〔入力者注、これより早稲田大学出版部蔵版〕
 
(1)萬葉集代匠記卷之七上
              僧 契沖撰
              木村正辭校
 
初、萬葉集第七代匠記
 
雜謌
 
詠天
 
1068 天海丹雲之波立月舩星之林丹※[手偏+旁]隱所見《アメノウミニクモノナミタチツキノフネホシノハヤシニコキカクルミユ》
 
天海丹、【拾遺、並人丸家集、ソラノウミニ、別校本亦云、アマノウミニ、】  榜隱、【校本云、コキカクレ、】
 
天海とは大虚の緑にして廣き故なり.雲ノ浪、月ノ船、星ノ林も皆其物々に譬へたる中に、星はしげきを林と云へり、文選東京賦云、戈矛若v林、薛綜注曰、若v林言v多也、雲の波の立故に星の林に月の船を漕隠るとは、月の曇り或は入をかく云ひなすなり、六帖には發句天の川とて人丸の歌として天の原の題に入たり、
 
初、あめのうみに雲の波立月の舟ほしの林にこきかくるみゆ 天の海とは、大空のみとりにひろきゆへなり。雲の波、月の舟、星の林も、みな其もの/\にたとへたるなり。懷風藻、文武天皇御製月詩云。月舟移(リ)2霧渚(ニ)1、楓※[楫+戈]泛(フ)2霞濱(ニ)1
 
右一首柿本朝臣人麿之歌集出
 
(2)詠月
 
1069 常者曾不念物乎此月之過匿卷惜夕香裳《ツネハサモオモハヌモノヲコノツキノスキカクレマクヲシキヨヒカモ》
 
曾の字、六帖夕月夜の歌に入て、今の點の如くあれど、サモとよまむ事おぼつかなし、第十に木高者曾木不殖《コタカクハカツテキウヱジ》と云にも亦第十六に吾待之代者曾無《ワガマチシヨハカツテナシ》とよめるにも共に常の如くカツテと點じたれば今も然よむべき歟、常ハとは夕闇の時を云へるか、
 
1070 大夫之弓上振起借高之野邊副清照月夜可聞《マスラヲノユスヱフリタテカルタカノノヘサヘキヨクテルツキヨカモ》
 
弓末を振起て鹿を獵とつゞけたり、月夜はツクヨとも讀べし、
 
初、ますらをのゆすゑふりたてかるたかの かるたか野は大和なり。弓末ふりたてゝ獵といひかけたる詞なり。神代紀上云。 《フリ》2起《タテ》弓※[弓+肅]《ユハスヲ》1。第三卷笠金村の哥にも此二句ありき
 
1071 山末爾不知與歴月乎將出香登待乍居爾與曾降家類《ヤマノハニイサヨフツキヲイテムカトマチツヽヲルニヨソフケニケル》
 
第六に有し忌部首黒麿歌に似たり、又今やがて下にも似たる歌あり、
 
初、山のはにいさよふ月を 第六忌部黒麿哥、又此下の第四葉にもよく似たる哥有
 
1072 明日之夕將照月夜者斤因爾今夜爾因而夜長有《アスノヨモテラムツキヨハカタヨリニコヨヒニヨリテヨナカヽラナム》
 
斤は片を誤れり、物の面白き時かく思ふはよのつねなり、
 
初、あすの夜も あすの夜をも、こよひにあはせひとつにして、月を見たきなり。第六には、こよひのなかさいほよつきこそとさへよめり」
 
(3)1073 玉垂之小簾之間通獨居而見驗無暮月夜鴨《タマタレノコスノマトホシヒトリヰテミルシルシナミユフツクヨカモ》
 
通、【六帖、トホリ、官本又點同、】  見驗無、【六帖、ミルシルシナキ、別校本同v此、】
 
簾は簀垂の意に名付たれば|す〔右○〕とのみも云へり、史記范|雎《スイ》列傳曰、雎佯死、即卷以v簀、【索隱曰、簀、謂2葦荻之薄1也、】通はトホシともトホリとも點ずれば、影の、此方にとほるなり、又とほしは簾越に内より見透すとも云べし、とほりは月の方に限るなり、無の點は六帖に依べし、六帖に此歌主をいへのをとくろまろとあるは忌部首黒麿なるべし、此には作者を云はざるものを、
 
初、みるしるしなきは、みるかひなきなり
 
1074 春日山押而照有此月者妹之庭母清有家里《カスカヤマナヘテテラセルコノツキハイモカニハニモサヤケカリケリ》
 
押而、【官本亦點云、オシテ、】
 
第八に我屋戸爾月|押《オシ》照有とよみたれば押而はオシテと讀べし、照有をもテリタルともよむべし、第十一云、窓起爾月臨照而云々、これも難波の枕詞のおしてるを臨照とかけるにて知ぬ、オシテリテなるをサシイリテと點ぜるは誤なり、月の中天に臨て下界を照すをおしてゝらせるとは云へり、
 
初、春日山おしてゝらせるこの月は なへてとあるもおなしことなから、字のまゝにおしてとよむへし。第八にもわかやとに月おしてれりとよめり。第十一にまとこしに月|臨照而《オシテリテ》とよめる哥有。月さしいりてと點をくはへたるはあやまれり。これも月おしてりてなり。おしてるやなにはといふに、此集に兩所まて臨照とかけり。おしてといへるは、臨ての心なり。なへてといふも心はかよへり。帝の天下に臨たまふといふも、なへてしろしめせはなり
 
(4)1075 海原之道遠鴨月讀明少夜者更下乍《ウナハラノミチトホミカモツキヨミノヒカリスクタクヨハフケニツヽ》
 
少、【袖中抄云、スクナシ、】
 
神代紀上云、月讀尊者可3以治2滄海原潮之八|百重《ホヘヲ》1也、詩にも團々離2海境1と作れる如く、海邊にて見れば月は海より出來るやうなれば此一二の句はあるなり、明少は袖中抄のやうにも亦はヒカリスクナキとも讀て此を句絶とすべし、明少とは光輝のすくなきと云にはあらず、照間のすくなきなり、道とほみかもと云にて知べし、
 
初、海原の道遠みかも さきに天の海といふに准せは、此海原天をもいふへし。又團々離2海境1といふことく、海より出くるやうなれは、まことの海をもいふへし。此哥は光すくなくとある所を、すくなきとよみてこゝを句絶として、上の四句をよみつゝけはしかるへし
 
1076 百師木之大宮人之退出而遊今夜之月清左《モヽシキノオホミヤヒトノタチイテヽアソフコヨヒノツキノサヤケサ》
 
退出而、【六帖云、マカリイテヽ、】
 
初、もゝしきの大宮人の 第三鴨君足人か香具山の哥の中に、もゝしきの大宮人の立出てあそふ舟にはなとよめり
 
1077 夜于玉之夜渡月乎將留爾西山邊爾塞毛有糠毛《ヌハタマノヨワタルツキヲトヽメムニニシノヤマヘニセキモアラヌカモ》
 
落句は塞のあれかしと願ふ意なり、
 
1078 此月之此間來者且今跡香毛妹之出立待乍將有《コノツキノコノマニクレハイマトカモイモカイテタチマチツヽアラム》
 
此間は今按集中にコノマともコヽとも點じたれば今はコヽニモと讀べきか、且今は、(5)いまや/\の意なり、第二に人丸の妻の旦今日旦今日《ケフ/\》ととよまれたるに付て云が如し、
 
初、此月のこのまにくれは このまにくれはとは、こゝにくれはなり。月の立のほりて、こゝもとにおもしろくてりくるなり。いまとかもとは、今やこんの心なり。第二卷にけふ/\とわか待君といふに、且今日且今日とかけり。こゝに今といふに且今とかけるも治定せさる心なれは、且の字をくはへてかけるなり
 
1079 眞十鏡可照月乎白妙乃雲香隱流天津霧鴨《マソカヽミテルヘキツキヲシロタヘノクモカカクセルアマツキリカモ》
 
神代紀上云、伊弉諾尊右手持2白銅鏡1則有2化出之神1、是(ヲ)謂2月弓尊1、今のマソカヾミは照べきと云はんためながら又此意も有べきか、此歌六帖には雜月に入て乙九の歌とす、おぼつかなし、
 
1080 久方乃天照月者神代爾加出反等六年者經去乍《ヒサカタノアマテルツキハカミヨニカイテカヘルラムトシハヘニツヽ》
 
神代ニカ出反ラムとは、世の降り年の經るに隨て萬の事替り行に、月の光のみ昔にかはらずめでたく照るをほむる詞なり、
 
初、久方の天てる月は神代にか出かへるらん神代紀云。次生(マツリマス)2月神1【一書云。月弓尊。月夜見尊。月讀尊】其(ノ)光彩《ウルハシウシテ》亞《・ツケリ》v日(ニ)。可2以配v日而|治《シラス》1。故(レ)亦送(マツル)2之于天1。一書曰。伊弉諾尊曰〇右手持2白銅鏡1則有2化出之神1。是謂2月弓尊1。又云。復洗2右(ノ)眼《ミメヲ》1因以生神(ヲ)號曰2月讀尊1。〇月讀者可3以治2滄海原潮之八百重1也。又云。月夜見尊者可3以配v日而知2天事1也
 
1081 烏玉之夜渡月乎※[立心偏+可]怜吾居袖爾露曾置爾鷄類《ヌハタマノヨワタルツキヲアハレトテワカヲルソテニツユソオキニケル》
 
※[立心偏+可]怜ば今按此前後の書樣を思ふにアハレトテと二字を讀付べくもあらねばオモシロミと讀べきか、第二の舒明天皇の御歌にかくよめり、露ゾ置ニケルとはおぼえず夜(6)の深る意なり、
 
1082 水底之玉障清可見裳照月夜鴨夜之深去者《ミナソコノタマサヘキヨクミツヘクモテルツキヨカモヨノフケユケハ》。
 
1083 霜雲入爲登爾可將有久堅之夜度月乃不見念者《シモクモリストニカアラムヒサカタノヨワタルツキノミエヌオモヘハ》
 
霜クモリとは霜の多くふらむとては月も照にてるを曉に曇などするを云べし、月落烏啼霜滿v天など詩にも作れり、雲入とかけるは曇ると云詞、すなはち雲入の意なり、爲登爾可はスルトニカとも讀べし、六帖にするにやとあるは改たるなり、
 
初、霜くもりすとにかあらん 此霜くもりといふは、俗にしもをるゝといふに似たり。いたく霜のふりたる朝は、かならす日のよくはるゝを、ある時ひしけてくもりくらすを、霜をるゝといへり。これに准するに、夕霜なとのおほくふれる夜、月のくもるをいふにや。又霜のふらんとては、大かた月もよくさゆるを、もし大にふらんとては、くもる物にや。心をつくる人知ぬへし
 
1084 山末爾不知夜經月乎何時母吾待將座夜者深去乍《ヤマノハニイサヨフツキヲイツトカモワカマチヲラムヨハフケニツヽ》
 
初、山のはにいさよふ月 さきによく似たる哥ありて注しき
 
1085 妹之當吾袖將振木間從出來月爾雲莫棚引《イモカアタリワカソテフラムコノマヨリイテクルツキニクモナタナヒキ》
 
出來、【六帖云、イテコム、】
 
雲なたな引そと云ぬは古語なり、第八第十一にもかくよめり、
 
1086 靭懸流件雄廣伎大伴爾國將榮常月者照良思《ユキカウルトモノヲヒロキオホトモニクニサカヘムトツキハテルラシ》
 
延喜式第八六月祓祝詞云、天皇朝廷 爾 仕奉 留 比禮挂伴男《スヘラミカトニツカヘマツルヒレカクルトモノヲ》、手襁挂伴男《タスキカクルトモノヲ》、靫負伴男《ユギオフトモノヲ》、劔佩伴(7)男《ツルギハクトモノヲ》、伴男 能 八十伴男 乎 始 ?云々、伴氏は物部にて種類廣ければ其伴氏の廣く榮ゆる如く國も榮えむと云意なり、但國榮えむとて月の照こと若本説などあるか、未v考、謝希逸月賦に、委v照而呉業昌、淪v精而漢道融とあれども此に叶はず、
 
初、ゆきかくる伴の雄ひろき 延喜式第八、六月晦大祓祝詞云。天皇朝廷《スヘラミカトニ》爾仕奉留、比禮挂(ル)伴(ノ)男、手襁《タスキ》挂(ル)伴(ノ)男、靫負(ル)伴(ノ)男、劔《タチ》佩(ル)伴(ノ)男、伴(ノ)男(ノ)能八十伴男乎始※[氏/一]鶯々。伴氏はものゝふにて、部類廣けれは、とものをひろきとはよめり。其伴氏の廣く榮ゆることく、國もさかえむといふ心なり。たゝし國さかえむと月はてるらしといふこゝろいまた得す
 
詠雲
 
1087 痛足河河浪立奴卷目之由槻我高仁雲居立有良志《アナシカハカハナミタチヌマキモクノユツキカタケニクモタテルラシ》
 
雲居立有良志、【校本云、クモヰタテルラシ、】
 
卷目之由槻我高はすなはち痛足山なり、古今顯昭秘注、まきもくのあなしの山の山人ととよめる神楽歌の注に、卷向の山とも云、穴師の山とも云、さてかく卷向の穴師と詠《ヨミ》つゞくるなり、由槻我高は、由槻は弓槻なり、槻は弓の良材なれば弓槻と云槻の木多き山にて、此名を負歟、下の歌に弓月高と書るも月は借てかけるなり、泊瀬にも弓槻をよみたれど弓槻は何處にも似つかはしき處にはよみぬべし、弓槻が高といへるは、卷向山に取て最高頂を云なるべし、雲居立有良志は校本の如く、クモヰタグテルラシと讀べし、字に叶へる上に、景行紀に思邦《クニシノヒ》の御歌に和藝弊能伽多由區毛位多知區暮《ワキヘノカタユクモヰタチクモ》とよませ(8)給へるを證とすべし、それに取て雲居とつゞくべきか、雲と云ひて居立るとつゞくべき歟、雲は居る物なれば雲を雲居ると云ひ馴たるべければ下は立有ラシと讀べし、河浪の立とは二つの意侍るべし、一つには雲に依て風の吹故なり、古事記中神武天皇段に、伊須氣余理比賣の歌曰、佐韋賀波用久毛多知和多理字泥備夜麻《サヰガハユクモタチワタリウネビヤマ》、許能波佐夜藝奴《コノハサヤギヌ》、加是布加牟登須《カゼフカムトス》、又、歌曰、宇泥備夜麻此流波久毛登韋由布佐禮婆《ウネビヤマヒルハクモトヰユフサレバ》、加是布加牟登曾許能波佐夜牙流《カゼフカムトソコノハサヤゲル》、二つには、雲によりて雨の降なり、此卷下に、さざ浪の連庫山に雲居ては、雨ぞ零ちふかへりこ吾背、とよめるに准らへて思ふべし、但次の歌の注を待べし、
 
初、あなし川かはなみ立ぬ ゆつきかたけに雲たてるらし。あなし川に波のたつとは、雲のたては、雨のふるゆへにいへり。雲居立有良志。これを雲たてるらしとはよみかたし。立の字は而の字をあやまれるにや。而の字ならば雲ゐたるらしとよむへし。下に、さゝ浪のなみくら山に雲居ては雨そふるちふ《・といふなり》かへりこわかせ。これにあはせてみるへし
 
1088 足引之山河之瀬之響苗爾弓月高雲立渡《アシヒキノヤマカハノセノナルナヘニユツキカタケニクモタチワタル》
 
第九宇治河作歌云、秋風の山吹の瀬のなるなへに、天雲翔る雁に相るかも、此歌によれば瀬のなるは風に依なり、又此卷下にも卷向の川音高しあらしかもときとよめり、
 
右二首柿本朝臣人麿之歌集出
 
1089 大海爾島毛不在爾海原絶塔浪爾立有白雲《オホウミニシマモアラナクニウナハラノタユタフナミニタテルシラクモ》
 
不在爾、【官本又云、アラヌニ、】
 
(9)二つの意あるべし、島もなきにたゆたふ浪の上に白雲の立て島の如く見ゆるとも云べし、又著て居るべき島もなきにいかでたゆたふ浪の上には雲の立て見ゆるぞと云意得つべし、續古今に人丸歌とて入られたる事、家集と云物にさへ載せず、六帖にも唯海の歌に作者もなくて載たれば彼是につきておぼつかなし、
 
初、たゆたふなみに たゆたふはやすらふ心なり。沖のなみの、いつかたともよるかたなき意なり。大海に嶋もなけれは、よるかたなくたゆたふ浪の上に、雲も立つゝきてみゆるこゝろなり
 
右一首伊勢從駕作
 
此は、持統天皇朱鳥六年の御供歟、聖武天皇天平十二年の御供歟、上下を見合するに朱鳥の御供なるべし、
 
詠雨
 
1090 吾妹子之赤裳裙之將染?今日之※[雨/脉]※[雨/沐]爾吾共所沾者《ワキモコカアカモノスソノソメヒチムケフノコサメニワレトヌレヌナ》
 
所沾者、【六帖云、ヌレナハ、】
 
今按二三の句六帖にはあがものすそやしみぬらむとて、落句を吾もぬれなばとあらためたれば上下相應せずして意背けり、又今の腰の句の點にてはソミヒヂムと云べし、落句は字に當らず、二三を赤裳ノ裾カシミヒヂム、落句をワレトモニヌレバとよま(10)ば然るべきか、之の字清める|か〔右○〕の音に用《ツカ》へる事第一卷に人丸の近江舊都をよまれたる歌注の云が如し、
 
初、わきもこかあかもの そめひちむといふが句にて、下の句はけふのこさめにわれとぬれなはとよむへし。ぬれぬなとある點はあやまれり。※[雨/脉]※[雨/沐]は和名集云。兼名苑云。細雨一(ノ)名(ハ)※[雨/脉]※[雨/沐]。小雨也。麦木二音【和名古左女】
 
1091 可融雨者莫零吾妹子之形見之服吾下爾著有《トホルヘキアメハナフリソワキモコカカタミノコロモワレシタニキタリ》
 
可融、【六帖云、トホルヘク、】  形見之服、【六帖云、カタミノキヌヲ、官本亦點同v此、】
 
詠山
 
1092 動神之音耳聞卷向之檜原山乎今日見鶴鴨《ナルカミノオトノミキクマキモクノヒハラノヤマヲケフミツルカモ》
 
1093 三毛侶之其山奈美爾兒等手乎卷向山者繼之宜霜《ミモロノソノヤマナミニコラカテヲマキモクヤマハツキテシヨシモ》
 
山ナミは山並なり、コラガ手ヲとは卷とつゞけむためなり、卷向山は三輪山の北につづけり、繼テシの|し〔右○〕は助語なり、
 
初、みもろのその山なみに その山なみは、山のつゝきなり。こらか手をまきもく山とは、妹か手を枕にするといふ心につゝけたり
 
1094 我衣色服染味酒三室山黄葉爲在《ワカキヌノイロキソメタリウマサカノミムロノヤマノモミチシタルニ》
 
味酒、【官本云、ウマサケ、】
 
色服染は著初たりなり、染の字色を染るには非ず、我衣の色をもみぢする山の著初と(11)なり、さて下の注に依て此歌の義兩樣侍るべし、一つには人丸の歌ならば、人丸の官位は云にも足らぬ程の事と見えたれば朝服も黄色の袍などにて山のうすもみぢにきばみたるを我衣の色を山も著始たりと云へる歟、若他人の歌を載たらば、もみぢを黄葉と書ども衣は黄なるにも緋なるにも亘るべし、唯きぬの色と云はで我衣と云に依て此料簡はあるべきなり、又今按色服は本は我衣服色染なるをかへさまに寫して、ワガキヌノイロニソメタリにもやあらん、
 
右三首柿本朝臣人麿之歌集出
 
1095 三諸就三輪山見者隱口乃始瀬之檜原所念鴨《ミモロツクミワヤマミレハコモリクノハツセノヒハラオモホユルカモ》
 
神代紀上云、于時神光照v海忽然有(リ)2浮(ヒ)來(タル)者1曰、如吾不(レハ)v在者汝|何《イカンソ》能平2此國1乎、由2吾(レ)在(ニ)1故《ユヱニ》汝得v建2其|大造績《オホヨソイタハリヲ》1矣、是(ノ)時(ニ)大己貴(ノ)神問曰、然則汝是|誰《タレソ》耶、對(ノ)曰、吾《アレ》是|汝《イ》之|幸魂《サキミタマ》奇《クシ》魂也、大己貴神(ノ)曰、唯然《シカリ》廼知汝是|吾《アカ》之幸魂奇魂今欲2何處|住《スマント》耶《ヤ》、對(ノ)曰、吾《アレ》欲v住(ント)2於日本國之三諸(ノ)山(ニ)1、故即(チ)營2宮彼處1使2就《ユイテ》而|居《マシマセ》1、此|大三《オホミ》輪之神(ナリ)也、みわ山をみもろとしてそこにつきて御坐ば三諸就三輪とは云へり、泊瀬山は三輪の少東南に當て近ければ、三輪の檜原を見て泊瀬の檜原も思ひやらるゝとは、此好きを見て彼好きを准らへて知る意なり、
 
初、みもろつくみわ山 第三巻にも、みもろつくかせ山のまにとよめり。これはみわ山を神のみむろとして、そこにつきておはしませは、みむろつくみわ山とはいへり。みわ山は、はつせやまのいぬゐの方にて、近けれは、みわのひはらをみて、泊瀬のひはらもおもひやらるゝとは、ともに賞する心なり
 
(12)1096 昔者之事波不知乎我見而毛久成奴天之香具山《イニシヘノコトハシラヌヲワレミテモヒサシクナリヌアマノカクヤマ》
 
古今に、我見ても久しく成ぬすみよしの、岸の姫松幾代へぬらむ、同意なり、
 
初、いにしへのことは 我みてもひさしくなりぬすみよしのきしのひめ松いくよへぬらん。古今集の此哥とおなし心なり
 
1097 吾勢子乎乞許世山登人者雖云君毛不來益山之名爾有之《ワカセコヲコチコセヤマトヒトハイヘトキミモキマサヌヤマノナニアラシ》
 
乞許世《コチコセ》山は巨勢山を云はむとて吾背子を此方へこせ山とつゞけたり、第三にさゞら浪いそこせぢなると云ひ、第十には吾せこをなこせの山ともつゞけたり、こち〔二字右○〕と云詞ともに山の名なるに非ず、石上袖ふる川の如し、人丸集に、我せこをきませの山と人はいへど、山の名ならし君もきまさずとあるを拾遺には用て、下の句は君もきまさぬ山の名ならしとあり、六帖は山の歌に拾遺と全同にて載たれど今の集の如く作者を云はず、前後皆大和の名所なる中にあれば巨勢なる事知べし、然るをこち、こせ、きませ〔七字傍線〕、意替らねば、聞よくよみかへたるにやおぼつかなし、きませの山近江にて比叡山にありと云説も亦おぼつかなし、六帖川の歌に、をちへ行こちこせ川に誰しかも、色どりがたき緑染けむ、これ今の歌と同じく巨勢川を云へるか、君毛不來益は人丸集の如くキマサズと讀べし、こせ山と云ひてはきますべき山の名なるを、きまさぬ山の名とつゞけては字相違せり、此歌は第九に、吾妹子が赤裳ひづちて植し田を、刈て藏めむ倉無の濱(13)とよめる如く、唯許世山の名に付てかくはよみて戀の歌にもあらざるべし、
 
初、わかせこをこちこせ山と 拾遺集戀二に、此第二句を、きませの山と改て、人まろの哥と載らる。彼集をばしはらく置ぬ。これは高市郡巨勢山を、わかせこをこちへこせ山といひつゝけたり。こちといふ詞ともに、山の名にはあらす。下の句をこゝろうるに、ふたつのやう有へし。君もきまさすとよみて句として、山の名ならしとよまは、こちこせ山と人はいへと、君もこす。こせ山といふは、たゝいたつらなる山の名にてあるらしといふ心なり。君もきまさぬ山の名ならしとつゝけてこゝろ得は、こせ山といふは、人をまねきよふ詞なり。人のこねはこそ、こちこせ山といへは、君もこぬ山の名にあるらしといへり。類字名所抄といふ物に、近州滋賀郡在2比叡山1といへり。此哥の前後皆やまとの名所なり。ふる山、ふる川を、袖ふる山、袖ふる川といへるかことく、こせ山をいひてもしのたらねは、こちこせ山といふと知へし。其例猶おほし。六帖川部に、をちへ行こちこせ川に誰しかもいろとりかたきみとりそめけむ
 
 
1098 木道爾社妹山在云櫛上二上山母妹許會有來《キチニコソイモヤマアリトイヘカツラキノフタカミヤマモイモコソアケレ》
 
櫛上、【別校本亦云、ミクシケノ、官本或作2三櫛上1、點云、ミクシケノ、別校本無2三(ノ)字1、】
 
妹山在云は今按登伊反?なればイモヤマアリテヘともよむべし、妹山は背山に對する名なれば、二上山の兩山相向へるを云はむ爲なり、櫛上をカツラキと點ぜるは葛城にあればとて強てよめる歟おぼつかなし、越中にも同名あるを、第十七に家持のたまくしげふたがみ山とよまれたるは匣の葢とつゞけたれば、今もクシゲノと讀べきか、延喜式に葛木二上神社二座とあるは彦神姫神なるべし、
 
初、きちにこそ妹山有といへ 妹山有といへとといふは、まことには、いも山せ山有といへといふこゝろなり、此いもせは夫婦なり。背といふ物あるにより、妹といふ事もあるなり。されはきのくにゝこそ、いも山せ山あひたくひてありといふを、此ふたかみ山もいもせこそ有けれとなり。山のふもとひとつにて、末ふたつにわかれて相對したれは、二上とはいへり。これも夫婦相對したるやうなれは、いもせ山をは取合せていへり。第二、大伯皇女の御哥に、うつせみの人にある我やあすよりはふたかみ山をいもせとわれみんとよませたまへるもそのよせあり。櫛上をかつらきとはよまて、くしあけのとよみて、くしあけのはこのふたといひかけたりといふは、しかるへしともきこえす
 
 
詠岳
 
1099 片崗之此向峯椎蒔者今年夏之陰爾將比疑《カタヲカノコナタノミネニシヰマカハコトシノナツノカケニナミムカ》
 
此向峰、【官本亦云、コノムカツヲニ、】
 
片崗は名所ならでもよめども此前後大和の地名どもをよみたれば是も葛上郡の片岡なるべし、此向峯はコノムカツヲニとよめる好し、此卷下にも向峯とも向岡とも書(14)てムカツテとよみ、其外猶處々によめり、皇極紀に猿がよめる歌にも、武※[舟+可]都烏爾※[こざと+施の旁]底屡制羅我※[人偏+爾]古禰擧曾《ムカツヲニタテルセラカニコネコソ》云云、陰爾將比疑とは蒔たる椎の能生たちならびて納凉の陰とならむかとなり、此歌は喩ふる所有てよめる歟、向峯は遠く、今年の陰に椎蒔は遲し、楚河を轍魚のために決らむ事を期するやうなる故有てよめる歟、六帖に椎の歌として人丸と載す、下に右二首と注するに遇たれば今は作者なき物を、
 
詠河
 
1100 卷向之病足之川由往水之絶事無又反將見《マキモクノアナシノカハユユクミツノタユルコトナクマタカヘリミム》
 
下の句は、第一第六に同じくよめる有き、
 
1101 黒玉之夜去來者卷向之川音高之母荒足鴨疾《ヌハタマノヨルサリクレハマキモクノカハオトタカシモアラシカモトキ》
 
ヨルサリはよさり〔三字右○〕と云に同じ、伊勢物語によさり此有つる人給へとあるじに云ければ云云、
 
右二首柿本朝臣人麿之歌集出
 
(15)1102 大王之御笠山之帶爾爲流細谷川之音乃清也《オホキミノミカサノヤマノオヒニセルホソタニカハノオトノサヤケサ》
 
大王ノ御笠は葢なり、帶ニセルとは細谷川の山を廻るは帶の腰にあるに似たる故なり、第十三にもよめり、第十三第十七におばせるとよめるも同義なり、古今に眞金吹吉備の中山と云歌の下三句今と全同なり、此細谷川と云へるは藤原長能の御笠山麓をぬける佐保川のとよまれたるを思へば佐保川の事なり、史記婁敬列傳云、且夫秦(ノ)地(ハ)被v山帶v河(ヲ)、
 
初、大きみのみかさ 大きみのめす御かさとつゝけたり。帶にせるとは、山をめくりてほそくなかるゝ谷川は、帶の腰にめくれるに似たれは、たとへていへり。第十三に、みもろの神のをひにせるあすかの川、又神なひ山のをひにせるあすかの川ともよめり。古今集に、まかねふくきひの中山以下の三句今と全同なり。漢高祖の功臣を封し給ふ時の詞にも、泰山は砥のことく、黄河は帶のことくなりぬとも、此誓は變せしといへり。史記劉敬列傳云。且夫秦(ノ)地(ハ)被v山(ヲ)帶(ニス)v河(ヲ)。さやけさを清也とかけるは、さやけさは決したる詞なるゆへに、也の字は助辭にそへたるなり
 
1103 今敷者見目屋跡念之三芳野之大川余杼乎今日見鶴鴨《イマシクハミメヤトオモヒシミヨシノヽオホカハヨトヲケフミツルカモ》
 
敷は助語なり、下に玉拾ひしくと云ひ、第十五に、しましを、しましくと云へる類なり、三四の句は古今にも三吉野の大川淀の藤浪とよめり、
 
初、今しくはみめやと 今しくのしくは助語なり。たゝし俗に今なとみんとはおもひもよらさりしといふ心にきこゆ。しくをすてゝ今はとのみいひては、作者のこゝろたらさるへし
 
1104 馬並而三芳野河乎欲見打越來而曾瀧爾遊鶴《ウマナメテミヨシノカハヲミマクホリウチコエキテソタキニアソヒツル》
 
馬並而は思ふどち打つれて來るなり、
 
1105 音聞目者未見吉野河六田之與杼乎今日見鶴鴨《オトニキヽメニハイマタミヌヨシノカハムツタノヨトヲケフミツルカモ》
 
(16)1106 河豆鳴清川原乎今日見而者何時可越來而見乍偲食《カハツナクキヨキカハラヲケフミテハイツカコエキテミツヽシノハム》
 
此歌も吉野にての作なるべし、清川原は第六に赤人久木生る清川原とよまれたるに注せし如く唯吉野の川原の清きを云べし、
 
初、かはつなくきよきかはらを けふみて、又いつかこえきてみつゝ、けふのことをむかしとしのはむとなり
 
1107 泊瀬川白木綿花爾墮多藝都瀬清跡見爾來之吾乎《ハツセカハシラユフハナニオチタキツセヲサヤケクトミニコシワレヲ》
 
瀬清跡、【官本云、セヲサヤケシト、】
 
第六に泊瀬女の造る木綿花と讀たればおのづから似合たり、瀬清跡はセヲサヤケシトとよまば可v然歟、見ニ來シ吾ヲとは此|を〔右○〕の字つよく意を著ては見るべからず、唯助語の類なり、
 
初、泊瀬川白ゆふ花 浪を白ゆふにまかへたる哥、此集に數しらす
 
1108 泊瀬川流水尾之湍乎早井提越浪之音之清久《ハツセカハナカルヽミヲノセヲハヤミヰテコスナミノオトノサヤケク》
 
水尾とは河中に水の深く流るゝ筋を云、水脉とかけり、井提は八雲御抄云、井手と云は井堤とかけり、ひきなるつゝみなり、今按こゝにも、亦第十一のあてこす浪とよめるにも、玉藻刈ゐでのしがらみと地の名をよめるにも皆井提とかけり、若此内に叡覽の御本には提を堤に作りけるにや、第十に、あさゐでに來鳴※[貌の旁]鳥とよめるには朝井代とか(17)けり、これらは皆假てかけり、和名.堰※[土+隷の旁]、唐韻云、堰※[土+隷の旁]※[雍/土]v水、上音偃、下音徒耐反、又與v代同(シ)、以v土(ヲ)遏v水(ヲ)也、【和名、井世木、】俗に此ゐせきをゐでと云、水をせき上るにも、又高きより卑きに落とてそこなふべき處に石をふせ、しがらみかきて、小石土などを交て防ぐをも云なり、誠の文字は堰手と書べし、手は繩手.道の長手など和語にそへて云事多き詞なり、
 
初、泊瀬川なかるゝみを 河中に水のふかくなかるゝ筋を、みをといふ。水脉とかけり。ゐてとは、川水を田なとにまかせ入むとて、其川をせき切てをく堤を、井手といふなり。田に入水のあまりては、此ゐてをなかれこゆるなり。谷川なとはいつくにてもしかする事なり
 
1109 佐檜乃能檜隈川之瀬乎早君之手取者將縁言毳《サヒノクマヒノクマカハノセヲハヤミキミカテトラハヨラムテウカモ》
 
能は熊に改むべし、隈に借る字なり、佐檜乃熊と云は、さは物に添へて云詞、ひのくまなるひのくま川と云へるなり、假令三吉野の吉野の山、眞玉手の玉手指替などよめるが如し、第二に佐日のくまわと日並皇子の舍人がよめる歌にも注しつ、又第十二にも今の如くよめり、そこに至て委しく注すべし、下の句は第三にも草取かなや君が手を取とよめり、檜隈川をつらき人と共に渡るが、痛く早くて危ければかゝる時に手を取て助けば我によらむと云はむかの意なり、古歌なれば落句の詞少意得がたけれど上の如く見るべし、設てよめるなるべし、又今按言の字此集にもわれと云に用たればヨラムワレカモと讀べき歟、孟子云、嫂溺援(フニ)v之以v手(ヲ)、
 
初、さひのくまひのくま川 和名集云。大和國高市郡檜前【比乃久末。】ひのくまを、さひのくまともいふゆへに、みよしのゝよしのゝ山といふことく、かさねていへり。第十二に、さひのくまひのくま川にうまとめて馬に水かへわれよそにみん。此哥を古今集にはさゝのくまひのくま川に駒とめてしはし水かへ陰をたにみんと載たり。神楽譜もおなし。これはいつとなくあやまれるなるへし。和名集云。但馬國|氣多《ケタノ》郡樂前【佐々乃久萬。】これこそさゝのくまには侍れ。さひのくまは、これ二音のみならす、第二卷にも、夢にたに見さりし物をおほつかな宮出もするかさひのくまわをとよめり。君か手とらはよらんてふかもは、よらんといはむかもの心なり。昔の哥は詞少あらくして、たらぬやうなり。これもひのくま川のいとはやきことをいはむとて、まふけてよめるなるへし。孟子云。淳于〓曰。今天下溺矣。夫子之不(ルコトハ)v援(ハ)何(ソヤ)也。曰。天下溺(ルトキハ)援(フニ)v之(ヲ)以(ス)v道(ヲ)。嫂溺(ルヽトキハ)援(フニ)v之(ヲ)以(ス)v手(ヲ)。子欲(スルカ)3手(ヲモテ)援(ハント)2天下(ヲ)1乎
 
1110 湯種蒔荒木之小田矣求跡足結出所沾此水之湍爾《ユタネマキアラキノヲタヲモトメムトアユヒイテヌレヌコノカハノセニ》
 
(18)湯種蒔、【別校本云、ユタネマク、】
 
發句は、ゆだねを蒔苗代の田を求めて定めむとと云意なれば今の點叶はず、ユダネマクと讀べし、湯種は第十五にも、青柳の枝きりおろしゆだねまきとよめり、湯は第一のゆついはむらと云に付て注せし如くしげくおほきことに聞ゆ、稻の種もわせ、中手、おくてに又各樣々の種の別れてあればゆだねと云なるべし、或物に書て侍りしは、種を蒔に早くはやさむとてはねるき湯に其種を涵して其後に田に蒔に依て湯種とは云へりとあり、種蒔ほどの例よりいと寒き春などはたま/\さもする事に侍れどそれは押並ての事にあらず、農民もよき事とてするにあらねば用べからず、荒木ノ小田は第十六にも荒木田のしゝ田の稲とよめり、荒木は大和なり、延喜式云、宇智郡荒木神社、大荒木と云も此處なり、第三に大荒木の時にはあらねどと云歌に注せしが如し、アユヒは雄略紀に脚帶とかけり、行纏《ハヽキ》の類なるべし、水をカハとよむ事第二に依羅娘子が歌に注せしが如し、
 
初、ゆたねまくあら木の小田を 第十五卷にも、あをやきのえたきりおろしゆたねまきとよめり。ゆたねといへるは、五百種といふ心なり。第一卷に注せしゆついはむらは、五百津磐村なり。稲種にも、わせ、なかて、おくてにをの/\さま/\のたねあれは、五百種といへるなり。或物にかきて侍りしは、種をまくに、はやくはやさんとては、湯をぬるくして、其たねをひたして、其後に田にまくなり。よりて湯たねとはいへりとあり。種まく比、例よりいと寒き春なと、たま/\さもする事に侍れと、をしなへての事にあらす。たゞゆさゝ、ゆつかつらなとに思ひ合すへし。荒木の小田は大和なり。第十六に、あらき田のしゝ田のいねともよめり。延喜式第九、神名帳上云。大和國宇智郡荒木神社。大あらきといふもこれなり。荒城氏を、大荒城といへることあり。此哥前後皆大和の名所をよみたれは、此哥の荒木の小田、同國なりと知へし。あらきの小田をもとめむとゝは、いつれの田をなはしろにさためんと思ふなるへし。あゆひは、日本紀に脚帶とかけり。行縢《ムカハキ》のたくひなるへし。水の字を川とよむ事は、第二卷に注せり
 
1111 古毛如此聞乍哉偲兼此古河之清瀬之音矣《イニシヘモカクキヽツヽヤシノヒケムコノフルカハノキヨキセノオトヲ》
 
見ながら愛するをも此集にはシノブとも戀ともいへり、
 
(19)1112 波彌※[草冠/縵]今爲妹乎浦若三去來率去河之音之清左《ハネカツライマスルイモヲウラワカミイサイサカハノオトノサヤケサ》
 
ハネカヅラは第四に既に注せり、去來卒率河とは、第四に味村のいざとは行けど、又第十六にいざにとや思ひてあらむともよめり、初て今はねかづらする女のめづらしくうら若ければいざといざなふと云意につゞけたり、率川は延喜式云、大和國添上郡率川坐大神御子神社三座、率川阿波神社、開化紀云、元年冬十月丙申朔戊申、遷2都(ヲ)于春日(ノ)之地1、是(ヲ)謂2率川《イサカハノ》宮(ト)1、【率川、此云2伊社箇波1、】
 
初、はねかつら今するいもを はねかつらは花かつらなり。第四卷にも、はねかつらいまするいもをゆめにみて、はねかつら今する妹はなかりしをと贈答せる哥あり。そこに注せしことく、花かつらは、女のかんさしに花を作りてさすなり。女のかんさしするは、男の元服にひとし。しかれは、めつらしく今花かつらする女の、また世つかすうらわかけれは、いざといさなふといふ心に、いざ/\川と序につゝけたり。率川は奈良のあたりなり。延喜式第九、神名帳上云。大和國添上郡率川坐|大神《ミワノ》御子神社三座。率川阿波神社。此内三枝祭とて二月十一月上酉日祭らるゝは、大神御子神社三座なり
 
1113 此小川白氣結瀧至八信井上爾事上不爲友《コノヲカハキリソムスヘルタキチユクハシリヰノウヘニコトアケセネトモ》
 
八信井、【官本亦云、ヤマヰ、】
 
白氣は、霧は水氣にて白ければかくかけり、至は去の字を誤れるか、至の字集中にユクとよめる事なし、義も亦行は不v止義、至は行つきて留る意にて替れり、但行ては至るべければ是までは餘の沙汰にやあらむ、八信井は下に落たぎつ走井水ともよめり、今は布留川、率川につらなり、下は甘南備、明日香川につらなりたれば、大和に有なるべし、信の字は播磨の播などに准らふべし、事上セネドモは物を高く云をことあげと云、神代紀にも吹棄|氣噴之狹霧《イフキノサキリ》など云如く高言すれば霧となるを、水は非情にて高言もせね(20)ども、水霧《ミキリ》行故に白氣の結て見ゆるとなり、
 
初、此小川きりそ 霧は白氣なるゆへに、意を得てかけり。白霧山深鳥一聲なと詩にもつくれり。ことあけせねともとは、興言高言なとかきて、ことあけとよめり。高言すれは、其氣霧のことし。神代紀に、吹棄氣噴之狭霧《フキウツルイブキノサギリ》といへり。霧も水氣の上りてなる物なれは、人はことあけせねとも、霧のむすへるは、はしり井のたきつなかれの水氣のゝほるが、非情なれとも、ことあけするやうなれはなりと、霧をいろへていへるなり。此はしり井は、いつれの國ともしらす。逢坂關に走井あれともそれとは見えす
 
1114 吾※[糸+刃]乎妹手以而結八川又還見萬代左右荷《ワカヒモヲイモカテモチテユフハカハマタカヘリミムヨロツヨマテニ》
 
初の二句は結と云べき序なり、ユフハ川は八雲御抄にも唯名をのみ載たまひて何れの國としらねど、上のつゞき猶大和なるべし、
 
1115 妹之※[糸+刃]結八川内乎古之并人見等此乎誰知《イモカヒモユフハカウチヲイニシヘノミナヒトミキトコレヲタレシル》
 
結八川内乎、【幽齋本云、ユフハカフチヲ、】
 
紐を結とつゞけたる事上に同じ、并人見等は、今按ミナヒトミメドと和すべきか、かほど清き川を古の名ある人々の遊て見ずは有まじけれど、記もおかねば誰か知らむとなり、
 
初、妹かひもゆふは川 此ゆふは川又いつれの國に有としらす。肥後にありときけと、此哥のつゝき大和めきたり。右の哥とおなしく、ひもをゆふとつゝけたり。いにしへのみな人みきとこれをたれしるとは、此川のおもしろけれは、いにしへの人もきてみぬ人はあるましけれと、水とゝもに過行ことなれは、まことには、いかなる人々のきたりてみたりといふ事を、たれかしらんとなり
 
詠露
 
1116 烏玉之吾黒髪爾落名積天之露霜取者消乍《ヌマタマノワカクロカミニフリナツムアマノツエシモトレハキエツヽ》
 
フリナヅムとは露のふりて人の煩むなり、露をツエ〔二字右○〕と點ぜるは書生の失錯と知べし、
 
(21)詠v露とて歌には露霜といへるは後々の題を意得るには替れり、今按第十にも詠v露とて、秋はぎの枝もとをゝに露霜置と讀たれば、露結爲v霜理なれば因中説果の例、同文故來の例など云風情に、露霜と云ひつゞけて露をやがて霜と云歟、
 
詠花
 
1117 島廻爲等礒爾見之花風吹而波者雖縁不取不止《アサリストイソニミシハナカセフキテナミハヨルトモトラスハヤマシ》
 
礒爾見之花とは此下に、あさりすと礒に我見しなのりそを、何れの島のあまか刈らむとよみ、第十春の歌に、引津の邊なるなのりそが、花咲までにあはぬ君かも、此二首を引合て按ずるに今よめる花もなのりその花なり、
 
初、あさりすといそにみし花 これは花を詠せる哥なれは、まことの花なり。玉もかいつ物をさるとて、おもほえす磯へに見たる花の、めつらしくおもしろけれは、風ふきて浪はよせくともおらては過しとなり
 
詠葉
 
1118 古爾有險人母如吾等架彌和乃檜原爾挿頭※[手偏+力]兼《イニシヘニアリケムヒトモワカコトヤミワノヒノクニカサシヲリケム》
 
檜原爾、【校本云、ヒハラニ、】
 
1119 徃川之過去人之手不折者裏觸立三和之檜原者《ユクカハノスキユクヒトノタヲラネハウラフレタテリミワノヒハラハ》
 
(22)徃川ノとは過去人といはむ爲なり、今按スギニシ人とも讀べし、第九に此も人丸集の歌に、徃水の過去妹がとよめるに同じ、過去人とは上の歌に、古に有けむ人と云へる人なり、タヲラネバとは再たをらぬなり、ひはらのうらぶれ立とは蒼々としてたてるが何とやらむ思ふ事あるものゝやうなるをいへり、是は昔の人の又も來てたをらぬを戀るさまに云へり、此歌より上の歌を見るに、古有けむ人も今我かざし折如くこそ折けむを、人も今はたをらぬを檜原のうらぶれて戀れば、いつか又我もたをらずなりて檜原に戀られむとなり、初の歌は本意を畧して云ひて後の歌は委しく云へり、古歌はかかる事おほし、
 
初、往川の過ゆく これは、道過る人にいひたるにはあらす。河水のなかれて歸らさることくに、命過にし古人をいふなり。前の哥に、わかことくかさしや折けんと問ふやうによみて、いにしへの人のたをらねは、みわのひはらは、人の物おもふ時のやうに、うらふれてみゆるとこたへてよめるなり。うらふれは、此集にあまたよめり。しなえうらふれなとつゝくれは、葉をたれてしほれたるやうに見ゆるをいふなり。顯昭古今秘注には物を思ひなつむ心といへり
 
右二首柿本朝臣人麿之歌集出
 
詠蘿
 
和名集苔類云、唐韻云、蘿、【魯何反、日本紀私記云、蘿比加介、】女蘿也、苔の字などゝは意少替れど今も苔と通ぜり、
 
1120 三芳野之青根我峯之蘿席誰將織經緯無二《ミヨシノハアヲネカミネノコケムシロタレカヲリケムタテヌキナシニ》
 
(23)三芳野之【校本云、ミヨシノヽ、】
 
發句の今の點は書生の誤なり、青根が峯の名は、苔筵におのづから叶へるか、意ありて呼出せるか、莚を織にも經は表にこそあらはれね中にはある事なればタテヌキナシニと云へり、天工のおのづから妙なるをほめて云意なり、
 
初、みよしのゝあをねかみねの これは天工の自然に妙なるをいはむとて、かくはよめり。第八大津皇子御哥に、たてもなくぬきもさためすをとめらかをれるもみちに霜なふりそね。青根か峯は、をのつから蘿席に緑ある名なり
 
詠草
 
1121 妹所等我通路細竹爲酢寸我通靡細竹原《イモカリトワカカヨヒチノシノスヽキワレシカヨハヽナヒケシノハラ》
 
此シノスヽキは、細竹をやがてすゝきと云ひて常に穗に出とも亦出ずともよめる薄の中の一名にはあらざる歟、其故は結句になびけ細竹原とは上のしのすゝきを指て云へばなり、薄を本として小竹《シノ》に似たるをしのすゝきと云意ならばしの原とは云まじくや、若又薄を細竹に攝して云へば歟、神功皇后紀の神託の幡|荻《スヽキ》孝徳紀の姓の蘆、又和名云、爾雅云、草聚生曰v薄、【新撰萬葉集和歌云、花薄、波奈須々木、今案即厚薄之薄字也見2玉篇1、】辨色立成云、※[草がんむり/千]、【和名上同、今案※[草がんむり/千]音千、草盛也、見2唐韻1、】此等に依て思へばすゝきをみくさと云とも云ひ、又俗にかやとも云ひ、又しのとも云べき物なり、六帖にはしのすゝきに入たり、人丸の歌とせるはおぼつかなし、第十三に、吾通路のおきそ山三野の山、靡かすと人はふめどもなどよみ、第十に、さを鹿の妻と(24)とのふと鳴聲の至らむかぎりなびけ芽子原とよめる歌引合て見るべし、
 
初、いもかりとわかゝよひち しのすゝきも心あらは、いもかりとわかかよふ時は、なひきてとほらしめよなり。しのはらといへるも、上のしのすゝきの事なり。いもかりを、妹狩と心得たるはあやまりなり。いもかもとへといふ事なり。こゝに妹所とかける、その心なり。茸狩なとゝはおなしからす
 
詠鳥
 
1122 山際爾渡秋沙乃徃將居其河瀬爾浪立勿湯目《ヤマノハニワタルアキサノユキテヰムソノカハノセニナミタツナユメ》
 
別校本に、發句をヤマキハニと點じたれぢ、第四に岳本天皇の御歌に、山のはに味村さわぎゆくなれどと讀せたまへると同じ體なれば彼をも例として今取らず、彼本の又の點にヤマノマニともあれど、山間を山際とかける所あるは山のあひだの意なり、今は天際雲際など云如く和語にてはやまぎはの意なり、俗に山ぎはと云は山の根をいへり、歌によむは然らず、それも山のはなり、源氏若菜上に、山ぎはより指出る日のはなやかなるに云々、これにて知べし、秋沙は鳧の類にて能むれて飛物なり、浪タツナユメとは彼が上をあはれひて云なり、此意をひろめば思に漏るものあらじかし、
 
初、山のはに 山きはにともよむへし。山きはも山のはなり。源氏物語若菜上に、山きはよりさし出る日のはなやかなるにといへり。秋沙は鴨のたくひなり。宿不難爾《イネラレナクニ》。此かきやうよみやう心得す。恐は誤字あるへし
 
1123 佐保河之清河原爾鳴知鳥河津跡二忘金都毛《サホカハノキヨキカハラニナクチトリカハツトフタツワスレカネツモ》
 
河津トフタツとは第六の金村の芳野にての歌に注せるが如し、
 
1124 佐保河爾小驟千鳥夜三更而爾音聞者宿不難爾《サホカハニアソフチトリノサヨフケテソノコヱキケハイネラレナクニ》
 
(25)小驟、【別校本云、サワク、】
 
玉葉集に載られたるは今の點と全同なり、小驟をアソブとは小の字を能意得て義訓せるなり、爾音は今按、爾、汝の義を以てナがコエとも讀べきか、宿不難爾は難の字は若寢にてイネラレナクニにやあらむ、今のまゝにては讀とかれず、不難は易の字の義なる故なり、
 
思故郷
 
歌に依に奈良の京となりてよめるなり
 
1125 清湍爾千鳥妻喚山際爾霞立良武甘南備乃里《キヨキセニチトリツマヨフヤマノハニカスミタツラムカミナヒノサト》
 
妻喚、【別校本云、ツマヨヒ、】
 
清湍は甘南備ノ里と云にて知べし、神南備河の清き瀬なり、二の句は今の點叶はず、ツマヨビと和せるよし、千鳥は河の上を略して云ひ、霞は山の上を略して云ひて有し面白さを思ひやりて惜むなり、
 
初、清き瀬にちとりつまよひ つまよふとよみて、句絶とせるはわろし。清瀬には千鳥の妻よふ聲し、山のはには霞の立らんとおもひやるなり
 
1126 年月毛未經爾明日香河湍瀬由渡之石走無《トシツキモイマタヘナクニアスカカハセヽニワタシヽイシハシモナシ》
 
(26)四の句は今按今の點叶はず、セヾユワタリシと讀べし、又按ずるに此集中に從の字をより〔二字右○〕ともから〔二字右○〕ともゆ〔右○〕ともを〔右○〕ともに〔右○〕とも用たれば由も從と同じくより〔二字右○〕と云に用る字なれば今の點音を以てするにはあらで從に准じてニ〔右○〕と和訓すともいはむか、されど自の字さへ通、局あればまして由はさやうに用たる傍例なし、
 
詠井
 
1127 隕田寸津走井水之清有者度者吾者去不勝可聞《オチタキツハシリヰミツノキヨケレハワタラハワレハユキカテヌカモ》
 
今按落句の今の點ワタラバと云に背ければ、ユキガテンカモとよみてゆきあへざらむかと意得べし、上をワタレバと改ためば下はさても有ぬべけれど、清きを愛して渡らぬ先に渡らばと云ひてこそ曲ならめ、
 
初、おちたきつはしり井水 わたらはわれはゆきかてぬかも。行かてぬは、さき/\も注せしことく、ゆきあへぬ心なり。あまりに清き水なれは、わたりてにこさんも殺風景なれは、わたりて行あへぬなり
 
1128 安志妣成榮之君之穿之井之石井之水者雖飲不飽鴨《アシヒナルサカエシキミカホリシヰノイハヰノミツハノメトアカヌカモ》
 
安志妣成、【別校本亦云、アシヒナス、】
 
發句はアシビナスと讀べし、あしびの花の如くさかゆる君がと云なり、あしびの花は第二十にもよめり、春の物なり、仙覺抄に筑紫に多き由かゝる、文字は山麋とかく由な(27)れど不審あれば取らず、絶てなき歟、名の替りたる歟、今は聞えぬ物にや、石井ノ水とは上の歌の走井にや、又阿處にもあれ唯岩のたゝめる井にや、雄略紀云、是月御馬皇子以3曾善2三輪君身狹1放思欲v遣v慮而徃、不意道逢2※[しんにょう+激の旁]軍於三輪(ノ)磐井(ノ)側1逆戰不v久被v捉《トラハ》、臨v刑而詛曰、此水者|百姓唯《オホムタカラノミ》得(ム)v飲焉、王者獨不v能v飲矣、此磐井何時ほると云事を知らねど若此を云歟、
 
初、あしひなすさかえし君 あしひのことくさかゆる君なり。此あしひは、いつれの木ともしらす。第二十卷に、屬2目山齋1作哥とて三首あるに、鴛の住君か此嶋けふみれはあしひの花も咲にけるかもなとよめり。中臣清麿朝臣の家にして、二月によめり。此次の哥の詞書に、二月十日とあれは、あしひをよめるはそのさきなり。あせみといふ説も、五音通すれは、いはれなきにあらされとも、二月の初はさかぬものにて、池水に影さへ見えて咲にほふあしひの花を袖にこきれな。いそかけのみゆる池水てるまてにさけるあしひのちらまくをしもなとよむほとの物にあらねは、こと木の花なるへし
 
詠和琴
 
1129 琴取者嘆先立蓋毛琴之下樋爾嬬哉匿有《コトトレハナケキサキタツケタシクモコトノシタヒニツマヤコモレル》
 
嬬哉匿有、【袖中抄云、イモヤカクセル、匿有、六帖、カクレル、】
 
袖中抄云、下樋とは、琴の腹の中は樋に似たれば下樋とよめる歟、それに妹が隱たるかと云へる歟とて此集第十二の鴨の住池の下樋無と云歌をひかる、今按允恭紀に輕太子歌云、足引の山田を作り山高み、下樋をわしせ、云々、私紀曰、土(ノ)下度(ス)樋也、匿有の點は六帖も袖中抄もよろしからず、今の本まさるべし、今按垂仁紀に匿の字をシナムと點ぜるもかくす事なれば若はシナメルともや讀べからむ、
 
初、琴とれは嘆さきたつけたしくも 琴の下樋は琴の腹なり。樋のことくに作れはかくいへり。琴をとれは先なけきのさきたつは、けたしうたかふらくは、下樋の中にわかおもふ妻やこもれるとなり。匿有をは、かくるゝともよむへし。又日本紀によらは、しなめるともよむへし。垂仁紀云。八十八年、秋七月己酉(ノ)朔戊午(ノヒ)、詔2羣卿1曰。朕聞新羅王子天(ノ)日|槍《ホコ》初來之時、將來寶物、今在2但馬(ニ)1。元《ハシメ》爲2國人(ノ)1見(レテ)v貴則|爲《ナリタリ》2神寶(ト)1也。朕|欲v見《ミマホシ》2其寶(ノ)物(ヲ)1。即日遣2使者(ヲ)1詔(テ)2天日槍之|曾孫《ヒヽコ》清彦(ニ)1而令v獻。於v是清彦|被《ウケタマハリテ》v勅(ヲ)乃自捧2神寶(ヲ)1而獻之。〇唯有2小刀《カタナ》一1名(ヲ)曰2出石《イツシト》1。則清彦忽(ニ)以爲非獻刀子《カタナハタテマツラシトオモテ》仍|匿《シナメ》2袍中《コロモノウチニ》1而自|佩《ハケリ》之。天皇未(タ)知(メサ)d匿《シナメタル》2小刀(ヲ)1之情(ヲ)u欲《オホシテ》v寵《メクマント》2清彦(ヲ)1而召(テ)之賜(フ)v酒《ミキヲ》於2御所《ミモトニ》1。時(ニ)刀子從2袍(ノ)中1出而顯(ハル)之云々。これによりて、しなめりともよむへしとはいふなり。琴取てなけき先たつといふ事は、第十八にも、わかせこかことゝるなへにつねひとのいふなけきしもいやしきますも。古今集、わひ人のすむへき宿とみるなへになけきくはゝることのねそする。文選※[禾+(尤/山)]叔夜琴賦云。懷(ケル)v戚《ウレヘヲ》者(ノハ)聞之、莫v不(トイフコト)2※[立心偏+賛]《サン》懍慘悽(トシテ)※[立心偏+秋]愴(シテ)傷(シメ)v心(ヲ)含1v哀(ヲ)。※[立心偏+奥]※[口+伊]《イクイト》不v能2自《ミ》禁(スルコト)1
 
(28)芳野作
 
1130 神左振磐根巳凝敷三芳野之水分山乎見者悲毛《カミサフルイハネココシキミヨシノノミツワケヤマヲミレハカナシモ》
 
神サブルは物古たるなり、水分山は、今按ミヅワケヤマと點ぜるは誤なり、ミコマリヤマと讀べし、延喜式第九神名帳云、吉野|水分《ミクマリ》神社、【大月次、新甞、】同三、祈雨神祭、八十五座、【并大】吉野水分社一座、同八祈年祭祝詞云、水分坐皇神等、吉野宇陀都祁葛木御名者白?云々、吉野のみならず上の如く四處に水分神社あり、此延喜式の點正義なり、其證は古事紀上云、二神因2河海1持別而生神云々、次天之|水分《ミクマリ》神、【訓v分云2久麻理1下效v此、】次國之水分神云々、此自注分明なり、四處の水分神は國の水分と云なるべし、久と古と通ずれば、くまり、こまりは同じ事なり、日本紀に分の字をクバルとよめり、配分の義なり、波と摩と通ずれば、くまりはくばりなる故に水を司どりてくばる神たちなり、其神のまします故にみこまり山と云なり、能考ずばミコマリとよまむ事かたかるべき事なり、さればにや此本の點のみならず、新千載集等のもみづわけ山と云へり、悲毛は愛する詞なり、
 
初、かみさふるいはねこゝしき こゝしきはこりしくなり。水分山をみれはかなしも。此水分を、延喜式には、みつわけとはよまて、みこまりとのみよめり。延喜式第九、神名帳上云。吉野水分神社【大。月次。新甞。】第八祈年祭祝詞云。水分坐皇神等《ミコマリニマススメカンタチ》能前爾白久。吉野、宇陀、都祁、葛木登御名(ヲ)者白※[氏/一]云々。日本紀に、分の字をくはるとよめり。ことくとは、五音通し、まとはとは同韵なれは、みこまりはみづくばりの心なり。くばるはわくるなれは、みこまり、みつわけ、ゆきてはひとつ心なり。かなしもは、此かなしきは、古今に、みちのくはいつくはあれとしほかまのうらこく舟のつなてかなしも。これにおなし。いにしへにいへるは、あはれもかなしきもおもしろき心なり
 
1131 皆人之戀三吉野今日見者諾母戀來山川清見《ミナヒトノコフルミヨシノケフミレハウヘモコヒケリヤマカハキヨミ》
 
(29)山川の川すみて讀べし、山と川となり、
 
初、みな人のこふる 此山川の川は、山と川となれは、すみてよむへし
 
1132 夢乃和太事西在來寤毛見而來物乎念四念者《ユメノワタコトニシアリケリウツヽニモミテコシモノヲオモヒシオモヘハ》
 
夢ノワタは第三に大伴卿もよまれし所なり、コトニシ有ケリは夢のわたとて夢は唯ことばのみにて有けりとなり、し〔右○〕は助語なり、行て見ばやと心に掛て思ひだにすればかくまさしううつゝにも見て來つる、物ヲ思ヒシの|し〔右○〕は助語ながら思ひだに思へばの意あり、
 
初、夢のわたことにし有けり 第三に、帥大伴卿の哥にも、夢のわたをよまれたり。わたはまかれるをいへは、よしの川のまかりて、水のいりこむ所を、しか名つけたるなるへし。ことにし有けりは、ことはに有けりなり。みむとたにおもへは、うつゝにもみてきつれは、ゆめのわたといふは、たゝことはのみそとなり
 
1133 皇祖神之神宮人冬薯蕷葛彌常敷爾吾反將見《スメロキノカミノミヤヒトサネカツライヤトコシキニワレカヘリミム》
 
此神といへるは君なり、此は吉野宮へみゆきせさせ給へる御供にてよめりと見ゆ、次の歌も然り、冬薯蕷葛、此を六帖にはまさきづらと讀てまさきかづらの歌とせり、此集第九に見菟原處女墓歌に、冬※[草がんむり/叙]蕷都良とあるをもサネカヅラと點ぜり、※[草がんむり/叙]は〓歟、此字いまだ字書に考得ず、されども推量するに薯と同字にて今と同じかるべし、さねかづらもまさきかづらも冬薯蕷と云べきは、薯蕷の葛の如くして共に冬も枯ずしてあればなり、其中にさねかづらと讀べくば、處女墓の歌冬※[草がんむり/叙]蕷をさねとよみて都良の上に加、可等の字あるべきになきを以知ぬ、今の歌を六帖にまさきづらとよめる正義なり、(30)かつらのかは付たる字にてつらはつると同じければ、まさきのつると云意によまむ事ことわり叶へりと云べし、又はまさか、冬薯蕷をまさとしてマサカヅラとも讀べし、まさのはかづらなどもいへばなり、處女墓の歌は冬※[草がんむり/叙]蕷をさねかと讀べき理なし、此を思ふべし、まさきづらは常磐にあれば彌トコシキニとそへて云はむ爲なり、常敷もトコシクとよまばまさりぬべし、
 
初、すめろきの神のみや人此神といへるは君なり。さねかつらは、五味子のかつらなり。和名集云。蘇警本草注云。五味【和名佐禰加豆良】皮肉(ハ)甘酸核中(ハ)辛苦都(テ)有(カ)2※[酉+咸]味1故(ニ)名2五味(ト)1也。冬薯蕷葛とかけるは、彼かつらの葉、山の芋に以て冬もあれはしかゝけり。冬もあるゆへにいやとこしきにとはいへり
 
1134 能野川石迹柏等時齒成吾者通萬世左右二《ヨシノカハイハトカシハトトキハナルワレハカヨハムヨロヅヨマテニ》
 
時齒成、【別校本云、トキハナス、】
 
石迹柏は袖中抄に此歌を引て云、岩に生たる柏なり、かしはゝ常磐木ならねど岩によせてかくの如くよめる歟、或人石をばかしはと云へば其心かと申せど、是は柏と云たれな非v石歟、今按初の義石に生たる柏にて、柏のときは木ならぬを石によせて云歟と云へることわり思ひとかれず、ときは成といはむ爲に云序なるにときはならぬ柏を石によせていはと柏と云ひたればとて何のかひかあるべき後の石と云義を非せられたる中に、是は柏と云たればとあるは案ずるに是は石迹柏と云たればなるを今の袖中抄字を落せるなるべし、此意は石を唯かしはと云はゞあるべきに、此歌はいはと(31)柏と云たればすでにいはと云ひて重てかしはとは云べからずと云義なるべし、是も亦謂れても聞えず、眞玉手の玉手など同じ事をも重ていへば、まして異名を重ていはむ事何の難かあらむ、其上いはと云は唯岩とのみ云にはあらず、岩ある河門《カハト》なり、第十三に川の瀬のいはと渡りてと、よめる是なり、然ればいはとにあるいはと云意に云たらむ、猶何の難かあらむ、石を粕と云本説は景行紀云、天皇初將v討v賊次2于柏|峽《ヲノ》大野1、其野有v石、長六尺廣三尺厚(サ)一尺五寸、天皇祈之曰、朕得v滅2土蜘蛛1者將蹶2茲石(ヲ)1如2柏葉1而擧焉、因蹶v之則如v柏上2於大虚1、故號2其石1曰2蹈石1也、これに依てかしはとも玉柏とも云なり、然れば今は石をいへると意得べし、
 
初、よしの川いはとかしはとゝきはなすわれはかよはむよろつよまてに
いはとかしはゝ石の名なり。日本紀第七、景行紀云。天皇初將v討v賊(ヲ)次2于柏|峽《ヲノ》大野(ニ)1。其野(ニ)有v石。長(サ)六尺《ムサカ》。廣(サ)三尺。厚(サ)一尺五寸。天皇|祈《ウケヒテ》之曰。朕得v滅2土蜘蛛(ヲ)1者將v蹶2茲(ノ)石(ヲ)1如(シテ)2柏|葉《ハラノ》1而擧(レ)焉。因(テ)蹶(タマフニ)v之則如(シテ)v柏(ノ)上(ス)2於大虚(ニ)1。故(ニ)號2其石(ヲ)1曰2蹈石(ト)1也。玉かしはといふもこのゆへなり
 
山背作
 
1135 氏河齒與杼湍無之阿自呂人舟召音越乞所聞《ウチカハヽヨトセナカラシアシロヒトフネヨフコヱハヲチコチキコユ》
 
舟召音、【紀州本云、フネヨバクオトノ、】
 
無の字の下には有の字、良の字などの落たるべし、アジロ人は網代を守る者を云歟、宇治は殊に網代に名ある處なれば宇治に一處しか云所有てそこなる人をあじろ人と云歟、能按ずるに唯網代守にて、よどせのなければにや舟にて渡らむとて此方彼方に(32)船を呼聲はすらむとよめるなるべし、
 
初、あしろ人 網代は氷魚を取ものなり。それをかまへ置人を、あしろ人といへり。無之、此無の字の下に、もし有の字の落たるにや
 
1136 氏河爾生菅藻乎河早不取來爾家里※[果/衣]爲益緒《ウチカハニオフルスカモヲカハヽヤミトラテキニケリツトニシマシヲ》
 
※[果/衣]爲益緒、【六帖云、ツトニセマシヲ、校本同v此、】
 
仙覺の云、菅藻とは菅に似たる河藻也、人の食ふ物と云へり、今按落句の點六帖等に依べし、
 
初、うち川におふる菅藻を 菅の葉に似て、宇治川におふる物なり。くふ物なりといへり。つとにしましとあるは誤なり。せましなり。つとはつゝむ心なり。俗にわらなとに物をつゝみて、上下をくゝりたるをつとゝいふ。さるものを人にをくるゆへに、つとにせましをとはいへり。此裹の字を、日本紀にかますとよめり。かますと世にいふ物もつとのたくひなり
 
1137 氏人之譬乃足白吾在者今齒王良増木積不來友《ウチヒトノタトヘノアシロワレナレハイマハキミラソコツミコストモ》
 
譬乃足白、【別校本云、タトヒノアシロ、】
 
木積は木の屑なり、第二十に獨見江水浮漂糞作歌と詞書して歌には與流許都美とよめり、糞はあくたと訓ず、あくたは樣々の物の屑を云、然るに木積とかける事集中今と共に三所あれば木糞と有けむ木の字の落たるか、八雲御抄に、こつみ、木の屑なりと注せさせたまへるは叡覽の御本には木糞と有ける歟、又木積とかけるに依て木の屑と定させ給へるか、いかにもあれ此定なるべし、仙覺云、氏人の譬のあじろとは、ひを待と云心にょそへたり、日を待我なれば人な集り來りそ、靜にてあらむとよそへよめるなり、今按氷魚待は日を待によそへたりと意得て、日を待とは餘命盡て今はと云はむ日(33)を待と云意歟、氷魚を日をと云ひなす事は古風にあらねば今取らず、氷魚を捕程は網代にひとめも見ゆるが、時過ぬれば守人もなく、網代も破れて、氷魚には替りて木積のみいざよふを、時を失なへば人は問も來ぬ事もかゝりと此宇治の里人の譬にすなるが、今我身彼譬に云やぶれたる網代の如く時なき身なれば、氷魚の後の水つみの如く來る者とては君等のみぞとよめる歟、木積を句として意得べし、又時を失なへる人の宇治に住が詐へたま/\來る人のあると共に河に臨て古き網代を見て感じてよめる歟、
 
初、うち人のたとへのあしろ我なれは たとへのあしろとは、宇治にすむ人は、物の盛衰を、所につけたる網代にたとへていふなるへし。氷魚は、九月より十二月まて取物なり。延喜式云。山城國、近江國、氷魚網代各一所。其氷魚始(テ)2九月(ヨリ)1迄(ルマテ)2十二月三十(ニ)1貢v之。氷魚は和名集云。考聲切韻云。※[魚+小]【音小。今案俗(ニ)云2氷魚1是也。】白小魚名也。似v※[魚+白]《シロウヲ》長一二寸(ナル)者也。此氷魚をとらんために、川中に網代をかまへて、よな/\かゝりを燒て、彼あしろをまもりて、氷魚をよらせてくみとるなり。延喜式に、山城國とあるは宇治川、近江國とあるは田上川なり。よそにもあれと、此ふたところ、殊にひをに名ある所なり。されはひをゝとるほとは、彼あしろに人めも見ゆるが、いつとなく時過ぬれは、ひをもよらねは、もる人もなく、あしろもやふれて、あしろ木の朽殘たるに、こつみなとのみよるなり。こつみとは、木の屑なり。第十一に、あきかせの千江のうらわの木つみなす心はよりぬ後はしらねと。第廿に、家持、ほりえより朝塩みちによるこつみ貝に有せはつとにせましを。此題に獨見(テ)2江れ(ニ)浮(ヒ)漂(ヨヘル)【木歟】糞(ヲ)1怨2恨《ウラミテ》貝玉(ノ)不(ルコトヲ)1v依(ラ)作歌一首。此題糞の字のうへに、木の字をゝとせるなるへし。糞はあくたなり。木の字なくては通漫なり。此哥こつみといふ所を句にして心得へし。いふこゝろは、我今おとろへて時過たるあしろのことくなれは、今はこつみのきかゝることく、來るものはきみらのみぞ。くるはさてありなん。こすともよしといへるなるへし。門に雀羅をまふくへく、時をうしなへる人のもとに、たま/\來る人も、いふかひなき事あるを、うち川にのそみてあしろを見て、感してよめるにやと、おしはかりに尺し侍るなり
 
1138 氏河乎船令渡呼跡雖喚不所聞有之※[楫+戈]音毛不爲《ウチカハヲフネワタセヨトヨハヘトモキコエサルラシカチノオトモセス》
 
船令渡呼跡、【別校本云、フネワタセヲト、】  ※[楫+戈]音毛不爲、【幽齋本云、カチオトモセス、】
 
第十に七夕の歌に、渡り守舟度せをと呼こゑの、至らねばかや梶の音せぬとよめり、今の歌に似たり、度セヲの|を〔右○〕は助語とも云べし、亦|を〔右○〕と|よ〔右○〕と同韻にて通ずれば度せよと云へるなりとも云べし、呼は多分|ヲ〔右○〕を用たれば別校本の點第十の例證をかけて謂れあり、わたせよと點ぜるも呼はよぶとよめば|よ〔右○〕を主とし|ふ〔右○〕を伴として伴を捨て主を取てゝ用るも亦謂れあり、第四坂上郎女が、とこよにと我ゆかなくにとよめるとこよ(34)を常呼とかけるに同じ、第二十の長歌に伊麻能乎爾多要受伊比都々《イマノヲニタエズイヒツヽ》とあるは今の世に不絶云ひつゝと云意なれば、を〔右○〕と|よ〔右○〕と通じて今の|を〔右○〕とは云へば、常呼もトコヲとよめるにやとも云べし、不所聞有之は今按キコエズアラシと讀べし、落句は幽齋本の點に依るべし、不爲は今按セヌとも讀べし、
 
初、氏川を舟わたせよと 第十に、わたりもり船わたせをとよふ聲のいたらねはかもかちの音せぬ。これは七夕の哥なれと、大かた似たり。呼の字よとつかひたるは、よふといふ和訓を用てなり。よふといふ詞につきていはゝ、よは一言の中の主なり。よべとも、よびとも、よばふとも、下は時にしたかひてうごけば伴なり。餘はこれに准すへし。伴をゝきて、主をとりて、よとは用るなり。又此呼の字、をとも用。すなはち七夕の哥も、ふねわたせをとゝよめれは、此哥にても、ふねわたせをとゝよまんも子細なし。よと用る證は、第四卷に、とこよにとわかゆかなくにと坂上郎女のよめる哥に、常呼《トコヨ》とかきて、とこよに用たり
 
1139 千早人氏川浪乎清可毛旅去人之立難爲《チハヤヒトウチカハナミヲキヨシカモタヒユクヒトノタチカテニスル》
 
清可毛、【幽齋本云、キヨミカモ、】
 
千早人は宇治の枕詞、千早振宇治ともつゞく、此義別に注す、歌の意は仙覺の云く、宇治川浪の潔して飽がたければ、旅行人も此にめでゝ立がたくするとよめるなり、今按躬恒が立ことやすき花の陰かはとよめるが如し、
 
初、ちはや人うち川なみをきよみかも ちはや人、ちはやふるは、うちといふ枕言なり。別に注之。たひゆく人の立がてにするとは、木のもとなとにをり居てみて、立かぬるなり。みつねが、けふのみと春をおもはぬ時たにもたつことやすき花の陰かは。此立ことやすき花の陰かはといへるにおなしこゝろなり
 
攝津作
 
1140 志長鳥居名野乎來者有間山夕霧立宿者無爲《シナカトリヰナノヲクレハアリマヤマユフキリタチヌヤトハナクシテ》
 
志長鳥は居名野の居と云はむための枕詞、別に注す、來者を六帖にも新古今にもゆけばとあれど今の如く讀も同じ意なり、下の句は、宿はなくて日は暮 は立て旅の苦し(35)きさまなり、雲横2秦嶺1家何在、雪擁2藍關1馬不v前、此一聯に敵すべき歌なり、六帖に下句を霧立渡り明ぬ此夜はとあるは此歌の異説か、
 
一本云|猪名乃浦廻乎榜來者《ヰナノウラワヲコキクレハ》
 
延喜式神名帳云、攝津國|豐島《テシマ》郡爲那、猪名は豐島郡と河邊郡とに亘れり、第三高市黒人が歌に注して云が如し、野と云ひ浦と云に兩郡の異、はかるべし、
 
初、しなか鳥猪名野をくれは しなか鳥は、猪名野とつゝくる枕言。これにふるくより説々あれと、皆胸臆にして信用しかたし。別にひとつの今案あり。あたりあたらすはしらねと、別に釋して附たり。ゐな野は延喜式第九、神名上云。攝津國、豐嶋郡、爲那都比古神社二座。これによれは、豐嶋郡の内と見えたり。和名集云。河邊郡爲奈。これは相違せり。雨郡相ならびてわたれる歟
 
1141 武庫河水尾急嘉赤駒足何久激沾祁流鴨《ムコカハノミツヲハヤミカアカコマノアカクソヽキニヌレニケルカモ》
 
此は武庫河を渡る歌なり、六帖にはあしがきそゝぎ沾にけるかなとあるは字に叶はず、又六帖に百濟《クタラ》河河せを早み赤駒の、足のそゝぎに沾にけるかなとあるも此歌を少替たるに似たり、
 
1142 命幸久吉石流垂水水乎結飲都《イノチサチヒサシキヨシモイアハソヽクタルミノミツヲムスヒテノミツ》
 
幸は神代紀云、海(ノ)幸《サチ》、【幸此云2左知1】イハソヽグは石にそゝぎて垂下る水と云心におけり、第八志貴皇子の御歌にもかくつゞけ給へり、第十二には石走垂水とも云へり、同じ意なり、垂水は豐島郡なり、延喜式云、攝津國豐島郡垂水神社と云へり、垂水はめでたき清水な(36)ど聞のみ置つるに久しくながらへたる得分ありて今來て掬て飲ことを得たりとなり、痛く妙美水《シミヅ》をほむる意なり、
 
初、いのちさちひさしきよしも さちといふも、さきといふにおなしく、さいはひなり。神代紀下云。兄火闌降《コノカミホノスソリノ》命|自《ヲノ》有(マス)2海(ノ)幸《サチ》1。『幸此(ヲハ)云2左知1。】いはそゝくたるみとは、岩をそゝきてたるゝ水とつゝけたり。垂水は延喜式神名上云。攝津國、豐嶋郡垂水神社【名神。大。月次。新甞。】此集第八、志貴皇子御歌にも、いはそゝくたるみのうへのさわらひのもえ出る春になりにけるかも。此たるみ同所なり。此哥は西行法師の、年たけて又こゆへしとおもひきや命なりけりさよの中山とよまれたると同意なり
 
1143 作夜深而穿江水手鳴松浦船梶音高之水尾早見鴨《サヨフケテホリエコクナルマツラフネカチオトタカシミヲハヤミカモ》
 
水手はかこなり、かこは舟を漕者の名なれば義訓してコグと用たり、松浦船は肥前の松浦の舟なり、舟の造り樣他に異なる故の名なるべし、第十二にも松浦舟亂穿江とよめり、曉かけて漕出る舟の梶音高く聞ゆるは水尾の早きを凌ぐ程にやと推量するなり、此歌は人丸の集と云物にも不載を、續古今は何にかよられけむ、
 
初、さよふけてほりえこくなる 第十二にも、松浦舟みたるほりえのみをはやみかちとるまなくおもほゆるかもとよめり。今も国々所々によりて、舟のつくりやうかはれは、肥前の松浦も、他所にことなるつくりなれは、松浦舟とはいふなるへし。みをは水のふかき筋をいふ。みをの浪の早けれはにや、かちをとの高きとなり。此かちといへるは櫓なり。穿江は仁徳紀云。十一年夏四月戊寅(ノ)朔甲午(ニ)詔2群臣1曰。今朕視(レハ)2是國(ヲ)1者郊(ノ)澤《サハ》曠《ヒロク》遠而|田圃《ハタケ》少乏《スクナシ》。且河(ノ)水横(ニ)逝《ナカレテ》以|流末《カハシリ》不v※[馬+史]《トカラス》。聊逢(ハ)2霖雨《ナカメニ》1、海潮《ウシホ》逆上《サカノホリテ》而|巷里《ムラサト》乗v船(ニ)、道路亦|※[泥/土]《ウヒチアリ》。故群臣共(ニ)視(テ)之|決《サクテ》2横《ヨコシマノ》源(ヲ)1而通(テ)v海(ニ)、塞(テ)2逆《サカシマナル》流(ヲ)1以全(ス)2田宅《ナリトコロヲ》1。冬十月掘(テ)2宮(ノ)北之郊(ノ)原(ヲ)1引(テ)2南水(ヲ)1以入2西(ノ)海(ニ)1、因(テ)以號(テ)2其水(ヲ)1曰2掘江(ト)1。こぐといふに、水手とかけるは、水手は舟をこくものゝ名なれは、義をもてかけるなり
 
1144 悔毛滿奴流塩鹿墨江之岸乃浦回從行益物乎《クヤシクモミチヌルシホカスミノエノキシノウラワニユカマシモノヲ》
 
1145 爲妹貝乎拾等陳奴乃海爾所沾之袖者雖凉常不十《イモカタメカヒヲヒロフトチヌノウミニヌレニシソテハホセトカハカス》
 
雖凉常、【幽齋本凉作v涼、】
 
ちぬの梅の和泉攝津兩國に亘る事第六に注せしが如し、雖凉常、此書やう讀やうは、先ほすといへどもにてホセドも同じ義なれば常の字は肩なり、此卷下に至て雖干跡をホセドと點ぜるも同じ意なり、詞の字を加へて上へ返る事第四に家持の歌に不相《アヒシ》志(37)忠と云句に付て注するが如し、涼の字は令義解第四最條云、慎2於曝涼1【謂曝者陽乾也、涼者風涼也、】明2於出納1爲2兵庫之最1、延喜式には曝涼をホシサラスと點ぜり、今の俗かざはますと云是なり、濕氣を風の吹ほせば今此字を用るなり、
 
初、ちぬの海 允恭紀云。天皇則更|興2造《ツクリテ》宮室(ヲ)於河内(ノ)茅渟《チヌニ》1、而衣通姫(ヲ)令《シム》v居《ハムヘラ》。因(テ)v此(ニ)以屡遊2※[獣偏+葛]于日根野1。靈龜二年に大島和泉日根の三郡を、河内より割て和泉監を置れし後、終に和泉の國となれり。今こゝに津の國の哥と標して、ちぬの浦といふを載られたるは、哥はかならす※[片+旁]璽をさしてよまねは、もぬの浦津の國につらなりてひろけれはなるへし。雖涼とかけるは、令義解第四、最條云。愼2於曝涼(ヲ)1【謂曝者陽乾也。涼者風涼也。】明(ナルヲ)2於出納(ニ)1爲2兵庫(ノ)之最(ト)1。延喜式には、曝涼とかけるに、ほしさらすと和訓を加へたり。さらすもほすなれは、今雖涼をほせとゝはよめり。常の字は衍文にや。もし常不干をつねひすとよむへき歟。今案此集にはてにをはの字をそへてもかへりてよむ所ありとみゆれは、衍文にあらさる歟。雖2涼常《ホセド》1
 
1146 目頬敷人乎吾家爾住吉之岸乃黄土將見因毛欲得《メツラシキヒトヲワカイヘニスミノエノキシノハニフヲミムヨシモカナ》
 
吾家爾、【幽齋本云、ワキヘニ】  欲得、【別校本云、カモ、】
 
上の句のそへやうは第四に人丸妻の歌に君が家に我住坂とよめるに同じ、伊勢は我ならぬ人すみのえともそへよめり、今按發句はメヅラシクとも讀べし、
 
初、めつらしき人をわか家に めつらしき妻を、我家にむかへあひすむとつゝけたり。伊勢か哥に、我ならぬ人すみの江のきしに出てなにはのかたをうらみつるかな。これはわれをふかく頼めしことを引かへて、あらぬ人とすめは、我を何ともおもはぬ人を恨むるといふ心を、すみのえなにはの名によせてよめるなり。又此集第四、人まろの妻の哥に、君か家にわれすみ坂の家路をもわれはわすれしいのちしなすは
 
1147 暇有者拾爾將徃住吉之岸因云戀忘貝《イトマアラハヒロヒニユカムスミノエノキシニヨルテフコヒワスレカヒ》
 
古今滅歌に暇あらば摘にもゆかむ住よしの、岸に生てふ戀忘草とある貫之の歌は物はかはれど唯これなり、六帖に人丸の歌として拾てゆかむすみよしの岸にありてふと云へり、第六に坂上郎女が濱貝を見て、暇あらば拾てゆかむ戀忘貝とよめるをば拾ひにとかへ、今の拾ひにをば拾てとなしたるは共に叶はず、味はひて知べし、
 
初、いとまあらは拾にゆかむ 古今集に、貫之哥に、道しらはつみにもゆかむすみのえのきしにおふてふこひわすれ草。第四卷坂上郎女哥にも、いとまあらはひろひにゆかむこひわすれ貝とよめり。忘貝はうつくしき貝なるゆへに、みれはうきことをわするとて名つくとそ
 
1148 馬雙而今日吾見鶴住吉之岸之黄土於萬世見《ウマナメテケフワカミツルスミノエノキシノハニフヲヨロツヨニミム》
 
(38)於の字を今テ〔右○〕に用たるは遠《ヲ》と飫《オ》との音を混ずるにあらず、此於の字文章の一句の中に挿て置時、和訓にて此國の習に下より上へ返りて讀に多くはを〔右○〕と云詞によまるゝ故なり、能意を著べし、第九之廿八葉右第五行、第十之二十葉左第七行、同二十六葉左第七行にも皆てにをはのを〔右○〕に用たり、一處も折《ヲル》惜《ヲシム》などのを〔右○〕には用ざるにて云へる所を信ずべし、
 
1149 住吉爾往云道爾昨日見之戀忘貝事二四有家里《スミノエニユクトイフミチニキノフミシコヒワスレカヒコトニシアリケリ》
 
往云、【別校本云、ユクテフ、】
 
徃云道爾は今按云は去を誤て、もとはユキニシミチニ歟、昨日も行て知れる道なればユクトイフミチは少意得がたきにや、下の句は住吉をほめて昨日行て忘貝を見しかども今日も猶戀らるれば、戀忘貝と云は詞のみにしてまことはなかりけりとよめるなり、コトニシのし〔右○〕は助語なり、
 
初、すみのえにゆくといふ道に 住吉の浦のおもしろさの、きのふみしにけふも猶こひらるれは、戀をわするゝ貝とてひろはせしは、名のみしてまことはなかりけりといふは、詮はすみのえをほめてろへたるなり
 
1150 黒吉之岸爾家欲得奥爾邊爾縁白浪見乍將思《スミノエノキシニイヘモカナオキニヘニヨスヨスルシラナミミツヽオモハム》
 
家欲得、【或本云、イヘカナ、】  見乍將思、【六帖云、ミツヽシノハム、同本或思作v偲、】
 
黒吉は今按黒は墨の下の土を失へるなり、改むべし、家欲得はイヘモガモ、或はイヘモ(39)ガとも讀べし、落句はげにも思は偲にてみつゝしのばむにて有ぬべき所なり、但第三に笠金村角鹿にてよまれたる歌の反歌落句も日本《ヤマト》偲津なるべきを思津とあり、おもひつも同意なれば今も本來思の字なるか、六帖には浪の歌に入れて人丸の作とせり、おぼつかなし、
 
1151 大伴之三津之濱邊乎打曝因來浪之逝方不知毛《オホトモノミツノハマヘヲウチサラシヨセクルナミノユクヘシラスモ》
 
下句は第三に人丸のいざよふ浪のとよまれたる意なり、
 
初、大伴のみつのはまへ よせくる浪のゆくゑしらすも。第三卷に人まろいさよふ浪のゆくへしらすもと、よまれたるにおなし
 
1152 梶之音曾髣髴爲鳴海未通女奧藻苅爾舟出爲等思母《カチノオトソホノカニスナルアマヲトメオキツモカリニフナテスラシモ》
 
梶音のほのかなるに依て遠く奧つ藻刈に行らむと推量するなり、六帖舟の歌に、夕去者梶の音きこゆとて下は同じきは此歌にや、下の注に依て感るなり、
 
一云|暮去者梶之音爲奈利《ユフサレハカチノオトスナリ》
 
1153 住吉之名兒之濱邊爾馬立而玉拾之久常不所忘《スミノエノナコノハマヘニウマタテヽタマヒロヒシクツネワスラレス》
 
玉拾之久は唯玉拾しにてく〔右○〕は助語なり、上に今しくはと云ひ、下にそがひにねしくと(40)云へる皆同じ意なり、
 
初、玉ひろひしく しくに心なし。只ひろひしなり
 
1154 雨者零借廬者作何暇爾吾兒之塩干爾玉者將拾《アメハフルカリホハツクルイツノマニナコノシホヒニタマハヒロハム》
 
吾兒之鹽干爾、【官本亦云、アコノシホヒニ、】
 
あ〔右○〕とな〔右○〕と同韻なればあごの海などもなごの海ともよめど、今吾兒とかけるをナゴと點ぜるは誤なり、アゴと云に依るべし、六帖のあまの鹽干に玉藻拾はむとて藻の歌とせるは誤れり、
 
1155 奈呉乃海之朝開之奈凝今日毛鴨礒之浦回爾亂而將有《ナコノウミノアサケノナコリケフモカモイソノウラワニミタレテアラム》
 
結句は鹽干の餘波に玉藻貝などや亂てわらむとゆかしく思ふなり、今按?阿切多なればミダレタルラムとも讀べし、六帖には海の歌に入れて腰の句を今もかもといへり、
 
初、あさけのなこり 朝しほの引たる名残なり。なこりの事、第四卷に注之。いそのうらわは、浦のいそのめくりなり。みたれてあちむとは、玉も貝あるひは小魚等なり
 
1156 住吉之遠里小野之眞榛以須禮流衣乃盛過去《スミノエノトホサトヲノヽマハキモテスレルコロモノサカリスキユク》
 
眞榛は第一より云はりの木なり、盛過去とはきなれて色のさむるなり、眞はぎと云ひ盛過ゆくと云によりて萩と意得て新千載に秋には入られたるか、此集の書やう無窮(41)なれどさすがにかゝる事は書もまがへず、はりをはぎと云には榛をかき、秋のはぎをば芽とも芽子ともかけり、其上此歌雜なる故にこゝに載たり、秋萩ならば第十秋部に入るべし、又萩が花摺は當分の事なり、今の歌并竹取翁が歌、野邊ゆきしかば萩のすれるぞとよめる類にあらず、此を思ふべし、又此歌は人丸集にも載ず、六帖に摺衣の歌に入れたるにも作者をいはず、
 
初、遠里小野の眞はきもて 第十六、竹取翁か哥にも、すみのえの遠里をのゝまはきもてにほしゝきぬになとよめり。天武紀(ニ)蓁楷《ハリスリノ》御衣|三具《ミヨソヒ》といへり。昔は王公もめしけると見えたり。盛過ゆくとは、きなれて色のさむるなり
 
1157 時風吹麻久不知阿胡乃海之朝明之塩爾玉藻苅奈《トキツカセフカマクシラスアコノウミノアサケノシホニタマモカリテナ》
 
第二第六に六帖に藻の歌とせるには多くかはれる所あり、
 
初、時つ風吹まく あこの海はなこの海なり。あとなと五音通せり。績日本紀に、吾人《アヒト》といへる人の名を、ある所には名人《ナヒト》ともかけり。此哥に似たる哥、第二の十六葉第六の廿二葉にもありき
 
1158 住吉之奥津白浪風吹者來依留濱乎見者淨霜《スミノエノオキツシラナミカセフケハキヨスルハマヲミレハキヨシモ》
 
六帖に第四の句をきよすの濱をとあるは傳寫の誤歟、
 
初、さやけさに 清羅とかけるは、さとらと同韻の故歟。羅と紗と同類の故歟
 
1159 住吉之岸之松根打曝縁來浪之音之清羅《スミノエノキシノマツカネウチサラシヨリクルナミノオトノサヤケサ》
 
六帖に第二の句をきしのまつねをとあるは今の本にはしかず、縁來をきよするとあるは中々改たるなるべし、羅を|さ〔右○〕とよめるは良と左と同韻の字なれば通ずるか、又羅と紗と物にて通じて用たるか、
 
(42)1160 難波方塩千丹立而見渡者淡路島爾多豆渡所見《ナニハカタシホヒニタチテミワタセハアハチノシマニタツワタルミユ》
 
羈旅作
 
1161 離家旅西在者秋風寒暮丹鴈喧渡《イヘサカリタヒニシアレハアキカセノサムキユフヘニカリナキワタル》
 
離家、【六帖云、イヘハナレ、別校本亦點同v此、】
 
發句は六帖よりは今の點まされり、旅ニシのし〔右○〕は助語なり、下句は旅人の歎を添べき事思ひやるべし、
 
1162 圓方之湊之渚鳥浪立巴妻唱立而邊近著毛《マトカタノミナトノストリナミタテハツマヨヒタテヽヘニチカツクモ》
 
圓方は伊勢なり、第一に出たり、渚鳥は八雲御抄に海洲也と注せさせ給ふ、意は何れの鳥にまれ洲に居るを云意なり、今按先は其定にて、第十一に大海の荒礒の渚鳥と讀たるに、又みさごゐる洲にをる舟とも、みさごゐる荒礒ともよみたれば、渚鳥とはみさごを云かとも聞ゆ、毛詩云、關々雎鳩在2河之洲1、今妻ヨビタテヽと云も此詩に叶へる歟、彼が妻と副ひて邊に近付來るを見て故郷の妻を思ひ出る意もこもるべし、
 
初、まとかたのみなと 伊勢の國なり。第一卷舎人娘子か哥に注せしかことし。八雲御抄に紀伊國と注せさせたまへるは、かんかへもらさせたまへるなり。すとりは洲にをりゐる鳥なり。鷺※[茲+鳥]千鳥の類押並ていふへし。或説にみさこなりといへり。みさこゐるすにをる舟なともよみたれは、さもときこゆ
 
(43)1163 年魚市方塩千家良思知多乃浦爾朝※[手偏+旁]舟毛奧爾依所見《アユチカタシホヒニケラシチタノウラニアサコクフネモオキニヨルミユ》
 
年魚市方は尾張なり、第三に出たり、知多乃浦も同じく尾張なり、和名に智多郡、尾張にあり、奧ニ依とは奧の方へ行を云へり、此卷下に安治村十依海《アチムラノトヲヨルウミ》とよめる同じ意なり、後徳大寺左大臣の歌に、花の散ひら山おろし海ふけば、峯よりおきによするさゞ浪、此歌奥によすると云事をむねとめづらしくよみ給へるは今の歌を思ひ給へる歟、
 
初、あゆちかたしほひにけらしちたの浦に あゆちもちたも、ともに尾張國の郡の名にて、年魚市潟、知多の浦、そこ/\の名所なり。第三に、高市連黒人か哥に、櫻田へたつ鳴わたるあゆちかた塩干にけらしたつ鳴わたるといふ哥に、あゆちかたの事注せり。八雲御抄に、あゆちかたも、ちたの浦も、ともに紀伊と載させたまへるは、よく考させたまはさりけるなり
 
1164 塩干者共滷爾出鳴鶴之音遠放礒回爲等霜《シホヒレハトモカタニイテヽナクタツノオトトホサカルアサリスラシモ》
 
其滷は名所にはあらず、鹽のひると共に潟の出來る其瀉に出て鳴鶴なり、第六に、あま石の鹽干のむたにいりすには、千鳥妻呼とよめるが如し、然ればムタカタとも和すべきにや、音はコエとも讀べし、
 
初、塩ひれはともかたに出て 此ともかた名所にはあらす。塩のひると共に潟の出來る、其かたに出てなくたつなり。第六難波宮作哥に、あまいしのしほひのむたとよめる同しことなり
 
1165 暮名寸爾求食爲鶴塩滿者奥浪高三已妻喚《ユフナキニアサリスルタツシホヒミテハオキナミタカミオノカツマヨフ》
 
下にあさりすと礒に住鶴とある似たる作なり、落句は今按オノツマヲヨブと讀べきか、
 
1166 古爾有監人之覓乍衣丹摺牟眞野之榛原《イニシヘアリケンヒトノモトメツヽキヌニスリケムマノヽハキハラ》
 
(44)眞野ノ榛原は第三に高市黒人が歌に注せしが如し、上の句は昔此野のはりにて衣を摺ける由緒などの有けるにや、所によりて染色などの淺深よしあしも有べし、衣に摺けむ此ぞその眞野の榛原と所をほむる意なり、
 
初、まのゝはき原 津の國なり。第三の廿葉の歌に尺せり
 
1167 朝入爲等礒爾吾見之莫告藻乎誰島之泉郎可將刈《アサリストイソニワカミシナノリソヲイツレノシマノアマカカルラム》
 
1168 今日毛可母奥津玉藻者白浪之八重折之於丹亂而將有《ケフモカオキツタママモハシラナミノヤヘヲリノウヘニミタレタルラム》
 
八重折之於丹、【六帖云、ヤヘヲリカウヘニ、】  亂而將有、【六帖云、ミタレテヲアラム、】
 
第四の句は今按第二十家持の長歌に之良奈美乃夜敝乎流我宇倍爾《シラナミノヤヘヲルカウヘニ》とよまれたれば今も此に依て同じう讀べし、いくへも浪のたゝめるを云へり、荀子云、夫水之萬折也必東(シス)、但是は長河の處々にて屈折して流るゝを云へば八重折浪とは意別なり、落句はミダレテアルラムとも讀べし、
 
初、白波の八重折 八重は大海を八重の塩路といふ心なり。浪のいくへ共なくかさなるをいふ。さて浪のをるといふは、うちよせてかへり/\する躰なり。折とも、しくとも、たゝむともいふ。同し心なり
 
1169 近江之海湖者八千何爾加君之舟泊草結兼《アフミノウミミナトハヤソチイツクニカキミカフネハテクサムスヒケム》
 
八千、【校本千或作v十、】  君、【校本或作v公、】
 
八千は千は十を誤れり、第三に八十之湊、第十三に近江之海泊八十有とよめり、凡物の(45)數をかぞふる時はやそと云ひ、年をかぞふるにはなゝそぢやそぢと云やうに定まりたるを、此は湖のかずをやそぢと云べき證なり、
 
初、あふみの海みなとはやそち 第十三にも、あふみの海とまりやそ有やそしまの嶋のさき/\なとよめり。君かふねはて草むすひけんとは、いつくにか舟をよせて、陸にあかりて、草枕を結て、やとりけんなり
 
1170 佐左浪乃連庫山爾雲居者雨曾零智否反來吾背《サヽナミノナミクラヤマニクモヰテハアメソフルチフカヘリコワカセ》
 
拾遺集神樂歌に、高島や水尾の中山杣たてゝ、作り重ねよ千世のなみくら、此なみくらの詞は高島郡に連庫山の有てそれをよせてよめるにや、次の歌二首も高島なれば彌然らんとおぼし、連庫山に雲の居れば雨のふるとは、第十二にも痛足の山に雲居つゝ雨はふるともとよめり、かゝる事は所によりて替れば梶取なども其浦浦の者に能尋置とぞ申す、六帖に此歌をくれどあはずと云に入れたる意不審なり、
 
初、さゝ浪のなみくら山 近江なり。雨そふるちふはふるといふなり
 
1171 大御舟竟而佐守布高島之三尾勝野之奈伎左思所念《オホミフネハテヽサモラフタカシマノミヲノカチノヽナキサシソオモフ》
 
佐守布はさむらふにて候の字なり、此は高島の方へ行幸せさせ給へる時御供の人のよめると見えたり、第一に額田王の金野乃美草苅葺と云歌の後の注に、齊明紀五年三月庚辰天皇幸近江之平浦とあれば此時の歌歟、所念はオモホユと讀べし、おもほゆとは飽ずおぼゆる意なり、第二の句を袖中抄并に別の校本の又の點にキホヒテサスフとあるは竟を競にまがへて字に叶はず、さすふと云詞も不審なれば此を取らず、
 
初、大みふねはてゝさもらふ さもらふは、さふらふなり。大みふねよりあからせたまふ所に、人々祗候するをいへり。なきさしそおもふとは、そこのなこりをおもふなり
 
(46)1172 何處可舟乘爲家牟高島之香取乃浦從已藝出來舩《イツコニカフナノリシケムタカシマノカトリノウラニコキイテクルフネ》
 
此香取の浦、下總の梶取明神のまします處と同名異所なり、從はユ〔右○〕とも讀べし、
 
初、高嶋の香取の浦 此かとりの浦は、あふみなるを、八雲御抄に下總と載させ給へるは、かしこに同名あるに、おほしめしまかへさせたまふなり
 
1173 斐太人之眞木流云爾布乃河事者雖通舩曾不通《ヒタヒトノマキナカストフニフノカハコトハカヨヘトフネソカヨハヌ》
 
流云、【六帖云、ナカストイフ、】
 
斐太人とは大工をも杣人をも云へり、今は杣人なり、下に眞木柱作るそま人と讀て、荒削して出すものなれば工匠の類なり、工匠をひた人と云は飛騨國は昔よき大工を出したる故歟、令云、凡斐陀國庸調倶免、毎v里點2匠丁十人1、延喜式民郡上云、凡飛騨國毎v年貢2匠丁一百人1云々、木工寮式云、凡(ソ)飛騨國匠丁三十七人、以2九月一日1相共(ニ)參2著寮家1、不v得2參差1、俗にはいにしへ飛騨と云工匠の有けるやうに云ひ傳へたり、然らば彼飛騨が住ける故をもて國の名ともせるか、俗説のみなれば知がたし、爾布ノ河は第十三にも斧取而丹生檜山木折來而とよめり延喜式云、大和國宇智郡丹生川神社、これは專祈雨の時祭る神なり、式に見えたり、此神のまします所なり、此歌の意は、杣人の兩岸に有て木を流し下す故に舟の通はねば、物は云ひかはせども互に渡て逢べき由のなきなり、旅の歌なれば見るまゝによめる歟、さらずば官制限ある公務などによりて旅に出たる(47)人の故郷の妻と唯消息をのみ通はして逢見る事あたはぬ由をよそへたるべし、新千載集に戀に入れられたるはおぼつかなし、
 
初、ひた人のまきなかす ひた人はひたゝくみといふも同し。番匠の事なり。そま人をもひとつにいふ。今はそま人なり。にふの川は大和なり。ことはかよへと舟そかよはぬとは、こなたかなたに物はいひかはせと、まきなかすによりて、舟はかよはぬなり
 
1174 霰零鹿島之崎乎浪高過而夜將行戀敷物乎《アラレフリカシマノサキヲナミタカミスキテヤユカムコヒシキモノヲ》
 
霰零は鹿島の枕詞、別に注す、落句は鹿島崎の見るに飽ぬを云へり、見ながら戀しと云事上に注せり、
 
初、あられふりかしまのさき 霰ふる音のかしましきといひかけたり。第廿防人か哥にも、あられふりかしまの神をいのりつゝとよめり。第三に、あられふりきしみかたけをさかしみとゝありしも、きしみはかしましきといふ心に、五音を通してつゝけたるなり。過てやゆかんこひしき物をとは、かしまのさきの、みれともあかぬを、こひしきといへり。浪の高けれはあかてや過ゆかむとなり
 
1175 足柄乃筥根飛超行鶴乃乏見者日本之所念《アシカラノハコネトヒコエユクカリノトモシキミレハヤマトシオモホユ》
 
トモシキは愛して見たらぬ意なり、第十四に、坂越て阿倍の田面に居るたづの、乏き君は明日さへもかもとよめる同意なり、うきに付てもめづらしき事を見るに付ても故郷を思ひ出るは旅の習なり、
 
初、あしからのはこね.はこね山を飛越て、都のかたへまれに行鶴をみれは、うらやましくて、いとゝやまとのくにのおもはるゝなり
 
1176 夏麻引海上滷乃奥津洲爾鳥者簀竹跡君者音文不爲《ナツソヒクウナカミカタノオキツスニトリハスタケトキキミハオトモセス》
 
夏麻引は海上と云はむためなり、別に注す、上總にも下總にも海上郡あれども此は上總なり、第十四東歌の中の上總國歌に上句今の歌と全同なるあり、此にて知べし、スダケドけ第十一に多集をスダクとよめり、すなはち此かける意なり、おきつすにはさま(48)ざまの鳥の集て聲すれども故郷の妻の聲はきかずと云意なり、
 
初、夏麻引うなかみかた 第十四東哥のはしめにも、なつそ引うなかみかたのおきつすにふねはとゝめむさよ更にけりとよめり。海上は上總國に有郡の名なり。又下總にも有。奥義抄云。麻の生たる所をはうといふなり。あさうなといふうもしをとらんとて、夏そ引とはいふなり。又云。をゝは刈て後にうは皮をは取て捨る物にて有を引といふなり。又麻をは根なから引へしともいへり。今案古語拾遺《・木綿木也》に云。天富《アマトミノ》命更(ニ)求(テ)2沃壊《ヨキヨコロヲ》1分(テ)2阿波齋部(ヲ)1率2往《ユキタ》東土《アツマノクニニ》1播2殖《ホトコシウフ》麻穀《アサカチヲ》1。好(キ)麻(ノ)之所(ナリ)v生。故《カレ》謂2之上總(ノ)國(ト)1。穀《カチノ》木(ノ)取v生(ル)故《カレ》謂2之(ヲ)結城《・下總》郡(ト)1。注云。古語麻謂2之(ヲ)總(ト)1也。今爲2上(ツ)總下(ノ)總二國(ト)1是也。此義にては、上總下總のふたつの國は、もとより夏そ引へき國なり。たゝし第十四武藏國の哥に、なつそ引うなひをさして飛鳥のいたらむとそよあかしたはへしとよめるは、うなひは海邊なり。此哥を武藏國の哥と定たるは、此うなひといへるは、常の海邊にてはなくして、武藏國にある名所と聞えたり。此詞ならては、武藏と定へきゆへなし。しかれは只うといはむため歟。うといふにつきても、うとをとはよく通すれは、なつそひくをといふ心につゝくるなるへし。奥義抄の義なれと、あさの生する所をは、あさふとも、をふともいふは、ふもしなり。今はうもしなれは、かなはすや。鳥はすたけと、すたくはあつまるなり。鳥はあつまりさはけと、君は音もせすとは、第十六に、わかやとのえのみもりはむもゝちとり千鳥はくれと君はきまさぬ。此心とおなし
 
1177 若狹在三方之海之濱清美伊往變良比見跡不飽可聞《ワカサナルミカタノウミノハマキヨミイユキカヘラヒミレトアカヌカモ》
 
和名集云、若狹國三方【美加太】郡、こゝの海なり、伊は發語の詞、往變良比はゆきかへりなり、
 
初、わかさなるみかたのうみ 和名集云。若狭國三方【美加太】郡。いゆきかへらひは、いは發語の辭、ゆきかへりなり
 
1178 印南野者往過奴良之天傳日笠浦波立見《イナミノハユキスキヌラシアマツタフヒカサノウラニナミタテルミユ》
 
天傳は日笠浦と云はむ爲なり、第二の人丸の歌に天傳夕日さしぬれとよまれたる意なり、日笠浦は播磨なり、推古紀云、十一年夏四月壬申朔、更以2來目皇子(ノ)之兄當麻皇子(ヲ)1爲d征(ツ)2新羅(ヲ)1將軍u、秋七月丙午、當麻皇子到2播磨1時從妻舍人姫正薨2於赤石1、仍葬2于赤石檜笠(ノ)岡上(ニ)1云々、かゝれば明石郡にあり、紀には檜笠とあればひのきを組たる笠か、今は日の笠郡と名付る故何れと知がたし、日の笠は和名集云、郭知玄(カ)切韻云、暈(ハ)氣繞2日月(ヲ)1也、【音運、此間云日月ノ加左、】辨色立成云、月院也、
 
初、天づたふ日かさのうら 天路をつたひゆく日のかさとつゝけたり。第二卷人まろの哥にも、天つたふ夕日さしぬれといへり。和名集云。郭知玄(カ)切韻(ニ)云。暈(ハ)氣(ノ)繞(ルナリ)2日月(ヲ)1也。音運。此間(ニ)云日月(ノ)加左。辨色立成云。月院也。此ひかさの浦は明石にあり。日本紀第二十二、推古紀云。十一年夏四月壬申朔、更(ニ)以(テ)2來目(ノ)皇子之兄當麻(ノ)皇子(ヲ)1爲d征(ツ)2新羅(ヲ)1将軍《イクサノキミト》u。秋七月辛丑朔癸卯(ノヒ)、當麻(ノ)皇子自2難汲1發船《フナタツ》。丙午、當麻皇子到2播磨(ニ)1時、從妻《ツマ》舍人(ノ)姫王《ヒメオホキミ》薨《ミウセヌ》2於赤石(ニ)1。仍(テ)葬2于赤石(ノ)檜《ヒ》笠(ノ)岡(ノ)上(ニ)1。乃當麻(ノ)皇子返(テ)之遂(ニ)不2征討《ウタ》1。これによれは、ひかさとなつくるゆへはしらねと、檜をあめる笠によりて名を得たる浦なり。此集には、日笠なり。いつれを正とすへしといふ事をしらす。笠置といふ所を、延喜式には、鹿鷺とさへかゝれたれは、文字にかゝはらぬ事おほし
 
一云|思賀麻江者許藝須疑奴良思《シカマエハコキスキヌラシ》
 
此一本を注したるは少不審殘れり、シカマ江は餝磨郡なるべければ日笠浦よりは今の道十里計も西なれば、彼處をも猶漕過たらむには室浦こそ近づかめ、日笠浦に(49)波の立が見ゆると云やうやはあるべき、印南野は行過ぬらしと云には意違へり、若は西より大和を指て上り來る意と云はむ歟、然らば鄙の長路を戀來ればとよめるこそ叶べけれ、ゆき過ぬらしと云は下り舟の詞とのみは聞えず、
 
1179 家爾之?吾者將戀名印南野乃淺茅之上爾照之月夜乎《イヘニシテワレハコヒムナイナミノヽアサチカウヘニテリシツキヨヲ》
 
初の二句は歸らむ後を兼て云なり、印南野(ノ)淺茅之上は、第六に赤人もいなみ野の淺茅押靡とよまれたり、此卷下に淺茅原後見むためとも、君に似る野山の淺茅ともよみ面白き物によめる上に、月の光のきら/\と照たらむ野に所も所にて戀られぬべき樣なり、チリシとは今にして後を兼て云へど此詞は後の意にして今を云なり、
 
1180 荒礒超浪乎恐見淡路島不見哉將過幾許近乎《アライソコスナミヲカシコミアハチシマミステヤスキムコヽタチカキヲ》
 
發句はアリソコスとも讀べし、此歌第六に笠金村の印南野に行幸の時よまれたる歌の意に似たり、
 
1181 朝霞不止輕引龍田山舩出將爲日者吾將戀香聞《アサカスミヤマスタナヒクタツタヤマフナテセムヒハワレコヒムカモ》
 
第四に高田女王の歌に常不止をトコトハニと和したれば今の不止をもトハニとも(50)讀べし、此歌は海路を下るべき人のまた大和にありてよめるなるべし、
 
初、龍田山ふなてせん日は これは難波より、ふなたちせん日は、故郷の龍田山をこひむとなり
 
1182 海人小舩帆毳張流登見左右荷鞆之浦回二浪立有所見《アマヲフネホカモハレルトミルマテニトモノウラワニナミタテルミユ》
 
浪の高く立を遠く見て釣舟に帆を張たるかとまがふ由なり、
 
1183 好去而亦還見六大夫乃手二卷持在鞆之浦回乎《ヨシユキテマタカヘリミムマスラヲノテニマキモタルトモノウラワヲ》
 
初、ますらをの手に卷もたる鞆のうらわ 鞆は弓いる時、革をもて作て、左手にさしはく物なり。第一に委尺せり。神代紀。天照大神|臂《タヽムキニ》著《ハキ》2稜威之《イツノ》高柄《タカカラ・タカトモ八雲》(ヲ)1云々。たかともといふへきを、たかゝらとあるは、一物二名歟。もし柄の字をからとよむにおもひわたれる歟
 
1184 鳥自物海二浮居而奥津浪驂乎聞者數悲哭《トリシモノウミニウキヰテオキツナミサワクヲキケハアマタカナシモ》
 
一二の句は鳧などの如く浮居てなり、
 
1185 朝菜寸二眞梶※[手偏+旁]出而見乍來之三津乃松原浪越似所見《アサナキニマカチコキイテヽミツヽコシミツノマツハラナミコシニミユ》
 
浪越ニ見ユとは遠ざかれる意なり、
 
1186 朝入爲流海未通女等之袖通沾西衣雖干跡不乾《アサリスルアマヲトメラカソテトホリヲヌレニシコロモホセトカハカス》
 
ヌレニシのに〔右○〕は助語なり、雖干跡は書やう讀やう上に云へるが如し、
 
初、ぬれにし衣ほせと 雖干とかきてほせとゝよむにたれるを、跡の字を添たるはいかにそや。此集の書さま無窮なれは、ほせとはほすといへともなれは、和語のてにをはの字をそへても、かへらしめてよめるにや。しからは、上の十二葉に、ほせとかはかすといふに、雖涼常不干とかける常の字も、今とおなしく、とゝいふてにをはに付《ツケ》て、義をもてほせとゝよめるなるへし
 
1187 網引爲梅子哉見飽浦清荒礒見來吾《アヒキスルアマトヤミラムアキノウラノキヨキアライソヲミニコシワレヲ》
 
(51)飽浦を八雲には紀伊と注せさせたまへり、
 
初、あきのうら 八雲御抄に、紀伊國のよし載させたまへり。彼御抄は、名所によくかんかへさせ給はぬことおほし
 
右一首柿本朝臣人麿之歌集出
 
1188 山越而遠津之濱之石管自迄吾來含而有待《ヤマコエテトホツノハマノイハツヽシワカキタルマテフヽミテアリマテ》
 
迄吾來、【六帖云、ワカクルマテニ、別校本云、ワカクルマテハ、】
 
發句は遠津と云ための枕詞歟、又山越て我來るまでと句を隔てゝつゞくるか、遠津ノ濱、何れの國に有と云事を知らず、吾來マデ含テ有待とは、よそより云にあらず、まだ咲かぬ程に來て又來て見んまでさてありてまてとなり、
 
初、山こえて遠つのはま 遠津の濱、何國ともいまたかんかへす
 
1189 大海爾荒莫吹四長鳥居名之湖爾舟泊左右手《オホウミニアラシナフキソシナカトリヰナノミナトニフネハツルマテ》
 
此歌と新古今にやまとかも海に嵐の西吹ば、何れの浦に御舟つながむと云賀茂の社の午日うたひ侍ける歌とてあるとは海に嵐をよむ慥なる證なり、和名云、孫※[立心偏+面]云、嵐山下出風也、盧含反、【和名、阿良之、】今按玉篇云、嵐大風、此注によるに山下何れの處にか吹かざらむ、袖中抄に此歌を引て、ゐなのみづうみとは湖の字につきてあしくよめる本あり云云、いかさまにも彼津の國のゐなと云所に水海なし云々、二條院の御時或人湖上月と(52)云題にゐなの水海とよめりしを其座の歌仙達見もとがめられずと承りし口惜き事なり、仍注付侍也と云へり、又彼抄に泊をとむるとあれど今取らず、
 
初、大海にあらしなふきそ 俊成卿は、康秀かむへ山風をあらしといふらんといふ哥を執し過し給ひて、海にあらしとはよまぬよしのたまへるは、此哥ならひに、やまとかも海にあらしの西ふかはといふ哥を、かんかへもらされけるにこそ。嵐の字を、山下出風と注したるは、むへやま風をとよめる心なり。されと山下出風、海に吹ましきにあらす。玉篇に嵐(ハ)力含(ノ)反(ナリ)。大風(ナリ)。かくあれは、いつくにか吹さらん。又千五百番哥合に、通具卿の哥に、吹凰もあらしになれはとこの山夕のうつら聲うらむなりといふを、定家卿の判に、風のあらしとなるやうを、知侍らす【暗記不分明】と難せられたれと、六帖に、われを君とふや/\とまつ風の今はあらしとなるそかなしき。此哥なくとも、凰はすこし吹ても、いたく吹ても、惣名にて、あらしといふは、中にもはけしきにつけたる名と聞ゆれは、凧のあらくなる心に、吹風もあらしになれはといふは、難まてはあるましくや。嵐の庭の霜ならてと聞こそ、すこしかなひかたく聞ゆれ。事の次なれは、所存を申侍るなり
 
1190 舟盡可志振立而廬利爲名子江乃濱邊過不勝鳧《フネハテヽカシフリタテヽイホリスルナコエノハマヘスキカテヌカモ》
 
可志は第十五第二十にもよめり、和名云、唐韻云、〓〓、【〓柯二音、漢語抄云、加之、】所2以繋1v舟、大きなる木をゆりたてゝそれに舟をつなぐを云なり、名子江は此卷上に多くよめる所にて攝津國なり、仙覺も攝津と注す、曾丹が歌に、住吉のなごえの岡を田に作り、數ならぬ身は秋の悲しきとよめる岡も同じあたりなるべし、越中に同名あればまがひぬべし、居名のみなとに次で載せ、又上の歌に雨は零かりほは作るとて吾兒《アコ》の鹽干にとよめり、今またいほりする名子江の濱邊と云、相似たり、落句のカテヌのか〔右○〕濁るべからず、
 
初、舟はてゝかしふりたてゝ 舟はつるは泊る事なり。かしは舟つなく木なり。舟つなかむと思ふ所に、大きなる木の梢を下にして振たつる、これをいふなり。常にはかせともいへり。和名集云。唐韻云。〓〓【〓柯二音。漢語抄云加之】所2以(ナリ)繋(ク)1v舟(ヲ)。なこ江は越中射水郡にあれとも、此歌は此前後のつゝきをみるに、なこの海にて、津のくにの名所なるへし。かしふりたてゝ、舟を留めて、あかすおもしろき濱邊と見むは、歌のさまも越中にてはあるましくみゆ。過かてぬは、過るにたへぬなり。かてを清て讀へし
 
1191 妹門出入乃河之瀬速見吾馬爪衝家思良下《イモカカトイテイリノカハノセヲハヤミワカウマツマツクイヘコフラシモ》
 
家思良下、【別校本思作v戀、】
 
門は出入する物なれば妹が門とおけり、第九にも妹が門入いづみ川とあるも此意なり、此出入の川何れの國に有と云ことを知らず、然れども次下に信士の山川とよみて下句も相似たれば大和にて信土山の川の名にや、馬のつまづく事第四に金村の或娘(53)子に代りてよまれたる歌に注せLが如し、落句は今按字にまかせてイヘオモフラシモと讀べきか、されども六帖にも家こふるかもとあれば別校本に思を戀に作れるに依るべき歟、
 
初、妹か門出入の川の 門は出入する物なれは、かくつゝけたり。第九に、妹か門いりいつみ川とつゝけたるもおなし心なり。此出入の川、いつれの国ともしらす。されとも、次下にまつちの山川とよみ、哥のさまもあひにたれは、まつち山のこなたにある、やまとの名所にや。わか馬つまつく家おもふらしもとは、第三笠金村哥に、塩津山打こえゆけはわかのれる馬そつまつく家こふらしも。なつむといへる説は、第十三にも、馬しもの立てつまつきとよめり。旅行人を家にて戀る妻のあれは、其のる馬のつまつきおもふにことはりたかへり。第四に、たをやめのわかみにしあれは道もりのとはむこたへをいひやらんすへをしらすと立てつまつくとよめるも、さま/\におもひむすほゝれて、心こゝにあらぬゆへに、ふと脚を失してつまつくなり。されは常はさもなきわか馬の、たひ/\つまつくは、家をおもひて、心空にてあゆむゆへに、しかるならんとよめるなるへし。屈原(カ)離騒(ニ)云。忽(ニ)臨(テ)睨《ミル》2夫《カノ》舊郷(ヲ)1。僕夫悲(ミ)、余(カ)馬|懷《カヘル》)。蜷《ケン》局(シテ)願而不v行(カ)。この心をおもふへし。家思良下は家おもふらしもと讀へし
 
1192 白栲爾丹保布信士之山川爾吾馬難家戀良下《シロタヘニニホフマツチノヤマカハニワカウマナツムイヘコフラシモ》
 
一二の句は眞土といはむためなり、白タヘと云は白土|堊《シラツチ》なり、但第一に軍王の歌にたつきをしらにと云しらにを白士と假てかけるは白丹《シラニ》の意にて白粉をいへるか、碧緑青を青丹と云ひつれば白粉をも白丹と云べし、又第十一第十三に胡粉をククキと義訓したれど按ずるに然るべからず、共にシラニと讀べき由を存ず、彼處に至て云べし、しからば白粉胡粉などを白栲にゝほふまつちとは云へる意歟、
 
初、白たへににほふまつちの 白くうるはしうにほふまつちと、山の名を白土になしていひかけたり。すみよしのきしのはにふににほはさましをと有しかことし。催馬樂に、いてわか駒はやく行こせまつち山まつらん人をゆきてはやみむ
 
1193 勢能山爾直向妹之山事聽屋毛打橋渡《セノヤマニタヽニムカヘルイモノヤマコトユルスヤモウチハシワタス》
 
事聽屋毛、【六帖云、コトキコユヤモ、別校本同v此、】  打橋渡、【六帖云、ウチハシワタル、袖中抄同v此、】
 
事ユルスヤモはこと〔二字傍線〕はことば〔三字傍線〕なり、も〔右○〕は助語なり、假令勢の山が妹山をけさうして其由をきかするに、妹山があはむとゆるすやらむ橋わたしたるはとなり、第十三に木の國の濱によると云、鰒珠拾はむと云て、妹の山勢の山越て行し君などよめるによれば、(54)其あはひの紀の川に打橋を渡して有けむを、牽牛を渡すとて織女の天川に打橋度すと第十によめるやうに妹の山が渡したるとよみなせるなり、六帖はものきこゆやもの意なればことゆるすやもと末は同じ、其初に聽聞の聽と見たると、聽許の聽と見たるとの異あり、渡をワタルと點ぜるは叶はず、勢の山とて山の名は人めきてまことに渡るべき物ならねど、歌の習なればわたしおくとは云べし、其橋をいかに渡りて渡るとはいはむ、
 
初、せの山にたゝにむかへるいもの山 紀の川を中にへたてゝ、せの山は北の川つらに、妹の山は南の川つらにあるに、打橋をわたしたるは、人のおもひかけていふ言に、したかひたるやうなれは、ことゆるすやも《・己言 他聽許》といへり。孝徳紀に、五畿内をさたむる時、南は兄山をかきるといひ、此集第一卷第三卷にも、兄《セノ》山をこゆる時の哥とてあれは、打橋をわたりて、いも山にかゝりけるなるへし。打橋は第四卷にもよみて、そこに尺しき。第十の七夕の哥にもよめり
 
1194 木國之狹日鹿乃浦爾出見者海人之燈火浪間從所見《キノクニノサヒカノウラニイテミレハアマノトモスヒナミマヨリミユ》
 
1195 麻衣著者夏樫木國之妹背之山二麻蒔吾妹《アサコロモキレハナツカシキノクニノイモセノヤマニアサマケワキモ》
 
昔紀の國よりはよき麻衣を出したるにや、此事はあさもよい紀とつゞくるに付て別に委注すべし、歌の意は麻衣を著るにつけて紀人はなつかしく思はるれば、同じくは妹背山に麻を蒔て麻衣を織れ、然らば彌なつかしからむとよまれたるにや、吾妹とは今は廣く紀の國の麻衣を織る女を指す詞なり、六帖に、麻衣の歌として作者ををとまろ卿とせるも下の注にたがへり、尾の句ををまけわきもことあるも今の點に及ばず、
 
初、あさ衣きれはなつかし 此哥あさもよいきとつゝく枕言につきて、別に注してつく
 
(55)右七首者藤原卿作未審年月
 
さきに人丸集の歌と注せしよりこなた八首あり、其中に初の一首は作者なきにや、今按藤原卿といへるは藤原北卿と云へる北の字の落たる歟、大繊冠ならば内大臣藤原卿と云べし、藤原卿とのみ云ひては南卿北卿わかれず、南卿は武智麻呂なり、武智麻呂は和歌に不堪なりける歟集中一首もなければ北卿なるべしとは云なり
 
初、藤原卿 藤原北卿にて、房前なるへきを、北の字の落たるにこそ
 
1196 欲得※[果/衣]登乞者令取貝拾吾乎沾莫奥津白浪《イテツトトコハハトラセムカヒヒロフワレヲヌラスナオキツシラナミ》
 
イデは以前注せし如く兩義ある中に今は物を乞意なれば欲得とかけり、
 
1197 手取之柄二忘跡礒人之曰師戀忘貝言二師有來《テニトリシカラニワスルトアマノイヒシコヒワスレカヒコトニシアリケリ》
 
奥義抄に遣句歌の例に出さる、一二の句のつゞきに依てなり、第九に語繼からにもここだ戀しきをとよめるも同じさまなり
 
1198 求食爲跡礒二住鶴曉去者濱風寒彌自妻喚毛《アサリストイソニスムタツアケユケハハマカセサムミオノカツマヨフモ》
 
1199 藻苅舟奥※[手偏+旁]來良之妹之島形見之浦爾鶴翔所見《モカリフネオキコキクラシイモカシマカタミノウラニタツカケルミユ》
 
(56)八雲御抄に妹之島、形見の浦ともに紀伊と注せさせ給へり、
 
初、いもかしまかたみの浦 八雲御抄に紀國と注せさせ給へり。前後の名所紀伊國なれは、しかるへし
 
1200 吾舟者從奧莫離向舟片待香光從浦榜將會《ワカフネハオキニサカルナムカヘフネカタマチカテラウラニコキアハム》
 
向舟は迎舟なり、
 
初、むかへふね 迎舟なり。片待かてらは、なかはゝ待かてらなり。此集に片待片設なといふ詞おほし
 
1201 大海之水底豐三立浪之將依思有礒之清左《オホウミノミナソコトヨミタツナミノヨラムトオモヘルイソノサヤケサ》
 
浪を承てよらんと云へるは舟をよせてよらんと思ふなり、
 
1202 自荒礒毛益而思哉玉之浦離小島夢石見《アライソニモマシテオモフヤタマノウラノハナレコシマノユメニシミユル》
 
思哉、【幽齋本云、オモヘヤ、】
 
發句はアリリユモとも讀べし、二の句はマシテオモヘヤと點じたる、第一にも有て注せし如く古風に叶へり、二句の意は荒磯浪の間なきにも猶まさりて故郷の妻の我を念へばにやとなり、玉ノ浦は第九に紀の國にてよめる歌に有にて知べし、安藝に同名あり、第十五にあり、離小島は玉浦の沖にはなれて有なるべし、八雲御抄には別に島の名とせさせたまへどもはなれ小鳥はなし、そはこと所にもよめり、離小島と云に別たる妻をよそへて夢に見ゆるとはいへり、し〔右○〕は助語なり、
 
初、玉のうらのはなれこしま 紀國なり。十五卷によめる玉の浦は別なり
 
(57)1203 礒上爾爪木折燒爲汝等吾漕來之奥津白玉《イソノウヘニツマキヲリタキナカタメトワカカツキコシオキツシラタマ》
 
爪木は、詩註(ニ)云、粗(ヲ)曰v薪(ト)、細(ヲ)曰v蒸、あまはかづきして寒くなれば火を燒て身をあたゝむる故爪木折燒とは云へり、汝ガタメトとは妻を指、六帖には妹がためと改たり、我かづきして眞珠を得て贈るやうに懇切の心をよみなせるなり、
 
初、つま木をりたき 詩(ノ)註(ニ)云。粗(ヲ)曰(ヒ)v薪(ト)、細(ヲ)曰(フ)v蒸《ツマキト》
 
1204 濱清美礒爾吾居者見者白水郎可將見釣不爲爾《ハマキヨミイソニワカヲレハミシヒトハアマトカミラムツリモセナクニ》
 
發句は濱の清きを愛してと云意なり、見者は今按ヨソヒトハと義訓せるは餘りにや、唯打任せてミルヒトハと讀べし、
 
初、見者 義をもてよそひとゝはよめる歟。唯打まかせてみるひとはと讀へき歟
 
1205 奥津梶漸々志夫乎欲見吾爲里乃隱久惜毛《オキツカチシハ/\シフヲミマクホリワカスルサトノカクラクヲシモ》
 
漸々、【別校本云、ユクユク、】
 
漸々としば/\とは義ことなれば和叶はず、第五にはヤウヤクと和したれば此處をもさよむべし、志夫乎は澀るをなり、櫓もやう/\押くたびれてしぶるを、吾見まくほしらする里のおのづから遠ざかりて隱て見えぬが惜きとなり、腰の句を下へ連ねて意得べし、漸々をユク/\と點ぜるも、ゆく/\はゆくら/\にてゆる/\の事なれ(58)ばやうやくと同じ意となるなり、
 
初、しは/\しふを しふは強る心といへり。たとへは追風なとのなきに、櫓してしひて漕すゝむるなり。しふをにて切て心得へし
 
1206 奥津波部都藻纒持依來十方君爾益有玉將縁八方《オキツナミヘツモマキモチヨリクトモキミニマサレルタマヨラムヤモ》
 
玉將縁八方、【別校本亦點云、タマヨラメヤモ、】
 
落句タマヨラメヤモと讀べし、
 
初、おきつなみへつもまきもて へつもは、海はたの藻なり。延喜式祝詞に、おきつも葉へつも葉といへり
 
一云|奥津浪邊波布敷縁來登母《オキツナミヘナミシクシクヨリクトモ》
 
1207 粟島爾許枳將渡等思鞆赤石門浪未佐和來《アハシマニコキワタラムトオモヘトモアカシノトナミイマタサワケリ》
 
粟島は阿波なり、門浪はせとなみの意なり、
 
1208 妹爾戀余越去者勢能山之妹爾不戀而有之乏左《イモニコヒワカコエユケハセノヤマノイモニコヒステアルカトモシサ》
 
妹ミ戀ズテとは妹山に指向ひてあればなり、落句の乏左は羨しきなり、
 
1209 人在者母之最愛子曾麻毛吉木川邊之妹與背之山《ヒトナラハオヤノマナコソアサモヨイキノカハツラノイモトセノヤマ》
 
母は今按ハヽとよむべし、川邊はカハノベとも讀べし、
 
初、人ならははゝのまなごそ 人ならはとは、人にてあらはなり。まなごは最愛子とかけることし。人のおやの子に、うるはしきあにと、いもうとゝを、ならへてみむかことしとなり。第六市原王の、木すらいもとせ有といふをとよみたまへる哥、引合てみるへし
 
(59)1210 吾妹子爾吾戀行者乏雲並居鴨妹與勢能山《ワキモコニワカコヒユケハトモシクモナラヒヲルカモイモトセノヤマ》
 
初、わきもこにわかこひゆけは 上に妹にこひわかこえゆけはといふと、またく同意にて、句すこしかはるのみ
 
1211 妹當今曾吾行目耳谷吾耳見乞事不問侶《イモカアタリイマソワカユクメニタニモワレニミヘコソコトトハストモ》
 
初の句は妹山のあたりを妹になして云へり、腰の句は今按メノミダニとも讀べし、
 
初、妹かあたり 此妹といふは妹山なり
 
1212 足代過而絲鹿乃山之櫻花不散在南還來萬代《アシロスキテイトカノヤマノサクラハナチラスモアラナムカヘリクルマテ》
 
絲鹿山、紀伊なり、足代と云も所の名なるべし、平氏大子傳に守屋大連の所領を天王寺に寄附したまふ由をかける中に河内國澀川郡に足代《アシロ》あり、今は寺領にはあらねど村の名改まらずして殘れり、此に准らへて知べし、
 
初、あしろ過ていとかの山 足代といふも所の名なるへし。平氏か聖徳太子傳に守屋の大連の所領をわかちて、天王寺へ寄附し給へる中に、河内國澁川郡足代村といふ所あり。今は天王寺の所領ならねと、昔の名あらたまらすしてあり。これに准して所の各なるへしとおもへり。いとかの山、紀伊國なり。紀の川にも、網代のあるへけれは、足代といふも、網代ある所にや
 
1213 名草山事西在來吾戀千重一重名草目名國《ナクサヤマコトニシアリケリワカコヒノチヘノヒトヘモナクサメナクニ》
 
事西在來、【袖中抄云、コトニサリケリ、】
 
袖中抄の意は四阿反左なれば約めてよめり、されど西の字をかけるを思ふに約めてよむは今樣なるべければ唯今のまゝに讀べし、し〔右○〕は助語なり、六帖に腰の句以下をわがこひはちへにひとへもなぐさまなくにとあれば此も今の點まされり、此歌第六坂(60)上郎女が名兒山の歌と同意なり、後撰に紀の國の名草の濱は君なれや、言のいふかひありとこそきけ、名草は郡の名なり、
 
初、名草山 紀伊國名草郡にある山なり。なくさ山とてなくさむるやうなれと、故郷をこふる心をは、ちゝの中のひとつもなくさめねは、たゝことはのみなりといふなり。ことは名をさせり。第六坂上郎女、筑前宗形郡名兒山をよめる哥、引てみるへし。よく似たり
 
1214 安太部去小爲手乃山之眞木葉毛久不見者蘿生爾家里《アタヘユクヲステノヤマノマキノハモヒサシクミネハコケヲヒニケリ》
 
安太部は魚梁《ヤナ》をうち鵜を養などする者の名なり、神武紀云、亦有2作v梁取v魚者1、天皇問v之、對曰、臣是|苞苴擔之《ニヘモツカ》子、此則阿太(ノ)養※[盧+鳥]部《ウカヒヲカ》始祖也、ヲステの山も前後のつゞきに依に紀伊國なり、此眞木は木の名なり、葉にこけおふと云に知られたり、六帖にもまきの歌とせり、續古今は發句を年つもると改て入らる、久しく見ねばと云に合せては如何侍らむ、又此事は人丸家集にも不載、今按まきの葉も久しく見ぬまに苔むすと云は萬の見ることの替りたるを云意知ぬべし、
 
初、あたべゆく あたべは安太氏のやなゝとうつものなり。部はとものへといふことく、安太氏の部類なり。神武紀(ニ)云。亦有2作《ウチテ》v梁《ヤナヲ》取魚者《スナトリスルモノ》1。【梁此(ヲハ)云2椰奈(ト)1】天皇問(タマフ)之。對(テ)曰。臣《ヤツカレハ》是|苞苴擔《ニヘモツカ》之子(ナリ)。【苞苴擔此(ヲハ)云2珥《ニ》倍毛|兎《ツト》1】此(レ)則阿太(ノ)養※[盧+鳥]部始祖《ウカヒヲカトホツオヤナリ》也。をすての山、紀の國なり。あた氏のものゝかよへは、かくつゝけたり
 
1215 玉津島能見而伊座青升吉平城有人之待問者如何《タマツシマヨクミテイマセアヲニヨシナラナルヒトノマチトハハイカニ》
 
能見テイマセは能見てゆきませなり、待問はハヾイカニとは能見たまはずば平城なる家人の待つけてとはむ時いかゞしたまはむなり、第六神社老麻呂が家なる妹が待問むためとよめる意なり、
 
(61)1216 鹽滿者如何將爲跡香方便海之神我手渡海部未通女等《シホミタハイカニセトカワタツミノカミカテワタルアマノヲトメラ》
 
方便海とかけること其意を得ず、もし諸大龍王等は諸佛菩薩の善權方便なるも多ければ其意にてかけるにや、神が手渡ルとは海神の掌中に入てたやすく取られぬべき意なり、鹽干の間に遠く出て藻など拾ふを危く思ひやるなり、又第十六に黄染の屋形神之門渡とよめり、第十三にさかとを過てと、さかと〔三字傍線〕を坂手とかけり、然れば今も神カトワタルと讀て門渡と意得べきか、又第六に石上乙丸卿の歌に大埼の神の小濱とよまれたるも紀州なれば海神によせて所の名歟、
 
初、方便海之神我手渡 方便海とかきて、わたつみとよめるやう、その意を得す。管見抄云。わたつみは海龍王なり。海を領したる神なれは、海をわたるをいはんとて、わたつみの神が手わたるとはよめり。此手わたるをは、とわたると讀へし。手をとゝよむ事おほし。以上管見抄にいへり。海龍王は、婆竭羅龍王なり。婆竭羅は梵語、こゝには釋して海といふ。およそ諸の善龍は、衆生を利益する方便にて、龍宮城をしめてすめは、そのこゝろにて、方便海とかけるにや。第十六に、おきつ國しらせし君かそめやかた、きそめのやかた神のとわたるとよめるに似たり。海をわたるものは、龍王の手に入たるものなれは神が手わたるを、字のまゝによみて、しかこゝろ得たるもよし、今案、第六に、石上朝臣乙麿卿、土左へなかされたまふとて、紀伊國にてよまれたる哥に、大埼の神の小濱はせはけれともゝふな人も過といはなくに。此神が手わたるといふも、若彼神の小濱の事にや。前後皆紀の國の名所をよめる哥のみなれはなり
 
1217 玉津島見之善雲吾無京往而戀幕思者《タマツシマミテシヨケクモワレハナシミヤコニユキテコヒマクオモヘハ》
 
見テシのし〔右○〕は助語なり、是は大かたにて心のなぐさむばかりならばよからむを、都へ歸ても忘られず戀思はる、却てあしき玉津島なりと云はほむる意なり、第十五に宅守が、人よりは妹ぞもあしきとよみ、伊勢物語に業平の絶て櫻のなかりせばとよまれたる意これに同じ、
 
初、玉津嶋見てしよけくも これは玉津嶋をあまりに愛して、ほむるとて、かへりてよくもなしとはいふなり。大かたに見て、心のなくさむはかりならはよからんを、都へ歸りても、わすれすこひおもはるへき玉津嶋なれは、なましひに見たる事といふこゝろによめり。第十五中臣朝臣宅守か哥に、ひとよりは、妹ぞもあしき。こひもなく、あらましものを。おもはしめつゝ。此心に似たり
 
1218 黒牛乃海紅丹穗經百磯城乃大宮人四朝入爲良霜《クロウシノウミクレナヰニホフモヽシキノオホミヤヒトシアサリスラシモ》
 
(62)黒牛ノ海、紀伊なり、黒牛に對して紅ニホフと云、紅は女の赤裙なり、下にアサリと云は赤裙引つれての意なり、第九に黒牛がた鹽干の浦を紅の、玉|裙《モ》すそひき往はたがつまとよめるを思ふべし、大宮人シのし〔右○〕は助語なり、
 
初、くろうしの海紅にほふ 紅にほふ大宮人は、紅顧あるひは衣服の美をもいふへし。此前後の哥皆行幸の御供の時の哥なるへし
 
1219 若浦爾白浪立而奥風寒暮者山跡之所念《ワカノウラニシラナミタチテオキツカセサムキユフヘハヤマトシソオモフ》
 
落句はヤマトシオモホユとよむべし、し〔右○〕は助語なり、
 
1220 爲妹玉乎拾跡木國之湯等乃三埼二此日鞍四通《イモカタメタマヲヒロフトキノクニノユラノミサキニコノヒクラシツ》
 
1221 吾舟乃梶者莫引自山跡戀來之心未飽九二《ワカフネノカチハナヒキソヤマトヨリコヒコシコヽロイマタアカナクニ》
 
梶者莫引とは、な引とゝのへ舟をやりそとなり、第二十に家持の歌にも梶引のぼりとあり、
 
初、わか舟のかちはなひきそ 第二卷人麿の哥に、ゆくふねのかち引折てとある所に委注せり。かち引は、櫓を引たてゝこく心なり。やまとよりこひ來し心とは、此海のおもしろきを見むとこひ思しなり
 
1222 玉津島雖見不飽何爲而※[果/衣]持將去不見人之爲《タマツシマミレトモアカスイカニシテツヽミモテユカムミヌヒトノタメ》
 
六帖つと歌に九卿と作者をつけて持將去をもたらむと云へり、風雅も同じ、但よみ人しらずに入る、
 
(63)1223 綿之底奥巳具舟乎於邊將因風毛吹額波不立而《ワタノソコオキコクフネヲヘニヨセムカセモフカヌカナミタヽスシテ》
 
第十の七夕歌に風は吹ども浪立なゆめとある、此歌のねがひにおなじ、
 
初、わたのそこおきこく おきおくはおなし心にて、ふかきをいへは、わたの底おきこくとはいへり。風もふかぬかは、此集にかやうによめるは、ねかふ心なり。此哥もしかり。波はたゝすして、おきなる舟はいそによせむ風は、誰もねかはしかるへきものなり
 
1224 大葉山霞蒙狹夜深而吾舩將泊停不知文《オホハヤマカスミタナヒキサヨフケテワカフネハテムトマリシラスモ》
 
蒙は第十二に朝霞たなびく山と云にもかけり、
 
1225 狭夜深而夜中乃方爾欝之苦呼之舟人泊兼鴨《サヨフケテヨナカノカタニオホヽシクヨヒシフナヒトヽハテケムカモ》
 
泊兼鴨、【別校本云、ハテニケムカモ、】
 
夜中ノ方とは亥の時過る位なり、名所などにはあらず、此歌は前後紀州の名所の中にあるに.第九には高島作の中に.客にあればよなかをさして照月のとよめり、此を合て知べし、落句はハヲニケムカモと讀べし、
 
初、さよふけてよなかのかたに よなかのかたは、夜半に近き方なり。第九によなかをさして照月ともよめり
 
1226 神前荒石毛不所見浪立奴從何處將行與寄道者無荷《ミワノサキアライソモミエスナミタヽヌイツコヨリユカムヨキミチハナシニ》
 
浪立奴、【校本云、ナミタチヌ、】
 
荒石はアリソとも讀べし、腰の句は校本の點よし、ヨキミチとはかたはらより廻りて(64)行道なり、好道と云にはあらず、
 
初、みわのさきあらいそも 此みわのさきは、紀伊の國にあり。みわさきさのとてつゝきなりといへり。第三長忌寸奥麻呂哥に、くるしくもふりくる雨かみわの崎さのゝわたりに家もあらなくにといふに注せり。浪立奴は、なみたちぬと讀へし。よき道はなしにとは、よきて行へき道のなきなり。六帖に、わすれ川よく道なしと聞てしはいとふの海の立はなりけれ
 
1227 礒立奥邊乎見者海藻苅舟海人※[手偏+旁]出良之鴨翔所見《イソニタチオキヘヲミレハモカリフネアマコキイツラシカモカケルミユ》
 
海藻は六帖にも今の如くも〔右○〕とあれども今按|メ〔右○〕とよむべし、和名云、本草云、海藻、味苦※[酉+咸]、寒無毒、【和名、爾木米、俗用2和布1、】わかめの事なり、
 
初、海藻苅舟 もかりふねとあれとも、めかりふねとよむへし。海藻はわかめのことなり。和名集云。本草云。海藻味苦※[酉+咸]。寒(ニシテ)無v毒【和名爾木米。俗用2和布1】
 
1228 風早之三穗乃浦廻乎榜舟之船人動浪立良下《カサハヤノミホノウラワヲコクフネノフナヒトサワクナミタツラシモ》
 
風早ノミホノ浦第三に注せしが如し、
 
初、風早のみほのうらわを みほのうら、これまて皆紀伊國にての哥なり。みほのうらきのくになることは、第三の廿五葉、四十九葉に委注せり。八雲御抄に、此風早といへるを、別に所の名とせさせたまへとも、これは常に風の早き所といふ心にて、枕詞とせるなり。第十四下總國の哥に、かつしかのまゝのうらまをこく舟の下句今と全同
 
1229 吾舟者明且石之湖爾※[手偏+旁]泊牟奥方莫放狹夜深去來《ワカフネハアカシノハマニコキトメムオキヘサカルナサヨフケニケリ》
 
潮爾、【別校本亦云、アカシホニ、官本亦云、ミナトニ、】  ※[手偏+旁]泊牟、【別校本亦云、コキハテム】
 
潮はシホとよむは常の事なり、第十一人丸集の中に潮葦をミナトアシと和し、潮核延子菅《ミナトニネハフコスケノ》云々、此等によるに異を注する兩訓意に任て用べし、ハマと訓じたる例いまだ見及ばず、腰の句もまた例に依てコギハテムとよむべし、
 
初、わか舟はあかしのはまに 明旦石之潮爾とかきたれは、あかしのしほにとよむへくや。はまとよめるやう心得かたし
 
1230 千磐破金之三崎乎過鞆吾者不忘牡鹿之須賣神《チハヤフルカネノミサキヲスクレトモワレハワスレスシカノスメカミ》
 
(65)金の三崎は筑前なり、稱徳紀云、神護元年八月辛巳、筑前國宗形郡(ノ)大領外從六位下宗形朝臣深津授2外從五位下(ヲ)、其妻無位竹生王從五位下1、並以d被2僧壽應誘1造c金埼(ノ)船瀬(ヲ)u也、渡海に大事とする處なる故なり、彼處をば過たれども尚志加の明神を忘れ奉らず、衛護したまはむ事を祈り御めぐみを仰ぐとなり、三、四の句はスグルトモワレハワスレジとも讀べし、志加神は住吉と同じ、
 
初、ちはやふる金のみさきを 金のみさきは筑前なり。績日本紀第二十八、稱徳紀云。神護景雲元年八月辛巳(ノヒ)筑前國宗形郡(ノ)大領外從六位下宗形朝臣深津(ニ)授2外從五位下(ヲ)1。其妻無位竹生王(ヲ)從五位下(トス)。並(ニ)以(ナリ)d被(テ)2僧壽應(ニ)誘(ハ)1造(レルヲ)c金(カ)埼(ノ)船瀬(ヲ)u也。しかのすめ神は、延喜式第十神名帳下云。筑前國糟屋郡志加海神社三座【並名神。大。】およそ日本紀等によるに、國郡山海みな神ならすといふ所なし。中にも金のみさきなとは、海上に大事とする所なれは、ちはやふる金のみさきとはいへり。そのみさきはすくれとも、志加海神の御めくみを、我はわすれす、渡海ことゆへなからん事を祈申となり。志加神社は、表筒男、中筒男、底簡男にて、住吉と同御神なり
 
1231 天霧相日方吹羅之水莖之崗水門爾波立渡《アマキリアヒカタフクラシミツクキノヲカノミナトニナミタチワタル》
 
發句はアマギラヒと讀べきかの事第六讃久邇新京歌に云が如し、日方は袖中抄云、坤風也、無名抄云、ひかたは巽風也、晝はふかで夜吹風也、私云、たつみの風をばをしやなと云、又伊勢東風と云、以上袖中抄なり、顯昭先みづからの義をたてゝ、次に俊頼の義を出して私云とて巽風の名を別に出されたるは、巽にはあらず坤風也と定むる意なるべし、水莖之崗水門は第六に粗注せしが如し、仲哀紀云八年十有一月丙戌朔甲午、天皇至2筑紫國崗(ノ)水門(ニ)1、仲哀紀云八年春正月己卯朔壬午、幸2筑紫1時岡縣主祖熊鰐聞2天皇軍駕1云云、既而導2海路1自2山鹿岬1【和名云、遠賀郡山鹿、】廻(テ)之入2崗浦1云、皇后別船自2洞海1【洞此云2久岐1】入之云々、水莖と洞海と同處歟、筑前風土記云、塢※[舟+可]《ヲカノ》縣(ノ)之東側近有2大江口1、名曰2焉※[舟+可](ノ)水門1、湛v容2大船1焉、(66)從v彼通v島鳥|旗《ハタノ》澳名(ヲ)曰2岫門鳥旗等1【鳥、多也、岫門、久岐也、】堪v容2小船(ヲ)1焉
 
初、天きりあひ日かた吹らし ひかたは、ひつしさるのかたよりふく風の名なり。水くきのをかのみなとは、筑前にあり。和名集云。遠賀郡。此郡に有。第三大納言大伴卿の哥に、ますらをとおもへるわれや水くきのみつきのうへに涙のこはむ。管見抄に水くきは水のなかくいりこみたる所なりといへり。日本紀第三云。十有一月丙戌朔甲午、天皇至2筑紫國崗(ノ)水門(ニ)1。同第八仲哀紀云。八年春正月己卯朔壬午(ノヒ)幸《イテマス》2筑紫(ニ)1。時(ニ)岡(ノ)縣主(ノ)祖|熊鰐《クマワニ・ワニ》聞《ウケタマハテ》2天皇|車駕《オホムタスルヲ》1、豫《カネテ》拔《ネコシ》2取百枝(ノ)賢木(ヲ)1以(テ)立(テヽ)2九|尋《ヒロ》船之|舳《ヘニ》1〇既而|導《ミチヒキツカマツル》2海(ツ)路《チノ》1。自2山鹿(ノ)岬《サキ》1廻(テ)之入(マス)2崗浦(ニ)1。到(テ)2水門《ミナトニ》1御船不v得v進《ユクコトヲ》。則問(テ)2熊鰐(ニ)白。朕聞(ク)汝(チ)熊鰐(ハ)者有(テ)2明《キヨキ》心1以|參來《マウケリ》。何(ソ)船(ノ)不(ル)v進《ユカ》。熊鰐|奏《マウシテ》之曰。御船所2以不(ル)1v得v進(コトヲ)者非2臣(カ)罪(ニ)1。是(ノ)浦(ノ)口(ニ)有2男女《ヒコカミヒメカミ》二(リノ)神1。男神(ヲハ)曰2大倉主(ト)1。女神(ヲハ)曰2菟《ツ》夫羅媛(ト)1。必是神之|心《ミ》歟。天皇則|祷祈《クミノミタマフ》之。以2挟抄者《カチトリ》倭(ノ)國菟田(ノ)人伊賀彦(ヲ)1爲(テ)v祝《ハフリト》令(タマフ)v祭(ラ)。則|舶《ミ》得v進(コトヲ)。皇后|別船《コトミフネニメシテ》自2洞海《クキノウミ》1【洞此云2久岐(ト)1】入(タマフ)之。潮|涸《ヒテ》不v得v進(コト)。時(ニ)熊鰐更(ニ)還(テ)之自v洞奉v迎2皇后(ヲ)1。則見(タ)御船(ノ)不(ルヲ)1v進、惶懼《オチカシコマリテ》之忽(ニ)作(テ)2魚|沼《イケ》鳥|池《イケヲ》1悉聚(ム)2魚鳥(ヲ)1。皇后|看《ミソナハシテ》2是(ノ)魚鳥之遊(ヲ)1而忿(ノ)心稍(ニ)解(ヌ)。及(テ)2潮(ノ)滿(ニ)即泊2于|崗津《エオカツニ》1。筑前國(ノ)風士記(ニ)云。塢※[舟+可]縣(ノ)之東側近有2大江口1。名曰2塢※[舟+可](ノ)水門《ミナトト》1。堪(タリ)v容《イルヽニ》2大船(ヲ)1焉。從v彼通v嶋|鳥旗《タハタノ》澳(ヲ)名2岫《クキ》門(ト)1。鳥旗等(ハ)【鳥(ハ)多《タ》也。岫門(ハ)久岐也】堪(タリ)v容(ルヽニ)2小船(ヲ)1焉。海中(ニ)有2南小島1。其一(ヲ)曰2何※[白+斗]《カハ》嶋(ト)1。島(ニ)生2支子(ヲ)。海(ニ)出2鮑魚(ヲ)1。其一(ヲ)曰2資波嶋(ト)1。兩嶋倶(ニ)生(ス)2烏葛冬薑(ヲ)1【烏葛黒葛也。冬薑(ハ)迂菜(ナリ)也。】みつくきは、日本紀に洞《クキノ》海といひ、風土記に岫門《クキ》といへるなるへし。さて水莖としもいふゆへは、管見抄に注せる心にも有なん。近江に水莖の岡とて有も、水海の入江にめくれるよしうけたまはれは、これも管見抄にいへる心にて、おなし名をやおほせ侍けむ
 
1232 大海之波者畏然有十方神乎齊禮而舩出爲者如何《オホウミノナミハヲソロシシカレトモカミヲタムケテフナテセハイカニ》
 
波者畏、【別校本云、カシコシ、】  齊禮而、【校本云、齊或作v齋、】
 
如何とは何事かあらんの意なり、
 
1233 未通女等之織機上乎眞櫛用掻上拷島波間從所見《ヲトメラカヲルハタノウヘヲマクシモテカヽケタクシマナミマナミマヨリミユ》
 
眞櫛モテカヽゲと云までは栲島と云はん爲の序なり、布を經【正辭云織の字の誤か】る時櫛をもて掻て絲のまがひたるをも能解てなり、玉篇云※[手偏+韵の旁]、【子吝切、織者梳v絲具、】此字彼櫛の名なり、栲島とつづくるは上ると云意なり、櫛にて掻て絲の浮上るやうにする故なり、栲島何れの國にありと云事を知らず、
 
初、をとめらかをるはたのうへをまくしもてかゝけたくしま波間よりみゆ はたをるに、糸筋のまかはぬために、櫛をもてはたものゝ上を掻なり。たくはたくるなり。此かゝけたくしま未v勘v國。玉篇云。杓【子吝切。織者(ノ)梳《ケツル》v絲(ヲ)具(ナリ)。】此字機の上をかく櫛なり。今案、かゝけたくしまは、あまりになかき名なり。をとめこか袖ふる山、さゝれなみいそこせちなるなといふことく、嶋の名はたゝたくしまなるを、櫛をもて機の上をかゝけて、その糸をたくるといふ心に、かゝけたく嶋とはつゝけたるにもやあらむ
 
1234 塩早三礒回荷居者入潮爲海人鳥屋見濫多比由久和禮乎《シホハヤミイソワニヲレハアサリスルアマトヤミランタヒユクワレヲ》
 
初、塩はや見いそわにをれは 此下句、此集に全同なる有
 
1235 浪高之奈何梶取水鳥之浮宿也應爲猶哉可※[手偏+旁]《ナミタカシイカニカチトリミツトリノウキネヤスヘキナヲヤコクヘキ》
 
初、浪高し 此哥は※[楫+戈]師《カチトリ》と談合するやうによめり。第一句の下、句絶。第二の下、句。第四の下も句なり
 
(67)1236 夢耳繼而所見小竹島之越礒波之敷布所念《ユメニノミツキテミユレハサヽシマノイソコスナミノシキテシクシクオモホユ》
 
夢ニノミ繼テミユルとは故郷の妻なり、小竹島を八雲には石見と注せさせたまへり、彼御抄には石見と注せさせ給へる名所いと多し、
 
初、ゆめにのみつきてみゆれは 故郷の事なり。さゝ嶋八雲御抄に石見と注せさせたまへり。彼御抄には、石見と注せさせ給へる所おほし。もし人丸の出られける所なるゆへ、おしはからせたまひても、しか載させたまへるにや
 
1237 靜母岸者波者縁家留香此屋通聞乍居者《シツカニモキシニハナミハヨリケルカコノヤトホシニキヽツヽヲレハ》
 
初、此屋とほしに聞つゝをれは 家の内にをりなから、外なる音をきくなり
 
1238 竹島乃阿戸白波者動友吾家思五百入※[金+施の旁]染《タカシマノアトカハナミハトヨメトモワレハイヘオモフイホリカナシモ》
 
八雲御抄に、たけ島、備前と注せさせ給へれど、第九に高島作歌二首の初に此歌再たび出たれば今タカシマと點ぜるに依るべし、白の字カハと和せるやう不審なり、第九には河波とかけり、アトノシラナミハと點ずべきか、腰の句以下は第二に人丸のさゝの葉はみ山もさやに亂るめりとよまれたる意に同じ、※[金+施の旁]染をカナシモと點ぜしは寫生の誤なるべし、カナシミなり、(68)上に大海のみなそことよみ立波のよらむと思へる濱のさやけさとよめる歌に少替れり、ユスリはゆすり動かすなり、古歌にも麻裳吉紀の川ゆすり行水のとよめり、
 
初、たかしまのあとかは波はとよめともわれは家おもふいほりかなしみ 此たかしまを、竹島とかけるを、八雲御抄嶋部にたけ【備前万】と注せさせたまへり。されとも、第九に、高島作歌二首の第一に、高鳴のあとかはなみはさはけともわれは家おもふたひねかなしみとて、此哥の第三の句第五の句、兩句の詞すこしつゝかはりて ふたゝひ載たり。是は近江の高鳴郡の名所なり。あとのみなとゝもよめり。第二に人まろの哥に、さゝの葉はみ山もさやにみたれともわれは妹おもふわかれきぬれは。この心とおなし。いほりはたひのかりいほなれは、そのかなしさに、故郷をおもふ心は、あと川波のおひたゝしき音にも、まきれぬなり
 
1239 大海之礒本由須埋立波之將依念有濱之淨奚久《オホウミノイソモトユスリタツナミノヨラムトオモヘルハマノサヤケク》
 
縁ケルカのか〔右○〕は哉なり、屋通とは夜《ヨル》屋《ヤド》ながら聞なり、
 
初、大海のいそもとゆすり いそもとは石本なり。石をもゆすりうこかすやうに、大浪のたつことなりといへり。字のことく磯の許といへるにても有へし。古歌に、あさもよいきの川ゆすり行水のいつさやむさやいるさやむさや。源氏物語賢木に、藤つほの尼になりたまふことをいへるに、御をちのよかはの僧都ちかうまいりたまひて、御くしおろしたまふほとに、宮のうちゆすりてゆゝしうなきみちたりとかけり。よらんとおもへるとは、浪をかりて、わか立よらんとおもへる濱のきよきをいへり
 
1240 珠〓見諸戸山矣行之鹿齒面白四手古昔所念《タマクシケミモロトヤマヲユキシカハオモシロクシテムカシオモホユ》
 
初二句は第二に見えたり、下句は面白きに付ても昔の事を思ひ出すとなり、
 
初、玉くしけみもろと山 箱にふたとみとあれは、玉くしけみといひかけたり。第二に大織冠の御哥にも、玉くしけみむろと山のさねかつらと有。みむろとは、山城国字治郡に有。おもしろくしてむかしおもほゆとは、おもしろくみゆるにつけても、さま/\昔の事をおもひ出るなり。おもしろしといふ詞は、天照大神天磐戸を出させたまひて、人の面はしめて明に見えけれは、阿那於茂志呂といひけるよりおこりたる詞なり。委古語拾遺に見えたり。※[立心偏+可]怜とかきて、此集にあはれともおもしろしともよめり。匣の字を※[しんにょう+更]に作れるは誤なり
 
1241 黒玉之玄髪山乎朝越而山下露爾沾來鴨《ヌハタマノクロカミヤマヲアサコエテヤマシタツユニヌレニケルカモ》
 
玄髪山、下野なり、六帖山の歌には四の句この下露にとて入れたれば山は若木を誤れるか、但又しづくの歌にはけふこえてしづくにいたくぬれにけるかなとて人丸の歌とせれば、他にはよるべからず、
 
初、くろかみ山 下野なり今の日光山なりと聞は、しかりやいなやいまたしらす。第十一にも、ぬは玉のくろかみ山の山すけに小雨ふりしきます/\そおもふ
 
1242 足引之山行暮宿借者妹立待而宿將借鴨《アシヒキノヤマユキクラシヤトカラハイモタチマチテヤトカサムカモ》
 
山行暮、【校本云、ヤマユキクレテ、】
 
拾遺には旅の思をのぶと云事をとて、腰を山こえくれて、落句をいねさらむかもとあり、作者ともに不審なり、妹立待而下の句は我妻の我を思ふ如き人ありて宿かさむや、さる人もあらじとよめるか、
 
(69)1243 視渡者近里廻乎田本欲今衣吾來禮巾振之野爾《ミワタセハチカキサトワヲタモトホリイマソワカクレヒレフリシノニ》
 
里廻とはいそわのわ〔右○〕の如く里のまがれるなり、吾クレは此てにをは今にしては叶はず、昔叶へる樣あるべし、其意を得ず、先わがくると意得べし、第十一之二十葉第十行、第十八之八葉第十行、同三十四葉第九行にも此類あり、落句は旅人に宿れとて女のひれふりたりし野なり、此は次上の作者のよめる歟、見渡しには近き里なれどまがれるに傍てめぐり來れば妹が立待て領巾振し野にやう/\今來つきたるとなり、第十一に見わたせば近き渡をたもとほり、今やきますと戀つゝぞをる、待人のよめると待たるる人のよめると替りて似たる歌なり、巾の上には領の字の脱たるか、
 
初、みわたせはちかきさとわをたもとほり たもとほりは廻なり。今そわかくれひれふりし野にとは、今そといひて、わかくれとは、てにをはかなはす。今こそなるを字のおちたる歟。今そわかくるといふへきを、留と禮と音かよへは、わかくれといへるか。わきまへかたし。ひれふりし野といへるは、第五卷に見えたる、松浦佐用姫か領巾をふりし、松浦山のふもとにある野にや。巾振之野とかきたれは、ひれふりの野ともよみぬへし。又次上の哥と二首同人の作にて、問答のやうによめる歟。上をうけて讀る哥ならは、ひれふりし野とよみて、いも立まちてといへるいもがふるひれと意得へし。哥の心は、見わたしは近き里なれと、もとほる道なれは、やう/\今來るといふ心なり。清少納言かちかくて遠きもの、くらまの山のつゝらをりといへる。おもひ合すへし。第十一の哥に、見わたせは近きわたりをたもとほり今やきますとこひつゝそをる。上の句全同《・全同ナラス》にて、下の句は待人のよめると、またるゝものゝ讀るとかはれるのみなり
 
1244 未通女等之放髪乎木綿山雲莫蒙家當將見《ヲトメラカフリワカケミヲユフノヤマクモナカクシソイヘノアタリミム》
 
放髪乎、【官本亦云、ハナチノカミヲ、】  雲莫蒙、【別校本云、クモナタナヒキ、】
 
放髪を六帖にははなるゝかみをとあれど第十四に橘のこはのはなりがとよみ、第十六にもうなゐはなりと讀たればハナリノカミと讀か、さらずばハナチノカミとよむべし、第十一にふりわけのかみをみしかみとよめるには振別之髪とかけり、はなりと(70)云事のなくば義訓してふりわけがみとよむべけれど義訓をまたぬ詞あれば字に任せて讀べし、木綿山は第十に豐國の木綿山雲とよめり、近來の類字名所抄に豐後速見郡と注せり、郡の名をさへ出したれば能考たる所あるべし、八雲には豐前と注せさせたまへり、初の二句はゆふを結とつゞく、上の妹が紐ゆふはかふちのつゞきに同じ、雲莫蒙は此蒙の字上にも大葉山霞蒙ともかき、くもなたなびきと云詞もあれば別校本の點もよし、されど第十二にいこま山雲なかくしそと云歌にも今の如く書たれば今の本に任すべくや、
 
初、をとめらか髪をゆふの山 管見抄云。いまた髪を上ぬによりて、はなちの髪とはいふなり。ふりわけ髪ともよめり。肩のほとにふりわかれて、またゆひあけぬ心なり。以上。第十六、橘の寺の長屋にわかゐね《率《ヰテ》》しうなゐはなりは髭あけつらんか。此うなゐはなりを、注に放髪丱とかけり。知と里と同韻にて通すれは、はなりといふははなちなり。此ゆふの山を、八雲御抄には豐前と注せさせたまひ、類字抄には、豐後速見郡と載たり。かんかふる所有なるへし。第十に、おもひ出る時はすへなみ豐国のゆふ山雪のけぬへくおもほゆ。これはとよくに前後にわたれは、決しかたし
 
1245 四可能白水郎乃釣舩之綱不堪情念而出而來家里《シカノアマノツリフネノツナタヘスシテコヽロニオモヒテイテヽキニケリ》
 
釣船ノ綱タヘズシテと云に釣のよはくて堪ぬと云と綱の如く堪ぬと云との二つの意あるべし、後の義は布留の早田の穗には出ずと云へる例なり、かくして下の句の意も按二つあるべし、一つには、志加海の面白きに湛ずして心になごり惜く思ひながら出て來るとよめる歟、又志加海にて釣舟を見てあの鋼の如く故郷離別の悲に堪ずして故郷や心に思て出て來にけりとよめる歟六帖にはつりする小舟うけたへずとあるは改て入れたるなるべし、
 
初、しかのあまの釣舟のつなたへすして これは誠につりふねの綱の、つなくに堪さるにはあらす。堪るつなをかりて、たへすしてといへるは、いそのかみふるのわさ田のほには出す心の内にこひやわたらんといふ哥の、ほに出る物をかりて、おもひのほに出ぬことをいへるかことし
 
(71)1246 之加乃白水郎之燒塩煙風乎疾立者不上山爾輕引《シカノアマノシホヤクケフリカセヲイタミタチハノホラテヤマニタナヒク》
 
燒鹽煙、【官本亦云、ヤクシホケフリ、】
 
六帖にはすまのあまのとて火の歌とせり、
 
初、しかのあまのしほやく煙 第三、日置少老か哥に、なはの浦に塩やくけふり夕されは行過かねて山にたな引。同意の哥なり
 
右件歌者古集中出
 
古の下に歌の字落たり、他處には古歌集とあり、此注は一首に限るべきか、藤原卿の歌七首の後を皆指歟、
 
1247 大穴道少御神作妹勢能山見吉《オホナムチスクナミカミノツクリタルイモセノヤマヲミレハシヨシモ》
 
此發句の神名集中皆オホナムチにて今の點の如し、落句は拾遺にはみるぞうれしき、袖中抄にはみればしるしも、此等のよみやう字に叶はねば改たる歟、六帖にはしるはしもよし、幽齋本にはミルハシヨシモなり、或本には毛を加へたり、今按第六坂上郎女詠元興寺里歌并に第八尾張連歌の落句に准じてミラクシヨシモと讀べし、
 
初、大なむちすくなみ神 すくな御神は、少彦名なり。第三に、第六に、此二神をひとつによめる哥有て、すてに日本紀を引て注しつ
 
1248 吾妹子見偲奥藻花開在我當與《ワキモコカミツヽシノハムオキツモノハナサキタラハワレニツケコヨ》
 
(72)今按發句の今の點理不叶歟、ワキモコトと讀て第二の句を句絶とす、落句を第六に如是爲乍遊飲與、此與の字に付て注せし如くコソと點ずべきか、告來與ともかゝざるをツゲコヨと讀べき理なし、此は海邊の旅に海士にかくあつらふる意なり、藻の花のうるはしきをみて妻に思ひよそへてなぐさまむとなり、
 
1249 君爲浮沾池菱採我染袖沾在哉《キミカタメウキヌノイケノヒシトルトワカソメシソテヌレニケルカナ》
 
浮沾池、【六帖、ウキヌノイケニ、】
 
沾はヌルと訓ずれば下畧してヌ〔右○〕と用たる歟、今按沼の字を誤れるなるべし、浮沼池、八雲に石見と注し給へり、落句は六帖にもぬれにけるかもとあれど共に在の字に叶はず、今按ヌレニタルカナ、と和し替べし、第十一に行行不相妹故云々、此歌落句も今の如く書たるを今按の如く點ぜり、
 
初、君かためうきぬの池のひしとると うきぬの池、石見と、八雲御抄に載たまへり。採の字はつむとも讀へし。沾在哉は、ぬれにたるかなとよむへし。ぬれにけるかなは誤なり。かなといふ詞、此集におほくかもとよみ、日本紀にはかねとあるに、かなといへるは、此哥のほかには、第十一の五葉に二首あるのみ歟。第十六豊前國白水郎か哥に、とよくにのきくの池なるひしのうれをつむとや妹かみそてぬれけん。文選郭景純(カ)江(ノ)賦(ニ)云。忽忘(テ)v夕(ヲ)而|宵《ヨル》歸。詠(シテ)2採菱(ヲ)1以叩(ク)v舷(ヲ)。王維(カ)詩(ニ)云。渡頭燈火起(ル)、處々採(テ)v菱(ヲ)歸
 
1250 妹爲菅實採行吾山路惑此日暮《イモカタメスカノミトリテユクワレヲヤマチマトヒテコノヒクラシツ》
 
菅實採、【六帖、スカノミトルト、別校本、スカノミトリニ、】  行吾、【六帖、ユクワレハ、】  惑、【六帖、マヨヒテ、】
 
菅實は下に山路といへば山菅なり、採は今の點よからず、六帖或別校本によりて讀べ(73)し、上の妹が爲貝を拾ふととよめる歌と事は替りて意同じ、
 
初、妹かためすかの實とりに 此すかの實といへるは、常の菅とは見えす。山菅にて変門冬なるへし
 
右四首柿本朝臣人麿之歌集出
 
萬葉集代匠記卷之七上
 
(1)萬葉集代匠記卷之七中
 
間答
 
1251 佐保河爾鳴成智鳥何師鴨川原乎思努比益河上《サホカハニナクナルチトリナニシカモカハラヲシノヒイヤカハノホル》
 
第十喚子烏をよめるにも、佐保の山べを上り下りにとあり、
 
1252 人社者意保爾毛言目我幾許師奴布川原乎※[手偏+栗]結勿謹《ヒトコソハオホニモイハメワカコヽタシノフカハラヲシメナユフナユメ》
 
是は千鳥と成て答るなり、尾句は標結て我を上らせねやうにすなとなり、
 
初、おほにもいはめ おほよそにいはめなり。第三に、おほにそみつるわつかそま山と家持のよみし心なり。集中におほき詞なり。わがといへるは、千鳥のわれなり。しめゆふな《・莫》とは、人にいふ千鳥の心なり
 
