百重波因邊津浪之益敷布爾月二異二日日雖見今耳二秋足目八方四良名美乃五十開回有往吉能濱《イサナトリハマヘヲキヨミウチナヒキオフルタマモニアサナキニチヘニナミヨセユフナキニイホヘナミヨルヘツナミノマスシクシクニツキニケニヒヽニミレトモイマノミニアキタラメヤモシラナミノイサキメクレルスミノエノハマ》
 
(18)千重浪縁、【別校本云、チヘニナミヨリ、】  百五重浪、【百五、官本作2五百1、當從2官本1、】 往吉能濱、【官本、往作v住、此本誤矣、當v據2官本1、】
 
日日雖見は、今按ヒヾニミルトモと讀べし、みれどもは誤なり、白浪ノイサキメグレバは、い〔右○〕は發語の詞、開は浪花のさくなり、神代紀下云、其於2秀起|浪穗《ナミホノ》之上1云云、此秀の字の意同じ、
 
初、白波のいさきめくれる 神代紀下云。其《カノ》於|秀起浪穂《サキタツルナミホノ》上云々。秀の字をほともよめり。穂の心なり。浪華の心にて、さきめくれるといへり。さきにも、泊瀬女のつくるゆふ花みよしのゝ瀧のみなはにさききたらすやとそ有し。日本紀に浪華《ナミハナ》をよこままりてなにはといふよし見えたり。住を誤て往につくれり。【いは發語の詞】
 
反歌一首
 
932 白浪之千重來縁流住吉能岸乃黄土粉二寶比天由香名《シラナミノチヘニキヨスルスミノエノキシノハニフニニホヒテユカナ》
 
來縁流はキヨレルとも讀べし、落句はにほひてゆかんなと云へるなり黄土粉に匂ふは第一にもよみ、此下にもよめり、粉は音を用、丹波難波等の如し、
 
初、きしのはにふに 第一清江娘子か哥に、草枕旅ゆく君としらませはきしのはにふににほはさましを。此下の三十一葉にも此下三句同し哥有
 
山部宿禰赤人作歌一首井短歌
 
933 天地之遠我如日月之長我如臨照難波乃宮爾和期大王國所知良之御食都國日之御調等淡路乃野島之海子乃海底(19)奧津伊久利二鰒珠左盤爾潜出舩並而仕奉之貴見禮者《アメツチノトホキカコトクヒツキノナカキカコトクオシテルナニハノミヤニワカキミノクニシラスラシミケツクニヒヽノミツキトアハミチノノシマノアマノワタノソコオキツイクリニアハヒタマサハニカツキテフネナメテツカヘマツシカシコミミレハ》
 
(19)大王、【官本、オホキミ、】  淡路乃、【幽齋本云、アハチノ】  貴見禮者、【別校本云、タフトシミレハ、】
 
臨照はオシテルとのみも讀べし、和期大王は官本の如く讀べし、國所知良之は行末をかけて申せばらし〔二字右○〕の詞あり、淡路乃は第三にも沙汰せし事なり、幽齋本の點によるべし、伊久利は第二に出たり、鰒珠は眞珠なり、官本の亦點にアクヤタマと云ひ、西行もよまれたり、古點にや、あはび、よまずばこそあらめ、唯諸本の今の點によるべし、允恭紀に、十四年秋九月淡路島に※[獣偏+葛]し給ふに獣多けれども獲給ふ事あたはず、時に嶋の神告給はく、赤石海底に眞珠あり、其珠を以我を祠り給はゞ後の御獵に多く獣を得たまはむと、仍處々の白水郎を以て海底を探らしめ給ふに海深ふして底に至ることを得ず、唯阿波國長邑の男狹磯と云海人、腰に繩を繋て海底に入てしばらく有て出て云く、海底に大蝮あり、其處ひかれりと、亦入て大蝮を抱て出て息絶て浪の上に死す、繩を下して海の深さを測るに六十尋なり、すなはち蝮を割に眞珠腹中にあり、其大さ桃の如し、ずなはち嶋神を祠て※[獣偏+葛]し給ふに多く獣を獲たまへりと云へり、仕奉之貴見禮者、今按此をばツカへマツルモ、タフトシミレバとよみて、つかへま(20)つるし見ればたふとしと意得べし、之〔右○〕は助語なり、落句は一句の内、上四字の處句にて、下の三字より返て見るべし、
 
初、みけつ國日々のみつきと みけつ國は、つは助語にて、みけくになり。食國といへるにおなし。これは淡路の野嶋の海人か、魚を取て、奉る心なり。淡路の、これをしひていつもしにあはせんとて、あはみちのとよめるはあやまれり。第三人まろの八首の旗の歌のところにいへるかことし。たゝあはちのと四もしに讀へし。野嶋のあま、履中紀云。自2龍田山1踰之時有2数十人《トタアマリ》執v兵(ヲ)追來者1。太子遠|望《ミソナハシテ》之|曰《ノハク》。其彼來者誰人也。何(ソ)歩行《ユクコト》急(ナル)之。若賊人乎。因隱2山中1而待之。近則遣2一人1問曰。曷《ナン》人(ソ)。且|何虞《イツチカ》往矣。對曰。淡路(ノ)野嶋之|海人《アマヒト》。阿曇連濱子爲2仲皇子(ノ)1令v追2太子1。於v是出2伏兵1圍v之悉捕レ之。〇亦免d從2濱子1野嶋海人等之罪u役《ツカフ》2於倭(ノ)蒋《コモ》代(ノ)屯倉《ミヤケニ》1。おきついくり、第二卷人まろの哥に、言さへくからのさきなるいくりにそふかみるおふるといふ哥に注せしことく石の事なり。あはひ玉眞珠なり。さはにかつき出、さはゝ多の字なり。つかへまつりしかしこみみれは、此よみやうにてはとまりかたし。つかへまつるしかしこし、みれはとよむへし。つかへまつるをみれはたふとしといふ心なり
 
反歌一首
 
934 朝名寸二梶音所聞三食津國野島乃海子乃舩二四有良信《アサナキニカチノオトキコユミケツクニノシマノアマコノフネニシアルラシ》
 
梶音はカヂオトとも讀べし、海子はアマなり、アマコとあるは書生の誤なり、船ニシのし〔右○〕は助語なり、
 
三年丙寅秋九月十五日幸於幡磨國印南野時笠朝臣金村作歌一首并短歌
 
幡は官本播に作れり、此に依るべし、野を改て郡に作れるは誤なるべし、聖武紀云、神龜三年九月壬寅、以2正四位上六人部王等二十七人1爲2装束司1、以2從四位下門部王等一十八人(ヲ)1爲2造頓宮司1、爲v將v幸2播磨國印南野1也、冬十月辛酉行幸、從駕人播磨國郡司百姓等供2奉行在所1者授v位(ヲ)賜v禄(ヲ)、各有v差、又行宮側近明石賀古二郡百姓、高年七十已上賜v穀各一斛、曲2赦播磨堺内大辟已下罪1、癸亥行還至2難波宮1、
 
初、幸2播磨國印南野1時 聖武紀云。神龜三年九月壬寅以2正四位上六人部王○等二十七人1爲2装束司(ト)1。以2從四位下門部王○等一十八人1爲2造頓宮司(ト)1。爲(ナリ)v將v幸2播磨國印南野(ニ)1也。冬十月辛酉行幸。從駕人播磨國郡司百姓等供2奉行在所1者授v位賜v禄各有v差。又行宮側近明石賀古二郡百姓高年七十已上賜2穀各一斛(ヲ)1。曲赦2播磨堺内大辟已下罪1。癸亥行還至2難波宮1
 
(21)935 名寸隅乃舩瀬從所見淡路島松帆乃浦爾朝名藝爾玉藻苅管暮菜寸二藻塩燒乍海未通女有跡者雖聞見爾將去餘四能無者大夫之情者梨荷手弱女乃念多和美手徘徊吾者衣戀流舩梶雄名三《ナキスミノフナセニミユルアハチシママツホノウラニアサナキニタマモカリツヽユフナキニモシホヤキツヽアマヲトメアリトハキケトミニユカムヨシノナケレハマスラヲノコヽロハナシニタワヤメノオモヒタワミテタモトマアレハソコフルフナカチヲナミ》
 
手弱女乃、【別校本云、タヲヤメノ、】  吾者衣戀流、【幽齋本云、ワレハソコフル、】
 
ナキスミは八雲御抄に播磨と注せさせ給へり、今按本朝文粹第二、三善清行延喜十四年四月上意見封事十二條終云、一重請3修2復播磨國魚住泊(ヲ)1事、右臣伏見(ルニ)2山陽西海南海三道舟船海行之程1、自2※[木+聖]生(ノ)泊1至2韓泊1一日市、自2韓泊1至2魚住泊1一日行、自2魚住泊1至2大輪田泊1一日行、自2大輪田泊1至2河尻1一日行、此皆行基菩薩計v程所2建置1也、又云、臣伏勘2舊議1、此泊天平年中所2建立1也云云、此魚住泊は今の名寸隅にや、魚はな〔右○〕とよむ事、第五に、なつらすととよめる所に云が如し、き〔右○〕はよみ付べき事、又上に云が如し、播磨の住人に魚住を氏とする者あり、ウヲスミと云由或者申き、然れども或は讀がたきは字を(22)替、或は字のまゝながら讀を替る事多ければ、魚住をなきすみ〔四字右○〕とよむ事のやすからねば易きに付たらんも知べからず、大夫之心ハナシニとは、ゆかばやと思へば顧りみることなく行やうなるを云へり、ゆかばやとは思ひながらえゆかねば、手弱女の心の如く思ひたわむとは云へり、
 
初、なきすみのふなせにみゆる なきすみは、播磨の國の所の名と見ゆれとも、いまたいつくとしらす。今案續日本紀云。  今般瀬といへるはこれにや。又本朝文粹三善清行異見封事云。   此魚住は、播磨にて、今も彼國に、魚住氏の者ありとあるもの申き。魚の字此集にも、日本紀にも、なとよみたれは、うをすみとも、なき住とも、おなし所をいへるにや。しからは、なすみとこそいはめ。なきすみとはいかてよまんと離する人あらむ。およそ國郡以下の所の名、二字にかきられて後、そのかみ三字にも書けるをは、二字の中によみつけてをける事おほし。筑前に上座《カミツアサクラ》下(ツ)座の二郡あり。是はいにしへ朝座にて有けむを、あまり大なるにより、上下にわかつ時、朝の字をはさりても、猶よみつけたるなるへし。今のなきすみは、たしかにもしらぬ事なれと、おもひよれるまゝに、かくわつらはしく申置侍るなり
 
反歌二首
 
936 玉藻苅海未通女等見爾將去舩梶毛欲得浪高友《タマモカルアマヲトメラヲミニユカムフナカチモカナナミタカクトモ》
 
937 往回雖見將飽八名寸隈乃舩瀬之濱爾四寸流思良名美《ユキカヘリミトモアカメヤナキスミノフナセノハマニシキルシラナミ》
 
初、しきるしらなみ しきりに寄るなり
 
山部宿禰赤人作歌一首并短歌
 
938 八隅知之吾大王乃神隨高所知流稻見野能大海乃原笶荒妙藤井乃浦爾鮪釣等海人舩散動塩燒等人曾左波爾有浦乎吉美宇倍毛釣者爲濱乎吉美諾毛鹽燒蟻往來御覽母知(23)師清白濱《ヤスミシシワカオホキミノカミノマニタカクシラセルイナミノノオホウミノハラノアラタヘノフチヰノウラニシヒツルトアマフネトヨミシホヤクトヒトソサハニアルウラヲヨミウヘモツリハスハマヲヨミウヘモシホヤクアリカヨヒミラムモシルシキヨキシラハマ》
 
ウヘモ釣ハスとは、ことわりにも此に釣はするなり、御覽は今按オホミと讀べし、第十九に三方沙彌が藤原北卿の命にてよめる雪の歌にも、有つゝも御見《オヽミ》たまはむそとよめるに例すべし、
 
初、あらたへの藤井のうらに 第三に注しつ。第十七云。俗語云。以v藤(ヲ)續(ク)v錦(ヲ)。これも只藤とのみいひて、藤衣の事とせり。うべもつりはす、ことはりにもつりはするなり。みらんもしるし。しけくおはしまして見給はむも、かねてしるき清き濱邊なりといふ心なり。御覧は御は見にて、覽はてにをはなり。これはまとひぬへきかきさまなり。今案おほみもしるしとよむへきにや。御はうやまひ奉る詞なり。第十九に、三形沙彌か、贈左大臣房前の語を承てよめる哥に、有つゝも御見《オミ》たまはむそ大殿の此もとほりの雪なふみそね。これを證とすへし。おほみもしるしとよみて、此後たひ/\みゆきありて、みたまはんもしるしと心うるをよしとすへし
 
反歌三首
 
939 奧浪邊波安美射去爲登藤江乃浦爾船曾勤流《オキツナミヘナミシツケミイサリストフチエノウラニフネソトヨメル》
 
邊浪安見、【仙覺抄云、ヘナミヲヤスミ、】
 
初、いさりすと いさりあさりひとつ詞なり。あとい五音通せり。鳥の餌はみをいさりあさりといへは、海士を鳥にたくへていふとあれと、定家卿はさわらひあさるともよみたまへり。和名集云。播磨園明石郡|葛江《フチエ》【布知衣】
 
940 不欲見野乃淺茅押靡左宿夜之氣長在者家之小篠生《イナミノヽアサチオシナミサヌルヨノケナカクアレハイヘシシノフル》
 
左宿夜之、【六帖云、サネシヨノ、袖中抄同v此、】  氣長在者、【六帖云、ケナカシクアレハ、】
 
不欲見をイナミに用たるは、不欲は義訓なり、神代紀に不須をイナとよめるに同じ、此歌六帖には作者をいはず、
 
初、いなみのゝ 不欲は否の心にてかけり
 
(24)941 明方潮干乃道乎從明日者下咲異六家近附者《アカシカタシホヒノミチヲアスヨリハシタウレシケムイヘチカツケハ》
 
此發句は明石方を石の字を落せるか、但此まゝにてもアカシ方とよむに足れり、ふるくはあすかゞたともよめりけるが誤れり、方は潟に借てかけり。下咲ケムは下心の嬉しきなり、※[手偏+總の旁]じて心は裏とも下とも云へり、第十八に家持の賀2陸奥國出v金詔書1歌に、宸襟を悩まし給ふと云ことをしたなやますにとよまる、第十には下心よしともよめり、但心を下といへる處皆云ひはあらはさずして心中にこめたる程を云へり、今按うれしければゑむべき理なれども義訓せむよりは字に任せてシタヱマシケムと讀べきにや、遊仙窟に釼笑とも忍笑とも云へるをホヽヱムと點ぜるは、したゑみの意なり、此歌は明日は還御あるべきに定まりてよまれたるなるべし、
 
初、下うれしけむは、下こゝろうれしからんなり。人にはさもいはてうれしきを、下うれしといふ。うれしき事あれは、えまるゝゆへに、下咲けむとはかけり。これは還御あらんとする時の哥なるへし
 
過辛荷島時山部宿禰赤人作歌一首并短歌
 
仙覺の云、辛荷島は古點兩樣なり、或はカラカノシマ、或はカラニノシマ、後の和相叶へり、播磨國風土記云、韓|荷《ニノ》島(ハ)、韓人破v船、所v漂之物漂(テ)就2於此(ノ)島1、故(ニ)云2韓荷島(ト)1云云、此注に風土記を引て證する意は、韓人の船荷《フナニ》の漂著ける故に付たる島の名なれば(25)荷の字和訓に呼べしとなり、尤謂れたり、
 
初、過|辛荷《カラニノ》島時 播磨國風土記云。韓荷《カラニノ》嶋(ハ)韓人破v船(ヲ)所(ノ)v漂(フ)之物漂(ヨヒ)2就(ケリ)於此(ノ)島(ニ)1。故云2韓荷(ノ)島(ト)1。からにともからかともよみきたれり。その中に風土記の説によるに、からにをよしとす。荷の字音を取てはいかてよまん。文字も韓荷とかけるを本とすへし。今辛荷とかけるは借て用るなり。室の西にあたりてからみ嶋といふ小嶋有。これにや。みとにとは同韻にてよく通する字なり。河貝子をも、になともみなともいへり。三位をも音便なれは、さむにとこそいふへけれと、猶いひにくきゆへにや、さんみといひならへり。和泉國に上神《ミワ》とかきてみわと申所、和田《ニキタ》とかきてにきたと申所の侍るを、土民はいひたかへて、にわ、みきたとのみいへるも、よく通してきこゆるゆへなり。續後撰に、參議雅經の哥に、みつしほのからかの嶋に玉もかるあまゝも見えぬさみたれの比
 
942 味澤相妹目不數見而敷細乃枕毛不卷櫻皮纏作流舟二眞梶貫吾榜來者淡路乃野島毛過伊奈美嬬辛荷乃島之島際從吾宅乎見者青山乃曾許十方不見白雲毛千重爾成來沼許伎多武流浦乃盡往隱島乃埼埼隅毛不置憶曾吾來客乃氣長彌《アチサハフイモカメシハミステシキタヘノマクラモマカスカニハマキツクレルフネニマカチヌキワカコキクレハアハミチノノシマモスキヌイナヒツマカラニノシマノシママヨリワカヤトヲミレハアヲヤマノソコトモミエスシラクモモチヘニナリキヌコキタムルウラノハテマテユキカクレシマノサキ/\クマモオカスオモヒソワカコシタヒノケナカミ》
 
伊奈美嬬、【幽齋本云、イナミツマ、】
 
味澤相は第二に既に出き、櫻皮はかは〔二字右○〕なり、和名集云、玉篇云、樺、【戸花、胡化、二反、和名、加波又云、加仁波、今櫻皮有v之】淡路は必らずアハヂと讀べし、伊奈美嬬は第四に見えたり、今の點は誤れり、イナミツマと云に依るべし、稻日とも書たれば、通ぜざるにはあらねど處々のかきざまに隨ふぺし、吾宅を官本にはワガイヘと點ぜり、今按和藝倍或は和我倍と讀べし、青山(26)は、上に青山の嶺の白雲とも、青山の横ぎる雲ともよめる如く唯青き山なり、播磨にさいふ處ありといへども今はそれにはあらず、コギタムルは第三にやがて此作者のよまれたる歌に榜曰榜轉とかけるなり、浦乃盡は、今按ウラノコトゴトと讀べし、隅は隈に改むべし、吾來はワガクルとも讀べし、第一に天武天皇吉野に行幸したまふ時の御歌にくまもおちず思ひつゝぞくる其山道をとよませたまへる意に同じ、
 
初、かにはまき かにはゝかはなり。常にひさこなととぢむる物なり。和名集云。玉篇云。樺【胡花、胡化二反。和名加波。又云加仁波。今櫻皮有v之。】こゝにも櫻皮とかきたれは、和名集説におなし。密教の經軌の中に、樺皮の上に眞言なと書て、身に帶すへきよしあまた説れたり。かはさくらは、櫻の中に一種の別名なれと、かはの事を人に尋ぬれは、いつれの櫻皮をも用ゆと申き。いなみつま第四に注せり。からにの嶋のしまゝより、みゆきはいなみ野まてせさせたまへり。十月辛酉にみゆきありて、癸亥に難波宮へ還御したまへは、御供の人室の西まてはいたるましく、又いなみつまからにの嶋のとつゝきたれは、印南郡にある嶋なるへし。青山のそことも見えす。青山は只山をいへる歟。又山陽道を経るに播磨に青山といふ所有ときく。そこにや。こきたむるは漕めくるなり。廻の字轉の字なとをかけり。くまもをかす、第一卷天武天皇の御哥に、くまもおちすおもひつゝそくるその山みちをとよませ給へる所に注せり。隅の字もくまとは義をもてよむへき歟なれと、唯隈の字をあやまれるなるへし
 
反歌三首
 
943 玉藻苅辛荷乃島爾島回爲流水烏二四毛有哉家不念有六《タマモカルカラニノシマニアサリスルウニシモアレヤイヘオモハサラム》
 
島囘、【幽齋本、囘做v※[しんにょう+囘]】  水烏、【校本、烏作v鳥、】
 
烏〔右○〕を鳥〔右○〕に作れるは、然るべからず、其故は第十九にも贈2水烏〔右○〕1越前判官大伴宿禰池主歌と云端作あり、鵜は、水に住て烏〔右○〕に似たれば水烏〔二字右○〕とかけり、俗にも似たる物のあらぬ事に鵜のまねする烏〔右○〕などぞ申める、和名云、爾雅注云、※[盧+鳥]※[茲+鳥](ハ)水鳥也、かゝれば水鳥とかけるも理あるにあらずやと救ふべきか、されどそれは鵜に限らず鴈をも鴨をもすべて水に住鳥をば皆水鳥と注したれば別名としがたかるべし、但春鳥〔右○〕子をうぐ(27)ひす〔四字右○〕とよめば據v勝爲v論とか云心に、水に住鳥の中に鵜は殊に好て魚をも捕れば水鳥と云とも救ふべきか、されど兩處にて水烏とかけるは、唐の文に鵜を水烏と云由は見えねど此國に名付たるにこそ、又は爾雅注も水烏也といへるを烏〔右○〕を誤て鳥〔右○〕に作れるも知べからず、下の句の意は鵜は番《ツガ》ひ離れず打つるゝ上に人の如く思慮なければ何となくあさるを見てあの如くのものになりてあらば我も家における妻をも思はでうしろやすからむやと云意なり、鵜ニシのし〔右○〕は助語なり、アレヤは願の詞にはあらず、
 
初、うにしもあれや これはねかふ詞にはあらす。うにてもあらは家おもはさらむや、鵜にあらぬ身なれは、家のおもはるゝなり。鵜にしもあらはやといふにおなし。此はやといふにもねかふ詞と、てにをはのわかち有。みせはや人に花の盛をといふやうなるはねかふ詞なり。おらはやおらんとよめるは、おらはおらんやなるを、おらはおらんやといへは、しなゝくてつたなけれは、下に置へきを中にをけるにて、気高きなり。鵜にしもあらはやといふに同しといへる心は、おらはやおらんのばやのてにをはなり。鵜はつかひもうちつるゝうへに、人のことく思慮なけれは、何となくあさるを見て、あのことくのものになりたらばや。我も家にをける妻をもおもはて、うしろやすからんといふ心なり。水鳥とかけるは、爾雅注云。※[盧+鳥]〓(ハ)水鳥也。第十九云。贈2水鳥越前判官大伴宿禰池主1歌
 
944 島隱吾※[手偏+旁]來者乏毳倭辺上真熊野之舩《シマカクレワカコキクレハトモシカモヤマトヘノホルミクマノノフネ》
 
眞熊野之船、【別校本云、マクマノヽフネ、】
 
トモシカもはめづらしき意前々の如し、又次の歌を引合て按ずるにすくなき意とも聞ゆ、ミクマ野ノ舟は此卷下にもよめり、神代紀下云、故以2熊野諸手船1【亦名、天鳩船、】載2使者稻背|脛《ハキヲ》1、日本紀纂疏云、熊野、船名、伊豫風土記云、昔野間郡有2一船1、名曰2熊野1、後化爲v石、蓋此類也、諸手(トハ)、言2數多(ノ)水手操1v舟也、今按熊野は出雲の地の名歟、延喜式神名帳云、出雲國意宇郡熊野坐神社、【名神大】事代主神、三穗崎に遊び給ひし許へ熊野諸手船を迎に(28)遣されし事も出雲にての事なれば、此集に筑紫船松浦船などよめる如く、熊野と云所の船にや、今も國に依り處に依て船の形少替ればいにしへも然るべし、
 
初、みくまのゝ舟 播磨にてよめる哥なれは、熊野浦の舟を此海に持のほるへきあらす。神代紀下云。故以2熊野(ノ)諸手船《モロタフネヲ》1【亦名天鳩船】載《ノス》2使者稻背脛《ツカヒイナセハキヲ》1云々。是は高|皇産靈《ミムスヒノ》尊、経津主《フツヌシノ》神、武|甕槌《ミカツチノ》神、この二神を御使にて大己貴神の御許へ、此國を天孫へ奉り給へと仰つかはされける時大己貴神我子事代主神あるきて、出雲國|三穗《ミホ》之碕にあり。それに問てかへりこと申さんとて、此舟に使を載て問につかはされたり。諸手といふは、櫓二丁を立てこくをいふへし。ともろといへるもおなしかるへし。日本紀疏曰。熊野舶名(ハ)、伊豫風土記云。昔野間郡有2一船1名曰2熊野(ト)1。後化(シテ)爲v石(ト)、蓋此顆也。諸手(ハ)言(コヽロハ)數多(ノ)水手操(ツルナリ)v舟(ヲ)也。又仁徳時播磨明石驛家(ニ)有2一井1。楠樹生2其上(ニ)1。時人伐2其樹(ヲ)1造v舟(ヲ)、其迅如v飛。一|楫《カヂニ》去(テ)越2七浪(ヲ)1、故曰2速鳥1。此(ニ)云2天鳩船(ト)1乃速鳥之義也。一名天鳥船見2下文1。舊事本紀天鳥船神與2稻背脛1倶使名也。此下にいたりて、家持の伊勢へ行事の御供に、狹殘行宮にてよまれたる哥にも、みけつ國しまのあまならしみくまのゝをふねにのりておきへこくみゆ。これによれは、纂疏に數多水手操v舟とあるは誤なり。又第十二にうらわこく能野舟つきめつらしくかけておもはぬ月も日もなし。此能野の能は、熊の字の下の列火のうせたりとみゆるを、字のまゝに今の點はつきたるなり。みくまのゝ舟は、早舟のたくひなるへし
 
945 風吹者浪可將立跡伺候爾都太乃細江爾浦隱往《カセフケハナミカタヽムトマツホトニツタノホソエニウラカクレヰヌ》
 
伺候爾は今按サモラフニと讀べし、さもらふはうかゞふなり、第二十に、夕潮に舟を泛居、朝なぎに舳向榜むと、さもらふと我がをる時になどつゞけたり、又第七には風守りともよめり、日本紀に託稱候風をサモラフテとも、カゼサムラフトイフニツケテとも點ぜり、家語云、昔江始出2於岷山1、其源可2以濫觴1、及3其至2于江津(ニ)1、不v舫v舟不v避v風、則不v可2以渉1、ツタノ細江、播磨なり、徃をヰヌハと點ぜるは誤なり、いぬるといはゞイヌと點ずべし、打まかせてはユクとよむべし、
 
初、風ふけは浪かたゝんとまつほとに まつほとには伺候爾とかきたれは、さふらふにとよむへきにや。さふらふはうかゝふなり。日本紀に託稱候風とかきて、さもらふてとも、かせさむらふといふにつけてともよめり。家語云。昔江(ハ)始出2於岷山(ヨリ)1。其源可2以濫1v觴(ヲ)。及(テハ)3其(ノ)至(ルニ)2于江津(ニ)1、不v舫《ナラヘ》v舟(ヲ)不(ルトキハ)v避v風(ヲ)則不v可2以渉(ル)1。此集にあふみの海浪かしこしと風まもり年はやへなんこくとはなしにといへるもおなし心なり。つたのほそ江といふ所、今飾磨津といふ所にありときけと、まことにしからんやいなやをしらす。うらかくれゐぬといへるは、浦かくれて居ぬと心得たるにや。いぬとかゝはいぬるなり。往の字なれは、いぬとか、ゆくとかよむへし。ゐぬとある點は、字にかなはねは誤れり
 
過敏馬浦時山部宿禰赤人作歌一首并短歌
 
946 御食向淡路乃島二直向三犬女乃浦能奧部庭深海松採浦回庭名告藻苅深見流乃見卷欲跡莫告藻之己名惜三間使(29)裳不遣而吾者生友奈重二
《ミケムカフアハチノシマニタヽムカフミヌノメノウラノオキヘニハフカミルツミウラワニハナノリソヲカリフカミルノミマクホシミトナノリソノオノカナヲソミマツカヒモヤラステワレハイケリトモナヘニ》
 
名告藻苅、【幽齋本云、ナノリソカリ、】
 
ミケ向は第二に人丸の木瓶の宮とつゞけられたる所に注せしが如し、深海松も第二に出たり、海松は見まくほしみとつゞけんため、ナノリソはおのが名とつゞけんためなり、共に見と名との一字を云はん料なり、間使は下にもあまたよめり、使は此方彼方の間にかよふものなれば間使と云へり、眞使と云にはあらず、生友奈重二は、今按今の點誤れり、イケルトモナシとよむべし、重二は四なり、いけりともと云はずしていけるともと讀べき事第二に人丸妻の死をいたみてよまれたる歌に注せるが如し、
 
初、みけむかふは第二にみけむかふこかめの宮といふ長哥の詞に注せり。第九にもみけむかふみなふち山とよめり。しかれは膳に向ふことく、まちかくさし向ふ心には、いつくにもよみぬへし。かならす淡路の嶋の枕言にはあらす。たゝむかふみぬめの浦、こなたよりみれはまちかくみゆる淡路嶋に、又ますぐに向へるみぬめの浦なり。深海松つみ、延喜式第三十一、宮内式諸國例貢御|贄《ニヘ》の内に志摩深海松、又長海松といふ物も有。これはみるといふ詞をうけて、下にみまくほしみとゝいはむためなり。名のりそほ下に名をおしみといはむとて、時につけ、所につけたる物によするなり。使をやらぬとは、妻のもとへなり。相見まくほしけれと、それは御供なれはかなはす。せめて使をたにやらまほしけれと、人のいひおもはむことに、名のおしけれは、これもかれもおもふまゝならて、いけるこゝちもせぬとなり。生友奈重二、此重二は二二とかけるとおなしく、四の義にて、いけりともなしとよむを、いけりともなへとよめるは誤なり。まつかひは、間使とは書たれとも、眞《非》使なるへき歟。又こなたかなたの間にかよへは、字のまゝの心にもあるへし
 
反歌一首
 
947 爲間乃海人之塩燒衣乃奈禮名者香一日母君乎忘而將念《スマノアマノシホヤクキヌノナレナハカヒトヒモキミヲワスレテオモハム》
 
塩燒衣乃、【別校本云、シホヤキキヌノ、】  將念、【校本、念或作v思、】
 
(30)二の句別校本に依て讀べし、六帖には塩やき衣の歌に、伊勢の海人の塩やきゞぬのとて作者を貫之と載たり、ナレとは垢つくなり、第三第十二に穢の字をかけり、毛詩※[北頁おおざと]風栢舟篇(ニ)云、心之憂矣、如2匪v澣衣1、海人の塩燒衣のなれたる如く君をも思ひのるす〔三字左○〕時あらば一日も忘れんや、いまだなれたりと思はねば忘るゝ間もなしとなり、須磨の海人のと云へるは此歌においては今見る所につけて云へるなり、
 
初、すまのあまのしほやきゝぬの しほやくきぬとあるはわろし。なれなはかとは、著ふるしてあかつくなり。第三にすまのあまのしほやきゝぬの藤衣まとほにしあれはいまたきなれす。第十二に、大きみの塩やくあまのふち衣なれはすれともいやめつらしも。これらなるゝに穢の字をかけり。毛詩(ノ)〓風栢舟(ノ)篇(ニ)云。心(ノ)之憂(アリ)矣。如(シ)2匪(ル)v澣(ハ)衣(ノ)1。佛は沙門の身をかさる事をいましめたまへと、又垢つきけかれたる物を著れは、人のためにいやしめらるとて、これをもいましめたまへり。これらを合せて思ふへし。されはしほやく海士の、さらぬたに藤衣なるが、いとゝあかつくことく、もし君をもふりたりとおもふ時あらは、ひと日もわするゝ時あらんや。いまたなれねは、わするゝ問もなしとなり
 
右作歌年月未詳也但以類故載於此次
 
是は後の歌一首并反歌一首を云ならべし、
 
四年丁卯
春正月勅諸王諸臣子等散禁於授刀寮時作歌一首井短歌
 
散禁は、獄令(ニ)云、犯2徒以上及免官當(ヲ)1者梏禁、公罪徒並散禁、不v脱v巾」凡流徒罪不v得v著v巾、【謂、不v得v著2頭巾1也、】又云、凡禁v囚、死罪枷、※[木+丑]、婦女及流罪以下去v※[木+丑]、其杖罪散禁、【謂、不v關2木索1、唯禁2其出入1也、案2下條1、(31)別立2不v脱v巾之文1、故此條散禁以上、並皆脱v巾、】僧尼令云、如犯2百杖以下1、毎2杖十1令v苦2使十日1、若罪不v至2還俗1、及雖v應2還俗1、未2判訖1、並散禁、【謂、犯2苦使1、已斷訖未v付2三綱(ニ)1者散禁、若未v經v斷者、付v寺參對、其應2還俗1判斷已訖者、一同2俗人之禁法1也、】今の世に禁足と云へるは散禁に當るべし、授刀寮は文武紀云、慶雲四年七月丙辰、始(テ)置2授刀|舍人《トネリ》寮(ヲ)1、稱徳紀云、天平神護元年二月甲子、改(テ)2授刀衛(ヲ)1爲2近衛府(ト)1云云、延喜式左右近衛式云、近衛二百人、」散禁の故は歌の後の注に詳なり、聖武紀には載られず、然而紀云、神龜四年三月甲午、天皇御2南苑(ニ)1、參議從三位阿陪(ノ)朝臣廣庭宣(テ)v勅(ヲ)云、衛府(ノ)人等(ハ)日夜宿2衛(シテ)闕庭(ニ)1、不v得d輒(スク)離(レ)2其(ノ)府(ヲ)1散c使(スルコトヲ)他處(ニ)u、因(テ)賜d五衛府及(ヒ)授刀寮(ノ)醫師巳下至(マテニ)2衛土(ニ)1布(ヲ)u人(コトニ)有v差、」此勅はこれより事起れるなるべし、
 
初、四年丁卯 聖武紀云。神龜四年三月甲午、天皇御(ス)2南苑(ニ)1。參議從三位阿倍朝臣廣庭宣(テ)v勅(ヲ)云。衛府人等日夜宿2衛(シテ)闕庭(ニ)1不(レ)v得d輙(スク)離(テ)2其府(ヲ)1散c使(スルコトヲ)他處(ニ)u。因賜(フコト)d五衛府、及授刀寮、醫師己下至(マテ)2衛士(ニ)1布(ヲ)人(コトニ)u有v差《シナ》。此正月の事は紀に見えねと、三月に此勅ありけるは、この事によりてなるへし。散禁(ハ)獄令(ニ)云。犯2徒以上1及免官當有梏禁(ス)。公罪徒並(ニ)散禁不v脱v巾《カウフリヲ》。凡(ソ)流徒罪○不v得v著《キルコトヲ》v巾。【謂不v得v著2頭巾1也。】同令云。凡(ソ)禁囚死罪枷※[木+丑]。婦女及流罪以下(ハ)去v※[木+丑]。其杖罪(ハ)散禁【謂不v關2木索1唯禁2其出入1也。案2下條1別立2不v脱v巾之文1故此條散禁以上並皆脱v巾。】僧尼令(ニ)云(ク)。如犯2百杖以下(ヲ)1毎(ニ)2杖十1令2苦使1十日1。若罪不v至2還俗(ニ)1、及雖v應2還俗1未2判訖1並散禁【謂犯2苦使1已斷訖未v付2三綱1者散禁。若未v經v斷者付v寺參對其應2還俗1判斷已訖者一同2俗人之禁法1也。】散禁は今の世禁足といふなるへし。授刀寮、刀を誤て力に作れり。續日本紀第四云。慶雲四年七月丙辰、始(テ)置(ク)2授刀舍人寮(ヲ)1。同第二十六云。天平神護元年二月甲子、改(テ)2授刀衛(ヲ)1爲2近衛府(ト)1。其官員(ハ)大將一人。爲2正三位(ノ)官(ト)1。中將一人。爲2從四位下(ノ)官(ト)1。少將一人。為2正五位下(ノ)官(ト)1。將監四人。爲2從六位上(ノ)官(ト)1。將曹四人。爲2從七位下(ノ)官(ト)1。又定(ム)2外衛府官員(ヲ)1。大將一人。爲2從四位上(ノ)官(ト)1。中将一人。爲2正五位上(ノ)官(ト)1。少將一人。爲2從五位上(ノ)官(ト)1。將監四人。爲2從六位上(ノ)官(ト)1。將曹四人。爲2從七位下(ノ)官(ト)1。延喜式左右近衛式云。近衛二百人。延喜式四十二、東西市式云。凡(ソ)市裏有(ラハ)2凌奪之輩1者、奏任已上准v状散禁請裁。判任以下※[木+丑]禁(シテ)決罰。散禁のゆへは、哥の後の注につまひらかなり
 
948 眞葛延春日之山者打靡春去住跡山上丹霞田名引高圓爾※[(貝+貝)/鳥]鳴沼物部乃八十友能壯者折木四哭之來繼皆石此續常丹有脊者友名目而遊物尾馬名目而往益里乎待難丹吾爲春乎决卷毛綾爾恐言卷毛湯湯敷有跡豫兼而知者千鳥鳴(32)其佐保川丹石二生菅根取而之努布草解除而益乎往水丹潔而益乎天皇之御命恐百礒城之大官人之玉桙之道毛不出戀比日《マクスハフカスカノヤマハウチナヒキハルサリユクトヤマノヘニカスミタナヒキタカマトニウクヒスナキヌモノヽフノヤソトモノヲリフシモシキツキミナシコヽニツキツネニアリセハトモナメテタハレムモノヲウマナメテユカマシサトヲマチカテニワカスルハルヲカケマクモアヤニカシコクイハマクモユヽシクアラハトアラカシメカネテシラセハチトリナクソノサホカハニイソニオフルスカノネトリテシノフクサハラヘテマシヲユクミツニミソキテマシヲスメロキノミコトカシコミモヽシキノオホミヤヒトノタマホコノミチニモイテスコフルコノコロ》
 
春去住跡、【官本、住作v往、當v從v此、】  山上丹、【別校本云、ヤマノウヘニ、】  遊物尾、【別校本亦云、アソハムモノヲ、】  湯湯敷有跡、【別校本亦云、ユユニシカアラムト、】  潔而益乎、【別校本云、キヨメテマシヲ、】
 
