〔入力者注、これより早稲田大学出版部蔵版〕
 
(1)萬葉集代匠記卷之七上
              僧 契沖撰
              木村正辭校
 
初、萬葉集第七代匠記
 
雜謌
 
詠天
 
1068 天海丹雲之波立月舩星之林丹※[手偏+旁]隱所見《アメノウミニクモノナミタチツキノフネホシノハヤシニコキカクルミユ》
 
天海丹、【拾遺、並人丸家集、ソラノウミニ、別校本亦云、アマノウミニ、】  榜隱、【校本云、コキカクレ、】
 
天海とは大虚の緑にして廣き故なり.雲ノ浪、月ノ船、星ノ林も皆其物々に譬へたる中に、星はしげきを林と云へり、文選東京賦云、戈矛若v林、薛綜注曰、若v林言v多也、雲の波の立故に星の林に月の船を漕隠るとは、月の曇り或は入をかく云ひなすなり、六帖には發句天の川とて人丸の歌として天の原の題に入たり、
 
初、あめのうみに雲の波立月の舟ほしの林にこきかくるみゆ 天の海とは、大空のみとりにひろきゆへなり。雲の波、月の舟、星の林も、みな其もの/\にたとへたるなり。懷風藻、文武天皇御製月詩云。月舟移(リ)2霧渚(ニ)1、楓※[楫+戈]泛(フ)2霞濱(ニ)1
 
右一首柿本朝臣人麿之歌集出
 
(2)詠月
 
1069 常者曾不念物乎此月之過匿卷惜夕香裳《ツネハサモオモハヌモノヲコノツキノスキカクレマクヲシキヨヒカモ》
 
曾の字、六帖夕月夜の歌に入て、今の點の如くあれど、サモとよまむ事おぼつかなし、第十に木高者曾木不殖《コタカクハカツテキウヱジ》と云にも亦第十六に吾待之代者曾無《ワガマチシヨハカツテナシ》とよめるにも共に常の如くカツテと點じたれば今も然よむべき歟、常ハとは夕闇の時を云へるか、
 
1070 大夫之弓上振起借高之野邊副清照月夜可聞《マスラヲノユスヱフリタテカルタカノノヘサヘキヨクテルツキヨカモ》
 
弓末を振起て鹿を獵とつゞけたり、月夜はツクヨとも讀べし、
 
初、ますらをのゆすゑふりたてかるたかの かるたか野は大和なり。弓末ふりたてゝ獵といひかけたる詞なり。神代紀上云。 《フリ》2起《タテ》弓※[弓+肅]《ユハスヲ》1。第三卷笠金村の哥にも此二句ありき
 
1071 山末爾不知與歴月乎將出香登待乍居爾與曾降家類《ヤマノハニイサヨフツキヲイテムカトマチツヽヲルニヨソフケニケル》
 
第六に有し忌部首黒麿歌に似たり、又今やがて下にも似たる歌あり、
 
初、山のはにいさよふ月を 第六忌部黒麿哥、又此下の第四葉にもよく似たる哥有
 
1072 明日之夕將照月夜者斤因爾今夜爾因而夜長有《アスノヨモテラムツキヨハカタヨリニコヨヒニヨリテヨナカヽラナム》
 
斤は片を誤れり、物の面白き時かく思ふはよのつねなり、
 
初、あすの夜も あすの夜をも、こよひにあはせひとつにして、月を見たきなり。第六には、こよひのなかさいほよつきこそとさへよめり」
 
(3)1073 玉垂之小簾之間通獨居而見驗無暮月夜鴨《タマタレノコスノマトホシヒトリヰテミルシルシナミユフツクヨカモ》
 
通、【六帖、トホリ、官本又點同、】  見驗無、【六帖、ミルシルシナキ、別校本同v此、】
 
簾は簀垂の意に名付たれば|す〔右○〕とのみも云へり、史記范|雎《スイ》列傳曰、雎佯死、即卷以v簀、【索隱曰、簀、謂2葦荻之薄1也、】通はトホシともトホリとも點ずれば、影の、此方にとほるなり、又とほしは簾越に内より見透すとも云べし、とほりは月の方に限るなり、無の點は六帖に依べし、六帖に此歌主をいへのをとくろまろとあるは忌部首黒麿なるべし、此には作者を云はざるものを、
 
初、みるしるしなきは、みるかひなきなり
 
1074 春日山押而照有此月者妹之庭母清有家里《カスカヤマナヘテテラセルコノツキハイモカニハニモサヤケカリケリ》
 
押而、【官本亦點云、オシテ、】
 
第八に我屋戸爾月|押《オシ》照有とよみたれば押而はオシテと讀べし、照有をもテリタルともよむべし、第十一云、窓起爾月臨照而云々、これも難波の枕詞のおしてるを臨照とかけるにて知ぬ、オシテリテなるをサシイリテと點ぜるは誤なり、月の中天に臨て下界を照すをおしてゝらせるとは云へり、
 
初、春日山おしてゝらせるこの月は なへてとあるもおなしことなから、字のまゝにおしてとよむへし。第八にもわかやとに月おしてれりとよめり。第十一にまとこしに月|臨照而《オシテリテ》とよめる哥有。月さしいりてと點をくはへたるはあやまれり。これも月おしてりてなり。おしてるやなにはといふに、此集に兩所まて臨照とかけり。おしてといへるは、臨ての心なり。なへてといふも心はかよへり。帝の天下に臨たまふといふも、なへてしろしめせはなり
 
(4)1075 海原之道遠鴨月讀明少夜者更下乍《ウナハラノミチトホミカモツキヨミノヒカリスクタクヨハフケニツヽ》
 
少、【袖中抄云、スクナシ、】
 
神代紀上云、月讀尊者可3以治2滄海原潮之八|百重《ホヘヲ》1也、詩にも團々離2海境1と作れる如く、海邊にて見れば月は海より出來るやうなれば此一二の句はあるなり、明少は袖中抄のやうにも亦はヒカリスクナキとも讀て此を句絶とすべし、明少とは光輝のすくなきと云にはあらず、照間のすくなきなり、道とほみかもと云にて知べし、
 
初、海原の道遠みかも さきに天の海といふに准せは、此海原天をもいふへし。又團々離2海境1といふことく、海より出くるやうなれは、まことの海をもいふへし。此哥は光すくなくとある所を、すくなきとよみてこゝを句絶として、上の四句をよみつゝけはしかるへし
 
1076 百師木之大宮人之退出而遊今夜之月清左《モヽシキノオホミヤヒトノタチイテヽアソフコヨヒノツキノサヤケサ》
 
退出而、【六帖云、マカリイテヽ、】
 
初、もゝしきの大宮人の 第三鴨君足人か香具山の哥の中に、もゝしきの大宮人の立出てあそふ舟にはなとよめり
 
1077 夜于玉之夜渡月乎將留爾西山邊爾塞毛有糠毛《ヌハタマノヨワタルツキヲトヽメムニニシノヤマヘニセキモアラヌカモ》
 
落句は塞のあれかしと願ふ意なり、
 
1078 此月之此間來者且今跡香毛妹之出立待乍將有《コノツキノコノマニクレハイマトカモイモカイテタチマチツヽアラム》
 
此間は今按集中にコノマともコヽとも點じたれば今はコヽニモと讀べきか、且今は、(5)いまや/\の意なり、第二に人丸の妻の旦今日旦今日《ケフ/\》ととよまれたるに付て云が如し、
 
初、此月のこのまにくれは このまにくれはとは、こゝにくれはなり。月の立のほりて、こゝもとにおもしろくてりくるなり。いまとかもとは、今やこんの心なり。第二卷にけふ/\とわか待君といふに、且今日且今日とかけり。こゝに今といふに且今とかけるも治定せさる心なれは、且の字をくはへてかけるなり
 
1079 眞十鏡可照月乎白妙乃雲香隱流天津霧鴨《マソカヽミテルヘキツキヲシロタヘノクモカカクセルアマツキリカモ》
 
神代紀上云、伊弉諾尊右手持2白銅鏡1則有2化出之神1、是(ヲ)謂2月弓尊1、今のマソカヾミは照べきと云はんためながら又此意も有べきか、此歌六帖には雜月に入て乙九の歌とす、おぼつかなし、
 
1080 久方乃天照月者神代爾加出反等六年者經去乍《ヒサカタノアマテルツキハカミヨニカイテカヘルラムトシハヘニツヽ》
 
神代ニカ出反ラムとは、世の降り年の經るに隨て萬の事替り行に、月の光のみ昔にかはらずめでたく照るをほむる詞なり、
 
初、久方の天てる月は神代にか出かへるらん神代紀云。次生(マツリマス)2月神1【一書云。月弓尊。月夜見尊。月讀尊】其(ノ)光彩《ウルハシウシテ》亞《・ツケリ》v日(ニ)。可2以配v日而|治《シラス》1。故(レ)亦送(マツル)2之于天1。一書曰。伊弉諾尊曰〇右手持2白銅鏡1則有2化出之神1。是謂2月弓尊1。又云。復洗2右(ノ)眼《ミメヲ》1因以生神(ヲ)號曰2月讀尊1。〇月讀者可3以治2滄海原潮之八百重1也。又云。月夜見尊者可3以配v日而知2天事1也
 
1081 烏玉之夜渡月乎※[立心偏+可]怜吾居袖爾露曾置爾鷄類《ヌハタマノヨワタルツキヲアハレトテワカヲルソテニツユソオキニケル》
 
※[立心偏+可]怜ば今按此前後の書樣を思ふにアハレトテと二字を讀付べくもあらねばオモシロミと讀べきか、第二の舒明天皇の御歌にかくよめり、露ゾ置ニケルとはおぼえず夜(6)の深る意なり、
 
1082 水底之玉障清可見裳照月夜鴨夜之深去者《ミナソコノタマサヘキヨクミツヘクモテルツキヨカモヨノフケユケハ》。
 
1083 霜雲入爲登爾可將有久堅之夜度月乃不見念者《シモクモリストニカアラムヒサカタノヨワタルツキノミエヌオモヘハ》
 
霜クモリとは霜の多くふらむとては月も照にてるを曉に曇などするを云べし、月落烏啼霜滿v天など詩にも作れり、雲入とかけるは曇ると云詞、すなはち雲入の意なり、爲登爾可はスルトニカとも讀べし、六帖にするにやとあるは改たるなり、
 
初、霜くもりすとにかあらん 此霜くもりといふは、俗にしもをるゝといふに似たり。いたく霜のふりたる朝は、かならす日のよくはるゝを、ある時ひしけてくもりくらすを、霜をるゝといへり。これに准するに、夕霜なとのおほくふれる夜、月のくもるをいふにや。又霜のふらんとては、大かた月もよくさゆるを、もし大にふらんとては、くもる物にや。心をつくる人知ぬへし
 
1084 山末爾不知夜經月乎何時母吾待將座夜者深去乍《ヤマノハニイサヨフツキヲイツトカモワカマチヲラムヨハフケニツヽ》
 
初、山のはにいさよふ月 さきによく似たる哥ありて注しき
 
1085 妹之當吾袖將振木間從出來月爾雲莫棚引《イモカアタリワカソテフラムコノマヨリイテクルツキニクモナタナヒキ》
 
出來、【六帖云、イテコム、】
 
雲なたな引そと云ぬは古語なり、第八第十一にもかくよめり、
 
1086 靭懸流件雄廣伎大伴爾國將榮常月者照良思《ユキカウルトモノヲヒロキオホトモニクニサカヘムトツキハテルラシ》
 
延喜式第八六月祓祝詞云、天皇朝廷 爾 仕奉 留 比禮挂伴男《スヘラミカトニツカヘマツルヒレカクルトモノヲ》、手襁挂伴男《タスキカクルトモノヲ》、靫負伴男《ユギオフトモノヲ》、劔佩伴(7)男《ツルギハクトモノヲ》、伴男 能 八十伴男 乎 始 ?云々、伴氏は物部にて種類廣ければ其伴氏の廣く榮ゆる如く國も榮えむと云意なり、但國榮えむとて月の照こと若本説などあるか、未v考、謝希逸月賦に、委v照而呉業昌、淪v精而漢道融とあれども此に叶はず、
 
初、ゆきかくる伴の雄ひろき 延喜式第八、六月晦大祓祝詞云。天皇朝廷《スヘラミカトニ》爾仕奉留、比禮挂(ル)伴(ノ)男、手襁《タスキ》挂(ル)伴(ノ)男、靫負(ル)伴(ノ)男、劔《タチ》佩(ル)伴(ノ)男、伴(ノ)男(ノ)能八十伴男乎始※[氏/一]鶯々。伴氏はものゝふにて、部類廣けれは、とものをひろきとはよめり。其伴氏の廣く榮ゆることく、國もさかえむといふ心なり。たゝし國さかえむと月はてるらしといふこゝろいまた得す
 
詠雲
 
1087 痛足河河浪立奴卷目之由槻我高仁雲居立有良志《アナシカハカハナミタチヌマキモクノユツキカタケニクモタテルラシ》
 
雲居立有良志、【校本云、クモヰタテルラシ、】
 
卷目之由槻我高はすなはち痛足山なり、古今顯昭秘注、まきもくのあなしの山の山人ととよめる神楽歌の注に、卷向の山とも云、穴師の山とも云、さてかく卷向の穴師と詠《ヨミ》つゞくるなり、由槻我高は、由槻は弓槻なり、槻は弓の良材なれば弓槻と云槻の木多き山にて、此名を負歟、下の歌に弓月高と書るも月は借てかけるなり、泊瀬にも弓槻をよみたれど弓槻は何處にも似つかはしき處にはよみぬべし、弓槻が高といへるは、卷向山に取て最高頂を云なるべし、雲居立有良志は校本の如く、クモヰタグテルラシと讀べし、字に叶へる上に、景行紀に思邦《クニシノヒ》の御歌に和藝弊能伽多由區毛位多知區暮《ワキヘノカタユクモヰタチクモ》とよませ(8)給へるを證とすべし、それに取て雲居とつゞくべきか、雲と云ひて居立るとつゞくべき歟、雲は居る物なれば雲を雲居ると云ひ馴たるべければ下は立有ラシと讀べし、河浪の立とは二つの意侍るべし、一つには雲に依て風の吹故なり、古事記中神武天皇段に、伊須氣余理比賣の歌曰、佐韋賀波用久毛多知和多理字泥備夜麻《サヰガハユクモタチワタリウネビヤマ》、許能波佐夜藝奴《コノハサヤギヌ》、加是布加牟登須《カゼフカムトス》、又、歌曰、宇泥備夜麻此流波久毛登韋由布佐禮婆《ウネビヤマヒルハクモトヰユフサレバ》、加是布加牟登曾許能波佐夜牙流《カゼフカムトソコノハサヤゲル》、二つには、雲によりて雨の降なり、此卷下に、さざ浪の連庫山に雲居ては、雨ぞ零ちふかへりこ吾背、とよめるに准らへて思ふべし、但次の歌の注を待べし、
 
初、あなし川かはなみ立ぬ ゆつきかたけに雲たてるらし。あなし川に波のたつとは、雲のたては、雨のふるゆへにいへり。雲居立有良志。これを雲たてるらしとはよみかたし。立の字は而の字をあやまれるにや。而の字ならば雲ゐたるらしとよむへし。下に、さゝ浪のなみくら山に雲居ては雨そふるちふ《・といふなり》かへりこわかせ。これにあはせてみるへし
 
1088 足引之山河之瀬之響苗爾弓月高雲立渡《アシヒキノヤマカハノセノナルナヘニユツキカタケニクモタチワタル》
 
第九宇治河作歌云、秋風の山吹の瀬のなるなへに、天雲翔る雁に相るかも、此歌によれば瀬のなるは風に依なり、又此卷下にも卷向の川音高しあらしかもときとよめり、
 
右二首柿本朝臣人麿之歌集出
 
1089 大海爾島毛不在爾海原絶塔浪爾立有白雲《オホウミニシマモアラナクニウナハラノタユタフナミニタテルシラクモ》
 
不在爾、【官本又云、アラヌニ、】
 
(9)二つの意あるべし、島もなきにたゆたふ浪の上に白雲の立て島の如く見ゆるとも云べし、又著て居るべき島もなきにいかでたゆたふ浪の上には雲の立て見ゆるぞと云意得つべし、續古今に人丸歌とて入られたる事、家集と云物にさへ載せず、六帖にも唯海の歌に作者もなくて載たれば彼是につきておぼつかなし、
 
初、たゆたふなみに たゆたふはやすらふ心なり。沖のなみの、いつかたともよるかたなき意なり。大海に嶋もなけれは、よるかたなくたゆたふ浪の上に、雲も立つゝきてみゆるこゝろなり
 
右一首伊勢從駕作
 
此は、持統天皇朱鳥六年の御供歟、聖武天皇天平十二年の御供歟、上下を見合するに朱鳥の御供なるべし、
 
詠雨
 
1090 吾妹子之赤裳裙之將染?今日之※[雨/脉]※[雨/沐]爾吾共所沾者《ワキモコカアカモノスソノソメヒチムケフノコサメニワレトヌレヌナ》
 
所沾者、【六帖云、ヌレナハ、】
 
今按二三の句六帖にはあがものすそやしみぬらむとて、落句を吾もぬれなばとあらためたれば上下相應せずして意背けり、又今の腰の句の點にてはソミヒヂムと云べし、落句は字に當らず、二三を赤裳ノ裾カシミヒヂム、落句をワレトモニヌレバとよま(10)ば然るべきか、之の字清める|か〔右○〕の音に用《ツカ》へる事第一卷に人丸の近江舊都をよまれたる歌注の云が如し、
 
初、わきもこかあかもの そめひちむといふが句にて、下の句はけふのこさめにわれとぬれなはとよむへし。ぬれぬなとある點はあやまれり。※[雨/脉]※[雨/沐]は和名集云。兼名苑云。細雨一(ノ)名(ハ)※[雨/脉]※[雨/沐]。小雨也。麦木二音【和名古左女】
 
1091 可融雨者莫零吾妹子之形見之服吾下爾著有《トホルヘキアメハナフリソワキモコカカタミノコロモワレシタニキタリ》
 
可融、【六帖云、トホルヘク、】  形見之服、【六帖云、カタミノキヌヲ、官本亦點同v此、】
 
詠山
 
1092 動神之音耳聞卷向之檜原山乎今日見鶴鴨《ナルカミノオトノミキクマキモクノヒハラノヤマヲケフミツルカモ》
 
1093 三毛侶之其山奈美爾兒等手乎卷向山者繼之宜霜《ミモロノソノヤマナミニコラカテヲマキモクヤマハツキテシヨシモ》
 
山ナミは山並なり、コラガ手ヲとは卷とつゞけむためなり、卷向山は三輪山の北につづけり、繼テシの|し〔右○〕は助語なり、
 
初、みもろのその山なみに その山なみは、山のつゝきなり。こらか手をまきもく山とは、妹か手を枕にするといふ心につゝけたり
 
1094 我衣色服染味酒三室山黄葉爲在《ワカキヌノイロキソメタリウマサカノミムロノヤマノモミチシタルニ》
 
味酒、【官本云、ウマサケ、】
 
色服染は著初たりなり、染の字色を染るには非ず、我衣の色をもみぢする山の著初と(11)なり、さて下の注に依て此歌の義兩樣侍るべし、一つには人丸の歌ならば、人丸の官位は云にも足らぬ程の事と見えたれば朝服も黄色の袍などにて山のうすもみぢにきばみたるを我衣の色を山も著始たりと云へる歟、若他人の歌を載たらば、もみぢを黄葉と書ども衣は黄なるにも緋なるにも亘るべし、唯きぬの色と云はで我衣と云に依て此料簡はあるべきなり、又今按色服は本は我衣服色染なるをかへさまに寫して、ワガキヌノイロニソメタリにもやあらん、
 
右三首柿本朝臣人麿之歌集出
 
1095 三諸就三輪山見者隱口乃始瀬之檜原所念鴨《ミモロツクミワヤマミレハコモリクノハツセノヒハラオモホユルカモ》
 
神代紀上云、于時神光照v海忽然有(リ)2浮(ヒ)來(タル)者1曰、如吾不(レハ)v在者汝|何《イカンソ》能平2此國1乎、由2吾(レ)在(ニ)1故《ユヱニ》汝得v建2其|大造績《オホヨソイタハリヲ》1矣、是(ノ)時(ニ)大己貴(ノ)神問曰、然則汝是|誰《タレソ》耶、對(ノ)曰、吾《アレ》是|汝《イ》之|幸魂《サキミタマ》奇《クシ》魂也、大己貴神(ノ)曰、唯然《シカリ》廼知汝是|吾《アカ》之幸魂奇魂今欲2何處|住《スマント》耶《ヤ》、對(ノ)曰、吾《アレ》欲v住(ント)2於日本國之三諸(ノ)山(ニ)1、故即(チ)營2宮彼處1使2就《ユイテ》而|居《マシマセ》1、此|大三《オホミ》輪之神(ナリ)也、みわ山をみもろとしてそこにつきて御坐ば三諸就三輪とは云へり、泊瀬山は三輪の少東南に當て近ければ、三輪の檜原を見て泊瀬の檜原も思ひやらるゝとは、此好きを見て彼好きを准らへて知る意なり、
 
初、みもろつくみわ山 第三巻にも、みもろつくかせ山のまにとよめり。これはみわ山を神のみむろとして、そこにつきておはしませは、みむろつくみわ山とはいへり。みわ山は、はつせやまのいぬゐの方にて、近けれは、みわのひはらをみて、泊瀬のひはらもおもひやらるゝとは、ともに賞する心なり
 
(12)1096 昔者之事波不知乎我見而毛久成奴天之香具山《イニシヘノコトハシラヌヲワレミテモヒサシクナリヌアマノカクヤマ》
 
古今に、我見ても久しく成ぬすみよしの、岸の姫松幾代へぬらむ、同意なり、
 
初、いにしへのことは 我みてもひさしくなりぬすみよしのきしのひめ松いくよへぬらん。古今集の此哥とおなし心なり
 
1097 吾勢子乎乞許世山登人者雖云君毛不來益山之名爾有之《ワカセコヲコチコセヤマトヒトハイヘトキミモキマサヌヤマノナニアラシ》
 
乞許世《コチコセ》山は巨勢山を云はむとて吾背子を此方へこせ山とつゞけたり、第三にさゞら浪いそこせぢなると云ひ、第十には吾せこをなこせの山ともつゞけたり、こち〔二字右○〕と云詞ともに山の名なるに非ず、石上袖ふる川の如し、人丸集に、我せこをきませの山と人はいへど、山の名ならし君もきまさずとあるを拾遺には用て、下の句は君もきまさぬ山の名ならしとあり、六帖は山の歌に拾遺と全同にて載たれど今の集の如く作者を云はず、前後皆大和の名所なる中にあれば巨勢なる事知べし、然るをこち、こせ、きませ〔七字傍線〕、意替らねば、聞よくよみかへたるにやおぼつかなし、きませの山近江にて比叡山にありと云説も亦おぼつかなし、六帖川の歌に、をちへ行こちこせ川に誰しかも、色どりがたき緑染けむ、これ今の歌と同じく巨勢川を云へるか、君毛不來益は人丸集の如くキマサズと讀べし、こせ山と云ひてはきますべき山の名なるを、きまさぬ山の名とつゞけては字相違せり、此歌は第九に、吾妹子が赤裳ひづちて植し田を、刈て藏めむ倉無の濱(13)とよめる如く、唯許世山の名に付てかくはよみて戀の歌にもあらざるべし、
 
初、わかせこをこちこせ山と 拾遺集戀二に、此第二句を、きませの山と改て、人まろの哥と載らる。彼集をばしはらく置ぬ。これは高市郡巨勢山を、わかせこをこちへこせ山といひつゝけたり。こちといふ詞ともに、山の名にはあらす。下の句をこゝろうるに、ふたつのやう有へし。君もきまさすとよみて句として、山の名ならしとよまは、こちこせ山と人はいへと、君もこす。こせ山といふは、たゝいたつらなる山の名にてあるらしといふ心なり。君もきまさぬ山の名ならしとつゝけてこゝろ得は、こせ山といふは、人をまねきよふ詞なり。人のこねはこそ、こちこせ山といへは、君もこぬ山の名にあるらしといへり。類字名所抄といふ物に、近州滋賀郡在2比叡山1といへり。此哥の前後皆やまとの名所なり。ふる山、ふる川を、袖ふる山、袖ふる川といへるかことく、こせ山をいひてもしのたらねは、こちこせ山といふと知へし。其例猶おほし。六帖川部に、をちへ行こちこせ川に誰しかもいろとりかたきみとりそめけむ
 
 
1098 木道爾社妹山在云櫛上二上山母妹許會有來《キチニコソイモヤマアリトイヘカツラキノフタカミヤマモイモコソアケレ》
 
櫛上、【別校本亦云、ミクシケノ、官本或作2三櫛上1、點云、ミクシケノ、別校本無2三(ノ)字1、】
 
妹山在云は今按登伊反?なればイモヤマアリテヘともよむべし、妹山は背山に對する名なれば、二上山の兩山相向へるを云はむ爲なり、櫛上をカツラキと點ぜるは葛城にあればとて強てよめる歟おぼつかなし、越中にも同名あるを、第十七に家持のたまくしげふたがみ山とよまれたるは匣の葢とつゞけたれば、今もクシゲノと讀べきか、延喜式に葛木二上神社二座とあるは彦神姫神なるべし、
 
初、きちにこそ妹山有といへ 妹山有といへとといふは、まことには、いも山せ山有といへといふこゝろなり、此いもせは夫婦なり。背といふ物あるにより、妹といふ事もあるなり。されはきのくにゝこそ、いも山せ山あひたくひてありといふを、此ふたかみ山もいもせこそ有けれとなり。山のふもとひとつにて、末ふたつにわかれて相對したれは、二上とはいへり。これも夫婦相對したるやうなれは、いもせ山をは取合せていへり。第二、大伯皇女の御哥に、うつせみの人にある我やあすよりはふたかみ山をいもせとわれみんとよませたまへるもそのよせあり。櫛上をかつらきとはよまて、くしあけのとよみて、くしあけのはこのふたといひかけたりといふは、しかるへしともきこえす
 
 
詠岳
 
1099 片崗之此向峯椎蒔者今年夏之陰爾將比疑《カタヲカノコナタノミネニシヰマカハコトシノナツノカケニナミムカ》
 
此向峰、【官本亦云、コノムカツヲニ、】
 
片崗は名所ならでもよめども此前後大和の地名どもをよみたれば是も葛上郡の片岡なるべし、此向峯はコノムカツヲニとよめる好し、此卷下にも向峯とも向岡とも書(14)てムカツテとよみ、其外猶處々によめり、皇極紀に猿がよめる歌にも、武※[舟+可]都烏爾※[こざと+施の旁]底屡制羅我※[人偏+爾]古禰擧曾《ムカツヲニタテルセラカニコネコソ》云云、陰爾將比疑とは蒔たる椎の能生たちならびて納凉の陰とならむかとなり、此歌は喩ふる所有てよめる歟、向峯は遠く、今年の陰に椎蒔は遲し、楚河を轍魚のために決らむ事を期するやうなる故有てよめる歟、六帖に椎の歌として人丸と載す、下に右二首と注するに遇たれば今は作者なき物を、
 
詠河
 
1100 卷向之病足之川由往水之絶事無又反將見《マキモクノアナシノカハユユクミツノタユルコトナクマタカヘリミム》
 
下の句は、第一第六に同じくよめる有き、
 
1101 黒玉之夜去來者卷向之川音高之母荒足鴨疾《ヌハタマノヨルサリクレハマキモクノカハオトタカシモアラシカモトキ》
 
ヨルサリはよさり〔三字右○〕と云に同じ、伊勢物語によさり此有つる人給へとあるじに云ければ云云、
 
右二首柿本朝臣人麿之歌集出
 
(15)1102 大王之御笠山之帶爾爲流細谷川之音乃清也《オホキミノミカサノヤマノオヒニセルホソタニカハノオトノサヤケサ》
 
大王ノ御笠は葢なり、帶ニセルとは細谷川の山を廻るは帶の腰にあるに似たる故なり、第十三にもよめり、第十三第十七におばせるとよめるも同義なり、古今に眞金吹吉備の中山と云歌の下三句今と全同なり、此細谷川と云へるは藤原長能の御笠山麓をぬける佐保川のとよまれたるを思へば佐保川の事なり、史記婁敬列傳云、且夫秦(ノ)地(ハ)被v山帶v河(ヲ)、
 
初、大きみのみかさ 大きみのめす御かさとつゝけたり。帶にせるとは、山をめくりてほそくなかるゝ谷川は、帶の腰にめくれるに似たれは、たとへていへり。第十三に、みもろの神のをひにせるあすかの川、又神なひ山のをひにせるあすかの川ともよめり。古今集に、まかねふくきひの中山以下の三句今と全同なり。漢高祖の功臣を封し給ふ時の詞にも、泰山は砥のことく、黄河は帶のことくなりぬとも、此誓は變せしといへり。史記劉敬列傳云。且夫秦(ノ)地(ハ)被v山(ヲ)帶(ニス)v河(ヲ)。さやけさを清也とかけるは、さやけさは決したる詞なるゆへに、也の字は助辭にそへたるなり
 
1103 今敷者見目屋跡念之三芳野之大川余杼乎今日見鶴鴨《イマシクハミメヤトオモヒシミヨシノヽオホカハヨトヲケフミツルカモ》
 
敷は助語なり、下に玉拾ひしくと云ひ、第十五に、しましを、しましくと云へる類なり、三四の句は古今にも三吉野の大川淀の藤浪とよめり、
 
初、今しくはみめやと 今しくのしくは助語なり。たゝし俗に今なとみんとはおもひもよらさりしといふ心にきこゆ。しくをすてゝ今はとのみいひては、作者のこゝろたらさるへし
 
1104 馬並而三芳野河乎欲見打越來而曾瀧爾遊鶴《ウマナメテミヨシノカハヲミマクホリウチコエキテソタキニアソヒツル》
 
馬並而は思ふどち打つれて來るなり、
 
1105 音聞目者未見吉野河六田之與杼乎今日見鶴鴨《オトニキヽメニハイマタミヌヨシノカハムツタノヨトヲケフミツルカモ》
 
(16)1106 河豆鳴清川原乎今日見而者何時可越來而見乍偲食《カハツナクキヨキカハラヲケフミテハイツカコエキテミツヽシノハム》
 
此歌も吉野にての作なるべし、清川原は第六に赤人久木生る清川原とよまれたるに注せし如く唯吉野の川原の清きを云べし、
 
初、かはつなくきよきかはらを けふみて、又いつかこえきてみつゝ、けふのことをむかしとしのはむとなり
 
1107 泊瀬川白木綿花爾墮多藝都瀬清跡見爾來之吾乎《ハツセカハシラユフハナニオチタキツセヲサヤケクトミニコシワレヲ》
 
瀬清跡、【官本云、セヲサヤケシト、】
 
第六に泊瀬女の造る木綿花と讀たればおのづから似合たり、瀬清跡はセヲサヤケシトとよまば可v然歟、見ニ來シ吾ヲとは此|を〔右○〕の字つよく意を著ては見るべからず、唯助語の類なり、
 
初、泊瀬川白ゆふ花 浪を白ゆふにまかへたる哥、此集に數しらす
 
1108 泊瀬川流水尾之湍乎早井提越浪之音之清久《ハツセカハナカルヽミヲノセヲハヤミヰテコスナミノオトノサヤケク》
 
水尾とは河中に水の深く流るゝ筋を云、水脉とかけり、井提は八雲御抄云、井手と云は井堤とかけり、ひきなるつゝみなり、今按こゝにも、亦第十一のあてこす浪とよめるにも、玉藻刈ゐでのしがらみと地の名をよめるにも皆井提とかけり、若此内に叡覽の御本には提を堤に作りけるにや、第十に、あさゐでに來鳴※[貌の旁]鳥とよめるには朝井代とか(17)けり、これらは皆假てかけり、和名.堰※[土+隷の旁]、唐韻云、堰※[土+隷の旁]※[雍/土]v水、上音偃、下音徒耐反、又與v代同(シ)、以v土(ヲ)遏v水(ヲ)也、【和名、井世木、】俗に此ゐせきをゐでと云、水をせき上るにも、又高きより卑きに落とてそこなふべき處に石をふせ、しがらみかきて、小石土などを交て防ぐをも云なり、誠の文字は堰手と書べし、手は繩手.道の長手など和語にそへて云事多き詞なり、
 
初、泊瀬川なかるゝみを 河中に水のふかくなかるゝ筋を、みをといふ。水脉とかけり。ゐてとは、川水を田なとにまかせ入むとて、其川をせき切てをく堤を、井手といふなり。田に入水のあまりては、此ゐてをなかれこゆるなり。谷川なとはいつくにてもしかする事なり
 
1109 佐檜乃能檜隈川之瀬乎早君之手取者將縁言毳《サヒノクマヒノクマカハノセヲハヤミキミカテトラハヨラムテウカモ》
 
能は熊に改むべし、隈に借る字なり、佐檜乃熊と云は、さは物に添へて云詞、ひのくまなるひのくま川と云へるなり、假令三吉野の吉野の山、眞玉手の玉手指替などよめるが如し、第二に佐日のくまわと日並皇子の舍人がよめる歌にも注しつ、又第十二にも今の如くよめり、そこに至て委しく注すべし、下の句は第三にも草取かなや君が手を取とよめり、檜隈川をつらき人と共に渡るが、痛く早くて危ければかゝる時に手を取て助けば我によらむと云はむかの意なり、古歌なれば落句の詞少意得がたけれど上の如く見るべし、設てよめるなるべし、又今按言の字此集にもわれと云に用たればヨラムワレカモと讀べき歟、孟子云、嫂溺援(フニ)v之以v手(ヲ)、
 
初、さひのくまひのくま川 和名集云。大和國高市郡檜前【比乃久末。】ひのくまを、さひのくまともいふゆへに、みよしのゝよしのゝ山といふことく、かさねていへり。第十二に、さひのくまひのくま川にうまとめて馬に水かへわれよそにみん。此哥を古今集にはさゝのくまひのくま川に駒とめてしはし水かへ陰をたにみんと載たり。神楽譜もおなし。これはいつとなくあやまれるなるへし。和名集云。但馬國|氣多《ケタノ》郡樂前【佐々乃久萬。】これこそさゝのくまには侍れ。さひのくまは、これ二音のみならす、第二卷にも、夢にたに見さりし物をおほつかな宮出もするかさひのくまわをとよめり。君か手とらはよらんてふかもは、よらんといはむかもの心なり。昔の哥は詞少あらくして、たらぬやうなり。これもひのくま川のいとはやきことをいはむとて、まふけてよめるなるへし。孟子云。淳于〓曰。今天下溺矣。夫子之不(ルコトハ)v援(ハ)何(ソヤ)也。曰。天下溺(ルトキハ)援(フニ)v之(ヲ)以(ス)v道(ヲ)。嫂溺(ルヽトキハ)援(フニ)v之(ヲ)以(ス)v手(ヲ)。子欲(スルカ)3手(ヲモテ)援(ハント)2天下(ヲ)1乎
 
1110 湯種蒔荒木之小田矣求跡足結出所沾此水之湍爾《ユタネマキアラキノヲタヲモトメムトアユヒイテヌレヌコノカハノセニ》
 
(18)湯種蒔、【別校本云、ユタネマク、】
 
發句は、ゆだねを蒔苗代の田を求めて定めむとと云意なれば今の點叶はず、ユダネマクと讀べし、湯種は第十五にも、青柳の枝きりおろしゆだねまきとよめり、湯は第一のゆついはむらと云に付て注せし如くしげくおほきことに聞ゆ、稻の種もわせ、中手、おくてに又各樣々の種の別れてあればゆだねと云なるべし、或物に書て侍りしは、種を蒔に早くはやさむとてはねるき湯に其種を涵して其後に田に蒔に依て湯種とは云へりとあり、種蒔ほどの例よりいと寒き春などはたま/\さもする事に侍れどそれは押並ての事にあらず、農民もよき事とてするにあらねば用べからず、荒木ノ小田は第十六にも荒木田のしゝ田の稲とよめり、荒木は大和なり、延喜式云、宇智郡荒木神社、大荒木と云も此處なり、第三に大荒木の時にはあらねどと云歌に注せしが如し、アユヒは雄略紀に脚帶とかけり、行纏《ハヽキ》の類なるべし、水をカハとよむ事第二に依羅娘子が歌に注せしが如し、
 
初、ゆたねまくあら木の小田を 第十五卷にも、あをやきのえたきりおろしゆたねまきとよめり。ゆたねといへるは、五百種といふ心なり。第一卷に注せしゆついはむらは、五百津磐村なり。稲種にも、わせ、なかて、おくてにをの/\さま/\のたねあれは、五百種といへるなり。或物にかきて侍りしは、種をまくに、はやくはやさんとては、湯をぬるくして、其たねをひたして、其後に田にまくなり。よりて湯たねとはいへりとあり。種まく比、例よりいと寒き春なと、たま/\さもする事に侍れと、をしなへての事にあらす。たゞゆさゝ、ゆつかつらなとに思ひ合すへし。荒木の小田は大和なり。第十六に、あらき田のしゝ田のいねともよめり。延喜式第九、神名帳上云。大和國宇智郡荒木神社。大あらきといふもこれなり。荒城氏を、大荒城といへることあり。此哥前後皆大和の名所をよみたれは、此哥の荒木の小田、同國なりと知へし。あらきの小田をもとめむとゝは、いつれの田をなはしろにさためんと思ふなるへし。あゆひは、日本紀に脚帶とかけり。行縢《ムカハキ》のたくひなるへし。水の字を川とよむ事は、第二卷に注せり
 
1111 古毛如此聞乍哉偲兼此古河之清瀬之音矣《イニシヘモカクキヽツヽヤシノヒケムコノフルカハノキヨキセノオトヲ》
 
見ながら愛するをも此集にはシノブとも戀ともいへり、
 
(19)1112 波彌※[草冠/縵]今爲妹乎浦若三去來率去河之音之清左《ハネカツライマスルイモヲウラワカミイサイサカハノオトノサヤケサ》
 
ハネカヅラは第四に既に注せり、去來卒率河とは、第四に味村のいざとは行けど、又第十六にいざにとや思ひてあらむともよめり、初て今はねかづらする女のめづらしくうら若ければいざといざなふと云意につゞけたり、率川は延喜式云、大和國添上郡率川坐大神御子神社三座、率川阿波神社、開化紀云、元年冬十月丙申朔戊申、遷2都(ヲ)于春日(ノ)之地1、是(ヲ)謂2率川《イサカハノ》宮(ト)1、【率川、此云2伊社箇波1、】
 
初、はねかつら今するいもを はねかつらは花かつらなり。第四卷にも、はねかつらいまするいもをゆめにみて、はねかつら今する妹はなかりしをと贈答せる哥あり。そこに注せしことく、花かつらは、女のかんさしに花を作りてさすなり。女のかんさしするは、男の元服にひとし。しかれは、めつらしく今花かつらする女の、また世つかすうらわかけれは、いざといさなふといふ心に、いざ/\川と序につゝけたり。率川は奈良のあたりなり。延喜式第九、神名帳上云。大和國添上郡率川坐|大神《ミワノ》御子神社三座。率川阿波神社。此内三枝祭とて二月十一月上酉日祭らるゝは、大神御子神社三座なり
 
1113 此小川白氣結瀧至八信井上爾事上不爲友《コノヲカハキリソムスヘルタキチユクハシリヰノウヘニコトアケセネトモ》
 
八信井、【官本亦云、ヤマヰ、】
 
白氣は、霧は水氣にて白ければかくかけり、至は去の字を誤れるか、至の字集中にユクとよめる事なし、義も亦行は不v止義、至は行つきて留る意にて替れり、但行ては至るべければ是までは餘の沙汰にやあらむ、八信井は下に落たぎつ走井水ともよめり、今は布留川、率川につらなり、下は甘南備、明日香川につらなりたれば、大和に有なるべし、信の字は播磨の播などに准らふべし、事上セネドモは物を高く云をことあげと云、神代紀にも吹棄|氣噴之狹霧《イフキノサキリ》など云如く高言すれば霧となるを、水は非情にて高言もせね(20)ども、水霧《ミキリ》行故に白氣の結て見ゆるとなり、
 
初、此小川きりそ 霧は白氣なるゆへに、意を得てかけり。白霧山深鳥一聲なと詩にもつくれり。ことあけせねともとは、興言高言なとかきて、ことあけとよめり。高言すれは、其氣霧のことし。神代紀に、吹棄氣噴之狭霧《フキウツルイブキノサギリ》といへり。霧も水氣の上りてなる物なれは、人はことあけせねとも、霧のむすへるは、はしり井のたきつなかれの水氣のゝほるが、非情なれとも、ことあけするやうなれはなりと、霧をいろへていへるなり。此はしり井は、いつれの國ともしらす。逢坂關に走井あれともそれとは見えす
 
1114 吾※[糸+刃]乎妹手以而結八川又還見萬代左右荷《ワカヒモヲイモカテモチテユフハカハマタカヘリミムヨロツヨマテニ》
 
初の二句は結と云べき序なり、ユフハ川は八雲御抄にも唯名をのみ載たまひて何れの國としらねど、上のつゞき猶大和なるべし、
 
1115 妹之※[糸+刃]結八川内乎古之并人見等此乎誰知《イモカヒモユフハカウチヲイニシヘノミナヒトミキトコレヲタレシル》
 
結八川内乎、【幽齋本云、ユフハカフチヲ、】
 
紐を結とつゞけたる事上に同じ、并人見等は、今按ミナヒトミメドと和すべきか、かほど清き川を古の名ある人々の遊て見ずは有まじけれど、記もおかねば誰か知らむとなり、
 
初、妹かひもゆふは川 此ゆふは川又いつれの國に有としらす。肥後にありときけと、此哥のつゝき大和めきたり。右の哥とおなしく、ひもをゆふとつゝけたり。いにしへのみな人みきとこれをたれしるとは、此川のおもしろけれは、いにしへの人もきてみぬ人はあるましけれと、水とゝもに過行ことなれは、まことには、いかなる人々のきたりてみたりといふ事を、たれかしらんとなり
 
詠露
 
1116 烏玉之吾黒髪爾落名積天之露霜取者消乍《ヌマタマノワカクロカミニフリナツムアマノツエシモトレハキエツヽ》
 
フリナヅムとは露のふりて人の煩むなり、露をツエ〔二字右○〕と點ぜるは書生の失錯と知べし、
 
(21)詠v露とて歌には露霜といへるは後々の題を意得るには替れり、今按第十にも詠v露とて、秋はぎの枝もとをゝに露霜置と讀たれば、露結爲v霜理なれば因中説果の例、同文故來の例など云風情に、露霜と云ひつゞけて露をやがて霜と云歟、
 
詠花
 
1117 島廻爲等礒爾見之花風吹而波者雖縁不取不止《アサリストイソニミシハナカセフキテナミハヨルトモトラスハヤマシ》
 
礒爾見之花とは此下に、あさりすと礒に我見しなのりそを、何れの島のあまか刈らむとよみ、第十春の歌に、引津の邊なるなのりそが、花咲までにあはぬ君かも、此二首を引合て按ずるに今よめる花もなのりその花なり、
 
初、あさりすといそにみし花 これは花を詠せる哥なれは、まことの花なり。玉もかいつ物をさるとて、おもほえす磯へに見たる花の、めつらしくおもしろけれは、風ふきて浪はよせくともおらては過しとなり
 
詠葉
 
1118 古爾有險人母如吾等架彌和乃檜原爾挿頭※[手偏+力]兼《イニシヘニアリケムヒトモワカコトヤミワノヒノクニカサシヲリケム》
 
檜原爾、【校本云、ヒハラニ、】
 
1119 徃川之過去人之手不折者裏觸立三和之檜原者《ユクカハノスキユクヒトノタヲラネハウラフレタテリミワノヒハラハ》
 
(22)徃川ノとは過去人といはむ爲なり、今按スギニシ人とも讀べし、第九に此も人丸集の歌に、徃水の過去妹がとよめるに同じ、過去人とは上の歌に、古に有けむ人と云へる人なり、タヲラネバとは再たをらぬなり、ひはらのうらぶれ立とは蒼々としてたてるが何とやらむ思ふ事あるものゝやうなるをいへり、是は昔の人の又も來てたをらぬを戀るさまに云へり、此歌より上の歌を見るに、古有けむ人も今我かざし折如くこそ折けむを、人も今はたをらぬを檜原のうらぶれて戀れば、いつか又我もたをらずなりて檜原に戀られむとなり、初の歌は本意を畧して云ひて後の歌は委しく云へり、古歌はかかる事おほし、
 
初、往川の過ゆく これは、道過る人にいひたるにはあらす。河水のなかれて歸らさることくに、命過にし古人をいふなり。前の哥に、わかことくかさしや折けんと問ふやうによみて、いにしへの人のたをらねは、みわのひはらは、人の物おもふ時のやうに、うらふれてみゆるとこたへてよめるなり。うらふれは、此集にあまたよめり。しなえうらふれなとつゝくれは、葉をたれてしほれたるやうに見ゆるをいふなり。顯昭古今秘注には物を思ひなつむ心といへり
 
右二首柿本朝臣人麿之歌集出
 
詠蘿
 
和名集苔類云、唐韻云、蘿、【魯何反、日本紀私記云、蘿比加介、】女蘿也、苔の字などゝは意少替れど今も苔と通ぜり、
 
1120 三芳野之青根我峯之蘿席誰將織經緯無二《ミヨシノハアヲネカミネノコケムシロタレカヲリケムタテヌキナシニ》
 
(23)三芳野之【校本云、ミヨシノヽ、】
 
發句の今の點は書生の誤なり、青根が峯の名は、苔筵におのづから叶へるか、意ありて呼出せるか、莚を織にも經は表にこそあらはれね中にはある事なればタテヌキナシニと云へり、天工のおのづから妙なるをほめて云意なり、
 
初、みよしのゝあをねかみねの これは天工の自然に妙なるをいはむとて、かくはよめり。第八大津皇子御哥に、たてもなくぬきもさためすをとめらかをれるもみちに霜なふりそね。青根か峯は、をのつから蘿席に緑ある名なり
 
詠草
 
1121 妹所等我通路細竹爲酢寸我通靡細竹原《イモカリトワカカヨヒチノシノスヽキワレシカヨハヽナヒケシノハラ》
 
此シノスヽキは、細竹をやがてすゝきと云ひて常に穗に出とも亦出ずともよめる薄の中の一名にはあらざる歟、其故は結句になびけ細竹原とは上のしのすゝきを指て云へばなり、薄を本として小竹《シノ》に似たるをしのすゝきと云意ならばしの原とは云まじくや、若又薄を細竹に攝して云へば歟、神功皇后紀の神託の幡|荻《スヽキ》孝徳紀の姓の蘆、又和名云、爾雅云、草聚生曰v薄、【新撰萬葉集和歌云、花薄、波奈須々木、今案即厚薄之薄字也見2玉篇1、】辨色立成云、※[草がんむり/千]、【和名上同、今案※[草がんむり/千]音千、草盛也、見2唐韻1、】此等に依て思へばすゝきをみくさと云とも云ひ、又俗にかやとも云ひ、又しのとも云べき物なり、六帖にはしのすゝきに入たり、人丸の歌とせるはおぼつかなし、第十三に、吾通路のおきそ山三野の山、靡かすと人はふめどもなどよみ、第十に、さを鹿の妻と(24)とのふと鳴聲の至らむかぎりなびけ芽子原とよめる歌引合て見るべし、
 
初、いもかりとわかゝよひち しのすゝきも心あらは、いもかりとわかかよふ時は、なひきてとほらしめよなり。しのはらといへるも、上のしのすゝきの事なり。いもかりを、妹狩と心得たるはあやまりなり。いもかもとへといふ事なり。こゝに妹所とかける、その心なり。茸狩なとゝはおなしからす
 
詠鳥
 
1122 山際爾渡秋沙乃徃將居其河瀬爾浪立勿湯目《ヤマノハニワタルアキサノユキテヰムソノカハノセニナミタツナユメ》
 
別校本に、發句をヤマキハニと點じたれぢ、第四に岳本天皇の御歌に、山のはに味村さわぎゆくなれどと讀せたまへると同じ體なれば彼をも例として今取らず、彼本の又の點にヤマノマニともあれど、山間を山際とかける所あるは山のあひだの意なり、今は天際雲際など云如く和語にてはやまぎはの意なり、俗に山ぎはと云は山の根をいへり、歌によむは然らず、それも山のはなり、源氏若菜上に、山ぎはより指出る日のはなやかなるに云々、これにて知べし、秋沙は鳧の類にて能むれて飛物なり、浪タツナユメとは彼が上をあはれひて云なり、此意をひろめば思に漏るものあらじかし、
 
初、山のはに 山きはにともよむへし。山きはも山のはなり。源氏物語若菜上に、山きはよりさし出る日のはなやかなるにといへり。秋沙は鴨のたくひなり。宿不難爾《イネラレナクニ》。此かきやうよみやう心得す。恐は誤字あるへし
 
1123 佐保河之清河原爾鳴知鳥河津跡二忘金都毛《サホカハノキヨキカハラニナクチトリカハツトフタツワスレカネツモ》
 
河津トフタツとは第六の金村の芳野にての歌に注せるが如し、
 
1124 佐保河爾小驟千鳥夜三更而爾音聞者宿不難爾《サホカハニアソフチトリノサヨフケテソノコヱキケハイネラレナクニ》
 
(25)小驟、【別校本云、サワク、】
 
玉葉集に載られたるは今の點と全同なり、小驟をアソブとは小の字を能意得て義訓せるなり、爾音は今按、爾、汝の義を以てナがコエとも讀べきか、宿不難爾は難の字は若寢にてイネラレナクニにやあらむ、今のまゝにては讀とかれず、不難は易の字の義なる故なり、
 
思故郷
 
歌に依に奈良の京となりてよめるなり
 
1125 清湍爾千鳥妻喚山際爾霞立良武甘南備乃里《キヨキセニチトリツマヨフヤマノハニカスミタツラムカミナヒノサト》
 
妻喚、【別校本云、ツマヨヒ、】
 
清湍は甘南備ノ里と云にて知べし、神南備河の清き瀬なり、二の句は今の點叶はず、ツマヨビと和せるよし、千鳥は河の上を略して云ひ、霞は山の上を略して云ひて有し面白さを思ひやりて惜むなり、
 
初、清き瀬にちとりつまよひ つまよふとよみて、句絶とせるはわろし。清瀬には千鳥の妻よふ聲し、山のはには霞の立らんとおもひやるなり
 
1126 年月毛未經爾明日香河湍瀬由渡之石走無《トシツキモイマタヘナクニアスカカハセヽニワタシヽイシハシモナシ》
 
(26)四の句は今按今の點叶はず、セヾユワタリシと讀べし、又按ずるに此集中に從の字をより〔二字右○〕ともから〔二字右○〕ともゆ〔右○〕ともを〔右○〕ともに〔右○〕とも用たれば由も從と同じくより〔二字右○〕と云に用る字なれば今の點音を以てするにはあらで從に准じてニ〔右○〕と和訓すともいはむか、されど自の字さへ通、局あればまして由はさやうに用たる傍例なし、
 
詠井
 
1127 隕田寸津走井水之清有者度者吾者去不勝可聞《オチタキツハシリヰミツノキヨケレハワタラハワレハユキカテヌカモ》
 
今按落句の今の點ワタラバと云に背ければ、ユキガテンカモとよみてゆきあへざらむかと意得べし、上をワタレバと改ためば下はさても有ぬべけれど、清きを愛して渡らぬ先に渡らばと云ひてこそ曲ならめ、
 
初、おちたきつはしり井水 わたらはわれはゆきかてぬかも。行かてぬは、さき/\も注せしことく、ゆきあへぬ心なり。あまりに清き水なれは、わたりてにこさんも殺風景なれは、わたりて行あへぬなり
 
1128 安志妣成榮之君之穿之井之石井之水者雖飲不飽鴨《アシヒナルサカエシキミカホリシヰノイハヰノミツハノメトアカヌカモ》
 
安志妣成、【別校本亦云、アシヒナス、】
 
發句はアシビナスと讀べし、あしびの花の如くさかゆる君がと云なり、あしびの花は第二十にもよめり、春の物なり、仙覺抄に筑紫に多き由かゝる、文字は山麋とかく由な(27)れど不審あれば取らず、絶てなき歟、名の替りたる歟、今は聞えぬ物にや、石井ノ水とは上の歌の走井にや、又阿處にもあれ唯岩のたゝめる井にや、雄略紀云、是月御馬皇子以3曾善2三輪君身狹1放思欲v遣v慮而徃、不意道逢2※[しんにょう+激の旁]軍於三輪(ノ)磐井(ノ)側1逆戰不v久被v捉《トラハ》、臨v刑而詛曰、此水者|百姓唯《オホムタカラノミ》得(ム)v飲焉、王者獨不v能v飲矣、此磐井何時ほると云事を知らねど若此を云歟、
 
初、あしひなすさかえし君 あしひのことくさかゆる君なり。此あしひは、いつれの木ともしらす。第二十卷に、屬2目山齋1作哥とて三首あるに、鴛の住君か此嶋けふみれはあしひの花も咲にけるかもなとよめり。中臣清麿朝臣の家にして、二月によめり。此次の哥の詞書に、二月十日とあれは、あしひをよめるはそのさきなり。あせみといふ説も、五音通すれは、いはれなきにあらされとも、二月の初はさかぬものにて、池水に影さへ見えて咲にほふあしひの花を袖にこきれな。いそかけのみゆる池水てるまてにさけるあしひのちらまくをしもなとよむほとの物にあらねは、こと木の花なるへし
 
詠和琴
 
1129 琴取者嘆先立蓋毛琴之下樋爾嬬哉匿有《コトトレハナケキサキタツケタシクモコトノシタヒニツマヤコモレル》
 
嬬哉匿有、【袖中抄云、イモヤカクセル、匿有、六帖、カクレル、】
 
袖中抄云、下樋とは、琴の腹の中は樋に似たれば下樋とよめる歟、それに妹が隱たるかと云へる歟とて此集第十二の鴨の住池の下樋無と云歌をひかる、今按允恭紀に輕太子歌云、足引の山田を作り山高み、下樋をわしせ、云々、私紀曰、土(ノ)下度(ス)樋也、匿有の點は六帖も袖中抄もよろしからず、今の本まさるべし、今按垂仁紀に匿の字をシナムと點ぜるもかくす事なれば若はシナメルともや讀べからむ、
 
初、琴とれは嘆さきたつけたしくも 琴の下樋は琴の腹なり。樋のことくに作れはかくいへり。琴をとれは先なけきのさきたつは、けたしうたかふらくは、下樋の中にわかおもふ妻やこもれるとなり。匿有をは、かくるゝともよむへし。又日本紀によらは、しなめるともよむへし。垂仁紀云。八十八年、秋七月己酉(ノ)朔戊午(ノヒ)、詔2羣卿1曰。朕聞新羅王子天(ノ)日|槍《ホコ》初來之時、將來寶物、今在2但馬(ニ)1。元《ハシメ》爲2國人(ノ)1見(レテ)v貴則|爲《ナリタリ》2神寶(ト)1也。朕|欲v見《ミマホシ》2其寶(ノ)物(ヲ)1。即日遣2使者(ヲ)1詔(テ)2天日槍之|曾孫《ヒヽコ》清彦(ニ)1而令v獻。於v是清彦|被《ウケタマハリテ》v勅(ヲ)乃自捧2神寶(ヲ)1而獻之。〇唯有2小刀《カタナ》一1名(ヲ)曰2出石《イツシト》1。則清彦忽(ニ)以爲非獻刀子《カタナハタテマツラシトオモテ》仍|匿《シナメ》2袍中《コロモノウチニ》1而自|佩《ハケリ》之。天皇未(タ)知(メサ)d匿《シナメタル》2小刀(ヲ)1之情(ヲ)u欲《オホシテ》v寵《メクマント》2清彦(ヲ)1而召(テ)之賜(フ)v酒《ミキヲ》於2御所《ミモトニ》1。時(ニ)刀子從2袍(ノ)中1出而顯(ハル)之云々。これによりて、しなめりともよむへしとはいふなり。琴取てなけき先たつといふ事は、第十八にも、わかせこかことゝるなへにつねひとのいふなけきしもいやしきますも。古今集、わひ人のすむへき宿とみるなへになけきくはゝることのねそする。文選※[禾+(尤/山)]叔夜琴賦云。懷(ケル)v戚《ウレヘヲ》者(ノハ)聞之、莫v不(トイフコト)2※[立心偏+賛]《サン》懍慘悽(トシテ)※[立心偏+秋]愴(シテ)傷(シメ)v心(ヲ)含1v哀(ヲ)。※[立心偏+奥]※[口+伊]《イクイト》不v能2自《ミ》禁(スルコト)1
 
(28)芳野作
 
1130 神左振磐根巳凝敷三芳野之水分山乎見者悲毛《カミサフルイハネココシキミヨシノノミツワケヤマヲミレハカナシモ》
 
神サブルは物古たるなり、水分山は、今按ミヅワケヤマと點ぜるは誤なり、ミコマリヤマと讀べし、延喜式第九神名帳云、吉野|水分《ミクマリ》神社、【大月次、新甞、】同三、祈雨神祭、八十五座、【并大】吉野水分社一座、同八祈年祭祝詞云、水分坐皇神等、吉野宇陀都祁葛木御名者白?云々、吉野のみならず上の如く四處に水分神社あり、此延喜式の點正義なり、其證は古事紀上云、二神因2河海1持別而生神云々、次天之|水分《ミクマリ》神、【訓v分云2久麻理1下效v此、】次國之水分神云々、此自注分明なり、四處の水分神は國の水分と云なるべし、久と古と通ずれば、くまり、こまりは同じ事なり、日本紀に分の字をクバルとよめり、配分の義なり、波と摩と通ずれば、くまりはくばりなる故に水を司どりてくばる神たちなり、其神のまします故にみこまり山と云なり、能考ずばミコマリとよまむ事かたかるべき事なり、さればにや此本の點のみならず、新千載集等のもみづわけ山と云へり、悲毛は愛する詞なり、
 
初、かみさふるいはねこゝしき こゝしきはこりしくなり。水分山をみれはかなしも。此水分を、延喜式には、みつわけとはよまて、みこまりとのみよめり。延喜式第九、神名帳上云。吉野水分神社【大。月次。新甞。】第八祈年祭祝詞云。水分坐皇神等《ミコマリニマススメカンタチ》能前爾白久。吉野、宇陀、都祁、葛木登御名(ヲ)者白※[氏/一]云々。日本紀に、分の字をくはるとよめり。ことくとは、五音通し、まとはとは同韵なれは、みこまりはみづくばりの心なり。くばるはわくるなれは、みこまり、みつわけ、ゆきてはひとつ心なり。かなしもは、此かなしきは、古今に、みちのくはいつくはあれとしほかまのうらこく舟のつなてかなしも。これにおなし。いにしへにいへるは、あはれもかなしきもおもしろき心なり
 
1131 皆人之戀三吉野今日見者諾母戀來山川清見《ミナヒトノコフルミヨシノケフミレハウヘモコヒケリヤマカハキヨミ》
 
(29)山川の川すみて讀べし、山と川となり、
 
初、みな人のこふる 此山川の川は、山と川となれは、すみてよむへし
 
1132 夢乃和太事西在來寤毛見而來物乎念四念者《ユメノワタコトニシアリケリウツヽニモミテコシモノヲオモヒシオモヘハ》
 
夢ノワタは第三に大伴卿もよまれし所なり、コトニシ有ケリは夢のわたとて夢は唯ことばのみにて有けりとなり、し〔右○〕は助語なり、行て見ばやと心に掛て思ひだにすればかくまさしううつゝにも見て來つる、物ヲ思ヒシの|し〔右○〕は助語ながら思ひだに思へばの意あり、
 
初、夢のわたことにし有けり 第三に、帥大伴卿の哥にも、夢のわたをよまれたり。わたはまかれるをいへは、よしの川のまかりて、水のいりこむ所を、しか名つけたるなるへし。ことにし有けりは、ことはに有けりなり。みむとたにおもへは、うつゝにもみてきつれは、ゆめのわたといふは、たゝことはのみそとなり
 
1133 皇祖神之神宮人冬薯蕷葛彌常敷爾吾反將見《スメロキノカミノミヤヒトサネカツライヤトコシキニワレカヘリミム》
 
此神といへるは君なり、此は吉野宮へみゆきせさせ給へる御供にてよめりと見ゆ、次の歌も然り、冬薯蕷葛、此を六帖にはまさきづらと讀てまさきかづらの歌とせり、此集第九に見菟原處女墓歌に、冬※[草がんむり/叙]蕷都良とあるをもサネカヅラと點ぜり、※[草がんむり/叙]は〓歟、此字いまだ字書に考得ず、されども推量するに薯と同字にて今と同じかるべし、さねかづらもまさきかづらも冬薯蕷と云べきは、薯蕷の葛の如くして共に冬も枯ずしてあればなり、其中にさねかづらと讀べくば、處女墓の歌冬※[草がんむり/叙]蕷をさねとよみて都良の上に加、可等の字あるべきになきを以知ぬ、今の歌を六帖にまさきづらとよめる正義なり、(30)かつらのかは付たる字にてつらはつると同じければ、まさきのつると云意によまむ事ことわり叶へりと云べし、又はまさか、冬薯蕷をまさとしてマサカヅラとも讀べし、まさのはかづらなどもいへばなり、處女墓の歌は冬※[草がんむり/叙]蕷をさねかと讀べき理なし、此を思ふべし、まさきづらは常磐にあれば彌トコシキニとそへて云はむ爲なり、常敷もトコシクとよまばまさりぬべし、
 
初、すめろきの神のみや人此神といへるは君なり。さねかつらは、五味子のかつらなり。和名集云。蘇警本草注云。五味【和名佐禰加豆良】皮肉(ハ)甘酸核中(ハ)辛苦都(テ)有(カ)2※[酉+咸]味1故(ニ)名2五味(ト)1也。冬薯蕷葛とかけるは、彼かつらの葉、山の芋に以て冬もあれはしかゝけり。冬もあるゆへにいやとこしきにとはいへり
 
1134 能野川石迹柏等時齒成吾者通萬世左右二《ヨシノカハイハトカシハトトキハナルワレハカヨハムヨロヅヨマテニ》
 
時齒成、【別校本云、トキハナス、】
 
石迹柏は袖中抄に此歌を引て云、岩に生たる柏なり、かしはゝ常磐木ならねど岩によせてかくの如くよめる歟、或人石をばかしはと云へば其心かと申せど、是は柏と云たれな非v石歟、今按初の義石に生たる柏にて、柏のときは木ならぬを石によせて云歟と云へることわり思ひとかれず、ときは成といはむ爲に云序なるにときはならぬ柏を石によせていはと柏と云ひたればとて何のかひかあるべき後の石と云義を非せられたる中に、是は柏と云たればとあるは案ずるに是は石迹柏と云たればなるを今の袖中抄字を落せるなるべし、此意は石を唯かしはと云はゞあるべきに、此歌はいはと(31)柏と云たればすでにいはと云ひて重てかしはとは云べからずと云義なるべし、是も亦謂れても聞えず、眞玉手の玉手など同じ事をも重ていへば、まして異名を重ていはむ事何の難かあらむ、其上いはと云は唯岩とのみ云にはあらず、岩ある河門《カハト》なり、第十三に川の瀬のいはと渡りてと、よめる是なり、然ればいはとにあるいはと云意に云たらむ、猶何の難かあらむ、石を粕と云本説は景行紀云、天皇初將v討v賊次2于柏|峽《ヲノ》大野1、其野有v石、長六尺廣三尺厚(サ)一尺五寸、天皇祈之曰、朕得v滅2土蜘蛛1者將蹶2茲石(ヲ)1如2柏葉1而擧焉、因蹶v之則如v柏上2於大虚1、故號2其石1曰2蹈石1也、これに依てかしはとも玉柏とも云なり、然れば今は石をいへると意得べし、
 
初、よしの川いはとかしはとゝきはなすわれはかよはむよろつよまてに
いはとかしはゝ石の名なり。日本紀第七、景行紀云。天皇初將v討v賊(ヲ)次2于柏|峽《ヲノ》大野(ニ)1。其野(ニ)有v石。長(サ)六尺《ムサカ》。廣(サ)三尺。厚(サ)一尺五寸。天皇|祈《ウケヒテ》之曰。朕得v滅2土蜘蛛(ヲ)1者將v蹶2茲(ノ)石(ヲ)1如(シテ)2柏|葉《ハラノ》1而擧(レ)焉。因(テ)蹶(タマフニ)v之則如(シテ)v柏(ノ)上(ス)2於大虚(ニ)1。故(ニ)號2其石(ヲ)1曰2蹈石(ト)1也。玉かしはといふもこのゆへなり
 
山背作
 
1135 氏河齒與杼湍無之阿自呂人舟召音越乞所聞《ウチカハヽヨトセナカラシアシロヒトフネヨフコヱハヲチコチキコユ》
 
舟召音、【紀州本云、フネヨバクオトノ、】
 
無の字の下には有の字、良の字などの落たるべし、アジロ人は網代を守る者を云歟、宇治は殊に網代に名ある處なれば宇治に一處しか云所有てそこなる人をあじろ人と云歟、能按ずるに唯網代守にて、よどせのなければにや舟にて渡らむとて此方彼方に(32)船を呼聲はすらむとよめるなるべし、
 
初、あしろ人 網代は氷魚を取ものなり。それをかまへ置人を、あしろ人といへり。無之、此無の字の下に、もし有の字の落たるにや
 
1136 氏河爾生菅藻乎河早不取來爾家里※[果/衣]爲益緒《ウチカハニオフルスカモヲカハヽヤミトラテキニケリツトニシマシヲ》
 
※[果/衣]爲益緒、【六帖云、ツトニセマシヲ、校本同v此、】
 
仙覺の云、菅藻とは菅に似たる河藻也、人の食ふ物と云へり、今按落句の點六帖等に依べし、
 
初、うち川におふる菅藻を 菅の葉に似て、宇治川におふる物なり。くふ物なりといへり。つとにしましとあるは誤なり。せましなり。つとはつゝむ心なり。俗にわらなとに物をつゝみて、上下をくゝりたるをつとゝいふ。さるものを人にをくるゆへに、つとにせましをとはいへり。此裹の字を、日本紀にかますとよめり。かますと世にいふ物もつとのたくひなり
 
1137 氏人之譬乃足白吾在者今齒王良増木積不來友《ウチヒトノタトヘノアシロワレナレハイマハキミラソコツミコストモ》
 
譬乃足白、【別校本云、タトヒノアシロ、】
 
木積は木の屑なり、第二十に獨見江水浮漂糞作歌と詞書して歌には與流許都美とよめり、糞はあくたと訓ず、あくたは樣々の物の屑を云、然るに木積とかける事集中今と共に三所あれば木糞と有けむ木の字の落たるか、八雲御抄に、こつみ、木の屑なりと注せさせたまへるは叡覽の御本には木糞と有ける歟、又木積とかけるに依て木の屑と定させ給へるか、いかにもあれ此定なるべし、仙覺云、氏人の譬のあじろとは、ひを待と云心にょそへたり、日を待我なれば人な集り來りそ、靜にてあらむとよそへよめるなり、今按氷魚待は日を待によそへたりと意得て、日を待とは餘命盡て今はと云はむ日(33)を待と云意歟、氷魚を日をと云ひなす事は古風にあらねば今取らず、氷魚を捕程は網代にひとめも見ゆるが、時過ぬれば守人もなく、網代も破れて、氷魚には替りて木積のみいざよふを、時を失なへば人は問も來ぬ事もかゝりと此宇治の里人の譬にすなるが、今我身彼譬に云やぶれたる網代の如く時なき身なれば、氷魚の後の水つみの如く來る者とては君等のみぞとよめる歟、木積を句として意得べし、又時を失なへる人の宇治に住が詐へたま/\來る人のあると共に河に臨て古き網代を見て感じてよめる歟、
 
初、うち人のたとへのあしろ我なれは たとへのあしろとは、宇治にすむ人は、物の盛衰を、所につけたる網代にたとへていふなるへし。氷魚は、九月より十二月まて取物なり。延喜式云。山城國、近江國、氷魚網代各一所。其氷魚始(テ)2九月(ヨリ)1迄(ルマテ)2十二月三十(ニ)1貢v之。氷魚は和名集云。考聲切韻云。※[魚+小]【音小。今案俗(ニ)云2氷魚1是也。】白小魚名也。似v※[魚+白]《シロウヲ》長一二寸(ナル)者也。此氷魚をとらんために、川中に網代をかまへて、よな/\かゝりを燒て、彼あしろをまもりて、氷魚をよらせてくみとるなり。延喜式に、山城國とあるは宇治川、近江國とあるは田上川なり。よそにもあれと、此ふたところ、殊にひをに名ある所なり。されはひをゝとるほとは、彼あしろに人めも見ゆるが、いつとなく時過ぬれは、ひをもよらねは、もる人もなく、あしろもやふれて、あしろ木の朽殘たるに、こつみなとのみよるなり。こつみとは、木の屑なり。第十一に、あきかせの千江のうらわの木つみなす心はよりぬ後はしらねと。第廿に、家持、ほりえより朝塩みちによるこつみ貝に有せはつとにせましを。此題に獨見(テ)2江れ(ニ)浮(ヒ)漂(ヨヘル)【木歟】糞(ヲ)1怨2恨《ウラミテ》貝玉(ノ)不(ルコトヲ)1v依(ラ)作歌一首。此題糞の字のうへに、木の字をゝとせるなるへし。糞はあくたなり。木の字なくては通漫なり。此哥こつみといふ所を句にして心得へし。いふこゝろは、我今おとろへて時過たるあしろのことくなれは、今はこつみのきかゝることく、來るものはきみらのみぞ。くるはさてありなん。こすともよしといへるなるへし。門に雀羅をまふくへく、時をうしなへる人のもとに、たま/\來る人も、いふかひなき事あるを、うち川にのそみてあしろを見て、感してよめるにやと、おしはかりに尺し侍るなり
 
1138 氏河乎船令渡呼跡雖喚不所聞有之※[楫+戈]音毛不爲《ウチカハヲフネワタセヨトヨハヘトモキコエサルラシカチノオトモセス》
 
船令渡呼跡、【別校本云、フネワタセヲト、】  ※[楫+戈]音毛不爲、【幽齋本云、カチオトモセス、】
 
第十に七夕の歌に、渡り守舟度せをと呼こゑの、至らねばかや梶の音せぬとよめり、今の歌に似たり、度セヲの|を〔右○〕は助語とも云べし、亦|を〔右○〕と|よ〔右○〕と同韻にて通ずれば度せよと云へるなりとも云べし、呼は多分|ヲ〔右○〕を用たれば別校本の點第十の例證をかけて謂れあり、わたせよと點ぜるも呼はよぶとよめば|よ〔右○〕を主とし|ふ〔右○〕を伴として伴を捨て主を取てゝ用るも亦謂れあり、第四坂上郎女が、とこよにと我ゆかなくにとよめるとこよ(34)を常呼とかけるに同じ、第二十の長歌に伊麻能乎爾多要受伊比都々《イマノヲニタエズイヒツヽ》とあるは今の世に不絶云ひつゝと云意なれば、を〔右○〕と|よ〔右○〕と通じて今の|を〔右○〕とは云へば、常呼もトコヲとよめるにやとも云べし、不所聞有之は今按キコエズアラシと讀べし、落句は幽齋本の點に依るべし、不爲は今按セヌとも讀べし、
 
初、氏川を舟わたせよと 第十に、わたりもり船わたせをとよふ聲のいたらねはかもかちの音せぬ。これは七夕の哥なれと、大かた似たり。呼の字よとつかひたるは、よふといふ和訓を用てなり。よふといふ詞につきていはゝ、よは一言の中の主なり。よべとも、よびとも、よばふとも、下は時にしたかひてうごけば伴なり。餘はこれに准すへし。伴をゝきて、主をとりて、よとは用るなり。又此呼の字、をとも用。すなはち七夕の哥も、ふねわたせをとゝよめれは、此哥にても、ふねわたせをとゝよまんも子細なし。よと用る證は、第四卷に、とこよにとわかゆかなくにと坂上郎女のよめる哥に、常呼《トコヨ》とかきて、とこよに用たり
 
1139 千早人氏川浪乎清可毛旅去人之立難爲《チハヤヒトウチカハナミヲキヨシカモタヒユクヒトノタチカテニスル》
 
清可毛、【幽齋本云、キヨミカモ、】
 
千早人は宇治の枕詞、千早振宇治ともつゞく、此義別に注す、歌の意は仙覺の云く、宇治川浪の潔して飽がたければ、旅行人も此にめでゝ立がたくするとよめるなり、今按躬恒が立ことやすき花の陰かはとよめるが如し、
 
初、ちはや人うち川なみをきよみかも ちはや人、ちはやふるは、うちといふ枕言なり。別に注之。たひゆく人の立がてにするとは、木のもとなとにをり居てみて、立かぬるなり。みつねが、けふのみと春をおもはぬ時たにもたつことやすき花の陰かは。此立ことやすき花の陰かはといへるにおなしこゝろなり
 
攝津作
 
1140 志長鳥居名野乎來者有間山夕霧立宿者無爲《シナカトリヰナノヲクレハアリマヤマユフキリタチヌヤトハナクシテ》
 
志長鳥は居名野の居と云はむための枕詞、別に注す、來者を六帖にも新古今にもゆけばとあれど今の如く讀も同じ意なり、下の句は、宿はなくて日は暮 は立て旅の苦し(35)きさまなり、雲横2秦嶺1家何在、雪擁2藍關1馬不v前、此一聯に敵すべき歌なり、六帖に下句を霧立渡り明ぬ此夜はとあるは此歌の異説か、
 
一本云|猪名乃浦廻乎榜來者《ヰナノウラワヲコキクレハ》
 
延喜式神名帳云、攝津國|豐島《テシマ》郡爲那、猪名は豐島郡と河邊郡とに亘れり、第三高市黒人が歌に注して云が如し、野と云ひ浦と云に兩郡の異、はかるべし、
 
初、しなか鳥猪名野をくれは しなか鳥は、猪名野とつゝくる枕言。これにふるくより説々あれと、皆胸臆にして信用しかたし。別にひとつの今案あり。あたりあたらすはしらねと、別に釋して附たり。ゐな野は延喜式第九、神名上云。攝津國、豐嶋郡、爲那都比古神社二座。これによれは、豐嶋郡の内と見えたり。和名集云。河邊郡爲奈。これは相違せり。雨郡相ならびてわたれる歟
 
1141 武庫河水尾急嘉赤駒足何久激沾祁流鴨《ムコカハノミツヲハヤミカアカコマノアカクソヽキニヌレニケルカモ》
 
此は武庫河を渡る歌なり、六帖にはあしがきそゝぎ沾にけるかなとあるは字に叶はず、又六帖に百濟《クタラ》河河せを早み赤駒の、足のそゝぎに沾にけるかなとあるも此歌を少替たるに似たり、
 
1142 命幸久吉石流垂水水乎結飲都《イノチサチヒサシキヨシモイアハソヽクタルミノミツヲムスヒテノミツ》
 
幸は神代紀云、海(ノ)幸《サチ》、【幸此云2左知1】イハソヽグは石にそゝぎて垂下る水と云心におけり、第八志貴皇子の御歌にもかくつゞけ給へり、第十二には石走垂水とも云へり、同じ意なり、垂水は豐島郡なり、延喜式云、攝津國豐島郡垂水神社と云へり、垂水はめでたき清水な(36)ど聞のみ置つるに久しくながらへたる得分ありて今來て掬て飲ことを得たりとなり、痛く妙美水《シミヅ》をほむる意なり、
 
初、いのちさちひさしきよしも さちといふも、さきといふにおなしく、さいはひなり。神代紀下云。兄火闌降《コノカミホノスソリノ》命|自《ヲノ》有(マス)2海(ノ)幸《サチ》1。『幸此(ヲハ)云2左知1。】いはそゝくたるみとは、岩をそゝきてたるゝ水とつゝけたり。垂水は延喜式神名上云。攝津國、豐嶋郡垂水神社【名神。大。月次。新甞。】此集第八、志貴皇子御歌にも、いはそゝくたるみのうへのさわらひのもえ出る春になりにけるかも。此たるみ同所なり。此哥は西行法師の、年たけて又こゆへしとおもひきや命なりけりさよの中山とよまれたると同意なり
 
1143 作夜深而穿江水手鳴松浦船梶音高之水尾早見鴨《サヨフケテホリエコクナルマツラフネカチオトタカシミヲハヤミカモ》
 
水手はかこなり、かこは舟を漕者の名なれば義訓してコグと用たり、松浦船は肥前の松浦の舟なり、舟の造り樣他に異なる故の名なるべし、第十二にも松浦舟亂穿江とよめり、曉かけて漕出る舟の梶音高く聞ゆるは水尾の早きを凌ぐ程にやと推量するなり、此歌は人丸の集と云物にも不載を、續古今は何にかよられけむ、
 
初、さよふけてほりえこくなる 第十二にも、松浦舟みたるほりえのみをはやみかちとるまなくおもほゆるかもとよめり。今も国々所々によりて、舟のつくりやうかはれは、肥前の松浦も、他所にことなるつくりなれは、松浦舟とはいふなるへし。みをは水のふかき筋をいふ。みをの浪の早けれはにや、かちをとの高きとなり。此かちといへるは櫓なり。穿江は仁徳紀云。十一年夏四月戊寅(ノ)朔甲午(ニ)詔2群臣1曰。今朕視(レハ)2是國(ヲ)1者郊(ノ)澤《サハ》曠《ヒロク》遠而|田圃《ハタケ》少乏《スクナシ》。且河(ノ)水横(ニ)逝《ナカレテ》以|流末《カハシリ》不v※[馬+史]《トカラス》。聊逢(ハ)2霖雨《ナカメニ》1、海潮《ウシホ》逆上《サカノホリテ》而|巷里《ムラサト》乗v船(ニ)、道路亦|※[泥/土]《ウヒチアリ》。故群臣共(ニ)視(テ)之|決《サクテ》2横《ヨコシマノ》源(ヲ)1而通(テ)v海(ニ)、塞(テ)2逆《サカシマナル》流(ヲ)1以全(ス)2田宅《ナリトコロヲ》1。冬十月掘(テ)2宮(ノ)北之郊(ノ)原(ヲ)1引(テ)2南水(ヲ)1以入2西(ノ)海(ニ)1、因(テ)以號(テ)2其水(ヲ)1曰2掘江(ト)1。こぐといふに、水手とかけるは、水手は舟をこくものゝ名なれは、義をもてかけるなり
 
1144 悔毛滿奴流塩鹿墨江之岸乃浦回從行益物乎《クヤシクモミチヌルシホカスミノエノキシノウラワニユカマシモノヲ》
 
1145 爲妹貝乎拾等陳奴乃海爾所沾之袖者雖凉常不十《イモカタメカヒヲヒロフトチヌノウミニヌレニシソテハホセトカハカス》
 
雖凉常、【幽齋本凉作v涼、】
 
ちぬの梅の和泉攝津兩國に亘る事第六に注せしが如し、雖凉常、此書やう讀やうは、先ほすといへどもにてホセドも同じ義なれば常の字は肩なり、此卷下に至て雖干跡をホセドと點ぜるも同じ意なり、詞の字を加へて上へ返る事第四に家持の歌に不相《アヒシ》志(37)忠と云句に付て注するが如し、涼の字は令義解第四最條云、慎2於曝涼1【謂曝者陽乾也、涼者風涼也、】明2於出納1爲2兵庫之最1、延喜式には曝涼をホシサラスと點ぜり、今の俗かざはますと云是なり、濕氣を風の吹ほせば今此字を用るなり、
 
初、ちぬの海 允恭紀云。天皇則更|興2造《ツクリテ》宮室(ヲ)於河内(ノ)茅渟《チヌニ》1、而衣通姫(ヲ)令《シム》v居《ハムヘラ》。因(テ)v此(ニ)以屡遊2※[獣偏+葛]于日根野1。靈龜二年に大島和泉日根の三郡を、河内より割て和泉監を置れし後、終に和泉の國となれり。今こゝに津の國の哥と標して、ちぬの浦といふを載られたるは、哥はかならす※[片+旁]璽をさしてよまねは、もぬの浦津の國につらなりてひろけれはなるへし。雖涼とかけるは、令義解第四、最條云。愼2於曝涼(ヲ)1【謂曝者陽乾也。涼者風涼也。】明(ナルヲ)2於出納(ニ)1爲2兵庫(ノ)之最(ト)1。延喜式には、曝涼とかけるに、ほしさらすと和訓を加へたり。さらすもほすなれは、今雖涼をほせとゝはよめり。常の字は衍文にや。もし常不干をつねひすとよむへき歟。今案此集にはてにをはの字をそへてもかへりてよむ所ありとみゆれは、衍文にあらさる歟。雖2涼常《ホセド》1
 
1146 目頬敷人乎吾家爾住吉之岸乃黄土將見因毛欲得《メツラシキヒトヲワカイヘニスミノエノキシノハニフヲミムヨシモカナ》
 
吾家爾、【幽齋本云、ワキヘニ】  欲得、【別校本云、カモ、】
 
上の句のそへやうは第四に人丸妻の歌に君が家に我住坂とよめるに同じ、伊勢は我ならぬ人すみのえともそへよめり、今按發句はメヅラシクとも讀べし、
 
初、めつらしき人をわか家に めつらしき妻を、我家にむかへあひすむとつゝけたり。伊勢か哥に、我ならぬ人すみの江のきしに出てなにはのかたをうらみつるかな。これはわれをふかく頼めしことを引かへて、あらぬ人とすめは、我を何ともおもはぬ人を恨むるといふ心を、すみのえなにはの名によせてよめるなり。又此集第四、人まろの妻の哥に、君か家にわれすみ坂の家路をもわれはわすれしいのちしなすは
 
1147 暇有者拾爾將徃住吉之岸因云戀忘貝《イトマアラハヒロヒニユカムスミノエノキシニヨルテフコヒワスレカヒ》
 
古今滅歌に暇あらば摘にもゆかむ住よしの、岸に生てふ戀忘草とある貫之の歌は物はかはれど唯これなり、六帖に人丸の歌として拾てゆかむすみよしの岸にありてふと云へり、第六に坂上郎女が濱貝を見て、暇あらば拾てゆかむ戀忘貝とよめるをば拾ひにとかへ、今の拾ひにをば拾てとなしたるは共に叶はず、味はひて知べし、
 
初、いとまあらは拾にゆかむ 古今集に、貫之哥に、道しらはつみにもゆかむすみのえのきしにおふてふこひわすれ草。第四卷坂上郎女哥にも、いとまあらはひろひにゆかむこひわすれ貝とよめり。忘貝はうつくしき貝なるゆへに、みれはうきことをわするとて名つくとそ
 
1148 馬雙而今日吾見鶴住吉之岸之黄土於萬世見《ウマナメテケフワカミツルスミノエノキシノハニフヲヨロツヨニミム》
 
(38)於の字を今テ〔右○〕に用たるは遠《ヲ》と飫《オ》との音を混ずるにあらず、此於の字文章の一句の中に挿て置時、和訓にて此國の習に下より上へ返りて讀に多くはを〔右○〕と云詞によまるゝ故なり、能意を著べし、第九之廿八葉右第五行、第十之二十葉左第七行、同二十六葉左第七行にも皆てにをはのを〔右○〕に用たり、一處も折《ヲル》惜《ヲシム》などのを〔右○〕には用ざるにて云へる所を信ずべし、
 
1149 住吉爾往云道爾昨日見之戀忘貝事二四有家里《スミノエニユクトイフミチニキノフミシコヒワスレカヒコトニシアリケリ》
 
往云、【別校本云、ユクテフ、】
 
徃云道爾は今按云は去を誤て、もとはユキニシミチニ歟、昨日も行て知れる道なればユクトイフミチは少意得がたきにや、下の句は住吉をほめて昨日行て忘貝を見しかども今日も猶戀らるれば、戀忘貝と云は詞のみにしてまことはなかりけりとよめるなり、コトニシのし〔右○〕は助語なり、
 
初、すみのえにゆくといふ道に 住吉の浦のおもしろさの、きのふみしにけふも猶こひらるれは、戀をわするゝ貝とてひろはせしは、名のみしてまことはなかりけりといふは、詮はすみのえをほめてろへたるなり
 
1150 黒吉之岸爾家欲得奥爾邊爾縁白浪見乍將思《スミノエノキシニイヘモカナオキニヘニヨスヨスルシラナミミツヽオモハム》
 
家欲得、【或本云、イヘカナ、】  見乍將思、【六帖云、ミツヽシノハム、同本或思作v偲、】
 
黒吉は今按黒は墨の下の土を失へるなり、改むべし、家欲得はイヘモガモ、或はイヘモ(39)ガとも讀べし、落句はげにも思は偲にてみつゝしのばむにて有ぬべき所なり、但第三に笠金村角鹿にてよまれたる歌の反歌落句も日本《ヤマト》偲津なるべきを思津とあり、おもひつも同意なれば今も本來思の字なるか、六帖には浪の歌に入れて人丸の作とせり、おぼつかなし、
 
1151 大伴之三津之濱邊乎打曝因來浪之逝方不知毛《オホトモノミツノハマヘヲウチサラシヨセクルナミノユクヘシラスモ》
 
下句は第三に人丸のいざよふ浪のとよまれたる意なり、
 
初、大伴のみつのはまへ よせくる浪のゆくゑしらすも。第三卷に人まろいさよふ浪のゆくへしらすもと、よまれたるにおなし
 
1152 梶之音曾髣髴爲鳴海未通女奧藻苅爾舟出爲等思母《カチノオトソホノカニスナルアマヲトメオキツモカリニフナテスラシモ》
 
梶音のほのかなるに依て遠く奧つ藻刈に行らむと推量するなり、六帖舟の歌に、夕去者梶の音きこゆとて下は同じきは此歌にや、下の注に依て感るなり、
 
一云|暮去者梶之音爲奈利《ユフサレハカチノオトスナリ》
 
1153 住吉之名兒之濱邊爾馬立而玉拾之久常不所忘《スミノエノナコノハマヘニウマタテヽタマヒロヒシクツネワスラレス》
 
玉拾之久は唯玉拾しにてく〔右○〕は助語なり、上に今しくはと云ひ、下にそがひにねしくと(40)云へる皆同じ意なり、
 
初、玉ひろひしく しくに心なし。只ひろひしなり
 
1154 雨者零借廬者作何暇爾吾兒之塩干爾玉者將拾《アメハフルカリホハツクルイツノマニナコノシホヒニタマハヒロハム》
 
吾兒之鹽干爾、【官本亦云、アコノシホヒニ、】
 
あ〔右○〕とな〔右○〕と同韻なればあごの海などもなごの海ともよめど、今吾兒とかけるをナゴと點ぜるは誤なり、アゴと云に依るべし、六帖のあまの鹽干に玉藻拾はむとて藻の歌とせるは誤れり、
 
1155 奈呉乃海之朝開之奈凝今日毛鴨礒之浦回爾亂而將有《ナコノウミノアサケノナコリケフモカモイソノウラワニミタレテアラム》
 
結句は鹽干の餘波に玉藻貝などや亂てわらむとゆかしく思ふなり、今按?阿切多なればミダレタルラムとも讀べし、六帖には海の歌に入れて腰の句を今もかもといへり、
 
初、あさけのなこり 朝しほの引たる名残なり。なこりの事、第四卷に注之。いそのうらわは、浦のいそのめくりなり。みたれてあちむとは、玉も貝あるひは小魚等なり
 
1156 住吉之遠里小野之眞榛以須禮流衣乃盛過去《スミノエノトホサトヲノヽマハキモテスレルコロモノサカリスキユク》
 
眞榛は第一より云はりの木なり、盛過去とはきなれて色のさむるなり、眞はぎと云ひ盛過ゆくと云によりて萩と意得て新千載に秋には入られたるか、此集の書やう無窮(41)なれどさすがにかゝる事は書もまがへず、はりをはぎと云には榛をかき、秋のはぎをば芽とも芽子ともかけり、其上此歌雜なる故にこゝに載たり、秋萩ならば第十秋部に入るべし、又萩が花摺は當分の事なり、今の歌并竹取翁が歌、野邊ゆきしかば萩のすれるぞとよめる類にあらず、此を思ふべし、又此歌は人丸集にも載ず、六帖に摺衣の歌に入れたるにも作者をいはず、
 
初、遠里小野の眞はきもて 第十六、竹取翁か哥にも、すみのえの遠里をのゝまはきもてにほしゝきぬになとよめり。天武紀(ニ)蓁楷《ハリスリノ》御衣|三具《ミヨソヒ》といへり。昔は王公もめしけると見えたり。盛過ゆくとは、きなれて色のさむるなり
 
1157 時風吹麻久不知阿胡乃海之朝明之塩爾玉藻苅奈《トキツカセフカマクシラスアコノウミノアサケノシホニタマモカリテナ》
 
第二第六に六帖に藻の歌とせるには多くかはれる所あり、
 
初、時つ風吹まく あこの海はなこの海なり。あとなと五音通せり。績日本紀に、吾人《アヒト》といへる人の名を、ある所には名人《ナヒト》ともかけり。此哥に似たる哥、第二の十六葉第六の廿二葉にもありき
 
1158 住吉之奥津白浪風吹者來依留濱乎見者淨霜《スミノエノオキツシラナミカセフケハキヨスルハマヲミレハキヨシモ》
 
六帖に第四の句をきよすの濱をとあるは傳寫の誤歟、
 
初、さやけさに 清羅とかけるは、さとらと同韻の故歟。羅と紗と同類の故歟
 
1159 住吉之岸之松根打曝縁來浪之音之清羅《スミノエノキシノマツカネウチサラシヨリクルナミノオトノサヤケサ》
 
六帖に第二の句をきしのまつねをとあるは今の本にはしかず、縁來をきよするとあるは中々改たるなるべし、羅を|さ〔右○〕とよめるは良と左と同韻の字なれば通ずるか、又羅と紗と物にて通じて用たるか、
 
(42)1160 難波方塩千丹立而見渡者淡路島爾多豆渡所見《ナニハカタシホヒニタチテミワタセハアハチノシマニタツワタルミユ》
 
羈旅作
 
1161 離家旅西在者秋風寒暮丹鴈喧渡《イヘサカリタヒニシアレハアキカセノサムキユフヘニカリナキワタル》
 
離家、【六帖云、イヘハナレ、別校本亦點同v此、】
 
發句は六帖よりは今の點まされり、旅ニシのし〔右○〕は助語なり、下句は旅人の歎を添べき事思ひやるべし、
 
1162 圓方之湊之渚鳥浪立巴妻唱立而邊近著毛《マトカタノミナトノストリナミタテハツマヨヒタテヽヘニチカツクモ》
 
圓方は伊勢なり、第一に出たり、渚鳥は八雲御抄に海洲也と注せさせ給ふ、意は何れの鳥にまれ洲に居るを云意なり、今按先は其定にて、第十一に大海の荒礒の渚鳥と讀たるに、又みさごゐる洲にをる舟とも、みさごゐる荒礒ともよみたれば、渚鳥とはみさごを云かとも聞ゆ、毛詩云、關々雎鳩在2河之洲1、今妻ヨビタテヽと云も此詩に叶へる歟、彼が妻と副ひて邊に近付來るを見て故郷の妻を思ひ出る意もこもるべし、
 
初、まとかたのみなと 伊勢の國なり。第一卷舎人娘子か哥に注せしかことし。八雲御抄に紀伊國と注せさせたまへるは、かんかへもらさせたまへるなり。すとりは洲にをりゐる鳥なり。鷺※[茲+鳥]千鳥の類押並ていふへし。或説にみさこなりといへり。みさこゐるすにをる舟なともよみたれは、さもときこゆ
 
(43)1163 年魚市方塩千家良思知多乃浦爾朝※[手偏+旁]舟毛奧爾依所見《アユチカタシホヒニケラシチタノウラニアサコクフネモオキニヨルミユ》
 
年魚市方は尾張なり、第三に出たり、知多乃浦も同じく尾張なり、和名に智多郡、尾張にあり、奧ニ依とは奧の方へ行を云へり、此卷下に安治村十依海《アチムラノトヲヨルウミ》とよめる同じ意なり、後徳大寺左大臣の歌に、花の散ひら山おろし海ふけば、峯よりおきによするさゞ浪、此歌奥によすると云事をむねとめづらしくよみ給へるは今の歌を思ひ給へる歟、
 
初、あゆちかたしほひにけらしちたの浦に あゆちもちたも、ともに尾張國の郡の名にて、年魚市潟、知多の浦、そこ/\の名所なり。第三に、高市連黒人か哥に、櫻田へたつ鳴わたるあゆちかた塩干にけらしたつ鳴わたるといふ哥に、あゆちかたの事注せり。八雲御抄に、あゆちかたも、ちたの浦も、ともに紀伊と載させたまへるは、よく考させたまはさりけるなり
 
1164 塩干者共滷爾出鳴鶴之音遠放礒回爲等霜《シホヒレハトモカタニイテヽナクタツノオトトホサカルアサリスラシモ》
 
其滷は名所にはあらず、鹽のひると共に潟の出來る其瀉に出て鳴鶴なり、第六に、あま石の鹽干のむたにいりすには、千鳥妻呼とよめるが如し、然ればムタカタとも和すべきにや、音はコエとも讀べし、
 
初、塩ひれはともかたに出て 此ともかた名所にはあらす。塩のひると共に潟の出來る、其かたに出てなくたつなり。第六難波宮作哥に、あまいしのしほひのむたとよめる同しことなり
 
1165 暮名寸爾求食爲鶴塩滿者奥浪高三已妻喚《ユフナキニアサリスルタツシホヒミテハオキナミタカミオノカツマヨフ》
 
下にあさりすと礒に住鶴とある似たる作なり、落句は今按オノツマヲヨブと讀べきか、
 
1166 古爾有監人之覓乍衣丹摺牟眞野之榛原《イニシヘアリケンヒトノモトメツヽキヌニスリケムマノヽハキハラ》
 
(44)眞野ノ榛原は第三に高市黒人が歌に注せしが如し、上の句は昔此野のはりにて衣を摺ける由緒などの有けるにや、所によりて染色などの淺深よしあしも有べし、衣に摺けむ此ぞその眞野の榛原と所をほむる意なり、
 
初、まのゝはき原 津の國なり。第三の廿葉の歌に尺せり
 
1167 朝入爲等礒爾吾見之莫告藻乎誰島之泉郎可將刈《アサリストイソニワカミシナノリソヲイツレノシマノアマカカルラム》
 
1168 今日毛可母奥津玉藻者白浪之八重折之於丹亂而將有《ケフモカオキツタママモハシラナミノヤヘヲリノウヘニミタレタルラム》
 
八重折之於丹、【六帖云、ヤヘヲリカウヘニ、】  亂而將有、【六帖云、ミタレテヲアラム、】
 
第四の句は今按第二十家持の長歌に之良奈美乃夜敝乎流我宇倍爾《シラナミノヤヘヲルカウヘニ》とよまれたれば今も此に依て同じう讀べし、いくへも浪のたゝめるを云へり、荀子云、夫水之萬折也必東(シス)、但是は長河の處々にて屈折して流るゝを云へば八重折浪とは意別なり、落句はミダレテアルラムとも讀べし、
 
初、白波の八重折 八重は大海を八重の塩路といふ心なり。浪のいくへ共なくかさなるをいふ。さて浪のをるといふは、うちよせてかへり/\する躰なり。折とも、しくとも、たゝむともいふ。同し心なり
 
1169 近江之海湖者八千何爾加君之舟泊草結兼《アフミノウミミナトハヤソチイツクニカキミカフネハテクサムスヒケム》
 
八千、【校本千或作v十、】  君、【校本或作v公、】
 
八千は千は十を誤れり、第三に八十之湊、第十三に近江之海泊八十有とよめり、凡物の(45)數をかぞふる時はやそと云ひ、年をかぞふるにはなゝそぢやそぢと云やうに定まりたるを、此は湖のかずをやそぢと云べき證なり、
 
初、あふみの海みなとはやそち 第十三にも、あふみの海とまりやそ有やそしまの嶋のさき/\なとよめり。君かふねはて草むすひけんとは、いつくにか舟をよせて、陸にあかりて、草枕を結て、やとりけんなり
 
1170 佐左浪乃連庫山爾雲居者雨曾零智否反來吾背《サヽナミノナミクラヤマニクモヰテハアメソフルチフカヘリコワカセ》
 
拾遺集神樂歌に、高島や水尾の中山杣たてゝ、作り重ねよ千世のなみくら、此なみくらの詞は高島郡に連庫山の有てそれをよせてよめるにや、次の歌二首も高島なれば彌然らんとおぼし、連庫山に雲の居れば雨のふるとは、第十二にも痛足の山に雲居つゝ雨はふるともとよめり、かゝる事は所によりて替れば梶取なども其浦浦の者に能尋置とぞ申す、六帖に此歌をくれどあはずと云に入れたる意不審なり、
 
初、さゝ浪のなみくら山 近江なり。雨そふるちふはふるといふなり
 
1171 大御舟竟而佐守布高島之三尾勝野之奈伎左思所念《オホミフネハテヽサモラフタカシマノミヲノカチノヽナキサシソオモフ》
 
佐守布はさむらふにて候の字なり、此は高島の方へ行幸せさせ給へる時御供の人のよめると見えたり、第一に額田王の金野乃美草苅葺と云歌の後の注に、齊明紀五年三月庚辰天皇幸近江之平浦とあれば此時の歌歟、所念はオモホユと讀べし、おもほゆとは飽ずおぼゆる意なり、第二の句を袖中抄并に別の校本の又の點にキホヒテサスフとあるは竟を競にまがへて字に叶はず、さすふと云詞も不審なれば此を取らず、
 
初、大みふねはてゝさもらふ さもらふは、さふらふなり。大みふねよりあからせたまふ所に、人々祗候するをいへり。なきさしそおもふとは、そこのなこりをおもふなり
 
(46)1172 何處可舟乘爲家牟高島之香取乃浦從已藝出來舩《イツコニカフナノリシケムタカシマノカトリノウラニコキイテクルフネ》
 
此香取の浦、下總の梶取明神のまします處と同名異所なり、從はユ〔右○〕とも讀べし、
 
初、高嶋の香取の浦 此かとりの浦は、あふみなるを、八雲御抄に下總と載させ給へるは、かしこに同名あるに、おほしめしまかへさせたまふなり
 
1173 斐太人之眞木流云爾布乃河事者雖通舩曾不通《ヒタヒトノマキナカストフニフノカハコトハカヨヘトフネソカヨハヌ》
 
流云、【六帖云、ナカストイフ、】
 
斐太人とは大工をも杣人をも云へり、今は杣人なり、下に眞木柱作るそま人と讀て、荒削して出すものなれば工匠の類なり、工匠をひた人と云は飛騨國は昔よき大工を出したる故歟、令云、凡斐陀國庸調倶免、毎v里點2匠丁十人1、延喜式民郡上云、凡飛騨國毎v年貢2匠丁一百人1云々、木工寮式云、凡(ソ)飛騨國匠丁三十七人、以2九月一日1相共(ニ)參2著寮家1、不v得2參差1、俗にはいにしへ飛騨と云工匠の有けるやうに云ひ傳へたり、然らば彼飛騨が住ける故をもて國の名ともせるか、俗説のみなれば知がたし、爾布ノ河は第十三にも斧取而丹生檜山木折來而とよめり延喜式云、大和國宇智郡丹生川神社、これは專祈雨の時祭る神なり、式に見えたり、此神のまします所なり、此歌の意は、杣人の兩岸に有て木を流し下す故に舟の通はねば、物は云ひかはせども互に渡て逢べき由のなきなり、旅の歌なれば見るまゝによめる歟、さらずば官制限ある公務などによりて旅に出たる(47)人の故郷の妻と唯消息をのみ通はして逢見る事あたはぬ由をよそへたるべし、新千載集に戀に入れられたるはおぼつかなし、
 
初、ひた人のまきなかす ひた人はひたゝくみといふも同し。番匠の事なり。そま人をもひとつにいふ。今はそま人なり。にふの川は大和なり。ことはかよへと舟そかよはぬとは、こなたかなたに物はいひかはせと、まきなかすによりて、舟はかよはぬなり
 
1174 霰零鹿島之崎乎浪高過而夜將行戀敷物乎《アラレフリカシマノサキヲナミタカミスキテヤユカムコヒシキモノヲ》
 
霰零は鹿島の枕詞、別に注す、落句は鹿島崎の見るに飽ぬを云へり、見ながら戀しと云事上に注せり、
 
初、あられふりかしまのさき 霰ふる音のかしましきといひかけたり。第廿防人か哥にも、あられふりかしまの神をいのりつゝとよめり。第三に、あられふりきしみかたけをさかしみとゝありしも、きしみはかしましきといふ心に、五音を通してつゝけたるなり。過てやゆかんこひしき物をとは、かしまのさきの、みれともあかぬを、こひしきといへり。浪の高けれはあかてや過ゆかむとなり
 
1175 足柄乃筥根飛超行鶴乃乏見者日本之所念《アシカラノハコネトヒコエユクカリノトモシキミレハヤマトシオモホユ》
 
トモシキは愛して見たらぬ意なり、第十四に、坂越て阿倍の田面に居るたづの、乏き君は明日さへもかもとよめる同意なり、うきに付てもめづらしき事を見るに付ても故郷を思ひ出るは旅の習なり、
 
初、あしからのはこね.はこね山を飛越て、都のかたへまれに行鶴をみれは、うらやましくて、いとゝやまとのくにのおもはるゝなり
 
1176 夏麻引海上滷乃奥津洲爾鳥者簀竹跡君者音文不爲《ナツソヒクウナカミカタノオキツスニトリハスタケトキキミハオトモセス》
 
夏麻引は海上と云はむためなり、別に注す、上總にも下總にも海上郡あれども此は上總なり、第十四東歌の中の上總國歌に上句今の歌と全同なるあり、此にて知べし、スダケドけ第十一に多集をスダクとよめり、すなはち此かける意なり、おきつすにはさま(48)ざまの鳥の集て聲すれども故郷の妻の聲はきかずと云意なり、
 
初、夏麻引うなかみかた 第十四東哥のはしめにも、なつそ引うなかみかたのおきつすにふねはとゝめむさよ更にけりとよめり。海上は上總國に有郡の名なり。又下總にも有。奥義抄云。麻の生たる所をはうといふなり。あさうなといふうもしをとらんとて、夏そ引とはいふなり。又云。をゝは刈て後にうは皮をは取て捨る物にて有を引といふなり。又麻をは根なから引へしともいへり。今案古語拾遺《・木綿木也》に云。天富《アマトミノ》命更(ニ)求(テ)2沃壊《ヨキヨコロヲ》1分(テ)2阿波齋部(ヲ)1率2往《ユキタ》東土《アツマノクニニ》1播2殖《ホトコシウフ》麻穀《アサカチヲ》1。好(キ)麻(ノ)之所(ナリ)v生。故《カレ》謂2之上總(ノ)國(ト)1。穀《カチノ》木(ノ)取v生(ル)故《カレ》謂2之(ヲ)結城《・下總》郡(ト)1。注云。古語麻謂2之(ヲ)總(ト)1也。今爲2上(ツ)總下(ノ)總二國(ト)1是也。此義にては、上總下總のふたつの國は、もとより夏そ引へき國なり。たゝし第十四武藏國の哥に、なつそ引うなひをさして飛鳥のいたらむとそよあかしたはへしとよめるは、うなひは海邊なり。此哥を武藏國の哥と定たるは、此うなひといへるは、常の海邊にてはなくして、武藏國にある名所と聞えたり。此詞ならては、武藏と定へきゆへなし。しかれは只うといはむため歟。うといふにつきても、うとをとはよく通すれは、なつそひくをといふ心につゝくるなるへし。奥義抄の義なれと、あさの生する所をは、あさふとも、をふともいふは、ふもしなり。今はうもしなれは、かなはすや。鳥はすたけと、すたくはあつまるなり。鳥はあつまりさはけと、君は音もせすとは、第十六に、わかやとのえのみもりはむもゝちとり千鳥はくれと君はきまさぬ。此心とおなし
 