右二首詠鳥
 
1253 神樂浪之思我津乃白水郎者吾無二潜者莫爲浪雖不立《サヽナミノシカツノアマハワレナシニイサリハナセソナミタヽストモ》
 
潜者莫爲、【別校本亦云、カツキハナセソ、】
 
我ナシニとは我が浦に出て見ぬ時を云へり、
 
(2)1254 大舩爾梶之母有奈牟君無爾潜爲八方波雖不起《オホフネニカチシモアラナムキミナシニイサリセメヤモナミタヽストモ》
 
梶シモのし〔右○〕は助語なり、大船に梶もあらなむと云意は、然らば君が乘て出て遊覽すべければいさりして見せまつらむ、君が見ずば浪たゝぬ日もかづきはせじとなり、
 
右二首詠白水郎
 
臨時
 
歌ごとに皆此意を以て見るべし、
 
初、臨時 これは時にのそみてよむ哥なれは、部類さたまるへからす
 
1255 月草爾衣曾染流君之爲綵色衣將摺跡念而《ツキクサニコロモソソムルキミカタメイロトルコロモスラムトオモヒテ》
 
衣曾、【紀州本云、キヌヲソ、】  綵色衣、【幽齋本云、イロトリコロモ、】
 
綵色衣はイロトリコロモと體に讀べし、此卷下に、つき草に衣色とりすらめどもともよめり、
 
1256 春霞井上從直爾道者雖有君爾將相登他回來毛《ハルカスミヰノウヘニタヽニミチハアレトキミニアハムトタモトホリクモ》
 
井上は今按ヰカミと讀べし、或人の云、大和にある地の名なり、井上《ヰカミノ》内親王と申も此處(3)を名におはせたまへる歟、春霞とおけるは第十四にも、霞居る富士の山備になど讀て霞は居る物なればゐ〔右○〕と云詞まうけむためなり、たゞちには人目も繁ければさらぬ體にてあはむために遙に遠く道を廻りて來つるとなり、
 
初、春霞井上に 春霞の居るとつゝけたり。井上は所の名、大和にあり。聖武天皇の皇女にて、光仁天皇の后となりたまへる、井上内親王も、此井上を名におひたまへるなるへし。たゝに道のあるとは、すく道なり
 
1257 道邊之草深由利乃花※[口+笶]爾※[口+笶]之柄二妻常可云也《ミチノヘノクサフカユロノハナヱミニヱミセシカラニツマトイフヘシヤ》
 
花※[口+笶]爾※[口+笶]之柄二【別校本云、ハナヱミニシカラニ、同本花※[口+笶]之※[口+笶]作v咲、幽齋本、二※[口+笶]共作v咲、】
 
第十一にも今の 一二の句のつゞきあり、深百合と云名ありて百合の中の一種にや、第十一には後にてふとつゞけたれば、遲く咲にや、早百合の早く咲に對して夏深き意にもや深百合とは名付たらむ、又第八に坂上郎女が歌に、夏の野の繁みにさける姫百合の、知られぬ戀は苦しき物ぞとよめるに依れば、愛姫の深く隠れ住意によせて姫百合を深百合と云にや、深百合と云はむために道のべの草とは云へるか、人の繁く通ふあたりの草は塵土《チリヒヂ》のかゝるによりて殊に肥て深きものなり、花の如くゑみせしからにさては我に心をよするよとて妻と云べしやは、心ざしの程を云ひきかせてゆるさむ時にこそ妻とはいはめとなり、又也の字は漢の文章に准じて助語に加へたる事集中例あれば、妻トカイハムと和すべきか、咲るに心のしるければやがて妻とかいはむの(4)意なり、六帖にはつまといはましやとあり、
 
初、道のへの草ふかゆりの ゆりは、夏ふかき草にましりて咲物なれは、草ふかゆりといふ。花えみは、花のさくを、人の咲にたとへて、その花えみに、かりそめに打えみたるはかりに、やかて妻といはむやとなり。第四卷聖武天皇の御哥に、道にあひて映《ヱミ》せしからにふる雪のけなはけぬかにこふてふわきも。此御哥のことく、これも臨時の哥なれは、道のへのといへるは、道にあひたるを、そこにさける百合によせてよめるなり。又第四に、青山をよこきる雲のいちしろくわれとえみして人にしらるな。第八坂上郎女哥、夏の野のしけみにさけるひめゆりのしられぬ戀はくるしきものを
 
1258 黙然不有跡事之名種爾云言乎聞知良久波少可者有來《モタアラシトコトノナククサニイフコトヲキヽシルラクハスクナカリケリ》
 
此歌を人丸集に入れて發句を古點になをあらじととよめり、二の句已下散々にたがへり、源氏花宴に、かたらふべき戸口どもさしてければ打歎てなをあらじに弘徽殿の細殿に立よらせ給ふれば云々、河海抄に今の歌を引れたるになをあらじととあり、意は今と同じ事ながら日本紀等も同じくモタと點じてなを〔二字右○〕と云はず、言ノナグサは第四に注せり、尾の句は今按今の點字に叶はずして誤れり、ウベニハアリケリと讀べし、もだしてもあらじとことばのなぐさみに思ふ由を云ひつれば、意より起れるまことならずと聞知れるもことわりなりと云心なり、道行ぶりの會釋などにかりそめに物云ける人にや、又次上の歌の同じ作者歟、
 
 此もたあらじを、古點には、なをあらしとよみけるにた。源氏物語花宴に、かたらふへきとぐちともさしてけれは打なけきてなをあらじにこきてんのほそとのに立よらせ給ふれは云々。河海抄に此哥を、なをあらしとゝよみて引れたり。なをあらしは、たゝあらじなり。なをも、たゝも、すくにといふこゝろなり。すくにあらしは、そのまゝにてはやましの心なり。もたしてあらしといふもおなし心なり。ことのなくさは、ことはのなくさみなり。第四坂上郎女か哥にも、われのみそ君にはこふる我せこかこふといふことは言のなくさそ。聞知らくはすくなかりけりとは、ことのなくさとはおもはて、やかてたのまるゝ我心をいへり。者の字は衍文なり
 
1259 佐伯山于花以之哀我子鴛取而者花散鞆《サツキヤマウノハナモタシアハレワカコヲシトリテハハナチリヌトモ》
 
以之、【官本云、モテシ、】
 
八雲御抄にさへき山、攝州と注せさせ給へり、二の句は官本の點によるべし、腰の句は(5)今按子は手を誤れるにてカナシキガ、テヲシ取テハななべし、し〔右○〕は助語なり、かなしく思ふ人を第十四に、かなしきがこまはたぐともなどあまたよめり、歌の意は、佐伯山にて卯の花を折て持しかなしき兒等が手をだに我取たらば卯花は散ぬともよしとなり、落句は花は散ともとよみても然るべし、
 
初、さへき山うの花もたし 八雲御抄云。さへき山【攝。萬七、五月山或さへき山ともにうの花。】此御抄の心は、五月山を、あるひは、さへき山ともいひて、津の國の名所なりと、おほしめしけるなり。五月山とは、第十に二首よめり。五月山うの花月夜ほとゝきすきけともあかす又なかむかも。此哥は新古今集にふたゝひ載られたり。今一首は、五月山花橘にほとゝきすかくろふ時にあへるきみかも。二首の中に、初の哥うの花月夜と讀たれは、ともにうの花と注せさせたまへり。されとも、此五月山は、名所にあらす。唯五月の山なり。やよひの比の山を彌生山ともよむかことし。此ゆへに、第十の二首皆夏の部にあり。又古今集貫之哥に、五月山梢を高みほとゝきすなくねの空なるこひもするかなとよめるも同し。しかれは、さへき山はいつれの國とも知かたし。安藝國に佐伯郡有。そこなとにある山の名にや。さて此哥は、うたかはしきことあり。子は手の字の誤れるなるへし。哀の字此集にかなしとよみてあはれとよめる所なし。しかれは、うの花もちしかなしきが手をしとりてはとよみて意得へし。かなしきがとは、かなしくおもふ妹かといふ心なり。第十四に、おほき詞なり。にほ鳥のかつしかわせをにへすともそのかなしきをとにたてめやも。此たくひなり。かなしふはうつくしみ愛する心なり。古今集に、露をかなしふといひ、つなてかなしもとよめるこれなり。伊勢物語に、ひとつごにさへ有けれはいとかなしうしたまひけりともいへり
 
1260 不時班衣服欲香衣服針原時二不有鞆《トキナラヌマタラコロモノキホシキカコロモハリハラトキニアラネトモ》
 
不有鞆、【別校本云、アラストモ、】
 
班は誤なり、斑に作るべし、斑衣はさま/\の色を以て染たるをも、亦一色ながら斑に染たるをも云べし、服欲香はキマホリカとも讀べし、か〔右○〕は哉なり、衣ハリ原とは衣を張とつゞけて榛やはりの木原なり、地の名にはあるべからず、落句はトキナラネドモとも讀べし、さありて心は、時ならねどもと云意は秋を榛染する時として夏よめり、真證は第十夏歌に、思ふ子の衣すらむににほひせよ、島の榛原秋たゝずともとよめる是なり、是は榛原にてよめるか、又よき女を見て妻持べき程にもあらぬ人の、夏にして秋の衣のきまほしき如く妻にせまほしきと喩てよめる歟、
 
初、時ならぬまたら衣 またら衣は、いろ/\にそめ分たる衣なり。第十四東哥に、またら衾とよめるも同し心なり。衣はり原、衣をはるといひかけたり。さてはり原は、はりといふ木のしけく生たる所なり。此木のこと上に注す。八雲御抄原部にはり【上野万いかほろのそひの】此上野と載させたまへるは、第十四卷の哥なり。それはいかほろのといへるにて名所なり。この哥はたゝいつくとなき、はりの木原なるへし
 
1261 山守之里邊通山道曾茂成來忘來下《ヤマモリノサトヘカヨヘルヤマミチソシケクナリヌルワスレケラシモ》
 
(6)茂成來とは道の荒て、草の茂るなり、孟子云、山徑(ノ)之蹊間、介然用v之而成v路(ヲ)、爲間不v用則茅塞v之(ヲ)、
 
初、山もりのさとへ しけく成たるとは、道のあれて、草木のしけりかくすなり。孟子云。山徑(ノ)之蹊間介然(トシテ)用《ヨツテ》之而成v路(ヲ)。爲間《シハラクアテ》不(ルトキハ)v用則茅塞(カル)之
 
1262 足病之山海石榴開八岑越鹿待君之伊波比嬬可聞《アシヒキノヤマツハキサクヤツヲコエシカマツキミカイハヒツマカモ》
 
六帖椿の歌に、あなし山つばき咲たるやつをこえとあるは、あなしを此卷の上に病足とも痛足ともかけるに依て今足病とあるを彼に思ひまがへたるなり、之の字を加へ、開の下にたる〔二字右○〕とよむべき字もなき物を、又六帖にあしびきのやまざくろさくや、みねごしにとて石榴の歌とせるも此なり、海石榴は日本紀此集及び和名等皆椿と同じきを、海の字を捨、又一首を兩方に用たる事おぼつかなし、ヤツヲとは山の尾の多かるなり、山ツバキ咲とは第十九にもやつをの椿とよみて椿は深き山にあれば其由に云なり、鹿待と云を句として八岑を越なづみて鹿を待は、鹿は君がいはひ妻かとなり、いはふはいつくなり、第九に齋兒《イハヒコ》ともよめり、伊勢物語に、わたつみのかざしにさすといはふ藻もとよめるが如し、思ふ妻をこそ山の滴に立ぬれても待習なれば、鹿を射取らむと心にいれて待をかくはよせたり、
 
初、あしひきの山つはきさくやつをこえ 第十九にも、おく山のやつをのつはきとよめり。やつをは尾のおほきなり。たゝしこゝには、八岑とかき、十九には八峯とかけり。同十九に、やつをのきゝすとよめるにも、八峯とかけり。六帖木部、さくろの哥に、山つはきさくやつをこえの二句を、山さくろさくみねこしにと載たり。日本紀にも、此集にも、海石榴は、たしかにつはきに侍るを、いかて海の字を捨て、さくろの哥には載られけむ。およそ海棠、海石榴等は、海を越てもろこしにいたるゆへに、海の字をもてわかつよしなり。つはきは、石榴《・山榴ハアイツヽシコレニ似ルユヘ歟》の花に似て、海をこえて外國よりくれは、海石榴なり。天武紀云。十三年三月吉備朔庚寅、吉野人宇閉(ノ)直弓|貢《タテマツル》2白《シラ》海石榴(ヲ)1。いはひつまとは、いはふはつくといふにおなし。さて此哥はその心得かたき哥なり。先山つはきさくは、やつをといはむためなり。つはきに用あるにあらす。又今椿の咲といふにもあらす。をみなへし咲澤におふる花かつみとよめる類なり。やつをゝこえて鹿まつは、鹿をは君かいはひつまのことくおもふかとはいへる心にや。管見抄云。鹿待君とは、猟人の心なり。鹿の草村にはひかくれて有ことく、あふこともなきこもり妻なりと、たとへたるなり。鹿の妻といふに、わか妻をよせたり
 
1263 曉跡夜烏雖鳴此山上之木末之於者未靜之《アカツキトヨカラスナケトコノヲカノコスエノウヘハイマタシヅケシ》
 
(7)山上、【六帖云、ヤマ、幽齋本云、ミネ、】
 
夜烏は遊仙窟云、可憎病鵲夜半《アナニクノヤモヒカラスノヨナカニ》驚v人、山上はミネと義訓せる字に叶へり、六帖にやまとのみあるは上の字捨たれば叶はず、木末はコヌレとも讀べし、
 
初、曉と夜からすなけと 遊仙窟云。誰(カ)知(ン)。可惜病鵲《アナニクノヤマモカラスノ》夜半《ヨナ/\ニ・ヨナカ/\ニ》驚(カス)v人(ヲ)。薄媚狂※[奚+隹]三更《ナサケナキウカレトリノマタアケサルニ》唱(フ)v曉(ヲ)。唐(ノ)高蟾(カ)旅夕(ノ)詩(ニ)云。風散(シテ)2古陂(ニ)1驚(カス)2宿雁(ヲ)1。月臨(テ)2荒戌(ニ)1起(ツ)2啼鴉1。此をかの木末のうへはいまたしつけしとは、うかれたる烏ならぬ、こと《異》鳥は、また啼てもたゝねは、しつけきなり。もろこしに、いまたといふ心にては、下を靜ならすといはてはかなはぬを、此國にはかくいへは、これらすこしかはれり。かなたにいまたしといふは、まだきまだしきほとなといひて、さきとはすこしかはる歟
 
1264 西市爾但獨出而眼不並買師絹之商自許里鴨《ニシノイチニタヽヒトリイテヽメナラハスカヘリシキヌノアキシコリカモ》
 
西ノ市は第三に東市(ノ)植木乃とよめる歌に注せるが如し、眼不並とは二人とも見ぬ意なり古今に、花がたみ目ならぶ人のあまたあればとよめるを思ふべし、商自許里とはあきなひをしこりてするなり、しこりはしきりに同じ、古と吉と通ぜり、し〔右○〕を濁てよませむが爲に自の字をかけり、價を賤《ヤス》く饒《マケ》よなど云意なるべし、五雜爼云、柳仲逞(カ)之婢、ひさぐ2於益巨源(カ)家(ニ)1、見d其主市2綾(ヲ)1親自《ミツカラ》選擇※[酉+將の旁]c酢可否(ヲ)u、則失v聲(ヲ)而仆(レテ)曰、死(ナハ)則死耳、安《イ ソ》能事2賣v絹牙郎(ニ)1乎、
 
初、にしのいちにたゝ獨出て 市に東西あり。第三に門部王詠2束市中木1といふ哥有。そこに注しつ。めならはすは只獨ゆへなり。古今集に、花かたみめならふ人のあまたあれはわすられぬらん數ならぬ身はとよめるにおなし。あきはあきなふなり。しこりはしきりなり。古と、幾と音通せり。世に息もつきあへすかたるを、しこりかゝりてかたるなといふ、これなり
 
1265 今年去新島守之麻衣肩乃間亂者許誰取見《コトシユクニヒサキモリカアサコロモカタノマヨヒハタレカトリミム》
 
島守は防人なり、第二十に至て委注すべし、六帖にはにひしまもりのとあれど、第十四第二十にもサキモリとのみよみ、日本紀にも島曲をミサキとよみ、防人をサキモリと點じたれば今の本に依べし、間亂は亂の一字をまよふとよめば、間は衍文歟、和名云、※[糸+比]、(8)【匹爽反、漢語抄云、萬與布、一云與流、】※[糸+曾]欲v壞也、許誰は許の字不審なり、若は阿の字か、若は衍文か、推カ取見ムとは、妻もなければ麻衣の肩のまよひてやるゝをも誰かをぎぬふ人あらむと防人の行を見てかはれびてよめるなるべし、第五に熊凝が歌に、國にあらば父とり見まし、家にあらば母取見ましとよみ、第十、七夕の歌には、秋去衣誰か取見むとよめり、
 
初、ことしゆくにひさきもりか 異國の寇ふせかんために、東の兵をつくしにつかはして、かのさき/\を守らせらるゝをいふなり。國々の兵相かはり/\行ゆへに、今年の役にて行ものを、新嶋守とはいふなり。新嶋守とかきて、今の本にひさきもりとよめるをよしとす。天智紀云。是歳【三年】於2對馬嶋壹岐嶋筑紫國等(ニ)1置2防《セキモリト》與《トヲ》1v烽《スヽミ》。又於2筑紫(ニ)1築(キ)2大堤(ヲ)1貯(ハヘ)v水(ヲ)名(テ)曰2水城《ミツキト》1。これさきもりをゝかれし初なり。日本紀の和點に、せきもりとあるは、かたかなのせとさと似たるゆへに、關守に聞なれて、さきもりを、かくまかへたるなるへし。さきもりは、埼守なり。異國の賊なとのよせくへきさき/\をまもるゆへの名なり。その中に、むねとまもらせたまひけるは筑紫なり。あさ衣かたのまよひは誰か取見むとは、まよふはよるなり。和名集云。唐韻云。※[糸+比]【萬與布。一云與流。】※[糸+曾](ノ)欲《スルナリ》v壞(レント)也。ぬのきぬのやふれんとして、なれたるを、旅なれは誰かときあらひてもきせんといふ心を、誰か取見むといへり。第五に、山上憶良の哥に、ぬの肩衣とよめる心に、かたのまよひといへり。取見むは、おなし五卷に、國にあらはちゝとりみまし家にあらははゝ取見ましといへるにおなし。許誰の許は、阿の字の誤歟。さらすはあまれるなるへし
 
1266 大舟乎荒海爾※[手偏+旁]出八舩多氣吾見之兒等之目見者知之母《オホフネオアルミニコキイテヤフネタキワカミシコラカメミハシルシモ》
 
荒海、【別校本亦云、アラウミ、】  多氣、【別校本云、タケ、】
 
アルミはあらうみを約むれば良宇反留なる故なり、あらうみとよまば下の※[手偏+旁]出をイ〔右○〕を略してコギデと讀べし、八船多氣は今は舟の多かるを八船と云にはあらず、八度舟をたくと云なり、土左日記に、ゆくりなく風吹てたけども/\しりへしぞきにしぞきてほど/\しく打はめつべしとあるも舟の危を力を加へて凌ぐ意なり、荒海に※[手偏+旁]出て浪風にわへる舟をしば/\たきて溺るゝ事をまぬがれたる如く、身を失なはむとせし程の事あるを凌て戀々て相見し兒等なれば、我まことを信じてたのむ意の目もとに顯はれてしるきとにや、
 
初、大舟をあるみにこき出 あるみはあらうみなり。良宇切留なる故に、あるみといふなり。八舟たきとは、八舟こゝにてはおほかる數にはあらす。八度舟をたくといふ心なり。舟たくは、海のあらき所にて、舟のあやうきを、ちからをくはへて、しのく心なり。土佐日記に、ゆくりなく風ふきて、たけとも/\、しりへしそきにしそきて、ほと/\しくうちはめつへしといへり。此哥のこゝろは、上の句は戀に身をもうしなはんとせしほとの事ありけむを、あらうみにくつかへらむとする舟を、しは/\たきて、おほるゝことをまぬかれたるにたとへて、さて後にあひみし人の、我心を知て、頼む心の、めもとにあらはれてしるきとなり
 
就所發思  旋頭歌
 
(9)1267 百師木乃大宮人之蹈跡所奧浪來不依有勢婆不失有麻思乎《モヽシキノオホミヤヒトノフムアトヽコロオキツナミキヨラサリセハウセサラマシヲ》
 
此歌は難波浦或は若浦などにてよめる歟、六帖にはよらずありせばうせずあらましとあれど今取らず、
 
右十七古歌集出
 
十七首なるべきを首の字脱たり、
 
初、右十七首 首の字をおとせり。問答よりこなた十七首なり
 
1268 兒等手乎卷向山者常在常過往人爾往卷目八方《コラカテヲマキモクヤマハツネナレトスキユクヒトニユキマカメヤモ》
 
發句は此卷上にも有し如く卷向とつゞけむ爲ながら、是は人丸集の歌なれば妻の死去の後よまるゝ歟、さればこらが手を卷向と云山は動なくて常なれど、それは唯名のみにて、過ていにし人のもとに我ゆきて又手枕する事あらむやはと山を見て名に感じてよまれたるべし、
 
初、こらか手をまきもく山 こらか手を枕とするとつゝけたり。過ゆく人とは、昔の人なり。ゆきまかめやもとは、上のこらか手をまきもく山といふをうけていへり。いかなる蝉鬢蛾眉ありとも、昔の人の手を、今は枕とすることあたはしとなり
 
1269 卷向之山邊響而往水之三名沫如世人吾等者《マキモクノヤマヘトヒヽキテユクミツノミナハノコトシヨノヒトワレハ》
 
響而、【紀州本云、トヨミテ、】  三名沫、【官本云、ミナワ、別校本亦云、ミナアワ、】
 
(10)拾遺集に、めのしに侍て後かなしひてよめるとて、家に來てわがやをみればと云歌につらねて入れて、下の句みなはの如く世をばわがみるとあり、人丸集も歌は拾遺と同じ、叶はざれば今取らず、落句の意は、吾は世の人なればとにや、世の人と我とはと云へるか、初の義なるべし、さきの歌は他の上を云ひて、此歌は自の上を省るなり、人丸はよく無常を觀じたる人なり、
 
初、みなはのことし 水のあはのことしなり。人麿の哥に、惣して無常を觀したる哥おほし。大権の聖者にて和光同塵せるなるへし
 
右二首柿本朝臣人麿歌集出
 
寄物發思
 
1270 隱口乃泊瀬之山丹照月者盈昃爲烏人之常無《コモリクノハツセノヤマニテルツキハミチカケシテソヒトノツネナキ》
 
下句は第三に悲2傷膳部王1歌に注せしが如し、
 
初、みちかけしてそ 易(ニ)云。日中(スルトキハ)則|昃《カタフキ》、月盈(ルトキハ)則食(ス)。釋名(ニ)云。月(ハ)缺(ナリ)也。滿(ルトキハ)則缺(ク)
 
有一首古歌集出
 
行路
 
1271 遠有而雲居爾所見妹家爾早將至歩黒駒《トホクアリテクモヰニミユルイモカヘニハヤクイタラムアユメクロコマ》
 
(11)第十四に此歌を再たび載たるには、發句麻等保久能、落句を安由賣安我古麻にて、注に人麿歌集曰等保久之?又曰、安由賣久路古麻とあるは此を指せり、然れば有の字は衍文なり、但拾遺にも家集にもよそにありてとあるは今取らねども有の字あるによりてかくはよめるなるぺければ衍文ならぬ證とすべし、かほどのたがひ集中の注に猶あるなり、
 
右一首柿本朝臣人麿之歌集出
 
旋頭歌
 
1272 釼後鞘納野邇葛引吾妹眞袖以著點等鴨夏草苅母《タチシリサヤニイリノニクスヒクワキモマソテモテキセテムトカモナツクスカルモ》
 
夏草、【六帖云、ナツクサ、別校本同v此、】
 
太刀のしりは鋒なり、鋒より鞘にさゝるれば納野とつゞけたり、和名に丹後竹野郡に納野あり、彼處歟、第十にさを鹿の入野とあるも同處歟、葛引は夏麻引と云が如く葛を繰なり、著點等鴨は六帖も今の點と同じけれどキセテムトカモと讀べし、我にきせむとかの意なり、落句は六帖に依て讀べきか、葛をくらむために先其邊の夏草を刈そく(12)るなり、
 
初、たちのしりさやにいる野に つゝけやうきくまゝなり。和名集云。丹後國|竹野《タカノ》郡|納野《イルノ》。この納野にや。まそてもてきせてむとかも夏草かるも。きてんとてかもとよめるはわろし。眞袖は兩の袖をいへり。毛詩云。葛(ノ)之覃(テ)兮、施《ウツル》2于中谷(ニ)1、維(レ)葉|莫々《・シナヘリ》(ト)。是(ニ)刈(リ)是(ニ)※[さんずい+獲の旁]《ニテ》、爲v※[糸+希]爲v※[糸+谷](ト)、服(テ)之無(シ)v※[澤の旁+牧の旁]《イトフコト》。夏草とかきたれとも、上にくすひくといふをうけて、夏くすとよめり。下(ノ)三十三葉に、おみなへしおふるさはへのまくす原いつかもくりてわかきぬにきむ
 
1273 住吉波豆麻君之馬乘衣雜豆蝋漢女乎座而鹿衣叙《スミノエハツマキミカマソコロモサニツラフヲトメヲスヘテヌヘルコロモソ》
 
住吉、【別校本亦云、スミノエ、】  君、【別校本作v公、】  馬乘衣、【官本亦云、マノリキヌ、】
 
一二の句今の點叶はず、スミノエノナミツマギミガウマノリギヌと讀べきか、波妻君とは、波は花とも見えてうつくしむ物なればうつくし妻の意なり、第十三に、浪雲のうつくし妻と云へるにて知べし、住吉は住吉の岸によす古浪と云のみにあらず、以下の二首も住吉と讀たればやがて夫君もすめる處なり、馬乘衣は、今の俗雨衣のせぬひのすそを縫合せぬを馬乘を開と云ひて馬に騎時便よからむ爲にすれば、昔もさる體の衣などを馬乘衣とてや侍けむ、君が爲にをとめをして馬乘衣を縫せたりとなり、漢女は毛詩にも漢之有女と云ひて美女ある處なれば彼處に准じて書なり、
 
初、住吉波豆麻君之 此二句、すみのえのなみつまきみかと讀へし。そのゆへは、第十三の長哥に、百たらぬやまたのみちをなみ雲のうつくしつまとかたらはて別しくれはといへり。浪のやうにたてる白雲の、うるはしきによせて、浪雲のうつくしつまといへり。浪はしらゆふとも、花ともまかふ物なれは、すみのえの波つま君といへるは、十三の哥にいへる心なり。馬乘衣、これをまそ衣とよめるやいかにとすこし心得かたけれと、心は眞麻衣なり。もしうまのりきぬなとも讀へき歟。今の俗、雨衣《アマキヌ》のせぬひのすそをぬひあはせぬを、むまのりをあくといひて、馬にのる時たよりよからんためにすれは、昔もさる躰のきぬなとを、うまのりきぬとて、用意したる事もや侍りけむ。漢は美女おほきゆへに漢女とかきてをとめとよめり
 
1274 住吉出見濱柴莫苅曾尼未通女等赤裳下閏將徃見《スミノエノイテミノハマノシハナカリソネヲトメラカアカモノヌレテユカムミユ》
 
將徃見、【校本云、ユカムミム、】
 
赤裳下を六帖にあかもたれひきとあれど今取らず、尾句は今の點あやまれり、校本の如く讀べし、
 
(13)1275 住吉小田苅爲子賤鴨無奴雖在妹御爲私田苅《スミノエノヲタヲカラスルコイヤシカモナシヤツコアレトイモカミタメニシノヒタヲカル》
 
今按二三の句今の點叶はず、ヲダカラスコハヤツコカモナキと讀べし、落句をもワタクシダカルと讀べし、賤の字やつこ〔三字右○〕とよむ證は景行紀云、川上|梟師《タケル》亦啓之曰、吾多遇(テ)2武力《カラヒトニ》矣、未v有d若2皇子1者u、是(ヲ)以|賤奴《イヤシキヤツコノ》陋(シキ)口(ヲ)以奉2尊號(ヲ)1、やつこかもなきとよめる、やつこあれどと能つゞくなり、私田は詩小雅大田之篇云、雨2我公田1、遂及2我私1、集注、公田(ハ)者方里(ニシテ)而井(ス)、井(ハ)九百畝、其中(ヲ)爲2公田(ト)1八家皆私2百畝1而同(シク)養2公田(ヲ)1也令第三に班田の法を明さるゝ中に位田職分田功田公田私田神田守田等の差別ある中に、私田と云は口分田なり、令云凡(ソ)給2口分田(ヲ)1者、男(ハ)二段、女(ハ)減(ス)2三分之一(ヲ)1十六歳より口分田を給はるなり、公に對する私なればわたくし田と讀べき理なり、一首の内に問答して、奴はあれども妹がみためと親切に思ふ故に手づから刈ぞとなり、
 
初、すみのえの小田刈爲子賤鴨無 此二句をは、小田からす子はやつこかもなきとよむへし。小田からすは、たゝ小田かるなり。賤の字やつことよむ證は、景行紀云。川上(ノ)梟師《タケル》亦|啓《マウシテ》之曰。〇吾多(ク)遇2武力《チカラヒト》1矣。未v有d若(キ)2皇子(ノ)1者《ヒト》u。是(ヲ)以|賤賤《イヤシキヤツコノ》陋(シキ)口(ヲ)以奉2尊號1。これ日本武尊川上梟師か、何心なく酒宴する所へ、女にまねてしのひいらせ給ひて、刺殺させたまふ時、しはし待せたまへとて、小|臼《ウス》の尊と申けるを、日本にならひなき武力にてましますとて、日本武尊といふ尊號を奉りて殺されける時の詞なり。賤々とかきて、いやしきやつこと讀たれは、此哥しかよむへき理なり。しかよめは、やつこあれとゝいふ下の句、よく上をうくるなり。しのひ田を、管見抄に大やけにかくれて作る田なりといへるは、隱田と心得たるにや。非なり。詩(ノ)小雅大田之篇曰。雨(テ)2我(カ)公田(ニ)1遂(ニ)及2我(カ)私(ニ)1。集注曰。公田(ハ)者方里(ニシテ)而井(ス)。井(ハ)九百畝。其中(ヲ)爲2公田(ト)1。八家皆私(シテ)2百畝(ヲ)1而同(シク)養(ナフナリ)2公田(ヲ)1也。令義解第三に、班田の法を明さるゝ中に、位田、職分田、功田、公田、私田、神田、守田等の差別有。私田といふは口分田なり。令(ニ)云。凡(ソ)給2口分田(ヲ)1者男二段。女(ハ)減(ス)2三分(カ)之一(ヲ)1。十六歳より此口分田を給るなり。委は第三卷に注せり。やつこはあれとも、妹を親切におもふゆへに、みつから妹か私田を刈となり
 
1276 池邊小槻下細竹苅嫌其谷君形見爾監乍將偲《イケノヘニヲツキカシタノシノナカリソネソレヲタニキミカヽタミニミツヽシノハム》
 
下、【紀州本云、モトノ】  其谷、【紀州本云、ソレタニモ、】  君、【別校本、作v公、】
 
發句はイケノヘノと讀べし、池邊は唯池のほとり歟、按ずるに池邊王と云もましませば地の名にや、細竹の下に莫の字落たり、次下の草莫苅嫌と同じかるべし、此歌の下句、(14)第二志貴親王薨時歌の或本反歌二首の初の歌と同じ、
 
初、細竹 此下に莫の字おちたり。監は覽か。監にてもみるとは讀へし
 
1277 天在日賣菅原草莫苅嫌彌那綿香烏髪飽田志付勿《アメニアルヒメスカハラノクサナカリソネミナノワタカクロキカミニアクタシツクナ》
 
香烏髪、【官本云、カクロキカミモ、】
 
天に在日とつゞけたり、姫菅原は地の名なるべし、何れの國に在と云ことを知らず、烏の字の點は今の本キ〔右○〕を落せり、アクタシのし〔右○〕は助語なり、
 
初、天にあるひめすかはら 天にある日とつゝけて、姫菅原といふは、所の名なるへし。みなのわたは、第五の丸葉に委注せり。あくたしつくなとは、芥《アクタ》を髪に著《ツク》なとなり。あくたしのしもし助語なり
 
1278 夏影房之下庭衣裁吾妹裏儲吾爲裁者差大裁《ナツカケノネヤノシタテコロモタツワキモウラマケテワカタメタヽハヤオホキニタテ》
 
夏は木にもあれ何にもあれ陰の涼しき處に臥すを、女は北の方に深く住ものなれば夏影ノネヤと云なるべし、下庭はモトニテと讀べきか、裏儲は衣の裏を儲置てと云へるか、又裏は心にて用意してと云にや、二つを兼て見るべし、差大はヤヽオホニと讀てやゝおほきにと意得べし、第四に紀女郎が歌にやゝおほほと有しはやゝおほくはと云意なれど、摩※[言+可]と云梵語の大、多、勝に亘る如く大と多と和語も通ぜり、我ために裁とならば、やゝおほきにゆたかにたてとなり、やゝと云へるはきはめて大きにとは云はぬ意なり、
 
初、夏かけのねやの 夏のあつき比は、木にもあれ、何にもあれ、陰の涼しき所にねるゆへに、夏かけのねやの下とはいふなり。今案女は北の方に、ふかくこもりてをるものなり。北窓の涼は、夏によろしけれは、夏かけのねやとはいへり。やおほきにたては、やゝおほにたてと讀へし。第四卷に、紀女郎か家持に贈る哥に、神さふといなにはあらす。やゝおほやかくして後にさふしけんかも。此やゝおほやといふに、思ひ合すへし。但かれは多なり。今は大なるゆへにかはりあれと、摩※[言+可]といふ梵語を、大とも、多とも、勝とも、義によりて譯するにて、通することを知へし
 
(15)1279 梓弓引津邊在莫謂花及採不相有目八方勿謂花《アツサユミヒキツノヘナルナノリソノハナツムマテハアハサラメヤモナノリソノハナ》
 
引津邊在、【六帖、ヒキツヘニアル、別校本云、ヒキツノヘナル、亦點與2六帖1同、】  及採、【紀州本云、トルマテニ、】
 
二の句はヒキツノベナルと讀べし、今の點は書生の誤なり、引津は第十五に引津亭と云へるは筑前なるを、第十に梓弓引津邊有莫告藻之花咲及二不會君毳《アツサユミヒキツノヘナルナノリソノハナサクマテニアハヌキミカモ》と云歌を濱成式には當麻大夫陪駕伊勢思婦歌云とてひかれたれば彼に准ずれば此も伊勢なるべし、なのりその花は春咲なり、
 
初、梓弓ひきつのへなる 引津は筑前にあり。濱藻をなのりそといふ事、さきに注せり。あはさらめやもなのりその花とは、なのりその花は春さく歟。それまてには、あはさらめや。よくしのへといふ心を、なのりその花とはいへり。引津は第十五にも見えたり
 
1280 撃日刺宮路行丹吾裳破玉緒念委家在矣《ウチヒサスミヤチヲユクニワカモヤフレヌタマノヲノオモヒステヽモイヘニアラマシヲ》
 
吾裳破、【紀州本云、ワカモハヤレヌ、】
 
念委をオモヒステヽモと點ぜるは玉の緒のと云につゞけていと意得がたし、今按オモヒツミテモと讀べし、第九に登筑波山歌の終に、長き氣に念積來し憂は息ずといへり、委の字は楊雄(カ)甘泉(ノ)賦(ニ)云、瑞穰々兮|委《ツモレルコト》如(シ)v山(ノ)、何晏(カ)景福殿賦(ニ)云、叢集委積、此集第十七云、和我世古我都美之乎見都追《ワガセコガツミシヲミツツ》云々、此も委緒見乍《ツミシヲミツヽ》なり、つむとは結へば重なるを云へり、それを思ひをはらしやらで心に積置によそへて云へるなり、
 
初、うちひさす宮ちを 裳のやふるゝまてしけく宮路をかよふは、思ふ人にあふやと、宮つかへなとに事よするなり。さりとてあふ事もなけれは、おもひすてゝ只家にありぬへかりけるものをとなり。玉の緒のおもひすてゝもとは、玉の緒は命なり。此事を命にしておもふ事を、おもひすてゝもなり
 
(16)1281 君爲手力勞織在衣服斜春去何何摺者吉《キミカタメテツカラオレルコロモキナヽメハルサラハイカニヤイカニスリテハヨケム》
 
君爲、【官本、君作v公、】
 
今按二三の兩句の今の點テツカラは字に叶はず、コロモキナヽメは義も亦意得がたければ和しかへてタヂカラツカレオレルキヌ、クタツと讀べきにや、尾句を紀州本に今ハカヨケムと點じたるは、いかにや〔四字右○〕と云に叶はねば此を収らず、
 
初、衣服斜 これは、衣服の二字引合てころもとよみ、斜の字はくたちぬと讀へし。衣のくたつとは、色もさめ、やゝやふれなんとするほとなり。ころもきなゝめとよみては意得かたし
 
1282 橋立倉椅山立白雲見欲我爲苗立白雲《ハシタテノクラハシヤマニタテルシラクモミマクホリワカスルナヘニタテルシラクモ》
 
橋立は倉椅の枕詞、別に注す、倉椅山は第三に見えたり、立白雲とはうるはしき物から目にのみ見て手にも取られぬを、女のさすがに目には見えて逢べくもなきによそへたるにや、高天の山の峰の白雲思ひ合すべし、然らば發句に高くて及びがたき意もあるべき歟、
 
初、はしたてのくらはし山にたてる 高倉ののほりをりには、階を立るなり。よりて階立のくらとつゝけたり。此くらはし山は、大和の國なり。崇峻天皇倉梯宮にして、天下をしろしめされけるもこゝなり。次下の二首に、くらはし川とよめるも同所なり。日本紀第二十九、天武紀云。七年戊寅、此春將(ニ)v祠(ラント)2天(ツ)神地(ツ)祇(ヲ)1而天下悉祓(シ)禊之。竪(ツ)2齋(ノ)宮(ヲ)於倉梯(ノ)河上(ニ)1。かゝるを、丹後國に天の橋立といふ所有によりて、此くらはし河をも、そこに有といふは誤なり。古事紀を考るに、仁徳天皇の御弟、速總別《ハヤフサワケノ》王、女鳥皇女《メトリノヒメミコ》をぬすみ、難波をにけて、大和國に入り。倉椅山に上るとてよみ給ふ哥
 はしたてのくらはし山をさかしみといもはきかねてわか手とら《・取也》すも
又歌て云
 はしたてのくらはし山はさかしけといもとのほれはさかしくもあらす。終に宇陀にいたりてころされ給ひぬといへり。日本紀には、隼別皇子、雌鳥皇女を率て、伊勢神宮にまいらんとし給ふを、帝、皇子のにけたまふときこしめして、兵をして追しめ給ふ。追て兎《ウ》田に至て、素珥《ソミノ》山に迫りし時、皇子草の中に隱て、まぬかるゝことを得て、山を越とて、歌てのたまはく
は《古事紀第二哥大同少異》したて《・梯v山也》のさかしき山もわきもことふたりこゆれはやすむしろ《安席》かも。迫手終に伊勢|蒋代《コモシロ》野に及て殺すといへり。難波をにけて、伊勢にいらんにも、大和國をはへぬへし。丹後國ははるかに違ひたり。さて立る白雲見まくほりといへるは、女にたとへたり。よそにのみ見てややみなんかつらきのたかまの山のみねのしら雲といふ哥も同こゝろなり。浪雲のうつくし妻とよめるやうに、はれたる山に白雲のかゝるも、見所あるものなれは、よせていへり
 
1283 橋立倉椅川石走者裳壯子時我度爲石走者裳《ハシタテノクラハシカハノイシノハシハモミサカリニワカワカシタリイシノハシハモ》
 
倉椅川も即倉椅山と同所なり、或者の云、水上は多武峰と音石《オトハ》山とより出て乾に流れ、末は城上郡に入ると云へり、八雲にも大和と注せさせたまへるを或抄に丹後と注せ(17)るは、橋立を枕詞と知らで天橋立なりと思へるにや、大きに誤れり、古事記下仁徳天皇段云、其夫速總別王到來之時、其妻女鳥王歌曰云々、天皇開2此歌1、即興v軍欲v殺2爾速總別王女鳥王1、共逃退而騰2于倉橋山1、於v是速總別王歌曰、波斯多弖能久良波斯夜麻袁佐賀志美登、伊毛波伎加泥弖和賀弖登良須母、又歌曰、波斯多?能久良波斯|夜麻波佐賀斯祁杼《ヤマハサカシケド》、伊毛登能煩禮波佐賀斯玖母阿良受、故自2其地1逃亡到2宇※[こざと+施の旁](ノ)之蘇邇(ニ)1云々、此十市郡の倉椅山に橋立の枕詞ある初なり、天武紀下云七年戊寅、此ハル將v祠(ラント)2天神|地《クニツ》祇(ヲ)1、而天下悉祓(ミ)禊之、竪(ツ)2齋(ノ)宮(ヲ)於倉梯(ノ)河上(ニ)1、此倉梯河ある證なり、石ノハシハモは尋たる詞なり、ミサカリは眞盛《マサカリ》にて男盛なり、我度爲は今按ワガワタリテシと讀べきか、爲を下に置てたる〔二字右○〕とよめる例なし、昔逢渡りたる人の今は絶ぬるを古き石走に愉たるなり、
 
初、はしたてのくらはし川の石のはしはも みさかりはまさかりにて、おとこ盛なり。石の橋はもは、尋たる詞なり。石のはしはいつくにそといふ心なり。昔あひわたりたる人の、今は絶ぬるを、ふるき石はしに喩たるなり。此石はしといへるは、うるはしく石を作て懸たる橋にはあらす。川の瀬に、石をならへて、其上よりわたりこゆるをいへり。集中にあまたよめり。第二第四等にすてに注せり
 
1284 橋立倉橋川河靜菅余苅笠裳不編川靜管《ハシタテノクラハシカハノカハノシツスケワレカリテカサニモアマスカハノシツスケ》
 
靜菅は下枝をシツエと讀如く水隱なるを、下菅《シツスケ》と云に靜の字は借てかけるにやとも意得つべきを、上に古事記を引し如く、仁徳天皇の御歌にも矢田皇女を矢田の一本菅と云ひてあたらすがし女とよそへさせ給ひ、此集第十一には靜子が手玉ならすもとよめるも沈靜《シメヤカ》なる人を云なるべければ、今も靜字のまゝの意にて、菅原はこと草木の(18)やうに風にもさはがでしなひてたてるを靜子《シツケコ》によそへたる歟、神樂の小前張に、しづや小菅、鎌もて刈らば、生ひむや小菅と云へるは、今と同じきか異なるかいまだしらず、余苅笠裳不編とは、刈は刈て笠にはいまだあまずと云へる歟、又からぬさきに刈てもあまずと云へる歟、第十一に編《アマ》なくに刈のみかりて、第十三にあまなくに伊刈持來とよみたれば初の義なり、刈をば契約に譬へ、あまぬをばまだ逢見ぬに譬ふ、或は刈を相見るにたとへ、笠にあまぬを妻とえせぬにたとへたるにも有べし、
 
初、しつ菅 靜菅とかけれとも、しつかなる心にあらす。しつは下なり。したえたをしつえといふかことし。水の下にかくれておふる菅なり。水かけにおふる山すけ、亦みくまか菅とよめるも、水にかくれたる心なり。神樂の小前張《コサイハリ》に、しつや小菅かまもてからはおひんや小すけといへるしつや小菅は、これとことなるへし。われかりて笠にもあますとは、心ひとつにわか物とは、しめても、まだことならぬ《・事不成》にたとふるなり。此こゝろなる哥おほし。第十一の四十五葉、同四十八葉に、各二首、第十三の廿七葉の長哥にもあり。すへて物によせてよめるは、菅ならねと同意あり。第三に、つくまのにおふるむらさきゝぬにそめいまたきすして色に出にけり。およそ此類なり
 
1285 春日尚田立〓公哀若草※[女+麗]無公田立羸《ハルヒスラタニタチツカルキミハアハレワカクサノツマナキキミカタニタチツカル》
 
一二の句は春の日の心|和《ノドカ》なるべき時さへなり、公哀はキミハカナシモと七字一句によむべし、
 
初、春日すら田に立つかる 田に出てひと日立つかれてみゆるきみは、妻のなきゆへに、時の過行ことを思ふ歟となり
 
1286 開木代來背社草勿手折已時立雖榮草勿手折《ヤマシロノクセノヤシロニクサナタヲリソオノカトキタチサカユトモクサナタヲリソ》
 
山背を今の如くかけるは代は背に假てかけり、開木は第六にも百木成山とよめる如く良材を出す故なるべし、來背社は今按クセノヤシロノと讀べし、延喜式神名帳に山城國久世郡に大社十一座小社十三座を載す、大社十一座は石田神社一座、水《ミ》主神社十(19)座なり、石田神社は此集に別に名を出したれば、水主神社を來背社とは云なるべし、式に注して云、並大月次、新甞、就中同水主坐天照御魂(ノ)神三座、伴(ニ)託2山背大國魂命神二座(ヲ)1預2相甞祭1、此歌の意は久世郡の大領などの時を得たるが、郡のうちに賤しき者の顔よき妻をもてるを犯さむと謀る時、彼夫の主ある女を社の草にたとへて罪な犯しそと云ことを草な手折そとよめるにや、木を云はずして草を云へるは賤しきを譬ふるなり、日本紀云、唯以2一兒1、私記曰、問此意如何、答、古事記及日本新抄並云、謂d易2子《コノ》之一木1乎u、古者謂v木爲v介(ト)、【景行紀注2御本1云、木此云v開、】故今云2神今食(ト)1者古謂2之(ヲ)神今木1矣、必以v木(ヲ)爲v喩者(ナリ)、蓋古以2貴人(ヲ)1喩2於木(ニ)1、故(ニ)謂2神及貴人1爲2一柱一木1矣、今此(ニ)云(ハ)2子之一木1猶如v云2子(ノ)之一柱(ト)1矣、以2賤人(ヲ)1喩2於草1、故謂(テ)2天下乃人民1爲2青人草1也、【神代紀(ニ)云、顯見蒼生此云2宇都志紀阿烏比等久佐1、】論語に小人之徳草(ナリ)と云に暗に合へる歟、もしは此歌は彼賤しき者の妻の節を守てみづからの身を社の草に喩へて人をさとせる歟、第十一人丸集の歌に、山城の久世の若子が欲と云、われあふさわに我をほしと云、山城の久世、此歌を思ふに人丸の歌にはあらで今の歌と共に同じ女のよめるにや
 
初、やましろのくせの社に 延喜式第九、神名上に、山城園久世郡に大社十一座、小社十三社を載たり。大社十一座は、石田神社一座、水主《ミヌシノ》神社十座なり。石田神社は、此集にも異にして名を出したれは、久世社はさためて水主神社なるへし。式に注して云。並(ニ)大。月次。新甞。就v中《コノナカニ》同水主(ニ)坐《マス》天照御魂(ノ)神三座。伴(ニ)託2山背大國魂命神二座(ヲ)1預2相甞祭(ニ)1。やましろを開木代とかけるは、代は背にかりてかけるなり。山といふに開木とかけるは、第六に、宮木なす山は木高しとよめる心にて、諸木山より開出すゆへ歟。第十一に、やましろの《・旋頭哥》、くせのわかこか、ほしといふわれ。あふさわに、われをほしといふ。山しろのくせ。此哥もふたつのやましろ、ともに開木代とかけり
 
1287 青角髪依網原人相鴨石走淡海縣物語爲《アヲミツラヨサミノハラノヒトニアヘルカモイシハシルアフミノカタノモノカタリセム》
 
石走、【別校本云、イハヽシル、】
 
(20)青角髪は苔なり、青くして長くはへるが髪に似たれば、歌には苔のみづらとよみ、詩には苔髪と作れり、依網(ノ)原とつらねたるは、青みづらをば苔の名としてそれが彼方此方長くはひつゞきたるは網をひろげたるに似たる意にや、和名云、參河國碧海【阿乎美】郡依網、【與佐美、】今按二三の句をヨサミノハラニ人モアヘカモ、四五をイハヽシルアフミアガタノと讀べき歟、縣は郡なり、神武紀には縣の字をやがてコホリと訓ぜり、碧海と淡海と假名も義も異なれど、元來此國には文字なければ假て書故にさほどの事おほし、氏の凡河内を大河内、生石を大石ともかけるに准じて知るべし、然れば此依網は參河なり、人相鴨は、歌の意は、よさみの原を行にあはれ逢人もがな、我戀しき人の住碧海郡 物語をだにせむとなるべし、前後の歌皆戀なるを以てみるべし、定家卿の歌に、思ひ餘り其里人に事問む、同じ岡部の松は見ゆやと、此意と同じかるべきにや、石走は淡海の國とつゞくるに同じければ彼に附て別に注す、
 
初、青みつらよさみか原 青みつらとは、青き葛なり。髪をみつらとはいへとも、こゝは青き葛なり。苔のみつらなとよめる哥も有。苔のなかくはふは髪のなかきに似たれはなり。よさみは依網とかけり。かつらのなかくはひよりて、網をあむかことくになれは、かくいふなり。今案日本紀云。伊弉册尊生2火産靈《ホノムスヒヲ》1時〇又生2天(ノ)吉葛《ヨサツラヲ》1。此(ヲハ)云2阿摩能與佐圖羅《アマノヨサヅラト》1。あをみつらは、青角髪と書たれは、角髪は鬘の義にて、かつらともよむへけれは、もしはあまのよさつらの心にても青かつらよさみとつゝけたるか。青みつらとよみても此義難なし。あまのよさつらは、延喜式第八、鎭火祭祝詞によるに、瓠の事なるへし。日本紀纂疏には注なし。さてこの依網原を、八雲御抄に美と注し給へるは、美濃歟。美作歟。住吉郡に依羅《ヨサミノ》池、大依羅(ノ)神社あれと、こゝとは見えす。和名集(ニ)云。參河(ノ)國、碧海(ノ)【阿乎美】郡、依網【與佐美。】此哥のよさみはこれなり。そのゆへは、下に淡海縣とあるを、あふみのかたとよめるは、あやまりなり。あふみあかたとよむへし。文字も淡海《アフミ》、碧海《アヲミ》、心すこしことなれは、和訓もしたかひて、あふみあをみことなれども、もとより此國には、文字なけれは、さま/\にかけることあやしむにたらす。あかたは郡なり。又此縣の字を、日本紀第三神武紀には、こほりとよみたれは、やかてこの哥も、あふみごほりと讀に難なし。しかれは、よさみか原の人にあひて、あをみ郡の物かたりせむといふ事、道理相かなへり。凡河内氏を、大河内とかき、生石氏を大石ともかけるにて、碧海淡海のうたがひをとくへし
 
1288 水門葦末葉誰手折吾背子振手見我手折《ミナトナルアシノスヱハヲタレカタヲリシワカセコカフルテヲミムトワレソタヲリシ》
 
初の二句は今按ミナトノアシノウラハヲとも讀べし、六帖に異あれど字に叶はねば出さず、
 
(21)1289 垣越犬召越鳥獵爲公青山葉茂山邊馬安君《カキコシニイヌヨヒコシテトカリスルキミアヲヤマノハシケキヤマヘニウマヤスメキミ》
 
獵、【校本作v※[獣偏+葛]、】  公、【別校本作v君、】
 
鳥獵は獣獵に簡ぶ詞なり、葉茂山邊は今按木の葉の茂き陰は馬をやすむるに便よかるべけれど、葉といはずとも青山のしげき山べにと云にて足なむ、此は第六に見えし茂岡を茂山とも云ひて、しげやまべにと云ひては文字のたらねば、石上袖ふる川の例に葉の字を加へたるにやあらむ、
 
1290 海底奧玉藻之名乘曾花妹與吾此何有跡莫語之花《ワタツミノオキツタマモノナノリソノハナイモトアレトコヽニアリトナナノリソノハナ》
 
海底、【別校本云、ワタノソコ、】  妹與吾、【官本亦云、イモトワレト、】
 
發句の讀別校本に依るべし、何は荷と通ずれど唯荷の字なるべし、尾句の點、書生誤て一つのナ〔右○〕をあませり、
 
初、此何有跡《コヽニアリト》 何は荷なるへし。此句六もしに讀へし。かんなのひとつのなもじ、きゝはよけれと、はふきさるへし
 
1291 此崗草苅小子然苅有乍君來座御馬草爲《コノヲカニクサカルワラハシカナカリソアリツヽモキミカキマサムミマクサニセム》
 
拾遺にはかのをかにくさかるをのことあれど、發句は字にたがひ、小子ををのこ〔三字右○〕とよめるも今の點にしかねば今取らず、然の下には莫の字落たり、
 
(22)1292 江林次完也物求吉白栲袖纏上完待我背《エハヤシニヤトルシヽヤモモトメヨキシロタヘノソテマキアケテシヽマツワカセ》
 
江林は八雲にも載させ給ひながら、何の國の注したまはず、完は宍に作るべし、求吉は今按モトムルニヨキと七字に讀べし、旋頭歌の習、第三句多分七字にて第四句は五字なり、第三句もし五字なれば第四の句必らず七字なり、三四の句共に五字なる事いまだ其例をきかざる故なり、袖まき上てとはまくり手して待意なり、第十三云、峯のたをりに射目たてゝ、しゝ待がごと云々、孟子曰、晋人有2憑婦者1、善搏v虎、有v衆逐v虎(ヲ)、望2見憑婦(ヲ)1※[走+多]而迎v之、憑婦攘v臂下(ル)v車(ヨリ)、
 
初、江林 名所なるへし。未v勘v國。宍を完に作は誤なり。さきにも注せしことく、日本紀には、獣の字をしゝとよめり。宍の字はかりてかきたれと、獣も、猪鹿《シシ》とかきたるも、宍によりての名なり。袖まきあけては、孟子(ニ)曰。晋人有2馮婦(トイフ)者1。善(ク)搏《テウチニス》v虎(ヲ)。有(テ)v衆(/\)逐(フ)v虎(ヲ)、望(ミ)2見(テ)馮婦(ヲ)1※[走+多](テ)而迎(フ)之。馮婦攘(ケテ)v臂(ヲ)下(ル)v車(ヨリ)。後拾遺集に、良暹法師、袖ふれは露こほれけり秋の野はまくり手にてそ行へかりける。江林は八雲御抄に載て注したまはす
 
1293 丸雪降遠江吾跡川楊雖苅亦生云余跡川楊《アラレフルトホエニアルアトカハヤナキカリツトモマタモオフテフアトカハヤナキ》
 
雖苅、【官本亦云、カレヽトモ、】
 
第二の句の點、有の字在の字などなくてはトホツエニとてにをはを隔てアルとは讀がたし、今按發句をアラレノと讀て次をフルトホツエノと讀べし、丸雪は義を以てかけり、涙を戀水とかけるが如し、降遠江とつゞくる意は霰の降音の意なり、梓弓引豐國と有しに同じ、とほつえと云は、あと川は近江の高島郡にて、湖の中にも都より遠けれ(23)ば云歟、第十一に淡梅のうみ奧つ島山とよめる歌の次に、霰降遠津大浦による浪のとあるも若近江にて同處にや、アラレフルトホツアフミノと點ぜば遠江國なるべきを、彼國にあと川なき故に近江と定めて今の如くは點ぜるなるべし、川楊は和名云、本草云、水楊、【和名、加波夜奈木、】柳の一種なり、又も生てふは戰國策云、今夫楊横樹v之則生、倒樹v之則生、折而樹v之又生(ス)、云々、此歌は第十に寄草歌に、此ごろの戀のしげゝく夏草の苅はらへども生しくがごと、此と同じ意なるべし、余は上の吾の如くアレを下略して用るなり、磐余《イハレ》の時は上畧せり、
 
初、あられふるとをつえにある あられふるとつゝくなり。音をとゝのみよむ其例、浪のおとを浪のとゝいひ、梓弓つまひく夜音《ヨト》なといへり。遠江をとをつあふみとよむへけれと、あと川は、高嶋のあと川浪とよめる、近江の名所なれは、江といふは、水うみにて、あふみの國のうちにも、高嶋郡の方は、都より遠けれは、とをつえといふにや。柳のかれともまたおふるをいふは、下の心、おもひすてゝもまたおもはるゝにたとへたる歟。しはしいひたゆれと、又おもひかねて、いひかはすにたとふるなるへし。柳はかりてもやがてなばへして、よくおふるものなれは、ことにたとふるなり。第十四東哥に、柳こそきれははえすれよの人のこひにしなんをいかにせよとそ。丸雪はなみたを戀水と第四卷にかけるやうに、義をもてかけるなり。余跡川の余は、上に吾跡川とかけるがことく、あれといふ和語の畧をかりて用るなり
 
1294 朝月日向山月立所見遠妻持在人看乍偲《アサツクヒムカヒノヤマノツキタチテミユトホツマヲモタラムヒトヤミツヽシノハム》
 
朝月日は向ふと云はむ爲なり、第十一にも向ふ黄楊櫛とつゞけたり、望月の日と相向ふのみならず、有明の月は西にありて日は東の嶺に出て相向へばすべて十五日以後を云べし、發句は唯枕詞なれば古歌の習、下に月を云に妨なし、立とは出るなり、月の出る程は半天に照よりは遠く見ゆれば、遠妻のみてる面輪を遠き月によそへてしのばむとなり、
 
初、朝月日むかひの山の月たちてみゆ 朝つく日はたゝ朝日なり。つくはみもろつくみわ山なとよめるつくの字の心なり。朝月日とかけるによりて、朝に月のゝこるが、日にむかふ心なりといへとも、さあらは、むかひの山の月立てみゆと、かさねて月をいふへきにあらす。此集のならひ、かやうのもしつかひにまとふ人おほきなり。夕つく日も此定なり
 
右二十三首柿本朝臣人麿之歌集出
 
(24)1295 春日在三笠乃山二月舩出遊士之飲酒杯爾陰爾所見管《カスカナルミカサノヤマニツキノフネイツタハレヲノムサカツキニカケニミヘツヽ》
 
酒杯、【幽齋本、杯作v坏、】
 
第十にも春日なる三笠の山に月も出ぬかもとよみ、仲丸は唐にてだに三笠の山に出し月かもとよまれたれば、奈良都の時三笠山に月の出たらむ興おもひやるべし、月ノ船と云へるは古歌なれば何心なく云へるか、影の盃に泛ぶに付て興じていへるにや、第五の梅の歌にも誰がうかべし盃のへにとよめるは影の移るを云へり、白氏文集云、影落2盃中1五老峯、
 
初、かすかなるみかさの山に 第五卷三十二首梅花哥の中に、はるやなき、かつらにをりし、うめの花、たれかうかへし。さかつきのへに。白氏文集(ニ)影落(ツ)2盃中(ニ)1五老峯。古今集に安倍仲麿あまの原ふりさけみれはかすかなるみかさの山に出し月かも。注にいはく。此哥は昔仲丸をもろこしに物ならはしにつかはしたりけるに、あまたの年をへてえかへりまうてこさりけるを、このくにより又つかひまかりいたりけるにたくひてまうてきなむとて出たりけるに、めいしうといふ所のうみへにて、かのくにの人むまのはなむけしけり。よるになりて月のいとおもしろくさし出たりけるをみてよめるとなんかたりつたふる。千里を隔て明月を共にせる意兩首よく通すといふへし
 
譬喩歌
 
寄衣
 
1296 今造斑衣服面就吾爾所念末服友《イマヌヘルマタラコロモハメニツクトワレニオモホユイマタキネトモ》
 
今造、【六帖云、イマツクル、】
 
發句は仙覺の點歟、彼抄今と同じけれど造の字の義訓も慥には叶はねば、六帖に依て字のまゝに讀べし、第六第八に今造久邇能京とよめるも證とすべし、二三の句、六帖に(25)はまだらのきぬのおもつきにとあれど如何侍らむ、今按面就は今の點も意得がたし、メニツキテと讀べし、第一にも目爾都久和我勢とよめり、喩ふる意は、今初て笄《カンサシ》せる處女は斑衣の如く目につきておぼゆ、いまだあひみねどもとなり、
 
初、今造またら衣は 今造を今ぬへるとよめり。字のまゝにいまつくるとも讀へし。またら衣は、此卷さきに見えたり。面就はめにつくとゝあれとも、めにつきてと讀へし。第一にも、そまかたの林はしめのさのはきのきぬにつくなすめにつくわかせとよめり。今あらたにぬへるまたら衣を、はしめてかむさしなとしたる女のうるはしきにたとへて、目につきておほゆとよめり。いまたきねともは、またあひみねともなり
 
1297 紅衣染雖欲著丹穗哉人可知《クレナヰニコロモヲソメテホシケレトキテニホハヽヤヒトノシルヘキ》
 
ソメテホシケレドと云は俗語なり、コロモソメマクホシケドモと改むべし、ほしけれどと云はぬは古語の例上に云が如し、穗の下には落字あれども點は今の本よし、ニホハヾヤは願ふ詞にあらず、にほはゞ人や知べきの意なり、喩ふるやうに、紅の深きにあかねば幾入にそむる如く人にも度々あはまくほしけれど、染るに隨ひて色のけやけきやうに、逢見るに添ひて思ふ心のまさらば、忍ぶとすとも色に出て顯はれやしなましと相見む後を兼て思ひやるだに心のやすからぬ由なり、
 
初、紅に衣そめまくほしけれと 穂の下に字をゝとせり。著てにほはゝやといふは、あひて後しのひあへす人のとかくいひさはかんにたとへたり。きてにほはゝやは、きてにほはゝ人や知へきの心なり。ねかふ詞にあらす、
 
1298 千名人雖云織次我二十物白麻衣《チナニハモヒトハイフトモヲリツカムワカハタモノヽシロアサコロモ》
 
我二十物、【拾遺、人丸集、六帖共云、ワカハタモノ、】  白麻衣、【上三本共云、シロキアサキヌ、】
 
發句を拾遺並に人丸集にはちゝわくに〔五字右○〕と改たり、腰の句拾遺にはおりてきむ〔五字右○〕と改ら(26)る、家集は改めず、六帖は上の句今の點とおなじ、今按落句は他の點もよし、假令他に隨てよむとも第四は今の點然るべし、人はいかに云とも織すめし布を、はしたにてやまずして、おりつゞけて、機よりおろす如く、見そめし人に志を遂むとなり、又千名とは名を立るを云にはあらで、何くれの絹など名の數を盡して云如くこなたかなたにくはしめありと人は云ひまどはさむとすとも、白き布の如く事もなき人の見そめて久しきに逢はなむとや、
 
初、ちなにはも 第四卷には、千名の五百《イホ》名とよみ、第十二には、百《モヽ》に千《チ》に人はいふともとよめり。さま/\に名の立ことなり。おりつがんとは、孟母の機を断たるやうにはせて、おりつぎて、あさきぬとなすことく、其人を領して、ぬしとならんの喩なり。拾遺集には、ちゞわくに人はいふともおりてきんわかはたものに白きあさきぬとそ載られたる
 
寄玉
 
1299 安治村十依海舩浮白玉採人所知勿《アチムラノナヲヨルウミニフネウケテシラタマトラムヒトニシラスナ》
 
十依海、【別校本云、トヲヨルウミ、】  所知勿、【別校本云、シラルナ、】
 
十をナヲと點ぜるは書生の誤なり、十は遠に借て遠奥の方へさかり行を云へるか、上に朝こぐ舟も奧による見ゆとよめればと思ふに、此集の假名の例、遠は登保、十は登|乎《ヲ》なれば右の意にあらず、あぢ村のあまたよる海と云なり、此を以前もあぢ村さわぎと有し如くに他言《ヒトコト》の云ひさわぐ世に喩ふ、白玉採をば潜に逢に喩ふ、海の底にかづき入て取ればなり、尾句はシラルナと點ぜるにつくべし、シラスはしらしむるなれば今所(27)知と書故なり、四の句をシラタマトルトとも讀ぬべし、
 
初、あち村のとをよる海に とをよるは、とをさかるなり。こなたへ來てあつまるを、ちかよるといへは、よそにゆきてそこによりゐるを、遠よるとはいふなり。第四岡本天皇の御哥に、山のはにあち村さはきゆくなれとゝよませたまふも、人々のおもひ/\にかたらひよりていさなふをのたまふことく、あち村はあまたむらかり飛ものなれは、名をたてゝいひさはく人にたとへたり。さる人のなからんひとまに、みそかにあふを、あまのなきたる海に舟をうけて、貝の玉をとるによせて、人にしらすなとくちかたむるなり
 
1300 遠近礒中在白玉人不知見依鴨《ヲチコチノイソノナカナルシラタマヲヒトニシラセテミルヨシモカモ》
 
遠近は此方彼方なり、遠近とかけるによりてつよくみるべからず、玉の緒のをちこちかねて結つると第四に有しに意得べし、誰妻ともまだ定まらぬ意知べし、
 
1301 海神手纏持在玉故石浦廻潜爲鴨《ワタツミノテニマキモタルタマユヱニイソノウラワニアサリスルカモ》
 
潜、【六帖云、カツキ、別校本點同v此、】  石浦廻、【六帖云、イソノウラワヲ、】
 
一二の句は第三に笠金村の歌にもかくよまれ、第十五の長歌にもわたつみのたまきの玉とよめり、仙覺云、海神をば母に喩ぬと、誠に然るべし、石浦廻は地の名にあらず、第二に日並皇子の舍人が歌に水傳ふいそのうらわとよみ、第九には三重の河原の礒裏とよみ、第二十には中臣清丸朝臣の庭の池を見て、いそのうらにつねよひきすむ鴛鳥とよめり、うらのいそわ、いそのうらわ同意なり、潜はカヅキと點ぜるに依べし、海神は奥に住を、磯にかづきすとは得がたき人をいかで逢見むと媒を憑て思ふ意を云ひつかはせど艶書の到かぬる意なり、媒を海子に喩てかづきすると云へり、みづからかづ(28)くには非ず、次の歌を合て意得べし、
 
初、わたつみの手にまきもたる 第三笠朝臣金村角鹿津にてよめる長歌にも、わたつみの手にまかしたる玉たすきかけてしのひつなとよまれたり。今たとふる心は、ぬしある人に心をかけて、いかてとおもひくたくるを、いそのうらわにかつきするかもとはいへり。いそのうらわは名所にあらす。たゝいそへのうらわなり。わたつみの手にまく玉とたとふるは、海神は海上にておそるへきものなれは、やむことなき人のめてうつくしむに、心をかけて、空おそろしき心もこもるへし
 
1302 海神持在白玉見欲千遍告潜爲海子《ワタツミノモタルシラタマミマクホリチカヘリツケツカツキスルアマ》
 
腰句を六帖にみまくほしとあれど叶はねば取らず、下句は下に近く、底めみ沈める玉をみまくほりと云歌の下句に、千遍曾告之《チタヒソツケシ》潜爲|白水郎《アマ》、此と全同なるべければ今も第四句をチタビゾツゲシと讀べし、千遍告とは媒する人に我告る歟、媒の彼方へ告る歟、次下の歌を以て見るに彼處へ妹の告るなり、
 
初、わたつみのもたる ちかへり告つは、おもふよしをたひ/\人にいふなり。かつきするあまは我なり。なかたちをもいふへけれと、右の哥にかつきするかもといへる、すなはちわかことなれは、にはかになかたちとほいふへからす。下に、そこきよみしっめる玉をみまくほりちたひそ告しかつきするあま
 
1303 潜爲海子雖告海神心不得所見不云《カツキスルアマハツクトモワタツミノコヽロヲエステミルトイハナクニ》
 
所見を仙覺抄に知の一字に作たれど所見は誤にて知なる由をも申されず、諸本に異なく、其上此歌は上の歌を踏てよめるに上に見欲と云より來れば彼抄傳寫の誤なるべし、海神の心を取得ねば白玉を得ぬごとく、母の心許さぬに娘に相見る事を得とは世にも云はずと佗る意なり、
 
初、かつきするあまはつくとも 此集には、かやうにまへの哥をふみて讀る哥おほし。わたつみの心を得すてとは、領したる人の心をしらては、あひみること有といはぬものをとなり
 
寄木
 
1304 天雲棚引山隱在吾忘木葉知《アマクモノタナヒクヤマニカクレタルワレワスレメヤコノハシルラム》
 
(29)天雲棚引山とは深き譬なり、木葉をば人に喩ふ、此歌も次と二首にて意を云ひ盡す歟、然れば見れどあかぬ木葉とはもみぢを云なるべければ、此も紅葉の色よきを以て喩たりと知べし、知は第二に憶良歌に松は知らむとあるに注せしが如し、第三に小田事が勢能山の歌にも今の如くよめり、隱在吾忘は今按忘は志にて三四の兩句カクシタル、ワガコヽロザシなるべきにや、然らば古今に、飛鳥の声も聞えぬ奥山の、深き心を人は知らなむ、此なむ〔二字右○〕、人は知らむ〔二字右○〕となさば同じ意なり、
 
初、天雲のたな引山に 忘は志の字の誤れるなるへし。いたりてふかき心さしをいはむとて、かくはつゝけたり。心さしはうちにあれは、かくれたるとはいへり。木の葉知らんとは、第二に山上憶良哥に、とりはなす《・鳥羽成》有かよひつゝみらめとも人こそしらね松はしるらん。第三に、小田事かせの山の歌に、まきのはのしなふせの山しのはすてわかこえゆけはこのは知けむ。これらにあはせてみるへし。又わかせこをわかこひをれはわかやとの草さへおもひうらかれにけり。又古今集に、飛鳥の聲も聞えぬおく山の深き心を人はしらなん
 
1305 雖見不飽人國山木葉巳心名著念《ミレトアカヌヒトクニヤマノコノハヲソオノカコヽロニナツカシクオモフ》
 
此頭句は人とつゞけむ爲か、又句を隔てゝ木葉の爲にいへるか、寄木歌なれば木葉の爲に云へる事は勿論にて、木葉と云も人に譬ふれば先は人を女になしておける詞なり、此卷下把は常ならぬとおけるも人と云はむためなり、人國山は大和なり、下の歌に秋津野とつゞけて云へるにて芳野に有なるべし、名著はナツカシミとも讀べし、
 
初、みれとあかぬ人くに山 ひとくに山は大和なり。其ゆへは、下の三十三葉に、常ならぬ人國山のあきつ野のかきつはたをし夢にみるかもとあれは、吉野にある山なるへし。木の葉といふは、もみちをいへる心なり。みれとあかぬといふは、人國山の人といふにのみつゝけたる枕詞歟。うるはしき人の見るにあかれねはなり。さてやかておもふ人によせたるへし。又人國山のこのはをみれとあかぬといへるにや。常ならぬ人くに山とつゝけたるに准すれは、みれとあかぬ人とつゝけたるなるへし
 
寄花
 
1306 是山黄葉下花矣我小端見反戀《コノヤマノモミチノシタノハナヲワカハツ/\ニミテカヘルコヒシモ》
 
(30)反戀、【官本亦云、サラニコヒシキ、】
 
黄葉下花とは、此は小春の比暖氣に催されて梨、櫻、躑躅、山吹などのめづらしく一枝咲ことのあるに寄たるなるべし、履中紀云、三年冬十一月丙寅朔辛未、天皇泛2兩枝《フタマタ》船(ヲ)于|磐余市磯《イハレノイチシノ》池(ニ)1、與2皇妃1各分乘而遊宴、膳臣余磯獻v酒、時櫻花落2于御盞1、天皇異v之、則召(テ)2物部(ノ)長眞膽《ナカマイ》(ノ)連(ヲ)1詔之曰、是花也非v時而來、其|何處《イトコ》之花(ソ)矣、汝《イマシ》自可v求、於v是長眞膽連獨尋(テ)v花(ヲ)獲(テ)2于|掖《ワキノ》上(ノ)室(ノ)山(ニ)1而獻之、天皇歡2其(ノ)希有《メツラシキコトヲ》1即爲(タマフ)2宮(ノ)名(ト)1、故(ニ)謂2磐余(ノ)稚櫻宮1、其此之縁也、此類なり、反戀は今の點にては反は上に連なりて花を見て還るにて、此を句として更に戀しと云意なり、されどもいかにぞやあるなり、今按官本の又の點にサラニコヒシキとあれどもカヘリテコヒシと讀て中々に相見ざしさきよりもまさりて戀しと意得べし、
 
初、もみちの下の花 これは小春の比暖氣にもよほされて、櫻つゝし山ふき梨なとの花の、めつらしく一枝さくことのあるに寄るなり。履仲紀云。三年冬十一月丙寅(ノ)朔辛未(ノヒ)、天皇泛2兩枝《フタマタ》船(ヲ)于|磐余市磯《イハレノイチシノ》池(ニ)1與2皇妃1各分乘而|遊宴《アソムタマフ》。膳《カシハテノ》臣余磯獻v酒《オホミキヲ》。時(ニ)櫻(ノ)花|落《チリイレリ》1于御盞(ニ)1。天皇異(タマヒテ)v之則召(テ)2物部(ノ)長眞膽《ナカマイノ》連(ヲ)1詔(シテ)之|曰《ノ ク》。是(ノ)花也非(スシテ)v時(シクニ)而來(レリ)。其|何處《イトコノ》之花(ソ)矣。汝《イ 》自可v求。於v是長眞|膽《イノ》連獨尋(テ)v花(ヲ)獲(テ)2于|掖《ワキノ》上(ノ)室(ノ)山(ニ)1而獻之。天皇歡2其|希有《メツラシキコトヲ》1即|爲《シタマフ》2宮(ノ)名(ト)1。故(ニ)謂2磐余(ノ)稚櫻(ノ)宮(ト)1、其此之縁也
 
寄川
 
1307 從此川舩可行雖在渡瀬別守人有《コノカハニフネモユクヘクアリトイヘトワタルセコトニマモルヒトアリ》
 
人と我との中を河に譬て、今はあはゞ逢ぬべきを船も行べくありといへどとは云ひ、内には親はらからの守り、外は人目のしげきを渡瀬ごとに守る人ありとはたとふるなり、
 
初、ふねも行へく有といへと ふたりの中を河にたとへて、人もゆるせは、かよふへきに、まもる人ありて心にまかせぬを、渡の所にもまもる人ありて、舟も禁の限あるにたとふるなり
 
(31)寄海
 
1308 大海候水門事有從何方君吾率陵《オホウミノマモルミナトノコトアルニイツクニキミカワレヰシノカム》
 
陵、【幽齋本作v凌、】
 
此は親の守れる娘などに男の通ひて事出來て後彼娘の讀て男に贈れるにや、湊はあまたの舟の出入處なれば官家より守る人を置るゝなり、三四の句はコトアルヲイカサマニキミとも讀べし、率はひきゐるなり、陵は凌と通ず、
 
初、大海のまもるみなと 湊はあまたの舟の出入所なれは、大やけより守る人をゝかるゝにたとふるなり。いつくに君かわれゐしのかんとは、いつかたに君か我をゐてゆきてしのきのかれんとは思ふそとなり
 
1309 風吹海荒明日言應久君隨《カセフキテウミハアルトモアストイハヽヒサシカルヘシキミカマニ/\》
 
此も同じ女のよめる歟、風吹て海の荒る時舟出せずして明日といはゞいと待苦しく歳月とも久しくおぼゆべければ、海のあるゝにも舟に乘れば乘如く君だに強てあはむと云はゞ君が意に隨がはむとなり、第四の高田女王の六首の第三首と下の意相似たり、
 
初、風ふきて海はあるとも これは右の哥ぬしの、おしかへしてよめる心なり。風ふきて海のあるゝ時、舟待して、あすといへはいとひさしくおほゆることく、ひとめ人ことをはゝかるほとの待くるしけれは、海はあるれとも、舟にものれは、乘ことく、君たにしひてあはんといはゝ、人の物いひはあやうけれと、よしや君にしたかはむとなり
 
1310 雲隱小島神之恐者目間心間哉《クモカクレヲシマノカミノカシコクハメハヘタツトモコヽロヘタツナ》
 
(32)小島はコジマと讀べし、小島と書たれど此は備前の兒島歟、第八に笠金村の遣唐使に贈らるゝ歌の反歌に、波上從所見兒島之雲隱云々、此は兒島と書たれば備前の兒島なるべきに雲隱と云詞も同じければ彼を以て此を云なり、神と云へるは舊事紀云、兄吉備兒島謂2建日方別(ト)1、古事記の説同じ、小島をば女に譬へ、神をば守る親に譬ふ、今按落句の點誤れる故に、腰句の點より改めてカシコサニ或はカシコケレバ、メハヘダツレドコヽロヘダツヤと讀べし、心は隔ずとなり、
 
初、雲かくれ小嶋の神の 嶋ははるかの奥に雲かくれて有物なれは、かくいふ。小嶋の神とは、嶋々は皆其躰神なり。舊事紀には、我國々の嶋悉神の名をあらはせり。かしこくは、恐者とかきたれは、かしこけれはと讀へき歟。そのゆへは、下の句めはへたつとも心へたつなとよみたれと、目間心間哉とかきたれは、相かなはす。よりてかしこけれはと讀て、下を目はへたつれと心へたつやと讀へしとおほゆ。心へたつやは、心はへたつるや、へたてすといふ心なり。又恐者をかしこさにとも讀へし。者の字音を取て、さとよみたる所もあれはなり
 
右十五首柿本朝臣人麿之歌集出
 
寄衣
 
1311 橡衣人者事無跡曰師時從欲服所念《ツルハミノキヌキシヒトハコトナシトイヒシトキヨリキマホシクオモホユ》
 
衣人者、【六帖、キヌキルヒトハ、】  欲服、【六帖、キマホシミ、】
 
橡は和名集染色具云、唐韻云、橡、【徐雨反、上聲之重、和名都流波美、】櫟實也、枕草子に恐ろしき物の中につるはみのかさと云へる物にて又は櫟※[木+求]とも云へり、源氏に黄橡白橡とあるは色の淺深か、若は合せて染る具に替れる物有にや、橡の衣は紅などの如く目にたゝぬ物なれ(33)ばそこを事なしと云へり、第十一に、有つゝ見れど事なきわぎもとよみ、伊勢物語にこともなき女どもと云ひ、うつぼ物語に、こゝに物せらるゝ中にこともなきむすめ誰多く物せらるらんなど云皆一樣なり、第十八に家持の越中史生尾張少咋を教(ヘ)喩《サト》さるゝ歌に、紅はうつろふ物ぞ橡の、なれにし衣に尚しかめやも、此意を思ふべし、昔より事なきをよしと云ひつげばいひし時從とは云へり、尾句は今按キホシクオモホユとも讀べし、近く下にもコトニキホシキとよめり、仙覺抄に別義あれど譬喩の意を得ざれば今出さず、
 
初、つるはみのきぬきし人はことなしといひし時よりきまほしくおほゆ つるはみは、くぬき《樟和名・歴木》の實なり。清少納言におそろしき物、つるはみのかさといへるは、櫟※[木+求]とて、彼實をつゝめる栗のいかのやうなるものなり。俗につるはみをどぐりといへり。其皮にてそめたる衣なり。和名集染色具云。唐韻云。橡【除兩反上聲之重。和名都流波美】櫟寶也。黄つるはみ、しらつるはみなといふことあり。源氏にも見えたり。その色のこきうすき名なるへし。管見抄にいはく。此つるはみの衣をきぬれは、身にことなしといひならへり。しかれはことはなくして、人にあはゝやの心にたとふるなり
 
1312 凡爾吾之念者下服而穢爾師衣乎取而將著八方《オホヨソニワレヲオモハヽシタニキテナレニシキヌヲトリテキメヤモ》
 
吾之念者、【幽齋本云、ワレシオモハヽ、】  穢爾師、【六帖云、ケカレニシ、別校本亦點同v此、】
 
發句は今按第六に、聖武天皇酒を節度使に賜ふ時の御歌の反歌の腰句凡可爾とあるをオホロカニと和せり、此詞を第二十家持の喩族歌には於煩呂加爾《オホロカニ》とかけり、此等に准じて今も然讀べし、穢は第十一第十二もナルと讀たれば異點を取べからず、此歌六帖には昔あへる人と云に入れたるは喩ふる意知ぬべし、
 
初、おほよそにわれしおもはゝ われをおもはゝとあるは、かんな誤れり。下にきてなれにしきぬとは、たとへはいやしかりし時の妻を、後にうつくしみするなり
 
1313 紅之深染之衣下著而上取著者事將成鴨《クレナヰノコソメノコロモシタニキテウヘニトリキハコトナラムカモ》
 
(34)事將成鴨、【幽齋本云、コトナサムカモ、】
 
落句は今の點誤れり、此下にも兩處幽齋本の如く點ぜり、第四にわをことなさむと有し詞なり、此歌はさきに著てにほはゞや人の知べきと有し意なり、
 
初、紅のこそめの衣下にきてうへに取きは しのひに心をかよはしたる人を後にあらはれて妻とせんに、事のなりとゝのほらん歟となり
 
1314 橡解濯衣之恠殊欲服此暮可聞《ツルハミノトキアラヒキヌノアヤシクモコトニキホシキコノユフヘカモ》
 
解濯衣之、【別校本云、トキアラヒキヌノ、】
 
胸の句官本の點も今の如くなれど書生の誤なり、別校本に依るべし、第四の句は今按殊の字は勝、異の兩字とおなじく集中に、ケ〔右○〕とも和したれば、ケニキマホシキと讀べきか、解濯衣をばもと逢し人に喩へ、きまほしきをば更にあはまほしきに喩ふ、暮行けば寒き故に衣もきまほしく人にもあはまほしければかく喩ふるなり、第十五に、夕去者秋風寒し、吾妹子が、解洗ころも行て早來む、第十一に、古衣打棄人は秋風の立來る時に物思ふ物を、第十二に、橡《ツルバミ》の衣解洗《キヌトキアラ》ひ又打山《マツチヤマ》、もとつ人には猶しかずけり、第十一に、いつとてもこひぬ時とはあらねども、夕かたまけて戀はすべなし、古今戀部に、いつとても戀しからずはあらねども、秋の夕はあやしかりけり、
 
初、殊欲服 ことにきほしきとあれとも、けにきまほしきと讀へし。殊の字此集にけとよめり。勝異の字皆おなしくけとよめるは、ことにといふ心、まさる心なり。けにきまほしき此夕とは、常よりもけにあはまほしき此夕の心なり。くれゆきて風も寒けれは、衣もきまほしく、人にもあはまほしけれは、衣をもてたとふるなり
 
1315 橘之島爾之居者河遠不曝縫之吾下衣《タチハナノシマニシヲレハカハトヲミサラサテヌヒシワカシタコロモ》
 
(35)仙覺抄(ニ)云、此歌如2伊豫國風土記1者息長足日女命御歌也、橘嶋者伊豫國宇摩郡、今和名集を考るに宇摩郡には橘嶋見えず、越智郡と温泉郡に並に立花郷あり、新居郡に嶋山あり、宇摩郡に御井郷あるは行宮の御井を名に負へる歟、日本紀にも古事記にも神功皇后の伊豫におはしましたる事見えねばおぼつかなし、橘島は大和國高市郡にあるを云歟、し〔右○〕は助語なり、河の遠くてさらさぬをばあらはして妻と定むべき由のなきに喩へ、さらさぬながら下衣に縫をばしのび/\に逢に喩へたる歟、第十三に衣《キヌ》こそはそれやれぬれば、縫つゝも又も相と云へとよめり、縫を逢に踰ふる事かくの如し、
 
初、橘の嶋にしをれは 橘の嶋は、大和國橘寺ある邊なり。第二卷に、日並皇子の薨したまひて後、舍人とものいたみ奉てよめる哥の中にも、橘の嶋の宮にはあかすかもといへり。河の近くはさらしてぬふへき下衣を、河の遠きゆへにさらさてぬふとは、種姓高貴の人をもあひすまんとおもへと、よしのなけれは、さらぬ人を下におもふをたとふるにや
 
寄絲
 
1316 河内女之手染之絲乎絡反片絲爾雖有將絶跡念也《カフチメノテソメノイトヲクリカヘシカタイトニアレトタヘムトオモヘヤ》
 
雖有、【六帖云、アリトモ、】
 
河内女は河内の國の女なり、第十四に大和國の女を大和女とよめるが如し、手染の絲とは手して何の色をも染れば云歟、俗に紺掻《コウカキ》が許などへつかはさずして手づから染るを手染と云、若は此にや、仙覺抄の意、深く思ひしみて逢事なけれど絶むと思はぬに(36)愉ふと云へり、念也はおもはむやなり、
 
初、河内女の手そめのいとを 河内女は、河内國の女なり。第十四には、大和女ともよめり。そのほか、難波女泊瀬女なとの類なり。かた糸にあれとゝは、しのひ/\にいひかはせは、たえ/\なるにたとふるなり。たえむとおもへやは、たえむとおもはんやなり
 
寄玉
 
1317 海底沈白玉風吹而海者雖荒不取者不止《ワタノソコシツクシラタマカセフキテウミハアルトモトラスハヤマシ》
 
初、わたのそこしつく白玉 此つゝきに玉とよめるは、皆眞珠にて、貝の玉なり。しつくは、しつむなり。古今集に、水の面にしつく花の色さやかにも君かみかけのおもほゆるかなといふ哥の顯注に、水の面にしつく花の色とは、しつむといふなり。されは普通本にはしつむとかけり。しつむといふは、うつるといふ心なり。水のおもに移れる花の色のやうに、さやかに見えて、おほむかほのおほゆるとよめり。萬葉云。藤浪のかけなる海のそこ清みしつく石をも玉とそわかみる。催馬樂云。かつらきのてらのまへなるや、とよらの寺のにしなるや、えのは井に白玉しつくや、ましらたましつくや。密勘云畑しつくといふ詞、心はさまてたかひ侍らす。ぉさへてしつむとは申にくゝや。沈はそこへいり、ひたるは水に入たり。たとへはひたれるやうにて、水波にあらはれゆられて、かくれあらはるゝやうにするをいふ。又底よりさき《・鋒》出たらん石も、波にあらはれて、ゆらるゝやうにはつれて見えむをいふへしとそ申されし。此ひたる澄哥にも是は叶て可v侍。定家卿かくのたまへとも、月の水にうつるをも沈むといへは、顯昭法師の申されたるこゝろ、其ことはり有。そのうへ、此哥ならひに下の水底にしつく白玉といふうた、又第十一に、あふみの海しつく白玉しらすして戀せしよりは今そまされる。これらに皆沈の字を書て、しつくとよみたれは、異義あるへからす
 
1318 底清沈有玉乎欲見千遍曾告之潜爲白水郎《ソコキヨシシツメルタマヲミマクホリチタヒソツケシカツキスルアマ》
 
底清、【別校本云、ソコキヨミ、】  欲見、【官本亦云、ミマホシミ、】
 
發句をソコキヨシと點ぜるは書生の誤なり、別校本に依べし、沈有は今按シヅケルと讀べき歟、
 
初、底清みしつめる玉を 上にわたつみのもたる白玉みまくほりといふ哥、第三句より下詞すこしかはれど大かた同し
 
1319 大海之水底照之石著玉齊而將採風莫吹行年《オホウミノミナソコテラスアハヒタマイハヒテトラムカセナフキコソ》
 
照之は今按今の點字に叶はず、文章の助語によらばさもあるべけれど、此集の例にはあらざる歟、テリシと讀べし、石著は石に著故なり、以前和名を引が如し、風ナ吹コソとは人なさはりその意なり、齊は齋に作るべし、
 
初、石著玉 和名集(ニ)云。本草(ニ)云。鮑一(ノ)名(ハ)。【和名阿波比。】崔禹錫食經云。石決明(ハ)食(ヘハ)v之(ヲ)心目※[目+聰の旁]了(ナリ)。亦附(テ)v石(ニ)生(ス)。故(ニ)以名v之。四聲字苑(ニ)云。蝮(ハ)魚(ノ)名似v※[虫+含(ニ)偏(ニシテ)著v石(ニ)、肉乾(シテ)可v食(ツ)。あはひ玉をとらんとは、ひそかにあはむといふ譬なり。風な吹こそは、こそはねかふ詞にて、風な吹そなり。これはさはる事なからんことをねかふたとへなり
 
(37)1320 水底爾沈白玉誰故心盡而吾不念爾《ミナソコニシツクシラタマタカユヱニコヽロツクシテワカオモハナクニ》
 
仙覺抄云、此歌古點にはみなそこにしづむ白玉たれゆゑに、こゝろつくしてわがおもはなくにと點ぜり、然るを參議濱成卿歌經標式(ニ)引(テ)2此歌(ヲ)1云、美那曾巳弊【一句】旨都倶旨羅他麻【二句】他我由惠爾【三句】巳々侶都倶旨弖【四句】和我母波那倶爾【五句】と云へり、しづくしらたまと云へるは古語と見えたり、しづむをしづくと云へり、同韻相通の義なるべし、此歌第二句以下の詞歌式に依べし、發句のみなぞこへと云へる〔右○〕へ〔右○〕の字は本韻と同聲の故に誦し直せりと見えたり、然れども本韻既にたがゆゑにと云ひ、結句わがもはなくにとかゝれなむうへには嫌ふべきにもあらず、又此集には水底爾とかゝれぬれば誦しかふべきにあらざるにや、抑さきに海底沈白玉風吹而と云へる歌の第二句又今の歌の如くしづくしらたまと云べし、此集は歌の源として古集なれば此に向ひては古語に依べきが故なり、とき世に隨ひて今の人の歌にもかくも詠じ侍るべし、書改むることを遮るべきにも非ず、又第十九にしづく石をも玉とわがみると云家持の歌の注に再たび右の式を引て云はく、如d藤原(ノ)宮内卿奉v贈2新田部親王(ニ)1歌曰(カ)u、美那曾巳弊【云々如v上】、今按光仁紀の童謠《ワサウタ》にも白壁【之豆久也】好壁【之豆久也】云云、此を催馬樂には白玉しづくや眞白玉しづくや(38)と云へり、古今に、水の面にしづく花の色さやかにもと云に付て顯昭今の集第十九の歌並に催馬樂を引て、しづくは沈む義と注せられ、定家卿は異義あれど今此に沈の字をかきて式には旨都倶とかければ、此集にては異義なかるべし、誰故は誰は何の心なれば白玉の外のなに物ゆゑにわが心をつくすにあらずと喩るなり、
 
1321 世間常如是耳加結大王白玉之結絶樂思者《ヨノナカハツネカクノミカムスフキミシラタマノヲノタエラクオモヘハ》
 
白玉之結、【別校本、結作v緒、】  絶樂、【別校本云、タユラク、】
發句はヨノナカノと讀べし、第三家持歌云、世間之常《ヨノナカノツネ》如此耳跡云云、此に准らふべし、結大王とは玉の緒を結の君なり、結の字は第二第十二にも緒と同じく用たり、絶をタエと點ぜるは書生の誤なり、タユと改むべし、堅く約せし事の玉の緒の絶て亂るゝ如くなるは世の中の常の理歟となり、
 
初、むすふ君は玉のをゝ結ふ君なり。白玉之結、此結は緒の字の誤なり。たゆらくを、たえらくとあるは、かんなあやまれり
 
1322 伊勢海之白水郎之島津我鰒玉取而後毛可戀之將繁《イセノウミノアマノシマツカアハヒタマトリテノチモカコヒノシケゝム》
 
鰒玉、【六帖云、アコヤタマ、】
 
島津は昔有けむ伊勢の海人の名にや、神功皇后紀に名草、允恭紀に男狹磯と云海人の(39)名見えたり、鵜を島津鳥と云へば鵜の如く能潜く故の名なるべし、取テ後とは逢て後なり、
 
初、あまのしまつ 此嶋津は、昔有けん伊勢の海人の名にや。日本紀に海人の名も載られたり。鵜をしまつ鳥といふ。よくかつくとて、鵜を名とするなるへし。あはひ玉取て後もかこひのしけゝむとは、逢後増戀なと、後々の哥の題とする心なり
 
1323 海之底奧津白玉縁乎無三常如此耳也戀度味試《ワタノソコオキツシラタマヨシヲナミツネカクノミヤコヒワタリナム》
 
度、【校本或作v渡、】
 
縁ヲナミとは取べき由をなみなり、味試は甞の義にて甞を詞に假てかけるなり、
 
1324 葦根之※[動/心]念而結義之玉緒云者人將解八方《アシノネノネモコロオモヒテムスヒテシタマノヲトイハヽヒトトカムヤモ》
 
給義之、【六帖云、ムスヒコシ、】
 
葦根之とは菅の根のねもごろとつゞけたるに同じ、※[動/心]、懃に改たむべし、結義之を六帖にむすひこしと點ぜるは第三に金明軍が歌に我定義之をアガサダメコシと點ぜるに同じ、彼處を六帖には又わがさだめてしとあれば今の點所好に任すべし、喩ふる意は我懇切に思て契りし中ぞと云をきかばさくる人はあらじとなり、
 
初、あしのねのねもころ 勲は懃の誤なり。義をてとよむ事心得かたし。人とかめやとは、中をさく人あらしといふにたとふる
 
1325 白玉乎手者不纒爾匣耳置有之人曾玉令泳流《シラタマヲテニハマカヌニハコニノミオケリシヒトソタマオホレスル》
 
(40)不纒爾はマカナクニとも讀べし、落句は今按今の點叶はず、泳流の二字は溺の義、令の字を加へたればタマヲオボラス、或はタマオボレシムと讀べき中に初の點然るべし、空おほしと云はそらわすれの意なれば玉をおぼらすは玉を匣の中にのみ入れ置て取出る事もなきまゝに置たる所をさへ忘るゝ意なり、喩ふるやうは人を忍びに契りは置ながら妻ともせぬ程に人に迎へ取られたる意なり、論語曰、有3美2玉於斯(ニ)1、※[韋+媼の旁]v※[櫃の旁](ニ)而藏諸、
 
初、匣にのみおけりし人そ 第四に、草枕たひには妹はゐたれとも匣《クシケ・ハコ》の内の《・ナル》玉とこそおもへ。文選石季倫王明君辞云。昔爲2匣中(ノ)玉1。今(ハ)爲2糞上(ノ)英(ト)1。論語云。有2美玉於斯(ニ)1、※[韋+媼の旁](ミテ)v※[櫃の旁](ニ)而藏(サンカ)諸。たまおほれするは、玉令泳流とかきたれは、此よめるやうかなはぬにや。泳流の二字を、あはせておほるとよまは、玉をおほらすとか、玉おほらしむとかよむへし。流の字は、てにをはなりと見は、玉をおほらするとよむへし。これは手玉にもまかて、箱にのみをくは、いたつらに物を水に入ておほれしむるに似たるを、下には契置なから、あふ事もなく、あらはれて妻ともえさためねは、手にまかぬ玉にたとふるなり。不纏をまかぬとよめるは、かんなあやまれり。まかすとよむへし
 
1326 照左豆我手爾纒古須玉毛欲得其緒者替而吾玉爾將爲《テルサツカテニマキフルスタマモカナソノヲハカヘテワカタマニセム》
 
玉毛欲得、【官本亦云、タマモカモ、】
 
照左豆は照はほむる詞、第十一に玉のごと照たる君とよめるが如し、左豆は薩人の意、仙覺抄によきますらをなり、手ニ纒古ス玉とは思ひすさびたる妻なり、其緒ハ替テ我妻ニセムとは照左豆が捨たらば取て我妻とせむとよめる也、第十六に其緒またぬき我玉にせむとよめる同じ意なり、
 
初、照さつか手に てるは物をほむる詞。さつは薩男なり。手にまきふるす玉とは、手玉のふるくなるをは、ぬきすつるをいふなり。をとこに古されし女を玉によせてよめる哥なり。第十六に、ある人のむすめ、をとこに捨られて後、ある人にむかへられけるを、又ある人のえむとおもひて、女のおやのもとへよみてをくれる哥
 しら玉はをたえしにきと聞しゆへにそのを又ぬきわか玉にせん。返し
 白玉のをたえはまことしかれともそのをぬきかへ人もていにけり。これにていよ/\たとふる心あきらかなり
 
1327 秋風者繼而莫吹海底奥在玉乎手纒左右二《アキカセハツキテナフキソワタノソコオキナルタマヲテニマクマテニ》
 
風の中に秋は殊に風の時なれば秋風ハと云へり、喩ふる意上の如し、
 
(41)寄日本琴
 
1328 伏膝玉之小琴之事無者甚幾許吾將戀也毛《ヒサニフスタマノヲコトノコトナクハイトカクハカリワカコヒムヤモ》
 
伏膝は第五琴娘子が歌にも人の膝の上、我枕せむとよめり、玉ノ小琴は、玉は褒美の詞、琴を愛て事なくばと云へり、或時なれよりて我膝に女のよりふしけるを琴に喩へて其事なかりせばかくは戀じとよめるなるべし、幾許は第四にもカクバカリと點ぜる處に注して云へる如く今もコヽダクハと讀べきか、
 
初、ひさにふす玉のをことのことなくは 第五卷、琴娘子歌云。いかにあらむ日の時にかも聲しらん人のひさのへわかまくらせむ。ひさにふすといふは、第五卷に日本紀等を引ることく、むつましくあひなるゝにたとへたり。琴といふをうけて、事なくはといへり。事は逢ことなり。いとかくはかりは、昔の哥なれは、いとはかならす縁にもいはさりけめと、いとかくとさへつゝきたるは、よき緑の詞なり
 
寄弓
 
1329 陸奥之吾田多良眞弓著絲而引者香人之吾乎事將成《ミチノクノアタタラマユミツルスケテヒケハカヒトノワレヲコトナサム》
 
絲は仙覺抄には絃に作りて傍に絲を書て異と注せり、引者香をヒケバカと點ぜるは誤なり、ヒカバカと讀べし、落句は第十四にあをことなすなとよめるに准じてアヲコトナサムと讀べし、アタヽラ眞弓とは手に入がたかるべき女に喩ふ、著絲而引者香とはさる人をやうやく云ひよりて辛うじて逢時あらむにだに人の物云ひやあらむと(42)わぶる意なり、
 
初、みちのくのあたゝらま弓 あたゝらは、陸奥の所の名なり。第十四にあたゝらの嶺《ネ》とよめり。又同卷に、みちのくのあたゝらまゆみはしきおきてさ《ソ》らしめきなはつら《ル》はが《ゲ》めかもともよめり
《・彈置令反置弦將著》
 
1330 南淵之細川山立檀弓束級人二不所知《ミナフチノホソカハヤマニタツマユミユツカマクマテヒトニシラルナ》
 
南淵山細川山共に大和國高市郡なり、天武紀云、五年夏五月云云、是月勅禁2南淵山細川山1、並莫2蒭薪1、南淵山は八雲御抄云、細川山の並びの上の山なり、或者の云、細川山は多武岑の西につゞけり、細川は水上に瀧ありて末は坂田尼寺に流れ行と云へり、今南淵の細川山とよみたるは南淵は惣名にて寛く、細川山は別にて狹きにや、南淵山と云は惣名の中の別處なるべし、弓束はにぎり〔三字右○〕なり、和名云、釋名云、弓(ノ)末(ヲ)曰v※[弓+肅]《ユミハスト》、中央(ヲ)曰v※[弓+付]、【音撫、和名、由美都加、】延喜式云、造弓一張料、弭《ユハスノ》絲二銖、※[弓+付]鹿革一條、【圓四寸、】文選四子講徳論云、扞弦掌拊、李善注云、鄭玄禮紀注曰、拊、弓把也、李周、翰曰v扞、級をマクマデと和せる意得がたし、ユヅカノシナヲと讀べき歟、第十四にゆづかなべまきとよめるはならべまきなれば並べたるをば級とも云べし、落句の點も亦叶はず、ヒトニシラレジと讀べし、細川山のまゆみを取て弓に作るを女の我に隨ふに喩へ、弓束は手に握り持處なれば逢に喩へ、級をば度々の數にたとへてさる事ありとも人に知られじとよめるなるべし、
 
初、みなふちの細川山に立まゆみ 南淵の細川山は大和國十市郡なり。天武紀云。五年夏四月○是月勅禁2南淵山、細川山(ヲ)1並莫(ラシム)2蒭薪《クサカリキコルコト》1。みなふちはひろくて、その中にわきてみなふち山といふも、細川といふも有て、みなふちの細川山とこゝにはよめるなるへし。まゆみは木の名、殊に弓によき木にて、名を得たるにや。ゆつかまくとは、弓のにきりに卷皮の事なり。文選王子淵四子講徳論(ニ)曰。扞《カン》弦(ノ)掌拊(ノ)《・ユカケニキリ》。和名集云。繹名(ニ)云。弓(ノ)末(ヲ)曰v※[弓+肅]《ユミハスト》中央(ヲ)曰v※[弓+付](ト)【音撫。和名由美都加。】延喜式云。造2弓一張1料。弭《ユハス》絲二銖。※[弓+付]《ユツカノ》鹿革一條【圓四寸。】たとふる心は、はしめはわか物ともなかりし人を、今は手に入てもたれとも、其よしを猶あらはさしとよめる心なり。級の字をまくまてと訓したるは、卷とよみてまてはよみつけたり。此字をまくとよむ事未v考。もしゆつかにしなといふ事あらは、ゆつかのしなをと讀へし。人二不断知とかけるは、人にしられしなるを、人にしらるなとよみたるは非なり
 
寄山
 
(43)1331 磐疊恐山常知管毛吾者戀香同等不有爾《イハタヽミカシコキヤマトシリツヽモワレハコフルカトモナラナクニ》
 
仙覺の意、磐ダヽミ恐キ山とは、貴き人の及びなくて通ひがたきに喩ふ、同等ナラナクニは我身賤しくて等輩ならぬなり、伊勢物語にあふな/\思ひはすべしなぞへなく、たかきいやしきくるしかりけり、同じ意なり、下に奥山の磐に苔生てとよみ、第六にも然よみたる今の上句と同じ、六帖に此歌をになき思ひと云に入れたり、になきは不似にて賤しき身をもて貴き人を戀るを云なり、
 
初、いはたゝみかしこき山と いはたゝみは、いはほのかさなりあかりたる山なり。それはけはしくてのほりかたく、又神靈もやとすれは、おそろしき山といひてわかをよはぬ品の人をこふることの、おほけなきにたとへたり。同等とかけるは、字の心のことし。われとおなししなにもあらぬものをなり。友といふにはすこしかはれり。それも心の似たるかたをいへはかよへり。第六に、奥山の岩にこけむしてかしこみもとひたまふかもおもひたへなくに
 
1332 石金之凝木敷山爾入始而山名何染出不勝鴨《イハカネノココシキヤマニイリソメテヤマナツカシミイテカテヌカモ》
 
此歌も貴人を思ひ懸て及びなき事とは知ながら戀しき心に引かれてえ思ひやまぬ比喩なり、六帖には山の歌に入れて作者を人丸とす、
 
初、いはかねのこゝしき こゝしきはこりしくなり。出かてぬは出るにたへぬなり。これも同等ならぬ人にいひそめて、人のため、身のため、よくもあらしなと思ふ事あれと、えおもひやまぬを、山なつかしみ出かぬるとはたとふるなり
 
1333 佐保山乎於凡爾見之鹿跡今見者山夏香思母風吹莫勤《サホヤマヲオホニミシカトイマミレハヤマナツカシモカセフクナユメ》
 
佐保山乎、【官本、保或作v穗、】
 
よそに見し人に云ひよりて相見ていとゞあかれねを山ナツカシモと喩たり、風吹ナ(44)ユメとは山なつかしと云へるは下の意花紅葉なれば色も心もなうつりそと云へる歟、又風はさわぐ物なれは人言を喩る歟、風の痛く吹て寒ければなつかしき山をも堪て見がたき如く人言のさわぎにはうるはしと思ふ人にも逢がたければなり、
 
初、さほ山をおほに見しかと これは人になるゝまゝに、いとふかくおもひまさるにたとへたり。風ふくなゆめは、さほ山をなつかしむは、花紅葉によりてなれは、おもふ中をさふる人を、風にたとへて、吹なといふは、さふる事をすなといふなり。第三に家持、昔こそよそにもみしかわきもこかおきつきとおもへははしきさほ山。わか大君あめしられんとおもはねはおほにそみけるわつかそま山
 
1334 奥山之於石蘿生恐常思情乎何如裳勢武《オクヤマノイハニコケムシテカシコミトオモフコヽロヲイカニカモセム》
 
此上句腰をかしこみもとて第六に有き、石に苔むす奥山をおそろしと思ふも入る人の心づからなり、入らぬ人はおそろしとも思はず、されば、似なき人を得思ひやまぬ心から詮なくかしこしと思ふ心をいかでやめて安からむとなり、若は腰の句をカシコケレドと和すべき歟、
 
初、おく山のいはに苔むして さきに第六の哥を引かことし
 
1335 思騰痛文爲便無玉手次雲飛山仁吾印結《オモヒアマリイトモスヘナミタマタスキウネヒノヤマニワレシメムスフ》
 
及なき山人をいかにして得てしかなと思ふを畝火山に標刺て領せむとするに寄するなり、此歌を六帖に玉手次の歌として雲飛山仁をくもゐるやまにとあるは意得ぬことなり、玉だすきは畝火の枕詞なれば同じ詞玉手次の歌に取べきに非ず、雲飛は音を轉して用たるにてこそあるを、誤ても字に任せばくもとぶと和し、義訓せばくもゆ(45)くとこそ和せめ、飛をゐる〔二字右○〕とはいかゞ和せむ、返す/\意得がたき事なり、
 
初、玉たすきうねひの山に うねひ山にしめむすふとは、をよひなき人を、いかにしてえてしかなとおもふを、高く大なる山を※[片+旁]璽さして、わか物と領せんとするによするなり
 
寄草
 
1336 冬隱春乃大野乎燒人者燒不足香文吾情熾《フユコモリハルノオホノヲヤクヒトハヤキタラヌカモワカコヽロヤク》
 
冬隱春といへるは、此歌草に寄すれば冬隱したる草の芽の張とつゞける歟、冬木成春とつゞくると同じ意に又野を燒は古草を燒なれば唯冬隱して春になればと云へる意にや、野を燒人の燒たらずして我心をやくとは、思ひにもゆるを云へるなり、此歌思ひにもゆと云へど誠の火にはあらねばやくるやうなるを火に喩へて寄とは云歟、又物を借て云へど喩としもなきもあれば其類歟、
 
初、冬こもり春の 野をやく人の猶やきたらねはや、わか心をさへやくと、おもひにもゆる心をいへり。さま/\におもふ事のしけき心も、野の草のことくなれはなり。遊仙窟。未2曾(テ)飲(トハオモハ)1v炭(ヲ)腹(ノ)熱(イコト)如(シ)v燒(カ)
 
1337 葛城乃高間草野早知而※[手偏+栗]指益乎今悔拭《カツラキノタカマノクサノハヤシリテシメサヽマシヲイマソクヤシキ》
 
葛城とは金剛山を云ひて其半腹に高天山あり、草野は日本紀に草野姫をカヤノヒメと讀たれば今もカヤノとも讀べきにや、萠出る時よりしめさゝずして弱草と成て今はと思ふほどに早人の刈取れる如く、いはけなき時より知れる人の程よく成ぬれば(46)人に得られたるを悔しとはよめるなり、葛木の高間とは此も貴人に喩へたる歟、
 
初、葛城のたかまの草野 はやしりては、速く領してなり。この哥はわか手に入ぬへき人を、人にとられてくゐてよめるなるへし
 
1338 吾屋前爾生土針從心毛不想人之衣爾須良由奈《ワカヤトニオフルツチハリコヽロニモオモハヌヒトノキヌニスラユナ》
 
從心毛、【幽齋本云、ココロユモ、】
 
土針は草の名なり、和名云、本草云、王孫、一名黄孫【和名、沼波利久佐、此間云、豆知波利、】衣ニスラユナはすらるなゝり、此は女の歌にて、吾やどの土針をもてみづから喩へて、土針をもてよき色とも思はず、かりそめめに衣にすらむ人のためにはすらるなと云へるは、言のなぐさに思ふと云人にはなあひそとなり、
 
初、わかやとにおふるつちはり 土針は草の名なり。和名集云。王孫一名黄孫【和名沼波利久佐。此間云豆知波利。】すらゆなは、すらるなゝり。由と留と同韻にて通せり。つちはりは、物をそむる草歟。もしはその花の紋にもすらるゝ物にてかくよめる歟。わかやとにといへる心は、わか手に入たる人にたとふるなり。とかくいひかゝつらふ人有とも、我をおきて、思はぬ人にうつるなといふなり
 
1339 鴨頭草丹服色取摺目伴移變色登※[人偏+稱の旁]之苦沙《ツキクサニコロモイロトリスラメトモウツロフイロトイフカタクルシサ》
 
摺目伴、【校本、摺作v※[手偏+皆]】
 
初、つき草にころも これはあたなる人のたのみかたきにたとふ
 
1340 紫絲乎曾吾※[手偏+義]足檜之山橘乎將貫跡念而《ムラサキノイトヲソワレヨルアシヒキノヤマタチハナヲヌカムトオモヒテ》
 
吾※[手偏+義]、【官本、※[手偏+義]作v搓、】
 
(47)吾※[手偏+義]は官本に依て※[手偏+義]を搓に改めてワガヨルと讀べし、念而もオモヒテのオ〔右○〕を略して讀べし、第十に、片搓に糸をぞわがよるわがせこが、花橘をぬかむともひて、似たる歌なれば例として准ずべし、紫の絲をば深き思ひに喩へ、山橘をば色よき物なれば女に喩へ、つらぬかむと思ふをば逢むと思ふにも妻とせむと思ふにも喩へたるべし、
 
初、紫のいとをそわれよる 深く人におもひかくるなり。※[手偏+義]は(槎の字の誤れるなるへし
 
1341 眞珠村越能菅原吾不苅人之苅卷惜菅原《マタマツクコシノスカハラワレカラテヒトノカラマクヲシキスカハラ》
 
越能菅原、【別校本云、ヲチノスカハラ、】
 
第二の句、六帖も今の點と同じけれど玉をつくる緒とつゞけたれば別校本に依て讀べし、第二の玉垂之越野と云に注せし如く、第四、第十二に眞玉つくをちこちかねてと云へるに准らふべし、さて此かく云は大和國高市郡の越智なるべし、此歌六帖には人つまの歌とす、人ノカラマク惜キと云はいまだ人妻にさだまりたるにはあらぬやうなれば彼方に約したるも同じければなり、
 
初、眞玉つくをちのすかはら 玉をつくる緒とつゝけたり。をちのすかはらは、大和國高市郡に越智岡《ヲチノヲカ》越智野《ヲチノ》有。此越智野にあるにや。第二巻、玉垂之越野とよめる哥の所に委辨せり。第十二に、眞玉つくをちこちかねてともつゝけたり。只をちかた野へなとよめる躰に、名所にあらさる事も有へし。われからて人のからまくおしきとは、たとへの心あらはなり
 
1342 山高夕日隱叔淺茅原後見多米爾標結申尾《ヤマタカミユフヒカクレヌアサチハラノチミムタメニシメユハマシヲ》
 
第二の句拾遺にも六帖にもゆふひがくれのとあれど今の點作者の意撰者のかきや(48)うに叶ふべし、夕日の高山に隱るゝをば殊なる障出來て又見る事を得ぬに喩ふ、淺茅原はやがて此下に君に似る草とよみたれば女に喩ふ、下句の意は知やすし、
 
初、山高み夕日かくれぬあさち原 第二卷にも、夕日なすかくれにしかはなとよめり。淺茅原のおもしろきを、うるはしき人にたとへて、夕日かくれぬとは、たま/\あひみて、あかぬわかれせし後、又もみぬたとへなり。かゝらんとしらは、淺茅原にしめゆふことく、人をもかたく約して、後もあひみまし物をとくゆるなり
 
1343 事痛者左右將爲乎石代之野邊之下草吾之刈而者《コトタクハカニカクセムヲイハシロノノヘノシタクサワレシカリテハ》
 
事痛者、【校本云、コチタクハ、】
 
發句は校本の點を用べし、こといたくは〔六字右○〕の登以を反せばち〔右○〕となる故なり、左右將爲乎はともかくもせむをの意なり、第三に、妹が家に咲たる花の梅の花、實にし成なばかもかくもせむ、此落句左右將爲と書て今も同じければカモカクモセムヲとも讀べし、石代ノ野邊とは名のときはなるを借て心の替らぬに寄たる歟、下草を刈をば忍びに逢に喩ふ、六帖には下草の歌として初の二句をこといたくさたにしもせむとあり、いまだ其意を得ず、
 
初、こちたくは 人を得て後、人の物いひしけきをは、ともかくもせんものを、得ぬほとのくるしきなり。いはしろの野への下草我しかりてはとは、草かるものも、かりたにかりつれは、つかねて家へはこふ事は、いつとなくなることく、得て後の人ごとは、その時にあたりて、ともかくもならん物をとよするなり
 
一云|紅之寫心哉於妹不相將有《クレナヰノウツシコヽロヤイモニアハサラム》
 
古今に鴨頭草のうつし心とよめるを、顯注云、露草の花をば紙に染て又それを移して物をそむればうつし花と云なり、されば人に移る心を露草にそへてよめるなり、(49)又郭公の歌に韓紅のふり出てぞ鳴とよめる注に、紅に振出と云事のあればそへて詠なり、常には紅をおろして衣に染たるをそれをおろして又染るを振出か云とかゝは〔八字左○〕引合て意得べし、さて此ウツシ心とは妹がうつし心ある故にや、紅の色よき如く言のみよくてあはざらむとなり、此一本にては唯紅によせてよめるのみにて喩ふる歌にはあらず、
 
1344 眞鳥住卯名手之神社之管根乎衣爾書付令服兒欲得《マトリスムウナテノモリノスカノネヲキヌニカキツケキセムコモカナ》
 
袖中抄に此歌を出して顯昭云、眞鳥とは鵜を云なり、さて眞鳥住うとやがて其名をつゞけるなり、委は別に注す、うなての神牡は大和國高市郡にあり、和名云、高市郡|雲梯《ウナテ》、延喜式出雲國造神賀詞云、皇御孫命靜坐大倭國申、己命和魂八咫(ノ)鏡取託、倭大物主櫛〓玉命、大御和神奈備坐己命御子阿遲須伎高孫根御魂、葛木神奈備事代主命御魂、宇奈提坐賀夜奈流美命御魂、飛鳥神奈備皇孫命近守神貢置、八百丹杵築宮靜坐、これに依れば卯名手神社は事代主神を齋ひ奉れるなり、右の神賀詞の中に宇奈提坐は前後に准ずるに宇奈提神奈備坐なるべきを乃神奈備の四字を落せるにや、うなての名(50)は日本紀に大溝をウナテとよめり、崇神垂仁の兩代殊に國々に課せて池溝をほらさせ給へば彼處も其ひとつにて名を得たるか、管は菅を誤れり、改むべし、菅根を衣に書付とは紋の事なるべし、うなての神社と云へるは、第十二にも、思はぬを思ふと云はゞ眞鳥住、うなての杜の神しゝるらむとよみたれば今も僞なき意をあらはせとなるべし、菅の根は上に菅の根のねもごろとあまたつゞけて讀たれば、懇に思ふ由にうなての神社の菅の根を書付よとか、長き物なれば長く相思ふことを表せよと云か、菅の根のしのび/\にとも讀たればしのびに思ふ由を菅の根に寄よと云か、袖中抄に衣をきぬと書てね〔右○〕とぬ〔右○〕と通ずる故にきね〔二字右○〕はきぬ〔二字右○〕なる由かゝれたるは假名に書あやまれる本を見てかゝれけるにや、
 
初、眞鳥住うなての森 管見抄云。まとりは鵜の名なり。うなては美作の國に有森の名なり。まとりはうなれは、うなてとつゝくといへとも、住といふ字に心得かたし。鵜は海に住ものなれは、まとり住海といひかけたるものなり。今案まとり住海と料簡したる面白し。又ひとつの愚意を述は、鵜ならすとも、木をまきといふことく、よろつの鳥を眞鳥といふへし。もりに
 
は諸鳥來てあつまるものなれは、かくもつゝくる歟。うなての杜、美作なるよし、八雲御抄に載させたまへと、延喜式、和名集等にも見えす。和名集に、高市郡に雲梯あり。これにや。此哥の前後のつゝき美作にはあるましくみゆ。日本紀に、石上(ノ)溝《ウナテ》なと有て、溝をうなてといふ。それに得たる名にや。菅の根をきぬかきつけきせむこもかなとは、兒は女をいへり。衣をそめぬふは、女のわさなれは、かくいへり。菅の根は、此集に、菅のねのねもころ/\とおほくつゝけよめれは、我をねんころにおもはんこらもかなといふ心にたとへたる歟。神社とかきてもりとよめるは、木のしけき所には、神のまし/\て、まもりたまへは、守といふ心にて杜の名もおひたる歟。また杜は木ふかき所にある物なれはかくかける歟
 
1345 常不人國山乃秋津野乃垣津幡鴛夢見鴨《ツネナラヌヒトクニヤマノアキツノヽカキツハタヲシユメニミルカモ》
 
常不は此集の習なれば此まゝにても有べけれど、若は不の下に在の字有の字などの落たるにや、秋津野ノカキツバタとは彼野の澤に咲かきつばたなり、かきつばた、此集には唯字を借てのみかけり、和名云、蘇敬本草注云、劇草、一名馬藺、【和名、加木豆波太、】俗に杜若を用れど是は別の芳草の名なり、し〔右○〕は助語なり、第十第十一にかきつばたにほへる妹、に(51)ほへる君とつゞけて色のうるはしき花なれば、今も人に喩へて見し事の忘がたければ夢に見ゆとなり、六帖には、かきつばたの歌に、夢に見えつつと改て入れたり、
 
初、常ならぬ人くに山 人は無常なるものなれは、常ならぬ人といひかけたり。秋津野とつゝけたれは、大和にまかふ事なし。八雲御抄には、紀の國と注したまへり。上にもみれとあかぬ人くに山とよめり。秋つのゝかきつはたとは、秋津野に澤ありて、それにおふるかきつはたなり。かきつはたを、夢にみるとよめる喩の心は、かきつはたは、紫にて、うるはしけれは、色ある人にたとへ、夢はその人をうつゝともおほえぬはかり、ほのかに見るによするなり
 
1346 姫押生澤邊之眞田葛原何時鴨絡而我衣將服《オミナヘシオフルサハヘノマクスハライツカモクリテワカキヌニセム》
 
我衣將服、【六帖云、ワカキヌニキム、別校本同v此、】
 
落句の今の點誤れり、六帖によるべし、姫押生澤邊と云事は姫押を女によせ、葛をくるを我方によるに喩へ、衣にきるを妻とするに喩ふ、姫押とかけるは俗語におしつくると云ことをへしつくと申侍る意なり、眞田葛原とかけるは第十第十二にもくずを田葛とかけり、
 
初、をみなへしおふるさはへの 第四中臣女郎か哥に、をみなへし咲澤におふる花かつみといふ哥に委注せり。まくす原いつかもくりてわかきぬにきんは、上のたちのしりさやにいる野とつゝきたる寄に注せり。わかきぬにせんとあるは、かなのあやまれるなり
 
1347 於君似草登見從我※[手偏+栗]之野山之淺茅人寞苅根《キミニニルクサトミルヨリワカシメシヤマノアサチヒトナカリソネ》
 
見從、【六帖云、ミシヨリ、】
 
淺茅を女に喩ふるは、詩衛風云(ク)、手(ハ)如(シ)2柔(ナル)※[草がんむり/夷]《チノ》1、此は女の手の※[糸+柔]にしてほそやかにうるはしきを茅※[草がんむり/幸]に愉ふ、※[草がんむり/夷]指と云も此に出たり、鄭風云、出(レハ)2其〓闍《イントヲ》1、有v女如v荼《トノ》、注(ニ)云、芽(ハ)茅※[草がんむり/幸](ナリ)、此は女のうるはしきが多かるを野に茅花のなびきたるに喩ふ、此國に喩るは淺茅の細やか(52)なるが色づつきたるをたをやぎたる女の色よきに喩ふるなり、此歌内典に准じて云はゞ法説譬説交絡すと云べし、初に君ニ似ル草とは法説なり、ことわりを云ひあらはせばなり、人ナカリソネとは淺茅原に標結如く我妻とせむと心のしめを結置つれば、其淺茅を押て刈取やうに人なさまたげそと云なれば譬説なり、淺茅の生ひ出る時を童女に喩へ、童女の時より今の君が容儀あらむと見置しを、君に似る草と云へるなれば、法譬交絡するには准らふと云なり、法譬雜亂の過は内典にも許さず、今は雜亂には非ず、能々心を著ずば意得がたかるべき歌なり、野山と云へるは野と山とにはあらで野中の山なるべし、此歌六帖には雜思の中のしめの歌に家持とて載たり、如何、
 
初、君にゝる草とみるより 第十九云。妹にゝる草と見しよりわかしめし野への山ふき誰かたをりし。淺茅を人にたとふるには、和漢の心かはりめあるへし。詩(ノ)衛風(ニ)云。手(ハ)如2柔(ナル)※[草がんむり/夷](ノ)1。鄭風云。出(レハ)2其(ノ)※[門/湮の旁]闍《イントヲ》1有v女如v荼《トノ》。注云。荼(ハ)茅華(ナリ)。詩にかくたとふるは、つはなの白くうるはしきを女にたとふるなり。今たとふるは、秋になりて露霜にあひ色つけるか、紅顔に似るをいふなり
 
1348 三島江之玉江之薦乎從標之巳我跡曾念雖未苅《ミシマエノタマエノコモヲシメシヨリオノカトソオモフイマタカラネト》
 
拾遺、人丸家集、並に六帖に皆薦をあし〔二字右○〕とす、
 
1349 如是爲而也尚哉將老三雪零大荒木野之小竹爾不有九二《カクシテヤナホヤオヒナムミユキフルオホアラキノヽササヽアラナクニ》
 
小竹爾不有九二、【別校本云、サヽナラナクニ、】
 
小竹の下の爾の字、上を承て重點をもて點じたるは筆者の誤なり、サヽニと讀べし大(53)荒木野は第三に大荒城の時にはあらねどと云歌に注せし如く大和國宇智郡荒木神社ある處を大荒木とも云へば、野と云も彼處なるべし、古今集に大荒木の杜の下草老ぬれば、駒もすさめぬ刈人もなしとよめる如く、此歌も男に古されたる女の我身を雪降比の小竹によせてよめるなるべし、曾丹が集に、大荒木の小篠が原とよめるも此歌に依れるにや、
 
初、かくしてや猶やおいなん 大あらき野は、大和國宇智郡荒木神社ある所なるへし。みゆきふるとは、雪のふる比は、さゝもおいてかしくかゆへにいへり。これはをとこのいひたえたる女のよめるなるへし。第十一に、かくしてや猶やなりなん大あらきのうきたのもりのしめならなくに。古今集に、大あらきの杜の下草老ぬれは駒もすさめす刈人もなし。曾丹か集にも、大あらきのをさゝか原とよめり
 
1350 淡海之哉八橋乃小竹乎不造矢而信有得哉戀敷鬼乎《アフミノヤヤハセノシノヲヤニハカテマコトアリトヤコヒコヒシキモノヲ》
 
八橋、【別校本云、ヤハシノ、】  不造矢而、【官本亦云、ヤハカステ、】  信有得哉、【官本云、マコトアリエムヤ、】
 
腰の句、今の點は木造矢のみ字を和して而の字を捨たれば叶はず、官本又點の如く讀べきか.或はヤニハガズテとも讀べし、四の句も官本の如く讀べし、第十五中臣宅守が歌に、於毛波受母麻許等安里衣牟也云云、八橋と書たれど意は矢橋にて、矢橋の小竹ならば名に負矢にはがむと思ふを、はがずしてはまことにさて有得むやとは.逢て事成を小竹に羽をつけ鏃をすげて矢となすに喩へて、あはではえあらじとなり、
 
初、やはせのしのをやにはかて 矢橋のしのならは、矢につくるへきを、さもせねは、まこと有にはなしとなり。かくいへる心は、ことよき人の、たのむはかりにいひつゝけて、さもなけれは、しのはあれとも、矢にははかて、矢橋の名をのみ聞かことし。我は眞實に懸しきものをといふなり
 
1351 月草爾衣者將揩朝露爾所沾而後者徙去友《ツキクサニコロモハスラムアサツユニヌレテノノチハウツロヒヌトモ》
 
古今、拾遺、六帖、皆今の點と同じ、人丸集には腰の句朝霧にと云へり、今按第四をばヌレ(54)テノチニハとも讀べし、書やうはかくやと心ひかれ侍り、月草ニ衣ハスラムとは、あはむと云に喩ふ、朝露にぬれて後うつろふをば別來る朝よりやがて人の心の替るともと云によせたるべし、古今には誤て此歌を入れたり、
 
初、月草に衣はすらん 人の心のうつりやすきを、月草にたとへて、その月草の朝露にぬれて後はうつろへと、まつは衣に摺ことく、人の心の後はうつるとも、まつあひみんといふにたとへたり。朝露にぬれての後といふは、すこしさはることあれは、やかて心のかはるによせたり。此哥古今集秋上に載たるは、萬葉集にいらぬふるき哥を奉るといへとも、かんかへもらして入たるなるへし
 
1352 吾情湯谷絶谷浮蓴邊毛奥毛依勝益士《ワカコヽロユタニタユタニウキヌナハヘニモオキニモヨリカタマシヲ》
 
ユタニタユタニは、古今集に、大舟のゆたのたゆたに物思ふ比ぞとよめるに同じ、第二に、猶豫不定をタユタフとよめる意なり、奥は池のもなかなり、依勝益士はヨリカテマシヲと讀べし、?と禰と同韻にて通ずればかて〔二字右○〕はかぬ〔二字右○〕なり、カタとあるは誤なり、逢がたき人を思ひやまずば蓴の浮て波にゆられたゆたひて池のもなかにも出ずみぎはにもよらぬ如くなかぞらにて物をのみ思ふべきをとなす
 
初、わか心ゆたにたゆたに ゆたにたゆたには、古今集に、大舟のゆたのたゆたにといへるにおなし。猶豫不定とかきて、たゆたふとよめる心にて、つくかたなきをいへり。へにもおきにもは、池にもおきとよむ證なり。よりかてましをは、よりかねましをなり。てとねと同韻にて通すれは、かてはかねなり。士ををとよむは、雄の心なり
 
寄稻
 
1353 石上振之早田乎雖不秀繩谷延與守乍將居《イソノカミフルノワサタヲヒテストモシメタニハヘヨモリツヽヲラム》
 
早田乎、【校本、乎作v者、】  繩、【別校本云、ナハ、】
 
秀ぬ田をば童女に譬へたり、
 
初、いそのかみふるのわさ田を 第十に、あしひきの山田つくる子ひてすともしめたにはへよもると知かね。ひてすともとは、またいはけなき人に、おもひかけていへるたとへなり
 
(55)寄木
 
1354 白菅之眞野乃榛原心從毛不念君之衣爾摺《シラスケノマノヽハキハラコヽロニモオモハヌキミカコロモニソスル》
 
心從毛、【別校本云、ココロニモ、】
 
上に土針によせたる歌は衣にすらるなと云ひ、今は衣にぞするとよめるは、いさむると悔ると殊なれど大意は同じ、深くも思はぬ男に逢て後女のよめるなるべし、六條本に君を吾に作て點もワレとあるは然るべからぬにや、
 
初、白管のまのゝ 白菅の眞野、以前注せることく、津の國なり。おもはぬ君か衣にするとは、上につちはりとよめる哥に注しき
 
1355 眞木柱作蘇麻人伊左佐目丹借廬之爲跡造計米八方《マキハシラツクルソマヒトイサヽメニカリホノタメトツクリケメヤモ》
 
眞木柱は檜などを以て作るなり、イサヽメはかりなめの意なり、古今集にも、いさゝめに時待間にぞ日はへぬるとよめり、杣人の良材を柱に造るは宮殿の爲にして、借廬など作る爲にはせぬ如く、我が人を思ひそめし心もかりそめにはあらず、宮殿の柱の幾久しくある如くとこそ思ひこめつれとなり、
 
初、ま木柱つくるそま人 いさゝめはいさゝかなり。かりそめにといふも心は通せり。いさゝめにおもひし物をたこのうらにさけるふち浪ひとよねぬへしと人のおほえたる哥も、此集第廿の哥にて、いさゝかにおもひてこしをたこの浦にさける藤みてひとよへぬへしとあれは、いさゝかとおなし詞なるへし。古今集にも、いさゝめに時まつまにそ日はへぬるこゝろはせをはみゆる物から。そま人のつくれるま木柱は、宮木のためにして、いさゝかにかりほなとの柱にとは、おもひあてゝつくらぬことく、わかおもひそめていひ出ることも、ことのなくさにはあらす。末遠く、偕老の契をとけんとこそいひ出れといふ心なり
 
1356 向峯爾立有桃樹成哉等人曾耳言爲汝情勤《ムカツヲニタテルモヽノキナリヌヤトヒトソサヽメキシナカコヽロユメ》
 
初二句は、男と女とは對する物なれば女を向峯の桃に喩ふ成哉等とは實のなるによ(56)せて事のなるを云、耳言はさゝやくなり、長恨歌に私語と云へるも同じ、汝情勤とは人はさゝめきあふとも汝が心つゝしみて動く事なかれとなり、
 
初、むかつをに むかひの山のをなり。人そさゝめきしはさゝやくなり。耳語なり。さゝめこともおなし心なり。長恨歌云。七月七日長生殿、夜半無(シテ)v人|私語《サヽメコトセシ》時。もゝの實のなるによせて、わか中のなりぬやと人々のさゝやきていひあふなり。なか心ゆめは、なんちがこゝろつとめて、しのひて、人にしらすなといふ心なり
 
1357 足乳根乃母之其業桑尚願者衣爾著常云物乎《タラチネノハヽノソノナルクハモナホネカヘハキヌニキルトイフモノヲ》
 
母之其業桑尚、【別校本云、ハヽノソノナルクハスラモ、六帖云、オヤノ、】
 
其業とは其産業と云なり、園在と云に借てかけるにはあらず、願者衣爾著とは桑を以て蠶にかへば本なるに付て云へり、娘は母のおふしたつる物なれば桑によせて、戀々たらば逢時あらむと喩ふるなり、
 
初、たらちねのはゝの 其業桑尚、これを園爾在《ソノナル》くはもなをといふ心によみたれと、あまりにやと思ふ上に、衣にきるといふ事かなはす。そのわさのくはこすらとよむへし。桑の下に子の字の落たるなるへし。寄v木といふにかなはすといふへけれと、此集の題は、後々題をすへてよむにはかはりて、大やうなること、集中を案すへし。かふこの桑をはみてそたては、桑子といふにて、寄木といふ心有。蚕をかふは、女のわさなり。むすめを人なすも、はゝのわさなれは、はゝのしわさにかふこも、あはれわか衣にきはやとねかへは、衣にきることく、人の子にもいかてと心をかけてこふれは、あふものをとたとへたり。女を蚕にたとふる事おほし。たらちねのおやのかふこのまゆこもりいふせくも有かいもにあはすて。此類なり。捜神記曰。大古之時有2大人1遠(ク)征(ク)。家(ニ)無2餘人1。唯有2一男一女壯馬一疋1。女親(カラ)養(フ)v之(ヲ)。窮2居(シテ)幽虞(ニ)1思2念其父(ヲ)1乃戯處v馬(ニ)曰(ク)。爾(チ)能爲(ニ)v我(カ)迎(ヘ)2得(テ)父(ヲ)1還(ラハ)、吾將(ニ)v嫁v汝(ニ)。既承(テ)2此言(ヲ)1馬乃絶v※[革+疆の旁]《ムナカキテ》而去(ル)。徑(チニ)至2父(ノ)所(ニ)1。父見(テ)v馬(ヲ)驚(キ)喜(テ)因(テ)取(テ)而乘(ル)v之(ニ)。馬望(テ)v所(ヲ)2自來(ル)1悲鳴(シテ)不v息(マ)。父(ノ)曰。此馬無事(ナルコト)如v此(ノ)。我(カ)家得(ンヤ)v無(コトヲ)v有v(コト)故乎。乃|亟《スミヤカニ》乘(テ)以歸。爲(ニ)3畜生有(ルカ)2非常之情1故(ラニ)厚(ク)加2芻養(ヲ)1。馬不2肯(テ)食(ハ)1毎v見2女(ノ)出入(ヲ)1輒喜怒(シテ)奮(フ)v繋(ヲ)。如(スルコト)v此非v一(ニ)。父怪(テ)v之(ヲ)密(ニ)以問v女(ニ)。々具(ニ)以告v父(ニ)、必如v是故(ナラム)也。父曰勿(レ)v言(コト)恐(ハ)辱(カシメン)2家門(ヲ)1。且(ツ)莫2出入(スルコト)1。於v是伏v弩(ヲ)射(テ)而殺(シテ)v之(ヲ)曝(ス)2皮於庭(ニ)1。父行(ク)。女與2隣女1於2皮(ノ)所(ニ)1戯(ル)。以v足蹙(テ)v之曰。汝(ハ)是畜生(ニ)而欲(スルヤ)2取(テ)v人(ヲ)爲(ント)1v婦(ト)耶。招(テ)2此(ノ)屠剥(ヲ)1如何(ソ)自《ミ ラ》苦(メル)。言未(タ)v及v竟(ルニ)馬皮※[手偏+厥]然(トシテ)而起(テ)卷(テ)v女(ヲ)以行(ク)。隣女忙|怕《ハ シテ》不2敢(テ)救1v之(ヲ)。走(テ)告2其父(ニ)1。々還(テ)求索(スルニ)已(ニ)出(テヽ)失(ス)v之(ヲ)。後經(テ)2數日(ヲ)1得(タリ)2於大樹(ノ)枝間(ニ)、女及(ヒ)馬皮(ヲ)1。盡(/\ク)化(シテ)爲v蠶(ト)、而績2於樹上(ニ)1。其繭綸理厚(ク)大(ニシテ)異2於常(ノ)蠶(ニ)1。隣婦取而養(フ)v之(ヲ)。其(ノ)校數倍(ス)。因(テ)名2其樹(ヲ)1曰v桑(ト)。々者喪也。由v斯(ニ)百姓競(テ)種(フ)v之(ヲ)。今(ノ)所v養是(ナリ)也。言2桑蠶(ト)1者是古蠶之餘類也。案(スルニ)2天官(ヲ)1辰(ヲ)爲2馬星(ト)1。蠶書曰、月當(レハ)2大火(ニ)1則浴2其種(ヲ)1。是(レ)蠶(ト)與v馬同(スル)v氣(ヲ)也。周禮教人(ノ)職掌(ニ)禁2原蠶(ヲ)1者、注(ニ)云、物莫(シ)2能兩(ナカラ)大(ナルコトリ1。禁2原蠶(ヲ)1者爲2其傷1v馬(ヲ)也。漢禮(ニ)皇后親採v桑(ヲ)祀2蠶神(ヲ)1曰2苑※[穴/(瓜+瓜)]婦人寓氏公主(ト)1。公主(ト)者女之尊稱(ナリ)也。苑※[穴/(瓜+瓜)]婦人(ハ)先(ツテ)蠶(ナル)者也。故(ニ)今(ノ)世或(ハ)謂(テ)v蠶(ヲ)爲(ルハ)2女兒(ト)1者是(レ)古之遺言(ナリ)也。今もこかひする所には、ひめと申よし承るは、をのつからかよへるなるへし
 
1358 波之吉也思吾家乃毛挑本繁花耳開而不成在目八方《ハシキヤシワカイヘノケモヽモトシケクハナノミサキテナラサラメヤモ》
 
吾家、【別校本云、ワキヘ、】  本繁、【六帖云、モトシケミ、】
 
發句は桃をほむる詞、下の心は女を云へり、吾家は別校本の點に依べし、毛桃とは桃の實には毛の生れば云へり、本繁は本とは木なり、必らずしも本末の本に限て云にはあらず、集中此意を得て見るべし、言のみよりたのめてあはざらむやの喩なり、
 
初、わか家のけもゝ 桃の實には、毛の有ゆへに、毛桃と此集におほくよめり。花のみさきてならさらめやもとは、約する言のみ有て、實のなからんやとたとふるなり
 
萬葉集代匠記卷之七中
 
(1)萬葉集代匠記卷之七下
 
1359 向岡之若楓木下枝取花待伊間爾嘆鶴鴨《ムカツヲノワカカツラキノシツエトリハナマツイマニサケキツルカモ》
 
若楓木はワカヽツラノキとも讀べし、下枝取花待間とは、童女にちぎりて盛を待に喩へたり、
 
初、むかつをの若かつらの木 和名集に、楓はをかつら、桂はめかつらなり。今は只何となく、かつらのわか木によせたり。花待いまは花待間なり。いは例の發語の詞なり。まだ片なりなる人の子にちきりをきて、時を待にたとへたる哥なり
 
寄花
 
1360 氣緒爾念有吾乎山治左能花爾香君之移奴良武《イキノヲニオモヘルワレヲヤマチサノハナニカキミカウツロヒヌラム》
 
氣緒に思ふとは命に懸て思ふなり、山チサは、今もちさのきと云物なり、和名集云、本草云、賣子木、【和名、賀波知佐乃木、】此も此木の事にや、花ニカとは花のやうにかの意なり、六帖には山ちさの歌として尾句をうつろひにけむと改ためたり、
 
初、いきのをにおもへる我を 山ちさは常にちさの木といふ物なり。第十一にも、山ちさの白露をもみとよみ、第十八長哥にも、ちさの花さけるさかりになとよめり。和名集云。本草云。賣子木【和名賀波知佐乃木。】たゝちさの木ともいへは、かはちさの木とあるも、山ちさのことにや。哥の心は、われは命にかけておもふを、君は山ちさの花のうつろふやうに、心のかはるがうらめしきとなり
 
1361 墨吉之淺澤小野之垣津幡衣爾摺著將衣日不知毛《スミノエノアササハヲノヽカキツハタキヌニスリツケキムヒシラスモ》
 
垣津幡も衣ニ摺も喩ふる意上の如し、
 
初、すみのえの浅澤小野の かきつはたは上にもいふことく、紫にうるはしう咲は、それによそへて、衣にすりつけてきるをは、事のなるにたとふるなり、第十七に、かきつはたきぬにすりつけますらをのきそひかりする月はきにけり。上の三十三葉には、うなての杜の管の根をきぬにかきつけきせんこもかなとよめり
 
(2)1362 秋去者影毛將爲跡吾蒔之韓藍之花乎誰採家牟《アキサラハカケニモセムトワカマキシカラアヰノハナヲタレカツミケム》
 
童女のおかしげなるを見置て、我妻とせむと心のしめを結たる程に、人の妻に定まれる時よめるなるべし、
 
初、秋さらはかけにもせんと からあゐは、第三の三十八葉、赤人の哥に、第十一の四十一葉の哥の注を引て尺せしことく、※[奚+隹]頭花なるへし。第十一に、※[奚+隹]冠草花とかけり。※[奚+隹]頭花にいろ/\おほしといへとも、花のかたちのみならす、色もあかくして、.※[奚+隹]冠《トリサカ》に似たるを本としての名なるへし。紅花をくれなゐといふは、くれのあゐといふことにて、呉藍《クレノアヰ》なり。もと呉の國より出て物をよくそむる事、藍に似たれは、色は異なれと、心を得て名付たり。からあゐといふも、こゝに韓藍とかけるはからくにより出れはなり。此花にて物をそむる事はいまたきかねと、紙なとにしみつけは、昔は紅花のやうに染ける事も有ての名にや。此哥にたとふる心も、後は妻にもせんと見置たるうなゐを、はやく人に領せられて、くゐてよめるなるへし
 
1363 春日野爾咲有芽子者斤枝者未含有言勿絶行年《カスカノニサキタルハキハカタエタハイマタフヽメリコトナタエコソ》
 
此もまた片なりなる人に云意なり、斤は片に改作るべし、
 
初、かた枝はいまたふゝめり ふゝむはふくむにて、花のつほめるをいふ。萩は秋草の中にぬき出たる物にて、その片枝のまたさかぬといふは、うるはしきうなゐに、行末をちきる心なり
 
1364 欲見戀管待之秋芽子者花耳開而不成可毛將有《ミマクホリコヒツヽマチシアキハキハハナノミサキテナラスカモアラム》
 
此はかたなりより思ひ懸しがおとなになれる時に、喩へて云ひつかはせる歌と見えたり、
 
1365 吾妹子之屋前之秋芽子自花者實成而許曾戀益家禮《ワキモコカヤトノアキハキハナヨリハミニナリテコソコヒマサリケレ》
 
下の句は色衰る比に物の情を知を云歟或は子など出來て後に喩へたるか、
 
初、わきもこかやとの秋はき花よりは實になりてこそ これは萩の實を賞して、たとふるにはあらす。第十にも、わかやとにさける秋はき散過て實になるまてに君にあはぬかもとよみて、實ある物なれは、花やかにいひわたりたるよりは、あひみて眞實をみるかまされりといふ心にたとふるなり。王建か宮詞に、樹頭樹底(ニ)覓(ム)2残紅(ヲ)1。一片(ハ)西(ニ)飛(ヒ)一片東。自是桃花貪(ホル)v結(コトヲ)v子《ミヲ》。錯教3v人(ヲ)恨2五更(ノ)風(ヲ)1。天隱(ノ)註に、結(トハ)v子(ヲ)有(テ)v寵有(ルヲ)v成(スコト)也。才子傳(ノ)杜牧(カ)傳(ニ)云。太和(ノ)末往(テ)2湖州(ニ)1目2成(スルニ)一女子(ヲ)1方(ニ)十餘歳。約(スルニ)以(ス)2十年(ノ)後吾來(テ)典《ツカサトテ》v郡(ヲ)當(ニ)1v納《イル》v之(ヲ)。結(ニ)以(ス)2金幣(ヲ)1。※[さんずい+自]《ヲヨテ》2周※[土+穉の旁](カ)入(テ)相(タルニ)1上※[片+錢の旁](シテ)乞(フ)v守(タランコトヲ)2湖州(ニ)1比(ラヒ)v至(ル)已(ニ)十四年。前(ノ)女子從(テ)v人(ニ)兩雛(アリ)矣。賦(シテ)v詩(ヲ)云。自《ミ》恨(ム)尋(テ)v芳(ヲ)去(コト)較《ヤヽ》遲(キコトヲ)、不v須《モチヰ》惆悵(シテ)怨(ムコトヲ)2芳時(ヲ)1、如今風|※[手偏+罷]《ウチハラツテ》花狼籍、緑葉成(シテ)v陰(ヲ)子滿(ツ)v枝。これら實になるとたとふるに、さま/\の心あり
 
寄鳥
 
1366 明日香川七瀬之不行爾住鳥毛意有社波不立目《アスカカハナヽセノヨトニスムトリモコヽロアレハコソナミタヽサラメ》
 
(3)意有社は古語に任て コヽロアレコソとよみて、こゝろあればこそと意得べし、落句は六帖に人知れぬと云に入れたるも今の點と同じけれど、ナミタテザラメと讀べきか、意は鳥の浪を立る羽音を聞てそこもとに※[横目/絹]《ワナ》をさし網を張などして捕れば、人に知られじとて浪を立ずに下に通ふを、人に知られじとするを喩へたり、
 
初、あすか川なゝせのよと 第五には、松浦川なゝせのよとゝよめり。ひろき川の瀬のおほかるをは、いつくにもいふへし。鈴鹿川にはやそせとさへよめり。此哥のたとへの心は、七瀬によとむ水は、水鳥の心にはかなふましけれと、さりとて、いつくにうつりすむへきにもあらすと思ふ心あれはこそ波をたてゝ打さはきても立さらすはすむらめ。なゝ瀬のよとの、よとみかちなるやうに、さはる事のみありて、あふことなき中も、さりとておもひすてゝ誰にかはうつらむとなり。よとは水のぬるき所なれは、義をもて不行とかけり
 
寄獣
 
1367 三國山木末爾住歴武佐左妣乃此待島如吾俟將痩《ミクニヤマコスヱニスマフムサヽヒノトリマツカコトワカマチヤセシ》
 
三國山は八雲御抄に攝津國と注せさせたまへり、續日本紀云、延暦四年正月丁酉朔庚戌遣v使掘2攝津國神下梓江鰺生野1通2于三國川1、此三國川は三國山より流れ出る歟、繼體紀云、遣v使聘2于三國坂中井1、【中此云v那、】延喜式第十云、越前國坂井郡三國神社、右兩處同名なれど近きに付てよむべければ津國なるべし、木末はコヌレとも讀べし、此の字は衍文なり、待鳥如はトリヲマツゴトとも讀べし、將痩をヤセシと點せるは誤なり、幽齋本に依べし、※[鼠+吾]は鳥の近づくを待懸て取物なれば鳥を捕食ふ事のまれなる故に詩文にも饑※[鼠+吾]と作れば痩る理なり、我も其如く人を待思ひに鯉痩む物なりとよめるなり、
 
初、三國山木末にすまふ 此三國山を、八雲御抄には、津の國と注せさせたまへり。績日本紀云。延暦四年正月丁酉朔庚戌(ノヒ)、遣(シテ)v使(ヲ)掘(テ)2攝國(ノ)神下梓江|鯵生野《アチフノヲ》1通(ス)2于|三國《ミクニ》川(ニ)1。此三園川、津の國にて、いつれの郡に有とはしらねと、鯵生野は、味原宮《アチフノミヤ》、味經原《アチフノハラ》とよめる所にて、東生《ヒムカシナリノ》郡なるへし。しかれは北にあたりては、多田の山勝尾山のつゝきならては山なけれは、東生郡より、山あるまてには、淀川の末をはしめて、東西になかるゝ川ともあれは、三國川は北の山に三國といふ山ありてその麓になかるゝ川にはあるへからす。もとよりみくにときこゆる山の名もなし。三國川あるによりて、三國山をも津國ならんと思しめしけるにや。たゝし丹波へちかき所に三國といふ村有ときく。山里ときけはそこの山にや。今案、これは越前國なるへき歟。延喜式第十神名下云。越前國坂(ノ)井郡三國(ノ)神社。日本紀第十七、繼體天皇紀(ニ)云。男大迹《ヲホトノ》天皇(ハ)【更《マタノ》名(ハ)彦|太《フトノ》尊】誉田《ホムタノ》天皇(ノ)五|世孫《ツキノミマコ》、彦|主人《アルシヌシノ》王(ノ)子《ミコ》也。母《イロハヲハ》曰2振《フル》媛(ト)1。々々(ハ)活目《イクメノ》天皇(ノ)七|世《ツキノ》孫《ミ》也。天皇|父《カソノミコト・カソ》聞(テ)2振媛(カ)顔容《カホ・カタチ》※[女+朱]妙《キラ/\シテ》甚有(コトヲ)2※[女+微]色《イロ》1自2近江國(ノ)高嶋(ノ)郡三尾(ノ)之|別業《ナリトコロ・タリホ》1遣(シテ)v使(ヲ)聘《ヨハヒテ》2于三國(ノ)坂中井(ニ)1【中此(ヲ)云v那】納《メシイレテ》以|爲《シタマフ》v妃《ミメト》。遂(ニ)産2天皇(ヲ)。天皇|幼年《ミトシワカクシテ》父|王《オホキミ》薨《ウセマシヌ・カムサリタマフ》。振媛廼歎(テ)曰。妾《ヤツコ》今(マ)遠(ク)離(レテ)2桑梓《モトノクニヲ、モツツクニヲ・モトヤクニヲ》1安(ソ)能得(ム)2膝養《ヒタシマツルコトヲ》1。余|歸2寧《オヤトフヲヒカテラニ》高向《タカムクニ》1【高向者越(ノ)前《ミチ》國(ノ)邑(ノ)名】奉v養《ヒタシタテマツラム》2天皇(ヲ)1。又下(ニ)云。持《モチテ》v節《シルシヲ》以備(ヘテ)2法駕《ミコシヲ》1奉(ル)v迎(ヘ)2三國(ニ)1。和名集云。越前國坂(ノ)井郡高向【多加無古。】日本紀によれは、三國の内に坂中井、高向といふ所もあるなり。延喜式、和名集によれは、坂井郡に三國、高向あり。しかれは、坂井郡はもとみな三國なり。此所にみくに山あるへし。むさゝひは、第三第六に注せり。五技あれとも、みな身をたすくるにたらねは、常にうえてあるゆへに、文選※[言+身+矢]玄暉(カ)敬亭山(ノ)詩(ニ)云。獨鶴方(ニ)朝(ニ)唳、饑※[鼠+吾]此(ノ)夜啼。鳥のちかつくを待かけて取物なれは、鳥を取くらふことのともしけれは、うゆるゆへに、痩ることはりなり。我もそのことく、人を待思ひに、戀痩むものなりと讀るなり。此の字はあまれり
 
(4)寄雲
 
1368 石倉之小野從秋津爾發渡雲西裳在哉時乎思將待《イハクラノヲノヨリアキツニタチワタルクモニシモアレヤトキヲシマタム》
 
從はユ〔右○〕とも讀べし、雲ニシ、時ヲシ、二つのし〔右○〕は助語なり、雲にもあれやは雲にても有たらばやなり、願ふ詞にはあらで、石倉の小野より秋津小野まで立渡る雲の如き身ならば通ひ路遠き中にも逢時をまたむを、さらぬ身なれば逢時を待かねる意なり、新後拾遺集に、石藏の小野の秋津とつゞけてよまれたる歌あり、おぼつかなし、
 
初、いはくらの小野より秋津に 秋津にたちわたるといへるにて知ぬ。此石倉の小野といふは大和國なり。類字抄に山城に屬したるは、非なり。雲にしもあれやは、雲にても有たらはやなり。第六に赤人の、鵜にしもあれや家おもはさらんといふ哥に注せるかことし。石倉の小野より、はる/\と秋津の小野まて、みるかうちに立わたることを得る雲のことき身にてもあらは、通ひ路遠き中にも、あふ時をまたむを、雲のやすく立わたることくなることをえぬ身なれは、逢時の待かたき心なり
 
寄雷
 
1369 天雲近光而響神之見者恐不見者悲毛《アマクモニチカクヒカリテナルカミノミレハカシコシミネハカナシモ》
 
見者恐、【六帖云、ミレハオソロシ、紀州本同v此、】
 
高貴の人を戀る喩なり、悲毛はまことにかなしきなり、
 
初、雲にちかくひかりて 尊貴の人をおもひかけてよめるなるへし。さてこそ天雲にちかくひかりてなる神とはたとへけめ。高山にてきけはいかつちは下にてなる物なれは、天雲にちかくひかりてとはいへり。みれはかしこしとは、いなひかりのおそろしきに、尊貴の人をあひみるをたとへたり。みねはかなしも。此句は只あひみねはかなしきなり。なる神にはかゝらす。みれはといふにかゝりていへり。此かなしきはまことにかなしきなり。おもしろきをいへるにはあらす
 
寄雨
 
1370 甚多毛不零雨故庭立水大莫逝人之應知《ハナハダモフラヌアメユヱニハタツミイタクナユキソヒトノシルヘク》
(5)大莫逝、【校本、大或作v太、】
 
戀る人を捨ずして逢は恩なれば雨に喩へ、逢見しに付ていとゞ、戀しく成て涙のこぼるゝを庭立水に喩へてよめり、
 
初、はなはたもふらぬ雨ゆへ これはしのひて思ふおもひを、はなはたしくもふらぬ雨にたとへ、涙をにはたつみにたとへて、戀すと人のしるはかりに、しのひなるおもひにこほるゝ涙は、いたくなゝかれぞといふ心なり。和名集云。唐韻(ニ)云。潦音老【和名爾八太豆美】雨水也
 
1371 久堅之雨爾波不著乎※[土+在]毛書袖者干時無香《ヒサカタノアメニハキヌヲアヤシクモワカコロモテハヒルトキナキカ》
 
※[土+在]、【別校本作v恠、】
 
※[土+在]は別校本に依て改むべし、袖のひぬは涙なり、人丸集にひる時もなしとあり、拾遺此と同じ、
 
寄月
 
1372 三空往月讀壯士夕不去目庭雖見因縁毛無《ミソラユクツキヨミヲトコユフサラスメニハミレトモヨルヨシモナシ》
 
月の内の桂の如きとよめる意なり、
 
初、みそらゆく月よみをとこ これは第四に、めにはみて手にはとられぬ月のうちの桂のことき妹をいかにせんといふ哥の心なり。ゆふさらすはよひ/\なり。一夜もおちすの心なり
 
1373 春日山山高有良之石上菅根將見爾月待難《カスカヤマヤマタカカラシイハノウヘノスカノネミムニツキマチカネヌ》
 
初の二句は落句をいはむためなり、月の山に礙られて遲きを人のさはる事あるかにて遲きに喩ふ、石上菅根をば替らぬ心の懇なるに喩へたるべし、寧樂京の人のよめる(6)にて春日山とは云へるにや、
 
初、春日山やま高からし 此たとふる心は、人を月によそへて待に、山高けれは月をさへてをそきかことく、人めにさはりて遲出くるかと思ふ心を、たとへの上にて山高からしといへり。いはのうへの菅の根みむとは、管のねは、こまかにしてしけき物なれは、あひみて、しけきおもひを、かたりなくさまんといふことを、これもたとへのうへにていへり
 
1374 闇夜者辛苦物乎何時跡吾待月毛早毛照奴賀《ヤミノヨハクルシキモノヲイツシカトワカマツツキモハヤモテラヌカ》
 
闇夜はあはぬほどの心に喩へ、待月は待人に喩ふ、早モテラヌカははやく照れかしにて早く出來よかしなり、イツシカのし〔右○〕は助語なり、
 
初、やみの夜とは、夜は人待時にて、やかてまつ人のこぬほとは、夜《ヨル》のうちにもやみの夜のやうなれは、くるしといへり。わか待月は、人の光臨をまつによせたり
 
1375 朝霜之消安命爲誰千歳毛欲得跡吾念莫國《アサシモノケヤスキイノチタカタメニチトセモカナトワカオモハナクニ》
 
朝霜の消易き命としる/\千歳もがなとは誰爲にか思はむ、君故にこそ叶はぬ事をも思へば、せめては待侘しめずして早くだに來よと上の歌と兩首にて委しく本意を盡すなり、
 
右一首者不有譬喩歌類也但闇夜歌人所心之故並作此歌因以此歌載出此次
 
寄赤土
 
1376 山跡之宇※[しんにょう+施の旁]乃眞赤土左丹著曾許裳香人之吾乎言蒋成《ヤマトノウダノマハニノサニツカソコモノカヒトノワレヲコトナサム》
 
(7)左丹著、【官本、著下有v者、】
 
發句のかきやうに依らばヤマトノと四文字に讀べきか、左丹著は經の字有てさにづかふにや、他處にさあり、者の字を加へてさにづかばと云へる事集中に例なき歟、さにづかふは色に出るなり、曾許裳香を今の點ソコモノカとあるはノ〔右○〕をあませり、筆者の失錯なるべし、曾許は彼處なり、此處《コヽ》に對して云のみならず集中に多くそれと云にも通せり、吾乎は上に云如くアヲと讀べし、
 
初、うたのまはにのさにつかは さにつかふさにつらふおなしことにて、はにの色のにほふなり。そこもかは、それにもかなり。すこしも人のわれにゆるす色を見せは、はや世の人のわがあへるやうにいひなさんといふ心なり
 
寄神
 
1377 木綿懸而祭三諸乃神佐備而齋爾波不在人目多見許増《ユフカケテマツルミムロノカミサヒテイムニハアラスヒトメオホミコソ》
 
許増、【別校本、増作v曾、】
 
三諸はミモロとも讀べし、此は何處にも神のまします處を云、三諸山にはあらず、神佐備而は第四に紀女郎が、神さぶといなとにはあらずとよめる如く我身をふりぬと思ひなして逢ことをいみていなと云にはあらず、人目の多ければこそあはぬとよめる歟、又此神さびては第二にうま人さびてと云如く我身を貴きものに思ひあかりてあはぬには非ずと貴女などの我よりは下れる人に戀られてよめる歟、
 
初、神さひていむには 神さひては、人をふるすなり。いむはいとふなり。人をふりぬといひてあはぬにはあらす。人めしけくてあはぬとなり
 
(8)1378 木綿懸而齋此神社可超所念可毛戀之繁爾《ユフカケテイミシヤシロモコエヌヘクオモホユルカモコヒノシケキニ》
 
神社、【紀州本云、モリ、】
 
此歌上と問答せるやうに見ゆる歟、第二の句イムコノモリモと讀べきか、超ぬべくおほゆとは垣をも越法禁をも過越してだにあはゞあはむと思ふまで戀しきとなり、
 
初、ゆふかけていみしやしろも 第十一に、ちはやふる神のいかきも越ぬへし今はわか名のおしけくもなし。今はたとへの哥なれは、やしろもこえぬへくおもふとは、天下の法禁にも、そむきぬへき心にや
 
寄河
 
1379 不絶逝明日香川之不逝有者故霜有如人之見國《タエスユクアスカノカハノヨトメラハユヘシモアルトヒトノミラクニ》
 
不逝有者、【紀州本云、ユカスアラハ、】
 
發句に不絶逝とあるを思ふに、腰句の今の點義訓たくみなれどユカズアラバ或はつゞめてユカザラバとよめるや、作者の意にて侍らむ、但古今によどみなばとあれば有の字にこそ叶はねど不逝をば昔より義訓せるなり、故霜有如は今の點叶はず、ユヱシモアルゴトと讀べし、又故をコトとよむべき歟、同じ意なり、人之見國は人の見むになり、此歌の意は、常に通ひたる方にゆかぬ折あらば、我心にことなる故ありてや來ぬと人の思はむが、我はことなる心もなき物をとなり、下句古今に心あるとや人の思はむ(9)とある同じ意なり、
 
初、たえすゆくあすかの川の 我人のもとへかよふ事、あすか川のたえぬことくなるに、さはること有て、川の中よとのやうに、ゆかぬ事あらは、我にゆへあることく、人のおもひうたかはんの心なり。第四に、ひとことをしけみこちたみあはさりき心あるごとおもふなわかせ。此心あるごとといへると、ゆへしもあるごとといふと、おなし心なり。俗に何とそゆへあらんといふこれなり。如の字はごとなり。とゝのみよめるはかんなの落たるなり。此哥古今集第四に、たえす行あすかの川のよとみなは心あるとや人のおもはんと載て、注していはく。此哥ある人のいはくなかとみのあつま人かうたなり
 
1380 明日香川湍瀬爾玉藻者雖生有四賀良美有者靡不相《アスカカハセヽニタマモハオヒタレトシカラミアレハナヒキモアハス》
 
せゞの玉藻とは我と人との心は叶ひたるに喩、しがらみをばさわる事有て中を隔てゝ逢しめざるに喩ふ、腰句六帖におほかれどとあるは改たるにはあらで昔はかくよめるなるべし、雖多有と書たらむをこそさはよまめ、今の點よくあたれり、
 
初、あすか川せゝに これは、せゝの玉もはたかひになひきあふ物なれと、しからみにへたてられては、なひきあふ事あたはさるかことく、おもひあへる中も、さはる人あれは、えあはぬにたとふるなり。第二の長哥に、飛鳥のあすかの川の、かみつせにおふる玉もは、しもつせになかれふれふる、玉もなすかよりかくより、なひきあひしつまのみことの、たゝなつくやははたすちを、つるきたち身にそへねゝはなとよめる心なり
 
1381 廣瀬川袖衝許淺乎也心深目手吾念有良武《ヒロセカハソテツクハカリアサキヲヤコヽロフカメテワカオモヘラム》
 
或者の云く、大和國廣瀬郡の廣瀬川は泊瀬川と倉橋川の落合なれば、又は河合川とも云ひて河合村彼處にありと云へり、皇極紀云、元年是歳蘇我大臣|蝦夷《エミシ》立(テヽ)2祖《オヤノ》廟於葛城(ノ)高宮1而爲2八〓之※[人偏+舞](ヲ)1、作v歌曰、野麻騰能飫斯能※[田+比]稜栖嗚倭※[木+施の旁]羅務騰《ヤマトノオシノヒロセヲワタラムト》、阿用比他豆矩梨《アヨヒタツクリ》、擧始豆矩羅符母《コシツクラフモ》、此おしのひろせとよめるは葛上郡の北に忍海郡あれば、彼處なる川の廣瀬と云へる歟、忍海の北に葛下郡葛下の北に廣瀬郡はあれば今の廣瀬川にはあるべからぬにや、袖衝許とは流るゝ水の纔に袖に衝當りて流るゝほどの深さなるを淺しとは云なり、袖をひたすを潰《ツク》と云ひて衝は漬に借てかける歟とも云べきを、第十一に、紅之|須蘇衝《スソツク》河乎云云、此も亦|衝《シニウ》の字を書たるにて前の義なる事を知べし、第十七に、立山(10)の雪し來《く》らしも延槻《ハヒツキ》の、河の渡り瀬鐙わかずも、此歌は水の深くて速きを鐙衝と讀たれば、裙衝河とよめるこそ淺くは聞ゆれ、袖衝許は淺からずやと思ふ人も有べけれど、装束の袖、未通女の缺掖の袖などはいと長ければ淺き事に云はむ事さも侍るべし、さて此は人の心の深くも思はぬを我のみや深く思ひてあらむと云喩なり、河を渡る者は淺深に依て掲※[礪の旁]の用意を替る習なるに、淺きを渡るに※[礪の旁]する如くなる思ひを我ながらいぶかり思ふ意なり、念有良武はおもひあらむを約むれば、比阿(ノ)反波なるを、又初四相通じて波を敞となしておもへらむと點ずれば、念有武にて足れり、良は衍文なるべし、六帖には腰を淺き瀬をと改ため、尾を我は思はむと成したれば作者の本意にあらず、我やと云はゞ叶ふべし、續古今集には腰を淺き瀬にと成して尾は六帖と同じければ意も亦彼と同じ、
 
初、廣瀬川そてつく 廣瀬は大和國廣瀬郡に有川なり。袖つくはかりとは、つくはこゝに衝といふ字をかきたることく、なかるゝ水の袖につきあたりて過るなり。第十七に、家持の哥に、立山の雪し|く《來》らしも《・きえてくるなり》はひつき《延槻》の川のわたり瀬あぶみ《・鐙》つかすも。これ衝の字の心なり。これは人の、我をおもふ心のふかゝらぬにたとへたり。良は衍字なり。催馬樂に、さは田川袖つくはかり浅けれとくにの宮人高橋わたす
 
1382 泊瀬川流水沫之絶者許曾吾念心不遂登思齒目《ハツセカハナカルミナワノタエハコソワカオモフコヽロトケストオモハメ》
 
言の通ひを泊瀬川の流るゝに喩ふる歟、然らば流るゝ水の絶ばこそと云べきを水沫と云へるは命をたとへて云なるべし、不遂は今按トゲジと讀べきにや、
 
初、泊瀬川なかるみなはのたえはこそ これはかよふ心、あるひはつかひなとのたえぬにたとふ
 
1383 名毛伎世婆人可知見山川之瀧情乎塞敢而有鴨《ナケキセハヒトシリヌヘミヤマカハノタキツコヽロヲセカヘタルカモ》
 
(11)發句は長息せばなり、タギツ心とは、たぎりて落る水の如く物の思はるゝなり、セカヘタルカモはせきあへたるかもなり、幾阿(ノ)切加なる故に約めて云へり、
 
初、せかへたるかもは、せきあへたるかもなり
 
1384 水隱爾氣衝餘早川之瀬者立友人二將言八方《ミコモリニイキツキアマリハヤカハノセニハタツトモヒトニイハメヤモ》
 
初の二句は忍びに歎ずる喩なり、次の二句は早川の瀬のたけき水につかれて立事はいと安からぬ事なるを、それがやうなる思ひを堪忍びて苦しくとも人にかくとはいはじとなり、發句を六帖にはみかくれてとあり、爾をて〔右○〕と點ずべからざれば改たるか隱の字カクルともコモルとも用たる中に水隱はいつもミコモリなり、
 
初、みこもりにいきつきあまり 水を泳人の、底に入て魚なとあなくりて、うき出るが、ためたる息のくるしきをつくほと、早川の瀬にたつも、猶くるしき事なり。みこもりは、しのひに物思ふにたとへ、早川の瀬をは、おもひの切にして、たへかたきにたとふ。古今集に、よしの川水の心は早くともたきの音にはたてしとそおもふ
 
寄埋木
 
1385 眞※[金+施の旁]持弓削河原之埋木之不可顕事等不有君《マカナモテユケノカハラノムモレキノムモレキノアラハルマシキコトニアラナクニ》
 
眞〓持、【校本云、マカナモチ、】  事等不有君、【別校本、等作v爾、點云、コトナラナクニ、】
 
眞は※[金+施の旁]をほむる詞、眞木などの如し、※[金+施の旁]は此卷上にいほりかなしみと云にも※[金+施の旁]染と借てかけり、和名云、唐韻云、※[金+斯]、【音斯、和名賀名、辨色立成、用2曲刀二字1、新撰萬葉集、用2〓字1、今案〓字所v出未v詳、但唐韻有v〓、視遮反、一音夷、短矛名也、可v爲2工具2之義未v詳、】平v木器也、此集に用たるをば考もらされたり、〓を持て弓を削るとつゞく、弓削河原は河内國なり、和名云、若江(ノ)郡弓削【由介、】延喜式云、若江郡弓削神社二座、稱徳紀に由義宮を造(12)給ひて行幸せさせ給へる事など、具に記せる處なり、道鏡法師が故郷なり、埋木とは洪水の時など川上より流れ來ていつとなく洲などに埋れ、或は岸などの木の岸の潰たる時など埋たるなり、それを以て忍び/\の思ひに喩へて、彼埋木も又洪水などする時水はなにてほるゝ時顯はれ出る事あれば忍ぶとすとも顯はるまじき思ひにあらずと喩へたり、忠岑が、名取川瀬々の埋木顯はれば、如何にせむとか相見そめけむとよめるは今の歌を思へる歟、等は爾に作れるをよしとすべし、
 
初、まかなもてゆけのかはらの ※[金+施の旁]をもて弓をけつるとつゝけたり。かなは和名集云。唐韻云。※[金+斯]【音斯。和名賀奈。辨色立炭(ニハ)用2曲刀(ノ)ニ字(ヲ)1。新撰萬葉集(ニハ)用2※[金+施の旁](ノ)字(ヲ)1。今案※[金+施の旁]字(ノ)所v出(ル)未(タ)v詳(ナラ)。唐韻(ニ)有v※[金+施の旁]視遮(ノ)反。一(ノ)音(ハ)夷。短矛(ノ)名也。可v爲2工(ノ)具(ト)1之義未v詳。】平(ニスル)v木(ヲ)器也。此集にこゝならて、かなしみといふに、※[金+施の旁]染とかける所有。順も此集をよくは見られさりけるにや。此集に用たる字は、あまり和名集にも出さす。稻負鳥は、此集を引れたれと、此集中に稻負鳥は一所もよます。これらにておもへは、天暦の帝の勅をうけて、此集の和鮎は順のくはへられたりといふも信しかたし。弓削河原は、八雲御抄に、大和と注せさせたまへと、たしかに河内國なり。延喜式云。河内国若江郡弓削神社二座【並大。月次。相甞。新甞。】稱徳天皇の御時、由義《・弓削》宮を作らせたまひて、行幸せさせたまへり。委續日本紀にしるせり。道鏡法師か故郷なり。今も弓削樫原なといひつゝけて、人の知れる所なり。むもれ木のあらはるましきことにあらぬとは、木のなかれ來てとまれるが、沙にうつもるゝをむもれ木といふ。久しくむもれたれと、時ありて大水なとに、又なかれ出ることく、深く忍ふおもひも、さま/\の事よりあらはるれは、かくたとへてよめるなり。古今集の哥に、名取川せゝのうもれ木あらはれはいかにせんとかあひみそめけむ
 
寄海
 
1386 大船爾眞梶繁貫水手出去之奥將深潮者干去友《オホフネニマカチシヽヌキコキイテニシオキハフカケムシホハヒヌトモ》
 
水手出去之、【官本亦云、コキテニシ、】
 
コギ出ニシのに〔右○〕は助語なり、舟は日を能はからひてにはよき時は勇み進みて漕出れば、あり/\てかくと云ひ出るを喩ふ、奥將深とは思の深き喩なり、潮者干去友とは滿たる鹽の干る如く世はうつりかはるともの意なり、繁貫を仙覺抄にしげぬきとあれど今取らず、
 
初、大舟にまかちしゝぬき かち取(ル)といはて、かやうにいへるは、おほく櫓なり。おきはふかけむは、わかおもひにたとへ、潮はひぬともは、人のかたは、あさくなるともの心なり
 