マクスハフとは春日山を云はんためなり、此は廣く何れの山にも亘りぬべき枕詞なり、打靡はウチヒクと讀べき事第三の鴨君足人が歌の注に云が如し、春サリユクは春の來るなり、住は徃の字を寫生の誤れるなり、折木四哭之來繼皆石は、今按今の點意得がたし、校本に或は木を不に作れるはヲリフシモと點ぜるに強て叶へむとするなり、哭之は之哭にて、カリガネノキツキテミナシと讀べし、し〔右○〕は助語なり、かく讀べき證は第十にさをしかの妻問時に月をよみ、かりがねきこゆ今し來らしも、此かりがねを切木四之泣とかけり、切木は苅の義なれば雁に借てかけり、切木と折木と義同じ、四の字は共に意得がたし、泣と哭と意同じ、來つきてとつゞくる心は禮紀(33)月令云、仲秋之月鴻雁來、季秋之月鴻雁來賓、これ八月に來るを主とし、九月に來るを先渡るがために賓客とす、此集第十五に、荒玉の月日も來經ぬ、雁之哭もつぎて來なけばともよめり、又禮記云、兄弟之齒雁行、白虎通云、摯必用v雁、取d其隨v時以保v身又知v有2去就之義1而不uv失2其序1、儀禮、士相見禮曰、下大夫相見以(ス)v雁、注曰、雁取2知v時飛翔|有《ヲ》2行列1也、雁は友をしたしみこふるものなればその如く思ふどち皆來り繼て此所に繼て絶せず常にあらばとつゞけたり、正月の歌なれば雁の歸る比なるに、渡り來る時の意は叶はずやと難ずる人あらん、是は唯友だちの思ひあへるを雁に寄て云なり、時分に拘はるべからず、决卷毛は、决は缺を懸に借てかけるを誤て缺に作れるなるべ し、有跡はアラムトとよめるに依るべし、兼而知者は今按今の本の點、誤れり、兼テシリセバと讀べし、イソニオフルは、川にも礒と云べし、又いはほ菅とも讀たればイハニオフルとも讀べし、シノブ草は今按こゝに云へるはやがて上の菅を指てしのぶ草と云へりとおぼし、其故は第十一第十二に菅の根のしのびにとも、しのび/\にとも、あまたつゞけてよめるは、菅の根は長き物のためしにも引るゝ物なるが、下にかくれてはふるを、年月ながく心にこめてしのぶる思ひによそふるなるべし、されば其意を、名に負せたるにや、祓に菅を用るは其性清き物なる故なり、神代紀に素戔嗚(34)尊出雲の素鵝にして我心清々之とのたまへるより處の名とせり、すが〔二字右○〕とすげ〔二字右○〕と男聲女聲の異あれども同じく清き意を名とせり、古事記に仁徳天皇八田皇女によみて賜はせし御歌によませ給へるも此意なり、唐には茅を清き物とす、周易を初めて諸書に見えたり、説文に菅、茅也とも茅、菅也とも注せるに、天竺には如來等正覺を成し給ふ時、帝釋吉祥草の座を奉り給ふと云も茅草なり、陀羅尼門の經※[車+兀]の中にも茅草の事をば盛りに説れたり、陸機は茅と菅と異ある由を釋す、誠に現に別なれども玉篇に菅の字の注に茅屬と云へる如く種類なり、然れば三國の道異なれどおのづから叶へる處あり、延喜式第八、六月祓祝詞云、天津菅【素乎】本苅斷末苅切?、八針取辟?天津祝詞太祝詞事、袖中抄云、孫姫式云、裂2菅麻1尚祷v神(ヲ)、終得2樂於今日1云云、中臣の天の菅麻《スカオ》をたつみそぎ、祈りし神はけふのためしに、河邊にて、祓をする事は前の延喜式の祝詞云、萬山之末短山之末【與利】佐久那太埋落【多支】速川瀬坐瀬織津比※[口+羊]云神大海原持出【奈武】如此持出徃荒塩之塩八百道八塩道之塩八百曾速開都比※[口+羊]云神持歌呑【?牟】如此歌呑【?波】氣吹戸坐氣吹戸主云神、根國底之國氣吹放【?牟】如此氣吹放【?波】根國(ノ)底之國坐速佐須良比※[口+羊]云神持佐須良比失【?牟】此意なり、祓の初は神代紀に見へたるが如し、唐にも河に出て禊する事此國と(35)同じ、第十七に家持と池主と贈答せる曲水詩に至て注すべし、
 
初、うちなひき春さりゆくと 春になりゆくなり。春されは、春さりにけり。これらさきに注せり。今の詞又引合てみるへし。おりふしもしきつきみなしこゝにつき、管見抄云。折ふしは、春夏秋冬の節々なり。しきつきのし助語なり。きたりつゝくことなり。みなしのし又助字なり。今案折木四《・准2第十1之字當v在2哭上1》哭之來繼皆石此續とかけり。木を不の字とみて、折ふしとはよみけるか。又しの助語を發語の詞のやうに初に助語に用る事例なし。所存ははなはたこれにことなり。此三句をは、かりかねの、きつぎてみなし、こゝにつぎとよむへし。其證は、第十の三十八葉に、かりかねきこゆといふに、切木四之泣所聞とかけると、今とおなし。ともに四の字は意得かたけれと、折木切木はおなしく苅といふ心を、鴈に用たるへし。さてものゝふのやそとものをはかりかねのきつきてとつゝくる心は、禮記(ノ)月令(ニ)云。中秋(ノ)之月鴻雁來。季秋(ノ)之月鴻雁來賓(ス)。かくありて、八月に來るを主とし、九月にくるを、先渡れるがために賓客とす。惣して雁は友をしたしみこふるものなれは、そのことく、おもふとち、みなきたりつぎて、此所につぎてたえせす常にありせはとつゝけたり。みなしのしは助語なり。正月の歌なれは雁の歸る比なるにわたりくる時の心はかなはすやと難する人あらん。これは只友たちのおもひあへるを雁によせていふなり。時分にかゝはるへからす。遊《タハレン》物尾、あそはむものをとよむへし。まちかてにわかする春を、春になりて、去年おもひし事をいへは、待かてにわかせし春をとよむへし。かけまくも、決は缺の字の誤なるへし。かねてしらせは、かねて知せはとよむへし。いそにおふる菅の根とりて、いそは石の字をかきたれは、字のまゝにも心得へし。又川にも磯とよめは、いつれにもつくへし。菅の根取ては、延喜式第八、六月祓祝詞云。天津管【曾乎、】本苅斷、末苅切※[氏/一]、八針爾取辟※[氏/一]、天津祝詞乃、太祝詞事乎宣禮。しのふ草はらへてましを、しのふ草とよめるは、菅の根のしのひ/\になとよめる心なり。菅は根なかく土の下にはへは、しのひ/\ともよめり。しかれはこゝにしのふ草とよめるは、只管のことなり。韓詩外傳云。鄭國之俗、三月上巳於2〓〓之上1招v魂(ヲ)、續v魂(ヲ)秉(テ)2蘭草(ヲ)1、祓2除(シテ)不詳(ヲ)1以歸。かゝれは、ひとの國にも、祓に蘭をとり用れは、此國に菅茅なと用るに似たり。道にも出すこふるこの比は散禁のゆへに、おもふとち、おもはしき所へも出る事を得せぬなり
 
反歌一首
 
949 梅柳過良久惜佐保乃内爾遊事乎宮動々爾《ウメヤナキスクラクヲシミサホノウチニアソヒシコトヲミヤモトヽロニ》
 
佐保乃内とは第十第十一にもよめり、宮モトヾロニとは佐保の内のまぢかき所に遊びしかども折節のわろくて宮の内こぞりてもてさはぐばかりのかしこまりにあへるとなり、注の雷電とあるに依れば、とゞろにはそこをも思へる歟、
 
初、梅柳過らくおしみ 梅柳のおりを、いたつらに過さんことを惜て、さほの内へ出てあそひし事を、宮の内とよみていひさはかれ、散禁の罰にあたりて、欝々としてをるといふ心なり。さほの内とは第十第十一なとにもよめり。宮もとゝろは第十八に里もとゝろにとよめるおなし心なり。名の立ことを、瀧もとゝろにとよめり、又宮もとゝろには、こゝにては神の鳴しをいふにや、侍從をよひ侍衛なきは、罰其理あたれり
 
右神龜四年正月數王子及諸臣于等集於春日野而作打毬之樂其日忽天陰雨雷電此時宮中無待從及侍衛 勅行刑罸皆散禁於授力寮而妄不得出道路于時悒憤即作斯歌 作者未詳
 
待從、【官本、待作侍、當v從v此、】  授力寮、【官本、力作v刀、當v從v此、】
 
(36)打毬、和名集云、唐韻云、毬【音求、打毬、内典或謂2之拍※[毛+菊]1師説云、萬利宇知、】毛丸打者也、劉向別録云、打毬、昔黄帝所v造、本因2兵勢1而爲v之、又云、溥玄彈碁賦序云、漢成帝好2蹴鞠1、【世間云2末利古由1、蹴音千陸反、字亦作v※[就/足]、】公羊傳注(ニ)云、蹴鞠、以v足逆蹈也、順の注の中に内典とは梵網經なり、經云、拍毬、擲石投壹牽道八道行城云云、孝徳紀云、偶預2中大兄於法興寺(ノ)槻樹之下打※[毛+菊]之侶(ニ)1、而候2皮鞋隨v※[毛+菊]脱落1、取置2掌中1、前跪恭奉2中(ノ)大兄(ニ)1、此は大織冠の奉り給ふなり、今按和名に云へるは打毬と蹴鞠と異なり、打毬は毬杖なるべし、和名にまりこゆと云へると、日本紀にクエマリと云へると同じきを、日本紀は打毬すなはち蹴鞠なれば和名の説と違へり、後の人是を會すべし、天陰を日本紀にヒシケテと點ぜり、
 
初、打毬、和名集云。唐韻云毬【音求。打毬内典或謂2之拍※[毛+求]1。師説云。萬利宇知。・梵網經云拍毬擲石投壺牽道八道行城云々】毛丸打者也。劉向別録云。打毬(ハ)昔黄帝(ノ)所v造本因(ニ)2兵勢(ニ)1而|爲《ツクル》v之。又云。溥玄(カ)彈棊(ノ)賦(ノ)序(ニ)云。漢(ノ)成帝好2蹴鞠(ヲ)1【世間云。末利古由。蹴(ハ)音千陸反。字亦作v※[就/足]。】公羊傳(ノ)注(ニ)云。蹴鞠(ハ)以v足(ヲ)逆(ニ)蹈(ムナリ)也。日本紀第二十四云。偶《タマサカニ》預《マシリテ》2中大兄《ナカノオヒネニ》於法興寺(ノ)槻(ノ)樹(ノ)之下(ノ)打※[毛+菊]《クユマリ》之侶(ニ)1而|候《マモリテ》2皮鞋《ミクツノ》隨《マゝ》v※[毛+菊](ノ)脱落《ヌケルヲ》1取|置《モチテ》2掌中(ニ)1前(ニ)跪(テ)恭(テ)奉(ル)2中大兄(ニ)1。【中大兄者天智天皇也。奉v鞋者大織冠也。】今案和名集にいへるは、打毬と蹴※[毛+菊]と異なり。打毬は毬杖なるへし。和名にまりこゆといへると、日本紀にくゆまりといへると、おなしきを、日本紀は打※[毛+菊]がすなはち蹴※[毛+菊]なれは、和名の説と違へり。いつれ是非なることをしらす。天|陰《クモリテ》、日本紀にはこ字引合てひしけてとよめり。授刀寮、また刀を誤て力につくれり
 
五年戊辰
 
幸于難波宮作歌四首
 
目録に宮の下に時あり、今脱せり、
 
初、幸于難波宮時 こゝには時の字をおとせり。目録にあるを證とす
 
950 大王之界賜跡山守居守云山爾不入者不止《オホキミノサカヒタマフトヤマモリスヱモルトイフヤマニイラスハヤマシ》
 
(37)サカヒタマフトとは四至の※[片+旁]示をさして其内を臣下に賜はるなり、山守居守ト云山とは第十三に、みもろは人の守山、又其歌の末に泣兒守山とよみ、又第十一に人の親のをとめこすゑて守山邊ともよめれば、三室山に山莊の地を賜りてもたれたるを云歟、入ラスハヤマシとは御供の勞につかれて彼(ノ)山莊に歸らすば休息せじとよめる歟、
 
初、おほきみのさかひたまふと 此哥みゆきの御供にては、いかによめるにか、そのこゝろ得かたし。もし宮木のために、山守すへてまもらせをかるゝ山にも、我ふかくいりて難波宮つくりたまふ良材をひかんと、奉公の勞を憚らぬ心を述たる歟。紀云。神龜四年四月壬子造難波宮。此哥は五年なれは叶はす
 
951 見渡者近物可良石隱加我欲布珠乎不取不已《ミワヤタセハチカキモノカライソカクレカカヨフタマヲトラスハヤマシ》
 
イソカクレは石に隱るゝなり、カヽヨフ玉とは玉は鰒珠なり、カヽヨフはほのめきかげろふ意と聞ゆ、第十一にも、燈の影にかゝよふうつせみの妹がゑまひとよめり、見渡せば玉の光に映じて近く見ゆる物から、さすがに石にかくれてほのめく玉を潜き出て取らずしてはやまじとなり、鰒は石に著てある物なれば石隱と云へり、
 
初、見わたせはちかき物からいそかくれ かゝよふは、管見抄にほのめく心と注せり。第十一にも、燈のかけにかゝよふうつせみのいもかゑまひしおもかけにみゆとよめり。けにもほのめくと聞ゆ。又映の字の心ともみゆる歟。みわたせは近き物からとは、此珠はあはひ玉をよめれは、そのありかを見やれは、ちかくはみゆる物から、石につきてかゝよふ眞珠なれは、いと取出かたけれと、我君かために、かならすかつき出すはやましといへるは、又さきの哥の注にいへることく、勤勞をつくさむの心なるへし
 
952 韓衣服楢乃里之島待爾玉乎師付牟好人欲得《カラコロモキナラノサトノシママツニタマヲシツケムヨキヒトモカナ》
 
寧樂の里と云はむとてから衣を著てならすとそへたり、第十二に戀衣著楢乃山とつゞけたるも同じ.共にきならとつゞけたる故にさ云所の別にあらむやうに云ひ、(38)或はきなれの里なども云へど、二首共に、服楢乃里、著楢山と書たれば、假令別の所の名なりとも、唯キナラと云べし、キナレと讀べきやうなし、此は人丸の處女兒が袖ふる山とよまれたるに依て袖振山と云所ありと意得て此處ぞ彼處ぞと云ひあへるに石上袖振川と讀たるにて唯振山振川なるを文字のたらねば袖打振心に袖とはそへたるなりと知らるゝになずらへて今も意得べし、島待爾とは島は所の名なるべし、第五に奈良路なる島の木立とよめる歌に付て云が如し、待は松に借てかけり、玉ヲシ付ムは、し〔右○〕は助語、玉を松が枝に懸を付〔右○〕といへり、玉は上の歌に取らずばやまじと云へる玉なり、我其珠を取て島松に付べし、玉に徳を比ぶる程のよき人もがなと願ふなり、此時は付むと云所句絶なり、又句となさずして、よき人ありて玉を取來て島松にかけよかしとよめる歟、
 
初、から衣きならのさと 第十二には、こひ衣きならの山とつゝけよめり。ともに衣をきならすといふ心に、ならの里、ならの山とつゝけたるは、いそのかみ袖ふる川、をとめこか袖ふる山、とのくもり雨ふる川なとつゝけたるにおなし。八雲御抄には、きなれの里大和と注せさせ給へり。此哥も、第十二の哥も、共に服楢乃里、著楢乃山と書たれは、たとひ服の字、著の字ともにつゝきて、別の名所なりとも、きならなるへし。況これはならの京より、御供にて讀たりとみゆれは、雨ふる川の例にて、から衣ならの里ともいふへけれと、いひたらねは、きならの里とはいへるなるへし。島松にとは、島はならのあたりの所の名ときこゆ。第五に、ならちなるしまのこたちとよめる哥に注しき。玉をしつけむ、しは助語なり。よき人もかなとは、ふたつの心あり。ひとつにはよき人もかな、その人のために、今我眞珠を取て、其ならの里の島松につけむなり。此心なれは、玉をしつけむ、此所句絶なり。ふたつには、玉をつけむよき人もあれなとつゝけていへるなり。まことにはこれも心得にくき哥なり。よく/\心をつくへし。もし第一の哥は第四をおこし、第二は第三をおこすと見は玉をしつけむ、いよ/\句絶なるへし
 
953 竿牡鹿之鳴奈流山乎越將去日谷八君當不相將有《サヲシカノナクナルヤマヲコエテユカムヒタニヤキミハタアハサラム》
 
越將去、【官本、コエユカム、幽齋本云、コエテイナム、】
 
腰の句はこえてゆかむと云も、こえていなむと云事なり、四の句、日ダニヤキミニと讀べし、今按日だにやきみがあたりみざらんと讀べきか、相はアフともミルともよ(39)めり、みずあらんと云べきを受阿反坐なれば、ミザラムと讀べきかとは申なり、此四首の歌は行幸の御供にてよめるには何れもあらはには意得がたきやうなる歟、若思ひ懸たる人を三諸山のあたりに置て來て旅なれば殊に戀てよめるか、さをしかは妻を戀て鳴なるに折節行幸も秋にて我歸るさの山路を鹿と共になきて越し日さへ、還御の御供なれば君があたりをも見ずしてあらむかとなり、然らば初の二首、山守居とよめるは彼女を親などの守るを山守に譬て、重之が、筑波山は山しげ山しげゝれど思ひ人にはさはらざりけりとよめる心にて遂にはあはすばやまじといへる歟、次のかゝよふ珠も女をたとへてよめる歟、次の島松に、玉をし付む、よき人もがなとは我取らでは得やまじと思ふ玉をあはれ心ある人の我を勞せしめずして取て我宿の嶋松にかけよかしと女をやすく得させよかしと云意をたとへてよめる歟、此卷下に※[(貝+貝)/鳥]の鳴我嶋とよめるは地の名にあらず、
 
初、さほしかの啼なる山をこえてゆかむ 右の四首秋の作なるへし。こえてゆかんは、こえていなむなり。日たにや君にはたあはさらんは、いなん日は君にあはんなり。君とさすは妻なり。君當不相將有、これをは君かあたりみさらんともよむへし。落著は山こえて歸らん日は、君かあたりをみむとなり。注に笠金村哥集出といひたれは、先は金村哥歟。或云車持朝臣千年作之也とあれは、千年作といふは異説なるを、目録に千年の作にきはめたるは後人の所爲歟
 
右笠朝臣金村之歌中出也或云車持朝臣千年作之也
 
金村集には載ながら、作者を云はぬを、或人は千年が歌なりと云と注する意なり、金村集に他人の歌を載るにて人丸集等もなぞらへて知べし、問て云、金村之歌中(40)出也と云へるは金村の歌とするにあらずや、答て云、然らず、唯是金村集に載て作者をしらぬ歌なり、金村が歌ならば、初端作に幸于難波宮時笠朝臣金村作歌四首と云ひて此には、右或云、車持朝臣千年作v之也とこそ異説を擧べけれ、
 
膳王歌一首
 
初、膳王歌一首 長屋王の子、高市皇子の孫、第三にすてに注せり
 
954 朝波海邊爾安左里爲暮去者倭部越鴈四乏母《アシタニハウナヒニアサリシユフサレハヤマトヒコユルカリシトモシモ》
 
海邊、【別校本亦云、ウミヘ、】
 
倭部越をヤマトヘコユルと點ぜる本もあれど第十に詠v雁歌にも山跡部越と書て今とおなじく點ぜり、うみべ〔三字右○〕をうなひ〔三字右○〕とも云ごとく通ずる故なり、トモシはめづらしきなり、班固西都賦云、鳥則玄鶴鴻雁、朝發2河海1夕宿2江漢1、
 
初、朝にはうなひにあさりし 班固西都賦云。鳥(ハ)則玄鶴鴻雁、朝(ニハ)發(シ)2河海(ヲ)1夕(ニハ)宿(ス)2江漢(ニ)1。沈浮(シ)往來(シ)雲(ノコトクニ)集(リ)霧(ノコトクニ)散(ス)。山とひこゆるを倭部越と書たれは、大和へ越といふにまかひぬへし。されとも山飛越るなり。部を備の音によめるは五音通すれはなり。海邊とかきてうなひとよめるかことし。第十の三十七葉に、秋風に山とひこゆるかりかねはいや遠さかる雲かくれつゝといふ哥にも、山跡部越とかけり。同第三十八葉には、秋風に山飛越かりかねの聲とをさかる雲かくるらし。これには山飛越とかきたれは、三十七葉の哥の證となり、三十七葉の哥は、此哥の證なり。ともしはめつらしきなり
 
右作歌之年不審也但以歌類便載此次
 
太宰少貳石川朝臣足人歌一首
 
955 刺竹之大宮人乃家跡住佐保能山乎者思哉毛君《サスタケノオホミヤヒトノイヘトスムサホノヤマヲハオモフヤモキミ》
 
(41)君とは大伴卿をさせり、次の和にて知られたり、
 
初、さす竹の大宮人の 此さす竹の大宮とつゞく事、長流か枕詞燭明抄に、すなはち此哥を引て、或説なとを擧て釋せり。此詞はしめて出たるは、日本紀推古紀に、聖徳太子飢人に賜へる御哥の中に、佐須陀氣能《サスタケノ》、枳彌波夜那祇《キミハヤナキ》。此よりさきも有けめと、此御哥を初とす。此集第十一に、さすたけのは《齒隱有《ハカクレニアル》》にかくれたるわかせこかわかりしこすはわれこひめやも。これは竹の中の、一種の別名と見えたり。第十三の十四葉に、さ《刺將燒》すたかむこやのしきやとよめり。これはしきやはし《醜屋》こやにてきたなきこやなり。さす竹なとをたきものにする、いやしきこやときこゆれは、後々にさゝ竹の大宮人と讀るにあはすれは、さすのすとさゝのさと五音通して、さすはやかてさゝにや。さて大宮とつゝくるは、生るとつゝけたるなるへし。大と生とことなれと、和語通すれはなり。其證は、此集第三に、生石村主《オホシシノスクリ》眞《マ》人といふものあり。孝謙紀に勝寶二年正月庚寅朔乙巳正六位上大石村主眞人(ニ)授2外從五位下(ヲ)1。これ大と生とを通してかけり。凡河内を大河内とも日本紀にかけれは似たることはかよはしてかくにこそ。此集第十三にもゝさゝのみのとつゝけたるもさゝのしけくおふる眞野といふ心と見ゆ。されはさゝのしけくおふるを、繁昌にもことよせ、おふるといふ心につゝけて、さす竹の大宮とはいふにや。おほるといふ心につゝけは、さす竹ならすとも、いつれの草木も有ぬへしと難すへけれと、いつれにもあれ、一種につかはかならす此難有へし。ほとゝきすとはたの浦とつゝけたるも、ほとゝきすにやは、とふものは限ると難すへしや。これらに准すへし。聖徳太子の御哥は、さゝ竹の大宮にまします君やはなきといふ心と聞へし。此集第十六、竹取翁か哥に、うちひさす宮のをみなもさす竹のとねりをとこもとよめるは、さす竹の大宮のとねりをとこといふへきを、さす竹といふまくら詞にこめて、大宮を畧せり。うちひさす宮のをみなもといふ對にさす竹のとねりをとこもといへる語勢を思ふへし。あし引といひて山とし、玉鉾といひて道とする例なり
 
帥大伴卿和歌一首
 
956 八隅知之吾大王乃御食國者日本毛此間毛同登曾念《ヤスミシシワカオホキミノミケクニハヤマトモコヽモオナシトソオモフ》
 
御食國は上の赤人の歌に、みけつ國とよめるに同じ、
 
冬十一月太宰官人等奉拜香推※[麻垂/苗]訖退歸之時馬駐于香椎浦各述懷作歌
 
和名云、筑前國糟屋郡香椎、【加須比、】仲哀紀云、八年春正月己卯朔己亥、到2儺縣1、因以居2橿日宮1、神功皇后紀云、九年【屬仲哀天皇】春三月壬申朔戊子、皇后欲v撃2熊鷲(ヲ)1而自2橿日宮1遷2于松峽宮1、又云、皇后還詣2橿日浦1、解v髪臨v海曰、吾被2神祇之教1、頼2皇祖之靈1、浮2渉滄海(ヲ)1、躬欲2西征1、是以今頭濮2海水1、若有v驗者、髪自分爲v兩、即入v海洗v之、髪自分也、延喜式云、凡橿日廟宮、舍人一人、大臣武内宿彌、資人一人、預2得考之例1、又云、凡諸神宮司、並橿日廟司、以2六年1爲2秩限1、仙覺抄云、筑前國風土記云、到2筑紫國1例、先參2謁于※[加/可]襲宮1、※[加/可]襲、可紫比也、(42)今按、橿日を香椎ともかくは、山城の笠置を延喜式には鹿鷺とかゝれたるが如し、延喜式神名帳云、筑前國糟屋郡志加海神社三座、【並名神大】かくのみありて香椎をば不v載して上に引如く廟と云へり、仲哀天皇にや、
 
初、香推〓 仲哀紀云。八年春正月己卯朔己亥到2儺《ナカ》縣(ニ)1。因以居2橿日(ノ)宮(ニ)1。神功皇后紀云。九年【屬2仲哀天皇1】春三月壬申朔戊子皇后欲v撃2熊鷲(ヲ)1而自2橿日(ノ)宮1遷2于松(ノ)峽《ヲノ》宮(ニ)1。又云。皇后還詣2橿日(ノ)浦(ニ)1解v髪《ミクシヲ》臨(テ)v海(ニ)曰。吾被2神祇之|教《ミコトヲ》1頼《カフヽリ》2皇祖之靈《オホオヤノミタマノフユヲ》1浮2渉《・ワタリテ》滄海(ヲ)1躬欲2西(ヲ)征(ント)1。是以今頭(ラヲ)濮《スヽク》2海水《ウシホニ》1。若有v驗者髪自分爲(レ)v兩《フタツニ》。即入(レテ)v海(ニ)洗《スヽキタマフ》v之。髪自(ニ)分(ヌ)也。香椎〓は皇后をいはひ奉るなるへし。延喜式云。凡(ソ)橿日廟宮(ノ)舍人一人。大臣武内宿彌資人一人。預2得v考之例(ニ)1。同十八式部式云、凡(ソ)諸神宮司、并橿日廟司以2六年(ヲ)1爲2秩(ノ)限(ト)1。同神名帳には筑前國糟屋郡三座【並大】志加海神社三座【並名神大。】かくのことくにて香椎をは不v載。和名集云。糟屋郡香椎【加須比。】かゝれは、かしひともかすひともよむへし
 
帥大伴卿歌一首
 
957 去來兒等香椎乃滷爾白妙之袖左倍所沾而朝菜採手六《イサヤコラカシヒノカタニシロタヘノソテサヘヌレテアサナツミテム》
 
此發句、昔より點はかゝりければにや、新勅撰に載られたるも今と同じ、然れども第三高市黒人が歌の注に申つる如く傍例に依てイザコドモと讀べし、
 
初、去來兒等 これをはいさやこらとも、いさこともともよむへし
 
大貳小野老朝臣歌一首
 
958 時風應吹成奴香椎滷潮干※[さんずい+内]爾玉藻苅而名《トキツカセフクヘクナリヌカシヒカタシホヒノウラニタマモカリテナ》
 
※[さんずい+内]、儒税切、廣韻曰、水曲通作v※[草がんむり/内]、詩、※[草がんむり/内]※[革+〓]之郎、毛傳云、※[草がんむり/内]、水※[涯の旁]、鄭箋云、水(ノ)内(ヲ)曰v※[草がんむり/内]、水外(ヲ)曰v※[革+〓](ト)、苅テナはかりてんななり、第七云、時風吹まく知らずあごの海の、朝明の塩に玉藻刈てな、似たる歌なり、
 
初、時つ風吹へくなりぬ 第七に、ときつ風ふかまくしらすあこの海のあさけのしほに玉もかりてな。太かた似たる哥なり。第二に、ゆふされはしほみちきなむすみのえのあさかのうらに玉もかりてな
 
(43)豐前守宇努首男人歌一首
 
別校本努作v野、男人系圖等未v詳、
 
959 往還常爾我見之香推滷從明日後爾波見縁母奈思《ユキカヘリツネニワカミシカシヒカタアスヨリノチニハミムヨシモナシ》
 
從明日後爾波は、今按アスユノチニハと讀べきか、其故は古歌とは云ひながら今の點の如くならば、あすよりのちはと云ひても事足れば無用の文字を餘すべからざるにや、此歌の意を按ずるに此男人は當年任の限はてけるなるべし、
 
帥大伴卿遙思芳野離宮作歌一首
 
960 隼人乃湍門乃磐母年魚走芳野之瀧爾尚不及家里《ハヤヒトノセトノイハホモアユハシルヨシノヽタキニナヲシカスケリ》
 
初、はやひとのせとのいはほも はや人のせとは、さつまのせとなり。第三卷に注せり。盤は磐の字なるへし。せとのいはほもといへるはいはほのかさなれるさま、見所あれと、猶よしのゝ瀧のあたりにはしかすとなり。太宰帥なれは、さつまの國へもゆきてみらるゝ歟。また帥の所部の國なれは、よしのに對せんために取出らるゝ歟
 
帥大伴卿宿次田温泉聞鶴喧作歌一首
 
和名集云、御笠郡次田、すきだと云べきをすいだと云は、吉と伊と同内相通なり、次の字古語にはつき〔二字右○〕とは云はですき〔二字右○〕とよめり、大甞會の悠紀主基をも天武紀には(44)齋忌、【齋忌、此云2踰既1】次、【次、此云2須岐1也、】とあり、源氏柏木にすき/\見ゆるにひ色といへるも次々なり、此集に手繦を手次とあまたかけり、津の國のすいたと云所を吹田と書も、昔は次田なりけむを、なま物知なる者の次の字の和訓のやうは知らで、吹の字の音を用てかけるを誤て次に作れるかと思ひて吹に改たりけるなるべし、
 
初、宿次田温泉 和名集云。筑前國御笠郡次田。今の本に和訓なし。次の字音はすきすくとのみよめれはすき田とよむへき歟
 
湯原爾鳴蘆多頭者如吾妹爾戀哉時不定鳴《ユノハラニナクアシタツハワカコトクイモニコフレヤトキワカスナク》
 
此湯原は次田温泉ある故の名なり、八雲御抄に大和と注せさせ給へるは、こゝを委も御覽ぜられず、若は湯原王の名に負たまへる湯原など大和に有かにて思召わたらせ給へるなるべし、大伴卿の妻は神龜五年に死せられければ、吾如ク妹ニコフレヤとはよまれたり、こふれやはこふるやなり、第十に、朝井手に、きなくかほ鳥なれだにも、君にこふれや時をへずなく、似たる作なり、玉葉に戀に入られたる意おぼつかなし、
 
初、湯原になくあしたつは 此湯原を、八雲御抄に大和と載させたまへるは、よくかむかへさせたまはさるなり。玉葉集には戀部第一に載
 
天平二年庚午
 
勅遣擢駿馬使大伴道足宿禰時歌一首
 
(45)元明紀云、和銅元年三月、從五位上大伴宿禰道足爲2讃岐守1、元正紀云、養老七年正月、從四位下、聖武紀云、天平三年八月丁亥、詔依2諸司擧1、擢2右大辨正四位下大伴宿禰道足等六人1、並爲2參議1、此前後、處々に見えたり、聖武紀云、延暦元年二月丙辰、參議從三位中宮大夫兼衛問督大伴宿禰伯麿薨、祖馬來田、贈内大紫、父道足、平城朝、參議正四位下云云、
 
962 奧山之磐爾蘿生恐毛問賜鴨念不堪國《オクヤマノイハニコケムシカシコクモトヒタマフカモオモヒタヘナクニ》
 
蘿生、【別校本云、カナケヲヒテ、】
 
第七にも、奥山の石に苔むしてかしこみと、思ふ心をいかにかもせむ、又いはだゝみかしこき山ともよめり、山深き所に巖の苔むせるは守る神靈も有ぬべく木ぐらきに物の音もせねばそゞろ寒く恐ろしければ、それによせて不堪なる身に歌よめとあれば恐れ入るとなり、
 
初、おく山のいはにこけむして 山ふかき所に、神さひたる岩の苔むせるは、まもる神靈もありぬへく、木くらきに、物の音もせねは、そゝろさむくおそろしけれは、それによせて、不堪なる身に、哥よめとあれは、おそれいるとなり。盤はまた磐の字なるへし。第七におく山のいはにこけむしてかしこみとおもふこゝろをいかにかもせむ
 
右勅使大伴道足宿彌饗于帥家此日會集衆諸相誘驛使葛井連廣成言須作歌詞登時廣成應聲即吟此歌
 
右勅使大伴道足宿禰−−
<廣成元正紀云。養老三年閏七月丁卯、以大外記從六位下白猪史廣成爲遣新蘿使。八月癸巳、遣新羅使白猪史廣成等拜辭。四年五月壬戌、改白猪史氏賜葛井連姓。天平十五年七月、從五位下。二十年二月、從五位上。八月己未、車駕幸散位從五位上葛井連廣成之宅宴飲、日暮留宿。明日、授廣成及其室從五位下縣犬養宿祢八重並正五位下。是日還宮。孝謙紀云。勝寶元年八月、中務少輔。懷風藻云。正五位下中宮少輔葛井連廣成二首。孝謙紀云。寶字二年八月丙寅、外從五位下津史秋主等卅四人言。船、葛井、津、本是一祖別爲三氏云々。かゝれは王辰尓か力後なり。第九云。藤井連遷任上京時云々。是同氏なるへけれは、ふちゐと讀へし。三代實録第七云。貞觀音五年十月二十一日庚辰、河内園丹比郡人正六位下葛井連居都人、大初位下葛井連高長等、改本居貫附右京職。丹比郡に藤井寺あれは、是も亦ふちゐと讀へき證なり。持統紀1「藤原を葛原とかゝれ、和名集にはハ、播磨の藤江を葛江とかけり>
 
初、道足 元明紀云。和銅元年三月從五位上大伴宿禰道足爲2讃岐守1。五年正月正五位下。六年八月爲2弾正尹1。元正紀云。養老四年正月正五位上。同十月爲2民部大輔1。同七年正月從四位下。聖武紀云。天平元年正月正四位下。同九月右大弁。三年八月丁亥詔、依2諸同擧1擢2〇右大弁正四位下大伴宿禰道足等六人1並爲2参議1。延暦元年二月丙辰参議從三位中宮大夫兼衛門督大伴宿禰伯鹿呂薨。祖馬來田(ハ)贈2内大紫(ヲ)1、父道足(ハ)平城朝参議正四位下。葛井連廣成。元正紀云。養老三年閏七月丁卯以2大外記從六位下白猪史廣成(ヲ)1爲2遣新羅使(ト)1。八月癸巳遣新羅使白猪史廣成等拜辭。同四年五月壬戌改(テ)2白猪史氏(ヲ)1賜2葛井連(ノ)姓(ヲ)1。天平十五年三月乙巳、筑前國司言。新羅使薩〓金序貞等來朝。於是遣從五位下多治比眞人土作、外從五位下葛井連廣成於筑前、※[手偏+僉]※[手偏+交]供宮之事。同六月備後守。同七月從五位下。二十年二月從五位上。同八月己未【下八年歌引之。】懷風藻云。正五位下中宮少輔葛井連廣成二首
 
(46)冬十一月大伴坂上邸女發帥家上道超筑前國宗形部名兒山之時作歌一首
 
郎女は帥の妹なれば、相見むため又は國をも見むとて下られけるにや、さて歸り上らるゝ時の歌なり、官本に部を郡に改たり、此に依るべし、
 
初、宗形郡【郡誤作部。】坂上部女は帥の妹なるゆへに逢見むとて下られけるなるへし
 
963 大汝小彦名能神社者名著始鷄目名耳乎名兒山跡負而吾戀之千重之一重裳奈具佐末七國《オホナムチスクナヒコナノカミコソハナヅケソメケメナニノミヲナコヤマトオヒテワカコヒノチヘノヒトヘモナクサメナクニ》
 
奈具佐末七國、【校本、或末作v米、】
 
初の四句は神代紀上云、夫《カノ》大|己貴命《アナムチノミコト》、與2少《スクナ》彦名命1、戮v力(ヲ)一v心經2營天下1大汝は大己貴なり、名耳乎はナノミヲとも讀べし、落句の末の字、今の本によらばマ〔右○〕と點ずべし、なこ〔二字右○〕となく〔二字右○〕とは通ずれば山の名は戀の心のなぐさむやうにあれど、千々の中にひとつもなぐさまぬものをとなり、諸本に末の字ながらメ〔右○〕と點じ、校本に或は米に作ると云ひたれば、字の相似たれば誤て末に作れども點は猶昔のまゝなる歟、然らば戀の(47)心をなぐさむる心〔左○〕へき名のみして、我心をばなぐさめずとなり、第七に名草山言にし有けり我戀の、千重の一重もなぐさめなくに、名兒山と名草山と處は異なれど歌は唯同じ意なり、彼落句は名草目名國と書たれば今も米を誤れるなるべし、
 
初、大汝すくなひこなの.日本紀第一云。夫《カノ》大己貴命(ト)與2少彦名之命1戮《アハセ》v力(ヲ)一(ニシテ)v心(ヲ)經2營《ツクレリ》天下(ヲ)1。なくさまなくに、なくさめなくにとあるは誤れり。なごはなぐにてなくさむとおなし詞なれは、名にのみおひて、なくさますといへり。第七に、なくさ山ことにし有けりわか懸の千重のひとへもなくさめなくに。此哥とおなし心なり
 
同坂上郎女海路見濱具作歌一首
 
官本、郎女の下に向京の二字を加ふ、目録にもあれば此に落たるなるべし、具は貝を誤れり、官本、貝に作る、
 
初、見濱貝【貝誤作具】
 
964 吾背子爾戀者苦暇有者捨而將去戀※[立/心]忘貝《ワカセコニコフルハクルシイトマアラハヒロヒテユカムコヒワスレカヒ》
 
戀者、【六帖、コフレハ、校本同v此、】  拾而、【六帖、ヒロヒニ、】  忘貝、【官本、※[立/心]作v忘、】
 
捨は拾を誤れり、而〔右○〕音訓共に用たれども此歌を取て六帖にひろひにとよめるは誤れり、
 
初、拾而將去【拾誤作v捨。】忘誤作v※[立/心]
 
冬十二月太宰帥大伴卿上京時娘子作歌二首
 
京の下に目録には之あり、
 
初、上京時 目録時上有2之字1
 
(48)965 凡有者左毛右毛將爲乎恐跡振痛袖乎忍而有香聞《オホナラハサモトモセムヲカシコシトフリタキソテヲシノヒテアルカモ》
 
發句はおほよその人ならばの意なり、左毛右毛は今按今の本の點は誤れり、カモカクモと讀べし、或はく〔右○〕を略してカモ/\とも讀べきか、其故は第八に巨曾倍津島が歌に、此岳に小牡鹿踏起しうかねらひ、可聞可開爲良久君故にこそ、此可聞可開をカモカクと點ぜり、然るに開はけ〔右○〕に用てく〔右○〕と使ひたる例なし、疑らくは可聞可聞にてカモ/\なりけるを書生誤て開に作れるか、此に依て申すなり、貴人に對して袖ふらむは恐あれば招たく思へども忍てえふらぬとなり、遊女なれば殊に謙退せるも身を知て情あり、大伴卿に涙を拭はせけるもことはりなり、落句はシノビタルカモとも讀べし、
 
初、おほならは おほよその人ならはなり。か《左毛右毛將爲乎》もかくもせんを、これをさもともせんをとかなのつきたるは誤なり。貴人に對して袖ふらむはおそれあれは、まねきたくおもへともえふらぬとなり
 
