上田萬年監修
新村出
佐佐木信綱
橋本進吉
武田祐吉
久松潜一   共編
 
契沖全集   
 朝日新聞社發行
 
(1)   契沖全集【自第一卷至第四卷】凡例
 
一、契沖全集は、第一卷より第四卷に亘つて、萬葉代匠記の初稿本と精撰本とを併せ收める。
一、萬葉代匠紀は萬葉集の註釋書であつて、これに初稿本と精撰本との二種がある。はじめ契沖は、徳川光圀の囑に依つて、萬葉集註釋の稿を起し、貞享の末か元禄の初年頃に至つて脱稿した。これ今、初稿本と稱するところのものである。ついでまた光圀の囑によつて再稿の筆を執り、元禄三年頃に至つて成つたもの、これを今精撰本と稱する。この兩種の本は、いづれも萬葉集の本文註釋の分と、總論とも見るべき總釋の分とから成つてゐる。
一、代匠記初稿本の傳本には數種の系統があつて、自筆本、似閑本、流布本、若冲本の四種が數へられる。自筆本は水戸の彰考館文庫に十八册を藏してゐるが、それには總釋を缺き、本文註釋の分で、卷二、三、十六、二十を缺いてゐる。卷十、十一は上下二册づゝに分れ、他は一卷一册になつてゐる。卷一の一冊は、他の十七册よりも小形で、この一册は多分みづから清書をした本であらう。自筆本のうち卷二は散葉となつて諸家に分藏せられ、卷十六は、坂本左狂氏を經て、今竹柏園に藏せられてゐる。この二と十六とは彰考館文庫本の十七册の方と同じ本である。なほ自筆本の枕詞の部分の影寫本と思はれるものは、橋本進吉の藏するところとなつてゐる。この橋本本は表紙に、
(2)    【契沖法師著・徳川光圀卿閲】萬葉集中枕辭大概
とあるが、この標題は後人の加へたもので、内容は代匠記初稿本總釋中の枕詞の部分であらうと思はれる。似閑本といふは、契沖の門人今井似閑(號見牛)が、人をして書寫せしめ、みづから書入を爲した本で、賀茂別雷神社所藏、二十八册の全本である。奥に、
 寛永六年【甲申】中秋初染筆同四年【丁亥】二月七日遂成功畢
                    洛東隱士見牛
とあるので、その成立年月が知られる。流布本といふのは、最普通に存してゐる寫本で、内容は似閑本系統に近いが、似閑の書入も無く脱漏も多い。流布本系統の本には、蝶夢本、枝直本、久松潜一所藏本等の數種があるが、いづれも天王寺明靜院の本から出てゐるものと思はれる。若冲本は、契沖の門人なる海北若冲の奧書のある寫本で、この本は一々萬葉集の本文を載せて、その次に他の本に此してやゝ簡略なる代匠記初稿の文を附してゐる。
今全集に載するところの初稿本は、彰考館文庫所藏の自筆本を取り、その本に缺くるところを他本を以つて補つた。それは次の通りである。
 イ、總釋のうち、枕詞の部分は、橋本進吉所藏本によつた。この本は似閑本の枕詞の一册と同樣の内容を有するが、この本に無くして似閑本のみに存する部分(似閑の書入と推せられるものを除く)は、似閑本に依つて特に掲出し、その旨をことわつた。
 ロ、本文註釋のうち卷二は諸家に自筆本の散葉を藏してゐるので、その存してゐる部分はこれによつた。(3)その部分は次の通りである。
 ○「みくさかるしなのゝまゆみわかひかは」の條「の御歌にも、うま人のたつることたて」より、「玉かつら實ならぬ木には」の條「いまたみのならぬ心なり。かやうの事」まで、
 ○「いにしへにこふる鳥かも」の條「か、われもみゆきの御供なから」より、「勅穗積皇子遣近江志賀山寺」の條「近江國志我山寺封起」まで、
 ○「たはれをとわれはきけるを」の條「れをにはあらですご/\とわれをかへせるは」より、「たはれをにわれはありけり」の條「まことのたはれをゆへなりとざれてよめり」まで、
 ○「大寶元年――賓作v實誤」より、「青はたのこはた」の條「その沓のおちたるところに陵はつくれる」まで、
 ○「きた山のたなひく雲の」の條「よりたな引出る雲まにみゆる星も」より、「いそのうへにおふるつゝしを」の條「さきにいへるかことし。朱鳥二年の春なるへし」まで、
 ○「鳥〓立飼之雁乃兒」の條「なり。雁をかりと名付たるもかろくとふ心にて」より、「さてそ長壽の宿禰に昔よりさること有」まで、
 ○「八多籠良家よるひるといはす」の條「ものゝみゆく道をおもひかけぬみやちとして」より、「飛鳥の明日香の川の」の條「細々腰支參差」まで、
 ○「かけまくもゆゝしきかも」の條「の合戰をいへり。天武紀云、元年秋七月」より、「安藝の國なとよりお(4)ほく出すと見えたり。和名集」まで、
 ○「ふるゆきはあはになふりそ」の條「長流か枕詞燭明抄にいはく」より、「弓削皇子薨時」の條「遣淨廣肆大石王直廣參路眞人大人等監護喪事」まで、
 ○「衾道を引手の山に」の條「添上郡、衾路は山邊郡なれと」より、「玉もよきさぬきのくには」の條「第一卷にも第三にも有。くはしはほむる詞、名はよそにも」まで、卷二のうち、以上掲げた外は、賀茂別雷神社所藏の似閑本によつて補つた。
 ハ、卷十六は竹柏園所藏の契沖自筆本によつた。
 ニ、以上三項に記したほか、すなはち總釋のうち枕詞吋の一册を除いた部分と、および本文註釋のうち卷三、二十とは、賀茂別雷神社所藏の似閑本によつた。
 似閑本に依つた部分では、すべて似閑の筆と認められるものを省略した、
一、萬葉代匠紀精撰本の傳本としては、自筆本が侯爵徳川圀順氏によつて藏せられてゐる。この本は四十九册あつて完本である。すなはち總釋六册、卷一上、下、二上、中、下、三上、中、下、四上、中、下、五上、下、六上、下、七上、下、八上、下、九上、下、十上、中、下、十一上、中、下、十二上、下、十三上、下、十四上、下、十五、十六上、下、十七上、下、十八、十九上、下、二十上、下の四十九册になつてゐる。そのうち卷一上、下の二册は、本文は契沖の自筆ではないが、契沖はこの本に縱横に書入をなしてゐるから、その手許において書寫せしめた本として、自筆本に準じて見るべきである。卷七下の一册は、自筆本を火災のために燒失したので、補寫せしめたと傳へる寫本である。精撰本にはこの外に、彰考館文庫所藏の本、岩崎文庫藏本、木村博士校訂の刊本等があるが、いづれも徳川家の自筆本の傳本に過ぎぬやうである。今全集に載する所は、徳川侯爵家藏の自筆本に據り、自筆の分の缺けてゐる卷七下のみは岩崎文庫所藏本と、徳川侯爵本とを對校した。岩崎文庫本は、和學講談所本の轉寫本で、木村博士舊藏本であるが、徳川家本では卷七の下は一册であるが、この本では七の中下の二册になつてゐる。なほ念のために附言する。精撰本中、拾遺と稱する分三卷を添加してある本もあるが、この拾遺と稱するものは、不完全なる初稿本中往々添つてゐるところの脱漏と稱するものと、ほゞ同じ内容を有するもので、要するに不完全なる初稿本の脱漏を他の初稿本によつて補つたものに過ぎず、もとより代匠配精撰本の拾遺と稱すべきものでは無い。
一、契沖は萬葉代匠記の稿成つてこれを徳川光圀に獻上するに當り、兩度とも序文を書いてこれに添へてゐる。全集第一卷の初に載せた「上水戸源相公萬葉集代匠紀序」と「重被水戸源相公鈞命修選萬葉代陀記呈上叙」とは、すなはち前者は初稿本を、後者は精撰本を徳川光圀に獻じた際の序文であつて、代匠記と縁の深いものであるから、こゝにこれを收めた。而して前者は、圓珠庵所藏の契沖自筆の卷子により、後者は、賀茂別雷神社所藏の似閑本代匠記總釋に載する所によつた。
一、全集載するところの萬葉代匠記は、初稿本と精撰本とを併せたものであるが、總釋の部分は、まづ初稿本の總釋を掲げ、それが終つてから精撰本の總釋を掲げる。その分ちは、各卷の内題の下に括弧してゴヂツク字で初稿又は精撰と記してある。本文註釋の部分は、一節ごとに、最初に、契沖が代匠記を著す際に底本として使用したと認められる寛永版本萬葉集によつて、萬葉集の本文を掲げ、その次に、その本文に相當する註釋を、初、と標して初稿本、精、と標して精撰本の文を掲げる。すなはち初、と標してあるものゝみを拾つて行けば、萬葉代匠記の完全なる初稿本となり、精、と標したものゝみを拾つて行けば、また萬葉代匠記の完全なる精撰本となる。殊にすべて、初稿本は平假字で書き、精撰本は片假字で書いてあり、本全集にもその儘に印行したから、いづれの部分でもこの兩本の區別は、一目して明瞭であらう。
一、上に記した如く、自筆によつたものが大部分を占めてゐるが、その精本のうちには、往々別筆と認められる書入が爲されてゐる。今判じ得る限りは(以下別筆)又は(以別筆)としてこれを別にし、別筆の疑あるものは、その旨を記しておいたが、中には例へば單に文字を消したりしたものゝ如きには.鑑別し得ずに過ぎたものもあるであらう。また精撰本卷一の如きは、本文が別筆で、書入に契沖自筆のものがある。今その文に契沖自筆の旨を附記しておいたが、これも、契沖自筆の部分もある例證を示すものとして解せられたい。
一、原本、殊に契沖の自筆本には、縱横に修正を施してあるが、こはすべてその修正したものによつた。しかしその修正が他筆かの疑あるものは、つとめて原文と修正とを併せ出して、その旨を附記した。
一、自筆本には、書寫を爲さしめるための注意書きが入つてゐる。例へば「以下カクヘカラス」とか、又は詞句の順序を甲乙一二三等の文字で示したもの等である。これらはその指定に從つて出し、清書に關する注意の文字を省略した。ただし、「以下カクヘカラス」と記されてある分のうち、捨つるに忍ひざるものの一二を、その旨を記して特に附收した。
一、句讀點は、著者のみづから施したものはこれに依り、これなきものは、便宜のために校訂者に於いてこれを施した。自筆本のうち初稿本には句讀があり、精撰本には稀に句讀を施してある。橋本本には前半に著者の施したと認むべき句讀があり、後半にはこれが無い。契沖の句讀點は、すべて丶の一種で、行の中央に施したものは、今丶を以つて表し、行の右端に施したものは、今○を以つて表した。自筆の句讀のある部分でも、往々更に補足を爲したところがある。似閑本を使用した部分にあつては、似閑が施したと見ゆる句讀によつたものが多く、精撰本にあつては、木村博士校訂の刊本に負ふところが多い。
一、濁點返り點送り假字は、すべて原本の通りとした。
一、異體字は必要あるものゝ外は、すべて通用字に代へた。
一、なるべく原本通りに印行することに努め、引用文の如きも、その原書によつて校合することを避けて、著者が引用したまゝの文字を出すことを努めた。
一、原本が蠹蝕等で讀み難いものは、ほゞ字數を計算して□を以つてこれを示した。
一、原本の體載は、なるべくこれを保存したけれども、頭注の如きは頭書と記して本文の末に加へ、また旁書の如きも、長文に亘るものは、傍書と注して本文の末に加へた。
一、刊行に際して、校訂者の新に加へた注意の文字は、すべて括弧を加へて原本の文字と區別した。
一、各卷の内題は、總釋の部分のは、原本にあるものは原本により、無きものは新に補つてその旨を注した。本文註釋の部分の、萬葉代匠記卷何といふ内題は、すべて今補つたところである。
一、萬葉代匠記の校訂は武田祐吉が擔任した。
 
契沖全集第一卷目次
 
上水戸源相公萬葉集代匠記序………………………………………一
重被水戸源相公鈞命修選萬葉代匠記呈上叙………………………二
萬葉代匠記總釋(初稿)……………………………………………三
萬葉代匠記總釋枕詞(初稿)……………………………………三三
萬葉代匠記總釋(精撰)…………………………………………六三
  集中歌數………………………………………………………六三
〔以下精撰本関係なので省略〕
萬葉代匠記卷一……………………………………………………二二四
萬葉代匠記卷二……………………………………………………三六八
萬葉代匠記卷三……………………………………………………五六九
萬葉代匠記卷四……………………………………………………八〇七
   寫眞版
一、義剛賛契沖肖像………………………………………………圓珠庵藏
二、初稿本萬葉代匠記卷一…………………………………彰考館文庫藏
三、初稿本萬葉代匠記卷四……………………………………………同前
四、精撰本萬葉代匠記總釋枕詞上册…………………侯爵徳川圀順氏藏
五、精撰本萬葉代匠記總釋雜説………………………………………同前
六、精撰本萬葉代匠記卷二下册………………………………………同前
七、精撰本萬葉代匠記卷四上册………………………………………同前
 
上水戸源相公萬葉集代匠記序
みなの河のその水尾より出て、なかれひさしき源の朝臣、ものゝふのみちをならはしたまふいとまに、ふみの道をもこのむたまひて、ひたりみきをそなへたまふと、いつゝのくるま牛はあへけとつみつくさす、よつのくらむなきをさゝへてをさむはかななるを、あかす見たまふるとて、菅の根のはるの日にもゆふけの時をうつし、山鷄の尾の秋の夜にもねよとのかねをかそへたまはて、からやまとの歌も、はるあき月雪につけたるなさけの世にきこゆる櫻川の浪の花.ことはの林のえたにかよひ、なさかのうみのたまも、こゝろの池の水にうかへり。しかあるのみにあらす、したのうきしまゝことすくなきをおきて、つくはの山のたかく神さひたるをとりたまふと、やまとうたのなかにはわきて萬葉集をもてあそひて、ゆみとゝもに手にとり、つるきとひとしく身をはなちたまふことなし。そも/\ふるくより此集をは、しはすの月夜みるひとまれにして、たまさかに見る人も、みねのしら雲たゝよそめなりけれは、なかころこれをとくとせしものも、へみにあしをえかきていとゝきつねのうたかひをむすへり。このことをゝしみたまひて、下河邊のおきな長流といふものつたへおけるふみありて、よく此集をとくよしをきゝたまひて、これか抄つくるへきよしをおほせらる。筆をとらんとするおりしも、すこしこゝちそこなひてためらふとせしほとに、いつとなくあつしれて、年へてみまかりぬることはさいはひなくも侍るかな。をしむへきことにも侍るかな。こゝにやつかれ、かのおきなかともかきのかすにましはれること、年はとをといひつゝ、みつのはまへにおなしくしほたれぬれとも、もとよりつゝりのそてにして尾花よりもせはけれは、何のひろひおけるみるめもなきを、くゝつむなしからんとはしりたまはて、きゝおけることもやある、おもふやうもやあると、木こりにもとひ、草かりにもはかりたまへれは、かのおきなかまたいとわかゝりし時かたはかりしるしおけるに、おのかおろかなるこゝろをそへて、萬葉代匠記となつけてこれをさゝく。おほくはおのかむねより出て、はゝかりおほけれと、ことわさにいはゆる、はへのかほをふむになすらへてそ、みゆるしたまふへき。まことにさえはあしつゝよりもうすくして、かほははりのかはよももあつけれと、たゝこれせりをつみてしつくのたゐを鳥羽のあふみにそへたてまつるになん有ける
 
重(テ)被(テ)2水戸(ノ)源相公(ノ)鈞命(ヲ)1修2選(シテ)萬薬代匠記(ヲ)1【呈上叙】
                     沙門契沖
車(ノ)之爲v車〔中略〕啻《タヽ》止(マラ)2於源君(ノミニ)1
 
萬葉集代匠記惣釋(初稿)
此集を萬葉と名つくること、萬は十千なり。和語には與呂豆といふ。今はかならす十千にかきるにあらす。たゝ物のおほかるをいふなり。史記魏世家にいはく。萬滿數也。左傳にいはく。萬盈數也。莊子秋水篇には、號物之數、謂之萬といひ、則陽篇には、今計物之數不止於萬、而期曰萬物者、以數之多者、號而讀之也といへり。此心なり。葉の字はこれにふたつの義あり。ひとつには世の義、毛萇の詩傳に、葉世也といへり。葉の字.世の字ともに與とも津疑ともよめり。父子相かはるを世といひ、或は三十年をも世といふ。文選の左太仲か呉都賦には、雖累葉百畳、而當疆相繼といひ、劉※[王+昆]か勸進表には、三葉重光、四聖繼軌といひ、顔延年か赭白馬賦には、維宋二十有二載、盛烈光乎重葉といへる、これら皆世の心なり。いはんや、顔延年か曲水詩序に、其宅天哀立民極、莫不崇尚其道、神明振世、貽統固萬葉而爲量者也とかけれは、もしは此叙より二字をとり出て、此集萬世まてにつたはりて世をおさめ、民をみちひく教ともなれといはひて名付たるにや。後の勅撰にも、千載集となつけられたる、このこゝろなり。仁明天皇、令義解を天下に施行したまふ詔には、宜頒天下、普使遵畫一之訓、垂於萬葉といひ、齋部廣成か古語拾遺には、隨時垂制、流萬葉之英風、興廢繼絶、補千歳之闕典といへり。此等は此集より後の事なれともみな萬世の心に用たる證なり。又元亨釋書第二十二資治表にいはく。延暦二年七月、左官右僕射藤魚名薨、嘗於平城建萬葉寺といへり。これも萬世の意にて名付られたり。ふたつには歌義、釋名にいはく。人聲曰歌、々柯也。如草木有柯葉也といへり。此意にてなつくる歟。ふたつのあひた、撰者の心はかりかたしといへとも、先達みな後の義につけり。先古今集の眞名序にいはく。各獻家集并古來舊歌、曰續萬葉集。於是重有詔、部類所奉之歌、勒爲二十卷、名曰古今和歌集。かゝれは彼集初はむかしいまの歌をたゝおほくかきあつめて、續萬葉集と名つけて奉られけるを、かさねて勅ありて、よく部類をわかち歌をも吟味して古今集と名を改て奉れるなり。此集によるゆへにかんなの序に、やまと歌は人のこゝろをたねとしてよろつのことのはとそなれりけるとかき出して、一集の大體をのへ、和歌の本意を盡せり。よろつのことのはといへるに、續萬葉となつけたる、最初の心こもるへし。たねといひ、葉といふは、皆たとひなり。人の心物に感せさるほとは、草木の種のつちの中にあるかことし。既に感するに至りて、見る物聞ものにつけて、さま/\にいひいたせるは、雨露のめくみにあひてもえ出て、葉のわかれたるかことし。土にこもれるほとは、何のたねとしらされとも、柯葉をみて草木をわかち、木の中にも何の木、草の中にも何の草としるにたかはさるかことく、言外にあらはれて後、心のほともよくしられて、さかしきとおろかなると、まことあるといつはれると、かくすにところなし。このゆへに言の字は古登とよみてたれるを、古登波とよみ、ことのはともいふは、葉の字のたとひをそへていへるなり。まことある人のことはゝ松柏の變する事なきかことく、まことなき人のことはゝ、柳楸なとの秋にあへぬことくなれは、聖人のこときははるかなる世のことも聞て、すなはち知ことは、これ言語の徳なり。もし此聞へきことなくは、ひしりといふともつたへむ。首?嚴經にも佛もろ/\の聖者をして、所得の法門をとかしめて、文殊菩薩をしてえらはしめたまふ時、ひとり觀音の耳根圓通を取たまふも、此ゆへなり。心のいつはりなくまめやかなるをは、まこゝろといひ、言のいつはりなきをまことゝいふ。眞心、眞言なり。さるを心にいつはりなきをも、まことゝのみいふは、いつはりなき人は、こゝろとことはとあひかなふうへに、いふことはあらはにて、知やすけれはなり。このゆへに誠の字は、言と成とに從ひ、信の字は人と言に從へるを、ともに言のいつはりなきにも、心のいつはりなきにも、通して用るはこのいはれなり。嗔の字の口眞に從ふかことき、猶ふかきむね有へし。言の中に精華なるを、もろこしには詩といひ、此國には歌といふ。志のゆく所つゐに永歌するによりて名つくるに、はしめをはり有といへとも、所詮かはる事なし。此ゆへに詩をもうたといひ、歌をも續日本紀ならひに、此集には詩といへり。今その歌をえらふゆへに、萬葉なり。後々の勅撰に、金葉集、玉葉集、南朝に新葉集なと、名付られたるも、此集の名より出たるなるへし。集は廣韻曰。聚也。およそ物のあつまる事、鳥の木にあつまるよりおほきはなし。かるかゆへに字を製すること、木の上に隹の字をかうふらしめたり。玉篇にいはく。隹之惟切、鳥短尾之總名といへり。戦國策には、鳥集烏飛、兎與馬逝といひ、張衡か西京賦には、?貸方至、鳥集鱗萃といへり
一、此集の撰者ならひに時代の事、昔より説々ありて一定せす。されとも一同に勅撰とはさたむる歟。今此集の前後をみて、ひそかにこれをおもふに、中納言大伴家持卿若年より、古記、類聚歌林、家々の集まて、殘らすこれを見て、撰ひ取、そのほかむかしいまの歌、見聞にしたかひあるひは、人に尋とひて、漸々にこれを記し集て、天平寶字三年まてしるされたるか、そののちとかくまきれて、部類もよくとゝのへられぬ草本のまゝにて、世につたはりけるなり
問。古今集雜下にいはく。貞觀の御時、万葉集はいつはかりつくれるそととはせ給ひけれは、讀てたてまつれる。文屋ありすゑ
 神無月しくれ降をけるならのはの名におふ宮のふることそこれ
おなし集の序にいはく。いにしへよりかくつたはるうちにも、ならの御時よりそひろまりにける。かのおほん世や、うたの心もしろしめしたりけん。○これよりさきの歌をあつめてなん、萬えふしふとなつけられたりける。○かの御時よりこのかた、年はもゝとせあまり、世はとつきになんなりにける。眞名序にいはく。昔平城天子、詔侍臣、令撰萬葉集、自爾以來、時歴十代、數過百年。かくさたまれるを、なんそ清和の勅答、延喜の勅撰にそむきて、時代をも撰者をも、をのか胸臆にまかせてさためんとする。そのゆへあらはきかまほし
答ていはく。此事わかはしめていふにもあらす。京極黄門たしかにさため給はされとも、家持の撰といふに心をよせられたり。かのかゝれたることはにいはく。萬葉集時代事、近代歌仙等、多雖有喧※[口+花]相論事等、粗伺集之所載、自第十七卷似注付當時出來歌、事體見集第十七、自天平二年至于廿年。第十八、自天平廿年三月廿三日、至于同勝寶二年正月二日。【今案、考集第十八、二月二日後、自同五日至二月十一日載之。】第十九、自同年三月一日、至同五年正月廿五日。【今案、第十九終、二月廿五日也。非正月。】凡和漢書籍、多以所注載爲其時代書、何抛本集之所見、徒勘他集之序詞哉。頗似無其謂。撰者又慥説。世繼物語云。万葉集、高野御時諸兄大臣奉之云云。但件集橘大臣薨之後歌多書之、似家持卿之所注、尤以不審。このことはをおもふへし。他集の序詞とは、古今集の兩序をいへり。廢帝稱徳のころほひ、朝廷にことおほくなりて、歌の道もおとろへ、嵯峨天皇はひとへに詩文をのみこのませたまへは、皇女にいたるまて、詩をのみつくらせ給ひけるほとに、歌もすたれ、謬説出来て、此集をも、心をとめてみる人もなかりけるにこそ。其後又歌をもやう/\よむことになりけれと、たゝかの妄説なとを、さるにこそとおもひて、ふかくもきはめさりけれは、貞觀の勅答、延喜の勅撰にも、たしかならぬことはのこされて、大空をあふくはかり、此道にはあふく人とものいへることなれは、そののち吠聲のならひとはなれるなり。しかるに京極中納言、よく此集を見て、かくはのたまへるなり。そのうへに家持のわたくしに集られたりと見ゆるは、家持の歌にかきりて、拙歌といひて謙下せり。人のかたるを聞てしるし、人にたつねてしるす。みな家持の詞なり。大納言大伴旅人卿、いまた微官の時より名をしるさす。おほよそ大納言以上には、此集名をしるさす、たゝ氏姓と官位をもて顯せり。旅人は、天平二年十月に大納言に任せられ、三年七月に薨せられぬ。そのほとの歌にこそ名はしるさゝらめ、それよりさきのおほき歌に、一所も名をかゝす。二十卷のうちつゐに旅人といへる事なし。たとひやかもち撰者なりとも、勅撰ならはひとり父にわたくしせんや。これ家に撰してちゝをうやまへるなり。又やかもちの妻の、母にをくる歌を家持にあつらへてよませけるその詞書に尊母といへり。これわたくしの家のことにあらすや。これらに准して知へし。このほかかんかふる所あらはそこにしるすへし。定家卿ののたまへる所尤そのことはりいもしるし。又天平寶字三年より平城天皇の大同まては、五十年はかりなるに、なんそ人もなく歌もなきやうに、一首も入られさることはりあらんや。又人まろの石見の國よりのほりみやつかへしてそのゝち故郷へ歸らるゝ時、妻依羅娘子かわかれをおしみ、石見の國にして身まからるゝ時の歌、依羅娘子か聞てかなしふ歌、皆藤原宮御宇天皇代、※[手偏+總の旁]標せる下に載たれは、時代は分明なり。和銅元年六月に、但馬皇女薨たまふ時、穗積皇女のなけかせ給へる歌も、藤原宮御宇といへる下につらねたり。元明天皇和銅三年に、寧樂へ都をうつさせたまひけれは、うつされぬほとを猶藤原宮に屬せり。しかれは人まろの石見へ歸られける時、又かの國にて身まかられけるは、文武天皇の末より、元明天皇のはしめなり。第十卷に七夕の歌おほきなかに、天河やすのかはらのさたまりて心くらへはときまたなくにといふ歌のひたりに注していはく。此歌一首庚辰年作之。右柿本朝臣人麿歌集出といへり。これは天武天皇白鳳九年の歌歟。石見の國にありて、いまた都へのほられさる時よまれけるにや。又此集にたしかにその人の歌なるをは名をのせ、そのほかに誰家の集に出たりと注せるは、その人のにてはなくて、見聞人のをかきのせてをけるも有へし。まつ人丸は持統文武の兩朝につかへたてまつりし人なるを.平城天皇の御時の人といへること、此集をよく見すして妄説のまゝにかゝれたるなるへし。又人丸の位階をおほきみつのくらゐといへり。およそ貴賤をいふに、ふたつのやうあり。ひとつはつねのことし。ふたつには四位以下を賤とし、三位以上を貴とす。人丸の經られける官位、此集に見えすといへとも、しるすへきほとの官位にあらされはこそしるささるらめ。その死をいふにも、貴賤しな第二卷に死といへり。死はこれ六位以下庶人に通する詞なれは、賤位微官いはすして知ぬへし。又序にいはく。また山のへのあか人といふ人ありけり。うたにあやしくたへなりけり。人まろは赤人かかみにたゝむことかたく、あか人は人まろかしもにたゝむことかたくなん有けるといへり。同時ならすともともに上手にて、勝劣なしといはんにはかくもかくへからぬことにはあらねと、これは同時の人なりとおもはれけるにこそ。いにしへよりかくつたはるうちにもならの御時よりそひろまりにける。かのおほんよや、歌のこゝろをしろしめしたりけん。かのおほん時に、人まろなん、うたのひしりなりけるといふつゝきにかくかけれは、あやまれると見えたり。赤人の時代は、此集第六に、神龜元年より天平八年まての歌見えたり。しかれは元正天皇御在位の比より、聖武天皇の御在位のなかはまて有ける人なるへし。又歌のさかりなることは、天智天皇のころより、聖武考謙にをよへり。詩文とゝもにならひをこなはれけるなるへし。しかるを眞名序にいはく。自大津皇子之初作詩賦、詞人才子、慕風繼塵、移彼漢家之字、化我日域之俗、民業一改、和歌漸衰。この心すこしおもふにたかへり。但、上古はもはら歌をのみよみけるを、詩といふものゝ出來て、いつとなくうたの道の、おとろへけるといはゝ、詩賦のために歌のおほはれたるは、嵯峨天皇の御在位の比をこそ申へきに、貫之新撰和歌集序に云。抑夫上代之篇、儀漸幽而文猶質、下流之作、文偏巧而義漸疎。故抽始自弘仁至于延長詞人之作、花實初兼而已。今所撰、玄又玄也。非唯春霞秋月、潤艶流於言泉、花色鳥聲、鮮浮藻於詞露。皆是以動天地、感鬼神、厚人倫、成孝敬、上以風化下、々以諷刺上。雖誠假文於綺靡之下、然復取義於教戒之中者也といへる、この中に、弘仁を初とすれはかへりて是より文質をかねてよくなれるやうにきこゆれは、人まろたとひならのみかとの御時の人なりとも、彼わらはへまて聞なれたる、赤石の浦の朝きりも、三百六十首にはかならすもれけんかし。末世の今にいたりては、おもひかたくはかりかたきことのみおほし
又問。世繼に橘右大臣|高野《タカノ》帝の勅によりて撰はれたるよしかける、此説はいかゝおもふ
答て云ふ。此事さきに定家卿の詞をひける中にその辯あるかことし。そのうへ第六卷天平八年と標するに、御製の歌とて、橘は實さへ花さへといふ歌を載て、ひたりに注して云。右冬十一月九日、從三位葛城王従四位上佐爲王等、辭皇族之高名、賜外家之楠姓、已訖。於時、太上天皇々后共在于皇后宮、以爲肆宴、而即御製橘之歌并賜御酒宿禰等也。或云。此哥一首、太上天皇御歌。但天皇々后御歌各有一首者、其歌遺落、未得探求焉。今檢案内、八年十一月九日、葛城王等、願橘宿禰之姓上表。以十七日依表乞、賜橘宿禰。この注文、諸兄の大臣の詞にあらさること、掌をさせり。又第十六卷に、あさか山影さへみゆるといふ歌のひたりの注に、右歌傳云。葛木王遣于陸奧國之時云々。自身撰者ならは、かく注せられなんや。但葛木王には同名異人あり。歌の所に注すへし。いつれともさためかたし。又第十九に家持の歌に
 白雲のふりしく山をこえゆかん君をそもとないきのをに思ふ
此歌に注していはく。左大臣換尾云。伊伎能乎爾須流。然猶喩曰。如前誦之也。この左大臣といへるは、諸兄なり。これ家持のことはなり。又左大臣を壽せんとて作るといふ歌もあり。集をよく見ん人は、家持か私に撰すといふこと、みつから信すへし
一、目録の有無またあるにつけても諸本さま/\にかはれるよし、第廿卷の奥書に、仙覺律師くはしく注せらる。其中に、或又有都無目六本也といへり。今おもはく。此すへて目六なかりしか正本なるへし。昔も初學の人は侍けれは、目六なくしてはいつれの卷に、いかなる事の有としりかたけれは、さやうの事にたよりせむために、詞書のまゝにひろひ出し、あるひは左注を取、あるひはみつからの料簡をもてかける所も有。第一卷にはあやまり有。第二より第九まては、本のまゝにてあやまりなし。第十にはひと所あやまれり。十一より十四まて、又あやまらす。十五卷は、天平八年に使を新羅國へつかはさるゝ時、新舊歌合百四十五首と、中臣朝臣宅守か、越前の國へなかしつかはさるゝ時、狭野茅上娘子と贈答せる歌六十三首と、あはせて二百八首にて、卷をつくせり。事はたゝ兩條なり。兩條ともに、目録は小序の體にて、詞書は目録のことく、しかれは此卷は本來目六ありけるにや。もし目録なくて見は、宅守か事は越前へなかさるゝゆへ見えされは心得かたかるへし。第十六より第二十まては、あやまれる事はなはたおほし。十六より十九まては、ことに愚拙のものゝしわさなり。仙覺奥書に十五卷ま目録ありて第十六よりなき本ありといへり。しかれは此五卷は初學の中にも、おろかなるかしわさなるへし。此集をはむかしの人も本歌なとに用へきなとをえりてみて、一部の始終をは心をつけてもみされはこそ、これていの目録も、とかをつけられすしてさて有けり
一、長歌短歌
此集にては、長きを長歌とし.長歌の心をつゝめてよめる、三十一字の歌を短歌とも、反歌ともいふ。ある所には、反詠ともかけり。長歌に對せされは、常の歌をも短歌とはいはす
一、此集は神語なとあひましはりて、末代にいたりてそのこゝろ得かたきこと、新古今集の兩序に見えたり。假名の序にいはく。かの萬葉集は、歌みなもとなり。時うつ事へたゝりて、今の人しることかたし。眞名の序にいはく。彼上古之萬葉集者、蓋是倭歌之源也。編次之起、因准之義、皇序惟?、煙欝難披。かくのことくなれは、彼なかころをも過て、昔にもおよふへしときこゆる時たに、しることかたかりけれは、今にいたりて誰かよくこれをわきまふることあたはん。しらぬをしらすとして、うたかはしきをかゝは、とをかひとつふたつもしるはしるなるへし
一、後拾遺集の序にいはく。ならのみかとは、萬葉集二十卷をえらひて、常のもてあそひものとしたまへり。かの集のこゝろは、やすきことをかくして、かたきことをあらはせり。そのかみのこといまのよにかなはすしてまとへるものおほし。俊成卿古來風體抄にいはく。此萬葉集をは後拾遺序に申たるは、此集の心はやすきことをかくし、かたきことをあらはせり。よりてまとへるものおほしとそかきたるを、今さにはあらぬにやと覺侍るなり。此集のころまては、歌の詞、人の常によみける事ともを、時代移りかはるまゝにはよますなりにける詞とものあまたあるなるへし。もろこしにも文體三度あらたまるなと申けるやうに、此歌のすかた詞は時代のへたゝるにしたかひて、かはりまかるなり。昔の人のかたきことをあらはし、やすきことをかたくなして、人をまとはさんとおもへるにはあらさるへし。但かきさまのもしつかひにとりてそ、うちまかせてそのことにつかふをもかゝす、とくかきなしたることそおほかるへき。たとへは春花秋月ともいへる歌をやすくさはかゝて、まなかなにひともしつゝかきて、波流能波奈、阿伎乃都伎なとやうにかき、又おなしく一字にかくにとりても、こゝかしこにもしをかへてかき、又三十一字の物を、たゝ十餘文字にも、二十餘文字なとにもかきなしたる所々の侍るなり、まことにすこしはまとはさんとにやとも申つへかめれと、それもこと葉をかよはしてかくもいふそなとみせんとなるへし。されとも近來もさやさのもしつかひにはかゝれ、まとふものともゝあるなるへし。今いはく。これは後拾遺集の序に、すこし萬葉を難するやうにかゝれたるを、さにはあらすとたすけてかゝれたるなり。彼通俊卿、さる人には侍りけめと、歌においてはさして上手とも見えす、人の覺ゆるほとの歌もきこえねを、時の上手をさしこえて、白河院に申こひて、後拾遺集を撰せられ、これよりして集もわろくなりぬ。わろきことをはしむるほとの人なれは、此集を評せられけることも、わか心を古人になすらへてはかゝれけるなめり。やすきことをかくすとは、眞名をもかなをもさま/\にみたれかけるをいへるか。おほよそ此集の體、廿卷のうち第五第十四第十五第十七以下の四卷、以上七卷は大かたやすらかにかきて、よみやすし。殘る十三卷にぞ、眞名假名ともにいかてかくはかきもし、よみもしつらんとおもふ事おほく、なそ/\のやうにもかきなせる事、ところ/\にあれと、いにしへの人は器量おほきにして、才覺もひろかりけれは、家々に打みたれめつらしくかきおけるを、撰者そのまゝにかきつけたるへけれは、人まとはさんとわさとかまふることやはあるへき。世の未になりゆくまゝに、器量も才覺もそれにしたかへは、たゝめなれたるかんなのみを知て、すこしもかたきもしのましりつれは、えよますなりて、かへりて昔の人をうたかふなり。もろこしの文にも、五經、三史、文選、左傳、楚辭、莊子なとのことき古代の書にはめつらしき助語發語おほく、もしつかひも、末の世の文には見えぬ心得かたきことなり。これ聖賢をはしめて、人をまとはんとならんや。その時代のつねなるか、うつりかはりてをのつからかたき事になれるなり。今しはらく國の名、郡の名、郷の名につきていはゝ、これ此集の撰者のしわさにあらされとも、その中に和名集なとの注のかなにより所のものにもとはされは、よみとくことあたはぬかいとおほかり。これもまとはさんとてならんや。日本紀は三十卷にわたりてよみかたき中にもことに神代紀上下はむかしの點にしたかひてよめとも、いかてかくはかきたまひけん、いかてかくはよみときけんとおもふことのみおほし。これもまたまとはさんとてならんや。又かたきことのあらはれんは、世のたすけとなる事なり。されは難すへきにあらす。これは文字なとにかゝれたるにつきて、けにもとおもふ心のつく所もあれは、いはれたるにや。又俊成卿のたすけてかきたまへる中にも心得かたきことあり。春花秋月といふを、やすくさはかゝてとのたまへと、波流能波奈、阿伎乃都伎、みないにしへのかなにてやすきことなり。これをしからすといはゝ、今も文字にかくほとのことはみなもしにやはかき侍る。はるのはな、あきのつきともかけは、昔を難すへきにあらす。いろはといふかなは、弘法大師時の童蒙より末世をかけて、たよりあらしめて利益せんかために悉曇の字母四十七言になすらへて、四十七字のかんなをもて八句の歌につくりたまへり。此事は後にいふへし。源氏物かたりの梅かえに、よろつの事、昔にはおとりさまになりゆく末の世なれと、かんなのみなん、今の世は、いときはなくなりたる。ふるき跡はさたまれるやうにはあれと、ひろき心ゆたかならす、ひとすちにかよひてなん有けるといへり。まことにそのころまての上手のかんなうるはしうかきたるは、歌ににつかはしきを、それも末の世の心なれは、むかしの人におもはせは、かなひかなはすはかりかたし。もろこしにも、いにしへ事のすくなかりし世には、文字いてきて後も古文なりけるか、次第に轉して草書といふものゝ出來けるは事はおほくなりて、人の心はあさくなるゆへに、やすきにつきけるを、かへりて能書ときこゆるも、おほくは草書に名を得たり。此國のかんなは、草書の猶草になりたるなり。かんなとて、わきてもしを作りいたせるにはあらす
一、源氏物師、枕草子なとに、此集を古萬葉集といふを尺するもの、古代の集なるゆへとおもへるはあやまれり。これは菅家、此集にならひて新撰萬葉集をつくらせたまへるも、ともに世にをこなはるれは、それにわくとていふなり
一、此集に部類を分つに六種あり。一には雜歌、後々の勅撰に雜部あるにおなし。二には相聞、これは贈答にして、おもひをのふるなり。後の戀部にあたれり。十に六七も男女の情をのへて、其外は、君臣父子兄弟朋友にわたれり。三には挽歌、これは後の哀傷なり。挽、玉篇云。亡遠切、引也、與輓同。もろこしに葬送の時、?を執て薤露蒿里の歌をうたひて、轜車を挽ゆへにかなたに准して哀傷の歌を挽歌とはいへり。禮記檀弓下云。弔於葬者、必執引。若從柩及壙、皆執?。左傳云。晋之喪事敝邑之間、先君有所助執?矣。【?輓索也。禮送葬必執?。】捜神記云。挽歌者喪家之樂、執?者相和之聲【注云。?引柩索也。】文選注。李周翰曰。横【齊田横也】自殺。從者不敢哭而不勝哀。政爲悲歌以奇情。後廣之爲薤露蒿里歌、以贈終。至李延年、分爲二等、薤露送王公貴人、蒿里送士大夫庶人、挽柩者歌之。因呼爲挽歌。挽歌と名つくること、これらにみえたり。四には譬喩、これは物にたとへてこゝろをあらはすなり。第三卷に譬喩歌とてさま/\の心をさま/\の物にたとへたるを部類せり。相聞等の中にも譬喩あれは、かりに立たるなるへし。五には四季の歌、四季を四部にわかたは九部ともいふへし。六には四季の相聞、これは第八第十の兩卷に見え皇たり。これをも四部とせは十二部といふへし。又相聞に合せは惣して唯五部ともいふへし。此集は相聞をもて主とすれはにや。四季の歌も相聞ならぬは雜春雜夏なとといへり。古今より後の集にも戀部を五卷六卷にわかてる、この心におなしかるへし。又古今集は戀部ひとへに男女の中をいへり。その後の集にはまれ/\たゝ相聞なるも見えたり
一、此集卷々につきて部類のやうあり。されとも草案のまゝなれはにや、雜亂なきにあらす。第一卷は某宮々にして天か下しろしめすすめらみことの御代と標して、其下に次第に雜歌を載たり。第二卷は第一とおなし體にて初には相聞の歌をのせ、後にも同し次第にて挽歌を載たり。第三卷は三部あり。初には持統天皇よりこなたの作者の、いつれの比よりともしれぬ雜歌をのせ、中ころには同しやうにて譬喩の歌を載せ、後には聖徳太子の御歌よりこのかた、次第に挽歌を載たり。第四卷は仁徳天皇の御妹の御歌よりはしめておほよそ次第してみな相聞の歌なり。第五は太宰帥大伴卿報凶問歌といふより山上憶良の戀男子名古日歌といふに至るまて、神龜の初より天平五年にいたるまての雜歌なり。これは憶良の集をかれたるに家持卿後にくはへられたるもあるへし。憶良の大伴君熊凝かために其志を述てよまれける歌にいたるまてはみな筑紫にての歌にて都の人の贈答もましれり。貧窮問答歌も筑紫の作歟。たしかならす。好去好來歌より後は都にて憶良のよまれたる歌なり。此卷には詩文もましれり。又梅をよめる歌ともは春に入へく、挽歌に類聚すへきも多けれと、筑紫にてよめるを一類とし、憶良のあつめをかれたるにまかせて、すへて雜歌とはせるなり。第六はすへて雜の歌なり。此卷は養老七年より天平十六年まておほよそ次第を年にかけたり。第七卷は三部あり。初は雜歌其中に天象地儀よりはしめて、大底部類せり。中は譬喩なり。其中に寄物に部類あり。終は挽歌なり。此集はすへて作者しれす、時代もしれさるを一類とせり。第八卷は四季の歌なり。春夏秋冬次第せり。其中に四季相聞をたてゝ、相聞ならぬをは四季の雜歌とせり。こ/\く作者あり。第九卷には三部あり。雜歌と相聞と挽歌となり。此卷は作者の名をも、古人簡略に記したれと知かたきやうなるを一類とす。卷中に撰者の自注しかみえたり。第十卷は第八の體と全同なり。たゝし此卷は作者なきを異とす。此卷を第八につきて第九を十とせはやとそおほゆる。第十一第十二の兩卷は古今相聞往來歌類を上下にわかてり。みな作者なし。さき/\の相聞は時代作者等しれたるを類聚し、此兩卷は時代作者ともにしれさるを一類とす。第十一に譬喩歌十三首あり。これは相聞の中にして類聚せり。兩卷をの/\卷の中に部類をわかてり。此相聞はもはら男女の情をのへたるもまた一類なり。第十三卷には雜歌、相聞、挽歌、三部あり。相聞の歌五十七首の次に問答歌十八首、譬喩一首、以上十九首あり。これまた相聞の内に類をわかてり。惣をもて別に對するかことし。第十四は東歌なり。國をわかちて雜歌相聞譬喩の歌あり。末にいたりて未勘國の歌に、また雜歌、相聞、防人歌、譬喩、挽歌等あり。第二十卷に載たる防人歌とも、こゝにあるへきことなれと、十七卷の中ほと家持越中守にて下られける後日記のやうなれは、それもまたことはりあり。第十五は天平八年六月に新羅國へつかはされたる使の、往還のほとの歌とも、新古合て百四十五首と、中臣朝臣宅守か越前國に流さるゝ時、狭野茅上娘子と各別をかなしひて贈答せる歌六十三首と、都合二百八首をもて卷をなせり。これは第五卷と類すへき卷なり。第十六は惣標していはく。有由縁雜歌と、まことにしかり。相聞の歌もあれと、みな由縁を具せり。又俳諧の歌おほし。第十七卷は天平二年より同廿年正月まての歌を載たり。但そのあひた次第して連錦せる紀録にはあらす。漸々見聞にしたかひてあつめられけるか、もれて殘りけるを、後日に尋出して記せられけるなるへし。天平二年の歌十首をのせて、やかて、十七年の七夕の歌にうつれるにてしるへし。同十三年四月の歌より又絶て、十六年四月の歌あり。しかれは定家卿も天平二年より廿年に至るとのたまひて、さることなれとも、實は十八年七月家持越中守にて下られけるより相續して部類をもわかたすしるされて、日記のやうにはなれり。それにとりて天平勝寶三年八月まては越中にてしるされけるゆへ、そのほと都より下る人、時の王臣の歌、ならひに古歌の中にも、家持卿の聞をよはれさるをかたれは、すなはちしるして、誰つたふるまゝにみこゝにしるすなとやうに注せられたり。ひらきて知へし。十九卷のなかはより都へ歸りて記して、寶字二年七月まてに廿卷にみちぬれは因幡守となりて下りて三年正月一日の祝儀の歌をもて卷軸として筆をゝかれけるなるへし。十七十八の二卷にもまた詩文あひましれり。第五とゝもに三卷あり
一、此集に文字を用るに、正訓義訓あり。梵語を翻譯するに、翻義翻あることし。正訓は、花をはな、月をつきとよむかことし。義訓は、春草をわか草とよみ、金山をあき山とよみ、冬風をあらしとよみ、向南とかきてきたとよむたくひなり。又なそ/\のやうなるもおほし。千變萬化、神のことくしてはかりかたし。日本紀の義訓また妙なり。かれをみてこれをよむへし。所詮蛇牀を蛭莚と訓する心を得は、はしめて音訓をかたるへし
一、眞名をもて假名に用るに、日本紀はやすらかに音を取て用ゆ。但むつかしき文字なとをつかひて、音も呉漢相ましはれり。三十一字の歌は三十一字を用て眞名をましふることなし。此集の假名は、さのみむつかしきもしは用す、音訓相ましへてつかへり。音は多分呉音を用て、漢音はまれに用たり。和訓をかんなに用たるに、無窮のことあり。心をつくへし。八十一《クヽ》十六《シヽ》、左右《マテ》、二二《シ》、二五《トヲ》、喚?《ツヽ》、少熱《ヌル》、馬聲《イ》、蜂音《ブ》、青頭?《カモ》、留鳥《アミ》、此たくひかすしらす
一、假名反に心をつくへし。假令、吉野爾在とかきてよしのなるとよむは、爾阿反、奈なるゆへなり。雪消とかきてゆきけとよむは、幾叡切、氣なるゆへなり。くぬちこと/\みせまし物をとよめるは國中なり。爾宇切奴なるゆへなり。おほよそ阿以宇惠袁の韻となる字、下にある時のみ歌にはかゝることあり。もし此外にありともすくなかるへし。天降付を、あもりつくとよめるなとは米布切にて外なり
一、明魏法師は、をお、えゑ、いゐのたくひ、みな通してかくへきよしをいへり。これは通を見て別をしらさるなり。通別相まちてたかひになること、たとへは經緯の布をなすかことし。別は經なり。通は緯なり。別の經なくは、通の緯つくる所なし。布を横にみる時は、緯はかへりて經となり、經はかへりて緯となる。これ別の中に通あるなり。しかれとも横にみるといへとも、經緯をの/\その徳を混せす。これ通の時、別をうしなはさるなり。通別は兩輪雙翼にして、かくへからす。今これにちなみて、をしひろめていはゝ、別は差別、通は平等なり。内典外典の教、無量なれとも、畢竟此ふたつに通す。ふたつは倶時の法にして、初より前後せす。天地は差別、四方は平等なり。三世は竪にして差別なり。十方は横にして平等なり。それにとりても外典より小乘教の至大乘の中にも相宗まては平等をしらさるにはあらされとも、差別をさきとして、説ことは、凡夫は貴賤をわかち、凡聖をあきらかにして教されは道に入ことあたはされはなり。三論以上の大乘は眞如無相の平等の理を示して差別の執をとらかせり。されとも差別をすつるにはあらす。此上に、法佛自内證、秘密瑜伽最上佛乘、大漫拏?教、陀羅尼法門ありて、立かへりて、凡夫の見る所しる所の、地水火風空識の本有の六大をもて諸法の體とし、身語意の法爾の三密をもて用として、金胎兩部ならひに彼差別平等をつかさとりて捨ることなく取る事なし。先照高山の華嚴大教は、醍醐を攝する乳味なれとも、眞如法界不守自性隨縁の義をもて、深極とせり。これ猶無明の分域にして法性の深底をつくさす。三劫を經歴して、十進九退するといふに、おさむるゆへなり。金剛乘教には、各々守自性、各々自建立といひて、一味の上に無量乘を説て相さまたけさるなり。大明の謝肇淵か、易に大極といへるかすなはち無極することを、宋儒の知らすして、大極にして無極といへるを咲へる、これにゝたり。此三密門の理々無數、知々無邊をきかは、かれさためて信入すへきをあはさること惜むへし。六大たかひに具して、無數爲一の一ならて、二三にきらへるよのつねの一理より、差別の萬法を生すといはゝ、本無今有を執する外道の邪見にちかくして、末をもてをしふとも誰かこれを信せん。此理微妙にして上智にあらされはかへりてまとふゆへに、聖人にあへとも聞人まれなるを、末世にいたれは、内外の學、高きよりひきゝにいたり、遠きよりちかきにいたるといはんかことくして、言のみありて實なし。すてに傍論となりぬ。やめぬへし。各々守自性は、をお等の差別なり。明魏かいへる通は此上にあるゆへに、此集てにをはのをに、やゝもすれは、於の字をかけり。これは通の義をはかりてかけるなるへし。えゑのわかちは、いまたよくかんかへす。いゐはよくわかてり。此外言の下につきてまかふことおほし
ろとらと【うつろふ まらうと】 波與和【いはふ うらわ】 いとひと【展戀】【こひ こひ】 保與乎【しほ うを】 邊與惠【家 いへ 聲 こゑ】 登與多【纏 まとふ 答 こたふ】 知與之【穣 ひつち 羊 ひつし】 加與古【疑 うたかふ 埜 かこふ】 余與惠【迷 まよふ 万葉 まんえふ】 曾與左【誘 さそふ 携 たつさふ】 豆與須【屑 くつ 葛 くす】 奈與乃【稱 かなふ 調 とゝのふ】 牟與宇【梅 むめ、うめ 馬 むま、うま】 末與毛【賜 たまふ 思 おもふ】 安與乎於【逢 あふ 追 をふ 負 おふ】
これらになすらへて知へし。此集と日本紀、續日本紀、延喜式、和名集等のかんなはあひかなひて、今の世の假名は、たかひたることおほけれは、古代の相かなへるかおほきにしたかふへし。別あるゆへに通といふ名もあれは、まつ別をよく知て通をかねて用へし。明魏か通は別をやふりて通を執するゆへに通にもくらきなり。たゝしかくいへはとて、今通別をみつから知ていふにはあらす。道理しかれはおしていふなり。今また差別平等をたとへをもていはん、稚櫻氏の人こゝにありて、同腹にして十子あらん。太郎かおもはく、一姓にして同腹なり。兄弟なんそ尊卑あらん。しかはあれと、我不肖なれとも嫡子にあたれり。分にしたかひてみなひとしくめくまんと。五郎かおもはく、我は第五たり。このかみたちをやうやまふへく、をとうとをはめくまんと。十郎かおもはく、我は最後にむまれたり。一姓にして同腹なれはとて、なんそゝれをたのみて、このかみたちとひとしくおもはん。みなついてによりてうやまはんと。このかみは差別をわすれて平等を存し、をとうとは平等をゝきて差別につく事、かくのことくならは、管絃のしらへのかなへることくなるへし。あには嫡庶の差別を執して、をとうとをくたし、をとうとは姓腹を論して、あにをしのき、くはふるに利鈍をたくらへて、ふるき冠をもて履とせは、垣をせめく禍、天倫をやふりぬへし。文字の通別これに准すへし。かんなもしの數につきては、此次にしるすへし
一、とふ。かんなの數四十七字にかきり、又今のいろはといふもの、弘法大師の作なりといふこと、何にか見えたる。こたふらく。およそあらゆる音をいふに五十音あり。此事は後にいふへし。四十七字といふことは、千載和歌集の序にいはく。そも/\この歌の道をまなふることをいふに、からくに、ひのもとのひろきふみの道をもまなひす、しかのそのわしの嶺のふかきみのりをさとるにしもあらす。たゝかなのよそちあまりなゝもしのうちを出すして、心におもふことを、ことはにまかせて、いひつらぬるならひなるかゆへにこそ、みそもしあまりひともしをたによみつらねつるものは、出雲やくものそこをしのき、しきしまやまとふことのさかひに、いりすきにたりとのみおもへるなるへし。才學なけれは、此外はいまたみをよはす。此よそちあまりなゝもしは、いにしへよりわかれけるか、もしまた弘法大師の、いろはの歌をつらねたまへるより、さたまりけるか、知かたし。次に、いろはを弘法大師の製作なりといふ事は、世にあまねくいひつたふるうへに、日本紀疏云。問、我應神時漢言東漸、倭字則起于弘法大師空海、故上古未有文字云々。これ書に見えたる證なり。又傳法院覺钁上人の釋をあつめたる密嚴諸秘釋の中に、以呂波略釋あり。祖師の作とてこそ、上人は尺せられけめ。又、拾遺愚草にも、後京極殿の仰にて、ある夜の時のまに、いろはの四十七字を句の頭にをきてよまれたる歌あり。大權の聖者のしわさにあらすは、むかしよりかくもちゐて、今も手ならふ人のはしめとはせし。五十言の中に三言をかゝれたるもそのゆへ侍るへし。今意を得てこれを眞名とせは、色者雖艶【一句】散【奴留遠二句】我世誰【曾三句】將常在【四句】有爲乃奥山【五句】今日越【?六句】不見淺夢【七句】醉毛不爲【八句】その義かくのことし。此の中に初の四句は、常?倒の衆生をして覺察を生せしむ。四句の中に、初の二句は花紅葉のうるはしくにほへる色も、雨にうたれ風にふかれ、むなしくちることをいひて、次の二句の心もみなしかり。人なんそ常にあらんと引て、人の上に歸するなり。誰か常ならんといひなるゝゆへなり。されと字書に、是推切、何也、不知其名也といへり。今もなんそ常ならんといへは、誰何まことにおなし心なれは、誰そつねならんとあやしむへからす。常ならんは常にあらんなり。爾阿切奈となるゆへなり。おほよそ大小乗の法門まち/\なれと、通して最初には無常を觀するを要とするゆへに、まつ無常を示せは、常樂我淨の四?倒ともに、一時にのそこるなり。次の四句のこゝろは、すてに、有爲の諸法は畢竟無常なりと知ぬれは、世上の患難をまぬかるゝゆへに、うゐのおくやまけふこえてとはいへり。おく山としもいふは、險岨の至極に八苦等をたとふるなり。あさきゆめみしとは、世間虚假の法はこと/\く麁淺にて、夢中にさま/\の境界を見て、取捨憎愛の分別にくるしふかことくなれは、一たひさめて皆夢なりと知ぬるうへは、今更にまた見しとなり。又うゐといふよりこれまては、凡夫をいさなひて、いさうゐのおく山をけふこえはてゝ、なかく淺近の夢を見しとのたまふにもあるへし。ゑひもせす、これ此一句をたてゝ佛法の玄極をしめす。凡夫無明の酒を被て無始以來生死の曠野に醉臥せりとおもへとも、實は能醉の無明の酒もなく、所醉の凡夫もなくして、本來ゑひもせすなり。これにつきて顯密二教の心各別なり。弘法大師は密宗の祖師なれば、猶秘奥の義ありて沙石集にいへり。これそまことの大陀羅尼なるへき。八句は二頌に准せられたるなるへし。句絶の所は、初の四句の終、次の三句の終、後の一句となれは、此國の習にては、八句なれとも、實は三句なり。それを七行になされたれは、梵語しらぬものゝ、陀羅尼きかんやうなるもめてたし。道家に臨兵闘者等の九字を誦し、日出東方、乍黄乍赤なといひてましなふに、よろつのこと、感應響のことくなれは、いはんや、三密加持の妙語、何ことゝしらて手本とす。童蒙も不思議の冥益ありぬへし。顯教に方便といふは、空拳をにきりて、小兒の啼をやむるかことし。密教はしからす。譬は長者に愛子あり。いときなきに、おほくの黄金をあたへんとすれとも、かれたゝ玩好の具を弄して、いまたこかねの寶なることをしらす。これによりて、長者すなはち、彼金をもて禽獣蟲魚等につくりてあたふ。かれよろこひてもてあそふ。成長の時、寶なりとしれは、資用つくることなきかことし。方便といふは、玩好の具となすをいふ。まことには方便やかて眞實なり。又異朝の華嚴宗沙門金柯寺道殿法師の撰せる、顯密圓通成佛心要集に、密教の方便を譬へていはく。小兒の病ある時、藥を腹せしめんとすれとも更にうけかはす。これによりて母の※[女+尓]にぬりをくに、小兒藥ありともしらす、乳をふくむにちなみて頓に重病を除かことしと。いろはに功能あらんこと、これに准すへし。又いろはと名付るは、論語の學而等の例なる中に奇妙のこと侍り。父母を和語にかそいろはとよみて、母をいろはといふ。梵書の字母のことく、和語の字母なりといふことを、發端の詞にあらはされたる事、四十七言にさたまりたる和字をもて、過不及なく玄妙の教となさるゝうへに、かゝる奇異の事、誰の人か、をよひ侍らん。たゝし色者といへる詞なるを、似つかぬ母ともいふ事やあるへき。穿鑿なりと難する人侍らん。悉曇の法に達したる阿闍梨に尋られは、いふ所を信せらるへし。又今ひとつの奇あり。梵語に准するに、伊字に根本の義あり。伊聲これにおなし。五十音の初の五音は阿以宇惠遠なり。阿は諸法の本源なれとも喉内の聲にして、いまた分明ならぬうへに、聲韻をかねたり。以は喉内より舌に移て聲の轉する初なれは、根本の義あり。阿は種のことし。伊は種より生する根のことし。此根莖、枝葉花等の本となれは、根本の聲といふ。猶さま/\の義を經にとかれたれとも、今は和語につきていへは、につかはしきをとれり。和漢ともに伊を發語の聲とするも、自然に此理にかなへり。此字を初にをかるゝ事、悉曇の深義より出たり。終に京の字をゝかるゝことは、梵書の字母の終に界畔の字とて乞叉【二合】の字あり。これに准してをかるゝなり。彼乞叉といふ梵字は、迦と叉との二字を合たる字なり。これを異體重といふ。おほよそ梵字に、當體重、異體重の法あり。當體重は唐の文字にては、炎の字、棗の字の如し、異體重は、唐にもさま/\に二字、三字を重合して一字としたる字あるかことし。二字より四五字も重ぬる法あるかゆへに、梵語を漢字に對譯してかけるに、二合、三合、四合、五合等と注したるこれなり。悉曇を學せさるものは、梵語をよむにあやまることおほし。大佛頂陀羅尼【〓嚴咒】に虎〓都廬甕〓とあるは、虎〓【二合】都廬甕【三合】〓【半音】かくのことく注せらるへきを舊譯の三藏疎略にして筆受潤文等の人注せさるにより、梵字なき人傳受を經すして、句讀をもしらてよむほとに、宋朝の訛音をもて虎〓を二合に大呼せすして、くきんとよみ、都廬甕三合を知すして、都廬をつりよとよみ、〓の宇梵字の法に半音によむ事をしらす、上の甕の字につゝけてようはんとよめり。法華經を二重かなに、ほくえきやうとかけるをほくとよみ、下のきやうを、みなかなをわりて、猶上の字をつゝけてよまんかことし。かくのことく梵文に二音三音をつゝくる法、乞叉【二合】字を擧て、准してしらむるになすらへて、幾也宇の三音を合せたる京の字をもて、和語の二音、三音を合せて唐の一音とする法を、しめさるゝなり。それにとりて、梵文にも二合、三合の字等、あまたあれはいつれにても出すへし。迦と叉と合したる字を擧るに深意あることく、いろはに京の字を出さるゝにもゆへあるへし。字書に、京は大也と注せり。一大を合て天の字とするかことく、大といふにもるゝ事なけれは、京の字は天子のまします所の名にてもあれは、ふたつの心を兼てをかるゝにや。又、ゑひもせすといふは法身なれは、その所居の密嚴花藏の樂都を京といひて、法身の依正をあけて、法界をくゝらるゝなるへし。凡慮をもてはかり見るにも、かゝる深義有とみゆる、いろはの中に、いゐ、をお、えゑをわかちて出され、俊成卿もよそちあまりなゝもしとのたまへるを、明魏法師、たま/\通する一邊をみて、たやすくこれを混せんとするは、おほきにひかことなり。もししからば、仁賢天皇と顯宗天皇とは兄弟にまし/\て、仁賢をは初に億計王と申、顯宗をは弘計王と申き。億は奥のお、弘は口のをに用る字なり。平上去の三聲いつれをいかに申奉るとはしらねとも、故實を存知する人にたつねは、聞ところにわかち有へし。いたくなまれる人の橋、端、箸をえいひわけぬやうならは、兄弟の御中にまきらはしき御名をつかせたまはんやは。明魏もかきわかちいひわかたさることあたはし
一、一切の音聲は、五十音を出す。五十音といふは、初、阿伊宇惠袁より、後の和爲于叡於にいたるまて、十種の五音あるをいへり。涅槃經文字品【四十經第八第十三品】曰。佛復告迦葉、【菩薩名也非迦葉尊者】所有種々異論呪術言語文字、皆是佛説非外道説。迦葉菩薩白佛言。世尊云何如來説字根本。佛言、善男子、初説半字以爲根本、持諸記論呪術、文章諸信實法、凡夫之人、學是字本、然後能知是法非法、迦葉菩薩復白佛言。世尊所言字者、其義云何。善男子有十四音、名爲字義、所言字名曰涅槃常、故不流、若不流者則爲無盡、夫無盡者則是如來金剛之身、是十四音名曰字本已上。此經に字母五十字を説たまふ。五十音にはあらす。此五十字をたゝむて、十四音としたまふにつきて、和漢の諸師、これを解するに、異議まち/\にしてをの/\蘭菊なり。されとも和語にかなはぬは出さす。其中に信範法師の解、こゝに要なるゆへに引なり。十四音といふは、阿伊宇惠袁を五とし、迦遮?那波摩也良和を九として、合する時、十四音なり。九字を聲の體とし、五字を韻とする時、三十六音を生するゆへに、能生所生合すれは、五十音となるなり。されは迦等の九字は父のことく、阿等の五字は、母のことく、吉句計古等の三十六字は、子のことし。涅槃經の五十字、悉曇字記の四十七字等も、みな十四音をもとゝするゆへに、十四音とは説せたまへり。梵天所製の四十七言の中に、十二字を摩多の字といふ。摩多は梵語、唐には點畫とも韻とも譯せり。開すれは十二字なれとも、合すれは阿伊宇惠袁の五字なり。三十五字を體文といふ。字の體となる字なり。これも合すれは、迦左等の九字に攝す。今十四音の三十六音を生するやうを、梵字の位に准して、かりに漢字をもて合して圖すへし
 
 
(【右輪畫ノミ有リテ文字ナシ。似閑ノ識語ニ「此圖倭字正濫抄ニアリ今コヽニナシ」ト】)
もし梵語につきていはゝ無量の義あるへし。ちかころ河州延命寺淨嚴闍梨、悉曇三密鈔序目ともに八卷希をつくりて童蒙まてに便せらるゝ中に、上本十九葉より、終四十葉にいたるまてをみるへし。此五十音梵文は圖をかりていふかことく、字體をの/\別なれは、三の伊、二の宇、三の惠、二の乎きゝはおなしけれとも、まきれす。今のいろはには、此中に二の伊、二の惠、二の乎ありて也所生の以と、和所生の宇惠と、以上合て三音を闕こと、そのゆへあるへし。これを悉曇家にたつぬへし。みたりに混すへからす
一、本朝は大唐の文字をかり用といへとも、音韻はかへりて天竺によく通す。そのゆへは、梵文をよむに、本朝よくかなふかゆへなり。倶舍云。一切天衆皆作聖音、謂彼言辭同中印度。西域記第二云。詳其文字、梵天所製、原始垂則、四十七言、偶物合成、隨事轉用、流演枝派、其源浸廣、因地隨人、微有改變、語其大較、未異本源、而中印度、物爲詳正、辭調和雅、與天同音、氣韻清亮、爲人軌則。しかれは、わか國の上國なること知られたり。こゝをもて日本紀纂疏云。鞍韻書、倭烏禾切、女王國名。又於烏切。説文云。順貌廣愼貌。増韻謹貌。今以兩韵通用、則倭順貌、葢取人心之柔順、語言之諧聲也。今の集にことさへく韓、さへく百濟といひ、日本紀の欽明紀に、韓婦用韓語言なといへるは、異國の音韻のたゝしからさることをいへり。もろこしは呉漢の二言ありて、呉音は南天笠に近く、漢音は中印度の音に近かりけるを、衰世にいたりて、北狄のために、國をうはゝれけるゆへにや、今の唐音詳正ならすして、きゝもいといやし。詳正ならさること、何をもてかしるしとするとならは、一には梵文をもて證するにかなはす。ふたつには此の國の音は、呉漢ともに、かなたの盛におさまれる世の音をつたへて、今にあらたまる事なきに、それにもかなはされは、今の唐音はよこなまれるなるへし。しかれは本朝は此國のことはのたゝしきのみにあらす。唐よりつたはれる音もたゝしきなり。又唐には、ことはりをさきにいひて、事を後にあらはす。天竺は、事をさきにいひて、ことはりを後にいへり。わか國の法、天竺とおなし。たとへはもろこしには、見月、見花といふを此國には、月を見、花を見るといへるたくひなり。このゆへに唐のふみをよむには、五字、三字、五行十行、一紙二紙をへたてゝもかへりて讀なり。此國にても、おもひきやと初のいつもしに置てよむたくひはすこし似たれと、それも、もろこしの、豈料、不圖といふ心なれは、一句の中にかへるとかへらさるとのたかひあり。そのうへ此國のことはにても、古歌はおほくいひ下して、まれに下より上にかへりて心うる歌はよめり
一、天竺の文字は、梵天はしめて作るといひ、辰旦の文字は蒼頡はしめて作れりといふは、縁起を見て、法爾常恒の理をしるさるなり。龍樹菩薩摩訶衍論云。今始起徳、本來有故。此文のこゝろを案すへし。おほよそ本無今有は外道の見解なるゆへに、涅槃經に、無有是處と破し給へり。梵字漢字につきて、一往邪正をわかてとも、再往これを論すれは、ともに法爾に出て、更に人の造作にあらす。されとも法爾はかならす因縁によりて顯はるゝゆへに、鳥迹を見て本有の文字を顯はしけるを作るとはいへり。實には孔子の述而不作とのたまへるかことし。文鏡秘府論序云。空中塵中、開本有之字、龜上龍上、演自然之文。この文の心をみるへし。これ弘法大師のわたくしの尺にあらす。經論の明文によりて、惣持門の實義を演て、門外の教門みな實相より出ることをのたまふなり。論語に我欲無言といひ、易に書不盡言、言不盡意といひ、老子の知者不言といへるより、禅門に不立文字といひ、法華經に、諸法寂滅相、不可以言宣と説にいたるまて、淺深重々なりといへとも、猶、庶情に屬して、いまた表徳の至極をあらはさす。微妙寂絶の處にいたりては、言斷心滅といふは、車輪の經を量るに、ます/\いたれはます/\近くしてゆきてかへらさるかことし。三密平等の法門は圍のことくして、ます/\いたりて、ます/\遠けれは、かへりてちかくして本處にいたる。當相即道、即事而眞。それしからさんや。かるかゆへに、大日經にいはく。擧足下足、皆成密印、舌相所轉、皆是眞言。又云。秘密主觀、我語輪境界廣長、遍至無量世界清淨門、善無畏三藏説世尊、以未來世衆生鈍根、故迷於二諦、不知即俗而眞、是故慇懃指事、言秘密主、云何如來眞言道、謂加持此書寫文字、以世間文字、語言實義、是故如來即以眞言實義而加持之、若出法性外、別有世間文字者、即是妄心謬見、是則墮於?倒、非眞言也。已上。聲と字と實相と、三種無二なりと知て、よろしきに隨ひて用るを、一切智者とは名付る故に、弘法大師、聲字實相義をつくりたまへるを、承和官符に、東寺三業學者の中に、聲明業を學ふものゝ、所學の書に載たまへり。顯教の中の經論にも、如義言説は無爲の眞理にかなふよしを説れたる事、日月の明なるかことくなれとも、言斷心滅に卦著して、柱に膠せる輩、頭をめくらす事あたはす。二教論の引証の文ともをみるへし。守護國界主陀羅尼經【般若三藏譯】云○以上の經論等の文を引ことは、沙石集に、無住和尚、和歌は此國の陀羅尼なりと申されたるは、陀羅尼は惣持と譯して、多含の義あり。和歌もまた多義をふくむ故なり。是を梵語のかたには句義といふ。又字々に字相、字相、淺略、深秘、秘中、深秘等の義あり。和歌はそれまてにはをよはす。たとひ其義有とも、名をのみ聞てしらぬ事なから、隨方の文字語言にをのつから實相をふくむはたのもしき事なれは、略を取て諸文を引侍る。西行法師、明惠上人に對して、我は和歌一首よみ出ては卒堵波一本作ると思ふと申されけるは、沙石集に、慈鎭和尚、西行に眞言の大事を授り給ふへきよし、とひ給ひけるよしみえたれは、奥秘の義に達してかくは申されけるにこそ。千載集に、高野の山を住うかれて後、いせの國ふたみの浦の山寺に侍けるに、大神宮の御山をは、神路山と申、大日如來の御すいしやくをおもひて讀侍ける  圓位法師【後に西行とあらためらる】
 深くいりて神路のおくを尋れは又うへもなき嶺の松風
國を大日本と名つけ、神を天照大神といふも、をのつから、大日遍照尊に冥合せり。元亨釋書に、天照太神、行基菩薩に託宣したまへる神勅の詞、おもひ合せらる。八幡大菩薩、弘法大師と、密教を唱和して鎭護したまへるなと、内證はかりかたし。又神代紀上云。伊弉諾尊、則往筑紫日向小戸橘之  原、而祓除焉。然後洗左眼、因以生神、號曰天照太神、後洗右眼、因以生神、號曰月讀尊。眞言門の經軌の中に、兩眼に麼  佗の二字を觀して、日月となす事をとかれたれは、かれこれにつきて、瑜伽最上乘相應の地なれは、はか/\しくしられぬ事なれと、梵文と和語と相かなふ所あるにつけて、思ひよれることを注し侍りぬ
易繋辭云。子曰、書不盡言、々不盡意、然則聖人之意其不可見。子曰、聖人立象以盡意、設卦以盡情僞、繋辭以盡其言、變而通之以盡利、鼓之舞之以盡神。この中に、書不盡言、々不盡意といふは、釋摩  河衍論の五種言説の中の相と、夢と、妄執と、無始との四種の言説の眞理に契當せさるかことし。聖人立象といふより下は、第五の如義言説の能眞理を説かことし。此意を得さるもの、内典、外典ともに至極にいたりては、言語を離たりとのみおもへるは、をの/\その奥義をきはめさるなり。和歌もまたこれに准すへし。よろつの奥義は誰かはきはむる人あらん。此理ありと信して、いつはりをすてゝ、心のをよふ所まことにつかは、神明もこれをうけたまふへし
一、鹿烏禾切、和の字と音同しきかゆへに、通して和を用ゆ。倭の又の音、於烏切。説文云。順貌。わとおと五音通して義もまた和に通せり。日本起纂疏に、葢取人心之柔順、語言之諧聲也と釋したまへは、ことはりにあたれり。しかれは本朝はすてに和をもて名とすれは、いふにをよはす。三教もまた柔和をたとふ。此故に儒柔也。そのをしふるところ知ぬへし。老子云。人之生也柔弱、其死也堅強、萬物草木之生也柔脆、其死枯槁、故堅強者死之徒、柔弱者生之徒、是以兵強則不勝、木強則共、強大處下、柔弱處上。佛經云。柔和忍辱。本朝はもと陽國なり。陽勝ときは強に通るゆへに、日神乾徳を降して、坤儀につきたまふも、自然の教なるへし。神道は幽玄にして測かたし。和歌は、淺深を兼て、上は神明佛陀にも通し、下は凡民まてを教ふ。天下の治亂と和歌の興廢、ともに運をひとしうすと見えたり。論語云。陳元問於伯魯曰。○又云。子曰、小子何莫學夫詩。○禮記云。孔子曰、入其國其教可知也其爲人也、温柔敦厚詩教也。正義云。温柔敦厚詩教者温謂顔色温潤。○柔謂情性和柔、詩依違諷諫不指切事情、故云爾也、又曰、詩之失愚。○温柔敦厚而不愚、則深於詩者也。書舜典云。詩言志、歌永言、聲依永、律和聲。淮南子云。温惠淳良者詩之風。子夏詩序云。詩者志之所之也。○
歌は此國の詩なり。このゆへに此集ならひに續日本紀には、やかて詩ともいへり。こゝろさしのゆくところ、つゐにことをなかうすれは、もろこしには、初につきて詩となつけ、此國には後につきて歌となつくと、かなたにもまた歌といへは、おなしことなり、詩のをしへのことく、歌をも用ゆへし。詩すてに五經の中の隨一なれは、詩の天下に用あることお腔きなり。此集をは、此國にては、詩經に准すへし。いはんや詩は唐虞に起り、歌は神代にはしまる。久近はるかにへたゝれり。三十一字は陽數にして、上下二句に天地陰陽、君臣夫婦等の義こもるへし。上は五七五の三の陽數をあはせて、十七字の陽數とし、下は七々の陽數をかさねて、十四字の陰數とす。上下五句もまた陽數なり。神詠は風情のことく分別あるへからねと、自然にしかることあり。古今集序云。俗人爭事榮利、不用詠歌。○此詞まことなるかな。世に名の久しくとゝまるへきは、詩人、文人なれと、初には人麿赤人にならへる名聞えす。中ころには、貫之躬恒、後には、定家家隆、これらの人々にひとしく聞ゆる名なし。これ更にそのたくみの、おとりまさりあるにはあらさらめとも、此國にして神明にならふと、ならはさるとによるなるへし
一、古今集より後の歌には、もしあま鼻はあれとも、一首にたらさるはなし。此集にはあまれるも、たらぬもおほし。長歌は猶、句體さたまらぬおほし。此集の中にも聖武天皇の御宇の比より後の歌は、もしのあまりたらぬはあれと、句體みたれたるはなし
一、和歌の用は詩もおなし。詩は聖賢のはしめて、代々の人天下國家をおさむるにも、これを外にせさるよし、かきあらはし、いひつたふ。略してさきにひけるかことし。これをはをきて、まつ知歌は、人ことに胸中の俗塵を拂ふ玉はゝきなり。なに人のよめるにか、教訓の歌とて百首はかり有しを、昔、見侍りし中におほえたるは
 連歌せす歌をもよまぬその人のさこそねさめの|きたな《さひしイ》かるらめ
此下句は、大貳三位か、はるかなるもろこしまてもゆくものは、秋のねさめの心なりけりとよめるをふめるにや。さらても、ねさめをしもおもひやれるか、おかしく侍り。夜ふかくねさめて、つれ/\とあるに、おもはぬ事なくおもひやるに、詩歌に、心よせん人は、雪月花の時、琴詩酒の友、あるひは、雲井はるかにほとゝきすをまも、あるひは、枕にちかききり/\すを聞、つねなきことをねさめにし夢にたとへ、かきりある世をのこれるともしひによそへて、一首をつらぬれは、松の風吟をそへ、鐘の聲和をなせり。かの名をおとしても、利を得ん事をむさほり、身をそこなひても、富を求むことをおもふともからは、うかへる雲、胸の月をかくし、にこれる水、心の蓮をこえて、守餞の奴いとゝまとろむことをえし。たとひ、儒教をならひ、釋典をまなへとも、詩歌にたつさはらさる人は、胸中つゐに、塵俗をはらはすして、君子の跡、三千里を隔てをひかたく、開土の道、五百驛にさはりてつかれやすし
一、此集は、長歌と短歌と旋頭と、此三の外の體なし。短歌といふも長歌につける時いへり
 
大納言從二位
 懷風藻曰。從二位大納言大伴宿禰旅人一首【年六十七】五言初春侍宴。寛政情既遠、迪古道惟新、穆々四門客、濟々三徳人、梅雪亂殘岸、煙霞接早春、共遊聖主澤、同賀撃壤仁
 元明紀云、和銅四年夏四月丙子朔壬午、正五位上大伴宿彌旅人授從四位下。七年十一月、爲左將軍
 元明紀云。靈龜元年正月甲申朔癸巳、授從四位上。四月爲中務卿
養老二年三月三日――
 紀云。養老二年二月壬申、行幸美濃國醴泉。○三月戊戌、車駕自美濃至。乙巳○大伴宿禰旅人爲中納言。しかれは三月朔日の支干を記せるゆへに、乙巳幾日にあたると知かたけれとも、戊戌より八日にあたれは三日といへるはたかへり
三年正月七日
 紀云。正月庚寅朔壬寅、七日は非なり。十三日なり
 紀云。四年二月壬子、太宰府奏言、隼人反殺大隅國守陽侯史麻呂。三丹丙辰、以中納言正四位下大伴宿禰旅人旅人、爲征隼人持節大將軍。○六月戊戌詔曰、蠻夷○
五年正月七日
 紀云。戊申朔壬子。五日なり。七日にはあらす。又紀云。三月辛未、賜帶刀資人四人
神龜元年――
天平二年
 紀漏脱
三年正月七日叙二位
 紀云。三年四月庚戌朔丙子、授正三位大伴宿禰旅人從二位。紀によるに、廿七日なり。二十をおとせる歟。誤れる歟、叙の下に、從の字をおとせり
 紀云。三年秋七月辛未、大納言從二位大伴宿禰旅人薨。難波朝右大臣大紫長徳之孫、大納言贈從二位安麻呂之第一子也
中納言從三位大伴宿禰家持【天平十二年より十六年まては内舎人なり】
天平七年正月
 十七年なり。十の字を脱せり。聖武紀を見るに、正六位上より轉任す。
十八年三月任兵部大輔
 紀云。三月壬戌、正五位下石川朝臣麻呂、爲宮内太輔。從五位下大伴宿禰家持爲少輔。しかれは、兵部太輔といへるはあやまれり。紀云。六月壬寅、從五位下大伴宿禰家持、爲越中守。此集第九に、勝寶三年七月、少納言に任せらると見えたり。紀にもらせり。紀に、勝寶元年四月朔、從五位上。六年四月庚午、爲兵部少輔。十一月爲山陰道巡察使。寶字元年六月爲兵部大輔
天平寶字二年六月任因幡守
 紀云 七月赴任【續日本紀第十七】
六年三月日任民部大輔
 紀云。六年正月庚辰朔戊子、從五位上大伴宿禰家持爲倍部大輔。【紀廿一云。中務省宣傳勅語、必可有信、故改信部省】六年三月日任民部大輔といへるは誤なり
八年正月日任薩摩守
 神護景雲【信瑞雲改元】
四月六日――【日月并官。官字誤爲宮。公卿補任なとにある歟】。
 紀不載
 光仁紀云。寶龜元年六月壬辰朔丁末、正四位下田中朝臣多太麻呂、爲民部大輔、從五位上大伴宿禰家持爲少輔【左中辨、右中辨なるへし】
九月日
 紀寶龜元年なり。景雲にはあらす
 十月己丑朔、即位改元。八月五日肥後國葦北郡人日奉部廣主賣献白龜。又同月十七日、同國益城郡山稻主献白龜
三年二月日
 紀云。二月丁卯、右中辨從四位下大伴宿禰家持爲兼式部員外大輔
五年――九月日
 紀云。九月庚子、從四位下大伴宿禰家持、爲左京大夫。○左京大夫從四位下、大伴宿禰家持、爲兼上總守
十一年二月――
 紀云。丙申朔甲辰
天應元年八月一日
 紀云。八年丁亥朔甲午、正四位上大伴宿禰家持、爲左辨兼春宮大夫。先是連母憂解任、至是復焉
延暦元年坐事除官位
 紀を見るに、以黨氷上眞人川繼【鹽燒皇子】謀反也
兼陸奥按察使
 紀、鎭守將軍。又紀に奏状あり。【但下征東將軍の時なり】
四年八月日薨
 實に八月廿八日なり。延暦紀云。八月癸亥朔庚寅、中納言從三位大伴將家持死。祖父大納言贈從二位安麻呂、父大納言從二位旅人。家持、天平十七年、授從五位下、補宮内少輔、歴任内外。寶龜初、至從四位下左中辨、兼式部員外大輔。十一年、擇參議、兼左右大辨、尋授從三位、坐氷上川繼反事、免移京外。有詔宥罪、復參議春宮大夫。以本官出爲陸奥按察使、居無幾、擇中納言、春宮大夫如故。死後二十餘日、其屍未葬、大伴繼人竹良等、殺種繼事發覺下獄、案驗之、事連家持等、由是追除名。其息永主等竝家流焉。元亨釋書二十三、資治表云。十有六年春正月、釋善珠擢僧正。延暦十六年。初早良太子、與黄門侍郎藤原種繼有郤。四年八月、帝如平城、發齋宮公主、赴勢州、種繼爲守宮。太子黨人射種繼于燭下斃。事發、十月、太子廢將受弑。太子使之諸寺預修白齋、諸寺恐而拒之、獨善珠納焉云々。正月十六日、爲僧正。今尺書によりてみるに.大伴繼人竹良等か、藤原種繼【宇合男】を射殺しけるは、早良太子の誂によりてなり。紀に、事連家持等とあるは、是又武雄の長なれは、たのませたまひけるにや。令の文に、年廿一歳以上なるを内舍人に補すと見えたり。家持、天平十二年より内舍人に補せらると見えたれは、延暦四年は、六十五六歳なるへきに、死骸いまた葬らさるに罪につらなりて除名せられ、紀にも庶人に例して、家持死とかき、本朝文粹、三善清行、延喜の帝に奉られける異見封事にも、罪人家持とかゝれたるは、誠に惜むへき事なり。集中の歌にてかんかふるに、遠祖道臣命より、勲功ならひなくして、武名累代に重かりけれは、家持も、父祖の名をおとさしと、心かけられける中に、すこし名を好まれけるにやと、みゆる所もあれは、かへりてつみにおちいられけるにこそ。されとも、文武の道をあはせ、和漢の才をかねて、此集をえらひて、將來にたまものせしは此人なれは、小疵をもて尺璧をすつへからす。後の勅撰に此人の歌を載せらるゝには、中納言とそ侍る
内大臣大織冠
 織を誤て藏とせり。織の字、日本紀には呉音に點したれと、世上には漢音によみならへり。位階によりて冠の製かはれるを、此人ひとり大織冠の名の殘たまへる、凡人にことなり。第二男とは、第一は多武峯定惠和尚なり。元亨釋書に傳あり。日本紀にも見えたり
年六十二
 懷風藻には六十三と注せり。委は此卷の初に注せり
 
萬葉代匠記惣釋枕詞(初稿)
  枕詞にゝてあらさる詞
名くはしき、いなみの海
名くはしき、よしの
あもり付、あまのかく山
打わたす、竹田の原
ふたさやの、家を隔て
ことゝはぬ、木
あらたまの、きへのはやし
花くはし、葦かきこし
 
一、玉くしけ、みんまと山第二
 ある本は、王くしけみむろと山とありて注するにをよはす。山城宇治郡に有みむろと山なり。みんまと山は、みんはことはの字、まと山なり。まろにあるくしけによせて、そのくしけをみんに、體勢《なり》のまとかなるとつゝたり。まと山いつくにありともきかす、高まと山なとや、山のかたち高くまろなるによりて名つけて、それを略して、まと山とはよまれて侍りけん
一、水薦苅 信濃第二
 これは水薦苅とかきたれは、水におふる草と心得へけれとも、さにはあらす。此次におなしやうによめるに、文字は三薦苅とかけり。みくま野とも、まくまのともいふかことく、みとまとは通する字なれは、眞草といふにおなし。木を眞木といふかことく草をほめていふ詞なり。薦の字はしきものゝこもなるを、此集にはかりて蒋の字書へき所に用たるを、こゝに草とよめるは、字書に、作甸切音箭。草稠曰薦とある、此心なるへし。日本紀の齊明紀にいはく科野國言。蠅群向西飛踰巨坂、大十圍高至蒼天。しかれはむかしは科野とかきけれは、草をかる野とつゝけたり。彼國に埴科郡あり。此名、國の名にもかよへるにや。今信濃とかけと、つゝけからは文字にはかゝはらす。支那も科野といふ心なれは、かくつゝくるなり〔以上似閑本による補足とあり〕
  此集中枕詞
下河邊長流か撰せる、枕詞燭明抄序にいはく。歌に枕詞あることは、人の氏姓あるにおなし。氏をゝきてよふ名のなかきかことくふるき歌のたけたかく聞ゆるは、おほは枕こと葉をゝき、おほくは序よりつゝけたるかゆへなりといへり。日本紀を考るに、神の人にかゝりてのたまふことはにも、神風伊勢《カムカセイセノ》國(ノ)之|百傳度會縣《モヽツタフワタラヒアカタ》之|拆鈴五十鈴《サクスヽイスヽノ》宮(ニ)所居《ヲル》神。亦云|幡荻穗出吾《ハタスヽキホニテシアレ》也。亦云|鳥往來羽田之汝妹者羽狹丹葬立往《トリカヨフハタノナニモハハタニハフリイヌ》。これら何となく幽玄にして、かう/\しくきこゆ。神代紀に大己貴命も、百|不立《タラヌ》八十之|隈《クマチ》とのたまへり。人の氏姓あるにおなしといへる、まことなるかな。此集中にある枕詞、大かた獨明抄に載たる中に、猶愚意の今案あるは、いさゝかそのよしを注す。その中におほくの卷にわたりあまたの歌にかふれるは、見やすからしめんかために、あつめてこゝに注す。一首二首なとあるはこゝには只名をあけて、その卷のそことのみさせり。見む人しるへし。又今案なきをは燭明抄にゆつれり
○久かた 天といはん枕詞なり。久しくかたしといふ心なり。日本紀に、我國開闢のはしめをいへるにも、天(ノ)先(ツ)成(テ)而|地《チ》後(ニ)定《サタマル》。然後|神聖《カミ》生《アレマス》2其中(ニ)1焉といへり。しかれは其|清明《スミアキラカ》なるものは、たなひき上りて天となりて久しく、重濁《カサナリニコ》れるものは、とゝこほりて地となることの遲きなり。天かたまりて久しけれは、久堅といふ義なり。或は久方ともかけり。天地の二方をいはゝ、天は久しきかたといはむも、たかふへからす。久かたと置ては、天とも空とも日とも月とも星とも、或は雲とも雨なとともつゝくるは、すへて天象のものなれは、いつれにもいふなるへし。又都ともつゝけたり。第十三云。ひさかたの都を置て草枕たひ行人をいつとかまたん。是は帝都のひさしくて、たちろくましきことをほめていへるにや。又天子のまします所なれは、空のことくにいひなしてよめるにや。帝都たてらるゝことを、日本紀に、底磐之地《シタツイハネニ》に、宮柱《ミヤハシラ》ふとしきたてゝ、高天の原に、  搾風高知《チキタカシリ》てなとかけるにて思へは、宮殿のことをは、空になすらへて高く申さんとていへるにも有へし。かの紫震殿を雷の上と申も、その心なり。今案新古今集に、宜秋門院丹後か歌に、都をはあまつ空ともきかさりき何なかむらん雲のはたてを。此心のやうに、旅にしては、故郷の郡のかたは雲井にのそめは、久かたの都といへるにや。又月をひさかたといふ事有。此集に用なけれは略せり。それと膝形といふ説は、奥義抄等に見えたれと、昔有けむ后の御ためにも人わろく作り出たるいやしき説なり。取にたらす。六帖には伊勢か歌をも、久かたの月のかつらのさとなれはとあり。久かたの中におひたるといふも、久かたの月の中におひたるといふへさを、月も天象の中の一物なれは惣をいひて別を兼たるなり
○あしひき 山とつゝくる枕詞なり。燭明抄にあまたの説を出せり。顯注密勘をみるに、定家卸の傳たまへるは、蘆引の説なりと見えたり。今案あしひきを眞名にかけるをみるに、日本紀の顯宗紀には、脚日來とかゝせたまひ、菅家万葉集には、足彈と書たまへり。此集には、無窮にかける中に、第四卷には足疾、第七卷には足病とかけり。これにつきておもふに、彼山によりて住けむ世なとは、かりそめにゆきかよふにも、谷にをり、みねにのほりなとしけむなれは、木の根、岩のかと、さま/\のうはらくゐなとをふみて、足をもそこなひ、又砥のことくなる道をゆくよりは、なつみて足をひき侍けれはや、足引の山とはつゝけそめ侍けむ。後撰集第十、戀二に、大江朝綱朝臣の歌の詞書にいはく。物かたらひける女のもとに、文つかはしたりけるに、心ちあしとて返事もせさりけれは、又つかはしける
 あしひきのやまひはすともふみかよふあとをもみぬはくるはしき物を
朝綱朋臣は、後江相公とて、無雙の名儒にて和漢に達し、本朝文粹にも文章あまた載られ、歌も集に見え、家集も有とかや。重代にてその身拔群なる名儒の、ことに日本紀をも、江家より初て講しそめられたるよしなるに、此歌枕詞の縁をはなれす。ふみかよふといひ、あとをもみぬはなといへるわたり、歌と詞書とをあはせてこゝろうるに、此女のやめるは、あしのけなりけるにや。あしひきのやまひとつゝくるからに、下の縁の詞は出來へき事なれと、猶あしのけなりけむとおほしきは、此集第二に、大伴田主かあしのけをやみけるを、石川郎女かとふらひける歌有。足疾足病なともかけり、清少納言に、やまひは、むね、ものゝけ、あしのけなと、おかしき物にかけり。源氏物かたりにも、みたりかくひやうといふものおこり、ところせくおこりてわつらひ侍りて、はか/\しくふみたつる事もはへらすとかけり。いやしからぬやまひなり。しかれは朝綱朝臣の歌によりて、足疾足病のかきやうをあはせて、これや正義に侍らむ。あしひきといへは、山とつゝけされとも、山の名に用たり。たとへは玉ほこの道といふへきを、道といはすして、玉鉾とはかりもよめるかことし。第三に
 あしひきのいはねこゝしみすかのねをひけはかたみとしめのみそゆふ
第十一に
 まとこしに月おしてりてあしひきのあらし吹夜は君をしそおもふ
第十六に
 あしひきの玉かつらのこけふのこといつれのくまをみつゝきにけむ
新古今集に菅家の御歌
 あしひきのこなたかなたに道はあれと都へいさといふ人のなき
此御歌は、つくしより都への間には、山陰道山陽道のふたつの道ある心を、足引のこなたかなたとはよませたまふにやとそうけたまはり侍る。日本紀を考るに、允恭天皇廿三年|木梨輕太子《キナシノカルノミコノ》輕|大娘皇女《イラツメヒメミコ》ををかしてよみ給へる歌云。あしいきの山田をつくり山高み下樋をわしせ下なきにわかなくつまかたなきにわかなく妻云々。顯宗紀|脚日木《アシヒキ》此|傍《カタ》山|牡鹿之角擧而吾※[人偏+舞]者《サヲシカノツノサヽケテワカマハン》云々
○玉ほこの 道とつゝけたり。燭明抄に説々を擧たり。今案その中に玉は鉾をほむる詞、道のすくなるをほこのなをきにたとへて、玉鉾の道といふを正説とすへし。そのゆへはもろこしにも道をおほくなをき物にたとへ侍り。毛詩(ノ)小雅大東(ノ)之篇云。周道如v底《ト ノ》。其直(コト)如v矢(ノ)。君子(ノ)所v履《フム》小人(ノ)所v視(ル)といへり。これ道のたひらかなるを砥にたとへ、なをきを矢にたとへたり。左傳云。詩曰周道挺々(タリ)【杜預曰。挺挺(ハ)正直也。】門前鮑明遠(カ)詩云。馳道直(コト)如v髪(ノ)。これらみな道のなをきをいへり。又なはてといふも繩手にてなをきをいふ。潘安仁(カ)藉田(ノ)賦云。遐阡繩直邇陌《ハカルナルナハテノコトチカキナハテク》如v矢(ノ)。これらに准するに、鉾は直なる物なれは、たとへたるへし。舒明天皇紀にいはく。山背(ノ)大兄《オヒネノ》王(ノ)云。亦大臣(ノ)所v遣群卿者|從來《モトヨリ》如(ク)2嚴《イカシ》矛1【嚴矛此(ヲハ)云2伊箇之保虚(ト)1】取中事而奏請《ナカトリモテルコトヲシテモノマウス》人|等(トモナリ)也。これは推古天皇崩したまひなんとしたまふ時、此山背大兄王をめして、御位をふませたまふへきよし、遣勅ありけれと、諸卿一同にもうけたまはらさりけれは、蘇我蝦夷大臣いかゝおもはれけん、舒明天皇いまた田村皇子にておはしましける時なるに、此皇子へ御位をゆつらせたまふよし、諸臣へもいひなしけるを、山背大兄王きこしめして、われ天位をほさむるにはあらねと、御遺詔さにはあらすとおほせつかはされける時、大臣此事を、みつからまいりてそのことはり申たてまつらんとは申されなから、心ちそこなへるに事よせて、まいらすして、諸臣を使にして申されし時、山背大兄王の、諸卿にのたまへる御詞なり。此御詞にも、ふたつの心あるへし。ひとつには、ほこは中ほとを取て持ものなれは、これにたとへて、使のこなたかなた偏黨なく、有のまゝに物申さるゝことをのたまふともいふへし。又ほこのすくなることく、有のまゝに物申さるゝといふ御詞にも侍るへし。此集第三に、かく山のほこ杉かもとゝよめる歌有。杉は天然なをき物なれは、そのたてるが、ほこをたてたるやうなれは、たとふるをも、思ひあはすへし。和名集を見るに、加賀國加賀郡に玉戈【多萬保古】といふ郷の名有。又ものゝふなとは、道をゆくに、劔をつき、矛をつきてゆけは、そのほこをつきて行にかけても申にや。左傳曰。成子|衣《キ》v製《アサキヌヲ》杖v矛(ヲ)【製(ハ)雨衣也】立2於阪上(ニ)1馬(ノ)不v出者助之鞭之。史記陳平傳(ニ)、平身間行杖v劔(ヲ)亡《ニク》。聶《セフ》政傳(ニ)聶政乃辭獨行杖(テ)v劔(ヲ)至v韓(ニ)。?食《レキイ》其(カ)傳(ニ)、沛公遽(カニ)雪(メ)v足(ヲ)杖(テ)v矛(ヲ)曰。延(テ)客(ヲ)入(レヨ)。和漢ことなれと、これらの心もかよひ侍らんや。又今ひとつの今案あり。日本紀第二神代下云。乃以2平《ムケシ》v國時(ニ)所(ノ)v杖《ツケリシ》之廣矛(ヲ)1授(マツリテ)2二(ハシラノ)神(ニ)1曰(ク)吾以2此矛(ヲ)1卒(ニ)有v治《ナセルコト》v功《コト》天孫若用(テ)2此矛(ヲ)1治(メタマハヽ)v國(ヲ)者、必(ラス)當2平安《サキクマシマサン》1。今(マ)我(レ)當(ニ)於|百不足《モスタラ》之八十|隈《クマヲ》將|隱去《カクレナン》矣。【隈《クワイ》此(ヲハ)云2矩磨?(ト)1】言訖(テ)遂(ニ)隱《マトリマシヌ》。これ大己貴命の、高皇産靈尊の命をうけて、御使|經津主《フツヌシノ》神と、武甕槌《タケミカツチノ》神とに向て、此國を天孫に奉りたまふ時の御詞なり。大己貴命に七の御名ある中に、八千|戈《ホコノ》神と申も、此廣矛を杖《ツキ》て國々をめくりてたひらけさせ給へる御名にや。大かたこれか正説にて、玉鉾の道とはふるくよりいへるなるへし。玉ほことのみいひて道としたる歌はうつほ物かたり樓の上の卷に
 からもりかやとをみんとて玉ほこにめをつけんこそかたわ人なれ
玉ほこの里ともよめり。此集第十一に
 遠けれと君をそこふる玉ぼこのさと人みなにわれ戀めやも
定家朝臣の説には、道のほとをは一里二里なといへは、玉ほこの里とつゝけたるもそのこゝろかと侍り。
今案成務紀云。五年秋九月|令《ノリコトシテ》2諸國(ニ)1以國郡(ニ)立2造長《ミヤツコヲ》1縣邑(ニ)置2稻置《イナキヲ》1並(ニ)賜(テ)2楯矛(ヲ)1以爲v表《シルシト》。この心にて玉ほこの里とはいふなるへし
○ぬは玉の くろきとつゝけたり。よるともやみとも、すへてくろきこといはむとていふ詞なり。むはたま、うはたまなとかへてよめる皆同し詞なり。今此本には皆ぬはたまとよめり。宇と奴と牟とはよく通すれは、いつれにても有へし。喜撰式天徳歌合なとの事は、燭明抄にゆつりぬ。此ぬは玉といふは、顯昭法師かいはく。順か和名に、烏扇をは射干とかけり。からすあふきの實は、丸にて黒きものなれは、烏羽玉といふを、野干に文字のかよひたれは、野干玉とかき又夜干玉とかきたる歟。それを略して、干玉ともかき、野玉ともいふかといへり。今案和名集云。本草云。射干一名烏扇【射音夜。和名加良須安布木。】射、野、夜、音相通する故に、延喜式の典藥式にも、夜干とかけり。又和名集云。考聲切韻云。狐(ハ)射干也。○關中呼(テ)爲(ルハ)2野干(ト)1語|訛《ヨコナマレリ》也。これ射野相通する證なり。更にからすあふきの實名を考るに、一名烏蒲。一名烏  學。一名烏吹。一名艸姜(ナリ)也。おほく烏の字を名におへるは故あるへし。顯昭法師、烏羽玉とかけるにつきて、烏羽は黒き心とこゝろ得られたりとみゆ。梅を烏梅、柳を楊奈疑、水を水都なとかける類、その物につきておもひよれるを、やかてかんなに用たるなり。されと音訓ことなれは、かんなに用たる時、梅はたゝめ、楊はたゝやなり、たとへは、梵語の屍陀林【林是漢語】は墓所なり。墓所といふより、譯場の人、屍尸の字を思ひよりて、其音を用たるかことし。さりとてかはねといふ心有にあらす。いはむや烏は音を取、羽は訓を取て用たるに、なにの心か有らんや。野干玉とかき、烏玉ともかけるにつきては、射干の實のまろくて黒きによりて、くろきといふ枕詞にをけるにやとはおもへと、射干の實を、うは玉といふ事も證なし。そのうへ、古事記(ニ)、大|己貴《アナムチノ》神の御歌に、ぬは玉のしろきみけしをまつふさにとりよそひをき云々。これはぬは玉のしろきとつゝけれは、おほきにことのたかへることなり。神世にもありし詞にて、今たしかにはしる人なきなるへし。しかれとも、只今しろきことにつゝけむはいはれす。黒きことにのみよむへし。又此集に、ぬは玉のひましらみつゝとよめるは、夜といはねとも、夜の明るこゝろにいへり。又ぬは玉のねての夕ともよめり。ゆふへもくらくなる心にて、ぬは玉とはをけるなるへし
○ちはやふる 神といはむ枕詞なり。これにつきて、さま/\の異説あれと、信しかたけれは、燭明抄にゆつれり。日本紀には、殘賊強暴横惡之神とかきて、ちはやふるあしき神とよめり。舊事紀古事記には、道速振荒振國神《チハヤフルアラフルクニツカミ》とかけり。是みな邪神のことをいへり。此義によりては、あしき神をさして、ちはやふる神とこそいふへけれとも、歌の習は、何となく神とつゝけむ枕詞に用て、すへてよき神あしき神、おしなへてちはやふるとはつゝけよめるなり。ちはやふるといふことはの心をおもふに、舊事紀に道速振とかける心歟。振は詞の助にて、善神惡神ともに神通速疾にして、一念の間に千萬里を隔てゝいたる心に、道速振といへるを、日本紀には心を得て、殘賊強暴の文字にかゝはらす、ちはやふるとよめるなるへし。日本紀の仁徳紀にも、此集にも、ちはや人うちとつゝけ、又此集ならひに古今集に、ちはやふるうちともつゝけよめり。宇治はもと兎道とかける故に、兎は道の早き物なれは、道速人は、兎の道をふることしといふ心なるへし。神を現人神《アラヒトカミ》といへは、ちはや人は神をいふへし。ちはやふる兎道とつゝくるもこれにおなし。又ちはや人うちとつゝくるもちはやふるうちとつゝくるも殘賊強暴の人を討といふ心にてつゝけたるか。大山守皇子は自身すなはち殘賊の人なれは殘賊を討といふ心ならはちはや人うちとはつゝけたまふましきにやと難すへけれとそれまていりたちては沙汰せす。たゝ世のふることにてかくつゝけたりと心得は難とはなるましきにや。およそ神變おほけれと、神境通をもて、速疾に十方に至るを、ことに不思議とすれは、善神惡神ともにちはやふる神といふを、日本紀は通する中の一邊をもて、邪神にいへたなるへし。延喜式神名帳云。備後國|三谿《ミタニ》郡知波夜比古神社。同國|三次《ミスキノ》郡知なみ夜比賣神社。これは善神をも、ちはやふるといふ心の御名なるへし。第九卷に、大伴卿の筑波山に登る時の歌の中に、をの神もゆるしたまへり。めの神もちはひたまひてといへり。又第十一に、玉ちはふ神も我をは打すてきしゑや命のおしけくもなし。此二首にちはふといふは、いはふなり。伊と知と同韻にて通せり。神職のものゝ着る、襷《チハヤ》といふものも、これをきて、身を|さや《潔》めて、神を齋《イハ》ひたてまつるゆへに、ちはふといふ用の詞を、ちはやと體にいひなして、名とせるなるへし。これらは心かはるへし。又此集第二、柿本人麿、高市皇|殯《モカリ》宮の時の長歌の詞云。ちはやふる人をなら|す《せ》とまつろはに國を|おさむ《治・シラセ》とみこのまによさしたまへはとつゝけよめり。此歌は大友皇子の亂をは、此高市皇子のしつめさせ給ふ心なり。かの亂の時に、大友皇子にしたかひて、天武をそむき奉りし人のことをいへるなり。あしき神をちはやふるといふにかよはして、兇賊の上をもかやうによめるなるへし
○天さかる ひなとつゝけり。天離天放天疎なとかきたれは、帝都を遠さかりたる國といふ心なり。およそ方角をいふに、王城をもとゝしていふ事常なり。神代紀に、下照姫の歌にも、天さかるひなつめのと云々。久しき時より見えたる詞なり。顯昭法師は、遠國ならてはよむましきよし申されたれと、第一卷に、人麿の歌に、あまさかるひなにはあれといしはしるあふみの國のさゝ浪の大津の宮になとよまれたれは、畿内を出は、いつくにもよむへし。あまさかるのかもし、ある所に我の字をもかさたれと、只清てよむへし。清濁を通して用る事もなきにあらす。天のひきくさかれる心といへと、王子淵か聖主得賢臣頌に、今臣|僻《サカテ》在2西蜀1なといへる心にみるへし。延喜式祝詞に、青雲能|靄《タナヒク》極《キハミ》、白雲能|墜坐向伏《オリヰムカフス》限といへるは、遠き所をのそめは、雲も地にをりゐて、つゝけるやうに見ゆるをいへり
○空みつ やまとゝつゝけり。そらにみつといふもおなし。饒速日命の、天磐船に乘て、空に翔て所を見て、大和國に天降て、鳥見《トミノ》白|庭《ハ ノ》山にまし/\けるより事おこりて、空みつ大和國とはいへり。舊事本紀云。天祖以2天(ツ)璽《シルシ》瑞《ミツノ》寶(ラ)十|種《クサヲ》1授2饒速日《ニキノハヤヒノ》尊1。則此(ノ)尊禀(ニ)2天神御祖(ノ)詔(ヲ)1乘2天(ノ)磐船(ニ)1而天降(テ)坐(ス)2於河内(ノ)國(ノ)河上(ノ)哮(ノ)峯(ニ)1。則遷(テ)坐(ス)2於大倭(ノ)國(ノ)鳥見《トミノ》白庭(ハノ)山(ニ)1。所謂乘(テ)2天(ノ)磐船(ニ)1而|翔2行《カケリマシテ》於大|虚空《ソラニ》1睨《ミテ》2是國《コノクニヲ》1而天降(テ)謂《ノタマフ》2虚空見《ソラミツ》日本(ノ)國(ト)1是(レ)歟《カ》。日本紀の神武紀の義も、是に同しけれは不v注v之。彼神の駕し給ひし磐船は、河内國天川の水上に今も有。磐船の御神と申ならはしたり
○神風 伊勢の枕詞なり。伊勢國風土記云。伊勢(ノ)國(ハ)者、天(ノ)御中主(ノ)尊之十二世(ノ)孫、天日別(ノ)命(ノ)之所(ナリ)2平治(スル)1。天日別命神倭磐余彦(ノ)天皇(ノ)自2彼西征1此東州1之時隨2天皇1到2紀伊國熊野村(ニ)1于v時隨2金烏(ノ)導(ニ)1入2中州1而到2於菟田下|縣《コホリニ》1。天皇勅2大|部《トモノ》日臣命(ニ)1曰。逆黨膽駒(ノ)長髓彦宜2早征罰1。廼勅2天日別命(ニ)1曰。國(ニ)有2天津之|方《ノリ》。宜(シ)2乎其國(ニ)1。早賜(ハレ)2標釣《ミシルシヲ》1。天日別命奉v勅東入2數百里1。其邑有v神。名2伊勢津彦(ト)1。天日別命問云。汝國獻2於天孫(ニ)1哉。答曰吾|覓《マキテ》2此國(ヲ)1居住(スルコト)日久。不2敢聞1v命(ヲ)矣。天日別命發v兵欲v戮(セント)2其神1。于v時畏服啓(シテ)云。吾國悉獻(テ)2於天孫1吾敢不v居矣。天日別命令v問云。汝之去時何(ヲ)以爲v驗《シ ト》。啓(シテ)曰吾以2今夜1起(シテ)2八風(ヲ)2吹2海水(ニ)1乘(テ)2波浪(ニ)1將(ニ)2東(ニ)入(ント)1此(レ)則吾之|却《サル》由|也《ナリ》。天日別命|整《トヽノヘテ》2兵(ヲ)窺(ニ)v之(ヲ)比(ホヒ)v及(フ)2中夜(ニ)1大風四(ニ)起(テ)扇2擧波瀾(ヲ)1光燿(メルコト)如v日(ノ)陸海共(ニ)朗(ナリ)。遂(ニ)乘(テ)v波(ニ)而東(ス)焉。古語云。神風伊勢國常世(ノ)浪(ノ)寄(スル)國(ト)者蓋此(ノ)之謂(ヒナリ)。【伊勢津彦神近令住2信濃國1】天日別命懷築此國復2命天皇1。天皇大歎詔曰。國(ハ)宜d取2國神之名1號2伊勢(ト)u。爲2天日別命(ノ)之討2此國(ヲ)1、賜(フ)2宅地(ヲ)于大倭耳梨之村(ニ)1矣。此義によらは、伊勢津彦の風をおこしたる故に、神風伊勢とはいふと聞えたり。其いせつ彦の神は、東に去て信濃國にとゝまる。今しなのゝ國に風伯神と申神是なりといふ。凰のはふりといふ。俊頼朝臣歌にいはく
  けさよりはきそちの櫻咲にけり風のはふりよすきまあらすな
風を心にまかせたる神とそ、今案これ風土記の説といへとも、疑なきにあらす。其故は神武紀を考るに、戊午年冬|十月《カミナツキ》に、八十梟帥《ヤソタケル》を國見の丘に撃たまふ。是時天皇の御歌にいはく。かんかせのいせの海の大石にや、|いはひもとへるしたゝみ《・被語匍匐廻細螺》の云々。すなはち紀に尺していはく。謠《ウタノ》意(ハ)以2大(ナル)石(ヲ)1喩2其國見(ノ)丘(ニ)1也。これ大石を國見の丘に喩とあれは、その大石にはひもとほるしたゝみをは、八十梟帥か、撃に難からぬにたとへ給ふことあらはなり。しかれは、所しもおほかるを、かむかせのいせの海の大石としもよみ出させたまへるは、ゆへなきにあらし。それはしはらくおきて、兎田《ウタノ》下(ツ)縣《コホリ》到り給へるはおなし年の七月なるにそれより天日別命東(ノカタ)數百里に入て、伊勢津彦をたひらけたまへるを、十月にいたりて天皇やかて神風のいせとよませたまはんこと信しかたし。又垂仁紀云。二十五年春三月丁亥朔丙、離《ハナチマツリテ》2天照大神(ヲ)於|豐耜《トヨスキ》姫命(ニ)1託《ツケタマフ》2于倭姫命1。爰倭姫命求(テ)d鎭2坐《シツメマサセン》大神(ヲ)1之處(ヲ)u而詣2莵田筱幡《ウタノサヽハタニ》1。【筱此云佐々。】更(ニ)還(テ)之入2近江國(ニ)1東(カタ)廻2美濃(ヲ)1到2伊勢國(ニ)1。時天照大神誨(テ)2倭命(ヲ)1曰。是(レ)神風(ノ)伊勢(ノ)國(ハ)則常世之浪(ノ)重浪歸《シキナミヨスル》國(ナリ)也。傍國可怜《カタクニノウマシ》國也。欲v居2是國(ニ)1故|隨《マニ/\》2大神(ノ)教《ヲシヘタマフ》1其祠(ヲ)立(タマフ)2於伊勢國(ニ)1。因(テ)興《タツ》2齋《イハヒノ》宮(ヲ)于五十鈴(ノ)川上(ニ)1是(ヲ)謂2磯《イソノ》宮(ト)1則天照大神(ノ)始(テ)自v天|降《クタリマス》之處(ナリ)也。神功皇后紀云。先(ノ)日(ニ)教(タマヒシハ)2天皇(ニ)1者|誰《イツレノ》神(ソ)也。願(ハ)欲v知(ント)2其|名《ミナヲ》逮《イタテ》2于七日七夜(ニ)1乃答(テ)曰。神風《カムカセ》伊勢國(ノ)之|百傳度逢縣《モヽツタフワタラヒアカタノ》之|拆鈴《サクスヽ》五十鈴(ノ)宮(ニ)所居神(ノ)名2撞賢木嚴之御魂天疎向津媛《ツキサカキイツノミタマアマサカルムカツヒメノ》命(ト)1焉。天照大神の御詞に、神風伊勢國と倭姫命に告させたまへは、深きゆへ侍るへし。神代紀下云。已而且降之間《ステニシテアマクタリマサントスルトコロニ》先驅者《サキハラヒノカミ》還(テ)白(サク)。有2一(リノ)神1居《ヲリテ》2天八達《アメノヤチマタ》之衢(ニ)1。其|鼻《ハナノ》長(サ)七咫《ナヽマタ》。背《ソヒラノ》長(サ)七尺餘《ナヽヒロアマリ》。當(ニ)v言《イフ》2七|尋《ヒロト》1。且《マタ》口尻明耀《クチカクレアカリテレリ》。眠如(ニシテ)2八咫《ヤタノ》鏡(ノ)1而|〓然《テリカヽヤケルコト》似《ノレリ》2赤酸醤《アカカヽチニ》1也。即遣(ハシテ)2從《ミトモノ》神(ヲ)1往(テ)問(ハシム)。時(ニ)有2八十萬(ノ)神(タチ)1。皆不v得2目勝《マカチテ》相(ヒ)問(コトヲ)1。○其猿田彦(ノ)神者、則到(リマス)2伊勢(ノ)之狹長田(ノ)五十鈴(ノ)川上(ニ)1。即天鈿女命|隨《マニ/\》2猿田彦神(ノ)所乞《コハシノ》1遂(ニ)以(テ)侍送《アヒヲクル》焉。此文を見るに、猿田彦神口かくれてかゝやき、眼やたの鏡のことくして、八十萬の神達見たまふことを得す。天照大神の御子今いてますへし。これによりてむかへに出て相待奉るとのたまひ、天神の御子は、筑紫日向高千|穗《ホノ》※[木+患]觸之峯《クシフルノタケニ》到たまふへし。我は伊勢の狹長田五十鈴川上に到るへしとのたまふは、猿田彦神すなはち天照大神の化現にて、垂仁天皇の時にいたりて、こゝに鎭坐したまふへきことを、神代にかねて其所をしめさせたまへるなるへし。風は天地の使にて、君子の徳にも比したる物なれは、事理一雙のことはりにて、大神宮の御いきほひ、をのつから風となるゆへに、神風のいせとはいふなるへし。されはこそ此集第二、高市皇子城上殯宮の時、人麿のよまれたる歌の中に、まつろはぬ立むかひしも露霜のけなはけぬへくゆく鳥のあらそふはしにわたらひのいりきの宮ゆ神風にいふきまとはし天雲を日のめもみせすとこやみにおほひたまひてなとよまれたれは、まさしく天照大神のおこさせ給ふ風と聞えたり。委は第二卷その歌の所に注せり。又皇極紀云。四年春正月(ニ)或(ハ)於2阜嶺《ヲカノタケニ》1或(ハ)於2河邊(ニ)1或(ハ)於2官寺之間(ニ)1遙(ニ)見(ニ)有(テ)v物而|聽《キコユ》2猿(ノ)吟《サマヨフヲト》或(ハ)一十許或(ハ)廿計。就(テ)而視(レハ)之物便不(ルヲ)v見(エ)尚聞2鳴嘯之響《ナリウソフクオトヲ》1。不v能v|獲v覩《ミルコト》2其身(ヲ)1【舊本云。是歳移2京(ヲ)於難波1而板|蓋《フキノ》宮爲v墟《アラトコロ》之兆】時人曰。此是伊勢大神之|使《ミツカヒナリ》也。此猿のさまよふに似たる聲も風なり。莊子云。野馬(ト)也塵挨(ト)也生物之以v息(ヲ)相(ヒ)吹(ク)者也。およそあらゆる壽命は息風なり。風に内外あり。内風と外風と和合するほとを《・梵曰優陀那下而撃冑海觸五處三内而發音聲矣》壽命とす。又息風心と和合するゆへに、※[田+比]盧庶那經疏に、念(ト)者風(ナリ)。々(ト)者想也と釋せられたり、されは息の字の、自に從ひ、心に從へるも此意にかなへる歟。此息風につきては、秘密乘に甚深の義あり。伊勢といふ名のこゝろをしらすといへとも、日本紀に吹棄氣噴之狹霧とかきて、ふきうつるいふきのさきりとよむ時氣の字をいとよめるは息なり。天照大神の神徳、外にはかぜとなり、内には壽命となるゆへに、神風の伊勢といひて、撰て此國には鎭坐したまへるなるへし。およそ物の動轉は皆風の徳なり。諸神の神通|速疾《スミヤカ》なるも、感應はやきも、皆是より出るにこそ。いかさまにも、此神風は、伊勢の國につきたる詞なれは、神風のみもすそ川ともよみ、いすゝの川とも山田の原ともつゝけて、後々の歌にはよめるなり。しかるを、奥義抄に、ある人つくしの安樂寺にて、神風をよみて人に笑はれたるよし見えたるに、ちかく何人のよめるにか、神風になひくいなほのといふ兩句を、人のかたりしこそ、伊勢の神領なとにてよめらんはしらす。むかしやんことなき人の、たはふれにのたまひし、稗の大臣今出來たるこゝちす
神風のいせなといふこともふつにしらぬものゝかたりしは、伊勢風とてあたりの|ことくに《・異國》よりは、風のおほく吹國なりと申す。又あるものゝかたりしは、彼國に住侍りし時、つしかせのやうに、風のひとゝほりふきて、家の内に吹入たるが、やねを吹かへしたる事の侍しを、所のものゝ申けるは、此國にはれいかゝる事の侍るを、かまかぜと申ならはし侍るとかたりけるよし申き
○水長鳥《シナカトリ》 安房とつゝけたり。これは第九卷にたゝ一首見えたり。猪名野、居名のみなとなとつゝけてよめる事は、集中にわたれり。おなし枕詞なれは、ひとつに尺すへし。先安房とつゝくる事は、日本紀第七景行紀(ニ)云。五十三年冬十月至2上總國(ニ)1從2海(ツ)路1渡2淡水門1。是時聞2覺賀鳥之聲1。欲v見2其鳥(ノ)形(ヲ)1尋而出2海中1。この淡水門を渡たまふは其時は猶上總國なり。養老二年五月に平郡《ヘクリ》安房《アハ》朝夷《アサヒナ》長狹《ナカサ》の四郡を上總より割分て安房國としたまへり。古語拾遺を見るに、天富(ノ)命、阿波(ノ)齋部を率て、東士に往て、麻穀を植たまふに、麻のよく生る所なれは、ふさの國と名付。古語に麻を總といふ。總の國は、今上總下總二國なり。とあれは、阿波齋部か住ける所にて、安房とかけるも、阿波と同しことにて、心は水の沫に名付たるにや。覺賀鳥は、みさこの古語なり。和名集(ニ)云。爾雅集注云。雎鳩【雎音七余(ノ)反和名美佐古。今案古語用2覺賀鳥(ノ)三字(ヲ)1云2加久加土利(ト)1見(タリ)2日本紀(ノ)私記(ニ)1。公望《キンモチ》案2高橋氏文1云2水佐古(ト)1】G(ノ)屬也。好(テ)在(リ)2江邊山中(ニ)1。亦食(フ)v魚(ヲ)者也。みさこを、またはしなか鳥ともいひける歟。されはあはのみなとをわたりたまふ時、みさこの聲の聞えけれは、其鳥のかたちをみんとおほしめして、海中に出たまひけれは、これをことのもとにて、しなか鳥あはとはつゝけたるなるへし。燭明抄に、みなか鳥とよみたれと、今の本にしなか鳥とあれは、これにしたかへり。水の字をしとよめるを思ふに、支の韻の平仄ともに、此音の字あり、須以(ノ)反之なれは、音をつゝめて用るにや。開の字をけのかんなに用る例を思ふへし。又同し景行紀に、冷水とかきて、さむきみもさとよみたれは、しといふ和訓もあるにや。よき水をしみつといふを思ふへし。第十三の長歌に、鳥のねのきこゆる海とよめるも、右の景行紀の由緒によりてよめるにやとおほゆ
次にゐなとつゝくる事は、しなか鳥は右にいへることく、みさこの異名なるへし。此集にみさこ居るとあまたよめり。此鳥魚をよくとる物にてみきはすさきなとをはなれす、ゐるものなれはなり。されはみさこのをりゐるといふ心にて、ゐの字をまうけむためにかくはつゝくるなるへし。第七卷に居名のみなとゝかけり。四長鳥志長鳥なと、上は書かへたれと、下はかならす鳥といふ字を書たれは、みさこをしなか鳥といふ事こそ見及されと、右の景行紀によるにこれ正義なるへし。ふるき説々は好事のものゝしわさと見えて、ひとつも信用にたらす
○さゝなみの あふみとつゝけたり。あふみの國、もとは淡海國とかけり。鹽の海に對して水海なれは、淡しき海といふ義なり。今近江とかく事は、遠江に對してなり、近江を和名集には、ちかつあふみとあれとも、こなたがもとにて、遠江は名付たれは、かなたをは、かならすとほたふみといへとも、こなたをは、ちかつあふみとはいはて、たゝあふみとのみいへり。さゝなみは小浪なり。大海のことく大浪のたつこともなけれは、只水文の小浪のたつ淡海といふ心なり。よりてさゝ浪の國とはかりも名つくるなり。あるひは大津ともつゝけしかともつゝけ、ひらともなからの山とも、なみくら山ともつゝけ、およそかの國の名所にはさゝなみと置なり、神樂浪《サヽナミ》樂浪《サヽナミ》なとかけるは篠《サヽ》浪とかくに心おなしかるへし。そのゆへは、神樂の時の取物に、筱《サヽ》を取ことあるゆへなり。神功皇后紀云。忍熊(ノ)王知(テ)v被(タルコトヲ)v欺曳(テ)v兵(ヲ)稍(ニ)退。武内宿禰出(シテ)2精兵(ヲ)1而追之。適遇(テ)2于逢坂(ニ)1以破(ル)。故號(テ)2其處(ヲ)1曰2逢坂(ト)1也。軍衆|走《ニク》之。及《ヲヒツキ》2于狹々浪|栗林《クルス・クリ私》(ニ)1而多(ク)斬(ル)。欽明紀(ニ)云。三十一年秋|七月《フムツキ》壬子(ノ)朔高麗(ノ)使到2于江(ニ)1是(ノ)月到遣2許勢(ノ)臣(ノ)猿《サルト》與2吉士赤鳩1發《ミチ》v自2難波(ノ)津1控2引《ヒキコシテ》船(ヲ)於狹狹|波《ナミノ》山(ニ)1而裝2飾船(ヲ)1乃往2迎於近江(ノ)北山(ニ)1、神功皇后は、近江の國をおして狹々浪といへる歟。欽明紀は高麗使近江に到といひ、船をさゝなみの山にひきこすといひ、近江の北山に迎ふとあれは、さゝなみの山はなから山にて、逢坂を引越をいふなるへし狹々浪逢坂山とも有
○朝もよい 紀《キ》伊とつゝけたり。燭明抄に、此集の五卷抄序を引り。彼序の心は、朝に飯かしくとてもやす木といふ心にいひつゝけたり。又、或説に、朝もよひは朝催也。朝に飯かしくとて、先薪を催す心なりといへり。今案此兩説をのが心にはともにうけかたくおほゆ。そのゆへは、五卷抄|安佐母與比《アサモヨヒ》とかけれとも此集にはあさもはさま/\みたれかきたれと、よいはかならす吉の字をのみかけり。あをによしならとつゝくるあをによしは、阿乎爾與之ともかきたれは、よむへきやうたしかなり。これは集中みな吉の字をかけるにつきては、彼例にてあさもよしとよむへきを、中ころよりの説につけるゆへにや、あさもよいとかんなをくはへたり。さきはひといふことを。さいはひといふならでは、きといふかんなを、いといへる事は歌にはなきにや。たとひよいといへるもよきなり。さてあさもよいは、文字はいかにかけるを正とし、義はいかなるを正とせんとならは、第四卷に、笠朝臣金村か長歌に、麻裳吉木道爾入立眞土山《アサモヨイキチニイリタツマツチヤマ》とつゝけよめる、此麻裳吉を、まさしきもしとし、心は麻衣のよき紀の國ろいふ心につゝけたるなるへし。そのゆへは第七卷に
 麻ころもきれはなつかし木のくにのいもせの山にあさまけわきも
此歌は房前の贈太政大臣の紀伊の國の作なり。歌の心はあさころもをきるにつけてわきもこかなつかしけれはおなしくはいもせの山に麻をまきて、それを衣にしてわきもこかきせたらは、いかはかりなつかしからましとよみたまへる心なり。此わきもこは紀の國の女をいへり。これいもせの山をいろへてよめる心なから、もとより紀の國は麻のよくおゆる國にてやかくはよみたまひけん。裳といふは、女のきる物なれと、上(ヲ)曰(ヒ)v衣(ト)下(ヲ)曰(フ)v裳(ト)とあれは、わきていふへきを、通して衣とのみもいへは、又通して裳ともいふへきにや。又女のきる麻裳をよくつくりて出しけるにもあらん、第九卷に、勝鹿眞間娘子を詠せる歌に、あさきぬにあをゑりつけてひたさをゝもにはおりきてなとよめり。ひたさをとは、ひたすらの苧を裳にきたるなり。これあさもといふにおなし。若麻裳吉といふ心ならは、第二卷に、高市皇子尊城上殯宮之時、ひとまろのよまれたる歌にあさもよいきのうへの宮とよみ、第十三にこれもおなし時の歌とおほしきに、あさもよい城於道從《キノウヘノミチユ》つのさはふ石村をみつゝとよめるは、大和にして、紀の國のことにあらさるはいかにと難すへし。されと紀のくにゝつゝけなれたるをかりて、きのうへの宮とつゝけたると心得は難とならさらん歟。大伴のみつとはいはしとも、いそのかみふるとも雨にさはらめやとも、いそのかみふるからをの、いそのかみふりにしさとなとも、かくてつゝくれは、城上宮は大和なりといふことをわすれて、只きといふ詞まうけむためなりとおもふへし。紀伊と書たれは、きいとよむへけれと、昔よりきとのみいひきたれるは、國の名皆二字にかきれは、紀の字のひゝさ伊なるゆへに、助語にくはへたるなり。續日本紀に載たる勅宣の詞にも、伊の字を助語にくはへられたる事有。南市の法相宗の、聖教の文をよむに、たとへは理の字の類、一字はなれてよむ時、理伊々義伊々なとやうによむは、いにしへよりしかよみならひて、今もあらためぬなるへし
○青によし ならといふ枕詞なり。ふるき説々皆燭明抄に出せり。いつれも誤にて用るにたらす。先なら坂に昔は青き士の有けるを、とりて繪かく丹につかひけるによかりけるなりといふ説は、土を繪の具には用へからす。紺青緑青のたくひならはこそあらめ。清輔朝臣、畫を丹青といふに付て奈良の新都のめてたきをほむとて、青丹よしならとはいふなりとて尺せられたるも、燭明抄に、仁徳紀武烈紀をひけることく、和銅三年よりはるかなるいにしへにあをによしならとよまれたれは、胸臆の説なり。顯昭法師は、崇神紀をひかれたれと、なら山と名付るよしはさることにて、和珥の武?《タケスキ》坂の上にして、忌?《イハヒヘ》を以鎭坐せる、その忌?青瓷なり。仍青瓷|吉那羅《ヨシナラ》といふへきを、青丹吉とは訛《ヨコナマレルナリ》也。委見2日本紀第五1といへるは彼忌?青瓷なりといふ事、紀になけれは、これは顯昭の自義をたてんための推量にて、そのをかの事を、委日本紀第五に見えたりとはいはるゝなり。和珥の武?坂に鎭《シツメ》坐し忌?《イハヒヘ》青《アヲ》瓷なるによりて、あをしよしといはる。あをによし和珥あをに吉武 搾《スキ》坂なとこそつゝけめ。そこをさりて、進《スヽム》てのほれるなら山を、いかてあをによしとはいふへき。これひとつ。又彼忌?を青瓷なりといふは、暗推にて證なし。これふたつ。たとひ青瓷なりとも、今はあをによしとのみ有。これみつ。和名集に瓷をしのきとよめるは瓷の字和訓なけれは、瓷(ノ)器といふ音をもて和語となせり。崇神天皇の比は三韓もいまた通せさりけれは、瓷といふ音にて名付たる器物あるへきようなし【是四。】これによりて、用るにたらすとはいふなり。次に今案を擧は第十三の長歌に、あをによしなら山過てとよめるに、緑青吉とかきたれは、玉もよきさぬきの國、眞菅よき宗我のかはらなと、名物を枕詞としてよめることく、昔はならよりよき緑青を出しけれは、かくはつゝくるなるへし。碧丹吉とかける所も有。青丹吉とは常にかけり。和名集云。本草云|緑青《ロクシヤウ》一(ノ)名(ハ)碧青。また異名を石緑銅青銅緑なといへり。石緑は世にいは緑青といふ物にて、その外は銅より出るなり。およそ丹は赤き物なるを。緑青は丹に似て青けれはあをにとはいへり。これを正義とすへし。源氏物語若菜下に、あをにもやなきのかさみといへるを、河海抄云。あをに万葉にあをによしならといへり。昔彼所のつちあをくあかゝりけるにて土器をつくりけるよりいひそめたるなり。一説|緑青《アヲニ。うつほの物語かすかまつりの下つかへはあをにも柳かさねきたり云々。源氏ならひにうつほにあをにといへるは、木賊《トクサ》色|萌黄《モヨキ》なとなるへし。河海抄に二説あり。初は青と丹とふたつの色とみて、彼所のつちあをくあかゝりけるにてかはらけをつくりけるよりいひそめたりとかゝせたまへるは邪説なり。次に一説緑青とあるはあたれりとす。第五卷にならとつゝけすしてくやしかもかくしらませはあをによしくぬちこと/\みせましものをとよめる歌有。あをによしを、すなはちならにして、くぬちはくにうちなり。はつせのくによしのゝくにといふかことし。哥はそこに注せり
○こもりくの はつせとつゝけたり。彼泊瀬の境地は四方に山の立めくりて、口のこもれる所なり。長谷とかけるも此心なり。又第一卷藤原京よりならの宮にうつり給ふ時の歌には、こもりくのはつせの川にふねうけてといふに、隱國とかき、第十三にはこもりくのはつせの國、隱來《コモリク》のはつせ少國なともよみたれは、世にかくれ里なといふことく、かくれ國といふ心にもあるへし。おほく隱口とかきたれは、或はこれをかくらくのはつせとも讀來れり。日本紀第十四を考るに、雄略天皇六年春二月泊瀬小野に遊たまひし時、山野の體勢《ナリ》をみそなはして、慨然興感《ナケイテミオモヒヲオコシテ》|歌(ノ)曰(ハク)《・ミウタヨミシテ》
 こもりくのはつせの山はいてたちのよろしき山、わしりてのよろしき山の、こもりくのはつせの山は、あやにうらくはしあやにうらくはし
同第十七繼體紀に出たる春日皇女の御歌にも、こもりくのはつせの川とよみ給へり。しかれは、日本紀の古語みなこもりくなるうへ、此集第十三に己呼理久乃泊瀬之河《コモリクノハツセノカハ》とかきたれは、かくらくとは、これらをよく考さる人の、隱口隱來なとかけるはかりをみて、よみあやまれるなれと、ふるくあやまれる事なれは、おなしく用きたれり。又後々の歌にこもり江のはつせともよみたるは、顯昭かいはく、口の字江の字に似たれは、よみ誤れるなりといへり。日本紀をはしめ、此集の歌とも、皆こもりくなれは、こもり江といふへき由來有へきにあらす、まことに誤れるなり。されと、こもり江とよめる事も久しくなれは、誤なからも用ることゝなれり。亦はつせの山を、とませの山ともよめり。六帖云
 かくらくのとませの山にすそつくと豐すめ神のまきしくれなゐ
是は泊瀬の泊の字とまりとよむゆへに、よみあやまれり。舟のとまることを、此集には舟はつる、舟はてゝなとよめり。すなはち泊の字なり
○みけむかふ 第二には、こかめの宮とつゝけ、第六には、淡路の嶋とつゝけ、第九にはみなふち山とつゝけたり、こかめの宮とつゝけたるにつきては、燭明抄に、酒かめをは玉たれの小かめなとゝよめり。酒瓶も御食に奉る物なれは、みけむかふこかめとつゝけたるなるへし。みけむかふ淡路とよめるには、心いさゝかかはりたれとも、御食に向ふの義は猶ひとつ心なりといへり。淡路とつゝくる心は、おなし第六卷に、おなし赤人、みけつ國ひゝのみつきとあはちの野嶋のあまのわたのそこおきついくりにあはひ玉さはにかつき出なとよめるは日々の供御の料に魚を奉るを、みけむかふといふと心得て、御食に向ふの義は、猶ひとつ心なりとはいへり。されとみなふち山とつゝけたるには、さる心もきこえす。おもふに、これはみつなから枕詞にはあらて、まちかく見わたしに、あさけゆふけの膳のことくさしむかひたるをいへるなるへし。しかれは、いつくにても、まちかくみゆる所をは、みけむかふとたとふへくやあらん
○あをはたの これも此集に三所にわたれる枕詞なり。第二には、木旗の上とつゝけ、第四には、かつらき山とつゝけ、第十三には、おし坂山とつゝけたり。これもあをによしこもりくの、ならはつせにかきりたるやうの枕詞にはあらて、木のしけり、かつらのはひのほれるが、青き旗をたてたるやうにみゆるを、たとへてよめるなるへし。豐はた雲とも、旗薄ともよめるも、またをの/\似たれはなり。委は第二卷に注せり
○玉たすき うねひの山とつゝけり。うねひは畝火《ウネヒ》畝傍《ウネヒ》なとかきたれと、うねみの山と讀なり。玉たすきとをくは。手襁《タスキ》は采女のかくれは、玉手襁采女とつゝくる心なり、采女と畝傍とまかへることのもとは、日本紀第十三、允恭紀云。四十二年春正月乙亥朔戊子天皇崩。○冬十一月新羅(ノ)弔使等|喪禮《ミモノコト》既(ニ)?《ヤムテ》而還之。爰(ニ)新羅人恆|愛《オシム》2京城傍《ミヤコノホトリ》耳成山畝傍山(ヲ)1則到(テ)2琴引(ノ)坂(ニ)1顧之而|宇泥灯b椰《ウネメハヤ》彌々巴椰《ミヽハヤ》。是未(タ・サルカ)v習|風俗《クニ》之|言語《コトヲ》1故訛(テ)2畝傍山(ヲ)1謂2宇泥刀iト)1訛(ト)2耳成山(ヲ)1謂2瀰々(ト)1耳。時(ニ)倭(ノ)飼部《ウマカヒ》從2新羅(ノ)人(ニ)1聞2是辭(ヲ)1而疑之|以爲《オモヘラク》新羅人|通《タハケタリ》2采女(ニ)1耳。乃返(テ)之|啓《マウス》2于大泊瀬(ノ)皇子《ミコニ》1。皇子則|禁2固《カラメトラヘタヒテ》新羅使者(ヲ)1而|推問《カムカヘトヒタマフ》。時新羅(ノ)使者啓(シテ)之曰(サク)。無v犯(コト)2采女(ヲ)1唯|愛《メテ》2京(ノ)傍(リノ)之兩山(ヲ)1而言耳。則知2虚言《ウツハリコトヲ》1皆|原《ユルシタマフ》。うねめのたすきかくる事は、同第二十九天武紀云。十一年春三月甲午朔辛酉詔曰。親王以下百寮諸人自v今已後位冠及|襷褶脛裳莫v著。亦膳夫采女等之|手繦《タスキ》肩巾《ヒレ》【肩巾此(ヲハ)云比例】並莫v服。かゝれは昔は采女の女官、たすきひれなとをかけたるを、此御時よりとゝめられぬと見えたり。續日本紀云。慶雲二年夏四月丙寅|先《サキ》v是(ヨリ)諸國(ノ)采女(ノ)肩巾田依(テ)v令(ニ)停(ム)v之(ヲ)至(テ)v是(ニ)復(ス)v舊(ニ)焉。これによるに、文武天皇の慶雲二年に、肩巾《ヒレ》をはもとのことくゆるされたりと見えたり。手繦《タスキ》も真中にあらん歟。延喜式采女司式云。凡諸(ノ)節會(ノ)日(ハ)正及(ヒ)令史《サウクワン》供奉|御膳《オモノヽ》前(ニ)。凡神今食、新甞會(ニハ)官人二人各給細布|?《チハヤ》一條(ヲ)采女八人【新甞會十人】各|望陀《マウダ》布(ノ)?一條六尺凡采女四十七人賜d近2宮城1地u【令史用采女朝臣氏】
○うまさかの 三輪とつゝけみむろの山ともつゝけたり。味酒とかきたるにつけて、是をあちさけとよめることもあれと日本紀を考るにうまさけと讀が古語なり。此集には皆うまさかのとかんなを付たれと、ことはりをおもふに、うまさけのとよむへし。そのゆへは、さかつき、さかつほ、さかもり、さかやまひなと、上に置時こそさかとはいへ、こさけ、あまさけなと、下につけていふ時は、皆さけなり。日本紀すてに、うまさけなり。これにしたかふへし。崇神紀云。八年夏四月庚子朔乙卯以2高橋邑人活日(ヲ)1爲2大~《オホウムワノ》之|掌酒《サカヒト》1【掌酒此(ヲハ)云2佐|介《ケ》弭苔(ト)1】冬十二月丙申朔乙卯天皇以2大田田根子(ヲ)1令v祭2大~《オホミワノカミヲ》1。是日活日自|舉《サヽケテ》2~酒《ミワ・ミキ》1獻2天皇1仍歌之曰。許能瀰枳《・此酒》破|和餓瀰枳《・我酒》那《ニア・非》羅|孺《ズ》。椰磨等那殊於朋望能農之《・日本成大物主》能、介《カ》瀰《・釀》之|瀰枳《・酒》伊句臂佐伊久臂佐《・幾久幾久》。如v此歌之|宴《トヨアカリス》2于|~《カムノ》宮(ニ)1。即宴竟之諸大夫等歌之曰。宇磨佐開瀰和能等能《・味酒大神殿》々、阿佐妬《朝戸》珥毛、伊弟※[氏/一]由介那《・出行》。瀰和能等能渡《・三輪殿戸》塢。於茲天皇歌之曰。宇磨佐階《・味酒》、瀰和能等能《・三輪殿》々、阿佐妬《・朝戸》珥毛、於辭寐羅箇《・押開》禰。瀰和能等能《三輪殿》渡烏。即開2~宮門(ヲ)1而幸行之。所謂大田田根子(ハ)今(ノ)三輪君等(カ)之始祖也。うまさけみわとつゝくは、古き詞なり。此つゝけたる心は、神に奉る神酒を、みわといへは、うまき酒をみわにすへて奉るといふ心にてつゝけたり。和名集云日本紀私記云神酒【和名云美和。】みむろの山も三輪山の別名なれは、三輪より起て、むま酒のみむろの山とはつゝくるなるへし。又神なひ山とつゝくるは、此山にもみわの神のましますゆへなるへし。又酒を釀《カモ》するをかむといへは、その心にてつゝけたりともきこゆ。土佐國風士記云。神川訓(ス)2三輪川(ト)1源|出《テヽ》此山(ノ)之中(ヨリ)屆《イタル》伊豫國(ニ)水清故爲2大神1釀v酒也用2此河水1故爲2河(ノ)名1也(ト)。しかれは、土佐國にあるみわ川も水清けれは、大神のために酒をかみて酒の名によりて、三輪川と名つくと見えたり。大神とは、大|己貴《アナムチノ》神、則みわの明神の名なり。和名集云。伊豫國、温泉郡味酒【万左介。】かの土佐の三輪川、温泉郡にいたりて、神酒をかもするゆへに、此まさけの名ある歟。舊事紀によるににわ山と名付る事は、大己貴神、天(ノ)羽車に乘て、おほそらをかけりて、大|陶祇《スヱツミ・陶津耳日本紀》のむすめ活玉依姫のもとに、夜のみかよひ給ける時、苧環に針をつらぬきて、神人の裾に著て、跡をとむるに、其跡三諸山に留りて、殘れる糸のみわかね有けるゆへに、三輪といふよしなり。日本紀の崇神紀の説は異なり。三輪山をもみむろ山といひ、神なひ山を(以下似閑本ニヨリテ補フ)もみむろ山といふにより、歌にもよみまかへたる事おほき歟。大己(以上)貴命とその幸魂奇魂と、崇神紀垂仁紀等を見るに、神もまたわかつにむつかしかりぬへきことあり。みわの名も崇神紀によるは、彼神のために、みわを作れるゆへの名なるへし
○たゝなつく【付たゝなはる】 青垣山とつゝけたり。第六に赤人の歌に、やすみしゝわかおほきみの高しらすよしのゝみやはたゝなつく青垣こもり云々。第十二云。たゝなつく青垣山のへたゝれはしは/\君をことゝはぬかも。又第一に、人丸の吉野にてよまれたる歌の中には、たゝなはる青垣山の山つみのまつるみつきと春へには花かさしもち秋たてはもみちかさせりとよまれたり。たゝなつくもたゝなはりつくにてたゝなはるといふにおなし。たゝなつくは、疊有とかけれは、衣のひだなとの、たゝまれたることく山のいくへもかさなれるをいへり。禮紀云|主佩垂則《キミノオモノタルヽトキハ》臣(ノ)佩|委《タヽナハル》。景行紀云。十七年春三月戊戌朔己酉幸(テ)2子湯(ノ)縣(ニ)1遊(タマフ)2于|丹裳《ニモノ》小野(ニ)1時(ニ)東(ノカタヲ)望之《ミソナハシテ》謂(テ)2左右《モトコヒトニ》1曰。是國(ハ)也直(ク)向(ケリ)2於日(ノ)出(ル)方(ニ)1故(ニ)號(ケテ)2其國(ヲ)曰2日向(ト)1也。是(ノ)日(ニ)渉《ノホリマシテ》2野中(ノ)大石(ニ)1憶《シノヒタマテ》2京都《ミヤコヲ》1而歌之曰。波辭枳豫辭《・愛吉》、和藝|幣《ヘ》能伽多由《・我家方從》、區毛位多知區|暮《モ》《・雲居立來》、夜摩|苔《ト》《・大和》波、區珥能摩|保《ホ》邏《・國眞原》摩《マ》、多々|儺《ナ》豆久《疊著》、阿烏伽枳夜摩|許莽例屡《コモレル》《・青垣山隱有》、夜摩苫之于漏|破《ハ》試《・大和助麗》。異能知能摩曾|祁《ケ》務比苫《・命全將人》破、多々瀰|許莽《コモ》《・疊薦》、幣遇利能夜摩《・平羣山》能、志邏伽之餓|延《・白樫之枝》塢《エヲ》、于|受《ス》珥左勢許能固《・髻華刺此子》。是謂2思v邦歌《クニシノヒウタト》1也。やまとの國は四方に山の立めくりてこもれる國なれはかくよませたまへり。神武紀云。抑又《ハタ》聞(シク)2於鹽(ヲ)土老翁《ツヽノオチニ》1。曰(シク)東(ニ)有2美地《ヨキクニ》1青山四(モニ)周《メクレリ》。これやまとの事なり。延喜式第八、出雲(ノ)國造(ノ)神賀《カムホキノ》詞云。出霊國乃青垣山(ノ)内爾、下津石根爾、宮柱太敷立※[氏/一]云々。これいつくにても、四面に青山ありて、垣のことくにめくれるを、青垣山といふ證なり。たゝなはるは、第二にたゝなはるやははたすらをともよめり。うつほ物語に、御くしよれたるしもに打たゝなはれたるいとめてたし。枕草紙に、かたはらのかたに髪のうちたゝなはりてゆらゝかなるほと、なかさおしはかられたるに云々。舊事紀に、三室の山を、青垣三室山といへり。是は三室の山の名歟。それも四面の群山を垣にたとへていへるか
○玉きはる 内といふ枕言なり。神功皇后紀に、忍熊王の先鋒《サキ》をせし、熊之凝《クマノコリ》か、軍勢をいさましめむとてよめる歌の中にも、たまきはるうちのあそかはらのち《・玉限内朝臣腹内》は|いさこあれや《・沙有哉》なとよめり。是は武内《タケノウチ》宿禰をさして、内の朝臣といへるなり。又忍熊王軍にまけて五十狹茅《イサチ》宿禰と、瀬田濟《セタノワタリ》に沈たまふ時の歌にも、玉きはる|うちあそかかふつものいたておはす《内朝臣之頭槌劍也痛手不負》はなとよみたまへは、ふるきことはなり。此集第五卷、山上憶良か長歌に、玉剋《タマキハル》、内限者《ウチノカキリハ》、平氣久《タヒラケク》、安久母阿良牟遠《ヤスクモアラムヲ》、事母無《コトモナク》、裳無母阿良牟遠《モナクモアラムヲ》とつゝけて、自注(ニ)云、謂《イフコヽコロハ》瞻浮洲(ノ)人(ノ)壽一百二十年也とかけり。此歌の心は玉しゐきはまる内はやすくこともなくわさはひもなくてあらんものをとよみたるなり。おなし卷に、玉きはる命とよめる、同し義なり。内とつゝくるたくひは、命きはまるの詞をかくてよめるにやとそ覺る。かならすうちとつゝけされとも、およそ内のこゝろにきこゆる所にをけり。第十には
 玉きはるわか山のうへに立かすみたちてもゐてもきみかまに/\
第十一には年きはるともよめり
 年きはる世まてさためてたのめぬる君によりてやことのしけゝん
第十七大伴池主か立山の長歌の中には、冬夏とわくこともなく、白妙に雪はふりおきて、いにしへゆ有來にけれは、こゝしかもいはのかむさひ、たまきはるいくよへにけむなとつゝけたり。第一卷に、たまきはるうちの大野とよめる歌に、玉刻春とかけるによりて、顯昭法師十節録を引て、毬杖の玉を春打といふ義に心得られたり。彼御房は博覽の人と見えたれとも、かゝることやうの料簡をこのまれけるこそ、歌のほとにおもひあはせらるれは、引る歌とも内とつゝけぬおほけれは、毬杖の玉の、ひちりこにけかれたるとやらむのやうに、とり所なき説なり。又内を打にかよはすことも、たま/\はさも侍らん。毎度かりたらんにはぬしあらはいとひぬへし
○ものゝふの 八十うち川とつゝけ、第十三には只うち川とのみもつゝけたり。八十うち川とは、宇治を氏にいひなして、ものゝふの氏姓のおほき心なり。八十は數のかきりにて、おほきことには皆八十とよめり。うち川とのみつゝけたるも、八十氏といふより起りて略していへるなるへし。又さらても武士は氏あるものなれは、かくはつゝくへし。舊事本紀を考るに、天孫天より下り給ふ時に、兵杖を帶し供奉して、天の物部廿五部人降れり。當麻《タキマノ》物部、芹田《セリタノ》物部、馬見(ノ)物部、久目(ノ)物部、足田(ノ)物部なと有。其ものゝふの末々相わかれては數しらぬものゝふなるへし
○おしてるや なにはの枕言なり。仁徳紀云。天皇又|歌《ウタヨミシテ》曰。於辭※[氏/一]屡《・臨照》、那珥破能瑳耆《・難波埼》能、那羅弭破莽《・並濱》、那羅陪務《・並將》苔虚層、曾能古破阿利《・彼兒有》鷄梅。この御歌より此枕首はしめて見えたり。おしてると、四もしによませたまひ、此集におなしく四もしにもよみ、またやの字をそへたして五もしにもよめり。此おしてるといふことにつきて、或は押出或は潮照ふるく此兩義あり。先押出の轟はいふにたらさることなり。うしほてるといふ心ならは、しほてるとこそいふへけれ。うしほといへることたにまれなるに、うしてるとたはいはて、音をかよはしておしてるといふことや有へき。みちひるをもやくをもしほとのみこそ聞なれたれ。此説もまたうけられす。今案、第六卷に、超(ル)草香山(ヲ)時|神社忌寸《カミコソノイミキ》老麿(カ)作(レル)歌二首、その中の第二に
 たゝこまの此みちにしておしてるやなにはのうみとなつけゝらしも
先此歌を釋して後に本意をいふへし。いにしへは津の國より大和へこゆるに、河内の國草香山をのみこえなれたりとみゆ。人丸の歌にも
 おしてるやなにはを過て打なひく草香の山をけふみつるかも
神代紀云。戊午年春二月丁酉朔丁未、皇師遂(ニ)東(ニユク)舳艫《トモヘ》相|接《ツケリ》。方(ニ)到(トキニ)難波之碕《ナムハノミサキニ》、會(ヌ)有(テ)奔潮《ハヤキナミ》太(ハタ)急《ハヤキニ》。因(テ)以名(ヲ)爲浪|速《ハヤノ》國(ト)。亦曰浪華(ト)。今謂難波(ト)訛《ヨコナマレルナリ》也。三月《ヤヨヒノ》丁卯朔丙子、遡流《カハヨリサカノホリテ》而上|徑《タヽニ》至(マス)河内國(ノ)草香(ノ)邑(ノ)雲(ノ)白肩《シラカタ》之津(ニ)。夏四月(ノ)丙申朔甲辰、皇師《ミイクサ》勒《トヽノヘテ》兵《ツハモノヲ》、歩(ヨリ)趣(ムク)龍田(ニ)。而其(ノ)路|狹嶮《サクサカシクシテ》人不得|並《ナミ》行(コトヲ)。乃還(テ)更(ニ)欲《オホス》東(ノカタ)踰(テ)膽駒《イコマノ》山(ヲ)而入(ント)中洲《ウチツクニヽ》。時長髄彦聞之曰(ク)。夫天~(ノ)子等《ミコタチノ》所以(ハ)來《メテマス》者、必將(ニ・ストイヒテ)奪(ハント)我國(ヲ)、則盡(ニ)起|屬《シタカヘ》兵(ヲ)徼《サヘキリテ》之於|孔舍衞《クサヱノ》坂(ニ)、與《トモニ》之|會戰《アヒタヽカフ》。○却(テ)至(テ)草香津(ニ)、植《タテヽ》盾(ヲ)而爲(ニ)雄誥《ヲタケル》焉。因(テ)改(テ)號(テ)其津(ヲ)曰盾津(テ)。今云(ハ)蓼津(テ)訛也。かゝれは神武天皇はしめて東征したまひて大和國へいらんとしたまふにも難波より草香へおはしませり。今も舟にて草香まてさかのほりて中|垣外《カイト》越とて、草香山をこえ侍り。老麿、草香山を難波の方へこゆとて、おしてるやなにはの海と名付けらしもといへるは、その心を推量するに、應神天皇輕島豐明宮に天か下をしろしめして、又難波にも大隅宮を造て、はる/\みゆきせさせたまへり、應神起云。二十二年春三月甲申朔戊子、天皇|幸《イテマシテ》難波(ニ)、居於大隅宮(ニ)。丁酉、登(マシテ)高|臺《トノニ》、而|遠望《ハルカニミタマフ》云々。四十一年春二月甲午朔戊申、天皇崩(ス)明《アキラ・アカリ》(ノ)宮、時年一百一十歳。【一云崩于大隅宮。】大隅宮におはしましける時、淡路嶋にみかりしたまひ、それより吉備の國へもみゆきせさせたまひ、なかはゝ大隅宮にて世をおさめさせたまへは、仁徳天皇はしめておしてるなにはとよませたまへり。おしてるといふ心は、此集第六赤人の歌に、あめつちの遠きかことく、日月のなかきかことく、おしてるなにはの宮にわか君の國しらすらしとよまれ、第十一に、おしてるなには菅笠、おきふるし後はたかきんかさならなくにといふ歌に、ともに臨照とかけり。臨は臨御し君臨し給ふ義なり。てるはほむる詞なり。又君をは、禮記にも日にたとへたれは、日の世上をてらしたまふ心にいへるにも有へし。月をよめる歌にも、おしてるといふは此心なり。第七に春日山おしてゝらせる此月とよみ、第八に我やとに月おしてれりとよみ、第十一にまとこしに月|臨照《オシテリ》てとよめり。毛詩には、日《ヒ》居|月《ツキ》諸照臨(ス)下士(ヲ)。まさしく天子の上にいひたるは、垂仁紀云。四年秋九月丙戌朔戊申、皇后母兄狹穗彦王謀反、欲危社稷。因伺皇后之燕居而語之曰。○是以冀(ハクハ)吾(レ)登(テ)2鴻祚《アマツヒツキニ》1、必(ラス)與v汝《イマシ》照(シ)2臨(マハ)天下(ニ)1、則高(シテ)v枕(ヲ)而永(ク)終(ンコト)2百年(ヲ)1亦不(ンヤ)v快乎。顯宗紀(ニ)云。大泊瀬天皇正(シク)統(テ)2萬機(ヲ)1臨2照天下(ヲ)1。魯(ノ)桓公二年(ノ)左傳(ニ)云。君(タル)v人(ニ)者(ハ)將(ニ)《・スルタモ》2昭(カニシテ)v徳塞(テ)v違(ヲ)以臨照(セント)1、猶懼(ル)v或(ンコトヲ)v失(スルコト)之。史記始皇本紀、登(テ)2之罘(ニ)1刻(ム)v石(ヲ)。銘(ニ)云。皇帝東(ニ)游(テ)、巡(テ)登(テ)2之罘(ニ)1、臨2照(ス)于海(ニ)1。文選韋孟諷諌諫詩云。穆々(タル)天子臨2照下土(ニ)1。これら日の光に君の威勢恩惠をなすらへていへり。文選應休l(カ)與(フル)2滿公?(ニ)1書(ニ)云。昨者不v遺猥(ニ)見2照臨(セ)1といへるは、天子ならねと分に人をうやまひてそのきたりとふらはるゝをいへり、をのつからかやうの心にかよひて、父帝の聖徳をもて、大隅宮にても世をおさめさせたまへは、おしてるなにはとのたまへり。されは老麿も、應神天皇の明の宮より難波へみゆきの時、彼草香山を越させたまふにさかしき事もなくて、道のすくにこえやすけれは、彼御世に、おしてるなにはとはなつけゝむといふ心にてよめりときこゆ。臨の字をおすとよむは、威光をもて民の上に臨たまふは、おもき物をもて物を押心なり。又此集に食國とかきておしくにとよめるは、天子の供御をみおしといふ。臣下には禄をはむといひ、公侯をはむといふかことく、天子は天下をもて御食としたまふゆへなれは、此心も通すへし。第二十卷に家持の歌に
 櫻花今さかりなりなにはの海おしてる宮にきこしめすなへ
鹽海をおしてるといふ義にても、此歌を尺せは通すへけれと、おしてる宮といへるはさきのことし。後々なにはならておしてるとよめる歌ともは、誤につけるとしるへし。
○おほともの 御津とつゝけたり。大伴の瑞《ミツ》といふ心なり。瑞は物をほむる詞なり。神武紀に、道臣命の歌に、みつ/\しくめのこらか、かふつゝい石つゝいもちなとよみたまへり。又神武天皇の御歌にも、おなしやうに、みつ/\しくめのこらと、二首よませ給へり。大伴氏の遠祖道臣命、大將として大來目部を率て、凶賊をたひらけられしかは、其功を大將に歸して、大伴の瑞といふ心に.三津とはつゝけたり。亦難波の津を御津と名付る事は.仁徳天皇の后磐之姫、御綱柏を此海に投棄させ給ふゆへに、號2其|地《トコロヲ》1謂(フナリ)御津(ノ)前(ト)也といへり。委古事記風土記等に見えたり。柏を捨させたまふ故は、第二卷に日本紀を具に引たれは、こゝに注せす。
○いさなとり 海とつゝけたり。いさなはくちらなり。とるは.世を取、國を取といふことく、領するなり。淮南子云。鯨鯢(ハ)魚(ノ)之|王《キミナリ》也。魚の中の王にて海をとる心なり。鯨取とかける所あるゆへに、くちらとるともよみきたれと、今の本はみないさなとりとのみよめり。允恭紀云。十一年春三月癸卯朔丙午、幸《イテマセリ》2於|茅渟《チヌノ》宮(ニ)1。衣通(ノ)郎《イラツ》姫|歌《ウタヨミシテ》之曰。等虚辭陪邇、枳彌母阿閉椰毛、異舍儺等利、宇彌能波摩毛能、余留等枳等枳|弘《ヲ》。此歌にすてにいさなとり海とつゝきたれは、これは古語にて、くちらとる海とは、打まかせて字のまゝによみあやまれり。壹岐風土記云。鯨伏《イサフシハ》在2郡(ノ)西(ニ)1。昔者|鮨鰐《ワニ》追v鯨(ヲ)走來(テ)隱(レ)伏。故云2鯨伏(ト)1。鰐并(ニ)鯨並(ニ)化(シテ)爲v石(ト)杳(ニ)去(ルコト)一里。俗(ニ)云(テ)爲2伊佐(ト)1。和名集云。壹岐島、壹岐郡、鯨伏《イサフシ》。神武紀天皇歌云。于?能《ウタ》多伽機《・兎田高城》珥、辭藝和奈陂蘆《・〓羂張》、和餓末菟夜《・我待哉》、辭藝破佐夜羅孺《・〓不障》、伊殊《イス》區波辭《・勇細》、區〓羅佐夜離《・鯨障》云々。此いすくはしはいさくはしなり。此集勇魚取とかける所もあれは、くちらの異名をいさといふも、大魚にていさみあるゆへなれは、いさくはしくちらとつゝけてほむる詞なり。くはしは允恭天皇の櫻をよませたまふ歌に、花くはし櫻のめ云々。此集に花くはし蘆垣こしなとよめるたくひにて、その物々をほむる詞なり。神武天皇の御歌の心は、大和國宇陀郡に兄猾弟狡《ヱウカシヲトウカシ》といふもの.魁師《クワイスイ・ヒトコノカミ》なりけるをめしけるに、弟猾は參けれとも兄猾は參らさりけれは、責たまはんとて、道臣命をつかはして誅したまひける後、弟猾大みきを奉ける時の和歌なり。うたのたかきは.兎田の高城なり。しきわなはるは、鴫|羂《蹄》張なり《・神代紀》。しきわなをはりてしきやかゝるとわかまては、しきはそのわなにさはらて、あらぬくちらのさはれるとは、おもひの外の大軍に城をやふらるゝことは、兄猾か心になりてよませたまへるなり。さやらすは、此集第五に、さはるといふことを、さやれるとよめるにおなし。今の日本紀にさよらすとかんなあり。これにしたかひていはゝ、さはわたるをさわたるなと物によくつけていふ詞なり。よらずは、しぎのよりこぬなり。くちらとるといふよりは、いさなとりは聞所もよけれは、大かたこれにつくへし
○わかくさの つまとつゝけたり。日本紀を考るに、仁賢天皇六年、秋九月己酉朔壬子、遣2日置(ノ)吉士(ヲ)1、使2高麗(ニ)1召(シテ)2巧手者《テヒトヲ》1。是(ノ)秋日鷹(ノ)吉士被v遣後有(テ)2女人《ヲムナ》1、居(リ)2于難波(ノ)御津1哭(テ)之曰(ク)。於v母亦兄《オモニモセ》。於v吾亦《アレニモ》兄。弱《ワカ》草|吾夫《ワカツマ》※[立心偏+可]怜《ハヤ》矣。古者以2弱草(ヲ)1喩2夫婦1。故以2弱草(ヲ)1爲v夫《ツマト》。つまとは夫惰ともにかよはしていふ詞なり。わか草は春草初草なり。わかつまのあかすめつらしき心にてたとふるなり。第三に人丸の長《マサルノ》皇子奉る長歌に、ひさかたのあめみることく、まそかゝみあふきてみれと、わかくさのましめつらしきわか大君かも。此歌も皇子を見奉るに、あかすいやめつらしきといふ心を、わか草によせられたり。又人丸の歌に
 難波人あしひたくやのすゝたれとをのかつまこそとこめつらしき
とこめつらしきは、常にめつらしきなり。春草をは雪まの草のめつらしくなともよみ、又うらわかみねよけにみゆるわか草なといひたれは、つまにたとふるは此心なり
○うつせみの 世とつゝけたり。うつせみの人とも、うつせみの命なともつゝけたり。うつせみはせみのもぬけたるからをいふなり。これによりてうつせみのむなしきからともよみたり。貝のからをうつせ貝といふ、おなしこゝろなり。うつほ木、うつむろなといふたくひ、みな中のむなしきをいへり、蝉のからをとゝめて、ゆくへもなくなるにたとへて、人の世のはかなきをいへる心なり。莊子に、?蛄(ハ)不知春秋と有。注に、?蛄は寒蝉なり。春生れて夏死し、夏生れて秋死すといへり。命みしかき物なれは、それに人の身をもたとへて、うつせみの命ともよめるなり。又此集に、うつせみとのみいひて、世といふ心に用たる歌あるは、あし引、玉鉾の例なり。後撰集六に
 おりはへてねになきくらすうつせみのむなしきこひも我はするかな
これはなく時をうつせみといふにあらす。終にもぬくる物なれは、うつせみといひなれたるにより、せみとのみはもしもいひたらねは、おしてうつせみといへり。聖教に因中設果の例あるに似たり。又此集第十二に
 ともし火の影にかゝよふうつせみの妹かゑめりしおもかけにみゆ
これは蝉鬢をあけて、かほよきをほむるなり。此うつせみといふも、右にいふかことく、もぬけぬ時にたとふれと、因中設果のことゝいへるなり
○かけろふ 燭明抄にくはし
○とふ鳥の あすかとつゝけたり。すなはち飛鳥とかきて、あすかとよめは、はるのひをかすかの里なといふことく、詞をかさねて枕言とせるなり。しかはあれと、飛鳥とかくも春日とかくも、いかなるゆへとつたへきたる事こそなけれ。ゆへなくてはかき侍らし。天式紀を見るに、白鳳十五年、秋七月乙亥朔戊午、改(テ)元(ヲ)曰朱鳥元年(ト)。【朱鳥此云阿訶美苫利】仍名(テ)宮(ヲ)曰飛鳥淨御原宮。此心を案するに、おほしめすよし有て朱鳥と年號を改たまひ、宮の名をも飛鳥淨御原宮となつけさせたまへるなり。仍といふ字の心、朱鳥といふ年號をうけて、飛鳥《トブトリ》の淨御原宮と、飛鳥の詞も此時はしめて名付られたるを、所の名を明日香といへは、これよりしてとふ鳥のあすかともいひ、飛鳥をおさへて、あすかともよむ歟。日本紀に、天武天皇以前にも、飛鳥とかきてあすかとよめる事あれと、養老年中に出來たる日本紀なれは、後をもて昔にめくらして、書給はむ事、さまたけなし。日向は景行天皇の御時より出來たる名なれとも、神代紀にもあるかことし。若舊事本紀なとに、飛鳥とかける事あらは、此料簡あたらすといふへし。いまたよくかんかへす。又仍といふは、飛鳥とかくことはもとよりのことにして、仍淨御原の宮と名付といふ心歟。いまた此間をしらす。はしめて飛鳥のあすかとよめるは、第一卷、元明天皇藤原宮より寧樂宮にうつらせ給ふ時の御歌に
 飛鳥のあすかの里をおきていなはきみかあたりはみえすかもあらん
春の日のかすかとつゝくる心は、すこしもこゝろを得す。かくはしめてつゝけたるは、繼體天皇七年九月に、勾大兄《マカリオヒネノ》皇子《ミコ・ミコミコ》【安閑天皇】春日の皇女《ヒメミコ》に逢たまひてよませ給ふ長歌に、八しま國つまゝきかねて、はるのひのかすかのくにゝ、くはしめを有ときゝて、よろしめを有ときゝて云々。これをはしめとす
○あら玉の 年とも春とも月日とも夜ともつゝけたり。あらたまはあらたまるなり。みなあらたまり行初なれはかくはつゝくるなり。年春なとつゝけたるは不及載之。月とよめる歌、古事記を考るに、尾張國|美夜受比賣《ミヤスヒメ・宮簀姫》か日本武尊に奉る歌にいはく
 たかてる、日のみこ、やすみしゝ、わかおほきみ、あらたまの、年が|きふれ《・來歴》は、あらたまの、月は|きえゆく《・消行》、うへな《・諾》/\、君待|かて《・難》に、我|着せる《・所着》、をすひ《・襲》の|すそ《・裙》に、つきたゝなんよ
此集第十、七夕の長歌に、あめつちとわかれし時ゆ、久かたのあましるしとて、おほきみの天のかはらに、あらたまの月をかさねて、いもにあふ時しを待と云々。同し卷に
 秋はきの下葉もみちぬあらたまの月のへゆけは風をいたみかも
第廿に家持の長歌の中に、あらたまの月日よみつゝ、あしかちるなにはの御津になとつゝけよめり。夜とつゝけたるは、第十二に
 今更にねむや我せこあらたまのまた夜もおちす夢にみまほし
また夜は全夜とかけり。一夜もかけすの心なり。又第十一歌に
 あらたまのす戸か竹垣あみめにもいもし見えなはわかこひめやも
是はあたらしく作りかへたるすとをよめる歟。第十四東歌、遠江の國の歌に、あらたまのきへのはやしとよめるは、彼國の麁玉《アラタマノ》郡にして、今いふあらたまにあらす。まきるへけれは注之
○もゝしきの 大宮とつゝけたり。日本紀には内裏とかきて、おほうちとももゝしきともよめり。禁中には百官の座をさためて、百のしきものある故なりといへり。百官といふも、おほよそつかさ/\おほきをいへり。かならすもゝにたりたるにあらす。大宮とつゝけねとも、百敷とはかりもよめり。位の字をくらゐとよむは、座居《クラヰ》といふ意なり。位階の上下によりて、座もしたかひてさたまれる所あるゆへなり。百敷となつくる心もおもふにかよへり。【百寮とかきてつかさ/\とよめり】
○さす竹の 大宮とつゝけたり。さす竹は竹の名なり。第十一の歌に
 さす竹のはにかくれたるわかせこかわかりしこすはわれこひめやも
又第十三に、刺將燒少屋之四忌屋爾《サスタカムコヤノシキヤニ》、掻將棄破薦乎敷而《カキステヤレコモヲシキテ》なとつゝけたり。しきやは、しこやにて、わひ人のすむみくるしき家の事をいへは、さすたかむとは難波人蘆火たく屋とよめることく、さす竹をたくらんこやといへる心なり。後の歌にさす竹はさゝ竹なりと心得て、定家卿も、衣にすれるさゝ竹の大宮人とよみ給へり。左と須と音通すれは、まことにさすはさゝにても侍るへし。道のへのゆさゝか上とよめるも、五百篠といふ事なり。又百さゝの三野の大君と第十三にあるも、さゝのしけき野といふ心につゝけたれは、禁中の繁昌にもよそへなから、さしあたりては大宮のおほといふをおほき事にいひなし、又おふる事にもいひなす歟にてさゝ竹の大宮とはつゝけたるなるへし。多と大と通したる事はおほし。梵語の摩  河を、大多勝の三字たよりに隨て譯せるをも思ふへし。大と生とをかよはしかけるは、此集第三に、生石村主《オホイシノスクリ》眞人といふ作者あるを、續日本紀の考謙紀には、大石村主眞人と有れは、さゝ竹のおほしとも、生るともつゝくる心歟。さすたけの詞のはしめて見えたるは、日本記二十二推古紀に、廿一年冬十二月、聖徳太子片岡にて飢人にたまへる御歌に、斯那提流箇多烏箇夜摩《・級照片岡山》爾、伊比爾惠《・飯飢》※[氏/一]弖、許夜勢屡《・所反》、諸能《コノ》多比等阿波禮《・彼旅人※[立心偏+可]怜》、於夜那斯《・親無》爾、那禮奈理鷄迷夜《・汝將成哉》、佐須陀氣能《・刺竹之》、枳彌波夜那祇《・君者哉無》。伊比爾惠《・飯飢》※[氏/一]、許夜勢留《・所展》、諸能《ソノ》多比等阿波禮《・彼旅人※[立心偏+可]怜》。此御歌にさす竹の君とのみつゝけさせたまへるは、さすたけの大宮にいます君といふへきを、さす竹の枕言を、やかて大宮といふ心に用て、かくはつゝけさせたまへる歟。此集第十六、竹取翁か歌にも、うちひさす宮のをみなも、さす竹のとねりおとこもとつゝけよめるは、上に内日さす宮のをみなといへることく、さす竹の大宮の舍人男もといふ心なれは、これにおなしかるへき歟
○うちひさす 宮とつゝけたり。是は宮殿の構の高けれは、内に日のさす宮とつゝけたるなり。さま/\にかける中に、内日刺とかけるか、まことの文字なるへし。それも刺は射の字なるへきにや。文選班孟堅か西都賦(ニ)曰。上(テ)2反字《・ソレルノキ》(ヲ)1以葢戴(トシテ)激《ソヽイテ》2日景(ヲ)1以納(ル)v光(ヲ)
○草枕 旅とつゝけたり。又枕詞ならねと、旅の歌に草をむすふ、草枕をゆふなとよめり。野にふし山にふして、枕たになくて草を結ふよしなるか、旅寢のあはれなるなり。日本紀云。藉《マクラトシ》v草《カヤヲ》班《シキヰトス》v荊《シハヲ》。海路の旅には、草枕とはよむましきか。六帖云
 舟路には草の枕もむすはねはおきなからこそ夢も見えけれ
鳥虫なとにもよめり。伊勢か、庭に鈴虫をはなちける時の歌
 いつくにも草のまくらをすゝむしはこゝを旅ともおもはさらなん
新古今集に康資王母の郭公の歌
 ほとゝきす花たちはなのやとかれて空にや草のまくらゆふらん
燭明抄の中に出せる枕言葉の中に此集になきは
 ○あらかねの つち○すく六の 市場○すみそめの 夕○まなつるの 【あいけの馬】○夕月夜【をくらの山】○薦枕 【高瀬の濱】○玉かき 御津○雨ころも【tみのゝしま】○しもとゆふ【かつらき】○吉隱【ゐかひの岡これ第二卷に注す枕詞にあらさるを昔より誤てまくらことはとせり】
 
(以下似閑本ニ無シ)
久か〔二字傍線〕た 足引〔二字傍線〕 玉鉾〔二字傍線〕 ぬは〔二字傍線〕玉 ちは〔二字傍線〕やふる 天さ〔二字傍線〕かる 空み〔二字傍線〕つ 神風〔二字傍線〕 水長〔二字傍線〕鳥 小波〔二字傍線〕のあふみ 朝も〔二字傍線〕よい 青に〔二字傍線〕よし こも〔二字傍線〕りく みけ〔二字傍線〕むかふ 玉た〔二字傍線〕すき うま〔二字傍線〕さかの たゝ〔二字傍線〕なつく【付たゝなはる】 たま〔二字傍線〕きはる 武士〔二字傍線〕の おし〔二字傍線〕てるや おほ〔二字傍線〕ともの いさ〔二字傍線〕とり 若草〔二字傍線〕の 空蝉〔二字傍線〕の かけ〔二字傍線〕ろふ とふ〔二字傍線〕とりの あら〔二字傍線〕たまの 百敷〔二字傍線〕 さす〔二字傍線〕竹の大宮 うち〔二字傍線〕ひさす くさ〔二字傍線〕枕 あら〔二字傍線〕かねの つち すく〔二字傍線〕六の 墨染〔二字傍線〕 まな〔二字傍線〕はらの 夕月〔二字傍線〕夜 こも〔二字傍線〕枕 玉か〔二字傍線〕きの 雨衣〔二字傍線〕 しも〔二字傍線〕とゆふ 吉隱
 
此集の歌を物にたとへは、庭に野山を造るに、山は高く野は廣くして、石をたて草木をうふる事、大かた有のまゝにして、精工をもとめさるかことし。古今集の歌は、右をたて草木をうふる事、やゝおもしろし。山の高さ野の廣さは、すこしたかふ事もや侍らむ。新古今集の歌は、野山の體勢より、石を立、草木をうふるにいたるまて、精工をきはめむとするゆへに、かへりて天然の景趣をうしなふ所有ぬへし。これむかしと今のをのつからしからしむるなるへし
長流か管見抄は、わかゝりし時かけるゆへに、老後にくいて、人にもやふりすてつと申き。しかはあれと、此記彼抄を取用る事おほし。たかへる所も今のあやまり有ぬへし(以上)
 
〔以下早稲田版〕
萬葉集代匠記惣釋 雜説
 
(1)萬葉集代匠記惣釋首卷
 
原書には、惣釋雜説として之を惣釋の尾に置く、今改て首卷とす、目録は原書にはなきを、今假にしるす、
   目録
 雜説                         頁   行
  本朝は神國なる事………………………………………………一………一
  歌の濫觴の事……………………………………………………一………五
  三十一字の句を陰陽の數に配する事…………………………一……一〇
  倭の字の解………………………………………………………二………八
  和歌の功の事……………………………………………………二……一五
  歌を見む人文辭にのみ拘はるべからざる事…………………四……一四
  義訓の事…………………………………………………………五………二
  此書を證する書どもの事………………………………………五………七
  此集に山城の名所をよめるは多くは大和に近き方なる事…六………四
(2)  本書の歌と後世の歌との辨…………………………………六……六
  此集の歌の心得かた……………………………………………六……一三
  歌は神道を本とすべき事………………………………………七………二
  文字の正俗訓義の事……………………………………………七………六
  東歌は五音相通同韻相通をもて見るべき事…………………七………七
  假字|切《カヘシ》に意を著べき事…………………………七……一〇
  本朝唐國及天竺の言語の差別…………………………………七……一五
  此集の時代並に撰者は家持卿なる事…………………………八………五
  訓點の事…………………………………………………………二一……二
  古注どもの事……………………………………………………二一…一〇
  枚正に所用の本どもの事………………………………………二二……二
  古本の不同の事…………………………………………………二二…一三
  此集は古來解し難き書とする事………………………………二二…二四
  部類の事…………………………………………………………二三……七
  卷々に付ての部類の事…………………………………………二四……八
(3)  長歌短歌旋頭歌の事…………………………………………二六……六
  目録の事…………………………………………………………二八…一二
  眞名假名の書やうの事…………………………………………二九……一
  打亂て書中に還て心を著てかける處ある事…………………二九…一五
  古風の詞古風のてにをは………………………………………三一……八
  此集に引ける書の事……………………………………………三二……三
  歌の體の文質の事………………………………………………三三……七
  本朝の音は詳雅なる事…………………………………………三三…一五
  五十音の事………………………………………………………三四……九
  まがひ易き音十七類……………………………………………四〇……一
  集中其物を以即彼假名に用る類………………………………四五……六
  言靈の事…………………………………………………………四五…一〇
 