1177 若狹在三方之海之濱清美伊往變良比見跡不飽可聞《ワカサナルミカタノウミノハマキヨミイユキカヘラヒミレトアカヌカモ》
 
和名集云、若狹國三方【美加太】郡、こゝの海なり、伊は發語の詞、往變良比はゆきかへりなり、
 
初、わかさなるみかたのうみ 和名集云。若狭國三方【美加太】郡。いゆきかへらひは、いは發語の辭、ゆきかへりなり
 
1178 印南野者往過奴良之天傳日笠浦波立見《イナミノハユキスキヌラシアマツタフヒカサノウラニナミタテルミユ》
 
天傳は日笠浦と云はむ爲なり、第二の人丸の歌に天傳夕日さしぬれとよまれたる意なり、日笠浦は播磨なり、推古紀云、十一年夏四月壬申朔、更以2來目皇子(ノ)之兄當麻皇子(ヲ)1爲d征(ツ)2新羅(ヲ)1將軍u、秋七月丙午、當麻皇子到2播磨1時從妻舍人姫正薨2於赤石1、仍葬2于赤石檜笠(ノ)岡上(ニ)1云々、かゝれば明石郡にあり、紀には檜笠とあればひのきを組たる笠か、今は日の笠郡と名付る故何れと知がたし、日の笠は和名集云、郭知玄(カ)切韻云、暈(ハ)氣繞2日月(ヲ)1也、【音運、此間云日月ノ加左、】辨色立成云、月院也、
 
初、天づたふ日かさのうら 天路をつたひゆく日のかさとつゝけたり。第二卷人まろの哥にも、天つたふ夕日さしぬれといへり。和名集云。郭知玄(カ)切韻(ニ)云。暈(ハ)氣(ノ)繞(ルナリ)2日月(ヲ)1也。音運。此間(ニ)云日月(ノ)加左。辨色立成云。月院也。此ひかさの浦は明石にあり。日本紀第二十二、推古紀云。十一年夏四月壬申朔、更(ニ)以(テ)2來目(ノ)皇子之兄當麻(ノ)皇子(ヲ)1爲d征(ツ)2新羅(ヲ)1将軍《イクサノキミト》u。秋七月辛丑朔癸卯(ノヒ)、當麻(ノ)皇子自2難汲1發船《フナタツ》。丙午、當麻皇子到2播磨(ニ)1時、從妻《ツマ》舍人(ノ)姫王《ヒメオホキミ》薨《ミウセヌ》2於赤石(ニ)1。仍(テ)葬2于赤石(ノ)檜《ヒ》笠(ノ)岡(ノ)上(ニ)1。乃當麻(ノ)皇子返(テ)之遂(ニ)不2征討《ウタ》1。これによれは、ひかさとなつくるゆへはしらねと、檜をあめる笠によりて名を得たる浦なり。此集には、日笠なり。いつれを正とすへしといふ事をしらす。笠置といふ所を、延喜式には、鹿鷺とさへかゝれたれは、文字にかゝはらぬ事おほし
 
一云|思賀麻江者許藝須疑奴良思《シカマエハコキスキヌラシ》
 
此一本を注したるは少不審殘れり、シカマ江は餝磨郡なるべければ日笠浦よりは今の道十里計も西なれば、彼處をも猶漕過たらむには室浦こそ近づかめ、日笠浦に(49)波の立が見ゆると云やうやはあるべき、印南野は行過ぬらしと云には意違へり、若は西より大和を指て上り來る意と云はむ歟、然らば鄙の長路を戀來ればとよめるこそ叶べけれ、ゆき過ぬらしと云は下り舟の詞とのみは聞えず、
 
1179 家爾之?吾者將戀名印南野乃淺茅之上爾照之月夜乎《イヘニシテワレハコヒムナイナミノヽアサチカウヘニテリシツキヨヲ》
 
初の二句は歸らむ後を兼て云なり、印南野(ノ)淺茅之上は、第六に赤人もいなみ野の淺茅押靡とよまれたり、此卷下に淺茅原後見むためとも、君に似る野山の淺茅ともよみ面白き物によめる上に、月の光のきら/\と照たらむ野に所も所にて戀られぬべき樣なり、チリシとは今にして後を兼て云へど此詞は後の意にして今を云なり、
 
1180 荒礒超浪乎恐見淡路島不見哉將過幾許近乎《アライソコスナミヲカシコミアハチシマミステヤスキムコヽタチカキヲ》
 
發句はアリソコスとも讀べし、此歌第六に笠金村の印南野に行幸の時よまれたる歌の意に似たり、
 
1181 朝霞不止輕引龍田山舩出將爲日者吾將戀香聞《アサカスミヤマスタナヒクタツタヤマフナテセムヒハワレコヒムカモ》
 
第四に高田女王の歌に常不止をトコトハニと和したれば今の不止をもトハニとも(50)讀べし、此歌は海路を下るべき人のまた大和にありてよめるなるべし、
 
初、龍田山ふなてせん日は これは難波より、ふなたちせん日は、故郷の龍田山をこひむとなり
 
1182 海人小舩帆毳張流登見左右荷鞆之浦回二浪立有所見《アマヲフネホカモハレルトミルマテニトモノウラワニナミタテルミユ》
 
浪の高く立を遠く見て釣舟に帆を張たるかとまがふ由なり、
 
1183 好去而亦還見六大夫乃手二卷持在鞆之浦回乎《ヨシユキテマタカヘリミムマスラヲノテニマキモタルトモノウラワヲ》
 
初、ますらをの手に卷もたる鞆のうらわ 鞆は弓いる時、革をもて作て、左手にさしはく物なり。第一に委尺せり。神代紀。天照大神|臂《タヽムキニ》著《ハキ》2稜威之《イツノ》高柄《タカカラ・タカトモ八雲》(ヲ)1云々。たかともといふへきを、たかゝらとあるは、一物二名歟。もし柄の字をからとよむにおもひわたれる歟
 
1184 鳥自物海二浮居而奥津浪驂乎聞者數悲哭《トリシモノウミニウキヰテオキツナミサワクヲキケハアマタカナシモ》
 
一二の句は鳧などの如く浮居てなり、
 
1185 朝菜寸二眞梶※[手偏+旁]出而見乍來之三津乃松原浪越似所見《アサナキニマカチコキイテヽミツヽコシミツノマツハラナミコシニミユ》
 
浪越ニ見ユとは遠ざかれる意なり、
 
1186 朝入爲流海未通女等之袖通沾西衣雖干跡不乾《アサリスルアマヲトメラカソテトホリヲヌレニシコロモホセトカハカス》
 
ヌレニシのに〔右○〕は助語なり、雖干跡は書やう讀やう上に云へるが如し、
 
初、ぬれにし衣ほせと 雖干とかきてほせとゝよむにたれるを、跡の字を添たるはいかにそや。此集の書さま無窮なれは、ほせとはほすといへともなれは、和語のてにをはの字をそへても、かへらしめてよめるにや。しからは、上の十二葉に、ほせとかはかすといふに、雖涼常不干とかける常の字も、今とおなしく、とゝいふてにをはに付《ツケ》て、義をもてほせとゝよめるなるへし
 
1187 網引爲梅子哉見飽浦清荒礒見來吾《アヒキスルアマトヤミラムアキノウラノキヨキアライソヲミニコシワレヲ》
 
(51)飽浦を八雲には紀伊と注せさせたまへり、
 
初、あきのうら 八雲御抄に、紀伊國のよし載させたまへり。彼御抄は、名所によくかんかへさせ給はぬことおほし
 
右一首柿本朝臣人麿之歌集出
 
1188 山越而遠津之濱之石管自迄吾來含而有待《ヤマコエテトホツノハマノイハツヽシワカキタルマテフヽミテアリマテ》
 
迄吾來、【六帖云、ワカクルマテニ、別校本云、ワカクルマテハ、】
 
發句は遠津と云ための枕詞歟、又山越て我來るまでと句を隔てゝつゞくるか、遠津ノ濱、何れの國に有と云事を知らず、吾來マデ含テ有待とは、よそより云にあらず、まだ咲かぬ程に來て又來て見んまでさてありてまてとなり、
 
初、山こえて遠つのはま 遠津の濱、何國ともいまたかんかへす
 
1189 大海爾荒莫吹四長鳥居名之湖爾舟泊左右手《オホウミニアラシナフキソシナカトリヰナノミナトニフネハツルマテ》
 
此歌と新古今にやまとかも海に嵐の西吹ば、何れの浦に御舟つながむと云賀茂の社の午日うたひ侍ける歌とてあるとは海に嵐をよむ慥なる證なり、和名云、孫※[立心偏+面]云、嵐山下出風也、盧含反、【和名、阿良之、】今按玉篇云、嵐大風、此注によるに山下何れの處にか吹かざらむ、袖中抄に此歌を引て、ゐなのみづうみとは湖の字につきてあしくよめる本あり云云、いかさまにも彼津の國のゐなと云所に水海なし云々、二條院の御時或人湖上月と(52)云題にゐなの水海とよめりしを其座の歌仙達見もとがめられずと承りし口惜き事なり、仍注付侍也と云へり、又彼抄に泊をとむるとあれど今取らず、
 
初、大海にあらしなふきそ 俊成卿は、康秀かむへ山風をあらしといふらんといふ哥を執し過し給ひて、海にあらしとはよまぬよしのたまへるは、此哥ならひに、やまとかも海にあらしの西ふかはといふ哥を、かんかへもらされけるにこそ。嵐の字を、山下出風と注したるは、むへやま風をとよめる心なり。されと山下出風、海に吹ましきにあらす。玉篇に嵐(ハ)力含(ノ)反(ナリ)。大風(ナリ)。かくあれは、いつくにか吹さらん。又千五百番哥合に、通具卿の哥に、吹凰もあらしになれはとこの山夕のうつら聲うらむなりといふを、定家卿の判に、風のあらしとなるやうを、知侍らす【暗記不分明】と難せられたれと、六帖に、われを君とふや/\とまつ風の今はあらしとなるそかなしき。此哥なくとも、凰はすこし吹ても、いたく吹ても、惣名にて、あらしといふは、中にもはけしきにつけたる名と聞ゆれは、凧のあらくなる心に、吹風もあらしになれはといふは、難まてはあるましくや。嵐の庭の霜ならてと聞こそ、すこしかなひかたく聞ゆれ。事の次なれは、所存を申侍るなり
 
1190 舟盡可志振立而廬利爲名子江乃濱邊過不勝鳧《フネハテヽカシフリタテヽイホリスルナコエノハマヘスキカテヌカモ》
 
可志は第十五第二十にもよめり、和名云、唐韻云、〓〓、【〓柯二音、漢語抄云、加之、】所2以繋1v舟、大きなる木をゆりたてゝそれに舟をつなぐを云なり、名子江は此卷上に多くよめる所にて攝津國なり、仙覺も攝津と注す、曾丹が歌に、住吉のなごえの岡を田に作り、數ならぬ身は秋の悲しきとよめる岡も同じあたりなるべし、越中に同名あればまがひぬべし、居名のみなとに次で載せ、又上の歌に雨は零かりほは作るとて吾兒《アコ》の鹽干にとよめり、今またいほりする名子江の濱邊と云、相似たり、落句のカテヌのか〔右○〕濁るべからず、
 
初、舟はてゝかしふりたてゝ 舟はつるは泊る事なり。かしは舟つなく木なり。舟つなかむと思ふ所に、大きなる木の梢を下にして振たつる、これをいふなり。常にはかせともいへり。和名集云。唐韻云。〓〓【〓柯二音。漢語抄云加之】所2以(ナリ)繋(ク)1v舟(ヲ)。なこ江は越中射水郡にあれとも、此歌は此前後のつゝきをみるに、なこの海にて、津のくにの名所なるへし。かしふりたてゝ、舟を留めて、あかすおもしろき濱邊と見むは、歌のさまも越中にてはあるましくみゆ。過かてぬは、過るにたへぬなり。かてを清て讀へし
 
1191 妹門出入乃河之瀬速見吾馬爪衝家思良下《イモカカトイテイリノカハノセヲハヤミワカウマツマツクイヘコフラシモ》
 
家思良下、【別校本思作v戀、】
 
門は出入する物なれば妹が門とおけり、第九にも妹が門入いづみ川とあるも此意なり、此出入の川何れの國に有と云ことを知らず、然れども次下に信士の山川とよみて下句も相似たれば大和にて信土山の川の名にや、馬のつまづく事第四に金村の或娘(53)子に代りてよまれたる歌に注せLが如し、落句は今按字にまかせてイヘオモフラシモと讀べきか、されども六帖にも家こふるかもとあれば別校本に思を戀に作れるに依るべき歟、
 
初、妹か門出入の川の 門は出入する物なれは、かくつゝけたり。第九に、妹か門いりいつみ川とつゝけたるもおなし心なり。此出入の川、いつれの国ともしらす。されとも、次下にまつちの山川とよみ、哥のさまもあひにたれは、まつち山のこなたにある、やまとの名所にや。わか馬つまつく家おもふらしもとは、第三笠金村哥に、塩津山打こえゆけはわかのれる馬そつまつく家こふらしも。なつむといへる説は、第十三にも、馬しもの立てつまつきとよめり。旅行人を家にて戀る妻のあれは、其のる馬のつまつきおもふにことはりたかへり。第四に、たをやめのわかみにしあれは道もりのとはむこたへをいひやらんすへをしらすと立てつまつくとよめるも、さま/\におもひむすほゝれて、心こゝにあらぬゆへに、ふと脚を失してつまつくなり。されは常はさもなきわか馬の、たひ/\つまつくは、家をおもひて、心空にてあゆむゆへに、しかるならんとよめるなるへし。屈原(カ)離騒(ニ)云。忽(ニ)臨(テ)睨《ミル》2夫《カノ》舊郷(ヲ)1。僕夫悲(ミ)、余(カ)馬|懷《カヘル》)。蜷《ケン》局(シテ)願而不v行(カ)。この心をおもふへし。家思良下は家おもふらしもと讀へし
 
1192 白栲爾丹保布信士之山川爾吾馬難家戀良下《シロタヘニニホフマツチノヤマカハニワカウマナツムイヘコフラシモ》
 
一二の句は眞土といはむためなり、白タヘと云は白土|堊《シラツチ》なり、但第一に軍王の歌にたつきをしらにと云しらにを白士と假てかけるは白丹《シラニ》の意にて白粉をいへるか、碧緑青を青丹と云ひつれば白粉をも白丹と云べし、又第十一第十三に胡粉をククキと義訓したれど按ずるに然るべからず、共にシラニと讀べき由を存ず、彼處に至て云べし、しからば白粉胡粉などを白栲にゝほふまつちとは云へる意歟、
 
初、白たへににほふまつちの 白くうるはしうにほふまつちと、山の名を白土になしていひかけたり。すみよしのきしのはにふににほはさましをと有しかことし。催馬樂に、いてわか駒はやく行こせまつち山まつらん人をゆきてはやみむ
 
1193 勢能山爾直向妹之山事聽屋毛打橋渡《セノヤマニタヽニムカヘルイモノヤマコトユルスヤモウチハシワタス》
 
事聽屋毛、【六帖云、コトキコユヤモ、別校本同v此、】  打橋渡、【六帖云、ウチハシワタル、袖中抄同v此、】
 
事ユルスヤモはこと〔二字傍線〕はことば〔三字傍線〕なり、も〔右○〕は助語なり、假令勢の山が妹山をけさうして其由をきかするに、妹山があはむとゆるすやらむ橋わたしたるはとなり、第十三に木の國の濱によると云、鰒珠拾はむと云て、妹の山勢の山越て行し君などよめるによれば、(54)其あはひの紀の川に打橋を渡して有けむを、牽牛を渡すとて織女の天川に打橋度すと第十によめるやうに妹の山が渡したるとよみなせるなり、六帖はものきこゆやもの意なればことゆるすやもと末は同じ、其初に聽聞の聽と見たると、聽許の聽と見たるとの異あり、渡をワタルと點ぜるは叶はず、勢の山とて山の名は人めきてまことに渡るべき物ならねど、歌の習なればわたしおくとは云べし、其橋をいかに渡りて渡るとはいはむ、
 
初、せの山にたゝにむかへるいもの山 紀の川を中にへたてゝ、せの山は北の川つらに、妹の山は南の川つらにあるに、打橋をわたしたるは、人のおもひかけていふ言に、したかひたるやうなれは、ことゆるすやも《・己言 他聽許》といへり。孝徳紀に、五畿内をさたむる時、南は兄山をかきるといひ、此集第一卷第三卷にも、兄《セノ》山をこゆる時の哥とてあれは、打橋をわたりて、いも山にかゝりけるなるへし。打橋は第四卷にもよみて、そこに尺しき。第十の七夕の哥にもよめり
 
1194 木國之狹日鹿乃浦爾出見者海人之燈火浪間從所見《キノクニノサヒカノウラニイテミレハアマノトモスヒナミマヨリミユ》
 
1195 麻衣著者夏樫木國之妹背之山二麻蒔吾妹《アサコロモキレハナツカシキノクニノイモセノヤマニアサマケワキモ》
 
昔紀の國よりはよき麻衣を出したるにや、此事はあさもよい紀とつゞくるに付て別に委注すべし、歌の意は麻衣を著るにつけて紀人はなつかしく思はるれば、同じくは妹背山に麻を蒔て麻衣を織れ、然らば彌なつかしからむとよまれたるにや、吾妹とは今は廣く紀の國の麻衣を織る女を指す詞なり、六帖に、麻衣の歌として作者ををとまろ卿とせるも下の注にたがへり、尾の句ををまけわきもことあるも今の點に及ばず、
 
初、あさ衣きれはなつかし 此哥あさもよいきとつゝく枕言につきて、別に注してつく
 
(55)右七首者藤原卿作未審年月
 
さきに人丸集の歌と注せしよりこなた八首あり、其中に初の一首は作者なきにや、今按藤原卿といへるは藤原北卿と云へる北の字の落たる歟、大繊冠ならば内大臣藤原卿と云べし、藤原卿とのみ云ひては南卿北卿わかれず、南卿は武智麻呂なり、武智麻呂は和歌に不堪なりける歟集中一首もなければ北卿なるべしとは云なり
 
初、藤原卿 藤原北卿にて、房前なるへきを、北の字の落たるにこそ
 
1196 欲得※[果/衣]登乞者令取貝拾吾乎沾莫奥津白浪《イテツトトコハハトラセムカヒヒロフワレヲヌラスナオキツシラナミ》
 
イデは以前注せし如く兩義ある中に今は物を乞意なれば欲得とかけり、
 
1197 手取之柄二忘跡礒人之曰師戀忘貝言二師有來《テニトリシカラニワスルトアマノイヒシコヒワスレカヒコトニシアリケリ》
 
奥義抄に遣句歌の例に出さる、一二の句のつゞきに依てなり、第九に語繼からにもここだ戀しきをとよめるも同じさまなり
 
1198 求食爲跡礒二住鶴曉去者濱風寒彌自妻喚毛《アサリストイソニスムタツアケユケハハマカセサムミオノカツマヨフモ》
 
1199 藻苅舟奥※[手偏+旁]來良之妹之島形見之浦爾鶴翔所見《モカリフネオキコキクラシイモカシマカタミノウラニタツカケルミユ》
 
(56)八雲御抄に妹之島、形見の浦ともに紀伊と注せさせ給へり、
 
初、いもかしまかたみの浦 八雲御抄に紀國と注せさせ給へり。前後の名所紀伊國なれは、しかるへし
 
1200 吾舟者從奧莫離向舟片待香光從浦榜將會《ワカフネハオキニサカルナムカヘフネカタマチカテラウラニコキアハム》
 
向舟は迎舟なり、
 
初、むかへふね 迎舟なり。片待かてらは、なかはゝ待かてらなり。此集に片待片設なといふ詞おほし
 
1201 大海之水底豐三立浪之將依思有礒之清左《オホウミノミナソコトヨミタツナミノヨラムトオモヘルイソノサヤケサ》
 
浪を承てよらんと云へるは舟をよせてよらんと思ふなり、
 
1202 自荒礒毛益而思哉玉之浦離小島夢石見《アライソニモマシテオモフヤタマノウラノハナレコシマノユメニシミユル》
 
思哉、【幽齋本云、オモヘヤ、】
 
發句はアリリユモとも讀べし、二の句はマシテオモヘヤと點じたる、第一にも有て注せし如く古風に叶へり、二句の意は荒磯浪の間なきにも猶まさりて故郷の妻の我を念へばにやとなり、玉ノ浦は第九に紀の國にてよめる歌に有にて知べし、安藝に同名あり、第十五にあり、離小島は玉浦の沖にはなれて有なるべし、八雲御抄には別に島の名とせさせたまへどもはなれ小鳥はなし、そはこと所にもよめり、離小島と云に別たる妻をよそへて夢に見ゆるとはいへり、し〔右○〕は助語なり、
 
初、玉のうらのはなれこしま 紀國なり。十五卷によめる玉の浦は別なり
 
(57)1203 礒上爾爪木折燒爲汝等吾漕來之奥津白玉《イソノウヘニツマキヲリタキナカタメトワカカツキコシオキツシラタマ》
 
爪木は、詩註(ニ)云、粗(ヲ)曰v薪(ト)、細(ヲ)曰v蒸、あまはかづきして寒くなれば火を燒て身をあたゝむる故爪木折燒とは云へり、汝ガタメトとは妻を指、六帖には妹がためと改たり、我かづきして眞珠を得て贈るやうに懇切の心をよみなせるなり、
 
初、つま木をりたき 詩(ノ)註(ニ)云。粗(ヲ)曰(ヒ)v薪(ト)、細(ヲ)曰(フ)v蒸《ツマキト》
 
1204 濱清美礒爾吾居者見者白水郎可將見釣不爲爾《ハマキヨミイソニワカヲレハミシヒトハアマトカミラムツリモセナクニ》
 
發句は濱の清きを愛してと云意なり、見者は今按ヨソヒトハと義訓せるは餘りにや、唯打任せてミルヒトハと讀べし、
 
初、見者 義をもてよそひとゝはよめる歟。唯打まかせてみるひとはと讀へき歟
 
1205 奥津梶漸々志夫乎欲見吾爲里乃隱久惜毛《オキツカチシハ/\シフヲミマクホリワカスルサトノカクラクヲシモ》
 
漸々、【別校本云、ユクユク、】
 
漸々としば/\とは義ことなれば和叶はず、第五にはヤウヤクと和したれば此處をもさよむべし、志夫乎は澀るをなり、櫓もやう/\押くたびれてしぶるを、吾見まくほしらする里のおのづから遠ざかりて隱て見えぬが惜きとなり、腰の句を下へ連ねて意得べし、漸々をユク/\と點ぜるも、ゆく/\はゆくら/\にてゆる/\の事なれ(58)ばやうやくと同じ意となるなり、
 
初、しは/\しふを しふは強る心といへり。たとへは追風なとのなきに、櫓してしひて漕すゝむるなり。しふをにて切て心得へし
 
1206 奥津波部都藻纒持依來十方君爾益有玉將縁八方《オキツナミヘツモマキモチヨリクトモキミニマサレルタマヨラムヤモ》
 
玉將縁八方、【別校本亦點云、タマヨラメヤモ、】
 
落句タマヨラメヤモと讀べし、
 
初、おきつなみへつもまきもて へつもは、海はたの藻なり。延喜式祝詞に、おきつも葉へつも葉といへり
 
一云|奥津浪邊波布敷縁來登母《オキツナミヘナミシクシクヨリクトモ》
 
1207 粟島爾許枳將渡等思鞆赤石門浪未佐和來《アハシマニコキワタラムトオモヘトモアカシノトナミイマタサワケリ》
 
粟島は阿波なり、門浪はせとなみの意なり、
 
1208 妹爾戀余越去者勢能山之妹爾不戀而有之乏左《イモニコヒワカコエユケハセノヤマノイモニコヒステアルカトモシサ》
 
妹ミ戀ズテとは妹山に指向ひてあればなり、落句の乏左は羨しきなり、
 
1209 人在者母之最愛子曾麻毛吉木川邊之妹與背之山《ヒトナラハオヤノマナコソアサモヨイキノカハツラノイモトセノヤマ》
 
母は今按ハヽとよむべし、川邊はカハノベとも讀べし、
 
初、人ならははゝのまなごそ 人ならはとは、人にてあらはなり。まなごは最愛子とかけることし。人のおやの子に、うるはしきあにと、いもうとゝを、ならへてみむかことしとなり。第六市原王の、木すらいもとせ有といふをとよみたまへる哥、引合てみるへし
 
(59)1210 吾妹子爾吾戀行者乏雲並居鴨妹與勢能山《ワキモコニワカコヒユケハトモシクモナラヒヲルカモイモトセノヤマ》
 
初、わきもこにわかこひゆけは 上に妹にこひわかこえゆけはといふと、またく同意にて、句すこしかはるのみ
 
1211 妹當今曾吾行目耳谷吾耳見乞事不問侶《イモカアタリイマソワカユクメニタニモワレニミヘコソコトトハストモ》
 
初の句は妹山のあたりを妹になして云へり、腰の句は今按メノミダニとも讀べし、
 
初、妹かあたり 此妹といふは妹山なり
 
1212 足代過而絲鹿乃山之櫻花不散在南還來萬代《アシロスキテイトカノヤマノサクラハナチラスモアラナムカヘリクルマテ》
 
絲鹿山、紀伊なり、足代と云も所の名なるべし、平氏大子傳に守屋大連の所領を天王寺に寄附したまふ由をかける中に河内國澀川郡に足代《アシロ》あり、今は寺領にはあらねど村の名改まらずして殘れり、此に准らへて知べし、
 
初、あしろ過ていとかの山 足代といふも所の名なるへし。平氏か聖徳太子傳に守屋の大連の所領をわかちて、天王寺へ寄附し給へる中に、河内國澁川郡足代村といふ所あり。今は天王寺の所領ならねと、昔の名あらたまらすしてあり。これに准して所の各なるへしとおもへり。いとかの山、紀伊國なり。紀の川にも、網代のあるへけれは、足代といふも、網代ある所にや
 
1213 名草山事西在來吾戀千重一重名草目名國《ナクサヤマコトニシアリケリワカコヒノチヘノヒトヘモナクサメナクニ》
 
事西在來、【袖中抄云、コトニサリケリ、】
 
袖中抄の意は四阿反左なれば約めてよめり、されど西の字をかけるを思ふに約めてよむは今樣なるべければ唯今のまゝに讀べし、し〔右○〕は助語なり、六帖に腰の句以下をわがこひはちへにひとへもなぐさまなくにとあれば此も今の點まされり、此歌第六坂(60)上郎女が名兒山の歌と同意なり、後撰に紀の國の名草の濱は君なれや、言のいふかひありとこそきけ、名草は郡の名なり、
 
初、名草山 紀伊國名草郡にある山なり。なくさ山とてなくさむるやうなれと、故郷をこふる心をは、ちゝの中のひとつもなくさめねは、たゝことはのみなりといふなり。ことは名をさせり。第六坂上郎女、筑前宗形郡名兒山をよめる哥、引てみるへし。よく似たり
 
1214 安太部去小爲手乃山之眞木葉毛久不見者蘿生爾家里《アタヘユクヲステノヤマノマキノハモヒサシクミネハコケヲヒニケリ》
 
安太部は魚梁《ヤナ》をうち鵜を養などする者の名なり、神武紀云、亦有2作v梁取v魚者1、天皇問v之、對曰、臣是|苞苴擔之《ニヘモツカ》子、此則阿太(ノ)養※[盧+鳥]部《ウカヒヲカ》始祖也、ヲステの山も前後のつゞきに依に紀伊國なり、此眞木は木の名なり、葉にこけおふと云に知られたり、六帖にもまきの歌とせり、續古今は發句を年つもると改て入らる、久しく見ねばと云に合せては如何侍らむ、又此事は人丸家集にも不載、今按まきの葉も久しく見ぬまに苔むすと云は萬の見ることの替りたるを云意知ぬべし、
 
初、あたべゆく あたべは安太氏のやなゝとうつものなり。部はとものへといふことく、安太氏の部類なり。神武紀(ニ)云。亦有2作《ウチテ》v梁《ヤナヲ》取魚者《スナトリスルモノ》1。【梁此(ヲハ)云2椰奈(ト)1】天皇問(タマフ)之。對(テ)曰。臣《ヤツカレハ》是|苞苴擔《ニヘモツカ》之子(ナリ)。【苞苴擔此(ヲハ)云2珥《ニ》倍毛|兎《ツト》1】此(レ)則阿太(ノ)養※[盧+鳥]部始祖《ウカヒヲカトホツオヤナリ》也。をすての山、紀の國なり。あた氏のものゝかよへは、かくつゝけたり
 
1215 玉津島能見而伊座青升吉平城有人之待問者如何《タマツシマヨクミテイマセアヲニヨシナラナルヒトノマチトハハイカニ》
 
能見テイマセは能見てゆきませなり、待問はハヾイカニとは能見たまはずば平城なる家人の待つけてとはむ時いかゞしたまはむなり、第六神社老麻呂が家なる妹が待問むためとよめる意なり、
 
(61)1216 鹽滿者如何將爲跡香方便海之神我手渡海部未通女等《シホミタハイカニセトカワタツミノカミカテワタルアマノヲトメラ》
 
方便海とかけること其意を得ず、もし諸大龍王等は諸佛菩薩の善權方便なるも多ければ其意にてかけるにや、神が手渡ルとは海神の掌中に入てたやすく取られぬべき意なり、鹽干の間に遠く出て藻など拾ふを危く思ひやるなり、又第十六に黄染の屋形神之門渡とよめり、第十三にさかとを過てと、さかと〔三字傍線〕を坂手とかけり、然れば今も神カトワタルと讀て門渡と意得べきか、又第六に石上乙丸卿の歌に大埼の神の小濱とよまれたるも紀州なれば海神によせて所の名歟、
 
初、方便海之神我手渡 方便海とかきて、わたつみとよめるやう、その意を得す。管見抄云。わたつみは海龍王なり。海を領したる神なれは、海をわたるをいはんとて、わたつみの神が手わたるとはよめり。此手わたるをは、とわたると讀へし。手をとゝよむ事おほし。以上管見抄にいへり。海龍王は、婆竭羅龍王なり。婆竭羅は梵語、こゝには釋して海といふ。およそ諸の善龍は、衆生を利益する方便にて、龍宮城をしめてすめは、そのこゝろにて、方便海とかけるにや。第十六に、おきつ國しらせし君かそめやかた、きそめのやかた神のとわたるとよめるに似たり。海をわたるものは、龍王の手に入たるものなれは神が手わたるを、字のまゝによみて、しかこゝろ得たるもよし、今案、第六に、石上朝臣乙麿卿、土左へなかされたまふとて、紀伊國にてよまれたる哥に、大埼の神の小濱はせはけれともゝふな人も過といはなくに。此神が手わたるといふも、若彼神の小濱の事にや。前後皆紀の國の名所をよめる哥のみなれはなり
 
1217 玉津島見之善雲吾無京往而戀幕思者《タマツシマミテシヨケクモワレハナシミヤコニユキテコヒマクオモヘハ》
 
見テシのし〔右○〕は助語なり、是は大かたにて心のなぐさむばかりならばよからむを、都へ歸ても忘られず戀思はる、却てあしき玉津島なりと云はほむる意なり、第十五に宅守が、人よりは妹ぞもあしきとよみ、伊勢物語に業平の絶て櫻のなかりせばとよまれたる意これに同じ、
 
初、玉津嶋見てしよけくも これは玉津嶋をあまりに愛して、ほむるとて、かへりてよくもなしとはいふなり。大かたに見て、心のなくさむはかりならはよからんを、都へ歸りても、わすれすこひおもはるへき玉津嶋なれは、なましひに見たる事といふこゝろによめり。第十五中臣朝臣宅守か哥に、ひとよりは、妹ぞもあしき。こひもなく、あらましものを。おもはしめつゝ。此心に似たり
 
1218 黒牛乃海紅丹穗經百磯城乃大宮人四朝入爲良霜《クロウシノウミクレナヰニホフモヽシキノオホミヤヒトシアサリスラシモ》
 
(62)黒牛ノ海、紀伊なり、黒牛に對して紅ニホフと云、紅は女の赤裙なり、下にアサリと云は赤裙引つれての意なり、第九に黒牛がた鹽干の浦を紅の、玉|裙《モ》すそひき往はたがつまとよめるを思ふべし、大宮人シのし〔右○〕は助語なり、
 
初、くろうしの海紅にほふ 紅にほふ大宮人は、紅顧あるひは衣服の美をもいふへし。此前後の哥皆行幸の御供の時の哥なるへし
 
1219 若浦爾白浪立而奥風寒暮者山跡之所念《ワカノウラニシラナミタチテオキツカセサムキユフヘハヤマトシソオモフ》
 
落句はヤマトシオモホユとよむべし、し〔右○〕は助語なり、
 
1220 爲妹玉乎拾跡木國之湯等乃三埼二此日鞍四通《イモカタメタマヲヒロフトキノクニノユラノミサキニコノヒクラシツ》
 
1221 吾舟乃梶者莫引自山跡戀來之心未飽九二《ワカフネノカチハナヒキソヤマトヨリコヒコシコヽロイマタアカナクニ》
 
梶者莫引とは、な引とゝのへ舟をやりそとなり、第二十に家持の歌にも梶引のぼりとあり、
 
初、わか舟のかちはなひきそ 第二卷人麿の哥に、ゆくふねのかち引折てとある所に委注せり。かち引は、櫓を引たてゝこく心なり。やまとよりこひ來し心とは、此海のおもしろきを見むとこひ思しなり
 
1222 玉津島雖見不飽何爲而※[果/衣]持將去不見人之爲《タマツシマミレトモアカスイカニシテツヽミモテユカムミヌヒトノタメ》
 
六帖つと歌に九卿と作者をつけて持將去をもたらむと云へり、風雅も同じ、但よみ人しらずに入る、
 
(63)1223 綿之底奥巳具舟乎於邊將因風毛吹額波不立而《ワタノソコオキコクフネヲヘニヨセムカセモフカヌカナミタヽスシテ》
 
第十の七夕歌に風は吹ども浪立なゆめとある、此歌のねがひにおなじ、
 
初、わたのそこおきこく おきおくはおなし心にて、ふかきをいへは、わたの底おきこくとはいへり。風もふかぬかは、此集にかやうによめるは、ねかふ心なり。此哥もしかり。波はたゝすして、おきなる舟はいそによせむ風は、誰もねかはしかるへきものなり
 
1224 大葉山霞蒙狹夜深而吾舩將泊停不知文《オホハヤマカスミタナヒキサヨフケテワカフネハテムトマリシラスモ》
 
蒙は第十二に朝霞たなびく山と云にもかけり、
 
1225 狭夜深而夜中乃方爾欝之苦呼之舟人泊兼鴨《サヨフケテヨナカノカタニオホヽシクヨヒシフナヒトヽハテケムカモ》
 
泊兼鴨、【別校本云、ハテニケムカモ、】
 
夜中ノ方とは亥の時過る位なり、名所などにはあらず、此歌は前後紀州の名所の中にあるに.第九には高島作の中に.客にあればよなかをさして照月のとよめり、此を合て知べし、落句はハヲニケムカモと讀べし、
 
初、さよふけてよなかのかたに よなかのかたは、夜半に近き方なり。第九によなかをさして照月ともよめり
 
1226 神前荒石毛不所見浪立奴從何處將行與寄道者無荷《ミワノサキアライソモミエスナミタヽヌイツコヨリユカムヨキミチハナシニ》
 
浪立奴、【校本云、ナミタチヌ、】
 
荒石はアリソとも讀べし、腰の句は校本の點よし、ヨキミチとはかたはらより廻りて(64)行道なり、好道と云にはあらず、
 
初、みわのさきあらいそも 此みわのさきは、紀伊の國にあり。みわさきさのとてつゝきなりといへり。第三長忌寸奥麻呂哥に、くるしくもふりくる雨かみわの崎さのゝわたりに家もあらなくにといふに注せり。浪立奴は、なみたちぬと讀へし。よき道はなしにとは、よきて行へき道のなきなり。六帖に、わすれ川よく道なしと聞てしはいとふの海の立はなりけれ
 
1227 礒立奥邊乎見者海藻苅舟海人※[手偏+旁]出良之鴨翔所見《イソニタチオキヘヲミレハモカリフネアマコキイツラシカモカケルミユ》
 
海藻は六帖にも今の如くも〔右○〕とあれども今按|メ〔右○〕とよむべし、和名云、本草云、海藻、味苦※[酉+咸]、寒無毒、【和名、爾木米、俗用2和布1、】わかめの事なり、
 
初、海藻苅舟 もかりふねとあれとも、めかりふねとよむへし。海藻はわかめのことなり。和名集云。本草云。海藻味苦※[酉+咸]。寒(ニシテ)無v毒【和名爾木米。俗用2和布1】
 
1228 風早之三穗乃浦廻乎榜舟之船人動浪立良下《カサハヤノミホノウラワヲコクフネノフナヒトサワクナミタツラシモ》
 
風早ノミホノ浦第三に注せしが如し、
 
初、風早のみほのうらわを みほのうら、これまて皆紀伊國にての哥なり。みほのうらきのくになることは、第三の廿五葉、四十九葉に委注せり。八雲御抄に、此風早といへるを、別に所の名とせさせたまへとも、これは常に風の早き所といふ心にて、枕詞とせるなり。第十四下總國の哥に、かつしかのまゝのうらまをこく舟の下句今と全同
 
1229 吾舟者明且石之湖爾※[手偏+旁]泊牟奥方莫放狹夜深去來《ワカフネハアカシノハマニコキトメムオキヘサカルナサヨフケニケリ》
 
潮爾、【別校本亦云、アカシホニ、官本亦云、ミナトニ、】  ※[手偏+旁]泊牟、【別校本亦云、コキハテム】
 
潮はシホとよむは常の事なり、第十一人丸集の中に潮葦をミナトアシと和し、潮核延子菅《ミナトニネハフコスケノ》云々、此等によるに異を注する兩訓意に任て用べし、ハマと訓じたる例いまだ見及ばず、腰の句もまた例に依てコギハテムとよむべし、
 
初、わか舟はあかしのはまに 明旦石之潮爾とかきたれは、あかしのしほにとよむへくや。はまとよめるやう心得かたし
 
1230 千磐破金之三崎乎過鞆吾者不忘牡鹿之須賣神《チハヤフルカネノミサキヲスクレトモワレハワスレスシカノスメカミ》
 
(65)金の三崎は筑前なり、稱徳紀云、神護元年八月辛巳、筑前國宗形郡(ノ)大領外從六位下宗形朝臣深津授2外從五位下(ヲ)、其妻無位竹生王從五位下1、並以d被2僧壽應誘1造c金埼(ノ)船瀬(ヲ)u也、渡海に大事とする處なる故なり、彼處をば過たれども尚志加の明神を忘れ奉らず、衛護したまはむ事を祈り御めぐみを仰ぐとなり、三、四の句はスグルトモワレハワスレジとも讀べし、志加神は住吉と同じ、
 
初、ちはやふる金のみさきを 金のみさきは筑前なり。績日本紀第二十八、稱徳紀云。神護景雲元年八月辛巳(ノヒ)筑前國宗形郡(ノ)大領外從六位下宗形朝臣深津(ニ)授2外從五位下(ヲ)1。其妻無位竹生王(ヲ)從五位下(トス)。並(ニ)以(ナリ)d被(テ)2僧壽應(ニ)誘(ハ)1造(レルヲ)c金(カ)埼(ノ)船瀬(ヲ)u也。しかのすめ神は、延喜式第十神名帳下云。筑前國糟屋郡志加海神社三座【並名神。大。】およそ日本紀等によるに、國郡山海みな神ならすといふ所なし。中にも金のみさきなとは、海上に大事とする所なれは、ちはやふる金のみさきとはいへり。そのみさきはすくれとも、志加海神の御めくみを、我はわすれす、渡海ことゆへなからん事を祈申となり。志加神社は、表筒男、中筒男、底簡男にて、住吉と同御神なり
 
1231 天霧相日方吹羅之水莖之崗水門爾波立渡《アマキリアヒカタフクラシミツクキノヲカノミナトニナミタチワタル》
 
發句はアマギラヒと讀べきかの事第六讃久邇新京歌に云が如し、日方は袖中抄云、坤風也、無名抄云、ひかたは巽風也、晝はふかで夜吹風也、私云、たつみの風をばをしやなと云、又伊勢東風と云、以上袖中抄なり、顯昭先みづからの義をたてゝ、次に俊頼の義を出して私云とて巽風の名を別に出されたるは、巽にはあらず坤風也と定むる意なるべし、水莖之崗水門は第六に粗注せしが如し、仲哀紀云八年十有一月丙戌朔甲午、天皇至2筑紫國崗(ノ)水門(ニ)1、仲哀紀云八年春正月己卯朔壬午、幸2筑紫1時岡縣主祖熊鰐聞2天皇軍駕1云云、既而導2海路1自2山鹿岬1【和名云、遠賀郡山鹿、】廻(テ)之入2崗浦1云、皇后別船自2洞海1【洞此云2久岐1】入之云々、水莖と洞海と同處歟、筑前風土記云、塢※[舟+可]《ヲカノ》縣(ノ)之東側近有2大江口1、名曰2焉※[舟+可](ノ)水門1、湛v容2大船1焉、(66)從v彼通v島鳥|旗《ハタノ》澳名(ヲ)曰2岫門鳥旗等1【鳥、多也、岫門、久岐也、】堪v容2小船(ヲ)1焉
 
初、天きりあひ日かた吹らし ひかたは、ひつしさるのかたよりふく風の名なり。水くきのをかのみなとは、筑前にあり。和名集云。遠賀郡。此郡に有。第三大納言大伴卿の哥に、ますらをとおもへるわれや水くきのみつきのうへに涙のこはむ。管見抄に水くきは水のなかくいりこみたる所なりといへり。日本紀第三云。十有一月丙戌朔甲午、天皇至2筑紫國崗(ノ)水門(ニ)1。同第八仲哀紀云。八年春正月己卯朔壬午(ノヒ)幸《イテマス》2筑紫(ニ)1。時(ニ)岡(ノ)縣主(ノ)祖|熊鰐《クマワニ・ワニ》聞《ウケタマハテ》2天皇|車駕《オホムタスルヲ》1、豫《カネテ》拔《ネコシ》2取百枝(ノ)賢木(ヲ)1以(テ)立(テヽ)2九|尋《ヒロ》船之|舳《ヘニ》1〇既而|導《ミチヒキツカマツル》2海(ツ)路《チノ》1。自2山鹿(ノ)岬《サキ》1廻(テ)之入(マス)2崗浦(ニ)1。到(テ)2水門《ミナトニ》1御船不v得v進《ユクコトヲ》。則問(テ)2熊鰐(ニ)白。朕聞(ク)汝(チ)熊鰐(ハ)者有(テ)2明《キヨキ》心1以|參來《マウケリ》。何(ソ)船(ノ)不(ル)v進《ユカ》。熊鰐|奏《マウシテ》之曰。御船所2以不(ル)1v得v進(コトヲ)者非2臣(カ)罪(ニ)1。是(ノ)浦(ノ)口(ニ)有2男女《ヒコカミヒメカミ》二(リノ)神1。男神(ヲハ)曰2大倉主(ト)1。女神(ヲハ)曰2菟《ツ》夫羅媛(ト)1。必是神之|心《ミ》歟。天皇則|祷祈《クミノミタマフ》之。以2挟抄者《カチトリ》倭(ノ)國菟田(ノ)人伊賀彦(ヲ)1爲(テ)v祝《ハフリト》令(タマフ)v祭(ラ)。則|舶《ミ》得v進(コトヲ)。皇后|別船《コトミフネニメシテ》自2洞海《クキノウミ》1【洞此云2久岐(ト)1】入(タマフ)之。潮|涸《ヒテ》不v得v進(コト)。時(ニ)熊鰐更(ニ)還(テ)之自v洞奉v迎2皇后(ヲ)1。則見(タ)御船(ノ)不(ルヲ)1v進、惶懼《オチカシコマリテ》之忽(ニ)作(テ)2魚|沼《イケ》鳥|池《イケヲ》1悉聚(ム)2魚鳥(ヲ)1。皇后|看《ミソナハシテ》2是(ノ)魚鳥之遊(ヲ)1而忿(ノ)心稍(ニ)解(ヌ)。及(テ)2潮(ノ)滿(ニ)即泊2于|崗津《エオカツニ》1。筑前國(ノ)風士記(ニ)云。塢※[舟+可]縣(ノ)之東側近有2大江口1。名曰2塢※[舟+可](ノ)水門《ミナトト》1。堪(タリ)v容《イルヽニ》2大船(ヲ)1焉。從v彼通v嶋|鳥旗《タハタノ》澳(ヲ)名2岫《クキ》門(ト)1。鳥旗等(ハ)【鳥(ハ)多《タ》也。岫門(ハ)久岐也】堪(タリ)v容(ルヽニ)2小船(ヲ)1焉。海中(ニ)有2南小島1。其一(ヲ)曰2何※[白+斗]《カハ》嶋(ト)1。島(ニ)生2支子(ヲ)。海(ニ)出2鮑魚(ヲ)1。其一(ヲ)曰2資波嶋(ト)1。兩嶋倶(ニ)生(ス)2烏葛冬薑(ヲ)1【烏葛黒葛也。冬薑(ハ)迂菜(ナリ)也。】みつくきは、日本紀に洞《クキノ》海といひ、風土記に岫門《クキ》といへるなるへし。さて水莖としもいふゆへは、管見抄に注せる心にも有なん。近江に水莖の岡とて有も、水海の入江にめくれるよしうけたまはれは、これも管見抄にいへる心にて、おなし名をやおほせ侍けむ
 
1232 大海之波者畏然有十方神乎齊禮而舩出爲者如何《オホウミノナミハヲソロシシカレトモカミヲタムケテフナテセハイカニ》
 
波者畏、【別校本云、カシコシ、】  齊禮而、【校本云、齊或作v齋、】
 
如何とは何事かあらんの意なり、
 
1233 未通女等之織機上乎眞櫛用掻上拷島波間從所見《ヲトメラカヲルハタノウヘヲマクシモテカヽケタクシマナミマナミマヨリミユ》
 
眞櫛モテカヽゲと云までは栲島と云はん爲の序なり、布を經【正辭云織の字の誤か】る時櫛をもて掻て絲のまがひたるをも能解てなり、玉篇云※[手偏+韵の旁]、【子吝切、織者梳v絲具、】此字彼櫛の名なり、栲島とつづくるは上ると云意なり、櫛にて掻て絲の浮上るやうにする故なり、栲島何れの國にありと云事を知らず、
 
初、をとめらかをるはたのうへをまくしもてかゝけたくしま波間よりみゆ はたをるに、糸筋のまかはぬために、櫛をもてはたものゝ上を掻なり。たくはたくるなり。此かゝけたくしま未v勘v國。玉篇云。杓【子吝切。織者(ノ)梳《ケツル》v絲(ヲ)具(ナリ)。】此字機の上をかく櫛なり。今案、かゝけたくしまは、あまりになかき名なり。をとめこか袖ふる山、さゝれなみいそこせちなるなといふことく、嶋の名はたゝたくしまなるを、櫛をもて機の上をかゝけて、その糸をたくるといふ心に、かゝけたく嶋とはつゝけたるにもやあらむ
 
1234 塩早三礒回荷居者入潮爲海人鳥屋見濫多比由久和禮乎《シホハヤミイソワニヲレハアサリスルアマトヤミランタヒユクワレヲ》
 
初、塩はや見いそわにをれは 此下句、此集に全同なる有
 
1235 浪高之奈何梶取水鳥之浮宿也應爲猶哉可※[手偏+旁]《ナミタカシイカニカチトリミツトリノウキネヤスヘキナヲヤコクヘキ》
 
初、浪高し 此哥は※[楫+戈]師《カチトリ》と談合するやうによめり。第一句の下、句絶。第二の下、句。第四の下も句なり
 
(67)1236 夢耳繼而所見小竹島之越礒波之敷布所念《ユメニノミツキテミユレハサヽシマノイソコスナミノシキテシクシクオモホユ》
 
夢ニノミ繼テミユルとは故郷の妻なり、小竹島を八雲には石見と注せさせたまへり、彼御抄には石見と注せさせ給へる名所いと多し、
 
初、ゆめにのみつきてみゆれは 故郷の事なり。さゝ嶋八雲御抄に石見と注せさせたまへり。彼御抄には、石見と注せさせ給へる所おほし。もし人丸の出られける所なるゆへ、おしはからせたまひても、しか載させたまへるにや
 
1237 靜母岸者波者縁家留香此屋通聞乍居者《シツカニモキシニハナミハヨリケルカコノヤトホシニキヽツヽヲレハ》
 
初、此屋とほしに聞つゝをれは 家の内にをりなから、外なる音をきくなり
 
1238 竹島乃阿戸白波者動友吾家思五百入※[金+施の旁]染《タカシマノアトカハナミハトヨメトモワレハイヘオモフイホリカナシモ》
 
八雲御抄に、たけ島、備前と注せさせ給へれど、第九に高島作歌二首の初に此歌再たび出たれば今タカシマと點ぜるに依るべし、白の字カハと和せるやう不審なり、第九には河波とかけり、アトノシラナミハと點ずべきか、腰の句以下は第二に人丸のさゝの葉はみ山もさやに亂るめりとよまれたる意に同じ、※[金+施の旁]染をカナシモと點ぜしは寫生の誤なるべし、カナシミなり、(68)上に大海のみなそことよみ立波のよらむと思へる濱のさやけさとよめる歌に少替れり、ユスリはゆすり動かすなり、古歌にも麻裳吉紀の川ゆすり行水のとよめり、
 
初、たかしまのあとかは波はとよめともわれは家おもふいほりかなしみ 此たかしまを、竹島とかけるを、八雲御抄嶋部にたけ【備前万】と注せさせたまへり。されとも、第九に、高島作歌二首の第一に、高鳴のあとかはなみはさはけともわれは家おもふたひねかなしみとて、此哥の第三の句第五の句、兩句の詞すこしつゝかはりて ふたゝひ載たり。是は近江の高鳴郡の名所なり。あとのみなとゝもよめり。第二に人まろの哥に、さゝの葉はみ山もさやにみたれともわれは妹おもふわかれきぬれは。この心とおなし。いほりはたひのかりいほなれは、そのかなしさに、故郷をおもふ心は、あと川波のおひたゝしき音にも、まきれぬなり
 
1239 大海之礒本由須埋立波之將依念有濱之淨奚久《オホウミノイソモトユスリタツナミノヨラムトオモヘルハマノサヤケク》
 
縁ケルカのか〔右○〕は哉なり、屋通とは夜《ヨル》屋《ヤド》ながら聞なり、
 
初、大海のいそもとゆすり いそもとは石本なり。石をもゆすりうこかすやうに、大浪のたつことなりといへり。字のことく磯の許といへるにても有へし。古歌に、あさもよいきの川ゆすり行水のいつさやむさやいるさやむさや。源氏物語賢木に、藤つほの尼になりたまふことをいへるに、御をちのよかはの僧都ちかうまいりたまひて、御くしおろしたまふほとに、宮のうちゆすりてゆゝしうなきみちたりとかけり。よらんとおもへるとは、浪をかりて、わか立よらんとおもへる濱のきよきをいへり
 
1240 珠〓見諸戸山矣行之鹿齒面白四手古昔所念《タマクシケミモロトヤマヲユキシカハオモシロクシテムカシオモホユ》
 
初二句は第二に見えたり、下句は面白きに付ても昔の事を思ひ出すとなり、
 
初、玉くしけみもろと山 箱にふたとみとあれは、玉くしけみといひかけたり。第二に大織冠の御哥にも、玉くしけみむろと山のさねかつらと有。みむろとは、山城国字治郡に有。おもしろくしてむかしおもほゆとは、おもしろくみゆるにつけても、さま/\昔の事をおもひ出るなり。おもしろしといふ詞は、天照大神天磐戸を出させたまひて、人の面はしめて明に見えけれは、阿那於茂志呂といひけるよりおこりたる詞なり。委古語拾遺に見えたり。※[立心偏+可]怜とかきて、此集にあはれともおもしろしともよめり。匣の字を※[しんにょう+更]に作れるは誤なり
 
1241 黒玉之玄髪山乎朝越而山下露爾沾來鴨《ヌハタマノクロカミヤマヲアサコエテヤマシタツユニヌレニケルカモ》
 
玄髪山、下野なり、六帖山の歌には四の句この下露にとて入れたれば山は若木を誤れるか、但又しづくの歌にはけふこえてしづくにいたくぬれにけるかなとて人丸の歌とせれば、他にはよるべからず、
 
初、くろかみ山 下野なり今の日光山なりと聞は、しかりやいなやいまたしらす。第十一にも、ぬは玉のくろかみ山の山すけに小雨ふりしきます/\そおもふ
 
1242 足引之山行暮宿借者妹立待而宿將借鴨《アシヒキノヤマユキクラシヤトカラハイモタチマチテヤトカサムカモ》
 
山行暮、【校本云、ヤマユキクレテ、】
 
拾遺には旅の思をのぶと云事をとて、腰を山こえくれて、落句をいねさらむかもとあり、作者ともに不審なり、妹立待而下の句は我妻の我を思ふ如き人ありて宿かさむや、さる人もあらじとよめるか、
 
(69)1243 視渡者近里廻乎田本欲今衣吾來禮巾振之野爾《ミワタセハチカキサトワヲタモトホリイマソワカクレヒレフリシノニ》
 
里廻とはいそわのわ〔右○〕の如く里のまがれるなり、吾クレは此てにをは今にしては叶はず、昔叶へる樣あるべし、其意を得ず、先わがくると意得べし、第十一之二十葉第十行、第十八之八葉第十行、同三十四葉第九行にも此類あり、落句は旅人に宿れとて女のひれふりたりし野なり、此は次上の作者のよめる歟、見渡しには近き里なれどまがれるに傍てめぐり來れば妹が立待て領巾振し野にやう/\今來つきたるとなり、第十一に見わたせば近き渡をたもとほり、今やきますと戀つゝぞをる、待人のよめると待たるる人のよめると替りて似たる歌なり、巾の上には領の字の脱たるか、
 
初、みわたせはちかきさとわをたもとほり たもとほりは廻なり。今そわかくれひれふりし野にとは、今そといひて、わかくれとは、てにをはかなはす。今こそなるを字のおちたる歟。今そわかくるといふへきを、留と禮と音かよへは、わかくれといへるか。わきまへかたし。ひれふりし野といへるは、第五卷に見えたる、松浦佐用姫か領巾をふりし、松浦山のふもとにある野にや。巾振之野とかきたれは、ひれふりの野ともよみぬへし。又次上の哥と二首同人の作にて、問答のやうによめる歟。上をうけて讀る哥ならは、ひれふりし野とよみて、いも立まちてといへるいもがふるひれと意得へし。哥の心は、見わたしは近き里なれと、もとほる道なれは、やう/\今來るといふ心なり。清少納言かちかくて遠きもの、くらまの山のつゝらをりといへる。おもひ合すへし。第十一の哥に、見わたせは近きわたりをたもとほり今やきますとこひつゝそをる。上の句全同《・全同ナラス》にて、下の句は待人のよめると、またるゝものゝ讀るとかはれるのみなり
 
1244 未通女等之放髪乎木綿山雲莫蒙家當將見《ヲトメラカフリワカケミヲユフノヤマクモナカクシソイヘノアタリミム》
 
放髪乎、【官本亦云、ハナチノカミヲ、】  雲莫蒙、【別校本云、クモナタナヒキ、】
 
放髪を六帖にははなるゝかみをとあれど第十四に橘のこはのはなりがとよみ、第十六にもうなゐはなりと讀たればハナリノカミと讀か、さらずばハナチノカミとよむべし、第十一にふりわけのかみをみしかみとよめるには振別之髪とかけり、はなりと(70)云事のなくば義訓してふりわけがみとよむべけれど義訓をまたぬ詞あれば字に任せて讀べし、木綿山は第十に豐國の木綿山雲とよめり、近來の類字名所抄に豐後速見郡と注せり、郡の名をさへ出したれば能考たる所あるべし、八雲には豐前と注せさせたまへり、初の二句はゆふを結とつゞく、上の妹が紐ゆふはかふちのつゞきに同じ、雲莫蒙は此蒙の字上にも大葉山霞蒙ともかき、くもなたなびきと云詞もあれば別校本の點もよし、されど第十二にいこま山雲なかくしそと云歌にも今の如く書たれば今の本に任すべくや、
 
初、をとめらか髪をゆふの山 管見抄云。いまた髪を上ぬによりて、はなちの髪とはいふなり。ふりわけ髪ともよめり。肩のほとにふりわかれて、またゆひあけぬ心なり。以上。第十六、橘の寺の長屋にわかゐね《率《ヰテ》》しうなゐはなりは髭あけつらんか。此うなゐはなりを、注に放髪丱とかけり。知と里と同韻にて通すれは、はなりといふははなちなり。此ゆふの山を、八雲御抄には豐前と注せさせたまひ、類字抄には、豐後速見郡と載たり。かんかふる所有なるへし。第十に、おもひ出る時はすへなみ豐国のゆふ山雪のけぬへくおもほゆ。これはとよくに前後にわたれは、決しかたし
 
1245 四可能白水郎乃釣舩之綱不堪情念而出而來家里《シカノアマノツリフネノツナタヘスシテコヽロニオモヒテイテヽキニケリ》
 
釣船ノ綱タヘズシテと云に釣のよはくて堪ぬと云と綱の如く堪ぬと云との二つの意あるべし、後の義は布留の早田の穗には出ずと云へる例なり、かくして下の句の意も按二つあるべし、一つには、志加海の面白きに湛ずして心になごり惜く思ひながら出て來るとよめる歟、又志加海にて釣舟を見てあの鋼の如く故郷離別の悲に堪ずして故郷や心に思て出て來にけりとよめる歟六帖にはつりする小舟うけたへずとあるは改て入れたるなるべし、
 
初、しかのあまの釣舟のつなたへすして これは誠につりふねの綱の、つなくに堪さるにはあらす。堪るつなをかりて、たへすしてといへるは、いそのかみふるのわさ田のほには出す心の内にこひやわたらんといふ哥の、ほに出る物をかりて、おもひのほに出ぬことをいへるかことし
 
(71)1246 之加乃白水郎之燒塩煙風乎疾立者不上山爾輕引《シカノアマノシホヤクケフリカセヲイタミタチハノホラテヤマニタナヒク》
 
燒鹽煙、【官本亦云、ヤクシホケフリ、】
 
六帖にはすまのあまのとて火の歌とせり、
 
初、しかのあまのしほやく煙 第三、日置少老か哥に、なはの浦に塩やくけふり夕されは行過かねて山にたな引。同意の哥なり
 
右件歌者古集中出
 
古の下に歌の字落たり、他處には古歌集とあり、此注は一首に限るべきか、藤原卿の歌七首の後を皆指歟、
 
1247 大穴道少御神作妹勢能山見吉《オホナムチスクナミカミノツクリタルイモセノヤマヲミレハシヨシモ》
 
此發句の神名集中皆オホナムチにて今の點の如し、落句は拾遺にはみるぞうれしき、袖中抄にはみればしるしも、此等のよみやう字に叶はねば改たる歟、六帖にはしるはしもよし、幽齋本にはミルハシヨシモなり、或本には毛を加へたり、今按第六坂上郎女詠元興寺里歌并に第八尾張連歌の落句に准じてミラクシヨシモと讀べし、
 
初、大なむちすくなみ神 すくな御神は、少彦名なり。第三に、第六に、此二神をひとつによめる哥有て、すてに日本紀を引て注しつ
 
1248 吾妹子見偲奥藻花開在我當與《ワキモコカミツヽシノハムオキツモノハナサキタラハワレニツケコヨ》
 
(72)今按發句の今の點理不叶歟、ワキモコトと讀て第二の句を句絶とす、落句を第六に如是爲乍遊飲與、此與の字に付て注せし如くコソと點ずべきか、告來與ともかゝざるをツゲコヨと讀べき理なし、此は海邊の旅に海士にかくあつらふる意なり、藻の花のうるはしきをみて妻に思ひよそへてなぐさまむとなり、
 
1249 君爲浮沾池菱採我染袖沾在哉《キミカタメウキヌノイケノヒシトルトワカソメシソテヌレニケルカナ》
 
浮沾池、【六帖、ウキヌノイケニ、】
 
沾はヌルと訓ずれば下畧してヌ〔右○〕と用たる歟、今按沼の字を誤れるなるべし、浮沼池、八雲に石見と注し給へり、落句は六帖にもぬれにけるかもとあれど共に在の字に叶はず、今按ヌレニタルカナ、と和し替べし、第十一に行行不相妹故云々、此歌落句も今の如く書たるを今按の如く點ぜり、
 
初、君かためうきぬの池のひしとると うきぬの池、石見と、八雲御抄に載たまへり。採の字はつむとも讀へし。沾在哉は、ぬれにたるかなとよむへし。ぬれにけるかなは誤なり。かなといふ詞、此集におほくかもとよみ、日本紀にはかねとあるに、かなといへるは、此哥のほかには、第十一の五葉に二首あるのみ歟。第十六豊前國白水郎か哥に、とよくにのきくの池なるひしのうれをつむとや妹かみそてぬれけん。文選郭景純(カ)江(ノ)賦(ニ)云。忽忘(テ)v夕(ヲ)而|宵《ヨル》歸。詠(シテ)2採菱(ヲ)1以叩(ク)v舷(ヲ)。王維(カ)詩(ニ)云。渡頭燈火起(ル)、處々採(テ)v菱(ヲ)歸
 
1250 妹爲菅實採行吾山路惑此日暮《イモカタメスカノミトリテユクワレヲヤマチマトヒテコノヒクラシツ》
 
菅實採、【六帖、スカノミトルト、別校本、スカノミトリニ、】  行吾、【六帖、ユクワレハ、】  惑、【六帖、マヨヒテ、】
 
菅實は下に山路といへば山菅なり、採は今の點よからず、六帖或別校本によりて讀べ(73)し、上の妹が爲貝を拾ふととよめる歌と事は替りて意同じ、
 
初、妹かためすかの實とりに 此すかの實といへるは、常の菅とは見えす。山菅にて変門冬なるへし
 
右四首柿本朝臣人麿之歌集出
 
萬葉集代匠記卷之七上
 
(1)萬葉集代匠記卷之七中
 
間答
 
1251 佐保河爾鳴成智鳥何師鴨川原乎思努比益河上《サホカハニナクナルチトリナニシカモカハラヲシノヒイヤカハノホル》
 
第十喚子烏をよめるにも、佐保の山べを上り下りにとあり、
 
1252 人社者意保爾毛言目我幾許師奴布川原乎※[手偏+栗]結勿謹《ヒトコソハオホニモイハメワカコヽタシノフカハラヲシメナユフナユメ》
 
是は千鳥と成て答るなり、尾句は標結て我を上らせねやうにすなとなり、
 
初、おほにもいはめ おほよそにいはめなり。第三に、おほにそみつるわつかそま山と家持のよみし心なり。集中におほき詞なり。わがといへるは、千鳥のわれなり。しめゆふな《・莫》とは、人にいふ千鳥の心なり
 
右二首詠鳥
 
1253 神樂浪之思我津乃白水郎者吾無二潜者莫爲浪雖不立《サヽナミノシカツノアマハワレナシニイサリハナセソナミタヽストモ》
 
潜者莫爲、【別校本亦云、カツキハナセソ、】
 
我ナシニとは我が浦に出て見ぬ時を云へり、
 
(2)1254 大舩爾梶之母有奈牟君無爾潜爲八方波雖不起《オホフネニカチシモアラナムキミナシニイサリセメヤモナミタヽストモ》
 
梶シモのし〔右○〕は助語なり、大船に梶もあらなむと云意は、然らば君が乘て出て遊覽すべければいさりして見せまつらむ、君が見ずば浪たゝぬ日もかづきはせじとなり、
 
右二首詠白水郎
 
臨時
 
歌ごとに皆此意を以て見るべし、
 
初、臨時 これは時にのそみてよむ哥なれは、部類さたまるへからす
 
1255 月草爾衣曾染流君之爲綵色衣將摺跡念而《ツキクサニコロモソソムルキミカタメイロトルコロモスラムトオモヒテ》
 
衣曾、【紀州本云、キヌヲソ、】  綵色衣、【幽齋本云、イロトリコロモ、】
 
綵色衣はイロトリコロモと體に讀べし、此卷下に、つき草に衣色とりすらめどもともよめり、
 
1256 春霞井上從直爾道者雖有君爾將相登他回來毛《ハルカスミヰノウヘニタヽニミチハアレトキミニアハムトタモトホリクモ》
 
井上は今按ヰカミと讀べし、或人の云、大和にある地の名なり、井上《ヰカミノ》内親王と申も此處(3)を名におはせたまへる歟、春霞とおけるは第十四にも、霞居る富士の山備になど讀て霞は居る物なればゐ〔右○〕と云詞まうけむためなり、たゞちには人目も繁ければさらぬ體にてあはむために遙に遠く道を廻りて來つるとなり、
 
初、春霞井上に 春霞の居るとつゝけたり。井上は所の名、大和にあり。聖武天皇の皇女にて、光仁天皇の后となりたまへる、井上内親王も、此井上を名におひたまへるなるへし。たゝに道のあるとは、すく道なり
 
1257 道邊之草深由利乃花※[口+笶]爾※[口+笶]之柄二妻常可云也《ミチノヘノクサフカユロノハナヱミニヱミセシカラニツマトイフヘシヤ》
 
花※[口+笶]爾※[口+笶]之柄二【別校本云、ハナヱミニシカラニ、同本花※[口+笶]之※[口+笶]作v咲、幽齋本、二※[口+笶]共作v咲、】
 
第十一にも今の 一二の句のつゞきあり、深百合と云名ありて百合の中の一種にや、第十一には後にてふとつゞけたれば、遲く咲にや、早百合の早く咲に對して夏深き意にもや深百合とは名付たらむ、又第八に坂上郎女が歌に、夏の野の繁みにさける姫百合の、知られぬ戀は苦しき物ぞとよめるに依れば、愛姫の深く隠れ住意によせて姫百合を深百合と云にや、深百合と云はむために道のべの草とは云へるか、人の繁く通ふあたりの草は塵土《チリヒヂ》のかゝるによりて殊に肥て深きものなり、花の如くゑみせしからにさては我に心をよするよとて妻と云べしやは、心ざしの程を云ひきかせてゆるさむ時にこそ妻とはいはめとなり、又也の字は漢の文章に准じて助語に加へたる事集中例あれば、妻トカイハムと和すべきか、咲るに心のしるければやがて妻とかいはむの(4)意なり、六帖にはつまといはましやとあり、
 
初、道のへの草ふかゆりの ゆりは、夏ふかき草にましりて咲物なれは、草ふかゆりといふ。花えみは、花のさくを、人の咲にたとへて、その花えみに、かりそめに打えみたるはかりに、やかて妻といはむやとなり。第四卷聖武天皇の御哥に、道にあひて映《ヱミ》せしからにふる雪のけなはけぬかにこふてふわきも。此御哥のことく、これも臨時の哥なれは、道のへのといへるは、道にあひたるを、そこにさける百合によせてよめるなり。又第四に、青山をよこきる雲のいちしろくわれとえみして人にしらるな。第八坂上郎女哥、夏の野のしけみにさけるひめゆりのしられぬ戀はくるしきものを
 
1258 黙然不有跡事之名種爾云言乎聞知良久波少可者有來《モタアラシトコトノナククサニイフコトヲキヽシルラクハスクナカリケリ》
 
此歌を人丸集に入れて發句を古點になをあらじととよめり、二の句已下散々にたがへり、源氏花宴に、かたらふべき戸口どもさしてければ打歎てなをあらじに弘徽殿の細殿に立よらせ給ふれば云々、河海抄に今の歌を引れたるになをあらじととあり、意は今と同じ事ながら日本紀等も同じくモタと點じてなを〔二字右○〕と云はず、言ノナグサは第四に注せり、尾の句は今按今の點字に叶はずして誤れり、ウベニハアリケリと讀べし、もだしてもあらじとことばのなぐさみに思ふ由を云ひつれば、意より起れるまことならずと聞知れるもことわりなりと云心なり、道行ぶりの會釋などにかりそめに物云ける人にや、又次上の歌の同じ作者歟、
 
 此もたあらじを、古點には、なをあらしとよみけるにた。源氏物語花宴に、かたらふへきとぐちともさしてけれは打なけきてなをあらじにこきてんのほそとのに立よらせ給ふれは云々。河海抄に此哥を、なをあらしとゝよみて引れたり。なをあらしは、たゝあらじなり。なをも、たゝも、すくにといふこゝろなり。すくにあらしは、そのまゝにてはやましの心なり。もたしてあらしといふもおなし心なり。ことのなくさは、ことはのなくさみなり。第四坂上郎女か哥にも、われのみそ君にはこふる我せこかこふといふことは言のなくさそ。聞知らくはすくなかりけりとは、ことのなくさとはおもはて、やかてたのまるゝ我心をいへり。者の字は衍文なり
 
1259 佐伯山于花以之哀我子鴛取而者花散鞆《サツキヤマウノハナモタシアハレワカコヲシトリテハハナチリヌトモ》
 
以之、【官本云、モテシ、】
 
八雲御抄にさへき山、攝州と注せさせ給へり、二の句は官本の點によるべし、腰の句は(5)今按子は手を誤れるにてカナシキガ、テヲシ取テハななべし、し〔右○〕は助語なり、かなしく思ふ人を第十四に、かなしきがこまはたぐともなどあまたよめり、歌の意は、佐伯山にて卯の花を折て持しかなしき兒等が手をだに我取たらば卯花は散ぬともよしとなり、落句は花は散ともとよみても然るべし、
 
初、さへき山うの花もたし 八雲御抄云。さへき山【攝。萬七、五月山或さへき山ともにうの花。】此御抄の心は、五月山を、あるひは、さへき山ともいひて、津の國の名所なりと、おほしめしけるなり。五月山とは、第十に二首よめり。五月山うの花月夜ほとゝきすきけともあかす又なかむかも。此哥は新古今集にふたゝひ載られたり。今一首は、五月山花橘にほとゝきすかくろふ時にあへるきみかも。二首の中に、初の哥うの花月夜と讀たれは、ともにうの花と注せさせたまへり。されとも、此五月山は、名所にあらす。唯五月の山なり。やよひの比の山を彌生山ともよむかことし。此ゆへに、第十の二首皆夏の部にあり。又古今集貫之哥に、五月山梢を高みほとゝきすなくねの空なるこひもするかなとよめるも同し。しかれは、さへき山はいつれの國とも知かたし。安藝國に佐伯郡有。そこなとにある山の名にや。さて此哥は、うたかはしきことあり。子は手の字の誤れるなるへし。哀の字此集にかなしとよみてあはれとよめる所なし。しかれは、うの花もちしかなしきが手をしとりてはとよみて意得へし。かなしきがとは、かなしくおもふ妹かといふ心なり。第十四に、おほき詞なり。にほ鳥のかつしかわせをにへすともそのかなしきをとにたてめやも。此たくひなり。かなしふはうつくしみ愛する心なり。古今集に、露をかなしふといひ、つなてかなしもとよめるこれなり。伊勢物語に、ひとつごにさへ有けれはいとかなしうしたまひけりともいへり
 
1260 不時班衣服欲香衣服針原時二不有鞆《トキナラヌマタラコロモノキホシキカコロモハリハラトキニアラネトモ》
 
不有鞆、【別校本云、アラストモ、】
 
班は誤なり、斑に作るべし、斑衣はさま/\の色を以て染たるをも、亦一色ながら斑に染たるをも云べし、服欲香はキマホリカとも讀べし、か〔右○〕は哉なり、衣ハリ原とは衣を張とつゞけて榛やはりの木原なり、地の名にはあるべからず、落句はトキナラネドモとも讀べし、さありて心は、時ならねどもと云意は秋を榛染する時として夏よめり、真證は第十夏歌に、思ふ子の衣すらむににほひせよ、島の榛原秋たゝずともとよめる是なり、是は榛原にてよめるか、又よき女を見て妻持べき程にもあらぬ人の、夏にして秋の衣のきまほしき如く妻にせまほしきと喩てよめる歟、
 
初、時ならぬまたら衣 またら衣は、いろ/\にそめ分たる衣なり。第十四東哥に、またら衾とよめるも同し心なり。衣はり原、衣をはるといひかけたり。さてはり原は、はりといふ木のしけく生たる所なり。此木のこと上に注す。八雲御抄原部にはり【上野万いかほろのそひの】此上野と載させたまへるは、第十四卷の哥なり。それはいかほろのといへるにて名所なり。この哥はたゝいつくとなき、はりの木原なるへし
 
1261 山守之里邊通山道曾茂成來忘來下《ヤマモリノサトヘカヨヘルヤマミチソシケクナリヌルワスレケラシモ》
 
(6)茂成來とは道の荒て、草の茂るなり、孟子云、山徑(ノ)之蹊間、介然用v之而成v路(ヲ)、爲間不v用則茅塞v之(ヲ)、
 
初、山もりのさとへ しけく成たるとは、道のあれて、草木のしけりかくすなり。孟子云。山徑(ノ)之蹊間介然(トシテ)用《ヨツテ》之而成v路(ヲ)。爲間《シハラクアテ》不(ルトキハ)v用則茅塞(カル)之
 
1262 足病之山海石榴開八岑越鹿待君之伊波比嬬可聞《アシヒキノヤマツハキサクヤツヲコエシカマツキミカイハヒツマカモ》
 
六帖椿の歌に、あなし山つばき咲たるやつをこえとあるは、あなしを此卷の上に病足とも痛足ともかけるに依て今足病とあるを彼に思ひまがへたるなり、之の字を加へ、開の下にたる〔二字右○〕とよむべき字もなき物を、又六帖にあしびきのやまざくろさくや、みねごしにとて石榴の歌とせるも此なり、海石榴は日本紀此集及び和名等皆椿と同じきを、海の字を捨、又一首を兩方に用たる事おぼつかなし、ヤツヲとは山の尾の多かるなり、山ツバキ咲とは第十九にもやつをの椿とよみて椿は深き山にあれば其由に云なり、鹿待と云を句として八岑を越なづみて鹿を待は、鹿は君がいはひ妻かとなり、いはふはいつくなり、第九に齋兒《イハヒコ》ともよめり、伊勢物語に、わたつみのかざしにさすといはふ藻もとよめるが如し、思ふ妻をこそ山の滴に立ぬれても待習なれば、鹿を射取らむと心にいれて待をかくはよせたり、
 
初、あしひきの山つはきさくやつをこえ 第十九にも、おく山のやつをのつはきとよめり。やつをは尾のおほきなり。たゝしこゝには、八岑とかき、十九には八峯とかけり。同十九に、やつをのきゝすとよめるにも、八峯とかけり。六帖木部、さくろの哥に、山つはきさくやつをこえの二句を、山さくろさくみねこしにと載たり。日本紀にも、此集にも、海石榴は、たしかにつはきに侍るを、いかて海の字を捨て、さくろの哥には載られけむ。およそ海棠、海石榴等は、海を越てもろこしにいたるゆへに、海の字をもてわかつよしなり。つはきは、石榴《・山榴ハアイツヽシコレニ似ルユヘ歟》の花に似て、海をこえて外國よりくれは、海石榴なり。天武紀云。十三年三月吉備朔庚寅、吉野人宇閉(ノ)直弓|貢《タテマツル》2白《シラ》海石榴(ヲ)1。いはひつまとは、いはふはつくといふにおなし。さて此哥はその心得かたき哥なり。先山つはきさくは、やつをといはむためなり。つはきに用あるにあらす。又今椿の咲といふにもあらす。をみなへし咲澤におふる花かつみとよめる類なり。やつをゝこえて鹿まつは、鹿をは君かいはひつまのことくおもふかとはいへる心にや。管見抄云。鹿待君とは、猟人の心なり。鹿の草村にはひかくれて有ことく、あふこともなきこもり妻なりと、たとへたるなり。鹿の妻といふに、わか妻をよせたり
 
1263 曉跡夜烏雖鳴此山上之木末之於者未靜之《アカツキトヨカラスナケトコノヲカノコスエノウヘハイマタシヅケシ》
 
(7)山上、【六帖云、ヤマ、幽齋本云、ミネ、】
 
夜烏は遊仙窟云、可憎病鵲夜半《アナニクノヤモヒカラスノヨナカニ》驚v人、山上はミネと義訓せる字に叶へり、六帖にやまとのみあるは上の字捨たれば叶はず、木末はコヌレとも讀べし、
 
初、曉と夜からすなけと 遊仙窟云。誰(カ)知(ン)。可惜病鵲《アナニクノヤマモカラスノ》夜半《ヨナ/\ニ・ヨナカ/\ニ》驚(カス)v人(ヲ)。薄媚狂※[奚+隹]三更《ナサケナキウカレトリノマタアケサルニ》唱(フ)v曉(ヲ)。唐(ノ)高蟾(カ)旅夕(ノ)詩(ニ)云。風散(シテ)2古陂(ニ)1驚(カス)2宿雁(ヲ)1。月臨(テ)2荒戌(ニ)1起(ツ)2啼鴉1。此をかの木末のうへはいまたしつけしとは、うかれたる烏ならぬ、こと《異》鳥は、また啼てもたゝねは、しつけきなり。もろこしに、いまたといふ心にては、下を靜ならすといはてはかなはぬを、此國にはかくいへは、これらすこしかはれり。かなたにいまたしといふは、まだきまだしきほとなといひて、さきとはすこしかはる歟
 
1264 西市爾但獨出而眼不並買師絹之商自許里鴨《ニシノイチニタヽヒトリイテヽメナラハスカヘリシキヌノアキシコリカモ》
 
西ノ市は第三に東市(ノ)植木乃とよめる歌に注せるが如し、眼不並とは二人とも見ぬ意なり古今に、花がたみ目ならぶ人のあまたあればとよめるを思ふべし、商自許里とはあきなひをしこりてするなり、しこりはしきりに同じ、古と吉と通ぜり、し〔右○〕を濁てよませむが爲に自の字をかけり、價を賤《ヤス》く饒《マケ》よなど云意なるべし、五雜爼云、柳仲逞(カ)之婢、ひさぐ2於益巨源(カ)家(ニ)1、見d其主市2綾(ヲ)1親自《ミツカラ》選擇※[酉+將の旁]c酢可否(ヲ)u、則失v聲(ヲ)而仆(レテ)曰、死(ナハ)則死耳、安《イ ソ》能事2賣v絹牙郎(ニ)1乎、
 
初、にしのいちにたゝ獨出て 市に東西あり。第三に門部王詠2束市中木1といふ哥有。そこに注しつ。めならはすは只獨ゆへなり。古今集に、花かたみめならふ人のあまたあれはわすられぬらん數ならぬ身はとよめるにおなし。あきはあきなふなり。しこりはしきりなり。古と、幾と音通せり。世に息もつきあへすかたるを、しこりかゝりてかたるなといふ、これなり
 
1265 今年去新島守之麻衣肩乃間亂者許誰取見《コトシユクニヒサキモリカアサコロモカタノマヨヒハタレカトリミム》
 
島守は防人なり、第二十に至て委注すべし、六帖にはにひしまもりのとあれど、第十四第二十にもサキモリとのみよみ、日本紀にも島曲をミサキとよみ、防人をサキモリと點じたれば今の本に依べし、間亂は亂の一字をまよふとよめば、間は衍文歟、和名云、※[糸+比]、(8)【匹爽反、漢語抄云、萬與布、一云與流、】※[糸+曾]欲v壞也、許誰は許の字不審なり、若は阿の字か、若は衍文か、推カ取見ムとは、妻もなければ麻衣の肩のまよひてやるゝをも誰かをぎぬふ人あらむと防人の行を見てかはれびてよめるなるべし、第五に熊凝が歌に、國にあらば父とり見まし、家にあらば母取見ましとよみ、第十、七夕の歌には、秋去衣誰か取見むとよめり、
 
初、ことしゆくにひさきもりか 異國の寇ふせかんために、東の兵をつくしにつかはして、かのさき/\を守らせらるゝをいふなり。國々の兵相かはり/\行ゆへに、今年の役にて行ものを、新嶋守とはいふなり。新嶋守とかきて、今の本にひさきもりとよめるをよしとす。天智紀云。是歳【三年】於2對馬嶋壹岐嶋筑紫國等(ニ)1置2防《セキモリト》與《トヲ》1v烽《スヽミ》。又於2筑紫(ニ)1築(キ)2大堤(ヲ)1貯(ハヘ)v水(ヲ)名(テ)曰2水城《ミツキト》1。これさきもりをゝかれし初なり。日本紀の和點に、せきもりとあるは、かたかなのせとさと似たるゆへに、關守に聞なれて、さきもりを、かくまかへたるなるへし。さきもりは、埼守なり。異國の賊なとのよせくへきさき/\をまもるゆへの名なり。その中に、むねとまもらせたまひけるは筑紫なり。あさ衣かたのまよひは誰か取見むとは、まよふはよるなり。和名集云。唐韻云。※[糸+比]【萬與布。一云與流。】※[糸+曾](ノ)欲《スルナリ》v壞(レント)也。ぬのきぬのやふれんとして、なれたるを、旅なれは誰かときあらひてもきせんといふ心を、誰か取見むといへり。第五に、山上憶良の哥に、ぬの肩衣とよめる心に、かたのまよひといへり。取見むは、おなし五卷に、國にあらはちゝとりみまし家にあらははゝ取見ましといへるにおなし。許誰の許は、阿の字の誤歟。さらすはあまれるなるへし
 
1266 大舟乎荒海爾※[手偏+旁]出八舩多氣吾見之兒等之目見者知之母《オホフネオアルミニコキイテヤフネタキワカミシコラカメミハシルシモ》
 
荒海、【別校本亦云、アラウミ、】  多氣、【別校本云、タケ、】
 
アルミはあらうみを約むれば良宇反留なる故なり、あらうみとよまば下の※[手偏+旁]出をイ〔右○〕を略してコギデと讀べし、八船多氣は今は舟の多かるを八船と云にはあらず、八度舟をたくと云なり、土左日記に、ゆくりなく風吹てたけども/\しりへしぞきにしぞきてほど/\しく打はめつべしとあるも舟の危を力を加へて凌ぐ意なり、荒海に※[手偏+旁]出て浪風にわへる舟をしば/\たきて溺るゝ事をまぬがれたる如く、身を失なはむとせし程の事あるを凌て戀々て相見し兒等なれば、我まことを信じてたのむ意の目もとに顯はれてしるきとにや、
 
初、大舟をあるみにこき出 あるみはあらうみなり。良宇切留なる故に、あるみといふなり。八舟たきとは、八舟こゝにてはおほかる數にはあらす。八度舟をたくといふ心なり。舟たくは、海のあらき所にて、舟のあやうきを、ちからをくはへて、しのく心なり。土佐日記に、ゆくりなく風ふきて、たけとも/\、しりへしそきにしそきて、ほと/\しくうちはめつへしといへり。此哥のこゝろは、上の句は戀に身をもうしなはんとせしほとの事ありけむを、あらうみにくつかへらむとする舟を、しは/\たきて、おほるゝことをまぬかれたるにたとへて、さて後にあひみし人の、我心を知て、頼む心の、めもとにあらはれてしるきとなり
 
就所發思  旋頭歌
 
(9)1267 百師木乃大宮人之蹈跡所奧浪來不依有勢婆不失有麻思乎《モヽシキノオホミヤヒトノフムアトヽコロオキツナミキヨラサリセハウセサラマシヲ》
 
此歌は難波浦或は若浦などにてよめる歟、六帖にはよらずありせばうせずあらましとあれど今取らず、
 
右十七古歌集出
 
十七首なるべきを首の字脱たり、
 
初、右十七首 首の字をおとせり。問答よりこなた十七首なり
 
1268 兒等手乎卷向山者常在常過往人爾往卷目八方《コラカテヲマキモクヤマハツネナレトスキユクヒトニユキマカメヤモ》
 
發句は此卷上にも有し如く卷向とつゞけむ爲ながら、是は人丸集の歌なれば妻の死去の後よまるゝ歟、さればこらが手を卷向と云山は動なくて常なれど、それは唯名のみにて、過ていにし人のもとに我ゆきて又手枕する事あらむやはと山を見て名に感じてよまれたるべし、
 
初、こらか手をまきもく山 こらか手を枕とするとつゝけたり。過ゆく人とは、昔の人なり。ゆきまかめやもとは、上のこらか手をまきもく山といふをうけていへり。いかなる蝉鬢蛾眉ありとも、昔の人の手を、今は枕とすることあたはしとなり
 
1269 卷向之山邊響而往水之三名沫如世人吾等者《マキモクノヤマヘトヒヽキテユクミツノミナハノコトシヨノヒトワレハ》
 
響而、【紀州本云、トヨミテ、】  三名沫、【官本云、ミナワ、別校本亦云、ミナアワ、】
 
(10)拾遺集に、めのしに侍て後かなしひてよめるとて、家に來てわがやをみればと云歌につらねて入れて、下の句みなはの如く世をばわがみるとあり、人丸集も歌は拾遺と同じ、叶はざれば今取らず、落句の意は、吾は世の人なればとにや、世の人と我とはと云へるか、初の義なるべし、さきの歌は他の上を云ひて、此歌は自の上を省るなり、人丸はよく無常を觀じたる人なり、
 
初、みなはのことし 水のあはのことしなり。人麿の哥に、惣して無常を觀したる哥おほし。大権の聖者にて和光同塵せるなるへし
 
右二首柿本朝臣人麿歌集出
 
寄物發思
 
1270 隱口乃泊瀬之山丹照月者盈昃爲烏人之常無《コモリクノハツセノヤマニテルツキハミチカケシテソヒトノツネナキ》
 
下句は第三に悲2傷膳部王1歌に注せしが如し、
 
初、みちかけしてそ 易(ニ)云。日中(スルトキハ)則|昃《カタフキ》、月盈(ルトキハ)則食(ス)。釋名(ニ)云。月(ハ)缺(ナリ)也。滿(ルトキハ)則缺(ク)
 
有一首古歌集出
 
行路
 
1271 遠有而雲居爾所見妹家爾早將至歩黒駒《トホクアリテクモヰニミユルイモカヘニハヤクイタラムアユメクロコマ》
 
(11)第十四に此歌を再たび載たるには、發句麻等保久能、落句を安由賣安我古麻にて、注に人麿歌集曰等保久之?又曰、安由賣久路古麻とあるは此を指せり、然れば有の字は衍文なり、但拾遺にも家集にもよそにありてとあるは今取らねども有の字あるによりてかくはよめるなるぺければ衍文ならぬ證とすべし、かほどのたがひ集中の注に猶あるなり、
 
右一首柿本朝臣人麿之歌集出
 
旋頭歌
 
1272 釼後鞘納野邇葛引吾妹眞袖以著點等鴨夏草苅母《タチシリサヤニイリノニクスヒクワキモマソテモテキセテムトカモナツクスカルモ》
 
夏草、【六帖云、ナツクサ、別校本同v此、】
 
太刀のしりは鋒なり、鋒より鞘にさゝるれば納野とつゞけたり、和名に丹後竹野郡に納野あり、彼處歟、第十にさを鹿の入野とあるも同處歟、葛引は夏麻引と云が如く葛を繰なり、著點等鴨は六帖も今の點と同じけれどキセテムトカモと讀べし、我にきせむとかの意なり、落句は六帖に依て讀べきか、葛をくらむために先其邊の夏草を刈そく(12)るなり、
 
初、たちのしりさやにいる野に つゝけやうきくまゝなり。和名集云。丹後國|竹野《タカノ》郡|納野《イルノ》。この納野にや。まそてもてきせてむとかも夏草かるも。きてんとてかもとよめるはわろし。眞袖は兩の袖をいへり。毛詩云。葛(ノ)之覃(テ)兮、施《ウツル》2于中谷(ニ)1、維(レ)葉|莫々《・シナヘリ》(ト)。是(ニ)刈(リ)是(ニ)※[さんずい+獲の旁]《ニテ》、爲v※[糸+希]爲v※[糸+谷](ト)、服(テ)之無(シ)v※[澤の旁+牧の旁]《イトフコト》。夏草とかきたれとも、上にくすひくといふをうけて、夏くすとよめり。下(ノ)三十三葉に、おみなへしおふるさはへのまくす原いつかもくりてわかきぬにきむ
 
1273 住吉波豆麻君之馬乘衣雜豆蝋漢女乎座而鹿衣叙《スミノエハツマキミカマソコロモサニツラフヲトメヲスヘテヌヘルコロモソ》
 
住吉、【別校本亦云、スミノエ、】  君、【別校本作v公、】  馬乘衣、【官本亦云、マノリキヌ、】
 
一二の句今の點叶はず、スミノエノナミツマギミガウマノリギヌと讀べきか、波妻君とは、波は花とも見えてうつくしむ物なればうつくし妻の意なり、第十三に、浪雲のうつくし妻と云へるにて知べし、住吉は住吉の岸によす古浪と云のみにあらず、以下の二首も住吉と讀たればやがて夫君もすめる處なり、馬乘衣は、今の俗雨衣のせぬひのすそを縫合せぬを馬乘を開と云ひて馬に騎時便よからむ爲にすれば、昔もさる體の衣などを馬乘衣とてや侍けむ、君が爲にをとめをして馬乘衣を縫せたりとなり、漢女は毛詩にも漢之有女と云ひて美女ある處なれば彼處に准じて書なり、
 
初、住吉波豆麻君之 此二句、すみのえのなみつまきみかと讀へし。そのゆへは、第十三の長哥に、百たらぬやまたのみちをなみ雲のうつくしつまとかたらはて別しくれはといへり。浪のやうにたてる白雲の、うるはしきによせて、浪雲のうつくしつまといへり。浪はしらゆふとも、花ともまかふ物なれは、すみのえの波つま君といへるは、十三の哥にいへる心なり。馬乘衣、これをまそ衣とよめるやいかにとすこし心得かたけれと、心は眞麻衣なり。もしうまのりきぬなとも讀へき歟。今の俗、雨衣《アマキヌ》のせぬひのすそをぬひあはせぬを、むまのりをあくといひて、馬にのる時たよりよからんためにすれは、昔もさる躰のきぬなとを、うまのりきぬとて、用意したる事もや侍りけむ。漢は美女おほきゆへに漢女とかきてをとめとよめり
 
1274 住吉出見濱柴莫苅曾尼未通女等赤裳下閏將徃見《スミノエノイテミノハマノシハナカリソネヲトメラカアカモノヌレテユカムミユ》
 
將徃見、【校本云、ユカムミム、】
 
赤裳下を六帖にあかもたれひきとあれど今取らず、尾句は今の點あやまれり、校本の如く讀べし、
 
(13)1275 住吉小田苅爲子賤鴨無奴雖在妹御爲私田苅《スミノエノヲタヲカラスルコイヤシカモナシヤツコアレトイモカミタメニシノヒタヲカル》
 
今按二三の句今の點叶はず、ヲダカラスコハヤツコカモナキと讀べし、落句をもワタクシダカルと讀べし、賤の字やつこ〔三字右○〕とよむ證は景行紀云、川上|梟師《タケル》亦啓之曰、吾多遇(テ)2武力《カラヒトニ》矣、未v有d若2皇子1者u、是(ヲ)以|賤奴《イヤシキヤツコノ》陋(シキ)口(ヲ)以奉2尊號(ヲ)1、やつこかもなきとよめる、やつこあれどと能つゞくなり、私田は詩小雅大田之篇云、雨2我公田1、遂及2我私1、集注、公田(ハ)者方里(ニシテ)而井(ス)、井(ハ)九百畝、其中(ヲ)爲2公田(ト)1八家皆私2百畝1而同(シク)養2公田(ヲ)1也令第三に班田の法を明さるゝ中に位田職分田功田公田私田神田守田等の差別ある中に、私田と云は口分田なり、令云凡(ソ)給2口分田(ヲ)1者、男(ハ)二段、女(ハ)減(ス)2三分之一(ヲ)1十六歳より口分田を給はるなり、公に對する私なればわたくし田と讀べき理なり、一首の内に問答して、奴はあれども妹がみためと親切に思ふ故に手づから刈ぞとなり、
 
初、すみのえの小田刈爲子賤鴨無 此二句をは、小田からす子はやつこかもなきとよむへし。小田からすは、たゝ小田かるなり。賤の字やつことよむ證は、景行紀云。川上(ノ)梟師《タケル》亦|啓《マウシテ》之曰。〇吾多(ク)遇2武力《チカラヒト》1矣。未v有d若(キ)2皇子(ノ)1者《ヒト》u。是(ヲ)以|賤賤《イヤシキヤツコノ》陋(シキ)口(ヲ)以奉2尊號1。これ日本武尊川上梟師か、何心なく酒宴する所へ、女にまねてしのひいらせ給ひて、刺殺させたまふ時、しはし待せたまへとて、小|臼《ウス》の尊と申けるを、日本にならひなき武力にてましますとて、日本武尊といふ尊號を奉りて殺されける時の詞なり。賤々とかきて、いやしきやつこと讀たれは、此哥しかよむへき理なり。しかよめは、やつこあれとゝいふ下の句、よく上をうくるなり。しのひ田を、管見抄に大やけにかくれて作る田なりといへるは、隱田と心得たるにや。非なり。詩(ノ)小雅大田之篇曰。雨(テ)2我(カ)公田(ニ)1遂(ニ)及2我(カ)私(ニ)1。集注曰。公田(ハ)者方里(ニシテ)而井(ス)。井(ハ)九百畝。其中(ヲ)爲2公田(ト)1。八家皆私(シテ)2百畝(ヲ)1而同(シク)養(ナフナリ)2公田(ヲ)1也。令義解第三に、班田の法を明さるゝ中に、位田、職分田、功田、公田、私田、神田、守田等の差別有。私田といふは口分田なり。令(ニ)云。凡(ソ)給2口分田(ヲ)1者男二段。女(ハ)減(ス)2三分(カ)之一(ヲ)1。十六歳より此口分田を給るなり。委は第三卷に注せり。やつこはあれとも、妹を親切におもふゆへに、みつから妹か私田を刈となり
 
1276 池邊小槻下細竹苅嫌其谷君形見爾監乍將偲《イケノヘニヲツキカシタノシノナカリソネソレヲタニキミカヽタミニミツヽシノハム》
 
下、【紀州本云、モトノ】  其谷、【紀州本云、ソレタニモ、】  君、【別校本、作v公、】
 
發句はイケノヘノと讀べし、池邊は唯池のほとり歟、按ずるに池邊王と云もましませば地の名にや、細竹の下に莫の字落たり、次下の草莫苅嫌と同じかるべし、此歌の下句、(14)第二志貴親王薨時歌の或本反歌二首の初の歌と同じ、
 
初、細竹 此下に莫の字おちたり。監は覽か。監にてもみるとは讀へし
 
1277 天在日賣菅原草莫苅嫌彌那綿香烏髪飽田志付勿《アメニアルヒメスカハラノクサナカリソネミナノワタカクロキカミニアクタシツクナ》
 
香烏髪、【官本云、カクロキカミモ、】
 
天に在日とつゞけたり、姫菅原は地の名なるべし、何れの國に在と云ことを知らず、烏の字の點は今の本キ〔右○〕を落せり、アクタシのし〔右○〕は助語なり、
 
初、天にあるひめすかはら 天にある日とつゝけて、姫菅原といふは、所の名なるへし。みなのわたは、第五の丸葉に委注せり。あくたしつくなとは、芥《アクタ》を髪に著《ツク》なとなり。あくたしのしもし助語なり
 
1278 夏影房之下庭衣裁吾妹裏儲吾爲裁者差大裁《ナツカケノネヤノシタテコロモタツワキモウラマケテワカタメタヽハヤオホキニタテ》
 
夏は木にもあれ何にもあれ陰の涼しき處に臥すを、女は北の方に深く住ものなれば夏影ノネヤと云なるべし、下庭はモトニテと讀べきか、裏儲は衣の裏を儲置てと云へるか、又裏は心にて用意してと云にや、二つを兼て見るべし、差大はヤヽオホニと讀てやゝおほきにと意得べし、第四に紀女郎が歌にやゝおほほと有しはやゝおほくはと云意なれど、摩※[言+可]と云梵語の大、多、勝に亘る如く大と多と和語も通ぜり、我ために裁とならば、やゝおほきにゆたかにたてとなり、やゝと云へるはきはめて大きにとは云はぬ意なり、
 
初、夏かけのねやの 夏のあつき比は、木にもあれ、何にもあれ、陰の涼しき所にねるゆへに、夏かけのねやの下とはいふなり。今案女は北の方に、ふかくこもりてをるものなり。北窓の涼は、夏によろしけれは、夏かけのねやとはいへり。やおほきにたては、やゝおほにたてと讀へし。第四卷に、紀女郎か家持に贈る哥に、神さふといなにはあらす。やゝおほやかくして後にさふしけんかも。此やゝおほやといふに、思ひ合すへし。但かれは多なり。今は大なるゆへにかはりあれと、摩※[言+可]といふ梵語を、大とも、多とも、勝とも、義によりて譯するにて、通することを知へし
 
(15)1279 梓弓引津邊在莫謂花及採不相有目八方勿謂花《アツサユミヒキツノヘナルナノリソノハナツムマテハアハサラメヤモナノリソノハナ》
 
引津邊在、【六帖、ヒキツヘニアル、別校本云、ヒキツノヘナル、亦點與2六帖1同、】  及採、【紀州本云、トルマテニ、】
 
二の句はヒキツノベナルと讀べし、今の點は書生の誤なり、引津は第十五に引津亭と云へるは筑前なるを、第十に梓弓引津邊有莫告藻之花咲及二不會君毳《アツサユミヒキツノヘナルナノリソノハナサクマテニアハヌキミカモ》と云歌を濱成式には當麻大夫陪駕伊勢思婦歌云とてひかれたれば彼に准ずれば此も伊勢なるべし、なのりその花は春咲なり、
 
初、梓弓ひきつのへなる 引津は筑前にあり。濱藻をなのりそといふ事、さきに注せり。あはさらめやもなのりその花とは、なのりその花は春さく歟。それまてには、あはさらめや。よくしのへといふ心を、なのりその花とはいへり。引津は第十五にも見えたり
 
1280 撃日刺宮路行丹吾裳破玉緒念委家在矣《ウチヒサスミヤチヲユクニワカモヤフレヌタマノヲノオモヒステヽモイヘニアラマシヲ》
 
吾裳破、【紀州本云、ワカモハヤレヌ、】
 
念委をオモヒステヽモと點ぜるは玉の緒のと云につゞけていと意得がたし、今按オモヒツミテモと讀べし、第九に登筑波山歌の終に、長き氣に念積來し憂は息ずといへり、委の字は楊雄(カ)甘泉(ノ)賦(ニ)云、瑞穰々兮|委《ツモレルコト》如(シ)v山(ノ)、何晏(カ)景福殿賦(ニ)云、叢集委積、此集第十七云、和我世古我都美之乎見都追《ワガセコガツミシヲミツツ》云々、此も委緒見乍《ツミシヲミツヽ》なり、つむとは結へば重なるを云へり、それを思ひをはらしやらで心に積置によそへて云へるなり、
 
初、うちひさす宮ちを 裳のやふるゝまてしけく宮路をかよふは、思ふ人にあふやと、宮つかへなとに事よするなり。さりとてあふ事もなけれは、おもひすてゝ只家にありぬへかりけるものをとなり。玉の緒のおもひすてゝもとは、玉の緒は命なり。此事を命にしておもふ事を、おもひすてゝもなり
 
(16)1281 君爲手力勞織在衣服斜春去何何摺者吉《キミカタメテツカラオレルコロモキナヽメハルサラハイカニヤイカニスリテハヨケム》
 
君爲、【官本、君作v公、】
 
今按二三の兩句の今の點テツカラは字に叶はず、コロモキナヽメは義も亦意得がたければ和しかへてタヂカラツカレオレルキヌ、クタツと讀べきにや、尾句を紀州本に今ハカヨケムと點じたるは、いかにや〔四字右○〕と云に叶はねば此を収らず、
 
初、衣服斜 これは、衣服の二字引合てころもとよみ、斜の字はくたちぬと讀へし。衣のくたつとは、色もさめ、やゝやふれなんとするほとなり。ころもきなゝめとよみては意得かたし
 
1282 橋立倉椅山立白雲見欲我爲苗立白雲《ハシタテノクラハシヤマニタテルシラクモミマクホリワカスルナヘニタテルシラクモ》
 
橋立は倉椅の枕詞、別に注す、倉椅山は第三に見えたり、立白雲とはうるはしき物から目にのみ見て手にも取られぬを、女のさすがに目には見えて逢べくもなきによそへたるにや、高天の山の峰の白雲思ひ合すべし、然らば發句に高くて及びがたき意もあるべき歟、
 
初、はしたてのくらはし山にたてる 高倉ののほりをりには、階を立るなり。よりて階立のくらとつゝけたり。此くらはし山は、大和の國なり。崇峻天皇倉梯宮にして、天下をしろしめされけるもこゝなり。次下の二首に、くらはし川とよめるも同所なり。日本紀第二十九、天武紀云。七年戊寅、此春將(ニ)v祠(ラント)2天(ツ)神地(ツ)祇(ヲ)1而天下悉祓(シ)禊之。竪(ツ)2齋(ノ)宮(ヲ)於倉梯(ノ)河上(ニ)1。かゝるを、丹後國に天の橋立といふ所有によりて、此くらはし河をも、そこに有といふは誤なり。古事紀を考るに、仁徳天皇の御弟、速總別《ハヤフサワケノ》王、女鳥皇女《メトリノヒメミコ》をぬすみ、難波をにけて、大和國に入り。倉椅山に上るとてよみ給ふ哥
 はしたてのくらはし山をさかしみといもはきかねてわか手とら《・取也》すも
又歌て云
 はしたてのくらはし山はさかしけといもとのほれはさかしくもあらす。終に宇陀にいたりてころされ給ひぬといへり。日本紀には、隼別皇子、雌鳥皇女を率て、伊勢神宮にまいらんとし給ふを、帝、皇子のにけたまふときこしめして、兵をして追しめ給ふ。追て兎《ウ》田に至て、素珥《ソミノ》山に迫りし時、皇子草の中に隱て、まぬかるゝことを得て、山を越とて、歌てのたまはく
は《古事紀第二哥大同少異》したて《・梯v山也》のさかしき山もわきもことふたりこゆれはやすむしろ《安席》かも。迫手終に伊勢|蒋代《コモシロ》野に及て殺すといへり。難波をにけて、伊勢にいらんにも、大和國をはへぬへし。丹後國ははるかに違ひたり。さて立る白雲見まくほりといへるは、女にたとへたり。よそにのみ見てややみなんかつらきのたかまの山のみねのしら雲といふ哥も同こゝろなり。浪雲のうつくし妻とよめるやうに、はれたる山に白雲のかゝるも、見所あるものなれは、よせていへり
 