966 倭道者雲隱有雖然余振袖乎無禮登母布奈《ヤマトチハクモカクレタリシカレトモワカフルソテヲナケレトモフナ》
 
無禮登、【別校本亦云、ナメシト、】
 
無禮を今の本にナケレと點ぜるは、なしと云古語と意得たる歟、此卷下に橘家宴歌に暇無跡をイトマナケレドと點ぜり、又第十二に、妹登曰者無禮恐を、イモトイヘバ(49)ナケレカシコシと點ぜり、然るを別校本十二の歌今の歌ともにナメシと點ぜり、此點に隨ふべし、なめしは人を侮り輕じてすなはち無禮なる意なり、孝徳紀には輕を〔右○〕ナメシと點ぜり、伊勢物語にいとなめしと思ひけれど云云、源氏未通女にいさゝか物云をも制す、なめげなりとてもとがむ、梅之枝におぼしすつまじきを憑みにてなめげなるすがたを御覽ぜさせ侍るなり、夕霧に、いかさまにして此なめげさを見しとをぼしければ、眞木柱に、内にもなめく心あるさまに聞しめし云云、清少納言にも、ことばなめげなるものなどとかけり、俗にも身を知らずしてさし出る者をなめ過たる者など申めるは此詞なり、母布奈は於母布奈の上畧なり、思ひあまりては終に袖振べきを無禮なりとは思召なとなり、雲隱たりと云に付ては雲隱て見えずとも我袖振べきを、振事なからんとはをぼすなとよめりと云はんもたがふべからねど、今の歌よりは第十二の歌、ナケレとよみては叶はねばナメシに定むべし、
 
初、わかふるそてをなけれともふな その比の都大和なれは、其間の道みなやまとちなり。雲隱たりとも、おもひあまりては、袖ふらむを、なからんとはおもふなとなり。なけれはなからんといふ心なり。なからんとは袖ふることなからんとはおもひたまふなの心なり。もふなは、おもふなを没上していへるなり。無禮をなめしともよめと、雲かくれたりしかれともといふつゝきは、なけれにさためぬへし
 
右太宰帥大伴卿兼任大納言向京上道此日馬駐水城顧望府家于時送卿府吏之中有遊行女婦其字日兒島也於是娘子傷此易別嘆彼難會拭涕自吟振袖之歌
 
(50)水城は天智紀云、是歳【三年】又於2筑紫1築2大堤1貯v水(ヲ)、名曰2水城1、稱徳紀云天平神護元年二月辛丑、太宰大貳從四位下佐伯宿禰今毛人、爲d築2怡土《イト》城1專知官u、少貳從五位下采女朝臣淨庭、爲d修2理水城1專知官u、和名云、下座郡三城、【美都木、】水と三と和語相近ければ三城は水城にや、史記高祖本紀云、守(テ)2濮陽1環v水、【文穎曰決v水以自環守爲v固也、張安曰、依2河水1以自環繞作v壘、】遊行女婦〔四字右○〕は、和名集云、楊氏漢語抄云、遊行女兒、【和名、宇加禮女、又云、阿曾比、】日兒島也〔四字右○〕、【官本、日作v曰、今本誤、】
 
初、水城 下の哥に注すへし。曰兒【曰誤作v日】
 
大納言大伴卿和歌二首
 
967 日本道乃吉備乃兒島乎過而行者筑紫乃子島所念香裳《ヤマトチノキヒノコシマヲスキテユカハツクシノコシマオモホエムカモ》
 
香裳、【別校本、裳作v聞、】
 
都へ上る道なれば、吉備の兒嶋をも大和路と云へり、景行紀云、日本武尊、既而從2海路1還v倭、到2吉備1渡2穴海1、神代紀云、次生2吉備子洲1、纂疏云、吉備子洲者、備州有v神、名曰2吉備津彦、吉備津姫1、故亦名同也、子嶋即小島、在2備前國之海中1也、舊事紀曰、吉備兒島、達日方別云、和名集云、兒嶋郡兒嶋、【古之萬、】娘子が名とおなじ、故に兒島を過む時は、思ひ出むかとなり、筑前の娘子なれば筑紫の子島と云地の名にはあらず、能く意を付べし、此集に、(51)亦播磨娘子常陸娘子などいへるに同じ、
 
初、やまとちのきひのこしまを 神代紀云。次生2吉備子洲(ヲ)1。疏云、吉備(ノ)子洲者、備州有v神名曰2吉備津彦、吉備津姫1故亦名同也。子嶋即小嶋。在2備前國之海中1也。舊事紀曰。吉備兒嶋達日方別云。都へのほる道なれは、吉備の兒嶋をもやまとちといへり。景行紀云。既而從2海路1還1v倭到2吉備1以渡2穴(ノ)海(ヲ)1。こしまといふ名同しきゆへに、娘子をおもひ出んといへり。八雲御抄に、筑紫の小嶋といふ名所あるやうに載させたまへるは、よく考させたまはさりけるなり
 
968 大夫跡念在吾哉水莖之水城之上爾泣將拭《マスラヲトオモヘルワレヤミツクキノミツキノウヘニナミタノコハム》
 
歌の意明なり、若筆を水莖と云こと往古より在て娘子が歌を書て出せるを今別るる處の名に寄て水莖の水城の上にとはよまれたる歟、又水城は水を湛たる上に別の涙に彌水の増る意歟、大夫非v無v涙、不v灑2離別間1と云ひたるに此兒嶋が歌は鬼をなかせたる心地す、
 
初、ますらをとおもへるわれや 第一卷軍王哥、第二巻舍人親王御哥をはしめて、集中おほき詞なり。水城は、天智紀云。是歳【三年也】〇又於2筑紫(ニ)1築(テ)2大堤(ヲ)1貯(ヘ)v水(ヲ)名曰2水城(ト)1。續日本紀云。天平神護元年二月辛丑太宰大貳從四位下佐伯宿禰今毛人爲d築(ク)2怡土(ノ)城(ヲ)1專知官(ト)u。式從五位下采女朝臣淨庭(ヲ)爲d修2理(スル)水城(ヲ)1專知官(ト)u。和名集云。下座郡三城【美都木。】史記高租本紀云。守(テ)2濮陽(ヲ)1環(ラス)v水(ヲ)。【文穎曰。決v水以自環守爲v固(メト)也。張晏曰。依2河水1以自環繞作v壘。】水莖は水莖の岡のみなとなり。第七卷にも、あまきりあひ日かた吹らし水くきの岡のみなとに浪立わたる。委はその所に注すへし。詩云。丈夫非v無v涙、不v灑2離別(ノ)間(ニ)1。かやうにはおもへとも涙をのこふか人情にてやさしきなり
 
三年辛未
 
大納言大伴卿在寧楽家思故郷歌二首
 
目録には作歌とあり、今作の字を落せり、故郷と云へるは十市郡なり、第三に萱草吾※[糸+刃]に付かぐ山の、ふりにし里を忘れぬがためとよまれたるを思ふ、但此に神名火の淵とよまれたるは、高市郡、栗栖の小野とよまれたるは城上郡なれば、宅地の外所領此三郡に亘て有けるにや、神武紀云、二年春二月甲辰朔乙巳、天皇定v功行v賞、賜2道臣命宅地1、居2于築坂邑1、此築坂は高市郡なり、此を傳て領せられけるにや、
 
初、大納言大伴卿 目録には故郷の下に作の字あり
 
(52)969 須臾去而見牡鹿神名火之淵者淺而瀬二香成良武《タヽシハシユキテミテシカカミナヒノフチハアサヒテセニカナルラム》
 
須臾、【官本亦云、シハラクモ、】
 
須臾は、タヽシハシとよまむことはおぼつかなし、シバラクモと點ぜる然るべし、神名火の淵とは神名火川の淵なり、
 
970 指進乃栗栖乃小野之茅花將落時爾之行而手向六《サシスキノクルスノヲノヽハキノハナチラムトキニシユキテタムケム》
 
茅花、【別校本、茅作v芽、今本誤矣、】
 
指進乃とは栗と云べき枕詞なり、栗栖は栗刺、【和名云、俗云久利乃以加、】なれば、さしつきのと云意と仙覺砂にいへり、今按次をすき〔二字右○〕とよめども進をすき〔二字右○〕とよめる傍例をいまだ見ず、字書に前也と注したればサシスヽノとよむべきか、俗に餘に明察なる者をすゝどき者と云は、進利《スヽトシ》の意歟、平家物語に義經の事を云に九郎はすゝどきをのこなればと云には進疾とかけり、利も疾も徃ては同じ意なり、されば栗毬は其鋒銛利にして、刺《サス》ことの疾《ト》ければ刺進《サシスヽ》と云へるを指の字の和訓近ければ借てかけるか、第九にふせやもえすゝしきほひてとよめるも、すゝみきほひてなり、此栗栖小野は和名に忍(53)海郡栗栖とある處か、古事記下雄略天皇段に云、亦一時天皇遊行到2於美和河1之時、河邊有2洗v衣(ヲ)童女1、其容姿甚麗、天皇問2其童女1、汝者誰子(ソ)、答(テ)白、己名謂2引田部赤猪子(ト)1云云、而賜2御歌1、其歌曰、比氣多能、和加久流須婆良、和加久閉爾、韋泥弖麻斯母能、淤伊爾祁流加母、此御歌に、若栗栖原とよませ給へるは城上郡にして十市の東につゞきたれば是なるべし、妹の坂上郎女十市郡の竹田庄城上郡跡見庄にてよまれたる歌上に既に見えたれば大伴卿より讓り與へられたるにもや侍らむ、茅花は誤れり、芽花とかける本よし、下句は散を待て行て神にも折て手向むとにはあらず、大納言にて、公務繋げゝれば、盛ならむ程までは故郷に行事叶ふまじければ、よし八月下旬にも御暇申てちらむ時にだに手向にをらむとの意なり、此卿今年七月辛未に薨ぜられたれば、此歌は夏の末秋の初にもやよまれけむ、あらましにてはてたるは、萩は猶風待程もありと云べし、第三に金明軍が萩の花咲て有やと問し君はもとよみて傷めるを思へば殊に萩を愛せられけるなるべし、
 
初、さしすきのくるす さしすきはさしつくなり。次の字をすきと讀に例すへし。くるすは栗毬にてくりのいかなり。針のことくしてさしつけはかくはつゝけたり。應神紀に大鷦鷯皇子の御哥には、ひしからのさしけくしらにともよませたまへり。くるすは和州なり。和名集云。忍海郡栗栖。大伴卿の故郷は、第三にも、かく山のふりにし里とよみ、こゝにも神なひの淵と讀て、飛鳥の邊なれは、此栗栖ちかき所なり。古事紀に、雄畧天皇御哥に、ひき田のわかくるす原とよませたまふるは、泊瀬にて、城上郡なれは、今少へたゝれるゆへに、忍海郡の栗栖と心得へし。はきの花ちらん時にしゆきてたむけむとは、此卿今年秋七月辛未に薨せられける時、仕人金明軍かいたみてよめる五首の哥の中に、かくしのみ有けるものをはきの花咲て有やとゝひし君はも。しかれは此の哥はいまたこゝちそこなはれぬほと、八月下旬の比は御いとま申て、故郷へ歸て休息せむと心あてにおもはれけるなるへし。芽花を茅花とかけるは文字のあやまれるなり
 
四年壬申
 
藤原宇合卿遣西海道節度使之時高橋連蟲麿作歌一首(54)并短歌
 
聖武紀を考るに四年八月丁亥なり、懷風藻云、五言奉2西海道節度使1之作、徃歳東山役、今年西海行、行人一生裏、幾度倦2邊兵1、此卿、他詩の自叙を見るに邊役に苦める人なり、蟲麿は考る事なし、此集下に蟲麿歌集といへり、
 
初、藤原宇合卿遺西海道節度使 聖武紀を考るに、四年八月丁亥なり。懷風藻云。五言奉(ハル)2西海道(ノ)節度使(ヲ)1之作。往歳東山(ノ)役、今年西海(ノ)行、行人一生(ノ)裏、幾度(カ)倦(ム)2邊兵(ニ)1。懷風藻彼卿の他詩の自序を見るに一生邊役にくるしめる人なり
 
971 白雲乃龍田山乃露霜爾色附時丹打超而客行公者五百隔山伊去割見賊守筑紫爾至山乃曾伎野之衣寸見世常伴部乎班遣之山彦乃將應極谷潜乃狹渡極國方乎見之賜而冬木成春去行者飛鳥乃早御來龍田道之岳邊乃路爾丹管士乃將薫時能櫻花將開時爾山多頭能迎參出六公之來盛者《シラクモノタツタノヤマノツユシモニイロツクトキニウチコエテタヒユクキミハイホヘヤマイユキサクミアタマモルツクシニイタリヤマノソキノヽソキミヨトトモノヘヲワカチツカハシヤマヒコノコタヘムキハミタニクヽノサワタルキハミクニカタヲミセシタマヒテフユコナリハルサリユケハトフトリノハヤミキタリテタツタチノヲカヘノミチニニツヽシノニホハムトキノサクラハナサキナムトキニヤマタツノムカヘマヰテムキミカキマセハ》
 
迎參出六、【官本亦云、ムカヘマウテム、】
 
白雲は立とつゞけむためなり、定家卿こゝを思て白雲の春は重て立田山とよみ給(55)へり、賊守とは筑紫には水城をかまへ防人を置て外國の賊を守る故なり、第廿にも家特筑紫の國はあだまもるおさへの城ぞととよまれたり、山ノソキとは山のしりぞきにて山のはてなり、野ノソキ意同じ、谷クヽは第五に注するが如し、國方は、方は借たる字、實には地形にて國の體勢なり、景行紀云、遣2武内宿禰1令v察2國之地形1、第十雁の歌に國つ方かもとよめるは國の方なり、春去行者は今按今の點叶はず、此は來春の事を兼て云へばハルサリユカバと讀べし、早御來は今按此點にては御は早に付たる詞にて風はやみなりなど云やうに意得たるかハヤクミキタリと讀て早く御歸ありてと敬ひて云へる御の字とすべきにや、丹管士は和名云、本草云茵芋、【因于二音、和名、仁豆々之、一云、乎加豆々之、】此は山に多く咲て俗には岩つゝじと云なるべし、又云、陶隱居本草注云、羊躑躅、【擲直二音、和名、以波豆豆之、一云、毛知豆々之、羊誤食v之躑躅而死、故以名v之、】此によれば、俗に岡つゝじを岩つゝじと云は誤歟、又云、兼名苑云、山榴、【和名、阿伊豆々之、】即山石榴也、花與2羊躑躅1相似(タリ)矣、此は俗に蓮花つゝじと云物か、花の形はもちつゝじに似て、色は岡つゝじと同じ、山石榴の名は、形よりも色に付たるか、又山にもちつゝじ〔五字右○〕にて花ちひさくて繁く咲一種あり、又俗に五月にて有て俗に五月と名付る一種は岡つゝじの攝歟、山たつの迎とつゞく事は第二に出たり、落句はキミガキマサバと讀べし、キマセバとある點は書生の誤なる(56)べし、
 
初、いほへ山 おほくかさなる山をいはむとてなり。いゆきさくみて、第二に釋せり。あたまもるつくしに至り。第廿に、家持の防人かためによまれたる哥にも、しらぬひの筑紫の國はあたまもるおさへの城そとなとよまれたり。異國の寇賊なとの備に、水城なとをもかまへをかるれは、あたもる筑紫の國とはいへり。そも/\九州をつくしと名付るは、國のかたち木菟《ツク》といふ鳥に似たれはなり。つく鳥の嶋ともいへり。山のそき野のそきみよと、そきは遠きはてなり。退の字放の字をよめり。とをそく、しりそく、皆このそきなり。とものへものゝふなり。谷くゝのさわたるきはみ、第五に釋せり。冬こなり春さりゆかは、春さりゆけはとあるは、かんなあやまれり。冬こなり春とつゝくること第三に釋せり。につゝし第三の五十一葉に尺せり。山たつの、第二の九葉に尺せり。君かきまさは、きませはにてもくるしからねと、きまさはにてよくきこゆるなり
 
反歌一首
 
972 干萬乃軍奈利友言擧不爲取而可來男常曾念《ソコハクノイクサナリトモコトアケナストリテキヌヘキタケヲトソオモフ》
 
干萬、【干、官本作v千、校本與2今本1同、】 言擧不爲、【別校本云、コトアケセス、】
 
干の字は若干をそこばくと訓ずれば其意歟、干と千と何れならむと云事を知らず、言擧不爲の點は今の本書生の誤なるべし、コトアグセズと讀べし、神代紀云、遂(ニ)到2出雲國1、乃興言曰云云、日本紀にも此集にも多き詞なり、唯言の一字をも又高言と書てもコトアゲスとよめり、ことあげせむとは、俗に事の易く速に成るを、物ひとついはずしてと云が如し、男は今按第十九第二十にますらたけをとよめる歌はあれど此字をタケヲとよめる傍例なし、日本紀にマスラヲとよみたるに依て今もマスラと讀べきか、第十七に家持、ますら我すらとよまれたれば、ますらとのみ云ひてもますらをなり、又ヲノコトゾ思フとも讀べし、
 
初、そこはくの軍なりとも ことあけは神代紀云。遂(ニ)到(テ)2出雲(ノ)國(ニ)1乃|興言《コトアケシテ》曰(ハク)云々。又高言ともかけり。ことあけせすは、常の詞にものをもいはて事をよくなすといふかことし。千万の千を干につくれるは誤なるへし。もし又若干の干なるか。干萬といふこと未考
 
右※[手偏+僉]補任文八月十七日任東山山陰西海節度使
 
(57)是はいにしへも補任を記せる書ありて本文歟、又後人の公卿補任に依て注せるを其後の人誤て本文に書加へたるか、東の下に海の字を落せり、其證は聖武紀云、正三位藤原朝臣房前爲2東海東山二道節度使1、從三位多治比眞人縣守爲(テ)2山陰道節度使1、從三位藤原朝臣宇合爲2西海道節度使1、東海山とは東海道東山道なり、
 
初、任東山 東の字の下に海の字をおとせり。〇聖武紀云。正三位藤原朝臣房前爲(ヲ)2束海山二道(ノ)節度使(ト)1。從三位多治比眞人縣守(ヲ)爲2山陰道(ノ)節度使(ト)1。從三位藤原朝臣宇合(ヲ)爲2西海道節度使(ト)1
 
天皇賜酒節度使卿等御歌一首并短歌
 
右の卿等に酒を賜る時なり、
 
973 食國遠乃御朝庭爾汝等之如是退去者平久吾者將遊手抱而我者將御在天皇朕宇頭乃御手以掻撫曾禰宜賜打撫曾禰宜賜將還來日相飲酒曾此豐御酒者《ヲシクニノトホノミカトナレカカクイテヽシユケハタヒラケクワレハアソハムタニキリテワレハイマサムキミノワカウツノミテモチカキナテソネキタマフウチナテソネキタマヒカヘリコムヒアヒノマムサケソコノトヨミキハ》
 
ナレはなんぢなり、退去者は今按マカリシユケバと讀べし、第七に百しきの大宮人の退出而、遊ぶ今夜の月のさやけさ、此腰の句今の本はタチイデヽと點ぜるを六帖にはまかりいでゝとあり、此に依るべし、手抱而は今按今の點あやまれり、タムタキ(58)テと讀べし、抱の字常にはいだくとよむを日本紀にはムタクと點ぜり、又懷の字をウタクとも點ぜり、此皆同韵にて通ぜり、たむたくはこまぬくなり.拱の字をたむたくともこまぬくともてをつくるともよめり、書、武成云、惇v信明v義、崇v徳推v功、垂拱而天下治、蔡注曰、重衣拱v手而天下自治.此意なり、第十九に家持も、こまぬきて事なき御代とよまる、天皇朕は又今按スメラワガと讀べし、ウツノ御手は神代紀上云、伊弉諾尊曰、吾欲v生2御宙之珍子1、自注云、珍此云2于圖1、延喜式第八祈年祝詞云、御年(ノ)皇神白馬白猪白?種々色物備皇御孫命宇豆幣帛稱辭竟奉【久登】宣二つの禰宜賜は、今按ともにネギタマフと讀て句絶とすべし、ねぎには兩様あるべし、一つには祷の字をねぐとよめるはねがふと同詞にて、まさきくあれと神にもねぎていはひて遣はさるゝなり、二つには勞の字をねぎらふとよめば各勞をいたさむとなぐさめたまふなり、還リ來ム日以下は今祝て此御酒を賜はる驗には汝等が事畢て歸來む日又宴を賜て相たのしみたまはむとなり、豐御酒はおほみきの意なり、古事記に大己貴命嫡妻須勢理※[田+比]賣命の大己貴命に答給ふ御歌の未にも登與美岐多弖麻都良世とあり、
 
初、をしくにのとほのみかと 遠のみかとは、第三卷人まろの哥に注せり。手抱而、これをたにきりてとかんなをつけたるは、あやまれり。たむたきてとよむへし。たむだくはいたくなり。日本紀の雄畧紀には、むだかへてともよめり。書武成(ニ)云。惇《アツクシ》v信(ヲ)明(ニシ)v義(ヲ)崇《タトヒ》v徳(ヲ)推(レハ)v功(ヲ)垂扶(シテ)而天下治。蔡注曰。垂v衣拱v手(シテ)而天下|自《ヲ》治。此拱の字をこまぬくとも、てをつくるとも、たむだくともよむ、おなしことなり。そのなかにたむだくとよむは、こゝに手抱とかゝれたる心にてよめり。天皇朕、これをもすめらわがとよむへし。うつのみてもて、うつは珍の字なり。稜威《イツ》と日本紀にかけるにはあらす。日本紀第三。伊弉諾尊臼。吾欲v生(ント)2御宙《アメノシタシラス》之|珍子《ウツノコヲ》1。自注云0珍此云2于圖《ウツト》1。第三云。至2速吸《ハヤスヒノ》之|門《トニ》1時有2一(リノ)漁人1乘c艇(ニ)而至。天皇|招《ヲキテ》之(ヲ)因(テ)問(テ)曰。汝誰(ソヤ)也。對(テ)曰|臣《ヤツカレハ》是國(ツ)神名|曰《マウス》2珍《ウツ》彦(ト)1。延喜式第八|祈年《トシコヒノ》祝詞《ノトニ》云。御年(ノ)皇神能前爾白馬白猪白※[奚+隹]種々色物乎備皇孫命能宇豆乃幣帛乎稱辭竟奉【久登】宣。うつはほむる詞なり。かきなてそ、ねきたまひ、うちなてそ、ねきたまひ、四句をの/\五字つゝによむへし。ねきは祷の字にていのるなり。ねかふといふにおなし詞なり。かきなてうちなてとは、節度使に出立人々を、なてさせたまふ心なり。背を拊て告るは親切なる類なり。此とよみきは、管見抄にいはく。豐はゆたかともよめり。酒は心をのへ愁を忘るゝゆへにいふといへり。案するに、豐は神に申詞なり。とよみてくらとよすめ神なといへり。しかれは洒はまつ神に備るがもとなり。よりてとよみきとはいふとそきこえたる。以上管見抄にいへり。今案とよみきは唯おほみきといふこゝろなり。日本紀に酒の一字をおほみきとよめり。今酒をたまはることく、事をへてかへらむ日、君臣歡樂して、又あひのまんそとおほせ下さるゝなり
 
反歌一首
 
(59)974 大夫之去跡云道曾凡可爾念而行勿大夫之伴《マスラヲノユクトイフミチソオホロカニオモヒテユクナマスラヲノトモ》
 
オホロカニはおぼろげになり、此度遣はす東山西海等の道は、尤ますらをの選に當れる者の行と云道ぞ、汝ますらをのともがら、各おぼろげの事のやうに思ひて行ことなかれ、
 
初、ますらをのゆくといふ おほろかはおろかなり。此たひつかはす東山西海等の道は、尤ますらをの器量あたれるものゝゆくといふ道そ、なんちますらをのともから、をの/\おろかにおもはてゆけ。勅命をはつかしめて、撰任の天意にそむくことなかれとなり
 
右御歌者或云太上天皇御製也
 
太上天皇とは元正天皇なり、此御事を第十八までは今の如く申奉り、第二十には先太上天皇とかけるは孝謙天皇の御代には聖武天皇を太上天皇と申奉る故に先の字を以聖武天皇に簡べるなり、今此注は此集勅撰ならぬ明澄なり、
 
初、太上天皇 此時は元正天皇なり
 
中納言安倍廣庭卿歌一首
 
975 如是爲菅在久乎好叙靈剋短命乎長欲爲流《カクシツヽアラクヲヨシソタマキハルミシカキイノチヲナカクホリスル》
 
在久乎好叙、【別校本云、アラクヲヨミソ、】
 
菅は管に改たむべし、好叙はヨミゾとよめるによるべし、今按廣庭卿は今年二月二(60)十二日薨逝なれば正月の宴などに遇て君臣相よろこぶ時よまれけるなるべし、
 
初、かくしつゝあらくをよみそ かくてあるをよしとなり。此哥はもし酒を節度使にたまへる時、よまれたるか。さらても君臣相よろこふ時の哥なるへし。管を誤て菅に作れり
 
萬葉集代匠記卷之六上
 
(61)萬葉集代匠記卷之六下
 
五年癸酉
 
超草香山時神社忌寸老麿作歌二首
 
神武紀云、三月丁卯朔丙子、遡v流而徑至2河内國(ノ)草香邑青雲|白肩《シラカタ》之津1、神社は氏なり、孝徳紀には、神社福草、元明紀には神社忌寸河内と云者見えたり、老麿は考る所なし、
 
初、超草香山時 草香は河内なり。神武紀云。三月《ヤヨヒノ》丁卯朔丙子(ノヒ)、遡流而上徑《カハヨリサカノホリテタヽニ》至(リマス)2河内國(ノ)草香(ノ)邑(ノ)青雲(ノ)白眉《シラカタノ》之津(ニ)1。神社《カミコソ》は氏なり。孝徳紀には、神社《カミコソノ》福草《サキクサ・サイクサ》といふもの有。元明紀には、神社忌寸河内《カミコソノイミキカハチ》といふもの見えたり。乞の字をこそとよみて、こひねかふ心なり。しかれは神のまします所にては、さま/\の事をこひねかひたてまつるゆへに、社の字をこそとはよむなるへし
 
976 難波方潮干乃奈凝委曲見在家妹之待將問多米《ナニハカタシホヒノナコリマクハシミイヘナルイモカマチトハムタメ》
 
シホヒノナゴリは第四に注せり、委曲見は今按マクハシミムと讀て句とすべし、此歌は奈良より難波へ下るに草香山を越る時みつれば、到り著たらば潮干のなごりの面白さを能々見む、歸るを待て妹がとはゞ細かに語るためにとなり、
 
初、なにはかたしほひのなこり しほひのなこりは第四に注せり。第七卷にも見えたり。まくはしみんを、今の本にはまくはしみとのみ點せるは、見の字をてにをはなりと心得たる歟。さらすはかんなの落たるなるへし。此哥はならより難波へくる道に、草香山をこゆる時よめれは、いたりたらはよく見む、妹が歸るを待てとはゝ、こまかにかたるためにと、またみぬさきに、後をかねていへり。まくはしみんとよみて、こゝを句とせされは、下の句きこえぬなり
 
977 直超乃此徑爾師弖押照哉難波乃海跡名附家良思裳《タヽコエノコノミチニシテオシテルヤナニハノウミトナツケケラシモ》
 
(2)家良思裳、【校本、裳作v蒙、】
 
直超は草香山の道の名なり、古事記下、雄略天皇の段に云く、初太后坐2日下1也、時自2日下之直超道1幸2行河内1、今も廣き道あるなり、此徑ニシテと云へるは、三つの意侍るべし、一つには、昔の帝も此直超の道有て易く行幸し給ふ故におしてる宮難波の海とは名付給ひけらしと云歟、二つには、此道より難波の方を見やりて、臣民の上に臨て御世を知しめすに相應せる地なりとてこそ、おしてるや、なにはの海とは名付給ひけらしと云歟、三つには、應神天皇などの此道より御覽じて、おしてる、なにはと申べき由勅宣し給ひし由緒などの有てよめる歟、
 
初、たゝこえの此みちにして 右に引る神武紀にも、遡流而上徑《カハヨリサカノホリテタヽニ》至(リマス)2河内國(ノ)草香(ノ)邑(ニ)1。今も草香江草香村有て、それより中かいと越とて、大和へこゆるが草香山なり。此哥はおしてるやといふ枕詞にかゝりて、ことはりをたてたる哥なり。別におしてるやなにはとつゝく枕詞の所に注せり
 
山上臣憶良沈痾之時歌一首
 
第五に沈痾自哀文ありき、年七十四とあり、此時卒せられけるなるべし、元正紀云、養老五年正月戊申朔庚午、詔2從五位上佐爲王、從五位下山上臣憶良等1退v朝之令v侍2東宮1焉、東宮は聖武天皇なり、憶良の人の程、此等にて知べし、
 
初、山上臣憶良沈痾之時 第五に沈痾自哀文あり。又老身重病經(テ)v年(ヲ)辛苦(シ)及(ビ)思(フ)2兒等(ヲ)1歌七首とて載たり。すてに注せるかことし。彼七首の哥の奥に、天平五年六月丙申朔三日戊戌作とあれは、此歌もその前後なるへし。彼自哀文に初沈v痾已來年月稍多【謂經2十餘年1也。】是時年七十有四とあれは、此年死せられけるなるへし。此人の事国史に見えたるは、績日本紀第二、文武紀云。大寶元年春正月乙身朔丁酉以2【恐脱字】守民部尚書直大貳粟田朝臣眞人(ヲ)1爲2遣唐執節使(ト)1。〇無位山(ノ)於《ウヘノ》憶良(ヲ)爲2少録(ト)1。元明紀云。和銅十年正月授2正六位下山上|臣《オム》憶良(ニ)從五位下(ヲ)1。元正紀云。靈龜元年四月爲2伯菅守(ト)1。養老五年正月戊申朔庚午詔(シテ)2從五位上佐爲(ノ)王〇從五位下山上臣憶良〇等1退《マカテヽハ》v朝(ヨリ)之令v侍(ヘラ)2東宮《・聖武》(ニ)1焉
 
978 士也母空應有萬代爾語續可名者不立之而《ヒトナレハムナシカルヘシヨロツヨニカタリツクヘキナハタヽスシテ》
 
(3)今按此發句の點字に叶はずして憶良の本意にあらず、依て二句までを改てマスラヤモ、ムナシクアルベキと讀べし、先學に叶はぬ事をいはゞ、士をばヒトとよむべし、也母の二字をいかでナレバとは和すべき、次に憶良の本意にあらざる證は、第十九、家持の慕v振2勇士之名1長歌に、ますらをや、むなしくあるべき、又云、後の代の、かたりつぐべき、名を立べしも、反歌云、ますらをは、名をし立べし、後の代に、聞つぐ人も、語りつぐがね、注云、右二首、追和山上憶良臣作歌、此家持の歌、并に注を以て知べし、古點の意は、幻化の身なれば、空しかるべしと無常を知れる意に云へり、新點の意は、大丈夫と生れたるもの、なす事なくして空しく世を經て、萬代まで語繼べき名なからむ物ならむや、然るに、我徒に老病に迫り、功名立ところなくして死門に臨むこと口惜き事なりと、悲壯慷慨の意にてよまれたり、下の注に拭v涕悲嘆と云は此意なり、空門の釋子などの臨終の用心の如くならば、既にひとなれば空しかるべしと知ぬ、何事にか涕を拭はむ、論語云、子曰、君子(ハ)疾2没v世而名不1v稱焉、文選古詩云、人生非2金石1豈能長2壽考1奄忽隨v物化、榮名以爲v寶、夫聖人には聖の名を欲せざれども聖の名あり、愚者も愚の名を欲せざれども愚の名あり、堯、舜、桀、紂、謚號大きに異なり、莊子が名は實の賓と云ひ、佛の名利を離れしめ給ふは此美稱を云にあらず、佛既に大覺世尊の名ありて、唱(4)る者すら罪業を除く、假使名利に意あるに付て云はゞ、利を欲するは穢らはし、名を捨てもなさずと云事なし、名を欲するは清し、利を見てもせざる所あり、やむ事を得ざる時は、身を捨、命を殞すに至る、名を欲するもの一變せば、道を聞に近き事も有ぬべし、季世に至るに隨ひて利を求るは多く名を惜むは少なし、憶良の芳魂猶滅せずしてある物ならば、此新點ばかりは頭を掉らずして眉を開かるべき歟、
 
初、ひ《士也母・をのこやも》となれはむなしかるへし《・き今案正義》萬代にかたりつくへき名はたゝすして
此寄上の二句古來よみ損したるゆへに、したかひて、心得る事もあやまれるなり。今その證をたてゝ、誤をあらたむ。憶良の靈魂あらはさためて眉をひらかるへし。先士也母とかけるを、士は人とよむへし。也母をいかでかなれはとはよむへき。ふつにそのことはりなし。およそ也の字を、俗になりけり、何なりといふ時のなりといふ所にかきて、すなはち也はなりとよむ字そとおもへるは、よくかんかへさるなり。和語になりといふは、にありといふべきを、爾阿(ノ)切奈なるゆへに、三字を一字につゝめて、なりといふ。實は在の字なり。漢家の助語に也の字を用るは、決辭なるゆへに、一章一篇の終に此字ある所を、和語になりとゝむるにおほくかなふは、なりも決する辭なるゆへなり。文章の句中に此也の字を助語に用て、和語に讀時、此字はすてゝ讀さる事おほし。もとよりなりといふ字によむ字にあらさるゆへなり。しかるゆへに、此集に此也の字は、音をかりて用たるのみにて、和訓ある事一所もなし。しかれは、今なんそなれといふに用む。又母の字は、呉音をかりてのみ用ゆ。婆の濁音ある事なし。すてに誤をやふりつ。正義を出すへし。此二句をはをのこやもむなしかるへきとか、ますらやもむなしかるへきとかよむへし。ますらはますらをなり。家持の哥にますらわれすらとよまれたり。古點の意は、幻化の人の身なれは、むなしかるへしと、無常を知れる心にいへり。新點の意は、丈夫とむまれむもの、なすことなくして、むなしく世をゝへて、万世まてにかたりつくへき名なからん物ならんや。我いたつらに老病にせまり、功名立ところなくして、死に臨む事、口惜きことなりと悲壮慷慨の意にてよまれたり。其證は、第十九卷に、家持の勇士の名を振ふことを慕ふ歌、并短歌あり。其長哥の終にいはく。さしま《ムト通 向也》くる心さはらす後の代のかたりつくへく名をたつへしも。反歌、ますらをは名をし立へし後の代に聞繼人もかたりつくかに。此左注云。右二首追2和山上憶良臣作歌1。まさしく此哥をさせり。これあきらかなる證なり。こゝにも奥に注あるに、有(テ)2須臾《シハラク》1拭(ヒ)v涕(ヲ)悲嘆(シテ)口(ツカラ)吟(ス)2此歌(ヲ)1。これ此哥の本意なり。論語云。子曰。君子(ハ)疾《ニクム》2没(ルマテ)v世(ヲ)而名(ノ)不(ルコトヲ)1v稱(セラレ)焉。文選古詩云。人生非2金石(ニ)1。豈(ニ)能(ク)長壽考(ナラム)。奄忽(トシテ)隨(テ)v物(ニ)化。榮名以爲v寶(ト)。聖人には聖の名あり。愚者には愚の名あり。堯舜桀紂謚法大に異なり。荘子か、名は實の賓といひ、佛の名利を離しめたまふは、此善名にことなり。佛すてに大覺世尊の號有て、唱るものは罪業を除く。又稱名すへきよしをすゝめたまへり。たとひ名利に意あるにても、其中に、利はけからはしく、名はきよし。利を欲するものは、名をすてゝもなさすといふことなく、名を惜むものは、擇てせさる所あり。やむことを得さる時は、命をおとし、身をすつるにいたる。かくてそ芳名を万世につたふへき。道より出る名にあらされは、久しくつたはらす。王莽か士に下りしかとも、つゐに天下をぬすめる名のみ殘れるかことし。季世にいたるにしたかひて、名をおしむ人もまれになりゆくなんあさましき
 
右一首山上憶良臣沈痾之時藤原朝臣八束使河邊朝臣東人令問所疾之状於v是憶良臣報語已畢有須拭v涕悲嘆口吟此歌
 
有須、【官本、須作v頃、當v從v此、】
 
河邊東人、稱徳紀云、神護景雲元年正月己巳、從六位上川邊朝臣東人授2從五位下1、光仁紀云、寶龜元年十月己丑朔辛亥爲2石見守(ト)1、
 
初、河邊東人 稱徳紀云。神護景雲元年正月己巳、從六位上川邊朝臣東人(ニ)授2從五位下(ヲ)1。光仁紀云。寶龜元年十月己丑朔辛亥(ノヒ)爲2石見守1。須(ノ)字下疑東脱2臾字1
 
大伴坂上郎女與姪家持從佐保還歸西宅歌一首
 
979 吾吉子我著衣薄佐保風者疾莫吹及家左右《ワカセコカキタルキヌウスシサホカセハイタクナフキソイヘニイタルマテ》
 
(5)及家、【幽齋本、家作v宅、】
 
佐保風とは集中に明日香風泊瀬風伊香保風ある類なり、山の向背等の勢によりて、こと所に替りたる風の吹なるべし、
 
安倍朝臣蟲麿月歌一首
 
980 雨隱三笠乃山乎高御香裳月乃不出來夜者更降管《アマコモリミカサノヤマヲタカミカモツキノイテコヌヨハフケニツヽ》
 
雨隱、【六帖、アマカクレ、別校本同v此、】  不出來、【六帖、イテコヌ、】
 
初、雨こもりみかさ 雨ふれは笠の下にかくるゝ物なれは、雨にこもる御笠といひかけたり
 
發句は三笠と云はん料なり、下まで用あるにあらず、月ノ出來ヌ、此處句絶なり、夜ハフケニツヽはふけいにつゝなり、
 
大伴坂上郎女月歌三首
 
981 ※[獣偏+葛]高乃高圓山乎高彌鴨出來月乃遲將光《カルタカノタカマトヤマヲタカミカモイテクルツキノオソクテルラム》
 
※[獣偏+葛]高は第七に借高之野邊とよみて地の名なれば、石上布留と云如く※[獣偏+葛]高は惣名にて高圓は別名なるべし、此歌は第三の大浦が初月の歌に似たり、
 
初、かるたかの高まと山此後にもかるたかの高まとゝよめり。山の名なり。右の歌と此哥との兩者は、第三間人宿禰大浦かくらはしの山を高みかとよめるにおなし
 
(6)982 烏玉乃夜霧立而不清照有月夜乃見者悲沙《ヌハタマノヨキリノタチテスマサルニテレルツクヨノミレハカナシサ》
 
スマザルニ、テレル月夜とは、薄霧ににほふをいへり、カナシとはあはれふなり、悲愁にはあらず、
 
983 山葉左佐良榎壯子天原門度光見良久之好藻《ヤマノハノササラエヲトコアマノハラトワタルヒカリミラクシヨシモ》
 
サヽラエ男の事、第三さゝらの小野と云に付て注せり、月讀尊は日本紀にも男神なる故に今も壯子とよめり、日神は陽なれば男にして月神は陰なれば女なるべきに男女地をかへたれば、神書にも詳ならぬ由見えたり、釋日本紀等の書に天照大神をも大日如來の垂迹とし、所々に密教にかけて沙汰せる事あるに、胎藏、金剛兩部の大日、因果理智天地陰陽等の相配も亦互に表裏せる事多し、
 