(1)萬葉集代匠記惣釋首卷
                 僧  契冲 撰
                 木村 正辭 校
 
本朝は神國なり、故に史籍も公事も神を先にしし人を後にせずと云事なし、上古には唯神道のみにて天下を治め給へり、然れども淳朴なる上に文字なかりければ、唯口づから傳へたるまゝにて、神道とて儒典佛書などの如く説おかれたる事なし、舊事紀古事記日本紀等あれども、是は神代より有つる事どもを記せるのみなり、唯朝廷の公事諸社の祭祀に神代の遺風あり、並べての世には、薄らぎながら八雲猶消果ず、傾ぶきながら八重垣猶殘れるのみぞ、神の初めさせ給へる驗なりける、抑|素戔嗚尊《スサノヲノ》尊は此國の主にておはしますべかりしを、常に伊弉册《イザナミノ》尊のまします根の國へ行むとて啼泣《ナキイサチ》たまふ故に、伊弉諾《イザナギノ》尊さらば情のまゝにいねとてやらひやり給ふ、又|神性《カムサガ》猛《タケ》くまし/\ける故に、青山をさへ枯《カラ》山になし給ひけるを、さるほどならばいかでかく和らびたる事をば始めさせ給ひけむ、神の御上は順逆共に凡慮の及ぶべき事にあらず、三十一字は陽數(2)にして、上下二句に天地陰陽君臣父子夫婦等のあらゆる義籠るべし、上句は五七五の三つの陽敦を合せて又十七字の陽數とす、三句も亦陽なり、下句は七七の二つの陽數を合せて十四字の陰數とす、二句も亦陰なり、上下五句を總れば又陰なり上句は長く下句は短きも亦意あるべし、神詠なれば凡情を以て陰陽の數に配當して作るやうにはあるまじけれど、本然の理おのづから然るなるべし、本朝は東海の中に有て陽國なり、陽偏に勝時は剛に過ぐ、日神の乾徳を以て降て坤儀にましますも、後に至て其剛に過べきを兼て防がせ給ふにや、素戔嗚尊の猛※[礪の旁]にして國を治めさせ給ふ事を得給はぬ物から此詠歌の濫觴を殘し給ふも、取々に示させ給ふやう侍るべし、倭は烏和切にて和と音同じきが故に通じて和の字を用、倭の字又の音於烏切、説文(ニ)曰、順貌、和と於と五音通じて義も亦和に通ぜり、日本紀纂疏此義に依て蓋(シ)取(レリ)2人心(ノ)之柔順語言(ノ)之諧聲(ニ)1也と釋せられたるは理に當れり、しかれば本朝は既に和を以て名とすれば云に及ばず、三教も亦柔和を貴ぶ、此故に論語云、禮之用和爲v貴、又云、君子和而不v同《セ》、字書云、儒(ハ)柔(ナリ)也、其教る所知ぬべし、老子(ニ)云、人之生(ル)也柔弱、其死也堅強(ナリ)、萬物草木之生(ル)也柔脆(ナリ)、其|死《カルル》也枯槁(ナリ)故(ニ)堅強者(ハ)死之徒.柔弱者(ハ)生之徒、是以兵強(キトキハ)則不v勝(タ)、木強(キトキハ)則共(ス)、強大(ハ)處(リ)v下(ニ)、柔弱處(レリ)v上(ニ)柔和忍辱は釋教の常談なり、和歌は百錬の黄金の指鐶ともなる如く、以上の道に通ずるのみなら(3)ず、及び世間の人情にも叶へり、藤原有國の和歌序云、用2之(ヲ)郷人(ニ)1焉、用2之(ヲ)邦國(ニ)1、遊讌歡娯之辭、樂(テ)且(タ)康、哀傷貶謫(ノ)之詠、愁(テ)且悲(メリ)、行旅餞別之句、惜而怨(ム)、※[(貝+貝)/鳥]花鳧藻之思、※[立心偏+太]《ヲコロテ》以※[立心偏+喬](レリ)云云、かゝる事をば暫らく置て、先歌は胸中の俗塵を拂ふ玉箒なり、何人のよめるにか、教訓の歌とて百首俗歌の有を昔見侍りし中に、覺えたるは、
   連歌せず歌をもよまぬ其人の、さこそ寢覺《ネサメ》のさびしかるらめ、
ねざめとしも云へるがおかしく侍り、夜深くねざめて思はぬ事なく、思ふに詩歌に心よせむ人は、雪月花の時を戀ひ、琴詩酒の友を慕ひ、或は雲居はるかに郭公をまち、或は枕に近き蟋蟀をきゝ、常なき事をさめにし夢に喩へ、限りある世を殘れる燈によそへて、心うちに動て言外にあらはるれば、松の聲吟に鐘の音和をなせり、彼名を墜《オト》しても利を得む事を貪り、身を傷《ソコナ》ひても富を求めん事を謀《ハカル》輩は、浮べる雲胸の月を隱し、濁れる水心の蓮を越て、守錢の奴彌まどろむ事を得じ、假令儒教を習ひ釋典を學べども、詩歌に心おかざる族は、俗塵日日に堆《ウツタカ》うして、君子の跡十萬里を隔て追がたく、開士の道五百驛に障りて疲れやすし、書舜典云、詩(ハ)言v志、歌(ハ)永v言、聲依v永、律和v聲、禮記云、孔子曰、入2其國1其教可v知(ヌ)也、其爲v人温柔敦厚、詩(ハ)教也、正義云、温謂2顔色温潤1、柔(ハ)謂2性和柔(ナルヲ)1、詩(ハ)依違、諷諫(シテ)不3指2切事情1、故云v爾也、又云、詩之失(ハ)愚(ナリ)、温柔敦厚(ニシテ)而不v愚、則深(キ)2於詩1者也、論語云、鯉趨而過v庭(ヲ)、子曰、學v詩乎、對(テ)曰未(タシ)也、不v學v詩無2以言(コト)1、又云、小子何(ソ)莫(キ)v學2夫《カノ》詩1、詩可(ク)2以興(シツ)1可(ク)2以觀1可(ク)2以群1可2以怨(ミツ)1、邇之事v父、遠(シテハ)之事v君、多(ク)識2鳥獣草木之名(ヲ)1、子夏詩序云、詩者志(ノ)之所(ナリ)v之(ク)也、在v心爲v志、發v言爲v詩(ト)、情動(テ)2於中(ニ)1t而|形《アラハル》2於言(ニ)1、言(フニ)v之不v足、故嗟2歎之1、嗟2歎(スルニ)之1不v足、放(ニ)永2歌之1、永2歌(スルニ)之1不v足、不v知(ラ)2手之舞v之足(ノ)之蹈(トコロヲ)1v之也、情發2於聲(ニ)1、聲成v文、謂2之音1治(レル)世之音、安(シテ)以樂(シフ)、其政利和(ケハナリ)、亂世之音、怨(テ)以怒(ル)、其政乖(ケハナリ)、亡國之音(ハ)、哀(テ)以思(フ)、其民困(シメハナリ)、故(ニ)正2得失1動(カシ)2天地1感(セシムルハ)2鬼神1莫v近《スキタルハ》2於詩(ヨリ)1、先王以v是|經《ツネニシ》2夫婦1成2孝敬1厚(クシ)2人倫1美《ヨクシ》2教化1移(ス)2風俗(ヲ)1、故詩有2六義1焉、一(ニハ)曰v風、二(ニハ)曰v賦、三(ニハ)曰v比、四(ニハ)曰v興、五(ニハ)曰v雅、六(ニハ)曰v頌、云云、淮南子云、温惠淳良(ナルハ)者詩之風、和歌の功も此等に准らへ知べし、古今集の序は詩序の意を用られたり、同序に又云く、俗人(ハ)爭(テ)事(トシテ)2榮利1不v用v詠(スルコトヲ)2和歌1、悲哉悲哉、雖d貴(コト)兼2相將1富(ミ)餘(スト)c金錢u而(モ)骨未(サルニ)v腐2土中1名先(ヅ)滅2於世上(ニ)1、適爲2後世1被v知者唯和歌之人|而已《ノミ》、何(トナレハ)者語近2人耳(ニ)1義慣(ハナリ)2神明(ニ)1也、此詞まことなるかな、世に名の久しく留まるべきは詩人文人なれど、それだに本朝にては初には人麿赤人に並べる名聞えず、中比には貫之躬恒、それより後には定家卿家隆卿、是等の人々に等しく聞ゆるなし、是更に其巧の優劣に依るにあらず、神の始めおかせ給ふと始めおかせ給はぬとに係れり、
孟子云、説v詩者(ノハ)、不2以v文害(セ)1v辭、不2以v辭(ヲ)害(セ)1v志、以v意(ヲ)逆《ムカフル》v志、是爲v得(タリト)v之、如《モシ》以(セハ)2辭|而已《ノミ》1矣、雲漢之詩曰、周(ノ)餘(ムノ)黎民靡v有2孑遺1、信2斯言1也、是周無2遺民1也、是は詩に付ての事なれば説v詩者と云へり、實(5)には萬の書に亘るべし、歌を見む人も是意に依べし、
?牀を唐にかく名付たるは、其葉の生しきたるがうるはしく滑らかにて、?の此上に居たらむは人の牀に居る如く安からむと思ふ意を以て名付たり、此國にひるむしろ〔五字右○〕と云は蛭《ヒル》莚にて、蛭がためにはむしろなりと云心なり、さて唐に?牀と云草の注を見れば此國のひるむしろ〔五字右○〕に當る故にひるむしろ〔五字右○〕と訓ず、?は蛭にあらず、牀は莚にあらざれども、名付たる意は通へり、日本紀此集などの義訓、此意を得て見るべし、
此書を證するには此書より先の書を以すべし、然れども日本紀などの二三部より外になければ爲む方なし、次には古語拾遺、續日本紀、懷風藻、菅家萬葉集、和名集等なり、類聚國史は、世に稀なる書にて見ざれば如何せむ、後の先達の勘文注解のみに依らば、此集の本意にあらざる事多かるべし、意を得て撰び取べし、拾遺集に多く此集の歌を入られたるに誤多きに依て、其後の人迷惑する事多きを以て料り知べし、假令十五卷に新羅使の當所誦詠古歌とあるは、多く人丸の歌なり、此事天平八年にて古歌と云へば、明らかに人丸はそれより先なるに、彼新羅使がよめる歌を三首まで人丸の歌と載れ、剰もろこしにてよまれたる由さへあるにて其餘をも准らへ知べし、是をも信ずべくば何をか信ぜざらむ、
(6)清輔朝臣は、歌も上手なる上、歌學に置ては博覧の人と時にも許され、奥義抄世に出て後は、人皆枕草子とせし由なるに、灌頂卷とて事々しき奥書ある卷を見れば、燕石を珠とせられたる事多し、見る人知べし、此集に付ての事もあり、
此集に、山城の名所をよめるは、多くは大和に近き方なり、後の人今の京に居て今を忘れぬ故に見損じたる事あり、
此集の歌を譬へば、假山を作るに、高く大きにしてなり〔二字右○〕は奇怪ならず、草木は強ても心を入れずして殖渡したらむが如し、古今集の歌は、山の高さ大きさは、くらべ見ば如何侍らむ、なり〔二字右○〕もやゝ面白きやうを作り、草木も心あるさまに植たらむが如し、後の歌のよきは、危峰欲v墮v江(ニ)と作れる如くなるなり〔二字右○〕をいかで作り出てしかなと巧む意、巧拙はあるとも形《アラ》はれたり、草木を植石を立るに尤心を付て景趣多からむとするが如しとおぼゆるはあらずや、此集の歌は神語など交て上古の遺風あり、大方の姿も、詩に准らへば古詩より晋宋の比までに當るべし、
此集の歌を心得むには、いときなき子の片言するを、母の聞なれて意得る如くすべし、實にはさるまじけれど、今の耳には詞足らずして片言のやうに聞ゆるがあるを、かくは喩へて云なり、
(7)此集を見は古の人の心に成て今の心をも以て見るべし、
神道は佛法にも儒道にも替れる處ある歟、日本紀等を披き見て知べし、然も應神天皇の御世に儒教來り、欽明天皇の御世に佛道到れり、其後王臣共に是を相兼用て世を治たまへば.反きて叶ふ故あるべし、歌を見む人は神道を本として儒佛を兼て取捨せぬ心あるべし、
此集は文字の正俗を正さず、又今の字書を以て考へ見るに意得がたき事あり、失たる昔の字書も多かるべければ妄りに議すべからず、又時々和字も交れり、第十四東歌は、五音相通同韻相通をもて意得てよむべし、又濁音多し心を付べし、第二十の諸國防人歌も東歌なれば右に同じ、
假名切《カヘシ》に意を著べし、假令|吉野在《ヨシノナル》、吉野有《ヨシノナル》などかけるは、爾をば吉野に讀付たるなり、吉野にあると讀べきを、爾阿反《ニアノカヘシ》奈なる故に、在の字、有の字に、ナルの假名を付たり、有〔右○〕の字に成〔右○〕と云字の如く、本來なる〔二字右○〕と讀べき理あるにあらず、吉野|爾有《ナル》、吉野|爾在《ナル》などあるも是に准らへて知べし、是は云べきほどの事ならねど、極めて初心の人のために注す、此意を得れば常の歌にも益あり、
唐には理を先に云ひて事を後に云ひ、本朝には事を先に云ひて理を後に云ふ、此故に(8)彼方の書をよめば返りて讀なり、假令花を見、月を待と云を、彼方には見花、待月とかく故に、返らざれば、見る花を、待つ月を、にて字ごとに句となりて、此方にては此方の言に讀ても聞よからぬなり、初の五文字に思ひきやなどおけば、一首の意は下より返れど、一句は云ひ下すなり、梵語の法は多く本朝に似たり、
此集は古來勅撰とは定めて、何れの帝の勅、誰人の撰と云に付て異義まち/\なり、爰に拾芥抄云、京極中納言入道抄云、押紙、萬葉集時代事、近代歌仙等多雖v有2喧嘩相論事等1、粗伺(ニ)2集(ニ)之所(ヲ)1v載(ル)、自2第十七卷1、似(タリv注2付(ルニ)當時出來歌(ヲ)1、事體見v集、第十七、自2天平二年1至2于廿年1、第十八、自2天平廿年三月廿三日1、至2同勝寶二年正月二日1、【今云、考v集二日後、自2同五日1至2二月十一日1載v之、】第十九、自2同年三月一日1、至2同(シキ)五年正月廿五日1、【今云、考v集二月廿五日也、疑傳寫誤、】凡(ソ)和漢書籍、多以v所2注載1爲2其時代書(ト)1、何抛2本集之所1v見(ユル)徒勘(カヘン)2他集之序(ノ)詞1哉、頗似v無2其謂1、撰者又無2慥(ナル)説1、世繼物語云、萬葉集(ハ)高野御時諸兄大臣奉v之、云々、但件集橘大臣薨之後多(ク)書v之(ヲ)、似(タリ)2家持卿之所1v注(スル)、尤以不審、以上定家卿の義なり、大臣は勝寶九歳正月六日に薨じ給ひければ、第二十卷に同三月四日に大原眞人今城の宅にて家持のよまれたる足引の八尾《ヤツヲ》の椿と云歌より卷軸に至るまでの歌の事なり、今此定家卿の抄を見て、是に心著て普く集中を考へ見るに、勅撰にもあらず、撰者は諸兄公にもあらずして、家持卿私の家に若年より見聞に隨て記しお(9)かれたるを、十六卷までは天平十六年十七年の比までに。廿七八歳の内にて撰び定め、十七卷の天平十六年四月五日の歌までは遺たるを拾ひ、十八年正月の歌より第二十の終までは日記の如く部を立ず、次第に集めて寶字三年に一部と成されたるなり、今見及ぶ所を出して其由を證すべし、第二云、大伴宿禰娉2巨勢郎女1時歌一首、此大伴宿禰は、官本に依に大納言安磨卿なり、凡そ集中の例大納言以上には名をかゝざれば、第四に同じ人を大納言兼大將軍大伴卿と書て名をかゝぬは理なり、今は微官の時の歌なるを名をかゝぬは、私の家に祖父を貴びてなり、勅撰ならば假令家持此を奉はるとも名を記《シル》さゞる事を得じ、第三云、暮春之月幸2芳野離宮1之時中納言大伴卿奉v勅作歌一首并短歌、是は大納言旅人卿いまだ中納言の時も名をかゝざるは父を尊びてなり、同卷に中納言安倍廣庭卿歌とかけるに合せて意得べし、石上大夫歌一首、歌後注云、右今案石上朝臣乙麻呂任2越前國守1、蓋此大夫歟、弟麻呂卿は勝寶二年まで存命なりければ、勅撰ならばかくの如く不審あるべからず、同卷云、天平十一年己卯夏六月大伴宿禰家持悲2傷亡妾1作歌、此つゞき弟書持和等十三首、他人の筆にあらず、十六年甲申春二月安積皇子薨之時内舍人大伴宿禰家持作歌六首、此歌をよまれたる日の注も他人の筆にあらず、家持の内舍人と成られたるは天平十二年よりなり、第六に見えたり、令に、内舍人(10)は廿一歳以上にて任ずと見えたれば、十六年には家持廿六七歳なるべし、十七年の歌は集中に一首も見えざれば、第十六までは十七年に撰せられたるかとおぼしきなり、同卷云、悲2傷死妻1高橋朝臣作歌、歌後注云、右三首七月廿日高橋朝臣作歌也、名字未v審、但云2奉膳之男子1焉、是は上を承て天平十六年七月廿日なり、若聖武天皇の勅撰ならば、其當時の臣下名字未v審と云ことあらむや、卷第四云、右郎女者佐保大納言卿之女也云云、是は當時現存の人なれども家持の姑《ヲハ》なる故に、坂上郎女と云ことをかく委注するなり、假令家持の奉《ウケタマ》はられたりとも私ならずばかくは注する事を得られじ、同卷云、天皇賜2海上《ウナカミノ》女皇1御歌一首、歌後注云、石今案(スルニ)此擬v古之作也、但以徃當v便、賜2斯歌1歟、是は聖武の勅撰に非ず、私に集むる證なり、同卷云、天皇思2酒人女王1御製歌一首、又云、八代《ヤシロノ》女王獻2天皇1歌一首、獻2天皇1歌一首、獻2天皇1歌二首、此等孝謙天皇の勅撰ならず、當時を私に記する證なり、夏葛之不絶使乃不通有者《ナツクスノタエヌツカヒノカヨハザレハ》云云、此歌左注云、右坂上郎女者、云云、戀戀而相有物乎月四有者《コヒコヒテアヒタルモノヲツキシアレハ》云云、此注云、右大伴坂上郎女之母云云、委彼卷に至て見るべし、此等の注勅撰にあらず家持の親族の故に私に委注せらるゝなり、更に他人の筆とは見えず、大伴坂上郎女、從2跡見庄1贈2賜留(マル)v宅女子大孃1歌一首并短歌、歌後注云、右(ノ)歌、報2賜大孃1歌也、又云、大伴坂上郎女從2竹田庄1贈2賜女子大孃1歌二首、賜の字は、説文、徐曰、上|与《アタフルヲ》v下(ニ)曰v賜(ト)、下獻(ツルヲ)v上(ニ)曰v貢(ト)、(11)されば此字は私の家には尊ぶ人に用ゐれども、勅撰ならば君の臣下に物を給はるにあらずば用まじき字なるを、今かく書たるにて私撰なる事を知べし、下にも此字を用たるをば此に准らへて知べし、第五に歌の意を顯はす序、詞書などの外、詩文を交へ載たるは勅撰の體にあらず、第六云、天皇賜2酒節度使卿等1御歌一首并短歌、是聖武帝の御代に撰て孝謙帝の勅にあらぬ證なり、歌後注云、右御歌者或云太上天皇御製也、此太上天皇は元正天皇なり、此注私撰の證なり、天平六年甲戌春三月、幸2于難波宮1之時歌六首、第一歌後注云、右一首作者未v詳、此注聖武天皇の勅撰にあらぬ證なり、若後に至て作者を失ひたらば其由を注すとも未v詳とは云べからず、天平八年冬十一月、左大辨葛城王等賜2姓橘氏1之時御製歌一首、歌後注中云、或云此歌一首(ハ)太上天皇(ノ)御歌(ナリ)、但天皇皇后御歌各有2一首1者(テヘリ)、其歌遺落未(タ)v得2探求1焉、此注兩帝の勅撰にあらず諸兄公|奉《ウケタマ》はりて撰び給はぬ堅き證なり、天平十年秋八月二十日宴2右大臣橘家1歌四首、此端作右大臣を敬へる詞なれば勅撰にあらず諸兄公撰者ならぬ證なり、第三首の注云、右一首右大臣傳云、故豐島采女歌、此注諸兄公撰者にあらずして家持の撰せられたる證なり、又諸兄は天平十年正月に右大臣となり、十五年五月に左大臣と成たまひたるに、今右大臣と云ひ、故豐島采女と云は、此宴に在し豐島采女死して後天平十五年までに諸兄公の家特に語り(12)給へるを記されたるなり。諸兄公の家持にうるはしかりける事は此より後徃々に見えたり、第四首注云、右一首右大辨高橋安磨卿語云故豐島采女之作也云云、是も安麿其宴の衆にして有つる事を後に家持に語られける故、初に四首と云ひて一處におかるゝなり、十一年己卯天皇遊2※[獣偏+葛]高圓野1之時云云、是亦當時を記して孝謙天皇の勅撰にあらぬ證なり、十二年庚辰天皇御製歌一首、上に准らへて知るべし、丹比屋主眞人歌一首、後注云、右案此歌者不d有2此行宮1之作u乎、所2以然言1v之、勅2大夫1、從2河口(ノ)行宮1還(テ)v京(ニ)勿(ント)v令v從v駕焉、何有(ムヤ)d詠2思泥(ノ)埼1作(ルコト)1v謌哉、家持此度御供にて前後の歌日記の如くなるに、其時承はられたる口勅をかく記されたれば、誰か此集を家持の撰にあらずと云事を得むや、次卷、悲2寧樂京故郷1作歌一首并短歌、云云、終云、右二十一首田邊福磨之歌集中出也、福麿は第十八に家持越中守たりし時左大臣橘家の使として天平廿一年三月に越中へ下りし人なり、然るを今かく記されたるは集中に見聞する所を委記して後の疑なからむ事を兼て思ひ計らはれたれば、福麿の集られたる當時の集なれども引て證とするなり、第七云、大海爾荒莫吹《オホウミニアラシナフキソ》云云、是より下七首の後に注して云、右七首者藤原卿作(ナリ)、未(タ)v審(ニセズ)2年月(ヲ)1、是は藤原北卿なるを北の字を落せるか、彼處に委注するが如し、北卿は房前にて天平九年まで現存なりければ、勅撰ならば年月も知らるべきにや、第八卷云、天皇御製歌二首、又(13)云。遠江守櫻井王、奉天皇歌一首、天皇賜2報和1御歌一首。此等上に云ふ如く當時記せる詞にて孝謙天皇の勅撰にあらざる證なり、秋雜歌、右大臣橘家宴歌七首、次同奈良磨結集宴歌、後注云、以2前冬十月十七日1集2於右大臣橘卿之舊宅1宴飲也、此等勅撰にあらず、諸兄公撰者ならぬ證なり、冬雜歌太上天皇御製歌一首、天皇御製歌一首、歌後注云、右聞v之(ヲ)、御2在(マシテ)左大臣長屋王佐保(ノ)宅1肆宴御製(ナリ)、是私撰にして勅を奉はらぬ詞なり、御2在西池邊1肆宴歌一首、注云、右一首作者未v詳、但竪子阿倍朝臣蟲麻呂傳2誦之1、是又私撰の詞なり、藤原皇后奉2天皇1御歌一首、上に云如く孝謙天皇の勅撰にあらざる證なり、皇后をも孝謙天皇の御世と成ては太后と改てかけり、第九云、思2娘子1作歌一首并短歌、後注云、右三首(ハ)田邊福麻呂(カ)之歌集出、又云、過2足柄(ノ)坂(ヲ)1見(テ)2死人1作歌一首、是より七首まで注して云、右七首田邊福麿之歌集出、是第六の福麿之歌集(ノ)中(ニ)出(ルナリ)也と云を注せしが如し、第十二、於能禮故所罵而居者云云、注云、右一首平群文屋朝臣益人傳云、昔聞云云、是勅撰の詞にあらず、第十四卷終云、以前歌詞未v得3勘2知國土山川(ノ)之名1也、今按勅撰ならば其時は此中に猶勘がへ知る處あるべきにや、第十五云、天平八年丙子夏六月、云云、次云、中臣朝臣宅守云云、聖武紀を考ふるに天平十二年六月に大赦ありて穗積朝臣老等は召返されけれども、石上乙麻呂、中臣(ノ)宅守等(ハ)不v在2赦限1と見えたり、宅守の配處は越前にて、近流なるに大赦に漏ら(14)れけるは、天平十一年などに流されて餘り程もなければ赦し給はざりけるにや、右の天平八年丙子と云に次で某年某月日とも云はで載たるも當時の事なればなるべし、然らば孝謙天皇の勅にあらざる證なるべし、第十六云、安積香山影副所見山井之《アサカヤマカケサヘミユルヤマノヰノ》云云、注云、石歌傳云葛城王(ヲ)遣(ハス)2于陸奥國(ニ)1之時國司祇承緩怠異甚云云、葛城王は橘諸兄の初の名なり、彼大臣此集の撰者にあらざる證據なり、第十七は初天平二年十一月の歌より十六年四月五日までの歌は第十六卷までを撰て、後遺たるを拾へる歟、其故は第三に天平十六年の挽歌を載せ、第四にも往々に年月を注せる相聞あり、第六に養老七年より天平十六年まで專年に繋べき雜歌を載せ、第八にも天平十五年まで往々に四季に繋べき歌を載たり、さて十七年の歌はなくて十八年正月よりの歌は第二十の終寶字三年正月一日の歌まで次第に日記の如くなればなり、遺れるを拾ふ中に十年七月七日之夜云云、歌後注云、右一首大伴宿禰家持、勅撰ならば題の夜の字の下に注の姓名をば書べきなり、追和2太宰之時梅花1新歌六首、後注云、右天平十二年十一月九日、大伴宿禰家持作、此は第五卷に帥大伴卿宅にて各梅花をよめるを和せらるゝなれば、勅撰ならば題のやう今少替るべきにや山部宿禰赤人詠2春※[(貝+貝)/鳥]1歌一首、後注云、右年月所處、未v得2詳審(ニスルコトヲ)1、但隨2聞之時1記載2於茲1、是家特の私撰の詞なり、天平十八年正月云云、藤原豐成朝臣云云、(15)右件王卿等、應v詔作v歌、依v次奏v之、登時不v記2其歌1漏矢云云、是家持の私撰の證なり、勅撰ならば諸王卿の歌|御許《ミモト》には失ざるべき故に出させ給ふべし、又各私にも記しおかるべし、朝元が事家持のまのあたり知られたる事なる故に記されたり、大伴宿禰家持、以2天平十八年閏七月1云云、更贈2越中國1歌二首云云、此より第十九、玉桙之道爾出立徃吾者云云、此に至るまでは皆越中にての作或見聞の歌なり、是皆家持私撰の證なり、集中此に依て委は出さず、見る人味て知べし、其中に第十七に大伴池主が家持の歌を和する詞書に敬の字をおき、高市連黒人謌一首年月不審、後注云、右傳2誦此謌1三國眞人五百國是也、是私撰の證なり、第十九云、爲2家婦贈2在京尊母1所v誂作歌、大伴氏坂上郎女從2京師1來、賜2女子大孃1歌、此等私の家の詞にて勅撰にあらざる證なり、第十九云、右一首歌者幸2於吉野宮1之時藤原皇后御作、但年月未2審詳1十月五日阿邊朝臣東人傳誦云v爾、春日祭神之日、藤原太后御作歌一首等云云、後注云、右件歌者傳誦之人越中大目高安倉人種麻呂是也、但年月次者、隨2聞之時1載2於茲1焉、此右件歌と云に八首ある中に、前五首は藤原朝臣清河を遣唐使とせらるゝ時の歌にて當時の事なるを、かく注せられたるは兩帝勅撰にあらずして家持の私撰なる證なり、又家持と池主との贈答(ノ)書或は序を具したる詩なども交え載られたるは勅撰の體にあらず、又第十七の末、勝寶元年十一月十二日に大伴池(16)主より家持へ贈らるゝ書并に戯歌より、第二十の終に至るまでの歌ある事は聖武天皇の勅撰にあらざる證なり、第十九云、十月二十二日、於2左大辨紀飯麻呂朝臣家1宴歌三首、初二首注云、右一首治部卿船王傳2誦之(ヲ)1久邇京都時(ノ)歌、未(タ)v詳2作主(ヲ)1也、右一首、左中辨中臣朝臣清麻呂傳誦(ス)古京時(ノ)歌也、是を初として家持歸京の後の歌も皆家持の注にて悉私撰の證なれば更に煩らはしく出すべからずと云へども、初心の童蒙のために畧して要なるを擧べし、壬申年の之亂平定以後歌二首、注云、右件二首天平勝寶四年二月二日聞v之(ヲ)即載2於茲1也、閏三月於2衛門督1云云、注云、右件歌傳誦云云、是家持の詞なり、勅2從四位上高麗朝臣福信1云云、後注云、發2遣勅使1并賜v酒、樂宴之日月未v得2詳審1也、當帝の御歌をかく注せるは、私撰にあらずば如何とか云はむ、十一月八日、在2於左大臣橘朝臣宅1肆宴歌四首、此中に左大臣の歌注して云、右一首、左大臣橘卿、是左大臣を貴びて書たれば勅撰ならず、左大臣撰者にあらぬ證なり、左大臣換(テ)v尾云、伊伎能乎爾須流、然(フシテ)猶喩曰、如v前誦v之也、是は林王宅にて奈良麿朝臣の但馬案察使に赴むかるゝに餞せられける時、家持の歌の落句息の緒に思ふとあるをいきのをにすると改られば然るべきかと左大臣の宣まへるなり、是家持の私撰の詞なり、然るを仙覺是を以て左大臣當集の撰者にて家持も相加はられたる證とす、是は別時の宴席の事にて此集に預かる事にはあらず、され(17)ど左大臣の撰者ならぬ證とはなるなり、十一日、大雪落積(コト)尺有二寸、因述(ル)2拙懷1歌三首、終(ニ)云、但此(ノ)卷(ノ)中不v※[人偏+稱の旁]2作者名字1徒録(セルハ)2年月所處縁起1者、皆大伴宿禰家持裁作(セル)歌(ノ)詞也、是家持の私に集られたる證なり、此卷を以て他卷皆效て知べし、第二十にも今と同じく家持の歌に拙懷とかける事兩處あり、家持の歌にのみ此謙退の詞あり、知るべし他人の撰にあらずと云ことを、第二十云、右天平勝寶五年五月、在2於大納言藤原朝臣之家1時、依v奏v事而請問之間、少主鈴山田史土麿語2少納言大伴宿禰家持1曰、昔聞2此言1即誦2此歌1也、是家持の詞なり、同月二十五日、左大臣橋卿、云云、歌後注云、右一首少納言大伴宿禰家持云云、初の端作は諸兄公の撰にあらざる證なり、注は家持の撰せられたる證なり、天平勝寶七歳乙未、相替遣2筑紫1諸國防人等歌、防人は兵部省も此事に預る官なるに、家持此時兵部少輔にて難波へ下りて沙汰せられける故に此度の防人の歌を悉得て拙劣なるを捨て撰び取て載られたるも家持の撰ばれたる證なり、右八首昔年防人歌矣、主典刑部少録正七位上磐余伊美吉諸君抄寫贈2兵部少輔大伴宿禰家持1、是自注の詞にて勅撰にあらざる證なり、右件四首上總國大掾正六位上大原眞人今城、傳誦云v爾、是家持の私の詞なり、同月十一日左大臣橘卿云云、是左大臣撰者にあらざる詞なり、天平元年班田之時使葛城王云云、後注云、右二首左大臣讀v之(ヲ)云v爾、【左大臣(ハ)是葛城王後賜2橘姓1也、】是左大臣撰者にあらずし(18)て家持の私撰の詞なる證なり、勝寶八歳三月七日、云云、後注云、右一首式部少丞大伴宿禰池主讀v之即云、云云、是家持の詞なり、保利江己具伊豆手乃船乃《ホリエコクイツテノフネノ》等云云、右三首江邊作v之、第十九の終の注に准らふるに家持の私撰なる故にかくみづからの歌は名をもかゝでをかるゝ事あり、喩v族歌一首并短歌、左注云、右縁2淡海異人三船讒言1云云、勅撰ならば同時の名人のかやうにはかゝるべからす、右一首兵部少輔大伴宿禰家持後日追2和出雲守山背王歌1作v之、又云、右件四首傳讀、兵部大丞大原今城(ナリ)、又云、右一首、云云・主人大原今城傳讀云v爾、此等皆家持の詞なり、又此大原今城宴は勝寶九載三月四日なり、今年八月改元ありて寶字元年と成れり、橘左大臣は今年正月六日に薨じ給ひたれば此三月四日歌より卷の終に至るまでの歌ある事は左大臣撰者ならぬ證なり、二年春正月三日召2侍從竪子王臣等1云云、細注云、未v得2諸人之賦詩并作歌1也、是家持の私撰の詞なり、勅撰ならば何ぞ此詞あらむや、右一首爲2七日侍1v宴右中辨大伴宿禰家持豫作2此歌1但云云、是家持の私の詞なり、勅撰の詞にあらず、此外能心を著ば猶いくらもあるべし、然れば何となき注までも皆家持の詞なり、凡家持の歌は年月所處等を記されたる事集中に亘て他人よりも委し、歌數もまた他人の類にあらず、能々首尾を見合せば迷へる心風度て雲消え、疑がへる思春到て凍解べし、
(19)問新義の據《ヨ》る所誠に其謂ありといへども舊説に習へる心なれば其執いまだ遣がたし、其所以は新撰萬葉集序云、夫萬葉集者古歌之流也云云、於v是奉2綸※[糸+悖の旁]綜緝(スル)之外更在2人口1、盡以撰集成2數十卷1、装2其要妙1※[韋+媼の旁]※[櫃の旁]待v價、云云、此開端は文選班固兩都賦序(ニ)、或曰賦者古詩之流也、と云へるに傚てのたまへば、菅家の御心此集は大同天子勅撰なりと思召けるにあらずや、古今集雜下云、貞觀の御時萬葉集はいつばかり作れるぞと問はせたまひければよみて奉れる、      文屋ありすゑ、
   神無月しぐれ降おけるならの葉の、名に負宮のふることぞこれ、
又同じ集の序云、古よりかく傳はるうちにもならの御時よりぞ弘まりにける云云、これよりさきの歌を集めてなむ萬葉集と名付られたりける、云云、眞名序云、昔平城天子詔2侍臣1令v撰2萬葉集1云云、源順家集云、そも/\順梨壺にて奈良の都の古《フル》歌讀とき撰び奉りし時には云云、本朝文粹第十一、藤原有國讃2法華經廿八品(ヲ)1和歌序云、或應v詔以(テ)撰2録古今1、或起v意以編2次新舊1、興v自2萬葉集1、至2于諸家集1、卷軸已(ニ)多源流寔繁(シ)、榮華物語月宴云、昔高野女帝の御代天平勝寶五年には左大臣橘諸兄卿大夫等集りて萬葉集を撰ばせたまふ、後拾遺集序云、奈良の帝は萬葉集二十卷を撰て常の翫物としたまへり、此外先達の説々蘭菊なり、此等の説いかでか悉誤ならむ、請委く評議して我舊執を遣り、并せて(20)將來の疑を除け、答て云、内奥に公論あり、法に依て人に依らざれと云へり、智者の千慮に必らず一失あり、駿き馬の時に躓《ツマツク》事あるが如し、愚者の千慮に必らず一得あり、鈍き刀の時に割こと有が如し、時に割けども干將見て是を鋭しとせず、或は躓《ツマツケ》ども伯樂知て是を駑《オソ》しとせず、如何となれば各其分あればなり、然れども暗き人は毛羽を生じて過を掩はむとし、毛を吹て疵を求めんとす、是何ぞ君子の心ならひ、影を捉る猴の勞して功なき事を悟り、聲に吠る犬の喧して實なき事を知て早く黔婁が衣を引ことを止むべし、倩事の意を案ずるに、寶字より景雲の比までは朝廷に多く事ありて人の心穩ならねば歌の聲も息める歟、光仁天皇は明主にてまし/\けれども、和歌をば好ませ給はざりけるにや、田原天皇の御子|等《タチ》の歌何れも此集にあれば、此天皇|當初《ソノカミ》の御|諱《イミナ》白壁王《シラカベノオホキミ》にてまし/\ける時の御歌あらば尤載べき事なるに一首も見えず、其後の集にも聞えねばかくは疑がふなり、諸臣も是に依て詠ずる事を物うくしける歟、桓武天皇より後數朝此道廢れたるが如し、平城嵯賊淳和仁明の四朝中にも、嵯峨天皇は詩文を好ませ給ひける故に姫宮に至るまで詩をのみ作らせ給ひき、かくの如く久しく用ゐられざりける間に此道の傳絶けるに依て、さしも誤るまじき先賢も世に云ひ傳る妄傳をさにこそと受て、能此集を考がへ見るまでの事もなくて勅撰と定めて、撰者も夕(21)月夜曉やみのおぼつかなくて誰彼とは云けるなるべし、
此集の根本の點は、天暦の帝の勅に依て梨壺の五人是を奉はれり、順家集云、天暦五年宣旨ありて初てやまと歌撰ぶ所を梨壺におかせ給ひて古萬葉集よみとき撰ばしめ給ふなり、召をかれたるは河内掾清原元輔、近江掾紀時文、讃岐掾大中臣能宣、學生源順、御書所預坂上|望城《モチキ》なり云云、又云、抑順梨壺には奈良の都のふる歌よみときえらび奉、かゝれば此時の點はよかるべきを其後失けるにや、仙覺抄に古點とて出して字點相叶はざるを改られたる處多し、誠に古點に不審なる事多し、今流布する本の點は、仙覺諸家の名本を集て度々校合し、新點をも加へられて其功すくなからず、然れども仙覺の點にも亦不審なきにあらず、各其處に沙汰するが如し、
此集を注するは八雲御抄云、萬葉集抄、【五卷抄、貫之撰云云、二十卷抄、不v知2撰者1、】此後仙覺律師一部に亘て抄せらる、八雲御抄に五卷抄と注せさせ給へるをば袋草子には彼序を引に不v知2作者1と云へり、奥儀抄などにも序をのみ引て其外引たる事なければ本は早くより失て序のみ殘たる歟、二十卷抄と注せさせ給へるは顯昭の袖中抄等にまれ/\引かれたる萬葉抄と有本歟、其義を見るにはか/”\しき物とはおぼえず、仙覺抄は簡略なる上おぼつかなき事のみある物なり、此外は奥義抄袖中抄などに、此集の中の歌を拔出して注し(22)たる類はあれど、一部に亘て注したる人はなきにや、
今注する所の本は世上流布の本なり、字點共に校合して正す所の本は一つには官本、是は初に返して官本と注す、八條智仁親王禁裏の御本を以て校本として字點を正し給へるを、中院亞相通茂一卿此を相傳へて持給へり、水戸源三品光圀卿彼本を以て寫し給へるを以て今正せば官本と云彼官庫の原本は藤澤沙門由阿本なり、奥書あり、二つに校本と注するは飛鳥井家の御本なり、三つに幽齋本と注するは阿野家の御本なり、本是細川幽齋の本なれば初にかへして注す、四つに別校本と注するは、【正辭云、以下文缺く按ずるに水戸家にて校合せるものを云へるなるべし、】五つに紀州本と注するは紀州源大納言光貞卿の御本なり、此外、猶考がへたる他本あれど煩らはしければ出さず、三十六人歌仙集の中に此集の中の作者には人麿赤人家持三人の集あり、共に信じがたき物なれど古くよりある故に引て用捨する事あり、又六帖に此集より拔出して撰入たる歌尤多し、又代々の勅撰に再たび載られたる歌多し、見及ぶに隨て引て互に用捨せり、
古本の不同を云はゞ、第二十卷の仙覺の奥書に詳なるが如し、
此集は古來解し難き書とする事を云はゞ、新撰萬葉集序(ニ)云、夫萬葉集(ハ)古歌之流也、非v未(タ)《・サルニハ》3甞稱2警策之名1焉、况(ヤ)復不v屑(トセ)2鄭衛之音1乎、聞説(ラク)古(ニハ)飛文染翰之士、興詠吟嘯之客、青春之(23)時玄冬之節、隨(テ)v見(ルニ)而興既作(リ)、觸v聆《キヽニ》而感|自《オ》生、凡厥(レ)所2草稿1不v知2幾千(トイフコトヲ)1、漸尋2筆墨之跡1、文句錯亂、非v詩(ニモ)非v賦、字對雜糅、難v入難v悟、所v謂仰彌々高鑽(ハ)彌堅者|乎《カ》、然(レトモ)有v意者(ハ)進無v智者退(ソク)而已、新古今集序云、彼萬葉集は歌の源なり、時移り事隔たりて今の人知こと難し、同眞名序云、彼上古之萬葉集者、盖是倭歌之源也、編次之起因、准2之儀皇序1、惟※[しんにょう+貌]煙欝難v披(キ)、かくの如くなれば古賢猶是を難しとす、末代の今に至て誰か知やすからむ、今注する處其誤まれるを宥《ユル》して其闕たるを補なふ人あらば我が幸なるべし、
部類を云はゞ雜歌、相聞、譬喩、挽歌の四種あり、雜歌は後の、撰集の雜部に同じ、第八第十に別に四季雜歌あり、四季相聞等を雜糅する故に雜歌と云にはあらず、若まれ/\さる歌の雜はるは、それはいまだ草稿の故と思ふべし、相聞は後の戀部に當れり、古今集の戀部はひたすら男女の中に限れり、其後はまれ/\は男女の中ならぬも見えた、今集は親族朋友にも亘れり、されど本とする所は男女の中なり、譬喩は萬に亘てある事なれど、此集に云へるは男女の相聞に付てなり、但第三に沙彌滿誓の足柄山の舟木に寄せられたるのみ、相聞にはあらじとおぼえ侍る、委は彼處に云が如し、物に寄又此をば別に開くは第三第七に依てなり、挽歌は後の哀傷なり、玉篇云、挽、亡遠切、引也、與v輓同、禮記檀弓下(ニ)云、弔2於葬者1、必(ラス)執v引《・クルマノアナ》、若從2柩《ヒツキ》及(ヒ)壙《フカアナニ》1皆v※[糸+弗]《・ヒツキナハ》、左傳云、晋(ノ)之喪事、敝邑之間先君有(24)v所v助執v※[糸+弗]矣【※[糸+弗]、輓索也、禮送(ニハ)v葬必(ラス)執v※[糸+弗](ヲ)】捜神記云、挽歌者喪家之樂、執v※[糸+弗]者相和(スル)之聲、【注云、※[糸+弗]引v柩索也、】文選注、李周翰曰、田横自殺從者不2敢哭(セ)1、而不v勝v哀(ニ)故(ニ)爲《ツクツテ》2悲歌1以寄(ス)v情、後廣v之爲2薤露蒿里歌1以送v終、至2李延年1分爲2二等1、薤露送2王公貴人1、蒿里送2土大夫庶人1、挽v柩者歌v之、因呼爲2挽歌1、今の挽歌此に准らへて知べし。若四季を雜歌相聞を云はず別部とせば先に合せて八部なり、古今等の勅撰は四季を初とせるを、今のかく云事は第三以下に急きてもおかず〔七字左○〕、又春歌夏歌などもかゝずして春雜歌春相聞歌と立たれば、四季をあながちに肝要とはせぬにやとおぼしければなり、
卷々に付て部類のやうを云はゞ、第一は某宮にして天下知しめせる天皇代と表して泊瀬朝倉宮より寧樂宮に至るまで次第に雜歌を載たり、第二は第一と同じやうにて二部あり、初には難波高津宮より藤原宮の御宇に繋る相聞を載せ、後には後崗本宮の御宇より寧樂宮に至るまでの挽歌を載たり、第三は三部あり、初には持統天皇より聖武天皇までの雜歌を載す、但時代年月に繋たるにはあらず、次には紀皇女の御歌より家持のいまだ内舍人なりけむとおぼしきまでの譬喩の歌を載す、後には上宮太子の御歌より天平十六年までの挽歌を載す、第四は仁徳天皇の御代より聖武の御宇に至るまでの相聞の歌を載す、時代年月等にかけねば第三の雜歌に對する事、第一と第二(25)の相對の如し、第五は太宰帥大伴卿報2凶問1歌と云より山上憶良の戀男子名古日歌と云に至るまで神龜五年より天平五年迄の雜歌なり、此は憶良の記し置かれたるに家持の終の一首を加へて注せられたりと見えたり、其中に大伴熊凝が歌までは筑紫にての作、好去好來歌より終までは都にての作なり、此卷には詩文もまじれり、又梅をよめる歌は春雜歌とすべく、挽歌も多けれど古記に任てすべて雜歌とす、第六は養老七年より天平十六年まで年に繋たる雜歌なり、第七は三部あり、初は雜歌天象地儀等さま/”\部類せり、次に譬喩歌是も亦寄衣寄玉など部類せり、後には挽歌なり、終に類を離れて羈旅歌一首あり、雜歌中に羈旅作多ければ一處に載すべきを落して後に卷末に附たるかおぼつかなし、雜歌に攝すべし、第八は四季雜歌四季相聞なり、皆作者あり、第九は三部あり、雜歌と相聞と挽歌となり、此卷は作者の名ども古人簡略に記したるを一類とす、作者未v詳もあり、第十は第八と同じ、但此卷は作者なきを異とす、第十一第十二の兩卷は古今相聞徃來歌類を上下とす、作者なし、兩卷各卷の中に部類をわかてり、此相聞は專男女の中の情を述たり、但第十二の末羈旅發v思と云を除く、第十三に三部あり、雜歌相聞挽歌なり、問答と譬喩とは相聞の内なり、作者なし、第十四は東歌なり、國を別て雜歌相抑聞譬喩歌あり、末に到て未勘國の歌にも亦部類あり、第十五は天平八(26)年六月新羅國へ遣はされける使の往還の歌と、中臣朝臣宅守が越前國へ流されし時狹野茅上娘子と離別を悲て互によめる歌とを合せて一卷とす、第十六は有2由縁1雜歌と云へり、是には由縁ある相聞の歌も交はれり、第十七は初めは遺れるを拾ひ、天平十八年七月に家持越中守と成て下らるゝより二十卷の終に至るまで日記の如くして部類等を別つ事なし、
歌の體を云はゞ、此集には長歌短歌旋頭歌の三種あり、後人長短に付て異義あれど、唯長きは長歌、常の歌は短歌なり、其證は某歌一首并短歌幾首など云へる事數ふるに遑なし、第五云、老身重病經v年辛苦及思2子等1歌七首、【長一首、短六首、】是憶良の歌にて紛なき自注なり、其故は歌一首并短歌六首とかゝざれば尤注を具すべきなり、第十三云、此月者君將來跡《コノツキハキミモキナムト》、云云、反歌、云云、右二首但或云、此短歌者防人妻所v作也、然則應v知2長歌(モ)亦此同作1焉、反歌ならずしても常の歌を短歌と云へる證は、第五梅花歌序云、宜《ヘシ》(ク)d賦2園梅(ヲ)1聊成(ス)c短詠(ヲ)u、第十七云、橙橘初咲云云、因作2三首短歌1、云云、又云七言一首、云云、短歌二首、第二十云、冬十一月五日夜少雷起v鳴、云云、聊作2短歌一首1などあり、仙覺幼少より老年まで此集に心を入られし由はかゝれたれど、長歌に對せずば短歌とは云まじき由申されたるは、此等をば如何見られけむおぼつかなし、旋頭は五七七五七七の六句の歌なり、唯第十六越中國(27)歌四首の終の歌のみ五七五七七七とよめり、旋頭を濱成式には雙本と名づく、本と云は上句なり、末と云は下句なり、多分五七七五七七とよめば下句も上句と相雙びて聞ゆれば雙本と名付る歟、又上句を頭と云ひ下句を尾と云、増韻云、旋(ハ)回也、かゝれば雙本と意通ぜり、奥義抄下之下云、問云、六句歌を旋頭歌と名、如何、答て旋頭は上にかへるとよむ也、昔にかへる義也、故に濱成式には此歌を雙本と名づく、これ本に雙ぶと云へば昔に返る義に同じ、古今序には此歌を稱2換頭1、是又上にかへると云へばさきの義に同じ、問云、昔に返義いかゞ、答曰、神代は歌の章句不v定、すさのをの尊の八雲の詠より初て三十一字歌出來、其後ひとへに此躰を學ぶ、然るを三十一字の中に心ざし盡ざる時六句の詠まゝ出來【所謂旋頭歌也、】往昔の歌躰に似たるによりて昔にかへる心にて各如v此名づくと云へども意趣はひとつなり、右此説はむつかしくしてさる上に推量なり、雙本の義にはます/\叶はず、長歌の體は凡そ集中を考ふるに往古より聖武の御宇の初の比までは句數字數定まらぬ事多し、福磨家持池主などの長歌は句數定まれり、短歌も後の歌に字の餘れるはあれど足らぬはなし、此集には足らぬも多し、此処のみならず古事記日本紀等に載られたるも長短ともに然なり、恠しむべからず、長歌には反歌を副へたるもあり,そへざるもあり、副るに付て數を定めたる事はなけれど、第五第六に(28)五首を副へたるを多き限とすれば今も是に傚ふべき歟、第五に長歌一首に短歌の六首そひたるあれど、それは憶良の歌にて終の歌の下の自注云、神龜二年作v之、但以v類故更載2於茲1、七首に亘る注云、天平五年六月丙申朔三日戊戌作とあれば此は別義なり例とすべからず、長歌に副たる知歌を反歌と云は、反は反覆の義なり、經の長行に偈頌の副ひ、賦等に亂の副たる類なり、長歌の意を約めて再たび云意なり、第四云、天皇賜2海上女王(ニ)1御歌、此御歌後注(ニ)云、右今按此歌擬v古之作也、但|以往《イムサキ》當便賜2斯歌1歟、第六云、天平八年冬十二月十二日、歌※[人偏+舞]所之諸王臣子等集(テ)2屑井連廣成家1宴歌二首、比來古※[人偏+舞](ノ)盛與2古歳1漸晩(ヌ)、理宜d共(ニ)盡2古情(ヲ)1同唱(フ)c此歌(ヲ)u故擬2此趣1輒獻2古曲二節(ヲ)1、風流意氣之士儻有2此集之中1爭發v念心々和(セヨ)2古體1、此第六の小序を以て思ふに、此集の中にても天平の半より以前を古風とし以後を新樣とする歟、第四の御製を擬古作と云は若天平十年の比より後の御製にや、古體新製今の耳には聞分がたしと云へども改まりたる證右の如し、
目録を云はゞ、第二十卷の仙覺の奥書を見るに古本に三つの異あり、一つには惣てある本、二つには惣てなき本、三つには第十五までありて十六以下なき本なり、委は彼處の如し、今按目録は大きに誤れる事ありて後人のしわざなればなきを以正本とす、卷ごとに其誤を注す、見む人心を著べし、
(29)眞名、假名の書やうを云はゞ後拾遺集序云、奈良の帝は萬葉集廿卷を撰て常の翫物とし給へり、彼集の心は易き事を隱して難き事を顯はせり、當初《ソノカミ》の事今の世にかなはずして迷へる者多し、此中に難き事をあらはすとは如何なるをか申されけむ、おぼつかなし、易き事を隱すとは眞名假名の書やうの奇怪なる事を云へるなるべし、つら/\此集の書やうを見るに必しも撰者のしわざにはあらず、其比の風俗《ナヲヒ》にて家々に樣々に書たるを其まゝに寫されたるも多かるべし、第五第十四第十五及び第十七已下の四卷、以上七卷は安らかにかけり、又第十一の人麿家集の歌百四十九首は簡古にかゝれたり、是は彼集のまゝに寫されたりけるにや、日本紀の中にも人名地の名などに讀ときがたかるべきが多きは舍人親王のわざと止ことを得ずして自注を加へ置かれたり、人を迷はさむとてむつかしく書たまひけむやは、古事記はやすらかにかゝれたる上に自注あれど、序に人の名のたらし〔三字右○〕に帶の字をかき、地の名のくさか〔三字右○〕に日下とかけるをばさて置よしことわられたり、今の心を以て昔を量て此集の事のみを云へるは委しく思はざるなり、俊成卿の古來風體抄云、さて此萬葉集をば後姶遺序に申たるは、此集の心は易き事を隱し難き事を顯せり、よりて迷へる者多しとぞ、打亂て書中に、還て心を著てかける處を略して示さば、
(30)石走垂水之水能《イハバシルタルミノミヅノ》、  早數八師《ハシキヤシ》、 【十二之二十、】早、
妹目乎見卷《イモガメヲミマク》、           欲江《ホリエ》、     【同v右、】欲、
霍公鳥《ホトヽギス》、                飛幡之浦《トバタノウラ》、【十二之三十六、】飛、
登能雲入雨《トノグモリアメ》、            零河《フルカハ》、   【十二之十九、布留河也】零、
我心《ワガコヽロ》、                 盡之山《ツクシノヤマ》、【十三之三十一、】盡
吾紐乎妹手以而《ワガヒモヲイモガテモチテ》、     結八川《ユフハガハ》、  【七之八、】結
吾妹兒爾衣《ワギモコニコロモ》、           借香《カスガ》、     【十二之十九、】借、
韓衣《カラゴロモ》、                 裁田之山《タツタノヤマ》、 【十之四十五、】裁、
加吉都播多衣爾須里都氣《カキツバタキヌニスリツケ》、  服曾比獵《キソヒガリ》、 【十七之十二、】服、
橡之衣解洗《ツルバミノキヌトキアラヒ》、       又打山《マツチヤマ》、   【十二之十八、】又打、
國栖等之春菜將採《クニスラガワカナツムラム》、  司馬乃野《シバノヽノ》、  【十之十六、】司馬、【シバシバとつゞけたる故、シバとよませむとなり、】
眞鏡《マソカヾミ》、                 蓋上山《フタガミヤマ》、 【十九之二十二、】蓋、
眞十鏡《マソカヾミ》、                見宿女乃浦《ミヌメノウラ》、【六之四十七、】見、
眞十鏡《マソカヾミ》、                見名淵山《ミナブチヤマ》、 【十之四十六、】見、
落雪之《フルユキノ》、                消長戀師君《ケナガクコヒシキミ》、【十之六十三、】消、
(31)天在《アメニアル》、              日賣菅原《ヒメスガハラ》、  【七之二十七、】日、
明日從者《アスヨリハ》、               將行乃河《イナミノカハ》、 【十二之三十九、】將行、
白鳥能《シロトリノ》、                飛羽山松《トバヤママツ》、 【四之三十、】飛羽、
白栲爾丹保布《シロタヘニニホフ》、          信士之山《マツチノヤマ》、 【七之十七、】信士、
四長鳥《シナガドリ》、                居名之湖《ヰナノミナト》、  【七之十七、】居、
物乃部能《モノノフノ》、               八十氏河《ヤソウヂガハ》、  【三之十八、】氏、
 此外かやうに心を著てかける事いくらも有べし、
古風の詞古風のてにをは、并にてにをはの今と違たるを出す、
隔、倍那里《ヘナリ》、  不所忘《ワスラレヌ》、忘良延奴《ワスラエヌ》、  加?良《カテラ》、加?里《カテリ》、  從《ヨリ》、由《ユ》、  同《オナジ》、於也之《オヤジ》、  思はむや、思へヤ、  心もとなき、yラモトナシ、  所知奴《シラレヌ》、知良延奴《シラエヌ》、  拾《ヒロフ》、比里布《ヒリフ》、  由なき、毛登奈《モトナ》、 此等の類古風なり、
第七云、今衣吾來禮《イマゾワガクレ》、第十一云、、君乎見常衣眉根掻禮《キミヲミムトゾマユネカキツレ》、第十四云、古呂賀於曾伎能安路《コロガオソギノアロ》【有《アリ》也】許曾要志《コソエシ【吉《ヨシ》也】母《モ》、第十八云、安我毛布伎見我彌不根可母加禮《アガモフキミガミフネカモカレ》、又云、七夕歌云、徃更年能波其登爾安麻能波良布里左氣見都追伊比都藝爾須禮《ユキカヘルトシノハゴトニアマノハラフリサケミツツイヒツキニスレ》、以上のてにをは今には全く叶はず、昔叶ひけるやうを知らず、又第一云、然爾有許曾虚蝉毛嬬乎相挌良思吉《シカニアレコソウツセミモツマヲアヒウツラシキ》、此てにをは集中(32)數處あり、仁徳紀に磐之媛《イハノヒメ》の御歌にもあり、古今集以來なきてにをはなり、又第二云、嘆毛未過爾《ナゲキモイマダスギヌニ》、憶毛未盡者《オモヒモイマダツキネハ》云云、此者の字も亦集中に多し、是も亦心得がたきてにをはなり、此集に引ける書は、古事記、日本紀、古歌集、人麿歌集、山上憶良類聚歌林、笠金村集、高橋蟲麿集、田邊福麿集、以上八部なり、此外に或本曰と云へるは其數知がたし、古歌集、類聚歌林を除て人麿等の四人の集は、一家の集歟他人の歌を集たる歟是に不審あり、先人麿家集に付て云はゞ皆慥に人麿の歌ならば第一より第四までの如く名を顯はして載べし、何ぞ第七第十より下四卷の如く作者の名を擧ぬ卷に、歌後に右若干首人麿集に出たりと云はむや、第十四に人麿集出と注せる歌五首あり、人麿何ぞ東歌をよまるべきや、第六云、神龜五年戊辰幸2于難波宮1時作歌四首、後注云、右笠朝臣金村之歌中出也、或云車持朝臣千年作と也、是金村集に他人の歌ある證なれば是に准らふるに人麿歌集と云はみづからの集にはあらずして、廣く諸人の歌を集められたるなり、然るに此に依て然なりと云はむとすれば又然らざる事あり、其故は第四に、未通女等之袖振山乃《ヲトメラガソデフルヤマノ》と讀れたる人麿の歌を第十一人麿家集出と云中に載たり、又|里遠戀和備爾家里眞十鏡面影不去夢所見社《サトトホミコヒワビニケリマソカヾミオモカゲサラズユメニミエコソ》、此注云、右一首上見(タリ)2柿本朝臣人麿之歌中(ニ)1也、但以2句句相換(ルヲ)1故(ニ)載2於茲(ニ)1、又同卷問答歌云、眉根掻《マユネカキ》、鼻火紐解待八方《ハナヒヒモトキマタムヤモ》、何時毛將見跡戀來吾乎《イツカモミムトコヒコシワレヲ》、此注云、右上見2柿本(33)朝臣人麿之歌中(ニ)1、但以2問答1故、累(テ)載2於茲1也、此等に依れば人麿歌と見えたり、人麿の歌ならむに付ては一首を兩處に載たるも不審なり、再たび載る事あれば、皆其由を法せられたるを、さもなきは草案故に第十一には誤て、載られたる歟、後の問答に載たるにも不審殘る事あり、人麿集にも問答あれば、問答の故と云はゞ彼處にも載すべきを、いかで後の問答には置かれけむ、若人麿集には答歌なければ答歌ある本に依て再たび載て注せられたる歟、人麿集かくの如く不審なれば他の集此に准らへて知べし、
歌の體の文質を云はゞ、古より古歌をば質なりとす、新撰萬葉集(ノ)序云(ニ)云、倩々見2歌體1、雖2誠見v古(ヲ)知(ルト)1v今(ヲ)、而以(テ)v今比v古新作(ハ)花也、舊製(ハ)實(ナリ)也、以v花比v實、今人情彩剪v錦、多(ク)述(フ)2可v憐之句1、古(ノ)人心緒織v索(ヲ)、少綴2不(ル)v※[(來+攵)/心]之艶1、古今集序云、但見2上古之歌1、多(ク)存2古質之語1、未v爲2耳目之玩1、徒爲2教誡之端1、新撰和歌集序(ニ)云、抑夫上代之篇、義漸幽(ニシテ)而文猶質(ナリ)、下流之作文、偏巧(ニシテ)而義漸踈、故抽d始v自(リ)2弘仁1至(マテノ)2于延長1詞人之作花實相兼u、而已、是は古今集に入たる歌の中にも平城天皇御治世の比よりあなたの歌をば、質なりとして取られぬ意なれば、此集の歌を質なりとするなり、
 
     集中假名の事、
日本紀纂疏云、按2韻書1、倭(ハ)烏禾切、女王國名、又於烏切、説文云、順貌、廣韻(ニハ)慎貌、増韻(ニハ)謹(シム)貌(トイヘリ)、今、以2(34)兩韻1通用、則倭(ハ)順貌(ナリ)、蓋取2人心之柔順語言之諧聲(ニ)1也、まことに本朝の音は詳雅なり、何を以てか知とならば能梵音に通ずる故に知れり、倶舍(ニ)云、一切天衆皆作(ス)2聖音(ヲ)1、謂彼言辭、同2中印度1、西域記第二云、詳(ニスレハ)2其文字1梵天所(ナリ)v製、原V始垂(ル)v則(ヲ)四十七言、遇v物合成隨v事(ニ)轉用(ス)、流2演枝派(ヲ)1其源浸廣、因(リ)v地隨b人微有(レトモ)2改變1、語(ヘハ)2其大較1未v異2本源1、而(シテ)中印度(ヲ)特(リ)爲2詳正1、辭調和雅(ニシテ)與v天同v音、氣韻清亮爲2人(ノ)軌則1と云へり、此梵文吾朝に流布せり、是を讀に能叶へば纂疏の説驗あり、彼三韓の如きは日本紀に訛て詳ならざる由處々に見え、此集第二にも言さへぐ韓とも百濟ともよめり、大唐も江南江北音の輕重異なる由なるに、まして衰世に至ては中區を去て、邊地を都としければにや、晩宋の後の音は詳雅ならざる歟、梵文に叶はぬなり、凡(ソ)人の語らむとする時、喉中に風あり、天竺には是を優陀那《ウダナ》と名付るを此には譯《ヤク》して内風と云、此風下て腎水を撃《ウツ》時、斷《キン》、齒《シ》、脣《シム》、頂《チヤウ》、舌《ゼツ》、咽《エム》、口《ク》の七處に觸《フ》れ、喉内、舌内、脣内の三内に依て出す所の聲に五十音あり、涅槃經文字品云、佛復告(タマハク)2迦葉(ニ)1、所v有種々(ノ)異論咒術言語文字(ハ)皆是佛説、非(ス)2外道(ノ)説(ニハ)1、迦葉菩薩白(シテ)v佛言(サク)、世尊云何(カ)、如來説2字(ノ)根本(ヲ)1、佛(ノ)言(ハク)、善男子初説2半字以爲2根本1、持2諸記論咒術文章諸陰實法1、凡夫(ノ)之人學2是字本1、然後能知2是法非法(ヲ)1、迦葉菩薩復白(シテ)v佛言(サク)、世尊所v言字者、其義云何、善男子有2十四音1、名(ケテ)爲2字義1、所v言字名(ヲ)曰2涅槃(ト)1、常故不v流、若不(ルヲバ)v流(セ)者則爲2無盡1、夫無盡(ナルハ)者即(ハチ)此如來金剛之身、是十四音名(ケテ)曰2字本(ト)1、【已上經文、】此つゞき(35)に五十字を説給ふ、但五十音にはあらず、此五十字をたゝみて十四音とのたまへるに付て和漢の諸師異義區なり、其中に信範法師の義に云く、十四音と云は、阿伊宇江遠《アイウエヲ》を五とし、加左太奈波末也良和《カサタナハマヤラワ》を九として合すれば十四音なり、一切の字是を出ねば十四音とは説たまへりと解せられたり、是和語に便ある説なる故に出せり、先諸音の初は阿なり、諸字の初も阿字なり、阿字諸法本不生と説かれたる經文は此義なり、此阿の聲初て舌に觸て伊と成り、脣に觸て宇と成る、江は伊の末音なり、江と云はむとする時、最初に微隱《ミオムに伊の聲を帶して、伊江を急に呼如くなるは此故なり、乎《ヲ》は宇の末音なり、乎《ヲ》と云時、最初に微隱に宇の聲を帶し、宇乎を急に呼如くなるは此故なり、阿は諸音の本體にして伊宇江乎の四音を生じ、加左太奈波末也良和の九字の韻となれば、聲韻を兼る字とす、以は經に根本の字と説かる、阿は喉内に在て微隱なれば喩へば種《タネ》の如し、伊は此種より初て根を生ず、此根より枝葉花菓等を生ずる如くなれば根本とは云なり、以は九字と合して幾之知仁比美伊里爲《キシチニヒミイリヰ》の九字を生じて韻と成り、宇は久須豆奴不武由留宇《クスツヌフムユルウ》の九字の韻と成り、江は計世天禰陪女要禮惠《ケセテネヘメエレヱ》の韻と成り、乎は己曾止乃保毛與呂於《コソトノホモヨロオ》の韻と成る、此以宇江乎の四音は、唯韻非聲の字なり、此五字五音に世間出世間の一切の五法を攝む、玉音に梵天所説の四十七字の字母の中の十二の摩多《マタ》の字を攝(36)す、摩多は梵語、此には點畫とも韻とも飜せり、加左太奈波末也良和《カサタナハマヤラワ》の九字は唯聲非韻の字なり、是に四十七字の中の體文三十五字を攝せり、體文とは諸字の體となる故の名なり、右の九字を聲の體とし以宇江乎を韻とする時三十六音を生ずる故に、能生の十四音、所生の三十六音、合せて五十音なり、しばらく加字に付て云はゞ、加と以と合する時幾となる、加と宇と合すれば加宇切久となり、加と江と合すれば計となり、加と乎と合すれば己《コ》となる、故に加を父とし、以宇江乎を母として幾久計己の四音を生ずるは、譬へば父母交會して諸子を生ずるが如し、餘は此に准らへて知べし、今梵文の法に准らへて、和字をもて五十音の樣を圖すべし、
 
〔入力者注、図は省略、必要な方は、近代電子図書館、または岩波の全集を参照して下さい。〕
 
(37)
 
梵字は、加幾久計己に付て云はゞ、加字を字體として以を點とする時幾となり、宇を點とする時久と成り、江を點とする時計と成り、遠《ヲ》を點とする時己と成て字體變ずる事なし漢字はしからざれば今梵字に准らへて字體を偏として點を旁とす、此五十音の中に本朝には四十七音ありて三音闕たり、三音は也と以と和合して生ぜる伊と、也と江と和合して生ぜる要《エ》と、和と、宇と和合して生ぜる宇となり、各本韻に攝する歟、若攝せば和より生ずるゐゑお〔三字右○〕も攝すべきを、半は攝し半は攝せざる其故を知らず、世に流布する伊呂波は弘法大師彼四十七音を梵書の四十七の字母に准らへて八句の詞となしたまへり、此も亦歌なるべし、されども四十七音は日本紀並に此集等、後の菅家萬(38)葉集和名集等までを勘見るに、皆一同なれば以呂波は唯是を詞を連られたるばかりにて、此より初て四十七言となれるにはあらず、此四十七言の中に、猶|以爲遠於江惠《イヰヲオエヱ》の三つの聞《キヽ》同じきに依て、比等の假名上下にある時まがふ事あり、又|字奴武《ウヌム》の三字、音便に依てまがふ事あり、又|波比不倍保《ハヒフヘホ》の五字下に有時|以宇江乎《イウエヲ》と、和爲宇惠於《ワヰウエオ》とにまがひ.又葵を阿布比《アフヒ》、障泥は阿布利《アフリ》、仰は安不禺《アフグ》、倒は多不留《タフル》とかけども、此を讀時中の布《フ》の乎《ヲ》と聞ゆる類あり、又|不《フ》の字下に有時音便に依て伊《イ》と由《ユ》とまがひ、波《ハ》と保《ホ》とまがふ類あり、又|知《チ》と之《シ》と下に在て濁る時まがふ事あり、寸《ズ》と豆《ヅ》とも同じ、又、煙、冠等の布《フ》の武《ム》にまがふ類あり、上に有てまがふ事は古書を見て古人の書置たるに依らざれば知がたし、下に在てまがふも唯體にして用に亘らぬは又古人の跡に依らざれば知がたし、若體用に亘り或は唯用なる詞は知易し、今集中に見えたる假名の中に今の人の用ると違ひたるを思ひ出るに隨て少々是を出す、此集の用にあらざれば委は出さず、此度和名集を初めて日本紀より菅家萬葉集等までの假名を考へ見るに、皆一同にして此集と叶へり、又行成卿などの比までの假名を見るに、此集に違はねば其後漸々に誤れる歟、假令(バ)椎は神武紀に椎此(ヲバ云2辭※[田+比](ト)1と注したまひ、和名には之比《シヒ》と注し、此集第十四には四比と書たるを中比より之爲《シヰ》と書て四位を此によせたる類多く聞ゆ、是根本を忘れ(39)て枝葉に附故なり、千載集序云、抑此歌の道を學ぶる事を云に、から國日の本の廣き文の道をも學びず、鹿の苑鷲の嶺の深き御法を悟るにしもあらず、唯かなのよそぢあまりなゝもじの内を出ずして、心に思ふ事を詞に任て云ひ連ぬる習なるが故に、みそもじ餘りひともじをたゞ讀連ねつるものは、出雲やくもの底を凌ぎ、敷島やまとみことの境に入過にたりとのみ思へるなるべしと云へり、定家卿の拾遺愚草に、後京極殿の仰に依て或夜時の程に色葉の四十七字を句の上に置て讀たまへる事見えたれば、俊成卿宣へる四十七字は色葉に付てなり、然れば故ある事なれば古きを尋て其意を知らずとも其跡にだに依べし、或人假名をばひたすら打混じて書べき由を云へり、たとひ通ずる事有とも通と云も別ある故なり、別なくば何の通と云事かあらむ、譬ば人と云名は上天子より下乞丐に至る、此通ずる名を以て尊卑なしと云べしや、通別を知て通ずる時は通じ、別する時は別するを智者とす、貴人は別を愛し賤者は通を好まば、貴賤交接せずして互に用をなさじ、字音の通別も亦かくの如し、能別を知る人にあらずば通は徒に名のみ有て混亂と成ぬべし、仁貿天皇を初は億計王《オケノオホキミ》と申し、顯宗天皇をば弘計王《ヲケノオホキミ》と申しき、億は於に同じく、弘は遠に同じ.遠於を混ぜば昆弟をばいかゞ分ち奉らび、汝定て此に至て口を箝て降旗を建べし、
 
(40)   以、【音の巳、伊等、訓の膽など是に同じ、此以は輕し、其故は安也、和は同じく喉音なる中に安は喉中の喉なる故に輕し、也は喉中の舌なる故に次に輕し、和は喉中の脣なる故に重し、所生の聲、各能生の聲に隨て輕重あり、此以は阿より生じて幾、之等九字の本韻なる故に輕きなり、上に在て用るは常に用馴て人多く知れり、今は下に在てまがひ易きを出す、也より生ずる伊を兼る故に也、伊、由、要、與の通ひある事知べし、
加伊《カイ》、【棹也、二之二十四等、】 意伊《オイ》、【老也、十九之三十、孝徳紀、間人《ハシヒトノ》連老、注云、老此(ヲハ)云2於喩、此は也、伊、由、叡、與の五音の通なり、】 久伊《クイ》、【悔也、十八之十一、此伊は也より生ずる伊を本韻に兼たり、其故は久也之とも久由とも通ひて云へばなり、今久爲とかくは誤なり、】 許伊《コイ》、【反也、五之二十八等、こやるともこやすとも云故に、也より生ずる伊なり、】 燒津邊《ヤイツヘ》、【三之廿一、】 朝裳吉《アサモヨイ》、【十三之廿八、】 福《サイハヒ》、【七之四十一、】 【此三つの類は、幾もじの耳に障る時、通はして和らげて云詞なり、但歌には稀なる事なり、】
   爲、【音の韋、委等、訓の井、猪等、皆同じ、此爲は和と以と合して生じたる末韻の字なる故、脣に屬して重し、五音同韻の相通あり、
澤寫、【和名云、奈万井、】 宇宗爲《ウナヰ》、【童男女也、十六之十七、】 居中《ヰナカ》、【田舍也、三之二十六、】 於保爲具左《オホヰグサ》、【※[草冠/完]也、十四之十三、】 烏芋《クワヰ》、【和名云、久和井、】 麻爲泥《マヰテ》、【參也、十八之二十七、】 藍【アヰ】、 狹藍左謂《サヰサヰ》、【左謂亦、狹藍也、狹藍者藍也、四之十五、】 潮左爲《シホサヰ》、【一之二十等、】
   比、【此字下に在て以、爲に紛るゝを少々此を出す、】
飯《イヒ》、【和名云、伊比、】 櫟《イチヒ》、【十六之三十云、伊智比、】 波斐《ハヒ》、【※[草冠/〓]也、廷喜式第三十九、】 灰《ハヒ》、【和名云、波比、】 新《ニヒ》、【十四之十九云、仁比久佐、】 小《チヒサシ》、【和名、信濃小縣、知比佐加多、】 宵《ヨヒ》、鯛《タヒ》、【和名云、太比、】 多比良《タヒラ》、【平也、二十之三十八、】 遂《ツヒニ》、【二十之六十一云、都比爾、】 奈麻強《ナマシヒ》、【※[(來+犬)/心]也、四之三十三、】 杭《クヒ》、【十三之十二、和名云、久比、】 水?《クヒナ》、【皇極紀云、倶比那、和名云、久比奈、】 吹飯濱《フケヒノハマ》、鯉《コヒ》、【和名云、古比、】 盲《メシヒ》、【和名云、米之比、】 聾《ミヽシヒ》、【和名云、美美之比、】 椎《シヒ》、【十四之廿四云、四比、神武紀云、椎此云2辭※[田+比]1、和名云、之比、】 (41)強《シヒテ》【三之十二云、志斐、】 ※[怨の心が皿]、【和名云、毛比、】
   乎、【音の遠、越、訓の尾、緒等皆同じ、此乎は輕し、以の下に注するが如し、五音同韻の相通知ぬべし、】
尾《ヲ》、【鳥獣尾也、】 終《ヲハル》、尾花《ヲハナ》、遠刀古《ヲトコ》【男也、五之九、神代紀上云、少男此云2烏等孤1、少女此云2烏等※[口+羊](ト)1、をとこ、をとめ、ひこ、ひめなどは男女をほむる相對の言なり、】 折《ヲル》、尾上《ヲノヘ》、乎佐乎左《ヲサヲサ》、【十四之二十九】、乎佐牟《ヲサム》、【治也、十七之二十九等、】 乎疑《ヲキ》、【荻也、十四之十八】 惜《ヲシム》、竿鹿《サヲシカ》、水尾《ミヲ》、【以上、今於を用るは誤なり、】 之乎禮?《シヲレテ》、【十九之四十六、新撰萬葉集云、芝折、與2此集1同、今保を用るは叶はず、】
   於、【意、飫等同じ、此於は和と乎と合して生ずる故に重し、又此字は和語の中には、上にのみ在て下にすゑたる事なし、】
於呂可《オロカ》、【十八之九】 於呂須《オロス》、【下也、二十之二十六】 鬼《オニ》、【和名云、於爾、】 覆《オホフ》、【和名云、鞍帽、久良於保比、】 音《オト》、織《オル》、【神代紀下云、倭文此云2之頭於利1、倭名云、促織、和名、波太於里米、】 遲《オソシ》、置《オク》、【除《オキテ》v君等亦同、】 送《オクル》、後《オクル》、追《オフ》、行《オコナヒ》、【允恭紀、衣通姫歌云、區茂能於虚奈比、】 於佐倍《オサヘ》、【押也、廿之十八、】 帶《オヒ》、重《オモ》、【續日本紀、和名云、權、波加利乃於毛之、】 押《オス》、
   保、【下に在て乎、於に紛るる中に少々を出す、】
五百千《イホチ》、【十八之二十三云、安波妣多麻、伊保知毛我母と云へり、五百重山、八百日等此に效ふべし、後の歌に、をちかへりとよめるは百千遍なりと云へり、然らば保の字下に在て乎と聞ゆるを乎なりと思ひあやまれるなり、第一にかりほを借五百とかき、第七にいほりを五百入ともかけり、】 登保《トホ》、【遠也、】 登保留《トホル》、【通也】 奈保《ナホ》、【猶也、】 那保《ナホ》、【直也、】 (42)※[雨/沐]曾保零《コサメソホフル》、【十六之二十九、】 赤曾保船《アケノソホフネ》、【三之十九】
   布、【俗に云ば皆ふもをと聞ゆるなり、】
障泥《アフリ》、【和名云、阿不利、】 扇《アフク》、仰《アフク》、葵《アフヒ》、【十六之十九、和名云、阿布比、】
   江、【音の叡、要等、訓の兄、得等同じ、此江は輕し、】
春花乃爾太要盛而《ハルハナノニホエサカエテ》、【十九之二十六、】件要《ハエ》、【草木生也、十四之二十四、】 笛《フエ》、【和名云、布江、】 朴津《エナツ》、 榎實《エノミ》、【十六之二十七、和名云、榎(ハ)衣、】 比要《ヒエ、》【稗也、十二之十七、】 雙六乃佐叡《スクロクノサエ》、【十六之十七】、
   惠、【音の衛、慧、訓の畫等同じ、此惠は和と江と合して生じたる江の末韻なる故に重し、五音相通同韻相通あり、知べし、】
机《ツクヱ》、【都久惠、】 杖《ツヱ》、【和名云、都惠、】 植《ウヱ》、故《ユヱ》、惠具《ヱグ》、【十之七】、 醉《ヱヒ》、【古事記中云、惠比、】 居《スヱ》、陶人《スヱヒト》、【十六之三十一、和名云、陶器、須惠宇都波毛乃、】
   倍、【下に在て江、惠とまがふ類、少々出v之、】
家《イヘ》、蠅《ハヘ》、爾倍《ニヘ》、【新饗也、十四之九】 柏《カヘ》、【十九之十六、和名云、加倍、】 蝦手《カヘテ》、【八之五十一、十四之二十五云、加敝流?、】 堪《タヘ》、
   和、【下に在て波に紛るゝ類、】
和和良葉《ワワラハ、【八之五十、】 和和氣《ワワケ》、【五之三十、】 多和多和《タワタワ》、【十之五十九、】 多和也女《タワヤメ、》【十五之三十四、】 多和美手《タワミテ》、【六之十六、】 浦囘《ウラワ》、【俗或は宇良波と書、故に出す、】 山多和《ヤマノタワ》、【古事記中、垂仁天皇段】 許等和理《コトワリ》、【五之七、】 阿和《アワ》、【沫也、十一之八、和名同v此、但二之三十六云、安幡雪、】 佐和久《サワク》、【躁也、五之三十八、】
   波、【下に在て和に紛るる類少々此を出す、】
櫻桃《ハヽカ》、【和名云、波波加、】 箒《ハヽキ》、爾波《ニハ》、【海上晴氣也、三之四十、】 尾張《ヲハリ》、【續日本紀或處云、尾破守、】 團扇《ウチハ》、【和名云、宇知波、】 器《ウツハモノ》、【和名云、宇都波毛乃、】
   宇、【安以字江乎の字に和爲宇惠於の字を攝したる故に攝する方にて下にあり、安より生ずる宇は音あらねば下にある事なし、但かみべをかうべと云ひ、つらくをつらう、からくをからうなど詞に通はすをば除く、
急居《ツキウ》、【崇神紀云、此云2兎岐于1、是は爲と通ぜり、】 宇宇《ウヽ》、【植也、十五之三十三、】 宇宇《ウヽ》、【飢也、推古紀、聖徳太子の御歌云、伊比爾慧?、是飯に飢てなれば慧に通ふは宇なる故なり、上と同じ、】 須宇《スウ》、【居也、是は惠と通ぜり、】
   布の字中に在て武にまがふ類、
冠、【十六五之廿四、和名云、加宇布利、】 合歡木花《ネフノハナ》、【八之廿一、和名云、禰布里乃木、】 睡《ネフル、》 煙、【介布利】 煙寸《ケフキ》、【十之五十三、和名云、※[火+欝]、俗云、介布太之、】、
  保の字下に在て乎と宇とにまがふ類、
(44)頬《ホヽ》、【和名云、保保、】 保寶我之婆《ホホカシハ》、【十九之二十四、】 面子《ホヽツキ》、【遊仙窟、】 蝙蝠《カハホリ》、【和名云、加波保里、かうもりと云ひならへり、】
  宇奴武三字相通、【宇は喉内、奴は舌内、武は脣内なり、梵文には三内の空點と云、空點とは梵字の上の圓點なり、】
此集の奴婆玉を後に宇婆玉とも武婆玉とも通はしよめるは三字を通ぜり、日本紀に大人とも卿とも書てウシとよめるは此集にヌシとよめると同じかるべし、第八には稻莚をイナウシロとよみ、第十七にはうるはしみ〔五字右○〕を牟流波之美《ムルハシミ》とよめるは宇と武とを通はせり、讃岐をサヌキとよみ、第十一に珍海をチヌノウミとよめるは音を借たれども武と奴とを通ぜり、此集に馬は宇麻、梅は烏米なり、古今集物名歌にうめ〔二字右○〕と題して、あなう目にと隱せるを思へば彼集の比までも此定なりける歟、今は武麻《ムマ》、武米《ムメ》とかけるは宇と武とを通はせり、諾は此集には宇|弁《ヘ》なるを今|武弁《ムヘ》とかくも亦同じ、埋木を今|武毛禮《ムモレ》木とかき、生《ウマ》るゝを武末留《ムマル》とかくは誤なり、其故は宇豆武《ウツム》を武豆武《ムツム》と云はず、宇武《ウム》と云を武々とは云はざればなり、此も亦妄りに通せば牛は主《ヌシ》と成り、主は蟲と成るべし、
  布字下に在時音便に依て上の字のまがふ事あり、
云《イフ》と結《ユフ》、問《トフ》と堪《タフ》、買《カフ》、替《カフ》、飼《カフ》と乞《コフ》、添《ソフ》と障《サフ》、負《オフ》と逢《アフ》となり、此等は布を比などに通はす時、云は以(45)比と成り、結は由比と成て別るゝなり、掃《ハラフ》、捕《トラフ》の類も亦同じ、いろふ、影ろふ、よろふ、そろふ、うつろふ、詛《ノロ》ふ、從《マツ》ろふ、拾ふなどの類も下の二學字良布に紛るれど、移ろひ、影ろひなど通はす時移ろふ、影ろふにて有けりと知らる、蜻蛉《セイレイ》陽炎《ヤウエム》をかげろふ〔四字右○〕、木綿《ユフ》をゆふ〔二字右○〕と云のみはたらかねばかねて知置べきなり、良利留禮呂の五字は冠となる事なく、阿、於の二音は沓となる事なし、
  集中其物を以即彼假名に用る、
河泊《カハ》、 河波《カハ》、【並河也、散2在集中1、】 可鷄《カケ》、【鷄也、七之四十一、十三之二十五、】 于稻于稻志《ウタウタシ》、【十六之二十二、上云子志田也、稻同、】 烏梅《ウメ》、 宇梅《ウメ》、【並梅也、】 楊奈疑《ヤナギ》、【楊也、】 安乎楊木《アヲヤナギ》、【青柳也、】 水都《ミツ》、【水也、】 物能《モノ》、【物也、】
以上集中の假名を云に付て他書の假名をも少々加へ侍り、
此集第五、好去好來歌云、神代より云|傳《ツテ》けらく、虚見津《ソラミツ》倭の國は、皇神《スメカミ》のいつくしき國、言靈《コトタマ》のさきはふ國と、語り繼《ツギ》云ひつがひけり、今の世の人もこと/”\、目の前に見まし知ます、云云、第十三歌云、志吉島《シキシマノ》、倭國者《ヤマトノクニハ》、事靈之《コトタマノ》、所佐國叙《タスクルクニソ》、眞福在與具《マサキクアレヨク》、實《マコト》に天神も太諄辭《フトノリトコト》をなし給ひ、延喜式にも樣々の祝詞あり、此國は殊に言を貴ぶこと知られたり、况や此集の歌は多く神語を存したれば祝詞の流とすべし、古今集の大歌所御歌の中にも此集(46)の歌のあれば神明も是を感じ給ふ事知ぬべし、楊誠齋が松聲詩(ニ)云、松本(ト)無v聲風(モ)亦無(シ)、適然(ト)相値(テ)兩(カラ)相(ヒ)呼(フ)、是は畢竟聲なき物相値て聲をなすと思へる歟、所謂《イハユル》石女の子の風情にて聲の本有を知らざるものなり、龍樹菩薩の釋摩※[言+可]衍論(ニ)云、今(ニ)始(メテ)起(スル)徳(ハ)本來有(カ)故(ニ)と云へり、譬へば木石の中に火性あれども、鑽燧の縁にあはざる時は火相顯はれず、顯はれざる時火性なしと云べからず、顯はるゝ時初て生ずと云べからざるが如し、誠齋が詩はしばらくおく、天竺に文字なく言語なき處を至極と執する一類の外道あり、聖教に是を破せり、易繋辭(ニ)云、子(ノ)曰、書(ハ)不v盡v言、言(ハ)不v盡v意、世の人唯是を見て言は終に意を盡さずと思へり、相つゞきて云、然(ラハ)則聖人(ノ)之意其不v可v見乎、子曰、聖人立(テヽ)v象以盡v意、設v卦以盡(シ)2情僞(ヲ)1繋v辭以盡2其言1、變而通v之以盡v利、鼓v之舞v之以(テ)盡v神と云へり、先の二句は釋論に相(ト)、夢(ト)、妄執(ト)、無始(ト)、如義(ト)の五種の言説を説中に、初の四種の言説は眞理に契當せずと云に似たり、聖人立v象と云より下は後の如義言説は能眞理を説と云が如し、夫無言と云は言に言の相を存せざるなり、※[病垂/亞]羊の如くなるを云にあらず、金剛語菩薩を又は無言大菩薩とも云ひ、維摩黙を※[口+縛]字の實義と善無畏三藏の釋し給へる是なり、又※[田+比]盧遮那經疏(ニ)云、世尊以(テ)2未來世衆生鈍根(ナルヲ)1、故(ニ)迷2於二諦1不v知2即v俗而眞1、是故慇懃指(テ)v事(ヲ)言《ノタマフ》3秘密主、云何、如來眞言道、謂加2持此書寫文字1以2世間文字語言實義1、是故如來即以2眞言實義1而加2持(シタマフエオ)之1若出(テヽ)2法性1外別有(トイハハ)2(47)世間(ノ)文字1者即是妄心謬見、都無2實體可(キ)1v求(ム)、而(モ)佛以2神力(ヲ)1加2持之(ヲ)1、是則墮2於顛倒(ニ)1非(ス)2眞言(ニハ)1也、守護脛、圓覺經等に※[こざと+陀の旁]羅尼より一切の眞如を出生する由とかれたり、諸法の本體とする眞如すら是より生ずれば何物か生ぜざる事あらむ、文鏡秘府諭序云、空中塵中開2本有(ノ)之字1、龜上龍上演2自然之文1、凡そ梵字漢字を云に一往淺深ありと云へども再往是を云へば優劣なし、蒼頡が鳥迹を見て文字を作れりと云は孔子の述(テ)而不v作(セ)と宣へる如く實には作るには非ず、鳥迹の縁を待て自然の文の顯はるゝなり、河洛の圖書を出せるは是故なり、されば聲字の下に必らず實相あり、聲字分明にして實相顯はる、此故に和歌にも先假名を能辨まへて後文義を尋ぬべし、千載集云、高野の山を住うかれて後、伊勢の國二見の浦の山寺に侍りけるに、大神宮の御山をば神路山と申、大日如來の御垂跡を思ひてよみ侍ける、圓仁法師、【西行】、
   深く入て神路の奥を尋ぬれば、又上もなき嶺の松風、
續千載集に後宇※[こざと+陀の旁]院の眞言宗の心をよませ給へる長歌も此意に同じ、神皇正統記、釋日本紀等の神道家の書にも專此由を云ひ、沙石集に無住長老、和歌之道有2深理1事と云一段を立てゝ、言すくなくして世間出世の心を含めば此國の陀羅尼なりと云へり、陀羅尼は一字に千理を含む故に漢士には惚特と云へるなり、委は彼集にあり、此等の意(48)に依て文字語言本より浮虚ならぬ事を云はむとする餘りに成て、見る人に厭はれぬべし
 
萬葉集代匠記惣釋首卷
 
 
贈正四位釋契沖阿闍梨撰
從五位木村正辭先生校訂
 
萬葉集代匠記
 
          四海堂發行
 
(1)萬葉集代匠記校本凡例
一 本書は、もと西山公の釋萬葉集の爲に起稿せしものなれば、本文をばすべて略して、片假字の傍訓のみを記したり、今讀者の便を圖り、舊版本即(チ)寛永二十年の刻本を以て本文を加へたり、
一 本書にはもと序文は載せず、今年山紀聞に西山公に奉りし代匠記の序とて出したるによりて載す、
一 萬葉集の全注は、本書を以て嚆矢とす、縣居翁の萬棄考は、其序によるに寶暦十年の撰なるに、此記は總釋の末に元禄三年に撰び終れるよし書せれば、萬葉考よりは七十牛ばかり先なり、其頃既にかゝる詳注をものしたる、其いたづきのほどおもひやるべし、但し其説はいまだしきものも數多ありて、盡くは從ひがたしといへども、今は唯契冲師の説を、其儘に世に傳へんとの意なれば、全く誤りなりとしられたる事をも、私に改め正さす、又文辭に於ても、いかにぞやかたぶかるゝふしも、かれこれあれど、いづれも本のまゝに書せり、又詞づかひも今の世には聞きなれざるものも多かれぢ、これも舊に從ひて意改せず、讀者宜しく其意を玩味して了解すべし、
一 阿闍梨は、五十音圖の於乎の所屬古來誤り來れるを覺らざりしかば、於乎の假宇づ(2)かひ違へるものあれど、阿闍梨の面目を、其まゝに傳へんとの旨趣なれば、これらも本に從ひて改めず、
一 萬葉集舊版本の傍訓の假字、大かたは古格を失はず、蓋し刻本の跋文によるに、成俊の訂正したるものゝ如し、偶違へるものあるも、盡く舊本に從ひて意改せず、其は今回の校合は、阿闍梨の素志と、舊版本の面目とを、失はざらん事を主とすればなり、但し總釋中に、言語の初聲を以て並列したるものゝ内、順序錯亂せるものあり、此類は本書の例によりて改む、
一 本書は、假字は總て片假字を用ゐたるを、今悉く草假字に改めたり、但し舊本の傍訓、及び日本書紀遊仙窟等の傍訓を引用したるものは、もとのまゝに片假字を用ゐる、
一 注中誤りとおぼしき文字にして、今いづれともおもひ得ざるをば、其文字の左に圜點を加へて、疑ひを存す、
一 本書には、集中の歌の歴代の撰集又は家々の集等に出たるものは、其歌の右肩に其書名をしるせり、此は別に田中路麻呂の撰びたる、撰集萬葉徴といふものに、詳かなるがうへ必要の事にもあらねば、其書にゆづりて今載せず、
一 本書に引用したる書、其文に疑ひあるものは、原書に照して訂正し、然らざるものは、(3)皆本のまゝに記せり、
一 本書の注釋は甚謹慎にして、文字はさらなり、傍訓といふとも、改むる事をせず、其おもふよしは注中に於て論じたり、古書を重ずる事厚しといふべし、但しあまりに鄭重に過ぎ、舊訓に拘泥して、傳來の誤を正す事能はざりしは、惜むべし、
一 縣居先生の萬葉考以來、世の萬葉家と稱する人だちの注本には、專(ラ)誤字の説を唱へて、古訓はさらなり、本文の文字をも、各自の意見を以て改易し、又は端作を改め、歌の位置をも變更したるもの多かれば、舊板本の面目を失ひたるもの甚多し、これ吾輩の恂に遺憾とする所なり、今回の校訂には、正文は盡く舊校本のまゝを存して、一字一訓といふとも苟もせざれば、此書によりて萬葉集舊本の面目を見る事を得べし、但原書第一卷の奥書は、今移して第廿卷の奥書の前に入れ、第三卷の末に載たる大伴(ノ)家持卿(ノ)傳は、第二十卷の奥書の後に置きたり、又總釋雜説中に、目録の異同は卷ごとに注すとあれど、今は二十卷のの黒くを一つにあつめて、別に一卷としたり、
一 記中にしるせる卷數丁數は、すべて寛永刻本に從へるものなり、但し之を今回印刷本の卷數丁數に改め易へん事は、全部落成のうへならではなす事能はず、故に盡く原書のまゝにしるしぬ、
(4)一 此校訂に就てかれこれ助けなせしは三好伸雄内山正居の兩人にて、又印刷校合の事にあづかりしも此兩人なり、
  明治三十三年六月            木村正辭又識
 
(5)
橘守部萬葉集墨繩總論に云、世に流布する代匠記と云ものは、いつの比の草按にて、いかなるをこの者の拔寫せしにからん、いまだしく且あらきもの也、おのれがもたるは、今井似閑の自筆にて書入あり、世に似閑本とはなべての名なれども、普通のとはこよなくまさりたり、卷數は流布の本と同じく二十二册なれども、薄紙にて一部の紙數凡二千枚あり、されば普通の本の如く五十枚位を一册とせば、四十卷の本なり、是とても彼阿闍梨の初度の稿本にて、清撰の下書にはらざれども、其説どもを見合するに、縣居翁などの見られたるも、世のかいなでの惡本なりし事は、其引て云るさまにてしるし、玉勝間曰、安藤爲章が千年山集と云物に、契冲の萬葉の注さくをほめて、かの顯昭仙覺が輩を、此大徳になぞらへば、あだかも駑駘にひとしと云べし、といへるまことにさる事なりかし、そのかみの説どもにくらべては、かの契注の釋はくはふべきふしなく、事つきたりとぞ誰もおぼえけむを、今又吾縣居大人にくらべて見れば、契注の輩も又駑駘にひとしとぞ云べかりける、何事もつぎ/\に彼の世はいとはづかしきものにこそありけれ、と云る此詞を見れば、宣長も猶かの普通の醜本のみをみて、よき本はみざりし事しられたり、又賂解は考を又引していへれば、定かにもしられざれども、序文にも右のさまにいひおとし、又春海が言に契冲はたゞ古今集こなたの學者にして、(6)萬葉以前には一足もふみ得ざりき、といひしをおもへば、此二人もよき本はみざりし事しられたり、今さやうあらざりつるよしをいはんに、彼(ノ)代匠紀の似閑の序文曰、難波東高津圓珠庵秘密乘沙門契師は、父は下河の何がしにて、津(ノ)國尼崎に生れ給ひ、いとけなかりしより、塵の世をうとみ家出して、深く瑜伽の道にいり、しばらく生玉の今里の邊に住給ひぬれど、猶いとはしく資産をすつること※[尸/徙]のごとく、東高津に淵潜して俗を圓珠に避け、閑をぬすむのあまり、しきしまや倭歌に心をよせ、剰へ枯溪にさへふけりて、和漢の書を閲する事あげて數へがたし、其性榮利をしたはず、窓外に雪をあつめ、昏旭に書をたがやし賜ひぬれど、終に倦給ふおもへりももなく、和歌をのみ友とし給ひおはしけるに、ひとゝせ水戸西山公、師の和歌にふけり、和書にいさをある事を聞しめして、萬葉集の新注を作らせ賜ひければ、いにしへより人の誤り來れるをいきどほりましけるにや、程もなく萬葉代匠記草稿三十卷〔三字傍点〕を編集して奉らしめ給ふ、今書寫する所の代匠記是也、其旨自序に見えたり、されども公の御心にかなはず、いかにとならば世に行ふ所の印本をもて鈔し給へばなり、たとへば記中に、何誤て何に作(ル)、何文字脱(スル)乎、此點誤れり如v此點じかふべし、など注し給へる所々すくなからず、こゝにより官庫の御本中院家(ノ)本飛鳥井家(ノ)本阿野家(ノ)本紀伊殿(ノ)本細川幽齋(ノ)本水戸校本等の秘書を(7)めぐらし賜ひて、彼此校讐をくはへて、改て鈔出し給ふべきよしの御こといなびがたく、まづ比校し給ふに、先に今按をつけ給へるに符節を合せたる如きの事又すくなからず、此秘本どもをもて、再び代匠記六十卷〔三字傍点〕あらたに注釋をくはへて奉らしめ給ふに、公其説の玄妙なることをおどろかせ賜ひ、ねもごろにめぐみ給ふあまり、しきりにめせどもかたくいなびておもむかず、ときに板垣宗憺をもて公も亦萬葉の註釋を下し、代匠記の説を採用ひ賜はんとす、功を一時に遂げたまはゞ奏覽を經、世にひろめしめ給はん、そのうちは代匠記の説世にもらす事勿れとなり、師うたがひを公にとらんよりはとて、清撰の代匠紀の草案までも、殘りなく奉り給へば、いよゝます/\おほんうつくしみあつく、身まかり給ふをりまでも、代匠紀に餘力とならん事は追々にかうがへ奉らしめ給ふ、しかるゆゑ清撰の代匠記は、西山にのみありて世に傳ふ事なし、やう/\眞名(ノ)序のみをあなぐりもとめて左にのするなり、其むね序中に詳なり、さるによりて此代匠記は公の御心にかなはざる所の書なれども、今予が聞所と考へ合するに、其説のたがふ事十にして二つ三つばかりならんか、こゝに元禄壬未(ノ)年、高津に師の三回忌をとぶらはむとてまかりしに、弟子利元坊予が心ざしの淺からざりしをめで給ひけるにや、ふかく此草稿を篋に藏めおき給へりしを、ひそかに見せ給ひぬるより、心も(8)そらにて白波の立居にぬすむばかりことして、とりかへりて、中略其後此代匠記と予が聞書とを【今加云、こはかの西山公の命じ給ひし、代匠記の清撰を寫し取らざりしをくちをしみて、一とせ師にねぎて講釋聞し事を云なり、其事は省きたる間にあり】見合せ侍れば、いさゝかたがへる事あり、いかにとならば、まづ代匠記に二通りありて、又追々考へ加へ給へる事、清撰の代匠記の後にもあればなり、こゝによりて不(ル)v全事のものうく、我聞ところの本説又追々かうがへ給へる説、又師の見給はざりつる書、予後に見及ぶ所を私(ニ)云とかきて、一事をのこさず朱もて書加へしむるものなり【今加云、守部がもたるは、此原本ならんとぞおぼしき】云云、
先づ此序文の趣をもて代匠記のあらましを知べし、或人云〔三字傍点〕、代匠記の清撰は先(ヅ)本文の訓點を改めたる二十卷〔本文〜右○、作者の傳を記せる八卷、註釋二十卷、惣論一卷、枕詞(ノ)釋二卷にて、惣計五十一册也、又其後の追考年々に書加へて、凡二百卷に及べりといへり、然れば其二百卷の清撰を見明らめずては、契冲は萬葉には至らじなどはいひがたかりなん、たゞ今わづかに見る處をもておしはかるに、語釋及本文の訓點などは、いまだしからんとおぼゆれど、そも猶若冲がみそかに拔とりおきし、萬葉類林の詳しげなるを見れば、後の清撰の方はさるかたもよくたりとゝのひたらんも知べからず、こたび守部が引所の代匠記は、善本とはいへど語釋はいまだよく整はざりける方なれど、それだに考(9)注とくらぶるに、かの古今集などは餘材抄と打聞との如くにて、採用る所大かた互角なり、【本書の引合せたる條々にて見べし】おもふに、常陸(ノ)雨引山の惠岳の見し本は三十卷といへれば、初度のながら未だ作者傳の闕ざりしなりけん、選要抄の凡例(ニ)云、作者の系譜及故事及字義及地名等の考へは、代匠記を詳也とす、言語及冠辭の釋は考の説まさる所あり、など記して、其本文はむねと代匠記に隨へり、此惠岳は初め縣居門の人なりけるに、猶かくしもぞいへりける、是らをもてもかの宣長の駑駘、春海が一足の誹は、過言と云べし、しかれば代匠記を見む人は、よく其本を撰ぶべきなり、
 正辭云、此墨繩の説は、代匠記を見る人に、益あるものなれば、いま鈔録して出す、但し此墨繩といふものは、總論のみにて本注はなしといふ、別に同人の著せる萬集集檜※[木+爪]といふものあれど、卷一より卷六までにて、いとあら/\しきものなり、按に墨繩を後にかく改稱せしなるべし、さて今井似閑の説の中に、再び代匠記六十卷あらたに注釋をくはへて奉らしめ給ふ、といへるは現品を見ずして大概にいへるなるべし、又或人云本文の訓點を改めたる二十卷とあるは、傳聞の誤りなるべし、又作者の傳八卷といへるは、萬葉集人物履歴の事にや、但し此本余が藏《モタ》るは九卷にて、代匠紀の外にあり、今回印刷に附したる本は、此履歴を除て五十四卷なり、いづれにしても(10)此或人の説は疑はし、又拾遺二百卷とはいとこと/”\し、余が藏本には拾遺は三卷のみなり、されど此は後に猶増加したるものはあるべくおぼゆるなり、もし其増加本を藏したる人は、速に印刷して、今の缺を補はん事を希ふ、
 
(1)美なの河その水の尾より出てながれ久しき源の朝臣、物部の道をならはし給ふいとまに、文の道をもこのみたまひて、ひだり右をそなへ給ふ、五つの車牛はあへげど積つくさず四つのくら棟をさゝへてをさむばかりなるをあかず見給ふるとて菅の根の春の日にもゆふげの時をうつし、山鳥の尾の秋の夜にもねよとの鐘をかぞへたまはで、からやまとの歌も月雪の時につけたるなさけの世にきこゆる櫻川の波のはなことばの林の枝にかよひなさかの海の玉藻心の池の水にうかべり、しかあるのみにあらす、したのうきしま誠すくなきをおきて、つく波山の高(2)く神さびたるをとり給ふとやまと歌の中にはわきて萬葉集をもてあそびて、弓とゝもに手にとり、つるぎとひとしく身をはなち給ふことなし、そも/\古くより此集をばしはすの月夜見る人まれにして、たまさかに見る人も峰のしら雪たゞよそ目なりければ、なかごろ是をとくとせしものも、へみにあしをゑがきていとゞ狐の疑ひをむすべり、此ことををしみ給ひて、下河邊長流と云ものつたへおける文ありてよくこの集をとくよしを聞たまひて、これが抄つくるべきよしをおほせらる、筆をとらんとする折しも、少し心地そこなひてためらふとせしほどに、い(3)つとなくあつしれて年經て身まかりぬる事は、さいはひなくも侍るかな、をしむべき事にも侍る、こゝにやつがれ彼の翁がともがきの數にまじはれる事としはとをといひつゝみつのはまべに同じく、しほたれぬれども、もとよりつゝりのそでにして尾花よりもせばければ、何のひろひおける見るめもなきを、くゝつむなしからむとはしりたまはで聞おけることもやある思ふやうもやあると、木こりにも問ひ草かりにもはかりたまへれば、彼翁がまだいとわかゝりし時かたばかりしるしおけるに、おのがおろかなる心を添て、萬葉代匠記と名付て是をさゝぐ、おほく(4)はおのがむねより出て憚おほけれど、なめかたのこほりなめげなるつみをわすれて、あしほの山のあしかるとがをもゆるし給ふべし、誠に才はあしづゝよりもうすくして、かほはほゝの木ばかりあつけれど、たゞこれせりをつみてしつくの田井をとばのあふみにそへ奉るものなりとあられふりかしまのさきのかしこまり申になむありける、
 
 
萬葉集代匠記卷之一上
              僧 契冲撰
              木村正辭校
 
萬葉集
此題號の意を釋するに、葉の字に兩訓あるに依て、義も亦隨て異なり、下に至て見ゆべし、萬は十千なり、和語にはよろづと云、よろづは多き數なれば、必しも十千にかぎらねど、あまたなる事をば、此國には、よろづと云ひ、唐には萬事萬端など申めり、故に左傳(ニ)曰、萬(ハ)盈(ル)數也、莊子(ニ)曰、今計(ルニ)2物之數(ヲ)1不(レトモ)v止(ラ)2於萬(ニ)1、而(モ)期《カキリヲ》曰(コト)2萬物(ト)1者、以2數(ノ)之多者(ヲ)1號(テ)而|讀《イフ》v之(ヲ)也、これらの意なり、葉の字は兩訓あり一には草木の葉を以言に喩ふ、所謂言の葉の道は歌なり、釋名(ニ)曰、人聲(ヲ)曰(フ)v歌(ト)、歌(ハ)柯(ナリ)也、如(シ)3草木(ノ)有(カ)2柯葉1也と云る是なり、古今集(ノ)眞名《マナ》序(ニ)曰(ク)、各々獻(テ)2家(ノ)集并(ニ)古來(ノ)舊歌(ヲ)1曰2續萬葉集(ト)1、於v是(ニ)重(テ)有(テ)v詔、部2類所v奉(ル)之歌(ヲ)1、勒(シテ)爲2二十卷(ト)1名(テ)曰2古今和歌集(ト)1假名序(ニ)曰、やまと歌は、人の心を種として、萬の言の葉とぞなれりける云云、萬の言の葉と云るに、續萬葉と名付たる最初の心籠るべし、種と云ひ葉と云は皆譬なり、人の心物に感ぜざる程は、草木の種の土の中に有が如し、既に感じて見る物聞物に(2)つけて樣々に云ひ出せるは、雨露に逢て萠出て葉の分れたるが如し、土の中に籠れる程は、何の種と知らざれども、枝葉を見て草木の品々を知が如く、詞、外に顯はれて後賢しきと、愚かなると隱すに所なし、心に僞なきをまごゝろと云ひ、言に僞なきをまことゝ云を、眞心をも、まことゝのみ云ひ習はせるも、まことの下に必まごゝろあればなるべし、誠の字を、言成に從ひ、信の字の、人言に從へる類を思ふべし、されば言はことゝのみ讀て足るを、言葉と云ひ、言の葉とも云なり、後の金葉、玉葉、新葉など、此に本づきて名付られたるか、淮南子(ニ)曰、夫道有2經紀條貫1、得(テ)2一(ノ)之道(ヲ)1連(ヌク)2千枝萬葉(ヲ)1云云、又精神訓曰、從v本引(ハ)v之千枝萬葉莫2得不1v隨也、言の中に精華なるを唐には詩と云ひ、此國には歌と云、志のゆくところ、終に永歌するによりて、名付るに始め終り有といへども所詮替る事なし、此故に詩をも歌と云ひ、歌をも續日本紀并に此集には詩といへり、今其歌を撰ぶ故に萬葉なり、葉は世の意なり、詩の商頌に昔在中葉とあるを、毛※[草冠/長]傳(ニ)曰葉(ハ)世(ナリ)也、呉都(ノ)賦(ニ)曰、累葉百疊、劉※[王+昆](カ)勸進表曰、三葉重(ヌ)v光(ヲ)、或は七葉、奕葉、重葉など、みな世の義なり、日本紀古事記にも傳2後葉1と用ひられたり、又顔延年が曲水詩序(ニ)曰、拓(ラキ)v世貽(シ)v統(ヲ)固(ウシテ)2萬葉(ヲ)1而爲(ス)v量(ト)者也、李善注云、晉中興書詔2桓玄1曰蕃衛王家垂固萬葉、かゝれば、若此二字はよりて、此集萬世までも傳はりねと祝て名付たるか、後の勅撰に千載集と(3)付られたる同じ意にや、仙覺抄云く、代々の撰集に和歌の字あり、此集になき事は、萬葉と云、即(チ)和歌なればなり云云、按ずるに當集にては作歌、詠歌、御歌、御製歌、あるひはたゞ歌とのみいへり、和歌と書たるは返《カヘシ》歌にて和の字は和答の義なり、日本紀古事記なども此定なり、古今集より以後は、大和歌の意にて字義各別なり、能々わきまふべし、そも/\唐に毛詩あり、後の作者|則《ノリ》を此《コヽ》に取れり、吾朝にしては、此集を彼に准ずべし、既に勅撰には古今集、私撰には菅家の新撰萬葉集、共に此集を規模とせらるゝ上は、誰か此に依らざらん、新古今集の兩序に並に和歌の源と云へり、源遠うして流れ長し、尤も仰ぐべし、
 
〔卷一の目録、天皇の御宇を並べたものを出して、明日香川原宮の後に、〕
初、萬葉集卷第一目録
明日香川原宮御宇天皇代。此標目録はさきにいへる
かことく、集の中よりひろひあけたりとみゆれは、あやまりにあらす。集にあやまれるか。そのゆへは額田王の哥のひたりに、山上憶良の類聚歌林をひけるに、一書に戊申の年といへるは、孝徳天皇大化四年なり。日本紀艇を引るは、齊明天皇五年なれは、いつれにても、皇極天皇の卸宇にあらず
〔幸參河國時歌の後に、〕
初、二年壬寅太上天皇幸2參河國1時歌。五首の二字をくはへて、下の別目をはふきてしかるへし。そのゆへは、哥にいたりては、作者ことなれは枚擧すへし。今は無用なり。別目の中に、長皇子御歌といふ下の、從駕作歌の四字衍文
〔以下標目を略す〕
初、太上《・持統》天皇幸2難波宮1時歌四首。下の別目又用なし別目の中に、作主未v詳歌、此五字衍文、また此太上天皇といふより下の、長屋王の哥といふまては、慶雲三年より上に有へし。太上天皇大寶二年十二月に崩したまふゆへなり
初、大行天皇幸2難波宮1時歌三首。別目また用なし。別目の中に作主未v詳歌五字衍文
初、大行天皇幸吉野宮時歌。注二首去別目好。別目の中、或云天皇御製歌、これ哥の左注を其まゝ擧
初、和銅元年戊申天皇御製歌。此前に標して、寧樂宮御宇天皇代といふへきを、集の中に脱せる歟。下に三年從2藤原宮1遷2于寧樂宮1といふゆへに略すといはゝ、上に從2明日香宮1遷2居藤原宮1といへとも、藤原宮御宇天皇代と標せり。又和銅三年に奈良へ移りたまへは、元年の上にありて標すへからすといはゝ、藤原宮も.朱鳥八年にこそうつらせたまへとも、三年の歌よりさきに標せり
初、一書歌。此是前御製異説耳。非v別有2一首1
初、長皇子卿歌。これ佐紀の宮の宴の哥は、長皇子のよませ給へは.哥のひたりに注せるを、宴の歌の外に別に一首あるやうに標せるは、さきにいへることく、いにしへの幼學のしわさなり。ふたつをあはせて寧樂宮(ノ)長皇子(ト)與2志貴皇子1宴(シタマフトキ)2佐紀宮1長皇子(ノ)御作(ノ)歌一首とあらはしかるへし
 
  雜歌
 
雜と云意別に注す、先は後の集の雜部に同じ、
 
泊瀬朝倉《ハツセアサクラノ》宮御宇天皇代 太泊瀬稚武《オホハツセワカタケ》天皇
 
泊瀬朝倉宮御宇天皇代《ハツセアサクラノミヤニアメカシタシロシメススメラミコトノミヨ》、日本紀第十四雄略紀(ニ)曰、十一月【安康天皇三年】壬子(ノ)朔甲子、天皇命2有司(ニ)1設2壇於泊瀬朝倉1即天皇位《アマツヒツギシロシメス》、遂(ニ)定(ム)v宮(ヲ)焉、勘物(ニ)云、大和國|城上《シキノカミノ》郡磐坂(ノ)谷是也、御〔右○〕、玉篇曰、治也、淮南子(ノ)高誘註曰、四方上下謂2之(ヲ)宇〔右○〕(ト)1、天皇〔二字右○〕、※[刑の立刀がおおざと]※[日/丙]爾雅疏云.説卦云、乾爲v天、君以2其倶尊(4)極1故也、大雅皆謂v君爲v天是也、皇、美也、天之總美大稱也、代〔右○〕、玉篇曰、更也、書天工人代v之、
太泊瀬稚武天皇、 太は日本紀に從て大に作るべし、稚は紀に幼に作る、かゝる事は和語の例なり、第二十二代雄略帝の御諱なり、按ずるに此注諸の證本皆細字なり、因て考るに後の人の注し加へたるか、下に至て誤る事おほし、後此に准ずべし、雄略帝は允恭天皇の第五の御子なり、委は紀に見えたり、二十三年八月崩、明年葬2于丹比高鷲(ノ)原(ノ)陵(ニ)1、河内(ノ)國丹南(ノ)郡に丹上丹下あり、丹下に此陵ありと云へり、
 
初、雜歌
泊瀬朝倉宮御宇天 太泊瀬稚武天皇 日本紀稚作幼
仁徳《十七》天皇 允恭《二十》天皇 雄略《二十二》天皇《・母皇后忍坂大中姫生2五男四女1》 清寧《二十三》天皇
日本紀第十四曰。十一月【安康天皇三年丙申】壬子朔甲子、天皇|命《ミコトオホセテ》2有司《ツカサ》1設(ケテ)2壇《タカミクラヲ》於泊瀬(ノ)朝倉1即天皇位《アマツヒツキシロシメス》。御(ハ)治也。
淮南子(ニ)曰。四方上下謂2之(ヲ)宇(ト)1。雄畧紀(ニ)曰。太泊瀬幼武(ノ)天皇(ハ)、雄朝津間稚子(ノ)宿禰(ノ)天皇(ノ)第五(ノ)子也。天皇而|~《アヤシキ》光滿(リ)v殿《ミアラカ》。長而伉健過(タマヘリ)v人。四年春二月天皇射2獵於葛城山(ニ)1忽(ニ)見2長《タケタカキ》人(ヲ)1。來(テ)望《アヒノソメリ》2丹谷《・タムカヒニ》1。面貌容儀《カホスカタ》相2似《タウハシリ》天皇(ニ)1。天皇|知(メセトモ)3是(レ)~(ナリト)1猶故問曰。何處公《イツコノキミソ》也。長人對曰。現人之~《アラヒトカミ》先|稱《ナノレ》2王(ノ)諱《イミナヲ》1然(シテ)後|應※[道/口]《イハム》。天皇|答曰《申ハク》。朕《オレ》是(ノ)幼武(ノ)尊也。長人次稱(テ)曰。僕《ヤツコハ》是一言主~也。遂與|盤于遊《カリタノシムノ》田駈2逐一(ツノ)鹿1相2辭《ユツリテ》發《ハナツコト》v箭(ヲ)竝v轡《ムマノクチ》馳騁。言詞|恭恪《ツヽシムテ》有v若《コト》2逢仙《ヒシリノ》1。於v是日晩|田《カリ》罷(ヌ)。~|侍2送《アヒオクリ》天皇(ヲ)1至2來目水《クメカハマテ》1。是(ノ)時|百姓《オホムタカラ》咸言(ス)有(ス)コ《イキホヒ》天皇也。秋八月辛卯(ノ)朔戊申行2幸吉野宮(ニ)1。庚戌幸2于河上(ノ)小野(ニ)1令《ミコトノリシテ》2虞人《山司・カリヒト》1駈《カラシメ》v獸《シヽヲ》、欲《オホセシテ》2躬《ミツカラ》射(ント)1而|待《オフタマフ》。虻《アム》疾(ク)飛來(テ)〓《クラフ》2天皇(ノ)臂《タヽムキヲ》。於是《コヽニ》蜻蛉《アキツ》忽然《タチマチニ》飛來(テ)囓(テ)v虻(ヲ)將《ヰテ》去。天皇|嘉《ヨミシテ》2厥(ノ)有(ルコトヲ)1v心詔(シテ)2群臣(ニ)1曰(ハク)。爲(ニ)v朕《ワカ》讚(テ)2蜻蛉(ヲ)1歌賦《ウタヨミセヨ》之。群臣莫2能(ク)敢(テ)賦者《ヨムモノ》1。天皇乃|口號《ツウタシテ》曰○因(テ)讚(タマフ)2蜻蛉(ヲ)1名(ケテ)2此|地《トコロ》爲2蜻蛉(ノ)野《ヲノト》1。五年春二月天皇|※[手偏+交]2獵《ミカリシタマフ》于葛城山1。靈鳥《アヤシキトリ》忽(ニ)來(ル)。其(ノ)大(サ)如v雀(ノ)。尾長(シテ)曳(リ)v地(ニ)。而且(ツ)鳴(テ)曰。努力《ツトメヨ》努力。俄而|見《レタル》v逐(ハ)嗔(リ)猪從2草(ノ)中1暴《アカラサマ》出逐v人。※[獣偏+葛]徒《カリヒト》縁《ノホリ》v樹大懼。天皇詔2舍人1曰。猛|獸《シヽモ》逢v人則止。宜《ウヘ》逆《ムカヘ》射(テ)而且|刺《サシトヽメヨ》。舍人《トネリ》性懦弱《ヲサナクヨハクテ》縁《ノホリテ》v樹(ニ)失色五情無主《オムリアヤマリテコヽロヲソケナリ》。嗔猪直(ニ)來(テ)欲v噬(ト)2天皇(ヲ)1。天皇用(テ)v弓《ミタラシヲ》刺止《ツキトヽメテ》舉v脚踏殺。於v是|田《カリ》罷欲v斬2舍人(ヲ)1。舍人臨v刑而作v歌曰○皇后聞悲興v感《ミオモヒ》止v之。詔曰皇后不v與《クミセ》2天皇1而顧2舍人(ヲ)1。對(テ)曰國人皆謂2陛下1安v野而好獸《シヽコノムタマフト》無乃不可乎。今陛下以2嗔猪(ヲ)1故而斬2舍人1陛下譬(ハ)無v異(ナルコト)於豺狼1也。天皇乃與2皇后1上《タテマツテ》v車歸呼2萬歳1曰。樂哉人皆獵(ル)2禽獸《トリケモノヲ》1。朕(ハ)獵2得(テ)善言(ヲ)1而歸。安康天皇【雄略天皇兄】三年に、眉輪王天皇を弑せまつりて後、雄畧天皇をおそれて圓《ツフラノ》大臣の家にゝけかくれたまへるを、彼大臣の家を、兵を率て打かこませ給ふに、大臣出てかしこまり、眉輪王のために、さま/\にゆるしたまふへきよしをこひ奉られけれと、つゐにゆるし給はて、家に火をかけて、御兄の黒彦皇子、眉輪王、圓大臣を、燔《ヤキ》殺したまへり。大臣の妻に、大臣|脚帶《アユヒ》を求められけるを、取てあたふとて、心やふれして哥《圓大臣妻歌おみ《臣》のこは|たへ《妙》のはかまを|なゝへ《七重》をしにはに|たゝ《立》して|あよひ《脚帶》なたすも》よまれしさま、大臣、黒彦皇子、眉輪王の、にけ入たまへるを、臣こそ事あらは君の御蔭にかくれめ。臣下の家にかたしけなくかくれたまへるを、いかてか出し奉らんとて終に出し奉らて、ともに身を猛火にこかされけるよしをしるせる一段、義のあたる所のことはりはしらねと、卷をすてゝ涙をのこふかなしさなり。かくて天下をしろしめして、二十三年八月に崩したふ。御やまひすみやかなる時、公卿をめして.遺詔まめやかにおほせをかる。星川皇子の、清寧天皇に、うや/\しからて、みかとかたふけんと、はかり給ふへき御下心あるへきよしまてのたまひをかる。はたして遣詔のことし。むまれさせ給ふ時、神光みあらかをかゝやかし、葛木神とゝもに獵せさせ給ひて還御の時、神、久米川まてをくり奉りたまへるよりはしめて、崩したまふにのそみて、天下をやすからしめんとおほしめしけるよしなと、くはしく遺詔ありて、清寧天皇の、つちたち《・地紀》よくましませは、よく/\つかへたてまつるへき事なとまてのたまひをかせたまふ。いはゆる、始ありて終をよくし給ふなり。御在位のほと心得かたきことせさせたまへる事もあれと、凡慮の及ふ所にあらす。崩したまひて、あくる年にいたりて、河内國丹比高鷲陵におさめ奉る。今多治比村【今俗比を井に作れるは誤なり。丹比とおなし。丹南丹北の兩郡は、丹比を南北にわかてるなり】の西黒山村【和名集にも載延喜式にも黒山莚見えたり】の東にあたりて陵あり。これなるへし。五十餘年のさきにや、小澤氏のそれかし、彼陵をあはきて、おほきなる巖のかまへてありけるをは、坂東の故郷の庭にすへをきけるか、ほとなくゆへありて自殺しけるとそ、かのあたりの土民かたりて侍りし
 
天皇御製歌
 
御〔右○〕、蔡※[災の火が邑](カ)獨斷(ニ)曰、漢(ノ)天子凡所v進(ル)曰v御(ト)、御(ハ)者進(ナリ)也、凡衣服(ノ)加2於身(ニ)1、飲食入2於口(ニ)1、妃妾(ノ)接(ハル)2於寢1、皆曰v御、製〔右○〕與v制同、説文曰、製、裁也、孝經序注疏曰、製者裁剪述作之謂也、歌〔右○〕》、玉篇曰、詠聲與v謌同、此集歌謌哥三字通用、玉篇注2哥字1云、古文(ノ)謌字、
 
初、天皇御製歌。蔡※[災の火が邑](カ)獨斷(ニ)曰。漢(ノ)天子凡(ソ)所(ヲ)v進(ル)曰v御(ト)。御(ト)者進(ナリ)也。凡(ソ)衣服(ノ)加2於身1飲食(ノ)入2於口(ニ)1妃妾(ノ)接(ハル)2於寢1皆曰v御(ト)。製與v制同。説文曰。製(ハ)裁也。孝經序注疏曰。製者裁剪述作之謂也
 
1 籠毛與美籠母乳布久思毛與美夫君志持此岳爾菜採須兒家吉閑名告沙根虚見津山跡乃國者押奈戸手吾許曾居師告名倍手吾已曾座我許者背齒告目家乎毛名雄母《コモヨミコモチフグシモヨミフクシモチコノヲカニナツムスコイヘキカナツケサネソラミツヤマトノクニハヲシナヘテワレコソヲラシツケナヘテワレコソヲラシワレコソハセナニハツケメイヘヲモナヲモ》
 
(5)虚見津、【校本云、ソラニミツ、】 許下脱v曾、
籠モヨミ籠モチは、かごもよきかごを持なり、後は月清み山高みなどこそよめ、よきと云べき所によみとあるは古語なり、和名曰、唐韻云、※[金+讒の旁]【音讒、一音暫、漢語抄云、加奈布久之】犂鐵也、又土具也、此土具の注即ふくしなり、犂鐵の事は農具の所に見えたり、ふくしは鉄ならでも木にてもする物なり、俗には土堀子の三字を用て、ふくせと云、し〔右○〕とせ〔右○〕音通す、橋を矢橋の時、やばせと云ひ、年を一年の時、ひとゝせと云がごとし、仙覺抄に、採v菜と注せられたるは此に叶へども、廣くかゝる事に用る物なるを、狹く云ひなされたり、袖中抄のまてかたの注に、鍬にて沙を掻て、馬蛤の有所を知て、まてかりと云具にて刺取やうを云へる所に、又鍬ならねど上手はふくせにても、すなこをかくといへるにて知べし、是にては七字、四字、七字と三句はよむべしといへども、古風を思ふに二句なるべし、上の句は、こも〔二字右○〕二字を心に切やうにて、よみこもち〔五字右○〕までを一句によみ、下句はふぐし〔四字右○〕もの四字を切やうにて、よみふぐしもち〔七字右○〕の七字をよみつゞくべし、こもよみ〔四字右○〕とつゞけてこもち〔三字右○〕とよみ、ふぐしもよみ〔六字右○〕とつゞけてふぐしもち〔五字右○〕とよむべからず、今按仙覺抄を見るに、※[手偏+總の旁]じて此御歌に兩種の古點ありとて出さる、中にも初よりふぐしもちまで共に字にも叶ず、理もなければ、中々取も出ず、彼抄を見て知べし、今(6)の點は仙覺の改られたるにて、字にもよく叶ひ、理も能聞えたり、されども古歌の習とは云ながら、今のまゝに讀出でば、餘りに歌の發句とも聞えぬにや、神代紀の下に、籠の字をカタマとよみ、又|堅間《カタマ》ともかけり、かたま〔三字右○〕は、かたみに同じければ.カタミモヨミカタミモチと讀べきか、かたみも〔四字右○〕四字一句、よみかたみもち〔七字右○〕七字一句、下のふぐしも〔四字右○〕、又四字一句、よみふぐし持〔六字右○〕、又七字一句、如v此よまば可v然にや、須兒、賤しき者を云、男女に通ずる名なり、今は女なり、此集十卷に山田もるすごとよめるは男なり、家キカは、家をきかせよなり、按ずるに此集多分呉音を用たれば、家キケとよみて、家きけよと心得べきか、ナヅケサネは、名を告ねと云に、來よと云べきを、こ〔右○〕とのみもよめば、きけよといはざれど.語勢しか聞ゆるなり、常にも云ひきかせよと云ことを、云きけよと申めり、きか〔二字右○〕とよみては、事たらぬやうに侍り、なづけさねは、名を告ねと云にさ〔右○〕の字をそへたる也、第九にもあまの處女|子《コ》なが名告さねとあり、さ〔右○〕は添てよむことの多き言也、此卷の下に至て小松がしたの草をかりさねと云類也、今案、告(ノ)字ノルともよめば、名ノラサネとよむべきか、第五、憶良歌に、ながなのらさねとよめるを、奈何名能良佐禰《ナガナノラサネ》と書り、是明證なり、名のりと云にも、名乘と書は假て事也、某と名を告ることなれば、意(ハ)名告也、勅をみことのりと云も、詔の字はかけども、意は尊告《ミコトノリ》なり、ソラミツ大(7)和國、加樣の一部にわたりて多き詞は、別に釋して、見る人に便りあらしむ、後此に傚ふべし、オシナベテとは、常にも云詞なるを、下句につげなべてと云に對すれば心かはれり、此集に臨の字をオスとよめり、しかれば今は君臨の義なるべし、すごに家を問せ給ふに對すれば、今の二句、四海を以て家とし給ふ事なる故に、なべてと云に、押の字を、言に添て云には非ずと云也、ワレコソヲラシは、我こそをれとの給ふ古語なり、疑の詞に非ず、下同(シ)v此、古事記曰、雄略帝曰、於2茲(ノ)倭(ノ)國1除《オイテ》v吾亦無v王《キミ》、と云同(シ)心也、セナは男女に亘りて云、今は女を指給へり、委は別に釋す、告ナベテとは、すごに名を問せ給ふに對すれば、帝と申御名の、世に普き意なり、此御歌、二段に分て見るべし、なづけさねと云まで一段、すごに家と名とを問せ給ふ也、そらみつと云より下一段、帝御みづからの上をすごにつげ聞せ給ふなり、惣じての心は、御狩などに出させ給ひて、岡べを御覽じ給ふ折節、賤女の形などはきたなからぬが、うるはしきかたみ、又きいれ、いたひけしたるふくしを持て、菜を摘てゐたるに、誰となき御有さまにて、問よらせ給て、家はいづくの程にかすむ、名は何とかいふと尋させ絵へど、かつは凡人ならぬ御勢に恐れ奉、又は賤き身をはぢらひ奉りて、ともかうもえ聞え上ぬを理りに思召て、天下を以て家とするものは朕なり、萬民の上に臨て名高きものも又朕なれば、我こ(8)そ恥しからず、家をも名をも汝に告きかせて、さてこそ惠みをも加へめとよませ給ふなるべし、又此女のかほよきをめでさせ給ひて、召たまはんとて、問はせ給ふにても有べし、古事記にも日本紀にも此天皇の紀に此類の事あまた見えたり、
 
初、籠毛《コモ・第一段》、與美籠母乳《ヨミコモチ》、布久思毛《フクシモ》、與美夫君志持《ヨミフクシモチ》、此岳爾《コノヲカニ》、菜採須兒《ナツムスコ》、家吉閑《イヘキカム》。名告沙根《ナ|ツケ《・ノラ》サネ》。虚見津《ソラミツ・第二段》、山跡乃國者《ヤマトノクニハ》、押奈戸手《ヲシナヘテ》、吾許曾居師《ワレコソヲラシ》。告名倍手《ツケナヘテ》、吾已曾座《ワレコソヲラシ》。我許《脱v曾《ソヲ》》者背齒告目《ワレコソハセナニハツケメ》。家乎毛名雄母《イヘヲモナヲモ》
此御哥ふたつにわかちてみるへし。なつけさねといふまては、すこに家と名とを問せ給ふなり。そらみつといふより下は、みかと御みつからの上を、すこに告きかせたまふなり。こも、よみこもち、ふくしも、よみふくしもちは、かこも、よきかこをもち、ふくしも、よきふくしをもちてなり。ふくしとは、かねにて、へらのやうにこしらへて、菜摘女のもつ物にて、これにてそのねをさし切てとるなり。常にはふくせといへり。しとせと五音通すれは、ふくせともいへるなり。和名集云。唐韻云。※[金+讒の旁]【音讒。一音暫。漢語加奈布久之】犂鐵也。又土具也。この字なり。からすきの具にも此字あり。又土其也といへるが、ふくしなり、これまてを、上七字、下十一字に、二句によむへし。七字、四字、七字と、三句にもよむへしといへとも、古風をおもふに、二句なるへし。二句に讀つゝきて、上の句はこもと心にきるやうにおもひて、よみこもちとよみ、下の句は、ふくしもときるやうにて、よみふくしもちとつゝくへし。こもよみとつゝけて、こもちとよみ、ふくしもよみとつゝけて、ふくしもちとよむへからす。月夜よみ、山高みなとこそいへ。よきといふへきところに、よみとあるは、古風のことはなり。すことは賤しさものゝ名なり。第十には山田もるすことよめり。男女に通していふへし。今は女なり。家きかむ、名告さね。家のあり所もきかせよ。名をも告よとなり。告の字のるともよめは、なのらさねともよむへし。第五卷、山上憶良(ノ)哥に、なか名のらさねとよめり。告ねといふに、さの字のそはれるなり。さはそへてよむ事のおほき字なり。なのりといふにも、名乘とかくは、かりてかくなり。それかしと名を告ることなれは、心は名告なり。そらみつやまとのくには、かやうの、一部にわたりておほきことは、別に取出て釋して、見る人にたよりあらしむ。此のちおよそこれに准して、注すへきことの注せす、又この事はしるすともいはてあらんをは、類をもて、別に釋してつくるまきをみるへし。此みつのことは、三の字滿の字の和訓のやうにはよまて、共《トモ》上聲によむへし。此卷に滿の字をかけるは、かけてかくなり。見つといふ事なれは、三の字のやうにもよむへけれと、枕詞なれは、さよみては、常の詞のやうになりてわろし、やまとに、日本の惣名と、和州の別名とあり。今は惣名なり。をしなへて、われこそをらし。つけなへて、われこそをらし。をしなへてとは、常にもいふ詞なるを、下につけなへてといふに對すれは、すこし心かはれり。下にいたりて、藤原宮役民か哥に、食國《ヲシクニ》をめしたまはんとゝいへり。天子の供御をすゝめたまふを、日本紀にみをししたまふといへり。食v侯食v禄なといふかことく、天下をもて、をものとしたまふ心にて、食國といひ、又此集に|みけつくに《・御食國》ともいへり。又此集に臨の字をもおほくおすとよめり。君臨の義にてもあるへし。すこに家と名とをとはせたまふに對すれは、今の初の二句、四海をもて家としたまふ事を、のたまふゆへに、常のなへてといふに、押の字をことはにそへていふにはあらすとはいふなり。告在へてといふが、御名のことなれは、臨の字食の字には、天下を家としたまふ心あるゆへに、かくはいふなり。をらしは我こそをれとのたまふ古語なり。疑の詞にあらす。せなは貴賤男女に通す。別に釋しをきぬ。今はすこを指たまへり。惣しての心は、御狩なとに出させたまひて、岡へを御覽したまふおりふし、いやしき女の、かたちなとはきたなからぬが、うるはしきかたみぬきいれ、いたひけしたるふくしをもちて、かのをかになをつみてゐたるに、たれとなき御ありさまにて、とひよらせたまひて、家はいつくのほとにかすむ。名は何とかいふと、たつねさせたまへと、かつは凡人ならぬ御いきほひにおそれたてまつり、またはいやしき身をはちらひたてまつりて、ともかうもえきこえあけぬを、ことはりにおほしめして、天下をもて、すなはち家とするものは朕なり。萬氏の上に臨て名高きものもまた朕なれは、われこそはつかしからぬ家をも名をも、なんちにつけきかせて、さてこそめくみをもくはへめとよませたまふなるへし。此みかとは、きはめてをゝしくおはしまして、むくつけき事をもせさせたまひしかとも、またいさめにもはやくしたかひたまひ、又哥をもおりふしにつけてあまたよませたまへり。色をもこのませたまひけれは、もし御めもとまりてとはせたまへるにや。すこやうのものゝ、御まなしりにかゝりて、かゝる御製のありけるは、やさしくもかたしけなくも侍るかな。おほよそ、文武は鳥の兩翼にして、かくへからすといへとも、時にしたかひて、たかひに表裏あるへし。みたれたる世には、武を外にして文を内にし、治れる時には、武を裏にして文を表とすへし。かたきはねをつゝむに、やはらかなる皮をもてすれはこそ、うるはしくはみゆれ。威徳をもて、世をやすらかに、久しくおさめたまひ、雄畧をゝくり名にもおはせたまへるきみの、かくまて仁愛ふかくよませたまへれは、世はあかれる昔に、人はみかとにまし/\て、尤一部をくゝる徳を具せる哥なるゆへに、撰者これを卷頭にはすへけるなるへし
 
高市崗本《タケチヲカモト》宮御宇天皇代  息長足日廣額《オキナカタラシヒヒロヌカノ》天皇
 
天皇は、第三十五代舒明帝也、敏達天皇の御孫、彦人大兄皇子の御子なり、初は田村(ノ)皇子と申き、日本紀(ニ)曰、二年冬十月、天皇遷2於飛鳥(ノ)岡(ノ)傍1、是(ヲ)謂2岡本宮1、高市は和州の郡の名也、延喜式祝詞の中に多く見えたる六郡の隨一也、神代卷(ニ)曰故會(テ)2八十萬(ノ)神(ヲ)於天(ノ)高市《タケチニ》1而問(フ)之、纂疏曰、一云大和國高市(ノ)郡是也、今高市(ノ)神社在焉、今按岡本宮は、帝王編年云島東岡本地也、玉林抄云、岡本宮、橘寺東逝廻v岡、則今岡寺地也、
 
初、高市崗本宮御宇天皇代 息長足日廣額天皇
第三十五代、舒明天皇なり。初は田村皇子と申奉き。敏達天皇の御孫、彦人大兄皇子の御子、天智天皇の御父なり。御母は糠手姫皇女と申。在位十三年、冬十月九日崩。日本紀にいはく。或本云。呼2廣額天皇1爲2高市天皇1也。又云。二年冬十月壬辰朔癸卯、天皇遷2於飛鳥岡傍1。是謂2岡本宮1。高市《・府》は和州十五郡の中に、別して名高き郡六郡あり。その随一なり。延喜式第八、祝詞の中におほく見えたり。日本紀神代上云。故《カレ》會《ツトヘテ》2八十萬(ノ)神(ヲ)於天(ノ)高市(ニ)1而問之。纂疏曰。一云大和國高市郡是也。今高市神社在焉。
 
天皇登香具山望國之時御製歌
 
2 山常庭村山有等取與呂布天乃香具山騰立國見乎爲者國原波煙立籠海原波加萬目立多都怜※[立心偏+可]國曾蜻島八間跡能國者《ヤマトニハムラヤマアレトトリヨロフアマノカクヤマノホリタチクニミヲスレハクニハラハケフリタチタツウナハラハカマメタチタツオモシロキクニソアキツシマヤマトノクニハ》
 
(91)有等、【八雲、アリト、】 立籠、【八雲御抄、タチコメ、仙覺抄如2今點1、疑彼本籠作v龍歟、校本、字與v今同、點、タチコメ、又別校本作v龍、點、タチコメ、】
村山は、群れる山也、神武紀曰、抑又聞2於鹽|土老翁《ツノヲチニ》1、曰、東有2美地《ヨキクニ》1、青山|四(モニ)周(レリ)、是大和(ノ)國を云へり、景行紀の思邦(ノ)御歌に、やまとは、國のまほらま、たゝなづく、あをがき山、こもれると云云、トリヨロフは、齊明紀、弓矢二|具《ヨロヒ》といひ、源氏物語に屏風一よろひと云へり、俗語に、鎧を具足と云も、物の具りたるを云か、然れば大和には山多けれども、中にも香具山は、嶺谷草木ともに面白くそなはれる山とほめてのたまへるか、又は下に青かぐ山とよめれば、今も艸木のうるはしく生茂りて山を取よそへる心か、ろ〔右○〕とそ〔右○〕と同韻にて通ぜり、香具山は、神代紀曰、亦以2天香山之眞坂樹1爲v鬘、又云、其天火明命(ノ)兒、天(ノ)香山(ハ)是尾張連等(ガ)遠祖也、釋日本紀曰、伊豫(ノ)國風土記曰、伊豫(ノ)郡、自2郡家1以東、北有2天山1、所v名2天山1由者、倭(ニ)有2天(ノ)加具山1、自v天天降時、分(レテ)而以片端者、天2降(ル)於倭(ノ)國1、以(テ)片端者、天2降於此|土《クニニ》1、因謂2天山(ト)1本也、これによりていへば、天降ても唯ならぬ山なり、下に天智天皇のよませ給へる三山の御歌をも思合すべし、かぐ山とも、かご山とも呼來れり、下の字共に或は清てよみ、或は濁れり、國見〔二字右○〕、神武紀に、國見(ノ)岡と云所あり、此下の人麿の歌、第三筑波山の歌、共に國見の詞あり、是によれば、高きに登りて眺望するを云也、又第十に、雨間あけて國見もせむをとよめり、國原〔二字右○〕、原の字は、爾雅に、廣平曰v原と釋して、原野の心(10)ながら國の廣き所を云、唐に中原と云、此に天(ノ)原、海原など云類也、和州には海なきをかくよませ給ふは、彼山より難波の方などの見ゆるにや、又唯さるべき事を興によませたまへる歟、怜※[立心偏+可]は、古語拾遺云、當2此時1上天初晴、衆倶(ニ)相見而皆明白、伸v手歌舞、相共稱曰2阿波禮、【言、天晴也】、阿那於茂呂(ト)1、【古語、事(ノ)之甚切、皆稱2阿那1、言衆面明白也】、怜※[立心偏+可]を、此処にアハレともカナシともよめり、日本紀にはウマシともよめり、蜻島は、もとの和州の別名、神武紀に見え、又雄畧紀の御製に見えたり、委は別に釋す、カマメは鴎也、ま〔右○〕とも〔右○〕と音通す、此歌初二句は總じて和州に山多き事を述給ひ、次二句は別而香具山をほめ、次二句は國見し給ふよしを述、次四句は太平に見ゆるを悦び思召よしを述べ、末の三句は和州の上域なる事を述て結び給へり、按に下に紀に仁徳天皇の段に云く、於是天皇登2高山1見2四方之國1、詔2之於國中煙不1v發云云、後見2國中1於v國滿v煙故爲2人民富1、今科2課役1、是以百姓之榮、不v苦2役使1といへり、今煙たちたつの二句は、彼民の竈は賑ひにけりの御製の面影あり、國民の豐なるを悦び思召す事言の外に浮べり、又按ずるに、烟立タツは、八雲御抄、并校本に從ひ、且當本の字に任てタチコメとよむべきか、カマメ立タツは、禽獣までも所を得る意なるべし、此御歌、八雲によき長歌の例に出し給へり、
 
初、天皇登2香具山1望v國之時御製歌
山常庭《ヤマトニハ》、村山《ムラヤマ》有等《アレト・アリト》、取與呂布《トリヨロフ》、天乃香具山《アマノカクヤマ》、騰立《ノホリタチ》、國見乎爲者《クニミヲスレハ》、國原波《クニハラハ》、煙立籠《ケフリタチコメ》、海原波《ウナハラハ》、加萬目立多都《カマメタチタツ》。怜※[立心偏+可]《オモシロキ・アハレナル此集有此反》、國曾《クゾ》句|蜻島《アキツシマ》、八間跡能國者《ヤマトノクニハ》。
以下小字傍書)結句八間跡、下釋爲本朝※[手偏+總の旁]稱。後按、猶是一州別號邪。神代紀曰。廼生大日本豐秋津洲。纂疏曰。秋津洲割分爲四十三國。今五畿内東山之八國東海之十五國山陽之八國山陰之七國南海之紀伊北陸之若狹等也。(以上)此御歌初二句は、惣して和州に山おほきことをのたまひ、次二句は別してかく山をほめ、次二句は國見したまふよしをのへ、次四句は太平にみゆるを、よろこひおほしめすよしをのへ、末の三句は、本朝の上域なることをのへて結したまへり。むら山は群山なり。唐謝觀か白賦にも曉入2梁王之苑1雪滿2群山1といへり、神武紀にいはく。抑《ハタ》又聞(シク)2於塩|土老翁《ツチノオチ》1。曰(シク)。東有2美地《ヨキクニ》1。青山四(ニ)圍(レリ)。これやまとの國をいへり。景行紀の思邦《クニシノヒノ》歌の中にも、やまとは、くにのまほらま、たゝなつく、あをかき山、こもれるとよませたまへるは、筑紫にて、和州のかたをなかめやらせたまひてなり。取よろふは、取よそふなり。軍にきる鎧も、身をよそひて、かこむ助なれは、よろふといふ用の詞を、體にいひなして、名つくるなり。うたひ、まひ、つかひのことし。和名集にいはく。唐韻云。鎧(ハ)【外蓋(ノ)反。和名與路比】甲也。釋名云。甲者似2物之有v鱗甲1也。うをのうろこあり、貝の甲あるに似たれは、甲といふかことく、村山の取つゝめるかく山なり。又齊明紀に、弓矢二具とかきて、ふたよろひとよめり。源氏物語に、屏風ひとよろひといへるも、二帖を一具といへるなり。これは、具足したる義なれは、峯谷岩木にいたるまて、そなはりて、圓滿したる山とほめたまふ歟。日本紀に、兵器をものゝくとよみ、俗語によろひを具足といふも、小手すねあてまて、取そなへてきる物なれはいふにや。また村山有跡を、むら山あれとゝもよみ、むらありとゝもよむへけれは、むら山の有てさはれは、中にも高きあまのかく山のいたゝきより、見はるかし給ふとにや。そのゆへは、下に遠く海上まても、なかめやらせたまふよしなれはなり。かく心うる時は、とりよろふは、村山のかこむにはあらて、此卷下に至りて、青かく山ともよめるかことく、草木のうるはしくおひしけりて、山を取よそふ心なり。又その山ともの、取つゝめるかく山のみねにのほりて、國見したまふといはむも通すへし。のほりたち、國見をすれはとは、下に至りて、持統天皇、よしのへみゆきし給ふ時、人まろの歌にも、此二句あり。天子は巡狩といふ事をさへして、國々の樣を見給ふことなれは、國見は國の盛衰、民の哀樂を、うかゝひしろしめすに、尤要なり。神武紀には、國見岳といへる所の名も、和州に見えたり。今も山々に、遠く見はるかさるゝところを、國見といふめり。第三卷に、筑波山にのほりて國見せる事をよめれは、諸臣よりつねの人にもいふへし。くにはらは、煙立こめとは、高平曰v原と、毛詩の傳にもいひて、此國にも、ひろ/\としたるところを、原といへは、國はらといひ、天原、海原なといふなり。さきの、景行天皇のくにのまほらまとよませたまへるも、國の眞原といふ事にて、今とおなし。ほとはとは、五音通し、下のまは昔よく物につけたることはなり。|やつこ《・僕》らまなといへるかことし。此二句は、高津宮の御宇の心ちす。日本紀第十一、仁徳紀云。四年春二月己未(ノ)朔甲子、詔2群臣1曰。朕登2高臺1以遠望之烟氣不v起2於城1。以爲百姓既貧而家無2炊者1。○三月己丑朔己酉詔曰。自v今之後至2于三歳1悉除2課役1息2百姓之苦1。○七年夏四月辛未朔天皇居2臺上1遠望之。烟氣多起。是日語2皇后1曰。朕既富矣。豈有v憂乎。また御製のうたにいはく。たかきやにのほりてみれはけふりたつ民のかまとはにきはひにけり。今の御うた、けふりたちこめとあれは、民を愛子のことくおほしめす、みかとの御よろこひ、御ことのはのうへにうかへり。うなはらは、かまめたちたつとは、かまめはかもめなり。まとめ五音相通なり。かの山のいたゝきよりは、なにはのかたまてみゆるにや。さらても興によみたまへるか。延喜式の祝詞に、舟の上は、さほかちほさすといへるかことく、のほりくたりに、ゆきかふ舟のひまなけれは、かもめもしつかにゐるほとなくて、しけくたつなり。おもしろき、くにそ句、あきつしま、やまとの國は。おもしろきとは、古語拾遺云、當2此之時1上天初晴、衆倶相見而皆明白。伸v手歌舞相共稱曰阿波禮【言(ハ)天晴也】阿那於茂志呂【古語事(ノ)之甚切(ナルヲ)皆稱2阿那1。言(ハ)衆(ノ)面明白也。】怜※[立心偏+可]を此集にあはれともよめり。結句のやまとは※[手偏+總の旁]名なり。此御製は、今さへ見奉るもたのしきやうなれは、子夏か詩序に、治(レル)世之音(ハ)安(シテ)以樂(シフ)。其政和(スレハナリ)といへるにもかなひて、又世も遠くして、人も君にましませは、雄略天皇の御歌なくは、かならす此歌第一に載へけれは、やかてさしつきて、兩帝の御うたをのせて、後の君たる人をして、おもはしめたてまつらんとなるへし。孔子のこときの聖人も、位なけれは、道をこなはれす。これによりて、まつみかとの御歌をつゝけて載るなり。守護國界主陀羅尼經に、佛廣く國王を護持する法要を説たまへる時、佛の慈悲は、一切衆生にあまねし。なんそ國王を、わきてしものたまふといふ難の有しに、たとへは、母に歡樂あれは、子は、隨ひて、安穩をうることくなるゆへに、國王のために、護持の法要は説なりとこたへたまへり。かゝる御歌よませたまふ御世に、むまれあひけん民は、宿善のほともおもひやられ侍り。定家卿の、百人一首に、初に天智持統兩帝のおさまれる世の御製をのせたまへるも、此集をおもはれけるにや
 
(11)天皇|遊獵《カリシタマフ》内野之時中皇命使|間人連老獻歌
 
目録には、并短歌の三字を加へたり、此集大抵の例を思ふに、反歌ある歌は皆かく注すべき事なるを、亦なき處も例あれば、元は三字有て後失たるか、又は後人目録計に加へたるか、如v是類後多し、可v准v之、内野は、大和(ノ)國宇智(ノ)郡の野(ノ)名也.是古の御獵場也、中皇命〔三字右○〕、何れの皇子と云ことを不v知、日本紀に不v見、舒明紀に天皇崩し給ふ時、中(ノ)大兄《オヒネノ》皇子、十六歳にして誄奉りたまへる由記したり、此御事にやと思へども、中皇命と申たる事は不2見及1、且中大兄皇子は、孝徳天皇の太子に立せ給へるを、此下に後(ノ)崗本(ノ)宮(ノ)御宇天皇代と標して、中皇命徃2于紀伊温泉1之時御歌とて載、やがて其次に中大兄三山歌とて載たれば別にこそ、日本紀を見に、舒明帝の比より、齊明天皇の比まで、中皇命と申べき皇子不v見、神代紀國(ノ)常立尊の下に注して曰、至(テ)貴(ヲ)曰v尊(ト)自餘曰v命(ト)並訓2美擧等《ミコト》1也と云へり、太子は至尊なる故、日本紀には草壁(ノ)皇子を皇子(ノ)尊と云、高市(ノ)皇子をも後(ノ)皇子(ノ)尊と載らる、然れば齊明天皇の時、中皇命とかけるは神代紀に自餘曰v命にあたれば、最不審なり、中皇命を目録に中ウシノミコトと點ず、此訓不審也、皇をウシとよむ事重而可v考、間人連老は、孝徳紀云、小乙下中臣(ノ)間人連(12)老《ハシウトノムラシオユ》【老、此云2於喩1、】白雉五年の遣唐使の判官六人の随一なり、或はオイと點じ、或はオキナと點ず、日本紀に據れば、オユと點ずるを好とす、此詞書を見るに、此歌は中皇命の讀せ給て老をして帝に聞上絵へるか、又中皇命、老に仰て讀せて奉しめ給へるか、下に至て中皇命御歌三首といへり、今の歌も中皇命の歌ならば、御歌と有べきを歌とのみあれば、間人(ノ)連が歌と見えたり
 
初、天皇遊2獵内野1之時中皇命d使《シメタマフ》間《ハシ》人連|老《オユヲシテ》1獻u歌
目録には并短歌の三字をくはへたり。此集の例を思ふに、反歌ある歌には、かく注すへきことなり。もとは有けるが、後にうせたる歟。初よりなかりけれと、目録をくはふるもの、心を得てそへたるか。後みなこれに准すへし
此ことは書につきて、此歌は、中皇命のよませたまひて、間人連《ハシヒトノムラシ》をもて、帝に聞えあけさせたまへる歟。又中皇命、間人連におほせて、よませて、たてまつらしめたまへる歟。心得かたし。大かたは間人連か歌なるへし。そのゆへは、下に至ていはく、中皇命往2于紀伊温泉1之時御歌三首といへり。今の歌も、中皇命の歌ならは、御歌とあるへきを、歌とのみあれは、間人連が、中皇命のおほせによりて、よふてみかとへたてまつると見えたり。又此中皇命とは、いつれの皇子を申にか。日本紀にもみえす。舒明紀に、天皇崩し給ふ時、中(ノ)大兄《オヒネノ》皇子、十六歳にして、みつからよく誄《シノヒコト》奉らせたまひたるよし、しるされたれは、中大兄の御ことにやとおもへと、中皇命と申たることを、見及はされは、おほつかなし。そのうへ中大兄皇子は、孝徳天皇の位につかせたまふ時、やかて太子にたゝせたまへるを、此下に後崗本宮御宇天皇代と標して、さきにひけることく、往2紀伊温泉1御歌をのせ、やかてその次下に、中大兄三山歌とてのせたれは、別人にこそ。日本紀をみるに、舒明天皇のころより、齊明天皇まてには、中皇命と申へき皇子も見えす。不審の事なり。神代紀(ニ)國恆立尊の下に注していはく。至(テ)貴(キヲ)曰v尊《ソント》。自餘《コレヨリアマリヲ》曰v命《メイト。並|訓《イフ》2美擧等(ト)1也といへり。太子は至尊なるゆへ、日本紀には、草壁皇子を、皇子尊といひ、高市皇子をも、後皇子尊と載らる。しかれは、齊明天皇の時、中皇命とかけるは、神代紀に自餘曰v命にあたれは、誰にてかおはすらん。間人連老は、孝徳紀云。小乙下中臣(ノ)間人《ハシヒトノ》連老【老|此《コレヲハ》云2於喩《オユト》1】入v唐而歸還
又中皇命をは。いかによむへきにか。目録に、なかうしのみことゝ、かむなのつきたれと、いかてさはよまん。うけられす。なかのすへらみことゝよむへけれとも、天皇とかけるをさよめは、しはらくこれをかく。内野は大和國宇智郡に有野なり。これいにしへ帝王の御かりはの、そのひとつなり。山城に同名あるゆへに、これをもそこかとまとへることあり
 
3 八隅知之我大王乃朝庭取撫賜夕庭伊縁立之御執乃梓弓之奈加弭乃音爲奈利朝獵爾今立須良思暮獵爾今他田渚良之御執梓能弓之奈加弭乃音爲奈里《ヤスミシシワカオホキミノアシタニハトリナテタマヒユフヘニハイヨセタテヽシミトラシノアツサノユミノナカハスノオトスナリアサカリニイマタヽスラシユフカリニイマタタスラシミトラシノアツサノユミノナカハスノオトスナリ》
 
八隅知之は、釋日本紀曰、八|隅《スミ》知也、天下をしろしめすを云、委は別に釋す、イヨセのい〔右○〕は發語の辭、此集最多し、後准v之、爾雅云、伊(ハ)維也、注、發語詞、かゝれば和漢おのづから相通ぜり、ミトラシは御手にとるを云也、雄略紀に、弓の字ミタラシとよめるも、みとらしの詞を、用を以て體に名付て、五音通ずるによりて、と〔右○〕をた〔右○〕となせるなり、太刀もはく物なる故に、御刀とかきて日本紀にミハカシとよめる此類なり、仙格抄、其外俗説(13)に、天竺の多羅枝を以て造る故に名づくと云は非也、我國の弓は神代より有る上に、雄略の御時、いまだ天竺の名をも聞べからねばなり、ナガハズは末弭《ウラハス》なり、うらハズは長く作れば長弭と云也、弓の弦うちの音も、此うら弭の所にあたりて聞ゆるものなれば,ながはずの音すなりとは讀り、仙覺は弓の弭は中に作によりて、中弭と云と釋せられたれど、本弭とても中にこそ有なれば、しからば詮なき言にて、音すと云にも叶がたし、イマタヽスラシはたつらし也、日本紀にも、二神天の浮橋にたゝしてと云へり、古語は皆如v是、歌の心は、我君の朝にはなで翫び夕にはよせ立たまへる弓の弭の聲聞ゆるにて、朝夕の獵に出給を知と也、後に御執と云下は、上の四句を重ていへり、毛詩などの三章四章にも、同事を打つゝ詞をかへていへるは誠の暑き也、彼に例すべし、下に至て長短ともに此格おほし、
 
初、やすみしゝ、わかおほきみの、朝には、取なてたまひ
やすみしゝは、別に注しつ。弓はめてたき徳あるものなるゆへに、もろこしにも此國にも、天子まてこれをいさせたまふ。をんなは鏡を寶とし、男は弓をたからとするゆへに、拾遺集の神樂にも、よも山の人のたからとする弓を神のみまへにけふたてまつるとよめり。朝には取いてゝ、塵なと打はらひてこれをひき、ゆふへには取をきて、よせたつるなり。いは發語詞にて、此集に尤おほし。のち/\これに准して知へし。もろこしもおなしけれはにや.爾雅曰。伊(ハ)維也。注曰發語詞。みとらしは、御手にとらすなり。とらすはとるなり。雄略紀に、弓の字をみたらしとよめるも、みとらしのことはを、用をもて體になつけて、五音通するによりて、とをたとなせるにや。多羅枝といふは俗説なり。四肘爲一弓【一尺八寸爲2一肘1。四肘(ハ)七尺二寸】といひ、高さ一多羅樹なといふなるは、みな天竺の法にて、此國には欽明天皇よりこそ漸々につたへきけ、雄略の御時、多羅樹の名をもきかんや。ながはすは、うらはすなり。末の字をうらとよむゆへに、末の弭をうらはすとはいへり。うらはすは、長く作れは長弭といふなり。弓の絃《弦》うちの音も、此うらはすの所にあたりてきこゆる物なれは、なかはすの音すなりとはよめり。今たゝすらしは、たつらしなり。日本紀にも二神天の浮橋に立たまふを、たゝしてとよめり。古語はみなかくのことく、かう/\しきことおほし。みとらしの、古歌にはくりかへしねんころによめる事おほし。毛詩なとの、三章四章にも、おなしことを、すこしつゝ詞をかへていへるは、まことのあつきなり
 
反歌 此義別に注す
 
4 玉刻春内乃大野爾馬數而朝布麻須等六其草深野《タマキハルウチノオホノニウマナメテアサフマスラムソノクサフケノ》
 
玉刻春内、此詞つゞき別に注す、又馬ナメテは馬を並べて也、數をなべ〔二字右○〕とよめるは、數あるものは並ぶ故なるぺし、朝フマスラムとは、朝獵にしゝ烏などを獵たつるなり、(14)ソノ草フケ野は、草深き野には鹿や鳥などの多ければ、宇智野をほめて再云也、第六卷赤人の長歌に、朝かりにしゝふみおこし、夕かりに鳥ふみたて、馬なめて、御獵ぞたてし、春のしげ野に、此と同心也、
 
初、玉きはるうちの大野に馬なへて朝ふますらむその草ふけ野
 玉きはるうちとつゝくることは、別に注してつくるかことし。馬數而とかけるは、數あるものはならふゆへなるへし。朝ふますらんとは、第六卷赤人の長歌に、朝かりに、しゝふみおこし、夕かりに、鳥ふみたてゝ、むまなへて、みかりそたてし。春のしけ野に。此歌とおなし心なり。草ふけ野は、うち野をふたゝひいへり、草ふか野ともよむへし
 
幸讃岐國|安益郡《アヤノコホリニ》之時軍王見山作歌
 
幸〔右○〕(ハ)者、蔡※[災の火が邑](カ)獨斷(ニ)曰、天子(ノ)車駕所v至以爲2僥倖(ト)1、故曰v幸也。至(テ)見2令長吏三老官屬(ヲ)1、親(ク)臨v軒(ヲ)作v樂、賜2食帛越巾刀佩帶(ヲ)1、民爵有2級數1、或賜2田租之半(ヲ)1、故(ニ)因v是謂2之幸(ト)1、日本紀にはイデマスとよめり、ミユキと云は御行にて義訓なり、安益郡〔三字右○〕、和名集曰、阿野國府、見山作とは、歌の心に依に、故郷を戀る餘り、なだを隔る山を見て、感を興してよめるなり、
 
初、幸2讃岐國安益郡1之時軍王見v山作歌并短歌目六。幸者蔡※[災の火が邑](カ)獨斷曰。天子車駕所v至以爲2僥倖1。故曰v幸也。至見令長三老官屬親臨v軒作v樂賜2食帛越巾刀佩帶1。民爵有2級數1或賜2田祖之半1。故因v是謂2之幸1。日本紀には、いてますとよめり。みゆきといふは、御行なり。字はもろこしの心にて、幸の字を用たれと、和訓の心は、かはれり。天子に行幸といひ、太上天皇に御幸といふは、簡別の約束にて、義はあるへからす。こまかにいはゝ、打かへていひても、かなひぬへし。讃岐とかきて、さぬきとよむは、亨奴牟はよく通するゆへなり。此集に和泉のちぬのうみを、珍海とかけるこれにおなし。安益郡は、和名集云。阿野綾郡國府。きりしれぬあやのかはらに鳴ちとり聲にや友のゆきかたをしるとよめるも此郡なり
 
5 霞立長春日乃晩家流和豆肝之良受村肝乃心乎痛見奴要子鳥卜歎居者珠手次懸乃宜久遠神吾大王乃行幸能山越風乃獨座吾衣手爾朝夕爾還此奴禮婆大夫登念有我母草枕客爾之有者思遣鶴寸乎白土網能浦之海處女等之燒塩(15)乃念曾所燒吾下情《カスミタツナカキハルヒノクレニケルワツキモシラスムラキモノコヽロヲイタミヌエコトリウラナケヲレハタマタスキカケノヨロシクトホツカミワガオホキミノミユキノヤマコシノカセノヒトリヲルワガコロモテニアサユフニカヘラヒヌレハマスラヲトオモヘルワレモクサマクラタヒニシアレハオモヒヤルタツキヲシラニアミノウラノアマヲトメラカヤクシホノオモヒソヤクルワカシタコヽロ》
 
ワツキモシラズは、古説たつきもしらずなりと云、わ〔右○〕とた〔右○〕と同韻なれば也、十卷に立居するたつきをしらに、むらきもの、ともつゞけたれば、さも有べきを、今案たつきもしらずは便もなきやうの心なれば、上にくれければといはゞさも有べきに、くれにけると續けたれば叶はず、十二に、出る日の入わきしらずとよめるごとく、上よりつゞきて、日のくるゝわきもしらずと云に、つ〔右○〕文字の中に添るにや、十四卷にあさをらを、をけにふすさにうますともといへるふすさ〔三字右○〕はふさ〔二字右○〕也、是等に准じて云也、ムラキモ、此詞下にも多ければ別に注す、心といはむため也、奴要子鳥は、子〔右○〕はそへたる字にて唯ぬえ鳥なり、ウラナケヲレバとは、下なげく也、高く聲をも立ず、喉聲にてつぶやくやうに啼鳥なれば、我故郷を戀とて打うめかるゝに喩て云へり、後にも今のごとく喩てよめる歌多し、或點にウラナキとあるは同じ心なれど、第十に七夕の歌の中に、二首今と同じく歎の字を用、十七には、奴要鳥能宇良奈氣之都追とあれば、うらなけなり、玉ダスキは、カケといはん爲也、後に此つゞき多し、宜クとは、君を神とひとつにかけて申がかなひてよろしきと云意也、孝徳紀曰、惟神【惟神者謂隨2神道1亦自有2神道1也】此(ノ)心、神の(16)道のまゝに行はせ給ひ、又御みづからも神の道ましませば神と云也、此外日本紀續日本紀等に、帝を神と申事あまた見えたり、此集にも末に至りて數しらず、遠ツ神と云は、凡人の境界に遠ければいへり、山越ノ風とは、山を吹越風なり、古今にも根こし山こし吹風とよめり、物こし垣こしなど云心には替れり、朝夕ニ還ラヒヌレバとは吹過又吹來る也、マスラヲト云云、ますらを〔四字右○〕は男子の總名なり、仙覺は益荒雄の心といへり、アラキはたけきなり、日本紀には男の一字をも書、又今のごとく丈夫とも書り、此つゞき下におほし、草枕は旅の枕詞なり、野山に旅寢するには草など引結て枕とする故なり、思ヒヤルは、思ひをやりすごす也、遣v情遣v悶など云が如し、想像には非ず、此集末に至りて皆此例也、シラニは、しらずなり、即不知と書下に多し、續日本紀にもあり、古語也、網浦は讃岐にあり、此卷下に至て伊勢に同名あり、歌の心は、旅にして古郷を戀しく思ふ故に、春の日の暮るゝと云分もしらず心を傷めてぬえの如く下なげく折節、君の御幸の御供に、我越來りし故郷の方の山より吹こす風の、我袖をふきて過るかと思へば又吹來て、我古郷を思ふ心を興しぬれば、丈夫と思へる我も、旅にしては思をやりて慰む便りもなく、古郷を思ひ焦ると也、思ぞやくるといはむ料に、海處女等が燒塩と所につけたることを序にいへり、
 
初、霞たつ、なかきはるひの、くれにける、わつきもしらす。此わつきもしらすといへるを、長流かわかき時かける抄に、わとたと同韵の字なれは、たつきもしらすといふことかといへれと、たつきもしらすは、たよりもなきやうの心なれは、上にくれけれはといはゝ、さもあるへきに、くれにけるとつゝきたれはかなはす。これはわきもしらすといふに、つもしの中にそはれるにや。わきをわつきといへる事は、いまた見及はされと、古語にはその例あれはいふなり。第十一卷に、玉たれのこすのすけきとよめるは、すきなり。十四卷は東歌なから、あさをらをゝけにふすさに、うますともといへる、ふすさは、ふさにて、おほきなり。これらに准していふなり。第十二に、中々にしなはやすけむ出る日のいるわきしらすわれしくるしもと讀ることく、旅にひさしくありて、故郷をこひしくおもひくらして、なかき春日なれと、くるゝわきもしらすとなるへし。むらきもは心なり、第四にも村肝のこゝろくたけてとよめり。むらは群にておほきなり。きもは字のまゝにも心得へし。又日本紀に、心府とかきて、心きもとよめれは、心を丹府といふかことく、きもといふも心なり。字書は府聚也とも釋せり。こゝろと和語になりくるも、こゝらといふことにて、おほきなるへし。※[田+比]盧遮那經には、無量心識とて、心もとより無量なりとゝかれ、常の教には、一心無量の境を縁するゆへに、境のかたにつきて、心を無量といふよしなり、今はそれまてはなく、よろつのことのよくもあしくもおもはるれは、むらきもの心とはいふなるへし。ぬえこ烏は、子はをへ字にて、唯ぬえ鳥なり。和名集云。唐韻云※[空+鳥]【音空。漢語抄云。沼江】怪鳥也。うらなきをれはとは、下なくといふ心なり。高く聲をもたてす、喉聲にて、つふやくやうになく鳥なれは、それにたとへて、我も下になくといふ心なり。第十卷七夕の歌にも、ぬえ鳥のうらなくとよめり。卜の字はかりてかけるなり。裏の字なり。玉たすきは、かけといはむためなり。かけのよろしくとは、君を神とひとつに、かけて申かよろしきなり。孝徳紀にいはく。惟神《カミナカラ》【惟神(ト)者謂隨2神道1亦自有2神道1也。】此こゝろ、神の道のまゝにをこなはせたまひ、又御みつからも神の道ましませは、神といふなり。此外日本紀績日本紀等に、神と申ことあまた見えたり。此集も末にいたりて數しらす。遠つ神といふは、凡人の境界に遠けれはいへり。かへらひぬれはとは、故郷こひしくなかめをるに、そなたより吹來る風の、わか袖にふれて、過るかとおもへは、又吹きて、いとゝ物おもひをもよほして、わするゝまもあらせす、なやますをいふなり。袖を吹返すにはあらす、爲兼大納言の歌に、山風はまかきの竹に吹すてゝ峯の松よりまたひゝくなり。ありのまゝなることを、めつちしくも、おもしろくもよまれて、感情ふかし。今もおなし心なり。ますらをとおもへるわれもとは、かねて事もなかりし時は、我は丈夫なりと、おもひほこりしに、旅にありては、をめ/\となるなり。おもひやるは、おもひをやり過すなり。遣v情遣v悶なといふかことし。想像にはあらす。此集すえにいたりて、おもひやるとよめる、多分今の意におなし。しらには、不知とかきてよめり。續《釋カ(別筆)》日本紀にもあり。古語なり。あみのうら、彼地の名所なり。此卷下にいたりて、人丸の歌のあみの浦は伊勢なり、家隆卿の、浪風ものとかなる世の春に逢てあみのうら人たゝぬ日そなきとよみたまへるは、いつれにつかれけむともしらぬを、近來の類字名所抄といふ物に、讃岐とさためたるは、其證をしらす。おもひそやくるとは、遊仙窟にも未(シカトモ)2曾(テ)飲(トオモハ)1v炭(ヲ)腹(ノ)熱如v燒といへり
 
(17)反歌
 
6 山越乃風乎時白見寐夜不落家在妹乎懸而小竹櫃《ヤマコシノカセヲトキシミイヘニアルイモヲカケテシノヒツ》
 
風ヲトキジミとは、時じみは時じく也、日本紀に非時と書けり、不斷の心也、ヌル夜オチズは毎夜不v闕也、共に後々多き言なり、言は山越の風の不v斷ふくに家にあるいもを忍ぶと也、
 
初、山こしの、風を時しみ、ぬる夜おちす、家なる妹を、かけてしのひつ
時しみは時しくなり。日本紀に非時とかきて、ときしくとよめり。不斷の心なり。長歌に、朝夕にかへらひぬれはといひし心なり。ぬる夜おちすは、毎夜かけすといふ義なり。後々おほき詞なり。上をうけて、その風の時なきかことく、ひと夜として、ふるさとにをきてこし妹を、はるかにかけてしのはぬ夜はなしとなり
 
右檢日本書紀(ヲ)無幸於讃岐國亦軍王未詳也但山上|憶良大夫《オクラノマウチキミノ》類衆歌林曰(ク)記曰天皇十一年巳亥冬十二月巳巳朔壬午(ニ)幸《イデマス》于伊豫(ノ)温湯《ユノ》宮云云一書云是(ノ)時(ニ)宮(ノ)前(ニ)在(リ)二(ノ)樹木此之二(ノ)樹(ニ)班鳩《イカルカ》此米《シメノ》二鳥|大集《オホクアツマル》時(ニ)勅(シテ)多(ク)掛《カケテ》稻穗《イナホヲ》而|養《ヤシナフテ》之乃作歌。云云若疑(ラクハ)從此便|幸《イテマス》之《コヽニ》歟
 
記曰の記は紀に作るべし、日本紀の舒明紀を指せり、今案、此川原宮は孝徳天皇を(18)申なるべし、然れば注に天萬豐日天皇とあるべし、今の注は後人の誤なり、其故は下に引る歌林に戊申年とあるは、孝徳天皇大化四年なり、後に日本紀を引るに據ば、齊明天皇五年の歌なれば、何れにても皇極の御世の歌にはあらず、日本紀を考るに、皇極は小墾田の宮にして世を知せ給へり、孝徳天皇とても慥に河原(ノ)宮と申べき證は見及ばざれども、下に後(ノ)岡本(ノ)宮と標し、今戊申と有れば、髣髴ながら孝徳の御世を指にやと覺たり、孝徳紀云、白雉四年、是歳太子奏請曰、欲3冀(ハクハ)遷2于倭(ラント)倭(ノ)京1、天皇不v許焉、皇太子乃|奉《ヰテマツリ》2皇祖母尊間人皇后(ヲ)1并(テ)率2皇|弟等《イロトタチヲ》徃(テ)居2于倭飛鳥(ノ)河邊《カハラ》行宮1云云、かゝれば、初より河原宮ある故に此方彼方におはしますほどを川原(ノ)宮と申けるにや、大化元年冬十二月長柄豐崎に都を遷し給により、後には長柄(ノ)宮御宇とのみ申せども、まさしくは白雉元年十月に宮の堺標を立て、宮造りを初め、二年十二月晦日に、東生(ノ)郡味經(ノ)宮より新宮に遷給ひて、難波長柄豐崎(ノ)宮と名付られ、三年九月に造營事終る由紀に見えたれば、此歌は其より先の作なれば、川原宮とは標せるか、一書云〔三字右○〕、此より又撰者の詞なり、伊與風土記(ニ)云、湯(ノ)郡、天皇等於v湯(ニ)幸行(シテ)降(リ)坐《マスコト》五度也、以2岡本(ノ)天皇并(ニ)皇后二?(ヲ)1爲2一度(ト)1。于v時於2大殿戸(ニ)1有v椹云2臣《オミノ》木(ト)1、於2其上(ニ)1集(マル)2鵤(ト)與2比米鳥(ト)1、天皇爲2此鳥1枝繋2穗等1養賜也、今引るは此風土記に似たり、されど此風土記の分拙して(19)誤あり、眞僞知がたし、
 
初、右※[手偏+僉]○【云云】。同紀曰。十二年夏四月丁卯(ノ)朔壬午天皇至v自v伊豫1便居2厩坂宮1。先(ノ)八年(ノ)紀曰。八年六月災2岡本宮1。天皇遷居2田中宮1。しかれは、八年に天火のために、岡本宮は燒たるゆへ、十二年に、伊豫湯より還御せさせたまひても、うまや坂の宮にいらせ給ふなるへし。下に一書云といふは風土記なるへし。第三卷赤人の、いよの湯にてよめる歌の所に引へし
 