1387 伏超從去益物乎關守爾所打沾浪不數爲而《フシコエニエカマシモノヲヒマモリニウチヌラサレヌナミカソヘステ》
 
(13)浪不數爲而、【官本亦云、ナミカソヘスシテ、】
 
發句はフシコエユとも讀べし、伏は富士なり、やがて下に雉を岸にかれるが如し、落句は仙覺にも今の如くあれど字に叶はず、官本亦點に依るべし、富士越は富士と足柄葦高山のあはひに横走關を越て清見が關へ出ける道なり、腰句は仙覺抄云、ふるくは假名なし、今文字に任てひまもりにと點ず、其正しき意知がたき歌なり、清見が關には浪の關守と讀事も侍れば、此歌關守爾取打沾と云へりけるを關を間にかきなしたりけるにやあらむともおぼえ侍るは僻事にや、清見が崎と云所今はくきが崎となむ申す、彼崎の鹽滿て浪の高き時はゆゝしく通りにくかりければ、浪間を通らむとて立留て浪をかぞへて過ければ浪の關守と云、浪をかぞへて過とは浪は高く立たびひきく立たびのあるなり、高きをば男浪と云ひ、ひきゝをば女浪とぞ云なる、其女浪男浪の立たる中にちひさき浪の立をばしば浪と云なり、彼しば浪の時に通るべきなり、間守爾とかける關の字のかきあやまれるかとおぼゆること侍べれども又彼浪のひまをかぞへて過ければひまもりと云はむもいたく僻事にも有まじければ、當時の漢字に隨ひて假名をば付て侍るなり、今按清見が崎田子浦を通る海道を中古の道とかゝれたれど、第三に田口益人か二首の歌並に赤人の不盡山を望まれたる歌の反歌等、海邊の道(14)昔よりありと知られたれば古義を取らず、富士越、海邊の道、共に昔は心に任て通ひけるを富士越の道中古より絶たりと知べし、腰の句も亦今の本正義にて、浪の關守とよむ事は還て間を關に作れる本ありける歟にて誤まれるなるべし、清見が崎に關をすゑける事はいつの比にか日本紀、續日本紀等には見えぬ事なり、浪の事をひまもりと云ひて又浪と云はむことやいかゞあらむと云人も有べけれど、浪は體、間守は用を體に呼なしつれば浪とふたゝび云には替るべし、譬の意は、富士越に行人の浪にあはぬ如く人の許に通ふにもうしろ安かる時行べき物ぞ、海邊の道に浪の間を量り損じて打ぬらさるゝやうに繁き人目の隙を量り損じて見あらはさるる意なり、
 
初、ふしこえにゆかまし物を 伏超とかきたれとも、富士越なり。上に注せるふしの山と、あしたか山のあはひの道をいふなり。ひまもりは、清見か關の道なり。此所浪のあらくて、あしく行かゝれは、浪にとられしなり。よりて浪のひま/\を、よく守てとほりけるゆへに、浪のひま守とはいふ。今久岐か崎といふ所に、清見か關は有けるといへり。しかれは、ひま守に打ぬらさるゝとは、浪にぬれたりといはむためなり。此喩の心は、伊勢物語に、たひかさなりけれはあるしきゝつけてそのかよひちによことに人をすへてまもらせけれはとかける所の心なり。富士を伏とかき、下には岸に雉をかりてかけり。此例おほし
 
1388 石灑岸之浦廻爾縁浪邊爾來依者香言之將繁《イハソヽクキシノウラワニヨルナミヘニキヨレハカコトノシケケム》
 
縁浪、【ヨルナミノ、】
 
石灑は今按イハソヽギと讀べきか、下に云へる浪の石に灑ぐ故なり、岸之浦廻は地の名に非ず、上に墨江之岸乃浦回とよめるに同じ、邊に來依とは人の許に來る譬なり、
 
1389 礒之浦爾來依白浪反乍過不勝者雉爾絶多倍《イソノウラニキヨルシラナミカヘリツヽスキカテヌレハキシニタユタヘ》
 
礒之浦も亦上に云如く地の名にあらず、過不勝者は今按今の點字に叶はず・スギシカ(15)テズハと讀て過あへずばと意得べし、し〔右○〕は助語なり、喩ふる意は、我許に來て曉還らむとする人の名殘有げに過も得やらねば、さらば今暫はさて有てゆけと女のよめるなるべし、八雲御抄に礒の浦、紀伊國と注し給ひ、仙覺抄にも同じく云へり、如何侍らむ、
 
初、いその浦に 八雲御抄に、紀伊國と注したまへり。此集にいその浦わとおほくよめるは、浦のいそへときこゆ。過不勝者、これをはすきしかてずはと讀へし。過るに堪すはなり。過かてぬれはと讀へきことはりなし。これは人のもとにたひ/\くるに、つれなくいはるゝにも、過ゆくにたへねは、せめてそのあたりにやすらへと、みつからいふなるへし。又云。下に朝なきにきよる白浪といふは女の哥にをとこをたとへたるやうに聞ゆれは、此哥もをとこのきてしのゝめに歸りかてにするを今しはしはこゝにやすらひてゆけといふ心をきしにたゆたへとはいへるにや
 
1390 淡海之海浪恐登風守年者也將經去※[手偏+旁]者無二《アフミノウミナミヲソロシトカセマモリトシハヤヘナムコクトハナシニ》
 
浪恐登、【別校本云、ナミカシコシト、】
 
淡海の名に逢と云事をよせたるか、浪恐登とは人言を憚る譬なり、風守とは時を待なり、年者也の者は助語なり、落句は人の許に行ことなきを舟を漕ねに譬へたり、六帖には二三をなみおそろしみ風はやみ、五をさすとはなしにとて舟の歌とせり、
 
初、あふみの海浪おそろしと 浪かしこしとゝも讀へし。年はやへなんは、はゝ助語にて、年やへなんなり。人のとかくいひさはかんことをおそれて、しのふほとを、浪おそろしと風まもりとたとへたり。こくとはなしには、ゆきてあふことをえせぬなり。家語云。及(テハ)3其(ノ)至(ルニ)2于江津(ニ)1不《ス》v舫《ナラヘ・モヤハ》v舟(ヲ)不(ルトキハ)v避(ケ)v風(ヲ)則不v可(ラ)2以(テ)渉(ル)1。下に、島|傳《ツタフ》あしはやの小舟風まもりとよめる哥もおなし心なり
 
1391 朝奈義爾來依白浪欲見吾雖爲風許増不令依《アサナキニキヨルシラナミミマクホリワレハスレトモカセコソヨセネ》
 
朝ナギをば人言のさはがぬに喩ふ、白浪はうるはしき物なれば上にも浪妻君とよみ、第十三にも三芳野の瀧もとゞろに落る白浪、留にし妹をみまくのほしさ白浪とよめり、然れば男にて妹をも云ひ、又女にて夫をも云べし、落句は人言のさわぐまじき隙には却て人の來ぬ事を、なぎたる朝におど/\しからぬばかり風の浪を打依せば面白かるべきと、浪のよせぬに喩へたるなり、
 
(16)寄浦沙
 
1392 紫之名高浦之愛子地袖耳觸而不寐香將成《ムラサキノナタカノウラノマナコチニソテノミフレテネスカナリナム》
 
紫は名高と云はむ料なり、別に注す、名高浦は八雲に遠江と注せさせ給へど、第十一に、木海之名高之浦とよめるを以て定むべし、愛子地は和名云、繊沙、日本紀私紀云、萬奈古、此繊沙に愛子とかりて書てやがて親のいつく娘を兼たり、繊沙も白くうつくしき物なれば、まなごはきよき物なれば袖をばふるれども敷て寢べき物ならねば、人に袖をふるゝまでは有ながら諸共にぬる事やなからむとよそふるなり、名高浦をしも云出せるは貴人のかしづく娘に心を懸けるにや、
 
初、紫の名高の浦のまなこちに 名高浦を、八雲御抄には、速江と注せさせたまへと、第十一の三十六葉に、木海之《キノウミノ》名高之浦とよみたれは、たしかに紀の國なり。次の第四十葉、第十一巻の第四十一葉にも紫の名高の浦とつゝけよめり。紫としもつゝくるは、紫は官位高き人の衣をそむる物にて、色の中に名高く、紫を上服にきる人は、時に取て名高けれは、かくはつゝくるなり。天武紀(ニ)云。十四年秋七月乙巳朔庚午、初(テ)定2明位已下進位已上(ノ)之|朝服《ミカトコロモノ》色(ヲ)1。〇正位(ハ)深紫。直位(ハ)淺紫。上(ニ)云。春正月丁未朔丁卯、更(ニ)改2爵位之鱗號(ヲ)1仍増2加階級(ヲ)1。〇正位四階。直《チキ》位四階。勤《・コン》位四階。務《・ム》位四階。追《・ツイ》位四階。進位四階。毎貳v階有2大廣1。并(セテ)四十八階(ナリ)。以前(ハ)諸臣之位(ナリ)。持統紀云。朱鳥四年夏四月丁未朔庚申詔曰。〇其朝服者淨大壹已下、廣貳已上(ハ)黒紫。淨大參已下、廣肆已上(ハ)赤紫。正(ノ)八級(ハ)赤紫云々。續日本紀第二、天武紀云。三月甲午對馬嶋(ヨリ)貢v金(ヲ)。建(テヽ)v元(ヲ)爲2大寶元年(ト)1。始(テ)依2新令(ニ)1改(テ)制(ス)2官名位號(ヲ)1。〇又服(ノ)制親王(ノ)四品已上、諸王諸臣(ノ)一位者皆(ナ)黒紫。諸王(ノ)二位以下、諸臣(ノ)三位以上者皆赤紫。延喜式曰。凡(ソ)無品親王、諸王、内親王、女王等(ノ)衣服(ノ)色、親王(ハ)著v紫(ヲ)。以下孫王(ハ)准(シ)2五位(ニ)1語王(ハ)准(ス)2六位(ニ)1。同第十四、縫殿式(ニ)曰。深《コキ》紫(ノ)綾一疋【綿紬絲紬東※[糸+施の旁]亦同】紫草卅斤。酢二升。次二石。薪《ミカマキ》三百六十斤。同第四十一、弾正式云。凡(ソ)大臣帶(スル)2二位(ヲ)1考|朝服《ミカトコロモ》著2深紫(ヲ)1。諸王(ノ)二位已下五位已上、諸臣(ノ)二位三位並(ニ)著(ス)2中紫(ヲ)1。まなこちは、こまかなるすなをいふ。和名集云。織沙【日本紀私記云。萬奈古。】又おやのかしつく子を、まなごといふ。此卷の上に、人ならはおやのまなこそあさもよいきの川つらの妹とせの山。それに最愛子とかき、こゝにも借ては書なから、愛子地とかきたれは、いつきむすめを、まなこといふ詞によせたるなるへし
 
1393 豐國之間之濱邊之愛子地眞直之有者何加將嘆《トヨクニノマヽノハマヘノマナコチノマナヲニシアラハナニカナケカム》
 
間之濱邊之、【官本或間作v聞、點云、キクノハマヘノ、】  愛子地、【別校本云、マナコツチ、】
 
八雲御抄にまのゝはま、豐前と注せさせ給へるは、まゝのはまと遊ばされたるを傳寫して重點を倒にせるか、仙覺云、此歌第二句間之濱邊の句不審也、聞之濱邊歟、豐前に聞濱あるが故也、若又豐前豐後の間に間濱と云處のあるにや、糺明之後可v令2一定1歟、今按右の料簡明なり、聞を間とかきあやまてるなり、さりとて聞に改てキクと點ぜるは却(17)て然るべからず、和名集に豐前國に企救郡あり、令には規矩とかゝる、雄略紀云、二日一夜之間不v能v擒2執朝日郎(ヲ)1、而物部目連率2筑紫聞物部大斧手1獲斬2朝日郎1矣、舊事紀第三に饒速日命の天降たまふ時、天物部二十五部人御供にて天降ける中にも筑紫聞物部とあり、此集第十二に豐州聞濱松とも、豐國乃聞之長濱、又豐國能聞乃高濱ともよめり、今よめるも此なるべし、此濱をしも云ひ出せるは音にのみ聞によするなり、腰の句は右の歌に同じ、眞直はまなこぢを承て直《タヽ》目に見ば何をか嘆かむとなり、し〔右○〕は助語なり、
 
初、豐國の間之濱邊の まゝの濱は、聞《キク》の字を間とかきあやまれるを、やかてまゝと和點をくはへたるなるへし。其證は、和名集に、豐前國に企救郡あり。令義解には、規矩郡とかけり。今の和名集に企救【岐多】かくのことし。多は久の字の誤なるへし。第十六に、豐前國(ノ)白水郎《アマカ》歌一首。豐國企玖乃《トヨクニノキクノ》池なるひしのうれをつむとや妹かみそてぬれけむ。第十二の三十二葉に豐州聞《トヨクニノキクノ》濱松心にも何とていもかあひしそめけむ。同四十二葉には、豐國乃聞之長濱《トヨクニノキクノナカハマ》とも豐國能聞乃高濱《トヨクニノキクノタカハマ》ともよめり。日本紀第十四、雄署紀(ニ)云。二日一夜之間、不v能v檎1執《トラフルコト》朝日(ノ)郎(ヲ)1。而物部(ノ)目(ノ)連率(テ)2筑紫(ノ)聞《キクノ》物部大|斧手《ヲノテヲ》1、獲《トラヘテ》斬(ル)2朝日郎(ヲ)1矣。まなごちといふは、まなをといはんための序なり。まなをはますくなり。たのめしことのはのまゝならは、何のなけくことかあらんなり。又たゞにとおほくよめる心にて、たゞちにあひみる物ならは、何をかなけかんとよめりともきこゆ
寄藻
 
1394 塩滿者入流礒之草有哉見良久少戀良久乃太寸《シホミテハイリヌルイソノクサナレヤミラクスクナクコフラクノオホキ》
 
此歌濱成式には鹽燒王の歌として腰句以下を、草ならし見る日すくなく戀る夜多みと云へり、奧儀抄袖中抄に式を引るに異あれども釋せる意同じ、委は彼を見るべし、拾遺集に坂上郎女が歌とせられたる事不審なり、六帖には雜の草の歌とす、今按諸説此集には叶はず、寄藻と題したれば草と云は藻なり、鹽の滿て鹽の入くる礒の藻は、隱れて見えぬ方は多く、顯はれて見ゆる方はすくなければ、戀る事は多くて相見る事はすくなきに譬ふるなり、發句に意を著べし、潮の干る時を懸てよめるにはあらず、太寸は(18)太は大にや、
 
初、しほみては、入ぬるいその草なれや 入ぬるとは、塩に入なり。題に寄v藻とあれは、草といへるは藻の事なり。此たとへの心をうるに、ふたつの心あり。ひとつには、塩に入かたはおほく、あらはれてみゆるかたはすくなきを、あらはるゝかたを見らくすくなくとたとへ、塩に入かたをこふらくのおほきとたとふるなり。ふたつには、塩のみちて磯の草の見えぬ日はおほく、塩のひてみゆる事はすくなきを、さきのことくたとふるなり。顯昭法師は後の心につかれたりと見ゆ。みらくすくなくとは、相見る事のすくなきなり。濱成式云。雅躰十種〇十(ニハ)新意躰【此體非2古事1非2直語1。或有2相對1或無(シ)2相對1。故云2新意(ト)1】
相對 孫王塩焼(ノ)懸歌云 私塩焼王の事聖武紀より以下に見えたり
しほみてはいりぬる磯の草ならしみらくすくなくこふらくのおほき
遠v古(ヲ)離v直(ヲ)。故云2新意1。下句(ハ)是(レ)相對也
 
1395 奧浪依流荒礒之名告藻者心中爾疾跡成有《オキツナミヨスルアライソノナノリソハコヽロノウチニトクトナリケリ》
 
荒礒はアリソとも讀べし、疾跡成有は今按有の字をケリと讀べき理なければヤマヒトナレリと改て點ずべき歟、心のやましきなり、浪のよする荒礒をば人言のさわぎに喩へ、名告藻をば我に逢むとゆるす意にて名を告るによせて人は我に靡くに人言のさわぎに障らるれば一方ならぬ思に心のやましきとよめるなるべし、
 
初、心のうちにとくとなりけりとは、とくよせよと思ふなり
 
1396 紫之名高浦乃名告藻之於礒將靡時待吾乎《ムラサキノナタカノウラノナノリソノイソニナヒカムトキマツワレヲ》
 
名高浦は貴種によする歟、礒は沖に取ては邊なれば賤しき我身に喩へて、及なき奥の名告藻の礒によりきて靡かむ時を待と、若や逢時あると待意をよそへたるなり、六帖には吾乎を我はと改て載たり、
 
1397 荒礒超浪者恐然爲蟹海之玉藻之憎者不有手《アライソコスナミハカシコシシカスカニウミノタマモノニクヽハアラステ》
 
浪者恐、【別校本云、ハミハカシコシ】  不有手、【官本或手作v乎、點云、アラヌヲ、】
 
發句はアリソコスとも讀べし、初の二句は人言のさわぎを恐るゝ譬なり、シカスガニ(19)はさすがにと云に同じ、玉藻をばしのびたる人に譬ふ、荒磯をこゆる浪は恐ろしき物から、さすがに玉藻を惡みきらはしからで採ばやと思ふ如く、人の物云ひのさがなきを恐るゝ中にも人をばいなと思ふ意なく、いかにもしてあはゞやと思ふわりなさをよめるなり、
 
初、にくゝはあらすて にくむはきらふなり
 
寄舩
 
1398 神樂聲浪乃四賀津之浦能舩乘爾乘西意常不所忘《サヽラナミノシカツノウラノフナノリニノリニシコヽロツネワスラレス》
 
神樂聲浪乃、【仙覺抄云、ササナミノ、】  常不所忘、【袖中抄云、ツネニワスレス、仙覺抄云、ツネニ、】
 
發句は仙覺抄の點に憑るべし、船乘を袖中抄にふねのりとあれど今の點に付べし、乘ニシのに〔右○〕は助語なり、落句は又今の點然るべし、船乘ニ乘西意とは戀に心の浮たるを譬ふ、第十一に、海原乃路に乘てや吾戀をらむとよめるに同じ、第二以下に妹が心に乘にけるかもとよめるには少替るべし、
 
初、さゝなみのしかつ のりにし心とは、人のうへに心をおくなり
 
1399 百傳八十之島廻乎※[手偏+旁]船爾乘西情忘不得裳《モヽツタフヤソノシマワヲコクフネニノリニシコヽロワスレカネツモ》
 
百傳、【仙覺抄云、モモツテノ、別校本同此、】  廻、【校本作回、】
 
第九に百傳之|八十《ヤソ》之|島廻乎《シマワヲ》榜雖來と云歌に准ずれば、今の發句を別校本にモヽヅテ(20)ノと點ぜるに依べし、乘ニシのに〔右○〕助語なり、歌の意上に同じ、
 
1400 島傳足速乃小舟風守年者也經南相當齒無二《シマツタフアシハヤノヲフネカセマモリトシハヤヘナムアフトハナシニ》
 
初の二句は第十四相模國歌に、母毛亘思麻安之我良乎夫禰《モヽツシマアシガラヲブネ》とよめる意に同じ、多くの島を傳ひ行足の速き舟なり、腰句以下は上に淡海之海浪恐登とよめる歌に同じ、足速き舟も風守てあるほどは詮なし人の許にあかず通ふべき身のつつむ事ありて過るを喩ふるなり、又此風守は人のつらさのやむを待をも云べし、
 
初、しまつたふあしはや《・輕心》のをふね あしはやの小舟とは舟のかろくてとく行をいふ。足とは水に入所をいふなり。第十四東哥に、もゝつしまあしからをふね《・百島足柄小舟》とよめるおなし心なり。上に、あふみの海浪おそろしと風まもりといふ哥あり。引合て見るへし
 
1401 水霧相奥津小島爾風乎疾見船縁金都心者念杼《ミナキリアヒオキツヲシマニカセヲイタミフネヨセカネツコヽロハオモヘト》
 
水霧相、【別校本云、ミナキリアフ、】  船縁金津、【六帖云、フネヨリカネツ、】
 
發句は齊明紀の天皇の御歌によらばミナギラフと讀べし、さらずば仙覺抄に依てミナギリアフと讀べし、今の點は叶はす、上に天霧相日方吹良久と云をアマギリアヒと點ぜるには替れり、小島は六帖にもをじま〔三字右○〕とあれどコジマと點ぜるに付べきにや、小島をば人に喩へ、風ヲ疾ミをば人のつらきに喩ふ、業平の我居る山の風早みなりとよまれたるに同じ、落句は古風の例に依てコヽロハモヘドと讀べし、
 
初、みなきりあひおきつ小嶋に 水霧相とかけるをは、みなぎらふとよむへし。齊明紀に、四年五月(ニ)皇孫建《ミマコタケルノ》王薨たまひける時、帝なけかせたまひて、よませたまへる御哥に、飛鳥河みなぎらひつゝ行水のあひたもなくもおもほゆるかも。みなきりあひとよむもおなしことなれと、下にかなひかたし。よまん人みつから知へし。さてこれは漲相《ミナキリアフ》といふにはあらす。風あらくて、浪のくたけてちるが、霧のことくなれはいふなり。喩の心かくれなし
 
1402 疎放者奥從酒甞湊自邊著經時爾可放鬼香《コトサラハオキニサケナメミナトヨリヘツカフトキニサクヘキモノカ》
 
(21)殊放者、【仙覺抄云、コトサケハ、官本同v此、】  酒甞、【官本亦云、サケナム、】
 
殊放者とは、此殊の字集中三處あり、第十に詠雪歌に殊落着袖副沾而云云、第十三に琴|酒者國丹放甞《サケハクニニサケナム》云云、此等を以て思ふに常に疎にして放るとならばの意なり、古今集等にことならばと云へる詞は先達かくの如くならばと云意なりと釋せらる、誠に然意得れば通ずるやうなれど字にかゝば殊ならばにて今の殊の字にや、第二の句は上に引第十三の歌の如く、オキニサケナムと讀べきか、サケナメはてにをは今に叶はず、但第三に見えずともたれこひざらめとよめるに准じて古風とすべきか、仙覺抄云、奥にさけなめとはいまだ行方も知らずよらむ方も知がたく思ひたゞよふ時に云ひもきらざるに譬ふ、湊自とは今は危む心もなく思ひ靜まりて一筋に憑入るに譬ふ、邊著經時とは岸に著を云、今は事定りなむとするに譬ふ、初は叶はじともいはねば一筋に憑を懸る程に其約を期となりて叶ふまじき由を云に譬ふるなり、今按船と云字をすゑざるは古歌の習なり、法性寺殿のわたの原漕出て見れば久方の、雲居にまがふ奧津白浪とよみ給へるにも舟なし、此に邊著經時とよめると、第四に燒太刀乃隔付經とよめるは詞は同じやうにて意殊なり、
 
初、ことさけはおきにさけなむ ことさけばとは、ことに遠さけんとならはなり。第十三挽歌に、ことさけば國にさけなん別なは家にかれなんとよめるも今の心におなし。第十に、ことふらは袖さへぬれてとほるへくふらんを雪の空にけにつゝともよめり。古今集に、初の五もしにことならはとをきてよめる哥三首有。顯注密勘に、かくのことくならはといふ心とあり。まことにいつれもしか心得れは通すれとも、此集にかける殊の字にて心得へし。みなとよりへつかふ時とは、へたにつく時なり。第四にやきたちのへつかふ事はよしやわか君とよめるにはかはるへし。たとふる心は、人の中にさはらん人は、まだよくもいひよらぬほとにさけよ。すてにいそへに、よせくる舟を、風のにはかに吹はなつことく、なとかあひよらんとする時にさはりて、遠さくるそとなり
 
(22)旋頭歌
 
1403 三幣帛取神之祝我鎭齋杉原燎木伐殆之國手斧所取奴《ミヌサトルミワノハフリカイハフスキハラタキヽコリホト/\シクニテヲノハトラレヌ》
 
第四云、味酒を三輪之祝が忌杉、第八云、味酒三輪乃祝が山照す、云運、燎木伐は盗みて神木を薪に伐なり、景行紀云、於v是所v獻2神宮(ニ)1蝦夷《エミシ》等晝夜喧嘩出入無v禮、仍(テ)令3安置2御室山傍1、未v經2幾(ノ)時(ヲ)1、悉伐2神山樹(ヲ)1叫2呼隣里1而脅2人民(ヲ)1、此類の意なり、殆之國とはあぶなくの意なり、俗にすでの事せむとすと云は此詞に通へり、手斧は和名工匠具云、釋名運、※[金+斤]、【音斤、和名、天乎乃、】所3以平2滅斧迹1也、今は此※[金+斤]にはあらず、唯斧を手斧と云なり、手鉾など云が如し、此歌は人妻に通ひて危うかるめにあはむとせし人のかく譬へたるなるべし、後の歌に、宮造る飛騨の工が手斧音、ほと/\しかるめをも見しかな、此意に同じ、
 
初、みぬさとるみわのはふりか 第四に、いまさけをみわのはふりかいはふ杉手ふれしつみか君にあひかたき。景行紀云。於v是所(ノ)v献2神(ノ)宮1蝦夷《エミシ》等、晝夜|喧嘩《ナリトヨキテ》出入|無禮《ウヤナシ》。〇仍(テ)令3安2置《ハムヘラシム》御室(ノ)山(ノ)傍《ホトリニ》1。未(タ・ルニ)經2幾(ノ)時(ヲ)1悉伐2神山(ノ)樹1叫(ヒ)2呼《ヨハヒテ》隣里《サトニ》1而|脅《ヲヒヤカス》2人民(ヲ)1。此たとふる心は、やんことなき人の手に入たる人に、わりなくいひよりたるを聞つけられて、かたく制せられたるを、手斧はとられぬといへるなるへし。おそろしくてたましゐをうはゝるゝをいふ歟。宮つくるひたのたくみかてをのをとほと/\しかるめをもみしかなといふ哥は、ほと/\しきを、ほと/\といふ音によせたり。此哥はしからす。ほと/\は殆の字、危殆とつゝきて、あふなき心なり
 
挽歌
 
雜挽
 
此は何れの人の爲に誰よめるともなきを云なるべし、
 
1404 鏡成吾見之君乎阿婆乃野之花橘之珠爾拾都《カヽミナルワカミシキミヲアハノノノハナタチハナノタマニヒロヒツ》
 
(23)鏡成、【官本亦云、カカミナス、】
 
發句はカガミナスと點ぜるに依べし、鏡の如く飽ず我見つる君と云なり、阿婆乃野は皇極紀の童謠《ワサウタ》にも烏|智可※[木+色]能阿婆〓能枳枳始《チカタノアハノノキキシ》とよめり、延喜式に大和國添上郡に率《イサ》川阿波神社あり、若春日野のつゞきに阿婆野ありて彼處に坐す神にや、下の句意得がたし、橘の玉に似たるを拾ひて愛すれど、誠には玉のやうに堅固ならぬ如く、君も亦然りと譬ふる意によめるにや、
 
初、かゝみなすわかみし君 鏡のことくあかすわかみし君なり。あはの野は大和歟。皇極紀に、皇極天皇三年六月に、謠歌《ワザウタ》三首ありし中の第二(ニ)云。嗚智可※[手偏+施の旁]能《ヲチカタノ・彼方》、阿婆《フハ》努能枳枳始《ノノキギシ・野之雉》、騰余謀作儒《不令動・トヨモサズ》、倭例播禰始柯騰《ワレハネシカド・我者雖寢》、比騰曾騰余謀須《ヒトゾトヨモス・人令動》。此|謠歌《ワサウタ》は、蘇我入鹿か、山|背大兄《シロノオヒネノ》王を逐奉りて、遂にみつから縊《クヒレ》て薨たまひ、その外の暴惡によりて刑に遭へき前表なれは、所も大和なるへしとはおもふなり。延喜式第九、神名上に、添上郡に率《イサ》川阿波(ノ)神社あり。此所にや。下句意得かたし
 
1405 蜻野※[口+立刀]人之懸者朝蒔君之所思而嗟齒不病《アキツノヲヒトノカヽレハマヰテマクキミカオモホヘテナケキハヤマス》
 
人之懸者、【官本亦云、ヒトノカクレハ、別校本同v此、】  朝蒔、【官本亦云、アサマキシ、別校本同v此、】
 
胸句はヒトノカクレハと讀べし、言に懸て云なり、第四に吾聞にかけてな云ひそとよみ、第十に秋山をゆめ人かくな忘にし、其もみぢ葉の思ほゆる君とよめるが如し、腰句今の點にては主君などを蜻野に葬て後、蜻野とたゞきけば世におはせむやうにまゐでばやとおぼえて嗟の止む時なきとなり、アサマキシと云點に依らば此卷上に妹背の山に麻まけ吾妹ともあれば妻を蜻野に葬たる夫のよめる歟、次下の歌にも秋津野とよめるは同作者にや、然らば後の義なるべきにや、
 
初、秋津野を人のかくれは 人のかくるとは、此野のことを、ことのはにかけて人のいひ出れはなり。朝蒔、これをまゐてまくとよめるにつかは、秋津野とたに人のいへは、君か事のおもほえて、まゐてまくおもふなけきのやまぬとなり。皇子大臣なとの薨したまへるを、蜻野におさめて、後、家禮の人のよめるにや。あさまきしとよむにつかは、妻なとの、麻衣の料にあさをまかせしを、おさへてあさまきしといふなるへし。此巻上に、きのくにのいもせの山に麻まけわきもとよめるをおもひあはすへし
 
(24)1406 秋津野爾朝居雲之失去者前裳今裳無人所念《アキツノニアサヰルクモノウセユケハムカシモイマモナキヒトオモホユ》
 
前裳今裳は今按キノフモケフモと讀て今の歎きに合すべきにや、但雜挽と題せるによらば廣く古今に亘りて意得べきか、六帖にしらぬ人と云に入れて、あさぢふに朝居雲の消ゆけば、昔も今も見ぬ人思ほゆと載たるはおぼつかなし、又此秋津野を紀國と云説あるは雄略紀を考へられざるなり、
 
初、秋津野に朝居る雲 此秋津野大和なり。雲をよめるは紀の國なりとは其證なし。上にもいはくらのをのより秋津に立わたる雲にしもあれや時をしまたんとよめり。蜻野となつくるよしは、雄略紀に明なり。昔も今もとは、雲のきえうするを見るにつけて、むかしいまのなき人を思ひ出るなり。又雲のきゆるをみて昔の人もなき人の事をおもひ出、今の人もなき人をおもひ出る心歟
 
1407 隱口乃泊瀬山爾霞立棚引雲者妹爾鴨在武《コモリクノハツセノヤマニカスミタチタナヒククモハイモニカモアラム》
 
此歌は第三に土形娘子を泊瀬山にて火葬する時人麿のよめる歌に似たり、
 
1408 枉語香逆言哉隱口乃泊瀬山爾廬爲云《マカコトカサカサマコトカコモリクノハツセノヤマニイホリストイフ》
 
初、いほりすといふは、かしこにおさめたるをかくいひなせり。まかことさかさまことさき/\注しつ
 
1409 秋山黄葉※[立心偏+可]怜浦觸而入西妹者待不來《アキヤマニモミチアハレトウラフレテイリニシイモハマテトキマサヌ》
 
秋山、【官本亦云、アキヤマノ、】  不來、【校本云、キマサス、】
 
是は秋の比妻のなくなれるを山に葬むれる人の、黄葉見に入て歸らぬ由に讀なせり、第二に人丸の妻の死を悼みて、秋山の黄葉を茂み迷ひぬる妹とよまれたるに同じ、入西のに〔右○〕は助語なり、落句はマツニキマサヌと讀べきか、マテドは雖待とかゝざれば叶はず、六帖悲しひの歌に、秋山に黄葉拾ひに入し妹は、こゝにやみたずまてど見え來ず(25)とあるは今の歌なり、
 
初、秋山のもみちあはれと 秋(ノ)比妻の死たるを、山におさめたるを、もみち見に入て歸らぬとはいへり。第二人まろの哥に、秋山のもみちをしけみまとひぬる妹をもとめむ山ちしらすも。おなし心なり
 
1410 世間者信二代者不往有之過妹爾不相念者《ヨノナカハマコトフタヨハヽユカサラシスキニシイモニアハヌオモヘハ》
 
第二の句の點誤れり、マコトフタヨハと讀べし、第四に空蝉の世やもふたゆくと有しに同じ、スギニシのに〔右○〕は助語なり、
 
初、よのなかはまことふたよは むまれかへりて又世をへねは、ふた代はゆかぬといへり。第四に、うつせみの代やもふたゆくとよめるにおなし。まことゝいへるは、ふた代ゆかぬと人のいふを、今にあたりてげにもと信するなり
 
1411 福何有人香黒髪之白成左右妹之音乎聞《サイワヒノイカナルヒトカクロカミノシロクナルマテイモカオトヲキク》
 
音は聲なり、コヱとも點ずべし、
 
初、さいはひのいかなる これは妻にをくれてよめるなり。いもかおとを聞とは、妹か物いふ聲をきくなり
 
1412 吾背子乎何處行目跡辟竹之背向爾宿之久今思悔裳《ワカセコヲイツクユカメトサキタケノソカヒニネシクイマシクヤシモ》
 
辟竹は辟け※[辟/手]にや、竹をさけば此方彼方に靡きて一方ならねばそがひと云はむ爲なり、宿之久の久、今思の思、共に助語なり、宿之久は上に玉拾之久とよめるが如し、此歌は夫のなく成て後、世を去て何處へゆかむ物とも思はざりしかば折々恨む事ありてそむき/\て寢し事の有しが悔しきとなり、第十四の終に、悲妹をいづちゆかめと山菅の、背向にねしく今し悔しもとよめる、相似て意も亦同じ、
 
初、わかせこをいつちゆかめと さき竹とは、竹をわれは、せなか合になるをいふなり。ねしくは、寢しといふまてなり。經史のふるき和鮎に、誰がいひしといふを、いひしくとあるにおなし。くは助語なり。こゝによめる心は、若恨むる心なとある時、死なんをはおもひもよらず。現在にも、いつちへゆかんともおもはて、さきたる竹のことく、そむき/\にねたるかくやしきとなり。やさしくあはれなる哥なり。第十四東哥のをはりに、かなしいもをいつちゆかめと山菅のそこかひにねしく今しくやしも。をとこと女と、よめる人かはり、さき竹と山すけと、物はかはれと、大かたおなし哥なり
 
1413 庭津鳥可鷄乃垂尾乃亂尾之長心毛不所念鴨《ニハツトリカケノタレヲノシタリヲノナカキコヽロモオモホエヘヌカモ》
 
(26)亂尾乃、【袖中抄云、ミタレヲノ、仙覺抄同v此、】
 
仙覺云、庭津鳥とは庭鳥なり、カケも同じ事にして鳴聲に依て云へり、今按神樂歌に、?はかけろとなきぬなり云云、仙覺の説此に叶へり、垂尾はタリヲとも讀べし、亂尾の今の點は推量するにミダリヲなりけむを、山鷄の尾のしだりをのと云歌に聞なれてミ〔右○〕をシ〔右○〕に作けるなるべし、さて上句は長心と云はむ料の序なり、なき人の事を樣々に思ひのどむれど頻に悲しきを長き心も思ほえぬるとよめるなるべし、落句を袖中抄におもはざるかもとあるは叶はず、六帖に庭鳥の歌に、庭烏のかけのたれをのしだり尾の、長々し夜を一人かもねむとあるは此歌にや、
 
初、庭つ鳥かけのたれ尾 かけとは、此鳥のなくこゑの、かけろときこゆるによりて、名とするなり。神樂哥に、庭鳥はかけろと鳴ぬなりおきよ/\わかかとよつま《ひとよつまにや》人もこそみれ。これかたき證なり。家※[奚+隹]、可見路みな好事のものゝ作り出せる邪説なり
なかき心もおもほえぬとは、なき人の事を、さま/\におもひのどむれと、しきりにかなしきをいへり。上の句は人まろの山とりの尾のしたり尾におなしく序なり
 
1414 薦枕相卷之兒毛在者社夜乃深良久毛吾惜責《コモマクラアヒマキシコモアラハコソヨノフクラクモワレヲシミセメ》
 
吾惜責、【六帖云、ワカヲシミセメ、別校本同v此、】
 
薦枕は蒋を以て枕にしたるなり、第十四にも人言の繁きに依てまをこもの、おやし枕はわはまかじやもとよめり、武烈紀に物部影媛歌に、伊須能箇瀰賦屡嗚須擬底《イソノカミフルヲスギテ》、擧慕摩矩羅※[木+施の旁]箇播志須擬《コモマクラタカハシスキ》云云、小前張に、薦枕高瀬の淀に云云、三代實録云、薦枕高御産栖日神社云云、常陸風土記云、薦枕多珂郡云云、如此高しと云枕詞に置ならへり、
 
初、こもまくらは、こもをもて枕とするなり
 
1415 玉梓能妹者珠氈足氷木乃清山邊蒔散染《タマツサノイモハタマカモアシヒキノキヨキヤマヘニマケハチリヌル》
 
(27)六帖悲の歌に發句をたまほこのとて、下句は或本の歌をつゞけたり、官本亦點にもタマホコノと云へり、同本に或は梓を桙に作れり、今按六帖にたまほこのとあるは梓を桙に書あやまてる本を見たるか、或は本は梓なりけるを桙に見まがへたる歟、今の字並に點によるべし、玉は褒美の詞、梓はアヅサを上略せり、引合せて弓の名なり、其證は第十三云刺楊|根《ネ》張|梓矣《アツサヲ》、御手二所取賜而云云、梓は弓の良材にて梓弓といへば、梓とのみも云へるなり、弓は壯士の手に、取物なれば女を多く弓に喩ふ仍て玉梓の妹とは云へり、第十五には烏羽玉の妹ともよめり、蒔散染は今按今の點字と合はず、マキテチラシムと讀べき歟、若は染は漆を書誤まれる歟漆部と云氏をぬりべとよめば今も義訓を借て用たるか、若は藍田に玉を種し故事によりて蒔とは云へる歟、玉を蒔處なれば清山邊とは云へり、
 
初、玉つさの妹は玉かも 玉つさの妹とは、玉つさをかよはしてこふれはいふ歟。今案これは文にはあらて弓なるへし。梓は木王と名つくる上に、ことに弓に造るによろしきゆへ、おほくあつさゆみとよめり。玉はよろつ物をほむる時にいふ詞なれは、玉弓といふ心なり。弓をあつさとのみいふ證は、第十三の挽哥に、みゆきふる冬のあしたはさすやなきねはるあつさ《・刺楊根張梓》をおほみてにとらしたまひてなとよめり。これはさすやなきのねのはるといひかけて、はるあつさとつゝけたるは弓なり。しかれは、弓はをのこの秘蔵して手に取物なれは、女を弓にたとふる事、めつらしからぬ事なり。此心にて玉梓の妹といへるにや。まけはちりぬるとは、玉の緒のたゆれは、こほれおつることく、死したる人を山邊の塚におさむるをたとへていへり。まけばといふは、藍田に玉を種《ウヘ》し故事にもよれる歟。染は漆の字の誤なり。うるしはぬる物なるゆへに、ぬるとよめり。漆部とかきてぬりへといふ氏もあり
 
或本歌曰
 
1416 玉梓之妹者花可毛足日木乃此山影爾麻氣者失留《タマツサノイモハハナカモアシヒキノコノヤマカケニマケハチリヌル》
 
玉梓之、【別校本亦云、タマノ、官本或梓作v〓、】
 
發句は右に云が如し、失留は今按字のまゝにウセヌルとよむべきか、風の吹時こける(28)花を蒔に留りて見えぬが如く埋て見えず成ぬるを喩てよめる歟、
 
覊旅歌
 
1417 名兒乃海乎朝榜來者海中爾鹿子曾鳴成※[立心偏+可]怜其水手《ナゴノウミヲアサコキクレハウミナカニカコソナクナルアハレソノカコ》
 
朝榜來者とは朝なぎには殊に船を榜時なる故に、第十九にも朝榜しつゝうたふ舟人とよめり、海中爾は今按ワタナカニと讀べし、第一にも對馬の渡わたなかにとありき、鹿子曾鳴成は水手をかこと云によりて舟歌うたふを此の鳴に寄て云へり、鹿子となづくる故は應神紀云、一云、日向(ノ)諸縣(ノ)君牛、仕2于|朝庭《ミカト》1年既老壽之不v能v仕、仍致v仕退2於本土1、則貢2上己(カ)女髪長媛1、始(テ)至(ル)2播磨1時天皇幸2淡路嶋1而遊獵之、於v是天皇西望之數十|麋鹿《オホシカ》浮(テ)v海(ニ)來(レリ)之、便(ハチ)入2于播磨(ノ)鹿子《カコノ》水門1、天皇謂2左右1曰、其何麋鹿也泛2巨海1多來、爰左右《モトコヒト》共(ニ)視(テ)奇(シム)則(チ)遣v使令v察、使者至見皆人也唯著角鹿皮、爲2衣服1耳、問曰誰人也、對曰、諸縣君牛是年耆之雖v致v仕(ヲ)不v得v忘v朝、故以2己(カ)女髪長媛(ヲ)1而貢上矣、天皇悦(テ)之即喚令v從2御船1、是以時人號(ケテ)2其(ノ)著《ツケル》岸之處(ヲ)1曰2鹿子水門(ト)1也凡水手曰2鹿子(ト)1葢(シ)始(テ)起(レリ)2于是時1也下句は第九に霍公鳥の歌に、鳴て行なりあはれ其鳥とよめる同じ語勢なり、文選司馬相如子虚賦云、榜人|歌聲《ウタ/\ヲ》流喝、
 
初、なこの海を朝こきくれは 先水手を、かこと名付ることのもとは、日本紀第十、應神天皇紀(ニ)云。一云。日向(ノ)諸縣(ノ)君牛仕2于|朝庭《ミカトニ》1年既(ニ)老〓《ヲイテ》之不v能v仕。仍致v仕退2於本土1。則貢2上己(カ)女《ムスメ》髪長媛(ヲ)1。始(テ)至(ル)2播磨(ニ)1。時(ニ)天皇|幸《イテマシテ》2淡路島(ニ)1而|遊獵《カリシタフ》之。於v是天皇西(ヲ)望《ミシナハスニ》之|數十《トヲツアマリノ》麋鹿《オホシカ》浮(テ)v海(ニ)來(レリ)之。便(ハチ)入(レリ)2于播磨(ノ)鹿子水門《カコノミナトニ》1。天皇謂(テ)2左右《モトコヒトニ》1曰。其《カレ》何(ナル)麋鹿(ソ)也。泛(テ)2巨海(ニ)1多(ニ)來。爰(ニ)左右《モトコヒト》共(ニ)視(テ)奇(シムテ)則|遣《マタシテ》v使(ヲ)令v察(セ)。使者《ツカヒ》至(テ)見(ルニ)皆人(ナリ)也。著角《ツノツケル》鹿(ノ)皮(ヲ)爲(ル)2衣服《キモノト》1耳。問(テ)曰。誰人(ソ)也。對(テ)曰。諸縣(ノ)君牛是(レ)年耆(テ)之雖v致(ムト)v仕(ヲ)不v得v忘v朝《ミカトヲ》。故(ニ)以2己(カ)女《メ》髪長媛(ヲ)1而|貢上《タテマツル》矣。天皇悦(テ)之即|喚《メシテ》令(タマフ)v從2御船(ニ)1。是(ヲ)以時(ノ)人號(ケテ)2其(ノ)著《ツケル》岸之處(ヲ)1曰2鹿子(ノ)水門(ト)1也。凡(ソ)水手《フナコヲ》曰(コト)2鹿子(ト)1葢(シ)始(テ)起(レリ)2于是(ノ)時(ニ)1也。これ水手をかこといひ、播磨に賀古郡あることのもとなり。かこといふゆへに、舟哥うたふを、なくといへり。あはれそのかことは、あはれは※[立心偏+可]怜とかけり。これをおもしろしともよめり。その心なり。第九に、ほとゝきすの哥に、なきてゆくなりあはれその鳥といへるおなし語勢なり。文選司馬相如(カ)子虚(ノ)賦曰。榜人《フナヒト》歌《ウタ/\テ》聲流|喝《アイタリ》。左思呉都(ノ)賦(ニ)曰。櫂(ノ)謳《ウタ》唱(テ)簫籟鳴(ル)。漢(ノ)武帝(ノ)秋風(ノ)辭(ニ)曰。簫鼓鳴(テ)兮發(ス)2棹歌(ヲ)1
 
萬葉集卷第七
 
萬葉集代匠記卷之七下
 
(1)萬葉集代匠記卷之八上
                  僧  契 冲 撰
                  木 村 正 辭 校
〔目録部分の「初、」は省略〕
 
春雜謌
 
初、春雜謌
 
志貴皇子懽御歌一首
 
懽、玉篇云、呼官切、悦也、歡の字と同じ六帖に此歌を載るに志貴皇子とて、注にかゞみの皇子ともとあるは不審なり
 
初、志貴皇子懽御歌 玉篇云。懽(ハ)呼官切。悦也
 
1418 石激垂見之上乃左和良妣乃毛要出春爾成來鴨《イハソヽクタルミノウヘノサワラヒノモエイツルハルニナリニケルカモ》
 
垂見は津の國なり、石激と置事も共に第七に注せしが如し、六帖にも新古今にもたるひの上と有は、假名にかける本などに誤有けるにや、顯昭の云く、行成卿のかゝれたる和漢朗詠集にたるみの上のとありと、今の世或人の御許に行成卿のかゝれたる朗詠集有とてそれを寫せる本とて見せ給ひしに、たるみと侍りつるは、彼顯昭の見られたる本にや、又袖中抄云、たるみの上の早蕨とは、攝津と播磨との堺にたるみと云所あり、(2)垂水とかけり、岸よりえもいはぬ水出る故にたる水と云也、垂水の明神と申神おはす、此水の岩の上に落かゝれば石激垂水とは云也、其垂水の上をばたるみ野と運へば其野にさわらびは萠出る也又野にてならずとも岸に萠出ともたるみの上の早蕨とは申てむ、此早蕨の歌を垂見とも又垂水とも書たるを垂氷と書なしてたるひの上と讀て心得ぬ釋どもあり云云、委は彼抄を見るべし、早蕨は、早に音を用るにあらず、わさを上略せるなり、早苗早百合など此に同じ、此御歌いかなる御懽有てよませ給ふとはしらねど、若帝より此處を封戸に加へ腸はりて悦せ給へる歟、蕨の根に隱りてかゞまりをれるが春の暖氣を得て萠出るは實に悦こばしき譬なり、御子白壁不意に高|御座《ミクラ》に昇《ノボ》らせ給ひて、此皇子も田原天皇と追尊せられ給へる皇統今の相つゞけるも此御歌にもとゐせるにや、
 
初、いはそゝくたるみのうへのさわらひのもえ出る春になりにけるかも
山水は石にふれてたれ下れは、石そゝくたるみとはつゝくるなり。たるみは津の國豐嶋郡に有。第七卷の十二葉に、いのちさちひさしきよしもいはそゝくたるみの水をむすひてのみつ。此哥につきてすてに注せり。第十二には、いしはしるたるみ の水とよめり。おなし心なり。此御哥、いかなる吉事にあはせたまへる時よませたまふとはしらねとも、さ《(朱)早は音を取にあらすわさといふ詞の上畧なり》わらひの、ねにこもりてかゝまりをれるが、もえ出る春になるは、まことに時にあへるなり。天智天皇の御子なから、御位につかせたまはさりしかとも、時におもうせられたまひて、事にあたりたまふ事もなくて、御子白壁王おもひかけぬ」高みくらにのほらせたまひて、光仁天皇と申奉り、此皇子も田原天皇の御をくりなを得たまひ、.御子孫今にあひつゝきて、御位をつかせたまふは、此御哥にもとゐせるなり。今うけたまはるも、よろこはしき御哥なり。世に人のおほえたるは、いはそゝくたるひの上なるを、顯昭法師、行成卿のかゝれたる倭漢朗詠集に、いはそゝくたるみのうへとあるよし證してかゝれたり。今も、ある大名の御許にある、行成卿筆跡の朗詠集を臨寫せる本とて、それを、またうつせるを見侍りしに、顯昭の見られける本にや、まことにたるみのうへと侍り。これはかたはらにいへるなり。さきにいへることく、此集に三所まてあれは、たるひはあやまれることをしりぬ
 
鏡王女歌
 
目録に一首とあり、今脱せり、六帖喚子鳥、
 
1419 神奈備乃伊波瀬乃杜之喚子鳥痛莫鳴吾益《カミナヒノイハセノモリノヨフコトリイタクナナキソワカコヒマサル》
 
伊波瀬、【校本一或瀬作v湍、】
 
(3)神奈備乃伊波瀬といへば大和國高市郡に有なるべし、此鏡王女は後に天武天皇のめし給ひければ、岩瀬社淨御原宮の方なるべきに、喚子鳥の我を喚やうに鳴けば戀の益るとは讀たまひけるなるべし、
 
初、神なひのいはせの杜のよふこ鳥いたくなゝきそわかこひまさる
いはせの杜大和なり。呼子鳥は此集にはあまたよみ侍るを、古今集には春部にたゝ一首見え侍り。後々は彼集につきて、家々のならひ出來て、此よふこ鳥も、こと/\しく人の申物となれり。詩經なとに出たる鳥獣草木も、諸家の説まち/\なれと、此國のことく、事有かほにいへる人なし。されはよふこ鳥も、昔は人ことに知たる鳥にて侍けむを、昔有し物の今なきもあり。また昔なかりし物の今有もあり。又いやしきものゝ、昔よりある名をしらて、わたくしにいやしき名をつけてよふを、その物すくなくて、然るへき人もよくしらねは、かのいやしくわたくしにつけたる名をよふまゝに、物はそれなから、名のかはりゆきて、物と名と、みなたゞしらすにしらすなりぬる事おほし。よふこ鳥を、今の世その鳥としる人のなきも此ゆへなり。長流か申けるは、よふこ鳥といふゆへに、子をよふやうにもよそへよめど、ぬえをぬえこ鳥とよめるたくひにて、人をよふやうになけは、よひ鳥といふ心にて、子は付たる字なるへしと申き。さもと聞ゆ。和名集にも、此集を引て名をのみ出したれは、それと知かたし。山深くのみ鳴鳥とおもへと、後撰集に、春道列樹
  わかやとの花になゝきそよふこ鳥よふかひ有て君もこなくに
かくよみたれは、さもあらす。春のみ啼鳥かとおもへは、此卷に
  よのつねに聞はくるしきよふこ鳥こゑなつかしき時にはなりぬ
よのつねに鳴とよみたれは、春にもかきらす。此卷に時鳥にましりて夏の哥にもよめり。夜も鳴鳥なり。此卷に
  わかせこをなこしの山のよふこ鳥君よひかへせ夜のふけぬとに
いたくなゝきそわか戀まさるとは、聲のかなしきにつけても、又はおもしろきにつけても、人をこひおもふ心のまさるなり。古今集の素性法師の哥に
  時鳥はつこゑきけはあちきなくぬしさたまらぬ戀せらるはた
これにつきて、顯注に今の哥をひけり
 
駿河釆女歌一首
 
1420 沫雪香薄太禮爾零登見左右二流倍散波何物花其毛《アハユキカハタレニフルトミルマテニナカラヘチルハナニノハナソモ》
 
何物花其毛、【幽齋本、別校本、共物下有v之、點與2今本1同、】
 
ハタレはまたらなり、第十と第十九とには雪をハタレとのみもよめり、又第十にはたれ霜ふりともよめれば雪に限る言にもあらず、ナガラヘ散は流れ散なり、此下句は梅の意なり、古今に白く咲るは何の花ぞもとよめるに同じ、梅の散とは知ながら知らずがほにて問由によめるはほむる意なり、列子云、商太宰見2孔子1曰、丘(ハ)聖者歟云云、商太宰大(ニ)駭(テ)曰、然(ラハ)則孰者爲v聖(ト)、孔子動v容|有v間《シハラク》曰、西方(ノ)之人有2聖者1焉、不(レドモ)v治而不v亂、不v言而自信、不v化而自行(ヘル)、蕩々乎民無2能名1焉、丘疑2其爲1v聖、弗v知2眞爲v聖歟、眞不v聖歟1、林氏口義云、弗v知2眞爲v聖眞不1v聖、是有2推尊之意1而爲2此不v定之辭1、これを思ひ合すべし、
 
初、沫雪かはたれにふると はたれは、第三に、八釣山木立も見えすと人まろのよみたる哥に、驪の字をかけり。またらなり。伊勢物語に、かのこまたらに雪のふるらんとよめる心なり。第十には、天雲のよそに雁かねきゝしよりはたれ霜ふりさむし此夜はと霜にもよめり。又第十と第十九とには、はたれとのみいひて雪の事とせり。なからへちるはなかれちるなり。第五の梅の哥の中にも、わかそのに梅の花ちるひさかたのあめより雪のなかくるかも。雪のふりくるは、なかるゝやうなれはいへり。なにの花そもは、梅のちるとは知なから、ほむる心に、しらすしてとふよしによめり。今の世の人の物いふにも、かくのことくなる事おほし。古今集旋頭哥に、打わたすをちかた人に物まうすわれ、そのそこに白くさけるは何の花そも。今の結句とおなし。又劉言史か過(ル)2春秋峡(ヲ)1詩に、※[山+肖]壁蒼々(トシテ)苔色新(ナリ)。無(シテ)v風情《晴歟》景自(ラ)勝(レリ)v春(ニ)。不v知何(レノ)樹(ソ)幽崖(ノ)裏。臘月開(テ)v花(ヲ)似《ムカフ・シメス》2北人(ニ)1。此何樹といへるも梅といはすして梅をいふなり。列子仲尼篇云。商(ノ)太宰見(テ)2孔子(ニ)1曰、丘(ハ)聖者歟○商(ノ)太宰大(ニ)駭(テ)曰。然(ラハ)則|孰《タレヒトヲカ》者爲(ル)v聖(ト)。孔子動(カシ)v容(ヲ)有(テ)v間《シハラク》曰。西方(ノ)之人有2聖者1焉。不(レトモ)v治而不v亂(レ)。不(レトモ)v言而自信(アリ)。不(レトモ)v化(セ)而自行(ハル)。蕩々(トシテ)乎民無2能名(クルコト)1焉。丘疑2其爲(カト)1v聖。弗v知2眞(ニ)爲《タル》v聖歟眞不(ル)v聖(ナラ)歟(トイフコトヲ)1。林希逸口義(ニ)云。弗(トイフハ)v知(ラ)2眞(ニ)爲(ルカ)v聖(ト)眞(ニ)不(ルカトイフコトヲ)1v聖(ナラ)是(レ)有(テ)2推尊(フル)之意(ロ)1、而爲(ス)2此不v定(マラ)之辭(ヲ)1。今の哥もこれとおなしく形容するなり。何物は二字引合てなになり。又初の五もしのかといへるは、句絶にはあらす。後の哥ならは、あはゆきやはたれにふるとゝつゝけよむ心なり
 
尾張連歌二首 名闕
 
(4)1421 春山之開乃乎爲黒爾春菜採妹之白※[糸+刃]見九四與四門《ハルヤマノサクノヲスクルニワカナツムイモカシラヒモミラクシヨシモ》
 
開乃乎爲黒爾、【別校本云、サキノヲスクロニ、袖中抄、開作v關セキノヲスクロニ、官本或開作v關、點云、セキノヲスクルニ、】
 
開乃は第四に中臣女郎が娘子部四咲澤二生流花勝見とよめる歌に注せし如くサキノと讀て佐貴野なるべし、春山之とおけるは春山之花の開と云意なり、第十に能登河の水底さへにてるまでに、三笠の山は咲にけるかもとよめるも花と云はざれど花の事なるになずらへて知べし、さて弟二の句は佐貴野を我過行と云へるなり、黒の字をクルに用たるは、和名云、大和國城下郡黒田【久留田】此になずらふべし、此歌は第十三の長歌に、吾妹子に戀つゝ來れば、あごの海の荒磯の上に、濱菜採あま乙女等が、まつひたる領巾もてるかに、白妙の袖振見えつなどよめる處に相似たり、見ラクシのし〔右○〕は助語なり、袖中抄にすくろの薄を釋する處に淡津野のすくろの薄と云歌を出して云、すくろの薄とは春の燒野の薄の末の黒き也、ゑもじを略してすくろと云へる也、萬葉云とて今の歌を關乃乎爲黒爾と引て、又基俊歌、春山のせきのをすくろ掻分て、つめる若菜に沫雪ぞ降、是は萬葉歌を本にて詠歟、すくろとは草の末黒しと云なり、萬葉抄云、さきのをすくろにとは所名也、今云春山の開乃と云までぞ所にては有べき、すくろは少末黒(5)き草と云べきなめり、萩とも薄とも草ともいはで唯すくろと云はむ事意得ねど萬葉歌はさのみ侍なり、はたれ雪をも唯はたれと云ひ、さゞれ石をも唯さゞれとよめり、或人云、すくろは薄の古き莖をばす〔右○〕と云、其古き莖の燒て黒ければすくろと云、それより角ぐむなり、以上袖中抄なり、風雅集卷上に藤原基俊とて袖中抄に引れたる歌を載られたるには、胸の句さき野のすゝきとあるは、をすくろを薄に定て改られけるにや、今の集にては佐貴野を過るにと意得べし、開を關に作り、を〔右○〕もじを小〔右○〕として下に連ぬるは唯異義を擧るのみなり、又上の木幡權僧正靜圓の後拾遺集に入たる歌は、催馬樂に鷹の子はまろにたうばらむ、手にすゑて淡津野の原のみくるすのめぐりの※[?+鳥]取らせむと云へみくるすを、今の歌を顯昭の説の如く古くせきのをすくろとも云る歟にて同じ物なめりと思ひて引合せてよまれたるにやあらむ、神功皇后紀(ニ)云、忍熊《オシクマノ》玉曳(テ)v兵(ヲ)稍退、武内宿禰出2精兵(ヲ)1而追v之、適過2于逢坂(ニ)1以破、故(レ)號2其處1曰2逢坂1也、軍衆走之及2于狹々浪(ノ)栗《クル》林1而|多《サハニ》斬(ル)、於v是血流溢2栗林(ニ)1、故惡2是野(ヲ)1至2于今1其栗林(ノ)之菓(ヲ)不v進2御所1也、み〔右○〕とま〔右○〕と通ずれば催馬樂のみくるす〔四字右○〕は此栗林を眞栗林と云へるにや、傍論なれど事の次なれば所存を注し侍るなり又袖中抄に開を關に作て假名をもせき〔二字右○〕と付たれど、万葉抄を引にさきのをすくろにと云ひて開關の異を云はず、又基俊歌もせきのをすくろと引れたれど(6)風雅集にはさき野の薄とあれば、袖中抄の今の本、開を關に誤て字に依てあやまちをふたゝびせるにや、
 
初、春山のさきのをすくるに 今の本にも、管見抄にも、さくのとよみ、すくるとあるをは、管見抄にすくろとよめり。さてさくのとよめるは、名所ときこえたり。未勘國といへり。風雅集春上に、藤原基俊
 春山のさき野の薄かきわけてつめるわかなにあは雪そふる
此哥は、今の哥によりて、さきのゝ薄とよまれたるは、たしかに名所とこゝろえてよまれたりと見えたり。管見抄に、春山は花さくにより、さく野といはむとて、春山とはいへり。をすくろのをは助語なり。すくろとは、春野をやくに、やけたる灰の残て、荻すゝきのすに入てあれは、すくろの薄なといふ。其草のやけあとより生るわかなをつむ心なり。顯昭法師は、春薄のはしめて生る末の、黒くみゆるを、すくろの薄とはいふなりといへり。今案春山之開乃乎爲黒とかけるをおもふに、乃は野にはあらすして、てにをはの字、乎は小の字、爲《ス》は土民の詞に、ひきくてわろき水田をすたといふ。かゝるすもしを付ていふ詞おほし。くろは黒の字は借てかけるにて、畔《クロ》の字にて、山のさきにある小田のすくろといふ心にや。第十に、芽子之花|開乃乎再《サクノヲフタリ》入|緒《ヲ》みよとかも月夜の清きこひますらくに。此哥萩の花は、さきとつゝけむためなり。開乃乎の三字のつゝき今の哥におなし。此集の文字無窮なれと、野といふには野の字をおほくかけるを、さき野といふ名所あらは、開乃とはかくへからす。第十の哥再入をふたりとよまは、下に緒の字を無用にあますへからす。開の字埼にかりて用る心ならは、をの字上にも下にもつかねは、再入もすくろとよむへきにや。されとしかよむへしとも見えす。第十四東哥の常陸哥に、さころものをつくはねろの山のさきとよみたれは、今の春山のさきのつゝきこれにおなしかるへき上に、春山に花さくによりてつゝくといふ心も、萩か花さきのとつゝけたるに、をのつからかよへり。後拾遺集に、權僧正靜圓の、春のこまをよめる哥に
  あはつ野のすくろの薄つのくめは冬立なつむ駒そいはふる
これは催馬樂鷹子に、鷹の子はまろにたうはらむ。手にすへて、淡津野の原のみくるすのめくりの鶉とらせん。やさきんたちや。此みくるすといふと、すくろといふとおなし心にて、これを取てよまれたる歟。此靜圓は和泉式部か孫なれは、ならひつたへてよまれたらんよし、顯昭も申されたり。神功皇后紀(ニ)云。忍《オシ》熊(ノ)王曳(テ)v兵(ヲ)稍(ニ)退(ソク)。武内宿禰出(シテ)2精兵(ヲ)1而追之。適遇(テ)2于逢坂(ニ)1以破。故號(テ)2其處(ヲ)1曰2逢坂(ト)1也。軍衆|走《ニク》之(ヲ)。及(ヒサキ)2于狭々浪(ノ)栗林《クルスニ》1而多斬。於v是血流(テ)溢《ツク》2栗林(ニ)1。故惡(テ)2是事(ヲ)1至(マテ)2于今(ニ)1其栗林之菓(ヲ)不v進御所《オモノニ》1也。これをおもふに、催馬樂のみくるすは、眞《マ・ミ》栗林《クルス》ろいふことにて、粟津野に有なるへし
 
1422 打靡春來良之山際遠木末乃開徃見者《ウチナヒキハルハキヌラシヤマノハノトホキコスヱノサキユクミレハ》
 
打靡、【官本又云、ウチナヒク、】  山際、【別校本又云、ヤマキハノ、】
 
發句官本の又點に依るべき事以前注するが如し、サキ行とは花なり、第十に大かた似たる歌あり、
 
初、うちなひき春はきぬらし 木末のさきゆくは花をもいひ、又このめのはりてひらくをもいふへし
 
中納言阿倍廣庭卿歌一首
 
1423 去年春伊許自而植之吾屋外之若樹梅者花咲爾家里《コソノハルイコシテウヱシワカヤトノワカキノウメハハナサキニケリ》
 
拾遺集には、いにし年ねこじて植しと改らる、朗詠集に入たるも同じ、伊は發語の詞、許自而は掘てなり、神代紀上云、忌部遠祖太玉(ノ)命、掘2天香山之|五百箇《イホツノ》眞坂樹(ヲ)1云云、古事記上云、天香山之五百津眞|賢木矣根許士爾《サカキヲネコシニ》許士而云々、
 
初、いこしてうへし いは例の發語の詞。こしては根こしにしてといふ心なり。神代紀云。而中臣(ノ)連(ノ)遠(ツ)祖天(ノ)兒|屋《ヤネノ》命忌部(ノ)遠祖太玉(ノ)命|掘《ネコシニシ》2天(ノ)香《カコ》山之|五百箇《イヲツノ》眞坂樹(ヲ)1云々
 
山部宿禰赤人歌四首
 
1424 春野爾須美禮採爾等來師吾曾野乎奈都可之美一夜宿二來《ハルノヽニスミレツミニトコシワレソノヲナツカシミヒトヨネニケル》
(7)スミレは和名集野菜類云、本草云、菫菜、俗謂2之菫葵1、【菫、音謹、和名須美禮、】野菜なる故に摘て花をも兼るなるべし、後々の歌には飲食を賤しめばにや、花故に摘やうにのみよめり、源氏には野をなつかしみをむつましみと引けり、
 
初、すみれつみにと 和名集野菜(ノ)類(ニ)云。本草云。菫菜俗謂2之(ヲ)菫葵(ト)1【菫音謹。和名須美禮。】すみれは野菜なるゆへにつみて、花をもかぬるなるへし。後々は哥には、飲食をいやしみてよまされはにや、花ゆへにつむやうにのみよめり。もろこしにも、詩經なとの詩は、花月を愛して作れりとは見えす。此國も大かたかよへり。ひとよねにけるは、第十九にも、いさゝかにおもひてこしをたこの浦にさけるふち見てひとよへぬへし
 
1425 足比奇乃山櫻花日並而如是開有者甚戀目夜裳《アシヒキノヤマサクラハナヒナラヘテカクシサケラハイトコヒメヤモ》
 
如是開有者、【六帖云、カクサキタラハ、】
 
日並而は日を經ての意なり、第十一には夜並而ともよめり、カクシサケラバは、し〔右○〕は助語にてかくさきてあらばなり、日を經てかくさきたるまゝにてあらばとなり、六帖にかくさきたらばは、かくさきてあらばにて猶意得やすし、
 
初、山さくら花日ならへて 日ならへては、日をへてなり。第六にも、あかねさす日もならへぬにとよめり
 
1426 吾勢子爾令見常念之梅花其十方不所見雪乃零有者《ワカセコニミセムトオモヒシウメノハナソレトモミエスユキノフレヽハ》
 
此吾勢子は妻なり、念之は古風に依てお〔右○〕を略してモヒシとも讀べし、フレヽバはふりあればなり、里阿切羅なれどふらればとは云ひがたければ初四相通じて如此は云へり、古今に梅の花其とも見えず久方の、あまぎる雪の並てふれゝばと云歌は今の腰句以下に同じ、
 
初、わかせこにみせんとおもひし 此わかせこは、妻をさして赤人のよめるなり。下は古今集に、人まろの哥と注したる、梅の花それとも見えす久かたのあまきる雪のなへてふれゝは。此哥をつゝめたるものなり
 
(8)1427 從明日者春菜將採跡※[手偏+栗]之野爾昨日毛今日毛雪波布利管《アスヨリハワカナツマムトシメシノニキノフモケフモユキハフリツヽ》
 
從明日者、【新古今、袖中抄、官本又點共云、アスカラハ、】
 
六帖と赤人集とには發句のはるたゝばとあるは改たるにや、腰句を袖中抄にしめののにと云ひて、常はしめしのにとよむと云へるは如何なる故ぞ、おぼつかなし、第十八に家持のよまれたる、みしま野に霞たな引しかすがにと云歌の下句今と全同なり、
 
草香山歌一首
 
草香山は河内なり、第四に草香江とよめるに注せしが如し、古事記下、雄略天皇|日下《クサカ》に行幸してよませ給へる御歌云、久佐加《クサカ》辨能|許知能夜《コチノヤ》麻登、多々美許母弊具理能夜麻能|許知碁知能夜麻能賀比《コチコチノヤマノカヒ》爾云云、
 
1428 忍照難波乎過而打靡草香乃山乎暮晩爾吾越來者山毛世爾咲有馬醉木乃不惡君乎何時往而早將見《オシテルナニハヲスキテウチナヒククサカノヤマヲユフクレニワカコエクレハヤマモセニサケルツヽシノニクカラヌキミヲイツシカユキテハヤミム》
 
忍照、【校本云、オシテルヤ、】  咲有馬醉木乃、【別校本云、サケルアセミノ、】
 
打靡は草とつゞけむ爲なり、續古今旅部讀人しらずの歌に、おしてるなにはを過てう(9)ちなびく、くさかの山を今日見つる哉とあるは此歌の初を裁取たるにや、山モセニとはせ〔右○〕は狹にてせばき意なり、咲有馬醉木乃不惡君とは、厭はしからぬ事をつゝじによせて云なり、第十にも、春山の馬醉花のにくからば、君にはしゑやよりぬともよしとよめり、何時《イツシ》はし〔右○〕は助語なり、此は奈良京に妻を置ける人の、難波より歸來る道に草香山を超とてよめるなり、
 
初、おしてるなにはを過て 此初の四句は、人まろの哥の、けふみつるかもといふ一句たらさるものなり。さけるつゝしのにくからぬとは、きらはしからぬなり
 
右一首依作者微不顯名字
 
櫻花歌一首并短歌
 
1429 ※[女+感]嬬等之頭挿乃多米爾遊士之※[草冠/縵]之多米等敷座流國乃波多弖爾開爾鷄類櫻花能丹穗日波母安奈何《ヲトメラカカサシノタメニタハレヲノカヅラノタメトシキマセルクニノハタテニサキニケルサクラノハナノニホヒハモイカニ》
 
安奈何、【袖中抄云、アナニ、】
 
敷座流、此句の上には二句許落たる歟、袖中抄に雲のはたてを釋する所に今の歌に國乃波多?爾と云へるを引合すとて引かれたるにも今の本と替らず、試に補て云はゞ八隅知之吾大君乃なるべし、國乃波多弖は顯昭云、雲のはたてとは空の廣き意なり、はたは將と云意なり、て〔右○〕はよろづの事にわたりたる事也、常には夕の雲の旗の手に似た(10)るを雲の旗手とはあまたの文に申たれど、萬葉集の長歌を見るに、國のはたてに咲にける櫻の花と讀たれば、國には旗手有と云べくもなければ、空の廣きをば雲のはたてと云ひ、地の廣きをば國のはたてとよめるにやとなずらへて思ふ也、假令雲の旗手と云べくは、花の色々に咲みちたるをはたてと云べきにや、其は猶心ゆかず、古歌をば歌ひとつに付てはいみじく釋する程に、あまたの歌を見る時に違ふなり、今按此法師の古今秘注を見るに、戰の場、御即位の時、諸陣などに立る旗のやうなる赤き雲の夕暮に立をば雲の旗手と云なり、旗の手のやうに夥《オビタヾ》しく廣ごりて夕日の空にまがひて夕日やけする也云云、かゝれば袖中抄は古今の注より後に今の國のはたてと云に心づきて説を改られけるにや、はたは將と云意なり、てはよろづの事にわたりたる事也とはいかなる意とも知がたし、愚按は、國のはたて雲のはたて同じ意なりとも、共に旗手にて譬なるべし、其中に雲は豐旗雲ともよみて旗に似たるが立ひろごるを云ひ、國はひろごりてあるを旗手と譬へむに難あるべからず、雲の旗手と云べくば花の色々に咲みちたるをはたてと云べきにやとは、此難いはれざる歟、さては國のはたて櫻の花のはたてと云ひて、はたては廣歟、若又此は今の歌に付ては云はずして花の咲滿たるも雲に似たれば雲の旗手と云べくば花の旗手とも云べし、花の旗手と云べからざれば(11)雲の旗手とも云べからずと義勢を作り懸たるか、さるにても云はれず、雲と花とは互にまがへど、雲こそ旗には似て立なれ、何處にか花の旗に似てさける事あらむ、武烈紀に天皇御製云、之〓世能儺嗚理嗚彌黎磨阿蘇寐倶屡《シホノナヲリヲミレハアソヒクル》、思寐我簸多泥※[人偏+爾]都摩陀底理彌喩《シヒカハタテニツマタテリミユ》、此下句の意は鮪之鰭手に妻立り見ゆなり、鮪《シヒ》臣が影媛を引のけて己が其前に立塞がりたるを鮪のひれに隱れて妻の立たるが見ゆると遊ばせり、或は落句は※[足+支]り見ゆにて鰭を張て※[足+支]て血氣を振ふ由歟、軍の旗、魚の鰭、和語の本は同じ、又古事記下、顯宗天皇段に志※[田+比]臣が歌云、意富美夜能袁登都波多傳須美加多夫祁理《オホミヤノヲトツハタテスミカタフケリ》、此をとつはたてとは何を云へるか意得がたし、若旗二|流《ナカレ》立る中に次に擧るを云ひて、弘計皇子は億計皇子の御弟にてましますに喩へてすみかたぶけりとは、懸れる旌の風に吹なびかされて頭の方の傾くによそへて詛ひ奉る意によめる歟、然らば波多傳の詞は引て證すべし、安奈何をイカニと點ぜば安の字は衍文歟、袖中抄にあなに〔三字右○〕と有は何の字を荷に通じて讀て、うるはしむ意にや、神武紀云、三十一年夏四月乙酉朔、皇輿巡幸因登2腋上〓間丘1而廻2望國状1曰、妍哉《アナニヤ》乎|國《クニ》之|獲《エツ》矣、【妍哉此云2鞅奈弭夜1、】此妍の意歟、
 
初、をとめらか かつらのためとゝきりて、これをは櫻にかけてみるへし。國のはたては、くにのはてにて、あらゆる國のかきりにさく花をおもひやるなり。舟はつるといふに、竟の字をかきたり。又しはつ山といふに、四極山とかきたれは、はてはきはみにて、大君のしきます國のあるかきりといふ心なるへし。尤花を愛する心なり。安の字は衍文ならん歟
 
反謌
 
(12)1430 去年之春相有之君爾戀爾手師櫻花者迎來良之母《コソノハルアヘリシキミニコヒニテシサクラノハナハムカヘクラシモ》
 
相とは花を愛して情ある人に花の相逢を云へり、戀ニテシはに〔右○〕は助語なり、賞翫せし去年の人を花の戀るなり、迎來ラシモとは咲てにほふが去年の人を見に來よと迎るに似たるを云へる歟、第十に、秋田苅苫手うごくなり白露は、置穗田なしと告に來ぬらし、情なき物にも情あらせてよむは歌の習なり、此歌、長歌に敷座流國乃など云へるに合すれば、君と云へるは帝を申にや、
 
初、こその春あへりし君にこひにてし あふとは花を愛する人に花の相あふをいへり。こひにてしは、には助語にて、こひてしなり。これも櫻が心ある人に賞翫せられしを、おもふ人の相逢やうにいへり。むかへくらしもは、櫻の咲にほふが、こその人を見にこよとむかふるに似たるをいへり
 
右二首若宮年魚麻呂誦之
 
山部宿禰赤人歌一首
 
1431 百済野乃芽古枝爾待春跡居之※[(貝+貝)/鳥]鳴爾鷄鵡鴨《クタラノヽハキノフルエニハルマツトスミシウクヒスナキニケムカモ》
 
百濟野は大和國廣瀬郡なり、第二に人丸の言さへぐ百濟之原とよまれたる同所なり、第二に已に注せり、芽古枝は芽は草ながら枯ずして有を、刈ずしてさて置けば、春になりて芽の出るなり、古今に秋萩の古技に咲ける花見ればとよめる是なり、芽の古枝のしげき中にすごもれる※[(貝+貝)/鳥]の、今は春べと鳴つらむかとなり、芽の古枝の萠出むと春待(13)如く、※[(貝+貝)/鳥]も春を待とよめりとも云べし、道有て隱れ居たる人の明君に逢て出る意などを兼てよめる歟、鷄鵡鴨の三字は※[(貝+貝)/鳥]より類を思ひてかける歟、
 
初、くたら野のはきの くたら野は大和なり。第二に、人まろの、ことさへくくたらの原とよまれし所なり。舒明紀云。十一年秋七月詔曰。今年造2作大宮及大寺(ヲ)1則以2百濟川(ノ)側《ホトリヲ》1爲2宮處(ト)1。〇十二月〇是月於2百濟済川側1建2九|重《コシノ》塔(ヲ)1。十三年冬十月己丑朔丁酉、天皇崩2于百濟宮(ニ)1。丙午殯(ス)2於宮北(ニ)1。是(ヲ)謂2宮濟(ノ)大|殯《ムカリト》1。すみしは居之とかきたれは、をりしともよむへし。此哥は、道ありてかくれたる人の、明君にあひ奉て、出てつかふる心なとをこめてよめるにや
 
大伴坂上郎女柳歌二首
 
1432 吾背見我見良牟佐保道乃青柳乎手折而谷裳見綵欲得《ワカセコカミラムサホチノアヲヤキヲタヲリテタニモミルイモニモカ》
 
見綵欲得は、綵は縁にてミルヨシモガナにや、
 
初、見綵欲得 此綵の字は、もし縁の字の誤にて、みるよしもかなにや。いろといふよりは、よしにてありぬへくおほゆる哥なり
 
1433 打上佐保能河原之青柳者今者春部登成爾鷄類鴨《ウチアクルサホノカハラノアヲヤキハイマハハルヘトナリニケルカモ》
 
打上、【六帖云、ウチノホル、別校本同v此、】
 
發句は六帖によりて讀べし、川原にそひて上るなり、第七に、佐保川に鳴なる千鳥何しかも、川原をしのびいや川のぼる、又第十喚子鳥をよめる歌にも、佐保の山べを上り下りにとよめり、平家物語などにも川原をのぼりにとかけり、玉葉にうちわたすとあるは改られたり、下句は王仁が咲や此花の歌に似たり、
 
初、うちあくるさほのかはら 打あくるさほとつゝけたるは、舟はさすさほは、ふかくさしいれて、又引あくる物なれは、それを打あくるといひかけたるなるへし。東坡か赤壁賦にも、桂(ノ)櫂《サホ》兮蘭(ノ)※[將/木]《カチ》、撃(テ)2空明(ニ)兮|泝《サカノホル》2流光(ニ)1といへり。あるひは旗竿物をほす竿なとの類、皆さしあくる物なれは、打あくるさほとはいへるなるへし。しかるを、機の具の梭《カヒ・ヒ》なりといへるは、梭の字玉篇云。且泉(ノ)切。木名。蘇和(ノ)切。織具。此蘇和の反に、音をさと呼て、うちあくるは打投るなり。光陰の早く過るを一飛梭と詩にも作れり。さをなくる間といへは、しはしの事なり。さほといふさの字をとらんとて、うちあくるとはいひかけたるなりといへり。詩にこそ音を用て作らめ。かひともひともいふ和語あるをゝきて、音を用へきやうなし。又打あくるとあるを、打殺るなりといへるも、無窮の料簡なり。さをなくる間といふ事も、光陰|疾々《暗記失念》一飛梭といふ句によりて、後の人のいへるなり。第十三に、なくるさとよめるは、矢のことなり。投矢《ナグヤ》ともよめる哥有。後に注すへし。今は春部となるといへるは、王仁がなには津の哥に似たり。玉葉集には、打あくるを打わたすとあらため、成にけるかもを、もえにけるかもと改らる。打あくるは、さほといはむ枕詞なるを、聞にくゝもあらぬに、何ゆへかあらためられけむ
 
 
大伴宿彌三林梅歌一首
 
三林、系譜未v詳、
 
1434 霜雪毛未過者不思爾春日里爾梅花見都《シモユキモイマタスキネハオモハスニカスカノサトニウメノハナミツ》
 
(14)未過者は、上に云如くいまだすぎぬになりすぎねばにても意得らるれど、唯初の意に依るべし、
 
厚見王歌一首
 
新古今集に今の歌を取るに原見王とあるは上の目録に厚を誤て原に作れるに依てなり、
 
1435 河津鳴甘南備河爾陰所見今哉開良武山振乃花《カハツナクカミナヒカハニカケミエテイマヤサクラムヤマフキノハナ》
 
今哉、【官本、哉作v香、點云、イマカ、】
 
六帖には發句をちはやぶるとて山吹の歌とせり、甘南備河は大和國高市郡にあり、
 
大伴宿禰村上梅歌二首
 
稱徳紀云、神護景雲二年九月辛巳、勅、今年七月十一日得2日向國宮崎郡(ノ)人大伴人益所(ノ)v獻(ヅル)白龜赤眼1、大伴(ノ)人益授2從八位下(ヲ)1、賜2※[糸+施の旁]十匹綿廿屯布卅端正税一千束(ヲ)1、又父子之際、同心天性、恩賞(ノ)所v被、事須2同沐1、人益(カ)父村上者恕以2縁黨1、宜(シクv放2入京(ヲ)1、光仁紀云、寶龜二年四月壬午、正六位上大伴宿禰村上授2從五位下1、十一月癸未朔辛丑、肥後介、三年四月從五位上大伴宿禰村上爲2阿波守1、
 
初、大伴宿禰村上 稱徳紀云。神護景雲二年七月壬申朔庚辰、日向國(ヨリ)獻(ス)2白龜1。九月辛巳勅。今年七月十一日得(タリ)2日向國宮崎郡人大伴人盆(カ)所(ノ)v獻(マツル)白亀(ノ)赤眼(ナルヲ)1。〇大伴人盆(ニ)授2從入位下(ヲ)1。賜2※[糸+施の旁]十匹、綿廿屯、布廿端、正税一千束(ヲ)1。〇又父子(ノ)之際同心天性(ナリ)。恩賞(ノ)所v被事須2同沐(ス)1。人益(カ)父村上者恕(スニ)以(ス)2縁黨(ヲ)1。宜(シク)v放《ユルス》2入京(ヲ)1。光仁紀云。寶龜二年四月壬午、正六位上大伴宿禰村上(ニ)授2從五位下(ヲ)1。十一月葵未朔辛丑、肥後介。三年四月從五位上大伴宿禰村上爲2阿波(ノ)守(ト)1
 
(15)1436 含有常言之梅我枝今且零四沫雪二相而將開可聞《フヽメリトイヒシウメカエケフフリシアワユキニアヒテサキニケムカモ》
 
今且、【別校本、幽齋本並云、ケサ、】
 
今且はケサと點ぜるに依べし、
 
初、けふゝりし 今旦とかきたれは、けさふりしとよむへし。あはゆきにあひて咲とは、知人を待えたる心なり。ふゝむはふくむにてつほむなり。神代紀にも含の字をふゝむとよめり
 
1437 霞立春日之里梅花山下風爾落許須莫湯目《カスミタツカスカノサトノウメノハナヤマシタカセニチリコスナユメ》
 
霞の立て霞むと云意につゞけたる歟、然らば發句をカスミタチと和すべきか、第三の春霞春日里爾とつゞけたるに思ひ合すべし、次の歌の發句准v之、
 
大伴宿禰駿河麻呂歌一首
 
1438 霞立春日里之梅花波奈爾將問常吾念奈久爾《カスミタツカスカノサトノウメノハナハナニトハムトワカオモハナクニ》
 
下句の意は花の一盛なる如くあだなる意にて人を問むとは思はずとなり、
 
初、花にとはむと これは花の咲時きてみるを、人をとふらふになすらへて、とふといへり。霜雪の時、今のことく花を見むとはおもはさりしとなり。若相聞なとにたとふる心ならは、花は盛にのみきてみて、ちりぬれはこぬを、わか人をとふことは、さはせしとおもふよしなり
 
中臣朝臣武良自歌一首
 
武良自無v所v考、
 
1439 時者今者春爾成跡三雪零遠山邊爾霞多奈婢久《トキハイマハハルニナリヌトミユキフルトホキヤマヘニカスミタナヒク》
 
遠山邊爾は遠き山べにもの意にて近きを兼て云へり、天子の恩光のいたらぬ所なき(16)に譬る意もこもるべし、
 
河邊朝臣東人歌一首
 
1440 春雨乃敷布零爾高圓山能櫻者何如有良武《ハルノアメノシキシキフルニタカマトノヤマノサクラハイカニアルラム》
 
春雨乃敷布零爾、【別校本云、ハルサメノシク/\フルニ、】  何如、【幽齋本云、イカニカ、】
 
大伴宿禰家持※[(貝+貝)/鳥]歌一首
 
1441 打霧之雪者零乍然爲我二吾宅乃苑爾※[(貝+貝)/鳥]鳴裳《ウチキラシユキハフリツヽシカスカニワカヘノソノニウクヒスナクモ》
 
吾宅、【六帖云、ワカイヘ、後撰、拾遺同v此、幽齋本云、ワキヘ、】
 
打霧之は、第九に霍公鳥の歌に、掻|霧之《キラシ》雨零|夜乎《ヨヲ》とよめるに同じ、雪ふらむとて霧の立なり、此發句、後撰にはかきくらし、拾遺にはうちゝらしとあるは共に改たるなり、
 
初、うちきらし 打くもりの心なり。くもるは雲につきていひ、きるとは霧につきていへり。しかすかはさすかなり
 
大藏少輔丹比屋王眞人歌一首
 
1442 難波邊爾人之行禮波後居而春菜採兒乎見之悲也《ナニハヘニヒトノユケレハオクレヰテワカナツムコヲミルカカナシサ》
 
此は夫の公役にて難波あたりへ行たるに、留りたる妻の待佗てせめての心やりに若菜を摘を見るがあはれなるとなり、也は漢の法にて加へたる助語なり、歌よまむ人は(17)かゝる心あるべきものなり、
 
初、なにはへに人のゆけれは 上に人といへるは夫なり。夫の難波へ行て久しく歸らぬほと、のこしおける妻の、手すさひにわかなをつむをみるがかなしきとなり。せめての心やりにつめは、おもふことなき人の、野遊の興につむとかはれはなり
 
丹比眞人乙麻呂歌一首
 
官本、此下注云、屋主眞人之第二子也、今按目録下有2此注1、目録據2端作1、尤可v有v之也、
 
初、丹比眞人乙麻呂 稱徳紀云。天平神護元年正六位下多治比眞人乙麻呂授從五位下
 
1443 霞立野上乃方爾行之可波※[(貝+貝)/鳥]鳴都春爾成良思《カスミタツノカミノカタニユクシカハウクヒスナキツハルニナルラシ》
 
行之可波、【幽齋本、別校本並云、ユキシカハ、】
 
野上は、第二に佐美乃山野上乃宇波疑《サミノヤマノカミノウハキ》とよみ、第六には飽津之小野笑野上者《アキツノヲノノノカミニハ》と讀たると同じく意得べし、美濃國不破郡にある野上にてはあるべからぬなり、腰句は今本の點は誤れり、幽齋本に依べし、
 
初、霞たつ野上のかたに 此野上といへるは、いつくにもあれ、野の上の方をいへるにや。第二には、さみの山野上のうはきとよみ、第六には、秋津のをのゝ野上にはとよめるたくひなるへきを、美濃に野上里あれは、此哥をもそこの哥とせり。風雅集には讀人不知
 
高田女王歌一首 高安之女也
 
1444 山振之咲有野邊乃都保須美禮此春之雨爾盛奈里鷄利《ヤマフキノサキタルノヘノツホスミレコノハルサメニサカリナリケリ》
 
此春之雨爾、【官本、校本並又云、コノハルノアメニ、】  盛奈里鷄利、【別校本、里作v利、】
 
春之雨爾は、ハルノアメとよめるに付べし、
 
初、山ふきの咲たる野への つほすみれは壺菫なり。すみれの花には、下の方にまろくてつほのことくなる所あれは、つほすみれとはいふなり。俗にすまひとり草といふは、わらはへとものそのつほのことくなる所を、互にかけて引あひて、きれぬ方をかちとし、きるゝかたをまけとするによりてなり。山ふきの咲たる野へとかさりていへるは、をみなへし咲澤におふる花かつみなとよめるたくひなり
 
大伴坂上郎女歌一首
 
(18)1445 風交雪者雖零實爾不成吾宅之梅乎花爾令落莫《カセマセニユキハフレトモミニナラヌワキヘノウメヲハナニチラスナ》
 
風交、【別校本、官本並又云、カセマシリ、】  吾宅之、【校本、官本並又云、ワカイヘノ、】
 
風交は、第十に風交雪者零乍とよめるを、新古今にかぜまぜにとて入られたれど、此集にはカゼマジリとあり、又第五貧窮問答歌に、風雜雨のふる夜のとあるもカッゼマジリと點ぜり、かぜまじりと云は二つの中には古風なるべければ此に附べし、雖零はフルトモとも讀べし、花爾チラスナとはあだ花にちらすなとなり、第十にも、秋芽は雁にあはじと云へればか、聲を聞ては花に散ぬるとよめり、和名云、爾雅云、榮而不v實謂2之英1、【於驚反、訓阿太波奈、】今花と云へるは此英なり、
 
初、風ませに雪はふれとも 雖零を、おなしくはふるともとよむへし
 
大伴宿彌家持養※[矢+鳥]歌一首
 
目録には養を春に作れり、第十に春雉鳴と書てキヾスナクとよめれど、今按ずるに養なるべし、其故は歌の下句己が住あたりを鳴て知らせし故に捕れて飼はると云意なり、又唯雉をよまば春の字無用なり、
 
初、養《カヘル》※[矢+鳥](ノ)歌 目録には春※[矢+鳥]とあれとも、こゝに養※[矢+鳥]とあるを正とすへし
 
1446 春野爾安佐留※[矢+鳥]乃妻戀爾已我當乎人爾令知管《ハルノノニアサルキヽスノツマコヒニオノカアタリヲヒトニシレツヽ》
 
春野爾、【官本云、ハルノニ、】
 
(19)安佐留※[矢+鳥]乃を六帖にはあさなくきじのと改ため、當〔右○〕をば拾遺六帖共にありかと改む、令知をシレとよむ事不審なり、しれはしられなれば所知とぞ書ぬべき、但第十三の長歌の中にも人不令知と書るをヒトシレズと點ぜり、しらしむる故にしらるヽ意にかくも書にや、※[矢+鳥]妻戀に鳴は、毛詩小弁目、雉(ノ)之朝※[句+隹]、尚求2其雌1、第十九に同じ家特、杉の野にさをとる雉いちじろく、ねにのみなかむこもりづまかも、
 
初、春の野にあさるきゝすの つまこひしてなくゆへに、をのかすむあたりを人に知られて、取てかはるゝといふ心とみれは、養※[矢+鳥]を正とすへしとはいへり。第十九に、杉の野にさをとるきゝすいちしろくねにしもなかむこもり妻かも。毛詩(ノ)小弁(ニ)曰。雉(ノ)之朝(ニ)※[句+隹]《ナク》、尚求(ム)2其雌(ヲ)1。拾遺集には、をのかありかをと改らる
 
大伴坂上郎女歌一首、
 
1447 尋常聞者苦寸喚子鳥音奈都炊時庭成奴《ヨノツネニキクハクルシキヨフコトリコヱナツカシキトキニハナリヌ》
 
尋常、【六帖云、トコトハニ、】 聞者、【六帖云、キケハ、官本又點同v此、】
 
尋常とは春ならぬ他時なり、此歌、喚子鳥のいつも鳴證なり、聞者苦寸は聞苦しきにて、きゝにくきなり、見にくきを見苦しと云が如し、
 
初、よのつねにきくはくるしき さきにもいへることく、此哥によれは、よふこ鳥は常になく鳥なるへし。聞はくるしきとは、見くるしきといふことく、きかまうきをいへり。よふこ鳥は、ぬえ歟、鳩の類なるへし。第五卷貧窮問答歌に、ぬえ鳥のゝどよびをる《・喉呼居》にとよめり。源仲正哥に、あしひきの山鳩のみそすさめける散にし花のしへになるみを。これは俗に、年よりこよと鳴といへは、その心をよめりときこゆ。亦雨鳩呼v婦(ヲ)ともいへり。和名集には、喚子鳥と別に出して、此集を引て證していかなる鳥とも尺せられす。しかれは※[空+鳥]にも鳩にもあらすと見えたれと、彼集は此國の寶なから、日本紀此集なとの中に、たしかに和名ある物の中に、尺しもらされたる物おほけれは、その例にやとも申へし。又稻負鳥のことく、名を出して尺せぬを、清輔朝臣の奥義抄に、順かわきまへさらむほとのことを今の人わきまへかたしといはれたるは、大才の人をたふとふことはさることなれとも、順のしらすして尺せられさるにはあらす。その時の人は、皆その物としりて、別に尺すへきことのなきなるへし。佐保宅作とは、坂上郎女の父大伴安麿をは、第四卷に佐保大納言といへは、其家にてよめるなり
 
右一首天平四年三月一日佐保宅作
 
佐保に喚子鳥を多くよめる事第四の安都年足が歌に注せしが如し、
 
春相聞
 
大伴宿彌家持贈坂上家之大孃歌一首
 
(20)1448 吾屋外爾蒔之瞿麥何時毛花爾咲奈武名蘇經乍見武《ワカヤトニマキシナテシコイツシカモハナニサカナムナソヘツヽミム》
 
咲奈武は六帖にもさかなむとあれど、願ふ詞なればいつかと云にかけあひがたき歟、サキナムと點じ換べきにや、但後撰に小野宮殿の歌に、松も引若葉も摘ず成ぬるを、いつしか櫻はやもさかなむとあれば今の點ひが事にあらず、ナゾヘツヽ見ムはなぞへつゝ見むと云なり、第八第十一第十八にもナゾヘとよめり、伊勢物語にも、なぞへなく貴き賤き苦しかりけりとよめり、後撰に、我宿の垣根に植し撫子は、花にさかなむよそへつゝ見むとあるは此歌なるべし、
 
初、なそへつゝみむ なそらへつゝみむなり。伊勢物語に、あふな/\おもひはすへしなそへなくたかきいやしきくるしかりけり。なてしこのうるはしきを、坂上大孃になすらへてみむとなり
 
大伴田村家毛大孃與妹坂上大孃歌一首
 
毛は之の字を誤れり、第四にも大伴田村家之大孃贈2妹坂上大孃1歌四首など有き、
 
1449 茅花拔淺茅之原乃都保須美禮今盛有吾戀苦波《ツハナヌクアサチカハラノツホスミレイマサカリアリワカコフラクハ》
 
今盛有、【幽齋本云、イマサカリナリ、】
 
第四の句の今の點は書生の誤なるべし、幽齋本に依るべし、上句は今盛なりと云はむためながら、物をみて諸共に野遊せむ事を惜む意知ぬべし、
 
初、つはなぬく 第十に、わかせこにわかこふらくはおく山のつゝしの花の今さかりなり
 
大伴宿彌坂上郎女歌一首
 
(21)1450 情具伎物爾曾有鷄類春霞多奈引時爾戀乃繁者《コヽロクキモノニソアリケルハルカスミタナヒクトキニコヒノシケレハ》
 
物爾曾有鷄類、【六帖云、モノニサリケル、】  繁者、【六帖云、シケキハ、】
 
發句を六帖には心うきとあれど、具伎は苦しきなり、第四の末に家持歌に此に似たる有て注せりき、
 
初、心くき物にそ有ける 心くきは心くるしきなり。第四に、家持哥に、心くゝおもほゆるかも春霞たなひく時にことのかよへは。似たる哥なり
 
笠女郎贈大伴家持歌一首
 
1451 水鳥之鴨乃羽色乃春山乃於保束無毛所念可聞《ミツトリノカモノハイロノハルヤマノオホツカナクモオホヽユルカモ》
 
水鳥之鴨乃羽色之、【官本、或作2水鳥之三鴨乃羽色乃1、點云、ミツトリノミカモノハイロノ、】  所念可聞、【別校本、幽齋本並云、オモホユルカモ、】
 
鴨ノ羽色ノとは青きなり、此卷下にも水鳥の青羽の山とよみ、第二十にも水鳥の鴨の羽の色の青馬とよめり、春山ノオボツカナクとつゞけたるは、欝の字、思ひの胸に滿てふさがれるなれば、春山の色の欝々として青きにもそへて云なり、此おぼつかなきは不審にはあらず、落句今の點は書生の誤なるべし、
 
初、水鳥の鴨の羽色 鴨の羽色とは青きをいふ。此卷の下に、水鳥の青葉の山とよめるもおなし心なり。第二十にも、水鳥のかもの羽の色の青馬とよめり。青山のおほつかなきとは、欝の字をおほつかなきとよめり。欝の字の心は、たとへはさかりにもゆる木を、灰の下にさしいれたるが、さすかにもえ出ねと、下にふすほるやうの心なり。春山の、陽気下にみちて、やゝもえ出れと、猶くゆるやうなるを、むねにおもひのふさかりたるにたとへていふなり。不審なるをも、おほつかなしといへと、不審はせはく欝悒はひろし
 
紀女郎歌一首
 
1452 闇夜有者宇倍毛不來座梅花開月夜爾伊而麻左自常屋《ヤミヨナレハウヘモキマサスウメノハナサケルツキヨニイテマサシトヤ》
 
一二の句は今夜を云にあらず、さきに闇なりし夜を云なり、今按ヤミナラバ、ウベモキ(22)マサジとも讀べし、此は今夜につきて云なり、
 
天下五年癸酉春閏三月笠朝臣金村贈入唐使歌一首并短歌
 
此度の使の事第五に注せり、此歌は第六に載らるべきをいかで此には置かれけむ、其故は春讀て相聞にてはあれど、長短ともに春の意にあづかれるにあらねば、ひたすらの雜歌なり、
 
初、天平五年 此入唐使は多治比眞人廣成なり。第五卷山上憶良の、好去好來歌にすてに注せり。第九第十九にも此時の哥有
 
1453 玉手次不懸時無氣緒爾吾念公者虚蝉之命恐夕去者鶴之妻喚難波方三津埼從大舶爾二梶繁貫白浪乃高荒海乎島傳伊別往者留有吾者幣引齊乍公乎者將往早還萬世《タマタスキカケヌトキナクイキノヲニワカオモフキキミハウツセミノミコトカシコミユフサレハタツノツマヨフナニハカタミツノサキヨリオホフネニマカチシシヌキシラナミノタカキアルミヲシマツタヒイワカレユケハトヽマレルワレハタムケニイハヒツヽキミヲヲハヤラムハヤカヘリマセ》
 
高荒海乎、【別校本云、タカキアラウミヲ、】
 
初の二句は常に心に懸て思ふなり、虚蝉之命恐は、今按空蝉之の下に世人有者大王之と云二句を脱せり、其證は第九に、神龜五年戊辰秋八月歌の中に、死毛生毛《シニモイキモ》、君之|隨意《マニ》常|念乍有之間爾虚蝉乃代《オモヒツヽアリシアヒタニウツセミノヨノ》人有|者《ハ》、大王之御命恐美《オホキミノミコトカシコミ》云云、又天平元年己巳冬十二月歌の發端に云、虚蝉乃世人有者《ウツセミノヨノヒトナレハ》、大王之御命恐彌《オホキミノミコトカシコミ》云云、此に准らへて知べし、伊別往者は、伊は發(23)語の詞イワカレユカバとも讀べし、幣別はヌサヒキと讀べきか、齊は齋に作るべし、將往は、今按往は待を誤てマタムなるべし、往ならばゆかむとこそ點ずべけれ、ヤラムと讀べき理なければいづれも叶はず、
 
初、玉たすきかけぬ うつせみのみことかしこみ、此哥のつゝきを案するに、うつせみのといふ下に、二句を脱せり。第九卷神龜五年戊辰秋八月歌に、うつせみの世の人なれはおほきみのみことかしこみとつゝけてよめり。やかて其次下の、天平元年十二月歌の初にも、おなしやうに讀出せり。これに准して證するに、世の人なれは大君のといふ兩句をおとせりとは知なり。まかちしゝぬきは、おもかちとりかちをしけく取かふるをいふ。又此集に櫓をもかちとよみたれは、その櫓をつがひてたつるを、まかちといふなるへし。十丁たつるをいつて舟といへは、しけぬきはおほくたつるをいへるにや。いわかれゆけは、いは發語の詞なり。きみをはやらん。此やらんに、將往とかきたれは、無理にしひてよめる物なり。往は待の字をあやまれるにて君をはまたんなるへし。上にいわかれゆけはといひて、とゝまれるわれはたむけにいはひつゝきみをはやらんといはは、心もたかへり。幣引はぬさひきとよむへき歟
 
反歌
 
1454 波上從所見兒島之雲隱穴氣衝之相別去者《ナミノウヘユミユルコシマノクモカクレアナイキツカシアヒワカレナハ》
 
浪上從、【校本云、ナミノウヘニ、】
 
兒島は備前の兒島なり、第六に八束朝臣の家にての歌に、思ふ子の宿に今宵はと家持のよまれたるを思ふに、兒島も海路の次なれば名のよせある故に入唐使を兒と云ひて島の名に寄たるか、穴氣衝之は、いたく氣の衝るゝなり、第十四にも安奈伊伎豆加思美受比佐爾指天《アナイキツカシミズヒサニシテ》とよめり、拾遺集別に、笠金岡、【仁明時人】
 浪の上に見えしこじまの島隱、行空もなし君に別て、
此は今の歌にて、作者笠金村を氏も同じく名も似たれば誤て金岡とは載られけるなめり
此處に官本に或本歌とあれど、諸本になく、又目録にもなければおぼつかなし、其上反(24)歌の異を注する詞なれば、若有ぬべくば、或本反歌とこそ云べけれ、
 
初、波の上にみゆる兒嶋の 此兒嶋は備前なり。兒嶋はさほどはるかならぬたに、雲かくれたるをおもふに、あひわかれなは、そこをも打過て、はるけくゆかむとおもひやるに、息の長くつかるゝなり
 
1455 玉切命向戀從者公之三舶乃梶柄母我《タマキハルノチニムカフコヒヨリハキミカミフネノカチカラニモワカ》
 
梶柄母我、【校本、幽齋本並云、カチカラニモカ、】
 
命向とは、命こそ大事の物なるに、命にもかへむと思ふばかりなるを云なり、第十二にもよめり、戀從者とは、戀せむよりはの意なり、落句の今の點は誤れり、カヂカラニモカと讀べし、梶柄にだになりて舟人の手に取られて君が舟にそひて行まし物をとなり、太刀の柄《ツカ》、鎌の柄をかまつかと云を思へば、かぢつかとも云にや、
 
初、玉きはる命にむかふ 命にむかふは、命とひとしきなり。きみかみふねのかちからにもかとは、梶の柄《エ》にもなりて、舟人の手にとられて、君かふねにそひゆかましものをといふ心なり。命にむかふこひよりはとは、をくれゐて命にかけてこひおもはんよりもなり。かちからにもが。かちのえにもが。かちづかにもが。此三の内によむへし。かちからもわがとあるは、かんなあやまれり
 
藤原朝臣廣嗣櫻花贈娘子歌一首
 
1456 此花乃一與能内爾百種乃言曾隱有於保呂可爾爲寞《コノハナノヒトヨノウチニモヽクサノコトソコモレルオホロカニスナ》
 
一與とは、今按葩を云歟、葩を葉と云、八葉蓮華など云が如し、葉の字を世と同じく訓ずるも、世を累ぬる事の花の葉々相重なるに似たる故にて、花の上にも花片のかさなるをよ〔右○〕と云にや、第二十に云、安治佐爲能夜敝佐久其等久夜都與爾乎《アヂサヰノヤヘサクコトクヤツヨニヲ》云云、此れ八重咲如く八世と云へる、右の今按の如くなる歟、百種乃言曾隱有とは、云はまほしき事數々に多けれど、皆此花を折て遣にこめたるぞとなり、
 
初、此花のひとよの内に ひとよといへるは、えとよとかよへは一枝にや。かへしの哥に、をられけらずやとよめは、枝ときこゆ。又一葉をひとよといふか。葉(ハ)世也と注せり。人の世も年をかさねたるを世といへる時、此葉の字を用るは、花の葉々かさなる心とおなしきにや。百くさの言そこもれるとは、いはまほしきことの、かす/\おほけれと、皆此花をゝりてやるにこめたるそとなり。おほろかにすなは、おろかにすなゝり
 
(25)娘子和歌一首
 
1457 此花乃一與能裏波百種乃言持不勝而所折家良受也《コノハナノヒトヨノウチニハモヽクサノコトモチカネテヲラレケラスヤ》
 
百種刀言曾隱有とのたまへども、憑がたきは力弱き者の重きに堪ざるが如く、百種の君が言を持かねて折られける花にあらずやとなり、人に所折には非ず、百種の詞にたへずして折るゝなり、第二に、三吉野の玉松が枝ははしきかも、君が御言を持て通はく、持て通ふと云ひ、持かねて折と云ふ、抑揚各よろしきに隨がへり、
 
初、もゝくさのこともちかねて もゝくさの言そこもれるとのたまへとも、ちからなきものゝ、おもきにたふることあたはぬことく、百くさの君かことはをたもちかねて、をられける花にあらすやなり。をらるゝは、人にをらるゝにあらす。百種の詞にえたへすしてをるゝといふなり。をれる花なれはかくはいへり
 
厚見王贈久米女郎歌一首
 
1458 屋戸在櫻花者今毛香聞松風疾地爾落良武《ヤトニアルサクラノハナハイマモカモマツカセハヤミツチニチルラム》
 
落良武、【別校本云、オツラム、】
 
屋戸とは女郎が屋戸を指せり、
 
初、やとにある櫻の花は やどは君かやとなり
 
久米女郎報贈歌一首
 
1459 世間毛常爾師不有者屋戸爾有櫻花乃不所比日可聞《ヨノナカモツネニシアラネハヤトニアルサクラノハナノヲレルコロカモ》
 
屋戸、【校本、幽齋本、並屋作v室、】  不所、【官本又云、オツル、】
 
(26)師は助語なり、世間毛と云へるは世のはかなさを世上に懸て云なり、其中に厚見王の問ひ來む事を含て催す意あるべし、不所は、今按ちるもおつるも義訓背かねど。ウツルと讀て散を云と意得べきにや、神代紀に移の字をチルとよめり、
 
初、ちれるころかも不所をちれるとよめるは、もとの所にあらぬは、花にてはちるなれは、義をもてかけるなり
 
紀女郎贈大伴宿彌家持歌二首
 
1460 戯奴《ワケ》【變云和氣】之爲吾手母須麻爾春野爾拔流茅花曾御食而肥座《カタメワカテモスマニハルノヽニヌケルツハナソメシテコエマセ》
 
戯奴をわけとよむ事自注に明なり、みづから謙退して云事第四の大伴三依が歌に既に注せり、注の中の變は袖中抄にも今の如くあれど反に作るべし、第五好去好來歌の中に、勅旨、【反云大命、】船舳爾、【反云布奈能閉爾、】第十六云、田廬者【多夫世(ノ)反、】懸有、【反云2佐家禮流1、】食、【賣世(ノ)反也、】此等に准らへて知べし、かくの如く注あるを昔よりいかゞ意得たりけむ、袖中抄には、けぬ亦わけと云ひ、別校本にもケヌと點ぜり、不審の事なり、六帖には君がためと云へるは中中に改たるが今の意には違へり、今の意は、家隆卿の君をぞ祈る身を思ふとてとよまれたる如く人に贈らむとて拔を吾爲に拔と云へり、手毛すまにと此卷下にもよめり、手もやまずと云意なるべし、御食而を六帖にはくひてと云ひ、袖中抄にはみけてと云へり、されど上に別が如く食賣世反也とあれば今の點にしかず、本草綱目云、白茅根、有2補中益(27)氣之功1、茅針及茅花、共無2益氣之(ノ)功1、かゝれば補中の功あれば肥べき理なり、
 
初、わけかためわかてもすまに わけは我身を卑下していへる詞なり。戯奴下(ノ)注變の字は、反にあらたむへし。てもすまは、手もひまなくといふ心なり。下の五十三葉にも、てもすまにうゑし萩にやとよめり。本草綱目云。白茅根(ハ)有2補中益氣之功1。茅針及(ヒ)茅花(ハ)共(ニ)無(シ)2盆氣之功1。今の哥にめしてこえませとよみ、返しにつはなをくへといやゝせにやすとあれは、人をこやす功あるにや。他の醫書なとにあることにこそ。第十六に、石まろにわれ物まうす夏やせによしといふ物そむなきとりめせ。初の五もしはめしてこえませの上に置てみるへし
 
1461 晝者咲夜者戀宿合歡木花君耳將見哉和氣佐倍爾見代《ヒルハサキヨルハコヒヌルネフノハナキミノミムヤワケサヘニミヨ》
 
六帖には、かうかの歌に此を載て、腰の句をかうかのきとよめり、袖中抄にはねふりのきとあり、仙覺の云、古點にはねふりの木と點ぜり、花の字和せられず、况歌後の詞に云云、尤ねふの花と和すべきなり、此注分明なり、和名集云、唐韻云、※[木+昏](ハ)【音昏、和名、禰布里乃木、辨色立成云、睡樹、】合歡木、其葉朝舒(テ)暮斂者也、文選※[禾+(尤/山)]叔夜養生論(ニ)云、合歡※[益+蜀]v忿、萱草(ハ)忘(ル)v憂(ヲ)、注引(テ)2神農本草1云、合歡※[益+蜀]v忿、萱草忘v憂、又引2崔豹(カ)古今注(ヲ)1云、合歡樹似2梧桐1、枝葉繁互相交結、毎2一風1木輙自相離了不2相牽綴1、樹2之※[土+皆]庭1、使2人不1v忿也、大日經疏云、經云、若壽者、謂有外道計、一切法乃至四大草木等皆有2壽命1也、如2草木伐1、已續生1、當v知v有v命、又彼夜則卷合、當v知亦有2情識1、以2睡眠1故、難者云、若見2斬伐還生1以爲v有v命、則人斷2一支1不2復増長1、豈無v命耶、如2合昏木有1v眠、則水流晝夜不v息、豈是(レ)常(ニ)覺、皆由v不v觀2我之自性(ヲ)1、故生2種々妄見1也、又陀羅尼門の儀※[車+兀]の中には夜合木とも云へり、合歡木の葉の暮に卷は人を戀る人の獨寢るやうなれば夜は戀宿と云へり、下句は君が上をのみ此花の如しと見むや、我をも思ひやりてよそへて見よとなり、
 
初、ひるはさきよるはこひぬるねふのはな 六帖かうかの題に此哥を載たるには、ねふの花をかうかの木とあらたむ。かうかは合歓の音を用たるなり。和名集云、唐韻云。※[木+昏](ハ)【音昏、和名、禰布里乃木、辨色立成云、睡(ノ)樹】合歓木(ナリ)。其葉朝(ニ)舒(テ)暮(ニ)斂(マル)者也。文選※[禾+(尤/山)]叔夜養生論(ニ)云。合歡(ハ)※[益+蜀](キ)v忿(ヲ)萱草(ハ)忘(ル)v憂(ヲ)。注(ニ)引(テ)2神農本草(ヲ)1云。【文如(シテ)v上同。】又引(テ)2崔豹(カ)古今(ノ)注(ヲ)1云。合歡樹(ハ)似2梧桐(ニ)1。枝葉繁互相交結毎2一風來1輒自相離(レテ)了(ニ)不2相牽綴(セ)1樹(レハ)2之※[土+皆]庭(ニ)1使2v人(ヲ)不(ラ)1v忿(ラ)也。大日經疏(ニ)云。若壽者(ト)謂《イハク》有(ル)外道(ノ)計(スラク)。一切法乃至四大草木等皆有2壽命1也。如(ハ)2草木(ノ)伐(リ)已(テ)己續(テ)生(スルカ)1當v知有v命。又彼(レ)夜(ハ)則卷合(ス)。當v知亦有2博識1以(ノ)2睡眠(スルヲ)1故(ニ)。難者(ノ)云(ク)。若見(テ)2斬伐(セラレテ)還(テ)生(スルヲ)1以爲(ハ)v有(ト)v命則人(ノ)斷(ニ)2一支(ヲ)1不(レトモ)2復増長(セ)1豈v無(ラン)v命耶。如(ハ)2合昏木(ノ)有(ルカ)1v眠則水(ノ)流(テ)晝夜(ニ)不(ルハ)v息(マ)豈(ニ)是(レ)常(ニ)覺(タランヤ)。皆由(ルカ)v不(ルニ)v觀(セ)2我(ノ)之自性(ヲ)1故(ニ)生(スルナリ)2種々(ノ)妄見(ヲ)1也。ねふの木の葉のくるれはまくは、人をこふる人の、ひとりぬるやうなれは、よるはこひぬるといへり。君のみ見むやわけさへにみよとは、君か上をのみ、此花によそへてみんや、我うへをも、此花のひとりねふるによそへておもひやりてみよといふ心なり。あひおもふ人の、こなたかなたにひとりねすれは、かくよめるなり
 
右折攀合歡花并茅花贈也
 
(28)大伴家持贈和歌二首
 
1462 吾君爾戯奴者戀良思給有茅花乎雖喫彌痩爾夜須《ワカキミニワケハコフラシタマヒタルツハナヲクヘトイヤヤセニヤス》
 
戯奴を又六帖にも袖中抄にもけねとわれど用ゆべからず、こひもこひぬもみづから知事なるを戀良思と疑ひて云へるは彌痩にやする故を云はむ爲なり、雖喫はハメドとも讀べし、第十六に婆羅《ハラ》門|乃作有小田乎嘆《ノツクレルヲタヲハム》烏、又|飯《イヒ》喫騰|味母不v在《ウマクモアラス》云云、並に喫をハムと點ぜり、給有茅花は、毛詩※[北+おおざと]風云、自v牧歸v※[草がんむり/夷]、〓(ニシテ)且(ツ)異、匪2女之爲1v美、美人之貽、おのづから此に叶へり、
 
初、たまひたるつはな 毛詩※[北+こざと]風云。自v牧|歸《ヲクレリ》v※[草がんむり/夷]。洵《マコトニ》美(ニシテ)且(ツ)異(ナリ)。匪2女《・指※[草がんむり/夷]云》(チカ)之爲(ルニ)1v美。々《ヨシトスル》人(ノ)之|貽《ヲクレハナリ》
 
1463 吾妹子之形見乃合歡木者花耳爾咲而盖實爾不成鴨《ワキモコカカタミノネフハハナノミニサキテケタシモミニナラヌカモ》
 
六帖にはかたみのかうかはなにのみとあれど今は用べからず、落句は今按ミニナラジカモと讀べし、言のみ有て誠なからむやの意なり、
 
初、わきもこかかたみのねふは花のみに 六帖にはかたみのかうか花にのみといへり
 
大伴家持贈坂上大孃歌一首
 
1464 春霞輕引山乃隔者妹爾不相而月曾經爾來《ハルカスミタナヒクヤマノヘタヽレハイモニアハステツキソヘニケル》
 
山は何れの山にても有べけれど、注に依に第四によめる一重山なり、
 
(29)右從久邇京贈寧樂宅
 
夏雜歌
 
藤原夫人歌【明日香清御原宮御宇天皇之夫人也字曰大原大刀自即新田部皇子之母也】
 
紀州本に歌下に一首の二字あり、此夫人の事第二に注せり、今の注の中に大力自は力は刀を誤れり、
 
初、藤原夫人歌注云々 是は第二卷に、わかをかのおかみにいひてふらしめし雪のくたけしそこに散けむといふ哥よめる夫人なり。日本紀第二十九云。又|夫人《オトシ・オホトシ》藤原大臣女氷上娘生2但馬皇女(ヲ)1。次(ニ)夫人氷上娘(ノ)弟|五百重《イホヘノ》娘生2新田部(ノ)皇子(ヲ)1。此五百重娘なり
 
1465 霍公鳥痛莫鳴汝音乎五月玉爾相貫左右二《ホトヽキスイタクナヽキソナカコヱヲサツキノタマニアヒヌクマテニ》
 
五月玉は藥玉なり、風俗通云、五月五日以2五彩絲1、繋v臂者、辟2鬼及兵(ヲ)1、一名(ハ)長命縷、一名(ハ)續命縷、相貫は今按アヘヌクと讀べし、古語の例なり、第十九云、霍公鳥喧始|音乎《コヱヲ》橘珠爾|安倍貫《アヘヌキ》云云、又第二十に、氣能巳里能由伎爾安倍弖流夜麻多知波奈《ケノコリノユキニアヘテルヤマタチハナ》とよめるも相照なり、痛莫鳴とは、霍公鳥は五月を時とする物なれば、其程は鳴古すな、五月の玉もめづらしく汝が聲をも貫交へむとなり、霍公鳥の聲は貫交へらるゝ物にあらねど、賞する餘にさるはかなき事をも讀ことに侍り、
 
初、五月の玉 藥玉のことなり。風俗通曰。五月五日以2五彩(ノ)絲(ヲ)1繋v臂者辟2鬼及兵(ヲ)1。一名長命縷。一名續命縷。いたくなゝきそとは、郭公は五月を賞する物なれは、それまては鳴ふるすな。藥玉に汝か聲をもぬきましへむとなり。ほとゝきすの聲はぬきましへらるゝ物にあらぬと、賞翫のあまりに、さるはかなきことをも讀が哥の習なり
 
志貴皇子御歌一首
 
(30)1466 神名火乃磐瀬乃杜之霍公鳥毛無乃岳爾何時來將鳴《カミナヒノイハセノモリノホトヽキスナラシノヲカニイツカキナカム》
 
此卷下に、古郷之奈良思之岳能霍公鳥《フルサトノナラシノヲカノホトヽキス》と田村大孃がよめるを以て思ふに、奈良京の時にして古郷と云は岳本宮藤原宮等皆高市郡にあり、今の歌また藤原宮の時の作なるべければ、毛無乃岳高市に有なるべし、毛無とかけるは左傳曰、食2土之毛1、誰非2君臣1、【毛、草也、】史記鄭(ノ》世家云、錫2不毛之地(ヲ)1、【何休云、※[土+堯]※[土+角]不v生2五穀1曰2不毛1、】ならしと云和語の意は、崇神紀云、時官軍|屯聚《イハミテ》而〓2〓草木1、因(テ)以號2其山1曰2那羅山1、【〓〓此云2布瀰那羅須1、】此に准らへて知べし、ケナシノヲカと點ぜるもあれど、六帖、新勅撰集等一同にならしのをかなれば用べからず、
 
初、神なひのいはせの杜の ならしの岳を毛無とかけるは、左傳曰、喰(フ)2土(ノ)之|毛《クサヲ》1。誰(カ)非(サラン)2君(ノ)臣(ニ)1。【毛(ハ)草也。】史記鄭(ノ》世家云。錫《タマフ》2不毛之地(ヲ)1、【何休曰。※[土+堯]※[土+角]不生2五穀1曰2不毛(ト)1。】文選諸葛孔明(カ)出《・イタセシ》師《・イクサヲ》(ノ)表(ニ)云。受(シヨリ)v命(ヲ)以來夙夜(ニ)憂(ヘ)慮(テ)恐d付託(ノ)不(シテ)v效以傷(ランコトヲ)c先帝之明(ヲ)u。故(ニ)五月渡(テ)v※[さんずい+盧](ヲ)深(ク)入(ル)2不毛1。人のふみならして草のなき心にてかけり。下の三十葉に、ふるさとのならしの岳とよめるもこの所なり。八雲御抄岳部に、けなしの【萬一説ならしのあおかといふ。】此御抄に万と注せさせたまへるは此哥なり。一説と注せさせたまふが正義なり
 
弓削皇子御歌一首
 
1467 霍公鳥無流國爾毛去而師香其鳴音乎聞者辛苦母《ホトヽキスナカルニニモユキテシカソノナクコヱヲキケハクルシモ》
 
ほとゝぎすの聲の至りて悲しき由をよませ給へり、宋人の詩云、客情唯有2夜難1v過(キ)、宿處先尋(ヌ)無2杜鵑1、此意相似たり、
 
小治田廣瀬王霍公鳥歌一首
 
天武紀下云、十年三月庚午朔丙戌、天皇御2于大極殿1、以詔2川島皇子忍壁皇子廣瀬王等1令v記2定帝紀及上古諸(ノ)事1、十四年九月甲辰朔甲寅、遣2宮處王廣瀬王等(ヲ)於京及畿内1令v校2(31)人夫之兵(ヲ)1、持統紀云、六年二月丁酉朔丁未、詔2諸官1曰、當以2三月(ノ)三日1將v幸2伊勢1云云、三月丙寅朔戊辰、以2淨廣肆廣瀬王等(ヲ)爲2留守官1、文武紀云、大寶二年從四位下廣瀬王云云、元明紀云、和銅元平三月丙午、從四位上廣瀬王(ヲ)爲2大藏卿1、元正紀云、養老二年正月正四位下、六年正月癸卯朔庚午散位正四位下廣湍王卒、小治田は高市郡なり、此處に住まれけるにや、小墾田ともかけり、六帖にはをはるだのひろせのおほきみとかけり、日本紀の點にはヲハタとのみあり、常にをばたゞ〔四字右○〕と云習へるは誤れる事久し、
 
 初、小治田廣瀬王 天武紀云。十年三月庚午朔丙戌、天皇御2于|大極《オホアム》殿(ニ)1以詔2川島皇子忍壁皇子廣瀬王〇大山下平群臣子|首《カウヘニ》1令(タマフ)3記(シ)2定(メ)帝紀《スメラミコトノフミ》及上古(ノ)諸(ノ)事(ヲ)1。十四年九月甲辰朔甲寅、遣2宮處(ノ)王廣瀬王難波王竹田王彌努王於|京《ミサト》及畿内(ニ)1令v校2人夫之兵(ヲ)1。持統紀云。六年二月丁酉朔丁未、詔2諸官(ニ)1曰。當(ニ)以2三月三日(ヲ)1將v幸2伊勢(ノクニヽ)宜d知2此意(ヲ)1備(フ)c諸(ノ)衣物《キモノヲ》u。三月丙寅朔戊辰、以2淨廣肆廣瀬王、直廣參當麻眞人智徳、直廣肆紀朝臣弓張等(ヲ)1爲2留守官(ト)1。續日本紀文武紀云。大寶二年從四位下廣瀬王。元明紀云。和銅元年三月丙午、從四位上廣瀬王爲2大倉卿1。元正紀云。養老二年正月正四位下。六年正月癸卯朔庚午、散位正四位下廣湍王卒
 
1468 霍公鳥音聞小野乃秋風茅開禮也聲之乏寸《ホトヽキスコヱキクヲノヽアキカセニハキサキヌレヤコヱノトモシキ》
 
唯今秋風の吹て萩の咲たればにやと云にもあらず、萩も郭公に用ありて云にはあらねど、聲の稀になるを云はむとて、秋風吹てはぎも咲ぬに、など聲のすくなきぞとよまれたるなり、第十七に、霍公鳥鳴て過らし岡備から、秋風吹ぬよしもあらなくにとよめるを思へば、夏の末までも鳴やうにや、茅は芽を誤れるなるべし、但六帖にはあさぢさけれやとあれば却て淺茅と有けむ淺の字の落たるか、然らば淺茅の咲とは何をか云、茅花は春にこそあれと云難來りぬべし、此卷下に、秋芽は咲ぬべからし吾やどの、淺茅が花の散行見ればと云歌を、六帖には落句をいろづくみればとあれば、花と云へるは(32)色付たる茅の葉を云と知られたり、此になずらふれば今も淺茅の色付ぬればにやと云事をあさぢさけれやとよまれたる歟、第二十に、奥山の樒が花の名のごとや、しくしく君に戀渡なむ、樒にも春は白き花の咲なれど、此歌は十一月廿三日によまれたれば唯樒を指て花と云へるなれば例證とすべし、
 
初、芽さきぬれや これは郭公にめつらしき哥なり。こゝろは秋風の吹てはきの咲ぬるや、またさもあらぬに、なと聲のまれになりゆくそといへるなり。只今秋風の吹て、萩の咲たるにはあらす。萩も郭公に用ありていへるにはあらて、たゝ萩の咲比になりたるにもあらぬに、といふ心なり。芽を茅に作れるは誤なり。あらたむへし。此集に、はきを芽とのみも芽子ともかけるは、いまたそのゆへをしらす。和名集には萩の字を出せり
 
沙彌霍公鳥謌一首
 
沙彌とのみあるは誰ぞ、若名を忘たる人ならば、名闕と注すべし、集中に三方沙彌、沙彌滿誓沙彌女王あり、歌に家有妹とあれば滿誓と女王との歌にあらぬ事、明なれば、三方沙彌なるを三方の二字を脱せる歟、
 
初、沙彌霍公鳥謌 此沙彌とあるは、三方沙彌なるを、三方氏を脱せるか。沙彌女王あれど、哥に、家にある妹とあれは、女王の哥にあらす。三方沙彌、紀に見えす。聖武紀云。天平十九年十月癸卯朔乙巳勅曰。春宮少屬從八位上御方(ノ)大野(カ)所願之姓思2欲許賜(ハント)1。然大野(カ)之父(ハ)於2淨御原朝庭(ニ)1在2皇子之列(ニ)1。而(ルヲ)縁(テ)2微過(ニ)1遂(ニ)被2廢退(セ)1。朕其哀憐(ス)。所以不v賜2其姓(ヲ)1也。延暦三年正月授2三方宿禰廣名(ニ)從五位下(ヲ)1。此三方沙彌は、大野か子なとにもや侍けん。大野の父於淨御原朝庭在皇子之列とは、磯城《シキノ》皇子なるへし。此皇子のゆくゑを紀せることなけれはなり。志貴皇子と、磯城皇子とまきらはし。志貴は天智紀に施基とかきて、天智天皇の皇子なり。磯城皇子は天武天皇の皇子にて、御母は穴人《シヽムトノ》臣大麻呂(カ)女|擬媛娘《カヂヒメノイラツ》なり。忍壁皇子の同腹(ノ)御弟、泊瀬部皇女、託基皇女、此ふたりの皇女の同腹の御兄なり。持統紀云。六年冬十月壬戌朔壬申、授2山田史御形(ニ)務廣肆(ヲ)1。前(ニ)爲2沙門(ト)1學2問《モノナラフ》新羅(ニ)1。此集第二巻に、藤原宮御宇天皇代と標して三方沙彌か哥其下にあれは、もし此御形か還俗せるを、三方沙彌といへるにや。山田氏なるをあらはさされは知かたし。御形は三方ともかきぬへし
 
1469 足引之山霍公鳥汝鳴者家有妹常所思《アシヒキノヤマホトゝキスナカナケハイヘニアルイモツネニオモホユ》
 
第十に、旅にして妻戀すらし霍公鳥、神なび山に狹夜深て鳴、彼も旅にして妻戀に鳴らむと思ふにいとゞ故郷の妻をば思ふべきなり、
 
初、あしひきの山郭公 家にある妹を常におもふとは、おもしろきにつけても、かなしきにつけても思ふへし。また不如歸となくといふ本文の心もあるへし
 
刀理宣令歌一首
 
1470 物部乃石瀬之杜乃霍公鳥今毛鳴奴山之常影爾《モノヽフノイハセノモリノホトヽキスイマモナカヌカヤマノトカケニ》
 
(33)物部とおけるは物部の屯聚と云意なり、神武紀云、逮2我|皇《ミ》師之破1v虜、大軍集而滿2於其地1、因改【上云舊(ノ)名(ハ)片居《カタル》】號(テ)爲2磐余《イハレ》1、或曰、磯城八十梟師於2彼處1屯聚居之、【屯聚居此云2怡波瀰萎1】故名(ヲ)之曰2磐余邑1、これになずらへて知べし、今毛鳴奴は、奴の下に香の字などの落たるべし、さて此はなげかじと願ふ意なり、山ノ常影は、袖中抄に此集第十に足日木乃山之跡|陰《カゲ》爾と云歌の跡陰を釋するに今の歌を次に引て、唯山の麓など意得む事宜しと云へり、と〔右○〕もじは發語の詞などの やうにて、山陰と意得べし、
 
初、ものゝふのいはせのもり ものゝふの屯聚《イハム》といふ心にいひかけたるなり。いはむは陣を張居る心なり。神武紀云。夫(レ)磐余《イハレ》之|地《トコロ》、舊《モトノ》名(ハ)片居《カタル》【片居此(ヲハ)云2加※[口+多]婁1】亦曰2片立(ト)1【片立此(ヲハ)云2加※[口+多]1※[口+多]知(ト)1。】逮(テ)2我(カ)皇《ミ》師之破(ルニ)1v虜《アタヲ》也、大軍《イクサヒトヽモ》集(マツテ)而|滿《イハメリ》2於其地(ニ)1。因(テ)改號爲2磐余《イハレト》1。或(ヒトノ)曰天皇|往《サキニ》甞2嚴※[分/瓦]粮《イツヘノヲモノヲ》1出v軍而|往《ウチタマフ》。是(ノ)時磯城(ノ)八十|梟師《タケル》於2彼處《ソコニ》1屯聚居《イハミヰタリ》之。【屯聚《ツヰムシウ》居此(ヲハ)云2怡波瀰萎(ト)1。】果(シテ)與2天皇1大(ニ)戰(フ)。遂(ニ)爲(ニ)2皇師(ノ)1所《レヌ》v滅(ホサ)。故(ニ)名(テ)之曰2磐余(ノ)邑(ト)1。これいはれといふも、八十梟師かかたの兵ともいはみゐたるゆへなれは、今もいはといふを、いはむといふ心になしてつゝくるなり。又いはむといふは、陣を張心のみにもあらす。みちあふるゝ心なり。皇極紀云。佐伯(ノ)連子麻呂、稚犬養(ノ)連|網田《アミダ》斬2入鹿(ノ)臣(ヲ)1。是(ノ)日雨|下《フリテ》潦水《イサラミツ》溢《イハメリ》v庭(ニ)。以2席障子《ムシロシトミヲ》1覆(フ)2鞍作(カ)屍《カハネニ》1。滿の字溢の字をよめるにて心得へし。今もなかぬかは、奴の字の下に香の字なとの脱たるへし。山のとかけは常にひのめもみぬ陰をいふなるへし
 
山部宿彌赤人歌一首
 
1471 戀之家婆形見爾將爲跡吾屋戸爾殖之藤浪今開爾家里《コヒシケハカタミニセムトワカヤトニウヱシフチナミイマサキニケリ》
 
戀之家婆、【官本又云、コヒシクハ、校本家作v久、】
 
此發句は唯此まゝにて家と久と通ずれば戀しくばと意得べし、第十五に、許能安我|家流伊毛我許呂母能《コノアガケルイモガコロモノ》とよめるは、此《コノ》吾|著妹《キルイモガ》之衣乃なり、又第十七の長歌の中に多麻豆左能使乃家禮婆《タマツサノツカヒノケレハ》とよめるも使の來ればなり、此等音を通はして云へれば今も准らふべし、或はこひしげればのれ〔右○〕を略せりとも意得べし、濁音の婆の字をかけるは後の義のより所なり、さて此歌は、前後霍公鳥をよめる中にあれば發句は霍公鳥を指て云なり、(34)第十には藤浪のちらまく惜み霍公鳥、今城の岳を鳴て越なりとよみ古今集には、我宿の池の藤浪咲にけり、山郭公いつか來なかむと讀て、霍公鳥は藤、卯花、橘などに鳴物なる中にも、藤は春より夏に懸りて早ければ今咲にけりはやも鳴なむの意なり、六帖には藤の歌とせり、
 
初、こひしけは こひしけれはなり。これは夏の哥にて、前後皆ほとゝきすの哥なれは、此こひしけれはといふは、ほとゝきすをいへり。此哥は古今集夏のはしめに、人まろの哥と注してのせたる
  わか宿の池のふちなみ咲にけり山ほとゝきすいつかきなかん
これとおなし心なり。天徳哥合に、池水なとによせすして、藤浪とよむをは難せられたれと、此哥なと有。又新古今集に
  かくてこそみまくほしけれ萬代をかけてしのへるふちなみの花
  まとゐしてみれともあかぬ藤浪のたゝまくおしきけふにも有かな
初は延喜次は天暦の御製なり。これは猶水によせ池によせされと、かけてしのへる、たゝまくおしき、皆浪の縁あり。今の哥には、さる縁の詞もなし。ふちの花の波にゝたれは、藤浪といひなれたるを、さしもの小野宮殿の判せさせたまへることなれと、あまりの事にや。猶ことさらにかんかへはいくらも有ぬへし
 
式部大輔石上堅魚朝臣歌一首
 
元正紀云.養老三年正月授2從六位下石上朝臣堅魚從五位下1、聖武紀云、神龜三年正月、從五位上、天平三年正月、正五位下、八年正月、正五位上、
 
初、式部大輔石上|堅魚《カツヲ》朝臣 元正紀云。義老三年正月授2正六位下石上朝臣堅魚從五位下(ヲ)1。聖武紀云。神亀三年正月從五位上。天平三年五月正五位下。八年正月正五位上
 
1472 霍公鳥來鳴令響宇乃花能共也來之登問麻思物乎《ホトヽキスキナキトヨマスウノハナノトモニヤコシトトハマシモノヲ》
 
霍公鳥は卯花にしたしき鳥なれば、なき人の魂と共のや來しとと云はむ爲に、來鳴とよます、うの花のとは云へり、下に我やどの花橘に霍公鳥、今こそなかめ友にあへる時とよめる友と共とは異なれど意は同じ、歌の意は左の注にて彌明なり、郭公は冥途より來る鳥と云ひ習はして、其意を後の歌に多くよみ、しでのたをさなど云異名もそれよりなりと聞ゆ、昔よりの事にや、此集第十にも、山跡には啼てか來らむ郭公、汝が鳴ごとになき人おもほゆ、第二十に、霍公鳥猶もなかなむ本つ人、懸つゝもとなあをねしな(35)くも、此等を引合て思ふに此説有來ること久し、
 
初、ともにやこしと 歌の後に注したることく、又第三第五に見えたることく、太宰帥大伴卿の妻、大伴郎女身まかられけるを、天子より大伴卿をとふらはせたまふ勅使に、堅魚朝臣筑紫へ下られける時の哥なれは、なき人と共にやこしと、郭公にとはましものをとなり。およそほとゝきすを、此集には皆霍公鳥とかき、和名集には郭公とかきて、※[監+鳥]※[婁+鳥]《カムル》なりと注せり。されは霍と郭と音通すれは、霍公鳥とかけるも、※[監+鳥]※[婁+鳥]と見て、此字を用たるなるへし。もし經論の飜譯に准していはゝ、舊辭はいまた方言に熟せさることありて、新譯の後きらふことおほし。漢語を和訓するも、おなしことはりなれは、いにしへはいまたよくかんかへすして、郭公とせる歟。郭公も※[監+鳥]※[婁+鳥]も詩文なとに作られたる事はあまりなきにや。此國にほとゝきすといふは、杜宇のやうに哥によみならへり。又此國には冥途の鳥といひならはせり。十王經に別頓都宜壽といへる鳥、ほとゝきすと聞ゆれと、彼は僞經と見ゆれは信《ウケ》られす。只むかしよりいひならはせるにや、しかよめる哥あり
  しての山こえてやきつるほとゝきすこひしき人の上かたらなん
  やよやまて山ほとゝきすことつてむわれ世の中に住わひぬとよ
  草のはにかとてはしたりほとゝきすしての山ちもかくや露けき
又しての田おさとなつくるも、かゝるゆへなりといへは、今の哥もその心にてよまれたる歟。本草に郭公鳩屬といへり。俗にかつこう鳥といふは、なくこゑのさきこゆれは、庭鳥の聲のかけろときこゆるゆへにかけとなつくることく、名付るなり。もろこしに郭公といふも若此かつこうにやとうたかはし。郭公とかけるに別に義ありや
 
右神龜五年戊辰太宰帥大伴卿之妻大伴郎女遇病長逝焉于時 勅使式部大輔石上朝臣堅魚遣太宰府弔喪并贈物色其事既畢驛使乃府諸卿大夫等共登記夷城而望遊之日乃作此歌
 
第三第五に既に出たり、并贈物色は、贈は賜の誤なるべし、驛使の下の乃は及に作るべし、記夷城は、紀國を紀伊と云如く記の韻の夷を加へて、城山の邊の唯き〔右○〕と云所なるべし、第五に許能紀能夜麻とよめるに紀の字を書たれば、今の記は紀を誤れる歟、
 
初、注中驛使の下乃府の乃は、及の字の誤なり。記夷城は、案するに下(ツ)座《アサクラ》郡に、城邊【木乃部】といふ所有。城《キ》山といふもそこなるへし。天智紀に、又於2筑紫(ニ)1築2大堤(ヲ)1貯v水(ヲ)名曰2水城(ト)1とあり。和名集に、下座郡【美津木】と載たるこれなるへし。しかれは城遽も和名集に出たれは、此三城のあたりにて、城遽の名はおほせたるへけれは、記夷城といふは、彼水城なるへし。紀伊國をきのくにといふに准すれは、記夷も夷は語の助にそへて、記といふは城の心なるへき歟。第五に、此きの山とよめるに、紀の字をかけり。紀伊國の例をおもふに、今も紀の字なるへきにや
 
太宰帥大伴卿和歌一首
 
1473 橘之花散里乃霍公鳥斤戀爲乍鳴日四曾多寸《タチハナノハナチルサトノホトヽキスカタコヒシツヽナクヒシソオホキ》
 
橘の花の散をば死せる妻によそへ、霍公鳥の鳴をばみづから譬ふ、上に引歌に橘と霍公鳥とを友と云へる加く縁ある故に借て寄られたり、續古今に唯夏に入られたるは不審なり、斤は片を誤れり、鳴日シゾのし〔右○〕は助語なり、
 
初、橘の花ちる里のほとゝきす 橘のちるをは、妻の身まかられけるにたとへ、ほとゝきすのなくをは、戀したひて啼によせたり。をのかつま懸つゝなくやさつきやみかみなひ山の山ほとゝきすとよみて、ほとゝきすも妻こひする鳥なれは、ことによせあり
 
(36)大伴坂上郎女思筑紫大城山歌一首
 
初、大伴坂上郎女思2筑紫大城山1歌一首 坂上郎女は旅人の妹なれは、旅人太宰帥にておはしける時、彼許へ下られける事有。第六に天平二年と表して、冬十一月大件坂上郎女|發《タチテ》2帥家(ヲ)1上(ルトキ)道超(ル)2筑前國宗形郡名兒山(ヲ)1之時作歌とて載たれは、天平二年に旅人に逢むために下りて、ついてに筑紫をも られけるなるへし。さて歸りて都にてよまるゝ哥なれは天平三年の夏の哥なるへし
 
1474 今毛可聞大城乃山爾霍公鳥鳴令響良武吾無禮杼毛《イマモカモオホキノヤマニホトヽキスナキトヨムラムワレナケレトモ》
 
大城山は、第四に城(ノ)山道者不樂牟と讀るも此なり、吾無禮杼毛とは帥の家に在て聞てめでし我は歸り來て彼處になけれども、霍公鳥はかはらず鳴らむとなり、題に思2大城山1と云ひて惣をあげ、歌には霍公鳥を別してよめるなり、下に惜v不v登2筑波山1歌とありて、霍公鳥をよめり、今と同じ、
 
初、大城の山 第四に、今よりは城山の道はさふしけむとよみ、第五に梅の哥に、此城の山に雪はふりつゝとよめる所なり。とよむといふに、令響とかけるは、此とよむといふは、とよましむらんの心なれはなり
 
大伴坂上郎女霍公鳥歌一首
 
1475 何哥毛幾許戀流霍公鳥鳴音聞者戀許曾益禮《ナニシカモコヽハクコフルホトヽキスナクコヱキケハコヒコソマサレ》
 
幾許戀流、【官本又云、コヽタクコフル、】
 
發句の中のし〔右○〕とも〔右○〕とは助語なり、落句は霍公鳥の聲に催されて人の戀しさもまさりて佗しき物をとなり、上に石瀬の杜の喚子鳥痛くなゝきぞ我戀まさる、又古今に素性の郭公初聲きけばあぢきなく、主定まらぬ戀せらるはたとよまれたる類なり、又聞たらば霍公鳥を戀る心のやまむかと思ひて何かは待けむ、聞てはいとゞきかまほしく戀しき物をと始終霍公鳥の上をよめるにや、
 
初、何しかもこゝはくこふる 此こふるは、郭公のなくを待こふるなり。下の戀こそまされとは、聞てはいよ/\きかまほしきをいへり。また素性法師か、郭公はつこゑきけはあちきなくぬしさたまらぬこひせらるはたとよめる心にも有へし
 
(37)小治田朝臣廣耳歌一首
 
續日本紀を考ふるに廣耳と云人見えず、小治田廣千と云人あり、若是にやあらむと疑がはしきは、耳の字を草に書たるは千に似たること有故に、紀の古本草書などにて、寫生の誤れる歟、此集には下に至ても耳なり、目録も同じ、諸本異なし、聖武紀云、天平五年三月辛亥、正六位上小治田廣千、授2外從五位下(ヲ)1、十三年八月從五位下小治田朝臣廣千(ヲ)爲2尾張守1、十五年六月、從五位下小治田朝田廣千(ヲ)爲2讃岐守1、紀にもかくの如く千にのみ作たれば別人か、
 
初、小治田朝臣廣耳歌 續日本紀を考ふるに、廣耳といふ人見えす。小治田廣千といふ人あり。これにやあらんとうたかはし。そのゆへは、耳の字の草書千に似たることあるゆへに、紀の古本草書なとにて、寫生のあやまれるにや。今の印版の續日本紀、文字のあやまり、脱字錯簡等すくなからねは、うたかふなり。聖武紀云。天平五年三月辛亥正六位上小治田廣千(ニ)授2外從五位下(ヲ)1。十三年八月從五位下小治田朝臣廣千(ヲ)爲2尾破《ヲハリノ》守(ト)1。十五年六月從五位下小治田朝臣廣千(ヲ)爲2讃岐守(ト)1
 
1476 獨居而物念夕爾霍公鳥從此間鳴渡心四有良思《ヒトリヰテモノオモフヨヒニホトヽキスコユナキワタルコヽロシアルラシ》
 
心四有良志、【幽齋本云、コヽロシアルラシ、】
 
落句今の點誤れり、幽齋本によるべし、し〔右○〕は助語也、
 
大伴家持霍公鳥歌一首
 
1477 宇能花毛未開者霍公鳥佐保乃山邊來鳴令響《ウノハナモイマタサカネハホトヽキスサホノヤマヘヲキナキトヨマス》
 
山邊、【幽齋本云、ヤマヘニ、】
 
未開者は以前云へる如くいまださかぬにの意なり、
 
初、うの花もいまたさかねは 第四卷に金明軍か哥に、およそ引ていへることく、これもてにをは心得かたき哥なり。うの花もいまたさかぬに、いまたさかぬをなといふ心と聞へし
 
(38)大伴家持橘歌一首
 
1478 吾屋前之花橘乃何時毛珠貫倍久其實成奈武《ワカヤトノハナタチハナノイツシカモタマニヌクヘクソノミナリナム》
 
成奈武、【幽齋本云、ナラナム、】
 
上にまきし瞿麥いつしかも花にさかなむと有しになずらふれば幽齋本の點もたがはず、
 
大伴家持晩蝉歌一首
 
和名云、爾雅注云、茅蜩一名〓、【子列反、和名比久良之、】小青蝉也、晩蝉とは、晩は暮と遲との兩訓あり、和語のひぐらしと云に依れば暮の義なり、朝ぼらけ日ぐらしの聲聞ゆなり、こやあけくれと人の云らむとよめるに依れば朝もなけど多分につく名なり、連歌の式に日ぐらしをば秋に定むれど、歌には多く夏も讀たれば遲の義に名付るにはあらざるべし、
 
初、晩蝉《ヒクラシノ》歌 和名集云。爾雅注云。茅蜩一名〓【子列反。和名比久良之】小青蝉也。禮記月令云。仲夏之月蝉始鳴。季夏之月寒蝉鳴
 
1479 隱耳居者欝悒奈具左武登出立聞者來鳴日晩《シノヒノミヲチレハイフカシナクサムトイテタチキケハキナクヒクラシ》
 
欝悒、【幽齋本云、イフセシ、】
 
六帖にも日ぐらしの歌に入れて、一二の句をかくしのみあればものおもひとよめる(39)はよからず、今按コモリノミヲレバイブセシと和すべし、第十七に、こもりこひとよめるはこもり居て戀るなり今も引籠てのみをればと云なり、下句の意は日ぐらしの鳴にもよほされていとゞ人の戀しきなり、古今云、こめやとは思ふ物から日ぐらしの、鳴夕ぐれは立またれつゝ、
 
初、しのひのみをれはいふかし しのひをるとは、籠居するなり。いふかしはおほつかなしといふにおなし。欝悒とかける字のことし。いふせきといふもおなし心にて欝々として心のふさかるなり
 
大伴書持歌二首
 
1480 我屋戸爾月押照有霍公鳥心有今夜來鳴令響《ワカヤトニツキオシテレリホトヽキスコヽロアルコヨヒキナキトヨマセ》
 
押照有は、第七に、春日山押而照有此月者と云歌に注せるが如し、心有今夜は、月も照て夜に情有れば、かゝる時に霍公鳥も來てあひに逢てなけとなり、六帖に心ありこよひとあるは、郭公の情あれば來鳴けと云意にや、今の點にしかず、
 
初、わかやとに月おしてれり 第七にも、春日山おしてゝらせる此月はといふ哥に注せりき。第十一にも、まとこしに月おしてりてとよめり。そこに臨照而とかきたるを、まとこしといふゆへにや、月さしいりてと訓したるはあやまれり。おしてるは、月のやとの上に臨《ノソミ》て照なり。おしてるなにはとつゝく枕詞につきても注しつ
 
1481 我屋前乃花橘爾霍公鳥今社鳴米友爾相流時《ワカヤトノハナタチハナニホトヽキスイマコソナカメトモニアヘルトキ》
 
初、友にあへる時 橘をほとゝきすの友といへり
 
大伴清繩歌一首
 
清繩系圖等未v詳、
 
1482 皆人之待師宇能花雖落奈久霍公鳥吾將忘哉《ミナヒトノマチシウノハナチルトイヘトナクホトヽキスワレワスレメヤ》
 
(40)雖落、【官本又云、チリヌレト、】
 
腰句は今按チリヌトモと讀ても然るべし、
 
初、皆人のまちしうの花 うの花は、和名集云。本草云。※[さんずい+艘の旁]疏一名楊櫨【※[さんずい+艘の旁]音所流反。和名宇豆木。】雖落はちりぬともとよむへし
 
庵君諸立歌一首
 
諸立は考る所なし、
 
1483 吾背子之屋戸乃橘花乎吉美鳴霍公鳥見曾吾來之《ワカセコカヤトノタチハナハナヲヨミナクホトヽキスミニコソワカコシ》
 
花ヲヨミは霍公鳥のよしと思ひて來て鳴なり、吾背子は親族をも友をも妻をも云べし、落句は霍公鳥の橘に來居るを見むとて來るなり、第十には月夜よみ鳴郭公見まくほりとよみ、第十八には、ほとゝぎすこゆなきわたれ燈を、つくよになぞへ其影も見むとよめり、見る中に聞は籠れり、
 
大伴坂上郎女歌一首
 
1484 霍公鳥痛莫鳴獨居而寐乃不所宿聞者苦毛《ホトヽキスイタクナナキソヒトリヰテイノネラ ヌニキケハクルシモ》
 
不所宿は古風に依らばネラエヌニと讀てねられぬにと意得べし、六帖には夜ひとり居りと云に入れたり、
 
大伴家持唐棣花歌一首
 
(41)第四云、翼酢《ハネス》色之變安寸云云、第十一云、翼酢色之赤裳《ハネスイロノアカモ》之爲|形《カタ》云云、第十二云、唐棣|花色之《スイロノ》移安|情有《コヽロアレ》者云云意、天武紀云、淨位已上並著2朱華1、【朱華此云2波禰孺1、】爾雅(ニ)云、唐棣移、郭璞註云、似2白楊1、江東呼2夫※[木+多]1、詩召南云、唐棣之華、陸機(カ)云、奧李也、一名雀梅、亦曰、車下李所v在山、皆有2其華1、或白(ク)或赤、六月中熟大如2李子1可v食(フ)、玉篇云、※[木+唐]【徒耶切、棣木也、】論語曰、唐棣之華、偏其反而、集註云、唐棣郁李也、白氏文集第九云、惜※[木+有]李花、【花細而繁、色艶而黯、亦花中之有v思者、速衰易v落、故惜v之耳、】樹小花鮮妍、香繁條軟弱、高低二三尺、重疊千萬萼、朝艶靄霏匕(タリ)、夕(ニ)凋(テ)紛漠匕、辭v枝(ヲ)朱粉細、覆v地紅※[糸+肖]薄(シ)、由來好顔色、常(ニ)苦(ム)易2※[金+肖]※[金+樂]1、不v見莨【魯堂切】蕩花、狂風吹不v落、延喜式云、諸國例貢御贄中、近江郁子、又云、郁三十株、和名集云、本草云、郁子一名棣、【都計反、和名、牟閉、今案郁宜v作v※[木+郁]、於六反見2唐韻1、】菅家萬葉に諾に借てかゝせ給へり、上株賦に※[草がんむり/奧]【於六】棣【徒計】とあるは※[草がんむり/奧]は郁と通ずと見ゆるを、李善注云、※[草がんむり/奧]山李也、郭璞曰、棣實似2櫻桃1也とて二物とせるは如何ぞや、爾雅云、常棣(ハ)棣、郭璞註、今關西有2棣樹子1、如2櫻桃(ノ)1、可v食、常棣は唐棣に似て別なり、疏に詳なれど今の用にあらざれば引かず、郁子は今の世名を知れる人もなし、假使名は呼替とも、夏を待て花咲、六月に實の熟する此やそなるらむ、推量せらるゝ物もなきは種の失けるにや、又今の世詩を讀者、唐棣のきはちすと云は誤なり、和名集第二十蓮類云、文字集略云、蕣、【音蕣、和名、木波知須、】地蓮花、朝生夕落者(42)也とあれば、きはちすは槿花なり、はねすは日本紀にも此集にもあるを、さしもの博學の順朝臣、郁子に付て出されざる事は不審なれど、きはちすは別に出されたれば疑ふべきに非ず、
 
初、唐棣花《ハネズノ》歌 玉篇云。棣(ハ)徒計切。唐棣(ハ)移也。移(ハ)余支成兮二切。棠棣也。※[木+唐](ハ)徒耶(ノ)切。棣木也。詩曰。何(ソ)彼※[禾+農]《サカンナル》矣。唐様之華。朱子注云。唐棣(ハ)移【音移】也。似(タリ)2白楊《・ハコヤナギ》(ニ)1。又云。常棣之華、※[咢+おおざと](トシテ)不(ンヤ)2※[革+華]々(タラ)1。注云。常棣(ハ)々也。子《ミ》如(シテ)2櫻桃(ノ)1可v食(ツ)。論語(ノ)子罕(ノ)篇(ニ)曰。唐棣之華、偏(トシテ)其反而。集註云。棣(ハ)大計反。唐棣(ハ)郁李也。和名集云。郁子《ムヘ》一(ノ)名(ハ)棣【都計反。和名牟閉。今案、郁宜v作v※[木+郁]。於六反。見2唐韻1】玉篇云。※[木+有]《イク・イウ》【於六禹九二切。木葉如v梨。】延喜式云。諸國例貢御贄近江【郁子云々。】又式云。郁三十株。文選潘岳閑居賦、※[立心偏+毎]有郁棣之屬。天武紀云。十四年秋七月乙巳朔庚午、初定2明位已下進位已上之|朝服《ミカトコロモノ》色(ヲ)1。淨位己上並著2朱華《ハネスヲ》1【朱華此(ヲハ)云2波泥孺(ト)1。】源順はさしも大才なる人の、いかて日本紀にも此集にも出たる唐棣の和名を出されさりけむ。おほつかなし。郁子は菓子類部に出せり。今の世もある物にや。こゝに夏まけてさきたるはねすとよみたるは、いつれの花にかあらむ。今の世詩をよむもの、唐棣をきはちすとよめるは、大にあやまれり。木蓮は木菫なり。むくけをもあさかほといふにより、常の朝かほにまたまかへり。第十に
  朝かほは朝露負てさくといへとゆふかけにこそ咲まさりけれ
此哥にいたりて、木はちすの事をも注すへし。はねすは日本紀に朱華とかきたれは、赤き花なりとしられたり。第四に坂上郎女、はねす色のうつろひやすきとよみ、第十一にははねす色の赤裳のすかたとよみ、第十二にははねす色のうつろひやすき心あれはとよめり。此三首は染色をかりてよめるなり。日本紀の著2朱華1とあるにおなし
 
1485 夏儲而開有波彌受久方乃雨打零者将移香《ナツマケテサキタルハネスヒサカタノアメウチフラハウツロヒナムカ》
 
發句は夏を待得たる意なり、唐棣花のうつろひやすき事上に引此集中の歌、並に白氏が詩に見えたり、
 
大伴家持恨霍公鳥晩喧歌二首
 
1486 吾屋前之花禰乎霍公鳥來不喧地爾令落常香《ワカヤトノハナタチハナヲホトヽキスキナカテツチニチラシナムトカ》
 
落句はチラシメムトカとも讀べし、
 
初、ちらしなんとか 令落常香とかきたれは、ちらしめんとかと讀へし
 
1487 霍公鳥不念有寸木晩乃加此成左右爾奈何不來喧《ホトヽキスオモハスアリキコノクレノカクナルマテニナトカキナカヌ》
 
初、木晩乃 木の下やみといふにおなし。葉のしけりてくらきをいふ
 
大伴家持懽霍公鳥歌一首
 
1488 何處者鳴毛思仁家武霍公鳥吾家乃里爾今日耳曾鳴《イツコカハナキモシニケムホトヽキスワキヘノサトニケフノミソナク》
 
何處者、【幽齋本云、イツコニハ、】
 
(43)發句の今の點誤、幽齋本に依べし、胸の句の仁は助語なり、
 
初、何處者 いつこにはと讀へし。いつこかはとあるはわろし
 
大伴家持惜橘花歌一首
 
1489 吾屋前之花橘者落過而珠爾可貫實爾成二家利《ワカヤトノハナタチハナハチリスキテタマニヌクヘクミニナリニケリ》
 
上の橘の歌に似て意は表裏せり、第十に、吾やどに咲る秋芽子散過て、實に成までに君にあはぬかも、此歌を取てよまれけるなるべし、
 
 
大伴家持霍公鳥歌一首
 
1490 霍公鳥雖待不來喧蒲草玉爾貫日乎未遠美香《ホトヽキスマテトキナカヌアヤメクサタマニヌクヒヲイマタトホミカ》
 
第二の句マテドキナカズと讀ぺし、キナカヌと有は書生の失錯なるべし、腰の句菖の字をおとせり、玉は藥玉なり、
 
初、ほとゝきすまてときなかすあやめ草 菖の字をおとせり
 
大伴家持雨日聞霍公鳥喧歌一首
 
1491 宇乃花能過者惜香霍公鳥雨間毛不置從此間喧渡《ウノハナノスキハヲシミカホトヽキスアマヽモオカスコユナキワタル》
 
雨間毛不置とは雨の降間をもさておかずなり、
 
橘歌一首 遊行女婦
 
初、遊行女婦 和名集云。楊氏漢語抄云。遊行女兒【和名宇加禮女。又云阿曾比】
 
(44)1492 君家乃花橘者成爾家利花乃有時爾相益物呼《キミカイヘノハナタチハナハナリニケリハナノサカリニアハマシモノヲ》
 
成ニケリとは實に成なり、下句は古今に蛙鳴井手の山吹散にけりと云歌と同じ、但花乃有時爾は花ナル時ニと讀べきか、有時をサカリと點ぜむこと義訓慥ならず、
 
初、花橘はなりにけり 實になるなり。下の句は古今集のかはつなくゐての山ふきちりにけりといふ哥におなし。さかりを有時とかけるは義によれり
 
大伴村上橘歌一首
 
1493 吾屋前乃花橘乎霍公鳥來鳴令動而本爾令散都《ワカヤトノハナタチハナヲホトヽキスキナキトヨメテモトニチラシツ》
 
トヨメは、とよましむる意なれば令動とかけり、とよむるも同じ、とよむと云時は令の字叶はず、
 
初、令動而《トヨメテ》 とよめもとよましむといふ心なれはなり
 
大伴家持霍公鳥歌二首
 
1494 夏山之木末乃繁爾霍公鳥鳴響奈流聲之遙佐《ナツヤマノコスヱノシノニホトヽキスナキトヨムナルコヱノハルケサ》
 
木末はコヌレと讀べし、繁爾は第十九に二上之|峯於乃繁爾《ヲノヘノシヽニ》云云、此に准らふればシヾニと和すべき歟、しの〔二字右○〕もしじと同じ義ながらいまだシノと點ぜる他の例を見ざればなり、さて此は木の繁きをやがて聲の繁きにかけてよめり、第十八に同じ人、多胡の崎木の晩《クレ》繁《シゲ》に霍公鳥、來鳴《キナキ》令|動《トヨメ》ばはた戀めやもとよまれたるに同じ、
 
初、夏山の梢のしのに しのはしけきなり。小竹をしのとなつくるも、しけくおふるゆへなるへし。さてこの木の末のしのは、おりふししかるを、やかて郭公の聲のしけきにいひなせり
 
(45)1495 足引乃許乃間立八十一霍公鳥如此聞始而後將戀可聞《アシヒキノコノマタチクヽホトヽキスカクキヽソメテノチコヒムカモ》
 
發句は第三に足日木能石根許其思美とある歌に注せし如く枕詞を以てやがて山とせり、胸の句は木の間を立潜るなり、
 
初、このまたちくゝは、木間立|潜《クヽル》なり。神代紀に、漏の字をくきとよめるもこれにおなし。八十一とかけるは九々の義なり。しゝを十六とかける心なり
 
大伴家持石竹花歌一首
 
1496 吾屋前之瞿麥乃花盛有手折而一目令見兒毛我母《ワカヤトノナテシコノハナサカリナリタヲリテヒトメミセムコモカモ》
 
六帖には腰句をさきにけりとて載たり、
 
惜不登筑波山歌一首
 
題と歌との事、上に坂上郎女が思大城山歌に云が如し、
 
1497 筑波根爾吾行利世波霍公鳥山妣兒令響鳴麻志也其《ツクハネニワカユケリセハホトヽキスヤマヒコトヨメナカマシヤソレ》
 
ユケリセバはゆきありせばを約めて云ひて行て有せばなり、落句はそれまさになかましものをの意なり、
 
右一首高橋連蟲麻呂之歌中出
 
歌集中出と云集の字の脱たる歟、第九の二十四葉云右件歌者高橋連蟲麻呂歌集中(46)出、二十八葉云、右二首高橋連蟲麿之歌集中出といへる、皆常陸の歌なり、虫丸常陸守の屬官にてよめる歟、又聞所を集る歟、然れば今も若は集の字脱たる歟、
 
夏相聞
 
大伴坂上郎女歌一首
 
1498 無暇不來之君爾霍公鳥吾如此戀常徃而告社《イトマナミコサリシキミニホトヽキスワレカクコフトユキテツケコソ》
 
吾、【官本亦點云、ワカ、】
 
大伴四繩宴吟歌一首
 
1499 事繁君者不來益霍公鳥汝太爾來鳴朝戸將開《コトシケミキミハキマサスホトヽキスナレタニキナケアサトヒラカム》
 
事繁、【六帖云、コトシケキ、官本亦點同v此、】
 
人は事の繁さに問も來ねば、朝戸をとくより開ても詮なし、霍公鳥だに來鳴かばそれが爲にひらかむとなり、六帖には朝戸あくべくと改て載す、
 
初、なれたにきなけ朝戸ひらかむ ことしけくて、とひくる人もなけれは、たれをまつとか朝戸をもひらかむ。汝たになかは、そのなくかたをなかむとて、朝戸をひらかんするそとなり
 
大伴坂上郎女歌一首
 
1500 夏野乃繁見丹開有姫由理乃不所知戀者苦物乎《ナツノノヽシケニサケルヒメユリノシラレヌコヒハクルシキモノヲ》
(47)苦物乎、【幽齋本、乎柞v曾、點云、クルシキモノソ、】
 
姫由理は山丹花とも紅百合とも云花なり、古事記に山由理草之本名云2佐韋1也とあるも同じかるべし、郎女が歌なれば姫百合の名をみづからよそふるなり、さて草の繁みに有とも知られずして咲に人知れぬ戀をもよせたり、第七第十一に草深百合とよめるを引合すべし、六帖には百合の歌として、落句を苦しかりけりと改む、
 
初、夏の野のしけみ しけみにさけるは、第七に、道のへの草ふかゆりとよめりしかことし。姫ゆりは紅百合とも山丹花ともいへり。坂上郎女か哥なれは、ひめゆりといふ名も、身におひたれは、その草のしけみにさけることく、人しれぬ戀はくるしき物なるを、なとか人のおもひおこせぬと恨る心あり。うつくしき物にして、ひめゆりとはいへり。姫松姫桃姫すか原なといふかことし
 
小治田朝臣廣耳歌一首
 
1501 霍公鳥鳴峯乃上能宇乃花之※[厭のがんだれなし]事有哉君之不來益《ホトヽキスナクヲノウヘノウノノハナノウキコトアレヤキミカキマサヌ》
 
霍公鳥の卯花をなつかしみて通ひ來しが如く來し君が、我に何の厭はしき事あればにや久しく來まさずとなり、上の句はう〔右○〕もじを儲けむ爲の序のみにあらず、第十二※[(貝+貝)/鳥]の往來垣根《カヨフカキネ》のうの花のとて下句今と同じき歌も亦同じ意なり、古今集に、水の面に生る五月の萍の、うき事あれや根を絶て來ぬとよめる躬恒が歌は詞も意も似たる中に、うきと云二文字を云はむ爲に上句を序に云ひて根を絶てと縁の詞をよせたれど、萍には譬る意なし、
 
初、ほとゝきすなくをのうへの 上の句は、うきことあれやのうもしにつゝくる序なり。うき事あれやは、われにおきて、君かいとはしくおもふ事あれはにや、とひもこぬといふなり。第十に、うくひすのかよふかきねのうの花の下句全同。古今集雜下、みつねか哥に、水のおもにおふる五月のうき草のうきことあれやねをたえてこぬ。此下句は同し心なから、うき草のといへるは、下のうきといふふたもしをまうけむ序なり
 
大伴坂上郎女歌一首
 
(4)1502 五月之花橘乎爲君珠爾貫零卷惜美《サツキノハナタチハナヲキミカタメタマニコソヌケチラマクヲシミ》
 
發句はサツキノとも讀べし、古歌は文字の足らぬを痛まず、書やうも然見ゆればなり、
 
紀朝臣豐河歌一首
 
聖武紀(ニ)云、天平十一年、正六位上紀朝臣豐川、授2外従五位下(ヲ)1、
 
初、紀朝臣豐河 聖武紀云。天平十一年正月正六位上紀朝臣豊川(ニ)授2外從五位下(ヲ)1
 
1503 吾妹兒之家乃垣内乃佐由理花由利登云者不謌云二似《ワキモコカヤトノカキウチノサユリハナユリトシイヘハウタハヌニニル》
 
家乃、【別校本云、イヘノ、】
 
家はイヘと讀べし、落句の云は衍文なるべし.此歌は極て意得がたき歌なり、試に強て釋せば垣内の早百合をばやがて人言などに障り相見ることを得ぬ人に譬へて、ゆりと云名を音曲に沙《ユタ》と云事あればそれに云ひなして、逢べき人に相見ぬは唯沙のみ汰て聲を揚て歌はぬに似たりとよめる歟、若は不の字は第四句に屬し、落句の云は去にて、ゆりとははゞいなうたはぬにゝるにやあらむ、意はゆりと聞こそいななれ、譬へば思ふ人に相見るは歌はまほしき事ある時高く一曲する如くなるを、人言などに礙られて垣内の早百合の如く見る事あたはねば、嗟歎するに足らざる事あれど永歌せざるに以たる物をとよめる與、第十八にはさゆり花ゆりもあはむと三首よめり、
 
初、わきもこかやとの 此哥は心得かたき哥なり。こゝろみにしひて尺せは、垣内にさけるさゆりの花なれは、外よりおもふはかりにはえみぬを、ゆりといふ花の名につきてたとへは、音曲のふしをたゝゆりにのみゆりて、聲を擧てうたはぬほとににたりといへるにや。ほに出てもえあはぬ人に、かくはよめるなるへし。第十八にも、さゆり花ゆりもあはむとおもへこそ今のまさかもうるはしみすれ。此外三首まてさゆりの花ゆりもあはんとゝよめる哥、同し卷に見えたり
 
(49)高安歌一首
 
1504 暇無五月乎尚爾吾妹兒我花橘乎不見可将過《イトマナヽサツキヲヒサニワキモコカハナタチハナヲミスカスクサム》
 
五月乎尚爾、【官本又云、サツキヲスラニ、】
 
發句は今の點叶はず、イトマナミと讀べし、胸の句も亦官本又點よし.五月をすらと云事は卯月を合めり、五月は橘のまさしき時なればなり、
 
初、いとまなみさつきをひさに いとまなきとあるはよろしからす。ひさには尚爾とかけり。ひさにとよめるもことはりあれと、此集他所に此尚の字をすらとよみたれは、此哥にてもさもよむへくや
 
大神女郎贈大伴家持歌一首
 
1505 霍公鳥鳴之登時君之家爾往跡追者將至鴨《ホトヽキスナキシスナハチキミカイヘニユケトヲヒシハイタリケカモ》
 
鳴之登時はなくとひとしくなり、見し夢のさむるやがて現などよめるやがての如し.
 