初、山のはのさゝらえおとこ 注に別名曰2佐散良衣壯士1也。さゝらえをとこと名付るよしをしらす。天上にさゝらの小野あり。其野を得たる男といふ心なりといへと、第三第十六に、あめなるやさゝらのをのとよめるも、さゝらの小野は、こゝにあるを、月の別名をさゝらえおとこといふによせんとて、あめなるやといひかけたらんも知へからす。第十六によめるは、こゝに有ときこゆ。すてに第三に注せり。第廿卷の奥書に、桑門寂印か哥に、陰蘿芝《・不》代《クモラジヨ》。玉松之枝緒《タママツカエヲ》、吹風赤土《・丹》《フクカセニ》、與路津《・萬》葉分野《ヨロヅハワケノ》、佐々良《・月》之光波《ツキノヒカリハ》。此月の光といふに、佐々良之光とかけるは、今の坂上郎女の哥によれり
 
右一首歌或云月別名曰佐散良衣壯士也縁此辭作此歌
 
大日經疏云、梵音※[田+比]廬遮那、日之別名、唐にも日を曜靈など云は別名なれば、何處にも物の別名はある事なり、
 
(7)豐前國娘子月歌一首【娘子字曰大宅姓氏未詳也】
 
第四にも歌ありし娘子なり、
 
初、豐前國娘子 第四にもこれか歌有き
 
984 雲隱去方乎無跡吾戀月哉君之欲見爲流《クモカクレユクヘヲナシトワカコフルツキヲヤキミカシミマクホリスル》
 
月哉君之、【別校本云、ツキヲヤキミカ、】
 
四の句はツキヲヤキミガと讀べし、源信明の、戀しさは同じ心にあらずとも、今夜の月を君見ざらめや、此と似たる意なるべし、又ツキニヤキミガとよみて、吾こふる月の如くにや君が我を見まくほりすらんとよめるか、吾戀る月と云も人を兼て云なるべし、
 
初、月やきみかし 是はあやまれり。月をやきみかと讀へし。此歌は源|信明《サネアキラ》の、こひしさはおなしこゝろにあらすともこよひの月を君みさらめや。この心におなしう見るへし
 
湯原王月歌二首
 
六帖にゆげのおほきみとあるは誤れり、
 
985 天爾座月讀壯子幣者將爲今夜乃長者五百夜繼許増《アメニマスツキヨミヲトコマヒハセムコヨヒノナカサイホヨツキコソ》
 
繼許増、【官本亦云、ツケコソ、】
 
月讀壯子は神代紀云、次生2月神1、【一書云、月弓尊、月夜見尊、月讀尊】此注の三名に付て、月の初は弓に似(8)たれば月弓尊と云ひ、夜に在て見ゆれば月夜見尊と云ひ、月の盈缺に依て數て年月をも知れば月讀尊と云と釋せる事あり、唯和語の不同を擧られたるにもや侍らむ、マヒは第五に注するが如し、六帖にはマヒナハムとあれど改たるべし、今の字に當るにはあらず、今夜乃長者の者は音を取れり、若はコヨヒノタケハとよませたまへるにもや、五百夜ツギコソは月の面白きにあかぬ意をきはめて云、
 
初、月よみをとこ 神代紀上云。次|生《ウミマツリマス》2月(ノ)神(ヲ)1。【一書云。月弓尊。月夜見尊。月讀尊。】月の神は陰なれとも、男躰なるゆへに、月よみをとこといへり。いほよつきこそのこそは、こひねかふ詞、さきにいへるかことし
 
986 愛也思不遠里乃君來跡大能備爾鴨月之照有《ヨシエヤシマチカキサトノキミクヤトオホノヒニカモツキノテラセル》
 
愛也思、【袖中抄云、ハシキヤシ、】  君來跡、【袖中抄、キミコムト、】  照有、【袖中抄、テリタル、】
 
發句は袖中抄によるべし、第二に人丸の狹岑嶋の死人をあはれひてよまれたる歌の終に、待か戀らむ愛伎妻等者、此落匂をハシキ妻ラハと讀べしと云に付て注せるが如く、ヨシヱヤシはよしやと云詞なれば此に叶はず、第四に同じ此王娘子に贈られし歌に、波之家也思不遠里乎云云、今と同じ詞なれば、ハシキヤシと云へるは彼娘子をさして云なり、君と云も娘子なり、上はなつかしく思ふ用の詞なれば、下に體を擧て君と云に妨なし、大ノヒニカモは袖中抄云、或書云、ゆたかにしづかなりと云なり、是江都督説也、かゝれば大きにのび/\にと云意にて極て長き夜の月の行とも(9)見えずして照を云なり、されば上の歌に猶長かれとて五百夜つきこそと云へり、
 
初、はしきやしまちかき里の 上二句は第四卷おなしおほきみの哥におなし。大のひにかもは、おほきにのひやかにて、月の行ことをそく、夜のなかきなり。興に乘して、まちかき里の君か、わか方にくるやとて、わさとおほのひには、月のてらせるか。尤愛すへき事といふ心に、はしきやしとはいへり。よしゑやしと點したるは誤れり。それはよしやといふ心にて、今の哥にかなはす
 
藤原八束朝臣月歌一首
 
987 得難爾余爲月者妹之著三笠山爾隱而有來《マチカテニワカスルツキハイモカキルミカサノヤマニカクレテアリケリ》
 
妹之著とはみかさの山とつゞけむ料ながら、月のかほの山のはに隱るゝを女の顔の笠に隱れてゆかしき心によそふるなり、落句はカクレタリケリとも讀べし、
 
市原王宴祷父安貴王歌一首
 
988 春草者後波落易嚴成常盤爾座貴吾君《ハルクサハノチハカレヤスシイハホナストキハニイマセカシコキワカキミ》
 
草は今按もし花を誤て作れるか、落易を義訓せば枯と同訓して讀まじきにもあらねど集中に例なし、チルとは數もなくよみたれば、春花は後はちりやすしとよまれたる歟、春花も集中多くよめり、嚴は巖に作るべし、落句はタフトキアガキミとよむべきか、第十九に家持の妻に代りて讀れたる長歌の落句に尊安我吉美これに依て云なり、常盤は盤と磐と通ずるなり、
 
初、春草は後はかれやすし 春草のさかりによせてこそ、いはひ奉らめと、露霜おひて秋にあへねは、不變の岩ほによせて祝ひたてまつる。いはほのことく、ときはにましませとなり。ときはといふ詞もとこいはなり。古以(ノ)切幾なるゆへに、ときはといふなり。嚴は巖巌の字の山をうしなへるなり。盤は磐に作るへし
 
湯原王打酒歌一首
 
(10)古事記中應神天皇段云、天皇聞2看豐明1之日、於2髪長比賣1令v握2大御酒1、拍賜2其太子1、同下仁徳天皇段云、於v是大后石之日賣命、自取2大御酒(ヲ)1拍賜2諸氏々之女等1、爾大后見2知其玉釵1、不v賜2御酒1、拍乃引退云云、今歌に依て按ずるに、酒ニウタルヽと點ずべし、打は痛く強る意と見ゆれば、今は強られて醉る意なり、伊勢が歌に、更し夜の行相の霜にうてしかど、此類のうてゝ〔三字右○〕と云詞も同意歟、
 
初、打酒 打の字の心を得す
 
989 燒刀之加度打放大夫之祷豐御酒爾吾醉爾家里《ヤキタチノカトウチハナツマスラヲノホクトヨミキニワレヱイニケリ》
 
祷豐御酒爾、【別校本、或祷作v擣、點云、ウツトヨミキニ、】
 
タチノカト打放とは俗にしのぎを削ると云なるべし、或は敵の太刀の鋒をも切て落す意歟、祷を今の本ツクと點ぜるは、もと擣の字にてしか點じけるを後に誤て祷に作れるか、つくと云はむこと意得がたし、仙覺抄にはねぐとあれば祷の字なりけると知られたり、今按別の校本に擣に作りてウツと點ぜるは題に能叶へり、太刀のかどをも打放つ程の人の是非なく強たる酒に痛く醉りとなり、古事記に、應神天皇の御歌に、須々許理賀迦美斯美妓邇和禮惠比邇祁理《スヽコリガカミシミキニワレヱヒニケリ》云云、すゝこりは百濟より渡せる酒を能造る者の名なり、此御歌の前詞に、於v是天皇|宇2羅宜《ウラゲ》是(ノ)所v獻之大御酒(ニ)1而御歌(11)云とあり、此うらき〔三字右○〕と云詞もうたる〔三字右○〕と云に似たり、
 
初、やきたちのかと打はなつ 燒刀は第四に注せり。第十八にもよめり。かと打放とは、かとはしのきをいふなり。兵のともに太刀取向て相うつ時、しのきをうちはなつ心なり。常にもしのきをけつりてあらそふといへり。大夫の祷、これをますらをのつくとよめり。いかに意得たるにかあらむ。もし祷を擣の字にまかへて、つくとよめる歟。さるにても心を得す。ますらをしのむ《・大夫之祷》とよむへし。我はたちのかとをも打はなたんと思ふますらをの心あれとも、おほみきにゑひて、よろめくといふ心なるへし。祷の字をのむとよむは、いのる心なり。それを飲の字に借て用たり。但打酒といふ心によりて此尺たかふ事もあるへし。もし酩酊の酊にて醉とおなしく訓する歟。連綿せすして用るや。未考
 
紀朝臣鹿人見茂崗之松樹歌一首
 
聖武紀云、天平九年九月己亥、正六位上紀朝臣鹿人等授2外從五位下1、同十二月壬戌爲2主殿頭1十二年十一月外從五位上、十三年八月大炊頭云云、此集第八には典鑄正紀朝臣鹿人とあり、茂崗は八雲御抄に紀伊國と注せさせ給へり、次下に同鹿人至2泊瀬河邊1と題したるは、茂崗は寧樂より泊瀬に至る路次とおぼしきにや、松樹は茂崗に名木の有ける歟、樹の下に作の字有ぬべし、脱たるか、
 
初、鹿人《カヒト》 聖武紀云。天平九年九月己亥、正六位上紀朝臣鹿人等(ニ)授2外從五位下(ヲ)1。同十二月壬戌爲2主殿(ノ)頭(ト)1。十二年十一月外從五位上。十三年八月大炊(ノ)頭。茂崗は紀伊國と八雲御抄にあり
 
990 茂岡爾神佐備立而榮有千代松樹乃歳之不知久《シケヲカニカミサヒタチテサカヘタルチヨマツノキノトシノシラナク》
 
同鹿人至泊瀬河邊作歌一首
 
991 石走多藝千流留泊瀬河絶事無亦毛來而將見《イシハシルタキチナカルルハツセカハタユルコトナクマタモキテミム》
 
石走、【官本、亦云、イハヽシル、】
 
發句は、官本の亦點の如く讀べし、第十五云、伊波婆之流多伎毛登杼呂爾鳴蝉乃《イハヽシルタキモトトロニナクセミノ》云云、(12)これに依るなり、タキチはたぎつと云に同じ、下句は此類集中多し、
 
初、たきちなかるゝ たきちはたきつとおなし。たきる心なり。沸の字をたきつとよめり
 
大伴坂上郎女詠元興寺之里歌一首
 
崇峻紀云、蘇我馬子宿禰、壞2飛鳥衣縫造祖樹葉之家1、始作2法興寺1、此地名2飛鳥眞神原(ト)1、亦名2飛鳥苫田1、元正紀云、靈龜元年五月辛卯、始徙2建元興寺(ヲ)于左京六條四坊1、三代實録云、建興寺、蘇我稻目所v建云云、かゝれば、法興寺を又は建興寺とも云けるを、新京に移されて後一向に元興寺とは改て名づけられたる歟、移されて後高市なるをば本元興寺と云ひ、新京なるをは新元興寺と云へる由帝王編年に見えたり、昔はゆゝしき伽藍にて名僧も多く出けるを、今は纔に五層の塔一基堂一宇市※[こざと+纏の旁]の間に殘れり、
 
992 古郷之飛烏者雖有青丹吉平城之明日香乎見樂思奴裳《フルサトノアスカハアレトアヲニヨシナラノアスカヲミラクシヨシモ》
 
飛鳥、【官本、烏作v鳥、當v依v此、】  奴裳、【官本、奴作v好、當v依v此、】
 
飛鳥ハアレトとはそれもさることなれどもと云はむが如し、見ラクシヨシモはし〔右○〕は助語、見に好となり、
 
初、ふるさとの飛鳥はあれと 崇唆紀云。崇峻紀云。蘇我馬子宿禰壞2飛鳥(ノ)衣縫(ノ)造祖|樹葉《コノハノ》之家(ヲ)1始(テ)作2法興寺(ヲ)1。此地(ヲ)名2飛鳥(ノ)眞神(ノ)原(ト)1亦初、名2飛鳥(ノ)苫田(ト)1。ならのあすかは、元正紀云。靈龜元年五月辛卯、始(テ)徙(シ)2建(ツ)元興寺(ヲ)于左京(ノ)六條四坊(ニ)1。法興寺を後に元興寺と名を改めらる。好をあやまりて奴ににつくれり
 
(13)同坂上部女初月歌一首
 
993 月立而直三日月之眉根掻氣長戀之君爾相有鴨《ツキタチテタヽミカツキノマユネカキケナカクコヒシキミニアヘルカモ》
 
月立テは日本紀云、月生二日、眉根掻とは三日月は眉に似たればやがて眉になして心はふたつに聞ゆ、一つには三日月の心ちよげに見ゆるを眉の痒かりし驗有て思ふ君にあへるかとなり、二つには前月曉かけて月の出る比より眉根掻て長き息をつきて月をいつかと戀つれば、月立てたゞ三日と云夜あひ見つるとはかなくよめるなり、後の意にては君とは月を指て云なり李白が蛾眉山月歌に、念君不見と云へるも月なり、文選鮑昭詩云、始見2西南樓1、繊々(トシテ)如2玉鉤1、末映2西北隅1、娟娟如2蛾眉1、
 
初、月たちてたゝみかつき 日本紀曰。月|生《タチテ》二日。眉根掻、文選鮑昭詩云。始見2西南(ノ)樓(ニ)1、繊々(トシテ)如(シ)2玉鉤(ノ)1。末(ニ)映2西北(ノ)隅(ニ)1、娟々(トシテ)如(シ)2蛾眉(ノ)1。みか月のまゆに似たるを、やかてまゆにいひなして、心はふたつにきこゆ。ひとつには、みか月の心ちよけにみゆるを、まゆのかゆかりししるし有て、おもふ君にあへるかとなり。ふたつには人をこふる時、あはんとては、まゆのかゆきかことく、月もいつかといきを長くつきてこひつれは、月たちて只みかといふ夜あひみるとなり。後の心はけなかくこひしは、わか心なり。君とは月をいふ。李白か詩にも、月をさして、念君不見と作れり。はかなくよめるは女のうたにことによろし
 
大伴宿調家持初月歌一首
 
994 振仰而若月見者一目見之人之眉引所念可聞《フリサケテミカツキミレハヒトメミシヒトノマヨヒキオモホユルカモ》
 
振仰而、【六帖云、フリアフキテ、】
 
若月は第十一に、みか月のさやかに見えずとよめる所にもかく書けり、義訓せり、眉引は眉なり、下にも處々に見えたり、仲哀紀云、譬如2美女之※[耳+禄の旁]1有2向津國1、【※[耳+禄の旁]、此云2麻用弭枳1、】此神(14)託も、兩眉の相向へるに譬て、向津國とのたまへり、或點にマヒキノとあるは叶はねば取らず、まひきは和名云、遊仙窟云、眼皮、【師説、萬比岐、一説、萬奈古井、】
 
初、まゆひき 眉のことなり。第十四東哥にも、まよひきのよこ山とつゝけよめり。仲哀紀(ニ)、譬(ハ)如(シ)2美女《ヲトメノ》之|〓《マユヒキノ》有2向津《ムカツ》國1【〓《ロク》此(ヲハ)云2麻用弭枳1】
 
大伴坂上郎女宴親族歌一首
 
995 如是爲乍遊飲與草木尚春者生管秋者落去《カクシツヽアソヒノムトモクサキスラハルハモエツヽアキハチリユク》
 
第二の句の點おぼつかなし、今按アソビノメコソと讀べきか、此與の字乞の字と同じ、願ふ詞のこそ〔二字右○〕と讀ぬべき所多し、下知のよ〔右○〕にも願ふ意あれば與の音を下知のよ〔右○〕に用てそれをこそ〔二字右○〕と義訓せるか、第十三にしなんよわぎもと云に二二火四吾妹とかけり、二二は四を死になせり、火は南方なれば南の義にてしなむ〔三字右○〕とよませたる歟、此等に准ずべし、與の字こそ〔二字右○〕と讀ぬべき處々は第七之二十三葉右第八行、第十之二十一葉右第八行、同二十二葉右第五行、第十一之四葉左第四行、同五葉右第八行、第十二之十三葉左第二行第四行なり、第四行、今の本には而なれども別校本與なり、與なるべき處なり、委は各其處に至て云べし、毛詩※[支+頁]弁第三章云、有v※[支+頁]者弁(ナリ)、寶維(レ)在v首、爾酒既旨、爾〓既阜、豈伊異人、兄弟甥、舅、如2彼雨雪1、先集維霰、死喪無v日、無2幾相見1、樂v酒今夕、君子維宴、此詩の意と、今の歌の意とおのづから相叶へり、
 
初、かくしつゝあそひのまむよ 飲與をのむともとよめるはいかにそや。たゝのまむよと讀へし。詩|〓《キ》弁第三章云。有v〓(タルコト)者|弁《カフリナリ》。實維在(リ)v首(ヘニ)。爾(ノ)酒既(ニ)旨(シ)。爾(ノ)〓既|阜《オホシ》。豈伊(レ)異人(ナラン)。兄弟甥舅。如(キ)2彼雨雪(ノ)1。先集(レルハ)維|霰《ミソレ》。死喪無(シ)v日。無(シ)2幾(クモ)相(ヒ)見(ルコト)1。樂v酒今夕。君子維宴(セン)。此詩の心とおなし
 
(15)六年甲戍
 
海犬養宿彌岡麿應詔歌一首
 
996 御民吾生有驗在天地之榮時爾相樂念者《ミタカラノワカイケルシルシアリアメツチノサカユルトキニアヘラクオモヘハ》
 
御民吾、【官本亦云、ミタミワレ、】
 
和名云、日本紀云、人民、【和名、比止久佐】一云、【於保太加良、】かくはあれども今は官本更點に依てミタミワレ或はワロと、吾の字を發句に屬すべし、然らざれば、第二の句餘りに長きなり、天地ノ榮時とは、第一に藤原宮の役民が歌に、天地も依てあれこそとよめるが如し、天地祥瑞を出して覆載の道能く和合せる時なり、
 
初、みたからのわかいけるしるし有 和名集云。人民、日本紀云。人民【和名比止久佐】一云【於保太加良。】しるし在はかひあるなり。あめつちのさかゆる時とは、天地祥瑞を出して覆載の道たかはぬ君か代をいへり
 
春三月幸于難波宮之時歌六首
 
聖武紀云、天平六年春三月辛未行2幸難波宮1、戊寅發v自2難波1宿2竹原井頓宮1、庚辰車駕還v宮
 
初、春三月 聖武紀云。天平六年春三月辛未行2幸難波宮1。戊寅車駕|發《タツテ》v自2難波1宿2竹原(ノ)井頓宮(ニ)1。庚辰車篤還v宮
 
997 住吉乃粉濱之四時美開藻不見隱耳哉戀度南《スミノエノコハマノシシミアケモミスシノヒテノミヤコヒワタリナム》
 
シヽミは和名云、文字集略云、蜆貝、【音〓、字亦作2〓虫1、和名、之々美加比、】似v蛤(ニ)而小黒者(ナリ)也、しゝみは貝をあ(16)けて食ものなるが、取らずして濱にある時は貝の合てあればシノビテノミヤとよせむためにアケモ見ズとは云へり、今按第十七池主の歌にこもりこひとよまれたれば、しのぶもこもるも同じ意ながら、こもるは今少し、みをあけぬと云には親しければコモリヲノミヤと和すべきにや、是は此卷に家持なども行幸の御供にて故郷に置妻の事を痛く戀る意をよまれたれば、今も人しれず妻を戀る意をよめるなり、コスノトコナツサクモミズと點ぜる本あれど濱は洲にあらず、四時美も蜆と云貝なり、又四時見とかきたらばこそとこなつ〔四字右○〕とは義訓せめ、和名云、瞿麥、一名大蘭、【和名、奈天之古、一云、止古奈豆、】かくはあれども此集にはなでしことのみよみて、一處もとこなつといへる事なし、或物に書て侍しは、五條后の御わらは名なでしこにておはせしよりとこなつとは云と侍りき、然れば彼此に付てとこなつとは云べからねば此を取らず、
 
初、すみのえのこはまのしゝみ こはまは住吉の内のところの名なり。しゝみは蜆の字をかきて小貝なり。あけもみすとは、彼小貝をくふものは、貝の口をあけて、實を拔出せは、さもせぬによせて、あけもみすとはいへり。しのひてのみやとは、しのふはかくすなれは、かのあけもみぬしゝみを、此詞の序とせり。此こひわたるは、家の妹をこふるなり。人にもいはて、こふれは、しのひてのみやこひわたりなむといへり。粉濱之四時美、此句を、こすのとこなつとよみて、開の字をさくとよめる古點あり。定家卿も、それにつきてよみたまへる哥、拾遺愚草に有。此點はあやまりなり。まつ洲の字は、しまともすともよみて、これは水中に、川にも海にも有。濱の字は、はまとも、へたとも、はたとも、ほとりともよみて、水中にはあらて、常のはまなるを、なとかすとよむへき。四時実は、音を取てよめるを、とこなつとはいかてよまん。もし四時見とかゝは、義をもてとこなつともよむへし。これは実の字なれは、義訓もならす。たとひ四時見とかけりとも、三月の哥に、さくもみすとはよむへからす。およそなてしこを、とこなつといふことは夏より秋をかけて、もしは冬野にも、はなやかにさき出ることのあれは、大畧にていへる名なり。かならす四時にわたりて有にはあらす。又川の洲なとには咲ぬへし。住吉あたりのすにはあるへからす。定家卿はかならす此説をよしとおもひたまはすとも、ふるき一説なれは、讀たまふへし。今もよむことなり。はかなき事もひとふしある事は、そのまゝによむならひなり
 
右一首作者未詳
 
998 如眉雲居爾所見阿波乃山懸而※[手偏+旁]舟泊不知毛《マユノコトクモヰニミユルアハノヤマカケテコクフネトマリシラスモ》
 
眉ノゴトとは玉京記云、卓文君、眉色不v加v黛(ヲ)、如v望2遠山1、時人效v之、號2遠山眉(ト)1、カケテとは目に懸て心あてにそなたに行なり、
 
初、まゆのことくもゐに 玉京記(ニ)云。卓文君眉(ノ)色不(レトモ)v加(ヘ)v黛(ヲ)如(シ)v望(ムカ)2遠山(ヲ)1。時(ノ)人效(テ)v之(ニ)號2遠山眉(ト)1。この歌も阿波の山のはるかにうす/\と見ゆるを、美人の眉にたとへていへり。阿波の山は、阿波の國にこなたよりみゆるをなへていふへし。又第三赤人の伊與湯をよまれたるには、嶋山のよろしき國とよまれたれは、阿波の國を惣してもいふへし。かけてとは、あはの山をめにかけて行舟なり
 
(17)右一首船王作
 
聖武紀云、神龜四年正月甲戌朔庚子、無位船王授2從四位下1、天平十五年五月、從四位上、十八年四月、彈正尹、孝謙紀云、寶宇元年四月辛巳、天皇召2群臣1問曰、當d立2誰王(ヲ)1以爲c皇嗣u、宗室(ノ)中、舍人、新田部兩親王(ハ)、是尤(モ)長也、因v茲前者立2道祖王1、而不v順2勅教1、然則可v擇2舍人親王(ノ)子(ノ)中(ヲ)1、然船(ノ)王(ハ)者、閨房不v修云云、同五月、正四位下、二年八月朔、從三位、廢帝紀云、寶字二年十二月戊申、遣2渤海使小野朝臣田守等1奏2唐國消息1、因云云、於v是勅2太宰府1曰云云、其府帥船王及太貳吉備朝臣眞備、倶是碩學名顯2當代1、簡在2朕心1、委以2大任1云云、三年六月詔2兄弟姉妹1爲2親王1、船王授2三品1、四年正月、信部卿、【中務也、】六年正月、二品、八年十月、稱徳天皇詔曰、船親王、親王?諸王?、隱岐國流賜
 
初、船王 聖武紀(ニ)云。神龜四年正月甲戊朔庚子、無位船王(ニ)授2從四位下1。天平十五年五月從四位上。十八年四月弾正尹。寶字元年四月辛巳、天皇召(テ)2群臣(ヲ)1問(テ)曰。當d立(テヽカ)2誰《イツレノ》王(ヲ)1以爲c皇嗣(ト)u。〇宗室(ノ)中舍人新田部(ノ)両親王(ハ)、是尤長也。因(ト)v茲(ニ)前《サキニ》者立(シカトモ)2道祖《サヘノ》王(ヲ)1而不v順2勅教(ニ)1。然(ハ)則可v擇2舍人親王子(ノ)中(ヲ)1然(ルニ)船王者閨房不v修云々。五月正五位下。二年八月朔從三位。廢帝紀云。寶字二年十二月戊申遣渤海使小野朝臣田守等奏(シテ)2唐國(ノ)消息《・アルカタチ日本紀》(ヲ)1曰。〇於v是勅2大宰府1曰。安緑山者是狂胡(ノ)狡豎也、違(テ)v天(ニ)起(セハ)v遂(ヲ)事必|不《シ》v利(アラ)。疑(ラクハ)是不(ハ)v能v計(ルコト)v西(ヲ)、還(テ)更(ニ)掠(メン)2於海東(ヲ)1。古人曰。蜂〓猶毒(アリ)何況人乎。其(ノ)府(ノ)帥船(ノ)王、及(ヒ)大貳吉備朝臣眞備(ハ)倶(ニ)是(レ)碩學(ニシテ)名顯2當代(ニ)1。簡在2朕(カ)心(ニ)1。委(ヌルニ)以(ス)2重任(ヲ)1宜d知2此状(ヲ)1預(シメ)設(ク)c奇謀(ヲ)u。縱使不(トモ)v來(ラ)儲備無(ン)v悔。其所(ノ)v謀上策及(ヒ)應v備雜事一一(ニ)具(ニ)録(シ)報(シ)來(セ)。三年六月詔(シテ)兄弟姉妹(ヲ)爲2親王(ト)1。船王(ニ)授2三品(ヲ)1。四年正月信部卿中務也。六年正月二品。八年十月稱徳天皇詔曰。船親王波〇親王乃名波下※[氏/一]諸王等成※[氏/一]隱岐國爾流賜布
 
999 從千沼回雨曾零來四八津之泉郎網手綱乾有沾將堪香聞《チヌワヨリアメソフリクルシハツノアマアミテナハホセリヌレテタヘムカモ》
 
回、【幽齋本、作v廻、】  泉郎、【別校本、作2白水郎1】  沾將堪香聞、【別校本亦云、ヌレハタヘムカモ、】
 
千沼囘は千沼の浦囘なり、千沼は和泉と攝津と兩國にかゝれり、其證は第七に攝津作の歌あまたある中に、妹がため貝を拾ふとちぬの海に、ぬれにし袖はほせどかは(18)かずと云歌あり、今の歌と互に證すべし、ちぬと名付るゆへは古事記中云、於是與2登美※[田+比]古1戰之時、五瀬命於2御手1負2登美※[田+比]古(ノ)之痛矢串1、故爾詔、吾者爲2日神之御子1、向v日而戰不v良、故負2賤奴之痛手(ヲ)1、自2今者1行廻而背負(テ)v日(ヲ)撃、期而自2南方1廻幸之時、到2血沼海1、洗2其御手之血(ヲ)1、故謂2血沼海(ト)1也、かゝれば、日本紀に茅渟とあるも假て改たる字なり、四八津も地の名なり、雄畧紀云、十四年春正月丙寅朔戊寅、身|狹村主《サノスクリ》青等、共2呉國使(ト)1將2呉(ノ)所(ノ)v獻手未才伎|漢織《アヤハトリ》呉織《クレハトリ》及|衣縫《キヌヌヒ》兄媛《エヒメ》弟媛《オトヒメ》等(ヲ)1、泊2於住(ノ)吉津1、是月爲2呉客道1通2磯齒津路(ニ)1、名(ク)2呉坂《クレサカト》1、左の注に據るに、しはつは住吉と難波との間なるぺし、網手綱は今按字に任せてアミタヅナとよむべきか、第九に手綱の濱と云地の名も此手綱を名負へる歟、網の大綱なり、網目と云詞もこれより出たり、落句はぬれて用に堪ざらむかとなり、
 
初、ちぬわより雨そふりくるしはつのあま ちぬは和泉なり。わといふはめくりといふ心なり。南の方茅渟のあたりよりくもりて、雨のふりくるなり。しはつは所の名なり。日本紀第十四、雄畧紀云。十四年春正月丙寅朔戊寅、身狭《ムサノ》村主青等共2呉國(ノ)使(ト)1將2呉(ヨリノ)所v献|手末才伎漢織呉織《タナスエノテヒトアヤハトリクレハトリ》及(ヒ)衣縫|兄媛弟媛《エヒメヲトヒメ》等1泊2於|住吉《スミノエノ》津(ニ)1。是(ノ)月爲(ニ)2呉客(ノ)道(ノ)1通2磯歯津路《シハツチ》1名2呉《クレ》坂(ト)1。哥の左の注をみるに、しはつは住吉と難波との間なるへし。あみ手なはとは、あみの大つなゝり。手綱とかきたれは、たつなとよむへきにや。ぬれてたへむかもとは、ぬれて用るにたへさらんかの心なり
 
右一首遊覽住吉濱還宮之時道上守部王王應詔作歌
 
聖武紀云、天平十二年正月從四位下、同十一月從四位上、後の王の字は衍文なり、
 
初、守部王 聖武紀云。天平十二年正月戊子朔庚子、無位守部王(ニ)授2從四位下(ヲ)1。同十一月從四位上。二の王の字はひとつは衍文
 
1000 兒等之有者二人將聞乎奥渚爾鳴成鶴乃曉之聲《コラカアラハフタリキカムヲオキツスニナクナルタツノアカツキノコヱ》
 
鶴、【別校本、作2多頭1、】
 
(19)右一首守部王作
 
1001 大夫者御※[獣偏+葛]爾立之未通女等者赤裳須素引清濱備乎《マスラヲハミカリニタヽシヲトメラハアカモスソヒキキヨキハマヘヲ》
 
須素引、【六帖云、スソヒク、】
 
四の句六帖に依て讀べし、然せねば清き濱べをとて留る所なく决せぬなり、此歌は御供の男女各其所を得て楽しひ、君臣相歡こぶ意なり、
 
初、あかもすそひき ひくとよむへし。しからねは、きよきはまへをとて留る所なきなり。此歌は御供の男女、をの/\その所を得てたのしふ君臣相あふ心なり
 
右一首山部宿爾赤人作
 
1002 馬之歩押止駐余住吉之岸乃黄土爾保比而將去《ウマノアユミヲシテトヽメヨスミノエノキシノハニフニニホヒテユカム》
 
押は今按オサヘとも讀べし、史記伯夷列傳曰、武王載2木主(ヲ)1、號爲2文王1、東伐v紂、伯夷叔齊、叩v馬諫曰、下の句は上の車持千年が歌に同じ、以上六首、
 
初、馬のあゆみおして 史記伯夷列傳曰。武王載載(テ)2木主(ヲ)1號(テ)爲2文王(ト)1東(ノカタ)伐v紂(ヲ)。伯夷叔齊|叩《オサヘテ・タヽイテ》v馬(ヲ)諫(テ)曰。下の句は、上の十五葉車持千年か哥に同し。又第一清江娘子か哥の下句も似たり。はにふを、黄土とかけるは、和名集云。釋名云。土黄(ニシテ)而細密(ナルヲ)曰v埴(ト)。常職反。【和名波爾。】以上六首
 
右一首安倍朝臣豐繼作
 
聖武紀、天平九年二月、自2外從五位下1轉授2從五位下1、
 
初、豐繼 聖武紀。天平九年二月自2外從五位下1授(ラル)2從五位下(ヲ)1
 
筑後守外從五位下葛井連大成遙見海人釣舩作歌一首
 
(20)位作v倍、井作v并、並書生誤也、官本正v之、
 
1003 海※[女+感]嬬玉求良之奧浪恐海爾舩出爲利所見《アマヲトメタマモトムラシオキツナミカシコキウミニフナテセリミユ》
 
落句船出せる見ゆと云はずして、せりと云へるは古語なり、武烈紀に天皇の御歌にも、思寐我簸多泥※[人偏+爾]都摩※[こざと+施の旁]?理彌喩《シビガハタテニツマタテリミユ》とあり、此集第十五にも、海士のいさりはともしあへり見ゆとよめり、
 
※[木+安]作村主益人歌一首
 
1004 不所念來座君乎佐保川乃河蝦不令聞還都流香聞《オモホエスキマセルキミヲサホカハノカハツキカセテカヘリツルカモ》
 
還都流香聞、【別校本云、カヘシツルカモ、】
 
カハヅキカセテとは第三に赤人、夕霧にかはづはさわぐとよまれ、此卷上に千年が歌にも、夕去者かはづなくなへととよまる、蛙は夕に鳴をあはれなりとす、新古今に大納言忠良の歌に、折にあへばこれもさながらあはれなり、小田の蛙の夕暮の聲、かゝるに下の注に佐爲王の日の斜なるに及ばずして歸らるとあれば蛙きかせてとはいへり、落句は今の點叶はずカヘシと點ぜるに依るべし、
 
初、かへりつるかも 此點あやまれり。かへしつるかもとよむへし
 
(21)右内匠寮大屬※[木+安]作村主益人聊設飲餞以響長官佐爲王未及日斜王※[食+旡]還歸於時益人怜惜不厭之歸仍作此歌
 
佐爲王は橘左大臣の二男なり、第十六にスケタメと點ぜるは後世の人の名になれたる後人のせることなり、サヰと音を以て讀べし、延喜式第九神名帳上云、大和國城上郡狹井坐大神、荒魂社五座、古事記中神武天皇段云、於是其伊須氣余理比賣命家在2狹井河之上1、天皇幸2行其伊須氣余理此賣(ノ)之許1一宿御寢坐也、【其河謂2佐韋河1由者、於2其河邊1山由理草多在、故取2其山由理草之名1號2佐韋河1也、山由理草之本名云2佐韋1也、】此地を名につかれけるなるべし、王※[食+旡]の※[食+旡]は既を誤れり、改むべし、
 
初、佐爲王 是は橘左大臣諸兄の弟なり。元正紀云。養老五年正月戊申朔庚午、詔2從五位上佐爲王〇等1退《マカテヽ》v朝(ヨリ)之令v侍(ヘラ)2束宮(ニ)1焉。此下に八年と標して冬十一月九日、從三位葛城王從四位上佐爲王等云々。第十六に佐爲王をすけためと點をくはへたるは後世の名に聞なるゝ、後の人のしわさなり。音によむへし。大和に佐爲といふ所あり。それにつきての名なるへし
 
八年丙子
 
夏六月幸于芳野離宮之時山部宿彌赤人應詔作歌一首并短歌
 
聖武紀云、天平八年六月乙亥幸2于芳野(ニ)1、七月庚寅車駕還v宮、赤人の歌に年を記せるは此八年六月を終とす、これより程なく死去せられけるにや、
 
初、夏六月 聖武紀云。六月乙亥幸2于芳野1。七月庚寅車駕還v宮
 
(22)1005 八隅知之我大王之見給芳野宮者山高雲曾輕引河速彌湍之聲曾清寸神佐備而見者貴久宜名倍見者清之此山乃盡者耳社此河乃絶者耳社百師紀能大宮所止時裳有目《ヤスミシシワカオホキミノミセタマフヨシノヽミヤハヤマタカミクモソタナヒクカハハヤミセノオトソキヨキカミサヒテミレハタフトクヨロシナヘミレハサヤケシコノヤマノツキハノミコソコノカハノタエハノミコソモヽシキノオホミヤトコロヤムトキモアラメ》
 
此山乃、【官本、乃作v之、】
 
見給は今按第一の藤原宮御井歌に、埴安堤の上に有たゝし、見したまへればとよめるに准らへて、今もミシタマフとよむべし、みそなはし給ふなり、
 
初、みせたまふ たゝ見給ふなり
 
反歌一首
 
1006 自神代芳野宮爾蟻通高所知者山河乎吉三《カミヨヽリヨシノヽミヤニアリカヨヒタカクシレルハヤマカハヲヨミ》
 
山河、すみて讀べし、
 
初、山川をよみ 川の字清てよむへし。山と川とのふたつなり
 
市原王悲獨子歌一首
 
光仁紀云、天應元年二月庚寅朔丙午、三品能登内親王薨、内親王天皇之女也、適2正五(23)位下市原王1生2五百井女王五百井王1、薨時年四十九、かくて一品を贈たまへり、今按能登内親王の御年を以て逆推するに天平五年の誕生なれば此八年には纔に四歳にならせたまへば、市原王に初に妻の有けるに其腹に子ひとり出來て又もなかりければ、眼もふたつこそあれ唯ひとつある子といつき給ひけるか、さて彼前妻死去の後光仁天皇のまだ白壁王とておはしましける時に、御女は能登女王にておはしけるを迎たまひけるにや、若は此獨子は妾などに出來たるか、天平十五年まで無位にておはしければ此時まだいと若くてこそおはしけむに、上に天平五年に父阿紀王を祝ひたまふ歌あり、今子を悲しひ給ふ歌あり、子としては孝あり、父としては慈あり、人品知ぬべし、第三に、いなだきにきすめる玉とよみたまへる歌に注して此獨子の事にもやとも申き、
 
初、市原王悲2獨子1歌 此獨子といへるは、五百井女王なり。御母は贈一品能登内親王にて、光仁天皇の皇女なり。委は第三卷おなし王の、いなたきにきすめる玉とよませたまへる哥に注せり
 
1007 不言問木尚妹與兄有云乎直獨子爾有之苦者《コトトハヌキスライモトセアリトイフヲタヽヒトリコニアルカクルシサ》
 
妹ト兄とは子の中に兄と妹とあるなり、第七の歌に、人ならば親のまな子の麻裳吉、紀の川づらの妹と背の山、ヒトツコは第九に遣唐使の海に浮ぶ時母の子に贈れる歌にも、秋萩を妻問鹿こそ、一つ子二つ子もたりといへ、鹿兒《カゴ》じ物《モノ》吾獨子のなどよめ(24)り、伊勢物語にも、ひとつ子にさへ有ければいとかなしうしたまひけりと云へり、
 