明日香川原宮御宇天皇代 天豐財重日足姫《アメトヨタカライカシヒタラシヒメノ》天皇
 
天豐財重日足姫天皇は皇極の諱也、
 
額田王歌 未詳
 
額田(ノ)王、日本紀に不v見、續日本紀に和銅五年正月授2旡位額田(ノ)部王從五位下1とあるは別人なり、未詳とこゝに注を加へたるよしは、歌の注に顯るべし、
 
7 金野乃美草苅葺屋杼禮里之兎道乃宮子能借五百※[火+幾]所念《アキノノヽミクサカリフキヤトレリシウチノミヤコノカリイホシソオモフ》
 
※[火+幾]【官本作v磯可也、磯をシとよむは、イシを上畧せり、磯亦水中磧也、水渚石也、和州に磯城島あり、しきしまとよめり、】
 
ミクサは眞草なり、一説薄を云といへり、尾花苅葺とも讀たれば、さも可v有、集中多し、下傚v之、宇治《ウチノ》都は行宮なり、借廬は旅人の一夜の宿りに引結び、又稻などこなすとてもかりそめに作るを云なり、下に多く見えたり、日本紀に、應神天皇六年に輕嶋(ノ)明(ノ)宮より近江に行幸し給ひける時も、宇治野にて御歌よませ給ひ、又天武天皇近江(ノ)宮にて出家したまひて吉野へ入給とて、大和の島(ノ)宮へ歸らせ給時も、諸臣宇治まで送(20)り奉とあれば、宇治は大和より近江への路次なり、後の注を以見るに、額田王近江へ行幸の御供に陪て、宇治を過て後、山と云ひ河と云ひ尾花かりふきてしつらへる行宮の樣まで、中々ことそぎて珍しかりしを、立出てこし各殘のあかず惜おぼゆる心をよめるなり、所念を下にオボユとよめり、今も心に任すべし、都といへるを、宇治(ノ)皇子の官所を云と釋したかこともあれど、額田王の私の旅にて古を思心ならば、後注何のためにかせむ、又かりほを思といへば、一首の心も叶はず、必行宮なり、行宮を都と云こと、第六に難波宮へ幸の時の歌に、荒野らに里はあれども大君の、敷坐時は都となりぬ、此外多し、題の下に未v詳と注を加へたるは、撰者は孝徳帝の御供にて額田王のよめると傳て載れども、歌林の説には異なる上に、孝徳紀には比良(ノ)宮へ幸し給ふ由不v見、齊明紀にはあれど三月なれば歌の心不v叶、とにもかくにもたがひたれば、暫傳聞るまゝに載て、未v詳と斷りて左にも注せるにや、
 
初、秋のゝのみくさかりふき
みくさは眞草なり。宇治はやまとより、あふみへおはします道なれは、尾花なとかりふきて、しつらへる行宮のさま、中々ことそぎてめつらしく、又所からも、おもしろかりけれは、立出てこしなこりの、あかすおしくおほゆるなり。所念とかきては、此集におもほゆとよみたれは、今もさもよむへし。四時と土用とを、五行に配する時、秋は金にあたるゆへ、金をあきとはよめり。兎道稚郎子《ウチノワカイラツコノ》皇子の、大宮をたてゝ、住せたまふゆへに、今も宇治の都とよめるとおもへるは非なり。後の人のうちの都とよめるは、それにても侍るへし。今は行宮につきてよめり。左傳曰。凡邑有2宗廟光君之主1曰v都無曰v邑。杜預集解周禮、四縣爲v都四井爲v邑。然宗廟所v在則雖v邑曰v都尊之也。また舜は匹夫なりしかとも、ゐたまふ所、人みな徳をしたひてあつまりけるゆへに、都君といひけれは、いはむや、天子の一夜にてもましまさむ所は、いつくにても都といふに難なかるへし。日本紀に、應神天皇六年、近江國にみゆきしたまひける時も、宇治野にて御歌よませたまひ、又天武天皇、近江宮にて出家したまひて、吉野へ入せたまふとて、大和の嶋宮へ歸らせたまふ時も、諸臣兎道まて送り奉けると見えたれは、大和に都ありける時の路次なり。左注に、幸2比良宮1とあるにより、ことちをつくるともから、路次の御供にて額田王のよみ、あるひは行宮をおほしめして、天子のよませ給ふとはえこゝろえすして、とかくいへるはとるにたらす
 
右※[手偏+僉]山上(ノ)憶良(ノ)大夫(ノ)類聚(ノ)歌林(ヲ)曰一書戊申(ノ)年幸比良宮大御歌但紀曰五年春正月巳卯朔辛巳天皇|至《イタリマス》自紀(ノ)温湯三(21)月戊寅朔天皇幸吉野宮而|肆宴《トヨノアカリキコシメス》焉庚辰日天皇幸近江之|平浦《ヒラノウラ》
 
右※[手偏+僉]云云大御歌までは歌林なり、以下は撰者の注なり、前の軍王歌の注に准ずるに、一書の下に云の字脱たるか、戊申は孝徳天皇の大化四年なり、此説は帝の御歌とせり、歌の心隨て見るぺし、下に日本紀を引る詮なく煩しきに似たり、又五年と云上には文句脱たるか、齊明天皇の五年を此にて五年とのみは云べからず、今補ていはゞ、天豐財重日足姫天皇後四年戊午冬十月庚戌朔甲子幸紀温湯、とありて、次に還御を云べし、若又略を取て當要の事をのみいはゞ、天豐財重日足姫天皇後五年己未三月戊寅朔庚辰(ノ)日天皇幸2近江之平浦1、これにても可v足にや、但今引やう心あるべし、此は下の三山歌の左注を摸していへり、
 
初、右檢云々。これより平浦といふまて、皆類聚歌林の詞なるへき歟。但紀曰以下は、撰者の日本紀を引る歟。おもふに、みな歌林の詞なるへし。そのゆへは、撰者皇極天皇の御時、額田王のよみたまへりときゝて、明日香川原宮天皇代と標して載れとも、歌林に異説あるによりて、未v詳と注して、さて歌林を引なり。但紀以下、撰者の詞ならは、皇極天皇の御代と標せること、いよ/\ことはりなし。齊明天皇の紀温湯へみゆきせさせたまへるは、四年冬十月庚戌朔甲子と紀に載らる。一書の説によらは、此歌孝徳天皇の御製なり
 
後崗本《ノチノヲカモト》宮御宇天皇代  天豐財重日足姫《アメトヨタカライカシヒタラシヒメノ》天皇位後即位後崗本宮
 
後(ノ)崗本(ノ)宮は勘物云、前(ノ)崗本(ノ)宮同地也、位後の位衍文なり、此度を齊明天皇と申、重祚初(22)也、第三十八代なり、敏達天皇の曾孫、初には寶皇女と申して舒明天皇の后に立給て、天智天皇間人皇后天武天皇の三人を生たまへり、日本紀に具なり、
 
額田王《ヌカタノオホキミ》歌
 
8 ※[就/火]田津爾舩乘世武登月待者潮毛可奈比沼今者許藝乞菜《ニキタツニフナノリセムトツキマテハシホモカナヒヌイマハコキコナ》
 
シホモカナヒヌは八雲(ニ)曰、舟などに乘によくなりたる也、今ハコギコナは漕こんなと云心也、こぎ行んなど云べけれど漕出て來べき道なれば理たがはず、又禮記月令孟春之月鴻雁|來《カヘル》とあるをカヘルとよみ、此集第十卷には、春はきにけりと云べきを春去にけりとよめれば、こゝも漕行んなど云事也と知べし、歌林の異説の如く、齊明天皇の御歌と見ば、昔を思召出て名殘もあかずおぼさるれば、月持出るほどだにと思召せども、潮時にもよほされ給て、今は漕出て行宮へ歸らせ給んとなり、謝靈運詩に解v纜及流潮懷v舊不v能v發、
 
初、にきたつにふなのりせんと月まては潮もかなひぬいまはこきこな
潮もかなひぬとは、潮時の應してよくなるなり。宣化紀云。是(ヲ)以|海表《ワタノホカノ》之國|候《サムロヒテ》2海水《ウシホヲ》1以來賓《マウク》といへり。文選謝靈運詩(ニ)解v纜(ヲ)及2流潮(ニ)1懷(テ)v舊(ヲ)不v能v發(スルコト)といへり。今はこきこなは、こきこんなといふ心なり。こきゆかむなとこそいふへけれと、こき出てくへき道なれは、ことはりたかはす。又禮記月令、孟春之月鴻雁|來《カヘル》とあるをかへるとよみ、此集第十卷には春はきにけりといふへきを春去にけりとよめれは、こゝもこきゆかんなといふ事なりと知へし。又乞の字、此集にこといふかんなに用たること、いまたかんかへす。いてとよみ、こそとよめり。ともに物をねかふ詞なり。いてをは、出にかりて、いまこき出なとゝよむへきか。いまこき出んなゝり、今こけこそなとよむへき歟。今こけこそとこひて、なの字をそへたるなり、歌林の異説のことく、齊明天皇の御歌と見は、昔をおほしめし出て、なこなもあかすおほさるれは、月まち出るほとにとおほしめせとも、潮時にもよほされたまひて、いまはこき出て、行宮へ歸らせたまはむとなり
 
右※[手偏+僉]山上憶良大夫類聚歌林曰飛鳥岡本宮御宇天皇元年巳丑九年丁酉十二月己巳朔壬午天皇大后幸于伊豫(23)湯(ノ)宮(ニ)後(ノ)岡本宮|馭宇《ギヨウ》天皇七年辛酉春正月丁酉朔壬寅御舩而征始就于海路庚戍御船|泊《トヽマル》于伊豫|※[就/火]田津《ニキタツノ》石湯|行宮《カリミヤニ》天皇|御覽《ミソナハス》昔《ムカシヨリ》日猶存之物(ヲ)當時忽(ニ)起(ス)感愛之情所以因(テ)製(テ)歌詠(ヲ)爲《ナスノ》之哀傷(ヲ)也即此歌者天皇御製焉但額田王歌者別有四首
 
此中に九年といへるは憶良の誤なり、前の軍王の歌の注にも歌林を引り、其中に日本紀を引て、十一年十二月己巳朔壬午といへり、今日本紀を考るに全同也、又、九年の幸を記さず、其上中に一年を隔て十二月朔日の支干共に同じ事有んや、幸の日も又共に壬午にて十四日なり、必誤りと可v知、後(ノ)崗本(ノ)宮馭宇天皇、此八字は憶良加へらる、下は紀のまゝなり、天皇已下は憶良の詞也、
 
初、右檢云々。此中に天皇九年といへるは、憶良のあやまりなり。さきの軍王の歌の注にも、歌林をひけり。其中に日本紀を引て、十一年十二月已巳(ノ)朔壬午といへり。今日本紀を考るに、全同なり。又九年のみゆきをしるさす。そのうへ、中にひとゝせをへたてゝ、十二月朔日の支干、ともにおなし事あらんや。みゆきの日もまたともに壬午にて、十四日なり。かならす誤れりと知へし。後岡本宮馭宇天皇、此八字は憶良くはへらる。下は紀のまゝなり。海路の下、紀にいはく、甲辰御船到2于大|伯《クノ》海1時大田姫(ノ)皇女産v女焉。仍名2是女1曰2大|伯《クノ》皇女1。おほくは備前にあり。行宮(ノ)下(ニ)注(シテ)云。【熟田津此(ヲハ)云2〓枳陀豆1。】之情まては紀のことは、所以以下は憶良の詞なり
 
幸于紀温泉之時額田王作歌
 
(24)案齊明紀云、四年冬十月庚戌朔甲子幸2紀温湯1、
 
初、幸2于紀温泉之時1額田王作歌
齊明紀云。四年冬十月庚戌(ノ)朔甲子幸2紀温湯1
 
9 莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《ユフツキノアフキテトヒシワカセコカイタヽセルカネイツカアハナム》
 
我セコは妻をさして云、御供に出立時いつの頃か歸りなんやと我を夕月をあふぎみる如く思ひて問し妹が、今は歸るべき比とて立待らんに、いつか歸て相見なんとなりイタヽセルのい〔右○〕は發語の詞なり、ガネはがに〔二字右○〕なり、兼の字此集音をも用たれば、イタヽセリケンとよむが勝るべし、此歌の書やう難儀にて意得がたし、いりほがなるに似たれど、試に今案を加へて後世に便ぜん、仙覺抄を見るに、今の点は仙覺所爲なれば信じ難し、先書樣を釋せば、莫囂は無喧なり、堯の時の老人も日入而息と云ひ、淵明が詩にも日入群動息と作て、夕に至れば靜なれば義を以て莫囂を夕とす、圓隣は十五夜に對していへり、圓月に隣るなり、源氏に五六日の夕月夜ともいひたれど、今は十日餘なるべし、莫囂は圓隣を待てユフとよまれ、圓隣は莫囂によりてツキとよまる、他所に引き分てば共によまるべからず、大相七兄爪謁氣は、此の中の謁の字(25)は靄〔右○〕なるべし、靄〔右○〕は雲状と注したれば、此句をオホヒナセソクモとよむべし、五可新何本をばイツカシガモトとよむべし、※[手偏+總の旁]じてはユフ月シ履ヒナセソ雲、吾セコガ、イタヽセリケン、イツカシガモト、かくよむべきか、第十一に、遠妻の振放《フリサケ》見つゝ偲ぶらん、此月の面に雲十棚引、此意にや、イタヽセリケンは立て我を望て待つなり、イツカシガモトとは、し〔右○〕さ〔右○〕なり、後にもしが〔二字右○〕といへる所あり、己の字此集にさ〔右○〕とよめり、第九にさ〔二字右○〕が心からおぞや此君とよみて、己とも君とも同人を云たれば、必ずしも賤しむる言のみにもあらず、然れば月夜に立て我方を見おこすらん妹が許にいつか歸り到らむとなり、又新河本をニヒガホともよむべし、いつか歸りてめづらしくにほへる顔を見むとなり、又月を見てだに思よそへて我慰まんと云心もあるべし、
 
初、莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣吾瀬子之射立《ユフツキノアフキテトヒシワカセコカイタヽ》爲兼《セルカネ・セリケム》五可新何本《イツカアハナム》
わかせこは、妻をさしてのたまへり。御供に出たつ時、いつの頃か、かへりなんやと、われを、ゆふ月をあふき見ることくおもひて、とひし妹か、今は歸るへき比とて、立まつらんに、いつかゝへりて、あひみなむとなり。いたゝせるのいは、發語のことはなり。かねはかになり。兼の字、此集音をも用たれは、いたゝせりけむとよむがまさるへし。此哥のかきやう、よみやう、難義にて、心得かたし。しゐて第一の句を案するに、莫は禁止辭にて、なかれなれとも、唯なしともよめり。囂は左傳牡預註(ニ)喧嘩也といへり。堯の時、老人ありて、日出而起、日入而といひ、又陶淵朋か詩に、月入群動息と作れり。されは、陰氣に應して、くるれは靜になる心にて、莫囂を夕とよめる歟。圓隣とは、十日過るころは、月もやう/\まろにみゆれは、七八日の月は、それにちかつけは、かくはかけるにや。此集に、女の哥に妾の字をわれとよめり。おとこの哥には、かくへからす。夕月ならて圓隣ともかくまし。第二の句は、かきやう、よみやう、ひたすら心得す。新の字あふとよめるもまたいまたしらす
 
中皇命徃于紀伊温泉之時御歌
 
10 君之齒母吾代毛所知哉磐代乃岡之草根乎去來結手名《キミカヨモワカヨモシレヤイハシロノヲカノクサネヲイサムスヒテナ》
 
シレヤはしれと云下知の詞には非ず、しれりやといはんごとし、君が代の久からん事も我世の長からん程も汝らしれりや、所の名しもときわなるべき磐代にきつるは嘉瑞に非ずや、いざ爰にかや根を引結びて枕として一夜宿んとよませ給へり、君(26)の御供にもあらぬに、君が代もとよませ給へるは臣子の道なり、草根は第十にも、くさねのしげきとよみ、第十四にも、久佐禰可利曾氣とよまぬにはあらねど、六帖に岡の歌、又初てあへると云題にも此歌を出したるに、共にかやねとあり、式子内親王も此歌を取て、磐代の岡のかやねに枕結ばむとよませ給ひ、此次の歌にも、カヤとよみ、官本にもカヤに作ればカヤネに付べし、
 
初、中皇命往2于紀伊温泉1之時御歌三首
君か代もわかよもしれや磐代の岡のかやねをいさ結てな
しれやはしれといふ下知の詞にはあらす。しれりやといはむかことし。君か世の、久しからんことも、わ心か世のなかゝらんほとも、なnちらしれりや。ところの名しも、ときはなるへき磐代にきつるは、嘉瑞にあらすや。いさこゝに、かやねを引むすひて枕として、一夜やとらんとよませたまへり。君の御供にもあらぬに、君か代もとよませ給へるは、臣子のみちなり。草根はくさねとよまぬにはあらねと、かやとよむへし。式子内親王も、此哥をとりて、岩代のをかのかやねにとよませたまひ、此次の哥にもかやとよめり
 
11 吾勢子波借廬作良須草無者小松下乃草乎苅核《ワカセコハカリイホツクラスカヤナクハコマツカシタノカヤヲカリサネ》
 
小松下乃草乎苅核、【官本コマツカモトノクサヲカリサネ、或コマツカシタノに作る、】
 
我セコは御供の人をさし給へり、作ラスは作るなり、又下人をして作らしむとも云べし、いほりさすなども讀みて一夜の宿りを結ぶなり、もしやねをふくべきかやなくば、小松がもとによきかやの有合て見ゆるを苅てふけと宣ふなり、カリサネはかりねなり、上にいへるがごとし、
 
初、わかせこはかりいほつくらす
此せこは、御供の人をさしたまへり。つくらすはつくるなり。又下人をしてつくらしむともいふへし。いほりさすなともよみて、一夜のやとりをむすふなり。もしやねにふくへきかやのなからは、小松かもとに、よきかやのありあひてみゆるを、かりてふけとのたまふなり。ふかさねは、ふきねといふに、字のたらねはさもしをそへたるなり
 
12 吾欲之野島波見世追底深伎阿胡根能浦乃珠會不捨《ワカホリシコシマハミセツソコフカキアコネノウラノタマソヒロハス》
 
不捨、【捨當2改作1v拾】
 
(27)ホリはほしきなり、言はわが聞おきてみまくほしかりし野嶋をば見せつなり、紀州にも野嶋あるか、もしは紀の海の濱づらを經てかなたこなた御覽じ給ふに、淡路の野嶋を見やらせ給ふにや、遠き野嶋をさへ見つるに、あこねの浦は目の前に見ながら、底の深さに歸るさの家づとにすべき眞珠をえひろひ給はぬが殘多くおぼさるゝとなり、不拾は第十五等に比利比弖など云へる古風に依て今もヒリハヌと讀むべし、
 
初、わかほりし野嶋はみせつ
ほるはほしきなり。からの文をよむに、下よりかへる所に、欲の字あるは、ほりすとよめとも、つよくいはむとて、ほつすといふなり。むさほるといふも、俗語にきたなきことを、むさしといへは、きたなく物ほしかるといふ心なるへし。わか聞をきてみまくほしかりし、野嶋をはみせつなり。紀州にも野嶋ある歟。もしは紀の海の濱つらを經て、かなたこなた、御覽したまふに、あはちの野嶋をみやらせたまふにや。遠き野嶋をさへみつるに、あこねのうらは、めのまへにみなから、そこのふかさに、歸るさの家つとにすへき、眞珠をえひろひたまはぬが、のこりおほくおほさるゝとなり
 
或頭云|吾欲子島羽見遠《ワカホリシコシマハミツルヲ》
 
ワガホリシコジマハ見シヲと讀べし、小嶋は見しをなり、
 
初、或頭云。吾欲(シ)子島羽見(ツル)遠。わかほりし、こしまはみしをとも讀へし。小島はみしをなり
 
右※[手偏+僉]山上憶良大夫類聚歌林曰天皇御製歌
 
此説ならば君が代とは御供の皇子大臣を宣ふべし、仁和帝僧正遍昭に七十賀給ひける御歌に、君が八千代とよませ給へり、
 
初、右檢云々。此説ならは、君か代とは、御供の皇子大臣を、のたまふへし。仁和のみかと、僧正遍昭に、七十賀たまひける御哥に、きみかやちよとよませたまへり
 
中大兄 近江宮御宇天皇 三山歌一首 【目録云、并短歌二首】
 
中大兄は天智天皇なれば尊とか皇子とか傍例によるに尤有べし、三山の下に目録には御の字あり、脱せるか、三山は、香具山耳梨山畝火山也、仙覺抄曰、播磨(ノ)風土(28)記(ニ)云、出雲(ノ)國|阿菩大神《アホノオホカミ》聞(テ)2大和國|畝火《ウネヒ》香山《カクヤマ》耳梨《ミヽナシ》三(ツノ)山相(ヒ)闘1以2此(ノ)歌(ヲ)1諫v山、上來之時到2於此(ノ)處1、乃聞(テ)2闘(フコト)止(ヌト)1覆《ウチカヘシ》2其所(ノ)v乘之船1而坐v之、故號2神集之形覆《カミツトヒノカタオホヒト》1、今御歌によれば、香山は雌山にて、畝火耳梨の二の雄山懸想して我妻にせんと相爭ひし事を詠じ給なり、此事何の比と云事不v、香山耳梨は十市郡にて南に香山北に耳梨山あり、畝火は高市郡にて、二の山よりは西に、鼎の如くにそばだてり、五雜爼に、宋史、竹書紀年、説海紀等を引て、あまた水の闘ことを載、此類なるべし、
 
初、中大兄 近江宮御宇天皇 三山。《御、目六》歌一首并短歌二首 目六
中大兄とのみかけるは、すこしいかゝとほゆ。尊とか、皇子とか有ぬへきにや。三山の下に、目六には御の字あり。おちたるなるへし
三山は、かく山、うねひ山、みゝなし山なり。昔いつれの時にか有けむ。此三山あひたゝかひけることあり。そのゆへは、かく山は雌山にて、うねひみゝなしのふたつは、雄山なり。此ふたつの山、ともにかく山にけさうして、をの/\われこそえてつまにせめと、あらそひて、なりとよきけるを、出雲國の阿菩大神と申神、聞たまひて、いさめてあらそひをやめしめむとて、はりまの國まておはしけるほとに、山のあらそひやみぬときゝて、のりたまひし舟をうちうつふせて、それに坐して國へはかへらて、はりまにとゝまりたまふ。此事をみつ山のあらそひといふを、よませたまへるなり。播磨國風土記云。出雲國阿菩大神聞2大和國(ノ)畝火、香《カク》山、耳梨山三山相闘1、以v此欲v諫v山上來之時、到2於此處1乃聞2闘止1覆2其所v乘之船1而坐之。故號2神|集《ツトヒ》之形覆1。もろこしにも、水のたゝかふことあり。明朝謝肇※[さんずい+制]か撰せる五雜俎曰。水|固《マコトニ》常有2闘者1。春秋書3穀洛闘毀2王宮1、竹書紀年載2洛伯用與2河伯〓夷1闘u。○宋史五行志(ニ)載高宗紹興十四年樂平懸河決衝2田數百頃1。田中水自起立如2爲v物所v吸者1。高v地數尺不v假堤防1而水自行。里南程家井水又高數尺天矯如v虹聲若2雷霆1、穿v垣毀v樓而出。二水闘2於杉?1、且前且郤十餘刻乃解各復2其故1。説海紀貴州普定衛有2二水1一曰2滾塘塞2一曰2閙蛙池1、相近前後。呉人從v軍至v此夜聞2水聲搏激1。既而其響益大。居人開v戸視v之波濤噴v面不v可2逼近1。坐以伺v旦。及v明聲息。二水一(ハ)涸一(ハ)溢。人以爲2水闘1。此亦古今所v有不v足v異也。三山のあらそひも此如なり
 
13 高山波雲根火雄男志等耳梨與相諍競伎神代從如此爾有良之古昔母然村有許曾虚蝉毛嬬乎相格良思吉《カクヤマハウネヒヲヲシトミヽナシトアヒアラソヒキカミヨヨリカヽルニアラシイニシヘモシカニアレコソウツセミモツマヲアヒウツラシキ》
 
格、【異本作v拾、非、】
 
カグ山ハとは此にてはかぐ山をばと云心なり、高山と書く事は神代より他山に異なれば義を以て書り、ヲヽシは日本紀に雄畧雄拔又雄壯と書く、男らしき心なり、源氏物語葵の卷、いとをゝしくあざやかに心恥しと、又少女に少しをゝしくあざやぎたるみ心にはと云云、かぐ山、上に云へるが如し、畝火耳梨又面白山なり、故に允恭紀云、新羅人恒(ニ)愛《ヲシム》2京城《ミヤコノ》傍(ノ)耳|成《ナシ》山|畝傍《ウネビ》山1、則到2琴引(ノ)坂1顧之曰、宇泥※[口+羊]巴椰彌巴椰《ウネメハヤミハヤ》、つぶさに(29)は此前後を見べし、異國の人さへめでけるにて知るべし、神代ヨリカヽルニアラシとは、神代より妻を爭ふ事はかくあるらしとなり、古へモシカニアレコソとは、しか〔二字右○〕はさ〔右○〕といふに同じ、さすがをしかすがとも云が如し、さあればこそなり、あればこそといはでかなはぬ所に、かやうには〔右○〕の字なければ、かたことのやうなれど、此集に此類多し、古語なり、ウツ蝉モ妻ヲアヒウツラシキとは、うつせみは世と云枕詞なり、別に釋せり、今其枕詞を世の事に用る事は、あしびきと云て山とし、玉鉾とのみ云て道の事に用るが如し、上に神代といひ古もとあれば、此空蝉は今の世を指してのたまふなり、妻を相うつとは、妻故に相うつなり、相格を義訓してアラソフとよむべきか、然らば妻を〔二字右○〕のてにをはも能く聞ゆるなり、格の字は相如が子虚賦にも獣を格と云に用たり、上にこそ〔二字右○〕と云てき〔右○〕とうけて止るてにをは、此集に數多見えたり、仁徳紀皇后御歌云、虚呂望虚曾赴多弊茂豫耆《コロモコソフタヘモヨキ》云云、此集より以後の集には不v見、歌の心は神代を始て其後の古へも今の世も、互に爭うちて身の失るをも不v知は色の道なりと云心を、情なき山を云出して人間の上に云及ぼし玉ふなるべし、妻を爭事はあり、此集に縵兒櫻兒芦屋のうなひをとめなどの類なり、
 
初、かく山はうねひをゝしとみゝなしとあひあらそひき
此四句は、みつ山のあらそひしことをのへたまへり。第一の句かく山をはと心得へし。かく山を、高山とかきてよむことは、神代より名高き山にて、他の山にことなれは、義をもてかけり。をゝしは、をのこらしきなり。日本紀に、雄略、あるひは雄拔、又は雄壯とかきて、をゝしとよめり。その心字のことし。源氏物語のあふひの卷にも、中將の君、にひ色のなをしさしぬきうすらかに衣かへして、いとをゝしくあさやかに、心はつかしきさまして參りたまへり。をとめには、すこしをゝしく、あさやきたる御心には、《卷名》しつめかたしともかけり。うねひのをゝしき山と、耳成山とか、をの/\われえむとあらそふなり。神代よりかゝるにあらし。いにしへもしかにあれこそとは、此三山のあらそひ、神代の事にて、さて神代よりかゝるわさはあることにあるらしとよませたまへるか。また人代になりてのことなるを、それよりさきの神代よりとよみたまふ歟。しかにあれこそとは、しかはさといふにおなし。さすかともしかすかとも、いふかことし。さあれはこそなり。あれはこそといはてかなはぬ所に、かやうにばの字なけれは、今のみゝにきけは、かたことのやうなれと、此集に此類おほきことなり。古語のならひと知へし。うつせみもつまを、あひうつらしきとは、うつせみは、世といふへき枕詞別に釋しをけり。今はその枕詞を、やかて世の事に用たまへるは、あしひきといひて山とし、玉ほことのみいひて、すなはちみちとするかことし。神世といひ、いにしへもとあれは.これは今の世なり。格の字は手に從て挌につくるへし。妻をあひうつとは、つまにあひうつなり。つまゆへにたかひにうつ心なり。相格をあらそふともよめり。上にこそといひて、きとうけてとむるてにをは、此集にはあまた見えたり。古今集をはしめて、そのゝちはみえぬことなり。つまにあひうつといふへきを、つまをとあるたくひもまたこの集におほし。さて妻をあらそへることは、此末に見えたる、縵兒、櫻兒、蘆屋のうなひをとめなとのたくひなり。おほよそ色このむことにつきては、経文《・法華》に婬欲熾盛不擇禽獣とゝかれたるかこときは、あさましきことにて、色このむといふまてもなし。又もろこしのたゝしき聖の道なとはしはらくをきぬ。此國には聖君賢臣ときこゆるも、すこし色をはこのまれけるなり。されと古公の時、内に怨女なく、外に曠夫なしといふかことく、身をつみて人のうへにもをよほしたまひければ、はかなきことの、あはれにもやさしくもきこゆる事おほし。そのほかよのつねのおとこ女のなさけも、俊成卿の、こひせすは人は心のなからまし物のあはれはこれよりそしると、よみたまひけんやうに、おかしうきこゆる昔物かたりもあれと、あまりに入たちぬれは、人をも身をもそこなふ、むくつけき事さへ出來るものなるゆへに、三山のあらそひにことつけて、いましめをのこしたまふなるへし
 
反歌
 
(30)14 高山與耳梨山與相之時立見爾來之伊奈美國浪良《カクヤマトミヽナシヤマトアヒシトキタチテミニコシイナミクニハラ》
 
イナミ國原とは、播磨に印南(ノ)郡あり、阿菩大神そこに止り給ひけるなるべし、難波の國芳野の國と云が如く、郡なれども國と云べし、地の字郷の字など國とよめり、此まゝにては阿菩大神の播磨までおはしたることゝは聞えずして、印南が大和へ來らんやうなれど、古歌は例として委からす、又今こそあれ、昔は此爭の事時の人普く知べければ、大抵を取てよみ給なるべし、業平の雨中に藤を人に送るとて、ぬれつゝぞ強で折つるとよまれたる類に見るべし、
 
初、かく山とみゝなし山とあひし時たちてみにこしいなみくにはら
此哥にては、耳梨山にあひて、うねひ山のまけてやみたらんやうなれと、あひし時は、あはむとせし時なるへし。あらをひのやみけんやうはしらねと、はかりておもふに、みゝなし山にもあはむとする時、うねひ山のことにうらみてあらそひけるなるへし。さてみゝなし山もえあはす、うねひ山もおもひやみて、持になりて和睦せるにや。下の句阿菩大神出雲よりたちて、はりまにおはしてとゝまりたまへと、あらそひやますは、やまとまてのほりたまふへき本意なれは、かくはのたまへり。いなみくにはらとは、播磨に印南郡あり、そこにとゝまりたまひけるなるへし。くにはらはさきに釋せるかことし。なにはのくに、よしのゝくにといふかことく、郡なれともくにといふへし。地の字郷の字なと、くにとよめり
 
15 渡津海乃豊旗雲爾伊理比沙之今夜乃月夜清明已曾《ワタツミノトヨハタクモニイリサシコヨヒノツキヨスミアカクコソ》
 
ワタツミは海の※[手偏+總の旁]名、また海神をも云、今は海神か、トヨ旗雲は八雲に云、大なる旗に似て赤き夕の雲なり、【袖中一委記、】皇覽云、※[山/虫]尤家在2東郡壽張縣※[門/敢]郷城中1高七尺、常十月祠v之、有2赤氣1出如v絳、名爲2※[山/虫]尤旗1、懷風藻、大津皇子遊獵詩云、月弓輝2谷裏1、雲旌張2嶺前1。今かくつゞけ給は、雲は海神の興す物なる故か、海賦には吐2雲霓(ヲ)1潜(ス)2靈居1と云、此集十八には、此みゆる天の白雲わたつみの、奥つ宮べに立渡などもよめり、又皇覽に※[山/虫]尤が旗といへるやうに、海神の旗といへる心にや、第十六に、わたつみの殿のみかさなどよ(31)めるを思合すべし、此御歌は注の如く反歌とは不v見、唯夕の雲の赤くたなびけるに入日の能さすをば、世にも日より能相とすれば、今宵の月は、必澄て明なるべきを喜ぴて詠じ給ふなるべし、
 
初、わたつみのとよはた雲に入日さしこよひの月夜すみあかくこそ
此御哥は、注のことく、反歌とはみえす。たゝ月を御覽せむとおほしめすころ、おりしもゆふひやけして、月もあかゝるへき相なれは、よろこひおほしめして、よませたまへるなるへし。わたつみとしもよみ出させたまふは、なにはなとへおはしまして、にしのかた海上はるかにみゆる所にてや、よませたまひけむ。又さはなくとも、とよはた雲は、夕ににしのかたに旗のなひきたるやうに、ひろこりたてるをいへは、西は海上天につらなりたれは、いつくにもあれ、かくつゝけさせたまふ歟。皇覽云。蚩尤冢在2東郡壽張縣※[門/敢]郷城中1。高七尺。常十月祠之。有2赤氣1出如v絳。名爲2※[山/虫]尤旗1。懷風藻大津皇子遊獵詩云。月弓輝2谷裏1、雲旌張2嶺前1
 
右一首歌今案不似反歌也但舊本以此歌載於反歌故今猶載此歟亦紀曰天豊財|重日足姫《イカシヒタラシヒメノ》天皇|先《サキノ》四年乙已(ニ)立《タテヽ》爲天皇(ヲ)爲(ス)皇太子(ト)
 
歟は疑の辭、此に叶はず、傍例に依に焉なるべし、立爲〔二字右○〕之爲〔右○〕字衍文也、皇極紀曰、四年六月丁酉朔康戌、讓2位於輕皇子1、立2中|大兄《オヒネヲ》1爲2皇太子1、かゝるを今言を加へて引ことは、齊明帝の下に皇極の御時の事を引けばなり、先といへるは、前後の四年紛るればなり、此四年は孝徳天皇に屬して大化元年なり、
 
初、後注の中に、立と天との中間の爲の字、けつりさるへし。皇極紀にいはく。四年六月丁酉(ノ)朔庚戌讓2位於輕皇子1。立2中|大兄《オヒネヲ》1爲2皇太子1
 
近江大津宮御宇天皇代 天命開別《アメミコトヒラカスワケ》天皇
 
天智紀云、六年春三月、遷2都于近江1、天命開別《アメミコトヒラカスワケ》天皇とは天智帝の諱なり、
 
(32)天皇詔内大臣藤原朝臣競憐春山萬花之艶秋山千葉之彩(ヲ)時額田王以歌判之(ヲ)歌
 
内大臣は鎌足なり、天智紀云、八年冬十月丙午朔庚申、天皇遣2東宮大皇弟於藤原内大臣家1授2大職冠與(ヲ)2大臣(ノ)位1仍賜v姓爲2藤原氏1、自v此以後通曰2藤原大臣1云云、皇極紀に中臣鎌子(ノ)連とて、天智帝のいまだ中大兄皇子にておはしましけると謀を合て、蘇我(ノ)入鹿を誅し大功を立し人なり、皇極紀より天智紀までに具に見えたり、又續日本紀にも往々に出たり、大職冠は孝徳天皇三年に七色十三階の冠を制し給ふ其第一なり、今も大職冠と申すは此故なり、今此詔を承給ふ時はいまだ内大臣にあらず、又天武三年八姓を分ち、十三年冬十一月五十二氏に姓を朝臣と賜ふ、藤原も其隨一なれば此時までは朝臣の稱なきを、此に朝臣といへるは共に後人の筆なればなり、題の心は、花咲る春山と紅葉する秋山と何れか勝劣あると、大職冠に勅して諸の王臣をして心々を爭はしめ給ふ時、額田王判斷せる歌なり、此判も勅に依か、又此は秋の方人にて秋や勝れたる事を判决してよむとも判と云べし、又兩方を合せて判者としてよまれたるにても侍るべし、題に春山秋山と云て字を替(33)ず、歌も亦山の外に出ざれば廣く春秋を比べて云には非ず、たゞ山に付て爭ふなり、されど拾遺、新古今等の歌并に源氏物語等に春秋の爭ひを記せり、皆此集を濫觴とす、風流の事なり、
 
初、近江大津宮
天皇詔2内大臣藤原朝臣1。日本紀を考るに、天武三年に八姓を分、十三年冬十一月に五十二氏に姓を朝臣と賜ふ。藤原もその隨一なり。後の人の詞なるゆへ、こゝに朝臣とかけり。大織冠なり。さてこの心は、大織冠に勅して、よろつの花の咲みたれたる春の山やおもしろき。ちゝのもみちのてりかはしたる秋の山やあはれなると、人々に、をの/\方人となりて、をとりまさりを、あらそはしめたまふ時、額田王、秋山のまされるよしを判斷したまへる哥なり。是も天氣にて判したまひけるにや。ひろく春秋をくらへて、勝劣を論するにはあらす。たゝ山につきてあらそふなり。春山秋山の字に心をつくへし。哥もその心とみえたり。されとも、のちの人春秋をあらそひけるは、これを濫觴といふへし。拾遺集雜下に、ある所に春秋いつれかまされるとゝはせたまひけるに讀て奉ける。紀貫之。はるあきにおもひみたれてわきかねつ時につけつゝうつる心は。元良のみこ、承香殿のとしこに、はるあきいつれかまさるとゝひ侍けれは、秋もおかしう侍りといひけれは、おもしろき櫻を、これはいかゝといひて侍けれは、大形の秋に心はよせしかと花みる時はいつれともなし。題しらす。よみひとしらす。春はたゝ花のひとへにさくはかり物のあはれは秋そまされる。新古今集春上にいはく。祐子内親王、ふちつほに住侍けるに、女はうゝへひとなと、さるへきかきり、ものかたりして、春秋のあはれいつれにか心ひくなとあらそひ侍けるに、人々おほく秋に心をよせ侍けれは。藤原孝標女。あさみとり花もひとつに霞つゝおほろにみゆる春の夜の月。源氏物語野分に、春秋のあらそひに、昔より秋に心よする人はかすまさりけるをといへり。彼物語抄に、樹下集を引ていはく。しかのとよぬし、大伴くろぬしらか論議の哥。豐主とふ。おもしろのめてたきことをくらふるに春と秋とはいつれまされる。くろぬしこたふ。春はたゝ花こそはちれ野邊ことににしきをはれる秋はまされり。又謙徳公いまた宰相中將の時、應和三年七月二日、かのきむたち春秋の歌合のことあり。秋のかたより。花もみつもみちをもみつ虫のねもこゑ/\おほく秋そまされる。今をのかこゝろさしをいはゝ、まことにはつらゆきのやうに、ふたつのかたをこそぬくへけれと、たからを腰にまとひて、楊州の鶴となることを得すして、かならすひとつををけとならは、なく/\東君のために、左の肩をこそ
 
16 冬木成春去來者不喧有之鳥毛來鳴奴不開有之花毛佐家禮杼山乎茂入而毛不取草深執手母不見秋山乃木葉乎見而者黄葉乎婆取而曾思叔布青乎者置而曽歎久曾許之恨之秋山吾者《フユコナリハルサリクレハナカサリシトリモキナキヌサカサリシハナモサケレトヤマヲシケミイリテモトラスクサフカミトリテモミエスアキヤマノコノハヲミテハモミチヲハトリテソシノフアヲキヲハオキテソナケクソコシウラミシアキヤマソワレハ》
 
冬木成は春の枕言なり、別に注す、春サリクレバ、此も多ければ共に別に注す、始より花モサケレドと云までの六句は、春の賞すべき事を云立るなり、鳥なき花さくと云に春の面白事を盡せり、咲れどのど〔右○〕の字は雖の字にてゆるして奪ふ詞なり、山を茂みと云より秋の勝れる事をいはんとて春の山を云おとすなり、花はさけ共山の茂ければ入て手折る人もなく、草深ければ分て取手もなし、手も人なり、用を以て體を呼なり、秋山以下の四句は秋を譽るなり、取テゾ忍ブとは、春は花さけれど山茂りて(34)よそにのみ見て止しが、黄葉の比は草も枯る故山に入て枝を折取て見るとなり、忍とは過にし方を慕ふのみに非ず、眼前の事もあかず思ふを云なり、集中に此心多し、青キヲバ置テゾ嘆クとは、紅葉の中に青葉の有をば折ても見ずして是さへひとつに紅葉せぬ事を嘆くなり、ソコシウラメシとは青葉は秋も折人なければ其所がうらめしければ我はもみぢする秋山を勝ると定るぞとなり、恨めしとは春に心ゆかぬ所のあるに恨を殘すなり、
 
初、冬木なりはるさりくれは
花もさけれとゝいふまての六句は、春山の方人、春の賞すへきことをいひたつるなり。冬木成は、冬木となりて、落葉するをいふにはあらす。冬至の比より、陽氣の下にもよほして、年立かへれは、木のめのはるといふ心につゝくれは、なるは成就の心なり。春さりくれは、これは、春されは秋されはといふには心かはるなり。者されはといふは、春之在者ともかけるにより。春にあれはといふ心なり。定家卿もかく心得たまへり。今のはるさりくれはといふは、春は東よりくれは、かしこをさりてこゝにくる心なり。まことは、速くかしこよりこゝにくるまてもなく、すこしうこきて、その所をうつるは、去なり。又さるといふかすなはち來るなり。第十に、風ませに雲はふりつゝしかすかに霞たなひき春さりにけり。是は春はきにけりといへるなり。鳥もなき花もさくといふに、春のおもしろきことをつくせり。さけれとのどは、雖の字にて、ゆるして奪ふ詞なり。山をしけみといふより下の四句は、秋山の方人、秋のまされる事をいはむとて、春をいひおとすなり。花はさけとも、春山のしけゝれは、入てたをる人もなく、草ふかけれは、わけてとる手もなきなり。手も人なり。用をもて體をよふなり。秋山以下の四句は、秋をほむるなり。とりてそしのふとは、春山の花は、草ふかく、木くらくて、よそにのみ見てやみにしが.心ゆかさりしを、もみちの比は、草もかれて入やすく、心のまゝに、錦とみゆる枝を折取て見るなり。しのふとは、過にしかたをしたふをいふのみにあらす。眼前のことも、あかすおもふをいふなり。古今集にみる物からやこひしかるへきといへるかことし。青きをは、をきてそなけく。そこしうらめし。秋山そ句われは。此中に、初の二句にて、春秋をまさしくゝらへて、秋をまされりとするなり。その心は秋山のにしきとみゆる中に、もみちのこりて、あを葉なるかあるをは、おる人もなくて、これさへひとつにもみちしてあらましかはとなけくなり。終の二句にて判定するなり。そこしうらめしとは青葉は、春山の色にて、秋も折人なけれは、そのところかうらめしけれは、わかまさるとさたむるは、秋山そとなり
 
額田王下近江國時作歌井戸王即和歌
 
井戸王不v詳、此題傍例に違へり、此には額田王下2近江國1時作歌一首并短歌と題して、綜麻形の歌の處に井戸王即和歌一首とありぬべき事なり、古記のまゝ歟、
 
17 味酒三輪乃山青丹吉奈良能山乃山際伊隱萬代道隈伊積流萬代爾委曲毛見管行武雄數數毛見放武八萬雄情無雲乃隱障倍之也《ウマサカノミワノヤマアヲニヨシナラノヤマノヤマノハニイカクルヽマテミチノクマイツモルマテニマクハシモミツヽユカムヲシハシハモミサケムヤマヲコヽロナキクモノカクサフヘシヤ》
 
委曲毛、【幽齋本點、クハシクモ、】
 
(35)味酒、青丹吉、別に釋す、三輪の山の下にを〔右○〕文字を入て心得べし、山ノマは、山の間なり、又山際を山ノハともよめり、それは峯の心なり、イカクルヽのい〔右○〕は發語の詞なり、道ノクマ、神代紀、大貴己命曰、今我當於|百不足《モヽタラス》之|八十隈將隱《ヤソクマチニカクレナン》矣、【隈此云2矩磨?《クマチ》1、】社預左傳註、隈、陰蔽之處、イツモルの矣〔右○〕發語の詞、たゞ積るなり、道のひぢをる所數多あるを云、マグハシは、唯くはしくなり、ミサケンは第十九に、語さけ見さくる入目などよめり、是も三輪山を見つゝ故郷を去て行旅懷を避んものぞとなり、カタサフベシヤはかくしさはるべしやにて、落着はかくしさはるべきものにはあらずとなり、此歌は下2近江(ノ)國1時と題したれば、まだ滋賀へ遷都し給はぬ時、勅にても私にても下らるゝとてよまれたりと見えたり、飛鳥にありて面白く常に見馴れし三輪山を、奈良の山のはにかくるゝまで、數々の道の隈を行かぎりは見つゝ行きて、しば/\思ひを慰めんものを、雲は心なくて如是遮る事の殘多きとなり、大江嘉言が歌に、思ひ出もなき古さとの山なれど、隱れ行はたあはれなりけり
 
初、うまさかのみわの山あをによしならの山の
味酒、青丹吉は、別に釋しつ。みわの山をと、をの字をそへて心得へし。いかくるゝは、いは發語の詞。道のくまは、行まかる所なり。いつもるはいはまた發語の詞。つもるは道のくま/\ひちをるその數のつもるなり。神代紀に、大己貴命のゝたまはく。今我當於2百|不《ス》v足之|八十隈《ヤソクマチ》1將2隱去1矣【隈此(ヲハ)云2矩磨※[泥/土]《クマチト》1。】杜預左傳註(ニ)隈(ハ)陰蔽之處。まくはしも、みつゝゆかんを。眞委見てゆくへき物をなり。なら山にかくれ、行まかるそのくま/\にさはりて、みえすなるまては、くはしく見、しは/\見てたにゆかむものをなり。みさけんは、第三卷にとひさくるといふ詞あり。物かたりなとして、おもひをさくるなり。これもみわ山をみつゝ、故郷をさりて、ゆくおもひを、さけむものをとにや。みわ山は、第二卷に天武天皇崩したまひて、持統天皇のなけきよませたまふ御哥にも、朝夕に、みわ山のことをのたまひし物をとあれは、他にことなる山にて、今もみわ山とわきてよみたまへる歟。又みわに住たまへるが、あふみへうつるとて、なこりをおしみてよみたまへる歟。大江|嘉言《ヨシトキ》か哥に、おもひ出もなきふるさとの山なれとかくれ行はたあはれなりけり
 
反歌
 
18 三輪山乎然毛隱賀雲谷裳情有南畝可苦佐布倍思哉《ミハヤマヲシカモカクスカクモタニモコヽロアラナムカクサフヘシヤ》
 
(36)畝【官本云、或作v武、】
 
シカモカクスカは如是かくすかななり、古今集貫之歌に、みわ山をしかもかくすか春霞、人にしられぬ花や咲らん、此歌を取れるにや、歌の義明かなり、
 
初、みか山をしかもかくすか雲たにも心あらなんかくさふへしや
しかもかくすかは、しかのことくもかくすかなり。せめて雲なりとも心ありて、みわ山をゆく/\みるへき限はみせもせて、かくしさはるへしやとなり。古今集貫之哥に、みわ山をしかもかくすか春かすみ人にしられぬ花やさくらん。此哥を取てよまれけるにや。陶淵明歸去來辭曰。雲無v心而出v岫
 
右二首歌山上憶良大夫類聚歌林曰遷都近江國時|御覽《ミソナハス》三輪山|御歌《ミウタ》焉日本書記曰六年丙寅春三月辛酉朔巳卯遷都于近江
 
これによれば御製なり、歌の心隨て見るべし、
 
19 綜麻形乃林始乃狹野榛能衣爾著成目爾都久和我勢《ソマカタノハヤシハシメノサノハキノコロモニキナシメニツクワカセ》
 
綜麻形乃林始、仙覺の曰、林の茂くして杣山などの形のごとくはやし初る心なり、そまかたに道やまどへるとよめる歌も、杣方と心得られたりと見えたり、今案、日本紀に綜麻をヘソとよめり、始の字は第十九に、始水をミツハナと點じたれば、水はなは水の出さきをいへば、今はサキと訓じて、ヘソカタノ、林ノサキノと讀べきか、古歌に、(37)山深くたつをだまきとよみ、狹衣に、谷深く立をだまきは吾なれや、思ふ心の朽てやみぬるとよめるも、木の打しげりて丸に見ゆるが、をだまきのやうなれば、やがて押て苧環と名付たるか、若爾らばへそかたの林といはむ事も可v准v之、さてこれは所の名歟、狹野榛、狹はたゞ野榛也、榛ははりの木、俗にはんの木と云、古は此皮を以て絹を染たるを榛染と云、此榛と萩と紛るゝ事あり、又集中多く有れば別釋す、衣爾著成、是はキヌニツクナスと讀べきにや、神代紀は如五月蠅をサバヘナスとよめるは、さつきの蠅のごとくと云心なれば、つくなすも、つくごとくなり、此集に鏡なす玉藻なすなど讀り、十四に、高き根に雲のつくのすと云も雲のつくなすにて、雲の山に著如也、歌の心は、榛の衣に染つくやうに、我思ふ人は目につきて離ぬと云なり、此集第七に、今つくるまたら衣は目につきて、我におもほゆいまだきね共、此心なり、ワガセは、女を指て云へり、背も男女に通ず、別に釋す、此歌の註にいへる如く、始の長歌を和する歌とは見えず、
 
初、綜麻形の林始のさのはきのきぬにつくなすめにつくわかせ
木のしけき所は、杣人の入山のかたちに似たれは、そまかたといふといへり。蓬か杣なといふ心に見たる歟。綜麻形とかきたれは、ことなるよみやうもあるへき歟。日本紀に結総麻かきてへそとよみたれと、こゝにはかなふへくもなし。もしそまかたの林といふ名所にても侍るか。林始はその林のはしめにある榛といへり。今案始の字は、此集末に至て、始水とかきて、水はなとよめるは、世俗にいふ水の出はななり。かくもよみたれは、今は林のさきとよむへき歟。さのはきは、さは物によくつけていふ詞なり。雉子を野つ鳥といふを、此十六には、さのつ鳥とよみたれは、唯野にある榛なり。榛ははりの木なり。俗にはんの木といふ。武士の氏に榛谷といふもこれなり。片山里の川邊なとにおほき木なり。昔は榛摺のきぬとて、よき人も此皮をもてそめけるなり。萩か花すりといふ事もあるゆへに、榛と萩とよくまきるゝなり、衣爾著成を、ころもにきなしとよめるはあやまななり。きぬにつくなすとよむへし。神代紀に、如五月蠅とかきて、さはへなすとよめり。此集に、鏡なす、玉藻なすなとよめる、皆かゝみのことく、玉ものことくなり。しかれは、榛染の、よくきぬにしみつくかことく、わかめには、君かつきてみゆると、たとへてよめるなり。第七に、いまつくるまたら衣はめにつきて我におもほゆいまたきねとも。つくなすとよめるは、第十四に、高き根に雲のつくのす我さへに君につきなゝ高根ともひて。これは東哥なれは、雲のつくなすといふを、つくのすとよめり。もひてはおもひてなり。此わかせは、女をさしていふ。まことに、右の長哥を和する哥とは見えす
 
右一首歌今案不似和歌但舊本載于此次故以猶載焉
 
天皇遊獵蒲生野時額田王作歌
 
(38)蒲生野は近江蒲生郡にある野なり、此獵は藥獵なり、後の注の下に注すべし、
 
20 茜草指武良前野逝標野行野守者不見哉君之袖布流《アカネサスムラサキノユキシメノユキノモリハミスヤキミカソテフル》
 
アカネサスは集中に多き詞なり、茜刺、あから引、さにづらふ、さにづかふ、にほす、にほふ、丹の穗、皆似たる言なり、色のにほふと云も赤き色より云言なれば、茜刺も大かた匂ふ心なり、委は別に注す、紫は赤黒相まじはりてうるはしき色なれば、それをほめて茜刺とは云出せり、第十六に、さにづかふ色に名付る紫の、大あやの衣とよめるも此心なり、元明紀に、大寶元年の服制に黒紫赤紫と云は、深紫、淡紫なり、赤紫にあかねさすとつゞけんは勿論なり、黒紫にも匂ふ心につゞけむに子細なかるべし、紫は野に生て女の色よきに喩ふる物なれば、官女のあまた御供して彼方此方打群あるくを以て蒲生野を押て紫野と云へり、太子の御答に此紫野を受て紫の艶《ニホヘル》妹とよませ給へるにて彌明にしられたり、又第三につくま野に生る紫とよみたるも同國なれば、蒲生野に實に紫の有によせてよませたるにても侍るべし、シメ野〔三字右○〕は御獵のためしめ置なれば、蒲生野を云にて、行は野守のゆくなり、今此紫野標野といへるを他國の名所とするは此歌の理に叶はず、俊頼朝臣の歌にいふ、紫野みかり塲ゆゝし眞白(39)なる、倶知の羽かひに雪ちりほひて、是紫野は今の歌によりて蒲生野をよまれたるか、狩をよまれたるはこゝの狩を鷹狩と思はれけるか、但藥狩と知りながら鷹狩をもよまるべし、又匡房卿の歌云、がまふ野の標野の原の女郎花、野守に見すな妹が袖ふり、これは蒲生野をやがて標野とし、君といへるを女と心得て女郎花とはよまれたり、大意は、帝の供奉の官女袖打ふりて遊行く艶麗のありさまを、皇太子に見給ふや御目の留らんと云意なるべし、野守は皇太子を比して云なり、
 
初、茜さす紫野ゆきしめ野ゆき野守はみずや君か袖ふる
此哥のよみやう、かゝはる所なくおもふまゝにて、上代ならすはよむこともあたはす人もゆるさし。心うることのやすからぬ哥なり。大意は、みかりの御供に、女もあまた具せさせたまへるが、簾中を出てまれにめつらしくみる野なれは、こなたかなた打むれてあるくを、天武天皇、時に太子にてましますに、御覽しつやと讀て奉り給ふなり。あかねさすとは、月日の光のあかきをもいひ、又十六卷の哥に、あかねさす君とよめるは、紅顔のにほへるをいへり。今も紅顔をほめんとて、かくはよみ出たまへり。紫は野におふる物なれは、色よき女のおほきをたとふとて、蒲生野をゝさへて紫野といへり。おなし國にて、つくまのにおふる紫と、此第三によみたれは、かまふ野にまことに紫のあるによせて、よまれたるにても侍るへし。あかねさす紫とつゝけ紫野とよまんこと、哥をわか物に領したる人にあらすは、おもひもよるまし。しめ野とは、けふのみかりのためにかねてしめをく野なれは、これもかまふ野をいへり。君か袖ふるとはかの女とものしなひたる袖うちふりてゆくを、野もりはみすやとなり。太子を野もりによせて、御めのとまらんと云こゝろなるへし。又君か袖ふるとは、太子をさしていへる歟。彼紫に御目のつける歟。袖ふらせたまふを、野守の野をまもることく、紫を領する人は、みすやといふ心歟。御かへしの人つまゆへにと、あるよりみれは、さもありぬへくきこゆ。俊頼哥に、紫野御かりはゆゝしましろなる|くち《・倶知》のはかひに雪ちりほひて。匡房哥、かまふのゝしめのゝ原の女郎花野もりにみすな妹かそてふり。此哥は君か袖ふるを、女の袖ふると心を得てよみたまへり。此紫野しめ野にまとひて、さいふ所のあるやうにおもへるはいふかひなし
 
皇太子答御歌 明日香宮御宇天皇
 
皇太子、白虎通曰、漢天子稱(ス)2皇帝1、其(ノ)嫡嗣稱2皇太子2、【上下畧、】此皇太子は天武帝也、
 
初、皇太子答御歌
白虎通曰。何以知3天子之子稱2世子1。春秋傳曰。天子之子稱2太子1。或曰諸侯之子稱2太子1。則春秋傳曰晉有2太子申生1。周制太子世子亦不v定也。漢(ハ)天子稱2皇帝1其嫡嗣稱2皇太子1諸侯王之嫡稱2世1。後代咸因v之。
 
21 紫草能爾保敝類妹乎爾苦久有者人嬬故爾吾戀目八方《アキハキノニホヘルイモヲニククアラハヒトツマユヱニワカコヒメヤモ》
 
紫草はムラサキノとよむべし、アキハキと點ぜるは誤なり、推量するに此点の失したる本に向て、第十五卷に、あきはぎのにほへるわが裳とよめる七夕の歌などを思て後人のかく點ぜるか、六帖、人妻の歌、仙覺抄に此を載たるにも紫のとあり、同v之、官本亦同、尤可v然、ニクヽアラバとは嫌はしく思はゞなり、惡人などを憎むと云心のにくむ(40)にはあらず、第十に、吾こそはにくゝもあらめわが宿の、はな橘を見にはこしとや、と詠ぜるも同じ、紫の如く匂へる妹をきらはしく思ば、我領せぬよそめ計の色にかくまで戀むやとなり、順〔左○〕して和し給へり、人ツマは他の字をひと〔二字右○〕とよめば他妻なり、第十に、あからひく色たへの子をしばみれば、人妻ゆゑにわれこひぬべし、此歌今の御歌に似たり、第十二に、人妻ゆゑにわれ戀にけりともよめり、紀曰、五月五日の御獵は藥獵なり、藥獵とは鹿茸を取んためなり、きそひ獵とも云、百艸を取を云と意得るは誤なり、推古紀云、十九年夏五月五日藥2獵於菟田野1、二十年夏五月五日藥獵之集2于羽田1云云、二十二年夏五月五日藥獵なり、これ同日なれば藥獵と知られたり、此集十六、乞食者の爲v鹿述v痛歌に、う月とさつきの程に藥がりつかふる時にとよみたれば、これを以て鹿獵とは知れり、此集第四人丸の歌に、夏野行男鹿の角の束のまも云云、和名藥部云、雜要決云、鹿茸、【和名、鹿乃和加豆乃、】鹿角初生也、月令に五月鹿角解とあれども、少々は遲速ある事物毎の例なり、まづは五日にて四五月の間はすることにや、乞食者の歌のみならず、第十七家持歌に、かきつばた衣にすりつけますら男の、きそひがりする月はきにけりとよまれたるも四月五日の歌なり、同き天皇此後も亦此日狩をし給へり、紀云、八年夏五月五日壬午、天皇縱2※[獣偏+葛]於山科野1、
 
初、紫草のにほへる妹をにくゝあらは人つまゆへにわか戀めやも
紫草を、あきはきとよみなせるは、古點には侍らし。おほきにあやまれり。紫野といふをうけて紫のといひ、あかねさすといへるをは、にほへるとつゝけさせたまへり。にくゝあらはとは、きらはしくおもはゝなり。憎惡といふほとのにくむにはあらす。惡寒なといふほとのにくむなり。第十に、われこそはにくゝもあらめわかやとの花橘を見にはこしとやとよめるもおなし。まことに、紫のことくにほへる妹をきらはしくおもふ我ならは、わか領せぬよそめはかりの色に、かくまてはこひむやと、順してかへしたまへり。第十に、あからひく色たへのこをしばみれは人つまゆへにわれこひぬへし。此哥今の御うたにゝたり。第十二に、さゝのうへにきゐて啼点めをやすみ人つまゆへにわれこひにけり
 
(41)紀曰天皇七年丁卯夏五月五日|縱獵《カリシタマフ》於蒲生野于時|天皇弟《ヒツキノミコ》諸王《オホキミタチ》内臣《ウチノマウト》及(ヒ)群臣《マムテキムタチ》皆悉|從《オムトモナリ》焉
 
天皇弟は日本紀作(ル)2大皇弟1、按ずるに、今の天は上に一畫を餘し、日本紀は下に一點を脱せる歟、太に作らば然るべし、太皇弟は帝之弟を儲君に立つるを云、太皇叔の類なり、晋書帝紀四曰、晋惠帝永興元年三月河間王※[禺+頁]表請(テ)立2成都王穎1爲2太弟1云云、
 
初、紀曰――。五月五日の御かりは、藥獵なり。藥獵とはしかのわかつのをとらんためなり。きそひかりともいふ。百草をとることなりとおもへるは、あやまれり。第十六、乞食者のうたに、う月と、さつきのほとに、藥かり、つかふる時にとよみたれは、まつは五日にて、四月五月のあひたは、おなしく藥獵といふなり。第十七、家持哥に、かきつはたきぬにすりつけますらをのきそひかりする月はきにけり。此藥獵、日本紀にみえたるは、推古紀云。十九年夏五月五日藥(リ)2獵(シタマフ)於菟田野(ニ)1取2鷄鳴時《アカトキヲ》1集2于藤原池上(ニ)1以2會明《アケホノヲ》1乃往之。栗田(ノ)細目(ノ)臣《オム》爲2前(ノ)部領《コトリ》1。額田部(ノ)比羅夫(ノ)連爲2後(ノ)部領《コトリ》1。是(ノ)日諸臣(ノ)服色皆|隨《マヽナリ》2冠色(ノ)1。各|着《キセリ》2髻華《ウズ》1。則大徳小徳(ハ)、竝用v金、大仁小仁(ハ)用2豹尾《ナカツカミノヲ》1、大禮以外用2鳥尾1。二十年夏五月五日藥獵之。集2于羽田1以相連參趣於朝1。其|裝束《ヨソホヒ》如2兎田之獵1。二十二年夏五月五日藥獵也。推古天皇十九年に、はしまりて、今の天智天皇七年まて、以上四度、そのゝち見えす。天皇弟《ヒツキノミコ》今の印本の日本紀に、天を大に作れるは、上の一畫をうしなへり。こゝにひけるを證とすへし。日次のみことゝよめるは、同母の弟なるが、太子にてましませはなり
 
明日香清御原宮天皇代 天渟中原瀛眞人天皇
 
明日香(ノ)清御原(ノ)宮は、天武元年紀曰、是歳營2宮室於崗本宮南1即冬遷以居焉、是謂2飛鳥(ノ)淨御原(ノ)宮1、考物曰、大和國高市(ノ)郡今(ノ)嶋(ノ)宮(ノ)正東地是也、或者(ノ)云、多武峯の西につゞき細川山あり細川村あり、村の西四五町許に淨御原宮の遺跡あり、俗に淨御を音に云といへり、
 
初、天(ノ)渟中原瀛眞人《ヌナハラオキノマツトノ》天皇。日本紀に中をなと注せり
 
天渟中《アマヌナ》【日本紀注曰、渟中此云2農難1、】原瀛眞人《ハラオキノマヒトノ》天皇は天武帝の諱なり、
 
十市皇女參赴於伊勢神宮時見波多横山巖吹黄刀自作(42)歌
 
十市(ノ)皇女(ハ)天武帝(ノ)皇女、母(ハ)額田姫王、詳2于日本紀1、懷風藻を見るに、大友(ノ)皇子の妃となりて葛野王を生給へり、後は高市(ノ)皇子の妃と成給へるか、第二の高市(ノ)皇子の御歌を見るべし、波多(ノ)横山不v詳、和名云、高市(ノ)郡波多とあれば、此處淨御宮より伊勢への路次にや、姓に波多(ノ)朝臣あり、吉の姓は多く居地に依て賜たれば、先祖此地に居住せられけるか、第十にはた野とよめるも其邊にや、羽田と云所は別なり、其故は波多氏尸は朝臣、羽田氏は眞人なり、是を以て知るべし、
 
22 河上乃湯都盤村二草武左受常丹毛冀名常處女煮手《カハカミノユツハノムラニクサムサスツネニモカモナトコヲトメニテ》
 
第二の句を伊勢の地の名と云説あれど題の心に違へり、今按ユツイハムラとよむべし、延喜式第八|祈年《トシコヒノ》祭(ノ)祝詞曰、四方 能 御門 爾 湯津磐村 能《ヨモノミカトニユツイハムラノ》如(ク)塞坐 ?《フサカリマシテ》云云、これ名所にあらざる堅い證なり、那※[日/丙]が爾雅疏に、盤、大石也といへり、幽齋本に盤を磐に作れり、神代紀、『復劔(ノ)刃垂血《ハヨリシタヽルチ》是爲2天(ノ)安河邊所在五百箇磐石《ヤスノカハラニアルイホツイハムラ》1云云、湯津杜樹《ユツカヅラ》、湯津爪櫛《ユツツマグシ》などを思合するに、ゆづ〔二字右○〕はしげき心か、村は上の村山を注せしごとく群の字の心にて多きを云、崇神紀に載る歌に、大坂につきのぼせるいしむらをと云云、此いしむらも石の(43)繁を云、此歌は面白き横山より潔くながるゝ水の其河上に並立る巖のありさまのあかず面白ければ、あはれ此巖の草の生ぬ如くなる仙女の壽命を保て、いつとなく此になかめをらばやと女の歌なればいへるなり、詞書に波多横山作歌とのみはかゝずして巖を見てといへるに心を著べし、集中の詞書に往々に此意ありと見えたり、凡境地風景に對して常なき世をなげく樣によめるは、其向へる所の物を貪愛するやうに云てほむる心なり、大納言旅人の歌に、わが命も常にあらぬか昔みし、きさの小川を行てみんため、其外第三弓削(ノ)皇子の吉野にての御歌、第六笠(ノ)金村の吉野にての歌等にも同じ心あり、
 
初、河上のゆついは村に草むさす常にもかもなとこをとめにて
湯津磐村とかけるを、ゆつはの村とよみて、ひとつの名所とするはあやまりなり。波多横山より、なかれ出る川上に、奇異なる巖の、いくらともなくならひてたてるをみてよめるなり。詞書の意をよくみぬによりてあやまれり。延喜式第八、祈年《トシコヒノ》祭祝詞の中にも、四方《ヨモ》能|御門《ミカト》爾|湯津磐村《ユツイハムラ》能|如(ク)塞(カリ)坐《マシ》※[氏/一]といへり。これは、いをついはむらを、上略してをゝゆに通していへるなり。此集に、をさゝをゆさゝとよみ、うつるをゆつるともよみ、從の字をよりとよむ、そのよりをゆともよめり。いをついはむらは.神代紀上云。遂拔(テ)2所帶十握《ミハカセルトツカノ》劔(ヲ)1斬(テ)2軻遇突智(ヲ)1爲2三|段《キタト》1。此各化2成神1也。復劔(ノ)刃《ハヨリ》垂《シタヽル》血是爲2天(ノ)安河|邊《ラニ》所在《アル》五百箇磐石《イホツイハムラ》1也。神道家には、湯といふ字たにあれは、清淨の義といへと、日本紀にも、字をかりてかけることおほけれは、清淨の義通せさる事もあるへし。ゆつかつらも、枝のしけきをいひ、ゆつのつまくしも、百刺櫛を、さしくしとよめは、はのこまかにしけきをいふへし。盤の字を書たるは、盤のことくなる石なれは、磐の字も、盤より作り出せる字にて、通するなり。村は、むら、むれ、皆群の字の心にて、おほきをいふ。崇神紀に、百襲《モヽソ》姫命の、箸御墓を、大坂山の石にてつきける時、人のよめる歌にいはく。大坂につぎのほせるいしむらをたこしにこさはこしかてむかも。これも、石のしけきを石村とよめり。はたのこよこ山のおもしろきより、底さへ見えて、いさきよくなかれくる、その川上に、えもいはぬいはほの天のやすかはらともみるはかり、ならひたるが、あかすおもしろけれは、あはれ此いはほともの、いくちよをふれとも、草のおひぬことく、われも仙女のことき壽命をたもち、とこをとめにて、いつとなく、こゝになかめをらはやと、女の哥なれはいへるなり。おほよそ、おもしろき所、月花なとに對して、身のつねならぬことをなけくやうによめるは、むかへる所の物をほむとて、貪愛するやうにいへはなり。第三卷に、大納言旅人、わか命もつねにあらぬか昔みしきさの小川をゆきてみんため。第六に笠金村、萬世にみともあかめやみよしのゝたきつ河内の大宮所。人みなの命もわれもみよしのゝ瀧のとこいはのつねならぬ鳧。初の哥をもこゝにかくは次の哥の心をあらはさんためなり。弓削皇子の吉野にての御哥に、瀧のうへのみふねの山にゐる雲のつねにあらんとわかおもはなくに。第三にあり。これも山の見あかぬよりのたまへり。齊奚公牛山の嘆もこゝに引へし。鎌倉右府、今の哥と、古今集みちのくはいつくはあれとゝいふ兩首をとりて、なきさこくあまの小舟といふ秀逸はよまれたるを、無常を觀する心にのみ釋しなせり。清少納言に、御前にあまた物おほせらるゝついてなとにも、世の中のなへてはらたゝしう、むつかしう、かた時あるへき心ももせて、いつちも/\いきうせなはやと思ふに、たゝのかみのいとしろうきよらなる、よき筆白き色紙、みちのくにかみなとえつれは、かくてもしはしありぬへかりけりとなん覺え侍る。又かうらいへりのたゝみの、むしろあをうこまかに、へりのもんあさやかにくろうしろうみえたる、引ひろけてみれは、何か猶さらに此世はえおもひはなつましと、命さへおしくなると申せは、いみしくはかなきこともなくさむかな。をはすて山の月はいかなる人のみるにかとわらはせ給ふ。さふらふ人も、いみしくやすきそくさいのいのりかなといふとかけるをおもふへし。こひする人も、おしからさりしいのちさへなかくもかなとよめるかし
 
吹黄刀自未詳也但紀曰天皇四年乙亥春二月乙亥溯丁亥十市皇女阿閉皇女參赴於伊勢神宮
 
第四にも此刀自が歌二首あり、吹黄は氏にて刀自は名なるべし、刀自は女の事にて歌にも常處女《トコヲトメ》にてといへるにて女とは知れり、但紀曰云云、紀は天武本紀也、十市(ノ)皇女見2于前1、阿閉、【日本紀作2阿陪1】天智紀曰、姪娘生2御名部(ノ)皇女(ト)與2阿陪(ノ)皇女1、【阿陪皇女即元明天皇也、】
 
(44)麻續王《ヲミノオホキミ》流於伊勢國伊良虞島之時人哀傷作歌
 
麻續(ノ)王、不v詳2其系譜1、
 
初、麻續王。をうみといふへきを、うみを上略して。をみといふ。續の字は、績にやとおもひつれと、日本紀、延喜式、此集みな續の字なり。續v麻曰v績と字書にあれは同し事なり
 
23 打麻乎麻續王白水郎有哉射等龍荷四間乃珠藻苅麻須《ウツアサヲヲミノオホキミアマナレヤイラコカシマノタマモカリマス》
 
打麻はウチアサと體によむべきか、ウツとよめば用なり、十二にうみをのたゝり打麻懸《ウチヲカケ》とよめるをウチヲと點ず、今も打ヲヽと四文字にもよむべし、麻をはぎて能やはらげうむを云なるべし、此はうち麻ををにうむと云心につゞけたり、アマナレヤはあまにあれやなり、落著はあまにもましまさぬ物を、痛はしく習はぬ業の玉もを刈給ふ事よといとをしむなり、袖中抄に此歌を釋せられたるに誤あり、見人知べし、
 
初、打麻をゝみの大きみ
第十二に、をとめらか、うみをのたゝり、うちをかけと侍る所に、今のことくかきて、うちをとよめり。麻をはぎて、よくやはらけてうめは、うちをといふなるへし。今もうちをヲと四もしにもよむへし。うちをといへは、打の字も體となり、うつあさといへは、打の字用なり。うちあさとよめは、うちをとおなし。うつとよむはあしかるへし。うちあさを、をにうむとつゝけたり。あまなれやは、あまにあれはにやなり
 
麻續王聞之感傷和歌
 
24 空蝉之命乎情※[草冠/夷]浪爾所湿伊良虞能島之玉藻苅食《ウツセミノイノチヲヲシミナミニヒテイラコノシマノタマモカリマス》
 
情?、【二字當v作2惜美1乎、但おしむと云に情の字をか ける所集中に多し、三之四十九紙、四之五十八、六之十一、十三之十、今と併て已上五處、字相似たる故皆寫誤歟、玉篇に人之陰氣有v欲者と情の字を注せり、惜は吝貪也と注す、意通歟、】 所濕、【或作2所温1、非也、】
 
(45)浪ニヒテはひぢてなり、但物を酒に漬すを酒ひてなど云こそひて〔二字右○〕の二字體なれ、今所濕〔二字右○〕をひ〔右○〕とよみてて〔右○〕もじをよみつくる事理なし、然ればヒヂと改べきか、官本にヌレと點ぜり、これ尤もよし、食はハムとよむべきか、義明なり、
 
初、うつせみのいのちをゝしみ
浪にひては、ひちてなり。食の字ますとはよむへからす。はむとよむへし。情?は惜美のかきあやまれるなり
 
右案日本紀曰天皇四年乙亥夏四月戊戍朔乙卯三品麻續王有罪流于因幡一子流伊豆島一子流血鹿島也是云配于伊勢國伊良虞島者若疑後人縁歌辭而誤記乎
 
此天武紀の意を見るに、二子の罪父に及ぶか、其故二子共に父よりも遠流なり、是云と云より撰者の注なり、注の心を按ずるに撰者も只古記に任て二首共にいらこが島とよめる故は知られざるかと見ゆ、通妨のために此注は加へられたれど何の故にかくよむといはれねばなり、又常陸(ノ)國風土記臼、行方《ナメカタ》郡從v此南十里、板來《イタク》村近臨2海濱1、安2置驛家1、此(ヲ)謂2板來之驛(ト)1、其西榎木成v林、飛鳥淨御原天皇之世、遣2流麻續王1之居處、其海燒鹽藻海松白貝辛螺蛤多生云云、此等に據れば麻續王の謫居彌相違あり、如何、
 
初、右案云々。此注猶不審のこれり。まことに日本紀は、此にひけることくなれとも、いらこか嶋も玉もかりますとも、ゆへなくてはよむへからす。もし初はいせへなかしつかはされけるを、後にあらためていなはへうつされけるを、日本紀には、後を取てしるしたまへる歟。太神宮の神衣《カンミソ》奉るにつきて、麻續氏服部氏のもの、彼國にあり。麻續王といふ名につきて、因幡なれともいらこか嶋とはよめる歟。これは入ほかなれと、後の人に猶心をつけしめんとてなり
 
(46)天皇御製歌
 
25 三吉野之耳我嶺爾時無曾雪者落家留間無曾雨者零計類其雪乃時無如其雨乃間無如隈毛不落思乍叙來其山道乎《ミヨシノヽミカノミネニトキナクソユキハフリケルヒマナクソアメハフリケルルソノユキノトキナキカコトソノアメノヒマナキカコトクマモオチスオモヒツヽソクルソノヤマミチヲ》
 
此歌は興而比とも云べし、初六句は興、次の四句は比、終の三句は本意を述たまへり、クマモ不落は、道のくま/\一も殘さずなり、前の一夜もおちずに同、思ツヽゾクルは早至りてみばやと思召す路次の御意なり、第十三に此によく似たる歌あり、但彼は戀の歌なり、或本の歌句々かはれども心同じ、
 
初、みよしのゝみゝかのみね
此御哥は興而比ともいふへし。初六句は興、次の四句は比、終の三句は本意をのへたまへり。くまもおちすは、道のくま/\ひとつものこさすなり。さきのひと夜もおちすに同し。おもひつゝそくるは、はやくいたりてみはやとおほしめす、路次の御心なり。第十三に、これによく似たる哥あり。此次の哥句にかはれることあれと心おなし
 
或本歌
 
26 三芳野之耳我山爾時自久曾雪者落等言無間曾雨者落等言其雪不時如其雨無間如隈毛不墮思乍叙來其山道乎《ミヨシノヽミカネニトキシクソユキハフルトイフヒマナクソアメハアメハフルトイフソノユキノトキナラヌコトソノアメノヒマナキカカコトクマモオチズオモヒツヽソクルソノヤマミチヲ》
 
右句々相換因此重載焉
 
或本歌
三芳野之耳我山爾耳我山爾はみみゝかのやまと讀へし時自久曾は垂仁紀に非時をときしくとよめり。不時如は上の時自久をかへせはとときしくかことゝ讀へし右句々――
 
(47)天皇幸于吉野宮時御製歌
 
27 ※[さんずい+〓]人乃良跡吉見而好常言師芳野吉見與良人四來三《ヨキヒトノヨシトヨクミテヨシトイヒシヨシノヨクミヨヨキヒトヨキミ》
 
吉野には神武天皇の入らせ給ひて後、聖主賢臣のぼり給て、ほめ給はずと云ことなく、美稻が仙女にあひし靈山なれば、第九卷人丸集の歌に、いにしへのさかしき人の遊びけん、吉野の川ら見れどあかぬ鴨、是らに合せて今の御製をも見るべし、下のよき人は、皇后皇子だち大臣などをさして宣へるなるべし、此の注に引る天武紀の次の文に、此時天皇后宮及び六皇子共に盟をなさせ給ふ事あり、此御歌は毎句用同字格とて、詩に一體あるに同じ、歌にも猶此類あり、心こそ心をはかる、心なれ、心の仇は心なりけり、思はじと思ふも物を思ふ哉、おもほじとだに思はじゃ君、思ふ人おもはぬ人の思ふ人、おもはざらなむ思ひ知るやと、櫻さくさくらの山の櫻花、さく櫻あれば散る櫻あり、濱成和歌式に、二十種の雅體を立つる中に、第一聚蝶、毎句上同字用也とて、例に此御製を出さる、第一の句三吉野をとありて、終の句よきひとよくみよとあり、
 
初、よき人のよしとよくみて
吉野には、神武天皇のいらせたまひて後、聖主賢臣、のほりたまひてほめたまはすといふ事なく、美稻《ウマイネ》か仙女にあひ、天皇も天女のまふを見給ふ靈山なれは、第九卷に、人まろの集に出る哥にも、いにしへのさかしき人のあそひけんよしのゝ川らみれとあかぬ鴨。これらにあはせて、今の御製をもみるへし。下のよき人は、皇后皇子たち、大臣なとをさしてのたまへるなるへし。此御哥は、毎句用2同字1格とて詩に一體あるにおなし。哥にも猶此類あり
おもはしと思ふも物を思ふかなおもはしとたにおもはしや君。おもふ人おもはぬ人のおもふ人おもはさらなむおもひ知やと。櫻さくさくらの山のさくらはなさく櫻あれはちるさくらあり。濱成和哥式に、十種の雅體を立る中に、第一聚蝶。毎句上同字用也とて、例に此御製を出さる。第一の句、みよしのをとありて、結句よきとよくみよとあり
 
紀曰八年巳卯五月庚辰朔甲申幸于吉野宮
 
(48)藤原宮御宇天皇代 高天原廣野姫天皇
 
藤原宮は持統紀云、八年十二月乙卯遷2居藤原宮1云云、日本記私紀云、師説此地未詳、愚案、氏族略記云、藤原宮在2高市(ノ)郡鷺栖坂(ノ)北(ノ)地1、或者云、多武峯紀云、藤原(ノ)宮大原也、今見るに、後(ノ)飛鳥(ノ)岡本(ノ)宮の舊地の東北三四町許、近年造營の大職冠大宮の地なりといへり、但志貴(ノ)皇子の明日香風都遠見とよませ給ふ御歌によれば不審なり高天原廣野姫天皇は、第四十一代持統の御諱なり、天智天皇の皇女、初は天武天皇の皇后、詳に日本紀に見えたり、此標は持統文武兩帝に亘れるを、此に持統の御諱を擧げたるは後人の誤りなり、下に至ておのづから明かなり、
 
天皇御製歌
 
28 春過而夏來良之白妙能衣乾有天之香來山《ハルスキテナツキニケラシシロタヘノコロモサラセリアマノカクヤマ》
 
夏來良之、【官本又云、ナリツソキヌラシ、來の字の下に計等の字脱せるか、さらずばキタルラシともやよむべからむ、】衣乾有【別校本亦云、コロモホシタリ、官本亦云、コロモホシタル、】
 
此御製は、第八卷夏の雜歌の初に載すべきを、此集部類未だ不調、故にこゝにあるな(49)るべし、又年の次に隨て此にあるか、此歌未だ淨御原(ノ)宮にましませる時の御歌なり、春過テとは時節の替り來る次第をいふなり、十卷に冬すぎて春は來ぬらし、十九卷に、春すぎて夏きむかへばと云云、宋玉が好色の賦に、向2春之末1、迎2夏之陽1、白妙ノ衣、たへは妙の字、又細の字を書けり、ほめたる詞なり、よりて白妙の衣白たへの袖など多くよめり、後に白細布とかきてシロタヘと和したれば今も其意に見るべし、※[手偏+總の旁]じて白きをたへと云にや、下に雪穗とかきてタヘノホとよみ、敷白と書きてシキタヘとよめり、乾有をばサラセリともホシタリともよみ來れり、同じことなり、春マデノ衣ハタヾミ置カン爲ニホシ、開v箱衣帶2隔v年香1と更衣詩に作れる如く、去年より箱に入置ける衣をば今きる料に濕氣など乾さんとて、香具山の麓かけてすむ家々に取出てほせるが見ゆるにつけて時節の至れる事をよませ給へるなり、第十四卷東歌、つくばねに雪かもふらるいなをかも、悲しきころかにのほさるかも、ふらるはふれるなり、いなをかもはいなにかもなり、にのほさるかもは布ほせるかもなり、又風俗の歌にも、甲斐がねに白きは雪か、いなをさの、かひのけ衣さらすてづくり、山に布ほすこともあればこそかくはよみけめ、今の御歌是に准じて心得べし、衣ほしたり、衣さらせり、共に云はてゝ詞も古質なりなど思ひて、何れの人か衣ほすてふと改めけむ、今(50)此集によりて見ればいかゞと覺ゆ、新古今集には、此歌を夏の部の始に載せらる、更衣の心なるべし、後の人衣ほしたりと云ふを、春は霞度りしが夏になれば霞の霽れて山の色明白に見ゆるを云ふと釋せり、歌の中にさる詞もなきをかく釋せる事不審なり、殊に更衣の歌にて天象の事を云べからず、たゞ歌の詞の中に義をとるを好とすべきか、
 
初、春過てなつきにけらし
此御製は、第八卷夏雜哥の初に取らるへきを、此集いまた部類をよくもとゝのへさるゆへに、こゝにはあるなるへし。下に至りて、朱鳥八年に、藤原宮に遷たまふとしるせり。これはいまた淨御原宮にまし/\ける時の御哥なり。春過てとは、時節のかはりくる次第なり。十九卷家持の長哥にも、春過て夏きむかへはとよめり。宋玉か登徒子好色賦には、向2春之末1迎2夏之陽1といへり。左太沖か呉都賦に、露《アキ》往|霜《フユ》來といひ、周興嗣か千字文に、寒來暑往といひ、此第十に、ふゆ過て、春はきぬらしといへる、皆同意なり。白妙の衣とは、色は白きか本色なれは、白たへの衣、白たへの袖なとおほくよめり。たへは妙の字、細の字なとをかけり。ほめたることはなり。白き色を、たへといふにや。此卷の末にいたり、たへのほによるの霜ふりとよみ、十三にはたへのほといふは雪穗とかき、十一には、しきたへといふに、敷白とかけり。又栲角栲衾なといふも、たくは白きといふ古語なるを、しろたへといふに、白栲ともかけり。五色の中に、白たへとのみいひて、あをたへとも、黄妙ともいはす。白の字を直にたへとよめれは、白き色をいふなるへし。文選には、皚々とあるをしろたへとよめり。乾有をは、さらせりとも、ほしたりともよみ來れり。おなしことなり。春まての衣は、たゝみをかんためにほし、開v箱衣帶2隔v年香1と、更衣の詩にもつくれることく、其年より箱にいれをける衣をは、今きむ料に、濕氣なとかはかさんとて、かく山のふもとかけてすむ家々に、とり出てほせるがみゆるにつけて、時節のいたれることをよませたまへるなり。第十四、東哥に、つくはねに雪かもふらるいなをかもかなしきころかにのほさるかも。ふらるは、ふれるなり。いなをかもは、いなにかもなり。にのほさるかもは、ぬのほさるかもなり。山にぬのほすこともあれはこそ、かくはよみけめ。今の御哥これに准して心得へし。衣ほしたり、衣さらせり、ともにいひはてゝ、ことはも古質なりなとおもひて、いつれの世の人か、衣ほすてふとあらためて、物ふかうけたかくしなつとおもはれけん。此集第三、沙彌滿誓の哥に、こきゆくふねの跡なきかことゝあるを、あとのしら浪と、拾遺集にあらためて入られたるは、心もたかはす、ことはもはなやかなるをこのむ世にかなへり。これは目前に御覽して、よませたまへるを、人づてにきこしめしたるやうになりたれは、叡慮にはそむきぬへし。世にきよきことをこのむやまひあり。哥も卑俗なるはいふにたらす。あまりにけたかゝらんことをこのみて、ふるき哥をさへ、わか心にしたかへて、あらためけんは、かのきよきをこのむやまひにひとし
 
過近江荒都時柿本朝臣人磨作歌【目録云、一首并短歌、】
 
日本紀、天智六年紀曰、三月己卯遷2都于近江1、是時天下百姓不v願v遷v都、諷諫者多、童謠亦衆、日々夜々失火處多、人麿の傳別に記す、
 
初、過2近江荒都1時柿人朝臣人麿作歌。 一首并短歌目六
 
29 玉手次畝火之山乃橿原乃日知之御世從《タマタスキウネヒノヤマノカシハラノヒシリノミヨユ》【或云自宮】阿禮座師神之書樛木乃彌繼嗣爾天下所知食之乎《アレマシヽカミノアラハストカノキノイヤツキツキニアメノシタシラシメシヽヲ》【或云食來】天爾滿倭乎置而青丹吉平山乎越《ソラニミツヤマトヲオキテアヲニヨシナラヤマヲコエ》【或云虚見倭乎置春舟吉平山越而】何方御念食可《イカサマニオホシメシテカ》【或云所念計米可】天離夷者雖有石走淡海國乃樂浪乃大津宮爾天下所知食兼(51)天皇之神之御言能大宮者此間等聞雖大殿者此間等雖云春草之茂生有霞立春日之霧流《アマサカルヒナニハアレトイハヽシルアウミノクニノサヽナミノオホツノミヤニアメノシタシラシメシケムスメロキノカミノミコトノオホミヤハコヽトキケトモオホトノハコヽトイヘトモワカクサノシケクオヒタルカスミタツハルヒノキレル》【或云霞立春日香霧流夏草香繁成好留】百磯城之大宮處見者悲毛《モヽシキノオホミヤトコロミレハカナシモ》【或云見者左夫思母】
 
石走、【官本云、イシハシル、】 所知食兼、【宮本云、シロシメシケム、】 天皇之、【官本云、スヘラキノ、】 春草之【幽齋本云、ハルクサノ、】 茂生有、【官本云、シケリオフナル、】
 
玉手次は、畝火の枕詞なり、別に記す、橿原ノ聖ノミヨユは神武天皇なり、神武紀曰、觀2夫畝傍山東南橿原地1者、蓋國之|墺區《モナカ》乎、可v治v之、是月即命2有司1經2始帝宅1、辛酉年春正月庚辰朔、天皇即2帝位於橿原宮1、是歳(ヲ)爲2天皇元年1云云、故古語(ニ)稱v之曰於2畝傍之橿原1也、太2立《フトシキ》タテヽ》宮柱(ヲ)於|底磐之根《ソコツイハネ》1峻2峙榑風1於2高天之原1而馭2天下1之天皇號曰2神日本磐余彦火火出見天皇1矣、或者の云、當時橿原(ノ)村畝傍山の東南にありて、葛(ノ)上(ノ)郡に屬して高市(ノ)郡にとなれりといへり、いつの比より葛(ノ)上(ノ)郡には屬せるにか、アレマシヽは、生れましますなり、神代紀上云、然後神聖|生《アレマス》2其中1焉、此第四岳本天皇の御歌にも、神代よりあれつぎくればと云云、ゆ〔右○〕はよりの古語集中に滿り、又此從〔右○〕の字を、に〔右○〕ともを〔右○〕とも云てにをはに(52)書きたれば御世ニとも讀べし、神ノアラハストガノ木ノイヤツギ/\ニとは、是は仙覺の點にて、神は人の犯すあやまちを咎め給ふ物なれば、神のあらはすとがの木のとはよそへつゞくるなりと注せり、今按此點此説共にうけがたし、此神といふは神武天皇にて君を云、内證は神にておはさめども、外用は天神地祇といはれ給ふ神には替るべければ、神のあらはすと云ふべからぬ上に、神のあらはすとが此に用なし、又とがの木は、彌つぎ/\と云はん爲の枕言にいへるを、それにかく※[金+巣]つゞけむこと、後々の歌は知らず、全く古歌の心に非ず、神ノシルシニとよむべきか、意は神武の和州を國のもなかと定めて宮作りし給ひし驗に、代々の帝多分此國に都を建てさせ給ふ心なり、古點神ノシルセル、これまた下のとがにつゞきてよろしからず、とがの木は能く生茂る物なる故に、第三卷にもみもろの神なみ山にいほえざし、しゞに生たる都賀乃樹の、いやつぎ/\にと云云、其外にも、かくつゞけよめる事多し、古くはマガリ木ノと點ぜり、これは詩の周南に、南有2樛木1といへる注に、木下曲曰v樛、これによれり、然れどもまがり木は彌つぎ/\のつゞきに詮なき上に、集中の例右に引が如し、字書廣ければ別にとがと訓ずる子細ありけるなるべし、俗には栂の字を用ゆ、天離夷、石走、樂浪共に枕詞なり、別注す、所知食兼、此處句絶なり、いかさまにおぼし(53)めしてかと云ふを受くる故なり、大宮は禁裏を※[手偏+總の旁]じて云ひ、大殿は其中にある諸殿なり、春草を若艸《ワカクサ》とよむは義訓なり、第八にはわかなを春菜とかけり、字のまゝにもよむべし、春ビノキレル、きる〔二字右○〕の霧、景行紀に峯|霧《キリ》谷|※[日+壹]《クラシ》とあり、源氏物語にも、めもきりてといへり、霧と云名は物を遮りて見せぬ故なるべし、百シキは、日本紀に内裏をモヽシキともオホウチとも點ぜり、百官の座ある故に百しきといふとなり、但今按あり、集中に多き詞なれば別に注す、案に春草春日の下の二の之の字はの〔右○〕とよみては、おひたる〔四字右○〕の下、切るゝにもあらずつゞくにもあらず、然れば疑ひのか〔右○〕になしてよむべきか、第十に、ならなる人の來てもみるがね、これは見るがになり、此がねを之根とかけり、是證據なり、若草のしげゝれば見えぬか、霞の立さへて見えぬかなり、幸に細注、句はかはれども此心なり、歌の心は、初より天の下しろしめしゝをとままでは神武より代々の帝多は都を大和にしめ給ふことを述べ、空にみつよりしろしめしけんまでは、大津宮へ、移り給ふ事を不審に思ふなり、いかさまにおぼしめしてかといふによりて見れば、此帝の郡を遷し給ふ事を少し謗れるか、民のねがはざること題の下に引ける天智紀の如し、※[手偏+總の旁]じて都を遷す事は古より民の嫌へる事なり、史記殷本紀曰、盤庚渡v河南復※[尸/立]2咸陽之故居1廼五遷、無2定處1、殷民咨胥皆怨不v欲v從、况や上に引け(54)る孝徳紀にいへる如く、豐碕(ノ)宮をば嫌ひ給ひて、倭京にかへらせ給ふべき由、奏請したまひながら、御みづからは又あらぬ方へ都を移させ給ふ、不審の事なり、又按ずるに、第二第十三にも、いかさまに思し食てかといへるは、たゞ御心のはかりがたきを云へり、殊に今の帝は大織冠と共に謀て蘇我(ノ)入鹿を誅し給ひ、凡中興の主にてましませば、七廟の中にも太祖に配して永く御國忌を行はる、智證の授决集にも見えたり、然ればたゞ御心のはかりがたき故にも侍らんか、注のサブシモはさびしもなり、サブシとよめること末に至りて多し、此集にさびしといへるは、後々につれ/”\なるをのみ云にはかはりて、悲しもと云ふに同じ、下に不樂とも不怜とも書けるにて心得べし、第三に同作者、あふみの海夕浪千鳥ながなけば、心もしのに古思ほゆ、とよまれたる歌も今の心に同じ、又拾遺にも同人、さゞ浪の近江の宮は名のみして、霞たな引宮木守なしとあり、
 
初、玉たすきうねひの山のかしはらの
此哥、初には神武天皇よりこのかた代々のみかと、多分やまとに皇居をしめたまふ事をいひ、そらにみつといふよりは、近江へ移りたまひける事をいひ、すめろきの神のみことの大宮はといふより下は、荒廢せることをかなしふなり。玉たすきうねひは、すてに別に釋しつ。かしはらのひしりのみ代ゆ、よりといふへきをゆといふこと、此集にめつらしからす。古語なりと知へし。神武天皇の御ことなり。日本紀第三云。神日本磐余彦天皇諱 彦火々出見《カンヤマトイハレヒコノスメラミコトハタヽノミナハヒコホホテミ》。彦波瀲武※[盧+鳥]?草茸不合尊第四子《ヒコナキサタケウカヤフキアハセスノミコトノヨハシラニアタルミコナリ》也。母《イロハヲ》曰《申ス》2玉依姫(ト)1。海童之小女《ワタツミノヲトムスメナリ》也。天皇生而明達意碓如也。年十五立爲2太子1。同卷云。三月辛酉(ノ)朔丁卯下v令曰。自2我東征1於v茲六年矣。頼以2皇天之威1凶徒就v戮。雖d邊土未v清餘妖尚梗u而中洲之地無2復風塵1。誠宜d恢2皇都1規?大壯1。而今運屬2此屯蒙1民心朴素○且當d披2拂山林1經2營宮室1而恭臨2寶位1以鎭2元々u。○觀夫畝傍山(ノ)【−−(ヲハ)此云2宇禰 糜夜摩(ト)1】東南橿原(ノ)地者、葢國之墺區乎。可v治v之。是月即命2有司1經2始帝宅1。○辛酉春正月庚辰朔天皇即2帝位於橿原宮1。是歳爲2天皇元年1。尊2正妃1爲2皇后1、生2神八井耳命渟名川耳尊1。故古語|稱《ホメ申シテ》v之|曰《イハク》。於2畝傍《ウネヒノ》之|橿原《カシハラニ》1也|太2立宮柱《ミヤハシラフトシキテ》於|底磐之根《シタツイハネニ》1峻2峙榑風《チキタカシリ》1於2高天之原《タカマカハラニ》1而馭2天下1之天皇號《ハツクニシラススメラミコトヲナツケテ》曰(ス)2神日本磐余彦火火出見天皇(ト)1矣。あれましゝは、生れましますなり。神代紀上云。然復|神聖《カミ》生《アレマス》2其中1焉。此第四、岳本天皇の御哥にも、神代より、あれつきくれは、人さはに、國にはみちてとよませ給へり。神のあらはす、とかの木の、いやつき/\に。あれましゝ神とつゝくるは、神武綏靖等のみかとを、神と申て、神明はあきらかに.人のをかせる科を、見あらはし給ふ物なれは、やかてとかの木にいひかけて、とかの木の、次第におひつゝきてたえぬかことく、御子孫あひつゝきて、多分やまとにてこそ、天下をおさめさせたまひし物をとなり。とかの木に、樛の字をかけるにより、もとのまかれる木をいふといへる説は、あやまれり。玉篇云。樛(ハ)居秋切。木下曲曰v樛といひ、又毛詩周南に、南有2樛木1葛??之といふ詩の注も、玉篇におなし。これによりていへと、第三卷赤人長哥に、みもろの、神なひ山に、いをえさし、しゝにおひたる都賀乃樹の、いやつき/\にとよめる、今におなし。とかは、今栂の字を用れと、これも俗字なりといへり。樛の字をかけるは、昔別に考ふる所ありけるなるへし。あらはすは驗の字、證の字なり。神功皇后紀云。即《ソノ》年以2千熊長彦(ヲ)1副(テ)2久※[氏/一](ニ)1等|遺《マタス》2百濟《クタラノ》國1。因以垂(テ)2大恩《ウツクシヒヲ》1曰。朕從2神|所驗《アラハシタマヘルニ》1始開2道路(ヲ)1平2定|海《ワタノ》西(ヲ)1以賜2百濟1。論語曰。葉公語2孔子1曰。吾黨有2直(スル)v躬(ヲ)者(ノ)1。其父|攘《ヌスム》v羊(ヲ)而子|證《アラハス》v之。日本紀竟宴歌にいはく。あまかしのをかのくかたちきよけれは、神のあらはすとかに|ざ《・ソアノ反》りける。いかさまに、おほしめしてか。これはすこしそしりたてまつる心あるか。そのゆへは、孝徳紀云。是季【白雉四年】太子秦請曰。欲3冀遷2于倭京1。天皇不v許焉。皇太子乃奉2皇祖母尊、間人皇后1并率2皇弟等1往居2于飛鳥河邊行宮1。于時公郷大夫百官人等皆隨而遷。由v是天皇恨欲v捨2於國位1令v造2宮於山碕1乃送2歌於間人皇后1曰云云。五年冬十月癸卯朔皇太子聞2天皇病疾1乃奉2祖母尊、間人皇后1并率2皇弟公卿等1赴2難波宮1。壬子天皇崩2于正殿1。○是日皇太子奉2皇祖母尊1遷2居倭河邊行宮1。天智紀云。六年春三月辛酉(ノ)朔己卯遷2都于近江1。是時天下百姓不v願v遷v都。諷諫者多(ク)童謠亦衆。日々夜々失火處多。これらの心をみるに、孝徳天皇の、長柄の豊崎におはしますをは、やまとへ歸らせたまひて、然るへきよし奏したまひ、御許容したまはさりけ札は、皇祖母尊をゐて奉り、皇后皇弟まてを引具したまひて、やまとの川原宮へ、かへらせ給ふにより、孝徳天皇うらみおほしめして、位をさらせたまはむとさへおほしならる。しかるに、齊明天皇のゝち、御位につかせたまひての六年に、大津宮へうつらせたまふ時、百姓都のうつらむ事をねかはす、いさめたてまつるものも、おほかりけれと、つゐにううらせたまふに、さま/\の童謠ありて.晝夜|失火《ホヤケ》し、よからぬ事ともありけるよし、日本紀にみえたれはほのめかしていへるにや。しけく都をうつす事は、民のうらむることなり。史記殷本紀曰。盤庚渡v河南、復居2成湯之故居1、迺五遷無2定處1。殷民咨胥皆怨不v欲v徙。またほのめかしても、そしりたてまつるにはあらて、大織冠と御心をひとつにして、蘇我入鹿を殺して、天下を中興したまふ帝にて、はかりかたき叡慮なれはいふにや。天さかるひなにはあれと、別に尺するかことし。顯昭の、きはめて遠き國にあらすは、あまさかるひなとはいふましきよし申されたるは、一徃さもと聞ゆれと、此哥より見れは、穿鑿せる説なり。畿内を出は、いつくにもいふへし。しろしめしけむ。此所句絶なり。いかさまに、おほしめしてかといふ句をうくるゆへなり。大宮は禁中をすへていひ、大殿は、大宮のうちにある別殿をいへり。春草、春日の下のふたつの之の字は、ともにうたかひの歟になしてよむへし。ふたつなから、のとよみては、句もきれす、つゝきもせぬなり。かとよむことは、柳之枝とかきて、やなきかえたとよむことく、、のにかよふにこれるかを、清濁通して、すみてよむなり。第十卷に、梅の花われはちらさしあをによしならなる人のきてもみるかねといふ哥の、かねはかになり。それに、之根とかける、これすみて用る證なり。春草を、わか草とよめるは、義翻に例すへし。わか草のしけゝれは、みえぬか、霞の立さへてみえぬかなり。きるは遮なり、霧といふ名も物をさへきりて、みせねゆへに、用を體の名とするなり。源氏物語に、涙にくるゝことを.めもきりていへるこれなり。もゝしきは禁裏には、百官の座あるゆへにいふといへり。日本紀には、内裡とかきて.おほうちとも、もゝしきともよめり。大宮はといふよりはるひかきれるといふまて、文章の隔句對の體にゝたり。人まろの長哥には、此體下にもおほし
 
反歌
 
30 樂浪之思賀乃辛碕雖幸有大宮人之舩麻知兼津《サヽナミノシカノカラサキサキクアレトオホミヤヒトノフネマチカネツ》
 
辛崎と云ふを受けてサキク〔三字右○〕とつゞけたり、さきくとは日本紀に無恙とも平安とも(55)書ける意同じ、辛崎は昔のまゝに平安にしてあれど、大宮人の乘りつれて遊びなどせし舟の今はまてどもよせこぬを辛崎が待ちかぬるとなり、第九に、白崎はさきくありまて大舟に、まかぢしゞぬき又かへりみむ、是に合せて知るべし、六帖に今の歌をも第九の歌をも行幸の第に入れて、今の歌のさきくあれどをみゆきしてとよみ、舟まちかねつを舟よそひせりと改め、第九の歌のさきくありまてをも、みゆきかくあらばとなせるをみれば、昔の人も此集をよく見ざりけるにや、
 
初、さゝなみのしかのからさきさきくあれと
さゝなみは、別に注あり。からさきといふをうけて、さきくとつゝけたり。さきくとは、日本紀に、無恙とも平安ともかきたり。幸の字も心おなし。からさきは昔のまゝに、平安にしてあれと、大宮人の、ゝりつれてあそひなとして、こきかへりてよせし舟の、今はまてともよせこぬを、まちかぬるといへり。十三卷にも、長哥に、さゝなみのしかのからさきさきくあらはまたかへりみんとよめり。又此待かぬるは、からさきが待かぬるにても侍るへし。心なきものにも、心あらするは.詩哥のならひなり
 
31 左散難彌乃志我能《ササナミノシカノ》【一云比良乃】大和太與杼六友昔人二亦母相目八毛《オホワタヨトムトモムカシノヒトニマタモアハメヤモ》【一云將會跡母戸八】
 
ワダとは水の入込みきてまわれる所なり、七わだに曲れる玉のなど云ふも、かよへり、?などの蟠ると云ふも此心なり、水のみわだともよめり、水うみの入りたる所にて、廣所なれば大わだと云へり、されば水は早く流れ過る物ながら大わだに入曲りて淀むとも、昔は去てかへりこぬ物なれば、其世の人に又逢はんや、又あはじと云ふなり、注の句はアハムトオモヘなり、思ふをお〔右○〕を略してもふ〔二字右○〕とよめること下に多し、日本紀の歌にもあり、思ヘヤは此後も多き言なり、思ふやといはむが如し、下知にあ(56)らず、此句に付て釋せば、上は初の如くにて、昔の人に逢はんと思ふや、流れて過ぎし水の如くなる人にはえあはじとなり、又釋すらく、大わだはよどみて昔の舟を待どもなり、
 
初、さゝなみのしかのおほわた。わたとは、水のいりこみて、まはれる所なり。七わたに、まかれる玉のなといふもかよへり。へみなとの蟠るといふも、此心なり。水のみわたともよめり。水うみの入たる所にて、廣き所なれは、大わたといへり。されは、水はゝやくなかれ過る物なから、大わたに入まはりて、よとむとも、昔はさりて歸こぬ物なれは、その世の人に、又あはんや。又はあはしといふなり
一本の哥に、あはんともへやは、あはむとおもへやなり。おもへやとは、下知するにはあらす。あはむとおもはむやといふ心なり。古語には髣髴なることおほし
 
高市古人感傷近江舊堵作歌 或書云高市連黒人
 
古人も注の黒人も考ふる所なし、懷風藻に隱士民黒人とて詩二首あれども、民と云ひて姓をいはねば別人なるべし、按ずるに此は古人が歌なるべし、其故は第三に高市連黒人近江舊郡歌一首あり、同じく黒人が歌ならば何の卷にも一所に載すべきか、又考て云、彼卷の歌も異説を注したれば、共に黒人が歌なれど別けて載るか、堵は、玉篇云、都魯切、垣也、五版爲v堵といへり、一版は二尺なれば、一丈の垣を堵と云ふ、然れば皇居の築墻のみ殘れるを見て傷てよめるか、但此堵字第三の二十六紙、六之三十八、十六之十九にもあり、皆都の字と通ずるやうにも見えたり、平仄の聲も違ひ、又相通の由も見えねば不審なれど、あまた見えたれば誤にはあらじ、據ところあるべし、二首となきは脱せるか、目録にも亦なし、
 
初、高市黒人感2傷近江舊堵1作歌。恐脱二首二字。目録亦不注。堵玉篇曰。都魯切。垣也。五版爲v堵。二尺を一板といへは、高さ一丈の築牆《ツイチ》なり。ついひちのゝこりたるを見て、かなしふなり。堵はもし都と通する歟。第三に、高市連黒人近江舊都歌とて載たるあり
 
32 古人爾和禮有哉樂浪乃故京乎見者悲寸《フルヒトニワレアルラメヤサヽナミノフルキミヤコヲミレハカナシキ》
 
(57)此作者の名古人といへば、我名におへる古人にてあればにや、古き都をみればかなしく覺るとなり、按和禮有哉は我ハアレバヤとよむべきか、曾禰好忠が集の自叙にも、おやのつけてし名にしおはゞ、よしたゞと人もみるがになど書り、黒人が歌ならば、此都の全盛に逢し古人にも我はあらぬを、など舊都をみればかくばかりは悲きかとなり、官本に初二句をイニシヘノ人ニワレアレヤと點ず、黒人が歌ならばこれ尤然るべし、古人が歌なりとも彼がみずからの名にかけざることも侍るべし、
 
初、古人にわれあるらめや
此作者の名、古人といへは、わか名におへるふる人にてあれはにや、ふるき都のみなはかなしくおほゆるとなり。和禮有哉とかきたれは、われはあれはやともよむへし。曾禰好忠か集の自叙にも、おやのつけてしなにしおはゝ、よしたゝと人もみるかになとかけり。黒人か哥ならは、此都の全盛にあひしふる人にも我はあらぬを、なと舊都をみれは、かくはかりはかなしきそとなり
 
33 樂浪乃國都美神乃浦佐備而荒有京見者悲毛《サヽナミノクニツミカミノウラサヒテアレタルミヤコミレハカナシモ》
 
國ツミ神は、日吉の大宮權現にて、本三輪の御神にて地祇なればかくは申す、其おはします處なれば、みかみの浦と云といへる説あれど、彼は傳教大師天台宗の守護のために、勸請したまひ、此は遙に以前の歌なれば更にかなふべからず、今按、サヾナミノ國とは近江を※[手偏+總の旁]じて云へば、此國つみ神は彼國中の神なり、則延喜式神名帳に載る所のごとし、ウラサビテは心さびしきなり、心をうらと云こと別に注す、みかみの浦と地の名に云つゞくるにはあらず、浦の字をかけるは借てかけるなり、第十に、あさぢがうら葉と云にも浦をかけるにて思べし、歌の心は、帝の此國に都を定させ給(58)へば、國中の神だち天神の天降給ひしやうに守護し給ふ故に榮たりし都なるを、帝の神去給ひし後は國つ神も便を失て心悲みければ、物くさく成て守り給はぬにや、程なく荒果たるを見るが悲しきとなるべし、
 
初、さゝなみのくにつみかみの
日吉の神は、三輪と同體にてましますといふ説あり。三輪は地祇なり。地祇をくにつかみといふ。地祇のましますゆへに、志賀のうらをくにつかみの浦といふなりとそ。うらさひてとつゝくる、うらは心なり。うらかなし、うらめつらしなとの類皆おなし。毛詩に、不(ンヤ)v屬《ツカ》2于毛(ニ)1、不(ンヤ)v離《ツカ》2于|裏《コヽロニ》1といへり。身は表にあらはれ、心は裏にかくるゝゆへにいふなり。法性寺關白殿の哥に、さゝなみやくにつみかみのうらさひてふるき都に月ひとりすむ。昔はかやうにとりても、よみけるにや。又松尾と日吉とはおなし神なり。三輪とおなし御神のことは、いまたかむかへす。神道の末の書にて見をよひ侍り
 
幸于紀伊國時川島皇子御作歌 或云山上巨憶良作
 
川嶋皇子は天智第二の皇子、母は宮女|色夫古娘《シコフコノイラツメ》、
 
34 白浪乃濱松之枝刀手向草幾代左右二賀年乃經去良武《シラナミノハママツカエノタムケクサイクヨマテニカトシノヘヌラム》 一云|年者經爾討武《トシハヘニケム》
 
白浪ノ濱は白波のよする濱なり、名所に非ず、十一には白濱波ともよめり、手向草、只手向なり、草は萬にそへて云詞にて、十七にも、萬世の語らひ草とよめり、第十三に、相坂山に手向草い取置つゝ幣よめり、とを初て、何にても神に物を奉るを云、今は松か枝を結て奉なるべし、有馬(ノ)皇子の結松の事あれど、昔はさしも忌べからざる歟、第六第二十にも家持の歌に松が枝を結とよめり、又只松が枝を折て手向るをも云べし、花をも紅葉をも折て神に手向くるは其折による手向なり、袖中抄に古語拾遺を引(59)て彼に云る手向草かと思はれたれど、此に不叶か、彼は神樂の取物の類と見えたり、十三の手向草は何物ともいはず、第六にゆふだゞみ手向の山といへるも相坂なり、引合て手向草にはあらざることを知べし、たゞ今手折松のときはなるによせて神も此に跡垂そめ給ひてよりいかばかりの世をか經給ひぬらんとなり、熊野の御神に手向るにや、此歌第九卷には山上歌と載て歌の詞少し替りて、左に川島(ノ)皇子の御歌とも云よし注せり、今と表裏せり、濱成和歌式には、角沙彌紀(ノ)濱歌と出せり、新勅撰集雜四に、後京極攝政家百首歌に草歌十首よみ侍なるとて、今の歌の發句を風ふけばと改めて寂蓮法師が歌と載らる、不審なる事なり、
 
初、白波のはま松かえの。白波のよする濱なり。名所にあらす。たむけ草は、草はそへたる詞なり。松を結てたむくるなり。第二卷に有馬皇子、岩代の濱松かえを引むすひとよみ給へるも、神のたむけなるへし。花をもゝみちをも折て、神にたむくるは、その折によるたむけなり。只今たをる松のときはなるによせて、神もいかはかりの世をか、へたまひぬらんとなり。熊野の御神にたむくるにや。此哥第九卷には、山上哥と載て、哥の詞すこしかはりて、ひたりに川島皇子の御哥ともいふよし注せり。今と表裏せり。濱成和歌式には、査體とて、よろしからぬを七種擧る中の、第七雜韵の例に、角沙彌紀濱歌云とて、此哥を出されたり。往古は五句三十一字をたに、大かたにまもりて、あまる事は、のち/\もあるを、二三字たらぬをさへよめれは、式といふこともきこえす。詩なとのやうに、韵をすへなとすることもなし。濱成の式出來て後、式、髓腦なといふものわつらはしきまて出來れと、その比の人よりはしめて、後の人まて更に用す。ひとつふたつのことは、式なくてもまもりぬへし。源氏物語にも、式髓腦なとは、うけぬさまにかけり。韵をおすことは、濱成詩なとに准して初て式を立られけるか。かたく執せは、素戔烏尊の神詠をはしめて、雜韵のきすをのかれさるへし。秦始皇の、からきまつりことをしけくして、民を罪におとしいれられしかことく、哥も式によらんとせは、よみかたかるへし。よらすは式をたてゝ何かせん。堯のみかとの民、みかとのちからをわすれたることく、哥も式をわすれは、やすくたのしきこゑ出來ぬへし
 
日本紀曰朱鳥四年庚寅秋九月天皇幸紀伊國也
 
日本紀曰、朱鳥四年、天武紀曰、十五年秋七月乙亥朔戊午、改元曰2朱鳥元年1、【朱鳥此(ヲ)云2阿※[言+可]美苫利(ト)1】今年天皇崩じ給て、次の丁亥持統天皇御位に即せ給ふ、年號をば改めずして丁亥を元年とし給ふ故四年は庚寅なり、
 
初、日本紀曰朱鳥四年、天武紀云。秋七月乙亥朔戊午、改元曰2朱鳥元年1【朱鳥此(ヲハ)云2阿※[言+可]美苫利1。】これは天武十五年丙戌の年なり。今年天皇崩したまひて、次の丁亥、持統天皇御位につかせたまふ。年號をはあらためすして、丁亥を元年としたまふゆへ、四年は庚寅なり
 
萬葉集代匠記卷之一上
 
(1)萬葉集代匠記卷之一下
 
越勢能山時阿閉皇女御作歌
 
能は詞の字なり、せの山は紀川の北、妹の山は南にて、相向たるを取合て妹背山と呼を、只ひとつの山の名と心得るは誤なり、此集をよく見ばおのづから疑なかるべし、又古今にも妹背の山の中に落る吉野の河とよめる是なり、此兩山後にあまた出る故に、此に兼て注す、日本紀孝徳紀二年詔(ニ)、凡畿内東自2名墾《ナハリノ》横河1以來、南自2紀伊|兄《セノ》山1以來、【兄此云v制】西自2赤石(ノ)櫛淵1以來、北自2近江狹々浪(ノ)合坂山1以來、爲2畿内國(ト)1、
 
初、越2勢能山1時、日本紀、孝徳二年(ノ)詔(ニ)凡(ソ)畿内東自2名|墾《ハリノ》横河1以來南自2紀伊|兄《セノ》山1以來、【兄此(ヲハ)云v制《セト》】西自2赤石(ノ)櫛淵1以來、北自2近江狹々波合坂山1以來爲2畿内國1
 
35 此也是能倭爾四手者我戀流木路爾有云名二負勢能山《コレヤコノヤマトニシテハワカコフグルキチニアリトイフナニオフセノヤマ》
 
大和にありて、紀國にこそせの山といへるおもしろき山はあれと人の語るを聞しはこれや此山ならん、げにも面白山也と云心なり、
 
初、これやこのやまとにしてはわかこふる
やまとにありて、きのくにゝこそ、せの山といへるおもしろき山はあれと人のかたるを聞しは、これや此山ならん。けにもおもしろき山なりと、兄山といふ名を、夫君によせて、よませたまへり。阿閉皇女は、草壁太子(ノ)妃《ミメ》、文武帝母、皇位につかせたまひて元明天皇といふ。天智天皇第四の皇女
 
幸于吉野宮之時柿本朝臣人麿作 【目録云二首并短歌二首】
 
初、幸2于吉野宮1之時柿本朝臣人麿作、歌二首并短歌二首目六
 
(2)36 八隅知之吾大王之所聞食天下爾國者思毛澤二雖有山川之清河内跡御心乎吉野乃國之花散相秋津之野邊爾宮柱太敷座波百磯城乃大宮人者舩並?且川渡舟競夕河渡此川乃絶事奈久此山乃彌高良之球水激瀧之宮子波見禮跡不飽可聞《ヤスミシヽワカオホキミノキコシメスアメノシタニクニハシモサハニアレトモヤマカハノキヨキカフチトミコヽロヲヨシノヽクニノハナチラフアキツノノヘニミヤハシラフトシキマセハモヽシキノオホミヤヒトハフネナメテアサカハワタリフネキホヒユフカハワタリコノカハノタユルコトナクコノヤマノイヤタカヽラシタマミツノタキノミヤコハミレトアカヌカモ》
 
此歌初には總じて日本に名所多き事をいひ、山川のと云よりは別の吉野をほめ、百しきのと云より下は御供の諸臣の樂しぶよしをいひ、此河のと云より君臣の長久山川と均しからん事を願ひ、玉水のと云より下の三句は所がらのあかれぬ事を云て結べり、サハは多きを云、日本紀に多の字を讀り、山川の川の字清て讀べし、山と川となり、第七にも、皆人の戀るみよしのけふみれば、うべもこひけり山川清みとよめり、河内《カフチ》は下にも多き詞なり、河の間といはむが如なるべし、御心ヲヨシノヽ國、心よしとつゞけて云り、神功皇后紀の神託の詞にも御心の廣田の國、御心の長田の國と(3)云り、花チラフは散あふ也、散かふといはむが如し、草花の散野べとつゞけたり、秋津、吉野の名所也、舟キホヒは今の俗ふなせりと云が如し、我先にと爭ふ心なり、拾遺集には舟くらべと有、第廿に布奈藝保布《フナキホフ》堀江(ノ)川と云り、此に准じて今の点に隨べし、荊楚歳時記曰、南方競渡者治2其舩1、使2輕利1謂2之飛鳧1、是は五月五日の戯れ也、又五日ならで常にもする事也、此川ノとは臣下の奉《ツカフ》る事吉野川の絶ぬが如く、君、高み位にいます事は吉野山の高きが如くならんと也、瀧より落る水は玉のやうなれば、瀧の都といはんとて玉水ノといへり、案ずるに拾遺には、やすみしゝをちはやぶると改めらる、是は此集に君を神とよめるに心得て押へて改られけるにや、貴て准へ申にこそあれ、誠には神にても坐さねば、ぬは玉のくろしとつゞくる心を得て夜などゝつゞくるにはかはるべきか、國者思毛を草の葉とよめり、國者はくさともよむべし、思の字を葉とはよみがたかるべきにや、澤二雖有をうるひにたりととよめり、澤は潤澤恩澤など云時うるふなれど、雖有をにたりととよむべき理りなし、にたりといふてにをは、にてありと云べきを?阿切多なる放つゞめてにたりと云也、然れば拾遺の説改やう不審也、彼集は三代集の内にて花山院御撰とかやいへど治定し給はぬほどに流布せるにや、雜亂の事多きよし古くも沙汰せり、總じて此集より拔取て加(4)へられたる歌に疑をのこすこと共見え侍り、
 
初、やすみしゝわか大きみの。此歌、初には惣して日本に名所おほきことをいひ、山川のといふよりは、別してよしのをほめ、百しきのといふより下は、御供の諸臣のたのしふよしをいひ、此河のといふより、君臣の長久、山川とひとしからん事をねかひ、玉水のといふより下の三句は、所からのあかれぬことをいひて、むすへり。さはゝおほきをいふ。日本紀に多の事をよめり。御心をよしのゝ國、心よしとつゝけていへり。神功皇后紀の、神託の詞にも、御心を廣田の國といへり。今の津の國の廣田神社なり。花ちらふは、ちりあふなり。ちりかふといはむかことし。舟ぎほひは、今の俗、ふなせりといふかことし。我さきにとあらそふ心なり。拾遺集には舟くらへと有。荊楚歳時記云。南方競渡者治2其船1使2輕利1。謂2之飛鳧1。これは五月五日のたはふれなり。又五日ならてつねにもすることなり。第二十卷に、布奈藝保布ほりえの川とよめり。此川のなとは、臣下のつかふまつることは、よしの川のたえぬかことく、君のたかみくらゐにいます事は、よしの川の高きかことくならんとなり。瀧よりおつる水は、玉のやうなれは瀧のみやこといはむとて、玉水のといへり。拾遺集には、やすみしゝを、ちはやふるとあらため、國者思毛を、草の葉とよめり。國者はくさともよむへし。思の字を、いかてはとよまん。澤二雖有を、うるひにたりとよめり。澤は潤澤恩澤なといふ時、うるふなれと、雖有を、にたりとよむへきことはりなし。にたりといふてにをはゝ、にてありといふへきを、もしのあまれは、※[氏/一]阿(ノ)切多なるゆへ、にたりとはいふなり。雖の字は、いへともとよむ時は、縱奪の詞。過去現在に、通すへし。いふともとよむ時は、假令の詞にて、未來なり。されとも.これは詩文に用る時のことなり。和語には、縱奪の時は度毛とよみ、度とよめり。假令の時は登毛とよむ。登とひともしによむことは、まれなり。たま/\あれと、いやしきやうなり。後鳥羽院の御製なれとも、頼めすは人をまつちの山なりとねなましものをいさよひの月、此山なりとは、片言のやうにていやしく聞ゆるは、ひかきゝにや。人はいふとも、入はいへともといふ時も、雖言の二字なり。雖の字は、さきにいふかことし。しかれは、拾遺のあらためやう、心得かたし。彼集は、三代集の内にて、花山院御撰とかやいへと、治定したまはぬほとに、流布せるにや。雜亂のことおほく、此集よりぬきとりてくはへられたる歌もあやまり見え侍り
 
反歌
 
37 雖見飽奴吉野乃河之常滑乃絶事無久復還見牟《ミレトアカヌヨシノヽカハノトコナメノタユルコトナクマタカヘリミム》
 
常滑は、舊記に云、とこなめはしるとは岩の上に水のあがり洗ふを云、今按第九にも、妹が門|入出見河《イリイテミカハ》のとこなめに、みゆきのこれりいまだ冬かもとよめるを以てみれば、顯昭のいへるやうにやと思所の、第十一云、隱口《コモリク》の豐《トヨ》はつせぢはとこなめのかしこき道ぞこふらくはゆめ、此は川ともいはざれば、さらぬ山路にも人の蹈むこと稀なる處は岩の上に苔などの生て上なめりぬれば、それを云か、又川といはねど泊瀬川あれば水に付て云か、拾遺にはながれても、結句はゆきかへりみむとあり、
 
初、みれとあかぬよしのゝ川のとこなめの。とこなめは、川の底に、いつとなく、にこりの、こりつきて苔むせるさゝれ石なとの、ふみとめかたく、なめらかなるをいふなり
 
38 安見知之吾大王神長柄神佐備世須登芳野川多藝津河内爾高殿乎高知座而上立國見乎爲波疊有青垣山山神乃奉御調等春部者花挿頭持秋立者黄葉頭刺理【一云黄葉加射之】遊副川(5)之神母大御食爾仕奉等上瀬爾鵜川乎立下瀬爾小網刺渡山川母依?奉流神乃御代鴨
《ヤスミシヽワカオホキミノカミナカラカミサヒセストヨシノカハタキツカウチニタカトノヲタカシリマシテノホリタチクニミヲスレハタヽナハルアヲカキヤマノヤマツミノタツルミツキトハルヘニハハナカサシモチアキタテハモミチカサセリ》ユフカハノカミモオホミケニツカヘマツルトカミツセニウカハヲタテシモツセニサテサシワタシヤマカハモヨリテツカフルカミノミヨカモ
              
依?、【別校本、?作v而、】
 
神ナガラは上の軍王歌に孝徳紀を引が如し、又同紀に隨在天神と書ても神ナガラとよめり、此ながらと云詞は孝徳紀に隨の字を以注し給へり、そのまゝにての意なり、さながら、それながら、昔ながらと云も通ぜり、伊勢物語に有常の琴をかける處に、なを昔よかりし時の心ながら尋常の事も不知とあるながらの詞今に同じ、常云馴たるながらの詞に違て心得煩ふ人も有べきが故に委注せり、神サビセスとは、神さびは此集下にも多き詞にて、八雲袖中等に説々あるごとく歌によりて心も替れば委は別に釋せり、第十第十七に神ビとのみもよみたればさ〔右○〕は例の添たる詞なり、しかれば宮び、夷びなど云ひ、少女《ヲトメ》さび、男さびともいへる如く心得て、さて歌によりて替る心を知べし、をとめさびはをとめだて、をとめぶり、をとめゝきといはむやうなれば今もこれらに准じて見るべし、せすのす〔右○〕の字清てよむべし.神さびするとて也、高殿は、宮殿を※[手偏+總の旁]じて高殿ともいへども、上リタチ國見ヲスレバとあれば樓の字(6)をよむ是なるべし、又山の上にある殿なれば上り立と云といはむも違まじきか、高知マシテは高く造給ひて也、治の字をシルとも、ヲサムともよめり、タヽナハル青垣山、此詞後にも有故に別に釋す、大抵はたゝなはるは重りたるを云、青垣山は四面をかこめる山の青き垣のごとくなるを云、名所に非ず、山神〔二字右○〕、古点山カミ、仙覺山ツミと改む勿論のことなり、日本紀に山神|等《タチヲ》號《ナツク》2山祇《ヤマツミト》1といへり、天神地祇と分も一往の事にて山祇とも山神ともいへり、吉野には延喜式に載たるも山口(ノ)神社、水分(ノ)神社、金峯(ノ)神社等あり、タツルミツキは、たつるたてまつる也、別の校本はマツルと点ず此に附べきか、此集末に見奉而をミマツリテとよめり、日本紀にも多し、花カザシモチ黄葉カザセリは花紅葉を山神のかざしいたゞきて民のみつぎ物の樣に春秋にたてまつると也、晏氏春秋内篇一曰、夫靈山固(ニ)以v石(ヲ)爲v身(ト)、以2草木1爲v髪、これかざすと云心に同じ、ユフ川仙覺云川の名也、今かしこにて湯川と云所これか、大御食は帝の供御にまゐる物也、カミツセニ鵜川ヲタテ、此は人のするわざなれど河伯の許して鮎などを多取しむるを云也、文選、東都寶鼎(ノ)詩(ニ)云、嶽修v貢兮川效(ス)v珍、山川モ依テツカフルとは山神河伯も帝徳に歸して仕ふまつるなり、山川の川清て讀むべし、山と川となり、此歌初の四句は帝の徳を神に比し、次の四句は芳野に殿づくりすることを云、次の二句(7)は眺望し玉ふ事を云ひ、たゝなはると云よりさて刺渡までは山の四方青山めぐりて景氣の能を述、且山神帝のために花紅葉をも御覽にそなへ色香を添、河伯は魚を奉りて鵜川等の利多からしむることを云、山川もと云より終までは、百姓は云にや及ぶ、神祇もかしこまり仕へまつる御世なりと譽たてまつる也、此下の役民が歌に天地もよりてあれこそと云へるも同じ、
 
初、やすみしゝわか大きみ。神さひせすとゝは、神さひすとてなり。せすのすの字清てよむへし。古語なり。神さひは、さは添たる字にて、此集に、神備てといふに同し。おきなさひ、をとめさひといふかことく、神たてをし神ふりをすといふ心なり。のほりたち、國見をすれは、さきに尺せるかことし。たゝなはる、青垣山。別に尺せり。名所にあらす。四面青き垣のかこめることきをいふ。此下は、山神河伯も、帝の威徳によりて、貢職を、修することをいへり。山つみは、日本紀に山(ノ)神|等《タチヲ》號2山祇1といへり。天神地祇とわかつも、一往の事にて、山祇とも山神ともいへり。所々に山神あるゆへに、日本紀に山神等といへり。吉野には、延喜式に載たるも山口神社、水分神社、金峯神社、等あり。奉の字、まつるとのみよめるも、たてまつるなり。此集末にいたりて、見奉而とかきて、みまつりてとよめるも、みたてまつりてなり。花かさしもち、これは、山のうへに花もみちのあるを、山神のかさしにいたゝきて、民のみつき物のやうに、春秋にたてまつるとなり。晏氏春秋内篇諫上第一曰。夫靈山|固《マコトニ》以v石爲v身以2草木1爲v髪。ゆふ川は、よしのにある川の名、常にはゆかはといふ所なり。此下は河伯のみつき物たてまつるをいふ。大御食は、みかとの供御にまいるものなり。かみつせにうかはをたて下つ。これは人のするわさなれと、河伯のゆるして、うをなとをおほくとらしむるをいふなり。文選班固東都賦曰。山靈護v野屬御方神。雨師汎灑風伯清v塵。同寶鼎詩曰。嶽脩v貢兮川效v珍。揚雄甘泉賦曰。八神奔而警蹕兮、振殷〓而軍裝、蚩尤之倫帶2干將1而秉v玉戚兮。顔延年詩、山祇蹕2〓路1、水若警2滄流1。山川もよりてつかふるなとは、四民百姓はいふにやをよふ。冥祇まてもかしこまりつかふまつる御代かなと、ほめたてまつるなり。此下の役民か歌に、天地もよりてあれこそといへるも、今におなし。山川の川、すみて讀へし。山と川となり。六種尺といふに准せは、相違尺なり。いはく、山は川にあらす。川は山にあらす。別なるゆへなり。常ににこりて讀は、依主尺なり。山か川なるゆへに。これらをはしめて、集中に見えたる人まろの長歌、ことに他人のをよはさる所きこゆ。赤人といへとも、班固か司馬遷をのそまんかことし。李白か飄逸の仙才をもて、杜陵翁か沈欝をかぬともいふへし。いはゆる虎にして翅あるものなり
 
反歌
 
39 山川毛因而奉流神長柄多藝津河内爾舩出爲加母《ヤマカハモヨリテツカフルカミナカラタキツカウチニフナテスルカモ》
 
歌の心明也、
 
初、山川も、上のことく、川の字すむへし。神なからは、常に何なからとといひつけたるにはたかふやうにて、よく/\心をつけされは、心得かたき詞なり。隨在天神《カミナカラモ》【孝徳紀】又|惟神《カミナカラモ》【惟神者謂2神道1亦自有2神道1也】
 
右日本紀曰三年巳丑正月天皇幸吉野宮八月幸吉野宮四年庚寅二月幸吉野宮五月幸吉野宮五年辛卯正月幸吉野宮四月幸吉野宮者未詳知何月從駕作歌
 
何月は何年月と云へる年の字の落たるなるべし、
 
(8)幸于伊勢國時留京柿本朝臣人麿作歌【目録云三首】
 
此心下の注に明なり、
 
初、幸2于伊勢國1時留v京柿本朝臣人麿作歌。三首目六
 
40 鳴呼見乃浦爾舩乘爲良武※[女+感]嬬等之珠裳乃須十二四寶三都良武香《アミノウラニフナノリスラムヲトメラカタマモノスソニシホミツラムカ》
 
嗚呼見乃浦、仙覺抄云、古本にはうみの浦にと点ず、是は呼の字和せられず、又或本にはをこの浦と点ず、是亦宜しからず、又第三の句或本都末度毛能と和す、然るに第十五に此歌を再載るに安美能宇良《アミノウラ》と書き、乎等女良我《ヲトメラガ》と書たれば此を證としてあみの浦にとよみ、をとめらがとよむべしと云云、甚明なり、今案此發句を拾遺集にはをふの浦と改む、嗚呼見をいかでをふとはよみ侍るべき、古今第二十伊勢歌に、をふの浦とよみたれば、其をふの浦をよめると心得てかくは改めらるゝか、玉葉集にはをみの浦にと云ひ、八雲にもをみの浦、伊勢と載らる、何も此集の始終を考へられざるか※[女+感]嬬等之と書るを玉葉につまともとあるは、つまともいもともをとめとも此集によみたれば誤にあらねど、是も十五卷を考へられざるなり、玉モは玉はほむる詞、(9)裳《モ》は女のきる裳也、下にも多くいへり、歌の心は、女は常に簾中に住ものなるを偶御供に侍《サブラ》ひてえもいはぬ海べを見る事なれば、鹽干のかたに出て藻を拾ひ貝を尋ねて遊樂する程に、しほの滿きて裳のすそなどぬらすらんと思ひやりてよまれたる也、女帝の御供にて女官多く陪る故に第三にも妹とよまれたり、
 
初、嗚呼《ア》見乃浦爾。此歌を拾遺集には、をふのうらにとあらためらる。嗚呼見を、いかてをふとはよみ侍るへき。古今集顯注に、志摩國に、をふの浦あり。志摩をは伊勢とひとつに申すよしなれは、そのをぶの浦をよめるとこゝろえて、かくはあらためらるゝか。玉葉集には、をみのうらに、ふなのりすらん、つまとものと載らる。八雲御抄にも、をみのうら伊勢と載らる。今案いつれも此集の始終をかんかへられさりけるあやまりなり。第十五卷に、此歌を載たるに、安美能宇良爾とあるうへは、まかふことなし。※[女+感]嬬等之とかけるを、玉葉につまともとあるは、※[女+感]嬬とかきて、つまとも、いもとも、をとめとも、此集によみたれは、あやまりにはあらねと、これも、十五卷に、今の點のことく、乎等女良我とかゝれて侍り。玉もは、玉はほむる詞。裳は女のきる裳なり。女は常に簾中にすむものにて、ことにおもしろき海邊なとは、まれにみる事なるに、たま/\御供にさふらひて、えもいはぬうみへをみる事なれは、しほひのかたに出て、玉もかひつ物なと.あかすひろふほとに、しほのみちきて、裳のすそなとぬらすらんと、おもひやりてよまれたるなり。嗚呼は、なけく聲なるゆへに、二字をあはせて唯あとよむなり
 
41 劔著手節乃崎二今毛可母大宮人之玉藻苅良武《タチハキノタフシノサキニケフモカモオホミヤヒトノタマモカルラム》
 
タチハキノタフシとそへたるは太刀をとる手とつゞくる也、腰にさすを云のみにあらず手に取をもはくと云也、日本紀に持劔と書てタチヲハクとよめり、今按此太刀著のたふしとつゞけたるは梓弓いそべなど云枕詞には違て下まで用あるべし、第二十、妙觀命婦が葛城王の山城より芹の裹にそへて贈られたる歌の和に、ますらをと思へる物を太刀はきて、かにはの田井に芹ぞ摘ける、是は只猛きのみにてふかき色あらんとも思はざりしに、太刀はきながらやさしくも芹摘て得させ給へる事と芳情を謝せり、今の歌もますらをにして太刀帶ながら海邊の珍らしさに渚に出て玉藻や刈らんと云心か、枕詞を以て下まで其心を受る例は、第十一に大舟のかとりの海にいかりおろしと云此なり、又古今に梓弓春立しより年月の、射るがごとく(10)も思ほゆる故、但古人はわざとは作出べからず、自より來る時の事なるべし、今は手節の崎の玉藻おのづから寄來れり、今はイマと点ずへし、
 
初、たちはきのたふしのさき、たちはきのたふしとつゝくるは、腰にはくをいふにあらす。手に取を、今ははくといふなり。神代紀|臂《タヽムキニ》著《ハキ》2稜威之高鞆《イヅノタカゲタヲ》1といふかことし。太刀をとる手とつゝるなり
 
42 潮左爲二五十等兒乃島邊榜※[舟+公]荷妹乘良六鹿荒島回乎《シホサヰニイラゴノシマヘコクフネニイイモノルラムカラキシマワヲ》
 
五十等兒、【仙覺抄、紀本、共点、イラト、非也、】
潮左爲、下にも多き嗣なれば別に釋す、塩の荒きに云詞なり、五十は三十四十等に准ずればいそなるべきを、集中に借て用たる處皆二字引合てい〔右○〕とす、五十《イ》鈴川の例なり、只十三卷に山邊乃五十師乃原《ヤマノベノイソシノハラ》とよめる歌のみイソと用たり、島ワは島の廻り也、いそわなどもよめり、此集に丸の字わ〔右○〕とよめり、車の輪も丸くて能く廻れば云歟、然ればわと云一言にまはる心もとより有なるべし、歌の心は、潮さゐは大事にする事にて、殊に浪あらき島の邊りは女などの乘て何心ちすらんと思やりて憐む也、イモと云は都《スベ》て女をさして云也、以上三頸首によめる所の名並に伊勢なり、
 
初、潮さゐにいらこのしまへ。しほのさしあふ所を、しほさゐといふといへり。今案おきつしほあひとよめる詞には、かはるなり。もしあとさとは同韻の字にて通すれは、ひとゐとかはれるには心もつかて、鹽あひといふ詞と、おなしと心得たるか。第三に、鹽左爲の浪をかしこみ、第十一に牛窓の浪の鹽左猪、第十五に、於伎都志保佐爲たかく立きぬなと、みなおなしく爲猪をかけり。又第二卷人丸さぬきのさみねの嶋にて、死人をみてよまれたる歌にも、おきみれは、跡位波たち、へをみれは、白波とよみ云々。此あとゐ浪といへるも、おなし詞にやあらん。位は爲におなしく用て、伊以には用す。もし浪のゐんとてうねるほとなとを申にや。さはよろつにつけていふ詞にて、ぬるをさぬる、わたるをさわたるなとよめは、しほさゐも、しほのゐるといふにや。歌の心は潮さゐは、海上にて、大事にすることにて、ことに浪あらき嶋のほとりを、男の身にてたに、舟はあやうきものなるに、さることになれぬ女なとのゝりて、何こゝちすらんなとおもひやりてあはれふなり。妹といふは、すへて女をさしていふことはなり。しまわは、嶋のまはりなり。くるまのわもまろくてよくまはれはいふ。此集に丸の字をわとよめるもその心なり
 
當麻眞人麿妻作歌
 
當麻は氏、日本紀にタイマ、タキマ兩點あり、先祖は用明天皇の御子麻呂子(ノ)皇子な(11)り、用明紀に見えたり、臣人は姓天武十三年冬十月、當麻等の十三氏に眞人の姓を賜ふ、八姓の第一なり、麿は名也、考る所なし、此歌第四卷重出、作者も同じ、
 
43 吾勢枯波何所行良武己津物隱乃山乎今日香越等六《ワカセコハイツチユクラムオキツモノカクレノヤマヲケフカコユラム》
 
巳津物は仙覺抄の意、古点オノツモノ、其意分明ならざる故にオキツモノと改らると見えたり、其證に第十一のおきつもをかくさふ浪とよめる歌を引り、證は、明なれども巳をオキと点する事往古よりあらば押ても信ずべし、仙覺の新点なれば不審なり、今按字のまゝにイツモノと讀べきか、第四に川上のいつもの花とよめり、歌には浪に藻の沈て隱るとは云つゞけねど、古歌の習はさる事なれば、仙覺も證を引て隱の山は伊勢也、此卷下に至て、朝面無《アシタオモナ》み隱《カクレ》にかと長(ノ)皇子の詠給ひ、第八に朝《アサ》がほ耻《ハヅ》る隱野《カクレノ》といへる並に同じ所なり、又此をナバリノ山とよむべきかとおぼゆる今按あり、別に注す、歌の心明、
 
初、わかせこはいつちゆくらむ。いつくのほとをか今は行らん。およそかくれの山をやけふはこえて行らんとおもひやるなり。おきに有藻の、浪にかくれたるによせてかくはつゝけたり
 
石上大臣從駕作歌
 
是は石上(ノ)朝臣弟磨卿の父にて名は麿也、文武紀云、慶雲元年春正月丁亥朔癸巳、詔(12)以2大納言從二位石上朝臣麿1爲2右大臣1、元明紀云、和銅元年二月丙午、右大臣正二位石上朝臣麻呂爲2左大臣1云云持統天皇の時には大臣に非ず、然共後の人記せる故に大臣と書也、石上は饒速日《ニギハヤビノ》命の後、元は物部氏、分れて石上榎井の兩氏となる、垂仁紀云、然遂大中姫命授2物部十千根大連1而令v治、故物部連等至2于今1治2石上(ノ)神寶1、是其|縁《コトノモト》也、然れば居地を以て氏とせり、是も天武十三年十一月に朝臣の姓を給れり、從駕は令義解第六儀制令云、事駕《キミ》行幸所v稱、蔡※[災の火が邑]獨斷曰、天子以2天下1爲v家、不d以2京師宮室1爲cl常處u、則當d乘2車與1以行2天下u、故群臣託2乘與1以言v之也、故或謂2之車駕1、
 
初、石上大臣從v駕作歌。これは石上朝臣麿なり。文武天皇慶雲元年春正月丁亥朔癸巳、詔以2大納言從二位石上朝臣麻呂1爲2右大臣1。和銅《元明》元年三月丙午右大臣正二位石上朝臣麻呂爲2左大臣1。これ續日本紀の文なり。委は作者部類に別に注せり。持統天皇御時には、大臣にはあらされとも、撰者、人からをたふとひて、後の官をもてよへるなり
 
44 吾妹子乎去來見乃山乎高三香裳日本能不所見國遠見可聞《ワキモコヲイサミノヤマヲタカミカモヤマトノミエヌクニトホミカモ》
 
吾妹子、雄畧紀曰、吾妹《ワキモコ》、【稱v妻爲v妹、蓋古之|俗乎《クニコトカ》、】
 
イザミノ山伊勢也、戀しく思出ていざそなたをだにみむとつゞけたるなり、自然にかなひたる枕詞也、いざ見んと思て大和の方にかへりみすれども更にみえざるはいさみ山の高きが隔つればにや有む、又山はさしも高からねど境はるかに隔ちきつればみえぬかと也、
 
初、わきもこをいさみの山。いさみの山、伊勢なるへし。つまをこひしくおもひ出て、いさそなたをたにみむとつゝけたるなり。いさみんとおもひて、やまとのかたにかへりみすれともさらに見えさるは、いさみ山の高きがへたつえはにやあらむ。いな山はさしもたかゝらねと、さかひはるかに、國をへたてきつれはみえぬかと、はかなうよみなしたまへるは、歌のならひなり。詩歌は、はかなきやうなるか、感情ありておもしろきなり。議論をこのめるは、なさけをくるゝなり。わきもこは、雄畧紀云。吾妹《ワキモコ》【稱v妻爲v妹(ト)蓋古之|俗《クニコト》乎】
 
(13)右日本紀曰|朱鳥《アカミトリ》六年壬辰春三月丙寅朔戊辰以淨廣津廣瀬|王等《オホキミラヲ》爲留守|官《ツカサト》於是中納言三輪朝臣|高市《タケチ》麿|脱《ノカレテ》其冠位フ上於朝重諫曰|農作之前車駕《ナリハヒノサキニキミ》未可以動辛未天皇不從諫遂幸伊勢五月乙丑朔庚午御阿胡|行宮《カリミヤニ》
 
津は日本紀に肆なり、前は節なり、並に今の本傳寫の誤なり、津廣肆の肆は四にて位階なり、天武紀下云、十四年春正月丁未朔丁卯、更改2爵位之號1、仍(テ)増2加|階級《シナシナヲ》1、明位二階、淨位四階、毎階有2大廣1、并十二階、以前《コレハ》緒王以上之位云云、高市麿は忠と功とを兼たる人なり、直諫も本朝第一にて朱雲が折檻に多く讓るまじき人なり、功は天武紀に見え、忠諫は此に引れたる持統紀に猶具なり、披て見るべし、文武天皇慶雲三年に卒せらる、壬申の年功を以從三位を贈たまふ、大花上利金之子也、委は文武紀に見えたり、懷風藻に年五十といへり從駕應v詔詩を載す、又濱成式に旋頭歌あり、重諫とは持統紀云、二月丁酉朔丁未、詔2諸官1曰、當以2三月三日1、將v幸2伊勢1、宜d知2此意1備c諸衣物u、乙卯云云、是日中納言直大貳三(14)輪朝臣高市麿上v表敢直言、諫d爭天皇欲v幸2伊勢2妨c於農時u、
 
初、右日――以淨廣津【肆也寫誤】廣瀬王【紀云。直廣參當麻眞人智徳、直廣肆紀朝臣弓張】等重諫曰○【紀云。六年春二月丁酉丁未詔2諸臣1曰。當以2三月三日1將v幸2伊勢1。宜d知2此意1備c諸衣物u○乙卯○是日中納言直大貳三輪朝臣高市麿上v表敢直上v諫爭d天皇欲v幸2伊勢1妨c農時u農作之前【紀作v節】車駕【令義解第六、儀制令云。車駕行幸所v稱。蔡?曰。天子以2天下1爲v家不d以2京師宮室1爲c常處u則當d 2車輿1以行c天下u。故群臣詫2乘輿1以言v之事。故或謂2之車駕1】――。高市麿は忠あり、功ありて、文章もありし人なり。此故に此集に歌はなけてとも、こゝの注によりて、國史を引て、作者の所に附録し侍り。又こゝにみかとをいさめられし心、異國にも其例見えたり。史記趙世家曰。十六年肅侯游2大陵1出2於鹿門1。大戊午扣v馬曰。耕事方急。一日不v作百日不v食。肅侯下v車謝。又日本紀、續日本紀等をみるに、女帝は、ことにいつれも行幸おほし。女姓の本上にや。けすの中にもをとこよりは、女はものみなとこのむとみゆ
 
輕皇子宿于安騎野時柿本朝臣人麿作歌 【目録云一首并短歌四首】
 
輕皇子は諱は天之眞宗豐祖父《アメノマムネトヨオホチ》也、系圖に諱は輕と出せり、孝徳天皇を初は輕皇子と申奉りき、文武天皇を輕皇子と云事は日本紀續日本紀にも不v見、此詞書によれば系圖に載る所可v信、持統十一年に太子に立たまへば今は唯皇子にてまし/\ける時なり、安騎野《アキノ》は大和(ノ)國宇陀(ノ)郡也、延喜式曰、宇陀(ノ)郡阿紀(ノ)神社、是は人麿も御供に在てよまれたりと見えたり、
 
初、輕皇子――人麿作歌○ 一首并短歌四首目六
輕皇子は、文武天皇の、また太子にておはしましける時、輕の里なとにおはしまして、かくは申けるなるへし。孝徳天皇を、初は輕皇子と申奉き。文武天皇を、初にかく名づけたてまつるよしは、日本紀續日本紀なとにも見えされとも、今の長歌、昔をおほしめすよしをよみ、反歌に日ならへしみこのみことのうまなへてみかりたゝしゝ時はきむかふといふをもてみれは、文武の御ことゝきこえたり。安騎野は宇陀郡なり。延喜式曰。宇陀郡、阿紀神社【鍬靫】。日竝皇子は、持統天皇三年四月薨
 
45 八隅知之吾大王高照日之皇子神長柄神佐備世須登太敷爲京乎置而隱口乃泊瀬山者眞木立荒山道乎石根禁樹押靡坂鳥乃朝越座而玉限夕去來者三雪落阿騎乃大野爾旗須爲寸四能乎押靡草枕多日夜取世須古昔念而《ヤスミシシワカオホキミノタカテラスヒノワカミコハカミナカラカミサヒセストフトシキシミヤコヲオキテコモリクノハツセノヤマハマキタテルアラヤマミチヲイハカネノフセキオシナミサカトリノアサコエマシテタマキハルユフサリクレハミユキフルアキノオノニハタスヽキシノヲオシナミクサマクラタヒヤトリセスムカシオモヒテ》
 
此歌初四句を句を置替て高照す日の皇子の八隅しゝ吾大君はと心得べし、後にも(15)此詞あり此に准ずべし、高照ス日は日(ノ)神なり、ワカミコの点の心は若御子なり、日本紀には、ヒコミコと点ぜり、彼点は古賢の傳へたる点なれば同じくは彼によるべきか、凡紀と此書との点の異同皆是に准ずべし、今は先今の点につけり、古語拾遺云、天照太神育2吾勝尊1、特甚鍾愛《コトニメクシトオホシテ》常懷2腋下1、稱曰2腋子1、自注云、今俗號2稚子1謂2和可古1、是其轉語なり、わかみこと云此心なり、御裔なれども直に吾勝尊のことく日(ノ)神の御子と云なり、日の御子にして八隅を治たまふ我大君とは心得べし、太敷爲は、ふとはたしかなる心なり、家にふとき柱をたつるが如し、今案フトシカスと讀べきか、今点にてはさきの君を申やうなり、但さきより敷おき給ふ都と心得ば此も難なし、是までは持統の御上を云、都ヲ置テと云より輕《カルノ》皇子のあき野へおはします路すがらの事を云へり、今都と云はいまだ藤原の宮へ移り給はぬさきなれば、淨御原の宮也、隱口乃泊瀬、別に注す、眞木立ルキはたゞ木と云に眞はほむる心なるを添て云も常の事なれど今は※[木+皮]の木なり、第三にもまきの立荒山中とよみて、※[木+皮]はみ山木なれば其由に云なり、只木を云はゞ木はいづくにもあり、山は勿論にてにぶき事なるべし、寂蓮が露もまだひぬまきの葉に、又まき立山の秋の夕暮などのまきも木名なるべし、フセ木は臥木也、禁の字は禁防の心、字をかりて書り、景行紀に曰、十八年到2筑紫後國|御木《ミケニ》1居2於(16)高田行宮1、時有2僵樹1長九百七十丈焉、百寮踏2其樹1而往來云云、此類也、オシナミは供奉の兵の岩木をも押なびけ踏とほるを云也、坂烏とは鳥の朝に坂を越るを云、十四には坂越てあへの田面にゐるたづのとよめり、十三ははとなみはる坂とを過てとよみ、其鳥のごとく朝に坂を越るを云、是より下は阿騎《アキノ》野にやどらせたまふ由を云り、玉限は十一十三にも如此書て点も同じ、其中に十一には石垣淵とつゞけたれば皆カゲロフノと讀べきか、其よし別に注す、先今の点につかば玉ぎはるは物の限りあるを云詞なれば夕は一日の限りなればかくつゞくるなるべし、ミユキフルアキノ大野ノとは反歌第三によるに此時節也、ハタスヽキ袖中抄に説々あり、蒲の旗のやうなるを云なるべし、シノヲオシナミ、しのはしげき事也、しのにおしなみと云に同じ、此集にを〔右○〕と云べきをに〔右○〕といひ、に〔右○〕と云べきをを〔右○〕と云へる事多し、旅ヤドリセス、せすのす〔右○〕清てよむべし、宿りするを云、昔思ヒテは反歌にて見れば是よりさき日並知《ヒナメシノ》皇子の此野に御狩などし給し事を思食て、馴させ給はぬ旅ねをし給ふ御心の程を感じてよめる池、山を越る道すがらといひ、雪のふる時節といひ、景氣思ひやるべし、
 
初、やすみしゝわか大きみの。わか大君は、持統天皇なり。日のわかみこは輕皇子を申。日神の御子孫なれは、日のわかみこといひ、又天子の徳を、日にたとふれは、日のみこといふ。都をゝきて、藤原へ移り給はぬさきなれは、淨御原の宮なり。眞木たてるは、眞はよろつの物につけてほむること葉なれは、大木のしけきをいふ。又※[木+皮]はみ山木なれは、それにもあるへし。ふせ木は、臥木なり。大木のをのつからたふれたるが、道によこたはれるをふみこゆるなり。禁の字は、禁防の心を、かりてかけるなり。又樹神のやとる木なとがよこたはりて、みたりなる人のいるを、ふせく心もある歟。日本紀景行天皇紀十八年到2筑紫後國1御木居2於高田行宮1。時有2僵樹1長九百七十丈焉。百寮踏2其樹1而徃來云々。此たくひなり。をしなみは、難義の道なれとも、供奉の兵のおほくて、其岩木をも、押なひけ踏とほるといふ心なり。坂鳥とは、朝鳥の山の尾を飛こゆるをいふ。其鳥の坂を越ることく、朝越ましますとなり。玉限ゆふさりくれは、此玉限を、長流か抄には、かけろふとよみ、今の本には、玉きはるとよめり。此集に、三所に玉限とかけり。一には、今のことし。二には第十一に玉限いはかきふちとよみ、三には、第十三に玉限日もかさなりてとよめり。今の本には、いつれも玉きはるとよめり。文字につきては、玉きはるさもと聞ゆ。たゝ第十一の、いはかきふちのつゝきそ心得かたく侍る。かけろふは、三首にわたりてよく通すれとも、いかにして、かけろふとよむへしとも、文字の心得かたけれは、まつ今の本につきて釋すへし。くはしくは、かけろふの内とつゝくるにつきて、別に尺せり。玉きはるは.ものゝかきりあるをいふ詞なれは、夕はひと日のかきりなるゆへに、かくはつゝくるなるへし。はたすゝきは、ほに出て打なひきたるが、はたにゝたれはいふなり。しのをおしなみ、此集に、をといふへき所を、にといひ、にといふへきを、ゝといへる事おほし。しのにおしなみといふにおなし。しのは、しけきことなり。たひやとりせすは、上の神さひせすとゝにすむへし。たゝ神さひす、旅やとりすといふ古語なり。昔おもひては、さきにいへるかことく、反歌にてみれは、日竝《ヒナメシノ》皇子の、此野にみかりなとしたまひしことを、おほしめして、なれさせたまはぬたひねをしたまふ、御心のほとを、感し奉てよまれけるなるり。此時文武天皇また十五六歳には過させたまふましけれは、雪ふるころの御たひねのほと、かたしけなけれど、おもひやるへし
 
短歌
 
(17)46 阿騎乃爾宿旅人打靡寐毛宿良目八方古部念爾《アキノヽニヤトルタヒヽトウチナヒキイモネラシヤモイニシオモフニ》
 
宿良目八方、【定家卿自筆点、ネラメヤモ、按此点の心なれば自は目の字の誤か、】
 
阿騎乃、此下に野の字落たるか、又あきのにと四字によまれたるか、打ナビキとは御父の昔を思召す故に藻などのなびきたる樣に打とけてもえ寢させ給はじとなり、宿はぬ〔右○〕とぞよまゝほしき、
 
初、あきのゝにやとるたひ人打なひき。阿騎乃、此下に野の字おちたり。打なひきとは御父の昔のおほしめし出るゆへに、藻なとの水の上になひきたるやうに、打とけてもえねさせ給はしとなり
 
47 眞草苅荒野者雖有葉過去君之形見跡曾來師《ミクサカルアラノニハアレトハスキユクキミカカタミノアトヨリソコシ》
 
眞草、み〔右○〕とま〔右○〕と通ずる故に宜きに隨ひて讀なり、葉過ユク、此は葉の字の上に黄の字の落たるを強てかく讀たるなり、其故は第二卷に黄葉《モミチハ》の過ていゆく、第九に黄葉の過ゆくこら、十三に黄葉の散て過ぬ、又黄葉の過てゆきぬと云云、皆一同に挽歌の詞也、其外挽歌ならぬにかくつゞけたる歌おほし、又第九に人丸集の挽歌紀國にての作に、鹽氣《シホケ》たつありそにはあれど、徃水《ユクミツ》の、過ゆく妹がかたみとぞこし、是詞は少替て意は今の歌に同じ、然ればモミヂ葉ノ過ニシ君ガカタミトゾコシと讀べし、葉過ゆくもせはしく、跡の字の下によりと讀べき字もなし、必黄の字の落たるなり、紅葉も(18)盛なる時あるに過としもつゞくるは、紅葉散むとて色付又惜めども脆く散物なればよそへて云なり、これより三首は人丸の私の心をよまれたるなるべし、日並《ヒナミシ》皇子の御狩せし野なれば君が形見とはいへり、
 
初、眞草かるあらの。みとまと通するゆへに、よろしきにしたかひて讀なり。葉過ゆく、これは葉の字の上に、黄の字のおちたるを、しゐてかくよみなせるなり。そのゆへは、第二卷人丸の長歌に、おきつものなひきし妹は、黄葉の、過ていゆくとよみ、第九には、黄葉の過ゆくこらと讀、第十三には、わか心、つくしの山の、黄葉の、散て過ぬといひ、又、いつしかと、わか待をれは、黄葉の、過てゆきぬと、玉つさの、使のいへはなと、皆一同に、挽歌のことはなり。しかれは、もみちはの、過にし君か、かたみとそこしとよむへし。葉過ゆくもせはしく、跡の字の下に、よりと讀へき字もなし。かならす黄の字のおちたるなり
 
48 東野炎立所見而反見爲者月西渡《アツマノヽケフリノタテルトコロミテカヘリミスレハツキカタフキヌ》
 
東野は阿騎《アキ》野に近き野にや、長歌にみ雪ふる阿騎の大野とよみて、皇子の出ます時は冬なれば野を燒く烟のみゆるにつけて日並(ノ)皇子の御狩の御供せし折の事ども思ひつゞけてねられぬまゝに飽かずながめやる程に月の傾く程になりぬとなるべし、案ずるに火田とて火を放ちて草を燒て獵をもするなり、又西都(ノ)賦に獵を云へる所に擧v烽命v爵、李善注云云、呉都(ノ)賦云、鉦皷疊《フルヒ》v山(ヲ)火烈|※[火+栗]《モユ》v林(ニ)、飛爛浮煙(アリ)載霞載陰、是も狩にいへれば煙を見て昔の虞望に擧し烽火の煙を思出て慕ふ心にや、西渡とかきて傾クとよむは義訓なり、又案ずるに東野と書き西渡とかけるは相對する詞なればヒムガシノヽとよみニシワタルと字のまゝによむべきにや、阿騎(ノ)野にしてあづまのと云ふ處たとひありともよむべからず、阿騎(ノ)野は淨御原(ノ)宮よりは東に當れば※[手偏+總の旁]じて東の野とも云ふべし、又其野の中にも東の方を指しても云ふべし、東と云ふは(19)月の西に渡りて夜の深けたる由をいはむ爲なり、又東に向て煙の立つ方を見て頭を回ふらせば月は西に渡りぬと、日並(ノ)尊御世の須臾《シバシ》なりし事をたとふるやうによまれたるか、又按ずるに第六にかげろふの春にしなればと云ふ歌に炎乃春とかけり、東の字を義訓してハルノ野ノカゲロフタテルと點ずべきにや、心は春の御狩の時を思ひ出つるなり、第二にかげろふのもゆるあら野とよみたれば、上の歌に眞草かるあら野にはあれどゝ云へるやうにも心得べき、
 
初、あつまのゝけふりのたてる。あつま野も、阿騎野にちかき野にや。さきの長歌に、み雪ふる、阿騎の大野とよみて、皇子の出ます時は冬なれは、野をやく煙のみゆるにつけて、ねられ給はぬまゝに、彼野にても、父皇子の、みかりなとしたまひける物をと、あかすなかめやらせたまふほとに、月のかたふくほとになりぬとなり。西渡とかきて、かたふくとよむは、發語の義飜の例なり
 
49 日雙斯皇子命乃馬副而御獵立師斯時者來向《ヒナシミコノミコトノムマナメテミカリタチシヽトキハコムカフ》
 
來向、【校合本云、キムカフ、】
 
日雙斯、今の本〔三字左○〕にヒナラヘシと點じたれどもヒナメシと四文字に讀むべし、草壁《クサカベノ》太子を文武紀に日並知皇子と申し、八隅知之のやすみしゝとよむ時、知をし〔右○〕とのみよむ例にて日並知をヒナメシとよむなるべし、然れば斯は知の字の假名と心得べし、第二卷に此皇子隱れさせ給ひて後舍人どものよめる歌の中に、毛衣を春冬かたまけてみゆきせし、宇陀の大野はおもほえんかもとよめり、菟田(ノ)野阿騎(ノ)野同郡なれば何にも狩し給べし、狩は冬に宜きに折節薄おしなみ雪ふる比なれば時はきむかふ(20)と云へり、第十九家持長歌にも春過て夏き向へばともよまれたり、立師斯、是をばタヽシヽとよむべし、み狩に立給ひし時と云ふなり、タチシヽとよむはわろし、
 
初、日雙斯みこのみことの。今の本に、ひならへしと點したれとも、日なめしと、四文字によむへし。そのゆへは、日竝知《ヒナメシ》のみことゝいふ、御名を日雙斯とかけれはなり。八隅知之とかきて、やすみしゝとよむ時、知の字は、たゝしとのみよむ。これに准して知へし。第二卷に、此皇子かくれさせ給ひて後、舍人とものよめる歌の中に、けころもを夏冬かたまけてみゆきせしうたの大野はおもほえんかも。兎田野、阿騎野同郡なれは、いつれにもかりし給ふへし。狩は冬によろしきに、おりふし簿おしなみ雪ふる比なれは、時はきむかふといへり。第十九家持長歌にも、春過て夏きむかへはとよまれたり。立師斯これをは、たゝしゝとよむへし。みかりにたちたまひし時といふなり。たちしゝとよむはわろし
 
藤原宮之役民作歌
 
50 八隅知之吾大王高照日之皇子荒妙乃藤原我宇倍爾食國乎賣之賜牟登都宮者高所知武等神長柄所念奈戸二天地毛縁而有許曾磐走淡海乃國之衣手能田上山之眞木佐苦檜乃嬬手乎物乃布能八十氏河爾玉藻成浮倍流禮其乎取登散和久御民毛家忘身毛多奈不知鴨自物水爾浮居而吾作日之御門爾不知國依巨勢道從我國者常世爾成牟圖負留神龜毛新代登泉乃河爾持越流眞木乃都麻手乎百不足(21)五十日太爾作泝須良牟伊蘇波久見者神隨爾有之《ヤスミシシワカオホキミノタカテラスヒノワカミコハアラタヘノフチハラカウヘニヲシクニヲメシタマハムトミヤコニハタカシルラムトカミナカラオモホスナヘニアメツチモヨリテアレコソイハヽシルアハウミノクニノコロモテノタナカミヤマノマキサクヒノツマテヲモノヽフノヤソウチカハニタマモナスウカヘナカセレソヲトルトサワクミタミモイヘワスレミモタナシラスカモシモノミツニウキヰテワカツクルヒノミカトニイソノクニヨリコセチヨリワカクニハトコヨニナラムフミオヘルアヤシキカメモアタラヨトイツミノカハニモチコセルマキノツマテヲモヽタラスイカタニツクリノホスラムイソハクミルハカミノマヽナラシ》
 
水爾浮居而、【官本、ミツニウカヒヰテ、】 持越流、【古點云、モチコユル、】 神隨爾有之、【官本、カミノマニアラシ、】
 
アラタヘとは布の※[手偏+總の旁]名なり、藤にてもをれば荒たへの藤衣と云ふ心にてつゞけるなり、委くは別に注す、食國乎賣之賜牟登《ヲシクニヲメシタマハムト》、をしくには天下なり、食v侯食v禄など云ふ加く天子は天下を以てものとし給ふ心なり、都宮者高所知武等《ミヤコニハタカシルラムト》、都にはとは都をばと云ふ心なり、官本に都ヲバと點ず是なり、タカシルラムは此點不v叶、古點高ク知ラムト、これによるべし、又タカシラサムトともよむべし、しらさむと云は知ると云ふ古語なり、都にて高く臣民の上に臨みて治むるなり、天地毛縁而有許曾《アメツチモヨリテアレコソ》はさきに人麿の歌に山河もよりてつかふると云に同じ、あれこそはあればこそなり、衣手能は田上の枕詞なり、別に注す、眞木佐吉檜乃嬬手乎《マキサクヒノツマテヲ》、此まきは檜の木をほめて云ふ、さくは斧などにて割るをいふなり、繼體紀に勾《マカリノ》大兄(ノ)皇子(ノ)歌云、莽紀佐倶避能伊陀圖鳴飫斯毘羅枳《マキサクヒノイタドヲオシヒラキ》、檜は本朝に宮木の最上とする事は神代紀曰、又|拔2散《アカツ》胸毛1是成v檜、檜可3以爲2瑞宮之材1云云、嬬手とは削りたてゝ節なき木の白くうつくしきが女の手に似たるを云ふ、モノヽフノ八十氏河、此枕詞別に注す、玉藻ナスウカベ流セレとは藻の如くう(22)かべるを云ふ、流せればといはぬは古語なり、其ヲ取とはそれを取るとてなり、身毛多奈不知は下にもたなしり、たないひなどよめり、棚、棚橋、機を棚機と云ふも皆空中にある心なれば身を傷損せむ事をもそらにしらぬと云ふにや、君の爲に身を忘れて顧ぬなり、又輕引と書きてタナビクとよめり、然ればたな〔二字右○〕は輕しと云ふ古語か、是は毛詩に經始勿v亟、庶民子來といへるに似たり、鴨自物はかもと云ふものゝ如くといふ心なり、下に鳥じ物犬じ物など云ふと同じ心なり、此じ〔右○〕の字は助語ながらなくてはつゞかねば少心ある字なり、日之御門は古事記雄略天皇の段に、伊勢(ノ)三重(ノ)妹が歌にマキサクヒノミカドニ
と詠みたれど、第五に憶良の歌に、高光日御朝廷《タカテラスヒノミカド》とよまれたると今は同じければ帝を日に譬へ奉りて其御門を作ると云ふにて宮殿知ぬべし、不知國依巨勢道ヨリとは不知國を古點にシラヌクニと点ずるをよしとす、仙覺イソノクニと改め点ずるは惡し、三韓等の外名も知らぬ國々より徳化を慕ひて依來ると云ふことを高市(ノ)郡のこせと云ふ所の名にいひつゞけたり、圖負留神龜〔五字右○〕、尚書曰・天乃錫v禹、洪範九疇、彜倫攸v叙、孔安國注(ニ)、疇(ハ)類也、天與v禹洛出v書神龜負v文而出、列2於背1有v數至2于九1、禹遂因而第v之以成2九類1、易繋辭曰、河出v圖洛出v云云、史記曰、神龜者天下之寶也云云、天智紀云、九年六月、邑中獲v龜、書2申字1上黄下玄云云、アタラ世はめづら(23)しき世とほむるなり、泉ノ河は山城(ノ)國相樂(ノ)郡にあり、今龜の文を負ふて出づるにはあらねどいづみの川とつゞけむ爲に上と共に世をほむる詞を枕に置なり、要用なる詞を以てかく面白く鈎※[金+巣]すること奇妙と云ふべきにや、持越流とは田上より宇治川に流し宇治より淀に流し淀より泉川に泝らしむるをいふ、百不足はい〔右○〕と云ふべき枕詞なり、百の數に足らぬ五十《イ》とつゞくるなり但、五十日太爾作《イカダニツクリ》とかける意|百日《モヽカ》に足らぬ五十日《イカ》とつゞくる意なり、末に百たらぬ山田の道、百たらぬ三十《ミソ》の槻枝、百たらぬ八隅阪など皆此つゞきに同ぞ、神代紀に百不足八十隈《モヽタラズヤソクマ》と大己貴《オホナモチノ》命ものたまへれば古語なり、伊蘇波久は爭の字をいそふ〔三字右○〕とよめり、我先にと爭ふ心なり、神ノマヽナラシは此神も亦君なり、君の御心にまかせぬことのなければ速に功成ぬべしとなり、
 
初、やすみしゝわか大きみ。これは、上の大きみ、下の日のわかみこ、たゝひとりの天子の御ことなり。高照す、日のわかみこの、やすみしゝ、我大きみはと打かへして心得へし。皇子とかきて、わかみことよむは、古語拾遺云。天照太神|育《ヒタシテ》2吾勝《アカツノ》尊(ヲ)1特(ニ)甚|鍾愛《メクシトオホシタマフ》。常(ニ)懷(キタマフ)2腋(ノ)下(ニ)1。稱《ナツケテ》曰2腋《ワキ》子(ト)1。【今|俗《クニヒト》號2稚子(ヲ)1謂2和可古1是其轉語也。】この心にて、たとひて、中に御の字をそへたり。日神の御おもひ子にておはしますといふ心なり。あらたへとは、布の惣名なり。藤にてもをれは、あらたへの藤衣といふ心にて、つゝくるなり。くはしくは名所のところに釋せり。あめつちも、よりてあれこそはさきに、人丸の歌に、山川もよりてつかふるとあるにおなし。あれこそは、あればこそなり。いはゝしるあふみ、衣手のたなかみ、皆名所の所に別に注せり。まきさくは、木の名の  にはあらず。宮造の良材を、きりこなけて柱なとに作なすをいふ。さくとは、斧にてわり、鋸にてひきわりなとするなり。繼體紀に、勾大兄《マカリノオヒネ》【安閑天皇】の御歌にも、まきさく、ひのいた戸を、おしひらきとよませたまへり。檜は本朝に、宮木の最上とすることは、神代紀にいはく、神代紀云。一書《アルフミニ》曰素戔嗚尊曰。○又援2散《アカツ》胸(ノ)毛(ヲ)1。是|成《ナル》v檜(ト)○檜可3以爲2瑞宮之材1といへり。檜のつまてとは、ふしたてる所もなく、白くきつくしきをいふといへり。今も、さま/\に名をつけていふことく、切たる木の名なるへし。玉もなす、うかへなかせれとは、なすは、如の字を日本紀に、なすとよめり。玉ものことくうかへなかせれはなり。ばの字なきは、上にいふかことし。そをとるとゝは、それをとるとてなり。身もたなしらすとは、此集に、末にもたなしらす、たないひなとよめり。霞たなひくといふに、輕引とかける所あれは、たなは、かろしといふ古語歟。しからは、身を王事のためにかろむして、あやまちなとして、やふりそこなふことをも、しらぬをいふなるへし。こゝは、毛詩に、經2始(ス)靈臺(ヲ)1。經(シ)v之(ヲ)營(ス)v之。庶民|攻《ツクル・オサム》之。不(シテ)v日(アラ)成(ス)之。經始(スルコト)勿(レトイヘトモ)v亟《スミヤカニスルコト》民子(ノコトクニ)來(ル)といへるにゝたり。かもしものは、鳧といふ物のことくいふ心なり。第五卷に、犬しもの道にふしてやとよめる、おなし心なり。此しの字は、常のやすめことはよりは、すこし心あるやうなり。日のみかとゝは、帝王を日にたとへ奉て、おはします宮殿等を、みかとゝいふなり。朝廷とかきて、みかとゝよめり。朝の一字をもよめり。不知國とかけるを、いそのくにと、かんなをつけたれとも、しらぬくにとよむへし。大唐三韓の外、名もしらぬ國々まて、徳化をしたひてたよりくるといふ事を、葛上郡のこせといふ所の名にいひつゝけたり。我國はといふよりあたらよといふまては、いつみ川といはむ序に、ことよせて、帝徳をほめ奉るなり。しらぬ國といふより、あたら代といつみ川といふまてのよみやう、此役民は、凡俗のものにあらしと、長流は申き。第十六の、竹取翁か長歌、おなし卷の、乞食者かよめる二首の長歌なとも、此類なり。こせちといふは、いつみ川より、陸路の巨勢をさして、つゝきたるなるへし。この道より、宮木を引取なり。わか國は、此後常住不變の地となりぬへし。そのゆへは、禹王の時、神龜、圖を負て洛水より出けることく、今もあらたにめつらしき御代とて、さる龜の出るといふ心を、發句にいひかけたり。泉川は木津河なり。なかれてよとの大橋に出。山城國|相樂《サカラカ》郡に屬せり。持こせるとは、田上山の木を、宇治河になかし、淀より、泉川にさかのほらしむるなり。もゝたらぬとは、いといはんためなり。五十をは、いそといふへきことなるに、五十鈴河を初て、いとのみよめり。菅家萬葉集にも、いつれといふに、五十人禮とかゝせたまへり。いそはくとは、われさきにとあらそひて、材を引なり。爭の字をいそふとよめり。神のまゝならしとは、君のおほしめすまゝなりといふ心なり。しらぬ國といふより、いつみ川にいたるまて、詞意たくみにして、よく心を付されは、心得かたし。ふみをおふ龜のことは、尚書曰。天乃錫2禹洪範九疇1。彜倫攸v叙。孔安國注、疇類也。天與v禹洛出v書神龜負v文而出列2於背1有v數至2于九1。禹遂因而第v之以成2九類1。易繋辭曰。河出v圖洛出v書。神龜者大戴禮云。甲蟲三百六十四、神龜爲2之長1。莊子曰。神龜知七十二鑽而無2遺筴1而不v能v避2刳v腹之患1。史記曰。神龜者天下之?也。與v物變化四時變v色。居而自匿伏而不v食。春蒼夏赤秋白冬黒。龜筴傳曰。上有2檮蓍1【索隱曰。檮音逐留反。檮蓍則?蓍】下有2神龜1。洛書云。靈龜者、玄文五色神靈之精也。能見2存亡1明2於吉凶1。孝經援神契云。天子孝則天龍降地龜出。熊氏瑞應圖曰。王者不v偏不v黨尊2用耆老1不v失2故舊1徳澤流洽則靈龜出。車〓(カ)秦書曰。符|堅(カトキ)高陸縣民穿v井得v龜。大二尺六寸。背文負2八卦古字1。堅以v石爲v池養v之。日本紀二十七云。天智天皇九年六月邑中獲v龜背|書《シルセリ》2申字1上(ハ)黄(ニ)下(ハ)玄。【今案倒玄黄。負申字疑壬申年亂讖邪。】延喜式治部省式云。神龜(ハ)黒神之精也。五色鮮明知2存亡1明2吉凶1也。もちこせるは十三に、月よみの、もちこせる水、いとりきて。日本紀十九云。秋七月壬子朔高麗使到2於近江1。是月遣2許勢臣猿與2吉士赤鳩1發v自2難波津1控2引《ヒキコシテ》船於狹々波山1而裝2飾《ヨソヒテ》船1。乃往迎2於近江北山1、遂引(コシテ)入(ル)2山背|高槭館《コマヒノムロツミニ》1
 
右日本紀曰朱鳥七年癸巳秋八月幸藤原宮地八年甲午春正月幸藤原宮冬十二月於戍朔乙卯遷居藤原宮
 
詳に日本紀に見えたり、
 
從明日香宮遷居藤原宮之後志貴皇子御作歌
 
(24)志貴(ノ)皇子は施基(ノ)皇子也、天智の皇子光仁帝の父なり、明月記云、天福元年六月八日條下曰、昨日以2書帖1示2合師季朝臣1事、志貴(ノ)皇子萬葉集載2數首1、新古今自他任2彼集1撰上之又被入了、今按此皇子如2國史1若v無2慥所見1將其讀若與2施基1、可v同歟、然者御諱可v無v便哉、答曰、件皇子如2彼集1者歌人内春日榎井海上三人王世貴皇子之子云、如今示給若施基之音可v通歟、日本紀點セキ云云、私按國史施基或作2芝基志貴志紀1、然則可d爲2之木之音1而讀u之、
 
51 ※[女+采]女乃袖吹反明日香風京都乎遠見無用爾布久《タヲヤメノソテフキカヘスアスカカセミヤコヲトホミイタツラニフク》
 
タヲヤメ、八雲御抄曰、若き女を云ふ、日本紀に少婦と書くと云云、今按此集にもこゝにかける外手弱女または幼婦などかけり、心はたをやかなる女なり、宗祇抄曰、此歌の心は、飛鳥の都にてありし時は明日香風も宮女の袖を朝夕吹かへしたるが、今都移りて遠ざかればいたづらに吹くとよめりといへり、第十九にあすか川川とをきよみおくれゐて、戀ふれば都いや遠ぞきぬ、但此は藤原(ノ)宮よりならへ遷されての歌なり、
 