初、ほとゝきす鳴しすなはち すなはちはやかての心なり。そのまゝなり
 
大伴田村大孃與妹坂上大孃歌一首
 
1506 舌郷之奈良思之岳能書公鳥言告遣之何如告寸八《フルサトノナラシノヲカノホトヽキスコトツケヤリシイカニツケキヤ》
 
舌は古を誤れり改むべし、拾遺雑春に載られたるは、彼雑春は夏を兼、雜秋は冬を兼る故なり、大伴像見が歌として詞書に坂上郎女に遣はしけると有は意得がたし、
 
大伴家持攀橘花贈坂上大孃歌一首并短歌
 
(50)1507 伊加登伊可等有吾屋前爾百枝刺於布流橘玉爾貫五月乎近美安要奴我爾花咲爾家里朝爾食爾出見毎氣緒爾吾念妹爾銅鏡清月夜爾直一眼令覩麻而爾波落許須奈由米登云管幾許吾守物乎宇禮多伎也志許霍公鳥曉之裏悲爾雖追雖追尚來鳴而徒地爾令散者爲便乎奈美攀而手折都見末世吾妹兒《イカトイカトアルワカヤトニモヽエサシオフルタチハナタマニヌキサツキヲチカミアエヌカニハナサキニケリアサニケニイテミルコトニイキノヲニワカオモフイモニマソカヽミキヨキツキヨニタヽヒトメミセムマテニハチリコスナユメトイヒツヽコヽタクモワカモルモノヲウレタキヤシコホトヽキスアカツキノウラカナシキニヲヘトヲヘトナヲシキナキテイタツラニツチニチラセハスヘヲナミヨチテタヲリツミマセワキモコ》
 
玉爾貫、【幽齋本云、タマニヌク、】
 
發句の二つの伊は發語の詞にて門門なり、貫はヌクと讀べし、今の點は叶はず、宇禮多伎也志許霍公鳥とは、神武紀云、慨哉大丈夫云云、自注云、慨哉此云2于黎多棄伽夜《ウレタキカヤ》1、文選秋興賦注李善曰、慨、【許既反、】説文曰、慨、太息也、字林(ニ)曰、慨(ハ)壯士(ノ)不v得v志也、志許は、しこつ翁、しこのみたて、鬼のしこ草など云如く霍公鳥を假に罵詞なり、ナホシのし〔右○〕は助語なり、
 
初、いかといかと いは發語のことは、かとは門なり。門々有といふ心なり。玉にぬきとあるは、かんなあやまれり。玉にぬく五月を近みとつゝけよむへし。あえぬかにとは、あゆるはものゝましはる心なり。されはあえぬはましはらぬなり。かは我の字をかきたれとも、すみて疑の歟の字に心得へし。ましはらぬ歟にとは、五月にならは花と實とましはりて、ともに賞翫せらるへけれは、實とゝもに賞せらるへきは、ねたしとて、花のとく咲やうによめりときこゆ。古今集に、あはれてふことをあまたにやらしとや春にをくれてひとり咲らんとよめるとおなし心にて、かれはわさとをくれたるやうによみ、これはしひてさきたつやうにいへり。第十八に、おなし家持のよまれたる橘の哥に、ほとゝきすなく五月には、初花を枝にたをりて、をとめらにつとにもやり見、白妙の袖にもこきれ、かくはしみおきてからしみ、あゆる實は玉にぬきつゝ、手にまきてみれともあかすとよめり。右の長哥に、ほとゝきすなく五月には初花を枝にたをりてといひ、伊勢物語にも、五月まつ花橘と讀たれは、今は五月を近みとよみて、早くさける橘なれは、實とましはらしと歟おもふ心にて、とく咲にけりと、橘の心を察していへるなり。あえぬかにの詞、心を得てきかされは、たらはぬやうなり。古哥の詞には、心を聞知ても尺しおほせかたき事おほし。橘をは五月といひたれと、今は年によりて、三月の末にもさき、大やう四月の中旬には咲はて侍り。かゝる事も昔とはかはり侍るにや。橘の類には、金柑といふ一種そ、みな月に咲侍るめる。ちりこすなゆめは、ゆめ/\ちり過なといふ心なり。上十七葉にも、霞たつ春日の里の梅花山下風にちりこすなゆめと有。うれたきや、神武紀云。慨哉【此(ヲハ)云2于黎多棄伽夜(ト)1。】大丈夫《マスラヲニシテ》云々。なけかしき心なり。しこほとゝきすとは、しこは醜の字にて、みにくしきたなしと、郭公を罵辭なり。第二に、おにのますらお、これを又はしこのますらをとよめり。第三におにのしこ草とよめるは、忘草をのりていへる詞なり。今もそれにおなし。第十にもうれたきやしこ郭公と、今とおなしくよめる哥あり。をへと/\なをしきなきていたつらにつちにちらせは。第九に鶯のかこひの中に郭公獨むまれてとよみはしめたる長哥にも、うの花のさける野へより、とひかへりきなきとよまし、橘の花を居ちらしとよめり
反歌
 
1508 望降清月夜爾吾妹兒爾令覩常念之屋前之橘《モチクタチキヨキツキヨニワキモコニミセムトオモヒシヤトンタチハナ》
 
令覩、【別校本覩作v視、】
 
(51)望降は望月のくたつにて、十五夜の深て後を云歟、第十に曉降、第十九に夜降ともよめり、若は一夜の内を云にはあらで十六夜以後を云歟、後の義なるべし、
 
初、もちくたち清き月夜 もちは十五夜なり。みともと通すれは、もちはみちといふ心なるへし。くたちは、くたちはくたる心なれは、十五夜より以後の心なり
 
1509 妹之見而後毛將鳴霍公鳥花橘乎地爾落津《イモカミテノチモナカナムホトヽキスハナタチハナヲツチニチラシツ》
 
大伴家持贈紀郎女作歌一首
 
官本郎女を女郎と改、目録も然り、又目録に作の字なきに付べし、
 
1510 瞿麥者咲而落去常人者雖言吾標之野乃花爾有目八方《ナテシコハサキテチリヌトヒトハイヘトワカシメシノヽハナニアラメヤモ》
 
第三に駿河麻呂の、梅花開而落ぬと人は云へど、吾しめゆひし枝にあらめやもとよまれしに擬せられたるにや、更に注せず、彼を以て此を知べし、
 
初、なてしこは咲てちりぬと 第三大伴駿河麻呂梅の歌に、梅の花さきてちりぬと人はいへとわかしめゆひし枝にあらめやも。大かたおなし哥なり
 
秋雜歌
 
崗本天皇御製歌一首
 
1511 暮去者小倉乃山爾鳴鹿之今夜波不鳴寐宿家良思母《ユフサレハヲクラノヤマニナクシカノコヨヒハナカスイネニケラシモ》
 
鳴鹿之、【官本之作者點云、ナクシカハ、別校本或同v此、幽齋本之作者點云、ナクシカノ、】
 
此御歌、第九には鳴を臥に作りて雄略天皇の御歌として、右或本云、崗本天皇御製、不審(52)正指因以累載と注せり、六帖には鹿の歌に今の如く載たり、此小倉の山は山城の小倉山にはあらず、大和國に有べきに付て雄略天皇の御歌ならば城上郡、舒明天皇の御歌ならば高市郡なるべし、第九に白雲之龍田山之瀧上之、小鞍|嶺爾《ミネニ》とよめるにはあらず、何れの帝にもあれ、常に大内まで鹿の音の聞ゆるほどの山と見えたる故なり、小倉山の有處慥ならば撰者此道理を以て兩帝の間を定らるべきを、然らねば昔より有處を知られざりけるにや、暮去者とは、夕暮ごとに鳴と云意に聞ゆれど、古今集に貫之歌に、夕月夜をぐらの山とよみ、同じ人のかゝれたる大井河の序にも夕月夜小倉山の麓とあるは、夕月夜のをぐらきと云意における枕詞なれば、今も其意におかせ給へるなり、今夜波不鳴とあるにて毎夜鳴ける事は知られたり、寐宿家良思母とは、鹿の妻戀によな/\鳴聲の聞えつるが、今夜鳴ぬは妻に逢て寢たるなるらむとよませ給へるなり、仁徳紀云、三十八年秋七月、天皇與2皇后1居2高臺《トノニ》1而避暑時、毎v夜自2菟餓野1有v聞2鹿鳴1、其聲寥亮而悲(シ)之、共(ニ)起2可憐之情1、及2月盡1以2鹿鳴不1v聆天皇語(テ)2皇后1曰、當2是夕1而鹿不v鳴其何(ノ)由(ソ)焉云云、射られて鳴ぬと妻に逢て鳴ぬとは替れど、聞食てあはれませ給ふ御心は同じ、一人恩波流れて禽獣に及ばゞ民たる誰か霑ざらむ、有難き御事なり、
 
初、ゆふされはをくらの山に 此哥第九卷の初にも載て、そこには雄畧天皇の御哥として、注に崗本天皇の御哥と或本にいへるよしいへり。鳴鹿を、そこには臥鹿とせり。第四卷最初に、岳本天皇御製とて載たる哥の終に注すらく。右今案高市岳本宮後岡本宮二代二帝各有v異焉。但|※[人偏+稱の旁]《イヘルハ》2岡本之天皇(トノミ)1未(タ)v審(ニセ)2其|指《サストコロヲ》1。此注に准せは、今の崗本天皇といふも、舒明齊明の兩帝、いつれと分かたき歟。愚案、第四卷の注は其いはれなき歟。先彼御製は、まさしく舒明天皇の御哥なるへきことは、そこに辨せり。初の岡本宮にまきらはさしとて、後岡本宮といへは、只岡本宮といふは、まきれもなく舒明なり。例せは、近江遠江は相對せる名にて、ちかつあふみとをつあふみといへと、たゝあふみといふはかならす近江なるかことし。夕されはとは、夕くれことに鳴といふ時分なから、古今集に貫之哥に、夕月夜をくらの山に鳴鹿の聲の内にや秋はくるらんといふ哥も、をくら山ををくらきといふ心につゝけんとて夕月夜とをけは、此御哥の夕されはもやかて枕詞としたまふ心なるへし。此をくらの山は大和なるへし。そのゆへは、こよひはなかすとよませたまへるは、日ころきかせたまへる聲の、こよひはしめて聞えぬは、鹿は妻こひに鳴ものなれは、妻をこひ得てあへるにやとの御心なり。末の代にこそ、題をすへて遠き海山も、其哥の草木鳥けたものによせあれはよむ習なり。いにしへはしからす。相聞なとぞ、よせあれはすこし遠き所をもよめる。しかれは、第九に、龍田の山の瀧のうへのをくらの嶺とよめるをくらの嶺や、此哥の小倉の山にて侍らん。仁徳紀云。三十八年春正月癸酉朔戊寅、立《タテヽ》2八田(ノ)皇女(ヲ)1爲2皇后(ト)1。秋七月天皇與2皇后1居(テ)2高|臺《トノニ》1而|避暑《スヽミタマフ》。時(ニ)毎v夜自2菟餓野1有v聞(ユルコト)2鹿(ノ)鳴《ネ》1。其聲|寥亮《サヤカニシテ》而悲(シ)之。共(ニ)起(シタマフ)2可憐《アハレトオホス》之|情《ミコヽロヲ》1。及(テ)2月盡《ツコモリニ》1以鹿(ノ)鳴《ネ》不v聆(エ)。爰(ニ)天皇語(テ)2皇后1曰。當(テ)2是夕《コヨヒニ》1而鹿(ノ)不v鳴其何《ナニノ》由(ソ)焉云云
 
大津皇子御歌一首
 
(53)1512 經毛無緯毛不定未通女等之織黄葉爾霜莫零《タテモナクヌキモサタメスヲトメラカオレルモミチニシモナフリソネ》
 
不定を六帖にはさだめぬとあり、官本の又の點も同じけれど、是は第七に、三芳野の青根が峯の蘿席、誰か織けむ經緯なしにと有し意なれば、未通女等之經毛無緯毛不定《ヲトメラカタテモナクヌキモサタメス》織と云つゞきにて、さだめぬとては叶はぬなり、腰句官本に或は等を古に作りてヲトメコガと點じ、六帖も同じけれど、仙覺抄も諸本と同じく等なれば今取らず、黄葉を仙覺はにしきと點じて今の點をば古點とて嫌はれたれど、今の點古意にて然るべし、其故は錦を下心にて黄葉を織と云へるは誠に事たらぬに似たれど、黄葉を下心にて錦と云も足れりとは云べからず、具足せる詞ならば黄葉の錦を織と云べし、されどかゝる事は詩歌の習なれば算術などのやうには密《キヒ》しからぬが還て面白き事なり、殊に古人は胸中廣かりければ兎を得て蹄《ワナ》を忘れたる作毎毎あり、驚ろくべからず、其上第十には紅之綵色《クレナヰノニシキ》爾所見秋山|可聞《カモ》、第十三には自然成錦乎張流山可母《オノヅカラナレルニシキヲハレルヤマカモ》、これら黄葉をにしきとよめるに、書やうかくの如くなれば、今もにしきならむには黄葉とは書べくもなし、依て仙覺の説もことわりならぬにはあらねど今は取らず、懷風藻に此皇子の詩に、天紙風筆畫2雲鶴1、山機霜杼織2葉錦(ヲ)1、傳に性頗放蕩とかけり、此一聯の活句を見るに誠に然るべし、此後の句と今の歌と同じ、何をか先に作らせ給ひけむ、
 
初、たてもなくぬきもさためす をとめらかをれるもみちとは、錦といふへきを、その錦はもみちの事なれは、おしてのたまへるなり。懷風藻云。七言述v志。【大津皇子四首之中第三】天紙風筆畫(キ)2雲鶴(ヲ)1、山機霜杼織(ル)2葉錦(ヲ)1。今の哥此後の句とおなし。いつれをさきにか作らせたまひけむ。第七詠蘿哥に
  みよしのゝあをねかみねのこけむしろ誰かおりけむたてぬきなしに
第十三に
  山邊のいそしの御井はをのつからなれるにしきをはれる山かも
古今集云
  霜のたて露のぬきこそよはからし山のにしきのおれはかつちる
  立田川にしきおりかく神無月しくれのあめをたてぬきにして
 
(54)穗積皇子御歌二首
 
1513 今朝之旦開鴈之鳴聞都春日山黄葉家良思吾情痛之《ケサノアサケカリカネキヽツカスカヤマモミチニケラシワカコヽロイタシ》
 
落句は第十五には我《ワカ》胸|痛《イタ》しともよめり、皇極紀云、古人大兄(ノ)曰、韓人殺2鞍作臣(ヲ)1、吾(カ)心痛矣、
 
初、けさのあさけ――わか心いたし 皇極紀云。古人大兄見(テ)走2入私宮(ニ)1謂(テ)2於人(ニ)1曰。韓人殺2鞍作(ノ)臣(ヲ)1吾(カ)心痛(シ)矣。即入2臥内《オホトノニ》1杜(テ)v門(ヲ)不v出
 
1514 秋芽者可咲有良之吾屋戸之淺芽之花乃散去見者《アキハキハサキヌヘカラシワカヤトノアサチカハナノチリユクミレハ》
 
可咲有良之、【官本又云、サクヘカルラシ、】
 
下句の事、上に廣瀬王の歌に付て注するが如し、但六帖にこそ落句を色付見ればと換たれ、今散去とあるを思ふに淺茅の色付を花とは云べし、色のさむるを散とは云べからぬにや、又野を見るに淺茅の色付は秋冬を懸れば、淺茅の末枯て色のさむるを假令散と云とも、秋芽の咲ぬべからむ事をのたまふとて此下句は有まじきにや、茅花《ツハナ》は夏を經て秋までもほのめくが今は散行けば、萩のさきぬべからしとよませ給ふにや、
 
初、淺茅か花の つはなゝり。つはなは春の末に、穗に出て、薄のやうに見え、夏野にも猶ちらて有が、秋萩もやゝ咲ぬへき比にちるを、かくはよませたまふなり。心をつけて、つはなのやうを見たる人、此御哥にまことあることを知へし
 
但馬皇子御歌一首【一書云子部王作】
 
皇女を誤て皇子に作れり、注に一書云子部王作とあるは是亦女王と有けむを女の字を落せるなるべし、第十六云、兒部女王嗤歌一首此人なり、官本には今の注なし、
 
初、但馬皇女御歌 皇子とあるは誤れり
 
1515 事繁里爾不住者今朝鳴之鴈爾副而去益物乎《コトシケキサトニスマスハケサナキシカリニタクヒテユカマシモノヲ》
 一云|國爾不(55)有者《クニニアラスハ》
 
去益物乎、【六帖云、イナマシモノヲ、紀州本同v此、】
 
但馬皇女は穗積皇子に御心を通はされたる事第二に見えたれば、去益物乎とは彼御許へとなるべし、六帖にいなましものをとあるは歸雁にたぐはむと云やうなりと思ふ人あるべし、此集にては唯ゆかましと同じ意なり、
 
山部王惜秋葉歌一首
 
此山部主は誰と云事を知らず、天武紀上(ニ)云、時(ニ)近江命2山部王蘇賀臣果安巨勢臣比等1、〓2數萬衆(ヲ)1將v襲2不破(ヲ)1而軍2于犬上(ノ)川濱1、山部王爲2蘇賀(ノ)臣果安巨勢(ノ)臣比等1見v殺云云、此人歟、以前の尊貴に次で長屋の上に置けるにて知べし、桓武天皇をも當初は山部王と申奉りたれど、天平九年に生れさせ給へば別なる事明なり、
 
初、山部王惜2秋葉1歌一首 山部王にふたりあり。其ひとりは、天武紀上云。時(ニ)近江命(テ)2山部王、蘇賀臣果安、亘勢臣比等(ニ)1率(テ)2數万衆(ヲ)1將v襲(ハント)2不破(ヲ)1而軍2于犬上(ノ)川|濱《ホトリニ》1。山部王爲2蘇賀臣果安、巨勢臣比等(カ)1見v殺。由2是(ノ)亂(ニ)1以2軍不(ルヲ)1v進(マ)乃蘇賀臣果安自2犬上1返(テ)刺v頸(ヲ)而死。此山部王は系圖をしらす。今ひとりは、桓武天皇いまた諸王にておはしましける時の御名なり。續日本紀云。延暦四年五月乙未朔丁酉詔曰〇又臣子之禮心避2君(ノ)諱(ヲ)1。比者《コノコロコ》、先帝(ノ)御名及朕之諱、公私觸(レ)犯(シテ)猶不v忍(ヒ)v聞(ニ)。自v今以後宜2並(ニ)改(タメ)避(ク)1。於v是改(テ)v姓(ヲ)白髪部(ヲ)爲2眞髪部(ト)1山部(ヲ)爲v山(ト)。此中に今のつゝき初の山部王にあらす。桓武天皇の御哥なり。いまた山部王にて經させたまへる位階は、稱徳紀云。天平神護二年十一月丁巳無位山邊王授2從五位下1。光仁紀云。寶亀五年三月甲辰兼駿河守。寶亀十年六月辛亥、從五位上山邊王(ヲ)爲2大膳大夫(ト)1。十一年正月丁卯朔癸酉正五位下。三月丙寅朔壬午任2備前守1。天應元年十一月正五位上
 
1516 秋山爾黄反木葉乃移去者更哉秋乎欲見世武《アキヤマニキハムコノハノウツロヘハサラニヤアキヲミマクホリセム》
 
此下並に第十に黄變をモミチと點ぜれば、今の黄反もモミツルとも讀べきか、移去者をウツロヘバと點じたるは叶はず、ウツリナバと讀べし、
 
初、移去者 うつりなはとよむへし
 
長屋王歌一首
 
(56)1517 味酒三輪乃祝之山照秋乃黄葉散莫惜毛《ウマサカノミワノハフリノヤマテラスアキノモミチノチラマクヲシモ》
 
祝等が領する三輪山なれば祝之山照とはよみ給へり、
 
初、味酒みわのはふりか山てらす みわのはふりらかいつきまつる山をてらすなり。又祝等か、みわ山を領すれは、はふりか山てらすとはよみ給へり。第四にうまさけをみわのはふりかいはふ杉。第七にみぬさとるみわのはふりかいはふ杉原なとよめり
 
山上臣憶良七夕歌十二首
 
1518 天漢相向立而吾戀之君來益奈利紐《アマノカハコムカヒタチテワカコヒシキミキマスナリヒモ》解設奈  一云|向河《カハニムカヒ》
 
相向立而、【校本又云、アヒムキタチテ、】
 
胸句校本又點に依べし、今の點は第十八云、夜須能河波許牟可比太知弖《ヤスノカハコムカヒタチテ》云云、此に依ける歟、彼許牟可比太知弖は來向立而《コムカヒタチテ》なり、第一云、御獵立師斯時者《ミカリタヽシヽトキハ》來向云云、第十九云、春過(テ)而夏來向者云云、此にて知べし、唯二星の相向て立と、來て向ひ立と義少替れり、字に依て意得べし、注の向河はカハニムカヒテと讀べし、
 
初、あまの川こむかひたちて 相向立而とかきたれは、あひむきたちてとよむへし。ひもときまけなは、ひもときまうけむなり。第十にも七夕の哥おほし。多分ひこほしとなり、たなはたつめとなりてよめる哥なり
 
右養老八年七月七日應令
 
此八年は誤なり、八年二月甲牛に聖武天皇位につかせ給ひて神龜元年と改らる、先の七年に白龜の瑞有しに依て、八は六の字の上の二畫を失なへるにや、應令は聖武天皇いまだ東宮にてまし/\ける時の令旨に依てよまるゝなり、文選序注(ニ)、呂向曰、令(ハ)有v領也、領v之使v不2相干犯1、
 
(57)1519 久方之漢瀬爾舩泛而今夜可君之我許來益武《ヒサカタノアマノカハセニフネウケテコヨヒカキミカワカリキマサム》
 
漢の字の上に若天の字の脱たるにや、我詐は字の如くわがもとへなり、
 
初、わがりきまさむ 我もとにきまさむなり。いもがりゆく、人のがりゆくなと、みなこれにおなし
 
右神龜元年七月七日夜左大臣家
 
二月甲午に正二位左大臣と成たまふ、此なり、
 
1520 牽牛者織女等天地之別時由伊奈宇之呂河向立意空不安久爾嘆空不安久爾青浪爾望者多要奴白雲爾※[さんずい+帝]者盡奴如是耳也伊伎都枳乎良武如是耳也戀都追安良牟佐丹塗之小舩毛賀茂玉纏之眞可伊毛我母《ヒコホシハタナハタツメトアメツチノワカレシトキユイナウシロカハニムキタチオモフソラヤスカラナクニナケクソラヤスカラナクニアヲナミニノソミハタエヌシラクモニナミタハツキヌカクノミヤイキツキヲラムカクノミヤコヒツヽアラムサニヌリノコフネモカモタママキノマカイモカモ》【一云小棹毛何毛】朝奈藝爾伊可伎渡夕塩爾《アサナキニイカキワタリユフシホニ》【一云夕倍爾毛】伊許藝渡久方之天河原爾天飛也領布可多思吉眞玉手乃玉手指更餘宿毛寐而師可聞《イコキワタリヒサカタノアマノカハラニアマトフヤヒレカタシキマタマテノタマタサシカヘヨイモネテシカモ》【一云伊毛左禰而師加】秋爾安良受登母《アキニアラスモ》 一云|秋不待登母《アキマタストモ》
 
意空、【別校本意作v思、】  小船、【別校本、幽齋本並云、ヲフネ、】
 
牽牛は和名云、爾雅註云牽牛一名(ハ)何鼓、【和名、比古保之、又以奴加比保之、】織女に對して日子《ヒコ》星と云、爾雅(58)釋訓云、美女(ヲ)爲v媛、美士(ヲ)爲v彦和語の意此に同じ、織女は和名云、兼名苑云、織女牽牛是也、【和名太奈八太豆女、】此も二十八宿の中の女宿なり、和語の意つ〔右○〕は助語にて棚機女なり、日本紀並に古事記に板擧と書てタナとよめり、機を織るに後を懸る板あり、第十に踏木と云へる是なり、此踏木は棚の如くする物なるに依て機を織を業とすれば此名を負せたり、二星の事もろこしには末の世に疑ふ者出來たれど、古來然るべき人々皆信じて傳へ來れり、此國は殊に不測の神國にて榊變無方なれば、何の怪かあらざらむ、仍今も天地之別時由と云ひ、第十にも安の河隔てゝ置し神世の恨などよめり、伊奈宇之呂は河と云べき枕詞なり、別に注す、顯宗紀に伊儺|武斯盧※[加/可]簸泝比野儺擬《ムシロカハソヒヤナキ》云云、此集第十一には伊奈武思呂《イナムシロ》敷而毛君乎云云、共に稻莚なれば今の宇も牟を書誤れるにやと思ふに、袖中抄にも仙覺の此集抄にも今の如く有て顯昭云、此歌のいなうしろはいなむしろなりうはうしろなど云て、むしろをばうしろと云也と釋せられたれば異義あるべからず、馬を宇麻、牟麻梅を宇女、牟女と通はして書になずらふべし、青波爾望者多要奴とは、毛詩云、瞻望弗v及、泣(ク)涕如v雨佐丹塗之小船はヲフネと點ぜるに依べし、佐丹塗は佐は付たる字丹塗の舟は第三に赤のそほふねとよめるが如し、袖中抄にさにぬりしと有は今取らず玉纒之眞可伊は、玉をもてまきて飾れる棹なり眞はほむる詞なり、袖中抄にた(59)まゝきしまことかいもがとあるは又取らず、何伊可伎渡伊許藝渡、二つの伊は並に發語の詞なり、天飛也領巾可多思吉は第二に、白妙之天領巾隱《アマヒレコモリ》と云に、第十の秋風吹|漂蕩《タヽヨハス》白雪者、織女之天津|領巾《ヒレ》毳と云を引合せて云へる如く今も白雲を片敷てと云へる歟、唯織女の領巾を云歟、又|餘宿《ヨイ》、第五に注せし如く能寢《ヨイ》なり、
 
初、いなうしろ川にむきたち いなうしろは稻莚なり。延喜式第八、出雲國造|神賀《カムホキノ》詞(ニ)云。彼方《カナタノ》古川|席《ムシロ》、此万《コナタノ》古川|席《ムシロ》爾|生立《オヒタテル》若水《ワカミツ》沼間能|彌若叡《イヤワカエ》爾御若叡坐云々。今の式に、席の字を音に讀たるは誤なるへし。かなたこなたの古川|席《ムシロ》におひたてるといへるは、苔のことなるへし。古川のなかれのぬるきに、苔のおひしけるが、莚のことくなれは、古川席といふ。されはいなむしろも、むしろとのみいひては、もしのたらねは、何となく稻莚といひて、川といふへき枕詞としたるは、古川席といふ心なるへし。此詞猶ふるく見えたるは、顯宗紀に、天皇の御哥にいはく。伊儺武斯盧《イナムシロ》《・稻莚》、※[加/可]簸泝比野儺擬《カハソヒヤナキ》《・河傍柳》、ナヒキ寐逗愈凱麼《ミツユケハ》《・水逝者》、儺弭企《ナヒキ》《・靡》於巳佗智《オシタチ》《・押立・己《キ》歟起》、曾能泥播宇世儒《ソノネハウセス》《・其根者失不》。青波にのそみはたえぬ白雲に涙はつきぬ。毛詩云。瞻望(スレトモ)弗v及(ハ)泣(ク)涕如(シ)v雨(ノ)。さにぬりのをふねもかも。舟に丹ぬり色とりたるなり。さにのさは助字なり。第九にもかくよめり。第十六にあから小舟とよみ、第三第十三にともにあけのそほふねとよめるもこれなり。玉まきのまかいもかもは、かいをほめんとて玉まきといへり。朝なきには、海邊のみならす。古今集に雲もなくなきたる朝ともよめり。いかきわたり、いは下のいこきのいともに發語のことはなり。かきは打といふ字のことく、ことはのかゝりにもいへり。こゝは下にこきわたりといふに對すれは、水をかくなり。夕しほは河といふにはかなはされとも、天の海ともいひ、又天川とても、おもひやりてさま/\いふことなれは、難すへからす。よいもねてしかも。よは夜か、又よくいねてしかなといふ歟。秋にあらすともは、二星の心なり。眞玉手の玉手さしかへは、第五にもおなし憶良の哥に見えたり
 
反歌
 
1521 風雲者二岸爾可欲倍杼母吾遠嬬之《カセクモハフタツノキシニカヨヘトモワカトホツマノ》【一云波之嬬之】事曾不通《コトソカヨハヌ》
 
發句は風と雲とはなり、二岸は天河の此方彼方の岸なり、可欲倍杼母は陸士衡擬古詩云、驚〓〓2反信1、歸雲難v寄v音(ヲ)第十九云、風雲爾言者雖通云云、此は使を風雲と云へり、今は風と雲とは兩岸に往來すれども實の使ならねば織女の言を傳へずと牽牛に成てよまれたり注の波之嬬は波之吉妻と云へるに同じ、
 
初、風雲はふたつのきしにかよへとも 河圖帝通紀云。風(ハ)者天地(ノ)之使(ナリ)也。魏武帝短歌行云。【杜律歟唐詩訓解歟なとの注にて見侍りし忘失】陸士衡擬古(ノ)詩、遊子眇(ナリ)2天末(ニ)1。遠期不v可(ラ)v尋(ヌ毒。驚※[風+火三つ]|※[塞の土が衣]《ウシナフ》2反信(ヲ)1。歸雲難(シ)v寄(セ)v音(ヲ)。【文選。】第二十に、家風は日にけにふけとわきもこか家言もちてくる人もなし。み空行雲もつかひと人はいへと家つとやらむたつきしらすも
 
1522 多夫手二毛投越都倍伎天漢敞太而禮婆可母安麻価多須辨奈吉《タフテニモナケコシツヘキアマノカハヘタテレハカモアマタスヘナキ》
 
多夫手はた〔右○〕とつ〔右○〕と通ずればつぶてなり、東都賦云、飛礫(ノ)雨散云云、つぶても本はとぶて(60)の意なるを、登と豆とを通してつぶてと云なるべし、越都とは、天河の廣からずして近き意なり河漢清且淺相去(ルコト)復幾許、盈々(タル)一水間脈々不v得v語、下の袖振者見毛可波之都倍久雖近とよめる同意、
 
初、たふてにもなけこしつへき たふてはつふてなり。とふてともいふ。飛礫とかけり。たふてをもといふへきを、たふてにもといへるは、古語はかやうにいへるたくひおほし。これは天川のいくはくもなくて、ちかきよしによめり
 
右天平元年七月七日夜憶良仰觀天河【一云師家作】
 
河の下に作の字落たるか、注の中の師は帥に改たむべし、帥は大伴卿なり、
 
初、注、天河下、作の字ををとせる歟
 
1523 秋風之吹爾之日從何時可登吾待戀之君曾來座流《アキカセノフキニシヒヨリイツシカトワカマチコヒシキミソキマセル》
 
吹ニシのに〔右○〕、イツシカのし〔右○〕、共に助語なり、
 
1524 天漢伊刀河浪者多多彌杼母伺候難之近此瀬乎《アマノカハイトカハナミハタヽネトモウカヽヒカタシチカキコノセヲ》
 
二三の句は、河浪はいたくもたゝねどもなり、伺候難之は、何時來むや來じやの伺得がたきなり、今按サモラヒガタシとも讀べし、近此瀬乎は思へば近き此瀬なる物をの意なり、右二首は織女の意をよまる、
 
初、天川いと河浪はたゝねとも 天川のなみはいともたゝされともなり。うかゝひかたしとは、彦星をうかゝひ待かたしとなり
 
1525 袖振者見毛可波之都倍久雖近度爲便無秋西安良禰波《ソテフラハミモカハシツヘクチカケレトワタルスヘナシアキニシアラネハ》
 
雖近は今按雖遠をとほけどもとよめる古語になすらへばチカケドモと讀べし秋ニシのし〔右○〕は助語なり、
 
初、袖ふらは見もかはしつく さきの、たふてにもなけこしつへき天川といへることく、まちかきをいへり。古詩云。河漢清(テ)且(ツ)淺(シ)。相去(ル)復幾許(ソ)。盈々(トシテ)一水|間《ヘタヽレリ》。點々(トシテ)不v得v語(ルコトヲ)
 
(61)1526 玉蜻※[虫+廷]髣髴所見而別去者毛等奈也戀牟相時麻而波《カケロフノホノカニミエテワカレナハモトナヤコヒムアフトキマテハ》
 
右天平二年七月八日夜帥家集曾
 
六日の菖蒲のやうなれど、前の夜はさはる事有けるなるべし、
 
初、かけろふのほのかにみえて 此かけろふは、夕くれに出て飛かひて、ほのめく虫なり。夏秋の夕に飛を、あるもの蚊を空にてはむと申き。和名集に赤ゑむは黄ゑむはなといへる虫なり。もとなやは後々によしなといふ詞なり。由と本とおなし心なり
 
1527 牽牛之迎嬬舩巳藝出良之漢原爾霧之立波《ヒコホシノツマムカヘフネコキイツラシアマノカハラニキリノタテレハ》
 
迎嬬船とは、此は牽牛織女を迎て歸て逢なり、定家卿、七夕の歌は風情のより來らむに任て讀べき由のたまへるは此等の事なり、落句は夕霧の立たればの意なり、
 
初、ひこほしのつまむかへ舟 霧は夕にたては、つまをむかふる舟を今はこき出らんとなり。哥の習なれは、つまをむかへてひこほしのもとへかへるやうによめり
 
1528 霞立天河原爾待君登伊往還程爾裳襴所沾《カスミタツアマノカハラニキミマツトイカヨフホトニモノスソヌレヌ》
 
秋も霞を讀こと第二の磐之媛の御歌に付て注せしが如し、伊往還の伊は發語の詞なり、沾を誤て沽に作れり、
 
初、いかよふほとに いは例の發語なり
 
1529 天河浮津之浪音左和久奈里吾待君思舟出爲良之母《アマノカハウキツノナミトサワクナリワカマツキミシフナテスラシモ》
 
浪音は第二にも浪音乃茂濱邊乎《ナミノトノシケキハマベヲ》と人丸の歌にもありき、君シのし〔右○〕は助語なり、右二首は織女に成てよめり、
 
萬葉集代匠記卷之八上
 
(1)萬葉集代匠記卷之八下
 
太宰諸卿大夫并宮人等宴筑前國蘆城驛家歌二首
 
宮は官を誤れり、
 
初、太宰、并官人 官を宮につくれるは誤なり
 
1530 娘部思秋芽子交蘆城野今日乎始而萬代爾將見《ヲミナヘシアキハキマシリアシキノハケフヲハシメテヨロツヨニミム》
 
交は今按マジルと點ずべきか、
 
1531 珠〓葦木乃河乎今日見者迄萬代將忘八方《タマクシケアシキノカハヲケフミレハヨロツヨマテニワスラレメヤモ》
 
〓、【幽齋本作v匣、】
 
〓の字幽齋本に依べし、玉くしげはあくと云意にあ〔右○〕もじをまうけむためなり、第十二に垂水の水のはしきやしは早しとつゞけ、白眞弓ひだの細江は引とつゞけたる例に同じ、
 
初、珠匣あしきの川を 玉くしけを明といふ心に、あといふひともしにいひかけたり。あくとも、あけとも、あかむとも、あきとも、下はうこけは、上は主下は伴なるゆへに、主にかゝれは、をのつから伴を攝する心なり
 
右二首作者未詳
 
笠朝臣金村伊香山作歌二首
 
和名集云、近江國伊香郡伊香【伊加古】郷、
 
初、伊香山 近江伊香郡なり。第三に、金村の塩津山の哥あり。角鹿の哥あり。越前へ下られける時、今の哥も、道にてよまれたる歟。もしは別時の哥歟
 
(2)1532 草枕客行人毛往觸者爾保此奴倍久毛開流芽子香聞《クサマクラタヒユクヒトモユキフレハニホヒヌヘクモサケルハキカモ》
 
ニホヒヌベクモとは色のにほふなり、萩が花摺の意なり、
 
1533 伊香山野邊爾開有芽子見者公之家有尾花之所念《イカコヤマノヘニサキタルハキミレハキミカヤトレルヲハナシソオモフ》
 
家有、【六帖云、イヘナル、官本又點同v此、】  尾花之所念、【六帖云、ヲハナシオモホユ、】
 
點の異六帖に依べし、公とは故郷の妻なり、
 
初、公之家有 きみかいへなるとよむへし。此きみといへるは、故郷に殘しをく妻をさしていへり
 
石川朝臣老夫歌一首
 
老夫は第十六仙女が歌にオキナとよみたれば今も同じく讀べし、此人の履歴未v詳、文武紀云、二年秋七月己未朔癸未、直廣肆石川朝臣小老爲2美濃守1、此小老の子などにや、
 
初、石川朝臣老夫 續日本紀云。文武二年秋七月己未朔癸未、直廣肆石川朝臣小老爲2美濃守1。此小老の子なとにもや
 
1534 娘部志秋芽子折禮玉桙乃道去※[果/衣]跡爲乞兒《ヲミナヘシアキハキタヲレタマホコノミチユキツトニコハムコノタメ》
 
秋芽子折禮、【六帖云、アキノハキヲレ、】
 
胸の句の點を思ふに子の下に手を落せる歟、或は芽の一字をば萩とよめば、子は手なりけるを誤れる歟、佐伯山于花以之哀我子鴛取而者花散鞆《サヘギヤマウノハナモタシカナシキガ○ヲシトリテハハナハチリヌトモ》と云歌の子〔右○〕の字も、彼處に(3)注せし如く手〔右○〕を誤れる歟なれば、今もなずらへて知べし、但六帖にあきのはぎをれとあれば古本も今と同じかりけるなるべければ、さらば、六帖の如く讀べし、又はアキハギヲヽレとも點ずべし、道去※[果/衣]は濱※[果/衣]山※[果/衣]の類なり、
 
初、をみなへし秋はきたをれ 芽子の下に手の字落たる歟。子の字なくてもはきとよめは、子はやかて手の字の誤にや。道ゆきつとゝは、第三に濱つとゝよみ、第廿に山つとゝよみ、家つとゝ常よむたくひに、道をゆきて歸る時のつとなり
 
藤原宇合卿歌一首
 
1535 我背兒乎何時曾旦今登待苗爾於毛也者將見秋風吹《ワカセコヲイツソイマカトマツナヘニオモヤハミエムアキカセノフク》
 
秋風吹、【官本又點、アキカセフク、】
 
於毛也者將見とは面やは見えむなり、人の面は見え來らで、あらぬ秋風のみ吹來るなり、
 
初、おもやは見えむ おもかけや見えむなり。はゝ語の助なり
 
縁達師《ヨリユキノイクサカ》謌一首
 
此人の事未v詳、今按縁達は僧の名にて師は法師の師にや、第九に碁師と云者あり、第四坂上郎女歌六首の第三にしるしと云を知僧とかけるに依に師は僧なり、
 
初、縁達師 よりゆきのいくさとあれと、おほつかなし。第九に、碁師歌なとあれは、縁達といふ僧にて、師は法師の心にやあらん
 
1536 暮相而朝面差隱野乃芽于者散去寸黄葉早續也《ヨヒニアヒテアサカホハツルカクレノヽハキハチリニキモミチハヤツケ》
 
上の句は第一に長皇子の暮相而朝面無美隱爾加とよませ給へる歌に既に注せり、黄(4)葉早續とは即芽子の黄葉なり、第十に秋芽の下葉の黄葉花に續げとよめるに同じ、也は助語に加へたり、
 
初、よひにあひて朝かほはつる 第一に、長《・ナカ日本紀》皇子の御哥に、よひにあひてあしたおもなみかくれにかけなかき妹かいほりせりけむとよませたまへるにおなしつゝけやうなり
 
山上臣憶良詠秋野花二首
 
目録に歌二首とあり、此に脱たるか、
 
1537 秋野爾咲有花乎指折可伎數者七種花《アキノヽニサキタルハナヲテヲリテカキカソフレハナヽクサノハナ》其一
 
指折、【幽齋本云、テヲヽリテ、】
 
手ヲヽルは指を龜むる事なれば指折とかけり、仁徳紀に桑枝をクハノキと點ぜるが如し、可伎數者とは、かきは掻にて打と云類に詞のかゝりに云付る字なり、
 
初、てをゝりて 手を妄ゝるは指をかゝむる事なれは、指折とはかけり。かきかそふれは、此かきは、打なといふ言の、よろつにそふたくひなり。第十七にも、かきかそふゝたかみ山と、家持もよまれたり
 
1538 芽之花乎花葛花瞿麥之花姫部志又藤袴朝顔之花《ハキノハナヲハナクスハナナテシコノハナヲミナヘシマタフチハカマアサカホノハナ》其二
 
是は旋頭歌なり、右と二首にて一意を盡せり、上は惣釋此は別釋の如し、此歌は第十六に詠雙六頭謌と同じく、内典の中の略頌のやうによまれたるなり、
 
初、はきの花をはな 薄のほに出たるは、鳥けたものゝ尾にゝたれは、尾花とは異名を付たるなり。此歌は旋頭哥なり。第十六に、詠雙六頭謌に、一二の目のみにはあらす五六三四さへありけり雙六のさえ。此哥とおなし躰なり。只數なとあるものを、ありのまゝによくいひのふるなり。聖教の中の略頌のことし
 
天皇御製歌二首
 
初、天皇御製歌 これは聖武天皇なり。第四にも天皇思2酒人女王1御製歌一首。八代女王献2 天皇1歌一首。此外獻2天皇1といふ哥三首あり。此卷下冬歌中にも、天皇御製歌あり。第六にもあり。これ家持のえらはれたる中にも、そのみかとなるゆへに、かくはしるせり。孝謙天皇御治世にいたりて、えらはれたるには、太上天皇といへり。心をつくへし。第三卷に、天皇御2遊雷岳1之時柿本朝臣人麿作歌。天皇賜2志斐嫗1御歌。これは古記にまかせたりと見えたり
 
1539 秋田乃穗田乎雁之鳴闇爾夜之穗杼呂爾毛鳴渡可聞《アキノタノホタヲカリカネクラヤミニヨノホトロニモナキワタルカモ》
 
(5)穗田乎雁之鳴は雁を苅に兼てよませ給へり、穗田、夜之穗杼呂、共に第四に注せるが如し、
 
初、秋の田の穂田をかりかね 穂に出たる田を刈と云かけたるなり。田を刈時分に來る鳥なれは、かくはいふなり。穂田とは、第四の十七葉、第十の四十三葉にもよめり。菅家萬葉集には、いつのまに秋穂垂らむ草とみしほといくはくもいまたへなくに。夜のほとろは夜の程なり。ろは助語なり。第四に家持哥にも、夜のほとろわか出てくれはとも、夜のほとろ出つゝくらくともよまれたり
 
1540 今朝乃且開鴈之鳴寒聞之奈倍野邊能淺茅曾色付丹來《ケサノアサケカリカネサムミキヽシナヘノヘノアサチソイロツキニケル》
 
寒、【六帖云、サムク、官本又點同v此、】
 
寒は六帖に依て讀べし、六帖に淺茅の歌に入れてあめのみかどと云へる不審なり、
 
 
太宰帥大伴卿歌二首
 
1541 吾岳爾棹牡鹿來鳴先芽之花嬬問爾來鳴棹牡鹿《ワカヲカニサヲシカキナクハツハキノハナツマトヒニキナクサヲシカ》
 
下に梅歌にも吾岳爾盛開有梅花とよまれたれば、帥の館に近く岳の有なるべし、先芽之花嬬は、芽子の開ころ鹿の馴て來て起臥す故に芽子を鹿の妻とは云ひならはせり、源氏にさを鹿の妻にすめる荻の露にもとかけり、
 
初、初はきの花つまとひに 芽子のさく頃、鹿の其萩原になれておきふしなとするゆへに、秋はきをはさほしかの妻とはいひならはせり。源氏物語にも、さをしかのつまにすめる云々
 
1542 吾岳之秋茅花風乎痛可落成將見人裳欲得《ワカヲカノアキハキノハナカセヲイタミチルヘクナリヌミムヒトモカナ》
 
腰句は風を芽の痛むやうに聞ゆれどさは見るべからず、風の速くて芽の散べく成ぬとなり、
 
三原王歌一首
 
(6)元正紀云、養老元年正月乙巳、授2無位三原王從四位下1、聖武紀云云、孝謙紀云、勝寶元年十一月、正三位、四年七月甲虎、中務卿正三位三原王薨、一品贈太政大臣舍人親王之子也、官位の昇進聖武孝謙兩紀に委見えたり、其子は小倉王、小倉王の子夏野に至て清原眞人姓を賜て右大臣と成て供奉せらる、
 
初、三原王 續日本紀元正紀云。養老元年正月乙巳授2無位三原王從四位下1。聖武紀云。天平元年三月從四位上。九年十二月壬戌從四位上御原王爲弾正尹。十二年紀云。治部卿從四位上三原王。十八年三月以從四位上三原王、爲大蔵卿。四月正四位下。十九年正月正四位上。二十年二月從三位。孝謙紀云。勝寶元年八月從三位三原王爲中務卿。同十一月正三位。四年七月甲寅中務卿正三位三原王薨。一品贈太政大臣舎人親王之子也。或記云。天武天皇−舎人親王−三原王−小倉王−夏野【賜清原姓】
 
1543 秋露者移爾有家里水鳥乃青羽乃山能色付見者《アキノツユハウツシナリケリミツトリノアヲハノヤマノイロツクミレハ》
 
胸の句はウツシニアリケリとも讀べし、移とは萬の色をおろすに水を和する意なり、後の歌にはうつしく露ともよめり、水鳥乃青羽乃山とは、上に水鳥之鴨乃羽色乃春山乃とよめるに同じ、古事記中垂仁天皇段云、故到2於出雲1拜2訖大神1還上之時、肥河之中作黒※[木+巣]橋1仕2奉假宮1而坐、爾出國造之祖、名岐比佐都美、餝2青葉山1而立2其河下1將v獻2大御食1之時、其御子【本草智和氣御子也、】詔言、是於2河下1如2青葉山1者、見v山非v山、若坐2出雲之石〓(ノ)之|曾《ソノ》宮(ニ)1葦原色許男《アシハラシコヲノ》大神(ヲ)以(テ)伊都玖《イツク》之|祝大廷乎《ハフリガオホニハカト》問賜也、此に依れば水鳥乃と云つゞきに青羽乃山とは書たれど、青葉乃山にて名所にはあらず、源氏若菜上に紫上の歌に、身に近く秋や來ぬらむ見るまゝに、青葉の山も移ろひにけりとある所に、目をとめて水鳥の青羽は色も替らぬを、萩の下葉のけしき殊なる、又夢浮橋に、小野にはいと深く茂りたる青葉の(7)山に向ひて云云、かゝれば式部は今の歌をも然ぞ意得たらし、八雲御抄に範兼抄若狹、清輔陸奥と注せさせ給へり、おのづからさる所も有ぬべし、六帖には發句をしらつゆはとて、露と山と八月との歌に出せり、又水鳥の歌に、もみぢする秋は來にけりとて、以下は今と同じきもあり、
 
初、秋の露はうつしなりけり 六帖には白露はとあり。うつしなりけりとは、よろつの色をおろすに、皆水を和する心なり。後々の歌に、うつしの露ともよめり。水鳥の青羽の山とは、此卷の上に、水鳥のかもの羽色の春山とよみ、第二十に、水鳥のかもの羽の色の青馬ともよめるかことく、山の色をいはむためなり。青羽の山とかきたれは、青羽といふは鴨の上にて、青山といへる心歟。又青羽とはかきたれとも、青葉といふ心歟。源氏物語若菜上に、紫上の哥に、身に近く秋やきぬらん見るまゝにあをはの山もうつろひにけりとある所にめをとめて、水鳥のあをはゝ色もかはらぬを萩の下葉そけしきことなる。同夢浮橋卷にいはく。をのには、いとふかくしけりたるあをはの山にむかひて云々。これらは青葉の山にいへれは、式部は此哥をもしか心得ためり。此あをはの山は名所にあらす。心みきのことし。しかるを、八雲御抄に、範兼抄若狹、清輔陸奥と注せさせたまへり。河海抄には、清輔説に陸奥、あるひは尾張といへり。をのつからさる所もなとかなからん
 
湯原王七夕歌二首
 
次の市原王七夕歌と共に、などか憶良の十二首に繼て載られざりけむ、六帖にはゆげのわうとあり、不審なり、
 
1544 牽牛之念座良武從情見吾辛苦夜之更降去者《ヒコホシノオモヒマスラムコヽロユモミルワレクルシヨノフケユケハ》
 
從情、【官本又云、ココロヨリ、】
 
初、ひこほしのおもひますらん 念座とかきたれは、おもひましますらむなり。念増にはあらす。心ゆもは心よりもなり。俗にましよりからよりといふ事有。ましよりは於似《ヨリモ/\》、からよりは自從《ヨリヨリ》。これらのわかちなれと、文章を見れは、自從はましよりにも通するにや。みるわれくるしは、俗にやむめよりみるめといふにおなし
 
1545 織女之袖續三更之五更者河瀬之鶴者不鳴友吉《タナハタノソテツクヨルノアカツキハカハセノタツハナカストモヨシ》
 
袖續とは袖をかはすなり、三更はヨヒと讀べきか、
 
初、たなはたの袖つくよひ 袖續とは、たかひの袖をかはして枕とする心なり。眞玉手の玉手さしかへとよめるにおなし
市原王七夕歌一首
 
1546 妹許登吾去道乃河有者附目緘結跡夜更降家類《イモカリトワカユクミチノカハノアレハヒトメツヽムトヨソフケニケル》
 
(8)附目は、今按附をヒトと點ぜる事意得がたし、假令ひとめとよまるべくとも人目をつゝむ事は川のありなしによる事ならねば意も亦叶ひ侍らずや、第二十云、保利江己具伊豆手乃船乃可治都久米《ホリエコグイツテノフネノカチツクメ》、於等之姿多知奴美乎波也美加母《オトシバタチヌミヲハヤミカモ》、此都久米と同じくツクメと讀べきか、さて可治都久米とは、袖|衝《ツク》鐙衝などよめる如く水の梶に衝を云歟、然らば今附目とは假てかけるか、若又今かけるやうに附て意得ば第十二に、浦回榜能野舟附とよめり、舟の附く岸際は片淵にいと深くなどあれば、おぼつかなくに瀬踏を爲かねて夜をふかすとよまれたる歟、緘結も假字にてつゝしむ意なるべし、梶つくめは梶を取てつく意と云べし、此歌は牽牛の意なり、
 
初、いもかりとわか 河のあれはといふをうくれは、下の句の初をひとめつゝみとゝよみて、堤によすへきにや。古今集に、おもへともひとめつゝみの高けれは川とみなからえこそわたらね。これをおもふへし。附の字に人の訓あること心得かたし
 
藤原朝臣八束歌一首
 
1547 棹四香能芽二貫置有露之白珠相佐和仁誰人可毛手爾將卷知布《サヲシカノハキニヌキヲケルツユノシラタマアフサワニタレノヒトカモテニマカムチフ》
 
此は旋頭歌なり、初の三句は芽の露を鹿のしわざのやうによまれたるは下の意を立むとてなり、相佐和仁とは第十一に、開木|代《シロノ》來|背若《セノワカ》子欲云余、相狹丸|吾《ワレヲ》欲云|開木代來背《ヤマシロノクセ》、此二首を引合て按ずるに、非分の物を押て領せむとする意をあふさわと云なるべし、(9)手爾將卷知布とは手にまかむと云なり、
 
初、あふさわに あふことのおほき心なりといふ説は用へからす。逢多《アフサハ》といりほかに心得たり。かんなもそれは|さは《多》なり。こゝには佐和とかけり。第十一の旋頭哥にも、山しろの、くせのわかこか、ほしといふわれ。相狭丸《アフサワ》に、われをほしといふ。山しろのくせとよめり。又第四に、われもおもふ人もわするな多奈和丹《オホナワニ》うらふく風のやむ時なかれ。此おほなわは、大繩といふ心ときこえたり。俗に道のほとのとほさちかさをいふに、丈尺をもてもきはめす、おほよそいかはかりといふほとの事を、大なわてなといふ。その心なるへし。このあふさわは、又かのおほなわとおなし詞にて、大かたにといふ心なるへし。そのゆへは、あふとおほとは、ともにおなし五音なり。なとさとは同韵にて通せり。例證をいはゝ、伊勢物語に、あふな/\おもひはすへしなそへなくたかくいやしきくるしかりけりといふ哥あり。源氏物語をとめに、おほな/\かはらけ取たまへるを云々。胡蝶に宮大將はおほな/\なをさりことをうち出たまふへきにあらす。此抄に彼伊勢物語のあふな/\とおなしくて、ねんころなる心といへり。をとめにはつゝしみたる心なりと尺せり。あふな/\とかけると、おほな/\とかけると、おなしといへは、おほなわあふさわかならすおなしかるへし。手にまかんちふは、手にまかんといふなり。登以反知なれは、ちふといふへきを、聞ところのよろしからねは、後は二四相通して、※[氏/一]布《テフ》とのみいへり
 
大伴坂上郎女晩芽子歌一首
 
1548 咲花毛宇都呂波※[厭のがんだれなし]奥手有長意爾尚不如家里《サクハナモウツロハウキヲオクテナルナカキコヽロニナヲシカスケリ》
 
咲花毛とは世上を懸て云、ウツロハウキヲとは移ろはまうきをなり、奥手ナル長キ意とは、晩稻を於久天《オクテ》と云も今の如く奥手と云意なり、第九に左手乃吾奥手とよめるは左の肱|臂《ヒチ》なり、袖に隱れて長ければ此より出る詞にやと思へど、つら/\按ずれば稻に早稻と晩稻と中手と云稻あれば、手は物によくそへて云詞にや、初芽子などは早く盛過て移ろはまうきを、遲きは憑もしき所有て勝れりとよめるなり、
 
初、さく花もうつろはうきを うつろはまうきをなり。おくてなるなかき心とは、いねのおそきをおくてといへは、よろつの草木も、をくれて花咲なとするを、奥手といふといへり。さも有へし。思ふにおくてといふは、第九に、わきもこはくしろにあらなんひたり手のわか奥の手にまきていなましを。此奥の手とよめる心なり。肘《カイナ》の袂よりおくにかくれたる所を、おくの手といふ。なかき心とつゝくるも、袖より出る所はみしかく、袖にかくれたる所は長けれは、奥手なるなかき心とよめるとそ聞えたる。世に秘蔵する物を、常はかくしをきて、今はとあらん時用むとするを、奥の手にたくはふるといふも、いにしへよりある詞のゝこれるなるへし
 
 
 
 
 
典鑄正紀朝臣鹿人至衛門大尉大伴宿禰稻公跡見庄作歌一首
 
職員令云、典鑄司正一人、掌d造2鑄金銀銅鐡(ヲ)1塗2飾瑠璃1【謂火齊珠也、】玉作及工戸戸口名籍(ノ)事u云云、
 
初、典鑄正《イモシノカミ》 令義解云。寶亀五年併(ス)2内匠寮(ニ)1【私云、後考v紀不v載。此等注後人加之也。】職員令云。典鑄司正一人掌d造2鑄(シ)金銀銅鐡(ヲ)1塗2餝(スルコトヲ・シ)瑠璃(ヲ)1【謂火齊珠也。】玉|作《スリ》及工戸戸口名籍(ノ)事(ヲ)u。佑一人。大令史一人。少令史一人。雜工部十人。使部十人。直丁一人。雜工戸、衛門大尉《・ユケヒノオホイマツリコトヒト》 跡見庄 延善式第九、神名上云。大和國添下郡登彌神社。神武紀云。戊午年十有二月葵巳朔丙申(ノヒ)、皇師逐(ニ)撃2長髓彦(ヲ)1連(リニ)戰(テ)不v能2取勝《カツコト》1時(ニ)忽然《タチマチニ》天陰《ヒシケテ》而|雨氷《ヒサメフル》。乃有(テ)2金色靈鵄《コカネノアヤシキトヒ》1飛來(テ)止(レリ)2于|皇弓之《ミ ノ》弭《ハスニ・ユハス》1。其鵄|光曄〓状《テリカヽヤキテ》如(シ)2流電《イナヒカリノ》1。由(テ)v是(ニ)長髄彦(カ)軍(ノ)卒《ヒトヽモ》皆迷(ヒ)眩《マキエテ》不2復(タ)力《キハメ》戰(カハ)1。長髄(ハ)是(レ)邑(ノ)之本(ノ)號(ナリ)焉。因(テ)亦以爲2人(ノ)名(ト)1。及(テ)2皇《ミ》車之得(ルニ)2鵄(ノ)瑞《ミツヲ》1也、時(ノ)人仍(テ)號2鵄(ノ)邑1。今云(ハ)2鳥見《トミト》1是|訛《ヨコナマレルナリ》也。しかれは、もとはながすねむらなるを、あらためてとびのむらといへるが、よこなまりて、とみのむらといひなせるなり
 
1549 射目立而跡見乃岳邊之瞿麥花総手折吾者將去寧樂人之爲《イメタテヽトミノヲカヘノナテシコノハナフサタヲリワレハモテイナムナラヒトノタメ》
 
此歌旋頭歌なり、一二の句は射目人をたてゝ獣の跡を見るとつゞけたり、總手折はふ(10)さやかに多く手折なり、第十七にも布佐多乎里家流乎美奈敝香物《フサタヲリケルヲミナヘシカモ》とよめり、うつぼ物語國ゆづりに、所々よりをかしき物どもふさにたてまつれ給へり、同初秋に、北の方きぬあやふさにとうで得させ奉り給ふ、大和物脂に在原滋春がをふさのうまやにてよめる歌、わたつうみと人や見るらむ逢事の、涙をふさに泣つめつれば、
 
初、いめたてゝとみの岳への いめ人をたてゝ、あとをみるといふ心につゝけたり。いめ人は、かりする時に、しゝのかよひ來、あるひはおち行かたをみせしめむために、節析にまぶしなとさして、ぬはれふして、うかゝはしむるものをいへり。しゝのもれ行跡をとめてもみれは、それが名《・射目》をすなはちあとみともいへり。第六赤人の哥に、みよしのゝあきつのをのゝ、野上にはあとみすゑをきて、み山にはせこ立わたりなとつゝけよめり。第九にいめ人のふしみの田井とつゝけたるも此こゝろなり。第十三にも、高山のみねのたをりにいめたてゝしゝまつかことゝもよめり。左傳曰。迹人來告【主v迩《・迹歟》《タツヌルコトヲ》2禽獣(ヲ)1者】曰。逢澤有2介糜1焉。ふさたをりはふさやかにたをるなり。うつほ物語國ゆつりの卷に云。ところ/\よりおかしきものともふさにたてまつれたまへり。同初秋に、北のかたきぬあやふさにとうてえさせ奉りたまふ。大和物語に、在原滋春が、をぶさのむまやにてよめる哥
  わたつうみと人や見るらんあふことのなみたをふさになきつめつれは
枕草紙にいはく、ゆつるはのいみしうふさやかにつやめきたるは云々。源氏物語空蝉に、かみはふさやかにてなかくはあらねとゝいへり。此集第十七、家持哥に、秋の田のほむき見かてりわかせこかふさたをりけるをみなへしかも。第十四東哥に、あさをらををけにふすさにうますともあすきせざめやいさゝをとこにとよめる、ふすさもふさなり。田の穂に出るをふさなるといふもこれにおなし。又俗にふさ/\と物もくはぬなといふもおなし詞なり
 
湯原王鳴鹿歌一首
 
1550 秋芽之落乃亂爾呼立而鳴奈流鹿之音遙者《アキハキノチリノマカヒニヨヒタテヽナクナルシカノコヱノハルケサ》
 
市原王歌一首
 
1551 待時而落鐘禮能雨令零収朝香山之將黄變《トキマチテオツルシクレノアメヤミテアサカノヤマノウツロヒヌラム》
 
雨令零收、【官本又云、アメヤメテ、】  朝香山、【校本、幽齋本並朝上有2開字1、】
 
落は今按フレルと讀べし、鐘禮は集中かやうにかける所多し、調子の中に黄鐘をわうしきと云類故ある事なるべし、雨令零收は今の點令の字に叶はず、アメヤメテと讀べし、朝香山は、第十六に影副所見山井《カケサヘミユルヤマノヰ》とよめる處の安積香山《アサカヤマ》は陸奥にて遙なれば由もなくよまるべからねば何處ぞや、第十一に朝香方山越置代《アサカカタヤマコシニオキテ》とよめるは第十四に安齊(11)可我多志保悲乃由多爾《アサカカタシホヒノユタニ》とよめると同じ處歟、此等歌後注云、以前歌詞未(タ)v得勘2知國土山川之名1也とあれば、東國の内ながら某國にありとは知られざりけるなり、然れば市原王東國の任など有て此歌を讀たまはゞ、撰者それに依ても某國なりと知らるべきを、然らねば、彼安齊可我多とよめる處にもあらざるなり、朝の上に開の字有る本に依らばケサカタ山ノと讀べきか、唐韓〓が仙遊觀に題せし詩に、風物凄々(トシテ)宿雨收、將黄變は今按モミヂシヌラムと點じ改たむべし、其故は青葉よりいへば色附はうつろふなれど、紅葉の色のさむるを移ろふと云へば、移ろふは紅葉を賞する詞にあらねばなり、其上此下并に第十にも黄變とかきてモミヅとよめり、唯下の右大臣橘家宴歌云、芽子乃下葉者黄變可毛、此をウツロハムカモと點ぜれど、それももみぢせむかもとも、もみぢつるかもともよまむに難あるべからず、
 
初、時まちておつるしくれ 落の字なれは、ふれるともよむへし。しくれは此集に文字なし。和名集云。〓雨、小雨也、之久禮。雨令零收、これをはあめやめてとよむへし。やみてとあるは誤なり。韓〓(カ)題(スル)2仙遊觀(ニ)1詩(ニ)曰。風物凄々(トシテ)宿雨收(マル)。此朝香山はいつくそや。もし市原王も陸奥に下りたまへる歟。將黄變はもみちしぬらんともよむへし
 
湯原王蟋蟀歌一首
 
1552 暮月夜心毛思努爾白露乃置此庭爾蟋蟀鳴毛《ユフツクヨコヽロモシノニシラツユノオクコノニハニキリ/\スナクモ》
 
心毛思努爾は物を思ふ心もしげりと云を露の滋きに兼たり、
 
初、夕つくよ心もしのに しのは繁の字にて、しけきなり。物おもふ心のしけきを、やかて露のしけきにあはせていへり
 
衛門大尉大伴宿神稻公歌一首
 
(12)1553 鐘禮能雨無間零者三笠山木末歴色附爾家里《シクレノアメマナクシフレハミカサヤマコスヱアマネクイロツキニケリ》
 
マナクシのし〔右○〕は助語なり、ヒマナクフレバとも點ずべし、木末もコヌレとも讀べし、
 
大伴家持和歌一首
 
稻公が歌のかへしなり、
 
1554 皇之御笠乃山能黄葉今日之鐘禮爾散香過奈牟《オホキミノミカサノヤマノモミチハヽケフノシクレニチリカスキナム》
 
初、おほきみの御笠の山 天子も笠をめしたまふことあれは、それを御笠とたふとふ心につゝけたり。神功皇后紀云。戊子皇后|欲《オホシテ》v撃(ント)2熊襲(ヲ)1而自2橿日(ノ)宮1遷2于松(ノ)峽《ヲノ》宮(ニ)1。時(ニ)飄風《ツムシカセ》忽(ニ)起(テ)御笠|墮《・隨歟》風《フケヲトサレヌ》。故時人號(テ)2其處(ヲ)1曰2御笠(ト)1也。これは筑前國三笠郡を名付ることのよしなり
 
安貴王歌一首
 
1555 秋立而幾日毛不有者此宿流朝開之風者手本寒母《アキタチテイクカアラネハコノネヌルアサケノカセハタモトサムシモ》
 
腰句の者の字は以前より云が如し、次の歌も同じ、此歌拾遺、朗詠及び詠歌大概等にいくかもあらねどたもとすゞしもとて變じて初秋の意となれり、
 
初、秋たちていくかもあらねは いくかもあらぬにいくかもあらねとゝいはむかことし。次の哥もおなし
 
忌部首黒麻呂歌一首
 
1556 秋田苅借廬毛未壤者鴈鳴寒霜毛置奴我二《アキタカルカリイホモイマタコホタネハカリカネサムシシモヽオキヌカニ》
 
未壤者、【官本又云、イマタコホレネハ、】
 
(13)壤は壞を誤れり、改むべし、
 
初、壤は壞の宇の誤なり
 
故卿豐浦寺之尼私房宴歌三首
 
卿は郷に作るべし、豐浦寺は大和國高市郡にあり、持統紀云元年十二月丁卯朔乙酉、奉爲天渟中原瀛眞人天皇設2無遮大會於五寺1、大宮、飛鳥川原、小墾田、豐浦、坂田、光仁紀童謠云、葛城寺前在、豐浦寺西在云云、推古紀云、冬十二月壬申朔己卯、皇后即2天皇位於豐浦宮1、又云、十一年冬十月己巳朔壬申、遷2于|小墾田《ヲハリタノ》宮1、かくあれば皇居の後に寺となれるなるべし、或者元興寺と思へるは非なり、持統紀の五寺に飛鳥寺豐浦寺別なり、
 
初、故郷豊浦寺 持統紀云。十二月【天武十五年】丁卯朔乙酉奉2爲天渟中原瀛眞人天皇(ノ)1設2無v遮大會《カギリナキヲカミヲ》於五寺(ニ)1。大宮(ノ)飛鳥、川原、小|墾《ハリ》田、豊浦、坂田。光仁紀云。又甞(テ)龍潜之時(ノ)童謠《ワサウタニ》曰。葛城寺乃前|在《ナリ》也、豊浦寺乃西在也云々。豊浦は推古天皇の都を立させたまひて、豊浦宮と申ける所なり。奈良は此時の都なれは藤原宮の方を故郷といへり
 
1557 明日香河逝回岳之秋芽于者今日零雨爾落香過奈牟《アスカカハユキヽノヲカノアキハキハケフフルアメニチリカスキナム》
 
秋芽子者、【校本、幽齋本共無v子、】
 
逝回岳は今岡寺ある所とぞ、
 
右一首丹比眞人國人
 
第三に筑波岳に登て歌よめる人なり、
 
1558 鶉鳴古郷之秋芳子乎思人共相見都流可聞《ウツラナクフリニシサトノアキハキヲオモフヒトヽチアヒミツルカモ》
 
(14)古郷之、【六帖云、フルキミヤコノ、】
 
思をホモフと點ぜるは書生の誤なり、思人共とは中よくて相思人どちなり、新拾遺に胸句を磐余の野邊のと云ひ、下句を思ふ人とも見つる今日哉とあるは朗詠集にあると同じ、定めて此歌の異なるべし、
 
初、鶉なくふりにしさとの 野とならは鶉となりて啼をらんとよみて、鶉は人めなき野にすむ物なれは、此集にも、第四第十一第十七なとに、おなし體によめり。倭漢朗詠集に、鶉なくいはれのをのゝ秋はきをおもふ人ともみつるけふかなとあるは、此哥にこそ。故郷豊浦寺なれは、鶉なくふりにしさとゝはいへり
 
1559 秋芽子者盛過乎徒爾頭刺不搖還去牟跡哉《アキハキハサカリスクルヲイタツラニカサシニサヽテカヘリナムトヤ》
 
不搖、【校本搖作v挿當v據v此、】
 
初、かさしにさゝて 不搖は不插にもや
 
右二首沙彌尼等
 
大伴坂上郎女跡見田庄作歌二首
 
1560 妹目乎始見之埼乃秋芳子者此目其呂波落許須莫湯目《イモカメヲミソシサキノアキハキハコノツキコロハチリコスナユメ》
 
始見之埼乃、【六帖云、ミソメノサキノ、幽齋本同v此、】
 
妹が目を見そむると云意につゞけたり、之の字の點今の本誤れり、六帖に依べし、ミソメノ埼、跡見庄に有歟、按始見は見始を書生倒に寫せるにや、秋芽をめづらしく見初る意になして、此月比は散越なと云へり、月を誤て目に作れり、
 
初、いもかめをみそめかさき 妹をみそむるとつゝけたり。月誤作v目
 
(15)1561 古名張乃猪養山爾伏鹿之嬬呼音乎聞之登聞思佐《フナハリノヰカヒノヤマニフスシカノツマヨフコヱヲキクカトモシサ》
 
古名張、【校本古作v吉、】
 
古は誤れり、吉に作れるに從ふべし、ヨナバリと讀て地の名なる事第二の挽歌の中の穗積皇子の御歌に注せしが如し、
 
初、吉名張のゐかひの山 吉を誤て古に作れり。ふなはりの猪かひの岡と、穗積皇子のよませたまへる第二卷の哥に委注せり。聞がともしさは、あかぬ心にたらすおもふなり
 
巫部麻蘇娘子鴈歌一首
 
1562 誰聞都從此間鳴渡鴈鳴乃嬬呼音乃之知左寸《タレキヽツコユナキワタルカリカネノツマヨフコヱノユクヲシラサス》
 
從此間、【幽齋本云、コヨ、】  之知左寸、【校本、幽齋本並寸作v守、】
 
發句は誰が聞つるの意なり、之をユクヲと點ぜるは詞弱く聞ゆ、ゆくへにて之方なりけむ方の字の失たるか、さらずともユクヘと讀付べし、
 
初、誰きゝつは誰か聞つるなり 之の字ゆくへとよむへき歟
 
大伴家持和歌一首
 
1563 聞津哉登妹之問勢流鴈鳴者眞毛遠雲隱奈利《キヽツヤトイモノトハセルカリカネハマコトモトホククモカクルナリ》
 
此贈答二首は、第十夏歌に霍公鳥をよめる問答あり、家持は殊に彼答歌に擬してよまれたりと見えたり、妹之はイモがと讀べし、彼處《カシコ》君之問世流とあるをキミガと點ぜり、
 
(16)日置長枝娘子歌一首
 
六帖にはひおきのながきがむすめとあれど、日置は氏、長技はながえ歟、ながきにもあれ、女の名娘子は郎女の類なり、和語は乎登米、伊良豆女なり、音にも讀べし、女王、郎女、後の集には音を用たり、凡前後女の作者の名此に准らふべし、
 
1564 秋付者尾花我上爾置露乃應消毛吾者所念香聞《アキツケハヲハナカウヘニオクツユノケヌヘクモワレハオモホユルカモ》
 
秋付者は此より後あまたよめり、秋に至ればの意なり、第十五に海路にて、於伎爾也須麻牟伊敝都可受之弖とよみ、又歸來る道にては伊敝都久良之母とよめるに准らへて知べし、第十に、秋田之穗上爾置白露之と云歌の下句今と同じ、
 
大伴家持和歌一首
 
1565 吾屋戸乃一村芽子乎念見爾不令見殆令散都類香聞《ワカヤトノヒトムラハキヲオモフコニミセテホト/\チラセツルカモ》
 
吾屋戸乃、【別校本、幽齋本並云、ワカヤトノ、】  令散、【官本又云、チラシ、】
 
乃をヲ〔右○〕と點ぜるは寫生の誤なるべし、此和の意は、娘子が歌に、尾花の露によせてけぬべく思ほゆると讀て贈れば、我宿の一村萩の上は尾花よりも露滋くて、君を思ふ我心(17)と共に打しをれたりしを、惜くも我心もかくなむあると表して見せずして徒に散らせて見すべからず、心のみ獨打しをれて有となり、
 
大伴家持秋歌四首
 
1566 久堅之雨間毛不置雲隱鳴曾去奈流早田鴈之哭《ヒサカタノアマヽモホカスクモカクレナキソユクナルワサタカリカネ》
 
不置はオカズなるをホカスと點ぜるは寫生の失錯なり、早田鴈之哭は古事記下云、阿麻※[こざと+施の旁]乎加流乃袁登賣《アマタヲカルノヲトメ》云々、今は苅と鴈とを兼、彼は苅を輕にかけたり、
 
1567 雲隱鳴奈流鴈乃去而將居秋田之穗立繁之所念《クモカクレナクナルカリノユキテイムアキタノホタチシケクシソホモフ》
 
繁之所念、【六帖云、シケクシオモホユ、】
 
將居はヰムと點ずべし、落句は六帖に依べし、之は助語なり、
 
1568 雨隱情欝悒出見者春日山者色付二家利《アマコモリコヽロユカシミイテミレハカスカノヤマハイロツキニケリ》
 
欝悒はイブセシとも讀べし、第十に二首今の下句と同じ歌あり、
 
1569 雨晴而清照有此月夜又更而雲勿田菜引《アメハレテキヨクテラセルコノツキヨマタサラニシテクモナタナヒキ》
 
雨晴而、【幽齋本晴作v※[目+齊]、】  照有、【別校本云、チリタル、】
 
(18)右四首天平八年丙子秋九月作
 
天平十二年より内舍人とかゝれたるを以て思ふに、延喜式に廿一歳以上内舍人に補すと見えたれば、此歌よまれたるは廿歳の内なり、又此等の注の委しきは家持私撰の證なり、
 
藤原朝臣八束歌二首
 
1570 此間在而春日也何處雨障出而不行者戀乍曾乎流《コヽニアリテカスカヤイツツコアマサハリイテヽユカネハコヒツヽソテル》
 
此歌には秋の意なきやうなれど、次の歌と二首にて意を盡す歌なれば、戀ツヽゾヲルとは黄葉する山の事なれば此に列ねたり、六帖に夜ひとりをりと云に入れたるは隨義轉用の意歟、夜の意もなきを若は落句を相聞と見誤れる歟、發句をこのまにてと載たるも在の字を忘たり、
 
1571 春日野爾鐘禮零所見明日從者黄葉頭刺牟高圓乃山《カスカノニシクレフルミユアスヨリハモミチカサヽムタカマトノヤマ》
 
大伴家持白露歌一首
 
六帖には薄の歌として作者をいはず、
 
(19)1572 吾屋戸乃草花上之白露乎不令消而玉爾貫物爾毛我《ワカヤトノヲハナカカウヘノシラツユヲケタステタマニヌクモノニモカ》
 
をばなを草花とかける事下の阿倍虫丸の歌.第十第十六にも見えたり、
 
大伴利上歌一首
 
利上は、利は村を書誤まりて村上が歌なるべし、
 
初、大伴利上 大伴村上なるへし。利は村の字の誤なるへし。目録は後人の所爲とみゆれは、こゝにおなしきもことはりなり大伴利上歌 利疑村字訛
 
1573 秋之雨爾所沾乍居者雖賤吾妹之屋戸志所念香聞《アキノアメニヌレツヽヲレハヤシケレトワキモカヤトシオモホユルカモ》
 
雖賤は雖遠をとほけともと云古語に例してイヤシケドと讀べし、屋戸志の志は助語なり、
 
初、雖賤 やしけれとゝあるは、いやしのいもしのおちたる歟。もとより上掠歟。我領したる妹がやとなれは、卑下していへり
 
右大臣橘家宴歌七首
 
1574 雲上爾鳴奈流鴈之雖遠君將相跡手回來津《クモノウヘニナクナルカリノトホケレトキミニアハムトタモトホリキツム》
 
雖遠は次上に云が如くとほけどもと讀べし、初の二句は此を云はむためながら、鴈は友を思ふ鳥なれば其よせあり、
 
1575 雲上爾鳴都流鴈之寒苗芽子乃下葉者黄變可毛《クモノウヘニナキツルカリノサムキナヘハキノシタハヽウツロハカモ》
 
黄變可毛は上に云如くモミヂセムカモとも讀べし.
 
(20)右二首
 
此下に作者の名落たるにや、
 
初、右二首 此下に作者の名をゝとせりと見えたり
 
1576 此岳爾小牡鹿履起宇加?良比可聞可開爲良久君故爾許曾《コノヲカニヲシカフミオコシウカネラフカモカクスラクキミユヘニコソ》
 
宇加?良比は窺《ウカヽ》ひねらふなり、第十にうかゞふを窺良布《ウカヽラフ》ともよめり、推古紀に間諜者をウカミヒトと點じ、天武紀に候の字をウカミと點ぜるもうかゞひ見る者を云へば、うかは窺、みは見なり、小牡鹿を履起してうかゞひねらふと云へるを仙覺うかは大鹿なりと釋せられたるは大きに誤なり、可聞可開爲良久は、今按開けケ〔右○〕とこそ點ずべけれ、ク〔右○〕と和點すべきにあらねば此も亦聞なるを誤て開に作れる歟、可聞可聞はかもかくもにて今のともかくもなり、此集には左右をかにかくにとよみたれば、鹿をねらふ者の左に顧右に顧る如く、とにもかくにも君故にこそすれと何事も右大臣殿に身を任せたる意をよめる歟、第六に奥津借島おきまへて我思ふ君とよめるも同宴の日の歌なりき、又可聞可開爲良久は第七に鴨翔所見《カモカケルミユ》と讀たれば今も急て馳せ射るを鴨翔爲《カモカケス》ると云へるにや、
 
初、うかねらひ うかゝひねらひなり 第十には、うからふとみる山雪とよめり。すなはち窺良布とかきたれは、うかゝふなり。推古紀云。九年秋九月辛巳朔戊子、新羅之|間諜者《ウカミヒト》迦摩多到2對馬(ニ)1。則捕(ヘテ)以貢(ツル)之。流2于上野(ニ)1。これ此國のやうを見せむとて、かなたよりおこせたるなれは、うかゝひみる人といふ心にうかみひとゝいへり。天武紀云。或有v人奏(シテ)曰。自2近江(ノ)京1至(マテ)2于倭(ノ)京(ニ)1處々(ニ)置v候《ウカミヲ》。これも推古紀の心におなし。斥候を、後々はものみといへと、ふるくうかみといへるが、古語なるへし。伺候も窺※[穴/兪]も和訓はおなしけれと、伺候は氣色をうかゝふにておほやけなり。窺※[穴/兪]にはわたくしの心有。かもかくすらくは、しかをねらふとて、かなたこなたへ、とかくするなり。君ゆへにこそは、君かためにこその心なり。此對馬朝臣は、ことに右大臣を頼ける人にや。第六に天平十年秋八月二十日右大臣の宴席にてよまれたる哥
  長門なるおきつかりしまおくまへてわかおもふ君はちとせにもかも
長門守なるか、大帳なとをもちてのほられける時なるへし。今も七首の終の注をみるに、第六にあると同日の哥なり。此集には、今の世、ともかくもといふを、かもかくもといへり。かもかくすらくもこれなり
 
右一首長門守臣曾倍朝臣津島
 
巨を誤て臣に作れり、
 
初、巨曾倍 巨作v臣誤。津島、第六には津島
 
(21)1577 秋野之草花我末乎押靡而來之久毛知久相流君可聞《アキノノヽヲハナカスヱヲオシナヘテコシクモシルクアヘルキミカモ》
 
押靡而、【幽齋本云、オシナミテ、】
 
來シクモは來しもなり、久は助語なり、第七に玉拾之久とよめるが如し、尾花が露を分て來し志の程もいちじるく君にあへるとなり、弟十、七夕歌に、天漢渡湍毎思乍、來之雲知師|逢有久《アヘラク》念者とよめる同意なり、六帖に尾花が末を掻分て來つるもしるくとて、打來てあへると云戀の歌とせるは隨義轉用の意なり、
 
初、こしくもしるく こしもしるくなり。あへる君かもとは、まらうとによくあひしらふなり
 
1578 今朝鳴而行之鴈鳴寒可聞此野乃淺※[草がんむり/弟]色付爾家類《アサナキテユキシカリカネサムミカモコノノヽアサチイロツキニケリ》
 
今朝、【官本又點、並別校本云、ケサ、】  家類、【官本云、ケル、】
 
始め終り各二字の點、今の本は書生の誤れるなるべし、
 
右二首阿倍朝臣蟲麻呂
 
1579 朝霧開而物念時爾白露乃置有秋芽子所見喚鷄本名《アサトアケテモノオモフトキニシラツユノオケルアキハキミエツヽモトナ》
 
物念時爾は第十五に、多婢爾之弖毛能毛布等吉爾、又安麻其毛理毛能母布等伎爾など(22)あるに准じて、讀べし、白露のおける芽の由なり、見ゆるとは露に靡きたるがしなえうらぶれたる思ひを添る意歟、喚鷄は第十三の三十葉にもかけり、今の人?を呼て餌《エ》など食するには登々と申ぬるを昔は津々と呼ける歟にて、此|謎《ナゾ》のやうなる義訓はあるなるべし、
 
初、みえつゝもとな もとなはよしなゝり。喚※[奚+隹]は、にはとりをよふに、俗にとゝといふ。むかしはつゝといひてや、その義にてかけりけむ
 
1580 棹牡鹿之來立鳴野之秋芽子者露霜負而落去之物乎《サヲシカノキタチナクノノアキハキハツユシモオヒテチリニシモノヲ》
 
露霜は第二第七等に注せしが如し、
 
右二首文忌寸馬養
 
元正紀云、靈龜元年四月癸丑、詔壬申年功臣贈正四位上文忌寸禰麻呂【天武紀云、書首根麻呂、】息正七位下馬養等一十人賜v田(ヲ)各有v差、聖武紀云、天平九年九月己亥、從七位上、【按從當v作v正、】文忌寸馬養等授2外從五位下1、十二月丙寅、授2外從五位上1、十年閏七月、主税頭、かゝれば此時外從五位上主税頭なり、孝謙紀云、寶字二年八月朔、授2從五位下1、猶聖武孝謙兩紀の間に見えたり、桓武紀云、延暦十年四月戊戌、左大史正六位上文忌寸|最弟《ハツヲト》播磨少目正八位上武生連眞象等言、文忌寸等元有2二家1、東文稱v直、西文(ヲ)號v首相比行v事(ヲ)、其|來《アリクルコト》遠(シ)焉、今東文擧v家既登2宿禰1、西文漏v恩猶沈2忌寸1、最弟等幸逢(23)明時1不v蒙2曲察1、歴代之後申v理(ヲ)無v由、伏望同賜2榮號1永貽2孫謀1、有v勅責2其本系(ヲ)1、最弟等言、漢高帝之後曰v鸞、々(カ)之後王狗、轉至2百濟1、久素王(ノ)時聖朝遣v使(ヲ)徴2召文人(ヲ)1、久素王即以2狗(カ)孫王仁1貢焉、是(レ)又武生等(カ)之祖也、於是最弟及眞象等八人賜2姓(ヲ)宿彌1、此中に西文號首と云へるに、日本紀に書首根麻呂とあるが子なれば、馬養は河内の文氏なり、王仁が裔《ハツコ》なる事を顯さむが爲に煩はしけれど紀を具に引けり、
 
初、文忌寸馬養 元正紀云。靈龜元年四月癸丑詔2壬申年功臣贈正四位上文忌寸《河内文也下云西文號首・書首根麻呂日本紀》禰麻呂息正七位下馬養等一十人1賜v田各有v差。聖武紀云。天平九年九月己亥、從七位上文忌寸馬養等授2外從五位下1。同十二月丙寅授2外從五位上1。十年閏七月主税頭。十七年九月筑後守。孝謙紀云。寶字元年六月外從五位上文忌寸馬養(ヲ)爲2鑄錢(ノ)長官(ト)1。十二月壬子大政官奏(ニ)曰。贈正四位上文忌寸禰麻呂壬申年功田八丁。二年八月朔從五位下
延暦十年四月戊戌左大史正六位上文忌寸最弟、播磨少目正八位上|武生《タケフノ》連|眞象《マキサ》等言。文忌寸等元有2二家1。東文稱v直西(ノ)文號v首(ト)。相比行v事其來遠焉。今東文擧v言え既登2宿禰1、西文漏v恩猶沈2忌寸1。最弟等幸逢2明時1不(ハ)v蒙2曲察1歴代之後申(トモ)v理(ヲ)無(シ)v由。伏望(ラクハ)同賜2榮號1永貽(サン)2孫謀(ヲ)1。有(テ)v勅|責《モトム》2其本系(ヲ)1。最弟等言。漢(ノ)高帝之後(ヲ)曰v鸞(ト)。々之後王狗轉(シテ)至2百濟(ニ)1。久素王時聖朝遣使徴2召文人(ヲ)1。久素王即以2狗孫王仁1貫焉。是又武生等之祖也。於v是最弟及眞象等八人賜2姓宿禰1。
 
天平十年戊寅秋八月二十日
 
此第六と同じ、
 
橘朝臣奈良麻呂結集宴歌十一首
 
1581 不手折而蕗者惜常我念之秋黄葉乎挿頭鶴鴨《タヲラステチリナハヲシトワカオモヒシアキノモミチヲカサシツルカモ》
 
我念之はワガモヒシと讀べし、仁徳紀の御製歌云、阿餓茂赴菟麿珥《ワカモフツマニ》、此吾思妻珥なり、
 
1582 布將見人爾令見跡黄葉乎手折曾我來師雨零久仁《シキミムヒトニミセムトモミチヲタヲリソワカコシアメノフラクニ》
 
布將見とは重て見むなり、見ても亦見むと思ふは黄葉をすける人なり、
 
初、しきてみむ人に見せんと しきてはかさねてなり。みてもまたみむとおもふは、もみちをすける人なり
 
右二首橘朝臣奈良麻呂
 
(24)1583 黄葉乎令落鐘禮爾所沾而來而君之黄葉乎挿頭鶴鴨《モミチハヲチラスシクレニヌレテキテキミカモミチヲカサシツルカモ》
 
黄葉をちらすしぐれに沾て君が宿に來て見るも、同じ黄葉なれど情ある主人がらぞとなり、
 
初、もみちはをちらすしくれに もみちをちらすしくれにぬれて、君かやとにきてみるもおなしもみちなれとも、心ある君によりてそといふ心なり。しくれを鐘禮とは、今の人ならはえかゝし。いにしへはかゝる事おほし。黄鐘調をわうしきといふ歟。このたくひなり
 
右一首久米女王
 
聖武紀云、天平十七年正月無位久米女王授2從五位下1、
 
初、久米女王 聖武紀云。天平十七年正月無位久米女王授2從五位下(ヲ)1
 
1584 布將見跡吾念君者秋山始黄葉爾似許曾有家禮《シキテミムトワカオモフキミハアキヤマノハツモミチハニニテコソアリケレ》
 
秋山、【別校本山下有v乃、】  似許曾、【官本云、ニコソ、】
 
吾念若者はアカモフと讀べし、始黄葉に似とは見れども飽れぬ意なり、
 
初、しきてみんとわか思ふ君 しきてはさきのことし。初もみち葉に似たりとは、見れともあかぬをいへり
 
右一首長忌寸娘
 
1585 平山乃峯之黄葉取者落鐘禮能雨師無間零良志《ヒラヤマノミネノモミチハトレハチルシクレノアメシマナクフルラシ》
 
平山乃、【幽齋本云、ナラヤマノ、】
 
發句今の點誤れり、幽齋本に依べし、師は助語也、
 
右一首内舍人縣犬養宿彌吉男
(25)孝謙紀云、寶字二年八月庚子朔、正六位上縣犬養宿禰吉男授2從五位下(ヲ)1、廢帝紀云、寶字八年十月、從五位下縣犬養宿彌吉男(ヲ)爲2伊豫介1、聖武紀云、神龜四年十二月丁丑、正三位犬養橘宿禰三千代言、縣犬養連五百依安麻呂小山守大麻呂等、是一祖子孫、骨肉孔親、請共沐2天恩1、同給2宿禰姓1、詔許v之、
 
初、縣宿禰吉男 聖武紀云。神龜四年十二月丁丑(ノヒ)、正三位縣犬養橘宿禰三千代言(ス)。縣犬養(ノ)連五百依、安麻呂、小山守、大麻呂等(ハ)是一祖(ノ)子孫骨肉(ノ)孔親(ナリ)。請(フ)共(ニ)沐(シテ)2 天恩(ニ)1同給(ハム)2宿禰(ノ)姓(ヲ)1詔許(シタマフ)v之(ヲ)。孝謙紀云。寶字二年八月庚子朔、正六位上縣犬養宿禰吉男(ニ)授2從五位下(ヲ)1。廢帝紀云。寶字八年十月從五位下縣犬養宿禰吉男(ヲ)爲2伊豫(ノ)介(ト)1
 
1586 黄葉乎落卷惜見手折來而今夜挿頭津何物可將念《モミチハヲチラマクヲシミタヲリキテコヨヒカサシツナニカオモハム》
 
何物可將念とは、此上に何事をか思はむとなり、
 
右一首縣犬養宿彌持男
 
名を以て推量するに吉男が弟などにや、
 
1587 足引乃山之黄葉今夜毛加浮去良武山河之瀬爾《アシヒキノヤマノモミチハコヨヒモカウキテイヌラムヤマカハノセニ》
 
黄葉を目の前に見ながらあかぬ心にかくよめり、
 
初、足引の山のもみち葉こよひもか 山のもみちを賞翫すへき人は、此宿にあつまりて、こゝに賞すれは、山のもみちは、みる人なしに、谷川の水にちりうきてやいぬらんとおもひやるなり
 
右一首大伴宿禰書持
 
1588 平山乎令丹黄葉手折來而今夜挿頭都落者雖落《ヒラヤマヲニホスモミチハタヲリキテコヨヒカサシツチラハチルトモ》
 
令丹はにほはすなり、第十六竹取翁が歌に、遠里小野|之眞榛時丹穗之爲衣丹《ノマハキモテニホシシキヌニ》云云、落句(26)は今はちらばちるともよしとなり、
 
初、なら山をにほすもみちは にほすとは、にほはすなり。第十六竹取翁か哥にも、すみのえの遠里小野のまはきもてにほしゝきぬにこまにしきひもにぬひつけなとつゝけよめり。又にのほにきはむなとよめることおほし。ほといふは、物のそれとあらはれてみゆるをいへは、にほすといへり。にほふといふ詞も、紅より出て、後はさま/\にわたれるなるへし。ちらはちるともは、今はちりぬともよしなり。古今集に、ひとめみし君もやくるとさくら花けふは待見てちらはちらなん
 
右一首之手代人名
 
人名未v詳、之手代は、今按之は三を誤れり、聖武紀(ニ)云、從五位下大倭|御手代連《ミテシロノムラシ》麻呂(カ)女(ニ)賜2宿彌姓(ヲ)1、大倭とは三輪御事なり、神代紀下云、乃使2太玉命1以2弱肩《ヨハカヒナニ》2被2太|手襁《タスキヲ》1、而|代御手《ミテシロニシテ》以祭2此神1者始(テ)起(レリ)2於此1矣、此神とは大己貴命なれば、御手代氏は太玉命の裔にて三輪御神を祭る事をつかさどるなるべし、
 
初、之手代人名 之は三の誤なるへし。聖武紀云。從五位下大倭御手代連麻呂(カ)女(ニ)賜2宿禰(ノ)姓(ヲ)1
 
1589 露霜爾逢有黄葉乎手折來而妹挿頭都後者落十方《ツユシモニアヘルモミチヲタヲリキテイモニカサシツノチハチルトモ》
 
右一首秦許遍麻呂
 
官本遍傍書2部字1、注云v異、
 
1590 十月鐘禮爾相有黄葉乃吹者將落風之隨《カミナツキシクレニアヘルモミチハノフカハチリナムカセノマニ/\》
 
十月をかみなづきと名付る意別に注す、下句は黄葉によせてともかくも君に隨がはむの意ある歟、げにも寶字元年は躁動の時、此歌主も奈良麻呂に與せられたるは、さきより得意なりけるにや、詩歌ともに兼たる人と見ゆるを惜むべき事なり、又此歌は十月の宴なればかみなづきと讀たれど、すべては追て秋の意によめば一類して此をも(27)秋に入れたり、此下に猶此例あり、
 
初、かみな月しくれにあへる 十月を神無月といふ事、昔よりさま/\にいへと、たしかならす。皆信するにたらす。今案、これはいとやすきことなるへしとおほゆ。後撰集に、ちはやふる神にもあらぬわか中の雲井はるかになりもゆくかなとよめる神は、なる神なり。禮記月令には、仲秋之月雷始(テ)收(ム)v聲(ヲ)とありて、大かたはさる事なれとも、猶九月まてもとゝろくを、十月には聲をおさむれは、なる神のなき月といふ心ときこえたり。其證は、第十三に、かみとけのひかるみそらの長月のしくれのふれはとよめり。かみとけはかむときともいふ。霹靂とかけり。郭璞(カ)曰。雷(ノ)之急(ニ)激(スル)者(ヲ)曰2霹靂(ト)1。これ九月まても猶かみときのひかるとよめるに、十月は純陰の月にて、神もならぬゆへに、まちかき理をもて、神無月といふなるへし。諸神の出雲の國につとひたまふといふも本説なし。又陽を神として、純陰の月なれはといふは、儒家の今案なり。十月を陽月といふに付て、ある一説を五雜俎にわらへり。又月令に、仲秋之月雷始收v聲とあるも、大かたにつきて心得へし。越後の國に「久しく住けるものゝ申けるは、かの國には、冬もよのつねの夏のことく、神のなるなり。ことに雪のはしめてふらむとてはおひたゝしくなりさはくよし申き。又潮にもみちひのかはり見えすと申き。ことぢをつけたらん人は、魏文の火鼠の疑をなすへきことなり。吹はちりなん風のまに/\とは、ともかくも君にしたかはむの心なり。げにも奈良麻呂寶字元年に謀反のやうの事有し時、此哥ぬしも方人はせられける。和哥も詩文も兼たる人とみゆるを、惜むへきことなり
 
右一首大伴宿爾池主
 
孝謙紀に寶字元年の躁動を記せる處にのみ見えたり、此集第十七以下に長歌短歌多く、詩文等もある人なり、
 
1591 黄葉乃過麻久惜美思共遊今夜者不開毛有奴香《モミチハノスキマクヲシミオモフトチアソフコヨヒハアケスモアラヌカ》
 
下句の落著は明ずもあらなむなり、
 
初、あけすもあらぬか 後の哥に明すもあらなんといふ心なり。此集に此詞おほし。皆准v之
 
右一首内舍人大伴宿彌家持
 
以前冬十月十七日集於右大臣橘郷之舊宅宴飲也
 
官本に集の字なし、端作に結集宴歌と有れば有を以てよしとすべし、此歌共は天平十三年十四年兩年の間なり、其故は十三年に久邇京に定りて奈良は故郷となれるに、歌に平山とよみ、今橘卿之舊宅と云ひ、又橘卿は十五年五月に左大臣に轉ぜられけるに今右大臣とあれば、右の兩年の間の事なりとは知れり、
 
大伴坂上郎女竹田庄作歌二首
 
(28)1592 然不有五百代小田乎苅亂田廬爾居者京師所念《タヽナラスイホシロヲタヲカリミタリタフセニヲレハミヤコシオモホユ》
 
京師、【袖中抄云、ミヤコ、】
 
發句は今按袖中抄も今と同じけれど叶へりとも見えず、第五貧窮問答歌云、志可登阿良農比宜可伎《シカトアラヌヒゲカキ》撫|而《テ》云々、此初句を證としてシカトアラヌと讀べし、五百代小田とは、凡田は方六尺を以て一歩とし、三十六歩を一畝とし、十畝を一段とし、十段を一町とす、七千二歩を積て一代とし、五代を一段とす、然れば一代は二畝なり、今按一所に五百代あらば計るに十町なれば五百代小田とは云べからず、五百は必らず數を限て云にはあらず、五百重山など云如く唯多きを云詞なれば、山田の一代許なるが棚のやうに段々にいくらともなくあれば、然ともなき小田の數の一代づゝ五百許もあるをと云なるべし、小窓別記卷之三(ニ)曰、漢武帝元狩末年、下v詔曰、方今(ノ)之務(ハ)在2於力1v農、以2趙過(ヲ)1爲2捜粟都尉1、過能爲2代田(ヲ)1、一※[田+毎]三|※[田+巛]《ケン》、歳代(フ)v處(ヲ)、故曰2代田1古(ノ)法(ナリ)也、今も田家に東代西代など云ひ習へる此意にて、しろと云和語の意も、處をかへて此方の代には彼方に作り、彼方の代には此方に作る意に處を替ずして作れどさは云ひ習へるにや、片荒しなど云も此に同じき歟、但|山畑《ヤマハタ》などを然するをのみ云歟、田廬を袖中抄にたいほとよみ、近來林氏が多識篇に(29)タノイホリと點ぜるは、並に非なり、第十六河村王の歌注云、田廬者多夫世反、此に據《ヨリ》て今の點を取て定む、京師は袖中抄に依て引合てミヤコと讀べし、集中に多し、
 
初、然不有いほしろ小田を 此然不有を、たゝならすとよめるは、心得かたし。第五卷に、山下憶良の貧窮問答歌に、志可登阿良農比宜可伎撫而《シカトアラヌヒゲカキナテテ》とよめれは、今もしかとあらぬとよむへし。しかとあらぬは、はか/\しからぬを、しかともなきと今もいふ詞なり。五百代小田とは、二畝《フタセ》を代といふ。日本紀には頃の字をもしろとよめり。小窓別記卷之三曰。漢(ノ)武帝元狩末年下v詔曰。方(ニ)今(ノ)之務(ハ)在2於力(ムルニ)1v農(ヲ)。以2趙過(ヲ)1爲2捜粟都尉(ト)1。過能(ク)爲(ス)2代田(ヲ)1。一|※[田+毎]《ホ》三|※[田+巛]《ケン》歳(コトニ)代(フ)v處(ヲ)。故(ニ)曰2代曰(ト)1。古(ノ)法也。
今も田家にてきけは、東代《ヒカシダイ》(コ)西代南代北代なといふは此ゆへなり。凡田以2方六尺(ヲ)1爲2一歩(ト)1。三十六歩(ヲ)爲2一畝(ト)1。十畝(ヲ)爲2一段(ト)1。十段(ヲ)爲2一町(ト)1。積(テ)2七十二歩(ヲ)1爲2一代(ト)1。五代(ヲ)爲2一段(ト)1。孝徳紀云。凡田(ハ)長(サ)三十歩廣(サ)十二歩(ヲ)爲v段《キタト》。十段(ヲ)爲v町(ト)。段(コトニ)租稻《タチカラ》二|束《ツカ》二|把《タハリ》。町(コトニ)租稻二十二束。若山谷|阻險《サカシクテ》地《トコロ》遠(ク)人稀(ナラム)之處(ニハ)随(テ)v便(ニ)量(テ)置(ケ)。令義解第三云。凡(ソ)田長三十歩廣十二歩爲v段(ト)。十段(ヲ)爲v町(ト)。【謂段地獲2稲五十束1束稲舂得2米五升1也。即於v町者須v得2五百束1也。】段(コトニ)租稲二束二把。町租稻二十二束。【謂田賦爲v租也。】田ふせは、田をまもるふせやなり。かりほ蘆のまろやなといふおなしことなり。第十六、かるはすはたふせのもとにとある哥の注にいはく、田廬者多夫世反。第五にはふせいほのまけいほともよめり。林子か多識篇にもたふせとよむ事はしらさりけると見えて田のいほりとよめり
 
1593 隱口乃始瀬山者色附奴鐘禮乃雨者零爾家良思母《コモリクノハツセノヤマハイロツキヌシクレノアメハフリニケラシモ》
 
續古今には發句をこもりえのとて入らる、是昔より沙汰ある誤なり、草書に口を大きにかけるが江の草に似たるを、此集を考がへずして彼草書に付るなり、
 
右天平十一年巳卯秋九月作
 
佛前唱歌一首
 
誰作と云事を知らず、
 
1594 思具禮能雨無間莫零紅爾丹保敞流山之落卷惜毛《シクレノアメマナクナフリソクレナヰニニホヘルヤマヤマノチラマクヲシモ》
 
三の句以下は山の黄葉の散らむ事の惜きなり、第十の春日の山は咲にけるかもの類なり、冬讀たれど紅葉の歌なり、
 
右冬十月皇后宮之維摩講終日供養大唐高麗等種種音樂爾乃唱此謌詞彈琴者市原王忍坂王【後賜姓大原眞人赤麻呂也】歌子者田(30)口《ウタメハタノクチノ》朝臣家守|河邊《カハノヘノ》朝臣東人|置始《オイソメノ》連|長谷等《ナカタニラ》十數人也
 
維摩會を大織冠の初め給ひ、淡海公の繼給ひ、天下の大會と成れる事は孝謙紀に藤原惠美押勝の大織冠より以來相傳せる功田一百町を興福寺の維摩會の料に施入せむことを請はるゝ表に委見えたり、延喜式の内藏寮式玄蕃式等にも見え、會の濫觴等は元亨釋書に處々に委細なり、十月十日より十六日に至るまで一七日行はる、十六日を結願の日とする事は大織冠の忌辰に當ればなり、大唐は左樂、高麗は右樂なり、忍坂王は光仁紀云、天應元年九月己未(ニ)、授2無位忍坂王從五位下1、此人歟、但此時二十歳許の人にても天應には六十歳に及べば別人歟、不審なり、家守長谷は並に考る所なし、長谷はハツセなるべきにや、第二十に至て歌ある人なり、
 
初、右冬十月皇后宮之維摩講 皇后宮は光明皇后なり。維摩會は、大織冠のはしめさせたまひて、後まて名高き大會なり。孝謙紀云。寶字元年閏八月壬戌、紫微内相藤原朝臣仲麿等言。臣聞|旌《アラハシテ》v功(ヲ)不(ルハ)v朽有(ツ)v國(ヲ)之通規。思(テ)v孝(ヲ)無(キハ)v窮、承(ル)v家(ヲ)之大業(ナリ)。緬(カニ)尋(ヌルニ)2古記(ヲ)1淡海大津宮御宇皇帝(ハ)天縱(ノ)聖君聰明(ノ)叡主(ナリ)。考(カヘ)2正(シ)制|度《タクヲ》1創(メ)2立(ツ)章程(ヲ)1。于v時功田一百町(ヲ)賜2臣(カ)曾祖藤原内大臣1〓d勵壹2匡宇内(ヲ)1之|績《ワサヲ》u世々不(シテ)v絶傳(テ)至2于今1。爾(ヨリ)來(カタ)臣等因(リ)2藉(キ)祖勲(ニ)1冠蓋連v門公卿奕(ヌ)v世(ヲ)。方(ニ)恐(ルラクハ)富貴難(ク)v久(シウシ)榮華易(キコトヲ)v凋(ミ)。是(ヲ)以安(ケレトモ)不v忘v危(コトヲ)、夕(マテニ)タ(レテ)如v氏B忽有(ラハ)2不慮(ノ)之間兇徒作(スコト)1v逆(ヲ)殆傾2皇室(ヲ)1、將v滅(サント)2臣(ノ)宗(ヲ)1。未v報2先恩(ヲ)1芝蘭幾(ント)敗(ナム)。冀(ハクハ)修(メ)2冥福(ヲ)1長(ク)保(タン)2顯榮(ヲ)1。今(ニ)有(ルハ)2山階寺(ノ)維摩會1者是(レ)内大臣之所(ナリ)v起(ル)也。願主乘(ンテ)v化(ニ)三十年(ノ)間、無(シテ)v人2紹興(スルニ)1此會中(コロ)廢。乃至(テ)2藤原朝廷胤子○《贈歟》大政大臣(ニ)1傷(ミ)2構(ルカ)v堂(ヲ)之將(ニ)《・スルヲ》1v墜(ント)、歎(ク)2爲《ツクルカ》v山(ヲ)之未(タ)《・サルコトヲ》1v成(ラ)。更(ニ)發2弘誓(ヲ)1追(テ)繼2先行(ヲ)1。則以2毎年冬十月十日1始(テ)闢(キ)2勝莚(ヲ)1至2於内大臣忌辰(ニ)1終爲2講了(ト)1。此(ハ)是奉v翼(ケ)2皇宗(ヲ)1住2持(シ)彿法(ヲ)1、引2導(シ)尊靈(ヲ)1催2勸(スル)擧徒(ヲ)1者也。伏(テ)願(ハクハ)以2此功田(ヲ)1永(ク)施(コシテ)2其《・某歟》寺(ニ)1、助(テ)2維摩會(ヲ)1彌令(メンコトヲ)2興隆(セ)1。遂使内大臣之洪業(ヲ)爲2天地1而長(ク)傳、皇太后(ノ)之英聲倶(ニ)2日月(ト)1而遠(ク)照(サン)。天恩曲(テ)垂(レテ)儻《モシ》允(シタマハヽ)2臣(カ)見(ルトコロヲ)1v請(フ)、下(シテ)2主者(ニ)1早(ク)令(メン)2施行(セ)1。不v任2微願(ニ)1〇《輕※[さんずい+于]歟・脱字》聖聽。戰々兢々(トシテ)臨(テ)v深(ニ)履(ム)v薄(キヲ)。勅報曰。備(サニ)省(ルニ)2來表(ヲ)1、報徳惟深(シ)。勸學(ノ)津梁崇法(ノ)師範(ナリ)。朕與2卿等1共(ニ)植2茲(ノ)因(ヲ)1。宜(シク)《・ヘシ》d告(テ)2所司(ニ)1令c施行(セ)u。延喜式第十五、内藏省式云。凡(ソ)興福寺(ノ)維摩會(ノ)施料、調綿六百屯(ハ)寮毎v年送(レ)2彼寺(ニ)1。玄蕃式(ニ)云。凡(ソ)興福寺(ノ)維摩會(ハ)十月十日始(テ)十六日終。其聽衆九月中旬僧綱簡定、先經(テ)2藤原氏(ノ)長者(ヲ)1定(メヨ)v之(ヲ)。但專寺(ノ)僧十人(ハ)待(テ)3彼寺(ヨリ)送(ルヲ)2名簿(ヲ)1請用(セヨ)。其|竪《リフ》義者探題試v之、及第老即叙2滿位(ニ)1、省寮共(ニ)向(テ)2會庭(ニ)1行(ナヘ)v事(ヲ)。元亨釋書第十八、尼女(ノ)篇(ニ)云。法明尼(ハ)百濟(ノ)人。齊明二年内從鎌子連寢v病。百法不v※[病垂/差]《イエ》。明奏曰。維摩詰經(ハ)因(テ)v問(ニ)v病(ヲ)説2大法(ヲ)1。試(ニ)爲(ニ)2鎌子連(ノ)1讀(ン)v之(ヲ)。帝詔(シテ)讀(シム)v之(ヲ)。未(タ)v終v卷(ヲ)病即愈(ヌ)。王臣大(ニ)悦。賛曰東晋(ニ)有2尼道馨(トイフモノ)1説2維摩經(ヲ)1。聽者如(シ)v市(ノ)。尼之有v講者尚矣。而明一讀未v畢沈痾早|差《イユ》。其爲(ルコト)v効豈v不(ン)v愈《マサラ》哉。爾後淡海公於2殖槻場(ニ)1創2維摩會(ヲ)1。移2興福寺(ニ)1于v今轉盛(ナリ)。豈明(カ)之餘烈乎。資治表云。齊明天皇三年冬十月、内大臣鎌子建2山階寺(ヲ)1修(ス)2維摩會(ヲ)1。〇三年十月鎌子於2山州陶原(ノ)家(ニ)1創2山階精舍(ヲ)1設2維摩齋會(ヲ)1。維摩會自v此始(マル)。四年冬沙門幅亮講(ス)2維摩經(ヲ)于陶原(ノ)家(ニ)1。是歳呉僧元興寺(ノ)福亮赴(テ)2鎌子請(ニ)於陶原(ノ)家(ニ)1講(ス)2維摩經(ヲ)1。爾(シヨリ)來鎌子|延《ヒイテ》2海内(ノ)碩徳(ヲ)1相次(テ)講演(スルコト)凡十二年。和銅二年冬十月右僕射藤公修(ス)2維摩會(ヲ)1。十月藤公不比等屈(シテ)2淨達法師(ヲ)於植槻場(ニ)1修(ス)2維摩會(ヲ)1。禮(ナリ)也。此會中(コロ)微(ナリ)。藤公更(ニ)修(スレハ)、貴v之而書(ス)。和銅五年十月於2興福寺(ニ)1修(ス)2維摩會(ヲ)1。先(ニハ)或(ハ)陶原、殖槻數所。及(テ)2興福之建(ニ)1移(ス)焉。菅家のかゝせたまへる維摩會の縁起には、名(ハ)聞(エ)2三國(ニ)1會(ハ)留(マル)2興福(ニ)1。朝(ノ)之爲(ルハ)v朝蓋此(ノ)會(ノ)力(ナリ)と侍るとかや。釋書の壹和の傳には、天帝の記籍にもしるさるゝよし見えたり。大唐左高麗右。彈琴《コトヒキ》者。忍坂《オサカノ》王、光仁紀(ニ)云。天應元年九月己未、授2無位|忍坂《オサカ》王(ニ)從五位下(ヲ)1。後賜2姓大原眞人1。赤麻呂也。此注は桓武帝の時にくはへられける歟。又光仁紀に見えたる忍坂《オサカノ》王よりさきに同名ありけるか。長谷《ナカタニ》、はつせともよむへき歟
 
大伴宿禰像見歌一首
 
1595 秋芽子乃枝毛十尾二降露乃消者雖消色出目八方《アキハキノエタモトヲヽニオクツユノケナハケヌトモイロニイテメヤモ》
 
第十に上句全同にて下句すこし替れる歌あり、トヲヽはたわゝなり、新古今集に下句を今朝消ぬとも色に出めや
 
大伴宿彌家持到娘子門作歌一首
 
(31)第四に此端作と一字を違へざる端作有き、彼處には娘子の下に之を加へたるのみ、異なり、若此歌を讀て入れたれどつれなければ、重て彼歌をよまれたる歟、凡上の像見が歌と此歌とは秋相聞に入ぬべきにや、
 
1596 妹家之門田乎見跡打出來之情毛知久照月夜鴨《イモカイヘノカトタヲミムトウチイテコシコヽロモシルクテルツキヨカモ》
 
門田ヲ見ムトとは、事を門田に寄て實には妹を見むと來しとなるべき歟、第四に前垣のすがたとよまれたる歌思ひ合すべし、下句は月の照て門田の能見ゆれば見むと思ひて出て來し情のしるし有けるとなり、
 
大伴宿彌家持秋歌三首
 
1597 秋野爾開流秋芽子秋風爾靡流上爾秋露置有《アキノノニサケリアキハキアキカセニナヒケルウヘニアキノツユオケリ》
 
開流、【官本云、サケル、】
 
開流をサケリと點ぜるは書生の誤なり、官本に依べし、さらでも芽子をなびけて置べき露の、秋風の吹靡けたる上に痛く置意なり、
 
1598 棹牡鹿之朝立野邊乃秋芳子爾玉跡見左右置有白露《サヲシカノアサタツノヘノアキハキニタマトミルマテオケルシラツユ》
 
(32)1599 狹尾牡鹿乃※[匈/月]別爾可毛秋芽子乃散過鷄類盛可毛行流《サヲシカノムネワケニカモアキハキノチリスキニケルサカリカモイヌル》
 
※[匈/月]別は、今按第二十に左乎之加能牟奈和氣由可牟安伎野波疑波良《サヲシカノムナワケユカムアキノハギハラ》とあるを證として今の點を改てムナワケと讀べし、又第九玉名娘子をよめる歌云、胸別之《ムナワケノ》廣|吾妹《ワキモ》云云、鹿のむなさきを以て草を衝分て行を胸別とは云へり、芽子は盛りなるを鹿の胸別に依て散過たるか、鹿は胸別せねど盛の過行て散たるかとなり、
 
初、さをしかのむなわけにかも むねわけとかんなはあれと、むなわけとよむへし。第二十におなし人の哥に、ますらをのよひたてしかはさをしかのむなわけゆかむ秋の萩原。此哥に牟奈和氣とかけり。鹿はむねの出たる物なれは、胸にてつきわかるをいふなり。又第九に末(ノ)珠名娘子《タマナノヲトメ》をよめる哥に、むなわけのひろけきわきも、こしほそのすかるをとめがなとつゝけよめるは、たゝ胸のひろきを、むなわけのひろけきといへり。又俗に性の急なる人の、いかれるまゝに、人をうち、あるひはのりなどするを、むないきといへは、かり人にをはるゝ鹿の、あらくわくるをむなわけともいふへき歟。散過にける、此所句なり。所詮萩の散過たるを、しかのむなわけにせしゆへにちれるか、をのつから盛の過て散たるかと、兩方にいへるなり
 
右天平十五年癸未秋八月見物色作
 
官本に見の字なきは落せるなり、
 
内舍人石川朝臣廣成歌二首
 
1600 妻戀爾鹿鳴山邊之秋芽子者露霜寒盛須疑由君《ツマコヒニシカナクヤマヘノアキハキハツユシモサムミサカリスキキユク》
 
1601 目頬布君之家有波奈須爲寸穗出秋乃過良久惜母《メツラシキキミカイヘナルハナスヽキホニイツルアキノスキラクヲシモ》
 
過良久惜母、【別校本、幽齋本並云、スクラクヲシモ、】
 
波奈須爲寸《ハナススキ》とは此集に此歌のみによめり、花はちす、花さくら、花椿などの類なり、顯昭は旗薄《ハタスヽキ》を注すとて太と奈と通ずれば幡|荻《スヽキ》は花|薄《スヽキ》歟と思はれたるは非なり、意もとよ(33)り別なり、穗出秋とは秋の盛の意なり、古今集にも今よりは殖てだに見じ花薄穗に出る秋は侘しかりけりとよめり、又後の歌に、しのぶれば苦しかりけり花薄、秋の盛に成やしなましとよめるは穗に出むの意なり、落句は別校本の點に依べし、花薄の盛の過るにめつらしき人の盛の過るを兼て惜むなり、六帖にしのすゝきの歌に入れて、腰句をしのすゝきとあるは依れる所を知らず、
 
初、花薄ほに出る秋 神功皇后紀神託の詞にいはく。幡荻穗出《ハタスヽキホニイテシ》吾《・アレ》也云々。およそ此集には、はたすゝきとのみよめるを、此哥一首のみ、花薄とよめり。古今集以後は、花薄とのみよみて、一首もはたすゝきとよめることなし。又此集には、すゝきに正字なし。日本紀には、荻の字蘆の字をよめり。和名集には、今世に用る薄の字を出せり。すきらくはかんなあやまれり。すくらくとよむへし
 
大伴宿彌家持鹿鳴歌二首
 
鹿鳴歌は、今按鹿の上に聞の字を脱せる歟、しかのねのうたと讀べき歟、
 
1602 山妣姑乃相響左右妻戀爾鹿鳴山邊爾獨耳爲手《ヤマヒコノアヒトヨムマテツマコヒニシカナクヤマヘニヒトリノミシテ》
 
落句は我も獨のみしてと妻戀の同じ意をよめるなり、
 
1603 頃者之朝開爾聞者足日木箟山乎令響狹尾牡鹿鳴哭《コノコロノアサケニキケハアシヒキノヤマヲトヨマシサヲシカナクモ》
 
右二首天平十五年癸未八月十六月作
 
大原眞人今城傷惜寧樂故卿歌一首
 
卿は郷に作るべし、今城の事第四に高田女王贈2今城王1歌六首と云處に孝謙紀等を(34)引て辨ぜり、
 
初、大原眞人今城 孝謙紀云。寶字元年五月正六位上大原眞人今木(ニ)授2從五位下(ヲ)1。同六月治部少輔。廢帝紀云。七年正月左少辨。同四月上野守。八年正月從五位上。光仁紀云。寶亀二年閏三月戊子朔乙卯、無位大原眞人今城(ヲ)復(ス)2本位從五位上(ニ)1。同七月兵部少輔。三年九月駿河守
 
1604 秋去者春日山之黄葉見流寧樂乃京師乃荒良久惜毛《アキサレハカスカノヤマノモミチミルナラノミヤコノアルラクヲシモ》
 
大伴宿彌家持歌一首
 
1605 高圓之野邊乃秋芽子比日之曉露爾開葉可聞《タカマトノノヘノアキハキコノコロノアカツキツユニサキニケムカモ》
 
曉露は夕露もあれば曉に置を云なり、葉は兼を誤れり、
 
初、開兼可聞《サキニケムカモ》 兼を誤て葉に作れり
 
秋相聞
 
額田王思近江天皇作歌一首
 
此次の二首の歌は第四に既に出て注しき、
 
1606 君待跡吾戀居者我屋戸乃簾令動秋之風吹《キミマツトワカコヒヲレハワカヤトノスタレウコカシアキノカセフク》
 
初、君まつとわかこひをれは 風をたにこふれはともし。此二首第四卷の十三葉に今のことくならひて出て、既に注し畢。今は秋相聞とて載たるのみ、第四にかはれり
 
鏡王女作歌一首
 
1607 風乎谷戀者乏風乎谷將來常思待者何如將嘆《カセヲタニコフレハトモシカセヲタニコムトシマタハイカヽナケカム》
 
弓削皇子御歌一首
 
(35)1608 秋芽子之上爾置有白露乃消可毛思奈萬思戀管不有者《アキハキノウヘニオキタルシラツユノケカモシナマシコヒツヽアラスハ》
 
消可毛思奈萬思は消か爲なましなり、死ましにはあらず、此歌第十にふたゝび出たり、
 
丹比眞人歌一首 名闕
 
1609 宇陀乃野之秋芽子師弩藝鳴鹿毛妻爾戀樂苦我者不益《ウタノノヽアキハキシノキナクシカモツマニコフラクワレニハマサシ》
 
義明なり、
 
丹生女王贈太宰帥大伴卿歌一首
 
初、丹生女王贈太宰帥大伴卿歌 第四にも、此女王の、太宰帥へをくられたる哥二首ありき。聖武紀云。天平□年正月從四位下丹生女王授2從四位上1
 
1610 高圓之秋野上乃瞿麥之花于壯香見人之挿頭師瞿麥之花《タカマトノアキノヽウヘノナテシコノハナウラワカミヒトノカサシヽノナテシコノハナ》
 
秋野上乃、【官本亦云、アキノノカミノ、】
 
此は旋頭歌なり、于の下に良の字を落せる歟、或は于を丁に作り、下に作れる本あれど共に取がたし、歌の意は、瞿麥の花の盛には人の挿頭に折し物をとは、我身の昔によそへらるゝなり、第四に古の人の飲せる吉備の酒と讀て贈られしにて、昔相知れる人なりとは知られたり、
 
初、高まとの秋野の上の 旋頭哥なり。于の字の下に良の字あるへし。人のかさしゝなてしこの花とは、人は大伴卿なり。なてしこは、我身をたとへて、さしもめてられし折も有しものをの心なり
 
笠縫女王歌一首
 
(36)崇神紀云、以2天照大神1託2豐鍬入姫命1祭2於倭笠縫邑1云々此に依れば地の名を以て名とし給へるなり、
 
初、笠縫女王哥 目録には六人部親王之女母曰2田形皇女1注せり。もと此下に有けるが、後にうしなへるなるへし。此集の目録は、後に集中よりひろひ出せりとみゆる故なり。六人部王は、第一卷に身人部《ムトヘノ》王(ノ)哥とて有しおほきみなり。親王といへるはあやまれり。田形皇女は天武の皇女なり。天武紀云。次夫人蘇我赤|兄《エノ》大臣(ノ)女|大〓《オホメ》娘生2一男二女(ヲ)1。其一(ヲ)曰2穗積(ノ)皇子(ト)1。其二(ヲ)曰2紀(ノ)皇女(ト)1。其三(ヲ)曰2田形(ノ)皇女(ト)1。文武紀云。慶雲三年八月庚子、遣2三品田形内親王(ヲ)1侍(ラシム)2于伊勢太神宮(ニ)1。聖武紀云。神龜元年二月授2三品田形内親王(ニ)二品(ヲ)1。同五年三月丁酉朔辛丑、二品田形(ノ)内親王薨。遣2正四位下石川朝臣石足等(ヲ)1監2護(セシム)喪事(ヲ)1。天(ノ)渟中原瀛《ヌナハラオキノ》眞人(ノ)天皇(ノ)之皇女也
 
1611 足日木乃山下響鳴鹿之事乏可母吾情都末《アシヒキノヤマシタトヨミナクシカノコトトモシカモワカコヽロツマ》
 
六帖にはかくれづまの歌に入れて、落句をわがゝくれづまとあり、心の中に憑む目なれば義訓せるか、此つまは女王の歌なれば誰とは知らねど夫君なり、事乏可母は山下響鳴鹿のとつゞきたれば言のすくなきにあらず、あかぬ意なり、
 
初、あしひきの山下とよみ ことゝもしかもは、鹿のねのきゝあかぬによせてのたまへり。わかこゝろつまとは、わか心につまとさためておもふ人なり。わかおもひつまともよむへくや
 
石川賀係女郎歌一首
 
1612 神佐夫等不許者不有秋草乃結之紐乎解者悲哭《カミサフトキカスハアラスアキクサノムスヒシヒモヲトケハカナシモ》
 
不許者不有、【六帖云、ユルサスハアラシ、別校本云、ユルサスハアラス、】  解者、【六帖云、トクハ、】
 
初の二句は第四に紀女郎が、神左夫跡不欲者不有《カムサフトイナニハアラス》とよめるに同じ、きかずはあらずも、ゆるさずはあらずの意なり、人の云事を許すをきくと云、ゆるさねばきゝ入ぬ故なり、聽、許はともにゆるすと訓ずるに、聽はきくとも訓ずれば、きくとゆるすと義の通ずれば一字兩訓あるか、但今はゆるさずはあらずと讀て然るべきか、意は、我年ふりたりと(37)て君が云事をゆるさずにはあらずとなり、第四に准じていなにはあらずと義訓すべき歟、六帖に不有をあらじとよめるは叶はずや、落句は今の點よりは六帖はまされど、それも猶心ゆかず、トカバカナシモと讀べきか、秋草の如く結ぼゝれたる※[糸+刃]を今更に解《トカ》む事なむやさしくて悲しきとなり、
 
初、神さふときかすはあらす 此哥を六帖には、秋の草の題に出して
 神さふとゆるさすはあらし秋草のむすひし紐をとくはかなしも
と載たり。今案第四に、かみさふといなにはあらすとよめる哥あり。今も不許者とかけるをいなにはとよむへき歟。きかすはといふも心は通せり。我身おうなに老なりて、神さひたれと、君かあはむといふを、いなとおもふにはあらす。されと霜をく比の秋草のことく、むすほゝれたるひもを、今更にとかむがやさしくて《・はつかしくてなり》かなしきとよめるなるへし。秋は草も老ゆけは、身をたとへたるなり
 
賀茂女王歌一首【長屋王之女母曰阿倍朝臣也】
 
1613 秋野乎且往鹿乃跡毛奈久念之君爾相有今夜香《アキノノヲアサユクシカノアトモナクオモヒシキミニアヘルコヨヒカ》
 
且往鹿は、今按且は旦暮の旦にはあらずしてカツユク鹿なるべし、かつゆく故に跡もなくとはよそへたる歟、跡モナク念シとは、今は忘やしぬらむと思ふばかり久しくなりしなり、六帖に此歌をよひのまと云に入れたるは少叶はずや、よひのまとはよひのほどばかり逢を云べし、此は今夜の詞はあれど、ゆくりなくあへるを悦ぶ意なり、
 
初、秋の野を朝ゆく鹿の 朝ゆく鹿の跡なきかことく、ある夜の朝にわかれし後は、くることもなけれは、今はとおもひたえたる人に、おもはすに又こよひあひぬるよとなり
 
右歌或云掠橋部女王或云笠縫女王作
 
椋橋部女王は第三にも歌ありし人なり、
 
遠江守櫻井王奉 天皇歌一首
 
(38)元明紀云、和銅七年正月、授2無位櫻井王(ニ)從五位下(ヲ)1、元正紀云、養老五年正月、從五位上聖武紀云、天平三年正月、從四位下又云、大藏卿從四位下大原眞人櫻井、此集第二十云、大原櫻井眞人行2佐保川邊1之帝作歌、何れの年遠江守に任ぜられけむ、未v詳、
 
初、遠江守櫻井王 元明紀云。和銅七年正月授2無位櫻井王(ニ)從五位下(ヲ)1。元正紀云。養老五年正月從五位上。聖武紀云。神龜元年二月正五位下。天平元年三月正五位上。三年正月從四位下。此集第二十云。大原櫻井眞人(ヲ)行2佐保川邊1之時作歌一首。續日本紀第十五云。大藏卿從四位下大原眞人櫻井大輔。かくあれは後に大原眞人の氏姓を賜へりとみえたり。大輔は名にや
 
 
 
1614 九月之其始鴈乃使爾毛念心者可聞來奴鴨《ナカツキノソノハツカリノツカヒニモオモフコヽロハキコエコヌカモ》
 
九月を長月と云は、奥義抄の意、夜の長きに依てなり、始雁は月令云、仲秋之月鴻雁來、又云季秋之月鴻雁來賓(ス)、此は仲秋八月に先至るを主とし九月に後に至るを賓とする意なり、かくはあれども物の遲速は風に因て少換れる事あれば、今長月の始雁とよめるは此國の時候なれば、月令に違へるを以て難ずべからず、第十に、秋芽子者於雁不相《アキハキハカリニアハシ》常|言有者香《イヘレハカ》音乎聞|而者花爾《テハハナニ》散去流、此等の歌を引合て見るべし、雁使の事は漢書曰、昭帝即v位數年、匈奴與v漢和親(ス)漢求2武等1、匈奴詭言2武死1、後漢使復至2匈奴1、常惠請2其(ノ)守者1與倶得3夜見2漢使1、具自陳道教(テ)d2使者(ヲ)1謂(ハ)c于單奴u言(ク)天子射2上林中1、得d雁之足(ニ)有uv係2帛書(ヲ)1、言(ク)、武等在2某澤(ノ)中1、使者大喜(テ)如2惠語(カ)1以讓2單于(ヲ)1單于視2左右(ヲ)1而驚謝2漢使1曰、武等實在云々、此を以て實に書を係たるやうに歌には讀來れり、可聞は、可は所を寫し誤れるなり、六帖には道のたよりの歌として、腰句をたよりにもと云へり、昔の本に使を便に作りけるにや、新拾遺集に(39)報和御歌を載らるゝ詞書にも、大原の櫻井遠江任に侍りける時、その初雁のたよりにもと奏し侍りける御返しとあるは、彼撰者の見られける本も字點共に然りけるなるべし、
 
初、なか月のそのはつ鴈の使にも 禮記月令(ニ)云。仲秋(ノ)之月鴻雁來(ル)。又云。季秋之月鴻雁來賓(ス)。此月令の心は、八月にまつ來るを主として、九月にわたるを賓とす。今の哥は月令にかゝはるべからず。雁の使は蘇武の故事なり。漢書蘇武傳曰。昭帝即v位數年、匈奴與v漢和親(ス)。漢求2武等(ヲ)1。匈奴|詭《イツハテ》言2武死(セリト)1。後(ニ)漢使復至2匈奴(ニ)1。常惠請(テ)2其守者(ニ)1與(ニ)倶(ニ)得(テ)3夜(ル)見(ルコトヲ)2漢使(ニ)1、具(サニミ)自陳(テ)v道(ヲ)教《シメテ》3使者(ヲシテ)謂(ハ)2單于(ニ)1言(ク)《・イハマク》。天子射(テ)2上林(ノ)中(ニ)1得(タマヘルニ)3鴈(ノ)足(ニ)有(ルヲ)係(ルコト)2帛書(ヲ)1言(ク)。武等在(リト)2某(ノ)澤(ノ)中(ニ)1。使者大(ニ)喜(テ)如(シテ)2惠(カ)語(ノ)1以|讓《セム》2單于(ヲ)1。々々視(テ)2左右(ヲ)1而驚(テ)謝(シテ)2漢使(ニ)1曰。武等實在(ニ)。於v是李陵置酒(シテ)賀(シテ)v武(ヲ)曰。今足下還歸揚2名(ヲ)於匈奴(ニ)1功顯《・顯功歟》2於漢室(ニ)1。これより鴈の使といふ事あり。されとも此引る傳のことくに、まことには鴈の足に文をかけたるにあらねと、哥の習なれは、しか知人も、まことにはかけたるやうによむを、本文みぬ人は、もとよりまことに蘇武かしわさにかけゝるとのみおもへり。可聞は所聞をかきあやまれるならし
 
天皇賜報和御歌一首
 
1615 大乃浦之其長濱爾縁流浪寛公乎念比日《オホノウラノソノナカハマニヨスルナミユタケクキミヲオモフコノコロ》
 
縁流浪、【袖中抄云、ヨルナミノ、新拾遺同v此、】  寛、【新拾遺云、ユタニソ、】
 
長濱も大乃浦にある濱の名歟、第四に八百日行濱ともよみ、第十二に聞濱を聞高濱とも聞長濱ともよみたれば唯長き濱にや、第十七に長濱浦とよめるは能登なり、古今に長濱の眞砂の數とよめるは伊勢なり、然れば地の名なるも地の名ならぬをよめるも共に例あり、若地の名ならば大の浦と長濱とおのづからゆたけく君をとよませ奉らむために兼て名付たらむやうにぞ侍るや、小式部内侍が大江山幾野の道のと讀けむ遠さのみ、かしこけれど此御歌のゆたけさになずらふべき、
 
初、おほのうらのその長濱に 大の浦は八雲御抄に遠江と注せさせたまへり。遠江守への御かへしなれは、しかるへきにや。寛きみを思とは、おほしめす心のおほくゆたかなるなり。日本紀に、富寛とかきて、とみたゆたひてとよめれは、ゆたけくもたゆたひとおなし心なり。一旦におもふにはあらて、ゆる/\とおもふ心なり
 
笠女郎賜大伴宿禰家持歌一首
 
賜は贈に作るべし、書生次上の端作の賜の字と同じかるべしと思ひて贈を改て賜(40)に作たるか、次下の二つの端作の賜も亦なずらへて改むべし、官本に歌の字なきは落たるなるべし、
 
1616 毎朝吾見屋戸乃瞿麥之花爾毛君波有許世奴香裳《アサコトニワカミルヤトノナテシコノハナニモキミハアリコセヌカモ》
 
山口女王賜大伴宿禰家持歌一首
 
1617 秋穿子爾置有露乃風吹而落涙者留不勝都毛《アキハキニオキタルツユノカセフキテオツルナミタハトヽメカネツモ》
 
六帖におくしらつゆのかげろふは、おつるなみだのとて載たるは傳寫の誤れる歟、
 
湯原王賜娘子歌一首、
 
賜は目録に贈なり、此娘子は第四に贈答數遍に及べる女なるべし、
 
1618 玉爾貫不令消賜良牟秋芽子乃宇禮和和良葉爾置有白露《タマニヌキケサテタマラムアキハキノウレワヽラハニオケルシラツユ》
 
賜良牟、【六帖云、タハラム、別校本、幽齋本並同v此】
 
第二の句六帖に依て讀べし、宇禮和和良葉とは、宇禮は末なり、和和良は第五貧窮問答歌に和和氣佐我禮流可可布|能尾《ノミ》とよめる和和氣と同じ、末葉《ウラハ》のそゝけたるなり、
 
初、秋はきのうれわゝら葉に うれは末なり。わゝら葉はなはへしたるわかはをいふなるへし。まだをとめなる時を、そのまゝ得はやの心をたとへたる哥なり
 
大伴家持至姑坂上郎女竹田庄作歌一首
 
初、至姑 坂上郎女は、家持のをはにして、しうとめなり。姑の字もまた兩方によめは、いつかたにつきてもよむへし
 
(41)1619 玉桙乃道者雖遠愛哉師妹乎相見爾出而曾吾來之《タマホコノミチハトホケレトヨシヱヤシイモヲアヒミニイテヽソワカコシ》
 
二三の句ミチハトホケドハジキヤシと讀べし、雖遠も愛哉師も共に然讀べきやうを注し畢、此歌並に次の和歌は上の春相聞に笠金村の入唐使に贈られし歌に云へる如く、秋よまれたれどひたぶるの雜歌なれば、左に注する年月に依らば第六に入べく、相聞に依らば第四に入べかりしにや、
 
大伴坂上郎女和歌一首
 
1620 荒玉之月立左右二來不益者夢西見乍思曾《アラタマノツキタツマテニキマサネハユメニシミツヽオモソ》吾|勢思《セシ》
 
思曾吾勢思、【幽齋本云、オモヒソワカセシ、】
 
來不益は以前の書やうになずらへば不來益なりけむを、不來をかへさまに寫せるにや、但無窮の書やうなれば今のまゝにても誤まりにはあらざるべし、夢ニシのし〔右○〕は助語なり、オモヒのヒ〔右○〕なきは書生の誤なり、
 
右二首天平十一年巳卯秋八月作
 
初、右二首秋八月作 ともに秋のことはなれは、此注あるなり
 
巫部麻蘇娘子歌一首
 
(42)1621 吾屋前乃芽子花咲有見來益今二日許有者將落《ワカヤトノハキノハナサケリミニキマセイマフツカハカリアラハチリナム》
 
屋前、【官本或前作v戸、】
 
六帖には人をよぶと云に入れたり、
 
初、今ふつかはかり 第十三の長哥に、わきもこやなか待君は、おきつなみきよる白玉、へつなみのよする白玉、もとむとそ君かきまさぬ、ひろふとそきみはきまさぬ、ひさにあらは今なぬかはかり、はやくあらは今ふつかはかり、あらむとそ君はきこしゝ、なこひそわきも。第十七家持の、それたる鷹を思ひて夢に見て、感悦してよまれたる哥にも、ちかくあらは今ふつかたみとほくあらはなぬかのうちは過めやも云々。第九にもわかゆきはなぬかに過し龍田彦ゆめ此花を風にちらすな
 
大伴田村大嬢與坂上大嬢歌二首
 
目録與の下に妹あり、今落たり、
 
1622 吾屋戸乃秋之芽子開夕影爾今毛見師香妹之光儀乎《ワカヤトノアキノハキノサクユフカケニイマモミテシカイモカスカタヲ》
 
1623 吾屋戸爾黄變蝦手毎見妹乎懸管不戀日者無《ワカヤトニモミツルカヘテミルコトニイモヲカケツヽコヒヌヒハナシ》
 
第二の句は第十四に、兒毛知夜麻和可加敝流?能毛美都麻?《コモチヤマワカカヘルテノモミツマデ》とよめるに依らば今もモミヅカヘルデとも和すべし、葉のさまの蝦の手のやうなれば此名を付たり、和名云、楊氏漢語抄云、?冠木、【賀倍天乃木、】?冠にも似たれば此名あり、
 
初、わかやとにもみつるかへて 和名集云。楊氏漢語抄云※[奚+隹]冠木【賀倍天乃木。】※[奚+隹]冠木と名付るは、此木の葉の形、※[奚+隹]冠に似て、もみちしたる色も似たれはなるへし。かへてといふ和名は、こゝに蝦手とかけることく、かへるの手に似たれは名付るなり。かへるでともいふゆへに、第十四東哥には、こもち山若かへるてのもみつまてとよめり。連哥する法に、生類に二句を隔るも此故なり。※[奚+隹]冠木をかへてと訓したるは、※[虫+也]牀をひるむしろと訓するにおなし心なり。楓の字には、をかつらとかへての兩訓あるにや。いもをかけつゝとは、かへての色のうるはしきに、紅顛をおもひよするをいふ。又只みせはやと、心にかけておもはぬ日なしといふ心にも有へし
 
坂上大娘秋稻※[草冠/縵]贈大伴宿禰家持歌一首
 
1624 吾之蒔有早田之穗立造有※[草冠/縵]曾見乍師弩波世吾背《ワカワサナルワサタノホタヲツクリタルカツラソミツヽシノハセワカセ》
 
蒔有、【六帖云、マケル、別校本同、】
 
(43)マケル早田とは苗代の時|穀《モミ》をまけば初に付て云歟、
 
初、わかわさなる これは家持のかへしに、わきもこかわさとつくれるとあるによりて、あやまれるなるへし。吾之蒔有とかきたれは、わかまけるとよむへし。わさ田もなはしろよりうふれは、初につきてわかまけるといへり
 
大伴宿彌家持報贈歌一首
 
1625 吾妹兒之業跡造有秋田早穗乃※[草冠/縵]雖見不飽可聞《ワキモコカワサトツクレルアキノタノワサホノカツラミレトアカヌカモ》
 
業跡造有は田を造るにあらず、※[草冠/縵]を作るなり、右の歌に造有※[草冠/縵]曾と云を承たり、早穗を六帖にはつほとあれど今の點安まさるべし、又六帖には二首共に玉かづらの歌に入、玉は褒美の詞なる證なり、
 
初、わさとつくれる しわさとつくれるなり。ことさらにといふにはあらす
 
又報脱著身夜贈家持歌一首
 
夜は衣を誤れり、
 
初、又報脱著身衣 衣作v夜誤
 
1626 秋風之寒此日下爾將服妹之形見跡可都毛思努播武《アキカセノサムキコノコロシタニキムイモカカタミトカツモシノハム》
 
六帖に寒きひごろは下に著て、妹が形見とかつはしのばせとあるは理そむけり、
 
初、秋風の寒きこの比 禮記季秋月令云。是月霜始降。寒氣總(テ)至(ル)。寒けれは下にきむ。その上に形見にもしのはむとなり
 
右三首天平十一年巳卯秋九月往來
 
大伴宿禰家持攀非時藤花并芽子黄葉二物贈坂上大嫌歌二首
 
(44)嫌は孃を誤れり、
 
初、坂上大孃 孃誤作v嫌
 
1627 吾屋戸之非時藤之目頬布今毛見牡鹿妹之咲容乎《ワカヤトノトキナラヌフチノメツラシクイマモミテシカイモカヱマヒヲ》
 
非時藤なればめづらしくとつゞけたり、神功皇后紀に、希見、メヅラシとよめり、
 
初、わかやとの時ならぬ藤の 下の注に六月往來とあれは、此二首は夏相聞に載らるへきを、誤て秋相聞には載たる歟。芽子黄葉もあるうへに、右の哥ともに類してこゝに載たる歟。時ならぬ藤とは、小藤とか、いは藤とか俗になつくる、かつらもみしかく、しなひもみしかきが、夏咲あり。それにや。時ならぬ藤に事よせて、めつらしく今もみてしかとはいへり
 
1628 吾屋前之芽子乃下葉者秋風毛未吹者如比曾毛美照《ワカヤトノハキノシタハヽアキカセモイマタフカネハカクソモミテル》
 
未吹者、此詞づかひ上に注せしが如し、
 
初、わかやとのはきの下葉は 此哥の、秋風もいまた吹ねはのてにをはのばもしは、上にいへるかことし。いまたふかぬにいまたふかねとゝいふ心にみるへし。第十九にも、わかやとの萩開にけり秋風のふかんをまたはいとゝをみかも。注云右一首六月十五日見2芽子早花1作v之といへり。此哥とおなし心なり。俗に宮木野と名付る萩の一種あり。枝のしたりて、風のふく時は庭をはらふはかりなれは、糸萩といふなるへし。その花は、入梅の比よりさきそめて、みな月より秋をかけて、よのつねの萩さく比は、いとゝ錦とみゆれは此萩にや。下葉のもみちしたるは、日をいためるにや。もみてるはもみちするなり。後撰集に、雁なきて寒きあさけの露ならし龍田の山をもみたす物はともよめり。紅はふり出る物なれは、もみちとは揉出すといふ心に名付たるにや。俗にくれなゐのきぬを、もみといふもこれか
 
右二首天平十二年庚辰夏六月往來
 
大伴宿彌家持贈坂上大孃歌一首并短歌
 
1629 叩々物乎念者將言爲便將爲爲便毛奈之妹與吾手携拂而旦者庭爾出立夕者床打拂白細乃袖指代而佐寢之夜也常爾有家類足日木能山鳥許曾婆峯向爾嬬問爲云打蝉乃人有我哉如何爲跡可一日一夜毛離居而嘆戀良武許已念者胸許曾痛其故爾情奈具夜登高圓乃山爾毛野爾母打行而遊徃杼花耳(45)丹穗日手有者毎見益而所思奈何爲而忘物曾戀云物乎《イタミ/\モノヲオモヘハイハムスヘセムスヘモナシイモトワレテタツサハリテアシタニハニハニイテタチユフヘニハトコウチハラヒシロタヘノソテサシカヘテサネシヨヤツネニアリケルアシヒキノヤマトリコソハヲムカヒニツマトヒストイヘウツセミノヒトナルワレヤナニストカヒトヒヒトヨモハナレヰテナケキコフラムココオモヘハムネコソイタメソノユヱニコヽロナクヤトタカマトノヤマニモノニモウチユキテアソヒテユケトハナノミニニホヒテアレハミルコトニマシテオモホユイカニシテワスルヽムモノソコヒトフモノヲ》
 
手携拂而、【別校本云、テヲタツサヘテ、校本、幽齋本並無2拂字1、】  花耳、【校本云、ハナノミ、】
 
叩は叩聲の義を以てイタムと點ぜるか、常爾有家類とは常にもなかりしとなり、足日木能以下四句は、山?は晝は雌雄《メヲ》ひと所に有て、夜は山の尾を隔てゝぬる故なり、されば第十一に足日木之山鳥尾乃|一峯越《ヒトヲコエ》とよみ、六帖には晝は來て夜は別るゝ山鳥ともよめり、清少納言に山どりを云へる所に、谷へだてたるほどなどいと心苦し、許己念者とは此を思へばなり、野爾毎は、毎は母に作るべし、花耳丹穗日手有者とは、花のみ匂ひて思ふ人はなければなり、
 
初、いたみ/\ 心のいたむなり。叩々とかけるは、たゝけはいたむ義をもてかける歟。さねし夜やつねに有けるとは、常になかりしといふ心なり。山鳥こそはをむかひにつまとひすといへ。地理志云。山※[奚+隹](ハ)形如(シ)2家※[奚+隹](ノ)1。雄(ハ)斑(ニ)雌(ハ)黒(キ)者也。山とりは、ひるはをどりめどりひと所にありて、よるはを《・峯》ゝへたてゝぬるゆへに、かくよめり。又第十一にも
  あしひきの山鳥の尾のひとをこえひとめみしこにあふへき物か
紀氏六帖には
  ひるはきてよるはわかるゝ山とりの影みるたひにねをのみそなく
枕草紙には、山とりは友をこひて鳴に、鏡をみせたれはなくさむらん、いとわかうあはれなり。谷へたてたるほとなといと心くるし。鏡見する事はこゝには用なし。第十四巻に、山鳥のをろのはつ尾に鏡かけといふ哥の所に注すへし。和名集云。七卷食經云。山※[奚+隹]一名(ハ)〓〓【峻儀二音。和名夜萬土利。今案山鷄〓〓種類各異。見2漢書注1。】猶六帖に
  秋風のふくよることに山とりのひとりしぬれはもめそかなしき
  夕されは君をまつちの山鳥のなく/\ぬるを立もきかなん
こゝおもへはむねこそいため、此所をおもへはなり。これをおもへはといふ心なり。上にそれをおもふといふことを、そこおもふと有しかことし。こゝはくにはあらす。花のみしにほひてあれは。秋の花のみにほひて、花に似たる人のなけれはな
 
 
反歌
 
1630 高圓之野邊乃容花面影爾所見乍妹者忘不勝裳《タカマトノノヘノカホハナオモカケニミエツヽイモハワスレカネツモ》
 
八雲御抄にのたまはく、容花は何れの花と知らず、件短歌に、高圓の山にも野にも、打行て遊びにゆけど、花にのみ匂ひてあればと云へり、唯秋の野の花也、指て何れの花とは限らず、花のかほなどもよめれば同じ心なるべし、容花、容鳥、定家卿、不v弁、但その花鳥となくうつくしき花鳥也、以上の御説分明なり、第十には石走間生有貌《イシハシママニオヒタルカホ》花とよみ、第十(46)四には美夜能瀬河泊能可保婆奈能《ミヤノセカハノカホハナノ》、※[人偏+瓜]悲天香眠良武《コヒテカカヌラム》、又|美夜目呂乃緒可敝爾多?流可保我波奈《ミヤシロノヲカヘニタテルカホカハナ》などよみたれど、さだかにそれと定がたし、容鳥のかほに見えつゝとよめる如く緜影爾所見乍《オモカゲニミエツヽ》と云はむ料に野邊の容花とはよみ出られたるなり、六帖朝貌の歌に家持とて春日野の野邊の朝貌とて以下の三句今と同じきは、此歌容花を朝貌と定めて改めたるにや、上に擧る歌どもの讀やう、唯知らざるをば知らずとすべし、
 
初、かほ花 その花とさしてさためす。只秋の花のうつくしくさけるをいふなり。さきの長哥に、高まとの山にも野にも打ゆきてあそひてゆけと花のみしにほひてあれはといへる花は、只さま/\の草花をさせり。此哥はその心を略して、かさねてよめるにて、かほ花は右の説のことしといふ事を信すへし
 
大伴宿彌家持贈安倍女郎歌一首
 
此安倍郎女は第三第四に出たる女とは別なり、混ずべからず、其故は時代を以て知べし、
 
1631 今造久邇能京爾秋夜乃長爾獨宿之苦左《イマツクルクニノミヤコニアキノヨノナカキニヒトリヌルカクルシサ》
 
大伴宿禰家持從久邇京贈留寧樂宅坂上大娘歌一首
 
1632 足日木乃山邊爾居而秋風之日異吹者妹乎之曾念《アシヒキノヤマヘニヲリテアキカセノヒニケニフケハイモヲシソオモフ》
 
日異を六帖にひごとにとよめるは誤なり、
 
或者僧尼歌二首
 
(47)1633 手母須麻爾殖之芽子爾也還者雖見不飽惰將盡《テモスマニウヱシハキニヤカヘリテハミレトモアカヌコヽロツクサム》
 
初、てもすまにうゑしはきにや 手もすまは手も隙なくといふ心なり。上にも、わか手もすまに春の野にぬけるつはなそとありき
 
1634 衣手爾水澁付左右殖之田乎引板吾波倍眞守有栗子《コロモテニミシフツクマテウヱシタヲヒキタワレハヘマモレルクルシ》
 
引板吾波倍、【別校本云、ヒタワレハヘテ、】
 
水澁はみさぴなり、引板は田を守る具なり、新古今に、水澁付植し山田にひたはへて、又袖ぬらす秋は來にけりとある俊成卿の歌は此を取用られたり、此二首は義は別なる物から、尼に贈れる意知がたし、若よき娘などあまたもてる人の、初の歌はいたく愛する由をよみ、後の歌は勞してそだてゝ漫りなる男に取られじと守る事の苦しき由を讀て、親しき尼などにて告てうれふるにや、
 
初、衣手にみしふつくまて みしふはみさひなり。きたなき水の上に、かたなのさひのことくなるものゝうかひてみゆるをいふ。ひきたはひたなり。ひたはすなはちこゝにかけることく引板なるを、略していふなり。新古今集に、みしふつきうゑし山田にひたはへて又袖ぬらす秋はきにけりとある俊成卿の哥はこれを本哥にてよみたまへるなり。右の二首はいかによめるにか心得す。もし此あまのいとけなかりし時、親にはあらてそたてたる人の、尼になりて後、容儀のうるはしきに心ちまとひてよめるにや
 
尼作頭句并大伴宿禰家持所誂尼續末句等和歌一首
 
此は連歌して右の二首の後の歌にかへすなり、連歌の濫觴は景行紀云、日本武尊自2日高見國1還之、西南歴2常陸(ヲ)1至2甲斐國1、居2于酒折宮1、時擧v燭《ホシヲ》而進食、是夜以v歌(ヲ)之問2侍者1曰|珥比麼利《ニヒ|マ《ハ》リ》、免玖波塢須擬弖《ツクハヲスキテ》、異玖用加禰免流《イクヨカネツル》、諸(ノ)侍|不能答言《ミコタヘマウサ》、時有2秉v燭者1、續2王歌(ノ)之末(ヲ)1、而歌曰、伽餓奈倍?《カカナヘテ》、用珥波虚々能用《ヨニハコヽノヨ》、比珥波苫塢伽塢《ヒニハトヲカヲ》、即美2秉V燭人(ノ)之聰1而敦賞、此より後には今の歌にて、今の後には伊勢物語に續松のすみしてかける歌歟、
 
初、尼作頭句 これはいにしへの連哥なり。およそ連哥のはしめは、日本武尊のにひはりつくはの御詞よりおこれり。景行紀云。日本武尊自2日高見(ノ)國1還(テ)之|西南《ヒツシサルノカタ》歴(テ)2常陸(ヲ)1至2甲斐(ノ)國(ニ)1居《マシマス》2于酒折(ノ)宮(ニ)1。時(ニ)擧燭《ヒトホシテ》而|進食《ミオシス》。是(ノ)夜以v歌之問(テ)2侍者《サフラヒヒトニ》1曰。珥比麼利《ニヒハリ・新治》、兎玖波塢須擬※[氏/一]《ツクハヲスキテ・筑波過》、異玖用加禰兎流《イクヨカネツル・幾夜寢》。諸(ノ)侍者|不v能2答言1《ミコタヘマウサス》。時(ニ)有2秉v燭《ヒトモシ》者1續(テ)2王(ノ)歌(ノ)之末(ヲ)1而歌(ヨミシテ)曰。伽餓奈倍※[氏/一]《カカナヘテ・勘》、用珥波虚々能用《ヨニハココノヨ・夜九日》、比珥波苫塢伽塢《ヒニハトヲカヲ・日十日》。即|美《ホメタマフテ》2秉v燭人(ノ)之|聰《サトキコトヲ》而敦(ク)賞《メクミタマフ》。これより後には、此尼と家持と、各一句を作りて、合て一首とせる、これ連哥の第二なるへし
 
(48)1635 保佐河之水乎塞上而殖之田乎《サホカハノミツヲセキアケテウヱシタヲ》 尼作 苅流早飲者獨奈流倍思《カルワサイヒハヒトリナルヘシ》 家特續
 
佐保を倒にかけるは改たむべし、下の句、表の意は、からうじて獨殖し田なれば、苅時人を集めて贄《ニヘ》する事もなく、早飯をば獨のみこそ喫《ハマ》めとなり、裏の意は、佐保川を塞上て水澁付てみづから殖し田を刈ては獨喫て樂しぶべきが如く齋《イツキ》娘をも能守りて生《オホ》し立《タテ》たらましかば、能聟など取て年比の苦しさを忘るゝ時あらむぞと慰めてよめる歟、後人尚よく/\贈答の意を按じ得て見るべし、贄の事は第十四に葛餝早稻《カツシカワセ》をにへすともと云歌に至て注すべし、
 
初、さほ川の水を さきの哥二首の心おなしやうに見ゆれは、これは後の哥にかへして、二首をかぬるなるへし。尼か句は、衣手にみしふつくまてうへし田をといへるまてのかへしなり。家持のつげる句は、又上の哥の下の句をかへせるなるへし。此家持の句、詞はあらはにて、かへせる心は得かたし。もしまもれるくるしといへるに同心して、さほ川の水をせきあけて田にまかする人は、辛勞すれとも、かり取て後、わさいひにかしく時は、その人ひとりこそはめ、うへず、ひたはへてまもらぬ人は、はまぬ物をといへる心にや。わさいひといへるに、早飯とかけるにておもへは、さわらびさなへなとのさもしは、わさのわを略せるなり。わさわらひわさなへにて、わせといふはよろつにはやきをいふなるへし
 
冬雜歌
 
舍人娘子雪歌一首
 
1636 大口能眞神之原爾零雪者甚莫零家母不有國《オホクチノマカミノハラニフルユキハイタクナフリソイヘモアラナクニ》
 
眞神之原と云はむ料に大口のと置事は、昔明日香の地に老たる狼ありて多く人を食ふ、土民恐て大口の神と云、名2其住處(ヲ)1號2大口|眞《マ》神原1と大和國風土記に見えたり、狼は口(49)の大きなる物なれば大口と云、眞は褒美の辭なり、神とは凡そ威猛なる者を呼て云、狼を神と云は、欽明紀に、秦(ノ)大津父と云人深草里より伊勢へ行て商して歸るに、山中にして二つの狼の喫合けるを、汝《ミマシハ》是|貴《カシコキ》神而樂2麁行1、儻逢2獵士《カリヒト》1見v禽尤速とて引分て共に助けたる事あり、又同紀に虎をも神といへり、此第十六にも虎を神と云へる所に引べし、又神代紀云、素戔嗚尊勅?曰、汝是(レ)可畏之神(ナリ)、敢不v饗乎、
 
初、大口の眞神の原に 崇唆紀云。蘇我馬子宿禰|壊《コホチテ》2飛鳥(ノ)衣縫(ノ)造(ノ)祖《トヲツオヤ》樹葉《コノハカ》之家(ヲ)1始(テ)作2法興寺(ヲ)1。此|地《トコロヲ》名2飛鳥(ノ)眞神(ノ)原(ト)1。亦(ハ)名2飛鳥(ノ)苫田《トマタト》1。むかし明日香の地に老狼ありて、おほく人を食ふ。土民おそれて大口の神といふ。名(ケテ)2其住處(ヲ)1號《イフ》2大口(ノ)眞神《マカムカ》原1と風土記に見えたり。狼は口のおほきなるものなれは、大口の眞神か原とはつゝくるなり。虎をも狼をも日本紀には神といへり。虎を神といへる事は、此集第十六乞食者の哥に、からくにの虎といふ神をとよめる所に引へし。狼を貴神《カシコキカミ》といへるは、欽明紀云。天皇|幼《ワカイ》時|夢《イメミタマハク》。有(テ)v人云(サク)。天皇|窮2愛《メクミタマハヽ》秦(ノ)大|津父者《ツチトイフヒトヲ》1及(テ)2壯大《ヲトコサカリニ》1必|有《シラセントイフトミタマフ》天下(ヲ)1。寢《サメタマフテ》驚遣(テ)v使(ヲ)普求得(ツ)v自2山背(ノ)國(ノ)紀伊《キノ》郡深草(ノ)里1。姓《カハネ》字《名也・ミサキ》果(シテ)如v|所v夢《ミシオナガシヽカ》。於v是|所v喜《ヨロコト》遍《ミチテ》v身(ニ)歎《ホメタマフ》2未曾《メツラシキ》夢(ト)1。乃告(テ)之曰。汝有(シトノタマフ)2何事(カ)1。答云。無《コトムナシ》。但|臣《ヤツコ》向《マカリテ》2伊勢(ニ)1商價來還《アキナヒテマウクルトキ》山(ニ)逢(リキ)2二(ノ)狼(ノ)相〓《クヒアヒテ》汗《ヌレタルニ》1v血(ニ)。乃下(テ)v馬|洗2漱《ミスヽテ》口手(ヲ)1祈請《ノミテ》曰。汝(ハ)是|貴《カシコキ》神(ニシテ)而|樂《コノム》2麁行《アラキワサヲ》1。儻《モシ》逢(ハ)2獵士《カリヒトニ》1見《レムコト》v禽《トラ》尤|速《ハヤケムトイフ》。乃|抑2止《オシトヽメテ》相〓(コトヲ)拭2洗《ノコヒテ》血毛(ヲ)1遂|遣放《ユルシテ》之倶(ニ)令v全v命《イノチイケテキ》。天皇曰。必此(ノ)報《コタヘナラム》也。乃令2近侍1優寵日《アツクメクミタマフコトヒヽニ》新。大(ニ)致2饒富《ニキハハヒヲ》1。及(テ)v至(ニ)2踐祚《アマノヒツキ》1拜《マケタマフ》2大藏(ノ)省《ツカサニ》1。家もあらなくには、第三に、くるしくもふりくる雨かみわかさきさのゝわたりに家もあらなくに。此心におなし
 
太上天皇御製歌一首
 
初、太上天皇 元正天皇なり。諱(ハ)日本根子高瑞淨足姫《ヤマトネコタカミツキヨタラシヒメ》。亦曰2氷高《ヒタカノ》皇女(ト)1。草壁太子(ノ)皇女、文武天皇同母(ノ)姉、母(ハ)阿閉(ノ)皇女。即元明天皇なり。在位十年二月、位を聖武天皇に讓らせ給へり
 
1637 波太須珠寸尾花逆葺黒木用造有室者迄萬代《ハタスヽキヲハナサカフキクロキモテツクレルヤトハヨロツヨマテニ》
 
すゝきも尾花も同じ物なるをかくつゞけさせ給へるは、庭津鳥かけの垂尾などの類なり、黒木とは削りたるを白木《シラキ》と云に對して削らぬを云なり、室は次の御製に室戸とあれば今は戸の字の落たる歟、此御製は左大臣の宅の儉約なるをほめて遊ばされたるなり、尚書帝範崇儉篇曰、夫聖代(ノ)之君爲2乎節儉1、富貴廣大、守v之以v約(ヲ)、叡智聰明守(ルニ)v之以v愚、不d以2身尊(ヲ)1而驕uv人、不d以2徳厚(ヲ)1而矜uv物、茅茨不v剪、采椽不v削《ケツラ》、舟俥不v飾、衣服無v文、今黒木用とある御詞は采椽不v削と云一句の意なれど、一句の中に引所の意皆こもるべし、
 
初、はたすゝきを花さかふき 穗のかたを下にしてふくをいふ。くろ木は、皮つきなから用るをいへり。此御哥次の聖武天皇の御歌は、後の注をみるに、長屋王佐保宅にして、とよのあかりしたまふ時の御歌なり。帝範曰。夫三皇(ノ)昔(ハ)茅茨不v剪(ラ)采椽不v斷(ラ)。此文のこゝろとかなへる御製なり
 
天皇御製歌一首
 
(50)1638 青丹吉奈良乃山有黒木用造有室戸者雖居座不飽可聞《アヲニヨシナラノヤマナルクロキモテツクレルヤトハヲレトアカスカモ》
 
室戸、【幽齋本無2戸字1、】
 
右の御製と同じ意なり、落句はアカヌカモとも讀べし、
 
右聞之御在左大臣長屋王佐保宅肆宴御製
 
此集勅撰ならぬ證なり、
 
太宰帥大伴卿冬日見雪憶京歌一首
 
1639 沫雪保杼呂保杼呂爾零敷者平城京師所念可聞《アワユキノホトロホトロニフリシケハナラノミヤコシオモホユルカモ》
 
袖中抄云、促杼呂保杼呂ははたら/\にと云へる詞なり、ほ〔右○〕とは〔右○〕と、と〔右○〕とた〔右○〕と、ろ〔右○〕とら〔右○〕と同五音也とて、第十に庭毛|薄太良爾三雪落有《ハタラニミユキフリタリ》と云を引て云、今云、此はたらはまだらと云詞也、は〔右○〕とま〔右○〕と同ひゞき也、以上の説分明なり、此次に諸説を出して云く、萬葉抄云、ほとろほとろとはかきたれて降と云也、一字抄には以2此歌1雪に音ある證歌に出せり、然者はとろ/\と雪の降音ありと存ずる歟、童蒙抄云、ほとろ/\とは物のほとり/\に降敷けばとよめるなり、雪のいたくふらぬ程は物のきは/”\にたまるなり、今按初のかきたれて降と云は推量の説なり、次の雪に音ある證とする説は第十に庭毛薄太(51)良爾と云下に注して云、一云|庭裳促杼呂爾《ニワモホトロニ》雪曾零而有、此を考へ知らず、其上今の歌にても音ある證とすべしとは見えず、範兼卿の説は、雪を見て京を憶ふと云に、ほとりほとりにのみ積ると云はむ事詮なし、仙覺はほとろとはひかると云詞也、ひかれる虫をほたるなど云が如しと注せらる、此事用べからず、京師はミヤコノと讀べし、ミヤコシとよまば二字引合てみやこと讀てし〔右○〕は助語に讀付と意得べし、
 
初、沫雪のほとろ/\に はたら/\なり。おもしろきに感しても、先都を思ひ出るなり。次の哥と二首は筑紫にての哥なり
 
太宰帥大伴卿梅歌一首
 
1640 吾岳爾盛開有梅花遺有雪乎亂鶴鴨《ワカヲカニサカリニサケルウメノハナノコレルユキニマカヘヲルカモ》
 
帥館にて吾岳爾とよまれたる事上に注するが如し、遺有雪とは冬ながら消殘れるを云なり、後の歌に殘雪を春の題とするに依て難ずべからず、此集にも第五に殘たる雪に交れる梅の花とよみ、第九に三雪遺未冬鴨《ミユキノコレリイマタフユカモ》とよめるは後の意と同じ、古今集冬部に、此川にもみぢ葉流る奥山の、雪消の水ぞ今増るらし、此等を以今の歌に合せて意得べし、落句の中の鶴をヲルと點ぜるは書生の誤失なり、官本に依て改むべし、家特集に此を入たるは云に足らず、のこれる雪にみだれつるかもとあるも、古くよめるやう、かくよからぬも多かり、
 
初、のこれる雪を 冬なれと、消のこるをいへり
 
(52)角朝臣廣辨雪梅歌一首
 
此人考る所なし、角は周防國の都濃《ツノ》を以て氏とせるなり、雄略紀云、勅2紀小弓宿禰蘇我韓子宿禰大伴談連【談此云2箇陀利1】小鹿火宿禰等(ニ)1曰、新羅自居2西土1、累v葉稱v臣云々、紀小弓宿禰等即入2新羅1行々屠2傍郡1云々、大將軍紀小弓宿禰値v病而薨云々|別《コトニ》小鹿火(ノ)宿禰從2紀小弓宿禰喪(ニ)1來時獨留2角國1、使2倭于連1【連未v詳2何姓人1】奉2八咫《ヤタノ》鏡於大伴大連1而祈請曰、僕不v堪d共(ニ)2紀卿1奉(ルニ)uv事(ヘ)2天朝《ミカトニ》1、故《カレ》請3留2住(ント)角國1、是(ヲ)以大連爲奏2於天皇1使3留2居于角國(ニ)1、是角臣等初居2角國1而名2角臣1自v此始也、今周防と決するは和名集云、周防國|都濃《ツ》郡都濃、先代舊事本紀第十云、都怒國造、難波高津(ノ)朝、紀(ノ)臣同祖|都怒足尼《ツノソコネノ》兒男嶋(ノ)足尼(ヲ)定(メ)2賜國造(ト)1、此前に周防國造云々、此後に穴門(ノ)國造云々、阿武國造云々、前後に據て考るに都怒國は都濃郡なり、廣辨の辨、目録には辯に作れり、何れを正字と知らむ、官本にはヒロナリと點ず、ワキマフとも、日本紀にはワイ/\シとも點じたればヒロワキにや、
 
初、角朝臣 雄略紀云。勅(シテ)2紀小弓宿禰、蘇我韓子宿禰、大伴|談《カタリノ》連【談此(ヲハ)云2箇陀利1】小鹿火宿禰等(ニ)1曰。新羅自v居2西(ノ)土《クニ》1、累v葉《ヨヲ》稱v臣(ト)。〇紀小弓宿禰等即入2新羅(ニ)1行《/\》屠(ル)2傍(ノ)郡(ヲ)1。〇大將軍紀小弓宿禰値v病而薨。〇別《コトニ》小鹿火(ノ)宿禰從(テ)2紀(ノ)小弓宿禰(ノ)喪(ニ)1來(ル)。時獨留2角《ツルカ・ツノ》國1。使2倭子連1【連未v詳2何姓人1】奉2八咫《ヤタノ》鏡於大伴大連(ニ)1而|祈請《ノミテ》曰。僕不v堪d共(ニ)2紀|卿《マチキミ》1奉u事天朝(ニ)u。故(ニ)請3留2住角國(ニ)1。是以大連爲|奏《マウシテ》2於天皇(ニ)1使3留居2于角國(ニ)1。是角臣等初居2角國1而名2角臣(ト)1自v此始也。廣辨はひろわきなといふ歟
 
1641 沫雪爾所落開有梅花君之許遣者與曾倍弖牟可聞《アハユキニフラレテサケルウメノハナキミカリヤラハヨソヘテムカモ》
 
所落とは催さるゝなり、此卷上に梅を沫雪にあひて咲にけむかもとよみ、下には今日ふりし雪にきほひてとよめる意なり、君之許は君は友を指歟、此梅を折て友の許へ贈(53)らば雪と梅とのあひにあひたる如く相思ふ意をよそへて見むかとなるべし、
 
初、あはゆきにふられて ふられてはもよほさるゝ心なり。よそへてむかもとは、雪と梅との、あひにあひたることくに、友たちのあひ思ふ心をよそへて、君がみむかとの心なり。第十冬哥、梅花先さく枝を手折てはつとゝなつけてよそへてむかも
 
安倍朝臣奥道雪歌一首
 
稱徳紀云、神護景雲元年、正五位上安倍朝臣奧道授2勲六等(ヲ)1、二年十一月癸未、從四位下阿倍朝臣奧道(ヲ)爲2左兵衛督(ト)1、光仁紀云、寶龜二年閏三月戊子朔乙卯、無位安倍朝臣奧道(ヲ)復2本位從四位下1、九月甲申朔己亥、内蔵頭、三年四月、但馬守、八月甲子、復2息部|息《オキ》道(ヲ)本姓阿倍朝臣(ニ)1、五年三月癸卯、從四位下安倍朝臣息道卒(ス)、右の光仁紀に疑あり、何の科に官位を召返し給ひ、阿倍を改て息部となさせ給へりと云事を知らずと云へども、推量するに是は神護景雲三年の事にて、寛仁の光仁の帝、過を宏めさせ給ふ歟、或は道鏡法師が事などに諫言などを奉て逆鱗に逢て、其身過なきに依て憐ませ給ひて本位本姓に復せさせ給歟の間なるべし、然らば先寶龜二年に本姓にかへし給ひ、三年に本位にかへし給ふべき歟、其上三年に本姓に復せば二年に何の無位安倍朝臣奥道とはかゝるべき、續日本紀の流布の本、傳寫の誤多ければ是も其一つなるべし、
 
初、安倍朝臣|奥《オキ》道 稱徳紀(ニ)云。神護景雲元年正五位上安倍朝臣奧道(ニ)授2勲六等(ヲ)1。二年十一月癸未、從四位下阿倍朝臣奧道(ヲ)爲2左兵衛(ノ)督(ト)1。光仁紀云。寶龜二年閏三月戊子朔乙卯、無位安倍朝臣奧道(ヲ)復(ス)2本位從四位下(ニ)1。九月甲申朔己亥内蔵頭。三年四月但馬守。八月甲子復(ス)2息部(ノ)息《オキ》道(ヲ)本姓阿倍朝臣(ニ)1。五年三月癸卯、從四位下安倍朝臣息道卒(ス)
 
1642 棚霧合雪毛零奴可梅花不開之代爾曾倍而谷將見《タナキリアヒユキモフラヌカウメノハナサカヌカハリニソヘテタニミム》
 
發句は水|霧合《キリアヒ》を齊明紀の御製にみなぎらひとよませ給へるに准らへばタナギラヒ(54)とも點ずべし、雪モフラヌカは降かしなり、不開之代爾はサカヌガカヒニと讀べき、かかひと云もかはりなり、或はサカヌガシロニとも讀べきか、しろも亦かはりなり、拾遺集物名にすけみが長莚をよめる歌に、※[(貝+貝)/鳥]のながむしろには我ぞなく、花の匂ひや暫留ると、但是は物名なれば常の例とはすべからざる歟、曾倍而谷將見は雪を梅によそへてだに見むなり、
 
初、たなきりあひ雪もふらぬか たなひくといふに輕引とかきたれは、たなきりあひはうすくもる心なり。雪もふらぬかは、さきにもいへることく、ふらぬかふれかしの心なり。さかぬかはりにそへてたにみむとは、梅の花のさかぬそのかはりに、雪を梅によそへてみんなり
 
若櫻部朝臣君足雪歌一首
 
君足は無v所v考、
 
初、若櫻部 履中天皇の時賜たる氏歟。第七の二十九葉この山のもみちの下の花をわかはつ/\にみて歸るこひしもといふ哥に履中紀をひけり。それをみるへし
 
1643 天霧之雪毛零奴可炊然此五柴爾零卷乎將見《アマキリシユキモフラヌカイチシロクコノイツシハニフラマクヲミム》
 
天霧之、【別校本、幽齋本並云、アマキラシ、
 
發句は第十にも二首まで此句あるに共にアマキラシと點ぜしは今は書生の失錯なり、炊然は灼を誤て炊に作れり、改むべし、
 
初、あまきらし雪もふらぬか 灼然、灼を炊に作れるは誤なり。日本紀には、灼然をいやちことよめり。すなはちしかよむへきよし自注をくはへたまへり。いちしろく此いつしはとよめるは、第四に志貴皇子の御哥に、大原やこのいつしはのいつしかとゝつゝけさせたまへるを、打かへしてつゝけたり
 
三野連石守梅歌一首
 
第十七にも此人の歌あり、續日本紀第三十九云、延暦五年十二月乙卯、陰陽助正六位上路三野眞人石守言、己父馬養姓無2路字1、而今石守獨著2路字(ヲ)1、請除(カム)v之(ヲ)許焉、是路の字を(55)除けば氏も名も同じ、但連と眞人と姓異なり、其上今路の字なければ別人歟、
 
初、三野連石守 第十七卷に、天平二年冬十一月太宰帥大伴卿被v任2大納言1上v京之時陪從(ノ)人等別取2海路1入v京時歌十首。此初にも、石守か哥一首あり。續日本紀第三十九云。延暦五年十二月乙卯、陰陽助正六位上路三野眞人石守言(ス)。己(カ)父《カソ》馬|養《カヒ》姓無2路字1。而(ルヲ)今石守獨(リ)著2路(ノ)字(ヲ)1。請(フ)除(カント)v之(ヲ)。許(シタマヘリ)焉。これ同人歟。されと今は其姓連なり。彼は第一の眞人なれは、同異さためかたし
 
1644 引攀而折者可落梅花袖爾古寸入津染者雖染《ヒキヨチテヲラハチルヘクウメノハナソテニコキイレツソマハソムトモ》
 
可落は今の點はよからず、チルベミと讀べし、袖爾古寸入津もソデニコキレツと入の字上略して讀べし、第十八家持の橘歌に之路多倍能蘇泥爾毛古伎禮《シロタヘノソデニモコキレ》云々、第十九同家持詠2霍公鳥并藤花1長歌終云、藤|浪乃花奈都可之美《ナミノハナナツカシミ》、引攀而袖爾古伎禮都《ヒキヨチテソテニコキレツ》、染婆染等母《ソマハソムトモ》、此反歌(ニ)云、霍公鳥|鳴羽觸爾毛落爾家利《ナクハフレニモチリニケリ》、盛過良志藤奈美能花《サカリスクラシフチナミノハナ》、此注(ニ)云、一(ニ)云、落奴倍美|袖《ソテ》爾|古伎禮都《コキレツ》藤浪乃花也、家持は古今の人に能擬してよまれたれば、此等は今の歌を思はれけるなるべし、古今集にも素性が歌に、紅葉は袖にこきいれてもて出なむとよめり、
 
初、袖にこきいれつ 第十八十九にも、袖にこきいるとよめり。古今集にも、もみちはゝ袖にこきいれてもて出なん秋はかきりとみん人のため、素性
 
巨勢朝臣宿奈麻呂雪歌一首
 
1645 吾屋前之冬木乃上爾零雪乎梅花香常打見都流香裳《ワカヤトノフユキノウヘニフルユキヲウメノハナカトウチミツルカモ》
 
冬木とは今は梅より外の萬の冬木なり、打見ツルカモとは、打は詞のかゝりにそへて云詞ながら一目見るやがてにそれなめりと思ふ意あり、
 
小治田朝臣東麻呂雪歌一首
 
(56)東麻呂は未v詳、
 
1646 夜干玉乃今夜之雪爾率所沾名將開朝爾消者惜家牟《ヌハタタノコヨヒノユキニイサヌレナアケムアシタニケナハヲシケム》
 
腰の句はいざぬれむななり、立て見居て見見る程に、衣も沾べけれど、ぬれても愛せむの意なり、
 
忌部首黒麻呂雪歌一首
 
1647 梅花枝爾可散登見左右二風爾亂而雪曾落久類《ウメノハナエタニカチルトミルマテニカセニミタレテユキソチリクル》
 
雪曾、【官本云、ユキソ、】  落久留、【別校本云、フリクル、】
 
散登を六帖にはさくと〔三字右○〕と改たり、落句はユキソフリクルと讀べし、曾をヲ〔右○〕と點ぜるは書生の失錯なり、
 
紀少鹿女郎梅歌一首
 
1648 十二月爾者沫雪零跡不知可毛梅花開含不有而《シハスニハアハユキフルトシラヌカモ メノハナサクツホメラスシテ》
 
不知可毛、【官本云、シラスカモ、】  含不有而、【六帖云、フヽメラスシテ官本又點同v此、、】
 
十二月をしはすと云事奧義抄云、僧を迎へて佛名を行ひ、或は經をよませ、東西に馳せ(57)走る故に師はせ月と云をあやまれり、今按これ先達の義なりと云へども臆説なり、凡そ僧は閑寂を事とす、况十二月は冬安居の時なれば何かは東西に馳走せむ、佛名を行なはるゝ等の公事は後に起れり、此集既に先だつ事久し、日本紀の點にもあり、それは猶後を以て初めに廻らすとも云なすべけれど、されども紀の文は然る事あり、紀より後の事をもて點ずべきに非ず、し〔右○〕とせ〔右○〕と通ひ、す〔右○〕とし〔右○〕と通へばせはし〔三字右○〕と云意にもや侍らむ、梅の點ウ〔右○〕もじを落せり、落句今の點は新語にて叶はず、六帖に依べし、或はフヽミテアラズテとも讀べし、袖中抄につゝみてあらでとあるもよからず、
 
初、しはすにはあはゆきふると 後々の哥には、春のあはゆきとよみなれて、春の物のやうにおもひあへり。和名集云。日本紀(ニ)云。沫雪【阿和由岐】其弱(キコト)如(シ)2水沫(ノ)1。其弱といへるは、消やすきにつきて、水沫のことくなれは、あは雪といふといふ心なり。水のあはに、泡と沫との心かはれり。泡はあはの大きにして、物をつゝめるやうにうかふをいふ。徑寸の玉のことし。沫は米なとを細末せる粉のことくなるをいふ。包にしたかへ、末にしたかへたる此ゆへなり。しかれはあはゆきは、只よはきをいふのみにあらす。こまかなるをもいふへし。つほめらすしては、つほみてさてもあらすしてなり。ふゝめらすしてともよむへし。ふゝむはふくむにおなし。神代紀にも含の字ふくむとよむへきを、ふゝむとよめり。花のつほむもふゝむも、みな人の口をとつるにたとへたり。人の口のすこしちひさくて出たるやうなるを、俗につほくちといふも、つほめるくちといふ心なり。壷の字の和訓をつほといふも、口のかたのすほけれは、含の字の心にて名付たるへし。花のさくを咲の字開の字なとかけるも、人のくちをひらき、あるひはゑむに比したるなり
 
大伴宿彌家持雪梅歌一首
 
1649 今日零之雪爾競而我屋前之冬木梅者花開二家里《ケフフリシユキニキホヒテワカヤトノフユキノウメハハナサキニケリ》
 
初、雪にきほひて 雪に我おとらしとあらそふなり
 
御在西池邊肆宴歌一首
 
聖武紀云、天平十年秋七月癸酉、天皇御2大蔵省(ニ)1覽2相撲1、晩頭御2西池宮1、因指2殿前梅樹1、勅2右(ノ)衛士督下道朝臣眞|備《キヒ》及(ヒ)諸才子1曰云々、
 
1650 池邊乃松之末葉爾零雪者五百重零敷明日左倍母將見《イケノヘノマツノスヱハニフルユキハイホヘフリシケアスサヘモミム》
 
(58)末葉はウラハと讀べし、
 
初、松の末《スヱ》葉 松のうらはともよむへし
 
右一首作者未詳但竪子阿倍朝臣蟲麻呂傳誦之
 
莊子云、故人命2竪子1、殺v鴈(ヲ)而烹(シム)v之、
 
大伴坂上郎女歌一首
 
1651 沫雪乃比日續而如此落者梅始花散香過南《アハユキノヒナヘニツキテカクフレハウメノハツハナチリカスキナム》
 
比日、上にもあまたコノコロとのみ點じたれば今もひとしくこそよまめ、上に赤人の歌にひならへてと云には日並而とぞ書し、
 
初、沫雪のひなへ|《メ》につきて ひなへは、比日とかきたれは、このころとも讀へし
 
池田廣津娘子春歌一首
 
1652 梅花折毛不折毛見都禮杼母今夜能花爾尚不如家利《ウメノハナヲリモヲラスモミツレトモコヨヒノハナニナホシカスケリ》
 
折ても見、折らずしてたてながらも見たりしかども今夜の花にしかずとは、晝よりも夜目に見るを賞する意なり、伊勢物階に梅の花盛に月の面白かりける夜などかけるわたり思ひ合すべし、
 
縣犬養娘子依梅發思歌一首
 
(59)1653 如今心乎常爾念有者先咲花乃地爾將落八方《イマノコトコヽロヲツネニオモヘラハマツサクハナノツチニオチメヤモ》
 
先咲花は梅なり、第五に波流佐禮婆麻豆佐久耶登能烏梅能波奈《ハルサレハマツサクヤトノウメノハナ》、古今には、春されば野べに先咲見れどあかぬ花とよめり、歌の意は、人の我を思ふ事今咲梅を愛する如くならば、酒に泛べ袖にこき入れなどして翫て徒に地には落さぬやうに古さるゝ事もあらじとよそふる也、初て相見る男の有けるにや、
 
初、今のこと心をつねにおもへらは これは梅の初花をおもふことく、我を人のおもはゝ、堂を下さゝらむこと、初花の地におちぬことくならましとにや 
 
大伴坂上郎女雪歌一首
 
1654 松影乃淺芽之上乃白雪乎不令消將置言者可聞奈吉《マツカケノアサチカウヘノシラユキヲケタステオカムトイヘハカモナキ》
 
芽は茅を誤れり、落句は今按今の點意得がたし、イフハカモナキと讀べし、淺茅原の松陰に雪の零敷て面白く見ゆるを愛する餘りに、いかでけたずして置てしがなといはるゝも、思へばはかなき事ぞとなり、世の常ならぬは定まれる理なるを、千世萬歳とねがふ意をかけてはかなめるなるべし、
 
初、松かけのあさちのうへの いへはかもなき。此かむなはあやまりなるへし。いふはかもなきとよむへきにや。松陰の淺茅か上に、雪のおもしろくふれるを、いかてきえしめすしておかむといふもはかなきなり。はかなきはかひなき心あり。俗にはか/\しからぬ、はかのゆかぬなといふ。おなしことはのわかれたるなるへし
 
冬相聞
 
三國眞人人足歌一首
 
(60)人足は考る所なし、三國氏は繼體紀云、次三尾吾|堅※[木+戚]《カタヒ》女(ヲ)曰2倭媛1、生2二男二女1、其二曰2椀子(ノ)皇子1、是三國公之先也、姓を眞人と賜はる事は天武天皇白鳳十三年の冬なり、
 
初、三國眞人 繼體紀云。次(ニ)三尾君|堅※[木+威]《カタヒカ》女(ヲ)曰2倭媛(ト)1。生2二男二女(ヲ)1。其二(ヲ)曰2椀《マリ》子皇子(ト)1。是三國(ノ)公《キミノ》之先也。天武天皇白鳳十三年冬眞人の姓を賜れり
 
1655 高山之菅葉之努藝零雪之消跡可曰毛戀乃繁鷄鳩《タカヤマノスカノハシノキフルユキノケヌトカイフモコヒノシケヽク》
 
高山は第一第十一にはカクヤマと點ぜれば今も何れならむも知るべからず、曰毛は今按イハモと讀ていはむと意得べし、法華懺法に至心懺悔をしゝも〔三字右○〕と云へば、古は毛と牟とを通ぜる事常なりと見えたり、第四の句は雪によそへてけぬとかと云ひ、第五は菅葉を承て繁けくといへり、古今には、おくやまのすがのねしのぎふるゆきの、けぬとかいはむ戀の繁きにとあり、此集に入らぬ古き歌を載る由なれば改て入るゝにはあらず、誤て載たり、
 
初、高山のすかのはしのき これは古今集におく山のすかのねしのきふる雪のけぬかといはむこひのしけきにとある哥なり。こゝに載たるによれは、すかのねしのきは誤てつたへけらしとそみゆる。第三に大納言大伴卿の哥にも、おく山のすかのはしのきふる雪のけなはおしけむ雨なふりこそと侍り。菅の葉をこそをかししのき侍らめ。根はことはりたしかならねと、すかのねしのきとよみあけたる所、きゝのよけれは、難なきなり。けぬとかいふも、これもかんなあやまれり。けぬとかいはもと有へし。牟と毛とは五音通すれは、いはもはいはむにおなし。昔は通してよみもし、あるひはかきもしけれは、後はそれにまとへる事あり。たとへは和泉式部か哥に
  人もかなみせもきかせも萩か花さく夕かけのひくらしの聲
これはみせむきかせむなるを、通し《・モトムト》てみせもきかせもと初よりよめる歟。又みせんきかせんとはよめるを、みせもきかせもとかける歟。此ふたつのあひたを出さるを、後の人はみせもせん、きかせもせんといふへきを、ふたつのせんといふ詞をいひ残せりとこゝろ得て、本哥にも用けるなり。六百番哥合に有家卿
  高砂の松を緑にふきかへしみせもきかせも山おろしの風
判者俊成卿も難せられさりけれは、其比もみせんきかせんなりとは意得られさりけるなり。天台宗に法華懺法するに、至心懺悔といふ事を、漢音によむ時、しゝもさんくわい《・至心懺悔》とよめるは、ふるき人のつけたるかんなにまかせて、よみあやまれるなるへし。第一卷に、高山とかきてかく山とよみたれは、此高山もかくやまと作考はよめりけむもしらす。菅の菓しのきは、文鏡秘府論に出たる字對例詩云。原夙振(ヒ)2平楚《地名》(ニ)1野雪被(フル)2長菅《・草名》(ニ)1。しけゝくはしけきにのこゝろなり
 
 
 
大伴坂上郎女歌一首
 
1656 酒杯爾梅花浮念共飲而後者落去登母與之《サカツキニウメノハナウケテオモフチチノミテノノチハチリヌトモヨシ》
 
上句は第五の諸人の梅歌に似たる有て注せりき、
 
初、さかつきに梅の花うけて 第五に三十二首梅花謌中に、村氏|彼方《ヲチカタ》か哥に
  春楊かつらにおりし梅の花たれかはうへしさかつきのへ《・上》に
第七に
  《旋頭哥》春日なるみかさの山に月の舟いつ。たはれをのゝむさかつきに影にみえつゝ
 
和歌一首
 
(61)1657 官爾毛縱賜有今夜耳將飲酒可毛散許須奈由米《ツカサニモユルシタマヘルコヨヒノミノマムサケカモチリコスナユメ》
 
官爾毛、【官本又云、オホヤケニモ、】
 
胸句今の點誤れり、ユルシタマヘリと讀て句絶とせざれば語意通ぜず、親しきどちひとりふたり寄會て飲て樂しぶ事をば許したまへば、今夜のみならむや、又も酒に泛ぷべければ散過なとなり、
 
初、官にもゆるしたまへり ゆるしたまへるとあるは誤なり。第二と第四と兩所にて句をきりてよむへし。下注云。但親々一(リ)二(リ)飲樂(スルヲハ)聽許《・ユルス》(ステヘリ《トイノ反》)。しらしき人ひとりふたりよりあひて飲ことをは、おほやけにもゆるしたまへは、たゝこよひのみのまん酒かは、又ものむへけれは、ゆめ/\散過なと梅をいさむるなり。のみての後はちりぬともよしといへるをおさへたるかへしなり
 
右酒者官禁制※[人偏+稱の旁]京中閭里不得集宴但親親一二飲樂聽許者縁此和人作此發句焉
 
閭里〔二字右○〕、閭、説文、里門也、周禮、五家(ヲ)爲v比、五比(ヲ)爲v閭、閭(ハ)侶也、二十五家相羣侶也、爾雅、巷門(ヲ)謂v閭、但親親〔三字右○〕史記、孝文本紀云、※[酉+甫]五日、索隱曰、説文云、※[酉+甫]、王者布v徳大飲酒也、
 
初、注、右酒者〇許者 史記孝文本紀云。※[酉+甫](スルコト)《・サケノミスルコト日本紀》五日、【文穎曰。漢律三人已上無v故群飲罰金四両。今詔(シテ)横《ホシイマヽニ》賜(テ)v得(ルコトヲ)2會聚(スルコトヲ)1飲食(スルコト)五日(ナリ)
 
藤原后奉 天皇御歌一首
 
原の下に皇の字を落せる歟、他處には然り、目録には藤皇后と有て原の字なし、互におとせり、此は世に光明皇后と申す淡海公の御女なり、廢帝紀云、寶字四年六月乙丑、天平應眞仁正皇太后崩、姓藤原氏、近江朝大織冠内大臣鎌足之孫、平城朝贈正一位太政大臣不比等(ノ)之女也、母(ヲ)曰2贈正一位縣犬養橘宿禰三千代(ト)1、皇太后幼而聰慧、早播2聲譽1、(62)勝寶感神聖武皇帝儲式之日、納以爲v妃、時年十六、攝2引衆御(ヲ)1、皆盡2其歡1、雅閑禮訓、敦(ク)崇2佛道1、神龜元年聖武皇帝即位、授2正一位1爲2大夫人(ト)1、生2高野天皇及(ヒ)皇太子(ヲ)1、其皇太子者誕(シテ)而三月、立(テ)爲2皇太子(ト)1、神龜五年夭而薨焉、時(ニ)年二(ツ)、天平元年尊2大夫人(ヲ)1爲2皇后(ト)1、湯沐(ノ)之外更加2別封一千戸(ヲ)1、及2高野天皇東宮(タルニ)1、封一千戸、太后仁慈、志存v救v物(ヲ)、創2建東大寺及天下國分寺1者本太后之所v勸也、設(テ)2悲田施藥(ノ)兩院(ヲ)1、以療2養天下飢病之徒1也、勝寶元年、高野天皇受v禅、改2皇后職1曰2紫微中臺(ト)1、妙選勲賢、並列2臺司1、寶字二年、上2尊號1曰2天平應眞仁正皇太后1、改2中臺1曰2坤宮官1、崩時春秋六十、立后の時の勅宜に仁徳天皇の磐媛皇后と諸共に世を治めさせ給へるに准例せさせ給へり、委は聖武紀を見るべし、又聖武天皇と皇太后とに尊號を奉れる諸臣並に僧徒の表も寶字二年の紀に載たり、
 
初、藤原后 皇后なるへきを、皇の字をゝとせるなり。目録には、藤皇后とありて、原の字なし。たかひにおちたり。これは光明皇后にて、淡海公の御女なり。廢帝紀云。寶字四年六月乙丑天平應眞仁正皇太后崩(ス)。姓(ハ)藤原氏。近江朝大織冠内大臣鎌足之孫、平城朝贈正一位大政大臣不比等之女也。母(ヲ)曰2贈正一位縣犬養橘宿禰三千代(ト)1。皇太后幼而聰慧(ニシテ)早播(コス)2聲譽(ヲ)1。勝寶感神聖武皇帝、儲貳之日|納《メシイレテ》以爲(タマフト)v妃(ト)。時年十六。攝2引(シテ)衆御(ヲ)1皆盡(ス)2其歡(ヲ)1。雅閑禮(ヲモテ)訓。敦(ク)崇2佛道(ヲ)1。神龜元年聖武皇帝即v位、授(テ)2正一位(ヲ)1爲2大夫人(ト)1。生2高野《タカノノ》天皇及皇太子(ヲ)1。其皇太子(ハ)者誕(テ)而三月立爲2皇太子(ト)1。神龜五年夭而薨焉。時(ニ)年二。天平元年尊(テ)2大夫人(ヲ)1爲2皇后(ト)1。湯沐之外更(ニ)加2別封一千戸(ヲ)1。及(テ)2高野天皇東宮(タルニ)1〇《・恐脱字》封2一千戸1。太后仁慈(ニシテ)志在(リ)v救(フニ)v物(ヲ)。創2建(シタマフコトハ)東大寺及(ヒ)天下(ノ)國分寺(ヲ)1者、本(ト)太后之所(ナリ)v勸(メタマフ)也。設2悲田施藥(ノ)兩院(ヲ)1以療2養(シタマフ)天下飢病(ノ)之徒(ヲ)1也。勝寶元年高野(ノ)天皇受(タマヒテ)v禅(ヲ)改(テ)2皇后(ヲ)職(ヲ)1曰2紫微中臺(ト)1。妙選勲賢並列2臺司(ニ)1。寶字二年上(テ)2尊號(ヲ)1曰2天平應眞仁正皇太后(ト)1。改(テ)2中臺(ヲ)1曰2坤宮官(ト)1。崩(シタマフ)時春秋六十。天平元年立后の時の勅宣に、仁徳天皇の磐姫皇后とゝもに世を治めさせたまへることを准例せさせたまへり。委は續日本紀を見るへし。又聖武天皇と皇太后とに、尊號を奉れる諸臣并に僧徒の表も、廢帝紀につふさなり
 
1658 吾背鬼與二有見麻世波幾許香此零雪之懽有麻思《ワカセコトフタリミマセハイクハクカコノフルユキノウレシカラマシ》
 
池田廣津娘子歌一首
 
1659 眞木乃於上零置有雪乃敷布毛所念可聞佐夜問吾背《マキノウヘニフリオケルユキノシク/\モオモホユルカモサヨトフワカセ》
 
於上、【校本、幽齋本並上作v爾、】
 
於上の時は於はに〔右○〕なり、於爾の時は於はうへ〔二字右○〕なり、問はトヘと點ずべし
 
初、さよとへわかせ さよとふとあるは、過にし夜々をとひし心に點をくはへたる歟。只さよとへとよみて可v然
 
(63)大伴宿彌駿河麻呂歌一首
 
1660 梅花令落冬風音耳聞之吾妹乎見良久志吉裳《ウメノハナチラスアラシノオトニノミキヽシワキモヲミラクシヨシモ》
 
冬風、【官本又云、フユカセ、】
 
初、むめの花ちらすあらし あらしを冬風とかけるは、義をもてなり。嵐を秋の物ともせれと、只いつもあらき風をいふへし。此わきもは坂上郎女が山もりの有けるしらにとほのめかされし、坂上二娘をいへるなるへし
 
紀少鹿女郎歌一首
 
1661 久方乃月夜乎清美梅花心開而吾念有公《ヒサカタノツキヨヲキヨミウメノハナコヽロヒラケテワカオモヘルキミ》
 
久方は空の枕詞なれば空とつらぬる意に空にある物には何にても置なり、又一説は、古今に伊勢が久方の中に生たる里とは桂の里を云へる故に、久方は月の名なりとも云へり、今は何れも叶ふべし、月夜と云ひ、梅と云ひ、相思ふ人にさへ逢へば梅によせて心開けてとは云へり、
 
初、久方の月夜をきよみ 心のふさかるをいふせきといふ。そのいふせさのはるゝをひらくといへは、月夜といひ、梅といひ、おもふ人にさへあへは、梅花によせて、心ひらけてとはいへるなり。うれしけなる哥なり
 
大伴田村大娘與妹坂上大娘歌一首
 
1662 沫雪之可消物乎至今流經者妹爾相曾《アハユキノケヌヘキモノヲイマヽテニナカラヘヌレハイモニアヘルトソ》
 
雪の如く消ても惜からぬ身なれど、さすがにながらへぬるかひに妹にあへるとなり、此集には雪の降を多く流るとよめる故に、命のながらふるをよせてよめり、
 
初、あはゆきのけぬへきものを 雪のことくきえても、をしからぬ身なれと、さすかになからへぬるかひに、いもにあへるとなり。此集に雪のふるをなからふるといへは、命にはよせたるなり。坂上大娘は、田村大娘のために、まことのいもうとなれと、只これは通して女をしたしみてよふ詞なり。家持の哥には姑坂上郎女をも妹とよまれたり。此田村大娘と、坂上大娘とは、贈答あまたみえたり。むつましきあねいもうとなり。今の嫗《オウナ》まさにしからんや
 
(64)大伴宿禰家持歌一首
 
1663 沫雪乃庭爾零敷寒夜乎手枕不纒一香聞將宿《アハユキノニハニフリシキサムキヨヲタマクラマカスヒトリカモネム》
 
不纒、【六帖云、マカテ、】
 
萬葉集代匠記卷之八下
 
(1)萬葉集代匠記卷之九上
 
           僧 契 冲 撰
           木 村 正 辭 校
 
雜歌
 
初、雜歌
 
泊瀬朝倉宮御字【大泊瀬幼武天皇】天皇御製歌一首
 
1664 暮去者小椋山爾臥鹿之今夜者不鳴寐家良霜《ユフサレハヲクラノヤマニフスシカノコヨヒハナカスイネニケラシモ》
 
第八に既に注しき.
 