初、ことゝはぬ木すらいもとせ 此いもとせといへるは、子の中にあにと妹とあるなり。兄妹にはかきらす。兄をいひて弟を兼、妹をいひて姉をかねて、子をあまたもつ事なり。木すらといへるは、木さへなり。木に子といふは、木のもとより、後にふたまたみまたにも、いくらにもわかるゝをいふ歟。また實なとの落て、早くおふるが、陰におひたちたるに、のち/\又おひつゝくは−人の子のおほくはらからあるに似たるをいふ歟。拾遺集に、我のみや子もたるてへはたかさこのをのへにたてる松もこもたり。たゝ獨子にあるかくるしさとは、佛の經にも常に衆生をあはれふ事一子のことしと説たまへり。第九に、遣唐使の海にうかふ時、母の子によみてをくれる哥に、秋はきを、妻とふ鹿こそ、ひとつ子ふたつ子、もたりといへ。かごしもの、わかひとり子の、草枕、たひにしゆけはなとよめり。伊勢物語に、ひとつ子にさへ有けれは、いとかなしうしたまひけり。第七に、人ならは、おやのまなこそ、あさも吉、きのかはつらの、いもとせの山。この哥は木すらいもとせとよめるにおなし
 
忌部首黒磨恨友※[貝+余]來歌一首
 
孝謙紀云、寶字二年八月朔、正六位上忌部首黒麿授2外從五位下(ヲ)1、廢感帝紀云、寶字三年十二月、忌部首黒麿等七十四人、賜2姓(ヲ)連(ト)1、六年正月、爲2内史局助1、【内史局、圖書也、】※[貝+余]、説文注徐、曰人謂2遲緩1爲v※[貝+余]、
 
初、忌部首黒麿 孝謙紀(ニ)、寶字二年八月朔、正六位上忌部首黒麿授2外從五位下1。廢帝紀(ニ)寶字三年十二月、忌部首黒麿等七十四人賜2姓(ヲ)連(ト)1。六年正月爲2内史局(ノ)助(ト)1。【内支局(ハ)圖書也】
 
1008 山之葉爾不知世經月乃將出香常我待君之夜者更降管《ヤマノハニイサヨフツキノイテムカトワカマツキミカヨハフケニツヽ》
 
上の月は下の我待君かと云はん爲なり、第七月をよめる歌に大かた似たる歌二首あり、
 
初、山のはにいさよふ月 常にいさよひの月といふは、十六夜なり。いさよふ月は、いさよふ雲といふにおなし。人のゆくへくしてゆかぬを、いさよふといへは、出へくして出ぬを、いさよふ月といひて、その月を今や出ると待ことく、わか待君か夜はふくれともこぬといへる所に、友のをそく來るを恨る心こもれり
 
冬十一月左大臣葛城王等賜姓橘氏之時御製歌一首
 
官本に臣を改て辨に作れり、天平元年九月に左大辨となられたれば此に依るべし、左大臣は同じ十五年に拜して極官なれば此に擧る事理なし、推量するにもとは左大辨と有けむを、極官をのみ知たる人の臣を誤て辨となせるかと思ひてかしこげに改けるなるべし、第十七八に至て天平二十一年の一〔右○〕の字を削去たる事有にて知(25)ぬべし、續日本紀第十二云、天平八年十一月丙戌從三位葛城王從四位上佐爲王等上v表臼、臣葛城等言、去天平五年、故知太政官事一品舍人親王大將軍一品新田部親王宣勅曰、聞道諸王等願d賜2臣連姓1供c奉朝廷u、是故召2王等1令v問2其状1者、臣葛城等、本懷2此情1無v由2上達1、幸遇2恩勅1昧死以聞、昔者輕堺原大宮御宇天皇曾孫建内宿禰、盡2事v君之忠1、致2人臣之節1、創爲2八氏(ノ)祖1、永遺2萬代之基1、自v此以來賜v姓命v氏、或眞人或朝臣、源生2王家1、流終2臣民1、飛鳥淨御原大宮(ニ)御2大八洲1天皇、徳覆2四海1威震2八荒1、欽明文思、經v天緯v地、太上天皇、内修2四徳1、外撫2萬民1、化及2翼鱗1澤被2草木1、復太上天皇、無v改2先※[車+兀]1、守而不v違、卒立2清淨(ヲ)1、民以寧一、于v時也葛城親母贈從一位縣犬養橘宿禰、上歴2淨御原朝廷1、下逮2藤原大宮1、事v君致v命、移v孝爲v忠(ト)、夙夜忘v勞、累代竭v力(ヲ)、和銅元年十一月二十一日、供2奉擧國大甞二十五日御宴1、天皇譽2忠誠之致1、賜2浮杯之橘1、 勅曰、橘者菓子之長、上人所v好、柯凌2霜雪1而繁茂、葉經2寒暑1而不v彫、與2珠玉1共競v光、交2金銀1以逾v美、是以汝姓者、賜2橘宿禰1也、而今無2繼副1者、恐失2明詔1、伏惟皇帝陛下、光2宅天下1、充2塞八※[土+廷]1、紀被2海路之所1v道、徳蓋2陸通之所1v極、方船之貢、府無2空時1、河圖之靈、史不v絶v紀、四民安v業(ヲ)、萬姓謳v衢、臣葛城幸蒙2遭時之恩1、濫接2九卿(ノ)之未1、進以2可否1、志在v盡v忠、身隆降v闕、妻子康v家、天王賜v姓(ヲ)定v氏、由來遠矣、是以臣葛城等、願賜2橘宿禰之姓1、戴2先帝(ノ)之原命1、流2橘氏之殊名1、萬歳無v窮、千葉相傳(ヘム)、壬辰、詔曰、省2從三位葛城王等(カ)表(ヲ)1、(26)因知2意趣(ヲ)1、王等、情深2謙讓1、志在v顯v親(ヲ)、辭2皇族之高名1、請2外家之橘姓(ヲ)1、尋2志所1v執、誠得(タリ)2時宜1、一依v表(ニ)、令v賜2橘宿禰1、千秋萬歳、相繼無v窮、今按、此表に因て考るに、贈從一位縣犬養橘宿禰三千代は、初美努(ノ)王に嫁して、葛城王佐爲王等を生み、美努王の薨ぜられて後、淡海公の室となりて、光明皇后等を生奉り給へりと見えたり、此故に皇后橘奈良麿を甥とのたまへること續日本紀に見えたり、
 
初、冬十一月左大臣葛城王等賜2姓橘氏1之時御製歌一首 此左大臣天平八年まては、葛城王にておはしけるを、今やかて績日本紀を引ことく、母の橘(ノ)三千代《ミチヨ》の姓をつかんことを、表をもてこはれけるゆへ、橘宿禰姓をたまひ、後に宿禰を改て朝臣をたまへり。諱《タヽノナ・イミナ》を諸兄《モロエ》といひけれと、此集にはたふとひて、諸兄と名をかけることなし
 
1009 橘花者實左倍花左倍其葉左倍枝爾霜雖降益常葉之樹《タチハナハミサヘハナサヘソノハサヘエタニシモオケトマシトキハノキ》
 
雖降、【六帖云、フレト、】
 
橘は垂仁天皇の御時、田道間守を常世の國に遣はして種を求しめ給へる物なり、第十八家持の橘の長歌に至て注すべし、實も花も葉もめでたくて、霜はおけどもます/\さかゆる木なりとて忠功家に傳はりて子孫繁昌すべき事をよせて祝ひて腸はせ給ふなり、今按益常葉之樹、此句をばマシトコハノキと讀べし、は〔右○〕をわ〔右○〕となしてよむべからず、葉ときこえさすべし、トキハは常磐なり、今は常葉と書て、似たる事の別義なり、元正紀云、養老五年十月庚寅太上天皇又詔曰云云、又其地者、皆植2常|葉《ハ》之樹(ヲ)1、此は御悩おもらせ給ひて崩御し給はむと思食ける時の遺詔の中に山陵を輕くせ(27)むことを仰おかるゝ御詞なり、此集第十六にも、しらとほく小新田山の守山の、うら枯せなゝとこはにもかもとよめり、但是は東歌なれば常磐をとこは〔三字右○〕と云へる歟とも云べし、第十七に橘は常花にもかとよみ、又とこ初花ともよめるを思ふべし、とこいは〔四字右○〕は古伊を反してつゞめてときは〔三字右○〕と云へり、常葉は反てつゞむべきやうなし、明證かくの如し、
 
初、たちはなはみさへ 橘の事は、垂仁天皇の勅によりて、田道間守かとこ世より取てもてこし物なり。委は第十八に家持の長哥有。そこに注すへし。實も花も葉もめてたくて、霜はをけとも、ます/\さかゆる木なりとて、忠功ありて、子孫繁昌すへきことによせて、いはひてたまはせ給ふなり。益常葉之樹、これを、ましときはの木とよみきたれとも、今案ましとこは《常葉》《・ワトヨムヘカラス》の木とよむへし。葉を和とはよむへからす。葉ときこゆるやうに讀へし。そのゆへは、ときはと常にいふは、常磐とかきて、いほほの常なるによすれは、とこいはといふへきを、古以(ノ)切幾なれは、ときはといへり。これは俗に松杉のたくひの、冬木せぬ木といふことく、葉をかへぬ木なれは、とこはの木といへり。すなはち字のことし。元正紀云。養老五年十
月庚頁、木上天皇【元明】又詔曰。〇又其|地《トコロニハ》者皆殖(ヨ)2常葉《トコハノ》之樹(ヲ)1。これは御やまひおもりて、崩したまはんとおほしめて、さま/\の事遺勅せさせたまふ中に、御はふりをかろくして、みさゝきのめくりに、冬枯せぬ木を植よとおほせおかるゝなり。此哥とおなしく常葉之樹と書たるは、かたき證なり。又此集に常花《トコハナ》にもがともよめり
 
右冬十一月九日從三位葛城王從四位上佐爲王等辭皇族之高名賜外家之橘姓巳訖於時大上天皇皇后共在于皇后宮以爲肆宴而即御製賀橘之歌并賜御酒宿禰等也或云此歌一首太上天皇御歌但天皇々后御歌各有一首者其歌遺落未得探求爲今※[手偏+僉]案内八年十一月九日葛城王等願橘宿禰之姓上表以十七日依表乞賜橘宿彌
 
葛城王系圖は、敏達天草難波皇子栗隈王−武家王・美奴王−葛城王−奈良麿−島田麿、元明紀云、和(28)銅三年春正月壬子朔戊午、授2無位葛木王從五位下1、元正紀云、養老元年正月、從五位上、五年、正五位下、七年正月、正五位上、聖武紀云、神龜元年二月、從四位下、天平元年三月、正四位下、同九月、爲2左大辨1、三年八月丁亥、詔依2諸司擧1、擢2左大辨正四位下葛城王等六人1、並爲2參議1、四年正月乙巳朔甲子、從三位、九年九月巳亥、從三位橘宿禰諸兄、爲2大納言1、十年五月庚午、授2正三位1、拜2右大臣1、十一年正月甲午朔丙午、從二位、十二年十一月、正二位、十五年五月、從一位左大臣、十八年四月、兼太宰帥、孝謙紀云、勝寶元年四月甲午朔丁未、正一位、二年正月庚寅朔乙巳、賜2朝臣(ノ)姓(ヲ)1、同八歳二月丙戌致仕、天平寶字元年正月庚戌朔乙卯、前左大臣正一位橘朝臣諸兄薨、遣2從四位上紀朝臣飯麻呂、從五位下石川朝臣豐人等1、監2護葬事(ヲ)1、所v須官(ヨリ)給、大臣、贈從二位栗隈王(ノ)之孫、從四位下美努王之子也、同六月甲辰、先v是、去勝寶七歳冬十一月、太上天皇不豫時、左大臣橘朝臣諸兄祗承人佐味(ノ)宮守告云、大臣飲v酒之庭、言辭無v禮、稍有2反状1云云、太上天皇優容不v咎、大臣知v之、後歳致仕、 佐爲王は元明紀云、和銅七年正月、授2無位佐爲王從五位下1、元正紀云、養老五年正月、從五位上、同月戊申朔庚午、詔2從五位上佐爲王等1、退v朝之令v侍2東宮1焉而、聖武紀云、神龜元年正五位下、四年從四位下、天平三年、從四位上、九年二月、授2正四位下1、八月壬寅、中宮大夫兼右兵衛〓正四位下橘宿頑佐爲卒(ス)、辭皇等の二(29)句は、上に引勅答の詞の請を賜に改たり、太上天皇々后は、今按皇后は天皇を誤れるなるべし、共在2于皇后宮1とあれば上に皇后と云に及ばずして、申べき天皇を申さねばなり、或云以下は此集勅撰ならず、又撰者橘左大臣にあらぬ明證なり、探求の下の爲は焉に作るべし、九日は聖武紀の丙戌歟、然らば壬辰の日勅答を賜はれるは十五日なるを此に十七日とあるは、五を七に誤れる歟、上表は史記三代世表索隱曰、應劭云、表者録2其事1而見v之、按禮有2表記1、而鄭玄云、表明也、謂事微而不v著須2表明1也、故言v表、文選表注李善曰、表者明也標也、如2物之標表1、言標2著事序1、使2v之(ヲ)明白1、以曉2主上1、得v盡2其忠1曰表、
 
初、從三位葛城王 元明紀云。和銅三年春正月壬子朔戊午、授2無位葛木王(ニ)從五位下(ヲ)1。元正紀云。養老元年正月從五位上。五年正五位下。七年正月正五位上。聖武紀云。神亀元年二月從四位下。天平元年三月正四位下。同九月爲2左大弁1。三年八月丁亥、詔依2諸司尓(ノ)擧(スルニ)1、擢(テヽ)2左大弁正四位下葛城王等(ノ)六人(ヲ)1、並爲2参議(ト)1。四年正月乙巳朔甲子、從三位。九年九月己亥、從三位橘宿禰諸兄爲2大納言1。十年正月庚午朔、授2正三位(ヲ)1拜(ス)2右大臣(ニ)1。十一年正月甲午朔丙午、從二位。十二年十一月、正二位。十五年五月、從一位左大臣。十八年四月、兼太宰帥。孝謙紀云。勝寶元年四月甲午朔丁未、正一位。二年正月庚寅朔乙巳、賜2朝臣(ノ)姓(ヲ)1。同八歳【七年改v年爲2七歳1】二月丙戌、致仕。天平寶字元年正月庚戌朔乙卯、前左大臣正一位橘朝臣諸兄薨(ス)。遣(シテ)2從四位上紀朝臣飯麻呂、從五位下石川朝臣豐人等1監2護(シセム)葬事1所(ハ)v須(ヰル)官(ヨリ)給(フ)。大臣(ハ)贈從二位栗隈(ノ)王(ノ)之孫、從四位下|美努《ミノヽ》王(ノ)之子也。同六月甲辰、先v是(ヨリ)去(ヌル)勝寶七蔵冬十一月、太上天皇不豫時、左大臣橘朝臣諸兄祗承(ノ)人佐味(ノ)宮守告(テ)云。大臣飲v酒之庭、言辭無v禮《イヤ》。稍有2反状1云々。太上天皇優容(シテ)不v咎(メタマハス)。大臣知(テ)v之後歳致仕(ス)。
從四位上佐爲王、元明紀云。和銅七年正月授2無位佐爲王縱五位下1。元正紀云。養老五年正月從五位上。同月戊申朔庚午、韶2從五位上佐爲王〇等1退v朝之令(ム)、v侍(ヘラ)2束宮(ニ)1焉。聖武紀云。神龜元年正五位下。四年從四位下。天平三年從四位上。九年二月從四位上橘宿禰佐爲授2正四位下(ヲ)1。八月壬寅中宮(ノ)夫兼右兵衛率正四位下橘宿禰佐爲卒(ス)
外家橘姓 續日本紀第十二云。天平八年十一月丙戌、從三位葛城王從四位上佐爲王等上v表曰。臣葛城等言。去天平五年故知大政官事一品舎人親王、大將軍一品新田部親王宣(テ)v勅(ヲ)曰。聞道《キクナラク》諸王等願(フト)d賜(テ)2臣連(ノ)姓(ヲ)1供c奉(センコトヲ)朝廷(ニ)u。是故(ニ)召2王等(ヲ)1令v問2其|状《アルカタチヲ》1者《・テヘリ》。臣葛城等本(ヨリ)懷2此情(ヲ)1無v由2上達(スルニ)1。幸(ニ)遇(テ)2恩勅(ニ)1昧死(シテ)以聞(ス)。昔者輕(ノ)堺原(ノ)大宮(ニ)御宇天皇(ノ)曾孫建内宿禰盡2事v君之忠(ヲ)1致2人臣之節(ヲ)1。創(メテ)爲(テ)2八氏之祖(ト)1永遺(セリ)2万代之基(ヲ)1。自v此以來賜v姓(ヲ)命v氏(ニ)或(フ)眞人或(ハ)朝臣。源生2王家1流終2臣民1。飛鳥(ノ)淨御原(ノ)大宮(ニ)御《シロシメス》2大八洲1天皇、徳覆(ヒ)2四海(ヲ)威震(フ)2八荒(ニ)1。欽明文思經(ニシ)v天緯(ニス)v地(ヲ)。太上《持統》天皇内修(メ)2四徳(ヲ)1外撫2万民1、化及2翼鱗1澤被(ラシム)2草木(ニ)1。復太《・元明》上天皇無v改2先軌(ヲ)1守而不v違。卒(ニ)立(テヽ)2清淨(ヲ)1民以寧一(ナリ)。于v時也葛城(カ)親母贈從一位縣犬養橘宿禰、上歴2淨御原朝廷1下逮22藤原大宮(ニ)1事(テ)v君(ニ)致v命(ヲ)移(シテ)v孝(ヲ)爲v忠(ト)。夙夜忘v勞累代竭v力(ヲ)。和銅元年十一月二十一日供2奉擧v國大甞1。二十五日御宴。天皇譽2忠誠之至(ヲ)1賜(フ)2浮v杯之橘(ヲ)1。勅曰。橘者菓子之長上、人(ノ)所v好。柯凌(テ)2霜雪(ヲ)1而繁茂(シ)、葉經(テ)2寒暑(ヲ)1而不v彫(マ)。與(ニ)2珠玉(ト)1共(ニ)競(ソヒ)v光(ヲ)交(テ)2金銀1以逾美(ナリ)。是以汝(カ)姓(ニハ)者賜2橘(ノ)宿禰(ヲ)1也。而(ルヲ)今無(ンハ)2繼副(スル)者1恐(ハ)失(テン)2明詔(ヲ)1。伏惟皇帝陛下光2宅(シ)天下1充2塞(ス)八〓(ニ)1。紀被(ラシメ)2海路(ノ)之所(ニ)1v通(スル)、徳蓋(フ)2陸道(ノ)之所(ヲ)1v極(マル)。方《・ナラフ・モヤフ》v船(ノ)之貢、府(ニ)無(ク)2空(シキ)時1、河圖之靈、史(ニ)不v絶v紀(スルコトヲ)。四民安(シ)v業(ヲ)萬姓謳(フ)v衢(ニ)。臣葛城、幸(ニ)蒙2遭時(ノ)之恩(ヲ)1濫(リニ)接(ハル)2九卿(ノ)之末(ニ)1。進以2可否1志在v盡(スニ)v忠(ヲ)。身隆降《絳歟》闕妻子康v家。夫王賜v姓定v氏由來遠矣。是以臣葛城等願(ハ)賜(テ)2橘(ノ)宿禰(ノ)之姓(ヲ)1戴(タキ)2先帝之原命(ヲ)1流《ツタヘ》2橘氏(ノ)之殊名(ヲ)1万歳無v窮(マリ)千葉相傳(ヘム)。壬辰(ノヒ)詔曰。省《ミテ》2從三位葛城王等(カ)表(ヲ)1因(テ)知(ヌ)2意趣(ヲ)1。王等情深(ク)2謙讓1志在(リ)v顯(ハスニ)v親(ヲ)。辭(シ)2皇族(ノ)之高名(ヲ)1請(フ)2外家(ノ)之橘姓(ヲ)1。尋(ヌルニ)2志(ノ)所(ヲ)1v執誠(ニ)得(タリ)2時宜(ヲ)1。一依(テ)v表(ニ)令v賜(ハ)2橘(ノ)宿禰(ヲ)1。千秋万歳相(ヒ)繼(テ)無(ケム)v窮(マリ)。左大臣の表を見るに、贈從一位縣犬養橘宿繍は、三千代にて、淡海公の室なり。第十九卷に哥有。そこに委注すへし。此三千代、初|美努《ミノノ》王に嫁して、葛木王佐爲王をうみて、美努王の薨せられて後、淡海公の室となられけるなるへし。太上天皇は元正天皇なり。太上天皇の下に天皇の二字をおとせり。或は皇后の二字すなはち天皇を誤れる歟。そのゆへは、下に共在2于皇后宮1といへは、上に皇后といはすとも、共におはしますこと明なれはなり。或云此哥一首云々。惣して此注なとを見て、此集は左大臣勅をうけたまはりてえらはれたりといふ誤を知へし。探求の下の爲の字は、焉の字の誤なるへし。上表、史記三代世表、索陰曰。應劭云。表(ハ)者録(シテ)2其事(ヲ)1而見v之。按禮(ニ)有2表記1。而鄭玄(カ)云。表(ハ)明(ナリ)也。謂(ク)事微而不v著(ハレ)。須(ラク)2表明(ス)1也。故言v表(ト)。選序注(ニ)、向(カ)曰。表者思(テ)2於内(ニ)1表2於外(ニ)1。又第三十七卷表注(ニ)善(カ)曰。表(ト)者明也。標也。如2物之標(ヲモテ)表(スルカ)1。言(コヽロハ)標2著《チヨシテ》事序(ヲ)1使2之(ヲ)明白(ナラ)1以曉(シテ)2主上(ヲ)1得(ルヲ)v盡(スコトヲ)2其忠(ヲ)1曰v表(ト)
 
橘宿禰奈良麿應詔歌一首
 
聖武紀云、天平十二年五月乙未、天皇、幸2右大臣相樂別業1、宴飲酣暢授2大臣男無位奈良麻呂從五位下1、十九年正月丁丑朔、從四位下、孝謙紀云、勝寶元年四月、從四位上、同七月、參議、六年正月、正四位下、寶字元年六月、左大辨、六月甲辰山背王密事を告らるゝによりて騷動の事ありて流罪死刑多し、安宿王黄文王鹽燒王道祖王橘奈良麿を張本として、其衆は大伴駿河麻呂大伴古麻呂多治比犢養同|禮《イヤ》麻呂同鷹主大伴池主同兄人(30)小野東人佐伯古比奈答本忠節賀茂角足等なり、孝謙紀に具に載たり、奈良麿の事も處々に見えたり、
 
初、橘宿禰奈良麿 左大臣之男也。聖武紀云。天平十二年五月乙未、天皇幸(テ)2右大臣(ノ)相樂(ノ)別業(ニ)1宴飲(シテ)酣暢授2大臣男無位奈良麻呂從五位下(ヲ)1。同十一月從五位上。十三年七月大學頭。十五年五月正五位上。十七年九月攝津大夫。十八年三月民部大輔。十九年正月丁丑朔從四位下。孝謙紀云。勝寶元年四月從四位上。同閏五月爲2侍從1。同七月參議。四年十一月以2參議從四位上橘朝臣奈良麻呂(ヲ)爲2但馬因幡(ノ)按察使(ト)1。兼(テ)令3※[手偏+僉]※[手偏+交](セ)伯耆出雲石見等(ノ)國(ノ)非違(ノ)事(ヲ)1。六年正月正四位下。寶字元年六月左大弁。六月甲辰山背王密事を告らるゝによりて、騷動の事ありて、流罪死刑おほし。安宿《アスカヘノ》王、黄文(ノ)王、鹽燒王、道祖《サエノ》王、橘奈良麻呂を張本として、其衆は大伴駿河麻呂、大伴古麻呂、多治比犢養、多治比|禮《イヤ》麻呂、多治比鷹主、大伴池主、大伴兄人、小野東人、佐伯古比奈、※[草がんむり/合]本忠節、賀茂角足等なり。孝謙紀に具に見えたり
 
1010 奥山之直木葉凌零雪之零者雖益地爾落目八方《オクヤマノマキノハノキフルユキノフリハマストモツチニオチメヤモ》
 
直木葉、【別校本、直作v眞、今本誤矣、】
 
此眞木は被なるべし、但落葉せぬみ山木多ければすべて眞木と云へる歟、此歌第八の冬に入ぬべきを此に橘宿禰姓を賜はる御歌につらねてある意は、上に十一月十七日とありて下に十二月十二日といへる間にあれば、雪の歌よめと仰下されけむによりて、眞木の上に降つむ雪の如く臣が家世々を重ぬとも君の御ためにきよき心を持て仕へ奉て敢て父祖の風をおとして家を※[さんずい+于]さじと云意なるべし、後拾遺に上の句此とおなじくて、下をいつとくべしと見えぬ君かな、
 
初、おく山のま木のはしのき 眞の字、下の二點をうしなへり。此まきといへるは艪ネるへし。但落葉せぬ木もおほけれは、惣して眞木といへる歟。しのくは侵《ヲカス》といふにおなし。詔に應する歌に、つちにおちめやもとよまれたるは、たとふる心あるへし。橘宿神姓を賜るつゝきなれは、君恩をいたゝきて、いよ/\臣下の節を變せしなといふ心にや
 
冬十二月十二日歌※[人偏+舞]所之諸王臣子等集葛井連廣成家宴歌二首
 
初、葛井廣成 聖武紀云。天平二十年八月己未車駕幸2散位從五位上葛井連廣成之宅1、延《ヒイテ》2群臣(ヲ)1宴飲。日暮留宿。明日授2廣成及其室從五位下縣犬養宿禰八重(ニ)並(ニ)正五位上(ヲ)1。是日還v宮。勝寶元年八月中務少輔、孝謙紀
 
比來古※[人偏+舞]盛與古歳漸晩理宜共盡古情同唱此歌故擬此(31)趣、輙獻古曲二節風流意氣之士儻有此集之中爭發念心々和古體
 
此は二首の歌の小序なり、盛與の與官本は興なり、尤然るべし、古曲と云ひ古體といへるは第四に聖武天皇の御歌に注して、右今案此歌擬古(ノ)之作(ナリ)也と云が如し、此程の古風新樣雪を凌ぐ花の何れを梅の迷ひあるが如し、有〔右○〕、此集之中は有は在に作るべし、集は集會なり、文選詩題に、侍五官中郎將建章臺集、晉武帝華林園集詩などあまた云へり、
 
初、有此集之中 有は在に改へし。集は集會の人をいふ。文選詩の題に此字おほし
 
1011 我屋戸之梅吹有跡告遣者來云似有散去十方吉《ワカヤトノウメサキタリトツケヤラハコテフニニタリチリヌトモヨシ》
 
來テフニ似タリは、來むと云に似たりなり、梅の初花のめづらしく咲出たるを、かくと情ある人の許へ告やらば必らず見に來むと云べきに似たり、さて一日だに見せて後は散ぬともよしと、告ぬ先より我心を以て人の心になずらへて量りてよめるなり、古今集に、月夜好夜よしと人に告やらば、來云に似たりまたずしもあらずとよめるも此歌に相似たれば、今古體にならふ由なれば彼歌も舊き歌の殘れるを拾へ(32)るなるべし、
 
初、吾やとの梅咲たりと告やらは こてふににたりは、こんといふににたりなり。これは梅の花盛のおもしろきを見て、心ある人のもとに、見にきませと告やらは、かならす見にこんといふへきににたりと、我心をもて人の心をおもひはかりて、見せまほしき人たに來て見ましかは、そのゝちは散ぬともよしとなり。古今集に、月夜よし夜よしと人に告やらはこてふににたりまたすしもあらすといふ哥も、此哥と同意なり。こゝに古躰にならひてよむよしあれは、古今集の哥もふるき哥のゝこれるをひろへるとそしるき
 
1012 春去者乎呼理爾乎呼里※[(貝+貝)/鳥]之鳴吾島曾不息通爲《ハルサレハヲヽリニヲヽリウクヒスノナクワカシマソヤマスカヨハセ》
 
乎呼《ヲヽ》リは上に注せり、うつぼ物語梅花笠の卷に迎鶯と云題の歌に、里に咲花に遷らで奥山を、松にをゝるな鶯の聲、これ此歌を取てよめるにや、吾島とは庭に作れる池の中嶋なり、上に地の名と云島にはあらず、
 
初、春されはをゝりにをゝり をゝりはさきに注せり。此卷の末にも有。わか嶋とよめるは、家の庭に作れる、池の中嶋なとをいふなり。此わか嶋を名所といへるは、用ゆへからす
 
九年丁丑
春正月橘少卿并諸大夫等集彈正尹門部王家宴歌二首
 
少卿は諸兄を大卿としてそれに對して佐爲を云へり、
 
初、橘少卿は橘宿禰佐爲なり
 
1013 豫公來座武跡知麻世婆門爾屋戸爾毛珠敷益乎《カネテヨリキミキマサムトシラマセハカトニヤトニモタマシカマシヲ》
 
發句はアラカジメとも讀べし、集中兩方に點ぜり、珠敷マシヲはまらうどを敬まひて云なり、此詞集中また多し、
 
初、かねてより 豫はあらかしめともよむへし。第十一《四十六葉》第十八《十》第十九《四十四》にもこれに似たる作あり
 
右一首主人門部王【後賜姓大原眞人氏也】
 
(33)1014 前日毛昨日毛今日毛雖見明日左倍見卷欲寸君香聞《サキツヒモキノフモケフモミツレトモアスサヘミマクホシキキミカモ》
 
今按此發句は第四に家持のをとゝしのさきつ年よりとよまれたるをとゝしを前年とかけるに准らへてヲトツヒモと讀べし、第十七紀男梶歌にも、乎登都日毛昨日毛今日毛雪のふれゝばとよみ、同卷に家持の鷹のそれくるを夢に見て詠れたる歌に、蘆鴨のすだく古江に乎等都日毛、伎能敷母安里追とよまれたり、此は情ある主人にあかぬ由なり、
 
初、前日毛《サキツヒモ》 第四の五十八葉に、前年とかきて、をとゝしとよめるに准すれは、これをはをとゝひともよむへし。をとはをちなり。をちかたをちつかたなといへるは、彼の字にて遠き心なり。此あすさへみまくほしき君といへるは心あるあるしをいへり
 
右一首橘宿彌文成 即少卿之子也
 
目録の注に文明と云ひ、又他本にも文明とあれども文成然るべき歟、孝謙紀云、天平勝寶二年正月、賜2文成王甘南備眞人(ノ)姓(ヲ)1とあるは若此橘文成に再たび改て姓を賜ひけるにや、
 
初、文成 目六に文明とあるは誤れり。孝謙紀云。天平勝寶三年正月賜2文成王(ニ)甘南備《カムナヒノ》眞人姓(ヲ)1。もし此橘文成に、ふたゝひ改て甘南備眞人姓を賜けるにや。少卿の子とあれは佐爲王の子なり。此集第二十に、甘南備伊香眞人といふ人の哥あり。文成の子なとにもや
 
榎井王後追和歌一首
 
官本志貴親王之子也と注す、廢帝紀云、寶字六年正月庚辰朔癸未、授2無位榎井王從四位下1、五月戊辰散位從四位下榎井王卒、
 
初、榎井王 廢帝紀云。寶字六年正月庚辰朔癸未授2無位榎井王(ニ)從四位下(ヲ)1。五月戊辰散位從四位下榎井王卒。或書に志貴皇子の御子とす。光仁天皇の御弟にや。無位より從四位下に叙せられたれはさも有ぬへし
 
(34)1015 玉敷而待益欲利者多鷄蘇香仁來有今夜四樂所念《タマシキテマタマシヨリハタケソカニキタルコヨヒシタノシクオモホユ》
 
タケソカを歌林良材集にはそかひ〔三字右○〕と云詞の内に出し給へり、今按たけ〔二字右○〕はたけきにてそか〔二字右○〕はおろそか、おごそかなど云にも添ひたる詞にや、上にも金村の、ますらをの心はなしにたをやめの、思ひたわみてとよめる如く、たけき人は事をなすに顧みる事なくたゞちになす如く取敢ず無期《ムゴ》に入來るをたけそかにとはのたまふなるべし、コヒシのし〔右○〕は助語なり、此は玉しかましをと主人のよめる所をかへし玉ふなり、
 
初、たけそかに 此詞を歌林良材集には、そかひといふ詞の内に載たまひ、管見抄には、くれ竹のすかひ/\なり。すかひは透間の心なりといへり。今案それはすきあひといふを、幾阿(ノ)切加なれは、つゝめてすかひといふなり。此哥はそかひにも、すかひにもかなはす。これは取あへす、むこに入來る心なり。かとにやとにも玉しかましをと、門部王のよめるにこたへて、玉しきて君かまたむ時に、まいりこんよりは、ふとよりあひて、宴するをたのしき事におもふと、よみたまふなり。たけそかの詞此外にいまたみをよはす
 
春二月諸大夫等集左少弁巨勢宿奈麻呂朝臣家宴歌一首
 
聖武紀云、神龜五年五月丙辰、正六位下巨勢朗臣少麿等授2外從五位下(ヲ)1、天平元年三月、從五位下、五年三月、從五位上、
 
初、巨勢朝臣宿奈麿 聖武紀云。神亀五年五月丙辰、正六位下巨勢朝臣少麿等(ニ)授2外從五位下(ヲ)1。天平元年三月從五位下。五年三月從五位上。孝諌紀云。勝寶三年二月己卯、典膳正六位下|雀部《サヽイヘノ》朝臣眞人等言(ス)。磐余《イハレ》玉|穗《ホノ》宮|勾《マカリノ》金崎宮御宇天皇御世雀部朝臣男人爲2大臣(ト)1供奉(ス)。而(ルヲ)誤(テ)紀(セリ)2巨勢男人(ノ)大臣(ト)1。眞人等先祖巨勢(ノ)男柄《ヲトモノ》宿禰男有2三人1。星川建日子者雀部朝臣等(カ)祖也。伊刀宿禰者輕部朝臣等(カ)祖也。乎利(ノ)宿禰者巨勢朝臣等(カ)祖也。淨御原朝庭定(タマフ)2八姓1之時、被v賜2雀部朝臣(ノ)姓(ヲ)1。然則巨勢雀部雖2元《モトヨリ》同祖(ナリト)1而別姓之後被v任2大臣(ニ)1。當今(ノ)聖運(ニ)不(ンハ)v得2改正(スルコトヲ)1遂(ニ)絶2骨名之緒(ヲ)1永(ク)爲《ナリナン》2無(キ)v源之氏(ト)1。望(ミ)請(フ)戒(テ)2巨勢大臣(ヲ)1爲2名(ヲ)雀部(ノ)大臣(ト)1陳2名(ヲ)長代(ニ)1示(サン)2榮(ヲ)後胤(ニ)1。大納言從二位巨勢朝臣奈※[氏/一]麻呂亦證2明(ス)其事(ヲ)1。於v是下2知(シテ)治部(ニ)1依(テ)v請(ニ)改2正(ス)之1
 
1016 海原之遠渡乎遊土之遊乎將見登莫津左比曾來之《ウナハラノトホキワタリヲタワレヲノアソフヲミムトナツサヒソコシ》
 
遊土、【別校本云、タハレヲ、當v從v此、今按或本、土作v士、今本誤、】
 
(35)右一首書2白紙1懸2著屋壁1也、題云、蓬※[草がんむり/釆]仙媛所v嚢※[草冠/縵]、爲2風流秀才之士1矣、斯凡客不v所2望見1哉、
 
※[草がんむり/釆]は莱を誤れり、官本正せり、此注によりて歌の意を按ずるに、あるじの方の女房などの、山濤が妻の壁の隙より阮藉を窺見しやうに物の隙より酒宴の席にある人をかいまみて、時の興に蓬莱仙媛など書付て懸けるにや、
 
初、蓬莱 莱誤作v菜。所嚢、嚢(ハ)疑(ハ)賚(ノ)字(ノ)訛
此哥を推量するに、山濤か妻の、壁の隙より阮藉を見しやうに、あるしの方の女房なとの、物の隙より酒宴の席に有人をかいまみて、時の興に蓬莱仙媛なと書付て懸けるにや
 
夏四月大伴坂上郎女奉拝賀茂神社之時使超相坂山望見近江海而晩頭還來作歌一首
 
使〔右○〕、官本作v便、當v據v此、賀茂神社〔四字右○〕、延喜式云、山城國愛宕郡賀茂別雷神社、【亦若雷、名神大、月次、相甞、新甞、】賀茂神祖神社二座【並名神大、月次、相甞、新甞、】相坂山〔三字右○〕、神功皇后紀云、忍《オシ》熊王知v被v欺、謂2倉見別五十狹茅宿禰1曰、吾既被v欺、今無2儲兵1、豈可v得v戰乎、曳v兵(ヲ)稍退、武内宿禰出2精兵1而追v之、適遇2于逢坂1以破、故號2其處1曰2逢坂1也、山城國風土記曰、可茂社、稱2可茂1者、日向曾之峯天降坐前、賀茂|建角身《タケツミノ》命也、神|倭石余比古《ヤマトイハレヒコノ》之御前(ニ)立坐(テ)而、宿2坐大倭葛木山之峰(ニ)1、自v彼漸遷(テ)至2山代國岡田之賀茂1、隨2山代河1下坐、葛野(ノ)河與2賀茂河1所v會至坐、※[しんにょう+向]見2賀茂川(ヲ)1而言、雖2(36)狹少1然石川清川在、仍(テ)名曰2石川瀬見小川1、自2彼川1上坐、定2久我國(ノ)之北山基1、從2爾時1名曰2賀茂1也、賀茂(ノ)建角身《タケツミノ》命、娶2丹波國神野神伊可古夜日女(ヲ)1生v子、名2玉依日子(ト)1、次曰2玉依|日賣《ヒメト》1、玉依日賣於2石川瀬見小川1川遊爲時、丹塗《ニヌリノ》矢自2川上1流下、乃取挿2置床邊1、遂孕生2男子1、至2成る人時1、外祖父建角身命、造2八尋屋八戸扉(ヲ)1、釀2八腹酒1而神集集而七日七夜樂遊、然與v子語言、汝父將思人令v飲2此酒1、即擧2酒杯1、向v天爲v祭、分2穿屋甍1、而升2於天1、乃因(テ)取2祖父之名1、號2可茂別雷命1、所謂丹塗矢者、乙訓郡社坐火雷命(ニ)在(リ)、可茂建角身也、丹波神伊可古夜日賣也、玉依日賣也、三柱神者、蓼蒼里三井(ノ)社坐、
 