初、たをやめの袖吹かへすあすか風
たおをやめは手弱女とかける心なり。羅綺之爲2重衣1妬2無v情於機婦1といふかことく、たをやきたるに名つく。此御歌は、ふたつの心あるへし。あすか風の、たをやめの袖を吹かへすは、藤原宮へ、うつらせたまへるなこりをおしみてまねけとも、都の遠けれはかひなしといふ心にや。また唯長袖風にひるかへりて、颯纏としなやかなれと、みるへき人なけれは、いたつらなりとにや。無用はまことにいたつらに侍り
 
藤原宮御井歌【目録云 一首并短歌】
初、藤原宮歌。一首并短歌目六
 
(25)52 八隅知之和期大王高照日之皇子麁妙乃藤井我原爾大御門始賜而埴安乃堤上爾在立之見之賜者日本乃青香具山者日經乃大御門爾春山路之美佐傭立有畝火乃此美豆山者日緯能大御門爾彌豆山跡山佐備伊座耳高之青菅山者背友乃大御門爾宜名倍神佐備立有名細吉野乃山者影友乃大御門從雲居爾曾遠久有家留高知也天之御蔭天知也日御影乃水許曾波常爾有米御井之清水《ヤスミシシワカオホキミノタカテラスヒノワカミコアラタヘノフチヰカハラニオホミカトハシメタマヒテハニヤスノツヽミノウヘニアリタヽシミシタマヘレハヤマトノアヲカクヤマハヒノタテノオホキミカトニハルノヤマチシミサヒタテリウネヒノコノミツヤマハヒノヌキノオホキミカトニミツヤマトヤマサヒイマスミヽタカノアヲスケヤマハソトモノオホミカトニヨロシナヘカミサヒタテリナクワシヨシノヽヤマハカケトモノオホキミカトニクモヰニソトホクアリケルタカシルヤアメノミカケアメシルヤヒノミカケノミツコソハトキハニアラメミヰノキヨミツ》
 
高照、【中院本云、タカクテル、】 天知也、【校合本云、アマシルヤ、】 水許曾波、【中院本云、波作v婆、】
 
埴安ノ堤ははにやすの池の堤なり、十市(ノ)郡也、此埴安の池を八雲にうへやすと載せられたるは御本に埴の字を植に誤りてや侍りけん、神武紀云、天皇以2前年秋九月1潜取2天香山之埴土1以造2八十|平車重射※[分/瓦]《ヒラカ》1躬自齋成、神代紀上曰、土神號2埴安《ハニヤスノ》神1云云、見之賜者、し〔右○〕(26)は助語なり、青香具山、八雲にかぐ山の外に青かく山と載せさせ給へど、たゞ艸木の茂りて青々と見ゆるを褒めてかく山を云ふなるべし、日經乃とは、唐には南北を天地の經とし東西を緯とせり、此國は是に異り、日本紀第七成務紀曰、五年秋九月、令2諸國1以2國郡1立2造長1縣邑置2稻置1竝腸2楯矛1以爲v表、則隔2山河1而分2國縣1、隨2阡陌1以定2邑里1、」因以2東西1爲2日縱《ヒタヽシ》1、南北爲2日横《ヒヨコシ》1、山(ノ)陽《ミナミ》曰2陰面《カケトモ》1山(ノ)陰《キタ》曰2背面《ソトモ》1是以百姓安居、天下無v事焉、かくあれば東にても西にても經と云ふべし、藤原の舊地に因て思ふに今は東の方を云りと、大御門は上の如くオホミカドとよむべし、下皆准v之、春山路は上に額田王の、咲かざりし花もさけれど山をしげみ、入てもとらずとよめる如く春山はしげる物なればしみさびといはむ科なり、之美佐備立有は、しみは繁の字を書きてしげきなり、しみゝと云ふも同じ、さびは前に見えたり、畝火乃此美豆山者、瑞山なり、ほむる詞なり、名所に非ず、日ノヌキは南北ともに云ふべきこと日の經の如し、其中に今は北なり、但畝火山は岡寺より西北に當れば藤原(ノ)宮よりは彌西北なるべし、※[手偏+總の旁]じて此歌によめる方角必しも正當なるべからず、大形に見るべし、山サビイマス、此さびも亦上に云ふが如し、耳高ノ青菅山とは、此耳高も地の名にて、假令ば三吉野の象山など云ふに同じき歟、又菅山は中に谷ありて兩の側の高ければ枕詞に云るか、或者の曰く、耳(27)梨山今の俗天神山と云ふ、北は木村の東にあり、此歌を引きて耳高山とも青菅山とも云ふといへり、彼國の案内よく知れる者の記せる事なれば耳成より外には藤原の舊跡の北には山なきにや、耳成山を耳高山とも青菅山とも云へる證なければおぼつかなし、されど三山といはるゝ内なれば誠に耳戌も此歌に取ては漏まじき山なれば、案内知れる者の詞に付て一注愚推を加へば、山の形などや菅に似て青菅の如くに耳を成と云ふ意に名づけ侍りけむ、さらば足引と云ひて山とする如く青菅山とも申してむ、耳高は青菅といはむためのみなるべし、宜名倍はよろしきなり、第三にもよろしなへわがせの君とよめり、名細《ナクワシ》は、細は細妙とつゞく字にて共にたへともよめば、名もよし野と云ひてよき山とほむる詞なり、第三に名ぐはしきいなみの海ともよめり、枕詞には非ず、影友乃大御門從雲居爾曾遠久有家留《カケトモノオホキミカドニクモヰニソトホクアリケル》、かげともは南に當りて吉野山は遠く立て都をしづむるなり、唐にもよき都は皆四面に靈山あるなり、張衡西京賦曰、漢氏初都在2渭之|※[さんずい+矣]《ホトリ》1、奏里2其朔1寔爲2咸陽1、云云、文煩ければ委くは引かず、披て見るべし、此歌の中間よく彼賦に似たり。三體詩許渾金陵詩落句云、惟有青山似2洛中1、天隱注曰、李白金陵詩曰、苑方2秦地1、少山似2洛陽1多、曾景建曰、洛陽四山、々々圍2伊洛1※[纏の糸がさんずい]澗在v中、建康【建康郡即金陵】亦四山圍2秦淮1直涜在v中、故許渾云似2洛中1、およそ都を立て(28)らるゝには山川の向背などを勘ふる故にや、班孟建西都賦曰、其宮室也、體2象乎天地1經2緯乎陰陽1云云、高知也天之御蔭《タカシルヤアメノミカゲ》、此歌は御井を題にてよめども井はさして物めかしうよむべき風情もなければ、先宮殿より始めて四面に名山のありて都のしづめとなる事をひひ盡して本意とする井の事をいひて一篇を収むるなり、あめの御蔭日のみかげとは延喜式第八祈年祭祝詞云、御孫《ミマノ》命瑞《ミヅ》御舍《ミアラカ》奉《タテマツリ》?天御蔭日御蔭《アメノミカゲヒノミカゲ》隱坐《カクリマシ》?云云、高き天の影日の影も移る水なれば、天の久しきと共に日のうせぬと共にときはにすみたゝへてあらむ清水とよめり、延喜式の心は蔭は庇蔭にて其蔭にかくれて安き心なり、西行上人の清水流る柳陰と小へる陰なり、今は影の移るを云ふ、但天之御蔭日御影と書ける文字の心を用ひて天の御蔭にかくれ日の御影の移る水と心得べきか、推古紀に蘇我(ノ)馬子大臣の帝に壽を上らるゝ歌に、やすみしゝわが大君の、かくりますあまのやそかげ、出たゝすみ空を見れば、云云、此天の八十かげと云へるは日のことなれば影にやと思ふを、隱れ給ふ陰とつゞけたれば日徳に庇蔭し給ふ心と見えたり、蔭の字を影也と注し又蔭也とも注したれば徃ては通ずるなるべし、
 
初、やすみしゝ――。はにやすの堤、はにやすの池の堤なり。此埴安の池を、八雲御妙に、うへやすと載られたるは、御本に埴の字を、植にあやまりてや侍けむ。見したまへれは、しは助語なり。青かく山、八雲御抄に、かく山の外に、青かく山と載させたまへと、只草木のしけりて、青々とみゆるをほめて、かく山をいふなるへし。日のたてのとは、もろこしには、南北を天地の經とL、東西を緯とせり。此國はこれにことなり、日本紀第七成務紀云。五年秋九月|令《ノリコチテ》2諸國1以國郡(ニ)立2造長1、縣邑置2稻置《イナキ》1竝腸2楯矛1以爲v表。則|隔《サカヒテ》2山河1而分2國|縣《コホリ》1隨2阡《タヽサノミチ》陌《ヨコサノミチ》1以定2邑里(ト)1。因以2東西(ヲ)1爲2日縱《ヒタヽシト》1南北爲2日|横《ヨコシ》1・山(ノ)陽《ミナミヲ》曰2陰面《カケトモト》1山(ノ)陰《キタヲ》曰2背面《ソトモト》1。是以|百姓《オホムタカラ》安v居《スミカニ》天下無v事焉。しみさひたてりは、しみは繁の字をかきてしけきなり。しみゝといふもおなし。さひは、さはつけたる字なり。神さひ、翁さひといふかことし。しけひて立なり。俗語に何たて何めくといふほとの詞なり。うねひの此みづ山は、瑞山なり。ほむる詞なり。日のぬきは南北をいふゆへに、南にあたりても、北にあたりてもいふへけれと、下に青菅山そともにあれは、そともは北なるゆへに、これはうねひ山の南にあたるなり。よろしなへは、よろしきなり。第三にもよろしなへわかせのきみとよめり。名くはしは、細の字をかけり。細妙とつゝく字にて、此集にたへともよめは、名もよし野といひて、よき山とほむる詞なり。第三になくはしき、いなみの海ともよめり。枕詞にはあらす。かけとものおほみかとに、雲居にそ、遠く有ける。かけともは南なり。南にあたりてうねひ山は、ちかく都のしつめとなり、よしの山は、遠く立てしつむるなり。もろこしにも、よき都は、皆四面に靈山あるなり。張衡西京賦曰。漢氏初都在2渭之|※[さんずい+矣]《ホトリ》1。※[さんずい+秦]|里《ヲリヌ》2其|朔《キタ》1。寔《コレヲ》爲2咸陽1。左有2※[山+肴]函重險、桃林之|塞《ソコ》1。綴《メクラスニ》以2二華(ノ)1巨靈(ノ)贔屓(ト)《・ヤマヲ オオホガ ミチカラオコシテ》高v掌(ヲ)遠v蹠《アトヲ》以流(セリ)2河曲(ヲ)1。其跡猶|存《・ウセス》。右有2隴〓之隘1。隔2〓《カキレリ》華戎1、岐梁〓雍、陳〓|鳴※[奚+隹]《・ヒカルカミ》(ノ)在焉。於v前即|終南(ノ)太一《・ヤマヤマ》(ノ)、隆〓|崔〓《・タカクサカシクシテ》(ト)隱〓|欝律《カタタカヒナリ》(ト)。連2岡乎〓〓(ニ)1抱v杜含(ミ)v〓(ヲ)飲《スヒ》v〓(ヲ)吐v鎬(ヲ)。爰有2藍田2珍玉是(ヨリシテノ)之自出(タリ)。於v後則高陵平原據(リ)v渭|踞《シリウタケタリ》v〓|〓漫《・ヒロクオホキニシテ》(ト)靡〓《・ナヽメニシテ》(ト)佗(タリ)v鎭(メ)2於近(ニ)1。其遠則有2九峻甘泉1。涸陰(シテ)沍《サエ》寒(シ)。日壯(ニ)至(レトモ)而含v凍(ヲ)此焉。清《スヽシウス》v暑(キヲ)。三體詩許渾金陵詩(ノ)落句云。惟有2青山1似2洛中1。天隱注曰。李白金陵詩曰。苑方2秦地1、少山似2洛陽1〓。曾景建曰。洛陽四山。々々圍2伊洛1※[纏の糸がさんずい]澗在v中、建康【建康郡即金陵】亦四山。圍2秦淮1直※[さんずい+賣]在v中。故許渾云似2洛中1。およそ都をたてらるゝには、山川の向背なとをかんかへ、天地陰陽にかたとりて、はしめらるゝなり。班孟建西都賦曰。其宮室也體2象乎天地1經2緯乎陰陽1。たかしるや、あめのみかけ。此歌は御井を題してよめとも、井は、さして物めつらしう、よむへき風情もなけれは、まつ宮殿よりはしめて、四面に名山の有て、都のしつめとなる事をいひつくして、本意とする井のことをいひて、一篇をしむるなり。あめのみかけ、日の御影とは、延喜式第八、祈年祭祀詞云。皇御孫命《スメミマノミコト》能瑞能|御舍《ミアラカ》仁奉※[氏/一]、天御蔭、日御蔭登隱坐※[氏/一]云々。高き天の影、日の影もうつる水なれは、天の久しきとゝもに日のうせぬとゝもに、ときはにすみたゝへてあらんしみつなりとよめり。延喜式の心は、蔭は庇蔭にて、その陰にかくれてやすき心なり。西行上人の、しみつなかるゝ柳陰といへる陰なり、今は陰のうつるをいふ。但天之御蔭、日御影とかけるもしの心を用て、天の御蔭にかくれ、日の御影のうつる水と心得へき歟。東坡か、花有2清香1月有v陰と作れるは、陰影通するにや
 
短歌
 
(29)53 藤原之大宮都加倍安禮衝哉處女之友者之吉召賀聞《フチハラノオホミヤツカヘアレセムヤヲトメカトモハシキリメスカモ》
 
安禮衝哉《アレセムヤ》をアレツゲヤとよむべきか、第四に神代從|生繼來者《アレツギクレハ》云云、第六に八千年爾|安禮衝之乍《アレツキシツヽ》云云、あれは生る一ゝなり、衝、は繼に借てかけり、富士に第七には伏を借てかけるに例すべし、つげやは下知にあらず、あれつがむやなり、前にあはむと思へやと云ふ所に釋せり、ヲトメガ友はともがらなり、後にしづをのとも、ますらをのともとあるに意同じ、之吉召賀聞《シキリメスカモ》、吉と書きてキリとよめる事此集に例なし、しきとのみ云ふも頻なればシキメサムカモとよむべし、歌の心は二義あるべし、一の心は子孫生れつゞきて藤原の大宮仕へをせよや、吾も男子なればこそ此幸の供にも參りたれ、處女が友がらはしきりに召されむか召さるまじきと云ふなり、一説は上の句は初の如し、下句は天子女帝にてましませば、生つかん處女はしきりに召給はんかと云ふ心なり、此歌御井の反歌とは見えず、されども其由をも注せざれば不審なり、重ねて考ふべし、
 
初、藤原のおほみやつかへ安禮衝哉
安例衝哉を、あれせむやとある點は、あやまれり。衝は突なれとも、繼の字にかりて用たり。雉を岸にかりて用るに准して知へし。あれは、むまるゝなり。つけやは下知にはあらす。さきに、あはむとおもへやといふ所に、尺せるかことし。あれつがんやなり。第四、岳本天皇御製には、神代より、あれつきくれは、人さはに、國にはみちてとよませたまへり。第六には、やちとせに、安禮衝しつゝと、今のことくかきて、あれつきしつゝとよめり。をとめかともは、ともからなり。しきりめすかも、之吉とかけるを、しきりとよめり。此集に吉の字きりとよめる例なし。しきとのみいふも、しきりなれは、しきめさんかもとよむへし。哥の心は、所からも、都に相應したる地なれは、いく久しく、おさめましますへし。我子孫に、宮仕にたへたる男女の、あひつきてむまれつかんや。あはれむまれつゝきて、つかへたてまつりて、御まもりともならせはや。ますらをならぬをとめがともからは、むまれつきたるとも、御まもりともなるましけれは、しきりにめしてつかはせ給ふ事もあらしとよめる歟。いかさまにも、此哥は、御井をよめる反哥には、もとよりかなはしとそみゆる
 
右歌作者未詳
 
(30)大寶元年辛丑秋九月太上天皇幸于紀伊國時歌 【目録云二首】
 
文武紀曰、九月丁亥天皇幸2紀伊國1、冬十月丁未、車駕至2武漏温泉1、戊午車駕自2紀伊1至、續日本紀には如是記して太上天皇の臨幸をば不v載、此太上皇と申すは持統の御事也、此には太上天皇の御幸をのみ載せて文武の行幸を並擧せざれば國史と今と互に出没あり、第九に大寶元年十月太上天皇(ト)大行天皇(ト)幸2紀伊國1時歌と具に並べ擧げたり、太上天皇とは、史紀始皇本紀云、追2尊莊襄王1爲2太上天皇2。【漢高祖尊v父曰2太上皇1、亦倣v此也、】高祖本紀注曰、索隱曰、葢太上無上也、皇徳大2於帝1、故尊2其父1號2太上皇1也、獨斷曰、高祖得2天下1而父在v上、尊號曰2太上皇1不v言v帝、非(レバナリ)2夫子1、此より後文武の御宇の歌なり、上の※[手偏+總の旁]標の下に持統の御諱を擧げたる誤を知るべし。
 
初、大寶元年――。文武紀云。三月甲午對馬島(ヨリ)貢v金。建v元爲2大寶元年1。又云。九年丁亥天皇幸2紀伊國1。冬十月丁未車駕至2武漏温泉1。戊午車駕自2紀伊1至。續日本紀には、かくのことくしるして、太上天皇の臨幸をは不v載。目録には、歌の下に二首といへり。太上天皇は史記始皇本紀云。追2尊莊襄王1爲2太上皇1。【漢高祖尊v父曰2太上皇1亦放v此也。】高祖本紀曰。高祖五日一朝2太公1如2家人父子禮1。太公家令説2太公1曰。天無2二日1土無2二王1。今高祖雖v子人主也。太公雖v父人臣也。奈何令v人主拜2人臣1。如v此則威重不v行。後(ニ)高祖朝2太公1擁v?迎v門却行。高祖大驚下扶2太公1。々々曰。帝人主也。奈何以v我亂2天下法1。於v是高祖乃尊2太公1爲2太上皇1。注曰。葵?曰。不(ルコトハ)v言v帝非(レハナリ)2夫子1。索隱曰。按2本紀1秦始皇追2尊莊襄王1爲2太上皇1。已有2故事1矣。蓋太上(ハ)無上也。皇徳大2於帝1。故尊2其父1號2太上皇1也。獨斷曰。高祖得2天下1而父在v上。尊號曰2太上皇1。不(ルハ)v言v帝悲(レハナリ)2天子1
 
54 巨勢山乃列列椿都良都良爾見乍思奈許湍乃春野乎《コセヤマノツラ/\ツハキツラツラニミツヽオモフナコセノハルノヲ》
 
巨勢山は或者の云ふ、巨勢村、葛(ノ)上(ノ)郡の西lこありて、高市(ノ)郡の境に近しといへり、げにも延喜式を見るに葛(ノ)上(ノ)郡に巨勢山口神社あれば、平地の所は高市(ノ)郡にて山は葛(ノ)上に屬するにや、和名に高市に載す、延喜式にも高市(ノ)郡に巨勢坐石椋孫神社、又許世都(31)比古命神社あり、决v之、ツラ/\椿は袖中抄曰、つら/\は列々と書く、つらなれる椿と云ふか、又本草等に女貞と書きてたつの木とよみ、又つらつばきとよめり、是をおし反してつら/\椿と云ふかと云云、案ずるにしげく生ひならぴたる椿を云ふ、和名云、拾遺本草云、女貞一名冬青、【和名、太豆乃木、楊氏漢語抄云、比女都波木】冬月青翠、故以名之、かゝれば顯昭の暗記の誤にや、此はなみ木を植るを行樹と云ふ、行列同意にてつら〔二字右○〕ともなみ〔二字右○〕ともよめり、春道列樹と云ふ名も是を思ひてつけるか、六帖に下の淡海が歌を椿の歌とし、第二十に家持がつらの椿つら/\にとよまる、今の歌を取用ゐられたりと見えたり、古事記に雄略天皇の后の御歌に、葉廣湯津眞椿《ハビロユヅマツバキ》とよませたまへるゆづ〔二字右○〕もしげき意なるを思ふべし、是は秋の歌にて今椿に必しも見所あるにあらねど、熟といふ言まうけん爲なる上、巨勢野の春になりて萬面白からんに此椿さへ山を照して咲かん時を思ひやるとなり、オモフナのな〔右○〕の字助語なり、なかれのな〔右○〕にあらず、
 
初、こせ山のつら/\つはきつら/\に
是は御供して、路次によめるなり。巨勢は、大和葛上郡なり。つら/\椿とは、しけく生ならひたるをいふ。第二十、家持歌にも、八をのつはきつら/\にとよまれたり。實をひろひて、油をとるとて、山里にはわさともうへをくが、谷川のきしなとに、春は山もてるはかり咲なり。目日本紀にも異國のみかとへ、椿の油をおほくまいらせたる事見えたり。上のつら/\つはきをうけて、おりふしつら/\みるにはよくかなひたり。こせ野の、秋の草かれわたる比たに、かくおもしろき所なるに、霞わたりて、雲雀あかり、わか草打なひかむ時、いかならんと、ゆかしくおもふなり。椿も只今は木をのみ見て、その花の折をおもふなり。秋の歌なり。心をつけてみるへし。下の或本歌は、同しやうにて、春野をみる當意のうたなり、御供の哥にはあらす
 
右一首|坂門人足《サカトノヒトタリ》
 
系譜不v詳、
 
55 朝毛吉木人乏母赤打山行來跡見良武樹人友師母《アサモヨイキヒトトモシモマツチヤマユキクトミラムキヒトトモシモ》
 
(32)赤打【赤當作v亦】
 
朝毛吉は紀といふ枕詞なり、別に注す、亦打山一説に紀州といひ、又は大和と云ふ、今按は大和につくべしとおぼゆ、委くは別に注す、トモシキはすくなきなり、又珍しき心にもよめり、すくなければ珍しき理なり、眞土山は大和にて紀國の境なるが、山路も難所なれば行きかふ紀人のすくなくて稀々逢ふがめづらしきなり、
 
初、朝もよいきひとゝもしもまつち山
ともしきは、すくなきなり。又めつらしき心にもよめり。すくなけれは、めつらしきことはりなり。まつち山はやまとにて、紀國のさかひなるが、山ちも難所なれは、ゆきかふ紀人のすくなくて、まれ/\あふか、めつらしきなり
 
右一首|調首淡海《ツキノヲフトアハウミ》
 
日本紀第二十八云、建2于津振川1、車駕《オホムマ》始(テ)至便乘焉、是時元從者草壁(ノ)皇子調(ノ)首淡海之類二十有餘人云云、續日本紀云、和銅六年四月授2從五位上1、養老七年正月授2正五位上1、又神龜四年(ノ)本紀に見えたり、續日本紀には調連とあれば後に連の尸を賜はるを、今は賜はらぬ先にて調首とはかけるなるべし、
 
或本歌
 
56 河上乃列列椿都良都良爾雖見安可受巨勢能春野者《カハカミノツラ/\ツハキツラツラニミレトモアカスコセノハルノハ》
 
義明かなり、今按ずるに此歌は人足か、歌の異なれば、淡海が歌の上にあるべけれど、(33)先御供の二首を載せて此歌は、御供にての歌ならねば引下して此に載する歟、
 
右一首春日藏首老
 
續日本紀曰、大寶元年三月、令2僧辨紀1還俗、代度一人、賜2姓春日(ノ)倉(ノ)首名老1、授2追大壹1云云、又懷風藻に詩あり、從五位下常陸介、年五十二といへり、
 
二年壬寅太上天皇幸于參河國時歌
 
日本紀曰、冬十月甲辰太上天皇幸2參河國1、行所2經過1尾張美濃伊勢伊賀等國郡司及百姓、叙位賜v禄各有v差、十一月戊子車駕至v自2參河1、按ふに歌下に五首とあるべき所なれど目録にも見えず、
 
初、二年壬寅太上――。五首とあるへき所なれと、目六にも見えす。文武紀云。冬十月乙未朔丁酉鎭2祭諸神1。爲v將幸2參河國1也。甲辰太上天皇幸2參河國1。行所2經過1尾張美濃伊勢伊賀等國郡司及百姓叙v位賜v禄各有v差。戊子【十一月】車駕至v自2參河1
 
57 引馬野爾仁保布榛原入亂衣爾保波勢多鼻能知師爾《ヒクマノニニホフハキハライリミタルコロモニホハセタヒノシルシニ》
 
引馬野、參河なり、類字抄に遠江とするは誤なり、榛原は前にも注する如く、はりの木原なり、十月十日に都を立給ふ御幸なれば萩に非ず、第三句官本にイリミダレと點ずるによるべし、旅ノシルシは、垂仁紀に何益をナニノシルシカアランとよめり、旅(34)の得分にといはむがゴトシ、歌の心は榛原に亂れ入りて衣をはぎずりにして歸らん時、家にて見すべき旅のしるしにせんとなり、
 
初、ひくまのにゝほふはきはら。ひくまのを、ある名所抄に、遠江といへるはあやまりなり。參河なり。此榛原は、はなりの木原なり。十月十日に、都をたゝせたまふみゆきなれは、萩にあらす。榛、萩、名もおなしくて、ともにきぬにするとよめは、まかふゆへに、くりことのやうに尺するなり。第三の句、入みたれとよむへし。みたるとよみてはわろし。はりはらに、みたれいりて、衣をはりすりにしてにほはせよ。歸らん時、家にてみすへき旅のしるしにせんとなり
 
右一首長忌寸奥麿
 
58 何所爾可舩泊爲良武安禮乃崎榜多味行之棚無小舟《イツコニカフネハテスラムアレノサキコキタミユキシタナヽシヲフネ》
 
舟ハテスラム、舟とむるをはつといふは古語なり、集中多し、安禮乃崎、參河なり、コギタミはこぎめぐるなり、運の字廻の字轉の字などをたむとよめり、此も古語なり、棚ナシ小舟、顯昭の云ふ、小き舟なり、小舟には棚といふ物のなきなり、舟棚は和名に※[木+世]字をよめり、せかいとて舟の左右のそばに縁の樣に板を打つけたるなり、それを踏ても行くなり、言はあれの崎をぎ廻る小舟は何方にとまるらんと心細き旅の景氣を述ぶるなり、
 
初、いづこにかふなはてすらん。舟とむるを、此集にはおほくはつるとよめり。こきたむは、こきめくるなり。運の字、廻の字を、たむとよめり。たなゝし小舟とは、ちひさき舟には、ふなたなのなきなり。舟たなは、せかいとて、舟の左右のそはに、縁のやうに、板をうちつけたるなり。それをふみてもありくなり。和名集に※[木+世]の字をふなたなとよめり
 
右一首高市連黒人
 
擧謝女王作歌
 
文武紀云、慶雲三年六月癸酉朔丙申、從四位下與謝女王卒、
 
(35)59 流經妻吹風之寒夜爾吾勢能君者獨香宿良武《ナカラフルツマフクカセノサムキヨニワカセノキミハヒトリカヌラム》
 
流經は流るゝなり、第八に流らへちるは何の花ぞとも梅をよみ、第十には櫻花散ながらふるとよめる、共に流るゝなり、ツマは夜の物のつまなり、論語郷黨篇にも必有2寐衣1長一身有半とある如く夜のものは長き物なれば、つまもすそになびきてあるをながらふるつまといへり、※[手偏+總の旁]の心は、とゞまれる吾だにかく衣の裙に風の吹きとほして寒けき夜に、いかなる野山の艸枕に衣さへうすくてまろねし給ふらむと大君を思ひやりてよめるなり、
 
初、なからふるつまふく風。なからふるは、なかきなり。妻はよるのものゝつまなり。論語郷黨篇にも、必有2寢衣1長一身有半とあることく、よるのものは、なかきものなれは、つまもすそになひきてあるを、なからふるつまといひて、やかて夫婦のかはらぬなからひによせて、とゝまれる我たに、かくさむけき夜に、いかなる野山の草枕に、衣さへうすくて、まろねし給ふらんと、夫君をおもひやりてよみたまへり。なからふらつまふく風、感情ありておもしろくきこゆる詞なり
 
長皇子御歌
 
長(ノ)皇子は天武帝第四皇子、御母は大江(ノ)皇女、天智帝(ノ)皇女、弓削(ノ)皇子同母の兄なり、長は此集にマサルと点ぜるは誤なり、日本紀の点に從ひてナガとよむべし、稱徳紀にも廣瀬(ノ)女王薨、那我(ノ)親王之女也と云云、
 
60 暮相而朝面無美隱美隱爾加氣長妹之廬利爲里計武《ヨヒニアヒテアサカホナシミカクレニカケナカキイモカイホリセリケム》
 
(36)朝面無《アサカホナシミ》、官本にアシタオモナミと點ず是可v然、日本紀に安措とかきてオモナシとよめり、おもなしは面目なしといふなり、伊勢物語にもおもなくていへるなるべし云云、此にては耻づる心有り、六帖に、ねくたれの朝がほの花秋霧に、おもかくしつゝ見えぬ君哉、白氏文集琵琶行に、猶抱2琵琶1半々掩v面、此第十一に、向へればおもかくしぬる物からに、つきてみまくのほしき君かも、カクレは上にかくれの山と云へる所なり、第八にはよひに逢て朝貌はつる隱野ともよめり、宵に逢人の朝に人に耻ぢて面かくしぬるをかくれと云ふ所の名にいひかけたり、題の下に文武紀を引ける如く伊勢をも經たまへばかくはよみ給へり、氣長《ケナガキ》け〔右○〕は息なり、賈誼が長太息といひしが如く、物思ふ時には長き息をつくを云ふ、此集に八尺《ヤサカ》のなげきともよめり、第二にも君が行|氣長《ケナガ》く成ぬとあるを初て下に多き詞なり、旅の氣《ケ》とよみ、又たゞ旅を氣《ケ》と名付けてよめるかとおぼしき歌もあり、物いひ渡り給ふ女などの御供したるを思召しやらるゝなるべし、
 
初、よひにあひてあさかほなしみ
朝面無美とかけるをは、あしたおもなみとよむへし。第八に、よひにあひて朝かほはつるかくれ野のとよめる、おなし心なり。かくれといへるも、かくれ野か、さきにおきつものかくれの山とよめるかの、あひたにて、伊勢なり。よひにあふ人の、朝には、またねくたれ髪にて、けさうもせぬほと、人にまほにみえむ事をはちて、おもかくしするを、所の名にいひかけ給へり。おもなみは、面目なしといふなり。伊勢物語に、おもなくていへるなるへしといへり。六帖に、ねくたれの朝かほの花秋きりにおもかくしつゝ見えぬ君かな。白氏文集(ノ)琵琶行に猶抱2琵琶1半掩v面。この第十一に、むかへれはおもかくしするものからにつきてみまくのほしき君かも。けなかきは.息なかきなり。賈誼か、長大息といひしかことく、物おもふ時は、なかき息のつかるゝを、此集に、八|尺《サカ》のなけきともよみ、けなかきとは、めつらしからすよめり。此けなかきは、こなたにこひしくおもひて、いきのなかきなり。物いひわたり給ふ女なとの御供したるを、おほしめしやらるゝなるへし
 
舍人《トネリ》娘子從駕作歌
 
第二相聞に、舍人(ノ)親王の御歌に和奉りし女なり、第八にも雪の歌あり、
 
(37)61 大夫之得物矢手挿立向射流圓万波見爾清潔之《マスラヲノトモヤタハサミタチムカヒイルマトカタハミルニサヤケシ》
 
得物矢《トモヤ》は一手なり、一手は二筋なれば共矢とも諸矢とも云へり、弓射る時は一手をたばさみて出づる習ひなればかくよめり、第二第六にも此詞あり、得の字をと〔右○〕とつかひたるは吉の字をき〔右○〕とつかひたるに同じ、得の字はと〔右○〕と云ふばかりにて、うるといふ心なし、吉の字き〔右○〕の聲に用ひて、よしといふ心なきが如し、然れば得物矢と書きて狩にえものある矢と注するは惡し、君又三个處に字を替ず書たれば獲物多き矢と云ふ心にエモヤと名付たるか、圓方《マトカタ》、伊勢國風土記白、的形(ノ)浦者、此浦地形似v的故爲v名、今已跡絶成2江湖1也、天皇行幸須邊歌曰、麻須良遠能佐都夜多波佐美牟加比多知、伊流夜麻度加多波麻乃佐夜氣佐延喜式に多氣郡に服麻刀方《ハトリマトカタ》神社を出せり、是は序歌なり、圓方といはんとて上句をいへり、別に心なし、圓方の景、弓射るとき的に向立てみるやうにさやかなるが面白しと云ふなり、
 
初、ますらをのともや。ともやは一手なり。一手はふたすちなれは、共矢とも、諸矢ともいへり。弓射る時は、一手をたはさみて出る習なれは、かくよめり。第二第六にも此詞あり。得物矢とかきたるゆへに、狩にえものある矢をいふと注するは、ある儒生の梵漢のわかちをしらて、心經のはてにある呪の、褐諦の字に、義をつけて、漢語に心得たるにひとし。得の字、入聲なるを、とゝつかひたるは、吉の字を、きとつかふにおなし。きといふかんなに用て、よしといふ義あらんや。まとかたは、まとかたの浦にて伊勢にあり。弓射るものゝ向ふまとゝいいつゝけて、そのまとにむかへるものゝ、心をひとつにするかことくして、此浦にうちむかひてみるに、海上さやけくみわたさるゝを、ほめたり。さきの長皇子の御哥と、此哥は、序哥なり。足引の山とつゝけ、梓弓いそへなと、秀句にいひても、一句、あるひは一句あまりにて、つゝくるをは、枕詞といひ、かくれといはんとて、よひにあひて、朝おもなみといひ、まとかたといはむとて、此哥のやうにいふを、序哥といふなり
 
三野連 名闕 入唐時春日藏首老作歌
 
續日本紀、三野連傳不v見、萬葉諸本有2考物1、引2國史1曰、【此史不v知2何書1】大寶元年正月、遣唐使民(38)部卿粟田眞人朝臣已下百六十人乘船五隻、小商監從七位下中宮少進美奴連岡麻呂、【按此三奴與2三野1相通乎、未v詳2是非1、】
 
62 在根良對馬乃渡渡中爾幣取向而早還許年《アリネヨシツシマノワタリワタナカニヌサトリムケテハヤカヘリコネ》
 
古老説曰、對馬に對馬の嶺とて高き山あり、唐に往還する舟この國にて風間をも侍つに此對馬の根をみつけてよる故に此根のあるがよしと云ふ義なり、今按ずるにあり〔二字右○〕といふに在の字は書きたれども、さかしきあらき峰と云ふ事なるべし、日本紀雄略天皇の舍人が歌に、わがにげのぼりし、ありをの上のはりがえだあせをと云云、此ありをの上はあらをの上にてさかしき山の尾と聞ゆれば準じて知るべし、對馬は昔三韓に渡りし津なれば國史に津島と書ける所あり、因て對馬と書きても心は津島なり、ワタ中は、わたは海を云ふ、わたつみに同じ、此集に綿の字を假て書きたればわたの原もすみて讀みけるなるべし、此に渡の字をかけるも借てなり、或説に海上は舟にて渡る物なれば云ふなりと云云、此推量なり、古事記等に多く綿の字を以書きたれば、波の白く立つが綿のやうに見ゆればとも申すべしや、神代より海神を綿津見と云ふによりて海原をもわたつみと云へば、其名の由知りがたし、ヌサは(39)路次の安穩ならん事を神に祈るとて奉る物なり、朝野群載廿二に、康和二年國務條事の下に曰、出2京關1間奉2幣道祖神1事、出v京之後所v宿之處密々奉2幣道神1、即令v行d願2途中平安1之由u、歌の義は明かなり、
 
初、ありねよしつしまのわたり
長流か燭明抄にいはく。在根良とは、つしまの國に、つしまの嶺とて、高き山あり。もろこしに行かへる舟は、此國によりて、風間をも待なり。其時は此つしまのねをみつけてよるゆへに、この根のあるがよしといふ義なり。わた中とは、わか國と、もろこしとの中に有國なれは、よめるなり。今案つしまのねはしかり。ありといふは、在の字はかきたれとも、あらみねといふことなるへし。すなはちかのつしまの根は、神なともおはしまし、さかしくもあるを、あらねといふ心にて、ありぬといふ歟。日本紀にみえたる、雄略天皇の舍人かうたに、わかにげのほりし、ありをのうへの、はりかえたあせをとよめる、ありをのうへは、あらをのうへにて、さかしき山の尾ときこゆれは、准してかくはいふなり。さきたちて、あらといはん事もいかにそやと聞ゆ。つしまは、昔三韓にわたりし時の津なれは、國史に津島とかける所あり。對馬とかきても、心は津島なり。わた中はわたは海をいふ。此集に綿の字をかりて、かきたれは、清濁通用して、さためかたしとはいへとも、わたの原も、すみてよみけるなるへし。こゝに渡の字をかけるも、借てなり。又海上は、わたる物なれは、此字の心にて わたつみ、わたの原もなつけたるにも侍らん
 
山上臣憶良在大唐時憶本郷歌【目録郷下有2作字1】
 
續日本紀第二曰、大寶元年春正月乙亥朔丁酉、以2守民部尚書直大貳粟田朝巨眞人1爲2遣唐執節使1、無位|山於《ヤマノウヘノ》憶良爲2少録1、
 
初、山上臣憶良在2大唐1時憶2本郷1【目六有2作字1】歌
續日本紀第二云。大寶元年春正月乙亥(ノ)朔丁酉、以2守民部尚書直大貳粟田朝巨眞人1爲2遣唐執節使1。無位山(ノ)於《ウヘノ》憶良爲2少録1。懷風藻(ノ)釋辨正在v唐憶2本郷1一絶。日邊瞻2日本1、雲裏望2雲端1、遠遊勞2遠國1、長恨苦2長安1
 
63 去來子等早日本邊大伴乃御津乃濱松待戀奴良武《イサコトモハヤヒノモトヘオホトモノミツノハママツマチコヒヌラム》
 
早日本邊、【官本、ハヤクヤマトヘ、】
 
去來子等は人々を指す、ヒノモトヘにて切て心得べし、意は故郷へ早皈らむなり、三津濱は舟の歸て著く所なり、濱松と云ふは待こひぬらんといはむ爲なり、第十五に此下句に同じ歌あり、
 
初、いさこともはやひのもとへ大伴の
去來子等、これをは、いさやこらともよむへし。俊成卿五社百首にも、いさやこらわかなつみてむとよみたまへるは、此哥なと昔はいさやこらとも點の侍りけるなるへし。はやひのもとへ、これをはゝやくやまとへともよむへし。こらといふは、人々をさせり。やまとへにてきる哥なり。きれ字寧なけれと、哥の心にてきるゝなり。みつの濱は、舟の歸りてつく所なれは、取出て、濱松といふは、まちこひぬらんといはむためなり。第十五に此下句におなし哥有
 
慶雲三年丙午幸于難波宮時【目録云歌二首、】
 
(40)文武紀曰、九月行2幸難波1十月還v宮、今按此下にも太上天皇難波に幸の時の歌、又吉野に幸の時の歌あり、持統は大寶二年十二月に崩じ給へり、此は其後なれば下に至て載すべき事なるを此に置けるは能く再治せざるにや、時の下に歌、或は歌二首の三字脱たるか、
 
初、慶雲三年丙午幸2于難波宮1時。歌二首目六
文武紀云。大寶四年五月甲午備前國獻2神馬1。西樓上慶雲見。詔大2赦天下1改v元爲2慶雲元年1云々。又云。三年九月丙寅行2幸難波1。冬十月壬午還v宮
目録に注せしことく、順をいはゝ、下の太上天皐幸2于難波宮1時歌といふより、右一首長屋王といふまては、此慶雲三年より上にあるへきなり。持統天皇は大寶二年に崩したまふかゆへに
 
志貴皇子御作歌
 
64 葦邊行鴨之羽我此爾霜零而寒暮夕和之所念《アシヘユクカマオノハカヒニシモフリテサムキユフヘハヤマトシソオモフ》
 
霜零而、【別校本云、シモオキテ、】
 
鴨は芦邊に住むものなればあしかもとも云ふなり、羽を打かへたる故に羽かひともはかへともいふなり、爾雅に雄は右を上にし雌は左を上にすといへり、鴨の羽に霜ふるとよむ事は此集にては第三第九第十五等によめり、旅にありて故郷を思ふは時はわかねど物に感じて彌思出るなり、鴨は雌と並居て睦まじきが、羽に霜降て拂ひわぶる聲などの聞ゆるにつけても、大和にまします妃を思召すとなり、所念は前にもオモホユとよめり、
 
初、あしへ行かものはかひに霜ふりて。鴨は蘆邊に住物なれは、あしかもともよむなり。羽を打ちかへてたゝむゆへ、はかひとも、はかへともいふ。雄は右を上にし、雌は左を上にすとかや。旅にありて、故郷をおもふは、いつとしもわかねと、又一段なる事ある時、いよ/\おもひ出るなり。第九にいはく。さきたまのをさきの池に鳧そはねきるといふ、をのか身にふりをける霜を拂ふとにあらし。第三に、かるの池の入江めくれる鳧すらも玉ものうへに獨ねなくに。第十五の挽哥に、かもすらも妻とたくひて、わか身には、霜なふりそと.白たへの、はねさしかへて、うちはらひ、さぬ|とふ《・といふなり》ものをなとよめり。又みかもなす、ふたりならひ居ともよめり。をしかもとて、鴛も鴨の類なり。鴛ならねとも、かもは、めを《・雌雄》あひならひてむつましきが、羽に霜ふりて、はらひわふる聲なとのきこゆるにつけても、やまとにおはします妃《ミメ》を、思しめし出たまふとなり。所念はおもほゆともよめり
 
長皇子和歌
 
(41)65 霰打安良禮松原住吉之弟日娘與見禮常不飽香聞《アラレフルアラレマツハラスミノエノオトヒヲトメトミレトアカヌカモ》
 
霰打をアヲレフルと点じたるはいかゞ、たゞアラレウツと字のまゝによむべし、霞は物に打つくるやうにふればなり、住吉は神功皇后紀云、亦表筒男中簡男底筒男三神誨之曰、吾|和魂《ニキタマ》宜d居2大津渟中倉之長峽1便因看c往來船u、於v是隨2神教1以鎭坐焉、風土記云、本名|沼名掠《ヌナクラ》之長岡之國、今俗畧之直稱2須美乃叡1、霰松原、住吉にあり、弟日はたゞ弟にて日は助語なるべし、顯宗紀に弟日僕と宣へるに同じ、歌の心はあられ松原の面白きをあられさへ降て興を添へたるにうつくしき娘と共にみれば一入あかぬとなり、娘は此下に清江娘子進2長皇子1と云ふ歌あり姓氏未詳と注せり、其娘子なるべし、をとひをとめのごとく見れどあかれぬとにやとも聞ゆれど、弟日娘與とかけるも共にの心なる上、清江娘子と云女あればたゞ上の心なるべし、又按ずるに霰打といへるも必しも此時降りたるにはあらで枕詞にや、古歌にはかやうにいへる例あることなり、官本に娘をムスメと点ず、是俗に從ふなり、此集にヲトメとよみ、イラツメと点じてムスメとはよまず、
 
初、霰打あられ松原。あられふると點したるは、あやまれり。霰うつと、字のまゝによむへし。霰は、物にうちつくるやうにふりて、ほとはしれは、うつともたはしるともよめり。霰は物にたまらてちるは、現のことなるを、建保年中の哥合に、薄にたまる霰おつなりとよまれたるは、用意ありて、上手のしわさなり。これに似せてや、をさゝかうへの玉あられ又ひとしきりと、あとさきなく聞つたへたるは、くちにてのみよめるなり。所の名あられ松原なるに、行幸もおりふし冬にて、霰のふれは、かくはつゝけられたり。神功皇后紀に、をちかたのあら乙松原、まつはらに、とよめる哥有。乙の字は、をとよむへき歟。もし礼の字の、偏のおちたるにやとおもへと、たとひ暗推のことくなりとも、此霰松原にはあらす。をとひをとめとゝは、下に清江娘子進2長皇子1といふ哥あり。姓氏未v詳と注せり。その娘子なるへし。弟日は、只弟にて、日は助語なるへし。顯宗紀云。誥之《タケヒテ》曰。倭者|彼彼《ソソノ》茅原淺茅原|弟日僕《ヲトヒヤツコラマ》是也。おもしろき所を、ゝとめとゝもにさへ御覽すれは、いよ/\あかすおほさるゝなり
 
太上天皇幸于難波宮時歌【目録云四首、】
 
(42)慶雲三年の歌より前に載すべきを、此にあるは未再治の故なるべし、
 
初、太上天王幸2于難波宮1時歌。四首目録
 
66 大伴乃高師能濱乃松之根乎枕宿杼家之所偲由《オホトモノタカシノハマノマツカネヲマクラネヌトカイヘシシノハユ》
 
枕宿杼、【新勅撰、マクラニヌレト、】 所偲由、【同上、オモホユ、】
 
大伴は高師の枕詞、別に注す、萬師濱は和泉に同名あり、此は攝津なり、枕宿杼、マクラネヌトカと點じたるは惡し、新勅撰の如くよむべし、シノバユ、忍ばるなり、ゆ〔右○〕とる〔右○〕は同韻にて通ず、此集に多し、日本紀の中の歌にもあり、浪の音のさはがしき濱べに松が根を枕として馴れぬ旅寐のうければ故郷の忍ばるゝとなり、
 
初、大伴の。枕宿杼、枕ねぬとかと點したるはよろしからす。枕にぬるとゝよむへし。浪の音のさはかしき濱へに、あらゝかなる松かねを枕として、なれぬたひねの、物ことにうけれは、いよ/\ふるさとの、しのはるゝなり。しのはゆは、るとゆとは、同韵の字なれは、通していへり。此集におほきことなり。日本紀の中の哥にもあり
 
右一首置始東人
 
系圖等未詳、
 
67 旅爾之而物戀之伎乃鳴事毛不所聞有世者孤悲而死萬思《タヒニシテモコヒシキノナクコトモキコエサリセハコヒテシナマシ》
伎乃、【幽齋本乃作v之、此二字諸本無v之、唯法性寺殿自筆本有v之、】 事毛、【事字諸本無v之、六條本有v之、】
 
戀シキのしきは鴫に云ひかけたり、鴫は物さびしく感ある物なれば、第十九にも春まけて物がなしきにさよふけて、はふき鳴しぎ誰田にかすむ、後世の歌にも此意多(43)し、彼も戀ふることの有樣になけば、何の上にも思ひはあるよと思ひ慰むればこそあれ、我のみならば戀ても死ぬべしと、旅のわびしきに家を戀ふる心を詠みたるなり、
 
初、旅にして物こひしきの。鴫を、こひしきといひかけたり。清濁かはれとも通するなり。神代紀上曰。足|化2爲《ナル》〓山祇《シキヤマツミト》1。疏云。〓《シキ》山(ハ)謂(フ)山(ノ)密《シケキヲ》也。〓(ハ)鳥(ノ)名此(レ)取2其訓1。々曰2志岐(ト)1。繁密之義也。いまもこれにおなし。
しきは田鳥ともいふ。和名集云。玉篇云※[龍/鳥]【音籠楊氏抄云。之木。一(ニハ)曰田鳥】野鳥也。しかれは、此集第十九に、鴫の字をかきてしきとよみ、今に至りて、此字を用るは、田鳥の二字を偏旁として、たとりすなはちしきなるゆへに、此國につくりて、しきとよむなるへし。畑の字なとも此類なるへし。此集人麻呂なとの麻呂を合して、一字にもつくれり。もろこしにも、此例おほし。龍鐘なとは、字に義なしといへとも、反切をもて用。又梵語を釋するに.假令|鑁《バン》字は、文感切なれは、やかて文感の二字を、偏旁に直て、※[文+感]となして、鑁《ハム》とよむ類數しらす。後の字書を作る人、此心をわきまへすして、釋典に出なと、わつらはしきまて、出せり。又和名集云。陸詞切韻云。〓【古活反。和名多土利】小鳥似v雉也。これは和名集に別にいたされたれは、鴫にはあらぬにや。草と木に、はきといふものゝありて、まかふたくひはあるへし。いかてか、同し鳥にて、たとりといふものゝふたつはあるへき。鴫も其たくひおほけれは、〓も※[龍/鳥]屬なるへし。陸詞か似v雉と注したるは、めきしにゝたりといふ事にも侍るへし。さて此鴫は、ものさひしく、感あるものなれは、十九卷に、家持の哥にも、春まけて物かなしきにさよふけてはふき鳴しき誰田にかすむとよみ、鴫のはねかき、鴫たつ澤なと、よむ物なれは、かれも物こひしきと名におひて、こふる事あるやうになけはこそ、何のうへにも、おもふことはあるよと、おもひなくさめ、物のうへはさもなくて、我のみならは、戀ても死ぬへしと、旅の物わひしさに、家をこふる心を、せめていへるなり。ふちはらのみやこより、なにはゝ、いくほとの旅ならねと、哥のならひは、かうもよむことなり
 
右一首高安大島
 
系圖未詳、
 
68 大伴乃美津能濱爾有忘貝家爾有妹乎忘而念哉《オホトモノミツノハマニアルワスレカヒイヘニアルイモヲワスレテオモヘヤ》
 
忘貝は別に注す此歌は六義にては興なるべし、忘貝によりて忘れて思へやとよめり、思へヤは前に注せし如く下知にあらず、思はむやなり、忘れぬと云ふが落著なり、二つの爾有、六帖家童子を思ふと云歌に共になる〔二字右○〕とよめり、
 
初、大伴のみつのはま。かやうの哥は、六義に准せは、興ともいふへし。わすれ貝によりて、わすれておもへやとよめり。おもへやは、さきにひとまるの哥に注せしことく、下知にはあらす。おもはむやなり。わすれすといふか落著なり
 
右一首身入部王
 
續日本紀の元正聖武兩紀に見えたる人なり、ムトベノ大君とよむべし、紀に六人部と書き、此集第八にも六人部と書ける所あり、門部などの如く六人部と云ふものあり、それを名に付るにや、齊明紀に和州の多武嶺を田身とかき、(44)天武紀上に同國むさと云ふ所を身狹とかけり、
 
初、身人部王。むとへの大君とよむなり。六人部とかけるところも有。六人部といふもの有。いかなることをなすことをつかさとるにかあらん、しらす。門部なとの類とみえたり。みとむとは、五音通すれは身をむとよめり。和州のむさ、おなし國の多武の嶺を、日本紀に、身狭、田身とかきたまへり
 
69 草枕客去君跡知麻世婆岸之埴布爾仁寶播散麻思乎《クサマクラタヒユクキミトシラマセハキシノハニフニニホハサマシヲ》
 
シラマセバは知りなましかばなり、ハニフは和名集曰、釋名云、土黄而細密曰v埴、【和名波爾、】此集には赤土黄土などもかけり、ニホハサマシヲは上の衣にほはせ旅のしるしにとよめる所に注せしと同じ心なり、凡集中に多き詞なり、六卷に、馬のあゆみおしてとゞめよ住の江の、きしのはにふににほひてゆかん、
 
初、草枕たひゆく。しらませは、しりなましかはなり。はにふは、和名集にいはく、釋名云。土(ノ)黄(ニシテ)而細密(ナルヲ)曰v埴。常識反【和名波爾】俗語には、はねといふ。十四卷東哥の中の、信濃哥にも、はねとめり。此集末に、黄土赤土なとかきて、はにとよめり。にほはさましをはさきに引馬野にゝほふ榛原といふ哥に注せし同こゝろなり。第六卷に、馬のあゆみおしてとゝめよすみのえのきしのはにふにゝほひてゆかん
 
右一首清江娘子進長皇子、姓名未詳
 
太上天皇幸于吉野宮時高市連黒人作歌
 
70 倭爾者嶋而歟來良武呼兒鳥象乃中山呼曾越奈流《ヤマトニハナキテカクラムヨフコトリキサノナカヤマヨヒソコユナル》
 
吉野山も大和なるを、今大和と云ふは藤原の都を指して云ふ、※[手偏+總の旁]即別名の心なり、今や都へ鳴て行くらんと云ふべきを鳴テカクランと云ふことは、本來の住所なれば我方にしてかくは云ふなり、前ににぎたつの歌に注す、第十に、やまとには鳴てかく(45)らん郭公、なが鳴く毎になき人おもほゆ、象ノ中山は仙覺抄曰、吉野山中にあり、象の形に似たれば象山といふなり云云、象の小川同所なり、又案ずるに上の二句の心、都に鳴て後こゝにや來鳴くらむといへるか、意は、都になけども行幸の程にて人もなければ此に慕ひ來て歸れと呼ぶかとなり、第十に呼子鳥君よびかへせとよめり、
 
初、やまとにはなきてか來らん。よしのも、やまとなるを、今やまとゝいへるは、藤原都をさしていふ。惣即別名の心なり。今や都へなきて行らんといふへきを、鳴てかくらんといふことは、本來の住所なれはわかかたにして、かくはいふなり。又さきに、にきたつにふなのりせんとゝいふ哥の所に、月令なとひきていへるかことし。きさの中山は、ささ山ともよめり。きさのを川おなし所なり。よしのにて、一所わきてなつくる所なり。象のふしたる形なれは、なつくとか。さも有ぬへし。第十に、やまとにはなきてかくらんほとゝきすなか啼ことになき人おもほゆ
 
大行天皇幸于難波宮時歌【目録云三首、】
 
大行、周禮曰、大行人小行人、主2謚號1官、漢書音義大行、不v在之稱、天子崩未v有2謚號1、故稱2大行1、禮記陳氏注曰、行力循行之行、去聲、以2其徃而不v反1故曰2大行1也、又文選註善曰周書曰、謚行之迹、是以大行受2大名1、細行受2細名1、これは先の義に異れり、日本紀に大行をサキと点ぜり、此大行天皇は文武天皇なり、御諱もあり謚號もおはしませど、藤原宮と標したれば文武の御世に至ては持統を太上天皇と申し、文武帝をばそれに前て大行天皇といへり、此事を先達も思紛れけるを、仙覺この第九卷大寶元年冬十月太上天皇大行天皇幸2紀伊國1時歌といへる詞書を以て證として分別せらる、最當れり、此等は文武の崩御の後程なく記せるまゝにて載せたるなるべし、
 
初、大行天皇幸2于難波宮1時歌。三首目六
禮記陳氏注曰。行乃循行之行。去聲。以2其往而不v反1故曰2大行1也。文選顔延年宋文元皇后哀策文注濟曰。凡天子崩未v及v有2定謚1※[手偏+總の旁]名曰2大行1。皇后亦同2此義1也。善曰。周書曰。謚(ハ)行之迹。是以大行受2大名1細行受2細名1。風俗通曰。皇帝新崩未v有2定謚故※[手偏+總の旁]2其名1曰2大行皇帝1。行下孟切。韋昭云。大行者、不v反之辭也。天子崩未v有v謚故稱2大行1
 
71 倭戀寐之不所宿爾情無此渚崎爾多津鳴倍思哉《ヤマトコヒイノネラレヌニコヽロナクコヽノスサキニタツナクヘシヤ》
 
(46)さらぬだに故郷を戀ひて旅寐のまどろまれぬを鶴の鳴くを聞けば、彼も又妻を戀ひ子を思ひてや鳴くらんと吾身によそへて悲しければ、かゝる旅人ある洲さきに心もせず啼かんものかとなり、
 
初、やまとこひいのねられぬに。さらぬたに、旅寝のまとろまれぬを、たつの啼をきけは、かれもまた、妻をやこふらん。子をやおもふらんと、それさへわか身をつみて、ものかなしけれは、たひゝとあるあたりのすさきに、こゝろもせて、なかむものかとよめり
 
右一首|忍坂部乙磨《オシサカヘノオトマロ》
 
傳不評、忍坂部、刑部、忍壁、皆オサカベとよめり、
 
初、忍坂部は、おさかへとよむへし。刑部、忍壁、忍坂部なとみたれかけり
 
72 玉藻苅奥敞波不榜敷妙之枕之邊忘可禰津藻《タマモカルオキヘハコカシシキタヘノマクラノアタリワスレカネツモ》
 
右一首式部卿藤原宇合
 
初、宇合は馬養《ウマカヒ》の反名なり。むかしは、かへし名といふことあり。淡海公は、史《フヒト》なるを、不比等とかき、葛野を賀能とかくたくひなり《藤原葛野麿見續日本紀延暦廿三年入唐大使》。天子の諱《タヽノミナ》にも、嵯峨天皇は、神野にてましますを、賀美能とも申奉るなり。宇合を、のきあひとかなをつけたるは、馬養の反名なることをしらて、その比の人の名、まことにのきあひともよむへけれは、おしてよめるなり。作者をあくる所に注せり
 
枕之邊、【官本作2枕邊人1、非也、】
 
玉モカルはたゞ沖といはんとてなり、沖にはこぎ出てうき寐せじ、波の音の枕のあたりに聞えつるがわびしさの忘れぬにとか、又は波の音に寐られねば故郷にてなれにし人の枕の邊忘れがたきとか、藤原(ノ)宇合は淡海公第三子なり、式部卿馬養、聖武紀云、廣嗣式部卿馬養之第一子也といへり、又馬飼とかける所もあり、此を以て知れり、宇合は反し名なるべし、國の名の美作但馬等の例を思ふべし、反名とは淡海公の諱は史《フヒト》なるを不比等とかき、石川君子を此集第三に吉美侯とかく類なり、ノキアヒ(47)と點ぜるはいかゞ、懷風藻に此人の詩を載せ、題下に記して云く、年五十四、聖武紀を考ふるに天平九年に薨ぜらる、引合て逆推すれば天武十三年に生る、此行幸慶雲の比ならば廿餘歳なるべし、式部卿は極官なれば今は撰者の加へたるなるべし、
 
初、玉もかるおきへはこかし。玉もかるは、たゝおきといはむとてなり。おきには、こき出てうきぬせし。おどろ/\しき《・續日本紀驚字》浪の音の、枕のあたりに、きこえつるかわひしさのわすられぬにとか。又波の音に、ねもいられねは、玉手さしかへし、故郷の枕のあたりの、いとゝわすられかたきにとか
 
長皇子御歌
 
73 吾妹子乎早見濱風倭有吾松椿不吹有勿勤《ワキモコヲハヤミハマカセヤマトナルワカマツツハキフカサルナユメ》
 
初二句はわきもこに早き濱風なるべし、上に籠もちと云ふを注せるが如し、又第十一に泊瀬川速見早瀬《ハツセカハハヤミハヤセ》とよめるも早き早瀬なり、奥義抄に早見濱と名所に出されたれど、難波に早見濱といふ所なし、是は第十一に我背子が濱ゆく風のいやはやにとよめる如く、濱風は物のさはりなくとく吹過ぐれば、早く故郷の我植置ける松椿に吹て我戀思ふ心を妹に告知らせよとよみ給へる歟、結句はゆめ/\吹かずあるな吹けよと下知するなり、風の便と云ふ事あればなるべし、又吾を官本にワレと點ぜり、我を待つとつゞけて、松の字はたゞ待にて、椿は此集にほめたる物にて、第二十に吾門の片山椿と防人がよめる歌も女によせたれば、此も上の吾妹子を椿とはのたまへるか、意はさきの如し、
 
初、わきもこをはやみはま風
このはやみはま風を、奥義抄に、早見濱と、名所に出さる。なにはに、はやみ濱といふ名は、聞及はさることなり。これは、第十一に、わかせこか濱ゆく風のいやはやにとよめることく、濱風は、物のさはりなく、とく吹過る物なれは、早く歸りて、妹をみんといふ心をかくつゝけたまへるなるへし。又早見の見は、みるにはあらず。詞の字にて、雄畧天皇のこもよみこもちとよませたまへるに、おなし事にもあるへし。しかれは、憶良のやまとへはやくと、よまれしことく、見をみるにかりても、はやくあひみんといふになるへし。禁裏に、公事をこなはるゝ時人をめす詞に、はやくとのみあるに推すへし。下の句の、吾をは、われとよむへし。われをまつとつゝけて、うへをかせたまへる松椿なとの、ときはなることく、心かはらて、われを待妹を、早歸てみんとおもふ心を、さきたちて、告しらせよといふ心を、松椿に、ふかすあるなとなり。ふかす《・ズアノ反ザ》あるなは、ふけと下知したまふなり。風のつかひといふことあるゆへに、かくはよませたまへり
 
(48)大行天皇幸于吉野宮時歌
 
74 見吉野乃山下風之寒久爾爲當也今夜毛我獨宿牟《ミヨシノヽヤマシタカセノサムケクニハタヤコヨヒモワカヒトリネム》
 
我獨宿牟、【官本云、ワカヒトリネン、】
 
ハタヤとはまさにやなり、爲當とかく心も是なるべし、歌の心明かなり、
 
初、みよしのゝ山下風。はたやとは、まさにやなり。爲當とかく心も、これなるへし。我獨ねんとよませたまへるは、そのかみ、天武天皇とゝも、此山にみゆきし給ひしことなとおほし出てなるへし。或云天皇御製歌と注したれは、持統天皇の御哥にては、なきこともあるへし
 
右一首或云天皇御製歌
 
天皇は題の大行天皇にて即文武天皇なり、歌の下句も亦此帝の御歌と見えたり、
 
75 宇治間山朝風寒之旅爾師手衣應借妹毛有勿久爾《ウチマヤマアサカセサムシタヒニシテコロモカスヘキイモヽモアラナクニ》
 
右一首、長屋王
 
宇治間山は吉野の路次なるべし、歌は明かなり、第三赤人歌に秋風の寒き朝けをさのゝ岡越らむ君にきぬかさましを、長屋(ノ)王は天武帝孫、高市(ノ)皇子之子也、正二位左大臣に至る、佐保左大臣と云ふもこれなり、事見2于續日本紀1、懷風藻に詩を載す、年を記して云、五十三、文武紀云、慶雲元年春正月、無位長屋(ノ)王授2正四位上1といへり、
 
初、うちま山朝風さむし。これは、御供の路次の哥なり。旅にても、衣かすへき妹あるものならは、寒さもふせきて、なくさみぬへし。妹もなく、衣もうすきに、朝風さへにはけしきおりふしなれは、いとゝわひしきにつけて、家を忍ふとなり。目録に注せしことく、此間に、寧樂宮御宇天皇代と標すへきろころなり
 
(49)和銅元年戊申天皇御製歌
 
此天皇は元明天皇也、今案此御歌は元明天皇和銅元年十一月二十一日大甞會を行はせ給ふ時御製なり、此時橘左大臣の母三千代祭祀を助奉て橘の姓を賜れり、聖武紀に載せたる左大臣の表に見えたり、
 
76 大夫之鞆乃音爲奈利物部乃大臣楯立良思母《マスラヲノトモノオトスナリモノヽフノオホマウチキミタテタツラシモ》
 
大臣、【校合本紜、オホマチキミ、】
 
鞆は今の弓小手なりといへり、委くは別に注す、是は弓射る時左手にさして弦に當りて痛まじが爲の具なるを、下句を見るに楯立つらしもとあれば、楯立つる時もさる用意にはくにや、第七に、よし行て又かへり見むますらをの、手にまきもたる鞆の浦わをとよめるも弓矢とも云はざるになずらへて心得べきか、されども大甞會に若はく物ならば延喜式の大甞式にも見ゆべきを載せたることなければ、最不審なり、音スナリとは、弓射る時とても鞆は音ある物ならねど、是は會の時至て取出て用意するを言へり、物部をモノヽフとよめるは此にては誤なり、モノヽベとよむべし、ものゝふは武勇の者の※[手偏+總の旁]名、ものゝべは氏の名、則上の石上麿大臣の下に云ふが如(50)し、延喜式曰、凡大甞宮南北門所v建神楯四枚、【各長一丈二尺、上廣四尺七寸、下廣四尺四寸五分、厚二寸、】八竿云云、又曰、卯日平明、諸衛立v仗、諸司陳2威儀物1、如2元日儀1、石上榎井二氏各二人、皆朝服率2内|物部《モノヽヘ》四十人1立2大甞宮南北門門神楯戟1訖、即分就2左右楯下|胡床《アクラニ》1云云、持統紀曰、四年春正月戊寅朔物部磨朝臣樹2大盾1云云、其外文武紀等載v之、ものゝべは氏にて饒速日《ニギハヤヒ》命の裔なり、後は石上、榎井兩氏に分れてともに大甞會の楯戟を立つることをつかさどる氏なり、大臣とは石上(ノ)朝臣磨なり、此時左大臣正二位なれば物部氏にして大臣といへる明なる事なり、楯戟を立つるは此祭祀第一の守護なるべし、諸社に物を奉り給ふにも男神には楯戟等、女神には麻笥《ヲケ》、線柱《タヽリ》等なり、これを以て思ふに神事をつゝしみ思召す故にかくはよませ給ふなるべし、
 
初、大夫之鞆乃音爲奈利|物部《モノヽベ》乃大臣楯立良思母
これは、元明天皇、和銅元年十一月大甞會をこなはせたまふ時の御哥なり。續日本紀曰。慶雲四年秋七月壬子即2位於太極殿1。六月十五日に文武《・御子》天皇崩し給ふに、御位につかせたまふへきよし、遺詔ありて、諸臣も勸奉るゆへに、七月に御即位は有けれとも、次の年を元年として、和銅と改らる。紀曰。元年春正月乙巳武藏國秩父郡獻2和銅1。詔曰。聞看食《キコシメス》國(ノ)中乃|東《アツマノ》方武藏國爾|自然成《ヲノツカラナレル》和銅出|在《タリ》止|奏《マヲシ》而獻(レリ)焉。此物(ハ)者天(ニ)坐(ス)神、地(ニ)坐(ス)神乃相【于豆奈比】奉(リ)福《サイ》【波倍】奉(ル)事爾依(テ)而|顯久《ウツシク》出【多留】寶爾在【羅之止奈母】神(ノ)隨《マニ》所念行《オホシメ》須。○故改2慶雲五年1而和銅元年(ト)爲(シ)而云々。又云。十一月己未(ノ)朔己卯|大甞《オホナメ・オホムヘ》《シタマフ》。遠江但馬(ノ)二國供2奉其事1。辛巳宴2五位以上(ヲ)于殿1奏《カナツ》2諸方(ノ)樂(ヲ)於庭(ニ)1賜v禄各有v差。癸未賜2禄(ヲ)職事(ノ)六位以下1設2賜※[糸+施の旁]1各一疋。乙酉神祇官、及(ヒ)遠江但馬二國郡司、并國人男女※[手偏+總の旁]一千八百五十四人叙v位賜v禄各有v差。延喜式第七云。凡賤祚大甞(ハ)七月以前即位者當年行v事。八月以後明年行v事【此據2受v禅即1v位。非v謂2諒闇登極1。】元明天皇は、七月に位につかせたまへとも、式の文のことく、諒闇の御即位なるゆへに、明る年十一月に、大甞はおこなはるゝなり。大嘗の濫觴は、神代紀云。是(ノ)後(ニ)素戔嗚(ノ)尊(ノ)之|爲行《シワサ》也甚(ハタ)無状《アチキナシ》。何(ント)則天照(ス)大神以2天|狹《サナ》田長田(ヲ)1爲《シタマフ》2御田(ト)1。○復見(テ)2天照大神|當新甞時《ニハナイキコシメストキヲ》1、則(チ)陰《ヒソカニ》放2〓《ケカシヌ》於|新《ニハナイノ》宮(ニ)1。といへり。此神代の法によりて、御即位の後、毎年新穀をもて、十一月中卯日作法ありて、諸神にも供し、みつからもきこしめすを、新甞といひ。御即位の年、あるひは次の年悠紀主基の國《・齋日本紀次同上》をうらなひさため、拔穗の使をつかはして、新穀をおさめ、大甞宮を造、儀式殊に嚴重にして、御一代に一度をこなはるゝを、大甞といふ。これ大體なり。委は延喜式に見えたり。ますらをのとものおとすなりとは、鞆は今弓小手といふ物なりといへり。和名集云。蒋魴切韻云。〓【音旱。和名止毛。楊氏漢語抄、日本紀用2鞆字1。俗亦用v之。本文未v詳。】在v臂避v弦具也。毛詩注云。袷【今案即裙袷之袷也。見2玉篇1】〓也。禮弓矢圖云。〓【音遂】臂〓。以朱韋1爲v之。戰國策云。其君好v發《ヤハナツ》者【發(ハ)々v矢】其臣|決拾《・コカケヌ》(ス)【車攻注決(ハ)鈎v弦拾(ハ)遂也遂發也□詩注無2此三字1。決以2象骨1爲v之著2於右手大指1。所2以鈎v弦〓1v體。拾以v皮爲v之著2於左臂1以遂v弦亦名v遂。】神代紀曰。臂《タヽムキニ》著《ハタ》2稜威《イツノ》之高|鞆《カラヲ》1。この神代紀のことくならは、からともいふへきを、此外にはともとのみいひて.からといへること、いまた見及はす。延喜式兵庫式云。熊革一條【鞆(ノ)料。長八寸、横五寸】牛革一條【鞆手料。長八寸、廣二寸】鞆緒紫組一條【長二寸五分】鞆袋料。紫表緋裏帛各一條【各長尺三寸。廣一尺八寸】これは弓いる時、ひたりの手にさして、つるにあたりていたましがための具なるを、下句をみるに、楯立らしと侍れは、をもきたてを、たつるにも、ひちかひななとを、楯の板のかとにあたりて、いたましめしと、用意して、さすことにこそ侍るらめ。物部を、ものゝふとかんなつけたるは誤なり。これは、ものゝへとよみて、饒速日命裔《ニキハヤヒノミコトノハツコ》にて、大甞會の時、神楯《カンタテ》鉾たつることをつかさとりきたれる、ひとつの氏なり。後には、石上《イソノカミ》榎《エノ》井の兩氏にわかれて、兩氏をの/\二人つゝ出てつとむるなり。此楯鉾をたつるは、元日と大甞會となり。延喜式曰。凡大甞宮(ノ)南北(ノ)門所v建神楯四枚【各長一丈二尺、上(ノ)廣(サ)三尺九寸。中(ノ)廣(サ)四尺七寸。下(ノ)廣(サ)四尺四寸五分。厚二寸】戟八竿【各長一丈八尺】左右衛門府九月上旬申v官令d2兵庫寮1依(テ)v樣《タメシニ》造備u。【楯(ハ)丹波國楯(ノ)縫氏造v之。戟(ハ)紀伊國(ノ)忌部氏造v之。祭畢便收2造衛門府1】又朱雀、應天、會昌等門所v建大楯六枚。戟十二竿。亦令2同寮(ヲシテ)修理1。凡十一月中寅日○卯日平明○諸衛立v仗諸司陳2威儀物1如2元日儀1。石上榎井二氏各二人皆朝服率2内(ノ)物部《モノヽヘ》四十人1【著2紺布盞】立2大甞宮南北門(ニ)神(ノ)楯戟1訖【門別楯二枚。戟四竿。木工《ムク》寮|預《アラカシメ》設2格木於二門左右1。其楯等祭事畢即收2左右衛門府1】訖(テ)、即分(テ)就2左右(ノ)楯(ノ)下(ノ)胡床《アクラニ》1。【門別内物部二十人左右各十人。五人爲v列六尺爲v間。】持統紀曰。四年春正月戊寅(ノ)朔|物部《モノヽヘノ》麿(ノ)朝臣【契沖曰。是前(ノ)石上大臣也。】樹《タツ》2大盾(ヲ)1、神祇伯《カンツカサノカミ》中臣(ノ)大島(ノ)朝臣讀2天神|壽詞《ヨコトコトフ・コトホキコト》1畢、忌部(ノ)宿禰|色《シコ》夫知奉2上神璽|劔《タチ》鏡(ヲ)於皇后(ニ)1。々々即2天皇位1。公卿百寮|羅列《ツラナリテ》匝《カサナリ》拜(テ)而|拍《ウツ》v手(ヲ)焉。文武紀云。二年十一月丁巳(ノ)朔己卯、大甞。直廣肆榎井朝臣倭麻呂竪2大楯1。直廣肆大伴宿禰手拍竪2楯桙1。神龜元年十二月己卯大甞。○從五位下石上朝臣雄男、石上稠臣乙麻呂、從六位上石上朝臣諸男、從七位上榎井朝臣大島等、率2内物部1立2神楯於齋(ノ)宮(ノ)南北二門1。天平十四年春正月丁未朔百官|朝賀《ミカトヲカミス》。爲2大極殿《オホアムトノ》未1v成|權《カリニ》造2四阿《アツマヤノ》殿1於v此受v朝焉。石上榎井兩氏始樹2大楯槍1。兩氏楯桙を建らるゝ事かくのことし。もし兩氏のうち、さはり有時は、大伴氏の人なともくはへられけると見えたり。大伴佐伯の兩氏は、開門をつかさとらるゝ家なり。さて御哥の惣しての心は、神事を大事におほしめすゆへに、かくよませたまふなり
 
御名部皇女奉和御歌
 
御名部皇女は天智帝の皇女なり、上に云ふ如く元明天皇の御爲には同腹の姉也
 
初、御名部皇女奉和御歌。御名部皇女は天智帝皇女也。上に云ふことく元明天皇の御爲には同腹の妹なり
 
77 吾大王物莫御念須賣神乃嗣而賜流吾莫勿久爾《ワカミカトモノナオモホシソスメカミノツキテタマヘルワレナラナクニ》
 
吾大王、【幽齋本云、ワカオホキミ、】 物莫御念、【校合本曰、物ナオホシソ、】
 
吾莫勿久爾は常に我にあらなくにと云ふ詞なり、それは此に叶はず、此集には我に(51)てあるにと云ふ所にも用ひたり、其例は第四に、わがせこは物な思ひぞことしあらば、火にも水にも我ならなくに、是は火にも入り水にも沈みて死を共にせんと云意なれば我成むにといふ詞なり、第十五に、思はずもまことありえむやさぬる夜の、いめにも妹がみえざらなくに、是は夢にも妹がみえぬにといふ心なり、此なくは無の字の心に非ず、あらさをあらけなきといひ、大膽なるをおほけなきと云ふ如くたゞ詞の字なり、又按ずるに今の書きやうワレナラナクニとは讀れず、ワレナケナクニとよむべきか、十五に、旅といへば言にぞ易き少なくも妹に戀ひつゝすべなけなくにとよめり、此下句の心は、妹を戀ふる心の少すべなきに非ず、多くすべなきとなり、今此に准ずるに我なきにあらぬにと云ふやうの意なり、我とは物部氏の人に成てのたまふなり、歌の心は、女帝にて大事のおほなめを行はせ給ひてよろづに叡心をつけて慎み給ふなれば、天位をつぐ事は凡慮の計る所に非ず、すめ神の計はせ給ひてかく次にあたり給へば思召すまゝにてさはる事はましまさじ、物な思召しぞと御心を慰め給ふなり、物部氏をばかゝる時供奉して楯を立て守護し奉れと祖神の定めて後々の帝に賜ひたれば、其職に仕ふまつること敢て怠らねば思召あつかふことましますなとなり、
 
初、わかみかと物なおほしそ。大王は、おほきみとも、よむへし。われならなくには、常は、我にあらなくにといふ詞なり。それはこゝにかなはす。此集には我にてあるにといふ所にも用たり。その例は、第四阿倍女郎哥に、わかせこは物なおもひそことしあらは火にも水にも我ならなくに。これは、もし事出來なは、君とゝもに火に入も、水にしつみもして、死をともにせむとなり。第十五、中臣宅守か哥に、おもはすもまことありえんやさぬる夜のいめにもいもか見えさらなくに。是は夢にも妹か見えぬにといふを、見えさらなくにとよめり。此なくは、無の字の心にあらす。あらきをあらけなくといひ、大膽なるをおほけなきといふことく、只詞の字なり。此御かへしの心は、天子女體にて寶位にのほらせたまひ、御一世に一度の大事のおはなめを、をこなはせたまひて、よろつに、御心をくはりて、おほしめさるゝ御哥なれは、物なおほしそと、御心をなくさめたてまつりたまふなり。すめ神のつきてたまへるとは、天位をつぐことは、凡慮のはかるところにあらす。すめ神の、はからせたまひて、かくついてにあたりて、天位にのほらせたまへは、何事もおほしめすまゝにて、さはることおはしまさしとなり。つきてたまへる我とのたまふは、御名部皇女は、元明天皇の御あねにて、ともに天照太神の御子孫なれは、その御姓のかたにて、のたまへるなり。われとはのたまへとも.天皇の御うへなり。そも/\、此國は、日神皇統を垂させ給て、人代にいたりても、いく久しく.一姓あひつきさて、今に連綿せさせたまふ事、地は東海にせまれとも、中華とおもひあかれる漢朝も、及はさる所なり。これ神力のいたすなり。かの異朝のこときは、昔より、一姓相うけ來らさるゆへに、弑奪して、世を移し、姓をかふ。佛説を引て、種姓尊貴の益を證すへし。佛爲優  王説王法正論經(ニ) 不空三藏譯 云(ク)。云何(ナルカ)王(ノ)之過失(ナル)。大王當v知。王(ノ)過失(ト)者畧(シテ)有2十種1。○一(ニ)者種姓不v高二(ハ)不v得v自在(ヲ)1云々。云何(ヲカ)名(クル)2王(ノ)種姓不(ト)1v高(カラ)。謂(ク)有(テ)2庶臣1不類(ニシテ)而生非2宿《ムカシヨリノ》尊貴(ニハ)1簒《ウハツテ》紹《ツクナリ》2王位(ヲ)1。是(ヲ)名2種姓不(ト)1v高(カラ)。○當(ニ)知此(ノ)過失(ハ)初(ノ)一(ハ)時(ノ)王(ノ)種姓(ノ)過失、餘(ノ)九(ハ)是(レ)王(ノ)自姓(ノ)過失(ナリ)。又云(ク)。云何(ヲカ)名(クル)2王之功徳(ト)1。大王功徳(ト)者畧(シテ)有2十種1。一(ニ)者種姓尊高二(ニ)者得2大自在1云々。云何名2王(ノ)種姓(ト)1。謂(ク)有(テ)2國王1宿(ニ)植(テ)2善根(ヲ)1以(テ)2大願力1故生(レ)2王族(ニ)1紹2繼國位(ヲ)1恩2養(シ)萬姓(ヲ)1淨2信(ス)三寶(ヲ)1。如(ヲ)v是(ノ)名(ク)2王(ノ)種姓尊高(ト)1。○大王當(ニ)v知如(ノ)v是(ノ)十(ノ)種(ノ)王(ノ)功徳(ハ)、初(ノ)一(ヲハ)名(ク)2種姓(ノ)功徳(ト)1。餘(ノ)九(ハ)身性(ノ)功徳(ナリ)。此全文を見て、此國の土域なることをしるへし。あるものゝかたりしは、洛陽にある禅僧の、儒書を講するものありて、本朝の天子は、周の太伯の苗裔なるよしを、しきりに談しけれは、時の天子、逆鱗したまひて、將軍家へ勅を下し給ひけれは、將軍家より、彼僧を遠流に處せられけるとかや。時代も、僧の名も承しを、わすれ侍り。孔子その至コをほめたまひて、まことに此國のみかとの御先祖にも、きらはしからぬ恭伯なれとも、歴代の紀録たしかなるうへ、をのれも、その日月の恩光にて、晝夜をわきまへなから.かゝる浮説に阿黨しけむは、嶋人となれるも、神のめくみにはなたれたるなり
 
(52)和銅三年庚戍春二月從藤原宮遷于寧樂宮時御輿停長屋原※[しんにょう+向]望古郷御作歌
 
※[しんにょう+向]、【胡頂切、遠也、】
 
元明紀曰、三月辛酉始遷2都于平城1云云、これによれば二月の二は三の字の誤か、長屋原は和名曰、山邊郡長屋、【奈加也、】
 
初、元明紀云。三月辛酉始遷于平城
 
一書云太上天皇御製
 
按ずるに此時太上皇なし、此注最不審、若元明天皇讓位の後記せる詞と云はんか、それもいはれず、端作に御輿停2長屋原1とあれば注に及ばず、若他處の注錯つて此に來るか、
 
初、一書云太上天皇御製。此時無2太上皇1。恐(ハ)是衍文。紀云。和銅元年二月戊寅詔畧云。方今平城之地(ハ)、四禽叶v圖三山作(タリ)v鎭。龜筮竝從。宜v建2都邑1
 
78 飛鳥明日香能里乎置而伊奈婆君之當者不所見香聞安良武《トフトリノアスカノサトヲオキテイナハキミノアタリハミエスカモアラム》【一云君之當乎不見而香毛安良牟】
 
飛鳥はあすかの枕詞なり、別に注す、君ノ當とは持統文武の陵をさしたまふにや、義(53)は明かなり、君ノアタリ、君ガとよむべきか、
 
初、とふ鳥のあすかのさと。持統文武なとの御事をおほしめして、そのおはしましたるあたりの、とをさかるなこりをおしませたまふなるへし
 
或本從藤原京遷于寧樂宮時歌
 
79 天皇乃御命畏美柔備爾之家乎擇隱國乃泊瀬乃川爾※[舟+共]浮而吾行河乃川隈之八十阿不落萬段顧爲乍玉桙乃道行晩青丹吉楢乃京師乃佐保川爾伊去至而我宿有衣乃上從朝月夜清爾見者栲乃穗爾夜之霜落磐床等川之永疑冷夜乎息言無久通乍作家爾千代二手來座多公與吾毛通武《スメロキノミコトカシコミニキヒニシイヘヲヱラヒテコモリクノハツセノカハニフネウケテワカユクカハノカハクマノヤソクマオチスヨロツタヒカヘリミシツヽタマホコノミチユキクラシアヲニヨシナラノミヤコノサホカハニイユキイタリテワカネタルコロモノウヘニアサツクヨサヤカニミレハタヘノホニヨルノシモフリイハトコトカハノヲヒコリテサユルヨヲヤムコトモナクカヨヒツヽツクレルイヘニチヨニテニキマセオホキミトワレモカヨハム》
 
天皇、【別校合本、スメラキ、】 ※[舟+共]浮、【校本、※[舟+共]作v船、】
 
カシコミはおそろしきなり、おそる同じ、恐懼等の字をもよめり、ニギヒは第三にもにぎひし家をも出てとよめり、源氏帚木になつかしくやはらびたるかたと云へるに同じ、上下和睦して能く住みなれたるを云ふ、熟の字をもにぎとよめり、一説に賑ふ義といへり、き〔右○〕文字清濁ことなれどそれは通ずる例多し、和睦したる所はおのづ(54)からにぎはふ理なれば任ては同じ、されど柔をもとゝして賑ふと云ふ義をば兼ぬべし、擇ビテは捨つる義、元より住みし家をすておく心なり、第十一にえられし我ぞ、夜獨ぬるとよめる擇に同じ、又擇て取る義もあれど今の義にあらず、八十阿《ヤソクマ》は川くまの多きを云ふ、神代紀曰、【如上引、】玉篇曰、※[さんずい+畏]、【於囘、切、水※[さんずい+畏]曲也、亦作v隈、】玉桙ノ道ユキクラシ、玉桙は道の枕辭、別に注す、佐保川まで舟にて行程を道ゆきくらしとは云ふなるべし、イユキのい〔右○〕は助字なり、タヘノ穗、たへは白きを云ふ前に注す、穗は物のあらはれ出づるを云ふ、稻の穗等同義なり、しかれば今は霜の白くみゆるをたへの穗と云ふなり、後に赤きを丹の穗ともよめり、イハトコは八雲に牀の部に出し給へり、磐石の平にて床の如くなるを譬へて名付たるにや、第十三にも石床之根はへる門と二首までよめるに此と同じく皆床の字をかけり、今は氷のこりたるを其石牀の如しとたとへたり、堅く平なればなり、冷《サユル》夜乎はヒユルヨヲとよむべきか、さゆるは※[さんずい+互]の字にて極めて寒きなり、來座はキマスとよむべきか、意は此都に遷來て千代までもまします大君と共に我も營み作れる私の家に通ひ來て仕へ奉らむとなり、キマセとよみては叶ひがたし、マデと云ふに二手とかけるは二手を眞手といへばなり、此後兩手とも左右ともかける此義に同じ、是は長谷の邊に住人の遷都の時奈良にも宅地を賜ひ(55)て家を作り、暇あれば本宅へも歸れるが詠ぜるなるべし、
 
初、すめろきのみことかしこみ。かしこきは、おそろしきなり。畏恐懼惶等の字みなかしこしとよめり。貴の字をよむは尊貴の人は、おそるへきことはりあれはなり。賢の字をよむは、賢徳ある人は、その徳をうやまひておそるゝゆへなりり。にきひにしは、こはきものを、やはらけたらんやうに、よく住なしたるをいふ。えらひては、をきてなり。えりとる、えりすつるなといふ。今はそのえり捨るかたなり。※[舟+共](ハ)釋名(ニ)云。艇(ノ)小而深者(ヲ)曰v※[舟+共]。今の高瀬なり。玉鉾の道ゆきくらしは、舟にてもいふへし。又舟よりあかりて、陛をもゆくか。いゆきいたりて、いは發語の詞。たへのほには、たへは白きをいふ。さきに尺せり。ほとは、物のそれとあらはれ出るをいふ。霜のをくが白くて霜よとみゆるをいへり。あかき色の、それとあらはれてみゆるを、此集にも延喜式にも、丹の穗といふかことし。舟の帆、稻の穗、みなあらはれてみゆれは、同し心なり。いはとこは、床の字はかきたれと、只とこいはなり。氷のこりてかたきをたとへたり。までといふに、二手とかきたるは、兩手を眞手といふゆへなり。來座はきますとよむへし。此都にうつり來ませる大君の御代の久しさと、我もおなしくかよひきて、つかへたてまつらんとなり。これは長谷《ハセ》のあたりに、やところをたまはりて住人の、藤原よりならへ都をうつさせたまふ時、奈良にてもやところを給はりて、家を作り、又いとまある時は本宅へも歸るか、よまれたるとみえたり
 
反歌
 
80 青丹吉寧樂乃家爾者萬代爾吾母將通忘跡念勿《アヲニヨシナラノイヘニハヨロツヨニワレモカヨハムワスルトオモフナ》
 
しばし本宅へ歸る時、君の御事を忘るらんと思召すなとなり、
 
初、あをによしならの家には。わすると思ふなとは、しはし本宅のかたへ歸る時も、君の御ことをわするらんとは、おほしめすなとなり
 
右歌作主未詳
 
和銅五年壬子夏四月遣長田王于伊勢齋宮時山邊御井作歌
 
長田王は元明紀云、和銅四年夏四月丙子朔壬午、從五位上長田王授2正五位下1、聖武紀云、天平九年六月甲辰朔辛酉、散位正四位下長田王卒、猶元正紀聖武紀に委し、山(ノ)邊(ノ)御井は十三に山(ノ)邊のいそしの原とも山(ノ)邊のいそしの御井ともよめり、即伊勢なり、按ずるに此下の寧樂宮、長皇子といへる處の寧樂宮の三字、彼處におくべき理なければ題より上にありて※[手偏+總の旁]標なるべし、其故は第二卷挽歌に和銅二年までの歌は藤原の宮に屬し和銅四年以後の歌の※[手偏+總の旁]標には寧樂とかけり、彼に準じて(56)見るべし、
 
81 山邊乃御井乎見我?利神風乃伊勢處女等相見鶴鴨《ヤマノヘノミヰヲミカテリカミカセノイセヲトメラアヒミツルカモ》
 
伊勢處女等、【官本曰、イセヲトメラヲ、】
 
ミガテリはみがてらの古語なり、下に片待香光《カタマチガテラ》、月待香光《ツキマチガテラ》などあるを皆此例になずらへてよむべし、御井をみがてらにきて其井を汲美女をさへ見つるとなり、長田(ノ)王の歌か、神風ノ伊勢、別に注す、
 
初、山のへのみゐをみかてり。みかてりは、みかてらなり。山のへの御井をみにきつれは、その井をくむとて、伊勢のをとめともの、かほよきか、くるをさへそへて見つるとなり。長田王の哥歟。御供の人なとのよめる歟。長田王の歌なるへし
 
82 浦佐夫流情佐麻彌之久堅乃天之四具禮能流相見者《ウラサフルコヽロサマミシヒサカタノアマノシクレノナカレアフミハ》
 
情佐麻彌之は今按ずるに彌は禰の字の誤なるべし、十七十八に見ぬ日さまねみとよめるは、見ぬ日は間なくなり、第二第四等にまねくとあまたよめる皆間無くなり、ね〔右○〕とな〔右○〕と通ずれば古語にかく云ひ習へるなるべし、さ〔右○〕は添えて云ふこと多ければ、さまねしもたゞまなしなるべし、又直に間をさまともいへり、第十六に美彌良久埼を彌を誤て禰とせるに翻して今の誤れることを知るべし、久方ノ天、別に注す、流相はナガラフともよむべし、此集に雪のふるをも花の散るをも流るとよめり、歌の心(57)は旅にしてしぐるゝ空を見れば間もなく心のうらさびしきとなり、四月の歌に九、十月のしぐれをよみたれば、注の如く下の歌共に御井の歌とは見えず、
 
初、うらさふる心さまみし。長流か抄に、さまみしは寒しといふ事といへり。流相はなからふともよむへし。雪のふるをも、此集になかるとよめり。詞は四月にて、此哥は九月十月の頃の哥なり。次下の哥とゝもに、後注のことく、御井の哥とはみえす
 
83 海底奥津白浪立田山何時鹿越奈武妹之當見武《ワタツミノオキツシラナミタツタヤマイツカコエナムイモカアタリミム》
 
海底を喜撰式にワタツミとよむ由古今の顯注に引けり、今の点並に六帖わきもこの歌に此を載せたるも亦同じ、されども官本にもワタノソコと點じ、第五に和多能曾許意枳都布可延《ワタノソコオキツフカエ》、又七卷に綿之底奥己許具舟乎《ワタノソコオキコグフネヲ》、第十二に海之底奥者恐《ワタノソコオキハオソロシ》など明白に書けり、わたつみは別にさま/”\に書きたれば唯ワタノソコとよむべし、上句は次第に立田山といはむ序なり、古今集に風ふけば沖津白浪の顯注に此歌を引、定家卿甘心し給へり、義明かなり、
 
初、海底おきつ白浪。上句は立田山といはむ序なり。古今集の顯注に、風ふけはおきつしら浪たつた山といふ哥に、此哥を引て尺せられけるを、定家卿甘心し玉へり。喜撰式に、海底とかきてわたつみとよむよしをいひ、此集にも、かんなをしかつけたり。わたつみとよむ字は、此集にもさま/\見えたり。これは、字のまゝにわたのそこともよむへし。そのゆへは、第五に、山上憶良哥に、和多能曾許意枳都布可延《ワタノソコオキツフカエ》とつゝけよめり。おきもおくにて、深きをいへはふかしとつゝけたるにおなし
 
右二首今案不似御井所作若疑當時誦之古歌歟
 
寧樂宮長皇子與志貴皇子於佐紀宮倶宴歌
 
此に寧樂宮とあるまじき由上に云へる故は、此宮は内裏にして私の宮に非ず、佐紀宮〔三字右○〕、延喜式云、大和(ノ)國添(ノ)下(ノ)郡佐紀(ノ)神社、光仁紀曰、葬2高野(ノ)天皇於大和(ノ)國添(ノ)下(ノ)郡佐貴(ノ)(58)郷高野(ノ)山陵1、和名云、添(ノ)上(ノ)郡春日、第十に春日なる三笠の山に月も出ぬかも、さき山にさける櫻の花の見ゆべく、
 
初、佐紀宮、延喜式曰。大和國添下郡、佐紀神社。光仁紀曰。寶龜元年八月丙午葬2高|野《ヤノ》天皇(ヲ)於大和國添下郡佐貴郷(ノ)高|野《ヤノ》山陵《ミヽサキニ》1。和名集云。添上郡春日【加須加。】第十に、かすかなるみかさの山に月も出ぬかも佐紀山にさけるさくらの花のみゆへく
 
84 秋去者今毛見如妻戀爾鹿將鳴山曾高野原之宇倍
 
秋サレバは秋くればなり、別に注す、歌の心は已に野山も面白くみゆる秋になりたれば、此後も今見る如くにて妻戀する鹿の音さへ興を添て聞ゆべければ又來り遊ばんとなり、
 
初、秋されは今もみること妻こひに鹿なかん山そ高野原のうへ
秋されはとは、秋にあれはなり。すてに野山もおもしろくみゆる秋になりたれは、今みることく、此後も萩なとの咲みたれたる中に、妻こひするおかしき鹿のねも聞ゆへけれは、又參りきて、あそひたまはんの心なり。高野原は、第九卷にも、衣手の高屋のうへとよめり。いまもみることゝよめる哥は、第十八に、とこよ物此橘のいやてりにわか大きみは今もみること。第廿卷に、はしきよしけふのあろしはいそまつのつねにいまさねいまもみること。共に、いまみることく、おもかはりせすましませなり。もの字を捨て聞へし
 
右一首長皇子
 
萬葉集卷第一終
 
萬葉集代匠記卷之一下      〔2009年5月26日.午前9時35分、卷一入力終了〕
                〔2019年6月23日.午前10時45分、初稿本入力終了〕
 
(1)萬葉集代匠記卷之二上
                 僧契冲撰
                 木村正辭校
[早稲田版精撰本は卷一の奥書及び卷二の目録を載せていない。]
 
初、萬葉集卷第二目録
内大臣藤原卿娉鏡王女時――
娉を嫂に作れるはあやまれり。下の嫂石川郎女、嫂巨勢郎女、これにをなし
 
初、天皇賜藤原夫人御歌一首
此夫人は藤原大臣史の女、但馬皇女の母なり。第二十卷云。字曰氷上大刀自。天武紀云。十一年春正月乙未朔壬子、氷上夫人薨于宮中。【夫人の和訓惣しておほとしか。氷上の大刀自なるゆへに義をもてこれに限て訓するか】
 
初、石川郎女奉和一首
詞書には和の下に歌の字あり
 
初、勅穗積――
但馬皇女をあやまりて皇子とす
 
初、挽歌
下竹林樂の三字恐衍文
 
初、日並皇子尊
并の字誤て並に作る。下に至ておなし。准之
 
初、皇子尊舍人等慟タ
至下タ作傷。後もて正とすへし
 
初、高市皇子尊城上殯【脱宮字】之時――
 
初、靈龜元年――薨時【下有作字】歌一首
下にいはく并短歌
 
相聞
 
難波高津宮御宇天皇代 大鷦鷯天皇
 
難波高津(ノ)宮(ノ)御宇天皇(ノ)代、舊事記、第八、仁徳紀云、元年歳次癸酉云云、都遷2難波1、謂2高津宮1、大鷦鷯天皇 第十七代、仁徳の御諱なり、かく名付奉る故は、日本紀曰、初(メ)天皇|生《アレマス》日、木兎《ツク》入《トビイレリ》1于|産殿《ウフトノ》1、明旦|譽田《ホムタ》天皇、喚《メシテ》2大臣武内(ノ)宿禰1語(テ)之曰、是何(ノ)瑞(ソ)也、大臣對(ヘテ)言(サク)吉(キ)祥《サカ》也、復當(テ)2昨日臣妻|産《コウム》時(ニ)1、鷦鷯《サヽキ》入《トビイレリ》1于|産屋《ウブヤ》1、是亦|異《アヤシト》焉、爰天皇曰、今朕之子、與2大臣之子1同日共(ニ)産(メリ)、兼《ナラヒニ》有v瑞、是|天之表《アマツシルシナリ》焉、以爲、取2其鳥名1、各相|易《カヘテ》名v子、爲2後葉之契(シト)1也、則取(テ)2鷦鷯《サヽキノ》名1以名2太子(ニ)1、曰2大鷦鷯皇子1、取(テ)2木兎名(ヲ)1號(テ)2大臣(ノ)之子1、曰2木兎宿禰(ト)1也、是平群臣之始祖也、和名(2)云、文選鷦鷯賦云、鷦鷯、【焦遼ノ二音、和名佐々木、】小鳥也云云、古事記には、大雀命《オホサヽキノミコト》とかけり、みそさゞいと云ふ鳥なり、俗に、溝三歳と書きて、溝に三歳住故に名づくと云ふは暗推なり、いかさまにも、溝の邊を飛びありく故に、溝鷦鷯《ミソサヽイ》と、俗に呼ぶなるべし、い〔右○〕とき〔右○〕と同韻相通なれば、呼びよきに付て、さゝいとはいへり、氏の雀部を、さゝいべと云ふが如し、又或物に、此帝、形の小さくまし/\ける故の名なりと書き侍り、云ふに足らざる愚推なり、
 
初、相聞
難波高津宮
仁徳紀云。元年春正月都2難波1、是謂2高津宮1。天皇令第六儀制令云。天皇詔書初v稱。同義解云。凡自天子至車駕、皆是書記所用、至風俗所稱別不依文字。假如皇孫命及須明樂美御徳之類也
大鷦鷯天皇
仁徳紀云。初天皇生日木兎入于産殿。明旦、譽田天皇喚大臣武内宿禰語之曰。是何瑞也。大臣對言。吉祥也。復當昨日臣妻産時、鷦鷯入于産屋是亦異焉。爰天皇曰。今朕之子與大臣之日同日共産、兼有瑞、是天之表焉。以爲取其鳥、各相易名子、爲後葉之契也。則取鷦鷯名以名太子曰大鷦鷯皇子。取木兎名號大臣之子曰木兎宿禰。是平羣臣之始祖也
 
磐姫皇后思天皇御作歌四首
 
武内(ノ)宿禰の孫、葛城(ノ)襲津彦の女、仁徳天皇二年三月に、后に立給ふ、履中天皇の御母なり、仁徳と共に世を治め給へる由、聖武紀に、立后の時の宣命に見えたり、御妬の深くて、帝も恐させ給へる事、日本紀に具なり、紀に、磐之媛とありて、古事記にも石之日賣命と書る上は、六帖に、今の第四の歌を載るに、いはひめの后と書けるは誤なるべし、
 
初、磐姫皇后
同紀云。二年春三月辛未朔戊寅、立磐之媛命爲皇后。第十二履中紀云。葛城襲津彦女也。履中天皇の御母なり。續日本紀の聖武紀に、光明皇后を后に立たまふ時の詔にも、仁徳天皇の磐姫とゝもに世をおさめたまへるを例に引せたまへり。されとも此后あまりにねたみふかくまし/\て、天皇の御心にまかせたまはぬことおほし。八田皇女の事によりてつゐに山城の國筒城宮にこもりおはしませるを、天皇みゆきせさせたまひて、さま/\になためさせたまへれと、たいめんもしたまはて、みかとすこ/\となにはへかへりおはしましぬ。筒城宮にして薨したまひしを、なら山におさめ奉らる。口持臣といふ人、難波へ歸らせたまふへきよし申勅使にまいりて、雪のふるにぬれて后の宮の御庭にまかりさらす侍りける時、口持臣か妹國より姫、后の宮につかへて有けるかかなしひて歌《ウタをよみ、みかと筒城宮へみゆきし給ひける道すからの御製あはれなることおほきみまきなり
 
85 君之行氣長成奴山多都禰迎加將糖行待爾可將待《キミカユキケナカクナリヌヤマタツネムカヘカユカムマチニカマタム》
 
(3)氣長〔二字右○〕は、第一の注に云へるが如し、山タヅネ迎とつゞくる事は、惣釋の如し、下の山たづの迎、此に效ふべし、袖中抄に、下に、山多豆乃迎乎とあるを注するに、此歌を引て、ね〔右○〕との〔右○〕通ずれば、山たづのなりと釋せり、さて云、考2萬葉1云、此云2山多豆1者、是今造v木者云云、今案に、たづきと云て、木きる物に、山を添て、山たづきと云ふべきを、き〔右○〕の詞を略して、山多豆と云ふか、山たづの迎と云ふは、きさかり、よきなどは、刀のやうに、たゞさまに、木を切りわるなり、たづき〔三字右○〕は、手斧の刃のやうなれば、横さまに木を伐れば、迎とよむなり、綺語抄云、山に木造物を云、童蒙抄云、杣人を云、山だちと云ふ詞なり、今云、造木者といひつれば、者の字に付て、杣人ともいへる歟、若たつきを云ふといはゞ、器物なれば、造木物と云ふべきにや、杣人ならば、迎とつゞけむ事如何と聞ゆ、又山たづねといはむもいかゞ、者と物とは、通ひて書る常の事なり、或説云、山たづとは杣人の造り木なり、山たづとよみては、必迎とよめり、杣には、木を作り置て、一二月もありて、取に又更にくる心なるべし、云云、今云、此義にては、迎と云ふ事はさもありなん、さらば萬葉の注を、今の造木者《ヤマタツトハト》可v毒歟、以上顯昭の義なり、今案、和名云、唐韻云、※[金+番]【音繁、漢語抄云、多都岐】廣刃斧也、かゝればたづきは、今杣人の持つ末の廣き斧なり、此にて木をも伐り、又木を打|皮《ハツリ》て、柱などをも造り出すとぞ承る、顯昭の義ならば、刃《ハ》の廣き手斧の如なる物と意(4)得られたるか、横さまに伐とは、手斧にて切やうにや、されば其刃の我方に向ふ心に、迎ふとも繼くるとや、さやうにて木を切ること承及ばず、若たづきを側めて切るを、横さまと云ふ歟、然らば迎につゞかず、又※[金+番]ならば、山※[金+番]と云ふべし、又、是今造木者之所操※[金+番]也、或(ハ)斧也、廣刃斧名也、などぞ注すべき、者は器物にも通はして申す事なきにあらず、されど、今の注は即下に載せたる歌の古事記の自注なれど、彷彿にして、迎とつゞくる心諸説いはれても聞え侍らぬにや、第六に、高橋蟲丸が歌に、山多頭能迎とかけり、頭の字は集中の例、必らず濁音の處にのみ書たれば、山※[金+番]を略せるにも、又山立の義にもあらず、又山多都禰は、山多都乃とすべきを、乃を禰に通はしてよめるにあらず、山に入て木を尋ぬる杣人を、やがて山尋と名付たるか、假令ば、木こり草かりの如し、山多豆は其山たづねのね〔右○〕を捨て云へり、たづねとも、たづぬともいひて、禰は奴と動けば、多豆の二字は主にて、禰の字は伴なる故に、捨て體を取て名付しなるべし、迎とつゞくる意は、杣人は、大形の木をば、山にて面々の印を押て、河下に綱を張渡して流し懸け留る所にて分取と申せば、河上にて流し置きて、下にて待取意を、迎とはつゞけたるか、又深山幽谷に入りて木を切るには、山神、樹神なども祟り、毒獣、毒蟲などの恐もあれば、歸るべき程の、少遲くなれば、家人のおぼつかながりて、迎を遣はす(5)意にや、
 
初、君かゆきけなかくなりぬ山たつねむかへかゆかむ待にかまたん
けは息なり。ものおもひのむねにたまりて、くるしき時なかきいきのつかるることなり。此集におほくよめり。もろこしに長太息といふにおなし。山たつねはみゆきしたまひし山ちをたつねてなり.此下に古事記を引て又この歌を載たるには、山たつのとありて、すなはち自注あり。下の句はきこえたるまゝなり
 
右一首歌山上憶良臣類聚歌林載焉
 
86 如此許戀乍不有者高山之盤根四卷手死奈麻死物乎《カクハカリコヒツヽアラスハタカヤマノイハネシマキテシナマシモノヲ》
 
戀ツヽアラズバといふ詞、集中に多し、戀る驗のあらずばとも聞えず、さてもあられずばとも聞ゆ、又第十に、長夜を、君に戀つゝ、いけらずば、咲て散にし、花にあらましを、此歌によりて思へば、あらずば〔四字右○〕とは、なくなるを云ふにもあるべし、イハネシマキテは、石根を枕にしてなり、下の人丸の死に臨みてよまれたる歌にも、此詞あり、し〔右○〕を助語として、上四字、下三字によむべきか、又ありく〔三字右○〕をしありく〔四字右○〕と云ひ、此集に、旅行しらぬ〔三字右○〕と云ふをしゝらぬ〔四字右○〕とよみたれば、まくらしまくといへるか、岩をかまへて、中に死人を臥せて葬る故に、かくはよませ給へり、末に、中々に、しなば安けむとよめる如く、思の切なる時は、死なばやとも思ふは、人の情の常なり、
 
初、かくはかりこひつゝあらすは高山のいはねしまきてしなましものを
此こひつゝあらすはといふ詞、集の中におほし。こひてもこふるかひのなくはといふ心なり。いはねしまきてとは、しはやすめ字なり。此卷下にいたりて、人まろの石見にて、死に臨まれける時の歌にも、この詞あり。いはねをまくらとなすなり。まくとは.枕袖妹妻なとにつけていふ。纒の字をまくとよめり。身になれまつふ心なり。君をこひしてこふるかひなく物おもひてあらんよりは、しにたらんかまさらんとなり
 
87 在管裳君乎者將待打靡吾黒髪爾霜乃置萬代日《アリツヽモキミヲハマタムウチナヒキワカクロカミニシモノオクマテニ》
 
在ツヽモとは、有々ても、待得て、君に逢べくばなり、
 
初、ありつゝも君をはまたむうちなひくわかくろかみに霜のをくまては
ありつゝもはあり/\て來ますともまたむとなり
 
(6)88 秋之田穗上爾霧相朝霞何時邊乃方二我戀將息《アキノタノホノウヘニキリアフアサカスミイツヘノカタニワカコヒヤマム》
 
霧相〔二字右○〕はキラフともよむべし、日本紀齊明紀に、あすか川、みなぎらひつ、行水の、とよませ給へるも、水|霧合《キラヒ》つゝなり、朝霞〔二字右○〕とは、霧も霞も、互に春秋に通じて立つ物なる故、此集には、七夕の歌にも、霞立、天川原など、あまた秋の歌にもよめり、文選、謝宣遠が重陽詩にも、輕霞冠2秋日1と作れり、邊ノ方とは、渺々と見え渡る田の、其かたはらなり、歌の心は、君に久しくあはで、我胸に思の滿たるは、朝霞の田面に棚引あへるが如し、されど、霞は、かたへに晴行くこともあるを、いつか、我もその如く、胸の晴れて、戀の止まんぞとなり、穗ノ上ニとあるは、穗は、顯はれ出づる物なるを、霞の、立隱せるは、人知れぬ思に似たれば、よそへてよみ給ふなるべし、右二首に依るに、九月中、下旬の御歌なるべし、
 
初、秋の田のほのうへにきりあふ朝霞いつへのかたにわかこひやまむ
きるといふはとつる心へたつる心なり。日本紀にも霧の字をきりてとよめり。源氏物語にも、目もきりてといへり。闔の字は戸をさすことなるを、戸をきるとて、此字を用るもおなし心なり。霞は秋も立つ物にて、此集末にもよめり。文選謝宣遠九日從定公〓馬臺送孔令詩にも、輕霞冠秋日、迅商薄清穹と作れり。へのかたとは、海におきへとよめるかことし。ひろ/\とみわたさるゝ田の面に、たなひきあひたる朝霞のかた/\よりはれて、ほとりばかりのこりてそれもはれつくることく、いつみかとの還御をきゝて、なくさみそめて我こひのやまんとなり
 
或本歌曰
 
89 居明而君乎者將待双婆珠乃吾黒髪爾霜者零騰文《ヰアカシテキミヲハマタムヌハタマノワカクロカミニシモハフルトモ》
 
第十八に、乎里安加之、許余比波能麻牟云云、これによれば、今も居明而〔三字右○〕をヲリアカシ(7)テとよむべき歟、ヌバ玉は、黒しとつゞくる枕辭、別に釋す、此歌を此に載するは、在つゝも、君をば待たむといふ歌と、大形同じければ、或本の異説と思ふなるべし、
 
右一首古歌集中出
 
古事記曰|輕《カルノ》太子|奸《タハクル》輕(ノ)太郎女《オホイラツコヲ》故其太子流於伊豫湯也此時衣通王不堪戀慕而遣徃時歌曰
 
此は、古事記の全文には非ず、意を得て綴れり、衣通王は、即、輕大郎女なり、古事記曰、次ぎ輕大郎女、亦名衣通郎女、【御名所3以負2衣通王1者、其身之光、自衣通出也、】日本紀には、允恭天皇の后、忍坂大中姫の妹、弟姫を、衣通郎女《ソトホリノイラツメ》と載せらる、世にいふ衣通姫なり、名づくる由同じくて、同時なれば、古事記は異説なるべし、又古事記には、常に云、衣通姫をば、藤原之琴節郎女といへり、太郎女の太は、下の點を去るべし、遣は誤れり、記は追の字なり、左傳曰、昔有仍氏、生v女、※[黒+真]黒、【有仍、古諸侯也、美髪爲v※[黒+真]、】而甚美光、可2以鑑1、【髪膚光色、可2以照1v人、】名曰2玄妻1、【以2髪黒1故、】衣通の名、此類なり、
 
初、古事記曰――
日本紀曰。四十二年【允恭】春正月天皇崩――○大前宿禰答歌之曰○乃啓皇子【安康天皇】曰。願勿害太子、臣將議由。是太子自伎于大前宿禰之家【一云流伊豫國。】此集第十三に、輕太子自死之時所作とて古事記を引て、載たる歌もあり、輕大娘皇女を伊與になかしつかはさるといひ、大君を島にはふりと輕太子のよみたまへる歌も、日本紀に載たれと、かゝる異説不審なから和漢例あることなり。衣通王は衣通姫のことか。日本紀第十三允恭紀云。弟姫容姿絶妙無比。其艶徹衣而晃之。是以時人號曰衣通郎姫也といへり。稚渟毛二岐皇子の女にて、忍坂大中姫の妹なり。輕太子は、允恭天皇第一の御子、御母は大巾姫なれは、そとほり姫はをはにてましますゆへに、をひゆきたまへるか。左傳云。昔有乃氏生女【有仍古諸侯也美髪爲※[黒+真]】而甚美光可以鑑【髪膚光色可以照人】名曰玄妻【以髪黒故。】そとほり姫の名におなし心なり。遣往の遣は、追の字の誤なり。輕大郎女、大を太に作るも非なり
 
90 君之行氣長久成奴山多豆乃迎乎將徃待爾者不待《キミカユキケナカクナリヌヤマタツノムカヘヲユカムマチニハマタシ》 此云(8)山多豆者是今造木者也
 
迎ヲのを〔右○〕は、休字なり、又古歌には、に〔右○〕とを〔右○〕と通用したる事多ければ、迎にゆかんにてもあるべし、袖中砂に、迎かゆかむとあるは、乎〔右○〕の字疑の歟〔右○〕と思はれけるにや、此集の歌には、此字、必を〔右○〕の音に用ゆ、こ〔右○〕の音なれど、を〔右○〕、こ〔右○〕通ずればにや、弘の字を、日本紀にはを〔右○〕に用らるゝに同じ、待〔右○〕は、古事記に、麻都とかければ、マツニハマタジとよむべきか、さきの歌准v之、
 
初、君かゆきけなかく成ぬ山たつのむかへをゆかん待にはまたし
山たつは自注あきらかなり。第六に高橋蟲麿の歌にも、さくらはなさきなん時に山たつのむかへまゐてむきみしきまさはとよめり。山たつのむかへとは山には山神木魅あるゆへに、そま人なとのをそけれはおほつかなくてむかへをつかはすなるへし
 
右一首歌古事記與類聚歌林所説不同歌王亦異焉因※[手偏+僉]日本紀曰難波高津宮御宇|大鷦鷯《オホサヽキノ》天皇廿二年春正月天皇語皇后|納《メシイレテ》八田(ノ)皇女《ヒメミコヲ》將|爲《セント》妃《ムカヒメト》時(ニ)皇后|不《ス》聽《ウナツルサ》爰天皇|歌以《ミウタヨミシテ》乞於皇后之三十年秋九月乙卯朔乙丑皇后|遊行《イテマシテ》紀伊國到熊野|※[山+卑]《ミサキニ》取其處之御綱葉而|還《マヰカヘル》放是天皇|伺《ウカヽヒテ》皇(9)后不在而娶八田皇女|納《メシイレタマフ》於宮中時皇后到難波|濟《ワタリニ》聞天皇|合《メシツト》八田皇女大恨之云云亦曰遠飛鳥宮御宇雄|朝嬬雅子《アサツマノワカコ》宿禰天皇二十三年春正月甲午朔庚子|木梨軽《キナシノカルノ》皇子爲太子|容姿《カホ》佳麗《キラ/\シ》見着自|感《メツ》同|母《ハラノ》妹《イロト》輕(ノ)太娘皇女《オホイラツノヒメミコ》亦|艶妙《カホヨシ》也云云遂竊|通《タハケヌ》乃|悒懷《イキトホリオモフコト》少|息《ヤスム》廿四年夏|六月《ミナツキ》御美汁《オモノヽシル》疑《コホレリ》以作氷天皇異之卜其|所由《ユヘヲ》卜《ウラヘノ》者曰有内亂盖|親親《ハラカラトモ》相|姦乎《タハケタルヲヤ》云云仍移太娘皇女於伊與者今案二代二時不見此歌也
 
右一首歌−亦異焉、歌林には、磐之姫の和歌とし、古事記には、衣通王とすれども、撰者.日本紀を考らるゝに、仁徳、允恭兩紀に、此歌見えねば.不審して兩紀を引かるゝ歟、誠に日本紀に載せられぬは、不審殘らぬにあらねど、天武の勅にて、稗田阿禮が誦博へたるを、元明の勅を奉て、太(ノ)朝臣安万侶の撰ばれたる(10)古事記なれば、此も亦信ずまじきに非や、※[手偏+總の旁]じて、舊事紀、古事記の説を、日本紀に漏されたる事多し、其所以知り難し、憶良の説も、亦慥に據なくんば非とも定めがたかるべし、因※[手偏+僉]日本紀−不見此歌也、以下、兩紀の文、意を得て引けり、連屬せる全文にはあらず、語2皇后1の下に、紀には曰の字あり、八田皇女は宇治(ノ)皇子の同母の妹なり、乞2於皇后1の下の之の字、紀には、曰の字にて、問答の御歌五首あり、今は、之の字を助語に置て、皆略せり、三十年より、大恨之まで、全、紀の文なり、其中に、紀伊國は、紀には、伊の字なし、彼も、他處には添たれば、紀の今の本脱たるか、※[山+卑]は、紀に岬なり、和名云、唐韻云、岬(ハ)山側也、古狎反、日本紀私記云、【三左木】、又云、牟婁郡|三前《ミサキ》、かゝれば、此本誤れり、葉の下、紀の自注云、葉、此云2箇初婆《カシハ》1、於是の下に、紀に、日の字あり、此日と云ふは。此時といふ意にて、出立給ふやがて其日にはあるまじけれど、今の如く、日の字なきが勝るべきか、後の皇女の下に、紀には、而の字あり、云云とは、説文云、象2雲氣在v天廻轉之形1、言之在v口、如2雲潤v、廣雅云、云|者《ハ》有也、下文、尚有2如v雲之言1也、漢の汲黯が、云云せむと欲すと云ひ、日本紀に、云云を、シカ/”\とよみ、此集には、カニカクニとよめる、皆同意なり、書を引く時、全は引かずして、末を略する詞なり、今も、紀の文長ければ、引(11)殘す故に此言を置けり、然るを、引はてゝも此言を置は、云云の意をしらぬなるべし、今按、此紀の文を、今引かれたる事不審なり、應神天皇の御時、大鷦鷯(ノ)皇子とて、まし/\ける時より、磐之媛は、妃にておはしけむか、さらずして、二年に召て、即后に立させ給ふとも、二十八年までに、此歌よませ給ふまじきに非ず、王仁が、咲や此花の歌、舊事紀、古事記、日本紀に、皆漏され、此集にも入られず、又續日本紀に、彼子孫.文|忌寸最弟《イミキハツヲト》、武生連眞《タケフノムラジマキサ》等、宿禰|姓《カハネ》を賜はらむと請ふ奏状にも見えざれど、世に傳はりて、疑をなさねば、其類とすべし、况、此歌は、八由(ノ)皇女の事に預てよみたまへる由をいはず、嫉妬は、帝を戀ひ思召す事の過るより起れば、恨させ給はぬ先に、いつにてもよませ給ふべくや、亦曰といふより、允恭紀の文を略して引けり、是は、文の面に、共に見えたれば、引ける所、其謂あり、(ノ)宮は、古事記の下、履中天皇段、故《カレ》上幸《イデマシテ》.坐《マス》2石上《イソノカミ》神宮1也、於是.其伊呂|弟《ト》水齒別命《ミツハワケノミコト》云云、乃|明日《アクルツヒ》上幸《イデマス》、故號2其|地《トコロヲ》1謂2近飛鳥《チカツアスカ》1也、上2到于倭1、詔之、今日留2此間1、爲2祓禊《ハラヘヲ》1而|明日《クルツヒ》參出、將v拜2神宮1、故號2其地1、謂2遠飛鳥《トホツアスカ》1也、文長ければ、具には引かず、初の上幸とあるは、履中帝の御事なり、後の上幸は、水齒別命なり、帝の御弟、住吉中《スミノエノナカツノ》皇子、難波の宮を燒て、帝を弑しまつらむとし給ひし時、帝、逃て石上(ノ)神宮に(12)幸し給ふ、其後、又、中(ツ)皇子の御弟瑞齒別(ノ)尊、中(ツ)皇子の召仕給ひし隼人《ハイト》、名は曾婆加理《ソバカリ》といふ者を欺て中(ツ)皇子を殺さしめ、彼隼人にも、約束の如く、功をば報ながら、無道を惡て殺し給ひて、彼處より、帝の御許へおはします時の事なり、此時、未だ難波の都なれば、西の方を近と云ひ、東の方を遠とは云ふなり、後に、顯宗天皇、近飛鳥|八釣《ヤツリノ》宮にて、天下を治め給ふに對して、それより前なれば、遠飛鳥宮と云ふには非ず、雄朝嬬《ヲアサツマ》稚子|宿禰《スクネ》は、第二十代允恭天皇の御諱なり、仁徳天皇の第五の皇子、御母は、履中天皇、住吉仲皇子と同じく、盤之媛皇后なり、稚を雅に作れるは、誤れり、改むべし、輕太娘の太、紀に依て大とすべし、下同じ、御の下に、紀に、膳の字ありて、ミニヘと點ぜり、美は羮の字なり、汁の字を并せて、アツモノと點ず、疑は、凝の誤なり、仍移は、紀に則流なり、流の下に輕あり、伊與の與、紀は豫なり、者は、今の撰者の加へたるなり、
 
初、納八田皇女將爲妃
應神紀云 日觸使主之女宮(主、脱カ)宅媛生菟道稚郎子皇子矢田皇女雌鳥皇女。仁徳紀云。爰大鷦鷯尊語太子曰。悲兮惜兮何所以歟自逝之、○太子啓兄王曰。天命也。誰能留焉○乃進同母妹八田皇女曰。雖不乞納綵僅充掖庭之數。うなつるさすはうなつきゆるさすなり。きこしめさすとも。〓は岬の字あやまれるなり。和名集云。唐韻云。岬山側也。古狎反。日本紀私紀云。【三佐木。】又云。牟婁郡三前
日本紀の今の本には、紀伊の伊なし。葉の字の下、日本紀自注云。葉此云箇始婆。延喜式供奉料、三津野柏二十杷【曰八把】長女柏四十六把。難波濟、景行紀曰。既而從海路還倭到吉備以渡穴海、其處有惡神、則殺之。亦此至難波殺柏之惡神【濟此云和多利。】和名集云。爾雅注云。濟【子禮反和名和太利】渡處也。聞天――今の本、皇女の下に而の字あり。恨之下、怒載其御船之御鋼柏――○妙也の下、允恭紀云。太子恒念合大娘皇女、畏有罪而黙之。然感情既盛、殆將至死。爰以爲徒非死者、雖(有、脱カ)罪何得忍乎。少息の下、因以歌之曰。阿資臂紀能摩娜烏兎〓利、椰摩娜烏箇彌、斯〓媚烏和之勢、志〓那企貳、和餓儺句兎摩、箇〓儺企貳、和餓儺句兎摩、去〓去曾、椰主區津娜布例。羮誤作美。凝偏脱成疑
姦乎の下、時有人云。木梨輕太子※[(女/女)+干]同母妹輕大娘皇女、因以推聞焉。辭既實也。太子是爲儲君、不得罪、則流輕大娘皇女於伊豫。是時、太子歌之曰云々。文字のたかひ比校すへし
 
近江大津宮御宇天皇代 天命開別天皇
 
天皇賜鏡王女御歌一首
 
初、天皇賜鏡王女和歌一首
天武紀云。天皇初聚鏡王女額田姫王生十市皇女。又云。十二年秋七月丙戌朔己丑天皇幸鏡姫王之家、訊病。庚寅、鏡姫王薨
 
91 妹之家毛繼而見麻思乎山跡有大島嶺爾家母有猿尾《イモカイヘモツキテミマシヲヤマトナルオホシマミネニイヘモアラマシヲ》【一云妹之(13)當繼而毛見武爾一云家居麻之乎】
 
繼テは、不斷の心なり、大島嶺に家居してあらましかば、妹が住家をだに、相繼て見ん物をとなり、逢ふことの稀なれば、せめての心によませたまへるなり、
 
初、妹か家もつきてみましをやまとなる大嶋みねに家もあらましを
つきては打つゝきてなり。大しまみねにおはしまさましをなり
 
鏡王女奉和御歌一首 鏡王女又曰額田姫王也
 
目録には、御の字なし、按ずるに、天子、皇后、皇子皇女の外には、此集に、御の字を用ひざる事例なれば、今は衍文にて、目録をよしとす、鏡王女又曰額田姫王也、後人の私に注せるなるべし、
 
92 秋山之樹下隱遊水乃吾許曾益目御念從者《アキヤマノコノシタカクレユクミツノワレコソマサメミオモヒヨリハ》
 
遊水、【校本、遊作v逝、此當v爲v正、】
 
上句は、我人知れぬ思ひの、止む時なきに喩へむためなり、繼て見ましをとあるは、身に取て忝けれど、木の下水の沸返て行くが如くなる我下思は、君が御念よりは、猶勝らむとなり、六帖、相思ふと云ふ題に、此を入れたるには、おく山の、ゆづるはがくれ、結句を、おもひよりなばとあり、不審なり、
 
初、秋山の木の下かくれ遊水の。つきてみましをとあるは、身に過てかたしけなき御おもひなれと、わか思ひにおもひ奉ることは、木の下かくれて行水の、人にはしられねと、たきりて行かことくにて、猶みおもひよりはまさるとなり、遊は逝の字のあやまれるなり
 
(14)内大臣藤原郷娉鏡王女時鏡王女贈内大臣歌一首
 
禮記曰、娉則爲v妻、注曰、聘、問也、今按、聘と娉と通ず、郷當v作v卿、下傚v此、
 
初、内大臣藤原卿――
 
93 玉匣覆乎安美開而行者君名者雖有吾名之惜毛《タマクシケヲヽフヲヤスミアケテユカバキミカナハアレトワカナシヲシモ》
 
オホフヲヤスミとは、蓋《フタ》といはざれども、蓋を覆ふなり、函《コ》蓋《フタ》相稱とて、物の能相應ずるには、函の大小によりて、蓋の大小、此に隨て打おほふに喩ふるなり、人に逢ふは、箱のふた〔二字右○〕と、み〔右○〕と、よくあひたるやうに、心やすければしばし/\と別を惜みて、夜の明はてゝ歸り給はゞ、君が名の立たむ事の惜さもさることなれども我は手弱女《タヲヤメ》にて、いとゞ人に云ひさわがれむ事のわびしく、其によりては、又逢ひがたきことの出來などもすべければ、行末長くと我を思はゞ、別はいと悲しけれど、明闇の紛に皈て又こそ來ませとなり、古今に、玉くしげ、明ば君が名、立ちぬべみ、夜深く來しを、人見けむかも、此は、今の歌の心を、男のよめるなり、小大君が、朝光に逢ての旦に、明るわびしき葛木の神、とよみしも、此歌に意同じ、今按、六帖に此下句、我名は有とも、君が名惜も、とあり、名を惜むと、玉くしげと、兩所に出せるに、共に上の如し、此集第四に・坂上|大孃《エオトメ》が、家持に贈る歌に、吾名はも、千名の五百各に、立ぬとも、君が名たゝば、惜みこそなけ、如(15)此、人を先にして吾を後にするは道なれば、古本は、上は吾、下は君なりけるを、今の本誤て引替たるか、然りとも、ワガナハアレド、キミガナシヲシモ、とよむべし、
 
初、玉くしけおほふをやすみあけてゆかは君か名はあれと我名し惜も
くしけははこなり。ほめて玉くしけとはいへり。長流か老後にかけるには、おほひをやすみとかけり。用を體にいひなして、ふたの事なり。おほふといふ用も、ふたをおほふにておなしこゝろなり。人にあふは、筥のふたとみとよくあひたることく、心やすけれは、わかれをおしみてしはし/\とためらひ、夜の明はてゝ歸り給はゝ君か名のたゝん事のおしさもさることなれとも、我はたをやめにていとゝ人にいひさはかれん事のわひしく、それによりては、又あひかたき事のいてきなともすへけれは、行末なかくと、我をおもひたまはゝ、わかれはいとかなしけれと、あけくれのまきれに歸りて、又こそきまさめとなり。古今集に、玉くしけあけは君か名たちぬへし夜ふかくこしをひとみけんかもとよめるは、此歌のこゝろを、男のよめるなり。小大君か、岩橋のよるのちきりもたえぬへしあくるわひしきかつらきの神とよめるも此歌の心にひとし。内大臣は鎌足なり
 
内大臣藤原郷報贈鏡王女歌一首
 
六帖に、さねかづらの歌に、此を載るに、作者を、みまかりの内大臣とあるは、いかに寫しあやまれるlこか、
 
 
94 玉匣將見圓山乃挾名葛佐不寐者遂爾有勝麻之目《タマクシケミムマトヤマノサネカツラサネスハツヰニアリカツマシモ》 【或本歌云玉匣三室戸山乃】
 
玉クシゲは、上の歌を受て、ミムマト山とは、鏡といはざれども、鏡に隨て、匣も丸ければ、まどかに見むと云ふ心につゞく、みむまと山〔五字右○〕と云名にはあらず、後に、石上、袖ふる川、雨ふる川などつゞけたるに同じ、圓山〔二字右○〕は高圓山か、香《カク》山を天香山とも云ふ如く、圓山を譽て、高圓山はといへるにや、此は愚推なり、後人考べし、六帖には、みまとの山〔五字右○〕とあり、将の字和せられず、狭名葛を、六帖にも、袖中砂にも、今の本の如く、さね〔右○〕かづらとあれど、只、字に任せて、サナカヅラとよむべし、古事記中、應神天皇の段に云、舂2佐那【此二(16)字、以v音、】葛之根1、取2其汁1、滑而塗2其船中之※[竹/青]椅1云云、此集にもあまた兩樣によめり、な〔右○〕とね〔右○〕通ずれば、さな葛を受けて、さねずばと云ふも、便惡しからず、アリガテマシモは、がて〔二字右○〕はかね〔二字右○〕なりだ、て〔右○〕とな〔右○〕は、同韻の字にて通ぜり、後に、ありがてぬなどよめるは、ありてえ堪ぬにて、意かはれり、も〔右○〕は助語なり、歌の心は、誠に別れの惜しさに明しはてば、互の名立ちて、それ故又逢ふ事のなくばありかねぬべし、諫にまかせて、明けはてぬ程に出てゆかむの心なり、鏡王女なる故に、見んとは、鏡にそへて見あかぬ心にや、尾の句、六帖には、有とてまたむとあり、心得がたし、或本のミムロト山は、くしげ〔三字右○〕のみ〔右○〕とつゞけたり、三室戸山は、山城宇治郡にあり、第七にも、玉匣、みむろ戸山を行しかば、面白くして、昔思ほゆ、續古今は或本によりて、尾の句は、有と見ましやとあり、此改めやう不審なり、
 
初、玉くしけみむまと山のさなかつらさねすはつゐに有かてましを
鏡の箱なとは、まろなれはまろにみんといふ心にてつゝけて、高圓山のこと歟。みむまと山といふ名はあるへからす。たゝまと山といふをはきかす。天のかく山をたゝかく山といふことく、まと山なるか高きをほめて、つゐに高まと山とのみいひならはせるを、今は名をよひて、まと山とよみ給へるなるへし。さなかつらはさねかつらなり。さねすはのさは、わたるをさわたるといふかことく、そへたる字なり。すこしぬると心得るはわろし。ありかてましもはあり兼ましにて、もは助語なり。ねとてと同韻なれは通してかねをかてといへり。有かてぬなといふは、有てえたへぬといふ事にて、心かはれり。さねすとは此後の事なり。まことに別のおしさに明はてなは、たかひに名のたて、それにより又あふことのなくは有かねぬへし、いさめにまかせて、明はてぬほとに出ていかんの心なり。或本玉くしけみむろと山とは、箱にふたとみとあれはつゝくるなり。三室戸山は、山城宇治郡に有。第七にも、玉くしけみむろと山をゆきしかはおもしろくしてむかしおもほゆとよめり。續古今集には、今の歌或本のやうに載らる。されとも末の句を、ありとみましやとあらためられたり。大臣の本意にはおほきはたかふへし
 
内大臣藤原郷娶釆女安見兒時作歌一首
 
釆女は、青衣を著、領巾《ヒレ》、手襁《タスキ》など掛て、帝の陪膳を宰る女官なり、延喜式に、古は青衣と書きて、うねめ〔三字右○〕とよめる由見えたり、安見兒は名なり、
 
95 吾者毛也安見兒得有皆人乃得難爾爲云安見兒衣多利《ワレハモヤヤスミコエタリミナヒトノエカテニストイフヤスミコエタリ》
 
(17)吾ハモヤは、も〔右○〕は休字にて、我者やなり、古事記に、須勢理※[田+比]賣の歌に、阿波母輿賣邇斯阿禮婆《アハモヨメニシアレハ》云云、此あはもよ〔四字右○〕もあれはもやと云にや、亦あればよにや、何れにても、今の語勢なり、安見兒得タリは、幸にて易く相見ると云心を名にそへたり、又悦て少誇る意歟、古事記の仁徳天皇の段に云、故茲神之女、【上云、伊豆志之八前人神、】名、伊豆志袁登賣《イヅシヲトメ》神|坐《イマス》也、故八十神、雖v欲v得2是(ノ)伊豆志袁登賣1、皆不v得v婚、於是有2二神1兄《イロエ》號2秋山之下氷壯夫《アキヤマノシタヒヲトコ》1、弟《イロト》名2春山之霞壯夫《ハルヤマノカスミヲトコ》1、故其兄謂2其弟1、吾雖v乞2伊豆志袁登賣1、不v得v婚、汝得2此|孃子《ヲトメ》1乎、答曰、易v得也云云、即婚、故生2一子1也、爾白2其兄1曰、吾者得2伊豆志袁登賣1云云、此頻歟、
 
初、われはもややすみこえたり
もはやすめ字にてわれはなり。さいはひにやすくあいみるとよろこふ心を安見兒といふ名によせてよみたまへり
 
久米禅師娉石川郎女時歌五首
 
久米禅師、考ふる所なし、久米は氏にて俗なれども、禅師を名に付たる人歟、又在家の入道なりけるか、後に三方沙彌あり、此頻なるべし、石川郎女は、此下に、打つゞき見えたる人か、
 
96 水薦苅信濃乃眞弓吾引者宇眞人佐備而不言常將言可聞《ミクサカルシナノノマユミワカヒカハウマヒトサヒテイナトイハムカモ》
  禅師
 
(18)水薦、【六帖、ミコモ、仙覺云、古點、別校本、ミコモ、下歌同、】 不言、【仙覺抄、并別校本、作2不欲1、今案、不v許歟、】
 
發句をミクサカルとよめる仙覺新點は、字書に薦、作甸切、音箭、草稠、曰v薦、とあればミクサと點ずるか、薦は薦席にて敷物のこもなり、池に正ふるこもには、菰、蒋、※[草冠/交]、等の字を用れど、敷こもゝ、菰にて編む故の名なるべければ、通じて用ひたり、第十一に、獨ぬと、こも朽めやもと云ふに、※[草冠/交]をかけるも、通じてなめり、それまでもなく、和語には、雲に蜘をも、土に槌をも借りて用ふるに難なし、信濃〔二字右○〕、古事記にも、日本紀にも、科野《シナノ》と書きたれば、草苅野とそへたり、但此は仙覺點なり、古點といへるみこも〔三字右○〕につかば、野には池も澤もあれば、此も野とつゞくるなるべし、眞弓は、檀《マユミ》と云ふ木は、弓の良材なれば、やがて木の名にも負はせたるべし、さてそれにて作れる弓なり、木をほめて、眞木と云ふやうに、弓を眞弓と云ふにはあらず、梓弓眞弓槻弓と、伊勢物語の歌によめるにて得べし、彼木にて作れるは眞弓なりと譽めて、木に名付事は侍らむ歟、今の弓は、なべて竹にて作りて、中に少木を挿侍れど、根本は和漢ともに木にて作る故に、易繋辭曰、弦《ハケテ》v木爲v弧《ユミ》、※[炎+立刀]《ケツテ》v木爲v矢、と云へり、信濃の弓は名物なる故に、文武紀曰、大寶二年三月甲午、信濃國獻2梓弓一千二十張1、以充2太宰府1、又云、慶雲元年夏四月庚午、以2信濃國獻弓一千四百張1、充2太宰府1、延喜式云、凡甲斐信濃兩國所v進、祈年祭料、雜弓百八十張、【甲斐國、槻弓八(19)十張、信濃國、梓弓百張、】ウマ人サビテは、よき事をうましと云ふ、日本紀に可美とかけり、末の世に至りて味のよきをのみ云ふやうになれり、さればうま人とは、種姓も、人がらも、よきを云ふ、故に日本紀に、君子とも、良家とも、※[手偏+晉]紳ともかけり、さびては上に云ふが如し、歌の意は、郎女を弓に喩へて、弓を手に執て引く如く、君を云渡て我物にせむとすとも、よき人びて、若いなと云はんかとなり、此方より如此人の心を量て云は、いなと云はせじとてなり、弓、劔は、男の常に手に取る物なる故に、女に能く喩るなり、
 
初、みくさかるしなのゝまゆみわかひかはうま人さひていなといはん鳧
みくさは水薦とかけり。よりてこれをみこもかるとよめること有。惣してこもといひかやといふは、皆草の惣名なり。されはみこもとよめるも強てあしからす。文字にはよるへからす。薦を草とよめるは字書に薦作甸切、音箭、草稠曰薦といへり。此意歟。又池におふるこもは菰蒋※[草冠/交]これらの字なり。薦は薦席とてしきものゝこもなるを、此集には池におふるこもにもみな此字をかりてかけり。獨ぬとこも朽めやもといふに※[草冠/交]といふ字をかけるも、かへりてかれるなり。今のつゝけやうは、眞草かる野といふ心なり。齊明紀云。科野國言《シナノヽクニマウス》。蠅羣向西飛喩巨坂、大十圍高至蒼天。しなのゝくにとはむさしのくにとむさし野の名をおなしうせるやうに、彼國に埴科郡あり。もしそこにおほきなる野のあるより、科野國とはなつけたるを今は信濃とかくにや。眞弓は眞はほむる詞、眞砂眞菅なとのことし。まゆみの木も弓につくりてよけれは名つけたるなるへし。わかひかはとは、弓は惣して男の手にとるものなるゆへに、女をたとへてよめることおほし。伊勢物語には、あつさゆみまゆみ月弓とさへよめり。又弓は愛敬の徳を具するものなるゆへ、愛染王三十七尊の中の金剛愛菩薩なとこれを取て大悲慈愛の三味を表示したまへり。うま人は人をほむる詞なり。酒のよきをうまさけといひ、國のよきをうまし國といふかことし。日本紀には、君子  ?紳、良家なとかきて、うま人とも、うま人の子ともよめり。さひてはさはそへたる字にて、うま人ひてなり。みやこめきたるを、みやひ、といひ、ゐなかめきたるを、ひなひたるといふ心におなし。おきなさひ、をとこさひ、をとめさひ、みなおなし心なり。俗語に何たて、何ふる、何めくといふたくひなり。上ひたる、下ひたるといふは、やかてこれなり。日本紀に仁徳天皇の御歌にもうま人のたつることたてとよませたまひ、おなし神功皇后紀に忍熊王《オシクマノオホキミ》の方にて軍の先鋒《サキ》をせし熊之凝《クマノコリ》か歌にも、うま人は、うま人とちや、いつこはも、いつことち、いさあはなわれは、とよめるも、うま人はよき人とち、やつこはやつことち、あひたゝかはむとなり。惣しての心は、弓は手にとりてひけはわかかたによる物なるか、人そのことくわか手にいれんとするも、良家子なれはよき人びていなひかれじといはんかとなり。不言は不許のあやまれるなるへし
 
97 三薦苅信濃乃眞弓不引爲而強作留行事乎知跡言莫君二《ミクサカルシナノノマユミヒカスシテシヒサルワサヲシルトイハナクニ》
  郎女
 
官本に此歌ミコモカルとあり、上に云が如し、強作留は、按ずるに強は弦の誤にて作は日本紀に、矢作部と書きて、ヤハギベとよみたれば、ツルハグルとよむべきか、我は女にて、弓の事は知らねば人に尋ねとへども、引かぬ弓に弦はぐるやうを知るとは云はぬとなり、戀しき由を盡して逢はむとは云はずして、うま人さびてなど云へば、君が方によらむと云ふべき由なしとの心なり、
 
初、みくさかるしなのゝまゆみひかすして強作留わさを知といはなくに
強は弦の字の誤れりと見えたり。作留ははぐるとよむへし。矢作部といふ時はくとよめはなり。心はつる著《スグ》るなり。ひかは君かかたによりぬへき心なれとも、ひかぬ弓につるはくるわさを知と、人のいはぬがことく心をかけていひよらぬ人にはよらんといふへきよしのなきとなり。しひさるわさとは、字のあやまれるを、あやまれるまゝに後の人のつけたるかんなゝるへし
 
(20)98 梓弓引者隨意依目友後心乎知勝奴鴨《アツサユミヒカハマニ/\ヨラメトモノチノコヽロヲシリカテヌカモ》【郎女】
 
梓は、和名云、孫※[立心偏+面]切韻云梓、【音子、和名、阿豆佐、】木名、楸屬也、と云へり、※[土+卑]雅曰、梓、百木長、故呼爲2木王1、知リガテヌは、知りあへぬなり、不勝と書きて不堪と同じやうに詩文に用ゆる意なり、かてぬ〔三字右○〕はかたぬ〔三字右○〕なり、相撲《スマヒ》などにも力に堪ざる者負くる、其意同じ、六帖に、知がちぬとあるは、心叶はず、思煩ふと云ふ題に入たるは、誠に其心なり、右の歌の心を云ひあらはして、行末をあやふむ心を添へたり、
 
初、梓弓ひかはまに/\よらめとも後のこゝろをしりかてぬかも
上に信濃のまゆみとよめるを重疊してわつらはしきゆへに、弓とのみいへり。昔は甲斐信濃よく弓を作れるにや。續日本起云。大寶二年三月甲午、信濃國(ヨリ)獻(ツル)2梓弓一千二十張(ヲ)1以充(ツ)2太宰府(ニ)1。又云。慶雲元年夏四月庚午以2信濃國(ヨリ)獻(レル)弓一千四百張(ヲ)1充(ツ)2太宰府(ニ)1。延喜式(ニ)云。凡甲斐信濃兩國(ヨリ)所(ノ)v進(ツル)祈年《トシコヒノ》祭料(ノ)雜弓百八十張【甲斐國、槻弓八十張、信濃國、梓弓百張】並(ニ)十二月以前(ニ)差(シテ)v使(ヲ)進上(セヨ)。かゝれは、梓弓はことに信濃の名物なり。かてぬはあへぬなり。右の歌の心をまたいひて、引たにせは、人の心のまゝによりはよりぬへきを、男の心さためなきものなれは、後いかならんともしりあへねは、心もとなしとなり。陸士衡(カ)爲(メ)2顔彦先(カ)贈(ルカ)v婦(ニ)詩(ニ)、離合非v有(ニ)v常、譬2彼(ノ)弦與(ニ)1v筈《ハヤス》。是は離別と會合との常ならぬにたとへたれと、轉用すれは今の心なり
 
99 梓弓都良絃取波氣引人者後心乎知人曾引《アツサユミツラヲトリハケヒクヒトハノチノコヽロヲシルヒトソヒク》 禅師
 
ツラヲは、つるを〔三字右○〕なり、右の歌を受けて、男は弓を知るものなれば、初よりよからじと思ふには手も觸れず、よしと思ふをば愛して後まで引遂ぐる如く、思ひ初めては、絶ゆる事あらじ、うたがひ思すなとなり、
 
初、梓弓つらを。是は禅師か右の郎女か歌にかへすなり。つらをはつるをなり
 
100 東人之荷向※[しんにょう+(竹/夾)]乃荷之結爾毛妹情爾乘爾家留香問《アツマ ノノサキノハコノニノヲニモイモカコヽロニノリニケルカモ》 禅師
 
東人を、仙覺、又或本に、アヅマヅと點ず、和名云、邊鄙、【阿豆万豆、】とあり、又、|、置始東人《オイソメアヅマヅ》、中臣(ノ)東人《アヅマヅ》(21)もあれば、然るべけれど、流布の本、官本、ともに如v今なれば、此も惡からず、荷向ノ篋とは、坂東の國々より、初穗のみつぎ物を、箱物にして奉るを云ふ、荷の前と云ふ心なり、に〔右○〕との〔右○〕音通ずれば、のさき〔三字右○〕と云ふ、神功紀云、且荷持田村、【荷持此云2能登利1、】有2羽白熊鷲者1、云云荷前を義訓して、ハツホともよめり、年毎の十二月に十陵九墓に荷前使を立てらるゝ事あり、延喜式、祈年祭|祝詞《ノツト》曰、荷前者《ハツホヲハ》、皇|太《オホム》御神太前《フトマヘ》、如2横山1打積置?、云云荷ノ結ニモは、荷の緒の如くになり、結を仙覺抄には、緒に作れり、されど第七の三十一葉、第十二の十五葉にも、玉の緒に此字を用ひたり、前に引ける祝詞に亦いはく、自v陸行道者、荷緒|縛堅《ユヒカタメ》?、云云西國よりも奉るべけれど、それは海路なる上、東を先として歌も東歌とてわきてあれば、東人とは云ふなるべし、妹ガ心ニは、心に妹がと云ふべきが〔右○〕を、かく云へば妹が心に我乘るやうなれど、緒の上に凾の乘たる如く我心に妹が乘るとなり、面影にも立忘られぬをいふ、諺にも心|魂《タマ》に乘るなど申すめる詞なり、此下句後にあまたあり、
 
初、東人のゝさきの箱の荷のをにもいもかこゝろに乘にけるかも
荷向篋とは、坂東の國々より初穗のみつきものを箱にいれ、馬におほせて上るをいふ。およそ新穀をもて十一月には新嘗と云ををこなひて諸神を祭たまひ、御みつからもきこしめし、十二月には、荷前使とて、十陵九墓に勅使をたて、はつほをたてまつらるゝなり。延喜式第八、祈年祭(ノ)祝詞《ノツトニ》曰。荷前《ハツホヲ・ノサキ》者|皇太《スメオホ》御神能|太前爾如(ク)2横山(ノ)1打積置※[氏/一]。同陰陽式曰。凡獻(ル)2荷前(ヲ)1日者、預《カネテ》擇(ヒ)2定(テ)大神祭(ノ)後、立春以前(ヲ)1十二月五日申(セ)v省(ニ)。荷の緒にもとは箱は下に緒をつけあるひは下に緒を敷て、それに箱を載て、馬にもおほせ、人もになへは、それにたとへてわか心も常に妹かうへにあるといふ心をよめるなり。又わか心に常に妹かのりゐるとたとへたりともいふへし。後撰集に、おくれすそ心にのりてこかるへきこきつゝしほのなかにきえすは。延喜式第八祈年祭祝詞云。自陸行(ク)道者荷緒|縛堅《ユヒカタメ》※[氏/一]云云
 
大伴宿禰娉巨勢郎女時歌一首
 
官本に注して云、或本注曰、大伴宿禰、諱曰2安麻呂1也、難波朝右大臣大紫長徳卿之第(22)六子、平城朝任2大納言兼大將軍1、薨也、今按、第四に、此卿の歌を載せたるには、大納言兼大將軍大伴卿とあれば、今の作者も安麻呂ならば、第四の如く載すべし、大伴氏の尸は、定めて皆宿禰なるを、たゞ氏と尸とのみを書ける事不審なり、若大津宮御宇には、安麻呂官位未微なれば、撰者の意、氏の長たる意を以て、如此書ける歟、下に、石川女郎が、大伴田主に贈る歌にも官本に、或本注云、即佐保大納言大伴卿第二子、妣曰2巨勢朝臣女1也、と注せり、此或本、何の據あるか、未だ考へず、
 
初、大伴宿禰娉――。是は宿禰某と名ありけんを轉寫しておとせる歟。名闕と注したるがうしなへるかの間なるへし
 
101 玉葛實不成樹爾波千磐破神曾著常云不成樹別爾《タマカツラミナラヌキニハチハヤフルカミソツクトイフナラヌキコトニ》
 
玉は玉松玉椿など萬の物をほめていふ事多し、今も其心なり、葛は木によりてはひ、女は男によりて世をふるものなれば多く喩に取れり、木とは即葛をさして云ふ、葛のはひかゝれる木には非ず、返歌に、唯葛とのみよめるにて知るべし、チハヤブルとは神の枕詞なり、別に注す、神ゾ著ト云とは、古き草木には神靈の依託するなり、一首の心は、實ならぬ葛は引攀て何を採るべき由なければ、冷じぐ物ふりて、神のよる杜とのみなる如く、戀ふれども逢ふ事なき人も、さてのみやまば、手觸れぬ神木の如く徒に考へぬべし、さらぬ間に早く相見えよとなるべし、和名云、蘇敬本草注云葛穀、一(23)名鹿豆、【葛、音割、和名、久須加豆良乃美、】葛實名也、これによるに、葛※[草冠/儡の旁]は類多き物なれば、實のなるとならぬとあるなるべし、仙覺抄に、女の男すべき程に成て、其男なければ、鬼魅に領せらると云ふ事あれば、それによそへて、吾懸る思ひをば遂げさせずして、神に領せらるなとよめるなりと侍り、此は本説ある事にや、神ぞ著と云といへるを以て、かく釋せられたるならば、たゞ初の義にてや侍りなむ、
 
初、玉かつら實ならぬ木にはちはやふる神そつくといふならぬ木ことに
玉かつらは惣してかつらのたくひをほめていふ詞なり。葛に實のならぬものといふにあらす。いまたみのならぬ心なり。かやうの事心得損してわろき説もいてくるなり。いそのかみふるのわさ田のほには出すといふ歌をよくおほえて見るへし。此木といへるはかつらのはひかゝれる木にはあらす。かつらをさしていへり。これは女にたとへていへるなり。毛詩に南有穆木葛※[草冠/儡の旁]?之なとつくり、此國の歌にもおほく女をかつらにたとふることは、かつらは木によらされははひのほる事あたはす。女も家なくしてをとこによる物なれはたとふるなり。をとこ有へきよはひまてもたされは、鬼神のわか物に領して男もなきといひつたふれは、われはやくぬしとならんといふこゝろなり
 
巨勢郎女報贈歌一首
 
官本に注して云、即近江朝巨勢人卿之女也、巨勢人卿は天武紀上に見えたり、
 
102 玉萬花耳開而不成有者誰戀爾有目吾孤悲念乎《タマカツラハナノミサキテナラスアルハタカコヒニアラメワカコヒオモフヲ》
 
玉萬、【葛、誤作v萬、】 有目、【目、當v以v音、點、阿良毛、】
 
其花のみ咲て實ならぬ葛の如く、言のみして誠なきは、君が戀にこそあらめ、吾は眞實に戀しく思ふ物をとなり、有目を、アラメとよみては今のてにをはに叶はねど、此集には此類あり、音をも用ひたれば、アラモとよみて、あらむと心得べきか、
 
初、玉かつら花のみさきてならすあるはたか戀にあらもわかこひおもふを
葛をあやまりて萬につくれり。目は音を取てもとよむへし。あらもはあんなり。行成卿の比まてかやうのかんなは作者ならねと、筆者も通してかゝれたりと見えたり。ゆるやかにておもしろきことなり。ことに此集には作者通してよめること數しらす。めとよみては、てにをはたかひてあしきなり。かへしは心は實ならぬ木といはれて、その花のみさきて實ならぬことく、まことなきはたかうへのこひにかあらん。われまたしらす。我は花さけは、實になることくいひそめしより、眞實にこひおもふ物をとなり
 
明日香清御原宮御宇天皇代 天停名原瀛眞人《アメノヌナハラオキノマヒトノ》天皇
 
(24)下の注に、渟を誤て停に作れり、
 
初、明日香――天停名原
渟も停の心にて出來たる文字にはあらめと、今の停の字をあやまれるなり
 
天皇賜藤原夫人御歌一首
 
天武紀下云、又|夫人《オトシ》藤原(ノ)大臣(ノ)女氷上(ノ)娘生2但馬皇女1、次夫人氷上(ノ)娘|弟《イロト》五百重《イホヘノ》娘生2新田部(ノ)皇子1、此集第八夏雜歌の最初に、藤原(ノ)夫人歌ありて、注云、字曰2大原(ノ)大刀自1、即新田部(ノ)皇子之母也、とあれば、今の御製の詞に引合せて、心得るに、大織冠の女二人夫人となり賜ふ中に、五百重(ノ)娘に賜はるなり、
 
初、天皇賜藤原夫人――
釋名云。夫人、夫扶也.扶助其君也
 
103 吾里爾大雪落有大原乃古爾之郷爾落卷者後《ワカサトニオホユキフレリオホハラノフリニシサトニフラマクハノチ》
 
大雪は左傳曰、平地尺爲2大雪1、かゝれば寒温等分の所に一尺ばかり積るを、大雪と云ふなり、大原は第四、第十一にもよめり、中にも第十一に、大原の、古にし里に、妹を置てと、今のつゞきと同じくよめり、和州高市郡なり、續日本紀曰、天平神護元年十月已未朔辛未、行2幸紀伊國1、云云、是日到2大和國高市小治田宮1、壬申、車駕巡2歴大原長谷1、臨2明日香川1而還、此所さきに都のありし邊などにてや、古にし里とはよませ給ひけむ、御製の心は、大雪の珍らしきを戯にほこらせ給ひて、そこは古里なれば、雪も此許《コヽモト》に隆り(25)はてゝ後こそふらめ、あはれかゝる折を見せばやと、都を羨ましめ給ふ意なり、
 
初、わかさとにおほゆきふれり大原のふりにしさとにふらまくはのち
隱公九年左傳曰。平地尺爲大雪。大原は和州なり。續日本紀曰。天平神護元年十月己未朔辛未、行幸紀伊國。○是日到大和國高市小治田宮。壬申、車駕巡歴大原長谷臨明日香川而還とあれは、小治田宮より長谷のあひたに有と見えたり。――雪のふかうおもしろくふれるをたはふれにほこらせたまひて、そこはふるさとなれはかゝるおもしろき雪もかくこゝもとにふりはてゝのちこそふらめ、あはれみせはやとうら山しめたまふなり
 
藤原夫人奉和歌一首
 
104 吾崗之於可美爾言而令落雪之摧之彼所爾塵家武
 
令落、【官本點、フラシムル、仙覺抄同v是、】 摧之、【幽齋本點、クタケシ、仙覺同v此、】
 
オカミは、龍なり、神代紀上曰、伊弉諾尊、拔v釼斬2※[車+可]遇突智《カグツチ》1爲2三段1、云云、一段、是爲2高※[靈の巫が龍]1、自注云、※[靈の巫が龍]、此云2於箇美《オガミ》1、音、力丁反、延喜式神名帳に、河内、和泉等を初て、諸國に多く意加美《オカミ》神社あり、又豐後風土記云、球珠(ノ)郡、球覃《クサミ》郷、此村有v泉、昔景行天皇行幸之時、奉膳《かしはて》之人、擬2於御飯1、令v汲2泉水1、即有2?※[雨/龍]1、謂2於箇美《オガミ》1、於茲《コヽニ》天皇勅云、必將v有v※[自/死]、莫v令2汲用1、因v斯名曰2※[自/死]泉1、因爲v名、令謂2球覃郷1者、訛也、玉篇云、※[靈の巫が龍]、【力丁切、龍也、又作v靈、神也、善也、或作v※[虚+鬼]、】※[雨/龍]、【同上】歌の心は、此大原の里のあたりの崗に住むおかみに降らしむべき由、我仰せて、とく此《コヽ》に雪のふれる其あまりのそこには降りたるにこそさふらはめとなり、摧〔右○〕は物の摧けたるかたはしの意なり、
 
初、わか岡のおかみにいひてふらしめし雪くたけのそこにちりけん
ほこりておとしむるやうによませたまへは、御かへしもまたたはふれて、あさむくやうによみたまへり。おかみは日本紀第一云。伊弉諾尊、拔釼斬※[車+可]遇突智爲三段、其一段是爲雷神、一段是爲大山祇神、一段是爲高※[靈の巫が龍]。又云。復劔頭垂血激越爲神、號曰闇※[靈の巫が龍]至後自注云。※[靈の巫が龍]此云於箇美、音力丁反。
延喜式神名帳、河内和泉等をはしめて諸國におほく意加美神社あり、又豐後國風土記云。球珠郡。○――おかみは地龍なるへし。此大原の里のあたりの岡に住おかみにわかふらしむへきよしをおほせて、とくこゝにふりし雪のくたけたるか散て、そこにもふりたるにてこそさふらはめとなり
 
藤源宮御宇天皇代 天皇謚曰持統天皇
 
(26)後人の誤て注したるを、其まゝ書付けたるなり、其故は終に人丸の妻、依羅娘子の歌あり、是文武の朝の歌なり、下に至て見るべし、然れば兩代に亘る故に、誤れること明なり、
 
大津皇子竊下於伊勢神宮上來時大伯皇女御作歌
 
目録には御作歌二首とあり、ありぬべき事なり、天武紀下云、先納2皇后姉大田(ノ)皇女1、生3大來(ノ)皇女、與2大津(ノ)皇子1、又云、二年夏四月丙辰朔己巳、欲3遣2侍大來(ノ)皇女于天照大神宮1、而令v居2泊瀬(ノ)齋宮1、是先|潔《サヤメテ》v身稍近v神之處也、三年冬十月丁丑朔乙酉、大來(ノ)皇女自2泊瀬齋宮1、向《マウツ》2伊勢(ノ)神宮1、天武天皇十五年九月九日に、帝崩御し給ひしやがてより、大津(ノ)皇子、御謀反の志出來て、持統天皇元年十月二日に其事顯はれ、三日に死をたまふ、然れば※[手偏+總の旁]標と、歌に秋山とよませ給へるを合せて案ずるに、天武天皇の一周の御國忌事をはりて、九月中旬より下旬の間に、伊勢へ密《シノビ》に下て、皈上らせ給ふ時、皇女のよませ給へるなり、和名云、備前國、邑久【於保久、】郡、此郡に屬する海にて生たまふ故に御名とす、第一卷に齊明紀を引くが如し、
 
初、大津皇子竊下――
大伯皇女、大津皇子は共に天武の御子、御母もともに大田姫皇女なれは、ことにむつましうおはしませり。大伯皇女は、天武天皇白鳳三年に、十四歳にて齋宮に立せ給ひて、持統天皇朱鳥元年十一月に二十七歳にて京へ歸りたまへり。今案するに、大津皇子は天武天皇十五年九月九日崩御のやかてより、御謀反の心出來て、持統天皇元年十月二日に其事覺れて三日に譯語田《オサタノ》舍にして賜死たまひけるに今藤原宮御宇と標したる下に御歌にも秋山とよませたまひ詞書にも竊下とあれは、天武の一周の御國忌はてゝ後九月中旬より下旬の間にひそかに伊勢へ下り太神宮に祈なとも申給ひ大伯皇女にも御謀反のこゝろさしをも語申させ給けるなるへし
 
105 吾勢枯乎倭邊遣登佐夜深而?鳴露爾吾立所霑之《ワカセコヲヤマトヘヤルトサヨフケテアカツキツユニワカタチヌレシ》
 
(27)背子《セコ》は男女に通ずれども、先は女の男を呼詞なれば、御弟なれどもかく讀給へり、鷄鴫と書ては、日本紀の推古紀にも、曉とよめり、歌の意明なり、
 
初、わかせこをやまとへやるとさよふけてあかつきつゆに我立ぬれし
日本紀にも鷄鳴とかきてあかつきとよめり
 
106 二人行杼去過難寸秋山乎如何君之獨越武《フタリユケトユキスキカタキアキヤマヲイカテカキミカヒトリコユラム》
 
二人とは此は必夫婦の心に非ず、只睦まじき間、友々に行だに秋山なれば鹿なき紅葉散て心細く行過がたきをとなり、よはにや君がと云歌に、感情ひとしき御作なり、同腹のむつまじき御はらからの診しき御對面に、程もなく皈上らせ給ふ飽ぬ御別には、さらでもかくよませ給ふべきながら、殊に身にしむやうに聞ゆるは、御謀反の志をも聞せ給ふべければ、事の成るならずも覺束なく、又の對面も如何ならむと思召御胸より出ればなるべし、
 
初、ふたりゆけと行過かたき秋山乎いかてか君かひとりこゆらん
むつましきあひた、とも/\に行たに、鹿の音きこえ紅葉打散て行過かたきを、いかにしてか只ひとり赴給ふらんとなり。古今集のよはにや君かとよめる歌の感情にひとしき御歌なり。むつましき御はらからのめつらしき御對面にてほともなく歸らせ給ふ御別には、かくもよませたまふへき事なから、身にしむやうにきこゆるは、謀反のことをきこしめして、事のなりならすもおほつかなけえは、又の御對面もいかならんと、おほしめしける御むねより出れはなるへし
 
大津皇子贈石川郎女御歌一首
 
懷風藻に此皇子の詩を載る傳に、性頗放蕩、不v拘2法度1、とあれば、天武の御周忌いまだ終らぬ程、忍に有ける事なるべし、
 
初、大津皇子贈石川郎女御歌一首
此御歌はいまた天武天真御治世のほとの事なるへし。君臣の道に背き、天倫のことはりに違ひて、謀反に身まかりたまふとはいひなから、さはかりの大事を思しめしたまふ御身の、ことに天皇の諒闇のあひたに、かゝる御事はあるへからしとおもふゆへなり。二首の贈答よくきこゆる歌なり
 
107 足日木乃山之四付二妹待跡吾立所沾山之四附二《アシヒキノヤマノシツクニイモマツトワレタチヌレヌヤマノシツクニ》
 
(28)妹待と、山のしづくに、吾立ぬれぬと、句を打返て見るべし、
 
石川郎女奉和歌一首
 
108 吾乎待跡君之沾計武足日木能山之四附二成益物乎《ワレヲマツトキミカヌレケムアシヒキノヤマノシツクニナラマシモノヲ》
 
吾〔右○〕はわ〔右○〕とひと文字にも讀べし、下にさもよめり、滴は人を潤して、身に觸れば、ならまし物をとはいへり、
 
大津皇子竊婚石川女郎時津守連通占露其事皇子御作歌一首
 
元明紀云、和銅七年正月、正七位上津守(ノ)連通、授2從五位下1、同十月美作守元正紀云、養老五年春正月戊申朔甲戌、詔曰云云、文人武士國家所v重、醫卜方術古今斯崇云云、通も此時陰陽道に長じたるに依て、樣々の物を賜へり、同七年正月、從五位上に轉ず、
 
初、大津皇子竊婚――
この御歌もまた疑ひさきのことし
津守連通は、績日本紀にいはく。和銅七年正月、正七位上津守連通授從五位下。十月、美作守。養老五年正月戊申朔甲戌、詔曰。文人武士、國家所重、醫卜方術、古今斯崇、宜擢於百僚之内、優遊學業、堪爲師範者、特加賞賜、勸勵後生、因賜○陰陽○從五位下津守連通○各※[糸+施の旁]十匹絲十御布二十端鍬二十口云々。同七年正月、從五位上
 
109 大舩之津守之占爾將告登波益爲爾知而我二人宿之《オホフネノツモリノウラニツケムトハマサシニシリテワカフタリネシ》
 
第七にも大舟のまもる水門とよみて、津には舟の出入を考て守る者を置ば、今の如(29)はつゞけ給へり、津守は住吉の御神を齋く氏にて、やがて住吉に津守の浦もあれば、浦と占とを兼てつゞけ給へるか、マサシニは正しくなり、西行もまさしに見えてかなふ初夢と、立春の歌によまれたり、汝が占にあらはされむとは、我心の占にも兼て正しく知ながら、思かねて云初て逢つるぞと、不v爭して讀たまへり、古事記、神武天皇段云、後其|伊須氣余理比賣《イスケヨリヒメ》參2入宮内1之時、天皇御歌曰、阿斯波良能《アシハラノ》、志祁去岐袁夜邇《シケシキヲヤニ》、須賀多々美《スガダヽミ》、伊夜佐夜斯岐弖《イヤサヤシキテ》、和我布多理泥斯《ワガフタリネシ》、
 
初、大舟のつもりのうらにつけんとはまさしにしりてわかふたりねし
大舟の入津とつゝけて住吉につもりのうらあれは、通か氏よりうらなひまてにかけたまへり。又津をもるものは船の出入をかんかへてみたりなることあらしめねは.かれこれ心かよへり。まさしにしりてはまさしく知なり。これはうらなひにつける詞なり。うらなひあらはされむことは、かねてわか心のうらにもまさしくしりなから、あひつるなりとあらかはてよみたまふ中に、通か占をほめたまふ心なり
 
日並皇子尊贈賜石川女郎御歌一首【女郎字曰】
 
注の曰の字の下に大名兒の三字を脱せり、目録にあり、此は撰者の自注なるべし、注なければ御歌の發句心得がたき故に知れり、
 
初、日並皇子尊
自注曰の字の下に大名兒の三字脱たり
 
110 大名兒彼方野邊爾苅草乃束間毛吾忌目八《オホナコヲヲチカタノヘニカルカヤノツカノアヒタモワレワスレメヤ》
 
此發句、古点は大名兒ヤ、仙覺此を嫌て今の点に改らる、古點も押照なにはを押照哉なにはとも云やうの詞にて、や〔右○〕に心なければ惡からず、又呼懸る意にてもさも侍るべし、又唯四もじによみても、大名兒よと云意にて苦からじ、六帖忘ずと云題に、大な(30)かの〔四字右○〕とあるぞ心えがたき、彼方野べとは、草刈野は都の外に遠くあればなり、第十一に彼方のはにふの小屋とつゞけたるも同意なり、刈カヤノ束ノ間とは、草は束ぬる物なれば、刈草を束ねとつゞけて、手にて矢などの長さを量る一束は短ければ、暫の程といはむとて束の間とは云なり、第四に夏野行、をじかの角の束のまもとよめるに同じ、歌の義は明なり、
 
初、大名兒をゝちかた野へに苅かやのつかのあひたもわれわすれめや
初の句を第四に置てみるへし。をちかた野へは草なと刈野はとをくあれはなり。草をつかぬるとつゝけて、束のあひたとは、矢のなかさなとをはかる一束なり。一束はみしかけれは、すこしのほともわすれぬといはんとて、つかのあひたもとはよませたまへり。夏野ゆくをしかのつのゝつかのまもといへるにおなし
 
幸于吉野宮時弓削皇子贈與額田王歌一首
 
歌の上に御の字脱たり、
 
111 古爾戀流鳥鴨弓絃葉乃三井能上從鳴渡遊久《イニシヘニコフルトリカモユツルハノミヰノウヘヨリナキワタリユク》
 
古ニ戀ルは古を戀るなり、鳥は奉和の歌によるに郭公なり、六帖には唯鳥の歌に載たり、郭公は聲の悲しき鳥なれば、故郷と旅行と并せて感あるべし、ユヅル葉ノ三井は吉野宮の井の名なるべし、歌の心は、郭公の今此所に鳴渡るは、古を戀るにやあらむと、昔父帝の行幸し給ひし時、御供に侍し事を、今も持統天皇の行幸の御供に有て、戀思召す御心より、感を興してよませ給へるなるべし、天武、持統御兩代の行幸、第一卷に、日本紀を引るが如し、朱鳥三、四、五の三年、各年に再行幸し給ふ中に、四年五月、五(31)年四月、此兩度の内の御供にて、詠せたまふなるべし、
 
初、いにしへにこふる鳥かもゆつる葉のみゐのうへより鳴わたりゆく
いにしへにこふるはいにしへをこふるなり。返しの歌によれは、此鳥とよませたまへるは郭公なり。ほとゝきすも昔をこひて鳴ゆくか、われもみゆきの御供なから、天武のもろともにみゆきしたまひし折をこひおほしめすとなるへし。第一卷に、日本紀を引るかことく、朱鳥三年四年丑五、此三年のあひた、年にをの/\ふたゝひみゆきしたまふ中に、四年五月、五年四月、此兩度のうちの御供にてよませたまふなるへし。いにしへには、ほとゝきすを.杜宇といふ説はなしとみゆれは、たゝ當意の感にてよませたまふと見るへし。弓絃葉は弦絃通するゆへなるへし
額田王奉和歌一首
 
官本傍注云、從2倭京1進入、
 
112 古爾戀良武鳥者霍公鳥盖哉鳴之吾戀流其騰《イニシヘニコフラムトリハホトヽキスケタシヤナキシワカコフルコト》
 
其騰、【官本、其作v碁】
 
蓋は疑の辭なり、歌の心上の兩義に依り隨て見るべし、
 
初、いにしへにこふらん鳥はほとゝきすけたしやなきしわか戀ること
けたしは此集にけたしくともよめり。疑の辭なり。ごとは如なり。わかこゝにきて、むかしをこひて鳴ことく、郭公もおなし心になくかとなり。古今集忠岑うたに、むかしへや今もこひしきほとゝきすふるさとにしもなきてきつらん
 
從吉野折取蘿生松柯遺時額田王奉入歌一首
 
和名云、辨要決云、松蘿、一名、女蘿、【和名、萬豆乃古介、一云、佐流乎加世、】六帖云、逢ことをいつか其日と松の木の、苔の亂て物をしぞ思へ、元輔集云、松の苔千年を兼て生ひ茂れ、鶴のかひこの巣とも見るべく、遺は贈と同訓歟、下に遣近江の遣を誤て、遺に作たれば、今も遣を誤て遺に作れるにや、此端作の詞、上を承る故に、弓削(ノ)皇子と云はざれども、奉入と云に、意顯はれたり、
 
初、従吉野折収――。和名集云。辨要決云。松蘿、一名女蘿【和名萬豆乃古介、一云佐流乎加世。】六帖に、逢ことをいつかその日とまつの木の苔のみたて物をこそ思へ。元輔家集に、松のこけちとせを兼ておひしけれ鶴のかひこのすともみるへく。兎絲といふものも、女蘿なりといへはこれなるへし。奉入とは、右のつゝきをおもふに、弓削皇子へたてまつるなり
 
(32)113 三吉野乃玉松之枝者波思吉香聞君之御言乎持而加欲波久《ミヨシヌノタママツカエハハシキカモキミカミコトヲモチテカヨハク》
 
玉松は松をほめて云、ハシキは、愛の字、なつかしき心なり、下の句の心は、我を思召出て見せ給ふ御心やがて松が枝に見ゆれば、志を傳る使なる故なり、太宰を、みこともちと訓じ、國司を、くにのみこともちと訓ずるも此意なるべし、
 
初、みよしのゝ玉松かえははしきかも君かみことをもちてかよはく
玉松はほむる詞なり。はしきは愛の字なり。此集に尤おほし。こゝろすなはち字のことし。松かえをたまはるにつけて、教命をも|う《愛》けたまはれは、松かえは愛するによしとなり
 
但馬皇女在高市皇子宮時思穗積皇子御歌一首
 
114 秋田之穗向乃所縁異所縁君爾因奈名事痛有登母《アキノタノホムケノヨスルカタヨリニキミニヨリナヽコチタカリトモ》
 
第十に上句全同にて、吾は物思ふつれなき物をと云歌を新古今に入られたるに、ホムケノヨスルを、ほむけの風のと改られたるを以、今の點の意を案ずるに、ほむけ〔三字右○〕は田面を渡る秋風にやがて名付たりと見えたり、今按第十七に家持、秋の田の穗牟伎見がてりとよまれたるを證として、ホムキノヨレルと讀べきか、若内典の能所に依て云はゞ、能倚の風に、所倚の稻、相對する時、よすると云詞は風に付ていへり、風によらねど實のるに隨て、おのづからも片靡に傾き、又さきより風に靡たれども、今は唯(33)其なびきたるをのみ云ば,よれる〔三字右○〕なり、上下の所縁〔二字右○〕、上をよれる〔三字右○〕とよみ、下をよりに〔三字右○〕とよめば一意なり、現點の意は、風のよするに因て穗のかたよるなれば、上下意替れり、君ニヨリナゝは、稻の片依による如く、我も君に因なんなどのたまふなり、コチタカリトモには、二の心あり、後に言痛と書てコチタミとよめるは、痛く人の名をたてゝ云躁ぐ心、又其言を我痛む心と見ゆ、第十に、甚《ハナハダ》もふらぬ雪ゆゑこちたくも、あまのみ空は、曇あひつゝとよみ、源氏、清少納言等に用たるは、こと/”\しくといはんやうに聞ゆ、然れば、人は事々しく云なすともと、兩樣に意得むに違ふべからず、六帖に此歌を秋の田と載たるは誤なり、
 
初、秋の田のほむけのよするかたよりに君によりなゝこちたかりとも
穗向といふに風の心あり。所縁はよれるとよむへきにや。よするといはゝ令縁とかくへく覺侍り。よれるといふ時は、みつから打かたふき、よするといふ時は、ほむけといふにかぜの心ありて、かたよらしむるなり。異の字を片とよむは、ことゝかたと五音かよへはか。又もとより片の心もある歟。君によりなゝは、よりなんななり。上はこの句をいはんための序なり。こちたかりともは、此集に、言痛とかきてこちたみとよめるをおもへは、こといたみといふを、といの切はちなるゆへに、つゞめてこちたみとはいへるとおもふに、清少納言、源氏物語なとには、たゝ事おほく、らうかはしき事にいへれは、言痛の心にはあらさる歟。第四に、他辭乎繁言痛《ヒコトコトヲシケミコチタミ》あはさりき心あることおもふなわかせとよめるは、まさしく人の物いひのおほけれは、その詞をいたみて、あはぬほとを、わかことなる心あることくなおもひそといふ事なれは、中ころよりすこし用あやまれるにや。此下におなし皇女、ひとことをしけみこちたみとよませたまへるも、初の歌におなし。おなしことをかさねていふならひもあれと、しけみといへるか、人の物いひのおほきなれは、こちたみは、そのことはをきゝてわか心のいたむとそ聞えたる。こゝには事の字を書たれとも、實は言の字なるへし。第十に此歌と上の句はおなしくて、われはものおもふつれなきものを
 
勅穗積皇子遺近江志賀山寺時但馬皇女御作歌一首
 
遣を誤て、遺につくれり、志賀山寺は天智天皇の御願の崇《シユ》福寺なり、文武紀云、大寶元年八月甲辰、太政官處分(スラク)、近江國志我山寺封起2庚子【文武四年】年1、計滿2三十歳1、云云並停2止之1、皆准v封施v物、又云、聖武紀云、天平十二年十二月癸丑朔乙丑、幸2志賀山寺1禮v佛、菅家文草第七、崇福寺綵錦寶幢(ノ)記(ニ)云、勅、近江崇福寺者、天智天皇之創建也、逢v師感應得v地、因縁誓念、至心稱2成細目1、辛未之年(ノ)勅旨詳(ナリ)矣云云、元亨釋書云云、天智天皇の御國忌(34)は、此寺にて行るゝ由延喜式に載らる、志賀の山越と云事して、歌をもよめること、古今集以來見えたるは、此寺に詣るを云なり、
 
初、勅穗積皇子遺【遣(ヲ)誤(テ)作v遺】近江志賀山寺――
志賀山寺は、崇福寺なり。天智天皇の御願にて建立せらる。これによりて、後にも十二月三日の御國忌も彼寺にて行はる。志賀の山こえとよめるも、此寺にまうつるがためなり。文武紀云。大寶元年八月甲辰太政官處分(スラク)。近江國志我山寺(ノ)封《・ヘヒト日本紀》起庚子年計滿三十歳。○並停止之、皆准之封施物。聖武紀云。天平十二年十二月癸丑朔乙丑、幸志賀山寺禮佛
 