初、ゆふされはをくらの山にふすしかのこよひはなかすいねにけらしも 此哥、第八卷にありてすてに注せり。そこには鳴鹿のといへり
 
右或本云崗本天皇御製不審正指因以累載
 
(2)崗本宮御宇天皇幸紀伊國時歌二首
 
舒明紀を考るに紀伊國に行幸し給へる事見えず、然れども紀に漏たる事なかるべきにもあらず、但後崗本宮と云へる後の字を落せるにや、齊明天皇の紀温湯へ行幸せさせ給へる事は第二卷有間皇子の御歌に付て注せり、
 
初、崗本宮御宇天皇幸《・イテマス日本紀》2紀伊國1時歌二首 日本紀の舒明紀を考るに、紀伊國にみゆきしたまへる事見えす。しかはあれと、紀にもれたることなかるへきにあらす。たゝし此卷は、撰者すてに卷の中にもいへるかことく、古記簡略なるゆへに、作者をしるせるにも、あるひは氏をのみ記し、あるひは名をのみ記して、分明ならぬ事おほけれは、これも、若は後崗本宮にや。齊明天皇の紀温湯へみゆきせさせたまへることは、第二卷有間皇子の御哥につきてしるせり
 
1665 爲妹吾玉拾奧邊有玉縁持來奥津白浪《イモカタメワレタマヒロフオキヘナルタマヨセモテコオキツシラタマ》
 
1666 朝霧爾沾爾之衣不干而一哉君之山道將越《アサキリニヌレニシコロモホサスシテヒトリヤキミカヤマチコユラム》
 
六帖にはあきゝりにぬれにしそてをとあり、此は御供の人の留めたる妻の歌なり沾爾之の爾は助語なり、
 
初、朝きりにぬれにし衣 これは御供なる人の留おける妻の、よめる哥なり。伊勢物語に、風ふけはおきつしらなみ龍田山とよめる哥にも、おとるましくみゆる哥なり
 
右二首作者未詳
 
大寶元年辛丑冬十月太上天皇大行天皇幸紀伊國時歌十三首
 
(3)太上天皇は持統、大行天皇は文武なり、第一卷に注しつるが如し、
 
初、大寶元年辛丑冬十月、太上天皇大行天皇幸2紀伊國1時歌十三首 第一云。大寶元年辛丑秋九月、幸2于2紀伊國1時歌。文武紀云。大寶元年九月丁亥、天皇幸(ス)2紀伊國(ニ)1。冬十月丁未、車駕《キミ・オホムタ》至2武漏温泉1。戊午、車駕自2紀伊1至(リタマフ)。今案、第一卷に秋九月とあるは、紀伊國に御幸せさせたまふ道にての哥なり。今こゝに載たるは、すてに紀の國にいたらせたまひての哥なれは、冬十月といへるたかはす。第一に秋九月とありて日は見えされとも、下旬の末なるへし。績日本紀には、九月丁亥天皇幸2紀伊國1とありて、太上天皇の御幸は載す。但印本に脱誤おほけれは、太上天皇幸2紀伊國1なりけるか、太上の二字のおちたるにや。此集に兩所に太上天皇の御幸と見えたれは、これをもて證とすへし。此太上天皇は、持統天皇なり。太上天皇にて事たれるを、太上天皇大行天皇とあるは、元明天皇の御治世の時、これをしるすとて、持統天皇を太上天皇といひ、文武天皇をいまたをくり名奉らぬ程なれは、大行天皇と申にや。しからは持統と文武と共にみゆきせさせたまへるを、紀には行幸をのみしるして御幸をもらし、此集には御幸をのみしるして、行幸をもらせりと意得へきにや
 
1667 爲妹我玉求於伎邊有白玉依來於伎都白浪《イモカタメワレタマモトムオキヘナルシラタマヨセコオキツシラナミ》
 
於岐都、【幽齋本、岐作v伎、】
 
六帖には我玉拾ふ白玉ゐてことて文武天皇の御歌とす、
 
右一首上見既畢但歌辭小換年代相違因以累載
 
上見既畢は上既見畢なるべきか、小は少なるべきを兩字通用せる事多し、
 
初、注中(ニ)、見既はもし既見なるへきにや
 
1668 白崎者幸在待大舩爾真梶繁貫又將顧《シラサキハサキクアリマテオホフネニマカチシヽヌキマタカヘリミム》
 
白崎、【幽齋本、崎作v埼、】  繋貫、【六帖云、シケヌキ、別校本同v此、】
 
崎の字、集中の例土に从がへたれば幽齋本につくべし、六帖に白崎にみゆきかくあらばとあるは、第一の人丸の近江の舊都を見て作られたる反歌に付て注せしが如し、
 
初、しらさきはさきくありまて 白崎はしらゝの濱にや。さきく有まてとは、此後おもかはりせてみゆきをまて、又大舟に櫓をあまたたてゝ、かさねておはしましてみそなはしたまはんとなり。第一に人麿の近江荒都をかなしめる哥に  さゝなみのしかのからさきさきくあれと大宮人の舟待かねつ
此哥の心におなし。埼といふをうけて、さきくといへるやうもおなし
 
1669 三名部乃浦塩莫滿鹿島在釣爲海人乎見變來六《ミナヘノウラシホナミチソカシマナルツリスルアマヲミテカヘリコム》
 
(4)鹽莫滿、【官本云、シホナミチソネ、】
 
初の兩句六帖にはみつなへのうらしほみつなとあり、紀州の本の點も亦同じ、御名部皇女の御名何の所以にかくおはせ給ふとはしらねど、今の浦の名同じければ當本につけり、胸句は官本に依べし、
 
初、みなへの浦塩なみちそ みちそねとよむへし。天智天皇の皇女の御名を、御名部とおほせたまふは、おほしめすよし有て、此浦にかたとりたまへるにや
 
1670 朝開榜出而我者湯羅前釣爲海人乎見變將來《アサヒラキコキイテヽワレハユラノサキツリスルアマヲミテカヘリコム》
 
1671 湯羅乃前塩乾爾祁良志白神之礒浦箕乎敢而榜動《ユラノサキシホヒニケラシシラカミノイソノウラミヲアヘテコキトヨム》
 
1672 黒牛方塩干乃浦乎紅玉裙須蘇延徃者誰妻《クロウシカタシホヒノウラヲクレナヰノタマモスソヒキユクハタカツマ》
 
1673 風莫乃濱之白浪徒於斯依久流見人無《カサナキノハマノシラナミイタツラニコヽニヨリクルミルヒトナシニ》
 
風莫乃濱、【別校本云、カセナキノハマ、】
 
一云|於斯依來藻《コヽニヨリクモ》
 
右一首山上臣憶良類聚林曰長忌寸意吉麻呂應詔作(5)此歌
 
聚の下に歌を落せり、
 
初、右一首山上憶良類聚歌林曰 歌の字をゝとせり
 
1674 我背兒我使將來歟跡出立之此松原乎今日香過南《ワカセコカツカヒコムカトイテタチシコノマツハラヲケフカスキナム》
 
出立之は今の點叶はず、イデタヽシと讀べし、出立して待とつゞけたり、今按讀出たるやうを思ふに、唯名もなき松原を待と云に云懸むとのみにはあらじ、濱邊に出立《イテタチ》の松原と云所の有て、それを云はむとていろへたるにやあらむ、住吉の出見の濱、大津の打出の濱など云名を思ふに、出立の松原あらば海邊なるべし、六帖には松の歌に出して腰句出立しとあれば、いでたちし、いでたゝしの間わきがたし、
 
初、わかせこかつかひこむかといてたゝし いてたちしとあるかんなはあやまれり。松原を待といふ心に上はいひかけたり。第六に、聖武天皇御哥に、妹にこひ|わが《いせ・吾》の松原とよませたまひ、第十七に、三野石守か哥に、わかせこをあが松原ゆみわたせはとよめるにおなしつゝけやうなり
 
1675 藤白之三坂乎越跡白栲之我衣手者所沾香裳《フチシロノミサカヲコユトシロタヘノワカコロモテハヌレニケルカモ》
 
四十餘年の前、有間皇子此坂にて絞られ給ひけるを慟みて泣意なり、第二にも此行幸に結松を見てよめる歌有き、所沾はヌレにて此下に字を脱せる歟、
 
初、藤白のみさかをこゆと 紀の温湯へみゆきなれは、藤白の坂をこゆるなり。みさかは眞坂の心なり。名高き坂をほむる詞なり。藤白を越とて袖のぬるゝには、ふたつの心あるへし。先は此みさかをこゆれは、故郷のことにはるかになれはなり。又は有間皇子御謀反の事あらはれて、こゝにしてくひりころされたまへることも、大寶の比まてはまた近けれは、それを感して涙のこほるゝにも有へし
 
1676 勢能山爾黄葉常敷神岳之山黄葉者今日散濫《セノヤマニモミチトコシクミワヤマノヤマノモミチハケフカチルラム》
 
(6)常數、【顯昭古今注云、ツネシク、紀州本同、】  神岳之、【顯昭古今注云、カミヲカノ、】
 
常敷は常に敷なり、常とは黄葉の比たたずと云意なり、神岳は第二に辯じたる如くカミヲカと讀べし、今の點は仙覺の誤なり、此時藤原都なれば三諸山の黄葉を勢能山の黄葉の散に付て思ひやる也、
 
初、せの山にもみちとこしくみわ山の とこしくを、顯昭の古今集秘注には、つねしくとかけり。とこしくは、もみちのつねにちりしくなり。第三には雪のふりしくをもとこしくとよめり。常といふに人のあやまる事あり。これは十月の比、もみちのあさゆふ散しくをいへり。みわやまの、神岳のとかきたれは、顯昭これをかみをかと秘注によまれたり。第二にも、天武天皇崩御の時、持統天皇のよませ給へる長哥にも、神岳の山のもみちをけふもかもとひたまはましとありて、此神岳を、みわやまと訓したれと、案するにこれもかれもみわ山とよめるはあやまれり。かみをかと、顯昭におなしくよむへし。其證は、第三に登2神岳1山部宿禰赤人作歌に、みもろの神なひ山に、いほえさししゝにおひたる、とかの木のいやつき/\に、玉かつらたゆることなく、ありつゝもやますかよはむ、あすかのふるき都は、山高み川とをしろしとよめり。これ高市郡に有三諸山をかみをかといへり。雄畧紀に、三諸山をいかつちの岡と名を改らる。第三卷の初に委尺せり。しかれは、いかつちを、唯神とのみいへは、雷岳といふによりて、又は神岡ともいふなるへし。さるを、みわ山をもみむろ山といふにまとひて、かみをかをみわ山なりとおもひて、訓しあやまれるなるへし。せの山にもみちのちりしくをみて、神岳の山のもみちも今や散らんとおもひやるなり。此時藤原の宮にまし/\けれは神岳山まちかけれは、かくはよめるなり
 
1677 山跡庭聞徃歟大我野之竹葉苅敷廬爲有跡者《ヤマトニハキコエモユクカオホカノノタカハカリシキイホリセリトハ》
 
苅敷、【校本或苅柵v刈、】
 
仙覺抄に大我野を大和國と注せるは誤なり、歌の趣紛なく紀伊國なり、凡此十三首によめる地の名は神岳を除て外心皆紀伊なり、
 
1678 木國之昔弓雄之響矢用鹿取靡坂上爾曾安留《キノクニノムカシユミヲノカフラモテシカトリナヒクサカノヘニソアル》
 
響失、【袖中抄云、ナルヤ、紀州本同v此、】  坂上、【袖中抄云、サカノヘ、官本同v此、】
 
木國之昔弓雄とは、袖中抄にあさもよひ紀の關守が手束弓と讀たれば昔能射手を出しける故に昔弓雄とは云歟、響矢は袖中抄になるや〔三字右○〕と讀てかぶら矢を云なるべしと注せらる、和名集云、漢書音義云、鳴鏑、如今之鳴箭也、日本紀私記云、八月鏑、【夜豆女加布良】(7)今按如2今之鳴箭1也と云は鳴鏑の外に鳴箭ありと見え、今響矢と書たればなるやと讀たる其理あれど、此國にかぶらやの外になるやと云名なし、鏃形蕪に似たる故にかぶらやと云ひ、射る時鳴る故に鳴鏑といへば、今響矢をカブラと義訓せる、尤善と云べし、鹿取靡とは射伏るなり、坂上は地の名なるべし、鹿取靡は此坂上まさにその處なりと云意なり、
 
初、木のくにのむかし弓雄のかふらもて 古哥にあさもよひきのせきもりかたつかゆみゆるす時なくあかもへる《・我所思》君。管見抄云。紀伊國の風土記に、たつか弓とは、弓のとつかを大きにするなり。それは紀伊國雄《・セノ歟》山の關守かもつ弓なりといへり。しかれは、昔弓雄とは雄山の關守か弓よく射けるによりてかくはいひつゝけたりときこゆるにや。以上管見抄。今案先古哥にたつか弓とよめるは、此集第五卷に杖をたつか杖といへることく、よろつの弓は皆手につかねもつ物なれはいへり。しかるを、たま/\紀のせきもりかたつか弓といへる古哥を見て、紀の關守か弓のつくりやう、よそにかはれるを、たつか弓といふそと心得けむは、寡聞なる好事のものゝくせなり。此集第十九に
  手束弓手に取持てあさかりにきみはたちいぬたなくらの野に
注云右一首(ハ)治部卿船王傳(ヘ)2誦(ス)之(ヲ)1。久邇(ノ)京都(ノ)時(ノ)歌(ナリ)。未(タ)《・ス》v詳(ニセ)2作主(ヲ)1也。此哥を見て紀の關守か弓にかきらさることを知へし。又雄山といへるは兄《セノ》山《・ヤマ》のこと歟。夫を兄《セ》といへは、雄ともそれによりてはいふへし。孝徳紀に、畿内を定らるゝ時南(ハ)自2紀伊(ノ)兄《セイ》山(一)以來【兄《クエイ》此(ヲハ)云制】といへり。昔大和に都の有ける時は、まつち山より越て、兄《セ》の山にいたり、それより橋をわたりて妹山にかゝりけると見えたれは、紀の關は勢能山にすへられけるなるへし。古哥に紀の關守かたつか弓といひ、今昔弓雄とよみたれは、彼關守に名高き上手の有けるなるへし。かふらは、和名集云。漢書音義(ニ)云。鳴鏑(ハ)如(シ)2今(ノ)之鳴箭(ノ)1也。日本紀私記云。八日鏑【夜豆女加布良。】漢には、射る時聲あるゆへに鳴鏑といひ、今の哥には、響矢とかき、和にはかたちの蔓菁の下腹《カフラ》に似たりとて、かふらやとはいふなるへし。漢書(ニ)曰。冒頓《ホクトツ》作2鳴鏑(ヲ)1。鹿とりなひくとは、鹿を射ふせし坂の上は、こゝにてそあるといふ心なり
 
1679 城國爾不止將往來妻社妻依來西尼妻常言長柄《キノクニニヤマスカヨハムツマモコソツマヨリコサネツマトイヒナカラ》  一云|嬬賜爾毛嬬云長柄《ツマタマフニモツマトイヒナカラ》
 
コソは願ふ詞なれば、妻もがなと云意なり、妻依來西尼《ツマヨリコサネ》は、サ〔右○〕例の助語にて、妻依來ねなり、妻常云長柄とは、今按和名集を考るに、名草郡に津麻郷あり、其名によせて妻の許へと云ひながら通ひ來むとよめる歟、面白き所多けれど妻のなければ通ひがたきに、相思ふ妻も有て吾に依來よかし、それが許を懸で常に往來せむとにや、下の那賀郡曝井歌も今と同じ意なり、一本の嬬賜爾毛の句はいまだ其意を得ず、
 
初、きのくにゝやますかよはむつまもこそ こそはねかふ詞なれは、妻もかなといふにおなし。つまよりこさねは、妻よりこよといふ詞なり。第十四東哥に、庭にたつあさてこふすまこよひたにつまよしこさねあさてこふすま。此よしこさねといへるも、よりこさねなり。里と之と同韻にて通せり。妻といひなからは、妻の許へといひなからかよひこんとなり。おもしろき所おほけれと、妻のなけれは、かよひかたきに、あひおもふ妻もかな、われによりこよ、それがもとをかねて、常にかよひこんといふ心なり。不止はとはにとも此集によめり。下の第二十葉に、みつくりの中にむかへるさらし井のたえすかよはむそこに妻もか。此哥の心におなし。以上名所は皆紀伊國なり
 
右一首或云坂上忌寸人長作
 
(8)人長は無v所v考、
 
後人歌二首
 
留守(レル)の人なり、後來の人にはあらず、
 
初、後人歌 をくれたる人の哥とよむへき歟。留守を後といへり。第五卷に後人追和歌といへるにはおなしからす
 
1680 朝裳吉木方徃君我信士山越※[にすい+監]今日曾雨曝零根《アサモヨイキヘユクキミカマツチヤマコユラムケフソアメナフリソネ》
 
一二の句を袖中抄にあさもよきかたゆくきみがと讀て、私云此あさもよきはひ〔右○〕の字の略したる也と注せられたるは、麻裳吉をあさもよひと云説に付て今の歌をわろくよまれたるなり、
 
初、あさもよひきへゆく君か まつち山は大和なり
 
1681 後居而吾戀居者白雲棚引山乎今日香越※[にすい+監]《オクレヰテワカコヒヲレハシラクモノタナヒクヤマヲケフカコユラム》
 
獻忍壁皇子歌一首 泳仙人形
 
此は忍壁親王家の屏風の繪などを見てそれによせて祝ひ奉れるなるべし、釋名云、老而不(ルヲ)v死曰v仙(ト)、仙(ハ)遷也、遷(テ)入v山也、故其制(スルコト)v字(ヲ)人傍(ノ)作v山也、六帖には人丸の歌とす、
 
初、詠2仙人(ノ)形1 これは忍壁皇子をいはひたてまつりてよめるなるへし。釋名(ニ)曰。老(テ)而不(ルヲ)v死曰v仙(ト)。々(ハ)遷(ナリ)也。遷(テ)入(レハナリ)v山(ニ)也。故(ニ)制(スルコト)v字(ヲ)人(ノ)傍(ノ)《・ヒトソフ》山(・ニ)也l
 
(9)1682 常之陪爾夏冬往哉裘扇不放山住人《トコシヘニナツフユユケヤカハコロモアフキハナタスヤマニスムヒト》
 
往哉、【六帖云、ユクヤ、】
 
常之陪爾はとこしなへになり、允恭紀に衣通姫の御歌云、等虚辭陪邇枳彌母阿閉椰毛云云、夏冬往哉は夏冬のゆけばにやなり、六帖にゆくやと有もことわ能聞ゆ、裘を常に著たるはいつも冬の如く、扇を常に放たぬはいつも夏の如し、彼仙境は夏も冬も各常に往歟となり、
 
初、とこしへに夏冬ゆけや とこしへはとこしなへなり。衣通姫の哥にも、とこしへに君もあへやもと讀たまへり。夏冬ゆけやは、夏冬ゆけはにやといふにおなし。かはころもあふきはなたて山に住人とは、かはころもを、常にはなたねは、常に冬のことし。扇を常にはなたねは、常に夏のことし。彼仙境には、夏も冬もをの/\常なるかといふ心なり。これは忍壁親王家の、屏風の繪あるひは只繪にかける仙人を見て、それによせていはふなるへし
 
獻舍人皇子歌二首
 
初、獻2舍人《トネリノ》皇子(ニ)1歌 舍人はとねりとよむへし。いへひとゝよめるは後人の所爲なり
 
1683 妹手取而引與治※[手偏+求]手折吾刺可花開鴨《イモカテヲトリテヒキヨチウツタヲリワカカサスヘキハナサケルカモ》
 
※[手偏+求]手折、【官本云、ウチタヲリ、】
 
取テ引ヨチは花枝を折ことなるを、取てと云はむ爲に妹手とはおけり、下句は此皇子の御蔭に隱れ申すべき程に成給へるを悦ぶ意なり、
 
初、いもか手を取て引よちうちたをり 取て引よちは、下の花のことなるを、取といはむために、妹か手をとはいへり。我かさすへき花さけるかもとは、王仁か今は春へとさくやこの花といへる心なり。此皇子の御陰にかくれ奉るへきほとになりたるをいふなり
 
1684 春山者散過去鞆三和山者未含君待勝爾《ハルヤマハチリスクレトモミワヤマハイマタツホメリキミマツカテニ》
 
(10)春山は※[手偏+總の旁]を以て下の三和山の別に對せり、第二の句今按去の字の點應ぜず、チリスギヌレドモ、或チリスギユケドモと讀べし、下句の點も亦よからず、イマダフヽメリキミマチガテニと讀べし、此は大神氏の人の、時にあはず沈居て、皆人は榮華の盛の身に過るまでなるに、我は三和山の山陰の花の如くに君が恩光に因て愁眉を開かむ事を待かぬるとよめるにや、皇子に愁へ申て吹擧を仰ぐ意ある歟、
 
初、春山は散過れとも なへての春山の花は散過る比になるなり。みわ山はいまたつほめりとは、みわ山の花は山ふかけれは、咲ことのおそきなり。君まちかてにとは、君か恩光のいたるをまちかぬるなり。みわ氏の人の舎人皇子の御陰をたのみ居たるかよめるか。さらすはみわ山とはわきていふましくや。春山は散過れともは、皆人の榮華の盛の身にあまるまてなるにたとへ、みわ山はいまたつほめりは、わか身のしつみ居たるによせてよめりときこゆ。さて皇子にうれへ申て、吹擧をあふくなるへし
 
泉河邊間人宿禰作歌二首
 
大浦歟、
 
初、間人宿禰は大浦歟
 
1685 河瀬激乎見者玉藻鴨散亂而在此河常鴨《カハノセノタキルヲミレハタマモカモチリミタレテアルコノカハトカモ》
散亂而在、【拾遺云、チリミタレタル、六帖同v此、】  此河常鴨、【幽齋本無2此字1、】
 
此歌、拾遺には藻をよめるとて人丸の歌として、川のせのうづまく見れば玉藻かも、散亂たる川のふねかもとあり、六帖には川の歌として、河のせになびくを見れば玉藻かも、散亂たるかはのつねかもとあり、此に依て拾遺の歌を見るに、ふねかもはつねかもを誤れる歟、六帖と拾遺とに依て今の歌を按ずれば此〔右○〕の字衍文歟、今の本に(11)付て注せば河常は河門なり、たぎりて落る水の、白絲をはへたるやうに見ゆるを綺《イロヘ》てほむるとて、玉藻の散亂たる歟若は此河門の水歟と迷へるさまによめり、若落句をかはのつねかもと云によらば、玉藻の散亂たるにはあらで、かやうに見ゆるは此泉河のよのつねの事かと云意なり、
 
初、河の瀬のたきるを たきりて落る水の、白絲のやうに見ゆるを、いろへてほむるとて、玉もののなひきてみたるゝか、もしは此河門の水歟とまとへるやうにいへり。かはとは、みなとせとなといふことく、川の瀬々の水のひとつになりて、せはきお所を過るをいへり。人の家に門あるかことし。人の咽喉をのむとゝいふも、呑門といふ心なるへしときこゆれは、節所をおほく門《ト》といへり。拾遺集第八、藻をよめる、人丸。川のせのうつまくみれは玉もかもちり亂たる川の舟かも
 
1686 彦星頭刺玉之嬬戀亂祁良志此河瀬爾《ヒコホシノカサシノタマノツマコヒニミタレニケラシコノカハノセニ》
 
彦星、【別校本、彦作v孫、】  嬬戀、【六帖云、ツマコフト、】
 
河瀬の浪の玉の如く見ゆるを、彦星も銀河を隔て妻戀すればめづらしく思ひよせたり、清輔朝臣の、立田姫挿頭の玉の緒を弱み、亂にけりと見ゆる白露とよまれたるは此を本歌とせられたるなり、
 
初、彦星のかさしの玉の 河瀬の浪の玉のことくみゆるを、めつらしくよみなせり。天川をへたつれは、をのつからそのよせ有。第十に
  此夕ふりくる雨はひこほしのはやこく舟のかいのちるかも
此作意に似たり。清輔朝臣の、立田ひめかさしの玉のをゝよはみみたれにけりとみゆる白露も、此哥にてよまれたるなり
 
鷺坂作歌一首
 
山城國久世郡にあり、下に至て見ゆべし、
 
初、鷺坂 山城國久世郡に有。下にも二首よめり
 
1687 白鳥鷺坂山松影宿而徃奈夜毛深往乎《シラトリノサキサカヤマノマツカケニヤトリテユクナヨモフケユクヲ》
 
(12)往奈、【幽齋本云、ユカナ、】
 
往奈をユクナと點ぜるは書生の失錯なるべし、白鳥とは鷺は白き鳥なればかくおけり、景行紀仲哀紀に見えたる白鳥は別なり、
 
名木河作歌二首
 
和名集云、山城國久世郡那紀、今按次の歌は名木河にしてよめる歌にあらず、推量するに名木河作歌一首、杏人濱作歌一首と別に題の有けむを、後の題落て歌は二首ある故に、後歌のかなひかなはぬをも考へず此處《コヽ》の一首を二首と改けるなるべし、第十にもかゝる例あり、
 
初、名木川 和名集云。山城國久世郡那紀。下にもよめり
 
1688 ※[火三つ]干人母在八方沾衣乎家者夜良奈※[覊の馬が奇]印《アフリホスヒトモアレヤモヌレキヌヲイヘニハヤラナタヒノシルシニ》
 
在八方は願ふ詞には非ず、旅なればあふりほしで得さする人あらむやもなり、天武紀云、於是寒(ヲ)之雷雨已甚《ハナハタ》、從v駕者|衣裳《キモノ》濕以不v堪v寒(ニ)、及v到2三重郡(ノ)家1、焚(テ)2屋一間1而令v※[火+媼の旁]2寒者(ヲ)1、紀貫之歌に、難波女が衣ほすとて刈て燒、葦火の煙たゝぬ夜ぞなき、拾遺集に物名に松茸を、足引の山下水に沾にけり、其火まつたけ衣あぶらむ、ヤラナはやらむなり
 
初、あふりほす人もあれやも あれやもはあらんやもなり。旅なれはぬれきぬをあふりほしてきする人あらんやはといふ心なり。あれやとねがふことはにはあらす。天武紀云。於v是寒(テ)之雷雨(コト)已甚《ハナハタシ》。從v駕《ミユキニ》者|衣裳《キモノ》濕《ヌレテ》以不v堪v寒(ニ)。及(テ)v到(ルニ)2三重(ノ)郡家(ニ)1焚(テ)2屋|一間《ヒトツヲ》1而令v※[火+媼の旁]《アタヽメ》2寒者(ヲ)1。紀貫之哥に
  なにはめか衣ほすとてかりてたくあしひの煙たゝぬよそなき
拾遺物名に、すけみか松茸をよめる哥
  足引の山下水にぬれにけりその火まつたけ衣あふらん
家にはやらなはやらんなゝり
 
(13)1689 在衣邊著而※[手偏+旁]尼杏人濱過者戀布在奈利《アリソヘニツキテコクアマカラヒトノハマヲスクレハコヒシクアルナリ》
 
在衣邊は荒礒邊《アリソベ》なり、著而は第二に倭太后の邊附而榜來船《ヘニツキテコギクルフネ》と、よませ給へるに同じ、磯邊に附て榜行|海人《アマ》の小船の面白きが飽れぬに見るまゝに過行けば名殘の惜きを、戀しくあるなりとは云へり、鎌倉右府の、なぎさこぐ海人の小舟のとよまれたるは、彼公此集の趣を好み給へりと見ゆれば此歌に依られたるにも侍なむ歟、古今の、鹽竈の浦榜舟の綱手悲しもとよめるも亦此趣なり、杏人は又按ずるに杏はからもゝなるを、【原以下缺】
 
初、ありそべにつきてこくあま ありそべはあらいそべなり。良以(ノ)反里なるゆへに、つゝめてありそといふなり。おきをはこがずして、磯邊につきて舟こくあまなり。第二に、天智天皇崩御の時、倭太后のよませたまへる長哥の中に、いさなとりあふみの海をおきさけてこきくるふね、へにつきてこきくる舟とよませたまへる、へにつきてこきくるといふにおなし。此哥のすへての心は、鎌倉右大臣の哥に
  よのなかは常にもかもななきさこくあまのをふねのつなてかなしも
此なきさこくあまのをふねは、すなはち今の哥をふみてよまれたれは、右大臣の哥の心とおなしく心得へし。哥はかくれたる所なきを、ありそといひ、あまといひ、からひとの濱とさへよめるは、名木河の哥とは見えす。からひとの濱といふ所、いつくの海邊にありて、それをよめる哥とそ聞えたる。しかれは名木河作歌一首、杏人濱作歌一首と、別に題の有けむを、杏人濱作歌一首といふ事の、傳寫を經て失たる時、おろかなる人ありて、名木河歌一首とありて歌は二首あれは、名木河歌二首と改けるなるへし。藥に用る杏仁桃仁等の仁の字、人の字をかよはしてかけれは、からひとゝはよまて何とそよむ杏仁の和訓もある歟
 
高島作歌二首
 
1690 高島之阿渡河波者驟鞆吾者家思宿加奈之彌《タカシマノアトカハナミハサワケトモワレハイヘオモフタヒネカナシミ》
 
此歌第七に既に出たり、宿はヤドリと讀べし、第七には五百入《イホリ》とありし故なり、
 
初、高島のあとかはなみは 高嶋は近江の郡の名なり。此哥第七卷にありてすてに注しき
 
1691 客在者三更刺而照月高島山隱惜毛《タヒニアレハヨナカヲサシテテルツキノタカシマヤマニカクラクヲシモ》
 
客在者、【六帖云、タヒナレハ、】  隱惜毛、【六帖云、カクルヽヲシモ、】
 
(14)第二の句を六帖にはよひにたちいでゝとあるは叶へりとも見えぬ故に取らず、此句は第七に狹夜深而夜《サヨフケテヨ》中乃方爾とよめるに同じ、發句はたびにありて見ればの意なり、
 
初、たひにあれはよなかをさして 月到2天心1時なり。第七に、さよふけてよなかのかたにおほゝしくよひし舟人はてにけむかも。此よなかのかたといへるにおなし
 
紀伊國作歌二首
 
1692 吾戀妹相佐受玉浦丹衣片敷一鴨將寐《ワカコフルイモニアハサスタマノウラニコロモカタシキヒトリカモネム》
 
後京極殿の蛬《キリ/\ス》鳴や霜夜のとよませ給へる歌の下の句今と同じ、
 
初、玉浦に衣かたしき 此玉浦第七卷にもよめり。第十五によめるは同名異國なり。又奥州にも有。日本紀第七、景行紀云。爰日本武尊則從2上總1轉《ウツリテ》入2陸奥(ノ)國(ニ)1。時(ニ)大鏡(ヲ)懸(テ)2於王(ノ)船(ニ)1從2海路《ウミツチ》1廻2於葦浦(ニ)1横(ニ)渡(テ)2玉(ノ)浦(ヲ)1至2蝦夷《エヒスノ》境(ニ)1。後京極殿のきり/\すなくや霜夜のさむしろにといふ御哥の下句はこれと全同なり
 
1693 玉〓開卷惜〓夜矣袖可禮而一鴨將寐《タマクシケアケマクヲシキアタラヨヲコロモテカレテヒトリカモネム》
 
六帖にはひとりねに入れて人丸の歌とし、惜ををしみとあれど叶はず、上の句は家に在て妹と宿《ヌ》る時の意を云へり、
 
初、玉匣あけまくおしき これは家に在て妹とぬる時の心をいへり。ころもてかれては、かるゝは離の字なり。妹か手枕をはなるゝなり
 
鷺坂作歌一首
 
1694 細比禮乃鷺坂山白管自吾爾尼保波?妹爾示《タクヒレノサキサカヤマノシラツヽシワレニニヒハテイモニシメサム》
 
細比禮乃、【六帖云、ホソヒレノ、校本又點云同v此、仙覺抄云、タヘヒレノ、】  尼保波?、【六帖云、ニホハネ、】
 
(15)發句はホソヒレノとよめる然るべし。曾丹が集に、たくひれの鷺坂岡のつゝじ原、色照なへに花咲にけりとよめるは今の歌を本とせりと見ゆれば昔より、タクヒレとよめるなるべけれど、今按ずるに其義叶はず、古語に白きを楮《タク》と云ひければ白領巾《シラヒレ》を拷領巾《タクヒレ》と云へども、細の字をたく〔二字右○〕と和すべきに非ず、但白たへと云詞に白栲とも白細ともかける事あり、此はたへ〔二字右○〕と云は白きにつけを詞なる故に、義を以て栲の字はかけり、たへ〔二字右○〕は又たへなり、と云詞なる故に細妙の故を以て白細とはかけり、さりとてたく〔二字右○〕と云時は通ぜず、仙覺はたへひれの〔五字右○〕と點ぜられたれど、細の字をば白たへと云時、鷺の頭には立あがりたる長き毛のあるが細き領巾に似たればかくはおけり、詩宛丘(ニ)云、値《タツ》2其鷺羽(ヲ)1、唐雍陶詩云、隻鷺應v憐水滿v池(ニ)、風飄不v動(カ)頂絲垂、俗には此を蓑毛《ミノケ》と云、慈鎭の歌にもよまれたり、白管自は鷺坂山にておのづから見たる所をよみたるなるべけれど、鷺は白ければつゞけるに由あり、吾爾尼保波?は、此は吾衣にうつりてにほへと願ふ詞なり、此?の詞、俗には常にいへど歌には見えざるか、六帖ににほはねとあるは、推量するに古本尼にて〓に作り?を弖に作りて、後人誤て〓を弖と見て?に改ためけるにもやあらむ、六帖のよみ心にくし、又六帖には人丸の歌とせり、
 
初、ほそひれの鷺坂山 鷺のかしらに、細き毛のなかくうしろさまに生たるか、女の領巾といふ物かけたるににたれは、ほそひれの鷺坂とはつゝけたり。此細ひれをたくひれともよめり。今の本しかり。其時は白きといふ心なり。鷺の毛の白けれは、是もよく相かなへり。されと、白細とかきてしろたへとはよめり。たへのほによるの霜降とよめるたへのほは、白き色のそれとあらはるゝをいへは、たへはしろきにつきていふ詞なれと、細の字を、たくとよめる所に用たる事、此外はまた見す。しかれはほそひれとよむをよしとすへし。詩(ノ)宛丘曰。坎(トシテ)其撃v鼓(ヲ)、宛丘(ノ)之下(ニ)、無(ク)v冬(ト)無(ク)v夏(ト)、値《タツ》2其(ノ)鷺羽(ヲ)1。【晦菴注云。鷺(ハ)舂※[金+且]《ソ》今(ノ)鷺 ※[茲+鳥](ナリ)。好而潔白(ナリ)。頭上有2長毛十數枚羽。以2其羽1爲v翳、舞者持以指麾也。】唐(ノ)雍陶(カ)詩云。隻鷺應v憐(レフ)水滿(ツ)v池、風飄(セトモ)不v動(カ)頂絲垂(ル)。俗にこれを蓑毛《ミノケ》といふ。慈鎮の哥に
  おそろしやかものかはらの夕凪にみのけふかせて鷺たてるめり
白つゝしは、第三にも風はやのみほのうらわの白つゝしとよめり。今は、鷺坂山といふによりて、白つゝしといへるにや。われににほはでとは、そのうるはしき色の、我にうつれとねかふなり。此濁てよむ願のでもじ、俗語に常におほくいひなるれと、哥には此外に見えさる歟
 
(16)泉河作歌一首
 
初、泉河 和名集云。山城南相樂郡水泉【以豆美】
 
1695 妹門入出見河乃床奈馬爾三雪遺未冬鴨《イモカカトイリイツミカハノトコナメニミユキノコレリイマタフユカモ》
 
妹が門より入て又出とつゞけたる歟、第七に妹が門出入の河とつゞけたるは門より出もし入もする意なれば今も同じ意につゞけたるべし、床奈馬は第一に注せし が如し、下の句の意雪と云は實の雪にはあらじ.上に彦星のかざしの玉とよめる如く白沫の巖の許に積れるを綺て云へるなるべし、
 
初、妹か門いりいつみ川第七に、いもか門出入の川とよめるにおなし心なり。出入は門よりすることなれは、かくつゝけたり。とこなめは、第一第十一にもよめり。川中にある石なり。水のにこりのしみつきてつねになめらかなりといふ心にて、名付るなり。第一には、常滑とかけり。此字の心なり。みゆきのこれりは、まことに雪のゝこれるにはあらす、白沫のおほくみゆるをいへり
 
名木河作歌三首
 
1696 衣手乃名木之河邊乎春雨吾立沽等家念良武可《コロモテノナキノカハヘヲハルサメニワレタチヌルトイヘオモフラムカ》
 
衣手ノナキノ河とつゞけるは泣時袖を掩ふ意なり、それをやがて故郷を別來て泣に云ひなして、我は此河邊に涙を拭ひて立つを、家人のさは知らで春雨にのみこそ立沾らめと思ひおこさむかとなり、
 
初、衣手のなきの川へを 人のなく時、袖を用る心にてつゝけたり。わか衣手を泣ぬらし、袖なきぬらしなとよみたるにて心得へし。さてやかてふるさとをわかれきて、なく心にいひなして、われは此なきの川へに、衣手をなきぬらしてたつを、ふるさと人のさはしらて、春雨のしけくふる比なれは、雨にのみこそ立ぬるらめとおもひおこさんかとなり。沾作v沽訛。次下歌亦同
 
1697 家人使在之春雨乃與久列杼吾乎沽念者《イヘヒトノツカヒナルラシハルサメノヨクレトワレヲヌラストオモヘハ》
 
(17)與久列杼、【官本、或列作v禮、】
 
使在之はツカヒニアラシとも讀べし、沾念者、今按今の點叶はず、ヌラスオモヘバ、或ヌラスヲオモヘバと讀べし、使は能|此方《コナタ》彼方《カナタ》の心を通ずるをよしとするに、雨をよきて沾じとすれど強てぬらすは故郷の人の使におこせたるならむとなり、風、雲などは使と云を、雨を使と云は時に取て心に任てよめるにや、第八には櫻を迎へ來らしもとよみ、第十には露を置穗田なしと告に來ぬらしともよめれば、意を得ては無窮によむ習なり、
 
初、家人の使なるらし 使はよくこなたかなたの心を通するをよしとすれは、雨をよきてぬれしとすれと、しひてぬらすは、故郷の人の使におこせたるならんとなり。風と雲とはもろこしにもこゝにもつかひといふを、雨を使といふは、時にあたりて心にまかせていへるにや。第八にはこその春あへりし君にこひにてし櫻の花はむかへくらしもとよみ、第十には秋田苅とまてうこくなり白露はおくほ田なしとつけにきぬらしともよめれは、心を得ては、無窮に讀(ム)ならひなり。よくれと、此くもしはすみても、にこりてもよむへし。よきてといふもすみてもにこりてもよめり。曾丹か集に二月中の哥に  春山に木こるきこりの腰にさすよきつゝきれや花のあたりは
これにしたかはゝ、すみてよむへけれと、玉たれのみすはこひしとおもはましやはともつゝけ、白川のみつわくむまてともよみたれは、それもさためかたし。ぬらすとおもへはゝ、ぬらすをと讀へくや
 
1698 ※[火三つ]干人母在八方家人春雨須良乎間使爾爲《アフリホスヒトモアレヤモイヘヒトノハルサメスラヲマツカヒニスル》
 
初、あふりほす人もあれやも 此二句上にも有き。まつかひは、第六赤人の長哥にもよめり。こなたかなたの間をいひかよはすものなれは、間使《マツカヒ》とはいへり。家人の心つかひにそへて、春雨さへを使におこせて、我をぬらせは、旅にしてあふりほしてきする人あらんやなり。此集には、かくおなし事を二首よむに、初は大躰をいひて、次の哥にその事を委よめる事おほし。心をつくへし
 
宇治河作歌二首
 
1699 巨椋乃入江響奈理射目人乃伏見何田并爾鴈渡良之《オホクラノイリエヒヽクナリイメヒトノフシミカタヰニカリワタルラシ》
 
巨椋乃入江は、延喜式第九云、山城國久世郡巨椋神社、紀伊《キノ》郡大椋神社、此兩處の内、文字は久世郡に在と同じけれど、宇治河にして伏見と讀合せたるを思へば紀伊郡なるべし、響とは鴈の羽音を云へる歟、但次の歌の響苗を六帖にひゞくなへとあれば、(18)上今の歌も秋風の聲の響なるを次と二首にて云ひはつる意にて、風の體をば次に讓て用をのみよめるなるべし、射目人は上に射目|立《タチ》而とよめるに同じ、其射目人が鹿をねらふとて伏て窺見れば伏見とはつらね云なり、此集に夢を伊米とも云へるに依て夢人と云説あれど、伏見と云はむには人と云はずとも唯夢にて足ぬべし、何の夢か伏て見ざらむ、其上射目人とかける文字のやう第六第八第十三皆一同なり、
 
初、おほくらの入江ひゝくなり 延喜式第九神名上云。山城國紀伊郡大|椋《クラノ》神社。又云。久世(ノ)郡|巨椋《オホクラノ》神社。紀伊《キノ》郡久世(ノ)郡ともに宇治郡にならひたる歟。おほくらの入江も、此兩郡の内にあるなるへし。いめ人の事は、第八にいめたてゝとみの岡へとつゝけてよめる哥につきてくはしく注しき。いめ人か、まふしさして、ぬはれふして、鹿をうかゝへは、いめ人のふしてみるといふ心につゝけたり。夢人といふ説用へからす。第六に、赤人のあきつのをのゝ野上にはあとみすへをきとよまれたるも、いめ人の事なり。第十三にも、峯のたをりにいめたてゝしゝ待かことゝよめり。おほくらの入江ひゝくなりとは、下の鴈のわたるひゝきなり
 
1700 金風山吹瀬乃響苗天雲翔鴈相鴨《アキカセノヤマフキノセノナルナヘニアマクモカケルカリニアヘルカモ》
 
折節の秋風を、やがて山に吹と云意に、宇治にある山吹の瀬の諷詞とせり、六帖にあきかぜに、とある時は、そへて云意にあらず、今の點やまさり侍なむ、金風とかけるは五方を五行に配する意なり、第十にもかけり、又梁元帝纂要云、秋風曰2金風1、此に依れば撰者の初て義訓せるにもあらで、もとよりの名なりとも云べけれど、第十に秋山を金山、秋芽子を白芽子ともかける例に引合するに、唯義を以てかけるがおのづから本文に叶へるなり、腰句はトヨムナヘともよむべし、天雲翔とは雁の天雲に翔るなり、第十一に天雲爾翼打附而飛鶴とよめるが如し、歌の意は金風の吹て山吹の瀬の鳴る音の、折しも天雲に翔て渡り來る羽音にあひて聞ゆとなり、六帖にはそらな(19)るくものさわぎあへるかもとあれど、偏に改たりと見ゆれば今取らず、
 
初、あきかせの 金風とかけるは、五万を五行に配する時、秋は金なれはかけり。又梁元帝纂要云。秋風(ヲ)曰2金風(ト)1。しかれは、撰者義をもてかゝされとも、本よりの名にも有なり。さてつゝくるやうは、秋風の山にふくといふ心なり。山吹瀬宇治にあり。天雲かける鴈にあへるかもとは、常は雲はしつかにこそゆく物なるに、風にふかれてはとふかことくなれは、鴈かねの過るにをひつきてあへるかもといふなり
 
獻弓削皇子歌三首
 
1701 佐宵中等夜者深去良斯鴈音所聞空月渡見《サヨナカトヨハフケヌラシカリカネノキコユルソラニツキワタルミユ》
 
此歌古今集に誤て入たり、此集第十にも亦大形似たる歌あり、
 
初、さよなかと夜はふけぬらし 此哥古今集秋上に誤て載たり。又此集第十に
此夜らはさよふけぬらし鴈かねのきこゆる空に月立わたる
これおなし哥の、すこし句のかはれるなり
此三首、弓削皇子にたてまつる哥なれは、をの/\ふくめる心あるへし
 
1702 妹當茂苅音夕霧來鳴而過去及乏《イモカアタリシケキカリカネユフキリニキナキテスキヌトモシキマテニ》
 
茂苅音は、此集の書やう無窮ながら、今の前後皆鴈をば正字をかきたるに、此歌のみかくかけるは繁木を苅とそへよめる歟、
 
1703 雪隱鴈鳴時秋山黄葉片待時者《クモカクレカリナクトキニアキヤマノモミチカタマツトキハ》雖過
 
雖過は此二字點落たり、スグレドと讀べし、長月の其初雁と第八にも有つれば、鴈鳴時の長月に至て、時は過れども猶秋山の色付かねば黄葉を片待てあるとなり、此は時にあはぬ人の、皇子を驚かし奉りて愁へ申にや、右の三首ともに皇子に獻る歌なれば含める意ある歟、又別意を含めるにはあらねど皇子より秋の歌を召給ふに讀(20)て奉れる歟、
 
獻舍人皇子歌二首
 
1704 ※[手偏+求]手折多武山霧茂鴨細川瀬波驟祁留《ウチタヲルタムノヤマキリシケキカモホソカハノセニナミサワキケル》
 
發句をナガタヲルと讀べき事上に云が如し、さて長手折る手と云意に多武山とはつゞけ給へる歟、多武山は多武峰にて十市郡なり、齊明紀云、於2田身嶺《タムノタケニ》1冠以2周垣(ヲ)1、【田身(ハ)山(ノ)名、此(ヲハ)云2太務1、】細川は多武峰の西なり、霧は水氣なれば霧の深く立には波のさわぐべき理なり、第七に、痛足河河浪立ぬ卷向の、ゆづきがたけに雲たでるらしとよめるを思ひ合すべし、此歌は佞人などの官に在て君の明をくらまして恩光を隔るに喩へ、下句はそれに依て細民の所を得ざるを喩ふる歟、
 
初、うちたをるたむの山きり うちたをる手とつゝけたり。手はひちを屈伸するものなれは、それを打たをるとはいへり。山道のたをりといふも、それを常にひちをるといふも、おなし心なり。今とおなし。たむの山は、多武峯なり。大和國十市郡に有。齊明紀云。於2田身《タムノ》嶺《タケニ》(マテ)1冠(シムルニ)以(ス)2周《メクレル》垣(ヲ)1【田身(ハ)山(ノ)名此(ヲハ)云2太務(ト)1。】細川は多武峯の麓にあるなるへし。山にきりのしけゝれは、そのうるほひのあつまりて、川水のまさるゆへに、波のさはくとなり。たとふる心を案すへし
 
1705 冬木成春部戀而殖木實成時斤待吾等叙《フユコナリハルヘヲコヒテウヱシキノミニナルトキヲカタマツワレソ》
 
春部ヲ戀テ殖シ木とは、木は春殖る物なれば、春に成なば植むと春を待しを春を戀てとは云へり、此歌の意は、皇子の御年も壯に成給はゞ、繁き木の如くなる御蔭に隱れむと待參らする吾なれば、めぐみにもらし給ふなとの意を喩ふるなるべし、斤は(21)片に作るべし、六帖に木の歌として、發句を冬なれば、第四をみになるまでもとあるは改たるか、今の本には叶はず、
 
初、冬木なりはるへをこひて これはさきにも此舍人皇子に獻ける哥に、わかゝさすへき花さけるかもといひ、みわ山はいまたつほめり、君まちかてにとよめり。それとおなし心の人の、奉けるなるへし
 
舍人皇子御歌一首
 
初、舍子皇子御歌 天武天皇第六皇子、母新田部皇女也。持統紀云。九年春正月庚辰朔甲申、以2浄廣貳(ヲ)1授(ク)2皇子|舍人《トネリニ》1。元正紀云。養老二年春正月庚子、詔(シテ)授2二品舍人親王(ニ)一品(ヲ)1。同三年十月辛丑、詔云。但以(ミレハ)握(テ)2鳳暦(ヲ)1而登(リ)v極(ニ)、御(シテ)2龍圖(ヲ)1以臨v機(ニ)者【恐脱字】猶《ヨテ》2輔佐之才(ニ)1、乃致2大平(ヲ)1。必由(テ)2羽巽(ノ)之功(ニ)1始(テ)有v安(スルコト)v運(ヲ)。況(ヤ)乃舍人新田部親王(ハ)百世(ノ)松桂(ニシテ)、本枝合2於昭穆(ニ)1、万雉(ノ)城石(ニ)維磐重(シ)2於國家(ニ)1。理須(ラク)d吐2納(シテ)清直(ヲ)1能輔(ケ)2洪胤(ヲ)1資2扶(シテ)仁義(ヲ)1信(ニ)翼《タスク》c幼齢(ヲ)u。然(レハ)則太平之治可(ク)v期(シツ)隆泰之運應(シ)v致(シツ)。可(ンヤ)v不(ル)v愼(シマ)哉。今(マ)二(リノ)親王(ハ)宗室(ノ)年長(ナリ)。在(テ)v朕(ニ)既(ニ)重(ンス)。實(ニ)加2褒賞(ヲ)1深須v旌《アラハス》v異(ヲ)。然崇(トフ)v徳(ヲ)之道既(ニ)有2舊貫(ニ)1、貴(トフ)v親(ヲ)之理豈無(ンヤ)2於今(ニ)1。其賜2一品舍人親王(ニ)内舍人二人、大舍人四人、衛士三十人(ヲ)1。益(コト)v封(ヲ)八百戸通(シテ)v前(ニ)二千戸。新田部親王(ニ)内舍人二人、大舍人四人、衛士二十人、益v封五百戸。通v前1千五百戸。四年四年八月辛巳朔甲申、朔詔(シテ)以2舍人親王(ヲ)1爲2知大政官事(ト)1。新田部親王(ヲ)爲2知五衛及授刀舍人事(ト)1。同五月癸酉先v是(ヨリ)一品舍人親王奉(テ)v勅(ヲ)修2日本紀(ヲ)1。至(テ)v是(ニ)功成(テ)奏上(ツル)2紀三十卷系圖一巻(ヲ)1。聖武紀云。神龜元年二月盆v封五百戸。天平七年十一月乙丑、知大政官事一品舍人親王薨。遣2從三位鈴鹿王等(ヲ)1監2護(ス)葬事(ヲ)1。其儀准(ス)2大政大臣(ニ)1。命(シテ)2王臣男女(ニ)1委會2葬所(ニ)1。遣(ハシテ)2中納言正三位多治比眞人縣守等(ヲ)1就(テ)v第(ニ)宣(テ)v詔(ヲ)贈(ラル)2大臣(ヲ)1。親王天(ノ)渟中原瀛(ノ)眞人(ノ)天皇(ノ)之第五(ノ)皇子(ナリ)也。廢帝紀云。寶字三年六月庚戌詔曰。自v今以後追2皇(シテ)舎人親王(ヲ)1宜v稱(ス)2崇道盡敬皇帝(ト)1。當麻夫人(ヲハ)稱(シ)2大夫人(ト)1兄弟姉妹(ヲ)悉稱(セヨ)2親王(ト)1。藤森の明神は此親王にてましますよし申は、よりところある事にや。舍人をは、たゝとねりとよむへし。牛飼なとをとねりといふゆへに、きらはしとにやいへひとゝはいふらん。後の人のしわさと見えたり。諸氏の中に、牛養《ウシカヒ》馬養《ウマカヒ》と名のれる人さへおほし。舍人に内舍人あり。大舍人あり。又その舍人となのらせたまふゆへをもしらす。かへす/\いへひとはあたらしく今めきてきこゆ
 
1706 黒玉夜霧立衣手高屋於霏※[雨/微]麻天爾《ヌハタマノヨキリハタチヌコロモテノタカヤノウヘニタナヒクマテニ》
 
衣手高屋とそふるにこつの意あるべし、一つには何の故もなくた〔右○〕もじを手になして、衣手の手と云意につらぬる歟、二つには袖は手の上に高く懸る意歟、衣手のたながみ川などのつゞきを思ひ合すべし、高屋は十市郡にあり、文徳實録に天安元年八月高屋安倍神并に椋橋《クラハシノ》下居神を從五位上に叙し給ふ、同二年高屋安倍神を從四位下に叙し給ふ由見えたり、此御歌も亦讒佞の臣ありて君の明智を掩ふ事を惡みてよませたまへる歟とおぼしくや、
 
初、ぬは玉のよきりは立ぬころもての 衣手のたかやとつゝくは、衣手の手とつゝく心なり。衣手のたなかみ山といへるかことし。もし又衣の中に袖は高くてある物なれは高きといふ心につゝくる歟。たなかみも手の上といふ心にてつゝくるにや。たかやは大和國|添《ソフノ》下郡に有。第一卷のをはりに、長《・ナカ日本妃》皇子のたかやはらとよませたまへる所なり
 
鷺坂作歌一首
 
1707 山代久世乃鷺坂自神代春者張乍秋者散來《ヤマシロノクセノサキサカカミヨヽリハルハハリツヽアキハチリケリ》
 
(22)春者張乍とは木の芽《メ》の張なり、第十秋歌の中の泳山歌に同意の作あり、神代ヨリと云は山をほむる意あり、
 
初、山しろのくせのさきさか 春ははりつゝはこのめの張をいふ。春はこのめはりて花咲、秋はこの葉もみちて散、かくのことく神代より、四時のをこなはるゝに、見所ある山とほむるなるへし。第十に
  春はもえ夏はみとりにくれなゐのにしきにみゆる秋の山かも
第十三の長哥にも、春山のしなひさかえて、秋山の色なつかしきなとよめり。拾遺集に、元輔の筑紫へ下りける時かまと山のもとにみちつらに有ける木にふるくかきつけたる句とて
  春はもえ秋はこかるゝかまと山
 
泉河邊作歌一首
 
1708 春草馬咋山自越來奈流鴈使者宿過奈利《ハルクサヲウマクヒヤマヲコエクナルカリノツカヒハヤトスキヌナリ》
 
春草、【六帖云、ワカクサヲ、】  馬昨山、【八雲御抄云、マクヒノヤマ、】  宿過奈利、【六帖云、ヤトリスクナリ、】
 
春草の若きをば馬の好みて食ふ物なれば此發句あり、馬咋山は泉河より南の方に當りて有歟、春の歌にして下の句を云へるやうを思ふべし、自はユ〔右○〕と讀べし、從の字をヲ〔右○〕とよめる例はあれど此字はいまだ例を見ず、歸る雁の便にだに故郷人の言傳や聞と待つくるに、それさへ旅の宿を徒に過る事よとなり、六帖に山の歌に入れて人丸の作とす、
 
初、春草をうまくひ山 春草のわかきをは、馬のこのみてくふ物なれは、取わきてかくはつゝけたり。八雲御抄にまくひの山とあり。うまくひ山のかたより鴈のなきくるを待つけて、故郷のたよりをきかむとすれは、故郷の人のつかひにはあらて、をのか故郷へいそく心に、それさへとくたひのやとりを過るといふなり
 
獻弓削皇子歌一首
 
(23)1709 御食向南淵山之巖者落波太列可削遺有《ミケムカフミナフチヤマノイハホニハチルナミタレカケツリノコセル》
 
御食向は上に注しき、弓削皇子のおはします宮より南淵山のまちかく指向ひて見ゆるを云へり、下句は山海経云、太華(ノ)之山削成而四方其(ノ)高五千仞、今南淵山も譬へば飛騨工などの削成せらむやうなるを、白浪の巖に觸て柿《コケラ》の散やうなるは、いかで今まで削り殘せる所の有ならむと綺へてよめるなり、又第七に眞鉋もて弓削の河原とよめり、かゝれば皇子の御名によせて文章の波瀾の流て絶させ給はぬを稱《ホメ》奉れる歟、
 
初、みけむかふみなふち山 みけむかふとは、第二第六にもありき。たゝ食にむかふことくまちかく打むかひてみわたすをいひて、こかめの宮にも、あはちのしまにも、今のみなふち山にも、さたまれる枕詞にはあらぬなるへし。天武紀云。五年五月勅禁2南《ミナ》淵山細川山(ヲ)1並(ニ)莫(ク)2蒭薪《クサカリキコルコト》1。ちる波たれかけつりのこせるとは、南淵山は、すてに飛騨の工《タクミ》かけつりなせることくなるに、いつくにたらぬ所ありて、巖にちりかゝる波の、柿《コケラ》とみゆるならんとの心にや。
山海經曰。太華之山削(リ)成而四方其高(コト)五千仞。左太沖(カ)魏都(ノ)賦(ニ)曰。擬(ス)2 華山(ノ)之山削(リ)成(セルニ)1。これをふみてけつるとはいへるなるへし。そのうへ、皇子の御名の弓削は、弓をけつるなれは、それによせて、ことはの泉のわきなかるゝことくなるを、ちるなみにたとへて、ほめ奉るにこそ。まかなもてゆけのかはらとつゝけたるは、かなをもて弓を削といふ心なり
 
右柿本朝臣人麻呂之歌集所出
 
1710 吾妹兒之赤裳泥塗而殖之田乎苅將藏倉無之濱《ワキモコカアカモヒツチテウヱシタヲカリテヲサメムクラナシノハマ》
 
泥塗而を拾遺集人丸集並に六帖濱の歌に入れたるには皆ぬらしてとよめり、六帖夏田に人丸の歌とて入れたるにはぬれつゝとあれど、皆此集にては叶はず、倉無ノ濱は八雲御抄にも載たまひながら何れの國とは記させ給はず、類字名所抄に豐前と注す、何に依れるにかいまだ考ず、此歌は上はこと/”\しく倉無の濱と云はむ料に(24)て、あはれ倉無の濱やとほむる意なり、
 
初、わきもこかあかもひつちて これはくらなしの濱といはむとて、かくはつゝけ來たるなり。物の妙にいたる時、言もたえおもひもたゆれは、たゝくらなしのはまとよめるが、あはれくらなしの濱やとほむる心なり。普門品は、法華経の本躰なるに、かへりと妙といはさるたくひなり。くらなしの濱は豐前なりとかや
 
1711 百傳之八十之島廻乎榜雖來粟小島者雖見不足可聞《モヽツテノヤソノシマワヲコキクレトアハノコシマハミレトアカヌカモ》
 
粟小島は神代紀云、先生2蛭《ヒル》兒(ヲ)1、便(ハチ)載(テ)2葦船1而流之、次(ニ)生(ム)2淡(ノ)洲《シマヲ》1、此(レ)亦不3以充2兒數1、又云、一書曰、以2淡路(ノ)洲《シマヲ》1爲v胞、生2大日本豐秋津洲(ヲ)1、次淡洲1云云、又云、其後少彦名命行至2熊野之御碕1、遂滴2於常世(ノ)郷1矣、亦曰(ク)、至(テ)2淡(ノ)嶋1而縁2粟莖1者、則彈渡而至2常世(ノ)郷1矣、伯耆國風土記云、相見郡一(ノ)之家(アリ)、西北有2餘戸里1、有2粟嶋1、少日子(ノ)命蒔v粟、※[草がんむり/秀]實離々(タリ)、即載v粟彈渡2常世(ノ)國1、故云2粟嶋1也、第三以下に粟島とよめるに同じ、六帖には國の歌に入れてあはぢのしまをとあるは誤なり、
 
初、百つての八十の島廻を もゝつての事。第三大津皇子の御哥に尺せり
 
右二首或云柿本朝臣人麻呂作
 
登筑波山詠月一首
 
詠月歌と有けむ歌の字の落たる歟、
 
初、登2筑波山1詠月一首 月の下に歌の字落たるなるへし
 
1712 天原雲無夕爾烏玉乃宵度月乃入卷〓毛《アマノハラクモナキヨヒニヌハタマノヨワタルツキノイラマクヲシモ》
 
(25)幸芳野離宮時歌二首
 
1713 瀧上乃三舩山從秋津邊來鳴度者誰喚兒鳥《タキノウヘノミフネヤマヨリアキツヘニキナキワタルハタレヨフコトリ》
 
三船山從はミフネノヤマユとも讀べし、
 
1714 落多藝知流水之磐觸與杼賣類與杼爾月影所見《オチタキチナナカルヽミツノイハニフレヨトメルヨトニツキノカケミユ》
 
磐觸は此にてはせかるゝ意なり、
 
右三首作者未詳
 
三は二を誤れるなるべし、さきの登筑波山詠月歌にも作者を記さゞれば、それを合て三首と云歟とも云べけれど、それ然らず、此卷に作者不見歌あまたあれど悉は注せず、其上幸芳野離宮時歌二首と云標題を越て右三首とは云べからすや、
 
初、右三首作者未詳 これは二首を誤て三首となせるなり。そのゆへは、初に幸2芳野離宮1時歌と題して、哥もまことに二首あれはなり。さきの登2筑波山1詠v月一首にも作者をしるさゝれは、それをあはせて三首といふ歟ともいふへけれとも、それしからす。此卷に作者不v見哥あまたあれと、注する事なし。そのうへあひたに、幸2芳野離宮1時哥二首と別に標題して、都合を三首といふへきにあらす
 
槐本歌一首
 
1715 樂波之平山風之海吹者釣爲海人之袂變所見《サヽナミノヒラヤマカセノウミフケハツリスルアマノソテカヘルミユ》
 
(26)袂變は袖の翻るなり、
 
山上歌一首
 
憶良なり、
 
初、山上歌 此哥、第一卷には、幸2于紀伊國1時川島皇子御作歌といひ、哥の後の注に、或云山上憶良作とあり。今のする所は表裏せり。哥の詞もすこしかはれり
 
1716 白那彌之濱松之木乃手酬草幾世左右二箇年薄經濫《シラナミノハママツノキノタムケクサイクヨマテニカトシハヘヌラム》
 
此歌第一に既に出たり、
 
右一首或云河島皇子御作歌
 
春日歌一首
 
藏首老なり、次の次に有に准はせば日の下に藏の字を落せる歟、
 
1717 三河之淵瀬物不落左提刺爾衣手湖干兒波無爾《ミツカハノフチセモオチヌサテサシニコロモテヌレヌホスコハナシニ》
 
不落、【別校本云、オチス、】
 
三河はひえの山の東坂本にありとかや、不落をオチズと點ぜば、腰句をサテサスニ(27)と讀べし、湖は沾を誤れるなるべし、六帖には川の歌として、淵瀬も知らずさほさしてかりの衣手ほす人もなしとあり、おぼつかなし、
 
初、みつかはのふちせも みつかはゝ地の名なるへし。いつれの國に有ともしらす。ふちせもおちぬは、ふちをも瀬をもゝらさぬなり。一夜もおちすといふがひとよもかけぬ事なるにおなし。さては和名集云。文選注云。※[糸+麗]【所買反。師説佐天】網如(シ)2箕(ノ)形(ノ)1。狹(クシ)v後(ヲ)
廣(スル)v前(ヲ)名也。湖は沾の字の誤なり。作者春日は、春日藏首老なるへし
 
高市歌一首
 
黒人なるべし、六帖にたかいちのわうじとあるは誤なり、高市《タケチノ》皇子の御歌ならば上に舍人皇子御歌とかける例に高市皇子御歌と書べし、微賤の臣と同じく高市が歌と書べき理なし、
 
 
1718 足利思代※[手偏+旁]行舟薄高島之足速之水門爾極爾濫鴨《アシリテハコキユクフネハタカシマノアトノミナトニハテニケムカモ》
 
發句を六帖、舟の歌に入れたるにはあしりしてとあれど並に意得がたし、今按足利佐思代にてあとさしてなりけむを、昔より佐の字の落たりけるなるべし、足利は下に足速之水門と云に同じ、上下に同詞ある事を痛まぬは古風の常なり、濫は監を誤れり、六帖に落句をよりにけるかなと有は改けるなるべし、
 
初、足利をは 思は恩の字の誤なるへし。もしはおもふといふ和語の、上のひともしを於と乎とを通して用たる歟。濫は監の誤なり。作者は高市連黒人なるへし
 
春日藏歌一首
 
(28)1719 照月遠雲莫隱島陰爾吾舩將極留不知毛《テルツキヲクモナカクシソシマカケニワカフネハテムトマリシラスモ》
 
六帖には吾舟よせむとあれと今の點にはしかず、
 
右一首或本云小辯作也或記姓氏無記名字或※[人偏+稱の旁]名號不※[人偏+稱の旁]姓氏然依古記便以次戴凡如此類下皆效v焉
 
第三高市連黒人近江舊都歌後注云、右謌、或本云、小辨作也、未審此小辨者也とありき、或記以下は此注に因て此卷前後姓名の簡古なる故を明すなり、
 
元仁歌三首
 
1720 馬屯而打集越來今日見鶴芳野之川乎何時將顧《ウマナヘテウチムレコエキケフミツルヨシノカハライツカヘリミム》
 
1721 辛苦晩去日鴨吉野川清河原乎雖見不飽君《クルシクモクレユクヒカモヨシノカハキヨキカハラヲミレトアカヌキミ》
 
1722 吉野川河浪高見多寸能浦乎不視歟成甞戀布真國《ヨシノカハカハナミタカミタキノウラヲミスカナリナムコヒシキマクニ》
 
(29)多寸能浦は瀧の浦なり、瀧の當りの入江のやうなる處なり、字書に浦の字を釋して大川旁(ノ)曲渚と云へるにて意得べし、孫姫(ノ)式云、瀧(ノ)之流v浦(ニ)、咽聲正聞2於|椎《シヰ》嶺(ニ)1云々、落句の戀布は、第七に皆人の戀る三吉野とよめるが如し、眞國は眞は褒美の詞、國は吉野國とよめる國なり、
 
初、よしの川かはなみ高みたきのうらを うらは、うらおもてのうらにて、たきのあなたをいふなるへし。こひしきまくには、こひしきはみな人のこふるみよしのとよめるかことし。まくにはよしのゝくになり。眞はほむる詞なり
 
絹歌一首
 
1723 河蝦鳴六田乃河之川楊乃根毛居侶雖見不飽君鴨《カハツナクムツタノカハノカハヤナキノネモコロミレトアカヌキミカモ》
 
落句は皇子大臣などの御供にて六田の河の佳趣によせて云へる歟、六帖にはふたりのりと云に入れたり、
 
初、むつたの川 今の人むだといふ所なり。川楊は和名集云。本草云。水楊【和名加波夜奈木。】芽のあかくはるを楊といひ、青くはるを柳といふなり。かはやなきの根とつゝけたり。あかぬ君かもとは、親王大臣なとの御供にてかくはよせてよめるなるへし
 
鳥足歌一首
 
1724 欲見來之久毛知久吉野川音清左見二友敷《ミマクホリコシクモシラクヨシノカハオトノサヤケサミルニトモシキ》
 
欲見、【六帖、ミマホシミ、】  知久、【六帖、トモシク、】
 
發句は今の點よし、其外は六帖に依るべし、
 
初、みまくほり こしくもしるくと讀へし。しらくはかんなあやまれり。みるにともしくとよむへし。ともしきはあやまれり
 
(30)麻呂歌一首
 
1725 古之賢人之遊兼吉野川原雖見不飽鴨《イニシヘノサカシキヒトノアソヒケムヨシノヽカハラミレトアカヌカモ》
 
賢人之、【六帖云、カシコキヒトノ、別校本又點同v此、】
 
初、いにしへのさかしき人の 第一に天武天皇の御製にも、よき人のよしとよく見てよしといひしよしのよくみよゝき人よ君
 
右柿本朝臣人麻呂之歌集出
 
此は人丸歌集に他人の歌を載たる證なり、
 
丹比眞人歌一首
 
初、丹比眞人 屋主歟、乙麻呂歟
 
1726 難波方塩干爾出而玉藻苅海未通等汝名告左禰《ナニハカタシホヒニイテヽタマモカルアマノヲトメラナカナツケサネ》
 
海未通等、【校本通下有v女、】
 
第四の句、集中の例に依に女の字落たり、校本に従がふべし、落句は六帖も今の點と同じけれど、第一の雄略天皇の御歌に注せし如く、第五の令反惑情歌に奈何名能良佐禰《ナカナノラサネ》と有を證として讀べし、名をのれとは我に逢への意なり、
 
(31)和歌一首
 
1727 朝入爲流人跡乎見座草枕容去人爾妻者不敷《アサリスルヒトヽヲミマセクサマクラタヒユクヒトナツマニハシカシ》
 
人爾、【官本又云、ヒトニ、】
 
乎は助語にて、唯あさりする賤しき海部《アマ》と見てやみ給へとなり、容は客に作るべし、爾をナ〔右○〕と點ぜるは書生の誤なるべし、今按落句の不敷《シカシ》は不來坐《キマサヌ》と書べきを不來益とも來不益ともかける例あれば不如と云に借てかゝむ事さも有べきを、四の句よりつゞけるあはひ少意得がたけれは、ツマハシカセシと讀て我衣の妻を片敷かせて諸共には寢しと意得べきか、衣といはずして妻とのみ云はむ事やいかゞあらむと云難も有ぬべけれど、古歌は用を云ひて體を持せたる事めずらしからぬ事なり、其上第一に譽謝女王の歌に、流經妻吹風《ナカラフルツマフクカセ》之寒夜とよまれたるも衣といはで妻と云べき例なり、
 
初、たひゆく人に 容は客の誤なり
 
石河卿歌一首
 
(32)1728 名草目而今夜者寐南從明日波戀鴨行武從此間別者《ナクサメテコヨヒハネナムアスヨリハコヒカモユカムイマワカレナハ》
 
【ワカレナハ】從明月波、【紀州本云、アスアラハ、】
 
從此間は今の點誤れり、コユと讀べし、此歌は明日旅に出たゝむとての夜よまれたるなり、
 
初、從此間別者 こゆわかれなはとよむへし。こゆはこれよりなり
 
宇合卿歌三首
 
六帖に此初の二首を載るに、うかふの卿と作者をつけたり、
 
1729 曉之夢所見乍梶嶋乃石越浪乃敷弖志所念《アカツキノユメニミエツヽカチシマノイソコスナミノシキテシソオモフ》
 
敷弖志所念、【六帖云、シキテシオモホユ、】
 
梶島は八雲御抄に丹後と注せさせ給へり、落句は六帖の如く讀べし.志は助語なり、
 
初、曉の夢に見えつゝ 故郷をおもひねの夢にみるなり。梶嶋は丹後と、八雲御抄に注せさせたまへり。此宇合卿は、行役にくるしめる人にて、詩にも哥にも、そのよしをよまる。されとも丹後の方へおもむかれたる事は見えす。西海道節度使にて下られける事あれは、もし筑紫にや
 
1730 山品之石田乃小野之母蘇原見乍哉公之山道越良武《ウアマシナノイハタノヲノヽハヽソハラミツヽヤキミカヤマチコユラム》
 
和名集云、宇治郡山科、【也末之奈、】延喜式第九云、宇治山科神社、かゝるに又云、久世郡石田(33)神社とあれば今山品のとつゞけられたる事不審なれど、第十三にも山科とよめれば、假令大和國の巨勢は高市郡なるに、巨勢山口神社は延喜式に葛上郡に載られ、吉隱は日本紀に宇陀郡とあれども.延喜式には城上郡とある如く、宇治と久世との境の相接はる所にて.或は山科の久世に屬し、或は石田の宇治に屬する事有によりて此たがひ有歟、又和名云、宇治郡小野、【乎乃、】此は若今石田乃小野と云へる小野にや、此歌は都へ還り上る人の、故郷も近づくに、折節關東に赴く人などを想像てよまれたる歟、
 
初、いはたのをのゝ 山城にあり。延喜式第九、神名上云。宇治郡山科神社二座。久世(ノ)郡石田神社【大月次新嘗。】和名集云。宇治郡山科【也末之奈。】延喜式にも、和名集にも、山しなは宇治郡なるに、此集第十三卷にも、山しなの石田のもりのすめ神にぬさ取むけてとよみたれは、延喜式に、石田神社を久世郡に載られたるにたかへり。しかれは、山科は、まづは宇治郡なれと、久世郡にもかゝりて、そこに石田神社はあるにや。例をいはゝ、ふなはりを日本紀には兎田郡といひ、延喜式には城上郡に載たるかことし
 
1731 山科乃石田社爾布靡越者蓋吾妹爾直相鴫《ヤマシナノイハタノモリニフミコエハケタシワキモニタヽニアハムカ》
 
石田社爾布靡越者とは、第七にいみしやしろも越ぬべくとも、第十一には神のいかきも越ぬべしともよめるを思ひ合すべし、別て石田社としも云は、第十二に山代の石田の社に心おそく、手向したれば妹に相がたきとよめれば、此神の縁起はしらねど男女の中を護り給ふ神と知られたれば、かくばかりの戀しさにはさる神の森をも踏越て逢習だにあらば、後の祟はさもあらばあれ、吾越ぬべく思ふを、蓋さるわざしても吾妹に相見むやとなり.詞は第二の歌を承け、意は第一の歌に連接せり、又吾(34)妹は我妻を云のみにも限らず、
 
初、山しなのいは田のもりにふみこえは ふみこえはとは、石田杜にいたりて、たむけをして祈らはの心なり。第十二に、山城のいは田のもりに心おそくたむけしたれは妹にあひかたき。此哥をおもふへし。石田神社をしもさせるは、ゆへあるか。縁起をしらす。社は杜の誤歟。神社とかきて、此集にもりとよめる所もあれは、社の字にても有へし
 
碁師歌二首
 
第四に碁檀越あり、此にや、師は第八に縁達師と云者の名に付て注せしが如し、
 
初、碁師歌 第四に碁檀越といひし人歟
 
1732 母山霞棚引左夜深而吾舟將泊等萬里不知母《オモヤマニカスミタナナキサヨフケテワカフネハテムトマリシラスモ》
 
棚引、【官本云、タナヒキ、】
 
棚引の今の點は筆者の誤なるべし、母山は八雲御抄に美濃と注せさせ給へり、神代紀下云天稚彦在2於葦原中國1也、與2味耜高彦根神1友善《ウルハシミ》云々、則拔2其(ノ)帶劔大葉刈1以斫2仆《フセテ》喪屋1、此即落(テ)而|爲《ナル》v山、今(ニ)在(ル)2美濃(ノ)國(ノ)藍見《アユミノ》川(ノ)之上(ニ)1喪山是也、若此喪山を名を忌て後に母山と云歟、和名集を考るに不破郡に藍川あり、此藍見川なるべし、延喜式第二十二民部上云、凡諸國部内郡里等名並用2二字(ヲ)1、必(ラス)取2嘉名(ヲ)1、此に依に見の字を藍に讀付たるなるべし、元明紀云、和銅六年五月甲子、畿内七道諸國郡郷名著2好字1云々、母を於毛と訓ずるは神武紀云、初|孔舍《クサノ》衛之戰(ニ)有(テ)v人隱2於大樹(ニ)1而得v免v難、仍(テ)指(テ)2其樹(ヲ)1曰、恩(シ)v母、時(ノ)人因(テ)號2其(ノ)地1曰2母木邑(ト)1云々、波々、以呂波、於毛、此三つの和名同じ、次の歌に依に近江の海にてよ(35)める歌なれば、母山は東北に當りて見ゆるにや、下句は上の春日藏が歌、又第七に大葉山霞蒙とよめる歌は大葉山と母山とのかはれるのみにて全く同じ、
 
初、おも山に霞たなひき 八雲御抄に、おも山美濃と注せさせたまへり。神代紀下云。時(ニ)味耜高彦根(ノ)神則拔(テ)2其(ノ)帶《ハカセル》劔大葉|刈《カリヲ》1以|斫2仆《キリフセテ》喪屋《モヤヲ》1此即落(テ)而|《ナル》v山(ト)。今在2美濃國|藍見《アイミノ》川(ノ)之|上《カミニ》喪《モ》山是也。かゝれはおも山は此喪山なるへし。喪山の名のいまはしけれは、後におも山とあらためけるにこそ。元正紀云。和銅六年五月甲子【詔歟勅歟】畿内七道諸國郡郷(ノ)名著(ケヨ)2好字(ヲ)1。其郡内(ニ)所(ノ)v生(スル)銀銅彩色草木禽獣魚虫等(ノ)物具(サニ)録(セヨ)2色目(ヲ)1。及(ヒ)土地(ノ)沃※[土+脊]山川原野(ノ)名號(ノ)所v由、又古老(ノ)相傳舊聞(ノ)異事載(テ)2于史籍(ニ)1言上(セヨ)。延喜式二十二、民部上云。凡諸國部内郡里等(ノ)名並(ニ)用(ヨ)2二字(ヲ)1。必取(レ)2嘉名(ヲ)1。母の字は以呂波とも、於毛とも、波々ともいふ。ともにはゝにおなし。神武紀云。初|孔舎《クサノ》衛之戰(ニ)有(テ)v人隱(テ)2於大樹(ニ)1而得(タリ)v免(コトヲ)v難《ワサハイヲ》。仍(テ)指(テ)2其樹(ヲ)1曰。恩《メクミ》如(シ)v母《オモノ》。時(ノ)人因(テ)號(テ)2其|地《トコロヲ》1曰2母木《オモノキノ》邑(ト)1。今云(ハ)2飫悶迺奇《オホノキト》1訛《ヨコナマレルナリ》也。芙濃には海なき國なれは、わか舟はてむとまりしらすもかなひかたし。もし藍見《アユミノ》河なと大河にて、それをいへる歟。おほつかなし。日吉權現の御哥とて、波母山やをひえの杉のみ山居は嵐もさむしとふ人もなしといふ哥あり。波母山は淮南子にも見えたり。いはく東南方曰波母之山(ト)、曰陽門。母の字のおなしきをおもふに、もしこれにや。次の哥近江なれは、此おも山も神代紀に見えたる喪山にはあらぬ歟
 
1733 思乍雖來來不勝而水尾崎眞長乃浦乎又顧津《オモヒツヽクレトキカネテミヲカサキマナカノウラヲマタカヘリミツ》
 
思乍とは水尾崎の景趣を忘れぬなり、眞長乃浦も高島郡にて水尾に屬せるにや、
 
初、おもひつゝくれときかねて 眞長の浦のおもしろかりしをおもひつゝ、こきつゝ來れとも猶かへりみるとなり
 
小辯歌一首
 
1734 高島之足利湖乎※[手偏+旁]過而塩津菅浦今者將※[手偏+旁]《タカシマノアトノミナトヲコキスキテシホツスカウライマハコクラム》
 
今者、【六帖云、イマカ、官本亦同v此、官本或者作v香、】
 
湖乎を六帖にはみづうみとあれど乎の字を忘たれば今取らず、今者は今の本のまゝならばイマカの點叶はねど、六帖等に然あるは官本の或作の如く香なりけるを誤て者に作りけるにや、イマハと讀ても違はず、塩津は淺井郡なれば菅浦も同郡なるべし、此歌は友などの越前守に成て下るを想像てよめる歟、
 
初、塩津 近江淺井郡なれは、菅浦も同郡にこそ。いまかこくらん、今者とかきたれは、いまはとよむへし。榜の字手にしたかへるは誤なり
 
伊保麻呂歌一首
 
(36)1735 吾疊三重乃河原之礒之裏爾如是鴨跡鳴河蝦可物《ワカタヽミミヘノカハラノイソノウラニカハカリカモトナクカハツカモ》
 
神代紀下云、海神|於是《コヽニ》鋪《シキ》2設|八重席薦《ヤヘタヽミヲ》1以|延内《イル》之、禮記(ノ)郊特牲(ニ)云、大饗君三2重(ニシテ)席1而酢焉、又云、天子之席、五重、諸侯(ノ)之席(ハ)三重、大夫(ハ)再重、かくはあれども今は疊は表薦裏薦有て中に藁を多く入れて作るを云歟、吾と云へる此意なるべし、三重の川は伊勢に三重郡あれば彼處なるべし、河に礒よむ事第六にも其佐保川のいその上にと有き、裡は内なり、如是鴨跡〔右○〕とはいかなる面白さも唯かくばかりこそと云意にや、蝦を此集には面白き物によなる事上に云が如し、又鴨跡〔右○〕と云詞に鴨をそへて鴨の聲とてもかくばかりこそとよめる歟、第三に大津皇子の御歌に、磐余の池に鳴鴨を今日のみ見てやとよませ給ふは、鴨をも面白き物にすればなり、
 
初、わかたゝみ三重の川原の よき人は疊をかさねしけは、かくはつゝけたり。禮記郊特牲曰。大饗(ニハ)君三2重(ニシテ)席(ヲ)1而酢(ス)焉。又云。天子之席(ハ)五重。諸侯(ノ)之席(ハ)三重。大夫(ハ)再重。神代紀下云。海神於是《ワタツミノカミコヽニ》鋪《シキ》2設|八重席薦《ヤヘタヽミヲ》1以(テ)延内《ヒイテイル》之。此三重の川原を、八雲御抄には、石見と注せさたまへり。いかゝおほしめしけん。彼御抄には、石見と注せさせたまへる名所おほし。伊勢に三重郡あり。もしその郡にあるにや。いそのうらとは、川にも池にもいそはよめり。うらはうちなり。かはかりかもとは、いかはかりおもしろくめつらしき所といふとも、たゝかくはかりこそあらめといふ心にや。此集には、かはつをおもしろきものによめる哥おほし
 
式部大倭芳野作歌一首
 
式部は官、大倭は氏歟、名歟、和州には有べからず、簡古を好みて大倭なる芳野といはゞ頤を解ぬべし、
 
(37)1736 山高見白木綿花爾落多藝津夏身之河門雖見不飽香聞《ヤマタカミシラユフハナニオチタキツナツミノカハトミレトアカヌカモ》
 
此上句は第六にありき、
 
初、山高み白ゆふ花に 此上の句第六にも有き
 
兵部川原歌一首
 
1737 大瀧乎過而夏箕爾傍爲而淨河瀬見河明沙《オホタキヲスキテナツミニソヒテヰテキヨキカハセヲミルカサヤケサ》
 
見河、【別校本、河作v何、】
 
傍爲而は夏箕河邊に傍て居てなり、
 
初、そひてゐて ゐては居てなり
 
詠上総末珠名娘子一首并短歌
 
和名集云、上總國周淮季郡、かゝれば末は地の名、珠名は娘子が名なり、娘子が事は歌に見えたり、歌一首と云べきを歌の字なきは此卷の樣他卷に殊なればなり、
 
1738 水長鳥安房爾繼有梓弓末乃珠名者胸別之廣吾味腰細之(38)須輕娘子之其姿之端正爾如花咲而立者玉桙乃道行人者已行道者不去而不召爾門至奴指並隣之君者預巳妻離而不乞爾鎰左倍奉人乃皆如是迷有者容艶緑而曾妹者多波禮弖有家留《シナカトリアハニツキタルアツサユミスヱノタマナハムナワケノヒロケキワキモコシホソノスカルヲトメカソノカホノウツクシケサニハナノコトエミテタテレハタマホコノミチユキヒトハオノカユクミチハユカステヨハナクハカトニイタリヌサシナラフトナリノキミハカネテヨリサカツマカレテコハナクニカキサヘマタシヒトノミナカクマトヘルハカホヨキニヨリテソイモハタハレテアリケル》
 
召爾、【官本云、ヨハナクニ、】  預、【校本或作v豫】
 
水長鳥は安房の枕詞なり、別に注す、安房爾繼有とは元正紀云、養老二年五月甲午朔乙未、割2上總國之|平群《ヘグリ》安房《アハ》朝夷《アサヒナ》長狹《ナカサノ》四郡1置2安房(ノ)國(ヲ)1とあれば安房郡につゞきたる周淮《スヱ》郡の珠名と云に、末云はむ爲に中に梓弓と云へるなり、安房の國を置かれぬ前ならば云に及ばず、割分たれて後も昔に准らへて云に難あるべからず、古今の陸奥歌に最上川上れば下る稻舟と云歌を載たるも、最上置賜等の郡を陸奥より割て出羽にそへて置れたれば出羽にあれども、昔に准らへて陸奧歌とせるを引て思ふべし、又安房國の※[手偏+總の旁]を以て末郡をそれにつきたると云はむも難なかるべし、第十四に梓(39)弓末に玉纒と讀たれば今の梓弓も珠と云までにかゝる歟とも意得べけれど、自然の事にてそれまではあるまじ、胸別とは胸も兩乳有て左右にわかれたればなり、第八に、棹鹿の胸別とよめるには詞は同じくて意異なり、廣の字は第十三に水門成|海毛《ウミモ》廣|之《シ》云々、これに依て今もユタケキと讀べきか、胸廣くて平なるは美人の相なり、楚辭景差(カ)大招(ニ)云、傍心綽態〓麗只、俗に狹き胸の高きをば鳩胸とてわろき相とするに對す、腰細之須輕娘子之とは、第十六竹収翁が歌にも、海神之殿蓋丹飛翔爲輕如來腰細丹《ワタツミノトノヽミカサニトヒカケルスカルノコトキコシホソニ》とよめり、須輕は※[虫+果]〓なり、雄略紀云、爰命3※[虫+果]〓1【人名也、此云2須我屡1、】聚2國内蚕1云々、此は|少子部《チヒサコベノ》※[虫+果]〓と云人の名なれどもは※[虫+果]〓をすがる〔三字右○〕と云證なり、和名集云、〓|※[虫+翁]《ヲウ》、【悦翁二音、和名佐曾里、】、似v蜂而細腰者也、一名※[虫+果]〓、【果裸二音、】かくさそり〔三字右○〕の外にすがる〔三字右○〕の和名を出されざるに依て、古今集にすがるなく秋の萩原とよめるすがるを鹿の異名と云説出來れり、決を雄略紀に取べきなり、女は腰の細きを美とする故に、尸子云、靈王好2細腰1而民多v饑、宋玉登徒子好色賦云、〓如v束v素(ヲ)、袖中抄に須輕娘子をすがるきいもとあるは不審なり、端正爾は日本紀に端正をキラ/\シと點じたれば、今もキラ/\シクニと讀べし、ウツクシケサニは古風の訓にあらず、道者不去而は曹植美女篇云、行徒用(テ)息v肩、休者以忘v餐(ヲ)、不召爾門至奴は、後の書なれど秘藏寶鑰云、美女不v招、好醜(ノ)之男爭逐、醫門不v(40)召、疾病之人投歸、莊子徐無忌に羊肉(ハ)不v慕v蟻、蟻慕2羊肉1と云が如し、指並は第六に石上乙麿卿を土左へ流さるゝ時の歌に刺並之國とよめるに付て注せし如く今もサシナミノと讀べきか、此より己妻離而と云までは珠名を迎へむとてもとより住なれし妻にかるゝなり、竹取物語云、もとのめどもは返し給ひてかぐやひめを必らずあはむ儲してひとり明し暮したまひ云々、又云、家に少殘て有ける物どもは龍の玉をとらぬ者どもにたびつ、是を聞て離れ給ひしもとの上は片腹痛く笑ひ給ふ、預は豫と通じて用る事あれど豫に作れるまさるべきか、己妻は上にも云如くオノヅマと讀べし、不乞爾鎰左倍奉は、鎰は人の家に大事とする物なり、それをさへ娘子が乞ぬに打與へて、家の内をさながら任せて妻とせむと心底を顯はす由なり、和名集鑰(ノ)字注(ニ)云、今案俗人印鑰之處用v鎰(ヲ)非也、鎰(ハ)音溢見2唐韻1、此集には俗に隨て字を用たる事多し、此類なり、縁而曾妹者、此一句の中初の四文字は上につけて句絶とし、後の三字は下に付べし、落句はタハレタリケルとも讀べし、
 
初、しなか鳥あはにつきたる しなか鳥あはとつゝくるゆへは、枕詞を別に注せし中に有。あはにつぎたるとは、安房につきて上總の國はあれはなり。元正紀云。養老二年五月甲午朔乙未、割上總国之平群安房朝夷長狹四郡置安房國。梓弓は末といはむためなり。第十四卷にあつさ弓末に玉まきとよめるは、角弓なとのことく、弓のかさりをいへは、今も末といふ字のみならす、珠といふにもわたるへし。むなわけのひろけきわきも。むなわけは、只むねなり。第八第二十には、鹿につきてむなわけとよめり。今は少かはれり。むねのせはくて高きをは、俗に鳩胸とて、わろき相にいへり。楚辭景差大招曰。滂心《ヒロキムネ》綽態(ノ)※[女+交]麗(ト)《・ユタカナルワサウルハシ》只。小《ホソキ》腰秀(タル)頸若2鮮卑(ノ)1只。下の、こしほそのすかるをとめの二句まて、此大招をふみてつゝけたるなるへし。こしほそのすかるをとめかそのかほのうつくしけさに、すかるは※[虫+果]※[羸の羊が虫]なり。蜂の類なり。雄畧紀云。爰(ニ)命(シテ)3※[虫+果]※[羸の羊が虫]《スカルニ》1【人名也。此(ヲハ)云2須我屡1】聚(ム)2國内(ノ)蚕《カヒコヲ》1。これ少子《チヒサコ》部|※[虫+果]※[羸の羊が虫]《スカル》といふ人の名なれとも、※[虫+果]※[羸の羊が虫]をすかるといふ證なり。和名集云。※[虫+翳]※[虫+翁]《エツヲウ》【悦翁二音和名佐曾里】似v蜂而細腰(ノ)者也、一名悦翁二音、和名佐曾里、】、似v蜂而細腰者也、一名※[虫+果]※[羸の羊が虫]【果裸二音。】かくのみありて、さそりの外にすかるの和名を出さす。雄畧紀をはよく考たる人もなけれは、古今集離別部に、すかるなく秋の萩原朝たちて旅行人をいつとかまたむ。此哥のすかるを、鹿ばりと傳たるは、下に萩原といへるゆへに、おしはかりにいへるなり。鹿をは、日本紀にもかせきとこそよみたれ。すかるといへることなし。さしも博學の匡房卿も、鹿と心得られけるにや。掘河院御時、奉られける百首に
  すかる臥野中の草や深からんゆきかふ人の笠のみえねは
詩にも花には蜂蝶とつゝけてむれくるものに作れり。けにもさることなれは、萩の花の香をゝひて、すかるのむれくれは、すかるなく秋の萩原とはつゝけたり。此集第十に、春されはすかるなる野のほとゝきすほと/\妹にあはすきにけり。此哥も春の野の花にむれきてなく心によめり。なるといふは、成といふ字はかきたれとも、鳴門なとの時のなるなり。はねをうこかしてなるゆへになるとはいへり。いふせきといへる、いふのふたもしに、馬音蜂音とかけるも、馬はいなゝく時、伊の音きこえ、蜂のなくには、部の音きこゆれは、その義にてかけるも、すかるなるといふにかなへり。楊子曰。螟蛉之子殪而逢(ヘハ)2※[虫+果]※[羸の羊が虫]1呪(シテ)曰、類(セヨ)v我(ニ)類v我。久(シキトキハ)則肖(ル)v之(ニ)。毛詩曰。螟蛉、※[羸の羊が虫]※[虫+果]負v之。和名集云。爾雅注(ニ)云。土蜂【和名由須留波知】大蜂(ノ)之在(テ)2地中(ニ)1作(ル)v房(ヲ)者也。かくあれは※[虫+果]※[羸の羊が虫]と土蜂とことなりと見えたり。捜神記曰。土蜂(ヲ)名2※[虫+果]※[羸の羊が虫](ト)1。俗謂2※[虫+翳]※[虫+翁](ト)1。細腰(ノ)之類(ナリ)。此によれは、土蜂と※[虫+果]※[羸の羊が虫]とおなし。又※[萬/(虫+虫)]の字をもさそりとよめり。所詮さそり、すかるおなし物にて、蜂の屬なり。女は腰のほそきをよしとすれは、こしほそのすかるをとめとはつゝけたり。第十六竹取翁か哥にも、わたつみの殿のみかさにとひかけるすかるのこときこしほそにとりてかさらひともよめり。尸子云。靈王好2細腰1。而民多(シ)v饑。風俗通(ニ)曰。楚王好(シカハ)2細腰(ヲ)1群臣皆數(テ)v米(ヲ)而炊(キテ)、順v風(ニ)而趨。戰國策云。昔者先君靈王好(シカハ)2小腰(ヲ)1楚士約(ス)v食(ヲ)【約猶v節】馮《ヨツテ》而能立【馮(ハ)依也】式(シテ)《・ヒサツイテ》而能|起《タツ・オク》【式小低貌。補曰軾車前横木。有v所v敬則俯馮v之。據而後能立。馮而後能起。言以v約v食故無v力也。或疑士不v當v言2細腰1。荀子曰。楚荘王好2細腰1。故朝有2餓人1。一本標(シテ)2墨子(ト)1云。楚靈王好2士細腰1。故其臣皆三飯爲v節、脇息而後帶、淵墻而後起。尹文子韓非子皆言一國有2饑色餓人1。今按、墨子三卷中無2此文1。二巻者別本也。古墨子篇數不v止v此。
】うつくしけさには端正とかけり。これをはきら/\しくにとよむへし。花のことゑみてたてれは、遊仙窟云。眉(ノ)間(ニ)月出(テ)疑(カヒ)v爭(ソフカト)v夜(ヲ)、頬(ノ)上(ニ)華開(テ)似(タリ)v闘(カハシムルニ)v春(ヲ)。よはなくにかとにいたりぬ。秘蔵寶鑰云。美女(ハ)不(レトモ)招(カ)好醜之男爭(ソヒ)逐(ヒ)、醫門(ハ)不(レトモ)召疾病(ノ)之人投歸(ス)。此文上の二句こゝにかなへり。かるかゆへに後の文なれとも引v之。莊子徐無忌篇云。羊肉不v慕v蟻(ヲ)。々慕2羊肉(ヲ)1。此心に似たり。さしならふ隣の君はかねてよりさか妻かれて。此末珠名娘子を妻とせんとてもとのめにはなるゝなり。竹取物語云。もとの女ともはかくやひめにかならすあはむまうけしてひとりあかしくらしたまひ。又云。家にすこしのこりて有けるものともは、たつのたまをとらぬものともにたひつ。これをきゝてはなれたまひしもとのうへは、かたはらいたくわらひ給ふ。さしならふは、第六にも、さしなみし國に出ますやとよみたれは、今もさしなみしともよむへし。こはなくにかきさへまたし。かきは、人の家にむねと大事とするものなり。それをさへ珠名娘子か乞もせぬに、打あたへて、家の内のことをまかせんとするよしなり。和名集云。四聲字苑云。鑰【音樂。字亦作v〓。今案俗人印鑰之處容v鎰非也。鎰音溢見2唐韻1】關具也。楊氏漢語抄云。鑰匙【門乃加岐。】またしはたてまつるなり。人のみなかくまとへるはかほよきによりてそ。此よりてその下を句とすへし。妹はたはれたりける。次下の反歌此意をふたゝひよめり
 
反歌
 
1739 金門爾之人乃來立者夜中母身者田菜不知出曾相來《カナトニシヒトノキタテハヨナカニモミハタナシスライテソアヒケル》
 
(41)不知、【官本云、シラス、】辨沌望
 
發句の之は助語なり、金門は第四に注せしが如し、田奈不知も亦第一に藤原宮役民が歌に注せり、
 
初、かなとにし人のきたては かなとは門なり。かとはかなとの畧語なり。金物をもてかされは、かなとゝはいふなり。身はたなしたす、第一卷に藤原宮役民か歌にも、家わすれ身もたなしらすとよめり。管見抄にはたゝしらすといへり。雲霞のたな引に輕引とかけるをおもへは、たなはかろき心歟。身をかろくして、なるへきやうをもしらす、くる人に出あふなるへし
 
詠水江浦島子一首并短歌
 
雄略紀云、二十二年秋七月、丹波國|餘社《ヨサ》郡|管川《ツヽカハノ》人|水江《ミヅノエノ》浦島(カ)子乘v舟而釣、遂得2大龜(ヲ)1、便(チ)化2爲《ナル》女《ヲトメニ》1、於v是浦島子感以爲v婦、相逐入v海到2蓬莱山《トコヨノクニ》1、歴2覩仙衆1、語(ハ)在2別卷1、和名集丹後國下注云、和銅六年割(テ)2丹波國五郡1置2此國1、天書第八云、廿二年秋七月、丹波人水(ノ)江(ノ)浦島子入2海龍宮1得2神仙1、丹後國風土記云、與謝郡日量里、此里有2筒川村1、此人夫|※[日/下]部《クサカベノ》首等(カ)先祖、名(ヲ)云2筒川嶼子1、爲v人姿容秀美、風流無v類、斯所謂水江浦嶼子者也、是(レ)舊宰伊預部(ノ)馬養連所v記無2相乖1、故略陳2所由之旨(ヲ)1、長谷朝倉(ノ)宮御宇天皇御世、嶼子獨乘2小船1泛2出海中1爲v釣、經2三日三夜1、不v得2一魚1、乃得2五色龜(ヲ)1、心思2奇異1、置2于船中(ニ)1即寐、忽爲2婦人(ト)1、其容美麗、更不v可v比、嶼子問曰、人宅遙遠海庭人乏、※[言+巨]人忽來、女娘微咲對曰、風流之士、獨汎2蒼海1、不v勝2近談1、就2風雲1來、嶼子復問曰、風雲何處(カ)來、女娘答曰、天上仙家之人也、請君勿v疑、乘2相談之愛1、爰嶼子知2神女1、慎懼疑心(アリ)、女娘語曰、賤妾之意、共2天地1畢、倶(ニ)2日月1極、但君(42)奈何、早先2許不(ノ)之意1、嶼子答曰、更無v所v言、何觸乎、女娘曰、君宜3廻v掉赴2于蓬山1、嶼子從往、女娘教令v眠v目(ヲ)、即不意(ノ)之間、至2海中博大之島(ニ)1、其地如v敷v玉、闕臺掩映、樓堂玲瓏、目所v不v見、耳所v不v聞、携v手徐行、到2一大宅之門1、女娘曰、君且立2此處1、開v門入v内、即七豎子來相語曰、是龜比賣之夫也、亦八豎子來相語曰、是龜比賣之夫也、茲知2女娘之名龜比賣1、乃女娘出來、嶼子語2豎子等事1、女娘曰、其七豎子者昴星也、其八豎子者畢星也、君莫v恠焉、即立v前引導、進入2于内1、女娘父母共(ニ)相迎、揖而定v坐、于v斯稱2説人間仙都之別(ヲ)1、談2議人神偶會之嘉1、乃雪2百品芳味1、兄弟姉妹等、擧v抔獻酬、隣里幼女等、紅顔戯接、仙歌寥亮、神舞逶※[しんにょう+施の旁]、其爲2歡宴1、萬2倍人間1、於v茲不v知2日暮1、但黄昏之時、群仙侶等漸漸退散、即女娘獨留、雙v肩接v袖成2夫婦之理(ヲ)1、于v時嶼子、遣2舊俗1遊2仙都1、既經2三歳1、忽起2懷v土之心1、獨戀2二親(ヲ)1、故吟哀繁發、嗟歎日益、女娘問曰、比來觀2君夫之※[貌の旁](ヲ)1、異2於常時1、願聞2其志1、嶼子對曰、古人言、少人懷v土(ヲ)死、狐首v丘(ヲ)、僕以爲2虚談1、今斯信v然也、女娘問曰、君欲v歸乎、嶼子答曰、僕近離2親故之俗1、遠入2神仙之堺1、不v忍2戀眷1、輙申2輕慮(ヲ)1、所v望※[斬/足]還2本俗1、奉v拜2二親1、女娘拭v涙(ヲ)歎曰、意等2金石1、共2期萬歳1、何眷2郷里1、棄2遺一時1、即相携徘徊、相談慟哀、遂接v袂退去、就2于岐路1、於v是女娘父母親族、但悲v別送v之、女娘取2玉匣1、授2嶼子1謂曰、君終不v遺2賤妾1、有2眷尋1者、堅握v匣(ヲ)、慎莫2開見1、即相分乘v船、仍教(テ)令v眠v目、忽到2本土筒川郷1、即瞻2眺村邑1、人物遷易、更無v所v由、(43)爰問2郷人1曰、水江浦嶼子之家人、今在2何處1、郷人答曰、君何處人、問2舊遠人1乎、吾聞古老等相傳(テ)曰、先世有2水江(ノ)浦嶼子1、獨遊2蒼海1復不2還來1、今經2三百餘歳(ヲ)1者、伺忽問v此乎、即(チ)衙2棄心1、雖v廻2郷里1、不v會2一親1、既送v旬日1、乃撫2玉匣(ヲ)1而感思2神女1、於v是嶼子忘2前日期1、忽開2玉匣1、即未v瞻之間、芳蘭之體、率(テ)2于風雲1、翩2飛蒼天1、嶼子即乖2違期要1、還知2復難1v會、廻v首(ヲ)蜘※[虫+厨]、咽v涙徘徊、于v斯拭v涙哥曰、等許余弊爾久母多智和多留《トコヨヘニクモタチワタル》、美頭能眷能《ミヅノエノ》、宇良志麻能古賀《ウラシマノコガ》、許等母知和多留《コトモチワタル》、又神女遙飛2芳音1哥曰、夜麻等弊爾《ヤマトヘニ》、加是布企阿義天《カゼフキアケテ》、久母婆奈禮《クモハナレ》、所企遠理等母與《ソキヲリトモヨ》、和遠和須良須奈《ワヲワスラスナ》、嶼子更不v勝2戀望1哥曰、古良爾古非《コラニコヒ》、阿佐刀遠比良企《アサトヲヒラキ》、和我遠禮波《ワカヲレハ》、等許與能波麻能奈美能等企許由《トコヨノハマノナミノトキコユ》、後時人追和哥曰、美頭能眷能《ミヅノエノ》、宇良志麻能古我《ウラシマノコガ》、多麻久志義《タマクシゲ》、阿氣受阿理世波《アケズアリセハ》、麻多母阿波麻志《マタモアハマシ》、等許與弊爾《トコヨヘニ》、久母多知和多留《クモタチワタル》、多由女久女、波都賀未等、和禮曾加奈志企《ワレソカナシキ》、○本朝神仙傳曰、浦島(ノ)子者、丹後國水江浦(ノ)人也、昔(シ)釣2于濱1得2大龜1、變成2婦人1、閑色無v雙、即爲2夫婦1被2婦(ニ)引級1、到2於蓬莱1、通得2長生1、銀臺金闕、錦帳繍屏、仙藥隨風、綺饌彌v日、居v之三年、春(ノ)月初暖、群鳥和鳴、煙霞※[さんずい+養]蕩、花樹競開、問2歸歟之許1、婦曰、列仙之陬、一去難2再來1、縱歸2故郷1、定非2往日1、浦島子爲3訪2親舊(ヲ)1強歸v駕、婦與2一筥1曰、慎莫v開v此、若不v開者自再相逢、浦島子到2本郷1林園零落、親舊悉亡、逢v人聞v之、曰、昔(シ)聞浦島子仙化而去、漸過2百年1、爰帳然如v失2歩於邯鄲1、心中大恠、開v匣(ヲ)見v之、(44)於v是浦島(ノ)子、忽變2衰老皓白(ノ)之人1、不v去而死、事見3別傳並於2萬葉集1、今注大概1、元享釋書第十八尼女篇如意尼傳云、如意尼者天長帝之次妃也、丹之後州余佐郷人、妃甞蓄2一篋(ヲ)1、人不v得v見2裏面1、世曰天長元年大旱、守敏空海後先相(ヒ)2競(テ)法1※[樗の旁]、海得(テ)2妃篋(ヲ)1修2秘奧(ヲ)1以v故雨澤洽2天下1、妃之同閭、有2水江浦嶋子者1、先v妃數百年、久棲2仙郷1、所謂蓬莱者也、天長二年還2故里1、浦島子(カ)曰、妃所v持篋曰2紫雲篋1海刻2櫻像(ヲ)1、時藏2篋(ヲ)像中1、此釋書の傳は神咒寺などの妄傳の故記に依てかゝれたる歟、用るに足らざる事なり、又風土記の神女が歌は古事記の仁徳天皇の段を見るに吉備黒日賣が歌なり、
 
初、詠水江浦嶋子 日本紀第十四、雄畧天皇二十二年(ノ)紀云。秋七月丹波(ノ)國餘社郡(ノ)管川(ノ)人|水江《ミツノエノ》浦島(カ)子乘v船而釣。逐得2大龜《カハカメヲ》1。便|化2爲《ナル》女《ヲトメト》1。於v是浦島子|感《タケリテ》以爲v婦(ト)。相逐(テ)入v海(ニ)、到2逢莱山《トコヨノクニヽ》1、歴2覩《メクリミル》仙衆《ヒシリヲ》1。語(ハ)在2別《コト》卷(ニ)1。此雄畧紀には、水江を字のまゝによみたれと、此哥にはすみの江とよみ、初にはるの日のかすめる時にすみのえのきしに出居てといふに、墨江とかきたれは、水は清む物なるゆへに、義をもてかけるなるへし。しかれは、此集を證として、日本紀をもすみのえとよむへきにや。又丹波國とあれとも、和銅六年に丹波國より五郡を割て丹後となされて後、與謝郡《誤加佐郡也》は丹後國の國府なり。又浦嶋子といふは、浦嶋といふもの有て、それか子といふにはあらす。子は男子の通稱の詞なり。元亨釋書第十八、尼女篇如意尼傳云。如意尼者天長帝之次妃也。丹之後州余佐郷人〇妃甞(テ)蓄2一篋(ヲ)(ヲ)1。人不得v見2裏面(ヲ)1。世曰天長元年(ニ)大旱(ス)。守敏空海後先相競(テ)法※[雲の云が于](ス)。海得(テ)2妃(ノ)篋(ヲ)1修(ス)2秘奥(ヲ)1。以v故(ヲ)雨澤洽2天下(ニ)1。妃之同閭有2水江浦島子(トイフ)者1。先(テ)v妃(ニ)數百牛久棲2仙郷(ニ)1。所謂蓬莱(トイフ)者也。天長二年還2故里(ニ)1。浦島子曰。妃(ノ)所(ノ)v持篋曰2紫雲篋(ト)1。海刻(ム)2櫻像(ヲ)1。時妃藏(ム)2篋像中1。以上。これは神呪寺の縁起なとにてこそかゝれけめ。浦島子かことは、雄略紀并此哥あれは、信用するにたらす
 
1740 春日之霞時爾墨吉之岸爾出居而釣舩之得乎良布見者古之事曾所念水江之浦島兒之竪魚釣鯛釣矜及七日家爾毛不來而海界乎過而榜行爾海若神之女爾邂爾伊許藝※[走+多]相誂良比言成之賀婆加吉結常代爾至海若神之宮乃内隔之細有殿爾携二人入居而老目不爲死不爲而永世爾有家留(45)物乎世間之愚人之吾妹兒爾告而語久須臾者家歸而父母爾事毛告良比如明日吾者來南登言家禮婆妹之答久常世邊爾復變來而如今將相跡奈良婆此篋開勿勤常曾己良久爾堅目師事乎墨吉爾還來而家見跡宅毛見金手里見跡里毛見金手恠常所許爾念久從家出而三歳之間爾墻毛無家毛滅目八跡此※[草がんむり/呂]乎開而見手齒如來本家者將有登玉篋小披爾白雲之自箱出而常世邊棚引去者立走※[口+斗]袖振反側足受利四管頓情清失奴若有之皮毛皺奴黒有之髪毛白班奴由奈由奈波氣左倍絶而後遂壽死祁流水江之浦島子之家地見《ハルノヒノカスメルトキニスミノエノキシニイテヰテツリフネノトヲラフミレハイニシヘノコトソオホユルスミノエノウラシマノコカカツヲツリタヒツリカナテナヌカマテイヘニモコステウミキハヲスキテコキユクニワタツミノカミノヲトメニタマサカニイコキワシラヒカタラヒコトナシシカハカキツラネトコヨニイタリワタツミノカミノミヤノナカヘノタヘナルトノニタツサハリフタリイリヰテオイモセスシニモセスシテナキヨニアリケルモノヲヨノナカノシレタルヒトノワキモコニツケテカタラクシハラクハイヘニカヘリテチヽハヽニコトモツケラヒアスノコトワレハキナムトイヒケラハイモカイラヘクトコヨヘニマタカヘリキテケフノコトアハムトナラハコノハコヲヒラクナユメトソコラクニカタメシコトヲスミノエニカヘリキタリテイヘミレトイヘモミカネテサトミレトサトモミカネテアヤシトソコニオモハクイヘイテヽミトセノホトニカキモナクイヘウセメヤトコノハコヲヒラキテミテハモトノコトイヘハアラムトタマクシケスコシヒラクニシラクモノハコヨリイテヽトコヨヘニタナヒキヌレハタチハシリサケヒソテフリコヒマロヒアシスリシツヽタチマチニコヽロキエウセヌワカカリシカハモシハミヌクロカリシカミモシラケヌユナユナハイキサヘタエテノチツヰニイノチシニケルスミノエノウラシマノコカイヘトコロミム》
 
(46)霞時爾、【別校本云、カスミノトキニ、】  神之女爾、【官本又云、カミノムスメニ、】  老目不爲、【校本老目作v耆、】  恠常、【官本又云、アヤシミト、】  家滅目八跡、【幽齋本云、イヘウセメヤト、】
 
墨吉之岸は水江と同處にして異名歟、或は水江は※[手偏+總の旁]にて墨吉は其中の別處歟、但一篇の内、二名各兩處に交へ出して水江は浦島兒とのみつゞけたれば、たとひ地の名なりとも居處の名をやがて氏とせる故にしげきを※[厭のがんだれなし]はぬなるべし、然らずば長篇ながら拙しと云べし、依て上に出す日本紀天書風土紀等を考るに、水江は氏と見えたり、中にも風土記に、水江浦嶼子之家人今在2何處1云々、吾聞古老等相傳(テ)曰、先世有3水江(ノ)浦嶼子1云々、若水江地の名にして氏にあらずば問答共に唯浦嶼子と云べし.何ぞ水江にして煩らはしく水江と云べきや、今も水江之岸爾出居而とも水江爾還來而ともよまず、又墨吉之浦嶋子ともよまぬを思ふべし.但神仙傳には水江を地の名とせれど、彼は湯川の玄圓と云僧の後代にかける書なれば必らずしも證としがたし、仙覺此墨吉の古黙すみよし〔四字右○〕なりけるをすみのえ〔四字右○〕と和すべき由かゝれたるは、古語の例謂れあるを、此に依て水江をもすみのえ〔四字右○〕と讀べしと義を立られ、やがて本の點をも改られて今の點もスミノエと有ど、日本紀の點并に風土記の歌にミヅノエとある上は異義を存すべからず、釣船之得乎良布見者とは遠く成行を見ればなり、第十(47)九に於吉都奈美等乎牟麻欲比伎とよめるも眼尾の遠ざかる波を横たへたるやうなるをいへり、遠は登保なれど又得乎とかけるは沫を阿和とも安幡ともかけるに例すべし、遠ざかるを見てと云事は浦島が蓬莱へ行し事を思ひよそふると云はむ爲なり、鯛釣矜は、今按矜をカネテと點ぜる事其意を得ず、玉篇云、矜、居陵切、自賢也と注したれば、鯛釣ホコリと讀べし、惠慶法師の歌に、わかめかるよさのあま人ほこるらし、浦風ゆるく霞渡れり、此れ今の詞を昔はたひつりほこりと讀てや踏てよまれたらむ、末の集にはほこるらしを出ぬらしと改て入たり、源氏物語明石に、いさりする海人どもほこらしげなりとかけり.釣の利《サチ》ある故に誇て七日まで家に歸らぬなり、伊許藝※[走+多]相誂良比は、今按此二句伊は發語の詞、イコギワシリテアヒアトラヒと讀べきか、日本紀に誂をアトフとよめるはいざなふ意なれば、あとらひ〔四字右○〕も然意得べし、字書にかたらふ〔四字右○〕と讀べき義なし、加吉結は伊勢物語に、昔男せうえうしに思ふとちかいつらねて和泉の國へきさらぎばかりにいきけりとかける如く、彼乙女と打つれて常世へ行を云、海若神之宮、乃以下は、神代紀下云、忽至2海神之宮1、其宮也雉※[土+牒の旁]|整頓《トヽノホリ》、臺宇玲瓏.海神於v是|舗2設《シキ》八重席薦1、以延2内之1、因娶2海神女豊玉姫1、仍留2住海宮1、已經2三年1、彼處雖2復安樂1、猶有2憶v郷之情1、故時復太息、豊玉姫聞v之、謂2其父1曰、天孫悽然數歎、蓋懷(48)土之憂乎、海神乃延2彦火火出見尊(ヲ)1、從容語曰、天孫若欲v還v郷者、吾當v奉v送(リ)云々、今の始終此神代紀の文に似たる事多き故に此にひけり、内隔は延喜式云、凡中重庭者須v令d2諸司1毎v晦掃除u、老目は次句の死不爲而とかけるを思ふに二字を合せて耆に作れる本然るべし、第十六乞食者爲鹿述痛歌にも耆矣奴とかけり世間之愚人之とは世上に第一の愚癡なる人と云意なり、第三に天地に悔しき事の世の中に悔しき事はとよめるが如し、愚人之とは本朝文粹第一源順高鳳刺2貴賤之同交1歌云、共耻白物之入2青雲1、竹取物語云、あれもたゞかゝでこゝちたゞしれにしれて守りあへり、源氏乙女に此おとなふるに親の立替りしれ行事は云々、事モ告ラヒとはかゝる事有て常世にすめばうしろやすくおぼせと告むとなり、第十、七夕の歌にも此詞あり、古語の姿なり、如明日吾者來南登とは今日行て明日歸る如く速に歸來むとなり、此篋開勿勤常、史記扁鵲傳云、趙簡子疾、五日不v知v人、於v是召2扁鵲1云々、居二日半、簡子寤語2諸大夫1曰、我之2帝所(ニ)1甚樂、與2百神1遊2於鈎天1、帝甚喜賜2我二笥(ヲ)1、皆有v副云々、少似たる事なり、曾己良久爾はそこぱくにと云に同じ、恠常はアヤシミトと讀てあやしと意得べし、所許爾念久はそこにて思はくはなり、從家出而はイヘヲイデヽともイへユイデとも讀べし、此三歳之間爾より以下家滅目八跡、此句に至りて句絶なり、上の所許爾念久と云句(49)の首尾こゝに収まればなり、菅家文草云、幽明録曰、漢永和五年、※[炎+立刀]縣劉※[日/成]阮肇共入2天台山1、迷不v得v反、經三日※[羊+良]盡云々、一大溪邊有2二女子1云々、令d各就1一帳1宿u、女往(テ)就之、言聲清※[女+乞]、令2v人忘1v憂、遂停半年、氣候草木是春時、百鳥鳴啼、更懷2悲思1求2歸去1云々、女子三四十人、集會奏v聲(ヲ)、共送2劉阮1、指2示還路1、既出、親舊零落、邑屋改異、無2復相識1、間得2七世孫1、任※[日+方](ガ)述異記云、晋王質伐v木至2信安郡石室山1、見2數童子圍1v棊(ヲ)、與2質一物1、如2棗核1、含v之不v飢、局未v終斧柯爛盡、既歸無2復時人1、情清失奴は清は消に改たむべし、白班奴、班〔右○〕は斑〔右○〕に改たむべし、古詩云、所v遇無2故物1焉、得v不2速老1、竹取物語云、此事を歎くに鬚も白く腰もかゞまり目もたゞれにけり、翁今年は五十ばかりなりけれども物思ひには片時になむ老に成にけりと見ゆ、由奈由奈波は、此詞は此外に、いまだ見及ばず、推量するにはてはては〔五字右○〕と云へる意なるべし、
 
初、はるの日のかすめる時に つりふねのとをらふみれはとは、つりふねをこきてとほるをみれはなり。たひつりほこりなぬかまて家にもこすて。鯛つりかねてとある點はあやまれり。恵慶法師歌に
  わかめかるよさのあま人ほこるらしうら風ゆるくかすみわたれり
源氏物語明石に、をやみなかりしそらのけしきなこりなくすみわたりていさりするあまともほこらしけなり。釣の利《サチ》あるゆへに、ほこりて七日まて家に歸らぬなり。いこきわしらひ、伊は發語の詞。かきつらねは、彼をとめと打つれて、常世へゆくをいへり。わたつみの神の。日本紀第二云。乃作(テ)2無v目籠《マナシカタマヲ》1内《イレ》2彦火々出見《ヒコホヽテミの》尊(ヲ)於|籠中《カタマノナカニ》1沈(ム)2之(ヲ)干海(ニ)1。即(チ)自然《ヲノ ニ》有(ハ)2可怜小汀《ウマシヲハマ》1、於是《コヽニ》棄《ステ》v籠《カタマヲ》遊行《イテマス》。忽(ニ)至(タマテ)2海神《ワタツミノカミノ》之宮(ニ)1。其(ノ)宮也|雉※[土+牒の旁]整頓臺宇玲瓏《タカヽキヒメカキトヽノホリタカトノヤテリカヽヤケリ》。〇海(ノ)神於v是《コヽニ》鋪(キ)2設八重|席薦《タヽミヲ》1以(テ)延《ヒイテ》内《イル》之。〇因(テ)娶《メス》2海|神《ツミノ》女(ノ)豊玉姫(ヲ)1。仍(テ)留2住《トヽマリタマヘルコト》海宮(ニ)1已(ニ)經《ナンヌ》2三年(ニ)1。彼處《ソコニ》雖2復(タ)安(ク)樂(シト)1猶|有《マス》2憶(フ)v郷《クニヲ》之|情《ミコヽロ》1。故《カレ》時(ニ)復(タ)太(ハタ)息《ナケキマス》。豐玉姫聞(テ)之謂2其(ノ)父《カソニ》1曰(ク)。天|孫《ミマ》悽然《イタムテ》數歎(タマフ)。蓋(シ)懐(タマフ)v土《クニヲ》之憂(アリテカ)乎。海神乃延(テ)2彦火火出見尊(ヲ)1從容語《ヲモウルニマウシテ》曰(サク)。天孫若|欲《オホサハ》v還(ラント)v郷《クニヽ》者吾(レ)當(ニ)v奉(ル)v道(ヲ)。なかのへのたへなる殿。延喜式曰。几(ソ)中(ノ)重《ヘノ》庭者須(ラク)令d2諸司(ヲ)1毎(ニ)v晦掃除(セ)u。よのなかのしれたる人のとは、世上に第一の愚痴なる人といふ心なり。竹取物語云。あれもたゝかはてこゝちたゝしれにしれてまもりあへり。源氏物語未通女に此おとなふるにおやの立かはりしれゆくことは云々。事もつけらひ、つけらひはつくるなり。あすのことわれはきなんとは、けふゆきてあす歸ることく、はやく歸らんとなり。此はこをひらくなゆめと。史記扁鵲傳云。趙簡子疾。五日不v知v人(ヲ)。於v是召2扁鵲(ヲ)1。〇居二日半、簡子寢(テ)語2諸大夫1曰。我之帝(ノ)所(ニ)甚樂。與2百神1遊2於鉤天(ニ)1。〇帝甚喜賜2我(ニ)二笥(ヲ)1。皆有v副。そこらくにかためしことを。そこらくはそこはくなり。あやしみとそこにおもはく家をいてゝ。そこにおもはくは、そこにておもふやうといはむかことし。從家はいへをいてゝとよむへし。かきもなく家うせめやと。文選古詩云。所v遇無2故物1、焉(ソ)得(ン)v不(ルコト)2速(ニ)老(ヒ)1。如來本は如本來なるへき歟。あしすりしつゝ、此下の廿八葉、第五、四十葉にもあしすりとよめり。伊勢物語にゐてこしをんなもなし。あしすりをしてなけともかひなし。源氏物語かけろふに、あしすりといふことをしてなくさまわかきことものやうなり。くろかりし髪もしらけぬ。竹取物語に、此ことをみかときこしめして、竹取か家に、御つかひつかはさせたまふ。御つかひにたけとり出あひてなくことかきりなし。此ことをなけくに、ひけもしろく、こしもかゝまり、めもたゝれにけり。おきなことしはいそちはかりなりけれとも、物おもひには、かたときになむおいになりにけりとみゆ。ゆな/\ははて/\はといふ心ときこゆ
 
反歌
 
1741 常世邊可住物乎釼刀已之心柄於曾也是君《トコヨヘニスムヘキモノヲツルキタチサカコヽロカラオソヤコノキミ》
 
初の二句は此方より云なり、浦島子となりて悔る意にはあらず、釼刀己之心柄とつゞくるは、刀の柄《ツカ》に刺入るゝ所をなかご〔三字右○〕と云、心の字をなかご〔三字右○〕とよめばなかご〔三字右○〕とこ(50)ころ〔三字右○〕とは同じ詞なる故にかくつゞくるなり、第十一第十二に至て木にも心とそへてよめる此意なり、凡心を云に、天竺には質多と汗栗※[馬+犬]との異あり、質多は縁慮の心なり、汗栗※[馬+犬]は處中の心なれば、人の心より草木の心及び許に天心地心など作るまでを攝むれば、今刀によせて云は汗栗※[馬+犬]にて、己之とつゞくる方は、質多なり、漢語和語はこれをわかたず、己をサ〔右○〕云は常の俗語なり、下にもあまたよめり、於曾也是君とは、第十二に心鈍とかきてこヽろおぞくとよめり、源氏の蓬生に、はかなき古歌物語などやうの御すさびごとにてこそつれ/”\をもまきらはしかゝるすまひをも思ひ慰むるわざなれ、さやうの事にも心をぞく物したまふ、又橋姫には、恠くかうばしくにほふ風の吹つるを思ひかけぬ程なれば驚ろかざりける心おぞさよと心もまどひて恥おはさうず、此等心のにぶきを云ざれば、おぞきも刀の利からねを云故に釼刀の縁の詞にて、長歌の世間之しれたる人のと云へる所を決するなり、
 
初、とこ世へに住へきものを 歸らてそのまゝ住へきものをと評していふなり。浦島か後悔にはあらす。また歸るとも箱をあけさらましかはふたゝひ常世に住へき物をといふ心ともきこゆ。つるきたちは心とつゝけたり。柄《ツカ》のかたにさしいるゝなかこを心といふなり。第十二に、こまつるきさかこゝろゆへよそにのみ見つゝや君をこひわたりなん。これもおなしつゝけやうなり。禮記云。禮(ハ)其在v人(ニ)也如(シ)2竹箭(ノ)之有(ルカ)1v※[竹/均]也。如2松柏(ノ)之有(ルカ)1v心也。周易云。其(ノ)於(ル)v木(ニ)也爲2堅(シテ)多(シト)1v心《ナカコ》。およそ心といふに、梵語に差別あり。質多《シツタ》を譯して心といふは、慮知の心なり。汗栗駄《カリタ》とも※[糸+乞]栗娜《キリダ》ともいふを翻して心といふは、虚中の心なり。今釼大刀さか心からといへるは、汗栗駄心《カリタシン》の所攝なり。天心地心なと詩に作るたくひみな准してしるへし。おそやは心おそきにて、にふきなり。第十二に
  山しろのいは田のもりに心おそくたむけしたれは妹にあひかたき
此心おそくといふに、心鈍とかけるを思ふへし。利鈍の字はともに劔なとにつきたる字なり。しかれはつるきたちといへるも心からといはむためなから、おそきは劔大刀の緑の詞なり。世のなかのしれたる人のといへる心を、かさねてよみて決するなり。源氏物語よもきふに、はかなきふる哥ものかたりなとやうの御すさひことにてこそつれ/\をもおもひなくさむるわさなれ。さやうのことにもこゝろおそくてものしたまふ。橋姫には、あやしくにほふ風の吹つるをおもひかけぬほとなれはおとろかさりける心おそさよと心もまとひてはちおはさうすといへり。此ふたつの心おそきは今におなしく鈍きなり。このきみは、浦嶋か子をさせり
 
見河内大橋獨去娘子歌并短歌
 
河内の片足羽河と云に渡せる大橋なり、今其處を承及ばず、歌には河の名を讀て、題には河内大橋とのみ云へるは、昔は大橋と云へば其隱なかりけるにや、
 
(51)1742 級照片足羽河之左丹塗大橋之上從紅赤裳數十引山藍用摺衣服而直獨伊渡爲兒者若草乃夫香有良武橿實之獨歟將宿問卷乃欲我妹之家乃不知《シナテルヤカタアスハカハノサニヌリノオホハシノウヘユクレナヰノアカモスソヒキヤマアヰモチスレルキヌキテタヽヒトリイワタラスコハワカクサノツマカアルラムカシノミノヒトリカヌラムトハマクノホシキワキモカイヘノシラナク》
 
上從、【別校本云、ウヘニ、】
 
級照はシナテルとも讀べし、推古紀に聖徳太子の御歌にも、斯那提流箇多烏箇夜麻爾《シナテルカタヲカヤマニ》云々、此枕詞別に注す、左丹塗は左は添へたる詞、丹塗は舟を以て行桁葱花臺などを塗るなり、橋をすべて塗るにはあらず、山藍は延喜式民部下云、凡神祇官卜竹及諸祭諸節等(ニ)所v須箸竹、柏生蒋山藍等類、亦仰(テ)2畿内1令v進、六帖云、山高み澤に生たる山藍もて、すれる衣のめづらしな君、和名集藍の下に本草を引て、木藍、【和名、都波岐阿井、】蓼藍、【多天阿井、】をば出されたれども、山藍をば出されず、伊渡爲兒考、伊は發語の詞、渡る兒はなり、神代紀下の歌云、阿磨佐箇屡避奈菟謎廼以和多邏素西渡《アマサカルヒナツメノイワタラスセト》云々、橿實之獨歟將宿とは、夫もなくて獨か寢らむと云事を橿の實は唯ひとつづゝあればよそへてよめるなり、
 
初、しなてるやかたあすは河の 此しなてるといふ詞はふるく見えたるは、推古紀に、聖徳太子の飢人にたまへる御哥に、斯那提流《シナテル》、箇多烏箇夜摩爾《カタヲカヤマニ》云々。しなはきさはしの等級なり。てる階をほむる詞なり。聖徳太子の御哥にも、此哥にも、片の字につゝけたるは、階はかたゝかひにあるものなれはなり。遊仙窟曰。碧|玉(ノ)《・タマヲ》緑《メクラシテ》v陛(ハシニ)參2差(ト)《・シナ/\ニス》雁齒(ト)《・キサメルコトヲ》1。【雁齒有刻v木又刻v石爲v之。其形一(ハ)前一(ハ)後如2雁之行列、人鳥(ノ)牙齒形1。今人作2牀脚1又作2階砌1皆累縛作之。】かゝるを源氏物語さわらひに
  しなてるやにほの水うみこくふねのまほならねともあひみしものを
河海抄に此集の哥とて、しなてるやにほのみつうみこく舟のまほにも妹にあひみてしかな、人まろの哥と引れたれと、此集の哥にあらす。此しなてるはにほてるといへるやうにきこゆれと、いかによめるにか心得かたし。式部の家の傳あやまりてかくはよめるにや。さにぬりの大橋の上ゆ。さはつけたる字なり。にぬりはゆきけたなとの飾に、丹をぬりて色とれるなり。片足羽河の橋は、河内にていつくのほとゝも今は知人なし。山あゐもてすれる衣きて。藍にも種類あり。山藍も一種なるへし。延喜式民部下云。凡神社官(ノ)卜竹及(ヒ)譜節等尓所(ノ)v須《モチヰル》箸《ハシ》竹、柏、生蒋《ナマコモ》、山藍等(ノ)類、亦仰(テ)2畿内(ニ)1令v進。たゝひとりいわたらすこは、いは發語のことは、わたるをとめはといふなり。わか草のつまかあるらん。此つまは男夫をさすゆへに夫の字をかけり。女をさゝはかくへからす。これ此集のかきさま無窮なる中に、また心を著へき所なり。かしのみのひとりかぬらん。かしの木の實は、まろにて、をの/\ひとつつゝのみなる物なれは、つまもなくてひとりある人にやあるらんといふこゝろをかしの實によせたるなり
 
(52)反歌
 
1743 大橋之頭爾家有者心悲久獨去兒爾屋戸借申尾《オホハシノホトリニイヘアラハコヽロイタクヒトリユクコニヤトカサマシヲ》
 
心悲久は今按ウラガナシクと讀べきにや、
 
見武藏小埼沼鴨作歌一首
 
1744 前玉之小埼乃沼爾鴨曾翼霧己尾爾零置流霜乎掃等爾有斯《サキタマヲサキノヌマイケニカモソハネキルオノカミニフリオケルシモヲハラフトニアラシ》
 
前玉之、【六帖云、サイタマノ、】  掃等爾有斯、【六帖云、ハラフトナラシ、】
 
此は旋頭歌なり、前玉は郡の名なり、和名云、埼玉、【佐伊太末、】かゝれば六帖に依て讀べき歟、沼は小池也と注せればいけ〔二字右○〕ともよむべけれどぬま〔二字右○〕とのみ讀馴たれば今もヲサキノヌマなるべきにや、翼霧は羽を以振て霜を掃ふなり、霧は借て書て截の字の意なるべし、己爾尾を六帖にはおのがをにとあれども、第十五にも可母須良母都麻等多(53)具比弖和我見爾波之毛奈布里曾等《カモスラモツマトタグヒテワガミニハシモナフリソト》云々、此歌尾の字、第五卷に殊に多く音に用たり、其上身の上の霜をこそ侘て掃はめ、尾の上の霜をのみ掃ふべきならねば、鴨なるに依て、ふと誤りてヲとはよみけるなるべし、清少納言に鴨ははねの霜打拂ふらむと思ふにおかし、
 
初、さきたまのをさきの池に さきたまは埼玉郡とて、武藏廿四郡の内にあり。沼は常にはぬまとよめと、小池(ヲ)曰(フ)v沼(ト)とあれは、ぬまも池にて、やかていけともよめり。鴨そはねきるとは、羽たゝきするをいへり。尾をみとよめるは、昔の呉音なり。今は呉音はさよめるにや知侍らす。微美等の字の呉音に准するに、しかるへきことなり。はらふとにあらしは、はらふとならしともよむへし。清少納言か草紙に、かもははねの霜うちはらふらんとおもふにおかし
 
那賀郡曝井歌一首
 
仙覺云、五代集歌枕には紀伊の國と云へり、今按上に見武藏小埼沼鴨作歌と云へ るつゞきに何れの國とも云はで那賀郡と云は、和名集を考るに武藏國に那珂郡あれば上を承て此なるか、其上那珂郡に那珂郷あり、歌に中に向へる曝井とあるは彼那珂郷に向ひてあると云なるべし、和名を見るに那珂郡那賀郷と云へる事に諸國に亘て多し、皆中の義と見えたり、其中に紀伊國那賀、【賀音如v鵞】此注をみるに此は長郡にや、今處の土民は那の音南の如く賀の音鵞の如く申すなれば彼此に付て叶はず、
 
初、那賀郡曝井歌 此曝井を、八雲御抄には、紀伊と注せさせたまへり。およそなかの郡といへるは、国々に同名おほし。紀伊、阿波、伊豆、石見にをの/\那賀郡あり。その中に紀伊は賀の字濁音に讀へきよし、和名集に注せらる。彼國のものは、南鵝《ナムガ》の二音のことく申侍り。今の哥は、中にむかへるとよみたれは、紀州の那賀にはあらぬにや。たゝし諸國ともに、中郡の心なるを、紀州は賀よこなまりて濁音によみきたれるが例となれる歟。又おなし那賀とはかけとも、長郡といふ心にて、なつけたれは、濁音とは注せられたる歟。知かたし。武藏、常陸、讃岐、筑前、日向に、をの/\那珂郡あり。那賀と那珂とかきやうはかはれとも、心はいつれも中の字なるへし。しかれは、右の哥に武藏小埼沼と題したるをうけて、次の二首も武藏なるへきにや。かきやうも後にはさたまれるやうなれと、猶かゝはらぬ事おほし。いはむやむかしの哥なるをや
 
1745 三栗乃中爾向有曝井之不絶將通彼所爾妻毛我《ミツクリノナカニムカヘルサラシヰノタエスカヨハムソコニツマモカ》
 
(54)仙覺の云、此歌の發句古點にはみくるすの〔五字右○〕と點ぜり、其意痛く替らざるべけれどもす〔右○〕の字讀付がたし、みつぐりのなかとつゞくる事は常の詞なる上に、其意相叶へり、今按六帖に井の歌に此を載たるには今と替る事なし、八雲御秒には仙覺の云へる如くあれば、古點も一准ならざる歟、此卷下に至ても同つゞきあり、日本紀に應神天皇の御製云、伽愚破志波那多智麼那《カクハシハナタチハナ》云々、瀰兎愚利能那伽免曳能《ミツクリノナカツエノ》云々、栗は同じ栖の中に大やう三つあり、三つある物は必らず中ある故三栗の中とつゞく、第五に三枝の中にを寢むとと云へるが如し、曝井と名付るは水の清くて布などをさらすによしとてなるべし、井の水の沸て絶ず流るれば不絶將通とはつゞけたり、落句は上に木の國にやまず通はむ妻もこそとよめるに付て注せしが如し、
 
初、みつくりの中にむかへる みつくりとは、粟は多分|栗毬《イガ》の中に三つゝある物なり。たとひまろき栗のひとつあるにも、栗楔《リツケツ》とて兩邊にそへる物あり。その栗楔は杓子に似たれは、俗にやかて杓子といふなり。此ゆへにみつある物には、かならす中あれは、中といふ詞まうけむとて、みつくりとはいへり。日本紀第十應神紀に、日向髪長媛を、大鷦鷯皇子《オヽサヽキノミコ》にたまふ時の、天皇の御哥に、髪長媛を橘によそへて、伽愚破志《カグハシ・香細》、波那多知麼那《ハナタチハナ。花橘》、辭豆曳羅波《シヅエラハ・下枝等》、比等未那等利《ヒトミナトリ・人皆採》、保菟曳波《ホツハ・最末枝》、等利委餓羅辭《トリイカラシ・取發語令枯》、瀰菟愚利能《ミツグリノ・三栗》、那伽菟曳能《ナカツエノ・中枝》、府保語茂利《フホゴモリ・含隱》、阿伽例蘆塢等※[口+羊]《アカレルヲトメ・所熟處女》、伊弉佐伽麼曳那《イササカハエンナ・去來盛榮》。すてに應神天皇のかくよませたまへは、ふるくつたはれる詞なり。又此卷下の廿八葉にも、みつくりの中とつゝけてよめる哥、人麿集に出たりとて有。第五卷に、山上憶良歌に、ちゝはゝもうへはなさかりさき草の中にをねんとゝつゝけたるも、事はかはりて、中とつゝくる心は今とおなし。八雲御抄には、みくるすの中にむかへるとかゝせたまへれと、さきに、應神紀を引ることくなれは、異義あるへからす。そこにつまもがとは、此卷の上に、きのくにゝやますかよはむ妻もこそとよめる哥の心におなし。さらし井の名は、布なとをさらすに、此水にてよく白む心にて、つけたるなるへし
 
手綱濱歌一首
 
八雲御抄に紀と注し給へり、
 
初、手綱濱歌 八雲御抄に紀と注せさせたまへり。かんかへさせたまへる所ありてこそ
 
1746 遠妻四高爾有世婆不知十方手綱乃濱能尋來名益《トホツマシタカニアリセハシラストモタツナノハマノタツネキナマシ》
 
四は助語なり、高ニ有セバとは第十二に高々に妹が待らむとよめるに同じ、落句は(55)手綱の濱を承て尋とつゞけたり、歌の意は遠妻の我を高々に待侘ば、此手綱の濱をそことは知らずとも尋も來ぬべしと旅なる人の手綱の濱にてよめる歟、又清胤僧都の、君すまば問はまし物をと生田に住ながら引替てよまれけるやうに、我遠妻の旅に出て、此手綱の濱にあらむを我故郷にありて高々に待侘る物ならば尋ても來なまし物をとよめる歟、
 
初、遠妻し高にありせは これは旅なる人の、手綱濱にてよめる哥と見えたり。遠妻は故郷にある妻なり。しはたすけたる語なり。高にありせはとは、たかたかに妹か待らんなとよめるに同し。旅なる人をあふきて待心なり。又夫を高き山とたのむ心もこもるへし。遠妻のわれを高々にまたは、此たつなの濱をそことはしらすとも、待こひては尋もきぬへしといふ心を、たつなの濱といふ名をうけて、尋きなましとはいへり。又わか遠妻の旅にあらんを、わか高々にまたは、しらすとも尋こんといふこゝろ歟。清胤僧都の、君すまはとはましものをつのくにのいくたのもりの秋の初風といふ心はへも有へし
 
春三月諸脚大夫等下難波時歌二首
 
目録には并短歌といへり、
 
初、春三月諸卿大夫等 目録には并短歌の三字あり。有ぬへきなり
 
1747 白雲之龍田山之瀧上之小鞍嶺爾開乎爲流櫻花者山高風之不息者春雨之繼而零者最末枝者落過去祁利下枝爾遺有花者須〓者落莫亂草枕客去君之及還來《シラクモノタツタノヤマノタキノウヘノヲクラノミネニサキヲセルサクラノハナハヤマタカミカセシヤマネハハルサメノツキテシフレハホツエハチリスキニケリシタツエニノコレルハナハシハラクハチリナミタレソクサマクラタヒユクキミカカヘリクルマテ》
 
小鞍、【幽齋本、鞍作v※[木+安]、】  下枝爾、【幽齋本云、シツエニ、】
 
白雲は立とつゞけむ料ながら山には似よれる枕詞なり、瀧上之小鞍嶺とは、次の歌(56)にも瀧上之櫻花者とよみ、其次にも瀧の瀬とよめり、彼處に瀧と云ばかりの瀧は聞えねば山水の早く落るを云へる歟、小鞍嶺は立田社あるは立野より一里許西北に當りて毘沙門のおはする信貴につゞけり、世に役優婆塞の鬼を捉《トラ》へて役使せられたりとて鬼取と云所のあなるあたりにて、小倉寺とて此も優婆塞の開かれたる所と云傳へて今も形ばかりの山寺あり、定家卿こゝの詞を取て、白雲の春は重て立田山、小鞍嶺の北へ越なり、風之不息者、之は助語なり、繼而零者は、し〔右○〕は助語なり、今按ツギテフレヽバともツギツヽフレバとも讀べし、最未枝とは神代紀に上枝とあるに同じ、穗津枝の意なり、穗は高くあらはれ出たる意、津は助語なり、下枝は幽齋本の如く讀べし、落莫亂はチリナマガヒソとも讀べし、終の三句は此歌は京に留まる人のよめる故なり、
 
初、白雲の龍田の山の 或物に龍田と名つくるよしをかきたれと、信しかたけれはおきぬ。瀧の上のをくらのみねにさきをせる。次下の長歌にも、瀧の上の櫻の花と讀たれは、龍田山にも瀧のあるなるへし。又其次の哥に、嶋山をいゆきもとほる川そひの岡への道といひて、をのうへのさくらの花は瀧の瀬におちてなかれぬといひたれは、此瀧の上といへるは、山より高く落くるにはあらて、立田川のたきる所をいへるなるへき歟。をくらの嶺は、立田山の中に、一所をさしていへる名なるへし。此卷の初にある、雄畧天皇のゆふされはをくらの山にふすしかのとある御製の、をくらの山もおなし所にや。さきをせるとは、さくことをするなり。ほつえは最末枝とかけるにて知ぬへし。神代紀に、上《カムツ》枝といへるにおなし。下枝、これをしたつえとかんなをつけたれと、神代紀にもしつえとよみ、つねにもしかよめは、今も四もしにしつえにとよむへし。たひゆく君かかへりくるまて。これはとゝまれる人のよみたるやうにきこゆれと、反歌に、わかゆきはなぬかは過しといへるをおもふに、われも難波へ下る身なから、大夫のしりへにしたかへる人の、貴人のために、草枕たひゆく君か歸りくるまてといひ、みつからもゆくゆへに、我ゆきはなぬかは過しともいへるなり。相違せす
 
 
反歌
 
1748 吾去者七日不過龍田彦勤此花乎風爾莫落《ワカユキハナヌカハスキシタツタヒコユメコノハナヲカセニチラスナ》
 
發句は今按長歌の末と義相乖けり、吾と君と字相似たる故に君去者にて、きみかゆ(57)きはなるを誤て吾に作れるなるべし、龍田彦は延喜式神名帳云、龍田比古龍田比女神社二座、是風神なり、下に至て委注すべし、
 
初、わかゆきはなぬかは過し 第十七に、家持のそりたる鷹を夢にみてよまれたる哥に、ちかくあらは今ふつかたみとほくあらはなぬかの内は過めやもきなんわかせこねもころになこひそよとそ|いま《・夢》に告つる。第十三にも、ゆふうらのわれに告らくひさにあらは今なぬかはかりはやからは今ふつかはかりあらんとそきみはきこしゝなこひそわきも。龍田彦は、延喜式第九、神名上云。大和國平群郡龍田比古。龍田比女神社二社。同第八龍田風神祭祝詞云。奉(ツル)宇豆乃|幣《ミテクラ》者、比古神爾御|服明妙《ソハアカルタヘ》〇比賣神爾御服備(ヘ)金能|麻笥《ヲケ》云々。龍田彦は風神なるゆへに、ゆめ/\此花を、歸るまて風にちらしめたまふなとはよめり。龍田彦の事、今やかて委注之
 
1749 白雲乃立田山乎夕晩爾打越去者瀧上之櫻花者開有者落過祁里含有者可開繼許知期智乃花之盛爾雖不見左右君之三行者今西應有《シラクモノタツタノヤマヲユフクレニウチコエユケハタキノウヘノサクラノハナハサキタルハチリスキニケリツホメルハハナサキツキヌヘシコチコチノハナノサカリニミネトマテキミカミユキハイマニシアルヘシ》
 
合有者、【官本又云、フフメルハ、】
 
含有者はフヽメルハと讀べし、雖不見左右は此一句いとも意得がたし、推量するに既に開たるは散過て、つぼみたりつるも殘なく開つきぬべし、をちこちの花盛をば御覽じ給はぬまでも、行幸し給はむ時はせめても今なるべしとよめるなるべし、今ニシのし〔右○〕助語なり、
 
初、こちこちの花のさかりに こち/\はこと/\なり。知と登とは五音相通なり。こと/\は悉なり。みねとまて君かみゆきは今にしあるへし。此みねとまてといふ詞つかひ、此集の後又もなき詞にて、心は聞得たれと、よくは尺しかたし。よく心をつけてみるへし。此花を御覽せむとて、行幸したまはむことは、今やかてのことなるへけれとも、行末の事にて、そのみゆきをまだみねば、みねとも末まてをかねていはゝ、君か行幸は今あるへしといふ心なり。次の哥に君かみんその日まてには山おろしの風なふきそと――せな、これ今の心とおなし
 
反歌
 
(58)1750 暇有考魚津柴比渡向峯之櫻花毛折末思物緒《イトマアラハナツサヒワタリムカツヲノサクラノハナモヲラマシモノヲ》
 
御暇を賜て下るに、官制限ありて期を過て逗留すべからざれば、暇あらばとは云なり、
 
初、いとまあらはなつさひわたり なにはへ下るとて、いとまなけれは、いとまあらはとはいへり。なつさひは友たち携てなり
 
難波經宿明日還來之時歌一首并短歌
 
初、經v宿 莊(カ)三年(ノ)左傳(ニ)曰。凡(ソ)師《イクサ》一宿(ヲ)爲(シ)v舎(ト)、再宿(ヲ)爲(シ)v信(ト)、過(ルヲ)v信(ニ)爲(ス)v次(ト)。天台山賦(ニ)曰。陟降信宿(ニシテ)迄《イタル》2于仙都(ニ)1。翰(カ)曰。再宿(ヲ)爲(ス)v信(ト)。言(コヽロハ)上下兩宿(シテ)至(ルナリ)2于仙都(ニ)1也
 
1751 島山乎射徃廻流河副乃丘邊道從昨日已曾吾越來牡鹿一夜耳宿有之柄二峯上之櫻花者瀧之瀬從落墮而流君之將見其日左右庭山下之風莫吹登打越而名二負有杜爾風祭爲奈《シマヤマヲイユキモトホルカハソヒノヲカヘノミチニキノフコソワカコエコシカヒトヨノミネタリシカラニヲノウヘノサクラノハナハタキノセニオチテナカレヌキミカミムソノヒマテニハヤマオロシノカセナフキソトウチコエテナニオヘルモリニカサマツリセナ》
 
廻流、【別校本又云、メクレル、】  丘邊、【校本或丘作v岳、】
 
島山は第五に奈良路なる島の木立とよめる處なり、射往廻流は、射は發語の詞、徃廻流は人の上とも水の事とも兩方に聞ゆるにや、道從はミチユともよむべし、宿有之(59)柄には第四にも云如くから〔二字右○〕は間なり、岑上之はヲノヘノとも讀べし、君之將見とは、此君は上の歌に君之三行者とよめる天子なり、名二負有杜とは立田神社なり、延喜式云平群郡龍田坐天御柱國御柱神社二座、【並名神大、月次新甞、】天武紀云、四年夏四月甲戌朔癸未、遣2小紫美濃王小錦下佐伯連廣足1、祠2風神(ヲ)于龍田立野1云々、延喜式第八龍田風神祭祝詞云、龍田  稱辭《タヽヘコト》竟(ル)皇神志貴嶋大八島國知皇|御孫《ミマコノ》命遠御膳長御膳赤丹《アカニ》聞食五(ノ)穀物?、天下公民作物片葉至【萬?】不成一年二年不在、歳眞尼傷故物知人|等《トモ》、事?卜【止母】出御心聞看?、皇御孫命詔、神等【乎波】天社國社忘事無(ク)遺事無稱辭竟奉行【波須乎】誰神天下公民作(ル)作物不成傷神等我御心【曾止】悟(シ)奉【禮止】宇気比賜是(ヲ)以皇御孫命大御夢悟奉、天下公民作(ル)作物惡風荒水相【都々】不成傷、御名者天御柱命國御柱御名者悟奉?、吾前幣帛《ミテグラ》者御服者明妙照妙和妙荒妙五色物楯戈御掲御鞍具?品々幣帛備?、吾宮者朝日日向處夕日日隱處龍田立野小野吾宮定奉?吾前稱辭竟奉者、天下公民作(ル)作物者五穀?片葉至【万?】成幸奉【牟止】悟(シ)奉、是以皇神辭教(ヘ)悟(シ)奉處宮柱定奉?、此皇神稱辭竟奉皇御孫命宇豆幣帛令2捧持1?王臣等(60)爲使?稱辭竟奉【久止】皇神白賜事神主祝部等諸聞食宣、神代紀上云、一書曰、伊弉諾尊與2伊弉※[冉の異体字]尊1共生2大八洲國(ヲ)1、然後伊弉諾尊曰(ク)我(カ)所v生之國唯有2朝霧1而薫滿之哉、乃|吹撥《フキハラフ》之|氣《イキ》化(シテ)爲v神號曰2級長戸邊命(ト)1、亦(ハ)曰2級長津彦(ト)1かゝれば天御柱國御柱は此級長戸邊命の男女二神にて、龍田彦龍田姫は荒魂にておはする歟、風祭爲奈は風祭せむななり、延喜式第一云、大忌風神祭(ハ)並四月七月四日(ナリ)、此は風雨の災なくして五穀の成熟せむ事を廣瀬と龍田とに祈給ふなり、今風祭せむと云は臣下の私に志を云なり、月日に拘はるべならず、
 