1283 橋立倉椅川石走者裳壯子時我度爲石走者裳《ハシタテノクラハシカハノイシノハシハモミサカリニワカワカシタリイシノハシハモ》
 
倉椅川も即倉椅山と同所なり、或者の云、水上は多武峰と音石《オトハ》山とより出て乾に流れ、末は城上郡に入ると云へり、八雲にも大和と注せさせたまへるを或抄に丹後と注せ(17)るは、橋立を枕詞と知らで天橋立なりと思へるにや、大きに誤れり、古事記下仁徳天皇段云、其夫速總別王到來之時、其妻女鳥王歌曰云々、天皇開2此歌1、即興v軍欲v殺2爾速總別王女鳥王1、共逃退而騰2于倉橋山1、於v是速總別王歌曰、波斯多弖能久良波斯夜麻袁佐賀志美登、伊毛波伎加泥弖和賀弖登良須母、又歌曰、波斯多?能久良波斯|夜麻波佐賀斯祁杼《ヤマハサカシケド》、伊毛登能煩禮波佐賀斯玖母阿良受、故自2其地1逃亡到2宇※[こざと+施の旁](ノ)之蘇邇(ニ)1云々、此十市郡の倉椅山に橋立の枕詞ある初なり、天武紀下云七年戊寅、此ハル將v祠(ラント)2天神|地《クニツ》祇(ヲ)1、而天下悉祓(ミ)禊之、竪(ツ)2齋(ノ)宮(ヲ)於倉梯(ノ)河上(ニ)1、此倉梯河ある證なり、石ノハシハモは尋たる詞なり、ミサカリは眞盛《マサカリ》にて男盛なり、我度爲は今按ワガワタリテシと讀べきか、爲を下に置てたる〔二字右○〕とよめる例なし、昔逢渡りたる人の今は絶ぬるを古き石走に愉たるなり、
 
初、はしたてのくらはし川の石のはしはも みさかりはまさかりにて、おとこ盛なり。石の橋はもは、尋たる詞なり。石のはしはいつくにそといふ心なり。昔あひわたりたる人の、今は絶ぬるを、ふるき石はしに喩たるなり。此石はしといへるは、うるはしく石を作て懸たる橋にはあらす。川の瀬に、石をならへて、其上よりわたりこゆるをいへり。集中にあまたよめり。第二第四等にすてに注せり
 
1284 橋立倉橋川河靜菅余苅笠裳不編川靜管《ハシタテノクラハシカハノカハノシツスケワレカリテカサニモアマスカハノシツスケ》
 
靜菅は下枝をシツエと讀如く水隱なるを、下菅《シツスケ》と云に靜の字は借てかけるにやとも意得つべきを、上に古事記を引し如く、仁徳天皇の御歌にも矢田皇女を矢田の一本菅と云ひてあたらすがし女とよそへさせ給ひ、此集第十一には靜子が手玉ならすもとよめるも沈靜《シメヤカ》なる人を云なるべければ、今も靜字のまゝの意にて、菅原はこと草木の(18)やうに風にもさはがでしなひてたてるを靜子《シツケコ》によそへたる歟、神樂の小前張に、しづや小菅、鎌もて刈らば、生ひむや小菅と云へるは、今と同じきか異なるかいまだしらず、余苅笠裳不編とは、刈は刈て笠にはいまだあまずと云へる歟、又からぬさきに刈てもあまずと云へる歟、第十一に編《アマ》なくに刈のみかりて、第十三にあまなくに伊刈持來とよみたれば初の義なり、刈をば契約に譬へ、あまぬをばまだ逢見ぬに譬ふ、或は刈を相見るにたとへ、笠にあまぬを妻とえせぬにたとへたるにも有べし、
 
初、しつ菅 靜菅とかけれとも、しつかなる心にあらす。しつは下なり。したえたをしつえといふかことし。水の下にかくれておふる菅なり。水かけにおふる山すけ、亦みくまか菅とよめるも、水にかくれたる心なり。神樂の小前張《コサイハリ》に、しつや小菅かまもてからはおひんや小すけといへるしつや小菅は、これとことなるへし。われかりて笠にもあますとは、心ひとつにわか物とは、しめても、まだことならぬ《・事不成》にたとふるなり。此こゝろなる哥おほし。第十一の四十五葉、同四十八葉に、各二首、第十三の廿七葉の長哥にもあり。すへて物によせてよめるは、菅ならねと同意あり。第三に、つくまのにおふるむらさきゝぬにそめいまたきすして色に出にけり。およそ此類なり
 
1285 春日尚田立〓公哀若草※[女+麗]無公田立羸《ハルヒスラタニタチツカルキミハアハレワカクサノツマナキキミカタニタチツカル》
 
一二の句は春の日の心|和《ノドカ》なるべき時さへなり、公哀はキミハカナシモと七字一句によむべし、
 
初、春日すら田に立つかる 田に出てひと日立つかれてみゆるきみは、妻のなきゆへに、時の過行ことを思ふ歟となり
 
1286 開木代來背社草勿手折已時立雖榮草勿手折《ヤマシロノクセノヤシロニクサナタヲリソオノカトキタチサカユトモクサナタヲリソ》
 
山背を今の如くかけるは代は背に假てかけり、開木は第六にも百木成山とよめる如く良材を出す故なるべし、來背社は今按クセノヤシロノと讀べし、延喜式神名帳に山城國久世郡に大社十一座小社十三座を載す、大社十一座は石田神社一座、水《ミ》主神社十(19)座なり、石田神社は此集に別に名を出したれば、水主神社を來背社とは云なるべし、式に注して云、並大月次、新甞、就中同水主坐天照御魂(ノ)神三座、伴(ニ)託2山背大國魂命神二座(ヲ)1預2相甞祭1、此歌の意は久世郡の大領などの時を得たるが、郡のうちに賤しき者の顔よき妻をもてるを犯さむと謀る時、彼夫の主ある女を社の草にたとへて罪な犯しそと云ことを草な手折そとよめるにや、木を云はずして草を云へるは賤しきを譬ふるなり、日本紀云、唯以2一兒1、私記曰、問此意如何、答、古事記及日本新抄並云、謂d易2子《コノ》之一木1乎u、古者謂v木爲v介(ト)、【景行紀注2御本1云、木此云v開、】故今云2神今食(ト)1者古謂2之(ヲ)神今木1矣、必以v木(ヲ)爲v喩者(ナリ)、蓋古以2貴人(ヲ)1喩2於木(ニ)1、故(ニ)謂2神及貴人1爲2一柱一木1矣、今此(ニ)云(ハ)2子之一木1猶如v云2子(ノ)之一柱(ト)1矣、以2賤人(ヲ)1喩2於草1、故謂(テ)2天下乃人民1爲2青人草1也、【神代紀(ニ)云、顯見蒼生此云2宇都志紀阿烏比等久佐1、】論語に小人之徳草(ナリ)と云に暗に合へる歟、もしは此歌は彼賤しき者の妻の節を守てみづからの身を社の草に喩へて人をさとせる歟、第十一人丸集の歌に、山城の久世の若子が欲と云、われあふさわに我をほしと云、山城の久世、此歌を思ふに人丸の歌にはあらで今の歌と共に同じ女のよめるにや
 
初、やましろのくせの社に 延喜式第九、神名上に、山城園久世郡に大社十一座、小社十三社を載たり。大社十一座は、石田神社一座、水主《ミヌシノ》神社十座なり。石田神社は、此集にも異にして名を出したれは、久世社はさためて水主神社なるへし。式に注して云。並(ニ)大。月次。新甞。就v中《コノナカニ》同水主(ニ)坐《マス》天照御魂(ノ)神三座。伴(ニ)託2山背大國魂命神二座(ヲ)1預2相甞祭(ニ)1。やましろを開木代とかけるは、代は背にかりてかけるなり。山といふに開木とかけるは、第六に、宮木なす山は木高しとよめる心にて、諸木山より開出すゆへ歟。第十一に、やましろの《・旋頭哥》、くせのわかこか、ほしといふわれ。あふさわに、われをほしといふ。山しろのくせ。此哥もふたつのやましろ、ともに開木代とかけり
 
1287 青角髪依網原人相鴨石走淡海縣物語爲《アヲミツラヨサミノハラノヒトニアヘルカモイシハシルアフミノカタノモノカタリセム》
 
石走、【別校本云、イハヽシル、】
 
(20)青角髪は苔なり、青くして長くはへるが髪に似たれば、歌には苔のみづらとよみ、詩には苔髪と作れり、依網(ノ)原とつらねたるは、青みづらをば苔の名としてそれが彼方此方長くはひつゞきたるは網をひろげたるに似たる意にや、和名云、參河國碧海【阿乎美】郡依網、【與佐美、】今按二三の句をヨサミノハラニ人モアヘカモ、四五をイハヽシルアフミアガタノと讀べき歟、縣は郡なり、神武紀には縣の字をやがてコホリと訓ぜり、碧海と淡海と假名も義も異なれど、元來此國には文字なければ假て書故にさほどの事おほし、氏の凡河内を大河内、生石を大石ともかけるに准じて知るべし、然れば此依網は參河なり、人相鴨は、歌の意は、よさみの原を行にあはれ逢人もがな、我戀しき人の住碧海郡 物語をだにせむとなるべし、前後の歌皆戀なるを以てみるべし、定家卿の歌に、思ひ餘り其里人に事問む、同じ岡部の松は見ゆやと、此意と同じかるべきにや、石走は淡海の國とつゞくるに同じければ彼に附て別に注す、
 
初、青みつらよさみか原 青みつらとは、青き葛なり。髪をみつらとはいへとも、こゝは青き葛なり。苔のみつらなとよめる哥も有。苔のなかくはふは髪のなかきに似たれはなり。よさみは依網とかけり。かつらのなかくはひよりて、網をあむかことくになれは、かくいふなり。今案日本紀云。伊弉册尊生2火産靈《ホノムスヒヲ》1時〇又生2天(ノ)吉葛《ヨサツラヲ》1。此(ヲハ)云2阿摩能與佐圖羅《アマノヨサヅラト》1。あをみつらは、青角髪と書たれは、角髪は鬘の義にて、かつらともよむへけれは、もしはあまのよさつらの心にても青かつらよさみとつゝけたるか。青みつらとよみても此義難なし。あまのよさつらは、延喜式第八、鎭火祭祝詞によるに、瓠の事なるへし。日本紀纂疏には注なし。さてこの依網原を、八雲御抄に美と注し給へるは、美濃歟。美作歟。住吉郡に依羅《ヨサミノ》池、大依羅(ノ)神社あれと、こゝとは見えす。和名集(ニ)云。參河(ノ)國、碧海(ノ)【阿乎美】郡、依網【與佐美。】此哥のよさみはこれなり。そのゆへは、下に淡海縣とあるを、あふみのかたとよめるは、あやまりなり。あふみあかたとよむへし。文字も淡海《アフミ》、碧海《アヲミ》、心すこしことなれは、和訓もしたかひて、あふみあをみことなれども、もとより此國には、文字なけれは、さま/\にかけることあやしむにたらす。あかたは郡なり。又此縣の字を、日本紀第三神武紀には、こほりとよみたれは、やかてこの哥も、あふみごほりと讀に難なし。しかれは、よさみか原の人にあひて、あをみ郡の物かたりせむといふ事、道理相かなへり。凡河内氏を、大河内とかき、生石氏を大石ともかけるにて、碧海淡海のうたがひをとくへし
 
1288 水門葦末葉誰手折吾背子振手見我手折《ミナトナルアシノスヱハヲタレカタヲリシワカセコカフルテヲミムトワレソタヲリシ》
 
初の二句は今按ミナトノアシノウラハヲとも讀べし、六帖に異あれど字に叶はねば出さず、
 
(21)1289 垣越犬召越鳥獵爲公青山葉茂山邊馬安君《カキコシニイヌヨヒコシテトカリスルキミアヲヤマノハシケキヤマヘニウマヤスメキミ》
 
獵、【校本作v※[獣偏+葛]、】  公、【別校本作v君、】
 
鳥獵は獣獵に簡ぶ詞なり、葉茂山邊は今按木の葉の茂き陰は馬をやすむるに便よかるべけれど、葉といはずとも青山のしげき山べにと云にて足なむ、此は第六に見えし茂岡を茂山とも云ひて、しげやまべにと云ひては文字のたらねば、石上袖ふる川の例に葉の字を加へたるにやあらむ、
 
1290 海底奧玉藻之名乘曾花妹與吾此何有跡莫語之花《ワタツミノオキツタマモノナノリソノハナイモトアレトコヽニアリトナナノリソノハナ》
 
海底、【別校本云、ワタノソコ、】  妹與吾、【官本亦云、イモトワレト、】
 
發句の讀別校本に依るべし、何は荷と通ずれど唯荷の字なるべし、尾句の點、書生誤て一つのナ〔右○〕をあませり、
 
初、此何有跡《コヽニアリト》 何は荷なるへし。此句六もしに讀へし。かんなのひとつのなもじ、きゝはよけれと、はふきさるへし
 
1291 此崗草苅小子然苅有乍君來座御馬草爲《コノヲカニクサカルワラハシカナカリソアリツヽモキミカキマサムミマクサニセム》
 
拾遺にはかのをかにくさかるをのことあれど、發句は字にたがひ、小子ををのこ〔三字右○〕とよめるも今の點にしかねば今取らず、然の下には莫の字落たり、
 
(22)1292 江林次完也物求吉白栲袖纏上完待我背《エハヤシニヤトルシヽヤモモトメヨキシロタヘノソテマキアケテシヽマツワカセ》
 
江林は八雲にも載させ給ひながら、何の國の注したまはず、完は宍に作るべし、求吉は今按モトムルニヨキと七字に讀べし、旋頭歌の習、第三句多分七字にて第四句は五字なり、第三句もし五字なれば第四の句必らず七字なり、三四の句共に五字なる事いまだ其例をきかざる故なり、袖まき上てとはまくり手して待意なり、第十三云、峯のたをりに射目たてゝ、しゝ待がごと云々、孟子曰、晋人有2憑婦者1、善搏v虎、有v衆逐v虎(ヲ)、望2見憑婦(ヲ)1※[走+多]而迎v之、憑婦攘v臂下(ル)v車(ヨリ)、
 
初、江林 名所なるへし。未v勘v國。宍を完に作は誤なり。さきにも注せしことく、日本紀には、獣の字をしゝとよめり。宍の字はかりてかきたれと、獣も、猪鹿《シシ》とかきたるも、宍によりての名なり。袖まきあけては、孟子(ニ)曰。晋人有2馮婦(トイフ)者1。善(ク)搏《テウチニス》v虎(ヲ)。有(テ)v衆(/\)逐(フ)v虎(ヲ)、望(ミ)2見(テ)馮婦(ヲ)1※[走+多](テ)而迎(フ)之。馮婦攘(ケテ)v臂(ヲ)下(ル)v車(ヨリ)。後拾遺集に、良暹法師、袖ふれは露こほれけり秋の野はまくり手にてそ行へかりける。江林は八雲御抄に載て注したまはす
 
1293 丸雪降遠江吾跡川楊雖苅亦生云余跡川楊《アラレフルトホエニアルアトカハヤナキカリツトモマタモオフテフアトカハヤナキ》
 
雖苅、【官本亦云、カレヽトモ、】
 
第二の句の點、有の字在の字などなくてはトホツエニとてにをはを隔てアルとは讀がたし、今按發句をアラレノと讀て次をフルトホツエノと讀べし、丸雪は義を以てかけり、涙を戀水とかけるが如し、降遠江とつゞくる意は霰の降音の意なり、梓弓引豐國と有しに同じ、とほつえと云は、あと川は近江の高島郡にて、湖の中にも都より遠けれ(23)ば云歟、第十一に淡梅のうみ奧つ島山とよめる歌の次に、霰降遠津大浦による浪のとあるも若近江にて同處にや、アラレフルトホツアフミノと點ぜば遠江國なるべきを、彼國にあと川なき故に近江と定めて今の如くは點ぜるなるべし、川楊は和名云、本草云、水楊、【和名、加波夜奈木、】柳の一種なり、又も生てふは戰國策云、今夫楊横樹v之則生、倒樹v之則生、折而樹v之又生(ス)、云々、此歌は第十に寄草歌に、此ごろの戀のしげゝく夏草の苅はらへども生しくがごと、此と同じ意なるべし、余は上の吾の如くアレを下略して用るなり、磐余《イハレ》の時は上畧せり、
 
初、あられふるとをつえにある あられふるとつゝくなり。音をとゝのみよむ其例、浪のおとを浪のとゝいひ、梓弓つまひく夜音《ヨト》なといへり。遠江をとをつあふみとよむへけれと、あと川は、高嶋のあと川浪とよめる、近江の名所なれは、江といふは、水うみにて、あふみの國のうちにも、高嶋郡の方は、都より遠けれは、とをつえといふにや。柳のかれともまたおふるをいふは、下の心、おもひすてゝもまたおもはるゝにたとへたる歟。しはしいひたゆれと、又おもひかねて、いひかはすにたとふるなるへし。柳はかりてもやがてなばへして、よくおふるものなれは、ことにたとふるなり。第十四東哥に、柳こそきれははえすれよの人のこひにしなんをいかにせよとそ。丸雪はなみたを戀水と第四卷にかけるやうに、義をもてかけるなり。余跡川の余は、上に吾跡川とかけるがことく、あれといふ和語の畧をかりて用るなり
 
1294 朝月日向山月立所見遠妻持在人看乍偲《アサツクヒムカヒノヤマノツキタチテミユトホツマヲモタラムヒトヤミツヽシノハム》
 
朝月日は向ふと云はむ爲なり、第十一にも向ふ黄楊櫛とつゞけたり、望月の日と相向ふのみならず、有明の月は西にありて日は東の嶺に出て相向へばすべて十五日以後を云べし、發句は唯枕詞なれば古歌の習、下に月を云に妨なし、立とは出るなり、月の出る程は半天に照よりは遠く見ゆれば、遠妻のみてる面輪を遠き月によそへてしのばむとなり、
 
初、朝月日むかひの山の月たちてみゆ 朝つく日はたゝ朝日なり。つくはみもろつくみわ山なとよめるつくの字の心なり。朝月日とかけるによりて、朝に月のゝこるが、日にむかふ心なりといへとも、さあらは、むかひの山の月立てみゆと、かさねて月をいふへきにあらす。此集のならひ、かやうのもしつかひにまとふ人おほきなり。夕つく日も此定なり
 
右二十三首柿本朝臣人麿之歌集出
 
(24)1295 春日在三笠乃山二月舩出遊士之飲酒杯爾陰爾所見管《カスカナルミカサノヤマニツキノフネイツタハレヲノムサカツキニカケニミヘツヽ》
 
酒杯、【幽齋本、杯作v坏、】
 
第十にも春日なる三笠の山に月も出ぬかもとよみ、仲丸は唐にてだに三笠の山に出し月かもとよまれたれば、奈良都の時三笠山に月の出たらむ興おもひやるべし、月ノ船と云へるは古歌なれば何心なく云へるか、影の盃に泛ぶに付て興じていへるにや、第五の梅の歌にも誰がうかべし盃のへにとよめるは影の移るを云へり、白氏文集云、影落2盃中1五老峯、
 
初、かすかなるみかさの山に 第五卷三十二首梅花哥の中に、はるやなき、かつらにをりし、うめの花、たれかうかへし。さかつきのへに。白氏文集(ニ)影落(ツ)2盃中(ニ)1五老峯。古今集に安倍仲麿あまの原ふりさけみれはかすかなるみかさの山に出し月かも。注にいはく。此哥は昔仲丸をもろこしに物ならはしにつかはしたりけるに、あまたの年をへてえかへりまうてこさりけるを、このくにより又つかひまかりいたりけるにたくひてまうてきなむとて出たりけるに、めいしうといふ所のうみへにて、かのくにの人むまのはなむけしけり。よるになりて月のいとおもしろくさし出たりけるをみてよめるとなんかたりつたふる。千里を隔て明月を共にせる意兩首よく通すといふへし
 
譬喩歌
 
寄衣
 
1296 今造斑衣服面就吾爾所念末服友《イマヌヘルマタラコロモハメニツクトワレニオモホユイマタキネトモ》
 
今造、【六帖云、イマツクル、】
 
發句は仙覺の點歟、彼抄今と同じけれど造の字の義訓も慥には叶はねば、六帖に依て字のまゝに讀べし、第六第八に今造久邇能京とよめるも證とすべし、二三の句、六帖に(25)はまだらのきぬのおもつきにとあれど如何侍らむ、今按面就は今の點も意得がたし、メニツキテと讀べし、第一にも目爾都久和我勢とよめり、喩ふる意は、今初て笄《カンサシ》せる處女は斑衣の如く目につきておぼゆ、いまだあひみねどもとなり、
 
初、今造またら衣は 今造を今ぬへるとよめり。字のまゝにいまつくるとも讀へし。またら衣は、此卷さきに見えたり。面就はめにつくとゝあれとも、めにつきてと讀へし。第一にも、そまかたの林はしめのさのはきのきぬにつくなすめにつくわかせとよめり。今あらたにぬへるまたら衣を、はしめてかむさしなとしたる女のうるはしきにたとへて、目につきておほゆとよめり。いまたきねともは、またあひみねともなり
 
1297 紅衣染雖欲著丹穗哉人可知《クレナヰニコロモヲソメテホシケレトキテニホハヽヤヒトノシルヘキ》
 
ソメテホシケレドと云は俗語なり、コロモソメマクホシケドモと改むべし、ほしけれどと云はぬは古語の例上に云が如し、穗の下には落字あれども點は今の本よし、ニホハヾヤは願ふ詞にあらず、にほはゞ人や知べきの意なり、喩ふるやうに、紅の深きにあかねば幾入にそむる如く人にも度々あはまくほしけれど、染るに隨ひて色のけやけきやうに、逢見るに添ひて思ふ心のまさらば、忍ぶとすとも色に出て顯はれやしなましと相見む後を兼て思ひやるだに心のやすからぬ由なり、
 
初、紅に衣そめまくほしけれと 穂の下に字をゝとせり。著てにほはゝやといふは、あひて後しのひあへす人のとかくいひさはかんにたとへたり。きてにほはゝやは、きてにほはゝ人や知へきの心なり。ねかふ詞にあらす、
 
1298 千名人雖云織次我二十物白麻衣《チナニハモヒトハイフトモヲリツカムワカハタモノヽシロアサコロモ》
 
我二十物、【拾遺、人丸集、六帖共云、ワカハタモノ、】  白麻衣、【上三本共云、シロキアサキヌ、】
 
發句を拾遺並に人丸集にはちゝわくに〔五字右○〕と改たり、腰の句拾遺にはおりてきむ〔五字右○〕と改ら(26)る、家集は改めず、六帖は上の句今の點とおなじ、今按落句は他の點もよし、假令他に隨てよむとも第四は今の點然るべし、人はいかに云とも織すめし布を、はしたにてやまずして、おりつゞけて、機よりおろす如く、見そめし人に志を遂むとなり、又千名とは名を立るを云にはあらで、何くれの絹など名の數を盡して云如くこなたかなたにくはしめありと人は云ひまどはさむとすとも、白き布の如く事もなき人の見そめて久しきに逢はなむとや、
 
初、ちなにはも 第四卷には、千名の五百《イホ》名とよみ、第十二には、百《モヽ》に千《チ》に人はいふともとよめり。さま/\に名の立ことなり。おりつがんとは、孟母の機を断たるやうにはせて、おりつぎて、あさきぬとなすことく、其人を領して、ぬしとならんの喩なり。拾遺集には、ちゞわくに人はいふともおりてきんわかはたものに白きあさきぬとそ載られたる
 
寄玉
 
1299 安治村十依海舩浮白玉採人所知勿《アチムラノナヲヨルウミニフネウケテシラタマトラムヒトニシラスナ》
 
十依海、【別校本云、トヲヨルウミ、】  所知勿、【別校本云、シラルナ、】
 
十をナヲと點ぜるは書生の誤なり、十は遠に借て遠奥の方へさかり行を云へるか、上に朝こぐ舟も奧による見ゆとよめればと思ふに、此集の假名の例、遠は登保、十は登|乎《ヲ》なれば右の意にあらず、あぢ村のあまたよる海と云なり、此を以前もあぢ村さわぎと有し如くに他言《ヒトコト》の云ひさわぐ世に喩ふ、白玉採をば潜に逢に喩ふ、海の底にかづき入て取ればなり、尾句はシラルナと點ぜるにつくべし、シラスはしらしむるなれば今所(27)知と書故なり、四の句をシラタマトルトとも讀ぬべし、
 
初、あち村のとをよる海に とをよるは、とをさかるなり。こなたへ來てあつまるを、ちかよるといへは、よそにゆきてそこによりゐるを、遠よるとはいふなり。第四岡本天皇の御哥に、山のはにあち村さはきゆくなれとゝよませたまふも、人々のおもひ/\にかたらひよりていさなふをのたまふことく、あち村はあまたむらかり飛ものなれは、名をたてゝいひさはく人にたとへたり。さる人のなからんひとまに、みそかにあふを、あまのなきたる海に舟をうけて、貝の玉をとるによせて、人にしらすなとくちかたむるなり
 
1300 遠近礒中在白玉人不知見依鴨《ヲチコチノイソノナカナルシラタマヲヒトニシラセテミルヨシモカモ》
 
遠近は此方彼方なり、遠近とかけるによりてつよくみるべからず、玉の緒のをちこちかねて結つると第四に有しに意得べし、誰妻ともまだ定まらぬ意知べし、
 
1301 海神手纏持在玉故石浦廻潜爲鴨《ワタツミノテニマキモタルタマユヱニイソノウラワニアサリスルカモ》
 
潜、【六帖云、カツキ、別校本點同v此、】  石浦廻、【六帖云、イソノウラワヲ、】
 
一二の句は第三に笠金村の歌にもかくよまれ、第十五の長歌にもわたつみのたまきの玉とよめり、仙覺云、海神をば母に喩ぬと、誠に然るべし、石浦廻は地の名にあらず、第二に日並皇子の舍人が歌に水傳ふいそのうらわとよみ、第九には三重の河原の礒裏とよみ、第二十には中臣清丸朝臣の庭の池を見て、いそのうらにつねよひきすむ鴛鳥とよめり、うらのいそわ、いそのうらわ同意なり、潜はカヅキと點ぜるに依べし、海神は奥に住を、磯にかづきすとは得がたき人をいかで逢見むと媒を憑て思ふ意を云ひつかはせど艶書の到かぬる意なり、媒を海子に喩てかづきすると云へり、みづからかづ(28)くには非ず、次の歌を合て意得べし、
 
初、わたつみの手にまきもたる 第三笠朝臣金村角鹿津にてよめる長歌にも、わたつみの手にまかしたる玉たすきかけてしのひつなとよまれたり。今たとふる心は、ぬしある人に心をかけて、いかてとおもひくたくるを、いそのうらわにかつきするかもとはいへり。いそのうらわは名所にあらす。たゝいそへのうらわなり。わたつみの手にまく玉とたとふるは、海神は海上にておそるへきものなれは、やむことなき人のめてうつくしむに、心をかけて、空おそろしき心もこもるへし
 
1302 海神持在白玉見欲千遍告潜爲海子《ワタツミノモタルシラタマミマクホリチカヘリツケツカツキスルアマ》
 
腰句を六帖にみまくほしとあれど叶はねば取らず、下句は下に近く、底めみ沈める玉をみまくほりと云歌の下句に、千遍曾告之《チタヒソツケシ》潜爲|白水郎《アマ》、此と全同なるべければ今も第四句をチタビゾツゲシと讀べし、千遍告とは媒する人に我告る歟、媒の彼方へ告る歟、次下の歌を以て見るに彼處へ妹の告るなり、
 
初、わたつみのもたる ちかへり告つは、おもふよしをたひ/\人にいふなり。かつきするあまは我なり。なかたちをもいふへけれと、右の哥にかつきするかもといへる、すなはちわかことなれは、にはかになかたちとほいふへからす。下に、そこきよみしっめる玉をみまくほりちたひそ告しかつきするあま
 
1303 潜爲海子雖告海神心不得所見不云《カツキスルアマハツクトモワタツミノコヽロヲエステミルトイハナクニ》
 
所見を仙覺抄に知の一字に作たれど所見は誤にて知なる由をも申されず、諸本に異なく、其上此歌は上の歌を踏てよめるに上に見欲と云より來れば彼抄傳寫の誤なるべし、海神の心を取得ねば白玉を得ぬごとく、母の心許さぬに娘に相見る事を得とは世にも云はずと佗る意なり、
 
初、かつきするあまはつくとも 此集には、かやうにまへの哥をふみて讀る哥おほし。わたつみの心を得すてとは、領したる人の心をしらては、あひみること有といはぬものをとなり
 
寄木
 
1304 天雲棚引山隱在吾忘木葉知《アマクモノタナヒクヤマニカクレタルワレワスレメヤコノハシルラム》
 
(29)天雲棚引山とは深き譬なり、木葉をば人に喩ふ、此歌も次と二首にて意を云ひ盡す歟、然れば見れどあかぬ木葉とはもみぢを云なるべければ、此も紅葉の色よきを以て喩たりと知べし、知は第二に憶良歌に松は知らむとあるに注せしが如し、第三に小田事が勢能山の歌にも今の如くよめり、隱在吾忘は今按忘は志にて三四の兩句カクシタル、ワガコヽロザシなるべきにや、然らば古今に、飛鳥の声も聞えぬ奥山の、深き心を人は知らなむ、此なむ〔二字右○〕、人は知らむ〔二字右○〕となさば同じ意なり、
 
初、天雲のたな引山に 忘は志の字の誤れるなるへし。いたりてふかき心さしをいはむとて、かくはつゝけたり。心さしはうちにあれは、かくれたるとはいへり。木の葉知らんとは、第二に山上憶良哥に、とりはなす《・鳥羽成》有かよひつゝみらめとも人こそしらね松はしるらん。第三に、小田事かせの山の歌に、まきのはのしなふせの山しのはすてわかこえゆけはこのは知けむ。これらにあはせてみるへし。又わかせこをわかこひをれはわかやとの草さへおもひうらかれにけり。又古今集に、飛鳥の聲も聞えぬおく山の深き心を人はしらなん
 
1305 雖見不飽人國山木葉巳心名著念《ミレトアカヌヒトクニヤマノコノハヲソオノカコヽロニナツカシクオモフ》
 
此頭句は人とつゞけむ爲か、又句を隔てゝ木葉の爲にいへるか、寄木歌なれば木葉の爲に云へる事は勿論にて、木葉と云も人に譬ふれば先は人を女になしておける詞なり、此卷下把は常ならぬとおけるも人と云はむためなり、人國山は大和なり、下の歌に秋津野とつゞけて云へるにて芳野に有なるべし、名著はナツカシミとも讀べし、
 
初、みれとあかぬ人くに山 ひとくに山は大和なり。其ゆへは、下の三十三葉に、常ならぬ人國山のあきつ野のかきつはたをし夢にみるかもとあれは、吉野にある山なるへし。木の葉といふは、もみちをいへる心なり。みれとあかぬといふは、人國山の人といふにのみつゝけたる枕詞歟。うるはしき人の見るにあかれねはなり。さてやかておもふ人によせたるへし。又人國山のこのはをみれとあかぬといへるにや。常ならぬ人くに山とつゝけたるに准すれは、みれとあかぬ人とつゝけたるなるへし
 
寄花
 
1306 是山黄葉下花矣我小端見反戀《コノヤマノモミチノシタノハナヲワカハツ/\ニミテカヘルコヒシモ》
 
(30)反戀、【官本亦云、サラニコヒシキ、】
 
黄葉下花とは、此は小春の比暖氣に催されて梨、櫻、躑躅、山吹などのめづらしく一枝咲ことのあるに寄たるなるべし、履中紀云、三年冬十一月丙寅朔辛未、天皇泛2兩枝《フタマタ》船(ヲ)于|磐余市磯《イハレノイチシノ》池(ニ)1、與2皇妃1各分乘而遊宴、膳臣余磯獻v酒、時櫻花落2于御盞1、天皇異v之、則召(テ)2物部(ノ)長眞膽《ナカマイ》(ノ)連(ヲ)1詔之曰、是花也非v時而來、其|何處《イトコ》之花(ソ)矣、汝《イマシ》自可v求、於v是長眞膽連獨尋(テ)v花(ヲ)獲(テ)2于|掖《ワキノ》上(ノ)室(ノ)山(ニ)1而獻之、天皇歡2其(ノ)希有《メツラシキコトヲ》1即爲(タマフ)2宮(ノ)名(ト)1、故(ニ)謂2磐余(ノ)稚櫻宮1、其此之縁也、此類なり、反戀は今の點にては反は上に連なりて花を見て還るにて、此を句として更に戀しと云意なり、されどもいかにぞやあるなり、今按官本の又の點にサラニコヒシキとあれどもカヘリテコヒシと讀て中々に相見ざしさきよりもまさりて戀しと意得べし、
 
初、もみちの下の花 これは小春の比暖氣にもよほされて、櫻つゝし山ふき梨なとの花の、めつらしく一枝さくことのあるに寄るなり。履仲紀云。三年冬十一月丙寅(ノ)朔辛未(ノヒ)、天皇泛2兩枝《フタマタ》船(ヲ)于|磐余市磯《イハレノイチシノ》池(ニ)1與2皇妃1各分乘而|遊宴《アソムタマフ》。膳《カシハテノ》臣余磯獻v酒《オホミキヲ》。時(ニ)櫻(ノ)花|落《チリイレリ》1于御盞(ニ)1。天皇異(タマヒテ)v之則召(テ)2物部(ノ)長眞膽《ナカマイノ》連(ヲ)1詔(シテ)之|曰《ノ ク》。是(ノ)花也非(スシテ)v時(シクニ)而來(レリ)。其|何處《イトコノ》之花(ソ)矣。汝《イ 》自可v求。於v是長眞|膽《イノ》連獨尋(テ)v花(ヲ)獲(テ)2于|掖《ワキノ》上(ノ)室(ノ)山(ニ)1而獻之。天皇歡2其|希有《メツラシキコトヲ》1即|爲《シタマフ》2宮(ノ)名(ト)1。故(ニ)謂2磐余(ノ)稚櫻(ノ)宮(ト)1、其此之縁也
 
寄川
 
1307 從此川舩可行雖在渡瀬別守人有《コノカハニフネモユクヘクアリトイヘトワタルセコトニマモルヒトアリ》
 
人と我との中を河に譬て、今はあはゞ逢ぬべきを船も行べくありといへどとは云ひ、内には親はらからの守り、外は人目のしげきを渡瀬ごとに守る人ありとはたとふるなり、
 
初、ふねも行へく有といへと ふたりの中を河にたとへて、人もゆるせは、かよふへきに、まもる人ありて心にまかせぬを、渡の所にもまもる人ありて、舟も禁の限あるにたとふるなり
 
(31)寄海
 
1308 大海候水門事有從何方君吾率陵《オホウミノマモルミナトノコトアルニイツクニキミカワレヰシノカム》
 
陵、【幽齋本作v凌、】
 
此は親の守れる娘などに男の通ひて事出來て後彼娘の讀て男に贈れるにや、湊はあまたの舟の出入處なれば官家より守る人を置るゝなり、三四の句はコトアルヲイカサマニキミとも讀べし、率はひきゐるなり、陵は凌と通ず、
 
初、大海のまもるみなと 湊はあまたの舟の出入所なれは、大やけより守る人をゝかるゝにたとふるなり。いつくに君かわれゐしのかんとは、いつかたに君か我をゐてゆきてしのきのかれんとは思ふそとなり
 
1309 風吹海荒明日言應久君隨《カセフキテウミハアルトモアストイハヽヒサシカルヘシキミカマニ/\》
 
此も同じ女のよめる歟、風吹て海の荒る時舟出せずして明日といはゞいと待苦しく歳月とも久しくおぼゆべければ、海のあるゝにも舟に乘れば乘如く君だに強てあはむと云はゞ君が意に隨がはむとなり、第四の高田女王の六首の第三首と下の意相似たり、
 
初、風ふきて海はあるとも これは右の哥ぬしの、おしかへしてよめる心なり。風ふきて海のあるゝ時、舟待して、あすといへはいとひさしくおほゆることく、ひとめ人ことをはゝかるほとの待くるしけれは、海はあるれとも、舟にものれは、乘ことく、君たにしひてあはんといはゝ、人の物いひはあやうけれと、よしや君にしたかはむとなり
 
1310 雲隱小島神之恐者目間心間哉《クモカクレヲシマノカミノカシコクハメハヘタツトモコヽロヘタツナ》
 
(32)小島はコジマと讀べし、小島と書たれど此は備前の兒島歟、第八に笠金村の遣唐使に贈らるゝ歌の反歌に、波上從所見兒島之雲隱云々、此は兒島と書たれば備前の兒島なるべきに雲隱と云詞も同じければ彼を以て此を云なり、神と云へるは舊事紀云、兄吉備兒島謂2建日方別(ト)1、古事記の説同じ、小島をば女に譬へ、神をば守る親に譬ふ、今按落句の點誤れる故に、腰句の點より改めてカシコサニ或はカシコケレバ、メハヘダツレドコヽロヘダツヤと讀べし、心は隔ずとなり、
 
初、雲かくれ小嶋の神の 嶋ははるかの奥に雲かくれて有物なれは、かくいふ。小嶋の神とは、嶋々は皆其躰神なり。舊事紀には、我國々の嶋悉神の名をあらはせり。かしこくは、恐者とかきたれは、かしこけれはと讀へき歟。そのゆへは、下の句めはへたつとも心へたつなとよみたれと、目間心間哉とかきたれは、相かなはす。よりてかしこけれはと讀て、下を目はへたつれと心へたつやと讀へしとおほゆ。心へたつやは、心はへたつるや、へたてすといふ心なり。又恐者をかしこさにとも讀へし。者の字音を取て、さとよみたる所もあれはなり
 
右十五首柿本朝臣人麿之歌集出
 
寄衣
 
1311 橡衣人者事無跡曰師時從欲服所念《ツルハミノキヌキシヒトハコトナシトイヒシトキヨリキマホシクオモホユ》
 
衣人者、【六帖、キヌキルヒトハ、】  欲服、【六帖、キマホシミ、】
 
橡は和名集染色具云、唐韻云、橡、【徐雨反、上聲之重、和名都流波美、】櫟實也、枕草子に恐ろしき物の中につるはみのかさと云へる物にて又は櫟※[木+求]とも云へり、源氏に黄橡白橡とあるは色の淺深か、若は合せて染る具に替れる物有にや、橡の衣は紅などの如く目にたゝぬ物なれ(33)ばそこを事なしと云へり、第十一に、有つゝ見れど事なきわぎもとよみ、伊勢物語にこともなき女どもと云ひ、うつぼ物語に、こゝに物せらるゝ中にこともなきむすめ誰多く物せらるらんなど云皆一樣なり、第十八に家持の越中史生尾張少咋を教(ヘ)喩《サト》さるゝ歌に、紅はうつろふ物ぞ橡の、なれにし衣に尚しかめやも、此意を思ふべし、昔より事なきをよしと云ひつげばいひし時從とは云へり、尾句は今按キホシクオモホユとも讀べし、近く下にもコトニキホシキとよめり、仙覺抄に別義あれど譬喩の意を得ざれば今出さず、
 
初、つるはみのきぬきし人はことなしといひし時よりきまほしくおほゆ つるはみは、くぬき《樟和名・歴木》の實なり。清少納言におそろしき物、つるはみのかさといへるは、櫟※[木+求]とて、彼實をつゝめる栗のいかのやうなるものなり。俗につるはみをどぐりといへり。其皮にてそめたる衣なり。和名集染色具云。唐韻云。橡【除兩反上聲之重。和名都流波美】櫟寶也。黄つるはみ、しらつるはみなといふことあり。源氏にも見えたり。その色のこきうすき名なるへし。管見抄にいはく。此つるはみの衣をきぬれは、身にことなしといひならへり。しかれはことはなくして、人にあはゝやの心にたとふるなり
 
1312 凡爾吾之念者下服而穢爾師衣乎取而將著八方《オホヨソニワレヲオモハヽシタニキテナレニシキヌヲトリテキメヤモ》
 
吾之念者、【幽齋本云、ワレシオモハヽ、】  穢爾師、【六帖云、ケカレニシ、別校本亦點同v此、】
 
發句は今按第六に、聖武天皇酒を節度使に賜ふ時の御歌の反歌の腰句凡可爾とあるをオホロカニと和せり、此詞を第二十家持の喩族歌には於煩呂加爾《オホロカニ》とかけり、此等に准じて今も然讀べし、穢は第十一第十二もナルと讀たれば異點を取べからず、此歌六帖には昔あへる人と云に入れたるは喩ふる意知ぬべし、
 
初、おほよそにわれしおもはゝ われをおもはゝとあるは、かんな誤れり。下にきてなれにしきぬとは、たとへはいやしかりし時の妻を、後にうつくしみするなり
 
1313 紅之深染之衣下著而上取著者事將成鴨《クレナヰノコソメノコロモシタニキテウヘニトリキハコトナラムカモ》
 
(34)事將成鴨、【幽齋本云、コトナサムカモ、】
 
落句は今の點誤れり、此下にも兩處幽齋本の如く點ぜり、第四にわをことなさむと有し詞なり、此歌はさきに著てにほはゞや人の知べきと有し意なり、
 
初、紅のこそめの衣下にきてうへに取きは しのひに心をかよはしたる人を後にあらはれて妻とせんに、事のなりとゝのほらん歟となり
 
1314 橡解濯衣之恠殊欲服此暮可聞《ツルハミノトキアラヒキヌノアヤシクモコトニキホシキコノユフヘカモ》
 
解濯衣之、【別校本云、トキアラヒキヌノ、】
 
胸の句官本の點も今の如くなれど書生の誤なり、別校本に依るべし、第四の句は今按殊の字は勝、異の兩字とおなじく集中に、ケ〔右○〕とも和したれば、ケニキマホシキと讀べきか、解濯衣をばもと逢し人に喩へ、きまほしきをば更にあはまほしきに喩ふ、暮行けば寒き故に衣もきまほしく人にもあはまほしければかく喩ふるなり、第十五に、夕去者秋風寒し、吾妹子が、解洗ころも行て早來む、第十一に、古衣打棄人は秋風の立來る時に物思ふ物を、第十二に、橡《ツルバミ》の衣解洗《キヌトキアラ》ひ又打山《マツチヤマ》、もとつ人には猶しかずけり、第十一に、いつとてもこひぬ時とはあらねども、夕かたまけて戀はすべなし、古今戀部に、いつとても戀しからずはあらねども、秋の夕はあやしかりけり、
 
初、殊欲服 ことにきほしきとあれとも、けにきまほしきと讀へし。殊の字此集にけとよめり。勝異の字皆おなしくけとよめるは、ことにといふ心、まさる心なり。けにきまほしき此夕とは、常よりもけにあはまほしき此夕の心なり。くれゆきて風も寒けれは、衣もきまほしく、人にもあはまほしけれは、衣をもてたとふるなり
 
1315 橘之島爾之居者河遠不曝縫之吾下衣《タチハナノシマニシヲレハカハトヲミサラサテヌヒシワカシタコロモ》
 
(35)仙覺抄(ニ)云、此歌如2伊豫國風土記1者息長足日女命御歌也、橘嶋者伊豫國宇摩郡、今和名集を考るに宇摩郡には橘嶋見えず、越智郡と温泉郡に並に立花郷あり、新居郡に嶋山あり、宇摩郡に御井郷あるは行宮の御井を名に負へる歟、日本紀にも古事記にも神功皇后の伊豫におはしましたる事見えねばおぼつかなし、橘島は大和國高市郡にあるを云歟、し〔右○〕は助語なり、河の遠くてさらさぬをばあらはして妻と定むべき由のなきに喩へ、さらさぬながら下衣に縫をばしのび/\に逢に喩へたる歟、第十三に衣《キヌ》こそはそれやれぬれば、縫つゝも又も相と云へとよめり、縫を逢に踰ふる事かくの如し、
 
初、橘の嶋にしをれは 橘の嶋は、大和國橘寺ある邊なり。第二卷に、日並皇子の薨したまひて後、舍人とものいたみ奉てよめる哥の中にも、橘の嶋の宮にはあかすかもといへり。河の近くはさらしてぬふへき下衣を、河の遠きゆへにさらさてぬふとは、種姓高貴の人をもあひすまんとおもへと、よしのなけれは、さらぬ人を下におもふをたとふるにや
 
寄絲
 
1316 河内女之手染之絲乎絡反片絲爾雖有將絶跡念也《カフチメノテソメノイトヲクリカヘシカタイトニアレトタヘムトオモヘヤ》
 
雖有、【六帖云、アリトモ、】
 
河内女は河内の國の女なり、第十四に大和國の女を大和女とよめるが如し、手染の絲とは手して何の色をも染れば云歟、俗に紺掻《コウカキ》が許などへつかはさずして手づから染るを手染と云、若は此にや、仙覺抄の意、深く思ひしみて逢事なけれど絶むと思はぬに(36)愉ふと云へり、念也はおもはむやなり、
 
初、河内女の手そめのいとを 河内女は、河内國の女なり。第十四には、大和女ともよめり。そのほか、難波女泊瀬女なとの類なり。かた糸にあれとゝは、しのひ/\にいひかはせは、たえ/\なるにたとふるなり。たえむとおもへやは、たえむとおもはんやなり
 
寄玉
 
1317 海底沈白玉風吹而海者雖荒不取者不止《ワタノソコシツクシラタマカセフキテウミハアルトモトラスハヤマシ》
 
初、わたのそこしつく白玉 此つゝきに玉とよめるは、皆眞珠にて、貝の玉なり。しつくは、しつむなり。古今集に、水の面にしつく花の色さやかにも君かみかけのおもほゆるかなといふ哥の顯注に、水の面にしつく花の色とは、しつむといふなり。されは普通本にはしつむとかけり。しつむといふは、うつるといふ心なり。水のおもに移れる花の色のやうに、さやかに見えて、おほむかほのおほゆるとよめり。萬葉云。藤浪のかけなる海のそこ清みしつく石をも玉とそわかみる。催馬樂云。かつらきのてらのまへなるや、とよらの寺のにしなるや、えのは井に白玉しつくや、ましらたましつくや。密勘云畑しつくといふ詞、心はさまてたかひ侍らす。ぉさへてしつむとは申にくゝや。沈はそこへいり、ひたるは水に入たり。たとへはひたれるやうにて、水波にあらはれゆられて、かくれあらはるゝやうにするをいふ。又底よりさき《・鋒》出たらん石も、波にあらはれて、ゆらるゝやうにはつれて見えむをいふへしとそ申されし。此ひたる澄哥にも是は叶て可v侍。定家卿かくのたまへとも、月の水にうつるをも沈むといへは、顯昭法師の申されたるこゝろ、其ことはり有。そのうへ、此哥ならひに下の水底にしつく白玉といふうた、又第十一に、あふみの海しつく白玉しらすして戀せしよりは今そまされる。これらに皆沈の字を書て、しつくとよみたれは、異義あるへからす
 
1318 底清沈有玉乎欲見千遍曾告之潜爲白水郎《ソコキヨシシツメルタマヲミマクホリチタヒソツケシカツキスルアマ》
 
底清、【別校本云、ソコキヨミ、】  欲見、【官本亦云、ミマホシミ、】
 
發句をソコキヨシと點ぜるは書生の誤なり、別校本に依べし、沈有は今按シヅケルと讀べき歟、
 
初、底清みしつめる玉を 上にわたつみのもたる白玉みまくほりといふ哥、第三句より下詞すこしかはれど大かた同し
 
1319 大海之水底照之石著玉齊而將採風莫吹行年《オホウミノミナソコテラスアハヒタマイハヒテトラムカセナフキコソ》
 
照之は今按今の點字に叶はず、文章の助語によらばさもあるべけれど、此集の例にはあらざる歟、テリシと讀べし、石著は石に著故なり、以前和名を引が如し、風ナ吹コソとは人なさはりその意なり、齊は齋に作るべし、
 
初、石著玉 和名集(ニ)云。本草(ニ)云。鮑一(ノ)名(ハ)。【和名阿波比。】崔禹錫食經云。石決明(ハ)食(ヘハ)v之(ヲ)心目※[目+聰の旁]了(ナリ)。亦附(テ)v石(ニ)生(ス)。故(ニ)以名v之。四聲字苑(ニ)云。蝮(ハ)魚(ノ)名似v※[虫+含(ニ)偏(ニシテ)著v石(ニ)、肉乾(シテ)可v食(ツ)。あはひ玉をとらんとは、ひそかにあはむといふ譬なり。風な吹こそは、こそはねかふ詞にて、風な吹そなり。これはさはる事なからんことをねかふたとへなり
 
(37)1320 水底爾沈白玉誰故心盡而吾不念爾《ミナソコニシツクシラタマタカユヱニコヽロツクシテワカオモハナクニ》
 
仙覺抄云、此歌古點にはみなそこにしづむ白玉たれゆゑに、こゝろつくしてわがおもはなくにと點ぜり、然るを參議濱成卿歌經標式(ニ)引(テ)2此歌(ヲ)1云、美那曾巳弊【一句】旨都倶旨羅他麻【二句】他我由惠爾【三句】巳々侶都倶旨弖【四句】和我母波那倶爾【五句】と云へり、しづくしらたまと云へるは古語と見えたり、しづむをしづくと云へり、同韻相通の義なるべし、此歌第二句以下の詞歌式に依べし、發句のみなぞこへと云へる〔右○〕へ〔右○〕の字は本韻と同聲の故に誦し直せりと見えたり、然れども本韻既にたがゆゑにと云ひ、結句わがもはなくにとかゝれなむうへには嫌ふべきにもあらず、又此集には水底爾とかゝれぬれば誦しかふべきにあらざるにや、抑さきに海底沈白玉風吹而と云へる歌の第二句又今の歌の如くしづくしらたまと云べし、此集は歌の源として古集なれば此に向ひては古語に依べきが故なり、とき世に隨ひて今の人の歌にもかくも詠じ侍るべし、書改むることを遮るべきにも非ず、又第十九にしづく石をも玉とわがみると云家持の歌の注に再たび右の式を引て云はく、如d藤原(ノ)宮内卿奉v贈2新田部親王(ニ)1歌曰(カ)u、美那曾巳弊【云々如v上】、今按光仁紀の童謠《ワサウタ》にも白壁【之豆久也】好壁【之豆久也】云云、此を催馬樂には白玉しづくや眞白玉しづくや(38)と云へり、古今に、水の面にしづく花の色さやかにもと云に付て顯昭今の集第十九の歌並に催馬樂を引て、しづくは沈む義と注せられ、定家卿は異義あれど今此に沈の字をかきて式には旨都倶とかければ、此集にては異義なかるべし、誰故は誰は何の心なれば白玉の外のなに物ゆゑにわが心をつくすにあらずと喩るなり、
 
1321 世間常如是耳加結大王白玉之結絶樂思者《ヨノナカハツネカクノミカムスフキミシラタマノヲノタエラクオモヘハ》
 
白玉之結、【別校本、結作v緒、】  絶樂、【別校本云、タユラク、】
發句はヨノナカノと讀べし、第三家持歌云、世間之常《ヨノナカノツネ》如此耳跡云云、此に准らふべし、結大王とは玉の緒を結の君なり、結の字は第二第十二にも緒と同じく用たり、絶をタエと點ぜるは書生の誤なり、タユと改むべし、堅く約せし事の玉の緒の絶て亂るゝ如くなるは世の中の常の理歟となり、
 
初、むすふ君は玉のをゝ結ふ君なり。白玉之結、此結は緒の字の誤なり。たゆらくを、たえらくとあるは、かんなあやまれり
 
1322 伊勢海之白水郎之島津我鰒玉取而後毛可戀之將繁《イセノウミノアマノシマツカアハヒタマトリテノチモカコヒノシケゝム》
 
鰒玉、【六帖云、アコヤタマ、】
 
島津は昔有けむ伊勢の海人の名にや、神功皇后紀に名草、允恭紀に男狹磯と云海人の(39)名見えたり、鵜を島津鳥と云へば鵜の如く能潜く故の名なるべし、取テ後とは逢て後なり、
 
初、あまのしまつ 此嶋津は、昔有けん伊勢の海人の名にや。日本紀に海人の名も載られたり。鵜をしまつ鳥といふ。よくかつくとて、鵜を名とするなるへし。あはひ玉取て後もかこひのしけゝむとは、逢後増戀なと、後々の哥の題とする心なり
 
1323 海之底奧津白玉縁乎無三常如此耳也戀度味試《ワタノソコオキツシラタマヨシヲナミツネカクノミヤコヒワタリナム》
 
度、【校本或作v渡、】
 
縁ヲナミとは取べき由をなみなり、味試は甞の義にて甞を詞に假てかけるなり、
 
1324 葦根之※[動/心]念而結義之玉緒云者人將解八方《アシノネノネモコロオモヒテムスヒテシタマノヲトイハヽヒトトカムヤモ》
 
給義之、【六帖云、ムスヒコシ、】
 
葦根之とは菅の根のねもごろとつゞけたるに同じ、※[動/心]、懃に改たむべし、結義之を六帖にむすひこしと點ぜるは第三に金明軍が歌に我定義之をアガサダメコシと點ぜるに同じ、彼處を六帖には又わがさだめてしとあれば今の點所好に任すべし、喩ふる意は我懇切に思て契りし中ぞと云をきかばさくる人はあらじとなり、
 
初、あしのねのねもころ 勲は懃の誤なり。義をてとよむ事心得かたし。人とかめやとは、中をさく人あらしといふにたとふる
 
1325 白玉乎手者不纒爾匣耳置有之人曾玉令泳流《シラタマヲテニハマカヌニハコニノミオケリシヒトソタマオホレスル》
 
(40)不纒爾はマカナクニとも讀べし、落句は今按今の點叶はず、泳流の二字は溺の義、令の字を加へたればタマヲオボラス、或はタマオボレシムと讀べき中に初の點然るべし、空おほしと云はそらわすれの意なれば玉をおぼらすは玉を匣の中にのみ入れ置て取出る事もなきまゝに置たる所をさへ忘るゝ意なり、喩ふるやうは人を忍びに契りは置ながら妻ともせぬ程に人に迎へ取られたる意なり、論語曰、有3美2玉於斯(ニ)1、※[韋+媼の旁]v※[櫃の旁](ニ)而藏諸、
 
初、匣にのみおけりし人そ 第四に、草枕たひには妹はゐたれとも匣《クシケ・ハコ》の内の《・ナル》玉とこそおもへ。文選石季倫王明君辞云。昔爲2匣中(ノ)玉1。今(ハ)爲2糞上(ノ)英(ト)1。論語云。有2美玉於斯(ニ)1、※[韋+媼の旁](ミテ)v※[櫃の旁](ニ)而藏(サンカ)諸。たまおほれするは、玉令泳流とかきたれは、此よめるやうかなはぬにや。泳流の二字を、あはせておほるとよまは、玉をおほらすとか、玉おほらしむとかよむへし。流の字は、てにをはなりと見は、玉をおほらするとよむへし。これは手玉にもまかて、箱にのみをくは、いたつらに物を水に入ておほれしむるに似たるを、下には契置なから、あふ事もなく、あらはれて妻ともえさためねは、手にまかぬ玉にたとふるなり。不纏をまかぬとよめるは、かんなあやまれり。まかすとよむへし
 
1326 照左豆我手爾纒古須玉毛欲得其緒者替而吾玉爾將爲《テルサツカテニマキフルスタマモカナソノヲハカヘテワカタマニセム》
 
玉毛欲得、【官本亦云、タマモカモ、】
 
照左豆は照はほむる詞、第十一に玉のごと照たる君とよめるが如し、左豆は薩人の意、仙覺抄によきますらをなり、手ニ纒古ス玉とは思ひすさびたる妻なり、其緒ハ替テ我妻ニセムとは照左豆が捨たらば取て我妻とせむとよめる也、第十六に其緒またぬき我玉にせむとよめる同じ意なり、
 
初、照さつか手に てるは物をほむる詞。さつは薩男なり。手にまきふるす玉とは、手玉のふるくなるをは、ぬきすつるをいふなり。をとこに古されし女を玉によせてよめる哥なり。第十六に、ある人のむすめ、をとこに捨られて後、ある人にむかへられけるを、又ある人のえむとおもひて、女のおやのもとへよみてをくれる哥
 しら玉はをたえしにきと聞しゆへにそのを又ぬきわか玉にせん。返し
 白玉のをたえはまことしかれともそのをぬきかへ人もていにけり。これにていよ/\たとふる心あきらかなり
 
1327 秋風者繼而莫吹海底奥在玉乎手纒左右二《アキカセハツキテナフキソワタノソコオキナルタマヲテニマクマテニ》
 
風の中に秋は殊に風の時なれば秋風ハと云へり、喩ふる意上の如し、
 
(41)寄日本琴
 
1328 伏膝玉之小琴之事無者甚幾許吾將戀也毛《ヒサニフスタマノヲコトノコトナクハイトカクハカリワカコヒムヤモ》
 
伏膝は第五琴娘子が歌にも人の膝の上、我枕せむとよめり、玉ノ小琴は、玉は褒美の詞、琴を愛て事なくばと云へり、或時なれよりて我膝に女のよりふしけるを琴に喩へて其事なかりせばかくは戀じとよめるなるべし、幾許は第四にもカクバカリと點ぜる處に注して云へる如く今もコヽダクハと讀べきか、
 
初、ひさにふす玉のをことのことなくは 第五卷、琴娘子歌云。いかにあらむ日の時にかも聲しらん人のひさのへわかまくらせむ。ひさにふすといふは、第五卷に日本紀等を引ることく、むつましくあひなるゝにたとへたり。琴といふをうけて、事なくはといへり。事は逢ことなり。いとかくはかりは、昔の哥なれは、いとはかならす縁にもいはさりけめと、いとかくとさへつゝきたるは、よき緑の詞なり
 
寄弓
 
1329 陸奥之吾田多良眞弓著絲而引者香人之吾乎事將成《ミチノクノアタタラマユミツルスケテヒケハカヒトノワレヲコトナサム》
 
絲は仙覺抄には絃に作りて傍に絲を書て異と注せり、引者香をヒケバカと點ぜるは誤なり、ヒカバカと讀べし、落句は第十四にあをことなすなとよめるに准じてアヲコトナサムと讀べし、アタヽラ眞弓とは手に入がたかるべき女に喩ふ、著絲而引者香とはさる人をやうやく云ひよりて辛うじて逢時あらむにだに人の物云ひやあらむと(42)わぶる意なり、
 
初、みちのくのあたゝらま弓 あたゝらは、陸奥の所の名なり。第十四にあたゝらの嶺《ネ》とよめり。又同卷に、みちのくのあたゝらまゆみはしきおきてさ《ソ》らしめきなはつら《ル》はが《ゲ》めかもともよめり
《・彈置令反置弦將著》
 
1330 南淵之細川山立檀弓束級人二不所知《ミナフチノホソカハヤマニタツマユミユツカマクマテヒトニシラルナ》
 
南淵山細川山共に大和國高市郡なり、天武紀云、五年夏五月云云、是月勅禁2南淵山細川山1、並莫2蒭薪1、南淵山は八雲御抄云、細川山の並びの上の山なり、或者の云、細川山は多武岑の西につゞけり、細川は水上に瀧ありて末は坂田尼寺に流れ行と云へり、今南淵の細川山とよみたるは南淵は惣名にて寛く、細川山は別にて狹きにや、南淵山と云は惣名の中の別處なるべし、弓束はにぎり〔三字右○〕なり、和名云、釋名云、弓(ノ)末(ヲ)曰v※[弓+肅]《ユミハスト》、中央(ヲ)曰v※[弓+付]、【音撫、和名、由美都加、】延喜式云、造弓一張料、弭《ユハスノ》絲二銖、※[弓+付]鹿革一條、【圓四寸、】文選四子講徳論云、扞弦掌拊、李善注云、鄭玄禮紀注曰、拊、弓把也、李周、翰曰v扞、級をマクマデと和せる意得がたし、ユヅカノシナヲと讀べき歟、第十四にゆづかなべまきとよめるはならべまきなれば並べたるをば級とも云べし、落句の點も亦叶はず、ヒトニシラレジと讀べし、細川山のまゆみを取て弓に作るを女の我に隨ふに喩へ、弓束は手に握り持處なれば逢に喩へ、級をば度々の數にたとへてさる事ありとも人に知られじとよめるなるべし、
 
初、みなふちの細川山に立まゆみ 南淵の細川山は大和國十市郡なり。天武紀云。五年夏四月○是月勅禁2南淵山、細川山(ヲ)1並莫(ラシム)2蒭薪《クサカリキコルコト》1。みなふちはひろくて、その中にわきてみなふち山といふも、細川といふも有て、みなふちの細川山とこゝにはよめるなるへし。まゆみは木の名、殊に弓によき木にて、名を得たるにや。ゆつかまくとは、弓のにきりに卷皮の事なり。文選王子淵四子講徳論(ニ)曰。扞《カン》弦(ノ)掌拊(ノ)《・ユカケニキリ》。和名集云。繹名(ニ)云。弓(ノ)末(ヲ)曰v※[弓+肅]《ユミハスト》中央(ヲ)曰v※[弓+付](ト)【音撫。和名由美都加。】延喜式云。造2弓一張1料。弭《ユハス》絲二銖。※[弓+付]《ユツカノ》鹿革一條【圓四寸。】たとふる心は、はしめはわか物ともなかりし人を、今は手に入てもたれとも、其よしを猶あらはさしとよめる心なり。級の字をまくまてと訓したるは、卷とよみてまてはよみつけたり。此字をまくとよむ事未v考。もしゆつかにしなといふ事あらは、ゆつかのしなをと讀へし。人二不断知とかけるは、人にしられしなるを、人にしらるなとよみたるは非なり
 
寄山
 
(43)1331 磐疊恐山常知管毛吾者戀香同等不有爾《イハタヽミカシコキヤマトシリツヽモワレハコフルカトモナラナクニ》
 
仙覺の意、磐ダヽミ恐キ山とは、貴き人の及びなくて通ひがたきに喩ふ、同等ナラナクニは我身賤しくて等輩ならぬなり、伊勢物語にあふな/\思ひはすべしなぞへなく、たかきいやしきくるしかりけり、同じ意なり、下に奥山の磐に苔生てとよみ、第六にも然よみたる今の上句と同じ、六帖に此歌をになき思ひと云に入れたり、になきは不似にて賤しき身をもて貴き人を戀るを云なり、
 
初、いはたゝみかしこき山と いはたゝみは、いはほのかさなりあかりたる山なり。それはけはしくてのほりかたく、又神靈もやとすれは、おそろしき山といひてわかをよはぬ品の人をこふることの、おほけなきにたとへたり。同等とかけるは、字の心のことし。われとおなししなにもあらぬものをなり。友といふにはすこしかはれり。それも心の似たるかたをいへはかよへり。第六に、奥山の岩にこけむしてかしこみもとひたまふかもおもひたへなくに
 
1332 石金之凝木敷山爾入始而山名何染出不勝鴨《イハカネノココシキヤマニイリソメテヤマナツカシミイテカテヌカモ》
 
此歌も貴人を思ひ懸て及びなき事とは知ながら戀しき心に引かれてえ思ひやまぬ比喩なり、六帖には山の歌に入れて作者を人丸とす、
 
初、いはかねのこゝしき こゝしきはこりしくなり。出かてぬは出るにたへぬなり。これも同等ならぬ人にいひそめて、人のため、身のため、よくもあらしなと思ふ事あれと、えおもひやまぬを、山なつかしみ出かぬるとはたとふるなり
 
1333 佐保山乎於凡爾見之鹿跡今見者山夏香思母風吹莫勤《サホヤマヲオホニミシカトイマミレハヤマナツカシモカセフクナユメ》
 
佐保山乎、【官本、保或作v穗、】
 
よそに見し人に云ひよりて相見ていとゞあかれねを山ナツカシモと喩たり、風吹ナ(44)ユメとは山なつかしと云へるは下の意花紅葉なれば色も心もなうつりそと云へる歟、又風はさわぐ物なれは人言を喩る歟、風の痛く吹て寒ければなつかしき山をも堪て見がたき如く人言のさわぎにはうるはしと思ふ人にも逢がたければなり、
 
初、さほ山をおほに見しかと これは人になるゝまゝに、いとふかくおもひまさるにたとへたり。風ふくなゆめは、さほ山をなつかしむは、花紅葉によりてなれは、おもふ中をさふる人を、風にたとへて、吹なといふは、さふる事をすなといふなり。第三に家持、昔こそよそにもみしかわきもこかおきつきとおもへははしきさほ山。わか大君あめしられんとおもはねはおほにそみけるわつかそま山
 
1334 奥山之於石蘿生恐常思情乎何如裳勢武《オクヤマノイハニコケムシテカシコミトオモフコヽロヲイカニカモセム》
 
此上句腰をかしこみもとて第六に有き、石に苔むす奥山をおそろしと思ふも入る人の心づからなり、入らぬ人はおそろしとも思はず、されば、似なき人を得思ひやまぬ心から詮なくかしこしと思ふ心をいかでやめて安からむとなり、若は腰の句をカシコケレドと和すべき歟、
 
初、おく山のいはに苔むして さきに第六の哥を引かことし
 
1335 思騰痛文爲便無玉手次雲飛山仁吾印結《オモヒアマリイトモスヘナミタマタスキウネヒノヤマニワレシメムスフ》
 
及なき山人をいかにして得てしかなと思ふを畝火山に標刺て領せむとするに寄するなり、此歌を六帖に玉手次の歌として雲飛山仁をくもゐるやまにとあるは意得ぬことなり、玉だすきは畝火の枕詞なれば同じ詞玉手次の歌に取べきに非ず、雲飛は音を轉して用たるにてこそあるを、誤ても字に任せばくもとぶと和し、義訓せばくもゆ(45)くとこそ和せめ、飛をゐる〔二字右○〕とはいかゞ和せむ、返す/\意得がたき事なり、
 
初、玉たすきうねひの山に うねひ山にしめむすふとは、をよひなき人を、いかにしてえてしかなとおもふを、高く大なる山を※[片+旁]璽さして、わか物と領せんとするによするなり
 
寄草
 
1336 冬隱春乃大野乎燒人者燒不足香文吾情熾《フユコモリハルノオホノヲヤクヒトハヤキタラヌカモワカコヽロヤク》
 
冬隱春といへるは、此歌草に寄すれば冬隱したる草の芽の張とつゞける歟、冬木成春とつゞくると同じ意に又野を燒は古草を燒なれば唯冬隱して春になればと云へる意にや、野を燒人の燒たらずして我心をやくとは、思ひにもゆるを云へるなり、此歌思ひにもゆと云へど誠の火にはあらねばやくるやうなるを火に喩へて寄とは云歟、又物を借て云へど喩としもなきもあれば其類歟、
 
初、冬こもり春の 野をやく人の猶やきたらねはや、わか心をさへやくと、おもひにもゆる心をいへり。さま/\におもふ事のしけき心も、野の草のことくなれはなり。遊仙窟。未2曾(テ)飲(トハオモハ)1v炭(ヲ)腹(ノ)熱(イコト)如(シ)v燒(カ)
 
1337 葛城乃高間草野早知而※[手偏+栗]指益乎今悔拭《カツラキノタカマノクサノハヤシリテシメサヽマシヲイマソクヤシキ》
 
葛城とは金剛山を云ひて其半腹に高天山あり、草野は日本紀に草野姫をカヤノヒメと讀たれば今もカヤノとも讀べきにや、萠出る時よりしめさゝずして弱草と成て今はと思ふほどに早人の刈取れる如く、いはけなき時より知れる人の程よく成ぬれば(46)人に得られたるを悔しとはよめるなり、葛木の高間とは此も貴人に喩へたる歟、
 
初、葛城のたかまの草野 はやしりては、速く領してなり。この哥はわか手に入ぬへき人を、人にとられてくゐてよめるなるへし
 
1338 吾屋前爾生土針從心毛不想人之衣爾須良由奈《ワカヤトニオフルツチハリコヽロニモオモハヌヒトノキヌニスラユナ》
 
從心毛、【幽齋本云、ココロユモ、】
 
土針は草の名なり、和名云、本草云、王孫、一名黄孫【和名、沼波利久佐、此間云、豆知波利、】衣ニスラユナはすらるなゝり、此は女の歌にて、吾やどの土針をもてみづから喩へて、土針をもてよき色とも思はず、かりそめめに衣にすらむ人のためにはすらるなと云へるは、言のなぐさに思ふと云人にはなあひそとなり、
 
初、わかやとにおふるつちはり 土針は草の名なり。和名集云。王孫一名黄孫【和名沼波利久佐。此間云豆知波利。】すらゆなは、すらるなゝり。由と留と同韻にて通せり。つちはりは、物をそむる草歟。もしはその花の紋にもすらるゝ物にてかくよめる歟。わかやとにといへる心は、わか手に入たる人にたとふるなり。とかくいひかゝつらふ人有とも、我をおきて、思はぬ人にうつるなといふなり
 
1339 鴨頭草丹服色取摺目伴移變色登※[人偏+稱の旁]之苦沙《ツキクサニコロモイロトリスラメトモウツロフイロトイフカタクルシサ》
 
摺目伴、【校本、摺作v※[手偏+皆]】
 
初、つき草にころも これはあたなる人のたのみかたきにたとふ
 
1340 紫絲乎曾吾※[手偏+義]足檜之山橘乎將貫跡念而《ムラサキノイトヲソワレヨルアシヒキノヤマタチハナヲヌカムトオモヒテ》
 
吾※[手偏+義]、【官本、※[手偏+義]作v搓、】
 
(47)吾※[手偏+義]は官本に依て※[手偏+義]を搓に改めてワガヨルと讀べし、念而もオモヒテのオ〔右○〕を略して讀べし、第十に、片搓に糸をぞわがよるわがせこが、花橘をぬかむともひて、似たる歌なれば例として准ずべし、紫の絲をば深き思ひに喩へ、山橘をば色よき物なれば女に喩へ、つらぬかむと思ふをば逢むと思ふにも妻とせむと思ふにも喩へたるべし、
 
初、紫のいとをそわれよる 深く人におもひかくるなり。※[手偏+義]は(槎の字の誤れるなるへし
 
1341 眞珠村越能菅原吾不苅人之苅卷惜菅原《マタマツクコシノスカハラワレカラテヒトノカラマクヲシキスカハラ》
 
越能菅原、【別校本云、ヲチノスカハラ、】
 
第二の句、六帖も今の點と同じけれど玉をつくる緒とつゞけたれば別校本に依て讀べし、第二の玉垂之越野と云に注せし如く、第四、第十二に眞玉つくをちこちかねてと云へるに准らふべし、さて此かく云は大和國高市郡の越智なるべし、此歌六帖には人つまの歌とす、人ノカラマク惜キと云はいまだ人妻にさだまりたるにはあらぬやうなれば彼方に約したるも同じければなり、
 
初、眞玉つくをちのすかはら 玉をつくる緒とつゝけたり。をちのすかはらは、大和國高市郡に越智岡《ヲチノヲカ》越智野《ヲチノ》有。此越智野にあるにや。第二巻、玉垂之越野とよめる哥の所に委辨せり。第十二に、眞玉つくをちこちかねてともつゝけたり。只をちかた野へなとよめる躰に、名所にあらさる事も有へし。われからて人のからまくおしきとは、たとへの心あらはなり
 
1342 山高夕日隱叔淺茅原後見多米爾標結申尾《ヤマタカミユフヒカクレヌアサチハラノチミムタメニシメユハマシヲ》
 
第二の句拾遺にも六帖にもゆふひがくれのとあれど今の點作者の意撰者のかきや(48)うに叶ふべし、夕日の高山に隱るゝをば殊なる障出來て又見る事を得ぬに喩ふ、淺茅原はやがて此下に君に似る草とよみたれば女に喩ふ、下句の意は知やすし、
 
初、山高み夕日かくれぬあさち原 第二卷にも、夕日なすかくれにしかはなとよめり。淺茅原のおもしろきを、うるはしき人にたとへて、夕日かくれぬとは、たま/\あひみて、あかぬわかれせし後、又もみぬたとへなり。かゝらんとしらは、淺茅原にしめゆふことく、人をもかたく約して、後もあひみまし物をとくゆるなり
 
1343 事痛者左右將爲乎石代之野邊之下草吾之刈而者《コトタクハカニカクセムヲイハシロノノヘノシタクサワレシカリテハ》
 
事痛者、【校本云、コチタクハ、】
 
發句は校本の點を用べし、こといたくは〔六字右○〕の登以を反せばち〔右○〕となる故なり、左右將爲乎はともかくもせむをの意なり、第三に、妹が家に咲たる花の梅の花、實にし成なばかもかくもせむ、此落句左右將爲と書て今も同じければカモカクモセムヲとも讀べし、石代ノ野邊とは名のときはなるを借て心の替らぬに寄たる歟、下草を刈をば忍びに逢に喩ふ、六帖には下草の歌として初の二句をこといたくさたにしもせむとあり、いまだ其意を得ず、
 
初、こちたくは 人を得て後、人の物いひしけきをは、ともかくもせんものを、得ぬほとのくるしきなり。いはしろの野への下草我しかりてはとは、草かるものも、かりたにかりつれは、つかねて家へはこふ事は、いつとなくなることく、得て後の人ごとは、その時にあたりて、ともかくもならん物をとよするなり
 
一云|紅之寫心哉於妹不相將有《クレナヰノウツシコヽロヤイモニアハサラム》
 
古今に鴨頭草のうつし心とよめるを、顯注云、露草の花をば紙に染て又それを移して物をそむればうつし花と云なり、されば人に移る心を露草にそへてよめるなり、(49)又郭公の歌に韓紅のふり出てぞ鳴とよめる注に、紅に振出と云事のあればそへて詠なり、常には紅をおろして衣に染たるをそれをおろして又染るを振出か云とかゝは〔八字左○〕引合て意得べし、さて此ウツシ心とは妹がうつし心ある故にや、紅の色よき如く言のみよくてあはざらむとなり、此一本にては唯紅によせてよめるのみにて喩ふる歌にはあらず、
 
1344 眞鳥住卯名手之神社之管根乎衣爾書付令服兒欲得《マトリスムウナテノモリノスカノネヲキヌニカキツケキセムコモカナ》
 
袖中抄に此歌を出して顯昭云、眞鳥とは鵜を云なり、さて眞鳥住うとやがて其名をつゞけるなり、委は別に注す、うなての神牡は大和國高市郡にあり、和名云、高市郡|雲梯《ウナテ》、延喜式出雲國造神賀詞云、皇御孫命靜坐大倭國申、己命和魂八咫(ノ)鏡取託、倭大物主櫛〓玉命、大御和神奈備坐己命御子阿遲須伎高孫根御魂、葛木神奈備事代主命御魂、宇奈提坐賀夜奈流美命御魂、飛鳥神奈備皇孫命近守神貢置、八百丹杵築宮靜坐、これに依れば卯名手神社は事代主神を齋ひ奉れるなり、右の神賀詞の中に宇奈提坐は前後に准ずるに宇奈提神奈備坐なるべきを乃神奈備の四字を落せるにや、うなての名(50)は日本紀に大溝をウナテとよめり、崇神垂仁の兩代殊に國々に課せて池溝をほらさせ給へば彼處も其ひとつにて名を得たるか、管は菅を誤れり、改むべし、菅根を衣に書付とは紋の事なるべし、うなての神社と云へるは、第十二にも、思はぬを思ふと云はゞ眞鳥住、うなての杜の神しゝるらむとよみたれば今も僞なき意をあらはせとなるべし、菅の根は上に菅の根のねもごろとあまたつゞけて讀たれば、懇に思ふ由にうなての神社の菅の根を書付よとか、長き物なれば長く相思ふことを表せよと云か、菅の根のしのび/\にとも讀たればしのびに思ふ由を菅の根に寄よと云か、袖中抄に衣をきぬと書てね〔右○〕とぬ〔右○〕と通ずる故にきね〔二字右○〕はきぬ〔二字右○〕なる由かゝれたるは假名に書あやまれる本を見てかゝれけるにや、
 
初、眞鳥住うなての森 管見抄云。まとりは鵜の名なり。うなては美作の國に有森の名なり。まとりはうなれは、うなてとつゝくといへとも、住といふ字に心得かたし。鵜は海に住ものなれは、まとり住海といひかけたるものなり。今案まとり住海と料簡したる面白し。又ひとつの愚意を述は、鵜ならすとも、木をまきといふことく、よろつの鳥を眞鳥といふへし。もりに
 
は諸鳥來てあつまるものなれは、かくもつゝくる歟。うなての杜、美作なるよし、八雲御抄に載させたまへと、延喜式、和名集等にも見えす。和名集に、高市郡に雲梯あり。これにや。此哥の前後のつゝき美作にはあるましくみゆ。日本紀に、石上(ノ)溝《ウナテ》なと有て、溝をうなてといふ。それに得たる名にや。菅の根をきぬかきつけきせむこもかなとは、兒は女をいへり。衣をそめぬふは、女のわさなれは、かくいへり。菅の根は、此集に、菅のねのねもころ/\とおほくつゝけよめれは、我をねんころにおもはんこらもかなといふ心にたとへたる歟。神社とかきてもりとよめるは、木のしけき所には、神のまし/\て、まもりたまへは、守といふ心にて杜の名もおひたる歟。また杜は木ふかき所にある物なれはかくかける歟
 
1345 常不人國山乃秋津野乃垣津幡鴛夢見鴨《ツネナラヌヒトクニヤマノアキツノヽカキツハタヲシユメニミルカモ》
 
常不は此集の習なれば此まゝにても有べけれど、若は不の下に在の字有の字などの落たるにや、秋津野ノカキツバタとは彼野の澤に咲かきつばたなり、かきつばた、此集には唯字を借てのみかけり、和名云、蘇敬本草注云、劇草、一名馬藺、【和名、加木豆波太、】俗に杜若を用れど是は別の芳草の名なり、し〔右○〕は助語なり、第十第十一にかきつばたにほへる妹、に(51)ほへる君とつゞけて色のうるはしき花なれば、今も人に喩へて見し事の忘がたければ夢に見ゆとなり、六帖には、かきつばたの歌に、夢に見えつつと改て入れたり、
 
初、常ならぬ人くに山 人は無常なるものなれは、常ならぬ人といひかけたり。秋津野とつゝけたれは、大和にまかふ事なし。八雲御抄には、紀の國と注したまへり。上にもみれとあかぬ人くに山とよめり。秋つのゝかきつはたとは、秋津野に澤ありて、それにおふるかきつはたなり。かきつはたを、夢にみるとよめる喩の心は、かきつはたは、紫にて、うるはしけれは、色ある人にたとへ、夢はその人をうつゝともおほえぬはかり、ほのかに見るによするなり
 
1346 姫押生澤邊之眞田葛原何時鴨絡而我衣將服《オミナヘシオフルサハヘノマクスハライツカモクリテワカキヌニセム》
 
我衣將服、【六帖云、ワカキヌニキム、別校本同v此、】
 
落句の今の點誤れり、六帖によるべし、姫押生澤邊と云事は姫押を女によせ、葛をくるを我方によるに喩へ、衣にきるを妻とするに喩ふ、姫押とかけるは俗語におしつくると云ことをへしつくと申侍る意なり、眞田葛原とかけるは第十第十二にもくずを田葛とかけり、
 
初、をみなへしおふるさはへの 第四中臣女郎か哥に、をみなへし咲澤におふる花かつみといふ哥に委注せり。まくす原いつかもくりてわかきぬにきんは、上のたちのしりさやにいる野とつゝきたる寄に注せり。わかきぬにせんとあるは、かなのあやまれるなり
 
1347 於君似草登見從我※[手偏+栗]之野山之淺茅人寞苅根《キミニニルクサトミルヨリワカシメシヤマノアサチヒトナカリソネ》
 
見從、【六帖云、ミシヨリ、】
 
淺茅を女に喩ふるは、詩衛風云(ク)、手(ハ)如(シ)2柔(ナル)※[草がんむり/夷]《チノ》1、此は女の手の※[糸+柔]にしてほそやかにうるはしきを茅※[草がんむり/幸]に愉ふ、※[草がんむり/夷]指と云も此に出たり、鄭風云、出(レハ)2其〓闍《イントヲ》1、有v女如v荼《トノ》、注(ニ)云、芽(ハ)茅※[草がんむり/幸](ナリ)、此は女のうるはしきが多かるを野に茅花のなびきたるに喩ふ、此國に喩るは淺茅の細やか(52)なるが色づつきたるをたをやぎたる女の色よきに喩ふるなり、此歌内典に准じて云はゞ法説譬説交絡すと云べし、初に君ニ似ル草とは法説なり、ことわりを云ひあらはせばなり、人ナカリソネとは淺茅原に標結如く我妻とせむと心のしめを結置つれば、其淺茅を押て刈取やうに人なさまたげそと云なれば譬説なり、淺茅の生ひ出る時を童女に喩へ、童女の時より今の君が容儀あらむと見置しを、君に似る草と云へるなれば、法譬交絡するには准らふと云なり、法譬雜亂の過は内典にも許さず、今は雜亂には非ず、能々心を著ずば意得がたかるべき歌なり、野山と云へるは野と山とにはあらで野中の山なるべし、此歌六帖には雜思の中のしめの歌に家持とて載たり、如何、
 
初、君にゝる草とみるより 第十九云。妹にゝる草と見しよりわかしめし野への山ふき誰かたをりし。淺茅を人にたとふるには、和漢の心かはりめあるへし。詩(ノ)衛風(ニ)云。手(ハ)如2柔(ナル)※[草がんむり/夷](ノ)1。鄭風云。出(レハ)2其(ノ)※[門/湮の旁]闍《イントヲ》1有v女如v荼《トノ》。注云。荼(ハ)茅華(ナリ)。詩にかくたとふるは、つはなの白くうるはしきを女にたとふるなり。今たとふるは、秋になりて露霜にあひ色つけるか、紅顔に似るをいふなり
 
1348 三島江之玉江之薦乎從標之巳我跡曾念雖未苅《ミシマエノタマエノコモヲシメシヨリオノカトソオモフイマタカラネト》
 
拾遺、人丸家集、並に六帖に皆薦をあし〔二字右○〕とす、
 
1349 如是爲而也尚哉將老三雪零大荒木野之小竹爾不有九二《カクシテヤナホヤオヒナムミユキフルオホアラキノヽササヽアラナクニ》
 
小竹爾不有九二、【別校本云、サヽナラナクニ、】
 
小竹の下の爾の字、上を承て重點をもて點じたるは筆者の誤なり、サヽニと讀べし大(53)荒木野は第三に大荒城の時にはあらねどと云歌に注せし如く大和國宇智郡荒木神社ある處を大荒木とも云へば、野と云も彼處なるべし、古今集に大荒木の杜の下草老ぬれば、駒もすさめぬ刈人もなしとよめる如く、此歌も男に古されたる女の我身を雪降比の小竹によせてよめるなるべし、曾丹が集に、大荒木の小篠が原とよめるも此歌に依れるにや、
 
初、かくしてや猶やおいなん 大あらき野は、大和國宇智郡荒木神社ある所なるへし。みゆきふるとは、雪のふる比は、さゝもおいてかしくかゆへにいへり。これはをとこのいひたえたる女のよめるなるへし。第十一に、かくしてや猶やなりなん大あらきのうきたのもりのしめならなくに。古今集に、大あらきの杜の下草老ぬれは駒もすさめす刈人もなし。曾丹か集にも、大あらきのをさゝか原とよめり
 
1350 淡海之哉八橋乃小竹乎不造矢而信有得哉戀敷鬼乎《アフミノヤヤハセノシノヲヤニハカテマコトアリトヤコヒコヒシキモノヲ》
 
八橋、【別校本云、ヤハシノ、】  不造矢而、【官本亦云、ヤハカステ、】  信有得哉、【官本云、マコトアリエムヤ、】
 
腰の句、今の點は木造矢のみ字を和して而の字を捨たれば叶はず、官本又點の如く讀べきか.或はヤニハガズテとも讀べし、四の句も官本の如く讀べし、第十五中臣宅守が歌に、於毛波受母麻許等安里衣牟也云云、八橋と書たれど意は矢橋にて、矢橋の小竹ならば名に負矢にはがむと思ふを、はがずしてはまことにさて有得むやとは.逢て事成を小竹に羽をつけ鏃をすげて矢となすに喩へて、あはではえあらじとなり、
 
初、やはせのしのをやにはかて 矢橋のしのならは、矢につくるへきを、さもせねは、まこと有にはなしとなり。かくいへる心は、ことよき人の、たのむはかりにいひつゝけて、さもなけれは、しのはあれとも、矢にははかて、矢橋の名をのみ聞かことし。我は眞實に懸しきものをといふなり
 
1351 月草爾衣者將揩朝露爾所沾而後者徙去友《ツキクサニコロモハスラムアサツユニヌレテノノチハウツロヒヌトモ》
 
古今、拾遺、六帖、皆今の點と同じ、人丸集には腰の句朝霧にと云へり、今按第四をばヌレ(54)テノチニハとも讀べし、書やうはかくやと心ひかれ侍り、月草ニ衣ハスラムとは、あはむと云に喩ふ、朝露にぬれて後うつろふをば別來る朝よりやがて人の心の替るともと云によせたるべし、古今には誤て此歌を入れたり、
 
初、月草に衣はすらん 人の心のうつりやすきを、月草にたとへて、その月草の朝露にぬれて後はうつろへと、まつは衣に摺ことく、人の心の後はうつるとも、まつあひみんといふにたとへたり。朝露にぬれての後といふは、すこしさはることあれは、やかて心のかはるによせたり。此哥古今集秋上に載たるは、萬葉集にいらぬふるき哥を奉るといへとも、かんかへもらして入たるなるへし
 
1352 吾情湯谷絶谷浮蓴邊毛奥毛依勝益士《ワカコヽロユタニタユタニウキヌナハヘニモオキニモヨリカタマシヲ》
 
ユタニタユタニは、古今集に、大舟のゆたのたゆたに物思ふ比ぞとよめるに同じ、第二に、猶豫不定をタユタフとよめる意なり、奥は池のもなかなり、依勝益士はヨリカテマシヲと讀べし、?と禰と同韻にて通ずればかて〔二字右○〕はかぬ〔二字右○〕なり、カタとあるは誤なり、逢がたき人を思ひやまずば蓴の浮て波にゆられたゆたひて池のもなかにも出ずみぎはにもよらぬ如くなかぞらにて物をのみ思ふべきをとなす
 
初、わか心ゆたにたゆたに ゆたにたゆたには、古今集に、大舟のゆたのたゆたにといへるにおなし。猶豫不定とかきて、たゆたふとよめる心にて、つくかたなきをいへり。へにもおきにもは、池にもおきとよむ證なり。よりかてましをは、よりかねましをなり。てとねと同韻にて通すれは、かてはかねなり。士ををとよむは、雄の心なり
 
寄稻
 
1353 石上振之早田乎雖不秀繩谷延與守乍將居《イソノカミフルノワサタヲヒテストモシメタニハヘヨモリツヽヲラム》
 
早田乎、【校本、乎作v者、】  繩、【別校本云、ナハ、】
 
秀ぬ田をば童女に譬へたり、
 
初、いそのかみふるのわさ田を 第十に、あしひきの山田つくる子ひてすともしめたにはへよもると知かね。ひてすともとは、またいはけなき人に、おもひかけていへるたとへなり
 
(55)寄木
 
1354 白菅之眞野乃榛原心從毛不念君之衣爾摺《シラスケノマノヽハキハラコヽロニモオモハヌキミカコロモニソスル》
 
心從毛、【別校本云、ココロニモ、】
 
上に土針によせたる歌は衣にすらるなと云ひ、今は衣にぞするとよめるは、いさむると悔ると殊なれど大意は同じ、深くも思はぬ男に逢て後女のよめるなるべし、六條本に君を吾に作て點もワレとあるは然るべからぬにや、
 
初、白管のまのゝ 白菅の眞野、以前注せることく、津の國なり。おもはぬ君か衣にするとは、上につちはりとよめる哥に注しき
 
1355 眞木柱作蘇麻人伊左佐目丹借廬之爲跡造計米八方《マキハシラツクルソマヒトイサヽメニカリホノタメトツクリケメヤモ》
 
眞木柱は檜などを以て作るなり、イサヽメはかりなめの意なり、古今集にも、いさゝめに時待間にぞ日はへぬるとよめり、杣人の良材を柱に造るは宮殿の爲にして、借廬など作る爲にはせぬ如く、我が人を思ひそめし心もかりそめにはあらず、宮殿の柱の幾久しくある如くとこそ思ひこめつれとなり、
 
初、ま木柱つくるそま人 いさゝめはいさゝかなり。かりそめにといふも心は通せり。いさゝめにおもひし物をたこのうらにさけるふち浪ひとよねぬへしと人のおほえたる哥も、此集第廿の哥にて、いさゝかにおもひてこしをたこの浦にさける藤みてひとよへぬへしとあれは、いさゝかとおなし詞なるへし。古今集にも、いさゝめに時まつまにそ日はへぬるこゝろはせをはみゆる物から。そま人のつくれるま木柱は、宮木のためにして、いさゝかにかりほなとの柱にとは、おもひあてゝつくらぬことく、わかおもひそめていひ出ることも、ことのなくさにはあらす。末遠く、偕老の契をとけんとこそいひ出れといふ心なり
 
1356 向峯爾立有桃樹成哉等人曾耳言爲汝情勤《ムカツヲニタテルモヽノキナリヌヤトヒトソサヽメキシナカコヽロユメ》
 
初二句は、男と女とは對する物なれば女を向峯の桃に喩ふ成哉等とは實のなるによ(56)せて事のなるを云、耳言はさゝやくなり、長恨歌に私語と云へるも同じ、汝情勤とは人はさゝめきあふとも汝が心つゝしみて動く事なかれとなり、
 
初、むかつをに むかひの山のをなり。人そさゝめきしはさゝやくなり。耳語なり。さゝめこともおなし心なり。長恨歌云。七月七日長生殿、夜半無(シテ)v人|私語《サヽメコトセシ》時。もゝの實のなるによせて、わか中のなりぬやと人々のさゝやきていひあふなり。なか心ゆめは、なんちがこゝろつとめて、しのひて、人にしらすなといふ心なり
 
1357 足乳根乃母之其業桑尚願者衣爾著常云物乎《タラチネノハヽノソノナルクハモナホネカヘハキヌニキルトイフモノヲ》
 
母之其業桑尚、【別校本云、ハヽノソノナルクハスラモ、六帖云、オヤノ、】
 
其業とは其産業と云なり、園在と云に借てかけるにはあらず、願者衣爾著とは桑を以て蠶にかへば本なるに付て云へり、娘は母のおふしたつる物なれば桑によせて、戀々たらば逢時あらむと喩ふるなり、
 
初、たらちねのはゝの 其業桑尚、これを園爾在《ソノナル》くはもなをといふ心によみたれと、あまりにやと思ふ上に、衣にきるといふ事かなはす。そのわさのくはこすらとよむへし。桑の下に子の字の落たるなるへし。寄v木といふにかなはすといふへけれと、此集の題は、後々題をすへてよむにはかはりて、大やうなること、集中を案すへし。かふこの桑をはみてそたては、桑子といふにて、寄木といふ心有。蚕をかふは、女のわさなり。むすめを人なすも、はゝのわさなれは、はゝのしわさにかふこも、あはれわか衣にきはやとねかへは、衣にきることく、人の子にもいかてと心をかけてこふれは、あふものをとたとへたり。女を蚕にたとふる事おほし。たらちねのおやのかふこのまゆこもりいふせくも有かいもにあはすて。此類なり。捜神記曰。大古之時有2大人1遠(ク)征(ク)。家(ニ)無2餘人1。唯有2一男一女壯馬一疋1。女親(カラ)養(フ)v之(ヲ)。窮2居(シテ)幽虞(ニ)1思2念其父(ヲ)1乃戯處v馬(ニ)曰(ク)。爾(チ)能爲(ニ)v我(カ)迎(ヘ)2得(テ)父(ヲ)1還(ラハ)、吾將(ニ)v嫁v汝(ニ)。既承(テ)2此言(ヲ)1馬乃絶v※[革+疆の旁]《ムナカキテ》而去(ル)。徑(チニ)至2父(ノ)所(ニ)1。父見(テ)v馬(ヲ)驚(キ)喜(テ)因(テ)取(テ)而乘(ル)v之(ニ)。馬望(テ)v所(ヲ)2自來(ル)1悲鳴(シテ)不v息(マ)。父(ノ)曰。此馬無事(ナルコト)如v此(ノ)。我(カ)家得(ンヤ)v無(コトヲ)v有v(コト)故乎。乃|亟《スミヤカニ》乘(テ)以歸。爲(ニ)3畜生有(ルカ)2非常之情1故(ラニ)厚(ク)加2芻養(ヲ)1。馬不2肯(テ)食(ハ)1毎v見2女(ノ)出入(ヲ)1輒喜怒(シテ)奮(フ)v繋(ヲ)。如(スルコト)v此非v一(ニ)。父怪(テ)v之(ヲ)密(ニ)以問v女(ニ)。々具(ニ)以告v父(ニ)、必如v是故(ナラム)也。父曰勿(レ)v言(コト)恐(ハ)辱(カシメン)2家門(ヲ)1。且(ツ)莫2出入(スルコト)1。於v是伏v弩(ヲ)射(テ)而殺(シテ)v之(ヲ)曝(ス)2皮於庭(ニ)1。父行(ク)。女與2隣女1於2皮(ノ)所(ニ)1戯(ル)。以v足蹙(テ)v之曰。汝(ハ)是畜生(ニ)而欲(スルヤ)2取(テ)v人(ヲ)爲(ント)1v婦(ト)耶。招(テ)2此(ノ)屠剥(ヲ)1如何(ソ)自《ミ ラ》苦(メル)。言未(タ)v及v竟(ルニ)馬皮※[手偏+厥]然(トシテ)而起(テ)卷(テ)v女(ヲ)以行(ク)。隣女忙|怕《ハ シテ》不2敢(テ)救1v之(ヲ)。走(テ)告2其父(ニ)1。々還(テ)求索(スルニ)已(ニ)出(テヽ)失(ス)v之(ヲ)。後經(テ)2數日(ヲ)1得(タリ)2於大樹(ノ)枝間(ニ)、女及(ヒ)馬皮(ヲ)1。盡(/\ク)化(シテ)爲v蠶(ト)、而績2於樹上(ニ)1。其繭綸理厚(ク)大(ニシテ)異2於常(ノ)蠶(ニ)1。隣婦取而養(フ)v之(ヲ)。其(ノ)校數倍(ス)。因(テ)名2其樹(ヲ)1曰v桑(ト)。々者喪也。由v斯(ニ)百姓競(テ)種(フ)v之(ヲ)。今(ノ)所v養是(ナリ)也。言2桑蠶(ト)1者是古蠶之餘類也。案(スルニ)2天官(ヲ)1辰(ヲ)爲2馬星(ト)1。蠶書曰、月當(レハ)2大火(ニ)1則浴2其種(ヲ)1。是(レ)蠶(ト)與v馬同(スル)v氣(ヲ)也。周禮教人(ノ)職掌(ニ)禁2原蠶(ヲ)1者、注(ニ)云、物莫(シ)2能兩(ナカラ)大(ナルコトリ1。禁2原蠶(ヲ)1者爲2其傷1v馬(ヲ)也。漢禮(ニ)皇后親採v桑(ヲ)祀2蠶神(ヲ)1曰2苑※[穴/(瓜+瓜)]婦人寓氏公主(ト)1。公主(ト)者女之尊稱(ナリ)也。苑※[穴/(瓜+瓜)]婦人(ハ)先(ツテ)蠶(ナル)者也。故(ニ)今(ノ)世或(ハ)謂(テ)v蠶(ヲ)爲(ルハ)2女兒(ト)1者是(レ)古之遺言(ナリ)也。今もこかひする所には、ひめと申よし承るは、をのつからかよへるなるへし
 
1358 波之吉也思吾家乃毛挑本繁花耳開而不成在目八方《ハシキヤシワカイヘノケモヽモトシケクハナノミサキテナラサラメヤモ》
 
吾家、【別校本云、ワキヘ、】  本繁、【六帖云、モトシケミ、】
 
發句は桃をほむる詞、下の心は女を云へり、吾家は別校本の點に依べし、毛桃とは桃の實には毛の生れば云へり、本繁は本とは木なり、必らずしも本末の本に限て云にはあらず、集中此意を得て見るべし、言のみよりたのめてあはざらむやの喩なり、
 
初、わか家のけもゝ 桃の實には、毛の有ゆへに、毛桃と此集におほくよめり。花のみさきてならさらめやもとは、約する言のみ有て、實のなからんやとたとふるなり
 
萬葉集代匠記卷之七中
 
(1)萬葉集代匠記卷之七下
 
1359 向岡之若楓木下枝取花待伊間爾嘆鶴鴨《ムカツヲノワカカツラキノシツエトリハナマツイマニサケキツルカモ》
 
若楓木はワカヽツラノキとも讀べし、下枝取花待間とは、童女にちぎりて盛を待に喩へたり、
 
初、むかつをの若かつらの木 和名集に、楓はをかつら、桂はめかつらなり。今は只何となく、かつらのわか木によせたり。花待いまは花待間なり。いは例の發語の詞なり。まだ片なりなる人の子にちきりをきて、時を待にたとへたる哥なり
 
寄花
 
1360 氣緒爾念有吾乎山治左能花爾香君之移奴良武《イキノヲニオモヘルワレヲヤマチサノハナニカキミカウツロヒヌラム》
 
氣緒に思ふとは命に懸て思ふなり、山チサは、今もちさのきと云物なり、和名集云、本草云、賣子木、【和名、賀波知佐乃木、】此も此木の事にや、花ニカとは花のやうにかの意なり、六帖には山ちさの歌として尾句をうつろひにけむと改ためたり、
 
初、いきのをにおもへる我を 山ちさは常にちさの木といふ物なり。第十一にも、山ちさの白露をもみとよみ、第十八長哥にも、ちさの花さけるさかりになとよめり。和名集云。本草云。賣子木【和名賀波知佐乃木。】たゝちさの木ともいへは、かはちさの木とあるも、山ちさのことにや。哥の心は、われは命にかけておもふを、君は山ちさの花のうつろふやうに、心のかはるがうらめしきとなり
 
1361 墨吉之淺澤小野之垣津幡衣爾摺著將衣日不知毛《スミノエノアササハヲノヽカキツハタキヌニスリツケキムヒシラスモ》
 
垣津幡も衣ニ摺も喩ふる意上の如し、
 
初、すみのえの浅澤小野の かきつはたは上にもいふことく、紫にうるはしう咲は、それによそへて、衣にすりつけてきるをは、事のなるにたとふるなり、第十七に、かきつはたきぬにすりつけますらをのきそひかりする月はきにけり。上の三十三葉には、うなての杜の管の根をきぬにかきつけきせんこもかなとよめり
 
(2)1362 秋去者影毛將爲跡吾蒔之韓藍之花乎誰採家牟《アキサラハカケニモセムトワカマキシカラアヰノハナヲタレカツミケム》
 
童女のおかしげなるを見置て、我妻とせむと心のしめを結たる程に、人の妻に定まれる時よめるなるべし、
 
初、秋さらはかけにもせんと からあゐは、第三の三十八葉、赤人の哥に、第十一の四十一葉の哥の注を引て尺せしことく、※[奚+隹]頭花なるへし。第十一に、※[奚+隹]冠草花とかけり。※[奚+隹]頭花にいろ/\おほしといへとも、花のかたちのみならす、色もあかくして、.※[奚+隹]冠《トリサカ》に似たるを本としての名なるへし。紅花をくれなゐといふは、くれのあゐといふことにて、呉藍《クレノアヰ》なり。もと呉の國より出て物をよくそむる事、藍に似たれは、色は異なれと、心を得て名付たり。からあゐといふも、こゝに韓藍とかけるはからくにより出れはなり。此花にて物をそむる事はいまたきかねと、紙なとにしみつけは、昔は紅花のやうに染ける事も有ての名にや。此哥にたとふる心も、後は妻にもせんと見置たるうなゐを、はやく人に領せられて、くゐてよめるなるへし
 
1363 春日野爾咲有芽子者斤枝者未含有言勿絶行年《カスカノニサキタルハキハカタエタハイマタフヽメリコトナタエコソ》
 
此もまた片なりなる人に云意なり、斤は片に改作るべし、
 
初、かた枝はいまたふゝめり ふゝむはふくむにて、花のつほめるをいふ。萩は秋草の中にぬき出たる物にて、その片枝のまたさかぬといふは、うるはしきうなゐに、行末をちきる心なり
 
1364 欲見戀管待之秋芽子者花耳開而不成可毛將有《ミマクホリコヒツヽマチシアキハキハハナノミサキテナラスカモアラム》
 
此はかたなりより思ひ懸しがおとなになれる時に、喩へて云ひつかはせる歌と見えたり、
 
1365 吾妹子之屋前之秋芽子自花者實成而許曾戀益家禮《ワキモコカヤトノアキハキハナヨリハミニナリテコソコヒマサリケレ》
 
下の句は色衰る比に物の情を知を云歟或は子など出來て後に喩へたるか、
 
初、わきもこかやとの秋はき花よりは實になりてこそ これは萩の實を賞して、たとふるにはあらす。第十にも、わかやとにさける秋はき散過て實になるまてに君にあはぬかもとよみて、實ある物なれは、花やかにいひわたりたるよりは、あひみて眞實をみるかまされりといふ心にたとふるなり。王建か宮詞に、樹頭樹底(ニ)覓(ム)2残紅(ヲ)1。一片(ハ)西(ニ)飛(ヒ)一片東。自是桃花貪(ホル)v結(コトヲ)v子《ミヲ》。錯教3v人(ヲ)恨2五更(ノ)風(ヲ)1。天隱(ノ)註に、結(トハ)v子(ヲ)有(テ)v寵有(ルヲ)v成(スコト)也。才子傳(ノ)杜牧(カ)傳(ニ)云。太和(ノ)末往(テ)2湖州(ニ)1目2成(スルニ)一女子(ヲ)1方(ニ)十餘歳。約(スルニ)以(ス)2十年(ノ)後吾來(テ)典《ツカサトテ》v郡(ヲ)當(ニ)1v納《イル》v之(ヲ)。結(ニ)以(ス)2金幣(ヲ)1。※[さんずい+自]《ヲヨテ》2周※[土+穉の旁](カ)入(テ)相(タルニ)1上※[片+錢の旁](シテ)乞(フ)v守(タランコトヲ)2湖州(ニ)1比(ラヒ)v至(ル)已(ニ)十四年。前(ノ)女子從(テ)v人(ニ)兩雛(アリ)矣。賦(シテ)v詩(ヲ)云。自《ミ》恨(ム)尋(テ)v芳(ヲ)去(コト)較《ヤヽ》遲(キコトヲ)、不v須《モチヰ》惆悵(シテ)怨(ムコトヲ)2芳時(ヲ)1、如今風|※[手偏+罷]《ウチハラツテ》花狼籍、緑葉成(シテ)v陰(ヲ)子滿(ツ)v枝。これら實になるとたとふるに、さま/\の心あり
 
寄鳥
 
1366 明日香川七瀬之不行爾住鳥毛意有社波不立目《アスカカハナヽセノヨトニスムトリモコヽロアレハコソナミタヽサラメ》
 
(3)意有社は古語に任て コヽロアレコソとよみて、こゝろあればこそと意得べし、落句は六帖に人知れぬと云に入れたるも今の點と同じけれど、ナミタテザラメと讀べきか、意は鳥の浪を立る羽音を聞てそこもとに※[横目/絹]《ワナ》をさし網を張などして捕れば、人に知られじとて浪を立ずに下に通ふを、人に知られじとするを喩へたり、
 
初、あすか川なゝせのよと 第五には、松浦川なゝせのよとゝよめり。ひろき川の瀬のおほかるをは、いつくにもいふへし。鈴鹿川にはやそせとさへよめり。此哥のたとへの心は、七瀬によとむ水は、水鳥の心にはかなふましけれと、さりとて、いつくにうつりすむへきにもあらすと思ふ心あれはこそ波をたてゝ打さはきても立さらすはすむらめ。なゝ瀬のよとの、よとみかちなるやうに、さはる事のみありて、あふことなき中も、さりとておもひすてゝ誰にかはうつらむとなり。よとは水のぬるき所なれは、義をもて不行とかけり
 