115 遺居而戀管不有者追及武道之阿回爾標結吾勢《オクレヰテコヒツヽアラスハオヒユカムミチノクマワニシメユヘワカセ》
 
戀管、【別校本、管作v乍、】
 
腰の句オヒユカムと点ぜるは誤れり、及〔右○〕は日本紀にも、此集の未にもシクとよみたれば、オヒシカムと、点ずべし、おひつく心なり、仁徳紀に、皇后の八田(ノ)皇女の御事を恨給て、御舟にて直に山背へ越させ給たる由帝聞食て、鳥山《トリヤマ》と云舍人を急て御使に遣はさるゝ時の御歌に、山城に、急げ鳥山、いしけしけ、吾思ふ妹に、いしき逢むかも、い〔右○〕は發語の詞にて、しけ〔二字右○〕は皆追付けとのたまふなり、しきる〔三字右○〕も同じ、天武紀上に、騎士《ウマイクサ》、繼踵《シキリテ》而進之といへり、下句の心は、道の隈々ありて迷ぬべき所には、しるしを爲置《シオカ》せたまへとなり、六帖しめの歌に載て、三島皇子の歌とす、不蕃なり、
 
初、をくれゐてこひつゝあらすはをひしかん道のくまわにしめゆへわかせ
こひつゝあらすは、こひつゝさても得あらすはなり。追及武をゝひゆかむとかなのつきたるはあやまれり。及の字は、此集にも、日本紀なとにも、おほくしくとよめり。すなはち、をよふといふ心なり。しく物そなき、しかしといふも、心は此しくにて、をよふ物そなき、をよはすなり。仁徳天皇、后宮の高津の宮へはかへらせ給はて、山背の筒城宮へおはしますよしきかせたまひて、かへらせたまふへきよしの御使に、鳥山といふ人をつかはされける時の御歌に、山しろにいそけ鳥山、いしけしけとよませたまへるも、いは發語の詞、しけしけは及々なり。をひつけ/\といはんかことし。道のくまわは、くま/\のまとふへきところに、しをりをしをかせたまへ、われもをひつきてゆかんとなり
 
但馬皇女在高市皇子宮時竊接穗積皇子事既形而御作歌一首
 
(35)目録に而の下に後の字あり、有を以てよしとすべし、此には脱せるなるべし、六帖に誤て穗積皇子の御歌とす、
 
初、但馬皇女――
形而の下に後の字をおとせり
 
116 人事乎繁美許知痛美巳母世爾未渡朝川渡《ヒトコトヲシケミコチタミオノカヨニイマタワタラヌアサカハワタル》
 
人コトは他言なり、腰の句、現点字に叶はず、六帖においのよに〔五字右○〕とあるもまた同じ、其上、此時共に盛におはしまして、互に戀かはしたまへば、老の世と云べき理なし、字に任てイモセニと四文字に讀べし、下句は此集よそにも、朝川わたる、夕川わたるなどよめり、古今に人目つゝみの高ければ、川と見ながらとよみ、まだきなき名の立田川、渡らでやまむ物ならなくに、などよめる、皆男女の中を川に喩て、ならぬをば渡らぬに喩へ、成をば渡るに喩ふ、然れば纔に逢といへども、妹背と云ばかりにもあらぬ墓なき事により、まだ渡らぬ川を既に渡れりといはむやうに云さはがるゝが佗しき事と、譬て讀せたまへるなり、朝川渡は速くより事の成やうの意なり、
 
初、人事乎繁美許知痛美巳母世爾未渡朝川渡
人事とかきたれとも、他言なり。第三の句をゝのかよにとよめるはあやまれり。母の字、我の音あるへきやうなし。これをはいもせにとよむへし。朝川はあさ川わたり、夕川わたるなと此集によめり。老人晨渡朝歌水面怯。紂曰、老者髓不實、故晨寒、因〓脛以視髓。今は朝の字に心なし。古今集に、おもへともひとめつゝみの高けれはかはとみなからえこそわたらねとよめることく、おもふ事のなりならすを、川をわたりわたらぬにおほくたとふるなり。妹背といふは、かりにもあらぬはかなきことにより、またわたらぬ川をすてにわたれりといはんやうに、いひさはかるゝか、わひしさとよませたまへるなり
 
舍人皇子御歌一首
 
天武紀云、次妃新田部(ノ)皇女生2舍人(ノ)皇子1、聖武紀云、天平七年十一月乙丑、知太政官事(36)一品舍人親王薨云云、廢帝紀云、寶字三年六月庚戌、詔曰、自今以後、追2尊舍人親王1、宜v稱2崇道盡敬皇帝1、此皇子の御名をいへひと〔四字右○〕とよむは、とねりが閏、海士のとね、盗人を兼盛が歌に、山のとねともよみたれば、賤しき事とのみ思て、後人のよみなせるなり、六帖戀に、此御歌を載たるに、とねりのわうじとあれば、是を證として、さよむべし、日本紀、續日本紀に、馬飼、牛飼と名乘たる人諸氏の中に多し、大鏡に、小野(ノ)宮殿の童名牛飼と申ける故、藤氏の人牛飼を牛つきと呼れける由、見えたり、况舍人はもとより賤しきに限らぬをや、
 
117 大夫哉片戀將爲跡嘆友鬼乃益卜雄尚戀二家里《マスラヲヤカタコヒセムトなけヽトモシコノマスラヲナホコヒニケリ》
 
鬼乃益雄、【別校本点又云、オニノマスラヲ、】
 
鬼の字古点オニなるを、仙覺今の点に改られたる由彼抄に見えたり、今按、六帖にも袖中抄にも、古点の如くあれば昔に返してよむべし、第十三には、人を罵て鬼のしき屋鬼のしき手と云ひ、第四第十二には、萱草を見て鬼のしこ草といへり、しこ〔二字右○〕とおに〔二字右○〕と同じくよからぬ事いゞへば、新点の義訓よりは有|來《ク》るを好とすべし、鬼とはみづから罵詞なり、遊仙窟に窮鬼《・イキスタマ》(ノ)故《コトサラニ》調《・アサムクヤ》v人(ヲ)といへるは他を罵れど意は同じ、ますらをの武(37)かるべき身にて、諸友に心を通はしても、思はぬ人を我のみや片戀せんと勵ましなげゝども、きたなき大夫にて猶戀らるゝと讀たまへり、第十一に、巖すら行通るべき大夫も、戀てふ事は後の悔あり、
 
初、ますらをやかたこひせんとなけゝともしこのますらを猶こひにけり
ますらをは丈夫をいふ。此集にますら我すら、又ますらたけをなともよめり。神代紀曰。吾是男子。神武紀曰。時五瀬命矢瘡痛甚。○慨嘆哉大丈夫云々。皇極紀曰。山背大兄曰。豈其戰勝之後、方言大夫哉。夫損身固國不亦大夫者歟。しこは字のまゝに.おにとよめり。共にみつからのることはなり。和名集云。日本紀云。醜女【和名志古女。】みにくしとよむ字のことく、しこも、きたなきを云ふ。神代紀にまたいはく、伊弉諾尊、既還乃迫悔之曰、吾前到於不須也凶目?穢之處。おにといふも、遊仙窟にたはふれに他を罵て窮鬼故調人といへるかことし。此集におにのしこ草、しこほとゝきすなとよめる、皆此こゝろなり。我かねて丈夫なりとおもひて、丈夫といふものやは、人ももろ心におもはぬかたこひすへきと、みつからなけきていさむれと、おもひしに似す、きたなきますらをにて、心よはくこひらるゝとなり
 
舍人娘子奉和歌一首
 
118 歎管大夫之戀亂許曾吾髪結乃漬而叔禮計禮《ナケキツヽマスラヲノコノコフレコソワカユフカミノヒチテヌレケレ》
 
大夫之戀亂許曾、【六帖云、マスラヲガケヲコフレコソ、古点云、マスラヲノカクコフレコソ、別校本、亂作v禮、點云、マスラヲノコフレコソ、同異本、有2亂字1、点云、マスラヲノコヒミタレコソ、】 吾髪結乃、【六帖云、ワカモトユヒノ、古点云、ワカヽミユヒノ、亦点、如2六帖1、】 漬而、【六帖、ツキテ、】
 
今按、右の如く諸点まち/\なるは文字に同異あり、又脱たる字ある本も有ける故なるべし、今の本に依て点のかなへるを撰び取らば、マスラヲノ、コヒミダレコソ、ワガモトユヒノと讀べし、亂コソは、亂るればこそなり、和名集云、孫※[立心偏+面]切韻云、※[髪の友が會]、【音治、和名、毛度由比、】以v組束v髪也、髪を云物を、もとゆひと云へども、髻の字をもとゞりと云心も本取にて、髪の本を取て、結《アグ》る故なるべければ、本を結ふ意にてもとゆひを髪の名ともするなるべし、※[髪の友が思]の字を和名に髪の根と訓ぜり、根は本なり、漬而〔二字右○〕は、六帖につきて〔三字右○〕とよめるを除《オキ》て、今ヒヂテと云に付べし、歌の心は、ますらをのやうにもあらず戀亂るとのた(38)まふが身に過ておぼゆれば、片戀と宣ふとも、我も終夜なき流す涙に、打敷て寢る黒髪さへひたりて沾るゝとなり、末にぬば玉の黒髪しきてとよめり、
 
初、歎つゝ大夫の戀亂こそ吾髪結のひちてぬれけれ
ますらをのこのこふれこそとある點はあやまれり。ますらをのこひみたれこそとよむへし。みたれこそはみたるれはこそなり。髪結をゆふかみとよめるもわろし。長流の本のことくもとゆひとよむへし。もとゆひといへとも、唯髪なり。ますらをのやうにもあらす、こひみたるとのたまふか、身に過ておほゆれは、かたこひとのたまへとも、われもなきしほるゝ涙に、よもすから打しきて、ぬる髪さへひたりてぬるゝとなり
 
弓削皇子思紀皇女御歌四首
 
119 芳野河逝瀬之早見須臾毛不通事無有巨勢濃香毛《ヨシノカハユクセノハヤミシバラクモタユルコトナクアリコセヌカモ》
 
不通をタユルとよめるは義訓なり、今按、末に至て不行とも不逝とも書て、ヨトムとよめれば、今もヨトムとも和すべきか、有コセヌカモは、今を初として此詞集中に多し、此に二義あるべし、一つには不有越歟にて、有こす事は成まじきか有こせかしと願ふ意なり、越は、過るにて、さて有過るなり、二つには不有乞歟なり、乞の字をこそ〔二字右○〕とも、こせ〔二字右○〕ともよめるは乞ひ願ふ意なり、然ればあれこそと願ふ如くは成まじきかと云て、落著は有れこそと希ふ意なり、下に至て、多分は後の義なるべしと思しき所あり、されど古語なれば慥に心得がたく、又思ふばかりは云がたし、歌の心は、吉野川の水は瀬の早きに依て暫も絶る事なき如く、我が人を思ふ心も彼早瀬に劣らぬを、など逢ことのよどみがちなるらむ、あはれ彼水の流れつゞくやうに、逢見ることも繼て有ばやとなり、
 
初、よしの川ゆくせの――
不通とかきてたゆるとよめるは義訓なり。有こせぬはありこさぬにて、有ても過ぬなり。よしの川のはやくてしはしもたゆることなきかことく、おもふか中は、おもふまゝに有てもえ過ぬかなとなり。さま/\のさまたけにさはりて、よとみかちなれはわひてのたまへり
 
(39)120 吾妹兒爾戀乍不有者秋茅之咲而散去流花爾有猿尾《ワキモコニコヒツヽアラスハアキハキノサキテチリヌルハナニアラマシヲ》
 
秋茅、【別校本、茅、作芽、今本决v誤、】
 
腰の句以下の心は、秋萩の散て惜まるゝやうに、中々に戀死て人にもあはれと、云はれたらむがまさるべきの心なり、六帖には秋萩の歌に入れて、作者をゆはらの大君とする事、不審なり、
 
初、わきもこにこひつゝ
これはさきに磐姫の御歌に、いはねしまきてとよませ給へる心におなし。萩のちり過るやうにしなはやとなり
 
121 暮去者塩滿來奈武住吉乃淺香乃浦爾玉藻苅手名《ユフサレハシホミチキナムスミノエノアサカノウラニタマモカリテナ》
 
淺香、【幽齋本、香作v鹿、】
 
此發句の心別に注す、今按塩滿來ナムとは、後をかけて云詞なれば、發句をユフサラバと和すべし、此歌は譬喩なり、夕塩の滿來れば玉もの刈られざるごとく、程過なば障出來て逢がたき事もありぬべし、塩干の程に玉藻刈やうに早逢ばやとなり、第六之二十二紙、第七之十四紙に似たる歌あり、
 
初、夕されはしほみちきなん
夕しほのみちくれは、玉ものかくれさることく、とかくしてほと過れは、さはること出來て、逢かたき事もありぬへし。しほひのほとに玉藻をかることく、さはりなきほとに、はやくあはゝやとなり
 
122 大舩之泊流登麻里能絶多日二物念痩奴人能兒故爾《オホフネノハツルトマリノタユタヒニモノオモヒヤセヌヒトノコユヱニ》
 
(40)舟を泊るをハツルと云は古語なり、六帖には、とまるとまりとあれど、集中に類多き古語に付べし、タユタヒは末に猶豫不定とかけり、とやせむかくやせむと定得ぬ心なり、大舟に寄て此集に多此詞を云へるは、諺にも事の行かぬるを、大舟こぐやうに喩とて云ごとく、順風などなければ礒へも寄がたく、奥へも出しがたくてもてなやむを、思ひの成がたく、さりとて、え思ひやまずして有程に喩るなり、人ノ子とは、親の手に有をも人妻をもいへど、今歌にては、廣く我手に入らぬ人と心得べきか、異母の御妹を指てのたまへばなり、
 
初、大舟のはつるとまりのたゆたひに
大舟のおろすにも、とむるにも、ゆきかたきにたとへて、俗語にも大舟こくといふかことく、とにかくにおもひめくらす心のゆきかたきをたゆたひといへり。ゆたのたゆたもおなし心なり。人の子とは人つまをもいひ、またいまたわか妻とさためぬをもいへり
 
三方沙彌娶園臣生羽之女未經幾時臥病作歌三首
 
三首の中に、十首は生羽女の返しの歌なれど、※[手偏+總の旁]じて三首とはいへり、三方沙彌并園臣生羽、系譜未v詳、持統紀云、六年冬十月壬戌朔壬申、授2山田史御形務廣肆1、前爲2沙門1、學2問《モノナラフ》新羅(ニ)1、若此を三方沙彌と云歟、又聖武紀云、天平十九年十月癸卯朔乙巳、勅曰、東宮少屬從八位上御方大野所v願之姓、思2欲許賜1、然大野之父、於2淨御原朝庭1在2皇子之列1、而縁2微過1、遂被v廢退、朕甚哀憐、所2以不1v賜2其姓1也、今此に依に、磯城(ノ)皇子の事後に見えねば、此皇子廢せられ給へるか、此沙彌と云者は若それなどにや、桓武紀云、延(41)暦三年正月、授2三方宿禰廣名從五位下1、
 
123 多氣婆奴禮多香根者長寸妹之髪比來不見爾掻入津良武香《タケハヌレタカネハナカキイモカカミコノコロミヌニミタリツラムカ》 三方沙彌
 
タゲバとは、あ〔右○〕とた〔右○〕と同韵にて通ずれば、あぐると云古語か、皇極紀(ノ)童謠《ワサウタニ》云、伊波能杯※[人偏+爾]古佐屡渠梅野倶《イハノヘニコザルマメヤク》、渠梅多※[人偏+爾]母《コメタニモ》、多礙底騰〓※[口+羅]栖《タケテトホラセ》、歌麻之之能烏〓《カマシシノオシ》、此多礙底《タケテ》も、あげてなるべし、又、此集第九にも、小放《ヲハナリ》に髪たぐまでにとよめり、又末に馬をも舟をもたぐとよめるは、馬は手綱かいくり、舟は鋼手を引《ヒケ》ば、たぐると云詞にや、ヌレとは、膏づきて滑らかなるを云、水にぬるゝにはあらず、第十四東歌に、いはゐつら、ひかばぬれつゝとも、ひかばぬる/\ともよめる同じ詞書なり、諺にも繩などの能くらるゝを、ぬら/\ぬる/\と申めり、第十一に、我黒髪を引ぬらし亂て反り、とよめるを思へば、結《ユ》へば滑にてすべり、すべるとてあげねば、餘なるまで、長き髪と云にや、天武紀に、垂2髪于背1をスベシモトヾリと点ぜるは、俗に云さげ髪なるべし、すべしは、すべらしなり、掻入〔二字右○〕を今はミダリと点じ、六帖には、みだれとあり、今按ことはりは明なれど、しかよむべきやう心得がたし、カキレと讀て、かきいれと心うべきか、入は収る義なれば掻上(42)て結なり、第二十に、あしびの花を袖にこきれなと讀るは、袖にこき入むななり、其外コキレとあまたよめり、此に准ずべし、本点によらば、我煩て久しく相見ぬ程打嘆て髪をさへあげずして、亂てか有らむとなり、今按の意は、結も物うく長きも煩らはしければ、纔にそゝげたる髪を掻入れてや有らむなり、女は髪を先とするものなれば、髪を云に、かたちつくり皆籠れり、
 
初、たけはぬれ――
たけとはたくれはなり。ぬれは水なとにぬるゝにはあらす。第十四に、ひかはぬる/\とよめるにおなし。あふらつきたる髪のなめらかなるをいへり。俗にぬら/\といへり。すへ/\さら/\といふも似たる俗語なり。たかねは長きとは、たくりあけねは長きなり。日本紀に、垂髪于背とかきて、すへしもとゝりとよめるかことし。但今はつくろはぬ心すこしかはれり。掻入をみたりとよめるは、ことはりはさることなから心得かたし。末にいたりて袖にこきいれつといふへきを、袖にこきれつとよめる例にてかきれとよむへきにや。かきけつりてあけたらんかとなり
 
124 人皆者今波長跡多計登雖言君之見師髪亂有等母《ヒトミナハイマハナカシトタケトイヘトキミカミシカミヽタレタリトモ》
 
亂有等母、【古点、ミダレタリトモ、】 娘子、【官本、歌下有2此注1、今本脱明矣、】
 
たがねば長きと云を承て、此比は髪ゆふ業もせねば、見る人毎にすべりて長ければあげよといへども、君に相見し時の髪なれば、亂たれども其まゝにて居るとなり、君ガ見シ髪とは、結たるを見しなり、第十一に、朝寢髪われはけづらじ、うつくしき君が手枕觸てし物を、これに同意なる上、毛詩に、自2伯之東1、首如2飛蓬1、豈(ニ)無(ラン)2膏沐1、誰|適《アルシトシテカ》爲v容《カタチツクリスルコトヲ》、此意を兼たり、古点の意は、君が見し髪なれば、我ながらなつかしければ、皆人の云如く、たとひ亂たりとも君が病の平復して相見むまでは結も改めじとなり、
 
初、人みなは今は――
かきもけつらす、打亂たるか、あまりなかきに、たきてあけよと、みな人はいへとも、君かやまひにふすより、たかためにけつるへくもなけれは、見たまひし時のまゝにて、みたれたれと、そのまゝ有となり。さきの歌、かきれつらんかとよめは、亂たれともといへる結旬、いよ/\かなへる歟。毛詩云。自伯之東、首如飛蓬、豈無膏沐、誰適爲容。戰國策云。士爲知己者死。女爲悦己者容。この歌の下に園臣生羽女と有けんか失たるへし
 
125 橘之蔭履路乃八衢爾物乎曾念妹爾不相而《タチハナノカケフムミチノヤチマタニモノヲソオモフイモニアハステ》 三方沙彌
 
(43)第六にも、此歌詞少替て再出たり、橘は花も實も賞する物なれば、折につけて其木の下に人の行なり、史記、李廣傳、賛曰、諺曰、桃李不(レトモ)v言、下|自《オノヅカラ》成v蹊、此意に同じ、八チマタは、此方彼方《コナタカナタ》より、道のあまたあるなり、ちまたは、みちまたなり、亦、又、等の詞の字より初て、人の※[月+誇の旁]、木の※[木+叉]《マタアリ》、水の派《ミナマタ》、道の岐《チマタ》等に至るまで、一條ならぬをまた〔二字右○〕といへり、爾雅曰、八達、謂2之崇期1、此は二達三達より、道の名皆替て、入筋とほりたるを崇期といへど、今は橘の蔭ふむ道とつゞけたれば、必しも爾雅によるべからず、延喜式第三に、八衢祭といへるも、第八、道饗《ミチアヒノ》祭(ノ)祝詞を見るに、唯※[手偏+總の旁]じて道を云へり、此歌の意、樣々に妹を思ふ由を云はんとて、上は次第に序にいへり、
 
初、橘のかけふむ道の――
八ちまたは、爾雅曰。八達謂之崇期。延喜式第三衢祭云々。同第八、道饗祭祝詞云。高天之原爾事始※[氏/一]皇御孫之命止稱辭竟奉大八衢爾湯津磐村之如久御名者申※[氏/一]辭竟神等前爾申久。八衢比古八衢比賣久那斗止御名者申※[氏/一]辭竟奉。この歌の八ちまたは八達にかきらす。橘の花の時も實になりたる時も、人のめてゝおほくかた/\より立よるをいふ。それに色々なる思ひをたとふるなり。史記李廣傳曰。諺曰。桃李不言下自成蹊。いまのうた、これに准すへし。此歌第六にまた出せり。詞もすこしかはり作者も異説あり。第十一にも、橘のもとに我たちなとよめり
 
石川女郎贈大伴宿禰田主歌一首
 
官本、此下細注云、即佐保大納言大伴卿第二子、母曰巨勢朝臣女也、此注は後人の加へたるにや、此歌を引る物多けれど此注見えず、歌の後の注に、大伴田主、字曰2仲郎1と云に繼けてこそ書べきを、さもなければ信じがたし、佐保大納言は安麿也、嫡子は旅人にて、田主が字仲郎なれば第二に當り、宿奈麿、稻公等は叔季にや、朝臣の下に人の字脱たる歟、
 
(44)126 遊士跡吾者聞流乎屋戸不借吾乎還利於曾能風流士《タハレヲトワレハキケルヲヤトカサスワレヲカヘセリオソノオソノタハレヲ》
 
タハレヲとは、好色の人の風流なるを云、袖中抄に、聞流乎を、きゝつるをとよめり、同じ意ながら今の点に付べし、不借は、今案カサデとも和すべし、オソノタハレヲは、此おそ〔二字右○〕と云詞につきて先達の説々あり、一には獺の戯によす、二には、きたなき(45)たはれをと罵る意、三には、僞のたはれをと云意、以上三義、事舊たれば委は出さず、往て見るべし、先獺戯は和名云、獺、【音脱、和名攷證曾、】今は於曾なれば、假名既にたがへる上に、袖中抄に、獺戯の下に云、又萬葉におそのたはれをと云事ありとて、今の歌を引て終に云、今云を〔右○〕そのたはれを、お〔右○〕とのたはれを紛ぬべければ、記し侍るなり、かゝれば、似たる事の本來別義なり、次に、きたなきをおそ〔二字右○〕と云も假名違へり、其故は此集第十四に、烏とふ於保乎曾杼里とよめり、是大にきたなき鳥と云心なるに、乎曾とかければなり、奥義抄云、或人云、ひむがしの國の者は、虚言をばをそごと〔四字右○〕と云なり、さればそら色好みとよめるにこそとも申す、仙覺抄云、虚言のたはれをと戯れいへりけるなり、此は右の説と同じ、されど虚言を於曾と云所以を出さゞれば事たらず、今云、今の世僞を云をうそつくと申は、奥義抄のをそ〔二字右○〕にや、う〔右○〕はを〔右○〕にもお〔右○〕にも通ず、口をひそめて聲を出すを嘯《ウソフク》と云ひ、うそを吹とも云へば誠なき言もそれがやうになんあれば、うそ云とも、うそつくとも云にや、つくは吐の字なり、此義の用否は後の人定むぺし、今案右の外に兩義あり、一には、第十二に、山城の石田の杜に心おぞく手向したれば妹に逢がたき、此心おぞくと云に鈍の字をかけり、又第九に浦島子をよめる歌の反歌に、常世邊《トコヨベ》に住べき物を釼太刀《ツルギタチ》さが心から於曾也この(46)君とよめるも太刀によせて心おぞしと云へり、源氏物語の、蓬生橋姫などにも心遲といへり、かゝれば心のにぶくて我方便をとくも意得ぬたはれをなりと戯て罵るにや、二つには、古語拾遺に、天鈿女命の下に注して云、古語、天乃|於須女《オズメ》、其神強捍猛固(ナリ)、故(ニ)以爲v名、今(ノ)俗《クニコト》強女謂2之|於須志《オズシ》1、此縁也、源氏|東屋《アツマヤ》に、めのと、はたいと苦しと思て、物つゝみせず、はやりかにおぞき人にて云云、注に、おずきとよむ、恐しき人と云事なりといへり、かゝれば、源氏にいへるおぞきは、古語拾遺の於須志なり、今も男女を別ずおそろしき人と云心に、おぞき人とも云合へり、されば、風流にはあらで、こはくおそろしき人と云にや、此中に注の意を以撰ぶに、心鈍と云義、能叶ふ歟、大伴田主字曰仲郎、 此人早世歟、國史に見えず、見人聞者、 仙覺抄には、人〔右○〕をも者〔右○〕に作れり、袖中抄に引るは今の本と同じ、 雙栖、 文選、潘岳悼亡詩云、如2彼翰林鳥、雙栖一朝隻(アルカ)1、 獨守之難、 文選古詩云、蕩予行(テ)不v皈、空(シキ)牀難獨守、 賤嫗、 和名云説文云、嫗、【和名、於無奈、】老女之稱也、玉篇云、鳥遇切、老嫗母也  自媒 文選、曹植求2自試1表云、夫(レ)、自《ミヅカラ》衒(ヒ)自媒者、士女之醜行也、 諺戯、 袖中抄、諺作(ル)v謔(ニ)
 
初、たはれをとわれはきけるを――
たはれをとは色をこのみ、情あるやうのをのこなり。すなはち、この歌にかける、遊士、風流士の心なり。おそは、東俗の語、きたなきをいふと奥義抄にいへり。日本紀に似鴉食糞とあるをもて見、奥義抄の説によるに、此第十四東歌に、からすとふ大おそ鳥とよめるもおほきにきたなき鳥なり。又高野山にもろ/\のけからはしき物なかすみそ川を、おそ川といひならはせるもこれにかなへり。 しかれは聞をよへるたはれをにはあらで、すご/\とわれをかへせるは、きたなきたはれをなりと、たはふれにのりてよめり。又かはおそのことにいへる説あり。俊頼朝臣これによられたれと、よくかなへりともみえす。又今案おそのその字をすみてよむへき歟。第十二に、山しろのいはたのもりに心おそくたむけしたれは妹に逢かたき。此心おそくに、鈍の字を用たり。今もこれにや。とくこゝろえても宿かさるへきを、心のにふきたはれをやとのるなり。第九に、浦島の子をよめる歌に、とこ世へに住へきものをつるきたちさか心からおそやこの君とよめるも、利鈍は、刃のときとにふきとより、人のさかしきとおろかなるにもたとへて、にふきをおそしともいへは、よせたるへし
 
大伴田主字曰仲郎容姿佳艶風流秀絶見人聞者靡不歎息也時有石川女郎自成雙栖之感恒悲獨守之難意欲寄書未遂良信爰作方便而似賤嫗巳提鍋子而到寢側※[口+更]音跼足叩戸諮曰東隣貪女將取火來矣於是仲郎暗裏非識冐隱之形慮外不堪拘接之計任念取火就跡歸去也明後女郎既恥自媒之可愧復恨心契之弗果因作斯歌以贈諺戯焉
 
初、大伴田主字曰仲郎――。自成2雙栖之感1【潘安仁(カ)悼亡(ノ)詩(ニ)如(シ)2彼(ノ)翰林鳥(ノ)雙(ヒ)栖(テ)一朝|隻(ヒトリアルカ)1】恒悲2獨守之難1【古詩(ニ)曰蕩子行(テ)不v歸。空牀難2獨(リ)守1。張景陽(カ)雜詩(ニ)云。佳人守2〓獨1。】賤嫗(ハ)和名集(ニ)。説文云。嫗【和名於無奈】老女之稱也。跼足【詩云。謂2天(ヲ)葢高1不2敢(テ)不1v局傳(ニ)曰局(ハ)曲也。】冒【亡到(ノ)切覆也。】既(ニ)耻2自媒之可1v愧【毛詩云南山(ニ)云。折v薪如之何。匪v斧不v刻。娶v妻如之何。匪v媒不v得。禮記曰。故男女無v媒不v交。無v幣不2相見1。又引v詩云。〓V麻如之何、横2從其畝1。取v妻如之何、必告2父母1。以v此坊v民民猶有2自|獻《スヽムルコト》2此身1。戰國策曰。燕王謂2蘇代1曰。寡人甚不v喜《コノマ》2〓者言《イツハルノヽヲ》1也。【〓州謂v欺曰v〓。補曰〓(ハ)徒案反(ノ)或作v〓】蘇代對云。固地賤v媒爲2其兩譽1也。之男家1曰2女美1之2女家1曰2男美1。然而周之俗不2自爲取1v妻。且夫處女無v媒老且不v嫁。舎v媒而自衒(ヘハ)敝(テ)而不v售。【敝猶v敗無v成v事也】順而無v敗售而不v敝者、唯媒而已矣。且事非v禮不v立。非v勢不v成。夫使2人坐受1v成v事者唯〓(ル)者《モノ》耳。王曰善矣。史記田敬伸完世家曰。〓王之遇v殺其子法章變2名姓1爲2〓(ノ)太史〓家庸1。太史〓女奇2法章状貌1以非2恒人1憐而常竊2衣食1之與私通焉。〓〓既以去v〓。〓中(ノ)人及齊(ノ)凶臣相聚求2〓王子1欲v立v之、法章懼2其誅1v己也。久之乃敢自言我〓王子也。於v是〓人共立2法章1。是爲2襄王1。○襄王既立2太史氏女1是爲2君王后1生2子建1。太史〓曰。女不v取v媒因自嫁非2吾種1也。〓2吾世1終v身不v覩2君王后1。君王后賢不3以v不v覩故失2人子之禮1。】曹植求2自試1表曰。夫自衒自媒者士女之醜行也
 
大伴宿禰田主報贈歌一首
 
(47)127 遊士爾吾者有家里屋戸不借令還吾曾風流土者有《タハレヲニワレハアリケリヤトカサスカヘセルワレソタハレヲニアル》
 
不借は右に云如くカサデともよむべし、尾の句、仙覺抄には、タハレヲニハアルと點ぜり、是は者の字をは〔右○〕とよみてに〔右○〕をば上によみつくる心なり、されども第四になか/\に、もたもあらましをと云に、中中者とかき、其外數所に者〔右○〕をに〔右○〕とよめる所あれば.今の本惡からす、官本も亦此本と同じ、歌の意は、それとも知らずして還しつるとはいはで、我は實の遊士なり、賤しき老女にまがへてたばからるゝを、打つけに宿かさむと云はゞ、あだなる男と見たまへおとされなむを、たゞに返しつるが、聞ゆるたはれを故なりと、此も戯てよめるなり、
 
初、たはれをにわれはありけりやとかさすかへせるわれそたはれをには有
しらすしてはかへしつれと、さはいはて、われはまことのたはれをなり。たはれをならすは、打つけにやとかさむともとむへし。しからは、あさはかなるあたものと見たまへおとされなんを、よく念してかへしつるが、まことのたはれをゆへなりと、ざれてよめり
 
同石川女郎更僧大伴田主中郎歌一首
 
中郎は、上の如く仲に作るべし、後注同じ、
 
初、同石川――
中當从人。歌左注中亦同
 
128 吾聞之耳爾好似葦若未乃足痛吾勢勤多扶倍思《ワカキヽシミヽニヨクニハアシカヒノアナヘクワカセツトメタフヘシ》
 
吾聞之、【仙覺点、ワガキヽノ、幽齋本、與2仙覺1同、】 好似、【古点ヨクニル、】 葦若未乃、【古点云、アシノハノ、】 足痛吾勢、【古点云、アシイタワガセ、官本又云、アシヒクワガセ、】
 
(48)初の二句は、古点のまゝに、ワガキヽシ、ミヽニヨク似ルと讀べきか。其故は、吾聞シとは兼て脚氣ありと聞なり、耳ニヨク似ルとは火を乞に行て見たる時聞し如くなるなり、又好と云に當て、聞に似ばと云は少叶はずや、耳とは音を開所なればきゝに能く應ずると云はんが如し、第十一に、ことにいへば耳に輙しとよめる耳〔右○〕の如し、アシカビは、神代紀には、葦牙とかけり、又はあしつのと云、和名云、※[草冠/炎]【音、毯、和名、阿之豆乃、】蘆之初生也、六帖に、蘆つのゝ生てし時に天地と、人とのしなは定まりにけり、諺に草木の芽《メ》の出るをめかび〔三字右○〕と云も、同詞を重て云なり、今按第十夏雜歌の初の長歌に、小松がうれと云々、若未〔二字右○〕と書たれば、アシワカノと讀べきか、歌仙家集の中に元眞、難波のあしわか〔四字右○〕とよめり、葦の若きをやがて體になして呼なり、譬ば童の名に某若と云がごとし、あしかびは、纔に萠して角ぐむ程を云、あしわかは、水を出もし出もせぬ程を云べければ、若未とかける意これなるべき歟、第十に、吾宿の萩の若未長、此下の三字を、ワカタチと点ぜり、此には今按の義あり、彼處に至て注すべし、若未の二字彼に同じ、葦牙よりは長じて後なる事准じて知べし、アナヘグは、和名云、説文云、蹇(ハ)、【音犬、訓、阿之奈閉、此間云、那閉久、】行不v正也、かゝれば足なへ〔三字右○〕と云もなへぐ〔三字右○〕を略して体に呼なり、足の痿《ナユ》ると云には非ず、痿る意ならば奈江《ナエ》の假名なるを、奈閉《ナヘ》とあれば別の義明なり、史記呉太伯世家云、公(49)子光、詳《イツハテ》爲《マネシテ》2足|疾《ナヘク》1、入(ル)2于窟室1、左傳云、光僞(テ)足|疾《ナヘク》、和名又云、脚氣、一名脚病、俗云、阿之乃介、源順家集云、今は草の菴に難波の海のあしのけにのみ煩らひてこもり侍れば、云云、此病をば賤からぬ物にして清少納言云、病は、胸、物氣、足の氣、又そこはかとなく物くわぬ、うつぼ物語第十五云、源中納言、嵯峨院に參給て、みだびかくびやう、いたはりについて、云云、源氏若菜下に、亂脚病と云物おこりて、所せく發り煩らひ侍て、墓々しく蹈立る事も侍らず云云、續博物志云、脚弱病、用2杉木1爲v桶濯v足、排2樟脳於兩股間1、以2脚棚1繋定(ムレバ)、月餘即效(アリ)、此兩句、古点は淺※[獣偏+爰]かりしを、新点の古き心は昔に叶て仙覺の功なり、さてかくつゞくる心は、仙覺云、葦芽と云は葦の角ぐみ生たるなり、あなへぐとは足痛みて引なり、葦芽は、葦の苗なれば、あなへぐと云詞の葦苗に通へばよそへよめるなりと、此義謂れたる上に猶今按を加ふるに、上の今按の如くば、蘆筍は白くて細くうつくしき物の柔らかに弱ければ、葦を足によそへて承る上に、仲郎がうつくしき足をやむによそふるなり、荀子(ニ)云、南方烏名2蒙鳩1、爲《ツクルトキ》v巣編v之以v髪、繋2之葦※[草冠/召]1、々折(レテ)卵破、巣非ケレハナリトタグー!ナ カタ′ノヒ一カ(シテ  レは キ チエキリウツナ  ケ
v不v牢、所v繋之弱(ケレハナリ)也、舊事紀云、爾《スナハチ》欲v取(ト)2健御名方《タケミナカタノ》神(ノ)手1、乞歸而《コヒカヘシテ》取(レハ)者、如v取2若(キ)葦(ヲ)1、※[手偏+益]※[木+此]而《ニキリウツテ》投(ケ)離、即逃去、【古事記、同v之、】貫之の歌に、白浪のよすれば靡く葦の根とも、難波なる葦の白根ともよめり、ツトメタブベシは日本紀に自愛をツトムとよめり、みづから保重する意なり、(50)能醫療を加へて保養したまふべしとなり、
 
初、わかきゝしみゝによくにはあしかひのあなへくわかせつとめたふへし
わか聞しみゝによくにはとは、わかきくかことくならはなり。あしかひは蘆のはしめてもえ出るをいふ。俗にも木のめをめかひといへり。日本紀第一云。于時天地之中、生一物、状如葦牙。和名集曰。玉篇云。〓【皆亂】〓也。〓【音〓和名阿之豆乃】蘆之初生也。あしのわかきはおれやすくて物にいためはあなへくにつゝけんとていへり。荀卿子曰。南方烏名蒙鳩、爲巣編之以髪、繋之葦※[草冠/召]、々折卵破、巣非不牢、所繋之弱也。あなへくはあしなへくにて、脚のいたむなり。あしかひ
は色しろううつくしきか、やはらかなる物なれは、その心こもりて、こゝにはよき枕詞なり。和名集云。説文云蹇【音犬、訓阿之奈閉、此間云那閉久】行不正也。又云。醫家書有脚氣論註云、脚氣、一云脚病、俗云阿之乃介。史記呉太伯世家云。公子光詳爲足疾、入于窟室。左傳曰。光僞足疾。續博物志曰。脚弱病用杉木爲桶濯足、排樟脳於兩股間、以脚棚繋定、月餘即效。うつほ物かたり第十五、源中なこん嵯峨院にまゐりたまひて、みたりかくひやういたはりについて云々。清少納言に、やまひは、むね.ものゝけ、あしのけ、たゝそこはかとなくものくはぬ云々。源氏わかな下に、みたりかくひやうといふものおこり、所せくおこりわつらひ侍て、はか/\しくふみたつることも侍らす云々。つとめは、日本紀に自愛とかきてよめり。たふはたまふなり。平家物語に、木曾か鼓判官にあひて、鼓といふよしを問ふ詞にも、うたれたふたか、はられたふたかとかけり。つとめたまふへしとは、保養をくはへて早く平復し給へとなり
 
右依中郎足疾贈此歌問訊也
 
大津皇子宮待石川女郎贈大伴宿禰宿奈麿歌一首
 
待は侍に改むべし、諸本侍なり、遊仙窟に、婢とも侍婢とも有をマカタチと點ぜり、官本注云、女郎字(ヲ)曰2山田(ノ)郎女1也、宿奈麿宿禰(ハ)者大納言兼大將軍卿之第三之子也、此石川女郎は、此よりさき四度見えたる女か、今の歌によれば、年少し古たりと見えたり、其中に日並皇子の歌を賜たるは別の女か、彼端作の下の注、撰者みづから加へたりと見ゆればなり、又此歌は持統天皇元年の事なるべし、大津皇子宮侍とて藤原宮に繋たるが故に、
 
初、大津皇子宮侍――
まかたちは今俗こしもとなといふなるへし。遊仙窟には婢とも侍婢ともかけり。侍兒とかきて、長恨歌にはおもとひとゝよめり。今案、藤原宮御宇となりては、大津皇子わつかに十月の初まて世におはしまし、そのうへ天武天皇諒闇のうちなれは、うたかふらくは、此歌も淨御原御宇のほとの事なるへくや
 
129 古之嫗爾爲而也如此許戀爾將沈如手童兒《イニシヘノヲウナニシテヤカクハカリコヒニシツマムタヽワラハコト》
 
嫗、【六帖三、ヲムナ、】 如手童兒、【六帖、テワラハノゴト、仙覺抄云、タワラハノゴト、幽齋本同v之、】
 
古ノ嫗と我身を云は、年のねびたるを卑下して云なり、嫗は上に和名を引ごとく老女之稱にて、和訓|於無奈《オムナ》なれば假名も別なり、枕草紙に、冷じき物をいへる中に、おう(51)なのけさうと云ひ、源氏に、おうなになるまで、又人からやいか ゞおはしましけん、おうなとつけて心にもいれず、と云へる如きは皆嫗なり、戀ニ沈マムとは臥沈て泣なり、第四に、玉きぬの、さゐ/\沈み家の妹に、物いはず來て思かねつも、とよめる沈に同じ、タヽワラハゴト、此點字に叶はず、注にタワラハノゴトとあれば、仙覺のタワラハノゴトと點ぜるは叶へども、六帖に依てテワラハノゴトとよむべし、其|所以《ユヘ》は、集中に異《イ》を注する傍例、一句にても二三句にても、異あるをば注なし、異なきをば注せず、然れば仙覺の如くよまば、注には唯、一云戀乎太爾忍金手武と三四兩句の異をのみ注すべきに、三句の異を注せるにて六帖に依べしと申なり、稚子《イトケナキコ》を手兒《テコ》と云へるを、多古《タコ》とはよまざれば、テワラハ此に准ずべし、歌の意は、嫗になりたるしるしには、物の情を知て戀にも能堪忍すべき理なるに、幼兒の母や乳母などを慕て物も聞入れず泣ごとく、戀に堪ずして臥沈て泣む物かとなり、第四に坂上郎女が歌にも、たをやめといはくも知く、手わらはのねのみ泣つヽとよめり、
 
初、いにしへのおうなにしてや――
いにしへのおうなとは、年ふりたる女といふ心にて我身を卑下していへるなり。嫗はさき/\ことく、老女なり。清少納言に、すさましき物をいふ中に、をうなのけさうといへるもこれなり。三十にもあまる比にていへるなるへし。をうなになりて戀もさむへさほとのわか身にて、きひはなるたわらはのおやなとをこふることくこひになきしつまん物かとみつからいさむれと、ひとへにわらはのことしとなり。たゝわらはのことゝあるはわろし。たわらはのことゝよむへし。六帖にもたわらはなり。たわらはとはゝめのとなとの手をはなれぬをいふへし。第十一に、あちきなくなにのまかこと今更にわらはことするおいひとにして
 
一云戀乎大爾忍金手武多和郎波乃如
 
大は太に作り、郎は良に作るべし、此異本の心は、唯心をさなく戀を忍がたかるを(52)童に喩るなり、
 
長皇子與皇弟御歌一首
 
同母の御弟、弓削(ノ)皇子を初て、異母の御弟あまたおはしませど、歌に依に、妹を女弟といへば、此皇弟は異母の御妹なるべし、それもあまた坐せば何れと指がたし、
 
初、長皇子與皇弟御宇一首――
長皇子は、御母は大江皇女にて、同母の御弟は弓削皇子なり。されともこれはいつれにてもことはらの御妹の皇女につかはされたる御歌と見えたり
 
130 丹生乃河瀬者不渡而由久※[しんにょう(竹/夾)]久登戀痛吾弟乞通來禰《ニフノカハセノハワタラテユクユクトコヒイタムワカセコチカヨヒコネ》
 
※[しんにょう(竹/夾)]久、【※[しんにょう(竹/夾)]、當2改作1v遊】
 
丹生ノ川は、大和宇智郡にあり、丹生神社あり、專雨を祈る所なり、第二の句の點惡からねど字に叶はず、今按セハワタラズテと讀べし、これにて能く字に叶へり、此二句に、結句を合せて心得るに、皇女の宮は丹生川の彼方に有れば、えあひ給はぬ中を、やがて彼川を渡らぬに譬たまへるか、上の但馬(ノ)皇女の、朝川わたるとよませ給へるに注せしが如し、若は同じ都の内ながら、只相見ぬ中に譬出し給へるにや、ユク/\トとは、末に大舟のゆくら/\などよめるに同じ、上の弓削(ノ)皇子の、大舟のはつる泊のたゆたひにと云御歌に付て注せり、思ふ心のはかゆかでのび/\なる意なり、戀イ(53)タムは、戀佗て心の痛むなり、ワガセとは、せ〔右○〕は、男女に通ずる詞なり、此に弟の字をかけるは、端作に皇弟とあれば意を得て義訓せり、此卷下に至て、大來の皇女の、二上山をいもせと吾みむとよませ給へるには、弟の字も妹に用たり、コチカヨヒコネは、こなたへかよひ來よなり、今按、此集に乞の字をイデとよめり、いで〔二字右○〕は即物を乞詞なり、允恭紀云、且曰、壓乞戸母《イデトジ》、其|蘭《アラヽキ》一莖焉、【壓乞、此運2異提1、戸母、此(ヲハ)運2覩自《トジト》1、】云云、これらに依て今もイデと点ずべきか、
 
初、丹生の川せはわたらすてゆく/\とこひいたむわかせこちかよひこね
丹生の河は大和なり。瀬をはわたらてといふもおなしことはりなから文字にあたる時わろし。瀬者不渡而とかきたれは、わたらてと濁るては不の字なれは、上に瀬をと、をの字をよみつけて、下に而の字をあませり。瀬はわたらすてとよめはよくかなへり。川をわたらぬは、あはゝやとおもふ心のみありて、事のならぬにたとへていへり。ゆく/\とゝは第十二十三十七なとに、大舟のゆくら/\とよめるにおなし。俗語にゆくりとしてといふもこれなり。ゆる/\とゝつねにいふ心なり。こふる心のたゆむにあらす。こふるあひたのさすかにこともきれす、なるゝともなくほとをふるをいへり。後のゆの字は遊を誤て〓につくれるなるへし。こちはこなたへなり。乞の字は、いてともよめり。いては、日本紀にも、物を乞ふ詞にいへり。いてその物ひとつえさせよといふかことし。よりてこゝにもさもよむへし
 
柿本朝臣人磨從石見國別妻上來時歌二首并短歌
 
妻、釋名云、士庶人曰v妻、々齊(ナリ)也、夫賤、不v足2以v尊稱(スルニ)1、故齊等言也、和名云、白虎通云、妻【西反、和名米、】者齊也、與v夫齊v体也、人麿に前後兩妻あり、今此妻は初なり、後に呼上せて輕市邊に置歟、此卷下に、人磨妻の死を悼て作れる歌多き中に、第一の歌に見えたり、第四に、此妻の歌一首あり、姓名をいはずして人麿妻と云は、此人なり、後の妻は依羅娘子なり、即、此卷に歌あり、姓名の有無に依て辨ふべし、
 
初、柿本朝臣――別妻
和名集云。白虎通云、妻【西反和名米】者齊也、與夫齊体也。釋名云、庶人曰妻、妻齊也、賤不足以尊稱、故齊等言也。人まろの妻に前後あり。是は前妻なり。此妻は姓名見えす。今は石見にをきてわかれてのほらる。そのゝちやまとへよひとりて高市郡輕郷にすへをかる。此卷下に至りて此妻にをくれてかなしひてよめる長歌短歌或本歌合せて十首あり。子もありけるよしそこに見えたり。第四に柿本人麻呂妻歌一首とて載たるは此妻の歌なり。第九卷にも與妻歌妻和歌とて二首を載て、後に右二首柿本朝臣人麻呂之歌集中出としるせり。但第九の卷は惣して名を載ること分明ならされは、前妻後妻わきかたし。そのうへ誰の集に出たりといふは、かならすその人の歌とはさためかたけれは、ひとまろの集に出たりといふも、別人の夫妻贈答せるか、歌のよろしけれはかきつけをかれたるも侍へし。後妻は依羅氏なり。やかて此下に依羅娘子與人麻呂相別歌とて載。人丸石見にて死去のよしを聞てよめるかなしひの歌も、此下に依羅娘子とて載られたり
 
131 石見乃海角乃浦回乎浦無等人社見良目滷無等【一云礒無登】人社(54)見良目能嘆八師浦者無友縱畫屋師滷者《イハミノウミツノヽウラワヲウラナミトヒトコソミラメカタナミトヒトコソミラメヨシヱヤシウラハナクトモヨシヱヤシカタハ》【一云磯者】無鞆鯨魚取海邊乎指而和多豆乃荒礒乃上爾香青生玉藻息津藻朝羽振風社依米夕羽振流浪社來縁浪之共彼縁此依玉藻成依宿之妹乎《ナクトモイサナトリウナヒヲサシテニキタツノアライソノウヘニカアヲナルタマモオキツモアサハフルカセコソヨラメユフハフルナミコソキヨレナミノムタカヨリカクヨリタマモナスヨリネシイモヲ》【一云波之伎余思妹之手本乎】露霜乃置而之來者此道乃八十隈毎萬段顧爲騰彌遠爾里者放奴益高爾山毛越來奴夏草之念之奈要而志怒布良武妹之門將見靡此山《ツユシモノオキテシクレハコノミチノヤソクマコトニヨロツタヒカヘリミスレトイヤトホニサトハワカレヌマスタカニヤマモコエキヌナツクサノオモヒシナエテシノフラムイモカカトミムナヒケコノヤマ》
 
浦無等、【官本、ウラナシト、亦如2今点1、】 滷無等、【官本、点、准v上、】 能嘆八師、【別校本、嘆、作v咲、當v從v此、】 海邊乎指而、【仙覺点云、ウミヘヲサシテ、】 念之奈要而、【別校本、之、作v思、】 志怒布良武、【仙覺抄、志怒、作2悉努1、】
 
角ノウラワは、和名云、那賀(ノ)郡、都農【都乃】、ウラナミト人コソミラメとは、能浦なしと、人こそみるらめなり、る〔右○〕もじなきは古語なり、和名云、四聲字苑云、浦、大川旁曲渚、船隱v風所也、【傍古反、和名、宇良、】滷ナミト、人コソ見ラメ、玉篇云、滷、音魯、鹹水也、又云、潟、【齒又切、或、滷字、】和名云、文選(55)海賦云、海溟廣潟、【思積反、與v昔同、師説加太、】義は上の如く知べし、能嘆八師は、よしやの古語なり、古事記上に、阿那邇夜志《アナニヤシ》とあるは、日本紀の神代紀に、妍哉、此云2阿那而惠夜《アナニエヤ》1、とあるに同じ、然ればあなにやし〔五字右○〕のし〔右○〕は語の、助なり、又神武紀に、妍哉、此云2鞅奈珥夜《アナニヤト》1、とあれば、あなにゑやのゑ〔右○〕も休め字なるを以て、今のよしゑやしのゑ〔右○〕とし〔右○〕との二字助語なること准じて知べし、後に吉哉と書てよしゑやしとよめる此なり、嘆〔右○〕は上に注する如く咲の字の訛れるなり、咲はゑむ〔二字右○〕とよむを下を略して用るは、諺に笑ふ顔のうるはしきをゑがほよしと云が如し、カタハナクトモ、此にて讀切るべし、人は浦もなく、潟もなしと見るとも、吾ためには故郷にして妻とたぐひてすめば、浦なし滷なしとも思はず住よしとなり、第十三に此つゞきに似たる歌あり、以上一段は下の終までの第二段の離別の情の殊に悲しき由を云はむ料なり、イサナ取は、海の枕言、別に注す、ウナヒヲ指テとは、出立て舟に乘て來るなり、ニギタヅノ荒礒ノ上ニ、熟田津は第一に出たり、荒磯はアリソともよめり、カアヲナルは、か〔右○〕も發語の詞なり、此集に黒きをか〔右○〕くろきともよめり、源氏に易さをかやすき、弱きをかよはき、よれるをか〔右○〕よれるなどあり、俗にも細きをか〔右○〕ほそきと云へり、玉モオキツモとは、玉もは藻をほめ、おきつ藻は、奥に有藻なり、共に藻の※[手偏+總の旁]名にて、あながちに替らねど、かく重ねて云るは古歌の(56)習なり、朝羽振、風コソヨラメとは、和名に、鳥の羽振に、※[者/羽]の字を出せり、はふくと云も同じ詞なり、風の海水をうちて吹來る音は、鳥の羽を打て振ふ樣なれば喩てかくいへり、郭璞が江賦に、宇宙澄〓、八風不v翔《フカ》、此翔〔右○〕の字を用たるも此意なるべし、依らめは上の玉もの事なれば、風にこそよるらめと云るなり、夕羽振浪コソ來ヨレとは、此浪も風に依て立てば、夕はぶるといへり、浪こそ來よれといふ心上の如し、浪ノムダカヨリカクヨリとは、むた〔二字右○〕はともに〔三字右○〕と云古語なり、第十五に、可是能牟多《カセノムタ》、與世久流奈美爾《ヨセクルナミニ》、また君我牟多《キミガムタ》、由可麻之毛能乎《ユカマシモノヲ》、など其外あまたよめり、依て古點は浪のともなりけるを、仙覺の改られたる由、彼抄に見えたり、尤叶へり、かよりかくよりは、此集にと〔右○〕にかくにと云を、か〔右○〕にかくにとあれば、と〔右○〕よりかくよりなり、玉モナス依ネシ妹ヲは、日本紀に如2五月蠅1とかきて、サバヘナスとよめれば、玉もの如く、こなたかなたより依合て寢しなり、後に玉藻なす靡かぬらむともよめり、これは、伊與の地について渡る舟の上に見る物に寄て云なり、注に〓之伎余思とは、愛の字をはしき〔三字右○〕とよめり、此字を、うるはし〔四字右○〕ともうつくし〔四字右○〕ともなつかし〔四字右○〕ともをし〔二字右○〕ともよめり、はしきも、それらにかよへる詞なり、〓は波の字を誤れり、改むべし、露霜は、露と霜となり、露結て霜となる故に、霜に初を呼加へて云には非ず、下の歌にも、秋山に落るもみぢばとあれば、此時、(57)九月の末と見ゆれば、折ふしのものに寄て置テシクレバとつゞけられたり、夏草ノ念シナエテとは、此卷の下に、同作者、明日香皇女を悼奉てよまれたる歌にも此詞あるに、しなえ〔三字右○〕を之萎〔二字右○〕とかけり、萎は痿なり、し〔右○〕は上の磐之媛の御歌の石根しまきてのし〔右○〕の如し、夏日盛に草のよられてしほるゝを、歎ある人の物思ふ時、心もよはり身もうなだるゝに譬たり、ナビケ此山は山は動きなき事のためしにもすなるを、そなたの方の見えぬを侘てせめての事にいへるは、和歌の習面白き物の妻を思ふ心あはれ深し、第十二に、あしき山梢こぞりてあすよりは、なびきたれこそ妹があたりみむ、十三にも、我かよひ路のおきそ山みのゝ山靡かすと人はつげども、かくよれと人はつげども、などよめるに心おなじ、
 
初、石見の海
後の歌にも、恨はふかきとそへてよめる所なり。角のうらわ、和名集云。那賀郡都農【都乃】。浦なみと、浦は和名集云。四聲字苑云、浦大川旁曲渚船隱風所也。傍古反【和名宇良】。滷なみと、玉篇云、滷音魯鹹水也。潟の字の注にいはく、齒又切、或滷字。和名鈔云。文選海賦云、海溟廣潟、思積反與昔同、師説【加太】。ふたつのみらめは、ともにみるらめなり。能嘆は、よしやよしなり。やとゑとかよひ、よとやとかよへは、よしゑやしとはいへり。此集に尤おほし。嘆は咲の字を誤れるなり。後々に咲の字をかけり。咲はゑむといふ方を用るなり。俗にわらふかほのうるはしきを、ゑかほよしといふ、これなり。かたはなくともといふまての心は、角の浦にはよき浦もなく潟もなしとこそよそ人はみるらめ、よしよき浦はなくとも、よしよきひかたはなくともなり。第十三に、はつせの川は浦なきか舟のよりこぬ、いそなきかあまのつりせぬ、よしゑやし浦はなくとも、よしゑやし磯はなくともとよめる、此作にゝたり。いさなとりうなひをさして、これよりわかれきての海路にみる物によせて別をなけくなり。にきたつは、伊豫の國温湯郡なり。第一卷に見えたり。かあをなるは、此集に、かくろき、かよりあふなといへる、みな發語のことはなり。同韻にてすこし眞にかよひてもきこゆ。源氏物語にもよはきを、かよはき、やすきを、かやすき、よれるを、かよれるなといへり。これは下に、玉もなすよりねし妹といふことをいはんためなり。朝はふる、夕はふるは、鳥の羽を打ふるふにたとへて、朝風夕浪のたちさはくことをいへり。羽ふるは〓の字なり。紀納言の春雪賦にも、或逐風不返、如振群鶴之毛といへり。波のむたは、浪とゝもになり。むたは今の俗語に、めたといふにもかよひてきこゆることあり。ともにといふ詞の古語なるへし。かよりかくよりは、とよりかくよりなり。此集にとにかくにといふを、かにかくにといへり。玉もなすは、玉ものことくなり。如の字を神代紀に、なすとよめり。藻の風になひくことく、しなやかなるをもいひ、又かなたこなたの藻の、なひきあふことくそひふすにもよせたり。露霜は、露と霜となり。ともにをくものなれは、をきてしくれはといはん料なり。此道のやそくまより下は、難波につきて、それより藤原の都へのほる陸路なり。八十隈は、第一卷に、神代紀を引かことし。いやとをに以下の四句、十三卷にもあり。夏草のおもひしなえてとは、夏草はしけき物なれは、それにおもひをよせ、西行法師の、よられつる野もせの草とよまれたるかことく、みな月のてる日になよ/\となる草によせて、われをこふとて打しほるらんといへり。なひけこの山は、うこきなき物なるを、故郷のみえぬをわひて、せめてのことにいふは、歌のならひ、おもしろき事なり。第十二に、あしき山木末こそりてあすよりはなひきたれこそいもかあたりみん。第十三長歌の中に、わかかよひちのおきそ山みのゝ山、なひかすと人はふめとも、かくよれと人はつけともなともよめり。項羽歌云。刀拔山兮氣蓋世。文選呉都賦曰。雖有石林之〓〓、請攘臂而靡之。そも/\此歌よしゑやしかたはなくともといひて、ことはりをいひはてすして、海路のみる物によせて妻をこふることをいへるは、胸中に山海をこめて、のとかなるよみやうなり。かたはなくともといひては、やかてわれは住なれたるうへ、妻をさへをきてくれはなと、ことはりはてゝそ海路にはかゝるへき。まことに獨歩古今といひつへし
 
反歌
 
132 石見乃也高角山之木際從我振袖乎妹見都良武香《イハミノヤタカツノヤマノコノマヨリワカフルソテヲイモミツラムカ》
 
拾遺には、石見なるたかまの山のと載らる、歌仙集の中の人麿集も如此あれば、若家集より撰て載らるゝ歟、家集は後人のしわざにて信じがたき物なり、此歌下の句を打返して、妹見つらむか我ふる袖をとなせば、意注を待ずして意明なりり、後鳥羽院御(58)歌に、石見がた高角山に雲晴て、ひれふる嶺を出る月影、此御傳にや、八雲御抄にも、領巾を袖と思召けむ、猶今の歌を取らせ給ふに付ては、不審なる御歌なり、
 
初、石見のや高角の山のこのまよりわかふるそてをいもみつらんか
此歌人の心得あやまる歌なり。そのゆへは、このまより妹みつらんかわかふる袖をといふ心なれと、さいへは、てつゝなれは、我ふる袖をといふ句を第四にをかれたるゆへに、第三のこのまよりといふに引つゝけて心得るゆへに、かへさまになるなり、昔もさりけるにや、後鳥羽院の御製に、石見かた高角山に雲はれてひれふるみねを出る月影。今の人丸の歌は、わかれきてこなたよりわかふる袖を、故郷の高角山にのほりて見おこす妹か、木のまよりみつらんかとよまれたるを、さよひめならぬ人丸、妻のひれを高角山にふらさせたまへるは、袖とひれと物たかひて男女たかひ、所たかへり。いかめしき御製なるにおとろきて、新後拾遺集に載られたれは彼撰者もさこそ心得られけめ。又此歌を拾遺集には石見なるたかまの山と載らる。この集に異本なとも有けるにや。毎々かく所の名さへ改らるゝは、心得かたきことなり。袖ふるは文選劉休玄擬古詩云。眇々長陵道、遙々行遠之、囘車背京里、揮手從此辭
 
133 小竹之葉者三山毛清爾亂友吾者妹思別來禮婆《サヽノハヽミヤモサヤニミタレトモワレハイモオモフワカレキヌレハ》
 
清爾、【六帖云、ソヨニ、】 亂衣、【家集、ミダルラム、新古今、ミダルナリ、六帖云、ワカルラム、仙覺、云古點、ミダルトモ、】 妹思、【六帖云、イモニシ、】
 
發句はサヽガハニと和すべきか、第二十に、佐左賀波乃《サヽガハノ》、佐也久志毛用阻《サヤクシモヨニ》云云、古歌の習、の〔右○〕と云べき所を、多くが〔右○〕といへば、何れにても有ぬべけれど、引る歌を證として驚かし申なり、ミヤマは直山にて、サヤニは山のさやぐと同じくさわぐなり、神代紀に聞喧擾之響焉、【此云2佐椰霓利奈離《サヤケリナリ》1、】又未平をもサヤゲリと訓ぜり、此皆さわぐなり、此集にもあまたあれば、煩はしければさのみは引ず、わ〔右○〕とや〔右○〕と同韻にて通ぜり、清の字は借てかけるなり、亂友は、六帖は一向に改たれば云に及ばず、古點は假令の意にて下句に叶はず、仙覺の今の点尤當れり、今按マガヘドモと和すべし、歌の心は、み山は靜けきものなるに、さゝ原に風吹わたれば、其み山さへさわがしくみだるれども、我は狎にし故郷を別て來ぬれば、妻を思ふ意更に紛るゝ方なしとなり、第九に、高嶋のあと川なみはどよめども、吾は家思ふたぴねかなしみ、全此心なり、又源氏野分に、風さわぎ村(59)雲まよふ夕にも、忘るゝまなく忘られぬ君、六帖にも清爾をそよに〔三字右○〕とこそ改めつるを、後の人歌に、そよにさやぐと重てよまれたるは不審なり、又新古今に、腰の句を、亂なりと改られたるは、六義の興にして比の意に、彼み山を見れば、小竹原に風吹て亂る、此我妹を思ふ心も、古里を別きぬればさわぐごとそれが如しとにや、作者の意さには侍らざるべきにや、
 
初、さゝの葉はみやまもさやにみたれともわれはいもおもふわかれきぬれは
此歌は陸にあかりて、山ちをふる時の歌なるへし。さやといふにまかふ事おほし。ひとつにはさやかなり。ふたつにはさゆるなり。霜さやくといふこれなり。三にはかたなのさやによせて、さやつかのまになとよみ、さやはちきりしなといふは、さしもやはなり。こゝにさやとよめるはさはくなり。古語拾遺曰。阿那佐夜憩【竹葉之聲也。】さゝも小竹とかきて竹の類なり。日本紀云。聴喧擾之響焉【此云左椰霓利奈離。】又同紀に未平とかきてもさやけりとよめり。古今集にもとふ鳥のこゑもきこえぬおく山とよみて、み山は物音もなく、しつかなる物を、さゝ原に風吹わたれは、そのみ山をもさはかしてみたれとも、わかわかれきて妹をおもふ心はまきれすとなり。亂友とかけるをは、まかへともともよむへし。此下の長歌よりはしめて、亂の字おほくまかふとよめり
 
或本反歌、
 
134 石見爾有高角山乃木間從文吾袂振乎妹見監鴨《イハミナルタカツノヤマノコノマユモワカソテフルヲイモミケムカモ》
 
石見爾有、【官本亦云、イハミニアル、】 吾袂振乎、【官本或作2吾振袂乎1、点云、ワガフルソデヲ、》
 
今按從〔右○〕はゆ〔右○〕ともよむべし、此集により〔二字右○〕をゆ〔右○〕とよめる所おほし、日本紀に神武天皇の御歌にもあり、古語なり、
 
初、いはみなる高角山の――
從の字は、をとも、にとも、ゆともよめり。ゆはよりなれは、今もゆとよむへし。さきの歌の異説のみ
 
135 角※[章+おおざと]經石見之海乃言佐敝久辛乃埼有伊久里爾曽深海松生流荒礒爾曾玉藻者生流玉藻成靡寐之兒乎深海松乃深(60)目手思騰左宿夜者幾毛不有延都多乃別之來者肝何心乎痛念乍顧爲騰大舟之渡乃山之黄葉乃散之亂爾妹袖清爾毛不見嬬隱有屋上乃《ツノサハフイハミノウミノコトサヘクカラノサキナルイクリニソフカミルオフルアライソニソタマモハオフルタマモナスナヒキネシコヲフカミルノフカメテオモフトサヌルヨハイクハクアラスハフツタノワカレシクレハキモムカヒコヽロヲイタミオモヒツヽカヘリミスレトオホフネノワタリノヤマノチリノマカヒニイモカソテサヤニモミエスツマコモルヤカミノ》【一云室上山】山乃自雲間渡相月乃雖惜隱比來者天傳入日刺奴禮大夫跡念有吾毛敷妙乃衣袖者通而沾奴《ヤマノクモマヨリワタラフツキノヲシメトモカクロヒクレハアマツタフイリヒサシヌレマスラヲトオモヘルワレモシキタヘノコロモノソテハトホリテヌレヌ》
 
ツノサハフは石の枕詞、別に注す、言サヘグは言のさはるなり、此もからの埼の枕詞なり、此には、辛〔右○〕の字を書たれども、三韓の韓〔右○〕の字の心になしてなり、日本紀に所々に、からの人の言を擧て、訛《ヨコナマリ》て詳にしがたしと云ひ、敏達紀に韓婦《カラメノコ》、用2韓語《カラサヘツリヲ》1、云云、此れ源氏に海人の物云をきゝ知らぬ事どもさへづりてと云ひ、孟子に、南蠻|鴃《ケキ》舌之人など云へる心に、語をサヘヅルとは点ぜり、さればからの人の言は、こゝの人の耳にさはる心にかくはいへり、此卷の下に、ことさへぐくだらの原とあるも此心なり、イクリは仙覺抄に、い〔右○〕は發語の詞、くり〔二字右○〕は石なり、山陰《セムオム》道の風俗、石をばくり〔二字右○〕と云なりといへり、(61)今の世なべてくり石〔三字右○〕と申は、ちひさきを申せば、栗〔右○〕ばかりの石と云心にや、山陰道には大小を問ず皆くり〔二字右○〕と云にこそ、今按、應神紀の御製に、由羅能斗能《ユラノトノ》、斗那珂能異句離珥《トナカノイクリニ》と遊ばされ、此集第六、赤人の歌にもよまれたれば、伊は發語の詞ならず、くり〔二字右○〕は山陰道の風俗によらずして元來いくり〔三字右○〕と云なるべし、又舊事紀第三云、櫛八玉《クシヤタマノ》神、化《ナリテ》v鵜入2海底(ニ)1咋《クヒ》2出底之埴1、作2天(ノ)八十毘良迦《ヤソヒラカ》1、云云、此を合せて思ふに、泥の黒きを※[さんずい+(日/工)]《クリ》と云へば、發語の詞を加て,いくり〔三字右○〕と云にや、深海松は、延喜式の宮内に、志摩、【深海松、】又長海松と云も見え、又此集に俣海松《マタミル》ともよめれば、此等は梅松の中の別名なり、荒礒は前に云ごとくアリソとも讀べし、深メテ思フトサヌル夜ハ、イクバクモアラズとは、餘に人目を忍び過し、又は後を頼過して逢夜の少き心なり、十一に、かくばかり戀む物ぞとおもはねば、妹が袂をまかぬ夜も有き、十四東歌に、梓弓未に玉まきかくすゝぞ、寢なゝ成にし奥をかぬ/\、此奥は後の心なり、人に深くかくすとてぞ、ねず成し後も逢むと末かけてたのむまにと云るなり、今も此意なり、此に依て見れば、迎てすゑ置たる妻にはあらで、時々通ひすまれたるなるべし、ハフツタノとは、蔦は末々にはひわかるゝ物なれば、別るとつゞけむ爲なり、後に至ても多し、肝向心ヲ痛ミとは、憂ある時に心と、肝との二つを痛ましむる心か、遊仙窟云、下官《ヤツカレ》當v見2此詩1、心膽倶(ニ)碎(ク)、文選、歐陽建、臨(62)終詩云、痛哭摧2心肝1、今按遊仙窟に、心肝恰欲v摧とあるを心肝の二字を引合てキモと點じ、雄略紀に心府をコヽロキモと点ず、玉邊云、府聚也、かゝれば、心も肝も互にこゝろ〔三字右○〕ともきも〔二字右○〕とも云へば、大守の國府に居る時諸郡此に向ふやうに、あらゆるきも心を主として此に向ふ意にて、心肝相對するにはあらで、村肝の心とあまたよめるに同じかるべし、兩義何れにもあれ、肝向ヒと点ぜるは叶はず、向フと改むべし、古事記下、仁徳天皇の御歌末云、岐毛牟加布許々呂袁陀邇迦《キモムカフコヽロヲタニカ》、阿比淤母波受阿良牟《アヒオモハズアラム》、此を證とすべし、大舟ノ渡ノ山とは、舟にて海川を渡る心にそへたり、此山何れの國に有と云事を知らず、妹ガ袖サヤニモ見エズとは、妹も袖ふるらめど、黄葉の散まがひて、さやかにも見えぬなり、ツマコモル屋上ノ山とそへたるは、人の妻は深き屋にすゑおく物なる故なり、第十二、妻こもるやのゝ神山とよめるも同じ心なり、凡家は南陽をうけて作る故に、女は北に陰の位に當て深く住めば、北堂北の方など云ことも有なり、或者に尋るに、備前赤坂(ノ)郡に、八上と云所有と申き、此に依て和名を考るに、げにも赤坂郡に宅《ヤカ》美あり、流布の本注を失へる故にえよまず侍りき、かゝれば備後備前海路の次なり、一本の室上山、此山は何處と云ことをしらず、山の字は衍文か、さらずば乃の字なるべし、クモマヨリ渡ラフ月とは.雲の絶間に見えて西に渡月なり、雲間の(63)月としも云ことは、下の二句を云んが爲なり、雖惜はヲシケレドとも讀べし、カクロヒクレバとは、故郷も妹が袖も隱るゝなり、此は別の悲を別來てよむ故に、經る所の次に寄て言を綴るなり、孟子のいはゆる志をむかへて見るべし、筌を忘ずして強て理窟を探らざれ、天傳入日サシヌレとは、日は天路を傳ひ行故にかくつゞく、下にも多し、第三には久方天傳來自《ヒサカタノアマツタヒコシ》とのみもよめり、第七に天傳日笠浦《アマツタフヒガサノウラ》とあるを六帖にあまつたひ〔五字右○〕とよみたれば、今もしかよむべし、第三を以て證すれば、やがて日の名なり、さしぬればと云ざるは古語なり、加て意得べし、夕になれば彌陰氣に催されて、日比大丈夫と思あがりしかひなく離別の悲に袖をしぼるとなり、
 
初、角さはふ石見の海の
此つのさはふをすふさはふとよめるは、あやまりなり。仁徳紀に、天皇の、兎怒瑳破赴以破能臂謎餓とよませたまい、繼體紀に、春日皇女、勾大兄皇子【安閑天皇】にこたへ給ふ御歌にも、つのさはふいはれの池とよみたまへり。つのはかとなり。石にはかと/\のありて物にさはれはかくはつゝくるなり。顯昭法師の説に、つのとは石見の國に角といふ所あり。その所をさへてみせぬ石といふ心といひ、かもしゝの角を石にかけてぬれはいふなといへる説、みな用るにたらす。ことさへぐからの崎とつゝくるは.ことさへくは、ことはのさはるなり。日本紀に韓婦用韓語言といへるかことく、からの人はもとよりものいひよからねは、からさえつりともいひ、また國のかはりて、ことはもかはれは、此國の人のみゝにさはりてきこゆるゆへに、かくはつゝくるなり。下にいたりて、ことさへく百濟の原とつゝけたるもこれなり。いくりにそ、いくりは石なり。第六にも、わたのそこおきついくりにともよめり。日本紀第十應神天皇御歌にも、ゆらのとのとなかのいくりにとよませたまへり。ふかみるは、みるの中の一種にや。延喜式三十一宮内式、諸國例貢御贄のうちに、志摩【深見松】。又同式に、長海松といふもあり。あらいそにそ玉もはおふる、これは玉もなすをひきねしこをといひ、ふかめておもふともいはんために、所からのにつかはしき物よりいへり。六義の中の興の心に似たり。第十三に朝なきにきよるふかみる、夕なきにきよるなはのり、ふかみるのふかめしこらを、なはのりのひけはたゆとやといへるつゝき、こゝにゝたり。さぬるはよく物につけていふ詞にて、たゝぬるなり。すこしぬるといへるは誤なり。いくはくもあらすとは、あかぬ心からいく夜もねぬやうなるをいへり。はふつたのわかれしくれはとは、つたかつらのたくひは末々はひわかるれは、わかるといはむとてなり。第九に哀弟死去作歌にも、とをつくによみのさかひに、はふつたのをのかむき/\、天雲のわかれしくれはとよめり。肝むかふ心をいたみとは、物を思なけく時、肝と心とのふたつの臓をいたましむるといふ心なり。禮記曰。祭肺肝心、貴氣主也。肝は木、心は火なるゆへに、肝まついたみて心にをよふなり。文選歐陽建臨終詩にも、痛哭摧心肝といへり。むかふは對する心なり。今案、これを第一卷にむらきもの心をいたみといふに同し心にて、むかふは群臣の王にむかふ心にて、みな心に歸して、心の命をうくるをいふにや。大舟のわたりの山、いつれの國ともしらす。ありあひたるよき枕詞なり。つまこもるやかみの山とは、人のつまはおくふかきやにかくれゐて、外の人にま見えぬものなれはかくはつゝくるなり。つまこもるやのゝ神山ともよめり。やかみといふ所の備前にありといへはそこにや。雲まよりわたらふ月のおしめともとは、雲まの月のたま/\はれたるか又村雲に入ゆくをおしと思ふに、故郷の見えすなりゆくをおしむによそへたり。天つたふ入日さしぬれ、天路を日のつたひ行を、天つたふといへり。あまつたふひかさのうらともつゝけよめり。さしぬれはといふへきに、はの字なきは古風なり。夕になれは陰氣に感していよ/\心ほそくなるなり
 
反歌二首
 
136 青駒之足掻乎速雲居曾妹之當乎過而來計類《アヲコマノアカキヲハヤミクモヰニソイモカアタリヲスキテキニケル》 【一云當者隱來計留】
 
青駒は、和名云、説文云、※[馬+怱]【音聰、漢語抄云※[馬+怱]青馬也、】青白雜毛馬也、アガキは、文選東都賦云、馬|※[足+宛]2餘(リノ)足1、輸曰※[足+宛](ハ)屈也、言(ハ)馬之足力有v餘、】異を注する中に、一云の下に妹之の二字脱たるべし、如此句を斷て注する例なし、
 
初、青駒のあかきをはやみ雲居にそ妹かあたりを過てきにけり
和名集説文云。※[馬+總の旁]【音聰、漢語抄云※[馬+總の旁]青馬也。】あかきは※[足+宛]の字なり。第十一に、赤駒のあかきはやくは雲居にもかくれゆかんそゝてまけわきも。此歌は舟にのる所まて馬にて出立れけるなるへし
 
(64)137 秋山爾落黄葉須臾者勿散亂曾妹之當將見《アキヤマニオツルモミチハシハラクハナチリミタレソイモガアタリミム》【一云知里勿亂曾】
 
今按、是は渡の山のもみぢ葉の、散のまがひにと云をかへしてよまれたれば、第四の句ナチリマガヒソと和すべきにや、注可v准v之、
 
或本歌一首并短歌
 
138 石見之海津乃浦乎無美浦無跡人社見良目滷無跡人社見良目吉咲八師浦者雖無縱惠夜思滷者雖無勇魚取海邊乎指而柔田津乃荒礒之上爾蚊青生玉藻息都藻明來者浪己曾來依夕去者風己曾來依浪之共彼依此依玉藻成靡吾宿之敷妙之妹之手本乎露霜乃置而之來者此道之八十隈毎萬段顧雖爲彌遠爾里放來奴益高爾山毛越來奴早敷屋師(65)吾嬬乃兒我夏草乃思志萎而將嘆角里將見靡此山《イハミノウミツノウラヲナミウラナミトヒトコソミラメカタナミトヒトコソミラメヨシヱヤシウラハナクトモヨシヱヤシカタハナクトモイサナトリウナヒヲサシテニキタツノアライソノウヘニカアヲナルタマモオキツモアケクレハナミコソキヨレユフサレハカセコソキヨレナミノムタカヨリカクヨリタマモナスナヒキワカネシシキタヘノイモカタモトヲツユシモノオキテシクレハコノミチノヤソクマコトニヨロツタヒカヘリミスレトイヤトホニサトサカリキヌマスタカニヤマモコヘキヌハシキヤシワカツマノコカナツクサノオモヒシナエテナケクラムツノヽサトミムナヒケコノヤマ》
 
此點の同異、今案の點等上の歌に准ず、第二の句津乃浦ヲナミは、上に角乃浦囘と云所の名にあらで.大舟などあまた泊る浦となる浦のなしと云心なるべし、若然らずばつの浦をなみと云こと不審なり、さきの如く先角浦と名をば定置て、よき浦なしと人こそ見らめとぞ有べき、さらずば、津乃浦無美、うらなみとと云べし、さるにても元來みづから能浦なしと見ば、人を待ずして浦はなけれど滷はなけれどと云べき理なれば、それもいはれず、津乃浦とかけるに付て思ふに、唯初に申つる義なるべし、其外は替れる義なし、
 
反歌
 
139 石見之海打歌山乃木際從吾振袖乎妹將見香《イハミノウミウツタノヤマノコノマヨリワカフルソテヲイモミツラムカ》
 
初、いはみの海うつたの山の――
長門の國の僧のかたりしは、長門より石見へ濱つたひに行道に、長門のうちに、うたといふ所あるよし申き。そこなとにもや侍らん
 
右歌體雖同句句相替因此重載。
 
柿本朝臣人麿妻依羅娘子與人麻呂相別歌一首
 
(66)人麿の前妻は文武天皇四年以後死去と見えたり、子細は北卷末に至て見ゆべし、然れば此妻は大寶慶雲の間に迎られたるべし、人麿の旅行は、第三に筑紫へ下らるゝ時の海路の歌、又第一第三に近江へ下られたる時の歌あり、又第三に、けびの海のにはよくあらじとよみ、第十に、やたの野に淺茅色付とよまれたる歌もあれば、越前へも赴かれたりと見ゆ、文武の朝に、行幸の供奉、又は勅を奉てよまれたる歌見えぬは、右の國々の屬官などに年を送られ、此歌もそれらの別の時によめるか、又此卷下に、人丸石見へ下て死せらるゝ時の歌あれば其度の別にや、何れの度とも知がたし、
 
初、柿本朝臣人麿妻依羅娘子與人麿相別歌一首
さきにいへるかことく、依羅娘子は後妻なり。前妻の身まかれる時代をかんかへ、後妻をめとられけるころをはるかに、前妻の身まかれる事をかなしふ歌の或本の歌の終に、うつそみとおもひし妹かはひしてませはといへり。續日本紀第一、文武紀云。四年三月己未、道昭和尚物化。○弟子等奉遺火葬於栗原、天下火葬從此而始也。かゝれは文武天皇四年の後、大寶慶雲のあひたにみまかりて火葬せられたるへけれは、依羅娘子をめとられけるはまたそのゝちの事なり。第三に、柿本朝臣人麻呂下筑紫海路作歌とて二首を載たれは、筑紫へもおもむかれ、笥飯の海のにはよくあらしといふ歌も、同卷に人麿の※[覊の馬が奇]旅歌八首の中に入たれは、北國へも下られたりと見えたれと、いつのころとは知かたし。石見へ下りて身まかられたれは、そのたひの別の歌にやとそ覚え侍る。いつれにまれ、藤原宮御宇天皇代と標したるは、文武天皇にもわたるを、惣標の下に注して、天皇謚曰持統天皇といへるは、此集いまたよく檢閲をくはへぬ草案にして世に流布せるゆへに、あやまれる歟。あるひは下の注は、後人のしわさなとにもあるへし
 
140 勿念跡君者雖言相時何時跡如而加吾不戀有牟《オモフナトキミハイフトモアハムトキイツトシリテカワカコヒサラム》
 
拾遺、家集、六帖、一同なる上、義尤然るべし、相時はアフトキヲともよむべし、終の乎の字は牟の字の誤れるなり、歌の心明なり、拾遺には此歌を人丸の歌として戀に載らる、似たる歌にて、第十二人丸集の歌に、後にあはむ吾《ワレ》を戀なと妹はいへど、こふる間に年はへにつゝ、相聞なれば此(レ)こそ叶ひ侍らめ、六帖に、別に入たるは得たるを、君を妹に改て此も人丸の歌とす、此等は家集に、さみの郎女相別侍ける時のと有を取用(67)たるか、郎女にといはざれば、郎女が歌を書入たらむとも申なすべくや、
 
初、おもふなと君はいへともあはむ時いつとしりてかわかこひさらん
雖言はいへともとよむへし。いふともとよめるはむつかし。有牟の牟をあやまりて乎に作れり。第十二に後にあはん我をこふなと妹はいへとこふるあひたに年はへにつゝ。この歌今の歌に似たり。拾遺集に、題不知、人まろとて載られたるは誤なり。此歌ことはかきなくとも、女のうたとはきこゆへくや
 
萬葉集代匠記卷之二上
 
(1)萬葉集代匠記卷之二中
 
挽歌
 
此義別に注す、後の集の哀傷なり
 
後崗本宮御宇天皇代 天豐財重日足姫天皇
 
有間皇子自傷結松枝歌二首
 
孝徳紀云、立2二妃(ヲ)1、元妃阿倍(ノ)倉梯《クラハシ》麻呂大臣(ノ)女曰2小足媛《ヲタラシヒメ》1生2有間(ノ)皇子1、齊明紀云、三年九月。有間(ノ)皇子|性黠《ヒトヽナリサトシ》陽狂《イツハリタワレテ》云云。徃2牟婁(ノ)温湯(ニ)1僞v療《ヲサムル》v病來|讃《ホメテ》2國(ノ)體勢1曰|纔《ヒタスラ》觀2彼(ノ)地1病自※[益+蜀]消《ノソコリヌト》云云、天皇聞悦、思3欲徃觀2彼地1、四年冬十月庚述朔甲子、幸2紀温湯(ニ)1云云、十一月庚辰朔壬午、留守官蘇我(ノ)赤兄(ノ)臣語2有間皇子1曰、天皇所v治政事、有2三失1矣云云、有間(ノ)皇子乃知2赤兄之善1v己、而欣然報答之曰、吾年始可v用v兵時矣、甲申有間(ノ)皇子向2赤兄(ノ)家1登v樓而謀、夾膝《オシマツキ》自斷、於v是知2相之不祥1倶盟而止、皇子歸而宿之、是夜半赤兄遣2物部|朴《エ》井連鮪1率2造v宮|丁《ヨホロ》1圍2有間(ノ)皇子於|市經《イチフノ》家1、便遣2驛使1奏2天皇所1、戊子捉3有間(ノ)皇子與2守君大石、坂合部(2)連藥、鹽屋連鯏魚1、送2紀温湯1、舎人新田部末麻呂從焉。於v皇太子親問(テ)2有間皇子(ニ)1曰、何故(カ)謀人《ミカトカタフケントスル》、答曰、天與2赤兄1知、吾全不v解、庚寅遣2丹比(ノ)小澤《ヲサハノ》連國襲1、絞《クヒル》2有間(ノ)皇子於藤白(ノ)坂1、是日斬2鹽屋連|※[魚+制]魚《コノシロ》、舎人新田部連末麻呂於藤白(ノ)坂1、鹽屋連※[魚+制]魚、臨v誅言、願(ハ)令3右(ノ)手作2國寶器1、流2守君大石於上毛野國(ニ)坂合部藥於尾張國1、此下の注に異設を擧る中に、皇子年始十九未v及v成v人と云へり、先達の設の中に日本紀を能考へざる事ある故に今引て始終を明せり、十一月九日補へられて牟漏(ノ)郡へおはしまし、十一日に藤白にて絞られたまへば、此は十日に帝の御許へおはする道に磐代を過とて、我運命いまだ盡ずして事の樣を申ひらき、其を聞召分て助け給ふ事もあらば、又歸て此松を見んと引結て讀せたまふなるべし、他の皇子に准ずるに、此皇子も御歌と云ふべきを、歌とのみあるは若脱たるか、罪有て經《ワナカ》れ給ふ故なりといはゞ、大津皇子も御歌と云べからざるをや、
 
初、有間皇子自傷結松枝歌二首
有間皇子は孝徳天皇の御子なり。齊明天皇四年に、謀反の御心あらはれ給ひ、十九歳にして紀州藤白坂にしてくひられたまへり。孝徳紀云。立二妃、元妃阿倍倉梯麿大臣女、曰小足媛、生有間皇子。○齊明紀云。三年九月、有間皇子性黠陽狂云々。かくのことくなれは、十一月十日に磐代の濱を過たまふとて、我運命いまた盡すして、事の始終を申ひらき、それをきこしめしわけてたすけたまはゝ、又かへりて此松をみんと神のたむけに引むすひてつゝかなからんことをいのりてよませたまへるなるへし。されともそのかひなくて、十一日に藤白坂にして身まかりたまへれは、後の人、その松の猶結はれなからあるをみてなけきける歌をも、此つゝきに載たり。一條禅閤の歌林良材集にかゝせたまへる注もあやまりたまへるゆへに、今つふさに日本紀をひけり。長流かわかゝりし時かけるものに、松を結ひたまへるは、始むろの湯に往たまひし時のことかとあれとしからす。自傷結松枝といへるにてこゝろうへし
 
141 磐白乃濱松之枝乎引結眞幸有者亦還見武《イハシロノハママツカエヲヒキムスヒマサキクアラハマタカヘリミム》
 
歌の心明なり、六帖に昔を戀と云に載たる心知がたし、
 
初、いはしろのはままつかえを
第一卷のはまゝつかえの手向草といふ歌に注しつ。歌のこゝろあきらかにあはれなる御歌なり
 
142 家有者笥爾盛飯乎草枕旅爾之有者椎之葉爾盛《イヘニアレハケニモルイヒヲクサマクラタヒニシアレハシヒノハニモル》
 
(3)笥は玉篇云、思吏切、竹作盛v飯方器也、和名云、禮記註云、笥【思吏反、和名計】盛v食器也、さらぬだに旅侘しきを、殊に謀反の事によりて捕はれて物部《モノヽフ》の中に打圍まれておはします道なれば、萬引かへたる樣、笥にもる飯を椎の葉に盛とよませ給へるにこもれり、孝徳天皇の御子なれば、位に即かせたまふまでこそなくともさておはしまさば世に重んぜられておはすべきに、由なき事思ひ立給て刑戮の辱に遇たまふは不思儀の事なれど、此二首の御歌殘りて今の世の人まであまねく知參らするも、偏に此道の徳なり、端作の詞には此歌は叶はぬ樣なれど、初の歌を先として云へり、かゝる事あやしむべからず、
 
初、家にあれはけにもるいひを草枕たひにしあれはしひのはにもる
和名集云。禮記註云、笥【思吏反和名計】盛食器也。武烈天皇紀に、物部影媛か歌にも、玉笥にはいひさへもり、碗に水さへもりとよめり。さらぬ旅たにあるをことに謀反の事によりてとらはれてものゝふの中に打かくまれておはします道なれは、椎の葉にもるまてのことはなくとも、よろつ引かへてあさましかるへけれは、此二首の御歌に、その折の御こゝろ、たましゐとなりてやとれるにや、かなしきことかきりなし。孝徳天皇の御子にて、御位につかせたまふことはなくとも、さておはしまさは世におもくせられておはしますへきに、よしなき事おもひたゝせたまひて、刑戮のはつかしめにさへあはせたまふは、不思議のことなれと、此御歌の殘りて、他の皇子たちの身をたもちて世を過させたまひなから、何のしるされ事もおはしまさぬよりも、末の世まて人の知まいらすることはひとつに和歌の徳なり。此歌は結松枝といふにはかなはねと、はしめの歌につけて、同時の歌にもあれは、結松枝歌二首とはいへり。聖教に文證なとを引時、そこにかなはぬ事もましれと、同文故來の例とするかことし
 
長忌寸意吉磨見結松哀咽歌二首
 
143磐代乃岸之松枝將結人者反而復將見鴨《イハシロノキシノマツカエムスヒケムヒトハカヘリテマタミケムカモ》
 
又見給はぬ事は知ながらかやうによむ事歌の習なり、たゞ又も見給はずといはんより悲しく聞ゆるなり、
 
144磐代乃野中爾立有結松情毛不解古所念《イハシロノノナカニタテルムスヒマツコヽロモトケスムカシオモヘハ》
 
(4)未詳
 
結松を承て心モトケズといへるは題の哀咽なり、ムカシオモヘバの點、字に叶はず、六帖にはむかしをぞ思ふとあり、今按、イニシヘオモホユと和すべし、人丸集と云物に入たるを見て拾遺には載られたるか、注の未詳こそ又何故にいへるにかと詳ならね、衍文にや、若下の大寶元年の歌に作者なければ、そこより此にまじはり來れるか、
 
山上臣憶良追和歌一首
 
此は有間(ノ)皇子の歌を和するか、意吉麿が歌を和するか、按ずるに意吉麿が歌に次て追和と云ひ、歌の樣も二首の中の初を和すと見えたり、
 
145 鳥翔成有我欲比管見良目杼母人社不知松者知良武《トリハナスアリカヨヒツヽミラメトモヒトコソシラネマツハシルラム》
 
鳥翔ナスは鳥の羽の如なり、有カヨフは此に兩義あるべし、一つには有て常に通なり、二つには此集に蟻通と書たれば、蟻は同じ道を絶ず往來すればそれに喩て云か(5)集中に多き詞なれば委は別に注す、されば皇子の神魂は鳥の飛が如く天かけりて見給らめどもなり、履中紀云、有2如v風之聲1呼2于大虚1曰、鳥往來羽田之汝妹羽狹丹葬立往《トリカヨフハタノナニモハサニハフリヌ》云云、源氏に、中宮の御事にても、いと嬉しく參となん、天翔でも見奉れど、道ことに成ぬれば云云、これは奥丸が、人は反て又見けんかもといへる所を押へて和する心なり、下の句の心は、生死道殊なれば、靈魂ばかりの空にかよひて見るをば、我等こそしらね、無心の松は却て知らんとなり、第三第七に木の葉知らんとよめり、
 
初、鳥翔なすありかよひつゝ――
鳥の羽のことく、有間皇子のたましひは、今もあまかけりてみたまはんといふ心なり。履中紀云。有如風之聲、呼于大虚曰。○鳥往來羽田之汝羽狭丹葬立往、源氏物語澪標に、ふりみたれひまなき空になき人のあまかけるらんやとそかなしき。ありかよふは、此集におほき詞なり。文選に蟻同とかきて、ありのことくにあつまるとよめり。あひあつまりておなし道をたえすゆきかへり.ゆくと歸るとあひ逢ては何やらん物いひて、色代なとするやうなれは、唐劉禹錫詩にも、※[土+皆]蟻相逢如2偶語(・スルカ)1と作れり。かゝれはありかよふといふなり。人は神と境界ことなれは、人こそしらね、無心の松はかへりて皇子のみたまのありかよひたまふことをしるらんとなり。玄奘三蔵の摩頂松の故事なとおもひあはすへし
 
右件歌等雖不挽枢之時所作唯擬歌意故以載于挽歌類焉
 
玉篇云、挽、亡遠切、柩、【渠久切、尸在v棺其棺曰v柩、】白虎通曰、在v柩(ニ)曰v柩、究也、久也、不2復(タ)彰1也、釋名曰、柩(ハ)究也、送v終隨v身之制、皆究備(スルナリ)也、文選曹子建悼(ム)2王仲宣1誄曰、喪柩既臻、將v反2魏京1、此注は次下の歌の後に有けんが、傳寫の後誤て此に來れるなるべし、其故は齊明天長の御代と標して載たるは有間(ノ)皇子の二首にて、以下の四首は類を以て此に載る故に後人の難を避む爲に注するなり、
 
初、挽柩、玉篇云。柩【渠救切、尸在棺、其棺曰柩。】白虎通曰。在棺曰柩、柩究也、久也、不復彰也。釋名曰。柩究也、送終隨身之制、皆究備也。曹子建悼王仲宣誄云。喪柩既臻、將反魏京
 
大寶元年辛丑幸于紀伊國時見結松歌一首
 
(6)寶を誤て實に作れり、歌の上に例に依に作の字脱たるか、此行幸第九に見えたるを、第一につら/\椿の歌の所に既に引合て注せり、
 
初、大寶元年――寶作v實誤
 
146 後將見跡君之結有磐代乃子松之宇禮乎又將見香聞《ノチミムトミキカムスヘルイハシロノコマツカウレヲマタミケムカモ》
 
君を誤て若に作れり、ウレは末の字なり、藤のうら葉など云うら〔二字右○〕と同じ言なり、歌の意明なり、
 
初、後見んと君かむすへる。君を若につくれるはあやまれり。うれとは、末の字をうれともうらともよめり。此歌のひたりに作者の名をおとせる歟。あるひは作者未v詳なといふことをうしなへる歟。又さきの右件歌等以下の詞こゝにありぬへくおほゆ
 
近江大津宮御宇天皇代 天命開別天皇
 
天皇聖躬不豫之時太后奉御歌一首
 
天智紀云、十年九月天皇寢疾不豫【或本、八月天皇疾病、】冬十月甲子朔庚辰、天皇疾病|彌留《オモシ》、同紀云、七年二月丙辰朔戊寅、立2古人(ノ)大兄(ノ)皇子女倭姫王1爲2皇后1、舒明紀云、夫人《オホトシ》蘇我(ノ)嶋(ノ)大臣女|法提郎媛《ホヽテノイラツメ生2古《フル》人(ノ)皇子1、【更名(ハ)大兄皇子】
 
初、天皇聖躬不豫之時。天智紀云。十年九月天皇|寢疾不豫《ミヤマヒシタマフ》【或本八月天皇疾病】冬十月甲子朔○庚辰天皇|疾病彌留《ミヤマヒオモシ》
 
147 天原振放見者大王乃御壽者長久天足有《アマノハラフリサケミレハオホキミノミイノチハナカクテタレリ》
 
下句、【古点云、イノチハナカクアマタリアリシ、官本更點云、ミイノチハナカクアマタラシタリ、幽齋本更點云、オホミイノチハナカクアタリシアリ、
 
(7)振放ミレバは振は打掻等の類にて語の字、放は遠さけなどのさけにて、近より遠くなるを云のみならず、おのづから遠をも云なり、末に振仰とも書り、空を望むに高ければ振あふぐ故なり、歌の意は、詩の興の如く、空を望めば遙に遠く遙に長し、かくのごとく、御命も長く足り滿てましまさんと、御悩の早く平愈し給はむ事を祝て奉りたまふなるべし、今按、第十三の十七紙に長歌の終の句に、天之足夜于、此結句を今の歌に引合せてアメノタルヨニと和し替べきにやと存ずる按あり、委はそこに注すべし、彼を以て此を思ふに長久天足有をば長クアメタレリと点ずべきか、幸に右に出す諸點此意なり、されども古點は御の字を忘れたる上にアマタリアリシの点拙し、官本の又の点はアマタラシタリ快からず、幽齋本の又の点は、御命よりも長過て、あまたりしあり、甚拙し、
 
初、あまの原ふりさけみれは。老子經に天長地久といへり。此御歌は、天のとこしなへなることく、君も天子にてましませは、すなはちみいのちは、天とひとしく長からんといはひて奉れたまふなるへし。又あるか中に、天のみかとゝ申奉りて、中興の君にて、十陵の第一にあかめ、七廟の太祖にあて、他のみささきは昭穆に准して、うつしかふる事あれとも、此天皇のみさゝきをのそく事なけれは、元來天とひとつにてましますことを、后はよくしらせたまひて、かくはよみたまへる歟
 
一書曰近江天皇聖體不豫御病急時太后奉獻御歌一首
 
148 青旗乃木旗能上乎賀欲布跡羽目爾者雖視直爾不相香裳《アヲハタノコハタノウヘヲカヨフトハメニハミレトモタヽニアハヌカモ》
 
雖視、【官本視作v見、校本與v今同、】 不相香裳、【幽齋本又云、アハシカモ、】
 
青旗は禮記云、前有v水則|載《タツ》2青旗1、同月令云、載《タツ》2青|※[旗の其が斤]《キ》1【渠希切、縣2旌於竿1】此は木幡といはん爲の枕(8)辭なり、木のしげりたるは青き旗を立たらんやうに見ゆればなり、第四に青旗の葛木山と云ひ、十三に青幡|忍坂《オサカノ》山と云へる皆同じ意なり、仙覺抄に常陸の風土記を引れたるは此に用なし、此御歌下句今の點にては如何なる意をよませ給へりとも辨じ難し、今按、目ニハ見ルトモタヾニアハジカモなるべきか、其故は此帝の御事を日本紀には崩御の由慥に載られたれども、日本靈異記と申す書には、御馬にめして天へ上らせ給ひければ、其御沓の落たる所に御陵は築れたる由侍るとかや、然れば彼陵の山科と木幡とは近く侍れば、神儀の天かけりて木幡を過、大津宮の空にも通はせ給はん事を皇后兼て能く知食せども、神と人と道異なれば、よそには見奉るともうつゝに直にはも、えあひ奉らざらんかと歎てよませ給へるか、黄帝の龍に騎て鼎湖の雲に入りし例なきにあらず、又登天の説につかずとも、假に崩御の儀を示して山陵をば山科にしめ給ふとも、神靈は天翔給はむ事をよをせ給へるか・唯ならぬ御歌なり、此卷下に至て人丸死去の時、依羅《ヨサミノ》娘子がたゞにあはゞ逢もかねてんとよめる歌思ひ合すべし、幽齋本の又の点、結句のみをタヾニアハジカモと有はいかなる心とも知侍らず、
 
初、青はたのこはたの。青はたは、此集に今の歌、又第四に青旗のかつらき山、第十三に青はたの忍坂山ともよみたれは、別に尺してつけぬ。第十九に、わかせこかさゝけてもたるほゝかしはあたかもにるかあをきゝぬかさともよめることく、木のあまた青やかにてたてるか、青き旗をさしならへたるやうなれは、つゝくるなるへし。雖視をみれともとよみ、不相をあはぬとよめるはあやまれる歟。みるともとよみ、あはじとよむへし。そのゆへは、日本紀には、十二月三日に崩御したまふよしはしるされたれとも、世には御馬にめしなから天へのほらせたまひて、その御沓のおちたるところに、陵はつくれるよし申傳たるか、后の此御歌をみれは、いかさまにも只ならぬ御詞なり。崩御の後こそ根の所も點せらるへきに兼て木幡の上をなとよませたまへるは、尤はかりかたきことなり。よりてこれは後の事をかねてよませたまふとみゆれは、みるともとよみ、あはしとよむへしとは申なり。崩し給はん後、よそめには見奉るとも、今のことくまのあたりはあひ奉ることあたはさらん歟となり。淮南王劉安は謀反して自殺せられたるよし、史紀にたしかに載たれとも、彼淮南子をみれは.謀反なとすへき人からとも見えす。劉向か列仙傳に登仙のよしをのせ、八公山に後まてその跡ありといへは、和漢ともにはかりかたきことおほし。ことに本朝は神國にて、人の代となりても國史に記する所神異かそへかたし。たゝ仰てこれを信すへし
 
天皇崩御之時倭太后御作歌一首
 
(9)天智紀云、十二月癸亥朔乙丑、天皇崩2于近江宮1、曲禮云、天子死曰v崩、左傳注疏云、天子崩若2山崩1然、倭太后は前後たゞ太后とのみあれば倭は衍文か、若倭姫太后といへる姫の字脱たるか、
 
初、天皇崩御之時倭大后御作歌一首
天智紀云。十二月癸亥朔乙丑、天皇崩于近江宮。曲禮云。天子死曰崩。左傳注疏曰。天子崩若山崩然。爾雅(ニ)曰。崩落死也。倭太后は古人大兄皇子の御女、さきに太后といへ石におなし。天智紀云。冬十月甲子朔庚辰、天皇疾病彌留。勅喚東宮引入臥内。詔曰朕疾甚以後事屬汝云々。於是再拜、稱疾固辭不v受曰、請擧洪業付屬大后、令大友王奉宣諸政、臣請願爲天皇出家修道。天皇許焉。東宮即入於吉野
 
149 人者縱念息登母玉※[草冠/縵]影爾所見乍不所忘鴨《ヒトハイサオモヒヤムトモヤマカツラカケニミエツヽワスラレヌカモ》
 
縦をイザと讀たる傍例いまだ見及ばず、今按上の十八紙にある人丸の歌に、よしえやしと云に從畫屋師と書き、第六の元興寺の僧の歌にも、此をよしとよめり、延喜式第十一云、縱【讀曰2與志1】かゝれば人ハヨシと讀べし、他の人はよしたとへかゝる歎を思ひやむともなり、奥儀砂云、玉かづらはふ木あまたに成ぬればと云歌を釋する中に、又女のする鬘をも玉かづらと云、それにまがはしてかしく心うる人もやあらんといへり、かゝるに仙覺抄云、玉※[草冠/縵]とは冠の纓を云なり、此兩説一六なるに依て和名を考ふるに纓、【於盈反、俗云2燕尾1】とのみ有てかづらと云はず、然るを安康紀雄略紀に亘て、坂本(ノ)根使主《ネノオミ》と云人、大草香(ノ)皇子の押木珠縵《オシキノタマカツラ》と云寶物を盗取て呉人に饗《ミアヘ》賜ふ時、此を著て共食《アヒタケ》者となれる事見えたり、凡冠の製は推古天皇十一年十二月に定らるゝを濫觴とすれば、女の懸るは勿論にて纓にはあらずして昔は男も珠縵を首の飾に懸けるな(10)るべし、又持統紀云、以2華|縵《カヅラ》1進2于殯《ムカリノ》宮1此曰2御蔭《ミカゲ》1、此は天武天皇崩御の時の事なり、此に准ずるに天智天皇の崩じ絵ひし時も此事有けるにや、彰ニ見エツヽは面影に見えつゝなり、容鳥《カホドリ》のかほに見えつゝなどもよめるも此類なり、貫之歌に、かけて思ふ人もなけれど夕暮は面影絶ぬ玉かづらかな、かやうに多く影をそへてよめるは、美麗なる容顔の上に玉縵をさへ懸たらんは誠に面影あるべき物なり、又白川のみづわくむまでとも、玉だれの見ずばとむつゞけたる樣に、懸を影に兼てつゞくとも申べけれど、多は句を隔てゝ面影とつゞけたれば其義なるべからず、又ワスラレヌを後にワスラエヌとよめり、聲を捨て韻を取て讀こと例多ければ古語なるべし、今も傍例に依べきか、
 
初、人はよしおもひやむとも玉かつら
縱をいさと訓したるはあやまれり。よしとよむへし。よしは善惡のよしにはあらす。よしたとひといふ心にて、かりにゆるす詞なり。延喜式第十一云。縱【讀曰與志】。此集第六の三十五葉にも、よしとよめり。玉かつらとはかほよきうへにうるはしきかつらかけたらんは、まことにおもかけにみゆへきものなれは影に見えつゝといはんために、玉かつらとはのたまへり。貫之歌にも、かけておもふ人もなけれは夕くれはおもかけたえぬ玉かつらかな。又懸をかぬる心も有へし
 
天皇崩時婦人作歌一首 姓民未詳
 
和名云、婦人【太乎米來、】民は氏に作るべし、
 
初、婦人
和名抄云。日本紀云。婦人【太乎夜米】。姓氏之氏誤作民
 
150 空蝉師神爾不勝者離居而朝嘆君放居而吾戀君玉有者手爾卷持而衣有者脱時毛無吾戀君曾伎賊乃夜夢所見鶴《ウツセミシカミニタヘネハハナレヰテアサナケクキミハナレヰテワカコフルキミタマナラハテニマキモチテキヌナラハヌクトキモナミワカコフルキミソキソノヨユメニミエツル》
 
(11)脱時毛無、【別校本云、ヌグトキモナク、】
 
空蝉は第一に注せしごとく枕同を以て世とす、神ニタヘネバとは、天地と等しき神の壽命の如くならねばなり、第九に、朝露のけやすき命神のむだ、あらそひかねてとよめるに同じ、早く崩じ給ふを云、朝嘆とは今按下に夕嘆とも云ざればアサと点ずる事叶はずや、マヰと點ずべきか、まゐ〔三字右○〕は參るなり、おはしましつる所へかくれさせ給ひても參て嘆なり、又字書に朝覲朝廷等も朝夕の字を借と云へり、朝臣と云尸も朝廷の臣と云意にて和訓もあさおみ〔四字右○〕の中のさお〔二字右○〕を反せばそ〔右○〕となる故にあそみ〔三字右○〕即あさおみ〔四字右○〕なり、此に推せばあさ嘆くは下の吾に對し廣く朝廷の内の人皆嘆といへるにや、放居テは、今按サカリ居テと點ずべし、玉ナヲバ手ニ卷持テとは手玉とて玉を貫て手に卷を云、又環の玉とて指にぬくをも云、催馬樂大宮人ちいさ小舍人《コトネリ》玉ならば、ひるは手に取夜はさねてん、此集下に此意あまたよめり、衣ナラバヌグ時モナクとは、此意また多し。此四句は世にましましける時かく思へる事をよめるかとも見え、又君が世にましまさんには玉ならば手を放たず、衣ならば身をさけぬやうに常に見奉らんをと、かくれさせ給ひての心を述たりとも見ゆ、キゾノ夜は日本紀に昨日とも昨夜とも書てキスとよめり、そ〔右○〕とす〔右○〕は同内にて通ずればきのふの夜なり、(12)第十四にあまたよめり、これは戀しのび奉て思寢の夢に見奉しとなり、
 
初、うつせみし神にたへねは――
うつせみの世といふへきを、此集にうつせみといひて、すなはち世といふ心に用たる歌おほし。神にたへねはとは後撰集に、君かため松のちとせもつきぬへしこれよりまさる神の世もかなとよめるやうに、神は天地とをへはしまる壽命なれは、世間はその神の壽命のなかく久しきにたへねはといふ心なり。放居而はさかりゐてとよむへし。玉は緒を貫きて手にまとひもつにあかす、きぬの身になつさひてぬく時もなけれは、玉ならは、きぬならはといへり。催馬樂に、大宮のちひさ小舎人、玉ならはひるは手にとりよるはさねてん。きその夜は、日本紀に昨日とも昨夜ともかきて、きすとよめり。そとすとは五音通すれは、おなしことなり。夢にみえつるは、玉ならは手にまき、きぬならはぬかしものをと、こふるおもひに見るなり。古今集に、みつね、君をのみおもひねにせしゆめなれはわか心からみつるなりけり
 
天皇大殯之時歌二首
 
殯(ハ)斂也、
 
初、天皇大殯之時歌二首
殯斂也。作者の名をおとせる歟。作者未詳といふ注をうしなへる歟。はしめの歌の作者の婦人歟。されとも此集にはさやうにかぬる例なきにや
 
151 如是有乃豫知勢婆大御船泊之登萬里人標結麻思乎《カヽラムトカネテシリセハオホミフネハテシトマリニシメユハマシヲ》
 
人【官本或作v爾、】 官本注2作者1云2額田王1、
 
今按、乃〔右○〕は刀〔右○〕を寫あやまれるなるべし、人は音を用、第十〔二字左○〕、人は尓の字の缺たるか、元來音を取て用たるか、歌の心は、悲の餘に樣々に思めぐらして、世におはしける時、湖水に御舟を浮て御遊有て還幸の時、舟を繋せ給ひし處にだに、しめゆひおかましかば、かゝる時それをだに御名殘と見るべきに、かゝるべしと知らで、標もゆひおかねば、御舟とめましし所々に、そのほどゝもなくて、何を名殘ともなくて悲しき由なり、
 
初、如是有乃
乃は刀の字の誤れるなり。御舟をとめたまひし所にたにしめゆひをきてそれをたにかたみに見ましものをなり
 
152 八隅知之吾期大王乃大御舩待可將戀四賀乃辛崎《ヤスミシシワカオホキミノオホミフネマチカコヒナムシカノカラサキ》
 
將戀、【古点云、コフラム、】 官本注2作者1云2舍人|吉年《エトシ》1、
 
(13)歌の趣、第一卷人丸の歌に同じ、今の大殯によめれば待カコフランと云よりはコヒナンと末をかけたる點まさりぬべくや、期はか〔右○〕とこ〔右○〕と通ずれば假て用なり、後にも多し、
 
初、やすみしゝわか大君の
是は第一に人まろの、しかのからさささきくあれとゝいふ歌の心におなし。待かこひなんはわか待こひんともまたからさきか待こひんとも尺せらるへし
 
大后御歌一首
 
153 鯨魚取淡海乃海乎奥放而榜來舩邊附而榜來榜奥津加伊痛勿波禰曾邊津加伊痛莫波禰曾若草乃嬬之念鳥立《イサナトリアフミノウミヲオキサケテコキクルフネヘニツキテコキクルフネオキツカイイタクナハネソヘツカイイタクナハネソワカクサノツマノオモフトリタツ》
 
嬬之念烏立、【袖中抄讀云、ツマノオモヘルトリモコソタテ、】
 
奥サケテコギクル舟とは、奥をさかりて此方にくると云にはあらず、奥の遠く放れる方より來る舟なり、奥ツカイは奥よりくる舟の棹《カイ》なり、邊ツカイは邊に附て來る舟の棹なり、イタク莫反ソとは、棹をつよくはぬれば音に驚き浪に驚て鳥の立去ん事を惜たまふなり、若草は妻の枕詞なり、仁賢紀云|弱草吾夫※[立心偏+可]伶《ワカクサアガツマハヤ》矣【言2吾夫※[立心偏+可]伶矣1此云2阿我圖摩播耶(ト)1、謂(ハ)古者以2弱草1喩2夫婦1、故以2弱草1爲v夫、】古事記|大己貴《オホナムチノ》命歌には和加久佐能都麻能美許登《ワカクサノツマノミコト》云云、男女互につまと云こと此等にて論に及べからぬ事なり、弱草《ワカクサ》は柔になつかしくなびき合て(14)見ゆる物なれば、夫婦の中に喩來たるなるべし、延喜式に交の字をツマとよめるは、今も羮《アツモノ》など調ずるにつまと云事あり、その心なれば、夫婦を妻と云も交の字の心なるべし、オモフ鳥とは、帝の御在世に叡覽有てめでさせ給ひしものなれば、餘愛に不堪してかくはよませ給ふなり、袖中抄の點は、今樣には句も叶てよけれど、古の口つきならず、又さよむべき詞の字もなければ、今の點をよしとすべし、
 
初、いさなとりあふみの海を
いさなとりは、海の枕詞別に注してつけたり。いさなはくちらなり。とるは領するなり。鯨は大魚なれは海を領する心にていへは、今は水海なれはかなはぬやうなれと、歌はかくのみいふことつねのならひなり。鳥といへは雲井まてかけらぬも有、木にねぬもおほけれとも、をしなへて雷をかけり、木をすみかとするやうによみなすなり。川にはいはるまし。海といはんにはなとかあしからん。鯨取とかきたれは字のまゝにくちらとるともよめり。おきさけては、おきから遠くさけてなり。へにつきては、なきさにつきてなり。おきつかいは、おきよりくる舟のかいなり。はねそは、つよくはねて浪をなたてそなり。へつかひは、へにつきてこく舟のかいなり。わか草のつまは、仁賢紀云。弱草吾夫※[立心偏+可]怜矣。注云。古者以弱草喩夫婦、故以弱草爲夫。嬬の字をかけるは、たゝつまとよまるれはかけるなり。男女につきてきひしくはみるへからす。おもふ鳥たつは世におはしましける時、なかめやらせ給ひて、水鳥の心よくあそふを、愛せさせたまへるか、崩御したまふともしらす、その折のことくをりゐるを、これをたに今はかたみとおほしめす心にて、おとろかしたつなとよみたまへり。詩曰。白鳥鶴々
 
石川夫人歌一首
 
天智紀云、遂(ニ)納2四嬪1、有2蘇我(ノ)山田(ノ)石川(ノ)麻呂大臣女1曰2遠智娘1、【或本云美濃津子娘】云云、次有2遠智娘弟1曰2姪娘1、【或本云名姪娘曰2櫻井娘1】云云此二人の間か、按ずるに石川麻呂は大臣の諱なれば、此石川を以て石川夫人と云べきに非ず、此外にも紀に見えたる人あれど、今の名なければ此を缺けり、
 
初、石川夫人哥
これは蘇我山田石川麻呂大臣女姪娘にて、御名部皇女と阿部皇女【元明天皇】の御母にて、持統天皇の御母遠智娘のためには妹なり
 
154 神樂浪乃大山守者爲誰可山爾標結君毛不有國《サヽナミノオホヤマモリハタカタメカヤマニシメユフキミモマサナクニ》
 
不有國、【六帖并六條本袖中抄等アラナクニ、】
 
こゝに大山といへるは孝徳紀に畿内を定給ふ詔に、北自2近江|狹々波《ササナミノ》合坂山1以來爲2(15)畿内國1といへり、長等山此中に有べし、山守は應神紀云、五年秋八月庚寅朔壬寅、令2諸國1定2海《アマ》人及|山守《ヤマモリ》部1、歌の心は.花紅葉を叡覽し給はん爲に雜人を※[門/(幺+言+幺)]入せしめじとて山守を置せたまへるが、崩御の後も猶堅く守るを、今は誰ためとか標ゆふらん、めでさせ給ひし君もましまさねば、山も用なきにとなり、第一に春山秋山の興いづれまさると、王臣をして爭はしめたまひし風流思ひ合すべし、不有國をマサナクニとは帝の御上を申せば、此點もさもあるべし、
 
初、さゝ浪の大山守は――
さゝ浪の大山もりとは、なから山の山つゝきにすへて、まもらせたまふものなり。山もりをゝかるゝ事應神紀五年秋八月庚寅朔壬寅、令諸國定海人及山守部。花もみち御覽のため、山もりをゝかせたまへるか、崩御の後も猶しめゆひてまもるを、何のためにかまもるらん。君もまさねは山も用なきにとなり。第一卷に、春山秋山のあらそひを、額田王の判したまふ歌おもひあはすへし。不有國を、常の歌ならはあらなくにと點すへきを、今まさなくにとよめるは義よくかなへり
 
從山科御陵退散之時額田王作歌一首
 
天武紀上云、是月【元年五月】朴井連雄君奏2天皇1曰、臣以v有2私(ノ)事1獨(リ)至2美濃1、時|朝廷《ミカト》宣2美濃尾張兩國(ノ)司1曰、爲v造2山陵(ヲ)1豫差2定人夫1則人|別《コトニ》令v執v兵、臣|以爲《オモハク》非v爲2山陵1必有v事矣、若不2早(ク)避1、當v有v危歟、延喜式第二十一諸陵式云、山科陵、【近江大津宮御宇天智天皇、在2山城國宇治郡1、兆域東西十四町、南北十四町、陵戸六烟、】
 
初、從山科御陵――
日本紀二十八云。天武元年五月、朴井連雄君奏天皇曰、臣以有私事、獨至美濃時、朝廷宣美濃尾張兩國司曰、爲造山陵豫差定人夫、則人別令執兵。臣以爲非爲山陵必有事焉。若不早避當有危歟。延喜式第二十一諸陵式云、山科陵【近江大津宮御宇天智天皇、在山城國宇治郡、兆域東西十四町、南北十四町、陵戸六烟、】
 
155 八隅知之和期大王之恐也御陵奉仕流山科乃鏡山爾夜者毛夜之盡晝者母日之盡哭耳呼泣乍在而哉百磯城乃大宮(16)人者去別南《ヤスミシシワカオホキミノカシコキヤミハカツカヘルヤマシナノカヽミノヤマニヨルハモヨノツキヒルハモヒノツキネニノミヲナキツヽアリテヤモヽシキノオホミヤヒトハユキワカレナム》
 
夜之盡日之盡、此詞下にもあまたあり、今按、ヨノコト/\日ノコト/\と和すべきか、神代紀に妹は忘れじ世のこと/\にとある御歌は、世の限にとのたまふ心と聞ゆれば、今も彼に准じて夜のかぎり日のかぎりと心得べし、呼はをめく心にを〔右○〕と用たり、下に叫をを〔右○〕と用たる此に同じ、七條后のかくれ給へる時、伊勢がよめる歌に、秋の黄葉《モミヂ》と人々は、己がちり/\別れなばといへると、今のゆきわかれなんと、感慨ひとし、
 
初、やすみしゝわかおほきみの
よるはも、ひるはもの、ふたつのものしは助語なり。呼の字をゝとよむはよふにはをのこえを出し、をめくといふ詞もあれはなり。叫の字をも、をとよめるは、これにおなし。大宮人はゆきわかれなん、古今集、いせか長歌に、秋のもみちと人々はをのかちり/\わかれなは、たのむ陰なくなりはてゝなとよめるこれにゝたり
 
明日香清御原宮御宇天皇代 天渟中原瀛眞人天皇
 
十市皇女薨時高市皇子尊御作歌三首
 
聖武紀下云、七年是春將v祠2天神地祗1而天下悉祓禊之、竪2齋宮(ヲ)於|倉梯《クラハシノ》河上1、夏四月丁亥朔、欲v幸2齋(ノ)宮(ニ)1卜v之、癸巳食v卜、仍取2平旦《トラ》時1警蹕《ミサキオヒ》既動、百(ノ)寮《ツカサ》成v列、乘輿《キミ》命v葢以未v及2出行《オハシマス》1、十市皇女卒然病發薨2於宮中1、庚子葬2十市皇女於赤穗1、【神名帳云、赤穗神社、】天皇臨之降恩以發v哀、十市(ノ)皇女、初は大友(ノ)皇子の妃なり、今此御歌を見れば、更高市皇子妃となり給へる(17)か、或はしのびて心を通はされけるなるべし、皇子尊と書るは、日並皇子かくれさせ給ひて後、此皇子太子に立せ給へば、撰者後を以て通してかけり、日本紀に、皇子尊をミカドミコトとよめり、
 
初、十市皇女薨時高市皇子尊御作歌三首
天武紀云。天皇初娶鏡王女額田姫王生十市皇女。懷風藻、葛野王傳云。王子者淡海帝之孫、大友太子之長子、母淨御原之帝|長女《・上ムスメ日本紀》内親王。天武紀云。七年○是春將祠天神地祇、而天下悉祓禊。○庚子、葬十市皇女於赤穗、天皇臨之降恩以發哀。尊【神代紀云、至尊曰尊、自餘曰命。竝訓美擧等也。】草壁太子薨したまひて後、皇子尊とは申を、撰者はしめにめくらしてかけり
 
156 三諸之神之神須疑已具耳矣自得見監乍共不寐夜叙多《ミモロノヤカミノカミスキイクニヲシトミケムツヽトモネヌヨソオホキ》
 
ミモロノヤは、今按、難波の枕詞の押照を押照哉ともあれば、今もやの字を添へたる、あしくはあらねど三諸之とかきたればたゝみもろのと讀べしみもろともみむろとも云同じ山なり、此山にます神も三輪の大神なり、神杉は神木なり、イクニヲシト此句意得がたし、次の句も亦同じ、今按、此三首の次第を見るに、此歌は皇女の世におはせし時の事を重て悔て讀給へば、いくに惜とは行を惜とにて、第二の句までは杉〔右○〕を遇〔右○〕にからん爲の序なるべし、徒に逢ぬ月日の過行を惜となり、見監乍共はミケムツヽムタと點すべきか、むた〔二字右○〕は前に云ごとくともにといふ心なり、互に目には見つゝ人目を憚りて寢ぬ夜の多かりしが悔しくおぼさるゝとなるべし、見けむこそ心得がたきやうなれど、古語は今の耳には彷彿なる事多かり、或は監〔右○〕を見るともよめば、ミヽツヽトモニと点ぜば心得やすかるべし、
 
初、三諸之神須疑已具耳矣自得見監乍共不寐夜叙多
此御歌第四のみけんつ」ゝともの句、その心得かたけれは、一首さなから置侍りぬ。今の本にみもろのやとやの字のそひて侍るも、あしからねと、もしたらぬ歌例おほく侍るうへに、三諸之とかゝれたれはやの字なくて有なん。已具耳矣自得を、長流か昔の本には、すくにをしとゝあれと、已具をすくとよむへきやう心得かたし。いくとよみても過ゆく心なれはつゝくをや
 
(18)157 神山之山邊眞蘇木綿短木綿如此耳故爾長等思伎《ミワヤマノヤマヘマソユフミチカユフカクノミユヱニナカクトオモヒキ》
 
此發句、今按字のまヽにカミ山と讀むべし、即上の三諸山の別名なり、後に雷山|神岳《カミオカ》山などよめる皆同じ、雄略紀を引て別に注す、共に高市(ノ)郡にて都に近ければ假てよみ給ふなり、第二の句は仙覺云、山へまそゆふ短ゆふといへるは二つにはあらず、苧と云に二つのしなあり、麻苧は長木綿と云、長きが故なり、眞苧《マヲ》をば短木綿と云、短きが故なり、筑紫風土紀に長木綿短木錦といへるは是なり、今按、木綿は和名祭祀具云、本草注云、木棉、【和名由布、】折(ハ)v之多2白絲1者也、又木誄云、杜仲(ハ)、陶隱居、本草注云、杜仲一名木緜【杜音度、和名、波比末由美、】折v之多2白絲1者也、此ゆふの木の絲を取て祭祀の具につくれば、やがて木綿といふなり、古語拾遺云、天富命更(ニ)求2沃壤《ヨキトコロヲ》1、分2阿波(ノ)齋部1率往2東土1、播2殖麻殻1好麻所v生、故謂2之總國1、穀木所v生故謂2之|結城《ユフキノ》郡1、【古語麻謂2之總1也、】和名云、玉篇云、楮、【都古反、】穀木也、唐韻云、穀(ハ)【音穀和名加知】木名也、麻穀などにてするをも木棉と云は、從本立名の例と云、假令ば楊枝はかはやなぎにてする故の名なれど、それより起て後は何の木にてしたるをも松枝杉枝などはいはずして、楊枝と云がごとし、カクノミ故は上句は皇女の御命の短き事をのたまふべき譬なれば、短と云を承てかく許の短かき命にておはせんと知らず(19)して、行末長く相見んと思し事よと歎たまふなり、古點はナガシト思キと有しを、仙覺今の如く改らる、古點誠にことわり違へり、
 
初、神山の山邊まそゆふみしかゆふかくのみゆへになかくとおもひき
眞苧にて作る木綿をまそゆふとはいふ。麻にてするはあさゆふなり。眞苧は麻の苧よりみしかけれは、まそゆふといひて、やかてそれをみしかゆふとかさねてのたまへり。麻にてしたるは長ゆふといへるなり。かくのみゆへにとはみしかきゆふを皇女の御命にたとへてかくみしかき御命ゆへになかくましまさん事のやうにおほしめしけるかくやしきといふよしによませたまへり。第十六に、かくのみに有ける物をゐな川のおきをふかめてわかおもへりけるとよめる歌もこの心におなし
 
158 山振之立儀足山清水酌爾雖行道之白鳴《ヤマフキノサキタルヤマノシミツヲハクミニユカメトミチノシラナク》
 
今按、立儀足をサキタルとは如何よめるにか其意を得ず、清水の下にてにをはの字もなければ、立ヨソヒタル山シミヅと讀べきにや、皇女四月七日に薨じ給て、十四日に赤穗に納む、赤穗は添(ノ)上(ノ)郡にあり、此歌によれば赤穗は山なるべければ、其比猶山吹有たるべし、山吹の匂へる妹などもよそへよめる花なれば、立よそひたると云べし、さらぬだにある山の井に山吹の影うつせらんは殊に清かりぬべし、下句の心は、其山の井を酌てだに今はなき人の手向にすべきを、歎にくづほれてうつゝの心もなければ、道をもしらせ給はずとなり、武烈紀に、平群眞鳥《ヘクリノマトリ》大臣の子|鮪《シビ》と云人を罪によりて殺し給ける時、其妻物部(ノ)影媛が慟きてよめる歌に、玉|笥《ケ》には飯さへ盛り玉|※[怨の心が皿]《モヒ》に水さへ盛とよめるは、鮪が靈魂に祭れるなり、
 
初、山ふきのさきたる山のしみつをはくみにゆかめと道のしらなく
十市皇女は四月朔日にうせたまへは、山ふきの花ある比な。立儀足とかきてさきたるとはいかてよめりけん。心得かたし。清水下にをはとよむへき字も見えねは、立よそひたる山しみつとやよむへからん。日本紀の武烈紀に、大臣平群眞鳥臣か子鮪を殺し給ひける時、物部麁鹿火か女影媛か心まとひしてよめる歌にも、玉笥には飯さへもり玉  盟に水さへもりとよめり。なき人には水をもたむくれは山吹の花の影みゆるきよき水をくみてたに、たむけんとおほせと、涙にくれみこゝろまとひたまひて、其くみにゆきたまはん道をもしろしめさぬとなるへし
 
天皇崩之時太后御作歌一首
 
(20)在位十五年に當り給ふ朱鳥《アカミトリ》元年九月九日崩ず、太后は持統天皇なり、
 
初、天皇崩之時太后御作歌一首
天武天皇は御在位十五年九月九日に淨卸原宮に崩したまへり。太后は持統天皇なり
 
159 八隅如之我大王之暮去者召賜良之明來者問賜良之神岳乃山之黄葉乎今日毛鴨問給麻思明日毛鴨召賜萬旨其山乎振放見乍暮去者綾哀明來者裏佐備晩荒妙乃衣之袖者乾時文無《ヤスミシシワカオホキミノユフサレハメシタマヘラシアケクレハトヒタマヘラシミワヤマノヤマノモミチヲケフモカモトヒタマハマシアスモカモメシタマハマシソノヤマヲフリサケミツヽユフサレハアタニカナシヒアケクレハウラサヒクラシアラタヘノコロモノソテハヒルトキモナシ》
 
神岳乃、【仙覺云、古點カミヲカノ、八雲云、カミヲカ有v憚、
 
召賜良之問賜良之、此を古點にはメシタマフラシトヒタマフラシと有けるを、仙覺今の點に改らる、誠によし、然るを注に召たまへらしとは、召たまへらましと云詞なるべし、されば後にはけふもかも問賜はましあすもかも召賜はましといへり、さてこそ上下かけ合て心得合せらるべき事なれといへり、此注の點のよきに叶はぬ事惜むべし、此は見がてらなど云、がてらを良〔右○〕と里〔右○〕と通じて見がてりと云如く、給へりしと云を、古語に通してたまへらしといへり、御在世に年毎に秋の此比になれば、如何に三室山はもみぢつやと臣下にも問せたまひ、折らせても叡覽ありし事なり、又(21)此年五月より悩ませ給へば、崩御の前もみぢすべき程の事にも侍るべし、第三に大納言旅人、天平三年七月に薨せられし時、資人金明軍がよめる歌に、かくのみに有ける物を萩の花、咲て有やと問し君はも、此を思ひ合すべし、神岳乃、此句は古點の如くカミヲカノと讀むべし、第三に赤人の神岳に登てよまれし歌に、みもろのかみなび山に云云、あすかのふるき都は云云、今の歌下に其山をふりさけみればとあれば、遠き城《シキノ》上(ノ)郡の三輪ならぬ事明けし、又八雲御抄も良證なり、但此歌によりて有憚と仰られたるは如何侍らん、赤人の歌の外に第九にも、せの山に黄葉|常敷《トコシク》神岳《ミワヤマ》の、山のもみぢはけふかちるらん、此歌も仙覺のしわざにや、今の本にはもみぢとこしくみわ山のとあるを、顯昭の古今秘注に引かれたるには、もみぢつねしくかみをかのといへるは古點なるべし、猶上に別名を出せるが如し、顔氏家訓に、父物に噎て死たりとも孝子飲食を斷べからずと侍るにや、此集に吉野にても泊瀬《ハツセ》にても水に溺れて死せる娘子を火葬せる時、人丸悼みてよまれたる歌も侍るかし、問タマハマシ召タマハマシとは、問たまはましやめし給はましや、問もたまはじ召もたまはじなり、上には初に召たまへらしと有て、此には後には〔三字左○〕のたまひたるは文法にや、自らしかるか、アヤニ悲シビ、此あやといふ言は古事記に大穴持《オホナムヂ》の神詠に和し給ふ高志《コシノ》【越也】沼河《ヌカハ》姫(22)の歌に、阿夜爾那古斐岐古志《アヤニナコヒキコシ》とあるより見えたり、集中あまたあれば別に注す、いろ/\にとも、ねむごろにとも聞ゆ、荒妙ノ衣は※[手偏+總の旁]じて絹を和妙《ニギタヘ》と云ひ、布をあらたへと云、古語拾遺云、織布、【古語阿良多倍、】和名葬送具云?衣、唐韻云、?、【倉囘反、與催同、和名布知古路毛、】喪服也、第一卷に荒妙の藤原とつゞけたり、
 
初、やすみしゝわか――
めしたまへらしは、めしたまへりしなり。下のとひたまへらしは、とひたまへりなり。神岳の山のもみちを、此神岳はみむろ山なり。八雲御抄には、かみをかとよませたまひて、有憚と注したまへと此太后の御歌のみならす、此集中に猶見えたり。第三卷に、登神岳山部宿禰赤人作歌といへり。又第九にもよめり。神岳をみわやまとよめるはあやまれるなるへし。およそみわ山をみむろ山とはよめとも、みむろ山をみわ山とよむ例いまたかんかへす。此かみをかは高市郡、彼みわ山は城上郡なり。毎年秋になりて、みむろ山のもみちするころは、朝夕にめしよせても御覽し、いかに今はさかりになりつやとゝはせたまひしなり。けふもかもとひたまはまし、あすも――ましとは、けふもやとひたまはまし、あすもやめしよせて御覽すへき。すてに神去たまへはとはせたまふこともあらし。めしよせたまふ事もあらしなり。あやにかなしひ、此あやにといふ詞此集におほし。長流か昔の抄に、きぬなとのあやによせて、いろ/\にといふ心なりといへり。ねんころにといふにもかよひてきこゆることはなり。あらたへの衣は服衣なり。古語拾遺云。織布【古語阿良多倍。】布の惣名なれとも今は?《フチコロモ》をのたまへり
 
一書曰天皇崩之時太上天皇御製歌二首
 
此一書と云は、文武天皇崩御の後久しからずして或人の記し置るを取て撰者かくことわるか、さらねば右に太后と申たるは能叶へればさこそ書ぺけれ、
 
初、一書曰天皇崩之時太上天皇御製歌二首
此太上天皇おほつかなし。天武御時太上天皇なし。もし文武の朝の人のしるしをけるに、持統天皇の御ことを申けるを、それに打まかせて載たるにや。天皇に對する太上天皇なれは、あやまれりときこゆ。たとひ持統の御事ならは、さきのことく太后とこそ申へけれ
 
160 燃火物取而※[果/衣]而福路庭入澄不言八面智男雲
《トモシヒモトロテツヽミテフクロニハニハイルトイハズヤモチヲノコクモ》
 
面智、【仙覺抄、智作v知、】
 
燃火物は、今按、モユル火モとよむべきか、結句はオモシルナクモとよむべし、第十二に、面知《オモシル》君が見えぬ此頃とも、又|面知兒等《オモシルコラ》が見えぬ比かもとよめるは、面知とは常に相見馴る顔を云なり、幸に仙覺抄に智を知に作れり、此今按に付ても二義あるべし、一つには、如何なるもゆる火をも能方便してつゝみつれば、袋に入れても持と云に(23)非ずや、寶壽がぎりまし/\て昇霞し給をば、冥使の來る時如何にも隱し奉るべき方なければ、明暮見馴奉し龍顔を今は見參らせぬが悲しき事とよませたまへるか、二つには、如何なるもゆる火も方便ある物は裹て袋に入るやうに威勢ましませし君も、無常のさそひ參らせて何所《イツチ》か率《ヰ》て奉けん、又も見えさせ給はずとや、燃る火を袋に入るといふ事物に見えたる事歟、諺などを讀せ給へる歟、後人當v考、
 
初、燃火物とりてつゝみて袋にはいるといはすや面智男雲
此初の五もし、今の本にはともし火もとあるを、長流か抄にはもゆる火もとよみて、これは火うちを物につゝみて袋にいれてもつ心なりといへり。しかれは、佛法の因中説果の例のことく、火うちすなはちもゆる火にあらされとも、もゆへき火の性こもれるゆへにかくいふにや。歌の語勢を案するに、只そのまゝもゆる火にてあるへくもきこゆる歟。面智男雲を、もちをのこくもと和點をくはへたるは後人のしわさなるへし。おもしるなくもと讀へし。智は知の字なるへし。おもしるはつねにあひみる顔をいふなり。第十二におもしる者かみえぬ此ころとも、おも知こらか見えぬ比かもともよめり。もゆる火たにも方便をよくしつれは、ふくろに取いれてもかくすを、寶壽かきりまし/\てとゝめ奉るへきよしなくて、見なれたてまつり給へる御おもわの見えたまはぬをこひたてまつれたまへるなり
 
161 向南山陣雲之青雲之星離去月牟離而《キタヤマノタナヒクヽモノアヲクモノホシワカレユキツキモワカレテ》
 
此御歌も亦解しがたし、北山よりたなびき出る雲間に星も月も雲に連て見ゆるが雲の消移り行まゝに星も月も雲に遠ざかる如く、萬の御名殘も月日を經て替り行く由などにや、六帖に雨ふれば北にたなびく白雲の云云、向南は義をもてかけり白からずと云が黒き義なるやうの心なり、
 
初、きた山のたなひく雲の青雲のほしわかれゆき月もわかれて
此御歌ゆへありけにきこゆ。しはらくひとすちを尺せは、きた山よりたな引出る雲まにみゆる、星も月も雲につらなりてみゆるが、雲のきえゆくまゝに、ほしも月も雲にとをさかることく、よろつの御なこりも、月口をふるまゝにかはりゆく心にや
 
天皇崩之後八年九月九日奉爲御齊會之夜夢裏習賜御歌一首
 
持統紀を考るに此事見えず、習賜とは帝の御夢ごゝに御みづから誦習したま(24)ふか、又賜の字の心を思ふに先帝の神靈の帝の御夢に入らせたまひて、此歌を奉られて誦習せしめ給へるか、第十六に夢裡作歌の注に云、右歌一首忌部首黒磨夢裡作2此戀歌1贈v友、覺而不誦習如v前、今の習賜此に同じ、齊は齋に作るべし、官本注して云、古歌集中出、
 
162 明日香能清御原乃宮爾天下所知食之八隅知之吾大王高照日之皇子何方爾所念食可神風乃伊勢能國者奥津藻毛靡足波爾鹽氣能味香乎禮流國爾味凝文爾乏寸高照日之御子《アスカノキヨミハラノミヤニアメノシタシラシメシヽヤスミシシワカオホキミノタカテラスヒノワカミコハイカサマニオホシメシテカカミカセノイセノクニヽハオキツモモナヒキシナミニシホケノミカヲレルクニヽアチコリノアヤニトモシキタカテルヒノノミコ》
 
高照日之御子、【官本更點、云、タカテラスヒノミコ、】
 
靡足は今按ナミタルとも讀べし、塩氣ノミカヲレル國とは即上の伊勢なり、神代紀云、伊奘諾《イザナギノ》尊(ノ)曰、我|所v生《ウメル》之國(ニハ)唯有2朝霧1而薫滿之哉、神樂歌云、伊勢嶋や海人のとねらが燒|火《ホ》の氣、をけ/\、燒火の氣、いそらが崎にかほりあふ、をけ/\、此集第九人丸集歌云、鹽氣立荒礒《シホケタツアライソ》にはあれど云云、今案此下に落句あるべし、香乎禮流の乎〔右○〕は保〔右○〕なるべ(25)きを同韻なれば通せるか、若は草案にて矢錯せるか、味凝はあやと云んためなり、第六にもよめり、別に注す、高照罵は官本の又の点に上とおなじくタカテラスと和せるに從ふべし、此御歌も亦何事にかと心得がたし、今試に釋すべし、此は壬申の亂あるべき事を太神宮かねて遙に知食て御みづから天武天皇とならせ給ひ、或は末社の神等を降させ給て天皇となし參らせ給へるが、事成り世治て後誠に崩じ給ふにはあらで神靈の伊勢へ皈らせ給ふ意か、天武紀云、丙述旦於2朝明《アサケノ》郡(ノ)迹太川《トホカハ》邊1望2拜天照太神1、此卷の下に人丸高市(ノ)皇子(ノ)尊(ノ)殯宮を悼て作らるゝ歌に云云、此等にて知べし、其外古事記の序天武紀の神託卜筮等誠に天の縱《ユル》せる帝なれば、必ず神の化現なるべし、懷風藻の大友(ノ)皇(ノ)傳(ノ)の皇子の夢を記せるこそ少天皇をほめ申さぬ意なれど、大友(ノ)皇子葛野(ノ)王の傳を殊にゆゝしく書て、撰集も寶字年中なれば、疑らくは彼時の文者淡海眞人三船の撰にて、先祖の事とて筆を振はれければ、家に深く藏されける故久しく世にも弘まらで、遙に後に出たるにや、凡不測なるを神と云へば、權迹を以て輙く論ずべからず、若事迹を堅く執せば、應神天皇|甘美《ウマシ》内宿禰讒を信じて武内宿禰を殺さんとし給へり、これ神の定給へる胎中天皇に叶はざるに似たり、神代も亦然り、儒道佛道などによらば違る事あるべし、水火相せまれば互に爭て婦姑の如くな(26)れど、其牲天地に在て増減なし、唯凡慮を捨べし、かをれる國にと云下に句の脱たらむと申は、終りの二句は上の高照日のみこを再び云てほめ申詞にて、いかさまに思召てかと云より此方を收拾する詞なければなり、若はあやに乏しきと云所句絶にて、上を收拾して高照日のみこの一句を立て上を呼返して稱嘆し奉るか、後の人定むべし、天武の御歌にて御みづからかく勅すとも違べからず、
 
初、あすかのきよみ原の宮に――。此一首はゆへありけなる御歌なり。今案するに壬申の乱あるへきをしつめむとて、太神宮の御はからひにて、末社の神霊なとを、降させたまひて、天武天皇となしたまへるが、事なりて後、まことに崩したまふにはあらて、神靈の伊勢へ歸らせたまふにや。かくおもひよれるゆへは、こゝに神風のいせのくにゝはなといひて、あちこりのあやにともしき高照す日の御子とよみ、又下にいたりて、高市里子の薨したまへるをいためる人麿の歌の中に、さおほしきことあり。くはしくは、かの歌にいたりて釋すへし。塩氣能味の味の字を、八雲御抄には、むまきと義をつけさせたまへと、只音をかりて用るのみなり。かをれる國とは、日本紀第一云。伊奘諾尊曰、我所v生之國、唯有2朝霧1而無|薫《カホリ》滿(ル)之|哉《カナ》。神樂歌弓立に、いせしまやあまのとねらかたくほのけ、をけ/\本。たくほのけいそらかさきにかほりあふ、をけ/\末。此集第九に、しほけたつありそにはあれとゝもよめり。荊溪の弘決に、成論を引て、兎角、龜毛、鹽香、?足、風色等是名爲v無と釋せらる。されともこれは、世のことわさに、いそくさしといふをかをれるといふなるへし。霧にも香のあれば、日本紀纂疏にも、にほふよしに注したまへり。今案鹽くもりとて、海のくもるか、けふりのふすふるに似たるを、かをれるとはいふにや。日本紀の薫の字も、香にはあらて、ふすふるやうなるをもいへるへし。ありこりのあや此集におほきことはなり。よきことのあつまりよれるを味凝といふ。禮記(ノ)中庸(ニ)云。苟(モ)不(レハ)2至徳(ニアラ)1至道不v凝《アツマラ》焉。朱子章句云。凝(ト)者聚也。又こるといふは、水のこほるといふとおなし詞にて、かたまるをもいへり。あやは錦なとにをり付たる紋をいふなり。うつくしく目につける紋は見たらぬ心にて、ともしきとはいふなり。見のともしき、聞のともしきとよめるも、見たらす聞たらすなり。また味凝は、今案色々のあつまれるといふ心もあるか。色をあちといふ事、※[田+比]盧遮那經(ニ)云。染(ルニ)彼(ノ)衆生界(ヲ)以(テ)2法界(ノ)味(ヲ)1。疏釋(シテ)云。味(ハ)則色(ノ)義、如(シ)2加沙味(ノ)1。これは律の中に、加沙色につきて加沙味といふことあるに准せり。此集末にいたりて、あやとつゝけされとも、味こりといへることあれは、初の説しかるへし。異聞にそなへんとて、今案をもかけるなり。
 
藤原宮御宇天皇代 高天原廣野姫天皇
 
此注殊に誤れり、下に至て自から顯はるべし、
 
初、藤原宮――。高天原廣野姫天皇。此總標につきて、下に高天原廣野姫と注せるはあやまれり。此は持統天皇なり。下にいたりて、明日香皇女、弓削皇子のかくれたまへるは、文武天皇の御時なり。但馬皇女は元明天皇和飼元年に、かくれ給へり。そのほか文武元明のあひた、しりかたきことをも戯たるに、いかてか廣野姫天皇とは注すへき。後の人のくはへたる歟。さらすは草案のあやまれるをそのまゝ流布せるにや
 
大津皇子薨之後大來皇女從伊勢齊宮上京之時御作歌 二首
 
持統紀云、朱鳥元年十一月丁酉朔壬子、奉2伊勢神宮1皇女大來還2至|京師《ミヤコニ》1、十四歳にて齋宮に立たまひ、十四年に當て還たまへり、文武紀云、大寶元年十二月乙丑、大伯《オホクノ》内親王薨ず、齊は齋に改むべし、
 
初、大津皇子薨之後――。大津は天武天皇第三の皇子、天武十五年崩御のやかてより謀反の御心つきて、持統天皇朱雀元年十月二日、事あらはれて。三日に賜死、委は第三卷に注すへし。大來皇女齋宮に立たまへることは、天武紀(ニ)云。二年夏四月丙辰(ノ)朔己巳欲3遣2侍大來皇女(ヲ)于天照大神宮(ニ)1而令v居2泊瀬(ノ)齋《イツキ》宮(ニ)1、是(レ)先(ツ)潔《サヤマテ》v身(ヲ)稍近(ツク)v神(ニ)之處(ナリ)也。又云。三年冬十月丁丑朔乙酉大來(ノ)皇女自2泊瀬(ノ)齋(ノ)宮1、向《マウツ》2伊勢(ノ)神宮(ニ)1。持統紀云。元年十一月丁酉(ノ)朔王子奉2伊勢神社(ニ)1皇女大來還(リ)2至(ル)京師《ミヤコニ》1。齊明紀(ニ)云。七年辛酉春正月丁酉(ノ)期壬寅御船西(ニ)征(テ)始(テ)就(ク)2于海路(ニ)1。甲辰御船到(ル)2于大伯(ノ)海(ニ)1時大田姫(ノ)皇女産(メリ)v女爲。仍(テ)名(ケテ)2是(ノ)女(ヲ)1曰2大伯(ノ)皇女(ト)1。大伯(ノ)海(ト)は備前なり。和名集云。備前(ノ)國|邑久《オホクノ》【於保久】郡。しかれは日本紀并此集には大來とも大泊ともかき、和名集には邑久とかけるみなおなし。此皇女十四歳にして齋宮に立たまひ、二十七歳にして京に歸り給ひ、四十一歳にして薨したまへり。續日本紀云。大寶元年十二月乙丑大伯内親王薨。天武紀云。先納2皇后姉大田皇女1爲v妃生2大來皇女與2大津皇子1。同腹の御はらからなるゆへに、さきにも、ことにむつましき御歌あり。今の御歌あはせてみるへし
 
163 神風之伊勢能國爾母有益乎奈何可來計武君毛不有國爾《カミカセノイセノクニヽモアラマシヲナニヽカキケムキミモアラナクニ》
 
(27)アラマシヲは、皈らずしてさて有まし物をと悔たまふなり、
 
164 欲見吾爲君毛不有爾奈何可來計武馬疲爾《ミマクホリワカセシキミモアラナクニナニヽカキケムウマツカラシニ》
 
詩云、陟《ノホレハ》2彼高岡1、我馬玄黄、遊仙窟云、日晩途遙、馬疲人|乏《タユミヌ》、
 
初、みまくほりわかせし君もあらなくになにゝかきけん馬つからしに
詩曰。陟《ノホレハ》2彼(ノ)高(キ)岡《ヤマニ》1、我(カ)馬|玄黄《クロカシカキニナンヌ》。遊仙窟曰。日晩途|遙《トヲウシテ》、馬|疲《ツカレ》人|乏《タユミヌ》
 
移葬大津皇子屍於葛城二上山之時大來皇女哀傷御作歌二首
 
日本紀には初何處に葬とも見えざれども、此によれば初葬りける處より二上山に移し葬らると見えたり、此事も亦紀には載られず、
 
初、移葬大津皇子屍於――。日本紀には、初いつれの所に葬ともみえす、うつしはうふるよしも載られす。葛城の名は、神武紀云。又高尾張(ノ)邑(ニ)有(リ)2土蜘蛛1。其(ノ)爲v人(ト)也|身《ムクロハ》短(シテ)而手足(ハ)長(シ)、與2侏儒《ヒキヒト》1相類(タリ)。皇軍《ミイクサ》結(スキテ)2葛(ノ)網(ヲ)1而掩(ヒ)襲(テ)殺(ス)v之(ヲ)。因(テ)改(テ)號(テ)2其邑(ヲ)1曰2葛城(ト)1。
 
165 宇都曾見乃人爾有吾哉從明日者二上山乎弟世登吾將見《ウツソミノヒトニアルワレヤアスヨリハフタカミヤマヲイモセトワレミム》
 
ウツソミはうつせみに同じ、此集いづれをも用たり、世とすること上の如し、イモセは、いもは妹、せは兄なり、大津(ノ)皇子は、皇女には御弟なれど、せ〔右○〕は女の男を呼詞なり、歌の心は我はかひなくながらへて世上の人にてあるを、皇子の尸を移し葬らば、明日より、かけても思はぬ二上山をいもせと見む事よと嘆たまふなり、二上は山二つ(28)並たる故に、第七にも、紀路にこそ妹山有けれ葛戒の二上山も妹こそ有けれ、とよめり、さればせ〔右○〕とみむとこそよみ給ふべけれど、歌の習なれば大樣に廣くいもせとのたまへり、又オトセと云ふによらば弟〔右○〕を豈〔右○〕といふべき理はなけれど、せ〔右○〕は唯男を貴て呼詞と意得れば、あすよこりや山を弟と見んとのたまふなり、
 
初、うつそみの人にある我や――。うつそみはうつせみにて、世の枕詞なるを、やかて世に用るなり。我はまたなからへて世上の人にて有を、けふ大津皇子をかつらきにうつしはうふらは、あすよりはおもひよらぬふたかみ山を、いもせとみんことよとなけかせたまふなり。いもせははらからなり。此集に、人ならは親のまなこそあさもよひきの川つらのいもとせの山とよめるも、いも山とせの山とか、人にもあらは、おやの愛する子の、あにといもうとのやうなるとよめるなり。夫婦をいもせといふも、ゝとはあにといもうとよりなつくるなり。又二上は、山ふたつならひ立ゆへに、此集に、紀路にこそ妹山ありけれかつらきのふたかみ山も妹こそ有けれとよめれは、此御歌そのよせあるものなり
 
166 礒之於爾生流馬醉木乎手折目杼令視倍吉君之在常不言爾《イソノウヘニオフルツヽシヲタヲラメトミスヘキキミカアリトイハナクニ》
 
イソノ上は石の上なり、神功皇后紀に、登2河中石上(ニ)1、とあるをイソノウヘと点ぜり、大和の石上又同じ、於〔右○〕は上なり、文武紀に憶良の氏|山上《ヤマノウヘ》を山於《ヤマノウヘ》とかけり、南京の法相宗の學者内典を讀時某において〔三字右○〕を某のうへに〔三字右○〕と讀習へるは古風の故實なるべし、馬醉木は集中|數《アマタ》あり、点今の如し、別の歌の馬醉木を六帖にもあせみ〔三字右○〕とよめり、別に注す、歌の意明なり、此皇女の御歌、以前共に六首、何れも悲しきは、皆大津(ノ)皇子によりて讀給ふ故なり、
 
初、いそのうへにおふるつゝしをたをらめとみすへき君か有といはなくに
いそのうへは石のうへなり。神功皇后紀云。登(テ)2河(ノ)中(ノ)石《イソノ》上(ニ)1而投(テ)v鉤|祈《ウケヒテ》之|曰《ノタマハク》といへり。布留につゝくいそのかみもおなし。於の字をうへとよむ事おほし。文武紀には、憶良の氏をも、山(ノ)於《ウヘ》とかけり。南京法相宗の學者、聖教をよむ時、何にをいてとはよまて、何のうへにとよみならはせるは、彼宗いにしへよりありくる宗なれは、古風のゝこれるなるへし。此御歌は、朱鳥二年の春になりて、二上には移しはうふりたまふなるへけれは、皇女の御なけき更にあらたにして、つゝしのさかりなるを御覽するにつけても、いとゝ皇子の御ことをなけきて、かくはよみたまふなり。此皇女の御歌、此集に以上六首を載たり。ともに恩愛ふかく、あはれなる御歌なり
 
右一首今案不似移葬之歌盖疑從伊勢神宮還京之時(29)路上見花感傷哀咽作此歌乎
 
移葬の下に時の字脱たるべし、此注は撰者の誤なり、所謂智者千慮必有2一失1とは此事なり、皇女は十一月十六日に都へ皈たまへば、此は明る年の春花盛の比、皇子の尸を移葬に因て感じてよみ給ふなるべし、有間皇子の松枝を結歌二首の後の歌に准ずべし、
 
初、右一首今案――。移葬の下に、時の字をおとせる歟。
此注は帥爾にくはふるとてあやまれり。十一月十六日京へ歸りたまへはなり。うつしはうふる時、あるひはそのゝちによみたまふへし。さきにいへるかことし。朱鳥二年の春なるへし
 
日並皇子尊殯宮之時柿本人磨作歌一首并短歌
 
此皇子薨じ給ふ年月等は後の注にあり、持統紀云、天命開別天皇元年、生2草壁(ノ)皇子(ノ)尊於大津宮1、かゝれば薨じ給ふ時二十八歳なり、草壁(ノ)皇子又の御名は今の如し、天武紀云、十年春二月庚子朔甲子、云云、是日立2草壁(ノ)皇子(ノ)尊1爲2皇太子1、因(テ)以令v攝2、萬機1、續日本紀第一云、日並知(ノ)皇子(ノ)尊者、寶字三年有v勅進2崇尊號1、稱2岡宮御宇天皇1也、又云、慶雲四年夏四月庚辰、以2日並知(ノ)皇子(ノ)命薨日1、始入2國忌1、此端作上の注に引つゞけたるは後人の誤なり、柿本の下に朝臣を脱せり、目録には尸あり、
 
初、日竝皇子尊殯宮之時柿本【脱朝臣二字目録有之】――
持統紀云。天命開別天皇元年、生草壁皇子尊於大津宮。天武紀云。十年春二月庚子朔甲子、天皇々后共居于大極殿、以喚親王諸王及諸臣詔之曰。○是日立草壁皇子尊、爲皇太子、因以令攝萬機。十四年春正月丁未朔丁卯.授淨廣壹位。天智天皇元年に.むまれたまひて、持続天皇三歳に二十八歳にして薨したまへり。續日本紀第一、文式紀云。日並知皇子尊者、寶字三年有勅、追崇尊號、稱岡宮御宇天皇也。又云。慶雲四年夏四月庚辰、以日並知皇子命薨日1、始入國忌。延喜式二十一諸陵式云。眞弓丘陵【岡宮御宇天皇、在大和國高市郡、兆域東西二町、南北二町、陵戸六烟。】續日本紀第二十六云。天平神護元年十月己未朔辛未、行幸紀伊國。○癸酉、過檀山陵、詔陪従百官悉令下馬、儀衛卷其旗幟。今案、慶雲四年とは、今年光仁天皇位につかせ給ひて、寶龜と改元したまへとも、十月なれは四月は猶慶雲なり
 
167 天地之初時之久堅之天河原爾八百萬千萬神之神集集座(30)而神分分之時爾天照日女之命《アメツチノハシメノトキシヒサカタノアマノカハラニヤホヨロツチヨロツカミノカミアツメアツメイマシテカムハカリハカリシトキニアマテラスヒナメノミコト》【一云指上日女之命】天乎波所知食登葦原乃水穗之國乎天地之依相之極所知行神之命等天雲之八重掻別而《アマツヲハシロシメサムトアシハラノミツホノクニヲアメツチノヨリアヒノカキリシラシメスカミノミコトトアマクモノヤヘカキワケテ》【一云天雲之八重雲別而】神下座奉之淨之宮爾神隨太布座而天皇之敷座國等天原石門乎開神上上座奴《カミクタリイマシツカヘシタカテラスヒノワカミコハアスカノキヨメシミヤニカミノマニフトシキマシテスメロキノシキマスクニトアマノハライハトヲヒラキカムアカリアカリイマシヌ》【一云神登坐尓之可婆】吾王皇子之命乃天下所知食世者春花之貴在等望月乃滿波之計武跡天下《ワカキミノミコノミコトノアメノシタシラシメシセハハルハナノカシコカラムトモチツキノミチハシケムトアメノシタ》【一云食國】四方之人乃大舩之思憑而天水仰而待爾何方爾御念食可由縁母無眞弓乃崗爾宮柱太布座御在香乎高知座而明言爾御言不御問日日月之數多成塗其故皇子之宮人行方不知毛《ヨモノヒトノオホフネノオモヒタノミテアマツミツアフキテマツニイカサマニオホシメシテカユヱモナキマユミノヲカニミヤハシラフトシキマシテミアリカヲタカシリマシテアサコトニミコトトハセスヒツキノアマタニナリヌソコユヱニミコノミヤヒトユクヘシラスモ》【一云刺竹之皇子宮人歸邊不知爾爲】
 
所知食登、【官本亦云、シラシメサムト、】 依相之極、【官本亦云、ヨリアヒシキハミ、】 所知行、【官本亦云、シロシメス、】 飛鳥之、(31)【官本亦云、トフトリノ、】 天皇之、【官本亦云、スヘラキノ、】
 
神集集座而は、今按、神代紀に依て、カムツドヘニツドヘイマシテと和すべし、神分分之時爾もカムハカリニハカリシトキニとよむべし、舊事紀云、于v時八百萬神、於2天(ノ)八湍《ヤセノ》河(ノ)々原1神會集而《カムツトヘニツトヘテ》議d計《ハカラフ》其(ノ)可v奉2祈謝《コヒノミ》1之|方《サマ》u矣、今按、分の字、字書に別也判也とありて議也といはざれば、カムワカチニワカチシ時ニと點を改むべきか、但分別して議定すれば、任ては陶じ心か、アマテラスヒナメノミコトは、御名の日の字によりて初より後の神のみことと云までは日神に比し奉て申さるゝなり、御名を申ことは臣としては有まじき事なるを、日本紀には草壁(ノ)皇子とのみあれば、日並は御徳をほめ申謚にてやかくはよまれたるか、アマツヲバ、シロシメサントとは、神代紀云、伊弉諾《イザナギノ》尊|勅2任《コトヨザシテ》三子1曰、天照太神者、可3以|御《シラス》2高天之原1也云云、これを借て用たれども、心は只天下なり、葦原ノミヅホノ國は別に注す、天地ノヨリアヒノカギリは、極はキハミとよむべし、天は地をつゝめば依相なり、神ノ命トとは此所に議り定給てと意を入てよむべし、天雲ノ八重掻別テ神下とは、皇子の生れ出させ給へるを、天照大神の皇孫を天降し奉らせ給へるに譬るなり、神代紀云、皇孫乃離2天(ノ)磐座《イハクラヲ》1、且排2分天(ノ)八重雲1稜威之道別《イツノチワケニ》道別而天2降件於日向襲之|高千穗峯《タカチホタケニ》1矣似合たる事を借て用られたれば、さきと今、事替り(32)たれども意つゞけり、高テラス日ノ皇子は此亦日並の御事なり、飛鳥之、官本|更《マタノ》點にトブトリノと和したるは、ちはやぶるは、神の枕詞なる故意を得て賀茂の社などもつゞくるやうに、明日香の淨御原なれば此も苦かるべからねど、飛鳥をアスカとよむ上は今の點に隨ふべし、キヨメシ宮、此點は誤れり、キヨミノ宮と改むべし、御の字は、めでたき字なれば、てにをはに假て二字に足すか、淨見原ともかけり、今彼舊地の俗には淨御《キヨミ》の二字を音に呼て申とかや、天武天皇は申すに及ばず、持統天皇も此時はいまだ淨御宮にまし/\ければ、我なくても世は安らかに治りぬべしと思召て再天へ歸らせ給ふと申しなす心なり、一本の異を注するに、カムノボリイマシニシカバとは、是にて末の收拾慥ならぬやうなれど、先是に我思ふやうと意ををへて、いかさまに思召てかを思召てやらんとなしてみれば、日月のあまたになりぬと束ねたる所までのつゞき、能意得らるゝなり、本文のまゝにてもいかさまに思召てと意得る事是に同じ、春花ノ貴在トとは日本紀に貴盛をタノシと訓じたれば、彼に依てタノシカラントと讀べきか、望月ノ滿ハシケムト、此をば第十三に高市(ノ)皇子の薨じ給へるを慟み奉る歌に、十五月之《モチツキノ》、多田波思家武登《タヽハシケント》、とよめるに合て、此をもタヾハシケムトとよむべきか、鹽時の湛へ、水の湛と云も、滿て動かぬをいへば、花の盛を見る(33)やうにたのしく、十五夜の滿たゝへたるを見るごとく望足なむと思ふなり、日本紀に偉の字をタヽハシと讀たれど、それとは意かはれり、大舟ノ思タノミテとは此詞後もあまたあり、大舟はいかにも乘てたのもしき物なればなり、天ツ水仰テ待ニとは雨の事なり、景行紀云、山神之興v雲|零《フラシム》v水《アメヲ》日でりする時空を仰雲を望て皇子の天つ日繼知しめさむ事を天下の人民|何時《イツ》かと待つなり、文選相如難2蜀(ノ)父老(ヲ)1檄云、擧v踵思慕(スルコト)若2枯旱之望1v雨、所以モナキは、今按由縁は引合てヨシと點じ改むべし、下に舍人が歌の中にも、よしもなきさたのをかべとよめり、おはすべきよしもなき所へおはしますらんなり、マユミノ岡は延喜式諸陵式云、眞弓丘陵、【岡宮御宇天皇、在2大和國高市郡1、兆域東西二町、南北二町、陵戸六畑、】或者云、味橿岳の西一里許に越村あり、越村の南に眞口の村ありといへり、皇極紀云、二年九月丁巳朔丁亥、吉備嶋皇祖母命薨、乙末葬2皇祖母命于檀弓崗1、これも同所なり、續日本紀第二十六云、天平神護元年十月己末朔辛未、行2幸紀伊國1、云云、癸酉過2檀山陵(ヲ)1詔2陪從(ノ)百官(ニ)1悉令2下馬1、儀衛卷2其旗幟1、御在香《ミアリカ》は殿なり、古語拾遺云、古語正殿謂2之|麁香《アラカ》1、然ればミアラカヲと讀べきか、ありか、かくれが、すみかなど云を思ひ合すれば、か〔右○〕は所の心ある詞にや、アサゴトニ、ミコトトハセズは、あさは日の意にて日毎になり、とはせずはいはずと云古語なり、崇神紀に不言をマコトトハズと點ぜり、ことゝはぬ(34)木すらなど下によめるも物いはぬ木なり、日毎に舍人等が、殯宮へ祇候すれども、昔に替て物をも仰られぬなり、ユクヘシラズモは、下にもゆくへをしらずとねりはまどふと有ごとく、假令ば、道ゆく人のしるべを失へるごとく迷ふてゆくへをしらぬなり、人丸の舍人にてよまれたるにはあらず、舍人は殊に朝夕馴つかふまつる故に、下にもかやうの事には多く舍人の歌をよめり、注のサス竹は、君とも宮とも云に置辭なり、別に注す、ヨルベシラニスはよるべしらでなり、しらずをしらにといふは古語なり、日本紀の歌にも續日本紀の宣命の詞にもあり、
 
初、あめつちのはしめの時し――
先此歌のよみやうは、日なめの皇子といふ御名につきて、天照大神になすらへて申奉れるなり。神代紀云。乃入于天石窟、閉磐戸而幽屋焉。六合之内常闇而不知晝夜之相代、于時八十萬神會合於天安川邊、計其可  廂之方云々。神集はかんつとよみて下もつとへいましてとよむへし。あしはらのみつほのくにを、神代紀云。天神謂伊奘諾尊伊奘册尊曰。有豐葦原千五百秋瑞穗之地。みつほのくには此國をほむる名なり。あめつちのよりあひのきはみとは、きはみははてなり。地のはては天もひとつによりあふ心なり。天雲のやへかきわけて、やへをかきわけてなり。神代紀云。皇孫乃離天磐座、且排分天八重雲、稜威之|道別道別《チワキニチワキテ》而、天降於日向襲之高千穗峯矣。かみくたりいましつかへしとは、太子といへとも、臣に屬すれはいへり。淨之宮爾、これをはきよみのみやとよむへし。しきます國といふまては、持統天皇の御ことなり。春花のかしこからんとは、榮花にたとふ。かしこきはおそろしきなり。尊貴の人は威勢あるゆへにをのつからしかり。又たのしからんとゝもよむへし。日本紀に貴盛とかきてたのしとよめり。望月の滿波之計武跡、これをはもち月のたゝはしけんとゝよむへし。第十三卷に十五月之多田波思家武登とよめり。湛の字の心なり。潮なとのみちたゝへたることく、十五夜の月の圓滿なるによせて、のそみたりてかけたる事あらしと、皆人のおもふなり。大舟のおもひたのみてとは、大舟は、のれる心たのもしけなる物なれはなり。此集におほき詞なり。和名集云。唐韻云。舶【傍陌反、楊氏漢語抄云、都具能布禰】海中大船也。あまつ水あふきて待とは、あまつ水は雨なり。日てりに雨のくたるを待心なり。景行紀云。山神之興雲零水。文選司馬長卿難蜀父老檄云。擧踵思慕、若枯旱之望雨。由縁母無、これをはよしもなきとよむへし。下のとねりか歌にも、よしもなくさたのをかへにかへり居はとよめり。みありかは、みあらかなり。古語拾遺云。古語正殿謂之麁香。明言爾とは、朝毎になり。物のたまふ事は、朝にかきらされとも伺候する人はことに朝とくより御あたりちかくはへりて、物おほせらるれはなり。みこのみや人ゆくゑしらすもとは、身のなりゆくへきやうをしらぬなり。又ちり/\になりて宮の内に人もなくなるをいへるにもあるへし
歌の下に異を注する中に、爾爲の二字よみときかたし。もしのあやまれるにや(以上似閑本卷二上册)
 
反歌二首
 
168 久堅乃天見如久仰見之皇子乃御門之荒卷惜毛《ヒサカタノアメミルゴトクアフキミシミコノミカトノアレマクヲシモ》
 
天見、【官本亦云、ソラミル】
 
歌の心明なり、
 
169 茜刺日者雖照有烏玉之夜渡月之隱良九惜毛《アカネサスヒハテラセレトヌハタマノヨワタルツキノカクラクヲシモ》 【或本云件歌爲後皇子貴殯宮之時歌反也】
 
(35)茜刺は日の赤みて匂ふ心なり、日ハテラセレドとは皇子の薨じ給ふを月の隱るゝに譬へむためなり、ヌバ玉は黒き物にて黒しとつゞくる意をもて夜ともそへよめば、文章の隔句對の如く、茜刺に鳥玉と対し、日はてらせれどに夜わたる月と對せるか、和語の對は痛く覿面には非ず、又思ふに其比對までの沙汰は有まじければおのづから然るや、下の注に或本云、以2件歌1爲2後皇子貴殯宮之時歌反1也、貴を官本には尊に作れり、後の例尤然るべし、但神代紀に日神の御名の注に、貴此云2武智1、大己貴命もあれば、後皇子ムチと云が、歌反は反歌の顛倒せるか、但歌は長歌をさし、反は其反歌と云意なるべし、
 
或本歌一首
 
170 島宮勾乃池之放鳥人目爾戀而池爾不潜《シマノミヤマカリノイケノハナチトリヒトメニコヒテイケニカツカス》
 
島宮勾乃池之、【仙覺云二條院御本點如2今本1、】 不潜、【袖中抄、仙覺抄、并幽齋本點云、クヽラズ、】
 
初の二句仙覺抄にシマミヤノマナノ池、或マヽノ池など云點を破して今の点に定らる、島宮は天武紀にあまた見えたり、皆シマノミヤと點ぜり勾の字繼體紀に、勾大兄《マカリノオヒネ》皇子まします、此皇子後は安閑天皇にて勾金橋宮にて世を治めたまへり、其讀み(36)なマガリなれば、尤今の點を正義とすべし、天武紀云、十年秋九月丁酉朔辛丑、周芳《スハウ》國貢2赤龜、乃放2島宮池1、放とはもとより翅など切て放置せ給へる水鳥なり、人メニ戀テは人目を戀てなり、妹を戀と云べきを妹に戀と云が如し、すべて鳥は人を恐るゝものにて、水鳥は水にかづき入て隱るゝを、此池の放鳥は能なづきたる故に、人を戀慕ひて池にもかづかずとよめるなり、皇子隱させ給ひて後も猶此鳥の池を放れずして、人なつかしうするをあはれと見てよめる心なり、放鳥の事或は主人の死したる時、其飼置たるを放を云とも申、又さなくても籠にかふ鳥を用なしとて※[しんにょう+外]しやるをも申なり、此歌も皇子薨じ給へば放たる由に云説あれど、下の舍人が歌にあらびな行そ君まさずともとよみたるを以て、此歌の心に引合するに、初の心なる事疑なし、
 
初、嶋の宮勾の池のはなちとりひとめにこひて池にかつかす
嶋の宮は、下のとねりか歌に、橘の島の宮とよめれは、橘寺あるあたりなるへし。又此集に橘の嶋にしをれは川遠みさらさてぬひしわか下衣なともよめり。天武紀云。十三年秋九月丁酉朔辛巳、周芳國貢赤龜、乃放島宮池。これ此歌のまかりの池なり。はなち鳥とは、水鳥の翅なときりて放かふをいふなり。人めにこひては、ひとめをこひてなり。いもをこふるをは、妹にこひなとよめる同しこゝろなり。總して鳥は人を恐るゝものなるにより、水鳥なとは水にかつきいりて人にかくるゝものなり。しかるを此池の放鳥はよくなつきたるゆへに、人を戀したふて、池にもかつかすとよめるなり。皇子かくれさせたまひて後も、此鳥の猶池をはなれすして人なつかしくするをあはれと見てよめる心なり。放鳥の事、或は主人の死したる時、その飼置たる鳥をいふとも申、又さなくても籠にかふ鳥を用なしとてにかしやるをも申なり。此歌も皇子薨し給へは、はなちたるよしにいふ説あれとも、もとよりはなちをかせたまふ鳥とそ歌の心はきこたたる。此下の舎人等かよめる歌の中にも、嶋の宮上の池なる放鳥あらひな行そ君まさすともとよみたれは、もとよりはなち飼せたまひたる鳥といふに疑なし。まかりの池を、まなの池ともよめり。安閑天皇を繼體天皇の御時は、勾大兄と申奉り、御位につかせ給ひて後都をうつし給ふ所をも勾金橋といふに、ともに勾の字はまかりとよみたれは、只まかりの池なるへし
 
皇子尊宮舍人等慟傷作歌二十三首
 
日本紀には帳内をもトネリとよめり、
 
初、皇子尊宮舍人等慟傷作歌二十三首
目録には傷の字をタに作れり。字の似たる上にともに義もあるゆへにかきたかへたるなるへし。おもふに傷の字にてや侍りなん
 
171 高光我日皇子乃萬代爾國所知麻之島宮婆母《タカテラスワカヒノミコノヨロツヨニクニシラレマシシマノミヤハモ》
 
高光は、タカヒカルと讀べし、古事記下、仁徳天皇投、建内宿禰歌、并雄略天皇段、大后御(37)歌、并云|多迦比迦流比能美古《タカヒカルヒノミコ》、是を證とす、下此に傚ふべし、所知麻之は今按シラレマシと云點は、其意叶はず、シラサマシとよむべし、萬代に國を知しめさまし島の宮はいづらやと、物を失て尋ぬるやうに云は歎餘なり、景行紀に日本武尊弟橘姫を戀しのびて碓日嶺に登て東南を望みて三たび吾嬬者耶《アカツマハヤ》とのたまひ、仁賢紀に、弱草吾|夫※[立心偏+可]怜《ツマハヤ》矣と泣て人をさへ悲しましめし女あり、※[立心偏+可]怜をハヤと和せるにて今の歌をも見るべし、
 
初、高てらすわか日のみこの――
嶋の宮はも、此はもといふは、もの字は助語なり。はといふは、かなしひのあまり、萬代もこゝにして天か下しろしめさんとおもひしに、いつくやその嶋の宮はとうたかひて問ふ詞なり。仁賢紀に、弱草吾夫※[立心偏+可]怜矣。この※[立心偏+可]怜の字を、はやとよめるも、今の心におなし。又日本紀に、日本武尊うすひの坂にのほりて東南のかたを望て、弟橘姫をおほしめし出て吾嬬者耶とのたまひしも、はやはなけきてとひもとむるやうの詞なれは、※[立心偏+可]玲はあはれともかなしとも讀へきを、はやといふ虚語に訓したるはよく心を得たるものなり。これらにて今の歌をも見るへし。此詞集中にあまたあり
 
172 島宮上池有放鳥荒備勿行君不座十方《シマノミヤウヘノイケナルハナチトリアラヒナユキソキミマサストモ》
 
上池、【官本或作2池上1、】
 
アラビナユキソは荒振神など云心にはあらず、住あらしてなゆきそとなり、竹取物語に、あなゝひに【和名云、辨色立成云、麻柱、阿奈々比、】驚々しく二十人登りて侍れば、あれて寄まうで來《コ》ぬなりと云へるも、燕の住あらしたるなり、
 
初、島の宮うへの池なる放鳥あらひなゆきそきみまさす友
竹取物語云。あなゝひにおとろ/\しく廿人のほりてへ侍れは、あれてよりまうてこぬなり。これもつは
 
173 高光吾日皇子乃伊座世者島御門者不荒有蓋乎《タカテラスワカヒノミコノイマシセハシマノミカトハアレサラマシヲ》
 
蓋、【別校本作v益、當v從v此、】
 
初、高光わか日の皇子の
蓋は益をあやまれり
 
(38)174 外爾見之檀乃岡毛君座者常都御門跡侍宿爲鴨《ヨソニミシマユミノヲカモキミマセハトコツミカトヽトノヰスルカモ》
 
ヨソニ見シとは皇子(ノ)尊を納奉らぬさきをいへり、
 
175 夢爾谷不見在之物乎欝悒宮出毛爲鹿作日之隅回乎《ユメニタニミサリシモノヲオホツカナミヤイテモスカサヒノクマワヲ》
 
作日、【別校本作2作佐1、當v從v此、】 隅回、【今按隅當v作v隈、】
 
欝悒はオホヽシクともよめば、同じ心ながらさよむべきか、オボツカナクと云は如何にぞや、叶ても聞えぬにや、宮出はミヤデとよむべきか、第十八に美夜泥之理夫利《ミヤデシリブリ》とよめるみやでも今と同じく出仕なり、作日ノクマは第七に、さひのくまひのくま川とよめる所なり、三吉野の吉野などよめるやうに、ひのくまにさ〔右○〕もじを添へて再いへるなり、和名云、高市郡|檜前《ヒノクマ》【比乃久末、】眞弓岡同じ郡なれば檜隈のあたりにや、
 
初、夢にたにみさりしものを――
宮出は宮の中にのみ有しに、宮を出て夢にもみぬさひのくまのめくりを行となり。まゆみの岡の道にこそ。第七第十二に、さひのくまひのくま川とよめる所なり。古今集に、さゝのくまひのくま川とあるはうたひあやまり、かきあやまれり。高市郡なり。但馬國氣多郡にそ、さゝのくまは侍る
 