初、賀茂神社 延喜式第九、神名帳上云。山城國|愛宕《ヲタキノ》郡加茂別當神社【亦若雷。名神。大。月次、相甞、新甞。】賀茂神祖神社二座【並名神。大。月次。相甞。新甞。】使當v作v便。相坂山、日本紀第九神功皇后紀云。忍熊《オシクマノ》王知(テ)v被(コトヲ)v欺謂(テ)2倉見別五十狹茅宿禰(ニ)1曰。吾既(ニ)被(ヌ)v欺。今無2儲(ノ)兵1豈可(ンヤ)v得v戰(コトヲ)乎。曳(テ)v兵(ヲ)稍退。武内宿禰出(シテ)2精《シラケ》兵(ヲ)1而追v之。適遇(テ)2于逢坂1以破(ル)。故(ニ)號(テ)2其處(ヲ)1曰2逢坂1也。近江海、あふみは淡海なり。塩ならぬ水海なれは、あふみといふ。あはしき海といふ心なり。あはうみといふへきを、波宇(ノ)切|布《フ》なるゆへに、あふみといふ。此海より國の名をも、あふみの國といふ。和名集云。近江【知加津阿不三。】淡海を近江と書ゆへは、遠江に對するゆへなり。和名集云。速江【止保太阿不三。】かの國にも水海ある故に、とほつあふみといふ心に、とほたあふみといへり。互に對する名なれは、和名集にあるごとく、ちかつあふみといふへきを、あふみは昔の都にも、今の京にもちかき方にあると、水海も速江に有よりは名高けれは、文字の心は對すれとも、和語は惣名を用て、近の字の心をすてゝよはぬなり
 
1017 木綿疊手向乃山乎今日越而何野邊爾廬將爲子等《ユフタヽミタムケノヤマヲケフコエテイツレノノヘニイホリセムコラ》
 
越而、【官本、越、作v超、】  子等、【校本、子、作v吾、】
 
ゆふたゝみを手向るとつゞく、ゆふのかさなれるをたゝみといへり、第十二にもかくつゞけてよめり、又ゆふだゝみ白月山、ゆふだゝみたなかみ山などもつゞけたり、さて此手向山と云はすなはち相坂山なり、端作に超2相坂山1而晩頭還來作と云歌に、手向の山を今日越而とよめるにて知られたり、又第十三相坂山に手向草、い取おきつゝともよめり、古今集序には、逢坂山に至りて手向を祈とかけり、凡何處にも此國(37)より彼國へ越るに名山などを越るには手向するなり、第三にならの手向に置幣とあるが如し、殊に逢坂は坂東關東など云も此山より東を指ことなればわきて手向して恙なからむ事を祈るべき處なり、子等とは供にある人を指せり、吾等とあるにつかばワレと讀べし、此本も捨がたし、其故は第十五にも、大伴のみつに舟乘こぎ出ては、何れの島にいほりせむわれ、此例ある故なり、
 
初、ゆふたゝみ手向の山をけふこえて.第十二にもゆふたゝみ手向の山とよめり。ゆふは神に手向る具なれは、手向山といはむとて、ゆふたゝみといへり。此手向山といへるは、相坂なり。詞書に、超2相坂山1望2見近江海1而晩頭還來作歌といふにてしられたり。いつくにても此國よりかなたの國へこゆるやうの時、名山なとをこゆるには、手向するなり。古今集には、ならの手向山ともいへり。又序にはあふさか山にいたりてたむけをいのりとかけり。坂東關東なといふも此關より東をさせは、ことに手向してつゝかなからん事を祈る所なり。されはおして手向の山といふに子細なし。けふこえては、かへるさにこゆるをいふ。晩頭といへは、その日の内に又こゆれはなり。いほりせんこらとは、旅宿に小屋つくるをいほりといふ。宿をかるともさはいふへし。こらはいさやこらいさこともなといふかことし。つれたる親屬從者をさすへし
 
十年戊寅
 
元興寺之僧自嘆歌一首
 
歌に依に嘆は讃嘆なり、
 
1018 白珠者人爾不所知不知友縱雖不知吾之知有者不知友任意《シラタマハヒトニシラレスシラストモヨシシラストモワレシシレラハシラストモヨシ》
 
知有者、【官本點云、シレヽハ、】
 
旋頭歌なり、三句七字四句五字に讀べし、其故は落句の七字は三の句をかへして云へばなり、歌の意は老子云、吾言甚易v知甚易v行、天下莫2能知1莫2能行1、言有v宗事有v君、夫惟(38)無v知、是以不2我知1、知v我者希、則我貴(シ)矣、是(ヲ)以聖人被v褐懷v玉、これを以てよめるなるべし、任意をヨシとよめるは、よし、まに/\、さもあらばあれ、此等の詞同じ意ある故なり、
初、しら玉は、人にしられす、しらすともよし。しらすとも、われししれらはしらすともよし旋頭歌也。老子云。吾言(ハ)甚易(ク)v知、甚易(シテ)v行、天下莫(ク)2能知(ルコト)1、莫2能行(コト)1。言(ト)有v宗、事(ト)有v君。夫惟無v知。是(ヲ)以不2我(ヲ)知(ラ)1。知(ル)v我(ヲ)者希(ナルトキハ)則我貴(シ)矣。是(ヲ)以聖人被(テ)v褐(ヲ)懷(ク)v玉(ヲ)。この哥は旋頭哥なり。第三句七字、第四句五字によむへし。第三を常のことく五字によみ、第四を七字にもよむへしといへとも、結句にしらすともよしといへるは、第三の句をふたゝひかへしていへる物なれは、七もし五もしの次第をよしとす。任意とかきてよしと讀るは、人の意にまかせて、それかまゝにするゆへに、よしと、まに/\、まゝなとみな通せり。縱の字をかけるも、ゆるすといふ心に通すれはなり
 
右一首或云元興寺之僧獨覺多智未有顯聞衆諸押侮因此僧作此歌自嘆身才也
 
押侮は今案押の字今の本犬の省に从ふ歟手の省に从ふ歟分明ならず、いかにもあれ、犬に从へて狎に作るべし、第十六竹取翁が歌の詞書にも近狎之罪と云へり、戰國策云、服子曰、公之客獨有2三罪1、望v我而笑、是狎也、此狎なり、
 
初、狎侮 狎を押につくれるは誤なり
 
石上乙麿卿配土左國之時歌三首并短歌
 
聖武紀云、天平十一年三月庚申石上朝臣乙麻呂、坐v※[(女/女)+干]2久米連若賣1、配2流土佐國1、若賣配2下總國1焉、十二年六月十五日、大赦、久米連若女等五人、召令2入京1、穗積朝臣老等、被v恩入v京、石上乙麻呂中臣宅守等、不v在2赦限(ニ)1、十三年九月八日、大赦、此時被v恩歸v京歟、紀無v所v見、光仁紀云寶龜十一年六月己未、散位從四位下久米連若女卒、贈右大臣從二位藤原朝臣百川之母也、聖武紀云神龜元年三月庚申朔癸未、定2諸流配遠近(ノ)之程1、伊(39)豆、安房、常陸、佐渡、隱岐、土左六國爲v遠、諏方、伊豫爲v中(ト)、越前、安藝爲v近、懷風藻云、從三位中納言兼中務卿石上朝臣乙麻呂四首、石上中納言者、左大臣第三子也、地望清華、人才穎秀、雍容閑雅、甚善2風儀1、雖v勗2志典墳1、亦頗愛2篇翰1、甞有2朝譴1、飄寓2南荒1、臨v淵吟v澤、寫2心文藻1、遂有2銜悲藻兩卷1、今傳2於世1、天平年中、詔簡2入唐使1、元來此擧、難v得2其人1、時選2朝堂1、無v出2公右1、遂拜2大使1、衆僉悦服、爲2時所1v推、皆此類也、然遂不v往、其後授2從三位中納言1、自v登2台位1、風采日新、芳猷雖v遠別蕩然、時年 五言、飄2寓南荒1、贈2在v京故友1一首、遼夐遊千里、徘徊借2寸心1、風前蘭送v馥、月後桂舒v陰、斜雁凌v雲響、輕蝉抱v樹吟、相思知別慟、徒弄2白雲琴1、五言、贈2椽公之遷任入v京一首、余含2南裔怨1、君(ハ)詠2北征詩1、詩興哀2秋節1、傷哉槐樹衰、彈v琴顧2落景1、歩v月誰逢稀、相望(ム)天垂別、分後草長違、五言、贈2舊識1一首、萬里風塵別、三冬蘭※[草がんむり/惠]衰、霜華逾入v鬢、寒氣益顰v眉、夕鴛迷2霧裏1、曉雁苦2雲垂1、開襟期不v識、呑v恨獨傷悲、五言、秋夜閨情一首、他郷頻夜夢、談與2麗人1同、寢裏歡如v實、驚前恨泣寒、空思向2桂彰1、獨坐聽2松風1、山川險易路、展轉憶2閨中(ヲ)1、これみな土佐にての詩にてあはれなるまゝに煩はしけれど注につけ侍りぬ、
 
初、石上乙麿卿配2土左國1一時歌 聖武紀云。神亀元年二月正六位下石上朝臣乙麻呂等授2從五位下1。天平四年正月從五位上。同年九月爲2丹波守1。八年正月正五位下。九年九月己亥正五位上。十年正月庚午朔從四位下。同月乙未爲2左《・右》大弁1。三月庚申石上朝臣乙麻呂坐v※[(女/女)+干]2久米之連若賣《ムラシワカメ》1配2流土佐國(ニ)1。若賣(ヲ)配2下総國(ニ)1焉。十三年九月八日大赦(アリ)。此時被v赦耶。十五年五月從四位上。十六年九月爲2西海道巡察使1。十八年四月常陸守。同月正四位下。六月右《・左》大弁。二十年二月從三位。孝謙紀云。勝寶元年七月中納言。二年九月丙戌朔、中納言從三位兼中務卿石上朝臣乙麻呂卿薨。左大臣贈從一位麻呂(ノ)子也。天平十二年六月十五日大赦。久米連若女等五人召令2入京1。寶龜十一年六月己未、散位從四位下久米連若女卒。贈右大臣從二位藤原朝臣|百川《モヽカハノ》之母也。懷風藻曰。從二位中納言蒹中務卿石上朝臣乙麻呂四首。石上中納言(ハ)者、左大臣第三子也。地望清華(ニシテ)人才穎秀(ナリ)。雍容閑雅(ニシテ)甚(タ)善(シ)2風儀1。雖v〓(ムト)2志(ヲ)典墳(ニ)1亦頗愛2篇翰(ヲ)1。甞(テ)有(テ)2朝譴飄2寓(ス)南荒(ニ)1。【指土左。延喜式追儺祭文云。南方土左。】臨(ミ)v淵吟(テ)v澤(ニ)寫(ス)2心(ヲ)文藻(ニ)1。逐有2銜悲藻兩卷1今傳(ハル)2於世(ニ)1。天平年中詔(シテ)簡(フ)2入唐使(ヲ)1。元來此擧難v得2其人(ヲ)1。時選(ニ)2朝堂(ヲ)1無v出(ルモノ)2公(ノ)右(ニ)1。遂(ニ)拜2大使(ニ)1。衆僉悦服(ス)。爲(ニ)v時(ノ)所《ルヽコト》v推皆此類也。然遂(ニ)不v往。其後授2從三位中納言(ヲ)1。自v登2台位(ニ)1風采日(ニ)新(ナリ)。芳猷雖遠別蕩然。時年上三十六乙麿卿配土左國之時云々。懷凰藻土左にての詩。五言飄2寓南荒1贈2在v京故友《いそのかみふるのみことゝよめる人ともなるへし》1一首。遼夐遊2千里1、徘徊借2寸心1、風前蘭送v馥、月後桂舒v陰、斜雁凌v雲響、輕蝉抱v樹吟、相思知別慟、徒弄2白雲琴1。五言贈2椽公(カ)之遷任入1v京一首。余含2南裔怨1、君詠2北征詩1、々興哀2秋節1、傷哉槐樹衰、彈v琴顧2落景1、歩v月誰逢稀、相望天垂別、分後草長違。五言贈2舊識1一首。萬里風塵別、三冬蘭※[草がんむり/惠]衰、霜華|逾《マス/\》入v鬢、寒氣益顰v眉、夕鴛迷2霧裏1、曉雁苦2雲垂1、開v襟期不v識、呑v恨獨傷悲。五言秋夜閨情一首。他郷頻(リニ)夜(ル)夢(ミル)1、談與2麗人1同、寢裏歡如v實、驚前恨泣寒、空思向2桂彰1、獨坐歌2松風1、山川嶮易(ノ)路、展轉憶2閨中1、
 
1019 石上振乃尊者弱女乃惑爾縁而馬自物繩取附肉自物弓笶(40)圍而王命恐天雖夷部爾退古衣又打山從還來奴香聞《イソノカミフルノミコトハタワヤメノマトヒニヨリテムマシモノマハトリツケテシヽシモノユミヤゝカコミテオホキミノミコトカシコミアマサカルヒナヘニマカリフルコロモマツチヤマヨリカヘリコヌカモ》
 
馬、【官本云、ウマ】
 
弱女はタヲヤメとも讀べし、馬は官本の點に依るべし、繩取付テとは馬に手綱などつけたるやうにからめてと云なり、實にさる事はなけれどかゝる時には乘物などにも綱などをもかくべければそれをかくは云なるべし、シヽジ物弓笶カコミテとは、狩場に猪鹿を卷こめて虞人の取※[しんにょう+外]さじとかこむやうに警固の武士の打圍て行をかくは云なせり、カクミテとも讀べし、ヒナヘは夷邊なり、古衣又打山とつゞくるは第十二に、つるはみの衣解洗ひまつち山とよめる如くときあらひきぬを又うつと云意につゞくるなり、多宇反豆なればまたうち〔四字右○〕を反てつゞむればまつち〔三字右○〕となる故なり、此又打山第四卷に云如く大和國宇智郡なり、奈良都より西南に當れば又打山を越て紀州より土佐へは渡りけると見えたり、古衣まつち山より還來ぬかもと云心は、程なく歸たまふべしと祝ふ意なり、なれたる衣を改め洗ひて又打を、配流に依て罪を盡して行を改むるに譬へたり、此次の歌の前に反歌一首と云事の脱たるか、
 
初、いそのかみふるのみことは 石上はもと物部《モノヽヘ》氏にて、饒速日命の裔《スエ》なり。物部氏、後に石上と朴井との両氏にわかれけるは、ともに居地によりてなるへし。山邊郡石上にふるの社もあれは、重代の家なることをよせて、たふとひてふるのみことゝはいへり。たはやめのまとひ、これは久米連若女に、しのひてかよはれける事を、おほやけにきこしめして、ともになかしつかはさるゝこと、さきに績日本紀を引るかことくなれはなり。馬しものなはとりつけて。馬し物は、馬といふ物といふ心なり。常のやすめことはのしもしよりは、すこし心有。下のしゝし物心おなし。馬に繩かけたることく、科有人をからめたるなり。第十六乞食者か哥にも、馬にこそふもたしかくもとよめり。從四位下右大辨なる人の、好色のあやまちのみにて、からむる事はあるましけれと、哥のいきほひにいふなり。心を付へし。もしは乗物なとをはからみもすへけれはそれにや。しゝしものゆみやかこみて。第三には、猪鹿とかきてしゝとよめり。日本紀に、獣の字をもよめり。そのしゝをくはむとてむねとかれは、すへてしゝといひ、それか中にも、猪鹿はことに肉のよけれは、わきてしゝの名はおほせたなるへし。弓矢かこむとは、狩場び鹿猪を卷こめて、虞人のとりにかさしとかこむ心なり。流罪の人をものゝふの打かこむもそのことくなり。笶は矢の俗字なり。ふる衣まつち山より、第十二にもつるはみのきぬときあらひ又打山とよめり。かくつゝくるは、衣をあらひて又うつといふ心にいへり。太字(ノ)切津なれは、又打とかきてまつちとはよめるなり。此又打山を八雲御抄に、土佐歟と注せさせたまへと、たゝこれは第四卷に、笠金村の、あさもよい木路にいりたつまつち山とよめる、大和の内にて紀伊の國のでかひに有山なり。土佐は南海道六箇國の中に、殊に南に指出たれは、延喜式追儺祭文にも、南方土左といへり。紀州もまた六ケ國の内にてあれは、奈良の京より眞土山をこえて、紀伊にいたり。舟に乘てわたりけるなるへし。されはこそ、反哥に、さしなみし國に出ますやとはよめれ。さしなみし國とは、紀の國も南海にて、土左の海にさしむかへはなり。第九卷に、さしならふとなりの君といへるかことし。ふる衣まつち山よりかへりこぬかもとは、ふる衣はときあらひて、又打物なれは、そのことく、もとの道よりまた歸りこぬ物か。今やかてゆるされをかうふりて、かへりたまふへしといはへるなり。古哥のことはゝ、大やうにて、よく心を著されは聞かたし。此次に反歌一首と有ぬへきを、さもなきは、おちたるを、うつしつたへけるにこそ
 
(41)1020 王命恐見刺並國爾出座耶吾背乃公矣《オホキミノミコトカシコミサシナミシクニニイテマスヤワカセノキミヲ》
 
刺並之、【別校本云、サシナミノ、】
 
腰の句は別校本の點然るべし、第九に上總末珠名娘子をよめる歌にも、措並隣之君者といへる指並もサシナミノとも讀べし、此歌は上に引乙九卿の詩の題に在京故人と云ひ舊識と云へる人の、紀州までなごりを惜みて送てよめるに依て、兩國は共に南海にて、さしも遠からねば、さしなみの國とはよめるなるべし、落句はワガセノキミハと讀べきにや、矣の字中に有てはヲ〔右○〕とよめることもあれど此は助語に置たるまでも有べければきみを〔三字右○〕ともきみは〔三字右○〕ともよむに妨なかるべければ、きみを〔三字右○〕とよみてはを〔右○〕の字意得がたければきみは〔三字右○〕とよむべき歟とは申すに侍り、
 
初、大きみのみことかしこみ さしなみしは右の哥につきて注せることし。わかせの君をといへるは、わかせとたのむ君なる物をといへるこゝろなり。これはともたちなる人の、きのくにまてもなこりをしたひてよめるにこそ。今の世は土佐へもなにはよりこそ舟にて出たつを、昔はきのくによりもわたれるなるへし
 
1021 繋卷裳湯湯石恐石住吉乃荒人神舩舳爾牛吐賜付賜將島之埼前依賜將礒乃埼前荒浪風爾不令遇草菅見身疾不有急令變賜根本國部爾《カケマクモユヽシカシコシスミノエノアラヒトカミフナノヘニウシハキタマヒツキタマハムシマノサキサキヨリタマハムイソノサキサキアラナミノカセニアハセスツヽミヤマヒアラセススミヤカニカハリタマハネモトノクニヘニ》
 
(42)荒浪、【別校本、アラキナミ、】
 
繁は今按繋を誤れるなるべし、荒人神は和名云、日本紀云、現人神、【和名、安良比止加美、】今荒人神の字は假てかけり、あらはれたる人神の心なり、雄略紀には葛木の一言主の神の御詞に帝を指て現人之神とのたまへども、神にも人にも亘て云詞にや、神功紀を見るに、住吉神に和魂荒魂あり、荒魂は長門の山田の邑にいはゝれたまひ和魂は住吉にいはゝれたまふ、和魂は内典の法身の如く荒魂は應身の如くなる歟、然れば荒魂をばあら人神と云べし、和魂をばさは云まじく聞ゆれど實には和魂も、荒魂も顯現の上の麁細にて何れをもあらひとがみと云なるべし、島ノサキ/\、礒ノサキ/\は古事記上須勢理※[田+比]賣の御歌に云、夜知富許能加微能美許登夜《ヤチホコノカミノミコトヤ》、阿賀淤富久邇奴斯許曾波《アカオホクニヌシコソハ》、遠邇伊麻世婆《ヲニイマセハ》、宇知微流斯麻能佐岐邪岐加岐微流伊蘇能佐岐淤知受《ウチミルシマノサキサキノカキミルイソノサキオチス》、和加久佐能都麻母多勢良米《ワカクサノツマモタセラメ》云云、荒浪はラヲキナミと點ぜる本まさるべし、但風によりてたてば、あらなみの風とつゞけむ事も何かあらむ、草ツヽミ、ヤマヒとつゞくるは説文云、恙(ハ)一曰蟲名、入v腹食2人心(ヲ)1、古人草居被2此害1、故相問無v恙乎、此意なるべし、又神代紀下云、乃以v草※[果/衣]v兒、棄2之海邊1、閉2海途1而径去矣、此意歟、されども、此はやまひと云につゞかず、身疾不有は今按ミヤマヒアラズとも讀べきか、令變賜根は今按これをばカヘシ(43)タマハネと讀べし、今の點は字にも叶はず意も得られぬなり、此歌も友だちのよめるなるべし、以下二首は乙丸卿の歌なり、
 
初、かけまくも 繋の字を誤て繁につくれり。すみのえのあら人神、あら人神はあらき心にはあらす。あらはるゝなり。和名集云。日本紀云。現人神【和名安良比止加美。】神代紀上云。伊弉諾(ノ)尊既(ニ)還(テ)乃追(テ)悔(テ)之|曰《ノ》。吾《アレ》前(ニ)到(ル)2於|不須《イナ》也|凶目※[さんずい+于]穢《シコメキキタナキ》之處(ニ)1。故《カレ》當(ニ)v滌2去《アラヒステントノタマヒテ》吾《アカ》身之|濁穢《ケカラハシキモノヲ》1則往(テ)至(タマフ)2筑紫(ノ)日向(ノ)小戸《ヲドノ》橘(ノ)之※[木+意](カ)原(ニ)1。而|祓除《ミソキシタマフ》焉。〇又沈2濯《スヽク》於|海《ワダノ》底1。因以生(ル)神(ヲ)號(テ)曰(ス)2底津|少童《ワタヅミノ》命(ト)1。次底筒男(ノ)命。又|潜《カツキ》2濯於潮(ノ)中(ニ)1。因以生神(ヲ)號(ケテ)曰(ス)2表《ウハ》中津少童(ノ)命(ト)1。次中簡男(ノ)命。又浮2濯於潮(ノ)上(ニ)1。因以生神號曰2表津少董命(ト)1。次表筒男命(ノ)。凡(テ)有(マス)2九(ハシラノ)神1兵。其底筒男(ノ)命中筒男(ノ)命表筒男(ノ)命(ハ)是(レ)即住(ノ)吉《エノ》大(ン)神(ナリ)矣。神功皇后紀云。既(ニシテ)而神有誨(コト)曰。和魂《ニキミタマハ》服《シタカヒテ》2玉身《ミツイテニ》1而守2壽命《ミイノチヲ》1、荒魂(ハ)爲《シテ》2先鋒《サキト》1而導2師《ミ ノ》船(ヲ)1【和魂此云2珥岐弭多摩1。荒魂此云2阿邏瀰多摩1。】即得(テ)2神(ノ)教(ヲ)1而|拜禮《ヰヤヒタマフ》之。
因以2依網《ヨサミノ》吾彦《アレヒコ・アヒコカ》男|垂《タリ》見(ヲ)1爲2祭|神主《カムヌシト》1。亦云。亦表筒男、中筒男、底筒男三(ハシラノ)神誨之曰。吾和魂(ヲハ)宜v居2大津渟中倉《オホツノヌナクラノ》之長|峽(ニ)1。使因(テ)看2往來《カヨフ》船(ヲ)1。於v是|隨《マヽニ》2神(ノ)教(ノ)1以鎭|坐《マサシム》焉。則平(ニ)得(タマヘリ)v度(コトヲ)v海(ヲ)。續日本紀云。延暦三年六月辛丑叙2正三位住(ノ)吉(ノ)神(ヲ)勲二等(ニ)1。同十二月丙申叙(ス)2住吉神(ヲ)從二位(ニ)1。牛はきたまひ、第五卷好去好來哥に注しき。荒波《アラナミノ》、これをはあらき浪ともよむへし。さよめは荒きといふ詞、次句の風にもわたるなり。あはせすを、不令遇とかけるは、あはしめすといふ心なれはなり。草つゝみやまひあらせす、これも好去好來哥に、つゝみなくさきくいましてとありしにおなし。説文曰。恙(ハ)一曰蟲(ノ)名、入(テ)v腹(ニ)食2人(ノ)心(ヲ)1。古(ノ)人草居(シテ)被2此害(ヲ)1。故(ニ)相(ヒ)問(テ)無(シヤトイフ)v恙乎。草つゝみといふは此こゝろなるへし。令變をかはりとよめるは誤なり。かへしとよむへし。これも友の哥なるへし
 
1022 父公爾吾者眞名子叙妣刀自爾吾者愛兒叙參昇八十氏人乃手向爲恐乃坂爾幣奉吾者叙追遠杵士左道矣《チヽキミニワレハマナコソハヽトシニワレハマナコソマウノホリヤソウチヒトノタムケスルカシコノサカニヌサマツリワレハソオヘルトホキトサチヲ》
 
初の四句は神に告てつゞがなからむことを祈らるゝ意あるべし、參昇は今按マヰノボルとよむべし、官位に昇進せる氏々の人々の送るなり、身不肖にして殊に罪有て配流せらるれども、父も母も人のいやしまぬ家に生れたるに依て父母の庇蔭にて然るべき人々かゝる折にも捨ずして送り來て我ために神に幣をも奉りて平安を助くとなり、恐乃坂も大和なり、天武紀上云、坂本臣財等、自2高安城1降、以渡2衛我河1、與2韓國1戰2于河西1、財等衆少不v能v距、先v是、遣2紀臣大音1、令v守2懼坂道1、於v是財等退2懼坂1、而居2大音之營1、かゝれば此懼坂は又打山にありて、大音は紀路より廻り來る敵やあらむと堅めける歟、上の歌と引合せて按ずるにかゝるべし、我ハゾオヘルとは土左日記にも多し、海路にいへる詞なり、
 
初、ちゝきみにわれはまなこそ これは乙麿卿の哥なり。初の四句にて、神につげて、無事を祈申さるゝなり。まうのほりは、まうのほるとよむへし。官位に昇進せる氏々の人々の送るなり。恐の坂にぬさまつり、かしこの坂はやまとなり。天武紀云。坂本臣財等自2高安城1降以衛我河(ニシテ)與2韓国1戦2于河(ノ)西(ニ)1。財等衆少(シテ)不v能v距(クコト)。先v是(ヨリ)遣《マタシテ》2紀(ノ)臣大|音《オトヲ》1、令v守(ラ)2懼坂(ノ)道(ヲ)1。於v是財等退(テ)2懼坂(ニ)1而居(レリ)2大音之|營《イホリニ》1。まつち山にありて、紀伊の國より敵のせめ來るやと、防かんためなるへし。しかれは、それより南海道にこゆれはぬさをまつるなり
 
反歌一首
 
(44)1023 大埼乃神之小濱者雖小百舩純毛過迹云莫國《オホサキノカミノヲハマハセハケレトモヽフナヒトモスクトイハナクニ》
 
大崎(ノ)神(ノ)小濱は紀州なるべし、第十二にも大埼のありそのわたりはふ葛とよみたれど、それは考る所なし、第七に塩みたばいかにせむとか方便海の、神が手渡るあまの未通女らとよめる歌紀州の名所をよめる歌の間にあり、これ唯海神とも云べけれど又所の名を兼たらむも知べからず、又第九に白神の礒とよめるも紀州なればこれらにや、又第七に神前と書てミワノサキとよめるも紀州なれば、今もミワノ小濱とよみて其所ならむも亦知べからず、歌の意は、大埼にある神の小濱はせばき所なれど、見るにあかず面白き所なれば、おほくの舟人も此につどひてよそへ過て行とはきかぬに、我は譴責を蒙れる身なれば留まるべきやうもなければ獨過て行となり、此卷下に、まそかゞみ敏馬の浦は百舟の、過て行べき濱ならなくに、是を思ひ合すべし、歌のことわりに依るに定て紀州なり、百船純は此卷下にも同じくかけり、純をヒトと訓ずるやう考る所なし、
 
初、大埼の神の小濱はせはけれと此大埼は、かんかふる所なし。第十二にも大埼のありそのわたりはふくすのゆくゑもなくやこひわたりなんとよめり。神の小濱は土左なりといへり。されとこれも、土左へなかさるゝ人なるによりてのおしはかりなるへし。此哥土左にしてはこゝろえかたし。これは紀のくになるへきにや。哥の心は、大埼にある神の小濱はせはき所なれと、見るにあかすおもしろき所なれは、あまたのふな人も、こゝにこそりつとひて、よそへ過てゆくとはいはぬに、我は科ある身なれは、ひとり過て行となり。下の四十七葉に、ますかゝみ見ぬめの浦は百舟の過てゆくへき濱ならなくに。此哥の心をおもひ合すへし。又神之小濱とかけるをは、みわの小はまとよむへきにや。第七に、みわのさきあらいそも見えす浪立ぬとよめる哥に、みわのさきに神前とかけり。紀伊國の名所なり。此所にや。百舟純は、下の四十七葉にも、おなしくかけり。純の字人とよむへきこと未考。もし人(ハ)純也なと釋せること有にや。人は純粹の氣を受物は駁難の氣を受る意にてかけるにや
 
秋八月二十日宴右大臣橘家歌四首
 
(45)第八にも此宴の歌七首あり、彼は時の歌、此は雜なる故に分て載たり、
 
初、右大臣橘家 聖武紀云。十年正月庚午朔授2正三位1拜(ス)2右大臣(ニ)1
 
1024 長門有奥津借島奥眞經而吾念君者千歳爾母我毛《ナカトナルオキツカリシマオキマヘテワカオモフキミハチトセニモカモ》
 
奥眞經而、【別校本亦云、オクマヘテ、】
 
借島を八雲御抄には備前と注せさせ給へど、長門守なる人の長門なるとよめれば彼御本損じたるを後人みだりに補へるにや、奥津を承て奥眞經而といへり、オクマヘテと點じたる本然るべきか、おくまへては奥深きを云へり、源氏物語に、すこしおくまりたる山住などもせでと明石入道の事をかけり、
 
初、長門なるおきつかりしまおきまへて 此かりしまを、八雲御抄に備前と注せさせたまへるは、彼御本後人加減して、そこなへるにや。對馬朝臣長門守なるゆへに、彼國の名所をかりて序とせるなり。おきまへてはおくまへてともよむへし。此集に猶有詞なり。おくまへては、遠くふかきをいへり。源氏物語に、すこしおくまりたる山すみなともせてと、明石入道の事をかけるこれにおなし。長門なるといへる初のいつもし、下のちとせにもかもといへるにかなひてきこゆ
 
右一首長門守巨曾倍對馬朝臣
 
聖武紀云、天平四年八月丁酉、山陰道節度使判官巨曾倍津島授2外從五位下(ヲ)1、巨曾倍は日本紀に社部ともかゝれたり、
 
初、巨曾部對馬 聖武紀云。天平四年八月丁酉、山陰道節度使判官巨曾倍津島授2外從五位下1。【對馬者津島之義也。是亦一證也】
 
1025 奥眞經而吾乎念流吾背子者千年五百歳有巨勢奴香聞《オキマヘテワレヲオモヘルワカセコハチトセイホトセアリコセヌカモ》
 
我を奥まへて千歳にもと祝ふ人はみづから先同じくながらふべきことわりなれば、千年も五百歳も有て過越ざらんや、ありこさん物ぞとなり、
 
初、おきまへて我をおもへる わか命をなかくもかなとおくまへて祝ふ人も、ともに五百歳も千年も有て過ぬものか。ともにあらんといはひかへせるなり
 
(46)右一首右大臣和歌
 
1026 百磯城乃大宮人者今日毛鴨暇無跡里爾不出將有《モヽシキノオホミヤヒトハケフモカモイトマナケレトサトニユカサラム》
 
磯、【官本作v礒、】  暇無跡、【別校本云、イトマモナシト、】
 
暇無跡はイトマヲナミトと讀べきか、里とは豐島釆女が親の家なるべし、久しく里にもおりねば親の事などのおぼつかなさに、今日さへや暇なくてえおりぬらんとなり、
 
初、暇無跡 いとまをなみとゝもよむへし。大宮人といへるは、豐嶋采女かみつからの上をいへるにや。けふもいとまなくて、里にもえをりすあらむなり。たゝし下に當時當所口吟此哥歟といへり。右大臣家の宴にあつかれるにや。右大臣家も、里といふへけれは、いとまなしといふ詞、心得かたし。又ひころは宮つかへにいとまなく、けふは宴にあつかりて、里にをりはやとおもへと、そのいとまなしといふ心歟。さとゝはおやの家をいふなるへし
 
右一首右大臣傳云故豐島釆女歌
 
此は釆女が此宴の時讀けるを采女が死して後右大臣の家持に語たまへるなり、天平十年正月に右大臣となり、十五年五月に左大臣となり給へば其間に傳へきかれけるなるべし、此注諸兄公撰者ならぬ證なり、
 
初、右一首右大臣 これ右大臣の家持に後にかたられたるを、しるす詞なり
 
1027 橘本爾道履八衢爾物乎曾念人爾不所知《タチハナノモトニミチフミヤチマタニモノヲソオモフヒトニシラレス》
 
此歌、第二に、上を橘の蔭ふむ道の、下を妹にあはずてとて既に出たり、釆女が歌にて、八ちまたに物思ふとは、上の歌に、暇なくて久しく里にもえおりぬ由あればそこを(47)云なるべし、
 
初、橘のもとにみちふみ 第二に此哥あり。それには初を、橘のかけふむみちのといひ、結句を、いもにあはすてといへり
 
右一首右大弁高橋安麿卿語云故豐島釆女之作也但或本云三方沙彌戀妻苑臣作歌也然則豐島釆女當時當所口吟此歌歟
 
安麿はいまだ詳ならず、此も後に安麿の家持に語られたるなるべし、但或本以下は家持の料簡なり、苑臣の下に、生羽女、此三字を落せる歟、但なくても事足れり、然則以下は三方沙彌が歌に定て采女が當意に句を云ひ替て誦したるかとなり、
 
初、右一首右大辨高橋安麿卿語云 これまた家持の詞なり。苑臣の下に、生羽女の三字を落せる歟。むかしは女も氏をもてよひけれは、其例歟
十一年巳卯
 
天皇遊※[獣偏+葛]高圓野之時小獣泄走堵里之中於是適値勇士生而見獲即以此獣獻上御在所副歌一首【獣名俗曰牟射佐妣】
 
堵の字の事第一に高市古人丸が歌の題に近江舊堵とあるに注せしが如く今も都里なり、
 
(48)1028 大夫之高圓山爾迫有者里爾下來流牟射佐妣曾此《マスラヲノタカマトヤマニセメタレハサトニヲリケルムサヽヒソコレ》
 
發句はマスラヲガとも讀べし、六帖には里におちたるむさゝびのこゑとて載たり、改たるなり、
 
右一首大伴坂上郎女作之也但未※[しんにょう+至]奏而小獣死斃因此獻歌停之
 
斃、玉篇云、平世切、仆也、死也、
 
十二年庚辰
 
冬十月依太宰少貳藤原朝臣廣嗣謀反發軍幸于伊勢國之時河口行宮内舍人大伴宿彌家持作歌一首
 
聖武紀云、天平九年九月己亥、從六位上藤原朗臣廣嗣、授2從五位下1、十年四月爲2大養徳守1、式部少輔如v故、同十二月丁卯、爲2太宰少貳1、十二年八月癸未、太宰少貳從五位下藤原明臣廣嗣上表、指2時政之得失1、陳2天地(ノ)之災異(ヲ)1、因以v除2僧正玄※[日+方]法師、右衛士督從(49)五位下下道朝臣眞備1爲v言、九月丁亥、廣嗣遂起v兵反、勅以2從四位上大野朝臣東人1爲2大將軍1、從五位上紀朝臣飯麻呂爲2副將軍1、軍監軍曹各四人、徴2發東海東山山陰山陽南海五道軍一萬七千人1、委2東人等1、持v節討v之、幸2于伊勢國1之時〔七字右○〕、又紀云、冬十月壬申、任2任造伊勢國行宮司1、丙子、任2次第司1、以2從四位上鹽燒王1爲2御前長官1、從四位下石川王(ヲ)爲2御後長官1、正五位下藤原朝臣仲麻呂爲2前騎兵大將軍1、正五位下紀朝臣麻路爲2後騎兵大將軍1、徴2發騎兵、東西史部、秦忌寸等※[手偏+總の旁]四百人1、己夘勅2大將軍大野朝臣東人等1曰、朕縁v有v所v意、今月之末、暫往2關東1、雖v非2其時1、事不v能v已、將軍知之、不v須2驚怖1、壬午行2幸伊勢國1、以2知太政官事兼式部卿正二位鈴鹿王、兵部卿兼中衛大將正四位下藤原朝臣豊成1爲2留守1、是日到2山邊郡竹谿村堀越頓宮1、癸未車駕到2伊賀國名張郡1、十一月甲申朔、到2伊賀郡阿保頓宮宿1、大雨途泥人馬疲煩、乙酉、到2伊勢國壹志郡河口頓宮1、謂2之關宮1也、丙戌、遣2少納言從五位下大井王并中臣忌部等1、奉2幣帛於大神宮1、車駕停2御關宮1十箇日、是日、大將軍東人等言、進士无位安倍朝臣黒麿以2今月二十三日丙子1、捕2獲賊廣嗣於松浦郡値嘉嶋長野村1、詔報今覽2十月二十九日奏1、知v捕2得逆賊廣嗣1、其罪顯露、不v在v可v疑、宜2依v法處决然後奏聞1、丁亥、遊2獵于和遲野1、免2當國今年租1、戊子、大將軍東人等言、以2今月一日1、於2肥前國松浦郡1斬2廣嗣綱手1已訖、
 