寄獣
 
1367 三國山木末爾住歴武佐左妣乃此待島如吾俟將痩《ミクニヤマコスヱニスマフムサヽヒノトリマツカコトワカマチヤセシ》
 
三國山は八雲御抄に攝津國と注せさせたまへり、續日本紀云、延暦四年正月丁酉朔庚戌遣v使掘2攝津國神下梓江鰺生野1通2于三國川1、此三國川は三國山より流れ出る歟、繼體紀云、遣v使聘2于三國坂中井1、【中此云v那、】延喜式第十云、越前國坂井郡三國神社、右兩處同名なれど近きに付てよむべければ津國なるべし、木末はコヌレとも讀べし、此の字は衍文なり、待鳥如はトリヲマツゴトとも讀べし、將痩をヤセシと點せるは誤なり、幽齋本に依べし、※[鼠+吾]は鳥の近づくを待懸て取物なれば鳥を捕食ふ事のまれなる故に詩文にも饑※[鼠+吾]と作れば痩る理なり、我も其如く人を待思ひに鯉痩む物なりとよめるなり、
 
初、三國山木末にすまふ 此三國山を、八雲御抄には、津の國と注せさせたまへり。績日本紀云。延暦四年正月丁酉朔庚戌(ノヒ)、遣(シテ)v使(ヲ)掘(テ)2攝國(ノ)神下梓江|鯵生野《アチフノヲ》1通(ス)2于|三國《ミクニ》川(ニ)1。此三園川、津の國にて、いつれの郡に有とはしらねと、鯵生野は、味原宮《アチフノミヤ》、味經原《アチフノハラ》とよめる所にて、東生《ヒムカシナリノ》郡なるへし。しかれは北にあたりては、多田の山勝尾山のつゝきならては山なけれは、東生郡より、山あるまてには、淀川の末をはしめて、東西になかるゝ川ともあれは、三國川は北の山に三國といふ山ありてその麓になかるゝ川にはあるへからす。もとよりみくにときこゆる山の名もなし。三國川あるによりて、三國山をも津國ならんと思しめしけるにや。たゝし丹波へちかき所に三國といふ村有ときく。山里ときけはそこの山にや。今案、これは越前國なるへき歟。延喜式第十神名下云。越前國坂(ノ)井郡三國(ノ)神社。日本紀第十七、繼體天皇紀(ニ)云。男大迹《ヲホトノ》天皇(ハ)【更《マタノ》名(ハ)彦|太《フトノ》尊】誉田《ホムタノ》天皇(ノ)五|世孫《ツキノミマコ》、彦|主人《アルシヌシノ》王(ノ)子《ミコ》也。母《イロハヲハ》曰2振《フル》媛(ト)1。々々(ハ)活目《イクメノ》天皇(ノ)七|世《ツキノ》孫《ミ》也。天皇|父《カソノミコト・カソ》聞(テ)2振媛(カ)顔容《カホ・カタチ》※[女+朱]妙《キラ/\シテ》甚有(コトヲ)2※[女+微]色《イロ》1自2近江國(ノ)高嶋(ノ)郡三尾(ノ)之|別業《ナリトコロ・タリホ》1遣(シテ)v使(ヲ)聘《ヨハヒテ》2于三國(ノ)坂中井(ニ)1【中此(ヲ)云v那】納《メシイレテ》以|爲《シタマフ》v妃《ミメト》。遂(ニ)産2天皇(ヲ)。天皇|幼年《ミトシワカクシテ》父|王《オホキミ》薨《ウセマシヌ・カムサリタマフ》。振媛廼歎(テ)曰。妾《ヤツコ》今(マ)遠(ク)離(レテ)2桑梓《モトノクニヲ、モツツクニヲ・モトヤクニヲ》1安(ソ)能得(ム)2膝養《ヒタシマツルコトヲ》1。余|歸2寧《オヤトフヲヒカテラニ》高向《タカムクニ》1【高向者越(ノ)前《ミチ》國(ノ)邑(ノ)名】奉v養《ヒタシタテマツラム》2天皇(ヲ)1。又下(ニ)云。持《モチテ》v節《シルシヲ》以備(ヘテ)2法駕《ミコシヲ》1奉(ル)v迎(ヘ)2三國(ニ)1。和名集云。越前國坂(ノ)井郡高向【多加無古。】日本紀によれは、三國の内に坂中井、高向といふ所もあるなり。延喜式、和名集によれは、坂井郡に三國、高向あり。しかれは、坂井郡はもとみな三國なり。此所にみくに山あるへし。むさゝひは、第三第六に注せり。五技あれとも、みな身をたすくるにたらねは、常にうえてあるゆへに、文選※[言+身+矢]玄暉(カ)敬亭山(ノ)詩(ニ)云。獨鶴方(ニ)朝(ニ)唳、饑※[鼠+吾]此(ノ)夜啼。鳥のちかつくを待かけて取物なれは、鳥を取くらふことのともしけれは、うゆるゆへに、痩ることはりなり。我もそのことく、人を待思ひに、戀痩むものなりと讀るなり。此の字はあまれり
 
(4)寄雲
 
1368 石倉之小野從秋津爾發渡雲西裳在哉時乎思將待《イハクラノヲノヨリアキツニタチワタルクモニシモアレヤトキヲシマタム》
 
從はユ〔右○〕とも讀べし、雲ニシ、時ヲシ、二つのし〔右○〕は助語なり、雲にもあれやは雲にても有たらばやなり、願ふ詞にはあらで、石倉の小野より秋津小野まで立渡る雲の如き身ならば通ひ路遠き中にも逢時をまたむを、さらぬ身なれば逢時を待かねる意なり、新後拾遺集に、石藏の小野の秋津とつゞけてよまれたる歌あり、おぼつかなし、
 
初、いはくらの小野より秋津に 秋津にたちわたるといへるにて知ぬ。此石倉の小野といふは大和國なり。類字抄に山城に屬したるは、非なり。雲にしもあれやは、雲にても有たらはやなり。第六に赤人の、鵜にしもあれや家おもはさらんといふ哥に注せるかことし。石倉の小野より、はる/\と秋津の小野まて、みるかうちに立わたることを得る雲のことき身にてもあらは、通ひ路遠き中にも、あふ時をまたむを、雲のやすく立わたることくなることをえぬ身なれは、逢時の待かたき心なり
 
寄雷
 
1369 天雲近光而響神之見者恐不見者悲毛《アマクモニチカクヒカリテナルカミノミレハカシコシミネハカナシモ》
 
見者恐、【六帖云、ミレハオソロシ、紀州本同v此、】
 
高貴の人を戀る喩なり、悲毛はまことにかなしきなり、
 
初、雲にちかくひかりて 尊貴の人をおもひかけてよめるなるへし。さてこそ天雲にちかくひかりてなる神とはたとへけめ。高山にてきけはいかつちは下にてなる物なれは、天雲にちかくひかりてとはいへり。みれはかしこしとは、いなひかりのおそろしきに、尊貴の人をあひみるをたとへたり。みねはかなしも。此句は只あひみねはかなしきなり。なる神にはかゝらす。みれはといふにかゝりていへり。此かなしきはまことにかなしきなり。おもしろきをいへるにはあらす
 
寄雨
 
1370 甚多毛不零雨故庭立水大莫逝人之應知《ハナハダモフラヌアメユヱニハタツミイタクナユキソヒトノシルヘク》
(5)大莫逝、【校本、大或作v太、】
 
戀る人を捨ずして逢は恩なれば雨に喩へ、逢見しに付ていとゞ、戀しく成て涙のこぼるゝを庭立水に喩へてよめり、
 
初、はなはたもふらぬ雨ゆへ これはしのひて思ふおもひを、はなはたしくもふらぬ雨にたとへ、涙をにはたつみにたとへて、戀すと人のしるはかりに、しのひなるおもひにこほるゝ涙は、いたくなゝかれぞといふ心なり。和名集云。唐韻(ニ)云。潦音老【和名爾八太豆美】雨水也
 
1371 久堅之雨爾波不著乎※[土+在]毛書袖者干時無香《ヒサカタノアメニハキヌヲアヤシクモワカコロモテハヒルトキナキカ》
 
※[土+在]、【別校本作v恠、】
 
※[土+在]は別校本に依て改むべし、袖のひぬは涙なり、人丸集にひる時もなしとあり、拾遺此と同じ、
 
寄月
 
1372 三空往月讀壯士夕不去目庭雖見因縁毛無《ミソラユクツキヨミヲトコユフサラスメニハミレトモヨルヨシモナシ》
 
月の内の桂の如きとよめる意なり、
 
初、みそらゆく月よみをとこ これは第四に、めにはみて手にはとられぬ月のうちの桂のことき妹をいかにせんといふ哥の心なり。ゆふさらすはよひ/\なり。一夜もおちすの心なり
 
1373 春日山山高有良之石上菅根將見爾月待難《カスカヤマヤマタカカラシイハノウヘノスカノネミムニツキマチカネヌ》
 
初の二句は落句をいはむためなり、月の山に礙られて遲きを人のさはる事あるかにて遲きに喩ふ、石上菅根をば替らぬ心の懇なるに喩へたるべし、寧樂京の人のよめる(6)にて春日山とは云へるにや、
 
初、春日山やま高からし 此たとふる心は、人を月によそへて待に、山高けれは月をさへてをそきかことく、人めにさはりて遲出くるかと思ふ心を、たとへの上にて山高からしといへり。いはのうへの菅の根みむとは、管のねは、こまかにしてしけき物なれは、あひみて、しけきおもひを、かたりなくさまんといふことを、これもたとへのうへにていへり
 
1374 闇夜者辛苦物乎何時跡吾待月毛早毛照奴賀《ヤミノヨハクルシキモノヲイツシカトワカマツツキモハヤモテラヌカ》
 
闇夜はあはぬほどの心に喩へ、待月は待人に喩ふ、早モテラヌカははやく照れかしにて早く出來よかしなり、イツシカのし〔右○〕は助語なり、
 
初、やみの夜とは、夜は人待時にて、やかてまつ人のこぬほとは、夜《ヨル》のうちにもやみの夜のやうなれは、くるしといへり。わか待月は、人の光臨をまつによせたり
 
1375 朝霜之消安命爲誰千歳毛欲得跡吾念莫國《アサシモノケヤスキイノチタカタメニチトセモカナトワカオモハナクニ》
 
朝霜の消易き命としる/\千歳もがなとは誰爲にか思はむ、君故にこそ叶はぬ事をも思へば、せめては待侘しめずして早くだに來よと上の歌と兩首にて委しく本意を盡すなり、
 
右一首者不有譬喩歌類也但闇夜歌人所心之故並作此歌因以此歌載出此次
 
寄赤土
 
1376 山跡之宇※[しんにょう+施の旁]乃眞赤土左丹著曾許裳香人之吾乎言蒋成《ヤマトノウダノマハニノサニツカソコモノカヒトノワレヲコトナサム》
 
(7)左丹著、【官本、著下有v者、】
 
發句のかきやうに依らばヤマトノと四文字に讀べきか、左丹著は經の字有てさにづかふにや、他處にさあり、者の字を加へてさにづかばと云へる事集中に例なき歟、さにづかふは色に出るなり、曾許裳香を今の點ソコモノカとあるはノ〔右○〕をあませり、筆者の失錯なるべし、曾許は彼處なり、此處《コヽ》に對して云のみならず集中に多くそれと云にも通せり、吾乎は上に云如くアヲと讀べし、
 
初、うたのまはにのさにつかは さにつかふさにつらふおなしことにて、はにの色のにほふなり。そこもかは、それにもかなり。すこしも人のわれにゆるす色を見せは、はや世の人のわがあへるやうにいひなさんといふ心なり
 
寄神
 
1377 木綿懸而祭三諸乃神佐備而齋爾波不在人目多見許増《ユフカケテマツルミムロノカミサヒテイムニハアラスヒトメオホミコソ》
 
許増、【別校本、増作v曾、】
 
三諸はミモロとも讀べし、此は何處にも神のまします處を云、三諸山にはあらず、神佐備而は第四に紀女郎が、神さぶといなとにはあらずとよめる如く我身をふりぬと思ひなして逢ことをいみていなと云にはあらず、人目の多ければこそあはぬとよめる歟、又此神さびては第二にうま人さびてと云如く我身を貴きものに思ひあかりてあはぬには非ずと貴女などの我よりは下れる人に戀られてよめる歟、
 
初、神さひていむには 神さひては、人をふるすなり。いむはいとふなり。人をふりぬといひてあはぬにはあらす。人めしけくてあはぬとなり
 
(8)1378 木綿懸而齋此神社可超所念可毛戀之繁爾《ユフカケテイミシヤシロモコエヌヘクオモホユルカモコヒノシケキニ》
 
神社、【紀州本云、モリ、】
 
此歌上と問答せるやうに見ゆる歟、第二の句イムコノモリモと讀べきか、超ぬべくおほゆとは垣をも越法禁をも過越してだにあはゞあはむと思ふまで戀しきとなり、
 
初、ゆふかけていみしやしろも 第十一に、ちはやふる神のいかきも越ぬへし今はわか名のおしけくもなし。今はたとへの哥なれは、やしろもこえぬへくおもふとは、天下の法禁にも、そむきぬへき心にや
 
寄河
 
1379 不絶逝明日香川之不逝有者故霜有如人之見國《タエスユクアスカノカハノヨトメラハユヘシモアルトヒトノミラクニ》
 
不逝有者、【紀州本云、ユカスアラハ、】
 
發句に不絶逝とあるを思ふに、腰句の今の點義訓たくみなれどユカズアラバ或はつゞめてユカザラバとよめるや、作者の意にて侍らむ、但古今によどみなばとあれば有の字にこそ叶はねど不逝をば昔より義訓せるなり、故霜有如は今の點叶はず、ユヱシモアルゴトと讀べし、又故をコトとよむべき歟、同じ意なり、人之見國は人の見むになり、此歌の意は、常に通ひたる方にゆかぬ折あらば、我心にことなる故ありてや來ぬと人の思はむが、我はことなる心もなき物をとなり、下句古今に心あるとや人の思はむ(9)とある同じ意なり、
 
初、たえすゆくあすかの川の 我人のもとへかよふ事、あすか川のたえぬことくなるに、さはること有て、川の中よとのやうに、ゆかぬ事あらは、我にゆへあることく、人のおもひうたかはんの心なり。第四に、ひとことをしけみこちたみあはさりき心あるごとおもふなわかせ。此心あるごとといへると、ゆへしもあるごとといふと、おなし心なり。俗に何とそゆへあらんといふこれなり。如の字はごとなり。とゝのみよめるはかんなの落たるなり。此哥古今集第四に、たえす行あすかの川のよとみなは心あるとや人のおもはんと載て、注していはく。此哥ある人のいはくなかとみのあつま人かうたなり
 
1380 明日香川湍瀬爾玉藻者雖生有四賀良美有者靡不相《アスカカハセヽニタマモハオヒタレトシカラミアレハナヒキモアハス》
 
せゞの玉藻とは我と人との心は叶ひたるに喩、しがらみをばさわる事有て中を隔てゝ逢しめざるに喩ふ、腰句六帖におほかれどとあるは改たるにはあらで昔はかくよめるなるべし、雖多有と書たらむをこそさはよまめ、今の點よくあたれり、
 
初、あすか川せゝに これは、せゝの玉もはたかひになひきあふ物なれと、しからみにへたてられては、なひきあふ事あたはさるかことく、おもひあへる中も、さはる人あれは、えあはぬにたとふるなり。第二の長哥に、飛鳥のあすかの川の、かみつせにおふる玉もは、しもつせになかれふれふる、玉もなすかよりかくより、なひきあひしつまのみことの、たゝなつくやははたすちを、つるきたち身にそへねゝはなとよめる心なり
 
1381 廣瀬川袖衝許淺乎也心深目手吾念有良武《ヒロセカハソテツクハカリアサキヲヤコヽロフカメテワカオモヘラム》
 
或者の云く、大和國廣瀬郡の廣瀬川は泊瀬川と倉橋川の落合なれば、又は河合川とも云ひて河合村彼處にありと云へり、皇極紀云、元年是歳蘇我大臣|蝦夷《エミシ》立(テヽ)2祖《オヤノ》廟於葛城(ノ)高宮1而爲2八〓之※[人偏+舞](ヲ)1、作v歌曰、野麻騰能飫斯能※[田+比]稜栖嗚倭※[木+施の旁]羅務騰《ヤマトノオシノヒロセヲワタラムト》、阿用比他豆矩梨《アヨヒタツクリ》、擧始豆矩羅符母《コシツクラフモ》、此おしのひろせとよめるは葛上郡の北に忍海郡あれば、彼處なる川の廣瀬と云へる歟、忍海の北に葛下郡葛下の北に廣瀬郡はあれば今の廣瀬川にはあるべからぬにや、袖衝許とは流るゝ水の纔に袖に衝當りて流るゝほどの深さなるを淺しとは云なり、袖をひたすを潰《ツク》と云ひて衝は漬に借てかける歟とも云べきを、第十一に、紅之|須蘇衝《スソツク》河乎云云、此も亦|衝《シニウ》の字を書たるにて前の義なる事を知べし、第十七に、立山(10)の雪し來《く》らしも延槻《ハヒツキ》の、河の渡り瀬鐙わかずも、此歌は水の深くて速きを鐙衝と讀たれば、裙衝河とよめるこそ淺くは聞ゆれ、袖衝許は淺からずやと思ふ人も有べけれど、装束の袖、未通女の缺掖の袖などはいと長ければ淺き事に云はむ事さも侍るべし、さて此は人の心の深くも思はぬを我のみや深く思ひてあらむと云喩なり、河を渡る者は淺深に依て掲※[礪の旁]の用意を替る習なるに、淺きを渡るに※[礪の旁]する如くなる思ひを我ながらいぶかり思ふ意なり、念有良武はおもひあらむを約むれば、比阿(ノ)反波なるを、又初四相通じて波を敞となしておもへらむと點ずれば、念有武にて足れり、良は衍文なるべし、六帖には腰を淺き瀬をと改ため、尾を我は思はむと成したれば作者の本意にあらず、我やと云はゞ叶ふべし、續古今集には腰を淺き瀬にと成して尾は六帖と同じければ意も亦彼と同じ、
 
初、廣瀬川そてつく 廣瀬は大和國廣瀬郡に有川なり。袖つくはかりとは、つくはこゝに衝といふ字をかきたることく、なかるゝ水の袖につきあたりて過るなり。第十七に、家持の哥に、立山の雪し|く《來》らしも《・きえてくるなり》はひつき《延槻》の川のわたり瀬あぶみ《・鐙》つかすも。これ衝の字の心なり。これは人の、我をおもふ心のふかゝらぬにたとへたり。良は衍字なり。催馬樂に、さは田川袖つくはかり浅けれとくにの宮人高橋わたす
 
1382 泊瀬川流水沫之絶者許曾吾念心不遂登思齒目《ハツセカハナカルミナワノタエハコソワカオモフコヽロトケストオモハメ》
 
言の通ひを泊瀬川の流るゝに喩ふる歟、然らば流るゝ水の絶ばこそと云べきを水沫と云へるは命をたとへて云なるべし、不遂は今按トゲジと讀べきにや、
 
初、泊瀬川なかるみなはのたえはこそ これはかよふ心、あるひはつかひなとのたえぬにたとふ
 
1383 名毛伎世婆人可知見山川之瀧情乎塞敢而有鴨《ナケキセハヒトシリヌヘミヤマカハノタキツコヽロヲセカヘタルカモ》
 
(11)發句は長息せばなり、タギツ心とは、たぎりて落る水の如く物の思はるゝなり、セカヘタルカモはせきあへたるかもなり、幾阿(ノ)切加なる故に約めて云へり、
 
初、せかへたるかもは、せきあへたるかもなり
 
1384 水隱爾氣衝餘早川之瀬者立友人二將言八方《ミコモリニイキツキアマリハヤカハノセニハタツトモヒトニイハメヤモ》
 
初の二句は忍びに歎ずる喩なり、次の二句は早川の瀬のたけき水につかれて立事はいと安からぬ事なるを、それがやうなる思ひを堪忍びて苦しくとも人にかくとはいはじとなり、發句を六帖にはみかくれてとあり、爾をて〔右○〕と點ずべからざれば改たるか隱の字カクルともコモルとも用たる中に水隱はいつもミコモリなり、
 
初、みこもりにいきつきあまり 水を泳人の、底に入て魚なとあなくりて、うき出るが、ためたる息のくるしきをつくほと、早川の瀬にたつも、猶くるしき事なり。みこもりは、しのひに物思ふにたとへ、早川の瀬をは、おもひの切にして、たへかたきにたとふ。古今集に、よしの川水の心は早くともたきの音にはたてしとそおもふ
 
寄埋木
 
1385 眞※[金+施の旁]持弓削河原之埋木之不可顕事等不有君《マカナモテユケノカハラノムモレキノムモレキノアラハルマシキコトニアラナクニ》
 
眞〓持、【校本云、マカナモチ、】  事等不有君、【別校本、等作v爾、點云、コトナラナクニ、】
 
眞は※[金+施の旁]をほむる詞、眞木などの如し、※[金+施の旁]は此卷上にいほりかなしみと云にも※[金+施の旁]染と借てかけり、和名云、唐韻云、※[金+斯]、【音斯、和名賀名、辨色立成、用2曲刀二字1、新撰萬葉集、用2〓字1、今案〓字所v出未v詳、但唐韻有v〓、視遮反、一音夷、短矛名也、可v爲2工具2之義未v詳、】平v木器也、此集に用たるをば考もらされたり、〓を持て弓を削るとつゞく、弓削河原は河内國なり、和名云、若江(ノ)郡弓削【由介、】延喜式云、若江郡弓削神社二座、稱徳紀に由義宮を造(12)給ひて行幸せさせ給へる事など、具に記せる處なり、道鏡法師が故郷なり、埋木とは洪水の時など川上より流れ來ていつとなく洲などに埋れ、或は岸などの木の岸の潰たる時など埋たるなり、それを以て忍び/\の思ひに喩へて、彼埋木も又洪水などする時水はなにてほるゝ時顯はれ出る事あれば忍ぶとすとも顯はるまじき思ひにあらずと喩へたり、忠岑が、名取川瀬々の埋木顯はれば、如何にせむとか相見そめけむとよめるは今の歌を思へる歟、等は爾に作れるをよしとすべし、
 
初、まかなもてゆけのかはらの ※[金+施の旁]をもて弓をけつるとつゝけたり。かなは和名集云。唐韻云。※[金+斯]【音斯。和名賀奈。辨色立炭(ニハ)用2曲刀(ノ)ニ字(ヲ)1。新撰萬葉集(ニハ)用2※[金+施の旁](ノ)字(ヲ)1。今案※[金+施の旁]字(ノ)所v出(ル)未(タ)v詳(ナラ)。唐韻(ニ)有v※[金+施の旁]視遮(ノ)反。一(ノ)音(ハ)夷。短矛(ノ)名也。可v爲2工(ノ)具(ト)1之義未v詳。】平(ニスル)v木(ヲ)器也。此集にこゝならて、かなしみといふに、※[金+施の旁]染とかける所有。順も此集をよくは見られさりけるにや。此集に用たる字は、あまり和名集にも出さす。稻負鳥は、此集を引れたれと、此集中に稻負鳥は一所もよます。これらにておもへは、天暦の帝の勅をうけて、此集の和鮎は順のくはへられたりといふも信しかたし。弓削河原は、八雲御抄に、大和と注せさせたまへと、たしかに河内國なり。延喜式云。河内国若江郡弓削神社二座【並大。月次。相甞。新甞。】稱徳天皇の御時、由義《・弓削》宮を作らせたまひて、行幸せさせたまへり。委續日本紀にしるせり。道鏡法師か故郷なり。今も弓削樫原なといひつゝけて、人の知れる所なり。むもれ木のあらはるましきことにあらぬとは、木のなかれ來てとまれるが、沙にうつもるゝをむもれ木といふ。久しくむもれたれと、時ありて大水なとに、又なかれ出ることく、深く忍ふおもひも、さま/\の事よりあらはるれは、かくたとへてよめるなり。古今集の哥に、名取川せゝのうもれ木あらはれはいかにせんとかあひみそめけむ
 
寄海
 
1386 大船爾眞梶繁貫水手出去之奥將深潮者干去友《オホフネニマカチシヽヌキコキイテニシオキハフカケムシホハヒヌトモ》
 
水手出去之、【官本亦云、コキテニシ、】
 
コギ出ニシのに〔右○〕は助語なり、舟は日を能はからひてにはよき時は勇み進みて漕出れば、あり/\てかくと云ひ出るを喩ふ、奥將深とは思の深き喩なり、潮者干去友とは滿たる鹽の干る如く世はうつりかはるともの意なり、繁貫を仙覺抄にしげぬきとあれど今取らず、
 
初、大舟にまかちしゝぬき かち取(ル)といはて、かやうにいへるは、おほく櫓なり。おきはふかけむは、わかおもひにたとへ、潮はひぬともは、人のかたは、あさくなるともの心なり
 
1387 伏超從去益物乎關守爾所打沾浪不數爲而《フシコエニエカマシモノヲヒマモリニウチヌラサレヌナミカソヘステ》
 
(13)浪不數爲而、【官本亦云、ナミカソヘスシテ、】
 
發句はフシコエユとも讀べし、伏は富士なり、やがて下に雉を岸にかれるが如し、落句は仙覺にも今の如くあれど字に叶はず、官本亦點に依るべし、富士越は富士と足柄葦高山のあはひに横走關を越て清見が關へ出ける道なり、腰句は仙覺抄云、ふるくは假名なし、今文字に任てひまもりにと點ず、其正しき意知がたき歌なり、清見が關には浪の關守と讀事も侍れば、此歌關守爾取打沾と云へりけるを關を間にかきなしたりけるにやあらむともおぼえ侍るは僻事にや、清見が崎と云所今はくきが崎となむ申す、彼崎の鹽滿て浪の高き時はゆゝしく通りにくかりければ、浪間を通らむとて立留て浪をかぞへて過ければ浪の關守と云、浪をかぞへて過とは浪は高く立たびひきく立たびのあるなり、高きをば男浪と云ひ、ひきゝをば女浪とぞ云なる、其女浪男浪の立たる中にちひさき浪の立をばしば浪と云なり、彼しば浪の時に通るべきなり、間守爾とかける關の字のかきあやまれるかとおぼゆること侍べれども又彼浪のひまをかぞへて過ければひまもりと云はむもいたく僻事にも有まじければ、當時の漢字に隨ひて假名をば付て侍るなり、今按清見が崎田子浦を通る海道を中古の道とかゝれたれど、第三に田口益人か二首の歌並に赤人の不盡山を望まれたる歌の反歌等、海邊の道(14)昔よりありと知られたれば古義を取らず、富士越、海邊の道、共に昔は心に任て通ひけるを富士越の道中古より絶たりと知べし、腰の句も亦今の本正義にて、浪の關守とよむ事は還て間を關に作れる本ありける歟にて誤まれるなるべし、清見が崎に關をすゑける事はいつの比にか日本紀、續日本紀等には見えぬ事なり、浪の事をひまもりと云ひて又浪と云はむことやいかゞあらむと云人も有べけれど、浪は體、間守は用を體に呼なしつれば浪とふたゝび云には替るべし、譬の意は、富士越に行人の浪にあはぬ如く人の許に通ふにもうしろ安かる時行べき物ぞ、海邊の道に浪の間を量り損じて打ぬらさるゝやうに繁き人目の隙を量り損じて見あらはさるる意なり、
 
初、ふしこえにゆかまし物を 伏超とかきたれとも、富士越なり。上に注せるふしの山と、あしたか山のあはひの道をいふなり。ひまもりは、清見か關の道なり。此所浪のあらくて、あしく行かゝれは、浪にとられしなり。よりて浪のひま/\を、よく守てとほりけるゆへに、浪のひま守とはいふ。今久岐か崎といふ所に、清見か關は有けるといへり。しかれは、ひま守に打ぬらさるゝとは、浪にぬれたりといはむためなり。此喩の心は、伊勢物語に、たひかさなりけれはあるしきゝつけてそのかよひちによことに人をすへてまもらせけれはとかける所の心なり。富士を伏とかき、下には岸に雉をかりてかけり。此例おほし
 
1388 石灑岸之浦廻爾縁浪邊爾來依者香言之將繁《イハソヽクキシノウラワニヨルナミヘニキヨレハカコトノシケケム》
 
縁浪、【ヨルナミノ、】
 
石灑は今按イハソヽギと讀べきか、下に云へる浪の石に灑ぐ故なり、岸之浦廻は地の名に非ず、上に墨江之岸乃浦回とよめるに同じ、邊に來依とは人の許に來る譬なり、
 
1389 礒之浦爾來依白浪反乍過不勝者雉爾絶多倍《イソノウラニキヨルシラナミカヘリツヽスキカテヌレハキシニタユタヘ》
 
礒之浦も亦上に云如く地の名にあらず、過不勝者は今按今の點字に叶はず・スギシカ(15)テズハと讀て過あへずばと意得べし、し〔右○〕は助語なり、喩ふる意は、我許に來て曉還らむとする人の名殘有げに過も得やらねば、さらば今暫はさて有てゆけと女のよめるなるべし、八雲御抄に礒の浦、紀伊國と注し給ひ、仙覺抄にも同じく云へり、如何侍らむ、
 
初、いその浦に 八雲御抄に、紀伊國と注したまへり。此集にいその浦わとおほくよめるは、浦のいそへときこゆ。過不勝者、これをはすきしかてずはと讀へし。過るに堪すはなり。過かてぬれはと讀へきことはりなし。これは人のもとにたひ/\くるに、つれなくいはるゝにも、過ゆくにたへねは、せめてそのあたりにやすらへと、みつからいふなるへし。又云。下に朝なきにきよる白浪といふは女の哥にをとこをたとへたるやうに聞ゆれは、此哥もをとこのきてしのゝめに歸りかてにするを今しはしはこゝにやすらひてゆけといふ心をきしにたゆたへとはいへるにや
 
1390 淡海之海浪恐登風守年者也將經去※[手偏+旁]者無二《アフミノウミナミヲソロシトカセマモリトシハヤヘナムコクトハナシニ》
 
浪恐登、【別校本云、ナミカシコシト、】
 
淡海の名に逢と云事をよせたるか、浪恐登とは人言を憚る譬なり、風守とは時を待なり、年者也の者は助語なり、落句は人の許に行ことなきを舟を漕ねに譬へたり、六帖には二三をなみおそろしみ風はやみ、五をさすとはなしにとて舟の歌とせり、
 
初、あふみの海浪おそろしと 浪かしこしとゝも讀へし。年はやへなんは、はゝ助語にて、年やへなんなり。人のとかくいひさはかんことをおそれて、しのふほとを、浪おそろしと風まもりとたとへたり。こくとはなしには、ゆきてあふことをえせぬなり。家語云。及(テハ)3其(ノ)至(ルニ)2于江津(ニ)1不《ス》v舫《ナラヘ・モヤハ》v舟(ヲ)不(ルトキハ)v避(ケ)v風(ヲ)則不v可(ラ)2以(テ)渉(ル)1。下に、島|傳《ツタフ》あしはやの小舟風まもりとよめる哥もおなし心なり
 
1391 朝奈義爾來依白浪欲見吾雖爲風許増不令依《アサナキニキヨルシラナミミマクホリワレハスレトモカセコソヨセネ》
 
朝ナギをば人言のさはがぬに喩ふ、白浪はうるはしき物なれば上にも浪妻君とよみ、第十三にも三芳野の瀧もとゞろに落る白浪、留にし妹をみまくのほしさ白浪とよめり、然れば男にて妹をも云ひ、又女にて夫をも云べし、落句は人言のさわぐまじき隙には却て人の來ぬ事を、なぎたる朝におど/\しからぬばかり風の浪を打依せば面白かるべきと、浪のよせぬに喩へたるなり、
 
(16)寄浦沙
 
1392 紫之名高浦之愛子地袖耳觸而不寐香將成《ムラサキノナタカノウラノマナコチニソテノミフレテネスカナリナム》
 
紫は名高と云はむ料なり、別に注す、名高浦は八雲に遠江と注せさせ給へど、第十一に、木海之名高之浦とよめるを以て定むべし、愛子地は和名云、繊沙、日本紀私紀云、萬奈古、此繊沙に愛子とかりて書てやがて親のいつく娘を兼たり、繊沙も白くうつくしき物なれば、まなごはきよき物なれば袖をばふるれども敷て寢べき物ならねば、人に袖をふるゝまでは有ながら諸共にぬる事やなからむとよそふるなり、名高浦をしも云出せるは貴人のかしづく娘に心を懸けるにや、
 
初、紫の名高の浦のまなこちに 名高浦を、八雲御抄には、速江と注せさせたまへと、第十一の三十六葉に、木海之《キノウミノ》名高之浦とよみたれは、たしかに紀の國なり。次の第四十葉、第十一巻の第四十一葉にも紫の名高の浦とつゝけよめり。紫としもつゝくるは、紫は官位高き人の衣をそむる物にて、色の中に名高く、紫を上服にきる人は、時に取て名高けれは、かくはつゝくるなり。天武紀(ニ)云。十四年秋七月乙巳朔庚午、初(テ)定2明位已下進位已上(ノ)之|朝服《ミカトコロモノ》色(ヲ)1。〇正位(ハ)深紫。直位(ハ)淺紫。上(ニ)云。春正月丁未朔丁卯、更(ニ)改2爵位之鱗號(ヲ)1仍増2加階級(ヲ)1。〇正位四階。直《チキ》位四階。勤《・コン》位四階。務《・ム》位四階。追《・ツイ》位四階。進位四階。毎貳v階有2大廣1。并(セテ)四十八階(ナリ)。以前(ハ)諸臣之位(ナリ)。持統紀云。朱鳥四年夏四月丁未朔庚申詔曰。〇其朝服者淨大壹已下、廣貳已上(ハ)黒紫。淨大參已下、廣肆已上(ハ)赤紫。正(ノ)八級(ハ)赤紫云々。續日本紀第二、天武紀云。三月甲午對馬嶋(ヨリ)貢v金(ヲ)。建(テヽ)v元(ヲ)爲2大寶元年(ト)1。始(テ)依2新令(ニ)1改(テ)制(ス)2官名位號(ヲ)1。〇又服(ノ)制親王(ノ)四品已上、諸王諸臣(ノ)一位者皆(ナ)黒紫。諸王(ノ)二位以下、諸臣(ノ)三位以上者皆赤紫。延喜式曰。凡(ソ)無品親王、諸王、内親王、女王等(ノ)衣服(ノ)色、親王(ハ)著v紫(ヲ)。以下孫王(ハ)准(シ)2五位(ニ)1語王(ハ)准(ス)2六位(ニ)1。同第十四、縫殿式(ニ)曰。深《コキ》紫(ノ)綾一疋【綿紬絲紬東※[糸+施の旁]亦同】紫草卅斤。酢二升。次二石。薪《ミカマキ》三百六十斤。同第四十一、弾正式云。凡(ソ)大臣帶(スル)2二位(ヲ)1考|朝服《ミカトコロモ》著2深紫(ヲ)1。諸王(ノ)二位已下五位已上、諸臣(ノ)二位三位並(ニ)著(ス)2中紫(ヲ)1。まなこちは、こまかなるすなをいふ。和名集云。織沙【日本紀私記云。萬奈古。】又おやのかしつく子を、まなごといふ。此卷の上に、人ならはおやのまなこそあさもよいきの川つらの妹とせの山。それに最愛子とかき、こゝにも借ては書なから、愛子地とかきたれは、いつきむすめを、まなこといふ詞によせたるなるへし
 
1393 豐國之間之濱邊之愛子地眞直之有者何加將嘆《トヨクニノマヽノハマヘノマナコチノマナヲニシアラハナニカナケカム》
 
間之濱邊之、【官本或間作v聞、點云、キクノハマヘノ、】  愛子地、【別校本云、マナコツチ、】
 
八雲御抄にまのゝはま、豐前と注せさせ給へるは、まゝのはまと遊ばされたるを傳寫して重點を倒にせるか、仙覺云、此歌第二句間之濱邊の句不審也、聞之濱邊歟、豐前に聞濱あるが故也、若又豐前豐後の間に間濱と云處のあるにや、糺明之後可v令2一定1歟、今按右の料簡明なり、聞を間とかきあやまてるなり、さりとて聞に改てキクと點ぜるは却(17)て然るべからず、和名集に豐前國に企救郡あり、令には規矩とかゝる、雄略紀云、二日一夜之間不v能v擒2執朝日郎(ヲ)1、而物部目連率2筑紫聞物部大斧手1獲斬2朝日郎1矣、舊事紀第三に饒速日命の天降たまふ時、天物部二十五部人御供にて天降ける中にも筑紫聞物部とあり、此集第十二に豐州聞濱松とも、豐國乃聞之長濱、又豐國能聞乃高濱ともよめり、今よめるも此なるべし、此濱をしも云ひ出せるは音にのみ聞によするなり、腰の句は右の歌に同じ、眞直はまなこぢを承て直《タヽ》目に見ば何をか嘆かむとなり、し〔右○〕は助語なり、
 
初、豐國の間之濱邊の まゝの濱は、聞《キク》の字を間とかきあやまれるを、やかてまゝと和點をくはへたるなるへし。其證は、和名集に、豐前國に企救郡あり。令義解には、規矩郡とかけり。今の和名集に企救【岐多】かくのことし。多は久の字の誤なるへし。第十六に、豐前國(ノ)白水郎《アマカ》歌一首。豐國企玖乃《トヨクニノキクノ》池なるひしのうれをつむとや妹かみそてぬれけむ。第十二の三十二葉に豐州聞《トヨクニノキクノ》濱松心にも何とていもかあひしそめけむ。同四十二葉には、豐國乃聞之長濱《トヨクニノキクノナカハマ》とも豐國能聞乃高濱《トヨクニノキクノタカハマ》ともよめり。日本紀第十四、雄署紀(ニ)云。二日一夜之間、不v能v檎1執《トラフルコト》朝日(ノ)郎(ヲ)1。而物部(ノ)目(ノ)連率(テ)2筑紫(ノ)聞《キクノ》物部大|斧手《ヲノテヲ》1、獲《トラヘテ》斬(ル)2朝日郎(ヲ)1矣。まなごちといふは、まなをといはんための序なり。まなをはますくなり。たのめしことのはのまゝならは、何のなけくことかあらんなり。又たゞにとおほくよめる心にて、たゞちにあひみる物ならは、何をかなけかんとよめりともきこゆ
寄藻
 
1394 塩滿者入流礒之草有哉見良久少戀良久乃太寸《シホミテハイリヌルイソノクサナレヤミラクスクナクコフラクノオホキ》
 
此歌濱成式には鹽燒王の歌として腰句以下を、草ならし見る日すくなく戀る夜多みと云へり、奧儀抄袖中抄に式を引るに異あれども釋せる意同じ、委は彼を見るべし、拾遺集に坂上郎女が歌とせられたる事不審なり、六帖には雜の草の歌とす、今按諸説此集には叶はず、寄藻と題したれば草と云は藻なり、鹽の滿て鹽の入くる礒の藻は、隱れて見えぬ方は多く、顯はれて見ゆる方はすくなければ、戀る事は多くて相見る事はすくなきに譬ふるなり、發句に意を著べし、潮の干る時を懸てよめるにはあらず、太寸は(18)太は大にや、
 
初、しほみては、入ぬるいその草なれや 入ぬるとは、塩に入なり。題に寄v藻とあれは、草といへるは藻の事なり。此たとへの心をうるに、ふたつの心あり。ひとつには、塩に入かたはおほく、あらはれてみゆるかたはすくなきを、あらはるゝかたを見らくすくなくとたとへ、塩に入かたをこふらくのおほきとたとふるなり。ふたつには、塩のみちて磯の草の見えぬ日はおほく、塩のひてみゆる事はすくなきを、さきのことくたとふるなり。顯昭法師は後の心につかれたりと見ゆ。みらくすくなくとは、相見る事のすくなきなり。濱成式云。雅躰十種〇十(ニハ)新意躰【此體非2古事1非2直語1。或有2相對1或無(シ)2相對1。故云2新意(ト)1】
相對 孫王塩焼(ノ)懸歌云 私塩焼王の事聖武紀より以下に見えたり
しほみてはいりぬる磯の草ならしみらくすくなくこふらくのおほき
遠v古(ヲ)離v直(ヲ)。故云2新意1。下句(ハ)是(レ)相對也
 
1395 奧浪依流荒礒之名告藻者心中爾疾跡成有《オキツナミヨスルアライソノナノリソハコヽロノウチニトクトナリケリ》
 
荒礒はアリソとも讀べし、疾跡成有は今按有の字をケリと讀べき理なければヤマヒトナレリと改て點ずべき歟、心のやましきなり、浪のよする荒礒をば人言のさわぎに喩へ、名告藻をば我に逢むとゆるす意にて名を告るによせて人は我に靡くに人言のさわぎに障らるれば一方ならぬ思に心のやましきとよめるなるべし、
 
初、心のうちにとくとなりけりとは、とくよせよと思ふなり
 
1396 紫之名高浦乃名告藻之於礒將靡時待吾乎《ムラサキノナタカノウラノナノリソノイソニナヒカムトキマツワレヲ》
 
名高浦は貴種によする歟、礒は沖に取ては邊なれば賤しき我身に喩へて、及なき奥の名告藻の礒によりきて靡かむ時を待と、若や逢時あると待意をよそへたるなり、六帖には吾乎を我はと改て載たり、
 
1397 荒礒超浪者恐然爲蟹海之玉藻之憎者不有手《アライソコスナミハカシコシシカスカニウミノタマモノニクヽハアラステ》
 
浪者恐、【別校本云、ハミハカシコシ】  不有手、【官本或手作v乎、點云、アラヌヲ、】
 
發句はアリソコスとも讀べし、初の二句は人言のさわぎを恐るゝ譬なり、シカスガニ(19)はさすがにと云に同じ、玉藻をばしのびたる人に譬ふ、荒磯をこゆる浪は恐ろしき物から、さすがに玉藻を惡みきらはしからで採ばやと思ふ如く、人の物云ひのさがなきを恐るゝ中にも人をばいなと思ふ意なく、いかにもしてあはゞやと思ふわりなさをよめるなり、
 
初、にくゝはあらすて にくむはきらふなり
 
寄舩
 
1398 神樂聲浪乃四賀津之浦能舩乘爾乘西意常不所忘《サヽラナミノシカツノウラノフナノリニノリニシコヽロツネワスラレス》
 
神樂聲浪乃、【仙覺抄云、ササナミノ、】  常不所忘、【袖中抄云、ツネニワスレス、仙覺抄云、ツネニ、】
 
發句は仙覺抄の點に憑るべし、船乘を袖中抄にふねのりとあれど今の點に付べし、乘ニシのに〔右○〕は助語なり、落句は又今の點然るべし、船乘ニ乘西意とは戀に心の浮たるを譬ふ、第十一に、海原乃路に乘てや吾戀をらむとよめるに同じ、第二以下に妹が心に乘にけるかもとよめるには少替るべし、
 
初、さゝなみのしかつ のりにし心とは、人のうへに心をおくなり
 
1399 百傳八十之島廻乎※[手偏+旁]船爾乘西情忘不得裳《モヽツタフヤソノシマワヲコクフネニノリニシコヽロワスレカネツモ》
 
百傳、【仙覺抄云、モモツテノ、別校本同此、】  廻、【校本作回、】
 
第九に百傳之|八十《ヤソ》之|島廻乎《シマワヲ》榜雖來と云歌に准ずれば、今の發句を別校本にモヽヅテ(20)ノと點ぜるに依べし、乘ニシのに〔右○〕助語なり、歌の意上に同じ、
 
1400 島傳足速乃小舟風守年者也經南相當齒無二《シマツタフアシハヤノヲフネカセマモリトシハヤヘナムアフトハナシニ》
 
初の二句は第十四相模國歌に、母毛亘思麻安之我良乎夫禰《モヽツシマアシガラヲブネ》とよめる意に同じ、多くの島を傳ひ行足の速き舟なり、腰句以下は上に淡海之海浪恐登とよめる歌に同じ、足速き舟も風守てあるほどは詮なし人の許にあかず通ふべき身のつつむ事ありて過るを喩ふるなり、又此風守は人のつらさのやむを待をも云べし、
 
初、しまつたふあしはや《・輕心》のをふね あしはやの小舟とは舟のかろくてとく行をいふ。足とは水に入所をいふなり。第十四東哥に、もゝつしまあしからをふね《・百島足柄小舟》とよめるおなし心なり。上に、あふみの海浪おそろしと風まもりといふ哥あり。引合て見るへし
 
1401 水霧相奥津小島爾風乎疾見船縁金都心者念杼《ミナキリアヒオキツヲシマニカセヲイタミフネヨセカネツコヽロハオモヘト》
 
水霧相、【別校本云、ミナキリアフ、】  船縁金津、【六帖云、フネヨリカネツ、】
 
發句は齊明紀の天皇の御歌によらばミナギラフと讀べし、さらずば仙覺抄に依てミナギリアフと讀べし、今の點は叶はす、上に天霧相日方吹良久と云をアマギリアヒと點ぜるには替れり、小島は六帖にもをじま〔三字右○〕とあれどコジマと點ぜるに付べきにや、小島をば人に喩へ、風ヲ疾ミをば人のつらきに喩ふ、業平の我居る山の風早みなりとよまれたるに同じ、落句は古風の例に依てコヽロハモヘドと讀べし、
 
初、みなきりあひおきつ小嶋に 水霧相とかけるをは、みなぎらふとよむへし。齊明紀に、四年五月(ニ)皇孫建《ミマコタケルノ》王薨たまひける時、帝なけかせたまひて、よませたまへる御哥に、飛鳥河みなぎらひつゝ行水のあひたもなくもおもほゆるかも。みなきりあひとよむもおなしことなれと、下にかなひかたし。よまん人みつから知へし。さてこれは漲相《ミナキリアフ》といふにはあらす。風あらくて、浪のくたけてちるが、霧のことくなれはいふなり。喩の心かくれなし
 
1402 疎放者奥從酒甞湊自邊著經時爾可放鬼香《コトサラハオキニサケナメミナトヨリヘツカフトキニサクヘキモノカ》
 
(21)殊放者、【仙覺抄云、コトサケハ、官本同v此、】  酒甞、【官本亦云、サケナム、】
 
殊放者とは、此殊の字集中三處あり、第十に詠雪歌に殊落着袖副沾而云云、第十三に琴|酒者國丹放甞《サケハクニニサケナム》云云、此等を以て思ふに常に疎にして放るとならばの意なり、古今集等にことならばと云へる詞は先達かくの如くならばと云意なりと釋せらる、誠に然意得れば通ずるやうなれど字にかゝば殊ならばにて今の殊の字にや、第二の句は上に引第十三の歌の如く、オキニサケナムと讀べきか、サケナメはてにをは今に叶はず、但第三に見えずともたれこひざらめとよめるに准じて古風とすべきか、仙覺抄云、奥にさけなめとはいまだ行方も知らずよらむ方も知がたく思ひたゞよふ時に云ひもきらざるに譬ふ、湊自とは今は危む心もなく思ひ靜まりて一筋に憑入るに譬ふ、邊著經時とは岸に著を云、今は事定りなむとするに譬ふ、初は叶はじともいはねば一筋に憑を懸る程に其約を期となりて叶ふまじき由を云に譬ふるなり、今按船と云字をすゑざるは古歌の習なり、法性寺殿のわたの原漕出て見れば久方の、雲居にまがふ奧津白浪とよみ給へるにも舟なし、此に邊著經時とよめると、第四に燒太刀乃隔付經とよめるは詞は同じやうにて意殊なり、
 
初、ことさけはおきにさけなむ ことさけばとは、ことに遠さけんとならはなり。第十三挽歌に、ことさけば國にさけなん別なは家にかれなんとよめるも今の心におなし。第十に、ことふらは袖さへぬれてとほるへくふらんを雪の空にけにつゝともよめり。古今集に、初の五もしにことならはとをきてよめる哥三首有。顯注密勘に、かくのことくならはといふ心とあり。まことにいつれもしか心得れは通すれとも、此集にかける殊の字にて心得へし。みなとよりへつかふ時とは、へたにつく時なり。第四にやきたちのへつかふ事はよしやわか君とよめるにはかはるへし。たとふる心は、人の中にさはらん人は、まだよくもいひよらぬほとにさけよ。すてにいそへに、よせくる舟を、風のにはかに吹はなつことく、なとかあひよらんとする時にさはりて、遠さくるそとなり
 
(22)旋頭歌
 
1403 三幣帛取神之祝我鎭齋杉原燎木伐殆之國手斧所取奴《ミヌサトルミワノハフリカイハフスキハラタキヽコリホト/\シクニテヲノハトラレヌ》
 
第四云、味酒を三輪之祝が忌杉、第八云、味酒三輪乃祝が山照す、云運、燎木伐は盗みて神木を薪に伐なり、景行紀云、於v是所v獻2神宮(ニ)1蝦夷《エミシ》等晝夜喧嘩出入無v禮、仍(テ)令3安置2御室山傍1、未v經2幾(ノ)時(ヲ)1、悉伐2神山樹(ヲ)1叫2呼隣里1而脅2人民(ヲ)1、此類の意なり、殆之國とはあぶなくの意なり、俗にすでの事せむとすと云は此詞に通へり、手斧は和名工匠具云、釋名運、※[金+斤]、【音斤、和名、天乎乃、】所3以平2滅斧迹1也、今は此※[金+斤]にはあらず、唯斧を手斧と云なり、手鉾など云が如し、此歌は人妻に通ひて危うかるめにあはむとせし人のかく譬へたるなるべし、後の歌に、宮造る飛騨の工が手斧音、ほと/\しかるめをも見しかな、此意に同じ、
 
初、みぬさとるみわのはふりか 第四に、いまさけをみわのはふりかいはふ杉手ふれしつみか君にあひかたき。景行紀云。於v是所(ノ)v献2神(ノ)宮1蝦夷《エミシ》等、晝夜|喧嘩《ナリトヨキテ》出入|無禮《ウヤナシ》。〇仍(テ)令3安2置《ハムヘラシム》御室(ノ)山(ノ)傍《ホトリニ》1。未(タ・ルニ)經2幾(ノ)時(ヲ)1悉伐2神山(ノ)樹1叫(ヒ)2呼《ヨハヒテ》隣里《サトニ》1而|脅《ヲヒヤカス》2人民(ヲ)1。此たとふる心は、やんことなき人の手に入たる人に、わりなくいひよりたるを聞つけられて、かたく制せられたるを、手斧はとられぬといへるなるへし。おそろしくてたましゐをうはゝるゝをいふ歟。宮つくるひたのたくみかてをのをとほと/\しかるめをもみしかなといふ哥は、ほと/\しきを、ほと/\といふ音によせたり。此哥はしからす。ほと/\は殆の字、危殆とつゝきて、あふなき心なり
 
挽歌
 
雜挽
 
此は何れの人の爲に誰よめるともなきを云なるべし、
 
1404 鏡成吾見之君乎阿婆乃野之花橘之珠爾拾都《カヽミナルワカミシキミヲアハノノノハナタチハナノタマニヒロヒツ》
 
(23)鏡成、【官本亦云、カカミナス、】
 
發句はカガミナスと點ぜるに依べし、鏡の如く飽ず我見つる君と云なり、阿婆乃野は皇極紀の童謠《ワサウタ》にも烏|智可※[木+色]能阿婆〓能枳枳始《チカタノアハノノキキシ》とよめり、延喜式に大和國添上郡に率《イサ》川阿波神社あり、若春日野のつゞきに阿婆野ありて彼處に坐す神にや、下の句意得がたし、橘の玉に似たるを拾ひて愛すれど、誠には玉のやうに堅固ならぬ如く、君も亦然りと譬ふる意によめるにや、
 
初、かゝみなすわかみし君 鏡のことくあかすわかみし君なり。あはの野は大和歟。皇極紀に、皇極天皇三年六月に、謠歌《ワザウタ》三首ありし中の第二(ニ)云。嗚智可※[手偏+施の旁]能《ヲチカタノ・彼方》、阿婆《フハ》努能枳枳始《ノノキギシ・野之雉》、騰余謀作儒《不令動・トヨモサズ》、倭例播禰始柯騰《ワレハネシカド・我者雖寢》、比騰曾騰余謀須《ヒトゾトヨモス・人令動》。此|謠歌《ワサウタ》は、蘇我入鹿か、山|背大兄《シロノオヒネノ》王を逐奉りて、遂にみつから縊《クヒレ》て薨たまひ、その外の暴惡によりて刑に遭へき前表なれは、所も大和なるへしとはおもふなり。延喜式第九、神名上に、添上郡に率《イサ》川阿波(ノ)神社あり。此所にや。下句意得かたし
 
1405 蜻野※[口+立刀]人之懸者朝蒔君之所思而嗟齒不病《アキツノヲヒトノカヽレハマヰテマクキミカオモホヘテナケキハヤマス》
 
人之懸者、【官本亦云、ヒトノカクレハ、別校本同v此、】  朝蒔、【官本亦云、アサマキシ、別校本同v此、】
 
胸句はヒトノカクレハと讀べし、言に懸て云なり、第四に吾聞にかけてな云ひそとよみ、第十に秋山をゆめ人かくな忘にし、其もみぢ葉の思ほゆる君とよめるが如し、腰句今の點にては主君などを蜻野に葬て後、蜻野とたゞきけば世におはせむやうにまゐでばやとおぼえて嗟の止む時なきとなり、アサマキシと云點に依らば此卷上に妹背の山に麻まけ吾妹ともあれば妻を蜻野に葬たる夫のよめる歟、次下の歌にも秋津野とよめるは同作者にや、然らば後の義なるべきにや、
 
初、秋津野を人のかくれは 人のかくるとは、此野のことを、ことのはにかけて人のいひ出れはなり。朝蒔、これをまゐてまくとよめるにつかは、秋津野とたに人のいへは、君か事のおもほえて、まゐてまくおもふなけきのやまぬとなり。皇子大臣なとの薨したまへるを、蜻野におさめて、後、家禮の人のよめるにや。あさまきしとよむにつかは、妻なとの、麻衣の料にあさをまかせしを、おさへてあさまきしといふなるへし。此巻上に、きのくにのいもせの山に麻まけわきもとよめるをおもひあはすへし
 
(24)1406 秋津野爾朝居雲之失去者前裳今裳無人所念《アキツノニアサヰルクモノウセユケハムカシモイマモナキヒトオモホユ》
 
前裳今裳は今按キノフモケフモと讀て今の歎きに合すべきにや、但雜挽と題せるによらば廣く古今に亘りて意得べきか、六帖にしらぬ人と云に入れて、あさぢふに朝居雲の消ゆけば、昔も今も見ぬ人思ほゆと載たるはおぼつかなし、又此秋津野を紀國と云説あるは雄略紀を考へられざるなり、
 
初、秋津野に朝居る雲 此秋津野大和なり。雲をよめるは紀の國なりとは其證なし。上にもいはくらのをのより秋津に立わたる雲にしもあれや時をしまたんとよめり。蜻野となつくるよしは、雄略紀に明なり。昔も今もとは、雲のきえうするを見るにつけて、むかしいまのなき人を思ひ出るなり。又雲のきゆるをみて昔の人もなき人の事をおもひ出、今の人もなき人をおもひ出る心歟
 
1407 隱口乃泊瀬山爾霞立棚引雲者妹爾鴨在武《コモリクノハツセノヤマニカスミタチタナヒククモハイモニカモアラム》
 
此歌は第三に土形娘子を泊瀬山にて火葬する時人麿のよめる歌に似たり、
 
1408 枉語香逆言哉隱口乃泊瀬山爾廬爲云《マカコトカサカサマコトカコモリクノハツセノヤマニイホリストイフ》
 
初、いほりすといふは、かしこにおさめたるをかくいひなせり。まかことさかさまことさき/\注しつ
 
1409 秋山黄葉※[立心偏+可]怜浦觸而入西妹者待不來《アキヤマニモミチアハレトウラフレテイリニシイモハマテトキマサヌ》
 
秋山、【官本亦云、アキヤマノ、】  不來、【校本云、キマサス、】
 
是は秋の比妻のなくなれるを山に葬むれる人の、黄葉見に入て歸らぬ由に讀なせり、第二に人丸の妻の死を悼みて、秋山の黄葉を茂み迷ひぬる妹とよまれたるに同じ、入西のに〔右○〕は助語なり、落句はマツニキマサヌと讀べきか、マテドは雖待とかゝざれば叶はず、六帖悲しひの歌に、秋山に黄葉拾ひに入し妹は、こゝにやみたずまてど見え來ず(25)とあるは今の歌なり、
 
初、秋山のもみちあはれと 秋(ノ)比妻の死たるを、山におさめたるを、もみち見に入て歸らぬとはいへり。第二人まろの哥に、秋山のもみちをしけみまとひぬる妹をもとめむ山ちしらすも。おなし心なり
 
1410 世間者信二代者不往有之過妹爾不相念者《ヨノナカハマコトフタヨハヽユカサラシスキニシイモニアハヌオモヘハ》
 
第二の句の點誤れり、マコトフタヨハと讀べし、第四に空蝉の世やもふたゆくと有しに同じ、スギニシのに〔右○〕は助語なり、
 
初、よのなかはまことふたよは むまれかへりて又世をへねは、ふた代はゆかぬといへり。第四に、うつせみの代やもふたゆくとよめるにおなし。まことゝいへるは、ふた代ゆかぬと人のいふを、今にあたりてげにもと信するなり
 
1411 福何有人香黒髪之白成左右妹之音乎聞《サイワヒノイカナルヒトカクロカミノシロクナルマテイモカオトヲキク》
 
音は聲なり、コヱとも點ずべし、
 
初、さいはひのいかなる これは妻にをくれてよめるなり。いもかおとを聞とは、妹か物いふ聲をきくなり
 
1412 吾背子乎何處行目跡辟竹之背向爾宿之久今思悔裳《ワカセコヲイツクユカメトサキタケノソカヒニネシクイマシクヤシモ》
 
辟竹は辟け※[辟/手]にや、竹をさけば此方彼方に靡きて一方ならねばそがひと云はむ爲なり、宿之久の久、今思の思、共に助語なり、宿之久は上に玉拾之久とよめるが如し、此歌は夫のなく成て後、世を去て何處へゆかむ物とも思はざりしかば折々恨む事ありてそむき/\て寢し事の有しが悔しきとなり、第十四の終に、悲妹をいづちゆかめと山菅の、背向にねしく今し悔しもとよめる、相似て意も亦同じ、
 
初、わかせこをいつちゆかめと さき竹とは、竹をわれは、せなか合になるをいふなり。ねしくは、寢しといふまてなり。經史のふるき和鮎に、誰がいひしといふを、いひしくとあるにおなし。くは助語なり。こゝによめる心は、若恨むる心なとある時、死なんをはおもひもよらず。現在にも、いつちへゆかんともおもはて、さきたる竹のことく、そむき/\にねたるかくやしきとなり。やさしくあはれなる哥なり。第十四東哥のをはりに、かなしいもをいつちゆかめと山菅のそこかひにねしく今しくやしも。をとこと女と、よめる人かはり、さき竹と山すけと、物はかはれと、大かたおなし哥なり
 
1413 庭津鳥可鷄乃垂尾乃亂尾之長心毛不所念鴨《ニハツトリカケノタレヲノシタリヲノナカキコヽロモオモホエヘヌカモ》
 
(26)亂尾乃、【袖中抄云、ミタレヲノ、仙覺抄同v此、】
 
仙覺云、庭津鳥とは庭鳥なり、カケも同じ事にして鳴聲に依て云へり、今按神樂歌に、?はかけろとなきぬなり云云、仙覺の説此に叶へり、垂尾はタリヲとも讀べし、亂尾の今の點は推量するにミダリヲなりけむを、山鷄の尾のしだりをのと云歌に聞なれてミ〔右○〕をシ〔右○〕に作けるなるべし、さて上句は長心と云はむ料の序なり、なき人の事を樣々に思ひのどむれど頻に悲しきを長き心も思ほえぬるとよめるなるべし、落句を袖中抄におもはざるかもとあるは叶はず、六帖に庭鳥の歌に、庭烏のかけのたれをのしだり尾の、長々し夜を一人かもねむとあるは此歌にや、
 
初、庭つ鳥かけのたれ尾 かけとは、此鳥のなくこゑの、かけろときこゆるによりて、名とするなり。神樂哥に、庭鳥はかけろと鳴ぬなりおきよ/\わかかとよつま《ひとよつまにや》人もこそみれ。これかたき證なり。家※[奚+隹]、可見路みな好事のものゝ作り出せる邪説なり
なかき心もおもほえぬとは、なき人の事を、さま/\におもひのどむれと、しきりにかなしきをいへり。上の句は人まろの山とりの尾のしたり尾におなしく序なり
 
1414 薦枕相卷之兒毛在者社夜乃深良久毛吾惜責《コモマクラアヒマキシコモアラハコソヨノフクラクモワレヲシミセメ》
 
吾惜責、【六帖云、ワカヲシミセメ、別校本同v此、】
 
薦枕は蒋を以て枕にしたるなり、第十四にも人言の繁きに依てまをこもの、おやし枕はわはまかじやもとよめり、武烈紀に物部影媛歌に、伊須能箇瀰賦屡嗚須擬底《イソノカミフルヲスギテ》、擧慕摩矩羅※[木+施の旁]箇播志須擬《コモマクラタカハシスキ》云云、小前張に、薦枕高瀬の淀に云云、三代實録云、薦枕高御産栖日神社云云、常陸風土記云、薦枕多珂郡云云、如此高しと云枕詞に置ならへり、
 
初、こもまくらは、こもをもて枕とするなり
 
1415 玉梓能妹者珠氈足氷木乃清山邊蒔散染《タマツサノイモハタマカモアシヒキノキヨキヤマヘニマケハチリヌル》
 
(27)六帖悲の歌に發句をたまほこのとて、下句は或本の歌をつゞけたり、官本亦點にもタマホコノと云へり、同本に或は梓を桙に作れり、今按六帖にたまほこのとあるは梓を桙に書あやまてる本を見たるか、或は本は梓なりけるを桙に見まがへたる歟、今の字並に點によるべし、玉は褒美の詞、梓はアヅサを上略せり、引合せて弓の名なり、其證は第十三云刺楊|根《ネ》張|梓矣《アツサヲ》、御手二所取賜而云云、梓は弓の良材にて梓弓といへば、梓とのみも云へるなり、弓は壯士の手に、取物なれば女を多く弓に喩ふ仍て玉梓の妹とは云へり、第十五には烏羽玉の妹ともよめり、蒔散染は今按今の點字と合はず、マキテチラシムと讀べき歟、若は染は漆を書誤まれる歟漆部と云氏をぬりべとよめば今も義訓を借て用たるか、若は藍田に玉を種し故事によりて蒔とは云へる歟、玉を蒔處なれば清山邊とは云へり、
 
初、玉つさの妹は玉かも 玉つさの妹とは、玉つさをかよはしてこふれはいふ歟。今案これは文にはあらて弓なるへし。梓は木王と名つくる上に、ことに弓に造るによろしきゆへ、おほくあつさゆみとよめり。玉はよろつ物をほむる時にいふ詞なれは、玉弓といふ心なり。弓をあつさとのみいふ證は、第十三の挽哥に、みゆきふる冬のあしたはさすやなきねはるあつさ《・刺楊根張梓》をおほみてにとらしたまひてなとよめり。これはさすやなきのねのはるといひかけて、はるあつさとつゝけたるは弓なり。しかれは、弓はをのこの秘蔵して手に取物なれは、女を弓にたとふる事、めつらしからぬ事なり。此心にて玉梓の妹といへるにや。まけはちりぬるとは、玉の緒のたゆれは、こほれおつることく、死したる人を山邊の塚におさむるをたとへていへり。まけばといふは、藍田に玉を種《ウヘ》し故事にもよれる歟。染は漆の字の誤なり。うるしはぬる物なるゆへに、ぬるとよめり。漆部とかきてぬりへといふ氏もあり
 
或本歌曰
 
1416 玉梓之妹者花可毛足日木乃此山影爾麻氣者失留《タマツサノイモハハナカモアシヒキノコノヤマカケニマケハチリヌル》
 
玉梓之、【別校本亦云、タマノ、官本或梓作v〓、】
 
發句は右に云が如し、失留は今按字のまゝにウセヌルとよむべきか、風の吹時こける(28)花を蒔に留りて見えぬが如く埋て見えず成ぬるを喩てよめる歟、
 
覊旅歌
 
1417 名兒乃海乎朝榜來者海中爾鹿子曾鳴成※[立心偏+可]怜其水手《ナゴノウミヲアサコキクレハウミナカニカコソナクナルアハレソノカコ》
 
朝榜來者とは朝なぎには殊に船を榜時なる故に、第十九にも朝榜しつゝうたふ舟人とよめり、海中爾は今按ワタナカニと讀べし、第一にも對馬の渡わたなかにとありき、鹿子曾鳴成は水手をかこと云によりて舟歌うたふを此の鳴に寄て云へり、鹿子となづくる故は應神紀云、一云、日向(ノ)諸縣(ノ)君牛、仕2于|朝庭《ミカト》1年既老壽之不v能v仕、仍致v仕退2於本土1、則貢2上己(カ)女髪長媛1、始(テ)至(ル)2播磨1時天皇幸2淡路嶋1而遊獵之、於v是天皇西望之數十|麋鹿《オホシカ》浮(テ)v海(ニ)來(レリ)之、便(ハチ)入2于播磨(ノ)鹿子《カコノ》水門1、天皇謂2左右1曰、其何麋鹿也泛2巨海1多來、爰左右《モトコヒト》共(ニ)視(テ)奇(シム)則(チ)遣v使令v察、使者至見皆人也唯著角鹿皮、爲2衣服1耳、問曰誰人也、對曰、諸縣君牛是年耆之雖v致v仕(ヲ)不v得v忘v朝、故以2己(カ)女髪長媛(ヲ)1而貢上矣、天皇悦(テ)之即喚令v從2御船1、是以時人號(ケテ)2其(ノ)著《ツケル》岸之處(ヲ)1曰2鹿子水門(ト)1也凡水手曰2鹿子(ト)1葢(シ)始(テ)起(レリ)2于是時1也下句は第九に霍公鳥の歌に、鳴て行なりあはれ其鳥とよめる同じ語勢なり、文選司馬相如子虚賦云、榜人|歌聲《ウタ/\ヲ》流喝、
 
初、なこの海を朝こきくれは 先水手を、かこと名付ることのもとは、日本紀第十、應神天皇紀(ニ)云。一云。日向(ノ)諸縣(ノ)君牛仕2于|朝庭《ミカトニ》1年既(ニ)老〓《ヲイテ》之不v能v仕。仍致v仕退2於本土1。則貢2上己(カ)女《ムスメ》髪長媛(ヲ)1。始(テ)至(ル)2播磨(ニ)1。時(ニ)天皇|幸《イテマシテ》2淡路島(ニ)1而|遊獵《カリシタフ》之。於v是天皇西(ヲ)望《ミシナハスニ》之|數十《トヲツアマリノ》麋鹿《オホシカ》浮(テ)v海(ニ)來(レリ)之。便(ハチ)入(レリ)2于播磨(ノ)鹿子水門《カコノミナトニ》1。天皇謂(テ)2左右《モトコヒトニ》1曰。其《カレ》何(ナル)麋鹿(ソ)也。泛(テ)2巨海(ニ)1多(ニ)來。爰(ニ)左右《モトコヒト》共(ニ)視(テ)奇(シムテ)則|遣《マタシテ》v使(ヲ)令v察(セ)。使者《ツカヒ》至(テ)見(ルニ)皆人(ナリ)也。著角《ツノツケル》鹿(ノ)皮(ヲ)爲(ル)2衣服《キモノト》1耳。問(テ)曰。誰人(ソ)也。對(テ)曰。諸縣(ノ)君牛是(レ)年耆(テ)之雖v致(ムト)v仕(ヲ)不v得v忘v朝《ミカトヲ》。故(ニ)以2己(カ)女《メ》髪長媛(ヲ)1而|貢上《タテマツル》矣。天皇悦(テ)之即|喚《メシテ》令(タマフ)v從2御船(ニ)1。是(ヲ)以時(ノ)人號(ケテ)2其(ノ)著《ツケル》岸之處(ヲ)1曰2鹿子(ノ)水門(ト)1也。凡(ソ)水手《フナコヲ》曰(コト)2鹿子(ト)1葢(シ)始(テ)起(レリ)2于是(ノ)時(ニ)1也。これ水手をかこといひ、播磨に賀古郡あることのもとなり。かこといふゆへに、舟哥うたふを、なくといへり。あはれそのかことは、あはれは※[立心偏+可]怜とかけり。これをおもしろしともよめり。その心なり。第九に、ほとゝきすの哥に、なきてゆくなりあはれその鳥といへるおなし語勢なり。文選司馬相如(カ)子虚(ノ)賦曰。榜人《フナヒト》歌《ウタ/\テ》聲流|喝《アイタリ》。左思呉都(ノ)賦(ニ)曰。櫂(ノ)謳《ウタ》唱(テ)簫籟鳴(ル)。漢(ノ)武帝(ノ)秋風(ノ)辭(ニ)曰。簫鼓鳴(テ)兮發(ス)2棹歌(ヲ)1
 
萬葉集卷第七
 
萬葉集代匠記卷之七下
 
(1)萬葉集代匠記卷之八上
                  僧  契 冲 撰
                  木 村 正 辭 校
〔目録部分の「初、」は省略〕
 
春雜謌
 
初、春雜謌
 
志貴皇子懽御歌一首
 
懽、玉篇云、呼官切、悦也、歡の字と同じ六帖に此歌を載るに志貴皇子とて、注にかゞみの皇子ともとあるは不審なり
 
初、志貴皇子懽御歌 玉篇云。懽(ハ)呼官切。悦也
 
1418 石激垂見之上乃左和良妣乃毛要出春爾成來鴨《イハソヽクタルミノウヘノサワラヒノモエイツルハルニナリニケルカモ》
 
垂見は津の國なり、石激と置事も共に第七に注せしが如し、六帖にも新古今にもたるひの上と有は、假名にかける本などに誤有けるにや、顯昭の云く、行成卿のかゝれたる和漢朗詠集にたるみの上のとありと、今の世或人の御許に行成卿のかゝれたる朗詠集有とてそれを寫せる本とて見せ給ひしに、たるみと侍りつるは、彼顯昭の見られたる本にや、又袖中抄云、たるみの上の早蕨とは、攝津と播磨との堺にたるみと云所あり、(2)垂水とかけり、岸よりえもいはぬ水出る故にたる水と云也、垂水の明神と申神おはす、此水の岩の上に落かゝれば石激垂水とは云也、其垂水の上をばたるみ野と運へば其野にさわらびは萠出る也又野にてならずとも岸に萠出ともたるみの上の早蕨とは申てむ、此早蕨の歌を垂見とも又垂水とも書たるを垂氷と書なしてたるひの上と讀て心得ぬ釋どもあり云云、委は彼抄を見るべし、早蕨は、早に音を用るにあらず、わさを上略せるなり、早苗早百合など此に同じ、此御歌いかなる御懽有てよませ給ふとはしらねど、若帝より此處を封戸に加へ腸はりて悦せ給へる歟、蕨の根に隱りてかゞまりをれるが春の暖氣を得て萠出るは實に悦こばしき譬なり、御子白壁不意に高|御座《ミクラ》に昇《ノボ》らせ給ひて、此皇子も田原天皇と追尊せられ給へる皇統今の相つゞけるも此御歌にもとゐせるにや、
 
初、いはそゝくたるみのうへのさわらひのもえ出る春になりにけるかも
山水は石にふれてたれ下れは、石そゝくたるみとはつゝくるなり。たるみは津の國豐嶋郡に有。第七卷の十二葉に、いのちさちひさしきよしもいはそゝくたるみの水をむすひてのみつ。此哥につきてすてに注せり。第十二には、いしはしるたるみ の水とよめり。おなし心なり。此御哥、いかなる吉事にあはせたまへる時よませたまふとはしらねとも、さ《(朱)早は音を取にあらすわさといふ詞の上畧なり》わらひの、ねにこもりてかゝまりをれるが、もえ出る春になるは、まことに時にあへるなり。天智天皇の御子なから、御位につかせたまはさりしかとも、時におもうせられたまひて、事にあたりたまふ事もなくて、御子白壁王おもひかけぬ」高みくらにのほらせたまひて、光仁天皇と申奉り、此皇子も田原天皇の御をくりなを得たまひ、.御子孫今にあひつゝきて、御位をつかせたまふは、此御哥にもとゐせるなり。今うけたまはるも、よろこはしき御哥なり。世に人のおほえたるは、いはそゝくたるひの上なるを、顯昭法師、行成卿のかゝれたる倭漢朗詠集に、いはそゝくたるみのうへとあるよし證してかゝれたり。今も、ある大名の御許にある、行成卿筆跡の朗詠集を臨寫せる本とて、それを、またうつせるを見侍りしに、顯昭の見られける本にや、まことにたるみのうへと侍り。これはかたはらにいへるなり。さきにいへることく、此集に三所まてあれは、たるひはあやまれることをしりぬ
 
鏡王女歌
 
目録に一首とあり、今脱せり、六帖喚子鳥、
 
1419 神奈備乃伊波瀬乃杜之喚子鳥痛莫鳴吾益《カミナヒノイハセノモリノヨフコトリイタクナナキソワカコヒマサル》
 
伊波瀬、【校本一或瀬作v湍、】
 
(3)神奈備乃伊波瀬といへば大和國高市郡に有なるべし、此鏡王女は後に天武天皇のめし給ひければ、岩瀬社淨御原宮の方なるべきに、喚子鳥の我を喚やうに鳴けば戀の益るとは讀たまひけるなるべし、
 
初、神なひのいはせの杜のよふこ鳥いたくなゝきそわかこひまさる
いはせの杜大和なり。呼子鳥は此集にはあまたよみ侍るを、古今集には春部にたゝ一首見え侍り。後々は彼集につきて、家々のならひ出來て、此よふこ鳥も、こと/\しく人の申物となれり。詩經なとに出たる鳥獣草木も、諸家の説まち/\なれと、此國のことく、事有かほにいへる人なし。されはよふこ鳥も、昔は人ことに知たる鳥にて侍けむを、昔有し物の今なきもあり。また昔なかりし物の今有もあり。又いやしきものゝ、昔よりある名をしらて、わたくしにいやしき名をつけてよふを、その物すくなくて、然るへき人もよくしらねは、かのいやしくわたくしにつけたる名をよふまゝに、物はそれなから、名のかはりゆきて、物と名と、みなたゞしらすにしらすなりぬる事おほし。よふこ鳥を、今の世その鳥としる人のなきも此ゆへなり。長流か申けるは、よふこ鳥といふゆへに、子をよふやうにもよそへよめど、ぬえをぬえこ鳥とよめるたくひにて、人をよふやうになけは、よひ鳥といふ心にて、子は付たる字なるへしと申き。さもと聞ゆ。和名集にも、此集を引て名をのみ出したれは、それと知かたし。山深くのみ鳴鳥とおもへと、後撰集に、春道列樹
  わかやとの花になゝきそよふこ鳥よふかひ有て君もこなくに
かくよみたれは、さもあらす。春のみ啼鳥かとおもへは、此卷に
  よのつねに聞はくるしきよふこ鳥こゑなつかしき時にはなりぬ
よのつねに鳴とよみたれは、春にもかきらす。此卷に時鳥にましりて夏の哥にもよめり。夜も鳴鳥なり。此卷に
  わかせこをなこしの山のよふこ鳥君よひかへせ夜のふけぬとに
いたくなゝきそわか戀まさるとは、聲のかなしきにつけても、又はおもしろきにつけても、人をこひおもふ心のまさるなり。古今集の素性法師の哥に
  時鳥はつこゑきけはあちきなくぬしさたまらぬ戀せらるはた
これにつきて、顯注に今の哥をひけり
 
駿河釆女歌一首
 
1420 沫雪香薄太禮爾零登見左右二流倍散波何物花其毛《アハユキカハタレニフルトミルマテニナカラヘチルハナニノハナソモ》
 
何物花其毛、【幽齋本、別校本、共物下有v之、點與2今本1同、】
 
ハタレはまたらなり、第十と第十九とには雪をハタレとのみもよめり、又第十にはたれ霜ふりともよめれば雪に限る言にもあらず、ナガラヘ散は流れ散なり、此下句は梅の意なり、古今に白く咲るは何の花ぞもとよめるに同じ、梅の散とは知ながら知らずがほにて問由によめるはほむる意なり、列子云、商太宰見2孔子1曰、丘(ハ)聖者歟云云、商太宰大(ニ)駭(テ)曰、然(ラハ)則孰者爲v聖(ト)、孔子動v容|有v間《シハラク》曰、西方(ノ)之人有2聖者1焉、不(レドモ)v治而不v亂、不v言而自信、不v化而自行(ヘル)、蕩々乎民無2能名1焉、丘疑2其爲1v聖、弗v知2眞爲v聖歟、眞不v聖歟1、林氏口義云、弗v知2眞爲v聖眞不1v聖、是有2推尊之意1而爲2此不v定之辭1、これを思ひ合すべし、
 
初、沫雪かはたれにふると はたれは、第三に、八釣山木立も見えすと人まろのよみたる哥に、驪の字をかけり。またらなり。伊勢物語に、かのこまたらに雪のふるらんとよめる心なり。第十には、天雲のよそに雁かねきゝしよりはたれ霜ふりさむし此夜はと霜にもよめり。又第十と第十九とには、はたれとのみいひて雪の事とせり。なからへちるはなかれちるなり。第五の梅の哥の中にも、わかそのに梅の花ちるひさかたのあめより雪のなかくるかも。雪のふりくるは、なかるゝやうなれはいへり。なにの花そもは、梅のちるとは知なから、ほむる心に、しらすしてとふよしによめり。今の世の人の物いふにも、かくのことくなる事おほし。古今集旋頭哥に、打わたすをちかた人に物まうすわれ、そのそこに白くさけるは何の花そも。今の結句とおなし。又劉言史か過(ル)2春秋峡(ヲ)1詩に、※[山+肖]壁蒼々(トシテ)苔色新(ナリ)。無(シテ)v風情《晴歟》景自(ラ)勝(レリ)v春(ニ)。不v知何(レノ)樹(ソ)幽崖(ノ)裏。臘月開(テ)v花(ヲ)似《ムカフ・シメス》2北人(ニ)1。此何樹といへるも梅といはすして梅をいふなり。列子仲尼篇云。商(ノ)太宰見(テ)2孔子(ニ)1曰、丘(ハ)聖者歟○商(ノ)太宰大(ニ)駭(テ)曰。然(ラハ)則|孰《タレヒトヲカ》者爲(ル)v聖(ト)。孔子動(カシ)v容(ヲ)有(テ)v間《シハラク》曰。西方(ノ)之人有2聖者1焉。不(レトモ)v治而不v亂(レ)。不(レトモ)v言而自信(アリ)。不(レトモ)v化(セ)而自行(ハル)。蕩々(トシテ)乎民無2能名(クルコト)1焉。丘疑2其爲(カト)1v聖。弗v知2眞(ニ)爲《タル》v聖歟眞不(ル)v聖(ナラ)歟(トイフコトヲ)1。林希逸口義(ニ)云。弗(トイフハ)v知(ラ)2眞(ニ)爲(ルカ)v聖(ト)眞(ニ)不(ルカトイフコトヲ)1v聖(ナラ)是(レ)有(テ)2推尊(フル)之意(ロ)1、而爲(ス)2此不v定(マラ)之辭(ヲ)1。今の哥もこれとおなしく形容するなり。何物は二字引合てなになり。又初の五もしのかといへるは、句絶にはあらす。後の哥ならは、あはゆきやはたれにふるとゝつゝけよむ心なり
 
尾張連歌二首 名闕
 
(4)1421 春山之開乃乎爲黒爾春菜採妹之白※[糸+刃]見九四與四門《ハルヤマノサクノヲスクルニワカナツムイモカシラヒモミラクシヨシモ》
 
開乃乎爲黒爾、【別校本云、サキノヲスクロニ、袖中抄、開作v關セキノヲスクロニ、官本或開作v關、點云、セキノヲスクルニ、】
 
開乃は第四に中臣女郎が娘子部四咲澤二生流花勝見とよめる歌に注せし如くサキノと讀て佐貴野なるべし、春山之とおけるは春山之花の開と云意なり、第十に能登河の水底さへにてるまでに、三笠の山は咲にけるかもとよめるも花と云はざれど花の事なるになずらへて知べし、さて弟二の句は佐貴野を我過行と云へるなり、黒の字をクルに用たるは、和名云、大和國城下郡黒田【久留田】此になずらふべし、此歌は第十三の長歌に、吾妹子に戀つゝ來れば、あごの海の荒磯の上に、濱菜採あま乙女等が、まつひたる領巾もてるかに、白妙の袖振見えつなどよめる處に相似たり、見ラクシのし〔右○〕は助語なり、袖中抄にすくろの薄を釋する處に淡津野のすくろの薄と云歌を出して云、すくろの薄とは春の燒野の薄の末の黒き也、ゑもじを略してすくろと云へる也、萬葉云とて今の歌を關乃乎爲黒爾と引て、又基俊歌、春山のせきのをすくろ掻分て、つめる若菜に沫雪ぞ降、是は萬葉歌を本にて詠歟、すくろとは草の末黒しと云なり、萬葉抄云、さきのをすくろにとは所名也、今云春山の開乃と云までぞ所にては有べき、すくろは少末黒(5)き草と云べきなめり、萩とも薄とも草ともいはで唯すくろと云はむ事意得ねど萬葉歌はさのみ侍なり、はたれ雪をも唯はたれと云ひ、さゞれ石をも唯さゞれとよめり、或人云、すくろは薄の古き莖をばす〔右○〕と云、其古き莖の燒て黒ければすくろと云、それより角ぐむなり、以上袖中抄なり、風雅集卷上に藤原基俊とて袖中抄に引れたる歌を載られたるには、胸の句さき野のすゝきとあるは、をすくろを薄に定て改られけるにや、今の集にては佐貴野を過るにと意得べし、開を關に作り、を〔右○〕もじを小〔右○〕として下に連ぬるは唯異義を擧るのみなり、又上の木幡權僧正靜圓の後拾遺集に入たる歌は、催馬樂に鷹の子はまろにたうばらむ、手にすゑて淡津野の原のみくるすのめぐりの※[?+鳥]取らせむと云へみくるすを、今の歌を顯昭の説の如く古くせきのをすくろとも云る歟にて同じ物なめりと思ひて引合せてよまれたるにやあらむ、神功皇后紀(ニ)云、忍熊《オシクマノ》玉曳(テ)v兵(ヲ)稍退、武内宿禰出2精兵(ヲ)1而追v之、適過2于逢坂(ニ)1以破、故(レ)號2其處1曰2逢坂1也、軍衆走之及2于狹々浪(ノ)栗《クル》林1而|多《サハニ》斬(ル)、於v是血流溢2栗林(ニ)1、故惡2是野(ヲ)1至2于今1其栗林(ノ)之菓(ヲ)不v進2御所1也、み〔右○〕とま〔右○〕と通ずれば催馬樂のみくるす〔四字右○〕は此栗林を眞栗林と云へるにや、傍論なれど事の次なれば所存を注し侍るなり又袖中抄に開を關に作て假名をもせき〔二字右○〕と付たれど、万葉抄を引にさきのをすくろにと云ひて開關の異を云はず、又基俊歌もせきのをすくろと引れたれど(6)風雅集にはさき野の薄とあれば、袖中抄の今の本、開を關に誤て字に依てあやまちをふたゝびせるにや、
 
初、春山のさきのをすくるに 今の本にも、管見抄にも、さくのとよみ、すくるとあるをは、管見抄にすくろとよめり。さてさくのとよめるは、名所ときこえたり。未勘國といへり。風雅集春上に、藤原基俊
 春山のさき野の薄かきわけてつめるわかなにあは雪そふる
此哥は、今の哥によりて、さきのゝ薄とよまれたるは、たしかに名所とこゝろえてよまれたりと見えたり。管見抄に、春山は花さくにより、さく野といはむとて、春山とはいへり。をすくろのをは助語なり。すくろとは、春野をやくに、やけたる灰の残て、荻すゝきのすに入てあれは、すくろの薄なといふ。其草のやけあとより生るわかなをつむ心なり。顯昭法師は、春薄のはしめて生る末の、黒くみゆるを、すくろの薄とはいふなりといへり。今案春山之開乃乎爲黒とかけるをおもふに、乃は野にはあらすして、てにをはの字、乎は小の字、爲《ス》は土民の詞に、ひきくてわろき水田をすたといふ。かゝるすもしを付ていふ詞おほし。くろは黒の字は借てかけるにて、畔《クロ》の字にて、山のさきにある小田のすくろといふ心にや。第十に、芽子之花|開乃乎再《サクノヲフタリ》入|緒《ヲ》みよとかも月夜の清きこひますらくに。此哥萩の花は、さきとつゝけむためなり。開乃乎の三字のつゝき今の哥におなし。此集の文字無窮なれと、野といふには野の字をおほくかけるを、さき野といふ名所あらは、開乃とはかくへからす。第十の哥再入をふたりとよまは、下に緒の字を無用にあますへからす。開の字埼にかりて用る心ならは、をの字上にも下にもつかねは、再入もすくろとよむへきにや。されとしかよむへしとも見えす。第十四東哥の常陸哥に、さころものをつくはねろの山のさきとよみたれは、今の春山のさきのつゝきこれにおなしかるへき上に、春山に花さくによりてつゝくといふ心も、萩か花さきのとつゝけたるに、をのつからかよへり。後拾遺集に、權僧正靜圓の、春のこまをよめる哥に
  あはつ野のすくろの薄つのくめは冬立なつむ駒そいはふる
これは催馬樂鷹子に、鷹の子はまろにたうはらむ。手にすへて、淡津野の原のみくるすのめくりの鶉とらせん。やさきんたちや。此みくるすといふと、すくろといふとおなし心にて、これを取てよまれたる歟。此靜圓は和泉式部か孫なれは、ならひつたへてよまれたらんよし、顯昭も申されたり。神功皇后紀(ニ)云。忍《オシ》熊(ノ)王曳(テ)v兵(ヲ)稍(ニ)退(ソク)。武内宿禰出(シテ)2精兵(ヲ)1而追之。適遇(テ)2于逢坂(ニ)1以破。故號(テ)2其處(ヲ)1曰2逢坂(ト)1也。軍衆|走《ニク》之(ヲ)。及(ヒサキ)2于狭々浪(ノ)栗林《クルスニ》1而多斬。於v是血流(テ)溢《ツク》2栗林(ニ)1。故惡(テ)2是事(ヲ)1至(マテ)2于今(ニ)1其栗林之菓(ヲ)不v進御所《オモノニ》1也。これをおもふに、催馬樂のみくるすは、眞《マ・ミ》栗林《クルス》ろいふことにて、粟津野に有なるへし
 
1422 打靡春來良之山際遠木末乃開徃見者《ウチナヒキハルハキヌラシヤマノハノトホキコスヱノサキユクミレハ》
 
打靡、【官本又云、ウチナヒク、】  山際、【別校本又云、ヤマキハノ、】
 
發句官本の又點に依るべき事以前注するが如し、サキ行とは花なり、第十に大かた似たる歌あり、
 
初、うちなひき春はきぬらし 木末のさきゆくは花をもいひ、又このめのはりてひらくをもいふへし
 
中納言阿倍廣庭卿歌一首
 
1423 去年春伊許自而植之吾屋外之若樹梅者花咲爾家里《コソノハルイコシテウヱシワカヤトノワカキノウメハハナサキニケリ》
 
拾遺集には、いにし年ねこじて植しと改らる、朗詠集に入たるも同じ、伊は發語の詞、許自而は掘てなり、神代紀上云、忌部遠祖太玉(ノ)命、掘2天香山之|五百箇《イホツノ》眞坂樹(ヲ)1云云、古事記上云、天香山之五百津眞|賢木矣根許士爾《サカキヲネコシニ》許士而云々、
 
初、いこしてうへし いは例の發語の詞。こしては根こしにしてといふ心なり。神代紀云。而中臣(ノ)連(ノ)遠(ツ)祖天(ノ)兒|屋《ヤネノ》命忌部(ノ)遠祖太玉(ノ)命|掘《ネコシニシ》2天(ノ)香《カコ》山之|五百箇《イヲツノ》眞坂樹(ヲ)1云々
 
山部宿禰赤人歌四首
 
1424 春野爾須美禮採爾等來師吾曾野乎奈都可之美一夜宿二來《ハルノヽニスミレツミニトコシワレソノヲナツカシミヒトヨネニケル》
(7)スミレは和名集野菜類云、本草云、菫菜、俗謂2之菫葵1、【菫、音謹、和名須美禮、】野菜なる故に摘て花をも兼るなるべし、後々の歌には飲食を賤しめばにや、花故に摘やうにのみよめり、源氏には野をなつかしみをむつましみと引けり、
 
初、すみれつみにと 和名集野菜(ノ)類(ニ)云。本草云。菫菜俗謂2之(ヲ)菫葵(ト)1【菫音謹。和名須美禮。】すみれは野菜なるゆへにつみて、花をもかぬるなるへし。後々は哥には、飲食をいやしみてよまされはにや、花ゆへにつむやうにのみよめり。もろこしにも、詩經なとの詩は、花月を愛して作れりとは見えす。此國も大かたかよへり。ひとよねにけるは、第十九にも、いさゝかにおもひてこしをたこの浦にさけるふち見てひとよへぬへし
 
1425 足比奇乃山櫻花日並而如是開有者甚戀目夜裳《アシヒキノヤマサクラハナヒナラヘテカクシサケラハイトコヒメヤモ》
 
如是開有者、【六帖云、カクサキタラハ、】
 
日並而は日を經ての意なり、第十一には夜並而ともよめり、カクシサケラバは、し〔右○〕は助語にてかくさきてあらばなり、日を經てかくさきたるまゝにてあらばとなり、六帖にかくさきたらばは、かくさきてあらばにて猶意得やすし、
 
初、山さくら花日ならへて 日ならへては、日をへてなり。第六にも、あかねさす日もならへぬにとよめり
 
1426 吾勢子爾令見常念之梅花其十方不所見雪乃零有者《ワカセコニミセムトオモヒシウメノハナソレトモミエスユキノフレヽハ》
 
此吾勢子は妻なり、念之は古風に依てお〔右○〕を略してモヒシとも讀べし、フレヽバはふりあればなり、里阿切羅なれどふらればとは云ひがたければ初四相通じて如此は云へり、古今に梅の花其とも見えず久方の、あまぎる雪の並てふれゝばと云歌は今の腰句以下に同じ、
 
初、わかせこにみせんとおもひし 此わかせこは、妻をさして赤人のよめるなり。下は古今集に、人まろの哥と注したる、梅の花それとも見えす久かたのあまきる雪のなへてふれゝは。此哥をつゝめたるものなり
 
(8)1427 從明日者春菜將採跡※[手偏+栗]之野爾昨日毛今日毛雪波布利管《アスヨリハワカナツマムトシメシノニキノフモケフモユキハフリツヽ》
 
從明日者、【新古今、袖中抄、官本又點共云、アスカラハ、】
 
六帖と赤人集とには發句のはるたゝばとあるは改たるにや、腰句を袖中抄にしめののにと云ひて、常はしめしのにとよむと云へるは如何なる故ぞ、おぼつかなし、第十八に家持のよまれたる、みしま野に霞たな引しかすがにと云歌の下句今と全同なり、
 
草香山歌一首
 
草香山は河内なり、第四に草香江とよめるに注せしが如し、古事記下、雄略天皇|日下《クサカ》に行幸してよませ給へる御歌云、久佐加《クサカ》辨能|許知能夜《コチノヤ》麻登、多々美許母弊具理能夜麻能|許知碁知能夜麻能賀比《コチコチノヤマノカヒ》爾云云、
 
1428 忍照難波乎過而打靡草香乃山乎暮晩爾吾越來者山毛世爾咲有馬醉木乃不惡君乎何時往而早將見《オシテルナニハヲスキテウチナヒククサカノヤマヲユフクレニワカコエクレハヤマモセニサケルツヽシノニクカラヌキミヲイツシカユキテハヤミム》
 
忍照、【校本云、オシテルヤ、】  咲有馬醉木乃、【別校本云、サケルアセミノ、】
 
打靡は草とつゞけむ爲なり、續古今旅部讀人しらずの歌に、おしてるなにはを過てう(9)ちなびく、くさかの山を今日見つる哉とあるは此歌の初を裁取たるにや、山モセニとはせ〔右○〕は狹にてせばき意なり、咲有馬醉木乃不惡君とは、厭はしからぬ事をつゝじによせて云なり、第十にも、春山の馬醉花のにくからば、君にはしゑやよりぬともよしとよめり、何時《イツシ》はし〔右○〕は助語なり、此は奈良京に妻を置ける人の、難波より歸來る道に草香山を超とてよめるなり、
 
初、おしてるなにはを過て 此初の四句は、人まろの哥の、けふみつるかもといふ一句たらさるものなり。さけるつゝしのにくからぬとは、きらはしからぬなり
 
右一首依作者微不顯名字
 
櫻花歌一首并短歌
 
1429 ※[女+感]嬬等之頭挿乃多米爾遊士之※[草冠/縵]之多米等敷座流國乃波多弖爾開爾鷄類櫻花能丹穗日波母安奈何《ヲトメラカカサシノタメニタハレヲノカヅラノタメトシキマセルクニノハタテニサキニケルサクラノハナノニホヒハモイカニ》
 
安奈何、【袖中抄云、アナニ、】
 
敷座流、此句の上には二句許落たる歟、袖中抄に雲のはたてを釋する所に今の歌に國乃波多?爾と云へるを引合すとて引かれたるにも今の本と替らず、試に補て云はゞ八隅知之吾大君乃なるべし、國乃波多弖は顯昭云、雲のはたてとは空の廣き意なり、はたは將と云意なり、て〔右○〕はよろづの事にわたりたる事也、常には夕の雲の旗の手に似た(10)るを雲の旗手とはあまたの文に申たれど、萬葉集の長歌を見るに、國のはたてに咲にける櫻の花と讀たれば、國には旗手有と云べくもなければ、空の廣きをば雲のはたてと云ひ、地の廣きをば國のはたてとよめるにやとなずらへて思ふ也、假令雲の旗手と云べくは、花の色々に咲みちたるをはたてと云べきにや、其は猶心ゆかず、古歌をば歌ひとつに付てはいみじく釋する程に、あまたの歌を見る時に違ふなり、今按此法師の古今秘注を見るに、戰の場、御即位の時、諸陣などに立る旗のやうなる赤き雲の夕暮に立をば雲の旗手と云なり、旗の手のやうに夥《オビタヾ》しく廣ごりて夕日の空にまがひて夕日やけする也云云、かゝれば袖中抄は古今の注より後に今の國のはたてと云に心づきて説を改られけるにや、はたは將と云意なり、てはよろづの事にわたりたる事也とはいかなる意とも知がたし、愚按は、國のはたて雲のはたて同じ意なりとも、共に旗手にて譬なるべし、其中に雲は豐旗雲ともよみて旗に似たるが立ひろごるを云ひ、國はひろごりてあるを旗手と譬へむに難あるべからず、雲の旗手と云べくば花の色々に咲みちたるをはたてと云べきにやとは、此難いはれざる歟、さては國のはたて櫻の花のはたてと云ひて、はたては廣歟、若又此は今の歌に付ては云はずして花の咲滿たるも雲に似たれば雲の旗手と云べくば花の旗手とも云べし、花の旗手と云べからざれば(11)雲の旗手とも云べからずと義勢を作り懸たるか、さるにても云はれず、雲と花とは互にまがへど、雲こそ旗には似て立なれ、何處にか花の旗に似てさける事あらむ、武烈紀に天皇御製云、之〓世能儺嗚理嗚彌黎磨阿蘇寐倶屡《シホノナヲリヲミレハアソヒクル》、思寐我簸多泥※[人偏+爾]都摩陀底理彌喩《シヒカハタテニツマタテリミユ》、此下句の意は鮪之鰭手に妻立り見ゆなり、鮪《シヒ》臣が影媛を引のけて己が其前に立塞がりたるを鮪のひれに隱れて妻の立たるが見ゆると遊ばせり、或は落句は※[足+支]り見ゆにて鰭を張て※[足+支]て血氣を振ふ由歟、軍の旗、魚の鰭、和語の本は同じ、又古事記下、顯宗天皇段に志※[田+比]臣が歌云、意富美夜能袁登都波多傳須美加多夫祁理《オホミヤノヲトツハタテスミカタフケリ》、此をとつはたてとは何を云へるか意得がたし、若旗二|流《ナカレ》立る中に次に擧るを云ひて、弘計皇子は億計皇子の御弟にてましますに喩へてすみかたぶけりとは、懸れる旌の風に吹なびかされて頭の方の傾くによそへて詛ひ奉る意によめる歟、然らば波多傳の詞は引て證すべし、安奈何をイカニと點ぜば安の字は衍文歟、袖中抄にあなに〔三字右○〕と有は何の字を荷に通じて讀て、うるはしむ意にや、神武紀云、三十一年夏四月乙酉朔、皇輿巡幸因登2腋上〓間丘1而廻2望國状1曰、妍哉《アナニヤ》乎|國《クニ》之|獲《エツ》矣、【妍哉此云2鞅奈弭夜1、】此妍の意歟、
 
初、をとめらか かつらのためとゝきりて、これをは櫻にかけてみるへし。國のはたては、くにのはてにて、あらゆる國のかきりにさく花をおもひやるなり。舟はつるといふに、竟の字をかきたり。又しはつ山といふに、四極山とかきたれは、はてはきはみにて、大君のしきます國のあるかきりといふ心なるへし。尤花を愛する心なり。安の字は衍文ならん歟
 
反謌
 
(12)1430 去年之春相有之君爾戀爾手師櫻花者迎來良之母《コソノハルアヘリシキミニコヒニテシサクラノハナハムカヘクラシモ》
 
相とは花を愛して情ある人に花の相逢を云へり、戀ニテシはに〔右○〕は助語なり、賞翫せし去年の人を花の戀るなり、迎來ラシモとは咲てにほふが去年の人を見に來よと迎るに似たるを云へる歟、第十に、秋田苅苫手うごくなり白露は、置穗田なしと告に來ぬらし、情なき物にも情あらせてよむは歌の習なり、此歌、長歌に敷座流國乃など云へるに合すれば、君と云へるは帝を申にや、
 
初、こその春あへりし君にこひにてし あふとは花を愛する人に花の相あふをいへり。こひにてしは、には助語にて、こひてしなり。これも櫻が心ある人に賞翫せられしを、おもふ人の相逢やうにいへり。むかへくらしもは、櫻の咲にほふが、こその人を見にこよとむかふるに似たるをいへり
 
右二首若宮年魚麻呂誦之
 
山部宿禰赤人歌一首
 
1431 百済野乃芽古枝爾待春跡居之※[(貝+貝)/鳥]鳴爾鷄鵡鴨《クタラノヽハキノフルエニハルマツトスミシウクヒスナキニケムカモ》
 
百濟野は大和國廣瀬郡なり、第二に人丸の言さへぐ百濟之原とよまれたる同所なり、第二に已に注せり、芽古枝は芽は草ながら枯ずして有を、刈ずしてさて置けば、春になりて芽の出るなり、古今に秋萩の古技に咲ける花見ればとよめる是なり、芽の古枝のしげき中にすごもれる※[(貝+貝)/鳥]の、今は春べと鳴つらむかとなり、芽の古枝の萠出むと春待(13)如く、※[(貝+貝)/鳥]も春を待とよめりとも云べし、道有て隱れ居たる人の明君に逢て出る意などを兼てよめる歟、鷄鵡鴨の三字は※[(貝+貝)/鳥]より類を思ひてかける歟、
 
初、くたら野のはきの くたら野は大和なり。第二に、人まろの、ことさへくくたらの原とよまれし所なり。舒明紀云。十一年秋七月詔曰。今年造2作大宮及大寺(ヲ)1則以2百濟川(ノ)側《ホトリヲ》1爲2宮處(ト)1。〇十二月〇是月於2百濟済川側1建2九|重《コシノ》塔(ヲ)1。十三年冬十月己丑朔丁酉、天皇崩2于百濟宮(ニ)1。丙午殯(ス)2於宮北(ニ)1。是(ヲ)謂2宮濟(ノ)大|殯《ムカリト》1。すみしは居之とかきたれは、をりしともよむへし。此哥は、道ありてかくれたる人の、明君にあひ奉て、出てつかふる心なとをこめてよめるにや
 
大伴坂上郎女柳歌二首
 
1432 吾背見我見良牟佐保道乃青柳乎手折而谷裳見綵欲得《ワカセコカミラムサホチノアヲヤキヲタヲリテタニモミルイモニモカ》
 
見綵欲得は、綵は縁にてミルヨシモガナにや、
 
初、見綵欲得 此綵の字は、もし縁の字の誤にて、みるよしもかなにや。いろといふよりは、よしにてありぬへくおほゆる哥なり
 
1433 打上佐保能河原之青柳者今者春部登成爾鷄類鴨《ウチアクルサホノカハラノアヲヤキハイマハハルヘトナリニケルカモ》
 
打上、【六帖云、ウチノホル、別校本同v此、】
 
發句は六帖によりて讀べし、川原にそひて上るなり、第七に、佐保川に鳴なる千鳥何しかも、川原をしのびいや川のぼる、又第十喚子鳥をよめる歌にも、佐保の山べを上り下りにとよめり、平家物語などにも川原をのぼりにとかけり、玉葉にうちわたすとあるは改られたり、下句は王仁が咲や此花の歌に似たり、
 
初、うちあくるさほのかはら 打あくるさほとつゝけたるは、舟はさすさほは、ふかくさしいれて、又引あくる物なれは、それを打あくるといひかけたるなるへし。東坡か赤壁賦にも、桂(ノ)櫂《サホ》兮蘭(ノ)※[將/木]《カチ》、撃(テ)2空明(ニ)兮|泝《サカノホル》2流光(ニ)1といへり。あるひは旗竿物をほす竿なとの類、皆さしあくる物なれは、打あくるさほとはいへるなるへし。しかるを、機の具の梭《カヒ・ヒ》なりといへるは、梭の字玉篇云。且泉(ノ)切。木名。蘇和(ノ)切。織具。此蘇和の反に、音をさと呼て、うちあくるは打投るなり。光陰の早く過るを一飛梭と詩にも作れり。さをなくる間といへは、しはしの事なり。さほといふさの字をとらんとて、うちあくるとはいひかけたるなりといへり。詩にこそ音を用て作らめ。かひともひともいふ和語あるをゝきて、音を用へきやうなし。又打あくるとあるを、打殺るなりといへるも、無窮の料簡なり。さをなくる間といふ事も、光陰|疾々《暗記失念》一飛梭といふ句によりて、後の人のいへるなり。第十三に、なくるさとよめるは、矢のことなり。投矢《ナグヤ》ともよめる哥有。後に注すへし。今は春部となるといへるは、王仁がなには津の哥に似たり。玉葉集には、打あくるを打わたすとあらため、成にけるかもを、もえにけるかもと改らる。打あくるは、さほといはむ枕詞なるを、聞にくゝもあらぬに、何ゆへかあらためられけむ
 