初、嶋山をいゆきもとほる川そひの 嶋山は大和なり。第五に奈良路なる嶋のこたちとよみ、十九に嶋山にあかる橘とよめる所なり。いゆきのいは、例の發語の辭なり。もとほるは、まはる、めくるといふにおなし。一夜のみねたりしからに、此からは間の字にて、すなはちあひたといふ心なり。神代紀下(ニ)云。時(ニ)彼(ノ)國(ニ)有2美人《ヲンナ》1。名(ヲハ)曰2鹿葦《カアシ》津姫(ト)1。皇孫《スメミマ》問(テ)2此美人(ニ)1曰。汝(ハ)誰(カ)之|女子《ムスメソヤ》耶。對(テ)曰(サク)妾(ハ)是(レ)天(ノ)神娶(トテ)2太山祇(ノ)神(ヲ)1所v生《ムマシメタル》兒《コナリ》也。皇孫因|幸《メス》之。却一夜(ニシテ)而|有娠《ハラミヌ》。何《ナンソ》能|一夜之間《ヒトヨノカラニ》令v人(ヲ)有娠《ハラマセムヤ》乎。汝《イマシカ》所v懷《ハラメル》者必(ラス)非(シ)2我子(ニ)1歟。此集第十人に皇孫|未2之信《イツハリナラントオホシテ》1曰《・ノタマハク》。雖2復(タ)天(ノ)神(ト)1
  あすからはつきてきこえむほとゝきすひとよのからにこひわたるかも
君かみんその日まてには山おろしの風なふきそと。此君といへるは天子なり。さきの哥に、君かみゆきは今にしあるへしとよみし心におなし。拾遺集云。亭子院、大井川に御幸有て、行幸も有ぬへき所なりとおほせたまふに、ことのよし奏せんと申て 貞信公
  をくら山峯のもみち葉心あらは今ひとたひのみゆきまたなん
花と紅葉とはかはれと、哥も詞書もよくこゝに似たるは、こゝの二首をおもひて、貞信公もよみたまへる歟。をのつからもかよひぬへし。名におへるもりにかさまつりせな。此名におへる杜は、龍田の杜なり。延喜式第九神名上云。大和國|平群《ヘクリノ》郡龍田(ニ)坐《マシマス》天(ノ)御柱國(ノ)御柱(ノ)神社二座【並名神。大。月次。新甞。】。第三名神にもまた載たり。此神は、級長津彦《シナカツヒコノ》命をいはひたてまつれるなり。神代紀上(ニ)云。一書(ニ)曰。伊弉諾(ノ)尊與2伊弉册(ノ)尊1共(ニ)生《ウミタマフ》2大八洲(ノ)國(ヲ)1。然(シテ)後伊弉諾(ノ)尊(ノ)曰《ノ ハク》。我(カ)所生《ウメル》之國|唯《タヽ》有(テ)2朝霧(ノミ)1而|薫滿之哉《カホリミテルカトノタマヒテ》、乃(タ)吹|撥《ハラフ》之|氣《イキ》化2爲《ナル》神(ト)1。號《ミナヲ》曰(ス)2級長戸邊《シナカトノマ》命(ト)1。亦(ハ)曰(ス)2級《シ》長津彦(ノ)命(ト)1。是(レ)風(ノ)神(ナリ)也。此神を龍田にいはひ奉ることは、天武天皇の御時なり。日本紀第二十九、天武紀下云。四年夏四月甲戌朔癸未、遣2小紫美濃王小錦下佐伯(ノ)連廣足(ヲ)1祠2風神(ヲ)于龍田(ノ)立野(ニ)1。遣2小錦中|間《ハシ》人(ノ)蓋《フタ》、大山中曾禰(ノ)連韓犬(ヲ)1祭《イハヽシム》2大忌(ノ)神(ヲ)於廣瀬(ノ)河曲《カハワニ》1。此後廣瀬龍田神を祭たまふ事、紀中にあまたみえたり。延喜式第八、龍田風神祭祝詞を見るに、風神をいはひたまふ由緒あり。日本紀にあはせておもふに、天武紀に見えされとも、天武の御時といふ事、式にいはすしてしられたり。彼祝詞(ニ)云。龍田爾|稱辭竟奉《タヽヘコトオヘタテマツル》皇《スメ》神乃前爾|白《マウサ》久。志貴嶋爾大八島國知志皇|御孫《ミマノ》命乃、遠|御膳《ミケ》乃長御膳止、赤丹《アカニ》乃穗爾聞食須、五(ノ)穀《タナツ》物乎始※[氏/一]、天下乃|公民《オホムタカラノ》乃作物乎、草乃|片葉《カキハ》爾至【萬※[氏/一]】不成、一年二年爾不在、歳|眞尼《マネ》久傷故爾、百能物知人等乃卜事爾出牟神乃御心者、此神止白止|負《オホセ》賜支。此乎物知人|等《トモ》乃卜事乎以※[氏/一]卜【止母】、出留神乃御心母無止|白《マウス》止|聞《キカシ》看※[氏/一]、皇御孫命詔久。神|等《タチ》【乎波】、天社國社止、忘(ルヽ)事無久遺(ス)事無久、稱辭竟《タヽヘコトオヘ》奉止思志行【波須乎】、誰《イツレノ》神曾、天下乃|公民《オホムタカラ》乃|作《ツクル》作《ツクリ》物乎不v成傷神等波。我御心【曾止】悟《サトシ》奉【禮止】宇気比|賜《タマヒ》伎。是(ヲ)以|皇御孫命《スメミマノミコトノ》大|御《ミ》夢爾|悟奉《サトシタテマツラ》久。天下乃公民乃作(ル)作(リ)物乎、惡《アイキ》風|荒《アラキ》水爾相【都々】不成傷波、我御名者、天乃御柱乃命、國乃御柱乃命止御名者|悟《サトシ》奉※[氏/一]、吾前爾奉牟|幣帛《ミテクラ》者、御|服《ソ》者明妙照妙和妙荒妙五色乃物楯戈御馬爾御|鞍《オソヒ》具※[氏/一]、品々乃幣帛備※[氏/一]、吾宮者、朝日乃日向處、夕日乃日隱處乃、龍田能立野爾、小野爾、吾宮波定奉※[氏/一]、吾前乎稱辭竟奉者、、天下乃公民乃作(ル)作(リ)物者、五(ノ)穀《タナツモノ》乎始※[氏/一]、草乃片葉爾至【萬※[氏/一]】成幸閉奉【牟止】悟《サトシ》奉支。是(ヲ)以皇神乃辭教(ヘ)悟(シ)奉處仁、宮柱定奉※[氏/一]、此乃皇神能前爾、稱辭竟|奉《タテマツリ》爾、皇御孫命乃宇豆乃|幣帛《ミテクラヲ》令《シメ》2捧(ケ)持(タ)1※[氏/一]、王臣等乎爲(シ)v使※[氏/一]、稱辭竟奉【久止】、皇神乃前爾|白《マウシ》賜事乎、神主祝部等諸聞(シ)食《メセ》止宣。此祠詞の中に、帝の御夢に神の告させ給へる事ありて、はしめて社を立て祭そめさせ給ふよしは、まさしく天武天皇の御事なるを、いかて天武紀はさきにひけることく、唯祠2風神于龍田立野(ニ)1とのみ畧してしるしたまひけむ。天御柱命、國御柱命は、すなはち神代紀の級長津彦命なり。級長戸邊命を、または級長津彦命とまうすとあれな、一神の異名と聞えたれと、龍田には、二座にいはゝれ給ふをおもふに、もとより伊弉諾尊の息よりなりたまへる神なれは、息に出入あり。出るは陽、入るは陰、々陽かならす相對するゆへに、出息は天御柱命にて男神、入息は國御柱命にて女神となれるにあるへし。天神地祇を、あまつかみくにつかみといふかことく、國御柱といふは、天御柱に對して、地御柱といふ心なり。御柱といふは、家の柱によりてあるがことく、壽命は出入の息によりて連持すれは、たとへて名付奉るなり。日本紀に、二神日神を生たまひて、天柱《アメノミハシラ》をもて天上《アメ》に擧《ヲクリアケ》たまふといへる、天柱は風の事なるへし。内典に、日月の運轉、みな風の力によるといへり。擧の字をゝくりあくとよめるは此心なり。大日經(ノ)疏(ニ)云。念(ト)者風(ナリ)。此事極秘なり。かならす明師に相傳すへし。しかれは此御神は、大塊(ノ)之|噫《アイ》氣、衆生(ノ)之壽命にして、また/\心識なり。あめつちのみはしらを御名におひたまへるは、これらのゆへなるへし。日本紀纂疏云。級長者猶v言2息氣長(ト)1也。戸津(ハ)者皆語(ノ)助(ナリ)也。邊(ハ)者姫也。彦者男也。風神今(マ)在(リ)2大和國(ニ)1龍田(ノ)社是(ナリ)也。しなかの尺、こゝろはさもやと聞ゆれと、いかにして息のなかきを、しなかといふへき。もしおきその風といふがいきの事なれは、下のそもしを五音相通してしといへる心歟。もし息の字の音を下をすてゝ五音相通する心歟。その心ときこゆれは、和漢雑亂の誤なり。邊者姫也。これはいかに心得てかくは尺したまひけむけん。一神の上の二名ときこゆれは、男女雜亂の誤なるへし。邊と女と同韵相通のこゝろ歟。あまりの穿鑿なり。又龍田比古龍田比女神社二社とて、延喜式に別に載られたるは、案するに、天御柱國御柱の二神の荒魂《アラミタマ》にて、さきより龍田に鎭座したまひて、時を待て、天武の御時に至て和魂《ニキミタマ》はいはゝれたまへるなるへし。風まつりせなは、風祭せんなゝり。延喜式第一云。大忌風神《オホミカサカムノ》祭(ハ)竝(ニ)四月七月(ノ)四日。これは五穀成熱のために、をのをの時に先たちて、廣瀬の大忌と、龍田の風神とを祭らるゝなり。廣瀬は倉稻魂《ウカノミタマ》なり。三月晦日の鎭華《ハナシツメノ》祭もまた風《カサ》祭なり。いまはさたまれる祭にはあらす。君か行幸《ミユキ》を待つくるまて、花をちらさしかために、まつらんといふなり
 
反歌
 
1752 射行相乃坂上之蹈本爾開乎爲流櫻花乎令見兒毛欲得《イユキアヒノサカノフモトニサキヲセルサクラノハナヲミセムコモカナ》
 
射は發語の詞、行相乃坂上は處名歟、袖中抄や此集第十|※[女+感]嬬等行相乃速稻乎《ヲトメラニユキアヒノワセヲ》と云歌を釋して云、顯昭云、行相のわせとは處の名をわせに讀付たる也とて此歌を又引て此歌にて心得あはするに、前のわせの名も所に付たると聞ゆる也、今按|葛餝《カツシカ》早稻布留の早田なども讀たれば、行相と云所の早稻をゆきあひの早稻と云と意得て釋せ(61)られたる其謂なきにあらず、但今の歌に發語の詞を加へたるは不審なきに非ず、第十四にも左和多里能手兒爾伊由伎安比《サワタリノテコニイユキアヒ》とよめり、逢坂の枕辭にも未通等に、吾妹子になどおけり、道にて人に行相はいづくにもあれど、坂を登るはてに彼方此方よりゆくりもなくおかしき人に行相たらむは殊にめづらしかるべければ、坂といはむとて射行相乃とおける歟、坂とのみはかゝずして坂上とかけるも彼互に登りはてゝふと行相意にや、但行相速稻の説にひかれて所の名とせられたる先達の説に從ふべし、麓を蹈本とかけるは山に登るものは先麓よりすればふむもと〔四字右○〕と云べきを略して名付たれば蹈本は和語の正字なり、
 
初、いゆきあひの坂のふもとに いは例の發語、行相の坂は立田山の坂の名にや。神武紀云。皇師《ミイクサ》勒《トヽノヘテ》v兵《ツハモノヲ》歩《カチヨリ》趣《オモムク》2立田(ニ)1。而其(ノ)路|狹嶮《サクサカシクシテ》人不v得2竝行《ナミユクコト》1。ほそき道のさかしきを、のほりはてゝ、ゆきすりにこゆる坂なれは、ゆきあひの坂とは名付たるにや。いといふ發語をくはへたれは、もとよりの坂の名にはあらて、こなたかなたよりのほる人の、行あへは、おしていへるにもあるへし
 
萬葉集代匠記卷之九上
 
(1)萬葉集代匠記卷之九下
 
※[手偏+僉]税使大伴卿登筑波山時歌一首并短歌
 
此中に右件歌と云へるは※[女+燿の旁]歌會日の長短二首に限る、又今の歌より以下八首を合せて云へる也、其中間に注なきを以て知るべし、又下に至て鹿島郡苅野橋別大伴卿歌の左に云、右二首高橋連蟲麻呂之歌州中出、是又他人の歌を以て隔たる後なれど今の歌の首尾なり、推量するに養老年中藤原宇合卿常陸守なりし時の事にて、蟲丸は椽介等の屬官にて、旅人の※[手偏+僉]税使なるにつきて筑波山に登れる歟、
 
初、檢税使大伴卿 税はたちからとよみて年貢なり。主税頭《チカラノカミ》といふ官はこれをつかさとるによりて名つけたり。年貢の損益多少を檢校する勅使なれは、檢税使なり。大伴卿は安麻呂歟。此卷は古人のしるしをけるにまかせたりとみゆれはなり。安麻呂にても旅人にても、日本紀、績日本紀に檢税使につかはされたる事見えす。下の廿八葉に、鹿島(ノ)郡|苅野《カルノヽ》橋(ニシテ)別(ルヽ)2大伴卿(ニ)1歌一首并短歌。うたの後の注にいはく。右二首高橋連蟲麻呂之歌集中出。これ常陸の檢税事をはりて下総の國にわたる時、蟲麻呂常陸にとゝまりてよめるなり
 
1753 衣手常陸國二並筑波乃山乎欲見君來座登熱爾汗可伎奈氣木根取嘯鳴登岑上乎君爾令見者男神毛許賜女神毛千羽日給而時登無雲居雨零筑波嶺乎清照言借石國之眞保(2)良乎委曲爾示賜者歡登※[糸+刃]之緒解而家如解而曾遊打靡春見麻之從者夏草之茂者雖在今日之樂者《コロモテノヒタチノクニノフタナミノツクハノヤマヲミカクホリキミカキマストアツケキニアセカキナケキネトリスルウソフキノホリヲノウヘヲキミニミスレハヲノカミモユルシタマヘリメノカミモチハヒタマヒテトキトナククモヰアメフリツクハネヲキヨメテラシテコトトヒシクニノマホラヲマクハシニシメシタマヘハウレシミトヒモノヲトキテイヘノコトトキテソアソフウチナヒキハルミマシヨリハナツクサノシケクハアレトケフノタノシサ》
 
衣手は常陸の枕詞なり、別に注す、二並は是も亦筑波山の枕詞とも云べし、第三に儕立乃見果石山とよめるに付て注せしが如し、汗可伎奈氣木とは、さらでも山を登る時は苦しくて熱きを、夏の事なれば殊に汗の出て痛く熱ければ長き息のつかるゝをなげき〔三字右○〕と云へり、根取嘯鳴登とは、根取は笛の曲なり、餘りに山路の苦しければ根取の如くなる嘯を吹て登るなり、今按ねとりの事往古より有事歟中古より有事にやいまだ知らず、推量するに汗|可伎奈氣伎木《カキナケキキノ》根取とありてあせかきなげききのねとりなりけむを、氣の下に伎の字を落して次の句の木の字を上の句に屬すれば根取の二字讀たらぬ故にねとりするとは讀付けるなるべし、男神女神を袖中抄にはをとこがみをむながみとあれど今の點にしかねば此を取らず、二神の事第三に神名帳を引が如し、千羽日給而は袖中抄に此集第十一の靈治波布神毛吾者打棄乞四惠也壽之〓無《タマチハフカミヲモワレハウチステキシヱヤイノチノヲシケクモナシ》と云を釋して云、顯昭云、たまちはふ神とはたま〔二字右○〕は魂なり、靈とかけり、ちはふはたはふと云歟、たはふはたまふなり、たましひを給ふ神と云也、招《セウ》魂と云た(3)ましひをまねくも同事也、其神をば捨て命惜からずとよめる歟、な〔右○〕とた〔右○〕と同五音也、又長歌云とて今の男神毛より雲居爾零と云までを引て、ちはひは誓ふ意歟、又神にはもはやと云事あれば神のめぐみを云歟、さればたまちはふに命をめぐみ給ふ意にて、ちはひ給ふと云詞と同歟、兩方義可v案v之、今按第十一の歌は彼處に至て所存を注すべし、今のちはひ給ひてはいちはやひたまひてと云なるべし、ちはやぶると云もいちはやぶるの上略なり、此いちはやしと云詞はしるしのあらはなる意あれば善神惡神に亘りてちはやぶる神と云、委はちはやぶる神とつゞくるに付て別に注す、雲居雨零は雲の居て雨の零なり、班固(カ)東都賦(ニ)云、雨師汎v灑、風伯清v塵(ヲ)、言借石、借の字は郭景純遊仙詩云、借問此|何誰《タソ》、又云、借問《トフ》蜉蝣(ノ)輩、國之眞保良は第五に注せしが如し、解而曾遊は、此解而は心の打解而と云なれば今の點叶はず、トケテゾアソブと和すべ、打靡も以前注せし如くウチナビクとよむべし、以下の意は春見たらむよりは夏草の茂くて劣れども今日はたのしと云意なり、舊事紀云、阿那※[こざと+施の旁]能斯《アナタノシ》、言(心ハ)伸(テ)v手(ヲ)而舞合v指樂(シフ)事謂2之|太乃之《タノシ》1、此意今按此注の意は太は手なり、乃之はのばし〔三字右○〕の略歟、又は熨《ノス》歟、
 
初、衣手の常陸の國の 常陸國風土記(ニ)云。倭武(ノ)尊巡2狩(シテ)東夷之國(ヲ)1幸2過(ス)新治之縣(ヲ)1。所(ノ)v遣(セル)國(ノ)造《ミヤツコ》昆那良珠(ノ)命《ミコト》新(ニ)令b堀(ラ)v井(ヲ)。流泉降澄尤有2好愛1。時《ヨリ/\ニ》停(テ)乘(シニ)v輿興(ニ)翫(ソヒ)v水(ヲ)洗(ヒタマフ)v手(ヲ)。御衣(ノ)之袖|垂《タリテ》v泉(ニ)而|沾《ヌレヌ》。依(テ)2漬《ヒタス》v袖(ヲ)之義(ニ)1以爲2此國(ノ)之名(ト)1。風俗《クニヒトノ・ナラハシノ》諺(ニ)云。筑波(ノ)山(ニ)黒雲|掛《カヽリテ》衣袖漬《コロモテヒタシノ》國(トイフ)是(ナリ)焉。此風土記の説は、衣手のぬれたまへるゆへに、衣手のひたしの國となつくる心なり。筑波山黒雲掛衣袖漬國といへる諺は、先もとより衣手のひたしの國といひならへるうへにいへるなり。筑波山に黒雲のかゝれは、かならす雨のふりきて、道ゆき人なとの、そてをうるほすゆへに、けにもころもてのひたしの國とはよくなつけたりといひなす心なり。逢坂の名は、忍熊王の軍を、武内宿禰の追て、こゝにあひて戰けるゆへに名付たるを、蝉麿のこれやこのゆくもかへるもわかれてはしるもしらぬもあふさかの關とよまれたるにおなし。又ひたちは古哥にあつまちの道のはてなるひたちとつゝけよみて、東海道十五箇國のはてなれは、ひたみちといふ義なり。風土記云。往來(ノ)道路《ミチ》、不v隔2江海(ノ)之津□(ヲ)1。郡郷(ノ)境堺、相2經山川之峯谷1。《・疑上下有脱字》庄《サト》近(ク)通(スルノ)之義(ヲ)以即名(ケ)稱(フ)焉。これによりていはゝ、衣手のひたしの國といはむこそあらめ。常陸とはつゝくへうもなしと難すへけれと、もとより兩義ありて、ひたしのくにとも、ひたちのくにともいひけるを、後はひたちとのみいへと、猶ふるき一説をもて、かくはつゝけきたれりと會釋すへし。此哥作者なし。國守あるひは椽なとのよめるなるへし。ふたなみのつくはの山、此山みねふたつ相ならへり。高きを男(ノ)神といひ、ひきゝかたを女の神といふなり。第三におなし山をよめる哥に、ともたちの見かほし山と神代より人のいひつきくにみする筑羽の山を云々。あつけきにあせかきなけき。下に夏草のしけくはあれとゝいへは、あつけきは折ふしにあひ、又山をのほるには、さらぬ時もあつくて汗のいつるなり。ねとりするうそふきのほり。山をのほるに、さかしくてくるしけれは、笛の曲のねとりのやうに、息をもらすに聲あるを、うそふくといへり。わさと口笛を吹にはあらす。岑上を君に見すれは、これ國守橡なとの、つきてのほりてみするなるへし。をのかみもゆるしたまへり、めの神もちはひたまひて。延喜式第九、神名上云。常陸國筑波郡筑波山(ノ)神社二座【一(ハ)名神。大。一(ハ)小。】男神は大社、女神は小社なり。ゆるしたまへりとは、檢税使の山に登る事をゆるして、うけたまふなり。ちはひたまひてとはいはひたまひてなり。いはふはいつくなり。伊と知と同韻相通なり。第十一に、玉ちはふ神もわれをはうちすてきとよめるも、玉ちはふは神のみたまをいはふなり。延喜式神名下云。備後國|三谿《ミタニノ》郡知波夜比古神社。同國三|次《スキノ》郡知波夜比賣神社。此ちはやひこ、ちはやひめの名も、いつく心歟。又ちはやふるちはや人なといふ心歟。時となく雲居雨ふり、つくはねをきよめてらして。時ならす雲のゐて小雨のふりて、山をきよむるは、檢税使のまうつるを納受したまふなり。文選班孟堅(カ)東都賦曰。山靈護(リ)v野(ヲ)屬御(スルニ)方神(アリ)。雨師|汎灑《・ソヽイテ》(カ)(ト)、風伯清(ム)v塵(ヲ)。ことゝひし國のまほらを。檢税使なるゆへに、國中のことをとふなり。國のまほらは眞原といふことなり。保と波と通せり。日本紀景行天皇|思邦《クニシノヒノ》御歌にも、やまとはくにのまほらまとよませ給へり。中原といふ心なり。言借石とかける借の字は、文選謝玄暉詩云。借問《トフ》下v車(ヨリ)日、匪(ス)2直《タヽ》望舒(ノ)圓(ナルノミニ)1。郭景純(カ)游仙詩(ニ)、借問《トフ》此(レ)何誰《タレソ》。云(フ)是(レ)鬼谷子。又云。借問《トフ》蜉蝣(ノ)輩、寧知(ンヤ)2龜鶴(ノ)年(ヲ)1。うれしみとひものをときて家のこととけてそあそふ。欽明紀云。願(ハ)王介v襟《コロモクヒヲ》緩(ヘテ)v帶(ヲ)恬然《シツカニ》自安(シテ)勿(レ)2深(ク)疑(カヒ)懼《オソルヽコト》1。家のことはわか家のことくなり。ときてそあそふとあるは、きの字あやまれり。これは心の打とくるなり。上のひものをときてといふには異《コト》なり。打なひきは春といはむためなり。おしなへてくる春といふ心なり。又霞のたなひく心もこもるへし。春みましよりはとは、春はおもしろき時なれとも、霞もたちて見はるかされぬ事もあれは、夏草の今はしけき時なれとも、春みんより、けふ見るかまさりてたのしきとなり。春みましよりはといひたれは、此哥は四月の末なとにもよめるにや
 
反歌
 
(4)1754 今日爾何如將及筑波嶺昔人之將來其日毛《ケフノヒニイカヽヲヨハムツクハネニヌカシノヒトノキケムソノヒモ》
 
六帖に紐の歌として注して云く、右一首家持紐の歌とする事は、其日毛ト云を其紐と意得たるカ、されど歌の趣更に然らぬ物を、又家持の歌とする事もおぼつかなし、
 
初、けふの日にいかゝをよはむ よく聞えたる哥なり。此哥を六帖に紐の題に入たるは、結句にきけむそのひもといへるを、紐と心得たる歟。長哥にひもの緒ときてとあるにまとひてなるへし
 
詠霍公鳥一首并短歌
 
1755 ※[(貝+貝)/鳥]之生卵乃中爾霍公鳥獨所生而已父爾似而者不鳴已母爾似而者不鳴宇能花乃開有野邊從飛翻來鳴令響橘之花乎居令散終日雖喧聞吉弊者將爲遐莫去吾屋戸之花橘爾住度鳥《ウクヒスノカヒコノナカニホトヽキスヒトリウマレテサカチヽニニテハナカスサカハヽニニテハナカスウノハナノサケルノヘヨリトヒカヘリキナキトヨマシタチハナヲヰチラシヒネモスニナケトキヽヨシマヒハセムトホクナユキソワカヤトノハナタチハナニスミワタレトリ》
 
※[(貝+貝)/鳥]の巣の中に霍公鳥の生ルゝ事今もまれ/\は有ことなりと申す、第十九に家持の霍公鳥の歌にも卯月の立てば、夜こもりに鳴霍公鳥、昔より語り繼つる※[(貝+貝)/鳥]のうつし眞子かも云々、毛詩(ノ)召南云、維鵲有v巣、維(レ)鳩居v之、杜子美詩云、我昔遊2錦城1、結2廬(ヲ)錦水邊1、(5)有v竹一頃餘、喬木上參(ハル)v天、杜鵲暮春至(テ)、哀々叫2其間1、我見常再拜、重2是古(ノ)帝魂1、生2子百鳥(ノ)巣1、百鳥不2敢瞋1、仍(チ)爲※[食+委]2其子1、禮若(シ)v奉(ルカ)d至尊u、これらを見れば他鳥の巣に于を生む鳥はあるなリ、釋蓮禅が郭公を作れる詩に、※[(貝+貝)/鳥]子巣中春刷v翅(ヲ)、免花(ノ)墻外(ニ)曉傳v聲(ヲ)、此初句今の意を用たり、宇能花乃開有野邊從とは、第十にもうの花の散まく惜み霍公鳥、野に出山に入來鳴とよます、是も亦野にうの花をよめり、花橘爾住度鳥とは何時までも此にすめとなり、第十にも橘の林を殖む霍公鳥、常に冬まで住度るかね、第十九にも霍公鳥かひ通せらば今年經て、來向ふ夏は先鳴なむをとよめり、
 
初、鶯のかひこの中にほとゝきすひとりうまれて 鶯の巣の中よりほとゝきすのひなの出來ること、今も有ことなり。巣ことに有ものにはあらす。まれ/\出來るなり。せうとなるものゝ申けるは、江戸にて、ある人の御もとに、ひろき庭の木たちふかきに、鶯のすくひたりけるに、その中にほとゝきすひとつ出來けるを、見におはすへき人を、今しはし待つけすしてすたちけれは、あるしほいなきことにおほされき。たちての後も、しはしはそこにかよひきたると申き。第十九に、家持の哥にも、う月のたてはよこもりになくほとゝきす、むかしよりかたりつきつるうくひすのうつしまこかもとよまれたり。まこは眞子なり。子の子をいふにあらす。釋蓮禅(カ)詩(ニ)、鶯(ノ)子(ノ)巣(ノ)中(ニ)春刷(コヒ)v翅(ヲ)、兎(ノ)花(ノ)墻(ノ)外(ニ)曉傳(フ)v聲(ヲ)。此一聯上句は此哥をもて作れり。杜子美(カ)詩(ニ)云。我(レ)昔遊(テ)2錦城(ニ)1、結(ヒキ)2廬(ヲ)錦水(ノ)邊(ニ)1。有v竹一頃餘、喬木|上《カミ》參(ハル)v天(ニ)。杜鵑暮春(ニ)至、哀々(トシテ)叶(フ)2其(ノ)間(ニ)1。我見(テ)常(ニ)再拜(ス)。重(ンスレハナリ)2是(レ)古帝(ノ)魂(ナルコトヲ)1。生(トモ)2子(ヲ)百鳥(ノ)巣(ニ)1、百鳥不2敢(テ)嗔(ラ)1。仍《ナヲ》爲(ニ)《エカフ》2其(ノ)子(ニ)1。禮若(シ)v奉(ツルカ)2至尊(ニ)1。これ山谷か臣甫(カ)杜鵑再拜(ノ)詩といへる詩なり。我國に郭公といへるは、杜鵑とおほしきを、生2子百鳥巣1と作れるは、毛詩召南に維(レ)鵲有(リ)v巣、維鳩|居《ヲレリ》之といへるにおなし。しかれは百鳥の巣をかりてもすくひ、またうくひすの子よりもいてくるとこゝろ得へし。さかちゝに似てはなかす、さかはゝに似てはなかす。父母ともに、鶯なれは、似ぬといへり。第十三に、さかはゝをとらくをしらにさかちゝをとらくをしらに、いそはひをるよいかるかとしめと。歌のつくりおなし手より出るに似たり。ひねもすになけときゝよし。神代紀下云。天孫《アメミマ》幸《メス》2吾田鹿葦津《アタカアシツ》姫(ヲ)1。則一夜(ニ)有身《ハラミヌ》。遂(ニ)生(ム)2四|子《ハシラノミコヲ》1。故(レ)告《マウシテ》v状《アリサマヲ》知聞《キコエシム》。是(ノ)時(ニ)天孫|見《ミソナハシテ》2其(ノ)子等《ミコタチヲ》1嘲《アsワラヒテ》之|曰《ノ》。妍哉吾皇子《アナニエヤアカミコタチ》者、聞善《キヽヨクモ》而|生之歟《アレマセルカナ》。此神代紀の聞よくは、あさけりてのたまへは、ことよきといふに似たり。今はまことに聞によきなり。まひはせむ、まひなひはせんなり。第五第六にもよめり。幣を弊に作れるは誤なり。花橘に住わたれ鳥、第十
  橘のはやしをうへむほとゝきす常に冬まてすみわたるかね
 
反歌
 
1756 掻霧之雨零夜乎霍公鳥鳴而去成※[立心偏+可]怜其鳥《カキキラシアメノフルヨヲホトヽキスナキテユクナリアハレソノトリ》
 
掻霧之はうちきらしと云に同じ、下句は第七の終の※[羈の馬が奇]旅歌に鹿子ぞ鳴なる※[立心偏+可]怜其水手とよめる語勢なり、
 
初、かきゝらし雨のふる夜を かきゝらしは、かきくもりといふにおなし。雲につきてはくもるといひ、霧につきてはきるといふ。躰用にわたる詞なり。景行紀云。山(ノ)神之興(シ)v雲(ヲ)零《フラシテ》v水《アメヲ》峯|霧《キリ》谷|噎《クラクテ》無2復(タ)可(キ)v行之路1。これ霧の字を用につかへり。きるは遮の字、截の字の心なり。あはれその鳥は雨のふる夜なれは、常にあはれといふやうにあはれひていへりとも聞へし。又おもしろしといふ心なり。第七の終に、なこの海を朝こきくれはうみなかにかこそなくなるあはれそのかこ。此結句と同しやうなり
 
登筑波山歌一首并短歌
 
1757 草枕客之憂乎名草漏事毛有武跡筑波嶺爾登而見者尾花(6)落師付之田井爾鴈泣毛寒來喧奴新治乃鳥羽能淡海毛秋風爾白浪立奴筑波嶺乃吉久乎見者長氣爾念積來之憂者息沼《クサマクラタヒノウレヘヲナクサムルコトモアラムトツクハネニノホリテミレハヲハナチルシツクノタヰニカリカネモサムクキナキヌニヒハリノトハノアフミモアキカセニシラナミタチヌツクハネノヨケクヲミレハナカキケニオモヒツミコシウレヘハヤミヌ》
 
師付之田井、【八雲御抄云、シツキノタヰ、】
 
名草漏は、ナグサモルとも讀べし、新治は郡の名なり、鳥羽能淡海は是も湖なる故に淡海と云へり、筑波嶺乃吉久乎見者とは唯山の好のみにあらず、上に云所の佳景どもの見え渡るを兼て云なり、
 
初、にひはりのとはのあふみ 新治は郡の名なり
 
反歌
 
1758 筑波嶺乃須蘇廻乃田井爾秋田苅妹許將遺黄葉手折奈《ツクハネノスソワノタヰニアキタカルイモカリヤラムモミチタヲリナ》
 
須蘇廻(ノ)田井はすそ野などよむ如く筑波山の麓なる田を云ひて所の名にはあらざるべし、手折奈はタヲラナと讀べし、たをらむなり、タヲリナとあるは書生の誤なるべし、
 
初、つくはねのすそわの田井に 山のすそにめくれる田なり。長哥にをはなちるしつくの田井といへるは、その名を出せるを、それはやかて筑波山のすそにあれは、此哥には其所をかくいへり。田井は田中の井戸なといへる心に、田のほとりにほれる井をいふともいへとも、こゝによめるなとは、只田の事なり。田には水有ものなれは、田井といふ。田舎にてきくに、水ふかき田の廣きは、奥の田井といひならへり。秋田かるいもがりやらんは、田をかる女をあはれひて、それかもとへやるために、もみちたをらんなといへり。たをりなとあるは、かなのあやまれるなり
 
(7)登筑波嶺爲※[女+曜の旁]歌會日作歌一首并短歌
 
※[女+燿の旁]、玉篇云、徒了、徒聊二切、往來貌、韻會引2韓詩(ヲ)1云、※[女+燿の旁]巴人歌也、文選左太仲魏都賦(ハ)或|明《・アケ》發而※[女+燿の旁]歌、李善注(ニ)云、※[女+燿の旁]歌巴土人歌也、何晏曰、巴子謳歌、相引牽連v手(ヲ)而跳歌也、佻或作v〓、常陸國風土記(ニ)云、香嶋郡童子女松原(ニ)、古有2年少(ノ)僮子1、【俗云、加味乃乎止、古、加味乃乎止賣、】男(ヲ)稱2那賀寒田之郎子1、女曰2海上安是之(ノ)孃子1、並貌容端正、光透2郷里1、相聞名聲(ヲ)1、同存2望念1、自愛心滅、經v月(ヲ)累v日、※[女+燿の旁]歌之會、【俗云2宇太我岐1、又云、加我※[田+比]也、】邂逅相遇、于v時郎子歌曰云々、孃子報歌曰云々、攝津國風土記云、雄伴郡波比具利岡、此岡西有2歌垣山1、昔者男女集登2此上1常爲2歌垣1、因以爲v名、武烈紀云、立2歌場衆1、【歌場、此云2宇多我岐1、】聖武紀稱徳紀にも歌垣の事見えたり、但今の歌によめる賀我比は名は同じけれど其樣かはれり、是は常陸の昔の國のならはしなるべし、
 
初、登2筑波嶺1爲《ナス》2※[女+燿の旁]歌會(ヲ)1日作歌 ※[女+燿の旁]《テウハ》、玉篇云。徒了徒聊二(ノ)切。往來(ノ)貌。歌の終に注していはく。※[女+燿の旁]歌者東俗語曰2賀我比(ト)1。今案玉篇に※[女+燿の旁]の字を注して、往來貌とあれは、男女互に唱和して、ほしいまゝにうたふ歌なるゆへに、かけあひといふへきを、計阿切加なれは、かゝひといふ。都のものはかもしふたつなからすむを、東俗語はよこなまりて、清音をも、おほく濁音にいふゆへに、東俗語曰(フ)2賀我比(ト)1とは注せり。賀は清濁ともに通す。我は濁音なり。歌の中に加賀布※[女+燿の旁]歌爾とあるを、加賀布はかもしふたつなからすむへき歟。かけあふといふ詞なれはなり。國の名に加賀といふ時、下のかもしにこれは、東俗語にまかせて濁るへき歟。しからは、賀我比のふたつのかもし、かなたにはともににこりていふなるへし。武藏(ノ)國都築(ノ)郡針※[土+斥]郷を、和名集に罸佐久と注し、同國多摩郡を、太婆《タバ》と注するたくひなり。されとも唯下のかもしをのみ濁音によむへし。第六難波宮作歌に、ゆふなきにかゝひのこゑきこゆとよめるには、※[女+燿の旁]合之聲所聆《カヽヒノコヱキコユ》とかけり。歌をかけあひてうたふ事なるゆへに、※[女+燿の旁]合とはかけるなり。文選左太沖(カ)魏都(ノ)賦(ニ)曰。或(ハ)明發(ノ)《・アケホノマテニシテ》而|※[女+燿の旁]《テウ》歌(ス)。或(ハ)浮泳(シテ)而|卒《オフ》v歳(ヲ)。末の反哥に、しくれふりとよみ、長哥に今日のみはとよみたれは、九月の末に、筑波山神を祭る日に、此※[女+燿の旁]歌會は年にひとたひあるなるへし
 
1759 鷲住筑波乃山之裳羽服津乃其津乃上爾率而未通女壯士之徃集加賀布※[女+曜の旁]歌爾他妻爾吾毛交牟吾妻爾他毛言問此(8)山乎牛掃神之從來不禁行事叙今日耳者目串毛勿見事毛咎莫《ワシノスムツクハノヤマノモハキツノソノツノウヘニイサナヒテヲトメヲトコノユキツトヒカカフカヽヒニヒトツマニワレモカヨハムワカツマニヒトモコトトヘコノヤマヲウシハクカミノムカシヨリイサメヌワサソケフノミハメクシモミルナコトモトカムナ》
 
鷲ノ住筑波ノ山とは、和名集云、唐韻云、※[咢+鳥]、【音萼】大G也、G【音凋、和名於保和之、鷲古和之、】※[咢+鳥]鳥別名也、山海經注云、鷲【音就、】小G也、今は大小を云はず、※[手偏+總の旁]じて意得べし、此鳥は深く嶮しき山に棲で巣をもくふ故に山をほめて云なり、第十四東歌にも、筑波禰爾可加奈久和之とよめり、裳羽服津は、此神に詣づる者|此處《コヽ》にして肅敬して裳をもはく故に裳帶津と云意に名付たる歟、津は集る處を云へり、率而を袖中抄にひきゐきてあれど今の點まされり、徃集もゆきあつめとあれど猶劣れり、不禁行事叙は神も制し給はぬしわざぞとなり、伊勢物語に神のいさむる道ならなくにとよめるも同じ意なり、伊駒山雲なかくしそとよめるを取て定家卿のいさむる峰に居る雲のと讀給へるも此意を得られたるなり、君を諫ると云も非道の事をななし給ひそと申す方は下の意通ぜり、行事を袖中抄にこと〔二字右○〕と、よまれたれど、第四に人丸の今耳之(ノ)行事庭不有と云にも今の如く書たれば今の本をよしとす、但彼歌も六帖にはこと〔二字右○〕とよみたれど、第十一に凡(9)乃行者不思とよめるに行の一字をワザとよめるは、内典に諸行無常など云行を業也と釋すればわざ〔二字右○〕と和する其埋あり、行事、事業など下の意は通ずれど、こと〔二字右○〕とは和すまじければ、彼も六帖はよからぬなり、目串毛勿見、今按勿見は同じ意ながらナミノと和すべきか、其故は落句を事毛咎莫とかけり、ミルナと和すべくば落句に准ずるに見勿と書べきを然らねばなり、メクシは愛の字愍の字などをめくしとよめる意には今はあらず、見苦しくも見るなと云なり、第十七に、相見婆登許波都波奈爾《アヒミレハトコハツハナニ》、情具之眼具之毛奈之爾《コヽロクシメクシモナシニ》、波思家夜之安我於久豆麻《ハシケヤシアガオクツマ》云々、此眼其之と同じ、史記滑稽傳淳于※[髪の友が几](カ)曰、若乃州閭之會、男女雜座、行v酒稽留、六博投壺、相引(テ)爲v曹(ヲ)、握v手(ヲ)無v罰、目※[目+台]不v禁、前有2墮珥1、後有2遺簪1、※[髪の友が几]竊樂v此、飲可2八斗1、而醉二參、
 
初、鷲住つくはの山の 第十四常陸哥にも、つくはねにかゝなくわしとよめり。和名集云。唐韻云。※[咢+鳥]【音咢】大G也。G【音凋、和名於保和之。鷲古和之】※[咢+鳥]鳥(ノ)別名也。山海經注云。鷲【音就】小G也。をとめをとこのゆきつとひ、毛詩云。穀《ヨキ》旦(タ)于差《コヽニエラフ》、南方之原(ニ)、不(シテ)v績2其麻(ヲ)1、市(ニ)也婆娑(タリ)。うしはく神、第五第六にありてすてに注しつ。末にも見えたり。いさめぬわさそ。神の制しとゝめたまはぬしわさそとなり。伊勢物語に
  こひしくはきてもみよかしちはやふる神のいさむる道ならなくに
定家卿の、いこま山いさむる嶺にゐる雲のうきておもひのはるゝよもなしとよみたまへるは、君かあたりみつゝをゝらん.いこま山雲なかくしそ雨はふるとも。此哥に雲なかくしそといふは、雲を制禁する詞なれは、下にふみつゝよまれたるなり。けふのみはめくしもみるなこともとかむな。めくしはめくむといふことゝいへれと、愍の字なとをかきて、めくゝめくしなといへるにおなしからす。これはみくるしくもみるなゝり。第十七家持長哥に、あひみれはとこ初花に、心くし眼具之《メクシ》もなしに、はしけやしわかおくつまとよまれたるめくしにおなし。目のくるしといふことなり。みるなは勿見とかきたれは、おなし事なからなみそと讀へし。そのゆへは、下にとかむなといふには、咎莫とかきくたせれはなり。史記|滑《コツ》稽傳(ニ)、淳于※[髪の友が几](カ)曰。若乃州閭(ノ)之會(ニ)男女雜(ハリ)坐《ヲリ》、行(テ)v酒(ヲ)稽留(シ)、六博投壺、相引(テ)爲《ナシテ》v曹(ヲ)握《トリテモ》v手(ヲ)無(ク)v罰、目(ニ)※[目+台]《ミテモ》不v禁(セ)。前(ニ)有2墮(タル)珥《ミヽクサリ》1、後(ニ)有(ントキ)2遺《ヲチタル》簪1、※[髪の友が几]竊(ニ)樂(マハ)v此(ヲ)飲(コト)可《ハカリニシテ》2八斗1、而醉(コト)二|參《サンセン》。もはきつは、著《ハク》v裳(ヲ)津といふ心にて名付たる所の名歟。心は女の筑波山にまうつるに、こゝにして衣裳をあらためて、裳を著るといふ心にや。津は水邊よりおこれる名なれと、あつまりてとゝまる所になつく。止《ト》と津とは五音通せり。人の家の戸もたてきりて、そとなる人のそこにとゝまれは、止の字の心なるへし。所《トコロ》といふもとゝまるころといふ心にや。とゝまるとよむ止の字を、たゝとゝのみ用たるにて、意得へし
 
※[女+燿の旁]歌者東俗語曰賀我比
 
反歌
 
1760 男神爾雲立登斯具禮零沾通友吾將反哉《ヲノカミニクモタチタホリシクレフリヌレトホルトモワレカヘラメヤ》
 
二つの峰相並べる中に高き方を男神と云なり、
 
初、沾友 沾を沽に作れるは、畫あやまれり
 
(10)右件歌者高橋連蟲麻呂歌集中出
 
初、右件歌者高橋連蟲麻呂歌集中出 下に至て鹿島郡|苅野《カルノヽ》橋(ニ)別2大伴卿(ニ)1歌もまた此ぬしか集に出とあれは、常陸國守、或は、屬官なとにて、彼國にありてよまれけるなるへし
 
詠鳴鹿歌一種并短歌
 
1761 三諸之神邊山爾立向三垣乃山爾秋芽子之妻卷六跡朝月夜明卷鴦視足日木乃山響令動喚立鳴毛《ミモロノカミナヒヤマニタチムカヒミカキノヤマニアキハキツマヲマカカムトアサツクヨアケマクヲシミアシヒキノヤマヒコトヨミヨヒタテナクモ》
 
喚立鳴毛、【別校本云、ヨヒタテナクモ、】
 
初め二句、仙覺云、此句古點にはみむろなるかみのべやまと點ず、みむろのかみのべ山いまだ聞も及ばず、おぼつかなし、仍て和し換て云、みむろのかみなびやまと云べし、部の字べ〔右○〕とよめども所に隨ひてひ〔右○〕とよめり、備の字ひ〔右○〕なれども所に隨ひてび〔右○〕とよめり、備の字び〔右○〕なれども所に隨ひてへ〔右○〕とよむ、ひ〔右○〕とへ〔右○〕と通ふこと常の習なり、尋云、神邊はかみのべなり、かみべをかみぴとは云とも文字に見えざるな〔右○〕を讀かくしてかみなびとなせるをば如何意得べきや、答云、これ傍例に依て讀なり、假令|海上《ウナカミ》、水上《ミナカミ》、田上山、此野の〔右○〕をな〔右○〕とよべり云々、以上略抄義明なり、第六に倭部越鴈、第十に山跡部(11)越鴈とかけるは共に山飛越なり、渡邊はわたの〔右○〕べなるをわたな〔右○〕べとも云へば彼此を合せて仙覺の點に依るべし、延喜式に載たる出雲國造神賀詞の中に、大御和の神奈備、葛木の鴨の神奈備、宇奈提の神奈備、飛鳥の神奈備とあるを思ふに、何處も神のますあたりをば神奈備と云ひて神邊の意なるべし、立向はタチムカフと讀べし、今の點は叶はず、三垣の山の神奈備山に向ふなり、秋芽子之妻卷六跡とは、是は芽子を鹿の妻とよめるには替りて秋芽子の如くめづらしき妻を卷寢むとと云なり、令動はトヨメと讀べし、今の點は誤れり、立はタテと點ぜる本に依るべし、
 
初、みもろの山なひ山に 神邊山とかきたるを、八雲御抄に、かみへの山とよませたまへり。今の本には、かみなひ山とよめり。海邊とかきて、うなひともよみたれは、今の本をよしとすへし。神邊山は三輪山の異名といふはいはれす。立向ふみかきの山、立むかひとあるはわろし。三垣山とて、神なひ山にむかへる山の有なるへし。それを神なひ山は神のます山なれは、いかきにたとへて、名はおふせけるにこそ。秋はきの妻をまかむと、萩原にきて鹿のむつるれは、萩をも妻といへと、今秋萩の妻といへるは、鹿の妻を萩になすらへていへるなり。ともに鹿の愛しておりふしもあひにあへはなり。古事記大己貴神歌に、やちほこの神のみことやしまくに妻まきかねてといへり。古き詞なり。又日本紀の繼體紀に、安閑天皇いまた勾大兄《マカリノオヒネノ》皇子にておはしましける時、みつから春日皇女を聘《メシ》たまひける夜の御歌にも、やしまくにつままきかねて、はるの日のかすかのくにゝ、くはしめを有ときゝて、よろしめを有ときゝてなとよみ給へり。此二首には、ともにやしま國妻まきかねてとあれは、長流かいへることく、神代紀に、覓國とかきてくにまきとよめる時のやうに、妻をもとめかぬる心もあるにや。それもやしまくにの中にも、心にかなふ妻をまつはしかねてといふ心にきくにたかはす。こゝは卷といふ字をもかきたれは、まつはす心にかきれり。枕といふも纏の字の心にてなつけたり。神代紀云。又|賊衆《アタトモ》戰|死《ウセテ》而|僵《タフシ》v屍(ヲ)枕(ニセン)v臂《タヽムキヲ》處(ヲ)、呼(テ)爲2頬枕田《ツラマキタト》1。山ひことよめ、令動をとよみとかんなのあるはあやまれり。とよめはとよましむる心にて令の字にかなへり。反歌もおなし
 
反歌
 
1762 明日之夕不相有八方足日木之山彦令動呼立哭毛《アスノヨニアハサラメヤモアシヒキノヤマヒコトヨミヨヒタチナクモ》
 
夕、【六帖云、ヨヒ、】  山彦、【幽齋本、彦作v響、】  呼出哭毛、【別校本云、ヨヒタテナクモ、】
 
古事記云八千矛神將v婚2高志國之沼河比賣《コシノクニノヌナカハヒメ》1幸行之時、到2其沼河比賣之家1歌曰云々。爾《コヽニ》其沼河日賣未v開v戸自v内歌曰、夜知富許能迦微能美許等《ヤチボコノカミノミコト》云々、阿遠夜麻邇比賀迦久良婆《アヲヤマニヒガカクラバ》、奴婆多麻能用波伊傳那牟《ヌバタマノヨハイデナム》云々、故其夜者不v合而明日夜爲2御合1也、腰句以上の長歌(12)の終に同じ、上に云如く讀べし、六帖には一夜へだてたると云戀の歌とす、下の句隨義轉用すとも人の泣にはいかゞ叶はむ、おぼつかなし、
 
右件歌或云柿本朝臣人麻呂作
 
沙彌女王歌一首
 
1763 倉橋之山乎高歟夜※[穴/牛]爾出來月之片待難《クラハシノヤマヲタカミカヨコモリニイテクルツキノカタマチカタキ》
 
初、くらはしの山を高みか 此哥第三卷廿二葉にすてに出たり。注のことし。結句(ニ)光ともしきと有てみか月の哥なり。夜こもりを、管見抄に夜をこめて出くる月といはむかことしといへり。今はしかるへし。第三に三日月哥とへるにはかなはす。すてに注しき
 
右一首間人宿禰大浦歌中既見但末一句相換亦作歌雨主不敢正指因以累載
 
第三に既に出たる事注の如し、
 
初、注に兩主 兩を雨に作れるは誤なり
 
七夕歌一首并短歌
 
1764 久堅乃天漢爾上瀬爾珠橋渡之下瀬爾舩浮居雨零而風不吹登毛風吹而雨不落等物裳不令濕不息來益常玉橋渡須《ヒサカタノアマノカハラニノホリセニタマハシワタシクタリセニフネウケスヱテアメフリテカセフカストモカセフキテアメフラストモヌラサスヤマテキマセトタマハシワタス》
 
(13)上瀬下瀬は第二に注せし如くカミツセシモツセと讀べし、不息はヤマズとも讀べし、橋は織女の渡すなり、
 
初、上瀬、下湍 かみつせしもつせとよむへし。雨ふりて風ふかすとも。此つゝきは、第五山上憶良の貧窮問答哥に、風ましり雨のふる夜の雨ましり雪のふる夜はとよめる語勢に似たり。もぬらさすとは、牽牛の織女のために橋をわたすにや。上曰v衣下曰v裳とあれは、裳は牽牛の裳歟。およそ二星の事は、おもひやりて、さま/\によめは、一隅になつむへからす
 
反歌
 
1765 天漢霧立渡且今日且今日吾待君之舩出爲等霜《アマノカハキリタチワタリケフケフトワカマツキミカフナテスラシモ》
 
霧立渡はキリタチワタルと讀て句絶とすべし、夕になる故に霧の立なり、わたりと讀ては叶はず、第八第十に此歌の類あり、下句は第八に憶良のよまれたる七夕の歌の中に同じきあり、彼處には君四とありつれば今も君之はさもよまるべし、
 
初、天川きり立わたる 此所句なり。わたりとあるは誤れり。けふ/\とゝは、けふか/\と待なり。第二に人麿の石見にて身まかられける時、妻のよまれたる哥にも、けふ/\とわか待君はいしかはのかひにましりて有といはすやも。そこにも且今日/\とかけるは、治定せぬことなれはなり。霧立わたるは、夕きりなれは、舟出すらしもといへり。又雲霧の氣に乘すへけれはさていへる歟
 
右件歌或云中衛大將藤原北卿宅作也
 
初、中衛大將藤原北卿 房前なり
 
相聞
 
振田向宿彌退筑紫國時歌一首
 
初、振田 日本紀并此集に准せは、ふきたとよむへき歟
 
1766 吾妹兒者久志呂爾有奈武左手乃吾奥手爾纒而去麻師乎《ワキモコハクシロニアラナムヒタリテノワカオクノテニマキテイナマシヲ》
 
(14)去麻師乎、【六帖云、ユカマシヲ、】
 
久志呂に付て疑あり、和名集農耕具云、麻果切韻云、※[金+瓜]【普麥反、普狄反、漢語抄云、加奈加岐、一云久之路、】鉤※[金+瓜]也、此に依ればくしろ〔三字右○〕は農具の名にて今の義にあらず、釧と※[金+瓜]と字相似たれば作者誤て釧なりと思ひてよめる歟、釧は和名云、内典云、在2指上1者(ヲ)名v之曰v鐶、在2臂上1者(ヲ)名v之爲v釧、【涅槃經文也、釧音食倫反、比知萬岐、】此釧をくしろと云を漢語抄の作者※[金+瓜]の字と思ひて農具とせる歟、又和名集に備中國下道郡に釧代【久之路、】郷あり、釧の一字くしろ〔三字右○〕なるべきを如此かけるは此集第十六にやふり〔三字右○〕を破夫利とかき、第十八にみやこ〔三字右○〕を都夜故とかけるが如し、右の郷をくしろ〔三字右○〕と名付る由は知らざれど字既に釧にして※[金+瓜]にあらざればひちまき〔四字右○〕を又はくしろ〔三字右○〕とも云證なるべし、又此卷下に至て思2娘子1作歌に玉釧手爾取持而云々、此玉釧をタマタマキと和せり、常に環の字をたまきとよめるは字は鐶と通じ、和語はゆびまきと同じ、た〔右○〕とて〔右○〕と通ずれば指を折を手を折と云にて知るべし、然れば釧も臂に纏《マキ》、今も吾奥手と云ひたればたまきとも云べけれぢ、既にひぢまきくしろの二名ある上に環と混じてたまきと讀べきにあらねばたまくしろと讀べし、然らば是も亦今の證なり、又下の處女墓をよめるに宍串呂黄泉爾將待跡《シヽクシロヨミニマタムト》とつゞけてよめる歌もあり、是は彼處に至て注すべし、奥手は臂なり、たまきにあらなむとも云(15)べきを、くしろと云へるは、臂は常に袖に隱れて奧にあれば深く思ふ意なり、六帖に吾せにはくしびにあらなむ左手の、おく手にまきて我れゆかましをとて櫛の歌とせり、くしろのろ〔右○〕は助語とも云べけれど櫛は左手の臂に纏ふべき物ならねば不審の事なり、和名に釧音食備反とあるは書生の誤なるべし、玉篇には充絹切といへり、
 
初、わきもこはくしろにあらなん 紀氏六帖には、此くしろをくしとこゝろ得て、櫛の哥とせり。これは誤なり。くしろはひちまきなり。和名集云。内典(ニ)云。在(ル)2指(ノ)上(ニ)1者(ヲ)名(ケテ)v之(ヲ)曰v鐶(ト)。【ユヒマキ・タマキ】在(ル)2臂(ノ)上(ニ)1者(ヲ)名(ケテ)v之(ヲ)爲v釧(ト)。【涅槃經(ノ)文也、釧音食※[人偏+稱の旁]反。比知萬岐。】同農耕具(ノ)篇(ニ)云。麻果(カ)切韻(ニ)云。※[金+派の旁]《ハク・ヘキ》【普麥反、又普狄反。漢語抄云。加奈加岐。一云久之路。】鉤※[金+派の旁]也。又云。備中|下道《シモツミチノ》郡釧代【久之路。】和名集にも、釧の字にひちまきの和語をのみ出して、くしろの訓をは出されす。農耕具※[金+派の旁]の字の和訓に、漢語抄を引て、くしろの訓を出さる。彼かなかきといふもの、よくつちをおさめて、鍬の代にもなる心にて、くはの下のはの字を畧してなつけたるにや。備中の下道郡久之路郷には又釧の字を用たり。今案釧の字他の古本に、※[金+派の旁]に作れり。此下三十一葉に、玉|※[金+派の旁]《タマキ》手にとりもちてといふに、釧の字|旁《ツクリ》を上のことく爪に作れり。これは玉くしろなるへきを玉たまきと訓せり。それはそこにいふへし。所詮くしろは釧の字の和語なるを、釧※[金+派の旁]字のかたちやゝ似たれは、漢語抄に誤て※[金+派の旁]の字をくしろと訓せる歟。又※[金+派の旁]の字をくしろと訓するを、歌人誤て釧の字の訓と心得てよめる歟。又異物同名なる歟。釧代は※[金+派の旁]代を書まかへたるへしともいふへし。又此下三十六葉に、しゝくしろよみにまたんとゝよみ、又日本紀第十七繼躰紀に、勾大兄《マカリノオヒネノ》皇子の御哥にも、しゝくしろうまいねしと《繁梳味寢時》によませたまへり。此しゝくしろは、別の物なるへし。下に至りて注すへし。和名集にも、日本紀此集なとに見えたる和名に載さることおほくみゆ。今くしろといへるは、左手のわかおくのてにまきていなましをといひたれは、まさしくひちまきなり。おくの手は第八におくてなるなかき心とよめりし哥に注しつることく、袖にかくるゝ方の臂《ヒチ・タヽムキ》をいへり。ひちの中ほとにまくものなれはなり。衣ならは下にきんなと、物こそかはれ、此躰によめる哥おほし。これは筑紫にてかたらへる女に、別てのほる時の哥なり
 
拔氣大音任筑紫時娶豐前國娘子※[糸+刃]兒作歌三首
 
初、拔氣大首 これは拔氣は氏にて、首は姓にや。又|大首《オホオフト》といふ名歟。拔氣は二字引合てぬけとよむへき歟。またかんかへ得す
 
1767 豐國乃加波流波吾宅※[糸+刃]兒爾伊都我里座者革流波吾家《トヨクニノカハルハワキヘヒモノコニイツカリマセハカハルハワキヘ》
 
和名云、田河郡|香《カ》春、豐前國風上記云、田河郡鹿春郷、昔者|新羅《シラキノ》國(ノ)神自度到來住2此川原1、便即名曰2鹿春神1、神名帳五、田川郡辛國息長大姫大目命神社、豐比※[口+羊]命神社、元享釋書傳教大師傳には賀春山と云へり、今の歌に革流とあれば加和流と云如く云ひけるにや、谷彼處の者は川原と云やうに申すとぞ傳へ承侍る、伊都我里座者は、伊は發語の詞、ツガリは袋などの緒を※[金+巣]の如くして著るを俗につがると云はくさるなり、和名云、※[金+巣]、【蘇果反、】鐡※[金+巣]也、日本紀私記云、【賀奈都賀利、】第十八に家持の比毛能緒能移都我利安比弖《ヒモノヲノイツガリアヒテ》よまれたるも、尾張少|咋《クヒ》と云者の佐夫流兒と云遊女に迷へる事を誡らるゝ詞なり、今の歌に依てよまれたるべし、今も紐兒と云名付きてつがるとはよめり、座者(16)は今按みづからの事をよめば今の點叶はずヲレバと讀べし、歌の意は筑前と豐前とは其間遠けれど、紐子を娶て、つがりあひて居れは香春をば吾宅の如く思ふとなリ、
 
初、豐國のかはるはわきへ かはるといふは、紐兒か住所の名なり。豐前國田河郡に賀春あり。賀春山あり。神社あり。元亨釋書傳数大師の傳にも見えたり。所のものはかはらといふ、川原のことし。賀春とかけともこゝにも革流とかきたれは、かわるといふやうに昔よりいへると見えたり。いつがりませは、いは例の發語なり。つがりは、袋の口を※[金+巣]《クサリ》のやうにぬふをつかりといふ、その心なり。紐の兒といふ名より、つかりをるといふは、あひおもふ心の緒をもて、つかりたるやうなるをいへり。ませはゝ、座者とかきたれは、をれはとよむへし。わか事をいへはませはとはいふへからす。哥のすへての心は、紐の兒か住かはるはわか家なり。そのゆへは身こそこゝにあれ、心はゆきてかしこにつかりあひてあれはなりといふ心なり。わきへはわかいへの我以切義なれは、きもし濁音に讀へきことはりなるゆへ、第五には藝の字をかけり
 
1768 石上振乃早田乃穗爾波不出心中爾戀流比日《イソノカミフルノワサタノホニハイテスコヽロノウチニコルルコノコロ》
 
戀流、【別校本云、コフル、】
 
上句は振の早田のとく穗に出るやうに穗には出ずと云なり、戀流をコルヽと點ぜるは書生の失錯なり、此日は此は比に作るべし、傍例多し、此歌人丸集にも見えぬを、新古今には何に依てか人丸歌と入られけむおぼつかなし、
 
初、石上ふるのわさ田のほには出す 此哥聞あやまるへき哥なり。わさ田の穂に出すといふにはあらす。わさ田ははやくほに出るを、われはそのことく戀る心をほに出てもえあはねは、早田の穗のことくには、えあらはし出ぬといはむためなり。むろのはやわせ、かつしかわせなといふことく、布留のわせも名ある種なるへし
 
1769 如是耳志戀思渡者霊刻命毛吾波惜雲奈師《カクノミシコヒシワタラハタマキハルイノチモワレハヲシケクモナシ》
 
渡者、【幽齋本、渡作v度、】
 
初二句の二つのし〔右○〕は助語なり、渡者はワタレバとも讀べし、
 
大神大夫任長門守時集三輪河邊宴歌二首
 
初、大|神《ミワノ》大夫 大物主大神の御子、大田々根子の裔《ハツコ》なり。委崇神紀に見えたり
 
(17)1770 三諸乃神能於婆勢流泊瀬河水尾之不斷者吾忘禮米也《ミモロノヤカミノオハセルハツセカハミヲノタエスハワレワスレメヤ》
 
發句は、ミモロノと讀べし、此集は文字の有除不足を痛まず、作者みもろのやとよめらば也の字等を加ふべし、然らぬをや〔右○〕を加へて讀は後人の意にして古風にあらず、此三諸の神と云は三輪山を指て云なり、於婆勢流は所帶なり、第七に三笠の山の帶にせる、細谷川とよめるに同じ、泊瀬河とは今集る處は三輪河なれど水上に付て云へり、古今集に妹背の山の中に落る吉野の川とよめるも紀州は吉野川の末なれば水上に付てよめるが如し、水尾之はミヲシと讀てし〔右○〕は助語なるべし、
 
初、みもろの神のおはせる泊瀬河 おはせるは所帯《オハセル》といふ心なり。泊瀬川のなかれきて、三輪川となれはかくはいへり。古今集に
  なかれてはいもせの山の中におつるよしのゝ川のよしやよの中
これ妹背山の中を行時は紀の川なれとも、川上はよしの川なれは、かくよめるに今もおなし。みわ山は山すなはち神躰なれは、神のおはせるとはいへり。第七に大きみの御笠の山のおひにせる細谷川の音のさやけさ。古今集にまかねふくきひの中山おひにせる、下句上におなし。第十三の長哥にも、かみなひのみもろの神のおひにせるあすかの川の云々。史記劉敬列傳曰。且(ツ)夫秦(ノ)地(ハ)被(フリ)v山(ヲ)帶(ニス)v川(ヲ)。敏達紀云。十年春潤二月、蝦夷《エミシ》數千|寇《アタナフ》2於邊境1。由(テ)v是召(テ)2其(ノ)魁師《ヒトコノカミ》綾糟《アヤカス》等(ヲ)1詔(シテ)曰。〇於v是綾糟等|〓《オチ》然|恐懼《カシコマリ》乃|下《オリヰテ》2泊瀬(ノ)中流《カハナカニ》1面(テ)2三諸(ノ)岳(ニ)1漱《スヽテ》v水而盟(テ)曰。臣等《ヤツコラ》蝦夷自v今|以後《ユクサキ》子々孫々《ウミノコノヤソツヽキ》【古語云。生兒八十綿連々】用2清《スミ》明(ナル)心(ヲ)1事(ヘ)2奉《マツラン》天闕《ミカトニ》1、臣等若違(ハヽ)v盟(ニ)者天地(ノ)諸(ノ)神及天皇(ノ)靈《ミタマ・ミカケ》絶2滅《タエム・ホロホセ》臣(カ)種《ツキヲ》1矣。大|神《ミワ》氏の人なれは、ことにみもろの神のおはせる泊瀬川といひて、此敏達紀のことく、ちかふ心もこもるへし
 
1771 於久禮居而吾波也將戀春霞多奈妣久山乎君之越去者《オクレヰテワレハヤコヒムハルカスミタナヒクヤマヲキミカコエイナハ》
 
越去者、【幽齋本云、コシユカハ、】
 
此歌人丸集にもみえぬを續古今は何に依てか人丸の歌と定て入けむ、おぼつかなし
 
初、おくれゐてわれはや これはむまのはなむけする人の哥なり
 
右二首古集中出
 
(18)他處には古歌集とあり、歌の字落たる歟、
 
初、右二首古集 古の字の下に歌の脱せり。例みなしかり
 
大神大夫任筑紫國時阿倍大夫作歌一首
 
1772 於久禮居而吾者哉將戀稻見野乃秋芽子見都津去奈武子故爾《オクレヰテワレハヤコヒムイナミノヽアキハキミツヽイナムコユヘニ》
 
稱見野ノ秋芽子見ツヽとは、山陽道の陸を經て稻見野の芽子など見て慰て人はゆかむを、我は後れ居てやこひむとなり、
 
初、いなみのゝ秋はきみつゝ これは山陽道を經て、陸にて下るを迭るとて、かくはよめるなるへし。秋はきみつゝとは、なくさみて人はゆかむに、我はおくれゐてこひむやとなり
 
〓弓削皇子歌一首
 
1773 神南備神依板爾爲杉乃念母不過戀之茂爾《カミナヒノカミヨリイタニスルスキノオモヒモスキスコヒノシケキニ》
 
神南備神は大已貴命の御子賀夜奈流美命なり、神も依り板にもする杉とは久しき由なり、念母不過は上の杉につゞけて念を得すくやらぬ意なり、木に神の依ことは莊子人間世云、匠石歸、櫟社|見《アラハレテ》v夢曰云々、匠石覺而診2其夢1、弟子曰、趣v取2無用1、則爲v社何耶、曰、密若無v言、彼亦直寄v焉、【郭象注云、社自來寄耳、非2此木求v之爲1v社也】戰國策云、應侯謂2昭王1曰、亦聞恒思有2神叢1(19)與、恒思(ニ)有2悍少年1、請與v叢博曰、吾勝v叢々藉2我神1、三日不v勝v叢、々困v我乃左手爲v叢投、右手自爲(ニ)投勝v叢、々藉2其神1、三日叢往求v之遂弗v歸、五日而叢枯(レ)、七日而叢亡(フ)、
 
初、神なひの神より 神なひの神も三輪と同躰なり。杉は三輪の神木にて、又板にもする物なれは、神より板にする杉のといひて、やかてその杉といふをうけて、おもひも過すとつゝけたり。おもひを過すとは、思ひをはるけやるなり。上の句は序なから、神のよるも、板にするも、久しきことをいはむためなり。をとめらか袖ふる山のみつかきのといへる心なり。久しくより、こひしたひ奉れは、おもひをはるけて、なくさむかたもなしとよめるなり。第三に赤人の、飛鳥川かはよとさらす立きりのおもひ過へき戀ならなくにとよみ、第十三に  神なひのみむろの山にこもる杉おもひ過めやこけのむすまて
この中に、後の哥はことに今の哥に似たり。此外おもひをはるくるを、過すとよめる哥猶おほし。木に神のよることは、荘子人間世云。匠石歸。櫟社見(エテ)v夢(ニ)曰。〇匠石覺(テ)而診2其夢(ヲ)1。弟子曰|趣《スミヤカニ》取(ハ)無v用。則|爲《タルコトハ》v社何耶。日(ヒ)密(ニセヨ)。若(チ)無(レ)v言。彼亦直(ニ)寄(レリ)焉。【郭象注云。社自來寄耳。非2此木求v之爲1v社也】戰國策云。應侯謂2昭王1曰。亦聞(ケル)恒思(ニ)有(コトヲ)2神叢1與《カ》。【灌木中有2神靈1托v之。補曰。墨子建v國必擇2木之脩茂者1以爲2叢位1。史(ニ)叢祠(トイフ)。索隱云。高誘注云。神祠(ハ)叢樹也。今高注本缺】恒思(ニ)有2悍少年1。請(テ)與v叢博(ス)。【局戯也。六著十二棊】曰。吾(レ)勝(タハ)v叢(ニ)々|藉《カスコト》2我(ニ)神(ヲ)1三日(セヨ)。【以2神靈(ヲ)1借(セ)v我】不(ハ)v勝(タ)v叢(ニ)々困(メヨ)v我(ヲ)。乃左(ノ)手(ハ)爲(ニ)v叢(ノ)投(ケ)右(ノ)手(ハ)自《ミ ラ》爲(ニ)投。【右強。而便欲2自取1v勝。正曰。尚v左尊v神也。】勝v叢(ニ)。々藉(コト)2其神(ヲ)1三日。叢往(テ)求v之遂(ニ)弗v歸。五日(ニシテ)而叢枯(レ)七日(ニシテ)叢亡(フ)
 
〓舍人皇子歌二首
 
1774 垂乳根乃母乃命乃言爾有者年緒長憑過武也《タラチネノハヽノミコトノコトニアラハトシノヲナガクタノミスキムヤ》
 
此歌は譬ふる意有べし、ふたおやの中に母は殊にうつくしみのまめやかなる物なれば、皇子の憑もしうのたまふ御言を母の言に喩へて御詞のみを年の歸長く憑てのみ過さむや、今其しるしを見せ給ふべしとよめる歟、
 
初、たらちねのはゝのみこと 母のみことは、母をたふとみていへり。ちゝのみことゝいへるもおなし。此哥と次下の哥聞えたるまゝなるを、舍人皇子に奉るに心あるへし。君は天下の人のちゝはゝのやうにましますが、身にとりても、おりふし哥なとよましめ給ふみことのりの、いかさまにも、ちかく官位をも昇進し、俸禄をもまし賜ふへく、頼もしくて、今やと待に、さもなくて、年月を經れは、あはれまことのおやのことはならは、たのめてのみは過さしをと、此皇子まてうれへ申さるゝへし。ふたおやの中に、母はことにうつくしみのこまやかなれは、母のことはならはといへり
 
1775 泊瀬河夕渡來而我妹兒何家門近春二家里《ハツセカハユフワタリキテワキモコカイヘノミカトハチカツキニケリ》
 
家ノミカドは第十六に豐前國泉郎が歌に妹が御袖とよめるが如し、此歌も亦下意ある歟、君が恩惠を近く蒙るべき事は、譬へば人の夕去ば必らず逢はむと契りたらむに泊瀬河の早き瀬をからうじて渡り來て其家近く成りたるが如しとよめる歟
 
初、泊瀬川ゆふわたりきて 妹かみかとは眞門なり。天子をみかとゝ申奉るは、御門なり。それも眞門といふ心なるへけれと、むかしは貴賤通していへる事も、末の世にかたく差別する事おほし。第十六豐前國の泉郎《アマ》か哥には、妹かみそてともよめり。さて此哥の心は、年の緒長く憑過來し身は、泊瀬河の早き潮を、からうして夕わたり來る人のことくなるが、此皇子のあはれませたまひて、御陰にちかくかくろへぬへきことは、彼ゆふわたりせし人の、妹か家にちかつくかことしと、たとへたるなるへし。妹は我をむつましくするものなれは、貴賤ことなれと、皇子に比し奉らるゝ歟。春は舂の字なり
 
右三首柿本朝臣人麻呂之歌集出
 
(20)石河大夫遷任上京時播麿娘子贈歌二首
 
初、播磨 磨誤作v麿
 
1776 絶等寸笶山之岑上乃櫻花將開春部者君乎將思《タユラキノヤマノヲノヘノサクラハナサカムハルヘハキミヲオモハム》
 
岑上、【別校本、岑作v峯、】
 
笶は俗の矢の字なり、矢には箆ある故に義訓歟、此山播磨にて何の郡に在と云事を知らず、古今に、今はとて君がかれなば我宿の、花をば獨見てやしのばむ、今の歌此意に似たり、
 
初、たゆらきの山のをのへ たゆらきの山、八雲御抄に、播磨と注せさせたまへり。笶、玉篇云。俗矢字。矢に箆《ノ》あれはおしてのとよむ歟
 
1777 君無者奈何身將装餝〓有黄楊之小梳毛將取跡毛不念《キミナクハナソミカサラムクシケナルツケノヲクシモトラムトモハス》
 
匣有、【六帖云、ハコニアル、紀州本同v此、】
 
奈何身將装餝は、詩(ノ)衛風云、自2伯(カ)之1v東、首如2飛蓬1、豈無2膏沐1、誰適爲v容、史記、豫讓遁2逃山中1曰、嗟乎士爲2知v己(ヲ)者1死、女爲2説v己(ヲ)者1容、劉休玄擬古(ノ)詩云、涙容不v可v飾(ル)、幽鏡難2復治1、落句は今の點不念の二字叶はず、六帖にはとらむとおもはずとあれど毛の字を殘せり、古體の例に依てトラムトモモ ハスと讀べし、あはれにやさしき歌なり、
 
初、君なくはなそ身かさらん 詩(ノ)衛風云。自(リ)2伯(カ)之東(セシ)1、首(ヘ)如(シ)2飛蓬(ノ)1。豈(ニ)無(ンヤ)2膏沐1、誰(ヲ)適《アルシトシテカ》爲(ン)v容《カタチツクルコトヲ》。史記(ニ)豫讓(カ)曰。嗟呼士(ハ)爲2知(ル)v己(ヲ)者(ノヽ)1死。女(ハ)爲(ニ)2説(コフ)v己(ヲ)者(ノヽ)1容《カタチツクリス》。文選劉休玄(カ)擬古(ノ)詩(ニ)云。臥(シテハ)覺(ユ)2明燈(ノ)晦(コトヲ)1、坐(シテハ)見(ル)2輕※[糸+丸](ノ)緇(キヲ)1、涙容不v可(ラ)v飾(ル)、幽鏡難(シ)2復(タ)治(メ)1。唐韻云。梳細櫛也。とらんとももはすは、とらんともおもはすといふおの字を略せり。將取毛不念とかけるは、毛の字あまれるにや。二首ともに情ふかき哥なり
 
(21)藤井連遷任上京時娘子贈歌一首
 
藤井は以前見えたる葛井なるべし、
 
初、藤井連 これは葛井連廣成なるへし。葛井はふちゐと讀へし。和名集云。播磨國明赤郡葛江【布知衣。】これに准して知へし。又字書に藤の字を尺して、蔓(ノ)屬(ノ)※[手偏+總の旁]名といへり。こなたかなたに通せり。元正紀云。養老四年五月壬戌、改(テ)2白猪史(ノ)氏(ヲ)1賜(フ)2葛《フチ》井(ノ)連(ノ)姓(ヲ)1。これ廣成なり。此人なるへし。委は右に注せり
 
1778 從明日者吾波孤悲牟奈名欲山石蹈平之君我越去者《アスヨリハワレハコヒムナナホリヤマイハフミナラシキミカコエイナハ》
 
石越平之、【幽齋本云、イシフミナラシ、】
 
名欲山は仙覺抄には對馬と注せらる、八雲御抄にはなよ山、或なを山、播磨と注せさせ給ひ、又なほり、近江とも侍り、今按豐後國に直入【奈保里】郡あり、豐後より遷任しけるにや、
 
初、あすよりはわれはこひむな名ほり山 八雲御抄に、此名欲を、なよ山或なを山播磨と注せさせたまひ、又なほり近江とも注せさせたまひて、万石ふみならすとゝもに載らる。此題に遷任とのみあれは、いつれの國と知かたし。此右の哥に、播磨娘子歌ありて、そのつゝきなれは、播磨とおほしめしけるにや。いはふみならしは崇神紀(ニ)〓〓《テキソ》此(ヲハ)云(フ)2布瀰那羅須《フフミナラスト》1と、なら山と名つくることのよしをしるさるゝ所に見えたり。これも別《ワカレ》にあはれなる哥なり
 
藤井連和歌一首
 
1779 命乎思麻勢久可願名欲山石踐平之復亦毛來武《イノチヲシマセヒサシカレナホリヤマイシフミナラシマタマタモコム》
 
發句の志は助語なり、麻勢は遊仙窟に安穩をマセとよめる此なり、安穩にておはせよなり、久可願は今の點意得がたし、若願は禮の字などを誤れる歟、若は可は母の字などを誤てひさにもがと云へるにや、石は右の歌に准ぜばイハと讀べし、今イシと(22)よまば上をもイシと一准に讀べきなり、
 
初、いのちをしませ 遊仙窟に安穏をませとよめり。長流かまさきくといふ詞を畧したるなりといへるも通せり。久可願、此三字を、久しかれとよめる、心得かたし。久しかれといふも、ねかふ詞なれは、可の字なくは、義をもてしかよむへけれと、可の字へたゝりたれはさはよみかたし。願の字の、もし禮の字のあやまりなる歟。もしはまた、久母願《ヒサニモガ》にて、ひさにもかとよむへき歟
 
鹿島郡苅野橋別大伴卿歌一首并短歌
 
和名集云、鹿島郡輕野、今の苅野と同じ、上に※[手偏+僉]税使大伴卿云々、常陸國の※[手偏+僉]税事果て下總國海上津を指て渡らるゝ時の歌なり、
 
初、鹿島郡|苅野橋《カルノヽハシニシテ》別(ルヽ)2大伴卿(ニ)1歌 上の廿二葉云。※[手偏+僉]税使大伴卿登2筑波山1時歌。しかれは、當國の※[手偏+僉]税ことをへて、下總の國海上の津をさしてわたらるゝ時の別の哥なり。和名集云。常陸國鹿島郡、輕野
 
1780 牝牛乃三宅之酒爾指向鹿島之埼爾狹丹塗之小舩儲玉纒之小梶繁貫夕塩之滿乃登等美爾三舩子呼阿騰母比立而喚立而三舩出者濱毛勢爾後奈居而反側戀香裳將居足垂之泣耳八將哭海上之其津乎指而君之巳藝歸者《コトヒウシノミヤケノサケニサシムカフカシマノサキニサニヌリノヲフネマウケテタママキノヲカチモシヽヌキユフシホノミチノトトミニミフナコヲアトモヒタテヽヨヒタテヽミフネイテナハハマモセニオクレナヲリテコヒマロヒコヒカモヲラムアシスリノネノミヤナカムウナカミノソノツヲサシテキミカコキイナハ》
 
牝牛はコトヒウシと云點によれば牡を誤れるにや、仙覺抄云、牛は極て酒の糟を好て食ふなり、さて餘りにくらひぬれば身の發熱して醉て苦しさにたけりほゆればかしましきなり、さればみやけのさけに指向ふ鹿島の崎にと諷《ソ》へつゞくるなり、此注の意は三宅を身燒と取成し、鹿嶋を霰零かしまとつゞくる時の如くかしましと(23)取成て發句を此まで承たりと意得られたりと見えたり、ことひ牛ならでも酒は好む物なるを、さる義ならば何か別てことひとしも云はむ、酒とあるを酒の糟と云へるも違ひぬ、又三宅と云へるは何の用ぞ、殊の外の臆説と云べし、牝は仙覺抄にも此まゝにありて諸本牡に作る事なし、然ればメウシと讀べし三宅は和名集に下總國海上郡に三宅郷あり、海上の其津を指てとよめるに依るに此なるべし、三宅は昔租税の稻を納めらるゝ處を云へば、三宅ある所の本名牝牛にて、めうしの三宅と云へる歟、酒は若浦の字を誤歟、今のまゝにて意得ば酒は彼三宅の名物歟、人の指向ひて飲物なれば鹿島に指向ふと云にそへて云へる歟、夕塩之滿乃登等美爾とは滿のとゞめなるべし、滿はてゝ溝湛たる時なり、アトモヒ立而は第二に注するが如し、濱毛勢爾は、送りの人の濱もせばきばかり後れ居てなり、奈は助語なり、紅葉たをらなのな〔右○〕の如し、足垂之はアシズリシと讀べし、足垂は義訓なり、海上は上總にもあり、其津於指而、於の字の事第七に注せしが如し、
 
初、ことひ牛の 牝は牡を誤れり。和名集云。辨色立成云。特牛【俗語云。古度比】頭(ヘ)大(ナル)牛(ナリ)也。玉篇云。特【徒得(ノ)切。牡牛(ナリ)。又獨(ナリ)也。】ことひは雄《ヲ》牛なり。牝は雌《メ》牛なるゆへに、誤とはいふなり。みやけの酒にさしむかふかしまのさきに。長流かいはく。牛はあつきことをくるしふものなれは、酒をくらひては、身のやくるやうにいきつきすたくなり。よりてみやけの酒とはいふなり。さて酒をは盃とりては人にむかひてさすによりて、さしむかふとはいふ。かしまといふは、常陸の國鹿島より、下総國|海《ウナ》上の津といふ所にむかへる所なれは、かくよめるなり。以上かくのことし。今案ことひ牛のみやけの酒とつゝくる事、もし三宅といふ所の、海上郡にありて、かくはよめるか。牛のあつきことをくるしみ、また酒をすきておほくのむ物から、身もやくるやうにあへくことは、みなさる事なれとも、三宅といふ所のなくは、かくはいひ出ること用なし。用なきことはいふましけれは、かならす有て、酒はそこの名物なるへし。又さしむかふは、海上津に、鹿嶋の崎のさしむかふにはあらて、只今別るゝ所鹿嶋なれは、それをさしむかふとはいへる歟。しからは、官家とかきてみやけとよめは、只今の離別の酒、すなはち※[手偏+僉]税使のもてなしに、官家より出すに、さしむかひてのむことく、かしまの崎にもさしむかへは、かくはつゝけたるにや。ことひうしのみやけとつゝくるは、呉牛喘v月ともいへることく、熱をくるしふ心にも侍るへし。さにぬりのをふねまうけて、玉まきのをかちしゝぬき。第八山上憶良七夕の長哥に、さにぬりのをふねもがも玉まきの眞かいもがもといへり。今をかちしゝぬきといへるも、櫓をおほく立るをいへり。狹丹(ノ)狹誤作v挾。夕しほのみちのとゝみに。塩のよくみちてたゝへたる心なり。塩のとゝひといふにおなし。みふなこをあともひたてゝ。和名集云。江賦云。舟子【和名布奈古】於是|搦《トル》v棹(ヲ)。水手とかきてもふなことよめは、かことおなし。あともひたてゝ、第二に人麻呂の長歌にも、御いくさをあともひたまひとよまる。第十七、大伴池主の布勢海長哥にも、白たへのそてふりかへしあともひてわかこきゆけはとあり。これは日本紀に、誘の字をあとふとよめるは、さそふともよむ心なり。今もそれにおなし。六帖にほとゝきす春をなけとはあとふとも人のこゝろをいかゝたのまん。これもおなしきにや。第十第十五にあともふとよめるは、跡思ふなり。第十四に、あともへかとよめるは、東哥なれは、何と思ふかといふことといへり。それらはそこにいたりて尺すへし。おなし誘の字を、日本紀に、わかつる、をこつるとよめるは、此字を又あさむくとよむ、その心なり。これは事のついてにいふなり。濱もせに、野もせ、山もせ、庭もせ、道もせといふことく、濱もせはきほとに、をくりの人の別をおしむなり。おくれなをりて、なは助語なり。こいまろひ、こひとあるかんなはわろし。こやせるといふにおなし。反側とかける字のことし。あしすりし、あしすりのとある點もくるしからねと、たゝあしすりしと讀へし。蹉※[足+它]の二字をあしすりとよめり。第五の四十葉、此卷浦鳴子歌にもよめり。海上のその津をさして。此度の※[手偏+僉]税使は數ケ國を兼て、下總にわたり、それより上總安房をも此大伴卿の※[手偏+僉]校せらるゝなるへし。津を、此てにをはのをに、於の字をかけるは、差別の上に通する邊をかるなり。此外數ケ所にかけり。これらによりて、皆混するへからす。君かこきいなは。俗にいぬるといふは、もとこしかたへ歸るをのみいへり。歌はしからす
 
反歌
 
1781 海津路乃名木名六時毛渡七六加九多都波二舩出可爲八《ウミツチノナキナムトキモワタラナムカクタツナミニフナテカスヘシヤ》
 
(24)可爲八、【幽齋本云、スヘシヤ、】
 
發句の津は助語なり、日本紀にも海路をウミツヂと點ぜり、二つのナム上は唯詞、下は命令の詞なり、忠見がやかずとも草は燒なむ春日野は、たゞはるのひに、まかせたらなむとよめるに同じ、落句の點の中のカ〔右○〕は捨べし、
 
初、反歌、ふなてかすへしや かのかんなけつるへし
 
右二首高橋連蟲麻呂之歌集中出
 
初、右二首高橋連蟲麻呂 さきに登2筑波嶺1爲2※[女+燿の旁]歌會1日作歌に注せしことく、蟲麻呂彼國の國守、あるひは屬官にて、よまれけるなるへし
 
與妻歌一首
 
1782 雪巳曾波春日消良米心佐閉消失多列夜言母不往來《ユキコソハハルヒキユラメコヽロサヘキエウセタレヤコトモカヨハヌ》
 
雪こそは春日に相ては消る物ならめ、我を深く思ふ由を云ひつる人の心さへ消失てあればにやいかにやと問言の葉をだに通はせぬとなり、春贈れるなるべし、
 
初、雪こそは春日きゆらめ心さへ これは後の注をみるに、人まろの妻によみてをくられける哥なり。心は、雪こそは春の日にあひては消る物ならめ。われをふかく思ふよしをいひつる人の心さへ、その春日にあへる雪のことく消うせてあれはにや、あふことのなきのみならす、いかにやと、ゝふことのはたにかよはせぬとなり。春よみてをくられけるなるへし
 
妻和歌一首
 
初、妻和歌 人麻呂の妻に先妻後妻あり。上に注せしかことし。これはいつれとも知かたし
 
1783 松反四臂而有八羽三栗中上不來麻呂等言八子《マツカヘリシヒニテアレヤハミツクリノナカニヰコヌマロトイフハコ》
 
(25)此はいと意得がたき歌なり、今試に解せば先下句の點叶はざれば改てナカウヘコスラマロトイヘヤコと讀べし、松反とは色もかはらぬ松をかはると云ひなさば誣たる詞なり、依て誣と云はむ爲に松反とは云歟、第十七に家持も此つゞきをよまれたり、誣とは人を欺くなり、に〔右○〕は助語なり、シヒテとも讀べし、但家持の歌にも之比爾底とあれば今もに〔右○〕を加へたる歟、さてシヒニテアレヤハとは、思はぬを思ふと欺むきて申つるにあらむやはなり、三栗は中とづゞけむためなる事上に云が如し、中上コヌとは假令一月に付ていはゞ初後の十日は中の十日に對して上なり、麻呂と云は麻は眞、呂は助語にて眞人と云意歟、繼體紀云、七年十二月辛巳朔戊子、詔曰、懿哉摩呂古示2朕心於|八方《ヤモニ》1、盛哉|勾《マカリノ》大兄光2我風於萬國1、又八年正月云、朕子麻呂古、汝妃之詞深(ク)稱2於理1、此麻呂古は勾大兄の御名にはあらぬをかくのたまふはほめさせ給ふ御詞なるべし、然れば我言は君を誣たるにはあらず、今來むと憑めて人を待せ置て中上皆過れと來す人を麻呂と云はむや君となり、終の子の一字は男女互に背子吾妹子など云詞なり、上に人丸集に出る歌とて麻呂歌一首と云へる事あり、今の落句を思ふに彼麻呂のせる歌にや、
 
初、まつがへりしひにてあれやは 第十七家持の哥にも、まつかへり《・松變》しひ|《・誣》に《助語》てあれかも《・有歟》さ|やまた《・山田》の|をぢ《・翁》が|その《・其》日に|もとめあはす《・求不逢》けむとよまれたり。此まつかへりの詞、今こゝに松反とかけるにて心得られたり。松は色の變せさる物なるを、變すといふやうなるを、しふるといふ。誣の字なり。口とく、あらぬさまに物をいひなす心なり。松を變すといふは、しふる事なるゆへに、しひてといはむために、松反とはいへるなり。しひにてのには助語なり。第十七には爾の字あり。こゝには四臂而とかきたれは、しひてとのみもよむへし。しひてあれやはとは、おもはぬをおもふと、しひていへるにてあらんやはといふ心なり。上の哥に、心さへ消うせたれやといへるに、しかはあらすとこたふるなり。三栗は中といはむためなり。上に那賀郡曝井歌にすてに注しつ。さて此下句はすこし心得にくき哥なり。なかにゐこぬまろといはゝこといへるは、點もあやまれりと見えたり。上の字をいかてゐとはよまん。もし古本は止の字に作りてや、ゐとはよめりけむ。おほつかなし。今案上の字をよしとすへし。そのゆへは、第五卷に、山上憶良の、男子|古日《フルヒ》となつけられたるがうせける時の長歌の中に、ちゝはゝもうへはなさかりさき草の中にをねんとなつかしく|し《・己》がかたらへはとよまれたり。これは古日が、父母の眞中にねむといへは、兩方をうへといへり。三枝も三栗も、三つあるものゝ中をいはむためなれは、物はたかへと、おなし心なるゆへ、今上といふも、上《ウヘ》はなさかりといへるにおなし。さて此下句は、なかうへこぬをまろといへやことよむへき歟。中上は、たとへは一月をみつにわかちて、中の十日を中とすれは、上旬下旬みなうへなり。第五には、うへといふに、表の字をかけり。今もその心なり。中といふは、禁裏を禁中といふかことく、裏の字の心なり。我はおもはぬを、おもふとしひていへるにあらす。君こそ、こんと、たのめをきても、はしめなかおはり、まちにまたれてもこすして、猶まろといへとやきみといふ心なり。子は男子の通稱にて、君子ともいへは、君といふにおなし。いへやはいはむやなり。まろといふは、いにしへより、よく人の名につけり。人まろのことし。石上大臣麻呂藤原麻呂なと、唯まろとのみなのれる人もおほし。詞の意を推量するに、呂は助語にて、眞菅眞木なといふたくひに、眞人といふ心にや。繼躰紀云。七年十二月辛已朔戊子、詔曰。懿《ヨイカナ》哉摩呂古、示2朕《ワカ》心(ヲ)於|八方《ヤモニ》1。盛(ナル)哉|勾大兄《マカリノオヒネ》、光《テラス》2我|風《ノリヲ》於萬國(ニ)1。又云。八年春正月、太子(ノ)妃《ミメ》春日皇女〇妃曰。非2餘《アタシ》事1也。〇乃至2於人1豈(ニ)得(ンヤ)v無(コトヲ)v慮(ルコト)2無v嗣《ツキ》之恨(ヲ)1。〇詔曰。朕子麻呂古|汝《イマシカ》妃《メノ》之詞深(ク)稱(ヘリ)2於理(ニ)1。これ安閑天皇のいまた太子にてましませしを、勾(ノ)大兄と申せしを、まろことのたまへり。日本紀には、此詞こゝにのみ見えたり。古今集哥に
  わするらんとおもふ心のうたかひに有しよりけにまろそかなしき
一本にはまつそとかけり。拾遺集に
  旅人のかやかりおほひつくるてふまろやは人をおもひわするゝ
伊勢物語に
  つゝゐつのゐつゝにかけしまろかたけおひにけらしな妹みさるまに
まろかまろねよいくよへぬらむとよめる哥も有。源氏物語螢に、さてかゝるふることの中にまろかやうにしつほうなるしれものゝものかたりはありやといへり。眞人といふ心ならは、たのめて始終こぬを、まことあるつまといはむや君。々こそ人をしひてはあれとかへせるなり
 
右二首柿本朝臣人麿之歌集中出
 
(26)贈入唐使歌
 
1784 海若之何神乎齊祈者歟往方毛來方毛舶之早兼《ワタツミノイツレノカミヲタムケハカユクサモクサモフネノハヤケム》
 
齊祈者歟、【六帖云、イハヽハカ、】
 
最初《サイソ》に君がためと置て意得べし、齊は齋に作るべし、六帖には舟に入て人丸の歌とす、不審なり、
 
初、わたつみのいつれの神 住吉明神、知夫利の神等、皆海路をまもる神なり。齊は齋に作るへし。齋も齊の義なから、只畫のたかへるなるへし。ゆくさもくさもは、ゆきさまもかへるさまもなり
 
右一首渡海年紀未詳
 
神龜五年戊辰秋八月歌一首并短歌
 
初、神龜五年秋 これは越の國の内いつれにまれ、友たちの、國守に任せられて行時、京に留る人の、別るゝ時よみてをくる哥なり
 
1785 人跡成事者難乎和久良婆爾成吾身者死毛生毛君之隨意常念乍有之間爾虚蝉乃代人有者大王之御命恐美天離夷治爾登朝鳥之朝立爲管羣鳥之群立行者留居而吾者將戀(27)奈不見久有者《ヒトヽナルコトハカタキヲワクラハニナレルワカミハシニモイキモキミカマヽニトモヒツヽアリシアヒタニウツセミノヨノヒトナレハオホキミノミコトカシコミアマサカルヒナヲサメニトアサトリノアサタチシツヽムラトリノムラタチユケハトマリヰテワレハコヒムナミテヒサニアラハ》
 
朝立爲、【幽齋本、アサタヽシ、】
 
初四句は四十二章經云、佛言、人離2惡道1得v爲v人(ト)難、二十難の隨一なり、或は惡趣に入る者は大地の土の如く、惡趣を出て人となる事は爪上の土の如しとも見えたり、死毛生毛君之隨意常とは、友の心を堅く執なり、毛詩云、死生契闊、與v子成v悦(ヲ)、史紀范雎傳、須賈曰、唯君死生(セヨ)之、朝鳥之以下四句は古事記八千矛神御歌云、牟良登理能和賀牟禮伊那婆《ムラトリノワカムレイナハ》、比氣登理能和賀比氣伊那婆《ヒケトリノワガヒケイナハ》云々、朝立は幽齋本の點よし、行者はユカバと讀べし、吾者將戀奈と云に能叶ふなり、
 
初、人となる事はかたきを 四十二章經曰。佛(ノ)言《ノ ハク》人離(テ)2悪道(ヲ)1得(ルコト)b爲(ルコト)v人(ト)難(シ)。わくらはになれるわかみは、わくらはゝまれにたまさかになといふにおなし。第五卷貧窮問答哥にも、わくらはに人とはあるをとよめり。ともに和久良婆とかけり。此集に婆は多分濁音に用たれは、いにしへはにこりてよみけむを、今は和の字のことく讀り。しにもいきも君かまゝにとおもひつゝ。へたてなく相ともなふ心なれは、君かしなは我もしに、君かいきは我もいきむとおもへは、しにもいきも君にまかするなり。毛詩云。死生契闊、與v子成(サン)v悦(ヲ)。これは夫婦の間にいへり。史記范雎傳、須賈曰唯君死生(セヨ)之。第十六仙女の哥にいはく
  しにもいきもおなし心とむすひてし友やたかはんわれもよりなん
うつせみの世の人なれは、大きみのみことかしこみ、次下の長哥の發端にも、此四句有。第八にも、笠朝臣金村か、天平五年の入唐使にをくる長哥にも、玉たすきかけぬ時なくいきのをにわかおもふ君はうつせみのみことかしこみとよめる、そこに尺せしことく、世の人なれは大きみのといへる二句のおちたるなり。今とおなし。毛詩云。溥天之下、莫v非(トイフコト)2王土(ニ)1、率土之濱、莫v非(ストイフコト)2王臣(ニ)1。此意におなし。朝鳥の朝立しつゝ、旅に出る人の、朝とくたつを、朝に鳥のねくらよりたつによそへていへり。むら鳥のむらたちゆけは。ともの人なとあまた具してゆくを、むら鳥のたちゆくにたとふるなり
 
反歌
 
1786 三越道之雪零山乎將越日者留有吾乎懸而小竹葉背《ミコシチノユキフルヤマヲコエムヒハトマレルワレヲカケテシノハセ》
 
三越道とは越前越中越後ある故に云にはあらず、三吉野三熊野等の例に意得べし、八月の歌に雪零山とよめるは、彼方は寒國にて外より雪の早く降故に路次の艱難を思ひ遣て云へるなり、
 
初、みこしちの雪ふる山 越前越中越後あれは、三越道といへり。雪ふる山とは、秋八月の哥なれは、今雪ふるといふにはあらす。こしちは雪深き所なれは、惣していふなるへし。かけてしのはせはかけてしのへなり
 
(28)天平元年巳巳冬十二月歌一首并短歌
 
1787 虚蝉乃世人有者大王之御命恐彌磯城島能日本國乃石上振里爾※[糸+刃]不解丸寐乎爲者吾衣有服者奈禮奴毎見戀者雖益色二山上復有山者一可知美冬夜之明毛不得呼五十母木宿二吾齒曾戀流妹之直香仁《ウツセミノヨノヒトナレハオキミノミコトカシコミシキシマノヤマトノクニノイソノカミフリニシサトニヒモトカスマロネヲスレハワカキタルコロモハナレヌミルコトニコヒハサレトイロ/\ニヤマノウヘニマタアルヤマハヒトシリフネミフユノヨノアカシモエステイモネスニワレハソコフルイモカタヽカニ》
 
世人有者、【別校本云、ヨノヒトニアレハ、】
 
磯城島能日本國乃は今は本朝の惣名にはあらず、和州の別名なり、振里爾は今按フルノサトニと讀べシ、今の點は作者の意にあらず、其故は古今に日の光やぶしわかねば石上、ふりにし里に花も咲けりとよめるはふりにしとよめるに意あり、今は唯里の名なり、ふりにし里ならば振西里なども書べきをニシの詞の字のなきを以ても知べし、色二山上復有山者、今按此を三句によめるは非なり、イロニイデバと一句に讀べし、其故は古樂府に藁砧今何在(ル)、山上更安v山云々、此山上更安v山とは出の字を(29)云へり、正しく山をふたつ重てかくにはあらねど見たる所相似たる故なり、唐の孟遲が山上有v山不v得v歸(コトヲ)と作れるも此に依れり、今も此義を意得ていでと云ふに文字を山上復有山とはかけるなり,幽齋本に色毎二とあるは後人の加へたるなるべし、假令色色二とあるにても義通ぜず、其故は色色とは種々の義にして色にはあらず、山上復有山者と定て、色に出ばと云ことを謎の如く云へると意得たる點なるべければ、色色の句、色とならずば何の出るとかせむ、然れば此をは、イロニイデバとすべし、此二句の連續せる歌は、第十三に百不足山田道乎《モヽタラズヤマダノミチヲ》と讀出せる歌の中に散鈎相君名曰者色出人可知《サニヅラフキミガナイハバイロニイデヽヒトシリヌベミ》云々、古今の戀の長歌にもあり、傍例かくの如し、
 
初、うつせみの世の人なれは 此四句上にいへるかことし。しきしまのやまとの國、これは常にいふことなれと、そのゆへよくしらす。欽明紀云。元年秋七月丙子朔己丑、遷2都(ヲ)倭(ノ)國(ノ)磯城(ノ)郡(ノ)磯城嶋(ニ)1。仍號(ケテ)爲(ス)2磯城嶋(ノ)金《カナ》刺《シノ・サシノ》宮1。此磯城嶋は、大和國の一所の別名なるを、それを枕詞におきて、しきしまのやまとゝはいかていふらん。もし彼金刺宮に天下しろしめしける時、都をもとゝしてかくいひそめけるにや。大和は此國の惣名にて、又一國の別名なり。惣別ことなれとも、惣名も別名よりおこれる歟。よりてやまと哥を、しきしまの道と、後の哥によめるも、しきしまをもて、此國の名とせるは、あしひきを山とし、玉ほこを道とするたくひなるへし。我きたる衣はなれぬ。此集に穢の字をなるゝとよみたれは、塵垢にけかるゝなり。衣をあらひぬふことは、女のしわさなれは、妻をおもひ出ることを、これにつけてもいふなり。毛詩〓風柏舟(ニ)曰。心(ノ)之憂(アリ)矣、如(シ)2匪《サル》v澣《アラハ》衣(ノ)1。文選謝玄暉(カ)酬(フル)2王晉安(ニ)1詩(ニ)曰。誰能久(カラム)2京洛(ニ)1、緇塵染(ム)2素衣(ヲ)1。同陸士衡(カ)爲(ニ)2顧彦先(カ)1贈v婦(ニ)詩(ニ)曰。辭(シテ)v家遠行游、悠々(タリ)三千里、京洛多(シ)2※[風の虫が百]塵1、」素衣化(シテ)爲《ナル》v緇(ト)。みることにこひはまされといろ/\に山のうへにまたある山はひとしりぬへみ。これは色に出は人しりぬへみといふへきを、古樂府に藁砧今(マ)何(ンカ)在(ル)、山上(ニ)更(ニ)有(リ)v山といふは、藁砧をは、※[石+夫]といふゆへに夫の字とし、出の字は、まことには、中の畫上下をつらぬきて、二の山にはあらされとも、しか見ゆれは、夫はすてに遠く出てゆけりといふ心に、山上更有v山と作れるをふみて、出るといふ事を、山のうへにまたある山とはいへり。唐(ノ)孟遲か詩に、山上(ニ)有v山不v得v歸(ルコトヲ)と作れるも、古樂府によれり。色二とかけるをいろ/\にとよめるは、にをばよみつけて、義をもて、色二をいろ/\とよめる歟。物ことにつけて戀しき心を、色に出はといふ心なり
 
反歌
 
1788 振山從直見渡京二曾寐不宿戀流遠不有爾《フルヤマニタヽニミワタスミヤコニソイネステコルルトホカラナクニ》
 
戀流、【別校本云、コフル、】
 
發句はフルヤマユとも讀べし、直見渡京二曾とは古今集の詞書にも奈良のいそのかみ寺とさへかける程なればなり、京にぞは京のぞの意なり、寐不宿はイモネズと(30)も讀べし、戀流をコルヽと點ぜるは書生の誤なり、
 
初、ふる山にたゝにみわたす京にそ ふるは山邊郡石上に有。古今集には、ならの石上とさへかけることなれは、いとちかき所なり。みやこにそは、都をそと心得へし。京にそいねずてこふるとはつゝかす。長哥のことく、ふるに有て都を戀るなり
 
1789 吾妹兒之結手師※[糸+刃]乎將解八方絶者絶十方直二相左右二《ワキモコカユヒテシヒモヲトカメヤモタエハタユトモタヽニアフマテニ》
 
結テシのて〔右○〕は助語なり、
 
右件五首笠朝臣金村之歌中出
 
歌の下に集の字落たる歟、
 
天平五年癸酉遣唐使舶發難波入海之時親母贈子歌一首并短歌
 
此度の遣唐使の事第五に注せり、聖武紀云、夏四月己亥、遣唐四船自2難波津1進發、
 
初、天平五年 績日本紀第十一云。夏四月己亥、遺唐四船自2難波津1進發。此時の哥、第五第八第十九にも散在せり。大使多治比眞人廣成なり。上にくはしく注しき
 
1790 秋芽子乎妻問鹿許曾一獨子之草枕客二師徃者竹珠乎密貫垂齊戸爾木綿取四手而忌日管吾思吾子眞好去有欲得《アキハキヲツマトフカコソヒトツコフタツコモタリトイヘカコシモノワカヒトリコノクサマクラタヒニシユケハタカタマヲシヽニヌキタレイハヒヘニユフトリシテヽイハヒツヽワカオモフワカコマヨシユキテカナヽ》 奴者多本奴去古本
 
(31)秋芽子乎妻問とは、此集にを〔右○〕とに〔右○〕とかよはしてよめる事多ければ秋芽子の咲比に妻問とよめる歟、又妻子を妻とするとも云へば其意歟、鹿兒自物は和名云、陸詞切韻云、鹿斑獣也、其子曰v麑、【音迷、字作v〓、和名加呉、】客二師、師は助語なり、眞好去有欲得はマヨシユケルカナと讀べし、其外の詞ども皆以前出たり、歌下注云、奴者(ハ)多本奴去古本、此は眞好去を多本、奴者、義通じがたければ好去とあるに依と云意を仙覺にや誰にや後人の注せるなり、官本には此注なし、
 
初、秋はきをつまとふかこそ 秋はきに妻とふなり。秋萩の咲比、妻をこふるをいふ。第十三に、みはかしを劔の池とつゝけたるは、みはかしのつるきの池といふこゝろなり。ことにをとにとをは、此集にかよはしていへることおほし。從の字をゝともにとも、時にしたかひてよめるにて心得へし。ひとつ子ふたつ子とは、あるひはひとつもゝち、あるひはふたつもゝつなり。これはひとり子を、彼鹿のひとつ子によそへていはむためなり。鹿兒しもの、鹿の子をかこといふ。※[鹿/弭]の字なり。應神天皇の御子に、※[鹿/弭]《カゴ》坂(ノ)皇子忍熊《オシクマノ》皇子といふ、おはします。※[鹿/弭]《カコ》坂も忍熊も、ともに大和にある所の名なり。和名集云。麑【音迷】亦作v※[鹿/弭](ニ)。しは助語なから、常の助語のしもしにはたかひて、此しもしはかこといふ物といはむかことくにて、なくてはかなはぬ字なり。鳥しもの、鳧しものなといへるにおなし。わかひとり子、第六に、市原王悲2獨子1歌に、ことゝはぬ木すらいもとせ有といふをたゝひとり子にあるかくるしさ。伊勢物語に、ひとつ子にさへありけれは、いとかなしうしたまひけり。諸經の中にも、佛の衆生をひとしくあはれひたまふ事、慈母の一子をおもふかことしと説たまへり。竹玉をしゝにぬきたれ、第三の四十六葉に尺せり。いはひへにゆふとりしでゝ、いはひへも第三に尺せり。齊は上にもいへることく齋に作るへし。してゝは、第十九に鎭而とかきて、してつゝとよめり。今の世四手といふは、字に心あるにあらす。これを奉て、神の御心をもしつむる物なるゆへに、ゆふ取してゝといふを、やかて木綿《ユフ》の名とせるなり。皇極紀云。二年二月国内(ノ)巫覡《カムナキ》等折2取|枝葉《シハヲ》1懸2挂《トリシテ》木綿《ユフ》1、伺2候《ウカヽヒテ》大臣渡v橋之時(ヲ)1、爭《イソヒテ》陳《マウス》2神語《カムコトノ》入v微《タヘナル》之|説《コトハヲ》1。これはとりかくる心を、とりしてゝとよめり。ゆふ取かくるも、心は神をいはひしつむるなれは、心を得てよめるなり。まよしゆきてかな、眞好去有欲得とかきたれは、此點あやまれり。まよしゆけれかなとよまされは、有の字にかなはす。好去はつゝかなくゆきつくをいふ。第五に、山上憶良、大使多治比眞人廣成にをくらるゝ哥を、好去好來歌となつけたるも、つゝかなくゆきて、つゝかなくかへりきたれといふ心をよめれはなり。欲得はまことにがななり。猶願の字冀の字をかける所も有。下に奴者多本、奴去古本といへるは、仙覺律師諸本をもて校せられける時の注なるへし。二の奴の字は、ともに奴の字の誤なるへし。もしともに奴の字ならは、現本をよしとす。奴は一向に誤なり。好者とある多本誤なり。好去ならは、古本今とおなしくよし
 
反歌
 
1791 客人之宿將爲野爾霜降者吾子羽※[果/衣]天乃鶴群《タヒヒトノヤトリセムノニシモフラハワカコハクヽメアマノツルムラ》
 
吾子羽裹は.鳥は羽を以て卵を覆ひ、或は飛時も羽の下に挿で飛べば鳥より起りて人をはぐゝむと云詞もあるなり、日本紀に含の字をクヽムとも點ぜれば羽に含むと云意なり、上に客人と云ひ下に吾子と云へる唯同じ事なれど、上は總じて云ひ下は別して云なり、天乃鶴群とは鶴群はむらづるなり、鶴は高く飛べば天乃といふ.
 
初、たひ人のやとりせん野に 鶴は子を思ふ鳥なれは、ことにわかこはくゝめとあつらふるなるへし。人をはくゝむといふ詞も、鳥のかひこひなを、羽の下にかいはさむよりいへり。こゝには羽裹とかけり。これは心を得てかけるなり。まさしくは、羽含《ハクヽム》といふことなり。上にたひ人といふは、惣して此度の諸人をいふ歟。下のわか子をもいふへし。詩生民之什曰。誕《アヽ》ゥ《ヲケハ》2之寒氷(ニ)1、鳥覆(フ)翼(ス)之。鳥乃去(ヌレハ)矣、后稷|呱《ナキヌ》矣。注(ニ)覆(フ)蓋翼(フ)藉也。以2一翼(ヲ)1覆(ヒ)v之(ヲ)以21翼(ヲ)1藉(クナリ)v之(ヲ)也。これはまさしく、鳥の人をはくゝみけるなり
 
思娘子作歌一首并短歌
 
(32)1792 白玉之人乃其名矣中々二辭緒不延不遇日之數多過者戀日之累行者思遣田時乎白土肝向心摧而珠手次不懸時無口不息吾戀兒矣玉※[金+爪]手爾取持而眞十鏡直目爾不視者下檜山下逝水乃上丹不出吾念情安虚歟毛《シラタマノヒトノソノナヲナカ/\ニコトノヲノヘルアハヌヒノアマタスクレハコフルヒノカサナリユケハオモヒヤルタトキヲシラニキモムカヒコヽロクタケテタマタスキカケヌトキナククチヤマスワカコフルコヲタマタマキテニトリモチマソカヽミタヽメニミスハシタヒヤマシタユクミツノウヘニイテスワカオモフコヽロヤスキソラカモ》
 
白玉之人とは娘子をさせり、詩召南云、有v女v玉(ノ)、文選古詩云、燕趙(ニ)多2佳人1、美者顔加(シ)v玉(ノ)、人乃其名矣中々二辭緒不延とはしのぶ故に名をも中々えいはぬを辭緒不延と云なり、不延集中の例ハヘズと讀べし、思ふ事を云はぬを緒を宛《ワカネ》ておけるが如くなればたとへて辭緒不延とは云へり、肝向はキモムカフと讀べし、以前注しき、口不息吾戀兒矣とは、第十四にも春の野に草はむ駒の、口やまず、あをしのぶらむ家の兒ろはもとよめり、間もなく其人の事の云はるゝなり、玉釧は仙覺抄は古點にたまだすきなりけるを今の如く改て點ぜられたるなり、上にくしろにあらなむとよめる所に注せし如くタマクシロと讀べし、下樋山は攝津國風土記云、昔有2大神1云2天津鰐1、化爲2(33)鷲1而下2止此山1、十人從者五人去五人留、有2久波乎者1來2此山1伏2下樋1而屆2於神(ノ)許(ニ)1、從2此樋(ノ)内1通而祷祭、由v是曰2下樋山1、仙覺抄に能勢郡にありと云へり、下樋の水に寄て上に出ずと云允恭紀に輕太子歌云、阿資臂紀能《アシヒキノ》、椰摩娜烏兎〓利《ヤマタヲツクリ》、椰摩娜箇彌《ヤマタカミ》、斯〓媚烏和之勢《シタヒヲワシセ》、志〓那企貳《シタナキニ》、和餓儺句兎摩《ワカナクツマ》云々、落句は安き空あらむかもの意なり、
 
初、白玉の人のその名を 白玉は、何にてもほめんとていふ詞なり。第五に、山上憶良の子をうしなひてよめる長哥に、わか中のむまれ出たる白玉のわか子古日はといへるかことし。娘子をさして白玉の人といへり。毛詩召南に有(リ)v女如(シ)v玉(ノ)といへり。又詩に玉人とも作れり。ことのをのへすは、おもふことをいはぬは、たとへは物の緒をわがねてをけるかことく、それをいひ出るは、引はへてのふるかことし。人のその名を中々にことのをのへすとは、名をそれともえいひあらはさぬなり。不延をははへすとよみたるが、緒といふにつきてはまさるへし。おもひやるたときをしらには、おもひをはるけやるたよりをしらぬなり。上にもいへることく、此集におもひやる、おもひ過るといふは、おもひをはるけやり、おもひをはるけ過すなり。想像とかきて、おもひやるといふにはたかへり。肝むかふ心くたけて。第二卷に、人まろ石見よりのほらるゝ時の哥に、はふつたのわかれしくれはきもむかふ心をいたみとよまれたる析に委尺せり。第四第十六に、むらきもの心くたけてとよみ、第一に軍王の哥に、むらきもの心をいたみとよみ、第十に、むら肝の心おほえすとよめるむらきもといふと、肝むかふといふとおなし心なり。肝臓にかきらす、あらゆる五臓の神、こと/\く一心にあつまるを、むら肝とも、肝むかふともいへり。日本紀に、心府とかきてこゝろきもとよめり。字書に府(ハ)聚(ナリ)也と注したれは、あらゆるきものむかふことはりなり。文選歌陽建石臨終詩、痛哭(シテ)摧(ク)2心肝(ヲ)1。遊仙窟(ニ)心肝《・キモ》(ノ)恰欲v摧(ント)。又云。下官《ヤツカレ》當(テ)v見(ルニ)2此詩(ヲ)1心膽倶(ニ)碎。くちやますわかこふる子を。常にひとりことなとしてこふるなり。第十四東哥に、春の野に草はむ駒のくちやますあをしのふらん家のころはも、これとおなし心なり。たまたまき、玉※[金+爪]とかけるは、釧の字の誤なり。上の振田向宿禰が、わきもこはくしろにあらなむといふ哥に委尺せしかことし。たまきは、ゆひまきにて鐶の字なり。玉にて作れるは、字したかひて環なり。たまきはてまきなり。※[氏/一]と多と五音相通なり。手をおりてあひみしことをかそふれはといへるは、指を折ことをいへり。此集第八卷に、指折とかきて、手をおりてとよめり。しかれは、たまきといふは、すなはちゆひまきといふにおなし。釧はひちまきなり。金にてつくれるは此字なり。玉もてつくれは※[王+川]の字なり。釧はくしろともよめは、玉くしろとよむへし。玉はほむる詞、又は玉して作れは、玉くしろなり。手に取もちてとは、おもふ人を手に入るゝを、くしろを臂にまくにたとふ。下檜山、津の國にあり。攝津國風土記云。昔有2大神1云2天津鰐(ト)1化(シテ)爲(テ)v鷲(ト)而|下2止《ヲリヰル》此(ノ)山(ニ)1。十人往(ケハ)者五人(ハ)去(テ)五人(ハ)留(マル)。有2久波乎(トイフ)者(ノ)1來(テ)2此山(ニ)1伏(テ)2下樋(ニ)1而|屆《イタツテ》2於神(ノ)許(ニ)1從2此樋(ノ)内1通(シテ)而祷(リ)祭(ル)。由(テ)v是(ニ)曰2下樋山(ト)1。下ゆく水の上に出すといはむために、下樋山を取よせたり。允恭紀(ニ)木梨(ノ)輕(ノ)太子、妹の輕大娘皇女を犯して後、よみたまへる哥に、あしひきの山田を作り、山高み、したひ《・下樋》をわしせ《・令走》、下なき《・泣》に、わかなく《・吾泣》妻、かたなき《・片泣》に、わかなく《・吾泣》妻、こそ/\、やすくつたふれ《・易傳》。下樋はあるもの陰溝なりといへり
 
反歌
 
1793 垣保成人之横辭繁香裳不遭日數多月乃經良武《カキホナスヒトノヨココトシケキカモアハヌヒアマタツキノヘヌラム》
 
不遭日、【官本、遭或作v遇、】
 
發句は第四に出て既に注しき、六帖によをへだてたると云に入れて數多をおほくとあれど、集中の例に依て今取らず、
 
初、垣ほなす人のよこゝと よこしまに人のいひさまたけて、あはせぬは、かきの物をへたてさふるにおなしけれは、かきほなすとはいへり。第四第十一にも此詞あり。次の哥さねわすられすは、まことに不忘なり
 
1794 立易月重而雖不遇核不所忘面影思天《タチカハルツキカサナリテアハサレトサネワスラレスオモカケニシテ》
 
雖不遇、【六帖云、アハネトモ、】
 
月重而はツキヲカサネテともよまるべし、
 
(34)右三首田邊福麻呂之歌集出
 
挽歌
 
宇治若郎子宮所歌一首
 
應神紀云、次妃|和珥《ワニノ》臣(ノ)祖日觸(ノ)使主《オムノ》之女|宮主宅媛《ミヤヌシヤカヒメ》生2兎道稚《ウチノワカ》郎子皇子、矢田皇女、雌鳥(ノ)皇女1、今歌に今木乃嶺とよめるを以て按ずるに、應神天皇輕島豐明宮にして御世を知らせ給ひける時、此宇治若郎子のまし/\ける宮今木の邊に在けるか、荒て後其宮所とて跡の殘れるを見てよめるなるべし、
 
初、宇治若|郎子《イラツコノ》宮所(ノ)歌 宇治若郎子皇子は、應神天皇の太子なり。此哥に、今木の嶺をよめる、心得かたし。先畧して皇子の始終を記すへし。應神紀云。次|妃《ミメ》和珥(ノ)臣(ノ)祖、日觸(ノ)使主《オムノ》之女宮主|宅《ヤカ》媛生2兎道稚郎子《ウチノワカイラツコノ》皇子《ヒコミコト・ミコ》、矢田(ノ)皇女《ヒメミコト》、雌鳥《メトリノ》皇女(トヲ)1。十六年春二月王仁|來《マウケリ》之。則太子兎道(ノ)稚郎子師之習2諸(ノ)典籍《フミヲ》於王仁(ニ)1。莫v不(トイフコト)2通達《トホリサトラ》1。二十八年秋九月、高麗王遣v使朝貢因(テ)以上(レリ)v表《フミ》。其表(ニ)曰。高麗|王《キミ》教《ヲシフトイフ》2日本國(ニ)1也。時(ニ)太子菟道稚郎子讀(テ)2其|表《フミヲ》1怒(テ)之責(ニ)2高麗之|使《ツ ヲ》1以(テ)2表状無(トイフコトヲ)1v醴《イヤ》則|破《ヤフリスツ》2其|表《フミヲ》1。四十年春正月辛丑朔戊申、天皇召(テ)2大山守(ノ)命、大鷦鷯(ノ)尊(ヲ)1問之曰。汝等《イマシタチ》者|愛《ウツクシフヤ》v子耶。對(テ)言(サク)甚(ハタ)愛(クシ)也。亦問之。長《ヒトヽナルト》與v少《ワカキ》就《イツレカ》尤《イトウツクシキ》焉。大山守命對(テ)言。不v逮《シカ》2于|長子《ヒトヽナレルニ》1。於v是天皇有2不v悦《ヨロコヒタマハヌ》之|色《オモヘリ》1。時(ニ)大鷦鷯尊預(シメ)察(テ)2天皇之|色《ミオモヘリヲ》1以對(テ)言。長《ヒトヽナレルハ》者多(ニ)經(テ)2寒(ト)暑(トヲ)1既(ニ)爲2成人《ヒトヽナリタリ》1更無v悒《イキトホリ》矣。唯|少子《ワカキハ》者未v知2其(ノ)成不《ヒトヽナリヒトヽナラヌヲ》1是(ヲ)以(テ)少子甚|憐《カナシ》之。天皇大悦(タマフテ)曰。汝言寔(ニ)合(ヘリ)2朕之心(ニ)1。是時(ニ)天皇常(ニ)有(シマス)d立(テヽ)2菟道(ノ)稚郎子(ヲ)1爲《シタマハムトオホス》2太子(ト)1之|情《ミ 》u。然欲v和《アマナヘタマハント》2二皇子之意(ヲ)1故發(タマフ)2是|問《トヒコトヲ》1。是以(テ)不v悦2大山守命之|對言《ミコタヘヲ》1也。甲子立2菟道稚郎子(ヲ)1爲v嗣《ヒツキト》。即(ノ)日(ニ)任《コトヨサシテ》2大山守命(ニ)1令v掌2山川林野(ヲ)1。以2大鷦鷯尊(ヲ)1爲2太子(ノ)輔《タスケト》1之令v知2國(ノ)事(ヲ)1。仁徳紀云。四十一年春二月、譽田天皇崩。時太子菟道稚郎子讓(マシテ)2位(ヲ)于大鷦鷯尊(ニ)1未v即2帝位《アマツヒツキシロシメサス》1。仍|諮《マウシタマハク》2大鷦鷯尊(ニ)1云々。既(ニシテ)而|興《ツクテ》2宮室《オホミヤヲ》於菟道(ニ)1而|居《マシマス》之。猶由(テ)v讓(ニ)2位(ヲ)於大鷦鷯尊(ニ)1、以久(ク)不v即2皇位《アマツヒツキシロシメサス》1云々。太子曰。我知(レリ)v不(ルコトヲ)v可v奪2兄王《イロエキミノ》之志(ヲ)1。豈久(ク)生(テ)之煩(ハサン)2天(ノ)下(ヲ)1(トノタマヒテ)乎。乃|自《ミ 》死《ヲハタヒヌ》焉云々。仍葬2於菟道山上(ニ)1。仁徳天皇と互に位を讓りたまふ事、委は仁徳紀をみるへし。延喜式第二十一、諸陵式云。宇治墓【菟道稚郎皇子在2山城國宇治郡1。兆域東西十二町。南北十二町。守戸三烟。】宇治に宮造りせさせたまへる事は、仁徳紀に見えたれと、今木あたりの宮の事、考ふる所なし。是は應神天皇、輕嶋豐明宮に、天か下しろしめしける時、此皇子今木におはしましけるなるへし
 
1795 妹等許今木乃嶺茂立嬬待木者古人見祁牟《イモラカリイマキノミネニナミタテルツママツノキハフルヒトミケム》
 
茂立、【官本、茂或作v並、】
 
發句は妹が許へ今來たと云意におけり、今木の嶺は大和國高市郡なり、齊明紀云、四年五月皇孫建王薨、今城谷上起v殯而收、天皇不v忍v哀、傷慟極甚、詔2群臣1曰、萬歳千秋之後、要合2葬於我陵1、輙作v歌曰、伊磨紀那屡《イマキナル》、乎武例我禹杯爾《ヲムレガウヘニ》、倶謨娜尼母《クモダニモ》、旨屡倶之多々婆《シルクシタタバ》、那(35)爾柯那〓柯武《ナニカナゲカム》、又云、十月幸2紀温湯1、天皇憶2皇孫建王1愴爾悲位、乃口號曰、耶麻古曳底《ヤマコエテ》、于瀰倭〓留騰母《ウミワタルトモ》、於母之樓枳《オモシロキ》、伊麻紀能禹知播《イマキノウチハ》、倭須羅〓麻自珥《ワスラユマジニ》、」欽明紀云、七年秋七月倭國今來郡言云々、此外雄略紀皇極紀孝徳紀等に見えたり、新の一字をもイマキとよめり、昔三韓の人の徳化を慕ひて渡り來けるをおかせ給へる故に此名あり、一説に紀伊國と云説ある故に今慥かに和州なる證を出せり、茂立は今按シゲリタツと讀べし、嬬待木とは松の木とのみ云ひては字の足らねばかくは云へり、石上袖振川と云類なり、古人見祁牟とは稚郎子皇子の宮所は唯跡をのみ申傳ふるに、今木嶺の松は昔の人もかくこそ見けむを今も替らずして茂りて立るよと感概を起すなり、又は皇子の宮の中より御覽ぜられけむと云意にや、
 
初、いもらかりいま木のみねに いもかもとへ今來るといふ心につゝけたり。第十に、藤浪のちらまくをしみほとゝきす今城の岳をなきてこゆなり。これもほとゝきす今來るとつゝけたり。此今木嶺とも、今木岡ともいへるを、八雲御抄に、紀伊と注せさせ給へるは、よくも考させ給はさりけるなり。もし此下に、紀伊國作哥とつゝきたるを、おほしめしわたらせたまひて、あやまらせたまへる歟。これはたしかに大和國なり。雄畧紀云。於是大臣(ト)圓《ツフラ》與2黒彦皇子眉輪王1倶(ニ)被《レヌ》2燔|殺《コロサ》1。〇合(セ)2葬|新漢《イマキノアヤノ》擬《ツキ》本(ノ)南(ノ)丘(ニ)1。【擬字未v詳蓋是槻乎。】欽明紀云。七年秋七月倭國|今來《イマキノ》郡言(ス)云々。今和州十五郡の中に今來郡なし。後に名の改ける歟。隣近の郡に并せけるなるへし。雄畧紀に、新の字をいまきとよみ、欽明紀に今來とあるは、案するに、いにしへ三韓の人、我國の王化をしたひて渡り來けるを、こゝかしこにおかせたまへり。新漢《イマキノアヤ》とあれは、彼等か今渡り來たるを、おかせたまへる所なれは、今來《イマキ》とはいへるなるへし。皇極紀云。蘇我(ノ)大臣(ト)盡(クニ)發(シテ)2擧(リテ)國之民并百八十(ノ)部曲《カキタミヲ》1預(カメ)造(ル)2雙(ツノ)墓(ヲ)今來(ニ)1。孝徳紀云。蘇我倉山田麻呂大臣自2茅渟(ノ)道1逃(テ)向2於倭國境(ニ)1。大臣(ノ)長子《エコ》興志〇迎2於今來(ノ)大槻(ノモト)1。齊明紀云。四年五月皇孫|建《タケルノ》王八歳(ニシテ)薨。今城《イマキ》谷(ノ)上(ニ)起(テ)v殯《モカリヲ》而收。天皇本以2皇孫《ミマノ》有1v順而器2重之1。故不v忍2哀傷1慟《マトヒタマフコト》極(テ)甚。詔2群臣《マチキムタチニ》1曰萬歳千秋之後(ニハ)要(ラス)合(セ)2葬(レ)於|朕《ワカ》陵(ニ)1。輒作v歌曰。伊磨紀那屡、乎武例我禹|杯《ヘ》爾、倶謨娜尼母、旨屡倶之多々婆、那爾柯那|皚《ケ》柯武【其一。其二其三略v之。】又云。十月|幸《イテマス》2紀(ノ)温湯(ニ)1。天皇|憶《オホシテ》2 皇孫建王(ヲ)1愴爾悲泣乃口號《イタミカナイサチタマフクツウタテ》曰。耶麻古曳《・山越》底、于瀰倭柁留騰母《・海渡雖》、於母之樓枳《※[立心偏+可]怜》、伊麻紀能兎知播《今來内》、倭須羅〓麻自珥《忘不》【其一(ナリ)。其二其三略v之。】天武紀云。十一年三月甲午朔、命2小紫三野王及宮内官|大夫等《カミヲ》1遣2于|新城《イマキニ》1令v見(セ)2其|地形《トコロノアリカタヲ》1。仍將v都矣。大かたは高市にあるなるへし。つままつの木はとは、これ妻といふに用あるにあらす。松の木といふにもしのたらねは、君待の木といへるたくひに、つまゝつの木といふなり。ふる人見けむとは、稚郎子皇子をさして申奉るにや。こゝろは今木の嶺に幾千歳を経たりともしらぬ松の木のなみたてるを、いにしへ皇子の、宮の内よりなかめさせたまへるまゝにて、今もたてるらんと感慨をおこしてよめるなり
 
紀伊國作歌四首
 
初、紀伊國作歌 後の注に人麻呂歌集に出といへり。これは人麻呂の歌歟。こと人のよめるを書載てをかれたる歟。四首の哥をみるに、さきに夫婦ともに、紀の國にあそひて、後に妻は死して、ひとりのみふたゝひ昔見し浦々を見て、なけきてよめる哥なり。人麻呂の哥ならは、さきにも彼國にいたりてよまれたる哥見ゆへきに、なけれは、こと人の哥歟。人麻呂の哥ならは、天武天皇四年以後の哥なるへし。委第二卷に妻の身まかられたる時よまれたる哥ともにつきて尺しき
 
1796 黄葉之過去子等携遊礒麻見者悲裳《モミチハノスキユクコラトタツサヒテアソヒシイソマミレハカナシモ》
 
携、【別校本云、タツサハリ、官本云、ナツサヒテ、】
 
過去はスギニシとも讀べし、此四首は前に妻と共に紀州に遊て、後に妻なくなりて(36)又獨行て昔諸共に見し處々を見て悲てよめるなり、
 
初、もみちはの過行こらと もみちを紅顔になすらへてほとなく散過るもまた、なくなる人に似れは、もみち葉の過行こらとはいへり。第二第十三にもよめり。第一卷に、輕皇子宿2于安騎野1時人麿の奉られける哥の反哥に、みくさかるあら野にはあれと葉過ゆく君かかたみとあとよりそこし。此哥の所に申せしことく、これは葉の字の上に黄の字の有けんが、おちて、もみち葉の過ゆく君かかたみとそこしにて、今の哥とおなしつゝきにて侍らん
 
1797 塩氣立荒礒丹者雖在往水之過去妹之方見等曾來《シホケタツアリソニハアレトユクミツノスキユクイモカカタミトソクル》
 
雖在、【幽齋本云、アレト、】  過去、【六帖云、スキニシ、】
 
塩氣は第二に塩氣のみかほれる國にと云に注せり、荒礒はアリソと讀べし、
 
初、塩氣たつありそにはあれと 第二に、しほけのみかをれる國にと、伊勢の國のことをいへるありき。塩けふりのたつなり。ありそにはあれとゝいふより下は、次上に引る、みくさかるあら野にはあれとゝいふ哥に、心あひにたり
 
1798 古家丹妹等吾見黒玉之久漏牛方乎見佐府下《フルイヘニイモトワカアシヌハタマノクロウシカタヲミレハサフシモ》
 
古家を第三第十一にイニシヘと點ぜり、今は尤然讀べき所なり、吾見はワガミシと讃べし、今の點は書生の誤れるなり、
 
初、いにしへにいもとわかみし 古家をふるいへとよめるは誤なり。第三に、長屋王の哥に、わかせこかいにしへのさとのあすかにはとある哥にも、古家とそかける。くろしかたは、第七にも、此上の第八葉にも有。さふしもはさひしもなり。布と比と五音相通せり。不樂とかきてさひしとよめり。常いふよりはおもし
 
1799 玉津島礒之裏末之真名仁文爾保比去名妹觸險《タマツシマイソノウラマノマナコニモニホヒテユカナイモヽフレケム》
 
眞名の下にコ〔右○〕と讀べき字落たり、落句はイモニフレケムと讀べし、第三のみづ/\しくめの若子と云歌引合て見るべし、
 
初、玉つしまいそのうらまの 眞名、此下にことよむ字おちたり。にほひてゆかなはゆかんなゝり。妹にふれけむとは、妹か見し時、身にふれけむさへなつかしとなり。にほひてゆかなは、上にも、すみょしのきしのはにふにゝほひてゆかむなと、あまた見えたり
 
右五首柿本朝臣人麻呂之歌集出
 
(37)過足柄板見死人作歌一首
 
坂を誤て板に作れり、
 
初、過2足柄坂1 坂誤作板。これより下七首田邊福麿集出
 
1800 小垣内之麻矣引干妹名根之作服異六白細乃※[糸+刃]緒毛不解一重結帶矣三重結苦侍伎爾仕奉而今谷裳國爾退而父妣毛妻矣毛將見跡思乍往祁牟君者鳥鳴東國能恐耶神之三坂爾和靈乃服寒等丹烏玉乃髪者亂而郡問跡國矣毛不告家問跡家矣毛不云益荒夫乃去能進爾此間偃有《ヲカキウチノアサヲヒキホシイモナネノツクリキセケムシロタヘノヒモヲモトカスヒトヘユフオヒヲミヘユヒクルシキニツカヘマツリテイマタニモクニニカヘリテチヽハヽモツマヲモミムトオモヒツヽユキケムキミハトリカナクアツマノクニノカシコミヤカミノミサカニニキタマノコロモサムラニヌハタマノカミハミタエテクニトヘトクニヲモツケスイヘトヘトイヘヲモイハスマスラヲノユキノスヽミニコヽニフシタリ》
 
初の二句は孟子云、五畝(ノ)之宅、樹牆下以v桑(ヲ)、匹婦蠶v之、則老者足以衣1v帛(ヲ)矣、此意に似たり、麻は皮を剥て池に浸して又乾す物なれば引干とはいへり、妹名根は神代紀に姉の字をナネと點ぜり、名姉《ナネ》なり、妹と云ひて又姉と云べきにあらねど、妹とは親しみて並て呼詞にて姉は又女を敬まひて云へば姉妹の義を密しくは見ずして唯親みて(38)兼て敬ふ詞なりと大樣に知るべし、紐緒毛不解は紐の緒とも、又緒は詞の字とも云に妨げなし、退而はマカリテとも讀べし、第七に百師木之大宮人之退出而云々、此退出而を六帖にはまかりいでゝとあるに准らふべし、神ノ三坂は足柄なり、和靈は神功皇后紀云、和魂服2玉身1而2守壽命1、荒魂爲2先鋒1而導v師、【和魂此云2珥岐弭多摩1、荒魂此云2阿邏多摩1、】此は神の御上なり、凡人に付て云はゞ存生にあらはにはたらく心をば荒魂《アラタマ》と云ひ、死して伏する幽魂を和魂と云べし、第二に新魂《ムツタマ》とよめると同じかるべし、服寒等丹は衣も寒氣に見ゆるなり、郡は官本に邦に作れるに從がふべし、
 
初、小垣内の麻を引ほし 孟子曰。五畝之宅樹(ルニ)2牆下(ニ)1以v桑(ヲ)、匹婦蠶之則老者足(レリ)2以衣(ルニ)1v帛(ヲ)矣。妹なねのは、なはなせの君、なにも、なあになと上にもつけ、又せな、いもなねなと下にも付る字なり。白たへのひもをもとかす。此白たへといへるは、すなはち衣なり。衣は白きをもとゝするゆへなり。衣といはすして、白たへとのみいへるは、あしひきとのみいひて、山とするにおなし。白妙の衣のひもと心得へし。白妙の紐とつゝけて、紐を白たへといふにはあらす。ひもをもとかすは、紐緒毛不解とかきたれは、紐緒はひものをなり。てにをはのをにはあらす。一重ゆふおひをみへゆひ。第四にも第十三にも、またかくよめり。古詩に衣帶|日《ヒヽニ》已(ニ)緩と作れることく、身心疲弊して痩るなり。神のみさかに、足柄坂をさしていへり。かやうの所には、まもる神おはするゆへなり。にきたまのころもさむらに、にきたまは死人のたましゐなり。にきたへの衣といへるやうにつゝけたるにはあらす。衣の薄くてあれは、たましゐもさむからんやうにいふなり。古詩云。涼風|率《ニハカニ》已(ニ)氏sハケシ》、游子寒(シテ)無(シ)v衣。ぬは玉の髪はみたれて。髪はくろき物なれは、ぬは玉のくろかみといふ心につゝけたり。くにとへと國をもつけす。郡問跡とかけるは、郡をもくにとよむか。なにはのくに、よしのゝくにともいひて、國といふに寛狹あれは、郡をもくにとはよみぬへし。若は邦の字を誤れるか。又君の字の音を、ならなくにといふくにのてにをはに借用たる所もあれは、郡も音を取て用る歟。丹波をたにはと云、難波をなにはといふことく、郡なとはぬる字を、和語に用る時は、くにとやうによむなり
 
過葦屋處女墓時作歌一首并短歌
 
處女墓をよめるは此歌并に下の高橋虫丸集の歌及び第十九に家持のよまれたる歌に其故詳なれば注せず、大和物語に又一説ありて委けれど彼は此集を本として後人の作れる事と見えたり、
 
初、過葦屋處女墓 此うなひをとめをよめる哥は、此下の三十五葉にも有。第十九の廿六葉に、家持もよまれたり。大和物語に、これにつきて物語も見えたり。葦屋は津の國兎原郡なり。人まろの哥に、玉もかるをとめを過てなと、そのほかも、をとめとよみて、所の名とせるは、此處女墓あるによりて、葦星のなたをいへり。此事いつれの時といふ事をしらす
 
1801 古之益荒丁子各競妻問爲祁牟葦屋乃菟名日處女乃奧城矣吾立見者永世乃語爾爲乍後人偲爾世武等玉桙乃道邊(39)近磐構作冢矣天雲乃退部乃限此道矣去人毎行因射立嘆日惑人者啼爾毛哭乍語嗣偲繼來處女等賀奥城所吾并見者悲裳古思者《イニシヘノマスラヲノコノアヒキホヒツマトヒシケムアシノヤノウナヒヲトメノオキツキヲワカタチミレハナカキヨノカタリニシツヽノチノヒトシノヒニセムトタマホコノミチノヘチカクイハカマヘツクレルツカヲアマクモノシリヘノカキリコノミチヲユクヒトコトニユキヨリテイタチナケカムヒワヒヒトハネニモナキツヽカタリツキシノヒツキクルヲトメラカオキツキトコロワレシタミレハカナシモムカシオモヘハ》
 
丁子、【校本云、ヲトコノ、】  悲裳、【官本裳作v裘、以v裳注v異、】
 
古之荒益丁子とは血沼壯子《チヌヲトコ》と菟原壯士《ウナビヲトコ》となり、今の反歌に小竹田丁子と云へるは、菟原壯士とは住所を以て呼てそれが氏を小竹田と云ひけるなるべし、天雲乃退部乃限は、退部をシリヘと點ぜるは誤なり、ソキヘノキハミと讀べし、傍例多き中に第十九云、天雲能曾伎敝能伎波美云々、第三云、天雲乃曾久敝能極云々、射立嘆日は、射は發語の詞なり、惑人とは常は貧しくて世に有わぶる人を云やうにのみ思ひ相へり、まどふ人なり、奧城所はオクツキドコロと讀べし、第二に注せしが如し、吾并をワレシマタと點ぜるは誤なり、ワレナヘニと讀べし、并をなへ〔二字右○〕とよめる事集中の例數ふるに遑なし、
 
初、いにしへのますらをのこ さゝ田とちぬとのふたりをいふ。丁は強也壯也と注せり。本朝には廿一歳以上を上丁とさためらる。うなひをとめは、海邊處女なり。海邊にうまれけれは、海邊《ウナヒ》といふを名とせる歟。また海邊の美女なれは、おしてなつくるか。おきつきはおくつきともいふ。墓の事なり。すなはち日本紀には、墓の字をよみ又丘墓ともかけり。天雲のそきへのかきり。退部とかけるを、しりへとよめるはわろし。第四には、天雲の遠隔《ソキヘ》の極《キハミ》とよみ、第六には、山のそき野のそきとよみ、第十七には、山河乃曾伎敝乎登保美とよみ、第十九にも、天雲能曾伎敝能伎波美とよめり。そきはさかるといふにおなし心なり。退の字をしりそくとよむは、しりへにそくにて、しりへのかたへ遠さかるなり。されは天雲のそきへのかきりは、天雲の遠さかり行かきりなり。天雲のむかふす限といへるにおなし。又君かあたりやゝ遠そきぬとよめる哥も有。いたちなけかひ、いは發語の辞、立とゝまりて、見てなけくなり。わひ人は啼にもなきつゝ。常にわひ人といふは、まつしくて、世にありわふる人をいへり。今いへるは、惑人とかけれは、ふかくかなしみて、心のまとふ人をいへり。常にいふわひ人も、いかにして、世を過さんともしらて、おもひまとふ心なり。わひしきといふ詞も、惑の字にて意得へし。吾并はわれさへにとよむへし。此集餘所に并の字をさへとよめり
 
(40)反歌
 
1802 古乃小竹田丁子乃妻問石菟會處女乃奥城叙此《イニシヘノサヽタヲノコノツマトヒシウナヒヲトメノオキツキソコレ》
 
奥城、【袖中抄云、オクツキ、】
 
奥城は袖中砂に依て讀べし、
 
1803 語繼可良仁毛幾許戀布矣直目爾見兼古丁子《カタリツクカラニモコヽタコヒシキヲタヽメニミケムムカシノヲノコ》
 
一二の句のつゞきは第七に手に取しからに忘るととよめるに同じ、下句は直目に見けむ心如何なりけむとなり、
 
初、かたりつくからにも たゝめにみけむはまのあたりみけむなり。身をなけゝるをいへり。むかしのをのこといひたるは、昔のをのこはさこそかなしかりけめなり。上のもの字下をかねたり
 
哀弟死去作歌一首并短歌
 
1804 父母賀成之任爾箸向弟乃命者朝露乃銷易杵壽神之共荒競不得而葦原乃水穗之國爾家無哉又還不來遠津國黄泉(41)乃界丹蔓都多乃各各向向天雲乃別石徃者闇夜成思迷匍匐所射十六乃意矣痛葦垣之思亂而春烏能啼耳鳴乍味澤相宵畫不云蜻※[虫+廷]火之心所燒管悲悽別焉《チヽハヽカナシノマニ/\ハシムカフナセノミコトハアサツユノケヤスキイノチカミノムタアラソヒカネテアシハラノミツホノクニニイヘナシヤマタカヘリコヌトホツクニヨミノサカヒニハフツタノオノカムキムキアマクモノワカレシユケハヤミヨナスオモヒマトハシイルシヽノコヽロヲイタミアシカキノオモヒミタレテウクヒスノナキニナキツヽアチサハフヨルヒルイハスカケロフノコヽロモエツヽナケクワカレヲ》
 
弟乃、【官本又云、ヲトノ、】  思迷匍匐、【別校本云、オモヒマトハヒ、】  啼耳、【別校本又云、ネノミ、】
 
擧る所の點の異、異に依るべし、成乃任爾は、なす〔二字右○〕はうむ〔二字右○〕なり、うみのまゝなり、神代紀上云、若汝心明淨、不v有2陵奪之意1者、汝所生兒必(ラス)當男矣、竹取物語云、むすめを我にたべと伏拜み手をすりのたまへど、おのがなさぬ子なれば心にも隨がへずとなむ云ひて月日を送る、箸向フは兄弟たゞ二人あるを箸の指向ひたるに譬へて云なり、世俗の詞に兄弟のみあるを云とて箸折かゞめと云なるは意得がたけれど、今の詞を以て會釋せば箸を折かゞめと云にはあらで、竹などを著に折たるやうに唯指向ひたる兄弟と云意なるべし、神之共荒競不勝而は第二に空蝉し神にたへねばと有し意なり、壽を神と共に爭ふことあたはずなり、あらそふと云詞は今荒競とかける如くあらくきそふと云略なるべし、家無哉は家はあれどもなど還り來ぬとなり、蔓都多(42)は上の黄泉乃界丹につゞくにあらず、蔓都多乃《ハフツタノ》各各向向遠津國黄泉乃界丹天雲乃別石往者と句を置替て言得べし、各々も下の向々の點に准ぜばおの/\と讀べきにや、別シのし〔右○〕は助語なり、闇夜戚は、闇には迷ふ物なれば、まどはひと云はむためなり、所射十六は、齊明紀に天皇御製云。伊喩之之乎都那遇河播杯能倭扞矩娑能《イユシヽヲツナグカハベノワカクサニ》云々、此に依て今も古風を存してイユシヽノと讀べし、流を由に通はし用たる事集中傍例多し、味澤相は宵のよ〔右○〕もじを吉と云意につゞけたる歟、第二第六第十一第十二には皆目とつゞけたり、蔓都多乃と云より蜻※[虫+廷]火之と云まで二の句毎に枕辭を置たり、
 
初、ちゝはゝかなしのまに/\ なすはうむなり。うみのまゝなり。神代紀上云。若|汝《イマシカ》心|明浄《キヨウシテ》不v有《アラヌ》2凌(キ)奪(ハントイフ)之|意《コヽロ》1者《モノアラハ》、汝《》所v生《ナサム》兒《コ》必(ラス)當(ニ)v男《マスラヲナラン》矣。竹取物語に云。この人々、ある時は竹とりをよひ出して、むすめをわれにたへと、ふしをかみ手をすりのたまへと、をのかなさぬこなれは、心にもしたかへすとなんいひて、つきひをゝくるといへり。はしむかふなせのみことは。箸はふたつさしむかへるものなれは、箸向ふといへり。今の俗にたゝふたりある兄弟を箸をりかゝめといふは、をりかゝめこそ心得かたけれと、此箸むかふといふ古語の遺《ノコ》れるなるへし。なせは弟の字なれは、をとのみことゝよむへし。なせは兄をいひ、夫をいへり。朝露のけやすきいのち、神のむたあらそひかねて。神とゝもにあらそひかぬるなり。神は壽命長遠なるものなれはなり。第二に、天智天皇の崩し給ふ時、婦人のよめる哥にも、うつせみし神にたへねはといへる今とおなし。家なしや又かへりこぬとは、家なしや、家はあれと、なとか又かへりこぬそとなり。此所句なり。とほつくによみのさかひにはふつたのをのかむき/\。よみのさかひに、つたのはふといふにはあらす。よみのさかひにと讀切て、はふつたのをのかむき/\と心得へし。第二に、人麻呂の、石見より上らるゝ時の歌に、はふつたのわかれしくれはとあるにおなし。つたのもとはひとつなるが、末はこなたかなたへはひわかるゝにたとへて、をのかむき/\といへり。天雲のわかれしゆけは。つたをかりては、をのかむき/\とのみいへは、かさねて雲をかりて、わかれしゆけはといへり。やみよなすおもひまとはひ。やみよのことくまとふなり。まとはしとよめるは、おなし事なから、誤れり。迷匍匐とかけるものを。いるしゝのこゝろをいたみ。矢にあたれるしゝのいたむことく、心をいたましむるなり。あしかきのおもひみたれてとは、あしをつかねてゆひたる垣は、すちもとほらねは、みたるといはむとて、蘆垣とおく歟。又第六に、あし垣のふりにし里ともよみたれは、ふりたる蘆垣の、とかくみたるゝによせていへるなるへし。春鳥のねのみなきつゝ。春鳥とかきて、うくひすとよむ事は、第二の三十五葉に、春鳥《ウクヒス》のさまよひぬれはとあるに注せり。又第廿の三十七葉に、春鳥《ウクヒス》のこゑのさまよひといへるにも、おなしうかけり。ねのみは啼耳とかけれは、なきになきつゝとよめれと、此集に耳の字は多分のみとよみて、音を取てよめる事はまれなれは、ねのみなきつゝと讀を、よしとすへし。あちさはふよるひるいはす。あちさはふは、第二よりはしめて第十一第十二にもよめり。あちはよき事なり。さはゝ多の字をさはとよむ心にて、よきことのおほくよりあふは、よきなれは、よるといふよの字にかけていへるにや。かけろふの心もえつゝ、これは憂火にやかるゝをいへり。かけろふの事、長流か枕詞燭明抄に委尺せり。今蜻※[虫+廷]とかけるは、ほのほのもゆるは、ゑんはのほのめくに似たればか。古事紀に、履中天皇のよませたまへる御哥は、まさしく火なり。所詮火も、陽炎も、蜻※[虫+廷]も、みなほのめくこと、影のかけろふことくなれは、かけろふといふなるへし
 
反歌
 
1805 別而裳復毛可遭所念者心亂吾戀目八方《ワカレテモマタモアフヘクオモホヘハコヽロミタレテワレコヒメヤモ》
 
一云意盡而
 
コヽロツキテと點ぜるは誤なり.コヽロツクシテと讀べきなり、
 
1806 蘆檜木笶荒山中爾送置而還良布見者情苦喪《アシヒキノアラヤマナカニオクリオキテカヘラフミレハコヽロクルシモ》
 
(43)つれ/”\草、かゝらばけうとき山の中にをさめてとかけるも此歌の面影あり、
 
初、あしひきのあら山中に 兼好法師かからはけうとき山の中におさめてといへる、もし此哥をふみてかけるにや
 
右七首田邊福麿之歌集出
 
詠勝鹿真間娘子歌一首并短歌
 
初、詠勝鹿眞間娘子歌 勝鹿は下總國葛飾郡なり。眞間娘子か事、第三に赤人もよまれ、第十四東哥にも二首見えたり
 
1807 鶏鳴吾妻乃國爾古昔爾有家留事登至今不絶意來勝牡鹿乃眞間乃手兒奈我麻衣爾青衿著直佐麻乎裳者織服而髪谷母掻者不梳履乎谷不看雖行錦綾之中丹※[果/衣]有齊兒毛妹爾將及哉望月之滿有面輪二如花咲而立有者夏蟲乃入火之如水門入爾船已具如久歸香具禮人乃言時幾時毛不生物呼何爲跡歟身乎田名知而浪音乃驟湊之奥津城爾妹之臥勢流遠代爾有家類事乎昨日霜將見我其登毛所念可聞《トリガナクアツマノクニイニシヘニアリケルコトトイママテニタエスイヒタルカツシカノマヽノテコナカアサキヌニアヲフスマキテヒタサヲヲモニハヲリキテカミタニモカキハケツラスクツヲタニハカテユケトモニシキアヤノナカニツヽメルイハイコモイモニシカメヤモチツキノミテルオモワニハナノコトヱミテタテレハナツムシノヒニイルカコトミナトイリニフネコクコトクユキカクレヒトノイフトキイクトキモイケラヌモノヲナニストカミヲタナシリテナミノオトノサワクミナトノオキツキニイモカフシセルトホキヨニアリケルコトヲキノフシモミモムカコトモオモホユルカモ》
 
(44)青衿著、【官本又云、アヲクヒツケテ、】  不梳、【官本又云、ケツラテ、】  不看、【別校本、看作v著、】  中丹、【官本、丹、或作v爾、】  幾時毛、【別校本又云、イクハクモ、】  浪音乃、【別校本云、ナミノトノ、】  臥勢流、【別校本云、コヤセル、】  將見我其其登毛、【校本又云、ミケムカコトモ、】
 
青衿著はアヲクヒツケテと讀べし、今の點は大きに誤れり、毛詩云、青々(タル)子衿、傳云、青衿(ハ)青領也、爾雅云、衿、交領、與v襟同、和名云、釋名云、衿、【音領、古呂毛乃久比、】頸也、所2以擁1v頸也、襟【音禁】禁也、交2於前1、所3以禁2禦(スル)風寒(ヲ)1也、此集第十六竹取翁歌云、頸著之童子蚊見庭《クビツキノウナヒゴカミニハ》云々、今フスマと點ぜるは衾の字に思ひまがへたる歟、直佐麻とは、佐は、そへて云詞、ひたすらの麻なり、不看は不著に作れる本に隨ふべし、史記滑稽傳云、東郭先生久待2詔(ヲ)公車(ニ)1、貧困※[食+幾]寒、衣敝(レ)履不v完、行2雪中(ヲ)1、履有v上無v下、足盡踐v地(ヲ)、道中(ノ)人笑(フ)v之、戰國策云、賁諸(ハ)懷2錐刃(ヲ)1而(モ)天下爲v勇、西施衣v褐而天下稱v美(ヲ)、宋玉登徒子好色賦云、體美(シク)、容冶、不v待2飾※[米+莊](ヲ)1、柳妃外傳云、※[將の旁+虎]國不v施2脂粉1自《オノ》美艶(ナリ)、常素面朝v天云々、齊子は齊は齋に作るべし、面輪は第十九云、眞珠乃見我保之御面《マタマノミカホシミオモワ》、【御面謂2之(ヲ)美於毛和(ト)1】佛を讃歎する詞にも面輪圓淨如2滿月1と云へり、輪は車輪などの如く圓滿して缺たる處なき意なり、夏蟲乃入火之如は出曜經偈云、亦如d魚食v鉤(ヲ)、飛蛾入c燈火u、踐心(ニ)投2色欲1、不v惟2後受1v禍(ヲ)、心地觀經第六云、譬(ヘハ)如d飛蛾見2火光1、以v愛v火故而競(ヒ)入、不v知2※[火+陷の旁]※[火+主]燒燃力1、夭2命火中(ニ)1、甘c自焚u、世間(ノ)凡夫亦如v是、貪2愛好色1而追求、不v知3色欲染著人(45)還被2火燒1成2衆苦1、此心地觀經の文は此處によく叶ひたれども、此經は李唐憲宗元和六年に般若三藏の譯し給へば、此經に據にはあらず、莊子云、不v安2其味1而樂2其明1、是猶2蛾(ノ)去v暗(ヲ)赴v燈而死1、水門入爾船己具如久とは、湊入には我さきにと急て※[手偏+旁]なり、和名云、金谷園記云、今之競渡【布奈久良倍】楚國風也、何爲跡歟、今按是は女の思ひ取て身を投る意を云へばナニストカの點は叶はず、ナニセムトカと讀べし、幾時も生ぬ物故に我故に多くの人々を爭そはせて何かせむと思ひてか身を捨つらむとなり、浪音はナミノトと點ぜるに依べし、なみのとかぜのととよめる事集中多し、奥津城またオクツキと讀べし、昨日霜の霜助語なり、將見はミケムと讀べし、昨日見たらむやうに思ふとは、まぢかく見る事はます/\悲しければ、遠き代の事なれど近く目に見たる事のやうに悲しきとなり、
 
初、とりかなくあつまの國にいにしへに有けることゝ 赤人の哥にも、いにしへにありけむ人の、しつはたのおひときかへて、ふせやたてつまとひしけむ、かつしかのまゝのてこながなとよまれたれは、いとあがれる世の事なるへし。あさきぬにあをえりつけて、青衿著とかけるを、あをふすまきてとあるかんなは手をうちてわらふへし。これかならす後の人のしわさなるへし。衿(ハ)與v襟同(シ)。衣(ノ)領《エリ》也。毛詩子衿(ノ)篇(ニ)曰。青々(タル)子(カ)衿《コロモクヒ》、悠々(タル)我(カ)心(アリ)。傳曰。青衿(ハ)青(キ)領《コロモクヒナリ》也。學者(ノ)之所v服(ル)。箋(ニ)云。禮(ニ)父母在(ストキハ)衣純(ニ)以(ス)v青(ヲ)。ひたさをゝ。さは助字なり。ひたはひたすらなり。身にきるものはひたすら麻苧を織てきるとなり。衣裳のよからぬをいふなり。くつをたにはかてゆけとも。史記滑稽傳云。東郭先生久待詔公車、貧困饑寒衣敝履不v完(カラ)。行(ニ)2雪中(ヲ)1履有(テ)v上無(シ)v下。足盡(ク)踐(ム)v地(ヲ)。道中(ノ)人笑(フ)之。不著を不看に作れるは誤れり。戦國策云。賁諸(ハ)【孟賁專諸】懷(ケトモ)2錐刃(ヲ)1而(モ)天下爲v勇(ト)。西施(ハ)衣(レトモ)v褐(ヲ)而(モ)天下(ス)v美(ス)。文選宋玉(カ)登都子(カ)好色(ノ)賦(ニ)曰。體美(シク)容|冶《ウルハシウシテ》不v待(タ)2飾※[米+莊](ヲ)1。楊妃外傳云。※[〓+虎]國不(レトモ)v施2脂粉(ヲ)1自《ヲ》美艶(ナリ)。常(ニ)素面(ニシテ)朝(ス)v天(ニ)。當時杜甫有v詩云。※[〓+虎]國夫人承(ク)2主恩(ヲ)1、平明(ニ)上(テ)v馬(ニ)入(ル)2宮門(ニ)1、却(テ)嫌(テ)3脂粉(ノ)※[さんずい+宛](スコト)2顔色(ヲ)1、淡(ク)掃(テ)2蛾眉(ヲ)1朝(ス)2至尊(ニ)1。にしきあやの中につゝめるいはひ子も。長流か本にはいつきことよめり。いはふもいつくにおなし。良家(ノ)子《ムスメ》といふとも、此娘子にしかしなり。もち月のみてるおもわに。經に佛を讃していはく。面輪圓淨(ニシテ)如(シ)2滿月(ノ)1。第十九の十六葉にいはく。眞珠乃《シラタマノ》、見我保之御面《ミカホシミオモテ》【御面謂2之(ヲ)美於毛和(ト)1。】夏蟲の火に入かこと、みなと入に舟こくことく。夏虫は火の光を愛して身を捨る物なるゆへに、色を好む譬に經におほく出たり。莊子云。不(シテ)v安(ンセ)2其昧(ヲ)1而樂(シムハ)2其(ノ)明(ヲ)1是猶(ヲ)《・コトシ》2夕蛾(ノ)去(テ)v暗(ヲ)赴(テ)v燈(ニ)而死(スルカ)1。簡齋詩云。陽光不2照臨(セ)1、積陰生(ス)2此類(ヲ)1、非(ス)v無(ニ)2惜(ム)v死(ヲ)心1、素(ヨリ)有2賊《ソコナフ》v明(ヲ)意1、粉(ハ)穿(テ)2紅焔(ヲ)1焦(レ)、翅(ハ)撲(テ)2蘭膏(ヲ)1沸(ク)、爲(ニ)v汝(カ)一傷嗟(ス)、自《ミ》棄(ツ)非(ス)2天(ノ)棄(ルニハ)1。経文は上に引るかことし。みなと入に舟こくも、ふなくらへとて、我さきにといそく物なれは、此女をめてゝ人のまとひくるをいへり。荊楚歳時記云。南方競渡(ノ)者治(テ)2其船(ヲ)1使(ルヲ)2輕利(ナラ)1謂2之(ヲ)飛鳧(ト)1。いく時もいけらぬ物を、なにせんとか、なにすとかといふかんなは心たかへり。身をたな知て、身を知なり。第一卷にも、身はたなしらすとよめり。霞たな引といふに、輕引とかけれは、たな知は、身をかろき物と知心歟。浪のおとのさはくみなとの、おきつきにいもかふしせる。蘆屋のうなひをとめかことく、人のわれえむとあらそふにうむして、身をなけゝるなり。きのふしもみけんかことも。次下の長哥の終にも、にひものこともなけきつるかもとあり。今もその心なり。遠き代のことなれと、きのふしもまのあたりわか見たるやうに、なけかるゝといふ心なり
 
反歌
 
1808 勝牡鹿之眞間之井見者立平之水※[手偏+邑]家牟手兒名之所念《カツシカノマヽノヰミレハタチナラシミツヲクミケムテコナシソオモフ》
 
家无、【官本、牟或作v武、】
 
(46)所念はオモホユと讀べし、手兒名との之は助語なり、
 
初、かつしかのまゝの井みれは 彼娘子くつをたにはかて、此井をくめるなり
 
見菟原處女墓歌一首并短歌
 
(183)1809 葦屋之菟名負處女之八年兒之片生之時從小放爾髪多久麻庭爾並居家爾毛不所見虚木綿乃※[穴/牛]而座在者見而師香跡悒憤時之垣廬成人之誂時智奴壯士宇奈比壯士乃廬八燎須酒師競相結婚爲家類時者燒太刀乃手預押禰利白檀弓靱取負而入水火爾毛將入跡立向競時爾吾妹子之母爾語久倭文手纒賤吾之故大夫之荒爭見者雖生應合有哉完串呂黄泉爾將待跡隱沼乃下延置而打嘆妹之去者血沼壯士其夜夢見取次寸追去祁禮婆後有菟原壯士伊仰天※[口+斗]於(47)良妣※[足+昆]他牙喫建怒而如己男爾負而者不有跡懸佩之小釼取佩冬※[草がんむり/(金+又)]蕷都良尋去祁禮婆親族共射歸集永代爾※[手偏+栗]將爲跡遐代爾語將繼常處女墓中爾造置壯士墓此方彼方二造置有故縁聞而雖不知新喪之如毛哭泣鶴鴨《アシノヤノウナヒヲトメノヤトセコノカタオヒノトキニヲハナリニカミタクマテニナラヒヰテイヘニモミエスソラユフノカクレテマセハミテシカトイフセキトキシカキホナスヒトノイトムトキチヌヲトコウナヒヲトコノフセヤモエススシキホヒアヒタハケシケルトキニハヤキタチノタカヒオシネリシラマユミユキトリオヒテミツニイリヒニモイラムトタチムカヒイソヒシトキニワキコモカハヽニカタラクシツタマキイヤシキワカユヘマスラヲノアラソフミレハイケリトモアフヘクアレヤシヽクシロヨミニマタムトカクレヌノシタハヘオキテウトナケキイモカイヌレハチヌヲトコソノヨユメミテトリツヽキオヒユキケラハオクレタルウナヒヲトコモイアフキテサケヒヲラヒテツチニフシテキカミタケヒテモコロヲニマケテハアラシトカキハキノヲタチトリハキサネカツラツラツキテユケレハヤカラトモイユキアツマリナカキヨニシメサムトトホキヨニカタリツカムトヲトメツカナカニツクリオキヲトコツカコナタカナタニツクリケルオユヘヨシキヽテシラネトモニヒモノコトモネナキツルカモ》
 
麻庭爾、【別校本、庭作v?、】  相結婚、【別校本又云、アヒヨハヒ、】  手預、【官本、預作v潁、】  競時爾、【官本、又云、キホヒシトキニ、又云、アラソフトキニ、】  夢見、【官本、又云、ユメニミ、】  菟原壯士、【別校本云、ウハラヲトコモ、】  ※[足+昆]他、【官本他作v地、幽齋本點云、ツチニフシ、】  冬※[草がんむり/(金+又)]蕷都良、【校本、※[草がんむり/叙]或作v薯、】  新裳、【幽齋本、裳作v裘、】  射歸集、【別校本云、イヨリアツマリ、】
 
片生は片成と云ふに同じ、源氏の末摘花に、紫の君いともうつくしきかたおひニて云々、同|未通女《ヲトメ》に、まだかたなりに見え給へどいとこめかしくしめやかに云々、小放はヲハナリとも讀べし、第十六に、童女波奈理《ウナヰハナリ》、第十四に多知婆奈乃古婆乃波奈里とよめり、髪多久は第二に注せり、並居は、今按此は上の珠名娘子をよめる歌に指並隣とつゞけし如く同じ意なれば、ナラビスム或はナミヰタル或はナラビヲルなど讀べ(48)し、居の字第八第十等にスムとよめり、虚木綿乃※[穴/牛]而座在者とは虚木綿は遊絲を云へる歟、遊絲を此國にいとゆふと名付るは絲もてしたる白木綿に似たりとなるべし、遊絲を菅家萬葉にはかげろふに用給へり、あるにもあらぬ物にて見ゆとも見えねばかくるとはよせたるべし、第二に、蜻火之燎荒野爾《カケロフノモユルアラノニ》、白妙之天領巾隱《シロタヘノアマヒレゴモリ》などよめる類なり、又神武紀云、皇與巡幸、因登2腋上〓間《ホヽマノ》丘1、廻2望國状1曰、雖2内木綿之《ウツユフノ》眞派國1、猶2如蜻蛉(ノ)之臀〓1焉、此内木綿と云意を知らずと云へども、虚蝉の時の例に今もウツユフノと讀て神武紀を推量せる如く意得べきか、悒憤時之の之は助語なり、誂は挑と同じ、廬八燎はスヽシを凝烟に云ひかけむ爲なり、相結婚はアヒヨバヒと點ぜる本に附べし、第十二にも結婚はヨバヒと點ぜり、允恭紀には奸の字をタハクと訓ぜり、手預押禰利は、預は誤にて潁に作れる本よし、潁は稻の穗を云へば、兩字共に借て書て太刀の柄の事なり、神代紀上云、急2握《トリシバリ》劔柄《タチカヒヲ》1、今の日本紀にはかく點ぜれど釋日本紀にはタカヒと有て日向風土記を引て云、宮崎(ノ)郡高日村、昔者自v天降神、以2御劔柄1置2於此地1、因(テ)曰2劔柄村1、後(ノ)人故曰2高日村1也、かゝればたち〔二字右○〕を下略して柄をかひ〔二字右○〕と云へるなり、和名云、唐韻云、※[木+覇]【音覇、和名太知乃豆加、】劔柄也、考工記云、劔莖、人所v握鐔以上也、今按即※[木+覇]也、押禰利とは押ひねりと云へる歟、又物を練る如くたゆまずして返す/”\とりしばる意(49)にや、入水火爾毛將入跡とは第四安倍女郎が歌にもよめり、中務集屏風歌、よと共に藻塩垂つゝ誰が爲に、火にも水にも入れる心を、吾妹子之母爾語久は吾妹子は上にも云如く妻のみならず廣く女を指て云へり、倭父手纏は第四安倍虫丸の歌に注せり、父は文に改むべし、八雲御抄には賤の字をわろきとよませ給へり、宍串呂黄泉爾將待跡、此シヽクシロ、ヨミとつゞくるに付ては兩義あるべし、一つには和名云、唐韻云、〓、【初限反、與v〓同、和名、夜以久之、】炙v宍〓也、※[炙+束]【音束】〓※[炙+束]具也、かゝれば〓に刺《サシ》て炙《アフ》れば肉の味のよきと云意によみのよ〔右○〕の一文字を設む料に、おけるなり、繼體紀に勾《マカリ》大兄皇子の御歌に矢自矩失盧《シシクシロ》、于魔伊禰矢度※[人偏+爾]《ウマイネシトニ》云々、此、うましとつゞけさせ給ふも味に付る歟、二つには宍串は借てかける歟、宍は密、串は櫛《クシ》なるべし、呂はさきの如し、馬融(カ)長笛(ノ)賦云、繁手累發、密櫛疊重、此集に竹|玉乎密貫垂《タマヲシヽニヌキタレ》など密の字をシゞとよめり、又繁の字をもよめり、かくて黄泉とつゞくるに又二つの意あるべし、一つには右の如くしげき櫛はよしとつゞく、うましと云も味に限らず、よしと云意なれば、繼體紀の歌同じく意得べし、二つにはうましとつゞく、意は右の如し、今黄泉とつゞけたる意は、神代紀云、然後伊弉諾(ノ)尊追2伊弉册尊1入2於黄泉1而及之、共語云古々、伊弉諾尊又投2湯津(ノ)爪櫛(ヲ)1、此即成v筍(ト)云々、黄泉にして湯津爪櫛を投給へる故に今の如くつゞくる歟、湯津は清き意と云説(50)あれど湯津杜木《ユツカヅラ》、湯津眞椿《ユツマツハキ》、湯津磐村《ユツイハムラ》、引合て意得るに繁き意とおぼしければ今密櫛と云に同じ、但後の義にては繼體紀と一具ならざれば、やいぐしの説は恐ろしくも賤しくも聞ゆれど、古風は痛むべからざれば前の詞にて侍りなむや、又枕詞必らずしも一具ならざる事もあれば後の義に侍なむや、後人定て取給ふべし、黄泉にまたむとは母の事なり、隱沼乃下延置而は先下延はシタハヘと讀べし、此詞を第十四第十八第二十によめるは下の心にあらまし置意なれば、今隱沼に身を投て死なむと思ひ定むる事をやがて隱沼を下延の枕詞のやうに云なり、血沼壯士其夜夢見とは、反歌にも處女は心を血沼壯士によせたる由あれば夢にも見ゆるなり、追去祁禮婆とは身を投て冥途に追行なり、後有とは心の後れたるにはあらず身の後ろゝなり、菟原壯士はウハラヲトコと讀べし、伊仰天は伊は發語の詞なり、叫於良妣は、おらぶは啼なり、神代紀下云、天稚彦之妻下照姫哭泣悲哀、聲|達《キコユ》2于天1、是時天國玉聞2其|哭聲《オラブ》1、則知2夫天稚彦已死1、清寧紀云、儀2大泊瀬天皇(ヲ)于丹比(ノ)高鷲(ノ)原陵1、于v時隼人晝夜|哀2號《オラブ》陵側1、日本紀の處々に叫の字啼の字をもオラブとよめり、今も筑紫の方の詞に、さけぶ〔三字右○〕をおらぶ〔三字右○〕と云へり、※[足+昆]他は※[足+昆]の字未v詳、他は地に作る本に依るべし、牙喫は牙を喫なり、勵て瞋るなり、戰國策云、焚於期偏袒扼v腕而進曰、此臣(カ)之日夜切齒腐v心(ヲ)、楊子雲(カ)長楊賦云、鑿齒(ノ)(51)之徒、相與|磨《トイテ》v芽(ヲ)而爭(ソフ)之、建怒而はたけるなり、神代紀云、奮2稜戚之雄誥1、【雄誥、此云2烏多稽眉1、】神代紀云、却(テ)至2草香(ノ)津1、植v盾而爲2雄誥1焉、【雄誥、云2烏多?廬1、】建は健と通ずる歟、天智天皇の建皇子、近江の建部《タケベ》などを思ふべし、知己男は、もころは神代妃下云、夜者|若《モコロニ》2※[火+票]火《ホベノ》1而|喧響《オトナヒ》之云々、又同卷に如の字をアマヒニとも點ぜり、もころもあまひも常にごとしと云古語なり、如の字をもころとよめば己の字は、詮なきに似たれど、二字にてもころとよめるはおのれごときの者にと云心なればなり、論語に若人をかくのごときのひととよめるが如し、第十四に悲妹《カナシイモ》を※[弓+付]並纒《ユツカナヘマク》もころをの、事とし云はゞ、彌《イヤ》勝ましにとよめるも今と同じ意なり、孟子云夫撫v劔疾視曰、彼惡敢當v我哉、懸佩之小劔取佩は、太刃をば懸置き又は取佩物なれば懸佩と云歟、又懸合に佩やうに常に用意せるを云歟、冬※[草がんむり/(金+又)]蕷都良は第七に冬薯蕷葛とあるを今の本にはサネカツラと點ぜるを六帖にはまさきづらとあるにより今の歌を引合て六帖に從ふべき由申つるが如し、※[草がんむり/(金+又)]の字字書にいまだ考得ず、音に付て思ふに※[草がんむり/叙]なるべき歟、和名抄云、本草云、署預一名山芋、【和名、夜萬都以毛、俗云、山乃以毛、】兼名苑云、藷〓、【今按、音與、署預同、】此藷の字には似ねば此を書違へたるにはあるべからず、尋去祁禮婆〔五字右○〕、今按此をばタヅネユケレバと讀べし、後撰集云、足引の山下茂くはふ葛の、尋て戀る我と知らずや、葛の此方彼方に分れて蔓《ハヒ》行は物を尋ぬるに似たれ(52)ば尋て戀るとはよせたり、今も此になずらへて知べし、親族は日本紀の點に依らばウカラと讀べし、射歸集は、射は發語の詞、歸集は、ユキツドヒテとも讀べし、標將爲跡は、今按今の點誤れり、シルシニセムトと讀べし、故縁聞而は由緒を聞てなり、源氏物語帚木に、餘りのゆゑよし心ばせ打そへたらむをば悦びに思と云へり、新裳は裳を喪に作れる本や然るべからむ、さきに昨日しも見けむが如もと云へる意に同じ、
 