初、廣嗣 聖武紀云。天平九年九月己亥從六位上藤原朝臣廣嗣授2從五位下1。十年四月爲2大養徳守1。式部少輔如v故。同十二月丁卯爲2太宰少貳1。十二年八月癸未太宰少貳從五位下藤原明臣廣嗣上v表、指(シ)2時政之得失(ヲ)1、陳2天地之災異(ヲ)1。因以(テ)v除(ヲ)2僧正玄※[日+方]法師右衛士督從五位下下道(ノ)朝臣眞備(ヲ)1爲v言(ト)。九月丁亥廣嗣遂(ニ)起(シテ)v兵(ヲ)反 在補脱。大將軍東人等言(ス)。進士無位安倍朝臣黒麿以2今月二十三日丙子(ヲ)1捕(ヘ)2獲(タリ)賊廣嗣(ヲ)於松浦郡値嘉嶋長野村(ニ)1。詔報。今覽(テ)2十月二十九日(ノ)奏(ヲ)1知(ヌ)3捕(ヘ)2得(タルコトヲ)逆賊廣嗣(ヲ)1。其罪顯露(ニシテ)不v在(ラ)v可(ニ)v疑(フ)。宜(シク)2依(テ)v法(ニ)處(シテ)v決(ニ)然(シテ)後奏問(フ)1。戊子大將軍東人等言(ス)。以2今月一日(ヲ)1於2肥前國松浦郡1斬(コト)2廣嗣綱手(ヲ)1已(ニ)訖(ヌ)。〇又以2今月三日(ヲ)1差(シテ)2軍曹海犬養五百依(ヲ)1發遣《タテマタシテ》令v迎(ヘ)2逆人廣嗣(カ)之從三田兄人等二十餘人(ヲ)1。申(シテ)云。廣嗣(カ)之船從2知駕島1發得2束風1往四个日行見v嶋。船上(ノ)人云是(レ)耽羅嶋也。于v時東風猶扇船留2海中1不v肯2進行1。漂蕩已經(タリ)2一日一夜(ヲ)1。而(シテ)西風卒(カニ)起(テ)更吹2還船1。於v是廣嗣|自《ミ》捧(テ)2驛鈴一口(ヲ)1云。我(ハ)是大忠臣也。神靈【豈歟何歟】棄v我哉。乞頼2神力1風波暫靜。以v鈴投v海。然猶風波彌甚(シテ)遂著2等保知駕嶋色都島1矣。廣嗣式部卿馬養之第一子也。幸2于伊勢國1之時。聖武紀云。冬十月壬申任(ス)d造(ル)2伊勢國(ノ)行宮(ヲ)1司(ヲ)u。丙子任(ス)2次第司(ヲ)1。己卯勅大將軍大野朝臣東人等曰。鎭緑有所意、今月之末暫往関東、雖非其時事不得已。將軍知之、不須恐怖。壬午行2幸伊勢國1。乙酉到(リタマフ)2伊勢國壹志郡河口(ノ)頓宮(ニ)1。謂2之(ヲ)關(ノ)宮(ト)1也。丙戌遣從五位下大井王并中臣忌部等奉幣帛於太神宮。事駕停(テ)御(マスコト)2關宮(ニ)1十箇日
補脱。九月丁亥廣嗣遂起v兵反。勅以2從四位上大野朝臣東人1爲2大將軍1。從五位上紀朝臣飯麻呂爲2副將軍(ト)1。軍監軍曹各四人。徴2發東海、東山、々陰、山陽、南海五道軍一萬七千人1委(シテ)2東人等(ニ)1持v節討(シム)v之。十月丙子任2次第司(ヲ)1。以2從四位上鹽燒王(ヲ)1爲2御前(ノ)長官(ト)1。從四位下石川王(ヲ)爲2御後長官(ト)1。正五位下藤原朝臣仲麻呂《惠美押勝也》(ヲ)爲2前騎兵大將軍(ト)1。正五位下紀朝臣麻路爲2後騎兵大將軍1。徴2發騎兵、東西(ノ)史部、秦(ノ)忌寸等惣四百人1。壬午行2幸伊勢國1。以2知太政官事兼式部卿正二位鈴鹿王、兵部卿兼中衛大將正四位下藤原朝臣豊成1爲2留守1。是日到2山邊郡竹谿村掘越頓宮1。癸未車駕到2伊賀國名張郡1。十一月甲申朔到2伊賀國阿保頓宮1宿。大雨途泥人馬疲煩。乙酉○丁亥遊2獵于和遲野1免2當國今年租1。乙未從2河口1發到2壹志郡1宿。丁酉《十四日》進到2鈴鹿郡赤坂頓宮1
 
(50)1029 河口之野邊爾廬而夜乃歴者妹之手本師所念鴨《カハクチノノヘニイホリテヨノフレハイモカタモトシオモホユルカモ》
 
タモトシのし〔右○〕は助語なり、
 
天皇御製歌一首
 
1030 妹爾戀吾乃松原見渡者潮干乃潟爾多頭鳴渡《イモニコヒワカノマツハラミワタセハシホヒノカタニタツナキワタル》
 
妹を戀る我、とつゞけさせ給ひて御心にも皇后を戀思しめすべし、下の句は、たづの妻とたぐひて塩干の潟に所を得てゆくを旅にては羨みおぼしても御覽ずべし、
 
初、いもにこひわかの松原 いもに戀する我といひかけたり。第十七にわかせこをあか松原ゆ見わたせはとよめる哥有。これは名所にはあらて、只わかせこを待といふ心につゝけたり。筑紫よりのほる時の哥なれは名所にあらすとは知なり。此哥に准せは、わかの松原と中にのゝかなはへたゝりたれと、いもをこひてわか待といふ心につゝけさせたまふなるへし。すなはちしほひのかたに鳴わたるたつも、わかことく妻にこひてや啼わたるらんとなるへし。第十に風ふけはもみち散つゝしはらくもわか松原はきよからなくに。此哥はいもにこひなともいはすして、わか松原とよみたれは、此三重郡の吾松原にや。されとも此哥の次上に、いちしろくしくれの雨はふらなくに、大城山はいろつきにけりといふにつゝき、又第十七に筑紫よりのほる海路にて、さきのわかせこをあか松原とよみたれは、もし筑前にも吾松原あるにや
 
右一首今案吾松原在三重郡相去河口行宮遠矣若疑御在朝明行宮之時所製御歌傳者誤之歟
 
紀云、十一月丙午、從2赤坂1發到2朝明郡(ニ)1、此注の意は家持も御製を後に傳へきかるゝに河口行宮にて遊はさるゝ由なるに依て、歌に依てさにはあらじと料簡せらるゝなり、
 
初、御在朝明行宮之時 紀云。十一月丙午《廿三日》從2赤坂1發到2朝明郡1
 
丹比屋主眞人歌一首
 
(51)元正紀云、養老七年九月己印、出羽國司正六位上多治比眞人家主言云云、聖武紀云、神龜元年二月、從五位下、天平十二年十一月綬從五位上、孝謙紀云、勝寶六年春正月丁酉朔癸卯、天皇御2東院1、宴2五位已上1、有v勅召2正五位上多治比眞人家主、從五位下大伴宿禰麻呂二人於御前1、特賜2四位當色1、令v在2四位之列1、即授2從四位下1、 廢帝紀云、寶字四年三月癸亥、散位從四位下多治此眞人家主卒、桓武紀云、延暦八年十二月己丑、參議兵部卿從三位多治比眞人長野薨、大納言從二位池守之孫、散位從四位下家主之子也、又聖武紀を考るに、此度の御供に、十一月甲辰、於2赤坂頓宮1從五位上を授らる、
 
初、丹比眞人屋主【續日本紀書家主或屋主】元正紀云。養老七年九月乙卯出羽國司正六位上多治比眞人家主言云々。聖武紀云。神亀元年二月從五位下。天平十二年十一月從五位上。【甲辰二十一日於赤坂頓官授。】十三年八月爲2鑄錢長官1。十七年正月從五位上。【十二年既叙2從五位上1恐前後有v誤。】十八年九月從五位上多治比眞人屋主爲2備前森。二十年二月正五位下。孝謙紀云。勝寶元年閏五月爲2左大舍人頭1。三年正月正五位上。六年春正月丁酉朔癸卯、天皇御2東院1宴2五位已上1。有v勅召2正五位下多治比眞人家主、從五位下大伴宿禰麻呂二人(ヲ)於御前1特賜2四位當色1令v在2四位之列1即授2從四位下1。廢帝紀云。寶字四年三月癸亥散位從四位下多治比眞人家主卒。延暦八年十二月己丑、參議兵部卿從三位多治比眞人長野薨。大納言從二位池守之孫、散位從四位下家主之子也
 
1031 後爾之人乎思久四泥能埼木綿取之泥而將住跡其念《オクレニシヒトヲオモハクシテノサキユフトリシテヽスマムトソオモフ》
 
後ニシ人とは宿にある妻などなり、八雲御抄に、しでの崎、有v憚と注せさせ給へるは、此おくれにし人をなき人かと思食けむ、若四泥の崎の名をしでの山にまがへさせ給へるか、木綿取シデヽは取懸なり、神代紀上云、掘2天香山(ノ)之|五百箇《イホツノ》眞坂樹(ヲ)1而、下枝懸2青和幣、白和幣(ヲ)1云云、古事記上云、於2下枝1取2垂白丹寸手、青丹寸手(ヲ)1而、【訓v垂云2志殿1、】此集第十九には、鎭の字をシデヽとよめり、將住は今按將待にてまたむなるべきを待を住に誤(52)れるなるべし、ゆふ取しでゝ我平安ならむ事を神に祈て待らむとなり、かゝれば四泥の埼は、たゞよき名なり、
 
初、おくれにし人をおもはく 此おくれにし人といふは、奈良の京にある妻子なり。取してゝといふは、日本紀に懸の字をとりしてゝとよめり。此集第十九には、鎭の字をしでとよめり。ゆふをさか木の枝にも取かけ、又さらぬ所にもつけて、神をいはひてしつむるゆへに、ゆふしてといふも、しつむるをしてといふ用の詞を、躰にいひなせるなるへし。神代紀上云。中臣(ノ)連(ノ)遠(ツ)祖天(ノ)兒屋命、忌部(ノ)遠祖太玉(ノ)命、掘《ネコシニシ》2天(ノ)香山之五百|箇《ツノ》眞坂樹(ヲ)1而上枝|懸《トリカケ》2八坂瓊之五百|箇《ツ》御統《ミスマルヲ》1中(ツ)枝(ニハ)懸(カケ)2八|咫《タノ》鏡(ヲ)1下枝《シツエニハ》懸《トリシテヽ》2青和幣白和幣1相與(ニ)致其祈祷《ノミイノリマウス》焉。おなし懸の字を、幣にはとりしてゝとわきてよめるも心あるへし。すまんとそ思ふ。すむは居住にてゐる心なり。故郷にのこしをく妻子をおもひやるに、ゆふ取してゝ神を祭、わか何事なく歸るを待てゐんとそおもふなり。住の字は、もし待の字のあやまれるには有ましくや。してのさきは、今の所がらに、そのうへゆふ取してゝといはむための序なり。第四に、あこの山いほへかくせるさてのさきといへるを、伊勢の国といふ説は、此してのさきを、音を通せりと思ふにや
 
右案此歌者不有此行宮之作乎所以然言之勅大夫從河口行宮還京勿令從駕焉何有詠思沼埼作歌哉
 
有は在に作るべし、沼は泥を誤れり、此注は家持も此御供にて後に記せられたる事なれども不審なきにあらず、聖武紀を考るに十一月二日乙酉に河口頓宮に著せ給ひて十二日乙未に壹志河口を立て壹志郡に到てやどらせ給ひ、十四日丁酉に、鈴鹿郡赤坂頓宮に至りたまひ、廿一日甲辰に、丹比眞人屋主等に從五位上を授たまひ、又十七年正月に從五位上を授らるとあれば、十二年の紀誤れるにや、河口行宮より京へ還し給ふを赤坂まで御供の由かけると、十二年と十七年と兩處に從五位上を授らると記せると兩條如何、思泥の崎は何れの郡に在と云事をしらず、
 
初、不有 有は在の字なるへし。勅大夫、これは諸大夫を指歟。屋主一人を指歟。屋主なるへし。從2河口行宮1、これは家持の其時御供にて、後に、しるされたる事なれとも、不審なきにあらす。聖武紀を考ふるに、十一月二日乙酉に、河口頓宮に著せたまひて、十二日乙未に、河口《紀云壹志郡》より立て壹《・此紀文自語相違如何或郡下脱某頓宮等數字耶》志郡に到て、やとらせたまひ、十四日丁酉に、鈴鹿郡赤坂頓宮にいたりたまひ、廿一日甲辰に、丹比眞人屋主等に從五位上を授たまひ、廿三日丙午赤坂をたゝせたまひて、朝明郡に到たまひ、廿五日戊申、桑名郡石占頓宮に著せたまひ、廿六日己酉、美濃國當伎郡に到りたまへり。しかれは、赤坂頓宮まては、たしかに御供にて、廿一日從五位上を授たまへれは、してのさき伊勢の國にていつくとはしらねと、其間に有ぬへし。思泥埼、泥を沼につくれるは誤なり
 
狹殘行宮大伴宿彌家持作歌二首
 
(53)古事記云、開化天皇、日坐王、大俣王、曙立王此曙立王者、【伊勢品遲部君、伊勢之佐邪造之祖、】聖武紀云、十一月乙酉、到2壹志郡河口頓宮1、乙未、從2河口1到2壹志郡1宿、丁酉、進至2鈴鹿郡赤坂頓宮1、丙午、從2赤坂1發、到2朝朋郡1、戊申、至2桑名郡石占頓宮1、己酉、至2美濃國當伎郡1、此中に壹志郡河口より壹志郡に到て宿たまふと云は、若到2壹志郡狹殘行宮1宿と有けむを狹殘行宮を落しけるか、今の歌に志麻の海部ならしとよめるは赤坂に至らせ給ひて後はよまるべからねばなり、此理を以て推せば狹殘は壹志郡なり、
 
初、狹殘行宮 此行宮は聖武紀に不v載。紀云。乙未從2河口1發(テ)到(テ)2壹志郡(ニ)1宿(シタマフ)。河口の頓宮すてに壹志郡なるに、そこを立たまひて壹志郡に到て宿したまふとのみいはゝ、紀の文誤れり。案するに、到2壹志郡狹殘行宮(ニ)1宿(シタマフ)にて有けむを、今の印本の績日本紀、すへて誤脱の所おほけれは、狹殘行宮の名を脱せるなるへし。壹志郡ならんとおもふゆへは、此第二首の哥に、みけつ國しまのあまならしみくまのゝをふねにのりておきべ漕みゆとよめり。俊成卿の哥に、けふとてやいそなつむらんいせ嶋やいちしの浦のあまのをとめこともよみたまへり。志摩國は伊勢よりは西南にもや侍らん。彼國の案内しらぬ事なれと、こゝの哥によめるやう、壹志郡は志摩の國の方にちかき浦なるへし。十二日にそこを御覽して、十四日には鈴鹿の赤坂の頓宮にいたらせたまひて、志摩の國にそむきて、遠さかれは、其後いよ/\此哥あるへからす。此理をもて推すに、十二日にいたらせ給ふ行宮としられたり。狹殘は小竹《サヽ》のことくよむへき歟。下のさもしは濁るへき字なり。垂仁紀に、膽狹淺大刀《イササノタチ》といふ大刀の名あり。新羅國の王子|天日槍《アマノヒホコ》がもてこし八種の寶の内なり。狹淺の二字今の行宮の名に似たれは、ゆへはなけれとおもひ出るまゝにかきてつく
 
1032 天皇之行幸之隨吾妹子之手枕不卷月曾歴去家留《スメロキノミユキノマヽニワキモコカタマクラマカスツキソヘニケル》
 
六帖みゆきの歌に、おほきみのみゆきのまゝにわがせこがとて載たるは今の點にまさらず、
 
1033 御食國志麻乃海部有之眞熊野之小舩爾乘而奥部榜所見《ミケツクニシマノアマナラシミクマノヽヲフネニノリテオキヘコクミユ》
 
眞熊野之、【別校本云、マクマノヽ、】
 
御食國は上の如し、海部をアスと點ぜるは本はアマなりけるを書生の誤れるなるべし、眞熊野の舟も上に云が如し、奥部は奥邊なり、奥の方へと云にはあらず、
 
初、みけつくに みくまのゝ舟、皆此卷にすてに注せり
 
(54)美濃國多藝行宮大伴宿爾東人作歌一首
 
上に紀を引如く廿六日に到たまへり、多藝【多岐】は郡名なり、東人は廢帝紀云、寶字五年十月、爲2武部【兵部也】少輔1、七年正月甲辰朔壬子、以2從五位下大伴宿禰東人1爲2少納言1、光仁紀云、寶龜元年八月、爲2周防守1、五年三月、彈正弼、
 
初、多藝行宮 聖武紀云。己酉到2美濃國當伎(ノ)郡(ニ)1。大伴東人。廢帝紀云。寶字五年十月爲2武部《・兵部也》(ノ)少輔(ト)1。七年正月甲辰朔壬子、以2從五位下大伴宿禰東人(ヲ)1爲2少納言(ト)1。光仁紀云。寶龜元年八月庚寅朔辛亥爲2周防(ノ)守(ト)1。五年三月弾正弼
 
 
 
1034 從古人之言來流老人之變若云水曾名爾負瀧之瀬《ムカシヨリヒトノイヒクルオヒヒトノワカユテフミツソナニオフタキノセ》
 
荊州記云、※[麗+おおざと]縣北八里(ニ)、有2菊水1、其源旁悉芳(シ)、菊水(ハ)極甘馨、又中(ニ)有2三十家1、不2復穿1v井、即飲2此水1、上壽、百二十、三十、中壽、百餘、七十者、以爲v夭(ト)、元正紀云、養老元年八月甲戌、遣2從五位下多治比眞人廣足於美濃國1、造2行宮1、九月丁未、天皇行2幸美濃國1、甲寅、至2美濃國1、丙辰、幸2當耆郡多度山美泉1、戊午、賜2從v駕主典以上及美濃國司等物1有v差、十一月丁酉朔癸丑、天皇臨v軒詔曰、朕以2今年九月1到2美濃國不破行宮1、留連數日、因(テ)覽2當耆郡多度山美泉1、自盥2手面1、皮膚如v滑、亦洗2痛處(ヲ)1、無v不2除愈1、在2朕之身1其驗、又就而飲2浴之1者、或白髪反v黒、或頽髪更生、或闇目如v明、自餘(ノ)痼疾、咸皆平愈、昔聞、後漢光武時、禮泉出、飲v之者痼疾平愈、符瑞書曰、禮泉者美泉、可2以養1v老、葢水之精也、寔惟美泉、即合2大瑞1朕雖v痛v虚、何違2天※[貝+兄]1、可d大2赦天下1、改2靈龜三年1、爲c養老元年(ト)u、癸丑授2美濃守從四位下笠朝臣麻呂(ニ)從四位上(ヲ)1、十二月丁亥、令d(55)美濃國1立春曉※[手偏+邑]2體泉1而貢c於京都u、爲2醴酒1也、二年二月壬申、行2幸美濃國醴泉(ニ)1云云、
 
初、むかしより人のいひくるおい人の 荊州記云。[※[麗+おおざと]縣北八里有2菊水1。其源旁悉芳(ハシ)。菊水(ハ)極(テ)甘(ク)馨(ハシ)。又中(ニ)有2三十家1。不(シテ)2復(タ)穿(ラ)1v井(ヲ)即飲2此水(ヲ)1。上壽(ハ)百二十三十。中壽(ハ)百餘。七十(ノ)者(ハ)以爲v夭(ト)。元正紀云。養老元年八月甲戌、遣(シテ)2從五位下多治比眞人廣足(ヲ)於美濃國(ニ)1造(ラシム)2行宮(ヲ)1。九月丁未天皇行2幸美濃國(ニ)1。甲寅至2美濃國(ニ)1。丙辰幸2當耆《タキノ》郡多度山(ノ)美泉(ニ)1。戊午賜(コト)2從v駕(ニ)主典以上及(ヒ)美濃(ノ)國司等(ニ)物(ヲ)1有v差。癸亥帰至2近江園(ニ)1。甲子車駕還v宮。十一月丁酉朔癸巳天皇臨v軒詔曰。朕以2今年九月(ヲ)1到(テ)2美濃国不破行宮(ニ)1留連《・ツタヨフ日本紀》數日。因覽2當耆(ノ)郡多度山(ノ)美泉(ヲ)1自盥(フニ)2手面(ヲ)1皮膚如v滑(ナルカ)。亦洗(フニ)2痛處(ヲ)1無v不(トイフコト)2除愈(セ)1。在2朕(カ)之身(ニ)1其驗。亦就而飲浴之者或(ハ)白髪反(テ)黒(ク)、或(ハ)頽髪更生、或闇目如v明。自餘(ノ)痼疾咸皆平愈。昔聞後漢光武(ノ)時禮泉出。飲v之者痼疾平愈。符瑞書(ニ)曰。禮泉者、美泉(ナリ)。可2以養1v老(ヲ)。葢水之精也。寔(ニ)惟(ミレハ)美泉(ハ)即合(ヘリ)2大瑞(ニ)1。朕雖v痛(ムト)v虚(ヲ)何(ソ)違(セム)2天※[貝+兄](ニ)1可3大2赦(ス)天下(ニ)1。改(テ)2靈龜三年(ヲ)1爲2養老元年1。○癸丑授2美濃守從四位下笠朝臣麻呂(ニ)從四位上(ヲ)1。十二月丁亥令d2美濃國(ヲ)1立春(ノ)曉※[手偏+邑](テ)2體泉(ヲ)1而貢(セ)c於京都(ニ)u。爲2醴酒(ノ)1也。二年二月壬申行2幸美濃國(ノ)醴泉(ニ)1也。甲申從v観(ニ)百寮至(マテ)2輿丁(ニ)1賜(コト)2※[糸+施の旁]布錢(ヲ)1有v差。己丑行(テ)所(ロ)v經(ル)至(ルマテ)2美濃、尾張、伊賀、伊勢等(ノ)國郡司及(ヒ)外散位已上(ニ)1授(ケ)v位(ヲ)賜(フコト)v禄(ヲ)各有v差。三月戊戌車駕自2美濃1至
わかゆは俗にいふわかやくなり。第四之三十九、此下四十二葉にもよめり。第十二にもよめり。そこには若反とかきて、今の本にはわかゝへりとよめるを、ひとつにはこまかへるとよめり
 
大伴宿彌家持作歌一首
 
1035 田跡河之瀧乎清美香從古宮仕兼多藝乃野之上爾《タトカハノタキヲキヨミカムカシヨリミヤツカヘケムタキノノノウヘニ》
 
從古〔二字右○〕は今按イニシヘユと讀べし、從古宮仕ケムとは、美泉に依て行幸あれば、そこにて宮仕はしけむとなり、
 
初、田跡川 元正紀に、多度山といへるよりなかれ出る山川の上に、醴泉はわけるなるへし。今も養老の瀧ときこゆ。たきをきよみか昔よりみやつかへけむとは、妙美水《シミツ》を結ひたまはむとて、みゆきあれは、そこにて宮つかへするゆへにかくよめり
 
不破行宮大伴宿彌家持作歌一首
 
紀云、十二月癸丑朔、到2不破頓宮(ニ)1、
 
初、不破行宮 聖武紀云。十二月癸丑朔到(タマフ)2不破郡不破頓宮(ニ)1
 
1036 關無者還爾谷藻打行而妹之手枕卷手宿益乎《セキナクハカヘリニタニモウチユキテイモカタマクラマキテネマシヲ》
 
カヘリニダニモとは俗に立皈りに行て來むなど云詞なり、兼輔集に、方たがへける所に枕出したりけるを返すとて書つく、しきたへの枕に塵のゐましかば、立かへりにぞ人のとはまし、此集第十七に同じ家持の長歌に、近くあらば、還にだにも打行て、妹が手枕指かへて、寢てもこましを、玉鉾の道はし遠く、關さへにへなりてあれこそなどよまれたる、今と同じ、
 
初、關なくはかへりにたにも かへりにたにもは、俗に立がへりにゆきてこむといふ詞なり。ゆきつきて立なから物なといひて、そのまゝかへるをいへり。第十七、おなしぬしの長哥に、ちかくあらはかへりにたにも打ゆきて、妹かたまくらさしかへてねてもこましを、玉ほこのみちはしとほく、關さへにへなりてあれこそなとよめる、今とおなし
 
(56)十五年癸未
 
秋八月十六日内舍人大伴宿禰家持讃久邇京作歌一首
 
初、讃久邇京 聖武紀云。天平十三年十一月戊辰、右大臣橘宿禰諸兄|奏《マウサク》。此間(ノ)朝廷以(テカ)2何(ノ)名號(ヲ)1傳(ヘム)2於萬代(ニ)1。天皇勅(シテ)曰。號(ケテ)爲(ス)2大養徳恭仁《オホヤマトノクニノ》大宮(ト)1也
 
1037 今造久邇乃王都者山河之清見者宇倍所知良之《イマツクルクニノミヤコハヤマカハノキヨクミユレハウヘシラルラシ》
 
山河は清て讀べし、山と河となり、所知は今按シラスとも讀べし、
 
初、山かはの 河を清てよむへし。山と川となり。うへしらるらしは、けにもみかとのしろしめすらんとなり。しらるは御の字の心なり
 
高丘河内連歌二首
 
本姓は樂浪なり、元明紀云、和銅五年七月甲申、播磨國大目從八位上樂浪河内、動建2正倉(ヲ)1、能効2功續1、進2位一階1、賜2※[糸+施の旁]一疋、布三十端1、元正紀云、養老五年正月戊申朔庚午、詔2從五位上佐爲王、正六位下樂浪河内等1、退v朝之令v侍2東宮1焉、同月甲戌、詔賜2諸道博士物1、河内、文章(ノ)科、各賜2※[糸+施の旁]十五疋、絲十五※[糸+句]、布三十端、鍬二十口1、聖武紀云、神龜元年五月辛未、正六位下、樂浪河内、賜2高丘連1、 孝謙紀云、勝寶六年正月、五五位下、 稱徳紀云、神護景雲二年六月庚子、内藏頭高丘宿禰比良麻呂卒、其祖沙門詠、近江朝、歳次2癸亥1、自2百濟1歸化、文學振、河内、五五位下大學頭、神龜元年、改爲2高丘連1、比良麻呂、少遊2大學1、渉2覽書記1、景雲元年、賜2姓(ヲ)宿禰(ト)1、河内が事、紀中に猶處々に見えたり、引所の紀の文(57)落字あり、意を得て推量すべし、妙門詠とは詠の上下に落字あるべし、沙門にて渡り來るを才學を用たまはむために勅して還俗せしめ給ひて近江の朝なれば樂浪はさゞなみを氏に賜ひたる歟、又九夷の中に樂浪あり、百濟の人にて本姓樂浪なれば音にて呼氏歟、文學振の下にも、當世の字など落、河内の上には必父の字あるべし、
 
初、高丘河内連 本姓(ハ)樂《地名有樂浪不知音與訓何取讀》浪也。元明紀云。和銅五年七月甲申、播磨國大|目《サクワン》從八位上樂浪河内勤(テ)建2正倉(ヲ)1能效2功績(ヲ)1。進(メ)2位一階(ヲ)賜(フ)2※[糸+施の旁]一疋、布三十端(ヲ)1。元紀云。養老五年正月戊申朔庚午詔2從五位上佐爲(ノ)王〇正六位下樂浪河内〇等(ニ)1退(テハ)v朝(ヨリ)之令v侍(ヘラ)2東宮(ニ)1焉。甲戌詔賜2諸道(ノ)博士(ニ)物(ヲ)1。河内(ハ)文章(ノ)科、各賜2※[糸+施の旁]十五疋、絲十五※[糸+句]、布三十端、鍬二十口(ヲ)1。聖武紀云。神亀元年五月辛未、正六位下樂浪(ノ)河内(ニ)賜2高丘(ノ)連(ヲ)1。天平三年九月癸酉、外從五位下高丘連河内(ヲ)爲2右京(ノ)亮(ト)1。十七年正月外從五位上。十八年五月從五位下。九月伯耆守。孝謙紀云。勝寶三年正月從五位上。六年正月正五位下。稱徳紀云。神護慶雲二年六月庚子内藏頭 〇高丘宿禰比良麻呂卒(ス)。其祖沙門詠【恐脱字】近江朝歳次癸亥《二年》自2百濟1歸化(シテ)文學振【恐脱字】父河内(ハ)正五位下、大學(ノ)頭、神龜元年改爲2高丘連(ト)1。比良麻呂少(ヨリ)遊(テ)2大學(ニ)1渉2覽(ス)書記(ヲ)1。〇景雲元年賜2姓(ヲ)宿禰(ト)1
 
1038 故郷者遠毛不有一重山越我可良爾念曾吾世思《フルサトハトホクモアラスヒトヘヤマコユワレカラニオモヒソワカセシ》
 
超我可良爾、【別校本云、コユルカヽラニ、】  吾世思、【幽齋本、思作v之、】
 
一重山は第四の家持の歌にも有て注に云如く山の名なり、一重と云名につきて遠もあらずと云、故郷は寧樂なり、四の句はコユルガヽラニと點ぜるに依るべし、こゆるからになり、第十四にもえますがゝらにとよめり、からは第四に一夜のからにとよめる歌に注せし如く間なり、此歌は久邇京よりならへ歸て妻に逢て一重山は思へば名の如くなる物を、越る間に早くと急く心から思をせしとなり、
 
初、一重山 第四の五十五葉に、家持もひとへ山とよまれたるに注せり。これは久邇都より奈良へこゆるあひたの山の名なるへし。八重山五百重山なとに對すれは、一重山はやすく越ぬへき名なれは、名によせてよめり。第四にくはしく注しつ
 
1039 吾背子與二人之居者山高里爾者月波不曜十方余思《ワカセコトフタリシヲレハヤマタカミサトニハツキハテラストモヨシ》
 
(58)吾セコは妻をさせり、妻とたぐひてあれば思ふ事もなければ、山の高きに隱れて里に月は照らずともよしさもあらばあれとなり、闇はうく月夜はうれしき物なるを、月をもてれかしと思はぬとは深く妻に相見るを悦ぶ意なり、
 
初、わかせことふたりしをれは これはならへ歸りきてよめるなり。みきの哥とあはせてみるへし。此わかせこは妻なり。小町か哥に、よの中はあすか川にもならはなれきみとわれとか中したえすは。此哥と心の似たる哥なり
 
安積親王宴左少辨藤原八束朝臣家之日内舍人大伴宿彌家持作歌一首
 
1040 久堅乃雨者零數念子之屋戸爾今夜者明而將去《ヒサカタノアメハフリシクオモフコノヤトニコヨヒハアカシテユカム》
 
念子とは八束朝臣をさせり、
 
十六年甲申
 
春正月五日諸卿大夫集安倍蟲麿朝臣家宴歌一首 作者不審
 
今按作者不審の注は後の人の私にくはへたるべし、歌を思ふに主人の作なり、
 
1041 吾屋戸乃君松樹爾零雪乃行者不去待而將待《ワカヤトノキミマツノキニフルユキノユキヽハユカシマチニシマタム》
 
(59)待而、【別校本、而作v西、】
 
四の句は上の雪を承てゆきにはゆかじと云なるをユキヽハとあるは書生の失錯なり、待而將待は今按字のまゝによまばまちつゝまたむなり、此は松の木と云を承たり、然るをマチニシと點じたるは別校本の如く西なりけるを誤て而に作れるか、し〔右○〕は助語にて、待にまたむなり、歌の心は松の木の待にまたむ、迎にはふる雪の行にはゆかじとなり、第二に磐之姫の御歌に、迎かゆかむ待にはまたじとある、又古事記の歌に、迎をゆかむ、侍にはまたじ、此等を思ひてよまれたる歟、
 
初、わかやとのきみまつの木 此哥は宴に預れる人の、わか方へも、此人々の來て宴せよと思ふ心にてよめるなるへし。待而これをはまちつゝとよむへし。而の字此集につゝとよめる所あり。此下句は第二卷盤之姫御哥の心とおなし
 
同月十一日登活道岡集一株松下飲歌二首
 
活道岡は、第三に活道山とよめる處なり、
 
初、登2活道岡《イクメチノヲカニ》1 第三の五十八葉に活道山《イクメチヤマ》とよめり。山城國|相樂《サカラノ》郡なり、久邇郡のあたりなるへし。第三にいくめちとよめり
 
1042 一松幾代可歴流吹風乃聲之清者年深香聞《ヒトツマツイクヨカヘヌルフクカセノコエノスメルハトシフカキカモ》
 
聲ノスメルハとは老松に風の度る音は若木には替りて清て聞ゆれば幾代かへたるとなり、
 
初、一松 景行紀云。昔《サキニ》日本武尊|向《イテマセシ》v東之歳停2尾津濱1而|進食《ミヲシス》。是時|解《ヌキテ》2一劔(ヲ)1置2於松下1遂忘而去。今到2於此(ニ)1劔猶|存《ウセス》。故歌曰。烏《ヲ》波利珥、多陀珥霧伽弊流、比|苫兎麻兎《トツマツ》、阿波例比等兎麻兎、比苫珥阿利勢|磨《ハ》、岐|農《ヌ》岐勢摩之遠、多知浪|開《ケ》摩之|塢《ヲ》。隋煬帝老松詩云。古松唯一樹、森竦誰(ソ)成(サン)v林(ヲ)、獨留(メ)2塵尾(ノ)影(ヲ)1、猶横(タフ)2偃v蓋陰(ヲ)1、雲來(レハ)聚(メ)2雲色(ヲ)1、風度(レハ)雜(フ)2風音(ヲ)1、孤生(シテ)2小庭(ノ)裏(ニ)1、尚表(ス)2歳寒(ノ)心(ヲ)1
 
右一首、市原王作
 
(60)1043 霊剋壽者不知松之枝結情者長等曾念《タマキハルイノチハシラスマツノエヲムスフコヽロハナカクトソオモフ》
 
初、玉きはるいのちはしらす 松を結ふ哥は、第二卷に見えたり
 
右一首大伴宿禰家持作
 
松之枝、【官本云、マツカエヲ、】
 
第二十にも家持松のさえだを我は結ばなとはよまれたれど、松之枝はまつのみとは讀まじきにや、松がえを結と云には祝の中に朋友の交情を結ぶ意を兼べし、
 
傷惜寧樂京荒墟作歌三首 [作者不審
 
1044 紅爾深染西情可母寧樂乃京師爾年之歴去倍吉《クレナヰニフカクソミニシコヽロカモナラノミヤコニトシノヘヌヘキ》
 
紅は深く思染し心故かといはむためなり、第二十に之美爾之許己呂とあれば今も然よむべきか、に(モ)は助語、しみし心なり、年ノヘヌペキとは、かくてすまばいつまでも飽ずして住べき處の意なり、
 
初、紅にふかくそみにし 紅は、ふかく思ひしみにしといはむためなり。よろつの事。なるれはおほえす執著を生するゆへに、地獄の衆生も、出る時はなこりをおしむとかや。又我佛と思ふ心もつく物なれは、ならの都にありては、おほくの年をふとも、あく時はあらしとおもふは、紅のそむるにしたかひて、色のこくなることく、此都に住なれて、著したる意かと、みつからかへりみていへり。論語云。小人(ハ)懷(フ)v土(ヲ)
 
1045 世間乎常無物跡今曾知平城京師之移徙見者《ヨノナカヲツネナキモノトイマソシルナラノミヤコノウツロフミレハ》
 
今ゾ知とは中にも此寧樂の都は天地と共にあらむと思ひつるに此さへうつれば、(61)世の中何か常ならむと初て思ひ知る意なり、仁王經に國有何頼等の八偈に依て普明王の道を得られし事思ひ合すべし、
 
初、世間を常なき物と 智度論云。無常(ニ)有2二種1、一(ニハ)相續(ノ)法壊(スル)無常。二(ニハ)念々生滅(ノ)無常(ナリ)。此中に念々生滅はおほえかたし。相續の法の壊する時のみ、驚が、常の習なれは、奈良の都のうつされて、荒墟となれるをみて、今そ知とはいへり
 
1046 石綱乃又變著反青丹吉奈良乃都乎又將見鴨《イハツナノマタワカカヘリアヲニヨシナラノミヤコヲマタモミムカモ》
 
變著反、【仙覺抄、著作v若、寫本同v此、】
 
石綱は仙覺の云、蔦なりと、和名云、本草云、絡石一名領石、【和名、豆太、】蘇敬曰、此草苞2石木(ヲ)1而生、故以名v之、變著反は著は若に作れるよし、今の本は書生字の似たるに依てたがへたるなり、此詞第四にも此はてにも第十一十二にあるも皆若の字なり、袖中抄にわかえつゝとあるは字に叶はず、仙覺抄にわかえて青くなる意に青丹吉とつゞけたる由あれど古歌は然るべからず、蔦は枯ても亦わかなはえぬるにより、我身老て蔦の如くえわかゆまじければ寧樂京のもとの如く立かへり榮ゆるを見ざらむ事を歎てよめるなり、第三に帥大伴卿の、ほと/\にならの都を見ずか成なんとよまれたるに似たり、
 
初、いはつなのまたわかゝへり 石網は石にはふ蔦なり。和名集云。本草云。絡石、一名領石【和名豆太】蘇敬曰。此草苞(テ)2石木(ヲ)1而生。故以名v之。つたのかれても、また若はへするによりて、又わかゝへりとはいへり。わか身年も老たれは、ならの都の、もとのことくさかゆるを得見じ、あはれいかなる術をも得て、わかやきて、平城の京の立歸りさかゆるを見はやとなり。著は若の字の誤なり。上にわかゆてふ水そといふ歌にかけるにおなし。第四の三十九葉にも有。絡石又(ノ)名(ハ)石|※[魚+陵の旁]《レウ》。石龍藤。葉頭尖(ニシテ)而赤(キ)者(ヲ)名2石血(ト)1
 
悲寧樂故京郷作歌一首并短歌
 
(62)目録には故京の二字京故なり、或は異本に京なしと注せる本もあり、此に故京郷とあるに付て云はゞ、郷の字衍文なるべし、
 
初、悲寧樂故京郷 目録に寧樂京故郷とあるをよしとす。今は倒せり
 
1047 八隅知之吾大王乃高敷爲日本國者皇祖乃神之御代自敷座流國爾之有者阿禮將座御子之嗣繼天下所知座跡八百萬千年矣兼而定家牟平城京師者炎乃春爾之成者春日山御笠之野邊爾櫻花木晩※[穴/干]貌鳥者間無數鳴露霜乃秋去來者射鉤山飛火賀塊丹芽乃枝乎石辛見散之狹男牡鹿者妻呼令動山見者山裳見貌石里見者里裳住吉物負之八十伴緒乃打經而思並敷者天地乃依會限萬世丹榮將往迹思煎石大宮尚矣恃有之名良乃京矣新世乃事爾之有者皇之引(63)乃眞爾眞荷春花乃遷日易村鳥乃且立往者刺竹之大宮人能蹈平之通之道者馬裳不行人裳往莫者荒爾異類香聞《ヤスミシシワカオホキミノタカシキシヤマトノクニハスメロキノカミノミヨヨリシキマセルクニニシアレハアレマサムミコノツキツキアメノシタシラシメセトヤホヨロツチトモヲカネテサタメケムナラノミヤコハカケロフノハルニシナレハカスカヤマミカサノノヘニサクラハナコノクレカクレカホトリハマナクシハナクツユシモノアキサリクレハイコマヤマトフヒカクレニハキノエヲシカラミチラシサヲシカハツマヨヒトヨメヤマミレハヤマモミカホシサトミレハサトモスミヨシモノヽフノヤソトモヲノウチハヘテオモヒナミシケハアメツチノヨリアハムカキリヨロツヨニサカエユカムトオモヒニシオホミヤスラヲタノメリシナラノミヤコヲアラタヨノコトニシアレハスメロキノヒキノマニマニハルハナノウツロヒヤスクムラトリノアサタチユケハサスタケノオホミヤヒトノフミナラシカヨヒシミチハウマモユカスヒトモユカネハアレニケルカモ》
 
間無數鳴、【官本又云、マナクシハナキ、】  霧霜乃、【官本、乃作之、】  射鉤山、【官本、鉤作v駒、】  飛火我塊、【八雲御抄、トフヒカクマ、生駒山、在2清輔抄1、袖中庄、トフヒカクマ、】
 