 
大伴宿彌三林梅歌一首
 
三林、系譜未v詳、
 
1434 霜雪毛未過者不思爾春日里爾梅花見都《シモユキモイマタスキネハオモハスニカスカノサトニウメノハナミツ》
 
(14)未過者は、上に云如くいまだすぎぬになりすぎねばにても意得らるれど、唯初の意に依るべし、
 
厚見王歌一首
 
新古今集に今の歌を取るに原見王とあるは上の目録に厚を誤て原に作れるに依てなり、
 
1435 河津鳴甘南備河爾陰所見今哉開良武山振乃花《カハツナクカミナヒカハニカケミエテイマヤサクラムヤマフキノハナ》
 
今哉、【官本、哉作v香、點云、イマカ、】
 
六帖には發句をちはやぶるとて山吹の歌とせり、甘南備河は大和國高市郡にあり、
 
大伴宿禰村上梅歌二首
 
稱徳紀云、神護景雲二年九月辛巳、勅、今年七月十一日得2日向國宮崎郡(ノ)人大伴人益所(ノ)v獻(ヅル)白龜赤眼1、大伴(ノ)人益授2從八位下(ヲ)1、賜2※[糸+施の旁]十匹綿廿屯布卅端正税一千束(ヲ)1、又父子之際、同心天性、恩賞(ノ)所v被、事須2同沐1、人益(カ)父村上者恕以2縁黨1、宜(シクv放2入京(ヲ)1、光仁紀云、寶龜二年四月壬午、正六位上大伴宿禰村上授2從五位下1、十一月癸未朔辛丑、肥後介、三年四月從五位上大伴宿禰村上爲2阿波守1、
 
初、大伴宿禰村上 稱徳紀云。神護景雲二年七月壬申朔庚辰、日向國(ヨリ)獻(ス)2白龜1。九月辛巳勅。今年七月十一日得(タリ)2日向國宮崎郡人大伴人盆(カ)所(ノ)v獻(マツル)白亀(ノ)赤眼(ナルヲ)1。〇大伴人盆(ニ)授2從入位下(ヲ)1。賜2※[糸+施の旁]十匹、綿廿屯、布廿端、正税一千束(ヲ)1。〇又父子(ノ)之際同心天性(ナリ)。恩賞(ノ)所v被事須2同沐(ス)1。人益(カ)父村上者恕(スニ)以(ス)2縁黨(ヲ)1。宜(シク)v放《ユルス》2入京(ヲ)1。光仁紀云。寶龜二年四月壬午、正六位上大伴宿禰村上(ニ)授2從五位下(ヲ)1。十一月葵未朔辛丑、肥後介。三年四月從五位上大伴宿禰村上爲2阿波(ノ)守(ト)1
 
(15)1436 含有常言之梅我枝今且零四沫雪二相而將開可聞《フヽメリトイヒシウメカエケフフリシアワユキニアヒテサキニケムカモ》
 
今且、【別校本、幽齋本並云、ケサ、】
 
今且はケサと點ぜるに依べし、
 
初、けふゝりし 今旦とかきたれは、けさふりしとよむへし。あはゆきにあひて咲とは、知人を待えたる心なり。ふゝむはふくむにてつほむなり。神代紀にも含の字をふゝむとよめり
 
1437 霞立春日之里梅花山下風爾落許須莫湯目《カスミタツカスカノサトノウメノハナヤマシタカセニチリコスナユメ》
 
霞の立て霞むと云意につゞけたる歟、然らば發句をカスミタチと和すべきか、第三の春霞春日里爾とつゞけたるに思ひ合すべし、次の歌の發句准v之、
 
大伴宿禰駿河麻呂歌一首
 
1438 霞立春日里之梅花波奈爾將問常吾念奈久爾《カスミタツカスカノサトノウメノハナハナニトハムトワカオモハナクニ》
 
下句の意は花の一盛なる如くあだなる意にて人を問むとは思はずとなり、
 
初、花にとはむと これは花の咲時きてみるを、人をとふらふになすらへて、とふといへり。霜雪の時、今のことく花を見むとはおもはさりしとなり。若相聞なとにたとふる心ならは、花は盛にのみきてみて、ちりぬれはこぬを、わか人をとふことは、さはせしとおもふよしなり
 
中臣朝臣武良自歌一首
 
武良自無v所v考、
 
1439 時者今者春爾成跡三雪零遠山邊爾霞多奈婢久《トキハイマハハルニナリヌトミユキフルトホキヤマヘニカスミタナヒク》
 
遠山邊爾は遠き山べにもの意にて近きを兼て云へり、天子の恩光のいたらぬ所なき(16)に譬る意もこもるべし、
 
河邊朝臣東人歌一首
 
1440 春雨乃敷布零爾高圓山能櫻者何如有良武《ハルノアメノシキシキフルニタカマトノヤマノサクラハイカニアルラム》
 
春雨乃敷布零爾、【別校本云、ハルサメノシク/\フルニ、】  何如、【幽齋本云、イカニカ、】
 
大伴宿禰家持※[(貝+貝)/鳥]歌一首
 
1441 打霧之雪者零乍然爲我二吾宅乃苑爾※[(貝+貝)/鳥]鳴裳《ウチキラシユキハフリツヽシカスカニワカヘノソノニウクヒスナクモ》
 
吾宅、【六帖云、ワカイヘ、後撰、拾遺同v此、幽齋本云、ワキヘ、】
 
打霧之は、第九に霍公鳥の歌に、掻|霧之《キラシ》雨零|夜乎《ヨヲ》とよめるに同じ、雪ふらむとて霧の立なり、此發句、後撰にはかきくらし、拾遺にはうちゝらしとあるは共に改たるなり、
 
初、うちきらし 打くもりの心なり。くもるは雲につきていひ、きるとは霧につきていへり。しかすかはさすかなり
 
大藏少輔丹比屋王眞人歌一首
 
1442 難波邊爾人之行禮波後居而春菜採兒乎見之悲也《ナニハヘニヒトノユケレハオクレヰテワカナツムコヲミルカカナシサ》
 
此は夫の公役にて難波あたりへ行たるに、留りたる妻の待佗てせめての心やりに若菜を摘を見るがあはれなるとなり、也は漢の法にて加へたる助語なり、歌よまむ人は(17)かゝる心あるべきものなり、
 
初、なにはへに人のゆけれは 上に人といへるは夫なり。夫の難波へ行て久しく歸らぬほと、のこしおける妻の、手すさひにわかなをつむをみるがかなしきとなり。せめての心やりにつめは、おもふことなき人の、野遊の興につむとかはれはなり
 
丹比眞人乙麻呂歌一首
 
官本、此下注云、屋主眞人之第二子也、今按目録下有2此注1、目録據2端作1、尤可v有v之也、
 
初、丹比眞人乙麻呂 稱徳紀云。天平神護元年正六位下多治比眞人乙麻呂授從五位下
 
1443 霞立野上乃方爾行之可波※[(貝+貝)/鳥]鳴都春爾成良思《カスミタツノカミノカタニユクシカハウクヒスナキツハルニナルラシ》
 
行之可波、【幽齋本、別校本並云、ユキシカハ、】
 
野上は、第二に佐美乃山野上乃宇波疑《サミノヤマノカミノウハキ》とよみ、第六には飽津之小野笑野上者《アキツノヲノノノカミニハ》と讀たると同じく意得べし、美濃國不破郡にある野上にてはあるべからぬなり、腰句は今本の點は誤れり、幽齋本に依べし、
 
初、霞たつ野上のかたに 此野上といへるは、いつくにもあれ、野の上の方をいへるにや。第二には、さみの山野上のうはきとよみ、第六には、秋津のをのゝ野上にはとよめるたくひなるへきを、美濃に野上里あれは、此哥をもそこの哥とせり。風雅集には讀人不知
 
高田女王歌一首 高安之女也
 
1444 山振之咲有野邊乃都保須美禮此春之雨爾盛奈里鷄利《ヤマフキノサキタルノヘノツホスミレコノハルサメニサカリナリケリ》
 
此春之雨爾、【官本、校本並又云、コノハルノアメニ、】  盛奈里鷄利、【別校本、里作v利、】
 
春之雨爾は、ハルノアメとよめるに付べし、
 
初、山ふきの咲たる野への つほすみれは壺菫なり。すみれの花には、下の方にまろくてつほのことくなる所あれは、つほすみれとはいふなり。俗にすまひとり草といふは、わらはへとものそのつほのことくなる所を、互にかけて引あひて、きれぬ方をかちとし、きるゝかたをまけとするによりてなり。山ふきの咲たる野へとかさりていへるは、をみなへし咲澤におふる花かつみなとよめるたくひなり
 
大伴坂上郎女歌一首
 
(18)1445 風交雪者雖零實爾不成吾宅之梅乎花爾令落莫《カセマセニユキハフレトモミニナラヌワキヘノウメヲハナニチラスナ》
 
風交、【別校本、官本並又云、カセマシリ、】  吾宅之、【校本、官本並又云、ワカイヘノ、】
 
風交は、第十に風交雪者零乍とよめるを、新古今にかぜまぜにとて入られたれど、此集にはカゼマジリとあり、又第五貧窮問答歌に、風雜雨のふる夜のとあるもカッゼマジリと點ぜり、かぜまじりと云は二つの中には古風なるべければ此に附べし、雖零はフルトモとも讀べし、花爾チラスナとはあだ花にちらすなとなり、第十にも、秋芽は雁にあはじと云へればか、聲を聞ては花に散ぬるとよめり、和名云、爾雅云、榮而不v實謂2之英1、【於驚反、訓阿太波奈、】今花と云へるは此英なり、
 
初、風ませに雪はふれとも 雖零を、おなしくはふるともとよむへし
 
大伴宿彌家持養※[矢+鳥]歌一首
 
目録には養を春に作れり、第十に春雉鳴と書てキヾスナクとよめれど、今按ずるに養なるべし、其故は歌の下句己が住あたりを鳴て知らせし故に捕れて飼はると云意なり、又唯雉をよまば春の字無用なり、
 
初、養《カヘル》※[矢+鳥](ノ)歌 目録には春※[矢+鳥]とあれとも、こゝに養※[矢+鳥]とあるを正とすへし
 
1446 春野爾安佐留※[矢+鳥]乃妻戀爾已我當乎人爾令知管《ハルノノニアサルキヽスノツマコヒニオノカアタリヲヒトニシレツヽ》
 
春野爾、【官本云、ハルノニ、】
 
(19)安佐留※[矢+鳥]乃を六帖にはあさなくきじのと改ため、當〔右○〕をば拾遺六帖共にありかと改む、令知をシレとよむ事不審なり、しれはしられなれば所知とぞ書ぬべき、但第十三の長歌の中にも人不令知と書るをヒトシレズと點ぜり、しらしむる故にしらるヽ意にかくも書にや、※[矢+鳥]妻戀に鳴は、毛詩小弁目、雉(ノ)之朝※[句+隹]、尚求2其雌1、第十九に同じ家特、杉の野にさをとる雉いちじろく、ねにのみなかむこもりづまかも、
 
初、春の野にあさるきゝすの つまこひしてなくゆへに、をのかすむあたりを人に知られて、取てかはるゝといふ心とみれは、養※[矢+鳥]を正とすへしとはいへり。第十九に、杉の野にさをとるきゝすいちしろくねにしもなかむこもり妻かも。毛詩(ノ)小弁(ニ)曰。雉(ノ)之朝(ニ)※[句+隹]《ナク》、尚求(ム)2其雌(ヲ)1。拾遺集には、をのかありかをと改らる
 
大伴坂上郎女歌一首、
 
1447 尋常聞者苦寸喚子鳥音奈都炊時庭成奴《ヨノツネニキクハクルシキヨフコトリコヱナツカシキトキニハナリヌ》
 
尋常、【六帖云、トコトハニ、】 聞者、【六帖云、キケハ、官本又點同v此、】
 
尋常とは春ならぬ他時なり、此歌、喚子鳥のいつも鳴證なり、聞者苦寸は聞苦しきにて、きゝにくきなり、見にくきを見苦しと云が如し、
 
初、よのつねにきくはくるしき さきにもいへることく、此哥によれは、よふこ鳥は常になく鳥なるへし。聞はくるしきとは、見くるしきといふことく、きかまうきをいへり。よふこ鳥は、ぬえ歟、鳩の類なるへし。第五卷貧窮問答歌に、ぬえ鳥のゝどよびをる《・喉呼居》にとよめり。源仲正哥に、あしひきの山鳩のみそすさめける散にし花のしへになるみを。これは俗に、年よりこよと鳴といへは、その心をよめりときこゆ。亦雨鳩呼v婦(ヲ)ともいへり。和名集には、喚子鳥と別に出して、此集を引て證していかなる鳥とも尺せられす。しかれは※[空+鳥]にも鳩にもあらすと見えたれと、彼集は此國の寶なから、日本紀此集なとの中に、たしかに和名ある物の中に、尺しもらされたる物おほけれは、その例にやとも申へし。又稻負鳥のことく、名を出して尺せぬを、清輔朝臣の奥義抄に、順かわきまへさらむほとのことを今の人わきまへかたしといはれたるは、大才の人をたふとふことはさることなれとも、順のしらすして尺せられさるにはあらす。その時の人は、皆その物としりて、別に尺すへきことのなきなるへし。佐保宅作とは、坂上郎女の父大伴安麿をは、第四卷に佐保大納言といへは、其家にてよめるなり
 
右一首天平四年三月一日佐保宅作
 
佐保に喚子鳥を多くよめる事第四の安都年足が歌に注せしが如し、
 
春相聞
 
大伴宿彌家持贈坂上家之大孃歌一首
 
(20)1448 吾屋外爾蒔之瞿麥何時毛花爾咲奈武名蘇經乍見武《ワカヤトニマキシナテシコイツシカモハナニサカナムナソヘツヽミム》
 
咲奈武は六帖にもさかなむとあれど、願ふ詞なればいつかと云にかけあひがたき歟、サキナムと點じ換べきにや、但後撰に小野宮殿の歌に、松も引若葉も摘ず成ぬるを、いつしか櫻はやもさかなむとあれば今の點ひが事にあらず、ナゾヘツヽ見ムはなぞへつゝ見むと云なり、第八第十一第十八にもナゾヘとよめり、伊勢物語にも、なぞへなく貴き賤き苦しかりけりとよめり、後撰に、我宿の垣根に植し撫子は、花にさかなむよそへつゝ見むとあるは此歌なるべし、
 
初、なそへつゝみむ なそらへつゝみむなり。伊勢物語に、あふな/\おもひはすへしなそへなくたかきいやしきくるしかりけり。なてしこのうるはしきを、坂上大孃になすらへてみむとなり
 
大伴田村家毛大孃與妹坂上大孃歌一首
 
毛は之の字を誤れり、第四にも大伴田村家之大孃贈2妹坂上大孃1歌四首など有き、
 
1449 茅花拔淺茅之原乃都保須美禮今盛有吾戀苦波《ツハナヌクアサチカハラノツホスミレイマサカリアリワカコフラクハ》
 
今盛有、【幽齋本云、イマサカリナリ、】
 
第四の句の今の點は書生の誤なるべし、幽齋本に依るべし、上句は今盛なりと云はむためながら、物をみて諸共に野遊せむ事を惜む意知ぬべし、
 
初、つはなぬく 第十に、わかせこにわかこふらくはおく山のつゝしの花の今さかりなり
 
大伴宿彌坂上郎女歌一首
 
(21)1450 情具伎物爾曾有鷄類春霞多奈引時爾戀乃繁者《コヽロクキモノニソアリケルハルカスミタナヒクトキニコヒノシケレハ》
 
物爾曾有鷄類、【六帖云、モノニサリケル、】  繁者、【六帖云、シケキハ、】
 
發句を六帖には心うきとあれど、具伎は苦しきなり、第四の末に家持歌に此に似たる有て注せりき、
 
初、心くき物にそ有ける 心くきは心くるしきなり。第四に、家持哥に、心くゝおもほゆるかも春霞たなひく時にことのかよへは。似たる哥なり
 
笠女郎贈大伴家持歌一首
 
1451 水鳥之鴨乃羽色乃春山乃於保束無毛所念可聞《ミツトリノカモノハイロノハルヤマノオホツカナクモオホヽユルカモ》
 
水鳥之鴨乃羽色之、【官本、或作2水鳥之三鴨乃羽色乃1、點云、ミツトリノミカモノハイロノ、】  所念可聞、【別校本、幽齋本並云、オモホユルカモ、】
 
鴨ノ羽色ノとは青きなり、此卷下にも水鳥の青羽の山とよみ、第二十にも水鳥の鴨の羽の色の青馬とよめり、春山ノオボツカナクとつゞけたるは、欝の字、思ひの胸に滿てふさがれるなれば、春山の色の欝々として青きにもそへて云なり、此おぼつかなきは不審にはあらず、落句今の點は書生の誤なるべし、
 
初、水鳥の鴨の羽色 鴨の羽色とは青きをいふ。此卷の下に、水鳥の青葉の山とよめるもおなし心なり。第二十にも、水鳥のかもの羽の色の青馬とよめり。青山のおほつかなきとは、欝の字をおほつかなきとよめり。欝の字の心は、たとへはさかりにもゆる木を、灰の下にさしいれたるが、さすかにもえ出ねと、下にふすほるやうの心なり。春山の、陽気下にみちて、やゝもえ出れと、猶くゆるやうなるを、むねにおもひのふさかりたるにたとへていふなり。不審なるをも、おほつかなしといへと、不審はせはく欝悒はひろし
 
紀女郎歌一首
 
1452 闇夜有者宇倍毛不來座梅花開月夜爾伊而麻左自常屋《ヤミヨナレハウヘモキマサスウメノハナサケルツキヨニイテマサシトヤ》
 
一二の句は今夜を云にあらず、さきに闇なりし夜を云なり、今按ヤミナラバ、ウベモキ(22)マサジとも讀べし、此は今夜につきて云なり、
 
天下五年癸酉春閏三月笠朝臣金村贈入唐使歌一首并短歌
 
此度の使の事第五に注せり、此歌は第六に載らるべきをいかで此には置かれけむ、其故は春讀て相聞にてはあれど、長短ともに春の意にあづかれるにあらねば、ひたすらの雜歌なり、
 
初、天平五年 此入唐使は多治比眞人廣成なり。第五卷山上憶良の、好去好來歌にすてに注せり。第九第十九にも此時の哥有
 
1453 玉手次不懸時無氣緒爾吾念公者虚蝉之命恐夕去者鶴之妻喚難波方三津埼從大舶爾二梶繁貫白浪乃高荒海乎島傳伊別往者留有吾者幣引齊乍公乎者將往早還萬世《タマタスキカケヌトキナクイキノヲニワカオモフキキミハウツセミノミコトカシコミユフサレハタツノツマヨフナニハカタミツノサキヨリオホフネニマカチシシヌキシラナミノタカキアルミヲシマツタヒイワカレユケハトヽマレルワレハタムケニイハヒツヽキミヲヲハヤラムハヤカヘリマセ》
 
高荒海乎、【別校本云、タカキアラウミヲ、】
 
初の二句は常に心に懸て思ふなり、虚蝉之命恐は、今按空蝉之の下に世人有者大王之と云二句を脱せり、其證は第九に、神龜五年戊辰秋八月歌の中に、死毛生毛《シニモイキモ》、君之|隨意《マニ》常|念乍有之間爾虚蝉乃代《オモヒツヽアリシアヒタニウツセミノヨノ》人有|者《ハ》、大王之御命恐美《オホキミノミコトカシコミ》云云、又天平元年己巳冬十二月歌の發端に云、虚蝉乃世人有者《ウツセミノヨノヒトナレハ》、大王之御命恐彌《オホキミノミコトカシコミ》云云、此に准らへて知べし、伊別往者は、伊は發(23)語の詞イワカレユカバとも讀べし、幣別はヌサヒキと讀べきか、齊は齋に作るべし、將往は、今按往は待を誤てマタムなるべし、往ならばゆかむとこそ點ずべけれ、ヤラムと讀べき理なければいづれも叶はず、
 
初、玉たすきかけぬ うつせみのみことかしこみ、此哥のつゝきを案するに、うつせみのといふ下に、二句を脱せり。第九卷神龜五年戊辰秋八月歌に、うつせみの世の人なれはおほきみのみことかしこみとつゝけてよめり。やかて其次下の、天平元年十二月歌の初にも、おなしやうに讀出せり。これに准して證するに、世の人なれは大君のといふ兩句をおとせりとは知なり。まかちしゝぬきは、おもかちとりかちをしけく取かふるをいふ。又此集に櫓をもかちとよみたれは、その櫓をつがひてたつるを、まかちといふなるへし。十丁たつるをいつて舟といへは、しけぬきはおほくたつるをいへるにや。いわかれゆけは、いは發語の詞なり。きみをはやらん。此やらんに、將往とかきたれは、無理にしひてよめる物なり。往は待の字をあやまれるにて君をはまたんなるへし。上にいわかれゆけはといひて、とゝまれるわれはたむけにいはひつゝきみをはやらんといはは、心もたかへり。幣引はぬさひきとよむへき歟
 
反歌
 
1454 波上從所見兒島之雲隱穴氣衝之相別去者《ナミノウヘユミユルコシマノクモカクレアナイキツカシアヒワカレナハ》
 
浪上從、【校本云、ナミノウヘニ、】
 
兒島は備前の兒島なり、第六に八束朝臣の家にての歌に、思ふ子の宿に今宵はと家持のよまれたるを思ふに、兒島も海路の次なれば名のよせある故に入唐使を兒と云ひて島の名に寄たるか、穴氣衝之は、いたく氣の衝るゝなり、第十四にも安奈伊伎豆加思美受比佐爾指天《アナイキツカシミズヒサニシテ》とよめり、拾遺集別に、笠金岡、【仁明時人】
 浪の上に見えしこじまの島隱、行空もなし君に別て、
此は今の歌にて、作者笠金村を氏も同じく名も似たれば誤て金岡とは載られけるなめり
此處に官本に或本歌とあれど、諸本になく、又目録にもなければおぼつかなし、其上反(24)歌の異を注する詞なれば、若有ぬべくば、或本反歌とこそ云べけれ、
 
初、波の上にみゆる兒嶋の 此兒嶋は備前なり。兒嶋はさほどはるかならぬたに、雲かくれたるをおもふに、あひわかれなは、そこをも打過て、はるけくゆかむとおもひやるに、息の長くつかるゝなり
 
1455 玉切命向戀從者公之三舶乃梶柄母我《タマキハルノチニムカフコヒヨリハキミカミフネノカチカラニモワカ》
 
梶柄母我、【校本、幽齋本並云、カチカラニモカ、】
 
命向とは、命こそ大事の物なるに、命にもかへむと思ふばかりなるを云なり、第十二にもよめり、戀從者とは、戀せむよりはの意なり、落句の今の點は誤れり、カヂカラニモカと讀べし、梶柄にだになりて舟人の手に取られて君が舟にそひて行まし物をとなり、太刀の柄《ツカ》、鎌の柄をかまつかと云を思へば、かぢつかとも云にや、
 
初、玉きはる命にむかふ 命にむかふは、命とひとしきなり。きみかみふねのかちからにもかとは、梶の柄《エ》にもなりて、舟人の手にとられて、君かふねにそひゆかましものをといふ心なり。命にむかふこひよりはとは、をくれゐて命にかけてこひおもはんよりもなり。かちからにもが。かちのえにもが。かちづかにもが。此三の内によむへし。かちからもわがとあるは、かんなあやまれり
 
藤原朝臣廣嗣櫻花贈娘子歌一首
 
1456 此花乃一與能内爾百種乃言曾隱有於保呂可爾爲寞《コノハナノヒトヨノウチニモヽクサノコトソコモレルオホロカニスナ》
 
一與とは、今按葩を云歟、葩を葉と云、八葉蓮華など云が如し、葉の字を世と同じく訓ずるも、世を累ぬる事の花の葉々相重なるに似たる故にて、花の上にも花片のかさなるをよ〔右○〕と云にや、第二十に云、安治佐爲能夜敝佐久其等久夜都與爾乎《アヂサヰノヤヘサクコトクヤツヨニヲ》云云、此れ八重咲如く八世と云へる、右の今按の如くなる歟、百種乃言曾隱有とは、云はまほしき事數々に多けれど、皆此花を折て遣にこめたるぞとなり、
 
初、此花のひとよの内に ひとよといへるは、えとよとかよへは一枝にや。かへしの哥に、をられけらずやとよめは、枝ときこゆ。又一葉をひとよといふか。葉(ハ)世也と注せり。人の世も年をかさねたるを世といへる時、此葉の字を用るは、花の葉々かさなる心とおなしきにや。百くさの言そこもれるとは、いはまほしきことの、かす/\おほけれと、皆此花をゝりてやるにこめたるそとなり。おほろかにすなは、おろかにすなゝり
 
(25)娘子和歌一首
 
1457 此花乃一與能裏波百種乃言持不勝而所折家良受也《コノハナノヒトヨノウチニハモヽクサノコトモチカネテヲラレケラスヤ》
 
百種刀言曾隱有とのたまへども、憑がたきは力弱き者の重きに堪ざるが如く、百種の君が言を持かねて折られける花にあらずやとなり、人に所折には非ず、百種の詞にたへずして折るゝなり、第二に、三吉野の玉松が枝ははしきかも、君が御言を持て通はく、持て通ふと云ひ、持かねて折と云ふ、抑揚各よろしきに隨がへり、
 
初、もゝくさのこともちかねて もゝくさの言そこもれるとのたまへとも、ちからなきものゝ、おもきにたふることあたはぬことく、百くさの君かことはをたもちかねて、をられける花にあらすやなり。をらるゝは、人にをらるゝにあらす。百種の詞にえたへすしてをるゝといふなり。をれる花なれはかくはいへり
 
厚見王贈久米女郎歌一首
 
1458 屋戸在櫻花者今毛香聞松風疾地爾落良武《ヤトニアルサクラノハナハイマモカモマツカセハヤミツチニチルラム》
 
落良武、【別校本云、オツラム、】
 
屋戸とは女郎が屋戸を指せり、
 
初、やとにある櫻の花は やどは君かやとなり
 
久米女郎報贈歌一首
 
1459 世間毛常爾師不有者屋戸爾有櫻花乃不所比日可聞《ヨノナカモツネニシアラネハヤトニアルサクラノハナノヲレルコロカモ》
 
屋戸、【校本、幽齋本、並屋作v室、】  不所、【官本又云、オツル、】
 
(26)師は助語なり、世間毛と云へるは世のはかなさを世上に懸て云なり、其中に厚見王の問ひ來む事を含て催す意あるべし、不所は、今按ちるもおつるも義訓背かねど。ウツルと讀て散を云と意得べきにや、神代紀に移の字をチルとよめり、
 
初、ちれるころかも不所をちれるとよめるは、もとの所にあらぬは、花にてはちるなれは、義をもてかけるなり
 
紀女郎贈大伴宿彌家持歌二首
 
1460 戯奴《ワケ》【變云和氣】之爲吾手母須麻爾春野爾拔流茅花曾御食而肥座《カタメワカテモスマニハルノヽニヌケルツハナソメシテコエマセ》
 
戯奴をわけとよむ事自注に明なり、みづから謙退して云事第四の大伴三依が歌に既に注せり、注の中の變は袖中抄にも今の如くあれど反に作るべし、第五好去好來歌の中に、勅旨、【反云大命、】船舳爾、【反云布奈能閉爾、】第十六云、田廬者【多夫世(ノ)反、】懸有、【反云2佐家禮流1、】食、【賣世(ノ)反也、】此等に准らへて知べし、かくの如く注あるを昔よりいかゞ意得たりけむ、袖中抄には、けぬ亦わけと云ひ、別校本にもケヌと點ぜり、不審の事なり、六帖には君がためと云へるは中中に改たるが今の意には違へり、今の意は、家隆卿の君をぞ祈る身を思ふとてとよまれたる如く人に贈らむとて拔を吾爲に拔と云へり、手毛すまにと此卷下にもよめり、手もやまずと云意なるべし、御食而を六帖にはくひてと云ひ、袖中抄にはみけてと云へり、されど上に別が如く食賣世反也とあれば今の點にしかず、本草綱目云、白茅根、有2補中益(27)氣之功1、茅針及茅花、共無2益氣之(ノ)功1、かゝれば補中の功あれば肥べき理なり、
 
初、わけかためわかてもすまに わけは我身を卑下していへる詞なり。戯奴下(ノ)注變の字は、反にあらたむへし。てもすまは、手もひまなくといふ心なり。下の五十三葉にも、てもすまにうゑし萩にやとよめり。本草綱目云。白茅根(ハ)有2補中益氣之功1。茅針及(ヒ)茅花(ハ)共(ニ)無(シ)2盆氣之功1。今の哥にめしてこえませとよみ、返しにつはなをくへといやゝせにやすとあれは、人をこやす功あるにや。他の醫書なとにあることにこそ。第十六に、石まろにわれ物まうす夏やせによしといふ物そむなきとりめせ。初の五もしはめしてこえませの上に置てみるへし
 
1461 晝者咲夜者戀宿合歡木花君耳將見哉和氣佐倍爾見代《ヒルハサキヨルハコヒヌルネフノハナキミノミムヤワケサヘニミヨ》
 
六帖には、かうかの歌に此を載て、腰の句をかうかのきとよめり、袖中抄にはねふりのきとあり、仙覺の云、古點にはねふりの木と點ぜり、花の字和せられず、况歌後の詞に云云、尤ねふの花と和すべきなり、此注分明なり、和名集云、唐韻云、※[木+昏](ハ)【音昏、和名、禰布里乃木、辨色立成云、睡樹、】合歡木、其葉朝舒(テ)暮斂者也、文選※[禾+(尤/山)]叔夜養生論(ニ)云、合歡※[益+蜀]v忿、萱草(ハ)忘(ル)v憂(ヲ)、注引(テ)2神農本草1云、合歡※[益+蜀]v忿、萱草忘v憂、又引2崔豹(カ)古今注(ヲ)1云、合歡樹似2梧桐1、枝葉繁互相交結、毎2一風1木輙自相離了不2相牽綴1、樹2之※[土+皆]庭1、使2人不1v忿也、大日經疏云、經云、若壽者、謂有外道計、一切法乃至四大草木等皆有2壽命1也、如2草木伐1、已續生1、當v知v有v命、又彼夜則卷合、當v知亦有2情識1、以2睡眠1故、難者云、若見2斬伐還生1以爲v有v命、則人斷2一支1不2復増長1、豈無v命耶、如2合昏木有1v眠、則水流晝夜不v息、豈是(レ)常(ニ)覺、皆由v不v觀2我之自性(ヲ)1、故生2種々妄見1也、又陀羅尼門の儀※[車+兀]の中には夜合木とも云へり、合歡木の葉の暮に卷は人を戀る人の獨寢るやうなれば夜は戀宿と云へり、下句は君が上をのみ此花の如しと見むや、我をも思ひやりてよそへて見よとなり、
 
初、ひるはさきよるはこひぬるねふのはな 六帖かうかの題に此哥を載たるには、ねふの花をかうかの木とあらたむ。かうかは合歓の音を用たるなり。和名集云、唐韻云。※[木+昏](ハ)【音昏、和名、禰布里乃木、辨色立成云、睡(ノ)樹】合歓木(ナリ)。其葉朝(ニ)舒(テ)暮(ニ)斂(マル)者也。文選※[禾+(尤/山)]叔夜養生論(ニ)云。合歡(ハ)※[益+蜀](キ)v忿(ヲ)萱草(ハ)忘(ル)v憂(ヲ)。注(ニ)引(テ)2神農本草(ヲ)1云。【文如(シテ)v上同。】又引(テ)2崔豹(カ)古今(ノ)注(ヲ)1云。合歡樹(ハ)似2梧桐(ニ)1。枝葉繁互相交結毎2一風來1輒自相離(レテ)了(ニ)不2相牽綴(セ)1樹(レハ)2之※[土+皆]庭(ニ)1使2v人(ヲ)不(ラ)1v忿(ラ)也。大日經疏(ニ)云。若壽者(ト)謂《イハク》有(ル)外道(ノ)計(スラク)。一切法乃至四大草木等皆有2壽命1也。如(ハ)2草木(ノ)伐(リ)已(テ)己續(テ)生(スルカ)1當v知有v命。又彼(レ)夜(ハ)則卷合(ス)。當v知亦有2博識1以(ノ)2睡眠(スルヲ)1故(ニ)。難者(ノ)云(ク)。若見(テ)2斬伐(セラレテ)還(テ)生(スルヲ)1以爲(ハ)v有(ト)v命則人(ノ)斷(ニ)2一支(ヲ)1不(レトモ)2復増長(セ)1豈v無(ラン)v命耶。如(ハ)2合昏木(ノ)有(ルカ)1v眠則水(ノ)流(テ)晝夜(ニ)不(ルハ)v息(マ)豈(ニ)是(レ)常(ニ)覺(タランヤ)。皆由(ルカ)v不(ルニ)v觀(セ)2我(ノ)之自性(ヲ)1故(ニ)生(スルナリ)2種々(ノ)妄見(ヲ)1也。ねふの木の葉のくるれはまくは、人をこふる人の、ひとりぬるやうなれは、よるはこひぬるといへり。君のみ見むやわけさへにみよとは、君か上をのみ、此花によそへてみんや、我うへをも、此花のひとりねふるによそへておもひやりてみよといふ心なり。あひおもふ人の、こなたかなたにひとりねすれは、かくよめるなり
 
右折攀合歡花并茅花贈也
 
(28)大伴家持贈和歌二首
 
1462 吾君爾戯奴者戀良思給有茅花乎雖喫彌痩爾夜須《ワカキミニワケハコフラシタマヒタルツハナヲクヘトイヤヤセニヤス》
 
戯奴を又六帖にも袖中抄にもけねとわれど用ゆべからず、こひもこひぬもみづから知事なるを戀良思と疑ひて云へるは彌痩にやする故を云はむ爲なり、雖喫はハメドとも讀べし、第十六に婆羅《ハラ》門|乃作有小田乎嘆《ノツクレルヲタヲハム》烏、又|飯《イヒ》喫騰|味母不v在《ウマクモアラス》云云、並に喫をハムと點ぜり、給有茅花は、毛詩※[北+おおざと]風云、自v牧歸v※[草がんむり/夷]、〓(ニシテ)且(ツ)異、匪2女之爲1v美、美人之貽、おのづから此に叶へり、
 
初、たまひたるつはな 毛詩※[北+こざと]風云。自v牧|歸《ヲクレリ》v※[草がんむり/夷]。洵《マコトニ》美(ニシテ)且(ツ)異(ナリ)。匪2女《・指※[草がんむり/夷]云》(チカ)之爲(ルニ)1v美。々《ヨシトスル》人(ノ)之|貽《ヲクレハナリ》
 
1463 吾妹子之形見乃合歡木者花耳爾咲而盖實爾不成鴨《ワキモコカカタミノネフハハナノミニサキテケタシモミニナラヌカモ》
 
六帖にはかたみのかうかはなにのみとあれど今は用べからず、落句は今按ミニナラジカモと讀べし、言のみ有て誠なからむやの意なり、
 
初、わきもこかかたみのねふは花のみに 六帖にはかたみのかうか花にのみといへり
 
大伴家持贈坂上大孃歌一首
 
1464 春霞輕引山乃隔者妹爾不相而月曾經爾來《ハルカスミタナヒクヤマノヘタヽレハイモニアハステツキソヘニケル》
 
山は何れの山にても有べけれど、注に依に第四によめる一重山なり、
 
(29)右從久邇京贈寧樂宅
 
夏雜歌
 
藤原夫人歌【明日香清御原宮御宇天皇之夫人也字曰大原大刀自即新田部皇子之母也】
 
紀州本に歌下に一首の二字あり、此夫人の事第二に注せり、今の注の中に大力自は力は刀を誤れり、
 
初、藤原夫人歌注云々 是は第二卷に、わかをかのおかみにいひてふらしめし雪のくたけしそこに散けむといふ哥よめる夫人なり。日本紀第二十九云。又|夫人《オトシ・オホトシ》藤原大臣女氷上娘生2但馬皇女(ヲ)1。次(ニ)夫人氷上娘(ノ)弟|五百重《イホヘノ》娘生2新田部(ノ)皇子(ヲ)1。此五百重娘なり
 
1465 霍公鳥痛莫鳴汝音乎五月玉爾相貫左右二《ホトヽキスイタクナヽキソナカコヱヲサツキノタマニアヒヌクマテニ》
 
五月玉は藥玉なり、風俗通云、五月五日以2五彩絲1、繋v臂者、辟2鬼及兵(ヲ)1、一名(ハ)長命縷、一名(ハ)續命縷、相貫は今按アヘヌクと讀べし、古語の例なり、第十九云、霍公鳥喧始|音乎《コヱヲ》橘珠爾|安倍貫《アヘヌキ》云云、又第二十に、氣能巳里能由伎爾安倍弖流夜麻多知波奈《ケノコリノユキニアヘテルヤマタチハナ》とよめるも相照なり、痛莫鳴とは、霍公鳥は五月を時とする物なれば、其程は鳴古すな、五月の玉もめづらしく汝が聲をも貫交へむとなり、霍公鳥の聲は貫交へらるゝ物にあらねど、賞する餘にさるはかなき事をも讀ことに侍り、
 
初、五月の玉 藥玉のことなり。風俗通曰。五月五日以2五彩(ノ)絲(ヲ)1繋v臂者辟2鬼及兵(ヲ)1。一名長命縷。一名續命縷。いたくなゝきそとは、郭公は五月を賞する物なれは、それまては鳴ふるすな。藥玉に汝か聲をもぬきましへむとなり。ほとゝきすの聲はぬきましへらるゝ物にあらぬと、賞翫のあまりに、さるはかなきことをも讀が哥の習なり
 
志貴皇子御歌一首
 
(30)1466 神名火乃磐瀬乃杜之霍公鳥毛無乃岳爾何時來將鳴《カミナヒノイハセノモリノホトヽキスナラシノヲカニイツカキナカム》
 
此卷下に、古郷之奈良思之岳能霍公鳥《フルサトノナラシノヲカノホトヽキス》と田村大孃がよめるを以て思ふに、奈良京の時にして古郷と云は岳本宮藤原宮等皆高市郡にあり、今の歌また藤原宮の時の作なるべければ、毛無乃岳高市に有なるべし、毛無とかけるは左傳曰、食2土之毛1、誰非2君臣1、【毛、草也、】史記鄭(ノ》世家云、錫2不毛之地(ヲ)1、【何休云、※[土+堯]※[土+角]不v生2五穀1曰2不毛1、】ならしと云和語の意は、崇神紀云、時官軍|屯聚《イハミテ》而〓2〓草木1、因(テ)以號2其山1曰2那羅山1、【〓〓此云2布瀰那羅須1、】此に准らへて知べし、ケナシノヲカと點ぜるもあれど、六帖、新勅撰集等一同にならしのをかなれば用べからず、
 
初、神なひのいはせの杜の ならしの岳を毛無とかけるは、左傳曰、喰(フ)2土(ノ)之|毛《クサヲ》1。誰(カ)非(サラン)2君(ノ)臣(ニ)1。【毛(ハ)草也。】史記鄭(ノ》世家云。錫《タマフ》2不毛之地(ヲ)1、【何休曰。※[土+堯]※[土+角]不生2五穀1曰2不毛(ト)1。】文選諸葛孔明(カ)出《・イタセシ》師《・イクサヲ》(ノ)表(ニ)云。受(シヨリ)v命(ヲ)以來夙夜(ニ)憂(ヘ)慮(テ)恐d付託(ノ)不(シテ)v效以傷(ランコトヲ)c先帝之明(ヲ)u。故(ニ)五月渡(テ)v※[さんずい+盧](ヲ)深(ク)入(ル)2不毛1。人のふみならして草のなき心にてかけり。下の三十葉に、ふるさとのならしの岳とよめるもこの所なり。八雲御抄岳部に、けなしの【萬一説ならしのあおかといふ。】此御抄に万と注せさせたまへるは此哥なり。一説と注せさせたまふが正義なり
 
弓削皇子御歌一首
 
1467 霍公鳥無流國爾毛去而師香其鳴音乎聞者辛苦母《ホトヽキスナカルニニモユキテシカソノナクコヱヲキケハクルシモ》
 
ほとゝぎすの聲の至りて悲しき由をよませ給へり、宋人の詩云、客情唯有2夜難1v過(キ)、宿處先尋(ヌ)無2杜鵑1、此意相似たり、
 
小治田廣瀬王霍公鳥歌一首
 
天武紀下云、十年三月庚午朔丙戌、天皇御2于大極殿1、以詔2川島皇子忍壁皇子廣瀬王等1令v記2定帝紀及上古諸(ノ)事1、十四年九月甲辰朔甲寅、遣2宮處王廣瀬王等(ヲ)於京及畿内1令v校2(31)人夫之兵(ヲ)1、持統紀云、六年二月丁酉朔丁未、詔2諸官1曰、當以2三月(ノ)三日1將v幸2伊勢1云云、三月丙寅朔戊辰、以2淨廣肆廣瀬王等(ヲ)爲2留守官1、文武紀云、大寶二年從四位下廣瀬王云云、元明紀云、和銅元平三月丙午、從四位上廣瀬王(ヲ)爲2大藏卿1、元正紀云、養老二年正月正四位下、六年正月癸卯朔庚午散位正四位下廣湍王卒、小治田は高市郡なり、此處に住まれけるにや、小墾田ともかけり、六帖にはをはるだのひろせのおほきみとかけり、日本紀の點にはヲハタとのみあり、常にをばたゞ〔四字右○〕と云習へるは誤れる事久し、
 
 初、小治田廣瀬王 天武紀云。十年三月庚午朔丙戌、天皇御2于|大極《オホアム》殿(ニ)1以詔2川島皇子忍壁皇子廣瀬王〇大山下平群臣子|首《カウヘニ》1令(タマフ)3記(シ)2定(メ)帝紀《スメラミコトノフミ》及上古(ノ)諸(ノ)事(ヲ)1。十四年九月甲辰朔甲寅、遣2宮處(ノ)王廣瀬王難波王竹田王彌努王於|京《ミサト》及畿内(ニ)1令v校2人夫之兵(ヲ)1。持統紀云。六年二月丁酉朔丁未、詔2諸官(ニ)1曰。當(ニ)以2三月三日(ヲ)1將v幸2伊勢(ノクニヽ)宜d知2此意(ヲ)1備(フ)c諸(ノ)衣物《キモノヲ》u。三月丙寅朔戊辰、以2淨廣肆廣瀬王、直廣參當麻眞人智徳、直廣肆紀朝臣弓張等(ヲ)1爲2留守官(ト)1。續日本紀文武紀云。大寶二年從四位下廣瀬王。元明紀云。和銅元年三月丙午、從四位上廣瀬王爲2大倉卿1。元正紀云。養老二年正月正四位下。六年正月癸卯朔庚午、散位正四位下廣湍王卒
 
1468 霍公鳥音聞小野乃秋風茅開禮也聲之乏寸《ホトヽキスコヱキクヲノヽアキカセニハキサキヌレヤコヱノトモシキ》
 
唯今秋風の吹て萩の咲たればにやと云にもあらず、萩も郭公に用ありて云にはあらねど、聲の稀になるを云はむとて、秋風吹てはぎも咲ぬに、など聲のすくなきぞとよまれたるなり、第十七に、霍公鳥鳴て過らし岡備から、秋風吹ぬよしもあらなくにとよめるを思へば、夏の末までも鳴やうにや、茅は芽を誤れるなるべし、但六帖にはあさぢさけれやとあれば却て淺茅と有けむ淺の字の落たるか、然らば淺茅の咲とは何をか云、茅花は春にこそあれと云難來りぬべし、此卷下に、秋芽は咲ぬべからし吾やどの、淺茅が花の散行見ればと云歌を、六帖には落句をいろづくみればとあれば、花と云へるは(32)色付たる茅の葉を云と知られたり、此になずらふれば今も淺茅の色付ぬればにやと云事をあさぢさけれやとよまれたる歟、第二十に、奥山の樒が花の名のごとや、しくしく君に戀渡なむ、樒にも春は白き花の咲なれど、此歌は十一月廿三日によまれたれば唯樒を指て花と云へるなれば例證とすべし、
 
初、芽さきぬれや これは郭公にめつらしき哥なり。こゝろは秋風の吹てはきの咲ぬるや、またさもあらぬに、なと聲のまれになりゆくそといへるなり。只今秋風の吹て、萩の咲たるにはあらす。萩も郭公に用ありていへるにはあらて、たゝ萩の咲比になりたるにもあらぬに、といふ心なり。芽を茅に作れるは誤なり。あらたむへし。此集に、はきを芽とのみも芽子ともかけるは、いまたそのゆへをしらす。和名集には萩の字を出せり
 
沙彌霍公鳥謌一首
 
沙彌とのみあるは誰ぞ、若名を忘たる人ならば、名闕と注すべし、集中に三方沙彌、沙彌滿誓沙彌女王あり、歌に家有妹とあれば滿誓と女王との歌にあらぬ事、明なれば、三方沙彌なるを三方の二字を脱せる歟、
 
初、沙彌霍公鳥謌 此沙彌とあるは、三方沙彌なるを、三方氏を脱せるか。沙彌女王あれど、哥に、家にある妹とあれは、女王の哥にあらす。三方沙彌、紀に見えす。聖武紀云。天平十九年十月癸卯朔乙巳勅曰。春宮少屬從八位上御方(ノ)大野(カ)所願之姓思2欲許賜(ハント)1。然大野(カ)之父(ハ)於2淨御原朝庭(ニ)1在2皇子之列(ニ)1。而(ルヲ)縁(テ)2微過(ニ)1遂(ニ)被2廢退(セ)1。朕其哀憐(ス)。所以不v賜2其姓(ヲ)1也。延暦三年正月授2三方宿禰廣名(ニ)從五位下(ヲ)1。此三方沙彌は、大野か子なとにもや侍けん。大野の父於淨御原朝庭在皇子之列とは、磯城《シキノ》皇子なるへし。此皇子のゆくゑを紀せることなけれはなり。志貴皇子と、磯城皇子とまきらはし。志貴は天智紀に施基とかきて、天智天皇の皇子なり。磯城皇子は天武天皇の皇子にて、御母は穴人《シヽムトノ》臣大麻呂(カ)女|擬媛娘《カヂヒメノイラツ》なり。忍壁皇子の同腹(ノ)御弟、泊瀬部皇女、託基皇女、此ふたりの皇女の同腹の御兄なり。持統紀云。六年冬十月壬戌朔壬申、授2山田史御形(ニ)務廣肆(ヲ)1。前(ニ)爲2沙門(ト)1學2問《モノナラフ》新羅(ニ)1。此集第二巻に、藤原宮御宇天皇代と標して三方沙彌か哥其下にあれは、もし此御形か還俗せるを、三方沙彌といへるにや。山田氏なるをあらはさされは知かたし。御形は三方ともかきぬへし
 
1469 足引之山霍公鳥汝鳴者家有妹常所思《アシヒキノヤマホトゝキスナカナケハイヘニアルイモツネニオモホユ》
 
第十に、旅にして妻戀すらし霍公鳥、神なび山に狹夜深て鳴、彼も旅にして妻戀に鳴らむと思ふにいとゞ故郷の妻をば思ふべきなり、
 
初、あしひきの山郭公 家にある妹を常におもふとは、おもしろきにつけても、かなしきにつけても思ふへし。また不如歸となくといふ本文の心もあるへし
 
刀理宣令歌一首
 
1470 物部乃石瀬之杜乃霍公鳥今毛鳴奴山之常影爾《モノヽフノイハセノモリノホトヽキスイマモナカヌカヤマノトカケニ》
 
(33)物部とおけるは物部の屯聚と云意なり、神武紀云、逮2我|皇《ミ》師之破1v虜、大軍集而滿2於其地1、因改【上云舊(ノ)名(ハ)片居《カタル》】號(テ)爲2磐余《イハレ》1、或曰、磯城八十梟師於2彼處1屯聚居之、【屯聚居此云2怡波瀰萎1】故名(ヲ)之曰2磐余邑1、これになずらへて知べし、今毛鳴奴は、奴の下に香の字などの落たるべし、さて此はなげかじと願ふ意なり、山ノ常影は、袖中抄に此集第十に足日木乃山之跡|陰《カゲ》爾と云歌の跡陰を釋するに今の歌を次に引て、唯山の麓など意得む事宜しと云へり、と〔右○〕もじは發語の詞などの やうにて、山陰と意得べし、
 
初、ものゝふのいはせのもり ものゝふの屯聚《イハム》といふ心にいひかけたるなり。いはむは陣を張居る心なり。神武紀云。夫(レ)磐余《イハレ》之|地《トコロ》、舊《モトノ》名(ハ)片居《カタル》【片居此(ヲハ)云2加※[口+多]婁1】亦曰2片立(ト)1【片立此(ヲハ)云2加※[口+多]1※[口+多]知(ト)1。】逮(テ)2我(カ)皇《ミ》師之破(ルニ)1v虜《アタヲ》也、大軍《イクサヒトヽモ》集(マツテ)而|滿《イハメリ》2於其地(ニ)1。因(テ)改號爲2磐余《イハレト》1。或(ヒトノ)曰天皇|往《サキニ》甞2嚴※[分/瓦]粮《イツヘノヲモノヲ》1出v軍而|往《ウチタマフ》。是(ノ)時磯城(ノ)八十|梟師《タケル》於2彼處《ソコニ》1屯聚居《イハミヰタリ》之。【屯聚《ツヰムシウ》居此(ヲハ)云2怡波瀰萎(ト)1。】果(シテ)與2天皇1大(ニ)戰(フ)。遂(ニ)爲(ニ)2皇師(ノ)1所《レヌ》v滅(ホサ)。故(ニ)名(テ)之曰2磐余(ノ)邑(ト)1。これいはれといふも、八十梟師かかたの兵ともいはみゐたるゆへなれは、今もいはといふを、いはむといふ心になしてつゝくるなり。又いはむといふは、陣を張心のみにもあらす。みちあふるゝ心なり。皇極紀云。佐伯(ノ)連子麻呂、稚犬養(ノ)連|網田《アミダ》斬2入鹿(ノ)臣(ヲ)1。是(ノ)日雨|下《フリテ》潦水《イサラミツ》溢《イハメリ》v庭(ニ)。以2席障子《ムシロシトミヲ》1覆(フ)2鞍作(カ)屍《カハネニ》1。滿の字溢の字をよめるにて心得へし。今もなかぬかは、奴の字の下に香の字なとの脱たるへし。山のとかけは常にひのめもみぬ陰をいふなるへし
 
山部宿彌赤人歌一首
 
1471 戀之家婆形見爾將爲跡吾屋戸爾殖之藤浪今開爾家里《コヒシケハカタミニセムトワカヤトニウヱシフチナミイマサキニケリ》
 
戀之家婆、【官本又云、コヒシクハ、校本家作v久、】
 
此發句は唯此まゝにて家と久と通ずれば戀しくばと意得べし、第十五に、許能安我|家流伊毛我許呂母能《コノアガケルイモガコロモノ》とよめるは、此《コノ》吾|著妹《キルイモガ》之衣乃なり、又第十七の長歌の中に多麻豆左能使乃家禮婆《タマツサノツカヒノケレハ》とよめるも使の來ればなり、此等音を通はして云へれば今も准らふべし、或はこひしげればのれ〔右○〕を略せりとも意得べし、濁音の婆の字をかけるは後の義のより所なり、さて此歌は、前後霍公鳥をよめる中にあれば發句は霍公鳥を指て云なり、(34)第十には藤浪のちらまく惜み霍公鳥、今城の岳を鳴て越なりとよみ古今集には、我宿の池の藤浪咲にけり、山郭公いつか來なかむと讀て、霍公鳥は藤、卯花、橘などに鳴物なる中にも、藤は春より夏に懸りて早ければ今咲にけりはやも鳴なむの意なり、六帖には藤の歌とせり、
 
初、こひしけは こひしけれはなり。これは夏の哥にて、前後皆ほとゝきすの哥なれは、此こひしけれはといふは、ほとゝきすをいへり。此哥は古今集夏のはしめに、人まろの哥と注してのせたる
  わか宿の池のふちなみ咲にけり山ほとゝきすいつかきなかん
これとおなし心なり。天徳哥合に、池水なとによせすして、藤浪とよむをは難せられたれと、此哥なと有。又新古今集に
  かくてこそみまくほしけれ萬代をかけてしのへるふちなみの花
  まとゐしてみれともあかぬ藤浪のたゝまくおしきけふにも有かな
初は延喜次は天暦の御製なり。これは猶水によせ池によせされと、かけてしのへる、たゝまくおしき、皆浪の縁あり。今の哥には、さる縁の詞もなし。ふちの花の波にゝたれは、藤浪といひなれたるを、さしもの小野宮殿の判せさせたまへることなれと、あまりの事にや。猶ことさらにかんかへはいくらも有ぬへし
 
式部大輔石上堅魚朝臣歌一首
 
元正紀云.養老三年正月授2從六位下石上朝臣堅魚從五位下1、聖武紀云、神龜三年正月、從五位上、天平三年正月、正五位下、八年正月、正五位上、
 
初、式部大輔石上|堅魚《カツヲ》朝臣 元正紀云。義老三年正月授2正六位下石上朝臣堅魚從五位下(ヲ)1。聖武紀云。神亀三年正月從五位上。天平三年五月正五位下。八年正月正五位上
 
1472 霍公鳥來鳴令響宇乃花能共也來之登問麻思物乎《ホトヽキスキナキトヨマスウノハナノトモニヤコシトトハマシモノヲ》
 
霍公鳥は卯花にしたしき鳥なれば、なき人の魂と共のや來しとと云はむ爲に、來鳴とよます、うの花のとは云へり、下に我やどの花橘に霍公鳥、今こそなかめ友にあへる時とよめる友と共とは異なれど意は同じ、歌の意は左の注にて彌明なり、郭公は冥途より來る鳥と云ひ習はして、其意を後の歌に多くよみ、しでのたをさなど云異名もそれよりなりと聞ゆ、昔よりの事にや、此集第十にも、山跡には啼てか來らむ郭公、汝が鳴ごとになき人おもほゆ、第二十に、霍公鳥猶もなかなむ本つ人、懸つゝもとなあをねしな(35)くも、此等を引合て思ふに此説有來ること久し、
 
初、ともにやこしと 歌の後に注したることく、又第三第五に見えたることく、太宰帥大伴卿の妻、大伴郎女身まかられけるを、天子より大伴卿をとふらはせたまふ勅使に、堅魚朝臣筑紫へ下られける時の哥なれは、なき人と共にやこしと、郭公にとはましものをとなり。およそほとゝきすを、此集には皆霍公鳥とかき、和名集には郭公とかきて、※[監+鳥]※[婁+鳥]《カムル》なりと注せり。されは霍と郭と音通すれは、霍公鳥とかけるも、※[監+鳥]※[婁+鳥]と見て、此字を用たるなるへし。もし經論の飜譯に准していはゝ、舊辭はいまた方言に熟せさることありて、新譯の後きらふことおほし。漢語を和訓するも、おなしことはりなれは、いにしへはいまたよくかんかへすして、郭公とせる歟。郭公も※[監+鳥]※[婁+鳥]も詩文なとに作られたる事はあまりなきにや。此國にほとゝきすといふは、杜宇のやうに哥によみならへり。又此國には冥途の鳥といひならはせり。十王經に別頓都宜壽といへる鳥、ほとゝきすと聞ゆれと、彼は僞經と見ゆれは信《ウケ》られす。只むかしよりいひならはせるにや、しかよめる哥あり
  しての山こえてやきつるほとゝきすこひしき人の上かたらなん
  やよやまて山ほとゝきすことつてむわれ世の中に住わひぬとよ
  草のはにかとてはしたりほとゝきすしての山ちもかくや露けき
又しての田おさとなつくるも、かゝるゆへなりといへは、今の哥もその心にてよまれたる歟。本草に郭公鳩屬といへり。俗にかつこう鳥といふは、なくこゑのさきこゆれは、庭鳥の聲のかけろときこゆるゆへにかけとなつくることく、名付るなり。もろこしに郭公といふも若此かつこうにやとうたかはし。郭公とかけるに別に義ありや
 
右神龜五年戊辰太宰帥大伴卿之妻大伴郎女遇病長逝焉于時 勅使式部大輔石上朝臣堅魚遣太宰府弔喪并贈物色其事既畢驛使乃府諸卿大夫等共登記夷城而望遊之日乃作此歌
 
第三第五に既に出たり、并贈物色は、贈は賜の誤なるべし、驛使の下の乃は及に作るべし、記夷城は、紀國を紀伊と云如く記の韻の夷を加へて、城山の邊の唯き〔右○〕と云所なるべし、第五に許能紀能夜麻とよめるに紀の字を書たれば、今の記は紀を誤れる歟、
 
初、注中驛使の下乃府の乃は、及の字の誤なり。記夷城は、案するに下(ツ)座《アサクラ》郡に、城邊【木乃部】といふ所有。城《キ》山といふもそこなるへし。天智紀に、又於2筑紫(ニ)1築2大堤(ヲ)1貯v水(ヲ)名曰2水城(ト)1とあり。和名集に、下座郡【美津木】と載たるこれなるへし。しかれは城遽も和名集に出たれは、此三城のあたりにて、城遽の名はおほせたるへけれは、記夷城といふは、彼水城なるへし。紀伊國をきのくにといふに准すれは、記夷も夷は語の助にそへて、記といふは城の心なるへき歟。第五に、此きの山とよめるに、紀の字をかけり。紀伊國の例をおもふに、今も紀の字なるへきにや
 
太宰帥大伴卿和歌一首
 
1473 橘之花散里乃霍公鳥斤戀爲乍鳴日四曾多寸《タチハナノハナチルサトノホトヽキスカタコヒシツヽナクヒシソオホキ》
 
橘の花の散をば死せる妻によそへ、霍公鳥の鳴をばみづから譬ふ、上に引歌に橘と霍公鳥とを友と云へる加く縁ある故に借て寄られたり、續古今に唯夏に入られたるは不審なり、斤は片を誤れり、鳴日シゾのし〔右○〕は助語なり、
 
初、橘の花ちる里のほとゝきす 橘のちるをは、妻の身まかられけるにたとへ、ほとゝきすのなくをは、戀したひて啼によせたり。をのかつま懸つゝなくやさつきやみかみなひ山の山ほとゝきすとよみて、ほとゝきすも妻こひする鳥なれは、ことによせあり
 
(36)大伴坂上郎女思筑紫大城山歌一首
 
初、大伴坂上郎女思2筑紫大城山1歌一首 坂上郎女は旅人の妹なれは、旅人太宰帥にておはしける時、彼許へ下られける事有。第六に天平二年と表して、冬十一月大件坂上郎女|發《タチテ》2帥家(ヲ)1上(ルトキ)道超(ル)2筑前國宗形郡名兒山(ヲ)1之時作歌とて載たれは、天平二年に旅人に逢むために下りて、ついてに筑紫をも られけるなるへし。さて歸りて都にてよまるゝ哥なれは天平三年の夏の哥なるへし
 
1474 今毛可聞大城乃山爾霍公鳥鳴令響良武吾無禮杼毛《イマモカモオホキノヤマニホトヽキスナキトヨムラムワレナケレトモ》
 
大城山は、第四に城(ノ)山道者不樂牟と讀るも此なり、吾無禮杼毛とは帥の家に在て聞てめでし我は歸り來て彼處になけれども、霍公鳥はかはらず鳴らむとなり、題に思2大城山1と云ひて惣をあげ、歌には霍公鳥を別してよめるなり、下に惜v不v登2筑波山1歌とありて、霍公鳥をよめり、今と同じ、
 
初、大城の山 第四に、今よりは城山の道はさふしけむとよみ、第五に梅の哥に、此城の山に雪はふりつゝとよめる所なり。とよむといふに、令響とかけるは、此とよむといふは、とよましむらんの心なれはなり
 
大伴坂上郎女霍公鳥歌一首
 
1475 何哥毛幾許戀流霍公鳥鳴音聞者戀許曾益禮《ナニシカモコヽハクコフルホトヽキスナクコヱキケハコヒコソマサレ》
 
幾許戀流、【官本又云、コヽタクコフル、】
 
發句の中のし〔右○〕とも〔右○〕とは助語なり、落句は霍公鳥の聲に催されて人の戀しさもまさりて佗しき物をとなり、上に石瀬の杜の喚子鳥痛くなゝきぞ我戀まさる、又古今に素性の郭公初聲きけばあぢきなく、主定まらぬ戀せらるはたとよまれたる類なり、又聞たらば霍公鳥を戀る心のやまむかと思ひて何かは待けむ、聞てはいとゞきかまほしく戀しき物をと始終霍公鳥の上をよめるにや、
 
初、何しかもこゝはくこふる 此こふるは、郭公のなくを待こふるなり。下の戀こそまされとは、聞てはいよ/\きかまほしきをいへり。また素性法師か、郭公はつこゑきけはあちきなくぬしさたまらぬこひせらるはたとよめる心にも有へし
 
(37)小治田朝臣廣耳歌一首
 
續日本紀を考ふるに廣耳と云人見えず、小治田廣千と云人あり、若是にやあらむと疑がはしきは、耳の字を草に書たるは千に似たること有故に、紀の古本草書などにて、寫生の誤れる歟、此集には下に至ても耳なり、目録も同じ、諸本異なし、聖武紀云、天平五年三月辛亥、正六位上小治田廣千、授2外從五位下(ヲ)1、十三年八月從五位下小治田朝臣廣千(ヲ)爲2尾張守1、十五年六月、從五位下小治田朝田廣千(ヲ)爲2讃岐守1、紀にもかくの如く千にのみ作たれば別人か、
 
初、小治田朝臣廣耳歌 續日本紀を考ふるに、廣耳といふ人見えす。小治田廣千といふ人あり。これにやあらんとうたかはし。そのゆへは、耳の字の草書千に似たることあるゆへに、紀の古本草書なとにて、寫生のあやまれるにや。今の印版の續日本紀、文字のあやまり、脱字錯簡等すくなからねは、うたかふなり。聖武紀云。天平五年三月辛亥正六位上小治田廣千(ニ)授2外從五位下(ヲ)1。十三年八月從五位下小治田朝臣廣千(ヲ)爲2尾破《ヲハリノ》守(ト)1。十五年六月從五位下小治田朝臣廣千(ヲ)爲2讃岐守(ト)1
 
1476 獨居而物念夕爾霍公鳥從此間鳴渡心四有良思《ヒトリヰテモノオモフヨヒニホトヽキスコユナキワタルコヽロシアルラシ》
 
心四有良志、【幽齋本云、コヽロシアルラシ、】
 
落句今の點誤れり、幽齋本によるべし、し〔右○〕は助語也、
 
大伴家持霍公鳥歌一首
 
1477 宇能花毛未開者霍公鳥佐保乃山邊來鳴令響《ウノハナモイマタサカネハホトヽキスサホノヤマヘヲキナキトヨマス》
 
山邊、【幽齋本云、ヤマヘニ、】
 
未開者は以前云へる如くいまださかぬにの意なり、
 
初、うの花もいまたさかねは 第四卷に金明軍か哥に、およそ引ていへることく、これもてにをは心得かたき哥なり。うの花もいまたさかぬに、いまたさかぬをなといふ心と聞へし
 
(38)大伴家持橘歌一首
 
1478 吾屋前之花橘乃何時毛珠貫倍久其實成奈武《ワカヤトノハナタチハナノイツシカモタマニヌクヘクソノミナリナム》
 
成奈武、【幽齋本云、ナラナム、】
 
上にまきし瞿麥いつしかも花にさかなむと有しになずらふれば幽齋本の點もたがはず、
 
大伴家持晩蝉歌一首
 
和名云、爾雅注云、茅蜩一名〓、【子列反、和名比久良之、】小青蝉也、晩蝉とは、晩は暮と遲との兩訓あり、和語のひぐらしと云に依れば暮の義なり、朝ぼらけ日ぐらしの聲聞ゆなり、こやあけくれと人の云らむとよめるに依れば朝もなけど多分につく名なり、連歌の式に日ぐらしをば秋に定むれど、歌には多く夏も讀たれば遲の義に名付るにはあらざるべし、
 
初、晩蝉《ヒクラシノ》歌 和名集云。爾雅注云。茅蜩一名〓【子列反。和名比久良之】小青蝉也。禮記月令云。仲夏之月蝉始鳴。季夏之月寒蝉鳴
 
1479 隱耳居者欝悒奈具左武登出立聞者來鳴日晩《シノヒノミヲチレハイフカシナクサムトイテタチキケハキナクヒクラシ》
 
欝悒、【幽齋本云、イフセシ、】
 
六帖にも日ぐらしの歌に入れて、一二の句をかくしのみあればものおもひとよめる(39)はよからず、今按コモリノミヲレバイブセシと和すべし、第十七に、こもりこひとよめるはこもり居て戀るなり今も引籠てのみをればと云なり、下句の意は日ぐらしの鳴にもよほされていとゞ人の戀しきなり、古今云、こめやとは思ふ物から日ぐらしの、鳴夕ぐれは立またれつゝ、
 
初、しのひのみをれはいふかし しのひをるとは、籠居するなり。いふかしはおほつかなしといふにおなし。欝悒とかける字のことし。いふせきといふもおなし心にて欝々として心のふさかるなり
 
大伴書持歌二首
 
1480 我屋戸爾月押照有霍公鳥心有今夜來鳴令響《ワカヤトニツキオシテレリホトヽキスコヽロアルコヨヒキナキトヨマセ》
 
押照有は、第七に、春日山押而照有此月者と云歌に注せるが如し、心有今夜は、月も照て夜に情有れば、かゝる時に霍公鳥も來てあひに逢てなけとなり、六帖に心ありこよひとあるは、郭公の情あれば來鳴けと云意にや、今の點にしかず、
 
初、わかやとに月おしてれり 第七にも、春日山おしてゝらせる此月はといふ哥に注せりき。第十一にも、まとこしに月おしてりてとよめり。そこに臨照而とかきたるを、まとこしといふゆへにや、月さしいりてと訓したるはあやまれり。おしてるは、月のやとの上に臨《ノソミ》て照なり。おしてるなにはとつゝく枕詞につきても注しつ
 
1481 我屋前乃花橘爾霍公鳥今社鳴米友爾相流時《ワカヤトノハナタチハナニホトヽキスイマコソナカメトモニアヘルトキ》
 
初、友にあへる時 橘をほとゝきすの友といへり
 
大伴清繩歌一首
 
清繩系圖等未v詳、
 
1482 皆人之待師宇能花雖落奈久霍公鳥吾將忘哉《ミナヒトノマチシウノハナチルトイヘトナクホトヽキスワレワスレメヤ》
 
(40)雖落、【官本又云、チリヌレト、】
 
腰句は今按チリヌトモと讀ても然るべし、
 
初、皆人のまちしうの花 うの花は、和名集云。本草云。※[さんずい+艘の旁]疏一名楊櫨【※[さんずい+艘の旁]音所流反。和名宇豆木。】雖落はちりぬともとよむへし
 
庵君諸立歌一首
 
諸立は考る所なし、
 
1483 吾背子之屋戸乃橘花乎吉美鳴霍公鳥見曾吾來之《ワカセコカヤトノタチハナハナヲヨミナクホトヽキスミニコソワカコシ》
 
花ヲヨミは霍公鳥のよしと思ひて來て鳴なり、吾背子は親族をも友をも妻をも云べし、落句は霍公鳥の橘に來居るを見むとて來るなり、第十には月夜よみ鳴郭公見まくほりとよみ、第十八には、ほとゝぎすこゆなきわたれ燈を、つくよになぞへ其影も見むとよめり、見る中に聞は籠れり、
 
大伴坂上郎女歌一首
 
1484 霍公鳥痛莫鳴獨居而寐乃不所宿聞者苦毛《ホトヽキスイタクナナキソヒトリヰテイノネラ ヌニキケハクルシモ》
 
不所宿は古風に依らばネラエヌニと讀てねられぬにと意得べし、六帖には夜ひとり居りと云に入れたり、
 
大伴家持唐棣花歌一首
 
(41)第四云、翼酢《ハネス》色之變安寸云云、第十一云、翼酢色之赤裳《ハネスイロノアカモ》之爲|形《カタ》云云、第十二云、唐棣|花色之《スイロノ》移安|情有《コヽロアレ》者云云意、天武紀云、淨位已上並著2朱華1、【朱華此云2波禰孺1、】爾雅(ニ)云、唐棣移、郭璞註云、似2白楊1、江東呼2夫※[木+多]1、詩召南云、唐棣之華、陸機(カ)云、奧李也、一名雀梅、亦曰、車下李所v在山、皆有2其華1、或白(ク)或赤、六月中熟大如2李子1可v食(フ)、玉篇云、※[木+唐]【徒耶切、棣木也、】論語曰、唐棣之華、偏其反而、集註云、唐棣郁李也、白氏文集第九云、惜※[木+有]李花、【花細而繁、色艶而黯、亦花中之有v思者、速衰易v落、故惜v之耳、】樹小花鮮妍、香繁條軟弱、高低二三尺、重疊千萬萼、朝艶靄霏匕(タリ)、夕(ニ)凋(テ)紛漠匕、辭v枝(ヲ)朱粉細、覆v地紅※[糸+肖]薄(シ)、由來好顔色、常(ニ)苦(ム)易2※[金+肖]※[金+樂]1、不v見莨【魯堂切】蕩花、狂風吹不v落、延喜式云、諸國例貢御贄中、近江郁子、又云、郁三十株、和名集云、本草云、郁子一名棣、【都計反、和名、牟閉、今案郁宜v作v※[木+郁]、於六反見2唐韻1、】菅家萬葉に諾に借てかゝせ給へり、上株賦に※[草がんむり/奧]【於六】棣【徒計】とあるは※[草がんむり/奧]は郁と通ずと見ゆるを、李善注云、※[草がんむり/奧]山李也、郭璞曰、棣實似2櫻桃1也とて二物とせるは如何ぞや、爾雅云、常棣(ハ)棣、郭璞註、今關西有2棣樹子1、如2櫻桃(ノ)1、可v食、常棣は唐棣に似て別なり、疏に詳なれど今の用にあらざれば引かず、郁子は今の世名を知れる人もなし、假使名は呼替とも、夏を待て花咲、六月に實の熟する此やそなるらむ、推量せらるゝ物もなきは種の失けるにや、又今の世詩を讀者、唐棣のきはちすと云は誤なり、和名集第二十蓮類云、文字集略云、蕣、【音蕣、和名、木波知須、】地蓮花、朝生夕落者(42)也とあれば、きはちすは槿花なり、はねすは日本紀にも此集にもあるを、さしもの博學の順朝臣、郁子に付て出されざる事は不審なれど、きはちすは別に出されたれば疑ふべきに非ず、
 
初、唐棣花《ハネズノ》歌 玉篇云。棣(ハ)徒計切。唐棣(ハ)移也。移(ハ)余支成兮二切。棠棣也。※[木+唐](ハ)徒耶(ノ)切。棣木也。詩曰。何(ソ)彼※[禾+農]《サカンナル》矣。唐様之華。朱子注云。唐棣(ハ)移【音移】也。似(タリ)2白楊《・ハコヤナギ》(ニ)1。又云。常棣之華、※[咢+おおざと](トシテ)不(ンヤ)2※[革+華]々(タラ)1。注云。常棣(ハ)々也。子《ミ》如(シテ)2櫻桃(ノ)1可v食(ツ)。論語(ノ)子罕(ノ)篇(ニ)曰。唐棣之華、偏(トシテ)其反而。集註云。棣(ハ)大計反。唐棣(ハ)郁李也。和名集云。郁子《ムヘ》一(ノ)名(ハ)棣【都計反。和名牟閉。今案、郁宜v作v※[木+郁]。於六反。見2唐韻1】玉篇云。※[木+有]《イク・イウ》【於六禹九二切。木葉如v梨。】延喜式云。諸國例貢御贄近江【郁子云々。】又式云。郁三十株。文選潘岳閑居賦、※[立心偏+毎]有郁棣之屬。天武紀云。十四年秋七月乙巳朔庚午、初定2明位已下進位已上之|朝服《ミカトコロモノ》色(ヲ)1。淨位己上並著2朱華《ハネスヲ》1【朱華此(ヲハ)云2波泥孺(ト)1。】源順はさしも大才なる人の、いかて日本紀にも此集にも出たる唐棣の和名を出されさりけむ。おほつかなし。郁子は菓子類部に出せり。今の世もある物にや。こゝに夏まけてさきたるはねすとよみたるは、いつれの花にかあらむ。今の世詩をよむもの、唐棣をきはちすとよめるは、大にあやまれり。木蓮は木菫なり。むくけをもあさかほといふにより、常の朝かほにまたまかへり。第十に
  朝かほは朝露負てさくといへとゆふかけにこそ咲まさりけれ
此哥にいたりて、木はちすの事をも注すへし。はねすは日本紀に朱華とかきたれは、赤き花なりとしられたり。第四に坂上郎女、はねす色のうつろひやすきとよみ、第十一にははねす色の赤裳のすかたとよみ、第十二にははねす色のうつろひやすき心あれはとよめり。此三首は染色をかりてよめるなり。日本紀の著2朱華1とあるにおなし
 
1485 夏儲而開有波彌受久方乃雨打零者将移香《ナツマケテサキタルハネスヒサカタノアメウチフラハウツロヒナムカ》
 
發句は夏を待得たる意なり、唐棣花のうつろひやすき事上に引此集中の歌、並に白氏が詩に見えたり、
 
大伴家持恨霍公鳥晩喧歌二首
 
1486 吾屋前之花禰乎霍公鳥來不喧地爾令落常香《ワカヤトノハナタチハナヲホトヽキスキナカテツチニチラシナムトカ》
 
落句はチラシメムトカとも讀べし、
 
初、ちらしなんとか 令落常香とかきたれは、ちらしめんとかと讀へし
 
1487 霍公鳥不念有寸木晩乃加此成左右爾奈何不來喧《ホトヽキスオモハスアリキコノクレノカクナルマテニナトカキナカヌ》
 
初、木晩乃 木の下やみといふにおなし。葉のしけりてくらきをいふ
 
大伴家持懽霍公鳥歌一首
 
1488 何處者鳴毛思仁家武霍公鳥吾家乃里爾今日耳曾鳴《イツコカハナキモシニケムホトヽキスワキヘノサトニケフノミソナク》
 
何處者、【幽齋本云、イツコニハ、】
 
(43)發句の今の點誤、幽齋本に依べし、胸の句の仁は助語なり、
 
初、何處者 いつこにはと讀へし。いつこかはとあるはわろし
 
大伴家持惜橘花歌一首
 
1489 吾屋前之花橘者落過而珠爾可貫實爾成二家利《ワカヤトノハナタチハナハチリスキテタマニヌクヘクミニナリニケリ》
 
上の橘の歌に似て意は表裏せり、第十に、吾やどに咲る秋芽子散過て、實に成までに君にあはぬかも、此歌を取てよまれけるなるべし、
 
 
大伴家持霍公鳥歌一首
 
1490 霍公鳥雖待不來喧蒲草玉爾貫日乎未遠美香《ホトヽキスマテトキナカヌアヤメクサタマニヌクヒヲイマタトホミカ》
 
第二の句マテドキナカズと讀ぺし、キナカヌと有は書生の失錯なるべし、腰の句菖の字をおとせり、玉は藥玉なり、
 
初、ほとゝきすまてときなかすあやめ草 菖の字をおとせり
 
大伴家持雨日聞霍公鳥喧歌一首
 
1491 宇乃花能過者惜香霍公鳥雨間毛不置從此間喧渡《ウノハナノスキハヲシミカホトヽキスアマヽモオカスコユナキワタル》
 
雨間毛不置とは雨の降間をもさておかずなり、
 
橘歌一首 遊行女婦
 
初、遊行女婦 和名集云。楊氏漢語抄云。遊行女兒【和名宇加禮女。又云阿曾比】
 
(44)1492 君家乃花橘者成爾家利花乃有時爾相益物呼《キミカイヘノハナタチハナハナリニケリハナノサカリニアハマシモノヲ》
 
成ニケリとは實に成なり、下句は古今に蛙鳴井手の山吹散にけりと云歌と同じ、但花乃有時爾は花ナル時ニと讀べきか、有時をサカリと點ぜむこと義訓慥ならず、
 
初、花橘はなりにけり 實になるなり。下の句は古今集のかはつなくゐての山ふきちりにけりといふ哥におなし。さかりを有時とかけるは義によれり
 
大伴村上橘歌一首
 
1493 吾屋前乃花橘乎霍公鳥來鳴令動而本爾令散都《ワカヤトノハナタチハナヲホトヽキスキナキトヨメテモトニチラシツ》
 
トヨメは、とよましむる意なれば令動とかけり、とよむるも同じ、とよむと云時は令の字叶はず、
 
初、令動而《トヨメテ》 とよめもとよましむといふ心なれはなり
 
大伴家持霍公鳥歌二首
 
1494 夏山之木末乃繁爾霍公鳥鳴響奈流聲之遙佐《ナツヤマノコスヱノシノニホトヽキスナキトヨムナルコヱノハルケサ》
 
木末はコヌレと讀べし、繁爾は第十九に二上之|峯於乃繁爾《ヲノヘノシヽニ》云云、此に准らふればシヾニと和すべき歟、しの〔二字右○〕もしじと同じ義ながらいまだシノと點ぜる他の例を見ざればなり、さて此は木の繁きをやがて聲の繁きにかけてよめり、第十八に同じ人、多胡の崎木の晩《クレ》繁《シゲ》に霍公鳥、來鳴《キナキ》令|動《トヨメ》ばはた戀めやもとよまれたるに同じ、
 
初、夏山の梢のしのに しのはしけきなり。小竹をしのとなつくるも、しけくおふるゆへなるへし。さてこの木の末のしのは、おりふししかるを、やかて郭公の聲のしけきにいひなせり
 
(45)1495 足引乃許乃間立八十一霍公鳥如此聞始而後將戀可聞《アシヒキノコノマタチクヽホトヽキスカクキヽソメテノチコヒムカモ》
 
發句は第三に足日木能石根許其思美とある歌に注せし如く枕詞を以てやがて山とせり、胸の句は木の間を立潜るなり、
 
初、このまたちくゝは、木間立|潜《クヽル》なり。神代紀に、漏の字をくきとよめるもこれにおなし。八十一とかけるは九々の義なり。しゝを十六とかける心なり
 
大伴家持石竹花歌一首
 
1496 吾屋前之瞿麥乃花盛有手折而一目令見兒毛我母《ワカヤトノナテシコノハナサカリナリタヲリテヒトメミセムコモカモ》
 
六帖には腰句をさきにけりとて載たり、
 
惜不登筑波山歌一首
 
題と歌との事、上に坂上郎女が思大城山歌に云が如し、
 
1497 筑波根爾吾行利世波霍公鳥山妣兒令響鳴麻志也其《ツクハネニワカユケリセハホトヽキスヤマヒコトヨメナカマシヤソレ》
 
ユケリセバはゆきありせばを約めて云ひて行て有せばなり、落句はそれまさになかましものをの意なり、
 
右一首高橋連蟲麻呂之歌中出
 
歌集中出と云集の字の脱たる歟、第九の二十四葉云右件歌者高橋連蟲麻呂歌集中(46)出、二十八葉云、右二首高橋連蟲麿之歌集中出といへる、皆常陸の歌なり、虫丸常陸守の屬官にてよめる歟、又聞所を集る歟、然れば今も若は集の字脱たる歟、
 
夏相聞
 
大伴坂上郎女歌一首
 
1498 無暇不來之君爾霍公鳥吾如此戀常徃而告社《イトマナミコサリシキミニホトヽキスワレカクコフトユキテツケコソ》
 
吾、【官本亦點云、ワカ、】
 
大伴四繩宴吟歌一首
 
1499 事繁君者不來益霍公鳥汝太爾來鳴朝戸將開《コトシケミキミハキマサスホトヽキスナレタニキナケアサトヒラカム》
 
事繁、【六帖云、コトシケキ、官本亦點同v此、】
 
人は事の繁さに問も來ねば、朝戸をとくより開ても詮なし、霍公鳥だに來鳴かばそれが爲にひらかむとなり、六帖には朝戸あくべくと改て載す、
 
初、なれたにきなけ朝戸ひらかむ ことしけくて、とひくる人もなけれは、たれをまつとか朝戸をもひらかむ。汝たになかは、そのなくかたをなかむとて、朝戸をひらかんするそとなり
 
大伴坂上郎女歌一首
 
1500 夏野乃繁見丹開有姫由理乃不所知戀者苦物乎《ナツノノヽシケニサケルヒメユリノシラレヌコヒハクルシキモノヲ》
(47)苦物乎、【幽齋本、乎柞v曾、點云、クルシキモノソ、】
 
姫由理は山丹花とも紅百合とも云花なり、古事記に山由理草之本名云2佐韋1也とあるも同じかるべし、郎女が歌なれば姫百合の名をみづからよそふるなり、さて草の繁みに有とも知られずして咲に人知れぬ戀をもよせたり、第七第十一に草深百合とよめるを引合すべし、六帖には百合の歌として、落句を苦しかりけりと改む、
 
初、夏の野のしけみ しけみにさけるは、第七に、道のへの草ふかゆりとよめりしかことし。姫ゆりは紅百合とも山丹花ともいへり。坂上郎女か哥なれは、ひめゆりといふ名も、身におひたれは、その草のしけみにさけることく、人しれぬ戀はくるしき物なるを、なとか人のおもひおこせぬと恨る心あり。うつくしき物にして、ひめゆりとはいへり。姫松姫桃姫すか原なといふかことし
 
小治田朝臣廣耳歌一首
 
1501 霍公鳥鳴峯乃上能宇乃花之※[厭のがんだれなし]事有哉君之不來益《ホトヽキスナクヲノウヘノウノノハナノウキコトアレヤキミカキマサヌ》
 
霍公鳥の卯花をなつかしみて通ひ來しが如く來し君が、我に何の厭はしき事あればにや久しく來まさずとなり、上の句はう〔右○〕もじを儲けむ爲の序のみにあらず、第十二※[(貝+貝)/鳥]の往來垣根《カヨフカキネ》のうの花のとて下句今と同じき歌も亦同じ意なり、古今集に、水の面に生る五月の萍の、うき事あれや根を絶て來ぬとよめる躬恒が歌は詞も意も似たる中に、うきと云二文字を云はむ爲に上句を序に云ひて根を絶てと縁の詞をよせたれど、萍には譬る意なし、
 
初、ほとゝきすなくをのうへの 上の句は、うきことあれやのうもしにつゝくる序なり。うき事あれやは、われにおきて、君かいとはしくおもふ事あれはにや、とひもこぬといふなり。第十に、うくひすのかよふかきねのうの花の下句全同。古今集雜下、みつねか哥に、水のおもにおふる五月のうき草のうきことあれやねをたえてこぬ。此下句は同し心なから、うき草のといへるは、下のうきといふふたもしをまうけむ序なり
 
大伴坂上郎女歌一首
 
(4)1502 五月之花橘乎爲君珠爾貫零卷惜美《サツキノハナタチハナヲキミカタメタマニコソヌケチラマクヲシミ》
 
發句はサツキノとも讀べし、古歌は文字の足らぬを痛まず、書やうも然見ゆればなり、
 
紀朝臣豐河歌一首
 
聖武紀(ニ)云、天平十一年、正六位上紀朝臣豐川、授2外従五位下(ヲ)1、
 
初、紀朝臣豐河 聖武紀云。天平十一年正月正六位上紀朝臣豊川(ニ)授2外從五位下(ヲ)1
 
1503 吾妹兒之家乃垣内乃佐由理花由利登云者不謌云二似《ワキモコカヤトノカキウチノサユリハナユリトシイヘハウタハヌニニル》
 
家乃、【別校本云、イヘノ、】
 
家はイヘと讀べし、落句の云は衍文なるべし.此歌は極て意得がたき歌なり、試に強て釋せば垣内の早百合をばやがて人言などに障り相見ることを得ぬ人に譬へて、ゆりと云名を音曲に沙《ユタ》と云事あればそれに云ひなして、逢べき人に相見ぬは唯沙のみ汰て聲を揚て歌はぬに似たりとよめる歟、若は不の字は第四句に屬し、落句の云は去にて、ゆりとははゞいなうたはぬにゝるにやあらむ、意はゆりと聞こそいななれ、譬へば思ふ人に相見るは歌はまほしき事ある時高く一曲する如くなるを、人言などに礙られて垣内の早百合の如く見る事あたはねば、嗟歎するに足らざる事あれど永歌せざるに以たる物をとよめる與、第十八にはさゆり花ゆりもあはむと三首よめり、
 
初、わきもこかやとの 此哥は心得かたき哥なり。こゝろみにしひて尺せは、垣内にさけるさゆりの花なれは、外よりおもふはかりにはえみぬを、ゆりといふ花の名につきてたとへは、音曲のふしをたゝゆりにのみゆりて、聲を擧てうたはぬほとににたりといへるにや。ほに出てもえあはぬ人に、かくはよめるなるへし。第十八にも、さゆり花ゆりもあはむとおもへこそ今のまさかもうるはしみすれ。此外三首まてさゆりの花ゆりもあはんとゝよめる哥、同し卷に見えたり
 
(49)高安歌一首
 
1504 暇無五月乎尚爾吾妹兒我花橘乎不見可将過《イトマナヽサツキヲヒサニワキモコカハナタチハナヲミスカスクサム》
 
五月乎尚爾、【官本又云、サツキヲスラニ、】
 
發句は今の點叶はず、イトマナミと讀べし、胸の句も亦官本又點よし.五月をすらと云事は卯月を合めり、五月は橘のまさしき時なればなり、
 
初、いとまなみさつきをひさに いとまなきとあるはよろしからす。ひさには尚爾とかけり。ひさにとよめるもことはりあれと、此集他所に此尚の字をすらとよみたれは、此哥にてもさもよむへくや
 
大神女郎贈大伴家持歌一首
 
1505 霍公鳥鳴之登時君之家爾往跡追者將至鴨《ホトヽキスナキシスナハチキミカイヘニユケトヲヒシハイタリケカモ》
 
鳴之登時はなくとひとしくなり、見し夢のさむるやがて現などよめるやがての如し.
 
初、ほとゝきす鳴しすなはち すなはちはやかての心なり。そのまゝなり
 
大伴田村大孃與妹坂上大孃歌一首
 
1506 舌郷之奈良思之岳能書公鳥言告遣之何如告寸八《フルサトノナラシノヲカノホトヽキスコトツケヤリシイカニツケキヤ》
 
舌は古を誤れり改むべし、拾遺雑春に載られたるは、彼雑春は夏を兼、雜秋は冬を兼る故なり、大伴像見が歌として詞書に坂上郎女に遣はしけると有は意得がたし、
 
大伴家持攀橘花贈坂上大孃歌一首并短歌
 
(50)1507 伊加登伊可等有吾屋前爾百枝刺於布流橘玉爾貫五月乎近美安要奴我爾花咲爾家里朝爾食爾出見毎氣緒爾吾念妹爾銅鏡清月夜爾直一眼令覩麻而爾波落許須奈由米登云管幾許吾守物乎宇禮多伎也志許霍公鳥曉之裏悲爾雖追雖追尚來鳴而徒地爾令散者爲便乎奈美攀而手折都見末世吾妹兒《イカトイカトアルワカヤトニモヽエサシオフルタチハナタマニヌキサツキヲチカミアエヌカニハナサキニケリアサニケニイテミルコトニイキノヲニワカオモフイモニマソカヽミキヨキツキヨニタヽヒトメミセムマテニハチリコスナユメトイヒツヽコヽタクモワカモルモノヲウレタキヤシコホトヽキスアカツキノウラカナシキニヲヘトヲヘトナヲシキナキテイタツラニツチニチラセハスヘヲナミヨチテタヲリツミマセワキモコ》
 
玉爾貫、【幽齋本云、タマニヌク、】
 
發句の二つの伊は發語の詞にて門門なり、貫はヌクと讀べし、今の點は叶はず、宇禮多伎也志許霍公鳥とは、神武紀云、慨哉大丈夫云云、自注云、慨哉此云2于黎多棄伽夜《ウレタキカヤ》1、文選秋興賦注李善曰、慨、【許既反、】説文曰、慨、太息也、字林(ニ)曰、慨(ハ)壯士(ノ)不v得v志也、志許は、しこつ翁、しこのみたて、鬼のしこ草など云如く霍公鳥を假に罵詞なり、ナホシのし〔右○〕は助語なり、
 
初、いかといかと いは發語のことは、かとは門なり。門々有といふ心なり。玉にぬきとあるは、かんなあやまれり。玉にぬく五月を近みとつゝけよむへし。あえぬかにとは、あゆるはものゝましはる心なり。されはあえぬはましはらぬなり。かは我の字をかきたれとも、すみて疑の歟の字に心得へし。ましはらぬ歟にとは、五月にならは花と實とましはりて、ともに賞翫せらるへけれは、實とゝもに賞せらるへきは、ねたしとて、花のとく咲やうによめりときこゆ。古今集に、あはれてふことをあまたにやらしとや春にをくれてひとり咲らんとよめるとおなし心にて、かれはわさとをくれたるやうによみ、これはしひてさきたつやうにいへり。第十八に、おなし家持のよまれたる橘の哥に、ほとゝきすなく五月には、初花を枝にたをりて、をとめらにつとにもやり見、白妙の袖にもこきれ、かくはしみおきてからしみ、あゆる實は玉にぬきつゝ、手にまきてみれともあかすとよめり。右の長哥に、ほとゝきすなく五月には初花を枝にたをりてといひ、伊勢物語にも、五月まつ花橘と讀たれは、今は五月を近みとよみて、早くさける橘なれは、實とましはらしと歟おもふ心にて、とく咲にけりと、橘の心を察していへるなり。あえぬかにの詞、心を得てきかされは、たらはぬやうなり。古哥の詞には、心を聞知ても尺しおほせかたき事おほし。橘をは五月といひたれと、今は年によりて、三月の末にもさき、大やう四月の中旬には咲はて侍り。かゝる事も昔とはかはり侍るにや。橘の類には、金柑といふ一種そ、みな月に咲侍るめる。ちりこすなゆめは、ゆめ/\ちり過なといふ心なり。上十七葉にも、霞たつ春日の里の梅花山下風にちりこすなゆめと有。うれたきや、神武紀云。慨哉【此(ヲハ)云2于黎多棄伽夜(ト)1。】大丈夫《マスラヲニシテ》云々。なけかしき心なり。しこほとゝきすとは、しこは醜の字にて、みにくしきたなしと、郭公を罵辭なり。第二に、おにのますらお、これを又はしこのますらをとよめり。第三におにのしこ草とよめるは、忘草をのりていへる詞なり。今もそれにおなし。第十にもうれたきやしこ郭公と、今とおなしくよめる哥あり。をへと/\なをしきなきていたつらにつちにちらせは。第九に鶯のかこひの中に郭公獨むまれてとよみはしめたる長哥にも、うの花のさける野へより、とひかへりきなきとよまし、橘の花を居ちらしとよめり
反歌
 
1508 望降清月夜爾吾妹兒爾令覩常念之屋前之橘《モチクタチキヨキツキヨニワキモコニミセムトオモヒシヤトンタチハナ》
 
令覩、【別校本覩作v視、】
 
(51)望降は望月のくたつにて、十五夜の深て後を云歟、第十に曉降、第十九に夜降ともよめり、若は一夜の内を云にはあらで十六夜以後を云歟、後の義なるべし、
 
初、もちくたち清き月夜 もちは十五夜なり。みともと通すれは、もちはみちといふ心なるへし。くたちは、くたちはくたる心なれは、十五夜より以後の心なり
 
1509 妹之見而後毛將鳴霍公鳥花橘乎地爾落津《イモカミテノチモナカナムホトヽキスハナタチハナヲツチニチラシツ》
 
大伴家持贈紀郎女作歌一首
 
官本郎女を女郎と改、目録も然り、又目録に作の字なきに付べし、
 
1510 瞿麥者咲而落去常人者雖言吾標之野乃花爾有目八方《ナテシコハサキテチリヌトヒトハイヘトワカシメシノヽハナニアラメヤモ》
 
第三に駿河麻呂の、梅花開而落ぬと人は云へど、吾しめゆひし枝にあらめやもとよまれしに擬せられたるにや、更に注せず、彼を以て此を知べし、
 
初、なてしこは咲てちりぬと 第三大伴駿河麻呂梅の歌に、梅の花さきてちりぬと人はいへとわかしめゆひし枝にあらめやも。大かたおなし哥なり
 
秋雜歌
 
崗本天皇御製歌一首
 
1511 暮去者小倉乃山爾鳴鹿之今夜波不鳴寐宿家良思母《ユフサレハヲクラノヤマニナクシカノコヨヒハナカスイネニケラシモ》
 
鳴鹿之、【官本之作者點云、ナクシカハ、別校本或同v此、幽齋本之作者點云、ナクシカノ、】
 
此御歌、第九には鳴を臥に作りて雄略天皇の御歌として、右或本云、崗本天皇御製、不審(52)正指因以累載と注せり、六帖には鹿の歌に今の如く載たり、此小倉の山は山城の小倉山にはあらず、大和國に有べきに付て雄略天皇の御歌ならば城上郡、舒明天皇の御歌ならば高市郡なるべし、第九に白雲之龍田山之瀧上之、小鞍|嶺爾《ミネニ》とよめるにはあらず、何れの帝にもあれ、常に大内まで鹿の音の聞ゆるほどの山と見えたる故なり、小倉山の有處慥ならば撰者此道理を以て兩帝の間を定らるべきを、然らねば昔より有處を知られざりけるにや、暮去者とは、夕暮ごとに鳴と云意に聞ゆれど、古今集に貫之歌に、夕月夜をぐらの山とよみ、同じ人のかゝれたる大井河の序にも夕月夜小倉山の麓とあるは、夕月夜のをぐらきと云意における枕詞なれば、今も其意におかせ給へるなり、今夜波不鳴とあるにて毎夜鳴ける事は知られたり、寐宿家良思母とは、鹿の妻戀によな/\鳴聲の聞えつるが、今夜鳴ぬは妻に逢て寢たるなるらむとよませ給へるなり、仁徳紀云、三十八年秋七月、天皇與2皇后1居2高臺《トノニ》1而避暑時、毎v夜自2菟餓野1有v聞2鹿鳴1、其聲寥亮而悲(シ)之、共(ニ)起2可憐之情1、及2月盡1以2鹿鳴不1v聆天皇語(テ)2皇后1曰、當2是夕1而鹿不v鳴其何(ノ)由(ソ)焉云云、射られて鳴ぬと妻に逢て鳴ぬとは替れど、聞食てあはれませ給ふ御心は同じ、一人恩波流れて禽獣に及ばゞ民たる誰か霑ざらむ、有難き御事なり、
 
初、ゆふされはをくらの山に 此哥第九卷の初にも載て、そこには雄畧天皇の御哥として、注に崗本天皇の御哥と或本にいへるよしいへり。鳴鹿を、そこには臥鹿とせり。第四卷最初に、岳本天皇御製とて載たる哥の終に注すらく。右今案高市岳本宮後岡本宮二代二帝各有v異焉。但|※[人偏+稱の旁]《イヘルハ》2岡本之天皇(トノミ)1未(タ)v審(ニセ)2其|指《サストコロヲ》1。此注に准せは、今の崗本天皇といふも、舒明齊明の兩帝、いつれと分かたき歟。愚案、第四卷の注は其いはれなき歟。先彼御製は、まさしく舒明天皇の御哥なるへきことは、そこに辨せり。初の岡本宮にまきらはさしとて、後岡本宮といへは、只岡本宮といふは、まきれもなく舒明なり。例せは、近江遠江は相對せる名にて、ちかつあふみとをつあふみといへと、たゝあふみといふはかならす近江なるかことし。夕されはとは、夕くれことに鳴といふ時分なから、古今集に貫之哥に、夕月夜をくらの山に鳴鹿の聲の内にや秋はくるらんといふ哥も、をくら山ををくらきといふ心につゝけんとて夕月夜とをけは、此御哥の夕されはもやかて枕詞としたまふ心なるへし。此をくらの山は大和なるへし。そのゆへは、こよひはなかすとよませたまへるは、日ころきかせたまへる聲の、こよひはしめて聞えぬは、鹿は妻こひに鳴ものなれは、妻をこひ得てあへるにやとの御心なり。末の代にこそ、題をすへて遠き海山も、其哥の草木鳥けたものによせあれはよむ習なり。いにしへはしからす。相聞なとぞ、よせあれはすこし遠き所をもよめる。しかれは、第九に、龍田の山の瀧のうへのをくらの嶺とよめるをくらの嶺や、此哥の小倉の山にて侍らん。仁徳紀云。三十八年春正月癸酉朔戊寅、立《タテヽ》2八田(ノ)皇女(ヲ)1爲2皇后(ト)1。秋七月天皇與2皇后1居(テ)2高|臺《トノニ》1而|避暑《スヽミタマフ》。時(ニ)毎v夜自2菟餓野1有v聞(ユルコト)2鹿(ノ)鳴《ネ》1。其聲|寥亮《サヤカニシテ》而悲(シ)之。共(ニ)起(シタマフ)2可憐《アハレトオホス》之|情《ミコヽロヲ》1。及(テ)2月盡《ツコモリニ》1以鹿(ノ)鳴《ネ》不v聆(エ)。爰(ニ)天皇語(テ)2皇后1曰。當(テ)2是夕《コヨヒニ》1而鹿(ノ)不v鳴其何《ナニノ》由(ソ)焉云云
 
大津皇子御歌一首
 
(53)1512 經毛無緯毛不定未通女等之織黄葉爾霜莫零《タテモナクヌキモサタメスヲトメラカオレルモミチニシモナフリソネ》
 
不定を六帖にはさだめぬとあり、官本の又の點も同じけれど、是は第七に、三芳野の青根が峯の蘿席、誰か織けむ經緯なしにと有し意なれば、未通女等之經毛無緯毛不定《ヲトメラカタテモナクヌキモサタメス》織と云つゞきにて、さだめぬとては叶はぬなり、腰句官本に或は等を古に作りてヲトメコガと點じ、六帖も同じけれど、仙覺抄も諸本と同じく等なれば今取らず、黄葉を仙覺はにしきと點じて今の點をば古點とて嫌はれたれど、今の點古意にて然るべし、其故は錦を下心にて黄葉を織と云へるは誠に事たらぬに似たれど、黄葉を下心にて錦と云も足れりとは云べからず、具足せる詞ならば黄葉の錦を織と云べし、されどかゝる事は詩歌の習なれば算術などのやうには密《キヒ》しからぬが還て面白き事なり、殊に古人は胸中廣かりければ兎を得て蹄《ワナ》を忘れたる作毎毎あり、驚ろくべからず、其上第十には紅之綵色《クレナヰノニシキ》爾所見秋山|可聞《カモ》、第十三には自然成錦乎張流山可母《オノヅカラナレルニシキヲハレルヤマカモ》、これら黄葉をにしきとよめるに、書やうかくの如くなれば、今もにしきならむには黄葉とは書べくもなし、依て仙覺の説もことわりならぬにはあらねど今は取らず、懷風藻に此皇子の詩に、天紙風筆畫2雲鶴1、山機霜杼織2葉錦(ヲ)1、傳に性頗放蕩とかけり、此一聯の活句を見るに誠に然るべし、此後の句と今の歌と同じ、何をか先に作らせ給ひけむ、
 
初、たてもなくぬきもさためす をとめらかをれるもみちとは、錦といふへきを、その錦はもみちの事なれは、おしてのたまへるなり。懷風藻云。七言述v志。【大津皇子四首之中第三】天紙風筆畫(キ)2雲鶴(ヲ)1、山機霜杼織(ル)2葉錦(ヲ)1。今の哥此後の句とおなし。いつれをさきにか作らせたまひけむ。第七詠蘿哥に
  みよしのゝあをねかみねのこけむしろ誰かおりけむたてぬきなしに
第十三に
  山邊のいそしの御井はをのつからなれるにしきをはれる山かも
古今集云
  霜のたて露のぬきこそよはからし山のにしきのおれはかつちる
  立田川にしきおりかく神無月しくれのあめをたてぬきにして
 
(54)穗積皇子御歌二首
 
1513 今朝之旦開鴈之鳴聞都春日山黄葉家良思吾情痛之《ケサノアサケカリカネキヽツカスカヤマモミチニケラシワカコヽロイタシ》
 
落句は第十五には我《ワカ》胸|痛《イタ》しともよめり、皇極紀云、古人大兄(ノ)曰、韓人殺2鞍作臣(ヲ)1、吾(カ)心痛矣、
 
初、けさのあさけ――わか心いたし 皇極紀云。古人大兄見(テ)走2入私宮(ニ)1謂(テ)2於人(ニ)1曰。韓人殺2鞍作(ノ)臣(ヲ)1吾(カ)心痛(シ)矣。即入2臥内《オホトノニ》1杜(テ)v門(ヲ)不v出
 
1514 秋芽者可咲有良之吾屋戸之淺芽之花乃散去見者《アキハキハサキヌヘカラシワカヤトノアサチカハナノチリユクミレハ》
 
可咲有良之、【官本又云、サクヘカルラシ、】
 
下句の事、上に廣瀬王の歌に付て注するが如し、但六帖にこそ落句を色付見ればと換たれ、今散去とあるを思ふに淺茅の色付を花とは云べし、色のさむるを散とは云べからぬにや、又野を見るに淺茅の色付は秋冬を懸れば、淺茅の末枯て色のさむるを假令散と云とも、秋芽の咲ぬべからむ事をのたまふとて此下句は有まじきにや、茅花《ツハナ》は夏を經て秋までもほのめくが今は散行けば、萩のさきぬべからしとよませ給ふにや、
 
初、淺茅か花の つはなゝり。つはなは春の末に、穗に出て、薄のやうに見え、夏野にも猶ちらて有が、秋萩もやゝ咲ぬへき比にちるを、かくはよませたまふなり。心をつけて、つはなのやうを見たる人、此御哥にまことあることを知へし
 
但馬皇子御歌一首【一書云子部王作】
 
皇女を誤て皇子に作れり、注に一書云子部王作とあるは是亦女王と有けむを女の字を落せるなるべし、第十六云、兒部女王嗤歌一首此人なり、官本には今の注なし、
 
初、但馬皇女御歌 皇子とあるは誤れり
 
1515 事繁里爾不住者今朝鳴之鴈爾副而去益物乎《コトシケキサトニスマスハケサナキシカリニタクヒテユカマシモノヲ》
 一云|國爾不(55)有者《クニニアラスハ》
 
去益物乎、【六帖云、イナマシモノヲ、紀州本同v此、】
 
但馬皇女は穗積皇子に御心を通はされたる事第二に見えたれば、去益物乎とは彼御許へとなるべし、六帖にいなましものをとあるは歸雁にたぐはむと云やうなりと思ふ人あるべし、此集にては唯ゆかましと同じ意なり、
 
山部王惜秋葉歌一首
 
此山部主は誰と云事を知らず、天武紀上(ニ)云、時(ニ)近江命2山部王蘇賀臣果安巨勢臣比等1、〓2數萬衆(ヲ)1將v襲2不破(ヲ)1而軍2于犬上(ノ)川濱1、山部王爲2蘇賀(ノ)臣果安巨勢(ノ)臣比等1見v殺云云、此人歟、以前の尊貴に次で長屋の上に置けるにて知べし、桓武天皇をも當初は山部王と申奉りたれど、天平九年に生れさせ給へば別なる事明なり、
 
初、山部王惜2秋葉1歌一首 山部王にふたりあり。其ひとりは、天武紀上云。時(ニ)近江命(テ)2山部王、蘇賀臣果安、亘勢臣比等(ニ)1率(テ)2數万衆(ヲ)1將v襲(ハント)2不破(ヲ)1而軍2于犬上(ノ)川|濱《ホトリニ》1。山部王爲2蘇賀臣果安、巨勢臣比等(カ)1見v殺。由2是(ノ)亂(ニ)1以2軍不(ルヲ)1v進(マ)乃蘇賀臣果安自2犬上1返(テ)刺v頸(ヲ)而死。此山部王は系圖をしらす。今ひとりは、桓武天皇いまた諸王にておはしましける時の御名なり。續日本紀云。延暦四年五月乙未朔丁酉詔曰〇又臣子之禮心避2君(ノ)諱(ヲ)1。比者《コノコロコ》、先帝(ノ)御名及朕之諱、公私觸(レ)犯(シテ)猶不v忍(ヒ)v聞(ニ)。自v今以後宜2並(ニ)改(タメ)避(ク)1。於v是改(テ)v姓(ヲ)白髪部(ヲ)爲2眞髪部(ト)1山部(ヲ)爲v山(ト)。此中に今のつゝき初の山部王にあらす。桓武天皇の御哥なり。いまた山部王にて經させたまへる位階は、稱徳紀云。天平神護二年十一月丁巳無位山邊王授2從五位下1。光仁紀云。寶亀五年三月甲辰兼駿河守。寶亀十年六月辛亥、從五位上山邊王(ヲ)爲2大膳大夫(ト)1。十一年正月丁卯朔癸酉正五位下。三月丙寅朔壬午任2備前守1。天應元年十一月正五位上
 