初、あしのやのうなひをとめのやとせ子のかたおひの時ゆ 片おひはかたなりといふにおなし。源氏物語末摘花に、二條院におはしたれはむらさきの君いともうつくしきかたおひにて云々。未通女に、またかたなりに見え給へといとこめかしくしめやかに云々。同巻に、またかたおひなる手のおひさきうつくしきにてかきかはしたる文ともの云々。若菜上に、またかたおひならむ事をはみかくしおしへきこえつへからむにあつけきこえはやなと聞えたまふ。をはなちに髪たくまてに。をはなちは、はなちの髪ともいへり。ふりわけかみなり。髪をたくとはたくるなり。第二卷に、人みなはいまはなかしとたけといへと君か見しかみ亂たれとも。ならひゐる家にも見えすとは、隣家の人にも見えぬなり。上の十七葉に、さしなみし隣の君と有しかことし。そらゆふのかくれてませは。そらゆふは、いとゆふなり。もろこしには、遊絲とゆふを、此國には木綿にも似たりといふ心にていとゆふとは名つけたりと聞ゆ。それが空にありて天外(ノ)遊絲(ハ)或(ハ)有無(タリ)と詩にも作る物なれは、そらゆふのかくれてませはといへり。第二に白たへの天ひれこもりといへるは、白雲かくれといへることなるに、おもひ合すへし。みてしかといふせき時し。みてしがなとおほつかなくおもふなり。かきほなす人のいとむ時。垣ほなすは上のことし。誂は挑の字の誤なるへし。ちぬをとこうなひをとこ、大和物語には、ちぬはいつみのをとこ、津の國のをとこはうはら氏と見えたり。さきに小竹田をとことよめりしや、こゝにうなひをとことよめるものゝ氏ならん。うなひは海邊とかけは、かならすしも氏にはあるへからす。たゝそのあたりの勇者なるへし。ふせやもえすゝしきほひて。ふせやにて火をたけは、ふすほりて、其屋のすゝくるなり。そのことく、互に思ふ心も切に、いとむ心も急なれは、すゝくるをすゝむにいひかけて、すゝしきほふとはいへり。人のいかりをふくみて物もいはぬを俗にふすほりかへるといふ、その心にふせやもえすゝしきほひてとはいへり。きほふはあらそふなり。あひたはけしける時には、相結婚とかけるをは、あひよはひとよむへき歟。第十二に人くにゝよはひにゆきてたちの緒もいまたとかねは明そしにける。此よはひといふに、結婚とかけり。第十三に、よはひといふには、夜延とかけり。伊勢物語源氏物語なとにもいへる詞なり。允恭紀に、姦の字をたはくるとよめるは、木梨輕皇子の、同|母《ハラ》妹輕大|娘《イラツノ》皇女に密通したまへるをいへは、道なき戀をたはくるといふにや。同しみまきに、通の字をも、たはくるとよめるは、それも輕太子の、※[(女/女)+干]犯してあひたまへるをいへは、心を得てたはくとはよめりと會尺すへき歟。もしまたよはふもたはくも本來通する歟。俗にたはけたるものといふも、わろきことにいへるは、※[(女/女)+干]の字の義の、おほえす轉せる歟。結婚とのみいふは、いまた義不義にかたよらねは、たはくるといふ詞、もし※[(女/女)+干]の字の意にさたまらは、今はかならすあひよはひしける時にはと讀へし。やきたちのたかひおしねり。たちはやきてきたひ作る物なれは、やきたちといふ。第四卷にも見えたり。たかひはたちかひをいふ歟。神代紀云。振2起《フリタテ》弓※[弓+肅]《ユハスヲ》1急2握《トリシハリ》劔柄《タチカヒヲ》1といへり。こゝに手預とかきて、たかひとよめるは、讀やう意いまた及はす。和名集云。唐韻云。※[木+覇]【音覇。和名太知乃豆加】劔柄也。考工記云。劔莖(ハ)人(ノ)所v握(ル)鐔《ツミハ》以上也。今按即※[木+覇](ナリ)也。今案手預は、もしたつかとよみて、手※[木+覇]《タツカ》と意得へき歟。預はあつかりとよめは、上下を略去して、つかとなすへくや。餘にたかひとよめることの心得かたきに、かくまて穿鑿せるなり。おしねりを、長流はおしにきりと注したれと、しひねるなるへし。靱は靫の字の誤なり。水に入火にもいらんと。第四に、わかせこは物なおもひそ事しあらは火にも水にも我ならなくに。わきもこ、わか妻ならねと、女をさしてはかくいへり。長幼となく、女をは古は妹といひけるよし、日本紀の説なり。しつたまき、第四にもよめり。倭父《シツ》の苧環《ヲタマキ》といふにおなし。卷子《ヘソ》なり。しつはあらき布にて、いにしへ賤ものゝ著けれはや、いやしきものをは、きものによりて、しつとは名付けむ。源氏物語にもいへるやうに、よき人をも、裝束につきていふ事なれは、もろこしにも、賤きを布衣といへり。されは此國にも、倭父《シヅ》とはいふなるへし。いやしきわかゆへを、八雲御抄にはわろきわかゆへとかゝせたまへと、現本にしたかへるをよしとすへし。いけりともあふへくあれやとは、あふへくあらむやなり。いつれにつきて夫とさたむへうもなけれはなり。しゝくしろよみにまたんと。此しゝくしろといふ事は、日本紀第十七繼躰紀にも見えたり。安閑天皇いまた勾大兄《マカリノオヒネノ》皇子と申奉りける時。春日皇女に逢たまひての御歌に、しゝくしろ|うまいねしと《・味宿寢時》にといふ二句あり。うまいねしとにはうまきはよき事なれは、よくいねし時になり。しかれは、しゝくしろは、今もよみといふよもしを、よしといふ心につゝけたるは、うまきといふ詞につゝけるにおなし。さて此しゝくしろとは、いかなる物をいふとならは、齒のしけくて、こまかなる櫛なり。しゝは此集に繁の字をよめり。ろは助語なり。上にわきもこはくしろにあらなんと有し哥を、紀氏六帖には、櫛の題の哥に出せり。釧《クシロ》を櫛《クシ》にまかへたるは誤なれと、櫛にろの助語をつけていふ證なり。又大隅國風土記云。大隅郡|串卜《クシラノ》郷(ハ)、昔《ムカシ》者|造國《クニツクリノ》神勒(シテ)2使者(ヲ)1遣(ハシテ)《・マタシテ》此村(ニ)1令2消息(セ)1。使者報(テ)道《イハク》。有《イマス》2髪梳《クシラノ》神1。可v謂2髪梳(ノ)村(ト)1。因(テ)曰2久四良《クシラノ》郷(ト)1。【髪梳者、隼人俗語久四良(ナリ)。今改(テ)曰2串卜郷1。】良と呂とは、よく通すれは、くしろはすなはちくしらなり。和名集云。唐韻云。梳【音疎。一訓介都留】細櫛也。枇【毘支反。和名保曾岐久之。】百刺櫛(ナリ)【佐之久之。】毛詩曰。其(ノ)比(ヘルコト)如(シ)v櫛(ノ)。文選左思(カ)呉都(ノ)賦(ニ)曰。屯營櫛(ノコトクニ)比(フ)。馬融(カ)長笛(ノ)賦(ニ)曰。繁手累發(テ)密櫛(ノコトク)疊重。しけき櫛はよき物なれは、うましとつゝけたまひ、今はよしといふ心によみとつゝけたり。そのうへ神代紀上(ニ)云。然(シテ)後伊奘諾(ノ)尊入(マシテ)2於|黄泉《ヨモツクニヽ》1而|及《シキテ》之共(ニ)語〇伊奘諾損又投(ケタマフ)2湯津(ノ)爪櫛(ヲ)1。此(レ)即|化2成《ナル》筍《タカムナト》1。醜《シコ》女亦以|拔※[口+敢]《ヌキハム》之。※[口+敢]了(テ)則|更《マタ》追(フ)。これによれは伊奘諾尊の黄泉にいり、湯津爪櫛を投させ給へることのよしをふみて、かれこれをかねて、黄泉とはつゝけゝると知へし。湯津爪櫛は、第一卷に尺せしことく、湯津いはむらといへるが、五百《イホ》津いはむらといふ心なれは、それに准するに、五百津《イホツノ》爪櫛といふ心なり。ゆつとは、歯のこまかにしけきをいへり。またんとは、さきたちて、母をまたんとなり。完は宍の字の誤なり。宍は肉の字なり。此集のみならす、古本に宍の字を皆完にのみつくれり。かくれぬの下はひおきて打なけき妹かいぬれは、身をなけたることなり。大和物語には、生田川に身をなけたるよし有。ちぬをとこその夜ゆめ見て取つゝきをひゆきけれは。ちぬをとこか夢に、うなひをとめか見えけるなり。反歌に、ちぬをとこにしよるへけらしもといへるはこれなり。ちぬをとこも、夢の告によりて、行てまたしぬるなり。おくれたるうはらをとこも。さきには宇奈比壮士とかけり。こゝには菟原壯士とかきたれは、うはらをとことよむへし。もし菟原郡は海邊《ウナヒ》なれは、心を得てこゝをもうなひをとことよむへき歟。いあふきてさけひおらひて。いは例の發語なり。仰天とかける天はてにをはなれと、下に※[足+昆]地《ツチニフシ》といふに、對するやうなるは、自然にしかるなり。おらひてはなきさけふなり。神代紀下云。天|稚《ワカ》彦之妻下照姫|哭泣悲哀《ナキイサチカナシフ》聲|達《キコユ》2于天1。是時天國玉聞(テ)2其(ノ)哭《オラブ》聲(ヲ)1、則知2夫《カノ》天稚彦己(ニ)死《カクレタリト》1。清寧紀云。冬十月癸巳朔辛丑、葬《カクシマツル》2大泊瀬(ノ)天皇(ヲ)于|丹比《タチヒノ》高鷲(ノ)原(ノ)陵(ニ)1。于v時|隼人《ハイトム》晝夜|哀2號《オラフ》陵(ノ)側《ホトリニ》1。又叶の字啼の字をもおらふとよめる所あり。今も筑紫の方の人は、さけふをおらふといへり。※[口+斗]は叫に作るへし。つちにふしきかみたけひて。他は地の誤なり。きかみはきはをかむなり。戰國策云。樊於期偏(ニ)袒(テ)扼《トリシハテ》v腕(ヲ)而進(テ)曰。此(レ)臣(カ)之日(ル)夜(ル)切《クヒシハリ》v齒(ヲ)腐(ス)v心(ヲ)。史記衛將軍驃騎列傳(ノ)賛(ニ)曰。自3魏其武安(カ)之厚(セン)2賓客(ヲ)1、天子常(ニ)切(ハル)v齒(ヲ)。楊子雲(カ)長楊(ノ)賦(ニ)云。鑿齒(ノ)之徒相與(ニ)磨《トイテ》v芽(ヲ)而爭之。劉伶人(カ)酒徳頌曰。有(テ)2貴介公子(ト)※[手偏+晉]紳處士(ト)1聞(テ)2吾※[風の虫が百]聲(ヲ)1議(ス)2其所以(ヲ)1。乃|奮《フルヒ》v袂(ヲ)攘(ケ)v衿《コロモクヒヲ》怒(ラカシ)v目(ヲ)切(ハル)v齒(ヲ)。元亨釋書第二十五云。戸部尚書藤原文範。〇果(シテ)祠側逢2沙門仲算(ニ)1。々問2宮講(ヲ)1。藤公告v實。咬v齒伴(ナツテ)來(ル)。たけひてはたけるなり。神代紀上云。奮《フルハシ》2稜威之雄詰《イツノヲタケヒヲ》1【雄誥《イウカウ》此(ヲハ)云2烏多稽眉1。】神代紀云。却(テ)至(テ)2草香(ノ)津(ニ)1植《タテヽ》v盾《タテ》而爲(ニ)雄誥《ヲタケル》焉。【雄誥《イウカウ》此(ヲハ)云2烏多※[奚+隹]廬1。】建は健と通する歟。近江の建部《タケヘ》を思ふへし。もころをにまけてはあらしと。もころは如の字若の字にて常にごとくとよむ古語なり。神代紀下云。夜(ルハ)着|若2※[火+票]火《ホヘノモコロニ》1而|喧響《ヲトナヒ》之云々。又同卷に、如の字をあまひにともよめり。これもごとしといふ古語なるへし。如己とかきたる己の字詮なきに似たれとも、第十四に、かなしいもをゆづかなへまきもころをのことゝしいはゝいやかたましにともよみたれは、をのれごときのをのこにまけてをらんやはの心なり。唯如の字をのみもころとよめる哥は、十四の廿九葉、廿の廿八葉にも見えたり。孟子曰。夫|撫《トリシハリ》v劔(ヲ)疾《ニラミ》視(テ)曰。彼惡(ソ)敢(テ)當(ラムヤ)v我(ニ)哉。かけはきのをたち取はき。太刀をは、紐解ては懸置、亦は取はくものなれは、かけつはきつといふ心なり。さねかつらつぎてゆけれは。第七に、すめろきの神の宮人さねかつらいやとこしきにわれかへりみむ。此哥にさねかつらを冬薯蕷葛とかけり。今冬※[草がんむり/(金+又)]蕷都良とあるは、※[草がんむり/(金+又)]は※[草がんむり/叙]なるへし。蕷の下に、加可等の字おちたり。つぎては、尋の字、これをたつねゆけれはとよむへし。後撰集云。あしひきの山下しけくはふ葛のたつねてこふる我としらすや。此哥はふ葛のたつぬるとつゝけたるは、葛のこなたかなたにわかれてはひゆくは、物をたつぬるに似たれはなり。今もたつねゆくといはむために、さねかつらといへるは、後撰集の哥の心におなし。いゆきあつまり。いは發語、集はつとひてともよむへし。標將爲跡、これをはしるしにせんとゝよむへし。しめさんとゝあるは誤れり。ゆへよしきゝて。源氏物語帚木に、あまりのゆへよし心はせ打そへたらんをはよろこひに思といへり。ゆへよしは由緒なり。此集に、ゆへはゆゑとかけり。にひものこともは、新喪のことくなり。さきの眞間娘子をよめる哥に、遠代に有けることを昨日しもみけむかこともおもほゆるかもといへるに心おなし
 
 
 
 
 
反歌
 
1810 葦屋之宇奈比處女之奧槨乎往來跡見者哭耳之所泣《アシノヤノウナヒヲトメカオキツキヲユキクトミテハネノミシナカル》
 
奧槨乎、【袖中抄云、オクツキヲ、】  見者、【別校本云、ミレハ、】
 
往來跡見者とは往來にみるなり、哭耳之のし〔右○〕は助語なり、袖中抄になきのみぞなくとあるは叶はず、
 
初、ゆきくとみれは ゆくとては見、歸るとてはみるなり
 
1811 墓上之木枝靡有如聞陳努壯士爾之依倍家良信母《ツカノウヘノコノエナヒケリキクカコトチヌヲトコニシヨルヘケラシモ》
 
木枝靡ケリとは陳努壯士が墓の方へ靡くなり、落句は依けらしなり、捜神記云、宋時、(53)大夫韓憑娶v妻(ヲ)而美、康王奪v之、憑怨v王、因v之論爲2城旦1、妻密遣2憑書(ヲ)1、繆2其辭(ヲ)1曰、雨淫々(タリ)、河大水深、日出當v心、既而王得2其書(ヲ)1、以示2左右1、左右莫v解2其意1、臣賀對曰、其雨淫々、言愁且思也、河大水深、不v得2往來1也、日出當v心、心有2死志1也、俄而憑乃自殺、其妻乃隱腐2其衣(ヲ)1、王與v之登v臺、妻遂因投2臺下(ニ)1、左右攬v之(ヲ)、衣不(シテ)v中(ラ)v手(ニ)而死、遺2書(ヲ)於帶1曰、王利2其生(ヲ)1、妾(ハ)利2其死1、願以2屍骨(ヲ)1、賜v憑合葬、王怒(テ)不v聽、使dv人埋(テ)2之里人之塚1相望u也、曰、爾夫婦相愛不v已、若能使2塚合1、則吾(レ)不v阻(ヲ)也、宿昔(ノ)之間(ニ)便有2大梓木1、於2二塚之間1旬日而口盈抱、屈v體以相就、根交2於下1、枝錯2於上1、又有2鴛鴦雌雄各一1、恒栖2樹上(ニ)1、晨夜不v去、交v頭悲鳴、音聲感v人(ヲ)、宋人哀v之、遂號2其木(ヲ)1、曰2相思樹1、相思之名、起2於此1也、今唯陽有2韓憑城1、其歌謠至v今存焉、今の歌此類なり、
 
初、つかのうへのこのえなひけり 長哥に、ちぬをとこその夜ゆめ見てとよみたれば、彼女はちぬかかたに心よせけるなり。そのゆへに、今もちぬがつかのかたへ木の枝もなひきてあるなり。捜神記云。宋時大夫韓憑娶(テ)v妻(ヲ)而|美《カホヨシ》。康王奪(フ)v之(ヲ)。憑怨v王(ヲ)。因(テ)v之(ニ)論(シテ)爲2城旦(ト)1。妻|密《ヒソカニ》遣2憑(ニ)書(ヲ)1。繆2其辭(ヲ)1曰。其(ノ)雨淫々(タリ)。河(ニシテ)大水深(シ)。日出(テヽ)當(ル)v心(ニ)。既而王得(テ)2其書(ヲ)1以示(ス)2左右(ニ)1。々々莫v解(スルコト)2其意(ヲ)1。臣賀對(テ)曰(サク)。其雨淫淫(タリトハ)、言(コヽロハ)愁(テ)且思(フナリ)也。河大(ニシテ)水深(シトハ)、不(ルナリ)v得2往來(スルコトヲ)1也。日出(テヽ)當(ルトハ)v心(ニ)、心(ニ)有(ルナリ)2死志1也。俄(ニシテ)而憑乃自殺(ス)。其妻乃|隱《ヒソカニ》腐《クタス》2其(ノ)衣(ヲ)1王與v之登(ル)v臺(ニ)。妻遂(ニ)因(テ)投(ス)2臺下(ニ)1。左右|攬《トレトモ》v之(ヲ)衣不(シテ)v中(ラ)v手(ニ)而死(ス)。遺(シテ)2書(ヲ)於帶(ニ)1曰。王(ハ)利(トシ)2其(ノ)生(ヲ)1妾(ハ)利(トス)2其死(ヲ)1。願(ハ)以2屍骨(ヲ)1賜(テ)v憑(ニ)合(セ)葬(タマヘ)。王怒(テ)不v聽《ユルサ》。使dv人(ヲ)埋(テ)2之(ヲ)里人(ノ)之塚(ニ)1相(ヒ)望(マ)u也。曰。爾(チ)夫婦相愛(シテ)不v已(マ)。若(シ)能使2v塚(ヲ)合1則吾(レ)不《シ》v阻(テ)也。宿昔之間(ニ)便有2大梓木1【生歟】於2二塚之間1。旬日而大(サ)盈(テリ)v抱(ニ)。屈(シテ)v體(ヲ)以相就(チ)根(ハ)交(ハリ)2於下(ニ)1枝(ハ)錯(ハレリ)2於上(ニ)1。又有2鴛鴦雌雄各一1恒(ニ)栖2樹上(ニ)1、晨夜不v去(ラ)交(ヘテ)v頭(ヲ)悲鳴、音聲感(セシム)v人(ヲ)。宋人哀(シムテ)v之(ヲ)遂(ニ)號(ケテ)2其木(ヲ)1曰2相思樹(ト)1。相思(ノ)之名起(レリ)2於此(ニ)1也。今※[目+隹]陽(ニ)有2韓憑城1。其歌謠至(マテ)v今(ニ)存(セリ)焉。文選劉孝標(カ)重(テ)答(ル)2劉秣陵沼(ニ)1書(ニ)云。若使(メハ)d墨※[羽/隹]之言(ヲシテ)无(シテ)v爽《タカフコトノ》宣室(ノ)之談(ニ)有(ラ)uv徴(シ)、冀(ハクハ)東平之樹望(テ)2咸陽(ヲ)1而西(ニ)靡(キ)、蓋山之泉聞(テ)2絃歌(ヲ)1而赴(ムカンコトヲ)v節(ニ)
 
右五首高橋連蟲麻呂之歌集中出
 
萬葉集代匠記卷之九下
 
(1)萬葉集代匠記卷之十上
                  僧 契 沖 撰
                  木 村 正 辭 校
 
萬葉集第十抄之上
 
萬葉集卷第十代匠記上
長三首短五百三十二首旋頭四首合五百三十九首
 
春雑歌
 
春雜歌 奉相聞に對して其他を云へり。夏以下准之
 
雜歌七首 詠鳥二十四首
初、萬葉集卷第十目録
 
雜歌七首      詠v鳥二十四首
 
雜歌七首 正しく哥の所に至りては、春雜歌と云※[手偏+總の旁]標に引つゝけてかけり。七首皆霞をよめる哥なれは、詠霞とある處に置き、或は彼三首を引上テ一處にも置ねきを、是は人丸集の哥なれは、別に賞する意にて初に置歟。或は霞をよめれとも本集に詠霞と云はす、何となく書連ねたる故に分て置歟。今雜歌と云はむよりは、春歌七首と云へきにやへ。冬の初の雜歌四首とかけるも、此に准らふへし
 
初、雜歌七首 哥に至りて雜の哥とは題せされと、※[手偏+總の旁]標 に春雑哥と有て、別に題なくて七首あれは、目録を作る人、こゝに雜哥七首はかけり。春雜歌といふは旋頭歌譬喩歌といふまてにかふらしめたれと、今七首と擧る時は、惣をかりて別目とするなり。春相聞も、終の問答十一首まての惣標なれと、惣標につゝけて、題をかゝぬ哥七首あれは、相聞七首と録せり。秋相聞の下の相聞五首、冬雜哥の下の雜哥四首、冬相聞の下の相聞二首、准之。今此七首は皆霞の哥なり。下に詠v霞三首といへると一所に擧すして、わかてるは故あるにや
 
詠鳥二十四首 此目録は誤れり。其故は、詠鳥とて二十首あるを見るに、初十三首は鳥をよめる哥、後十一首は雪をよめる哥なり。然れは十三首過て詠雪と有けむを、題の落たるを考かへすして、二十四首とは云へるなり
 
初、詠v鳥二十四首 これは誤なり。詠鳥哥十三首ありて
 打なひき春さりくれはしかすかに天雲きりあひ雪はふりつゝ
此哥より以下十一首は詠v雪哥なれは、此哥の前に詠雪と有けむが、落たるをしらすして、十三首と十一首とを合て、詠v鳥哥二十四首とはかけるなり。これ後人のしわさなりといふ證なり
 
1812 久方之天芳山此夕霞霏※[雨/微]春立下《ヒサカタノアマノカクヤマコノユフヘカスミタナヒクハルタツラシモ》
 
意明なり、
 
1813 卷向之檜原丹立流春霞欝之思者名積米八方《マキモクノヒハラニタテルハルカスミクレシオモヒハナツミケメヤモ》
 
霞によせてクレシ思ヒハと云へり、歌の意は、卷向の檜原はさらぬだに繁きに、春の來ぬればいとゞ霞にくれて面白く見ゆるを、此春よりさき此霞むばかり心のくれつる思ひには煩けめやと、今の霞て面白きに對して忘たるやうによめる歟、續古今にははれぬ思ひはなぐさまるやはと改られたれば今思ふ事有て慰まぬ意なり、く(2)るゝ思ひになづみけるかもなどよめらむ意にはあらずとは下句のてにをはに聞ゆるにや、
 
初、まきもくのひはらにたてる春霞くれしおもひはなつみけかやも
霞の立てはれやらぬを、わかおもひにはよせたるなり。くれしは欝の字をかける、やかてその心なり
 
1814 古人之殖兼杉枝霞霏※[雨/微]春者來良之《イニシヘノヒトノウヱケムスキカエニカスミタナヒクハルハキヌラシ》
 
杉は神依板にする杉とも、布留の神の杉神となるとも讀て久しく有木なれば、此一二の句あり、前後卷向と云中にあれば此も卷向山の杉にや、
 
1815 子等我手乎卷向山丹春去者木葉凌而霞霏※[雨/微]《コラカテヲマキモクヤマニハルサレハコノハシノキテカスミタナヒク》
 
初、子等か手をまきもく山。妹か手をたまくらにするといふ心につゝけたり
 
木葉とは檜原其外松杉等の類なり。春の初の歌と聞ゆれば若葉にはあらず、
 
1816 玉蜻夕去來者佐豆人之弓月我高荷霞霏※[雨/微]《カケロフノユフサリクレハサツヒトノユツキカタケニカスミタナヒク》
 
佐豆人は薩人にて薩雄に同じ、薩人の持弓と云心に弓槻が高とつゞく、第五に薩弓を手把持てとよめるが如し、神樂歌にさつてゝがもたせの眞弓ともよめり、
 
初、かけろふの夕さりくれは。蜻蛉は夕に出て飛かふ虫なれは、かけろふの夕とはつゝくるなり。さつ人のゆつきかたけは、薩人は上にも注する獵人なり。よりて弓とはつゝけたり。神樂哥に、さつてゝかもたせのまゆみおく山にとかりすらしもとよめり
 
1817 今朝去而明日者來牟等云子鹿丹且妻山丹霞霏※[雨/微]《ケフユキテアスハコムトイフコカニアサツマヤマニカスミタナヒク》
 
今朝、【幽齋本云、ケサ、】  來牟等、【幽齋本云、キナムト、】
 
二つの點の異、幽齋本に依て讀べし、上句は旦妻と云はむ爲の序なり、旦妻山は天武(3)紀下云、九年九月癸酉朔辛巳、幸2于朝嬬(ニ)1、因以看2大山位(ヨリ)以下之馬(ヲ)長柄杜1、乃俾2馬的射1v之、延喜式云、葛上郡長柄神社、延喜式に依て日本紀を意得るに朝嬬も葛上郡歟、藻塩草に長柄池大和といへるも長柄神社ある所にや、和名云、近江國坂田郡朝妻、【安佐都末、】西行のおぼつかな伊吹おろしのかさゝぎに、朝妻舟はあひやしぬらむとよまれたるは此なり、今は上よりのつゞき近江の朝妻は似よらず、定て大和なるべし、又仁徳紀に天皇御歌云、阿佐豆磨能、【私記曰、師説在2難波1之地名也、】避介能烏嵯介烏云々、此は私記の説の如くならば又別なり、允恭天皇を雄朝嬬稚子宿禰天皇と申奉る朝嬬も、御歌によませ給へる處をもて御名に負せ奉り給へるにや、
 
初、けさゆきてあすはこんといふこかに。今朝とかけるを、けふと有かんな、さしてはたかはねと、たゝけさとよむへし。此哥はあさつま山の朝といひ妻といふにかゝりて、けさ歸りてあすはこんといふ妻のちきりたかへぬやうに、朝な/\朝妻山に霞のたな引となり。たな引は霏※[雨+微]とかけるも、輕引とかけるもうす/\と有心なり。此旦妻山は右よりのつゝきを思ふに大和なり。天武紀云。九年九月癸酉朔辛巳、
幸《イテマス》2于朝|嬬《ツマニ》1。因(テ)以|看《ミソナハス》2大山位以下(ノ)之馬(ヲ)長|柄《エ・ラ》(ノ)杜(ニ)1。乃俾2馬的《ムマユカヲ》1射之《イサセタマフ》。これ大和の國なり。此所なるへし。下同
 
1818 子等名丹開之宜朝妻之片山木之爾霞多奈引《コラカナニツケノヨロシキアサツマノカタヤマキシニカスミタナヒク》
 
此初二句も亦朝妻と云はむ料なり、今按開の字の點六帖も同じけれどおぼつかなし、カケノヨロシキと讀べきか、子等名と云は妻にかゝり、開之宜は朝にかゝれり、若亦開は聞の字を誤てきゝのよろしきにや、但きゝのよろしきも妻と云にのみかゝる事、開の字にしてつけのよろしきと云に同じければ、さきの今按まさるべき歟、
 
初、子らか名につげのよろしき。これも朝妻の妻といふにかゝりて、こらか名につけのよろしきとはいへり。長流か本に、あけのよろしきとあるは、朝といふ字にもかゝれり。愚案開示とつゝく心にて告のよろしきとはよめるにや。あけのよろしきは、五もしにつゝきても聞えす。開は聞の字の誤にて、こらか名にきゝのよろしきなるへし
 
右柿本朝臣人麿歌集出
 
(4)詠鳥
 
1819 打霏春立奴良志吾門之柳乃字禮爾※[(貝+貝)/鳥]鳴都《ウチナヒキハルタチヌラシワカカトノヤナキノウレニウクヒスナキツ》
 
霏は靡の書たがへたるなるべし、點はウチナビクと讀べき證第五に注せしが如し
 
初、打なひき春立ぬらし。霏は靡の誤なり。前後みなしかり
 
1820 梅花開有崗邊爾家居者乏毛不有※[(貝+貝)/鳥]之音《ウメノハナアケルヲカヘニイヘヰセハトモシクモアラシウクヒスノコヱ》
 
崗邊、【幽齋本、崗作v岳、】
六帖に赤人の歌として、家しあればともしくもあらずとあるは叶はず、腰の句をいへをれば或はいへすめばとよまば其次はさも讀べし、されど近く下も家居してとよみたれば今の點にしかず、
 
初、梅花さけるをかへに。拾遺集には、家しあれは、ともしくもあらす
 
1821 春霞流共爾青柳之枝啄持而※[(貝+貝)/鳥]鳴毛《ハルカスミナカルヽトモニアヲヤキノエタクヒモチテウクヒスナクモ》
 
此集に雪の降をも花の散をも流るとよめれば今も霞の立を流と云へり、共は例に依てムタニとよむべし、青柳之枝啄而とは、※[(貝+貝)/鳥]の木傳ふにげにも然するは何をはむにかあらむ、第十六詠2白鷺啄v木飛1歌に桙啄持而とよめるも桙は木なり、源氏物語(5)胡蝶に、水鳥どものつがひを離れず遊びつゝ、細き枝どもをくひて飛ちがふと云へり、六帖に※[(貝+貝)/鳥]の歌として、初の二句うちなびきはるさりくればと改たり、
 
初、春霞なかるゝむたに。霞のたつは、水のなかるゝやうなれは、かくはいへり。唐詩に山頭(ノ)水色薄(ク)籠(マ)v煙と作れり。なかるゝともにと現本に點せり。おなし事なれと、第二以下共の字、かゝる所にはむたとよめり。古語にしたかふへし。今の世俗にめたにといふは、此詞の轉してのこれるにや。青柳の枝くひもちて、鶯の木傳ふに、まことに何をはむにかしかするなり。源氏物梧胡蝶に、水鳥とものつかひをはなれすあそひつゝ、ほそき枝ともをくひてとひちかふといへり。第十六、詠2白鷺啄v木飛1歌に、池上の力士まひかも白鷺のほこくひもちてとひわたるらん
 
1822 吾瀬子乎莫越山能喚子鳥君喚變瀬夜之不深刀爾《ワカセコヲナコシノヤマノヨフコトリキミヨヒカヘセヨノフケヌトニ》
 
拾遺にはならしのをかの夜の深ぬ時、赤人集にはならしの山の、六帖には人を留むと云に入れて唯落句のみ夜の深ぬ時とかはれり、作者は此も赤人にて紀女郎とも注せり、又六帖山の歌にも、みな月のなこしの山の喚子鳥、大ぬさにのみ聲の聞ゆると云あり、八雲御抄に大和と注せさせ給へり、今按第三にさゞれ浪いそ越道とよめるは巨勢路なれば、今も巨勢山を云ふとてかくはよそへたるにや、莫の字は石上袖振河の例と云べし、落句は夜のふけぬ時になり、時にを略してとに〔二字右○〕とよめるは、繼體紀に勾大兄皇子の于魔伊禰矢度※[人偏+爾]《ウマイネシトニ》とよませたまへるも味寢宿し時になり、此集にもあまたよめり、第十六爲鹿述v痛作歌に塩漆給時賞毛《シホヌリタベトマウサモ》、とある時は和語を下略してト〔右○〕といへり、
 
初、わかせこをなこせの山の。大和のこせ山を、夜ふけて獨なこしそといふ心にかくはつゝけたり。第七に、わかせこをこちこせ山ともつゝけたり。紀氏六帖に、をちへゆくこちこせ川にたれしかもいろとりかたきみとりそめけむ。これもこせ川にて、そこに有なるへし。夜のふけぬとにといふは、夜のふけぬ時になり。上にひける繼體紀に、しゝくしろうまいねしとに《・繁梳味宿寢時》とあるは、うまくいねし時になり。これにおなし
 
1823 朝井代爾來鳴杲鳥汝谷文君丹戀八時不終鳴《アサヰテニキナクカホトリナレタニモキミニコフレヤトキヲヘスナク》
 
(6)朝井代は烏は、朝日の指す方などに嬉しげに集りて鳴物なれば云歟、又朝は淺に借て水の淺き井手とよめる歟、汝谷文君丹戀八とは人の上より云意歟、古今云、足引の山郭公我ことや、君に戀つゝいねがてにする、此を思ふべし、
 
初、朝井代に。ゐては水を田にせきあくる堤をいふ。第七に、泊瀬川なかるゝみをのせをはやみゐてこす浪の音のさやけくといふ哥に注せり。朝日のさすゐてにきてなく心なり。かほ鳥の杲は音を取て借てかけり。見かほしといふ詞、朝杲の花なと所々にかけり。かほ鳥は第三第六、此下にいたりてもよめり。かほ花に准すれは、春さま/\うつくしき鳥のきなくをいふにや。君にこふれやは、かほ鳥の妻を君といへり。古今集戀一に、あしひきの山ほとゝきすわかことや君にこひつゝいねかてにする。これにおなし。此哥はわが人をこふるゆへに、なれ《・汝》だにもといふにはあるべからず。ひろくいふなるへし
 
1824 冬隱春去來之足比木乃山二文野二文※[(貝+貝)/鳥]鳴裳《フユコモリハルサリクラシアシヒキノヤマニモノニモウクヒスナクモ》
 
六帖にはふゆかくれはるさりくれば、發句のよみやう殊に如何、
 
1825 紫之根延横野之春野庭君乎懸管※[(貝+貝)/鳥]名雲《ムラサキノネハフヨコノヽハルノニハキミヲカケツヽウクヒスナクモ》
 
紫の根の横に延とつゞくる意なり、紫の根は横に延ふ物にはあらず直くこそはある物なるを大かたの草木になずらへてかく云へるにや、横野は仁徳紀云、十三年冬十月築2横野堤(ヲ)1、延喜式云、河内國澀川郡横野(ノ)神社、かゝれば國郡ともにまがふ所なし、君を懸ツヽとは※[(貝+貝)/鳥]の聲を聞て人の声をも思ひ出、又もろともにきかばやとも思へばなり、六帖に紫の歌に入れれたるはつくま野、春日野などの如く横野にも紫をよめりと意得たるか、根延と云へるは正しく枕詞なり、但横野に紫ありてそれが根も横にはふ二つの意を兼たりとみて一邊を取て紫の歌とせる歟、
 
初、紫のねはふ横野の。紫の根の横にはふ心に、かくはつゝけたり。紫の根を見侍るに、横にはふ物にはあらす。ほそき筆管はかりにて、四五寸なるが、なをくて、めくりに髭のことくなるほそき根の、根といふへくもなきが見ゆるなるを、大かたの草木になすらへて、かくはつゝけけるなるへし。此横野を、八雲御抄に、上野と注せさせ給へと、さばかり遠き所をよむへきにあらす。これは河内なるへし。仁徳紀云。十三年冬十月築2横野(ノ)堤(ヲ)1。延喜式第九神名上云。河内國澀川軍横野神社。今横野といふ所は承をよはす。横沼といふ所そ聞ゆる。そこにや。又横野堤和泉なりとて
 霜かれの横野の堤風さえて入しほ遠くちとりなくなり
といふ哥をある人かたり侍し。いまたかんかへす。君をかけつゝとは、鶯のなくを聞て、ともにきかはやとおもへはかくいへるなり
 
(7)1826 春之去者妻乎求等※[(貝+貝)/鳥]之木末乎傳鳴乍本名《ハルサレハツマヲモトムトウクヒスノコスヱヲツタヒナキツヽモトナ》
 
春之去者、【六帖云、ハルナレハ、官本去或作v在、去注v異、】
 
春〔右○〕、發句の去の字を官本に或は在に作れるえお思へば、六帖のにはるなれば〔五字右○〕と有るに依て古本も在にて六帖の點それに叶へたるなるべし、其故ははるにあればを爾阿を反して約むればな〔右○〕と成る故にはるなればと云なり、之は文章の助語に准じて此集にも置ける處あり、第八に高田女王の歌に春之雨をハルサメと點じ、角朝臣廣辨が歌に君之許をキミガリと點ぜり、此下に至て春之在者とかけること兩處あり、其にハルサレバと點じたれど改めてはるなればと讀べし、委は下に至て注すべしはるさればと讀べき處は前後皆春去者と書て之〔右○〕を加ふる例なし、妻ヲ求トとは毛詩云出v自2幽谷1、遷2于喬木1、嚶其鳴矣、求2其友(ヲ)1聲、友を求め妻を求むる同じ意なり、木末はコヌレとも讀べし、
 
初、木|末《スヱ》をつたひ。こぬれともよむへし。鳴つゝもとなはよしなゝり。由なしといふ心は、妻をもとむとてなけは、われもゝよほさるゝゆへなり
 
1827 春日有羽買之山從猿帆之内敝鳴往成者孰喚子鳥《カスカナルハカヒノヤマユサホノウチヘナキユクナルハタレヨフコトリ》
 
第二に人丸歌にも大鳥羽易乃山とよめり、猿の字は下略して用たり、和名云、下總國※[獣偏+爰]島【佐之萬、】郡、※[獣偏+爰]と猿は同字なり、菅家萬葉にも高砂を高猿子《タカサコ》とかゝせ給へり、
 
初、春日なるはかひの山。第二に、大鳥の羽かへの山と人麻呂のよまれし長哥に有し所なり。さほの内とは、此集にあまたよめり。猿帆とかけるは、猿の字さるとよむを、下を略して上を用るなり。和名集云。下總國|媛島《サシマ》【佐之万】郡、此例なり。續日本紀には、佐保山を藏寶山ともかけり
 
(8)1828 不答爾勿喚動曾喚子鳥佐保乃山邊乎上下二《コタヘヌニナヨヒトヨミソヨフコトリサホノヤマヘヲノホリクタリニ》
 
同じ作者の上と二首にて意を云ひ盡せるなるべし、佐保山に殊に喚子鳥をよめる事は第八に云へるが如し、
 
初、こたへぬになよひとよみそ。これは上の哥の作者をしかへしてよめり。二首にてかやうによむ事、此集におほし
 
1829 梓弓春山近家居之續而聞良牟※[(貝+貝)/鳥]之音《アツサユミハルヤマチカクイヘヰシテツキテキクラムウクヒスノコヱ》
 
腰句之〔右○〕の下に?〔右○〕等の字あるべし、第四の句赤人集にはたえずきくらむ、新古今にはたえずきゝつると改らる、六帖には家の歌として、梓弓春の山べに家居して、我先づきかむ※[(貝+貝)/鳥]の聲とあり、
 
初、梓弓はる山ちかく。居之の下に、※[氏/一]天等の字落たり。古今集に、野へちかく家居しをれは、鶯のなくなる聲は朝な/\きく。心相似たり
 
1830 打靡春去來者小竹之米丹尾羽打觸而※[(貝+貝)/鳥]鳴毛《ウチナヒキハルサリクレハシノノメニヲハウチフレテウクヒスナクモ》
 
小竹之米丹、【六帖云、サヽノハニ、幽齋本米作v末、點同、六帖又云、サヽノウレニ、】
 
發句はウチナビクと讀ぺし、腰句は米は芽《メ》にて末に卷たる葉を云とも意得つべけれど、まことには末を書あやまれるなるべし、其に取て第七に山のはと云に、末の字をもかければサヽノハニと點ぜるは葉にはあらで山の未《ハ》の末《ハ》なりとも云べけれど、草木に付て末をは〔右○〕と云へる例なければ例多きサヽノウレニの點を用べし、
 
初、しのゝめに。めは芽にて、しのゝ心《シム》なり。心は末にあれは、さゝの上にといふ心なり。第十二に、さゝのうへにきゐて鳴鳥めをやすみとよめり。此心なり。時分にあらす。さゝのめとも讀へし
 
(9)1831 朝霧爾之怒怒爾所沾而喚子鳥三舩山從喧渡所見《アサキリニシヌヌニヌレテヨフコトリミフネノヤマユナキワタルミユ》
 
之怒怒爾、【風雅集云、シノヽノ、官本點亦同、】  三船山從、【】風雅云、ミフネノヤマヲ、官本キフネノヤマユ、】
 
之怒々はシノヽと讀べし、しとゞにぬると云に同じ、此下詠雪と云題落たり、
 
初、朝きりにしぬゝにぬれて、しのゝにぬれてともよむへし。しけくぬるゝなり。こゝに詠v雪といふ二字おちたり。以下十一首春雪哥なり
 
1832 打靡春去來者然爲蟹天雲霧相雪者零管《ウチナヒキハルサリクレハシカスカニアマクモキリアヒユキハフリツヽ》
 
發句はウチナビクと讀べし、六帖には赤人の歌とす、赤人集にも載ず、おぼつかなし、
 
初、打なひき春さりくれは。此春さりくれはといひて、下のつゝき心たかへるやうに聞ゆるは、第四卷に、見まつりていまた時たにかはらねは年月のことおもほゆる君といふ哥より後度々注せしことく、此集に者の字に、今の世とかはれる事有て心得かたし。此哥にては、春去くれとゝいはされはかなひかたし。しかすかには、さすかになり
 
1833 梅花零覆雪乎※[果/衣]持君爾令見跡取者消管《ウメノハナフリオホフユキヲツヽミモチキミニミセムトトレハキエツヽ》
 
【一l】此下句第十一にもあり、
 
1834 梅花咲落過奴然爲蟹白雪庭爾零重管《ウメノハナサキチリスキヌシカスカニシラユキニハニフリカサネツヽ》
 
1835 今更雪零目八方蜻火之燎留春部常成西物乎《イマサラニユキフラメヤモカケロフノモユルハルヘトナリニシモノヲ》
 
春部常、【幽齋本云、ハルヘト、】
 
春部はハルベと讀べし、成ニシのに〔右○〕は助語なり、
 
1836 風交雪者零乍然爲蟹霞田菜引春去爾來《カセマシリユキハフリツヽシカスカニカスミタナヒキハルサリニケリ》
 
(10)風交、【新古今云、カセマセニ、官本亦點同v此、】
 
春去爾來は春は來にけりの意なる故に、薪古今には然改て入られたり、是春されば夕さればなど云は春にあれば夕にあればと云にはあらで春來れば夕來ればと云意なる證なり、
 
初、風ましり雪はふりつゝ。新古今集には.風ませにと有。第五貧窮問答哥に、風ましり雨のふる夜の雨ましり雪のふる夜はとよめるに似たり。春さりにけりは、春はきにけりの心なり。新古今集に、すなはち春はきにけりとあらためて、時にかなへたり。第六には.打なひき春さりゆくと山のへに霞たなひき、又冬こなり春さりゆけはとも、又をとめらかうみをかくてふかせの山時のゆけれは都となりぬともよめり。禮記には、孟春之月鴻雁|來《カヘル》といひ、漢武の秋風辭には草本黄(ハミ)落(テ)兮雁南(ニ)歸(ル)といへり。此哥これに准して心得へし
 
1837 山際爾※[(貝+貝)/鳥]喧而打靡春跡雖念雪落布沼《ヤマノハニウクヒスナキテウチナヒキハルトオモヘトユキフリシキヌ》
 
腰句ウチナビクと讀べし、此歌、人丸集には見えず、六帖にはあれど人丸の歌と云はず、
 
1838 峯上爾零置雪師風之共此間散良思春者雖有《ミネノウヘノフリオケルユキシカセノムタコヽニチルラシハルニハアレトモ》
 
發句は例によりてヲノウヘニと讀べし、ヲノヘニとも讀ぺし、零置もフリオクとも讀べし、雪シのし〔右○〕は助語なり、此は今ふる雪を冬より筑波根に降おける雪を風の吹おろす歟と云へるなり、
 
初、峯上にふりをける雪し。これは、あはゆきのふりくるを、冬より峯にふりおける雪を、風の吹ぐして、こゝにちるならんといへり
 
右一首筑波山作
 
1839 爲君山田之澤惠具採跡雪消之水爾裳裾所沾《キミカタメヤマタノサハニヱクツムトユキケノミツニモノスソヌレヌ》
 
(11)山田之澤、【官本又云、ヤマタノサハノ、】  所沾、【六帖云、ヌラス、仙覺抄同v此、官本又點同v此、袖中抄云、モスソヌラシツ、】
 
惠具は八雲御抄には芹の下に注し給へり、芹の異名と定させ給へるなるべし、芹には少ゑぐき味のあれば異名とする歟、和名集云、※[酉+僉]、【唐韻力減反、〓味也、〓音初減反、酢味也、俗語云、惠久之、】味につきて惠具と名付は芋などをこそ云はめと云難も有べけれど、始に名づけ終に名付る事の一定せぬは常の事なり、袖中抄には今の歌を注して云く、惠具とは女|萎《ヰ》し書てゑご〔二字右○〕とよめり、ぐとごと同音なり、花すはうに咲草の水邊にあるなり、或はゑぐとは芹を云と云義あれど、六帖には芹の外に別にゑぐを擧たり、但古き文は委明らめずして物の異名をもたゞさず名の替りたれば別にかける事もあれば一定にあらず、俊頼朝臣は若菜を仲實朝臣が許へ遣はすとてよめる、をかみ川うきつにはゆるゑごのうれを、つみしなへてもそこのみためぞ、返し、心ざし深きみたにゝ摘ためて、いしみゆすりて洗ふ根芹か、今云、此歌はゑぐをゑごとよめり、返しは芹とよめり、ゑぐと同物と思へる歟云々、六帖には此歌をゑぐの歌として發句をあしびきのと換たり、又澤の歌には今の上句にて下を沾にし袖はほせどかはずと云歌あり、又それを後撰春上には今もかはかずとて載たり、詞華集に雪きえば惠具の若菜も摘べきに、春さへ晴ぬみ山べの里と曾禰好忠がよめる歌は今の歌を取る歟、
 
初、君かため山田のさはにゑくつむと。第十一にも、あしひきの山澤ゑくとよめり。ゑぐは芹なり。和名集云。崔禹錫(カ)食經(ニ)云。茄子味(ハヒ)甘(ク)※[酉+僉]《ヱクシ》【唐韻力減反、〓味也。〓音初減反。酢味也。俗語云、惠久之。】せりにもゑくき味あるゆへに、味につきてゑくといへるなるへし。しからは芋なとをこそいはめと難すへけれと、食經にも、茄子を昧廿※[酉+僉]といひためれば、かれも芋はかりやはゑぐき。初につきて名つけ、後につきてなつくる事、これにやはかきらん、藥には半夏遠志等あり。芋になつくとも、君なを難すへし
 
(12)1840 梅枝爾鳴而移徙※[(貝+貝)/鳥]之翼白妙爾沫雪曾落《ウメカエニナキテウツロフウクヒスノハネシロタヘニアハユキソフルヽ
 
初、梅か枝になきてうつろふ鶯の。毛詩云。出(テヽ)v自(リ)2幽谷1遷(ル)2于喬木(ニ)1。嚶(トシテ)其鳴(ヌ)矣。求(ムル)2其(ノ)友(ヲ)1聲(アリ)。此哥は打きくよりおもしろき哥なり。定家卿詠哥大※[既/木]にも載られたり
 
1841 山高三零來雪乎梅花落鴨來跡念鶴鴨《ヤマタカミフリクルユキヲウメノハナチリカモクルトオモヒツルカモ》
 
一云|梅花開香裳落跡《ウメノハナサキカモチリト》
 
此注は後人異本を見て注せるにて本より撰者の注せるにはあらず、其故は開香裳落跡は落鴨來跡の句の異なれば此一句のみ注して足れり、集中の例然なり、今梅花の句を加へたるは此例に違へば後人の所爲とは知なり、
 
初、山高みふりくる雪を。高き山のふもとにては、雪のふりくるを、梅の咲たるが、風にちりくるにやとおもふなり。樂天か詩に、痩嶺梅開數萬株
 
1842 除雪而梅莫戀足曳之山片就而家居爲流君《ユキヲオキオテウメヲナコヒソアシヒキノヤマカタツキテイヘヰセルキミ》
 
右の歌は梅を愛する心にて雪をもそれかと見て感《メヅ》るやうに讀たれば、雪をば雪と見てめでずして此をおきて、なぞ彼にまがへては見ると雪の方人する意によめり、山片就而は第六に海片就而とよめるに同じ意なり、俊頼朝臣の、夕まぐれ山かたづきて立鳥の、羽音に鷹を合せつるかなとよまれたるは山形盡而と意得られたりと見えたり、不審の事なり、六帖にはやまかたかけてとあり、源氏の手習に山かたかけたる家なれば松陰しげく風の音もいと心細きにと云へるは六帖によれる歟、さら(13)でも云べし、
 
初、雪をおきて梅をなこひそ。是はかへしなれは、梅の花散かもくると思ふといへるは、梅を愛する心から雪をもそれかとみてめつるやうによみたれは、雪をは雪と見てめてすして、これをばおきて、なぞやかれにまかへては見ると、雪の方人する心によめり。山かたづきては、常にいふ片つくなり。第六には、いさなとり海片つきてとよみ、第十九には、谷かたつきてともよめり。曾丹か哥には、と山かたかけとよみ、源氏物語手習には、山かたかけたる家なれは松かけしけく風のおともいと心ほそきにといへり。これらもかたつくといふにちかし。除の字は、日本紀にも、おきてとよあり。のそくはのけそくるなり。おくとのそくとまことに通せり
 
右二首問答
 
詠霞
 
1843 昨日社年者極之賀春霞春日山爾速立爾來《キノフコソトシハクレシカハルカスミカスカノヤマニハヤタチニケリ》
 
極之賀は今按今の義訓叶へりと云へども字に當りてはハテシカと讀べき歟、第三に四極山をシハツヤマとよみ、第九に吾船將極をワガフネハテムとよめり、後撰集に今年は今日にはてぬとかきくとよめれば證とすべし、古今集に昨日こそ早苗取しかとよめるに似て、彼は時節の早く遷るに驚き、此は春と云へば霞の早く立つ意なり、三四句のつゞきは第三に云へる如く春霞かすむと承る意なり、奥義抄に道濟十體器量の歌なり、拾遺及び赤人集六帖に共に赤人の歌とす、
 
初、きのふこそ年はくれしか。古今集に、きのふこそさなへとりしかとよめる哥の詞とおなしくて、かれは時節のはやく移るにおとろき、これは春とゝもに霞のはやくたつ心によめり。奥義抄に、源道濟の十體を出せる中の、第七に器量の哥なり。極の字をくるとは、義をもてかける歟。俗にしはすを極月といふこれにかなへり。しはつ山を四極山とかけるに准すれは年ははてしかともよむへし。何の集にやらん、きのふに年ははてぬとかきくとよめる哥有
 
1844 寒過暖來良志朝烏指滓鹿能山爾霞輕引《フユスキテハルキヌラシアサヒサスカスカノヤマニカスミタナヒク》
 
一二の何は潘岳閑居賦云、背(キ)v冬(ニ)渉v春、陰謝(シ)陽(ニ)施、寒暖の字は文選呉都賦云、露往霜來、呂(14)延濟曰、露秋也、霜(ハ)冬(ナリ)也、朝烏は烏は陽鳥なり、
 
初、ふゆ過て春はきぬらし。冬に寒、春に暖の字をかけるは、文選左太沖(カ)呉都賦曰。露《アキ》往|霜《フユ》來【濟云。露(ハ)秋也。霜(ハ)冬也。】潘岳(カ)閑居(ノ)賦(ニ)曰。背(キ)v冬(ニ)渉(テ)v春(ニ)、陰(ニ)謝(シ)陽(ニ)施(ス)。持統天皇の、春過て夏來にけらしとよませたまへるにおなし。烏は金烏なり。下の十二葉にも、寒過暖來者とかきて冬過て春しきぬれはとよめり
 
1845 ※[(貝+貝)/鳥]之春成良思春日山霞棚引夜目見侶《ウクヒスノハルニナルラシカスカヤマカスミタナヒクヨメニミレトモ》
 
あらゆる鳥皆春に相て囀る中に※[(貝+貝)/鳥]は殊に春を知初る鳥なれば、春鳥子の名を得て此鳥の春をば領したる意に※[(貝+貝)/鳥]之春ニ成ラシとは云へり、郭公は五月になけば己が
五月と讀が如し、詩にも鶯春と作る事なり、
 
初、鶯の春になるらし。鶯の春とは、花の春月の秋といふかことし。韓退之(カ)送2孟東野1序には、以(ハ)v烏(ニ)鳴(ル)v春(ニ)といひて、百千鳥皆春にあひて囀る中に、鶯はことに春鳥子の名を得たれは、此下の十八葉にも、春されは先啼鳥のうくひすのことさきたてし君をしまたんとよせたり。されは鶯の春とはいへり。霞たなひく、此所句なり。管見抄云。鶯は春を知そむる鳥なれは、此烏の春をは領したる心に、鶯の春になるらしとはいへり。ほとゝきすは五月になけは、をのか五月とよむかことし
初、霜かれの冬の柳は。もえを目生とかけるは、萠《モエ》は芽生《メオヘ》といふ義なれはなり。柳眼なといひて、このめは人の目にたとへて名つけたり。芽はもと牙の意なり。人の牙のことくに出れは芽といふ。女《メ》と毛《モ》とは五音にて通し、おへを上略すれはへとなる。敝《ヘ》と睿《エ》とは、同韻にて通すれは、もえになるなり。此相通は自然の理なり。わつらはしく、相通の法によりて後に通するにはあらす
 
詠柳
 
1846 霜十冬柳者見人之※[草冠/縵]可爲目生來鴨《シモカレノフユノヤナキハミルヒトノカツラニスヘクモエニケルカモ》
 
1847 淺緑染懸有跡見左右二春楊者目生來鴨《アサミトリソメカケタリトミルマテニハルノヤナキハモエニケルカモ》
 
淺緑の絲を染て懸たるかと見るばかりなり、續古今は赤人集に依て作者を付られたり、催馬樂に、淺緑や、濃い縹《ハナタ》染懸たりや、見るまでに、詞花集に、故郷の御垣の柳遙々と誰が染懸し淺緑ぞも、此等今の歌を本とせり、
 
初、淺みとりそめかけたりと。そめてかけほすなり。詞華集に、源道濟故郷柳をよまれたる哥に、ふるさとのみかきの柳はる/\とたかそめかけし淺みとりそもとあるは、此哥をもとゝせる歟。催馬樂に、淺緑やこいはなたそめかけたりやみるまてに云々
 
1848 山際爾雪者零管然爲我二此河楊波毛延爾家留可聞《ヤマノマニユキハフリツヽシカスカニコノカハヤナキハモエニケルカモ》
 
(15)1849 山際之雪不消有乎水飯合川之副者目生來鴨《ヤマノハノユキハキエヌヲナカレアフカハノソヘレハモエニケルカ》
 
不消有乎をキエヌヲと轉ぜるは有の字に叶はず、ケザルヲと讀べし、水飯合をナガレアフとよめるやう意得がたし、八雲御抄云、いひあひの川乃、清輔抄いりあひがは如何と遊ばせり、今按叡覽の御本又は清輔朝臣所覽の本には水の字なかりけるにや、今の本に依らば、水の字をも讀べし、ナガレアフと點ぜるは皇極紀云、以v水(ヲ)送v飯(ヲ)云々、此は飯を水に漬て喫なり、然れば飯の水に依て喉に流れ入る意によめるにや、此集第十六云、味飯乎《アチイヒヲ》水|爾《ニ》釀成云々、此は飯と水を合せて酒に造るなり、此に依て何とぞ義訓すべき歟、いまだいかによむべしとも思ひつけず、又水は音をし〔右○〕と用たる事、第九の水長鳥安房とつゞく、此卷下に水良玉をシラタマとよめり、飯は神代紀上云、用2渟浪田稻1爲v飯甞v之、飯はかす物なればカスと讀べし、合は音を用て引合せてシカスガニと讀べき歟、落句は柳の事なり、此は右の歌の作者二首にて意を云ひはたすなり、盖山の雪は消ざるを、さすがに水のぬるむ川のそひたれば柳のもえたるとなり、副者はタグヘバと讀べし、
 
初、山のはの雪はきえぬを。不消有乎とかきたれは、きえざるをとか、けざるをとか讀へし。但きえすしてあるは、きえぬなれは、心を得て、きえぬをと讀たる歟。なかれあふ川のそへれは、水飯合とかけるは、飯を水にて送《スク》時、喉《ノムト・呑門》になかれ入心を得てかける歟。皇極紀云。子麻呂等以v水(ヲ)送《スクニ・スクス歟過》v飯(ヲ)恐(テ)而|反吐《タマヒテ》。これは中大兄《ナカノオヒネ》【天智天皇】と、中臣鎌子連と、共に議《ハカリ》て、蘇我(ノ)入鹿《イルカ》を誅し給ふ時、佐伯(ノ)連《ムラシ》子麻呂と、葛城(ノ)稚犬養《ワカイヌカヒノ》連|網田《アミタ》とにおほせて、斬《キラ》しめたまふ時のことなり。八雲御抄第五、名所河部に、いひあひの川万清輔抄いりあひ川如何。今案此哥は次上の哥の同し意なから、氷のとけて、なかれあふ川のそひたれは、柳のもゆるかと、同し作者のよめるなるへし。上にもいふことく二首にて思ふ心をいひはつる事、此集におほし。なかれあふとよめるは、たしかには心得かたけれと、名所とは見えす。岑參詩云、樹交(テ)花兩色、溪合水重流
 
1850 朝且吾見柳※[(貝+貝)/鳥]之來居而應鳴森爾早奈禮《アサナサナワカミルヤナキウクヒスノキヰテナクヘキモリニハヤナレ》
 
(16)朝旦は日毎の意なり、柳と鶯とを共に賞するなり、家持集に下句をきゐてなくべくしげくはやなれとあるは爾の字を忘れたれな今取らず、
 
初、もりにはやなれ。楊と鶯とを共に愛するなり。森、説文曰。木多貌
 
1851 青柳之絲乃細紗春風爾不亂伊間爾令視子裳欲得《アヲヤキノイトノホソサヲハルカセニミタレスイマニミセムコモカナ》
 
細紗、【官本紗作v沙、】
 
伊間爾は伊は發語の詞なり、
 
初、みたれぬいまに。いは發語の辭
 
1852 百礒城大宮人之蘰有垂柳者雖見不飽鴨《モヽシキノオホミヤヒトノカツラナルシタリヤナキハミレトアカヌカモ》
 
和名云、兼名苑云、柳一名小楊、【柳音力久反、和名之太里夜奈木、】 崔豹古今注(ニ)云、一名獨搖、微風太搖、故以名v之、
 
1853 梅花取持見者吾屋前之柳乃眉師所念可聞《ウメノハナトリモチミレハワカヤトノヤナキノマユシオモホユルカモ》
 
取持見者、【刊本持下或有2而字1、幽齋本云、トリモテミレハ、】
 
梅は女の顔の如く柳は眉の如くなれば、外に有て梅の花を手に取持て見るに付て宿の柳を思ひ出となり、柳ノ眉ニは妻を兼て云なるべし、眉シのし〔右○〕は助語なり、
 
初、梅花取もちみれは。わかやとの柳の眉は、妻のかほよきを、おして柳眉といへり。梅をほめて、兼て梅によりておもひ出るなり、梅花粧の心もこもれる歟
 
(17)詠花
 
1854 ※[(貝+貝)/鳥]之木傳梅乃移者櫻花之時片設奴《ウクヒスノコツタフウメノウツロヘハサクラノハナノトキカタマケヌ》
 
梅の花のうつろふ比櫻は咲初れば時片設と云へり、
 
初、鶯のこつたふ梅の。梅のうつろふ比、櫻は咲そむれは、時片まけぬといへり。時をまふけ歸るなり。盛にはならねは片設といへり。
 
1855 櫻花時者雖不過見人之戀盛常今之將落《サクラハナトキハスキネトミルヒトノコヒノサカリトイマシチルラム》
 
今之のし〔右○〕は助語なり、時の、いたく過たるにはあらねど人の愛する盛にとてや散らむと云意なり、古今集にひと盛ありなば人にと云ひ、殘なく散そめて冬きとよめる此類なり、
 
初、櫻花時は過ねと。盛の過たるにはあらねと、人の愛する盛にとてやちるらんといふ心なり。古今集に
 いさ櫻われもちりなんひと盛ありなは人にうきめ見えなん
 殘なくちるそめてたきさくら花有てよの中はてのうけれは
 
1856 我刺柳絲乎吹亂風爾加妹之梅乃散覧《ワカカサスヤナキノイトヲフキミタルカセニカイモカウメノチルラム》
 
妹之梅とは妹が宿の梅なり、
 
初、わかゝさす柳のいとを、妹か梅とは、妹か宿の梅なり。我刺は、我|頭刺《カサス》と有けん、頭の字の脱《オチ》たるか。例みなしかり。さらずは、わかさせるとよむへし
 
1857 毎年梅者開友空蝉之世人君羊蹄春無有來《トシノハニウメハサケトモウツセミノヨノヒトキミシハルナカリケリ》
 
世人君とは世間の人を※[手偏+總の旁]て指て敬て云歟、又君は吾を書誤まれる歟、羊蹄は和名云、唐韻云※[草がんむり/里]、【丑六反、字亦作v※[草がんむり/逐]、和名之布久佐、一云之】羊蹄菜也、詩祈父之什曰、我待2其野1、言《コヽニ》采2其※[草がんむり/逐]1、朱子注云、※[草がんむり/逐](ハ)(18)牛※[草がんむり/頽]【音頽】惡菜也、今人謂2之羊蹄菜(ト)1、日本紀云、後方羊蹄《シリヘシ》【此云2斯梨蔽之1、】此は蝦夷地の名なり、今は借てかけり、春無有來とは梅は散ても年毎に咲を、世人は一たび盛過ては又本の春はなしとなり、劉庭芝が年々歳々花相似、歳々年々人不v同と作り、春毎に花の盛は有なめどとよめる類なり、伊勢物語にも君が宿には春なかるらしとよめり、
 
初、としのはに梅はさけとも。第十九註云。毎年謂2之(ヲ)等之乃波(ト)1。世の人君しとは、是も次上の哥の作者、さきの哥をふみてよめるにや。心は、風にか、妹か梅のちるらん、梅はちるとも、又も春きたらはさきぬへきを、君はうつせみのはかなき世の人なれは、月日にそひてうつろはむ色の、又梅のことくもとの色にかへる春はなしと惜む心なり。しは助語なり。羊蹄とかけるは、しといふ草なり。上にすてに注しつ。第十六にもかけり。いせ物かたりに、君か宿には春なかるらし
 
1858 打細爾鳥者雖不喫繩延守卷欲寸梅花鴨《ウチタヘニトリハハマネトシメハヘテマモリマクホシウメノハナカモ》
 
歌の意は少も鳥にはませぬために守らまほしきとなり、
 
初、打たへに、第四の十八葉五十七葉にありて注せりき。崇神紀云。活目尊以2夢辭(ヲ)1奏(シテ)言。自登2御諸山之嶺(ニ)1繩(ヲ)〓《ハヘテ》2四方(ニ)1逐(カル)2食(ム)v粟(ヲ)雀(ヲ)1
 
1859 馬並而高山部乎白妙丹令艶色有者梅花鴨《ウマナメテタカキヤマヘヲシロタヘニニホハシタルハウメノハナカモ》
 
馬並而、【別校本云、ウマナヘテ、】
 
馬に騎つれて行人をかちなる人の見れば高く見ゆる故に、高きと云はむ爲の發句なるべし、
 
初、馬なへて高き山へを。馬に乘つれて行人を、かちなる人の見れは、高くみゆるゆへに、高きといふにつゝけんとていへるなるへし
 
1860 花咲而實者不成登裳長氣所念鴨山振之花《ハナサキテミハカラネトモナカキケニオモホユルカモヤマフキノハナ》
 
不成登裳、【官本云、ナラネトモ、】
 
(19)カラネドモと點ぜるは書生の失錯なり、兼明親王の御歌にも、七重八重花は咲ども山吹の、みのひとつだになきぞ恠しきとよみ給へり、長氣はなげきなり、此歎は稱嘆嘆美など云なげきなり、或は又散て後惜みて歎くにも有べし、
 
初、花さきて實はならねとも。兼明親王の御哥に、なゝへ八重花はさけとも山吹のみのひとつたになきそあやしき。長きけにおもほゆるとは、歎なり。歎といふにふたつあり。愁歎と讃歎となり。讃歎の時も、息を長くすれは、なげきは長息なり。なかき氣といふもおなし。此哥は讃歎なり。山振はかりてかけり。正字にあらす。和名集に、?冬をやまふゝきとよみて、此集を引て、山振花といへるは、さしも和漢の才人なる順も、あやまられたり。三體詩(ニ)張籍(カ)逢2賈島(ニ)1詩(ニ)云。僧房(ニ)逢著(ス)?冬花。天隱注云。本草(ニ)?冬華注出(ツ)2雍州(ノ)南山及(ヒ)華州(ヨリ)1。十一十二月(ニ)采(トイヘリ)2其華(ヲ)1。李昌(カ)増註(ニ)云。?冬華(ハ)古今方(・ニ)用(ニ・テ)爲(ス)治(スル)v嗽《スハフキヲ》之最(ト)1。これは今の俗、都和といふものなり。庭なとにもうゆ。蕗《フヽキ》に似て、莖にも葉の裏にも毛あり。葉の色きはめて青し。黒色に近し。十月の初に、一重の黄菊のことき花を生す。ある僧のかたりしは、山里にそたちたるものを具して、山路を過けるに、都和のおほかりけるを、彼もの見て、山ふきと申侍しかは、都和とこそいへとをしへて侍れは、いさ都《ミヤコ》にはさもや申らん。山里にては、山ふきとなつけて、茹《ユテ》物なとにしてくふ物に侍ると申けるよしかたられき。羊蹄《シ》菜といふものをもとゝして、大黄《オホシ》、知母《ヤマシ》、紫〓《ノシ》、白英《ホソシ》、〓蕪《スシ》なと、似たる物を名付ることく、蕗《フヽキ》をもとゝして、牛蒡《ウマフヽキ》、〓《ミツフヽキ》、?冬《ヤマフヽキ》なとも名付たるを、蕗《フヽキ》をふきとのみいふをはしめて、うまふき、みつふき、やまふきといひならへるゆへに、順もあへ物になりて《・あやかるなり》、まとはれけるなり。蕗の薹《タフ》といふ物を、?冬といふも誤なり。下學集に、朗詠集の、?冬誤(テ)綻2暮春風1といふ句を難せり。公任卿も誤につかれて、?冬と題せらる。此集にはまさしくかける事なし。山振と大かたはかき、四もしにもかけり。山ふきの花は金に似たり。金は山にほり出て吹物なれは、和名をかくはおほせけるにや。ある物に、棣棠をやまふきなりといへと、いまたしらす。※[酉+余]※[酉+靡]なりといへと、※[酉+余]※[酉+靡]花と古き詩人なともいへることにや。趙宋の作者なとのいへるは信しかたし
 
1861 能登河之水底并爾光及爾三笠乃山者咲來鴨《ノトカハノミナソコサヘニテルマテニミカサノヤマハサキニケルカモ》
 
咲來鴨は花なり、花と云はずして咲と云は第八に春山の開野を過るにとよめる例なり、下に久木今開ともよめり、
 
初、三笠の山は咲にけるかも。櫻なるへし
 
1862 見雪者未冬有然爲蟹春霞立梅者散乍《ユキミレハイマタフユナリシカスカニハルカスミタチウメハチリツヽ》
 
第九にもみ雪殘れり未冬かもと有き、
 
1863 去年咲之久木今開徒土哉將墮見人名四二《コソサキシヒサキマサクイタツラニツチニヤオチムミルヒトナシニ》
 
六帖には楸の歌に入れたれど、今開と云ひ、土にや落むと云へるは正しく花なれば楸にはあらず、第六にも有て注せる如く、唯久しき老木の事を去年咲て後又やうやう今咲けば待程の久しきに寄せて云歟、さればにや腰句より殊に見る人なくて散らむ事を惜めり、
 
初、こそさきしひさ木。こゝに久木とよめるは、久しきの木の心なり。こそ咲し花の後は、久しくして、又此春咲といふ心なり。或先賢の云。惣して此集に久木とよめるは、濱ひさ木なとも、濱に久しく有木の心なりといへり。けにもとおほゆるなり
 
(20)1864 足日木之山間照櫻花是春雨爾散去鴨《アシヒキノヤマノマテラスサクラハナコノハルサメニチリユカムカモ》
 
1865 打靡春避來之山際最木末之咲往見者《ウチナヒキハルサリクラシヤマノハノヒサキノスヱノサキユクミレハ》
 
未之、【幽齋本、之作v乃、】
 
發句はウチナビクと讀べし、最木末之は今按ホツキノウレノと讀べし、第九に最末枝をホツエとよめるを證とす、落句は上の如し、此歌第八に既に出たれど少違へり、
 
初、最木末の咲ゆくみれは。ほつきの末とよむへし。ひさ木の末とよめるはあやまれり。第九の廿葉に、最末技とかきて、ほつえとよめり。末枝とのみかきても、ほつえとよめり
 
1866 春※[矢+鳥]鳴高圓邊丹櫻花散流歴見人毛我裳《キヽスナクタカマトノヘニサクラハナチリナガラフルミルヒトモカモ》
 
六帖にはきじの歌として、はるきじのなくたかまどにとあり、邊の字を殘したれば讀やう叶はず、道邊をみちのべと讀やうに意得て讀べし、高圓野もあれど今は野邊と云はざれば山野をかけて高圓のあたりなり、
 
初、ちりなからふるは、ちりなかるゝなり。ちるをすなはちなかるといへり
 
1867 阿保山之佐宿木花者今日毛鴨散亂見人無二《アホヤマノサネキノハナハケフモカモチリマカフラムミルヒトナシニ》
 
佐宿木花、【六帖、サナキノハナ、】  散亂、【六帖云、チリミタルラム、赤人集同v之、】
 
阿保山は前後の歌大和の名所をよめる中にあれば此も大和なるべし、佐宿木花は(21)六帖にさねきの歌に入れ、さなきのはなとあり、宿は禰と奴とに用れど奈に通はせる例なければ傳寫の誤なるべし、佐宿木と云一種の花ある歟、第十二云、白香付木綿者花物事社者《シラツケユフハハナカモコトコソハ》、何時之眞枝毛常不所忘《イツノサネキモツネワスラレネ》、此眞枝は幽齋本にはマエタと點ぜり、さねきとよみてもまえたと同じ意なれば、今は櫻にまれ何の花にまれ眞木《サネキ》と云ひて、眞木《マキ》と同じ意にほめて云にや、
 
初、あほ山のさねきの花。あほ山は、八雲御抄にあを山播磨と注せさせ給へり。彼は青山、これは阿保山とかけり。いかゝ侍らん。あるものゝ申しは青山ならて阿保といふ所ありと。そこに此山あるにや。さねきは、眞《サネ》木にて、まきといふにおなしく、諸木の花をいふといへるや、よく侍らん。伊賀國に阿保郡あり。餝磨郡|英保《アホ》【安母】和名集
 
1868 川津鳴吉野河之瀧上乃馬醉之花曾置末勿動《カハツナクヨシノヽカハノタキノウヘノツヽシノハナソオクニマモナキ》
 
馬醉之花曾、【赤人集云、アセミノハナソ、六帖同v此、】
 
馬醉は今の本には處々皆ツヽシと點じて一處もアセミとは點ぜず、八雲御抄躑躅の注に、又吉野の河の瀧の上にも有と遊されたるは今の歌に依てのたまひたれば古本もつゝじ、あせみ兩方なりけるにや、落句は今の點字に應ぜず、赤人集にはさきてあだなるとあり、此は一向別なり、六帖にはてなふれそゆめ、此も亦改たるなり、されどな〔右○〕と云は勿、ゆめ〔二字右○〕は謹に叶へり、今按花曾と云を句としてスヱニオクナユメと讀べきか、吉野川の瀧の上の面白きに、蛙さへ鳴比のつゝじぞかし、徒に木の末に置て散らすな、手折來て翫べとよめる意歟、或は本は初の義、末ははて〔二字右○〕の義あればオキ(22)ハツナユメと讀てさておきはたすな折て見よとにや、
 
初、かはつなくよしのゝ川の。此下句を、紀氏六帖にはあせみの花そてなふれそゆめと載たり。馬醉木をあせみとよまは、此集にあまた有。つゝしも、羊躑躅の注をみれは、馬もゑふはかりの事は侍なんや。置末勿勤、此四もしをおくにまもなきとよめるは誤なるへし。勿勤の二字は、なゆめと讀へし。例みなしかり。置末の二字、いかによむへしともしらす。推量するに、此二字の内に誤ある歟。あるひは落たる字あるなるへし
 
1869 春雨爾相爭不勝而吾屋前之櫻花者開始爾家里《ハルサメニアラソヒカネテワカヤトノサクラノハナハサキソメニケリ》
 
拾遺集春歌に、吹風に爭ひかねて足引の、山の櫻は綻びにけり、似たる歌なり、
 
1870 春雨者甚勿零櫻花未見爾散卷惜裳《ハルサメハイタクナフリソサクラハナイマタミナクニチラマクヲシモ》
 
春雨者、【別校本云、ハルサメハ、】
 
發句の今の點は書生の誤まれるなり、新古今集に下句をまたみぬ人にちらまくもをしとて、赤人と作者を定られたるは彼家集に依れり、
 
1871 春去者散卷惜櫻花片時者不咲含而毛欲得《ハルサレハチラマクヲシキサクラハナシハシハサカテツホミテモカナ》
 
櫻花、【幽齋本、櫻作v梅、點云、ウメノハナ、】  含而毛欲得、【官本又云、フヽミテモカナ、】
 
腰句は第八にも梅の花さくふゝめらずして、ふゝめりと云ひし梅が枝などよめるを思ふに、赤人集を證として幽齋本に付べきにや、落句も官本又點に依るべし、
 
1872 見渡者春日之野邊爾霞立閲艶者櫻花鴨《ミワタセハカスカノノヘニカスミタチサキニホヘルハサクラハナカモ》
 
(23)人丸家集にもなし、風雅には何に依て、人丸の歌と載られけむおぼつかなし、下に至て又此上句あり、霞立を立霞となせるのみ替れり、
 
1873 何時鴨此夜之將明※[(貝+貝)/鳥]之木傳落梅花將見《イツシカモコノヨノアケムウクヒスノコツタヒチラスウメノハナミム》
 
イツシカモのし〔右○〕は助語なり、第十九家持歌云、袖垂而伊射吾花爾、以下三句今と同じ、
 
初、いつしかも此夜のあけむ。第十九に家持の哥に、袖たれていさ我苑に鶯のこつたひちらす梅の花見に。三の句より下おなし。みむと見にといへるのみたかへり
 
詠月
 
1874 春霞田菜引今日之暮三伏一向夜不穢照良武高松之野爾《ハルカスミタナヒクケフノユフツクヨキヨクテルラムタカマトノノニ》
 
高松、【官本又云、タカマツ、】
 
新拾遺には赤人集に依て落句をたかまどの山とあり、六帖、雜ゆふづくよに入れて此も赤人の歌とす、三伏一向をツクとよめる書樣其意を得ず、第十二には梓弓末中一伏三起《アヅサユミスヱナカタメテ》云々、第十三には菅根之根毛一伏三向凝呂爾《スカノネノネモコロコロニ》云々、これらの書やうも似たる事にて皆意得がたし、菅家萬葉集にもゆふづよを夕三里夜とかゝせ給へり、不穢は義訓なり、
 
初、暮三伏一向夜《ユフツクヨ》。此三伏一向とかきてつくとよめるやう、いかなるゆへとも得こゝろえ侍らす。第十三の十八葉に、菅の根の根もころ/\にといふに、一伏三向とかきて、ころとよめるも心得かたし。三伏一向と、一伏三向と、かきやう表裏して、つくとよみころとよめるに、後の人心を付へし。三伏は、九夏三伏の意歟。もし禮拜するを、ぬかつくといふ。其意歟。ころはころふといふ意ある歟。一向といふを思ふに、夏の三伏にはあらし。穢は淨に對する詞なれは、不穢とかきてきよくとよめり
 
(24)1875 春去者紀之許能暮之夕月夜欝束無裳山陰爾指天《ハルサレハキノコノクレノユフツクヨオホツカナシモヤマカケニシテ》
 
第二の句は木《キ》の木の間なり、夕月夜はほのかなるをおぼつかなしとは云へり、古今にも夕月夜おぼつかなきを玉匣、二見の浦は明てこそ見めとよめり
 
初、春されはきのこのくれの。木の木闇《コノクレ》なり。木の下やみといふかことし。李嘉祐か詩に、山木暗(シ)2殘春(ニ)1。此集に猶、このくれやみともよめり。夕月夜おほつかなしもとは、さらぬたに、夕月夜は、望月のことくさたかならぬに、山陰にして、木の下くらけれは、おほつかなくて待わふる心なり。古今集にも、兼輔朝臣の哥に、ゆふ月夜おほつかなきを玉くしけふたみの浦は明てこそみめ。いふせき、おほつかなき、おほゝしくなといへる、みなおなしく心もとなきなり。山陰にしては、第三湯原王の哥に、よしのなる夏箕の川の河よとに鴨そなくなる河よとにして
 
一云|春去者木陰多暮月夜《ハルサレハコカクレオホキユフツクヨ》
 
後撰集に、春來れば木がくれ多き夕月夜、おぼつかなくも花陰にして、六帖春の月に入たるも後撰に同じきは此一本に依れば歟、木陰はコカゲと讀べきか、然らずば陰は隱にや、
 
1876 朝霞春日之晩者從木間移歴月乎何時可將待《アサカスミハルヒノクレハコノマヨリウツロフツキヲイツシカマタム》
 
何時可は今按イツトカとよむべし、夕月夜なれば春日の暮たらば見るべきを、折しも茂りて木闇《コグラ》ければ暮たりとも猶いつとか待たむとなり、
 
初、朝霞はる日のくれは。朝霞のたつ春の日といへるか。春霞のはるゝとつゝくるこゝろ歟。春日のくれはゝくれたらはなり
 
詠雨
 
1877 春之雨爾有來物乎立隱妹之家道爾此日晩都《ハルノアメニアリケルモノヲタチカクレイモカイヘチニコノヒクラシツ》
 
(25)春雨にてはか/”\しくもふらぬを雨やどりして晩せしとなり、六帖雨に入れて赤人の歌とす、赤人集に依歟、
 
初、春の雨に有ける物をとは、はか/\しくもふらぬを、雨やとりしてくらせしとなり
 
詠河
 
1878 今往而※[米/耳]物爾毛我明日香川春雨零而瀧津湍音乎《イマユキテキクモノニモカスカカハハルサメフリテタキツセノオトヲ》
 
※[米/耳]物、【校本或※[米/耳]作v聞、】
 
※[米/耳]は聞と同じ、落句は瀧津湍とは讀つゞけず、タキツと切て湍ノ音ヲと讀べし、
 
初、今ゆきてきくものにもか。※[米/耳]は間の異字なり。春雨ふりてたきつせのをとをとは、瀧つせを、つゝけて體には意得へからす。たきつとも、たきちともいふは、沸《タキル》なり。たきる瀬の音をと心得て、たきつとよみきるやうにすへし
 
詠煙
 
1879 春日野爾煙立所見※[女+感]嬬等四春野之菟芽子採而※[者/火]良思文《カスカノニケフリタツミユヲトメラシハルノヽヲハキツミテニラシモ》
 
ヲトメラシのし〔右○〕は助語なり、菟芽子をヲハキと點ぜるは誤なり、ウハキと讀べし、第二に人丸の佐美乃山野《サミノヤマノ》上乃宇波疑とよまれたる但六帖にはをはぎの歌とせり、古本もヲハキと點じけるにや、和名集には於八|木《キ》とあり、於と宇と通ぜり、凡宇の音に二つあり阿伊宇要乎《アイウエヲ》の于と和爲宇惠於《ワヰウヱオ》の宇となり、天竺の梵文には二つの宇、字體(26)別なり、漢字には別なき歟、わいうえをのう〔右○〕は本韻にして聲輕し、わゐうゑおのう〔右○〕は和を聲の體とし、本韻のう〔右○〕を韻とし和宇(ノ)切宇なり、然るに阿和也は同じく喉音なりと云へども阿は喉中の喉、也は喉中の舌、和は喉中の脣なり、脣に當て聞ゆる聲は至て重し、されば和を體として生ずる宇の聲は本韻の宇よりは重ければ、本韻の乎とは通ぜずして和乎切なる重き於と通ずるなり、此に依て此集に宇波疑とあるを和名集には於八木と云へるなり、※[者/火]ラシモは※[者/火]るらしなり、第十六竹取歌序云、季春之月登v丘、忽値2※[者/火]v羮(ヲ)之九箇(ノ)女子1也云々、菅家内宴詩序云、野中※[草がんむり/毛]v菜(ヲ)、世事推2之(ヲ)※[草がんむり/惠]心1、爐下和v羮(ニ)、俗人屬2之※[草がんむり/夷]指1、うつぼ物語云、しろがねのさすなべにわかなのあつものひとなべ云々、
 
初、春日野に煙たつみゆ。春野のうはきつみてにらしも、うはきはおはきなり。宇と於と五音相通なり。第二卷に、さみの山野上のうはきとよまれたる哥に、うはきの事注し畢ぬ。俗によめか萩といふ野菜なるへし。第十六云。昔有2老翁1號(テ)曰2竹取翁(ト)1也。此翁季春之月登(テ)v丘(ニ)忽(ニ)値(フ)2※[者/火](ル)v羮(ヲ)之九箇女子(ニ)1也。本朝文粹中菅家の御秀句云。野中(ニ)※[草がんむり/毛](フ)v菜(ヲ)。世事推(ス)2之(ヲ)※[草がんむり/惠]心(ニ)1。爐下(ニ)和(シテ)v羮(ニ)、俗人屬(ス)2之(ヲ)※[草がんむり/夷]指(ニ)1。うつほ物語に、しろかねの銚にわかなのあつものひとなへといへり。源氏物語若菜上、御かはらけくたりわかなの御あつものまゐる
 
野遊
 
1880 春日野之淺芽之上爾念共遊今日※[立/心]日八方《カスカノヽアサチカウヘニオモフトチアソフケフヲハワスラレメヤモ》
 
遊今日、【六帖云、アソヘルケフハ、】
 
芽は書生の誤なり、茅に作れるよし、淺茅之上は第七にも印南野の淺茅が止とよみ(27)ておのづから莚を數たる樣に面白き物なり、六帖野遊の歌に發句をはるの野のとて入れたるは、彼所覽の本には日の字なかりけるにや、
 
初、春日野のあさちかうへに。茅は吉祥草とて、佛の成道の時も座にしたまひ、秘密の經軌の中に、處々に説(キ)、大日經疏にこれを座とする故を釋し、易にも詩にも出たるものなり。これらをはしはらくおく。打見るにきよくみゆる物にて、莚もしかす、そのまゝもをるへけれは、かくはよめり。第七にも、家にしてわれはこひむな印南野の淺茅かうへにてりし月夜を。印南野の月ばかりも、おもひ出てこふへきを、猶あさちかうへにてりしといへるをおもひて、今の哥をもみるへし
 
1881 春霞立春日野乎往還吾者相見彌年之黄土《ハルカスミタツカスカノヲユキカヘリワレハアヒミムイヤトシノハニ》
 
落句はいよ/\年ごとになり、
 
初、いやとしのはには、彌|毎年《トシノハ》なり。上にも注することく、第十九自注に、毎年謂(フ)2之(ヲ)等之乃波(ト)1。こゝに彌年之黄土とかけるは、はゝ、としのはのはにて、上につき、には、てにをはなるを、つゝけてよまるゝまゝに、黄土《ハニ》とはかけり。あらなくにといふ詞を、有莫國とかけるも、あらなくは、あらぬにて、にの字は、てにをはなるを、國の字を書て、上のくの字を下につゝけたり。かやうに無窮にかけるに心を著へし
 
1882 春野爾意將述跡念共來之今日者不※[日+脱の旁]荒粳《ハルノヽニコヽロヲヤラムトオモフトチキタリシケフハクレスモアラヌカ》
 
意將述、【赤人集云、コヽロノヘムト、】  荒粳、【官本、粳作v糠、】
 
雄略紀云、是月御馬皇子以3曾善2三輪(ノ)君身《ム》狹1故、思2欲遣1v慮而往、今按六帖にも今の本の如くあれど、赤人集字に當りてまさるべき歟、落句は六帖にくれずもあらなむと改たむ、今の點の落著の意なり、
 
初、春の野にこゝろやらんと、遣v悶(ヲ)なり。くれすもあらぬかは、くれすしてはあられぬものか。くれすしてあれの心なり。粳は※[米+亢]とおなし。糠と通する歟。さらずは、ぬかとは讀かたし。處々に此字をかけり。これもあらぬとつゝきて、かは離たるを、荒粳とかけるは、さきにいふことし
 
1883 百礒城之大宮人者暇有也梅乎挿頭而此間集有《モヽシキノオホミヤヒトハイトマアレヤウメヲカサシテコヽニツトヘリ》
 
君臣和樂の意詞の外に顯はれたり、打きくも樂しき歌なり、治世(ノ)之音(ハ)安以樂(シ)、其(ノ)政和、とは此等を申すべきにや、六帖にはかざしの歌に入れたり、赤人集には下句を櫻かざして今日も晩しつとあり、打つゞき皆此前後の歌なれば今の歌なる事疑なし、新(28)古今は、彼集に依て載らるゝなり、
 
初、百しきの大宮人は。赤人の哥とて、上句は今とおなしうして、櫻かさしてけふもくらしつとそ、常には人の覺えたる。日本紀に、内裏とかきて、おほうちとももゝしきともよめり
 
歎舊
 
歎は感歎なり、先初の歌は老を歎て、次には道理を案じて思ひ解て歎を遣るなり、
 
1884 寒過暖來者年月者雖新有人者舊去《フユスキテハルシキヌレハトシツキハアラタマレトモヒトハフリユク》
 
春シのし〔右○〕は助語なり、雖新有は今按本の點有の字を忘たり、アラタナレドモと讀べし、古今集に、百千鳥囀る春は物毎に、改まれども我ぞ古り行、拾遺集に新しき年はくれども徒に、我身のみこそ古まさりけれ、此等同意なり、
 
初、ふゆ過てはるしきぬれは。上の第八葉にも、寒過暖來とかけり。下句は古今集に、もゝちとりさえつる春は物ことにといふ哥におなし。但雖新有とかきたれは、あらたなれともとよむへき歟。新の字はあらたまるとよむへきを、有の字のあまれはなり.次の哥、物みなはあたらしきよし。これを思ふへし
 
1885 物皆者新吉唯人者舊之應宜《モノミナハアタラシキヨシタヽヒトハフリヌルノミソヨロシカルヘキ》
 
物皆者、【官本或作2物者皆1、點云、モノハミナ、】
 
尚書盤庚上云、遲任有v言、人(ハ)惟求v舊、器非v求v舊惟新、此意にてよめる歟、又知らずおのづから叶へる歟、舊之は今の點叶はず、フリヌルノミシと讀べし、し〔右○〕は助語なり、此歌春の意なけれども同じ作者の手に出て上の歌と二首にて意を云ひ盡す故に、上の歌(29)に引かれて此には入たるなり、
 
初、物みなはあたらしきよし。尚書盤庚上曰。遲任有v言《イヘルコト》。人|惟《タヽ》求(ム)v舊(キヲ)。器(ハ)非(ス)v求(ムルニ)v舊(キヲ)。惟(レ)新(シキヲス)。此哥は此書の心にてよめるか。をのつからかなへる歟。次上の哥の作者、二首にて心を足《タ》すゆへに、此哥に春はなけれとも、春の哥とせり
 
懽逢
 
1886 住吉之里得之鹿齒春花乃益希見君相有香聞《スミノエノサトノエシカハハルハナノマシメツラシミキミニアヘルカモ》
 
住吉之、【六帖云、スミヨシノ、】  希見、【六帖云、メツラシク、】
 
發句は六帖の點に同じ意なり、此は地の名にはあらず、第六に在杲石住吉里《アリカホシスミヨシサト》と久邇の京をよめり、何處にても里の富てよきをばかく云べし、津國の住吉も此※[手偏+總の旁]名を取て別名としたるなるべし、春花乃益希とは、第三に人丸の、春草の益めづらしさ我大君かもとよまれたるが如し、希見は六帖の如くメヅラシクと讀べし、神功皇后紀云、希見《メヅラシキ》物(ナリ)、【希見、此云2梅豆邏志1、】此れに字を引合て、メヅラシとよめり、今の本の點にては君と云に能つゞかず、此歌は曹顔遠詩、富貴他人(モ)合、貧賤親戚(モ)離、と云意ありて、彼は憤る事あり此は唯悦こべり、六帖に昔あへる人と云に入れたるは初の二句に少叶はざるにや
 
初、すみのえの里を得しかは。長流か抄には、住よしの里とよみて、注すらく。此すみよしの里は名所にあらす。住よき里なり。第六卷の哥に、有がほし、住よし里の、あれまくをしもとよめるは、久邇の都のことなり。いつくにても、里の富貴にてよきをは、住よしの里といふへしといへり。春花のましめつらしみとは、花の、みても又、またもみまくのほしきことくなる君といふ心なり。第三に人麿の、長皇子に奉られける哥に、春草のましめつらしき我おほきみかもといへる心におなし。めつらしみといへるみの字は、山高み里とをみなとのみ今はよむを、第一卷の最初、雄略天皇の御哥に、こもよみこもち、ふくしもよみふくしもちと讀せたまへるを、注しつることく、今此哥も、ましめつらしきといふへき所にめつらしみといへり。此哥は、文選曹顔遠(カ)詩(ニ)、富貴(ナレハ)他人(モ)合といふ心の、彼は欝憤あり。これはなきなり
 
旋頭歌
 
(30)1887 春日在三笠乃山爾月母出奴可母佐紀山爾開有櫻之花乃可見《ミカスカナルミカサノヤマニツキモイテヌカモサキヤマニサケルサクラノハナノルヘク》
 
可見、【幽齋本云、ミユヘク、】
 
春日は添上郡、佐紀山は添下郡なり、都は添下郡に在ければ都の人のよめるなるべし、第七に三笠の山に月の舟出とよめる歌も有き、月モ出ヌカモは出よと願ふ意なり、可見は六帖もみるべくとあれど、幽齋本の點然るべし、新千載集春上に柿本人丸とて、春日なる三笠の山に月は出ぬ、さける櫻の色の見ゆらむとあるは此歌を約めたる歟、家集にも見えず、
 
初、春日なるみかさの山に。月も出ぬかもは、出よかしと願ふ心なり。春日は添上郡、佐紀山は添下郡にてほと近し。第一卷の終に、長皇子與2志貴皇子1於2佐紀宮1倶(ニ)宴(シタマフ)歌有き。そこにも釋しき
 
1888 白雪之常敷冬者過去家良霜春霞田菜引野邊之※[(貝+貝)/鳥]鳴烏《シラユキノトコシクフユハスキニケラシモハルカスミタナヒクノヘノウクヒスナクモ》
 
常敷、【六帖云、ツネニシク、】
 
常敷は第九に勢能山爾黄葉《セノヤマニモミチ》常敷云々、此を顯昭の古今注にはつねしくと引かれたれば、六帖につねにしくとよめると今の本の點と優劣いづれならし、又第三に冬木成|常敷《トコシク》時跡云々、此傍例に依らば今の點なるべき歟、
 
初、白雪のとこしく冬は。とこしくは、常に雪の降しくなり。第九には、せの山にもみちとこしくともよめり。もみちのつねにふりしくなり。烏は和名集に廣韻を引て焉と通すといへり。しかれは助語に置り。をとつかふ時は、音を取、ぞとつかふ時は訓を取れり
 
(31)譬喩歌
 
1889 吾屋前之毛桃之下爾月夜指下心吉菟楯頃者《ワカヤトノケモヽノシタニツキヨサシシタコヽロヨシウタテコノコロ》
 
月夜指は唯月影のさすなり、菟楯はた〔右○〕とて〔右○〕と通ずればうたゞなり、桃は花のみあまた咲、實なる事はともし、然るを毛桃は實の名なれば此をたまさかに思ふ事の成れるに喩ふ、又桃の末は繁くて暗く、本には月影のさして面白きをば、人知れず下うれしさのまさるに喩へたり、
 
初、わかやとの毛桃。うたてはうたゝなり。桃の花のさける陰に、月のさよなかとてるによせて、うたゝ此ころ下心よしとは、おもふことの、何事にもあれ、なりゆくにたとふるなるへし。紅顔を桃によそへて戀にたとふる歟
 
春相聞
 
1890 春日野犬※[(貝+貝)/鳥]鳴別眷益間思御吾《カスカノニイヌルウクヒスナキワカレカヘリマスホトオモヒマスワレ》
 
犬の下に類留等の字落たるべし、落句は今按今の點叶へらずオモヒマセワレヲと讀べし、ませ〔二字右○〕はましませなり、若は吾は君を寫誤て、おもひませきみ歟、
 
初、かすか野にいぬる鶯。犬の下に、類留《ルル》等の字をゝとせり。鳴わかれとは、里に出てなく鶯の、春日野へ歸る時、友にも妻にもなきて別るゝが、かへりみして、ます/\なくほどに.われも次第に君をおもふ心のまさるなり。今案思御吾とかけるをは、おもひませわれをと讀へきにや。おほしめせわれをともよむへし。御の字ましますといふことを、増といふにもかるましきにはあらねと、思御とつゝけたれは、おもひましませおほしめせにて有ぬへうや
 
1891 冬隱春開花手折以千遍限戀渡鴨《フユコモリハルサクハナヲヲリモチテチヘノカキリモコヒワタルカモ》
 
花手折似、【幽齋本云、ハナヲタヲリモチ、別校本手作v乎、】
 
(32)冬隱春開花とは待々てよき程になれる人に喩ふ、手折以はそれを云ひ靡けて我手に入るゝに喩ふ、戀渡るとは上にも注せし如く飽ず思ふを戀渡と云なり、
 
初、冬こもり春さく花をたをりもて。はなをゝりもちてとよみたれと、花手所以とかきたれは、初のことくよむへし。手の字は.古本乎の字なりけるを、あやまれるにや。此哥の心は、冬こもりし梅櫻も、春になれは花さくを、しのひに物おもふ心の、ひらくる時なきを、花に感してなけくなり
 
1892 春山霧惑在※[(貝+貝)/鳥]我益物念哉《ハルヤマノキリニマトヘルウクヒスモワレニマサリテモノオモハメヤ》
 
第九に惑人をワビヾトと讀たれば第二の句はキリニワビタルとも讀べし、霧も霞も春秋に通はしてよめり、詩にも咽霧山※[(貝+貝)/鳥]鳴尚少と作れり、此歌六帖には人丸とて霧に入れたり、
 
初、春山のきりに。朗詠集云。咽(フ)v霧(ニ)山鶯(ハ)啼(コト)尚少(ナリ)。霧にまとへる鶯も、戀路にまとへるわれにはまさらしとなり。ならすはやましは、實にならすはやましなり。逢を實《ミ》にたとへたり
 
1893 出見向崗本繁開在花不成不止《イテヽミルムカヒノヲカノモトシケクサキタルハナノナラスハヤマシ》
 
六帖に、いひはじむ、と云に入れたるにて意得べし、今按向崗の下に桃の字有てムカツヲノモヽにて有べきを桃を落せる歟、第七に向峯爾《ムカツヲニ》立有桃樹云々、此れ傍證なり、向崗をムカツヲとよむ傍證は、同第七に向岡(ノ)之|若楓木《ワカカツラキ》云々、腰句以下は第七にはしきやし吾家の毛桃本繁、花のみ開て成らざらめやも、第十一に、やまとの室《ムロ》原の毛桃本繁わかきみ物を成らずはやまじ、此等を引合するに彌桃の字あるべき事知られたり、但古本より落たりけるにや、六帖にもむかひのをかのとあり、
 
(33)1894 霞發春永日戀暮夜深去妹相鴨《カスミタツハルノナカヒヲコヒクラシヨノフケユケハイモニアヘルカモ》
 
夜深去、【官本又云、ヨノフケユキテ、】
 
六帖には打來てあへると云に入れて、第二の句を、ながきはるびをとあり、夜深去、此句今の點の意は、永き日を戀くらして猶夜の深行まで戀ていねざりしかば、其かひ有て妹にあへるかもとなり、官本又點の意は、永日を戀暮らすだにあるを、夜さへ深ても逢ぬことのはかなきを云なり、
 
1895 春去先三枝幸命在後相莫戀吾妹《ハルサレハマツサキクサノサキクアラハノチモアヒミムナコヒソワキコ》
 
三枝は第五に注せしが如、さき草を承てさきくあらばと云へり、後相は今按六帖も今の點と同じけれど、相見ともなきにあひみむと讀べき理なし、ノチニモアハムと讀べし、吾妹はワキモと點ぜるに付べし、
 
初、春されはまつさき草のさきくあらは。春くれは、先もえ出るさき草とつゝけてさきくとうけたり。第五に、山上憶良戀(ル)3男子(ノ)名(クル)2古日《フルヒト》1歌に、ちゝはゝもうへはなさかりさき草の中にをねんとゝある所に委尺せり。吾妹は、わきもとのみよむへし
 
1896 春去爲垂柳十緒妹心乘在鴨《ハルサレハシタリヤナキノトヲヲニモイモカココロニノリニケルカモ》
 
柳の技の鶯にもたへずしてたはむ如く、我心をおもるばかり妹が乘たるかなとなり、乘在鴨は六帖にものりにけるかもとあれど、ノリニタルカモと讀べし、第十一に(34)是川瀬|々敷浪布布《セノシキナミシク/\》と云歌の下句も今と同じきをノリニタルカモと點ぜり、證とすべし、?阿切多なれば約めて讀なり、
 
初、春されはしたり柳の。和名集(ニ)云。兼名苑(ニ)云。柳一名(ハ)小楊【柳(ハ)音力久反。和名之太里夜奈木。】崔豹(カ)古今注云。一名(ハ)獨搖。微風(ニモ)大(ニ)搖(ク)。故(ニ)以名(ツク)v之、したるといふは、すなはちたるゝなり。日本紀に、しだるといふ人の名に、垂の字をかけり。とをゝはたわゝなり。登と多と五音相通なり。袁《ヲ》と和ともおなし。わか心の、妹か心の上にのる事、かたちある物ならは、たわむはかりなれは、したり柳の、風にあひてたわむによせて、かくはよめり。乘在鴨は、のりにたるかもと讀へし。のりにてあるかもを、※[氏/一]阿切多なれは、のりにたるとはよむなり。のりにけるかもとあるは誤なり。乘來鴨とあらばこそ、さはよまめ。第二に久米禅師か哥に、あづまづののさきのはこのにのをにもいもかこゝろにのりにけるかも。此哥におなし心にて、下の句おなし。たるとけるとのたかへるのみ
 
右柿本朝臣人麿歌集出
 
右とは上の七首を指せり、※[手偏+總の旁]標のみ有て題なき事上の春雜歌の初の如し、
 
初、右柿本朝臣人麿歌集出。したり柳の一首の注なるへし。そのゆへは、他卷にも右幾十幾首は、誰集出といひ、又只誰集出、或は右一首は誰集出とあれはなり
 
寄鳥
 
1897 春之在者伯勞鳥之草具吉雖不所見吾者見將遣君之當婆《ハルサレハモスノクサクキミヘストモワレハミヤラムキミカアタリハ》
 
春之在者、【官本又云、ハルナレハ、】
 
發句は六帖にも袖中抄にも今の點の如くあれど官本又點の如く讀べし、上に春之去者妻乎求等云々、此發句に注せしが如し、弟二の句は袖中抄に云く、もずの草くゞると云なりと注して、第十七に安之比奇能|山邊爾乎禮婆保登等藝須《ヤマヘニヲレバホトトキス》、木際多知久吉奈可奴日波奈之《キノタチクキナカヌヒハナシ》と云を初めて鶯郭公の飛くゝ立くゝとよめる歌どもを證據に引かれたり、く〔右○〕とき〔右○〕と音通ずればくき〔二字右○〕とくゝ〔二字右○〕と同じ詞なり、神代紀上に高|皇産靈損《ミムスヒノミコト》の少彦名命《スクナヒコナノミコト》か事をのたまふ所に、自2指間1漏|墮者《オチニシカハ》必彼(ナラム)矣、此事を古事記には自2我手俣1久(35)岐斯子也《クキシコナリ》、第六に谷潜をタニクヽとよめり、水をくゞると木の間などをくゞると事は替れど和語の意は同じ、又袖中抄云、今案先此歌の意は、鵙は春若は夏の初には鳴かず、されば月令には五月節に鵙始(テ)鳴と注せり、秋盛りに鳴て、冬は寒さにやう/\薄らぎて、春はいとも鳴かざれば、春は鵙の草くゞる事見えずとも我は君があたりを見やらむと詠るは、唯見えずと云はむことばかりを取なり、古歌の體皆如v此か、以上此義文明なれば拔取れり、廣く諸説を擧られたれど唯煩らはしきのみにて胸臆に任せたれば今取らず、伯勞鳥は和名集云、兼名苑云、鵙一名※[番+鳥]、【上音覓、下音煩、楊氏漢語抄云、伯勞、毛受、一云鵙、】伯勞也、日本紀私記云、百舌鳥、雖不所見はみえずともなり、
 
初、春されはもすの草くきみえすとも。春之在者とかけるをは、春なれはとよむへき歟。古今集に夏なれは宿にふすふるかやり火のとよめるかことし。そのゆへは、春去者とかけるは、上にも委尺しつるやうに、春くれはといふ心なり。これは在の字を書たれは、まさに今春にてあれはといふ心なるゆへに、はるにあれはを、爾阿切奈なるゆへに、つゝめて春なれはとよむへしとはいふなり。之の字は、文章にもかゝる所の助語に用る字なり。下の二十三葉に、はるされはすかるなる野の郭公とよめる哥にも、春之在者と、こゝのことくかけり。かれも春なれはと讀へし。もすの草くき、管見抄に説々を擧たり。其中に今顯昭の説につかむ。草くきは草くるゝなり。第八第十七第十九に、ほとゝきすの哥に、このま立くきと讀、はる/\に鳴郭公立くゝと羽ふれにちらす藤浪の花なつかしみなとよめり。又第五第六に、谷くゝとよめるも、鳥の名ときこゆ。谷くゝりといふ心なるへし。第六には谷|潜《クヽ》とかけり。神代紀云。自2指間《タマタ》2漏墮《クキオチニシカハ》者必(ス)彼(ナラム)。これ少彦名神の、形のちひさきをいへり。しかれば、くきはくゝるなり。春は霞たち、草もしけくなりて、もすの草くゝるが見えぬことく、君かあたりはよし見えすとも、われは猶見やらんとよめるなるへし。これを本哥に取には、奥義抄のことく、もすの居たる草くきをしるへとして、女の家を、男にをしへたるが、鵙は飛さりて、しるへはそれと見えねと、君かあたりをは、猶みやらんとやうに、意得てよめり。欽明紀に、騁望とかきて、みやるとよめり。もすは夏至まて鳴鳥なれは、春、もすの|な《・無》くなるとは心得へからす。周書月令反舌有v聲。讒人在v側。此反舌を鵙といへと、禮記(ノ)月令には、仲夏之月|鵙《モス》始(テ)鳴(ク)反舌《・ウクヒス》無v聲とあれは、相違せり。あるひは、反舌は鶯なりといへり、此國には、鵙は八月に初て渡り來て、春まて鳴侍り。山里にてきけは、夏もより/\なき侍り。もろこしにいへるとおなしき物有。おなしからさる物有。通局を知へし。一※[既/木]すへからす
 
1898 容鳥之間無數鳴春野之草根之繁戀毛爲鴨《カホトリノマナクシハナクハルノノノクサネノシケキコヒモスルカモ》
 
第三に赤人の長歌に此初の二句有て其烏片戀耳爾《ソノトリノカタコヒノミニ》とよまれたれば、今も草根の如く繁き戀に容鳥の如く鳴とよめるなり、
 
初、容鳥のまなくしは鳴。第三に赤人の哥に、かほ烏のまなくしは鳴雲居なす心いさよひそのその鳥のかたこひのみにとよまれたり。此卷上にも、朝ゐてにきなくかほ鳥なれたにも君にこふれや時をへすなくとよめれは、上の句は、わかかたこひになくにたとへ、おりふし草もしけれは、それをは、戀のしけきによするなり
 
寄花
 
1899 春去者宇乃花具多思吾越之妹我垣間者荒來鴨《ハルサレハウノハナクタシワカコエシイモカカキマハアレニケルカモ》
 
(36)具多思は令腐なり、第十九云、宇能花乎令腐霖雨《ウノハナヲクタスナカメノ》云々、今按彼は五月雨の晴ずして卯花をくさらす意なり、連歌の法に卯花くたしと體に云ひて、夏とする此意なり、今の歌は然らず、妹が家の卯花垣を、度々我越しは莟《ツホ》める花の、そこなはれて其まゝに朽るを云へり、垣間の荒るを我中の遠さかるに喩る歟、吾越之と云へし詞は過にし方を指せり、孟子云、踰2東家(ノ)牆1而※[手偏+婁]其處子1、則得v妻、
 
初、春されはうの花くたし。ふるき説に、長雨ふりて、卯花のくさることなり。第十九には、うの花をくたすなかめの水はなとよめり。それは五月の哥なれは五月雨には、まことにうの花もくつへきを、今はるされは、うの花くたしとよめるは、いまたさかぬほとなれは、たがひたるやうなれど、つほみなからもくさる心なり。連哥の法に、卯花くたしとしては、夏に用るなり。雨の名なり。くたしは令《シム》v腐《クタ》なり。すなはち第十九の哥には、令腐とかきてくたすとよみたれは、それは用の詞なるを、今うの花くたしと體にいひなすなり。今案これは雨の名にあらす。妹か家の卯花垣を、たひ/\わかこゆれは、衣裳にふれて、つほめる花もそこなはれて、そのまゝくつるをいへり。しかれは、うの花をくたしてといふ詞なれは、只用なり。うの花をくたすはかりこゆるゆへに、妹がかきまはあるゝといひて、そのあるゝを、今のわか中の遠さかるにたとふるなり。わかこえしといへる詞、過にしかたをさせり。孟子云。踰(テ)2東家(ノ)牆(ヲ)1而|※[手偏+婁]《ヒカハ》2其處子(ヲ)1則得(ン)v妻(ヲ)。不(ルトキハ)v※[手偏+婁]則不(ントナラハ)v得v妻(ヲ)則將(・ンヤ)v※[手偏+婁]v之乎。毛詩云。將《コフ》仲子云々
 
1900 梅花咲散※[草がんむり/宛]爾吾將去君之使乎片待香花光《ウメノハナサキチルソノニワレユカムキミカツカヒヲカタマチカテラ》
 
使を待佗て宿には居る空もなければ、梅を見るに事よせて立出てまたむとなり、人には云ひて君をしまたむとよめる類なり、落句の花の字は衍文なり、此歌第十八に田邊福麻呂が誦《ズ》せり、
 
初、梅花咲ちるそのに。片待はなかば待心なり。梅の花を見かてら、君か使をも待かてらなり。使を待わひて、宿に居る心もせねは、梅を見るに事よせて、立出てまたんとなり。香花光の花は衍文なるへし
 
1901 藤浪咲春野爾蔓葛下夜之戀者久雲在《フチナミノサケルハルノニハフクスノシタヨノコヒハヒサシクモアリ》
 
咲春野爾、【幽齋本云、サクハルノヽニ、】
 
藤は陰の暗ければ維彼《タソカレ》時によせて常に讀事なれば、今も下夜と云はむ爲に云ひ出、葛は又下に蔓物なれば合せて下夜とはつゞくる歟、下夜とは下待夜なり、六帖に人しれぬと云に入れたる此意歟、
 
初、藤波のさける春野に。藤の花の陰はくらけれは、常にたそかれ時によせてよむなり。葛は木の下なとはふものなのは、はふくすの下とうけ、藤の陰なれは夜といへり。下夜とは、下はさきにも、下うれしけむ、下心よしとよめることきの下にて、下待夜の戀の、こよひもや/\と頼み過せしをいへり。次上の哥につゝけて聞へし。また夜は心のやみをいひて、下心のやみにくらすほとの久しきをいふ歟。咲花のかくなるまてとは、かく實になるまてになり
 
(37)1902 春野爾霞棚引咲花之如是成二手爾不逢君可母《ハルノノニカスミタナヒキサクハナノカクナルマテニアハヌキミカモ》
 
此は霞のやう/\立初るより花の盛りになるまで久しく相見ぬよしなり、下の秋相聞に、芽子花咲有乎見者君不相《ハキハナサケルヲミレハキミニアハテ》、眞毛久二成來鴨《マコトモヒサニナリニケルカモ》、此と同じ意にて其時の有のまゝなるべし、
 
1903 吾瀬子爾吾戀良久者奥山之馬醉花之今盛有《ワカセコニワカコフラクハオクヤマノツヽシノハナノイマサカリナリ》
 
馬醉花、【赤人集六帖並云、アセミ、家持集與2今本1同、】
 
第八に大伴田村家大孃が、茅花拔淺茅之原乃《ツハナヌクアサチカハラノ》都保須美禮とよめる歌の下句と同意なり、奧山とは人知れぬ心の底に寄するなるべし、
 
初、わかせこにわかこふらくは。つゝしの盛のことく、我戀も今さかりなりといふなり。つはなぬくあさちか原のつほすみれ今さかりなりわかこふらくは。此第三にある哥とおなし心なり。奥山といへるは人しれぬ心によせたり
 
 
1904 梅花四垂柳爾折雜花爾供養者君爾相可毛《ウメノハナシタリヤナキニヲリマセテハナニソナヘハキミニアハムカモ》
 
花爾供養者、【赤人集云、ハナニソフルハ、官本又點同v此、】
 
折雜はヲリマジヘとも讀べし、供養者は佛に物を供養するを今もそなふと申せば此は神に奉らばと云意にや、第五には打靡く春の柳と我宿の梅の花とをいかにかわかむとよみ、第十七には春雨に萠し柳か梅の花、共に後れぬ常の物かもとよみて、(38)梅と柳とは一雙の物なる中に、梅は霜雪を凌で陽剛の徳に似、柳は雨風に靡きて女の陰柔の徳に似たれば、それを折雜へて寶前に花にそなへて逢見む事を神に祈らば所願成りて相見む歟とよめる歟、供養者をソフルハとよめるは如何なる意とも聞得ねど古今序に花をそふとてと云詞もあれは、是|耶《カ》非耶知らざれど疑しきを載て傳るになむ侍り、
 
初、梅の花したり柳に。花にそなへはとは、神の前にそなへさゝけて、逢させたまへと祈らばなり。供養をそなふとよめるは、今も佛なとに供養する物を、そなふといふめり
 
1905 姫部思咲野爾生白管自不知事以所言之吾背《ヲミナヘシサクノニオフルシラツヽシシラヌコトモテイハレシワカセ》
 
咲野は第四に注せし如くサキ野と讀べし、仙覺云、さく野は所の名と聞えたり、在所此を考がふべし、さくの、此集の中にあまた見え侍り、つゝじは春の花也、をみなへしは秋咲花なれば云つゞくべきにもあらざれども此はさくのと云はむ爲の諷詞にをみなへしと置けり、白つゝじはしらぬ事もてと云ひ出む詞の便に云へるなり、以上意明なり、但下句の意をば注せられず、此はまた相見ぬを知らぬと云ひて、相見ぬさきより人に名を立らるゝ事を夫君の爲に痛むなり、第十一に凡乃行者不念言故《オホヨソノワサハオモハスワカユヱニ》、人爾事痛所云物乎《ヒトニコチタクイハレシモノヲ》、此を引合てみるべし、
 
初、をみなへしさく野におふる。第四に、をみなへしさく澤におふる花かつみとよみ、第七にはをみなへしおふる澤邊のまくす原ともよめれは、此哥も、秋は女郎花のさく野といふ心に、ひろくよめるなるへし。古人は胸中廣かりけれは、後の世の哥のことくせはしからぬ詞おほし。しらぬこともていはれしわかせとは、あふこともなきを、はやあひみたるやうに、世にいはれしといひて、わかせこれをきゝたまへ。君ゆへにこそかゝるうきことにはあへれと、告てうれふるなり。いはれしと切て、心得へし。又わかせまてをつゝけて心得は、しらぬ事もていひさはかれし時たに、いはれてさて堪忍せし人の、なとか逢見て後とかく人のいふをいたみて、たゝんとはするといふ心をふくみていへる歟。又たゞしらぬこともていはるゝことを、人のためにいたみてよめる歟。しらつゝしは、しらぬとつゝけむための序まてなり
 
1906 梅花吾者不令落青丹吉平城之人來管見之根《ウメノハナワレハチラサシアヲニヨシナラナルヒトノキツヽミルカネ》
 
(39)平城之人、【官本又云、ナラノサトヒト、】
 
平城之、此之をナルと點ぜるは叶はず、ならにあるをつゞめてならなるとは云へぱ例として有の字在をぞかける、但假てかけると假名とをば云はず、下秋相聞の中に、吾屋前之芽子開二家里不落間爾早來可平城里《ワカヤトノハキサキニケリチラヌマニハヤキテミヘシナラノサト》人、此歌の落句と官本の又の點とを合せて按ずるに今は里の字を脱せるなるべし、梅の花によせて顔色を損ぜずして待つけむの意もこめたる歟、
 
初、平城之人。之の下に在の字落たる歟。此まゝにてもならなる人とはよむへし。見るかねは、みるかになり。爾と禰と五音通せり。日本紀には、かな《哉》といふことをも、かねといへり。顯宗紀室|壽《ホキ》の詞に見えたり。之をかとよむは、和訓にて、我の音のことくにこるを、清濁通して、すみても用るなり。第十九の十五葉にも有
 
1907 如是有者何如殖兼山振乃止時喪哭戀良苦念者《カクシアラハナニニウヱケムヤマフキノヤムトキモナクコフラクオモヘハ》
 
カクシのし〔右○〕は助語なり、何如はナニカとも讀べし、戀しくば形見にせよとて人の何か殖しとなり、山振を承てやむ時もなしと云へり、古今集に山吹はあやなゝ咲ぞ花見むと、植けむ君が今宵こなくに、今と相似たる歌なり、
 
初、かくしあらはなにゝうゑけむ。山ふきのやまをうけて、やむ時もなくとつゝけたり。みせんと思ふ人のこねは、なにしにうへけむと、われなからいへり。古今集に、山吹はあやなゝさきそ花みむとうへけむ君かこよひこなくに。これに似たる哥なり。なにゝうへけむは、わかうへたるにはあらて、古今集の哥のことく、人のうへたるにも有へし
 
寄霜
 
1908 春去者水草之上爾置霜之消乍毛我者戀度鴨《ハルサレハミクサノウヘニオクシモノケツヽモワレハコヒワタルカモ》
 
戀度、【官本度作v渡、】
 
(40)水草、水は只借てかける歟、春になりてもまだ霜の降比は水草はなき物なり、第二に久米禅師が歌に水薦苅信濃乃眞弓云々、次の歌にも同じ二句あるに三薦苅とかけるにて准らへて知べし、六帖に今歌を載て又あさなさなみぎはの草にとて以下三句同じ歌あるは、若水草とかけるを水上の草と意得て改て入れたる歟、
 
初、春されはみくさのうへに。水草と書たれとも、眞草なり。唯春の草なり。春の霜はことに消やすけれはけつゝもといはむためなり。けつゝもとは、おもひきゆるなり
 
寄霞
 
1909 春霞山椰引欝妹乎相見後濃戀毳《ハルカスミヤマニタナヒクオホツカナイモヲアヒミテノチコヒムカモ》
 
第二第三の句はヤマニタナビキオホヽシクと讀べし、
 
初、春霞山にたなひくおほつかな。かやうによめは六義の中の興の心なり。山にたなひきおほゝしくと、よみて、序とも見るへき歟
 
1910 春霞立爾之日從至今日吾戀不止本之繁家波《ハルカスミタチニシヒヨリケフマテニワカコヒヤマスモトノシケケハ》  一云|片念爾指天《カタオモヒニシテ》
 
立ニシのに〔右○〕は助語なり、本とは此集に木をも云ひ山の麓をも云へり、第十三の初に本邊未邊とよめるは次の如く麓と峯となり、今は春の歌なれば木によせて春の木の繁き如くなればヤマズと歟、繁ければと云はぬは古語なり、
 
初、もとのしけゝは。しけゝればなり。此集にかやうによめる事おほし。しもと原のやうに、おもひのひともとならぬなり
 
(41)1911 左丹頬經妹乎念登霞立春日毛晩爾戀度可母《サニツラフイモヲオモフトカスミタツハルヒモクレニコヒワタルキアモ》
 
袖中抄に發句をさにほへると有は叶はず、今の點にて意はにほふなり、春日モ晩ニ戀とは、春日は長くて晩やらぬを我意からくらすとなり、
 
初、霞たる春日もくれに。長き春日もくるゝまてなり。又てれる日をやみにみなしてなく涙とよめる心にも有へし。春日もくらく見なすなり
 
1912 靈寸春吾山之於爾立霞雖立雖座君之隨意《タマキハルワカヤマノウヘニタツカスミタチテモヰテモキミカマニ/\》
 
靈寸春は吾とつゞくる歟、別に注す、吾山は六帖にはわがやどと云ひ、袖中抄に玉ぎはるを釋する所に此歌を引にわがやと有て是は我屋をほむ流歟、又我壽をよめる歟おぼつかなし、かゝれば古本に吾屋と有ける歟、但屋之|於《ウヘ》の霞とよまむ事はいかにぞやおぼゆれば今の本まさるべき歟、雖立雖居は今按六帖も袖中抄も今の點と同じけれど雖の字を和せねば叶はず、タツトモヰトモと和し替べし、霞は立とは云にやは及ぶ、居るともよめる事雲に同じ、吾山と云は吾身を喩へて、霞の立も居るも山に依る如く身をば如何にも君に任せむとよめるなり、第十四東歌に、高き根に雲のつくのす我さへに、君に附なゝ高根ともひて、のす〔二字右○〕はなす〔二字右○〕なり、是夫を山に喩へ、我を雲に喩へたる意今と同じ、
 
初、玉きはるわか山の上に。此玉きはるは、我といはむため歟。うつせみの世といふことく、かきりある我といへるか。又我山といふまてにかゝる歟。心はわか領する山は、かきりあれは、かくはつゝくる歟。心は我領する山をは、草木をおほさんも、きりはらひて.から山になさんも、わかまゝなることく、又わか身も、たてといはゝたち、ゐよといはゝゐて、何事も君にしたかはんといふ心にや。雖立雖座とかきたるを、立てもゐてもとよめるはかなはす。たてれどをれどゝ讀へし
 
(42)1913 見渡者春日之野邊爾立霞見卷之欲君之容儀香《ミワタセハカスカノノヘニタツカスミミマクノホシキキミカスカタカ》
 
1914 戀乍毛今日者暮都霞立明日之春日乎如何將晩《コヒツヽモケフハクラシツカスミタツアスノハルヒヲイカテクラサム》
 
寄雨
 
1915 吾背子爾戀而爲便莫春雨之零別不知出而來可聞《ワカセコニコヒテスヘナミハルサメノフルワキシラスイテテコシカモ》
 
不知、【六帖云、シラテ、】
 
1916 今更君者伊不往春雨之情乎人之不知有名國《イマサラニキミハイユクナハルサメノコヽロヲヒトノシラサラナクニ》
 
伊は發語の詞、不往はユカジと讀べし、春雨之情を知とは、降出ればやがては晴ぬ物ぞと知なり、人とは上の君なり、されば春雨の意を君が知らぬにあらざれば今更に出てはゆかじと、來てやどれる人の今日も歸らであらむと憑む意なり、又伊不往をイマサジとも讀べし、赤人集によもこしと改たる此意なり、
 
初、今更に君はいゆくな。いは發語のことはなり。不在はゆかずとよむ心にては、ゆくなとはよまれす。ゆかされとよむ心にて、ゆくなとはよみたり。春雨のこゝろを人の知らざらなくにとは、人は世上の人なり。春雨にさはりてとまるぞといふ心を、人のしらすあらぬになり。落著は、春雨にさはりてとまると人の知て、とかめしといふ心なり
 
1917 春雨爾衣甚將通哉七日四零者七夜不來哉《ハルサメニコロモハイタクトホラメヤナヌカシフリハナヽヨコシトヤ》
 
第二の句はコロモハナハタとも讀べし、七日シのし〔右○〕は助語なり、春の細雨にはぬれ(43)ぬれおはすとも衣の痛く通らむや通らじを、君若かばかりの雨に障らば假令七日つゞきて降らば七夜も來じとやと理を押極て云へり、七日七夜とは、七は數のおほきを云へり、第十一に妹許と云はゞ七日越來むとよめるも同じ意なり、六帖に春雨の心は君も知れるらむとて今の下句なるは、次上の歌と二首を取合せたるにや、
 
初、春雨に衣はいたく。細雨濕(シテ)v衣(ヲ)看(レトモ)不v見といふばかりのはるさめなれは、ぬれ/\おはすとも、衣のいたくぬれとほらんや、ぬれとほらし。君もしかはかりの雨にさはらは、たとひなぬかつゝきてふらは、七夜さはりてこしとやと、理をせめていへり。七日といひ、七夜といふは、七は數のおほきをいへり。第十一に、あふみのうみおきつしらなみしらねともいもかりといはゝなぬかこえこむ。此哥をあはせてみるへし。七日しのしもしは助語なり
 
1918 梅花令散春雨多零客爾也君之廬入西留良武《ウメノハナチラスハルサメサハニフルタヒニヤキミカイホリセルラム》
 
六帖には旅に入れたり、多をおほくと讀たれど、今の點古風に叶へり、第三句絶なり、
 
初、梅花ちらす春雨さはにふる。これはあひ思ふ人を旅にやりて、おもひやりてよめるなり
 
寄草
 
1919 國栖等之春菜將採司馬乃野之數君麻思比日《クニスラカワカナツムラムシマノノヽシハ/\キミヲオモフコノコロ》
 
六帖にはくにすらのわかなつまむとしめしのゝとあれど、第三の句乃の字に背けり、たとひしめの野のと讀とも仙覺しばのゝと承ることわりなし、袖中抄には發句をくずひとのと云へるは應ぜねど第二句以下今と同じ、仙覺云、或本云、しばの野のと點ぜり、詞の便有て聞ゆるなりとは顯昭所覽の點と同じ、司馬とつゞけてかけるは、馬の字例は呉音を用たれど、今は漢音によますべき爲なるべし、麻は和訓を借て(44)用たり、國栖は神武紀云、更少(シキ)進、亦有(テ)v尾而披2磐石(ヲ)1而出(ル)者(アリ)、天皇問之曰、汝(ハ)何人、對(テ)曰、臣《ヤツカレハ》是|磐排別之《イハオシワクカ》子(ナリ)、【排別、此(ヲ)云2飫時和句1、】此(レ)則吉野國|※[木+巣]部《スラノ》始|祖也《オヤナリ》、今按イハオシワクガコとは日本紀の點なれど如何とおぼゆ、イハオシワクノコと讀べきか、親を磐排別と云ひてそれが子と云にはあらじ、假令浦島|之子《ノコ》と云が如し、子は男子の通稱なり、汝何人と問はせ給ふに知給はぬ親の名のみを答へ奉るべきに非ず、親を云はゞ盤排別之子某と申すべし、又みづから磐押分て出る事を得る故の名なり、苞苴擔之子《ニヘモツカコ》も此に准らふし、應神紀云、十九年冬十月戊戌朔、幸2吉野宮1時國※[木+巣]人|來朝《マウケリ》之、因以v酒獻2于天皇1而歌之曰、云々、歌之既訖、則打v口(ヲ)以仰(テ)咲、今國※[木+巣]獻(ツル)2土毛《クニツモノヲ》1之日、歌訖即撃v口(ヲ)仰(テ)咲者、蓋|上古之《イニシヘノ》遺|則也《ノリナリ》、夫國※[木+巣]者、其爲v人甚|淳朴《スナホナリ》也、毎《ツネニ》取(テ)2山(ノ)菓(ヲ)1食、亦煮2蝦蟇1爲2上味(ト)1、名(ヲ)曰2毛瀰(ト)1、其土自v京|東南《タツミ》之隔(テヽ)v山(ヲ)而居2于吉野河上(ニ)1、峯《タケ》嶮谷深、道路|狹《サク》※[山+獻]《サカシ》、故(レ)雖v不v遠2於京(ニ)1、本希(ナリ)2朝來1、然自v此之後、參赴《オモムキテ》以獻2土毛(ヲ)1、其土宅者栗|菌《タケ》及年魚之類焉、古事記中にも亦此事あり、延喜式第二十二民部式云、凡(ソ)吉野(ノ)國栖(ハ)、永(ク)勿(レ)v課(スルコト)v役(ヲ)、
 
初、くにすらかわかなつむらん。國栖等之とかけるをは、くすともがともよむへし。神武紀云。更(シキ)少|進《ユクトキニ》亦有(テ)v尾而|披《オシワケテ》2磐石《イハヲ》1而出(ル)者(アリ)。天皇問(テ)之曰。汝(ハ)何人(ソ)。對(テ)曰|臣《ヤツカレハ》是|磐排別之《イハオシワクカ》子(ナリ)。【排別此云2飫時和句1】此(レ)則吉野(ノ)國|※[木+巣]部始祖《クニスラノトヲツオヤナリ》也。應神紀云。十九年冬十月戊戌朔幸2吉野(ノ)宮(ニ)1。時(ニ)國※[木+巣]人|來朝《マウケリ》之。因以2醴酒(ヲ)1獻(テ)2于天皇(ニ)1而歌(テ)之曰。伽辭能輔珥、豫區周塢兎區利、豫區周珥、伽綿蘆淤朋瀰枳、宇摩羅珥、枳虚之茂知塢勢。磨呂俄智。歌(フコト)之既(ニ)訖(テ)則打(テ)v口(ヲ)以仰(テ)咲。今國※[木+巣]献(ツル)土毛《クニツモノヲ》1之日、歌訖(テ)即撃(テ)v口(ヲ)仰(テ)咲者、蓋上古之遺則也。夫國※[木+巣]者、其爲v人(ト)甚|淳朴《スナヲナリ》也。毎《ツネニ》 取(テ)2山(ノ)菓(ヲ)1食(フ)。亦※[者/火](テ)2蝦蟇1爲2上味(ト)1。名(テ)曰2毛瀰(ト)1。其|土《クニハ》自v京|東南《タツミ》之隔(テヽ)v山(ヲ)而居(レリ)2于吉野河上(ニ)1。峯嶮(シク)谷深道路|狹〓《サクサカシ》。故(レ)雖v不v遠(カラ)2於京(ニ)1本希2朝來(コト)1。然自v此之後屡|參赴《マウオモムイテ》以獻2土毛《クニツモノヲ》1。其土毛(ハ)者、栗|菌《キノコ》及(ヒ)年魚之類(ナリ)焉。延喜式二十二、民部式云。凡(ソ)吉野(ノ)國栖(ハ)永(ク)勿(レ)v課(スルコト)v役(ヲ)。しはの野の、八雲御抄にしめの野と載させ給へり。馬の字呉音に呼へき事、例はしかれとも、しは/\といはむための序なれは、もとより漢音なること治定なり
 
1920 春草之繁吾戀大海方往浪之千重積《ハルクサノシケキワカコヒオホウミノカタユクナミノチヘニツモリヌ》
 
方は六帖も今の點の如くあれど、ヘニユクナミノと讀べし、
 
初、春草のしけきわかこひ。上の二句は、戀のしけきをいはむため、下の三句はそのおもひの千重につもりぬるといはむためなり。方往浪はへにゆくなみともよむへし
 
(45)1921 不明公乎相見而菅根乃長春日乎孤戀渡鴨《ホノカニモキミヲアヒミテスカノネノナカキハルヒヲコヒワタルカモ》
 
不明、【赤人集云、オホツカナ、】
 
發句は第十二に夕月夜曉闇のほのかにもと云にも今の如くかけり、孤戀の戀は悲を誤れり、集中處處に孤悲と借てかけり、單孤にして悲哀する物は戀なれば借てかけども意を着たるか、郡郷等によき字を借てかける例あり、
 
初、孤戀の戀は悲の字の誤なり。他所にも戀を孤悲とかけり。音を用たる中に、おもひよりて.心をこめけるなるへし
 
寄松
 
1922 梅花咲而落去者吾妹乎將來香不來香跡吾待乃木曾《ウメノハナサキテチリナハワキモコヲコムカコシカトワカマツノキソ》
 
さかむとて來むとも思はじ、散なば若來むとや思はむ、猶來ざらむかと、我宿の松の名にかけて待たむとよめる歟、又花見がてらに來る人なれば梅の散なば來むも來じも定がたくてまたむとよめる歟、
 
寄雲
 
1923 白檀弓今春山爾去雲之逝哉將別戀敷物乎《シラマユミイマハルヤマニユククモノユキヤワカレムコヒシキモノヲ》
 
(46)發句は春と云はむ爲なり、今と云は石上袖振川の例なるべし、い〔右○〕もじはつゞくにはあるべからず、
 
初、白まゆみいまはる山。白眞弓張とつゝけたり。今のいもしにもつゝくといふへし。さらばはる山は縁のことはなり
 
贈※[草冠/縵]
 
1924 丈夫之伏居嘆而造有四垂柳之※[草冠/縵]爲吾妹《マスラヲノフシヰナケキテツクリタルシタリヤナキノカツラセヨワキモ》
 
居は起居るにて起臥勒《オキフシ》の意なり、第八に坂上大娘が稻※[草冠/縵]を家持に贈れる歌に似たり、六帖に玉かつらの歌に是を入る、玉をもて餝れる鬘をも玉鬘と云へど六帖の意は玉とほむる詞に取れるなり、
 
悲別
 
1925 朝戸出之君之儀乎曲不見而長春日乎戀八九良三《アサトイテノキミカヨソヒヲヨクミステナカキハルヒヲコヒヤクラサム》
 
儀乎、【六帖云、スカタヲ、】
 
朝戸出の儀は明ぬとて戸を押明て別て出るさまなり、夜戸出のすがたともよめり、
 
初、朝戸出の君かよそひを。朝戸出は、朝にわかれ歸る出立なり。儀はすかたともよむへし
 
問答
 
(47)1926 春山之馬醉花之不惡公爾波思惠也所因友好《ハルヤマノツヽシノハナノニクカラヌキミニハシヱヤヨリヌトモヨシ》。
 
馬醉、【六帖云、アセミノハナノ、官本亦點同v此、】
 
初、春山のつゝしの花のにくからぬ。にくからぬは、きらはしからぬなり
 
1927 石上振乃神杉神備而吾八更更戀爾相爾家留《イソノカミフルノカミスキカミヒテモワレヤサラサラコヒニアヒニケル》
 
神備而、【六帖云、カミサヒテ、官本或神下有2左字1、點與2六帖1同、】
 
顯宗紀云、石上振之神|※[木+温の旁]《スキ》伐v本截v末云々、神備而は第十七に伊久代神備曾《イクヨカミヒソ》とよみて神備も神佐備と同じ詞なれど、今而の字の下にモ〔右○〕と讀べき字なければ官本或神下に左字あるに從がふべし、六帖すなはち證據なり、吾八とはみづから恠しむ詞なり、第十一に石上振神杉神成戀我更爲鴨《イソノカミフルノカミスキカミトナルコヒテモワレハサラニスルカモ》、今と似たる歌なり
 
初、石上ふるの神杉。崇神紀云。先v是(ヨリ)天照大神(ヲ)祭2於天皇(ノ)大殿《ミアラカ》之内(ニ)1。然畏2其神(ノ)勢(ヲ)1共住(ニ)不v安(カラ)。故(レ)以2天照大神(ヲ)1託2豊|鍬《スキ》入姫(ノ)命(ニ)1祭2於笠縫(ノ)邑(ニ)1。仍(テ)立2磯堅城(ノ)神籬《ヒモロキ》1。【神籬此(ヲ)云2比莽呂岐1。】顯宗紀云。石上振之神|※[木+温の旁]【※[木+温の旁]此云2須擬1】伐《キリ》v本《モト》截《オシハラヒ》v末《スヱ》【伐本截末此(ヲハ)云2謨登岐利、須衛於茲婆羅比1】云々。延喜式云。大和國山邊郡、石上坐布留御魂神社【名神。大。月次。相嘗。新嘗。】神びてもは、神さひてもなり。布留社は、瑞籬宮の時、初て立られたれは、久しき事にいひ、神さふるとは、我身の老てふりぬる事にあまたよめり。第十一に、石上ふるの神杉神となる戀をも我はさらにするかも。おなしやうの哥なり。吾八をわれやとあれと、八の字音訓ともに用れは、われはさら/\と讀へし
 
右一首不有春歌而猶以和故載於茲次
 
1928 狹野方波實爾雖不成花耳開而所見社戀之名草爾《サノカタハミニナラストモハナニノミサキテミヘコソコヒノナクサニ》
 
仙覺抄に狹野方は藤の一名なりと云は推量の義歟、次下に莫告藻之花《ナノリソノハナ》、伊都藻之花《イツモノハナ》などあれば此の一種の花の名なるべし、草木の間いづれともしらず、第十三譬喩歌(48)に、師名立都久麻左野方《シナタテルツクマサノカタ》云々、此左野方も仝、花耳は今按ハナノミモと讀べし、眞實はなくともうはべの情だにあれ、なぐさめにせむの譬なり、
 
初、さのかたは實に。管見抄に、さのかたは藤の異名なり。花はおほく咲て、實はすこしなる物なりといへり。次下に、なのりその花、いつもの花なとあれは、これもことやうなる一種の花の名にや。藤の異名といへるは、次下の哥に、今更にはるさめふりて花さかめやもとよめる哥の躰にて、推量してもやいへるらん。第十三に、しなたてるつくまさのかたおきなかのとほちの小菅なと、つゝけよめるは、さはそへたる字にて、つくまのゝ方なる息長とつゝけたるにやと聞ゆれは、今とはおなしからさる歟。花耳は、はなのみもとよむへきか。見えこそのこそは、ねかふ詞。さきにも注せしことし。實にならすとも花のみもさけといふは、まことにあふ事はなくとも、うはべのなさけたにあれ。それをたに、戀のなくさめにせんとなり
 
1929 狹野方波實爾成西乎今更春雨零而花將咲八方《サノカタハミニナリニシヲイマサラニハルサメフリテサカメヤモ》
 
成ニシのに〔右○〕は助語なり、我心はいかにも眞實なればうはべの情は見えじと云意を譬へてかへすなり、
 
初、さのかたはみになりにしを。これはかへしとみゆ。一たひあひそめたれは、さのかたの實になりたることくなるを、實になりて後又花さかぬやうに、まことなきうはへのなさけのみならんやとなり
 
1930 梓弓引津邊有莫告藻之花咲及二不會君毳《アヅサユミヒキツノヘナルナノリソカハナサクマテニアハヌキミカモ》
 
濱成式に雅體十種ある中の第六頭古腰新體に、當麻大夫陪駕伊勢思v婦(ヲ)歌云とて此歌を載らる、第七に此に似たる旋頭歌に注するが如し、其歌今と少替れり、委仙覺抄にひけり、今の點は仙覺の點なり、仙覺の注は用るに足らず、新勅撰戀四讀人不知の歌に、梓弓引津の邊なる莫告藻の、誰うき物と知らせ初けむ、
 
1931 川上之伊都藻之花之何時何時來座吾背子時自異目八方《カハカミノイツモノハナノイツモ/\キマセワカセコトキオカメヤモ》
 
此は第四に吹黄刀自が歌にて既に出たり、今は上の歌と問答なるをもて再載たり、(19)落句をトキオカメヤモと點ぜるは誤なり、トキジケメヤモと讀べき事第四に注せしが如し、
 
初、川上のいつもの花の。第四卷に、吹黄刀自《フキノトシ》か哥二首ある中の、第二の哥ふたゝひ出たり
 
1932 春雨之不止零零吾戀人之目尚矣不令相見《ハルサメノヤマスフル/\ワカコフルヒトノメスラヲアヒミセサシム》
 
零零、【赤人集云、フリオチテ、】
 
初、春雨のやますふる/\。雨にさはりて、おもふ人の來ぬなり
 
1933 吾妹子爾戀乍居者春雨之彼毛知如不止雰乍《ワキモコニコヒツヽヲレハハルサメノカレモシルコトヤマスフリツヽ》
 
彼毛知如とは、彼は雨なり、雨も我かきくらす意を知如くやまずふるとなり、
 
初、わきもこにこひつゝ。はるさめのかれもしることゝは、涙の雨のふるを、春雨もしりて、おなしやうにふる心なり。わかせこにわかこひをれは、わかやとの草さへおもひうらかれにけり。此心に似たり
 
1934 相不念妹哉本名菅根之長春日乎念晩牟《アヒオモハヌイモヲヤモトナスカノネノナカキハルヒヲオモヒクラサム》
 
1935 春去者先鳴鳥乃※[(貝+貝)/鳥]之事先立之君乎之將待《ハルサレハマツナクトリノウクヒスノコトサキタテシキミヲシマタム》
 
神代紀云、如何婦人反先言乎、此集第四云、事出しは誰言にあるか云々、※[(貝+貝)/鳥]は先春を告て鳴鳥なればそれによせて我を戀る由を先立て云ひし人はよも僞はせじ、待見むとよめるなり、君ヲシのし〔右○〕は助語なり、
 
初、春されはまつなく鳥の。春はさま/\の鳥のさえつる中にも、鶯はことに春をつくれは、ことさきたてゝわれをこふるよしをいひそめし人のことを頼て、まちみむとなり。日本紀第一云。如何婦人反先《イカムソタヲヤメノカヘツテサイタツヤ》v言《コト》乎。第四に言出《コトテ》しはたかことにあるか小山田のなはしろ水の中よとにして。上の二句今の、ことさきたてし君といふにおなし
 
1936 相不念將有兒故玉緒長春日乎念晩久《アヒオモハスアラムコスヱニタマノヲノナカキハルヒヲオモヒクラサク》
 
(50)右三首、問答には一首落たる歟、
 
夏雜歌
 
詠鳥
 
1937 大夫丹出立向故郷之神名備山爾明來者柘之左枝爾暮去小松之若末爾里人之聞戀麻田山彦乃答響萬田霍公鳥都麻戀爲良思左夜中爾鳴《マスラヲニウテタチムカフフルサトノカミナヒヤマニアケクレハツミノサエタニユフサレハコマツカウレニサトヒトノキヽコフルマテヤマヒコノコタフルマテニホトヽキスツマコヒスラシサヨナカニナク》
 
大夫は出立向と云はむ爲なり、第二十云、登利我奈久安豆麻乎能故波、伊|田《デ》牟可比加弊里見也受?、伊佐美多流多家吉|軍卒等《イクサト》云々、此意なり、さて出立とは山のなりを云、第十三云、走出之《ハシリデノ》宜山|之《ノ》、出立|之《ノ》妙山叙云々、向フとは神名備山の明日香の故郷に向ふなり、答響萬田は今按田の下に爾の字なければアヒトヨムマデと讀べきか、答は問に對すればあひ〔二字右○〕と義訓すべき理なり、
 
初、ますらをに出立むかふふるさとの神なび山に。ますらをはたけき兵なり。ますらたけをともよめり。出たち向ふは、軍にいてたちて向ふ心なり。此哥は向ふといふ詞いはむために、かくつゝけたり。ふる郷は飛鳥の都なり。あすかの都の向ひに此山あれは、其心にかくよめり。明くれはつみのさえたにゆふされは小松かうれに、つみの木は小桑といふ物なり。第三に、柘枝仙媛をよめる哥に注せり。此明來れはといひて、ゆふされはといへる對《ツイ》にて、ゆふされは、春されは、秋されはなといふは、夕になりゆけは、春になりゆけは、秋になりゆけはといふ心なりと知へし。田の字は音を取て用
 
 
反歌
 
(51)1938 客爾爲而妻戀爲良思霍公鳥神名備山爾左夜深而鳴《タヒニシテツマコヒスラシホトヽキスカミナヒヤマニサヨフケテナク》
 
後撰集にはたびねしてとあり、古今集にも今朝來鳴いまだ旅なる郭公とよめり、旅人は故郷の妻を戀て泣故になずらへてよめるなり、
 
初、たひにしてつまこひすらし。古今集にも、けさきなきいまたゝひなるほとゝきすとよめり。旅行人は、故郷にのこしおく妻をこひてなくによりて、ほとゝきすも、たひにてやなくらんとなり
 
右古歌集中出
 
1939 霍公鳥汝始音者於吾欲得五月之珠爾交而將貫《ホトヽキスナカハツコヱハワレニカモサツキノタマニマシヘテヌカム》
 
於吾欲得は我に得させよの意なり、
 
1940 朝霞棚引野邊足檜木乃山霍公鳥何時來將鳴《アサカスミタナヒクノヘニアシヒキノヤマホトヽキスイツカキナカム》
 
初の二句夏に入てもまだ程なき意あり、下句は古今集に我宿の池の藤浪咲にけりと云歌と同じ、
 
初、朝霞たなひく野へに。古今集に、人まろの哥と注して、わかやとの池のふち浪さきにけりといふ哥の下句、今と全同なり
 
1941 旦霞八重山越而喚孤鳥吟八汝來屋戸母不有九二《アサカスミヤヘヤマコエテヨフコトリナキヤナカクルヤトモアラナクニ》
 
不有九二、【幽齋本云、アラナクニ、】
 
(52)八重山はおほくかさなれる山なるを、折節深き霞に寄てつゞけたり、落句の點にテ〔右○〕もじの加はりたるは寫生の誤なり、此歌は春の歌なるをいかで此處には載られけむ不審なり、上の春雜歌の詠鳥歌の終に、朝霧雨之怒々爾所沾而喚子鳥云々、此次に詠雪と云題落たれば若彼喚子鳥の次に此歌も有けむを錯亂して此處に來れる歟、霍公、喚孤、音相近ければ今もほとゝぎすと讀べき歟とも云べけれど、郭と霍とは通じたれど其外無窮に通ずる例なし、赤人集にも六帖にもよぶこどりとあり、今詠鳥歌前後二十七首、此歌を除て餘は皆霍公鳥の歌なり、喚子鳥はいつも鳴鳥ながら聞べき時は春のみなる由第八に坂上郎女がよめり、歌のやういかにも春より錯亂して來れるなるべし、
 
初、あさかすみやへ山こえて。やへ山はおほくかさなれる山なり。八重山といはむとて、朝霞とはおけり。下に朝きりの八重山こえてといへるもおなし。霞にまとひ露にむせふ勞をもこめていへるなり。さて此哥は、詠烏歌廿七首の内、前後廿六首は、皆霍公鳥の哥なるに、此一首のみよふこ鳥の哥にして、哥さまも朝かすみ八重山なといひ、よふこ鳥も、よのつねに聞はくるしきよふこ鳥とよみたれは、常になく鳥なから、彼下句にやかて、聲なつかしき春にはなりぬとよみて、春の物にしつるを、今夏の哥に、なきやなかくるとよめる、心得かたし。もし春の部に詠v鳥歌に入へきを、誤てこゝに載たる歟。もしまた霍公も、かれかなく聲によりて名付たる歟。霍公、喚孤、音相近けれは、此喚孤鳥をもほとゝきすとよむへきにや。されとも、廿七首ともに霍公鳥の哥ならは、題に詠2霍公鳥1とあるへきを、此鳥の哥一首ましれるゆへに、詠v鳥とひろく題せり。そのうへ、音相近とて、霍公鳥を喚孤と書へきにあらす。此哥の霍公鳥にましはれるゆへに、喚子烏はほとゝきすなりと思ふ人も有と見えたり。それは非なれとも、此哥のこゝにあるは不審なり
 
1942 霍公鳥鳴音聞哉宇能花乃開落岳爾田草引※[女+感]嬬《ホトヽキスナクコエキクヤウノハナノサキチルヲカニタクサヒクイモ》
 
田草引は。草取なり、玉篇云、〓《カウ》【呼勞切、拔2田草1也、或作v※[草がんむり/休]、】
 
1943 月夜吉鳴霍公鳥欲見吾草取有見人毛欲得《ツキニヨシナクホトヽキスミマクホリワカサヲトレルミムヒトモカナ》
 
草、【官本云、クサ、】
 
(53)發句はツキヨヽミと讀べし、吾草取有はワレクサトレリとも讀べし、草をサヲと點ぜるは書生の誤なり、第十八に霍公鳥こゆ鳴度れ燈を、月夜になぞへ其影もみむとよめる如く、聲を聞は更なり、月夜に飛渡る影をも見むとの意に隱ろふ草を取拂ふなり、第十九十七右に、霍公鳥來鳴|響者《トヨマバ》草等良牟、花橘乎屋戸爾波不殖而、今の歌をもて家持のよまれたるなり、
 
初、月夜よみなくほとゝきす。吾草取有、これをわかさをとれるとあるは、かんな誤れり。わか草とれる、あるひはわれ草とれりとよむへし。第十九に、ほとゝきすきなきとよまは草とらむ花橘をやとにはうえすて。此草とらむにおなし。よきまろうとなと有時、草を取、苔を拂ふことく、霍公鳥をまつまうけに、草を取てきよむるなり。鳴ほとゝきすみまくほりとは、橘のしつえなとにをりゐるをみんために、高草をかりはらふなり。見む人もかなは、かくきよめたる時に、わかやとをみせはやなり。次上の哥に、田草引いもといへるは、うの花のさきちるをかへなれは、霍公鳥を聞やとなり。此哥は彼田草引女のこたふるにはあらす。つゝきたれは、さも聞まかひぬへし
 
1944 藤浪之散卷惜霍公鳥今城岳※[口+立刀]鳴而越奈利《フチナミノチラマクヲシミホトヽキスイマキノヲカヲナキテコユナリ》
 
今城岳大和なり、第九に注するが如し、
 
初、ふちなみのちらまく。ほとゝきすの、今くるといふ心に、いまきの岡とつゝけたり。今城の岳、たしかに大和なり。第九卷にいへるかことし
 
1945 且霧八重山越而霍公鳥宇能花邊柄鳴越來《アサキリノヤヘヤマコヱテホトヽキスウノハナヘカラナキテコユラシ》
 
一二句のつゞき上に旦霞八重山と云に同じ、宇能花邊とは卯花のほとりなり、越來は今の點叶はずコエケリと讀べし、
 
初、うの花べから、卯花さけるあたりよりなり。越來はこえけりとか、こえきぬとかよむへし。こゆらしは、大にあやまれり
 
1946 木高者曾木不殖霍公鳥來鳴令響而戀令益《コタカクハカツテキウヱシホトヽキスキナキトヨミテコヒマサラシム》
 
令響而はトヨメテと讀べし、トヨミテと點ぜるは令の字に應ぜず、落句は第八に坂上郎女が歌に霍公鳥鳴聲きけば戀こそ益れとよめる意なり、顧况詩云、庭前有2箇(ノ)長(54)松樹1、半夜子規來(リ)上(テ)啼、
 
初、木高くはかつて木うゑし。顧況詩云。庭前(ニ)有(リ)2箇(ノ)長松樹1。夜半(ニ)子規來(リ)上(テ)啼。令響、とよめてと讀へし。とよみては、令の字にかなはす
 
1947 難相君爾逢有夜霍公鳥他時從者今社鳴目《アヒカタキキミニアヘルヨホトヽキスコトトキヨリハイマコソナカメ》
 
1948 木晩之暮闇有爾【一云有者】霍公鳥何處乎家登鳴渡良哉《コノクレノユフヤミナルニホトヽキスイツコヲイヘトナキワタルラム》
 
良哉、【官本、哉改作v武、】
 
哉は云までもなき誤なり、武に作るべし、
 
初、木晩の、木の下やみなり。哉は武の字のあやまれるなり
 
1949 霍公鳥今朝之且明爾鳴都流波君將聞可朝宿疑將寐《ホトヽキスケサノアサケニナキツルハキミキクラムカアサイカヌラム》
 
官本には此歌を次に置、次の歌を此に置けり、
 
初、疑《カ》、歟は疑辭なり。此ゆへに疑をすなはち歟とよめり。此字をまたはらしとよめる所あり。らしもうたかふ詞なれはなり
 
1950 霍公鳥花橘之枝爾居而鳴響者花波散乍《ホトヽキスハナタチハナノエタニヰテナキトヨマセハハナハチリツヽ》
 
1951 慨哉四去霍公鳥今社者音之干蟹來喧響目《ヨシエヤシユクホトヽキスイマコソハコヱノカルカニキナキトヨマメ》
 
此初二句の點大きに誤れり、ウレタキヤシコホトヽギスと讀べし、神武紀云、慨哉大丈夫云々、委は第八夏相聞家持の長歌の中に今の二句あるに付て注せしが如し、音之干蟹は音のかるゝかと思ふばかりにと云意なり、
 
初、うれたきやしこ霍公鳥。慨哉四去霍公鳥、これを今の本に、よしゑやしゆくほとゝきすとよめるは、大にあやまれり。第八の三十葉に、長哥の中に、宇禮多伎也、志許霍公鳥といへるにおなし。そこに神武紀を引ことく、慨哉此(ヲハ)云2于黎多棄伽夜《ウレタキカヤト》1と、自注をくはへたまへり。しこは醜の字にて、きたなし霍公鳥と罵詞なり。愛する心から、かりに見たり。こゑのかるかには、聲もかるゝかといふほどに、なきつくさてといふ心なり
 
(55)1952 今夜乃於保束無荷霍公鳥喧奈流聲之音乃遙左《コノヨラノオホツカナキニホトヽキスナクナルコヱノオトノハルケサ》
 
朗詠集に發句を五月やみと改めて入れらる、今も其意なり、赤人集に遙左をさやけさとあるは叶はず、
 
1953 五月山宇能花月夜霍公鳥雖聞不飽又鳴鴨《サツキヤマウノハナツキヨホトヽキスキケトモアカスマタナカムカモ》
 
宇能花月夜、【赤人集云、ウノハナツクヨ、】
 
五月山は此下にもよめり、唯五月の山なり、名所にあらず、春山、秋山、彌《ヤ》生山など云が如し、古今集にも五月山梢を高み郭公、鳴音空なる戀もするかなとて各其時をよめり、
 
初、五月山うの花月夜。五月山は名所にあらす。只五月の比の山なり。やよひ山とも讀かことし。うの花月夜は、卯花のさかりなるが、月夜のことくみゆるをいへり。此哥新古今集に取のせらる
 
1954 霍公鳥來居裳鳴香吾屋前乃花橘乃地二落六見牟《ホトヽキスキヰテモナクカワカヤトノハナタチハナノツチニオチムミム》
 
鳴香は鳴かななり、
 
1955 霍公鳥厭時無菖蒲※[草冠/縵]將爲日從此鳴度禮《ホトヽキスイトフトキナシアヤメクサカツラニセムヒコユナキワタレ》
 
此歌第十八に田邊福麻呂再誦す、
 
(56)1956 山跡庭啼而香將來霍公鳥汝鳴毎無人所念《ヤマトニハナキテカクラムホトヽキスナカナクコトニナキヒトオモホユ》
 
郭公を聞てなき人を思こと第八に石上堅魚のよめる歌に注するが如し、
 
初、山とにはなきてかくらん。此哥は、人をうしなひて後、よめる哥と見えたり。伊勢かうみたるみこの、かくれたまへる時よめる哥に
 しての山こしてやきつるほとゝきすこひしき人のうへかたらなん
 
1957 宇能花乃散卷惜霍公鳥野出山入來鳴令動《ウノハナノチラマクヲシミホトヽキスノニイテヤマニイリキナキトヨマス》
 
第四の句ノニデヤマニイリと讀べし、
 
1958 橘之林乎殖霍公鳥常爾冬及住度金《タチハナノハヤシヲウヱムホトヽキスツネニフユマテスミワタルカネ》
 
佐度金は住度歟になり、禰と爾と通ぜり、
 
初、橘の林をうゑむ。第九に、詠2霍公鳥1歌の終にも、わかやとの花橘にすみわたれ鳥といへり。第十九に、ほとゝきすきけともあかすあみ取にとりてなつけなかれすなくかね。住わたるかねは、住わたるかになり
 
1959 雨※[日+齊]之雲爾副而霍公鳥指春日而從此鳴度《アマハリノクモニタクヒテホトヽキスカスカヲサシテコユナキワタル》
 
雨※[日+齊]、【校本、※[日+齊]或作v霽、】  鳴度、【官本、度作v渡、】
 
1960 物念登不宿旦開爾霍公鳥鳴而左度爲便無左右二《モノオモフトイネヌアサケニホトヽキスナキテサワタルスヘナキマテニ》
 
左度、【官本、度作v渡、】
 
發句はモノモフトと讀べし、第十五に殊に此詞多し、皆於を略して毛能毛布とあり、
 
(57)1961 吾衣於君令服與十霍公鳥吾乎領袖爾來居管《ワカキヌヲキミニキセヨトホトヽキスワレヲシラセテソテニキヰツヽ》
 
於を乎に用る事以前既に注せり、但吾衣をワガコロモと讀て發句とし、於君をキミニとも讀べし、吾乎領とは我に知らせてにて心を著るなり、尋常の鳥だに袖に來居る物にあらず、まして霍公鳥は人に馴ぬ鳥なれば此は夏衣を竿に懸|干《ほ》せる其袖に來居てと云なるべし、さるにても君に著せよと知らすると云意いかにとも得がたし古今集にも韓《カラ》紅の振《フリ》出てぞ鳴と讀て霍公鳥は血に啼なれば、人に贈て著せば袖のみ紅深きを見てあはれと思ふべしと我を助る意に袖に來居て啼よと、戀する人の思ひ廻らさぬ事なう物思ふが、折しも衣に霍公鳥の居たるを見てよめるにや、せめてかくばかりも驚かし置て後の人を待に侍り、
 
初、わかきぬをきみにきせよと。吾衣於君、これをわかきぬを、きみにとよめるは、此集に、てにをはのをに、於の字をかける所あまたあり。今もその心なり。わかころもきみにともよむへし。領の字は、第十六の十二葉、三十一葉にも、しらすとよめり。われをしらせてとは、われに心をつけてなり。此哥はいかによめるにか、そのこゝろ得かたし。常の鳥たに袖に來居る物にあらぬうへに、ことにほとゝきすは、人なれぬ鳥なれは、これは竿にかけてほせる衣なとをいふにや。さるにても、君にきせよとしらするといふ心をは得ねは、後の人を待なり
 
1962 本人霍公鳥乎八希將見今哉汝來戀乍居者《モトツヒトホトヽキスヲヤマレニミムイマヤナカクルコヒツヽヲレハ》
 
本人とは昔の妻をも云ひなき人をも云ふ、此は郭公の聲を昔より聞馴て云なり、鳥けだ物草木までも人とは讀習なり、後撰集に待人は誰ならなくに郭公とよめるも郭公を指て待人と云へり、此集に鴈をも遠津人とよめり、されば本人と思ふ霍公鳥なればまれ/\にやは見む、あかずこそきかまほしきを待つゝをるに、今ややうや(58)う、汝が來る、初て聲の聞ゆるはとよめる歟、
 
初、もとつ人ほとゝきすをや。もとつ人とは、むかし相しれる友をもいひ、又むかしの妻をもいふこと有。こゝはほとゝきすの聲を、もとより聞なれたれは、むかしの友とおもひて、かくいへるなり。鳥けた物草木まても、人とは讀ならひなり。後撰集に
 待人はたれならなくにほとゝきすおもひの外になかはうからむ
これも郭公をさして待人といへり。第十二に、遠つ人かりちの池とつゝけたるは、遠よりくる雁といふ心にいへり。第十七にも、遠つ人かりがきなかんといへり。源氏物語若菜下には、御ねこともあまたはへりにけり。いつらこの見し人はと尋てみつけたまへりといへり。ほとゝきすはもとつ人なれは、まれ/\にやはみむ。つねにこそきかまほしきに、わかこひつゝをるに、今ややう/\なんぢかくる。はしめて聲のきこゆるはとよめるにこそ
 
1963 如是許雨之零爾霍公鳥宇之花山爾猶香將鳴《カクハカリアメノフラクニホトヽキスウノハナヤマニナヲカナクラム》
 
宇之花山は卯花のさける山を押て名付るなり、名所にあらす、もみぢする山を紅葉の山とよめるが如し、第十七に大伴池主が越中にてよめる長歌に、見和多勢婆宇能波奈夜麻乃保等登藝須とよめる故に越中と云説あれど、又同卷家持も越中守にての長歌に宇乃花乃爾保弊流山乎余曾能未母、布里佐氣見都追云々、是山の名ならぬ證なり、此卷に前にも後にも宇能花乃開落岳とよみ、又宇能花邊ともよめり、此歌人丸集にもなきを玉葉には何に依てか作者を定られけむ、おぼつかなし、
 
初、かくはかり雨のふらくに。ふらくにはふるになり。うの花山は名所にあらす。只卯花のおほく咲山を、おしていへるなり。第十七、大伴池主か長哥中に、見わたせはうの花山のほとゝきすとよめるもこれなるへし。上にうの花べからともよみ.又上の十九葉、下の廿二葉に、うの花のさきちるをかともよめり。又もみちしたる山を、もみちの山ともよめり。此哥を.玉葉集夏部には、人まろの哥とて載たり
 
詠蝉
 
1964 黙然毛將有時母鳴奈武日晩乃物念時爾鳴管本名《モタモアラムトキモナカナムヒクラシノモノオモフトキニナキツヽモトナ》
 
時母、【六帖云、オリモ、】
 
物念はモノモフと讀べし、
 
詠榛
 
(59)赤人集にははしばみをゑいずとて、歌にもしまのはしばみとあり、昔の人のよみときけるやうおぼつかなき事少からず、
 
1965 思子之衣將摺爾爾保比與島之榛原秋不立友《オモフコノコロモスラムニニホヒセヨシマノハキハラアキタヽストモ》
 
發句は古風の例に依てオモフコガと讀べし、腰の句は袖中抄にも今の點の如くあれど勢、世等の字もなし、以前注せし如く與は集中にこそ〔二字右○〕と讀べき處お枚ければ今も然讀べきなり、島は第五に奈良《ナラ》路なる島の木立とよめる處なり、榛の木は秋に至て皮を剥て染るが色のよき歟、木竹を伐にも秋に至らざればよからねばさも侍るべし、
 
初、おもふこの衣すらんに。爾保比與。此比の字の下に、勢世等の字をちたり。島のはきはら、島は大和にあり、第五に、ならぢなる嶋のこたちとよめり。第九第十九にも、嶋山《奈良路》とよめり。第九の哥に、第五の哥を思ひあはするに、奈良と立田のあはひに有とみゆ。此はき原とよめるは、はりの木原なり。萩にまきらはし。秋たゝずともといへるは、此木にてそむるに、秋は色のよきにや
 
詠花
 
1966 風散花橘※[口+立刀]袖受而爲君御跡思鶴鴨《カセニチルハナタチハナヲソテニウケテキミカミタメトオモヒツルカモ》
 
爲君御跡、此書やう不審なり、君御處、或は御2爲《ミタメ》君1と書けむを傳寫を經て今の如くなれる歟、此君と云は夫君なるべし、君が爲とはたき物するやうなるを云歟、袖に受留て見せむと思ふを云歟、
 
初、風にちる花橘を。橘のちるを袖にうくるは、爲(ニ)v君(カ)薫《タキモノス》2衣裳(ニ)1といふにおなし心なるへし
 
(60)1967 香細寸花橘乎玉貫將送妹者三禮而毛有香《カクハシキハナタチハナヲタマニヌキオクラムイモハミツレテモアルカ》
 
發句は仙覺抄に古點はかのほそきと有けるを今の如く改めたる由なり、但赤人集にはかぐはしきとあり、今の世にかうばしきと云詞なり、く〔右○〕とう〔右○〕とは同韻にて通ずる故にかうばしと云波を和の如く云と、濁て讀とは表裏なる事なれど、語勢に依て然るなり、應神紀の御製に云、伽愚破志波那多智麼那、辭豆曳羅波比等未那等利云々、第四の句は將送を上に連て句とし、妹者を下に連ても讀、又只讀連ねても意得べし、三禮而は第四に注せり、
 
初、かくはしき。くはしきは物をほむる詞なり。かうはしきと常にいふは、宇と久と、同韻相通なるへし。みつれは羸の字なり。第四の四十九葉に、みつれにみつれとよめるもこれなり。われをこふるに、つかれてあるらむと、心もとなくおもふなり
 
1968 霍公鳥來鳴響橘之花散庭乎將見人八孰《ホトヽキスキナキトヨマスタチハナノハナチルニハヲミムヒトヤタレ》
 
落句の落著は君にこそあれなり、
 
初、ほとゝきすきなきとよます橘の。橘のちる庭をきてみん人やたれ。君こそきてもみるへき人なれといふ心なり
 
1969 吾屋前之花橘者落爾家里悔時爾相在君鴨《ワカヤトノハナタチハナハチリニケリクヤシキトキニアヘルキミカモ》
 
悔時爾相在君とは、問來る人の悔しき時に相と云へる歟、花橘の盛に來ば見すべきを、落て後悔しき時に來たる人に我が逢へるとよめる歟、第八の遊行女婦《ウカレメ》が橘歌引合て見るべし、
 
初、わかやとの花橘は。橘のにほひにこそ、いやしき宿もまきれつれ。それさへ散過たる比、君かとへは、何のいふかひなく、くやしき時にもきましつるよとなり
 
(61)1970 見渡者向野邊乃石竹之落卷惜毛雨莫零行年《ミワタセハムカヒノノヘノナテシコノチラマクヲシモアメナフリコソ》
 
初、雨なふりこそ。こそは乞の字にて、雨なふりそと、ねかふ詞なり
 
1971 雨間開而國見毛將爲乎故郷之花橘者散家牟可聞《アママアケテクニミモセムヲフルサトノハナタチハナハチリニケムカモ》
 
國見は今は四方を見はるかすを云へり、
 
初、あまゝあけて國見もせむを。雨のはれまに立出てゆかしき所々をみんとおもふをくにみもせんをといへり。國見は第一第三にもよめり
 
1972 野邊見者瞿麥之花咲家里吾待秋者近就良思母《ノヘミレハナテシコノハナサキニケリワカマツアキハチカツクラシモ》
 
後撰集には、なでし子の花散方に成にけり、我待秋ぞ近く成らしとよめり、今の歌と違へるやうなれど歌はかやうなる常の事なり、秋の物にしてよめる歌も多し、此卷下に至て雁の初聲を聞て芽子《ハキ》の咲とよめるに、又雁にあはじとにや聲を聞ては散ともよめり、萬此等に准らふべし、
 
初、野へみれはなてしこの花。後撰集に、なてしこの花ちりかたに成にけりわか待秋そちかくなるらし。似たる哥なり
 
1973 吾妹子爾相市乃花波落不過今咲有如有與奴香聞《ワキモコニアフチノハナハチリスキヌイマサケルコトアリソハヌカモ》
 
落不過、【六帖云、チリスキテ、】
 
發句は相坂山などつゞくる如くあふちと云はむためなり、腰句はチリスギズと讀べし、スギヌと有は傳寫の誤なるべし、落句は今の點叶はず、六帖にあらむいもかも(62)とあるは讀かねて改けるにや、今按アリコセヌカモと讀べし、
 
初、わきもこにあふちの花。ちり過ぬは、落不過とかけれは、かんなあやまれり。ちりすきすと讀へし。有與奴香聞、これをありそはぬかもとある點は、心得かたし。今案與は興の字にて、ありこせぬかもとよむへし。興はおこしとよむを、上略して、おの字をさり、之と世と通すれは、しかよまるゝなり。ありこせぬかもといふ詞、集中におほし。もしは輿の字にて、上《・コセ》におなしく讀へき歟。苦《クル》しといふに、栗子とかきたれは、躰《タイ》にてうこかぬ詞も、通してうこく事あり。わきもこにあふちとは、逢といふ心にいひかけて、めつらしく見る心もそひたり
 
1974 春日野之藤者散去而何物鴨御狩人之折而將挿頭《カスカノノフチハチリユキテナニヲカモミカリノヒトノオリテカサヽム》
 
散去而はチリニテとも讀べし、
 
初、春日野の藤はちりゆきて。四月中旬以下の哥なるへし
 
1975 不時玉乎曾連有宇能花乃五月乎待者可久有《トキナラヌタマヲソヌケルウノハナノサツキヲマタハヒサシカルヘク》
 
初、時ならぬ珠をそ。五月の玉は、藥玉なるを、これ五月をまたはといへは、四月にうの花を玉にぬくなり
 
問答
 
1976 宇能花乃咲落岳從霍公鳥鳴而沙渡公者聞津八《ウノハナノサキチルヲカニホトヽキスナキテサワタルキミハキヽツヤ》
 
從はユとも讀べし、
 
1977 聞津八跡君之問世流霍公鳥小竹野爾所※[二水+舌]而從此鳴綿類《キヽツヤトキミカトハセルホトヽキスシノノニヌレテコユナキワタル》
 
第八巫部麻蘇娘子と家持との雁問答今に似たり、
 
初、うの花のさきちる岡に
きゝつやと君かとはせる。右二首は、第八卷に、巫部《カナイヘノ》麻蘇(ノ)娘子と、家持と、雁の哥を贈答せるに似たり
 
譬喩歌
 
1978 橘花落里爾通名者山霍公鳥將令響鴨《タチハナノハナチルサトニカヨヒナハヤマホトヽキストヨマセムカモ》
 
(63)もと見し人の名殘を忘れずして今更に彼處《ソコ》にかよはゞ、今住人やとがめてさはがむと云意を喩へたるべし、源氏の花散里此歌に依れり、
 
初、橘の花ちる里にかよひなは。此哥のたとふる心は、橘の花ちる里にかよふをは、戀おもふ人の、時を過さむ事をおしみて、わかゆきかよふによせ、山郭公とよませんかもといふをは、里もとゝろにいひさはかれん歟とよせたり。おもては、かよひなはゝ、ほとゝきすりかよふなり。ほとゝきすのなきとよますことく、われも人のもとにかよふから、人の物いひもあるへけれは、かくはよめるなるへし
 