176 天地與共將終登念乍奉仕之情違奴《アメツチトトモニヲヘムトオモヒツヽツカヘマツリシコヽロタカヒヌ》
 
莊子任宥云、吾與2天地1爲v常、楚辭九章云、與2天地1兮比v壽、與2日月1兮齊v光(ヲ)、マツルはたてまつるなり、
 
初、あめつちとゝもにをへむと――
第四大伴三依悲別歌あり。此歌にゝたり。莊子在宥云。廣成子曰。吾與日月參光、吾與天地爲常。楚辭九章云。與天地兮比壽。與日月兮齊光。史紀葵澤列傳云。澤説應侯曰。富貴顯榮、成理萬物、使客得其所、性命壽長、終其天年而不夭、傷天下繼其統、守其業傳之無窮、名實純粹、澤流千里、世々稱之無絶、與天地終始、豈道徳之符、而聖人所謂言吉祥善事與。抱朴子曰。服丹守一、與天相畢。又云。與天地相畢日月相望
 
(39)177 朝日弖流佐太乃岡邊爾羣居乍吾等哭涙息時毛無《アサヒテルサタノヲカヘニムレヰツヽワカナクナミタヤムトキモナシ》
 
朝日テル佐太ノ岡とつゞけたるは、古今に夕月夜さすや岡邊と云ひ、拾遺に朝彦がさすや岡邊といへる如く岡といはんためなり、朝日の光もいづくはあれど、先岡にあたりたるがはなやかに見ゆる故なり、下に朝ぐもり日の入ゆけばとよめるに思ひ合すれば、東宮を明日によそへて、日の替らず照につけて東宮のかくれ給へるを嘆く意にやともおぼしきを、又下に朝日てる佐太の岡邊に鳴鳥とよめるは、其意なければ、唯初の義なるべし、佐太の岡は眞弓丘の別名か、其故は上にはまゆみの岡にとのゐするとよみ、下には佐太の岡邊にとのゐしに行とよめればなり、或者の云、眞弓村近く西南の方に佐太村あり、
 
初、朝日てるさたのをかへ
下にも朝日てるさたの岡とつゝけたるは、さたの岡にかきらす、いつくにもあれ、岡へには朝日夕日なとのさす時、ことに景趣あれは、ゆふつくよさすやをかへなともよむなり
 
178 御立爲之島乎見時庭多泉流涙止曾金鶴《ミタチセシシマヲミルトキニハタツミナカルヽナミタトメソカネツル》
 
止曾、【官本更點云、ヤメソ、】
 
御立爲之は、今按日本紀に二神|立天《タヽシテ》2天浮橋1、此自注訓v立云2多々志1、とあれば古語によりてミタヽセシと点ずべきか、島は宮の名にはあらず、やがて下に見ゆるも勾池の中(40)嶋なり、ニハタヅミは和名云、唐韻云、潦、音老、【和名、爾八太豆美、】雨水也、此にはたづみを又はいさらみづとも云、皇極紀云、雨下潦水|溢v庭《イハメリ》、かゝればにはたづみと云和語の心、にはは庭にて、たづみは此集第十一に、隱津《コモリツ》の澤立見《サハタツミ》なる石根をもとよめるに、同卷に此と同じ歌の少し替れるには、澤泉《サハイヅミ》なるとあれば、たづみ〔三字右○〕は泉なり、夕立村雨などによりて、庭に流るゝ水の泉の涌やうなれば名づくるにやと意得らるゝに、文選馬融長笛賦云、秋(ノ)潦《ニハタツミ》漱2其下趾1、兮云云、是は竹のまだ笛にきらで※[山+解]谷にある時をいへり、王勃が膝王閣序云、潦水盡而寒潭清、かゝればには〔二字右○〕は俄、たづみ〔三字右○〕はさきの如にて雨によりて俄にまさる水の心なるべし、第二十に防人が歌に、にはしくもとよめるも俄なり、後の心にては川にも庭にも通ずるなり、島を見時と云につゞけば、雨に依て池ににはたづみのまさるを承て、皇子の遊覽し給ひし折を思ひ出る涙も、潦の流るゝ如くして留あへぬとなり、
 
初、にはたつみ
雨ふりて庭になかるゝ水なり。和名集云。唐韻云。潦音老【和名爾八太豆美】雨水也。王勃膝王閣序云。潦水盡而寒潭清
 
179 橘之島宮爾者不飽鴨佐田之岡邊爾侍宿爲爾徃《タチハナノシマノミヤニハアカヌカモサタノヲカヘニトノヰシニユク》
 
不飽鴨、【仙覺抄云、アカヌカモ、】
 
橘ノ島ノ宮とは第七にも橘の島にしをればとよめり、橘寺と云も彼地にあれば、橘(41)も所の名なるべし、古今に橘のこじまの隈とよめるも彼處にや、アカズカモは足らぬかもなり、意は何の飽足らぬ所有てか此宮を除て佐田の岡邊にとのゐしには行、と悲しみの餘に設て云なり、島の宮におはしましける時の宮仕にあかでと云にはあらざるべし、
 
初、橘の島の宮にはあかすかも
嶋の宮にて恩顧をかうふりて宮つかへせしなこりのあきたらぬ心にや、めして物のたまふ事も、佐田の岡にはとのゐしにゆくらんと、身を人の上のやうによめり
 
180 御立爲之島乎母家跡住鳥毛荒備勿行年替左右《ミタチセシシマヲモイヘトスムトリモアラヒナユキソトシカハルマテ》
 
島ヲモ家ト住とは、水鳥は水をすみかとする物なれど、能飼ならし置たまへば、なづきて中嶋にもあがりて心やすく遊ぶ意なり、
 
181 御立爲之島之荒礒乎今見者不生有之草生爾來鴨《ミタチセシシマノアライソヲケフミレハオヒサリシクサオヒニケルカモ
 
今見者、【官本又點云、イマミレハ、同本或作2今日見者1、】
 
島ノ荒イソとは、今案アリソともよむべし、礒は海に限らず川にも池にもよめり、されば歌の習なれば必あら浪のよする所ならずとも大形に礒をあらいそといへるか、若は海邊を學びて作らせ給へば云か、今見者は此本に付てはイマミレバとよむべし、下句道あると道なきとは異なれど、姑蘇臺の感あり、
 
(42)182 鳥〓立飼之鴈乃兒栖立去者檀崗爾飛反來年《トクラタテカヒシカリノコスタチナハマユミノカニトヒカヘリコネ》
 
島〓立、【官本又點云、トクラタテ、古點云、トカキタチ、別校本〓作v垣、】
 
發句の點官本の又の點をよしとすべし、タチと云は叶はず、今〓の字垣に作れる本もあり、或は今のまゝにてトカキタチと點ぜるもあれど不審なり、いかさまにも、〓は傳へ寫せる誤字なるべし、今按栖の字なるべきか、和名云、孫※[立心偏+面]切韻云、穿v垣栖v?曰v塒、【音時、和名、止久良、】又云、辨聲切韻云、椙、【毛報反、】今之門?栖也、辨色立成云、?栖、【鳥居也、楊氏説同、】凡栖は棲と同字にて鳥の木にすむと云に用る字なり、鴈乃兒は鴨の子を云、うつぼ物語源氏枕草子にあまた處見えたり、東國に鴨の中の一種に、かる〔二字右○〕と云物ありと申す、此卷一下に天飛やかるの路とつゞけたるは天飛雁とそへたり、さればかる〔二字右○〕はかり〔二字右○〕なり、後撰に貫之の歌に、秋の夜にかりかも鳴て渡るなりとあるは雁も水鳥なれば、さては鳧は水鳥の※[手偏+總の旁]名にて、かりの名もまた※[手偏+總の旁]に通じて云か、仁徳紀に五十年春三月に河内の茨《マム》田塘に雁子うむと有は誠の雁にて珍らしき事の別義なり、今按彼仁徳紀には雁を誤て鷹に作れり、今は鷹を誤て鴈に作れるか、玉篇云、鴈、【於陵切、今作v鷹、】何れにてもまがひぬべき字なり、誤れるにやと申故は、和名云、廣雅云、一歳名2之黄鷹1、【俗云、和賀太賀、】催(43)馬樂に、鷹の子はまろにたぶはらむともいへり、さきの和名の説によらず、?のすむ所をとくらといへども、鷹を飼|鳥屋《トヤ》をも第十九に家持の鷹をよまれたる歌には、妻屋の内、に烏座由比《トクラユヒ》とよまる、此外の水鳥などには聞及ばず、又鴨の子ならば唯島の宮の池を去らですめとこそ云べけれ、彼に似つかぬ眞弓の岡にこよといはゞ、是ぞ誠の由もなき事なるべき、阿騎野に狩したまひし事は第一に見え、下には宇陀野に狩したまひし由よみたれば、其料に鷹の子を飼せ給へるにつけてよめるにこそ、
 
初、鳥〓立飼之雁乃兒
〓は栖の字のあやまれるなるへし。和名集云。孫※[立心偏+面]切韻云。穿垣栖v※[奚+隹]曰塒、【音時和名止久良。】玉篇云。棲【思奚切、鳥栖木作栖。】雁乃兒はかもの子をいふ。かるのこともいふと、源氏物語の抄に見えたり。されともいかにしてかりのこといふよしは見えす。細流は逍遥院殿の御作なれと、只かものことのみのたまへり。源氏眞木柱に、かりのこのいとおほかるを御覽して、かむしたちはなゝとやうにまきらはして、わさとならす奉れたまふ。同橋姫に、春のうらゝかなる日影に、水鳥とものはね打かはしつゝ、をのかしゝさえつるこゑなとを、つねははかなきことも見たまひしかとも、つかひははなれぬをうら山しくなかめ給ひて、君たちに御琴ともおしへきこえ給ふ。いとおかしけにちひさき御ほとにとり/\かきならし給ふものゝねとも、あはれにおかしく聞ゆれは、涙をうけたまひて、打すてゝつかひさりにし水鳥のかりのこのよにたちをくれけん。うつほ物語第二ふちはらのきみにいはく。宰相めつらしくいてきたるかりのこにかきつく。かひの内にいのちこめたるかりのこは君かやとにてかへさゝらなん。兵衛たまはりて、あて宮に、すもりになしはしむるかりのこ御覽せよとてたてまつれは、あて宮くるしけなる御物ねかひかなとのたまふ。枕草子に、うつくしき物、かりのこ.さりのつほ、なてしこの花。同草子に、あてなる物、かりのこもたりたるも、水精のずゝ。これらみなかもの子をいへり。此かもは家にかふ鴨のたくひの鶩にて、俗語にあひるといふなるへし。かもをかるといふは、水にうくことのかろきゆへなるへし。文選、屈原卜居云。將〓々若水中之鳧乎、與波上下、偸以全我躯乎。荊楚歳時記云。南方競渡者、冶其船使輕利、謂之飛鳧。木玄虚海賦云。鷸如鶩鳧之失侶。これらみなかろきこゝろなり。雁をかりと名付たるもかろくとふ心にていへるにや。日本紀木梨輕太子の御歌にも、あまとふかるをとめと讀たまひ、此集にも、天とふやかるの社とも、此卷の下に、天とふやかるのみちともつゝけよめるは、輕の字につゝけたれはなり。鳧は類おほき物にて、鴛をもおしかもといひ、おほかた水鳥の惣名なれは、鴈も水鳥にて名さへ通するにや。後撰集第七、秋下、こしのかたにおもふ人侍ける時に、貫之
秋の夜にかりかもなきてわたるなりわかおもふ人のことつてやせし
この歌、かりかねにやとおもへと、昔よりかりかもとのみあれは、惣名をくはへてよめるなるへし。又鴨の中にゐなかに一種かるとなつくるあり。ひなよりかへはよくなつきて道をゆけはしりにたちてくるといへり。都あたりには昔よりすくなくて皆の人もしらさりけるにや。今案に又一説あり。これは鷹の兒を雁の兒とかきあやまれるにや。そのゆへは、とくらたてといへるも、鷹と聞ゆ。第十九に、家持の、鷹をよまれたる長歌に、枕つくつまやのうちにとくらゆひすゑてそわがかふましらふのたかとよめり。これ、鳥屋のことなり。かもならは、すなはちまかりの池に、かはせたまふへし。又まゆみのをかにとひかへりきねも、につかはしからす。下に、けころもを春冬かたまけてみゆきせしうたの大野はおもほえむかもとよめるは、鷹狩のみゆきときこゆ。第一に|ひなへし《・日雙斯》みこのみことの午なへてみかりたゝしゝ時はきむかふともよめれは、御狩のために鷹の子をかひをかせ給ふ間に、薨したまへは、人なりてはねもつよくなりなは、こゝろ有て、此まゆみの岡に飛來よとよめる歟。催馬樂に、たかのこは、まろにたふはらむ。手にすゑて、あはつのはらの、みくるすの、つぐりの、鶉とらせん。玉篇云。〓《イヨウ》【於陵(ノ)切。今作v鷹(ニ)】〓を今今鷹とかけとも、猶やゝ似たれは、あやまれる歟とおほしきなり。仁徳紀云。五十年春三月壬辰(ノ)朔丙申、河内(ノ)人|奏言《マウサク》。於2茨《マム》田(ノ)堤(ニ)1鷹|産《コウメリ》之。即日《ソノヒ》遣《マタシツ》v使(ヲ)令《タマフテ》v視|曰《マウサク》。既(ニ)實也。天皇於v是|歌《ウタヨミシテ》以問(テ)2武内(ノ)宿禰(ニ)1曰(ハク)。多莽耆破屡《タマキハル》、宇知能阿曾《・内朝臣》、儺《ナ・汝》虚曾破、豫能等保臂等《壽也・世遠人》、儺《ナ・汝》虚曾波、區珥《クニ》能|那餓臂等《壽也・長人》、阿耆豆|辭莽《シマ》、揶莽等能區珥々、箇利古武等《・雁子産》、儺波企箇|輸《ス》椰《・汝不聞耶》。武内(ノ)宿禰|答歌《カヘシウタ》曰。夜|輸瀰《スミ》始之、和我於朋枳瀰波《・我大君》、于陪儺《・諾》々々々、和例|烏《ヲ》斗波輸儺《・我問》、阿企菟辭摩、椰揶莽等能倶珥々、箇利古武等《・雁子産》、和例破枳箇儒《・我不聞》。なこそはとは汝こそはなり。かりこむとは、かりこうむなり。うへな/\は、むへな/\にて、けにも/\といふかことし。われをとはすなとは、われにとひたまふなり。長命のわれなれは、とはせたまふは、尤ことはりなれと、此國にて、かりのこうみたることは、いまたうけたまはらすと、勅答を申さるゝなり。此一段初に、於2茨田(ノ)堤(ニ)1鷹|産《コウメリ》之とありて、歌にはともにかり|こむ《子産》とあれは、今案の良證なれとも、ふかくかんかふるに、これはかへりて鴈産《カリコウメリ》之を鷹にあやまれり。そのゆへは、仁徳紀(ニ)云。四十三年秋九月庚子(ノ)朔、依網屯倉《ヨサミノミヤケノ》阿弭古、捕(テ)2異《アヤシキ》鳥(ヲ)1獻(テ)2於|天皇《スメラミコトニ》1云。臣《ヤツカレ》毎《ツネニ》張(テ)v網(ヲ)捕(ルニ)v鳥(ヲ)未(タ)曾(テ)得2是(ノ)鳥(ノ)之類(ヲ)1。故《カル ニ》奇(シンテ)而獻(ツル)v之(ヲ)。天皇召(テ)2酒君(ヲ)1示(シテ)v鳥(ヲ)曰《ノ ハク》。是(レ)何(ノ)鳥(ソ)矣。酒(ノ)君對(テ)言《マ サク》。此(ノ)鳥(ノ)之類|多《サハニ》在(リ)2百濟(ニ)1。得(テハ)v馴《ナツクコトヲ》而能從(フ)v人(ニ)。亦捷(ク)〓(テ)之|掠《カスフ》2諸鳥(ヲ)1。百濟(ノ)俗《クニコトニ》號(テ)2此(ノ)鳥(ヲ)1曰2倶知(ト)1。【是今時(ノ)鷹也】乃授(テ)2酒君(ニ)1令2養馴《カヒナツケ》1。未《・ルニ》2幾時《イクハクナラ》1而得(タリ)v馴(コトヲ)。酒(ノ)君則以|韋緡《オシカハアシヲ》著(ケ)2其足(ニ)1以2小鈴(ヲ)1著2其(ノ)尾(ニ)1居《スヱテ》2腕《タヽムキノ》上(ニ)1獻(ツル)于天皇(ニ)1。是(ノ)日|幸《イテマシテ》2百舌鳥野(ニ)1而|遊獵《カリシタマフ》。時(ニ)雌雉《メキシ》多(ク)起(ツ)。乃放(テ)v鷹(ヲ)令(ルニ)v捕(ラ)忽(ニ)獲(タリ)2數十(ノ)雉(ヲ)1是(ノ)月|甫《ハシメテ》定(メタマフ)2鷹|甘《カヒ》部(ヲ)1。故(ニ)時(ノ)人|號《ナツケテ》2其(ノ)養(フ)v鷹(ヲ)之處(ヲ)1曰2鷹甘(ノ)邑1也。いま此一段をみるに、諸臣にとはせたまふとはみえねと、ことはりのをすところ、諸臣にとはせたまへとも、知人なきによりて、酒君に尋させたまへるなり。酒君は、百濟王の孫なり。四十三年に、知人なくて、百濟王の孫にとひて初て鷹といふことをしらせたまへるを、五十年にいたりて、武内宿禰に問せたまふへきことはりなし。(以下頭書)和名集云。蒋魴切韻云〓【音四和名太加今案古語云倶知急讀屈百濟俗 鷹也見日本紀私記】鷹〓※[手偏+總の旁]名也(以上頭書)雁は神代よりあれとも(以下傍書)神代紀下云。時有2川雁《カハカリ》1嬰《カヽリ》v羂《ワナニ》困厄《タシナム》(以上傍書)中秋にはしめて渡りきて、春になれはかへりて、終にとまりゐて、すをくふことをきかせたまはねは、さてぞ長壽の宿禰に、昔よりさること有きやととはせたまへるなり。しかれは鷹雁の二字相似てまかふ證とすへし。和名集に廣雅を引ていはく、一歳名之黄鷹【俗云和賀太加。】皇子薨したまふ後、黄鷹をはなさるへけれは、まゆみの岡にとひかへりきねといはん事相應せるにや。大鏡云。 延喜九月にうせたまひて、九日の節のそれよりとゝまりけるなり。その日左衛門陣の前にて御鷹ともはなたれけるなり云々。これははるかに後の事なれと、かゝる時ははなちやる例なり。仁徳紀云。依網屯倉阿弭古とあるをは、弭を漢音によみて、阿弭古《アビコ》といふへし。住吉郡に我孫子村といふ村あり。住吉神社の東南にて依羅神社ならひに依羅池よりは西北にあたれり。これはかの何弭古かすみける所にて、名におひけるなるへし。續日本紀の孝謙紀にも、依羅我孫忍麿を外從五位下に叙せられ、祝部弓月等五十餘人に物忌姓を贈るよし見えたり。彼阿弭古は長壽の人なり。神功皇后紀に皇后三韓を征し給ふ時、筑紫にて阿弭古か子【本ノ垂見カ】を神主として住吉明神をまつらせたまへることあり。忍麿はその裔なるへし。今我孫子とかくことはひこといふはすなはちまこなれは、下の子の字をあませり。世俗に曾孫をあやまりてひこといふゆへに、こさかしきものゝ後にそへけるなるへし。鷹甘邑はかの我孫子より東北にあたりて、鷹合村といふ村あり。これなるへし。日本紀の中にも、人の名、所の名、文字をたかへてかけることあり。いはんや世をへて後をや。又依羅をも日本紀には河内依羅屯倉といへり。此阿弭古鷹甘邑の事なとは、こゝに用なくて事なかくわつらはしけれと、第十七第十九にも、鷹をよめる歌侍れは、かの我孫子わたりにはすこしのほとすみて、所をもしれるゆへに、事の次に末をかねて、事のおこりを注しをき侍るなり
 
183 吾御門千代常登婆爾將榮等念而有之吾志悲毛《ワカミカトチヨトコトハニサカヘムトオモヒテアリシワレシカナシモ》
 
ミカドとは帝の字の意にあらず、第九にはわきも子が家のみかどともよめり、此御門は宮の意なり、トコトハは此集に、不止を、トハとよめり、同じ意の詞を重て云なり、
 
184 東乃多霓能御門爾雖伺侍昨日毛今日毛召言毛無《ヒムカノタキノミカトニサモラヘトキノフモケフモメスコトモナシ》
 
儲の君は天子より東に渡らせ給ふべき理なれば、今東と云は淨御宮の東にや、タギノ御門とは、島宮は元來《モトヨリ》の所の名にて、それをたぎの宮と名付られたる歟、又は島(ノ)宮の東に當て別に瀧宮ありけるか決しがたし、召言モナシとは上の人丸歌に、あさご(44)とにみこととはせずと云に合すれば召事もなしと云にはあらで、召給御言もなしとなるべし、
 
初、東のたきのみかとに――
これは嶋の宮のうちに、東をかく名つけらるゝにや。又別に、かくいふ宮をつくらせたまへる歟
 
185 水傳礒乃浦回乃石乍自木丘開道乎又將見鴨《ミツツテノイソノウラワノイハツヽシモクサクミチヲマタモミムカモ》
 
初、水つたふいそのうらわのいはつゝし――
これは嶋の宮につくらせたまへる庭の泉水のあたりの事をよめり。水つたふとは、いそへは水につきてつたひゆけはなり。山海の體勢をまなひてうつさるれは、さきの歌には嶋のあらいそとさへよめり。いはつゝしは、羊躑躅とかきて、いはつゝしとも、もちつゝしともよむは、つゝしの中の一種の名なれとも、惣してつゝしはよくいはねにさく物なれは、あいつゝし、をかつゝしをもすへていはつゝしといふへし。もくさくはしけくさくなり。茂の字をもゝしとよみ、日本紀には薈の字をよみたり。書禹貢(ニ)云。厥草惟?、厥木惟條
 
186 一日者。干遍參入之。東乃。大寸御門乎。入不勝鴨。
 
木丘、【仙覺云、古点、コク、】
 
八雲御抄に、磯の浦、紀伊と注せさせ給ひて注中にのたまはく、みづゞてのいそのうらわと云水傳也、水傳は今按ミヅヾタフとよむべきか、イソは水そひてつたひ行意なり、イソノウラワとは上にも云如く海邊の景趣なるべし、石ツヽジは和名に羊躑躅と書て、一の名はもちつゝじにてつゝじの中の一種なれど、つゝじは※[手偏+總の旁]じて石根によく生ればいづれのつゝじも云べし、モクサクは仙覺の新點なり、禹貢云、厥草惟|※[謠の旁+系]《モシ》、厥木惟|條《ナカシ》、日本紀に、※[草冠/會]をモシとよみ、扶疏を、シキモシとよめり、もしはしげき意なれば此點尤好、又モ見ムカモとは時移事去て、こと皇子などの住せ給はゞ又も見むとなり、
 
初、ひと日には――
入かてぬは、入あへぬなり。不勝とかきてたへすとよむにおなし心なり。孫卿子曰。孔子謂魯哀公曰。君入廟而右登自階、仰視〓棟〓見几莚、其器存其人亡。君以此思哀則袁將焉不至矣。この歌も此こゝろなり。宮殿をみるにつけて、かなしきゆへに入にたへぬなり
 
186 一日者千遍參入之東乃大寸御門乎入不勝鴨《ヒトヒニハチタヒマヰリシヒムカシノタキノミカトヲイリカテヌカモ》
 
(45)入ガテヌは入あへずなり、物は是にして皇子は非なる故に悲にたへぬ心なり、荀子云、孔子謂2哀公1白、君入v廟而右、登v自2※[こざと+乍]階1、仰|視《ミ》2※[木+衰]棟1、俛見2几莚1、其器存其人亡、君以v此思v哀、則哀將焉(クカ)不v至矣、此意を得て見べし、
 
187 所由無佐太乃岡邊爾反居者島御橋爾誰加住舞無《ヨシモナクサタノヲカヘニカヘリヰハシマノミハシニタレカスマハム》
 
所由無、【幽齋本云、ヨシモナキ、】
 
發句幽齋本の點によるべし、カヘリ居バとは、假初に島(ノ)宮へ參れども、眞弓(ノ)岡に侍宿《トノヰ》する我等にて歸たらばなり、又反《カヘル》とはそむく心にも有べし、あらぬ處に侍宿すればなり、島ノミハシニ誰カスマハムとは御橋とは書たれど御※[土+皆]なるべし、我等こそ御※[土+皆]のもとに有て仰事をも承つれ、誰か今よりはすまむとなり、
 
188 旦覆日之入去者御立之島爾下座而嘆鶴鴨《アサクモリヒノイリユケハミタチセシシマニオリヰテナケキツルカモ》
 
日は一日を渡て暮てこそ入なるを、朝の程に雨雲などの立重りたらむに、雲隱ゆかんやうに、皇子の後は天つ日繼をも知召て御年久に天が下をも照し臨ませ給ふべき御身の纔に三十にもたらせ給はで隱ませば初の二句はあるなり、島ニオリヰテ(46)は昔の御名殘にあかねば、己がどち打ながめをりて慕ひ奉る由なり、
 
初、朝くもり日のいりゆげは――
日のいるは夕にこそあれ、朝日の入とよめる心は、皇子の東宮にてましませしかは、朝の日の出のことくおもひ奉れるを俄にしてかくれ給へは、朝の間にくもりて日の入たると申心なり。御立せしとは、件の地にのそみて、常に立せたまひし御かけを戀たてまつりて、舍人等かをりたちなけくよしなり
 
189 且日照島乃御門爾欝悒人音毛不爲者眞浦悲毛《アサヒテルシマノミカトニオホツカナヒトオトモセスハマウラカナシモ》
 
不爲者、【校本云、セネハ、】
 
欝悒は今按集中にイブセクともオホヽシクとも今の如くもよめり、こゝはイブセクモとよむべきか、人オトモセズハは叶はず、セネバと云によるべし、マウラカナシモ、新實に心の悲しきなり、歌の心は、金門玉殿に朝日の指入ほどは、殊に出仕の人も花やかにつくろひて多くつどふを、薨じ給て後は人音も絶て物がなしきとなり、
 
初、まうらかなしも
まことにこゝろのかなしきなり
 
190 眞木柱太心者有之香杼此吾心鎭目金津毛《マキハシラフトキコヽロハアリシカトコノワカコヽロシツメカネツモ》
 
眞木柱は眞木は木をほめたる詞にて檜などの柱なり、フトキ心とは太き柱によせて慥なる心をいへり、顯宗紀云、築立《ツイタツル》柱者、此家|長《キミノ》御心之|鎭也《シツマリナリ》、神代紀云、其造宮(ヲ)之制者、柱則高(ク)太、板則廣厚、慥なる心はあれど悲をばえしづめぬなり、
 
初、眞木柱ふとき心は
神代紀下云。其造宮之制者、柱則高大、板則廣厚。神式紀云。古語稱之曰。於畝傍之橿原也太立宮柱於底磐之根云々。顯宗紀云、天皇室壽詞曰。築立稚室葛根、築立柱者此家長御心之鎭也。此集第二十にいはく。まけはしらほめてつくれるとのゝこといませはゝとしおめかはりせす。まけ柱は眞木柱、おめかはりは、おもかはりなり。ふとき柱は、たしかにて、たのもしく見ゆるものなり。その柱のたてることく、よろつの事にたはみてひるむことあらしとおもひしを、こゝろもうせてたをやめなとのやうになけかるゝをおさめかぬるとなり
 
191 毛許呂裳遠春冬片設而幸之宇陀乃大野者所念武鴨《ケコロモヲハルフユマケニミユキセシウタノオホノハオモホエムカモ》
 
(47)ケゴロモは和名云、※[敝/衣]、【介古呂毛】春冬カタマケテは、春かたまけて冬かたまけてなり、下に片待と云詞あり、かたまけてとかよひて聞ゆ、諺に待まうけてと云も物をかまへ置て持得る意にいへり、※[敝/衣]を調置て春冬の來るや遲きと狩に出給ひつる心なり、落句の心は其時節に至らば有し事の忘られず思ひ出られむとなり、
 
初、けころもを春冬――
けころもは、烏けた物の毛をもてをれる衣なり。和名集云。※[敝/衣]、【介古呂毛】。晉書、王恭字孝伯云々、恭美姿儀人、多愛悦或目之云、濯々如春月柳、披鶴鼈裘渉雪而行。孟昶窺見曰、此眞神仙中人也。かたまけてとは、時にさきたちてまふけをきて、時をまつやうの心なり
 
192 朝日照佐太乃岡邊爾鴨島之夜鳴變布此年巳呂乎《アサヒテルサタノヲカヘニナクトリノヨナキカヘラフコノトシコロヲ》
 
仙覺抄に、變の字の下に而の字ありてカヘラフと點ぜらる、其意を得ず、此本并に諸本幸に而の字なし、此に付て今按ヨナキカハラフと點ずべきか、さて句絶として落句は此年比はとして意得べし、歌の心は此年比此さたの岡邊に凶鳥の夜鳴にあしきね鳴つるは、かゝらむとてのさとしなりけるよと思ひ合てなげく意なり、
 
初、朝日てるさたのをかへに鳴鳥のよなきかはらふこの年ころを
年ころぬえふくろふやうの凶鳥の夜なきにあしきねなきなとせしことは、今かゝることあるへきさとしなりけるよとおもひあはせてなけく歌なり
 
193 八多籠良家夜晝登不云行路乎吾者皆悉宮道叙爲《ヤタコラカヨルヒルトイハスユクミチヲワレハサナカラミヤカトソスル》
 
宮道叙爲、【校本云、ミヤチトソスル】
 
ヤタコラガはた〔右○〕とつ〔右○〕と通ずれば奴等がと云にや、神功皇后紀に、忍熊《ヲシクマ》王の方にて軍の先鋒《サキ》をせし熊之凝《クマコリ》と云者の歌に、うま人はうま人どち、やいとこはもいとこどち、(48)いざあはなわれは、上下略v之、此いとこ〔三字右○〕もやつこ〔三字右○〕と聞ゆれば引合せて心得べし、又一つの今按、八の字は音訓共に用れば、音を取てハタコラガと讀べきか、和名云、唐韻云、、※[竹/兜]、【當候反、漢語抄云、波太古、俗用2旅籠二字1、】飼v馬器、籠也、かゝれば馬を追男を彼が持ところの具によりてはたこらと云か、旅人に宿かす所を俗にはたご屋と云を思ふべし、八多籠とかける籠の字も此意にや、馬追ふ男は詞なめげにて賤しき者の限なれば、それらのみ行道といへるか、夜トイハズ行ミチとは官路には道守ありて、夜行などゆるさぬ事あり、是はさる道ならねば賤しき者も恣に行なり、皆悉〔二字右○〕をサナガラとよめるは意を得て義訓したるなり、宮道はミヤヂとよむべし、歌の心は、然るべき大路にもあらず、唯卑賤のものゝみ夜晝となくかよふ道を、思ひがけぬ宮路として侍宿《トノヰ》に參ることと悲しぶなり、
 
初、八多籠良家よるひるといはす――
やたこは、つとたと通すれは、やつこにや。第五によちこらと手たつさはりてあそひけんなといへるも、よちこはやつこときこゆ。神功皇后紀に、忍熊王軍の先鋒をせし熊之凝といふもの、軍衆をいさましめんとてよめる歌に、うま人はうま人とちや、いとこはも、いとことち、いさあはれわれはなとよめり。いとことよめるもやつこなれは、やたともいふへし。又八の字を、はとよみてはたこらともよむへきか。そのゆへは、旅人に宿かす所をはたこといふは、馬のはみ物なといるゝ籠をはたこといふ。かの宿にはかねて其義をまふけて、出し置なとするゆへになつけたり。しかれは、馬をかしてくちをとるをのこをも、おなし名によひて、はたこらといへるにや。よるひるといはすとつゝけたるは、馬をふをのこかときこゆ。さるいやしきものゝみゆく道を、おもひかけぬみやぢとして、かよふよとよめるなるへし。さたの岡へ、かよひてとのゐする事をいへるなり。戰國策(ニ)云。蘇子爲(ニ)v趙(ノ)合從(シテ)説(テ)2魏王(ニ)1曰。大王之地○民(ノ)之|衆《オホキ》、車馬(ノ)之多(キ)、日夜軒(テ)不v休(マ)。已(ニ)無(シ)1以異(ナルコト)2三軍(ノ)之衆(ニ)1
 
右日本紀曰三年巳丑夏四月癸未朔乙未薨
 
要を取て引り全文にはあらず、
 
柿本朝臣人磨獻泊瀬部皇女忍坂部皇子歌一首并短歌
 
天武紀云、次納2宍人《シヽムト》臣大麻呂女|擬《カチ》媛娘1、生2二男二女1、其一曰2忍壁皇子1、其二曰2磯城皇(49)子1、其三曰2泊瀬部皇女1、其四曰2託基《タキ》皇女1、此歌を獻らるゝ故は下の注に見えたり、泊瀬部皇女をむねと奉りて兼て忍坂部皇子へは奉らるれば、兄にてましませど後にかけるか、其意は歌にて知べし、今按拍瀬部皇女の下に兼并等の字脱たるか、
 
初、柿本朝臣人麿獻泊瀬部皇女――。此歌後の注をみるに、泊瀬部皇は、天智天皇第二皇子河島皇子の妃《ミメ》にておはしましけると見えたり。川島皇子、御年三十五にして、朱鳥五年九月に薨したまひし時、人丸、皇女の御なけきをおもひやりて、いたみ奉られけるなり。忍坂部《オサカヘノ》皇子へ奉らるゝ心は、歌に見えねと共に天武の御子にて、御母は宍人臣《シヽウトノオム》大麻呂の女、擬媛娘《カヂヒメノイラツメ》同腹の御はらからなれは、兼て忍坂部皇子へも奉られけるなるへし
 
194 飛鳥明日香乃河之上瀬爾生玉藻者下瀬爾流觸經玉藻成彼依此依靡相之嬬乃命乃多田名附柔膚尚乎釼刀於身副不寐者烏玉乃夜床母荒良無《トフトリノアスカノカハノノホリセニオフルタマモハクタリセニナカレフレフルタマモナスカヨリカクヨリナヒキアヒシイモノミコトノタタナツクヤハハタスラヲツルキタチミニソヘネヽハヌハタマノヨトコモアルラム》【一云何禮奈牟】所虚故名具鮫魚天氣留敷藻相屋常念而《ソコユヘニナクサメテケルシキモアフヤトヽオモヒテ》【一云公毛相哉登】玉垂乃越乃大野之旦露爾玉藻者?打夕霧爾衣者沾而草枕旅宿鴨爲留不相君故《タマタレノコスノオホノノアサツユニタマモハヒツチユフキリニコロモハヌレテクサマクラタヒネカモスルアハヌキミユヘ》
 
嬬乃命乃、【官本又点云、ツマノミコトノ、】 鳥玉、【鳥當v作v烏、】 越乃大野之、【別校本云、ヲチノオホノヽ、】
 
上瀬下瀬は今按ノボリセ、クダリセとよめるは誤なり、カミツセ、シモツセと讀べし、神代紀上云、遂將3盪2滌身之|所汗《キタナキモノヲ》1、乃(チ)興言《コトアケシテ》曰、上瀬《カムツセハ》是太|疾《ハヤシ》、下|瀬《セハ》是太弱、梗濯2之中瀬1也、此集第一第十三にもカミツセ、シモツセと點ぜり、流フレフルとは、上瀬の玉藻のなび(50)き下て下瀬の玉もにふれふるゝなり、經の字日本紀に觸と同じくフルと訓ず、又此集第十二にも妹とふれなば我とふれなむと云に二つのふれ〔二字右○〕に此字を用たり、字書にいまだ見及ばずといへども定て子細あるべし、假令此所は觸の訓ならで經歴のふる〔二字右○〕を借て用と云とも子細なし、以上六句は次の三句をいはむ序なること上に注せしが如し、嬬をイモと點ぜるは誤なり、ツマと和せるを正義とす、此嬬は假てかけり、注に依に河島皇子の御事なれば正しくは夫の字を書べし、タヽナツクヤハハタとは和なる膚のたゝまれつくなり、たゝなはると云詞源氏枕草子等におほし、遊仙窟云、輝々|面子《カホツキハ》、荏苒《ヘベヤカニシテ》畏2彈穿1、細々腰支參差疑2勒斷1、ツルギタチ身ニソヘネヽバ、釼は兩刃なるを云のみにあらず、太刀を釼とも釼を太刀ともいふ中に、諺にも利《トキ》をつるぎのやうにと云ならへり、然れば眼目など云如く同詞を重ていへるにも亦とき刀《タチ》と云心にも侍るべし、第四に笠(ノ)女郎が家持に贈る歌の中に、釼太刀《ツルギタチ》身に取そふと夢に見つ、何のさとしぞも君に逢む爲とよめるは、太刀は男の具なればなり、されば男こそ太刀を身に佩副れ、今は皇子をやがて男子の具になしてかくはいへり、ソコ故ニナグサメテケルとは、そこは等輩なる人をさしてそこと云へるにはあらで、此集にあるは多分それゆゑと云心なり、今按此下には數句の脱たるか、敷藻相屋常念而、此(51)敷藻はケタシクモの上を脱せるか、相の字より下はアフヤト思ヒテと七字一句なるべし、其故は屋の字一字を此集にヤドとよめる傍例なし、屋戸屋前など二字にかけり、其上一本を注するにキミモアフヤトとあるは、あふやとおもひての異なる事明けし、又落句も此あふやと思てと云を踏て終れり、皇子を葬たる野に行かば、今一度逢ことの有やと皇女の思召ておはしますと云心なれば、今按の如くけたしくもあふやと思ひてにても、なぐさめてけると云下に上を收拾して下を起す句なければ連屬せず、玉ダレノ越ノ大野ニとは、玉だれは玉すだれなり、越をコスと點ぜるは第七第十一に玉|垂小簀《タレノコス》とつゞけよめる如くに玉だれの小すだれと云心にこすの大野と云所の名につゞくと思へり、此點によりてこすの大野とよめる歌末の集にも見え侍り、然れどもヲチノ大野と點ぜるを正義とす、其證はまちかく反歌の下の注に、一云|乎知野爾過奴《ヲチノニスキヌ》と云ひ、又後注に葬2河島皇子越智野1之時といへり、第七に眞珠村越能菅原《マタマツクヲチノスカハラ》、第十二に眞玉就越乞兼而《マタマツクヲチコチカネテ》とよめるも玉の緒とつゞけたり、拾遺に玉簾糸のたえまに人を見てとよめる糸はあめる糸なり、上に鈎あり下に総あり、何れに付ても緒とつゞくべし、天智紀云、六年春二月壬辰朔戊午合d葬(マツル)天豐財重日足姫天皇與2間人皇女(ヲ)1於小市岡上陵(ニ)u、延喜式諸陵式云、越智崗上陵、【皇極天皇、在2大和國高市郡1、】大市《オホイチ》と云所(52)もあれば小市は彼に對する名にて越とも越智ともかけるは其假名なり、玉モハヒヅチは玉裳はひぢなり、曲禮云、送v葬不v避2塗潦(ヲ)1、夕霧ニと云より下を六帖には裁取て一首として霧と、くれどあはずと云戀の歌と兩所に出せり、
 
初、飛鳥の明日香の川の――。上瀬下瀬は、かみつせしもつせと讀へし。なかれふれふるといふまては、玉藻なすといはむ序なり。經の字は、日本紀にも觸と訓し、此第十二にも、妹にこひいねぬあしたに吹風の妹にふれなは我とふれなんといふふたつのふるゝに、ともに此字を用たれは、ふれふるは、ふれふるゝなり。かみつ瀬に、生たる玉もの、なかくなひきて、下つせの玉もにあひふるゝなり。嬬をいもと訓したるは、こゝにてはあやまりなり。つまのみことゝよむへし。川島皇子の御事なり。字にはかゝはるへからす。つまとよまるゝまゝにかけり。たゝなつくやははたすらをとは、やはらかなるものは、よくたゝまりて物につくなり。これも皇子の御ことなり。禮記曰。主佩《キミノオモノ》垂(ルヽ)則臣(ノ)佩|委《タヽナハル》。うつほ物語に、御くしよれたり。しもに打たゝなはれたる、いとめてたし。枕草子に、かたはらのかたに髪のうちたゝなはりてゆらゝかなるほと、ながさをしはかられたるに云々。遊仙窟云。輝々《・テレル》(ト)|面子《・カホツキ》(ノ)、荏苒《・ヘヘヤカニシテ》(ト)畏(ル)2彈穿《ハシカハウケナンコトヲ》1。細々(ト)腰支(ノ)參差(ト)《・ホソヤカナルコシハセハタヲヤカニシテ》疑勒斷。つるきたち身にそへねゝは、太刀はをのことあるものゝ身をはなたすよるもあたりをさけぬものなれは、此集におほくかやうによめり。只身にそへねゝはといはんためなり。皇女にあはぬやうにはみるへからす。意をうるといふことこゝにあり。烏玉を鳥玉につくれるは、かきあやまてるなり。敷藻相屋當念而。此二句こゝろえかたし。第十六竹取翁歌に、信巾裳成者之寸丹取爲支といふ二句あれと、彼もいかなることゝもえしり侍らす。今案するに敷の字の上に落字ありて何しくもあふやとおもひてと、相の字を下の句につくへしとおほゆ。そのゆへは屋の一字を此集にやとゝよめる例なし。屋戸とかきてよめることはあり。又自注に、一云公毛相哉登。これ下の一句の異を注するにあふやとゝあれは、うたかひなく上の句に落字ありと見えたるにつきて、敷の上ならんとは申なり。但敷藻成なといふ成の字のおちて侍るか。心はおひしきたる藻のなひきあふことくあふこともやあらんとおほしめしてなり。玉たれの越の大野の。此越の字をこすといふ訓をかりて用とみて、玉たれの小簀とつゝけたりとおもひてこすの大野とよみ來れり。これは呉音を用てをちの大野なり。すなはち左の注に、葬河島皇子越智野之時といへはうたかひなし。延喜式廿一、諸陵式云。越智崗上陵【皇極天皇在大和國高市郡。】此第七には眞珠村越能菅原といひ、第十二には、眞玉就乞兼而なとよめるに、越の字、呉音の入聲をかり用たれは、今もこれらに准して意得へし。玉を弦をねきてたるるを玉たれといふゆへに、玉たれのをち野とはつゝくるなり。拾遺集に、玉すたれいとのたえまに人を見てすける心はおもひかけてき。又上下に緒をつけて、かみは鈎をむすひ、下は總をたるれは、かれこれかよはして心得へし。玉もは玉藻とかきたれとも玉裳なり。皇女のめす裳をほめていへり。ひつちはひちなり。曲禮云。送葬不避塗潦
 
反歌一首
 
195 敷妙之袖易之君玉垂之越野過去亦毛將相八方《シキタヘノソテカヘシキミタマタレノコスノヲスキテマタモアハヌヤモ》 【一云乎知野爾過奴】
 
袖カヘシ君とは袖指かはしてぬるなり、君は河島(ノ)皇子なり、越野過去〔四字右○〕、今按越野は前の如くヲチノとよむべし、過去はスギテとよみては字に叶はず、スギユクとよむべし、皇子の神靈去て留らぬなり、此二首によれば泊瀬部(ノ)皇女は河嶋(ノ)皇子の妃となりたまへると見えたる故、題注に忍坂部皇子には兼て奉るとは申き、
 
初、敷妙の袖かへしきみ――
袖かへしは、袖さしかへて玉手さしかへなとよめるにおなし。手枕をかはすなり。越野過去、をち野を過ぬとよめは、河島皇子の御ことなり。をちの過ゆきとよめは、又あふ事もやとおほしめして、をち野を行ゆかせ給ふとも、生を隔たまへれは又あひたまはんやあひたまはしといたみたてまつるなり。過てとかんなのつきたるはわろし
 
右或本曰葬河島皇子越智野之時獻泊瀬皇女歌也日本紀曰朱鳥五年辛卯秋九月己巳朔丁丑淨太參皇子川島薨
 
淨太參、太は大に作るべし、天武紀云、十四年春正月丁未朔丁卯、更改2爵位之號1、(53)増2加階級1、明位二階、淨位四階、毎v階有2大廣1、并十二階以前諸王已上之位云云、是日川島(ノ)皇子忍壁(ノ)皇子授2淨大參位1、懷風藻、河島皇子詩傳云、位終2于淨大參1、時年三十五、端作に葬2河嶋皇子越智野1之時柿本等とかゝざるは或本の説なる故此に注すべきためなり、
 
初、注中。淨大參の大の字、太に作れるはあやまれり。天武紀云。十四年春正月丁未朔丁卯、更改2爵位之號1。○日本紀を考るに、忍海造小龍女宮女色夫古娘、生大江皇女與川島皇子泉皇女。泊瀬部皇女は續日本紀にいはく。天平九年二月、四品長谷部内親王授三品。十三年三月壬午朔已酉、三品長谷部内親主薨
 
明日香皇女木※[瓦+缶]殯宮之時柿本朝臣人麿作歌一首 并短歌
 
天智紀云、次有2阿部(ノ)倉梯(ノ)磨大臣(ノ)女1曰2橘娘1、生3飛鳥(ノ)皇女與2新田部皇女1、文武紀云、四年夏四月癸未、淨廣肆明日香(ノ)皇女薨、遣v使弔2賻之1、智天皇女也、※[瓦+缶]は字體正しからず、歌の中にあるも同じ若、※[缶+瓦]〔右○〕此字を※[瓦+缶]に作れるか、玉篇云、※[缶+瓦]、方負切、與v缶同、※[央/皿]也、とあればかめとよむべからず、若瓶を※[瓦+并]に作れるを傳寫の者誤て今の如く作れるか、
 
196 飛鳥明日香乃河之上瀬石橋渡《トフトリノアスカノカハノノホリセニイハハシワタシ》【一云石浪】下瀬打橋渡石橋《クタリセニウチハシワタシイハハシノ》【一云石浪】生靡留玉藻毛叙絶者生流打橋生乎爲禮流川藻毛叙干者(54)波由流何然毛吾王乃立者玉藻之如許呂臥者川藻之如久靡相之宜君之朝宮乎忘賜哉夕宮乎背賜哉宇都曾臣跡念之時春部者花折挿頭秋立者黄葉挿頭敷妙之袖携鏡成雖見不※[厭のがんだれなし]三五月之益目頬染所念之君與時時幸而遊賜之御食向木※[瓦+缶]之宮乎常宮跡定賜味澤相目辭毛絶奴然有鴨《オイナヒカセルタマモモソタユレハオフルウチハシオフルヲスレルカハモモソカルレバハユルナニシカモワカオホキミノタチタレハタマモノモコトクコロフセハカハモノコトクナヒキアヒシヨロシキキミカアサミヤヲワスレタマフヤユフミヤヲソムキタマフヤウツソミトオモヒシトキノハルヘニハハナヲリカサシアキタテハモミヂハカサシシキタヘノソテタツサハリカヽミナスミレトモアカスモチツキノマシメツラシミオモホヘシキミトトキ/\ミユキシテアソヒタマヒシミケムカフコカメミヤヲトコミヤトサタメタマヒテアチサハフマコトモタエヌシカアルモ》【一云所己乎之毛】綾爾憐宿兄鳥之方戀嬬《アヤニカナシミヌエトリノカタコヒツマ》【一云爲乍】朝鳥《アサトリノ》【一云朝露】徃来爲君之夏草乃念之萎而夕星之彼牲此去大舩猶預不定見者遣悶流情毛不在其故爲便知之也音耳母名耳毛不絶天地之彌遠長久思將往御名爾懸世流明日香河及萬代早布屋師吾王乃形見何此焉《カヨヒシキミカナツクサノオモヒシナエテユフツヽノカユキカクユキオホフネノタユタフミレハオモヒヤルコヽロモアラスソノユヱヲスヘモシラシヤオトノミモナノミモタエスアメツチノイヤトホナカクオモヒユカムミナニカケセルアスカカハヨロツヨマテニハシキヤシワカオホキミノカタミニコヽモ》
(55)上瀬、【官本又云、カミツセニ、】 石橋渡、【古點云、イシハシワタシ、】 下瀬、【官本亦云、シモツセニ】 宜君之、【幽齋本云、ヨロシキキミノ、】 黄葉挿頭、【官本亦云、モミチヲカサシ、】 雖見不※[厭のがんだれなし]、【校本云、ミレトモアカヌ、】 綾爾憐、【幽齋本云、アヤニカナシミ】
 
アスカ川は下に玉藻川藻を譬に取む爲にいへり、其藻の有所なれば何れの川にても有ぬべきを、歌の終にも皇女の御名にかけてあすか川萬代までになど云たれば、其爲に云出せるなり、躬恒が春立しよりと云ん爲に梓弓と置てやがてそれを以年月の射るが如くもとつゞけたる類なり、上瀬下瀬は上に云が如し石橋渡はこれは古點の如くイシバシワタシとよむべし、石橋に二つあり、一つには石を能切てうるはしくして懸るを云ふ、和名云、爾雅注云、※[石+工]、【音江、和名、以之波之、】石橋なり、二つには河中に跨ぐばかりに大きなる石をすゑ、或は小石を集め置て渡るに便あらするを云ふ、下にあまたよみて、字は石走ともかける是なり、今も其石走なり、爾雅云、石杠謂2之|※[行人偏+奇]《キ》1、郭璞註、聚2石水中1以爲2歩渡※[行人偏+勺]1也、孟子、四歳十月徒杠成、或曰、今之石橋、字書に杠と※[石+工]と通ずといへり、和名に爾雅注とて引かれたるは或説を取れたりと見えたり、正くは※[石+工]も今の石ばしなり、注にイシナミといへるも石走なり、第二十に家持の七夕の歌に、天川いしなみおかばとよまれたるも是なり、いま石浪とは書きたれども石並なり、石を並ぶるをやがて体になして呼ぶなり、打橋渡は是にも二つの意あるべし、一つには(56)神代紀云、時|高皇産靈《タカミムスヒ》尊乃還2遣二神1、勅2大己貴《オホナムナ》神1曰云云、又爲2汝往來遊v海之具1、高橋浮橋及天烏船亦將供造、又於2天安河1亦造2打橋1云云、此によれば常の橋を云ふか、高橋浮橋橋に望〔左○〕ては唯打渡すと云ふ意の名にや、二つには清少納言云ふ、道の程も殿の御さるかふ事にいみじく笑て殆《ホト/\》打渡橋よりも落ぬべし、源氏夕貌云、打橋だつ物を道にてなむかよひ侍る、急ぎ來る者はきぬの裾を物に引懸て、よろぼひ倒れて橋よりも落ぬべければ、いで此葛木の神こをさかしうしおきたれとむづかりて物のぞきの心もさめぬめり、此等によれば假初に板など打渡置きたるを云ふにや、此下に又いくらもよめり、此なるは上の石橋に對すれば、水の少き時平瀬は河原となりて中に水の少し深く流るゝ所に假初に板打渡しおきて、水の出來る時は引やうにかまへたるをいふと見えたり、石橋ノは今按これをば石バシニと改むべし、生靡留はオヒテナビケルともよむべし、玉モヽソはも〔右○〕は助語のやうに見るべし、下の川モヽソ此に准ず、絶レバ生フルと云事は皇女のたをやぎ給へるに喩へて、藻は絶ゆれども又も生ふるを、此に似給へる皇女は又も見え給はずといはむとてなり、下の朝宮を忘れたまふやなど云ふ是なり、カルレバハユル准v之、オフルヲスレルは今按オヒヲセレルとよむべし、古語なればせる〔二字右○〕をせれる〔三字右○〕とは云ふべし、する〔二字右○〕をすれる〔三字右○〕とは云ふ(57)べからぬ故なり、玉モ川モはたゞ藻を詞を替ていへるまでなり、上の玉藻おきつもと海にて云るが如し、ナニシカモはし〔右○〕は休字にてなにかもなり、又何然毛と書けるに付ては何かさもとも意得べきか、立者は今按タヽセレバとよむべきにや、コロフセバは、仙覺ころびふせばと云事と釋せり、起立坐臥皆しなやかなる御貌をほめまつるなり、朝宮夕宮は後に朝庭夕庭とよめる類にて朝夕につけて景趣ある宮殿なり、それを何が心に入らぬ物を打忘るゝ如くしたまふや、何が嫌はしき物に向はで背く如くし給ふやとなり、ウツソミト思ヒシ時ノとは、美人を蝉鬢蛾眉など云其蝉鬢に付て云へり、此卷下にも此二句あり、第十一にも、うつせみの妹がゑまひとよめり、崔豹古今注云、魏文帝(ハ)絶《ハナハダ》所v愛宮人莫瓊樹始製爲2蝉鬢1、望v之※[目+票]眇如2蝉翼1、故曰2蝉鬢1也、臣〔右○〕をみ〔右○〕とよめるはおみ〔二字右○〕の、上略なり、末に多し皆准v之、雖見不※[厭のがんだれなし]を校本に見レドモアカヌと點ぜるは、もち月のましめづらしきとつゞけて月の如く見あかぬことをいはむとて月の爲にいへる鏡なり、これもいはれざるにはあらねど、鏡の見あかぬ如く又夜毎の月はあれど望月のます/\めづらしきが如くと、二つに分て譬へたる作者の意なるべきにや、第三に此朝臣長(ノ)皇子の御供にてよまれたる歌にも、久方の天見る如くまそ鏡仰て見れどわか草のましめづらしきとつゞけられたり、此に例(58)すべし、君ト時々ミユキシテ、此君といへるは天武の皇子たち或は諸みめの御中に何れにても夫君にておはしけむそれを指せり、時々は時々に付てなり、諺に云ふには替れり、ミケ向フは第六第九にもよめり必しも木※[瓦+缶]宮の枕詞には非ず、御食めす時膳にさし向ひ給ふ如く、まぢかく指向ふと云意なり、持統紀に、於是奉膳乳朝臣眞人等奉v奠、奠畢膳部釆女等發哀とあるは、天武天皇の神靈に祭奠するをいへば、今も皇女の尊靈に奠《ミケ》奉るを云ふかとも申すべく、又みけは前の如くにて、御食《オモノ》参る時酒を※[瓦+并]に入れて奉る意にこかめとつゞくるにやとも申すべけれど、傍例たゞ膳に指向ふ意なれば異義あるべからず、アヂサハフは集中に多き詞なり、よきことのおほくよりあふ心なり、別に委注す、マコトモ絶エヌは唯御言も絶るなり、シカアルカモは世のことわりはさあるかなと初て領承して歎心なり、アヤニカシコミは此點誤れり、幽齋本の如くアヤニカナシミとよむべし、ヌエ鳥ノ片戀ツマは夫君の咽びて歎き給ふを喩ふる心、第一卷軍王の歌の如し、朝鳥ノカヨヒシ君とは鳥は夜の明くればねぐらを出てこなたかなた徃來すれば喩て云へり、−本に朝ツユニとは朝露にぬれてかよふなり、君とは上云ふ夫君なり、夕ヅヽは和名云、兼名苑云、太白星、一名長庚、暮見2西方1爲2長庚1、【此間云由不豆々、】力ユキカクユキはとゆきかくゆきなり、夕づヽ、夜の(59)長短に隨て出所の南に倚り北に倚るによせて云ふか、オモヒヤルは此に遣悶とかける如く思を過しやるなり、集中に多し、皆此心なり、想像をおもひやるとよめる心に用ひたるは一首もなし、其故ヲは今按此點誤れり、ソノユヱニと點ずべし、古點の心は其故を如何にせむともするすべ知らぬ心にや、叶はず、上を踏て其故にいかにせむともすべも知らめやと云心なり、思將徃は今按思は偲にてしのびゆかむなるべし、偲〔右○〕の字シノブと讀むべき義も字書に見えざるか、されども集中多し、早布屋師は上の明日香川を承て水の早きとつゞくるか、早く流るゝ水は絶えぬなり、第十二に垂水の水のはしきやしとつゞけたるに准ずべし、ハシキヤシは上の玉松が枝ははしきかもと云ふを注するが如く愛哉とかく心なれば所によりて少し心替るべし、今はなつかしき心に聞ゆ、此焉は今按コヽヲと改むべきか、焉の字助語ながらを〔右○〕とよめる傍例はありてコヽモなどやうに止める所なし、後の人考見るべし、
 
初、飛鳥のあすかの河の
上瀬下瀬はよむへきことさきのことし。石橋わたしの下の注に、石浪とは、浪とは書たれとも、並の字にて石ならへわたすなり。此集に又石なみをかはともよめり、打橋わたしは、日本紀第二云。又於天安河亦造打橋。清少納言に、道のほとも殿の御さるかう、ことにいみしくわらひて、ほと/\うちはしよりもおちぬへし。源氏物語夕かほに、うちはしたつものを道にてなんかよひ侍る。いそきくるものはきぬのすをを物に引かけてよろほひたふれてはしりもおちぬへけれは、いてこのかつらきの神こそさかしうしをきれとむつかりて、物のそきの心もさめぬめり。此集に、第四第七第十にも見えたり。日本紀に見えたるは、天神大己貴命もし此國を天孫に奉りたまはゝ何事もねかはしからんまゝにたまはせんとのたまふ所にかくあれは、うるはしくきよらにつくる橋の名ときこゆれと、いかなるをうちはしといふと注せることもなし。源氏に見えたるはかりそめに橋なと打わたせるやうにきこゆ。玉もゝそ、下の川もゝそ、此ふたつのてにをはのもの字助語なり。生乎爲禮流は、おひをせれるとよむへし。ころふせはとはころひふせはなり。たちゐおきふし、みなしなやかなる御ありさまをほめ奉るなり。朝宮をわすれたまふや、夕宮をそむきたまふやとは、金玉をちりはめて朝夕にたのしひたまふへき宮のうちを、なとかわするゝことくにすてそむきてはかくれさせたまへるそとなり。うつそみとおもひし時とは、此世の人にておはしませし時なり。君と時々は夫君と花もみちのおりふしことになり。みけむかふは、食を備ふる時、其食にむかふことく前ちかく有ものを、皆かくはいふなり。第六にはみけむかふ淡路の嶋とよみ、第九にはみけむかふみなふち山とよめり。味さはふは、味こりといふことく、よきことのおほくよりあふ心なり。あちはよきことなり。さはゝ多の字をさはとよむ、それなり。ふはあふと詞の上を畧せるなり。まこととはぬは、物のたまはぬなり。ぬえ鳥のかたこひつまとは、第一卷軍王の歌に注せしことく、下なきになきて、夫君のこひたまふなり。皇子諸王の中にこそみあひたまひけめ。夕つゝは和名集云。兼名苑云。太白星、一名長庚、暮見西方、爲長庚、此間云【由不豆々。】大舟のたゆたふみれは、大なる舟は早くもゆかす、ゆるきにたとへてやすらふ心をいへり。たゆたふは猶豫不定とかける字のことし。俗にゆたふといふ詞にも此こゝろあり。おもひやるはおもひをやるなり。そのゆへにすへもしらしや。しらしのしもし、清てよむへし。せんすへも知たまはんや、知たまはしなり。みなにかけせるは、明日香皇女と申せはなり。はしきやしははしきよしなり。はしきは.愛の字なり。此焉はこゝをとよむへし
 
短歌二首
 
197 明月香川四我良美渡之塞益者進留水母能杼爾賀有萬思《アスカカハシカラミワタシセカマセハナカルヽミツモノトニカアラマシ》
 
【一云水乃與杼爾加有益】
 
(60)能杼、【官本、或能作v乃、】
進留は人丸集拾遺六帖皆今と同じくながるゝとよめり、義訓也、第十三に、吹風も和《ノドニ》は吹かずと云ひ、源氏の蜻蛉に、悲しく心うき事のどまるべくもあらねばなどいへる皆のどか〔三字右○〕なり、しかれば歌の心、あすか川にすゝみてとく流るゝ水も、しがらみ掛渡してせかましかば、とゞめはてずとも猶行ことののどかにだにありなまし、人の命は暫だに留べき由なしといへる意、忠岑が別を留るしがらみぞなきと云に同じ、
 
初、あすか川しからみわたしせかませはなかるゝ水ものとにかあらまし
のとはのとかなり。第十三に吹風ものとにはふかすといふに和の字をかけり。拾遺集に、涙川のとかにたにもなかれなんこひしき人の影やみゆると。源氏の蜻蛉に、はゝ君もさらに此水のをとけはひをきくに我もまろひちりぬへくかなしく心うきことのとまるへくもあらぬはといへり。拾遺集に、此歌の結句をのとけからましとあらためて載らる。水のすゝむはなかるゝなれは、義をもて進の字をなかるとはよめり。さて此歌の大意は、古今集に、あねの身まかりける時よめる忠岑かうたに、せをせけは淵となりてもよとみけりわかれをとむるしからみそなき。此心におなし
 
198明日香川明日谷《アスカカハアスタニ》【一云左倍】將見等念八方《ミムトオモヘヤモ》【一云念香毛】吾王御名忘世奴《ワカオホキミノミナワスレセヌ》【一云御名不所忘】
 
アスダニミムとは、あすは明日にかぎりて云ふにあらず、今より後の意なり、念ヘヤモは思はむやなり、歌の心は、水の流るゝ如く過ゆかせたまへる皇女をば、明日川のあすさへ又も見奉らむと思はむや思はぬ物を、中々なる川の名の通ひて、御上の忘られ參らせぬ由なり、
 
初、あすか川あすたにみんと――
あすか川の名をうけてやかてあすとつゝけたり。たにといふにふたつの心あり。さへにかよふとなりともといふやうに聞ゆるとなり。今はさへの心なり。おもへはおもはんやなり。あすか川といふ名は、あすさへ見奉らんやうにたのもしく聞ゆれと、うせさせたまへはあすもみんとはたのまんやは。中々なる御名にかよひて、わすれたてまつらぬとなり
 
萬葉集代匠記卷之二中
 
(1)萬葉集代匠記卷之二下
 
高市皇子尊城上殯宮之時柿本朝臣人麿作歌一首并短歌
 
天武紀下云、次|納《メシテ》2※[匈/月]形《ムナカタノ》君|徳善《トクセカ》女尼子娘1生2高市(ノ)皇子(ノ)命1、十四年正月、授2淨廣貳(ノ)位1、持統紀云、四年秋七月丙子朔庚辰、以2皇子高市(ヲ)1爲2太政(ノ)大臣《マヘツキミト》1、六年春正月、増2封皇子高市二千戸1、通前五千戸、七年正月以2淨廣壹1授2子高市1、城上〔二字右○〕、武烈紀云、三年十一月詔2大伴室屋大連1發2信濃國(ノ)男丁《ヨホロヲ》1作2城像(ヲ)於水|派《マタ》邑1仍曰2城上《キノヘ》1、和名集云、廣瀬郡|城戸《キノヘ》とあればキニヘと讀べし、人丸家集にしきのかみとあるは大に誤れり、城上郡は別なり、此集第十三云、朝裳吉城於道從角障經石村乎見乍神葬葬奉者《アサモヨシキノヘノミチユツヌザハフイハレヲミツヽカミハフリハフリマツレハ》云云、これ詞書なけれども正しく此皇子を慟奉れり、延喜式第二十一諾陵式云、三立岡墓、【高市皇子、在2大和國廣瀬郡1、兆域東西六町、南北四町、無2守戸1、】引合て見るべし、薨じ給ふ年月は歌の後の注に見えたり
 
初、高市皇子尊城上殯宮之時――
次第をいはゝ河島皇子の挽歌の次に此歌以下の四首をのせ、次弓削皇子の挽歌を載、次に明日香皇女の挽歌、次に穗積皇子の歌を載へし。高市皇子は天武天皇の御子、御母は尼子始凶月形徳善か女なり。此兇月形の氏、日本紀にも點をくはへす。いかによむへきにか。今案※[匈/月]形をうつしあやまりてかくはなれるなるへし。日本紀第二十八云。先遣高市皇子於不破、令監軍事。○懐風藻葛野王【大友皇子之子】詩傳云。高市皇子薨後。皇太后引王公卿士於禁中、謀立日嗣、時群臣各挟私好、衆議紛紜、王子進奏曰云々。薨したまへる年は、下に日本紀を引て注せるかことし。延喜式第二十一諸陵式云。三立岡墓【高市皇子在大和國廣瀬郡、兆域東西六町南北四町無守戸】
天武元年壬申の歳の大友皇子との大亂は、ひとへに此高市皇子の大功により勝利を得たまへるなり。すてに日本紀を引かことし、文大伴男吹負か大功を立し時も此皇子の威名をかりて謀をめくらしけるなり。日本紀を讀て知へし。此故に人麿の長歌おほき中にも、此歌ことに長篇にてつふさに壬申の亂をしつめたまへる事をしるされたれは、皇子の威名大功此歌により不朽を日月に懸たりといふへし。皇子と作者とあひにあひたれは、その初には雄壯にして、たとへは漢の高祖項羽と鴻門に會せし時、樊將軍か項羽をにらめる眼をみるかことし。薨したまへる後を述たるに至りては、晉の羊〓か〓山の碑に向ふかことし。千歳の英魂、皇子の精神にそひて、此歌にとゝまれり。後に長歌を取に、只艶麗にして當世にかなへるをのみいひて、これらの歌にをよはぬは、人まろ赤人とのみ聲にほえてすこしもその心はしらぬなるへし。又第十三に挽歌二十四首を載たる中に、初三首詞書なしといへとも、その心詞まきれなく、此皇子を石村山に葬たてまつりける時の作なり。作者も誰となし。延喜式に三立岡とあるは石村山のうちなるにや。をの第一首のはしめにいはく、かけまくもあやにかしこし、ふちはらの都しみゝに人はしもみちてあれとも、君はしもおほくいませと云々。皇子のほとこれらの歌をあはせてみるへし。さて此皇子は天武天皇の御子たちの中には第いくはしらにあたらせたまへるにや。是につきて不審有。先草壁太子の御年を逆釋推するに、天武元年八十一歳にならせたまふ。大津皇子は天智三年にむまれたまひて、壬申の年八九歳にてましませは、天武天皇高市皇子にむかひのたまへるみことのりにも、唯有幼小孺子耳、奈之何とおほせられ、皇子攘臂按劍奏言、近江群臣雖多、何是敢逆天皇之靈哉、天皇雖獨、則臣高市頼神祇之靈、請天皇之命、引卒諸將而征討、豈有距乎とあるをみるに、嫡子にて、そのころ十六七歳以上にてもおはしましけるなるへし。天武紀云。八年己卯五月庚辰朔甲申、幸于吉野宮。乙酉、天皇詔皇后及草壁皇子尊大津皇子高市皇子河島皇子忍壁皇子芝基皇子曰。朕今日與汝等倶盟于庭、而千歳之後欲無事、奈之何。皇子等共對曰。理實灼然云々。又さきの川島皇子の挽歌のひたりの後の注に、天武紀を引るかことく、十四年二月に爵位の號をあらためて皇子たちに位を授させたまふ時、草壁皇子尊には淨廣壹をさつけ、大津皇子には淨大貳高市皇子には淨廣貳の位を授給。淨位四階、毎階有大廣といへり。草壁太皇子は正后の御腹なれは、太子に立たまひ、大津皇子は太田皇女の御腹なるゆへに位階も一等高く授たまふにや。紀の文皆第三につらねたるは、此皇子はおとり腹におはします故にや。懷風藻には大津皇子を長子といひたれとも、薨したまふ時二十四歳なるをもてかそふるに誤れり。日本紀に第三子と載られたれは、此皇子は第一、草壁は第二なるへし。此皇子いつ太寸に立たまへりとは、日本紀にもみえねとも、後皇子尊といひ、懷風藻葛野玉の傳によるに、まさしく太子に立たまひけるなり。皇子尊をは日本紀にみかとみことゝよめり
 
199 挂文忌之伎鴨《カケマクモユヽシキカモ》【一云由遊志計禮杼母】言久母綾爾畏伎明日香乃眞神之(2)原爾久堅能天津御門乎懼母定賜而神佐扶跡磐隱座八隅知之吾大王乃所聞見爲背友乃國之眞木立不破山越而狛釼和射見我原乃行宮爾安母理座而天下治賜《イハマクモアヤニカシコキアスカノマガミノハラニヒサカタノアマツミカトヲカシコクモサタメタマヒテカムサフトイハカクレマスヤスミシシワカオホキミノキカシミシソトモノクニノマキタテルフハヤマコエテコマツルキワサミカハラノカリミヤニヤスモリマシテアメノシタヲサメタマヒシ》【一云拂賜而】食國乎定賜等鳥之鳴吾妻乃國之御軍士乎喚賜而千磐破人乎和爲跡不奉仕國乎治跡《ヲシクニヲシツメタマフトトリカナクアツマノクニノミイクサヲメシタマヒツヽチハヤフルカミヲナコシトマツロハヌクニヲオサムト》【一云掃部等】皇子隨任賜者大御身爾大刀取帶之大御手爾弓取持之御軍士乎安騰毛比賜齊流皷之音者雷之聲登聞麻低吹響流小角乃音母《ワカミコノマヽニタマヘハオホミミニタチトリ シオホ ニユミトリモタシミイクサヲアトモヒタマヒトヽノフルツヽミノコヱハイカツチノコヱトキクマテフキナセルヲツノノコヱモ》【一云笛之音波】敵見有虎可※[口+立刀]吼登諸人之恊流麻低爾《アタミタルトラカホユルトモロヒトノオヒユルマテニ》【一云聞惑麻低】指擧有幡之靡者冬木成春去來者野毎著而有火之《サシアクルハタノナヒキハフユコナリハルサリクレハノヘコトニツキテアルヒノ》【一云冬木成春野燒火乃】風之共靡如久取持流弓波受乃驟三雪落冬乃林爾《カセノムタナヒクカコトクトリモタルユハスノウコキミユキフルフユノハヤシニ》【一云由布之林】飄可母伊卷渡等(3)念麻低聞之恐久《アラシカモイマキワタルトオモフマテキヽノカシコク》【一云諸人見惑麻低爾】引放箭繁計久大雪乃亂而來禮《ヒキハナツヤノシケラクオホユキノミタレテキタレ》【一云霰成曾知余里久禮婆】不奉仕立向之毛露霜之消者消倍久去鳥乃相競端爾《マツロハヌタチムカヒシモツユシモノケナハケヌヘクユクトトリノアラソフハシニ》【一云朝霜之消者消言爾打蝉等安良蘇布波之爾】渡會乃齊宮從神風爾伊吹惑之大雲乎日之目毛不令見常闇爾覆賜而定之水穗之國乎神隨太敷座而八隅知之吾大王之天下申賜者萬代然之毛將有登《ワタラヒノイツキノミヤユカムカセニイフキマトハシアマクモヲヒノメモミセストコヤミニヲヽヒタマヒテシツメマシミツホノクニヲカミノマニフトシキマシテヤスミシシワカオホキミノアメノシタマヲシタマヘハヨロツヨニシカシモアラムト》【一云如是毛安良無等】木綿花乃榮時爾吾大王皇子之御門乎《ユフハナノサカユルトキニワカキミノミコノミカトヲ》【一云刺竹皇子御門乎】神宮爾装束奉而遣便御門之人毛白妙乃麻衣著垣安乃御門之原爾赤根刺日之盡鹿自物伊波比伏管烏玉能暮爾至者大殿乎振放見乍鶉成伊波比廻雖侍侯佐母良比不得者春鳥之佐麻欲比奴禮者嘆毛未過爾憶毛未盡者言(4))右敝久百濟之原從神葬葬伊座而朝毛吉木上宮乎常宮等高之奉而神隨安定座奴雖然吾大王之萬代跡所念食而作良志之香來山之宮萬代爾過牟登念哉天之如振放見乍玉手次懸而將偲恐有騰文《カムミヤニカサリマツリテタテマタスミカトノヒトモシロタヘノアサノコロモキハニヤスノミカトノハラニアカネサスヒノツクルマテシヽシモノイハヒフシツヽヌハタマノユフヘニナレハオホトノヲフリサケミツヽウツラナスイハヒモトホリサモラヘトサモラヒエネハウクヒスノサマヨヒヌレハナケキモイマタスキヌニオモヒモイマタツキネハコトウヘククタラノハラニタマハフリハフリイマシテアサモヨヒキノウヘノミヤヲトコミヤトタカクシタテテカミノマニシツマリマシヌシカレトモワカオホキミノヨロツヨトオモホシメシテツクラシシカクヤマノミヤヨロツヨニスキムトオモヘヤアメノコトフリサケミツヽタマタスキカケテシノハムカシコケレトモ》
 
所聞見爲、【官本亦云、キコシメス、】 定賜等、【官本亦云、サタメタマフト】 不奉仕、【官本亦云、ツカマツラヌ、】 鼓之音者、【官本亦云、ツツミノオトハ】 大雲、【大當v作v天、】 定之、【官本亦云、サタメテシ、】 申賜者、【マウシタマヘハ、】 遣便、【別校本便作v使、】 雖侍侯、【官本亦云、サフラヘト、】 安定座奴、【官本亦云、ヤスモリマシヌ、】
 
カケマクモ、ユヽシキカモとは、貫き御上を賤しき者の言の葉にかけて申もいまはしきなり、イミジキとも讀べし、同じ心なり、諱《イミナ》と云も帝の御名は天下禁忌して申奉らず、父祖の名などは一家此を忌て云はねばいみな〔三字右○〕と云が如し、ゆゝしきと云詞は此外によき事にもあしき事にも云詞なり、イハマクモ、アヤニカシコキは、申さむも恐あるなり、以上四句は皇子の薨去を悼奉るに天武天皇元年に大友(ノ)皇子の亂を静め玉ひし生前の勲功より述らるれば、先天武の御事を申さむとて、敬て端を發す也、明(5)日香ノ眞神ノ原ニ云云、カミサブトイハカクレマスとは.天武崩御の後、持統天皇の朱鳥二年十一月に至て、高市郡大内陵に葬奉らる、彼處を眞神原とも云か、崇峻紀云、蘇我(ノ)馬子(ノ)宿禰壞2飛鳥(ノ)衣縫造祖|樹葉《コノハ》之家(ヲ)1始(テ)作2法興寺1、此地名2飛鳥眞神《アスカノマカミノ》原1、亦名2飛鳥(ノ)苫田《トマダ》1、此集第八第十三には大口の眞神原といへり、其名づくる由は別に注す、神さふととは上に注する如し、石《イハ》がくれますは石槨にをさめて葬《カクシ》まつるを磐戸にこもらせ給ふによそふるなり、當帝もまします故に、先帝の御事を山陵を以て申さるゝなり、いはがくれますと云所句絶にあらずして八隅《ヤスミ》シヽとつゞく所心を著べし、キカシミシはきこしめすなり、しろしめすに意同じ、ソトモノ國とは上に成務紀を引くが如く山陰曰2背面《ソトモ》1とあれば、美濃は東山道にて東海道より北の山路を經る故にそともといへり、山陰道に限るに非ず、宅地にても後の方を云にて知ぬべし、真木《マキ》タテルは此まき又木の名なるぺし、上に云へるが如し、狛釼《コマツルギ》ワザミガ原、こまは高麗なり、高麗の釼には柄《ツカ》頭に環を著るか、環の類をわ〔右○〕といへば、さてわ〔右○〕と云詞まうけむとてかくはつゞくるにや、戰國策(ニ)云、軍之所v出矛戟折v鐶(ヲ)※[金+玄]絶、【鐶刀鐶(リ)補云、※[金+玄](ハ)姚本作弦、】古樂府云、藁砧今何在、山上更有v山、【山上山、意、出也、】何日太刀頭、【釼柄頭有v鐶、假v鐶以爲v還、】破鏡【破鏡、初月也、状如2鏡片1、】飛上v天、之は藏頭格なり、第三句は、何れの日か還らむと云事を太刀頭に鐶あれば還と通じていへり、これらを(6)以て見れば狛劔にも有なるべし、第十一に笠の借手のわさみ野とつゞけたるも、わ〔右○〕と云につゞくといへり、彼に至て注すべし、天武紀上云、先遣2高市皇子(ヲ)於不破1令v監2軍事(ヲ)1云云、五月辛卯朔丁亥、高市皇子遣2使於桑名郡家1以奏言、遠2居御所1行v政不v便、宜御2近處1、即日天皇留2皇后1而入2不破1云云到2于野上1、高市皇子自2和※[斬/足]《ワザミ》1參迎以便奏言云云、既而天皇謂2高市皇子1白、其近江朝(ニハ)左右大臣及智謀群臣共(ニ)定v議、今朕無2與(ニ)計v事者1、唯有2幼少孺子耳|奈之何《イカヽセム》、皇子攘v臂按v劔奏言(ス)、近江(ノ)羣臣雖v多何(ソ)敢逆2天皇之靈1哉、天皇雖v獨則臣高市頼2神祇之靈1請2天皇之命1、引2率(テ)諸(ノ)將而|征討《ウタム》豈有v距(コト)乎、爰天皇譽v之|携《トリテ》v手撫v背(ヲ)曰、愼(テ)不v可v怠、因賜2鞍馬1悉(ニ)授2軍事1、皇子則還2和※[斬/足]1、天皇於v茲行宮興2野上1而居焉、和名云、不破郡野上、かゝればわざみも不破郡なるべし、ヤスモリマシテは安まりますか安く守ますか、治賜はヲサメタマフトとよむべし、鳥ガナクはあづまの枕詞なり、別に注す、天武紀云、遣2山背部小田|安斗《アトノ》連阿加布1發2東海軍1、又遣2稚櫻部臣五百瀬土師連馬手1發2東山軍1、チハヤブルカミヲナゴシト、今按チハヤブル人ヲナゴセトとよむべし、第七第十一並に日本紀にもチハヤ人といへり、殘賊強暴を日本紀にチハヤブルとよみたれば、さやうの人を能なごめよと皇子に勅し給ふなり、猶別に注す、マツロハヌ國ヲヲサムト、日本紀に不順をマツロハヌとよめり、意字の如し、今按クニヲシラセと讀べき(7)か、しらせは、をさめよなり、注の一本ハラヘトとあるによるに人をなごせ國をしらせと天皇の皇子に下知し給ふなり、ワカミコノマヽニタマヘバ、今按此句は日本紀並此集後の歌どもに依るに、ミコノマニヨザシタマヘバとよむべし、まにはまゝになり、よざすはまかするなり、軍事を授けたまふ事前に引く紀の如し、諸皇子多くましますにいかで此皇子にのみ任せ給ふとならば其故あり、此時|草壁《クサカベノ》皇子纔に十一歳大津(ノ)皇子九歳なれば其餘は知ぬべし、高市(ノ)皇子の御歳は物に見えねど、上に引ける紀文の勅問勅答、及び天武六年に嫡子長屋(ノ)王出生、是等を以て案ずるに、此皇子は長子にて此亂の比二十歳にも及びたまひけるか、大伴(ノ)吹負《フケヒ》が大和にて大功を立しも此皇子の威名を借て謀をなせり、御年の程推量すべし、以上は大任を受給ふ事をいひ、大御身にと云よりあらそふはしにと云ふまでは、勇氣を奮つて軍勢を帥ゐ瀬田にして合戰し給ふ由を述べらる、紀には瀬田の軍の時皇子何處におはしましけるとも見えねど此歌を證とすべし、アトモヒタマヒ、此あとまふと云詞集中に多し、日本紀に誘の字をアトフとよめる是なり、いざなひたまひと云ふなり、トヽノフル皷ノコヱ、軍衆をとゝのふる故なり、或點にトヽノホルとあるは、軍令に叶て皷の聲のとゝのほる意なれば此に叶はず、音は下に雷の聲とあればオトと和すべきか、吹ナ(8)セルは吹ならせるなり、古今に、秋風にかきなす琴とよめるに同じ、小角は今按クダとよむべきか、天武紀に大角を波良《ハラ》、小角を久太《クダ》とよめり、和名云、兼名苑注云、角本出2胡中1、或云出2呉越1以象2龍吟1也、楊氏漢語抄云、大角、【波良乃布江、】小角、【久太能布江、】令第五軍防令云云、延喜式民部上云云、胡笳咸角栗など云同じ物なり、胡人の蘆葉を卷て吹くに習へり、猶異説多し、アダミタル虎ガホユルトとは敵も虎なり、兩虎の爭ふ時威を奮つて鳴くをいへり、詩云、王奮厥武、如v震如v怒、進厥虎臣、※[門/敢]如v〓虎、ユハズノ驟《ウゴキ》は、今按サハギとよむべきか、アラシカモイ卷渡ルトとは、い〔右○〕は發語の詞、林の梢を風の吹まくなり、文選云、囘※[火三つ+風]卷2高樹1、引放矢ノ繁計久は、今按あきらけくなど云に准ずればシゲラケクとも云べきを、傍例シゲヽクと侍れば今もさよむべくや、亂テキタレ、來ればといはざるは例の古語なり、一本の霰成曾知余里久禮婆《アラレナスソチヨリクレバ》とはそち〔二字右○〕はそなた〔三字右○〕》なり、そなたは遠き心なれば、矢の彼《ヲチ》方より霰の降りくるやうに來るなり、景行紀云、時賊虜之矢横自v山射之流2於官軍前1如v雨、マツロハヌ立向シモとは、天皇にまつろひ奉らぬ敵の兵の向しもなり、不奉仕はマツロハデともよむべし、マツロハヌの點も古体しかるべし、露霜ノ消ナバケヌベクとは、敵も命を惜まず死なば死なむと挑む心なり、去鳥ノアラソフハシニとは、はしはあひだなり、間人皇女、間人宿禰など云ふ間の字なり、十(9)七に家持の郭公をよまれたる歌にも此句あり、十九に、玉ほこの道はし遠とよめるも道のあひだなり、群鳥の飛立つ時我先にと急ぐ如く互に先鉾を爭ふあひだになり、一本に朝霜之消者消言爾《アサシモノケナバケテフニ》とは、消ば消へよといはむやうにの意なり、末にけなばけぬかにとよめる歌あれば、言の字は何れはしらずか〔右○〕の字を書きあやまてるか、集中に何といふといふべきを何てふとつゞめて云時は皆云の字を書きて言の字書きたる所なし、ウツセミトアラソフハシニとは、第十九に家持|處女墓《ヲトメツカ》をよまれたる歌にうつせみの名をあらそふとゝあれば、此所もうつせみと云にものゝふの名を惜て爭ふ意あるか、それに取てうつせみの名とつゞくる心は、聖賢に堯舜伯夷柳下惠等の名あるは求ざれどおのづから徳にそなはれる名なり、唯名をのみ思ふは莊子がいはゆる名者實之賓なればむなしき名と云意につゞくる歟、又今は名にはかゝらで武士なれば世間の習に爭ふ間にとにや、ワタラヒノ齊宮ニ、今按齊は齋なるべし、從はゆ〔右○〕と讀むべし、ゆ〔右○〕は即より〔二字右○〕なり、神風ニイ吹マドハシ云云オホヒタマヒテとは、伊は例の發語の詞、トコヤミは神代紀云、乃入2于天(ノ)石窟《イハヤ》1閉2磐戸1而幽居《カクレマセリ》焉、六合《クニノ》之内|常闇《トコヤミニシテ》而不v知晝夜之相代(ルコトヲ)1、神功皇后紀云、更遷2小竹《シヌ》1、【小竹此云2之努1、】適2是時1也晝暗如v夜已經2多日1、時人曰|常夜行之也《トコヤミユクト云ナリ》云云、天式紀を考ふるに瀬田にての合戰にかゝる事ありつ(10)とは見えねど、彼亂より此歌よまれたる年までは纔に二十五年、殊に人丸の歌なれば實録なること誰か信ぜざらむ、上の持統天皇の夢中の御歌に注せしが如し、史記項羽本紀曰、楚又追撃至2靈壁東雎水上1、漢(ノ)軍却(テ)爲v楚所v※[手偏+齊]《ナシオトサ》多殺漢卒、十餘萬人皆入2雎水1、雎水爲之不v流、圍(コト)2漢王1三匝、於v是大風從2西北1而起、折v木發屋揚2沙石1、窈冥晝晦、逢2迎楚軍1、楚軍大亂壞散、而漢王乃得d與2數十騎1遁去u、又韓王信傳(ニ)云居七日胡騎稍引去、時天大霧、漢使人徃來胡不v覺、異國も本朝も運に當れる君には天與へ神助くる事此の如し、神ノマニは、帝を神と云事さきの如し、是は先帝を申奉て、下の八隅シヽ吾大君は、當帝持統にわたれり、天下申賜ヘバとは、第五第十九にも此詞あり、事を奏して勅を受てよきに執行ふを云、關白をあづかりまふすとよむに准ずべし、萬代ニシカシモアラムトとは、天下の政を執奏し給ひて万代までもさておはしまさむと思ふなり、木綿花《ユフハナ》ノ榮ユル時とは、木綿をやがて花と云、下にも白ゆふ花とも、ゆふは花かもなどあまたよめり、榮華の盛にと云なり、神宮ニカサリマツリテとは、殯宮にかざるなり、遣便《タテマダス》ミカドノ人モとは、此皇子につかへ奉る人もなり、便は使に作れるをよしとす、今の本誤れり、日本紀に奉遣を今の如くよめり、日之盡、今按上にも下にもヒノツキとよめるを、此に俄にヒノツクルマデとよむべからず、上に云如く日ノコト/”\と和(11)すべきか、鹿《シヽ》ジ物イハヒフシツヽは、いあ〔右○〕は發語の詞、匍伏なり、鹿《シヽ》は能はひふせば借て殯宮に向て禮儀をなすにたとふ、第三にも鹿《シヽ》じ物|膝折《ヒザヲリ》ふせてなど其外あまたよめり、古今序にもたなびく雲のたちゐ鳴鹿のおきふしとかけり暮爾至者《ユフヘニナレハ》、此をばクレニイタレバとも讀べし、鶉《ウヅラ》ナスイハヒモトホリは、い〔右○〕は又發語の詞、もとほるは、めぐると云古語なり、神武天皇の御歌にもいはひもとへるしたゝみと讀たまへり、和名に鷹具に旋子をとほりと云も此義なり、鶉の草隱をはひめぐれるに喩て、禮儀を云こと上の如し、肘行膝歩の体を云、サモラヘド、サモラヒエネバとは、祇候すれども御在世の時に替て悲に堪ぬなり、ウグヒスノサマヨヒヌレバは、神代紀に愁吟をサマヨフとよめり、吟呻するを鶯に喩るなり、春鳥とかけるは、和名云、陸詞切韻云※[(貝+貝)/鳥]【鳥莖反楊氏漢語抄云、春鳥子、宇久比須、】春烏也、かゝれば撰者の義訓には非ず、オモヒモイマダツキネバ、これはおもひもいまだつきぬにと云心なるを古語にてかくいへるは唯今の詞づかひに違へるやうなれば、意得がたし、下に至て尤多し、者の字をに〔右○〕と用たる所もあれば、イマダツキヌニと讀べきにやと思ふを、第五に憶良の哀(シム)2世間難1v住歌に、またまでのたまでさしかへさねしよの、伊久※[こざと+施の旁]母阿羅禰婆《イクダモアラネバ》とよめるも同じてにをはなるを如比かきたれば、よみやう慥に前の如し、只新語にて心得てさて有べし、言右敝久《コトウヘク》ク(12)ダラノ原ニ、仙覺本も今の如にて其注穿鑿なり、今按右は左の字を誤れるなり、ことさへぐは、以前釋、百濟も三韓の内にて詞のさはりあればからのさきとそへたるに同じ、百濟の原は廣瀬郡にて、第八に百濟野とよめるも同所なるべし、但舒明紀云、十一年秋七月詔曰、今年造2作大宮及(ヒ)大寺1、即以2百濟川側1爲2宮處1、十二月、是月於2百濟川側1建2九重塔1、延喜式に引合するに、三立岡は此百濟原に屬せる所なるべし、アサモヨイ木上《キノウヘノ》宮は、第十三にもかくつゞけたり、此はあさもよいは紀の國の枕詞なるを、木と云詞の通へるに依て假て移し用るか、いそのかみふるから小野、異説あれど一説につかば例とすべし、尊骸をば三立岡に葬て、尊靈をば城上宮に崇め祭るなり、神ノマニシヅマリマシヌ、皇子を神と云なり、以て皇子の全盛と薨去と殯宮との事を次第に述ぶ、しかれどもと云より一轉して後代まで御名の朽失ずして慕ひ參らせむことを云て一篇を収拾せらる、吾大君は皇子の御事なり、天ノ如振サケ見ツヽは、万代に御子孫相續して香久山の宮の殘べければ仰見むとなり、結句のカシコケレドモは皇子を敬て云、發端には替れり、以上百四十九句集中第一の長篇なり、人麿の獨歩の英才を以て皇子の大功を述て薨去を奉慟らるれば、誠に不朽を日月に懸たる歌なり、歌の中ごろは能天武紀を引て見るべし、
 
初、かけまくもゆゝしきかも――
いやしき身をもて、ことのはにかけて申たてまつるもいま/\しと、上をたふとひてことに卑下する詞なり。つゝきは天武の御事なれとも、皇子尊をもひとつにうやまひたてまつりていへるなり。神さふといはかくれますやすみしゝわか大君とは、天武の御事なり。崩御の後、立かへりそのかみの事をのふるゆへにかくはいへり。そともの國は、第一卷に成務紀を引かことく、こゝにては美濃は東山道にて大和より北うしとらのかたにもあたるへけれはなり。こまつるきわさみか原とは、狛劔は高麗の劔なり。もろこしの劔には〓のかしらに鐶をつくれは、高麗にもつくるなるへし。鐶のたくひをもわといへは、わさみとつゝけんためにいへり。戰國策云。軍之所出矛戟折鐶※[金+玄]絶【鐶刀鐶補云※[金+玄]姚本作弦。】古樂府曰。藁砧今何在【藁砧※[石+夫]也※[石+夫]借爲夫】山上更有v山【山上山意出也】何日太刀頭【太刀頭有鐶鐶借爲還】破鏡飛上天【破鏡微月也。】第十一に笠のかりてのわさみのにとよめるも笠のうらにちひさきわをつけてそれよりをゝすくかをかりてといふゆへに、これもわとつゝくるためは今とおなし心なり。やすもりましては、やすまりまし/\てなり。又安穩に守護したまふといふにもあるへし。治賜、おさめたまひと、もしたらすによむか。又おさめたまふとよむへし。たまひしとしたる點はわろし。鳥かなくあつま、前に注して附たり。喚賜而、めしたまひつゝとよめるもあしからす。字のまゝによはひたまひともよむへし。ちはやふる人をなこすと。此人をかみとかんなつけたるはわろし。字のまゝによむへし。ちはやふるといふ詞は、おほかた神にのみ聞なれたるゆへに、昔の點にはあらて、後にくはへたるなるへし。第七第十一に、ちはや人宇治とつゝけてよめる歌あり。委はそこに注すへし。神代紀に、殘賊強暴横惡之神とかきて、ちはやふるあしき神とよみたれは、殘賊強暴の人を、ちはやふる人とも、ちはや人ともいふなり。和爲跡をは、なこせととよみ、治跡をは、しらせとゝよむへし。天皇の皇子に下知したまふ詞なり。されはこそ治跡の下に一云掃部等とは注したれ。一本にはらへとゝある心にて、なこせ、しらせとよむへしとはいふなり。皇子随任賜者、これをは、わかみこにまかせたまへはとよむへし。まゝにたまへはとあるもおなし心なれと、まかせたまへはは心得やすし。あともひたまひ、このあともふといふ詞、此集中にあまたあり。いさなふ義なり。日本紀に誘の字をあとふとよめるこれなり。同字をわかつるとも、をこつるともよめるはすこしあさむく心なり。とゝのふる鼓のこゑはとは、軍衆をとゝのふる鼓なり。〓の字を、ふりつゝみとよむ。騎鼓なり。楽天か長恨歌に、漁陽〓鼓動地來といへる物なり。吹なせるは吹ならせるなり。此集に鳴の字をもなすとよめり。古今集に、秋風にかきなすことゝよめるも、かきならすなり。小角、これを、をつのとよめるはあやまりなり。こふえとよむへし。下にある本を引て、自注に、笛乃音波とあるにおなし。又くたのこゑもと、もしたらすにもよむへし。天武紀云。大角小角《波良久太》。又云。○あたみたるとらかほゆると、あたをみたるなり。あたはあひてなり.詩曰。王奮厥武、如震如怒、進厥虎臣、※[門/敢]如〓虎。野へことにつきてある火の。和名集云。野火字統云〓【蘇典反又作〓、野人説云保曾介】防野火也。孫〓切韻云〓【音與銑同】逆燒也。冬の林に飄かもいまきわたると。莊子云。冷風則小和、飄風則大和。文選云。囘※[火三つ+風]卷高樹。いまきのいは、發語のことはなり。大雪のみたれてきたれ。きたれはといはて、きたれとのみいへるは、例の古語なり。景行紀云。時賊虜之矢、横自v山射之、流於官軍前如雨。不奉仕を、まつろはぬとよめるもあしからねと、まつろはてとよめは、とく心得やすし。あらそふはしに、鳥の打つれて行は我さきたゝんとするものなり。そのことく軍に兵の先鋒をあらそふなり。露霜のけなはけぬへくは身をかへりみねなり。はしは長流か昔の抄に、はしめなりと注したれとも、さにはあらす。あひたにといふ詞ななり。すなはち間の字をはしとよめり。用明天皇の后、聖徳太子の御母を、穴太部間人皇女と申、日本紀に見えたり。此集にも、第一に、間人連老、第三に、聞人宿禰大浦あり。みな間の字、はしとよめり。古今集に、高津内親王の御歌に、木にもあらす草にもあらぬ竹のよのはしにわかみはなりぬへらなりとよませたまへり。竹は草木のあひたにて、よはまた兩節の間なれはいつかたへもつかぬうきたる御身と、竹によそへたまへるなれは、此はしもあひたなり。又川にわたすをはしといふも、両岸の間なれは、間の字の心を、橋の體につけたる名なるへし。第十九に、家持の、ほとゝきすならひに時の花をよめる長歌に、また此あらそふはしにといふ詞あり。そこはます/\あひたの心なり。はしめといふ心更にかなはす。あとさきなかきゆへにこゝにかゝす。わたらひのいつきの宮ゆ、神風にいふきまとはし――おほひたまひてしつめてし。これは七月廿二日瀬田にての合戰の時をいへり。天武紀云。元年秋七月庚寅(ノ)朔辛辛亥|男依《ヲヨリ》等到(ル)2瀬田1(ニ)1。時(ニ)大友(ノ)皇子及(ヒ)群臣等共(ニ)營2於橋(ノ)西(ニ)1《村國》而大(ニ)成(シテ)v陣(ヲ)不v見2其(ノ)後(ヲ)1。旗幟蔽(ヒ)v野(ヲ)埃塵連(ナル)v天(ヲ)。鉦皷《ドラツヽミノ》之聲聞(エ)2數十里(ニ)1列弩亂發矢下(ルコト)如(シ)v雨(ノ)。其(ノ)將智尊率(テ)2精《ヨキ》兵(ヲ)1以|先鋒《サキト テ》距(ク)v之(ヲ)。仍切(リ)2斷(コト)橋(ノ)中(ヲ)1須v容(ル)2三丈(ヲ)1。置2一(ノ)長(キ)板(ヲ)1。設(ヒ)有2蹈(テ)v板(ヲ)度(ル)者2乃引(テ)v板將v墮(サント)。是(ヲ)以不v得2進(ミ)襲(フコトヲ)2。於v是(ニ)有2勇敢士1曰2大|分《キタノ》君|稚臣《ワカオムト》1。則棄2長矛(ヲ)1以重(ネキテ)2〓甲(ヲ)1拔(キ)v刀(ヲ)急蹈(テ)v板(ヲ)度之。便斷2著(シ)v板(ニ)綱(ヲ)1以被v矢(ヲ)入(ルニ)v陣(ニ)衆悉(ク)亂(レテ)而|散走《アラケテ》之不v可v禁。時將軍智尊拔(テ)v刀(ヲ)斬(レトモ)退(ソク)者(ヲ)1不v能v止(ムルコト)。因(テ)以(テ)斬2智尊(ヲ)於橋(ノ)邊《アタリニ》1。則大友(ノ)皇子左右(ノ)大臣等僅(ニ)身免(レテ)以逃(レ)之。男依|等《ラ》即軍2于粟津(ノ)岡(ノ)下(ニ)。是(ノ)日羽田(ノ)公矢國、出雲(ノ)臣《オム》狛合(テ)共(ニ)攻(テ)2三尾(ノ)城(ヲ)1降(ス)之。壬子男依等斬2近江(ノ)將犬養連五十君、及|谷《ハサマノ》直鹽手(ヲ)於粟津(ノ)市(ニ)1。於v是大友(ノ)皇子走(テ)無(シテ)v所v入(ル)乃還(テ)隱(レテ)2山前(ニ)1以|自《ミ》縊《ワナク》焉。時(ニ)左右大臣及(ヒ)群臣皆散(ケ)亡(ケテ)唯《タヽ》物(ノ)部(ノ)連麻呂且(ツ)一二(ノ)舍人從(カヘリ)之。かやうにしるして、伊勢より神風の吹きて、大友皇子の軍のまとひけるよし、日本紀に見えぬ事なれと、此歌にかくよまれたれは、尤實録とすへし。そのうへ、日本紀をみるに、夏五月辛卯(ノ)朔丙戌(ノ)旦於2朝明(ノ)郡|迹太《トホ》川邊(ニ)1望《タヨセニ》拜(タマフ)2天照太神(ヲ)1。又云。軍2金綱井(ニ)1之時、高市(ノ)郡大領高市(ノ)縣主許梅|〓忽《タチマチニ》口|閉《ツクヒテ》而不v能v言《モノイフコト》也。三日(ノ)之後方(ニ)著《カヽリテ》v神以言。○便亦言(ク)。吾(レ)者立2皇御孫(ノ)命(ノ)之前後(ニ)1以送3奉(テ)于不破(ニ)1即還(レリ)。今旦立(テ)2官軍(ノ)中(ニ)1守護之。○又村屋(ノ)神著v祝曰云々。又さきに、天皇崩之後八年九月九日|奉爲《オホムタメニセシ》御齋會之夜(ノ)夢(ノ)裏(ニ)習賜御歌に、神風のいせのくにゝは、おきつもゝなひきし浪に、鹽氣のみ、かをれるくにゝ、あちこりの、あやにともしき、高てらす日のみことあるは、そこに申つることく、太神宮のはからはせたまふやう有けることなるへし。かれこれを見合て信すへし。こゝに神風とあるは、伊勢國風土記とおほきにたかへり。風土記の説、ならひにくはしくは、別に注してつけぬ。又神風といふことは、異國にも有と見えたり。文選(ニ)陸士龍(カ)大將軍(ノ)宴會(ニ)被(テ)v命(ヲ)作(レル)詩(ニ)【〓〓緒晋書曰。成都王穎字(ハ)章度趙王倫簒v位。穎|與《ト》齊王間誅v之進2位(ヲ)大將軍(ニ)1】在昔姦臣|〓《アケタリ》2亂(ヲ)紫微(ニ)1。神風潜(ニ)駭(テ)、有2赫(タル)茲(ノ)凱1。靈旗樹〓《ハタヲ》、如(シ)2電(ノ)斯(ニ)揮(フカ)《・アラクルカ》。致(スコト)2天之|屈《キハマリテ》1于《・ヲイテナリ》2河之〓《ホトリニ》1。有命再集、皇輿凱歸。江文通(カ)擬古詩(ニ)、神〓自v遠至(ル)。また軍に神助あることは、史記項羽本紀曰。楚又追撃(テ)至(ル)2靈壁(ノ)東(ノ)雎水(ノ)上1。漢軍却爲v楚(ノ)所v※[手偏+齊]《ヲシオトサ》、多殺2漢(ノ)卒1。十餘萬人皆入2雎水(ニ)1、々々爲(ニ)v之不v流。圍(ムコト)2漢王(ヲ)1三匝。於v是大(ニ)風細西北而越折v木發v屋揚2沙石(ヲ)1窈冥(トシテ)晝晦逢2迎楚軍1。々々大亂壞散。而漢王乃得(タリ)d與2數十騎1遁去u。又韓王信(カ)傳(ニ)曰。居七日胡騎稍引去。時(ニ)天大(ニ)霧漢(ノ)使人往來(スれとも)胡不v覺。およそ、上は王者の天下を知と知らさるとより、下は士庶人の時にあふとあはさるとにいたるまて、そのしるあ見て、しかあるゆへをしらぬ事有。班叔皮か王命論、李蕭遠か運命論、劉孝標か辯命論等のことし。大友皇子に肩をぬかんとして、天武天皇を纂逆のやうにいひなせるもの有。日本紀は、婉微にして決しかたし。いかさまにも、漸々ゆへ有けなるうへ、蘇我赤兄は、有間皇子にも、不臣の心をつけて、かへりて捕奉りて、紀温湯へをくりしほとの人なるが、ともに佛前にしてちかはれし事も、おほつかなし。赤兄の後、蘇我氏は絶たるか、微になりたるか日本紀、續日本紀等にも見えぬやうにはおほゆ。懷風藻の大友皇子の傳には、すこし皇子にこゝろあるやうにかゝれたれと、天武紀さきの御齋曾の夜の夢の歌、此歌なとをよく/\見は、疑おのつからのそかるへし。秦始皇は、阿房宮に安坐せられしを、そのゝち、趙高印璽を佩てのほりけれは、宮殿ふるひうこきてゆるさゝりき。いはむや徳あり功あるみかとを、誰かたやすく論せむ。稱徳天皇崩御の後、不慮に、天智天皇の御孫、光仁天皇、高みくらにのほらせたまひて、今にいたるまて、その御子孫のみ御位におはしますも、そのゆへ又誰か知らん。日本紀を見るに、瀬田の戰は村國男依等か功にして、天皇々子は、猶和暫野上におはしましけれとも、元來皇子の御威勢によりけるゆへ、又は亂のおさまりたる事をつふさにのへらるゝなり。みつほのくにを、みつほは、本朝の名なり。みつは瑞、ほは穗なり。ほはものゝそれとあらはれてみゆるを、ほに出つるといふ。舟の帆、薄稻なとの穗、この心にて名付て見えたり。されは神代よりさま/\嘉瑞のあらはれて、めてたき國とほめて、なつくるなり。神のまにふとしきまして、神はさき/\にもいふことく、君をいふ。ふとしきますは、たしかにおちつきて、世をしろしめすなり。天下申たまへは、まうすは、天下の成敗を君に申あけて、取をこなふをいふ。第五にも、天下まうしたまひし、家の子と、ゑらひたまひてなどよめり。是は持統天皇四年に、太政大臣となりて、天下の政を聞しめしけるをいへり。天武紀云。十年春二月庚子(ノ)朔甲子○是日立2草壁皇子尊1爲2皇太子1。因以令v攝《フサネオサメ》2萬機1。又云。十二年二月己末(ノ)朔大津皇子始(テ)聽2朝政1。これらの後をいふへし。およそ太政大臣は、徳望その人にあらされは、かきてをかさる官なれは、今の皇子の御人から、これにて知へし。令義解職員令云。太政大臣一人師2範一人1儀2形四海1。【謂師者教v人以v道者之稱也。範者法也。儀者善也。形者亦法也。四海者、九夷、八狄、七戎、六蠻也】經v邦諭v道〓2理陰陽1。【謂〓(ハ)者和也。理(ハ)(ハ)治也。言《コヽロハ》太政大臣佐v王論v道以經2緯國事1和2理陰陽1。則有徳之選非2分掌之職1。爲v無2其分職1故不v稱v掌。設v官待v徳故無2其人1則闕也。】無2其人1則闕。ゆふ花の、さかゆる時に。白ゆふ花ともいふは、只ゆふなり。ゆふはもとゆふといふ木を折は、白き糸おほきを、とりてつくるゆへに、なつけたるを、後は苧なとにてするをもゆふとのみいふ事は、從本立名とて例おほし。たとへは楊枝はやなきをけつりてしたれば、さはなつくるを後はこと木をけつるをも、をしなへて楊枝とのみいふかことし。ゆふはゝひまゆみといふ木とかや。安藝の國なとよりおほく出すと見えたり。和名集云。杜仲、陶隠居本草注云。杜仲一名木緜【杜音度、和名波比末由美】折之多白絲者也。又祭祀具云。本草注云。木綿【和名由布】折之多白絲者也。くすりに杜仲とて用るもこれなるへし。和名集には、杜の字音度と注したれは、昔はにこりていひけるを、今の醫家にはならひのすたれて、清てはいふなるへし。木綿に木と草との兩種、異國にも有と見えたり。陸龜蒙か木綿花時猩々啼と作れるはいつれをいへるにか。ゆふをつくりたるか花のやうにみゆるを、榮花にたとへて、さかゆる時にとはつゝくる也。神宮にかさりまつりてとは、かりもかりの宮をいへり。かゝるたふとき人のかくれたまふを、神あかりといふは、もとより神明なるか、和光同塵して世をすくひて、事をはれは本位にかへらせたまふ心にかくいへり。いにしへはおほくさも侍りけん。遣便。便とは、使の字の誤れるなり。日本紀に奉遣とかきてたてまたすとよめり。またすはつかはすといふ古語なり。またす、つかはす、昔はならへて用ると見えたり。たてまたすは、めしつかひたまふ人ともなり。白妙の麻の衣著は、服衣なり。和名集云。〓衣【不知古路毛】喪服也。埴安は所の名なり。神武紀云。天皇以前年秋九月、潜取天香山之埴土、以造八十平瓮、躬自齋戒祭諸神、遂得安定區宇、故號取士之處曰埴安。神代紀上云。上神號埴安神。しゝしものいはひふしつゝ。鹿し物のしは、第一卷に、かもし物といふところに注せしことく、助語なからしゝといふ物といはんやうにきこゆる詞なり。常のやすめ字のみなれは、物といふ字つゝかぬなり。此集に此詞おほし。いはひのいは.發語のことはなり。しゝはよくひさおりふす物なれは、これもまたおほくよめり。古今集の序に、空ゆく雲のたちゐ、なくしかのおきふしはとかゝれたるもこれなり。禮儀をたゝして神靈につかふまつるをいへり。うつらなすいはひもとほりは、いはまた發語の辭、もとほるはまはるといふことはなり。今の俗にも舌のこはくてよくもまはらぬをもとほらぬといひ、中風なとにて手足心にまかせぬを、手のもとほらぬ、あしのもとほらぬなと申めり。神武天皇の御歌に、かむ風のいせのうみの、大石にやいはひもとへるしたゝみのとよませたまへる、もとへるといふもこれなり。第三卷に、長皇子、獵路池に遊獵したまふ時、又人まろの歌に、しゝしものいはひふせりて、鶉なすいはひもとほりとあり。うつらの草かくれてはひまはるによせて、これもうやまひのすかたをいへり。春鳥のさまよひぬれは。長流か昔の抄に、春の鳥は霞にまよふ心なりといへり。しかれは字にまかせてよめるなり。現本にうくひすとあり。これを正説とすへし。和名集云。陸詞切韻云。※[(貝+貝)/鳥]【鳥莖反。楊氏漢語抄云。春鳥子、宇久比須】春鳥也。うくひすは鳥をもて春になる中にもことに名高けれは、總即別名の例にて春鳥の名をうるを、こゝにうくひすといふに用たるなり。さまよふは、霞に迷ふにあらす。うれへて坤吟するなり。うめくによふなとおなし心なるへし。神代下云。弟愁吟在海濱。文選屈原か漁父辭にも、行吟澤畔といへり。第十に、春されは霞をもとむと鶯のこすゑをつたひて、鳴つゝもとなともよみたれは、さまよふ心もあるへし。ことさへくは、此卷の上に、ことさへくからの崎といふ所に注せしことく、くたらの人なとの物いふは、ことはもたみ、異國なれはたかふ事のみありて、聞得られねはかくはつゝけたり。左を右につくりて字のまゝにかんなを付たるは、傳寫の後のあやまりなるへし。朝毛吉木上宮をとは、あさもよいは、紀伊の國につゝくる枕詞なり。別に注して附ぬ。いそのかみとは、やまとのふるにこそつゝくるを。此処に、いそのかみふるとも雨にさはらめやなとかりて用る例あれは、こゝもきといはんとて借用たりとみるへし。第十三にもかくのことくつゝけたり。城上はもとよりある所の名なるへし。武烈紀云。三年十一月、詔大伴室屋大連、發信濃國男丁作城像於水派邑、仍曰城上。かくあれは、こゝにつくれる宮なるへし。城上郡、城下郡あれは、その城上にやともいふへけれと、磯城なるを、延喜式のこゝろ郡のの名郷の名もよき字をもて二字つゝにさたむる時、上下の字をそへてふたこほりにわかつゆへに、城の字に上の磯の字をよみつけて、しきの郡とはいふなるへし。武烈紀は、初より城上とあれは、此歌にいふ所なるへしとはさため申なり。神のまにしつまりましぬは、方便ことをはりて、本性のまゝにおはしますなり。日本紀第十九、蘇我稻目、百濟太子〓に對して聖明王の、賊のために害にあふことをとふらふことはの中にいはく。豈圖一旦眇然昇遐、與水無歸、即安玄室。よろつよに過んとおもへや、過んとおもはんやなな。萬代ふとも此宮昔かたりにならんとおもはねは、皇子の御かたみと、天を仰ことくあふきみて、つねにしのひたてまつらん、おそれおほけれともといふ心なり。以上百四十九句
 
(13)短歌二首
 
200 久堅之天所知流君故爾日月毛不知戀渡鴨《ヒサカタノアメニシラルルキミユヱニヒツキモシラスコヒワタルカモ》
 
天ニ知ラルヽとは、神と成て天へ皈り給ふ意なり、下にも多くよめり、此歌新古今には、詞書に奈良の帝をゝさめ奉るを見てと有り、不審なり、天にしらるゝをあめにしほるし、下句をつき日もしらで戀渡るらむとあるは人丸家集と云物に同じきを、彼詞書にもたけちのみこをしきのかみにかりに納奉る時の歌とこそ侍れ、
 
初、久かたのあめにしらるゝ君ゆへに
神靈の天に歸りたまふ心を、あめにしらるゝといへり。櫻ちるこの下風はさむからて空にしられぬ雪そふりけるとよめるは、雪とは見ゆれと、空よりふらぬ物なれは、空にしられぬとよめるその裏なり
 
201 埴安乃池之堤之隱沼乃去方乎不知舍人者迷惑《ハニヤスノイケノツヽミノカクレヌノユクヘヲシラストネリハマトフ》
 
隱沼乃、【幽齋本云、コモリヌノ、】
 
埴安ノ池を奥義抄にうへやすの池と載られたるは、彼所覽の本埴を、誤で植に作けるにや、家集にしきやす〔四字右○]とあるは、埴は常職反、呉音を取てよめるか、用べからず、隱沼は、幽齋本に隨てコモリヌと讀べし、第十二に、隱沼の下ゆ戀あまりと云歌の十七に再出たるに、許母利奴能とあれば、かくれぬも同意ながら古語に付べし、沼は和名に唐韻を引て池也とあれば、即上の埴安池なり、不知はシラニとも讀べし、歌の心、上句(14)は池水はこめ置物なれば、ゆくへをしらずといはむ料の序なり、
 
初、はにやすの池のつゝみの――
第一卷にいへるかことく、八雲御抄に、うへやすの池と載させたまへるは、御本に埴をあやまりて植の字に作けるによりて、あやまらせたまへるにや。みくさなとにかくれたる池水は、ゆくゑしられねはそれによせてちり/\に舍人とものわかれさりてゆくゑしらすなれるをも、又道にまとひてゆくゑしらぬやうに心まとひしてなけくをもいふへし。日本紀に慟の字をもまとふとよめり
 
或書反歌一首
 
202 哭澤之神社爾三輪須惠雖祷祈我王者高日所知奴《ナキサハノモリニミワスヱイノレトモワカオホキミハタカヒシラシヌ》
 
ナキサハノモリは、神代紀上云、于v時伊弉諾(ノ)尊恨(テ)之曰云云、其涙墮而爲(ル)v神、是即|畝丘《ウネヲノ》樹(ノ)下(ニ)所v居之神、號2哭澤女《ナキサハノメノ》命1矣、同纂疏云、畝田之高也、樹下所v居之神、猶v言2山林塚※[まだれ/苗]之神1也、涙痕化神、則莫v不2物而神1矣、啼澤女者、吟澤而無v所v歸焉、神之甚可v哀者也、此纂疏の意は、唯何の處にもあれ、田の高き所の木陰にある神と御覧じけるか、哭澤を吟澤と釋せられたるも、楚辭の漁父辭に、行吟澤邊と云るを取て釋し給ふと見えたり、澤は多の字の、和訓さは〔二字右○〕なれば泣こと多しと云心にや、畝丘は地の名と見えたり、舊事本紀云、(15)伊弉諾尊深(ク)恨(テ)曰、云云、御波墮爲v神(ト)、坐《マシテ》2香《カク》山之|畝尾丘《ウネヲノヲカニ》1樹下《コノモトニ》所v居之神(ナリ)、號|曰《マウス》2啼澤女(ノ)神1、古事記云、時於2御涙(ニ)1所v成神、坐2香山之畝尾木下1、名2泣澤女神1、此三本を以考合するに、舊事紀の畝尾丘の尾は、音にてうねびのをか〔六字右○〕にや、然るを日本紀には和訓と御覽じて、尾、丘、重疊すれば、尾を省き、古事記には、丘を省かれたるか、延喜式には載ざる神にや、ミワスヱは和名云、神酒、【和語云、美和、】、祷祈は、今按日本紀にクミノムとよみたれば此にもクミノメドと讀べきか、高日シラレスは天に知らると云に同じ、歌の心は、皇子の煩はせ給ふ時、なほらせたまはむことを祈てなきさはの神社に神酒を奉り、誠をつくしゝかひなく神さらしめ給ふが恨めしきと神を恨るなり、歌の心歌林の説實なるべし、檜隈女王は考る所なし、皇子の妃なるべし、後皇子尊は、日本紀にノチノミカドミコトと點ぜり、懷風藻、葛野王子傳云、高市皇子薨後、皇太后引2王公卿士於禁中(ニ)1、謀v立2日嗣1時、群臣各挾(テ)2私好1衆議紛紜(タリ)云云、
 
初、なきさはのもりにみわすゑ
なきさはのもりは、啼澤女命をいはへる社なるへし。大和國にありとはしらるれとも、延喜式神名帳にも載す。神代紀上云。于時伊弉諾尊恨之曰。唯以一見替我愛之妹者乎。則匍匐頭邊、匍匐脚邊而哭泣流涙焉。其涙墮而爲神、是則畝丘樹下所居之神號啼澤女命矣。纂疏曰。畝田之畔也。丘地之高也。樹下所居之神猶言山林塚※[まだれ/苗]之神也。涙痕化神、則莫不物而神矣。啼澤女者、吟澤而無所歸焉。神之甚可哀者也。此疏のこゝろは、いつくにもあれ、高くひきゝ所の木のもとにある神なり。今此歌はさためていはへる社と聞ゆ。もし畝丘といふは、畝傍山の事にもや侍らん。啼澤は.さはゝ多の聞にかりて書てなく事おほきなるへし。しかるを吟澤而無所歸焉と尺し給へるは、漁父辭よりおもひよりて、たくみにこゝろえたまへるか、かへりて和漢を混してあやまりたまへるなり。みわは神に奉る酒なり。和名集云。日本紀私記云。神酒【和語云美和。】高日しられぬは、天にしらるゝといふにおなし
 
右一首類聚歌林曰檜隈女王※[死/心]泣澤神社之歌也案日本紀曰持統天皇十年丙申秋七月辛丑朔庚庚戌後皇子尊薨
 
初、右一首類聚――
此後注につきておもふに、右の歌の前に、或書反歌一首とあるは、反の字あやまりてくはゝれる歟。目録には或本歌一首といへり。もし右の人丸の長歌に、二首の短歌なくて、此なきさはの一首反歌なる本あるゆへに或書反歌と載て、又類聚歌林には檜隈女王歌とあるゆへに異を注せるにや。目録と注とをあはせてみれは、反の歌あまれりとみゆ。檜隈女王は高市皇女の妃なるへし。系圖かんかふる所なし。檜隈はうねひにちかけれは、此女王のうらみ給ふにいよ/\日本紀の畝丘はうねひ山のことにやとうたかはる
 
但馬皇女薨後穗積皇子冬日雪落遙望御墓悲傷流涕御作歌一首
 
(16)元明紀云、和銅元年六月丙戌、三品但馬内親王薨、天武天皇之皇女也、此に依に、其年の冬よませ給へるなり、さきに有し皇女の御歌どもにて、御歎の心推量るべし、初に藤原宮と標せしは、和銅三年三月に寧樂へ遷らせ給ふ、それより此方の歌、若猶あらば皆載すべし、
 
初、但馬皇女薨後――
元明紀云。和銅元年六月丙戌、三品但馬内親王薨。天武天皇之皇女也
 
203 零雪者安幡爾勿落吉隱之猪養乃岡之《フルユキハアハニナフリソヨコモリノヰカヒノヲカノ》塞爲卷爾
 
アハニナフリソとは、和名云、日本紀云、沫雪【阿和由岐】、其弱如2水沫(ノ)1、これ田公望が私記を略して注せらる、袖中抄に引る私記の此末の文に云、或説如v沫雪者非也、かゝればたゞ消易き方に名付たり、今の意も是なり、袖中抄に、此集第八、しはすにはあはゆきふるとしらぬかもと云歌を引て世人春雪と思へり、冬も春もよむべしと决して又今の歌をも引り、ことわり分明なり、此集にも他處には和名の如く阿和と書たるを、此に安幡とかけるは同韻にて通ずる故なるべし、ヨコモリとは猪は野山に住によく草木の中にこもる故にかくつゞくる意か、顯昭もよこもりのゐかひと引かる、八雲にはみこもりのと載給へり、未だ其心をしらず、今按吉韻はよこもりにもあらず、みこもりは云に及ばず、是はヨナバリと讀て地の名也、持統紀云、九年十月乙亥朔乙酉、幸(17)菟田(ノ)吉隱1、丙戌至v自2吉隱1、和州の者に尋侍しかば、宇※[こざと+施の旁]郡によなばり〔四字右○]と云村あり、今も吉隱と書侍り、長谷のけはひ坂を越て十町餘もや過侍らむと申き、しかればよなばりは※[手偏+總の旁]名にて其中の猪養の山なり、延喜式諸陵云、吉隱陵、【皇太后紀氏、在2大和國城上郡1、】これには點なし、日本紀を以てよむべし、宇※[こざと+施の旁]と城《シキノ》上と郡の違たるは、兩郡相つゞきて延喜の比は城上に屬せるか、長谷は城上郡なるにそれより近き所ときけばげにもまがひぬべし、又廣き所は兩郡にかゝるもあり、今巨勢は高市郡なるを、延喜式に亦葛(ノ)上(ノ)郡に巨勢山口(ノ)神社有が如し、吉隱陵は城上郡にかゝのる方に有にや、隱の字をナバリとよめるは、かくる、こもるなどの古語にや、天武元年紀云、及2夜半1到2隱郡1焚2驛家1、是は伊賀名張郡なるをかく一字にかゝれ侍り、げにもよなばりと云所をしらず、日本紀を考るまでもなくば一定よこもり〔四字右○]とよむべき事なり、第八に坂上郎女が吉名張乃猪養山爾伏鹿乃《ヨナバリノヰカヒノヤマニフスシカノ》とよめるも今の如くヨナバリなるを、それをばフナバリと點じ侍り、それのみならず第十にも三所吉名張とあるを皆第八と同じく點ぜるは、よなばりと云所をふなばりと聞あやまてるにや、彼もふなばりとはいかゞ讀侍るべき、歌の意は、雪だにも沫にふらずいやかたまりて皇女の魂を猪養岡のよそへうからし參らせぬ關となれ、魂だに彼處《ソコ》におはしますと思はゞせめての慰さめにせむとよ(18)ませ給ふなり、程經ての御歌なれば、なく涙雨とふらなむなど時に當てよみたる意には見るべからず、
 
初、ふるゆきはあはになふりそ吉隱之猪養のをかのせきにせまくに
長流か枕詞燭明抄にいはく、よこもりは、吉隱とかけり。よくこもるといふなり。猪のしゝのね所は、よくかまへてふすものなり。かるもかき臥猪とよめるは、草根かつらなとやうのものを、海人の藻をかきたることくに、ねところにかきあつめてふすなり。同し所に七夜ふして、亦ね所をかふるといへり。されは猪といふ詞まうけむとて、よこもりとはをけるなり。後のうたに、みこもりのゐかひの岡とよめるそ心得ぬ。水のこもるゐといふ心にてもいへるか。されと本歌にはたかへり。以上燭明抄のことはなり。これ古來の説なり。まことに、みこもりはあやまりにて、よこもりの尺はよくいひとかれて侍るを、夢のうちの是非は、是非ともに非なりといへる風情にて、みこもりよこもりみなあらぬことに侍るなり。げにも吉隱とかけるは、打まかせては、誰もよこもりとのみよむへきことに侍れは、これは此集にかんなのつきそめけるよりのことに侍らんを、末代の今にいたりて、ことにおろかなるをのれしも、はしめて見出たるは、物の隱顯もまたはかられぬことに侍るかな。これは枕詞にはあらす。ふなはりのゐかひの山とよみ侍るなり。ふなはりは、宇陀郡にありて、そのふなはりにある、猪養の岡なり。第八卷に坂上郎女歌に、吉名張《フナハリ》の猪養《ヰカヒノ》山にふすしかのつまよふこゑをきくがともしさ。第十には、吉魚張《フナハリノ》の浪柴《ナミシハ》の野とも、吉名張《フナハリ》の夏身《ナツミ》のうへとも、吉名春《フナハリ》の野ともよめり。さて吉隱をふなはりとよむ證は、日本紀第三十持統紀云。幸《イテマス》2兎田吉隱《ウダノヨナハリニ》1。日本紀のよなはりの點を推量するに、もとはふなはりにて有けむを、吉の字を、ふとよむへきことの心得かたけれは、かたかんなのよの字の、横の二點のうせたるかとおもひて、こざかしき人、片かんなのふの字の中に、横さまに二點をくはへて、よの字になしけるなるへし。隱の字をなばりと讀ほとの人吉の字をふとよますして、初よりあやまらんやは。吉の字をふとよむ事、今ひける、此集第八、第十の四首、みなその證なり。俗に、ふのよきといへるも、此字なるへし。なはりといふは、かくるゝ、こもるなといふにかよへる古語にもあるにや。天武元年(ノ)紀(ニ)云。及(テ)2夜半(ニ)1到(テ)2隱《ナハリノ》郡(ニ)1焚2隱(ノ)驛家《ムマヤヲ》1。これ天武天皇伊勢へおはします時、今の伊勢國|名張《・日本紀亦名墾》【奈波利】郡にいたらせたまふ事をいへり。ともに隱の字をなはりとよみたれは、かくはいふなり。又延喜式二十一、諸陵式云。吉隱陵【皇太后紀氏。在(リ)2大和(ノ)國|城《シキノ》上(ノ)郡(ニ)1。】これは、志貴皇子(ノ)妃《ミメ》光仁帝の御母、贈太政大臣正一位|諸人《モロヒト》の女紀(ノ)朝臣|橡《クス》姫の御墓を、光仁天皇御位につかせたまひ後、陵には准せられけるなり。城《シキノ》上(ノ)郡と有は、日本紀と相違すれとも、かゝる事例おほし。いつれもあやまりには有へからす。そのゆへは、宇陀と城上と隣近にて、養老の比は宇陀に屬したるが、いつとなくかはりて、延喜比は城上に屬せるなるへし。延喜式には、吉隱陵にかんなゝし。八雲御抄には、みこもりのゐかひの岡と載たまへり。奥義抄には、只ゐかひのをかとのみあり。此御歌は、和銅元年六月に但馬皇女のかくれさせたまへる、その年の冬よませたまへるなるへけれは、古今集に、篁朝臣いもうとの身まかりける時、なく涙雨とふらなんわたり川水まさりなは歸りくるかにと、時にあたりたるわかれに、とめまほしみしてよめるやうには心得へからす。たましゐたにそこにおはしますとおもはゝ、又もなかめやりて、せめてのなくさめにせんに、雪たに泡にはふらす、いやかたまりて、關となりてたましゐをよそにうからしめ奉らで、そこにとめまいらせよと、よませたまへるなり。あは雪は、和名集(ニ)云。日本紀(ニ)【疑日本紀下脱私記二字乎神代紀有沫雪二字其弱如水沫當私記注】云(ク)沫雪【阿和由岐】其(ノ)弱(キコト)如2水沫(ノ)1。別腹の御はらからにて、かねて密通の御歌さきに見えたり。よりてことさらに別をかなしひてしたはせたまふなるへし
 
弓削皇子薨時置始東人歌一首并短歌
 
文武紀云、三年秋七月癸酉、淨廣貳弓削皇子薨、遣2淨廣肆大石王直廣參路眞人|大人《ウシ》等1監2護喪事(ヲ)1、皇子(ハ)天武天皇之第六皇子也、次第をいはゞ右の歌の上に有べし、東人は日本紀續日本紀に共に見えず、天武紀に置始|連《ムラシ》兎《シウサキ》と云人あり、今も氏の下に連の尸有けむを脱せるか、
 
初、弓削皇子薨時――。續日本紀云。文武天皇三年秋七月癸酉、淨廣貳弓削(ノ)皇子|薨《ミウセヌ》。遣(ハシテ)2淨廣肆大石(ノ)王、直廣參|路《オホチノ》眞人|大人《ウシ》等(ヲ)1監2護(セシム)喪事(ヲ)1。皇子天武天皇之第六皇子也。御母は天智天皇の御女大江皇女也。長皇子の御ためには同腹の御弟なり
 
204 安見知之吾王高光日之皇子久堅乃天宮爾神隨神等座者其乎霜文爾恐美晝波毛日之盡夜羽毛夜之盡臥居雖嘆飽不足香裳《ヤスミシシワガオホキミノタカテラスヒノワカミコハヒサカタノアメノミヤニカミノマニミトイマセハソレヲシモアヤニカシコミヒルハモヒノツキヨルハモヨノツキフシヰナケヽトアキタラヌカモ》
 
大君は弓削(ノ)皇子なり、第一卷、輕(ノ)皇子宿2于阿騎野1時人丸のよまれたる歌に注するが如し、上古より讀來れり、古事記中、景行天皇段に、美夜受比賣《ミヤズヒメ》の歌云、多迦比迦流比能(19)美古《タカヒカルヒノミコ》、夜須美斯志和賀意富岐美《ヤスミシヽワガオフキミ》、云云、是は日本武(ノ)尊を指してかくよめり、又繼體紀に春日(ノ)皇女の勾(ノ)大兄(ノ)皇子の御歌に答奉り給ふにも、皇子を指奉て野須美矢矢倭我於朋枳美能《ヤスミシヽワガオホキミノ》とよみ給へり、天(ノ)宮とは皇子の神魂天に歸り給ふ由なり、日之盡夜之盡、今按の點さきに同じ、
 
反歌一首
 
205 王者神西座者天雲之五百重之下爾隱賜奴《オホキミハカミニシマセハアマクモノイホヘノシタニカクレタマヒヌ》
 
神ニシのし〔右○〕は助語なり、五百重はおほくかさなる意、千重とも百重とも所に隨て云が如し、
 
初、おほきみは神にしませは――
第三第十九にも此歌に似たる歌あり。天子崩御をも皇子の薨したまふをも神あかりといへはかくよめり
 
又短歌一首
 
引つゞけてもかゝず、又といへるは或本に依か、
 
206 神樂波之志賀左射禮浪敷布爾常丹跡君之所念有計類《サヽナミノシカサヽレナミシクシクニツネニトキミカオホシタリケル》
 
サヾレ浪は、さゞら浪に同じ、和名云、泊※[さんずい+狛]、唐韻云、淺水貌也、白柏二音、文選、師説、【左々良奈三、】
 
(20)さゞら波を略してさゞ浪と云、今の歌、上は志賀の枕詞、下のは志賀の浦に立小浪なり、袖中抄には、しがのさゞれ浪と引れたれど、さらばしがのさゞ浪と云て、無用に長く云べからず、古歌なれば後に豐國のゆふ山雪ともよめる如く、志賀の賀を上聲に七字引つゞけて讀べし、此二句しく/\にと云ん序なり、シク/\は垂仁紀に重浪をシキナミとよめる如く重々なり、されば立かさなる浪のやまぬやうに常にとつゞくるなり、常と云に不斷の義と相續の義とあり、此は後の義なり所念は、今按今點かなはずや、無常變易の理をも知たまはで常にもおはさむ事のやうに思食けるよといへばなり、第三に此皇子吉野にて讀給ふ歌に、瀧の上のみふねの山に居る雲の、常にあらむと我思はなくに、これ能く常住ならぬ事を知し召御歌なり、さらぬともかくはよむべからず、然れば落句をオモホエタリケルと讀てしき浪の如く常にまし/\て久しく仕へ奉らむと思ひし事のはかなかりけるよと東人がみづからの心を述たるなり、袖中抄におもはざりけると有は、傳寫の誤か、沙汰に及ばず、
 
初、さゝ浪のしかさゝれ波――
さゝ浪は波のあや水のあやなといふ小浪なり。和名集云。泊〓、唐韻云淺水貌也。白拍二音。文選師説【左々良奈三。】さゝれいし、さゝれ萩といふもちいさき石、ちひさき萩なり。遊仙窟に、細々許とかきて、さゝやかとよめる、さゝ浪の心もこれにおなし。しはしははしきりになり。又日本紀に重浪とかきて、しきなみとよめは、たえす志賀のうら浪の立かさなるによせて、かくなかゝらぬ御命を、つねにおはさん事のやうにおほしつることよとなけきてよめり
 
柿本朝臣人麿妻死之後泣血哀慟作歌二首并短歌
 
此妻は上に云如く石見にて別し妻なるべし、泣血は易云、泣血漣如(タリ)、詩云、鼠思泣血、(21)韓非子云、楚人和氏云云、和乃抱2其璞1而哭2於楚山之下(ニ)1三日三夜、泣《ナムタ》盡(テ)而繼(ニ)之以v血、云云、
 
初、柿本朝臣人麿妻死之後泣血哀慟――
これはさきに石見にてわかれけるを、都に住つきて後よひのほせて輕の里におけるなるへし。泣血は、易曰。泣血漣如。詩云。鼠泣血、無言不疾【鼠思猶言痛憂也。禮記曰。高子皐之執親之喪也。血三年、未嘗見齒、君子以爲難。韓非子曰。楚人和氏、得玉璞楚山中、奉獻脂、。王使玉人相之曰、石也。王以和爲詐而※[月+立刀]其右足。及武王即位、和乃抱其璞而哭於楚山之下三日三夜、泣盡而繼之以血、云云。又經にも佛も血になきたまへること見えたり。寶篋印陀羅尼経云。爾時――○
 
207 天飛也輕路者吾妹兒之里爾思有者懃欲見騰不止行者人目乎多見眞根久往者人應知見狹根葛後毛將相等大舩之思憑而玉蜻磐垣淵之隱耳戀管在爾度日之晩去之如照月乃雲隱如奥津藻之名延之妹者黄葉乃過伊去等玉梓之使乃言者梓弓聲爾聞而《アマトフヤカルノミチハワキモコカサトニシアレハネモコロニミマクホリストヤマスユカハヒトメヲオホミマネクユカハヒトシリヌヘミサネカツラノチモアハムトオホフネノオモヒタノミテカケロフノイハカキフチノカクレノミコヒツヽアルニワタルヒノクレユクカコテルツキノクモカクルコトオキツモノナヒキシイモハモミチハノスキテイユクトタマツサノツカヒノイヘハアツサユミオトニキヽツヽ》【一云聲耳聞而】將言爲便世武爲便不知爾聲耳乎聞而有不得者吾戀千重之一隔毛遣悶流情毛有八等吾妹子之不止出見之輕市爾吾立聞者玉手次畝火乃山爾喧鳥之音母不所聞玉桙道行人毛獨谷似之不去者爲便乎無見妹之名喚而袖曾振鶴《イハムスヘセムスヘシラニオトノミヲキヽテアリエネハワカコヒノチヘノヒトヘモオモヒヤルコヽロモアレヤトワキモコシヤマスイテミシカルノイチニワカタチキケハタマタスキウネヒノヤマニナクトリノオトモキコエスタマホコノミチユクヒトモヒトリタニニテシユカネハスヘヲナミイモカナヨヒテソテソフリツル》 或本有謂之|名耳聞而有不得(22)者《ナヲノミキテアリエネハ》句
 
有八等、【官本又云、アリヤト、】 吾妹子之、【官本又云、ワキモコカ、】 音母、【官本又云、コヱモ、】
 
天飛ヤ輕ノ路とは天とぶ雁とそへたり、猶別に注す、輕は高市(ノ)郡なり、或者の云、久米村の東北にして村の東に大路今にありといへり、マネクユカバは、まなくゆかばなり、第一卷に注せる如し、サネカヅラ後モアハムトとは、※[手偏+總の旁]じて葛ははひわかるゝが行末に又はひもかへばかくはよそふるなり、後にも數多よめり、カゲロフノイハガキ淵、かげろふ、説々あり別に注す、いはとつゞくるは火なり、石の中には火ある故なり、石垣淵とはいはほの立めぐりて垣の如くなる中の山川の淵なり、隱耳は今按集中に此を今の如くも又シタニノミともコモリノミとも點ぜり、されど第十七に、大伴(ノ)池主が歌に己母理古非伊枳豆伎和多利《コモリコヒイキヅワタリ》とあれば今もコモリノミと讀べきか、此は本妻なれども官人の身にて夙夜に公に在て慎めばかやうなるにや、モミヂバノ過テイユクト第一に注せしが如し、伊は發語の詞なり、玉ヅサノ使とは、これ又集中多し、使は文をもてくるものなればかくつゞく、アヅサ弓オトニキヽツヽ、第四に梓弓爪引夜音《アヅサユミツマビクヨオト》とよみ、第一には長弭《ナガハヅ》の音《オト》とよめる如なれば、かくつゞけたり、吾戀ノチ(23)ヘノヒトヘモとは千の中に一つもと云が如し、思の胸に滿るは、雲霧の深く立重なれるやうなれば千重といへり、ワキモコシは誤なり、ワキモコガと點ぜるにしたがふべし、ヤマズ出見シとは、人丸のかよひくるやと出見るなるべし、ナク鳥とは妻の聲もせぬといはむ爲なり、うねび山に、鳥の鳴ずと云には非ず、道行人モ獨ダニ似テシユカネバとは、似たる人だにゆかば、それをだに見てはなぐさむべきを、似たる人もかよはぬとなり、容儀をほめて云には非ず、莊手云、子不v聞2夫越(ノ)之流人(ヲ)1乎、去v國數日、見2其(ノ)所1v知而喜、去v國旬月、見d所(ノ)2甞見2於國中1者u而喜、及2期年1、見2似v人者1而喜矣、不2亦去v人滋久思v人滋深1乎、神代紀下云、味耜高彦根《アチスキタカヒコネノ》神、容貌《カタチ》正(ニ)類《ニタリ》2天稚彦平生之儀《アメワカビコガイケリシトキノヨソホヒニ》1、故天稚彦親屬妻子皆謂吾君猶在、則攀2牽衣帶1且喜且慟、云云、妹ガ名ヨビテ袖ゾ振ツルとは、心まどひして生たる人の別を慕ふやうに招く意なり、さはあるまじけれどかくよむは歌の習なり、又揮涙と云ことあれば妹が名を云て泣とにや、或本ナヲノミキヽテアリエネバ、此注彷彿なれどオトノミヲキヽテ有エネバと云次に有べし、然らばおとのみをと云ふにつゞく語勢なれば、ナノミヲとよむべし、
 
初、天とふやかるのみちをは――
天飛鴈とつゝけたり。木梨軽太子の和歌にも、天とふかるをとめとよみたまへり。此集にもまた、天飛やかるのみちとつゝけたり。第十に、天とふやかりのつはさのおほひ羽のいづこもりてか霜のおくらんとよめるにおなし。五音通すれは、いそのかみふるとつゝく心にて、いそのかみふりにしさとゝもかり用ひ、栗はうこくましきものなれと、くるすのをのといふ時、くるともいはるゝたくひなり。まねくゆかはは、まなくゆかはなり。さたまれる妻なれともまなくかよふと人のおもはん事を遠慮するなり。さねかつら後もあはんとは、かつらははひわかれ又すゑにあへはなり。あはぬもあれとあふにつきていへり。かけろふのいはかきふちの。かけろふは火なり。石の中には火を具するゆへに、かけろふの石ともいはともつゝくるなり。いはかき淵は山川の岸に岩の垣のやうに立めくれる所にある淵をいへり。山のめくれるを青垣山といふかことし。又楚辭に、壁の字をかきとよめり。壁立萬仞といふことくなるをもいふへし。隱耳。此集末にかくかきて、下にのみとよみたれは、いつれにつきてもよむへし。もみち葉の過ていゆくと。第一卷に注せることく、此集におほき詞なり。錦にもまかひてみゆるを愛するに、ほとなく散過るやうなれはたとへていへり。いは發語のことはなり。梓弓をとに聞つゝ、これも此集にあまたある詞なり。つねに射るにも音あり。鳴弦をもするものなれは、いつれにもわたるへし。あつさゆみつま引夜音の遠音にもとよめるは、鳴弦するによせたりときこゆ。せんすへしらに、しらすといふへきをしらにとよめるは古語なり。此集にもともおほし。日本紀に、不知所如とも、不解所由とも、〓身無所とも、不知所圖ともかけるを、皆せんすへしらすとよめり。わかこひのちへのひとへもとは、千中無一といはんかことし。思ひの胸にみちて、雲霧のあつく立へたてたるやうなるを、ちへとはいへり。名草山ことにし有けりわかこひのちへのひとへもなくさまなくになとあまたよめり。おもひやる心もあれやとは、おもひをはらしやる心もあるやとてなり。わきもこかやます出見しは、我かよひくるやと待とて、立出て見しなり。うねひの山になく鳥のこえもきこえすとは、うねひ山に鳥のなかすといふにはあらす。聲あるものをかりて、聲をたにきかぬ別をなげくなり。玉ほこの道ゆき人もひとりたに似てしゆかねはとは、おもかけの似たる人をみてたになくさむへきに、似たる人さへゆかぬ、市はよもより人のあつまる所なれは、はしめより似たる人たにあらは見てなくさまん、似たる聲たにきかんと立ましるなり。第三にも、河風の寒きはつせをなけきつゝ君かあるくににる人もあへやとよめり。日本紀第二云。此神【味耜高彦根也】○袖そふりつるとはさはあるましけれと、かなしひをきはめていはんとなるへし。注或本――。をとをのみ聞て有えねは。名をのみきゝて有えねはとある本の有けるを、注せるなるへし。人まろの長歌の體かれこれをあはせてみるにさもあるへし
 
短歌二首
 
(24)208 秋山之黄葉乎茂迷流妹乎將求山道不知母《アキヤマノモミチヲシケミマトヒヌルイモヲモトメムヤマチシラスモ》【一云路不知而】
 
此は次の長歌によるに羽易山に葬たるを黄葉をめでゝ見に入たるが、道まどひして歸らぬさまに云なせり、第七に、秋山に黄葉あはれとうらぶれて、入にし妹はまてどきまさぬ、これ能似たる歌なり、之に依に妻の死去九月下旬なりけるにや、
 
初、秋山のもみちをしけみまとひぬるいもをもとめん山ちしらすも
第七に、秋山のもみちあはれとうらふれて入にし妹はまてときまさす。似たる歌なり。ともにもみちをめてゝ山にいりて道まとひして歸らぬやうにいひなせり
 
209 黄葉之落去奈倍爾玉梓之使乎見者相日所念《モミチハノチリユクナヘニタマツサノツカヒヲミレハアヒシヒオモホユ》
 
黄葉ノ落は、長歌の落て過ぬといへる所を重て云なり、かく告來る使を見るにつけて、相見し日の事を思出て悲しき心なり、
 
初、もみち葉のちりゆくなへに
死せるをもみちの散といへり。おりふしもかなへり。玉つさの使とは、妻の親屬のもとより死を告るに文あれはなり。又いけりし時、文なともてきけん使なるへし。そのつかひをみるにつけてもいつの月いつの日あひけるものをと、おもひ出られてかなしきなり
 
210 打蝉等念之時爾《ウツセミトオモヒシトキニ》【一云宇都曾臣等念之】取持而吾二人見之※[走+多]出之堤爾立有槻木之己知碁智乃枝之春葉之茂之知久念有之妹者雖有憑有之兒等爾者雖有世間乎背之不得者蜻火之燎流荒野爾白妙之天領巾隱鳥自物朝立伊麻之弖入日成隱去(25)之鹿齒吾妹子之形見爾置若兒乃乞泣毎取與物之無者鳥穗自物腋狹持吾妹子與二人吾宿之枕付嬬屋之内爾晝羽裳浦不樂晩之夜者裳氣衝明之嘆友世武爲便不知爾戀友相因乎無見大鳥羽易乃山爾吾戀流妹者伊座等人之云者石根左久見手名積來之吉雲曾無寸打蝉跡念之妹之珠蜻髣髴谷裳不見思者《トリモチテワカフタリミシワシリテノツヽツミニタテルツキノキノコチコチノエノハルノハノシケキカコトクオモヘリシイモニハアレトタノメリシコラニハアレトヨノナカヲソムキシエネハカケロフノモユルアラノニシロタヘノアマヒレコモリトリシモノアサダチイマシテイリヒナスカクレニシカハワキモコカカタミニオケルミトリコノコヒナクコトニトリアタフモノシナケレハトリホシモワキハサミモチワキモコトフタリワカネシマクラツクツマヤノウチニヒルハモウラフレクラシヨルハモイキツキアカシナケヽトモセムスヘシラニコフレトモアフヨシヲナミオホトリノハカヘノヤマニワカコフルイモハイマストヒトノイヘハイハネサクミテナツミコシヨケクモソナキウツセミトオモヒシイモカカケロフノホノカニタニモミエヌオモヒハ》
 
※[走+多]出之、【別校本云、ハシリイテノ、】 形見爾置、【官本、置下、有v有校本與v今同、】 羽易、【官本又点云、ハカヒ、】 伊座等、【校本云、イマスト、】
 
※[走+多]出ノ堤とは、常にもはしり出てなど申は、かりそめに立出てと云心なれば、これもまちかく有池の塘をいへるにや、第十三にかみなびの清きみたやの、かきつたの池の塘の、百たらぬみそのつきえとよめるつゞきこゝに似たり、郡も同じく高市なれば若これなどにや、堤に木を植るは令義解第六、營繕式云、凡堤(ノ)内外並堤上多殖2楡柳雜樹1充2堤堰用(ニ)1、【謂堰所2以畜v水而流1者也、】こち/\ノ枝とは、あちこちの枝也、古事記に、雄略天皇の(26)御歌にも、草香部《クサカベ》のこちの山と、疊薦《タヽミコモ》平群《ヘグリ》の山の、許知碁知《コチゴチ》の山のかひに、云云、春ノ葉ノシゲキガ如クオモヘリシとは、青葉の日を逐て盛なる如く、いよ/\思ひまさる譬なり、世ノ中ヲ脊《ソムキ》シエネバとは無常は有爲の世のことわりなるを免れねば背得ぬといへり、カゲロフノモユルアラ野とは、遊絲を菅家萬葉にもかげろふに用たまへり、野馬、陽炎、皆同物なり、日本紀にも和名にも曠野をアラノラと讀たれば、陽炎は遠き所に見ゆる物なればかく續くるにや、下の或本の歌によるに火葬したりと見ゆればかく云るか、野にて火葬して追骨を羽易《ハカヘ》の山には納たるか、白妙ノ天ヒレコモリとは、第十に、秋風の吹たゞよはす白雲は、たなばたつめの天つひれかもとよめるによれば、白雪がくれといへるかとおぼしければ、天ヒレガクレと點ずべきか、若兒乃は今按字のまゝにワカコノともよむべし、烏ジ物以下四句は、朝鳥のたつごとく忽に入日の如く隱れさるなり、鳥ホシ物は此句心得がたし、下のワキバサミモチとつゞくるは、若兒《ワカコ》をわきばさむを、若彈丸を腋挾に譬て云か、彈丸は鳥の欲《ホシ》さに操は愚推なり、又或本歌には、男自物脅挿持と云ひ、第三に高橋氏が歌にもヲノコジモノ負見抱見《オヒミイタキミ》とよめり、かゝれば若鳥は烏の字を誤れるにてヲホシモノにや、をとほは同韻にて通ずれば、おほしは、第一卷のうねびををしのをゝしにて、をのこじもの(27)と云意なり、高橋氏が歌の雄自毛能《ヲノコジモノ》もヲヽシモノともよむべし、潘岳寡婦賦云、鞠2稚子於懷抱1兮、嗟低徊而不v忍、狹は挾に作るべし、枕付ツマヤとは、枕に就て諸共に臥妻とつゞく、妻屋は第十九に家持の鷹の歌にも枕付妻屋《マクラツクツマヤ》の内《ウチ》にとくらゆひとあれば、妻を置屋と云にはあらで、心安く馴て住處をも云なるべし、浦不樂《ウラフレ》クラシは今按ウラフレの點は叶はず、第三に鴨(ノ)君足人が歌に不樂をサビシとよみたれば、今もウラサビクラシと讀べし、大鳥羽易乃山《オホトリノハガヘノヤマ》、大鳥は和名云、本草云、鸛、【音館、和名於保止利、】水鳥、似v鵠而巣v樹者也、羽易ノ山は第十に春日なる羽買《ハカヒ》の山とあれば、ハカヒと點ぜるに依べきか、易はカヒとも讀べし、買はカヘとは讀がたければなり、妹者伊座等《イモハイマセト》、今按イマストと云によるべし、石根左久見乎《イハネサクミヲ》、今按此乎の字は手を誤れり、イハネサクミテと讀べし、其證は此次の歌第六第二十にもさくみてとよめり、又延喜式第八、祝詞中云、自v陸徃道者荷緒結堅?磐根木根|履《フミ》佐久彌?云云、さくみては常の詞に物のくぼみて斜なるをさくむと云へば、石根を踏くぼむるを云か、又心くゝ思ほゆるかもとも茅生に足ふみ心くみともよめるは心苦しみなり、さは添たる字にて、石根に苦みてといへるか、按ずるに後の義なるべきは、第四第廿に浪の間をいゆきさくゝみとよめるも同じ詞と聞ゆればなり、波は踏くぼむと云べきことわりなけれなり、ナヅミコシ、(28)此下句絶なり、或はナヅミコシモと意得べきか、ヨケクモゾナキは能もぞなきにて、何のよい事もなしとなり、珠蜻《カケワフ》ノホノカニとつゞくるは、かげろふはえむばにて、彼が飛は、物の影ろふやうなればかくはつゞけたり、珠の字を加へ、玉の字をもそへたるは推するに彼が頭の青く透て珠の如くなればなるべし、ミエヌオモヒは今按此點叶はず、見エヌ思ヘバと改むべし、
 
初、うつせみとおもひし時に
此下の注に、うつそみといへるもおなし事なり。せみそみ音かよへり。臣の字をみとよめるは、おみといふを上略せるなり。うつせみとは此世の人なりし時なり。とりもちては下にある槻の枝なり。槻は俗にいふけやきとかや。わしり出の堤は、まちかき所のつねに立出てみるをいへり。堤に木竹なとうふるは、令義解第六、營繕式云。凡堤内外并堤上、多殖楡柳雜樹、充堤堰用【謂堰所以畜水而不流者也。】こち/\の枝は、をちこちにて、かなたこなたの枝なり。春の葉のしけきかことくとは、葉の數のかきりなきによせて、かす/\におもふをいへり。又わかはのうるはしきによせて、あかぬ心にもあるへし。よのなかをそむきしえねとは、つねならぬ世の習をそむきて、ひとり神記のよはひをたもつことあたはぬをいへり。第三に、坂上郎女か新羅の尼理願か死たるをいためる歌にも、いける人しぬといふ事にまぬかれぬものにしあれはといへるおなしことなり。さきにうつせみし神にたへねはともありき。かけろふのもゆるあら野は、陽光はとをくみゆるものなり。あら野は曠野とかきて、はる/\むなしき野なり。ひろくはてなき野といはんとて、かけろふのもゆるとはいへり。又下に或本の歌とて載たるに、うつそみとおもひし妹かはひしてませはとあれは、火葬のもゆるをもいへる歟。天領巾隱、あまひれかくれともよむへし。白雲かくれといふことなり。第十に秋風の吹たゝよはす白雪はたなはたつめのあまつひれかもとよめり。鳥し物、鳥のとふことく此世をさりて、入日のことくにかくるゝなり。鳥し物朝たちいましてといひて、いりひなすかくれにしかはといふつゝき、詩なとのやうにきひしくこそいはね、いりひを朝鳥に對して、隔句對に似たり。鳥穗自物腋扶持。この鳥といふ字は、烏の字なるへし。ほとをとかよへは、をゝし物にて、をのこし物といふなるへし。そのゆへは下の或本歌に、男自物わきはさみもちとよめり。母こそ子をいたくものなれと、母のなくて子のなけはにつかぬをのこのいたくとなり。第三にも、わきはさむ兒のなくをも、をのこしものおひみいたきみとあり。詩蓼莪云。父兮生我、母兮鞠我。○出入腹我。潘安仁寡婦賦曰。鞠稚子於懷抱兮嗟低徊而不忍。又云。提孤孩於坐側。もし鳥穗自物を、字のまゝによみてしゐて尺せは、鳥欲物といふ心にて、蝉丸雀竿なとなるへし。鳥をほしとおもふ心にてこれをもてねらひよるを、子をわきはさむといはんために取出ていへるなり。潘岳か傳に、岳美姿儀辭藻絶麗、少時常挾弾出洛陽道、婦人遇之者、皆連手〓繞、投之以果、滿車而歸。これにも弾を挾てとあれは、そのよしなきにあらねと、さいとりなとを鳥ほし物といはんもいかにそやあるうへに、或本の歌、并第三の高橋朝臣か歌をもて證するに、をゝし物といふなるへし。をゝしは第一卷に注することく日本紀に雄拔雄壯なとかきてよめり。浦不樂晩之、これをはうらさひくらしとよむへし。不樂とかきて此集にさひしとよめり。うらふれとあるはあやまれり。大鳥の羽かへの山に。第十に、春日なる羽買の山とよめるひとつなり。鳥の翅をはかへともはかひともいふにおなし。妹はいませと、いますとゝよむへし。いませはあやまりなり。上に羽かへの山にこそなといはねは、いませのてにをはたかふゆへなり。石根左久見乎、この乎の字は手の字のあやまれるを、字のまゝにをとかなを付たるなり。或本歌に、石根割見而とあるをよしとす。延喜式第八祝詞の中に、自陸徃道者、荷緒結堅※[氏/一]磐根木根履佐久彌※[氏/一]といへり。此集第二十に、あともひてこきゆくきみは、浪のまをいゆきさくゝみとよめるも、おなし心歟。俗に人の顔なとの斜なるを、さくむといへは、岩根の斜なるをふみこゆるをふみさくみてとはいへるにや。第二十の歌は、それもかなはねは、さくみてといふもなつむ心か。なつみこしといひて、今の世は句絶とならねとも、昔の歌はかゝる事おほけれと、こゝを句とすへきか。そのゆへ、よけくもそなき、上につゝきかたけれはなり。これまた一句にてきれて結句のほのかにたにも見えぬおもへはといふまて、此句のゆへを尺するなり。なつみきてもよきこともなしとは、骨折たるかひなしとなり。うつせみはさきにわすれていはさりき。蝉鬢によせてかほよきをほむる心も有へし
 
短歌二首
 
211 去年見而之秋乃月夜者雖照相見之妹者彌年放《コソミテシアキノツキヨハテラセトモアヒミシイモハイヤトシサカル》
 
此歌拾遺の詞書に妻に罷おくれて又の年の秋月を見侍りてとあり、今の端作に妻死之時と云はずして後とある上に歌の心も然るべし、
 
初、こそみてし秋の――
此反歌によりてみれは、後の歌ならひに此短歌二首は、一周忌によまれたるを、類聚して一所にをけるなるへし
 
212 衾道乎引手乃山爾妹乎置而山徑往者生跡毛無《フスマチヲヒキテノヤマニイモヲオキテヤマチヲユケハイケリトモナシ》
 
衾道《フスマヂ》ヲは衾道ノと云べきを古語にを〔右○〕との〔右○〕と通していへり、第十三にみはかしの劔の池といふべきを、みはかしをといへるに同じ、衾は山邊郡にある所の名にや、延喜式諸陵云、衾田墓、【手白香皇女、在大和國山邊郡令d2山邊(ノ)道(ノ)勾(ノ)上陵戸1兼守u、】此衾田といへる所の道なるべし、引手《ヒキテ》ノ(29)山は長歌に羽易の山といへる別名にや、落句は集中に多き詞なり、いける心ちもせぬなり、今按第十九に伊家流等毛奈之《イケルトモナシ》と書たれば彼に准じて皆イケルトモナシと點ずべきか、
 
初、衾道を引手の山に――
ふすまちとはふすまは所の名にてそこに往還する道あるを、ふすまちといふなるへし。」延喜式第二十一諸陵式云。衾田墓【手白香皇女、在大和國山邊郡、兆域東西二町南北二町、無守戸、令山邊道勾上陵戸兼守】衾田とありて、注の中に山邊道といへれは、うたかふらくは衾路といふはこゝなるへし。引手の山は、長歌に羽易の山とあり。春日に羽易の山ありて、引手の山はまた羽易の山の中の別所の名なるへし。春日は添上郡、衾路は山邊郡なれと、山邊添上は、となりてちかけれは、高市郡より、衾路をへて、引手の山には行なるへし。石上は、山邊郡なるを、古今集に、ならのいそのかみ寺とかけるにて心得へし。衾路をといへる、をの字心得かたきやうなれと、古歌のならひとかろくみるへし。此集に此類おほし。みはかしを《・第十三》つるきの池とつゝけたるも、みはかしの剱の池といふ心なれは、今も衾路のといふへきを、ふすまちをといへり。同韻にて通せるにもあるへし。下の或本は、衾路とのみあれは、ふすまちのともよむへし。いけりともなしは、我さへいけるこゝちせぬなり
 
或本歌曰
 
213 宇都曾臣等念之時携手吾二見之出立百兄槻木虚知期知爾枝刺有如春葉茂如念有之妹庭雖在恃有之妹庭雖有世中背不得者香切火之燎流荒野爾白栲天領巾隱鳥自物朝立伊行而入日成隱西加婆吾妹子之形見爾置有緑兒之乞哭別取委物之無者男自物脅持吾妹子與二吾宿之枕附嬬屋内爾且者浦不怜晩之夜者息衝明之雖嘆爲便不知雖戀相緑無大鳥羽易山爾汝戀妹座等人云者石根割見而奈(30)積來之好雲叙無宇都曾臣念之妹我灰而座者《ウツソミトオモヒシトキニタツサヘテワカガフタリミシイテタテルモヽエツキノキカチコチニエタセルコトハルノハノシケレルカコトオモヘリシイモニハアレトタノメリシイモニハアレトヨノナカノソムキシエネハカケロフノモユルアラノニシロタヘノアマヒレコモリトリシモノアサタチイユキテイリヒナスカクレニシカハワキモコカカタミニオケルミトリコノコヒナクコトニトリマカスモノシナケレハヲノコシモワキハサミモチワキモコトフタリワカネシマクラツクツマヤノウチニヒルハウラフレクラシヨルハイキツキアカシナケヽトモセムスヘシラスコフレトモアフヨシモナミオホトリノハカヘノヤマニナカコフルイモハイマストヒトノイヘハイハネサクミテナツミコシヨケクモソナキウツソミトオモヒシイモカハヒシテマセハ
 
座者、【幽齋本云、イマセハ、】
 
出立はイデタチノと讀べし、前のわしりでに同じ、モヽエツキノ木は百枝の槻なり、只枝の繁き心なり、古事記下云、又天皇坐2長谷之百枝槻下1、爲2豐樂1之時云云、虚の字の點カ〔右○〕誤れりコに改むべし、取委物之無者《トリマカスモノシナケレバ》とは、啼をすかしこしらへて止べき玩の具もなければなり、マカスは緑兒に持せて彼が心に任するなり、今按トリユダヌルともよむべし、男自物《ヲノコシモノ》は今按第十一にもをのこじものやこひつゝをらむとよみ、上に引ける高橋氏が歌もあれば、彼等に准じてヲノココジモノと讀べし、浦不怜《ウラフレ》は下にもサビシとよめれば、上に云如くウラサビと讀べし、此怜の字は俗に燐にかよはし用たり、怜は玉篇に魯丁切、心了也と注して、燐は力田切、矜之《アハレブ》也と注して音も義も別なるを今俗に從がへり、灰シテマセバは火葬して灰となりていませばなり、此落句によれば文武天皇四年以後此妻は死せり、其故は文武紀云、四年三月己未、道昭和尚物化云云、弟子等奉v遺火2葬於栗原1、天下(ノ)火葬從v此而始也、歌の意さきの如し、
 
初、うつそみと――。出立、これをはいてたちのとよむへし。さきの歌に、わしり出といへる心なり。百兄槻の木はもゝは万葉といふことく、數おほきをいふ。えは枝なり。神代紀下云。井(ノ)上《ホトリニ》、有(リ)2百枝杜樹《モヽエノカツラノキ》1。虚知期知爾、かちこちにとあるは、かんなのあやまりなり。さきの歌のことく、こち/\なり。浦不怜、うらさひなり。うらふれは、あやまれり。相縁無、あふよしをなみとよむへし。はひしてませは、灰となりていませはなり。文武紀云。【續日本紀第一】四年三月己未、道昭和尚物化(ス)。弟子等奉(テ)v遺(ヲ)火2葬(ス)於栗原(ニ)1。天下(ノ)火葬従(シテ)v此(レ)而始(マレリ)也。かゝれは、此妻の身まかりたるは、四年以後なるへし
 
短歌三首
 
(31)214 去年見而之秋月夜雖度相見之妹者益年離《イコソミテシアキノツキヨハワタレトモアヒミシイモハヤトシサカル》215 衾路引出山妹置山路念邇生刀毛無《フスマチヲヒキテノヤマニイモヲオキテヤマチオモフニイケリトモナシ》
 
落句、上に云が如し、
 
初、こそみてし秋の月夜はわたれともあいみしいもはいやとしさかる
こそもろともにあひ見たりし月は、ことしの秋もさやけきを、此世たに、さはる事有て、まれにあひみし妹か、秋のことく歸りこぬ、なかき別路におもむきぬれは、いやましに、年をゝひてへたゝりて、又もやとあふ事のたのまれぬを、かなしふなり。わかれは今なれとも、かならすいやとをさかるならひなれは、後をかねていやとしさかるとはいへり。古今集の、みつねか冬の長うたに、ちはやふる、神な月とや、けさよりはといひて、はてに、冬くさの、うへにふりしく、白雪の、つもり/\てなとよめるたくひなり(自筆斷片、コノ一項ハ家にき云々ノ一項ノ次ニアリ)
 
216 家來而吾屋乎見者玉床之外向來妹木枕《イヘニキテワカヤヲミレハタマユカノホカニムキケルイモカコマクラ》
 
拾遺に家にいきて玉ざゝの外におきたるとあるは、又家集より出たり、※[手偏+總の旁]じて右の歌ども悼亡詩三首を引合てかなしびを思ひやるべし、潘岳悼亡詩云、展轍眄2枕席1、長※[竹/覃]|竟《ワタテ》v牀(ニ)空(シ)、
 
初、家にきてわか屋をみれは玉床のほかにむきけるいもか木まくら
潘安仁(カ)悼亡(ノ)詩第二(ニ)云。展轉(シテ)眄《ミル》2枕席(ヲ)1、長※[竹/覃]|竟《ワタレリ》2牀(ノ)空(シキニ)1。後の作なれと白氏(カ)長恨歌(ニ)云。鴛鴦瓦冷(シテ)霜華重(シ)。舊(キ)枕古(キ)衾誰(ト)與(ニカ)共(ニセン)。潘安仁か悼亡詩三篇は、これらの歌に心わたれる所おほし
 
吉備津采女死時柿本朝臣人麿作歌一首并短歌
 
下の二首短歌に依に津は釆女が名なれば吉備氏なり、吉備ノ津ノ釆女と讀べし、拾遺に初の短歌を載らるゝに吉備津の釆女なくなりて後よみ侍けるとあるは三字を合て氏とせられたるか名とせられたるか知がたし、
 
217 秋山下部留妹奈用竹乃騰遠依子等者何方爾念居可栲紲(32)之長命乎露己曾婆朝爾置而夕者消等言霧已曾婆夕立而明者失等言梓弓音聞吾母髣髴見之事悔敷乎布栲乃手枕纏而劔刀身二副寐價牟若草其嬬子者不怜彌可念而寐良武時不在過去子等我朝露乃如也夕霧乃如也《アキヤマノシタヘルイモナユタケノトヲヨルコラハイカサマニオモヒヲリテカタクナハノナカキイノチヲツユコソハアシタニオキテユフヘニハキエヌイヘキリコソハユフヘニタチテアシタニハウセヌトイヘアツサユミオトキクワレモホノニミシコトクヤシキヲシキタヘノタマクラマキテツルキタチミニソヘネケムワカクサノソノツマノコハサヒシミカオモヒテヌラムトキナラススキニシコラカアサツユノコトヤユフキリノコトヤ》
 
奈用竹乃、【官本亦云、ナヨタケノ、】 念而寐良武、【別校本、此下有2悔彌可念戀良武之二句七字1、】 過去、【幽齋本云、スキヌル、】
 
秋山ノ下ベル妹は、第十三に、春山のしなびさかえて秋山の、色な付《ツカ》しきとよめるを以て思ふに、たとなと同韻にて通ずればしたべるはしなべるなるべし、秋山と云は此にては紅葉なり、第十二、のと川の水底さへにてるまでに、みかさの山は咲にけるかもとよめるは花のことなるに准じて知べし、もみぢの色うるはしげにて枝しなやかなるに譬るなり、奈用竹《ナユタケ》はナヨタケと點ぜるに從ふべし、俗に女竹と云なるは他の竹を男竹と云て、それに方ればなよゝかなる故なり、又、しのめと云云、和名云、兼名苑注云、長間笋、【今案和名、之乃女、】笋青(ノ)最晩生、味(ハヒ)大苦(シ)也古今に、なよ竹のよながき上にとよ(33)める此意なり、又笋の味苦き故に苦《ニカ》竹ともいへり、トヲヨルコラとは、舊事紀に折竹之登遠々邇《サキタケノトヲヽニ》と云ふ如く、なよ竹の攀ればたわみ易きやうにたをやかなる意なり、タクナハは白き繩なり、神代紀下云、即以2千尋栲繩1結《ユヒテ》爲2百八十紐1《モヽムスヒアマリヤソムスヒセシ》、篁の朝臣海人の繩たきとよまれたるにて疑殘るべけれど、それはたぐる意にて別義なり、いかさまに思ひをりてか采女が日比の心の中はかりがたき故なり、下に時ならず過にしと云ひ、短歌を思合すれば思故ありて川に行て身を投ぐと見えたり、露コソハ以下の八句、譬の上を委いひて釆女が俄に死たるはかなさを籠るなり、今按|何方爾念居可《イカサマニオモヒヲリテカ》の二句は矢等吉《ウセヌトイヘ》の下に二句四句ばかりにて結合して梓弓等とは云べし、然れば收拾の句の脱したるにや、ホノニ見シ事侮シキヲとは、打きくには見ぬ人にはかゝる事を聞ても悲すくなき習なれば、兒たる事ありしを悔ゆるやうに聞ゆれど、第二の短歌に合せて見れば能見おかざりしが悔しき意なり、念而寐良武《オモヒテヌラム》の下に別の校本に悔彌可念《クヤシミカオモヒ》コフラムと云二句あり、上の語勢を以て案ずるにサビシミカ念テヌラムとのみ、にては夫君が心を想像たるほど略にて情すくなきやうなれば、諸本に此二句脱たるか、後人能味はふべし、時ナラヌは今按時ナラズとよむべし、誤れるか、過去は本點幽齋本の點の外にスギユクとも心に任て讀べし、朝露夕霧は誠にその如しと(34)上を承て括《クヽ》れり、
 
初、秋山のしたへる妹。したへるはしなへるなり。たとなとは五音相通なり。第三に、まきの葉のしなふせの山とよみ、第十に秋山のしたひか下に啼鳥とよみ第十三に春山のしなひさかへてとよめり。秋山に、しなひてたてる木の、うるはしくもみちしたるに、たをやかなるさまをたとへていふなるへし。もろこしにも、此國にも、いにしへには、後のことく、詞をくはしくいひて、心をのみいへる事にほし。なよ竹のとをよるこらとは、なよ竹は、名のことくなよゝかなれは、今の俗、をむな竹とも申めりり。和名集云。長間笋(ハ)兼名苑注云。長間笋【今案和名之乃女】笋青最晩生、味大苦也。俗ニカタケナヨタケシノメヲナコ竹。なよたけをないたけといひしのめをしのひ竹しのへ竹なといへり。とをよるは、此集に味村のとをよる海とよめるは、遠さかる事と聞ゆ。こゝはたはむれは、とほくよりくるを、しなやかなるにたとへていへり。上の妹、下のこら.吉備津釆女ひとりの事を、詞をかへて、隔句對の體にいへり。いかさまにおもひをりてかたくなはのなかきいのちを、たくなはゝたぐるなはなり。あまのなはたきともよめり。たくる心なれとも、くの字はにこるへからす。此釆女は、おもふ事の有て、身なとなけて死けるにや。さはなくとも、みつわくむまてなからふる人もあるを、さかりなる比、おもひかけすしにたれは、かくはよまるゝ歟
 
短歌二首
 
218 樂浪之《サヽナミノ》志我津子等何【一云志我津之子我】罷道之川瀬道見者不怜毛《ユクミチノカハセノミチヲミレハサヒシモ》
 
罷道之、【官本更點云、マカリリノ、】
 
釆女が名の津ノ子をいはむとてサヾ浪ノシガとは云出せり、川瀬ノ道は身を投げむとて行しを云なるべし、拾遺にはさゞ浪や志賀のてこらがまかりにし、かはせの道を見ればかなしもと改らる、第二の句の改やう其意を得ず、不怜毛をかなしもと改られたるはことわり一六なれど會通のやう侍るべし、先一六なりと云は※[立心偏+可]怜をあはれともかなしともおもしろしともよめるは共に面白きなり、此中のかなしは悲痛の意にあらず、然れば不怜をサビシとよめるはかなしからぬ意なれば表裏なり、會通せばサビシには悲哀の心あれば時にかなへて悲しと改むるなるべし、
 
初、さゝ浪のしかつのこらか――。津の子といはんために、さゝ浪のしかとはいへり。これにつきて不審あり。次下の、歌にも、おほしつのことよめり。長歌に、わか草のそのつまのこといへるは、凡直氏なとにて、名を津の子といひけるか。又吉備津釆女か氏凡直にて、名を吉備津といひけれは、上の吉備を畧して、津子といへるか。歌はいつれにつきてもきこゆへし。上の歌に、いかさまにおもひをりてかといひ、時ならす、過にしこらといふにあはすれは、川瀬の道といふは、身をなけけんやうにきこゆるなり。さひしもは、つねに蕭條蕭索寂寞寂寥なといふにおなしくさひしきといふよりはおもく聞へし。※[立心偏+可]怜とかきて、おもしろしとよむを、今は不怜とかけるにて心得へし。又不樂ともかけれは、おもきことうたかひなし
 
219 天數凡津子之相日於保爾見敷者今叙悔《アマカソフオフシツノコカアヒシヒヲオホニミシカハイマソクヤシキ》
 
(35)此一二の句のくさりやうを案ずるに物の數をよむにひとつふたつと云よりよろづに至るまで凡いくつと云此つ〔右○〕は助語のみなる事あり、又義ある事も有べし、日本紀に五百箇御統《イホツミスマル》、五百箇野薦《イホツノスヽ》など云時筒をつ〔右○〕とよめり、箇は枚なりと注してかずなればつ〔右○〕と云に數の心あり、日本紀に十ちあまり百ちあまり千ちあまりと云ひ、又二十をはたちと云、これらのち〔右○〕も五音通じてつ〔右○〕に同じ、又津と止と音通じ義も通ぜり、然れば一つ〔右○〕は一の處、二つ〔右○〕は二の處なり、かくの如く千万に至るまで皆天然の數にていくつ〔右○〕といへば津〔右○〕と云名にそへむとてあまかぞふとは云出せるか、オフシはおよその心なり、今按の如くならばアメノカズオヨソとよむべきにや、アヒシ日ヲとは彼も官女我も官人にて相見し時なり、日をは日にと云心なり、オホニ見シカバとは、おほはおほよそなり、かく早くなき人とならむとしらでおほよそに見たりしがくやしきとなり、
 
初、天かそふ、これはおほしといはむためなり。おほしはおほよそなり。日月の行度、星辰の舍次なとをかそふることは、おほよそなることなれは、かくつゝくるなり。あひし日とは、夫にあひそめし日なり。おほは此集に、疎の字、凡の字なとをかけり。これはさきの長歌に、梓弓をときくわれもほのに見しことくやしきをといへる心なり。見すしらぬ人ならは死すと聞とも、心のいたましからじをとくゆるなり。もし凡直津子といふ夫ならは、初の歌はうねめ死して後、うねめかもとへかよひし道を、宮つかへなとに心にもそますなから、うなたれて行かよふをみるかかなしきなり。後の歌は、津子か、うねめにあひしを、したしからねと、みし事なれは、かれかかなしさ、いかならんとおもひやるにも、いたましけれは、みずしらであらまし物をと、くやしきなり。ふたつのあひた、後の人さたむへし
 
讃岐狹岑島視石中死人柿本朝臣人磨作歌一首并短歌
 
狹岑島は那珂郡にあり、所の者さみじまと云、反歌にも佐美乃山とよまれたれば(36)サネとはよむまじきなり、石中とは石をかまへて葬るには非ず、石の中に交るなり、
 
初、讃岐狹岑。下の短歌には、佐美の山とよめれは、狭岑をさみとよむ歟。又ねとのと五音通すれは、さみね山をさみの山とよめる歟。又さみねの嶋ともいひ、さみの山ともいふ歟
 
220 玉藻吉讃岐國者國柄加雖見不飽神柄加幾許貴寸天地日月與共滿將行神乃御面跡次來中乃水門從舩浮而吾榜來者時風雲居爾吹爾奥見者跡位浪立邊見者白浪散動鯨魚取海乎恐行舩乃梶引折而彼此之島者雖多名細之狹岑之島乃荒礒面爾廬作而見者浪音乃茂濱邊乎敷妙乃枕爾爲而荒床自伏君之家知者往而毛將告妻知者來毛問益乎玉桙之道太爾不知欝悒久待加戀良武愛伎妻等者《タマモヨキサヌキノクニハクニカラカミレトモアカスカミカラカコヽハカシコキアメツチノヒツキトトモニミチユカムカミノミオモトツキテクルナカノミナトユフネウケテワカコキギクレハトキツカセクモヰニフクニオキミレハアトヰナミタチヘヲミレハシラナミトヨニイサナトリウミヲカシコミユクフネノカチヒキオリテヲチコチノシマハオホカレトナクハシサミネノシマノアライソモニイホリツクリテミレハナミノトノシケキハマヘヲシキタヘノマクラニナシテアラトコトコロフスキミカイヘシラハユキテモツケムツマシラハキテモトハマシヲタマホコノミチタニシラスオホヽシクマチカコフラムヲシキツマラハ》
 