1516 秋山爾黄反木葉乃移去者更哉秋乎欲見世武《アキヤマニキハムコノハノウツロヘハサラニヤアキヲミマクホリセム》
 
此下並に第十に黄變をモミチと點ぜれば、今の黄反もモミツルとも讀べきか、移去者をウツロヘバと點じたるは叶はず、ウツリナバと讀べし、
 
初、移去者 うつりなはとよむへし
 
長屋王歌一首
 
(56)1517 味酒三輪乃祝之山照秋乃黄葉散莫惜毛《ウマサカノミワノハフリノヤマテラスアキノモミチノチラマクヲシモ》
 
祝等が領する三輪山なれば祝之山照とはよみ給へり、
 
初、味酒みわのはふりか山てらす みわのはふりらかいつきまつる山をてらすなり。又祝等か、みわ山を領すれは、はふりか山てらすとはよみ給へり。第四にうまさけをみわのはふりかいはふ杉。第七にみぬさとるみわのはふりかいはふ杉原なとよめり
 
山上臣憶良七夕歌十二首
 
1518 天漢相向立而吾戀之君來益奈利紐《アマノカハコムカヒタチテワカコヒシキミキマスナリヒモ》解設奈  一云|向河《カハニムカヒ》
 
相向立而、【校本又云、アヒムキタチテ、】
 
胸句校本又點に依べし、今の點は第十八云、夜須能河波許牟可比太知弖《ヤスノカハコムカヒタチテ》云云、此に依ける歟、彼許牟可比太知弖は來向立而《コムカヒタチテ》なり、第一云、御獵立師斯時者《ミカリタヽシヽトキハ》來向云云、第十九云、春過(テ)而夏來向者云云、此にて知べし、唯二星の相向て立と、來て向ひ立と義少替れり、字に依て意得べし、注の向河はカハニムカヒテと讀べし、
 
初、あまの川こむかひたちて 相向立而とかきたれは、あひむきたちてとよむへし。ひもときまけなは、ひもときまうけむなり。第十にも七夕の哥おほし。多分ひこほしとなり、たなはたつめとなりてよめる哥なり
 
右養老八年七月七日應令
 
此八年は誤なり、八年二月甲牛に聖武天皇位につかせ給ひて神龜元年と改らる、先の七年に白龜の瑞有しに依て、八は六の字の上の二畫を失なへるにや、應令は聖武天皇いまだ東宮にてまし/\ける時の令旨に依てよまるゝなり、文選序注(ニ)、呂向曰、令(ハ)有v領也、領v之使v不2相干犯1、
 
(57)1519 久方之漢瀬爾舩泛而今夜可君之我許來益武《ヒサカタノアマノカハセニフネウケテコヨヒカキミカワカリキマサム》
 
漢の字の上に若天の字の脱たるにや、我詐は字の如くわがもとへなり、
 
初、わがりきまさむ 我もとにきまさむなり。いもがりゆく、人のがりゆくなと、みなこれにおなし
 
右神龜元年七月七日夜左大臣家
 
二月甲午に正二位左大臣と成たまふ、此なり、
 
1520 牽牛者織女等天地之別時由伊奈宇之呂河向立意空不安久爾嘆空不安久爾青浪爾望者多要奴白雲爾※[さんずい+帝]者盡奴如是耳也伊伎都枳乎良武如是耳也戀都追安良牟佐丹塗之小舩毛賀茂玉纏之眞可伊毛我母《ヒコホシハタナハタツメトアメツチノワカレシトキユイナウシロカハニムキタチオモフソラヤスカラナクニナケクソラヤスカラナクニアヲナミニノソミハタエヌシラクモニナミタハツキヌカクノミヤイキツキヲラムカクノミヤコヒツヽアラムサニヌリノコフネモカモタママキノマカイモカモ》【一云小棹毛何毛】朝奈藝爾伊可伎渡夕塩爾《アサナキニイカキワタリユフシホニ》【一云夕倍爾毛】伊許藝渡久方之天河原爾天飛也領布可多思吉眞玉手乃玉手指更餘宿毛寐而師可聞《イコキワタリヒサカタノアマノカハラニアマトフヤヒレカタシキマタマテノタマタサシカヘヨイモネテシカモ》【一云伊毛左禰而師加】秋爾安良受登母《アキニアラスモ》 一云|秋不待登母《アキマタストモ》
 
意空、【別校本意作v思、】  小船、【別校本、幽齋本並云、ヲフネ、】
 
牽牛は和名云、爾雅註云牽牛一名(ハ)何鼓、【和名、比古保之、又以奴加比保之、】織女に對して日子《ヒコ》星と云、爾雅(58)釋訓云、美女(ヲ)爲v媛、美士(ヲ)爲v彦和語の意此に同じ、織女は和名云、兼名苑云、織女牽牛是也、【和名太奈八太豆女、】此も二十八宿の中の女宿なり、和語の意つ〔右○〕は助語にて棚機女なり、日本紀並に古事記に板擧と書てタナとよめり、機を織るに後を懸る板あり、第十に踏木と云へる是なり、此踏木は棚の如くする物なるに依て機を織を業とすれば此名を負せたり、二星の事もろこしには末の世に疑ふ者出來たれど、古來然るべき人々皆信じて傳へ來れり、此國は殊に不測の神國にて榊變無方なれば、何の怪かあらざらむ、仍今も天地之別時由と云ひ、第十にも安の河隔てゝ置し神世の恨などよめり、伊奈宇之呂は河と云べき枕詞なり、別に注す、顯宗紀に伊儺|武斯盧※[加/可]簸泝比野儺擬《ムシロカハソヒヤナキ》云云、此集第十一には伊奈武思呂《イナムシロ》敷而毛君乎云云、共に稻莚なれば今の宇も牟を書誤れるにやと思ふに、袖中抄にも仙覺の此集抄にも今の如く有て顯昭云、此歌のいなうしろはいなむしろなりうはうしろなど云て、むしろをばうしろと云也と釋せられたれば異義あるべからず、馬を宇麻、牟麻梅を宇女、牟女と通はして書になずらふべし、青波爾望者多要奴とは、毛詩云、瞻望弗v及、泣(ク)涕如v雨佐丹塗之小船はヲフネと點ぜるに依べし、佐丹塗は佐は付たる字丹塗の舟は第三に赤のそほふねとよめるが如し、袖中抄にさにぬりしと有は今取らず玉纒之眞可伊は、玉をもてまきて飾れる棹なり眞はほむる詞なり、袖中抄にた(59)まゝきしまことかいもがとあるは又取らず、何伊可伎渡伊許藝渡、二つの伊は並に發語の詞なり、天飛也領巾可多思吉は第二に、白妙之天領巾隱《アマヒレコモリ》と云に、第十の秋風吹|漂蕩《タヽヨハス》白雪者、織女之天津|領巾《ヒレ》毳と云を引合せて云へる如く今も白雲を片敷てと云へる歟、唯織女の領巾を云歟、又|餘宿《ヨイ》、第五に注せし如く能寢《ヨイ》なり、
 
初、いなうしろ川にむきたち いなうしろは稻莚なり。延喜式第八、出雲國造|神賀《カムホキノ》詞(ニ)云。彼方《カナタノ》古川|席《ムシロ》、此万《コナタノ》古川|席《ムシロ》爾|生立《オヒタテル》若水《ワカミツ》沼間能|彌若叡《イヤワカエ》爾御若叡坐云々。今の式に、席の字を音に讀たるは誤なるへし。かなたこなたの古川|席《ムシロ》におひたてるといへるは、苔のことなるへし。古川のなかれのぬるきに、苔のおひしけるが、莚のことくなれは、古川席といふ。されはいなむしろも、むしろとのみいひては、もしのたらねは、何となく稻莚といひて、川といふへき枕詞としたるは、古川席といふ心なるへし。此詞猶ふるく見えたるは、顯宗紀に、天皇の御哥にいはく。伊儺武斯盧《イナムシロ》《・稻莚》、※[加/可]簸泝比野儺擬《カハソヒヤナキ》《・河傍柳》、ナヒキ寐逗愈凱麼《ミツユケハ》《・水逝者》、儺弭企《ナヒキ》《・靡》於巳佗智《オシタチ》《・押立・己《キ》歟起》、曾能泥播宇世儒《ソノネハウセス》《・其根者失不》。青波にのそみはたえぬ白雲に涙はつきぬ。毛詩云。瞻望(スレトモ)弗v及(ハ)泣(ク)涕如(シ)v雨(ノ)。さにぬりのをふねもかも。舟に丹ぬり色とりたるなり。さにのさは助字なり。第九にもかくよめり。第十六にあから小舟とよみ、第三第十三にともにあけのそほふねとよめるもこれなり。玉まきのまかいもかもは、かいをほめんとて玉まきといへり。朝なきには、海邊のみならす。古今集に雲もなくなきたる朝ともよめり。いかきわたり、いは下のいこきのいともに發語のことはなり。かきは打といふ字のことく、ことはのかゝりにもいへり。こゝは下にこきわたりといふに對すれは、水をかくなり。夕しほは河といふにはかなはされとも、天の海ともいひ、又天川とても、おもひやりてさま/\いふことなれは、難すへからす。よいもねてしかも。よは夜か、又よくいねてしかなといふ歟。秋にあらすともは、二星の心なり。眞玉手の玉手さしかへは、第五にもおなし憶良の哥に見えたり
 
反歌
 
1521 風雲者二岸爾可欲倍杼母吾遠嬬之《カセクモハフタツノキシニカヨヘトモワカトホツマノ》【一云波之嬬之】事曾不通《コトソカヨハヌ》
 
發句は風と雲とはなり、二岸は天河の此方彼方の岸なり、可欲倍杼母は陸士衡擬古詩云、驚〓〓2反信1、歸雲難v寄v音(ヲ)第十九云、風雲爾言者雖通云云、此は使を風雲と云へり、今は風と雲とは兩岸に往來すれども實の使ならねば織女の言を傳へずと牽牛に成てよまれたり注の波之嬬は波之吉妻と云へるに同じ、
 
初、風雲はふたつのきしにかよへとも 河圖帝通紀云。風(ハ)者天地(ノ)之使(ナリ)也。魏武帝短歌行云。【杜律歟唐詩訓解歟なとの注にて見侍りし忘失】陸士衡擬古(ノ)詩、遊子眇(ナリ)2天末(ニ)1。遠期不v可(ラ)v尋(ヌ毒。驚※[風+火三つ]|※[塞の土が衣]《ウシナフ》2反信(ヲ)1。歸雲難(シ)v寄(セ)v音(ヲ)。【文選。】第二十に、家風は日にけにふけとわきもこか家言もちてくる人もなし。み空行雲もつかひと人はいへと家つとやらむたつきしらすも
 
1522 多夫手二毛投越都倍伎天漢敞太而禮婆可母安麻価多須辨奈吉《タフテニモナケコシツヘキアマノカハヘタテレハカモアマタスヘナキ》
 
多夫手はた〔右○〕とつ〔右○〕と通ずればつぶてなり、東都賦云、飛礫(ノ)雨散云云、つぶても本はとぶて(60)の意なるを、登と豆とを通してつぶてと云なるべし、越都とは、天河の廣からずして近き意なり河漢清且淺相去(ルコト)復幾許、盈々(タル)一水間脈々不v得v語、下の袖振者見毛可波之都倍久雖近とよめる同意、
 
初、たふてにもなけこしつへき たふてはつふてなり。とふてともいふ。飛礫とかけり。たふてをもといふへきを、たふてにもといへるは、古語はかやうにいへるたくひおほし。これは天川のいくはくもなくて、ちかきよしによめり
 
右天平元年七月七日夜憶良仰觀天河【一云師家作】
 
河の下に作の字落たるか、注の中の師は帥に改たむべし、帥は大伴卿なり、
 
初、注、天河下、作の字ををとせる歟
 
1523 秋風之吹爾之日從何時可登吾待戀之君曾來座流《アキカセノフキニシヒヨリイツシカトワカマチコヒシキミソキマセル》
 
吹ニシのに〔右○〕、イツシカのし〔右○〕、共に助語なり、
 
1524 天漢伊刀河浪者多多彌杼母伺候難之近此瀬乎《アマノカハイトカハナミハタヽネトモウカヽヒカタシチカキコノセヲ》
 
二三の句は、河浪はいたくもたゝねどもなり、伺候難之は、何時來むや來じやの伺得がたきなり、今按サモラヒガタシとも讀べし、近此瀬乎は思へば近き此瀬なる物をの意なり、右二首は織女の意をよまる、
 
初、天川いと河浪はたゝねとも 天川のなみはいともたゝされともなり。うかゝひかたしとは、彦星をうかゝひ待かたしとなり
 
1525 袖振者見毛可波之都倍久雖近度爲便無秋西安良禰波《ソテフラハミモカハシツヘクチカケレトワタルスヘナシアキニシアラネハ》
 
雖近は今按雖遠をとほけどもとよめる古語になすらへばチカケドモと讀べし秋ニシのし〔右○〕は助語なり、
 
初、袖ふらは見もかはしつく さきの、たふてにもなけこしつへき天川といへることく、まちかきをいへり。古詩云。河漢清(テ)且(ツ)淺(シ)。相去(ル)復幾許(ソ)。盈々(トシテ)一水|間《ヘタヽレリ》。點々(トシテ)不v得v語(ルコトヲ)
 
(61)1526 玉蜻※[虫+廷]髣髴所見而別去者毛等奈也戀牟相時麻而波《カケロフノホノカニミエテワカレナハモトナヤコヒムアフトキマテハ》
 
右天平二年七月八日夜帥家集曾
 
六日の菖蒲のやうなれど、前の夜はさはる事有けるなるべし、
 
初、かけろふのほのかにみえて 此かけろふは、夕くれに出て飛かひて、ほのめく虫なり。夏秋の夕に飛を、あるもの蚊を空にてはむと申き。和名集に赤ゑむは黄ゑむはなといへる虫なり。もとなやは後々によしなといふ詞なり。由と本とおなし心なり
 
1527 牽牛之迎嬬舩巳藝出良之漢原爾霧之立波《ヒコホシノツマムカヘフネコキイツラシアマノカハラニキリノタテレハ》
 
迎嬬船とは、此は牽牛織女を迎て歸て逢なり、定家卿、七夕の歌は風情のより來らむに任て讀べき由のたまへるは此等の事なり、落句は夕霧の立たればの意なり、
 
初、ひこほしのつまむかへ舟 霧は夕にたては、つまをむかふる舟を今はこき出らんとなり。哥の習なれは、つまをむかへてひこほしのもとへかへるやうによめり
 
1528 霞立天河原爾待君登伊往還程爾裳襴所沾《カスミタツアマノカハラニキミマツトイカヨフホトニモノスソヌレヌ》
 
秋も霞を讀こと第二の磐之媛の御歌に付て注せしが如し、伊往還の伊は發語の詞なり、沾を誤て沽に作れり、
 
初、いかよふほとに いは例の發語なり
 
1529 天河浮津之浪音左和久奈里吾待君思舟出爲良之母《アマノカハウキツノナミトサワクナリワカマツキミシフナテスラシモ》
 
浪音は第二にも浪音乃茂濱邊乎《ナミノトノシケキハマベヲ》と人丸の歌にもありき、君シのし〔右○〕は助語なり、右二首は織女に成てよめり、
 
萬葉集代匠記卷之八上
 
(1)萬葉集代匠記卷之八下
 
太宰諸卿大夫并宮人等宴筑前國蘆城驛家歌二首
 
宮は官を誤れり、
 
初、太宰、并官人 官を宮につくれるは誤なり
 
1530 娘部思秋芽子交蘆城野今日乎始而萬代爾將見《ヲミナヘシアキハキマシリアシキノハケフヲハシメテヨロツヨニミム》
 
交は今按マジルと點ずべきか、
 
1531 珠〓葦木乃河乎今日見者迄萬代將忘八方《タマクシケアシキノカハヲケフミレハヨロツヨマテニワスラレメヤモ》
 
〓、【幽齋本作v匣、】
 
〓の字幽齋本に依べし、玉くしげはあくと云意にあ〔右○〕もじをまうけむためなり、第十二に垂水の水のはしきやしは早しとつゞけ、白眞弓ひだの細江は引とつゞけたる例に同じ、
 
初、珠匣あしきの川を 玉くしけを明といふ心に、あといふひともしにいひかけたり。あくとも、あけとも、あかむとも、あきとも、下はうこけは、上は主下は伴なるゆへに、主にかゝれは、をのつから伴を攝する心なり
 
右二首作者未詳
 
笠朝臣金村伊香山作歌二首
 
和名集云、近江國伊香郡伊香【伊加古】郷、
 
初、伊香山 近江伊香郡なり。第三に、金村の塩津山の哥あり。角鹿の哥あり。越前へ下られける時、今の哥も、道にてよまれたる歟。もしは別時の哥歟
 
(2)1532 草枕客行人毛往觸者爾保此奴倍久毛開流芽子香聞《クサマクラタヒユクヒトモユキフレハニホヒヌヘクモサケルハキカモ》
 
ニホヒヌベクモとは色のにほふなり、萩が花摺の意なり、
 
1533 伊香山野邊爾開有芽子見者公之家有尾花之所念《イカコヤマノヘニサキタルハキミレハキミカヤトレルヲハナシソオモフ》
 
家有、【六帖云、イヘナル、官本又點同v此、】  尾花之所念、【六帖云、ヲハナシオモホユ、】
 
點の異六帖に依べし、公とは故郷の妻なり、
 
初、公之家有 きみかいへなるとよむへし。此きみといへるは、故郷に殘しをく妻をさしていへり
 
石川朝臣老夫歌一首
 
老夫は第十六仙女が歌にオキナとよみたれば今も同じく讀べし、此人の履歴未v詳、文武紀云、二年秋七月己未朔癸未、直廣肆石川朝臣小老爲2美濃守1、此小老の子などにや、
 
初、石川朝臣老夫 續日本紀云。文武二年秋七月己未朔癸未、直廣肆石川朝臣小老爲2美濃守1。此小老の子なとにもや
 
1534 娘部志秋芽子折禮玉桙乃道去※[果/衣]跡爲乞兒《ヲミナヘシアキハキタヲレタマホコノミチユキツトニコハムコノタメ》
 
秋芽子折禮、【六帖云、アキノハキヲレ、】
 
胸の句の點を思ふに子の下に手を落せる歟、或は芽の一字をば萩とよめば、子は手なりけるを誤れる歟、佐伯山于花以之哀我子鴛取而者花散鞆《サヘギヤマウノハナモタシカナシキガ○ヲシトリテハハナハチリヌトモ》と云歌の子〔右○〕の字も、彼處に(3)注せし如く手〔右○〕を誤れる歟なれば、今もなずらへて知べし、但六帖にあきのはぎをれとあれば古本も今と同じかりけるなるべければ、さらば、六帖の如く讀べし、又はアキハギヲヽレとも點ずべし、道去※[果/衣]は濱※[果/衣]山※[果/衣]の類なり、
 
初、をみなへし秋はきたをれ 芽子の下に手の字落たる歟。子の字なくてもはきとよめは、子はやかて手の字の誤にや。道ゆきつとゝは、第三に濱つとゝよみ、第廿に山つとゝよみ、家つとゝ常よむたくひに、道をゆきて歸る時のつとなり
 
藤原宇合卿歌一首
 
1535 我背兒乎何時曾旦今登待苗爾於毛也者將見秋風吹《ワカセコヲイツソイマカトマツナヘニオモヤハミエムアキカセノフク》
 
秋風吹、【官本又點、アキカセフク、】
 
於毛也者將見とは面やは見えむなり、人の面は見え來らで、あらぬ秋風のみ吹來るなり、
 
初、おもやは見えむ おもかけや見えむなり。はゝ語の助なり
 
縁達師《ヨリユキノイクサカ》謌一首
 
此人の事未v詳、今按縁達は僧の名にて師は法師の師にや、第九に碁師と云者あり、第四坂上郎女歌六首の第三にしるしと云を知僧とかけるに依に師は僧なり、
 
初、縁達師 よりゆきのいくさとあれと、おほつかなし。第九に、碁師歌なとあれは、縁達といふ僧にて、師は法師の心にやあらん
 
1536 暮相而朝面差隱野乃芽于者散去寸黄葉早續也《ヨヒニアヒテアサカホハツルカクレノヽハキハチリニキモミチハヤツケ》
 
上の句は第一に長皇子の暮相而朝面無美隱爾加とよませ給へる歌に既に注せり、黄(4)葉早續とは即芽子の黄葉なり、第十に秋芽の下葉の黄葉花に續げとよめるに同じ、也は助語に加へたり、
 
初、よひにあひて朝かほはつる 第一に、長《・ナカ日本紀》皇子の御哥に、よひにあひてあしたおもなみかくれにかけなかき妹かいほりせりけむとよませたまへるにおなしつゝけやうなり
 
山上臣憶良詠秋野花二首
 
目録に歌二首とあり、此に脱たるか、
 
1537 秋野爾咲有花乎指折可伎數者七種花《アキノヽニサキタルハナヲテヲリテカキカソフレハナヽクサノハナ》其一
 
指折、【幽齋本云、テヲヽリテ、】
 
手ヲヽルは指を龜むる事なれば指折とかけり、仁徳紀に桑枝をクハノキと點ぜるが如し、可伎數者とは、かきは掻にて打と云類に詞のかゝりに云付る字なり、
 
初、てをゝりて 手を妄ゝるは指をかゝむる事なれは、指折とはかけり。かきかそふれは、此かきは、打なといふ言の、よろつにそふたくひなり。第十七にも、かきかそふゝたかみ山と、家持もよまれたり
 
1538 芽之花乎花葛花瞿麥之花姫部志又藤袴朝顔之花《ハキノハナヲハナクスハナナテシコノハナヲミナヘシマタフチハカマアサカホノハナ》其二
 
是は旋頭歌なり、右と二首にて一意を盡せり、上は惣釋此は別釋の如し、此歌は第十六に詠雙六頭謌と同じく、内典の中の略頌のやうによまれたるなり、
 
初、はきの花をはな 薄のほに出たるは、鳥けたものゝ尾にゝたれは、尾花とは異名を付たるなり。此歌は旋頭哥なり。第十六に、詠雙六頭謌に、一二の目のみにはあらす五六三四さへありけり雙六のさえ。此哥とおなし躰なり。只數なとあるものを、ありのまゝによくいひのふるなり。聖教の中の略頌のことし
 
天皇御製歌二首
 
初、天皇御製歌 これは聖武天皇なり。第四にも天皇思2酒人女王1御製歌一首。八代女王献2 天皇1歌一首。此外獻2天皇1といふ哥三首あり。此卷下冬歌中にも、天皇御製歌あり。第六にもあり。これ家持のえらはれたる中にも、そのみかとなるゆへに、かくはしるせり。孝謙天皇御治世にいたりて、えらはれたるには、太上天皇といへり。心をつくへし。第三卷に、天皇御2遊雷岳1之時柿本朝臣人麿作歌。天皇賜2志斐嫗1御歌。これは古記にまかせたりと見えたり
 
1539 秋田乃穗田乎雁之鳴闇爾夜之穗杼呂爾毛鳴渡可聞《アキノタノホタヲカリカネクラヤミニヨノホトロニモナキワタルカモ》
 
(5)穗田乎雁之鳴は雁を苅に兼てよませ給へり、穗田、夜之穗杼呂、共に第四に注せるが如し、
 
初、秋の田の穂田をかりかね 穂に出たる田を刈と云かけたるなり。田を刈時分に來る鳥なれは、かくはいふなり。穂田とは、第四の十七葉、第十の四十三葉にもよめり。菅家萬葉集には、いつのまに秋穂垂らむ草とみしほといくはくもいまたへなくに。夜のほとろは夜の程なり。ろは助語なり。第四に家持哥にも、夜のほとろわか出てくれはとも、夜のほとろ出つゝくらくともよまれたり
 
1540 今朝乃且開鴈之鳴寒聞之奈倍野邊能淺茅曾色付丹來《ケサノアサケカリカネサムミキヽシナヘノヘノアサチソイロツキニケル》
 
寒、【六帖云、サムク、官本又點同v此、】
 
寒は六帖に依て讀べし、六帖に淺茅の歌に入れてあめのみかどと云へる不審なり、
 
 
太宰帥大伴卿歌二首
 
1541 吾岳爾棹牡鹿來鳴先芽之花嬬問爾來鳴棹牡鹿《ワカヲカニサヲシカキナクハツハキノハナツマトヒニキナクサヲシカ》
 
下に梅歌にも吾岳爾盛開有梅花とよまれたれば、帥の館に近く岳の有なるべし、先芽之花嬬は、芽子の開ころ鹿の馴て來て起臥す故に芽子を鹿の妻とは云ひならはせり、源氏にさを鹿の妻にすめる荻の露にもとかけり、
 
初、初はきの花つまとひに 芽子のさく頃、鹿の其萩原になれておきふしなとするゆへに、秋はきをはさほしかの妻とはいひならはせり。源氏物語にも、さをしかのつまにすめる云々
 
1542 吾岳之秋茅花風乎痛可落成將見人裳欲得《ワカヲカノアキハキノハナカセヲイタミチルヘクナリヌミムヒトモカナ》
 
腰句は風を芽の痛むやうに聞ゆれどさは見るべからず、風の速くて芽の散べく成ぬとなり、
 
三原王歌一首
 
(6)元正紀云、養老元年正月乙巳、授2無位三原王從四位下1、聖武紀云云、孝謙紀云、勝寶元年十一月、正三位、四年七月甲虎、中務卿正三位三原王薨、一品贈太政大臣舍人親王之子也、官位の昇進聖武孝謙兩紀に委見えたり、其子は小倉王、小倉王の子夏野に至て清原眞人姓を賜て右大臣と成て供奉せらる、
 
初、三原王 續日本紀元正紀云。養老元年正月乙巳授2無位三原王從四位下1。聖武紀云。天平元年三月從四位上。九年十二月壬戌從四位上御原王爲弾正尹。十二年紀云。治部卿從四位上三原王。十八年三月以從四位上三原王、爲大蔵卿。四月正四位下。十九年正月正四位上。二十年二月從三位。孝謙紀云。勝寶元年八月從三位三原王爲中務卿。同十一月正三位。四年七月甲寅中務卿正三位三原王薨。一品贈太政大臣舎人親王之子也。或記云。天武天皇−舎人親王−三原王−小倉王−夏野【賜清原姓】
 
1543 秋露者移爾有家里水鳥乃青羽乃山能色付見者《アキノツユハウツシナリケリミツトリノアヲハノヤマノイロツクミレハ》
 
胸の句はウツシニアリケリとも讀べし、移とは萬の色をおろすに水を和する意なり、後の歌にはうつしく露ともよめり、水鳥乃青羽乃山とは、上に水鳥之鴨乃羽色乃春山乃とよめるに同じ、古事記中垂仁天皇段云、故到2於出雲1拜2訖大神1還上之時、肥河之中作黒※[木+巣]橋1仕2奉假宮1而坐、爾出國造之祖、名岐比佐都美、餝2青葉山1而立2其河下1將v獻2大御食1之時、其御子【本草智和氣御子也、】詔言、是於2河下1如2青葉山1者、見v山非v山、若坐2出雲之石〓(ノ)之|曾《ソノ》宮(ニ)1葦原色許男《アシハラシコヲノ》大神(ヲ)以(テ)伊都玖《イツク》之|祝大廷乎《ハフリガオホニハカト》問賜也、此に依れば水鳥乃と云つゞきに青羽乃山とは書たれど、青葉乃山にて名所にはあらず、源氏若菜上に紫上の歌に、身に近く秋や來ぬらむ見るまゝに、青葉の山も移ろひにけりとある所に、目をとめて水鳥の青羽は色も替らぬを、萩の下葉のけしき殊なる、又夢浮橋に、小野にはいと深く茂りたる青葉の(7)山に向ひて云云、かゝれば式部は今の歌をも然ぞ意得たらし、八雲御抄に範兼抄若狹、清輔陸奥と注せさせ給へり、おのづからさる所も有ぬべし、六帖には發句をしらつゆはとて、露と山と八月との歌に出せり、又水鳥の歌に、もみぢする秋は來にけりとて、以下は今と同じきもあり、
 
初、秋の露はうつしなりけり 六帖には白露はとあり。うつしなりけりとは、よろつの色をおろすに、皆水を和する心なり。後々の歌に、うつしの露ともよめり。水鳥の青羽の山とは、此卷の上に、水鳥のかもの羽色の春山とよみ、第二十に、水鳥のかもの羽の色の青馬ともよめるかことく、山の色をいはむためなり。青羽の山とかきたれは、青羽といふは鴨の上にて、青山といへる心歟。又青羽とはかきたれとも、青葉といふ心歟。源氏物語若菜上に、紫上の哥に、身に近く秋やきぬらん見るまゝにあをはの山もうつろひにけりとある所にめをとめて、水鳥のあをはゝ色もかはらぬを萩の下葉そけしきことなる。同夢浮橋卷にいはく。をのには、いとふかくしけりたるあをはの山にむかひて云々。これらは青葉の山にいへれは、式部は此哥をもしか心得ためり。此あをはの山は名所にあらす。心みきのことし。しかるを、八雲御抄に、範兼抄若狹、清輔陸奥と注せさせたまへり。河海抄には、清輔説に陸奥、あるひは尾張といへり。をのつからさる所もなとかなからん
 
湯原王七夕歌二首
 
次の市原王七夕歌と共に、などか憶良の十二首に繼て載られざりけむ、六帖にはゆげのわうとあり、不審なり、
 
1544 牽牛之念座良武從情見吾辛苦夜之更降去者《ヒコホシノオモヒマスラムコヽロユモミルワレクルシヨノフケユケハ》
 
從情、【官本又云、ココロヨリ、】
 
初、ひこほしのおもひますらん 念座とかきたれは、おもひましますらむなり。念増にはあらす。心ゆもは心よりもなり。俗にましよりからよりといふ事有。ましよりは於似《ヨリモ/\》、からよりは自從《ヨリヨリ》。これらのわかちなれと、文章を見れは、自從はましよりにも通するにや。みるわれくるしは、俗にやむめよりみるめといふにおなし
 
1545 織女之袖續三更之五更者河瀬之鶴者不鳴友吉《タナハタノソテツクヨルノアカツキハカハセノタツハナカストモヨシ》
 
袖續とは袖をかはすなり、三更はヨヒと讀べきか、
 
初、たなはたの袖つくよひ 袖續とは、たかひの袖をかはして枕とする心なり。眞玉手の玉手さしかへとよめるにおなし
市原王七夕歌一首
 
1546 妹許登吾去道乃河有者附目緘結跡夜更降家類《イモカリトワカユクミチノカハノアレハヒトメツヽムトヨソフケニケル》
 
(8)附目は、今按附をヒトと點ぜる事意得がたし、假令ひとめとよまるべくとも人目をつゝむ事は川のありなしによる事ならねば意も亦叶ひ侍らずや、第二十云、保利江己具伊豆手乃船乃可治都久米《ホリエコグイツテノフネノカチツクメ》、於等之姿多知奴美乎波也美加母《オトシバタチヌミヲハヤミカモ》、此都久米と同じくツクメと讀べきか、さて可治都久米とは、袖|衝《ツク》鐙衝などよめる如く水の梶に衝を云歟、然らば今附目とは假てかけるか、若又今かけるやうに附て意得ば第十二に、浦回榜能野舟附とよめり、舟の附く岸際は片淵にいと深くなどあれば、おぼつかなくに瀬踏を爲かねて夜をふかすとよまれたる歟、緘結も假字にてつゝしむ意なるべし、梶つくめは梶を取てつく意と云べし、此歌は牽牛の意なり、
 
初、いもかりとわか 河のあれはといふをうくれは、下の句の初をひとめつゝみとゝよみて、堤によすへきにや。古今集に、おもへともひとめつゝみの高けれは川とみなからえこそわたらね。これをおもふへし。附の字に人の訓あること心得かたし
 
藤原朝臣八束歌一首
 
1547 棹四香能芽二貫置有露之白珠相佐和仁誰人可毛手爾將卷知布《サヲシカノハキニヌキヲケルツユノシラタマアフサワニタレノヒトカモテニマカムチフ》
 
此は旋頭歌なり、初の三句は芽の露を鹿のしわざのやうによまれたるは下の意を立むとてなり、相佐和仁とは第十一に、開木|代《シロノ》來|背若《セノワカ》子欲云余、相狹丸|吾《ワレヲ》欲云|開木代來背《ヤマシロノクセ》、此二首を引合て按ずるに、非分の物を押て領せむとする意をあふさわと云なるべし、(9)手爾將卷知布とは手にまかむと云なり、
 
初、あふさわに あふことのおほき心なりといふ説は用へからす。逢多《アフサハ》といりほかに心得たり。かんなもそれは|さは《多》なり。こゝには佐和とかけり。第十一の旋頭哥にも、山しろの、くせのわかこか、ほしといふわれ。相狭丸《アフサワ》に、われをほしといふ。山しろのくせとよめり。又第四に、われもおもふ人もわするな多奈和丹《オホナワニ》うらふく風のやむ時なかれ。此おほなわは、大繩といふ心ときこえたり。俗に道のほとのとほさちかさをいふに、丈尺をもてもきはめす、おほよそいかはかりといふほとの事を、大なわてなといふ。その心なるへし。このあふさわは、又かのおほなわとおなし詞にて、大かたにといふ心なるへし。そのゆへは、あふとおほとは、ともにおなし五音なり。なとさとは同韵にて通せり。例證をいはゝ、伊勢物語に、あふな/\おもひはすへしなそへなくたかくいやしきくるしかりけりといふ哥あり。源氏物語をとめに、おほな/\かはらけ取たまへるを云々。胡蝶に宮大將はおほな/\なをさりことをうち出たまふへきにあらす。此抄に彼伊勢物語のあふな/\とおなしくて、ねんころなる心といへり。をとめにはつゝしみたる心なりと尺せり。あふな/\とかけると、おほな/\とかけると、おなしといへは、おほなわあふさわかならすおなしかるへし。手にまかんちふは、手にまかんといふなり。登以反知なれは、ちふといふへきを、聞ところのよろしからねは、後は二四相通して、※[氏/一]布《テフ》とのみいへり
 
大伴坂上郎女晩芽子歌一首
 
1548 咲花毛宇都呂波※[厭のがんだれなし]奥手有長意爾尚不如家里《サクハナモウツロハウキヲオクテナルナカキコヽロニナヲシカスケリ》
 
咲花毛とは世上を懸て云、ウツロハウキヲとは移ろはまうきをなり、奥手ナル長キ意とは、晩稻を於久天《オクテ》と云も今の如く奥手と云意なり、第九に左手乃吾奥手とよめるは左の肱|臂《ヒチ》なり、袖に隱れて長ければ此より出る詞にやと思へど、つら/\按ずれば稻に早稻と晩稻と中手と云稻あれば、手は物によくそへて云詞にや、初芽子などは早く盛過て移ろはまうきを、遲きは憑もしき所有て勝れりとよめるなり、
 
初、さく花もうつろはうきを うつろはまうきをなり。おくてなるなかき心とは、いねのおそきをおくてといへは、よろつの草木も、をくれて花咲なとするを、奥手といふといへり。さも有へし。思ふにおくてといふは、第九に、わきもこはくしろにあらなんひたり手のわか奥の手にまきていなましを。此奥の手とよめる心なり。肘《カイナ》の袂よりおくにかくれたる所を、おくの手といふ。なかき心とつゝくるも、袖より出る所はみしかく、袖にかくれたる所は長けれは、奥手なるなかき心とよめるとそ聞えたる。世に秘蔵する物を、常はかくしをきて、今はとあらん時用むとするを、奥の手にたくはふるといふも、いにしへよりある詞のゝこれるなるへし
 
 
 
 
 
典鑄正紀朝臣鹿人至衛門大尉大伴宿禰稻公跡見庄作歌一首
 
職員令云、典鑄司正一人、掌d造2鑄金銀銅鐡(ヲ)1塗2飾瑠璃1【謂火齊珠也、】玉作及工戸戸口名籍(ノ)事u云云、
 
初、典鑄正《イモシノカミ》 令義解云。寶亀五年併(ス)2内匠寮(ニ)1【私云、後考v紀不v載。此等注後人加之也。】職員令云。典鑄司正一人掌d造2鑄(シ)金銀銅鐡(ヲ)1塗2餝(スルコトヲ・シ)瑠璃(ヲ)1【謂火齊珠也。】玉|作《スリ》及工戸戸口名籍(ノ)事(ヲ)u。佑一人。大令史一人。少令史一人。雜工部十人。使部十人。直丁一人。雜工戸、衛門大尉《・ユケヒノオホイマツリコトヒト》 跡見庄 延善式第九、神名上云。大和國添下郡登彌神社。神武紀云。戊午年十有二月葵巳朔丙申(ノヒ)、皇師逐(ニ)撃2長髓彦(ヲ)1連(リニ)戰(テ)不v能2取勝《カツコト》1時(ニ)忽然《タチマチニ》天陰《ヒシケテ》而|雨氷《ヒサメフル》。乃有(テ)2金色靈鵄《コカネノアヤシキトヒ》1飛來(テ)止(レリ)2于|皇弓之《ミ ノ》弭《ハスニ・ユハス》1。其鵄|光曄〓状《テリカヽヤキテ》如(シ)2流電《イナヒカリノ》1。由(テ)v是(ニ)長髄彦(カ)軍(ノ)卒《ヒトヽモ》皆迷(ヒ)眩《マキエテ》不2復(タ)力《キハメ》戰(カハ)1。長髄(ハ)是(レ)邑(ノ)之本(ノ)號(ナリ)焉。因(テ)亦以爲2人(ノ)名(ト)1。及(テ)2皇《ミ》車之得(ルニ)2鵄(ノ)瑞《ミツヲ》1也、時(ノ)人仍(テ)號2鵄(ノ)邑1。今云(ハ)2鳥見《トミト》1是|訛《ヨコナマレルナリ》也。しかれは、もとはながすねむらなるを、あらためてとびのむらといへるが、よこなまりて、とみのむらといひなせるなり
 
1549 射目立而跡見乃岳邊之瞿麥花総手折吾者將去寧樂人之爲《イメタテヽトミノヲカヘノナテシコノハナフサタヲリワレハモテイナムナラヒトノタメ》
 
此歌旋頭歌なり、一二の句は射目人をたてゝ獣の跡を見るとつゞけたり、總手折はふ(10)さやかに多く手折なり、第十七にも布佐多乎里家流乎美奈敝香物《フサタヲリケルヲミナヘシカモ》とよめり、うつぼ物語國ゆづりに、所々よりをかしき物どもふさにたてまつれ給へり、同初秋に、北の方きぬあやふさにとうで得させ奉り給ふ、大和物脂に在原滋春がをふさのうまやにてよめる歌、わたつうみと人や見るらむ逢事の、涙をふさに泣つめつれば、
 
初、いめたてゝとみの岳への いめ人をたてゝ、あとをみるといふ心につゝけたり。いめ人は、かりする時に、しゝのかよひ來、あるひはおち行かたをみせしめむために、節析にまぶしなとさして、ぬはれふして、うかゝはしむるものをいへり。しゝのもれ行跡をとめてもみれは、それが名《・射目》をすなはちあとみともいへり。第六赤人の哥に、みよしのゝあきつのをのゝ、野上にはあとみすゑをきて、み山にはせこ立わたりなとつゝけよめり。第九にいめ人のふしみの田井とつゝけたるも此こゝろなり。第十三にも、高山のみねのたをりにいめたてゝしゝまつかことゝもよめり。左傳曰。迹人來告【主v迩《・迹歟》《タツヌルコトヲ》2禽獣(ヲ)1者】曰。逢澤有2介糜1焉。ふさたをりはふさやかにたをるなり。うつほ物語國ゆつりの卷に云。ところ/\よりおかしきものともふさにたてまつれたまへり。同初秋に、北のかたきぬあやふさにとうてえさせ奉りたまふ。大和物語に、在原滋春が、をぶさのむまやにてよめる哥
  わたつうみと人や見るらんあふことのなみたをふさになきつめつれは
枕草紙にいはく、ゆつるはのいみしうふさやかにつやめきたるは云々。源氏物語空蝉に、かみはふさやかにてなかくはあらねとゝいへり。此集第十七、家持哥に、秋の田のほむき見かてりわかせこかふさたをりけるをみなへしかも。第十四東哥に、あさをらををけにふすさにうますともあすきせざめやいさゝをとこにとよめる、ふすさもふさなり。田の穂に出るをふさなるといふもこれにおなし。又俗にふさ/\と物もくはぬなといふもおなし詞なり
 
湯原王鳴鹿歌一首
 
1550 秋芽之落乃亂爾呼立而鳴奈流鹿之音遙者《アキハキノチリノマカヒニヨヒタテヽナクナルシカノコヱノハルケサ》
 
市原王歌一首
 
1551 待時而落鐘禮能雨令零収朝香山之將黄變《トキマチテオツルシクレノアメヤミテアサカノヤマノウツロヒヌラム》
 
雨令零收、【官本又云、アメヤメテ、】  朝香山、【校本、幽齋本並朝上有2開字1、】
 
落は今按フレルと讀べし、鐘禮は集中かやうにかける所多し、調子の中に黄鐘をわうしきと云類故ある事なるべし、雨令零收は今の點令の字に叶はず、アメヤメテと讀べし、朝香山は、第十六に影副所見山井《カケサヘミユルヤマノヰ》とよめる處の安積香山《アサカヤマ》は陸奥にて遙なれば由もなくよまるべからねば何處ぞや、第十一に朝香方山越置代《アサカカタヤマコシニオキテ》とよめるは第十四に安齊(11)可我多志保悲乃由多爾《アサカカタシホヒノユタニ》とよめると同じ處歟、此等歌後注云、以前歌詞未(タ)v得勘2知國土山川之名1也とあれば、東國の内ながら某國にありとは知られざりけるなり、然れば市原王東國の任など有て此歌を讀たまはゞ、撰者それに依ても某國なりと知らるべきを、然らねば、彼安齊可我多とよめる處にもあらざるなり、朝の上に開の字有る本に依らばケサカタ山ノと讀べきか、唐韓〓が仙遊觀に題せし詩に、風物凄々(トシテ)宿雨收、將黄變は今按モミヂシヌラムと點じ改たむべし、其故は青葉よりいへば色附はうつろふなれど、紅葉の色のさむるを移ろふと云へば、移ろふは紅葉を賞する詞にあらねばなり、其上此下并に第十にも黄變とかきてモミヅとよめり、唯下の右大臣橘家宴歌云、芽子乃下葉者黄變可毛、此をウツロハムカモと點ぜれど、それももみぢせむかもとも、もみぢつるかもともよまむに難あるべからず、
 
初、時まちておつるしくれ 落の字なれは、ふれるともよむへし。しくれは此集に文字なし。和名集云。〓雨、小雨也、之久禮。雨令零收、これをはあめやめてとよむへし。やみてとあるは誤なり。韓〓(カ)題(スル)2仙遊觀(ニ)1詩(ニ)曰。風物凄々(トシテ)宿雨收(マル)。此朝香山はいつくそや。もし市原王も陸奥に下りたまへる歟。將黄變はもみちしぬらんともよむへし
 
湯原王蟋蟀歌一首
 
1552 暮月夜心毛思努爾白露乃置此庭爾蟋蟀鳴毛《ユフツクヨコヽロモシノニシラツユノオクコノニハニキリ/\スナクモ》
 
心毛思努爾は物を思ふ心もしげりと云を露の滋きに兼たり、
 
初、夕つくよ心もしのに しのは繁の字にて、しけきなり。物おもふ心のしけきを、やかて露のしけきにあはせていへり
 
衛門大尉大伴宿神稻公歌一首
 
(12)1553 鐘禮能雨無間零者三笠山木末歴色附爾家里《シクレノアメマナクシフレハミカサヤマコスヱアマネクイロツキニケリ》
 
マナクシのし〔右○〕は助語なり、ヒマナクフレバとも點ずべし、木末もコヌレとも讀べし、
 
大伴家持和歌一首
 
稻公が歌のかへしなり、
 
1554 皇之御笠乃山能黄葉今日之鐘禮爾散香過奈牟《オホキミノミカサノヤマノモミチハヽケフノシクレニチリカスキナム》
 
初、おほきみの御笠の山 天子も笠をめしたまふことあれは、それを御笠とたふとふ心につゝけたり。神功皇后紀云。戊子皇后|欲《オホシテ》v撃(ント)2熊襲(ヲ)1而自2橿日(ノ)宮1遷2于松(ノ)峽《ヲノ》宮(ニ)1。時(ニ)飄風《ツムシカセ》忽(ニ)起(テ)御笠|墮《・隨歟》風《フケヲトサレヌ》。故時人號(テ)2其處(ヲ)1曰2御笠(ト)1也。これは筑前國三笠郡を名付ることのよしなり
 
安貴王歌一首
 
1555 秋立而幾日毛不有者此宿流朝開之風者手本寒母《アキタチテイクカアラネハコノネヌルアサケノカセハタモトサムシモ》
 
腰句の者の字は以前より云が如し、次の歌も同じ、此歌拾遺、朗詠及び詠歌大概等にいくかもあらねどたもとすゞしもとて變じて初秋の意となれり、
 
初、秋たちていくかもあらねは いくかもあらぬにいくかもあらねとゝいはむかことし。次の哥もおなし
 
忌部首黒麻呂歌一首
 
1556 秋田苅借廬毛未壤者鴈鳴寒霜毛置奴我二《アキタカルカリイホモイマタコホタネハカリカネサムシシモヽオキヌカニ》
 
未壤者、【官本又云、イマタコホレネハ、】
 
(13)壤は壞を誤れり、改むべし、
 
初、壤は壞の宇の誤なり
 
故卿豐浦寺之尼私房宴歌三首
 
卿は郷に作るべし、豐浦寺は大和國高市郡にあり、持統紀云元年十二月丁卯朔乙酉、奉爲天渟中原瀛眞人天皇設2無遮大會於五寺1、大宮、飛鳥川原、小墾田、豐浦、坂田、光仁紀童謠云、葛城寺前在、豐浦寺西在云云、推古紀云、冬十二月壬申朔己卯、皇后即2天皇位於豐浦宮1、又云、十一年冬十月己巳朔壬申、遷2于|小墾田《ヲハリタノ》宮1、かくあれば皇居の後に寺となれるなるべし、或者元興寺と思へるは非なり、持統紀の五寺に飛鳥寺豐浦寺別なり、
 
初、故郷豊浦寺 持統紀云。十二月【天武十五年】丁卯朔乙酉奉2爲天渟中原瀛眞人天皇(ノ)1設2無v遮大會《カギリナキヲカミヲ》於五寺(ニ)1。大宮(ノ)飛鳥、川原、小|墾《ハリ》田、豊浦、坂田。光仁紀云。又甞(テ)龍潜之時(ノ)童謠《ワサウタニ》曰。葛城寺乃前|在《ナリ》也、豊浦寺乃西在也云々。豊浦は推古天皇の都を立させたまひて、豊浦宮と申ける所なり。奈良は此時の都なれは藤原宮の方を故郷といへり
 
1557 明日香河逝回岳之秋芽于者今日零雨爾落香過奈牟《アスカカハユキヽノヲカノアキハキハケフフルアメニチリカスキナム》
 
秋芽子者、【校本、幽齋本共無v子、】
 
逝回岳は今岡寺ある所とぞ、
 
右一首丹比眞人國人
 
第三に筑波岳に登て歌よめる人なり、
 
1558 鶉鳴古郷之秋芳子乎思人共相見都流可聞《ウツラナクフリニシサトノアキハキヲオモフヒトヽチアヒミツルカモ》
 
(14)古郷之、【六帖云、フルキミヤコノ、】
 
思をホモフと點ぜるは書生の誤なり、思人共とは中よくて相思人どちなり、新拾遺に胸句を磐余の野邊のと云ひ、下句を思ふ人とも見つる今日哉とあるは朗詠集にあると同じ、定めて此歌の異なるべし、
 
初、鶉なくふりにしさとの 野とならは鶉となりて啼をらんとよみて、鶉は人めなき野にすむ物なれは、此集にも、第四第十一第十七なとに、おなし體によめり。倭漢朗詠集に、鶉なくいはれのをのゝ秋はきをおもふ人ともみつるけふかなとあるは、此哥にこそ。故郷豊浦寺なれは、鶉なくふりにしさとゝはいへり
 
1559 秋芽子者盛過乎徒爾頭刺不搖還去牟跡哉《アキハキハサカリスクルヲイタツラニカサシニサヽテカヘリナムトヤ》
 
不搖、【校本搖作v挿當v據v此、】
 
初、かさしにさゝて 不搖は不插にもや
 
右二首沙彌尼等
 
大伴坂上郎女跡見田庄作歌二首
 
1560 妹目乎始見之埼乃秋芳子者此目其呂波落許須莫湯目《イモカメヲミソシサキノアキハキハコノツキコロハチリコスナユメ》
 
始見之埼乃、【六帖云、ミソメノサキノ、幽齋本同v此、】
 
妹が目を見そむると云意につゞけたり、之の字の點今の本誤れり、六帖に依べし、ミソメノ埼、跡見庄に有歟、按始見は見始を書生倒に寫せるにや、秋芽をめづらしく見初る意になして、此月比は散越なと云へり、月を誤て目に作れり、
 
初、いもかめをみそめかさき 妹をみそむるとつゝけたり。月誤作v目
 
(15)1561 古名張乃猪養山爾伏鹿之嬬呼音乎聞之登聞思佐《フナハリノヰカヒノヤマニフスシカノツマヨフコヱヲキクカトモシサ》
 
古名張、【校本古作v吉、】
 
古は誤れり、吉に作れるに從ふべし、ヨナバリと讀て地の名なる事第二の挽歌の中の穗積皇子の御歌に注せしが如し、
 
初、吉名張のゐかひの山 吉を誤て古に作れり。ふなはりの猪かひの岡と、穗積皇子のよませたまへる第二卷の哥に委注せり。聞がともしさは、あかぬ心にたらすおもふなり
 
巫部麻蘇娘子鴈歌一首
 
1562 誰聞都從此間鳴渡鴈鳴乃嬬呼音乃之知左寸《タレキヽツコユナキワタルカリカネノツマヨフコヱノユクヲシラサス》
 
從此間、【幽齋本云、コヨ、】  之知左寸、【校本、幽齋本並寸作v守、】
 
發句は誰が聞つるの意なり、之をユクヲと點ぜるは詞弱く聞ゆ、ゆくへにて之方なりけむ方の字の失たるか、さらずともユクヘと讀付べし、
 
初、誰きゝつは誰か聞つるなり 之の字ゆくへとよむへき歟
 
大伴家持和歌一首
 
1563 聞津哉登妹之問勢流鴈鳴者眞毛遠雲隱奈利《キヽツヤトイモノトハセルカリカネハマコトモトホククモカクルナリ》
 
此贈答二首は、第十夏歌に霍公鳥をよめる問答あり、家持は殊に彼答歌に擬してよまれたりと見えたり、妹之はイモがと讀べし、彼處《カシコ》君之問世流とあるをキミガと點ぜり、
 
(16)日置長枝娘子歌一首
 
六帖にはひおきのながきがむすめとあれど、日置は氏、長技はながえ歟、ながきにもあれ、女の名娘子は郎女の類なり、和語は乎登米、伊良豆女なり、音にも讀べし、女王、郎女、後の集には音を用たり、凡前後女の作者の名此に准らふべし、
 
1564 秋付者尾花我上爾置露乃應消毛吾者所念香聞《アキツケハヲハナカウヘニオクツユノケヌヘクモワレハオモホユルカモ》
 
秋付者は此より後あまたよめり、秋に至ればの意なり、第十五に海路にて、於伎爾也須麻牟伊敝都可受之弖とよみ、又歸來る道にては伊敝都久良之母とよめるに准らへて知べし、第十に、秋田之穗上爾置白露之と云歌の下句今と同じ、
 
大伴家持和歌一首
 
1565 吾屋戸乃一村芽子乎念見爾不令見殆令散都類香聞《ワカヤトノヒトムラハキヲオモフコニミセテホト/\チラセツルカモ》
 
吾屋戸乃、【別校本、幽齋本並云、ワカヤトノ、】  令散、【官本又云、チラシ、】
 
乃をヲ〔右○〕と點ぜるは寫生の誤なるべし、此和の意は、娘子が歌に、尾花の露によせてけぬべく思ほゆると讀て贈れば、我宿の一村萩の上は尾花よりも露滋くて、君を思ふ我心(17)と共に打しをれたりしを、惜くも我心もかくなむあると表して見せずして徒に散らせて見すべからず、心のみ獨打しをれて有となり、
 
大伴家持秋歌四首
 
1566 久堅之雨間毛不置雲隱鳴曾去奈流早田鴈之哭《ヒサカタノアマヽモホカスクモカクレナキソユクナルワサタカリカネ》
 
不置はオカズなるをホカスと點ぜるは寫生の失錯なり、早田鴈之哭は古事記下云、阿麻※[こざと+施の旁]乎加流乃袁登賣《アマタヲカルノヲトメ》云々、今は苅と鴈とを兼、彼は苅を輕にかけたり、
 
1567 雲隱鳴奈流鴈乃去而將居秋田之穗立繁之所念《クモカクレナクナルカリノユキテイムアキタノホタチシケクシソホモフ》
 
繁之所念、【六帖云、シケクシオモホユ、】
 
將居はヰムと點ずべし、落句は六帖に依べし、之は助語なり、
 
1568 雨隱情欝悒出見者春日山者色付二家利《アマコモリコヽロユカシミイテミレハカスカノヤマハイロツキニケリ》
 
欝悒はイブセシとも讀べし、第十に二首今の下句と同じ歌あり、
 
1569 雨晴而清照有此月夜又更而雲勿田菜引《アメハレテキヨクテラセルコノツキヨマタサラニシテクモナタナヒキ》
 
雨晴而、【幽齋本晴作v※[目+齊]、】  照有、【別校本云、チリタル、】
 
(18)右四首天平八年丙子秋九月作
 
天平十二年より内舍人とかゝれたるを以て思ふに、延喜式に廿一歳以上内舍人に補すと見えたれば、此歌よまれたるは廿歳の内なり、又此等の注の委しきは家持私撰の證なり、
 
藤原朝臣八束歌二首
 
1570 此間在而春日也何處雨障出而不行者戀乍曾乎流《コヽニアリテカスカヤイツツコアマサハリイテヽユカネハコヒツヽソテル》
 
此歌には秋の意なきやうなれど、次の歌と二首にて意を盡す歌なれば、戀ツヽゾヲルとは黄葉する山の事なれば此に列ねたり、六帖に夜ひとりをりと云に入れたるは隨義轉用の意歟、夜の意もなきを若は落句を相聞と見誤れる歟、發句をこのまにてと載たるも在の字を忘たり、
 
1571 春日野爾鐘禮零所見明日從者黄葉頭刺牟高圓乃山《カスカノニシクレフルミユアスヨリハモミチカサヽムタカマトノヤマ》
 
大伴家持白露歌一首
 
六帖には薄の歌として作者をいはず、
 
(19)1572 吾屋戸乃草花上之白露乎不令消而玉爾貫物爾毛我《ワカヤトノヲハナカカウヘノシラツユヲケタステタマニヌクモノニモカ》
 
をばなを草花とかける事下の阿倍虫丸の歌.第十第十六にも見えたり、
 
大伴利上歌一首
 
利上は、利は村を書誤まりて村上が歌なるべし、
 
初、大伴利上 大伴村上なるへし。利は村の字の誤なるへし。目録は後人の所爲とみゆれは、こゝにおなしきもことはりなり大伴利上歌 利疑村字訛
 
1573 秋之雨爾所沾乍居者雖賤吾妹之屋戸志所念香聞《アキノアメニヌレツヽヲレハヤシケレトワキモカヤトシオモホユルカモ》
 
雖賤は雖遠をとほけともと云古語に例してイヤシケドと讀べし、屋戸志の志は助語なり、
 
初、雖賤 やしけれとゝあるは、いやしのいもしのおちたる歟。もとより上掠歟。我領したる妹がやとなれは、卑下していへり
 
右大臣橘家宴歌七首
 
1574 雲上爾鳴奈流鴈之雖遠君將相跡手回來津《クモノウヘニナクナルカリノトホケレトキミニアハムトタモトホリキツム》
 
雖遠は次上に云が如くとほけどもと讀べし、初の二句は此を云はむためながら、鴈は友を思ふ鳥なれば其よせあり、
 
1575 雲上爾鳴都流鴈之寒苗芽子乃下葉者黄變可毛《クモノウヘニナキツルカリノサムキナヘハキノシタハヽウツロハカモ》
 
黄變可毛は上に云如くモミヂセムカモとも讀べし.
 
(20)右二首
 
此下に作者の名落たるにや、
 
初、右二首 此下に作者の名をゝとせりと見えたり
 
1576 此岳爾小牡鹿履起宇加?良比可聞可開爲良久君故爾許曾《コノヲカニヲシカフミオコシウカネラフカモカクスラクキミユヘニコソ》
 
宇加?良比は窺《ウカヽ》ひねらふなり、第十にうかゞふを窺良布《ウカヽラフ》ともよめり、推古紀に間諜者をウカミヒトと點じ、天武紀に候の字をウカミと點ぜるもうかゞひ見る者を云へば、うかは窺、みは見なり、小牡鹿を履起してうかゞひねらふと云へるを仙覺うかは大鹿なりと釋せられたるは大きに誤なり、可聞可開爲良久は、今按開けケ〔右○〕とこそ點ずべけれ、ク〔右○〕と和點すべきにあらねば此も亦聞なるを誤て開に作れる歟、可聞可聞はかもかくもにて今のともかくもなり、此集には左右をかにかくにとよみたれば、鹿をねらふ者の左に顧右に顧る如く、とにもかくにも君故にこそすれと何事も右大臣殿に身を任せたる意をよめる歟、第六に奥津借島おきまへて我思ふ君とよめるも同宴の日の歌なりき、又可聞可開爲良久は第七に鴨翔所見《カモカケルミユ》と讀たれば今も急て馳せ射るを鴨翔爲《カモカケス》ると云へるにや、
 
初、うかねらひ うかゝひねらひなり 第十には、うからふとみる山雪とよめり。すなはち窺良布とかきたれは、うかゝふなり。推古紀云。九年秋九月辛巳朔戊子、新羅之|間諜者《ウカミヒト》迦摩多到2對馬(ニ)1。則捕(ヘテ)以貢(ツル)之。流2于上野(ニ)1。これ此國のやうを見せむとて、かなたよりおこせたるなれは、うかゝひみる人といふ心にうかみひとゝいへり。天武紀云。或有v人奏(シテ)曰。自2近江(ノ)京1至(マテ)2于倭(ノ)京(ニ)1處々(ニ)置v候《ウカミヲ》。これも推古紀の心におなし。斥候を、後々はものみといへと、ふるくうかみといへるが、古語なるへし。伺候も窺※[穴/兪]も和訓はおなしけれと、伺候は氣色をうかゝふにておほやけなり。窺※[穴/兪]にはわたくしの心有。かもかくすらくは、しかをねらふとて、かなたこなたへ、とかくするなり。君ゆへにこそは、君かためにこその心なり。此對馬朝臣は、ことに右大臣を頼ける人にや。第六に天平十年秋八月二十日右大臣の宴席にてよまれたる哥
  長門なるおきつかりしまおくまへてわかおもふ君はちとせにもかも
長門守なるか、大帳なとをもちてのほられける時なるへし。今も七首の終の注をみるに、第六にあると同日の哥なり。此集には、今の世、ともかくもといふを、かもかくもといへり。かもかくすらくもこれなり
 
右一首長門守臣曾倍朝臣津島
 
巨を誤て臣に作れり、
 
初、巨曾倍 巨作v臣誤。津島、第六には津島
 
(21)1577 秋野之草花我末乎押靡而來之久毛知久相流君可聞《アキノノヽヲハナカスヱヲオシナヘテコシクモシルクアヘルキミカモ》
 
押靡而、【幽齋本云、オシナミテ、】
 
來シクモは來しもなり、久は助語なり、第七に玉拾之久とよめるが如し、尾花が露を分て來し志の程もいちじるく君にあへるとなり、弟十、七夕歌に、天漢渡湍毎思乍、來之雲知師|逢有久《アヘラク》念者とよめる同意なり、六帖に尾花が末を掻分て來つるもしるくとて、打來てあへると云戀の歌とせるは隨義轉用の意なり、
 
初、こしくもしるく こしもしるくなり。あへる君かもとは、まらうとによくあひしらふなり
 
1578 今朝鳴而行之鴈鳴寒可聞此野乃淺※[草がんむり/弟]色付爾家類《アサナキテユキシカリカネサムミカモコノノヽアサチイロツキニケリ》
 
今朝、【官本又點、並別校本云、ケサ、】  家類、【官本云、ケル、】
 
始め終り各二字の點、今の本は書生の誤れるなるべし、
 
右二首阿倍朝臣蟲麻呂
 
1579 朝霧開而物念時爾白露乃置有秋芽子所見喚鷄本名《アサトアケテモノオモフトキニシラツユノオケルアキハキミエツヽモトナ》
 
物念時爾は第十五に、多婢爾之弖毛能毛布等吉爾、又安麻其毛理毛能母布等伎爾など(22)あるに准じて、讀べし、白露のおける芽の由なり、見ゆるとは露に靡きたるがしなえうらぶれたる思ひを添る意歟、喚鷄は第十三の三十葉にもかけり、今の人?を呼て餌《エ》など食するには登々と申ぬるを昔は津々と呼ける歟にて、此|謎《ナゾ》のやうなる義訓はあるなるべし、
 
初、みえつゝもとな もとなはよしなゝり。喚※[奚+隹]は、にはとりをよふに、俗にとゝといふ。むかしはつゝといひてや、その義にてかけりけむ
 
1580 棹牡鹿之來立鳴野之秋芽子者露霜負而落去之物乎《サヲシカノキタチナクノノアキハキハツユシモオヒテチリニシモノヲ》
 
露霜は第二第七等に注せしが如し、
 
右二首文忌寸馬養
 
元正紀云、靈龜元年四月癸丑、詔壬申年功臣贈正四位上文忌寸禰麻呂【天武紀云、書首根麻呂、】息正七位下馬養等一十人賜v田(ヲ)各有v差、聖武紀云、天平九年九月己亥、從七位上、【按從當v作v正、】文忌寸馬養等授2外從五位下1、十二月丙寅、授2外從五位上1、十年閏七月、主税頭、かゝれば此時外從五位上主税頭なり、孝謙紀云、寶字二年八月朔、授2從五位下1、猶聖武孝謙兩紀の間に見えたり、桓武紀云、延暦十年四月戊戌、左大史正六位上文忌寸|最弟《ハツヲト》播磨少目正八位上武生連眞象等言、文忌寸等元有2二家1、東文稱v直、西文(ヲ)號v首相比行v事(ヲ)、其|來《アリクルコト》遠(シ)焉、今東文擧v家既登2宿禰1、西文漏v恩猶沈2忌寸1、最弟等幸逢(23)明時1不v蒙2曲察1、歴代之後申v理(ヲ)無v由、伏望同賜2榮號1永貽2孫謀1、有v勅責2其本系(ヲ)1、最弟等言、漢高帝之後曰v鸞、々(カ)之後王狗、轉至2百濟1、久素王(ノ)時聖朝遣v使(ヲ)徴2召文人(ヲ)1、久素王即以2狗(カ)孫王仁1貢焉、是(レ)又武生等(カ)之祖也、於是最弟及眞象等八人賜2姓(ヲ)宿彌1、此中に西文號首と云へるに、日本紀に書首根麻呂とあるが子なれば、馬養は河内の文氏なり、王仁が裔《ハツコ》なる事を顯さむが爲に煩はしけれど紀を具に引けり、
 
初、文忌寸馬養 元正紀云。靈龜元年四月癸丑詔2壬申年功臣贈正四位上文忌寸《河内文也下云西文號首・書首根麻呂日本紀》禰麻呂息正七位下馬養等一十人1賜v田各有v差。聖武紀云。天平九年九月己亥、從七位上文忌寸馬養等授2外從五位下1。同十二月丙寅授2外從五位上1。十年閏七月主税頭。十七年九月筑後守。孝謙紀云。寶字元年六月外從五位上文忌寸馬養(ヲ)爲2鑄錢(ノ)長官(ト)1。十二月壬子大政官奏(ニ)曰。贈正四位上文忌寸禰麻呂壬申年功田八丁。二年八月朔從五位下
延暦十年四月戊戌左大史正六位上文忌寸最弟、播磨少目正八位上|武生《タケフノ》連|眞象《マキサ》等言。文忌寸等元有2二家1。東文稱v直西(ノ)文號v首(ト)。相比行v事其來遠焉。今東文擧v言え既登2宿禰1、西文漏v恩猶沈2忌寸1。最弟等幸逢2明時1不(ハ)v蒙2曲察1歴代之後申(トモ)v理(ヲ)無(シ)v由。伏望(ラクハ)同賜2榮號1永貽(サン)2孫謀(ヲ)1。有(テ)v勅|責《モトム》2其本系(ヲ)1。最弟等言。漢(ノ)高帝之後(ヲ)曰v鸞(ト)。々之後王狗轉(シテ)至2百濟(ニ)1。久素王時聖朝遣使徴2召文人(ヲ)1。久素王即以2狗孫王仁1貫焉。是又武生等之祖也。於v是最弟及眞象等八人賜2姓宿禰1。
 
天平十年戊寅秋八月二十日
 
此第六と同じ、
 
橘朝臣奈良麻呂結集宴歌十一首
 
1581 不手折而蕗者惜常我念之秋黄葉乎挿頭鶴鴨《タヲラステチリナハヲシトワカオモヒシアキノモミチヲカサシツルカモ》
 
我念之はワガモヒシと讀べし、仁徳紀の御製歌云、阿餓茂赴菟麿珥《ワカモフツマニ》、此吾思妻珥なり、
 
1582 布將見人爾令見跡黄葉乎手折曾我來師雨零久仁《シキミムヒトニミセムトモミチヲタヲリソワカコシアメノフラクニ》
 
布將見とは重て見むなり、見ても亦見むと思ふは黄葉をすける人なり、
 
初、しきてみむ人に見せんと しきてはかさねてなり。みてもまたみむとおもふは、もみちをすける人なり
 
右二首橘朝臣奈良麻呂
 
(24)1583 黄葉乎令落鐘禮爾所沾而來而君之黄葉乎挿頭鶴鴨《モミチハヲチラスシクレニヌレテキテキミカモミチヲカサシツルカモ》
 
黄葉をちらすしぐれに沾て君が宿に來て見るも、同じ黄葉なれど情ある主人がらぞとなり、
 
初、もみちはをちらすしくれに もみちをちらすしくれにぬれて、君かやとにきてみるもおなしもみちなれとも、心ある君によりてそといふ心なり。しくれを鐘禮とは、今の人ならはえかゝし。いにしへはかゝる事おほし。黄鐘調をわうしきといふ歟。このたくひなり
 
右一首久米女王
 
聖武紀云、天平十七年正月無位久米女王授2從五位下1、
 
初、久米女王 聖武紀云。天平十七年正月無位久米女王授2從五位下(ヲ)1
 
1584 布將見跡吾念君者秋山始黄葉爾似許曾有家禮《シキテミムトワカオモフキミハアキヤマノハツモミチハニニテコソアリケレ》
 
秋山、【別校本山下有v乃、】  似許曾、【官本云、ニコソ、】
 
吾念若者はアカモフと讀べし、始黄葉に似とは見れども飽れぬ意なり、
 
初、しきてみんとわか思ふ君 しきてはさきのことし。初もみち葉に似たりとは、見れともあかぬをいへり
 
右一首長忌寸娘
 
1585 平山乃峯之黄葉取者落鐘禮能雨師無間零良志《ヒラヤマノミネノモミチハトレハチルシクレノアメシマナクフルラシ》
 
平山乃、【幽齋本云、ナラヤマノ、】
 
發句今の點誤れり、幽齋本に依べし、師は助語也、
 
右一首内舍人縣犬養宿彌吉男
(25)孝謙紀云、寶字二年八月庚子朔、正六位上縣犬養宿禰吉男授2從五位下(ヲ)1、廢帝紀云、寶字八年十月、從五位下縣犬養宿彌吉男(ヲ)爲2伊豫介1、聖武紀云、神龜四年十二月丁丑、正三位犬養橘宿禰三千代言、縣犬養連五百依安麻呂小山守大麻呂等、是一祖子孫、骨肉孔親、請共沐2天恩1、同給2宿禰姓1、詔許v之、
 
初、縣宿禰吉男 聖武紀云。神龜四年十二月丁丑(ノヒ)、正三位縣犬養橘宿禰三千代言(ス)。縣犬養(ノ)連五百依、安麻呂、小山守、大麻呂等(ハ)是一祖(ノ)子孫骨肉(ノ)孔親(ナリ)。請(フ)共(ニ)沐(シテ)2 天恩(ニ)1同給(ハム)2宿禰(ノ)姓(ヲ)1詔許(シタマフ)v之(ヲ)。孝謙紀云。寶字二年八月庚子朔、正六位上縣犬養宿禰吉男(ニ)授2從五位下(ヲ)1。廢帝紀云。寶字八年十月從五位下縣犬養宿禰吉男(ヲ)爲2伊豫(ノ)介(ト)1
 
1586 黄葉乎落卷惜見手折來而今夜挿頭津何物可將念《モミチハヲチラマクヲシミタヲリキテコヨヒカサシツナニカオモハム》
 
何物可將念とは、此上に何事をか思はむとなり、
 
右一首縣犬養宿彌持男
 
名を以て推量するに吉男が弟などにや、
 
1587 足引乃山之黄葉今夜毛加浮去良武山河之瀬爾《アシヒキノヤマノモミチハコヨヒモカウキテイヌラムヤマカハノセニ》
 
黄葉を目の前に見ながらあかぬ心にかくよめり、
 
初、足引の山のもみち葉こよひもか 山のもみちを賞翫すへき人は、此宿にあつまりて、こゝに賞すれは、山のもみちは、みる人なしに、谷川の水にちりうきてやいぬらんとおもひやるなり
 
右一首大伴宿禰書持
 
1588 平山乎令丹黄葉手折來而今夜挿頭都落者雖落《ヒラヤマヲニホスモミチハタヲリキテコヨヒカサシツチラハチルトモ》
 
令丹はにほはすなり、第十六竹取翁が歌に、遠里小野|之眞榛時丹穗之爲衣丹《ノマハキモテニホシシキヌニ》云云、落句(26)は今はちらばちるともよしとなり、
 
初、なら山をにほすもみちは にほすとは、にほはすなり。第十六竹取翁か哥にも、すみのえの遠里小野のまはきもてにほしゝきぬにこまにしきひもにぬひつけなとつゝけよめり。又にのほにきはむなとよめることおほし。ほといふは、物のそれとあらはれてみゆるをいへは、にほすといへり。にほふといふ詞も、紅より出て、後はさま/\にわたれるなるへし。ちらはちるともは、今はちりぬともよしなり。古今集に、ひとめみし君もやくるとさくら花けふは待見てちらはちらなん
 
右一首之手代人名
 
人名未v詳、之手代は、今按之は三を誤れり、聖武紀(ニ)云、從五位下大倭|御手代連《ミテシロノムラシ》麻呂(カ)女(ニ)賜2宿彌姓(ヲ)1、大倭とは三輪御事なり、神代紀下云、乃使2太玉命1以2弱肩《ヨハカヒナニ》2被2太|手襁《タスキヲ》1、而|代御手《ミテシロニシテ》以祭2此神1者始(テ)起(レリ)2於此1矣、此神とは大己貴命なれば、御手代氏は太玉命の裔にて三輪御神を祭る事をつかさどるなるべし、
 
初、之手代人名 之は三の誤なるへし。聖武紀云。從五位下大倭御手代連麻呂(カ)女(ニ)賜2宿禰(ノ)姓(ヲ)1
 
1589 露霜爾逢有黄葉乎手折來而妹挿頭都後者落十方《ツユシモニアヘルモミチヲタヲリキテイモニカサシツノチハチルトモ》
 
右一首秦許遍麻呂
 
官本遍傍書2部字1、注云v異、
 
1590 十月鐘禮爾相有黄葉乃吹者將落風之隨《カミナツキシクレニアヘルモミチハノフカハチリナムカセノマニ/\》
 
十月をかみなづきと名付る意別に注す、下句は黄葉によせてともかくも君に隨がはむの意ある歟、げにも寶字元年は躁動の時、此歌主も奈良麻呂に與せられたるは、さきより得意なりけるにや、詩歌ともに兼たる人と見ゆるを惜むべき事なり、又此歌は十月の宴なればかみなづきと讀たれど、すべては追て秋の意によめば一類して此をも(27)秋に入れたり、此下に猶此例あり、
 
初、かみな月しくれにあへる 十月を神無月といふ事、昔よりさま/\にいへと、たしかならす。皆信するにたらす。今案、これはいとやすきことなるへしとおほゆ。後撰集に、ちはやふる神にもあらぬわか中の雲井はるかになりもゆくかなとよめる神は、なる神なり。禮記月令には、仲秋之月雷始(テ)收(ム)v聲(ヲ)とありて、大かたはさる事なれとも、猶九月まてもとゝろくを、十月には聲をおさむれは、なる神のなき月といふ心ときこえたり。其證は、第十三に、かみとけのひかるみそらの長月のしくれのふれはとよめり。かみとけはかむときともいふ。霹靂とかけり。郭璞(カ)曰。雷(ノ)之急(ニ)激(スル)者(ヲ)曰2霹靂(ト)1。これ九月まても猶かみときのひかるとよめるに、十月は純陰の月にて、神もならぬゆへに、まちかき理をもて、神無月といふなるへし。諸神の出雲の國につとひたまふといふも本説なし。又陽を神として、純陰の月なれはといふは、儒家の今案なり。十月を陽月といふに付て、ある一説を五雜俎にわらへり。又月令に、仲秋之月雷始收v聲とあるも、大かたにつきて心得へし。越後の國に「久しく住けるものゝ申けるは、かの國には、冬もよのつねの夏のことく、神のなるなり。ことに雪のはしめてふらむとてはおひたゝしくなりさはくよし申き。又潮にもみちひのかはり見えすと申き。ことぢをつけたらん人は、魏文の火鼠の疑をなすへきことなり。吹はちりなん風のまに/\とは、ともかくも君にしたかはむの心なり。げにも奈良麻呂寶字元年に謀反のやうの事有し時、此哥ぬしも方人はせられける。和哥も詩文も兼たる人とみゆるを、惜むへきことなり
 
右一首大伴宿爾池主
 
孝謙紀に寶字元年の躁動を記せる處にのみ見えたり、此集第十七以下に長歌短歌多く、詩文等もある人なり、
 
1591 黄葉乃過麻久惜美思共遊今夜者不開毛有奴香《モミチハノスキマクヲシミオモフトチアソフコヨヒハアケスモアラヌカ》
 
下句の落著は明ずもあらなむなり、
 
初、あけすもあらぬか 後の哥に明すもあらなんといふ心なり。此集に此詞おほし。皆准v之
 
右一首内舍人大伴宿彌家持
 
以前冬十月十七日集於右大臣橘郷之舊宅宴飲也
 
官本に集の字なし、端作に結集宴歌と有れば有を以てよしとすべし、此歌共は天平十三年十四年兩年の間なり、其故は十三年に久邇京に定りて奈良は故郷となれるに、歌に平山とよみ、今橘卿之舊宅と云ひ、又橘卿は十五年五月に左大臣に轉ぜられけるに今右大臣とあれば、右の兩年の間の事なりとは知れり、
 
大伴坂上郎女竹田庄作歌二首
 
(28)1592 然不有五百代小田乎苅亂田廬爾居者京師所念《タヽナラスイホシロヲタヲカリミタリタフセニヲレハミヤコシオモホユ》
 
京師、【袖中抄云、ミヤコ、】
 
發句は今按袖中抄も今と同じけれど叶へりとも見えず、第五貧窮問答歌云、志可登阿良農比宜可伎《シカトアラヌヒゲカキ》撫|而《テ》云々、此初句を證としてシカトアラヌと讀べし、五百代小田とは、凡田は方六尺を以て一歩とし、三十六歩を一畝とし、十畝を一段とし、十段を一町とす、七千二歩を積て一代とし、五代を一段とす、然れば一代は二畝なり、今按一所に五百代あらば計るに十町なれば五百代小田とは云べからず、五百は必らず數を限て云にはあらず、五百重山など云如く唯多きを云詞なれば、山田の一代許なるが棚のやうに段々にいくらともなくあれば、然ともなき小田の數の一代づゝ五百許もあるをと云なるべし、小窓別記卷之三(ニ)曰、漢武帝元狩末年、下v詔曰、方今(ノ)之務(ハ)在2於力1v農、以2趙過(ヲ)1爲2捜粟都尉1、過能爲2代田(ヲ)1、一※[田+毎]三|※[田+巛]《ケン》、歳代(フ)v處(ヲ)、故曰2代田1古(ノ)法(ナリ)也、今も田家に東代西代など云ひ習へる此意にて、しろと云和語の意も、處をかへて此方の代には彼方に作り、彼方の代には此方に作る意に處を替ずして作れどさは云ひ習へるにや、片荒しなど云も此に同じき歟、但|山畑《ヤマハタ》などを然するをのみ云歟、田廬を袖中抄にたいほとよみ、近來林氏が多識篇に(29)タノイホリと點ぜるは、並に非なり、第十六河村王の歌注云、田廬者多夫世反、此に據《ヨリ》て今の點を取て定む、京師は袖中抄に依て引合てミヤコと讀べし、集中に多し、
 
初、然不有いほしろ小田を 此然不有を、たゝならすとよめるは、心得かたし。第五卷に、山下憶良の貧窮問答歌に、志可登阿良農比宜可伎撫而《シカトアラヌヒゲカキナテテ》とよめれは、今もしかとあらぬとよむへし。しかとあらぬは、はか/\しからぬを、しかともなきと今もいふ詞なり。五百代小田とは、二畝《フタセ》を代といふ。日本紀には頃の字をもしろとよめり。小窓別記卷之三曰。漢(ノ)武帝元狩末年下v詔曰。方(ニ)今(ノ)之務(ハ)在2於力(ムルニ)1v農(ヲ)。以2趙過(ヲ)1爲2捜粟都尉(ト)1。過能(ク)爲(ス)2代田(ヲ)1。一|※[田+毎]《ホ》三|※[田+巛]《ケン》歳(コトニ)代(フ)v處(ヲ)。故(ニ)曰2代曰(ト)1。古(ノ)法也。
今も田家にてきけは、東代《ヒカシダイ》(コ)西代南代北代なといふは此ゆへなり。凡田以2方六尺(ヲ)1爲2一歩(ト)1。三十六歩(ヲ)爲2一畝(ト)1。十畝(ヲ)爲2一段(ト)1。十段(ヲ)爲2一町(ト)1。積(テ)2七十二歩(ヲ)1爲2一代(ト)1。五代(ヲ)爲2一段(ト)1。孝徳紀云。凡田(ハ)長(サ)三十歩廣(サ)十二歩(ヲ)爲v段《キタト》。十段(ヲ)爲v町(ト)。段(コトニ)租稻《タチカラ》二|束《ツカ》二|把《タハリ》。町(コトニ)租稻二十二束。若山谷|阻險《サカシクテ》地《トコロ》遠(ク)人稀(ナラム)之處(ニハ)随(テ)v便(ニ)量(テ)置(ケ)。令義解第三云。凡(ソ)田長三十歩廣十二歩爲v段(ト)。十段(ヲ)爲v町(ト)。【謂段地獲2稲五十束1束稲舂得2米五升1也。即於v町者須v得2五百束1也。】段(コトニ)租稲二束二把。町租稻二十二束。【謂田賦爲v租也。】田ふせは、田をまもるふせやなり。かりほ蘆のまろやなといふおなしことなり。第十六、かるはすはたふせのもとにとある哥の注にいはく、田廬者多夫世反。第五にはふせいほのまけいほともよめり。林子か多識篇にもたふせとよむ事はしらさりけると見えて田のいほりとよめり
 
1593 隱口乃始瀬山者色附奴鐘禮乃雨者零爾家良思母《コモリクノハツセノヤマハイロツキヌシクレノアメハフリニケラシモ》
 
續古今には發句をこもりえのとて入らる、是昔より沙汰ある誤なり、草書に口を大きにかけるが江の草に似たるを、此集を考がへずして彼草書に付るなり、
 
右天平十一年巳卯秋九月作
 
佛前唱歌一首
 
誰作と云事を知らず、
 
1594 思具禮能雨無間莫零紅爾丹保敞流山之落卷惜毛《シクレノアメマナクナフリソクレナヰニニホヘルヤマヤマノチラマクヲシモ》
 
三の句以下は山の黄葉の散らむ事の惜きなり、第十の春日の山は咲にけるかもの類なり、冬讀たれど紅葉の歌なり、
 
右冬十月皇后宮之維摩講終日供養大唐高麗等種種音樂爾乃唱此謌詞彈琴者市原王忍坂王【後賜姓大原眞人赤麻呂也】歌子者田(30)口《ウタメハタノクチノ》朝臣家守|河邊《カハノヘノ》朝臣東人|置始《オイソメノ》連|長谷等《ナカタニラ》十數人也
 
維摩會を大織冠の初め給ひ、淡海公の繼給ひ、天下の大會と成れる事は孝謙紀に藤原惠美押勝の大織冠より以來相傳せる功田一百町を興福寺の維摩會の料に施入せむことを請はるゝ表に委見えたり、延喜式の内藏寮式玄蕃式等にも見え、會の濫觴等は元亨釋書に處々に委細なり、十月十日より十六日に至るまで一七日行はる、十六日を結願の日とする事は大織冠の忌辰に當ればなり、大唐は左樂、高麗は右樂なり、忍坂王は光仁紀云、天應元年九月己未(ニ)、授2無位忍坂王從五位下1、此人歟、但此時二十歳許の人にても天應には六十歳に及べば別人歟、不審なり、家守長谷は並に考る所なし、長谷はハツセなるべきにや、第二十に至て歌ある人なり、
 
初、右冬十月皇后宮之維摩講 皇后宮は光明皇后なり。維摩會は、大織冠のはしめさせたまひて、後まて名高き大會なり。孝謙紀云。寶字元年閏八月壬戌、紫微内相藤原朝臣仲麿等言。臣聞|旌《アラハシテ》v功(ヲ)不(ルハ)v朽有(ツ)v國(ヲ)之通規。思(テ)v孝(ヲ)無(キハ)v窮、承(ル)v家(ヲ)之大業(ナリ)。緬(カニ)尋(ヌルニ)2古記(ヲ)1淡海大津宮御宇皇帝(ハ)天縱(ノ)聖君聰明(ノ)叡主(ナリ)。考(カヘ)2正(シ)制|度《タクヲ》1創(メ)2立(ツ)章程(ヲ)1。于v時功田一百町(ヲ)賜2臣(カ)曾祖藤原内大臣1〓d勵壹2匡宇内(ヲ)1之|績《ワサヲ》u世々不(シテ)v絶傳(テ)至2于今1。爾(ヨリ)來(カタ)臣等因(リ)2藉(キ)祖勲(ニ)1冠蓋連v門公卿奕(ヌ)v世(ヲ)。方(ニ)恐(ルラクハ)富貴難(ク)v久(シウシ)榮華易(キコトヲ)v凋(ミ)。是(ヲ)以安(ケレトモ)不v忘v危(コトヲ)、夕(マテニ)タ(レテ)如v氏B忽有(ラハ)2不慮(ノ)之間兇徒作(スコト)1v逆(ヲ)殆傾2皇室(ヲ)1、將v滅(サント)2臣(ノ)宗(ヲ)1。未v報2先恩(ヲ)1芝蘭幾(ント)敗(ナム)。冀(ハクハ)修(メ)2冥福(ヲ)1長(ク)保(タン)2顯榮(ヲ)1。今(ニ)有(ルハ)2山階寺(ノ)維摩會1者是(レ)内大臣之所(ナリ)v起(ル)也。願主乘(ンテ)v化(ニ)三十年(ノ)間、無(シテ)v人2紹興(スルニ)1此會中(コロ)廢。乃至(テ)2藤原朝廷胤子○《贈歟》大政大臣(ニ)1傷(ミ)2構(ルカ)v堂(ヲ)之將(ニ)《・スルヲ》1v墜(ント)、歎(ク)2爲《ツクルカ》v山(ヲ)之未(タ)《・サルコトヲ》1v成(ラ)。更(ニ)發2弘誓(ヲ)1追(テ)繼2先行(ヲ)1。則以2毎年冬十月十日1始(テ)闢(キ)2勝莚(ヲ)1至2於内大臣忌辰(ニ)1終爲2講了(ト)1。此(ハ)是奉v翼(ケ)2皇宗(ヲ)1住2持(シ)彿法(ヲ)1、引2導(シ)尊靈(ヲ)1催2勸(スル)擧徒(ヲ)1者也。伏(テ)願(ハクハ)以2此功田(ヲ)1永(ク)施(コシテ)2其《・某歟》寺(ニ)1、助(テ)2維摩會(ヲ)1彌令(メンコトヲ)2興隆(セ)1。遂使内大臣之洪業(ヲ)爲2天地1而長(ク)傳、皇太后(ノ)之英聲倶(ニ)2日月(ト)1而遠(ク)照(サン)。天恩曲(テ)垂(レテ)儻《モシ》允(シタマハヽ)2臣(カ)見(ルトコロヲ)1v請(フ)、下(シテ)2主者(ニ)1早(ク)令(メン)2施行(セ)1。不v任2微願(ニ)1〇《輕※[さんずい+于]歟・脱字》聖聽。戰々兢々(トシテ)臨(テ)v深(ニ)履(ム)v薄(キヲ)。勅報曰。備(サニ)省(ルニ)2來表(ヲ)1、報徳惟深(シ)。勸學(ノ)津梁崇法(ノ)師範(ナリ)。朕與2卿等1共(ニ)植2茲(ノ)因(ヲ)1。宜(シク)《・ヘシ》d告(テ)2所司(ニ)1令c施行(セ)u。延喜式第十五、内藏省式云。凡(ソ)興福寺(ノ)維摩會(ノ)施料、調綿六百屯(ハ)寮毎v年送(レ)2彼寺(ニ)1。玄蕃式(ニ)云。凡(ソ)興福寺(ノ)維摩會(ハ)十月十日始(テ)十六日終。其聽衆九月中旬僧綱簡定、先經(テ)2藤原氏(ノ)長者(ヲ)1定(メヨ)v之(ヲ)。但專寺(ノ)僧十人(ハ)待(テ)3彼寺(ヨリ)送(ルヲ)2名簿(ヲ)1請用(セヨ)。其|竪《リフ》義者探題試v之、及第老即叙2滿位(ニ)1、省寮共(ニ)向(テ)2會庭(ニ)1行(ナヘ)v事(ヲ)。元亨釋書第十八、尼女(ノ)篇(ニ)云。法明尼(ハ)百濟(ノ)人。齊明二年内從鎌子連寢v病。百法不v※[病垂/差]《イエ》。明奏曰。維摩詰經(ハ)因(テ)v問(ニ)v病(ヲ)説2大法(ヲ)1。試(ニ)爲(ニ)2鎌子連(ノ)1讀(ン)v之(ヲ)。帝詔(シテ)讀(シム)v之(ヲ)。未(タ)v終v卷(ヲ)病即愈(ヌ)。王臣大(ニ)悦。賛曰東晋(ニ)有2尼道馨(トイフモノ)1説2維摩經(ヲ)1。聽者如(シ)v市(ノ)。尼之有v講者尚矣。而明一讀未v畢沈痾早|差《イユ》。其爲(ルコト)v効豈v不(ン)v愈《マサラ》哉。爾後淡海公於2殖槻場(ニ)1創2維摩會(ヲ)1。移2興福寺(ニ)1于v今轉盛(ナリ)。豈明(カ)之餘烈乎。資治表云。齊明天皇三年冬十月、内大臣鎌子建2山階寺(ヲ)1修(ス)2維摩會(ヲ)1。〇三年十月鎌子於2山州陶原(ノ)家(ニ)1創2山階精舍(ヲ)1設2維摩齋會(ヲ)1。維摩會自v此始(マル)。四年冬沙門幅亮講(ス)2維摩經(ヲ)于陶原(ノ)家(ニ)1。是歳呉僧元興寺(ノ)福亮赴(テ)2鎌子請(ニ)於陶原(ノ)家(ニ)1講(ス)2維摩經(ヲ)1。爾(シヨリ)來鎌子|延《ヒイテ》2海内(ノ)碩徳(ヲ)1相次(テ)講演(スルコト)凡十二年。和銅二年冬十月右僕射藤公修(ス)2維摩會(ヲ)1。十月藤公不比等屈(シテ)2淨達法師(ヲ)於植槻場(ニ)1修(ス)2維摩會(ヲ)1。禮(ナリ)也。此會中(コロ)微(ナリ)。藤公更(ニ)修(スレハ)、貴v之而書(ス)。和銅五年十月於2興福寺(ニ)1修(ス)2維摩會(ヲ)1。先(ニハ)或(ハ)陶原、殖槻數所。及(テ)2興福之建(ニ)1移(ス)焉。菅家のかゝせたまへる維摩會の縁起には、名(ハ)聞(エ)2三國(ニ)1會(ハ)留(マル)2興福(ニ)1。朝(ノ)之爲(ルハ)v朝蓋此(ノ)會(ノ)力(ナリ)と侍るとかや。釋書の壹和の傳には、天帝の記籍にもしるさるゝよし見えたり。大唐左高麗右。彈琴《コトヒキ》者。忍坂《オサカノ》王、光仁紀(ニ)云。天應元年九月己未、授2無位|忍坂《オサカ》王(ニ)從五位下(ヲ)1。後賜2姓大原眞人1。赤麻呂也。此注は桓武帝の時にくはへられける歟。又光仁紀に見えたる忍坂《オサカノ》王よりさきに同名ありけるか。長谷《ナカタニ》、はつせともよむへき歟
 
大伴宿禰像見歌一首
 
1595 秋芽子乃枝毛十尾二降露乃消者雖消色出目八方《アキハキノエタモトヲヽニオクツユノケナハケヌトモイロニイテメヤモ》
 
第十に上句全同にて下句すこし替れる歌あり、トヲヽはたわゝなり、新古今集に下句を今朝消ぬとも色に出めや
 
大伴宿彌家持到娘子門作歌一首
 
(31)第四に此端作と一字を違へざる端作有き、彼處には娘子の下に之を加へたるのみ、異なり、若此歌を讀て入れたれどつれなければ、重て彼歌をよまれたる歟、凡上の像見が歌と此歌とは秋相聞に入ぬべきにや、
 
1596 妹家之門田乎見跡打出來之情毛知久照月夜鴨《イモカイヘノカトタヲミムトウチイテコシコヽロモシルクテルツキヨカモ》
 
門田ヲ見ムトとは、事を門田に寄て實には妹を見むと來しとなるべき歟、第四に前垣のすがたとよまれたる歌思ひ合すべし、下句は月の照て門田の能見ゆれば見むと思ひて出て來し情のしるし有けるとなり、
 
大伴宿彌家持秋歌三首
 
1597 秋野爾開流秋芽子秋風爾靡流上爾秋露置有《アキノノニサケリアキハキアキカセニナヒケルウヘニアキノツユオケリ》
 
開流、【官本云、サケル、】
 
開流をサケリと點ぜるは書生の誤なり、官本に依べし、さらでも芽子をなびけて置べき露の、秋風の吹靡けたる上に痛く置意なり、
 
1598 棹牡鹿之朝立野邊乃秋芳子爾玉跡見左右置有白露《サヲシカノアサタツノヘノアキハキニタマトミルマテオケルシラツユ》
 
(32)1599 狹尾牡鹿乃※[匈/月]別爾可毛秋芽子乃散過鷄類盛可毛行流《サヲシカノムネワケニカモアキハキノチリスキニケルサカリカモイヌル》
 
※[匈/月]別は、今按第二十に左乎之加能牟奈和氣由可牟安伎野波疑波良《サヲシカノムナワケユカムアキノハギハラ》とあるを證として今の點を改てムナワケと讀べし、又第九玉名娘子をよめる歌云、胸別之《ムナワケノ》廣|吾妹《ワキモ》云云、鹿のむなさきを以て草を衝分て行を胸別とは云へり、芽子は盛りなるを鹿の胸別に依て散過たるか、鹿は胸別せねど盛の過行て散たるかとなり、
 
初、さをしかのむなわけにかも むねわけとかんなはあれと、むなわけとよむへし。第二十におなし人の哥に、ますらをのよひたてしかはさをしかのむなわけゆかむ秋の萩原。此哥に牟奈和氣とかけり。鹿はむねの出たる物なれは、胸にてつきわかるをいふなり。又第九に末(ノ)珠名娘子《タマナノヲトメ》をよめる哥に、むなわけのひろけきわきも、こしほそのすかるをとめがなとつゝけよめるは、たゝ胸のひろきを、むなわけのひろけきといへり。又俗に性の急なる人の、いかれるまゝに、人をうち、あるひはのりなどするを、むないきといへは、かり人にをはるゝ鹿の、あらくわくるをむなわけともいふへき歟。散過にける、此所句なり。所詮萩の散過たるを、しかのむなわけにせしゆへにちれるか、をのつから盛の過て散たるかと、兩方にいへるなり
 
右天平十五年癸未秋八月見物色作
 
官本に見の字なきは落せるなり、
 
内舍人石川朝臣廣成歌二首
 
1600 妻戀爾鹿鳴山邊之秋芽子者露霜寒盛須疑由君《ツマコヒニシカナクヤマヘノアキハキハツユシモサムミサカリスキキユク》
 
1601 目頬布君之家有波奈須爲寸穗出秋乃過良久惜母《メツラシキキミカイヘナルハナスヽキホニイツルアキノスキラクヲシモ》
 
過良久惜母、【別校本、幽齋本並云、スクラクヲシモ、】
 
波奈須爲寸《ハナススキ》とは此集に此歌のみによめり、花はちす、花さくら、花椿などの類なり、顯昭は旗薄《ハタスヽキ》を注すとて太と奈と通ずれば幡|荻《スヽキ》は花|薄《スヽキ》歟と思はれたるは非なり、意もとよ(33)り別なり、穗出秋とは秋の盛の意なり、古今集にも今よりは殖てだに見じ花薄穗に出る秋は侘しかりけりとよめり、又後の歌に、しのぶれば苦しかりけり花薄、秋の盛に成やしなましとよめるは穗に出むの意なり、落句は別校本の點に依べし、花薄の盛の過るにめつらしき人の盛の過るを兼て惜むなり、六帖にしのすゝきの歌に入れて、腰句をしのすゝきとあるは依れる所を知らず、
 
初、花薄ほに出る秋 神功皇后紀神託の詞にいはく。幡荻穗出《ハタスヽキホニイテシ》吾《・アレ》也云々。およそ此集には、はたすゝきとのみよめるを、此哥一首のみ、花薄とよめり。古今集以後は、花薄とのみよみて、一首もはたすゝきとよめることなし。又此集には、すゝきに正字なし。日本紀には、荻の字蘆の字をよめり。和名集には、今世に用る薄の字を出せり。すきらくはかんなあやまれり。すくらくとよむへし
 
大伴宿彌家持鹿鳴歌二首
 
鹿鳴歌は、今按鹿の上に聞の字を脱せる歟、しかのねのうたと讀べき歟、
 
1602 山妣姑乃相響左右妻戀爾鹿鳴山邊爾獨耳爲手《ヤマヒコノアヒトヨムマテツマコヒニシカナクヤマヘニヒトリノミシテ》
 
落句は我も獨のみしてと妻戀の同じ意をよめるなり、
 
1603 頃者之朝開爾聞者足日木箟山乎令響狹尾牡鹿鳴哭《コノコロノアサケニキケハアシヒキノヤマヲトヨマシサヲシカナクモ》
 
右二首天平十五年癸未八月十六月作
 
大原眞人今城傷惜寧樂故卿歌一首
 
卿は郷に作るべし、今城の事第四に高田女王贈2今城王1歌六首と云處に孝謙紀等を(34)引て辨ぜり、
 
初、大原眞人今城 孝謙紀云。寶字元年五月正六位上大原眞人今木(ニ)授2從五位下(ヲ)1。同六月治部少輔。廢帝紀云。七年正月左少辨。同四月上野守。八年正月從五位上。光仁紀云。寶亀二年閏三月戊子朔乙卯、無位大原眞人今城(ヲ)復(ス)2本位從五位上(ニ)1。同七月兵部少輔。三年九月駿河守
 
1604 秋去者春日山之黄葉見流寧樂乃京師乃荒良久惜毛《アキサレハカスカノヤマノモミチミルナラノミヤコノアルラクヲシモ》
 
大伴宿彌家持歌一首
 
1605 高圓之野邊乃秋芽子比日之曉露爾開葉可聞《タカマトノノヘノアキハキコノコロノアカツキツユニサキニケムカモ》
 
曉露は夕露もあれば曉に置を云なり、葉は兼を誤れり、
 
初、開兼可聞《サキニケムカモ》 兼を誤て葉に作れり
 
秋相聞
 
額田王思近江天皇作歌一首
 
此次の二首の歌は第四に既に出て注しき、
 
1606 君待跡吾戀居者我屋戸乃簾令動秋之風吹《キミマツトワカコヒヲレハワカヤトノスタレウコカシアキノカセフク》
 
初、君まつとわかこひをれは 風をたにこふれはともし。此二首第四卷の十三葉に今のことくならひて出て、既に注し畢。今は秋相聞とて載たるのみ、第四にかはれり
 
鏡王女作歌一首
 
1607 風乎谷戀者乏風乎谷將來常思待者何如將嘆《カセヲタニコフレハトモシカセヲタニコムトシマタハイカヽナケカム》
 
弓削皇子御歌一首
 
(35)1608 秋芽子之上爾置有白露乃消可毛思奈萬思戀管不有者《アキハキノウヘニオキタルシラツユノケカモシナマシコヒツヽアラスハ》
 
消可毛思奈萬思は消か爲なましなり、死ましにはあらず、此歌第十にふたゝび出たり、
 
丹比眞人歌一首 名闕
 
1609 宇陀乃野之秋芽子師弩藝鳴鹿毛妻爾戀樂苦我者不益《ウタノノヽアキハキシノキナクシカモツマニコフラクワレニハマサシ》
 
義明なり、
 
丹生女王贈太宰帥大伴卿歌一首
 
初、丹生女王贈太宰帥大伴卿歌 第四にも、此女王の、太宰帥へをくられたる哥二首ありき。聖武紀云。天平□年正月從四位下丹生女王授2從四位上1
 
1610 高圓之秋野上乃瞿麥之花于壯香見人之挿頭師瞿麥之花《タカマトノアキノヽウヘノナテシコノハナウラワカミヒトノカサシヽノナテシコノハナ》
 
秋野上乃、【官本亦云、アキノノカミノ、】
 
此は旋頭歌なり、于の下に良の字を落せる歟、或は于を丁に作り、下に作れる本あれど共に取がたし、歌の意は、瞿麥の花の盛には人の挿頭に折し物をとは、我身の昔によそへらるゝなり、第四に古の人の飲せる吉備の酒と讀て贈られしにて、昔相知れる人なりとは知られたり、
 
初、高まとの秋野の上の 旋頭哥なり。于の字の下に良の字あるへし。人のかさしゝなてしこの花とは、人は大伴卿なり。なてしこは、我身をたとへて、さしもめてられし折も有しものをの心なり
 
笠縫女王歌一首
 
(36)崇神紀云、以2天照大神1託2豐鍬入姫命1祭2於倭笠縫邑1云々此に依れば地の名を以て名とし給へるなり、
 
初、笠縫女王哥 目録には六人部親王之女母曰2田形皇女1注せり。もと此下に有けるが、後にうしなへるなるへし。此集の目録は、後に集中よりひろひ出せりとみゆる故なり。六人部王は、第一卷に身人部《ムトヘノ》王(ノ)哥とて有しおほきみなり。親王といへるはあやまれり。田形皇女は天武の皇女なり。天武紀云。次夫人蘇我赤|兄《エノ》大臣(ノ)女|大〓《オホメ》娘生2一男二女(ヲ)1。其一(ヲ)曰2穗積(ノ)皇子(ト)1。其二(ヲ)曰2紀(ノ)皇女(ト)1。其三(ヲ)曰2田形(ノ)皇女(ト)1。文武紀云。慶雲三年八月庚子、遣2三品田形内親王(ヲ)1侍(ラシム)2于伊勢太神宮(ニ)1。聖武紀云。神龜元年二月授2三品田形内親王(ニ)二品(ヲ)1。同五年三月丁酉朔辛丑、二品田形(ノ)内親王薨。遣2正四位下石川朝臣石足等(ヲ)1監2護(セシム)喪事(ヲ)1。天(ノ)渟中原瀛《ヌナハラオキノ》眞人(ノ)天皇(ノ)之皇女也
 
1611 足日木乃山下響鳴鹿之事乏可母吾情都末《アシヒキノヤマシタトヨミナクシカノコトトモシカモワカコヽロツマ》
 
六帖にはかくれづまの歌に入れて、落句をわがゝくれづまとあり、心の中に憑む目なれば義訓せるか、此つまは女王の歌なれば誰とは知らねど夫君なり、事乏可母は山下響鳴鹿のとつゞきたれば言のすくなきにあらず、あかぬ意なり、
 
初、あしひきの山下とよみ ことゝもしかもは、鹿のねのきゝあかぬによせてのたまへり。わかこゝろつまとは、わか心につまとさためておもふ人なり。わかおもひつまともよむへくや
 
石川賀係女郎歌一首
 
1612 神佐夫等不許者不有秋草乃結之紐乎解者悲哭《カミサフトキカスハアラスアキクサノムスヒシヒモヲトケハカナシモ》
 
不許者不有、【六帖云、ユルサスハアラシ、別校本云、ユルサスハアラス、】  解者、【六帖云、トクハ、】
 
初の二句は第四に紀女郎が、神左夫跡不欲者不有《カムサフトイナニハアラス》とよめるに同じ、きかずはあらずも、ゆるさずはあらずの意なり、人の云事を許すをきくと云、ゆるさねばきゝ入ぬ故なり、聽、許はともにゆるすと訓ずるに、聽はきくとも訓ずれば、きくとゆるすと義の通ずれば一字兩訓あるか、但今はゆるさずはあらずと讀て然るべきか、意は、我年ふりたりと(37)て君が云事をゆるさずにはあらずとなり、第四に准じていなにはあらずと義訓すべき歟、六帖に不有をあらじとよめるは叶はずや、落句は今の點よりは六帖はまされど、それも猶心ゆかず、トカバカナシモと讀べきか、秋草の如く結ぼゝれたる※[糸+刃]を今更に解《トカ》む事なむやさしくて悲しきとなり、
 
初、神さふときかすはあらす 此哥を六帖には、秋の草の題に出して
 神さふとゆるさすはあらし秋草のむすひし紐をとくはかなしも
と載たり。今案第四に、かみさふといなにはあらすとよめる哥あり。今も不許者とかけるをいなにはとよむへき歟。きかすはといふも心は通せり。我身おうなに老なりて、神さひたれと、君かあはむといふを、いなとおもふにはあらす。されと霜をく比の秋草のことく、むすほゝれたるひもを、今更にとかむがやさしくて《・はつかしくてなり》かなしきとよめるなるへし。秋は草も老ゆけは、身をたとへたるなり
 