夏相聞
 
寄鳥
 
1979 春之在者酢輕成野之霍公鳥保等穗跡妹爾不相來爾家里《ハルサレハスカルナルノヽホトヽキスホトホトイモニアハスキニケリ》
 
不相、【赤人集云、アハテ、官本亦點同v此、】
 
發句はハルナレバと讀べき事上に注せしが如し、赤人集にはなつなればとあり、夏こそ違ひたれど春なればと讀べき證には成ぬべし、酢輕は第九に注せし如く※[虫+果]〓なり、成は鳴に借て書けり、春草も何くれと花咲けばそれに集て鳴なり、古今集にすがるなく秋の萩原とある歌も古歌と見ゆれば、鳴《メイ》の字を書て今と同じくすがるなる〔五字右○〕なりけむをなく〔二字右○〕と讀て假名に寫されたるにも侍るべし、さて此は夏の歌なるにかく云ひ出す事は、新撰萬葉集にも、郭公鳴立春之山邊庭、沓《クツ》直不輸人哉住濫とあれば、此も春の時野を霍公鳥の急ぎ鳴立とて妻にもあはで來るによせて、霍公鳥を承(64)て殆妹にあばずして來にけりとよめるなるべし、第八に百濟野の萩の古枝に春待て住し※[(貝+貝)/鳥]鳴にけむかもとあれば、霍公鳥も野より鳴立つべき理なり、
 
初、春されはすかるなる野のほとゝきす。春之在者とかけるをは、上の十三葉に、春されはもすの草くき見えすともといふ哥にも、かくかけるにつきていへるかことく、これは春にあれはとよむへきを、爾阿《ノ》切奈なれは、つゝめてはるなれはとよむへきにや。さき/\にもいへるがことく、春去者とかきてはるされはとよむは、春くれはの心にて、此哥に春之在者とかけるには心かはれり。すかるなる野のとは、すかるは、第九に、こしほそのすかるをとめとよめる哥につきて、委尺せり。俗に似我《ジカ》といふ蜂なり。されともたゝ通して蜂をいふとみるへし。以v翼(ヲ)鳴(ク)者(アリ)といふたくひなれは、なくをなるといへり。成といふ字かきたるにまとふへからす。此集にいふせきといふに、馬聲蜂音《イフ》とかきていぶとよめるも、かれがなく聲を、意を得てかけるなり。さて此哥のよみやう古哥のやうなれは、上の句やすきものゝ、むつかしう聞ゆるなり。彼すかるは、花の香にめてゝきて、あつまりてその味を?  噂《ス》ふ物なれは、古今集にはすかる鳴秋の萩原とよみ、此哥にはすかるなる野とよめり、ほとゝきすは、野には居かたき鳥なれと、此集にはあまたよめれは、今も野の郭公といはむために、其野をいふとて、春の時はすかるの花になく野といへり。すかるは、すこしも下の妹にかゝりて、細腰の心を用るにあらす。例せは第四に、をみなへし咲澤におふる花かつみ、此卷に、さきにをみなへし咲野におふる白つゝしとよめるかことし。野に郭公をよめるは、第十四に、信濃なるすかのあら野にほとゝきすなく聲きけは時過にけり。第九には、うの花のさける野へより飛かへりきなきとよまし橘の花を居ちらしなと詠2霍公鳥1歌によみ、此卷さきには、野に出山にいりとよめり。かそふるにいとまあらす。ほとゝきすはほと/\といはむためなれは、すかるなるは野をいはむため、野は霍公鳥をいはむためにて、次第にみな序なり。畢竟は、ほとんと妹にあはすして、月日を過し來にけりとよめるなり
 
1980 五月山花橘爾霍公鳥隱合時爾逢有公鴨《サツキヤマハナタチハナニホトヽキスカクラフトキニアヘルキミカモ》
 
第八に大伴書持が橘を霍公鳥の友と讀つるに、霍公鳥の橘にあひにあふ時我も亦君に相へりと悦てよめるなり、
 
初、五月山花橘に。上にもいへることく、五月山は、只五月の山なり。古今集にも、五月山梢を高みほとゝきすなくね空なるこひもするかなとよみて、皆五月の時節にあはせたるを思ふへし。橘にほとゝきすのあひにあふ時、われもまた君にあへりと、よろこほひてよめり
 
1981 霍公鳥來鳴五月之短夜毛獨宿者明不得毛《ホトヽキスキナクサツキノミチカヨモヒトリシヌレハアカシカネツモ》
 
ヒトリシのし〔右○〕は助語なり、遊仙窟云、昔日雙眠、恒嫌2夜短1、今宵獨臥、實怨2更長1、
 
初、ほとゝきすきなくさつきの。遊仙窟云、昔日雙眠《ソノカミフタリネシトキニ》、恒(ニ)嫌(ヒキ)2夜(ノ)短(カキヲ)1。今宵《コヨヒ》獨(リ)臥(ハ)、實(ニ)怨(ム)2更《ヨノ》長(キコトヲ)1
 
寄蝉
 
1982 日倉足者時常雖鳴我戀手弱女我者不定哭《ヒクラシハトキトナケトモワカコフルタヲヤメワレハサタマラスナク》
 
時トナケドモとは禮記云、仲夏之月蝉始鳴、手弱女は腰句に連ねて句とすべし、女を呼て告る意なり、我者の下に時の字落たる歟、第六帥大伴卿宿2次田温泉1聞2鶴喧1作歌の落句に時不定鳴をトキワカズナクと點ぜり、今も此と同じかるべき證には六帖(65)にときわかずなくとあり、又此卷春雜歌詠鳥歌、朝井代爾來鳴杲鳥とよめる落句にも時不終鳴をトキヲヘズナクと點ぜり、此も亦今と似たり、
 
初、日くらしは時となげとも。禮記(ニ)云。仲夏之月蝉始(テ)鳴。孟秋(ノ)之月|寒蝉《・サムセミ》鳴。ひくらしは、茅蜩にて、蝉の屬にて、まさしき蝉にはあらされとも、さきに詠v蝉哥にも、ひくらしとよみ、今も寄v蝉とて、日くらしとよめり。されは蝉は夏こそ時とてなくを、我はいつといふわきもなく、なきてのみふるなり。我こふるたをやめとは、こふる女を呼てつくるなりは たをやめは、てよはめといふ心なり。手はたちからにて、ちからある所なれはしなやかにて、ちからよはき女なり。羅綺にも堪ぬ心なり。與《ヨ》と乎《ヲ》と同韻にて通し、はとやと又同韻なれはたをやめといふなり
 
寄草
 
1983 人言者夏野乃草之繁友妹與吾携宿者《ヒトコトハナツノヽクサノシケクトモイモトワレトシタツサハリネハ》
 
吾トシのし〔右○〕は助語なり、落句の云ひ殘せる意はさもわらばあれなり、拾遺六帖人丸集並にたづさはりなばとあり、宿の字を忘たり、古今に、里人の言は夏野の繁くとも、かれ行君にあはざらめやは、玉葉に小町歌云、世間は明日香川にも成らば成れ、君と我とが中し絶ずば、
 
初、人ことは夏野の草の。古今集に、さと人のことは夏野のしけくともかれゆく君にあはさらめやは。下句は小町か哥に、世の中はあすか川にもならはなれ君とわれとか中したえすは。たつさはりねはといひすてたるは、それはさもあらはあれなり
 
1984 廼者之戀乃繁久夏草乃苅掃友生布如《コノコロノコヒノシケヽクナツクサノカリハラフトモオヒシクカコト》
 
苅掃友をカリハラフトモとあるは誤なり、カリハラヘドモと讀べし、六帖にはかりそくれとも、人丸集にはかりはつれども、並に叶はず、第十一に吾せこに吾戀らくは夏草の、苅除《カリソクレ》ども生及如《オヒシクガゴト》、似たる歌なり、
 
初、この比のこひのしけゝく。しけくなり。しけさはといはむかことし。第十一に、わかせこにわかこふらくは夏草のかりそくれともおひしくかこと。大かた似たる哥なり
 
(66)1985 眞田葛延夏野之繁如是戀者信吾命常有目八方《マクスハフナツノヽシケクカクコヒハマコトワカイノチツネナラメヤモ》
 
1986 吾耳哉如是戀爲良武垣津旗丹類令妹者如何將有《ワレノミヤカクコヒスラムカキツハタマヅイホヘルイモハイカニモアラム》
 
如何、【官本云、イカニカ、】
 
垣津旗はにほへると云はむ爲なり、丹類は此兩字の間に落字有べし、令妹は廣韻云令、善也、ほめてかけり、落句イカニモアラムと點ぜるは誤なり、イカニカアラムと讀べし、六帖云に此歌を垣津幡に入れたり、
 
初、われのみやかくこひすらん。我のみや、かく妹をこふらん。妹もおなし心にわれをこふらん。こひすやあるらむといふ心を、いかにかあらんといへり。かきつはたは色のうるはしき物なれは、にほへるといはむとて取出るなり。第十一に、かきつはたにつらふ君をとよめるもおなし心なり。丹。類、此間に脱字あるへし。令妹は令(ハ)善也。ほむる詞なるゆへに、二字引合ていもなり
 
寄花
 
1987 片搓爾絲※[口+立刀]曾吾搓吾背児之花橘乎將貫跡母日手《カタヨリニイトヲソワカヨルワカセコカハナタチハナヲヌカムトモヒテ》
 
寄花歌なれば、此花橘は花の時見て實にならばぬかむと思ふなり、母日手は思ひての上略なり、片搓は片思の譬、橘を貫は事の成譬なり、第七に紫絲乎曾吾搓とよめる歌に似たり、
 
初、片よりにいとをそわかよる、寄v花哥なれは、此花橘は花をいへり。もひてはおもひてなり。片よりといへるは、かたおもひの譬なり。花橘をぬくをは、事のなるにたとふるなり
 
1988 ※[(貝+貝)/鳥]之往來垣根乃宇能花之厭事有哉君之不來座《ウクヒスノカヨフカキネノウノハナノウキコトアレヤキミカキマサヌ》
 
(67)拾遺に發句をほとゝぎすとて入たるは人丸集に依れり、赤人集に入たるも同じ、此歌第八に小治田廣耳が霍公鳥鳴峯乃|上《ウヘ》能云々、下三句彼に同じ、初の二句卯花に依て※[(貝+貝)/鳥]のかよひ來るを絶ず人の問ひ來しに譬ふ、※[(貝+貝)/鳥]は夏懸てもすめばなり、拾遺集云、山里のうの花に鶯の鳴侍りけるを、平公誠、卯花を散にし梅にまがへてや、夏の垣根に※[(貝+貝)/鳥]の鳴、又小町集にうの花のさける垣根に時ならず、我ことぞ鳴鶯の聲、
 
初、鶯のかよふかきねの。鶯は夏かけてもすむことあれはなり。上の句はうきのうもしまうけむための序なり。第八にほとゝきす鳴《ナク》尾のうへのうの花の、下句全同。古今集雜下、躬恒哥に、水のおもにおふる五月のうき草のうき事あれやねをたえてこぬ。これはうき草のうきと、二字をかさねたり。うきことゝはわれをいとふ事あれはにやといふ心なり。さきの人の身に、うき事あれはにやといふにはあらす。※[厭のがんだれなし]の字をかけるにて知へし。鶯のかよふ垣ねとは、鶯はくれとも、人はこぬ心あり
 
1989 宇能花之開登波無二有人爾戀也將渡獨念爾指天《ウノハナノサクトハナシニアルヒトニコヒヤワタラムカタオモヒニシテ》
 
開トハナシニとは發句をうの花の如くと意得べし、第九に布留の早田の穗には出ずとよめる類なり、腰の句は上に連ねて開とはなくてある人にと意得べし、或人にと云にはあらず、しのびに戀る人なり、
 
初、うの花のさくとはなしにある人に。これはうの花のさかぬ物といふにはあらす。うの花のことく、さくとはなしになり。さかぬをは、しのふるほとのおもひにたとへ、さくをは、おもひのひらくるにたとふ。咲とはなしにといへるは、第九に、いそのかみふるのわさ田のほには出すとよめるに准して知へし。さくとはなしにあるとつゝくる心にて、人にと心得へし。或人にといふにはあらす
 
1990 吾社葉憎毛有目吾屋前之花橘乎見爾波不來鳥屋《ワレコソハニクヽモアラメワカヤトノハナタチハナヲミニハコシトヤ》
 
吾こそはいとはしくも思はぬ吾宿に咲ける花橘をさへ見に來じとやすらむと橘にたよりてよめり、人丸集赤人集にもあれど、彼は不審なる物なり、歌のやう女のよめるなるべし、拾遺集雜戀に伊勢が歌、上は今と同じくて花見にだにも君が來まさ(68)ずとよめるあり。
 
初、われこそはにくゝもあらめ。にくゝはきらふなり。惡寒なとのにくむなり。こゝに憎の字はかきたれと怨憎なといふことく、をもくはみるへからす。我こそはきらはしくもあらめ、我ゆへに、我やとにさける、花橘をさへ、見にこしとやすらむ。情なしと、橘にたよりてよめり、女の哥なるへし。拾遺集伊勢か哥に、上の句今とまたくおなしうして、花見にたにも君かきまさぬとよめり。ともにやさしき哥なり。これらの哥を得ては、まことに、雨のふる日ならは、みのかさもきす、しとゝにぬれて、まとひゆきぬへし
 
1991 霍公鳥來鳴動崗部有藤浪見者君者不來登夜《ホトヽキスキナキトヨマスヲカヘナルフチナミミレハキミハコシトヤ》
 
見者、【幽齋本云、ミニハ、】
 
第四の句今の本の點叶はず、幽齋本に依べし、上の歌と似て、雨の降日ならば簑も笠も著てしとゞにぬれて人來さすべき歌なり、
 
初、ほとゝきすきなきとよます。此哥も右の哥とおなし心なり。ほとゝきすきなきとよますは、藤のかさりにもいへれと、ほとゝきすさへきなくを、君はこじとやと、こすしてはあられぬやうにいひやるなり。見者、これはみにはなるを、みれはとあるは、かんなあやまれり
 
1992 隱耳戀者苦瞿麥之花爾開出《カクレノミコフレハクルシナテシコノハナニサキイテ》與|朝旦將見《アサナサナミム》
 
戀者、【幽齋本云、コフルハ、】 開出與、【幽齋本云、サキイテヨ、】
 
第十六に隱耳戀者|辛苦《クルシ》云々、今の初二句と同じ、今按發句は共にコモリノミと讀べし、其故は第十七に大伴池主が長歌の中に己母理古非《コモリコヒ》、伊枳豆伎和多利《イキツキワタリ》云々、此初の一句今の二句に亘れり、
 
初、かくしのみこふれはくるし。第十六には、隱耳とかきて、したにのみとよめり。今もしかよむへし。なてしこの花にさき出よとは、しのひてこふれはくるしきに、なてしこのつほめるが、咲出ることく、今はおしあらはして、人にもしらせよ。なてしこのうるはしきをみることく.紅顔を、日に/\みんといふなり。朝な/\といへるは、日ことの心なり
 
1993 外耳見箇戀牟紅乃末採花乃色不出友《ヨソニノミミツヽヤコヒムクレナヰノスエツムハナノイロニイテストモ》
 
見箇、【六帖云、、ミツヽヲ、人丸集與2今本1同、】
 
(69)箇は筒を誤れり、落句を以て首尾を按ずるに發句はよそにのみもと云意なり、但六帖にみつゝをと有を取べきにや、を〔右○〕は助語なり、又ミツヽコヒナムとも讀べし、拾遺に見てやはこひむとて落句を色に出ずばと改られたるは、見てやこひむにては〔右○〕は助語なり、紅は和名云、辨色立成云、紅藍、【久禮乃阿井、】呉藍、【同上、】本朝式云、紅花、【俗用v之、】乃阿(ノ)切奈なる故に久禮乃阿井を約めて久禮奈井とは云へり、名付る意は呉藍なり、末摘花と云事は紅花は夏咲物なるが末より先咲そむれば其を先摘故なり、古今集にも人知れず思へば苦し紅の、末摘花の色に出なむ、六帖にかくばかり戀し渡らば紅の、末摘花の色に出ぬべし、
 
初、よそにのみ見つゝや。よそといふ事の、自然に餘所《ヨソ》にかよへるにより、餘所の音の和語に用とおもへり。もとよりの和語なるへし。筒を箇につくれるはあやまれり。末つむ花は、紅花にて、べにといふ物なり。末より咲そむるをつみとれは、末つむ花とはいふなり。古今集にも、人しれすおもへはくるしくれなゐの末つむ花の色に出なん
 
寄露
 
1994 夏草乃露別衣不著爾我衣手乃干時毛名寸《ナツクサノツユワケコロモキモセヌニワカワカコロモテノヒルトキモナキ》
 
露分衣と分る衣を押て云歟、又露を分む爲に雨衣などの樣に別に用意する衣の名歟、又古今集に山分衣とよめるは山臥の衣と聞ゆれば、それていの衣の名にや、能味はへば押て名付たるにはあらじとぞおぼしき、六帖には夏衣の歌とせり、新古今は(70)人丸集に依て入られ、家集又赤人集にもあり、
 
初、夏草の露わけ衣。四月五月まては、ことに朝露のふかき物なり。露分衣は、たゝ露をわけ行衣なり。古今集に、山わけ衣とよめるとおなし心にて、かれはをこなひ人の衣ときこゆれは、すこしかはれり
 
寄日
 
1995 六月之地副割而照日爾毛吾袖將乾哉於君不相四手《ミナツキノツチサヘサケテルヒニモワカソテヒメヤキミニアハスシテ》
 
禮記月令云、仲冬(ノ)之月、冰益々壯也、地始(テ)※[土+斥]《サク》、痛く日の照にも痛く寒きにも地は裂るなり、於君を拾遺人丸集六帖並にいもにとあり、
 
初、みな月のつちさへさけて。いたく日のてれは、つちのさくるなり。禮記月令には、仲冬(ノ)之月冰益(/\)壯|也《ナリ》。地始(テ)拆《サク》といへり。冬はいたくこほるゆへに、またつちのさくるなり
 
萬葉集代匠記卷之十上
  元禄三年三月廿二日抄之畢
 
(71)萬葉集代匠記卷之十中
 
秋雜歌
 
七夕
 
1996 天漢水左閉而照舟竟舟人妹等所見寸哉《アマノカハミツサヘニテルフナワタリフネコクヒトニイモトミエスヤ》
 
所見寸哉、【幽齋本云、ミエキヤ、】
 
水サヘ照とは丹|塗《ヌリ》などの餝れる舟なり、舟人は牽牛なり、舟人とのみかけるは第三に舟公をふねこぐきみとよめるが如し、落句は幽齋本の點に依べし、今宵織女の牽牛に妻とて相ままみえきやとなり、今按妹等はイモラとも讀べき歟、
 
初、天川みつさへにてるふなわたり。牽牛の舟をかさりてわたれは、水さへにてるふなわたりとはいへり。ふねこく人はひこほしなり。妹と見えきやは、たなはたつめの、こよひ彦星に、妹とてあひま見えきやなり。見えすやとあるかんなは、わろかるへし
 
1997 久方之天漢原丹奴延鳥之裏歎座津乏諸手丹《ヒサカタノアマノカハラニヌエトリノウラナキマシツトモシキマテニ》
 
裏歎は第一の軍王の歌に注せし如くウラナケと讀べし、袖中抄にはうらなげきつゝとあり、つゝ〔二字右○〕】こそ叶はねどなけとなげきとは具略の異のみにて替らず、落句はめ(2)づらしきまでになり、織女の歎くをめづらしと云はむは本意ならぬやうなれど、佳人も痛くゑみさかえてほこりがなるよりは少しうらぶれたる樣なるに艶なる所は添ひぬべし、マテニと云詞はさるへしと云ひはつるにあらぬ意なり、諸手と借てかけるも左右二手等に同じ、
 
初、久かたのあまのかはらにぬえ鳥の。ぬえ鳥のうらなくとは、第一卷軍|王《オホキミ》の哥にもありて、注せしことく、此鳥の喉音《ノトコヱ》につふやくやうになくによせて、人しれす下なくをいへり、裏《ウラ》といふは、下といふにおなし。第二第五此下の廿七葉にもかくよめり。第五にはぬえ鳥の喉《ノト》よひをるにといへり。此うらなきますといふは、たなはたつめなり。ともしきまてには、かゝるこひは、たくひすくなく、めつらしきまてになり。兩手を眞手といふ故に、諸手とかげり
 
1998 吾戀嬬者知遠往舩乃過而應來哉事毛告火《ワカコヒヲイモハシレルヲユクフネノスキテクヘシヤコトモツケラヒ》
 
嬬者、【紀州本云、ツマハ、】
 
第二句の點は紀州の本の如く讀べきか、其故は此歌は織女になりて讀と見えたれば彦星を指てつまと云にや、三四句は兼てあらましに云なり、我方に渡り來む船の明ぬとて榜行て過なむ後又こぎ來べしや、相見ぬさきには言をだにも早く告よとなり、落句は第九に浦島子をよめる歌にも見えたり、
 
初、わかこひを妹はしれるを。これはひこほしになりてよめるなり。我戀る人のほとを、たなはたつめは、兼てしれるを、こきゆく舟のひとたひ過ては、年のうちにまたくへきものか。言の葉をも告おこせよといふなり。告らひは告よといふ心なり
 
1999 朱羅引色妙子數見者人妻故吾可戀奴《アカラヒクシキタヘノコヲシハミレハヒトツマユヱニワレコヒヌヘシ》
 
色妙子、【六帖云、イロタヘノコ、】
 
朱羅引は第四に注す、色妙子はイロタヘノコと讀べし、匂《ニホ》ふ色の、妙なる子と織女を(3)云なり、第十一にはあから引肌ともよめり、數見者とは年毎に見るをも亦一夜の中にもつく/\とまもるをも云べし、杜※[手偏+攵]が詩に臥見牽牛織女星と作るが如し、織女は牽牛の妻にて我思ひ懸べきにあらぬ物故に、しば/\見れば戀ぬべしとなり、古今集に見ても亦またも見まくの欲ければ、馴るを人は厭ふべらなり、此意を思ふべし、第一に天武天皇未太子にてまし/\ける時の御歌の下句今と同じ、又第十二にも似たる下句あり、
 
初、あから引いろたへのこと。第十一にあからひくはたとつゝけ、第十六に、あかねさす君とよめるかことく、紅顔のにほひあるを、あからひくいろたへの子といへり。第四には、あから引日もくるゝまてとよめり。これはあかぬさす日とつゝくるにおなし。色妙子を、しきたへのことあるかんなは誤なり。色の字和訓を用へし。此色妙子といへるは、織女の事なり。しば見れはとは、下界より年ことにしは/\みれはなり。又秋來ての夜毎に、おもひやりて、打まもるをもいふへし。牡牧か詩に臥見牽牛織女星といへり。人妻は他妻なり。牽牛の妻にて、わかおもひかくへきにあらぬものゆへに、われも織女をこひぬへしとなり。古今集に、みてもまた又もみまくのほしけれはなるゝを人はいとふへらなり。此心をおもふへし。下の句は、第一に天武天皇いまた皇太子にておはしましける時の御哥に、紫のにほへるいもをにくゝあらは人つまゆへにわれこひめやも。第十二に、さゝの上にきゐて鳴鳥めをやすみ人つまゆへにわれこひにけり。これらおなし躰なり。可2戀奴1とかけるは、此集前後に此例おほし
 
2000 天漢安渡丹舩浮而秋立待等妹告與具《アマノカハヤスノワタリニフネウケテアキタチマツトイモニツケヨク》
 
安渡も天河の名なり神代紀云、于時八十萬神|會2合《ツトヒテ》於天安河邊1計2其可v?之方1、落句の與具は好く妹に告よとなるべし、第十三にも眞福在與具と云落句あり、
 
初、天川やすのわたりに。やすのわたりも、天河の名なり。神代紀上(ニ)云。于v時八十萬(ノ)神《カンタチ》會2合《カムツトヒテ》於天(ノ)安河邊《ヤスノカハラニ》1計《ハカラフ》2其(ノ)可(キ)v?(ル)之方(ヲ)1。いもにつけよくは、つけよといへるにくもしをそへたる歟。古語にかやうのことおほし
 
2001 從蒼天往來吾等須良汝故天漢道名積而叙來《オホソラニカヨフワレスラナレユヱニアマノカハチヲナツミテソクル》
 
發句を六帖にはおほそらをとあれど共に從を蒼天の上に置けるに叶はざる歟、赤人集にそらよりもとあるは叶へども古風にあらず、オホソラユと和すべきにや、天漢道を六帖にはあまのかはらをとあれど道の字を漏せり、赤人集にはあまのかはみちとあれど、第十四にも可美都氣乃乎度能多杼里我可波治爾毛云々、此今の點と叶へり、
 
(4)2002 八千戈神自御世乏※[女+麗]人知爾來告思者《ヤチホコノカミノミヨヽリトモシツマヒトシリニケリツキテシオモヘハ》
 
告思者、【官本云、ツケテシオモヘハ、】
 
八千戈神は第六に注しつ、落句はツゲテシモヘバと讀べし、し〔右○〕は助語なり、或はツゲテオモヘバとも讀べし、
 
初、やちほこの神のみよゝり。八千戈の神は、大|己貴《アナムチノ》命にて、三輪の御神なり。第六の四十六葉にもよめり。つけてしおもへはとは、世に人しれて、七夕にあふ習なれはなり
 
2003 吾等戀丹穗面今夕母可天漢原石枕卷《ワカコフルニノホノオモハコヨヒモカモアマノカハラニイソマクラマク》
 
牽牛になりてよめり、第二の句はニノホノオモワと讀べし、第九の玉名娘子をよめる歌に第十九を引て注するが如し、織女の紅顔なり、毛詩云、顔如(シ)v渥v丹(ヲ)、腰句の點モ〔右○〕の字を餘せるは書生の誤なり、石枕はイハマクラと點ぜる然るべし、此は七夕より前の夜、織女の待らむ意を牽牛の思ひやるなり、
 
初、わかこふるにのほのおもわ。牽牛となりてよめり。にのほのおもわは、紅顔をいへり。毛詩(ニ)云、顔(ハ)如(シ)v渥《ツケタルカ》v丹(ヲ)。第十九に、御面謂(フ)2之(ヲ)美《ミ》於毛和(ト)1と自注をくはへられたれは、面の字於毛和なり。第九に、もち月のみてる両輪《オモワ》ともよめり.今こゝにおもはとかんなのつきたるは面の字をおもとよみて、はもしはてにをはによみそへたる歟。只十九のことく讀へし。いそまくらは石を枕とするなり
 
 
2004 已※[女+麗]乏子等者竟津荒礒卷而寐君待難《オノカツマトモシキコラハアラソヒツアライソマキテネマクマチカネ》
 
發句は以前注せし如くオノツマノと讀べし、織女に成て牽牛を指なり、子と云も牽牛なり、乏已※[女+麗]子等者《コラハ》と云意なり、竟津は今按船竟津にてフネハテツなりけむ船の落たるにや、若は津《ツ》は竟《ハテ》つと讀て竟ると云用の詞に体の舟を、持たせたる歟、下句の(5)點もおぼつかなし、アリソマキテネムキミマチカテニと讀べきか、意は天川原に立出て待に侘はつる比やう/\舟を泊つれば宿へ歸る間も遲し、唯此荒礒を枕として諸共に臥さむとなり、
 
初、をのかつまともしきこらはあらそひつ。此哥はいとも心得かたき哥なり。竟津をあらそひつとよめるもおほつかなし。競の字ならはこそしかよまめ。今案竟の宇の上に、舟の字おちたるかとおほゆるなり。此集よそに、舟はつるといふに、泊の字をおほくかき、竟の字をもかけり。さきに天川水さへにてるふなわたりといふに、舟竟とかけり。これもわたりはつることをいへは、舟とむるを、はつるといふにおなし。舟竟津ならは、をのかつまともしきこらはふねはてつとよみ、下の句も、ありそまきてねむ。君待かねしとよみて、織女になりてよめる哥とすへし。心は、をのかつまにしてくることのともしきこらといふは、ひこほしの事なり。ひこほしの、舟をこきわたりて、すてにとめつれは宿にかへらすともあらいそを枕としてはやねむ。今や/\と君を待かねしにといふ心なり
 
2005 天地等別之時從自※[女+麗]然叙手而在金待吾者《アメツチトワカレシトキユオノカツマシカソテニアルアキマツワレハ》
 
然叙手ニ在とは我妻と領するなり、牽牛と成て織女を指なり、赤人集に落句かねをまつかなと有はいかに意得てよめりけむ、
 
初、あめつちとわかれし時ゆ。おのかつまとは、ひこほしになりて、たなはたをいふなり。しかそ手にあるは、天地すてに剖判せしより、織女はおのかつまとさたまりて、かくそ我手にあるなり。妻を手子といふは、我手に入たる女なれはなり。今もその心なり。秋待われはとは、昔より定れる事なれは、七日の夜はあはむと持なり
 
2006 彦星嘆須※[女+麗]事谷毛告余叙來鶴見者苦彌《ヒコホシノナケカスイモカコトタニモツケニソキツルミレハクルシミ》
 
彦星、【幽齋本、彦作v孫、】  告余叙、【別校本、余作v爾、】
 
今按初の二句ヒコボシハナゲカスイモニと讀べし、さらずして今の點のまゝにては牛、女の間に使する者ありてそれが詞のやうにて聞ゆるにや、但やがて下に妹傳速告與とよめるも上に秋立待等妹告與具とよめるも使の意なり、二星の事は風情の寄來るに任せて讀《ヨム》習なればさも有べきにや、余は尓を誤れる歟、第十八にも此違ひあり、尓と爾と同字なれば別校本よし、
 
初、ひこほしのなけかす。ひこほしのと先かりによみきるへし。ひこほしのなけかすにはあらす。なけかすいもかは、なけくいもかなり。いもがは※[女+麗]の字のみかきたれは、いもにとよむへし。告にそ、余は尓につくるへし。初の五もしも、彦星とのみかきたれはひこほしはと讀へし。ひこほしのとよめはなけかすといふ詞上につゝくやうにて心得かたし。心はつまこひに、なけきする織女に、物をたにいはむとてそ、天川をわたりきつる。むかひのきしよりよそめになけくをみれは、くるしさにといふ心なり。ひこほしにかはりてよめるなり。本のまゝの點にては、牛女の間を、別に使するものありて、それかことはのやうなれは、誤なり
 
(6)2007 久方天印等水無河隔而置之神世之恨《ヒサカタノアマノシルシトミナセカハヘタテヽオキシカミヨノウラミ》
 
天印等、【六帖云、アメノシルシト、】  水無河、【六帖云、ミナシカハ、八雲御抄同v此、官本又點亦同、】
 
八雲御抄に天印をあまのおしてとよませ給ひたるは古點なるべけれど、下の長歌に久方乃天驗常?云々此今と同じきを、印はしるしともおしてともよめど、驗はおしてとよまねば彼を以て此を證するに今の點當れるにや、水無瀬河はミナシガハとよめる然るべき歟、但津國の水無瀬河をも第十一には水無河とかけり、河内の天河の名も空に通へば水無瀬河も亦空に通はして名付たるにやあらむ知べからねば左右なう定がたし、古事記云、且其天尾羽張(ノ)神者逆塞2上(テ)天安河之水(ヲ)1而塞(テ)v道居、故佗神不v得v行云々、此に依れば水無河とは云ひがたかるべきを、神變は測がたければ下界の水の如くなる水のなき意に名付たるにや六帖には物へだてたると云に入れたり、
 
初、久方の天のしるしとみなせ川。八雲御抄には、あまのをしてとみなし川とかゝせたまへり。天印等とかけれは、あまのをしてともよむへけれと、下にも久方乃天驗常?《ヒサカタノアマシルシトテ》とよみたれは.今の點に隨ふへし。みなせ川は、水無河とかきたれは.八雲柳抄によるへき歟。矢橋をやはせといひ、一年をひとゝせといふに准するに、みなせ川ともいふへし。へたてゝおきし神世の恨とは、神代よりの恨なり
 
2008 黒玉宵霧隱遠鞆妹傳速告與《ヌハタマノヨキリニコモリテトホクトモイモシツタヘハハヤクツケコヨ》
 
妹傳は義訓してイモガツカヒハと讀べきにや、與はコソと訓べし、
 
初、妹傳《イモシツタヘハ》。織女たに言をつたへたらは、とくその言を告こよといへり。いもかつかひはとよむへき歟
 
(7)2009 汝戀妹命者飽足爾袖振所見都及雲隱《ナカコフルイモノミコトハアクマテニソテフルミエツクモカクルマテ》
 
初、汝かこふる。これはひこほしをさして汝といへり
 
2010 夕星毛徃來天道及何時鹿仰而將待月人壯《ユフツツモカヨフアマチヲイツマテカアフキテマタムツキヒトヲトコ》
 
往來天道を袖中抄にゆきかふそらのとあるは道の字を和せず、及何時鹿を六帖にいつしかとゝあるは及の字を忘たり、月人壯は此下にも二首よみ第十五にも七夕の歌によめり、牽牛の異名と聞ゆ、月讀男など月を讀には替れる歟、未考得、
 
初、ゆふつゝもかよふ天路を。ゆふつゝは、第二の三十三葉、第五の三十九葉にありて、すてに注しつ。俗によひ明星といふ星なり。月人おとこ、此哥にてはひこほしの異名と聞えたり。下の二十八葉二十九葉にもよめり
 
2011 天漢巳向立而戀等爾事谷將告※[女+麗]言及者《アマノカハコムカヒタチテコフラクニコトタニツケムツマトフマテハ》
 
巳向立而は來向立而なり、戀等爾は今按コフルトニとも讀べきか、く〔右○〕もじの讀がたければなり、但人丸集の歌は殊に文字簡古なれば讀付たるにても侍りなむ、此は彦星に成てよめりとも聞え又外よりの意とも聞ゆ、
 
初、天川いむかひたちて。いは發語のことは、ことたにつけむは、ものたにいはむなり。ひこほしになりてよめるなり
 
2012 水良玉五百都集乎解毛不見吾者干可太奴相日待爾《シラタマノイホツツトヒヲトキモミスワレハカカタヌアハムヒマテニ》
 
發句のかきやうに兩義あるべし、一つには水良の二字を音を假る、水は第九の水長鳥|安房《アハ》とつづきたるを仙覺發句をしながどりと讀べき由注せられたるが如し、二(8)つには眞珠は水中の良玉と云意にて義せるにや、第二句は神代紀上云、便以2八坂《ヤサカ》瓊之五百箇御統1纏2其髻鬘及腕1、第四は干は香青香黒などの如く添へたる詞、可太奴は結なり、江次第に一云元日先召(テ)2外記(ヲ)1問2諸司具否1、次令d2外記1進c外任奏u付2頭藏人(ニ)1奏v之、此次令v申d2諸司奏1可v付2内侍所1之由(ヲ)u、【御暦腹赤氷樣等也、】但腹赤(ノ)奏遲參之時七日奏v之、若亦當(レハ)2卯日1有2卯杖奏1、返給(ハル)之時故攝政於2筥中(ニ)1被v結、故土御門(ノ)右不府(ハ)稱2小野大臣(ノ)例(ト)1不v被v結、此集第十八家持の長歌に年内能許登可多禰母知云々、此歌は相日を待つ餝に五百箇の手珠を解もせずして結びて居ると織女に成てよめるなり、
 
初、しら玉のいほつゝとひを。日本紀第一云。便以2八坂瓊之五百箇御統《ヤサカニノイホツミスマルヲ》1纏《マツフニ》2其|髻鬘《ミイナタキ》及(ヒ)腕《タフサニ》1。此集第十八、家持の哥に.しらたまのいほつゝとひをてにむすひおこせんあまはむかしくもあるか。ひとすちの緒にて、五百箇《イホツ》の玉を貫きたるを、いほつゝとひといふ。神代紀には、たふさにまつふといひ、第十八には、てにむすひとよみたれは、たなはたの手玉にかさるなり。われはかゝたぬとは、かたぬはむすふなり。江次第々一云。元日先召2外記(ヲ)1問2諸司(ノ)具否(ヲ)1。次令d2外記(ヲ)1進c外任(ノ)奏(ヲ)u付(テ)2頭(ノ)藏人(ニ)1奏v之。此次(ニ)令v申d諸司(ノ)奏(ヲ)可(キ)v付2内侍所1之由u、【御肝、腹赤氷樣等也。】但腹赤(ノ)奏遲參之時(ハ)七日(ニ)奏(ス)v之(ヲ)。若又當(レハ)2卯(ノ)日(ニ)1有2卯杖(ノ)奏1。返(シ)給(ハル)之時故攝政於2筥(ノ)中(ニ)1被《ラル》v結《カタネ》。故土御門(ノ)右不府(ハ)稱(シテ)2小野大臣(ノ)例(ト)1不《ス》v被《ラレ》v結《カタネ》。此集第十八の歌に、大君のまきのまに/\、とりもちてつかふるくにの、年の内のことかたねもち、玉鉾の道に出立なとよめり。上のかもしは、かあを、かくろ、かより、かやすきなと、つけていふ事おほき詞なり。あふ日をまちて、いほつの手玉をときても見ずして、我はかたねて、手にぬきいれてをるとなり。織女になりてよめるなり
 
2013 天漢水陰草金風靡見者時來之《アマノカハミツカケクサノアキカセニナヒクヲミレハトキハキヌラシ》
 
仙覺抄云、水陰草とは稻の名なりと云へり、今按此説用べからず、唯水陰に生る草なり、第十二に山河水陰生山草とよめるを思ふべし、磐影爾生流菅根とも陰草夕陰草などもよめり、
 
初、天川水陰草の。水陰草は水の陰におふる草なり
 
2014 吾等待之白芽子開奴今谷毛爾寶比爾徃奈越方人邇《ワカマチシアキハキサキヌイマタニモニホヒニユカナヲチカタヒトニ》
 
發句は牽牛に成て云なり、白芽子をしらはきとよめるを袖中抄に嫌ひてやがて下(9)に白風をあきかぜとよめるを引て云、白風をあきかぜと讀つれば白芽子をもあきはぎと讀は勝れり、あながちに我待ししらはぎと不v可v詠歟、今按五色を以て五方に配する時、白色は西なる故にかくかけり、五行に依て金を秋とよめるに同じ、待し芽子咲とは必らず芽子に意はあるべからず、芽子の咲そむる比織女に逢へば、あはむ時を待意を芽子を待と云ひて、にほひにゆかむなと寄せたるなるべし、爾寶比は埴生榛原などによせて多くよめるが如し、越方人は織女なり、
 
初、わかまちし秋はきさきぬ。秋はきを、白芽子とかけるは、白は西方秋の色なるゆへなり。八雲御抄に萩の下にしらはきと載させたまへるは、此哥を字のまゝによみて、さはかゝせたまへる歟。白き萩もなきにはあらす。此わかまちしは、ひこほしにて、をちかた人は、たなはたつめなり。これらは、おもひやりて無窮によむなり
 
2015 吾世子爾裏戀居者天河夜舩※[手偏+旁]動梶音所聞《ワカセコニウラコヒヲレハアマノカハヨフネコキトヨミカチオトキコユ》
裏戀は下戀なり、
 
初、わかせこにうらこひをれは。織女の哥なり。うらは下心なり。毛詩に裏の字を心とよめり。以前に引り
 
2016 眞氣長戀心自白風妹音所聽※[糸+刃]解往名《マケナカクコフルコヽロシアキカセニイモカオトキコユヒモトキユカナ》
 
發句は氣長に眞の字を添へたるなり、自はユと讀べし、音を以て點ぜるは叶はず、
 
初、まけなかくこふるこゝろゆ。こゝろしとあるは誤れり。まけなかくは、眞は眞木眞菅なとつけていふにおなし。けなかくは、いきをなかくつきてなけくなり。上に度々尺せり
 
2017 戀敷者氣長物乎今谷乏牟可哉可相夜谷《コヒシケハケナカキモノヲイマタニモトモシムヘシヤアフヘキヨタニ》
 
發句をコヒシケバと點ぜるは戀しければなり、今按コヒシクハとも讀べし、こひしきはの意なり、第十六の長歌云、戀之|久《ク》爾痛|吾身曾《ワカミソ》云々、此戀之久なり、戀しくばとふ(10)らひきませなど云時は戀しからばの意にて替れり、
 
初、こひしけはけなかきものを。こひしけは、こひしければなり
 
2018 天漢去歳渡伐遷閉者河瀬於蹈夜深去來《アマノカハコソノワタリハウツロヘハカハセヲフムニヨソフケニケル》
 
渡伐は波場なり、濁音の伐の字をかける此意なり、去年の渡場の替りたる故に渡るべき瀬踏する間に夜の深たるとなり、拾遺又人丸集にこぞの渡のあさせふむまにと云へり、赤人集にもあり、於をてにをはのを〔右○〕にかける事前に注せしが如し、此歌は友則が天川淺瀬しら浪たどりつゝ渡りはてねば明ぞしにけるとよめる意に似たり、
 
初、天川こそのわたりは。わたりばのばもしは、伐の字をかきたれは、濁てよむへし。渡場なり。此哥は、古今集に天川あさせしら浪たとりつゝわたりはてねは明そしにける。これに似たり
 
2019 自古擧而之服不顧天河津爾年序經去來《ムカシヨリアケテシコロモカヘリミスアマノカハツニトシソヘニケル》
 
發句はイニシヘユとも讀べし、擧而之服とは機にあげ置和妙の衣なり、下に古織義之八多乎《イニシヘニヲリテシハタヲ》とよめるに同じ、絹も布も後には裁て服とすれば因中説果の例にかくは云なり、昔より機には擧置ながら牽牛を戀るに織ことお※[女+頼]《モノウ》ければ顧もせずして年を經たを由なり、
 
初、昔よりあけてしころも。織女は神代よりにきたへの衣おれるゆへに、たなはたつめといふ名を得たり。あけてし衣は、布おらんとて、機にはあけおきたれとも、彦星を待こふる心の切なるゆへに.其はたものをもかへりみぬよしなり。下に、いにしへにおりてしはたをとよあるを思ふへし
 
2020 天漢夜舩※[手偏+旁]而雖明將相等念夜袖易受將有《アマノカハヨフネヲコキテアケヌトモアハムトオモフヨソテカヘスアレヤ》
 
(11)落句の終に哉の字有べし、落たるにや、袖かへずあらむやかへずばあらじとなり、
 
初、あまの川よふねをこきて。夜ふねをこくほとに、たとひ明ゆくとも、かねてあはむとおもひつる夜なれは袖をかはさゝらんや。かはさんとなり。有の字の下に、哉の字のをちたりとみゆ。ひこほしにてよめり
 
2021 遙※[女+莫]等手枕易寢夜?音莫動明者雖明《トホツマトタマクラカヘテネタルヨハトリカネナクナアケハアクトモ》
 
※[女+莫]は玉篇云、〓かゝれば今の義に非ず、玉篇云、※[女+莫]、【於京切、女之美稱、】若此字を書誤れるにや、赤人集にはとほきいもとたまくらやすくとあり、第十一に遠妹をトホツマと點ぜり、妹をつまとよめる例なければ彼もとほきいもならば今もとほきいもとも讀ぬべし、易は今の點よし、たまくらやすくとよめるもあしからぬやうなれど此集を委見む人叶はぬ事を知べし、
 
2022 相見久※[厭のがんだれなし]雖不足稻目明去來理舟出爲牟※[女+麗]《アヒミマクアキタリネトモイナノメノアケユキニケリフナテセムイモ》
 
稻目、【赤人集云、シノヽメノ、六帖同v此、】  ※[厭のがんだれなし]雖不足、【六帖云、アキタラストモ、袖中抄同v此、】
 
第二の句今の點の意は牽牛のみづから云なり、六帖の意は織女の意を牽牛のくみて云なり、稻目とはしのゝめに同じ、神代紀上云、乃以2御手1細2開磐戸1窺v之、此しのゝめの明る事の本、山のはのほそくしらむをしのゝめと云は小竹目《シノヽメ》の意なるべし、人の目を少し開《アク》になずらへて細開をもホソメニアケとは點ぜる歟、俗に目の細きを薄(12)にて切たらむ程と云もしのすゝきと云へばしのゝめに近し、稻葉も細き物なればいなのめも亦しのゝめの意に同じ赤人集并六帖にしのゝめのと有は顯宗紀云、十束《トツカノ》稻穗云々、此稻をシネと點じ、和名集に※[米+造]、【加知之禰、】※[禾+古]、【乃古利之禰、】粳、【宇流之禰、】此等皆いね〔二字右○〕と云はずしてしね〔二字右○〕と云は伊と志と同韻の字にて通ずる故なり、されば此言を得てよめる歟、されども欽明天皇の御時蘇我稻目大臣あり、其讀いなめなり、名づかれけむ意はしらねど推古天皇の御時粟田(ノ)細目《ホソメ》と云人もあればほそめの意なるべし、然れば昔よりいなのめともしのゝめとも兩方に云ひ來れりと見えたれば今の點にて讀べきにや、六帖には人丸の歌とす、
 
初、あひみまくあきたらねとも。いなのめは、しのゝめにおなし。神代紀上云。乃(チ)以2御手(ヲ)1細2開《ホソメニアケテ》磐戸(ヲ)1窺《ミソナハス》v之。これしのゝめのはしめなるへし。俗に目のほそきを、薄にてきりたらんほとゝいふかことく、しのゝはもいなはも、ほそき物なれは、山のはのほそくしらむをたとへて、この名はおほせけるなるへし。又稻の字を、日本紀に、しねとよめり。伊と之とは同韻の字なれは、通せるなるへし。うるしねといふも、うるいねなり。禰と能と五音相通すれは、稻目とかけるを、しのゝめともよむへし
 
2023 左尼始而何太毛不在者白栲帶可乞哉戀毛不遏者《サネソメテイクタモアラネハシロタヘノオヒコフヘシヤコヒモツキネハ》
 
第二の句はいく程もなきにの意なり、帯可乞哉とはきぬ/\になる時其帯取て給はれと織女に乞べしやはとなり、落句は戀《コヒ》も盡《ツキ》ぬになり、二つの者の字の事以前注せしが如し、落句《ラツク》の遏を校本に過に作り、紀州の本の點にスキネハとあれど下にも此句ある歌あるに五字共に今と同じければ異を取らず、
 
初、さねそめていくたもあらねは。ねそめて、何ほとの間もなきになり。いくたもあらねは、上に度々いへることく、いくたもあらぬにの心なり。こひもつきねはも同し心なり。白たへのおひこふへしやとは、きぬ/\の時、そのおひ取て給はれなとこふへしやはなり。又別をおしむゆへに、ひこほしの帶を、たなはたつめの取をくを、それたまはれとこふへしやはと、いへる心にもあるへし
 
2024 萬世携手居而相見鞆念可過戀奈有莫國《ヨロツヨニタツサヰヽテアヒミトモオモヒスクヘキコヒナラナクニ》
(13)携手居而、【官本又云、テタツサヘヰて、幽齋本、テタツサヒヰテ、】
 
第二句赤人集にはたづさはりゐてとあり、古本には手の字のなかりける歟、今の本には叶はず、紀州本の點も赤人集と同じ、下句は弟三に明日香河々よどさらず立霧のと赤人のよまれたる歌に同じ、
 
初、よろつ世に手たつさひゐて。手たつさゐゝてとあるはわろし。あるひはたつさへゐてとよむへし。あひみともは、あひみるともといふへきを、此集にはかくいへること例おほし。おもひ過へきとは、おもひをやり過すなり。第三の廿九葉、赤人の哥に、明日香川かはよとさらすたつ霧の、下句今とおなし。只こひにあらなくにといへり。よろつよは、萬年をいへり
 
2025 萬世可照月毛雲隱苦物叙將相登雖念《ヨロツヨニテルヘキツキモクモカクレクルシキモノソアハムトオモヘト》
 
萬世までも照べき月と思へど雲隱れぬれば苦しき如く、萬世に相見むとは思へど別るゝは苦しき物をと云意なり、月の雲隱は譬なるを譬の上に別の苦しき心をこめて落句にて知らするなり、雖念はモヘドと讀べし、
 
初、萬世にてるへき月も。萬世も、月のてることく、あふことも、おなしからんとはおもへとも、雲かくれする間のことく、あはぬほとは、心もくれてくるしき物をとなり。いつれの星につきていふともなし
 
2026 白雲五百遍隱雖遠夜不去將見妹當者《シラクモノイホヘカクシテトホケトモヨカレセスミムイモカアタリハ》
 
隱、【官本云、カクレテ、】  雖遠、【幽齋本云、トホクトモ、】
 
夜不去は今按今の本の點叶はず、去をかるとよめる例なし、ヨヒサラズと讀べし、此卷下に至て奥山《オクヤマ》爾|住《スムテ》ふ男鹿之初夜不去《シカノヨヒサラス》云々、よひさらずは即夜かれせずの意なり、
 
2027 爲我登織女之其屋戸爾織白布織弖兼鴨《ワカタメトタナハツメノソノヤトニヲルシラヌノハヲリテケムカモ》
 
(14)2028 君不相久時織服白栲衣垢附麻弖爾《キミニアハテヒサシキトキニヲリキタルシロタヘコロモアカツクマテニ》
 
織服、【赤人集云、オリキセシ、】
 
織服は今の點にては織女と成てみづから織て着るなれば、君とは牽牛を指て云へり、赤人集の點に依てよめは牽牛に代て讀て君とは織女を指なり、
 
初、君にあはて。久しき時には久しき間にと心得て第三の句は下へつけてきくへし
 
2029 天漢梶音聞孫星與織女今夕相霜《アマノカハカチノオトキコユヒコホシトタナハタツメトコヨヒアフラモ》
 
孫星は和名集云、爾雅(ニ)云、子(ノ)之子爲v孫、【尊反、和名無萬古、】一云【比古、】今の俗誤て曾孫《ヒヽコ》をひこと思へり、又云、爾雅云、孫(ノ)之子(ヲ)爲2曾孫1、【和名比比古、】新拾遺は赤人集に依て作者を定められたり、
 
初、孫星《ヒコホシ》、和名集(ニ)云。爾雅(ニ)云。子之子(ヲ)爲v孫(ト)【尊反。和名無万古。】一云【比古。】世俗に、孫之子を比古といふは誤なり。同云。孫(ノ)之子(ヲ)爲2曾孫(ト)1【和名比比古】
 
2030 秋去者河霧天川河向居而戀夜多《アキサレハカハキリタチテアマノカハカハニムカヒテコフルヨソオホキ》
 
河霧、【赤人集云、カハキリワタル、】  河向居而、【官本云、カハニムカヒヰテ、】
 
河霧の下に、今の點に依らば發立等の字、赤人集に依らば渡の字落たるべし、第四句は官本の點よし、
 
初、秋されは河露。霧の下に、立の字をちたるへし
 
2031 吉哉雖不直奴延鳥浦嘆居告子鴨《ヨシヱヤシタヽナラストモヌエトリノウラナキヲルトツケムコモカモ》
 
(15)浦嘆居はウラナケヲルトと讀べし、袖中抄に一二の句をよきかなやたゞならねども、四句をうらなげきをるととあるは皆よからず、
 
初、よしゑやしたゝならすとも。たゝならすともは、たゝちにあはすともなり。ぬえ鳥はさきにいへるかことし
 
2032 一年邇七夕耳相人之戀毛不遏者夜深往久毛《ヒトヽセニナヌカノヨノミアフヒトノコヒモツキネハヨハフケユクモ》
 
戀毛不遏者は上に云如く戀もつきぬになり、不遏者を赤人集にあはねばとあるは推量するに遏を遇に見まがへたる歟、或は古本誤て遇に作りけるなるべし、
 
一云|不盡者佐宵曾明爾來《ツキネハサヨソアケニケル》
 
此に疑あり、集中異本を注する例、句に異あるを注し載て、異なきを注する事なし、今不盡者とは不遏者の異歟、共にツキネバとよめば異なし、假令不遏者はヤマネバと讀とも一云戀毛不盡者等と云べし、何ぞ一句の半を出さむ、此は撰者の注にはあらずして後人の所爲歟、若撰者の注ならば不遏者はやまねばにて今の注に戀毛の二字落たるなるべし、
 
初、一とせに。戀もつきねはゝ、上にいふことく、こひもつきぬになり
 
2033 天漢安川原定而神競者磨待無《アマノカハヤスノワタリノサタマリテコヽロクラヘハトキマツナクニ》
 
此下句いと意得がたし、赤人集にかゝるわかれはとくとまたなむとあるは取て證(16)するに足らず、今試に此を釋せば先下句を和しかへてカヾミクラベハトゲモマタナクと讀べき歟、日本紀に明神をアラカヽミと點ぜれば神を鏡になしてよまむ事無理ならず、神道家かみはかゝみの略語と云へり、後撰集に共鏡とよめるは互に見合する意なれば鏡競とも云べきにや、かくての意は牛、女の互に相思ふ心の明らかに淨き事は鏡に鏡を向へてくらぶるに此方彼方替る事なきが如し、されども其鏡は猶磨を待て然るを、此二星は淵瀬變らぬ天河の神代より定まる如くにて、心を勵して淨からむと思はねどおのづから淨きを磨もまたなくとよめるにや、
 
初、天川やすのかはらの。神代紀上云。復劔匁(ヲ)垂(ル)血是(レ)爲《ナル》2天(ノ)安河|邊所在《ラニアル》五百箇磐石《イホツイハムラト》1也。安川もまた天川の名なり。下の句は、いかによめるにか。その心得かたし。今案日本紀に、明神とかきてあらかゝみともよめり。しかれは、かゞみくらべはとぐもまたなくとよむへき歟。心は牛女たかひにあひおもふ心の、あきらかにきよきことは、かゝみにかゝみをむかへて、くらふるに、こなたかなたかはることなきかことし。されとも、そのかゝみは、猶とぐを待てしかるを.此二星はふちせかはらぬ天川の神代よりさたまることくして、きよからんと、心をはげまさねど、をのつからきよきを、とぐことをもまたぬといへるにや。後撰集に、ともかゝみとよめるに、かゝみくらべといふもおなしからんか
 
此歌一首庚辰年作之
 
庚辰年は次に人丸歌集出とあれば人丸の歌にもあれ別人の歌にもあれ天武天皇白鳳九年の作なるべし、
 
右柿本朝臣人麿歌集出
 
初、注に此哥一首庚辰年作v之。右柿本朝臣人麿歌集出。庚辰は天武天皇白鳳九年なり。人まろは持統天皇の御世に都へのほられたり。第二卷に見えたり。しかれは、此一首は石見にてよまれたる歟。作之といふ下に、引つゝけてはかゝすして、右柿本等かけるは、以前の七夕歌三十八首、ともに人麿歌集に出てみな人丸の哥なる歟。他人の哥をも書載られたる歟。第十四、東哥の中にも、人丸の集に出といふ哥あるにて知ぬへし。もしまた終の一首のみ、人麿の集に出と心得へき歟。他書に右幾十幾首誰集中出といへるに准すれは、都合を注せさるは、一首の注にや
 
2034 棚磯之五百機立而織布之秋去衣孰取見《タナハタノイホハタタテヽヲルヌノヽアキサリコロモタレカトリミム》
 
五百機は天雲の五百重とも五百重山ともよめる如く機の多き意なり、秋去衣は此(17)卷初に春は來にけりと云事を春去にけりとよめるやうに秋來ての衣と云意に名付たり、袷を云と云説あり然るべし、秋興賦云、於是乃屏2輕簾(ヲ)1釋2繊※[糸+奇]1、藉2莞蒻御袷衣(ヲ)1、此に叶へり、八雲御抄に七夕布也と注せさせ給へるは此歌に依てなり、されど待賢門院堀河が、旅にして秋去衣寒けきに、痛な吹そ武庫浦風とよめる歌は、續後撰に入れられたれば寛く前の説に通ずべし、孰取見とは彦星こそ取見めの意なり、第七にも此詞有き、
 
初、たなはたのいほはた。いほ機は、唯はたをおほくたつるをいふ、山のおほくかさなるを、いほへ山といふかことし。秋さり衣は、秋きての衣といふ心なり。袷をいふともいへり。それもたかふへからす。たれか取見むは、ひこほしこそ取著てみめなり。第七にことし行にひさきもりかあさころもかたのまよひは誰かとりみん。此誰か取見むといふに准せは、今より後の衣は、誰か取みんといふ心にや
 
2035 年有而今香將卷烏玉之夜霧隱遠妻手乎《トシニアリテイマカマカナムヌハタマノヨキリコモリテトホツマノテヲ》
 
將卷、【官本又云、マクラム、】
 
將卷をマカナムと點ぜるは誤れり、マクラムと讀べし、
 
初、年に有て今かまくらん。今かまかなむとあるは誤れり
 
2036 吾待之秋者來沼妹與吾何事在曾※[糸+刃]不解在牟《ワカマチシアキハキタリヌイモトワレナニコトアレソヒモトカサラム》
 
2037 年之戀今夜盡而明日從者如常哉吾戀居牟《トシノコヒコヨヒツクシテアスヨリハツネノコトクヤワカコヒヲラム》
 
2038 不合者氣長物乎天漢隔又哉吾戀將居《アハサルハケナカキモノヲアマノカハヘタテヽマタヤワカコヒヲラム》
 
(18)不合者、【人麿集云、アハステハ、】
 
今按發句はアハナクバと讀まば古風に叶ふべき歟、第十四にあはぬもあやしと云を阿波奈久毛安夜思とよめり、
 
2039 戀家口氣長物乎可合有夕谷君之不來益有良武《コヒシケクケナカキモノヲアフヘクアルヨニタニキミカキマサヽルラム》
 
可合有はアフベカルとも讀べき歟、九阿反加となる故なり、
 
2040 牽牛與織女今夜相天漢門爾波立勿謹《ヒコホシトタナハタツメトコヨヒアハムアマノカハトニナミタツナユメ》
 
今夜相、【別校本云、コヨヒアフ、】
 
腰句、人丸集には今の點の如し、赤人集は別校本の如し、
 
2041 秋風吹漂蕩白雲者織女之天津領巾毳《アキカセノフキタヽヨハスシラクモハタナハタツメノアマツヒレカモ》
 
白雲を領巾と云事上に既に注せり、赤人周并六帖には落句をあまつきぬかもと改ためたり、
 
初、秋風の吹たゝよはす。第二に、白たへのあまひれこもりといへるは、白雲かくれといふ事なりとは、此哥をもて證しき
 
2042 數裳相不見君矣天漢舟出速爲夜不深間《シハ/\モアヒミヌキミヲアマノカハフナテハヤセヨヨノフケヌマニ》
 
(19)2043 秋風之清夕天漢舟榜度月人壯子《アキカセノキヨキユフヘニアマノカハフネコキワタルツキヒトヲトコ》
 
2044 天漢霧立度牽牛之※[楫+戈]音所聞夜深徃《アマノカハキリタチワタルヒコホシノカチノオトキコユヨノフケユケハ》
 
天漢、【官本、漢或作v河、】
 
度をワタルと點ぜるは叶はず、ワタリと讀べし、霧も立度り※[楫+戈]の音も聞ゆとなり、
 
2045 君丹今※[手偏+旁]來良之天漢霧立度此川瀬《キミカフネイマコキクラシアマノカハキリタチワタルコノカハノセニ》
 
2046 秋風爾河浪起暫八十舟津三舟停《アキカセニカハナミタチヌシハラクハヤソノフナツニミフネトヽメム》
 
2047 天漢川聲清之牽牛之秋榜舩之浪※[足+參]香《アマノカハカハオトキヨシヒコホシノアキコクフネノナミサワクカ》
 
清之は今按落句に依て按ずるに今の點叶はず、サヤケシと讀べし、第六に足引之御山毛清落多藝都芳野河之《アシヒキノミヤマモサヤニオチタキツヨシノヽカハノ》云々、此さやは瀧の音を云へり、委は第二のさゝの葉はみ山もさやに、亂れどもと云歌に注せしが如し、※[足+參]は躁歟、驂歟、
 
2048 天漢川門立吾戀之君來奈里紐解待《アマノカハカハトニタチテワカコヒシキミキマスナリヒモトキマタム》 一云|天川河向立《アマノカハカハムキタチ》
 
(20)向立はムカヒタチと讀べし、
 
2049 天漢川門座而年月戀來君今夜會可母《アマノカハカハトニヰツヽトシツキヲコヒコシキミニコヨヒアヘルカモ》
 
座而は今の點にては織女に成て讀意なり、赤人集のよみやうは此方よ思ひやるなり、
 
2050 明日從者吾玉床乎打拂公常不宿孤可母寐《アスヨリハワカタマユカヲウチハラヒキミトハヱステヒトリカモネム》
 
明日從者、【赤人集云、アスカラハ、】
 
公常不宿はキミトハネズテと讀べし、エステとあるは寫生の誤なり、或はキミトネナクニとも讀べし、
 
2051 天原往射跡白檀挽而隱在月人壯子《アマノハラユキテヤイルト》シラマユミヒキテカクセルツキヒトヲトコ》
 
射跡、【袖中抄云、イムト、赤人集云、イモト、】
 
往の字の下に哉の字や落て侍らむ、射跡を赤人集にいもとゝあるもいむとに同じ、昔は毛と牟とを通して假名にもかけり、南無をなも〔二字右○〕と云ひ、法華|懺《セム》法するに至心懺悔をしゝもさむくわい〔八字右○〕と讀類なり、和泉式部が人もがな見せもきかせか萩が花、咲(21)く夕かげの日ぐらしの聲とよめるも、見せもせむきかせもせむを云ひ殘せるにはあらで見せむきかせむとよめるとぞおぼしき、此歌は極て意得がたき歌なり、試に強て釋せば彦星の織女に逢むと思ふを獵師の鹿を射むとするに譬へ、逢べき時を待を弓を引かくしてねらひよる程に譬ふる歟、隱在と云處句なり、上の行てやと云を承る首尾なり、此歌は上弦月をいろへてよめる作なり、楚辭九歌東君云、擧2長矢1兮射2天狼1、操2余弧1兮反淪降、
 
初、天原ゆきてやいると。此哥は心得かたき哥なり。こゝろみに尺せは、ひこほしの妻にあふを、かり人の鹿にあひて射るにたとへたるか。ゆきてやいるとゝいふ句を、ゆきているとやと見るへし。ひきてかくせるは、七日は夕月夜なり。月の入て後あふといへは、弓張月の入を、ひきてかくすといふなるへし。かくせるにて切て、句とすへし
 
2052 此夕零來雨者男星之早※[手偏+旁]船之賀伊乃散鴨《コノユフヘフリクルアメハヒコホシノハヤコクフネノカイノチルカモ》
 
早榜船、【赤人集云、トクコクフネ、家持集同v此、】
 
賀伊乃散鴨とは棹のしづくの散かとなり、赤人集にはかいのしづくかと改たり、家持集も亦同じ、古今集に、我上に露ぞ置なる天川、とわたる舟のかいのしづくかとよめるも似たる歌なり、
 
初、此夕ふりくる雨はひこほしの。はやこくは、急て早くこくとて、棹のしつくのするが、此夕の雨とふりくるかとなり。新古今集には、下の句を、とわたる舟のかいのしつくかと改て、赤人の哥とせり。古今集ならひに伊勢物語に、わかうへに露そ置なる天川とわたる舟のかいのしつくかといふ哥似たる作なり
 
2053 天漢八十瀬霧合男星之時待舩今榜良之《アマノカハヤソセキリアフヒコホシノトキマツフネハイマカコクラシ》
 
2054 風吹而河浪起引舩丹度裳來夜不降間爾《カセフキテカハナミタチヌヒクフネニワタリモキマセヨノフケヌマニ》
 
(22)引船はヒキフネと讀べし、第十一云、驛路爾引舟渡云々、
 
2055 天河遠度者無友公之舟出者年爾社候《アマノカハトホキワタリハナケレトモキミカフナテハトシニコソマテ》
 
後撰と人丸集とは今の本と同じ、拾遺と六帖とは二三句、とほきわたりにあらねどもとあり、
 
初、天河とほきわたりはなけれとも。遠きわたりにあらねともとあらためて、人まろの哥とせり。後撰集には今のことく載たり
 
2056 天河打橋度妹之家道不止通時不待友《アマノカハウチハシワタスイモカイヘチヤマスカヨカヨハムトキマタストモ》
 
打橋度は人丸集も赤人集も並に今の點と同じけれど、今按ウチハシワタセと讀べし、第十八家持七夕歌云、天河橋渡せらば其《ソノ》上ゆも、伊渡らさむを秋にあらずとも、此に思ひ合すぺし.神代紀下云、又於2天安河1亦造2打橋1、
 
初、天河打橋わたす。第二、第四、第七にも、打橋はよみて、すてに注せり。此下にもよめり。此哥結句に時またすともとあれは、打橋わたせとよみて、こゝをも句とすへし。打橋をたにわたしたらましかは、やますかよはむなり。又は打橋わたしともよむへし。これはわかわたしてやますかよはんなり。かねてより打橋わたすと心得は、わたすにても有へし
 
2057 月累吾思妹會夜者争之七夕續巨勢奴鴨《ツキカサネワカオモフイモニアヘルヨハコノナヌカノヨツキコセヌカモ》
 
落句は續こせと願ふ意なり、
 
2058 年丹装吾舟榜天河風者吹友浪立勿忌《トシニヨソフワカフネコカムアマノカハカセハフクトモナミタツナユメ》
 
2059 天河浪者立友吾舟者率※[手偏+旁]出夜之不深間爾《アマノカハナミハタツトモワカフネハイサコキイテムヨノフケヌマニ》
 
(23)2060 直今夜相有兒等爾事問母未爲而左夜曾明二來《タヽコヨヒアヒタルコラニコトトヒモイマタセスシテサヨソアケニケル》
 
2061 天河白浪高吾戀公之丹出者今爲下《アマノカハシラナミタカクワカコフルキミカフナテハイマソスラシモ》
 
高はタカシと讀べし、浪の音の高く聞ゆるは君が舟出するならむと思ふなり、月によせ山によせて高々に待などよめるこそよけれ、浪によせては讀べくもなし、
 
初、天川白浪高し。高くとあるは誤なり
 
2062 機※[足+榻の旁]木持徃而天河打橋度公之來爲《ハタモノヽフミキモチイテアマノカハウチハシワタスキミカコムタメ》
 
※[足+榻の旁]木は機織る者の尻打懸る板なり、往而はユキテと讀べし、
 
初、はたものゝふみ木。はたおる時、しり打かくる板なり
 
2063 天漢霧立上棚幡乃雲衣能飄袖鴨《アマノカハキリタチノホルタナハタノクモノコロモノカヘルソテカモ》
 
2064 古織義之八多乎此暮衣縫而君待吾乎《イニシヘニオリテシハタヲコノユフヘコロモニヌヒテキミマツワレヲ》
 
初、いにしへにおりてしはたを。義をてとよめる事此集にあまた有。その心を得す
 
2065 足玉母手珠毛由良爾織旗乎公之御衣爾縫將堪可聞《アシタマモテタマモユラニヲルハタヲキミカミケシニヌヒアヘムカモ》
 
手球は六帖も今の點と同じけれど、日本紀并に此集第十一にもタヽマと點ぜるに依べき歟.神代紀下云、天孫又問曰、其於2秀|起浪穗《タツルナミホノ》之上1起2八|尋殿《ヒロノトノ》1而|手玉玲瓏織※[糸+壬]之少(24)女者《タタマモユラニハタオルヲトメハ》是誰之子女耶、仁徳紀云、爰皇后奏言、雌鳥皇女《メトリヒメミコハ》寔當(レリ)2重罪1、然其殺之日不v欲v露2皇女身1、乃因勅2雄※[魚+即]等1莫v取2皇女所v賚《モテル》之足玉手玉(ヲ)1、御衣は日本紀には衣裳と書てもミケシとよめり、
 
初、あしたまもたゝまもゆらに。神代紀下云。天孫《アメミマ》又問(テ)曰。其於|秀起浪穗之《サキタツルナミホノ》之上(ニ)起《タテヽ》2八尋殿《ヒロノトノ》1而|手玉玲瓏織※[糸+壬]之少女《タタマモユラニハタオルヲトメハ》者是(レ)誰(カ)之|子女耶《ムスメソヤ》。仁徳紀云。爰(ニ)皇后|奏言《マウシテ》。雌《メ》鳥(ノ)皇女《ヒメミコハ》寔(ニ)當(レリ)2重罪(ニ)1。然(モ)其(ノ)殺(サン)之日不v欲(ホニシ)2露《アラハサンコト》皇女(ノ)身(ヲ)1。乃(チ)因(テ)勅(シテ)2雄※[魚+即]等(ニ)1莫(ラシム)v取(コト)2皇女所v賚《モテル》之足玉手玉(ヲ)1。此集第十一に旋頭哥に、にひむろのふむしつけこか手玉ならすもとよめり
 
2066 擇月日逢義之有者別乃惜有君者明日副裳欲得《ツキヒエリテアヒテシアレハワカレチノヲシカルキミハアスサヘモカナ》
 
擇とは七月七日と定むるなり、之は助語なり、別乃は古風に任てワカレノと讀べし、別路ともかゝぬ上に別路は古語にあらぬにや、集中今の外見えず、
 
初、つきひゑりてあひてしあれは。七月七日とさたまれは、月日ゑりてとはいへり。あすさへもがなとは、あすさへきませがなゝり。義の字上にいふかことし
 
2067 天漢渡瀬深彌泛舩而棹來君之※[楫+戈]之音所聞《アマノカハワタルセフカミフネウケテサシクルキミカカチノオトキコユ》
 
棹をサシと義訓せるは、榜をこぐとよめる意に同じ、
 
2068 天原振放見者天漢霧立渡公者來良志《アマノハラフリサケミレハアマノカハキリタチワタルキミハキヌラシ》
 
落旬は牽牛の織女の方へ來ぬらしと此方より思ひやるなり、若織女と成て牽牛を公者と云はゞきぬらしをの点叶はすクルラシ〔四字右○〕と讀べし、
 
2069 天漢瀬毎幣奉情者君乎幸來座跡《アマノカハセコトニヌサヲタテマツルコヽロハキミヲサチクイマセト》
 
(25)落句の點誤れり、サキクキマセトと讀べし、彦星の渡るべき瀬毎に我が幣を奉る情は、彦星の恙なくて渡り來ませと祈る意ぞと織女に代りてよめるなり、今の點は牽牛に代て織女を君と云へると意得たれど、天川を渡らぬ織女の爲に瀬毎に手向すべきに非ず、幸來をサチクと點ぜるは書生の誤にてサキクなるべけれど、幸の一字をサキクと讀べし、來をく〔右○〕ともき〔右○〕とも假て用ゐる事なきにはあらねど此つゞきの書やうを思ひ歌の理を思ふに今按の如くなるべし、
 
初、天川せことにぬさを。幸來座跡、これを、さきくいませとゝよめるは、たなはたつめを、さきくいませとおもふ心に、ひこほしの幣を神に奉らるゝなり。今案幸の字をさきとよみ、來の字を、くとよむましきにはあらねと、これをは、さきくきませとゝよみて、牽牛のために、織女の、幣をまつらるゝと意得へし
 
2070 久方之天河津爾舟泛而君待夜等者不明毛有寐鹿《ヒサカタノアマノカハツニフネウケテキミマツヨラハアケスモアラヌカ》
 
此舟は織女の泛るなり、
 
初、久方のあまのかはつ。よらはたゝ夜なり。あけすもあらぬかは.さきにもいへるがことく、あけすもあらなんと、かへしてこゝろうへし
 
2071 天河足沾渡君之手毛未枕者夜之深去良久《アマノカハアシヌレワタルキミカテモイマタマカネハヨノフケヌラシ》
 
足沾渡、【官本又云、アシヌレワタリ、】  深去良久、【幽齋本云、フケヌラク、】
 
第二の句は官本の又點よし、其故は牽牛に代はりて足沾て渡て織女の手枕をもせぬにはや夜の深たると歎くなり、今の點にては織女に成て讀意なり、手枕をかはすと云へど一方を云ひて一方を顯はす時は女の手を男のまくと云べき理なり、足沾(26)渡は勞苦する意なり、淮南子云、※[手偏+丞]v溺之人不v得v不v濡v足、落句の中の久をシ〔右○〕と點ぜるは書生の失錯なり、
 
初、天川あしぬれわたり。わたるとあるは誤れり。あしぬれわたるは、勞するをいへり。第十一に、おもふにしあまりにしかはにほ鳥のあしぬれくるを人みけむかも。いまたまかねは、いまたまかぬになり。此詞つかひ度々いへるかことし。よのふけぬらし。久の字にてとまりたれは、ふけぬらくとよむへし。若之の字を誤れる歟
 
2072 渡守舩度世乎跡呼音之不至者疑梶之聲不爲《ワタリモリフネワタセヲトヨフコヱノイタラネハカモオチノオトセヌ》
 
渡守、【別校本云、ワタシモリ、】
 
渡守は和名集云、日本紀云、渡子、【和名、和太之毛利、】一云、【和太利毛利、】此集第十八云、和多理母理布禰毛麻宇氣受《ワタリモリフネモマウケズ》云々、此せ准據とするにや、渡守をみなワタリモリとのみ點ぜり、乎は助語なり、或は與と同韻にて通ずれば船度せよとと云にや、第七に似たる歌有て彼處《ソコ》には呼《ヨ》とありき、
 
初、わたりもりふねわたせをと。わたしもりとも、わたりもりともいふ、おなしことなり。和名集云。日本紀云。渡子【和名和太之毛利。】一云、【和太利毛利。】又云。文選江賦云。渉人《ワタシモリ・ワタリモリ》於是|艤《タヽス》v榜《サヲヽ》【艤正也。榜和名佐乎。】わたせをの、をもしは助語なり。又はわたせよといふにおなしともみるへし。同韻にて通すれはなり。第七に、うち川を舟わたせよとよはへともきこえさるらしかちおともせす。似たる哥なり
 
2073 真氣長河向立有之袖今夜卷跡念之吉沙《マケナカクカハニムキタチタリシソテコヨヒマカムトオモヘルカヨサ》
 
河向立、【赤人集云、カハニムカヒテ、官本立或作v?、點赤人集同、】  有之袖、【赤人集云、アリシソテ、】
 
向立は上にも云如くムカヒタチと讀べし、有之袖は今の點よからず、アリシ袖と云に付べし、
 
初、まけなかく川にむきたちありし袖。たりし袖とあるは誤れり
 
2074 天漢渡湍毎思乍來之雲知師逢有久念者《アマノカハワタシセコトニオモヒツヽコシクモシルシアフラクオモヘハ》
 
(27)天漢、【官本、漢作v河、】
 
下句、第八に右大臣橘家にて安倍虫丸のよまれたるに似たり、
 
2075 人左倍也見不繼將有牽牛之嬬喚舟之近附往乎《ヒトサヘヤミツカスアラムヒコホシノツマヨフフネノチカツキユクヲ》  一云|見乍有良武《ミツヽアルラム》
 
嬬喚舟は此下にもよめり、第八に迎嬬《ツマムカヘ》船とよめるが如し、今按ツマヨビブネと六字を連ねて体になして讀べきにや、嬬喚舟の近附うれしさを、猶岸に著て迎へて歸るまでも見とげて二星の同じ意に悦ばむとなり、
 
初、人さへやみつかすあらん。ひこほしの、妻迎船の近つくうれしさを、人さへ見とゞけずあらんやはなり
 
2076 天漢瀬乎早鴨烏珠之夜者闌爾乍不合牽牛《アマノカハセヲハヤミカモヌハタマノヨハフケニツヽアハヌヒコホシ》
 
初、天川瀬をはやみかも。わたりかねて、夜をふかすをいへり
 
2077 渡守舟早渡世一年爾二遍徃來君爾有勿久爾《ワタリモリフネハヤワタセヒトトセニフタタヒカヨフキミニアラナクニ》
 
拾遺は人丸集に依て載らる、六帖にもあり、
 
2078 玉葛不絶物可良佐宿者年之度爾直一夜耳《タマカツラタエヌモノカラサヌラクハトシノワタリニタヽヒトヨノミ》
 
初、玉かつらたえぬ物から。古今集に.みつねか哥、年毎にあふとはすれとたなはたのぬる夜の數そすくなかりける。後撰集にふたゝひ載たるには、あらたまの年のわたりは
 
2079 戀日者氣長物乎今夜谷令乏應哉可相物乎《コフルヒハケナカキモノヲコヨヒタニトモシムヘシヤアフヘキモノヲ》
 
(28)上の人丸集の歌の中に大形似たる有き、落句はとく相べき物をの意なり、
 
2080 織女之今夜相奈婆如常明日乎阻而年者將長《タナハタノコヨヒアヒナハツネノコトアスサヘタテヽトシハナカケレ》
 
上に年之戀今夜盡而と有し歌に似たり、明日乎阻而とは明日は阻而なり、
 
初、たなはたのこよひあひなは。上に年のこひこよひつくしてと有し哥に似たり
 
2081 天漢棚橋渡織女之伊渡左牟爾棚橋渡《アマノカハタナハシワタスタナハタノイワタラサムニタナハシワタス》
 
伊は發語の詞、織女之と云次に彦星乎と句を添へて意得べし、
 
初、あまの川たなはしわたす。いわたらさんに、いは發語の辭。ひこほしをわたらせんために、たなはたつめの、棚橋わたすなり。橋をかけたるは、柵のことくなれは、たなはしといふ歟。また以前周賀か詩を引ることく、水棚といへるは橋なり
 
2082 天漢河門八十有何爾可君之三舩乎吾待將居《アマノカハカハトヤソアリイツコニカキミカミフネヲワカマチヲラム》
 
2083 秋風乃吹西日從天漢瀬爾出立待登告許曾《アキカセノフキニシヒヨリアマノカハセニイテタチマツトツケコソ》
 
古今集に、秋風の吹にし日より久方の、天の河原にたゝぬ日はなし、似たる歌なり、吹ニシのに〔右○〕は助語なり、
 
初、秋風の吹にし日より。古今集に、秋風のふきにし日より久かたのあまの川らにたゝぬ日はなし。似たる哥なり
 
2084 天漢去年之渡湍有二家里君將來道乃不知久《アマノカハコソノワタリセアレニケリキミカキマサムミチノシラナク》
 
2085 天漢湍瀬爾白浪雖高直渡來沼待者苦三《アマノカハセヽニシラナミタカケレトタヽワタリキヌマテハクルシミ》
 
(29)落句は今まで待つれば苦しとよめる歟、浪の静まらむ程をまてば苦しとにや、
 
初、天川せゝにしらなみ。後撰集にはせゝのしらなみ、まつにくるしみと改て載たり
 
2086 牽牛之嬬喚舟之引綱乃將絶跡君乎吾念勿國《ヒコホシノツマヨフフネノヒクツナノタエムトキミヲワカオモハナクニ》
 
引綱之、【官本又云、ヒキツナノ、】
 
嬬喚舟はツマヨビブネとよまむ歟の事上の愚按の如し、發句はヒキツナノと讀べし、つなてなり、和名集云、唐韻云、牽〓、【音支、訓豆奈天、】挽v船(ヲ)繩(ナリ)也、第十四に、谷迫み峯に蔓たる玉葛、絶むの心、我もはなくに、今のつゞき此に同じ、
 
初、ひこほしのつまよふ舟のひきつなの。和名集云。牽〓。唐韻云。牽〓【音支。訓豆奈天】挽《ヒク》v船(ヲ)繩也。ひくつなとあるはよろしからす。第十四に、谷せはみ峯にはひたる玉かつらたえむの心わか|もはなく《・不思》に
 
2087 渡守舟出爲將出今夜耳相見而後者不相物可毛《ワタリモリフナテシイテムコヨヒノミアヒミテノチハアハシモノカモ》
 
第二の句は舟出を爲て出むなり、此舟出は彦星に成て渡守に去來舟を漕還らむと云なり、下句はみづから別るゝ意を慰むるなり、
 
初、わたりもりふなてし出む。又もふなてし出てこむなり
 
2088 吾隱有※[楫+戈]掉無而渡守舟將借八方須臾者有待《ワカカクセルカチサホナクテワタリモリフネカサメヤモシハシハアリマテ》
 
蒙求云、前漢陳遵、字孟公、杜陵(ノ)人、嗜v酒(ヲ)、毎(ニ)2大飲1賓客滿v堂、輒關v門(ヲ)取(テ)2客車轄(ヲ)1投2井中1、雖v有v急終不v得v去、此意に似たり、古今集に久方の天河原の渡し守君渡りなば梶隱してよ、此(30)歌相似たり、又次上の歌は牽牛の渡守に向て云意なるを此は織女のそれに答へてよめる意なり、同じ作者の二首にて意を云ひはつるなるべし、惜は借を誤れり、
 
初、わかかくせるかちさほなくて。古今集に、久かたのあまの川原のわたしもり君わたりなはかちかくしてよ。借を惜に作れるは誤なり。かちさほをも、わか取かくしつれは、渡守とても、舟をかすましけれはしはしはとゝまれと.織女の心をよめるなり。蒙求云。前漢(ノ)陳遵字(ハ)孟公杜陵(ノ)人(ナリ)。嗜v酒(ヲ)毎(ニ)2大飲1賓客滿v堂(ニ)。輒關v門(ヲ)取(テ)2客(ノ)車轄(ヲ)1投2井中(ニ)1。雖v有(ト)v急終(ニ)不v得v去(コトヲ)
 
 
 
2089 乾坤之初時從天漢射向居而一年丹兩遍不遭妻戀爾物念人天漢安乃川原乃有通出出乃渡丹具穗舩乃艫丹裳舳丹裳舩装眞梶繁拔旗荒本葉裳具世丹秋風乃吹來夕丹天川白浪凌落沸速湍渉稚草乃妻手枕迹大舩乃思憑而※[手偏+旁]來等六其夫乃子我荒珠乃年緒長思來之戀將盡七月七日之夕者吾毛悲烏《アメツチノハシメノトキユアマノカハイムカヒヲリテヒトヽセニフタヽヒアハヌツマコヒニモノオモフヒトアマノカハヤスノカハラノアリカヨヒテヽノワタリニクホフネノトモニモヘニモフナヨソヒマカチシヽヌキハタアラシモトハモクセニアキカセノフキクルクレニアマノカハシラナミシノキオチタキツハヤセワタリテワカクサノツマタマクラトオホフネノオモヒタノミテコキクラムソノツマノコカアラタマノトシノヲナカクオモヒコシコヒハツキケムハツアキナヌカノヨヒハワレモカナシモ》
 
有通、【赤人集云、アリカヨフ、幽齋本同v此、】  夕丹、【赤人集云、ヨヒニ、幽齋本同v此、】  落沸速湍渉、【赤人集云、オチタキルハヤセヲワタリ、】  戀將盡、【赤人集云、コヒハツキナム、幽齋本同v此、】  七月、【赤人集云、フムツキノ、官本亦點同v此、】
 
初時從を赤人集にそめしときよりとあれど、かゝる點の例なければ今取らず、射向(31)居而は射は發語の詞なり、古事記上云、故爾天照大御神高木神(ノ)之命以詔2天宇受賣神1、汝者雖d有2手弱|女《メ》1人u與2伊牟迦布神1【自v伊至v布以v音】面勝神(ナリ)、赤人集并官本又點イムカヒスヱテとあれど集中の例に叶はねば今取らず、出出乃渡とは二星の互に立出て見かはす處なれば名付る歟、住吉の出見の濱の名思ひ合すべし、具穗船はくぼまりたる舟なり、易繋辭云、刳v木爲v舟、※[炎+立刀](テ)v木(ヲ)爲v楫《カチト》、旗荒は仙覺抄に多と豆と通ずれば初嵐なりと義を立て、初を波多と通じて云證據に第十九に家持より鵜を池主へ贈らるゝ時の歌の反歌に※[盧+鳥]河立取左牟安由能之我婆多婆吾等爾可伎無氣念之念婆《ウカハタチトラサムアユノシカハタハワレニカキムケオモヒシモハバ》、此婆多婆を初者《ハツハ》と云意と見て引かれたり、和名云、文選注云、鰭、【音、耆、和名波太、俗云比禮、】魚背上|鬣《ウナカミ・タチカミ》也、日本紀延喜式等にもハタと點ぜり、鰭廣物《ハタノヒロモノ》鰭|狹物《サモノ》など云へり、かゝれば引かれたる歌は鰭にやとも云べけれど、其が初をば先我方に遣せよと云にあらずば、取たる程の年魚を皆おこせよと云やうにて際限聞えぬなり、依て證となるべし、本葉は此卷下にも秋|芽子之本葉之黄葉《アキハキノモトハノモミチ》とよめり、本末《モトスヱ》と云字は唐にも木より起て作り、和語も木に付て云へば木の本葉と云に及ばず、やがて其意なり、具世丹とはひとつにと云詞歟、欽明紀に膳臣巴提便が百濟國へ勅使にて渡りし時、彼國の海濱にして少兒《ワカコ》を虎に捕られて、其跡の雪につゞけるを尋て山に入て虎に向て云ひける詞の中に云く、惟|汝《イマシ》威神愛(32)v子(ヲ)一也、齊明紀に天皇紀温湯へ行幸したまひける時皇孫建王を憶給ひての御歌云、瀰儺度能于之〓能矩娜利《ミヤトノウシホノクダリ》、于那倶娜梨《ウナクタリ》、于之廬母倶側尼飫岐底※[舟+可]〓※[舟+可]武《ウシロモクセニオキテカユカム》、此も海の面白きをも又後の方の今城|岡《ヲか》の建《タケルノ》王の墓をもひとつに跡に置て見過してや行かむと歎てよませたまへるにや、初嵐と云て又秋風と云は木がらしの秋の初風と云が如し、あらしもこがらしも用を以て体の名とすれば用と体とを交へて云意なり、風は木の葉に觸て音も聞え吻目にも見ゆれば、木葉もくせに秋風の吹來ぬとは云へり、妻手枕迹は今の點よからず、ツマノテマカムトと讀べし、枕の字を体ならで用にもよめる例多し、大船之思憑而と云はむ爲ながら實を兼たり、吾毛悲烏とは此悲しはあはれぶなり、古今に、露をかなしぶと云に同じ、烏は焉か、焉に通ずる事上に云が如し、
 
初、ああつちのはしめの時ゆ。いむかひをりて、いは發語の辭。出々のわたりにとは、ふたりのほしの、互に立出て見かはす所なれは、名つくるなるへし。住吉の出見の濱も.そこに出て、はるかになかめやれは、名つけたるにや。おなし心なるへし。くほふねは、くほまりたる舟なり。易(ノ)繋辭云。刳《クホメテ》v木(ヲ)爲(シ)v舟(ト)※[炎+立刀]《チツテ》v木(ヲ)爲v楫《カチト》。和名集云。釋名云。艇(ノ)小(シテ)而深(キ)者(ヲ)曰v※[舟+共](ト)【渠睿反字亦作v〓。今案和名太加世、世俗用2高瀬舟(ヲ)1。】はたあらしは初嵐なり。太と豆と五音相通すれは、はたあらしといふなり。第十九に家持越中守たりし時鵜を越前判官大伴池主にをくらるゝ歌の反歌に、うかはたちとらさむあゆのしがはたはわれにかきむけ。おもひしおもはゝ。これ、それがはつは、われにかきむけておこせよとたはふれてよめり。ひれをもはたといふ。延喜式の祝詞に、鰭廣物鰭狭物《ハタノヒロモノハタノサモノ》といへるこれなり。海邊とかきて、あまはたとよみ、※[木+世]の字をふなはたとよみ、すへてかゝるはたといふ詞は、皆通せり。あゆとよみたれはその鰭《ハタ》にやともいふへけれと、哥のすへてのこゝろ、その初穗《ハツホ》といふことゝきこゆれは、これをも今のはたあらしにおもひあはすへし。本葉もくせにとはくせはひとつにいふ詞なり。欽明紀に、勝臣《カシハテノオム》巴|提《ス》か百濟國へ御使に渡りし時、彼國の海濱にして、少兒《ワカコ》を虎にとられて、其跡の雪につゝけるを尋て、山に入て、虎に向ひていひける詞の中にいはく。惟(レ)汝《イマシ》威《カシコキ》神(モ)愛《イツクシム》v子(ヲ)一也《ヒトクセナリ》。かゝれは、末葉も、本葉も、ひとつに秋風の吹くるくれにといへる心なり。後撰集の哥に、うちつけに物そかなしきこのはちる秋のはしめをけふそとおもへは。齊明紀に、天皇紀の温湯《ユ》へみゆきしたまひける時、皇孫建《ミマコタケシノ》王を憶《オモヒ》たまふ御哥三首の内、第二に、瀰儺度能《ミナトノ》、于之〓能矩娜利《ウシホノクタリ》、于那倶娜梨《ウナクタリ》、于之廬母倶側尼《ウシロモクセニ》、飫岐底※[舟+可]〓※[舟+可]武《オキテカユカム》。これも浦々のおもしろきをも、またうしろのかたの、今城《イマキ》の岡の、建王《タケシノオホキミノ》墓をも、ひとつに跡におきて、見過してかゆかむとよませたまへるにや。わか草の妻の手まかんと。仁賢紀云。弱草吾夫※[立心偏+可]怜《ワカクサノアカツマハヤ》矣【古者以2弱草(ヲ)1喩2夫婦(ニ)1故以2弱草1爲v夫。】此集に、第二よりはしめてあまたよめり。此妻は織女なり。つまたまくらとゝある點は、あやまれり。大ふねのおもひたのみて。大ふねは、のるにたのもしけなる物なれは、第二よりはしめて、おもひたのみてとあまたよめり。今はことにそのよせあり。そのつまのこ、これはひこほしをいへり。夫の字をかけるもそのゆゑなり。なぬかのよひはわれもかなしも。此かなしは、おもしろきかたなり。烏は焉と通するよし、和名集に、唐韻を引て注せられたれは、助語なり。からすを、おぞ鳥といふゆへは、上略して、ぞといふかんなの、にこれるにも用たり。今もかなしぞともよむへし
 
反歌
 
2090 狛錦※[糸+刃]解易之天人乃妻問夕叙吾裳將偲《コマニシキヒモトキカハシヒコホシノツマトフヨヒソワレモシノハム》
 
天人之、【赤人集云、アマヒトノ、官本又點同v此、】
 
(33)狛錦は高麗錦なり、和名集錦の下の注云、本朝式有2暈|※[糸+間]《ケム》錦、高麗錦、軟錦、兩面錦等之名1、易之を赤人集にやすきとあるは之の字を忘れたるのみならず、易の字を以※[豆+支]切不v難也、此義を用たるも、集中にかやうに用たる所の例に違へり、今は余赤切にて交易の義を用たり、天人は今の點は※[手偏+總の旁]名の別に取て牽牛とせり、赤人集は惣名を以て彦星を呼べり、第十八に、安萬射可流《アマサカル》、比奈能都夜故爾《ヒナノミヤコニ》、安米比等之《アメヒトシ》、可久古非須良波《カクコヒスラバ》、伊家流思留事安里《イケルシルシアリ》、此腰句の天人に准らへば今もアメヒトノと讀べし、
 
初、こまにしきひもときかはし。こまにしきは、高麗の錦なり。和名集云。本朝式(ニ)有2暈※[糸+間]《ウムケム》錦、高麗錦、軟錦、兩面錦等(ノ)之名1也。允恭紀に天皇の御歌にいはく。佐瑳羅餓多《ササラガタ》、邇之枳能臂毛弘《ニシキノヒモヲ》、等枳舍氣帝《トキサケテ》、阿摩〓絆泥受迹《アマタハネズト》、多〓比等用能未《タダヒトヨノミ》。ときかへては、我もとき、人もとくなり
 
2091 彦星之川瀬渡左小舟乃得行而將泊河津石所念《ヒコホシノカハセヲワタルサヲフネノトユキテハテムカハツシソオモフ》
 
左小舟は小舟に左の字をそへたり、得行而はトクユキテ歟、今按得は和訓なるべきにや、第十一云、面忘|太爾毛得爲也登《タニモエスヤト》云々、第十二云、旅宿得爲也《タビネハエスヤ》云々、此等今はえせじなどこそをえずやと云ひたれば、えゆかじとこそ云べきをえゆきてと云へる歟、行得而と打返して意得べし、石は助語、所念はオモホユと讀べし、
 
初、ひこほしのかはせをわたる。さをふねは、さは付たる字にて、只小舟なり。とゆきては、とくゆきてなり
 
2092 天地跡別之時從久方乃天驗常弖大王天之河原爾璞月累而妹爾相時侯跡立待爾吾衣手爾秋風之吹反者立坐多土 (34)伎乎不知村肝心不欲解衣思亂而何時跡吾待今夜此川行長有得鴨
アメツチトワカレシトキユヒサカタノアマシルシトテオホキミノアマノカハラニアラタマノツキヲカサネテイモニアフトキシヲマツトタチマツワカコロモテニアキカセノフキテカヘセハタチテヰテタツキヲシラスムラキモノコヽロオホエストキキヌノオモヒミタレテイツシカトワカマツコヨヒコノカハノユキナカクアルトカモ》
 
別之時從を赤人集にわけしときよりとあれどよろしからず、第三赤人の不盡山歌の發句も天地|之《ノ》分時從云々、大王天之河原とは君を天子と申奉れば天とつゞくる歟、時シヲのし〔右○〕は助語なり、赤人集にはわきもこにあふときまつとゝあり、今の本若字の落たる歟、立待爾は立て待になり、赤人集にたちまちにとあるは誤なり、吾衣手爾の爾はを〔右○〕になして見るべし、吹シのし〔右○〕は助語なり、立坐多士伎乎不知、此二句今の點誤れり、タチヰスル、タトキヲシラニと讀べし、第十二にも此二句ある歌あり、解衣思亂而とは、衣を解ば亂るゝ故に亂ると云詞設けむ料なり、此川以下は赤人集にこのかはのゆきてながくもありえたるかもとあり、官本の又の點此に同じ、今の本の二句によめる中に落句の點殊に意得がたし、赤人集のよみやうも何時跡吾待今夜と云に違へり、今按行の字の下に如の字有て、このかはのゆくことながくありえてむかもにや有けむ、
 
初、あめつちとわかれし時ゆひさかたのあましるしとて。上の二十六葉に、久かたのあまのしるしと天川へたてゝおきし神世のうらみ。おほきみの天の川原に。みかとをは、天子天皇なと申せは、かくはつゝけたるなるへし。久方の都とつゝけたるも、ひなよりのそめは、天津空なれはいふにもあるへし。又天子のましませはいへるにや。しからは、これに准しても見るへし。智度論に、諸天を説るに、帝王を天子と申をは、名字天といへり。まことには、天にあらざ(ン)めれと、天子と申奉れはなり。わか衣手に秋風の吹し返せは。今の人のよまはわか衣手をといふへし。立てゐてたときをしらす。これをは、立居するたときをしらにと、古語にまかせてよむへし。むらきもの心おはえす。むらきもはさき/\に尺せり。心おほえすは、物をもおほえぬなり。ときゝぬのおもひみたれて。ときたるきぬは、みたるゝ物なれはかくつゝけたり。第十一第十二にもよめり。この川のゆきなかく有得むかも。此二句の上に、五字の一句、をちたる歟。昔は、句に次第せさるもおほけれは、此まゝなる歟。此川のゆきは.此川のゆくことく、こよひのなかさのありえむものかとなり。なかくあるとかもとある點は、え心得す侍り
             (以上初稿本卷十上冊)
 
反歌
 
(35)2093 妹爾相時片待跡久方乃天之漢原爾月叙經來《イモニアフトキカタマツトヒサカタノアマノカハラニツキソヘニケル》
 
詠花
 
2094 竿志鹿之心相念秋芽子之鐘禮零丹落僧惜毛《サヲシカノコヽロアヒオモフアキハキノシクレノフルニチリソフヲシモ》
 
萩をば鹿の妻とも云へば相念と云へり、シグレは凡九月下旬より十月中句に及で降雨の名なり、萩は早きは夏を懸ても開き、大底は八月の中比まで盛にて下旬の未は有事稀なるを、今しぐれに散そふと云へるは、和名云、〓雨《シクレハ》、孫〓(カ)曰、〓雨小雨也、音與v終同、漢語抄云、【之久禮、】かゝればしぐれは小雨なるを、いつとなく※[手偏+總の旁]名を別名となして秋冬のあはひに降見降らず見定めなき雨に名付たれど昔は猶廣くよめるにや、此卷の末に多く萩にしぐれを讀合せたり、古今集にも、貫之の、秋萩の花をば雨にぬらせどもとよまれたるかへしに兼覽王は、秋のしぐれと身ぞふりまけるとよまれたり(僧は増の字を誤れるなるべし、
 
初、さほしかの心あひ思ふ。萩をは鹿の妻といへは、あひ思ふといへり。しくれは、およそ九月中旬より、十月中旬にをよふほとふる雨をいへり。萩は八月下旬まてはあることまれなるに、しくれにちるとよめるは、和名集に、〓雨(ハ)小雨(ナリ)也。之久連《シクレ》。かくのことくあれは、しくれは、小雨《コサメ》の名なるを、いつとなく秋冬のあはひに、ふりみふらすみさためなきを.わきて名付たるを、人まろの比は、猶ひろくて、小雨をしくれともいへるなるへし。僧の字の音を、添の字の和訓にかりて用たるは、曾宇と曾布とたかへり。されと宇と布と同韻の字なれは、通する心にてかれる歟。紅梅をこをはいとよみ、芭蕉をはせをとよむ例に准すへし。もしは増の字を誤れる歟。ますはそふ心はれは、義をもてそふとよめる歟。第四に坂上郎女か、おもへともしるしもなしと知物をなそかくはかりわか戀わたる。此しるしといふに、知|僧《シ》とかけるは、日本妃に、此僧の字の和訓を、ほうしとよめり、法師とても音なるを、やかて和語に用たれは、僧は在家の師なれは.師の心にかける歟。僧を曾のひともしに用へけれは、二五相通して志になす歟。又曾字(ノ)切須なれは、二三隣近に通して、志と用たる歟
 
2095 夕去野邊秋芽子末若露枯金待難《ユフサレハノヘノアキハキスヱワカミツユニシカレテアキマチカタシ》
 
(36)末若、【六帖云、ウラワカミ、】
 
腰句六帖の如く讀べし、露ニシのし〔右○〕は助語なり、もし假名に書たらば露被敷而《ツユニシカレテ》と意得べきつゞきなり、ツユニカレツヽとも讀べし、柔なる葉に餘に露の置てからすなり、アキ待ガタシとは、秋の歌にかく讀たれば意得がたきやうなれば、其おり/\の秋にて盛に咲べき比を待がたしとなり、秋を時と同じく訓ずるにても意得べし。古今集物名に、友則のきちかうのはなをよまれたる歌にも、秋近う野は成にけり白露の、おける草葉も色かはり行、此發句も下句を以て見るに草の枯べき比を云へり、又秋は來ぬもみぢは宿に降しきぬとよめる發句も末の秋を指て云へるとぞ聞えたる、六帖にはまたずと云に入れて露にかれかねきみまちかねつとあり、此に依れば金の下に君公等ゆ字有けるにや、さるにてはかれかね意得がたし、カルカネと讀てかるかにと通して意得べきか、餘りにうら若き萩の露にもかるゝかにとおぼつかなき盛の待がたきが如く、戀弱れは身も君が來べき時を待がたしとにや、但六帖の意ならば秋相聞に入べきを幸に然らねば唯前の義のみなるべきにや、
 
初、夕されは野への秋はき。末若はうらわかみとよむへし。露にしかれて、しは助語なり。かんなにかきたらは、露爾被敷而《ツユニシカレテ》と心得へきつゝきなり。露枯とのみかきたれは、つゆにかれつゝともよむへし。やはらかなる葉に、あまりにいたく露のをきて、をきからすなり。秋待かたしとは、秋の哥によみたれは、心得かたきやうなれと、やすきことなり。秋といふもしを、時のことく、はきのさかりにさくへき比を秋まちかたしといへは、時待かたしの心なり。古今集に、秋はきぬもみちはやとにふりしきぬ道ふみ分て問ふ人はなし。此秋はきぬといへるを、秋は盡ぬといふ略語なりと尺せるものあり。いふにたらす
 
右二首柿本朝臣人麿之謌集出
 
(37)2096 眞葛原名引秋風吹毎阿太乃大野之芽子花散《マクスハラナヒクアキカセフクコトニアタノオホノノハキカハナチル》
 
和名集云、大和國宇智郡阿陀、【陀音可2濁讀1、】延喜式云、後阿陀墓、【武智麻呂、在2大和國宇智郡1、】
 
初、まくす原なひく秋風。あたの大野は大和なり。和名集云。宇智郡阿陀【陀(ノ)音(ハ)可2濁(テ)讀(ム)1。】定家卿此哥と古今集の
 形見こそ今はあたなれこれなくはわするゝ時もあらましものを
此兩首を取合て
 かたみこそあたの大野の萩の露うつろふ色はいふかひもなし
とよみたまへり。彼古今集の哥の顯注にいはく。かたみこそ今はあたなれとは、あたとはかたきなり。此かたみたになくはわするへきをわすれぬねたさに、うれしかりつる形見を、今はあたとおもふなり。今はあだなれと、はかなきよしによみなす人あれと、哥の心にかなはねはよしなし。定家卿の密勘にいはく。あたなれは敵なり。あだは謬説也。但はかなきよしに、あたなれとなかむる人おほかり。女房なとのいはむを、あたといへとをしへむも、すこしは聞にくゝや侍るへき。ちかく内裏哥合に、講師此詞を仇とよみあけし、ひか事とはきゝ侍らさりしを、たれとなくうちわらはるゝ聲々のし侍しかは.まことは聞よきにつきてもありぬへかりけりと思ひなりて侍るなり。此密勘に、此詞を仇とよみあけしひかことゝは聞侍らさりしをとある心は、さきに引る定家卿の自身の哥の事なり。はかなきよしにつきて、ぬしはよみ給へるを、講師は敵の心に、あたの大野のたもしを清てよみあけられしを、定家卿それも本理につきて、仇の心につらねたりと心得て、しかよみあくれはあしからすとおもはるゝを、人々は打わらへるなり。わらへる人々は、和名集に陀(ノ)音(ハ)可(シ)2濁(テ)讀(ム)1とあるをかんかへられす。定家卿は知たまへる歟。今もたもし濁音によひ侍り。阿陀|蕪《カフラ》とて名物なるよしかたりしものも侍りき。たとひ仇の心に清てよみあけんをもわらふへきことかは。伊勢か哥に、わかためになにのあたとて春風のおしむとしれる花にふくらん。かう/\よむ人あらは、仇もかへりて友となりぬへし。定家卿の哥、仇の心につゝくともおそろしかるましき哥にや
 
2097 鴈鳴之來喧牟日及見乍將有此芽子原爾雨勿零根《カリカネノキナカムヒマテミツヽアラムコノハキハラニアメナフリソネ》
 
下云、秋芽子者於雁不相常言有者香《アキハキハカリニアハシトイヘレハカ》、音乎聞而者花爾散去流《コヱヲキヽテハハナニチリヌル》、此歌に依に鴈のなけば花の散は定なり、又詠鹿鳴歌云、鴈來芽子者散跡左小壯鹿之《カリハキヌハギハチリヌトサヲシカノ》、鳴成音毛裏觸丹來《ナクナルコヱモウラフレニケリ》、此も同じ意なり、されど又下相聞寄v花歌云、鴈鳴之始音聞而開出有《カリガネノハツコヱキヽテサキデタル》、屋前之秋芽子見來吾世古《ヤドノアキハキミニコワカセコ》、此は又鴈之音を聞て咲初ると讀たれば今の歌并に初にひける二首とは相違せり、所詮歌は風情のより來るに任せてよめば一准に治定を取べからざる歟、
 
初、かりかねのきなかむ日まて。此下に、秋はきは雁にあはしといへれはか聲を聞ては花にちりぬる。およそ雁は、月令にも、仲秋之月鴻雁來とあれとも、第八卷に、櫻井王の哥に、長月のその初雁とよまれたれは、月令にいへるよりはすこしおそく來るものなり。萩は六月よりさきて、八月中旬にはうつろひはつる物なれは、そのあはひを心得てみるへし
 
2098 奥山爾住云男鹿之初夜不去妻問芽于之散久惜裳《オクヤマニスムチフシカノヨヒサラスツマトフハキノチラマクヲシモ》
 
住云、【官本亦云、スムトイフ、】  芽子之、【別校本、之作v乃、】
奥山に住と聞鹿だに夜毎に問來る萩が花妻なれば、殊に散む事の惜となり、
 
初、おく山にすむてふ鹿の。古今集にも、おく山にもみちふみ分鳴鹿とよめり。よひさらすは初夜不去とかきたれと只一夜もおちすとよめることく、よな/\ことにと心得へし
 
2099 白露乃卷置惜秋芽子乎折耳折而置哉枯《シラツユノオカマクヲシミアキハキヲヲリノミヲリテオキヤカラサム》
 
(38)落句は惜み置てさてや枯らさむの意なり、應神紀に御製の歌云、伽愚破志《カクハシ》、波那多智麼那辭豆曳羅波《ハナタチバナシツエラハ》、比等未那等利《ヒトミナトリ》、保菟曳波《ホツエハ》、等利委餓羅辭《トリヰガラシ》云々、等利は採なり、委は居にて置意と聞ゆ、餓羅辭は令枯なり、此今の置枯すに同じ、第十八家持橘歌云、香具播之美於枳弖可良之美云々、
 
初、おきやからさん。第十八橘の哥にも、おきてからしみとよめり。見すへき人もなくて、おきなからからさむやとおしむなり
 
2100 秋田苅借廬之宿爾穗經及咲有秋芽子雖見不飽香聞《アキタカルカリホノヤトリニホノマテサケルアキハキミレトアカヌカモ》
 
2101 吾衣摺有者不在高松之野邊行之者芽子之摺類曾《ワカキヌヲスレルニハアラスタカマトノノヘユキシカハハキノスレルソ》
 
高松之、【袖中抄如v今點、官本又點云、タカマツノ、】  野邊行之者、【幽齋本云、ノヘヲユキシカハ、】
 
發句はワガキヌハとも讀べし、行之者は之の下に香可等の字落たるか、芽子之摺類衣とは此は萩に行觸れて其衣に染著なり、下に事更爾衣者不摺《コトサラニコロモハスラジ》と有歌も同意なり、催馬樂に更衣《コロモカヘ》せむや、さきむたちや、我衣は野原篠原、萩の花摺や、さきむたちやと云より、範永朝臣の歌に今朝來つる野原の露に我沾ぬ、移りやしぬる萩が花摺とよまれ、頼政卿の我とはすらしなどあまた萩が花摺とよめるは皆今の歌を母とせるなり、日本紀并に此集を能考がへ見ざる人、榛を萩なりと思ひて蓁|摺衣《スリノキヌ》を萩の花摺に(39)まがへたり、
 
初、わかきぬをすれるにはあらす。行之着《ユキシカハ》、之の下に、香可等の字落たるか。し文字はよみつけて、之の字をかと用たる歟。清るかもじに、此之の字を用たる事おほし。萩のすれるそとは、行すりにふれて、わかきぬを萩かすれるなり。下にも、ことさらに衣はすらしをみなへしさく野の萩にゝほひてをらむとよめり。催馬樂に、衣かへせんやわかきぬは野原しのはら萩か花すり。これらにつきて、榛摺《ハキスリ》と、萩か花すりとよくまかふなり
 
2102 此暮秋風吹奴白露爾荒爭芽子之明日將咲見《コノユフヘアキカセフキヌシラツユニアラソフハキノアスサカムミム》
 
下にも白露爾|荒爭金手咲芽子《アラソヒカネテサケルハキ》とよめり、
 
2103 秋風冷成奴馬並而去來於野行奈芽子花見爾《アキカセハスヽシクナリヌウマナメテイサノニユカナハキノハナミニ》
 
下にも去來子等露爾爭而芽子之遊將爲《イサコトモツユニイソヒテハキノアソヒセム》とよめり、
 
2104 朝杲朝露負咲雖云暮陰社咲益家禮《アサカホハアサツユオヒテサクトイヘトユフカケニコそサキマサリケレ》
 
今按朝※[貌の旁]の夕まで殘り猶咲まさると云事は必らずなき事なり、八月の末九月の初に至ては色もうるはしからぬが午未の時までもあれどそれも夕までは待たず、况又それを賞して讀べきにもあらず、心を著てみるに明日さかむ花あさてさかむなど次第に其つぼめるやうにて今日より見ゆるなり、されば朝露にめぐまれて咲と人はいへども、しのゝめより咲花なればさはあらず、夕陰のうるほひに依てこそ咲まされと讀て、物の漸を積て功を成し、或は陰徳陽報のことわりなどを含めるなるべし、後撰集雜四云、ひとり侍ける比人の許よりいかにぞと訪らひて侍ければ朝※[貌の旁](40)の花に付て遣はしける、讀人不知、夕暮のさびしき物は朝※[貌の旁]の、花を憑める宿にぞ有ける、此は夕暮の詞あれども詞書に依て見るに朝※[貌の旁]の如くあだなる人の心を憑ける故に今は忘られて夕になれども誰を待べきなぐさめもなくてさびしとよめる歟、或は夕に萎《シホミ》たる花後咲べき朝※[貌の旁]の花につけて忘られたる身は夕になれども問はれむやと、待べき慰さめもなくて唯此朝※[貌の旁]の明日さくを見む事をのみ憑むと讀至りて夕暮のさびしき由によめる歟、但初の意ならば朝※[貌の旁]の花を憑みし宿なれば夕碁にこそさびしかりけれとぞよまゝしを、先夕暮のさびしき物はと云ひて朝※[貌の旁]の花を憑めると云へるは後の意にや、後の意ならば今按の義をたすくべし、此朝※[貌の旁]と云に二種有て久しくまがひ來れり、一つには牽牛花、和名集云、陶隱居本草注云、牽牛子、【和名、阿佐加保、】此出2於田舍1、凡人取(テ)v之牽v牛(ヲ)易v藥、故以名v之、此常に歌にもよみ俗にも云朝※[貌の旁]なり、和語の意は、かほと云はうつくしき顔の意なれば朝に見る顔なり、夕顔此に准らへたり、二つには槿花、爾雅釋草篇云、※[木+假の旁]木槿、※[木+親]木槿、郭璞註曰、別2二名1也、似2李樹華1、朝生夕(ニ)隕、可v食或(ハ)呼(テ)曰2日及1、亦曰2王蒸1、〓〓疏曰、與v草同v氣、故(ニ)在2草中1、鄭風云、顔如2舜花1、陸機疏云、舜一名(ハ)木槿一名※[木+親]、一名(ハ)※[木+假の旁]、齊魯(ノ)之間謂2之(ヲ)王蒸1、云々、和名集云、文字集略云、蕣、【音舜和名木波知須、】地蓮花、朝生夕落者也、此に依るに槿花はきはちすと云べきを、此和名流布せ(41)ず俗にはむくげと云は木菫の音の訛なり、木欒子を無久禮邇之乃木《ムクレニシノキ》と云が如し、詩(ノ)鄭風云、有v女同v車(ヲ)、顔如2舜華《アサガホ》1、流布の本の點かくの如し、和名にいかで此名を出されざりけむおぼつかなし、若天暦の比まではきはちすのはなのごとしと讀けるを其後今の點に改たる歟、又木芙蓉とて一種の花あり、一名拒霜花なり、葉は楸に似たれどつぼめるさまも花もさながら蕣花と見ゆる上に、木芙蓉はすなはちきはちす〔四字右○〕なれば別種の蕣なるべし、朗詠集に槿花をアサカホとよめるは詩の顔如2舜華1とある點と叶へるを、彼集の題目の意も牽牛花にて和歌は叶へるに、下學集に宋人の詩を引て云、槿花籬下點2秋事1、早(ク)有2牽牛(ノ)上v竹來1、木槿と牽牛花とかくの如く別なるに、和漢朗詠集に牽牛花と題すべきを槿花と書て、漢には槿花の詩文を取られて和漢混亂せるは、共にあさがほと云ひて咲比も籬にあるも女に譬ふるも相似たればまがへられけるにや、草と木と同じうするは榛《ハキ》と萩《ハキ》樒と莽との類なり。唐の〓〓が詩に、槿花半照夕陽收、かゝれば今の朝杲とよめるは槿花にやとも申すべけれど、此集なるは例皆牽牛の花なれば異論にわたるべからず、
 
初、朝かほは朝露おひて咲といへと。此哥は朝かほのことはりにかなはす。尤こゝろえかたき哥なり。こゝろみに尺せむ。見む人用捨すへし。先朝かほの夕に咲まさるといふことは.かならすなきことなり。八月の末九月にかゝらむとては、色もうるはしからぬが、午未の時まてもしほますしてあれと、夕まてはまたす。又それを賞してよむへきにもあらす。心をつけてみるに、あすさかむ花、あさてさかむ花は、けふよりそのつほめるやうにてみゆるなり。しかれは、朝露のめくみにてさくと人はいへとも、しのゝめにさく花なれは、さはあらす。夕かけのうるほひによりてこそ花は咲まされといへるなるへし 後撰集第十八にいはく。ひとり侍けるころ、人のもとより、いかにそととふらひてはへりけれは、朝かほの花につけてつかはしける   よみひとしらず
 夕くれのさひしきものは朝かほの花をたのめる宿にそ有ける
此哥に、夕くれのさひしきものはとよみて、詞書には、朝かほの花につけてといへるは、しほめる花、あるひは、あすさくへき花につけゝるなるへしとも會釋すへき歟。今の哥は、ゆふかけにこそ咲まさりけれといへることたしかなれは、さきのことくならては尺すへきやうをしらす。又ひとつの今案あり。此朝かほといへるはつねいふ麻かほにあらす。蕣《アサカホ》にて木なり。毛詩鄭風(ニ)曰。有v女同(ス)v車(ヲ)。顔《カンハセ》如(シ)2舜華《アサカホノハナノ》1。和名集(ニ)云。文字集略(ニ)云。蕣【音舜。和名木波知須。】地蓮花(ナリ)。朝(ニ)生(シテ)夕(ニ)落(ル)者(ノ)也《ナリ》。詩の古點の本にも、舜は、あさかほとよめるを、いかて和名集には、きはちすといふ和名をのみ出して、あさかほの和名を出されさりけむ。又木芙蓉といふもの有。一名拒霜花なり。葉は楸にまかふはかりに似たれと、つほめるやうも、花のやうも、まさしく舜花とみゆるうへ、きはちすといふ和名も木芙蓉といふにおなしけれは、舜花の一種なるへし。唐棣をきはちすとよめるは、大に誤れり。第八卷に、家持の唐棣花を詠せる哥に委尺せり。又日本紀に人の名に木蓮子《イタヒ》此(ヲハ)云(フ)2伊〓寢(ト)1と注せる有。木蓮子といふもの有ゆへに、彼人の名とせるなるへきを、此木蓮子といへるは何物そや。いまたかんかへす。さて此舜といへるは、むくけなり。俗にむくけといふは、木菫なり。木工頭をむくのかみといふことく、木菫の音を略して、むくけの和語とはせるなり。禮記(ノ)月令(ニ)云。仲夏(ノ)之月木菫|榮《ハナサク》。これは初て花さくにつきていへるなるへし。六月七月に盛にさきて、八月にをはるものなり。莊于云。朝菌(ハ)不v知2晦朔(ヲ)1。音義曰。菌(ハ)朝(ニ)生(シテ)暮《ユフヘニ》落。藩尼(カ)云。木槿也。高誘か淮南子の注は朝菌を蟲といへり。戰國策(ニ)云。君(ハ)危(シテ)2於累卵(ヨリモ)1而(シ)不v壽2《イノチナカヽラス》於朝生(ヨリモ)1。【木槿也。朝榮夕死。】文選陸士衝(カ)歎逝賦云。譬(フ)2日及(ノ)之在(ルニ)1v條。恒(ニ)雖v盡(ト)而不v悟(ラ)。註曰。朝菌者世謂2之(ヲ)木菫(ト)1。或(ハ)謂2之日及(ト)1也。謝靈雲(カ)田南(ニ)樹《ウヱ》v園(ヲ)激《ソヽイテ》v流(レヲ)植(シテ)v援(ヲ)【注植(ハ)種也。引2流水1種(テ)v木(ヲ)爲v援(ト)如2牆院1也。援(ハ)衛也。挿《ウヱテ・サシテ》v槿(ヲ)當(ツ)2列〓(ニ)1。玉篇云。槿【居隱切木名。】又云。蕣(ハ)【師閏切。木槿花。】韻府云。槿有2黄白(ノ)者1。一名(ハ)日及。三躰詩中卷、李徳裕(カ)嶺南(ノ)道中(ノ)詩(ノ)落句(ニ)云。紅槿華(ノ)中越鳥啼。天隱(ノ)註(ニ)、嶺南異物志(ニ)、紅槿自2正月1迄(ルマテ)2十二月(ニ)1常(ニ)開(ク)。秋冬(ハ)差《ヤヽ》少(ナシ)。李昌(カ)増注曰。嶺南(ノ)紅槿華一名(ハ)木槿。又曰露槿。又曰日及華。詩(ニ)顔(ハ)如(シ)2蕣(ノ)英(ノ)1。注(ニ)舜(ハ)木槿(ナリ)也。朝(ニ)開(キテ)暮(ヘニ)落(ツ)。又王維(カ)〓川(ノ)積雨(ノ)詩(ニ)云。山中(ノ)習靜觀(ス)朝槿(ヲ)。注(ニ)〓雅(ニ)曰。槿華(ハ)如v蔡(ノ)。朝(ニ)生(シテ)夕(ニ)隕(ツ)。一云舜(ハ)瞬(ノ)之義(ナリ)・蓋取(レリ)v此(ニ)。つねによむあさかほは、和名集(ニ)云。陶隱居(カ)本草(ノ)注(ニ)云。牽牛子【和名阿佐加保、】此(レ)出2於田舎(ニ)1凡人取(テ)v之(ヲ)牽(テ)v牛(ヲ)易(フ)v藥(ニ)。故(ニ)以名(ツク)v之(ニ)。これはいやしきものゝ實《ミ》を取て、牛を牽て市に出て、實をもて他の藥にかふるか。又凡人取之といふも句にて、牽牛易藥は、田舍の人の、おほく、牽牛子を取おさめておけるを、商人の牛を牽てゆきて、其牛に牽牛子をかへて歸るゆへに、牽牛子と名つくといへる歟。後のことくならは、藥といふはすなはち牽牛子なり。牽牛花と槿花と、ゝもにうつくしき花にて、夕をまたぬ事も又かきほにさく事も相似たれは、おなしくあさかほとなつくるを、此國には、誤て槿花を牽牛花とせり。下學集に宋人詩を引ていはく。槿花(ノ)籬(ノ)下(ニ)點(スレハ)2秋事(ヲ)1、早(ク)有(リ)2牽牛(ノ)上(リ)v竹(ニ)來(ル)1。木槿と牽牛と、かくのことく別なり。しかるを、和漢朗詠集に、槿花と題して、漢は槿花の詩文を取、倭には牽牛花の哥を載らる。此集には、木菫とも、牽牛花とも、正字をいたせる所なし。末にいたりて混亂せる事、榛と萩とのまかへるかことし。すてに木菫と牽牛花とをわかち尺しつ。木槿を、漢にはもはら朝生夕落といへとも、現に彼華を見るに、夕にもしほれす。されは竇鞏(カ)詩(ニ)云。槿華半照(シテ)夕陽收(マル)。かゝれは此朝かほは、槿花なりといはゝ、下の句さも侍るへき歟。難していはく。前後を見るに皆秋の草花なり。第八卷に山上憶良か、秋の七種の花を詠せる中にも、牽牛花をよめり。此一首の外に牽牛花の哥なし。又月令に仲夏之月木槿榮といへるにもたかへり。かれこれいかゝ和會せん。まことに此難そのいはれあり。これによりてまつ常いふあさかほにて尺せるついてに、もし木槿にもやとは、心得かねていへるなり。されとも亦こゝろみに難を會せは、前後皆草花なることは、まことにしかれとも、題に詠v花といひて、詠2草花1といはす。さきに夏の哥に詠v鳥哥廿七首の内、前後廿六首は郭公の哥にて、中に一首呼子鳥の哥あり。されと詠v鳥といひて、詠2霍公鳥1といはされは、難なきかことし。牽牛花の哥別になしといへとも、あれは載せ、なけれは載さる事、これにかきるへからす。次に月令に違せりといふ難は、彼もろこしにてたに、江南江北風土ことなり。和漢へたゝれはいよ/\かはる事あるへし。初て榮る心ならは、本朝とてもたかふへからす。異なりとも難すへからす。仲秋(ノ)之月鴻雁來(ル)。季秋(ノ)之月鴻雁來賓(ス)といへと、此集には長月のその初雁のとよめり。仲秋(ノ)之月是(ノ)月雷始(テ)收(ム)v聲(ヲ)とあれと、かみとけのひかるみそらの長月ともよみたれは、一概すへからさるかゆへに、木槿歟ともいふなり。杲は音を取用ゆ。芭蕉をはせをといふかことし。此字さき/\もおほかりき
 
2105 春去者霞隱不所見有師秋芽子咲折而將挿頭《ハルサレハカスミカクレテミエサリシアキハキサケリヲリテカサヽム》
 
(42)2106 沙額田乃野邊乃秋芽子時有者今盛有折而將挿頭《サヌカタノノヘノアキハキトキシアレハイマサカリナリヲリテカサヽム》
 
和名集云、山と國平群郡額田、【奴加多、】沙《サ》は例の添へたる詞にて此額田なるべし、時シのし〔右○〕は助語なり、
 
初、さぬか田の野への。大和に額田あり。さは野をさのといへる類なり
 
2107 事更爾衣者不摺佳人部爲咲野之芽子爾丹穗日而將居《コトサラニコロモハスラシヲミナヘシサクノヽハキニニホヒテヲラム》
 
事更爾は故の字にて俗にわざとゝ云意なり、咲野はサキノと讀べし、佳人部爲と置ける意共に上に注せしが如し、
 
2108 秋風者急之吹來芽子花落卷惜三競竟《アキカセハハヤシフキケリハキノハナチラマクヲシミオホロ/\ニ》
 
ハヤシフキケリはし〔右○〕は助語にてはやく吹けりなり、此はやきはおそきに對する詞にあらず、暴風をはやちと云ひ、風はやみなりなどよめるに同じ、今急の字をかける其故なり、今按ハヤクシフケリとも讀べし、ふきけりを吉計を反して約むれば計となる故なり、ハヤクシフキクともよまるべし、競竟の點官本にはキホヒ/\ニとあり、校本の點は今と同じ、推量するにキ〔右○〕をオ〔右○〕に誤りヒ〔右○〕をロ〔右○〕に誤りて今の點も本はキホヒ/\なるべし、競をオホロと讀べき理なし、又意も得られず、きほひ/\とよめ(43)るも亦意得ぬ事なり、上の競をば云はず、下の竟を競と同じく讀べきにあらず、今按アラソヒハテツと讀べきか、心は秋風の野分に吹來ると萩の散らまく惜きとに我心の迷ひていかで秋風を弱らせてしかな、いかで、萩を風に任せざらましと意に任せぬ物故に、心ひとつにあらそひはつるとなり、
 
初、秋風ははやし吹けり。競竟を、おほろ/\にとよめるやう心得かたし《助》。もとは競競にて有けるか。さるにてもよめるやうおほつかなし。今案今の本のまゝにて、おろかなる心にまかせてよまは
 秋風ははやくしふきくはきの花ちらまくをしみあらそひはてぬ
とよむへし。心は秋風の野分に吹來ると、萩の花のちらまくをしきとに、わか心のあらそひて、いかて秋風をやめてしがな。いかで萩を風にまかせさらましと、心にまかせぬ物ゆへに、心ひとつのあらそひはつるなり
 
2109 我屋前之芽子之若末長秋風之吹南時爾將開跡思乎《ワカヤトノハキノワカメヲアキカセノフキナムトキニサカムトオモフヲ》。
 
若末長は、今按今の點叶はず、若末は上の詠鳥長歌の中にウレと讀たればウレナガシと讀べし、秋風の吹む時にさきなむに、うれの痛く長て損なはれやしなむとうしろめたくおもひ置なり、
 
初、わかやとのはきのわかたち。此わかたち、若末長とかけれは、今案はきのうれなかしとよむへきにや。心は秋風の吹時に、さかむと思ふ萩の、餘なるまてうれのなかくてもし秋風の吹來は、あへすしておれやせんと、かねておほつかなくおもふなり。わかたちとのみいひては、下の句のとまりいひたらて、おさまらぬにやあらむ
 
2110 人皆者芽子乎秋云縱吾等者乎花之末乎秋跡者將言《ヒトミハハキヲアキトイフイナワレハヲハナカスヱヲアキトハイハム》
 
皆人は秋萩とて秋の花の中には先萩を云へど、いな我は薄を第一と云はむとなり、清少納言に秋の花はとてさま/”\かきて後に云く、是に薄を入れぬいと恠しと人云めり、秋の野押|並《ナヘ》たるおかしさは薄にこそあれ、穗さきの蘇芳《スハウ》にいと濃きが朝霧に沾て打靡たるはさばかりの物やはある、秋の果ぞいと見所なき、いろ/\に亂れ(44)咲たりし花のかたちもなく散たる後、冬の末まで頭のいと白くちりおほき名をも知らで昔思ひ出がほに靡きてこひろきたてるは人にこそいみじう似ためれ、よそふる事有てそれこそあはれとも思ふべけれ、右此一段を今の一首に籠れり、縱はよし〔二字右○〕なるを今いな〔二字右○〕と云にかけるは、此字をよし〔二字右○〕とよめるも善の字吉の字などには同じからずしていな〔二字右○〕の意あり、第四に神左失跡|不欲《イナ》者不有云々、第十二に不欲惠八跡不戀登爲杼《ヨシヱヤトコヒシトスレト》云々、此兩首に不欲をいな〔二字右○〕とよみ、よし〔二字右○〕とよめるにて知べし、
 
初、人皆ははきを。縱の字いなとよめるは誤なり。よしとよむへし。第六に元興寺の憎のよめる哥、并に延喜式にしかよめり。第二に人麿の哥によしゑやしといふにも、よしに此字をかけり。すてに上に注せり。哥の心は、皆人は秋萩とて、秋の草の中には、萩をのみいへり。よしさもあらはあれ。我はをはなを、秋の草には第一の物といはむとなり。これは心ありて、よく秋の草をしれる人のよめるなり。清少納言に、秋の花はとて、さま/\かきて後にいはく。これにすゝきをいれぬいとあやしと人いふめり。秋の野おしなへたるおかしさは、すゝきにこそあれ。ほさきのすはうにいとこきが、朝きりにぬれて打なひきたるは、さはかりの物やはある。秋のはてそいとみところなき。いろ/\にみたれ咲たりし花《これは薄の事にあらす其餘の草を惣していへり》の、かたちもなく散たるのち、冬の末まてかしらのいとしろくちりおほき名をもしらて、むかしおもひ出かほになひきて、こひろきたてるは、人にこそいみしうにためれ。よそふることありて、それこそあはれともおもふへけれとかける、この心を、此哥は一首にこめてみゆるにや
 
2111 玉梓公之使乃手折來有此秋芽子者雖見不飽鹿裳《タマツサノキミカツカヒノタヲリケルコノアキハキハミレトアカヌカモ》
 
第七に玉梓之妹とよめる如く今も玉梓公とつゞくとならば第七に注せるが如し、玉梓使とつゞくとならば集中多し、上に既に注せり、來有はキタルとも讀べし、
 
初、玉つさのきみかつかひの。君か玉つさをつたふる使なり。第二より初ておほき詞なり。第七に玉梓の妹とよめるは心かはれるか。そこに注しつるかことし
 
2112 吾屋前爾開有秋芽子常有者我待人爾令見※[獣偏+陵の旁]物乎《ワカヤトニサケルアキハキツネナラハワカマツヒトニミセマシモノヲ》
 
常有者はちらであらばの意なり、
 
初、わかやとにさける秋はき。常ならはとは、常にあらはなり。三世常恒なといふほとにはあらす。これらは久しくあらはといはむかことし
 
2113 手寸十名相殖之名知久出見者屋前之早芽子咲爾家類香聞《タキソナヘウヱシナシルクイテミレハヤトノハツハキサキニケルカモ》
 
(45)初の二句古點はテモスマニウヱシモシルクと有けるを仙覺の改られたる今の點なり、相叶ひてよし、手寸は髪多久《カミタク》など云に同じくあぐる意なり、十名相は具の字備の字などをよめり、草花の遲速淺深數を具へて殖しそれ/”\の名も知く、庭に立出て見ればそれが中に先めづらしく初萩の咲にけるよとよめるなるべし、第七に坂上郎女晩芽子歌に、奥手なる長き意と讀つれば今の早芽子はワサハギともや讀べからむ、早田《ワサダ》早飯《ワサイヒ》の例あり、但第八に先芽《ハツハキ》とよみ、第十九にも歌の注に右一首六月十五日見芽子(ノ)早《ハツ》花作v之(ヲ)とあれば驚かし置ばかりなり、
 
初、たきそなへうえしなしるく。此たきそなへは、たきは拷の字なるへし。髪をたき舟をたくなとよめり。長流かいはく。たくはたくるなれは引心なり。今おもはく。第八に山上憶良の、秋七首花をよめる哥に、秋の野にさきたる花を手ををりてかきかそふれはなゝくさの花。此かきかそふれはといふと、たきそなへといふと通すへし。そなへは員《カス》を備《ソナ》ふるなり。數をかきそなへと心得へき歟。うゑし名しるくは、初よりかの草此草、あるひははやく、あるひほおそきを、數をつくしてうゑし、それ/\の名もしるくて庭に立出てみれは、それか中に、先めつらしく初萩の咲にけるよとよめるなるへし。早芽子はわさはきともよむへきにや。第八に、早田とかきてわさ田とよみ、早飯とかきてわさいひとよめり。早蕨《サワラビ》早苗《サナヘ》も、早の字音を取にはあらす。わさわらひわさなへといふへきを、わさを上略していふなり。又第八に坂上郎女かよめる晩芽子歌に
 咲花もうつろはうきをおくてなる長きこゝろになをしかすけり
おそき萩を、おくてなりといふに對すれは、はやき萩をわさ萩といはむこと、あらそひなかるへし
 
2114 吾屋外爾殖生有秋芽子乎誰標刺吾爾不所知《ワカヤトニウヱオホシタルアキハキヲタレカシメサスワレニシラセテ》
 
誰標刺、【人丸集云、タレカシメサシ、】  吾爾不所知、【人丸集云、ワレニシラセヌ、官本又云、ワレニシラレヌ、】
 
不所知は今按不令知と書たらば今の點なるべけれど誰標刺をタレカシメサシとよまば落句はワレニシラレヌと讀べし、此は、いつく娘を守るに密によばふ男あるを聞付て、よそへよめる歟、
 
2115 手取者袖并丹覆美人部師此白露爾散卷惜《テニトレハソテサヘニヲフヲミナヘシコノシラツユニチラマクヲシモ》
 
(46)丹覆とかけるはい念を上略してもふ〔二字右○〕とのみ云が如し、
 
初、手にとれは袖さへにほふ。此にほふは色のにほふなり。又香もあるものなれは、それをもかぬへし。丹覆《ニホフ》とかけるは覆をおほふとよむを没上してよめるなり
 
2116 白露爾荒爭金手咲芽子散惜兼雨莫零根《シラツユニアラソヒカネテサケルハキチラハヲシケムアメナフリソネ》
 
2117 ※[女+感]嬬等行相乃速稻乎苅時成來下芽子花咲《ヲトメラニユキアヒノワセヲカルトキニナリニケラシモハキノハナサク》
 
袖中抄に行相の速稻とは所の名をわせに讀付たるなりとて、第九に射《イ》行相乃坂上之蹈本爾とよめる歌を引合て證せらる、葛餝早稻《カツシカワセ》などの類なり、新拾遺は人丸集に依て載らる、
 
初、をとめらに行相のわせ。女に行相はうれしきによりて、かくはつらぬたり。さて行相のわせとは、立田山に行相の坂といふ所有。そこに有田のいねなりと顯昭はいへり。第九に、いゆきあひの坂のふもとにさきをせる櫻の花をみせんこもかなとよめる所なり。むろのはやわせ、ふるのわさ田、かつしかわせなといふたくひに、顯昭は心得られたるなるへし。或説に云。行相のわせといふは、夏田をうゆる時、苗のたらされは、同し苗にもあらぬを植つくなり。これを行相の稻といふと、民間には申すとかけり。民間にさへさやうにいひならはしたらは、これを正説とすへき歟
 
2118 朝霧之棚引小野之芽子花今哉散濫未※[厭のがんだれなし]爾《アサキリノタナヒクヲノノハキノハナイマヤチルラムイマタアカナクニ》
 
此歌は人丸集にもなし、拾遺のよる所を知らず、
 
2119 戀之久者形見爾爲與登吾背子我殖之秋芽子花咲爾家里《コヒシクハカタミニセヨトワカセコガウヱシアキハキハナサキニケリ》
 
2120 秋芽子戀不盡跡雖念思惠也安多良思又將相八方《アキハキニコヒツクサシトオモヘトモシヱヤアタラシマタアハムヤモ》
 
めづる心を戀と云、めではてじと思へどもなり、安多良志は惜なり、日本紀に惜の字をよめり、
 
初、秋はきにこひつくさしと。見てもまた、又もみまくのほしきは、萩をこふる心なり。さまては心をつくさしとおもへともなり。しゑやは、よしやよしといふことを略せる詞なり。あたらしはおしきなり
(47)2121 秋風者日異吹奴高圓之野邊之秋芽子散卷惜裳《アキカセハヒニケニフキヌタカマトノノヘノアキハキチラマクヲシモ》
 
日異を六帖にヒゴトニとよめるは集中を能考がへざるなり、毎の字に假て用るにあらず、集中に勝の字殊の字此異の字をけ〔右○〕とよめるはまさる意なり、日々にまさりて吹と云なり、家持集に、秋風は日ごとに吹ぬ高砂の、尾上の萩の散まく惜も、新續古今秋上に、夜毎に吹ぬ散まくも惜とて入らる、今の歌にやと疑はし、
 
2122 大夫之心者無而秋芽子之戀耳八方奈積而有南《マスラヲノコヽロハナシニアキハキノコヒニノミヤモナツミテアラナム》
 
無而はナクテとも讀べき歟、有南をアラナムと點ぜるは誤なり、願ふ詞のなむにあらねばアリナムと讀べし、
 
初、ますらをの心はなしに。無而とかきたれは、なくてともよむへし。なつみてありなん。なつむは煩の字なり。あらなんとあるは、いにしへはしらす、今はあれかしといふ心に用れはあやまれり
 
2123 吾待之秋者來奴雖然芽子之花曾毛未開家類《ワカマチシアキハキタリヌシカレトモハキノハナソモマタマカスケル》
 
未開家類、【官本云、イマタサカスケル、校本云、マタサカスケル、】
 
第四の句の毛は助語なり、落句は官本の如く讀べし、今の點マダサカズケルをマカスとかけるは書生の誤なり、
 
初、わかまちし秋はきたりぬ。はきの花そものもは助語なり。そは濁てよむへし
 
2124 欲見吾待戀之秋芽于者枝毛思美三荷花開二家里《ミマクホリワカマチコヒシアキハキハエタモシミミニハナサキニケリ》
 
(48)シミヽは第三に注せしが如し、
 
初、枝もしみゝに。しみゝは繁の字なり。以前おほき詞なり
 
2125 春日野之芽子落者朝東風爾副而而此間爾落來根《カスカノヽハキシチリナハアサコチノカセニタクヒテコヽニチリコネ》
 
芽子シのし〔右○〕は助語なり、朝東風は第十一にもよめり、
 
2126 秋芽子者於雁不相常言有者香【一云言有可聞】音乎聞而者花爾散去流《アキハキハカリニアハシトイヘレハカコヱヲキヽテハハナニチリヌル》
 
花ニ散ヌルはあだ花なり、第八に吾宅之梅乎花爾令落莫《ワギヘノウメヲハナニチラスナ》とよめるに同じ、
 
初、秋はきは鴈にあはしと。たとへは人の中をたかふ時又もあはしといひたることをたかへぬやうに、秋萩は雁にあはしといひけれはにや、雁の聲する比はかならす花のちるとなり。花にちりぬるはあたはなといふことあれはあたにちりぬるといふ心なり。上にもかりかねのきなかん日Bまてみつゝあらん此はき原に雨なふりそね。雁は八月の末よりおよそわたりくれは、萩のうつろひはつる比なり
 
2127 秋去者妹令視跡殖之芽子露霜負而散來毳《アキサレハイモニミセムトウヱシハキツユシモオヒテチリニケルカモ》
 
秋去者、【幽齋本云、アキサラハ、】
 
發句の點、幽齋本の意は秋にして過にし春萩を殖し時の意を云へば、今のつゞきにて能聞ゆるなり、今の本の點人丸集と同じ、第三句の下へ移して意得べし、初の點作者の本意なるべし、露霜は上に注せしが如し、
 
初、秋されは妹にみせんと。此初の五もしをは、第三句の下にうつして見るへし。妹にみせんとは、春うゆる時の心なり。あきさらはとよまは、妹にみせんとゝ引つゝけて見るへし。其時は第一の句よりうゆる時の心なれはなり
 
詠鴈
 
(49)2128 秋風爾山跡部越鴈鳴者射失遠放雲隱筒《アキカセニヤマトヒコユルカリカネハイヤトホサカルカクモカクレツヽ》
 
第二の句の書やうは、第六膳王の歌に付て注せしが如し、新古今集に三四の句をかりがねの彌遠放りとあるは人丸集に同じ、今は第四の句、句絶なり、下に上の句今と同じくて聲遠離雲隱良思《コヱトホザカルクモカクルラシ》とあるは大形同じ歌なり、彼を以て此をみるに尤句絶なるべし、
 
初、秋風に山とひこゆる。山跡部越とかきたれは、大和へこゆるとよみあやまりぬへし。第六に膳《カシハテノ》王の哥に、あしたにはうなひにあさりしゆふされは山飛こゆる雁しともしもといへるにも、倭部越とかけり。海邊とかきて、うみへともうなひともよめるに准して心得へし。此下に秋風に山|飛越《トビコユル》かりかねの聲とほさかる雲かくるらし。大形似たる哥なり。そこには山飛越とかきたれは、まきれなし。新古今集には、いやとほさかりとあれは、雲かくれつゝにてきるゝなり。こゝにはいや遠さかるとあれは、此所句絶なり。下の哥に准すれは、句絶をかなへりとす
 
2129 明闇之朝霧隱鳴而去鴈者吾戀於妹告社《アケクレノアサキリカクレナキテユクカリハワカコヒイモニツケコソ》
 
朝霧隱、【幽齋本云、アサキリコモリ、】  言戀、【官本、言作v吾、】
 
明闇は第四に注しつ、即初二句彼にあるには幽齋本の點と同じかりき、雲隱になずらふれば今の點も負べからず、言、我也と注せり、此集中にも多く用たり、明闇の朝霧隱のやうなる意にて啼てのみ有よしを告よとなり、
 
初、あけくれの朝きり。くれのくもし濁てよむへし。あけぐれとは、夜の明なんとするにいたりて、とはかり更にくらうなるほとをいふなり。朝ほらけ日くらしの聲きこゆなりこやあけぐれと人のいふらん。此哥にて心得へし。明ぐれのほとの霧ふかきを、思ひのむねにふさかるによそへて、わかこひを妹につけよといふなり。言の字我とおなしく訓するは、詩經文選等におほし
 
2130 吾屋戸爾鳴之鴈哭雲上爾今夜喧成國方可聞《ワカヤトニナキシカリカネクモノウヘニコヨヒナクナリクニツカタカモ》
 
夜な/\近く聞えし鴈の今夜雲上に遠く聞ゆるは己が國つ方を戀てぞなくに鳴かとなり、胡馬依2北風1、越鳥巣2南枝1、此意に似たり、雁は北より渡り來れど此方にある(50)程は南より北へも、鳴行べき事なり、
 
初、わかやとに鳴しかりかね。國つ方かもとは、雁のわかれこし國の方をこひてなくかとなり。古詩云。胡馬依(リ)2北風(ニ)1、越鳥|巣《スクフ》2南枝(ニ)1
 
遊群《ユウグン》
 
此題不審なり、下十首の歌を見るに皆鴈の歌なれば別題あるべきに非ず、若後人の注などの詞の本文となれるにや、
 
2131 左小牡鹿之妻問時爾月乎吉三切木四之泣所聞今時來等霜《サヲシカノツマトフトキニツキヲヨミカリカネキコユイマシクラシモ》
 
切木四之泣の書やうは、第六の長歌に折木四哭之來繼皆石此續《カリカネノキツキテミナシコヽニツキ》云々、此に付て注せしが如し、今時の時は助語なり、
 
初、さをしかのつまとふ時に。切木四之泣とかきて、かりかねとよめる事は、いとも心得かたし。第六卷の十九葉長哥の中に、折木四哭之、來繼皆石、此續、この三句を、今の本に、をりふしもしきつきみなしこゝにつきとよめるを、おのか今案に、こゝの哥を引て、かりかねの、きつきてみなし、こゝにつきとよむへきよし申て、尺し侍りき。そこにも申つることく、折v木切v木は、苅《カル》義なれは、かりといふに借用へきを、彼處《ソコ》にも此處《コヽ》にも四の字を添たるは、《・都日本紀》ふつに心得られ侍らす
 
2132 天雲之外鴈鳴從聞之薄垂霜零寒此夜者《アマクモノヨソニカリカネキヽシヨリハタレシモフリサムシコノヨハ》
 
ハタレは雪に限る詞のやうにてやがてはたれとのみも讀たるに、此歌によれば霜にもいふべし、雪をはたれとよめるは、内典に據勝爲論と云が如き歟、寒は上に連ねて句と成て、此夜者の四もじ一句上を决するなり、人丸集にこよひはとあれど集中(51)の例然らねば今取らず、六帖には霜の歌とせり、
 
初、あま雲のよそにかりかね。はたれははたらとおなし。またらなり。いせ物かたりにふしの雪をみてかのこまたらにとよめるかことし。第十九にわかそのゝすもゝの花かさはにちるはたれのいまたのこりたるかもとよめるは、はたれはやかて雪なり。第三第八をよひ此下六十二葉にも、皆雪につけてはたれとはよめれは、はたれ霜降とは、霜の雪ともみるはかりふるをいへるなり
 
一云|彌益益爾戀許曾増焉《イヤマスマスニコヒコソマサレ》。
 
2133 秋田吾苅婆可能過去者鴈之喧所聞冬方設而《アキノタノワカカリハカノスキユケハカリカネキコユフユカタマケテ》
 
苅婆可は第四卷に注せり、
 
初、秋の田のわかかりはかの過ゆけは。かなはかとは、第四第十六にもよめり。刈場と、いふ心ときこゆ。此哥はかりしほときこゆれとも、第十六卷の哥はさも聞えす。
 
2134 葦邊在荻之葉左夜藝秋風之吹來苗丹鴈鳴渡《アシヘナルヲキノハサヤキアキカセノフキクルナヘニカリナキワタル》
 
左夜藝は、第二に人丸の小竹の葉はみ山もさやに亂れどもとよまれたるさや〔二字右○〕と同じ、彼處に注せるが如し、六帖にはそよぎとあり、人丸集にかきねなるはぎの花開秋風の、吹なるなへに鴈鳴度とあるは此歌の變ぜるなるべし、
 
初、あしへなる荻の葉さやき。和名集云。野王案云。荻【音狄。字亦作〓。和名乎木。】與v〓相似(テ)而非2一種(ニ)1矣。〓、玉篇云。〓【音亂】〓也。〓【音〓和名阿之豆乃】蘆之初(テ)生(スル)也。さやきはさわくなり。和(ト)與也と同韻にて通するなり。此集にはさはくに和の字を用たり。波を用ても通する事はおなし。神代紀(ニ)云。聞喧擾之響焉《サヤケリナリ》【此(ヲハ)云2左揶霓利奈離(ト)1。】さやかの心にはあらす。日本紀に、未平とかきてもさやけりとよめり。韓退之か送2孟東野(ヲ)1序に大凡《オヨソ》物不(ルトキハ)v得2其平(ヲ)1則|鳴《ナル》といへるに、をのつからかよへり
 
一云|秋風爾鴈音所聞今四來霜《アキカセニカリカネキコユイマシクラシモ》。
 
2135 押照難波穿江之葦邊者鴈宿有疑霜乃零爾《オシテルヤナニハホリエノアシヘニハカリネタルカモシモノフラクニ》
 
宿有疑、【六帖云、カリソネタラシ、】  零爾、【六帖云、フラクニ、】
 
(52)六帖にかりぞねたらしとは、寢てあるらしを?阿切多なればつゞめて云り、疑はか〔右○〕ともらし〔二字右○〕とも義訓せり、此外カリヤドレルカとも讀べけれど今の點尤好、
 
初、をしてるやなには。班固(カ)西都賦云。鳧聲鴻雁朝(ニハ)發(シ)2河海(ヲ)1夕(ニハ)宿(ス)2江漢(ニ)1。霜のふらくには、霜のふるになり。宿有疑は.やとれるかともよむへし
 
2136 秋風爾山飛越鴈鳴之聲遠離雲隠良思《アキカセニヤマトヒコユルカリカネノコヱトホサカルクモカクルラシ》
 
初、秋風に山とひこゆる。上に似たるありき
 
2137 朝爾往鴈之鳴音者如吾物念可毛聲之悲《ツトニユクカリノナクネハワカコトクモノオモフカモコヱノカナシキ》
 
朝爾往、【官本云、アサニユク、】
 
2138 多頭我鳴乃今朝鳴奈倍爾鴈鳴者何處指香雲隱良哉《タツカネノケサナクナヘニカリカネハイツコサシテカクモカクルラム》
良哉、【別校本、哉作v武、】
 
哉は定めて武を誤れるなり、
 
2139 野干玉之夜度鴈者欝幾夜乎歴而鹿己名乎告《ヌハタマノヨワタルカリハオホツカナイクヨヲヘテカオノカナヲヨフ》
 
告はノルと讀べし、鴈の鳴聲はかり/\と聞ゆればかりとよめり、後撰集に、
 行歸りこゝもかしこも旅なれや、來る秋毎にかり/\と鳴、
 秋毎に來れど歸れば憑まぬを、聲に立つゝかりとのみ鳴、
(53) ひたすらに我が思はなくに己さへ、かり/\とのみ鳴度らむ、
此等みな彼が聲の然聞ゆるに付てよめり、幾夜乎歴而鹿は、第十三に新世と書べきに新夜と書たれば今も幾世にや、又後撰集
 秋風に霧飛分て來る雁の、千世に變らぬ聲聞ゆなり、
 
初、ぬは玉のよわたる雁は。告はのるともよむへし。かりの鳴聲は、かり/\ときこゆれはかくよめり。後撰集に
 行歸りこゝもかしこも旅なれやくる秋ことにかり/\となく
 秋ことにくれと歸れは頼まぬを聲にたてつゝかりとのみなく
 ひたすらにわかおもはなくにをのれさへかり/\とのみ鳴わたるらん
これらいなかれか聲のしか聞ゆるにつきてよめり。いくよをへてかは、幾夜と書たれとも、幾世にやと聞ゆ。次下の哥は、雁になりてかへしによめる心なるに、年のへゆけはといへるをおもふへし。又後撰集に貫之哥に
 秋風に霧とひわけてくる雁のちよにかはらぬ聲きこゆなり
 
2140 璞年之經徃者阿跡念登夜渡吾乎問人哉誰《アラタマノトシノヘユケハアトモフトヨワタルワレヲトフヒトヤタレ》
 
徒に我名を告て雁々と鳴にはあらず、年月の移りゆけば人々をいざなひて常なき世を驚ろかしめむ爲に假々《カリ/\》と鳴て渡る我を聞知らずして、幾世を經てか己が名を告といふは誰人にておはしますぞとなり、上に引けるひたすらに我思はなくにと云歌に合せて見るべし、文選應徳※[王+連]詩云、朝(ノ)雁鳴2雲中1、音響一(ニ)何(ソ)哀(シキ)、問(フ)子游2何郷1、※[揖の旁+戈]v翼正徘徊、言我塞v門來、將d就2衡陽1棲u、此も雁の問答なり、
 
初、あらたまの年のへゆけはあともふと。これは雁になりてかへしによめるなり。あともふは、阿跡念とかきたれは、跡をおもふといふ事と聞たり。跡は過にし跡にて、昔の心なり。昔よりわたりなれて、年をへてこゝにくれは、昔よりの事をおもふとて、今もわすれすわたりくるを、しらすかほして、いくよをへてかおのか名をのると問ふ人は誰そとなり。第十五新羅使の、海上にてよめる哥に
 浪の上にうきぬせしよひあともへかこゝろかなしくいめに見えつる
これは故郷をさして跡といひて、あとをおもへはにかといへる歟。しからは今の心とおなし。第二第九第十七に、あともふとよめるは、日本紀に、誘の字をあとふとよめるにおなし。さそふ心なり。第十四東哥に、あともへかあしくま山のゆつるはのふゝまる時に風ふかすかもとよめるは、誘の字の心にや。また何とおもふかといへりとも聞ゆ。そこ/\にすてに注し、後注すへし。又阿跡念とはかきたれともこれも誘の字の心にや。その故はさきにひける後撰集の哥に、ひたすらにわかおもはなくにとよめるは、我は人なから、幻化無常のことはりを觀して、ひたすらにかりなる身ともおもひいれすあるを、おのれは鳥Hにして、常とも無常とも知ま亡きことなるに、人をさへおとろかして、かり/\と鳴わたるらんことよといへるなり。今もその心にて、おのか名をのるといふを、いなさにはあらす。轉變遷流する世にて、年の過ゆけは、人をさそひておとろかしめむとて、かえい/\となきて、夜ひとよわたり過る我を、假なる身とはおとろかすして、おのか名をのみはなとのると問ふ人は、誰にておはしますそとこたふるなり
 
詠鹿鳴
 
2141 此日之秋朝開爾霧隱妻呼雄鹿之音之亮左《コノコロノアキノアサケニキリカクレツマヨフシカノコヱノハルケサ》
 
亮左をハルケサとよめるは字に應ぜず、六帖にさびしさとあるも同じ、仁徳紀に寥(54)亮をサヤカナリとよめれば今もオトノサヤケサと讀べきなり、此歌は人丸集にも見えず、續古今は何に依てか作者をつけられけむ、
 
初、此ころの秋のあさけに。亮左、はるけさとよめるは誤なり。さやけさとよむへし。仁徳紀(ニ)寥亮とかきてさやかなりとよめり
 
2142 左男牡鹿之妻整登鳴音之將至極靡芽子原《サヲシカノツマトヽノフトナクコヱノイタラムカキリナヒケハキハラ》
 
妻整ト鳴とは、第三に網子調流海人之呼聲《アゴトヽノフルアマノヨヒコヱ》とよめる意にて、妻を呼びわぶるなり、妻と副て居ればとゝのほり、副《タク》はざればとゝのはぬなり、六帖に妻をしのぶとゝあるは叶はず、極はキハミと讀べし、靡芽子原は第七に我し通はゞ靡けしの原とよめるに同じ、鹿の通ひ易からむ爲に靡けとなり、玉篇、整、【之郢切、整頓整齊也、】
 
初、さをしかの妻とゝのふと。長流か抄に、妻よひ集るなりといへり。第三に、あひきすとあことゝのふるとよめるは、そろゆる心なり。整肅整理の心なり。世俗に事の成就するをとゝのふといへり。今は此心にや。なひけ萩原とは、第七に、妹かりとわかゆく道のしのすゝき我しかよはゝなひけしの原とよめるにおなし。鹿のかよひやすきためになひけといふなり
 
2143 於君戀裏觸居者敷野之秋芽子凌左牡鹿鳴裳《キミニコヒウラフレヲレハシキノノヽアキハキシノキサヲシカナクモ》
 
敷野は磯城野《シキノ》なるべし、しきしまを敷島とも磯城島ともかけり、
 
初、君にこひうらふれをれは。敷野は、大和國磯城郡にある野なるへし。磯城郡を上下にわかちて、城《シキノ》上|城《シキノ》下となして.磯の字を除たれと、猶しきのかみしきのしもとよめり。六帖に、いもにこひうらこひをれはあしひきの山下とよみ鹿そ鳴なる
 
2144 鴈來芽子者散跡左小壯鹿之鳴成音毛裏觸丹來《カリハキヌハキハチリヌトサヲシカノナクナルコヱモウラフレニケリ》
 
發句を六帖にはかりくればとあれど、舊訓に從ふべし、鴈の來れば萩の散こと上に見えたり、
 
初、雁はきぬはきは散りぬと。雁のきて、萩のちる比は、鹿の妻こひの折も過るなり。上に、秋萩は雁にあはしといへれはかとありし哥を思ひ合すへし
 
(55)2145 秋芽子之戀裳不盡者左小鹿之聲伊續伊繼戀許曾益焉《アキハキノコヒモツキネハサヲシカノコヱイツキイツキコヒコソマサレ》
 
戀モ盡ネバはつきぬになり、第四句の二つの伊は共に助語なり、落句は萩を戀るに又鹿の音の戀らるゝを云へり、
 
初、秋はきのこひもつきねは。此つきねはゝ、上に度々いへることく、つきぬにの心なるへし。鹿の心に萩をこひしたふ心もつきぬうへに、また妻をこふる心もまされは、鳴聲のつきて聞ゆるなり。ふたつのいもしは發語の辭なり。いつぎ/\は、やむ間もなく啼なり。又こひこそまされは、たゝ萩のうへにもいへるなるへし
 
2146 山近家哉可居左小牡鹿乃音乎聞乍宿不勝鴨《ヤマチカクイヘヤスムヘキサヲシカノコヱヲキヽツヽイネカテヌカモ》
 
可居はオルベキとも讀べし、第十二云、里近家哉應居云々、古今集云、山里は秋こそ殊に侘しけれ、鹿の鳴音に目をさましつゝ、
 
初、山ちかく家やすむへき。可居とかきたれは、をるへきともよむへし。家居といふは、をるゆへなり。古今集に、山さとは秋こそことにわひしけれ鹿のなくねにめをさましつゝ。後撰集に、竹ちかくよとこねはせし鶯のなくこゑきけは朝いせられぬ。此哥心の似たれは書つく
 
2147 山邊爾射去薩雄者雖大有山爾文野爾文沙小牡鹿鳴母《ヤマノヘニイユクサツヲハオホカレトヤマニセノニセサヲシカナクモ》
 
山爾文野爾文、【官本云、ヤマニモノニモ、】
 
射去の射は發語の詞、第四句の點は書生の誤歟、官本の如く改たむべし、
 
初、山のへにいゆくさつをは。いは發語の辭。山にも野にもを、山にせ野にせとあるかんなはあやまれり
 
2148 足日木笶山從來世波左小鹿之妻呼音聞益物乎《アシヒキノヤマヨリキセハサヲシカノツマヨフコヱヲキカマシモノヲ》
 
來セハはきたりせばなり、人丸集にも六帖にもきけばと有は誤なり、
 
初、足引の山よりきせは。きたりせはなり
 
2149 山邊庭薩雄乃禰良比恐跡小牡鹿鳴成妻之眼乎欲焉《ヤマヘニハサツヲノネラヒオソルレトヲシカナクナリツマノメヲホリ》
 
初、山へにはさつをのねらひ。ねらひかりなり
 
(56)2150 秋芽子之散去見欝三妻戀爲良思棹牡鹿鳴母《アキハキノチリユクミレハイフカシミツマコヒスラシサヲシカナクモ》
 
初、秋はきのちりゆくみれは。いふかしみは、鹿の心の欝陶して、むすほゝれふさかるなり
 
2151 山遠京爾之有者狹小牡鹿之妻呼音者乏毛有香《ヤマトホキサトニシアレハサヲシカノツマヨフコヱハトモシクモアルカ》
 
京、【別校本云、ミヤコ、】
 
京の字日本紀にミサトとよめり、京爾之の之は助語なり、
 
初、山遠きさと.日本紀に京をみさとゝよめり
 
2152 秋芽子之散過去者左小牡鹿者和備鳴將爲名不見者乏焉《アキハキノチリスキユケハサヲシカハワヒナキセムナミネハトモシミ》
 
2153 秋芽子之咲有野邊者左小牡鹿曾露乎別乍嬬問四家類《アキハキノサケルノヘニハサヲシカソツユヲワケツヽツマトヒシケル》
 
胸句はサキタルノベハとも讀べし、
 
2154 奈何牡鹿之和備鳴爲成蓋毛秋野之芽子也繁將落《ナニシカノワヒナキスナルケタシクモアキノヽハキヤシケクチルラム》
 
發句はなにぞ鹿のとよめる歟、又何しか人を相見そめけむなどの如く牡しかをも、てにをはに兼てつゞけたる歟、第一に物|戀之伎《コヒシキ》乃鳴|事《コト》毛とよめるを思へば後の義もあるまじきにあらぬ歟、後の人の我もしか啼てぞ人に戀られしとよめるは鹿に然を兼たり、
 
初、なにしかのわひなき。なにと切てもよし.又なにしかとつゝけて、鴫を妹こひしきの鳴聲もとよめることくにも見るへし。我もしかなきてそ人に戀られしとよめるも、然と鹿とを兼たり
 
(57)2155 秋芽子之開有野邊左牡鹿者落卷惜見鳴去物乎《アキサキノサキタルノヘニサヲシカハチラマクヲシミナキユクモノヲ》
 
2156 足日木乃山之跡陰爾鳴鹿之聲聞爲八方山田守酢兒《アシキヒキノヤマトカケニナクシカノコヱキカスヤモヤマタモルスコ》
 
トカケは第八に、スコは第一に、聞爲ヤモはきくやなり、
 
初、あしひきの山のとかけに。とかけは只陰なり。第八刀理宣令か哥にもよめり。そこには常影とかけり。もしとこかけにて、常に陰なる心歟。聲きかすやもは聞やなり。すもし清て讀へし。山田もるすこは、第一雄畧天皇の御哥にも、此をかになつむすことよませたまへり。いやしきものゝ名なり
 
詠蝉
 
2157 暮影來鳴日晩之幾許毎日聞跡不足音可聞《ユフカケニキナクヒクラシコヽタクノヒコトニキケトアカヌコヱカモ》
 
詠蟋蟀
 
2158 秋風之寒吹奈倍吾屋前之淺茅之本蟋蟀鳴毛《アキカセノサムクフクナヘワカヤトノアサチカモトニキリ/\スナクモ》
 
拾遺集には寒く吹なるひぐらしもなくとて入たるは人丸集の如し、今題あれば云に及ばざれど、淺茅が本に日晩の鳴とはいかに意得べきにか、
 
2159 影草乃生有屋外之暮陰爾鳴蟋蟀者雖聞不足可聞《カケクサノオヒタルヤトノユフカケニナクキリ/\スハキケトアカヌカモ》
 
人丸集には此もなくひぐらしはとあり、
 
初、かけ草の生たる。陰草は、山の陰草、岩のかけ草、水かけ草の類なり。それ/\の陰に生たる草なり
 
(58)2160 庭草爾村雨落而蟋蟀之鳴音聞者秋付爾家里《ニハクサニムラサメフリテキリ/\スナクコヱキケハアキツキニケリ》
 
庭草は庭に生たる草なり、和名集云、本草云、地膚一名地葵、【和名、邇波久佐、一云、末木久佐、】此名あれど今の意にあらず、拾遺人丸集六帖並に皆ひぐらしの秋はきにけりとあり、若昔の本に詠蟋蟀と云題落たりける歟、さるにても蟋蟀をいかでひぐらしとはよみけむおぼつかなし、蟋蟀之の之は衍文にあらず助語なり、此卷下秋相聞の歌にもあり、
 
初、庭草に村雨ふりて。庭草は、庭におふる草なり。俗にはゝき木といふ草にはあらす。和名集云。本草云。地膚、一名地葵【和名邇波久佐。一云末木久佐】。これ箒木といふ草なり。蟋蟀之、此之は助語にくはへたるなり。衍文にあらす。下五十三葉にもかくのことし
 
詠蝦
 
2161 三吉野乃石本不避鳴川津諾文鳴來河乎淨《ミヨシノヽイハモトサラスナクカハツウヘモナキケリカハヲサヤケミ》
 
石本不避は石のあたり離れずなり、
 
2162 神名火之山下動去水丹川津鳴成秋登將云鳥屋《カミナヒノヤマシタトヨミユクミツニカハツナクナリアキトイハムトヤ》
 
落句は蛙の聲を聞て、今正しく秋の面白き時と人の云はむとてや鳴らむとよめる歟、
 
2163 草枕客爾物念吾聞者夕片設而鳴川津可聞《クサマクラタヒニモノオモフワカキケハユフカタマケテナクカハツカモ》
 
(59)物念はモノモフと讀べし、第六車持千年歌云、夕去者川津鳴|奈辨詳紐不解《ナヘドヒモトカズ》、客爾之有者云々、
 
2164 瀬呼速見落當知足白浪爾河津鳴奈里朝夕毎《セオヲハヤミオチタキチタルシラナミニカハツナクナリアサヨヒコトニ》
 
朝夕毎、【人丸集云、アサユユフコトニ、家持集六帖同v此、紀州本點亦同、】
 
2165 上瀬爾河津妻呼暮去者衣手寒三妻將枕跡香《カミツセニカハツツマヨフユフサレハコロモテサムミツママカムトカ》
 
衣手寒三とは蝦の衣手なり、莊子云、列子行食2於道從1【傍也】見2百歳髑髏1〓v蓬而指(テ)之曰云々、得2水上之際(ヲ)1、則爲2〓〓之衣1、玄英疏云、〓〓之衣(ハ)青苔也、在2水中1若v張v綿、俗謂2之蝦蟆之衣1也、和名集云、陸詞切韻云、苔(ハ)【音〓、和名古介、】水衣也、
 
初、かみつせにかはつつまよふゆふされは衣手さむみ。此夕されは衣手寒みは、作者のこゝろにて、かはつもゆふへの寒さに、妻をまかむとよふかと、かれか心をおもひやりてよめるか。かれに衣手似つかねはなり。もしまたまかむといふも、手枕せんといふ心なれは、それとてもかはつによくはにつきたらねは衣手さむみも活氣の作者、人の上に准して、おしてかれかうへにいへる歟
 
詠鳥
 
2166 妹手乎 取石池之浪間從鳥音異鳴秋過良之《イモカテヲトロシノイケノナミマヨリトリノコヱナクアキスキヌラシ》
 
取と云はむ爲に妹手乎とは置けり、取石池は六帖にはとりこの池と云ひ、八雲御抄も其定にて近江なる由注し給へり、仙覺抄云、古點にはとりこのいけと點ぜり、此は(60)取|古《コ》池とかける本あるに依てなり、證本どもには取石とかけり、此に依てとりしと點ぜられたり、此|取石《トリシ》と云ことは人の姓の中にもあり、とろしとよむと申侍るなり、とりしは聞にくからねばさても有べきにや、後賢沈思して定めらるべき歟、以上分明なり、鳥音異鳴は、今の點異の字を和せず、トリノネケニナクと讀べし、水鳥どもの音のすれば秋過ぬらしとよめるなるべし、
 
初、妹か手をとろしの池。妹か手を執とつらねたり。取石池とかけるを、八雲御抄に池部にとりこの近と注し載させたまへり。長流かかける物にも、取子池とかけり。古本は子の字なりけるが、變して石となれる歟。和泉國和泉郡にまかりける道に、池を堤を道にてすき侍る所ありき。其池の名を、人の登呂須《トロス》の池となん申侍りけれは、此哥を思ひ出侍けるを、いまもおほえ侍り。鳥音異鳴を、とりのこゑなくとよめるは誤なり。とりのねけになくとよむへし。水gはさむき比なくなれは、秋過ぬらしとはいへり
 
2167 秋野之草花我末鳴舌百鳥音聞濫香片聞吾妹《アキノノヽヲハナカスヱニナクモスノコヱキクラムカカタキクワカモ》
 
吾妹、【官本云、ワキモ、】
 
舌百鳥は、百舌鳥を上の二字かへさまに寫し傳へたるなるべし、但八雲御抄に伯勞鳥を擧させ給ひて細注に舌百鳥、普通には百舌鳥常事歟と遊ばされたるは此集に依て舌百鳥と注せさせ給ひて通例の百舌鳥を出して兩方を示させ給ふなるべし、官本に百舌鳥に作られたれど御秒を證として却て今取らず、片聞は六帖も今の本の點と同じけれどことわり叶はざれげカタキケと改たむべし、其故は音聞らむかとは聞もきかずもいまだ知らぬ詞なるに、何ぞ忽に治定してかたきくと云べき、互奪て兩つながら失なひて上下共に理なし、片聞は片待等の片の如し、吾妹は今の點(61)は書生の誤なり、官本に依べし、
 
初、秋の野のをはなか末に。舌百鳥は、百舌鳥のさかさまになれる歟。されと八雲御抄にも、普通百舌鳥とかゝせたまへは、いにしへより此まゝなりと見えたり。舌百ともかくましきにあらす。和名集云。兼名苑云。鵙、一名〓【上音覓。下音煩。楊氏漢語抄云。伯勞、毛受。一云鵙】伯勞也。日本紀私記云。百舌鳥。わきもをわかもとあるは、例にまかせてわきもとすへし。をはなを草花とかける、集中に猶見えたり。山草とかさてやますけとよめる、これら心得かたし
 
詠露
 
2168 冷芽子丹置白露朝朝珠斗曾見流置白露《アキハキニオケルシラツユアサナサナタマトソミユルオケルシラツユ》
 
第八に家持の歌に玉跡見までおける白露とよまれたるに似たり、冷の字は義訓なり、第十一にも秋風を冷風とかけり、此歌六帖には家持の歌とす、家持集にはなくて人丸集にあり、
 
2169 暮立之雨落毎【一云打零者】春日野之尾花之上乃白露所念《ユフタチノアメフルコトニカスカノノヲハナカウヘノシラツユオモホユ》
 
此歌第十六には小鯛王宴居歌と注して再出たり、委は彼注を往て見るべし、夕立を昔は秋の物とせり、されど夕立と云べき雨は七月下旬までこそ降侍るを、古は仲秋の比までも云ひけるにや、
 
初、ゆふたちの雨ふることに。此哥第十六にふたゝひ出たり、今一首有て後に注すらく.右歌二首|小鯛《コタヒノ》王宴居(ノ)之日取(テ)v琴(ヲ)登時《スナハチ》必先吟2詠(ス)此歌(ヲ)1也。其小鯛王者、更名《マタノナハ》置始《オイソメノ》多久美斯(ノ)人(ナリ)也。かゝれは小鯛王の哥歟。もしは古歌なるを、おもしろくおほえて詠せられけるにや。そこには雨ふることにを、打ふれはとあり。今の注のことし。尾花かうへを末といへり。夕立を昔は秋の物とせり。されと夕立といふへき雨は、七月下旬まてふり作るを、此哥にては、秋雨をみなゆふたちともいへりけるなるへし
 
2170 秋芽子之枝毛十尾丹露霜置寒毛時者成爾家類可聞《アキハキノエタモトヲヽニツユシモオキサムクモトキハナリニケルカモ》
 
2171 白露與秋芽子者戀亂別事難吾情可聞《シラツユトアキノハキトハコヒミタレワクコトカタキワカコヽロカモ》
 
(62)戀亂とは露と芽子とを共に痛く愛する意なり、貫之の春秋に思ひ亂て分かねつ、時に付つゝうつる心はとよまれ