高敷爲は今按タカシカスと讀べし、國ニシアレバのし〔右○〕は助語なり、所知座跡、今按シラシイマセドと讀べし、今の點は叶はざればなり、千年矣はチトセヲなり、今チトモヲとあるは書生の誤なり、春ニシナレバのし〔右○〕助語なり、※[穴/干]〔右○〕は※[穴/牛]〔右○〕に作るべし、射鉤山飛火我塊は、今按射鉤山をば、イカコヤマと讀べきか、先下の句を注して後其故を云べし、飛火賀塊は今の本に依れば烽隱なり、八雲御抄の意は烽之隈なり、塊と隈と似たれな何しが如何にまがひたるならん、飛火とは、又はすヽみ〔三字右○〕とも云、烽燧と云物なり、唐に軍起らむとする時外國の兵を召に遠き境に早く告知らせむ由なければ、烽燧とて兼て處を點し約を定め置て高き所に火を立ぬれば其を見て次第に立つヾけて一日一夜の間にも遠國に及ぶなり、是を習ひて我朝にも此烽を置れし事あり、天智紀云、是年【三年】於2對馬嶋壹岐嶋筑紫國等1置2防與1v烽、 元明紀云、和銅五年正月壬辰、廢2(64)河内國高安烽1、始置2高見烽及大倭國春日(ノ)烽1、以通2平城1也、此高見は何れの國と知らねど河内なるべし、高見の烽を傳へて春日にも擧るを見て平城に知らるゝやうに置れたるなるべし、和名集示、説文云、烽燧【峯遂二音、度布比、】邊有v警則擧v之、唐式云、諸置v烽之處、置2火臺1、々上挿v※[手偏+厥]、【音厥、俗云、保久之、】烽燧の事は令義解第五軍防令に詳に見えたり、飛火と云は急ぐ使を飛脚と云如く鳥の飛やうに早く遠方の事を告知らすれば飛火と云なり、すゝみとは、次を逐てすゝむに依て名づけたる歟、春日は平城の東に當れば、西にこそ立らるべき理なれど、軍防令云、凡置v烽、皆相去四十里、若有2山岡隔絶1、須2逐v便安置1者、但使v得2相照見1、不3必要限2四十里1、此に依に、四十里の限に叶へむ爲か、若は春日の方に立るが平城よりは能見えて便よければか、古今に春日野の飛火の野守と詠たるは烽を置に依てやがて名を負せたるなり、射鉤山とは烽は高き處に置習なれば、春日野に、さ云小山のあるなるべし、さてそれが陰を烽陰と云へばなるぺければ、愚意には今の本鉤と塊との兩字誤れるにはあらじと存ず、伊駒山には烽を置れたる事なく、又伊駒山より春日野までは、今の道三里除も有ぬべきを引つゞけて飛火隱と云はむ事も意得がたし、芽ノ枝ヲ、シガラミチラシとは、河に堰杙《ヰクイ》打て、竹柴などを横さまにからみつけて水の防にするを柵と云へば、鹿の萩原に入て打臥などすれば、萩(65)の折れ靡き横たはりてしがらみのさまになるを譬て云なり、古今に、秋萩をしがらみふせて鳴鹿とも、拾遺に、さをしかのしがらみふする秋萩とも、六帖に、秋萩の花の流るゝ川瀬には、しがらみかくる鹿の音もせずなどあまたよめり、打經而、思並敷者、打ハヘテとは絲をはへたる如く行末を兼て長く思ふなり、敷の字、今按シクと讀べき歟、數ある物をならべしきて明らかにかぞふる如く、多くの人々の此都は行末ながくあらむと兼て料り置意なり、依會限は、ヨリアヒノカギリとも讀べし、思煎石は|に〔右○〕は助語なり、今按、煎はいる〔二字右○〕と訓ずれば思入しと云に假てかけるか、思ひ入るとは何事にまれ其事に心をなして深く思を云なり、春花ノウツロヒヤスクとは、花の色の變ずるをも散をもうつろふと云は任ては同じ心なれば何れにもよせて云べし、神代紀下云|皇孫《スメミマ》因謂2大山|祇《ツミノ》神1曰、吾見2汝之女子1、欲2以爲1v妻、於v是大山祇神、乃使d2二女1持c百机飲食u奉v進云云、故磐長姫、大慙而詛之曰、云云、故其生兒必如2木華1之|移落《チリヲチナン》、一云、磐長姫耻恨而唾泣之曰、顯見蒼生者如2木(ノ)華之俄|遷轉《ウツロイテ》1當2衰去1矣、此世人短折之縁也、此中に移と遷とは同じ意なるに、移をばチルとよみ、遷をばウツロフとよめるにて知べし、村鳥の旦立往者は此詞下にも多し、俄に打つれて行を朝鳥によそへて云なり、古事記上に大己貴命の御歌にも、牟良登理能和賀牟禮伊那婆《ムラトリノワガムレイナバ》、比氣登理能和賀比氣伊那(66)婆《ヒキトリノワガヒキイナバ》などよませたまへり、往莫者、此莫は|な〔右○〕と|ね〔右○〕と通じて同じ義なればかけり、
 
初、櫻花このくれかくれ 第三鴨君足人か、香具山の歌にも、かすみ立春にいたれは櫻花このくれしけにとよめり。後々夏の歌に木の下やみといへるは、新樹のしけれるをいへり。春より陰のふかけれは、李嘉裕か詩に山木暗2殘春1と作れるおなし心に、このくれかくれといへり。かほ鳥第三赤人の歌に注せり。第十にも見えたり。いこま山、射駒を射鉤に作れるは誤れり。とふひかくれに、飛火賀塊とかけり。八雲御抄には飛火か隈【生駒山在2清輔抄1。】すてに隈の部に載させたまへは、古本は飛火賀隈と書けるを、隈を塊にあやまれるにや。されとも埴安池を奥義抄にも八雲御抄にも植安《ウヘヤスノ》池とあれは、これも古本より、魂の字なるを、隈と見あやまれるにや。いつれとも知かたし。又いつれも一義あり。とふひとは、烽燧といふものなり。もろこしに軍おこらんとする時、外國の兵をめすに、遠き堺を早く告知らせんよしなけれは、烽燧とて、高き所に火をたてぬれは、其を見て方々に立つつくれは、一日一夜の間にも、遠國に及ふなり。是をならひて我朝にも、此とふ火をゝかれし事有。天智紀云。是年【三年】於2對馬嶋、壹岐嶋、筑紫國等(2)1置2防《サキモリ》與(ヲ)1v烽《スヽミ》。元明紀云。和銅五年正月壬辰、廢2河内國高安(ノ)烽《スヽミヲ》1、始(テ)置2高見(ノ)烽及(ヒ)大倭國(ノ)春日烽(ヲ)1以通2平城(ニ)1。亦延暦十五年山城大和兩國相共便所置2彼烽燧1。管見抄云。思ふに烽火は高き山の便よきに置とあれは、ならの都の時春日野にもをかれしが、亦いこま山にもをかれしなるへし。くれはつちくれといふ字なり。烽火をゝくに、たかく土をつきて置ゆへなり。今案今の本にしたかはゝ、とふ火隱といふことなるへし。塊の字にはかゝはるへからす。又案するに、射鉤山とかけるは、ふるくより、射駒山とこゝろ得きたれと、彼春日野に烽火を立る小山なとの名にや。古今集にかすかのゝとふ火の野守とよみたれとも、とふ火は高き所にをかるへきなり。近江にいかこ山あれと、同名あるましきにあらねは、これをもいかご山とよむへきか。鉤はかぎともかこともよめり。あし事なり。簾をかくる鉤の類をいへり、ならよりいこまは遠きに、萩の枝をしからみちらしさをしかは妻よひとよめといへること、歌人の興とはいひなかち、伊駒山はならよりは今の道三里あまりあれは、あまりなるやうにおほゆるうへに、伊駒にも烽火を置れつらんといふは、此歌によりてのをしはかりにて、国史にも見えぬことなり。烽燧は、和名集云。烽燧【火※[木+厥]附】説文云。烽燧【峯遂(ノ)二音。度布比。】邊有v警則擧v之。唐式云。諸(ソ)置v烽之處置2火臺1々上插v※[木+厥]【音厥。俗云保久之。】令義解第五、軍防令云。凡(ソ)置(コト)v烽(ヲ)皆相去(ルコト)四十里。若有(テ)2山岡隔絶(スルコト)1須2逐v便安置1者但使(メヨ)v得2相(ヒ)照(シ)見(ルコトヲ)1。不(レ)3必要《カナラス》限(ラ)2四十里1。凡(ソ)烽(ハ)晝夜分(テ)v時候望(セヨ)。若須(ラク)v放(ツ)v烽(ヲ)者晝(ハ)放v烟(ヲ)夜(ハ)放v火(ヲ)。其烟盡2一刻1火盡2一炬1。【謂刻者漏刻也。炬者束薪也。文云、烟(ハ)盡(ソ)2一刻ゐ1火盡2一炬(ヲ)1。前烽不v應者即知此外亦不可更放也。】前烽不v應者即差2脚力1往告2前烽1問2知失v候所由1、速申2所在(ノ)官司(ニ)1。【謂前烽所v隷之國司也。】凡有(テ)2賊入(ルコト)1v境(ニ)應2須放(ツ)1v烽(ヲ)者、其賊衆(ノ)多少烽數(ノ)節級並(ニ)依(レ)2別式(ニ)1。凡烽置2長二人(ヲ)1【謂縱一國有2一烽1者猶置2長二人1若有2二烽1者亦置2四人1也。※[手偏+僉]※[手偏+交]三烽以下唯不(レ)v得v越(コトヲ)v境(ヲ)。國司管(テ)d所部人(ノ)家口重大(ニシテ)堪(タラン)2※[手偏+僉]※[手偏+交](ニ)1者(ヲ)u充(ヨ)。若無者通2用散位勲位1【謂外六位勲七等以下也。】分v番上下三年(ニ)一(タヒ)替(ヨ)。交替之日令(テ)d教(テ)2新人1通解(セ)u然(シテ)後相代(レ)。其烽須2修理(ス)1皆役(セヨ)2烽子(ヲ)1。自(ハ)v非(サル)2公事(ニ)1【謂除2烽事1以外皆爲v非2公事1也。】不(レ)v得2輙離(ルヽコトヲ)所(ヲ)v守。凡烽各配2烽子四人1。各無v丁處通取2次丁1【謂雖是次丁同正丁法不可取八人也。】以v近及v遠均分(シテ)配番(シ)【謂以2二人1爲2一番1也】以v次上下(セヨ)。凡置v烽之處火炬各相去二十五歩【謂烟相去又同也。必令d2火炬1相去u者、欲2多少之數分明易1v見也。】如《モシ》有2山嶮地狹1不v可v得v充《ミツルコトヲ》2二十五歩1之處但得2應《コタヘ》照分明1。不(レ)須要限相去遠近。几火炬(ハ)乾葦(ヲモテ)作v心葦上用2乾草1節縛(シ)、處々周廻(シテ)插2肥松明【謂松明(ハ)是松之有v脂者也。】並所v須貯2十具以上1於2舎下1作v架績薯。【謂兼有2烟貯1故云v並也。架猶v棚也。】得v不(レ)2雨(ニ)濕(ラスコトヲ)1。凡放v烟貯備者須d收《トリ》2艾藁生柴等(ヲ)1【謂艾者蓬也。藁者草(ノ)總名也。】相和放uv烟。其貯2藁柴等(ヲ)1處勿(レ)d命c浪人(ヲ)1放(チ)v火(ヲ)及(ヒ)野火(ニ)延燒(セ)u。【謂恐v燒2藁柴木1故立2此條1。其(ノ)下(ノ)條(ニ)※[しんにょう+堯](テ)v烽(ヲ)二里(ニ)不(レト)v得3浪(リニ)放2烟火1者爲v疑v設(ルコト)2烟烽(ヲ)1不v聽(サ)2其浪(リニ)放(ツコトヲ)1凡應(フル)v火(ニ)筒若向(テ)東應(ヘハ)筒(ノ)口西開。若向v西應筒(ノ)口東開。南北准v之。凡白日放v烟夜放v火。先須看2筒裏1。至實不v錯(マラ)然後相應(ヘヨ)。若白日天|陰《クモリ》霧起(テ)望(ニ)v烟不(ハ)v見即馳2脚力1遞告2前烽1。霧開之處依v式放v烟。其置v烽之所※[しんにょう+堯]v烽二里不(レ)v得3浪(リニ)放(コトヲ)2烟火(ヲ)【謂縁v烽四面二里之内不v得3浪(リニ)放2烟火1也。】凡放(ツニ)v烽(ヲ)有(ラハ)2參差1者【謂應v放2多烽1而放2少烽1及誤因2人火野燒1遂乃放v烟之類也。】元放之處失v候之状速(ニ)告2所在(ノ)國司(ニ)1勘當知v實發v驛奏聞(セヨ)。【謂上(ノ)條(ニ)烟(ハ)盡(シ)2一刻(ヲ)1火(ハ)盡(セトイヘリ)2一炬(ヲ)1。前烽不v應者此應v應而不v應。於v害未2重大1故往告2前烽1不2更發1v驛。此(ノ)條應v放2多烽1而放2少烽1及誤因2人火野燒1遂乃放v烽既故之後知2其誤1。擧2機事1一發動害已深。故失v候之所發v驛奏聞也。】みかほし、見貌石とかきたれとも、見之欲の心なり。萩か枝をしからみちらし、しからみとは河の井杭に竹をからみつけて水のふせきにする物なり。鹿の萩原に入て打ふしなとすれは、萩のおれ横たほりてみたるゝか彼しからみに似たるなり。古今集に、秋萩をしからみふせてなく鹿のめには見えすて音のさやけさ。六帖に、秋萩の花のなかるゝ川せにはしからみかくる鹿のねもせす。秋はきをしからみかけて鳴鹿のこゑきゝつゝや山田もるらん。拾遺集にみつね、さほしかのしからみふする秋萩は下葉やうへになりかへるらん。思並敷者、これをおもひなみしけはと點したれとも心得かたし。おもへりしくはとよみてしか心得へし。さもよみかたけれと、並の字少より所あれはなり。あたら世のことにしあれは、此あたら世といへるには、すこし轉變無常の心あり。すめろきのひきのまに/\、第十九にも、ますらをのひきのまに/\といへり。いつかたへも、みかとのひかせたまふにまかせてなり
 
反歌二首
 
1048 立易古京跡成者道之志婆草長生爾異梨《タチカハリフルキミヤコトナリヌレハミチノシハクサナカクオヒニケリ》
 
志婆は和名云、辨色立成云、莱草、【上、音來、和名、之波、】一名、類草、此集第十四にも常にも芝の字をシバとよめり、芝は靈芝なり、しばに用る事詳ならず、長ク生ニケリとは第二に生ざりし草生にけるかもとよめるが如し、詩小弁云、※[足+淑]々周道鞠爲2茂草1、
 
初、立かはりふるき 和名集云。辨色立成云。莱草【上音來。和名之浪。】一名類草。此しはといふに芝の字を世上に書きたり。此集にも第十四なとにかけり。靈芝は瑞也。世にいふしはの心、字書には見えぬにや。第十一に、たゝみこもへたてあむ數かよひせは道のしは草おひさらましを。毛詩少弁曰。※[足+叔]《テキ》々(タル)周道|鞠《キハマリテ》爲2茂草(ト)1
 
1049 名付西奈良乃京之荒行者出立毎爾嘆思益《ナツケニシナラノミヤコノアレユケハイデタツコトニナケキシマスモ》
 
益、【官本云、マサル、】
 
發句の|に〔右○〕落句の|し〔右○〕共に助辭なり、名付しならの京とは都と名付て定めしにといへるか、又ならとは唯山の草木を兵の踏ならす故の名なれど文字を平城又寧樂などかゝるゝも久しく都ならむ事を祝ての事なればならの名に付て名付にしと云歟、寧、奴廷切、安也、
 
初、なつけにしならのみやこの なつけにしとは、名におふ心なり。崇神紀云。則率(テ)2精《シラケ》兵(ヲ)1進(テ)登(テ)2那羅山(ニ)1而|軍《イクサタチス》之。時(ニ)官《ミ》軍|屯聚《イハミテ》而|※[足+滴の旁]※[足+且]《フミナラス》草木(ヲ)1。因(テ)以號(テ)2其山(ヲ)1曰2那羅山(ト)1【※[足+滴の旁]※[足+且]《テキソ》此(ヲハ)云(フ)2布瀰那羅須(ト)1。】これふみならす心にて、ならとはなつけたるに、道のしは草なかくおひて、むま人のゆく影をみねは、立出てみるたひになけきのますとなり。又養老年中に、國郡郷の名をもよき文字をもて、なつくへきよし勅せらる。ならをも寧樂とかき、亦平城とかきてもならとよみたれは、これらをもなつけにしとはいふへし
 
讃久邇新京歌二首 并短歌
 
(67)聖武紀云、天平十二年十二月癸丑勅戊午、【云々、如2上引1】丁卯、皇帝在v前、幸2恭仁宮1、始作2京都1矣、太上天皇、々后、在v後而至、十三年春正月癸未朔、天皇始御2恭仁宮1受v朝、宮垣未v就、繞以2帷帳1、云云、癸巳、遣2使於伊勢太神宮及七道諸社1、奉v幣以告d遷2新京1之状u也、九月辛亥、免2左右京百姓調租、四畿内田租1、縁v遷v都也、乙卯、勅以2京都新遷2大赦天下1、云云、以2正四位上智努王正四位下巨勢朝臣奈良麻呂二人1爲2造宮卿1、丙辰、爲v供2造宮1、差2發大養徳、河内、攝津、山背四國役夫五千五百人1、己未、遣2木工頭正四位上智努王等四人1、班2給京都百姓(ノ)宅地1、從2賀世山西道1以東、爲2左京1、以西爲2右京1、
 
1050 明津神吾皇之天下八島之中爾國者霜多雖有里者霜澤爾雖有山並之宜國跡川次之立合卿跡山代乃鹿脊山際爾宮柱太敷奉高知爲布當乃宮者河近見湍音叙清山近見鳥賀鳴慟秋去者山裳動響爾左男鹿者妻呼冷響春去者罔邊裳繁爾巖者花開乎呼理痛※[立心偏+可]怜布當乃原甚貴大宮處諾己曾(68)吾大王者君之隨所聞賜而刺竹乃大宮此跡定異等霜《アキツカミワカスメロキノアメノシタヤシマノナカニクニハシモオホクアレトモサトハシモサハニアレトモヤマナミノヨロシキクニトカハナミノタチアフサトトヤマシロノカセヤマノマニミヤハシラフトシキタテヽタカシラススフタイノミヤハカハチカミセオトソキヨキヤマチカミトリカネイタムアキサレハヤマモトヽロニサヲシカハツマヨヒトヨメハルサレハヲカヘモシシニイハホニハハナサキヲヲリイトアハレフタイノハラニイトタカキオホミヤトコロウヘシコソ》《ワカオホキミハキミカマニキカシタマヒテサスタケノオホミヤコヽトサタメケラシモ》
 
多雖有、【別校本云、サハニアレトモ、】
 
明津神は君を神と申事上の如し、孝徳紀には現爲明神をアラアカミとよみ、又明神をアラミカミとよめり、多雖有はサハニアレドモと點ぜる、然るべし、山並は山の並べるなり、罔邊は罔は岡を誤れり、
 
初、明津神 君を神といふことはさき/\に見えたり。日本紀には、明神とかきてあらみかみとよめり。あらはれ出たまへる御神といふ心なるへし。又あきらの中を畧せるか。孝徳紀云。詔於高麗使(ニ)曰。明神御宇日本天皇詔旨《アラミカミトアメノシタシラスヤマトノスメラミコトノミコトラマトノタマフ》。又云。現爲明神御八嶋國天皇《アラカヽミトオホヤシマクニシラススメラミコト》問(テ)2於|臣《マクラニ》1曰云々。天武紀云。十二年春正月己丑朔丙午、詔曰。明神《アラミカミト》御《シラス》2大八洲《オホヤシマ》1日本根子天皇《ヤマトネコノスメラミコト》云々。山なみ、川なみ、山川ならひつゝく心なり。岡邊、岡を誤て罔に作れり。いとあはれ、いとおもしろくなり
 
反歌二首
 
1051 三日原布當乃野邊清見社太宮處定異等霜《ミカノハラフタイノノヘヲキヨミコソオホミヤトコロサタメケラシモ》
 
一云此跡標刺、【官本、有2此注1】
 
1052 弓高來川乃湍清石百世左右神之味將往大宮所《ヤマタカクカハノセキヨシモヽヨマテカミノミユカムオホミヤトコロ》
 
弓をヤマと點ぜる事立て思ひ居て思へどもいまだ其意を得ず、推量するに第三に赤人の神岳に登て、明日香の舊き都は、山高み河とほしろしなどよまれ、今の長歌にも、いたむなどあれば、強てヤマと點ぜるか、ユタケクと讀べきか、赤人の河とほしろ(69)しとよまれたるもゆたけきに同じ、又第三に田口益人、みほの浦の、ゆたに見えつゝ物思ひもなしとよみ、第二十に家持、海原のゆたけき昆つゝあしがちる、難波に年はへぬべく思ほゆとよまれたる此等の意に同じく泉川をほむる詞なり、神之味はカミシミと讀て神さびと同じう意得べし、
 
初、やまたかく.弓の字を山とよめる心得かたし。丘弓音相近けれは、弓の字を丘とする歟。やとゆと通し、まとみと通すれはかける歟。神しみゆかんは、神さひゆかんなり
 
1053 吾皇神乃命乃高所知布當乃宮者百樹成山者木高之落多藝都湍音毛清之※[(貝+貝)/鳥]乃來鳴春部者巖者山下耀錦成花咲乎呼里左壯鹿乃妻呼秋者天霧合之具禮乎疾狹丹頬歴黄葉散乍八千年爾安禮衝之乍天下所知食跡百代爾母不可易大宮處《ワカキミノカミノミコトノタカシラスフタイノミヤハモヽキナスヤマハコタカシオチタキツセオトモキヨシウクヒスノキナクハルヘハイハホニハヤマシタヒカリニシキナスハナサキヲヽリサヲシカノツマヨフアキハアマキリアフシクレヲハヤミサヲニツラフモミチチリツヽヤチトセニアレツキシツヽアメノシタシラシメサムトモヽヨニモカハルヘカラヌオホミヤトコロ》
 
山下耀、【別校本云、ヤマノシタテリ、】  所知食跡、【別校本云、シロシメサムト、】。
 
百樹成は山といはむためなり、百木とは百種の木にて、さま/”\の名ある木の生る意なるべし、亦百と云はたゞ多き意なれば百種の意ならずともおほくの木の生る(70)山と云にも侍るべし、山下耀は第十五にも山下比可流毛美如葉能《ヤマシタヒカルモミチハノ》と讀たれば今の本の點まさるべきか、左壯鹿は第三に赤人の勝鹿眞間娘子をよまれたる歌にも如此かけり、天霧合は今按第十にも天霧相ふなくる雪のとよめる歌にアマキリアヒと點じたれど、齊明紀に、建皇子の隱れ給へる時帝の歎てよませ給へる御歌に、阿須箇我播瀰儺蟻羅※[田+比]都都兪矩瀰都能《アスカガハミナキラヒツツユクミツノ》云云、是は此集第七に水|霧相《キリアヒ》とあるに同じ、里阿切良なれば、みなぎりあひをつゞめてみなぎらひと讀せたまへる此に准らへて今もアマギラフと讀べき歟、サニツラフは第三にも有き、意は唯にほふなり、安禮衝之乍は第一に藤原御井の歌の反歌に注せし如く生繼なり、百代爾母不可易は、文選枚叔上書諫2呉王1曰、臣願2王孰計而身行1v之、此百代不v易之道也、
 
初、いはほには山下ひかりにしきなす 第十五云、あしひきの山下ひかるもみち葉の。やちとせにあれつきしつゝ。あれは生るゝなり。つくは衝といふ字はかきたれとも、繼の字の心なり。みかとの子々孫々生れつゝきたまひてなり。第一卷藤原宮御井歌の反歌、第四卷の初岳本天皇御製にも此詞あり。第一卷に注せるかことし
 
反歌五首
 
1054 泉川徃瀬乃水之絶者許曾大宮地遷徃目《イツミカハユクセノミツノタエハコソオホミヤトコロウツリモユカメ》
 
絶者許曾といへるは拾遺に飢人の上宮皇子に答奉れる歌に、富の緒河のたえばこそとよめるに似たり、
 
(71)1055 布當山山並見者百代爾毛不可易大宮處《フタイヤマヤマナミミレハモヽヨニモカハルヘカラスオホミヤトコロ》
 
1056 ※[女+感]嬬等之續麻繋云鹿脊之山時之往者京師跡成宿《ヲトメラカウミヲカクトイフカセノヤマトキノユケレハミヤコトナリヌ》
 
繋云、【官本亦云、カクテフ、】
 
うみたる苧を懸るかせひ〔三字右○〕とつゞけたり、延喜式に大神宮へ奉る物の注文に、金銅多々利二基、金銅麻笥二合、金銅賀世比二枚と云へり、又同じ式に※[手偏+峠の旁]の字をもかけり、時之往者とは此は時の至り來ればの意なり、第十に霞たな引春は來にけりと云事を春去にけりとよめるが如し、委は別に注す、
 
初、うみをかくといふかせの山 苧をうみてかくる物を、かせといへは、かくはつゝけたり。かせひともいへり。延喜式大神宮へ奉る物の注文に、金銅多々利二基、金銅|麻《ヲ》笥二合、金銅賀世比二枚。又同式に※[木+峠の旁]の字をもかけり。但たしかにおほえす。時のゆけれは、これは時のいたるなり。春さりにけりとあるが、春はきにけりといふ心なるに、あはせてみるへし
 
1057 鹿脊之山樹立矣繁三朝不去寸鳴響爲※[(貝+貝)/鳥]之音狛山爾鳴霍公鳥泉河渡乎遠見此間爾不通《カセノヤマコタチヲシケミアササラスキナキトヨマスウクヒスノコヱコマヤマニナクホトヽキスイツミカハワタリヲトホミコヽニカヨハス》
 
和名集云、相樂郡大狛、下狛、【之毛都古末】こまのわたりの瓜作りとよめる所なり、
 
【一云渡遠哉不通有武】
 
春日悲傷三香原荒墟作歌一首并短歌
 
(72)聖武紀云、天平十六年正月丙申朔庚戌、任2装束次第司1、爲v幸2難波宮1也、閏正月乙丑朔、詔喚2會百官於朝堂1、問曰、恭仁、難波二京、何定爲v都、各言2其志1、於v是陳2恭仁(ノ)京便宜1者、五位已上二十三人、六位已下百五十七人陳2難波(ノ)京便宜1者、五位已上二十三人、六位已下一百三十人、戊辰、遣2從三位巨勢朝臣奈良麻呂、從四位上藤原朝臣仲麻呂1、就v市問2定v京之事1、市人皆願d以2恭仁京1爲v都、但有d願2難波1者一人、願2平城1者一人u、乙亥、天皇行2幸難波宮1、甲寅、運2恭仁宮高御座并大楯於難波宮1、又遣v使取2水路1、運2漕兵庫器仗1、乙卯、恭仁京百姓情願v遷、庚申、左大臣宣勅云、今以2難波宮1定爲2皇都1、宜d知2此状1京戸百姓、任v意徃來u、
 
1059 三香原久邇乃京師者山高河之瀬清在吉迹人者雖云在吉跡吾者雖念故去之里爾四有者國見跡人毛不通里見者家裳荒有波之異耶如此在家留可三諸著鹿脊山際爾開花之色目列敷百鳥之音名束敷在杲石住吉里乃荒樂苦惜哭《ミカノハラクニノミヤコハヤマタカミカハノセキヨシアリヨシトヒトハイヘトモアリヨシトワレハオモヘトフルサレシサトニシアレハクニミレトヒトモカヨハスサトミレハイヘモアレタリハシケヤシカクアリケルカミモロツクカセヤマノマニサクハナノイロメツラシクモヽトリノコヱナツカシクアリカホシスミヨシサトノアレラクヲシモ》
 
河之瀬清、【幽齋本云、カハノセキヨミ、】
(73)里ニシアレバの|し〔右○〕は助語なり、ハシケヤシハ惜哉の意なり、カク有ケルカは、かくも有けるかなゝり、三諸著は第七にもみもろつくみわ山見ればとよめり、今は鹿背山の神の爲に社を立るを云なるべし、住吉里乃は今按スミ吉キサトノと讀べし、上に有がほしと云につゞけば、すみよしと讀べきに似たれど、住吉の里など體に呼名にもあらず、唯すみよき里と云用の詞なればすみよし里とはつゞかぬや、荒樂苦惜哭はアルラクヲシモと讀べし、アレとあるは書生の誤なり、
 
初、みもろつくかせ山のまに みもろは神社なり。かせ山の神のために、みむろを築けるなるへし。されはみもろつくかせ山とはいへり。第七にみもろつくみわ山みれはとよめり。すみよき里のあるらくをしも、すみよし里とあるは、かなあやまれり
 
反歌三首
 
1060 三香原久邇乃京者荒去家里大宮人乃遷去禮者《ミカノハラクニノミヤコハアレニケリオホミヤヒトノウツリイヌレハ》
 
1061 咲花乃色者不易百石城乃大宮人叙立易去流《サクハナノイロハカハラスモヽシキノオホミヤヒトソタチカハリヌル》
 
古今集、奈良の帝の御歌の、故郷と成にしならの都にも、色は替らず花は咲けり、意相似たり、
 
初、咲花の色はかはらす 古今集ならのみかとの御歌、ふるさとゝなりにしならの都にも色はかはらす花は咲けり。此歌これと心おなし
 
難波宮作歌一首并短歌
 
此は上に引如く難波に遷らせ給ひての歌なり、
 
(74)1062 安見知之吾大王乃在通名庭乃宮者不知魚取海片就而玉拾濱邊乎近見朝羽振浪之聲※[足+參]夕薙丹擢合之聲所聆曉之寐覺爾聞者海石之塩干乃共納渚爾波千鳥妻呼葭部爾波鶴鳴動視人乃語丹爲者聞人之見卷欲爲御食向味原宮者雖見不飽香聞《ヤスミシシワカオホキミノアリカヨフナニハノミヤハイサナトリウミカタツキテタマヒロフハマヘヲチカミアサハフルナミノオトサワキユフナキニカヽヒノオトキコユアカツキノネサメニキケハアマイシノシホヒノムタニイリスニハチトリツマヨヒアシヘニハタツカネトヨミミルヒトノカタリニスレハキクヒトノミマクホリシテミケムカフアチフノミヤハミレトアカヌカモ》
 
鶴鳴動、【別校本亦云、タツナキトヨミ、】
 
海片就而は一方にかたよるを常にかたづくと云に同じ詞なり、第十には山片就而とよみ.第十九には谷可多頭伎?とよめる皆可v准v之、朝羽振浪は第二にありつ.擢合之聲は、今按擢は〓を誤れり、第九に登2筑波嶺1爲2〓歌會1日作歌とてあり、彼處に至て委注すぺし、水手などの互に歌ふを云べし、海石之塩千乃共ニとは.海石は沃焦なるべし、
 
初、海かたつきて かたつくは常いふ詞なり。片よりてつくなり。第十には、山かたつきてとよみ、第十九には谷かたつきてとよめり。朝羽ふる浪のをとさはき。第二人まろの歌に、朝はふる風こそよらめ。ゆふはふる浪こそきよれとありき。文選郭景純江賦云。宇宙澄寂(ニシテ)、八風不v翔《フカ》
かゞひの聲きこゆ。かゞひとは、いやしきものゝうたふ曲なり。※[女+燿の旁]を擢に作れるはあやまれり。第九に、登2筑汲嶺1爲2※[女+燿の旁]歌會1日作歌とてあり。其所にいたりて委注すへし。※[足+參]は躁の誤れるなるへし
あま石のしほひのむたに。あまいしはしほひの時、あらはれてみゆる石歟。もし沃焦石をいへるか。玄中記日。天下之大(ナル)者(ハ)東海之沃焦(ナリ)焉。水灌(ケトモ)v之(ニ)而不v已《ヤマ》。あちふの宮は上の第十四葉に注せりき
 
反歌二首
 
(75)1063 有通難波乃宮者海近見漁童女等之乘船所見《アリカヨフナニハノミヤハウミチカミアマヲトメラカノレルフネミユ》
 
漁童女、【幽齋本、漁作v海、】
 
1064 塩干者葦邊爾※[足+參]白鶴乃妻呼音者宮毛動響二《シホヒレハアシヘニサワクアシタツノツマヨフコヱハミヤモトヽロニ》
 
白鶴、【別校本亦云、シラツル、】
 
※[足+參]は今按偏によれば躁の字を誤る歟とおぼえ、旁によれば驂にやとおぼゆ、决しがたし、白鶴は和名云、唐韻云※[零+鳥]、【音零、楊氏漢語抄云、多豆、今按倭俗謂v〓爲2葦鶴1是也】鶴(ノ)別名也、袖中抄云、たづとはつるを云なり、あしたづとは葦の中にすめば云、蘆鴨と云同じ事なり、但順和名に鶴をばつるとよみ、※[零+鳥]をばたづとよめり、別の文字なり、委わかてばつるとたづとは別なり、今按葦鴨はさる事にて葦鶴は其例は非ず、馬に葦毛葦の花毛など云如く白鶴の色に付て白きを云なり、若然らずば鶴は何れも葦の中に住をいかで葦鶴を別名とせむ、たづの和訓を思ふに栲鶴にて、たくづるを略し、たづと云なるべし、されば今もアシタヅとは點ぜるなり、又八雲御抄鶴の下に、たづ、まなづる、【一説、白鶴也、】ひなづる、しらづる、しらたづとも、あしたづ、くろづるなど載たまへば、シラヅルと點ぜるもあしからず、和名の意は鶴は※[手偏+總の旁]名、たづは鶴の中の別名なり、別なりとて、鶴と雁との別なる(76)如くにはあらず、大かたのつるをばたづとわたしても云べきを、黄鶴、玄鶴などをたづとはよむまじきほどの替れるなるべし、※[手偏+總の旁]じて鶴は白きを以て本色とする故に莊子云、鶴日不v沿而皓、烏日不v染面黒(シ)、
 
初、あしへにさはく 又躁を※[足+參]に作れり
 
過※[敏/馬]浦時作歌一首并短歌
 
※[敏/馬]は引分て敏馬に作るべし、目録にも二字に作れり、又卷の第三人丸旅の歌、此卷上の赤人歌等皆同じ、
 
初、驚浦 二字を合て一字とせるは麿の例歟。餘所はしからねは寫者誤て合せるなるへし
 
1065 八千桙之神之御世自百舩之泊停跡八島國百舩純乃定而師三犬女乃浦者朝風爾浦浪左和寸夕浪爾玉藻者來依白沙清濱部者去還雖見不飽諾石社見人毎爾語嗣偲家良思吉百世歴而所偲將徃清白濱《ヤチホコノカミノミヨヨリモヽモフネノハツルトマリトヤシマクニモヽフナヒトノサタメテシミヌメノウラハアサカセニウラナミサワキユフナミニタマモハキヨルシラマナコキヨキハマヘハユキカヘリミレトモアカスウヘシコソミルヒトコトニカタリツキシノヒケラシキモヽヨヘテシノハレユカムキヨキシラハマ》
 
八千桙神は日本紀に大己貴命に七名を出せる其一つなり、國作の大神なれば久しき事の初を云に此御名を取出たり、第十第十八にもあり、古事記上八千矛神の御歌(77)云、夜知富許能迦微能美許登波《ヤチホコノカミノミコトハ》、夜斯麻久爾都麻々岐迦泥弖《ヤシマクニツマヽキカネテ》云云、ウベシコソと云ひて、シノビケラシと承たるは第一の天智天皇の三山の御歌に注せしが如し、清白濱は、唯白に沙を敷みてたる濱なり、
 
初、やちほこの神の御世より 日本紀第一に、三輪の明神に七の御名を出せる中に八千戈神そのひとつなり。第十卷七夕の歌にも、此二句有。百ふなひと、此純の字の事上三十七葉に有て注しき。うへしこそといひて下にけらしきとうけたるは、第一卷天智天皇三山の御歌に、いにしへもしかにあれこそうつせみもつまをあらそふらしきとよませたまへるにおなし
 
反歌二首.
 
1066 眞十鏡見宿女乃浦者百舩過而可徃濱有七國《マソカヽミミヌメノウラハモヽフネノスキテユクヘキハマナラナクニ》
 
見の字をいはむ料にマソ鏡とはおけり、ヌ〔右○〕の字までにかくれば意の違ふなり、
 
初、まそかゝみ見ぬめの浦は 鏡をみるとつゝけたり。只一字をいはむためなり。ぬの字まてつゝくれは心たかへり。百舟の過て行へきはまならなくにとは、おもしろき浦なれは、よそに見ては過ゆかれしとなり。上に百舟人も過といはなくにとよめるこれにおなし心なり
 
1067 濱清浦愛見神世日千舩湊大和太乃漬《ハマキヨミウラナツカシミカミヨヨリチフネノトマルオホワタノハマ》
 
湊は今按ツドフと讀べきか、大和太乃濱は三善清行異見封事第十二條云、自2魚住泊1至2大輪田(ノ)泊1一日行、自2大輪田泊1至2河尻1一日行云云、和名集云、唐韻云、泊【傍各反、和名、度末利、】今按播磨國大輪田泊、此類也、此歌によめるは攝津國武庫郡なり、
 
初、濱きよみ浦なつかしみ 和名集云。唐韻云。泊【傍各反。和名末利】止也〇今案播磨國大輪田(ノ)泊此類也。此歌におほわたの濱とよめるならて、播磨國に大輪田泊といふ所のあるにや
 
右二十一首田邊福麿之歌集中出也
 
悲寧樂故京郷作歌と云よりこなた、二十一首なり、福麿はさきまろと云べし、福草をさきくさと云に准ずべし、福麿は續日本紀に考る所なし、第十八に天平二十一(78)年に橘左大臣の使として越中守家持舘へ下りし、聖武紀云、天平十一年四月、正六位上田邊史難波授2外從五位下1、此難波が子などにや、雄略紀云、河内國飛鳥部郡大田邊史伯孫云云、此伯孫が裔なるべし、歌集中出也とは福麿の歌とやせむ、別人の歌をも書入たりとやせむ、此事別に注す、
 
初、右二十一首 悲寧樂京故郷作歌といふより、こなた廿一首なり。田邊(ハ)、雄畧紀云。河内國飛鳥戸郡(ノ)人田邊(ノ)史|伯孫《ハクソン》。福麿之歌集中出也といへるは、福麿の歌とやせむ。此人の歌、第九、第十八にも見えたり。聖武紀云。天平十一年四月正六位上田邊史難波授2外從五位下1。此難波か子なとにもや有けん。天平廿年橘左大臣の使として家持越中守たるか許へつかはされけれは、左大臣の家禮なるへし
 
萬葉集代匠記卷之六下
 
明治三十四年八月廿五日印刷
明治三十四年九月二日發行
 
       東京市神由區淡路町一丁目−番地
編輯兼發行者  三好伸雄
       東京市本郷區湯島切通坂町五十一番地
印刷者     植原儀直
       東京市本郷區湯島切通坂町五十一番地
印刷所     建昇堂
發兌元    東京市神由區淡路町一丁目−番地
        四海堂