賀茂女王歌一首【長屋王之女母曰阿倍朝臣也】
 
1613 秋野乎且往鹿乃跡毛奈久念之君爾相有今夜香《アキノノヲアサユクシカノアトモナクオモヒシキミニアヘルコヨヒカ》
 
且往鹿は、今按且は旦暮の旦にはあらずしてカツユク鹿なるべし、かつゆく故に跡もなくとはよそへたる歟、跡モナク念シとは、今は忘やしぬらむと思ふばかり久しくなりしなり、六帖に此歌をよひのまと云に入れたるは少叶はずや、よひのまとはよひのほどばかり逢を云べし、此は今夜の詞はあれど、ゆくりなくあへるを悦ぶ意なり、
 
初、秋の野を朝ゆく鹿の 朝ゆく鹿の跡なきかことく、ある夜の朝にわかれし後は、くることもなけれは、今はとおもひたえたる人に、おもはすに又こよひあひぬるよとなり
 
右歌或云掠橋部女王或云笠縫女王作
 
椋橋部女王は第三にも歌ありし人なり、
 
遠江守櫻井王奉 天皇歌一首
 
(38)元明紀云、和銅七年正月、授2無位櫻井王(ニ)從五位下(ヲ)1、元正紀云、養老五年正月、從五位上聖武紀云、天平三年正月、從四位下又云、大藏卿從四位下大原眞人櫻井、此集第二十云、大原櫻井眞人行2佐保川邊1之帝作歌、何れの年遠江守に任ぜられけむ、未v詳、
 
初、遠江守櫻井王 元明紀云。和銅七年正月授2無位櫻井王(ニ)從五位下(ヲ)1。元正紀云。養老五年正月從五位上。聖武紀云。神龜元年二月正五位下。天平元年三月正五位上。三年正月從四位下。此集第二十云。大原櫻井眞人(ヲ)行2佐保川邊1之時作歌一首。續日本紀第十五云。大藏卿從四位下大原眞人櫻井大輔。かくあれは後に大原眞人の氏姓を賜へりとみえたり。大輔は名にや
 
 
 
1614 九月之其始鴈乃使爾毛念心者可聞來奴鴨《ナカツキノソノハツカリノツカヒニモオモフコヽロハキコエコヌカモ》
 
九月を長月と云は、奥義抄の意、夜の長きに依てなり、始雁は月令云、仲秋之月鴻雁來、又云季秋之月鴻雁來賓(ス)、此は仲秋八月に先至るを主とし九月に後に至るを賓とする意なり、かくはあれども物の遲速は風に因て少換れる事あれば、今長月の始雁とよめるは此國の時候なれば、月令に違へるを以て難ずべからず、第十に、秋芽子者於雁不相《アキハキハカリニアハシ》常|言有者香《イヘレハカ》音乎聞|而者花爾《テハハナニ》散去流、此等の歌を引合て見るべし、雁使の事は漢書曰、昭帝即v位數年、匈奴與v漢和親(ス)漢求2武等1、匈奴詭言2武死1、後漢使復至2匈奴1、常惠請2其(ノ)守者1與倶得3夜見2漢使1、具自陳道教(テ)d2使者(ヲ)1謂(ハ)c于單奴u言(ク)天子射2上林中1、得d雁之足(ニ)有uv係2帛書(ヲ)1、言(ク)、武等在2某澤(ノ)中1、使者大喜(テ)如2惠語(カ)1以讓2單于(ヲ)1單于視2左右(ヲ)1而驚謝2漢使1曰、武等實在云々、此を以て實に書を係たるやうに歌には讀來れり、可聞は、可は所を寫し誤れるなり、六帖には道のたよりの歌として、腰句をたよりにもと云へり、昔の本に使を便に作りけるにや、新拾遺集に(39)報和御歌を載らるゝ詞書にも、大原の櫻井遠江任に侍りける時、その初雁のたよりにもと奏し侍りける御返しとあるは、彼撰者の見られける本も字點共に然りけるなるべし、
 
初、なか月のそのはつ鴈の使にも 禮記月令(ニ)云。仲秋(ノ)之月鴻雁來(ル)。又云。季秋之月鴻雁來賓(ス)。此月令の心は、八月にまつ來るを主として、九月にわたるを賓とす。今の哥は月令にかゝはるべからず。雁の使は蘇武の故事なり。漢書蘇武傳曰。昭帝即v位數年、匈奴與v漢和親(ス)。漢求2武等(ヲ)1。匈奴|詭《イツハテ》言2武死(セリト)1。後(ニ)漢使復至2匈奴(ニ)1。常惠請(テ)2其守者(ニ)1與(ニ)倶(ニ)得(テ)3夜(ル)見(ルコトヲ)2漢使(ニ)1、具(サニミ)自陳(テ)v道(ヲ)教《シメテ》3使者(ヲシテ)謂(ハ)2單于(ニ)1言(ク)《・イハマク》。天子射(テ)2上林(ノ)中(ニ)1得(タマヘルニ)3鴈(ノ)足(ニ)有(ルヲ)係(ルコト)2帛書(ヲ)1言(ク)。武等在(リト)2某(ノ)澤(ノ)中(ニ)1。使者大(ニ)喜(テ)如(シテ)2惠(カ)語(ノ)1以|讓《セム》2單于(ヲ)1。々々視(テ)2左右(ヲ)1而驚(テ)謝(シテ)2漢使(ニ)1曰。武等實在(ニ)。於v是李陵置酒(シテ)賀(シテ)v武(ヲ)曰。今足下還歸揚2名(ヲ)於匈奴(ニ)1功顯《・顯功歟》2於漢室(ニ)1。これより鴈の使といふ事あり。されとも此引る傳のことくに、まことには鴈の足に文をかけたるにあらねと、哥の習なれは、しか知人も、まことにはかけたるやうによむを、本文みぬ人は、もとよりまことに蘇武かしわさにかけゝるとのみおもへり。可聞は所聞をかきあやまれるならし
 
天皇賜報和御歌一首
 
1615 大乃浦之其長濱爾縁流浪寛公乎念比日《オホノウラノソノナカハマニヨスルナミユタケクキミヲオモフコノコロ》
 
縁流浪、【袖中抄云、ヨルナミノ、新拾遺同v此、】  寛、【新拾遺云、ユタニソ、】
 
長濱も大乃浦にある濱の名歟、第四に八百日行濱ともよみ、第十二に聞濱を聞高濱とも聞長濱ともよみたれば唯長き濱にや、第十七に長濱浦とよめるは能登なり、古今に長濱の眞砂の數とよめるは伊勢なり、然れば地の名なるも地の名ならぬをよめるも共に例あり、若地の名ならば大の浦と長濱とおのづからゆたけく君をとよませ奉らむために兼て名付たらむやうにぞ侍るや、小式部内侍が大江山幾野の道のと讀けむ遠さのみ、かしこけれど此御歌のゆたけさになずらふべき、
 
初、おほのうらのその長濱に 大の浦は八雲御抄に遠江と注せさせたまへり。遠江守への御かへしなれは、しかるへきにや。寛きみを思とは、おほしめす心のおほくゆたかなるなり。日本紀に、富寛とかきて、とみたゆたひてとよめれは、ゆたけくもたゆたひとおなし心なり。一旦におもふにはあらて、ゆる/\とおもふ心なり
 
笠女郎賜大伴宿禰家持歌一首
 
賜は贈に作るべし、書生次上の端作の賜の字と同じかるべしと思ひて贈を改て賜(40)に作たるか、次下の二つの端作の賜も亦なずらへて改むべし、官本に歌の字なきは落たるなるべし、
 
1616 毎朝吾見屋戸乃瞿麥之花爾毛君波有許世奴香裳《アサコトニワカミルヤトノナテシコノハナニモキミハアリコセヌカモ》
 
山口女王賜大伴宿禰家持歌一首
 
1617 秋穿子爾置有露乃風吹而落涙者留不勝都毛《アキハキニオキタルツユノカセフキテオツルナミタハトヽメカネツモ》
 
六帖におくしらつゆのかげろふは、おつるなみだのとて載たるは傳寫の誤れる歟、
 
湯原王賜娘子歌一首、
 
賜は目録に贈なり、此娘子は第四に贈答數遍に及べる女なるべし、
 
1618 玉爾貫不令消賜良牟秋芽子乃宇禮和和良葉爾置有白露《タマニヌキケサテタマラムアキハキノウレワヽラハニオケルシラツユ》
 
賜良牟、【六帖云、タハラム、別校本、幽齋本並同v此】
 
第二の句六帖に依て讀べし、宇禮和和良葉とは、宇禮は末なり、和和良は第五貧窮問答歌に和和氣佐我禮流可可布|能尾《ノミ》とよめる和和氣と同じ、末葉《ウラハ》のそゝけたるなり、
 
初、秋はきのうれわゝら葉に うれは末なり。わゝら葉はなはへしたるわかはをいふなるへし。まだをとめなる時を、そのまゝ得はやの心をたとへたる哥なり
 
大伴家持至姑坂上郎女竹田庄作歌一首
 
初、至姑 坂上郎女は、家持のをはにして、しうとめなり。姑の字もまた兩方によめは、いつかたにつきてもよむへし
 
(41)1619 玉桙乃道者雖遠愛哉師妹乎相見爾出而曾吾來之《タマホコノミチハトホケレトヨシヱヤシイモヲアヒミニイテヽソワカコシ》
 
二三の句ミチハトホケドハジキヤシと讀べし、雖遠も愛哉師も共に然讀べきやうを注し畢、此歌並に次の和歌は上の春相聞に笠金村の入唐使に贈られし歌に云へる如く、秋よまれたれどひたぶるの雜歌なれば、左に注する年月に依らば第六に入べく、相聞に依らば第四に入べかりしにや、
 
大伴坂上郎女和歌一首
 
1620 荒玉之月立左右二來不益者夢西見乍思曾《アラタマノツキタツマテニキマサネハユメニシミツヽオモソ》吾|勢思《セシ》
 
思曾吾勢思、【幽齋本云、オモヒソワカセシ、】
 
來不益は以前の書やうになずらへば不來益なりけむを、不來をかへさまに寫せるにや、但無窮の書やうなれば今のまゝにても誤まりにはあらざるべし、夢ニシのし〔右○〕は助語なり、オモヒのヒ〔右○〕なきは書生の誤なり、
 
右二首天平十一年巳卯秋八月作
 
初、右二首秋八月作 ともに秋のことはなれは、此注あるなり
 
巫部麻蘇娘子歌一首
 
(42)1621 吾屋前乃芽子花咲有見來益今二日許有者將落《ワカヤトノハキノハナサケリミニキマセイマフツカハカリアラハチリナム》
 
屋前、【官本或前作v戸、】
 
六帖には人をよぶと云に入れたり、
 
初、今ふつかはかり 第十三の長哥に、わきもこやなか待君は、おきつなみきよる白玉、へつなみのよする白玉、もとむとそ君かきまさぬ、ひろふとそきみはきまさぬ、ひさにあらは今なぬかはかり、はやくあらは今ふつかはかり、あらむとそ君はきこしゝ、なこひそわきも。第十七家持の、それたる鷹を思ひて夢に見て、感悦してよまれたる哥にも、ちかくあらは今ふつかたみとほくあらはなぬかのうちは過めやも云々。第九にもわかゆきはなぬかに過し龍田彦ゆめ此花を風にちらすな
 
大伴田村大嬢與坂上大嬢歌二首
 
目録與の下に妹あり、今落たり、
 
1622 吾屋戸乃秋之芽子開夕影爾今毛見師香妹之光儀乎《ワカヤトノアキノハキノサクユフカケニイマモミテシカイモカスカタヲ》
 
1623 吾屋戸爾黄變蝦手毎見妹乎懸管不戀日者無《ワカヤトニモミツルカヘテミルコトニイモヲカケツヽコヒヌヒハナシ》
 
第二の句は第十四に、兒毛知夜麻和可加敝流?能毛美都麻?《コモチヤマワカカヘルテノモミツマデ》とよめるに依らば今もモミヅカヘルデとも和すべし、葉のさまの蝦の手のやうなれば此名を付たり、和名云、楊氏漢語抄云、?冠木、【賀倍天乃木、】?冠にも似たれば此名あり、
 
初、わかやとにもみつるかへて 和名集云。楊氏漢語抄云※[奚+隹]冠木【賀倍天乃木。】※[奚+隹]冠木と名付るは、此木の葉の形、※[奚+隹]冠に似て、もみちしたる色も似たれはなるへし。かへてといふ和名は、こゝに蝦手とかけることく、かへるの手に似たれは名付るなり。かへるでともいふゆへに、第十四東哥には、こもち山若かへるてのもみつまてとよめり。連哥する法に、生類に二句を隔るも此故なり。※[奚+隹]冠木をかへてと訓したるは、※[虫+也]牀をひるむしろと訓するにおなし心なり。楓の字には、をかつらとかへての兩訓あるにや。いもをかけつゝとは、かへての色のうるはしきに、紅顛をおもひよするをいふ。又只みせはやと、心にかけておもはぬ日なしといふ心にも有へし
 
坂上大娘秋稻※[草冠/縵]贈大伴宿禰家持歌一首
 
1624 吾之蒔有早田之穗立造有※[草冠/縵]曾見乍師弩波世吾背《ワカワサナルワサタノホタヲツクリタルカツラソミツヽシノハセワカセ》
 
蒔有、【六帖云、マケル、別校本同、】
 
(43)マケル早田とは苗代の時|穀《モミ》をまけば初に付て云歟、
 
初、わかわさなる これは家持のかへしに、わきもこかわさとつくれるとあるによりて、あやまれるなるへし。吾之蒔有とかきたれは、わかまけるとよむへし。わさ田もなはしろよりうふれは、初につきてわかまけるといへり
 
大伴宿彌家持報贈歌一首
 
1625 吾妹兒之業跡造有秋田早穗乃※[草冠/縵]雖見不飽可聞《ワキモコカワサトツクレルアキノタノワサホノカツラミレトアカヌカモ》
 
業跡造有は田を造るにあらず、※[草冠/縵]を作るなり、右の歌に造有※[草冠/縵]曾と云を承たり、早穗を六帖にはつほとあれど今の點安まさるべし、又六帖には二首共に玉かづらの歌に入、玉は褒美の詞なる證なり、
 
初、わさとつくれる しわさとつくれるなり。ことさらにといふにはあらす
 
又報脱著身夜贈家持歌一首
 
夜は衣を誤れり、
 
初、又報脱著身衣 衣作v夜誤
 
1626 秋風之寒此日下爾將服妹之形見跡可都毛思努播武《アキカセノサムキコノコロシタニキムイモカカタミトカツモシノハム》
 
六帖に寒きひごろは下に著て、妹が形見とかつはしのばせとあるは理そむけり、
 
初、秋風の寒きこの比 禮記季秋月令云。是月霜始降。寒氣總(テ)至(ル)。寒けれは下にきむ。その上に形見にもしのはむとなり
 
右三首天平十一年巳卯秋九月往來
 
大伴宿禰家持攀非時藤花并芽子黄葉二物贈坂上大嫌歌二首
 
(44)嫌は孃を誤れり、
 
初、坂上大孃 孃誤作v嫌
 
1627 吾屋戸之非時藤之目頬布今毛見牡鹿妹之咲容乎《ワカヤトノトキナラヌフチノメツラシクイマモミテシカイモカヱマヒヲ》
 
非時藤なればめづらしくとつゞけたり、神功皇后紀に、希見、メヅラシとよめり、
 
初、わかやとの時ならぬ藤の 下の注に六月往來とあれは、此二首は夏相聞に載らるへきを、誤て秋相聞には載たる歟。芽子黄葉もあるうへに、右の哥ともに類してこゝに載たる歟。時ならぬ藤とは、小藤とか、いは藤とか俗になつくる、かつらもみしかく、しなひもみしかきが、夏咲あり。それにや。時ならぬ藤に事よせて、めつらしく今もみてしかとはいへり
 
1628 吾屋前之芽子乃下葉者秋風毛未吹者如比曾毛美照《ワカヤトノハキノシタハヽアキカセモイマタフカネハカクソモミテル》
 
未吹者、此詞づかひ上に注せしが如し、
 
初、わかやとのはきの下葉は 此哥の、秋風もいまた吹ねはのてにをはのばもしは、上にいへるかことし。いまたふかぬにいまたふかねとゝいふ心にみるへし。第十九にも、わかやとの萩開にけり秋風のふかんをまたはいとゝをみかも。注云右一首六月十五日見2芽子早花1作v之といへり。此哥とおなし心なり。俗に宮木野と名付る萩の一種あり。枝のしたりて、風のふく時は庭をはらふはかりなれは、糸萩といふなるへし。その花は、入梅の比よりさきそめて、みな月より秋をかけて、よのつねの萩さく比は、いとゝ錦とみゆれは此萩にや。下葉のもみちしたるは、日をいためるにや。もみてるはもみちするなり。後撰集に、雁なきて寒きあさけの露ならし龍田の山をもみたす物はともよめり。紅はふり出る物なれは、もみちとは揉出すといふ心に名付たるにや。俗にくれなゐのきぬを、もみといふもこれか
 
右二首天平十二年庚辰夏六月往來
 
大伴宿彌家持贈坂上大孃歌一首并短歌
 
1629 叩々物乎念者將言爲便將爲爲便毛奈之妹與吾手携拂而旦者庭爾出立夕者床打拂白細乃袖指代而佐寢之夜也常爾有家類足日木能山鳥許曾婆峯向爾嬬問爲云打蝉乃人有我哉如何爲跡可一日一夜毛離居而嘆戀良武許已念者胸許曾痛其故爾情奈具夜登高圓乃山爾毛野爾母打行而遊徃杼花耳(45)丹穗日手有者毎見益而所思奈何爲而忘物曾戀云物乎《イタミ/\モノヲオモヘハイハムスヘセムスヘモナシイモトワレテタツサハリテアシタニハニハニイテタチユフヘニハトコウチハラヒシロタヘノソテサシカヘテサネシヨヤツネニアリケルアシヒキノヤマトリコソハヲムカヒニツマトヒストイヘウツセミノヒトナルワレヤナニストカヒトヒヒトヨモハナレヰテナケキコフラムココオモヘハムネコソイタメソノユヱニコヽロナクヤトタカマトノヤマニモノニモウチユキテアソヒテユケトハナノミニニホヒテアレハミルコトニマシテオモホユイカニシテワスルヽムモノソコヒトフモノヲ》
 
手携拂而、【別校本云、テヲタツサヘテ、校本、幽齋本並無2拂字1、】  花耳、【校本云、ハナノミ、】
 
叩は叩聲の義を以てイタムと點ぜるか、常爾有家類とは常にもなかりしとなり、足日木能以下四句は、山?は晝は雌雄《メヲ》ひと所に有て、夜は山の尾を隔てゝぬる故なり、されば第十一に足日木之山鳥尾乃|一峯越《ヒトヲコエ》とよみ、六帖には晝は來て夜は別るゝ山鳥ともよめり、清少納言に山どりを云へる所に、谷へだてたるほどなどいと心苦し、許己念者とは此を思へばなり、野爾毎は、毎は母に作るべし、花耳丹穗日手有者とは、花のみ匂ひて思ふ人はなければなり、
 
初、いたみ/\ 心のいたむなり。叩々とかけるは、たゝけはいたむ義をもてかける歟。さねし夜やつねに有けるとは、常になかりしといふ心なり。山鳥こそはをむかひにつまとひすといへ。地理志云。山※[奚+隹](ハ)形如(シ)2家※[奚+隹](ノ)1。雄(ハ)斑(ニ)雌(ハ)黒(キ)者也。山とりは、ひるはをどりめどりひと所にありて、よるはを《・峯》ゝへたてゝぬるゆへに、かくよめり。又第十一にも
  あしひきの山鳥の尾のひとをこえひとめみしこにあふへき物か
紀氏六帖には
  ひるはきてよるはわかるゝ山とりの影みるたひにねをのみそなく
枕草紙には、山とりは友をこひて鳴に、鏡をみせたれはなくさむらん、いとわかうあはれなり。谷へたてたるほとなといと心くるし。鏡見する事はこゝには用なし。第十四巻に、山鳥のをろのはつ尾に鏡かけといふ哥の所に注すへし。和名集云。七卷食經云。山※[奚+隹]一名(ハ)〓〓【峻儀二音。和名夜萬土利。今案山鷄〓〓種類各異。見2漢書注1。】猶六帖に
  秋風のふくよることに山とりのひとりしぬれはもめそかなしき
  夕されは君をまつちの山鳥のなく/\ぬるを立もきかなん
こゝおもへはむねこそいため、此所をおもへはなり。これをおもへはといふ心なり。上にそれをおもふといふことを、そこおもふと有しかことし。こゝはくにはあらす。花のみしにほひてあれは。秋の花のみにほひて、花に似たる人のなけれはな
 
 
反歌
 
1630 高圓之野邊乃容花面影爾所見乍妹者忘不勝裳《タカマトノノヘノカホハナオモカケニミエツヽイモハワスレカネツモ》
 
八雲御抄にのたまはく、容花は何れの花と知らず、件短歌に、高圓の山にも野にも、打行て遊びにゆけど、花にのみ匂ひてあればと云へり、唯秋の野の花也、指て何れの花とは限らず、花のかほなどもよめれば同じ心なるべし、容花、容鳥、定家卿、不v弁、但その花鳥となくうつくしき花鳥也、以上の御説分明なり、第十には石走間生有貌《イシハシママニオヒタルカホ》花とよみ、第十(46)四には美夜能瀬河泊能可保婆奈能《ミヤノセカハノカホハナノ》、※[人偏+瓜]悲天香眠良武《コヒテカカヌラム》、又|美夜目呂乃緒可敝爾多?流可保我波奈《ミヤシロノヲカヘニタテルカホカハナ》などよみたれど、さだかにそれと定がたし、容鳥のかほに見えつゝとよめる如く緜影爾所見乍《オモカゲニミエツヽ》と云はむ料に野邊の容花とはよみ出られたるなり、六帖朝貌の歌に家持とて春日野の野邊の朝貌とて以下の三句今と同じきは、此歌容花を朝貌と定めて改めたるにや、上に擧る歌どもの讀やう、唯知らざるをば知らずとすべし、
 
初、かほ花 その花とさしてさためす。只秋の花のうつくしくさけるをいふなり。さきの長哥に、高まとの山にも野にも打ゆきてあそひてゆけと花のみしにほひてあれはといへる花は、只さま/\の草花をさせり。此哥はその心を略して、かさねてよめるにて、かほ花は右の説のことしといふ事を信すへし
 
大伴宿彌家持贈安倍女郎歌一首
 
此安倍郎女は第三第四に出たる女とは別なり、混ずべからず、其故は時代を以て知べし、
 
1631 今造久邇能京爾秋夜乃長爾獨宿之苦左《イマツクルクニノミヤコニアキノヨノナカキニヒトリヌルカクルシサ》
 
大伴宿禰家持從久邇京贈留寧樂宅坂上大娘歌一首
 
1632 足日木乃山邊爾居而秋風之日異吹者妹乎之曾念《アシヒキノヤマヘニヲリテアキカセノヒニケニフケハイモヲシソオモフ》
 
日異を六帖にひごとにとよめるは誤なり、
 
或者僧尼歌二首
 
(47)1633 手母須麻爾殖之芽子爾也還者雖見不飽惰將盡《テモスマニウヱシハキニヤカヘリテハミレトモアカヌコヽロツクサム》
 
初、てもすまにうゑしはきにや 手もすまは手も隙なくといふ心なり。上にも、わか手もすまに春の野にぬけるつはなそとありき
 
1634 衣手爾水澁付左右殖之田乎引板吾波倍眞守有栗子《コロモテニミシフツクマテウヱシタヲヒキタワレハヘマモレルクルシ》
 
引板吾波倍、【別校本云、ヒタワレハヘテ、】
 
水澁はみさぴなり、引板は田を守る具なり、新古今に、水澁付植し山田にひたはへて、又袖ぬらす秋は來にけりとある俊成卿の歌は此を取用られたり、此二首は義は別なる物から、尼に贈れる意知がたし、若よき娘などあまたもてる人の、初の歌はいたく愛する由をよみ、後の歌は勞してそだてゝ漫りなる男に取られじと守る事の苦しき由を讀て、親しき尼などにて告てうれふるにや、
 
初、衣手にみしふつくまて みしふはみさひなり。きたなき水の上に、かたなのさひのことくなるものゝうかひてみゆるをいふ。ひきたはひたなり。ひたはすなはちこゝにかけることく引板なるを、略していふなり。新古今集に、みしふつきうゑし山田にひたはへて又袖ぬらす秋はきにけりとある俊成卿の哥はこれを本哥にてよみたまへるなり。右の二首はいかによめるにか心得す。もし此あまのいとけなかりし時、親にはあらてそたてたる人の、尼になりて後、容儀のうるはしきに心ちまとひてよめるにや
 
尼作頭句并大伴宿禰家持所誂尼續末句等和歌一首
 
此は連歌して右の二首の後の歌にかへすなり、連歌の濫觴は景行紀云、日本武尊自2日高見國1還之、西南歴2常陸(ヲ)1至2甲斐國1、居2于酒折宮1、時擧v燭《ホシヲ》而進食、是夜以v歌(ヲ)之問2侍者1曰|珥比麼利《ニヒ|マ《ハ》リ》、免玖波塢須擬弖《ツクハヲスキテ》、異玖用加禰免流《イクヨカネツル》、諸(ノ)侍|不能答言《ミコタヘマウサ》、時有2秉v燭者1、續2王歌(ノ)之末(ヲ)1、而歌曰、伽餓奈倍?《カカナヘテ》、用珥波虚々能用《ヨニハコヽノヨ》、比珥波苫塢伽塢《ヒニハトヲカヲ》、即美2秉V燭人(ノ)之聰1而敦賞、此より後には今の歌にて、今の後には伊勢物語に續松のすみしてかける歌歟、
 
初、尼作頭句 これはいにしへの連哥なり。およそ連哥のはしめは、日本武尊のにひはりつくはの御詞よりおこれり。景行紀云。日本武尊自2日高見(ノ)國1還(テ)之|西南《ヒツシサルノカタ》歴(テ)2常陸(ヲ)1至2甲斐(ノ)國(ニ)1居《マシマス》2于酒折(ノ)宮(ニ)1。時(ニ)擧燭《ヒトホシテ》而|進食《ミオシス》。是(ノ)夜以v歌之問(テ)2侍者《サフラヒヒトニ》1曰。珥比麼利《ニヒハリ・新治》、兎玖波塢須擬※[氏/一]《ツクハヲスキテ・筑波過》、異玖用加禰兎流《イクヨカネツル・幾夜寢》。諸(ノ)侍者|不v能2答言1《ミコタヘマウサス》。時(ニ)有2秉v燭《ヒトモシ》者1續(テ)2王(ノ)歌(ノ)之末(ヲ)1而歌(ヨミシテ)曰。伽餓奈倍※[氏/一]《カカナヘテ・勘》、用珥波虚々能用《ヨニハココノヨ・夜九日》、比珥波苫塢伽塢《ヒニハトヲカヲ・日十日》。即|美《ホメタマフテ》2秉v燭人(ノ)之|聰《サトキコトヲ》而敦(ク)賞《メクミタマフ》。これより後には、此尼と家持と、各一句を作りて、合て一首とせる、これ連哥の第二なるへし
 
(48)1635 保佐河之水乎塞上而殖之田乎《サホカハノミツヲセキアケテウヱシタヲ》 尼作 苅流早飲者獨奈流倍思《カルワサイヒハヒトリナルヘシ》 家特續
 
佐保を倒にかけるは改たむべし、下の句、表の意は、からうじて獨殖し田なれば、苅時人を集めて贄《ニヘ》する事もなく、早飯をば獨のみこそ喫《ハマ》めとなり、裏の意は、佐保川を塞上て水澁付てみづから殖し田を刈ては獨喫て樂しぶべきが如く齋《イツキ》娘をも能守りて生《オホ》し立《タテ》たらましかば、能聟など取て年比の苦しさを忘るゝ時あらむぞと慰めてよめる歟、後人尚よく/\贈答の意を按じ得て見るべし、贄の事は第十四に葛餝早稻《カツシカワセ》をにへすともと云歌に至て注すべし、
 
初、さほ川の水を さきの哥二首の心おなしやうに見ゆれは、これは後の哥にかへして、二首をかぬるなるへし。尼か句は、衣手にみしふつくまてうへし田をといへるまてのかへしなり。家持のつげる句は、又上の哥の下の句をかへせるなるへし。此家持の句、詞はあらはにて、かへせる心は得かたし。もしまもれるくるしといへるに同心して、さほ川の水をせきあけて田にまかする人は、辛勞すれとも、かり取て後、わさいひにかしく時は、その人ひとりこそはめ、うへず、ひたはへてまもらぬ人は、はまぬ物をといへる心にや。わさいひといへるに、早飯とかけるにておもへは、さわらびさなへなとのさもしは、わさのわを略せるなり。わさわらひわさなへにて、わせといふはよろつにはやきをいふなるへし
 
冬雜歌
 
舍人娘子雪歌一首
 
1636 大口能眞神之原爾零雪者甚莫零家母不有國《オホクチノマカミノハラニフルユキハイタクナフリソイヘモアラナクニ》
 
眞神之原と云はむ料に大口のと置事は、昔明日香の地に老たる狼ありて多く人を食ふ、土民恐て大口の神と云、名2其住處(ヲ)1號2大口|眞《マ》神原1と大和國風土記に見えたり、狼は口(49)の大きなる物なれば大口と云、眞は褒美の辭なり、神とは凡そ威猛なる者を呼て云、狼を神と云は、欽明紀に、秦(ノ)大津父と云人深草里より伊勢へ行て商して歸るに、山中にして二つの狼の喫合けるを、汝《ミマシハ》是|貴《カシコキ》神而樂2麁行1、儻逢2獵士《カリヒト》1見v禽尤速とて引分て共に助けたる事あり、又同紀に虎をも神といへり、此第十六にも虎を神と云へる所に引べし、又神代紀云、素戔嗚尊勅?曰、汝是(レ)可畏之神(ナリ)、敢不v饗乎、
 
初、大口の眞神の原に 崇唆紀云。蘇我馬子宿禰|壊《コホチテ》2飛鳥(ノ)衣縫(ノ)造(ノ)祖《トヲツオヤ》樹葉《コノハカ》之家(ヲ)1始(テ)作2法興寺(ヲ)1。此|地《トコロヲ》名2飛鳥(ノ)眞神(ノ)原(ト)1。亦(ハ)名2飛鳥(ノ)苫田《トマタト》1。むかし明日香の地に老狼ありて、おほく人を食ふ。土民おそれて大口の神といふ。名(ケテ)2其住處(ヲ)1號《イフ》2大口(ノ)眞神《マカムカ》原1と風土記に見えたり。狼は口のおほきなるものなれは、大口の眞神か原とはつゝくるなり。虎をも狼をも日本紀には神といへり。虎を神といへる事は、此集第十六乞食者の哥に、からくにの虎といふ神をとよめる所に引へし。狼を貴神《カシコキカミ》といへるは、欽明紀云。天皇|幼《ワカイ》時|夢《イメミタマハク》。有(テ)v人云(サク)。天皇|窮2愛《メクミタマハヽ》秦(ノ)大|津父者《ツチトイフヒトヲ》1及(テ)2壯大《ヲトコサカリニ》1必|有《シラセントイフトミタマフ》天下(ヲ)1。寢《サメタマフテ》驚遣(テ)v使(ヲ)普求得(ツ)v自2山背(ノ)國(ノ)紀伊《キノ》郡深草(ノ)里1。姓《カハネ》字《名也・ミサキ》果(シテ)如v|所v夢《ミシオナガシヽカ》。於v是|所v喜《ヨロコト》遍《ミチテ》v身(ニ)歎《ホメタマフ》2未曾《メツラシキ》夢(ト)1。乃告(テ)之曰。汝有(シトノタマフ)2何事(カ)1。答云。無《コトムナシ》。但|臣《ヤツコ》向《マカリテ》2伊勢(ニ)1商價來還《アキナヒテマウクルトキ》山(ニ)逢(リキ)2二(ノ)狼(ノ)相〓《クヒアヒテ》汗《ヌレタルニ》1v血(ニ)。乃下(テ)v馬|洗2漱《ミスヽテ》口手(ヲ)1祈請《ノミテ》曰。汝(ハ)是|貴《カシコキ》神(ニシテ)而|樂《コノム》2麁行《アラキワサヲ》1。儻《モシ》逢(ハ)2獵士《カリヒトニ》1見《レムコト》v禽《トラ》尤|速《ハヤケムトイフ》。乃|抑2止《オシトヽメテ》相〓(コトヲ)拭2洗《ノコヒテ》血毛(ヲ)1遂|遣放《ユルシテ》之倶(ニ)令v全v命《イノチイケテキ》。天皇曰。必此(ノ)報《コタヘナラム》也。乃令2近侍1優寵日《アツクメクミタマフコトヒヽニ》新。大(ニ)致2饒富《ニキハハヒヲ》1。及(テ)v至(ニ)2踐祚《アマノヒツキ》1拜《マケタマフ》2大藏(ノ)省《ツカサニ》1。家もあらなくには、第三に、くるしくもふりくる雨かみわかさきさのゝわたりに家もあらなくに。此心におなし
 
太上天皇御製歌一首
 
初、太上天皇 元正天皇なり。諱(ハ)日本根子高瑞淨足姫《ヤマトネコタカミツキヨタラシヒメ》。亦曰2氷高《ヒタカノ》皇女(ト)1。草壁太子(ノ)皇女、文武天皇同母(ノ)姉、母(ハ)阿閉(ノ)皇女。即元明天皇なり。在位十年二月、位を聖武天皇に讓らせ給へり
 
1637 波太須珠寸尾花逆葺黒木用造有室者迄萬代《ハタスヽキヲハナサカフキクロキモテツクレルヤトハヨロツヨマテニ》
 
すゝきも尾花も同じ物なるをかくつゞけさせ給へるは、庭津鳥かけの垂尾などの類なり、黒木とは削りたるを白木《シラキ》と云に對して削らぬを云なり、室は次の御製に室戸とあれば今は戸の字の落たる歟、此御製は左大臣の宅の儉約なるをほめて遊ばされたるなり、尚書帝範崇儉篇曰、夫聖代(ノ)之君爲2乎節儉1、富貴廣大、守v之以v約(ヲ)、叡智聰明守(ルニ)v之以v愚、不d以2身尊(ヲ)1而驕uv人、不d以2徳厚(ヲ)1而矜uv物、茅茨不v剪、采椽不v削《ケツラ》、舟俥不v飾、衣服無v文、今黒木用とある御詞は采椽不v削と云一句の意なれど、一句の中に引所の意皆こもるべし、
 
初、はたすゝきを花さかふき 穗のかたを下にしてふくをいふ。くろ木は、皮つきなから用るをいへり。此御哥次の聖武天皇の御歌は、後の注をみるに、長屋王佐保宅にして、とよのあかりしたまふ時の御歌なり。帝範曰。夫三皇(ノ)昔(ハ)茅茨不v剪(ラ)采椽不v斷(ラ)。此文のこゝろとかなへる御製なり
 
天皇御製歌一首
 
(50)1638 青丹吉奈良乃山有黒木用造有室戸者雖居座不飽可聞《アヲニヨシナラノヤマナルクロキモテツクレルヤトハヲレトアカスカモ》
 
室戸、【幽齋本無2戸字1、】
 
右の御製と同じ意なり、落句はアカヌカモとも讀べし、
 
右聞之御在左大臣長屋王佐保宅肆宴御製
 
此集勅撰ならぬ證なり、
 
太宰帥大伴卿冬日見雪憶京歌一首
 
1639 沫雪保杼呂保杼呂爾零敷者平城京師所念可聞《アワユキノホトロホトロニフリシケハナラノミヤコシオモホユルカモ》
 
袖中抄云、促杼呂保杼呂ははたら/\にと云へる詞なり、ほ〔右○〕とは〔右○〕と、と〔右○〕とた〔右○〕と、ろ〔右○〕とら〔右○〕と同五音也とて、第十に庭毛|薄太良爾三雪落有《ハタラニミユキフリタリ》と云を引て云、今云、此はたらはまだらと云詞也、は〔右○〕とま〔右○〕と同ひゞき也、以上の説分明なり、此次に諸説を出して云く、萬葉抄云、ほとろほとろとはかきたれて降と云也、一字抄には以2此歌1雪に音ある證歌に出せり、然者はとろ/\と雪の降音ありと存ずる歟、童蒙抄云、ほとろ/\とは物のほとり/\に降敷けばとよめるなり、雪のいたくふらぬ程は物のきは/”\にたまるなり、今按初のかきたれて降と云は推量の説なり、次の雪に音ある證とする説は第十に庭毛薄太(51)良爾と云下に注して云、一云|庭裳促杼呂爾《ニワモホトロニ》雪曾零而有、此を考へ知らず、其上今の歌にても音ある證とすべしとは見えず、範兼卿の説は、雪を見て京を憶ふと云に、ほとりほとりにのみ積ると云はむ事詮なし、仙覺はほとろとはひかると云詞也、ひかれる虫をほたるなど云が如しと注せらる、此事用べからず、京師はミヤコノと讀べし、ミヤコシとよまば二字引合てみやこと讀てし〔右○〕は助語に讀付と意得べし、
 
初、沫雪のほとろ/\に はたら/\なり。おもしろきに感しても、先都を思ひ出るなり。次の哥と二首は筑紫にての哥なり
 
太宰帥大伴卿梅歌一首
 
1640 吾岳爾盛開有梅花遺有雪乎亂鶴鴨《ワカヲカニサカリニサケルウメノハナノコレルユキニマカヘヲルカモ》
 
帥館にて吾岳爾とよまれたる事上に注するが如し、遺有雪とは冬ながら消殘れるを云なり、後の歌に殘雪を春の題とするに依て難ずべからず、此集にも第五に殘たる雪に交れる梅の花とよみ、第九に三雪遺未冬鴨《ミユキノコレリイマタフユカモ》とよめるは後の意と同じ、古今集冬部に、此川にもみぢ葉流る奥山の、雪消の水ぞ今増るらし、此等を以今の歌に合せて意得べし、落句の中の鶴をヲルと點ぜるは書生の誤失なり、官本に依て改むべし、家特集に此を入たるは云に足らず、のこれる雪にみだれつるかもとあるも、古くよめるやう、かくよからぬも多かり、
 
初、のこれる雪を 冬なれと、消のこるをいへり
 
(52)角朝臣廣辨雪梅歌一首
 
此人考る所なし、角は周防國の都濃《ツノ》を以て氏とせるなり、雄略紀云、勅2紀小弓宿禰蘇我韓子宿禰大伴談連【談此云2箇陀利1】小鹿火宿禰等(ニ)1曰、新羅自居2西土1、累v葉稱v臣云々、紀小弓宿禰等即入2新羅1行々屠2傍郡1云々、大將軍紀小弓宿禰値v病而薨云々|別《コトニ》小鹿火(ノ)宿禰從2紀小弓宿禰喪(ニ)1來時獨留2角國1、使2倭于連1【連未v詳2何姓人1】奉2八咫《ヤタノ》鏡於大伴大連1而祈請曰、僕不v堪d共(ニ)2紀卿1奉(ルニ)uv事(ヘ)2天朝《ミカトニ》1、故《カレ》請3留2住(ント)角國1、是(ヲ)以大連爲奏2於天皇1使3留2居于角國(ニ)1、是角臣等初居2角國1而名2角臣1自v此始也、今周防と決するは和名集云、周防國|都濃《ツ》郡都濃、先代舊事本紀第十云、都怒國造、難波高津(ノ)朝、紀(ノ)臣同祖|都怒足尼《ツノソコネノ》兒男嶋(ノ)足尼(ヲ)定(メ)2賜國造(ト)1、此前に周防國造云々、此後に穴門(ノ)國造云々、阿武國造云々、前後に據て考るに都怒國は都濃郡なり、廣辨の辨、目録には辯に作れり、何れを正字と知らむ、官本にはヒロナリと點ず、ワキマフとも、日本紀にはワイ/\シとも點じたればヒロワキにや、
 
初、角朝臣 雄略紀云。勅(シテ)2紀小弓宿禰、蘇我韓子宿禰、大伴|談《カタリノ》連【談此(ヲハ)云2箇陀利1】小鹿火宿禰等(ニ)1曰。新羅自v居2西(ノ)土《クニ》1、累v葉《ヨヲ》稱v臣(ト)。〇紀小弓宿禰等即入2新羅(ニ)1行《/\》屠(ル)2傍(ノ)郡(ヲ)1。〇大將軍紀小弓宿禰値v病而薨。〇別《コトニ》小鹿火(ノ)宿禰從(テ)2紀(ノ)小弓宿禰(ノ)喪(ニ)1來(ル)。時獨留2角《ツルカ・ツノ》國1。使2倭子連1【連未v詳2何姓人1】奉2八咫《ヤタノ》鏡於大伴大連(ニ)1而|祈請《ノミテ》曰。僕不v堪d共(ニ)2紀|卿《マチキミ》1奉u事天朝(ニ)u。故(ニ)請3留2住角國(ニ)1。是以大連爲|奏《マウシテ》2於天皇(ニ)1使3留居2于角國(ニ)1。是角臣等初居2角國1而名2角臣(ト)1自v此始也。廣辨はひろわきなといふ歟
 
1641 沫雪爾所落開有梅花君之許遣者與曾倍弖牟可聞《アハユキニフラレテサケルウメノハナキミカリヤラハヨソヘテムカモ》
 
所落とは催さるゝなり、此卷上に梅を沫雪にあひて咲にけむかもとよみ、下には今日ふりし雪にきほひてとよめる意なり、君之許は君は友を指歟、此梅を折て友の許へ贈(53)らば雪と梅とのあひにあひたる如く相思ふ意をよそへて見むかとなるべし、
 
初、あはゆきにふられて ふられてはもよほさるゝ心なり。よそへてむかもとは、雪と梅との、あひにあひたることくに、友たちのあひ思ふ心をよそへて、君がみむかとの心なり。第十冬哥、梅花先さく枝を手折てはつとゝなつけてよそへてむかも
 
安倍朝臣奥道雪歌一首
 
稱徳紀云、神護景雲元年、正五位上安倍朝臣奧道授2勲六等(ヲ)1、二年十一月癸未、從四位下阿倍朝臣奧道(ヲ)爲2左兵衛督(ト)1、光仁紀云、寶龜二年閏三月戊子朔乙卯、無位安倍朝臣奧道(ヲ)復2本位從四位下1、九月甲申朔己亥、内蔵頭、三年四月、但馬守、八月甲子、復2息部|息《オキ》道(ヲ)本姓阿倍朝臣(ニ)1、五年三月癸卯、從四位下安倍朝臣息道卒(ス)、右の光仁紀に疑あり、何の科に官位を召返し給ひ、阿倍を改て息部となさせ給へりと云事を知らずと云へども、推量するに是は神護景雲三年の事にて、寛仁の光仁の帝、過を宏めさせ給ふ歟、或は道鏡法師が事などに諫言などを奉て逆鱗に逢て、其身過なきに依て憐ませ給ひて本位本姓に復せさせ給歟の間なるべし、然らば先寶龜二年に本姓にかへし給ひ、三年に本位にかへし給ふべき歟、其上三年に本姓に復せば二年に何の無位安倍朝臣奥道とはかゝるべき、續日本紀の流布の本、傳寫の誤多ければ是も其一つなるべし、
 
初、安倍朝臣|奥《オキ》道 稱徳紀(ニ)云。神護景雲元年正五位上安倍朝臣奧道(ニ)授2勲六等(ヲ)1。二年十一月癸未、從四位下阿倍朝臣奧道(ヲ)爲2左兵衛(ノ)督(ト)1。光仁紀云。寶龜二年閏三月戊子朔乙卯、無位安倍朝臣奧道(ヲ)復(ス)2本位從四位下(ニ)1。九月甲申朔己亥内蔵頭。三年四月但馬守。八月甲子復(ス)2息部(ノ)息《オキ》道(ヲ)本姓阿倍朝臣(ニ)1。五年三月癸卯、從四位下安倍朝臣息道卒(ス)
 
1642 棚霧合雪毛零奴可梅花不開之代爾曾倍而谷將見《タナキリアヒユキモフラヌカウメノハナサカヌカハリニソヘテタニミム》
 
發句は水|霧合《キリアヒ》を齊明紀の御製にみなぎらひとよませ給へるに准らへばタナギラヒ(54)とも點ずべし、雪モフラヌカは降かしなり、不開之代爾はサカヌガカヒニと讀べき、かかひと云もかはりなり、或はサカヌガシロニとも讀べきか、しろも亦かはりなり、拾遺集物名にすけみが長莚をよめる歌に、※[(貝+貝)/鳥]のながむしろには我ぞなく、花の匂ひや暫留ると、但是は物名なれば常の例とはすべからざる歟、曾倍而谷將見は雪を梅によそへてだに見むなり、
 
初、たなきりあひ雪もふらぬか たなひくといふに輕引とかきたれは、たなきりあひはうすくもる心なり。雪もふらぬかは、さきにもいへることく、ふらぬかふれかしの心なり。さかぬかはりにそへてたにみむとは、梅の花のさかぬそのかはりに、雪を梅によそへてみんなり
 
若櫻部朝臣君足雪歌一首
 
君足は無v所v考、
 
初、若櫻部 履中天皇の時賜たる氏歟。第七の二十九葉この山のもみちの下の花をわかはつ/\にみて歸るこひしもといふ哥に履中紀をひけり。それをみるへし
 
1643 天霧之雪毛零奴可炊然此五柴爾零卷乎將見《アマキリシユキモフラヌカイチシロクコノイツシハニフラマクヲミム》
 
天霧之、【別校本、幽齋本並云、アマキラシ、
 
發句は第十にも二首まで此句あるに共にアマキラシと點ぜしは今は書生の失錯なり、炊然は灼を誤て炊に作れり、改むべし、
 
初、あまきらし雪もふらぬか 灼然、灼を炊に作れるは誤なり。日本紀には、灼然をいやちことよめり。すなはちしかよむへきよし自注をくはへたまへり。いちしろく此いつしはとよめるは、第四に志貴皇子の御哥に、大原やこのいつしはのいつしかとゝつゝけさせたまへるを、打かへしてつゝけたり
 
三野連石守梅歌一首
 
第十七にも此人の歌あり、續日本紀第三十九云、延暦五年十二月乙卯、陰陽助正六位上路三野眞人石守言、己父馬養姓無2路字1、而今石守獨著2路字(ヲ)1、請除(カム)v之(ヲ)許焉、是路の字を(55)除けば氏も名も同じ、但連と眞人と姓異なり、其上今路の字なければ別人歟、
 
初、三野連石守 第十七卷に、天平二年冬十一月太宰帥大伴卿被v任2大納言1上v京之時陪從(ノ)人等別取2海路1入v京時歌十首。此初にも、石守か哥一首あり。續日本紀第三十九云。延暦五年十二月乙卯、陰陽助正六位上路三野眞人石守言(ス)。己(カ)父《カソ》馬|養《カヒ》姓無2路字1。而(ルヲ)今石守獨(リ)著2路(ノ)字(ヲ)1。請(フ)除(カント)v之(ヲ)。許(シタマヘリ)焉。これ同人歟。されと今は其姓連なり。彼は第一の眞人なれは、同異さためかたし
 
1644 引攀而折者可落梅花袖爾古寸入津染者雖染《ヒキヨチテヲラハチルヘクウメノハナソテニコキイレツソマハソムトモ》
 
可落は今の點はよからず、チルベミと讀べし、袖爾古寸入津もソデニコキレツと入の字上略して讀べし、第十八家持の橘歌に之路多倍能蘇泥爾毛古伎禮《シロタヘノソデニモコキレ》云々、第十九同家持詠2霍公鳥并藤花1長歌終云、藤|浪乃花奈都可之美《ナミノハナナツカシミ》、引攀而袖爾古伎禮都《ヒキヨチテソテニコキレツ》、染婆染等母《ソマハソムトモ》、此反歌(ニ)云、霍公鳥|鳴羽觸爾毛落爾家利《ナクハフレニモチリニケリ》、盛過良志藤奈美能花《サカリスクラシフチナミノハナ》、此注(ニ)云、一(ニ)云、落奴倍美|袖《ソテ》爾|古伎禮都《コキレツ》藤浪乃花也、家持は古今の人に能擬してよまれたれば、此等は今の歌を思はれけるなるべし、古今集にも素性が歌に、紅葉は袖にこきいれてもて出なむとよめり、
 
初、袖にこきいれつ 第十八十九にも、袖にこきいるとよめり。古今集にも、もみちはゝ袖にこきいれてもて出なん秋はかきりとみん人のため、素性
 
巨勢朝臣宿奈麻呂雪歌一首
 
1645 吾屋前之冬木乃上爾零雪乎梅花香常打見都流香裳《ワカヤトノフユキノウヘニフルユキヲウメノハナカトウチミツルカモ》
 
冬木とは今は梅より外の萬の冬木なり、打見ツルカモとは、打は詞のかゝりにそへて云詞ながら一目見るやがてにそれなめりと思ふ意あり、
 
小治田朝臣東麻呂雪歌一首
 
(56)東麻呂は未v詳、
 
1646 夜干玉乃今夜之雪爾率所沾名將開朝爾消者惜家牟《ヌハタタノコヨヒノユキニイサヌレナアケムアシタニケナハヲシケム》
 
腰の句はいざぬれむななり、立て見居て見見る程に、衣も沾べけれど、ぬれても愛せむの意なり、
 
忌部首黒麻呂雪歌一首
 
1647 梅花枝爾可散登見左右二風爾亂而雪曾落久類《ウメノハナエタニカチルトミルマテニカセニミタレテユキソチリクル》
 
雪曾、【官本云、ユキソ、】  落久留、【別校本云、フリクル、】
 
散登を六帖にはさくと〔三字右○〕と改たり、落句はユキソフリクルと讀べし、曾をヲ〔右○〕と點ぜるは書生の失錯なり、
 
紀少鹿女郎梅歌一首
 
1648 十二月爾者沫雪零跡不知可毛梅花開含不有而《シハスニハアハユキフルトシラヌカモ メノハナサクツホメラスシテ》
 
不知可毛、【官本云、シラスカモ、】  含不有而、【六帖云、フヽメラスシテ官本又點同v此、、】
 
十二月をしはすと云事奧義抄云、僧を迎へて佛名を行ひ、或は經をよませ、東西に馳せ(57)走る故に師はせ月と云をあやまれり、今按これ先達の義なりと云へども臆説なり、凡そ僧は閑寂を事とす、况十二月は冬安居の時なれば何かは東西に馳走せむ、佛名を行なはるゝ等の公事は後に起れり、此集既に先だつ事久し、日本紀の點にもあり、それは猶後を以て初めに廻らすとも云なすべけれど、されども紀の文は然る事あり、紀より後の事をもて點ずべきに非ず、し〔右○〕とせ〔右○〕と通ひ、す〔右○〕とし〔右○〕と通へばせはし〔三字右○〕と云意にもや侍らむ、梅の點ウ〔右○〕もじを落せり、落句今の點は新語にて叶はず、六帖に依べし、或はフヽミテアラズテとも讀べし、袖中抄につゝみてあらでとあるもよからず、
 
初、しはすにはあはゆきふると 後々の哥には、春のあはゆきとよみなれて、春の物のやうにおもひあへり。和名集云。日本紀(ニ)云。沫雪【阿和由岐】其弱(キコト)如(シ)2水沫(ノ)1。其弱といへるは、消やすきにつきて、水沫のことくなれは、あは雪といふといふ心なり。水のあはに、泡と沫との心かはれり。泡はあはの大きにして、物をつゝめるやうにうかふをいふ。徑寸の玉のことし。沫は米なとを細末せる粉のことくなるをいふ。包にしたかへ、末にしたかへたる此ゆへなり。しかれはあはゆきは、只よはきをいふのみにあらす。こまかなるをもいふへし。つほめらすしては、つほみてさてもあらすしてなり。ふゝめらすしてともよむへし。ふゝむはふくむにおなし。神代紀にも含の字ふくむとよむへきを、ふゝむとよめり。花のつほむもふゝむも、みな人の口をとつるにたとへたり。人の口のすこしちひさくて出たるやうなるを、俗につほくちといふも、つほめるくちといふ心なり。壷の字の和訓をつほといふも、口のかたのすほけれは、含の字の心にて名付たるへし。花のさくを咲の字開の字なとかけるも、人のくちをひらき、あるひはゑむに比したるなり
 
大伴宿彌家持雪梅歌一首
 
1649 今日零之雪爾競而我屋前之冬木梅者花開二家里《ケフフリシユキニキホヒテワカヤトノフユキノウメハハナサキニケリ》
 
初、雪にきほひて 雪に我おとらしとあらそふなり
 
御在西池邊肆宴歌一首
 
聖武紀云、天平十年秋七月癸酉、天皇御2大蔵省(ニ)1覽2相撲1、晩頭御2西池宮1、因指2殿前梅樹1、勅2右(ノ)衛士督下道朝臣眞|備《キヒ》及(ヒ)諸才子1曰云々、
 
1650 池邊乃松之末葉爾零雪者五百重零敷明日左倍母將見《イケノヘノマツノスヱハニフルユキハイホヘフリシケアスサヘモミム》
 
(58)末葉はウラハと讀べし、
 
初、松の末《スヱ》葉 松のうらはともよむへし
 
右一首作者未詳但竪子阿倍朝臣蟲麻呂傳誦之
 
莊子云、故人命2竪子1、殺v鴈(ヲ)而烹(シム)v之、
 
大伴坂上郎女歌一首
 
1651 沫雪乃比日續而如此落者梅始花散香過南《アハユキノヒナヘニツキテカクフレハウメノハツハナチリカスキナム》
 
比日、上にもあまたコノコロとのみ點じたれば今もひとしくこそよまめ、上に赤人の歌にひならへてと云には日並而とぞ書し、
 
初、沫雪のひなへ|《メ》につきて ひなへは、比日とかきたれは、このころとも讀へし
 
池田廣津娘子春歌一首
 
1652 梅花折毛不折毛見都禮杼母今夜能花爾尚不如家利《ウメノハナヲリモヲラスモミツレトモコヨヒノハナニナホシカスケリ》
 
折ても見、折らずしてたてながらも見たりしかども今夜の花にしかずとは、晝よりも夜目に見るを賞する意なり、伊勢物階に梅の花盛に月の面白かりける夜などかけるわたり思ひ合すべし、
 
縣犬養娘子依梅發思歌一首
 
(59)1653 如今心乎常爾念有者先咲花乃地爾將落八方《イマノコトコヽロヲツネニオモヘラハマツサクハナノツチニオチメヤモ》
 
先咲花は梅なり、第五に波流佐禮婆麻豆佐久耶登能烏梅能波奈《ハルサレハマツサクヤトノウメノハナ》、古今には、春されば野べに先咲見れどあかぬ花とよめり、歌の意は、人の我を思ふ事今咲梅を愛する如くならば、酒に泛べ袖にこき入れなどして翫て徒に地には落さぬやうに古さるゝ事もあらじとよそふる也、初て相見る男の有けるにや、
 
初、今のこと心をつねにおもへらは これは梅の初花をおもふことく、我を人のおもはゝ、堂を下さゝらむこと、初花の地におちぬことくならましとにや 
 
大伴坂上郎女雪歌一首
 
1654 松影乃淺芽之上乃白雪乎不令消將置言者可聞奈吉《マツカケノアサチカウヘノシラユキヲケタステオカムトイヘハカモナキ》
 
芽は茅を誤れり、落句は今按今の點意得がたし、イフハカモナキと讀べし、淺茅原の松陰に雪の零敷て面白く見ゆるを愛する餘りに、いかでけたずして置てしがなといはるゝも、思へばはかなき事ぞとなり、世の常ならぬは定まれる理なるを、千世萬歳とねがふ意をかけてはかなめるなるべし、
 
初、松かけのあさちのうへの いへはかもなき。此かむなはあやまりなるへし。いふはかもなきとよむへきにや。松陰の淺茅か上に、雪のおもしろくふれるを、いかてきえしめすしておかむといふもはかなきなり。はかなきはかひなき心あり。俗にはか/\しからぬ、はかのゆかぬなといふ。おなしことはのわかれたるなるへし
 
冬相聞
 
三國眞人人足歌一首
 
(60)人足は考る所なし、三國氏は繼體紀云、次三尾吾|堅※[木+戚]《カタヒ》女(ヲ)曰2倭媛1、生2二男二女1、其二曰2椀子(ノ)皇子1、是三國公之先也、姓を眞人と賜はる事は天武天皇白鳳十三年の冬なり、
 
初、三國眞人 繼體紀云。次(ニ)三尾君|堅※[木+威]《カタヒカ》女(ヲ)曰2倭媛(ト)1。生2二男二女(ヲ)1。其二(ヲ)曰2椀《マリ》子皇子(ト)1。是三國(ノ)公《キミノ》之先也。天武天皇白鳳十三年冬眞人の姓を賜れり
 
1655 高山之菅葉之努藝零雪之消跡可曰毛戀乃繁鷄鳩《タカヤマノスカノハシノキフルユキノケヌトカイフモコヒノシケヽク》
 
高山は第一第十一にはカクヤマと點ぜれば今も何れならむも知るべからず、曰毛は今按イハモと讀ていはむと意得べし、法華懺法に至心懺悔をしゝも〔三字右○〕と云へば、古は毛と牟とを通ぜる事常なりと見えたり、第四の句は雪によそへてけぬとかと云ひ、第五は菅葉を承て繁けくといへり、古今には、おくやまのすがのねしのぎふるゆきの、けぬとかいはむ戀の繁きにとあり、此集に入らぬ古き歌を載る由なれば改て入るゝにはあらず、誤て載たり、
 
初、高山のすかのはしのき これは古今集におく山のすかのねしのきふる雪のけぬかといはむこひのしけきにとある哥なり。こゝに載たるによれは、すかのねしのきは誤てつたへけらしとそみゆる。第三に大納言大伴卿の哥にも、おく山のすかのはしのきふる雪のけなはおしけむ雨なふりこそと侍り。菅の葉をこそをかししのき侍らめ。根はことはりたしかならねと、すかのねしのきとよみあけたる所、きゝのよけれは、難なきなり。けぬとかいふも、これもかんなあやまれり。けぬとかいはもと有へし。牟と毛とは五音通すれは、いはもはいはむにおなし。昔は通してよみもし、あるひはかきもしけれは、後はそれにまとへる事あり。たとへは和泉式部か哥に
  人もかなみせもきかせも萩か花さく夕かけのひくらしの聲
これはみせむきかせむなるを、通し《・モトムト》てみせもきかせもと初よりよめる歟。又みせんきかせんとはよめるを、みせもきかせもとかける歟。此ふたつのあひたを出さるを、後の人はみせもせん、きかせもせんといふへきを、ふたつのせんといふ詞をいひ残せりとこゝろ得て、本哥にも用けるなり。六百番哥合に有家卿
  高砂の松を緑にふきかへしみせもきかせも山おろしの風
判者俊成卿も難せられさりけれは、其比もみせんきかせんなりとは意得られさりけるなり。天台宗に法華懺法するに、至心懺悔といふ事を、漢音によむ時、しゝもさんくわい《・至心懺悔》とよめるは、ふるき人のつけたるかんなにまかせて、よみあやまれるなるへし。第一卷に、高山とかきてかく山とよみたれは、此高山もかくやまと作考はよめりけむもしらす。菅の菓しのきは、文鏡秘府論に出たる字對例詩云。原夙振(ヒ)2平楚《地名》(ニ)1野雪被(フル)2長菅《・草名》(ニ)1。しけゝくはしけきにのこゝろなり
 
 
 
大伴坂上郎女歌一首
 
1656 酒杯爾梅花浮念共飲而後者落去登母與之《サカツキニウメノハナウケテオモフチチノミテノノチハチリヌトモヨシ》
 
上句は第五の諸人の梅歌に似たる有て注せりき、
 
初、さかつきに梅の花うけて 第五に三十二首梅花謌中に、村氏|彼方《ヲチカタ》か哥に
  春楊かつらにおりし梅の花たれかはうへしさかつきのへ《・上》に
第七に
  《旋頭哥》春日なるみかさの山に月の舟いつ。たはれをのゝむさかつきに影にみえつゝ
 
和歌一首
 
(61)1657 官爾毛縱賜有今夜耳將飲酒可毛散許須奈由米《ツカサニモユルシタマヘルコヨヒノミノマムサケカモチリコスナユメ》
 
官爾毛、【官本又云、オホヤケニモ、】
 
胸句今の點誤れり、ユルシタマヘリと讀て句絶とせざれば語意通ぜず、親しきどちひとりふたり寄會て飲て樂しぶ事をば許したまへば、今夜のみならむや、又も酒に泛ぷべければ散過なとなり、
 
初、官にもゆるしたまへり ゆるしたまへるとあるは誤なり。第二と第四と兩所にて句をきりてよむへし。下注云。但親々一(リ)二(リ)飲樂(スルヲハ)聽許《・ユルス》(ステヘリ《トイノ反》)。しらしき人ひとりふたりよりあひて飲ことをは、おほやけにもゆるしたまへは、たゝこよひのみのまん酒かは、又ものむへけれは、ゆめ/\散過なと梅をいさむるなり。のみての後はちりぬともよしといへるをおさへたるかへしなり
 
右酒者官禁制※[人偏+稱の旁]京中閭里不得集宴但親親一二飲樂聽許者縁此和人作此發句焉
 
閭里〔二字右○〕、閭、説文、里門也、周禮、五家(ヲ)爲v比、五比(ヲ)爲v閭、閭(ハ)侶也、二十五家相羣侶也、爾雅、巷門(ヲ)謂v閭、但親親〔三字右○〕史記、孝文本紀云、※[酉+甫]五日、索隱曰、説文云、※[酉+甫]、王者布v徳大飲酒也、
 
初、注、右酒者〇許者 史記孝文本紀云。※[酉+甫](スルコト)《・サケノミスルコト日本紀》五日、【文穎曰。漢律三人已上無v故群飲罰金四両。今詔(シテ)横《ホシイマヽニ》賜(テ)v得(ルコトヲ)2會聚(スルコトヲ)1飲食(スルコト)五日(ナリ)
 
藤原后奉 天皇御歌一首
 
原の下に皇の字を落せる歟、他處には然り、目録には藤皇后と有て原の字なし、互におとせり、此は世に光明皇后と申す淡海公の御女なり、廢帝紀云、寶字四年六月乙丑、天平應眞仁正皇太后崩、姓藤原氏、近江朝大織冠内大臣鎌足之孫、平城朝贈正一位太政大臣不比等(ノ)之女也、母(ヲ)曰2贈正一位縣犬養橘宿禰三千代(ト)1、皇太后幼而聰慧、早播2聲譽1、(62)勝寶感神聖武皇帝儲式之日、納以爲v妃、時年十六、攝2引衆御(ヲ)1、皆盡2其歡1、雅閑禮訓、敦(ク)崇2佛道1、神龜元年聖武皇帝即位、授2正一位1爲2大夫人(ト)1、生2高野天皇及(ヒ)皇太子(ヲ)1、其皇太子者誕(シテ)而三月、立(テ)爲2皇太子(ト)1、神龜五年夭而薨焉、時(ニ)年二(ツ)、天平元年尊2大夫人(ヲ)1爲2皇后(ト)1、湯沐(ノ)之外更加2別封一千戸(ヲ)1、及2高野天皇東宮(タルニ)1、封一千戸、太后仁慈、志存v救v物(ヲ)、創2建東大寺及天下國分寺1者本太后之所v勸也、設(テ)2悲田施藥(ノ)兩院(ヲ)1、以療2養天下飢病之徒1也、勝寶元年、高野天皇受v禅、改2皇后職1曰2紫微中臺(ト)1、妙選勲賢、並列2臺司1、寶字二年、上2尊號1曰2天平應眞仁正皇太后1、改2中臺1曰2坤宮官1、崩時春秋六十、立后の時の勅宜に仁徳天皇の磐媛皇后と諸共に世を治めさせ給へるに准例せさせ給へり、委は聖武紀を見るべし、又聖武天皇と皇太后とに尊號を奉れる諸臣並に僧徒の表も寶字二年の紀に載たり、
 
初、藤原后 皇后なるへきを、皇の字をゝとせるなり。目録には、藤皇后とありて、原の字なし。たかひにおちたり。これは光明皇后にて、淡海公の御女なり。廢帝紀云。寶字四年六月乙丑天平應眞仁正皇太后崩(ス)。姓(ハ)藤原氏。近江朝大織冠内大臣鎌足之孫、平城朝贈正一位大政大臣不比等之女也。母(ヲ)曰2贈正一位縣犬養橘宿禰三千代(ト)1。皇太后幼而聰慧(ニシテ)早播(コス)2聲譽(ヲ)1。勝寶感神聖武皇帝、儲貳之日|納《メシイレテ》以爲(タマフト)v妃(ト)。時年十六。攝2引(シテ)衆御(ヲ)1皆盡(ス)2其歡(ヲ)1。雅閑禮(ヲモテ)訓。敦(ク)崇2佛道(ヲ)1。神龜元年聖武皇帝即v位、授(テ)2正一位(ヲ)1爲2大夫人(ト)1。生2高野《タカノノ》天皇及皇太子(ヲ)1。其皇太子(ハ)者誕(テ)而三月立爲2皇太子(ト)1。神龜五年夭而薨焉。時(ニ)年二。天平元年尊(テ)2大夫人(ヲ)1爲2皇后(ト)1。湯沐之外更(ニ)加2別封一千戸(ヲ)1。及(テ)2高野天皇東宮(タルニ)1〇《・恐脱字》封2一千戸1。太后仁慈(ニシテ)志在(リ)v救(フニ)v物(ヲ)。創2建(シタマフコトハ)東大寺及(ヒ)天下(ノ)國分寺(ヲ)1者、本(ト)太后之所(ナリ)v勸(メタマフ)也。設2悲田施藥(ノ)兩院(ヲ)1以療2養(シタマフ)天下飢病(ノ)之徒(ヲ)1也。勝寶元年高野(ノ)天皇受(タマヒテ)v禅(ヲ)改(テ)2皇后(ヲ)職(ヲ)1曰2紫微中臺(ト)1。妙選勲賢並列2臺司(ニ)1。寶字二年上(テ)2尊號(ヲ)1曰2天平應眞仁正皇太后(ト)1。改(テ)2中臺(ヲ)1曰2坤宮官(ト)1。崩(シタマフ)時春秋六十。天平元年立后の時の勅宣に、仁徳天皇の磐姫皇后とゝもに世を治めさせたまへることを准例せさせたまへり。委は續日本紀を見るへし。又聖武天皇と皇太后とに、尊號を奉れる諸臣并に僧徒の表も、廢帝紀につふさなり
 
1658 吾背鬼與二有見麻世波幾許香此零雪之懽有麻思《ワカセコトフタリミマセハイクハクカコノフルユキノウレシカラマシ》
 
池田廣津娘子歌一首
 
1659 眞木乃於上零置有雪乃敷布毛所念可聞佐夜問吾背《マキノウヘニフリオケルユキノシク/\モオモホユルカモサヨトフワカセ》
 
於上、【校本、幽齋本並上作v爾、】
 
於上の時は於はに〔右○〕なり、於爾の時は於はうへ〔二字右○〕なり、問はトヘと點ずべし
 
初、さよとへわかせ さよとふとあるは、過にし夜々をとひし心に點をくはへたる歟。只さよとへとよみて可v然
 
(63)大伴宿彌駿河麻呂歌一首
 
1660 梅花令落冬風音耳聞之吾妹乎見良久志吉裳《ウメノハナチラスアラシノオトニノミキヽシワキモヲミラクシヨシモ》
 
冬風、【官本又云、フユカセ、】
 
初、むめの花ちらすあらし あらしを冬風とかけるは、義をもてなり。嵐を秋の物ともせれと、只いつもあらき風をいふへし。此わきもは坂上郎女が山もりの有けるしらにとほのめかされし、坂上二娘をいへるなるへし
 
紀少鹿女郎歌一首
 
1661 久方乃月夜乎清美梅花心開而吾念有公《ヒサカタノツキヨヲキヨミウメノハナコヽロヒラケテワカオモヘルキミ》
 
久方は空の枕詞なれば空とつらぬる意に空にある物には何にても置なり、又一説は、古今に伊勢が久方の中に生たる里とは桂の里を云へる故に、久方は月の名なりとも云へり、今は何れも叶ふべし、月夜と云ひ、梅と云ひ、相思ふ人にさへ逢へば梅によせて心開けてとは云へり、
 
初、久方の月夜をきよみ 心のふさかるをいふせきといふ。そのいふせさのはるゝをひらくといへは、月夜といひ、梅といひ、おもふ人にさへあへは、梅花によせて、心ひらけてとはいへるなり。うれしけなる哥なり
 
大伴田村大娘與妹坂上大娘歌一首
 
1662 沫雪之可消物乎至今流經者妹爾相曾《アハユキノケヌヘキモノヲイマヽテニナカラヘヌレハイモニアヘルトソ》
 
雪の如く消ても惜からぬ身なれど、さすがにながらへぬるかひに妹にあへるとなり、此集には雪の降を多く流るとよめる故に、命のながらふるをよせてよめり、
 
初、あはゆきのけぬへきものを 雪のことくきえても、をしからぬ身なれと、さすかになからへぬるかひに、いもにあへるとなり。此集に雪のふるをなからふるといへは、命にはよせたるなり。坂上大娘は、田村大娘のために、まことのいもうとなれと、只これは通して女をしたしみてよふ詞なり。家持の哥には姑坂上郎女をも妹とよまれたり。此田村大娘と、坂上大娘とは、贈答あまたみえたり。むつましきあねいもうとなり。今の嫗《オウナ》まさにしからんや
 
(64)大伴宿禰家持歌一首
 
1663 沫雪乃庭爾零敷寒夜乎手枕不纒一香聞將宿《アハユキノニハニフリシキサムキヨヲタマクラマカスヒトリカモネム》
 
不纒、【六帖云、マカテ、】
 
萬葉集代匠記卷之八下
 
(1)萬葉集代匠記卷之九上
 
           僧 契 冲 撰
           木 村 正 辭 校
 
雜歌
 
初、雜歌
 
泊瀬朝倉宮御字【大泊瀬幼武天皇】天皇御製歌一首
 
1664 暮去者小椋山爾臥鹿之今夜者不鳴寐家良霜《ユフサレハヲクラノヤマニフスシカノコヨヒハナカスイネニケラシモ》
 
第八に既に注しき.
 
初、ゆふされはをくらの山にふすしかのこよひはなかすいねにけらしも 此哥、第八卷にありてすてに注せり。そこには鳴鹿のといへり
 
右或本云崗本天皇御製不審正指因以累載
 
(2)崗本宮御宇天皇幸紀伊國時歌二首
 
舒明紀を考るに紀伊國に行幸し給へる事見えず、然れども紀に漏たる事なかるべきにもあらず、但後崗本宮と云へる後の字を落せるにや、齊明天皇の紀温湯へ行幸せさせ給へる事は第二卷有間皇子の御歌に付て注せり、
 
初、崗本宮御宇天皇幸《・イテマス日本紀》2紀伊國1時歌二首 日本紀の舒明紀を考るに、紀伊國にみゆきしたまへる事見えす。しかはあれと、紀にもれたることなかるへきにあらす。たゝし此卷は、撰者すてに卷の中にもいへるかことく、古記簡略なるゆへに、作者をしるせるにも、あるひは氏をのみ記し、あるひは名をのみ記して、分明ならぬ事おほけれは、これも、若は後崗本宮にや。齊明天皇の紀温湯へみゆきせさせたまへることは、第二卷有間皇子の御哥につきてしるせり
 
1665 爲妹吾玉拾奧邊有玉縁持來奥津白浪《イモカタメワレタマヒロフオキヘナルタマヨセモテコオキツシラタマ》
 
1666 朝霧爾沾爾之衣不干而一哉君之山道將越《アサキリニヌレニシコロモホサスシテヒトリヤキミカヤマチコユラム》
 
六帖にはあきゝりにぬれにしそてをとあり、此は御供の人の留めたる妻の歌なり沾爾之の爾は助語なり、
 
初、朝きりにぬれにし衣 これは御供なる人の留おける妻の、よめる哥なり。伊勢物語に、風ふけはおきつしらなみ龍田山とよめる哥にも、おとるましくみゆる哥なり
 
右二首作者未詳
 
大寶元年辛丑冬十月太上天皇大行天皇幸紀伊國時歌十三首
 
(3)太上天皇は持統、大行天皇は文武なり、第一卷に注しつるが如し、
 
初、大寶元年辛丑冬十月、太上天皇大行天皇幸2紀伊國1時歌十三首 第一云。大寶元年辛丑秋九月、幸2于2紀伊國1時歌。文武紀云。大寶元年九月丁亥、天皇幸(ス)2紀伊國(ニ)1。冬十月丁未、車駕《キミ・オホムタ》至2武漏温泉1。戊午、車駕自2紀伊1至(リタマフ)。今案、第一卷に秋九月とあるは、紀伊國に御幸せさせたまふ道にての哥なり。今こゝに載たるは、すてに紀の國にいたらせたまひての哥なれは、冬十月といへるたかはす。第一に秋九月とありて日は見えされとも、下旬の末なるへし。績日本紀には、九月丁亥天皇幸2紀伊國1とありて、太上天皇の御幸は載す。但印本に脱誤おほけれは、太上天皇幸2紀伊國1なりけるか、太上の二字のおちたるにや。此集に兩所に太上天皇の御幸と見えたれは、これをもて證とすへし。此太上天皇は、持統天皇なり。太上天皇にて事たれるを、太上天皇大行天皇とあるは、元明天皇の御治世の時、これをしるすとて、持統天皇を太上天皇といひ、文武天皇をいまたをくり名奉らぬ程なれは、大行天皇と申にや。しからは持統と文武と共にみゆきせさせたまへるを、紀には行幸をのみしるして御幸をもらし、此集には御幸をのみしるして、行幸をもらせりと意得へきにや
 
1667 爲妹我玉求於伎邊有白玉依來於伎都白浪《イモカタメワレタマモトムオキヘナルシラタマヨセコオキツシラナミ》
 
於岐都、【幽齋本、岐作v伎、】
 
六帖には我玉拾ふ白玉ゐてことて文武天皇の御歌とす、
 
右一首上見既畢但歌辭小換年代相違因以累載
 
上見既畢は上既見畢なるべきか、小は少なるべきを兩字通用せる事多し、
 
初、注中(ニ)、見既はもし既見なるへきにや
 
1668 白崎者幸在待大舩爾真梶繁貫又將顧《シラサキハサキクアリマテオホフネニマカチシヽヌキマタカヘリミム》
 
白崎、【幽齋本、崎作v埼、】  繋貫、【六帖云、シケヌキ、別校本同v此、】
 
崎の字、集中の例土に从がへたれば幽齋本につくべし、六帖に白崎にみゆきかくあらばとあるは、第一の人丸の近江の舊都を見て作られたる反歌に付て注せしが如し、
 
初、しらさきはさきくありまて 白崎はしらゝの濱にや。さきく有まてとは、此後おもかはりせてみゆきをまて、又大舟に櫓をあまたたてゝ、かさねておはしましてみそなはしたまはんとなり。第一に人麿の近江荒都をかなしめる哥に  さゝなみのしかのからさきさきくあれと大宮人の舟待かねつ
此哥の心におなし。埼といふをうけて、さきくといへるやうもおなし
 
1669 三名部乃浦塩莫滿鹿島在釣爲海人乎見變來六《ミナヘノウラシホナミチソカシマナルツリスルアマヲミテカヘリコム》
 
(4)鹽莫滿、【官本云、シホナミチソネ、】
 
初の兩句六帖にはみつなへのうらしほみつなとあり、紀州の本の點も亦同じ、御名部皇女の御名何の所以にかくおはせ給ふとはしらねど、今の浦の名同じければ當本につけり、胸句は官本に依べし、
 
初、みなへの浦塩なみちそ みちそねとよむへし。天智天皇の皇女の御名を、御名部とおほせたまふは、おほしめすよし有て、此浦にかたとりたまへるにや
 
1670 朝開榜出而我者湯羅前釣爲海人乎見變將來《アサヒラキコキイテヽワレハユラノサキツリスルアマヲミテカヘリコム》
 
1671 湯羅乃前塩乾爾祁良志白神之礒浦箕乎敢而榜動《ユラノサキシホヒニケラシシラカミノイソノウラミヲアヘテコキトヨム》
 
1672 黒牛方塩干乃浦乎紅玉裙須蘇延徃者誰妻《クロウシカタシホヒノウラヲクレナヰノタマモスソヒキユクハタカツマ》
 
1673 風莫乃濱之白浪徒於斯依久流見人無《カサナキノハマノシラナミイタツラニコヽニヨリクルミルヒトナシニ》
 
風莫乃濱、【別校本云、カセナキノハマ、】
 
一云|於斯依來藻《コヽニヨリクモ》
 
右一首山上臣憶良類聚林曰長忌寸意吉麻呂應詔作(5)此歌
 
聚の下に歌を落せり、
 
初、右一首山上憶良類聚歌林曰 歌の字をゝとせり
 
1674 我背兒我使將來歟跡出立之此松原乎今日香過南《ワカセコカツカヒコムカトイテタチシコノマツハラヲケフカスキナム》
 
出立之は今の點叶はず、イデタヽシと讀べし、出立して待とつゞけたり、今按讀出たるやうを思ふに、唯名もなき松原を待と云に云懸むとのみにはあらじ、濱邊に出立《イテタチ》の松原と云所の有て、それを云はむとていろへたるにやあらむ、住吉の出見の濱、大津の打出の濱など云名を思ふに、出立の松原あらば海邊なるべし、六帖には松の歌に出して腰句出立しとあれば、いでたちし、いでたゝしの間わきがたし、
 
初、わかせこかつかひこむかといてたゝし いてたちしとあるかんなはあやまれり。松原を待といふ心に上はいひかけたり。第六に、聖武天皇御哥に、妹にこひ|わが《いせ・吾》の松原とよませたまひ、第十七に、三野石守か哥に、わかせこをあが松原ゆみわたせはとよめるにおなしつゝけやうなり
 
1675 藤白之三坂乎越跡白栲之我衣手者所沾香裳《フチシロノミサカヲコユトシロタヘノワカコロモテハヌレニケルカモ》
 
四十餘年の前、有間皇子此坂にて絞られ給ひけるを慟みて泣意なり、第二にも此行幸に結松を見てよめる歌有き、所沾はヌレにて此下に字を脱せる歟、
 
初、藤白のみさかをこゆと 紀の温湯へみゆきなれは、藤白の坂をこゆるなり。みさかは眞坂の心なり。名高き坂をほむる詞なり。藤白を越とて袖のぬるゝには、ふたつの心あるへし。先は此みさかをこゆれは、故郷のことにはるかになれはなり。又は有間皇子御謀反の事あらはれて、こゝにしてくひりころされたまへることも、大寶の比まてはまた近けれは、それを感して涙のこほるゝにも有へし
 
1676 勢能山爾黄葉常敷神岳之山黄葉者今日散濫《セノヤマニモミチトコシクミワヤマノヤマノモミチハケフカチルラム》
 
(6)常數、【顯昭古今注云、ツネシク、紀州本同、】  神岳之、【顯昭古今注云、カミヲカノ、】
 
常敷は常に敷なり、常とは黄葉の比たたずと云意なり、神岳は第二に辯じたる如くカミヲカと讀べし、今の點は仙覺の誤なり、此時藤原都なれば三諸山の黄葉を勢能山の黄葉の散に付て思ひやる也、
 
初、せの山にもみちとこしくみわ山の とこしくを、顯昭の古今集秘注には、つねしくとかけり。とこしくは、もみちのつねにちりしくなり。第三には雪のふりしくをもとこしくとよめり。常といふに人のあやまる事あり。これは十月の比、もみちのあさゆふ散しくをいへり。みわやまの、神岳のとかきたれは、顯昭これをかみをかと秘注によまれたり。第二にも、天武天皇崩御の時、持統天皇のよませ給へる長哥にも、神岳の山のもみちをけふもかもとひたまはましとありて、此神岳を、みわやまと訓したれと、案するにこれもかれもみわ山とよめるはあやまれり。かみをかと、顯昭におなしくよむへし。其證は、第三に登2神岳1山部宿禰赤人作歌に、みもろの神なひ山に、いほえさししゝにおひたる、とかの木のいやつき/\に、玉かつらたゆることなく、ありつゝもやますかよはむ、あすかのふるき都は、山高み川とをしろしとよめり。これ高市郡に有三諸山をかみをかといへり。雄畧紀に、三諸山をいかつちの岡と名を改らる。第三卷の初に委尺せり。しかれは、いかつちを、唯神とのみいへは、雷岳といふによりて、又は神岡ともいふなるへし。さるを、みわ山をもみむろ山といふにまとひて、かみをかをみわ山なりとおもひて、訓しあやまれるなるへし。せの山にもみちのちりしくをみて、神岳の山のもみちも今や散らんとおもひやるなり。此時藤原の宮にまし/\けれは神岳山まちかけれは、かくはよめるなり
 
1677 山跡庭聞徃歟大我野之竹葉苅敷廬爲有跡者《ヤマトニハキコエモユクカオホカノノタカハカリシキイホリセリトハ》
 
苅敷、【校本或苅柵v刈、】
 
仙覺抄に大我野を大和國と注せるは誤なり、歌の趣紛なく紀伊國なり、凡此十三首によめる地の名は神岳を除て外心皆紀伊なり、
 
1678 木國之昔弓雄之響矢用鹿取靡坂上爾曾安留《キノクニノムカシユミヲノカフラモテシカトリナヒクサカノヘニソアル》
 
響失、【袖中抄云、ナルヤ、紀州本同v此、】  坂上、【袖中抄云、サカノヘ、官本同v此、】
 
木國之昔弓雄とは、袖中抄にあさもよひ紀の關守が手束弓と讀たれば昔能射手を出しける故に昔弓雄とは云歟、響矢は袖中抄になるや〔三字右○〕と讀てかぶら矢を云なるべしと注せらる、和名集云、漢書音義云、鳴鏑、如今之鳴箭也、日本紀私記云、八月鏑、【夜豆女加布良】(7)今按如2今之鳴箭1也と云は鳴鏑の外に鳴箭ありと見え、今響矢と書たればなるやと讀たる其理あれど、此國にかぶらやの外になるやと云名なし、鏃形蕪に似たる故にかぶらやと云ひ、射る時鳴る故に鳴鏑といへば、今響矢をカブラと義訓せる、尤善と云べし、鹿取靡とは射伏るなり、坂上は地の名なるべし、鹿取靡は此坂上まさにその處なりと云意なり、
 
初、木のくにのむかし弓雄のかふらもて 古哥にあさもよひきのせきもりかたつかゆみゆるす時なくあかもへる《・我所思》君。管見抄云。紀伊國の風土記に、たつか弓とは、弓のとつかを大きにするなり。それは紀伊國雄《・セノ歟》山の關守かもつ弓なりといへり。しかれは、昔弓雄とは雄山の關守か弓よく射けるによりてかくはいひつゝけたりときこゆるにや。以上管見抄。今案先古哥にたつか弓とよめるは、此集第五卷に杖をたつか杖といへることく、よろつの弓は皆手につかねもつ物なれはいへり。しかるを、たま/\紀のせきもりかたつか弓といへる古哥を見て、紀の關守か弓のつくりやう、よそにかはれるを、たつか弓といふそと心得けむは、寡聞なる好事のものゝくせなり。此集第十九に
  手束弓手に取持てあさかりにきみはたちいぬたなくらの野に
注云右一首(ハ)治部卿船王傳(ヘ)2誦(ス)之(ヲ)1。久邇(ノ)京都(ノ)時(ノ)歌(ナリ)。未(タ)《・ス》v詳(ニセ)2作主(ヲ)1也。此哥を見て紀の關守か弓にかきらさることを知へし。又雄山といへるは兄《セノ》山《・ヤマ》のこと歟。夫を兄《セ》といへは、雄ともそれによりてはいふへし。孝徳紀に、畿内を定らるゝ時南(ハ)自2紀伊(ノ)兄《セイ》山(一)以來【兄《クエイ》此(ヲハ)云制】といへり。昔大和に都の有ける時は、まつち山より越て、兄《セ》の山にいたり、それより橋をわたりて妹山にかゝりけると見えたれは、紀の關は勢能山にすへられけるなるへし。古哥に紀の關守かたつか弓といひ、今昔弓雄とよみたれは、彼關守に名高き上手の有けるなるへし。かふらは、和名集云。漢書音義(ニ)云。鳴鏑(ハ)如(シ)2今(ノ)之鳴箭(ノ)1也。日本紀私記云。八日鏑【夜豆女加布良。】漢には、射る時聲あるゆへに鳴鏑といひ、今の哥には、響矢とかき、和にはかたちの蔓菁の下腹《カフラ》に似たりとて、かふらやとはいふなるへし。漢書(ニ)曰。冒頓《ホクトツ》作2鳴鏑(ヲ)1。鹿とりなひくとは、鹿を射ふせし坂の上は、こゝにてそあるといふ心なり
 
1679 城國爾不止將往來妻社妻依來西尼妻常言長柄《キノクニニヤマスカヨハムツマモコソツマヨリコサネツマトイヒナカラ》  一云|嬬賜爾毛嬬云長柄《ツマタマフニモツマトイヒナカラ》
 
コソは願ふ詞なれば、妻もがなと云意なり、妻依來西尼《ツマヨリコサネ》は、サ〔右○〕例の助語にて、妻依來ねなり、妻常云長柄とは、今按和名集を考るに、名草郡に津麻郷あり、其名によせて妻の許へと云ひながら通ひ來むとよめる歟、面白き所多けれど妻のなければ通ひがたきに、相思ふ妻も有て吾に依來よかし、それが許を懸で常に往來せむとにや、下の那賀郡曝井歌も今と同じ意なり、一本の嬬賜爾毛の句はいまだ其意を得ず、
 
初、きのくにゝやますかよはむつまもこそ こそはねかふ詞なれは、妻もかなといふにおなし。つまよりこさねは、妻よりこよといふ詞なり。第十四東哥に、庭にたつあさてこふすまこよひたにつまよしこさねあさてこふすま。此よしこさねといへるも、よりこさねなり。里と之と同韻にて通せり。妻といひなからは、妻の許へといひなからかよひこんとなり。おもしろき所おほけれと、妻のなけれは、かよひかたきに、あひおもふ妻もかな、われによりこよ、それがもとをかねて、常にかよひこんといふ心なり。不止はとはにとも此集によめり。下の第二十葉に、みつくりの中にむかへるさらし井のたえすかよはむそこに妻もか。此哥の心におなし。以上名所は皆紀伊國なり
 
右一首或云坂上忌寸人長作
 
(8)人長は無v所v考、
 
後人歌二首
 
留守(レル)の人なり、後來の人にはあらず、
 
初、後人歌 をくれたる人の哥とよむへき歟。留守を後といへり。第五卷に後人追和歌といへるにはおなしからす
 
1680 朝裳吉木方徃君我信士山越※[にすい+監]今日曾雨曝零根《アサモヨイキヘユクキミカマツチヤマコユラムケフソアメナフリソネ》
 
一二の句を袖中抄にあさもよきかたゆくきみがと讀て、私云此あさもよきはひ〔右○〕の字の略したる也と注せられたるは、麻裳吉をあさもよひと云説に付て今の歌をわろくよまれたるなり、
 
初、あさもよひきへゆく君か まつち山は大和なり
 
1681 後居而吾戀居者白雲棚引山乎今日香越※[にすい+監]《オクレヰテワカコヒヲレハシラクモノタナヒクヤマヲケフカコユラム》
 
獻忍壁皇子歌一首 泳仙人形
 
此は忍壁親王家の屏風の繪などを見てそれによせて祝ひ奉れるなるべし、釋名云、老而不(ルヲ)v死曰v仙(ト)、仙(ハ)遷也、遷(テ)入v山也、故其制(スルコト)v字(ヲ)人傍(ノ)作v山也、六帖には人丸の歌とす、
 
初、詠2仙人(ノ)形1 これは忍壁皇子をいはひたてまつりてよめるなるへし。釋名(ニ)曰。老(テ)而不(ルヲ)v死曰v仙(ト)。々(ハ)遷(ナリ)也。遷(テ)入(レハナリ)v山(ニ)也。故(ニ)制(スルコト)v字(ヲ)人(ノ)傍(ノ)《・ヒトソフ》山(・ニ)也l
 
(9)1682 常之陪爾夏冬往哉裘扇不放山住人《トコシヘニナツフユユケヤカハコロモアフキハナタスヤマニスムヒト》
 
往哉、【六帖云、ユクヤ、】
 
常之陪爾はとこしなへになり、允恭紀に衣通姫の御歌云、等虚辭陪邇枳彌母阿閉椰毛云云、夏冬往哉は夏冬のゆけばにやなり、六帖にゆくやと有もことわ能聞ゆ、裘を常に著たるはいつも冬の如く、扇を常に放たぬはいつも夏の如し、彼仙境は夏も冬も各常に往歟となり、
 
初、とこしへに夏冬ゆけや とこしへはとこしなへなり。衣通姫の哥にも、とこしへに君もあへやもと讀たまへり。夏冬ゆけやは、夏冬ゆけはにやといふにおなし。かはころもあふきはなたて山に住人とは、かはころもを、常にはなたねは、常に冬のことし。扇を常にはなたねは、常に夏のことし。彼仙境には、夏も冬もをの/\常なるかといふ心なり。これは忍壁親王家の、屏風の繪あるひは只繪にかける仙人を見て、それによせていはふなるへし
 
獻舍人皇子歌二首
 
初、獻2舍人《トネリノ》皇子(ニ)1歌 舍人はとねりとよむへし。いへひとゝよめるは後人の所爲なり
 
1683 妹手取而引與治※[手偏+求]手折吾刺可花開鴨《イモカテヲトリテヒキヨチウツタヲリワカカサスヘキハナサケルカモ》
 
※[手偏+求]手折、【官本云、ウチタヲリ、】
 
取テ引ヨチは花枝を折ことなるを、取てと云はむ爲に妹手とはおけり、下句は此皇子の御蔭に隱れ申すべき程に成給へるを悦ぶ意なり、
 
初、いもか手を取て引よちうちたをり 取て引よちは、下の花のことなるを、取といはむために、妹か手をとはいへり。我かさすへき花さけるかもとは、王仁か今は春へとさくやこの花といへる心なり。此皇子の御陰にかくれ奉るへきほとになりたるをいふなり
 
1684 春山者散過去鞆三和山者未含君待勝爾《ハルヤマハチリスクレトモミワヤマハイマタツホメリキミマツカテニ》
 
(10)春山は※[手偏+總の旁]を以て下の三和山の別に對せり、第二の句今按去の字の點應ぜず、チリスギヌレドモ、或チリスギユケドモと讀べし、下句の點も亦よからず、イマダフヽメリキミマチガテニと讀べし、此は大神氏の人の、時にあはず沈居て、皆人は榮華の盛の身に過るまでなるに、我は三和山の山陰の花の如くに君が恩光に因て愁眉を開かむ事を待かぬるとよめるにや、皇子に愁へ申て吹擧を仰ぐ意ある歟、
 
初、春山は散過れとも なへての春山の花は散過る比になるなり。みわ山はいまたつほめりとは、みわ山の花は山ふかけれは、咲ことのおそきなり。君まちかてにとは、君か恩光のいたるをまちかぬるなり。みわ氏の人の舎人皇子の御陰をたのみ居たるかよめるか。さらすはみわ山とはわきていふましくや。春山は散過れともは、皆人の榮華の盛の身にあまるまてなるにたとへ、みわ山はいまたつほめりは、わか身のしつみ居たるによせてよめりときこゆ。さて皇子にうれへ申て、吹擧をあふくなるへし
 
泉河邊間人宿禰作歌二首
 
大浦歟、
 
初、間人宿禰は大浦歟
 
1685 河瀬激乎見者玉藻鴨散亂而在此河常鴨《カハノセノタキルヲミレハタマモカモチリミタレテアルコノカハトカモ》
散亂而在、【拾遺云、チリミタレタル、六帖同v此、】  此河常鴨、【幽齋本無2此字1、】
 
此歌、拾遺には藻をよめるとて人丸の歌として、川のせのうづまく見れば玉藻かも、散亂たる川のふねかもとあり、六帖には川の歌として、河のせになびくを見れば玉藻かも、散亂たるかはのつねかもとあり、此に依て拾遺の歌を見るに、ふねかもはつねかもを誤れる歟、六帖と拾遺とに依て今の歌を按ずれば此〔右○〕の字衍文歟、今の本に(11)付て注せば河常は河門なり、たぎりて落る水の、白絲をはへたるやうに見ゆるを綺《イロヘ》てほむるとて、玉藻の散亂たる歟若は此河門の水歟と迷へるさまによめり、若落句をかはのつねかもと云によらば、玉藻の散亂たるにはあらで、かやうに見ゆるは此泉河のよのつねの事かと云意なり、
 
初、河の瀬のたきるを たきりて落る水の、白絲のやうに見ゆるを、いろへてほむるとて、玉もののなひきてみたるゝか、もしは此河門の水歟とまとへるやうにいへり。かはとは、みなとせとなといふことく、川の瀬々の水のひとつになりて、せはきお所を過るをいへり。人の家に門あるかことし。人の咽喉をのむとゝいふも、呑門といふ心なるへしときこゆれは、節所をおほく門《ト》といへり。拾遺集第八、藻をよめる、人丸。川のせのうつまくみれは玉もかもちり亂たる川の舟かも
 
1686 彦星頭刺玉之嬬戀亂祁良志此河瀬爾《ヒコホシノカサシノタマノツマコヒニミタレニケラシコノカハノセニ》
 
彦星、【別校本、彦作v孫、】  嬬戀、【六帖云、ツマコフト、】
 
河瀬の浪の玉の如く見ゆるを、彦星も銀河を隔て妻戀すればめづらしく思ひよせたり、清輔朝臣の、立田姫挿頭の玉の緒を弱み、亂にけりと見ゆる白露とよまれたるは此を本歌とせられたるなり、
 
初、彦星のかさしの玉の 河瀬の浪の玉のことくみゆるを、めつらしくよみなせり。天川をへたつれは、をのつからそのよせ有。第十に
  此夕ふりくる雨はひこほしのはやこく舟のかいのちるかも
此作意に似たり。清輔朝臣の、立田ひめかさしの玉のをゝよはみみたれにけりとみゆる白露も、此哥にてよまれたるなり
 
鷺坂作歌一首
 
山城國久世郡にあり、下に至て見ゆべし、
 
初、鷺坂 山城國久世郡に有。下にも二首よめり
 
1687 白鳥鷺坂山松影宿而徃奈夜毛深往乎《シラトリノサキサカヤマノマツカケニヤトリテユクナヨモフケユクヲ》
 
(12)往奈、【幽齋本云、ユカナ、】
 
往奈をユクナと點ぜるは書生の失錯なるべし、白鳥とは鷺は白き鳥なればかくおけり、景行紀仲哀紀に見えたる白鳥は別なり、
 
名木河作歌二首
 
和名集云、山城國久世郡那紀、今按次の歌は名木河にしてよめる歌にあらず、推量するに名木河作歌一首、杏人濱作歌一首と別に題の有けむを、後の題落て歌は二首ある故に、後歌のかなひかなはぬをも考へず此處《コヽ》の一首を二首と改けるなるべし、第十にもかゝる例あり、
 
初、名木川 和名集云。山城國久世郡那紀。下にもよめり
 
1688 ※[火三つ]干人母在八方沾衣乎家者夜良奈※[覊の馬が奇]印《アフリホスヒトモアレヤモヌレキヌヲイヘニハヤラナタヒノシルシニ》
 
在八方は願ふ詞には非ず、旅なればあふりほしで得さする人あらむやもなり、天武紀云、於是寒(ヲ)之雷雨已甚《ハナハタ》、從v駕者|衣裳《キモノ》濕以不v堪v寒(ニ)、及v到2三重郡(ノ)家1、焚(テ)2屋一間1而令v※[火+媼の旁]2寒者(ヲ)1、紀貫之歌に、難波女が衣ほすとて刈て燒、葦火の煙たゝぬ夜ぞなき、拾遺集に物名に松茸を、足引の山下水に沾にけり、其火まつたけ衣あぶらむ、ヤラナはやらむなり
 
初、あふりほす人もあれやも あれやもはあらんやもなり。旅なれはぬれきぬをあふりほしてきする人あらんやはといふ心なり。あれやとねがふことはにはあらす。天武紀云。於v是寒(テ)之雷雨(コト)已甚《ハナハタシ》。從v駕《ミユキニ》者|衣裳《キモノ》濕《ヌレテ》以不v堪v寒(ニ)。及(テ)v到(ルニ)2三重(ノ)郡家(ニ)1焚(テ)2屋|一間《ヒトツヲ》1而令v※[火+媼の旁]《アタヽメ》2寒者(ヲ)1。紀貫之哥に
  なにはめか衣ほすとてかりてたくあしひの煙たゝぬよそなき
拾遺物名に、すけみか松茸をよめる哥
  足引の山下水にぬれにけりその火まつたけ衣あふらん
家にはやらなはやらんなゝり
 
(13)1689 在衣邊著而※[手偏+旁]尼杏人濱過者戀布在奈利《アリソヘニツキテコクアマカラヒトノハマヲスクレハコヒシクアルナリ》
 
在衣邊は荒礒邊《アリソベ》なり、著而は第二に倭太后の邊附而榜來船《ヘニツキテコギクルフネ》と、よませ給へるに同じ、磯邊に附て榜行|海人《アマ》の小船の面白きが飽れぬに見るまゝに過行けば名殘の惜きを、戀しくあるなりとは云へり、鎌倉右府の、なぎさこぐ海人の小舟のとよまれたるは、彼公此集の趣を好み給へりと見ゆれば此歌に依られたるにも侍なむ歟、古今の、鹽竈の浦榜舟の綱手悲しもとよめるも亦此趣なり、杏人は又按ずるに杏はからもゝなるを、【原以下缺】
 
初、ありそべにつきてこくあま ありそべはあらいそべなり。良以(ノ)反里なるゆへに、つゝめてありそといふなり。おきをはこがずして、磯邊につきて舟こくあまなり。第二に、天智天皇崩御の時、倭太后のよませたまへる長哥の中に、いさなとりあふみの海をおきさけてこきくるふね、へにつきてこきくる舟とよませたまへる、へにつきてこきくるといふにおなし。此哥のすへての心は、鎌倉右大臣の哥に
  よのなかは常にもかもななきさこくあまのをふねのつなてかなしも
此なきさこくあまのをふねは、すなはち今の哥をふみてよまれたれは、右大臣の哥の心とおなしく心得へし。哥はかくれたる所なきを、ありそといひ、あまといひ、からひとの濱とさへよめるは、名木河の哥とは見えす。からひとの濱といふ所、いつくの海邊にありて、それをよめる哥とそ聞えたる。しかれは名木河作歌一首、杏人濱作歌一首と、別に題の有けむを、杏人濱作歌一首といふ事の、傳寫を經て失たる時、おろかなる人ありて、名木河歌一首とありて歌は二首あれは、名木河歌二首と改けるなるへし。藥に用る杏仁桃仁等の仁の字、人の字をかよはしてかけれは、からひとゝはよまて何とそよむ杏仁の和訓もある歟
 
高島作歌二首
 
1690 高島之阿渡河波者驟鞆吾者家思宿加奈之彌《タカシマノアトカハナミハサワケトモワレハイヘオモフタヒネカナシミ》
 
此歌第七に既に出たり、宿はヤドリと讀べし、第七には五百入《イホリ》とありし故なり、
 
初、高島のあとかはなみは 高嶋は近江の郡の名なり。此哥第七卷にありてすてに注しき
 
1691 客在者三更刺而照月高島山隱惜毛《タヒニアレハヨナカヲサシテテルツキノタカシマヤマニカクラクヲシモ》
 
客在者、【六帖云、タヒナレハ、】  隱惜毛、【六帖云、カクルヽヲシモ、】
 
(14)第二の句を六帖にはよひにたちいでゝとあるは叶へりとも見えぬ故に取らず、此句は第七に狹夜深而夜《サヨフケテヨ》中乃方爾とよめるに同じ、發句はたびにありて見ればの意なり、
 
初、たひにあれはよなかをさして 月到2天心1時なり。第七に、さよふけてよなかのかたにおほゝしくよひし舟人はてにけむかも。此よなかのかたといへるにおなし
 
紀伊國作歌二首
 
1692 吾戀妹相佐受玉浦丹衣片敷一鴨將寐《ワカコフルイモニアハサスタマノウラニコロモカタシキヒトリカモネム》
 
後京極殿の蛬《キリ/\ス》鳴や霜夜のとよませ給へる歌の下の句今と同じ、
 
初、玉浦に衣かたしき 此玉浦第七卷にもよめり。第十五によめるは同名異國なり。又奥州にも有。日本紀第七、景行紀云。爰日本武尊則從2上總1轉《ウツリテ》入2陸奥(ノ)國(ニ)1。時(ニ)大鏡(ヲ)懸(テ)2於王(ノ)船(ニ)1從2海路《ウミツチ》1廻2於葦浦(ニ)1横(ニ)渡(テ)2玉(ノ)浦(ヲ)1至2蝦夷《エヒスノ》境(ニ)1。後京極殿のきり/\すなくや霜夜のさむしろにといふ御哥の下句はこれと全同なり
 
1693 玉〓開卷惜〓夜矣袖可禮而一鴨將寐《タマクシケアケマクヲシキアタラヨヲコロモテカレテヒトリカモネム》
 
六帖にはひとりねに入れて人丸の歌とし、惜ををしみとあれど叶はず、上の句は家に在て妹と宿《ヌ》る時の意を云へり、
 
初、玉匣あけまくおしき これは家に在て妹とぬる時の心をいへり。ころもてかれては、かるゝは離の字なり。妹か手枕をはなるゝなり
 
鷺坂作歌一首
 
1694 細比禮乃鷺坂山白管自吾爾尼保波?妹爾示《タクヒレノサキサカヤマノシラツヽシワレニニヒハテイモニシメサム》
 
細比禮乃、【六帖云、ホソヒレノ、校本又點云同v此、仙覺抄云、タヘヒレノ、】  尼保波?、【六帖云、ニホハネ、】
 
(15)發句はホソヒレノとよめる然るべし。曾丹が集に、たくひれの鷺坂岡のつゝじ原、色照なへに花咲にけりとよめるは今の歌を本とせりと見ゆれば昔より、タクヒレとよめるなるべけれど、今按ずるに其義叶はず、古語に白きを楮《タク》と云ひければ白領巾《シラヒレ》を拷領巾《タクヒレ》と云へども、細の字をたく〔二字右○〕と和すべきに非ず、但白たへと云詞に白栲とも白細ともかける事あり、此はたへ〔二字右○〕と云は白きにつけを詞なる故に、義を以て栲の字はかけり、たへ〔二字右○〕は又たへなり、と云詞なる故に細妙の故を以て白細とはかけり、さりとてたく〔二字右○〕と云時は通ぜず、仙覺はたへひれの〔五字右○〕と點ぜられたれど、細の字をば白たへと云時、鷺の頭には立あがりたる長き毛のあるが細き領巾に似たればかくはおけり、詩宛丘(ニ)云、値《タツ》2其鷺羽(ヲ)1、唐雍陶詩云、隻鷺應v憐水滿v池(ニ)、風飄不v動(カ)頂絲垂、俗には此を蓑毛《ミノケ》と云、慈鎭の歌にもよまれたり、白管自は鷺坂山にておのづから見たる所をよみたるなるべけれど、鷺は白ければつゞけるに由あり、吾爾尼保波?は、此は吾衣にうつりてにほへと願ふ詞なり、此?の詞、俗には常にいへど歌には見えざるか、六帖ににほはねとあるは、推量するに古本尼にて〓に作り?を弖に作りて、後人誤て〓を弖と見て?に改ためけるにもやあらむ、六帖のよみ心にくし、又六帖には人丸の歌とせり、
 