幾許貴寸、【別校本更點云、ココタカシコキ、】 枕爾爲而、【官本亦云、マクラニシツヽ、】 荒床、【官本亦云、アラトコニ、】
 
玉モヨキは讃岐の枕詞なり、其所の名物をもてほめて云出す事|青丹吉《アヲニヨシ》なら、眞菅吉《マサカヨシ》(37)宗我《ソガ》などの如し、今按奈良の枕詞に例して玉モヨシと讀べきか、玉もよきといへば用となり、玉もよしといへば体となる事住よきと云意をすみよしといへば所の名となるが如し、延喜式云、讃岐(ノ)國中男作物云云、海藻といへり、三教指歸に然(トモ)頃日《コノコロ》間刹那幻(ノ如ニ)住(ス)2於南閻浮提陽谷輪王所化之下1玉藻所v歸之島橡樟蔽(フ)v日之浦(ニ)とある、覺明注に今の歌を引り、國ガラカとはひとゝなりのよきを人がらのよきと云が如し、神ガラカとは神もまた國なり、舊事本紀云、次生2伊豫二名嶋1、謂(ク)此島(ハ)身一而有2面四(ツ)1毎v面有v名、伊豫國云云、讃岐國謂2飯依比古1、【西北角、】阿波國云云、土左國云云、國がら神がらと云は神は本体、國は体の上の相なるべし、人の體性かはらねども好醜の相異なるが如く、國にもよきとあしきとあり、コヽバはこゝばくなり、そこばくの心數多の心なり、貴寸は今按タフトキともよむべし、カシコキも同じ意なり、以上四句の心は飯依彦《イヒヨリヒコ》の神靈がらや此國はたふとくおぼゆる、又飯依彦のあらはし給へる國がらのよさにや見れどもあかぬとなるべし、日月トトモニ滿ユカム神ノ御面トとは、滿ゆかむは初闕たるが漸々滿むの心にはあらず、神の面と云も上に引る舊事紀に云が如く國の事なれば、天地と久しく此國も有て神の面も日月の失る時なきと共にいつまでも圓滿ならむの意なり、次テ來ルとは斷ずつゞきて來る意にて、中とつゞけん爲にや、(38)那珂と云はもと中の假名なり、此より國郡等の名三四字なるをば裁き、一字なるをば足して定て二字とはなれり、中は上下前後等に對せざればなきことなり、讃岐に賀美《カミ》資母《シモ》はなけれど那珂は對する事ある名なるべし、時ツ風、時に隨て吹風なり、下に時つ風とよめる歌どもいかさまにも春にまれ秋にまれ微風《コカセ》を云事とは見えず、意を著べし、跡位浪タチとはいかなるを申にか、第十三に立浪母踈不立跡座浪之《タツナミモホニタヽストタカナミノ》、立塞道麻《タチケルミチヲ》云云、今按夜此点を改てタツナミモオホニハタヽズ、アトヰナミノタチフサグミチヲとよむべきかと存ず、其に付て座の字位の字は共にクラとよめば、若あとゐ浪と云事なくばアトクラナミと云べきか、跡より闇がりて浪の立かさなるなり、第十五に、おきつしはさゐ高く立來ぬとよめり、若さゐのさは添たる詞にて、さゐと云は浪俄に恐しく高く立來る名ならば、此跡位浪のゐもそれなるべきか、和名云、説文云、※[舟+鑁の旁]、【子紅反、俗云、爲流、】船著(テ)v沙不v行也、此は今の諺にすわると云なり、共に居の字の意なり、舟うけすゑてともいへば沙に黏《ツク》のみならず、浪にあひても動かしやられぬをも申べきか、然れば此※[舟+鑁の旁]の字の意に名付たるか、意得がたきまゝに思ひよる事を記し置て事長けれど驚し置くに侍り、梶引折《カチヒキヲリ》とは梶といへども櫓の事なり、八十梶懸《ヤソカチカケ》など集中多分櫓をいへり、梶取間なくなど云のみぞ※[楫+戈]にては侍る、歌によりて意得べし、梶(39)は和國の俗字なり、引折とは、横に引たをりて舟をやるなり、狹岑は端作に云如くサミと讀べし、荒礒面爾《アライソモニ》は今按面は傍例に依に回なるべし、さてアライソワニともアリソワニとも意に任てよむべし、此下に若句を脱し或は字を脱せるか、さらずば句の次第によらず廬《イホリ》ヲ作テミレバと讀べきか、荒床は和名云、野王曰槨、【古博反、與v郭同、和名、於保土古、】周v棺者也、此おほとこの意にて濱邊の石間をやがて棺郭とする意か、又常の床にてそれがあらゝかなるを云か、自伏《コロブス》は上の如し、自は南京の法相宗に此字常におのづからとよむ所をころと〔左○〕とよむを故實とするは相傳の古語なるべし、道ダニシラズは、妻がしらぬ也、オホヽシクは、おぼつかなきなり、愛伎《ヲシキ》は今按ハシキとよむべし、第廿家持の長歌の終に、麻知可母戀牟波之伎都麻良波《マチカモコヒムハシキツマラハ》、是今の歌に習たりと見ゆれば證據也、又第六に湯原王の歌に愛也思不遠里乃君來跡、此發句を今の本にはヨシヱヤシと點ぜるを袖中抄にははしきやしとあり、げにも彼歌よしやと云意叶はねば袖中抄にあるは正義なり、又第十一に早敷哉《ハシキヤシ》あはぬ子故に徒に、此川の瀬にものすそぬらす、又同卷に愛八師あはぬ君故徒に、此川のせに玉裳ぬらしつ、然るに袖中抄おしゑやしを釋する所に愛八師あはぬこゆゑに徒に、此川のせにものすそぬらしつ、此は右の二首同歌なれば混じたり、今云、早敷哉を愛八師と書替たればヨシヱヤ(40)シとよめるは誤なる上に、よしゑやしはよしやと云意にて叶はず、はしきやしは彼歌にては惜哉の心にて叶へり、今のはしきはうるはしき意なり、
 
初、玉もよきさぬきのくには。青によしなら、ますけよきそがのらなといふことく、讃岐は海邊にて、よき海藻を出しけれは、名物をもて枕詞とするなるへし。延喜式云。讃岐國中男作物。○海藻。三教指歸(ニ)云。然(トモ)頃日《コノコロノ》間刹那幻(ノ如ニ)位(ス)2於南閻浮提(ノ)陽谷、輪王所化(ノ)之下、玉藻|所(ノ)v歸《ヨル》之島、橡樟《クス》蔽v日(ヲ)之浦(ニ)1。覺明か注に此歌をひけり。神のみおもと。舊事本紀云。次生(ム)2伊豫二名(ノ)島(ヲ)1。謂(ク)此島者、身一(ニシテ)而有2面四(ヲ)1。毎(ニ)v面有v名。讃岐(ノ)國(ヲ)謂2飯依比古(ト)1【西北角。】餘はこれを畧せり。つきてくる中のみなとゆとは、上中下とも、始中終ともいふ時、上より中につぎ、始より中に次ゆへに、中といはんとて、つぎてくるといふ歟。彼國に那珂《ナカノ》郡あり。中のみなとはそこなるへし。おきみれはあとゐなみたち。これは、第一卷人丸の歌に、鹽さゐにいらこかしまへこく舟に妹のるらんかあらきしまわをといふ所にいへることし。第十三に、跡座浪之立塞通麻とつゝける歌あり。そこには、此上に立浪母踈不立といふ二句を、たつなみもおほにたゝすとよみて、跡の字を上につけて、たかなみのふさけるみちをと、下をよめれど、今の歌によりて、かれをおもふに、踈不立をは、おほにはたゝすとよみて、趾を下の句につけて、あとゐなみのたちせくみちをとよむへしとおほゆ。されとも、しほさゐも、あとゐなみも、いかなるをいふとはしらす。又位も座も、ともに此集に、くらとよみたれば、とくらなみ、あとくらなみなともよまるへし。されどさいふ名有ともしらす。これは後の人に心をつけしめむとていふなり。あとゐなみなと、今も海邊にはいふことにや。しり侍らす。まづ、舟にのりて、大事にすることゝ心得てみ侍るへし。かち引おりては、かちといへとも、櫓の事なり。此集に櫓をかちとよめる事おほし。やそかかけなといへるは、八十梶にて、櫓を八十丁もたてたるをいへり。引おるとは横に引たをりて、舟をやることなり。名くはしは、第一卷にも、第三にも有。くはしはほむる詞、名はよそにもきこゆる物なれは、さみねと音に聞えてよき嶋といふ心なり。名くはしは枕詞にはあらす。荒磯面爾。面は囘のあやまれるなるへし。しかれはありそわにとよむへし。見者の上に一句半をおとせりとみえたり。ころふすはころひふすなり。まろきものなとのおちてほとはしるを俗にころ/\するといふにおなし。自の字をころとよめるは、をのつからといへる古語なり。南京の法相宗には聖教をよむにも、講することはにも、をのつからとはいはて、ころとゝよめり。いにしへより相傳ていへる詞なるへし。おほゝしくは、おほつかなきなり。欝悒をはいふかしくともよむへし。さも此集によめり。愛伎は、おしきともはしきともよむへし。おなしこゝろなり
 
反歌二首
 
221 妻毛有者採而多宜麻之佐美乃山野上乃宇波疑過去計良受也《ツマモアラハトリテタキマシサミノヤマノカミノウハキスキニケラスヤ》
 
トリテはうはぎをつむなり、タギマシは今按宜の字集中にぎ〔右○〕ともげ〔右○〕とも用たればタゲマシと讀べし、たげは上にたげばぬれとよめる歌に注せる如く今もつみあげましなり、宇波疑《ウハギ》は第十にもよめり、和名云、七卷(ノ)食經云、薺菜、一名莪蒿、【莪、音鵝、和名、於八木、】崔禹錫食經云、状似2艾草1而香、作v羮食v之、延喜式第三十九、内膳式(ニ)曰、漬《ツケモノ》年料雜菜|莪蒿《オハギ》一石五斗、料塩六升、右漬2春菜1料、宇と於とは和爲于惠於の五音通ず、過ニケラズヤは過いにけるにあらずやと云んが如し、落著は過いにけり也、過るとは時の過るなり、けらずやは古語集中に多し、歌の心は、死人をおはぎに譬て、此人妻だに諸共にあらば薺蒿の盛を摘あぐる如くして空しくなさじを、あはれにもおはぎの時過て葉落枝枯た(41)るやうにもなれるかなと憐れぶなり、又、薺蒿の時過たる如く空しきからに成つれば、妻もあらば取収めて葬だにせましをと云心にや、
 
初、つまもあらは採而多宜麻之
とりてはつみてともよむへし。下のうはきにかゝる詞なり。たきましは心得かたし。宜は此集けといふ所にも用たれは、たとつと通して、告ましといへるにや。うはきは第十にもよめり。延喜式三十九、内膳式曰。漬年料雜菜薺蒿、一石五斗。○いまこれを案するに、俗によめが萩といふ物にや。第十に、春の野にけふり立みゆをとめらし春日のうはきつみてにらしもとよめり。今も野遊に出てはよめかはきをつむなり。艾草には似ねとかうはしとあるはたかはす。秋にいたりて一重にうすくれなゐなる花のさくか、よく菊ににたれは野菊と申めるを、今その盛過たるによせて、此人も此世を過ずや過にけりと、落著をいふ歌なり。けらすやのす、濁るへし。ことはりもしかるうへに、此受の字、此集に大かたにごる所に用たり。あるものによめかはきは、※[奚+隹]腸草なりといへり。いまたかんかへす
 
222 奥波來依荒礒乎色妙乃枕等卷而奈世流君香聞《オキツナミキヨルアライソヲシキタヘノマクラトマキテナセルキミカモ》
 
アライソは上に云ごとくアリソともよむべし、ナセルは枕となせるなり、荒礒をまきてしきたへの枕となせると句を交へて心得べし、又な〔右○〕とね〔右○〕と音通すれば、ねせるといへるにや、第五に憶良の歌に、やすいしなさぬといへるも兩やうに意得らるべし、
 
初、おきつなみきよる――
下句はまきて枕となせるなり
 
 
柿本朝臣人麿在石見國臨死時自傷作歌一首
 
延喜式云、凡百官身亡者、親王及(ヒ)三位以上(ニハ)稱(シ)v薨、五位以上及皇親稱v卒、六位以下達2於庶人1稱v死(ト)、これによれば人丸は六位以下なる事明けし、
 
初、柿本――臨死時
延喜式曰。凡百官身亡者、親王及三位以上稱薨、五位以上及皇親稱卒、六位以下達於庶人稱死
 
223 鴨山之磐根之卷有吾乎鴨不知等妹之待乍將有《カモヤマノイハネシマケルワレヲカモシラストイモカマチツヽアラム》
 
シラズとはしらぬ事とてと云はむが如し、拾遺にいも山の石根にをけるしらずて妹がとあるは家集と同じ、六帖にはかみ山のとあり、
 
初、かも山のいはね
いはねしまくは、上に磐姫の御歌にも見えたり。此歌を拾遺集にふたゝひ載らるゝには、いも山のいはねにをける我をかもしらすて妹か待つゝあらんとあらためらる。鴨山をはなとかあらためられけん。但拾遺も、かも山にて有けるか、傳寫の誤にていも山となれるにや。されとも彼集にはかゝる事おほし
 
(42)柿本朝臣人磨死時妻依羅娘子作歌二首
 
224 旦今日且今日吾待君者石水貝爾《ケフケフトワカマツキミハイシカハノカヒニ》【一云谷爾】交而有登不言八方《マシリテアリトイハスヤモ》
 
石水、【幽齋本、水下有2之字1、】
 
ケフ/\トはけふもや/\の意なり、凡集中に此心に用たる時は皆且の字を加へたり、苟且はかりそめにてたしかならねばなり、此歌によれば鴨山は海邊の山にて其谷川を石川とは云なるべし、水の字第七にもカハとよめり、神武紀云、縁《ソヒテ》v水《カハニ》西行、雄畧紀云、久目水《クメカハ》などあり、貝ニマジリテは鴨山の麓かけて川邊に葬れるにこそ、仙覺抄に源氏蜻蛉を引て云、水の音の聞ゆる限は心のみさはぎ給てからをだに尋ず、淺ましくてもやみぬるかな、いかなるさまにて、いづれの底のうつせに交りにけむなどやるかたなげおぼす、
 
初、けふ/\と
けふもや/\と、日ことに待なり。第十六にも、けふけふとあすかにいたりとよめり。後撰集にも聖寶僧正の寛平法皇の修行の御供にてよまれける歌に、人ことにけふ/\とのみこひらるゝ都ちかくもなりにけるかな。且今日とかける且は、苟且の義にて、かりそめなれはたしかならぬ心有。鴨山のいはねしまきてとよまれたるを、此歌には石水のかひにましりてとあるは、鴨山のふもとに石川といふ河ありて、そのあたりにはうふりけるよしをきゝてなるへし。石水といしかはとよむは、日本紀第三神式紀云。縁《ソヒテ》水《カハニ》西行。雄略紀云。於是日晩田罷神【一事主神也】侍送天皇至來目|水《カハマテニ》
 
225 直相者相不勝石川爾雲立渡禮見乍將偲《タヽニアハハアヒモカネテムイシカハニクモタチワタレミツヽシノハム》
 
石川のほとりに雲なりともたちわたれかし、せめて其人のかたみにみむとなり、新勅撰にも、なき人のかたみの雲やしぐるらむ、
 
初、たゝにあはゝあひもかねてむ
此たゝはたゝちになり。此歌はさきに見たたる天智天皇の后の、青はたのこはたのうへをかよふとはめにはみるともたゝにあはしかもとよませたまへるに似て、此依羅娘子も人まろのたゝ人ならぬ事を知て、よまれたりと見えたり
 
(43)丹比眞人 名闕 擬柿本朝臣人磨之意報歌一首
 
是は丹比某が人麿の意に擬して娘子が右の歌の報によめるなり、
 
226 荒浪爾縁來玉乎枕爾置吾此間有跡誰將告《アラナミニヨリクルタマヲマクラニヲテワレコヽナリトタレカツケナム》
 
將告、【紀州本云、ツケヽム、】
 
此玉といへるは石なるべし、文選、郭景純江賦云、碧沙|※[さんずい+遣]〓(ト)《・メクリワイテ》而往來、巨石〓〓(トシテ)前劫、枕爾置は、今按マクラニオキと讀べし、將告は詞書に依るに紀州の本の點よく叶ふ歟、歌の意は誰有てか我死を告て妹を歎かしむるとなり、娘子が二首を※[手偏+總の旁]の意を以てかへすなり、
 
初、あらなみによりくる玉を枕にをきわれこゝなりと誰かつけなん
此よりくる玉は浪の玉をもいひ、又石をもいふへし。此集家持歌に、藤浪のかけなる海の底きよみしつく石をも玉とわかみるとよめり。郭景純江賦曰。碧沙|※[さんずい+遣]〓而往來、巨石〓〓前却。枕爾置、まくらにてとあるは誤なり。有をなりとよめるは、吾此間有跡とつゝく時、こゝにありといふ事なれは、爾阿切奈なれは、なりと讀なり
 
或本歌曰
 
227 天離夷之荒野爾君乎置而念乍有者生刀毛無《アマサカルヒナノアラノニキミヲオキテオモヒツヽアレハイケリトモナシ》
 
落句イケルトモナシと讀べき例上に記せり、此は女の歌なるべし、
 
右一首歌作者未詳但古本以此歌載於此次也
 
(44)寧樂宮
 
前々に准ぜば寧樂宮御宇天皇代と云べきを唯寧樂宮と他に異して云ことは、撰者の當代も猶同じ宮なれば纔に表して先代に簡べるなり、
 
和銅四年歳次辛亥河邊宮人姫島松原見孃子屍悲歎作歌二首
 
河邊宮人、系圖未v詳、姫島松原は攝津國風土記云、比賣島(ノ)松原者、昔輕島豐阿伎羅宮(ニ)御宇天皇之世、新羅國(ニ)有2女神1、遁2去其夫1來(テ)住2筑紫國伊岐比賣嶋(ニ)1、【地名】乃曰、此(ノ)嶋者猶不v遠、若居2此島1男神尋來、乃遷來停(マレリ)2此島1、故(ニ)取(テ)2本所住之地名1以爲2島号1、和名集云、肥前國基肄【木伊】郡姫社、上の風土紀は垂仁紀と違へり、垂仁紀の外に安閑紀敏達紀に姫島の事見えたり、續日本紀の元正紀にも見えたり、
 
初、姫島松原
攝津國風土記云。比賣島松原者、昔輕島豐阿伎羅宮御宇天皇之世、新羅國有女神、遁去其夫、來住筑前國伊岐比賣島、【地名契沖今案、伊岐者疑倒乎。和名集曰。肥前國基肄【木伊】郡姫社】乃曰。此島者猶不遠、若居此島、男神尋來、乃遷來停此島。故取本所住之地名以爲島號。おほよそ風土記は、養老年中より撰はれたる書なるに、久しく世に絶て見たる人なけれは、こゝろを得てかんなゝとに引なをして物に引なとせしを、後の文章もよからぬ人の又眞字になせるにや。すこしつゝ引とひけることはの古文とも見えす、いかにそやあるは、かへりて文章しらぬをのかひかめにや。今日本紀を見るに、風土記の此文に似て、たかへる事あり。垂仁紀云。一云。御間城天皇之世、額有角人乗一船、泊于越國笥飯浦故。○延喜式を考るに、姫社は東生郡の大社にて、下照姫と注せり。姫島も東生にありて、そこにひめこそはましますにや。今は姫島とも姫こそともいふ所きこえす。以上日本紀風土記和名集延喜式、こと互にあひかはれり。又日本紀第十八安閑紀云。秋八月丙辰。○二首の歌、別義なし
 
228 妹之名者千代爾將流姫島之子松之末爾蘿生萬代爾《イモカナハチヨニナカレムヒメシマカコマツノウレニケムスマテニ》
 
姫島之子松之末、ヒメジマノコマツガウレとよむべし、
(45)229 難波方塩干勿有曾禰沈之妹之光儀乎見卷苦流思母《ナニハカタシホヒナアリソネシツミニシイモカスガタヲミマククルシモ》
 
二首ともに明なり、
 
靈龜元年歳次乙卯秋九月志貴視王薨時作歌一首并短歌
 
靈龜は第四十四代元正天皇の年號なり、視は親に改むべし、志貴親王は靈龜二年八月九日に薨じ給へば、撰者の覺誤歟、元正紀云、靈龜二年八月甲寅、二品志貴親王薨、遣2從四位下六人部王正五位下縣犬養宿禰筑紫1監2護喪事1、親王(ハ)天智天皇第七之皇子也、寶龜元年追尊稱d御2春日宮1天皇u、光仁紀云、寶龜元年十一月己未朔甲子詔曰、迫皇掛恐御2春日宮1皇子奉v稱2天皇1、二年五月甲寅始(テ)設2田原天皇(ノ)八月九日(ノ)忌齋(ヲ)於川原寺(ニ)1式二十一、諸陵式曰、田原西陵、【春日宮御宇天皇、在2大和國添上郡1、兆域、東西九町、南北九町、守戸五烟、】かゝれば大に違へり、若是は穗積親王此年薨じ給へるを思ひ誤れるか、或は後人寫誤れるか、元正紀云、靈龜元年秋七月丙午、知太政官事一品穗積親王薨、但これも七月なれば月違へり、不審の事なり、又按ずるに磯城《シキノ》皇子歟、十三の十葉に礎城島《シキシマ》を志貴島《シキシマ》とか(46)けり、是證なり、磯城(ノ)皇子の薨じ給へる年月續日本紀に見えず、記し漏せる歟、今の本落て失なへる歟、
 
初、靈龜元年歳次乙卯秋九月志貴親王薨時作歌一首并 短歌
乙卯九月庚庚、元正天皇位を元明天皇に受たまひて、靈龜と改元せらる。元正紀云。元年八月丁丑、左京人大初位下高田首久比麿獻靈龜、長七寸闊六寸、左眼白右眼赤、頭著三台、背負七星、前脚竝有離卦、後脚竝有一爻、腹下赤白兩點相次八字。志貴親王は二年八月九日に薨したまふを、これは年も月もいかてあやまりけん。撰者おもいたかへられけるなるへし。元正紀云。靈龜二年八月甲寅、二品志貴親王薨。遣從四位下六人部王、正五位下縣犬養宿禰筑紫監護喪事。親王天智天皇第七之皇子也。寶龜元年追尊稱御春日宮天皇。光仁紀云。寶龜元年十一月己未朔甲子、詔曰。迫皇掛恐御春日宮皇子奉稱天皇。二年五月甲寅始設田原天皇八月九日忌齋於川原寺。天智紀云。又有道君女伊羅都賣、生施貴皇子。延喜式第二十一、諸陵式云。田原西陵【春日宮御宇天皇、在大和國添上郡、兆域東西九町南北九町、守戸五烟】
 
230 梓弓手取持而丈夫之得物矢手挿立向高圓山爾春野燒野火登見左右燎火乎何如問者玉桙之道來人乃泣涙霈霖爾落者白妙之衣?漬而立留吾爾語久何鴨本名言聞者泣耳師所哭語者心曾痛天皇之神之御子之御駕之手火之光曾幾許照而有《アツサユミテニトリモチテマスラヲノトモヤタハサミタチムカフタカマトヤマニハルノヤクノヒトミルマテモユルヒヲイカニトトヘハタマホコノミチクルヒトノナクナミタコサメニフレハシロタヘノコロモヒツチテタチトマリワレニカタラクイツシカモモトノナトヒテキヽツレハネノミシソナクカタラヘハコヽロソイタキスメロキノカミノオホミコノオホムタノタヒノヒカリソコヽタテリタル》
 
霈霖、【官本、或作2※[雨/泳]※[雨/沐]1、】 天皇、【官本亦云、スヘラキノ、】
 
初の五句は、高マドを的にそへむとていへり、霈霖は今按ヒサメとよむべきか、和名云、文字集略云、霈(ハ)大雨也、日本紀私記云、火雨、【和名比左女】※[雨/泳]、【同上、】今按俗云、【比布留、】又云、兼名苑云、霖(ハ)三日以上雨也、【和名、奈加阿女、】官本の※[雨/泳]※[雨/沐]は、上は※[雨/脉]か、和名云、兼名苑云、細雨一名(ハ)※[雨/脉]※[雨/沐]、小雨也、麥木二音、【和名、古左女、】土左日記に、行さきに立白浪の聲よりも、をくれてなかむ我や(47)まさらむと云別の歌をいと大聲なるべしとかけるをおもへば火雨もあまりにて、今の本は此※[雨/脉]※[雨/沐]の誤なるべし、何鴨以下四句、今按ナニトカモ、モトナイヒシヲ、キヽツレバ、ネノミシナカルとよむべきか、もとなはよしなの古語なり、由と云も本と云も心かはらず、皇子の薨じたまへるたびの火なりと答るをほのめかして云なり、やがて下に云あらはすべき故なり、手火は葬の時の火なり、神代紀に秉炬とかけり、仲哀紀云、殯2于豐浦宮1爲2旡v火殯斂《ホナシアガリヲら1、【旡火殯斂、此(ヲハ)謂2褒那之阿餓利1、】これは手火をとらぬ葬なるべし、
 
初、梓弓てにとりもちてますらをの――
ともやは第一卷に尺せるかことし。高まと山のまとをいはん序なり。野火と見るまてもゆる火、下にいふ手火ななり。〓霖をこさめとよめるはあやまりなり。ひさめとよむへし。ひさめは大雨なみ。和名集云。文字集畧云。〓大雨也。日本紀私記云。火雨【和名比左女】雨冰【同上。】今案俗云【比布留。】又云。兼名苑云。霖、三日以上雨也【和名奈加阿女。】垂仁紀云。天皇則寤之語皇后曰。朕今日夢矣。○復大雨從狭穗發而來之濡而云々。和名集謂大雨也といひて、日本紀私記をひけるは、大雨をひさめとよむゆへに、〓もひさめとよむ心なり。火雨は垂仁紀の文も大雨なるを、ひさめといふゆへに後人火をあやまりて大となせるかとおもひて、あらたむとてあやまれるなるへし。何鴨本名言。これをはいつしかももとのなとひてとよめるはわろし。なにとかもゝとないへるをとよむへし。こゝろは火のもゆるを道行人に何事そととへは、此皇子のかくたまひて、御をくりの人々の手火なりとこたふるを、その事は末にいへは、こゝにはほのめかして、なにとかやよしなきこときかせて、われをなかしむるといへり。何とかもは文章に云々なといへることし。もとなは此集におほき詞なり。よしなきといふ詞なり。こゝに本名とかきたれとも、本無といふ事なり。由といふも本なれはおなし詞なれと、後はよしなきとのみいへり、所哭はなかるともよむへし。御駕は日本紀に車駕とかきてもおほむたとよめり。手火は御葬送の御供に火をともしつれて御をくり仕るをいへり。日本紀第一云。伊弉冊尊曰。○
 
短歌二首
 
231 高圓之野邊秋茅子從開香將散見人無爾《タカマトノノヘノアキハキイタツラニサキカチルラムミルヒトナシニ》
 
茅は、芽を誤り、從は徒を誤れり、此歌下の或本の芽子をよめる歌とに依に九月にはあるべからざる歟、玉葉秋部にのせられたること不審なり、
 
初、高圓乃野邊乃秋萩いたつらに。芽子を茅子に、徒を從につくれるは、ともに傳寫のあやまりなり
 
232 御笠山野邊往道者巳伎大雲繁荒有可久爾有勿國《ミカサヤマノヘユクミチハコキバクモシケクアレタルカヒサニアラナクニ》
 
コキバクモ、そこばくに同じ、大は太に作るべし、
 
初、みかさ山野邊ゆくみちはこきたくも
こきたくもこゝらにおなし。おほくなり。かくれたまひてほとなきに、しけくもあれたるかなとなけくなり
 
右歌笠朝臣金村歌集出
 
(48)かやうに注したるに金村が歌か又は他人の歌をも書載たるか詳ならぬ事あり、別に注す、人丸、蟲丸、福丸等の集准v之、
 
或本歌曰
 
本の下に反の字落ちたる歟、
 
233 高圓之野邊乃秋芽子勿散禰君之形見爾見管思奴幡武《タカマトノノヘノアキハキナチリソネキミカカタミニミツヽシノハム》
 
234 三笠山野邊從遊久道已伎太久母荒爾計類鴨久爾有名國《ミカサヤマノヘニユクミチコキタクモアレニケルカモヒサニアラナクニ》
 
萬葉集代匠記卷之二下
 
(1)萬葉集代匠記卷之三上
                  僧契沖 撰
                  木村正辭 校
 
初、萬葉集卷第三目録
 
弓削皇子遊吉野之時御歌一首
弓誤作引
 
初、春日藏首老即和歌一首
即誤作郎
 
初、幸伊勢國之時安貴王作歌一首
脱時字
 
初、沙彌滿誓詠綿歌一首
脱歌字
 
初、大網公人主宴吟歌一首
網誤作綱
 
初、天平元年己巳攝津國――
〓誤作經
 
初、天平二年庚午冬十二月――
帥誤作師
 
雜歌
 
天皇御遊雷岳之時柿本朝臣人麻呂作歌一首
 
雄略紀云、七年秋七月甲戌朔丙子、天皇詔2少子部《チヒサコヘノ》連|※[虫+果]羸《スカル》1曰、朕欲v見2三諸岳神之形1、【或云此山神爲2大物代主神1、或云、兎田墨坂神也、】汝|膂力《チカラ》過v人、自行捉來、※[虫+果]羸答曰、試徃捉之、乃登2三諸岳1捉2取大?1奉示天皇、不|齋戒《モノイミシタマハ》雷|※[兀+虫]※[兀+虫]《ヒカリヒロメキ》目精《マナコ》赫々、天皇畏蔽v目不v見却2入殿中1、使v放2於岳1、仍改賜v名爲v雷、高市郡三諸山を雷岳と云ふこと、かゝれば此時よりの名なり、雷の字かみとのみも讀めば、神山神岡と云ふも同じ事なり、
 
初、雜歌
天皇御遊雷岳之時柿本朝臣人麻呂作歌一首
雄略紀曰。七年秋七月甲戌朔丙子、天皇詔少子部連|※[虫+果]羸曰。朕欲見三諸岳神之形。【或云。此山神爲大物代主神或云兎田墨坂神也。】汝膂力過人、自行捉來。※[虫+果]羸答曰、試徃捉之。乃登三諸岳捉取大※[虫+也]、奉示天皇。不齋戒、其雷|※[兀+虫]目精赫々。天皇畏蔽目不見、却入殿中、使放於岳。仍改賜名爲雷。王充論衡曰。○五雜俎云。○山海經曰。○本朝文粹、都良香同情法師傳曰。○金光明最勝王經卷第七
みむろ山を、又は神岳といふは、雷岳といふにつきてその別名なり。いかつちといふ名は、瞋槌といふ心なるへし。いかつちをなるかみといひ、また只神とのみもいへは、神岳とはいへり。後撰集に、ちはやふる神にもあらぬわか中の雲井はるかになりもゆくかな
これいかつちによせたるを、只神とのみいひて下にその縁の詞をいへり【易説卦云。動萬物者莫疾乎雷】
 
235 皇者神二四座者天雲之雷之上爾廬爲流鴨《スメロキハカミニシマセハアマクモノイカツチノウヘニイホリスルカモ》
 
(2)右或本云獻|忍壁《オシカヘ》皇子也其歌曰|王神座者雲隱伊加土山爾宮敷座《オホキミハカミニシマセハクモカクレイカツチヤマニミヤシキイマス》
 
皇者、【紀州本、者作v葉、】
 易繁辞云、陰陽不v測之謂神、説卦傳云、神也者妙2萬物1而爲v言者也、されば聖徳の玄微に入る處を神と云ひて凡慮の思議すべきにあらざれば、かく雷の上にさへ登り立給ふとよめるなり、イホリスルは行宮なり、注右或本云獻忍壁皇子也、忍壁をオシカベと點ぜるは誤なり、オサカベとよむべし、皇子に奉る歌なればおほきみといひてすめろぎにかへたり、其實ひづれにか侍らむ、
 
初、すめろきは神にしませは天雲のいかつちのうへにいほりするかも
凡慮のはかることあたはす、聖徳の玄微に入けるを神といふ。易繋辭云。陰陽不測、之謂神。又云。子曰、知變化之道者、其知神之所爲乎。説卦傳云。神也者妙萬物而爲言者也。この本朝はもとより神國にて、人の世となりても天子は猶ことに神道にしたかひてをこなはせたまひ、又御みつからも神道まし/\けるゆへにやかて神と申奉れり。推古紀云。爰新羅○孝徳紀云。巨勢徳大臣○天武紀云。十二年春正月己丑朔丙午○續日本紀にもかくのこときみことのりあまたあり。末にこいたりて、神とも、神なからとも申奉ること、あまたあれは、わつらはしけれとここにかく引置なり。いかつちのをかを、まことのいかつちにいひなして、神にてましますゆへに、猶そのいかつちのうへにやとりたまふとなり。いほりするは行宮をいへり。注のある本、心おなし
 
天皇賜志斐嫗御歌一首
 
さきの歌の天皇、此天皇は共に持統天皇なるべし、今の御歌老女に昔物語など聞食しければ女帝に似つかはしき故なり、志斐は氏なり、續日本紀第八云、算術正八位上悉斐連|三田次《ミタスキ》、
 
初、天皇賜志斐嫗御歌一首
さきの天皇はともに持統天皇なるへし。そのゆへは老女に昔物語なとさせてきこしけるとみゆれは、女帝ににつかはしきゆへなり。志斐は氏也。續日本紀八云。算術正八位上悉悲連三田次。和名集云。説文云。嫗【和名於無奈】老女之稱也。源氏物語藤はかまに、人からやいかゝおはしけん、おうなとつけて心にもいれす
 
236 不聽跡雖云強流志斐能我強語此者不聞而朕戀爾家里《イナトイヘトシフルシヒノカシヒコトヲコノコロキカテワレコヒニケリ》
 
(3)聽は、聽聞の聽にあらず聽許の聽なり、此集に猶不欲をイナとよみ、日本紀に不須をイナとよめる皆同意なり、志斐能我は志斐の嫗がと宣ふなり、椎野と云氏には殊なり、此者は今按此は比に作るべし、集中例皆然り、不聞兩は今按キカズテと和すべし、今の點にては而の字に叶はず、御歌の意は、考女なれば繰返し同じ物語を聞え上ぐるを否と仰せらるれど猶聞しめせとて強て申すをうき事と思食しつるが、久しく參らねば更に戀しく思食すとなり、志斐と云ふ氏に付て強語とはつゞけ給ふなるべし、君にまし/\ては有難き御歌なり、
 
初、いなといへとしふるしひのかしひことをこのころきかてわれこひにけり
おうなゝれはくりことに物かたりするをいなきかしなかたりそといへと、しひてきこしめせとてかたるをうしとおもひつるか、久しく御前へも出てかたらは、更にこひしくおほしめすとなり。かたしなきまて仁愛ふかき御哥なり。君とまし/\てかゝる御心あらは御めくみにもるゝ人あらしとそおほえ侍る。不聽の聽は、聽聞にあらす。聴許の義也。志斐能我とは、志斐をしひのとよむにあらす、しひのおうなかといふことなり。不聞而は、きかすてとよむへし。【志斐の氏によせてしひことゝのたまへり】
 
志斐嫗奉和歌一首 嫗名未詳
 
237 不聽雖謂話禮話禮常詔許曾志斐伊波奏強話登言《イナトイヘトカタレカタレトノレハコソシヒテハマウセシヒカタリトノル》
 
ノレバコソ、此所句絶なり、今按、シヒテ〔右○〕ハマウセ〔右○〕の點、字に叶はず、シヒヤ〔右○〕ハマウス〔右○〕と讀むべし、い〔右○〕とや〔右○〕と通ずる故なり、神功皇后紀に爾汝移と云人の名に移をや〔右○〕とよめり、又一つの今按、のればこそを句絶とせずして、シヒイ〔右○〕ハマウセとよみてこゝを句とすべきか、い〔右○〕は斐の韻《ヒヽキ》なり、木の國を紀伊と韻を加へて二字とせるに同じ、同じ言するを欣感《オカシ》がらせ給ひて、猶語れと仰られし折もあるべければ、それを實と心得て(4)語れとのたまへばこそ語り參らせしを、却て己が強語になさせ給ふとなり志斐伊波奏といふに、又みづからの氏をかけたり、
 
初、いなといへとかたれ/\とのれはこそ志斐伊波僧奏しひことゝのる
おなしことするをおかしからせたまひて、猶かたれとおせられける折も有へし。それをまことゝ心得てかたれとのたまへはこそかたりまいらするを、かへりてしひことになさせたまふとなり。のれはこそといふか句なり。のれはこそあれ、のれはこそかたりまいらすれといふ心なり。句といふゆへは志斐伊波奏をしひてはまうせといふ點はあやまれるゆへなり。いとやと通するゆへに、これをはしやはまうすとよむへし。その證は、神功皇后紀云。爰斯摩宿禰即以※[人偏+兼]人爾波移與卓淳人過古二人、遣于百濟國、慰勞其王。此移の字、伊とおなしく用たる字なれは、伊をも野とよむへし。移のひたりのかたはらに、野の字をつけて私と注したるは、和名集に順のひかれたる田公望か日本紀の私記なり。此集第五房前の哥にも、ことゝはぬ木にもありともわかせこかたなれのみことつちにおかめ移母とあるに、いもとかなをつけたれとも、やもとよむへし。また此集にやといふに和の字をかけるも同韻相通なり
 
長忌寸意吉麻呂應詔歌一首
 
238 大宮之内二手所聞綱引爲跡網子調流海人之呼聲《オホミヤノウチマテキコユアヒキストアコトヽノフルアマノヨヒコヱ》
 
アビキは網を引を体に云ひなせり、網子調ルはし、海士の中にむねとつかさどる者ありてそれを助けて引く者を網子と云ふ、その網子どもの列次進退をとゝのふる聲なり、下に右一首と云下に注ありけむが落ちたるなるべし、按ずるに難波へ行幸の時などよめるにや、
 
初、大宮の内まてきこゆあひきすとあことゝのふるあまのよひこゑ
此哥のひたりに、右一首とあるは、下に何とそ注の詞ありけんかうせたるへし。此哥のやうを案するに、難波宮にみゆきしたまひける時の歌なるへし。網子とゝのふるとは、舟おさのふなこをそろゆることく、あまの中につかさとるものゝ下知するこゑの、まちかく聞ゆるなり。二手は兩の手を眞手といふ故にかくなり
右一首
 
長皇子遊獵路池之時柿本朝臣人磨作歌一首并短歌
 
獵道池を八雲には石見の由注し給ひ、藻塩草には加賀とす、共に不審なり、長皇子の御獵に出給ふ所なれば、此時の都藤原より近き程の大和の國の内なるべし、
 
初、長皇子遊獵路池之時
第十二にとをつかりちの池とよめるもおなし所なり。いつれの國とはしるされねと、長皇子の出てあそはせ給所なれは、大かたはやまとなるへし。藻鹽草に加賀といへるはあやまれり。此詞書にてしるへし
 
239 八隅知之吾大王高光吾日乃皇子乃馬並而三獵立流弱薦(5)乎獵路乃小野爾十六社者伊波比拜目鶉巳曾伊波比回禮四時自物伊波比并鶉成伊波比毛等保理恐等仕奉而久堅乃天見知久眞十鏡仰而雖見春草之益目頬四寸吾於富吉美可聞《ヤスミシシワカオホキミノタカテラスワカヒノミコノウマナメテミカリニタタルワカクサヲカリチノヲノニシヽコソハイハヒフセラメウツラコソイハヒモトホレシシシモノイハヒフセリテウツラナスイハヒモトホリカシコシトツカヘマツリテヒサカタノアメミルコトクマソカヽミアフキテミレトワカクサノマシメツラシキワカオヒキミカモ》
 
立流、【官本又云、タテル、】 恐等、【幽齋本云、カシコミト、】
 
三獵立流は今按ミカリタヽセルとよみて然るべきか、弱薦もワカコモとも讀むべし、獵道池に縁あり、延喜式典藥式云、五月五日進2菖蒲生蒋1、掃部式云、穉蒋食薦《ワカコモノスコモ》一枚、十六社者〔四字右○]、此十六とかけるは四々なり、後に木の間立くゝ、又くゝりの宮など云ふに八十一とかき、いさとをきこせと云ふに二五とかける類此に准ず、伊波比以下の四の伊皆發語の詞なり、此鹿鶉は御獵に付ての事によれり、春草《ワカクサ》はハルクサともよむべし、春草はつやゝかにて見あかねばマシメヅラシキとそへたり、伊勢物評に初草のなどめづらしき言の葉ぞとよめるも此に同じ、
 
初、わかこもをかりちの小野
題にかりちの池に遊たまふ時とあれは、こもをかるとつゝけたり。典藥式【延喜式】云。五月五日進菖蒲生蒋。大膳式下云。五月五日節料粽科。○青蒋十一圍、生絲三兩〓。掃部式云。穉蒋食薦一枚。かゝれはちまきなとの料に、わかこもをは大かたはかるなるへし。しゝこそは――。いの字は皆例の發語の詞なり。もとほるは第二にもいへることく、まはるなり。薦のあしかはと大緒とのあひたに、もとほりといふ物つくるもその名はこの心なるへし。はふは天武紀云。十一年九月辛卯朔壬辰、勅、自今以後跪禮匍匐禮竝止之、更用難波朝廷之立禮。戦國策云。妻側目而視、側耳而聽。嫂蛇行匍伏。【蛇不直行、伏音匍、匍匐伏地也】四拜自跪而謝。しゝを十六とかけるは、四々の心なり。しといふかんなに重二とかける所もこの心におなし。わか草のましめつらしきとは、霜かれたる冬草の春になりて立かへりもえ出れはつやゝかにて日にそひてめつらしき物なれは、よそへてほめ奉らるゝなり。伊勢吻語に、初草のなとめつらしきことのはそとあるもおなし
 
(6)反歌一首
 
240 久堅乃天歸月乎網爾刺我大王者盖爾爲有《ヒサカタノアメユクツキヲアミニサシワカオホキミハキヌカサニセリ》
 
天歸月乎、【仙覺云、古点ソラユクツキヲ、官本又点同v之、濱成式、アマユクツキヲ、】 蓋爾爲有、【仙覺云、古点カサニナシタリ、官本又点同v之、六帖云、カサニツクレリ、】
 
第二の句式の點よりは今のやまし侍らむ、天津風、天川などつゞくこそわれ、あまゆくは聞よからず、落句の今の點は仙覺も式によらる、此は何れよりも勝るべし、月を網に結《スキ》てきぬがさにすとは形を思ふに然るべく、皇子の蓋なれば似つきて奇妙なり、和名云、兼名苑注云、華蓋、【和名、岐奴加散、】黄帝征2〓尤1時、當2帝頭上1有五色雲、因2其形1而造也、令第六儀制令云、凡蓋親王紫大|纈《ユハタ》云云、楚辭賈誼惜誓曰、建2日月1以爲v蓋《キヌカサ》兮、菅家萬葉云、春霞網に張こめ花ちらば、移ろひぬべき鶯とめむ、
 
初、久かたの空行月をあみにさしわかおほきみはきぬかさにせり
皇子の御かりにさゝせたまへるきぬかさのまろなるをほめんとて天行月をあみにさしてしたるみかさなりとよめるなり。長哥のことはにも、天見ることくとあれは、やかて御笠をも月とは見たるなるへし。後撰集に、河原左大臣の、てる月をまさきのつなによりかけてあかてわかるゝ君をとゝめんとあるは、もしこのあみにさしとあるを用られけるにや。和名集云。兼名苑注云。華蓋【和名伎奴加散】黄帝征〓尤時、當帝頭上、有五色雲、因其形所造也。令義解第六儀制令云。凡○
或本反歌一首
 
241 皇者神爾之坐者眞木之立荒山中爾海成可聞《スメロキハカミニシマセハマキノタツアラヤマナカニウミヲナスカモ》
 
皇者、【官本又云、スメラキハ、幽齋本又云、スヘラキハ、】
 
眞木は木の名なるべし、荒山中とつゞけばなり、此歌に依るに獵路池は其比帝の堀(7)させ給ふと見えたり、君の徳をほめ奉りて神にておはしませばこそかゝる荒山中に思ひよらぬ海をばなさせたまへと申しなさるゝなり、文選飽明遠詩云、築v山擬2蓬壺1、穿v池類2溟渤1、
 
初、すめろきは神にしませはまきのたつあら山なかに海をなすかも
此哥によるに、かりちの池はそのころほらせたまひけると見えたり。これは君の徳をほめたてまつりて、神にてましませはこそかゝる山中におもひよらぬ海をはなさせたまへと、池をいかにもおほきによみなされたるなり。楊子雲羽獵賦序云。武帝廣開土林○文選飽明遠代君子有所思詩。築山擬蓬壺、穿池類溟渤。まきは※[木+皮]なるへし。み山にあるものなれはなり
 
弓削皇子遊吉野時御歌一首
 
242 瀧上之三船乃山爾居雲乃常將有等和我不念久爾《タキノウヘノミフネノヤマニヰルクモノツネニアラムトワカオモハナクニ》
 
瀧上とは三舟山吉野の瀧の上にあるなるべし、雲の起滅定めなきが如くなる世なれば、我も常にあらむ物とは思はずとよみ給へり、第一卷吹黄刀自が歌に注せし如く、山を面白く御覺ずるより此感生ずるなり、漢武秋風辭云、歡樂極兮哀情多、少壯幾時兮奈老何、
 
初、瀧のうへのみふねの山にゐるくものつねにあらんとわかおもはなくに
雲の起滅さためなきかことくなれは、我も常にあらん物とはおもはすとよませたまへり。第一卷吹黄刀自か、常にもかもなとよめる哥に注せしことく、これも山のおもしろきあまりに.常ならぬことをなけかせたまふなるへし。丈邁漢武帝秋風辭云。歡樂極兮哀情多、少壯幾時兮奈老何
 
春日王奉和歌一首
 
文武紀云、三年六月庚戌淨大肆春日王卒、遣v使弔賻、
 
初、春日王奉和歌一首
文武紀云。三年六月庚戌、淨大肆春日王卒。遣使弔賻
 
243 王者千歳爾麻佐武白雲毛三船乃山爾絶日安良米也《オホキミハチトセニマサムシラクモヽミフネノヤマニタユルヒアラメヤ》
 
(8)これは雲の絶えず居るによせて祝ひ奉られたり、
 
初、おほきみはちとせにまさん白雲もみふねの山にたゆる日あらめや
かたわ車をみて、かたわかあるといひ、今ひとりはかたわかなしといひけんやうに、物はいかにもいひなさるれは、弓削皇子は、雲のつねなきによせてよませたまへは、これはまたたゆるまもなく居る雲によせて、常にましまさんといはひたまへり
或本歌一首
 
244 三吉野之御舩乃山爾立雲之常將在跡我思莫苦二《ミヨシノヽミフネヤマニタツクモノツネニアラムトワカオモハナクニ》
 
右一首柿本朝臣人麿之歌集出
 
長田王被遣筑紫渡水島之時歌二首
 
日本紀第七景行紀云、壬申自2海路1泊2於葦北小島1而進食時、召山部阿弭古之祖小左令v進2冷水1、此時島中無v水不v知v所v爲1、則仰之祈2于天神地祇1、忽寒泉從2崖傍1湧出、乃酌以獻焉、号2其島1曰2水島1也、其泉猶今在2水島崖1也、【和名云、菊池《クヽチ》郡水島、】葦北は肥後の國の郡の名なり、仙覺抄に肥後國風土記を引て云く、球磨乾七里海中有v島、稍可七十里、名曰水島、出2寒水1、逐潮高下云云、今の第二の歌に依るに、葦北球磨兩郡つゞきて葦北郡ながら球磨郡に近きにや、
 
初、長田王被遣筑紫渡水島之時
日本紀第七景行紀云。壬申自海路泊於葦北小島、而進食時、召山部阿弭古之祖小左、令進冷。是時島中無水不知所爲。則仰之、祈于天神地祇、忽寒泉崖傍涌出。乃酌以獻焉。號2其1曰水島也。其泉猶今在水島崖也。葦北は肥後の國の郡の名なり
 
245 如聞眞貴久奇母神左備居賀許禮能水島《キヽシコトマコトタフトクアヤシクモカミサヒヲルカコレノミツシマ》
 
(9)今按發句はキクガゴトともよむべきか、神サビヲルカとは此水もと小左が神祇に祈て俄に出來たれば今も奇異に見ゆるを云ふコレノとは此なり、第二十防人が妻の歌に、これのはるもちとよめるも此針なり、
 
初、聞しことまこと――
これの水島は此水しまなり
 
246 葦北乃野坂乃浦從船出爲而水島爾將去浪立莫勤《アシキタノノサカノウラニフナテシテミツシマニユカムナミタツナユメ》
 
浦從、【官本亦云、ウラユ、】
 
六帖浦の歌に此を載するにみしまにゆかむ、續後撰も彼に同じ、上の歌コレノミシマとよみてはすわるまじければ此歌准じて知るべし、
 
初、あしきたの野坂の――
續後撰旅部に、みしまにゆかんとあるはあやまれり。さきの歌これのみしまとてとまるへしや
 
石川大夫和歌一首 名闕
 
六帖泊の歌に載するに作者を石川のおほきみといへるは如何、
 
247 奥浪邊波雖立和我世故我三舩乃登麻里瀾立目八方《オキツナミヘナミタツトモワカセコカミフネノトマリナミタヽメヤモ》
 
雖立、【官本亦云、タテトモ、】
 
ワガセコは長田王をさせり、
 
右今案從四位下石川宮麻呂朝臣慶雲年中任大貳又(10)正五位下石川朝臣吉美侯神龜年中任少貳不知兩人誰作此歌焉
 
吉美侯は君子なり、下に歌ある人なり、神龜元年二月正五位下、同三年正月從四位下に叙せられたれば其間の事なり、極官にあらず、
 
又長田王作歌一首
 
又と者同時に又よめばなり、
 
248 隼人乃薩摩乃迫門乎雲居奈須遠毛吾者今日見鶴鴨《ハヤヒトノサツマノセトヲクモヰナストホクモワレハケフミツルカモ》
 
隼人は薩摩の枕詞なり、別に注す文武紀に唱更國と云下に注して云、今薩摩國也、かゝれば薩摩國とは光仁帝桓武帝の初などに名付られたるか、未考唱更國といひし時なれば、此薩靡ノセトと云ふは、薩摩郡に屬せる海なるべし、雲居ナスは空を見る如く遙に見やるとなり、
 
初、隼人のさつまのせとをくもゐなす――
神代妃下云。一云、狗人請哀之、弟還出涸瓊、則潮自息。於是兄知弟有神徳、遂以伏事其弟。是以、火酢芹命苗〓諸隼人等、至今不離天皇宮垣之傍、代吠狗而奉事者也。此ことのもとは、彦火々出見の尊はをのつから山の幸【幸此云左知】まし/\て、獵したまへは獲物おほく、兄の火酢芹命は、をのつから海の幸ありて、よく魚を釣えたまふ。ある時ふたりあひかたりてのたまはく。こゝろみにさちかへせんとて弓箭と釣鉤とを取かへたまふに、をの――そのさちを得たまはす。このかみくゐて弟の尊に弓箭を還して、もとの釣鉤をこひたまふに、弟尊、鉤を失たまひけるゆへに、あたらしき鉤をおほく作りて還したまひけれとも、兄いかりてもとのをせめはたられけるゆへに、彦火々出見尊うれへたまひて、海邊をうなたれめくりたまふ時、鹽士老翁といふにあひたまひてその老翁のはかりことにて、海神の宮に到りたまひ、海神さま/\にもてなして、こゝに出ませる御意をとふ時、尊あるかたちをこたへたまふ。海神あらゆる魚を集《ツトヘ》てせめとふに、みなしらす。たゝし鯛のみ、此ころ口の疾ありてまいらぬを、しひてめしてその口をさくれは、はたしてうせたる鉤を得たり。そのほとに尊、海神の女豊玉姫を娶て、海神の宮にとゝまりますこと三年になりぬ。やすらかにたのしけれ、猶くにをおもふ御心ましてなけきたまふを、豊玉姫きゝて其父の海神にかたらる。これによりて海神、尊に申さく。天孫もし郷に歸らんとおほされは、われまさに送りたてまつらんとて、すなはち彼鉤を奉りてをしへまうさく。此鉤をもて兄にかへし給はん時、ひそかに此鉤を呼て貧鉤とのたまひてあたへ給へ。潮滿瓊と潮涸瓊とを奉りていはく。潮滿瓊を漬たまはゝ、潮急にみちなん。これをもて汝尊の兄をおほれしめたまへ。もし兄悔てあはれひたまへとこはれん時、更に潮涸瓊を漬たまはゝ、潮をのつからひなん。かくなやましたまはゝ、兄をのつからしたかひなんと。天孫此誨にまかせたまひし時、さきに引る文のことく、火酢芹命したかひたまへり。日本紀につふさなるを、今略をとりて事始終をあかせり。彼天孫もと日向に天降りたまひて、おはしましけるゆへに、日向大隅薩摩に、火酢芹命の子孫ひろまりけるなり。其猛烈なること隼のことしと、風土記に見えたり。兵の名を薩男とも薩人ともいふは、薩摩男薩摩人といふ義なり。よりて隼人のさつまとはつゝけたり。弓をさつゆみ、矢をさつ矢といふも、其さつ人か具なれはなり。欽明記云。元年三月、蝦夷隼人竝卒衆歸附。天式紀云。十一年秋七月壬辰朔甲午、隼人多來貢方物。是日、大隅隼人與阿多隼人相撲於朝廷、大隅隼人勝之。文武奇云。大寶二年冬。延喜式の中に、隼人式あり。節會の日なと狗の吠るまねすることなと委見えたり。隼人正はかれらを預りてつかさとるなり。今の歌は題に又長田王作歌とある心は、さきにつくしへつかはされて、水嶋をわたる時とあるをふまへてなり。それによりて音に聞さつまのせとをも、役をつゝしみて只雲居のことく遠くみやるとなり。雲居は空の名なり。空は雲の居る所なるゆへにいへり。第六卷に、隼人のせとのいはほもあゆはしるよしのゝ瀧に猶しかすけり。これもおなしさつまのせとなり。おもしろくみゆる所にこそ
 
柿本朝臣人麻呂※[羈の馬が奇]旅歌八首
 
(11)249 三津埼浪矣恐隱江乃舟公宣奴島爾《ミツノサキナミヲカシコミコモリエノフネコクキミカユクカノシマニ》
 
舟コグキミは梶取を云べし、君臣に限らず賤しき業にも其事をつかさどるをばきみと云ふにや、和名云、漁父一云漁翁、【無良岐美、】顯宗紀の室壽《ムロホギ》の御詞には家長をイヘキミとよめり、今舟公とのみかけるは榜と云字の落ちたるにやと思ふを、第十卷人丸集の七夕歌に、ふねこぐ人と云人にも舟人とのみあり、※[手偏+總の旁]じて人丸集の歌は殊に文字簡略にして讀加へたる事多し、第十一の相聞の歌など心を著くべし、宣の字のよみやう未v詳、か〔右○〕は疑の詞なり、奴島は淡路の野島なり、奴農これらの字互にぬ〔右○〕ともの〔右○〕とも用ひたれば今の奴島も或本にはヌジマと點ぜり、假令ヌジマとよむともたゞ音を通して意得べし、歌の心は、三津の浪を恐れて漕出す入江にとまり居し舟人の、今は、にはよしとてや、野島を指て漕行くらむとなり、
 
初、みつのさき浪をかしこみこもりえのふねこくきみかゆくかぬしまに
奴島は次下の野しまにて淡路なり。ぬとのと五音相通なり。此集并に日本奇等にかよはせる事おほけれは、奴嶋とかきても、のしまとよむへし。又もとよりぬしまとも、のしまとも、兩やうにもいひきたりけん。ふねこくきみは、舟おさにて、今の世にいふ船頭なり。きみといふは、かならす君臣といふ時のたふときにかきらす。いやしきわさにもその事をつかさとるをは、その君といふへし。漁父とかきてむらきみとよめり。顯宗紀には、家長とかきていへきみとよめるは、その家をおさむる人をいへり。舟公宣とかきて、ふねこくきみかゆくかとよめる、簡略なる書やうなり。もし字の落たるにや。舟公はふなきみとよみて、此下に字の落たるにや。宣をゆくとよめる、心得かたし。いまた字書をかんかへす。ゆくかのかは哉なり。歌の惣しての心は、三つのさきの浪の音は、おそろしく聞ゆるを、舟長は日をよくはからふものなれは、にはよからんと見さためたるにや。こもり江にかゝりて、さてあらぬ奴島をさしてこき出てゆくかなゝり。浪をかしこみといひては、大かたは浪をおそろしかるといふ心なれと、こゝは舟にのれる人は、浪をおそろしくおもふにといふ心にて、かちとりのおそるゝにはあらす
 
250 珠藻苅敏馬乎過夏草之野島之埼爾舟近著奴《タマモカルミヌメノヲスキテナツクサノノシマカサキニフネチカツキヌ》
 
一本云|處女乎過而夏草乃野島我埼爾伊保里爲吾等者《ヲトメヲスキテナツクサノノシマカサキニイホリスワレハ》
 
玉藻カルは必しも敏馬の枕詞にはあるべからず、敏馬乎過は仙覺抄云、古點にはと(3)しまをすぎてと點ぜり、又或本にははやまをすぎてと點ず、共に不2相叶1、みぬめ〔三字右○〕と和すべし、む〔右○〕とぬ〔右○〕と同韻相通なり、讃岐をさぬきといひ珍海をちぬの海と云ふが如し、されば此集第六卷過2敏馬浦1時山部宿禰赤人作歌、御食向淡路島二直向三犬女乃浦能とかけり、又同卷、過2敏馬浦1時作歌詞中云、八島國百船純乃定而師三犬女乃浦者とかけり、同反歌云、眞十鏡見宿女乃浦者云云、然則爭なくみぬめと和すべきなり、已上最も明なれば今の點に從ふべし、六帖八雲新拾遺皆古點に同じ、又仙覺攝津國風土記を引て云、美奴賣松原、今稱美奴賣者神名、其神本居2能勢郡美奴賣山1、昔息長足比賣天皇幸2于筑紫國1時、集2諸神祇於川邊郡内|神前《カムサキ》松原1以求2禮福1、于v時此神亦同來集曰、吾亦護治、仍諭之曰、吾所住之山有須我乃木、各宜2v材採爲v吾造1v船、則乘此船而可行幸當有幸福、天皇乃隨神教遣命作船、此神船遂征新羅、【一云、于時此船大鳴響如牛吼、自然從對海還到此處不得乘、仍卜占曰、神靈所欲、乃留置】還來之時祠祭此神於斯浦、并留船以獻、亦名2此地1曰2美奴賣1、夏草は野島といはむ爲なり、夏草のしげき野とつゞくる心なり、ノシマノサキと點じたる本もあれど、注の一本にも野島我埼とあれば今の點を叶へりとす、さきの歌は三津埼を出づる時よみ、此歌は次でよまれたりと見えたり、一本に處女ヲ過テとは、第九に葦屋處女墓をよめる歌あり、彼由緒によりて兎原郡葦屋浦を處女とのみもいへるなり、
 
初、玉もかるみぬめを過て――
夏草とは夏草のしける野といふ心にてつゝけらる。此哥を、新拾遺集旅部にふたゝひ載らるゝには、敏馬をとしまとあり。としまともよまんに、みねめといふことたしかならすは、よまるましからねは、あやまりてとしまとも、むかしよりよめるなるへし。二字なから呉音をかりて用るなり。讃岐とかきてさぬきといひ、此集に、珍海とかきてちぬのうみとよめる例にて、敏をみぬとよめるは心得へし。此集に三犬女浦なとかけるにて、としまとよめるは、此集を始終よく見すして、一首一首をみてふと心得てあやまれりと知へし。此みぬめは津國なり。津も國に豐嶋郡もあれは、それらにもおもひわたれるなるへし。野嶋を八雲御抄に津の國と注したまへるは、あやまらせたまへるなり。此下に一本の哥を注するに、處女を過てとは、處女塚ある所をやかてをとめとのみいへり。末にいたりて、うなひをとめの事よめる哥おほけれはこゝに注せす
 
(13)251 粟路之野島之前乃濱風爾妹之結紐吹返《アハミチノノシマノサキノハマカセニイモカムスヒシヒモフキカヘス》
 
此發句を謬てアハミチノと點ぜるに依て古來此集をよく考見ずして近江なりと思ひ、東路の野島が埼などもよめる歌あり、玉葉に此歌を載せられたるにもあふみぢのとあり、彼國はもと淡海とかけるは鹽ならぬ海なればあはき海と云心なり、あはうみを波宇を反て約むれば布となる故に假名にもあふみと書き侍り、和名云、近江【知加津阿不三、】遠江、【止保太不三、】此爾國各江ある故に遠近の字をもて名を簡べり、されども近江を本とする故に彼をば必ずとほたあふみといへど此をばたゞあふみとのみ云習へり、古點あやまれども、アフミチとはかゝず、此をばアハヂノと四文字によむべし、第六に赤人歌に、淡路乃野嶋之海子乃云云、此をもアハミチと點ぜり、若今の歌を堅く執せば彼赤人の歌に鰒珠左盤爾潜出といひ、神龜二年冬難波宮へ行幸し給ふ時の御供にて歌の初にも其趣をよまれたるをば如何せむ、舊事紀云、先産生淡路洲爲v胞、意所不快故曰2淡道州1、即謂2吾恥1也、後こそ淡路とは書きなしたれ、元來名づくる意如此なれば、アハミチと點ずべきやうなし、和名云、淡路、【阿波知、】いまだあはみちとかける事外に見及ばず、仙覺いかで此點を破せられざりけむ不審なり、野島は履中紀に(14)も慥に淡路野島海人とかゝれて侍り、歌の意は濱風の紐を吹返すに付て其紐を結びし妹を思ひ出づるなるべし、
 
初、粟路の野嶋のさきの濱風に妹かむすひしひもふきかへす
粟路はあはちなるを、あはみちとかんなのあるは、昔の人はしめて點をくはへたるにはあらて、後の人もしもたらねはきく所もみしかくおほえ、路の字なれはみちとよむましきにあらねは、みの字をそへて後の人をして又後の人をまとはし侍るなり。第六、赤人の長哥に淡路の野嶋之海子乃とあるにさへ、あはみちとつけたり。しかれはみちといふ時、ちの字にこらねは今もすみてよみ、あはちといふ時もすむへし。神代起上云。及至産時、先以淡路洲爲朋、意所不快、故之曰淡路洲。これ神道家に尺する時、大なる國をうまんとおほしめすに、小洲のまつむまれけるゆへに、心よからすおほしめしけるゆへ、あはちといふは吾恥の心なりといへり。太平記にもおなしやうにかけり。けにも故といふ字をおもふにさも侍るへし。本來和國に文字なくして、もろこしの文字をかりて、文字にかゝはらす音訓うちましへ、時のよろしきにしたかひて、國史よりはしめてかゝれたれは、魚を得て筌をわすれ、兎を得て蹄をすつへき事、こに此國の書なり。吾恥の心なれは、いよ/\みの字あるへからす。千載集雜下顯輔卿の旋頭歌に、あつまちの野嶋の崎の濱風に、わかひもゆひし妹か顔のみおもかけにみゆとあるは、推量するにあはみちといふかんなにつき、又人丸のあふみにいたられける事もあれは、その時の哥にやとおもひてかくはよまれけるにや。近來の類字名所抄といふ物に、安房近江淡路有同名といへるは、三ケ國の名あひにたれは、根本の哥に目をよく付すして、後の人にまとはさるゝなり。哥の心は濱風のひもを吹返すにつきて、その紐をむすひし妹をこひしくおもひ出る心なるへし
 
252 荒妙藤江之浦爾鈴寸鉤白水郎跡香將見旅去吾乎《アラタヘノフチエカウラニスヽキツルアマトカミラムタヒユクワレヲ》
 
藤江浦、【六帖云、フチエノウラ、幽齋本同v之、】
 
荒妙の藤衣と云心につゞけたり、藤江は播磨なり、和名云、明石郡葛江、【布知江、】仙覺抄云、昔住吉大明神藤の枝をきらせ給ひて海上に浮べて誓てのたまはく、此藤のよりたらん所を我領とすべしとのたまひけり、然るに此藤浪に淘《ユラ》れてよりたなければ此を藤江浦と名づく、住吉の御領なり、此は風土記などの説にや、げにも和名を見るに、明石郡に住吉【須美與之】と云所の侍るは御領なる故に勸請しけるにや、第六に赤人の荒妙の藤井の浦とよまれたるも同所なり、第一に藤原を藤井ともいへる如く、一所を兩名に呼び來れるにこそ、鉤は釣の字の誤か、鉤にてつる物なれば義をもて書けるか、白水郎は此集に泉郎とかける所もあるは、人麻呂などの麻呂を麿と一字にも作りたるに同じきか、若は深く入て潜するものなれば、泉郎を引合て二字となせるか、日本紀にも二字なり、和名云、辨色立成云、白水郎、【和名阿萬、】今按云、日本紀云、用2漁人二字1、一(15)云用2海人二字1、歌の心は、此所の面白さにながめをれば旅人とはしらで釣する海人とや人は見んとなり、此下句後にも出でたり、又海人とや見らむとよめる歌いづれも此心なり、又按ずるに鹽燒あまの藤衣とよめる歌もあれば、今荒妙の藤江とつゞけたるを承て旅やつれしたる我なれば藤衣著たる海人とや見んとよまれたる歟、
 
初、あらたへのふちえかうら――
あらたへはぬのゝ惣名なり。あらたへの藤衣といふ心にてつゝけたり。第一卷あらたへの藤井か原といふ哥につきてくはしく尺せり。藤江の浦を、藤井の浦ともよめり。意通(ス)れはなるへし。鉤は釣の字のあやまりなるへし。たゝし鉤にてつれは、義をもてかけるにや。白水郎は、此集に白水をひとつにして、泉郎にもつくれり。もろこしにもいふ事歟。此國にて義をもてかけるにや。しからはそのふかく入こと黄泉にもいたるはかりなる故に、もとは泉郎にて、白水は泉の字を引分たるなるへし。此哥に似たる哥此集におほし。一本の白たへは白たへの藤衣なり
 
一本云|白栲乃藤江能浦爾伊射利爲流《シロタヘノフヂエノウラニイザリスル》
 
第十五には此上句にて再出でたり、
 
253 稻日野毛去過勝爾思有者心戀敷可古能島所見《イナヒノモユキスキカテニオモヘレバコヽロコヒシキカコノシマミユ》 一云潮見
 
和名云、印南、【伊奈美、】常にもいなみ野とこそ云ふを此集には兩樣なり、心戀シキはうらこひしきなり、印南野の面白くて過ぎうきに又かこの島も見ゆれば彼へも早く行きて見まくほしければ彼方此方に引かるゝ心をよめり、稻日野をといはずして野もといへるは可古の島も見ゆと云ふ心を兼ねたり、稻日野は印南郡、可古の島は賀古郡なり、かこと名付くる由は第七卷の終に、海中にかこそ鳴くなると云歌に應神(16)紀を引て注すべし、そこに明かなるべし、一云潮見とは此潮の字下にミナトともハマとも訓じたればカコノミナト見ユといへるか、カコノハマとよめるか、字のまゝにシホとよふてかこの嶋より舟に乘るべき潮時になりぬれば印南野を見捨てむなとりを思ふにや、幽齋の本には此潮を湖に作れり、又此前後を案ずる一云は一本云の本の字脱たるか、
 
初、いなひのもゆき過かてに――
常はいなみのといふを、是は稻日野とかけり。同韻の字にて通せり。哥の心は、いなみのもおもしろくて過うきに、又聞をよひて見はやと心に戀しかこの嶋もみゆれは、かれへも早くゆきて見はやとおもへは、いやしきことわさにいへる左右の手にむまき物もたるといふやうにて、かなたこなたにひかるゝ心をよめり。稻日野は印南郡、可古の嶋は賀古郡なり。かこと名付るよしは.第七卷のをはりに、なこの海を朝こきくれはうみなかにかこそ鳴なるあはれそのかこといふ哥の所に、應神奇を引て注すへし。それかこゝの名をも尺する注なり
一云潮見とは、ある本にかこのしほみゆとあるとなり。潮時のよくなりぬれは、いなみ野を見すてんなこりをおもふなり
 
254 留火之明大門爾入日哉措將別家當不見《トモシビノアカシノナタニイルヒニヤコキワカレナムイヘノアタリミユ》
 
不見、【官本亦云、ミデ、別校本云、ミズ、】
 
トモシ火は、アカシとつゞけむ爲なり、此卷下には居待月あかしと續け、第十五には我心あかしと續け、古今にはほの/\とと置く、皆時に隨ひ事によりて心に任せたるなり、此留火をトモシビと點ぜるやう未だ意得ず、大門は仙覺云、古點にはせとと和せり、せととは多くは迫門《ハクモム》と書きてよめり、せばき所と聞えたり、大門と書きてせとゝ和すべからず、仍今なだと和するなり、なだは、なと云ふは浪なり、たと云ふは高き義なり、阿波國風土記云、奈汰、【奈汰云事者、其浦波之音無止時、依而奈汰云、海邊者波立者奈汰等云、】播磨灘といへる心なるべし、よりて明石のなだと和するなり、今云、ナダのた〔右○〕は風土記の意立の略なるべ(17)し、不見をミユと點ぜるは傳寫の誤なるべし、右の二つの點に從ふべし、以上六首は石見へ下らるゝ時の歌なるべし、筑紫へ下らるゝ時の歌は下に別にあればなり、古今の朝霧に島隱れ行くとある歌も此時の歌の爰に漏れたるにや、
 
初、ともし火のあかしのなたに入日にやこきわかれなん家のあたりみず
ともし火のとは、此卷の下にいたりて、ゐまち月あかしのとにはといふかことくあかしといはんとてなな
なたは、阿波國風土記に、なたといふ事は、其浦浪の音やむ時なし。よりてなたといふ。海邊には浪の立をは奈汰といふといへり。これはかの國に奈汰の浦といふ所ありて、その名のゆへをいへるなるへし。こゝにをたといふに大門とかける、こゝろえかたし。もしこれは水門とかきて、みなとにや。家のあたりみゆとあるは、かんなをつけあやまれるなり。これまての六首は、石見の國へ下らるゝ時の哥なるへし。そのゆへはつくしへ下らるゝ時の哥は、下に別は二首あるゆへなり
 
255 天離夷之長道從戀來者自明門倭島所見《アマサカルヒナノナカチヲコヒクレハアカシノトヨリヤマトシマミユ》 一本云|家門當見由《ヤトアタリミユ》
 
今按從はゆ〔右○〕ともよむべし、倭島はたゞ大和の國なり、大和は伊駒山のつゞき南北に亘て見ゆべきにあらねど、そなたを見やるほどになれば心を歌の習なればかくはよめり、一本にはヤドアタリ見ユとさへよめるにて知るべし、倭島名所ならぬ證は此卷下に至て笠金村敦賀にてよまれたる歌の反歌にも、懸てしのびつ大和島根をとあり、第十五には豐前にしてよみ、第二十には奈良の京にしてよまる、それは※[手偏+總の旁]じて此國をいへり、但播磨國風土記云、明石驛家駒手御井者、難波高津宮天皇之御世、楠生2於其上1、朝日蔭2淡路島1、夕日蔭2大倭嶋根1云云、此によれば大倭嶋あるか、されども此風土記信じ難し、其故は明石より南に當れる淡路島にいかでか影の至るべき、又淡路島に陰の至る木ならば明石の東北五六里にもや倭島はあるべき、東北に當らば(18)嶋と云ふべからず、仮令あるとも難波を指して漕舟なればたゞ難波の方の見ゆるをぞ悦ぶべき、此歌は筑紫より上らるゝ時の歌なるべし、又今按注の中家門の門は能の字或は乃の字を誤るか、第十五には伊敝乃とある故なり、
 
初、天さかるひなのなかちをこひくれはあかしのとよりやまとしまみゆ
あまさかるはこゝには天離とかけり。又天放天疎なともかけり。ひなは田舍をいふゆへに都の方より遠くさかり身たれは、あまさかるといへり。天の字はいつくもともに天をいたゝきて居るゆへにいへり。此集にひなさかるともよみたり。文選王子淵聖主得賢臣頌曰。今臣僻在西蜀。史記張儀列傳曰。今叉蜀西僻之國、而戎〓之倫也。陶淵明雜詩曰。心遠地自偏。神代紀下に、下照姫の哥にも、あまさかるひなつめの云々。仲哀紀に神託の詞にも、天疎向津媛命焉云々。和漢ともにさかるは遠さかるなり。天原ふりさけみれはなといふ、さくるといふ詞もおなし。かの字をにこりて天のひきくさかれるといふ説は用へからす。古詩に相去萬餘里、各在天涯。今のあまといへる、この心なり。こひくれはを後にはこきくれはとあらためられて、皆人もさのみおほえたれと、下の句をみる時、こひくれはこそ心はふかく侍れ。石見よりはしめて都へのほらるゝ時の哥は、第二に載て、すてに注しぬ。これは筑紫へ下りてのほらるゝ時、前妻後妻はいつれにか侍らん、妻にわかれ、なれし都ををきての事なれは、いつかとくやまとへ歸りつかんとこひ/\てくるに、あかしのとよりやまとのかたのみゆるをよろこふ心、こひくれはといふ詞にてめつらしさもうれしさもいはすしてきこえ侍り、此やまと嶋といへるを、昔よりはりまにさいふ名所のあるかとおもひ、類字抄に淡路に載たる、ともにあやまりなり。つくしへ下らるゝ時の歌にも、やまとしまねはとあれは、明石の門といひ、稻見の海とよみあはせたるによりて、まとへるなり。やまとの國なる證は、此卷下に至りて、笠朝臣金村、角鹿津にてよまれたる哥に、玉たすきかけてしのひつやまと島根をといへり。いはんや反哥に、こしのうみのたゆひのうらをたひにしてみれはともしみやまとおもひつ。此歌はやまとゝのみいひて、島といはす。第十五に豐前國下毛郡分間浦にしてよめる哥にも、うな原のおきへにともしいさる火はあかしてともせやまとしまみんとよめるは、みなやまとの国なり。やまとはいこまの峯つゝき、南北にわたりてみえねと、そなたちかくみゆるを歌のならひ、まことにみゆるやうによむとも難すへきにあらず。そのうへ神代紀上云。及至産時、先以淡路洲爲胞、意所不快、故名之曰淡路洲。廼生大|日本《ヤマト》豐秋津洲云々。疏云秋津一洲云々。かゝれは、やまと嶋といふには、つの國かほちもこもれは、昔になすらへてみゆともいふへし
一本に、やとあたりみゆといへる、初に尺するかことし。第十五には、家のあたりみ喩とあり。門の字はのゝ字のあやまれるなるへし
 
256 飼飯海乃庭好有之苅薦乃亂出所見海人鉤舩《ケヒノウミノニハヨクアラシカリコモノミタレテイテミユアマノツリフネ》
 
飼飯海は越前なり、古事記中神功皇后の段に云、於是御子令v白2于神1云、於v我給2御食之魚1、故亦稱2其御名1號2御食《ミケ》津大神1、故於v今謂2氣比大神1也、これ應神天皇未た品陀皇子にておはしましける時氣比宮へ詣給ひけるに、大神皇子の爲に入鹿を多くよせて奉らせ給へる時の事なり、日本紀には笥飯とあるを此集には第十二にも今の如くかけり、ニハヨクとは風波なくなぎたる日を舟人の詞にいへり、苅薦は亂るゝ物なれば、集中後にも思ひ亂れてなどあまたつゞけたり、古事記|木梨輕《キナシカルノ》太子(ノ)歌云、加理許母能美陀禮婆美陀禮《カリコモノミダレバミダレ》云云、宇流波斯登佐泥斯佐泥弖婆《ウルハシトサネシサネテバ》佐泥斯佐泥弖婆、清少納言に舟をいへる所にもこと舟見やるこそいみじけれ遠きは誠に篠の葉を作て打散したるやうにぞいと能似たるとかけり、鉤はさきにも云ふ如く釣にや、
 
初、けひのうみのにはよくあらしかりこものみたれていてみゆあまのつりふね
飼は笥のあやまれるなるへし。日本紀にも笥の字なり。由緒はしらねと、文字のつゝき、筍にもる飯の心にてつけたる名たるへし。越前國敦賀郡なり。にはゝ、海上にて日よりのよきをいへり。苅こもはみたるゝ物なれは、みたるといふにつゝけんためなり。第十二にも、草枕旅にしをれはかりこものみたれて妹にこひぬ日はなし。古今集にも、かりこものおもひみたれて我こふと妹しるらめや人しつけすは。また釣をあやまりて鉤に作れり。和名集云。唐韻云。〓〓【責猛二音。和名豆利布禰】小漁舟也。今此歌によりてみるに、人丸、越前へもおもむかれけるにや。後の人こそ二首三首より五十首百首も、あるひは一字題あるひは結題なとにてよめは、見ぬさかひ、しらぬ所をおもひめくらさぬ事なくはよむなれ。昔の人はおほくはその所にのそみてよみ、物によすれとも、いとはるかなる所おほかたよます。いはんや此歌は眠前にみてよめる歌なれは、外にかんかふる事なしといへとも、越前におもむかれたりとしらる。こゝに一本と注するにも、第十五にも、むこの海のとあれは、前の歌に、あかしのとよりやまと嶋見ゆと下うれしく漕つゝくれは、むこの浦のあまともゝ、にはよしとにやまきちらしたるやうにつりふねの出たると、次第もよくつゝけと、第十五に注して、柿本朝臣人麿歌曰。けひのうみとあれは、二首ははなれたる歌なり
 
一本云|武庫乃海舶爾波有之伊射里爲流海部乃釣舩浪(19)上從所見《ムコノウミニハヨクアラシイザリスルアマノツリフネナミノウヘユミユ》
 
此歌玉葉雜二に武庫の浦の泊なるらしと載せらる、今此舶の字用なきに似たれば、古本泊にて泊ニハナラシなりけるを誤て舶に作りたるにや、仍第十五新羅使の誦せる古歌を考ふるに、爾並余久安良之とありて注に人麿歌曰とて初のけひの海とよめる歌此第二句を殘して引きたれば彼を證とすべし、泊に作るも非なり、又今按珠藻苅敏馬乎過と云歌より此方稻日野毛去過勝爾と云歌の注を除て一本云とある四首の注は、後人第十五を見て意を得ず此に注せるか、其故は新羅の使或は句を替へ、又飼飯海などは時に叶はねば武庫の海と改め、第一のあみの浦と云ふも其定に安胡乃宇良爾と誦しける故に彼卷に柿本朝臣人麿歌曰とて一々に注せり、彼時に叶へて仮に誦したるを以て撰者何ぞ此に注せむや、君子これを思へ、
 
鴨君足人香具山歌一首并短歌
 
作者の系圖未v詳、
 
(20)257 天降付天之芳來山霞立春爾至婆松風爾池浪立而櫻花木晩茂爾奥邊波鴨妻喚邊津方爾味村左和伎百磯城之大宮人乃退出而遊舩爾波梶棹尾無而不樂毛已具人奈四二《アモリツクアマノカクヤマカスミタチハルニイタレハマツカセニイケナミタチテサクラハナコノクレシケニオキヘニハカモメヨハヒヘテヘツカタニアチムラサワキモヽシキノオホミヤヒトノタチイテヽアソフフネニハカチサホモナクテサヒシモコクヒトナシニ》
 
木晩、【幽齋本作2木之晩1、】 鴨妻喚、【幽齋本又云、カモノツマヨビ】 退出而、【紀州本云、マカリテヽ、】
 
天降付はあめふりつくを米布の反牟なるを三五相通してアモリとはいへり、十九等には安母里とかけり、博物志云、泰山一曰2天孫1、言爲2天帝孫1也、主v召2人魂魄1、東方萬物始成、知2人生命之長短1、カグ山も此に准へて知るべし、霞立はカスミタツともよむべし、木晩茂爾とは青葉の茂りて木ぐらきなり、唐李嘉祐詩云、江花舗2淺水1、山木暗2殘春1、鴨妻喚は鴨のめを呼ぶと云心に點ぜるか、鴎の呼ぶと云心か、六帖には鳧の歌の中に鴎の歌をも入れたり、今按下の或本歌にも同じさまに書きたれば、鴨の妻を喚ぶなるべければ鴫ツマヨバヒとも和すべきか、梶棹モナクテ、韋應物詩云、野渡無v人船自横、鄭巣詩云、秋萍滿2敗船1、これら同じ感情あり、
 
初、あもりつく天のかく山
あもりつくは、あめふりつくなり。天くたりつくといふこゝろなり。米布切牟なれはあむりつくといふへきを、きゝのよろしからねは三五を通してあもりとはいへり。この集末にいたりて、第十九に家持のよめる長歌に、安母里麻之といへり。前後のつゝきなかけれはこゝにひかす。かく山は神代より名高き山なり 神代紀上云。亦以香山之眞坂樹爲鬘云々。風土記曰。天上有山、分而墮地、一片爲伊與國之天山、一片爲大和國香山。もろこしにもかゝることあり。博物志曰。泰山一曰天孫、言爲天帝孫也。主召人魂魄、東方萬物始成、知人生命之長短。あもりつくといへは、天上に有ける山のあまくたりけるなるへし。木のくれしけにとは、わかはのしけりて木くらくなるといへり。李嘉祐詩曰。江華錦淺元、山水暗殘春。鴨妻喚。かものつまをよふなり。あちといふ鳥ほおほく打むるゝものなれは、あちむらさはきとおほくよめり。たちいてゝあそふ舟には。韋應物詩曰。野渡無人船自横。鄭巣詩云。秋萍滿敗船
 
反歌二首
 
(21)258 人不榜有雲知之潜爲鴦與高部共舩上住《ヒトコカスアラクモシルシイサリスルヲシトタカヘトフネノウヘニスム》
 
潜爲は今按カヅキスルとよむべし、和名云、潜女、【加豆岐女、】イサリとは此集にもよめる例なし、高部は和名云、爾雅集注云、※[爾+鳥]、【音彌、一音施、漢語抄云、多加閉、】一名沈鳧、貌似v鴨而小、背上有v文、
 
初、潜爲
かつきすとよむへし。高部は、和名集云。爾雅集注云※[爾+鳥]【音彌一音施、漢語抄云多加閉】一名沈鳧。貌似鴨而ヽヽ背上有文
 
259 何時間毛神左備祁留鹿香山之鉾椙之本爾薛生左右二《イツシカモカミサヒケルカカクヤマノムスキカモトニコケムスマテニ》
 
香山之、【官本又云、カコヤマノ、同本或作2香久山之1、】 鉾※[木+温の旁]之、【官本又云、ホコスキノ、】 薛生、【官本又云、コケオフル、】
 
發句は今按イツノマモとよむべきか、其故は何時を此集にイツとよみ.何時鹿などかきてイツシカとよめる時も何時はいつなり、何の一字をイツとよめる事なし、いつのまもは、いつのまにかもなり、神サビ、此所にては物ふりたる心也、鉾※[木+温の旁]はホコスギとよめるに依るべし、※[木+温の旁]は直き木にて、鉾を立てたるさまに見ゆればなり、※[木+温の旁]の字は和名杉の字の下の注に云、今按俗用2※[木+温の旁]字1非也、※[木+温の旁]音於粉反、柱也、見2唐韻1、昔は通して此字を用ひたるか、顯宗紀云、石上振之神※[木+温の旁]、【※[木+温の旁]此云2須擬1、】此集第十九にすぎの野て云所の名にも此字を用ひたり、歌の心は、香山の杉の代を經て苔むしたるやうに、いつの間にか此繁華なりし處のかくまでは物古りつらんとなり、
 
初、鉾※[木+褞の旁]
ほこすきとよむへし。むすきとよみたれとも、音によみてこゝろは和訓を用る事ことはりたかへり。杉のたてるかなをくて、ほこのやうなれはほこすきといふなるへし。※[木+褞の旁]の字を椙につくれるはあやまれり。※[木+褞の旁]の字、すきとよむ事、和名集にも未詳とあれともそのかみかんかふる所ありけるにや。日本紀にもおなしく用たり
 
(22)或本歌云
 
260 天降就神乃香山打靡春去來者櫻花木晩茂松風丹池浪※[風+火三つ]邊津返者阿遲村動奥邊者鴨妻喚百式乃大宮人乃去出※[手偏+旁]來舟者竿梶母無而佐夫之毛榜與雖思《アモリツクカミノカクヤマウチナヒキハルサリクレハサクラハナコノクレシケミマツカセニイケナミタチテヘツヘニハアチムラサワキオキヘニハカモメヨハヒテモヽシキノオホミヤヒトノユキイテヽコキコシルフネハサヲカチモナクテサフシモコカムトオモヘト》
 
打靡は春の枕詞にて集中に多し、霞む意なるべし、今按六帖にも此集の他の歌を載するにうちなびきとあり、後の人もさよみたれどウチナビクと點ずべし、其證は第五第二十に有知奈※[田+比]久波流《ウチナビクハル》、宇知奈妣久春《ウチナビクハル》などあまた所かけり、こゝの如く書けるも多し、皆假名にかけるを證としてよむべし、打なびく春とつゞくは春の枕詞と聞え、打なびきど云つれば押なべてと云ふやうなれば、春ならで秋冬にもつゞけぬべし、鴨妻喚は上の如し、榜與雖思は舟を榜出て遊ばむと思へども、ありし昔を思へば物がなしくてさるわざもせずとなり、榜は和名に佐乎とあるをコグとよむは、水手はかこなるをこぐともよめる加く、佐乎は舟を行《ヤ》る具なれば義訓せるなり、
 
(23)右今案遷都寧樂之後怜舊作此歌歟
 
此は香具山歌といへども舊都を感じたる讀みやうなればかくは注せられたり、其に取て香具山宮は第二卷人麿の歌に高市皇子尊の造らせ給ふ由よまれたれば、此はそれをよめるにはあらで、藤原都なりし時は官人も香久山に登り埴安池に臨みなどして遊びし事を思ひてよめるなるべし、
 
柿本朝臣人麻呂獻新田部皇子歌一首并短歌
 
天式紀云、藤原大臣女氷上娘弟五百重娘、生2新田部皇子1、聖武紀云、神龜五年秋七月、勅2一品大將軍新田部親王1授2明一品1、七年九月壬午、一品新田部親王薨、天渟中原瀛眞人天皇之第七皇子也、
 
初、新田部皇子
天武紀云。天式紀云。藤原大臣女氷上娘弟五百重娘、生新田部皇子。聖武紀云。神龜元年二月、二品新田部親王授一品。五年秋七月、勅二品大將軍新田部親王授明一品。天平三年十一月丁卯、初置畿内惣管諸道鎭撫使以一品新田部親王、爲大惣管、從三位藤原宇合、爲副惣管。天平七年九月壬午一品新田部親王薨○
 
261 八隅知之吾大王高輝日之皇子茂座大殿於久方天傳來自雪仕物徃來乍益及常世《ヤスミシシワカオホキミノタカテラスヒノワカミコノシケクマスオホトノヽウヘニヒサカタノアマツタヒコシユキシモノユキヽツヽマセトコヨナルマテ》
 
茂座、【幽齋本云、シキイマス、別校本云、シキマセル、】
 
(24)茂座は今按反歌に依るに此上に二句許り落ちたるか、今私に補て云はゞ、釣山嶺之木立登などの意なるべし、大殿をホホトノヽと點ぜるは書生の誤なり、オホトノヽと改むべし、此大殿といへるは反歌によるに矢釣山の山本にある親王の宮なるべし、久方夫傳來自は天傳は日の異名なり、第二に天傳入日刺奴禮とあるに付て注せしが如し、凡第二第七第十三第十七今と五處に天傳といへるは皆日に付ける詞なり、來自は不來なり、山に礙られて、日影のあたらじとなり、然れば於の字の點をウヘハと改むべし、雪仕、折節冬にて雪もふれゝばななり、往來乍益と云はむ料にて日の當らぬ雪は久しく殘れば及常世とよそへて祝ひ奉れり、往來ツヽとは年月なり、第九に詠仙人形歌に常之陪爾夏冬往哉とよめるが如し、遊仙窟に安隱をマセとよめり、今のマセも其意なり、
 
初、茂座
しけくますはあやまれり。しきませるとよむへし。雪しものは雪といふ物なり。ませはましませなり。遊仙窟に、安穩をませとよめり
 
反歌一首
 
262 矢釣山木立不見落亂雪驪朝樂毛《ヤツリヤマコタチモミエスチリマカフユキモハタラニマヰテクラクモ》
 
第十二には矢釣河ともよめり高市郡なり、顯宗紀云、乃召2公卿百寮於近飛鳥八釣宮1即2天皇位1、古事記には八瓜《ヤツリ》とかけり、或者云、八釣宮は山田村と大原の中路、大原より(25)四町ばかり北に當りて俗にやどり村と云此なりといへり、然れば其邊の山なるべし、落亂はフリマガフともチリミダルともよむべし、下句は古點ユキノウサギマアシタタノシモなりけるを仙覺今の點に改められたる由彼抄に見えたり、今按上句古點はイコマヤマコダチモミエズチリミダレなりけるを今の如く改められたるは仙覺の功なり、ハタラはまだらなり、下句は新古の點共に意得がたし、先づ古點に驪をウサギマとよめるは思ふに驪の字誤れる歟、次に新点にハタラとよまれたるは如何なる字書によられたるか、和名云、毛詩注云、驪、【音離、漢語抄云、驪馬、黒毛馬也、】純黒馬也、又設文にも馬深黒色と注す、はたらはまだらなれば馬斑毛など云注あらばこそハタラとは和せめ、集中に雪をハタレ、ハタラなどよめる事多ければ推量にて點ぜられたるにや、今按ユキニクロコママヰテクラクモと和すべきか、水碧鳥逾白と云ふが如く雪の白妙なるにあひて黒駒のいとゞ黒く見えむに騎てまゐで來むは眞ありぬべし、
 
初、矢釣山
此集にやつり河ともよめり。顯宗紀云。乃召公卿百寮於近飛鳥八釣宮、即天皇位。雪もはたらは、またらなり。はたれはたらにおなし。雪のはたれにふるにもまいりきてつかふとなり。雪もはたらの、あしたゝのしもとよむともたかふまし
 
從近江國上來時刑部垂麿作歌一首
 
作者の系譜未v詳
 
263 馬莫疾打莫行氣並而見?毛和我歸志賀爾安良七國《ウマナイタクウチテナユキソイキナメテミテモワカコムシカニアラナクニ》
 
(26)氣並而は今按ケナラヘテと和すべきか、後に日並而夜ならへてと云詞あり或は第二の磐城皇后の御歌に付て注する如く旅をいへば度々來て見て歸るべき我にてもなければ、馬をな打て催しそ、今暫心とめて見むとなり、歸はカヘルともよむべし、コムとよめるもたがはず、
 
初、いきなへて
これは馬をならふれは馬のいきもならひてつくゆへにいふなるへし。此下に、田口廣麿死之時、刑部垂麿作歌とて載たる歌をみれは、得意の人と見えたり。もしその事なとを感してもよめるにや。第二に大伯皇女の、なにゝかきけん馬つからかしにとよみたまへるに似たり。歸の字かへるとよむへし
 
柿本朝臣人麻呂從近江國上來時至宇治河邊作歌一首
 
264 物乃部能八十氏河乃阿白木爾不知代經浪乃去邊白不母《モノヽフノヤソウチカハンアシロキニイサヨフナミノユクヘシラスモ》
 
網代は氷魚を取る所なり、四の角に立たる柱網代木なり、イザヨフは徘徊と書けり、ヤスラフともよめり、たゞ流れにながるゝ所よりは網代木にふれて少やすらふ心なり、人の世の生住異滅の四相の中に暫く住するよと思ふに程なく異相に遷され行くを水の網代木にふれて暫やすらふと見ゆるがやがて流過ぐるに感じてよまれたり、第七に同じ人、みなわの如し世の人我は、又みなわの如く世をば我見るとよめるに合せて見るべし、論語云、子在2川上1曰、逝者如v斯不v舍2《トヽメ》晝夜1、志邊は六帖にも袖中抄にもよるべとあれど今の點に從ふべし、
 
初、ものゝふのやそうち川――
ものゝふは氏姓おほきものなれは、やそうち川とつゝけたり。八十は數のかきりにて、おほきことには皆やそと讀り。また此集に只ものゝふのうち川わたりともよめり。これはものゝふはみな氏姓あれはなり。舊事紀に、天孫あまくたり給ふ時に、兵杖を帶して供奉して、天の物部廿五部人下れり。當麻物部、芹田物部、馬見物部、久目物部、足部等なり。そのものゝふの末々相わかれては、數しらぬものゝふなるへし。應神天皇の御時、吉野よりものゝふ參れり。其名をやそ氏と申と奏す。みかとそれに所を給りて宇治に住しめたまふ。よりてものゝふのやそうち川とはいふなりといへる説は、とるにたらぬことなり。歌の心は、うち川のいさきよくおもしろきにのそみて、なかめを、興きはまれは、かなしみたるならひにて、あしろ木のもとにしはしいさよふとみゆる浪の、ゆくゑもしらすなるに感して、人の世にふるほともこれにことならぬよと觀するなり。論語曰。子在川上曰。逝者如斯夫、不舍晝夜。今の歌此心なり。昔より此詞を孔子の逝川の歎とて、詩文にもその心を心を用きたるを、宋儒にいたりて、自漢以來、儒者皆不識此義とて、物生してきはまらぬ喩にこゝろをとれり。孟子に、徐子曰。仲尼丞稱於水、曰水哉水我、何取於水也。孟子曰。原泉混々不舍晝夜、盈科而後進放於四海、有本者如是、是之取爾。これは宋儒のいへるに似たれとも、聖人の喩を取こと、なんそ一隅を守らん。すてに逝者如斯夫といへり。生々の窮なきをいはんとてならは、此發端の詞かなはすや。春秋の微言にいたりては、游夏の輩も一字をたすくる事あたはされは、春秋にあらすとてかろ/\しく語を下さんや
 
長忌寸奥麻呂歌一首
 
(27)265 苦毛零來雨可神之埼狹野乃渡爾家裳不有國《クルシクモフリクルアメカミワノサキサノノワタリニイヘモアラナクニ》
 
雨カは雨かななり、神之埼を古來大和の三輪の明神おはする所と沙汰し來れど、彼邊に狹野の渡と云所も聞えず、又彼地は家などまたくなき所にもあらず不審なり、今按第七に紀の國の名所を前後よみたる中に、神前《ミワノサキ》あらいそもみえずとよめる歌あり、又此卷下に至て赤人の歌に、佐農能崗將超公爾《サノヽヲカコユラムキミニ》とよめる所は紀州にありと定たるに、神武紀云、遂越2狹野1到2熊野神邑1、かゝれば彼是紀州と思しき上に、或僧の紀州に縁ありて度々徃來せしが語り侍りしは、熊野より西の海邊にみわさき、さのとて兩處つゞきて侍ると申しき、彌疑なき事なり、神邑もみわのむら、みわのさとなど云ふにてもや侍らむ、
 
初、くるしくもふりくる雨かみわのさきさのゝわたりに家もあらなくに
雨かは、あめかなゝり。此みわのさきを大和のみわといひきたれと、さのゝわたりといふところもきかねは、みわのさきといふにつきて、三輪の明神まします所ならんとおもひていへるなるへし。それならは、みわの山にてこそあらめ、みわのさきといへるもおほつかなし。今案、是はふたつなから紀州の名所なり。ある僧の、紀州に縁ありてたひ/\まかりけるかかたれるは、熊野にちかき海へにみわさきといふ所ありて、やかてとなりてさのといふ所あり。ともに家もあまたある所なりと申き。これによりておもふに、第七卷に、神前あらいそも見えす浪たちぬいつこよりゆかんよき道はなしに。此哥のまへにあまた紀の國の名所をつゝけてよみて、さて此歌につゝきたれは、かの或僧のかたりしみわさきなるへし。此卷下に至て、赤人の歌に、秋風の寒きあさけをさのゝ岡こゆらん君にきぬはかさましをとよめるは、牟漏郡なりとさたむ。そのうへ、日本紀第三云。遂越狭野到熊野神邑。しかれはおきまろ、熊野なとにまうつる道なとに、雨にあひてよまれけるなるへし
 
柿本朝臣人麻呂歌一首
 
266 淡海乃海夕浪千鳥汝鳴者情毛思努爾古所念《アフミノウミユフナミチトリナカナケハコヽロモシノニイニシヘオモホユ》
 
夕浪千鳥とは夕浪につれて立さわぐ千鳥なり、シノニとはしげくなり、心モとは夕浪子鳥のさわぎのしげきに懸ていへり、古所念とは第一卷にありし長歌の如く近(28)江の宮の昔をしのぶなり、上のいざよふ浪も千鳥網代同時の物なれば此歸るさによまれけるなるべし、
 
初、心もしのに
しけくなり。いにしへおもほゆは、天智天皇の御時なり
 
志貴皇子御歌一首
 
267 牟佐佐婢波木末求跡足日木乃山能佐都雄爾相爾來鴨《ムサヽヒハコスヱモトムトアシヒキノヤマノサツヲニアヒニケルカモ》
 
ムサヽビは※[鼠+吾]鼠なり、別に注す、木末は此集後の例コヌレとよむべき歟、古乃宇列と云べきを乃宇反奴なれば約めて、コヌレと云ふなり、山ノサツヲは※[獣偏+葛]師なり、此歌はむさゝびの取れたるを御覧じてなどよませ給へるか、又人は物に求あるより禍の出來る事もあればさやうの事に思食すゆゑありてよみ給へるか、又按ずるに上の垂麿歌より下門部王歌に至るまで旅にてよめるを一類とすと見えたれば、是も旅にて御覽じける事をよせたまへるか、若くは次の長屋王と人がらを類するか、
 
初、むさゝひは。和名集云。本草云、〓鼠【上音力水反、又力追反】一名〓鼠【上音吾、和名毛美俗云無佐々比】兼名苑注云。○〓鼠飛生五枝鼠なとゝもいふ。五|枝《キ》あれともいつれも長せぬゆへに常にうゆれは、朗詠集にも、飢〓性躁〓々乳とつくり、山谷か詩にも、五枝〓鼠笑鳩拙とも作れり。此集第六第七にまた讀り。よき梢もとむとて、さつをに見つけられてとらるゝなり。さつをはさきに、はや人のさつまのせとゝいふ歌に注せるかことし。かり人なとをもいふ。今はそれなり
 
長屋王故郷歌一首
 
268 吾背子我古家乃里之明日香庭乳鳥鳴成島待不得而《ワカセコカイニシヘノサトノアスカニハチトリナクナリシママチカネテ》
 
右今案從明日香遷藤原宮之後作此歌歟
 
(29)此セコは妻なり、長屋王の妻は草壁太子の御女吉備内親王にて文武天皇の御妹なり、第十一に鶉鳴人の古家《イニシヘ》にともよめり、昔と云ふのみならずいにしいへにて故郷の心なるべし、島は河の洲なり、千鳥は河洲に遊ぶものなるに、水などまさりて河洲の隱れたる時は、居處なきまゝに其島の出來るを待かぬるなり、明日川近き家のふるさとゝ成て人影もなければ、島待千鳥の所得がほに庭などに來て鳴くなり、注の今按誠に然るべし、我ふるさとゝはのたまはで吾背子がとあるは歌なり、
 
初、わかせこかいにしへのさとのあすかにはちとりなくなり嶋待かねて
此せこは妻なり。いにしへの里はふるさとをいふ。此集に、うつらなく人のいにしへにとよめる歌もあり。こゝにも古家とかけは、昔といふ心より外に、いにしへといふ心あるか。嶋は河の洲なり。ちとりは河洲のかくれたる時は居所なきまゝに、その嶋の出來るを待かぬるなり。わかせこかすみし明日香川ちかき家の、ふるさとゝなりて人影もなけれは、河洲を待かぬるちとりの、所得かほに庭なとにきてなくなり。注の今案、さも侍るへし。わかふるさとゝはのたまはて、わかせことのたまへるおもしろし。長屋王の妻は、草壁の太子の御女.吉備内親王なり
 
阿倍女部屋部坂歌一首
 
屋部坂は大和にあるべし、三代實録第三十七云、高市郡夜部村云云、此處歟、未2考得1、此端作舊本に上の注に引續けてかけるは誤なり、
 
初、阿部女郎屋部坂歌一首
屋部坂いつれの國ともしらす
 
269 人不見者我袖用手將隱乎所燒乍可將有不服而來來《シノヒニハワカソテモチテカクサムヲヤケツヽカアラムステキニケリ》
 
發句の讀やうは義訓なり、第十二にもあり、此歌は意得がたき歌也、推量するに屋部坂歌とあれども旅に出づとて屋部坂にてよめるなるべし、此坂を越て彼方に下らば故郷さへ見えじと思ひて顧る時、さらぬだに墓なき女の心に此所を限りとなが(30)めやれば思ひに戀に胸もやくるばかり悲しければ、さすがにそれも人目を耻らひて、衣だにあまたもてこましかば厚く取著て胸の火をもつゝみ隱して行くべきに、衣もあまたは著てこねば燒ともやけながら得隱さでや行かむと別れのやるかたなさをよめるにや、第二に持統天皇の、もゆる火も取てつゝみてとよませ給ひ、第十二に衣しも多くあらなむ取替て、著てばや人の面忘るらむとある歌など引合せて見るべし、
 
初、しのひにはわか袖もちてかくさむをやけつゝかあらんきすてきにけり
これは心得かたき歌なり。推量するに遠き旅なとに出とて、屋部坂にいたりてこゆる時、此坂をこえはてゝかなたに下らは、ふるさとさへ見えしとおもひてかへりみる時、さらぬたにはかなき女の心に、こゝをかきりとなかめやれは、おもひにこひに胸もやくるはかりかなしけれは、さすかにそれも人めをはちらひて、衣たにあまたもてこましかは、あつくとりきてむねの火のもえ出とも、つゝみかくして行へきに、衣もあまたはきてこねは、やくともやけなから得かくさてやゆかんと、わかれきてふるさとさへ見えすなるへきおもひの、やるかたなさをよめるなるへし。第二に、もゆる火もとりてつゝみて袋にはいるといはすやおも知なくも。又此後に、衣しもおほくあらなん取かへてきてはや人のおもわすれなん。これらをもて見合すへし。屋部坂の歌とあれとも、屋部坂にしてよめる歌と意特へし
 
高市連黒人※[羈の馬が奇]旅歌八首
 
270 客爲而物戀敷爾山下赤乃曾保舩奥※[手偏+旁]所見《タヒニシテモノコヒシキニヤマモトノアケノソホフネオキニコクミユ》
 
山下は仙覺云、地名なり、筑後國にあるにや、今按下の七首のつゞきを見るに東海道の内尾張より次第に都の方へ歸る歌なれば、尾張守の屬官などにて任はてゝ上る時よめる歟、此歌も筑後の山本郡にはあるべからす、たゞ常の山本なるべし、赤ノソホ舟は赤くぬりたる舟なり、後にもよみ、又あからを舟、さにぬりの舟などもよめれば別に注す、さらぬだに旅の身にして物戀しきに、礒邊の山もとより朱のそほ舟の奥にこぎさかるを見るにも由ある人の別を重ずるや乘つらむなど思ひやる心な(31)り、
 
初、旅にして物こひしきに山下のあけのそほふねおきにこくみゆ
舟をぬりていろとれるすこしき舟をあけのそほふねといへり。第十三第十六にもよめり。さらぬたに旅にしては心ほそくて物こひしきに、磯邊の山もとよりよしある人の乘けなる朱のそほ舟のおきにこきさかるをみるにも、我とおなしく離別をおもむする人や乘つらんなと、おもはぬ事なくかなしき心をいへり。又山下は此集に、山下ひかりにしきなすとよめるも秋山の下ひか下とあるも、下ひは下ひかる心にて、もみちと聞ゆれは、あけをもみちになしてつゝけんとて山下といふ歟
 
271 櫻田部鶴鳴渡年魚市方塩干二家良進鶴鳴渡《サクラタヘタツナキワタルアユチカタシホヒニケラシタツナキワタル》
 
櫻田、紀國と云説あれど、年魚市方、尾張なればつれて尾張なるべし、景行紀云、初日本武尊、所佩《ハカセル》草薙横刀、是今在2尾張國|年魚市《アユチ》郡熱田社1也、和名集云、尾張國愛智【阿伊知、】郡、催馬樂云、櫻人其舟ちゝめ島津田を、十町《トマチ》作れる見て歸り來む、櫻は地の名にて、櫻人と云ふは難波人の類なるべし、其舟といひ嶋津田といへるは、櫻は田多き嶋にて今櫻田と云へると同處にや、
 
初、櫻田へたつなきわたるあゆちかたしほひにけらしたつ鳴わたる
此櫻田を紀伊の國なりといへるはあやまれり。あゆちかた尾張なるうへは櫻田もをはりなり。神代紀云。其※[虫+也]飲酒而素戔嗚尊拔剱斬之。至尾時、剱刃少缺。割而視之、則剱在尾中、是號草薙。此今在尾張國吾湯市村、即熱田祝部所掌之神是也。景行紀云。初日本武尊所佩草薙横刀、是今在尾張國年魚市郡熱田社也。和名集云。尾張國愛智【阿伊知】郡。ふたゝひたつなきわたるといへるは、古歌例おほし。丁寧なるゆへなり
 
272 四極山打越見者笠縫之島※[手偏+旁]隱棚無小舟《シハツヤマウチコエミレハカサヌヒノシマコキカクルタナヽシヲフネ》
 
四極山を八雲には備前と載せ給ひ、近比の類字名所抄には豐後|大分《オホイタ》【於保伊多、】郡に載す、考ふる所ありけるにや、笠縫を古今には笠結とあり、八雲に笠縫は豐前に、笠結は豐後に載せたまへり、類字には笠結豐後大分郡と注す、和名に大分郡に笠祖笠和など云所あれば、笠縫と名づくるも故ありけるにや、今按此歌前後を引合せて案ずるに東海道の内參河尾張より此方をよめる中に此歌のみ西海道をよまむこと不審な(32)り、和名集云、參河國|幡豆《ハツ》郡磯泊、【之波止、】是今の四極と同じき歟、然らば笠縫島も知るべし、孝徳紀に河邊臣磯泊と云人あり、又住吉にも磯齒津あり、第六卷に見ゆべし、
 
初、しほつ山うちこえみれは
しほつ山笠ぬひの嶋を、八雲御抄には、豐前に載たまひ、ある物には豐後といへり。古今集第二十には此歌をのするに、かさゆひの嶋とありて、かさぬひかさゆひ、兩方なから用ゆ。いかにしてかさぬひと名付とはしらねと、かさゆひはうたひあやまり、かきあやまれるなるへし
 
273 礒前榜手回行者近江海八十之湊爾鵠佐波二鳴《イソサキヲコキタミユケハアフミノウミヤソノミナトニタツサハニナク》 未詳
 
榜手回行者、【官本又云、コキテメクレハ、紀州本同v之、袖中抄云、コキマヒユケハ、】 鵠、【紀州本作v鶴、】
 
囘の字はタムとよみたれど上に手あれば玉葉等の訓然るべきか、コギテタミユケバともよまるべし、袖中抄の点は用ゆべからず、八十ノ湊はたゞ湊の多かるなり、第七に近江の海みなとはやそぢとも、亦十三に近江の海泊やそありともよめり、ひとつの名所とするは非なり、鵠は和名云、野王案鵠、【胡篤反、漢語抄云、古布、日本紀私記云、久久比、】大鳥也、かくはあれども亦鶴と通し用ゆるなり、史紀陳渉世家云、陳渉大息曰、嗟乎燕雀安知2鴻鵠之志1哉、【索隱曰、尸子云、鴻鵠之〓羽翼未v合而有2四海之心1、是也、鴻鵠是一鳥,若2鳳皇1、然非3鴻鴈與2黄鵠1也、鵠、音戸酷反、】五雜爼云、鵠即是鶴、漢書黄鵠下2建章1而歌、則曰2黄鶴1是已、歌の下の未詳の注は衍文か、今案漢書に依るに索隱は誤れり、鴻者雁之大者也、鴻は鶴、今案索隱に鴻鵠是一鳥といへるは誤れり、鴻鵠といへるにて燕雀に對す、遊仙窟注引琴操云、商陵穆子娶v妻云云、援v琴而歌爲別鶴操、鶴或作v鵠、文選劉孝標辨命論云、朝秀晨終、龜鵠千歳年之殊也、
 
初、いそさきをこきたみゆけはあふみの海やそのみなとにたつさはになく
玉葉集旅部には、こきてめくれはあふみちやと改らる。八十のみなとを所の名とおもへるはあやまれり。第十三に、あふみの海とまりやそあり、やそしまの島のさき/\なとよめるにて意得へし。鵠は、和名集云。野王案鵠【胡篤反、漢語抄云、古布、日本紀私記云、久久比、】大鳥也。いまは此こゝろにあらす、鶴なり。史紀陳渉世家曰。陳渉大息曰。嗟乎燕雀安知鴻鵠之志哉【索隱曰。尸子曰、鴻鵠之〓羽翼未合而有四海之心是也。鴻鵠是一鳥若鳳皇然。非鴻鴈與黄鵠也。鵠音戸酷反。】此索隱に鴻鵠是一鳥といへるは誤なるへし。鴻鴈を鴻鵠といへることを聞す。陳渉か詞も、燕と雀とのちひさき物ふたつをあけて、鴻と鵠とのおほきなる鳥ふたつに對して、およそ小人は大人の志をしらぬにたとふときこゆ。又尸子の鴻鵠といへるも、鴻鵠とふたつをいへるに妨なし。五雜爼云。漢書黄鵠下建章而歌、則曰黄鶴是已。遊仙窟注、引琴操曰。商陵穆子娶妻。○乃援琴而歌、爲別鶴操、鶴或作鵠。文選劉孝標辨命論云。朝秀晨終、龜鵠千歳年殊也。未詳と注したるは、黒人か歌に、決定せさる歟。もしは此二字衍文歟
 
(33)274 吾舩者牧乃湖爾※[手偏+旁]將泊奥部莫避左夜深去來《ワカフネハヒラノミナトニコキハテムオキヘナユキソサヨフケニケリ》
 
ヒラノ湊は近江なり、牧は枚に改むべし、枚は箇也と注して數なれば、何にても一つ二つと云ふをは一枚二枚とこそ云ふなるを、此國には紙板などのひらき物を一枚など云ひ習へり、古より然るにや、日本紀にも此字をヒラとよみ、延喜式に河内のひら岡をも枚岡とかけり、莫避は今按傍例に依るにナサカリとよむべし、或はサカルナとも、
 
初、わかふねはひらの――
牧は枚の字のあやまれるなり。河内のひらをかにも枚岡とかけり。枚は箇也と注して、數なれは何にてもひとつある物は、ふたつやある物は二枚とそいふめる。此國には俗語にもひらき物のたくひを、紙一枚板一枚なとやうにいひならはせり。こきはてむはこきとめんなり。莫避は、なさかりともさかるなともよむへし。さかるなといふことを、第五になさかりといへり
 
275 何處吾將宿高島乃勝野原爾此日暮去者《イツコニカワカヤトリセムタカシマノカチノヽハラニコノヒクレナハ》
 
吾將宿、【六帖云、ワレハヤトラム、】
 
高島は近江國の郡の名彼郡に別に高島あり、今の高島※[手偏+總の旁]別いづれといふ事を知らず、
 
初、高島のかち野は近江の高島郡なり
 
276 妹母吾母一有加母三河有二見自道別不勝鶴《イモヽワレモヒトツナルカモミカハナルフタミノミチニワカレカネツル》
 
妹と我と相思ふ心のひとつになりてふたつなければにやあらむ、三河のふたみに(34)ゆかむと思ひて別れむとするに別れかねけるとなり、二見を二身になしたるか、さらずともふたみと云名よりヒトツナルカモとはいへり、文選古詩云、以v膠投2漆中1、誰能別2離此1、今按自道はミチユともよむべし、
 
初、いもゝ我もひとつなるかも三河なるふたみのみちにわかれかねつる
いもとわれとあひおもふ心の、ひとつになりてふたつなけれはにやあらん。三河のふたみにゆかんとおもひてわかれんとするに、わかれかねけるとなり。ふたみといふ名よりひとつなるかもといへり。古詩云。以膠投漆中、誰能別離此。自道は、みちゆともよむへし
 
一本云|水河乃二見之之道別者吾勢毛吾毛獨可毛將去《ミカハノフタミノミチニワカルレハワカセモワレモヒトリカモユカム》
 
此歌によれば、黒人と妻と諸共に東路に出立て三河の二見と云所より道を替て別れけるか、又是は別本なればワガセといへるは前の歌の妹とは見ずして兄弟朋友と中路に別るヽ心にや、
 
277 速來而母見手益物乎山背高槻村散去奚留鴨《トクキテミテマシモノヲヤマシロノタカツキムラノチリニケルカモ》
 
山背は大和の國四面山なるに其北に當れば履中紀の心にて山のうしろと云ふをう〔右○〕を略したる名なり、延暦十三年七月より山城に改めらる、高槻村今は世に聞えぬにや、高き槻の木あるに依て名を得たるか、散とは槻のもみぢをいへり、
 
初、山背の高槻村
山しろは山うしろなり。あふみの國を山のおもてにして、山のうしろの國といふ義なるを.延暦十三年七月に、山城とはあらためてかゝれけるなり。高槻村いつれの郡といふ事をしらす。今高槻といふは津國なり。ちりにけるかもはもみちを惜むなり
 
石川少郎歌一首
 
(35)278 然之海人者軍布苅塩燒無暇髪梳乃少櫛取毛不見久爾《シカノアマハメカリシホヤキイトマナミツケヲクシヲトリモミナクニ》
 
髪梳、【新勅撰云、クシケ、校本又點同v之、】
 
シカ故築前糟屋郡なり、和名に志阿とあるは阿※[言+可]相通とて悉曇家に殊に習ある由なり、さらでも通ずればしかなるべし、仲哀紀云、又遣2礒鹿《シカノ》海人名草1而令v覩、軍布をめ〔右○〕とよむやう未v詳、今按混渾通用するを思ふに昆と軍と音近ければ昆布にや、昆布は和名比呂米、一名衣比須女なり、又軍中兵粮の羮の料にめをも藏めおくと申せば其心にや、第四の句仙覺抄に古點にはカミケヅリノヲグシと點ず、其和いたく長しとて大隅風土記を引てクシラノヲグシと和すべしと申されたれど、隼人の俗語を都人のよむべきにあらず、今の點はやさしけれど髪梳を黄楊とよむべき理なし、但伊勢物語につげのをぐしもさゝずきにけりと云ふは、今の歌をとりてよめりと見ゆれば、古も此歌をつげのをぐしとよみけるか、亦詞を替て用ひたるか知りがたし、くしげとよめるも櫛笥を髪梳とは書くべからぬにや、櫛入れぬ篋をもくしげと云ふは櫛笥を本として云ふか、假令桶を和語に乎介と云ふは麻笥《ヲケ》より初まる名なる故に神祇令に大神宮に奉る物の中に線柱水桶《タヽリヲケ》などいへり、麻筍を水桶とかゝれたる(36)にて知るべし、然れば今按梳の字もくしとよめばクシノヲグシモと讀べきか、櫛はけづる具なれば髪梳とも書くべきにや、後の人定むべし、
 
初、しかのあまはめかり――
日本紀第九云。又遣磯鹿海人名草而令覩。めを軍布とかけるはいまたかんかへす。軍昆音相近けれは、昆布なとにや。又あらめは軍中の兵糧にもそへてたくはへ置よしなれは、その心にてかけるにや。髪梳の少櫛は、くしけのをくしとよむへし。つけは黄楊とかきて、櫛つくる材なれは、髪梳とあるを黄楊とよまんは義あたらすして無理なり。伊勢物語に、なたのしほやきいとまなみとある歌はこれをとれり
 
右今案石川朝臣君子號曰少郎子也
 
元明紀云、和銅六年正七位上石川朗臣君子授2従五位下1、聖武紀云、神龜三年正月従四位下、此中間に所々見えたり、上に神龜年中少貳に任ずとあれば其時見る所をよまれたるなるべし、此注官本に朝臣までは今の如くにて下を少郎號曰君子也に作り、目録には名曰2君子1と注せり、何れ是非を知らず、今按君子は本名なるか、續日本紀に今皆君子とあり、元正紀に養老四年十月従五位上石川朝臣若子爲2兵部大輔1とあるは若君字相似たれば紀寫者の誤れるなるべし、然らば少郎は別號なり、若初に君子歌とかゝば此注あるまじけれど、古本に依て別號をかける故に此注はあれば、君子號曰2少郎1とは云べし、官本の如くは云まじくや、是も亦後の人に任す、少郎子の子は男子の通稱か衍文か、
 
初、注君子少郎
續日本紀にも、君子若子ならへてかけり。和銅六年正七位上石川朝臣君子授從五位下。養老四年正月、從五位上。養老四年十月、從五位上石川朝臣若子爲兵部太輔。靈龜元年五月、爲播磨守。養老五年六月辛丑爲侍從。神龜元年二月、正五位下。同三年正月、從四位下。此集をみぬ人、續日本紀を見は、君子若子は字の似たれは、今の板本誤おほきゆへにいつれそあやまれるならんとうたかひぬへし
 
高高連黒人歌二首
 
(37)次の高は誤なり、改めで市とすべし、
 
初、高市連黒人
市をあやまりて又高の字をつくれり
 
279 吾妹兒二猪名野者令見都名次山角松原何時可將示《ワキモコニヰナノハミセツナツキヤマツノヽマツハライツカシメサム》
 
名次山、【幽齋本亦云、ナスキヤマ、】
 
猪名野は河邊郡か、和名云、河邊郡爲奈といへり、但延喜式云、豐島郡爲那都比古神社二座、かゝれば兩郡にわたれるか、名次山は武庫郡なり、延喜式云武庫郡名欠神社、角松原は第十七にもよめり、何れの郡にわなと云事を知らず、和名を考るに武庫郡に津門【津止】あり、乃と止とは同韻の字なれば若これなどにや、名次と同郡なるにも思ひよられ侍り、
 
初、名次山 延喜式第九神名帳上云。武庫郡名次神社鍬靱、第十七にもつのゝ松原とよめる歌有。名次山のふもとにや。猪名野は豐嶋郡なり。同式同卷云。豐嶋郡爲那都比古神社二座。
 
280 去來兒等倭部早白菅乃眞野乃榛原手折而將歸《イサヤコラモヤマトヘハヤクシラスケノマノヽハキハラタヲリテユカム》
 
去來兒等、【官本亦云、イサコトモ、】
 
發句の點官本によるべきこと、第一に憶良の歌にもいざこどもはや日のもとへとありき、第二十に内相藤原卿の歌に伊射子等毛とかける、是を證とすべし、白菅は仙覺云、菅は花の白きものなればいへるにや、白萩白菊と云が如し、郭知玄菅を釋して(38)云く、白花似v茅無v毛といへり、今云、是もいはれざるにはあらねど、郭知玄は菅の状を釋するに付て白花など云たれど、白菊などやうに菅の花賞すべき物にあらず、菅を能乾つれば雪はづかしう白ければ白菅といへり、第一にある大和の青菅山の名あるに對しても思ふべし、眞野とつゞくるには二つの心あるべし、一には眞菅と云ふ心に眞の字につゞく、衣手の眞若の浦とそへたるに准ふべし、二には眞野の浦の小菅眞野の池の小菅とよめるも今と同所にて管に名ある所なる故にかくつゞくるにや、此榛原又はり原なり、第七に寄木歌に白管の眞野の榛原心にも思はぬ君が衣にぞ摺ると今の如くよめるにて知るべし、古く此眞野の榛原は大和にて榛を萩と思へるはこれらの歌をよく考合せざるなるべし、手折てゆかむなど誠にまがひぬべき事なり、又按ずるに手折而を而の字は音詞共にに〔右○〕なれば古點タヲリニユカムと讀みけるにや、さきの歌につゞき、又妻の答歌に心を著けばあやまるべきにあらず、
 
初、いさやこらやまとへ早く白菅のまのゝはきはらたをりてゆかん
菅はほすまゝに白くなるゆへに白菅といふ。眞野とつゝくる心は、眞菅といふゆへに眞の字につゝくるなり。はきはらは、はりの木原なり。第七卷、寄木歌に、白菅のまのゝ榛原心にもおもはぬ君か衣にそする。きぬをそむる物なれは、其料にや。妻のかへしに、きみこそみらめといへるをおもへは、もみちなるへし。此眞野は津の國なり。やまとゝあるはあやまれり。又菅は此所の名物か。此集に、わきも子か袖をたのみてまのゝ浦の小菅の笠をきすてきにけり。眞野の池の小菅を笠にぬはすして人のとを名を立へきものか。長流か枕詞燭明抄に、此所菅の有所にて、しら菅のまのとつゝくるかとも聞えたりと。今案をくはふ。ますけよきそかの川原の例なれは、めつらしくおもひよれり。されと、衣手のまわかのうらとよめるも眞の字にかゝれは、初を正説とすへし。兒等は、こともよむへし。第一卷に憶良の、いさこともはや日のもとへとよまれたるにおなし二句なり
 
黒人妻答歌一首
 
281 白管乃眞野之榛原往左來左君社見良目眞野之榛原《シラスケノマノヽハキハラユクサクサキミコソミラメマノヽハキハラ》
 
(39)徃左來左はゆきさまかへりさまなり、君コソ見ラメは君こそ見るらめなり、見るとは眞野の面白きを見るなり、榛に懸ていへばにはあらず、人には告げよ海人の釣舟とよめるに准らへて思ふべし、歌の心は、君こそますらをにて度々行返ても見給はめ、我は手弱女にて又來て見る事も難かるべければ今暫よく見てこそ歸りざぶらはめ、さのみなもよほしたて給ひそとなり、倭へ早くと云處に當てかへすなり、
 
初、ゆくさくさ
ゆくさまくるさまなり。くるはかへりくるなり
 
春日藏首老歌一首
 
282 角障經石村毛不過泊瀬山何時毛將超夜者深去通都《ツノサハフイハムラモスキスハツセヤマイツカモコエムヨハフケニツヽ》
 
石村を集中皆イハムラと點ぜり、これは磐余におなじくイハレなり、其證は續日本紀云、從五位下狛朝臣秋麻呂言、本姓是阿倍也、但當2石村池邊宮御宇聖朝1、秋麻呂二世祖比等古臣使2高麗國1、因即號v狛、實非2眞姓1、請復2本姓1、許v之といへり、是は用明天皇の磐余池邊|雙槻《ナミツキ》宮の事なり、又仙覺秒に引ける常陸國風土記云、石村玉穗宮大八洲所馭天皇之世云云、是は繼體天皇の磐余(ノ)玉穗宮の事なり、共に日本紀に見えたり、村の字日本紀にアレともフレとも點ぜる所あり、今はあれを上略せるなり、磐余の余の字を用ひたるに同じ、深去ツヽはふけいにつヽなり、此去の字をぬ〔右○〕ともに〔右○〕とも云に用(40)ひたるは、いに、いぬの上略なり、
 
初、つのさはふ石村も過す
此石村、大和にありて、此集にあまたよめるに、みないはむらとかんなつきたり。字にあたりたれは心もつかて過侍りしに、續日本紀を見てあやまりたることをしれり。續日本紀第 云。從五位下狛朝臣秋麻呂言。本姓是阿倍也。但當石村池邊宮御宇聖朝、秋麻呂二世祖比等古臣、使高麗國因即號狛、實非眞姓、請復本姓。許之。この中に石村池邊宮といへるは、日本紀に出たる磐余池邊雙槻宮にて、用明天皇の御事をいへり。傾向紀に、荷持田村【荷持此云能登利】といふ所有。筑紫の地の名なり《神功皇后紀歟忽忘》。村をふfLと點したり。又村をむらといふは、群の字の心にて、衆人むれてをるゆへなれは、むらむれおなし事なり。かた/\上畧して、上の石にあはせていはれとよまん事、そのことはり有。いはれは磐余とつねにはかけと、それも文字に心あるにあらねとはかゝはるへからす。延喜式二十二民部上。凡勘藉之徒、或轉蝮武姓注丹比部、或變永吉名爲長喜、如此之類莫爲不合。夜はふけにつゝは、ふけいにつゝにて、ふけゆきつゝなり
 
高市連黒人歌一首
 
283 墨吉乃得名津爾立而見渡者六兒乃泊從出流舩人《スミノエノエナツニタチテミワタセハムコノトマリヲイツルフナヒト》
 
得名津は所の名なり、知名云、住吉郡榎津、【以奈豆、】え〔右○〕とい〔右○〕とは音通ぜり、和名は後にかくいひなせるにつきて以奈豆とあるなるべし、國々の所の名此例多し、
 
初、すみのえのえなつに立て
和名集云。住吉郡榎津【以奈豆】
 
春日藏首老歌一首
 
284 燒津邊吾去鹿齒駿河奈流阿倍乃市道爾相之兒等羽裳《ヤイツヘニワカユキシカハスルカナルアヘノイチヽニアヒシコラハモ》
 
燒津邊、【幽齋本云、ヤキツヘニ、】
 
燒津は駿河國益津【末志豆、】郡にあり、神名帳云、益頭郡燒津神社、日本紀にはヤツと點じたればヤツベニともよむべきか、此名の由は景行紀云、是歳【二十八年】日本武尊初至2駿河1云云、放v火燒2其野1云云、故號2其處1曰2燒津1、今按和名を見るに益頭郡に益頭【萬之都、】郷あり、これは昔は共にやつの音を似て燒津とせるを火災に忌はしき名なれば益の字を又訓を取てましつとなせるか、其例證は景行紀云、日本武尊既而從2海路1還v倭、到2吉備(41)以渡2穴海1、有2惡神1則殺之、舊事本紀第十云、吉備穴國造、和名云、備後國安那【夜須奈】郡、これ舊事紀の穴國は今の安那郡なるを安の字を訓に轉じてやすな〔三字右○〕とせりと見ゆ、此を以て思ふべし、阿倍は此も駿河の郡の名にて國府此郡にあれば市ありて人皆こゝに集ふなるべし、相之兒等はもとは容儀ある女どももあまた見ゆれば、誰が家の娘ぞなど思ふ意なり、
 
初、やいつへにわかゆきしかは
日本紀第七云。是歳【景行天皇二十八年】日本武尊初至駿河。其處賊、陽從之、欺曰。是野糜鹿甚多、氣如朝霧、足如茂林、臨面應狩。日本武尊、信其言入野中而覓獣。賊有殺王之情【王謂日本武尊也。】放火燒其野。王知被欺、則以燧出火之、向燒而得免。【一云王所佩剱豐雲自抽之、薙攘王之傍草、因是得免、故號其剱曰草薙也叢雲此云茂羅玖毛】王曰。殆被欺。則悉焚其賊衆而滅之。故號其處曰燒津。延喜式神名帳云。駿河國益頭郡燒津神社。こらはもとは、もは助語にて、こらはと心をとめてたつねしたふなり。古今集に、忠峯か春日野の雪まをわけておひ出くる草のはつかに見えし君はもといへるに同し
 
丹比眞人笠麻呂往紀伊國超勢能山時作歌一首
 
系譜未v詳、
 
285 栲領巾乃懸卷欲寸妹名乎此勢能山爾懸者奈何將有《タクヒレノカケマクホシキイモカナヲコノセノヤマニカケハイカヽアラム》 【一云可倍波伊香尓安良牟】
 
栲領巾は白ひれなり、領巾は女の飾に懸くる物なれば懸といはむ爲ながら其由あり、勢の山もうるはしき山なれば向ひにある妹山と云名を移し來て此山を妹山といはゞ似つかはしからむやいかゞあらむとなり、勢の山をほめて設けてよめるなり、
 
初、たくひれのかけまくほしき――
たくは白きといふにおなし古語なり。領巾は女のかさりなれは、かけまくほしきといはんためなり。妹か名を此せの山にかけはとは、せの山もいとうるはしき山なれは、いも山といふ名を移して.此兄山をいも山といはゝにつかはしからしや、いかゝあらんとなり
 
(72)春日藏首老郎和歌一首
 
即誤作v郎、
 
初、春日藏首老即和歌一首
即誤作郎
 
286 宜奈倍吾背乃君之負來爾之此勢能山乎妹者不喚《ヨロシナヘワカセノキミノオヒキニシコノセノヤマヲイモトハヨハム》
 
君之、【或本lキミカ。】  不喚、【校本云、ヨハシ、】
 
吾背乃君は笠丸を指せり、不喚は今の點あやまれり、校本に從てヨバジと讀むべし、歌の意は君がますらをなるに似付てよろしく吾背の君とよばるゝ名に同じければ、たゞ聞よきせの山にてもあらむ、たよわき妹の名をばよばじと笠丸を兼てほむる意なり、
 
初、よろしなへわかせのきみの
よろしなへは第一卷にもよめり。只よろしくなり。につかはしきなり。わかせの君は笠麻呂をさせり。せのきみと君かよはれて、よろしくにつかはしき名を、この山もおもひたれは、たゝせの山にてあらん。たよはき妹の名をはよはしといひて、かねて笠麻呂をほめたるなり
 
幸志賀時石上卿作歌一首 名闕
 
六帖に此歌を雲の歌とし、遠道隔てたる兩所に出せるに石上乙磨卿とあるは誤れり、
 
287 此間爲而家八方何處白雲乃棚引山乎超而來二家里《コヽノニシテイヘヤモイヅコシラクモノタナヒクヤマヲコエテキニケリ》
 
此間爲而、【幽齋本云、ココニシテ、】
(43)發句今の點本誤てノ〔右○〕文字をあませり、幽齋本によるべし、第四に大納言旅人の歌に能くこれに似たるあり、
 
初、こゝにして家やもいつこ
第四に、こゝにありてつくしやいつこ、白雲のたな引山のかたにし有らしといふ大伴卿の歌、これに似たり
 
穗積朝臣老歌一首
 
元正紀云、養老二年正月正五位上、同八月爲式部大輔、
 
288 吾命之眞幸有者亦毛將見志賀乃大津爾縁流白浪《ワカイノチシマサキクアラハマタモミムシカノオホツニヨスルシラナミ》
 
命之、【或本、イノチノ、】
 
第十三にも、同人志賀にてよめる歌あり、
 
右今案不審幸行年月
 
二首は同時の歌なる故此に注せり、
 
問人宿禰大浦初月歌二首 大浦紀氏見六帖
 
大浦國史に見えざるか、注は後人の注し置けるを寫し加へたるなり、見の字廻らして浦の下にあるべし、
 
初、間人宿禰大浦初月哥二首
大浦見紀氏六帖。見の字誤て紀氏の下にあり。これは誰にまれ後の人のわたくしに注し置たるを、又後の人そのまゝかけるなり。和漢例おほし
 
(44)289 天原振離見者白眞弓張而懸有夜路者將吉《アマノハラフリサケミレハシラマユミハリテカケタルヨミチハヨケム》
 
白眞弓といへるは三日月なり、懸有は、今按カケタリと讀て句ともすべし、次の歌を思ふにも又前後旅にてよめる中に入たるに付て思ふにも、白眞弓を張て天に懸けつれば山賊などの恐なくして今行夜道はあしからじとなるべし、古詩に南箕北有v斗、牽牛不負|軛《クヒキ》と作れるやうに、月の弓に實に矢を發つ用はなけれど物を興じてさるはかなき事をもよむが歌の道はおかしきなり、
 
初、天原ふかさけふれは――
ふりは、ふりあふのくといふふりのことし。さけは遠をさけてなり。懸有は、かけたりとよみて句ともすへし。又かけたるとよみて、よけんといふまてひとつゝきともすへし。白まゆみはりてかくとは、みか月をたとふる事めつらしからす。されはいかなる夜道ゆく人ありとも、白まゆみを天に張て懸たれは、山賊なとのおそれあらしとなり。まことは月の弓に似たるに、弓の用なきことは、古詩に南箕北有斗、牽牛不免軛といふにおなしけれと、かうはかなき事もよむか哥はおかしきなり
 
290 椋橋乃山乎高可夜隱爾出來月乃光乏寸《クラハシノヤマヲタカミカヨコモリニイテクルツキノヒカリトモシキ》
 
夜隱爾、【官本亦云、ヨカクレニ、】
 
椋橋山は或者の去、大和國十市郡に在りて西は高市郡に亘るといへり、八雲御抄、一説むかはしとあるは一説の誤なり、夜隱は此歌第九に重ねて出たるには夜※[穴/牛]とあればヨカクレにや、されど共にヨコモリとよまむ事又かたからず、殊に第四に月しあれば夜は隱良武とよみ、第十九には欲其母理爾鳴霍公鳥とよみたれば今の點を正義とすべし、それに取てよこもりとは、さきに引る何れも、曉のまだ夜をこむる意(45)にいへり、是は三日月の歌なれば夜を懸る意なり、山なき所にては夕にとく見ゆるを椋橋山の高きに障らるゝにや、遲く見えて光もすくなきはとなり、三日月は西に見えて漸々に下る物なれば出來ると云ふを東の山に向て見る如くは意得べからず、たゞ倉橋山の東より峯のひきゝ所にあらはるゝを云へるにこそ、文選謝靈運遊南亭詩云、遠峰隱2半規1、
 
初、くらはしの山を高みか
くらはし山は大和なり。八雲御抄一説に、むかはしとあるは、椋をむくともよむゆへなり。此説は用へからす。ひかりともしきは、此ともしきにふたつのあり。こゝはすくなきなり。夜こもりは、みか月なれはくれに見えて、夜にいれは山ちかき所はやかて山にかくるゝを、夜こもりとはいへり。文選謝靈運南亭詩。遠峰隱半規。第九に、沙彌女王哥とて、又此哥を載。ひかりともしきを、かた待かたきとあり。歌後有注
 
小田事勢能山歌一首
 
六帖に此歌を載せたるに作者を小田ことぬしといへり、事主なりけるを後の本に主の字を落せるか、此人考ふる所なし、
 
291 眞木葉乃之奈布勢能山之努波受而吾超去者木葉知家武《マキノハノシナフセノヤマシルハステワカコエユケハコノハシリケム》
 
眞木葉、【別校本作2眞木之葉1、】 之奴波受而、【官本亦云、シノハステ、或本奴作v努、】
 
眞木は惣名別木名いづれにてもあるべし、シナフはしなやかにしたる心、奥義抄になふせの山と云名を出されたるは若これを意得損ぜられたるか、丘希範が詩に藤垂島易v陟、二三の句せ〔右○〕とし〔右○〕とは通ずる故にセノ山と云ふを承けてシノバズテと云へり、シルハスとあるは寫せる者の誤なるべし、故郷を戀ふる心にえたへしのばで(46)越行けば、木の葉も我心を知りけるにや、うなだるゝやうに打しだりて見ゆるとなり、木の葉といへるは上の眞木の葉なり、上に人こそ知らね松は知らんといへる思ひ合すべし、
 
初、まきのはのしなふせの山――
此まきは只木をもいふへし。また※[木+皮]の葉はしなやかなる物なれは、別名にもあるへし。しなふはしたる心なり。文選司馬長卿上林賦曰。垂條扶疏。張平子南京賦曰。敷華蘂之蓑々。又云。望翠華兮〓〓。天台山賦曰。〓樹〓〓而垂珠。丘希範旦發漁浦潭詩。藤垂島易陟。神代紀上云。其秋垂穎八握莫々然甚快也。此集第十三に、はる山のしなひさかへてともよめり。せの山しのはすは、せとしとは相通するゆへに、せの山といふをうけて、しはすしてといふなり。しのはぬとは、故郷をこふる心にえたへしのはて、こえゆけは、このはもわか心を知けるにや、うなたるゝやうに打したりてみゆるとなり。下のこの葉といふは、上のまきのはなり。第七寄木歌に、天雲のたな引山にかくれたるわか心さしこのはしりけん。第十一、わかせこをわかこひをれはわかやとの草さへおもひうらかれにけり。第二には、人こそしらね松は知らむ。屋船句々〓馳命もませは、ものしることはり有へし
 
角麻呂歌四首
 
是は角兄麻呂を兄の字を落せるか、元正紀云、養老五年正月、詔曰、文人武士國家所v重、醫卜方術古今斯崇、宜d擢2於百僚之與1、優2遊學業1堪v爲2師範1者、特加2賞賜1勸c勵後生u、云云、陰陽從五位下角兄麻呂等、各|※[糸+施の旁]《アツマキヌ》十疋布二十端鍬二十口、聖武紀云、神龜元年五月辛未、從五位下都能兄麻呂賜2姓羽林連1、四年十二月丁亥、先v是遣2使七道1、巡2※[手偏+僉]國司之状迹1、使等至v是復命云云、其犯v法尤甚者丹後守從五位下羽林連兄麻呂處v流、
 
初、角麻呂歌四首
是は續日本紀に見えたる角兄麻呂を、兄の字をおとせるなるへし。目録にもなきは、さきにいへることく、目録は後の人集のまゝにひろひあけたるゆへに、集にあやまり、あるひはおつれは、目録またそれにしたかへり。元正紀云。養老五年正月、詔曰。武士國家所重、醫卜方術、古今斯崇、宜擢於百僚之内、優遊學業、堪爲師範者、特加賞賜勸勵後生。○陰陽從五位下角兄麻呂等各※[糸+施の旁]十疋布二十端鍬二十口。聖武紀云。神龜元年五月辛未、從五位下都能兄麻呂賜姓羽林連。四年十二月丁亥、先是遣使七道、巡檢國司之状迹、使等至是復命。○其犯法尤甚者、丹後守從五位下羽林連兄麻呂處流
 
292 久方乃天之探女之石舩乃泊師高津者淺爾家留香裳《ヒサカタノアマノサクメカイハフネノハテシタカツハアセニケルカモ》
 
天探女は神代紀下云、時天|探女《サクメ》【天探女此云2阿麻能左愚謎1、】見而謂2天稚彦1曰云云、天稚彦に仕たる女なり、石船は神武紀云、長髄彦乃遣2行人1言2於天皇1曰、甞有2天神之子1、乘2天磐船1自v天降止、號曰2櫛玉饒速日命(ノ)命1、或物に津國風土記を引て云、難波高津は天稚彦天降りし時天(47)稚彦に屬《ツキ》て下れる神天探女、磐船に乘て此に到る、天磐船の泊る故に高津と號く云云、饒速日命の例を思ふにさも侍るべき事なり、
 
初、久方のあまのさくめかいはふねのはてしたかつはあせにけるかも
神代紀下云。時天探女【天探女、此云阿麻能左愚謎】見而謂天稚彦曰。前後は事なかく又こゝに用なきゆへにかゝす。天わかひこにつかへける女なり。和名集云。日本紀云。天探【和名阿萬佐久女】一云【安萬乃佐久女】神武紀云。長髄彦乃遣行人言於天皇曰。甞有天神之子、乘天磐船自天降止、號曰櫛玉饒速日命。又云。抑又聞於鹽土老曰。東有美地青山四周、其中亦有乘天磐舟飛降者。○厥飛降者、謂是饒速日歟。みぎ神武紀を引ことは、こゝにあはねと、天の磐舟といふ事おなしゆへに引なり。此さくめか磐舟は、津國風土記云。難波高津は、天稚彦天くたりし時、天稚彦に屬て下れる神、天探女、磐舟にのりて此に至る。天磐舟の泊る故に高津と號云々。此集一本に、天のさくめか鳥舟とよめりとかや。昔さる本有けるにこそ
 
293 塩干乃三津之海女乃久具都持玉藻將苅率行見《シホカレノミツノアマメノククツモチタマモカルラムイサユキテミム》
 
仙覺云、くゝつとは細き繩をもて物入るゝ物にして田舍の者の持つなり、それをくゝつと云、袖中抄同v之、
 
294 風乎疾奥津白波高有之海人釣舩濱眷奴《カセヲイタミオキツシラナミタカヽラシアマノツリフネハマニカヘリヌ》
 
六帖に舟の歌につのまろとて、落句をこぎかへるみゆと改めて載す、又釣の所に入たるには作者をいはず、
 
295 清江乃木笶松原遠神我王之幸行處《スミノエノキシノマツハラトホツカミワカオホキミノミユキシトコロ》
 
笶は俗の矢字なり、遠神は君を云ふこと以前の注の如し、
 
初、遠つ神わか大きみ
第一卷軍王の歌に注せり。笶俗矢字也
 
田口益人大夫任上野國司時至駿河淨見埼作歌二首
 
元明紀云、和銅元年三月、從五位上田口朝臣益人爲2上野守1、かゝれば此二首は和銅(48)元年の歌なり、元正紀云、靈龜元年、授2正五位下田口朝臣益人正五位上1、
 
初、田口益人大夫任上野國司時
文武紀云。慶雲元年春正月丁亥朔癸巳、從六位下田口朝臣益人授從五位下。元明紀云。和銅元年三月、從五位上田口朝臣益人、爲上野守。二年十一月甲寅從五位上田口朝臣益人、爲古兵衛|率《・カミ》。元正紀云。靈龜元年、授正五位下田口朝臣益人正五位上。此歌は和銅元年の作なり
 
296 廬原乃浄見乃埼乃見穗之浦乃寛見乍物念毛奈信《イホハラノキヨミノサキノミホノウラノユタニミエツヽモノオモヒモナシ》
 
廬原は駿河の國の郡名なり、和名に廬原郡の内に又廬原郷あり、ミホもいほはらにあり、延喜式云廬原郡御穗神社、ユタニ見エツヽとは、折節三月にて海上なぎ渡りたる時、國司に任ぜられて見たらむ思ふ事なく面白かりぬべし、
 
初、いほはらのきよみのさきの――
延喜式云。廬原郡御穗神社。ゆたに見えつゝ物おもひもなしとは.上野の國司を賜りてみほの浦の絶景にむかへは心境相應してさこそ侍らめ。海賦云。則乃〓〓瀲〓、浮天無岸。江賦云。若乃宇宙澄寂、八風不翔、舟子於是搦掉、渉人於是〓榜
 
297 畫見騰不飽田見浦大王之命恐夜見鶴鴨《ヒルミレトアカヌタノウラオホキミノミコトカシコミヨルミツカモ》
 
役をつゝしみて怠らぬ意なり、詩云、王事靡v監《モロイコト》、
 
初、ひるみれとあかぬたこのうら
詩曰。王事靡靡〓。熊孺登祗役遇風謝〓中春色詩曰。只見公程不見春。下の赤人の哥に合てみるへし
 
弁基歌一首
 
初、弁基歌
文武紀云。大寶元年三月壬辰、令僧弁紀還俗、代度一人、賜姓春日倉首名老、授追大壹。元明紀云。和銅七年正月、正六位上春日〓首老授五位下。懷風藻云。從五位下常陸介春日藏老絶【年五十二】。弁の字は、辨辯兩字の内なるへし。昔は和漢ともに畫なとおほき字をは音相通してやすきをかりてかけりと見えたり。本朝ことにしかるゆへに、内典外典ともに、釋には尺、慧には惠、には弁を借て用たり。此類おほし。基の字も續日本紀は紀なり
 
298 亦打山暮越行而廬前乃角太河原爾獨可毛將宿《マツチヤマユフコエユキテイホサキノスミタカハラニヒトリカモネム》
 
亦打山は八雲に、まつち、大和、又在2駿河1と注したまひ、角太河は下總、いほざきの、駿河ともと注せさせたまへば、古來未決なりけるか、仙覺抄に廬崎の角太河原は紀伊國なりといへるは據あるか、亦打山といふに依て推ていへるか、或歌枕云、範兼類聚に(49)駿河國入之、但角田川大和信土山の邊に有之、同名異所かといへり、今按角太川は伊勢物語によめると、六帖國の題に、出羽なるあほとの關のすみだ川、流れても見む水や濁るととよめるは、此外に同名異所、書には見えざるか、亦打山は大和慥なれど廬崎の角太川おぼつかなし、角太河は下總に名高けれど武藏の方に亦打山廬崎共に慥ならず、駿河は三つながら慥ならねど、今の歌益人が清見崎田兒浦をよめるつゞきなれば廬前は廬原崎と云畧にて駿河にや、今廬原河とて海道に渡る川などを角太川と云ひけるにや、後の人定むべし、
【右或云弁基者春日藏首老之法師名也】
續日本紀には辨紀に作れり、弁は本朝の習畫多き字をば大形音の通ずるやすき字をかりて、參議を三木、几帳を木丁、目録を目六、釋迦を尺迦、智慧を智惠など書く如く辨をも弁とかけり、
 
初、まつち山ゆふこえゆきて
亦打山とかきてまつちとよむは、多宇反津なるゆへなり。此まつち山を、八雲御抄に駿河と注せさせたまへるは、あやまらせたまへり。すみた河は下總に屬すといひ、武藏と兩國にわたるといひ決せさる歟。いかにもあれ、兩國の間にあるを、まつち山もしするかならんに、ゆふこえゆきてひとりかもねんといふ路次にあらす。駿河よりは三日もゆかすは、すみたかはにはいたるへからす。むさしのかたに、すみた河には遠からぬほとにありぬへく聞ゆる歌なり。これなんそれと今いふも、昔よりさためぬは信しかたし
 
大納言大伴卿歌一首 未詳
 
未詳と注せるは作者か歌か、按ずるに此下に至て此卿未だ中納言なりし時の歌(50)あれば、此に大納言にてよまれたる歌あらん事誠に不審なり、又歌も第八の冬に載すべく、此あたりにあるべき歌ならねば、後人そこを思ひて此注を加へたるか、
 
299 奥山之菅葉凌零雪乃消者將惜雨莫容行年《オクヤマノスカノハシノキフルユキノケナハオシケムアメナフリコソ》
 
シノグは侵すと云に通ふ詞なり、行年は去年なり、清濁をいはず借て用ひたり、こそは願ふ詞なり、
 
初、おく山の菅の葉しのきふる雪のけなはおしけん雨なふりこそ
此哥は第八の冬の所に入ぬへき哥なり。しのくは侵といふにおなし心なり。此菅といふは、上の山といふにつゝきて、山すけときこゆ。山すけは麥門冬なり。此集に菅と山菅と聞まかふ所有。あめなふりこそは、此こそはてにをはのこそにあらす。乞の字をよみてこふ心なり。こふ雨なふりそといはんかことし。集中におほし。伊勢物語に、秋風ふくと鴈につけこせといへる、こせも、そとせ相通すれは、これなるへし。社の字をこそとよむも、やしろにまうてゝは、よろつの事こひねかふゆへなるへし。神につかふるをねぎといふも、祈の字をねぐとよみ、願ふといふもおなし詞なれは、身のため人のためよろつに神にねぐによりて名付たるなるへし。行年とかけるは、去年の意なり。清濁は通して用る事おほし。第八に、高山のすかはしのきふる彗のけぬとかいはもこひのしけゝく
 
長屋王駐馬寧樂山作歌二首
 
300 佐保過而寧樂乃手祭爾置幣者妹乎目不雖相見染跡衣《サホスキテナラノタムケニオクヌサハイモヲメカレスアヒミシメトソ》
 
佐保は長屋王の宅ある所なり、寧樂山は崇神紀云、復遣2大彦興2和珥臣遠祖彦國葺1向2山背1撃2埴安彦1、爰以2忌瓮《イハヒヘ・イムベ》1鎭坐於和珥武|※[金+操の旁]《スキノ》坂上、則率精兵進登2那羅山1軍之時、官軍屯聚而※[足+滴の旁]2※[足+且]草木1、因以號2其山1曰2那羅山1、【※[足+滴の旁]※[足+且]此云2布瀰那羅須1、】和爾は添上郡にて山村の南なれば、山村より北の山をなら山といふなるべし、手向は東大寺に近き法華堂の邊にありて俗に八幡山と云由なれど不審なり、古今旅部に管家の紅葉の錦とよませ給ふ歌の詞書に.朱雀院の奈良におはしましける時に手向山にてよめるとあり、第六に相坂を(51)手向山と云ひ、又餘所にても手向に立て、手向の神にぬさ祭るなどよめるも多く兩國さかふ所と聞ゆれは、此も山城に入らむとする所にありぬべくや、雖は離の字を誤れり、アヒミシメトゾは相見せしめよとぞなり、此歌は他國へ赴かるゝ時の作なるべし、
 
初、さほ過てならのたむけに
たむけは手向なり。古今集※[羈の馬が奇]旅部に、朱雀院のならにおはしましける時、たむけ山にてよめるとて、菅家の、此たひはぬさも取あへすとよませたまひ、素性法師の、手向にはつゝりの袖もきるへきにとよまれたる所なり。不離を不雖に作れる、傳寫のあやまりなり。あひみしめとそは、あひみしめよとの心にて、ぬさをたまつるなり。これはならより他國なとへおもむきたまへる時の歌なるへし。新千載集戀部に、下の句を、妹にあひみんしるしなりけりとあらためて聖武天皇の御哥とせるは心得かたし
 
301 磐金之凝敷山乎超不勝而哭者泣友色爾將出八方《イハカネノコヽシキヤマヲコエカネテネニハナクトモイロニイデメヤモ》
 
磐金は磐之根なり、雁金は雁之音なるが如し、凝敷をコリシクと點ぜる本あり、仙覺云、こりしくは和の詞なだらかなるに似たれども、古語の傍例見えずといへり、誠に皆こゞしくとのみよめり、されども意はかりしくなるべし、今按凝の字をかける所、第七には己凝敷又凝木敷とかき、第十三には興凝敷又許凝敷と書きたれば、たゞ音を借りて書きて今は落字あるにや、色ニ出メヤモは別れの悲しければしのび/\に音にはなくとも心弱げなる色を人には見えじとなり、陸魯望離別詩云、丈夫非v無涙、不v灑1離別間1、伏v劔對2※[缶+尊]酒1、恥v爲2遊子顔1、今の歌同じ意なり、新千載集に右二首を載せられたるやうおぼつかなし、
 
初、いはかねのこゝしき山を
こゝしきはこりしくなり。すなはちこりしく山ともよむへし。色に出めやもとは、妻子親屬にわかるゝ事のかなしけれは、しのひ/\にねにはなくとも、心よはけなる色に出て人には見えしとなり
 
中納言安倍廣庭卿歌一首
 
(52)聖武紀云、神龜四年十月、以2從三位阿倍朝臣廣庭1爲2中納言1、天平四年二月甲戌朔乙未、中納言從三位兼催造宮長官知河内和泉等國事阿倍胡臣廣庭薨右大臣從二位御主人之子也、懷風藻云、從三位中納言兼催造宮長官安倍朝臣廣庭二首、【年七十四、】
 
初、中納言安倍廣庭卿歌二首
懷風藻云。從三位中納言兼催造宮長官安倍朝臣廣庭二首 年七十四。元明紀云。和銅四年四月、正五位下安倍朝臣廣庭、授正五位上。元正紀云。養老二年從四位上。五年六月.以正四位下安倍朝臣廣庭、爲左大辨。六年二月壬申、參議朝政。同三月壬寅朔戊申、知河内和泉事。七年正月正四位上。聖武紀云。神龜四年十月、以從三位阿倍朝臣廣庭、爲中納言。天平四年二月甲戌朔乙未、中納言從三位兼催造宮長官知河内和泉等國事、阿倍胡臣廣庭薨。右大臣從二位御主人之子也
 
302 兒等之家道差間遠烏野干玉乃夜渡月爾競敢六鴨《コラカイヘチヤヽマトホキヲヌハタマノヨワタルツキニキホヒアヘムカモ》
 
是は物より歸來るに妹が許へいかでとく到らむと思ひて夜をかけて急げども、道の程やゝ間遠なれば月に競ひて行とも至りがたからむやとなり、夜渡ル月は明るまである月を云ふ、月ニキホフは後の勅撰の歌の詞書などにもあり、月に乘じてと云ふが如し、
 
初、こらか家路やゝ
これは外より歸りくるに、妹かもとへいかてとくいたらんとおもひて、夜をかけていそけとも、道のほとやゝまとをなれは、月にきほひてゆくともいたりかたからんとなり。よわたる月は、夜ひとよある月なり。ゆふ月なとにはよむへからす。月にきほふは後の勅撰の詞書なとにも有。月に乘してといふかことし
 
柿本朝臣人麻呂下筑紫國時海路作歌二首
 
303 名細寸稻見乃海之奥津浪千重爾隱奴山跡島根者《ナクワシキイナミノウミノオキツナミチヘニカクレヌヤマトシマネハ》
 
名細寸も山跡鳥根も皆上に注せしが如し、
 
初、名くはしきいなみの
名くはしきも、やまとしまねも、さきにすてに釋しつ。玉葉集旅部には、名に高きと改らる。印南郡は播磨にあり。そこの海なり
 
304 大王之遠乃朝庭跡蟻通嶋門乎見者神代之所念《スメロキノトホノミカトトアリカヨフシマトヲミレハカミヨシソオモフ》
 
(53)大王之、【官本亦云、オホキミノ、】
 
發句オホキミノとよむべし、第五第十七にも如此かけるをば皆しか點ぜり、遠ノミカドとは太宰帥などのみならず、およそ國司の府中に在て君命を行ふを云べし、第十五にはすめろぎの遠のみかどとから國に、わたる吾背ともよめり、所念は今按オモホユと讀むべし、神代を思ふとは君命を重じて海上の風波を凌ぎて徃來するを見れば、神の初めおかせ給ひし威徳までを思ふなり、
 
初、すめろきのとをのみかとゝ
大王はおほきみともよむへし。とをのみかとは、とをきみやこなり。家持の歌に、ひなのみやこともよまれたり。宰府なとをこゝにはいふなるへし。又伊勢物語に、わかみかと六十餘州といへるは、我朝といふことにて、日本國中を惣していへり。君命をおもんしてあやうき海上ともいはす、ふなかちほさすのほりくたるをみるに、國をはしめたまひし神代の神徳まてをおもふなり。所念は、おもほゆとも讀へし
 
高市連黒人近江舊都歌一首
 
305 如是故爾不見跡云物乎樂浪乃舊都乎令見乍本名《カクユヱニミシトイフモノヲサヽナミノフルキミヤコヲミセツヽモトナ》
 
舊都のさまを見ば悲しみに堪へじとかねて思ひし故に、人のいざなふをもいなひつるを、由なく強て見せて案の如く悲しみに堪へぬとなり、
 
初、かくゆへに見しといふ物を
舊都のさまを見は、かなしひにたへしとかねておもふゆへに、人のいさとすゝめける時、いな見しといひし物をよしなくしゐてみせて、案のことくかなしひにたへぬとなり
 
右謌或本曰小辨作也未審此小弁者也
 
幸伊勢國之時安貴王作歌一首
 
聖武紀云、天平元年三月、無位阿紀王授2改五位下1、十七年正月從五位上、市原王の父(54)なり、第六に見えたり、是は天平十二年行幸の御供にてよみたまへるか、
 
306 伊勢海之奥津白浪花爾欲得※[果/衣]而妹之家※[果/衣]爲《イセノウミノオキツシラナミハナニモカツヽミテイモカイヘツトニセム》
 
花爾欲得、【官本亦云、ハナニカナ、今按云、ハナニカモ、】
 
初、花爾欲得
花にもかとよめるもあしからねと、花にかなとよむへし。欲得とも願とも冀ともかきて、ねかひかなによめるは義訓なり
 
博通法師徃紀伊國見穗石室作歌三首
 
博通法師未v詳、三穗石室何れの郡に在りと云事を知らず、此卷下にかざはやのみほの浦、又第七にもしかよめる所なり、
 
307 皮爲酢寸久米能若子我伊座家留《シノスヽキクメノワカコカイマシケル》【一云家牟】 三穗乃石室者雖見不飽鴨《ミホノイハヤハミレトアカヌカモ》【一云安禮尓家留可毛】
 
皮薄、【袖中抄云、ハタスヽキ、】
 
皮薄は、袖中抄にはたすゝきを釋する所に、初にはたすゝき尾花さかふきと云を引て樣々にいひて、又此歌をもはたすゝきと書きなして引きて云く、此皮の字に付てはた薄、かは薄、しのすゝきと三つの字に詠めりとて第十の皮爲酢寸とかける歌二首をひけり、其中に吾妹子に相坂山の皮爲酢寸とあるはしのすゝきと點じ、皮爲酢(55)寸ほには咲出ぬ戀を我するとある旋頭歌を、此はしのすゝき共はたすゝきとも讀めりとあり、今按撰者の各自注を加へて、此はしのすゝき、彼ははたすゝきなど云はんはしらず、同じく皮爲詐寸とかけるを別によみわくる事はかたかりぬべし、相坂山のとよめるは古今の滅《ケシ》歌にしのすゝきと載たり、字に任せてよまばカハスヽキなるべし、ハタスヽキとよまば皮、膚は義相通ずる故に膚をかはべともいひ、檜皮をひはだ、黄檗皮をきはだといひ、又和名に唐韻云、※[角+少]、【和名、沼太波太、】角上浪皮也、又云、王篇、樸、【和名、古波太、】木皮也、此等の心にして、皮を膚とし膚を旗に借りたりと云ふべし、シノスヽキとは如何でよみけむおぼつかなし、若皮ある薄をしのすゝきと云ひてそれを義訓に轉ぜるか、是は文字に付て云なり、ハタスヽキの方に心引かれ侍り、今は何れによみても同じかるべし、これを久米の若子といはむとて發句をいへるやう又心得がたし、推量するに、角ぐむと云心か、くむはきざす心にや、涙ぐむと云ふも涙の出むとする目もとをいへり、或抄云、夜の明方をしのゝめと云根本は、出雲國みほの岩屋と申す所に久米の若子と云神まし/\ける、きはめて目の細くしてしのを立てたる跡の如し、それをしのゝめと異名に申すにより、それより事起れり、明方のまだほのぐらきを寄せて申しならはしたり、今云、是は此紀伊國三穗石室を神代紀下に見え(56)たる出雲の三穗之碕にまがへたるか、久米若子を神といへるは天※[木+患]津大來目《アメクシツオホクメ》の事か、好事の者しのゝめと云意を證せんとて此歌を以て作りなせるにや、久米若子を神といはゞ却て目の大きなるべき義あり、此卷下に至て河邊宮人が歌に至て云べし、顯宗紀に弘計天皇【更名來目(ノ)稚子、】とあれど、此さすらへ給ひし時も、丹後へ逃給ひて播磨へおはしつれば此に叶はず、其上それは仁賢天皇と共にさすらへ給へば御一所のみも申すべからず、若是は久米仙人の仙術を條練せし程此窟にありけるにや、
 
初、皮すゝきくめのわかみこか
第十にも五十五葉五十九葉に、皮すゝきとかきて、今とおなしくしのすゝきとよめり。皮の字いかにしてしのとはよめるにか。おろかなる心にておもひめくらすに、すへてこゝろえかたし。今案、これをははたすゝきとよむへきにや。其ゆへは檜皮とかきてひはたとよめり、皮膚は義相通するゆへに、和語も大かた通して、肌膚の字をかはへとよめるは皮邊といふ心ときこゆ。又和名集云。唐韻云※[角+少]【和名反、上聲之〓、和名沼太波太、又用〓字、音旨善反上聲】角上浪皮也。又云。王篇樸【音璞、字亦作朴和名古波太】木皮也。これらの例にもよせておもふに、膚とおなしやうによむ事疑なし。しかれは此集に、雉をかりて岸に用る例にて、旗にかりてよまんこと妨なし。くめのわかことつゝくること、長流か老後に申けるは、くめのわかこは、めのいとほそき神なれは、しのすゝきくめのわかことつゝく。俗にもめのほそきをは薄にてきれるはかりといふは、此ゆへなり。されは夜のあくる時、山のはほそくしらむを、しのゝめとも、いなのめともいふは此ゆへなり。古今集夏部に、貫之、夏の夜はふすかとすれはほとゝきすなくひとこゑにあくるしのゝめ。此哥の口傳なるよし申き。此くめのわかこといふ神、日本紀等にも見えす。紀伊國の風土記なとには侍りけるにや。顯宗紀云。弘計天皇【更名來目稚子】とあれとも、御父市逢押磐皇子雄略天皇にころされ給へる後も、ひそかにかくれて播磨へこそおはしましけれは、それすこしもかなはす。又久米仙人あれとも、三穗石室にをこなへりともきかす。まつさる神のむかし有けるにてさてをくへし。いはやは、和名集云。説文云。窟【骨反和名伊波夜】土屋也。一云。掘地爲之
 
308 常磐成石室者今毛安里家禮騰貴住家類人曾常無里家留
 
常生成、【幽齋本點云、トキハナス、又云、トキハナル、】
 
發句は古風を思ふにトキハナスなるべし、ナルは今に叶へり、
 
309 石室戸爾立在松樹汝乎見者古人乎相見如之《イハヤトニタテルマツノキナヲミレハムカシノヒトヲアヒミルコトシ》
 
汝をな〔右○〕とのみ云ふは古語なり、な〔右○〕はなせ〕、なにも〔五字右○〕など云時人を敬ふ詞、此集に名の字をかける其意か、賤しきを名もなき者と云ふに反すべし、なむぢ〔三字右○〕と云ふは名持の意か、大己貴命を大汝とも大名持ともかけり、又|名貴《ナムチ》にや、汝を常には我より下に向て(57)云ふを、佛をも汝佛と云ひ、神をも汝尊といへる事あれば通局あり、六帖木類に、ねはふむろの木なれみればと改てむろの歌とせるはおぼつかなし、
 
初、いはや戸にたてる松の木なをみれは昔の人をあひみることし
なをみれはゝなんもをみれはなり。紀氏六帖には、いはやとにねはふむろの木なれみれは昔の人をあひみるかこと
 
門部王詠東市之樹作歌一首
 
元明紀云、和銅三年春正月壬子朔戊午、授2無位門部王從五位下1、聖武紀云天平十七年四月戊子朔康戌、大藏卿從四位上大原眞人門部卒、市は都の東西にある故に、此を宰る官にも東市正西市正あり、第七には西の市にたゞ獨出てなどよめり、これは奈良都の東市なり、但帝王編年に東西の市は文武天皇大寶三年に初て立てられたりと見えたればいまだ藤原宮在りし時彼東市樹をよまれたるか、然らば東市西市共に地の名なるべきか、又地の名ならねど都の東西に置かるゝを云ふか、後の東西市是を濫觴とするなるべし、
 
310 東市之殖木乃木足左右不相久美宇倍戀爾家利《ヒムカシノイチノウヱキノコタルマテアハヌキミウヘワレコヒニケリ》
 
木タルは木垂なり、木の老ひぬれば枝のさがるなり、久美は|き《・吉》〔右○〕と|く《・久》〔右○〕と音通ずれば君をかくかけるか、宇倍は諾にてげにもの意なり、歌の意は、東の市なる木の若かりし(58)が枝をたるゝまで人にあはねば、我ながら戀ひ思ふもことわりなりと云ふなり、第十四に鎌倉山に木たる木を、まつと汝がいはゞとよめるも、こたるは久しきを云へり、元正紀云、養老三年秋七月、始置按察使、令d伊勢國守從五位上門部王管c伊賀志摩二國u云云、此任はてゝ歸りて後などよまれたるか、異義は題注の如し、
 
初、ひんかしの市のうへ木のこたるまて不相久美宇倍われこひにけり
市に東西あるゆへに市正も東西あり。第七には、西の市にたゝ獨出てなとよめり。こたるは、木の年ふりて枝のさかるなり。第十四東哥にも、薪こるかまくら山にこたる木をなとよめり。不相久美宇倍を、あはぬきみうへとよめる、義理は有なから久の字きとよむへきやうなし。そのうへ詠樹といい、雜歌なれは、相聞にはあるへからす。もし久美は茱※[草がんむり/臾]、宇倍は植にや。實のなる物にならさる木もあるを、そのならぬ木をしちすしてうへをきて、ことしもや/\と他の木のこたるまて實のならん事を待こひにけりとにや。あはぬといふは、實のなる時にあはぬなり。植は此集宇惠と大かたかきたれと、第五に、春やなきかつらに折し梅の花誰かはうへしさかつきのへに。此歌有倍志とかきたれは、なつむへからす。此説たしかにこれならんとにはあらす
 
※[木+安]作村主益人從豊前國上京時作歌一首
 
※[木+安]は、昔鞍と通じけるか、益人が傳未v詳、第六天平六年歌注に、右内匠寮大屬※[木+安]作村主益人云云、
 
初、※[木+安]作
此※[木+安]の字は鞍と通する歟。惣して此集に鉾は桙に作り、崎は埼に作り、鬘は縵に作りなと、かやうの事おほし
 
311 梓弓引豊國之鏡山不見久有者戀敷牟鴨《アツサユミヒキトヨクニノカヽミヤマミテヒサナラハコヒシケムカモ》
 
梓弓引音とつゞけたり、第四に梓弓爪引夜音の遠音とよめる歌、音の字皆上賂せり、鏡山を承て見デ久ナラバと云、鏡山は豊前國風土記云、田河郡鏡山、【在2郡東1、】昔者氣長足姫尊在2此山1遙覽2國形1、勅云、天神地祇爲v我助v福、便用2御鏡1安2置此處1、其鏡即化爲v石、見在2山中1、因名曰2鏡山1、仙覺抄に引けり、
 
初、梓弓引豐くに
ひく音といふ心にかくつゝく。見てひさならはは、鏡山の縁なり
 
式部卿藤原宇合卿被使改造難波堵之時作歌一首
(59)聖武紀云.神龜三年冬十月庚午、以2式部卿從三位藤原宇合1爲知難波宮事、四年二月壬子、造2難波宮1、同三月己巳、知造難波宮事從三位藤原朝臣宇合等已下仕丁已上賜物各有v差、かくあれば此は神龜四年の歌なるべし、
 
初、式部卿藤原宇合卿
聖武紀云。神龜三年九月壬寅、以正四位上六人部王○堵の字は第一卷に尺しつ。されとも聖武紀によるに、ついひちのみつくろはるゝにあらす。難波宮を造るとあれは、此堵の字も都と通するにや
 
312 昔者社難波居中跡所言奚米今者京引都 備仁鷄里《ムカシコソナニハヰナカトイハレケメイマハミヤヒトソナハリニケリ》
 
奚米、【校本米作v目、】
 
京引都は宮人なり、備ニケリとは宮人式々にそなはりたれる意なり、今按此和しやうおぼつかなし、イミヤコヒキ、ミヤコヒニケリと讀むべきか、上に昔者をムカシとよみつれば今者は對してイマなるべし.第六に恭仁《クニ》の都へ遷りたまひて平城の故郷となる事をよめる歌にも、あたら世の事にしあればすべろぎの、引のまに/\とよみ.第十九にもますらをの引のまに/\とよめり、
 
初、昔こそなにはゐなかといはれけめいまはみやひとそなはりにけり
田舎とかきてゐなかとよめる。宮人そなはりにけりとは、あらたに宮つくりして百官をの/\式々にそなはるとなり。今案此下句かうはよむましくや。今者京引都備仁鷄里とかきたれは、いまみやこひきみやこひにけりとよむへしとみゆ。今都をこゝに引たれは、みやこめくといふ心なり。第六ならの京の故郷となることをかなしひてよめる歌にも、あたら世のことにしあれは、すへらきのひきのまに/\とよめり。十九にも、ますらをの引かまに/\なとよめり
 
土理宣令歌一首
 
元正紀云、養老五年春正月戊申朔庚午、詔從五位上佐爲王從七位下塩屋連吉麻呂刀利宣令等.退朝之後令v侍2東宮1焉、此時は宣令も從七位下なる故、吉麻呂が位階を(60)承て姓名をのみかけり、懷風藻云、正六位上刀利宣令二首、【年五十九、】元明紀云、和詞三年正月王子朔甲子、正六位上刀利康嗣授2從五位下1、懷風藻云、大學博士刀利康嗣一首、【年八十一、】宣令は此康嗣が子などにや、
 
初、士理宣令歌
續日本紀ならひに懷風藻には、土理を刀利に作れり。元正紀云。養老五年春正月、戊申朔庚午、詔。從五位上佐爲王。從七位下鹽屋連吉麻呂、刀利宣令等、退朝之後令侍東宮焉。懷風藻曰。正六位上刀利宣令二首 五十九。又明紀云。和詞三年正月王子朔甲子、正六位上刀利康嗣、授從五位下。懷風藻云。大學博士刀利康嗣一首 年八十一。このほか土理氏の人見えす。康嗣は宣令か父などにや
 
313 見吉野之瀧乃白浪雖不知語之告者古所念《ミヨシノヽタキノシラナミシラネトモカタリシツケハムカシオモホユ》
 
白浪を承てシラネドモと連ねたり、告は繼に假てかける歟、今按ツグレバと讀むべきにや、
 
初、かたりしつけは
告者とかきたれとも繼者なり
 
波多朝臣少足歌一首
 
系圖未v詳、孝謙紀云、波多朝指足人、もし此足人の父などにや、
 
初、波多朝臣少足
文武紀云。波多朝臣牟後閉。孝謙紀云。波多朝臣足人
 
314 小浪礒越道有能登湍河音之清左多藝通瀬毎爾《サヽレナミイソコセチナルノトセカハオトノサヤケサタキツセコトニ》
 
小浪、【官本亦云、ササラナミ、】
 
一二の句はさゞ浪の磯をこすとつゞけたり、所から似合はぬやうなれど、おきつ白浪立田山とつゞけたるに例すべし、巨勢路は第一にもありつ、能登瀬川を八雲には河内と定めたまひて攝津にもあるよし注し給へど、此にこせぢと云ひ、第十二に高(61)瀬なる能登瀬の川とよめる歌も、前後大和の名所に寄せてよめる歌の中にあれば、彼是を思ふに高市郡なるべし、
 
初、さゝれなみいそこせちなるのとせ川
さゝなみのいそをこすとつゝけたり。こせちとあれはやまとのくになり。今案越路にて北陸道にや。能登湍河といふは、能登の國にあるか
 
暮春之月幸芳野離宮時中納言大伴卿奉勅作歌一首井短歌 未※[しんにょう+至]奏上歌
 
元正紀云、養老二年三月乙巳、大伴宿禰旅人爲2中納言1、※[しんにょう+至]は逕に改むべし、
 
初、中納言大伴卿
元正紀云。養老二年三月戊戌、車駕自美濃至。乙巳○大伴宿禰旅人爲中納言
 
315 見吉野之芳野乃宮者山可良志貴有師永可良思清有師天地與長久萬代爾不改將有行幸之宮《ミヨシノヽヨシノヽミヤハヤマカラシタフトカルラシナカカラシイサキヨカラシアメツチトナカクヒサシキヨロツヨニカハラスアラムミユキシミヤ》
 
行幸之宮、【官本亦云、ミユキセシミヤ、同本或宮作v處、或點云、ミユキシトコロ、】
 
貴有師はタフトクアラシともカシコクアラシとも讀むべし、永は按ずるに水の字の誤なり、是をば字のまゝにミヅカラシともよみ、又第二の依羅娘子の歌に石川を石水とかけるに准じてカハカラシともよむべし、意は第二に人丸の狹岑島にてよまれたる神がら國がらの如し、長久はナガクヒサシクとも和すべきか、行幸之宮は今按日本紀に行幸をイデマスと點じたればイデマシノミヤとよむべきにや、天智(62)紀の童謠《ワサウタ》に伊提麻志能倶伊播阿羅珥茄《イデマシノクイハアラニソ》といへる初の句に例すべし」、ミユキシミヤは留まらず、ミユキセシは過たる方を云ふに似たり、若宮を處に作れる本に從はゞ
ミユキノトコロとよむべくや、
 
初、永可良思
これは水からしなるを、水を永にあやまれるを、字のまゝにかんなをつけたるは、後のしわさなるへし。
山からし水からしのふたつのしは、やすめ詞なり。結句の行幸之宮はみゆきせしみやとよむへし
 
反歌
 
316 昔見之象乃小河乎今見者彌清成爾來鴨《ムカシミシキサノヲカハヲイマミハイヨ/\キヨクナリニケルカモ》
 
玉葉に作者を家持と載せられたるは中納言大伴卿といへるを家持の極官にもやまがへられけむ、
 
初、昔みしきさの小河
同卿太宰帥になりて後よめる歌、此卷下にあり。きさのを川をよめり。互にみるへし
 
山部宿禰赤人望不盡山歌一首并短歌
 
本朝文粹に郡良香の富士山記あり、これらの歌引合せて見るべし、不盡不死不二などかけるも義あるべからざるか、記云、山名富士、取2郡名1也、
 
初、望不盡山歌
本朝文粋に、都良香の富土山の記を載たり。こゝの歌ともにあはせてみるへし。不盡、不死、不二なとかけるも.唯音をかるのみにて義あるへからす。記云。山名富士、取郡名也
 
317 天地之分時從神左備手高貴寸駿河有布士能高嶺乎天原振放見者度日之陰毛隱比照月乃光毛不見白雲母伊去波(63)伐加利時自久曾雪者落家留語告言繼將徃不盡能高嶺者《アメツチノワカレシトキユカミサヒテタカクタフトキスルカナルフシノタカネヲアマノハラフリサケミレハワタルヒノカケモカクロヒテルツキノヒカリモミエスシラクモヽイユキハヽカリトキシクソユキハフリケルカタリツキイヒツキユカムフシノタカネハ》
 
分時從、【六帖云、ワカレシヨヽリ、別校本云、ワカレシトキニ、】 高貴寸、【六帖云、タカクカシコキ、官本亦點與2六帖1同、】 伊去、【六帖、イサリ、袖中抄同v之、】
 
天原フリサケミレバ、此は例の詞ながら、第十四に六原ふじのしば山とよめり、是他の山に勝れて絶巓天を衝くが故に天原を以て枕詞とせり、定家卿もかれを取て、天の原富士のしば山しばらくも、煙たえせず雪もけなくにとよまれたり、記云、富士山者在2駿河國1、峯如2削成1、直聳屬天、其高不可測、歴亂史籍所記、未有高於此山也、其聳峯欝起在天際、臨瞰海中、觀其靈基所盤、連亘數千里間、行旅之人、經歴數日、乃過其下、去之顧望、猶在山下、蓋神仙之所遊華也、度日之〔三字右○〕以下の四句は、史記大宛列傳賛云、崑崙其高二千五百餘里、日月所2相避隱爲2光明1也、屈原九章云、山峻高以蔽v日兮、相如子虚賦云、其山則盤紆※[山/弗]欝、隆崇〓〓、峯※[山/金]參差、日月蔽虧、交錯糾紛、上2于青雲1、白雲モイユキハヾカリ、い〔右○〕は發語の詞、ゆきはゞかるは下の虫丸集歌に高み恐みといへば、雲もおそれはゞかりてのぼらぬなり、唐幹雄宿2石邑山中1詩云、浮雲不d共2此山1齊u、語告〔二字右○〕は六帖にもかたりつぎとあれば字のまゝにカタリツゲとよむべきにや、イヒツギユカムは將來も此山の事は言ひつゞけむとなり、
 
初、あめつちのわかれし時ゆ――
天原ふりさけみれは。記云。富士山者、在駿河國、峯如削成、直聳屬天、其高不可測、歴亂史籍所記、未有高於此山也、其聳峯欝起、在天際、臨瞰海中、觀其靈基所盤連、亘數千里間、行旅之人、經歴數日、乃過其下、去之顧望、猶在山下、蓋神仙之所遊華也、度日之經歴數日、乃過其下、去之顧望猶在山下、盖神仙之所遊萃也。わたるひのかけもかくろひてる月の光も見えす。史記大宛列傳賛曰。崑崙其高二千五百餘里、日月所相、避隱爲光明也。屈原九章曰。司馬長卿子虚賦曰。○班孟堅西都賦曰。○謝玄暉敬亭山詩。○白雲もいゆきはゝかり。いは發語のことは、はゝかるは、ゆくことをはゝかりてゆきかぬるなり。時しくとは日本紀に非時とかきてときしくと讀り。語告は、かたりつきとあれとも、字のまゝにかたりつけとよむへし。かたりつけいひつきゆかんは、將來も此山の事はいひつかんとなり
 
(64)反歌
 
318 田兒之浦從打出而見者眞白衣不盡能高嶺爾雪波零家留《タコノウラユウチテヽミレハマシロニソフシノタカネニユキハフリケル》
 
題に望といひしは田兒浦よりなり、上に晝見れどあかぬ田兒の浦とよめる所より見たらむ興思ひやるべし、長歌に時じくど雪は降りけるとよめるを思ふに、眞白にぞといへるも必ず極寒の時よめるにはあるべからず、
 
詠不盡山歌一首并短歌
 
此歌作者見えず、其由も注せぬは作者未v詳と云事の脱たるか、但上の赤人の歌に一首并短歌と云ひ、下に右一首高橋連等と斷れば注せざれども作者しれざる事自ら顯るゝ故歟、譬ば物の十あらんに、九つにしるしなしつれば一つはしるしなきを以てしるしとするが如し、此歌のさま山に叶ひていかめしう聞ゆ、大方の人のよめるにはあらじ、
 
初、詠不盡山歌
この歌作者見えす。昔より作者しれすは知さるよし注あるへきにおちけるにや。歌のさまふしにかなひて、いかめしくきこゆ。大かたの人のよめるにはあらし
 
319 奈麻余美乃甲斐乃國打縁流駿河能國與巳知其智乃國之(65)三中從出之有不盡能高嶺者天雲毛伊去波代加利飛鳥母翔毛不上燎火乎雪以滅落雪乎火用消通都言不得名不知靈母座神香聞石花海跡名付而有毛彼山之堤有海曾不盡河跡人乃渡毛其山之水乃當烏日本之山跡國乃鎮十方座神可聞寳十方成有山可聞駿河有不盡能高峯者雖見不飽香聞《ナマヨミノカヒノクニウチヨスルスルカノクニトコチコチノクニノサカヒニイデヽシアルフシノタカネハアマクモヽイユキハヽカリトフトリモトヒモノホラスモユルヒヲユキモテキヤシフルユキヲヒモテケシツヽイヒカネテナヲモシラセヌアヤシクモイマスカミカモセノウミトナツケテアルモソカヤマノツヽメルウミソフシカハトヒトノワタルモソノヤマノミツノアタリソヒノモトノヤマトノクニノシツメトモイマスカミカモタカラトモナレルヤマカモスルカナルフシノタカネハミレトアカヌカモ》
 
彼山之、【別校本云、ソノヤマノ、】 座神、【校本神作v祇、】
 
ナマヨミノカヒノ國とそへたるやう意得がたし、仙覺の釋あれど取るに足らず、一且愚推を似て試に釋せば生吉貝《ナマヨミノカヒ》と云心歟、鰒、榮螺《サヽエ》等の貝の類皆なましきを賞すればなり、打ヨスル駿河とつゞくるは仙覺云、洲は浪の打よするものなればすと云出でむ爲に置ける諷詞なりといへり、此説やすらかなり、顯昭云、此國の古老傳へて云、昔は富士山と葦高山との間を、東海道の驛路としき、横走の關とて侍りしも此ふたつ(66)の山の間にありける關の名なり、驛路なれば朝夕に重服、觸穢の者の行き通ひけるを淺間大明神の※[厭の雁だれなし]はせ給ひて、今の浮島が原と云ふは遙の南海に浮びありきけるを此に打よせさせ給ひてより今の道は出來にけりと申傳へて侍るなり、今按これは唯俗説なれば取らに足らざるか、和名集云、駿河郡横走、【與古波之里、】延書式第二十八云駿河國驛馬、横走二十疋、傳馬、横走驛五匹、既に延喜延長の比まで横走の道を往還すればこそ驛馬をば置れけめ、然れば浮島を南海より打寄給ふは後の事なるべければそれに依て云詞此集にあらむや、浮島と云名によりて所の者の云出せる説なるべし、コチ/\ノ國はをちこちの國、上の甲斐駿河なり、三中は今按ミナカとよむべし、神代紀上に誓約《ウケヒノ》之|中《ミナカ》の中の字を美難箇《ミナカ》と自注を加へ給へり、眞中《マナカ》に同じ、此第十四にも佐刀乃美奈可とよめり、出テシアルは成出てあるなり、波代加利、代は伐に改むべし、飛鳥モトビモノボラズは山の極て高き故なり、説文曰、岱山高、峻鳥飛不v越、惟有2一缺門1雁往來、向2此缺中(ニ)1過人號曰2雁門1、モユル火ヲ以下の四句水火互に爭へども奪ふ事なく奇異なる由を賦せり、神異經云、南方有2火山1、長四十里廣四五里、生2不v燼《モエツキ》之木1、晝夜火燃、得2烈風1不v猛、暴雨不v滅、此類なり、言不得名不知は按ずるに今の點叶はず、此卷下に家持歌に言毛不得名付毛不知とあるをイヒモカネ、ナツケモシラズと和せ(67)り、今もしかよむべし、かゝるあやしき事は其理を云ことあたはず、何と名づくべきやうをもしらぬと稱美するなり、アヤシクモイマス神カモ、是は山を即神といへり、記云、山有v神名2淺間(ノ)大神1、神名帳云、富士都淺間神社、【名神大、】此神もやがて山の精靈にておはしますなるべし、孔雀經に佛諸の大山大河等の名を説て此名を知る者は利益あらむと説たまへるを思ふべし、石花海は仙覺抄に山の乾《イヌヰ》にある水海なり、すべて山を廻りて八の海ありと申といへり、今按下につゝめる海ぞと云へるは鳴澤の事にやとおぼしきなり、上に池を海といひつれば鳴澤を海と云まじきにあらず、石花は貝の名を借てかけり、和名云、崔禹錫食經云、尨蹄子、【和名勢、】貌似2犬蹄1而附v石生者也、兼名苑注云、石花、【花或作v華、】二三月皆紫舒v花附(テ)v石(ニ)而生、故以名(ク)之、記云、此山高極雲表不知幾丈、頂上有2平地1廣一許里、其頂中央窪下(テ)體如2炊甑(ノ)1、甑底有2神池1、池中有大石、石體驚奇、宛如蹲虎、亦其甑中常有氣蒸出、其色純青、窺2其甑底1、如湯沸騰、其在v遠望者、常(ニ)見2煙火1、亦其頂上、匝池生竹、青紺柔※[車+(而/大)]、セノウミを八雲には神の名とし給へり、彼山はソノ山とよめる、よし、堤有は堤は水をつゝみて貯る故につゝむと云用の詞をもて體に名づくればなり、フジ川は記云、有2大泉1出v自2腹下1遂成2大河1、其流寒暑水旱無v有2盈縮1、或は雪消或は雨などに山より濁くる故に富士川は清ことなきに依る、六帖には富士河の世に(68)すむべくも思ほえずとよみ、躬恒集には富士川の遂にすまずばとよめり、烏をそ〔右○〕と用たるは、をそ鳥は烏の名なればをそ〔二字右○〕を上畧したるなり、山跡ノ國ノ鎭とは唐にも五岳ありて五方を鎭るやうに富士も鎭國の靈山など云なり、東都賦云、太室作鎭、注云、太室嵩高別名、言(ハ)以2嵩高之嶽1爲2國之鎭1、呉都賦云、指2衡嶽1以鎭(タリv野(ヲ)、
 
初、なまよみのかひのくに
燭明抄に、なまよみはなましきかよしといふ詞なり。甲斐は香火によせたり。香はなましきよしといふこゝろなり云々、此云々とかけるは、古人の説を畧してとれるなるへし。今案、なまよみはしかり。香火は心得かたし。そのゆへはたゝ沈檀等の香はなましき物ならねはいふへからす。これはあはせたるたき物をいへるへし。薫は諸家の名方も蜜なとの氣を化せしめんかために、久しくつちにもうつみをきて後たく事なれは、なまよみの香火とはいふへからす。おもふに貝によせていふなるへし。あはひさゝゑ等の貝、いつれもなましきをよしとすれはなり。うちよするするかのくに。第廿に防人か歌にも打えするするかのねらとよめるは、あつま人なれはうちよするをよこなまりて、うちえするといへり。燭明抄に、風土記に云。國に富士河あり。其水きはめてたけく疾し。よりて駿河の國となつくと云々。しかれは其川の早くして浪打よするするかといふ心にや。亦此國の古老傳ていはく。昔はするかの國ふしの山とあしたか山の間を、東海道の驛路としき。構走の關とて侍しも、此ふたつの山の間に有ける關の名なり。驛路なれは、朝夕に重服觸穢のものゝ行かよひけるを、淺間大明神のいとはせ給て、今のうき嶋か原といふははるかの南海にうかひありきけるを、こゝに打よせさせたまひてより、今の道は出來にけりと申傳へて侍るなりと云々。このふたつの古説の中に、さきの浪打よするといふ心にやといへるはさも侍るへし。後の古老の傳は、虚實はしらされとも、こゝにはかなへらす。延喜式第二十八云。駿河國驛馬、横走二十匹、傳馬横走驛五匹。和名集云。駿河郡横走【與古波之里。】八雲御抄云。横走關【清少納言草紙又在天智御記駿河也。】すてに延喜延長の比まて驛馬を横走に置れたれは、今の浮嶋か原を行道は延喜より以後の事なるへし。淺間明神の觸穢のものをいとはせたまひて、浮嶋か原を南海より打よせたまふにより、打よする駿河といはゝ、此散なといまたよまぬさきの事なれは、從來のものもはやく浮嶋か原よりかよひて、驛馬もそこにこそはをかれめ。こち/\の國は、をちこちの國なり。上のかひするかなり。三中從さかひとはよむへからす。もしのまゝに、みなかとよむへし。眞中なり。出てしあるは、なりて出てあるなり。天雲もいゆきはゝかり。上の赤人の哥、下の釋通觀歌にもよめり。韓〓宿石邑山中詩云。浮雲(ハ)不d共《トモニ》2此山(ト)1齊《ヒトシカラ》u。飛鳥もとひものほらす。説文曰。〓山高峻、鳥飛不越、惟有一缺門、雁往來向此缺中過、人號曰雁門。遊仙窟云。人跡罕及鳥路纔通。王維詩云。鳥道一千里、猿聲十二時。天隱注曰。南中八志曰。鳥道四百里、山其險絶獣猶無蹊、特上有飛鳥之道耳。もゆる火を雪もてきやしふるゆきを火もてけしつゝ。神典經曰。南方有火山、長四十里、生不燼之木、晝夜火燃、得烈風不猛、暴雨不滅。言不得名不知。これをいひかねてなをもしらせすとよめるはあやまりなるへし。こゝの心は言語道斷、心行處滅といふかことく、かゝるあやしきことは、そのことはりをいふ事もあたはす。何となつくへき名をもしらぬと、稱美する詞なれは、いひもかねなつけもしらすとよむへし。上はいひかねてとても聞ゆるなり。あやしくもいます神かも。是はすくに山をさしていへり。記云。山有神、名淺間大神。延喜式神名帳云。駿河國富士郡淺間神社【名神大。】此浅間と申神も、すなはち山の精靈にておはしますなるへし。孔雀經に、佛諸の大山の名を説て、此名を知て唱るものは利益あらんと説たまへるをもておもふへし。せのうみとなつけてあるも、その山のつゝめる海そ。古抄にふしの山のいぬゐの角に侍る水海なり。すへてふしの山のふもとには、山をめくりて八の海有となん申す。せの海と申は、かの八の海の其一なりといへり。今案、此抄にいへるは、世に富士蓮肉とて、常のよりはまろにおほきなるを數味なとにするを出す沼をいへる歟。蓮肉といへるは※[草がんむり/欠]實とそみゆる。さて今こゝにその山のつゝめる海そといへるは、鳴澤の異名なるへきにや。さらてはつゝめる海といふ詞かなはす。海とはいかていはんと難せは、澤ともいふへからす。さきに.あらやまなかに海をなすかもとよめるも、池のひろく深きをいへるに准して知へし。記云。此山高極雲表、不知幾丈、頂上有平地、廣一許里。○第十四東哥に、さぬらくは玉のをはかりこふらくはふしのたかねのなるさはのこととよめるこれなり。此記の心をおほえて、石ありや竹ありやと.のほれりといふ人ことに問ふに、竹はなし、石は、池の中、氷と大雪ありて見えすとのみいへり。せのうみを、八雲御抄に神の名としたまへるは心得かたし。石花とかきてせとよむは、石花といふ貝、和名せといへは、かりてかけり。和名集云。兼名苑注云。石花【花或作華。】二三月皆紫舒花、附石而生、故以名之【和名勢。】ふし川と人のわたるもその山の水のあたりそ。記云。有大泉、出自腹下、遂成大河、其流寒暑水旱、無有盈縮。六帖に、ふし川のよにすむへくもおもほえでこひしき人の影しみえねは。躬恒家集に、あはんとはおもひわたれとふし川のつゐにすますは影も見えしを。此二首、よにすむへくもおもほえすといい、つゐにすますはといひて、すまぬ事によせたるは、あるひは雪け、あるひは雨なとに、山よりにこりくるゆへにすむことまれなるによせたり。今もあつまにかよふ人の、餘に大河あれと大かたかちわたりし侍るを、此河のみ、夏冬となく舟にてこし侍る。鳥を、そのにこるかんなにつかふは、をそといふか、からすの事なれは、上畧して用侍るなり。第十四に、からすてふ大をそ鳥とよめり。おそはきたなき事なり。えはみきたなき鳥なるゆへになつくるなるへし。やまとの國のしつめとも。文選東京賦云。太室作鎭。注云。太室崇高別名、言以崇高之嶽爲國之鎭山。呉都賦曰。指衡嶽以鎭野
 
反歌
 
320 不盡嶺爾零置雪者六月十五日消者其夜布里家利《フシノネニフリオクユキハミツキノモチニケヌレハソノヨフリケリ》
 
消者はキユレバともよむべし、仙覺抄に富士の山には雪の降積てあるが、六月十五日に其雪の消て子の時より下には又降替ると駿河國の風土記に見えたりと云へり、今云、仙覺も駿河風土記は唯人傳に聞れたりと見えたり、此は消る間のなきをせめていはむとて其夜降けりとはいへり、業平のかのこまだらとよまれたるは五月なり、今富士に上る者に尋ぬれば六月にも所々に消殘てありとは申せど降るとは申さず、詩歌は心して見るべし、順徳院此歌の意を得てよませ給へる御歌、限あれば富士のみゆきの消る日も、沍る氷室の山の下柴、記云、宿雪春夏不消、漢書西域傳云、天山冬夏有雪、山海經云、由首山小威山空桑山皆冬夏有雪、
 
初、ふしのねにふりをく雪はみな月のもちにきゆれはその夜ふりけり
駿河國の風土記に、此山につもりてある雪の、六月十五日にきえて子の時より下には又降かはると古抄に見えたり。たしかに其書を見されは信しかたし。此歌はふりつくよしをいはんとて、その夜ふりけりといふなるへし。記云。宿雪春夏不消。のほれるものにきくに.きゆるといふもむらきえにて消つくすといふ事なしとそ。順徳院此歌の心を得させたまひて、かきりあれはふしのみゆきのきゆる日もさゆるひむろの山のしたしは。山海經云。由首由小威山空山、皆冬夏有雪。漢書西域傳云。天山冬夏有雪
 
(69)321 布士能嶺乎高見恐見天雲毛伊去羽計田菜引物緒《フシノネヲタカミカシコミアマクモヽイユキハハカリタナヒクモノヲ》
 
伊去、【校本云、イユキ、】 羽計、【官本或計作v斤、】
 
伊去の點校本をよしとす、今の點は印行の誤なるべし、莱は菜に改むべし、タナビクは立はのぼらでとよめるに同じ、
 
初、たなひく
立はのほらて山にたな引とよめるにおなし。菜を誤て莱に作
 
右一首高橋連蟲麻呂之歌中出焉以類載此
 
蟲丸世系考る所なし、
 
山部宿禰赤人至伊豫温泉作歌一首并短歌
 
和名曰、伊豫國温泉 湯郡、源氏に伊與の湯桁の敷といへるも此湯にて今の世も名ある温泉なり、元は大穴持命宿奈※[田+比]古那命のために大|分《イタ》速見《ハヤミノ》湯を下樋より特度來とあり、大分速見も豐後の郡の名なり、彼處にも湯あり、湯を神力を以て底より通はし給ふ意なり、天皇等於湯幸行降坐五度也、釋日本紀第十四に伊豫國風土記を引るに委見えたり、今此歌第一卷にも見えたる舒明天皇齊明天皇の行幸の昔と聖徳太子との御事とを殊懷てよまれたるなり、
 
初、伊豫温泉
伊豫國風土記云。湯郡、天皇等於湯幸行降坐五度也。景行天皇、以大帯上日子天皇、於湯與大后八坂入姫命二?爲一度也。仲哀天皇、以大帯中日子天皇、與大后息長足姫命二?爲一度也、以上宮宮聖徳皇子爲一度、及侍高麗慧慈僧、葛城臣等也。立湯岡側碑文。其碑文處、謂伊社波者、當土諸人等其碑文欲見而、伊社那比來因謂伊社邇波本也。以岡本天皇并皇后二?爲一度。于時於大殿戸有椹云臣木、於其上、集鵤云比米鳥。天皇爲此鳥、繋穗等養賜也。以後岡本天皇、近江大津宮御宇天皇、淨御原宮御宇天皇三?爲一度。此謂幸行五度也。延喜式神名帳云。伊與國温泉伊佐爾波神社、湯神社
 
(70)322 皇神祖之神乃御言乃敷座國之盡湯者霜左波爾雖在嶋山之宣國跡極此疑伊豫能高嶺乃射狹庭乃崗爾立而歌思辭思爲師三湯之上乃樹村乎見者臣木毛生繼爾家里鳴鳥之音毛不更遐代爾神左備將徃行幸處《スメロキノカミノミコトノシキマスクニシシユハシモサハニアレトモシマヤマノヨロシキクニトコヽシキイヨノタカネノイサニハノエオカニタヽシテウタフオモヒイフオモヒセシミユノウヘノコムラヲミレハヲミノキモオヒツキニケリナクトリノコヱモカハラストホキヨニカミサヒユカムミユキシトコロ》
 
敷座、【官本亦云、シキイマス、】
 
敷座は今按シカシマスともシキマセルとも讀べきか、國之盡は今の本の點意得がたし、クニノコト/”\と讀べきか、上に云が如し、湯ハシモのしも〔二字右○〕は助語なり、初よりサハニアレドモに至るまでの七句は今の湯をほめん爲に諸國に湯は多けれどと云なり、雖は縱奪の詞にて、島山は伊與の新居《ニヒキノ》郡に島山あれどそれを云にはあらず※[手偏+總の旁]じて彼國をさせり、極此疑は島山なればいへり、射狭庭乃等の四句は聖徳太子の御事なり、仙覺の引れたる風土記云、以2上宮聖徳皇子1爲2一度(ト)1、及侍高麗慧※[耳+怱]僧葛城臣等也、立2湯岡(ノ)側碑文1、其立2碑文1處謂2伊社邇波之岡1也、所2以(ハ)名2伊社邇披1者、當土諸人等其碑文欲v見而伊社那比來、因謂2伊社邇波1本也云云、釋日本紀には碑文は出たれども此(71)伊社邇波岡の事は略せるか引れず、延喜式神名帳云、温泉郡伊佐爾波神社、又湯神社、歌思はウタオモヒとよみ、辭思はコトオモヒとよむべし.太子彼岡に立て歌を案じたまひ碑文の辭を案じ給へるを云へり、御歌は傳はらねどよみたまへるなるべし、コムラは木の茂れるなり和名云、纂要云、木枝相交下陰曰※[木+越]、【音越、和名、古無良、】臣木はもみの木なるべし、於と毛と同韻にて通ぜり、和名云、爾雅云、樅、松葉柏身、【七容反、和名、毛美、】是は第一卷に軍王歌の注に一書云とて引る事なり、彼處には二樹と云ひて何の木とさゝず、仙覺の引れたる風土記云、以2岡本天皇并皇后二?1爲2一度1、于v時於2大殿戸1有v椹云2臣(ノ)木1、於其集上鵤云2比米鳥1、天皇爲2此鳥1枝繋2穗等(ヲ)1養賜也、此文も亦釋日本紀には引ず、今按椹の下の云、鵤の下の云は共に與の字の草書を誤て云に作れるなるべし、於其集上は於其上集なるべし、比米鳥は此米鳥なるべし、第一卷に二樹といへると有椹與臣木といへる符合せり、斑鳩此米二鳥大集といへると於2其上1集2鵤與2此米鳥1といへると又叶へり、椹は桑子の名なれば桑か、但桑と樅とは似つかぬ木なり、今俗此椹の字をさはらとよめり、さはらと云木はもみに類したれば昔もさはらとよみけるにや、鵤は和名に斑鳩と同訓なり、此米は和名云、孫※[立心偏+面]切韻云、※[旨+鳥]、【音脂、漢語抄云、之女、】小青雀也、此集第十三にもいそはひをるよいかるがとしめととよめり、小鳥の事能知たる者の申け(72)るは、斑鳩此米は打つれありく鳥と申き、此米は和名云、陸詞切韻云、※[令+鳥]、【音黔、又音琴、漢語抄云、比米、】白喙烏也、鳴鳥ノ聲モカハラズと云は何れの鳥もあるべけれど上の二鳥より云なり、神サビユカムは物ふりて彌かう/”\しく成ゆかむとなり、
 
初、すめろきの神のみこと
君を神といふ、さき/\のことし。しきませる國のかきりに湯はしもさはにあれとも。しろしめす國々に、いてゆはおほくあれともなり。島山のよろしきくにときはめしか。和名集云。伊與國新居郡島山。いまはこれにはあらす。惣していよは四國の惣體にて、四國みな島國なれは嶋山といへり。日本紀云。〓生大日本豊秋津洲、次生伊豫二名洲。舊事紀云。伊豫二名洲、此島者、身一而面四、毎面有名、伊與國謂愛止毘賣云々。きはめしかは、諸臣まても評議して、島山のよき國と伊與を定にしゆへ歟といふ心なり。疑の字を、かとよむことは、此かはうたかひの詞なれはなり。又此集に此疑の字をらしとよめるも、らしも凝の辭なれは、義に随てさま/\轉し用るなり。楞嚴に、若能轉物、則同如來といへり。これらもその一分なるへし。歌思辭思せし。これをは、うたおもひことおもひせしとよむへし。うたふおもひいふおもひはあやまれり。これは風土記にいへる、聖徳太子の湯の碑を立たまふとて、文章の樣を案したまふを、ことおもひといひ、歌をもよませたまひけんなれは、うたおもひとはいへり。みゆのうへのこむらをみれは。みゆは眞湯なり。こむらは和名集云。纂要云、木枝相交、下陰曰※[木+越]【音越、和名古無良。】おみの木もおひつきにけり。おみはもみの木なり。和名集云。樅松葉柏身【七容反、和名毛美。】これは舒明天皇の彼湯宮におはしましける時、風土記にいへるかことく、おみの木有ていかるかしめのあつまりけるかために、いなほをかけてやしなはせたまひける、其時の木なり。第一卷軍王の歌の後の注の中にひける山上憶良の類聚哥林にいはく。一書云。是時宮前有一樹木、此之二樹、斑鳩此米二鳥大集、時勅多掛稻穗而養之、乃作歌云々といへるよりみれは、うたおもひことおもひも岡本天皇の御事を申かとも聞ゆ。其時は歌はうたの惣體にて、ことは歌のなかのことはなり。又おなし事を詞をかへてふたゝひいふ事もあれは、ことゝいふも歌にても有なん。啼鳥のこゑもかはらすとは、昔のいかるかしめのことをふみていへり。神さひゆかんみゆきし所とは、かくよしある所なれは、みゆきにより名高くかう/\しく後の代はるかにきこえつかんとなり
 
反歌
 
323 百式紀乃大宮人之飽田津爾舩垂將爲年之不知久《モヽシキノオホミヤヒトノニキタツニフナノリシシケムトシノシラナク》
 
仙覺抄云、伊豫風土記には後岡本天皇御歌云、美枳多頭爾波弖丁美禮婆云云、にとみと同韻相通の故ににぎたづともいひみぎたづとも云と上られたり、み〔右○〕とに〔右○〕とは殊にかよはしていはるゝ字と聞えたり、いはゆる浪速をなにはといひ、にほをみほといひ、蜷をになと云が如し、第一卷に引る齊明紀に合て見るべし、垂は乘の字の誤なり、
 
初、にきたつ
第一卷に見えり。乘誤作垂
 
登神岳山部宿禰赤人作歌一首井短歌
 
初、登神山
 
324 三諸乃神名備山爾五百枝刺繁生有都賀乃樹乃彌繼嗣爾(73)玉葛絶事無在管裳不止將通明日香能舊京師者山高三河登保志呂之春日者山四見容之秋夜者河四清之且雲二多頭羽亂夕霧丹河津者驟毎見哭耳所泣古思者《ミモロノカミナヒヤマニイホエサシシヽニオヒタルトカノキノイヤツキツキニタマカツラタユルコトナクアリツヽモヤマスカヨハムアスカノフルキミヤコハヤマタカミカハトホシロシハルノヒハヤマシミカホシアキノヨハカハシサヤケシアサクモニタツハミタレユフキリニカハツハサワクミルコトニネニノミナカルムカシオモヘハ》
 
繁、【六帖、シケク、官本亦點同v之、】  河四清之、【六帖、カハシモキヨシ、】  驟、【六帖、サワキ、】  哭耳所泣、【六帖、ナキノミソナク、】
 
右の六帖の點何れも今の點には及ぼざるか、驟の字はサワグ、サワギ、同等なるべきか、此外三諸乃をミムロギノといひ、明日香能をアスカノノと云へるは意得がたし、川トホシロシとは大きにゆたけき意なり、神代紀下云、集《ツトフ》2大小之魚《トホシロクイヲトモヲ》1、山シ見カホシ、山を見ることのあかずほしきなり、上のし〔右○〕は助語、見容之と書たれど見之欲《ミガホシ》なり、但今の如くも書又見※[日/木]之とも書たればよむ事は顔の如くなるべし、且雲二以下の四句并反歌によれば赤人の此歌よめる時秋とみられたり、第十秋部に詠鶴とて鶴の歌あり、蛙は多分秋によめればなり、鶴も蛙も鳴物なれば舊都を感じてなくといはむために二の物を上にいへり、此舊都は近く藤原宮を指か、
 
初、とかの木
第一卷に注す。河とをしろし。第十七にも此詞あり。とをしろしと、おほきなるをいふ。神代妃下云。集大小之魚。山しみかほし、見容之とかきたれと、見之欲にて、みまくほしきなり。朝くもにたつはみたれて、夕きりにかはつはさはく。これはみることにねにのみなかるといはんためなり。朝雲にみたるゝ鶴も、夕霧にさはく蛙もともになけは、みることにねのみしなかるとよせたり。景と情とを兼たり。赤人にあらすは、かやうにはよみかたかるへし。むかしおもへはとは、赤人はならの京につかへられて、岡本、後岡本、淨御原、藤原宮みな此みもろ山あすか川のあたりにおはしまして、さかえし所なるに、今ふるさとゝなりはてたるゆへに、いにしへをこふるなり
 
反歌
 
(74)325 明日香河川余藤不去立霧乃念應過孤悲爾不有國《アスカカハカハヨトサラスタツキリノオモヒスクヘキコヒニアラナクニ》
 
川ヨドサラズとは常にの意なり、霧は水氣の故なり、思スグベキとはよしやとやり過しがたきなり、下に此詞多し、新千載に戀に入られたる事おぼつかなし、此戀と云は故郷を戀る感慨なり、
 
初、川よとさらす
朝夕立霧のはるゝまなきかことく、わがいにしへをこふる心もおもひ過してやらんとすとも、はらされしといふ心なり。此集に、おもひ過へき、おもひやるといへそは、みなおもひを過すへきおもひをやるなり
 
門部王在難波見漁父燭光作歌一首
 
初、門部王
元明紀云。和銅三年春正月壬子朔戊年、授無位門部王葛木王從六位上神社忌寸河内、並從五位下。六年正月、授無位門部主從四位下。元正紀云。養老元年正月、從五位上。養老三年秋七月、始置按察使、令伊勢國守從五位上門部王、管伊賀志摩二國云々。五年正五位下。聖武紀云。神龜元年二月、正五位上。五年五月.從四位下。天平三年、従四位上。九年十二月壬戌右京大夫。十四年四月戊戌、授從四位下大原眞人門部從四位上。天平十七年四月戊于朔庚戌、大藏卿從四位上大原眞人門部卒。【聖武紀位階次第有疑】見漁父燭光。和名集云。漁父、一曰漁翁【和名無良岐美】
 
326 見渡者明石之浦爾燒火乃保爾曾出流妹爾戀久《ミワタセハアカシノウラニタケルヒノホニソイテヌルイモニコフラク》
 
火ノホニ出ルとは※[火+稻の旁]なり、※[火+陷の旁]は火の穗の意に名付たり、久しく旅に在て妹を戀る心を忍べども、あの海人の燒火ももゆれば※[火+稻の旁]の上りて遠く見ゆるやうに我下思ひも餘りては色に出で見えぬべしとなり、
 
初、たけるひのほにそ出ぬる
火をほともいふゆへに、たけるひのほに出るとうけたり。色に出ことに出るをほに出るといふなり
 
萬葉集代匠記卷之三上
 
(1)萬葉集代匠記卷之三中
 
或娘子等賜※[果/衣]乾鰒戯請通觀僧之咒願時通觀作歌一首
 
賜は按ずるに贈なるべし、賜は我より上なる人の物を給はる時に用る字なれば今は叶はず、下にも贈を賜に作れる所あり、偏同じく意似たる故うつす人の誤れるなるべし、乾鱒鰒は和名云、四聲字苑云、鰒、魚名、似v蛤(ニ)偏(ニ)著v石、肉乾可v食、本草云、鮑、一名鰒、【和名、阿波比、】通觀は傳未v詳、僧は梵語の略なり、具には僧伽と云、唐には衆とも和合とも翻す、日本紀にはホウシと點じたるは法師の二音を和語とせり、尼をあまと云も日本紀私記に阿魔と云梵語と云へり、此等に例すれば佛をほとけと云も、ほと〔二字右○〕は梵語浮屠家にや、咒願は僧家の祝言なり、十誦律云、佛言、應d爲1施主1種種讃歎咒願u、若上座不v能《・アタフ》即次(ノ)座|能《・アタフ》者作(セ)、
 
初、或娘子等賜
賜字贈の字のあやまれるにや○咒願は十誦律云。佛言○
 
327 海若之奥爾持行而雖放宇禮牟曾此之將死還生《ワタツミノオキニモチユキテハナツトモウレモソコレカシニカヘリイカン》
 
持行而、【官本云、モテユキテ、】
 
(2)宇禮牟曾、今按牟の字常の呉音にてウレムゾと讀べきか、第十一人丸集の哥に、平山子松末有廉叙波《ナラヤマノコマツカウレニアレコソハ》、云云、これをナラヤマノコマツガウレニアレコソハと點じたれど、こ〔右○〕とよむべき字なし、今按に彼もコマツガウレノウレンゾハとよむべきにやと存ず、委は彼處に注すべし、此詞日本紀等にも見えず、唯これのみなるが、語勢を以て推するに、なんど、いかんぞなど云に同じく聞ゆ、是は莊子に轍魚の事を云へる中に、我且南遊2呉越之王1、激2西江之水1而迎v子可(ナラムヤ)乎、云云、曾不v如早索(メンニハ)2我於枯魚之肆1、此意をもてよめるなるべし、
 
初、わたつみのおきにもちゆきて放ともうれもそこれかしにかへりいかむ
うれもそはこれよりほかに見及はぬ詞なり。いかんそ、なんそといふこゝろときこえたり。莊子曰。莊周家貧故往貸粟於監河侯。々々々曰。諾我將得邑金、將貸子三百金可乎。莊周忿然作色曰。周昨來有中道而呼者、周顧視車轍中、有鮒魚焉。周向之曰。鮒魚来、子何爲者哉。對曰。我東海之波臣也。君止之有斗升之水而活我哉。周曰。諾。我且南遊呉楚之王激西江之水而迎子、可乎。鮒魚忿然作色曰。吾失我常與吾無所處、吾得斗升之水然活耳。君乃言之、曾不如早索我於枯魚之肆。この心にてよまれけると見えたり
 
太宰少貳小野老朝臣歌一首
 
職員令云、大貳一人掌同v帥、少貳《・スナイスケ》二人掌同2大貳1、老は聖武紀云、天平元年三月從五位上三年正月正五位下、此集第五に天平二年正月に帥大伴卿の宅にて三十二人梅の哥よめる中に少貳小野大夫とあるは此人なれば此歌も其比なるべし、紀云、九年六月甲辰朔甲寅、太宰大貳從四位下小野朝臣老卒、
 
初、太宰少貳小野者朝臣
職員令云。大貳一人、掌同帥。少貳二人、掌同大貳。元正紀云。養老三年正月.授正六位下小野朝臣老従五位下。四年十月、右少辨。聖武紀云。天平元年三月、從五位上。三年正月、正五位上。六年正月從五位下。九年六月甲辰朔甲寅、太宰大貳從四位下小野朝臣老卒。天平勝寶六年二月丙戌、勅。太宰府去天平七年故大貳從四位下小野朝臣老遣高橋連牛養於南嶋樹牌、而其牌經年今既朽壞、宜依舊修樹、毎牌顯著島名并泊船處有水處及去就國行程遙見嶋名、令漂著之船知所歸向
 
328 青丹吉寧樂乃京師者咲花乃薫如今盛有《アヲニヨシナラノミヤコハサクハナノニホフカコトクイマサカリナリ》
(3)此は朝集使などに差れて、都に上りてよまれたるか、今ニホフと云は色の匂ふなれば、此集にては艶の字なるべきを薫の字をかけるは同訓なれば假てかけるなるべし、
 
防人司祐大伴四繩歌二首
 
職員令云、防人|正《カミ》一人掌2防人名帳戎具教閲及食料田事1、佑一人掌同v正(ニ)、防人の事は後に委注すべし、大伴の下に宿禰の姓有ぬべきを若脱せるか、但官を云へば略せる例あれば其意歟、四繩は世傳未v詳、六帖にはよつつな〔四字右○〕とあり、
 
初、防人司祐大伴四繩歌
大伴の下は宿禰の字のおちたるなるへし。家持の歌なと、末にいたりてつゝきておほき所には、大伴家持とのみもさらては皆姓をそへてかけり。又此大伴をともとのみよむは、淳和天皇の御諱大伴にておはしますゆへに、それにははかり奉りてなり。されともこれらはこさかしきものゝわつかに見たる事をもていへるなるへきにや。續日本紀云。延暦四年五月乙未朔丁酉、詔曰。○又臣子之禮必避君諱、比者先帝御名、及朕之諱、公私觸犯、猶不忍聞、自今以後宜並改避。於是改姓白髪部爲眞髪部、山部爲山。これ光仁天皇を白壁皇子と申けるゆへに白髪部をいみ、桓武天皇を山部王と申けるゆへに山部をいみけるなり。しかれは赤人の氏をも山の赤人とよむへき事なり。すてに詔あるをはいまてさもなきをいむゆへにかくは申なり。後宇多院御諱世仁にてまし/\ける故、よひとゝあるをは人とのみよむよしは、その比よりはさも侍なん。白髪部は、清寧天皇の御子おはしまさて、御くしの白くまし/\けれは御名の後まて、殘るへきことをおほしめして、白髪部ををかせたまへるなり。職員令云。太宰府【帶筑前國】防人正一人、掌防人名帳戎具教閲及食料田事、佑一人掌同正
 
329 安見知之吾王乃敷座在國中者京師所念《ヤスミシシワカオホキミノシキマセルクニノナカニハミヤコシソオモフ》
 
落句は今按京師引合てミヤコとよむ傍例あればミヤコオモホユと讀べし、
 
初、京師所念
京師とつゝけて、みやこなれは都おもほゆともよむへし
 
330 藤浪之花者盛爾成來平城京乎御念八君《フチナミノハナハサカリニナリニケリナラノミヤコヲオモホスヤキミ》
 
君と指せるは大伴卿なり、次の歌これに和する心と見えたり、第十二春日野の藤は散行てとよめり、若は大伴卿の奈良の宅に藤の有けるを筑紫にて藤さく比かくよめるか、第六に少貳石川足人が佐保の山をば思ふやも君とよみて大伴卿に贈れる(4)の和あり、今の歌に似たり、
 
帥大伴卿歌五首
 
職員令云、帥一人云々、彼に委し、
 
331 吾盛復將變八方殆寧樂京師乎不見歟將成《ワカサカリマタカヘレハモホト/\ニナラノミヤコヲミスカナリナム》
 
八方、【校本云、ヤモ、】
 
復將變八方は今按變は反にてまたかへらめやもなるべし、變にてはまたかはらめやもなれば今の意にあらず、殆は危殆にて如何ならむとあやふみ思ふなり、
 
初、將變八方
かへらめやと讀へし。ほと/\は危殆の心にていかゝあらんとあやふみおもふ心なり
 
332 吾命毛常有奴可昔見之象小河乎行見爲《ワカイノチモツネニアラヌカムカシミシキサノヲカハヲユキテミムタメ》
 
ツネニアラヌカは願ふ詞にて落著は常にあれかしなり、第一に吹黄刀自が常をとめにてとよめる歌思ひ合すべし、又さきに中納言の時よまれたる歌に合てみるべし、
 
初、我命も常にあらぬか
第一卷吹黄刀自か歌に注せし心なり。昔見しきさの小川は、さきに中納言の時よまれける歌に合てみるへし。常にあらぬかは、常にあられぬ物か、常なれかしとねかふ心なり
 
333 淺茅原曲曲二物念者故郷之靡念可聞《アサチハラトサマカクサマニモノオモヘハフリニシサトノオモホユルカモ》
 
第二の句は今案ツバラ/\ニと讀べし、舒明紀云、仍|曲《ツハヒラケク》擧2山背(ノ)大兄《オヒネノ》語1、これによるに(5)つまびらかに同じ、此集第十八に、梶の音のつばら/\に、第十九に、やつをの椿つばらかに、是皆同意なり、淺茅原とおけるは、知と豆と五音通ずる故に茅針をもつばなといへばちはらをたゝむで云意にさてかくつゞくるなり、さま/”\に物を思ふに付て彌故郷の戀しきとなり、
 
初、あさちはらとさまかくさまに
淺茅原の打みたれたるか、ひとかたならぬに、さま/\物をおもふ心をよせていへり。故郷に淺茅原は縁ある詞なり。今案、曲曲二とかけるをは、とさまかくさまとはいかてよめりけん。これをはつはら/\とよむへきにや。つはらはつまひらかなり。第十八に、朝ひらき入江こくなるかちのをとのつはら/\にわきへしおもほゆ。第十九に、おく山のやつをのつはきつはらかにけふはくらさねますらをのとも。?曲のこゝろをつくしてあそひくらせといふこゝろなり。日本紀第二十三云。仍曲擧山背大兄語。さてあさち原といひて、いかてつはらとはつゝくるといはゝ、ちとつと通するによリて、かの花をもちはなとはいはて、つはなといへは、その心にあさちといふことはをうけてつゝくるなるへし
 
334 萱草吾紐二付香具山乃故去之里乎不忘之爲《ワスレクサワカヒモニツクカクヤマノフリニシサトヲワスレヌカタメ》
 
香具山、【校本具作v久、】
 
萱草は毛詩云、焉《イツクンソ》得2※[言+爰]草1、言《ワレ》樹《ウエム》2之|背《キタニ》1、毛萇云、萱草(ハ)令2人忘1v憂、第四第十二にも紐に著とよめり、香具山ノフリニシ里とは、第六に此卿奈良にて思郷歌に、行て見てしか神名火の、淵は淺びて、又栗栖の小野の芽花ともよまる、香具山は十市郡、神南備は高市郡、栗栖は忍海郡なれば、本宅別業或は所領など此等の三郡に亘て宥けるか、彼遠祖道臣命は高市郡築坂邑に宅地を賜はりける由神武紀に見えたり、此等も相傳せられける歟、
 
初、わすれ草わかひもにつくかく山の
毛詩云。焉得※[言+爰]草、言樹之背。毛萇詩傳云。萱草令人忘憂。兼名苑云。萱草一名忘憂。名醫別録云。萱草是今之鹿葱也。※[禾+(尤/山)]叔夜養生論云。合歡?忿、萱草忘憂、愚智所共知也。第四に、わすれ草わか下ひもにつけたれとおにのしこ草ことにしありけり。第十二に、わすれ草わか紐につく時となくおもひわたれはいけりともなし。大伴氏先祖道臣命、橿原宮のあたりに宅地を賜られけるを相傳して領せるなるへし
 
335 吾行者久者不有夢乃和太湍者不成而淵有毛《ワカユキハヒサニハアラシヨコヽノワタセトハナラステフトトアリトモ》
 
(6)夢乃和太、【校本云、ユメノワタ、】
 
ユメノワタは第七に芳野作とて五首ある中にも讀たれば吉野川の水の入囘る處にかく名付たる處有けるなるべし、落句今の點意得ず、有の下に也八等の字脱たるか、フチニアレヤモなるべし、
 
初、わかゆきは久にはあらしゆめのわたせとはならすてふちにあれやも
わかゆきとは、わか旅といふ心にて、帥にてあらんほとをいへり。ゆめのわたは、長流か昔の抄に、夢のあひたといふ心なり。すこしの間といはんとてなりと注せり。今案、これは大和にある所の名ときこえたり。第七に、芳野作とて五首ある中にも、ゆめのわたことにしありけりうつゝにもみてこしものをおもひしおもへは。これゆめのわたと名づけたるは唯ことはのみにてありけり。みんとたにおもひ立ぬれは、うつゝにもみてこしものをといふ心なり。こゝにもきさのを川をゆきてみんためともあれは、よしのにある川の水のいりこみてゆたふ所をなつけたる名なるへし。今やかて歸て見にゆくへけれは、それをまちつくるまて、せとならて昔見しまゝのきよきふちにてあれとなり
 
沙彌滿誓詠緜歌一前
 
前は首なり、改むべし滿誓は笠朝臣麻呂と云人の入道せし名なり、元正紀云、養老五年五月己酉、太上天皇不豫大赦天下、戊午右大弁從四位上笠朝臣麻呂、請d奉2爲太上天皇1出家人道、勅許v之、在俗の時美濃守たりし時美政の譽あり、岐蘇路を開かれし功あり、彼國多藝郡に禮泉出しに付て靈龜三年を養老元年と改られしも此人任國の時にて、勘賞に預り位階を加へらる、此歌は觀音寺の別當になされし時筑前に有てよまれたる歌なり、
 
336 白縫筑紫乃綿者身著而未者伎禰杼暖所見《シラヌヒノツクシノワタハミニツケテイマタハキネトアタヽカニミユ》
 
白縫と書たれど不知火なり、不知火は筑紫の枕辭なり、別に注す、筑紫ノ綿とは綿は(7)筑紫の名物なり、稱徳紀云、神護景雲三年三月乙未、始毎v年運2太宰府綿二十萬|屯《ミセヲ》1輸《イタス》2京庫1、延喜式第五十雜式云、凡太宰貢(ツル)2綿穀(ヲ)1船者擇d買|勝《タヘタルヲ》uv載2二百五十石以上三百石以下(ヲ)1、著v※[木+施の旁]《カチヲ》進上、便即令v習v用(ルコトヲ)v※[木+施の旁]、其用度充2正税1、江次第第十一、十二月補(スル)2次侍從1次第云、上古(ニハ)以v預2節會1爲2大望1、多(クハ)依v給2禄綿1也、件綿本太宰府所v進也、而近代帥大貳申2色代1、三百兩代絹一匹、仍無d望v預2節會1人u、下の句聞えたるまゝにて綿を多く積置けるを見て綿の功用をほむるなり、源氏末摘花の卷に、松の雪のみ暖氣にて降つめるとかけるを、花鳥餘情に今案松の雪は白き綿をむしりかけたるやうなればあたゝかげなりと云にやと注せらる、今思はく、注の意ならば此歌を以てや書侍りけむ、温和の相ある人は打見るより仁愛ありぬべくをぼゆれば、世の誡とも成ぬべき歌なり、
 
初、しらぬひのつくしのわたは身につけていまたはきねとあたゝかに見ゆ
白縫とはかきたれとも、不知火のつくしといふことは、日本紀第七、景行紀云。十八年春三月、巡筑紫國。夏五月壬辰朔、從葦北發船、到火國。於是日没也。夜冥不知著岸。遙視火光。天皇挟〓者曰。直指火處。因指火往之、即得著岸。天皇問其火光處曰。何謂邑也。國人對曰。是八代縣笠村。亦尋其火、是誰人之火也。然不得主、茲知非人火。故名其國曰火國。これことのもとにて、しらぬひのつくしといふなり。筑前筑後をつくしといひ、肥前肥後をひのくにといひ、豊前豊後をとよくにとわかちていへることもあれと、薩摩日向大隅をかけて九ケ國を惣して筑前をもとゝして筑紫といふなり。神代紀云。〓生大日本豊秋津洲。次生伊與二名洲。次生筑紫洲。舊事紀云。筑紫島身一而面四、毎而有名、筑紫國謂白日別、豊國言豊日別、肥國謂速日別、日向國、謂豊久士比泥別。續日本紀には、筑紫を竺志ともかけり。つくしといふことは、日本紀纂疏云。地之形似木兎、和名曰郡久、俗謂耳附之鳥也。爾雅云.木兎似鴎而小、兎頭毛角。此木兎に似たるによりてつくしとなつくるよしは、物に見えたる事にや。もし疏主、秋津嶋となつくる例を心得て、わたくしに尺したまへる歟。又肥前肥後は、もと火のくになるを、火災なとに心にかくへけれは、よき字の音をかりて肥となせは、とよくにを豊前豊後といふにはかはりて、肥前肥後、實には和漢音訓ましはれるなり。つくしのわたは、續日本紀第二十九云。神護景雲三年三月乙未始毎年運太宰府綿二十萬屯、輸京庫。【史記蘇秦傳曰。白璧百隻、綿繍千純。注純匹端云々。索隱曰云々。純音淳。高誘注戰國策音屯、々束也云々。日本紀四屯和名阿施。唐書順宗本紀曰。百姓百歳已上賜米五石絹二疋綿一屯羊酒。】延喜式第五十雑式云。凡太宰貢綿穀船者、擇買勝、載二百五十石以上、三百石以下、不著〓進上便即令習用〓、其用度充正税。江次第十一、十二月補次侍從次第云。上古以預節會爲大望、多依禄綿也。件綿本太宰府所進也。而近代帥大貳申色代三百兩代絹一匹仍無望預節會人。下の句はきこえたるまゝにて、わたをおほくつみをけるをみて、綿の徳をほむるなり。源氏末摘花の卷に、松の雪のみあたゝかけにてふりつめるとかけるを、花鳥餘情に、今案、松の雪は白き綿をむしりかけたるやうなれは、あたゝかけなりといふにや。今おもはく、此歌にてかきけんをなとか引たまはさりけん。此哥はたゝ聞まゝにこそ作らめと、わたのみるよりあたゝかけなりといふに心を得は、慈悲ある人には慈悲の相あらはれ、〓慢の人には〓慢の相あらはれ、よろつにかゝるへきことはりなれはいましめとなりぬへき哥にや
 
山上臣憶良罷宴歌一首
 
筑前守となられし事第五に見えたれば此つゞきを見るに太宰帥大伴卿の宅などの宴か、
 
337 憶良等者今者將罷子將哭其彼母毛吾乎將待曾《オクララハイマハマカラムコナクラムソノカノハヽモワレヲマタムソ》
 
憶良は殊に妻子を憐愍したる人なり、第五を見るべし、
 
初、子なくらん
われを待わひてなかんなり。母ものもの字、上を兼たり
 
(8)太宰帥大伴卿讃酒歌十三首
 
酒は内典には一向是を斷て用ず、外典にも尚書禮紀論語等に酒失を防ぐ文多し然れども※[身+矢]義云、酒者所2以以養1v老也、所2以養1v病也、漢書食貨志云、夫鹽食肴之將、酒百藥之長也、晋の劉伶が酒徳頌、唐の李白が獨酌詩のみならず、蒙邁不羈の輩此趣を得る者多し、此歌并懷風藻に載たる藤原麻呂朝臣の詩序を見るに彼輩なるべし、
 
初、太宰帥大伴卿讃酒歌十三首
此卿、酒をこのまれけることは、此十三首の哥をもて知へし。又第四卷に、丹生女王、すなはちこの卿の帥なりける時をくり給ふ歌に、いにしへの人のゝませるきひの酒やもはゝすへなぬきすたまはん。今一首の歌をみるに、都にて心をかはされけると見えたり。されはいにしへの人とよまれたるは、昔あひかたらひし人といふ心ななり。昔上戸にておはせしかは、今もさそあるらん、さかやまひしたまはゝせんすへなかるへし。嘔吐に座をけかされぬためにぬきすをまいらせんとたはふれてたまへるなり。されはかくれなき大戸と見えたり。そも/\酒を用るに得あり。失あり。先その失をいはゝ、佛法の中には一向にこれを制して乃至草葉をもても口をうるほすことをゆるさす。性戒度戒をわかつ時、飲酒はこれ度戒なれとも、五戒の優婆塞飲酒を破せしゆへに其他の四戒一時に違犯せり。かゝるゆへに梵網經云。若佛子故飲酒。○この輕垢罪といふは、〓酒の重禁に對せるなり。〓酒は、十重の第五に説り。其文にいはく。若佛子自〓酒、教人〓酒。○要略念誦輕云。遠離諸酒、如霜雹。諸酒とは、穀酒の下に藥酒菓酒等のおほよそ人を薫醉せしむるなり。あらゆる善心の萠芽を涜する事、彼災霜災雹の草木をからすにたとへたり。乃至智度論には三十五失を立らる。外典には書胤征云。義和廢厥職酒荒于厥邑、胤后承王命徂征。伊訓、制官刑〓于有位曰。敢有恒舞于宮、〓歌于室、時謂巫風微子曰。父師若曰王子、天毒降災荒殷方與沈〓于酒。周書泰誓曰。今商王受。○沈湎冒色取行暴虐。酒誥曰。天降威我民用大亂葬徳、亦罔非酒惟行、越小大國、用喪亦罔非洒惟辜。文王教小子○庶羣自酒腥聞在上、故天降喪于殷。禮樂記曰、賓人王百拜。○論語子罕曰。子曰。郷黨云。惟酒無量不及亂。戰國策曰。儀狄作酒。その得は、禮射義曰。酒者所以養老也。所以養病也。前漢書食貨志云。夫鹽食肴之將酒百藥之長也。いにしへは藥を用るに、おほく酒をもてしけるゆへに、醫の字酉に從かへたり。宗廟社稷を祭るにも是を用ゐ、本朝に大小の神祇を祭るにも、神酒をもちゆ。されとも人のためには失おほきゆへに郷飲酒の禮なとをまふけてそのゑひてみたれんことをふせく。世教にはひたすらこれをたつにあらされとも、その失なくて得のみあらんやうには用かたかるへし。但七賢等の曠達の士ありて、凡俗のさかひをしらさる事あり。詩人文人このまさるはまれなり。劉伯倫は酒徳頌を作り、白居易は晒功讃を作れり。李太白か獨酌詩云。天若。○もろこしには豪邁不羈のともから、やゝもすれは此おもむきを詩文にも作れり。本朝にはふるくはこれらの哥、懷風藻に出たる藤原麻呂朝臣の詩序なともそのたくひならん。此集には猶酒をよめる歌あり。古今より後の集には、酒宴のむしろにありて讀るよしの詞書なとはあれと、酒なとよめることまれなり。大底異國は、飲食にふけりて、此國は色をこのめり。路逢麹車口流涎といへるは、杜子美か詩なれと、きたなく侍り。たかまの山のみねのしら雲とよせたるはいと風流なり。およそ此國にはなさけといふことをたふとへり。性情につきていはゝ、むつかしかりなん。なさけをたふとふといふゆへは延喜式をみるに、二月釋奠の日もし神事にあたれは、三牲をかふるに鯉鮒のたくひをもてす。これは異國にたかひて四足をいまるゝゆへなり。大甞會のまへなとには、僧尼のことき、情を奪て公に隨ふ輩を禁裏に出入せしめされといへり。佛制の公道に隨ふ故に崇敬したまへとも、人情をすてゝ俗を出、すけなきやうなるか神事にかなはされは、僧尼の出入をゆるさす。忌詞なといふこともあるなるへし。されはそのなさけにつきていはゝ、兼好法師よくこゝろえてつれ/\草におかしくかけり。色をいふにはある所には、色このまさらんをのこは、玉のさかつきのそこなきここちそすへきといひ、ある所には、色このまさらんにはしかしといへり。酒をいふには、いたましくするものから、けこならぬこそをのこはよけれといひ、ある所には、酒をしひることをこゝろえぬことゝいひ、梵網經の五百世無手の文のこゝろを引なとし、具覺房か事なとをもかき、又さてもあらてかくうとましとおもふ物からともたすけたり。これらをこゝろえて中ころをとり用たらんそ、風流士なるへき。いたましうする物からといへる、やさしくおもしろし。宇陀の法皇の御前にて、大なる盃にしるしつけて、これかれの上戸に大みきたまひける時、伊衡朝臣ひとりみたれさりけんも、哥人にはふっゝかにこそ
 
338 驗無物乎不念者一坏乃濁酒乎可飲有良師《シルシナキモノヲオモハスハヒトツキノニコレルサケヲノムヘクアラシ》
 
有良師、【幽齋本云、アルラシ、】川畑叫沌‥
 
物ヲ思ハズバとは物を思はじとならばの意なり、濁酒は淵明が詩に云く、濁酒聊々自適(ス)、
 
初、しるしなき物をおもはすは
しるしなきは、さま/\のことをおもひてもかひなきをいふ。たとへは千金を得はやとあけくれおもへとも、つゐに一錢の用なきかことし。物をおもはすはとは、此哥にては物をおもはしとならはといふ心なり。にこれる酒は淵明か詩にいはく、濁酒聊自適
 
339 酒名乎聖跡負師古昔大聖之言乃宜左《サケノナヲヒシリトオヒシイニシヘノオホキヒシリノコトノヨロシサ》
 
負師は今按オフセシとよむべし、是は酒の徳を知て名を聖と付し、人は猶聖の上の聖なりと云心に大聖と云なり、宜とは其名尤相當すとなり、酒を聖と云事は蒙求云、魏徐※[しんにょう+貌]字景山、爲2尚書郎1時禁酒、而※[しんにょう+貌]私《ヒソカニ》飲沈醉、趙達問以2曹事1、※[しんにょう+貌](カ)曰、中2聖人1、達白、大祖怒(ル)(9)鮮于輔進曰、醉客謂(テ)2酒清者1爲2聖人(ト)1、濁(ル)者(ヲ)爲2賢人1、※[しんにょう+貌]偶醉言耳、和語のひじりは日知なり、第一に橿原乃日知之御世とかけるが如し、日は此國は日神を尊めば男女をほむるにも日子日女の名あり、知は生れながらによく知なり、
 
初、酒の名をひしりとおひし
負師とかけるは、おふせしとかつけしとかよむへし。魏徐※[しんにょう+貌]、字景山、爲尚書郎。時禁酒、而※[しんにょう+貌]私飲沈醉。趙達問以2曹事。※[しんにょう+貌]曰。中聖人。達白。大祖怒。鮮于輔進曰。醉客謂酒清者爲聖人、濁者爲賢人。※[しんにょう+貌]偶醉言耳。おほきひしりは、誰にてもあれ、はしめてひしりと名つけしものをさせり
 
340 古之七賢人等毛欲爲物者酒西有良師《イニシヘノナヽノサカシキヒトトラモホリスルモノハサケニシアルラシ》
 
人等毛、【幽齋本云、ヒトヽモヽ、】
 
人等毛は幽齋本の如くよむべし、今の點は誤なり、或はヒトタチとも讀べし、七賢は※[稽の旨が山]康阮籍山濤劉伶阮咸|向《シヤウ》秀王戎なり、人の常に知が如し、
 
初、いにしへのなゝの――
人等毛は、人ともとかよむへし。人とらと有はひとゝものかんなのあやまれるなるへし。七賢は、※[禾+(尤/山)]康阮藉、山濤、劉伶、阮咸、向秀、王戎
 
341 賢跡物言徒者酒飲而醉哭爲師益有良之《カシコシトモノイフヨリハサケノミテヱヒナキスルシマサリテアルラシ》
 
醉哭はよからねど我かしこげに物言よりは勝るとなり、源氏篝火に、醉泣して次てに忍ばぬ事もこそあれとのたまへば云云、行幸にをさ/\心弱からぬ六條殿も醉泣にや打しをれ給ふ、
 
初、ゑひなきする――
源氏物蕗におほし。かゝり火に、ゑひなきのついてにしのはぬ事もこそあれとのたまへは。みゆき、おさ/\心よはくおはしまさぬ六條殿もゑひなきにや打しほれたまふ
 
342 將言爲便將爲便不知極貴物者酒西有良之《イハムスヘセムスヘシラスキハマリテタカシコキモノハサケニシアルラシ》
 
貴物者、今按タフトキモノハともよむべきか、
 
初、かしこき物
貴物とかける字のことくたふとさものなり
 
(10)343 中々二人跡不有者酒壺二成而師鴨酒二染甞《ナカ/\ニヒトヽアラスハサカツホニナリテシカモサケニシミナム》
 
中々二、【校本或二作v爾、】
 
甞はなむるに非ず、なんと云に借れり、仙覺抄云、人にあらずば酒の壺にならばやと云ことは本文に云、昔酒を好む者ありけり、それが我死なむには酒の壺にならずば人の酒飲にうけしたみてむ所の土とならむと願ひて死けるなり、其意をよめる歌也、
 
初、中々に人と
中々に人とても人めくほとの人にもあらずはといふ心なり。鴨はにこりてよむへし。ねかひかなゝり。甞はなむるにあらず。唯なんといふてにをはにかれるなり
 
344 痛醜賢良乎爲跡酒不飲人乎※[就/火]見者猿二鴨似《アナミニクサカシラヲストサケノマテヒトヲニクムハサルニカモニル》
 
痛醜は神武紀云、大醜乎《アナミニクヤ》、【大醜、此云2鞅奈瀰※[人偏+爾]句(ト)1、】賢良は賢良方正など云時の如く二字連綿か、思ふにさかしらは俗にかしこたてと云程の詞、第十六には情出情晋とも書たればすすどき者など云證在れば、良の字は唯ら〔右○〕の音を用たるのみなるべし、※[就/火]は熟の字なり、熟見をニクムとよませたるは第一ににぎたづを熟田津とかけり、き〔右○〕とく〔右○〕と通ずれば熟をニクとよむか、但五音通ずといへども又通局なきに非ず、假令きつねをくつねとはいへどかつねこつねと云はぬが如し、にこ、にきとは通ずれど、にくとは通(11)ずべからず、み〔右○〕とむ〔右○〕と通ずる故に六人部王を身入部とも書たれば見〔右○〕をむ〔右○〕ともよむべきか、賢人だてをするとてのまゝほしき酒をも飲ずしてのむ人を惡み嫌ふ其人は、譬ば猿の人に似て人にも非ずこざかしきが如しと云意か、されども猿ニカモ似ルと云てに〔右○〕をば落着ず、亦はゑへる人を惡むは顔の赤きが猿に似たるを嫌歟とも意得つべけれども、飲ずしてさかしらする者をあなみにくと謗る歌なればそれも叶はず、今按酒ノマヌ人ヲヨク見バ猿ニカモ似ンと和すぺし、さかしらすとて酒をも飲ぬ人をつら/\能見ば猿の人に似て人にあらぬがさすがにこざかしきに似むとなり、涅槃經に、天竺の人は?は龍に似たる故に、馬は寶なる故に、猪狗は穢はしき故に、猿は人に似たる故に皆食はずといへり、此歌は李白が但得(ハ)2醉中趣1、勿v謂2醒者傳1といへるに似たり、
 
初、痛醜
古語拾遺云。事之甚切、皆稱阿那。神武紀云。大醜乎【大醜此云鞅奈瀰※[人偏+爾]句。】さかしらは俗にこさかし.かしこたてといふほとのことなり。此集第十六に、情出情進ともかきたれは、すゝときもの指出たるものなともいふたくひなり。※[就/火]は熟の字のあやまれるなり。熟見をにくみとよあるは、にきたつの時、熟田津とかき、みとむとは通する音なれはなるへし。今案、酒のまぬ人をよく見は猿にかもにんとよむへし。古點の心は、賢人たてをするとてのまゝほしき洒をのますして、のむ人をにくみきらふその人は、たとへは猿の人に似て、人にもあらぬか、こさかしきかことしといふ心なり。されともさるにかもにると、てにをはすこしおちつかぬなり。又はゑへる人をにくむは、ゑへるかほのあかきか猿に似たるをきらふかともこゝろえつへけれとも、あなみにくといふ一句を本意とする哥なるに、此句のますしてさかしらするものをいへはそれはかなはぬなり。今案の心は、さかしらするとて酒をものまぬ人をつら/\能見は、あたかも猿の人に似て人にあらぬか、さすかにこさかしきに似んとなり。さかしらも賢人に似たれは猿にたとふるなり。涅槃經に、天竺國の人は、蛇は龍に似たるゆへにくはす、馬は寶なるゆへに食ず、猪狗はけからはしとてくはす、猿は人に似たるゆへにくはすと見えたり。此哥は李白か但得醉中趣、勿謂醒者傳といへる心あり
 
345 價無寶跡言十方一杯乃淘酒爾豈益目八《アタヒナキタカラトイフトモヒトツキノニコレルサケニアニマサラメヤ》
 
豈益目八、【紀州本、八下有v方、】
 
アタヒナキ寶は法華經云、以無價寶珠繋其衣裹、紀州本によるに次歌下の注は此下に有べきか、其故は八目、八方、同事なれば次下の歌に用なし、
 
初、あたひなき寶といふとも
法華經云。譬如有人、至親友家醉酒雨臥、是時親友官事當行、以無價寶珠、繋其衣裏與之而去。大般若經四百二十九云。譬如無價寶珠、具無量種勝妙威徳、隨所生處者、此神珠人及非人無所能害。續博物志云。魏田父耕於野而得玉弗識也。隣人陰欲得之。紿曰。此怪石也。田父置玉於室。其光燭夜、果以爲怪、棄之於野。人從而盗之、以獻魏王。玉工望而拜曰。此無價之寶
 
(12)346 夜光玉跡言十方酒飲而情乎遣爾豈若目八目《ヨルヒカルタマトイフトモサケノミテコヽロヲヤルニアニシカメヤモ》 【一云八方】
 
夜光玉は史紀云、隋公祝元暢因之v齊、道上見2一蛇將1v死(ント)、遂以v水洒、摩2傳之神藥1而去(ヌ)、忽(ニ)一2夜中庭皎然有v光、意謂有(リト)v賊遂(ニ)案《トクシハリテ》v劔視(ルニ)v之、廼(ハチ)見2一蛇※[口+銜]v珠在v地而徃1、故知2前蛇之感報1也、以2珠光能照1v夜故曰2夜光1、李斯上書云、必秦國所v生然後可(ナラハ)則夜光之璧不(シ)v飾(ラ)2朝廷1、三の句以下は文選魏武帝短歌行云、慨(テ)當(ニ)2以慷1、憂思難v忘、何以解v憂、惟有2杜康1、注謂、杜康古之造v酒者、陶潜(カ)責v子詩云、天運苟(ニ)如v此、且進2盃中物(ヲ)1、
 
初、夜光玉といふとも
史紀云。隋公祝之暢因之齊、道上見一〓將死、遂以水洒、摩傳之神藥而去、忽一夜中庭皎然有光、意謂有賊、遂案劔視之、〓見一蛇※[口+銜]珠在地而徃、故知前蛇之感報也。以珠光能照夜、故曰夜光。李斯上書云。必秦國所生、然後可、則夜光之璧、不飾朝廷。酒のみて心をやるに。魏武帝樂府歌行曰。慨當以慷、憂思難忘、何以解憂、惟有杜康。注謂、杜康古之造酒者。陶潜責子詩云。天運苟如此、且進盃中物
 
347 世間之遊道爾怜者醉哭爲爾可有良師《ヨノナカノアソヒノミチニマシラハヽヱヒナキスルニアリヌヘカラシ》
 
冷者をマシラハヾと點ぜる意いまだ得ず、假命《タトヒ》交者と云心によまるとも歌の意首尾とほるまじきにや、今按オカシキハと和すべきか、崔魯が詩云、獨立2空山1冷2笑春1、此冷の字なるべきか、誠に面白きをおかしかるなど物にかけるは日本紀に欣感をオムカシミスとよめる是なり、笑て興ずるをおかしといへるか、冷笑なるべし、誠は醉泣をおかしむにはあらねど、他の遊興の諍論などに亘らむよりは醉泣は猶おかしき方ありてまさらむとなり、
 
初、冷者
ましりらはゝとよめる、そのこゝろ得かたし。おかしきはとよむへきか。崔魯詩云。獨立空山冷笑春。これは俗にしらわらひといふ心にかよふへし。冷眼といへる冷の字も似たる心にや。さきにも、かしこしと物いふよりは酒のみてゑひなきするしまさりたるらしといふことく、まことはゑひなきをおかしむにはあらねと、他のましはりの諍論なとにわたらんよりは、ゑひなきも猶おかしきかた有ぬへしとなり。兼好か上戸はおかしくつみゆるさるなとかける心なるへし。日本紀に、欣感とかきて、おむかしみすとよめるは、おかしみすといふ詞にて、まことにおかしきなり
 
(13)348 今代爾之樂有者來生者蟲爾鳥爾毛吾羽成奈武《コノヨニシタノシクアラハコムヨニハムシニトリニモワレハナリナム》
 
列子云、且趣2當生(ニ)1、奚(ソ)遑2死後1、荘子云、泰氏其臥徐々(タリ)、其覺干干、【玄英疏云、自得之貌、】一以v己爲馬、一(タヒハ)以v己爲v牛、【郭象注云、夫如是人、奚是人非人之有哉、斯(テ)可謂出於非人之域(ヲ)、】賈誼鵬鳥賦云、忽然爲v人兮、何足2控搏1、化爲2異物1兮、又何足v患(ルニ)、小智自私兮、賤v彼貴v我、達人大觀兮、物無2不可1、これらの趣を知れるにや、
 
初、このよにしたのしみあらは
列子曰。且趣當生、奚遑死後。この卿、莊老の心により、又酒をこのまれけるは、天性一僻なりけれとも、まことにはさもなかなけるにや。下に此卿の女坂上郎女か新羅の尼理願か死せるをいためる歌の後の注に、右新羅國尼曰理願也。遠感王徳、歸化聖朝。於時寄住大納言大將軍大伴卿家、逕數紀焉。哥にもうちひさすみやこしみゝに、さといへはさはにあれとも、いかさまにおもひけめかも、つれもなきさほの山へに、なくこなすしたひきましてなとよめれは、俗人ならぬ曠達の人なるへし。莊子應帝王篇云。泰氏其臥徐々、基覺于々。【玄英疏曰。自得之貌】一以己爲馬、一以己爲牛【郭象注曰。夫如是人、奚是人非人之有哉、可謂出於非人之域】
 
349 生者逐毛死物爾有者今生在間者樂乎有名《イケルヒトツヰニモシヌルモノニアレハコノヨナルマハタノシクヲアラナ》
 
史記孟甞君傳云、憑驩曰、生者必有v死(コト)、物之必至(ルナリ)也、を〔右○〕は助語なり、
 
初、いける人つゐにもしぬる
史記孟嘗君列傳、憑驩曰。生者必有死、物之必至也
 
350 黙然居而賢良爲者飲酒而醉泣爲爾尚不如來《タヽニヰテサカシラスルハサケノミテヱヒナキスルニナヲシカスケリ》
 
黙然居而とはまことしく道をも學ばず行ひもせぬ人の己が心を師としてさかしらするものなり、凡さかしらとよめる歌二首、かしこしと物云よりはとよめるも同じ時にあたりてさる者あるを惡て酒をほむるに寄て謗れるなるべし、
 
沙彌滿誓歌一前
 
首を誤て前に作れり、改むべし、
 
初、沙彌滿誓歌一首
首誤作前
 
(14)351 世間乎何物爾將譬且開※[手偏+旁]去師舩之跡無如《ヨノナカヲナニニタトヘムアサヒラキコキイニシフネノアトナキカコト》
 
仙覺の云、此歌の中の五文字、古點にはあさぼらけと點ぜり、此詞古くはあさびらきと云けりと見えたり、此集の眞名假名の所にあまたあり、朝びらきといへる何の聞にくゝあはざる心あればやあさぼらけと點じたるとおぼつかなし、今はかつはきゝの宜しきにより、かつは古點に任てあさびらきと點ずるなり、以上義明なり、中に古點を嫌て又古點に任せてと云はアサボラケと中比點じたるを捨てそれよりさきアサビラキと點ぜる實の古點を取なり、誠に萬葉の比はあさぼらけとよみて後にあさびらきとは讀べき詞なるに、古今の作者を始てあさぼらけと音を通はして讀かへけん事如何なる故にか知がたし、拾遺六帖共にあさぼらけなり、仙覺の申されたる眞名假名の中に假名の列證を一首出さば、第十七に家持歌云、珠洲能宇美爾安佐比良伎之底《ススノウミニアサヒラキシテ》、云云、去師は今按イニシとも讀べし、落句を六帖拾遺ともに跡の白波とあるは作者の本意にも違ふまじく時にも能叶へり、源順朝臣の子を失はれける時も此上の二句を同樣にすゑて此体の歌十首までよまれて侍り、佛菩薩の經論の中に無常を示し給へる事數しらず、此一首はそれにもむかふばかり歌よまぬ人(15)もおぼえぬはなくて纔に世の中を何にたとへむと誦しつれば胸中のこ常見をやる事やがて順流の舟の如くなるは、此國に相應の故なり、
 
初、こきいにしふねの跡なきかこと
拾遺集にはこき行舟の跡のしらなみ
 
若湯座王歌一首
 
此王の傳見えず、若湯座は座は坐に作るべきか、神代紀下云、亦云彦火火出見尊取(テ)2婦人《ヲミナ》1、爲《シタマフ》2乳母《チオモ》湯母《ユオモ》及|飯嚼《イヒカミ》湯坐《ユヱヒト》、【纂疏曰、湯坐、謂v洗2欲兒1者、】古事記中、垂仁天皇段にも定2大湯坐若湯坐1宜|日足《ヒタシ》奉(タマヘ)とあり、兒に産湯《ウブユ》あぶするに身のいたく柔なるを能すゑてあぶすればゆすゑ〔三字右○〕と云べきをすゑを上略してゆゑと云か、むねとあぶするを大湯坐と云ひ、大湯坐をたすくる者を若湯坐と云なるべし、若湯坐は氏にも見えたり、雄畧紀云、湯人蘆城部連武彦、【湯人、此云2臾衛1、】此湯人は地の名なり、
 
初、若湯座王
神代紀下云。又云。彦火々出見尊、取婦人、爲乳母湯母及飯嚼湯坐【疏曰湯坐謂洗浴兒者。】わかゆゑは所の名にや。此王系圖見えす
 
352 葦邊波鶴之哭鳴而湖風寒吹良武津乎能埼羽毛《アシヘニハタツカネナキテミナトカセサムクフクラムツヲノサキハモ》
 
葦邊波、【袖中抄云、アシヘナミ、】 湖風、【官本、或湖作v潮、】
 
仙覺云、此歌古點にはあしべなみたづのみなきてうしほかぜ、さむくふくらんつをのさきはもと點ぜり、又或本の和には、第二句たづのもなきてと點ぜり、此和あひ叶(16)ても見えず、發句葦邊波の波の字は、てにをはの字に用る事常の習なり、あしべなみと云べきに非ず、仍今和し換るに云く、あしべにはたづがねなきてみなと風と云べし、たづがね常の事なり、湖の字訓うしほ不審なり、みなとにつかへる事は阿波國風土記に中湖具湖などにも用之たり、就中今の歌の心詞勘(ルニ)2其傍例1、此集第七卷歌云、美奈刀可世佐牟久布久良之奈呉乃江爾、都麻欲比可波之多豆佐波爾奈久といへり、都尾崎は伊豫國野間郡に有と見えたり、今按抄の意明なり、ツヲノサキハモとはおもひやる事有てよまれたるべし、
 
初、つをのさき
和名集をみるに.近江國淺井郡に、都宇の郷あり。湖風をみなと風とよめるは、この所にや。つをのさきはもとはいかならんとおもふ心あり。ゆへありてよみたまへるなるへし
 
釋通觀歌一首
 
353 見吉野之高城乃山爾白雲者行憚而棚引所見《ミヨシノノタカキノヤマニシラクモハユキハヽカリテタナヒキテミユ》
 
高城の名を以てよめる意もあるべし、
 
日置少老歌一首
 
少老考る所なし感本、少作v小、本朝の古書少小通じて書る事多し、少納言少將なども大中に對すれば小なるを少の字を用たるが如し、
 
(17)354 繩乃浦爾潮燒火氣夕去者行過不得而山爾棚引《ナハノウラニシホヤクケフリユフサレハユキスキカネテヤマニタナヒク》
 
繩の浦はやがて下にある赤人の歌に繩浦武庫浦阿倍嶋、如是つゞけてあれば攝津國なるべし、第七に似たる歌あり、
 
生石村主眞人歌一首
 
孝謙紀云、天平勝寶二年正月庚寅朔乙巳、正六位上大石村主眞人授2外從五位下1、かゝれば生石をもオホイシと讀べし、
 
初、生石村主眞人
孝謙紀云。天平勝寶二年正月庚寅朔乙巳、正六位上大石邨主眞人、授外從五位下。かくあれはおほいしのすくりのまつとゝよむへし。目録にすくりのまひととあるはわろし。生石は氏、村主は姓、眞人は名なり。すくりを名と心得て、眞人を姓とおもへるにや。只のゝ字は後の人あやまりてくはへたるなるへし
 
355 大汝小彦名乃將座志都乃石室者幾代將經《オホナムチスクナヒコナノイマシケムシツノイハヤハイクヨヘヌラム》
 
將經、【官本亦云、ヘニケム、】
 
大汝は大己貴命にて三輪大神なり、大穴持とも今の如くも書るは和語の習なり、少彦名は高皇産靈尊の御子にて大己貴命と共に此國を能作給へる神なり、神代紀上云、夫大己貴《カノオホアナムチ》命與2小彦名命1戮《アハセ》v力一v心經2營天下1、大汝少彦の事具に日本記舊事紀古事記等に見えたり、志都ノ窟は八雲にも書載たまひながら何處とも注し給はねば、昔かく云傳へたる事をよみて物には見えぬことにや、此歌さきの博通法師の歌の類(18)なり、宗祇抄にしつの石屋といへり、大峯などに有にや、未v考、
 
初、大汝すくひなひこなの
大汝は大己貴命にて、みわの明神なり。あなのあを上畧して、むちのちを濁て、大汝になせり。和語は此例あけてかそへかたし。すくなひこ名は、高皇産靈尊の御子にて、おほあなむちとともに.此國をよく作たまへる神なり。神代紀上云。夫大己貴命與少彦名者戮力一心經營天下。又云。○しつのいはや、いつくともれす。此二神いはやにましけるといふ事、しるせる事なし。風土記なとには見えけるにや。此歌、さきの博通法師の歌の類なり
 
上古麻呂歌一首
 
系圖等未v詳、元正紀云、靈龜元年四月癸酉、上|村主《スクリ》通政(ニ)腸姓阿刀連、此上村主と同姓か、
 
初、上古麻呂
元正紀云。靈龜元年四月l癸酉、上村主通政、賜姓阿刀連
 
356 今日可聞明日香河乃夕不離川津鳴瀬之清有良武《ケフモカモアスカノカハノユフサラスカハツナクセノキヨクアルラム》【或本歌發句云明日香川今毛可毛等奈】
 
今日モカモとは今もかもの意なり、一日の事のみには非ず、夕不離はゆふべ/\かれずなり、
 
山部宿禰赤人歌六首
 
357 繩浦從背向爾所見奥島榜回舟者釣爲良下《ナハノウラヲソカヒニミユルオキツシマコキタムフネハツリヲスラシモ》
 
榜回、【幽齋本、囘作v廻、】
 
繩浦從は今按ナハノウラヲと點ぜるは叶はず、ナハノウラユともウラニともよむ(19)べし、ソカヒは日本紀に背をソビラと訓ぜり、せ〔右○とそ〔右○〕と通ずればせむくをそむくと云如くそむかひと云べきをむを上略してそかひとは云なり、そむくと云に同じ意なり,奥島は八雲に攝津國の名所に載させ給へどもしか云所も聞えず、他に奥島とよめるも唯奥の方にある島を※[手偏+總の旁]じていへば此も其例にや、
 
初、なはの浦を
なはの浦、いつれの國ともかんかふる所なし。從の字、こゝにてはゆとよむへし。そかひ、此集におほきことはなり。うしろむきにみゆるなり。背向とかける字のことし。こきたむは、こきめくるなり。次の歌には轉の字をかけり
 
358 武庫浦乎※[手偏+旁]轉小舟粟島矣背爾見乍乏小舟《ムコノウラヲコキタムヲフネアハシマヲソカヒニミツヽトモシキヲフネ》
 
背爾、【官本或背下有v向、】
 
粟嶋は、阿波國なり、第四に淡路を過て粟嶋乎|背《ソカヒ》爾見管とよみ、第六には難波にて船王の讀たまへる歌にも、雲居にみゆる阿波乃山といひ、其外あまたよめり、神代紀云、次生2淡洲1、此亦不3以充2兒數1といへる所は第十五に周防國にてよめる所にや、舊事紀に吉備國造の次に阿波國造大嶋國造、などつゞきたるそれなるべし、乏は少なき心もめづらしき心も叶ふべし、
 
359 阿倍乃島宇力住石爾依浪間無比來日本師所念《アヘノシマウノスムイシニヨルナミノマナクコノコロヤマトシオモホユ》
 
阿倍ノ島、八雲に津の國と注したまへり、仙覺抄同之、
 
初、阿倍の島
八雲御抄、攝津國のよし注したまへり
 
(20)360 塩干去者玉藻苅藏家妹之濱※[果/衣]乞者何矣示《シホヒナハタマモカリツメイヘノイモカハマツトコハヽナニヲシメサム》
 
濱ツトは濱邊より似付たる物を家に持て歸て人に贈るを云、此処に猶山づと道ゆきづととよめる此に例すべし、家づととよめるは何處よりも家にもて歸るを云て家よりのつとlこあらねば同物の意少替るなり、
 
初、濱つと
此集に猶家つと山つと道ゆきつとなとよめり
 
361 秋風乃寒朝開乎佐農能崗將超公爾衣借益矣《アキカセノサムキアサケヲサノヽヲカコユラムキミニキヌカサマシヲ》
 
サノヽ岡は仙覺抄紀伊國といへり、八雲御抄同v之、日本紀は上のみつが崎さのゝ渡とよめる歌に引しが如し、
 
初、さのゝをか
紀伊國牟漏郡なり。さきにみわか崎といふ歌につきて注しつ。きぬかさましをは、おもひやりてかさはやとねかふなり
 
362 美沙居石轉爾生名乘藻乃名者告志五余親者知友《ミサコヰルイソワニオフルナノリソノナハツケシコヨオヤハシルトモ》
 
イソワは礒のめぐりなり、名ハツゲシコヨはし〔右○〕は助語にて名は告來よなり、名を告よととは昔は逢むと思ふ人には男女互に名を云きかせ、逢じと思ふには名を告ねばなり、名乘藻のなのりと云を承てかくはつゞけたり、是は旅に出て海邊にてよしある處女などを見て云かけられたるにや、
 
初、なのりそ
允恭紀云。春三月癸卯朔丙午、幸於茅渟宮、衣通郎姫歌之曰。等虚辭倍邇、枳彌母阿閉椰毛、異舍儺等利、宇彌能波摩毛能、除留等枳等枳弘。時天皇謂衣通郎姫曰。不可聆他人、皇后聞必大恨。故時人號濱藻、謂奈能利曾毛也
つけしこよは、しは助語にて、告來よなり。此哥はこゝに類せぬやうなり。されとたひにしておもひかけすおかしき人なとをみてよみてつかはれけるにや
 
或本歌曰
 
(21)363 美沙居荒礒爾生名乘藻乃告名者告世父母者知友《ミサコヰルアリソニオフルナノリソノナノリハツケヨオヤハシルトモ》
 
第十三に此歌再出、
 
笠朝臣金村塩津山作歌二首
 
笠金村は考る所なし、鹽津山は近江なり、和名集云、淺井郡鹽津、此集第九にも、高島のあとのみなとに讀合せたり、此鹽津の北、越前とさかへる山の近江の方を鹽津山とは云べし、但仙覺も超前と注せられ、八雲其外も同説なる上、續古今に載られたる紫式部が歌に、知ぬらむゆきゝになれて鹽津山、世に經る道は辛き物ぞと、是を思へば山は越前にもかゝるか、假令伊駒は大和なるを伊勢物語には河内國と云へる類にや、又會釋せば淡海の方なりとも鹽津の名につきて辛き物ぞとは云べくや津守國助も干潟を懸て鹽津山吹こす風になどよみたれど、其比は人の説につきて大形のに意得てもよみ侍りなむ、今の第二の歌に打越ゆけばといへるは近江の方より越す時と聞ゆれば猶近江にやと順の朝臣にしたがひぬべくおぼえ侍り、又敦賀の鹽は古の天子是を供御にきこしめしければ、敦賀より運び來て舟にて大津までは送るべければ、彼鹽を舟に積なれば鹽津とは名付たるにこ(22)そ、敦賀の鹽の事は第十二に、大きみの鹽やく海人とよめる歌について注すべし、八雲御抄にも山と云はで唯鹽津と云へるをば近江と注せさせ給へり、
 
364 大夫之弓上振起射都流矢乎後將見人者語繼金《マスラヲノユスヱフリオコシイツルヤヲノチミムヒトハカタリツクカネ》
 
振起、【六帖云、フリタテ、官本同v此、】
 
弓上振起は神代紀云、振2起《フリタテ》弓※[弓+肅]《ユハスヲ》云云、此集第七にも今の二句文字も替らずあるを日本紀の如くよみたれば今もたがふべからず、カタリツグカネは、ね〔右○〕とに〔右○〕通ずる故に末の代までも語りつぐかになり、此歌如何なる意をよまれたるか知がたし、もし究竟の精兵にて後の世までの形見に彼山の木などに一矢射立置てゆかんと云ことを云殘されたるか、第十八に家持、白玉を包てやらば菖蒲草、花橘にあへもぬくがにとよまれたるも、いざ※[果/衣]てやらばやと云事を云殘したりと見えたり、引合て見るべきか、又按ずるに腰の句射ツルと云て矢ヲとことわりて此所句絶か、矢を射つると云べけれども拙なければかく云にや、初の云殘す義にては射つると云詞少叶ひがたし、後の人能案ずべし、
 
初、ますらをのゆすゑふりおこし
神代紀上云.振起弓|〓《ハス》云々。此哥六帖にも、こゝのことくのせたり。されともいかなる心にてよまれたるにか、心得かたし。もし究竟の精兵にて、後の世まてのかたみにとて、彼山の木なとに矢なと射たてゝとほらるゝことにや。今のよみやうにては歌の心とゝまる所なし。振起をふりたてよとよみて、句絶とすへきにや
初、我のれる馬そつまつく家こふらしも
第七にも、わか馬つまつく家おもふらしもとよみ、第十三にも、馬しもの立てつまつきとよめり。旅行人を、家にてこふる妻のあれは、乘馬つまつきなつむといへり。しかれは家人のわれをこふらしといふ心なり。つまつくは蹶の字なり
 
365 鹽津山打越去者我乘有馬曾爪突家戀良霜《シホツヤマウチコエユケハワカノレルウマソツマツクイヘコフラシモ》
 
(23)馬ゾツマヅクとは彼も故郷を戀て心こゝはあらねばや、つまづきはすらんとなるべし、離騷曰、忽臨(テ)睨(ル)2夫舊郷1、僕夫悲余馬|懷《カヘル・オモヘリ》蜷局顧而不v行、第四に此人或女に替てよまれたる歌に、立てつまづくとあるも此心なり、第七第十三にも馬のつまづくとよめるは同意なるべし、一説旅行人を家にて戀る妻のあれば乘馬のつまづきなづむといへり、本文などある事にや、さらずば此等の歌をしか意得ていへるか、家人の戀らんにはあらず、家を戀らしなり、
 
初、鹽津山
鹽津は和名集近江淺井郡に載たり。八雲御抄には、越前と載らる。次長哥題に、角鹿津とあるゆへに、おなし國とおほしめしけるなるへし
 
角鹿津乘船時笠朝臣金村作謌一首并短歌
 
垂仁紀云、一《アルニ》云|御間城《ミマキノ》天皇之世、額|有《オヒタル》v角人乘2一船1泊(レリ)2于越國|笥飯《ケヒノ》浦1、故《カレ》號(テ)2其(ノ)處1曰2角鹿《ツノカ》1也、今、敦賀【都留我、】と云郡は此訛れるなり、
 
初、角鹿津乘船時
日本紀第六、垂仁紀云。一云。御間城天皇之世、額有角人、乘一船、泊于越國笥飯浦、故號其處、曰角鹿也。くはしくは、第二卷に、ひめ嶋につきて引かことし。今敦賀とかきて、つるかといふは、つのかをよこなまれるなり
 
366 越海之角鹿之濱從大舟爾眞梶貫下勇魚取海路爾出而阿倍寸管我※[手偏+旁]行者大夫之手結我浦爾海未通女塩燒炎草枕客之有者獨爲而見知師無美綿津海乃手二卷四而有珠手(24)次懸而之努櫃日本島根乎《コシノウミノツノカノハマユオホフネニマカチヌキオロシイサナトリウミチニイテヽアヘキツヽワカコキユケハマスラヲノタユヒカウラニアマヲトメシホヤクケフリクサマクラタヒシニシアレハヒトリシテミルシルシナミワタツミノテニマカシタルタマタスキカケテシヌヒツヤマトシマネヲ》
 
獨爲而、【官本亦云、ヒトリヰテ、】
 
阿倍寸管は喘つゝなり、大夫乃手結ガ浦は延喜式云、敦賀郡田結神社とあれば敦賀の一所なるべし、大夫乃とつゞけたるは第七に、物部の手に卷もたる鞆の浦とつゞけたるを思へば鞆の一名か、又仁徳紀云、五十五年|蝦夷《エミシ》叛(ナリ)之、遣2田道1令v撃(タ)、則爲2蝦夷1所v敗、以死2于|伊寺《イシノ》水門(ニ)1、時(ニ)有2從者《ツカマツリヒト》1、取2得田道(カ)之手纏1與2其妻1、乃抱2手纏1而|謚《ワナキテ》死、時人聞之|沈涕《カナシフ》矣といへり、此手纏も何物か、雄略紀にあゆひを脚帶とかゝれたるに准ぜばたゆひも手帶と書ぬべし、獨シヲ見ルシルシナミとは妻と共に見ざれば目なれぬ珍しき事もかひなしとなり、ヒトリヰテと云和あれど反歌にもたびにしてと云ひたれば本點に任すべし、ワタツミ、此わたつみは海神なり、手ニマカシタル玉手次とは手に纏たる環の玉と云てやがて玉手次かけてとつゞけたり、手にまく玉は人のをも云べけれど、海上なれば海童の環といへり、日本嶋は故郷の和州なり、
 
初、あへきつゝ
喘なり。舟子ともの息もつきあへすあへきてこくをいへり。ますらをのたゆひの浦。手結とは、武士の籠手をいふと長流か昔の抄にかけり。日本紀にあゆひを脚帶とかきたれは、手帶とかくへきにや。たゆひはつるかなり。延喜式云。越前國敦賀郡田結神社と載たり
わたつみの手にまかしたる玉たすきかけてしのひつ。此わたつみは、海神なり。手にまく玉とは、玉をつらねて手にぬきもつを手玉といひ、足にかさるを足玉といふ。海神にかきらぬ物なれとも、海底よりはよろつの玉の出來るによりて、かくはよめるなり。此歌殊に海路の作なれは、そのより所ある詞なり。玉たすきといひつゝけたるは、かけてといふ詞まうけんためなり。やまとしまねは、和州なり
 
反歌
 
(25)367 越海乃手結之浦矣客爲而見者乏見日本思櫃《コシノウミノタユヒノウラヲタヒニシテミレハトモシミヤマトオモヒツ》
 
見者乏見はめづらしきなり、思櫃は今按思は偲にてシノビツなるべし、長歌のかけてしのびつ、これを反して云へり、
 
初、やまとおもひつ
偲をこの集にしのふとよめれは、思は偏の人をおとせるならんか。みれはともしみは、見たらぬこゝろなり
 
石上大夫歌一首
 
368 大舩二眞梶繁貫大王之御命恐礒廻爲鴨《オホフネニマカチシヽヌキオホキミノミコトカシコミアサリスルカモ》
 
此梶は櫓なり、眞梶は具袖眞手など云ごとく舟の左右にあるを云、シヾヌキとはしゞはしげしと云古語、櫓をあまた立るなり、第十二にも八十梶懸といへり、アサリと云は必しも物を求るのみにあらず、いそべをめぐるをも云か、第十九にも藤浪をかりほに造り灣廻《アサリ》する、人とはしらにあまとか見らむとよめり、
 
初、まかち
おもかちとりかちなり
 
右今案石上朝臣乙麻呂任越前國守蓋此大夫歟
 
續日本紀には見えず、
 
和歌一首
 
(26)369 物部乃臣之壯士者大王任之隨意聞跡云物曾《モノヽフノヲミノタケヲハオホキミノヨサシノマヽニキクトイフモノソ》
 
任乃隨意、【官本亦云、マケノマニ/\、】
 
物部乃は今按此物部も第一卷元明天皇の大甞の御歌に注せし如くモノヽベと和すべきか、石上は物部氏にて饒速日命の御子宇摩志麻治命、神武天皇の御時大功を建られし後代々朝家の重臣なりければなり、舊事紀を見るべし、
 
初、ものゝふのおみの
此物部は、ものゝふとも、ものゝへともよめり。ともに、武勇のものゝ惣名なる中に、物部といふ別姓あり。饒速日の命の裔にて、石上朴井にわかれたり。今石上大夫の哥を和すれは、ものゝへとよむへきにや
 
右作者未審但笠朝臣金村之歌中出也
 
此れ一家の集に他人の歌をも載たる證なり、
 
安倍廣庭卿歌一首
 
370 雨不零殿雲流夜之潤濕跡戀乍居寸君待香光《アメフラテトノクモルヨノヌレヒテトコヒツヽヲリキキミマチカテラ》
 
との〔二字右○〕とたな〔二字右○〕と五音通ずればトノクモルはたなくもるなり、たなびくと云に輕引とかけるを思へばたなくもるは薄曇なり、今按雨ふらで曇るのみにぬれひづといはむ事其理なし、和し替へてトノクモルヨシヌレヒヅトと讀べきか、夜しは唯曇りて(27)雨はふらぬ夜しもなり、ぬれひづととは涙にぬるヽを雨にぬれひづるばかりと云なり、此歌相聞に入ぬべきをいかで此には載られけむ不審なり、
 
初、とのくもる夜
此集にあまたある詞なり。たなくもるといふひとつ詞なり.たなとの五音通せり。輕引とかきて、たなひくとよむをおもふに、うすくもるなり。君まちかてらとは、相聞にあらされは朋友なとのいりこんといふをまつなるへし
 
出雲守門部王思京歌一首
 
371 飫海乃河原之乳鳥汝鳴者吾佐保河乃所念國《オウノウミノカハラノチトリナカナケハワカサホカハノオモホユラクニ》
 
飫海は出雲なり、和名云、意宇【於宇】郡府、今按此集にも第四には飫宇乃海とあれば今は宇の字を脱せるか、飫宇海に流れ入る河原に、千鳥の鳴を聞につけて故郷に有て佐保河に聞し事を思ひ出て戀しきとなり、
 
初、飫海
和名集云。出雲國意宇【於宇】郡【府】。さほ河はちとりある所なれは、おうの海になかれいる川原に、ちとりの鳴を聞につけておもひ出となり
 
山部宿禰赤人登春日野作歌一首并短歌
 
372 春日乎春日山乃高座之御笠乃山爾朝不離雲居多奈引容鳥能間無數鳴雲居須奈心射左欲此其鳥乃片戀耳爾晝者毛日之盡夜者毛夜之盡立而居而念曾吾爲流不相兒故荷《ハルノヒヲカスカノヤマノタカクラノミカサノヤマニアサヽラスクモヰタナヒキカホトリノマナクシハナククモヰナスコヽロイサヨヒソノトリノカタコヒノミニヒルハモヒノツキヨルハモヨノツキタチテヰテオモヒソワカスルアハヌコユヘニ》
 
朝不離、【官本亦云、アサカレス、】
 
(28)春日乎は春日の枕詞、其所以をしらず、春日のと云べきをかく云は古語を〔右○〕との〔右○〕と音通ずればなり、みはかしを劔の池とよめる例なり、繼體紀に安閑天皇いまだ勾(ノ)大兄《オヒネノ》皇子にておはしませし時よませたまへる御歌には、播屡比能賀須我能倶※[人偏+爾]々云云、高座ノ御笠乃山、此枕詞別に釋す、朝不離は上にも夕不離をユフサラズとよめり、アサカレズとよめる點も捨べからす、容鳥は説々あれどさだかならず、春の鳥の色うるはしきを云なるべし、猶別に注す、雲と鳥とを云てやがてそれにたとへて雲の居も定まらずいざよふ如く心もとやせんかくやせんといざよひ、容鳥の片戀に間なくしばなく如く相も思はぬ人を泣て戀るとなり、日之盡夜之盡、上に云如くヒノコト/”\ヨノコト/”\と讀べきか、此歌は相聞に入べきを、野望に因て物に感じてよまれたる故こゝには載る歟、
 
初、春の日をかすかの
春の日のかすかといにおなし。開化紀春日【春日此云箇酒鵝。】かくは注せられたれとも、羞春日とかきてかすかとよむゆへはつたはらす。文字をもて文選よみにいひかさねたると心得へし。飛鳥のあすかのことし。高くらのみかさの山とは、天子の高御座の上に蓋をかけらるゝゆへに、みかさ山といはんとて、高くらのとはいへり。高みくらは、御即位の時、毎年正月元日と、蕃客朝參の時、これらに大極殿に飾らるゝを申なり。延喜式第十五内藏寮式云。元正預前裝飾大極殿、凰形九雙、〓鏡二十五面、玉幡八流、玉冑甲十六條、〓子十二枚【韓紅花綾表、白綾裏、】帳二條【淺紫綾表、緋綾裏】上敷兩面二條、下敷布帳一條【已上高座料】大極殿高御座〓一條【黄表帛裏、長一丈五尺、六幅。】若有破損、隨郎申省。同十七内匠寮式云。凡毎年元正前一日、宮人卒木工長上雜工等、裝飾大極殿高御座、【蓋作八角、角別上立小鳳凰像、下懸以玉幡、毎面懸鏡三面、當頂著大鏡面、蓋上立大鳳像、惣鳳像九隻、鏡二十五面、幔臺一十二基、立高御座東西各四間。】又云。其蕃客朝參之時、亦同元日高御座飾物、收内藏寮當時出用。三十八掃部式云。天皇即位、設御座於大極殿、同元日儀。高みくらのやう右のことし。みかさ山は、春日山の中に社あるかたにすこしひきゝ山をいふとそ。朝さらすは、朝ことになり。夕さらすといふ、おなし心なり。かほとりのまなくしはなく。かほ鳥はいかなる鳥をいふともしらす。八雲御抄にも、かほ鳥は春日山によめり。かたこひする物といへり。よるひるたえすこひすといへり。されはまなくしは鳴春の野といへり。源氏物語にもあり。是その鳥と難定歟。定家卿不知之といふ。推之、たゝうつくしき鳥なり。未決。かくしるさせたまへは、たゝ春の此なく鳥と心得て有なん。此集にまた、朝ゐてにきなくかほ鳥、なれたにも君にこふれや時をへすなく。かほ鳥のまなくしはなく春の野の草根のしけきこひもするかも。六帖には人まろの歌とて、夕されは野へになくてふかほ鳥の貌に見えつゝわすられなくに。源氏物語やとり木に、かほ鳥の聲も聞しにかよふやとしけみをわけてけふそ尋る。これは薫大將、手習君のあね君しにたまひて後、う月の末に宇治へおはしての哥なれは、春の鳥そのころまても有ぬへけれは、あね君に心かけたる人とて、かほ鳥の聲もにたるやとはよせられたるなり。かほといふ名をおもふに、うつくしき鳥なるへし。今見る中にもあるらめと、草木鳥けたものゝ名も、つねに見なれいひなれぬは、いつとなくしる人まれになるまゝに、いやしきものゝわたくしによめる名を、しかるへき人もともによひて、それかやかてまことの名のやうになり侍るゆへに、今の物の名の昔に見えぬいやしきかおほく侍るなり。ある人大和の國へまかりて、こゝもとの池に蓴菜やある、えさせよと.所の土民に申侍しかは、さる物はしり侍らすとこたふ。池にうきてしかくなるものなりといへは、さてはおほく侍り。所にては、とひやくしやうとなん申すとて、おほくとりてえさせつ。むかしは、ぬなは、ねぬなはなとこそ申けめ。神樂の時なとみる突拍子に、葉のにたるをおもひて、突拍子といふとて、猶とひやくしやうにさへいひなされたれは、よろつこれになすらへて淺ましうなり侍りにたり。雲居なす。上にまなくしはなくといふまては、雲と烏とをいひて、やかてそれにたとへて、雲のゐるとすれと、居もさたまらすいさよふことく心もとやせんかくやせんとおちゐす、かほ鳥のかたこひにまなくしは/\なくことく、あひもおもはぬ人をなきてこふとなり。序歌の體なり。詩にていはゝ興而此なりともいふへくや。立て居て。舒明紀云。立思矣、居思矣、未得其理。この歌は、おもひかけたる人ありてよまれたると見え哥なれは、第四の相聞の部に入ぬへきを、春日野にして野望の次、物に感してよまれけれは、こゝには載たるなるへし
 
反謌
 
373 高※[木+安]之三笠之山爾鳴鳥之止者繼流戀哭爲鴨《タカクラノミカサノヤマニナクトリノヤメハツカルヽコヒモスルカモ》
 
鳴鳥とは長歌の貌鳥なり、止バツガルヽとは鳴やむかときけば又鳴繼に寄て戀する人も人の聞を憚て暫泣やめども堪ずしてなかるゝを譬るなり、第十一に君が著(29)る三笠の山に居る雲の、立ば繼るゝ戀をするかも、同意なり、哭は喪には哭する故にも〔右○〕と義訓するなり、
 
初、高くらのみかさの山に1
此なく鳥は長哥の貌鳥なり。やめはつかるゝとは.鳴やむかときけは、又鳴つくによせて、戀する人も人のきくをはゝかりて、しはしなきやめとも堪すしてなかるゝを、かの鳥にたとふるなり。第十一に、君かきるみかさの山にゐる雲のたてはつかるゝこひをするかも。同しやうの作なり。哭の字、もとよめるは、喪に哭するゆへにや
 
石上乙麻呂朝臣歌一首
 
孝謙紀云、天平勝寶二年九月丙戌朔、中納言從三位兼中務卿石上朝臣乙麻呂薨、左大臣贈從一位麻呂之子也、歴任等の次第聖武紀に委見えたり、又懷風藻に詩四首を載て具に傳をかき人がらをほめたり、左大臣第三子也といへり、大納言宅嗣の父なり、
 
374 雨零者將盖跡念有笠乃山人爾莫令蓋霑者漬跡裳《アメフラハサヽムトオモヘルカサノヤマヒトニナサヽスナヌレハヒツトモ》
 
雨零者將盖跡、【六帖、アメフラハキムト、】  莫令蓋、【六帖、ナキセソ、】  漬、【六帖、ヌル、】
 
點は今の本と六帖と勝劣なし、但漬は此集にヌルとよめる事なし、今の本をよしとすべし、笠ノ山は大和國城上郡にあり、人はぬれひづともさゝすなと笠山の名にそへていへるは乙麻呂卿の宅地山邊郡石上と笠山は遠からぬに、彼邊にちぎれる女を云て相聞の心にや、此前後地の名をよめる類にてこゝに置か、もし相聞ならばヌ(30)レハヒヅトモは涙を云べし、
 
初、笠の山
これもみかさ山なるへし。三笠といふも眞笠なるへけれは、木ともま木ともいふことく、みかさ山を、かさの山ともいふへし。此歌は戀なとにたとへてよまれたるか。相聞ならねは彼わきも子かあかもひつちてうへし田をかりておさめんてらなしのはまも、唯くらなしの濱といふ名をいはんためなれは、此歌もその類にて、かさの山をよまんため歟
 
湯原王芳野作歌一首
 
志貴皇子の御子と云説あり、未v考、六帖にゆはらのおほきみと有てゆのはらといはず、
 
375 吉野爾有夏實之河乃川余杼爾鴨曾鳴成山影爾之?《ヨシノナルナツミノカハノカハヨトニカモソナクナルヤマカケニシテ》
 
鴨は寒きに依て鳴ば山陰ニシテとは山陰にして早く寒ければ鳴となるべし、
 
湯原王宴席歌二首
 
六帖に此二首を初のは玉笥、後のは二人をりと云に載たるに共にゆげのおほきみとあるは不審なり、
 
376 秋津羽之袖振妹乎珠※[シンニョウ+更]奥爾念乎見賜吾君《アキツハノソテフルイモヲタマクシケオクニオモフヲミタマヘワカキミ》
 
※[シンニョウ+更]、【當2改作1v匣、】
 
秋津は蜻蛉なり、其羽のうつくしきに舞妓の袖の翻を寄ていへり、仁徳紀に磐之媛の御哥に、夏虫の火虫の衣と詠たまひ、毛詩に蜉蝣(ノ)之羽、衣裳楚々(タリ)と云へる類なり、第(31)十に秋相聞に、秋津葉ににほへる衣とよめるは詞は同じけれど別なり、そこに至て注すべし、玉匣奥ニオモフとは匣の中を奥といへり、宴席の歌なれば君をもてなさむが爲に何をがなと秘藏の妓女を出して舞しむれば、何をがなと此妹が袖を振るを能御覽ぜよとなり、
 
初、秋つはの袖ふるいもを
あきつは、蜻蛉なり。其羽のうつくしきに.妹か袖をよせていふとなり。仁徳紀に、磐之姫御哥に、夏虫の火むしの衣とよませたまふ類なり。毛詩にも、蜉蝣之羽、衣裳楚々。第十に、秋津葉にゝほへる衣は我はきしとよめるは、秋相聞の哥にて、秋津葉といへる外、秋の心なけれは、正しく秋の木葉なり。紅なる衣といふ心なり。女の衣にはくれなゐを賞翫すれはなり。そこには秋津葉とかき、こゝには秋津羽ろかきて、ともにことはりあれは、ことはゝかよひて、心は別なり。玉くしけおくにおもふとは.箱の中をおくといへり。家のいぬゐのかたを奥といひて、ふかきをおくといふ。此集に此詞おはし。宴席の哥なれは、客をもてなさんかために、秘藏の妓女あるひは妾なとを出してまはしめて、君かため何をかな御なくさみにと、此妹か袖をふらしむれは、よく御覽せよとなり。※[シンニョウ+更]は匣をあやまれり
 
377 青山之嶺乃白書朝爾食爾恒見杼毛目頬四吾君《アヲヤマノミネノシラクモアサニケニツネニミレトモメツラシワカキミ》
 
第四に青山を横截雲のいちしろくともよみて晴たる日山は青く雲は白くてうるはしき目の中を見るやうなるはあかぬ物なれば、よき客人のあかれぬ事をそへたり、梁の陶弘景が隱居して後、武帝の汝が山中に何の景趣かあると問せ給ひけるに、山に白雲あれども君に奉ることあたはずと勅答せられしも思ひ合すべし、朝ニケニは、日に異にと集中にあまたよめるに同じ、日々にまさる心なり、爾〔右○〕と奈〔右○〕と通ずれば朝なけともよめり、
 
初、青山のみねのしらくも
此集に、青山をよこきる雲のいちしろくともよめり。雨氣の雲なとは、濛々として心さへはれすみゆるを、晴たる日、山は青く雲は白くて、うるはしき目のうちを見るやうなるは、見るにあかぬ物なれは、それによせて、よきまらうとのあかれぬことをのたまへり。朝にけは、朝なけにて、朝夕といふ心なり。陶弘景か隱居して後、粱の武帝、汝か山中に何の景趣かあると尋させたまひけるに、山に白雲あれとも、とりて君にたてまつることあたはすと勅答を申されき
 
山部宿禰赤人詠故大政大臣藤原家之山池歌一首
 
此大政大臣は淡海公贈官なれば故の下に贈の字あるべきにやと思へど、但第十(32)九にも大政大臣藤原家とのみあれば脱たるには非ざるか、淡海公の御事は日本紀の天武紀より續日本紀の文武紀及び廢帝紀に至るまで歴々と見えたり、此卷の端に至て誰人の記したるにかあらむ官位等の轉昇大底見えたり、諸紀の中に元正紀云、養老四年三月甲子、有v勅特加2右大臣正二位藤原朝臣不比等授刀資人三十人1、八月辛巳朔、右大臣正二位藤原朝臣不比等病、賜2度者三十人1、詔曰・右大臣正二位藤原朝臣、※[病垂/尓]疾漸留寢膳不v安、朕見2疲勞1惻2隱於心1、思(フニ)2其平復1計無v所v出、宜d大2赦天下1以救uv所v患云云、壬午命d2都下四十八寺1、一旦夜讀c藥師經u云云、癸未是(ノ)日右大臣正二位藤原朝臣不比等薨、帝深(ク)悼惜焉、爲v之廢朝擧2夜内寢1、特有(テ)2優勅1弔賻之禮異2于群臣1、大臣近江朝内大臣鎌足之第二子也、十月壬寅詔遣2大納言正三位長屋王中納言正四位下大伴宿禰旅人1、就2右大臣第1宜v詔贈2大政大臣正一位1、五年三月甲午詔曰、世諺云、歳在2申年1常有事故、此如v所v言云云、遂則朝廷儀表藤原大臣、奄然薨逝、朕心裏慟云云、孝謙紀云、天平寶字二年六月乙丑、大和國葛上郡人、從八位上桑原史年足等云云、同言曰、伏奉去天平勝寶九歳五月二十六日勅書※[人偏+稱の旁]、内大臣大政大臣之名不v得v稱《イフコト》者《テヘリ》云云、廢帝紀云、寶字四年八月甲子勅曰、子(ハ)以v祖爲v尊、祖以v子亦貴、此則不易之彝式聖主之善行也、其先朝大政大臣藤原朝臣者、非3唯功高2於天下1是復皇家外戚、是以先朝(33)贈2正一位大政大臣1、斯實依我已極2官位1、而准2周禮1猶有2不足1、竊思勲績蓋2於宇宙1朝賞未v允《カナハ》2人望1、宜d依2太政公故事1追以2近江國十二郡1封爲c淡海公u、餘官(ハ)如(シ)v故、以2繼室從一位縣狗養橘宿禰1贈2正一位1爲2大夫人1、懷風藻序云、神納言(カ)【大神朝臣高市麻呂、】之悲2白※[鬢の賓が兵]1、藤大政詠2玄造1、騰2茂實於前朝1、飛2英聲1於後代1、贈正一位大政大臣藤原朝臣史五首、【年六十三、】延喜式諸陵云、多武岑墓、【贈大政大臣正一位淡海公藤原朝臣、在2大和國十市郡1、】藤原家とは藤原にある家地と云には非ず、前に引る十九卷を思べし、大臣を敬て云なり、此は奈良の京にある宅の庭に山を築き池を堀られたる其池をよめるなるべし、河原院にて貫之の烟絶にし鹽竈のとよまれたるが如し、
 
初、詠故太政大臣藤原家之山池
故の字の下に、贈の字をおとせるにや。贈官なるかゆへなり。これは淡海公、諱は不比等のつくらせたまひける庭の面の池を見てよまれけるなり。川原院にて、つらゆきの、けふりたえにししほかまとよまれし心におなし。淡海公の時代官位は、此卷の末に、仙覺のかんかへて附載られたるにやあらん。大かた見えたり。猶續日本紀を引て、こゝに朝廷にもことに重んしたまひし大臣なることをしるさん。文武紀云。四年六月甲午、勅淨大參刑部親王、直廣壹土原朝臣不比等。○大寶元年八月癸卯、遣三品刑部親王、正三位藤原朝臣不比等へ○元正紀云。養老四年三月甲子、有勅、特加右大臣正二位藤原朝臣不比等授刀舍人三十人。八月辛巳朔、右大臣正二位藤原朝臣不比等病、賜度者三十人。詔曰。右大臣正二位藤原朝臣、疹疾漸留、寢膳不安、朕見疲勞、惻隱於心、思其平復、計無所出、宜大赦天下、以救所患云々。壬午、令都下四十八寺.一日一夜讀藥師經云々。癸未是日右大臣正二位藤原朝臣不比等薨。帝深悼惜焉。爲之廢朝、擧哀内寢、特有優勅、弔賻之、禮異于群臣。大臣、近江朝内臣大織冠鎌足之第二子也。十月壬寅、詔。遣大納言正三位長屋王、中納言正四位下大伴宿禰旅人、就古大臣第、宣贈太政大臣正一位。五年二月甲子詔曰。世諺云。○孝謙紀云。天平寶字二年六月乙丑。○廢帝紀云。寶字四年八月甲子勅曰。○懷風藻序云。龍○延喜式諸陵式曰。多武岑墓【贈太政大臣正一位淡海公藤原朝臣、在大和國十市郡。】なを續日本紀には、此大臣の徳をしるせる事あり。不比等は史の反名なり。太織冠の墓所は、日本紀にも延喜式にも見えす。多武峯淡海公墓とありて、九墓に荷前の使を立らるゝにも、其一なり。しかるを今は一向大織冠の廟所なるやうにいへるは、いかなるゆへにか。大織冠をは、武内宿禰と其功おなしやうに、續日本紀の天勅の詞にも見えたり。ともに神といはゝれたまひ、ともに墓所をしるさす。又元亨釋書の定惠和尚の傳に、不比等大織冠薨去の後入唐のよし見えたるは誤なるへし。律令はひとへに此大臣撰と皆人おもへり。令議解序にもしかそ見えたる
 
378 昔者之舊堤者年深池之瀲爾水草生家里《イニシヘノフルキツヽミハトシフカキイケノナキサニミクサオイニケリ》
 
年深、【六帖、トシフカミ、】
 
禮記にも古き禮を拾る、以て舊き防《ツヽミ》に譬へたれば、此も大臣の在世朝廷に在て邪を禦正を護る 堅き堤の池水を貯はへて又能洪水のために崩されざるに譬る意あるぺし、水草生ニケリは第二に草壁太子の舍人が、おひざりし草おひにけるかもとよめるに似たり、謝靈運登(リシニ)2池上樓1云、池塘生2春草1、園柳變2鳴禽1、
 
初、いにしへのふるきつゝみは年ふかき池のなきさに水草生にけり
ふるき堤といふは、大臣の朝廷に功ある事、堅き堤のよく水をたくはへたもつにたとへらるゝ心あるへし。禮記にも、ふるき堤を用なしとてくつせは、水難にあふよしあり。それはこゝにはかなはねと、朝廷のまもりとなる心は似よるへし。みくさおひにけりは、謝靈雲登池上樓云。池塘生春草、園柳變鳴禽。第二卷に、草壁太子の薨じたまひし時、舍人かよめる歌に、みたちせし嶋のあらいそをけふみれはおひさりし草生ひにけるかも。當時と後とはおなし感なり
 
(34)大伴坂上郎女祭神歌一首并短歌
 
此郎女の事第四卷に撰者委く注したれば今煩らはしうせず、神は後の注を見るに忍日《オシヒ》命なり、
 
379 久堅之天原從生來神之命奥山乃賢木之枝爾白香付木緜取付而齊戸乎忌穿居竹玉乎繋爾貫垂十六自物膝折伏手弱女之押日取懸如此谷裳吾者折奈牟君爾不相可聞《ヒサカタノアマノハラヨリアレキタルカミノミコトハオクヤマノサカキカノエタニシラカツケユフトリツケテイハヒヘヲイハヒホリスヱタカタマヲシヽニヌキタレシヽシモノヒサオリフセテタヲヤメカアフヒトリカケカクタニモワレハヲラナムキミニアハシカモ》
 
神之命、【官本亦云、カミノミコトヲ、】  賢木之枝爾、【二條院御本云、サカキカエタニ、六條本同v之、】
 
初の四句、忍日命は高皇産靈尊の五世孫にして天孫の御前に立ち天降たまへば、天ノ原ヨリアレキタルとは云へり、神ノミコトハと云よりもミコトヲと點じたるまさるべし、白香付《シラカツケ》は第十二にはシラカツクと點じ、第十九にはシラカツキと點ぜり、今按今の點と十九とは体に呼び、十二には用に點ぜり、十九には白香|著《ツキ》我が裳のすそにしてつゝとあれば殊に体にあらざれば何のわきもなきが故に用に點ぜるは(35)用べからず、其二つの中には人の著《ツク》る物なれば今シラカツケと點ぜるや勝り侍なむ、香は鼻に入をのみ云に非ず、物をほむる事にもいへば今は木綿四手の白きを白香と云なり、神代紀云、掘《ネコシニシテ》2天香山之五百箇眞坂樹1、而|下枝《シツエニハ》懸《トリシテゝ》2青|和幣《ニキテ》白|和《ニキ》幣1相與致祈祷《アヒトモニノミイノリマウス》焉、齊戸乎忌穿居とは齊は齋に作るべし、神武紀に八十|平※[分/瓦]《ヒラカ》といへるを釋日本紀に兼方の云、平賀者盛供神物之土器也、今世伊勢太神宮御殿下多(ク)以安2置之1、或説諸神參候之神座(ト)云云、爰以|忌瓮《イハヒヘ・イムヘ》(ヲ)鎭2坐《スウ》於和珥武|※[金+噪の旁]《スキノ》坂上1、兼方云、如3神武天皇之作2嚴※[分/瓦]1也、竹玉は仙覺抄云、陰陽家に祭の次第を問侍りしかば、祭祠の中に異國より習ひ傳へたる祭もあり、我朝に本來祭り來れる法もあり、たかだまといへるは我朝の祭の中に昔は竹を玉のやうに刻みて神供の中に懸て飾れる事有となむ申す、さてそれをばたかだまと云ひける歟、たけだまと云ひけるかと問侍りしかばたかだまと云と申侍りしなり、今按竹玉の事此集にはあまた讀たれど日本紀古事記延喜式等の祭祀の具をいへる中にすべて見えぬ事なれば、彼陰陽家も似つかはしく時に當て申けるにや、智度論第十云、眞珠出2魚腹中竹中?脳中1、竹取物語にもとの光る竹を得たる由かけるもこれによる歟、しかれば竹より出る例もある故に眞珠をたかだまと云べきか、允恭紀云、嶋神祟之曰、不得|獣《シヽヲ》者是我(カ)之心也、赤石海底有2眞《・シラ》珠1、其珠祠2於我(ニ)1(36)則悉皆|得《・エシメム》獣、これによる眞珠は神もほしく思食物なれば眞珠を緒に貫て捧るをしも云にや、延喜式山口祭の支具にも五色玉二百八十丸といへり、押日取懸は昔は賀茂の祭のみならで、唯神を祭るにも葵を鬘などに懸るか、今按オスヒ取懸とよむべきにや、おすひはおそひにてうはおそひ、第十四に君がおそきとよめるも是なり、又仁徳紀にめとりがおるかなはたは、はやぶさわけのみおすひがねと雌鳥の皇女の召仕ひたまへる女どものよめるも雌鳥皇女の織せたまふ機は隼別皇子のうはぎのためかと云意なり、又古事記に宮簀姫の衣の裙に月經の著たるを日本武尊のよませ給へる歌并に宮簀姫の御和に讀て奉られたる歌にも共に意須比能須蘇爾《オスヒノスソニ》とあれば、今おすひと云證なきに非ず、女は先衣裳を詮とする上に殊に神を敬ふが爲に衣服をも改ため著て祭るならむ、カクダニモはかくさへなり、吾者折奈牟は按ずるに反歌に吾波乞甞とあれば、折は祈の字にて祈をこふとよめば、かくばかりさへ我はこひなむにとなり、君ニアハジカモは夫君の旅などに出たる程にて云へるか、又思ふ人有てそれにあはさせ給へと祈る歟、
 
初、賢木の枝
和名集云。揚氏漢語抄云。龍眼木【佐加岐。】○白香つくとは、又此集に、しらか付ゆふは花かもなとよめり。木綿してのしろきをほめていふなり。香は鼻に入をのみいふにあらす。ものをほめていふ詞なり。いはひへ日本紀に忌※[分/瓦]とかける、これ正字なり。此集にも末にいたりてしかかけり。神武紀云。潜取天香山之埴土、以八十平※[分/瓦]、躬自齋戒、祭諸神、遂得安定區宇。又云。天皇往嘗嚴※[分/瓦]粮、出軍西征。崇神紀に、十年秋七月、大彦と彦國葺とつかはして.山背に向て.武埴安彦をうたしめたまふ時、忌※[分/瓦]を以て、和珥武〓坂の上に、鎭座てなといへり。神供を清淨なる器物にもらんとて、其料にうるはしき埴をもて盆體の物を造るをいはひへといふへし。神殿なと造る時の具をは、忌斧忌鍬なといへる類なり。酒瓶と長流か者年の時の抄に書たれと、※[分/瓦]と瓶、ことの外にたかへるものなり。竹玉をしゝにぬきたれとは竹をつふ/\と切て、糸につらぬきて神に奉るものなり。しゝは、しけきなり。今案、この事、神道家に今もあることにや。鬼道に紙錢なと供する躰のことにこそ。もし竹玉は眞珠の事にもあらん。智度論第十云。眞珠出漁腹中、竹中、蛇腦中。竹の中よりもいつれは、眞珠を竹玉ともいふへし。されは眞珠をぬきたれて、たむけは、神もうけたまふへきものなり。允恭天皇の時、淡路島の神、あかしの海の底なるしら玉を取て奉り給はゝ、御狩にえものおほからしめんと託宣したまひし事なとおもひあはすへし。たをやめかあふひとりかけとは、葵をかつらにしてかしらにかくるゆへに、女の鬘によせて、たをやめかといひかけたりといへり。今おもはく。たをやめのとよみて、郎女かみつからのことをいふと心得へし。あふひは今は賀茂の祭のみにもちゆ。昔はなへて神を祭るにかつらにかけゝるなるへし。かくたにもは、かくさへもなり。これほとさへことをつくしての心なり。われはこひなん。祈の字を折にあやまりて、あまさへおらなんとよめるは、一盲の衆盲を導なり。すなはち歌に乞甞といへるにおなし。なむはのむなり。日本紀にも、此集にも、祈の字、祷の字なとを、のむとよめり。その心、字のことし。なとのと通すれは、のむをなむといへり。日本紀には、叩頭とかきても、のむとよみたれは、罪過を謝する心もあるなり。叉神武紀に、甞嚴※[分/瓦]粮とあるは、神供のひもろきなとにや。歡喜天儀軌に、本尊を供養する飲食を行者とりて食すれは、本尊行者をしたしひたまふよし見えたれは、こゝも所願をはたさしめたまへと祈て、ひもろきをなむとにや。さきの義まさり侍るへし。君にあはしかもとは、夫の旅にあるさまなるへし
 
反謌
 
(37)380 木綿疊手取持而如此谷母吾波乞甞君爾不相鴨《ユフタヽミテニトリモチテカクタニモワレハコヒナムキミニアハシカモ》
 
ユフダヽミは木綿を裁かさねたるななり、八雲御抄云、ぬさなり、
 
初、ゆふたゝみ
木綿をきりかさねたる心なり
 
右歌者以天平五年冬十一月供祭大伴氏神之時聊作此謌故曰祭神歌
 
十一月には天子も新甞を行はせ給ひ神樂のあれば、私の家にも祖神などを祭るにや、
 
筑紫娘子贈行旅歌一首
 
官本注云、娘子、字曰兒嶋、注によらば第六に歌ある遊行女婦なり、
 
381 思家登情進莫風俟好爲而伊麻世荒其路《イヘオモフトコヽロスヽムナカセマチテヨクシテイマセアラキソノミチ》
 
情進を第十六志賀海人荒雄をよめる歌にサカシラと讀たれば此もサカシラスルナともよむべし、楫取などをもとくを云べし、今の點にてもよし、
 
初、家おもふと
情進と書き手、第十六にさかしらとよみたれは、こゝもさかしらするなともよむへし。かしこたてすなといはんかことし。かちとりなとをもとくをいふ。あらきその道は海路なり。第四にすはうなるいはくに山をこえん日はたむけよくせよあらきその道
 
登筑波岳丹比眞人國人作歌一首并短歌
 
(38)或本に岳の傍に山の字を付て異と注せ、國人は聖武紀云、天平八年正月、正六位上多治比眞人國人授從五位下、孝謙紀云、天平勝寶三年正月從四位下、寶字元年六月遣使追召遠江守多治比眞人配2流於伊豆國(ニ)1、聖武孝謙兩紀の間に猶處々見えたり、國人を或點にトキヒトとあるは後嵯峨院の御諱邦仁なれば憚てなるべし、然らばクニトと讀べし、
 
382 ?之鳴東國爾高山者左波爾雖有明神之貴山乃儕立乃見果石山跡神代從人之言嗣國見爲筑羽乃山矣冬木成時敷時跡不見而徃者益而戀石見雪消爲山道尚矣名積叙吾來前二《トリカナクアツマノクニヽタカヤマハサハニアレトモアキツカミノカシコキヤマノトモタチノミカホシヤマトカミヨヨリヒトノイヒツキクニミスルツクハノヤマヲフユコナリトコシクトキトミステイナハマシテコヒシミユキケスルヤマミチスラヲナツミソワクルニ》
 
時敷時跡、【幽齋本云、トキシクトキト、】
 
明神之貴山とは神名帳云、常陸國筑波郡筑波山神社二座、【一名神大、一小、】儕立とは此山二つの嶺相並べる、其高き方を男の神と云ひ、卑き方を女の神と云、神名帳の大小次の如く是なり、第九に二並の筑波の山とよめるも同じ、儕は左傳云、晋鄭同儕(ナリ)、杜預注云、儕(39)等也、見※[日/木]石山は見之欲《ミカホシ》山にて筑波山のしば/”\も見たきを云、八雲御抄には山の名とし給へども、第六に寧樂の古京をよめる歌にも、山見れば山も見かほし、里見れば里も住よしとあれば唯いづくにも見あかぬを云べし、顯宗紀に飯豐《イヒトヨノ》皇女の忍海《オシノミノ》角|刺《サシノ》宮を時の人のよめる歌にも、野麻登陛※[人偏+爾]瀰吾保指母能婆《ヤマトベニミカホシモノハ》云云、果は※[日/木]の字を誤れり、第十にあさがほと云に朝※[日/木]とかけり、芭蕉をばせをと云やうに※[日/木]の字のかう〔二字右○〕の音をかほ〔二字右○〕となせり、顔の心にはあらず、冬木成の下には今按句を落せり、私に補なはゞ春|去來跡《ハルサリクレト》白雪乃と云べし、時敷時跡は幽蓉齋本の點よし、時じくは非時とかけば、高山は春も猶時ならぬ雪のふればなり、ミズテイナバ益テ戀シミは見ずして都へ皈らばまして戀しからむと思ふ意なり、後をかねて云詞なれど今を云やうなるは古語なり、意を得て聞べし、吾來前二は今推するに前は並にて並二は重二とかけるに同じう四の謎《ナソ》なるべければワガコシと讀べきか、
 
初、明神のかしこき山のともたちのみかほし山
日本紀には、明神とかきてあらかゝみとよめり。かしこき山は、たふとき山なり。ともたちとは、此山ふたつの嶺相ならへるゆへに、第九には、ふたなみのつくはの山ともよめり。たかきを男の神といひ、ひきゝを女の神となつく。第九に.をの神もゆるしたまへ、女のかみもちはひたまひて、時となく雲居雨ふりなとあり。すなはちふたはしらの神います。ひこ神ひめ神なるへし。延喜式云。筑波山神社二座【一名神大一小。】儕は、左傳云。晋鄭同儕。杜預注云。儕等也。吾儕とかきて、わなみとよむも、われなみにて、わか輩といふことにや。見杲石山。これは見之欲山といふことにて、あかすみまほしき山なり。此集におほき詞なり。八雲御抄には、山の名としたまへるは御誤なり。杲の字を、果に作れるは誤れり。此集にあさかほの花にも朝杲とかけり。此字、顔と和訓をおなしうするにはあらす。音をかりて轉して通せり。芭蕉を古今集物名に、はせをとよみ、拾遺集の物の名に、紅梅をこをはいとよめるに准すへし。みかほしなれとも、みかをしといふやうによむへくや。冬木なりの下には、二句おちたるへし。そのゆへは、時しく時とゝいふは、下に雪消するといふをもてみれは、雪のふりしきてあるをいへるなり。それにつきて、字のまヽに時しく時とよめは、時しくは非事とかきて、いつともなき心なり。とこしく時とゝあるかんなにてよまは、第九卷に、せの山にもみちとこしくとよめるも、つねにしくといふ心なれは、こゝもつねに雪のふりしく時とてといふなり。今こゝろみに二句をゝきなはゝ、春はくれともしら雪のといふへし。みすていなはまして戀しみ。此二句、今ならはいひたらす。見すして都へ歸らほましてさひしからんとおもひてといふ心叫なれはなり。山みちすらを。此集に此すらといふ詞、今の世につかふにはたかひて、心得かたきやうなれと、よく/\おもへは、たかはす。よそにも尚の字をかけり。すなはちなをといふ心あり。つねいふは、それさへこれさへといふにかよはして、それすらこれすらといへり。たにと、さへと、すらと、三つはおなしやうなり。雪消して行かたき山ちをさへ、なつみなからくるとなり。消の字をけとよむは、幾江切のこゝろなり。法華經をほくえきやうとかくかことし。音と和訓ことなれと、かへすはおなし心なり。前二の二字、不審なり。推量するに、前は並のあやまりなるへし。此集に、しといふかんなに、重二とも二二ともかけるは、四のこゝろにて、それか音をとるなれは、竝二も四なるゆへに、上を、わかくるとはよまて、わかこしとよめるなるへし。曾娥か碑の裏に、蔡?か黄絲幼婦外孫薤曰の八字をえれる所、これらの書やうの本祖なるへし
 
反歌
 
383 筑波根矣四十耳見乍有金手雪消乃道矣名積來有鴨《ツクハネヲヨソニミナカラアリカネテユキケノミチヲナツミクルカモ》
 
第二の句は、今按ヨソノミ見ツヽと讀べし、第六に笠金村の歌にも、天雲のよそのみ(40)見つゝとよめり、よそにのみといはぬは例の古語なり、乍の字此集にはツヽと云にのみ用てナガラとよめる事なし、
 
初、四十耳見乍――
よそにみなからとよむも心はたかはねと、乍の字、此集には唯つゝとのみよみて、なからとよめる所なし。よそのみ見つゝとよむか此集の心なり。よそにのみといはぬは古歌の例なり
 
山部宿禰赤人歌一首
 
384 吾屋戸爾幹藍種生之雖于不懲而亦毛將蒔登曾念《ワカヤトニカラアヰツミハヤシカレヌレトコリステマタモマカムトソオモフ》
 
雖于、【校本云、カレヌレト、】
 
幹藍は?頭花なるべし、第十一に、みそのふのからあゐの花とよめる處に?冠草花と書て歌の下に後人の加たる注あるに付て委釋すべし、種生之は今按今の點は第十一の吾屋戸之穗蓼古幹採生之と云歌と同じく意得て和したるか、採と種とは義別なり、今はマキオフシ或はウヱオフシと讀べし、紀州の本にマキオフシと點じたれど種は蘇に作たるは不審なり、此歌幹藍をのみよみたらば其種をまきなほさんと云は春の末夏の初なるべければ、第八卷に入ぬべし、又戀の譬などによめらば此下の譬喩に入ぬべきに似たり、
 
初、幹藍種生之 これをからあゐつみはやしとよめるは誤なり。からあゐうへおふしとよむへし。からあゐは、※[奚+隹]頭花なるへし。第十一に、しのひにはこひてしぬともみそのふのからあゐの花の色に出めやも。此歌に鷄冠草とかきて、哥をはりに注していはく。類聚古集云。鴨頭草又作鷄冠草云々。依此義者可和月草歟。しか注したるは順なとの初て和點をくはへられける時、まつ鷄頭花とこゝろえてからあゐと訓せられたれとも、又類聚古集に一説あるによりて注せられたる歟。又後の人の、類聚古集を見て注しかへたる歟。類聚古集といふ書、和漢いつれとも、時代いつの此出來りともこゝにひける外はきこえぬ書にや。からあゐの花の色に出めやもといへるも、鷄頭花の、火よりもあかきによせてはよくきこえ侍り。月草にても色に出といはれしとにはあらねと、あゐよりもあをきはすこしかなひかたき歟。第七に、秋さらは陰にもせんとわかまきしからあゐの花を誰かつみけん。第十に、こふる日のけなかくあれはみそのふのからあゐの花の色に出にけり。いつれもおなし心に聞ゆれは、鷄冠草花とかけるにて、鷄頭花ならんとはおもへり。鷄顕花はことにいろ/\\おほき花なれと.あかき花の鷄冠のなりしたれは鷄頭となつく。清少納言にいへる、雁來花とかきてかまつかといふ花も、鷄頭中の一種とみえたり。これもかゝやくはかりなる色なり。和名集、辨色立成云。紅藍【久禮乃阿井】呉藍【同上。】本朝式云。紅花【俗用之。】くれなゐといふは、くれのあゐを、乃阿をかへして奈になしてよへは、呉藍なり。紅も物をよくそむる事、あゐに似て、呉國より出來たれは、青赤色はことなれと、さはなつけたり。此花の色も虹にして三韓のうちよりつたへきたれはからあゐといふなるへし。此赤人の歌はたとふる所ありてよめる歟。しからは下の譬喩に入へし。からあゐのうへをのみよまは、第八卷秋の哥に入へくや
 
仙柘枝歌三首
 
(41)仙は日本紀にヒジリとあれば今もさよむべし、柘枝は仙女の名なり、和名集云、毛詩注云、桑柘、【音射、漢語抄云、豆美、】蠶所v食也、仙覺抄に似桑有刺木也といへりと注せり、下につみのさえだとよみたればツミエ或はツミノエと讀べきか、枝は木ともよめり、仁徳紀云、天皇|浮江《カハフネヨリ》幸《イテマス》2山背1、桑(ノ)枝《キ》沿《シタカフ》v水(ニ)而流(ル)之、
 
初、仙柘枝歌三首
柘枝は仙女の名なり。下に注すへし
 
385 霰零吉志美我高嶺乎險跡草取可奈和妹手乎取《アラレフルキシミカタケヲサカシミトクサトルカナヤイモカテヲトル》
 
仙覺抄云、此歌肥前國風土記に見えたり、杵島郡縣有二里有(リ)2一孤山1、從v坤指(テ)v艮(ヲ)三峰相連、是名(ヲ)曰2杵嶋1、坤者曰2比古神1、中者曰2比賣神1、艮者曰2御子神1、【一名耳子神、靱則兵與矢、】閭士女提v酒抱v琴毎v歳春秋携(テ)v手登望、樂飲歌舞曲盡而歸、歌詞曰、阿羅禮符縷耆資麼加多※[土+豈]塢嵯峨紫彌苫《アラレフルキシマカタケヲサカシミト》、區縒刀理我泥底伊謀哉提塢刀縷《クサトリカネテイモカテヲトル》、【是杵島|曲《フリナリ》、】然るに此集の歌にはきしみがたけをとかけり、しま〔二字右○〕といひしみ〔二字右○〕といへる同内相通の故歟、歌の心はきしまがたけをさかしみと草をとるか、妹が手をぞ取といへる意なり、今按此仙覺注に肥前風土記を引れたるはよくて其他は分明ならず、霰零吉志美とそへたるは第二十に、阿良例布理可志麻とつゞけたる如し、加〔右○〕と吉〔右○〕と通し、麻〔右○〕と美〔右○〕と通して、霰の音のかしましとよせたり、今の歌にては吉野に吉志美我高嶺有と見えたり、草取カナヤは險しき處にては(42)木の根に縋葛を攀る習なり、文選班孟堅幽通賦云、夢(ニ)登v山而※[しんにょう+囘]眺兮、覿2幽人之髣髴(ニ)1、攬《トツテ》2葛※[草冠/儡の旁]1而授v余兮、眷《カヘリミテ2峻谷1曰勿v墜(ルコト)孫綽天台山賦云、攬《トリ》2樛《キウ》木之長蘿1、援《ヒク》2葛※[草冠/儡の旁]之飛莖1、和の字は十一にも十三にもや〔右○〕とよめり、わ〔右○〕とや〔右○〕と同韻相通なり、妹ガ手ヲ取とは注にある味稻が仙女の手を取をいへり、古事記に隼別皇子雌鳥皇女と倉梯山を越たまふとての御歌に、※[土+皆]立の倉梯山を險しみと、妹は來かねて我が手とらすも、此と似たり、草取かなやは草にはあらず、妹が手を取といはむ爲なり、古事記に仁徳天皇八田若郎女に賜ふ御歌に、矢田の一本管は、子持たす立か荒なむ、借ら菅原、言をことすげ原と云はめ、惜らすがし女とよませ給ふ如く、言をこそ草取といはめ、妹が手を取なり、仙覺の引る肥前風土記の歌の中の耆資熊の熊は愍にや、熊をま〔右○〕と用べぎやうなし、麻〔右○〕と美〔右○〕と通していへるか、和名云、杵島郡杵島、【木之萬、】同郡に島見【志萬美、】と云所あるは杵島を見る處とて名付たるか、景行紀に筑後の御木郡の九百七十丈の歴木《クヌキ》、朝日の輝に當て杵島山を隱しきとあるは此島なり、
 
初、あられふるきしみかたけをさかしみと草とるかなや妹か手をとる
あられふるきしみとつゝくることは、あられふる音のかしましきといふ心なり。かときと通し、まとみと通するなり。第七第二十に、あられふるかしまとつゝけたるは、やかてかしましといふ心につゝけたり。和の字をやとよめるは、同韻の横通なり。此哥の心こゝにありては心得かたし。きしみかたけ、肥前の國なれは、吉野に相應せす。肥前國風土記云。杵島郡。○和名集云。杵島郡杵島【木之萬】。同郡島見【志萬見】といふ所も出せり。杵島を見るといふ心にてなつけたるなるへし。景行紀に、天皇筑後の御木郡にいたりまして、高田行宮おはしましける時樹の長さ九百七十丈なるあり。所の者申けるは、此木いまたたふれさる時、朝日の暉にあたりては、杵島山をかくしきと。すなはち此島なり。古事記に、隼別皇子雌皇女と倉梯山をこえ給ふとての御歌に、はしたてのくらはし山はさかしけといはゆきかねて我手とらすも。文選班孟堅幽通賦曰。○曹子建七啓云。○孫綽天台山賦曰。○
 
右一首或云吉野人味稻與柘枝仙媛歌也但見拓枝傳無有此歌
 
(43)味稻を懷風藻には美稻とあればうましね〔四字右○〕或はうまいね〔四字右○〕と云名なるべし、此注下の歌并に懷風藻に諸公の吉野にて作れる詩あるを引合で按ずるに、味稻は、吉野川に魚梁《ヤナ》打つ者なりけるが、はからざるに仙女柘枝に逢ける事浦嶋子が蓬莱に到れる如なりける事を或人柘枝傳とて記せるなるべし、彼詩粗此に引べし、太宰大貳正四位下紀朝臣男人、七言、遊2吉野川1、萬丈崇巖削成秀、千尋素濤逆析v洗、欲v訪2鍾池越潭跡1、留連美稻逢2槎洲1、五言、扈2從吉野宮1、鳳蓋停(マル)2南岳1、追尋智寺山、嘯v谷將v※[獣偏+孫]語、攀v藤共許v親、峯巖夏景變、泉石秋光新、此地仙靈宅、何須2姑射倫1、大伴王、五言、從2駕吉野宮1應v詔(ニ)、山幽仁趣遠、川淨智懷深、欲(シテ)v訪(ハント)2神仙迹1、追2從吉野※[さんずい+尋]1、從三位中納言丹※[土+穉の旁]眞人廣成、五言、遊2吉野山1、山水隨v臨賞、巖谿逐v望新、朝(ニハ)看2度v蜂翼1、夕翫2躍v潭鱗1、放曠多2幽趣1、超然(トシテ)少(ナク)2俗塵1、栖(シメテ)2心佳野域1、尋2問美稻津1、七言、吉野之作、高嶺嵯峨多2奇勢1、長河渺漫作2廻流(ヲ)1、鍾池超v潭豈凡類(ナランヤ)、美稻逢v仙月氷洲、從五位下鑄餞長官高向朝臣|諸《モロ》足、五言、從2駕吉野営(ニ)1、在昔釣v魚士、方今留v風公、彈v琴與v仙戯、投《イタテ》v江將2神通1、柘歌泛2寒渚1、霞景飄2秋風1、誰謂姑射(ノ)嶺、駐v蹕望2仙宮1、淡海公、五言、遊2吉野1二首、飛(ハス)v文山水地、命v爵薛蘿中、漆姫控v鶴擧柘媛接莫【疑魚乎、】通、煙光巖上翠、日影〓前紅、翻知玄圃近、對翫入2松風1、夏身夏色古、秋津秋氣新、昔者同汾后、(44)今之見2吉賓1、靈仙駕v鶴去、星客乘v査逡、諸性※[手偏+互]流水、素心開2靜仁1、此詩どもの中に柘歌とあるは、柘枝が歌へる曲、傳に見えたる事有べし、淡海公の詩に漆姫とあるは七姫なるべし、此集を見るに卷の第の七八等に多く漆捌などあり、しかれば竹取翁があへる九箇仙女の類なるべし、
 
初、右一首或云吉野人味稲
此注を見るに、よしのに昔味稻といふ者ありて、柘枝といふ仙女にあひて、その柘枝仙女傳をかけるもの有けると見えたり。此事絶て世にいひつたふる事もなく、しる人もなし。第一卷の注にいへるかことく、いかさまにも仙境のやうにいひて、聖主賢臣いつくはあれとまつ芳野にのほられさるはまれなり。今懷風藻をみれは、こゝにかなへる詩とも有。太宰大貳正四位下紀朝臣男人七言遊2吉野川1。萬丈崇巖削成秀、千尋。○此中に美稻とあるは、味稻とおなし。柘歌とあるは柘枝仙媛の事なり。淡海公卿詩に、漆姫とあるは七姫にや。對句に媛の字の上の字失たる故に知かたし。漆姫もし七姫ならは、第十六に竹取翁か九箇の仙女にあへるたくひなるへし。味稻は懷風藻に美稻とあれは、うまいねとか、うましねとか讀へし。顯宗紀に、十握之稻穗とあり。常もうるしねといへり。柘枝は和名集云。毛詩注云。桑柘【音射漢語抄云豆美】蠶所食也。此木桑に似て枝に刺ありといへり。下の哥につみのさえたと讀たれは、つみのえとよむへき歟。枝を木ともよめり。仁得紀云。浮江幸。○懷風藻大伴王
 
386 此暮柘之左枝乃流來者梁者不打而不取香聞將有《コノクレニツミノサエタノナカレコハヤナハウタステトラスカモアラム》
 
梁は和名云、毛詩注云、梁、【音良、和名、夜奈、】魚梁也、打とは梁を作るを云、神武紀云、亦有2作v梁取v魚者1、【梁、此云1椰奈1、】天皇問之、對曰、臣《ヤツカレ》是|苞苴擔之《ニヘモツカ》子、【苞苴擔、是云2珥倍毛兎1、】此則阿太|養※[盧+鳥]部《ウカヒラカ》始祖也、味稻も此苞苴擔が裔にて、此歌の意を按ずるに、味稻が吉野川に魚梁打て有ける時に川上より柘の枝の流れ來けるを取上げたるが、忽に變じて仙女となりて味稻と接て誘引して仙境へ皈りけるにや、漆姫控鶴擧と淡海公の作らせ給へる此意なるべし、されば昔かゝりける事なれば、若今も柘の枝の流れ來る物ならば魚梁は打捨て先取擧こそせめといへるなり、
 
初、此くれにつみのさえたの
仙女の名をつみの木にいひなせり。やなうつとは、つくるなり。日本紀第三、神武紀云。更少進亦。○やなほつくりすてゝも、その仙女につかんとなり。懷風藻高向諸足詩に、在昔釣魚子とあるにあはすれは、美稻はやなことにうちて、わたらひとせしものと見えたり。漁郎か桃源にいりたる類にこそ有けめ
 
右一首 此下無詞諸本同
 
(45)此注七字は仙覺の私に注せられたるを後の人やがて本に書加へたるなるべし、第十三などに右幾首とのみ注したる事多し、作者をいはざればおのづから未v詳と云事あらはるれば其意にや、若は後に闕たる所も有べし、
 
387 古爾梁打人乃無有世伐此間毛有益柘之枝羽裳《イニシヘニヤナウツヒトノナカリセハコヽモアラマシツミノエタハモ》
 
梁、【別校本、作※[木+梁]、】
 
此間をコヽとよむ事勿論なり、今按第七第十二にはコノマと字のまゝにもよめれば、今按今はコノマとよむべきか、このまは此あひだにて今と云に同じ、昔味稻が柘枝を取らずば今までも有べき物をとなり、下句意は味稻が仙女を具して仙宮へゆかずば今も其仙女はさてあらましものをと云へるなり、はてのも〔右○〕の字捨て聞べし、
 
初、いにしへにやなうつ人の
彼味稻か仙女にあへるやうをよくしらねは、此歌いかによめりとも釋しかたし
 
右一首若宮年魚麻呂作
 
年魚麻呂傳未v詳、下の※[羈の馬が奇]旅の歌の注并に第八櫻花の歌二首の後の注を見るに撰者と同時の人なり、
 
※[羈の馬が奇]旅歌一首井短歌
 
(46)388 海若者靈寸物香淡路島中爾立置而白浪乎伊與爾回之座待月開乃門從者暮去者塩乎令滿明去者塩乎令干塩左爲能浪乎恐美淡路島礒隱居而何時鴨此夜乃將明跡待從爾寢乃不勝宿者瀧上乃淺野之雉開去歳立動良之率兒等安倍而※[手偏+旁]出牟爾波母之頭氣師《ワタツミハアヤシキモノカアハチシマナカニタテオキテシラナミヲイヨニメクヲシヰマチツキアカシノトニハユフサレハシホヲミタシメアサヽレハシホヲホサシメシホサヰノナミヲカシカシコミアハチシマイソカクレヰテイツシカモコノヨノアケムトマツヨトニイノネラレネハタキノウヘノアサノヽキヽスアケヌトシタチサワクラシイサコトモアヘテコキイテムニハモシツケシ》
 
明去者、【幽齋本云、アケサレハ、】 座待月、【校本云、ヰマツツキ、】
 
此海若は海神なり、物カは物かななり、文選海賦云、惟神|是《コヽニ》宅、亦祇是廬、何奇不v有、何怪不v儲とあり、淡路島中爾立置而とは、東は和泉の海、南は鳴門ありて阿波を界ひ、西北は播磨の海※[しんにょう+囘]れり、古今に浪もてゆへるとよめるに同じ、白浪乎伊與爾廻之は南海渺々たり、西と北とは豊後安藝等の海に連れり、座待月は十八夜の月を云、アカシとつゞけむ爲ながら此歌よめる時其夜なりけるにや、暮去者以下の四句は文を互にして意得べし、必潮の夕に滿て朝にひるには非ず、莊子云、海若(カ)云、天下之水莫v大2於海1、(47)萬川歸v之不v知2何時止1而不v盈、尾閭泄v之不v知2何時已1而不v虚、春秋不v變、水旱不v知、此其過2江河流1、不v可v爲2量數1、郭璞江(ノ)賦云、呼2吸萬1吐2納靈潮1、自然往(キ)復(ル)或(ハ)夕(ニシ)或朝、激2逸勢1以前驅、乃皷怒而作v濤(ヲ)、侍從は從をヨドとはよみがたかるべし、今按マツカラニと讀べし、瀧上乃淺野とは瀧上の三舟山とよめるは吉野の瀧の上にある故と聞ゆれど、野の下に瀧は有まじき理なれば是は瀧の水上は淺ければ淺野といはむ料なるべきか、又高野吉野と云も皆山なれば今も瀧ある上の淺野山にや、淡路の國に今もさる處のあるや所者に尋て定むべし、アケヌトシはし〔右○〕は助語にて夜の明ぬと雉の鳴なり、毛詩云、雉之朝※[口+句]繼体紀云.奴都等利枳蟻矢播等余武《ヌツドリキギシハトヨム》、私記云、師説、雉好鳴2於欲v曉之時1也今按開去歳をばアクレコソとも讀べきか、あくればこそといはぬは此例の古語多し、こそ〔二字右○〕と云詞に去年とも行年とも借て書たれば去歳〔二字右○〕此に准ふべし、安倍而《アヘテ》は仙覺云、喘吐《アヘツク》なり、上の金村歌云、阿倍寸菅我榜行者《アヘギツヽワガコギユケバ》云云、但第九云・湯羅乃前鹽乾爾祁良志白神之礒浦箕乎敢而榜動《ユラノサキシホヒニケラシシラカミノイソノウラミヲアヘテコギトヨム》、此に依ればあへぎのき〔右○〕を略してあへてと云にはあらずして榜出るに堪たる意なり、此歌上の半は海賦とも云べく大きにいかめしきを、下の半のかけあはぬにや、又海を賦せるにあらずば上は少し※[羈の馬が奇]旅の歌には過たりとも申べくや、
 
初、わたつみはあやしきものか
木玄虚海賦云。惟神是宅、亦祇是廬、何奇不有、何怪不儲。ゐまち月あかしのとには。十八夜をゐまち月といふ。十七夜は立まち月十九夜はねまちなり。これはあかしといはふんめなり。もし此哥よめるか十八日な にもや有けん。さらすは、文字をた  とていふなり。ゐまちに用あるにあらす。ゆふされはしほをみたしめ、あさゝれはしほをほさしめ。これは文をたかひにして意得へし。かならす夕にみちて朝にひるにあらす。莊子云。海若云。○郭璞江賦曰。○しほさゐのなみを。待從爾まつからにとよむへし。從の字を此集にからと用ゐたり。瀧のうへのあさ野のきゝす.瀧のかみはあさきものなれは、あさ野とつゝけたり。毛詩云。雉之朝※[口+句]。あへてはあへきての略語なるへし。此歌、上は海賦ともいふへく、おほきにいかめしくいひ出て、末のほそりたるかおかしきなり。又海を賦してよますは、上はすこし※[羈の馬が奇]旅の歌に過たるともいふへきにや
 
(48)反歌
 
389 島傳敏馬乃埼乎許藝廻者日本戀久鶴左波爾鳴《シマツタヒミヌメノサキヲコキタメハヤマトコヒシクタツサハニナク》
 
結句上の黒人が歌の如く鶴の聲に感じて故郷を思ふとなり、
 
初、たつさはになく
物に感して故郷をおもふなり
 
右歌若宮年魚麿誦之但未審作者
 
譬喩謌
 
たとへてよむなり、委は別に注す、
 
紀皇女御歌一首
 
初、萬葉集第三下抄
紀皇女
天武天皇の御女、母は曾我大臣赤兄女大〓娘。穗積皇子の同腹の御妹なり
 
390 輕池之納回徃轉留鴨尚爾玉藻乃於丹獨宿名久二《カルノイケノイリエメクレルカモスラニタマモノウヘニヒトリネナクニ》
 
往轉留、【官本亦云、ユキメクル、】
 
輕池は應神紀云、十一年冬十月作2輕池1、大和國高市郡なり、或者の云、今大《オホ》輕と云處に有といへり、往轉留は、ユキメグルと點ぜるもことわりあり、六帖に獨寢の歌とす、意は何の意あるべからぬ鴨だに、昼はこなたかなたにあされども夜は玉藻の上に友(49)寢するを、いかなる意にて問もきまさぬぞと夫君を恨給ふ意なり、
 
初、輕の池のいり江
應神紀云。十一年冬十月作輕池。□轉留、これをはゆきめくるとも□むへし。これは戀の哥の譬喩なり
 
造筑紫觀世音寺別當沙彌滿誓歌一首
 
元明紀云、和銅二年二月戊子、詔曰、筑紫觀世音寺淡海大津宮御宇天皇、奉2爲《オホムタメニ》後岡本宮|御宇《アメカシタシロシメス》天皇1誓願所(ナリ)v基也、雖v累2年代1迄v今未v了、宜3太宰商量充2驅使(ノ)丁《ヨホロ》五十許人1、及遂2閑月1差2發人夫1專加2※[手偏+僉]※[手偏+交]1早(ク)令(メヨ)2營作1、元正紀云、養老七年二月丁酉、勅2僧滿誓1【俗名從四位三笠朝臣麻呂、】於2筑紫1令v造2觀世音寺(ヲ)1、元亨釋書の資治表にも有司の懈怠を謗て滿誓の成功を譽たり、
 
初、觀世音寺
元明紀云。和銅二年二月戊子詔曰。筑紫觀世音寺、淡海大津宮御宇天皇□後岡本宮御宇天皇誓願所基也。雖□年代迄今未了。宜太宰商量充驅使□五十許人及遂閑月差發人夫專加※[手偏+僉]使早令營作。元正紀云。養老七年二月丁酉勅。僧滿誓【俗名從四位上笠朝臣麻呂】於筑紫令造觀世音寺。滿誓いまた俗たりし時の昇進は、文武紀云。○元明紀云。○元正紀云。○戊午右大辨從四位上笠朝臣麻呂請奉爲太上天皇出家入道勅許之。此人美濃守なりし時當耆郡多度山美泉わき出け□元正天皇みゆきし給ひ靈□を改て養老元年とした□り。其年麻呂朝臣等に物なとた□その十一月に從四位上を授た□り。功成名遂て身退とは此人なと□ふへきにや
 
391 鳥※[糸+怱]立足柄山爾舩木伐樹爾伐歸都安多良舩材乎《トフサタテアシカラヤマニフナキキリキニキリヨセツアタラフナキヲ》
 
發句は第十七にも登夫佐多?船木伎流等伊有〔左○〕能登乃島山《トブサタテフナギキルトイフノドノシマヤマ》、云云、仙覺これを引てトフサタツと云古點を破せらる、但古點も一准ならざる歟、袖中抄にはとふさたてとあり、さて説々あり、別に是を注す、足柄山は相模なり、彼國の風土記に足柄山の杉を伐て舟に造けるに其舟の足の輕かりければ山の名とせるとかや、さてこそ第十四にも百津島足柄小舟あるきおほしなどはよみけめ、伐歸都とは舟造るべきほど伐(50)集め寄るなり、此譬る意は彼觀音寺の造營題の下に云如く久しく事ゆかずして元正天皇養老七年までに及ける故に滿誓を別當に成し給ふにより、滿誓觀音寺に到て※[手偏+僉]校せらるゝに、寺作るべき良材をば多く運び寄ながら有司怠慢にして徒に年月を積るを、足柄山の上品の舟木は伐寄せながら造ること延引して徒に腐すに事よせて前の有司を刺らるゝなるべし、かゝる事を近く云へば勅を奉れる人の爲にもあしければ、遠くあらぬ事に云成して誡しめ諌めらるゝなるべし、是諷諭の法なり、撰者此微意を顯はさんために此に至て造觀音寺別當とはいへり、第十九に、春の日にはれる柳を取持て、見れば都の大路思ほゆと云歌の詞書に、攀2楊黛1思2京師1とかけるも攀柳條などは云はで黛の字を加へたれば、春女の群がり行緑黛を想像意を露はさんとなり、叉木に伐よせつとは誤て傍なる繁き木の中に伐懸つれば取事の煩らはしさにたゆみて捨置を懈怠に譬るか、仙覺の云、若そばなる木にも伐懸つればいかによき木なるとも舟木にせぬなり、舟は物にさへらるゝを忌べき故なるべし、されば木に伐よせつあたら舟木をとよめり、舟木伐やう如此なるか、推量て申されけるにや、
 
初、□さたて足柄山にふな木きる
此とふさは木をきるものゝきりおをはりて木の末をかの木のもとにたてゝ、山の神木の神なとに祭るをいふともいひ、又柿のたつをいふとも□へり。第十七にも、とふさたてふな木□るといふ能登のしま山なとよめ□。先山神なとを祭るといふは、□喜式第八、大殿祭祝詞云。○推古紀□。是年【二十六年】○これ舟木をきる□も宮木をきるにも山神樹神をまつるよしなり。本末をは山の神に祭てとあれは、ことはりなきにあらす。されとも其本末をとふさといふことをいまたみす。次にこけらをとふさといふ事もたしかならぬにや。後拾遺集第十三、戀三にいはく。源遠古かむすめに物いひわたり侍りけるに、かれかもとに有けるをんなをまたつかへ人あひすみ侍りけり。いせのくにゝくたりて都□ひしうおほえけるに、つかへ人も□なし心にやおもふらんとおしはかりてよめる、祭主輔親。我おもふみやこの花のとふさゆへ君もしつえのしつ心あらし
ふるき歌には是ならては見をよひ侍らす。此歌木をきる詞はなけれ□きみもしつえのしつこゝろあらしといへは、花のちるをこけらのやうにいひなして人の心のほかにうつりやすらんなとおほつかなくおもふ心なるへし。ふるき連歌師の發句に、木をきれは花こそとふさ春の風としたるは、朗詠集に、春風暗剪庭前樹といふ句と右のうたならひに此集の歌ともを取合てなるへし。輔親は太神宮の託宣にて神詠をたまはり、おやおほちむまこすけちかみよまてにいたゝきまつるすへら御神といふ奉和したる人なれは、とふさも相傳してよまれたるへけれは、こけらをたつるかたにつくへし。あしからは相模なり。かの國の風土記に、足柄山の杉をきりて舟に造りけるに、そのあしのいとかろかりけれは山の名とせるとかや。第十四東歌にも、百つしまあしからをふねあるきおほみなとよめり。造觀世音寺別當と題にあるにつけて、此あしからつくしにあるかなといふ説あれと、彼寺の別當になられける後の歌なれは、かくはかけるとみて、歌は譬喩の歌なれは別にみるへし。もしは彼寺天智天皇の御願にてはしめられけれと久しく事ならて猶養老七年まてとゝのはさりけれは、此滿誓を別當になさせたまひけるにおほくの良材なと打つみたるかいたつらに朽るをみていと遠きあしから山の舟木はきりよせなから舟にも造らてくたすによせてよまれけるにや。ちかくいへは勅をうけたまはれるさき/\の人のためにもあしけれは、あらぬやうにいひなされけるにや。たとへによせてそしるは尤さるへき事なり
 
太宰大監大伴宿禰百代梅歌一首
 
(51)職員令云、大監二人掌(トル)d糾2判府内1審2署文案1勾2稽《カンカヘ》失1察c非違u、百代大監なりし事第四第五にも見えたり、聖武紀云、天平十五年十二月辛卯、始置筑紫鎭西府1、以2從四位下石川朝臣加美(ヲ)1爲2將軍1、外從五位下大伴宿禰百世爲2副將軍1、十九年正月丁丑朔、從五位上、
 
初、太宰大監
令義解職員令云。大監二人、掌糾判府内審署文案勾稽失察非違【謂巡察所部非違、其諸國判官察非違、亦同此義也。】少監二人、掌同大監
 
392 烏珠之其夜乃梅乎手忘而不折來家里思之物乎《ヌハタマノソノヨノウメヲタワスレテヲラテキニケリオモヒシモノヲ》
 
手忘而、は手は詞の字、唯わすれてなり、六帖にたわすれていをぞ寢にける茜刺、晝はさばかり思し物をともよめり、今の思シ物ヲとは折らむと思ひし物をとなり、思ひ懸たる人の許に至れども逢ずして返さるゝを、晝見し梅に飽ずして手折らばやと思て花のくらきに其當りに行ども有所を忘てえをらで皈るに譬るなり、六帖に來《ク》れどあはずと云題に入る、
 
初、たわすれて
打わするといはんかことし。戀にたとへたるへし
 
滿誓沙彌月歌一首
 
393 不所見十方孰不戀有米山之末爾射狹夜歴月乎外爾見而思香《ミエストモタレコヒサラメヤマノハニイサヨフツキヲヨソニミテシカ》
 
(52)タレコヒザラメは古歌の詞づかひなり、今よまゝしかばこひざらむとぞ云べき、ヨソニ見テシカもよそにも見てしかなの意なり、よそにと云ひつれば意得まどふべきなり、第十二に、さひのくま檜隈川に馬とめて、馬に水かへ我よそに見むとよめるもよそにだに見むなり、是らを合せて意得べし、歌の意は、山のあなたの月の如く我に隱て見えずとてさてそれに依て思やむべき戀にもあらねば、山のはに纔にいざよふ月ばかりはつ/\なるよそめにだに見て戀る心を慰さめてしかなとなり、中天に到て心ゆくまで見ゆる月をばまさしく人に逢によそへてかくはよめり、※[獣偏+來]は狹を誤れり、
 
初、たれこひさらめ
今のてにをはにはかなはす。今ならはたれこひさらんとよむへし。〓は狹の誤なり。見てしか、此集には此かの字すみてよめるもねかひのかなに通してきこゆ。よそには、よそにたに、よそにもといふ心なれと、古歌の詞くはしからぬなり
 
金明軍歌一首
 
明軍が事此卷下に見えたり、
 
394 印結而我定義之住吉乃濱乃小松者後毛吾松《シメユヒテワカサタメテシスミノエノハマノコマツハノチモワカマツ》
 
小松とはまだ童女なるに契りてよめる譬なり、松は色かへぬ物なれば互に約を變ぜぬ意なり、義之は此義の字集中に使たるに意を得ざる事多し、
 
初、義之
惣して此義の字を用たるに心得かたき事あり
 
笠女郎贈大伴宿禰家持歌三首
 
(53)395 託馬野爾生流紫衣染未服而色爾出來《ツクマノニオフルムラサキキヌニソメイマタキスシテイロニイテニケリ》
 
託馬野は近江國坂田郡朝妻郷にあり、衣をば人にたとへ、紫をば我が深く思ひしむ心にたとへ、未服而とは、まだ相見ぬにたとへ、色ニ出ニケリとは、忍ぶれど戀る心の色に出てよそ人にかくと知らるゝに譬ふるなり、
 
初、つくま野におふる紫
つくま野は近江國坂田郡に有。いまたきすして色に出とは、ちきりをきたるのみにてあふ事はなきを、人の聞つけてとくいふにたとへたり。此集に此こゝろにおなし歌あまたあり
 
396 陸奥之眞野乃草原雖遠面影爲而所見云物乎《ミチノクノマノヽカヤハラトホケレトオモカケニシテミユトイフモノヲ》
 
和名云、行方郡にあり、雖遠は第四第十七第二十に皆トホケトモとよみたれば古語の例にしか讀べし、新千載にも六帖にもとほけれどとあるはそれは亦今に叶ひてよし、此間を思ひわきまふべし、歌の意は、眞野のかや原の遠きも一たび見て面白しと思ひつれば、面影となりて見ゆる如く逢見ぬ中の遙けさも眞野ばかりなれど、一たび見しより忘られぬとなり、玉葉に此歌を取て白菅の眞野のかやはらとよめる歌は、津の國の眞野を思ひたがへられけるなるべし、
 
初、みちのくの真野のかやはら
和名集云。陸奥國行方郡眞野。此歌ははるかなるところもひとたひ見て後おもひやれは、おもかけにみゆるにたとへて、ひとめの關なとにさはりてあはて年月はふとも、君たはあひおもはゝ心はかよはしやとなり。玉葉集秋下に、藤原秀長、分わひていつく里ともしらすけのまのゝ萱原きりこめてけり。白菅の眞野は津の國なるを、かくつゝけたるは眞野といふ名にまとひて白菅のまのといふもみちのくなりとおもひけるにや
 
397 奥山之磐本管乎根深目手結之情忘不得裳《オクヤマノイハモトスケヲネフカメテムスヒシコヽロワスレカネツモ》
 
(54)人しれず深く的せし事をたとへたり、
 
藤原朝臣八束梅歌二首
 
称徳紀云、天平神護二年三月丁卯大納言正三位藤原朝臣眞楯薨、平城朝贈正一位大政大臣房前之第三子也、眞楯度量弘深有2公輔之才1、起家春宮大進、稍遷至2正五位下式部大輔兼左衛士督1、在v官公廉、慮不v及v私、感神聖武皇帝寵遇特渥、詔特令v參2奏宜1、吐納明敏有v譽2於時1、從兄|仲滿《ナカマロ》心害2其能1、眞楯知之稱v病家居、頗翫2書籍1、天平末出爲2大和守1、勝寶初授2從四位下1拜2參議1、累遷2信部卿1兼2大宰師1、于v時渤海使揚承慶朝禮|云《コヽニ》畢欲v歸2本蕃1、眞楯設v宴餞焉、承慶甚稱2歎之1、寶字四年授2從三位1更賜2名眞楯1、本名八束、八年至2正三位勲二等1兼2授刀大將1、神護二年拜2大納言兼式部卿1、薨時年五十二、賜以2大臣之葬1、使2民部卿正四位下兼勅旨大輔侍從勲三等藤原朝臣繩麻呂、右少辨從五位上大伴宿禰伯麻呂1弔(ス)v之、聖武天皇天平十二年以後次第に見えたり、寶字二年紀に眞楯とあるは紀の誤なり、此集寶字三年までの歌あれど八束とのみ云ひ、傳にも寶字四年に名を眞楯と賜ふとあればなり、大職冠の曾孫《ヒヽコ》、閑院左大臣の祖父、北の藤波此人にかゝれり、
 
初、藤原八束
後には眞楯とあらためられけるなり。聖武紀云。天平十二年正月戊子朔庚子、正六位上藤原朝臣八束授從五位下。同十一月從五位上。○孝謙紀云。天平勝寶四年四月爲攝津大夫。○廢帝紀云。三年六月正四位上。○稱徳紀云。天平神護元年正月授勲二等。○三月丁卯大納言正三位藤原朝臣眞楯薨。平城朝贈正一位太政大臣房前之第三子也。眞楯度量弘深有公輔之才。○寶字二年八月の紀に眞楯とありて、こゝには四年に更賜名眞楯とあるは、前後のうちあやまり有へし。此集には八束とのみあり
 
(55)398 妹家爾開有梅之何時毛何時毛將成時爾事者將定《イモカイヘニサキタルウメノイツモイツモナリナムトキニコトハサタメム》
 
イツモ/\に二つの意あり、六帖に八雲立出雲の浦のとつゞけ、此集第四に河上のいつもの花のなどつゞけたるは常の詞にて聞が如し、今の歌及び第十一に道の邊のいつしば原のいつも/\とよめるは、いつにても/\と云はむが如し、成ナム時とは實に成ん時なり、花はうるはしけれど實とならぬもあり、言はよけれど誠なきも有り、花をのみ見て實を定がたく、言をのみ聞て誠を知がたければ、實になりかたまれる如くなる誠を見ん時こそ相思ひけりと知て夫婦の契をば定め、と云心を梅の上に云が譬喩なり、
 
初、いつも/\
こゝはいつなりとも/\といふ心なり。此集に、川上のいつもの花のいつも/\とよみ、六帖に.やくもたついつものこらのいつも/\とよめるには心たかへり。なりなん時は、實のある時なり。花はうるはしけれと實のならぬもあり。ことはよけれと、まことなきもあり。花をのみ見て實をさためかたく、ことをのみきゝてまことを知かたけれは、實になりかたまれることくなるまことを見ん時こそ、けにあひおもひけりと、事をはさためゝといふ心を、花の上にいふか譬喩なり
 
399 妹家爾開有花之梅花實之成名者左右將爲《イモカイヘニサキタルハナノウメノハナミニシナリナハカモカクモセム》
 
カモカクモはともかくもの古語なり、大底右の歌に同じ、古人は同じ意を少詞を替てかくの如く云は慇懃を盡すなり、
 
初、かもかくも
ともかくもなり。みきにおなし心なり
 
大伴宿禰駿河麻呂梅歌一首
 
(56)第四云、駿河麻呂、此高市大卿之孫也、今按高市大卿とは右大臣御行の事か、駿河麻呂の事迹聖武紀より光仁紀までに、委見えたり、光仁紀云、寶龜七年七月壬辰、參議正四位土陸奥按察使兼鎭守將軍勲三等大伴宿禰駿河麻呂卒、贈2從三位1賻2※[糸+施の旁]三十匹布一百端1、此人寶字元年に橘奈良麻呂の事に繋て久配流せられける後、光仁聖王召返させたまひ、寶龜三年陸奥按察使に遣されける時も駿河麻呂宿禰唯稱2朕心1とある明詔を蒙り、四年に朕守將軍となり、五年に果して大功を立、卒去の後も贈位賻賜に預られけるは、文才武略相兼たる人なるべし、
 
初、大伴宿禰駿河麻呂
聖武紀云。天平十五年五月正六位上轉從五位下。○光仁紀云。寶龜元年五月。○七年七月壬辰、參議正四位陸奥按察使兼鎭守將軍勤三等大伴宿禰駿河麻呂卒。贈從三位。賻※[糸+施の旁]三十匹布一百端。此人橘奈良麿の事にかゝりて久しく配流せられける後、光仁の明主にあひ奉りて、陸奥按察使につかはされける時、駿河麻呂宿禰唯稱朕心とある恩詔をかうふり、はたして大功をなし、卒去の後も、贈位賻弔にあつかられけるは文才武畧相兼たる人なるへし
 
400 梅花開而落去登人者雖云吾標結之枝將有八方《ウメノハナサキテチリヌトヒトハイヘトワカシメユヒシエタニアラムヤモ》
 
枝將有八方、【六帖云、エタナラメヤモ、仙覺點云、エタニアラメヤモ、幽齋本同v此、】
 
結句は仙覺、古點エダハアラメヤモ、其理不相叶とてユダニアラメヤモと改らる、此に從ふべし、六帖の讀やうも同意なり.歌の心は仙覺の云、人の心の外に移りぬと人はいへども我が堅く契り置つればよもさはあらじ、こと人の事にこそあらめと云意なり、下の意は變ぜんとする人を心替りさせんとてかくよめるなるべし、
 
初、將有八方
あらめやもとよむへし。されともさきの滿誓の歌に見えすともたれこひさらめとよまれたるをみれは、あらむあらめのたくひ、昔はかよはしてよみけるとみえたり。君か心のかはりて人につきぬなときけとも、すてにわかかたくたのめをきつれは、よもさはあらしとおもふよしを梅にたとへたるなり
 
大伴坂上郎女宴親族之日吟歌一首
 
(57)401 山守之有家留不知爾其山爾標結立而結之辱爲都《ヤマモリノアリケルシラニソノヤマニシメユヒタテヽユヒノハチシツ》
 
此歌、駿河麻呂の答歌を見、又下に娉坂上家之二孃歌とて有を見るに、駿河麻呂を聟にせんと思はるゝ心を其山にしめ結とたとへ、外の人の聟に心を寄せ、或は駿河丸の通はれけむ女などの夫君と思ふばかりなるを山守にたとへて、さる人の有とも知らで我聟にせむと思ひしは、我が物ならぬ山に標結て山守に其しめを取られたらむ辱かしさに同じとよめるなり、是も我聟にならむと云はせんとて設て讀懸らるゝなるべし、後に家持と駿河麻呂とは※[女+亞]《アヒムコ》なり、
 
初、山もりの有けるしらに
應神紀云。五年秋八月庚寅朔壬寅、令諸國定海人及山守部。ゆひのはちしつとは、先此歌に、山もりといへるは、わかむこにさためんとおもふ人人かねてこと人のむすめを本妻にもとちきりかはして、山もりの山をもることく外の人をふせくをしらて、心のしめをその人にゆひける事のとりかへさまほしくはつかしきとたとへたり。下云。大伴宿禰駿河麻呂娉同坂上家之二孃哥一首。家持はあねを得、駿河麻呂は妹を得てあひむこと見えたり
 
大伴宿禰駿河麻呂即和歌一首
 
402 山主者蓋雖有吾妹子之將結標乎人將解八方《ヤマヌシハケタシアリトモワキモコカユヒケムシメヲヒトトカメヤモ》
 
此發句六帖にも八雲御抄にもやまぬしはと有れども、山守之有けるしらにと云和なれば今の點かなふべし、第四にも玉主をタマモリと點じ、官の主殿をもトノモリといへり、山守有とのたまへど我まだしらず、よし有ともそこにだに標ゆはれむには誰か其しめを解むや、君山守とならむとならば我其山となりて領せられんとな(58)り、
 
初、山もりはけたし有とも
山主者とかけるゆへに、八雲御抄に山ぬしとよませたまへと、みきの歌に、山守の有けるしらにとよみ、又此集には、玉もりに玉はさつけてといふ歌にも玉主とかきて玉もりとよみ、主殿とかきて殿もりともよめは、山もりともよめるを正とすへし。けたし有ともとは、山もり有とのたまへとも我を山ともるへき人はいさまたしらす。よしありともそこにたにわれをむことしめゆはれんには、たれかそのしめをはとかむや。心は、君、山もりとならんとならは、われその山となりて領せられんとなり。坂上郎女は此人をむこにとらんとかねておもはれけれは、宿禰此かへしはせられけるなるへし
 
大伴宿禰家持贈同坂上家之大孃歌一首
 
403 朝爾食爾欲見其玉乎如何爲鴨從手不離有牟《アサニケニミマクホリスルソノタマヲイカニシテカモテニサケサラム》
 
如何爲鴨、【校本云、イカニシテカモ、當v從v之、】
 
初、朝にけに
さきにも注しつ。あさなけといふにおなし。有しよりけになといふは、勝の字異の字なとを、此條に用て、まさるなり。今はそれにはあらず
 
娘子報佐伯宿禰赤麿贈歌一首
 
赤麻呂無v所v考、
 
404 千磐破神之社四無有世伐春日之野邊粟種益乎《チハヤフルカミノヤシロシナカリセハカスカノノヘニアハマカマシヲ》
 
春日四座明神は稱徳天皇神護景雲二年に一時に鎭坐し給ふとも云ひ、天兒屋根命は先立て孝徳天皇御宇に鎭座したまふとも彼社家の記録には侍るとかや、今按寧樂の京と成て後淡海公或は四人の御子の時勸請し給へるが、慥なる傳記は失けるなるべし、其證は此歌并に第十九に天平勝寶三年の歌に、