初、ほそひれの鷺坂山 鷺のかしらに、細き毛のなかくうしろさまに生たるか、女の領巾といふ物かけたるににたれは、ほそひれの鷺坂とはつゝけたり。此細ひれをたくひれともよめり。今の本しかり。其時は白きといふ心なり。鷺の毛の白けれは、是もよく相かなへり。されと、白細とかきてしろたへとはよめり。たへのほによるの霜降とよめるたへのほは、白き色のそれとあらはるゝをいへは、たへはしろきにつきていふ詞なれと、細の字を、たくとよめる所に用たる事、此外はまた見す。しかれはほそひれとよむをよしとすへし。詩(ノ)宛丘曰。坎(トシテ)其撃v鼓(ヲ)、宛丘(ノ)之下(ニ)、無(ク)v冬(ト)無(ク)v夏(ト)、値《タツ》2其(ノ)鷺羽(ヲ)1。【晦菴注云。鷺(ハ)舂※[金+且]《ソ》今(ノ)鷺 ※[茲+鳥](ナリ)。好而潔白(ナリ)。頭上有2長毛十數枚羽。以2其羽1爲v翳、舞者持以指麾也。】唐(ノ)雍陶(カ)詩云。隻鷺應v憐(レフ)水滿(ツ)v池、風飄(セトモ)不v動(カ)頂絲垂(ル)。俗にこれを蓑毛《ミノケ》といふ。慈鎮の哥に
  おそろしやかものかはらの夕凪にみのけふかせて鷺たてるめり
白つゝしは、第三にも風はやのみほのうらわの白つゝしとよめり。今は、鷺坂山といふによりて、白つゝしといへるにや。われににほはでとは、そのうるはしき色の、我にうつれとねかふなり。此濁てよむ願のでもじ、俗語に常におほくいひなるれと、哥には此外に見えさる歟
 
(16)泉河作歌一首
 
初、泉河 和名集云。山城南相樂郡水泉【以豆美】
 
1695 妹門入出見河乃床奈馬爾三雪遺未冬鴨《イモカカトイリイツミカハノトコナメニミユキノコレリイマタフユカモ》
 
妹が門より入て又出とつゞけたる歟、第七に妹が門出入の河とつゞけたるは門より出もし入もする意なれば今も同じ意につゞけたるべし、床奈馬は第一に注せし が如し、下の句の意雪と云は實の雪にはあらじ.上に彦星のかざしの玉とよめる如く白沫の巖の許に積れるを綺て云へるなるべし、
 
初、妹か門いりいつみ川第七に、いもか門出入の川とよめるにおなし心なり。出入は門よりすることなれは、かくつゝけたり。とこなめは、第一第十一にもよめり。川中にある石なり。水のにこりのしみつきてつねになめらかなりといふ心にて、名付るなり。第一には、常滑とかけり。此字の心なり。みゆきのこれりは、まことに雪のゝこれるにはあらす、白沫のおほくみゆるをいへり
 
名木河作歌三首
 
1696 衣手乃名木之河邊乎春雨吾立沽等家念良武可《コロモテノナキノカハヘヲハルサメニワレタチヌルトイヘオモフラムカ》
 
衣手ノナキノ河とつゞけるは泣時袖を掩ふ意なり、それをやがて故郷を別來て泣に云ひなして、我は此河邊に涙を拭ひて立つを、家人のさは知らで春雨にのみこそ立沾らめと思ひおこさむかとなり、
 
初、衣手のなきの川へを 人のなく時、袖を用る心にてつゝけたり。わか衣手を泣ぬらし、袖なきぬらしなとよみたるにて心得へし。さてやかてふるさとをわかれきて、なく心にいひなして、われは此なきの川へに、衣手をなきぬらしてたつを、ふるさと人のさはしらて、春雨のしけくふる比なれは、雨にのみこそ立ぬるらめとおもひおこさんかとなり。沾作v沽訛。次下歌亦同
 
1697 家人使在之春雨乃與久列杼吾乎沽念者《イヘヒトノツカヒナルラシハルサメノヨクレトワレヲヌラストオモヘハ》
 
(17)與久列杼、【官本、或列作v禮、】
 
使在之はツカヒニアラシとも讀べし、沾念者、今按今の點叶はず、ヌラスオモヘバ、或ヌラスヲオモヘバと讀べし、使は能|此方《コナタ》彼方《カナタ》の心を通ずるをよしとするに、雨をよきて沾じとすれど強てぬらすは故郷の人の使におこせたるならむとなり、風、雲などは使と云を、雨を使と云は時に取て心に任てよめるにや、第八には櫻を迎へ來らしもとよみ、第十には露を置穗田なしと告に來ぬらしともよめれば、意を得ては無窮によむ習なり、
 
初、家人の使なるらし 使はよくこなたかなたの心を通するをよしとすれは、雨をよきてぬれしとすれと、しひてぬらすは、故郷の人の使におこせたるならんとなり。風と雲とはもろこしにもこゝにもつかひといふを、雨を使といふは、時にあたりて心にまかせていへるにや。第八にはこその春あへりし君にこひにてし櫻の花はむかへくらしもとよみ、第十には秋田苅とまてうこくなり白露はおくほ田なしとつけにきぬらしともよめれは、心を得ては、無窮に讀(ム)ならひなり。よくれと、此くもしはすみても、にこりてもよむへし。よきてといふもすみてもにこりてもよめり。曾丹か集に二月中の哥に  春山に木こるきこりの腰にさすよきつゝきれや花のあたりは
これにしたかはゝ、すみてよむへけれと、玉たれのみすはこひしとおもはましやはともつゝけ、白川のみつわくむまてともよみたれは、それもさためかたし。ぬらすとおもへはゝ、ぬらすをと讀へくや
 
1698 ※[火三つ]干人母在八方家人春雨須良乎間使爾爲《アフリホスヒトモアレヤモイヘヒトノハルサメスラヲマツカヒニスル》
 
初、あふりほす人もあれやも 此二句上にも有き。まつかひは、第六赤人の長哥にもよめり。こなたかなたの間をいひかよはすものなれは、間使《マツカヒ》とはいへり。家人の心つかひにそへて、春雨さへを使におこせて、我をぬらせは、旅にしてあふりほしてきする人あらんやなり。此集には、かくおなし事を二首よむに、初は大躰をいひて、次の哥にその事を委よめる事おほし。心をつくへし
 
宇治河作歌二首
 
1699 巨椋乃入江響奈理射目人乃伏見何田并爾鴈渡良之《オホクラノイリエヒヽクナリイメヒトノフシミカタヰニカリワタルラシ》
 
巨椋乃入江は、延喜式第九云、山城國久世郡巨椋神社、紀伊《キノ》郡大椋神社、此兩處の内、文字は久世郡に在と同じけれど、宇治河にして伏見と讀合せたるを思へば紀伊郡なるべし、響とは鴈の羽音を云へる歟、但次の歌の響苗を六帖にひゞくなへとあれば、(18)上今の歌も秋風の聲の響なるを次と二首にて云ひはつる意にて、風の體をば次に讓て用をのみよめるなるべし、射目人は上に射目|立《タチ》而とよめるに同じ、其射目人が鹿をねらふとて伏て窺見れば伏見とはつらね云なり、此集に夢を伊米とも云へるに依て夢人と云説あれど、伏見と云はむには人と云はずとも唯夢にて足ぬべし、何の夢か伏て見ざらむ、其上射目人とかける文字のやう第六第八第十三皆一同なり、
 
初、おほくらの入江ひゝくなり 延喜式第九神名上云。山城國紀伊郡大|椋《クラノ》神社。又云。久世(ノ)郡|巨椋《オホクラノ》神社。紀伊《キノ》郡久世(ノ)郡ともに宇治郡にならひたる歟。おほくらの入江も、此兩郡の内にあるなるへし。いめ人の事は、第八にいめたてゝとみの岡へとつゝけてよめる哥につきてくはしく注しき。いめ人か、まふしさして、ぬはれふして、鹿をうかゝへは、いめ人のふしてみるといふ心につゝけたり。夢人といふ説用へからす。第六に、赤人のあきつのをのゝ野上にはあとみすへをきとよまれたるも、いめ人の事なり。第十三にも、峯のたをりにいめたてゝしゝ待かことゝよめり。おほくらの入江ひゝくなりとは、下の鴈のわたるひゝきなり
 
1700 金風山吹瀬乃響苗天雲翔鴈相鴨《アキカセノヤマフキノセノナルナヘニアマクモカケルカリニアヘルカモ》
 
折節の秋風を、やがて山に吹と云意に、宇治にある山吹の瀬の諷詞とせり、六帖にあきかぜに、とある時は、そへて云意にあらず、今の點やまさり侍なむ、金風とかけるは五方を五行に配する意なり、第十にもかけり、又梁元帝纂要云、秋風曰2金風1、此に依れば撰者の初て義訓せるにもあらで、もとよりの名なりとも云べけれど、第十に秋山を金山、秋芽子を白芽子ともかける例に引合するに、唯義を以てかけるがおのづから本文に叶へるなり、腰句はトヨムナヘともよむべし、天雲翔とは雁の天雲に翔るなり、第十一に天雲爾翼打附而飛鶴とよめるが如し、歌の意は金風の吹て山吹の瀬の鳴る音の、折しも天雲に翔て渡り來る羽音にあひて聞ゆとなり、六帖にはそらな(19)るくものさわぎあへるかもとあれど、偏に改たりと見ゆれば今取らず、
 
初、あきかせの 金風とかけるは、五万を五行に配する時、秋は金なれはかけり。又梁元帝纂要云。秋風(ヲ)曰2金風(ト)1。しかれは、撰者義をもてかゝされとも、本よりの名にも有なり。さてつゝくるやうは、秋風の山にふくといふ心なり。山吹瀬宇治にあり。天雲かける鴈にあへるかもとは、常は雲はしつかにこそゆく物なるに、風にふかれてはとふかことくなれは、鴈かねの過るにをひつきてあへるかもといふなり
 
獻弓削皇子歌三首
 
1701 佐宵中等夜者深去良斯鴈音所聞空月渡見《サヨナカトヨハフケヌラシカリカネノキコユルソラニツキワタルミユ》
 
此歌古今集に誤て入たり、此集第十にも亦大形似たる歌あり、
 
初、さよなかと夜はふけぬらし 此哥古今集秋上に誤て載たり。又此集第十に
此夜らはさよふけぬらし鴈かねのきこゆる空に月立わたる
これおなし哥の、すこし句のかはれるなり
此三首、弓削皇子にたてまつる哥なれは、をの/\ふくめる心あるへし
 
1702 妹當茂苅音夕霧來鳴而過去及乏《イモカアタリシケキカリカネユフキリニキナキテスキヌトモシキマテニ》
 
茂苅音は、此集の書やう無窮ながら、今の前後皆鴈をば正字をかきたるに、此歌のみかくかけるは繁木を苅とそへよめる歟、
 
1703 雪隱鴈鳴時秋山黄葉片待時者《クモカクレカリナクトキニアキヤマノモミチカタマツトキハ》雖過
 
雖過は此二字點落たり、スグレドと讀べし、長月の其初雁と第八にも有つれば、鴈鳴時の長月に至て、時は過れども猶秋山の色付かねば黄葉を片待てあるとなり、此は時にあはぬ人の、皇子を驚かし奉りて愁へ申にや、右の三首ともに皇子に獻る歌なれば含める意ある歟、又別意を含めるにはあらねど皇子より秋の歌を召給ふに讀(20)て奉れる歟、
 
獻舍人皇子歌二首
 
1704 ※[手偏+求]手折多武山霧茂鴨細川瀬波驟祁留《ウチタヲルタムノヤマキリシケキカモホソカハノセニナミサワキケル》
 
發句をナガタヲルと讀べき事上に云が如し、さて長手折る手と云意に多武山とはつゞけ給へる歟、多武山は多武峰にて十市郡なり、齊明紀云、於2田身嶺《タムノタケニ》1冠以2周垣(ヲ)1、【田身(ハ)山(ノ)名、此(ヲハ)云2太務1、】細川は多武峰の西なり、霧は水氣なれば霧の深く立には波のさわぐべき理なり、第七に、痛足河河浪立ぬ卷向の、ゆづきがたけに雲たでるらしとよめるを思ひ合すべし、此歌は佞人などの官に在て君の明をくらまして恩光を隔るに喩へ、下句はそれに依て細民の所を得ざるを喩ふる歟、
 
初、うちたをるたむの山きり うちたをる手とつゝけたり。手はひちを屈伸するものなれは、それを打たをるとはいへり。山道のたをりといふも、それを常にひちをるといふも、おなし心なり。今とおなし。たむの山は、多武峯なり。大和國十市郡に有。齊明紀云。於2田身《タムノ》嶺《タケニ》(マテ)1冠(シムルニ)以(ス)2周《メクレル》垣(ヲ)1【田身(ハ)山(ノ)名此(ヲハ)云2太務(ト)1。】細川は多武峯の麓にあるなるへし。山にきりのしけゝれは、そのうるほひのあつまりて、川水のまさるゆへに、波のさはくとなり。たとふる心を案すへし
 
1705 冬木成春部戀而殖木實成時斤待吾等叙《フユコナリハルヘヲコヒテウヱシキノミニナルトキヲカタマツワレソ》
 
春部ヲ戀テ殖シ木とは、木は春殖る物なれば、春に成なば植むと春を待しを春を戀てとは云へり、此歌の意は、皇子の御年も壯に成給はゞ、繁き木の如くなる御蔭に隱れむと待參らする吾なれば、めぐみにもらし給ふなとの意を喩ふるなるべし、斤は(21)片に作るべし、六帖に木の歌として、發句を冬なれば、第四をみになるまでもとあるは改たるか、今の本には叶はず、
 
初、冬木なりはるへをこひて これはさきにも此舍人皇子に獻ける哥に、わかゝさすへき花さけるかもといひ、みわ山はいまたつほめり、君まちかてにとよめり。それとおなし心の人の、奉けるなるへし
 
舍人皇子御歌一首
 
初、舍子皇子御歌 天武天皇第六皇子、母新田部皇女也。持統紀云。九年春正月庚辰朔甲申、以2浄廣貳(ヲ)1授(ク)2皇子|舍人《トネリニ》1。元正紀云。養老二年春正月庚子、詔(シテ)授2二品舍人親王(ニ)一品(ヲ)1。同三年十月辛丑、詔云。但以(ミレハ)握(テ)2鳳暦(ヲ)1而登(リ)v極(ニ)、御(シテ)2龍圖(ヲ)1以臨v機(ニ)者【恐脱字】猶《ヨテ》2輔佐之才(ニ)1、乃致2大平(ヲ)1。必由(テ)2羽巽(ノ)之功(ニ)1始(テ)有v安(スルコト)v運(ヲ)。況(ヤ)乃舍人新田部親王(ハ)百世(ノ)松桂(ニシテ)、本枝合2於昭穆(ニ)1、万雉(ノ)城石(ニ)維磐重(シ)2於國家(ニ)1。理須(ラク)d吐2納(シテ)清直(ヲ)1能輔(ケ)2洪胤(ヲ)1資2扶(シテ)仁義(ヲ)1信(ニ)翼《タスク》c幼齢(ヲ)u。然(レハ)則太平之治可(ク)v期(シツ)隆泰之運應(シ)v致(シツ)。可(ンヤ)v不(ル)v愼(シマ)哉。今(マ)二(リノ)親王(ハ)宗室(ノ)年長(ナリ)。在(テ)v朕(ニ)既(ニ)重(ンス)。實(ニ)加2褒賞(ヲ)1深須v旌《アラハス》v異(ヲ)。然崇(トフ)v徳(ヲ)之道既(ニ)有2舊貫(ニ)1、貴(トフ)v親(ヲ)之理豈無(ンヤ)2於今(ニ)1。其賜2一品舍人親王(ニ)内舍人二人、大舍人四人、衛士三十人(ヲ)1。益(コト)v封(ヲ)八百戸通(シテ)v前(ニ)二千戸。新田部親王(ニ)内舍人二人、大舍人四人、衛士二十人、益v封五百戸。通v前1千五百戸。四年四年八月辛巳朔甲申、朔詔(シテ)以2舍人親王(ヲ)1爲2知大政官事(ト)1。新田部親王(ヲ)爲2知五衛及授刀舍人事(ト)1。同五月癸酉先v是(ヨリ)一品舍人親王奉(テ)v勅(ヲ)修2日本紀(ヲ)1。至(テ)v是(ニ)功成(テ)奏上(ツル)2紀三十卷系圖一巻(ヲ)1。聖武紀云。神龜元年二月盆v封五百戸。天平七年十一月乙丑、知大政官事一品舍人親王薨。遣2從三位鈴鹿王等(ヲ)1監2護(ス)葬事(ヲ)1。其儀准(ス)2大政大臣(ニ)1。命(シテ)2王臣男女(ニ)1委會2葬所(ニ)1。遣(ハシテ)2中納言正三位多治比眞人縣守等(ヲ)1就(テ)v第(ニ)宣(テ)v詔(ヲ)贈(ラル)2大臣(ヲ)1。親王天(ノ)渟中原瀛(ノ)眞人(ノ)天皇(ノ)之第五(ノ)皇子(ナリ)也。廢帝紀云。寶字三年六月庚戌詔曰。自v今以後追2皇(シテ)舎人親王(ヲ)1宜v稱(ス)2崇道盡敬皇帝(ト)1。當麻夫人(ヲハ)稱(シ)2大夫人(ト)1兄弟姉妹(ヲ)悉稱(セヨ)2親王(ト)1。藤森の明神は此親王にてましますよし申は、よりところある事にや。舍人をは、たゝとねりとよむへし。牛飼なとをとねりといふゆへに、きらはしとにやいへひとゝはいふらん。後の人のしわさと見えたり。諸氏の中に、牛養《ウシカヒ》馬養《ウマカヒ》と名のれる人さへおほし。舍人に内舍人あり。大舍人あり。又その舍人となのらせたまふゆへをもしらす。かへす/\いへひとはあたらしく今めきてきこゆ
 
1706 黒玉夜霧立衣手高屋於霏※[雨/微]麻天爾《ヌハタマノヨキリハタチヌコロモテノタカヤノウヘニタナヒクマテニ》
 
衣手高屋とそふるにこつの意あるべし、一つには何の故もなくた〔右○〕もじを手になして、衣手の手と云意につらぬる歟、二つには袖は手の上に高く懸る意歟、衣手のたながみ川などのつゞきを思ひ合すべし、高屋は十市郡にあり、文徳實録に天安元年八月高屋安倍神并に椋橋《クラハシノ》下居神を從五位上に叙し給ふ、同二年高屋安倍神を從四位下に叙し給ふ由見えたり、此御歌も亦讒佞の臣ありて君の明智を掩ふ事を惡みてよませたまへる歟とおぼしくや、
 
初、ぬは玉のよきりは立ぬころもての 衣手のたかやとつゝくは、衣手の手とつゝく心なり。衣手のたなかみ山といへるかことし。もし又衣の中に袖は高くてある物なれは高きといふ心につゝくる歟。たなかみも手の上といふ心にてつゝくるにや。たかやは大和國|添《ソフノ》下郡に有。第一卷のをはりに、長《・ナカ日本妃》皇子のたかやはらとよませたまへる所なり
 
鷺坂作歌一首
 
1707 山代久世乃鷺坂自神代春者張乍秋者散來《ヤマシロノクセノサキサカカミヨヽリハルハハリツヽアキハチリケリ》
 
(22)春者張乍とは木の芽《メ》の張なり、第十秋歌の中の泳山歌に同意の作あり、神代ヨリと云は山をほむる意あり、
 
初、山しろのくせのさきさか 春ははりつゝはこのめの張をいふ。春はこのめはりて花咲、秋はこの葉もみちて散、かくのことく神代より、四時のをこなはるゝに、見所ある山とほむるなるへし。第十に
  春はもえ夏はみとりにくれなゐのにしきにみゆる秋の山かも
第十三の長哥にも、春山のしなひさかえて、秋山の色なつかしきなとよめり。拾遺集に、元輔の筑紫へ下りける時かまと山のもとにみちつらに有ける木にふるくかきつけたる句とて
  春はもえ秋はこかるゝかまと山
 
泉河邊作歌一首
 
1708 春草馬咋山自越來奈流鴈使者宿過奈利《ハルクサヲウマクヒヤマヲコエクナルカリノツカヒハヤトスキヌナリ》
 
春草、【六帖云、ワカクサヲ、】  馬昨山、【八雲御抄云、マクヒノヤマ、】  宿過奈利、【六帖云、ヤトリスクナリ、】
 
春草の若きをば馬の好みて食ふ物なれば此發句あり、馬咋山は泉河より南の方に當りて有歟、春の歌にして下の句を云へるやうを思ふべし、自はユ〔右○〕と讀べし、從の字をヲ〔右○〕とよめる例はあれど此字はいまだ例を見ず、歸る雁の便にだに故郷人の言傳や聞と待つくるに、それさへ旅の宿を徒に過る事よとなり、六帖に山の歌に入れて人丸の作とす、
 
初、春草をうまくひ山 春草のわかきをは、馬のこのみてくふ物なれは、取わきてかくはつゝけたり。八雲御抄にまくひの山とあり。うまくひ山のかたより鴈のなきくるを待つけて、故郷のたよりをきかむとすれは、故郷の人のつかひにはあらて、をのか故郷へいそく心に、それさへとくたひのやとりを過るといふなり
 
獻弓削皇子歌一首
 
(23)1709 御食向南淵山之巖者落波太列可削遺有《ミケムカフミナフチヤマノイハホニハチルナミタレカケツリノコセル》
 
御食向は上に注しき、弓削皇子のおはします宮より南淵山のまちかく指向ひて見ゆるを云へり、下句は山海経云、太華(ノ)之山削成而四方其(ノ)高五千仞、今南淵山も譬へば飛騨工などの削成せらむやうなるを、白浪の巖に觸て柿《コケラ》の散やうなるは、いかで今まで削り殘せる所の有ならむと綺へてよめるなり、又第七に眞鉋もて弓削の河原とよめり、かゝれば皇子の御名によせて文章の波瀾の流て絶させ給はぬを稱《ホメ》奉れる歟、
 
初、みけむかふみなふち山 みけむかふとは、第二第六にもありき。たゝ食にむかふことくまちかく打むかひてみわたすをいひて、こかめの宮にも、あはちのしまにも、今のみなふち山にも、さたまれる枕詞にはあらぬなるへし。天武紀云。五年五月勅禁2南《ミナ》淵山細川山(ヲ)1並(ニ)莫(ク)2蒭薪《クサカリキコルコト》1。ちる波たれかけつりのこせるとは、南淵山は、すてに飛騨の工《タクミ》かけつりなせることくなるに、いつくにたらぬ所ありて、巖にちりかゝる波の、柿《コケラ》とみゆるならんとの心にや。
山海經曰。太華之山削(リ)成而四方其高(コト)五千仞。左太沖(カ)魏都(ノ)賦(ニ)曰。擬(ス)2 華山(ノ)之山削(リ)成(セルニ)1。これをふみてけつるとはいへるなるへし。そのうへ、皇子の御名の弓削は、弓をけつるなれは、それによせて、ことはの泉のわきなかるゝことくなるを、ちるなみにたとへて、ほめ奉るにこそ。まかなもてゆけのかはらとつゝけたるは、かなをもて弓を削といふ心なり
 
右柿本朝臣人麻呂之歌集所出
 
1710 吾妹兒之赤裳泥塗而殖之田乎苅將藏倉無之濱《ワキモコカアカモヒツチテウヱシタヲカリテヲサメムクラナシノハマ》
 
泥塗而を拾遺集人丸集並に六帖濱の歌に入れたるには皆ぬらしてとよめり、六帖夏田に人丸の歌とて入れたるにはぬれつゝとあれど、皆此集にては叶はず、倉無ノ濱は八雲御抄にも載たまひながら何れの國とは記させ給はず、類字名所抄に豐前と注す、何に依れるにかいまだ考ず、此歌は上はこと/”\しく倉無の濱と云はむ料に(24)て、あはれ倉無の濱やとほむる意なり、
 
初、わきもこかあかもひつちて これはくらなしの濱といはむとて、かくはつゝけ來たるなり。物の妙にいたる時、言もたえおもひもたゆれは、たゝくらなしのはまとよめるが、あはれくらなしの濱やとほむる心なり。普門品は、法華経の本躰なるに、かへりと妙といはさるたくひなり。くらなしの濱は豐前なりとかや
 
1711 百傳之八十之島廻乎榜雖來粟小島者雖見不足可聞《モヽツテノヤソノシマワヲコキクレトアハノコシマハミレトアカヌカモ》
 
粟小島は神代紀云、先生2蛭《ヒル》兒(ヲ)1、便(ハチ)載(テ)2葦船1而流之、次(ニ)生(ム)2淡(ノ)洲《シマヲ》1、此(レ)亦不3以充2兒數1、又云、一書曰、以2淡路(ノ)洲《シマヲ》1爲v胞、生2大日本豐秋津洲(ヲ)1、次淡洲1云云、又云、其後少彦名命行至2熊野之御碕1、遂滴2於常世(ノ)郷1矣、亦曰(ク)、至(テ)2淡(ノ)嶋1而縁2粟莖1者、則彈渡而至2常世(ノ)郷1矣、伯耆國風土記云、相見郡一(ノ)之家(アリ)、西北有2餘戸里1、有2粟嶋1、少日子(ノ)命蒔v粟、※[草がんむり/秀]實離々(タリ)、即載v粟彈渡2常世(ノ)國1、故云2粟嶋1也、第三以下に粟島とよめるに同じ、六帖には國の歌に入れてあはぢのしまをとあるは誤なり、
 
初、百つての八十の島廻を もゝつての事。第三大津皇子の御哥に尺せり
 
右二首或云柿本朝臣人麻呂作
 
登筑波山詠月一首
 
詠月歌と有けむ歌の字の落たる歟、
 
初、登2筑波山1詠月一首 月の下に歌の字落たるなるへし
 
1712 天原雲無夕爾烏玉乃宵度月乃入卷〓毛《アマノハラクモナキヨヒニヌハタマノヨワタルツキノイラマクヲシモ》
 
(25)幸芳野離宮時歌二首
 
1713 瀧上乃三舩山從秋津邊來鳴度者誰喚兒鳥《タキノウヘノミフネヤマヨリアキツヘニキナキワタルハタレヨフコトリ》
 
三船山從はミフネノヤマユとも讀べし、
 
1714 落多藝知流水之磐觸與杼賣類與杼爾月影所見《オチタキチナナカルヽミツノイハニフレヨトメルヨトニツキノカケミユ》
 
磐觸は此にてはせかるゝ意なり、
 
右三首作者未詳
 
三は二を誤れるなるべし、さきの登筑波山詠月歌にも作者を記さゞれば、それを合て三首と云歟とも云べけれど、それ然らず、此卷に作者不見歌あまたあれど悉は注せず、其上幸芳野離宮時歌二首と云標題を越て右三首とは云べからすや、
 
初、右三首作者未詳 これは二首を誤て三首となせるなり。そのゆへは、初に幸2芳野離宮1時歌と題して、哥もまことに二首あれはなり。さきの登2筑波山1詠v月一首にも作者をしるさゝれは、それをあはせて三首といふ歟ともいふへけれとも、それしからす。此卷に作者不v見哥あまたあれと、注する事なし。そのうへあひたに、幸2芳野離宮1時哥二首と別に標題して、都合を三首といふへきにあらす
 
槐本歌一首
 
1715 樂波之平山風之海吹者釣爲海人之袂變所見《サヽナミノヒラヤマカセノウミフケハツリスルアマノソテカヘルミユ》
 
(26)袂變は袖の翻るなり、
 
山上歌一首
 
憶良なり、
 
初、山上歌 此哥、第一卷には、幸2于紀伊國1時川島皇子御作歌といひ、哥の後の注に、或云山上憶良作とあり。今のする所は表裏せり。哥の詞もすこしかはれり
 
1716 白那彌之濱松之木乃手酬草幾世左右二箇年薄經濫《シラナミノハママツノキノタムケクサイクヨマテニカトシハヘヌラム》
 
此歌第一に既に出たり、
 
右一首或云河島皇子御作歌
 
春日歌一首
 
藏首老なり、次の次に有に准はせば日の下に藏の字を落せる歟、
 
1717 三河之淵瀬物不落左提刺爾衣手湖干兒波無爾《ミツカハノフチセモオチヌサテサシニコロモテヌレヌホスコハナシニ》
 
不落、【別校本云、オチス、】
 
三河はひえの山の東坂本にありとかや、不落をオチズと點ぜば、腰句をサテサスニ(27)と讀べし、湖は沾を誤れるなるべし、六帖には川の歌として、淵瀬も知らずさほさしてかりの衣手ほす人もなしとあり、おぼつかなし、
 
初、みつかはのふちせも みつかはゝ地の名なるへし。いつれの國に有ともしらす。ふちせもおちぬは、ふちをも瀬をもゝらさぬなり。一夜もおちすといふがひとよもかけぬ事なるにおなし。さては和名集云。文選注云。※[糸+麗]【所買反。師説佐天】網如(シ)2箕(ノ)形(ノ)1。狹(クシ)v後(ヲ)
廣(スル)v前(ヲ)名也。湖は沾の字の誤なり。作者春日は、春日藏首老なるへし
 
高市歌一首
 
黒人なるべし、六帖にたかいちのわうじとあるは誤なり、高市《タケチノ》皇子の御歌ならば上に舍人皇子御歌とかける例に高市皇子御歌と書べし、微賤の臣と同じく高市が歌と書べき理なし、
 
 
1718 足利思代※[手偏+旁]行舟薄高島之足速之水門爾極爾濫鴨《アシリテハコキユクフネハタカシマノアトノミナトニハテニケムカモ》
 
發句を六帖、舟の歌に入れたるにはあしりしてとあれど並に意得がたし、今按足利佐思代にてあとさしてなりけむを、昔より佐の字の落たりけるなるべし、足利は下に足速之水門と云に同じ、上下に同詞ある事を痛まぬは古風の常なり、濫は監を誤れり、六帖に落句をよりにけるかなと有は改けるなるべし、
 
初、足利をは 思は恩の字の誤なるへし。もしはおもふといふ和語の、上のひともしを於と乎とを通して用たる歟。濫は監の誤なり。作者は高市連黒人なるへし
 
春日藏歌一首
 
(28)1719 照月遠雲莫隱島陰爾吾舩將極留不知毛《テルツキヲクモナカクシソシマカケニワカフネハテムトマリシラスモ》
 
六帖には吾舟よせむとあれと今の點にはしかず、
 
右一首或本云小辯作也或記姓氏無記名字或※[人偏+稱の旁]名號不※[人偏+稱の旁]姓氏然依古記便以次戴凡如此類下皆效v焉
 
第三高市連黒人近江舊都歌後注云、右謌、或本云、小辨作也、未審此小辨者也とありき、或記以下は此注に因て此卷前後姓名の簡古なる故を明すなり、
 
元仁歌三首
 
1720 馬屯而打集越來今日見鶴芳野之川乎何時將顧《ウマナヘテウチムレコエキケフミツルヨシノカハライツカヘリミム》
 
1721 辛苦晩去日鴨吉野川清河原乎雖見不飽君《クルシクモクレユクヒカモヨシノカハキヨキカハラヲミレトアカヌキミ》
 
1722 吉野川河浪高見多寸能浦乎不視歟成甞戀布真國《ヨシノカハカハナミタカミタキノウラヲミスカナリナムコヒシキマクニ》
 
(29)多寸能浦は瀧の浦なり、瀧の當りの入江のやうなる處なり、字書に浦の字を釋して大川旁(ノ)曲渚と云へるにて意得べし、孫姫(ノ)式云、瀧(ノ)之流v浦(ニ)、咽聲正聞2於|椎《シヰ》嶺(ニ)1云々、落句の戀布は、第七に皆人の戀る三吉野とよめるが如し、眞國は眞は褒美の詞、國は吉野國とよめる國なり、
 
初、よしの川かはなみ高みたきのうらを うらは、うらおもてのうらにて、たきのあなたをいふなるへし。こひしきまくには、こひしきはみな人のこふるみよしのとよめるかことし。まくにはよしのゝくになり。眞はほむる詞なり
 
絹歌一首
 
1723 河蝦鳴六田乃河之川楊乃根毛居侶雖見不飽君鴨《カハツナクムツタノカハノカハヤナキノネモコロミレトアカヌキミカモ》
 
落句は皇子大臣などの御供にて六田の河の佳趣によせて云へる歟、六帖にはふたりのりと云に入れたり、
 
初、むつたの川 今の人むだといふ所なり。川楊は和名集云。本草云。水楊【和名加波夜奈木。】芽のあかくはるを楊といひ、青くはるを柳といふなり。かはやなきの根とつゝけたり。あかぬ君かもとは、親王大臣なとの御供にてかくはよせてよめるなるへし
 
鳥足歌一首
 
1724 欲見來之久毛知久吉野川音清左見二友敷《ミマクホリコシクモシラクヨシノカハオトノサヤケサミルニトモシキ》
 
欲見、【六帖、ミマホシミ、】  知久、【六帖、トモシク、】
 
發句は今の點よし、其外は六帖に依るべし、
 
初、みまくほり こしくもしるくと讀へし。しらくはかんなあやまれり。みるにともしくとよむへし。ともしきはあやまれり
 
(30)麻呂歌一首
 
1725 古之賢人之遊兼吉野川原雖見不飽鴨《イニシヘノサカシキヒトノアソヒケムヨシノヽカハラミレトアカヌカモ》
 
賢人之、【六帖云、カシコキヒトノ、別校本又點同v此、】
 
初、いにしへのさかしき人の 第一に天武天皇の御製にも、よき人のよしとよく見てよしといひしよしのよくみよゝき人よ君
 
右柿本朝臣人麻呂之歌集出
 
此は人丸歌集に他人の歌を載たる證なり、
 
丹比眞人歌一首
 
初、丹比眞人 屋主歟、乙麻呂歟
 
1726 難波方塩干爾出而玉藻苅海未通等汝名告左禰《ナニハカタシホヒニイテヽタマモカルアマノヲトメラナカナツケサネ》
 
海未通等、【校本通下有v女、】
 
第四の句、集中の例に依に女の字落たり、校本に従がふべし、落句は六帖も今の點と同じけれど、第一の雄略天皇の御歌に注せし如く、第五の令反惑情歌に奈何名能良佐禰《ナカナノラサネ》と有を證として讀べし、名をのれとは我に逢への意なり、
 
(31)和歌一首
 
1727 朝入爲流人跡乎見座草枕容去人爾妻者不敷《アサリスルヒトヽヲミマセクサマクラタヒユクヒトナツマニハシカシ》
 
人爾、【官本又云、ヒトニ、】
 
乎は助語にて、唯あさりする賤しき海部《アマ》と見てやみ給へとなり、容は客に作るべし、爾をナ〔右○〕と點ぜるは書生の誤なるべし、今按落句の不敷《シカシ》は不來坐《キマサヌ》と書べきを不來益とも來不益ともかける例あれば不如と云に借てかゝむ事さも有べきを、四の句よりつゞけるあはひ少意得がたけれは、ツマハシカセシと讀て我衣の妻を片敷かせて諸共には寢しと意得べきか、衣といはずして妻とのみ云はむ事やいかゞあらむと云難も有ぬべけれど、古歌は用を云ひて體を持せたる事めずらしからぬ事なり、其上第一に譽謝女王の歌に、流經妻吹風《ナカラフルツマフクカセ》之寒夜とよまれたるも衣といはで妻と云べき例なり、
 
初、たひゆく人に 容は客の誤なり
 
石河卿歌一首
 
(32)1728 名草目而今夜者寐南從明日波戀鴨行武從此間別者《ナクサメテコヨヒハネナムアスヨリハコヒカモユカムイマワカレナハ》
 
【ワカレナハ】從明月波、【紀州本云、アスアラハ、】
 
從此間は今の點誤れり、コユと讀べし、此歌は明日旅に出たゝむとての夜よまれたるなり、
 
初、從此間別者 こゆわかれなはとよむへし。こゆはこれよりなり
 
宇合卿歌三首
 
六帖に此初の二首を載るに、うかふの卿と作者をつけたり、
 
1729 曉之夢所見乍梶嶋乃石越浪乃敷弖志所念《アカツキノユメニミエツヽカチシマノイソコスナミノシキテシソオモフ》
 
敷弖志所念、【六帖云、シキテシオモホユ、】
 
梶島は八雲御抄に丹後と注せさせ給へり、落句は六帖の如く讀べし.志は助語なり、
 
初、曉の夢に見えつゝ 故郷をおもひねの夢にみるなり。梶嶋は丹後と、八雲御抄に注せさせたまへり。此宇合卿は、行役にくるしめる人にて、詩にも哥にも、そのよしをよまる。されとも丹後の方へおもむかれたる事は見えす。西海道節度使にて下られける事あれは、もし筑紫にや
 
1730 山品之石田乃小野之母蘇原見乍哉公之山道越良武《ウアマシナノイハタノヲノヽハヽソハラミツヽヤキミカヤマチコユラム》
 
和名集云、宇治郡山科、【也末之奈、】延喜式第九云、宇治山科神社、かゝるに又云、久世郡石田(33)神社とあれば今山品のとつゞけられたる事不審なれど、第十三にも山科とよめれば、假令大和國の巨勢は高市郡なるに、巨勢山口神社は延喜式に葛上郡に載られ、吉隱は日本紀に宇陀郡とあれども.延喜式には城上郡とある如く、宇治と久世との境の相接はる所にて.或は山科の久世に屬し、或は石田の宇治に屬する事有によりて此たがひ有歟、又和名云、宇治郡小野、【乎乃、】此は若今石田乃小野と云へる小野にや、此歌は都へ還り上る人の、故郷も近づくに、折節關東に赴く人などを想像てよまれたる歟、
 
初、いはたのをのゝ 山城にあり。延喜式第九、神名上云。宇治郡山科神社二座。久世(ノ)郡石田神社【大月次新嘗。】和名集云。宇治郡山科【也末之奈。】延喜式にも、和名集にも、山しなは宇治郡なるに、此集第十三卷にも、山しなの石田のもりのすめ神にぬさ取むけてとよみたれは、延喜式に、石田神社を久世郡に載られたるにたかへり。しかれは、山科は、まづは宇治郡なれと、久世郡にもかゝりて、そこに石田神社はあるにや。例をいはゝ、ふなはりを日本紀には兎田郡といひ、延喜式には城上郡に載たるかことし
 
1731 山科乃石田社爾布靡越者蓋吾妹爾直相鴫《ヤマシナノイハタノモリニフミコエハケタシワキモニタヽニアハムカ》
 
石田社爾布靡越者とは、第七にいみしやしろも越ぬべくとも、第十一には神のいかきも越ぬべしともよめるを思ひ合すべし、別て石田社としも云は、第十二に山代の石田の社に心おそく、手向したれば妹に相がたきとよめれば、此神の縁起はしらねど男女の中を護り給ふ神と知られたれば、かくばかりの戀しさにはさる神の森をも踏越て逢習だにあらば、後の祟はさもあらばあれ、吾越ぬべく思ふを、蓋さるわざしても吾妹に相見むやとなり.詞は第二の歌を承け、意は第一の歌に連接せり、又吾(34)妹は我妻を云のみにも限らず、
 
初、山しなのいは田のもりにふみこえは ふみこえはとは、石田杜にいたりて、たむけをして祈らはの心なり。第十二に、山城のいは田のもりに心おそくたむけしたれは妹にあひかたき。此哥をおもふへし。石田神社をしもさせるは、ゆへあるか。縁起をしらす。社は杜の誤歟。神社とかきて、此集にもりとよめる所もあれは、社の字にても有へし
 
碁師歌二首
 
第四に碁檀越あり、此にや、師は第八に縁達師と云者の名に付て注せしが如し、
 
初、碁師歌 第四に碁檀越といひし人歟
 
1732 母山霞棚引左夜深而吾舟將泊等萬里不知母《オモヤマニカスミタナナキサヨフケテワカフネハテムトマリシラスモ》
 
棚引、【官本云、タナヒキ、】
 
棚引の今の點は筆者の誤なるべし、母山は八雲御抄に美濃と注せさせ給へり、神代紀下云天稚彦在2於葦原中國1也、與2味耜高彦根神1友善《ウルハシミ》云々、則拔2其(ノ)帶劔大葉刈1以斫2仆《フセテ》喪屋1、此即落(テ)而|爲《ナル》v山、今(ニ)在(ル)2美濃(ノ)國(ノ)藍見《アユミノ》川(ノ)之上(ニ)1喪山是也、若此喪山を名を忌て後に母山と云歟、和名集を考るに不破郡に藍川あり、此藍見川なるべし、延喜式第二十二民部上云、凡諸國部内郡里等名並用2二字(ヲ)1、必(ラス)取2嘉名(ヲ)1、此に依に見の字を藍に讀付たるなるべし、元明紀云、和銅六年五月甲子、畿内七道諸國郡郷名著2好字1云々、母を於毛と訓ずるは神武紀云、初|孔舍《クサノ》衛之戰(ニ)有(テ)v人隱2於大樹(ニ)1而得v免v難、仍(テ)指(テ)2其樹(ヲ)1曰、恩(シ)v母、時(ノ)人因(テ)號2其(ノ)地1曰2母木邑(ト)1云々、波々、以呂波、於毛、此三つの和名同じ、次の歌に依に近江の海にてよ(35)める歌なれば、母山は東北に當りて見ゆるにや、下句は上の春日藏が歌、又第七に大葉山霞蒙とよめる歌は大葉山と母山とのかはれるのみにて全く同じ、
 
初、おも山に霞たなひき 八雲御抄に、おも山美濃と注せさせたまへり。神代紀下云。時(ニ)味耜高彦根(ノ)神則拔(テ)2其(ノ)帶《ハカセル》劔大葉|刈《カリヲ》1以|斫2仆《キリフセテ》喪屋《モヤヲ》1此即落(テ)而|《ナル》v山(ト)。今在2美濃國|藍見《アイミノ》川(ノ)之|上《カミニ》喪《モ》山是也。かゝれはおも山は此喪山なるへし。喪山の名のいまはしけれは、後におも山とあらためけるにこそ。元正紀云。和銅六年五月甲子【詔歟勅歟】畿内七道諸國郡郷(ノ)名著(ケヨ)2好字(ヲ)1。其郡内(ニ)所(ノ)v生(スル)銀銅彩色草木禽獣魚虫等(ノ)物具(サニ)録(セヨ)2色目(ヲ)1。及(ヒ)土地(ノ)沃※[土+脊]山川原野(ノ)名號(ノ)所v由、又古老(ノ)相傳舊聞(ノ)異事載(テ)2于史籍(ニ)1言上(セヨ)。延喜式二十二、民部上云。凡諸國部内郡里等(ノ)名並(ニ)用(ヨ)2二字(ヲ)1。必取(レ)2嘉名(ヲ)1。母の字は以呂波とも、於毛とも、波々ともいふ。ともにはゝにおなし。神武紀云。初|孔舎《クサノ》衛之戰(ニ)有(テ)v人隱(テ)2於大樹(ニ)1而得(タリ)v免(コトヲ)v難《ワサハイヲ》。仍(テ)指(テ)2其樹(ヲ)1曰。恩《メクミ》如(シ)v母《オモノ》。時(ノ)人因(テ)號(テ)2其|地《トコロヲ》1曰2母木《オモノキノ》邑(ト)1。今云(ハ)2飫悶迺奇《オホノキト》1訛《ヨコナマレルナリ》也。芙濃には海なき國なれは、わか舟はてむとまりしらすもかなひかたし。もし藍見《アユミノ》河なと大河にて、それをいへる歟。おほつかなし。日吉權現の御哥とて、波母山やをひえの杉のみ山居は嵐もさむしとふ人もなしといふ哥あり。波母山は淮南子にも見えたり。いはく東南方曰波母之山(ト)、曰陽門。母の字のおなしきをおもふに、もしこれにや。次の哥近江なれは、此おも山も神代紀に見えたる喪山にはあらぬ歟
 
1733 思乍雖來來不勝而水尾崎眞長乃浦乎又顧津《オモヒツヽクレトキカネテミヲカサキマナカノウラヲマタカヘリミツ》
 
思乍とは水尾崎の景趣を忘れぬなり、眞長乃浦も高島郡にて水尾に屬せるにや、
 
初、おもひつゝくれときかねて 眞長の浦のおもしろかりしをおもひつゝ、こきつゝ來れとも猶かへりみるとなり
 
小辯歌一首
 
1734 高島之足利湖乎※[手偏+旁]過而塩津菅浦今者將※[手偏+旁]《タカシマノアトノミナトヲコキスキテシホツスカウライマハコクラム》
 
今者、【六帖云、イマカ、官本亦同v此、官本或者作v香、】
 
湖乎を六帖にはみづうみとあれど乎の字を忘たれば今取らず、今者は今の本のまゝならばイマカの點叶はねど、六帖等に然あるは官本の或作の如く香なりけるを誤て者に作りけるにや、イマハと讀ても違はず、塩津は淺井郡なれば菅浦も同郡なるべし、此歌は友などの越前守に成て下るを想像てよめる歟、
 
初、塩津 近江淺井郡なれは、菅浦も同郡にこそ。いまかこくらん、今者とかきたれは、いまはとよむへし。榜の字手にしたかへるは誤なり
 
伊保麻呂歌一首
 
(36)1735 吾疊三重乃河原之礒之裏爾如是鴨跡鳴河蝦可物《ワカタヽミミヘノカハラノイソノウラニカハカリカモトナクカハツカモ》
 
神代紀下云、海神|於是《コヽニ》鋪《シキ》2設|八重席薦《ヤヘタヽミヲ》1以|延内《イル》之、禮記(ノ)郊特牲(ニ)云、大饗君三2重(ニシテ)席1而酢焉、又云、天子之席、五重、諸侯(ノ)之席(ハ)三重、大夫(ハ)再重、かくはあれども今は疊は表薦裏薦有て中に藁を多く入れて作るを云歟、吾と云へる此意なるべし、三重の川は伊勢に三重郡あれば彼處なるべし、河に礒よむ事第六にも其佐保川のいその上にと有き、裡は内なり、如是鴨跡〔右○〕とはいかなる面白さも唯かくばかりこそと云意にや、蝦を此集には面白き物によなる事上に云が如し、又鴨跡〔右○〕と云詞に鴨をそへて鴨の聲とてもかくばかりこそとよめる歟、第三に大津皇子の御歌に、磐余の池に鳴鴨を今日のみ見てやとよませ給ふは、鴨をも面白き物にすればなり、
 
初、わかたゝみ三重の川原の よき人は疊をかさねしけは、かくはつゝけたり。禮記郊特牲曰。大饗(ニハ)君三2重(ニシテ)席(ヲ)1而酢(ス)焉。又云。天子之席(ハ)五重。諸侯(ノ)之席(ハ)三重。大夫(ハ)再重。神代紀下云。海神於是《ワタツミノカミコヽニ》鋪《シキ》2設|八重席薦《ヤヘタヽミヲ》1以(テ)延内《ヒイテイル》之。此三重の川原を、八雲御抄には、石見と注せさたまへり。いかゝおほしめしけん。彼御抄には、石見と注せさせたまへる名所おほし。伊勢に三重郡あり。もしその郡にあるにや。いそのうらとは、川にも池にもいそはよめり。うらはうちなり。かはかりかもとは、いかはかりおもしろくめつらしき所といふとも、たゝかくはかりこそあらめといふ心にや。此集には、かはつをおもしろきものによめる哥おほし
 
式部大倭芳野作歌一首
 
式部は官、大倭は氏歟、名歟、和州には有べからず、簡古を好みて大倭なる芳野といはゞ頤を解ぬべし、
 
(37)1736 山高見白木綿花爾落多藝津夏身之河門雖見不飽香聞《ヤマタカミシラユフハナニオチタキツナツミノカハトミレトアカヌカモ》
 
此上句は第六にありき、
 
初、山高み白ゆふ花に 此上の句第六にも有き
 
兵部川原歌一首
 
1737 大瀧乎過而夏箕爾傍爲而淨河瀬見河明沙《オホタキヲスキテナツミニソヒテヰテキヨキカハセヲミルカサヤケサ》
 
見河、【別校本、河作v何、】
 
傍爲而は夏箕河邊に傍て居てなり、
 
初、そひてゐて ゐては居てなり
 
詠上総末珠名娘子一首并短歌
 
和名集云、上總國周淮季郡、かゝれば末は地の名、珠名は娘子が名なり、娘子が事は歌に見えたり、歌一首と云べきを歌の字なきは此卷の樣他卷に殊なればなり、
 
1738 水長鳥安房爾繼有梓弓末乃珠名者胸別之廣吾味腰細之(38)須輕娘子之其姿之端正爾如花咲而立者玉桙乃道行人者已行道者不去而不召爾門至奴指並隣之君者預巳妻離而不乞爾鎰左倍奉人乃皆如是迷有者容艶緑而曾妹者多波禮弖有家留《シナカトリアハニツキタルアツサユミスヱノタマナハムナワケノヒロケキワキモコシホソノスカルヲトメカソノカホノウツクシケサニハナノコトエミテタテレハタマホコノミチユキヒトハオノカユクミチハユカステヨハナクハカトニイタリヌサシナラフトナリノキミハカネテヨリサカツマカレテコハナクニカキサヘマタシヒトノミナカクマトヘルハカホヨキニヨリテソイモハタハレテアリケル》
 
召爾、【官本云、ヨハナクニ、】  預、【校本或作v豫】
 
水長鳥は安房の枕詞なり、別に注す、安房爾繼有とは元正紀云、養老二年五月甲午朔乙未、割2上總國之|平群《ヘグリ》安房《アハ》朝夷《アサヒナ》長狹《ナカサノ》四郡1置2安房(ノ)國(ヲ)1とあれば安房郡につゞきたる周淮《スヱ》郡の珠名と云に、末云はむ爲に中に梓弓と云へるなり、安房の國を置かれぬ前ならば云に及ばず、割分たれて後も昔に准らへて云に難あるべからず、古今の陸奥歌に最上川上れば下る稻舟と云歌を載たるも、最上置賜等の郡を陸奥より割て出羽にそへて置れたれば出羽にあれども、昔に准らへて陸奧歌とせるを引て思ふべし、又安房國の※[手偏+總の旁]を以て末郡をそれにつきたると云はむも難なかるべし、第十四に梓(39)弓末に玉纒と讀たれば今の梓弓も珠と云までにかゝる歟とも意得べけれど、自然の事にてそれまではあるまじ、胸別とは胸も兩乳有て左右にわかれたればなり、第八に、棹鹿の胸別とよめるには詞は同じくて意異なり、廣の字は第十三に水門成|海毛《ウミモ》廣|之《シ》云々、これに依て今もユタケキと讀べきか、胸廣くて平なるは美人の相なり、楚辭景差(カ)大招(ニ)云、傍心綽態〓麗只、俗に狹き胸の高きをば鳩胸とてわろき相とするに對す、腰細之須輕娘子之とは、第十六竹収翁が歌にも、海神之殿蓋丹飛翔爲輕如來腰細丹《ワタツミノトノヽミカサニトヒカケルスカルノコトキコシホソニ》とよめり、須輕は※[虫+果]〓なり、雄略紀云、爰命3※[虫+果]〓1【人名也、此云2須我屡1、】聚2國内蚕1云々、此は|少子部《チヒサコベノ》※[虫+果]〓と云人の名なれどもは※[虫+果]〓をすがる〔三字右○〕と云證なり、和名集云、〓|※[虫+翁]《ヲウ》、【悦翁二音、和名佐曾里、】、似v蜂而細腰者也、一名※[虫+果]〓、【果裸二音、】かくさそり〔三字右○〕の外にすがる〔三字右○〕の和名を出されざるに依て、古今集にすがるなく秋の萩原とよめるすがるを鹿の異名と云説出來れり、決を雄略紀に取べきなり、女は腰の細きを美とする故に、尸子云、靈王好2細腰1而民多v饑、宋玉登徒子好色賦云、〓如v束v素(ヲ)、袖中抄に須輕娘子をすがるきいもとあるは不審なり、端正爾は日本紀に端正をキラ/\シと點じたれば、今もキラ/\シクニと讀べし、ウツクシケサニは古風の訓にあらず、道者不去而は曹植美女篇云、行徒用(テ)息v肩、休者以忘v餐(ヲ)、不召爾門至奴は、後の書なれど秘藏寶鑰云、美女不v招、好醜(ノ)之男爭逐、醫門不v(40)召、疾病之人投歸、莊子徐無忌に羊肉(ハ)不v慕v蟻、蟻慕2羊肉1と云が如し、指並は第六に石上乙麿卿を土左へ流さるゝ時の歌に刺並之國とよめるに付て注せし如く今もサシナミノと讀べきか、此より己妻離而と云までは珠名を迎へむとてもとより住なれし妻にかるゝなり、竹取物語云、もとのめどもは返し給ひてかぐやひめを必らずあはむ儲してひとり明し暮したまひ云々、又云、家に少殘て有ける物どもは龍の玉をとらぬ者どもにたびつ、是を聞て離れ給ひしもとの上は片腹痛く笑ひ給ふ、預は豫と通じて用る事あれど豫に作れるまさるべきか、己妻は上にも云如くオノヅマと讀べし、不乞爾鎰左倍奉は、鎰は人の家に大事とする物なり、それをさへ娘子が乞ぬに打與へて、家の内をさながら任せて妻とせむと心底を顯はす由なり、和名集鑰(ノ)字注(ニ)云、今案俗人印鑰之處用v鎰(ヲ)非也、鎰(ハ)音溢見2唐韻1、此集には俗に隨て字を用たる事多し、此類なり、縁而曾妹者、此一句の中初の四文字は上につけて句絶とし、後の三字は下に付べし、落句はタハレタリケルとも讀べし、
 
初、しなか鳥あはにつきたる しなか鳥あはとつゝくるゆへは、枕詞を別に注せし中に有。あはにつぎたるとは、安房につきて上總の國はあれはなり。元正紀云。養老二年五月甲午朔乙未、割上總国之平群安房朝夷長狹四郡置安房國。梓弓は末といはむためなり。第十四卷にあつさ弓末に玉まきとよめるは、角弓なとのことく、弓のかさりをいへは、今も末といふ字のみならす、珠といふにもわたるへし。むなわけのひろけきわきも。むなわけは、只むねなり。第八第二十には、鹿につきてむなわけとよめり。今は少かはれり。むねのせはくて高きをは、俗に鳩胸とて、わろき相にいへり。楚辭景差大招曰。滂心《ヒロキムネ》綽態(ノ)※[女+交]麗(ト)《・ユタカナルワサウルハシ》只。小《ホソキ》腰秀(タル)頸若2鮮卑(ノ)1只。下の、こしほそのすかるをとめの二句まて、此大招をふみてつゝけたるなるへし。こしほそのすかるをとめかそのかほのうつくしけさに、すかるは※[虫+果]※[羸の羊が虫]なり。蜂の類なり。雄畧紀云。爰(ニ)命(シテ)3※[虫+果]※[羸の羊が虫]《スカルニ》1【人名也。此(ヲハ)云2須我屡1】聚(ム)2國内(ノ)蚕《カヒコヲ》1。これ少子《チヒサコ》部|※[虫+果]※[羸の羊が虫]《スカル》といふ人の名なれとも、※[虫+果]※[羸の羊が虫]をすかるといふ證なり。和名集云。※[虫+翳]※[虫+翁]《エツヲウ》【悦翁二音和名佐曾里】似v蜂而細腰(ノ)者也、一名悦翁二音、和名佐曾里、】、似v蜂而細腰者也、一名※[虫+果]※[羸の羊が虫]【果裸二音。】かくのみありて、さそりの外にすかるの和名を出さす。雄畧紀をはよく考たる人もなけれは、古今集離別部に、すかるなく秋の萩原朝たちて旅行人をいつとかまたむ。此哥のすかるを、鹿ばりと傳たるは、下に萩原といへるゆへに、おしはかりにいへるなり。鹿をは、日本紀にもかせきとこそよみたれ。すかるといへることなし。さしも博學の匡房卿も、鹿と心得られけるにや。掘河院御時、奉られける百首に
  すかる臥野中の草や深からんゆきかふ人の笠のみえねは
詩にも花には蜂蝶とつゝけてむれくるものに作れり。けにもさることなれは、萩の花の香をゝひて、すかるのむれくれは、すかるなく秋の萩原とはつゝけたり。此集第十に、春されはすかるなる野のほとゝきすほと/\妹にあはすきにけり。此哥も春の野の花にむれきてなく心によめり。なるといふは、成といふ字はかきたれとも、鳴門なとの時のなるなり。はねをうこかしてなるゆへになるとはいへり。いふせきといへる、いふのふたもしに、馬音蜂音とかけるも、馬はいなゝく時、伊の音きこえ、蜂のなくには、部の音きこゆれは、その義にてかけるも、すかるなるといふにかなへり。楊子曰。螟蛉之子殪而逢(ヘハ)2※[虫+果]※[羸の羊が虫]1呪(シテ)曰、類(セヨ)v我(ニ)類v我。久(シキトキハ)則肖(ル)v之(ニ)。毛詩曰。螟蛉、※[羸の羊が虫]※[虫+果]負v之。和名集云。爾雅注(ニ)云。土蜂【和名由須留波知】大蜂(ノ)之在(テ)2地中(ニ)1作(ル)v房(ヲ)者也。かくあれは※[虫+果]※[羸の羊が虫]と土蜂とことなりと見えたり。捜神記曰。土蜂(ヲ)名2※[虫+果]※[羸の羊が虫](ト)1。俗謂2※[虫+翳]※[虫+翁](ト)1。細腰(ノ)之類(ナリ)。此によれは、土蜂と※[虫+果]※[羸の羊が虫]とおなし。又※[萬/(虫+虫)]の字をもさそりとよめり。所詮さそり、すかるおなし物にて、蜂の屬なり。女は腰のほそきをよしとすれは、こしほそのすかるをとめとはつゝけたり。第十六竹取翁か哥にも、わたつみの殿のみかさにとひかけるすかるのこときこしほそにとりてかさらひともよめり。尸子云。靈王好2細腰1。而民多(シ)v饑。風俗通(ニ)曰。楚王好(シカハ)2細腰(ヲ)1群臣皆數(テ)v米(ヲ)而炊(キテ)、順v風(ニ)而趨。戰國策云。昔者先君靈王好(シカハ)2小腰(ヲ)1楚士約(ス)v食(ヲ)【約猶v節】馮《ヨツテ》而能立【馮(ハ)依也】式(シテ)《・ヒサツイテ》而能|起《タツ・オク》【式小低貌。補曰軾車前横木。有v所v敬則俯馮v之。據而後能立。馮而後能起。言以v約v食故無v力也。或疑士不v當v言2細腰1。荀子曰。楚荘王好2細腰1。故朝有2餓人1。一本標(シテ)2墨子(ト)1云。楚靈王好2士細腰1。故其臣皆三飯爲v節、脇息而後帶、淵墻而後起。尹文子韓非子皆言一國有2饑色餓人1。今按、墨子三卷中無2此文1。二巻者別本也。古墨子篇數不v止v此。
】うつくしけさには端正とかけり。これをはきら/\しくにとよむへし。花のことゑみてたてれは、遊仙窟云。眉(ノ)間(ニ)月出(テ)疑(カヒ)v爭(ソフカト)v夜(ヲ)、頬(ノ)上(ニ)華開(テ)似(タリ)v闘(カハシムルニ)v春(ヲ)。よはなくにかとにいたりぬ。秘蔵寶鑰云。美女(ハ)不(レトモ)招(カ)好醜之男爭(ソヒ)逐(ヒ)、醫門(ハ)不(レトモ)召疾病(ノ)之人投歸(ス)。此文上の二句こゝにかなへり。かるかゆへに後の文なれとも引v之。莊子徐無忌篇云。羊肉不v慕v蟻(ヲ)。々慕2羊肉(ヲ)1。此心に似たり。さしならふ隣の君はかねてよりさか妻かれて。此末珠名娘子を妻とせんとてもとのめにはなるゝなり。竹取物語云。もとの女ともはかくやひめにかならすあはむまうけしてひとりあかしくらしたまひ。又云。家にすこしのこりて有けるものともは、たつのたまをとらぬものともにたひつ。これをきゝてはなれたまひしもとのうへは、かたはらいたくわらひ給ふ。さしならふは、第六にも、さしなみし國に出ますやとよみたれは、今もさしなみしともよむへし。こはなくにかきさへまたし。かきは、人の家にむねと大事とするものなり。それをさへ珠名娘子か乞もせぬに、打あたへて、家の内のことをまかせんとするよしなり。和名集云。四聲字苑云。鑰【音樂。字亦作v〓。今案俗人印鑰之處容v鎰非也。鎰音溢見2唐韻1】關具也。楊氏漢語抄云。鑰匙【門乃加岐。】またしはたてまつるなり。人のみなかくまとへるはかほよきによりてそ。此よりてその下を句とすへし。妹はたはれたりける。次下の反歌此意をふたゝひよめり
 
反歌
 
1739 金門爾之人乃來立者夜中母身者田菜不知出曾相來《カナトニシヒトノキタテハヨナカニモミハタナシスライテソアヒケル》
 
(41)不知、【官本云、シラス、】辨沌望
 
發句の之は助語なり、金門は第四に注せしが如し、田奈不知も亦第一に藤原宮役民が歌に注せり、
 
初、かなとにし人のきたては かなとは門なり。かとはかなとの畧語なり。金物をもてかされは、かなとゝはいふなり。身はたなしたす、第一卷に藤原宮役民か歌にも、家わすれ身もたなしらすとよめり。管見抄にはたゝしらすといへり。雲霞のたな引に輕引とかけるをおもへは、たなはかろき心歟。身をかろくして、なるへきやうをもしらす、くる人に出あふなるへし
 
詠水江浦島子一首并短歌
 
雄略紀云、二十二年秋七月、丹波國|餘社《ヨサ》郡|管川《ツヽカハノ》人|水江《ミヅノエノ》浦島(カ)子乘v舟而釣、遂得2大龜(ヲ)1、便(チ)化2爲《ナル》女《ヲトメニ》1、於v是浦島子感以爲v婦、相逐入v海到2蓬莱山《トコヨノクニ》1、歴2覩仙衆1、語(ハ)在2別卷1、和名集丹後國下注云、和銅六年割(テ)2丹波國五郡1置2此國1、天書第八云、廿二年秋七月、丹波人水(ノ)江(ノ)浦島子入2海龍宮1得2神仙1、丹後國風土記云、與謝郡日量里、此里有2筒川村1、此人夫|※[日/下]部《クサカベノ》首等(カ)先祖、名(ヲ)云2筒川嶼子1、爲v人姿容秀美、風流無v類、斯所謂水江浦嶼子者也、是(レ)舊宰伊預部(ノ)馬養連所v記無2相乖1、故略陳2所由之旨(ヲ)1、長谷朝倉(ノ)宮御宇天皇御世、嶼子獨乘2小船1泛2出海中1爲v釣、經2三日三夜1、不v得2一魚1、乃得2五色龜(ヲ)1、心思2奇異1、置2于船中(ニ)1即寐、忽爲2婦人(ト)1、其容美麗、更不v可v比、嶼子問曰、人宅遙遠海庭人乏、※[言+巨]人忽來、女娘微咲對曰、風流之士、獨汎2蒼海1、不v勝2近談1、就2風雲1來、嶼子復問曰、風雲何處(カ)來、女娘答曰、天上仙家之人也、請君勿v疑、乘2相談之愛1、爰嶼子知2神女1、慎懼疑心(アリ)、女娘語曰、賤妾之意、共2天地1畢、倶(ニ)2日月1極、但君(42)奈何、早先2許不(ノ)之意1、嶼子答曰、更無v所v言、何觸乎、女娘曰、君宜3廻v掉赴2于蓬山1、嶼子從往、女娘教令v眠v目(ヲ)、即不意(ノ)之間、至2海中博大之島(ニ)1、其地如v敷v玉、闕臺掩映、樓堂玲瓏、目所v不v見、耳所v不v聞、携v手徐行、到2一大宅之門1、女娘曰、君且立2此處1、開v門入v内、即七豎子來相語曰、是龜比賣之夫也、亦八豎子來相語曰、是龜比賣之夫也、茲知2女娘之名龜比賣1、乃女娘出來、嶼子語2豎子等事1、女娘曰、其七豎子者昴星也、其八豎子者畢星也、君莫v恠焉、即立v前引導、進入2于内1、女娘父母共(ニ)相迎、揖而定v坐、于v斯稱2説人間仙都之別(ヲ)1、談2議人神偶會之嘉1、乃雪2百品芳味1、兄弟姉妹等、擧v抔獻酬、隣里幼女等、紅顔戯接、仙歌寥亮、神舞逶※[しんにょう+施の旁]、其爲2歡宴1、萬2倍人間1、於v茲不v知2日暮1、但黄昏之時、群仙侶等漸漸退散、即女娘獨留、雙v肩接v袖成2夫婦之理(ヲ)1、于v時嶼子、遣2舊俗1遊2仙都1、既經2三歳1、忽起2懷v土之心1、獨戀2二親(ヲ)1、故吟哀繁發、嗟歎日益、女娘問曰、比來觀2君夫之※[貌の旁](ヲ)1、異2於常時1、願聞2其志1、嶼子對曰、古人言、少人懷v土(ヲ)死、狐首v丘(ヲ)、僕以爲2虚談1、今斯信v然也、女娘問曰、君欲v歸乎、嶼子答曰、僕近離2親故之俗1、遠入2神仙之堺1、不v忍2戀眷1、輙申2輕慮(ヲ)1、所v望※[斬/足]還2本俗1、奉v拜2二親1、女娘拭v涙(ヲ)歎曰、意等2金石1、共2期萬歳1、何眷2郷里1、棄2遺一時1、即相携徘徊、相談慟哀、遂接v袂退去、就2于岐路1、於v是女娘父母親族、但悲v別送v之、女娘取2玉匣1、授2嶼子1謂曰、君終不v遺2賤妾1、有2眷尋1者、堅握v匣(ヲ)、慎莫2開見1、即相分乘v船、仍教(テ)令v眠v目、忽到2本土筒川郷1、即瞻2眺村邑1、人物遷易、更無v所v由、(43)爰問2郷人1曰、水江浦嶼子之家人、今在2何處1、郷人答曰、君何處人、問2舊遠人1乎、吾聞古老等相傳(テ)曰、先世有2水江(ノ)浦嶼子1、獨遊2蒼海1復不2還來1、今經2三百餘歳(ヲ)1者、伺忽問v此乎、即(チ)衙2棄心1、雖v廻2郷里1、不v會2一親1、既送v旬日1、乃撫2玉匣(ヲ)1而感思2神女1、於v是嶼子忘2前日期1、忽開2玉匣1、即未v瞻之間、芳蘭之體、率(テ)2于風雲1、翩2飛蒼天1、嶼子即乖2違期要1、還知2復難1v會、廻v首(ヲ)蜘※[虫+厨]、咽v涙徘徊、于v斯拭v涙哥曰、等許余弊爾久母多智和多留《トコヨヘニクモタチワタル》、美頭能眷能《ミヅノエノ》、宇良志麻能古賀《ウラシマノコガ》、許等母知和多留《コトモチワタル》、又神女遙飛2芳音1哥曰、夜麻等弊爾《ヤマトヘニ》、加是布企阿義天《カゼフキアケテ》、久母婆奈禮《クモハナレ》、所企遠理等母與《ソキヲリトモヨ》、和遠和須良須奈《ワヲワスラスナ》、嶼子更不v勝2戀望1哥曰、古良爾古非《コラニコヒ》、阿佐刀遠比良企《アサトヲヒラキ》、和我遠禮波《ワカヲレハ》、等許與能波麻能奈美能等企許由《トコヨノハマノナミノトキコユ》、後時人追和哥曰、美頭能眷能《ミヅノエノ》、宇良志麻能古我《ウラシマノコガ》、多麻久志義《タマクシゲ》、阿氣受阿理世波《アケズアリセハ》、麻多母阿波麻志《マタモアハマシ》、等許與弊爾《トコヨヘニ》、久母多知和多留《クモタチワタル》、多由女久女、波都賀未等、和禮曾加奈志企《ワレソカナシキ》、○本朝神仙傳曰、浦島(ノ)子者、丹後國水江浦(ノ)人也、昔(シ)釣2于濱1得2大龜1、變成2婦人1、閑色無v雙、即爲2夫婦1被2婦(ニ)引級1、到2於蓬莱1、通得2長生1、銀臺金闕、錦帳繍屏、仙藥隨風、綺饌彌v日、居v之三年、春(ノ)月初暖、群鳥和鳴、煙霞※[さんずい+養]蕩、花樹競開、問2歸歟之許1、婦曰、列仙之陬、一去難2再來1、縱歸2故郷1、定非2往日1、浦島子爲3訪2親舊(ヲ)1強歸v駕、婦與2一筥1曰、慎莫v開v此、若不v開者自再相逢、浦島子到2本郷1林園零落、親舊悉亡、逢v人聞v之、曰、昔(シ)聞浦島子仙化而去、漸過2百年1、爰帳然如v失2歩於邯鄲1、心中大恠、開v匣(ヲ)見v之、(44)於v是浦島(ノ)子、忽變2衰老皓白(ノ)之人1、不v去而死、事見3別傳並於2萬葉集1、今注大概1、元享釋書第十八尼女篇如意尼傳云、如意尼者天長帝之次妃也、丹之後州余佐郷人、妃甞蓄2一篋(ヲ)1、人不v得v見2裏面1、世曰天長元年大旱、守敏空海後先相(ヒ)2競(テ)法1※[樗の旁]、海得(テ)2妃篋(ヲ)1修2秘奧(ヲ)1以v故雨澤洽2天下1、妃之同閭、有2水江浦嶋子者1、先v妃數百年、久棲2仙郷1、所謂蓬莱者也、天長二年還2故里1、浦島子(カ)曰、妃所v持篋曰2紫雲篋1海刻2櫻像(ヲ)1、時藏2篋(ヲ)像中1、此釋書の傳は神咒寺などの妄傳の故記に依てかゝれたる歟、用るに足らざる事なり、又風土記の神女が歌は古事記の仁徳天皇の段を見るに吉備黒日賣が歌なり、
 
初、詠水江浦嶋子 日本紀第十四、雄畧天皇二十二年(ノ)紀云。秋七月丹波(ノ)國餘社郡(ノ)管川(ノ)人|水江《ミツノエノ》浦島(カ)子乘v船而釣。逐得2大龜《カハカメヲ》1。便|化2爲《ナル》女《ヲトメト》1。於v是浦島子|感《タケリテ》以爲v婦(ト)。相逐(テ)入v海(ニ)、到2逢莱山《トコヨノクニヽ》1、歴2覩《メクリミル》仙衆《ヒシリヲ》1。語(ハ)在2別《コト》卷(ニ)1。此雄畧紀には、水江を字のまゝによみたれと、此哥にはすみの江とよみ、初にはるの日のかすめる時にすみのえのきしに出居てといふに、墨江とかきたれは、水は清む物なるゆへに、義をもてかけるなるへし。しかれは、此集を證として、日本紀をもすみのえとよむへきにや。又丹波國とあれとも、和銅六年に丹波國より五郡を割て丹後となされて後、與謝郡《誤加佐郡也》は丹後國の國府なり。又浦嶋子といふは、浦嶋といふもの有て、それか子といふにはあらす。子は男子の通稱の詞なり。元亨釋書第十八、尼女篇如意尼傳云。如意尼者天長帝之次妃也。丹之後州余佐郷人〇妃甞(テ)蓄2一篋(ヲ)(ヲ)1。人不得v見2裏面(ヲ)1。世曰天長元年(ニ)大旱(ス)。守敏空海後先相競(テ)法※[雲の云が于](ス)。海得(テ)2妃(ノ)篋(ヲ)1修(ス)2秘奥(ヲ)1。以v故(ヲ)雨澤洽2天下(ニ)1。妃之同閭有2水江浦島子(トイフ)者1。先(テ)v妃(ニ)數百牛久棲2仙郷(ニ)1。所謂蓬莱(トイフ)者也。天長二年還2故里(ニ)1。浦島子曰。妃(ノ)所(ノ)v持篋曰2紫雲篋(ト)1。海刻(ム)2櫻像(ヲ)1。時妃藏(ム)2篋像中1。以上。これは神呪寺の縁起なとにてこそかゝれけめ。浦島子かことは、雄略紀并此哥あれは、信用するにたらす
 
1740 春日之霞時爾墨吉之岸爾出居而釣舩之得乎良布見者古之事曾所念水江之浦島兒之竪魚釣鯛釣矜及七日家爾毛不來而海界乎過而榜行爾海若神之女爾邂爾伊許藝※[走+多]相誂良比言成之賀婆加吉結常代爾至海若神之宮乃内隔之細有殿爾携二人入居而老目不爲死不爲而永世爾有家留(45)物乎世間之愚人之吾妹兒爾告而語久須臾者家歸而父母爾事毛告良比如明日吾者來南登言家禮婆妹之答久常世邊爾復變來而如今將相跡奈良婆此篋開勿勤常曾己良久爾堅目師事乎墨吉爾還來而家見跡宅毛見金手里見跡里毛見金手恠常所許爾念久從家出而三歳之間爾墻毛無家毛滅目八跡此※[草がんむり/呂]乎開而見手齒如來本家者將有登玉篋小披爾白雲之自箱出而常世邊棚引去者立走※[口+斗]袖振反側足受利四管頓情清失奴若有之皮毛皺奴黒有之髪毛白班奴由奈由奈波氣左倍絶而後遂壽死祁流水江之浦島子之家地見《ハルノヒノカスメルトキニスミノエノキシニイテヰテツリフネノトヲラフミレハイニシヘノコトソオホユルスミノエノウラシマノコカカツヲツリタヒツリカナテナヌカマテイヘニモコステウミキハヲスキテコキユクニワタツミノカミノヲトメニタマサカニイコキワシラヒカタラヒコトナシシカハカキツラネトコヨニイタリワタツミノカミノミヤノナカヘノタヘナルトノニタツサハリフタリイリヰテオイモセスシニモセスシテナキヨニアリケルモノヲヨノナカノシレタルヒトノワキモコニツケテカタラクシハラクハイヘニカヘリテチヽハヽニコトモツケラヒアスノコトワレハキナムトイヒケラハイモカイラヘクトコヨヘニマタカヘリキテケフノコトアハムトナラハコノハコヲヒラクナユメトソコラクニカタメシコトヲスミノエニカヘリキタリテイヘミレトイヘモミカネテサトミレトサトモミカネテアヤシトソコニオモハクイヘイテヽミトセノホトニカキモナクイヘウセメヤトコノハコヲヒラキテミテハモトノコトイヘハアラムトタマクシケスコシヒラクニシラクモノハコヨリイテヽトコヨヘニタナヒキヌレハタチハシリサケヒソテフリコヒマロヒアシスリシツヽタチマチニコヽロキエウセヌワカカリシカハモシハミヌクロカリシカミモシラケヌユナユナハイキサヘタエテノチツヰニイノチシニケルスミノエノウラシマノコカイヘトコロミム》
 
(46)霞時爾、【別校本云、カスミノトキニ、】  神之女爾、【官本又云、カミノムスメニ、】  老目不爲、【校本老目作v耆、】  恠常、【官本又云、アヤシミト、】  家滅目八跡、【幽齋本云、イヘウセメヤト、】
 
墨吉之岸は水江と同處にして異名歟、或は水江は※[手偏+總の旁]にて墨吉は其中の別處歟、但一篇の内、二名各兩處に交へ出して水江は浦島兒とのみつゞけたれば、たとひ地の名なりとも居處の名をやがて氏とせる故にしげきを※[厭のがんだれなし]はぬなるべし、然らずば長篇ながら拙しと云べし、依て上に出す日本紀天書風土紀等を考るに、水江は氏と見えたり、中にも風土記に、水江浦嶼子之家人今在2何處1云々、吾聞古老等相傳(テ)曰、先世有3水江(ノ)浦嶼子1云々、若水江地の名にして氏にあらずば問答共に唯浦嶼子と云べし.何ぞ水江にして煩らはしく水江と云べきや、今も水江之岸爾出居而とも水江爾還來而ともよまず、又墨吉之浦嶋子ともよまぬを思ふべし.但神仙傳には水江を地の名とせれど、彼は湯川の玄圓と云僧の後代にかける書なれば必らずしも證としがたし、仙覺此墨吉の古黙すみよし〔四字右○〕なりけるをすみのえ〔四字右○〕と和すべき由かゝれたるは、古語の例謂れあるを、此に依て水江をもすみのえ〔四字右○〕と讀べしと義を立られ、やがて本の點をも改られて今の點もスミノエと有ど、日本紀の點并に風土記の歌にミヅノエとある上は異義を存すべからず、釣船之得乎良布見者とは遠く成行を見ればなり、第十(47)九に於吉都奈美等乎牟麻欲比伎とよめるも眼尾の遠ざかる波を横たへたるやうなるをいへり、遠は登保なれど又得乎とかけるは沫を阿和とも安幡ともかけるに例すべし、遠ざかるを見てと云事は浦島が蓬莱へ行し事を思ひよそふると云はむ爲なり、鯛釣矜は、今按矜をカネテと點ぜる事其意を得ず、玉篇云、矜、居陵切、自賢也と注したれば、鯛釣ホコリと讀べし、惠慶法師の歌に、わかめかるよさのあま人ほこるらし、浦風ゆるく霞渡れり、此れ今の詞を昔はたひつりほこりと讀てや踏てよまれたらむ、末の集にはほこるらしを出ぬらしと改て入たり、源氏物語明石に、いさりする海人どもほこらしげなりとかけり.釣の利《サチ》ある故に誇て七日まで家に歸らぬなり、伊許藝※[走+多]相誂良比は、今按此二句伊は發語の詞、イコギワシリテアヒアトラヒと讀べきか、日本紀に誂をアトフとよめるはいざなふ意なれば、あとらひ〔四字右○〕も然意得べし、字書にかたらふ〔四字右○〕と讀べき義なし、加吉結は伊勢物語に、昔男せうえうしに思ふとちかいつらねて和泉の國へきさらぎばかりにいきけりとかける如く、彼乙女と打つれて常世へ行を云、海若神之宮、乃以下は、神代紀下云、忽至2海神之宮1、其宮也雉※[土+牒の旁]|整頓《トヽノホリ》、臺宇玲瓏.海神於v是|舗2設《シキ》八重席薦1、以延2内之1、因娶2海神女豊玉姫1、仍留2住海宮1、已經2三年1、彼處雖2復安樂1、猶有2憶v郷之情1、故時復太息、豊玉姫聞v之、謂2其父1曰、天孫悽然數歎、蓋懷(48)土之憂乎、海神乃延2彦火火出見尊(ヲ)1、從容語曰、天孫若欲v還v郷者、吾當v奉v送(リ)云々、今の始終此神代紀の文に似たる事多き故に此にひけり、内隔は延喜式云、凡中重庭者須v令d2諸司1毎v晦掃除u、老目は次句の死不爲而とかけるを思ふに二字を合せて耆に作れる本然るべし、第十六乞食者爲鹿述痛歌にも耆矣奴とかけり世間之愚人之とは世上に第一の愚癡なる人と云意なり、第三に天地に悔しき事の世の中に悔しき事はとよめるが如し、愚人之とは本朝文粹第一源順高鳳刺2貴賤之同交1歌云、共耻白物之入2青雲1、竹取物語云、あれもたゞかゝでこゝちたゞしれにしれて守りあへり、源氏乙女に此おとなふるに親の立替りしれ行事は云々、事モ告ラヒとはかゝる事有て常世にすめばうしろやすくおぼせと告むとなり、第十、七夕の歌にも此詞あり、古語の姿なり、如明日吾者來南登とは今日行て明日歸る如く速に歸來むとなり、此篋開勿勤常、史記扁鵲傳云、趙簡子疾、五日不v知v人、於v是召2扁鵲1云々、居二日半、簡子寤語2諸大夫1曰、我之2帝所(ニ)1甚樂、與2百神1遊2於鈎天1、帝甚喜賜2我二笥(ヲ)1、皆有v副云々、少似たる事なり、曾己良久爾はそこぱくにと云に同じ、恠常はアヤシミトと讀てあやしと意得べし、所許爾念久はそこにて思はくはなり、從家出而はイヘヲイデヽともイへユイデとも讀べし、此三歳之間爾より以下家滅目八跡、此句に至りて句絶なり、上の所許爾念久と云句(49)の首尾こゝに収まればなり、菅家文草云、幽明録曰、漢永和五年、※[炎+立刀]縣劉※[日/成]阮肇共入2天台山1、迷不v得v反、經三日※[羊+良]盡云々、一大溪邊有2二女子1云々、令d各就1一帳1宿u、女往(テ)就之、言聲清※[女+乞]、令2v人忘1v憂、遂停半年、氣候草木是春時、百鳥鳴啼、更懷2悲思1求2歸去1云々、女子三四十人、集會奏v聲(ヲ)、共送2劉阮1、指2示還路1、既出、親舊零落、邑屋改異、無2復相識1、間得2七世孫1、任※[日+方](ガ)述異記云、晋王質伐v木至2信安郡石室山1、見2數童子圍1v棊(ヲ)、與2質一物1、如2棗核1、含v之不v飢、局未v終斧柯爛盡、既歸無2復時人1、情清失奴は清は消に改たむべし、白班奴、班〔右○〕は斑〔右○〕に改たむべし、古詩云、所v遇無2故物1焉、得v不2速老1、竹取物語云、此事を歎くに鬚も白く腰もかゞまり目もたゞれにけり、翁今年は五十ばかりなりけれども物思ひには片時になむ老に成にけりと見ゆ、由奈由奈波は、此詞は此外に、いまだ見及ばず、推量するにはてはては〔五字右○〕と云へる意なるべし、
 
初、はるの日のかすめる時に つりふねのとをらふみれはとは、つりふねをこきてとほるをみれはなり。たひつりほこりなぬかまて家にもこすて。鯛つりかねてとある點はあやまれり。恵慶法師歌に
  わかめかるよさのあま人ほこるらしうら風ゆるくかすみわたれり
源氏物語明石に、をやみなかりしそらのけしきなこりなくすみわたりていさりするあまともほこらしけなり。釣の利《サチ》あるゆへに、ほこりて七日まて家に歸らぬなり。いこきわしらひ、伊は發語の詞。かきつらねは、彼をとめと打つれて、常世へゆくをいへり。わたつみの神の。日本紀第二云。乃作(テ)2無v目籠《マナシカタマヲ》1内《イレ》2彦火々出見《ヒコホヽテミの》尊(ヲ)於|籠中《カタマノナカニ》1沈(ム)2之(ヲ)干海(ニ)1。即(チ)自然《ヲノ ニ》有(ハ)2可怜小汀《ウマシヲハマ》1、於是《コヽニ》棄《ステ》v籠《カタマヲ》遊行《イテマス》。忽(ニ)至(タマテ)2海神《ワタツミノカミノ》之宮(ニ)1。其(ノ)宮也|雉※[土+牒の旁]整頓臺宇玲瓏《タカヽキヒメカキトヽノホリタカトノヤテリカヽヤケリ》。〇海(ノ)神於v是《コヽニ》鋪(キ)2設八重|席薦《タヽミヲ》1以(テ)延《ヒイテ》内《イル》之。〇因(テ)娶《メス》2海|神《ツミノ》女(ノ)豊玉姫(ヲ)1。仍(テ)留2住《トヽマリタマヘルコト》海宮(ニ)1已(ニ)經《ナンヌ》2三年(ニ)1。彼處《ソコニ》雖2復(タ)安(ク)樂(シト)1猶|有《マス》2憶(フ)v郷《クニヲ》之|情《ミコヽロ》1。故《カレ》時(ニ)復(タ)太(ハタ)息《ナケキマス》。豐玉姫聞(テ)之謂2其(ノ)父《カソニ》1曰(ク)。天|孫《ミマ》悽然《イタムテ》數歎(タマフ)。蓋(シ)懐(タマフ)v土《クニヲ》之憂(アリテカ)乎。海神乃延(テ)2彦火火出見尊(ヲ)1從容語《ヲモウルニマウシテ》曰(サク)。天孫若|欲《オホサハ》v還(ラント)v郷《クニヽ》者吾(レ)當(ニ)v奉(ル)v道(ヲ)。なかのへのたへなる殿。延喜式曰。几(ソ)中(ノ)重《ヘノ》庭者須(ラク)令d2諸司(ヲ)1毎(ニ)v晦掃除(セ)u。よのなかのしれたる人のとは、世上に第一の愚痴なる人といふ心なり。竹取物語云。あれもたゝかはてこゝちたゝしれにしれてまもりあへり。源氏物語未通女に此おとなふるにおやの立かはりしれゆくことは云々。事もつけらひ、つけらひはつくるなり。あすのことわれはきなんとは、けふゆきてあす歸ることく、はやく歸らんとなり。此はこをひらくなゆめと。史記扁鵲傳云。趙簡子疾。五日不v知v人(ヲ)。於v是召2扁鵲(ヲ)1。〇居二日半、簡子寢(テ)語2諸大夫1曰。我之帝(ノ)所(ニ)甚樂。與2百神1遊2於鉤天(ニ)1。〇帝甚喜賜2我(ニ)二笥(ヲ)1。皆有v副。そこらくにかためしことを。そこらくはそこはくなり。あやしみとそこにおもはく家をいてゝ。そこにおもはくは、そこにておもふやうといはむかことし。從家はいへをいてゝとよむへし。かきもなく家うせめやと。文選古詩云。所v遇無2故物1、焉(ソ)得(ン)v不(ルコト)2速(ニ)老(ヒ)1。如來本は如本來なるへき歟。あしすりしつゝ、此下の廿八葉、第五、四十葉にもあしすりとよめり。伊勢物語にゐてこしをんなもなし。あしすりをしてなけともかひなし。源氏物語かけろふに、あしすりといふことをしてなくさまわかきことものやうなり。くろかりし髪もしらけぬ。竹取物語に、此ことをみかときこしめして、竹取か家に、御つかひつかはさせたまふ。御つかひにたけとり出あひてなくことかきりなし。此ことをなけくに、ひけもしろく、こしもかゝまり、めもたゝれにけり。おきなことしはいそちはかりなりけれとも、物おもひには、かたときになむおいになりにけりとみゆ。ゆな/\ははて/\はといふ心ときこゆ
 
反歌
 
1741 常世邊可住物乎釼刀已之心柄於曾也是君《トコヨヘニスムヘキモノヲツルキタチサカコヽロカラオソヤコノキミ》
 
初の二句は此方より云なり、浦島子となりて悔る意にはあらず、釼刀己之心柄とつゞくるは、刀の柄《ツカ》に刺入るゝ所をなかご〔三字右○〕と云、心の字をなかご〔三字右○〕とよめばなかご〔三字右○〕とこ(50)ころ〔三字右○〕とは同じ詞なる故にかくつゞくるなり、第十一第十二に至て木にも心とそへてよめる此意なり、凡心を云に、天竺には質多と汗栗※[馬+犬]との異あり、質多は縁慮の心なり、汗栗※[馬+犬]は處中の心なれば、人の心より草木の心及び許に天心地心など作るまでを攝むれば、今刀によせて云は汗栗※[馬+犬]にて、己之とつゞくる方は、質多なり、漢語和語はこれをわかたず、己をサ〔右○〕云は常の俗語なり、下にもあまたよめり、於曾也是君とは、第十二に心鈍とかきてこヽろおぞくとよめり、源氏の蓬生に、はかなき古歌物語などやうの御すさびごとにてこそつれ/”\をもまきらはしかゝるすまひをも思ひ慰むるわざなれ、さやうの事にも心をぞく物したまふ、又橋姫には、恠くかうばしくにほふ風の吹つるを思ひかけぬ程なれば驚ろかざりける心おぞさよと心もまどひて恥おはさうず、此等心のにぶきを云ざれば、おぞきも刀の利からねを云故に釼刀の縁の詞にて、長歌の世間之しれたる人のと云へる所を決するなり、
 
初、とこ世へに住へきものを 歸らてそのまゝ住へきものをと評していふなり。浦島か後悔にはあらす。また歸るとも箱をあけさらましかはふたゝひ常世に住へき物をといふ心ともきこゆ。つるきたちは心とつゝけたり。柄《ツカ》のかたにさしいるゝなかこを心といふなり。第十二に、こまつるきさかこゝろゆへよそにのみ見つゝや君をこひわたりなん。これもおなしつゝけやうなり。禮記云。禮(ハ)其在v人(ニ)也如(シ)2竹箭(ノ)之有(ルカ)1v※[竹/均]也。如2松柏(ノ)之有(ルカ)1v心也。周易云。其(ノ)於(ル)v木(ニ)也爲2堅(シテ)多(シト)1v心《ナカコ》。およそ心といふに、梵語に差別あり。質多《シツタ》を譯して心といふは、慮知の心なり。汗栗駄《カリタ》とも※[糸+乞]栗娜《キリダ》ともいふを翻して心といふは、虚中の心なり。今釼大刀さか心からといへるは、汗栗駄心《カリタシン》の所攝なり。天心地心なと詩に作るたくひみな准してしるへし。おそやは心おそきにて、にふきなり。第十二に
  山しろのいは田のもりに心おそくたむけしたれは妹にあひかたき
此心おそくといふに、心鈍とかけるを思ふへし。利鈍の字はともに劔なとにつきたる字なり。しかれはつるきたちといへるも心からといはむためなから、おそきは劔大刀の緑の詞なり。世のなかのしれたる人のといへる心を、かさねてよみて決するなり。源氏物語よもきふに、はかなきふる哥ものかたりなとやうの御すさひことにてこそつれ/\をもおもひなくさむるわさなれ。さやうのことにもこゝろおそくてものしたまふ。橋姫には、あやしくにほふ風の吹つるをおもひかけぬほとなれはおとろかさりける心おそさよと心もまとひてはちおはさうすといへり。此ふたつの心おそきは今におなしく鈍きなり。このきみは、浦嶋か子をさせり
 
見河内大橋獨去娘子歌并短歌
 
河内の片足羽河と云に渡せる大橋なり、今其處を承及ばず、歌には河の名を讀て、題には河内大橋とのみ云へるは、昔は大橋と云へば其隱なかりけるにや、
 
(51)1742 級照片足羽河之左丹塗大橋之上從紅赤裳數十引山藍用摺衣服而直獨伊渡爲兒者若草乃夫香有良武橿實之獨歟將宿問卷乃欲我妹之家乃不知《シナテルヤカタアスハカハノサニヌリノオホハシノウヘユクレナヰノアカモスソヒキヤマアヰモチスレルキヌキテタヽヒトリイワタラスコハワカクサノツマカアルラムカシノミノヒトリカヌラムトハマクノホシキワキモカイヘノシラナク》
 
上從、【別校本云、ウヘニ、】
 
級照はシナテルとも讀べし、推古紀に聖徳太子の御歌にも、斯那提流箇多烏箇夜麻爾《シナテルカタヲカヤマニ》云々、此枕詞別に注す、左丹塗は左は添へたる詞、丹塗は舟を以て行桁葱花臺などを塗るなり、橋をすべて塗るにはあらず、山藍は延喜式民部下云、凡神祇官卜竹及諸祭諸節等(ニ)所v須箸竹、柏生蒋山藍等類、亦仰(テ)2畿内1令v進、六帖云、山高み澤に生たる山藍もて、すれる衣のめづらしな君、和名集藍の下に本草を引て、木藍、【和名、都波岐阿井、】蓼藍、【多天阿井、】をば出されたれども、山藍をば出されず、伊渡爲兒考、伊は發語の詞、渡る兒はなり、神代紀下の歌云、阿磨佐箇屡避奈菟謎廼以和多邏素西渡《アマサカルヒナツメノイワタラスセト》云々、橿實之獨歟將宿とは、夫もなくて獨か寢らむと云事を橿の實は唯ひとつづゝあればよそへてよめるなり、
 
初、しなてるやかたあすは河の 此しなてるといふ詞はふるく見えたるは、推古紀に、聖徳太子の飢人にたまへる御哥に、斯那提流《シナテル》、箇多烏箇夜摩爾《カタヲカヤマニ》云々。しなはきさはしの等級なり。てる階をほむる詞なり。聖徳太子の御哥にも、此哥にも、片の字につゝけたるは、階はかたゝかひにあるものなれはなり。遊仙窟曰。碧|玉(ノ)《・タマヲ》緑《メクラシテ》v陛(ハシニ)參2差(ト)《・シナ/\ニス》雁齒(ト)《・キサメルコトヲ》1。【雁齒有刻v木又刻v石爲v之。其形一(ハ)前一(ハ)後如2雁之行列、人鳥(ノ)牙齒形1。今人作2牀脚1又作2階砌1皆累縛作之。】かゝるを源氏物語さわらひに
  しなてるやにほの水うみこくふねのまほならねともあひみしものを
河海抄に此集の哥とて、しなてるやにほのみつうみこく舟のまほにも妹にあひみてしかな、人まろの哥と引れたれと、此集の哥にあらす。此しなてるはにほてるといへるやうにきこゆれと、いかによめるにか心得かたし。式部の家の傳あやまりてかくはよめるにや。さにぬりの大橋の上ゆ。さはつけたる字なり。にぬりはゆきけたなとの飾に、丹をぬりて色とれるなり。片足羽河の橋は、河内にていつくのほとゝも今は知人なし。山あゐもてすれる衣きて。藍にも種類あり。山藍も一種なるへし。延喜式民部下云。凡神社官(ノ)卜竹及(ヒ)譜節等尓所(ノ)v須《モチヰル》箸《ハシ》竹、柏、生蒋《ナマコモ》、山藍等(ノ)類、亦仰(テ)2畿内(ニ)1令v進。たゝひとりいわたらすこは、いは發語のことは、わたるをとめはといふなり。わか草のつまかあるらん。此つまは男夫をさすゆへに夫の字をかけり。女をさゝはかくへからす。これ此集のかきさま無窮なる中に、また心を著へき所なり。かしのみのひとりかぬらん。かしの木の實は、まろにて、をの/\ひとつつゝのみなる物なれは、つまもなくてひとりある人にやあるらんといふこゝろをかしの實によせたるなり
 
(52)反歌
 
1743 大橋之頭爾家有者心悲久獨去兒爾屋戸借申尾《オホハシノホトリニイヘアラハコヽロイタクヒトリユクコニヤトカサマシヲ》
 
心悲久は今按ウラガナシクと讀べきにや、
 
見武藏小埼沼鴨作歌一首
 
1744 前玉之小埼乃沼爾鴨曾翼霧己尾爾零置流霜乎掃等爾有斯《サキタマヲサキノヌマイケニカモソハネキルオノカミニフリオケルシモヲハラフトニアラシ》
 
前玉之、【六帖云、サイタマノ、】  掃等爾有斯、【六帖云、ハラフトナラシ、】
 
此は旋頭歌なり、前玉は郡の名なり、和名云、埼玉、【佐伊太末、】かゝれば六帖に依て讀べき歟、沼は小池也と注せればいけ〔二字右○〕ともよむべけれどぬま〔二字右○〕とのみ讀馴たれば今もヲサキノヌマなるべきにや、翼霧は羽を以振て霜を掃ふなり、霧は借て書て截の字の意なるべし、己爾尾を六帖にはおのがをにとあれども、第十五にも可母須良母都麻等多(53)具比弖和我見爾波之毛奈布里曾等《カモスラモツマトタグヒテワガミニハシモナフリソト》云々、此歌尾の字、第五卷に殊に多く音に用たり、其上身の上の霜をこそ侘て掃はめ、尾の上の霜をのみ掃ふべきならねば、鴨なるに依て、ふと誤りてヲとはよみけるなるべし、清少納言に鴨ははねの霜打拂ふらむと思ふにおかし、
 
初、さきたまのをさきの池に さきたまは埼玉郡とて、武藏廿四郡の内にあり。沼は常にはぬまとよめと、小池(ヲ)曰(フ)v沼(ト)とあれは、ぬまも池にて、やかていけともよめり。鴨そはねきるとは、羽たゝきするをいへり。尾をみとよめるは、昔の呉音なり。今は呉音はさよめるにや知侍らす。微美等の字の呉音に准するに、しかるへきことなり。はらふとにあらしは、はらふとならしともよむへし。清少納言か草紙に、かもははねの霜うちはらふらんとおもふにおかし
 
那賀郡曝井歌一首
 
仙覺云、五代集歌枕には紀伊の國と云へり、今按上に見武藏小埼沼鴨作歌と云へ るつゞきに何れの國とも云はで那賀郡と云は、和名集を考るに武藏國に那珂郡あれば上を承て此なるか、其上那珂郡に那珂郷あり、歌に中に向へる曝井とあるは彼那珂郷に向ひてあると云なるべし、和名を見るに那珂郡那賀郷と云へる事に諸國に亘て多し、皆中の義と見えたり、其中に紀伊國那賀、【賀音如v鵞】此注をみるに此は長郡にや、今處の土民は那の音南の如く賀の音鵞の如く申すなれば彼此に付て叶はず、
 
初、那賀郡曝井歌 此曝井を、八雲御抄には、紀伊と注せさせたまへり。およそなかの郡といへるは、国々に同名おほし。紀伊、阿波、伊豆、石見にをの/\那賀郡あり。その中に紀伊は賀の字濁音に讀へきよし、和名集に注せらる。彼國のものは、南鵝《ナムガ》の二音のことく申侍り。今の哥は、中にむかへるとよみたれは、紀州の那賀にはあらぬにや。たゝし諸國ともに、中郡の心なるを、紀州は賀よこなまりて濁音によみきたれるが例となれる歟。又おなし那賀とはかけとも、長郡といふ心にて、なつけたれは、濁音とは注せられたる歟。知かたし。武藏、常陸、讃岐、筑前、日向に、をの/\那珂郡あり。那賀と那珂とかきやうはかはれとも、心はいつれも中の字なるへし。しかれは、右の哥に武藏小埼沼と題したるをうけて、次の二首も武藏なるへきにや。かきやうも後にはさたまれるやうなれと、猶かゝはらぬ事おほし。いはむやむかしの哥なるをや
 
1745 三栗乃中爾向有曝井之不絶將通彼所爾妻毛我《ミツクリノナカニムカヘルサラシヰノタエスカヨハムソコニツマモカ》
 
(54)仙覺の云、此歌の發句古點にはみくるすの〔五字右○〕と點ぜり、其意痛く替らざるべけれどもす〔右○〕の字讀付がたし、みつぐりのなかとつゞくる事は常の詞なる上に、其意相叶へり、今按六帖に井の歌に此を載たるには今と替る事なし、八雲御秒には仙覺の云へる如くあれば、古點も一准ならざる歟、此卷下に至ても同つゞきあり、日本紀に應神天皇の御製云、伽愚破志波那多智麼那《カクハシハナタチハナ》云々、瀰兎愚利能那伽免曳能《ミツクリノナカツエノ》云々、栗は同じ栖の中に大やう三つあり、三つある物は必らず中ある故三栗の中とつゞく、第五に三枝の中にを寢むとと云へるが如し、曝井と名付るは水の清くて布などをさらすによしとてなるべし、井の水の沸て絶ず流るれば不絶將通とはつゞけたり、落句は上に木の國にやまず通はむ妻もこそとよめるに付て注せしが如し、
 
初、みつくりの中にむかへる みつくりとは、粟は多分|栗毬《イガ》の中に三つゝある物なり。たとひまろき栗のひとつあるにも、栗楔《リツケツ》とて兩邊にそへる物あり。その栗楔は杓子に似たれは、俗にやかて杓子といふなり。此ゆへにみつある物には、かならす中あれは、中といふ詞まうけむとて、みつくりとはいへり。日本紀第十應神紀に、日向髪長媛を、大鷦鷯皇子《オヽサヽキノミコ》にたまふ時の、天皇の御哥に、髪長媛を橘によそへて、伽愚破志《カグハシ・香細》、波那多知麼那《ハナタチハナ。花橘》、辭豆曳羅波《シヅエラハ・下枝等》、比等未那等利《ヒトミナトリ・人皆採》、保菟曳波《ホツハ・最末枝》、等利委餓羅辭《トリイカラシ・取發語令枯》、瀰菟愚利能《ミツグリノ・三栗》、那伽菟曳能《ナカツエノ・中枝》、府保語茂利《フホゴモリ・含隱》、阿伽例蘆塢等※[口+羊]《アカレルヲトメ・所熟處女》、伊弉佐伽麼曳那《イササカハエンナ・去來盛榮》。すてに應神天皇のかくよませたまへは、ふるくつたはれる詞なり。又此卷下の廿八葉にも、みつくりの中とつゝけてよめる哥、人麿集に出たりとて有。第五卷に、山上憶良歌に、ちゝはゝもうへはなさかりさき草の中にをねんとゝつゝけたるも、事はかはりて、中とつゝくる心は今とおなし。八雲御抄には、みくるすの中にむかへるとかゝせたまへれと、さきに、應神紀を引ることくなれは、異義あるへからす。そこにつまもがとは、此卷の上に、きのくにゝやますかよはむ妻もこそとよめる哥の心におなし。さらし井の名は、布なとをさらすに、此水にてよく白む心にて、つけたるなるへし
 
手綱濱歌一首
 
八雲御抄に紀と注し給へり、
 
初、手綱濱歌 八雲御抄に紀と注せさせたまへり。かんかへさせたまへる所ありてこそ
 
1746 遠妻四高爾有世婆不知十方手綱乃濱能尋來名益《トホツマシタカニアリセハシラストモタツナノハマノタツネキナマシ》
 
四は助語なり、高ニ有セバとは第十二に高々に妹が待らむとよめるに同じ、落句は(55)手綱の濱を承て尋とつゞけたり、歌の意は遠妻の我を高々に待侘ば、此手綱の濱をそことは知らずとも尋も來ぬべしと旅なる人の手綱の濱にてよめる歟、又清胤僧都の、君すまば問はまし物をと生田に住ながら引替てよまれけるやうに、我遠妻の旅に出て、此手綱の濱にあらむを我故郷にありて高々に待侘る物ならば尋ても來なまし物をとよめる歟、
 
初、遠妻し高にありせは これは旅なる人の、手綱濱にてよめる哥と見えたり。遠妻は故郷にある妻なり。しはたすけたる語なり。高にありせはとは、たかたかに妹か待らんなとよめるに同し。旅なる人をあふきて待心なり。又夫を高き山とたのむ心もこもるへし。遠妻のわれを高々にまたは、此たつなの濱をそことはしらすとも、待こひては尋もきぬへしといふ心を、たつなの濱といふ名をうけて、尋きなましとはいへり。又わか遠妻の旅にあらんを、わか高々にまたは、しらすとも尋こんといふこゝろ歟。清胤僧都の、君すまはとはましものをつのくにのいくたのもりの秋の初風といふ心はへも有へし
 
春三月諸脚大夫等下難波時歌二首
 
目録には并短歌といへり、
 
初、春三月諸卿大夫等 目録には并短歌の三字あり。有ぬへきなり
 
1747 白雲之龍田山之瀧上之小鞍嶺爾開乎爲流櫻花者山高風之不息者春雨之繼而零者最末枝者落過去祁利下枝爾遺有花者須〓者落莫亂草枕客去君之及還來《シラクモノタツタノヤマノタキノウヘノヲクラノミネニサキヲセルサクラノハナハヤマタカミカセシヤマネハハルサメノツキテシフレハホツエハチリスキニケリシタツエニノコレルハナハシハラクハチリナミタレソクサマクラタヒユクキミカカヘリクルマテ》
 
小鞍、【幽齋本、鞍作v※[木+安]、】  下枝爾、【幽齋本云、シツエニ、】
 
白雲は立とつゞけむ料ながら山には似よれる枕詞なり、瀧上之小鞍嶺とは、次の歌(56)にも瀧上之櫻花者とよみ、其次にも瀧の瀬とよめり、彼處に瀧と云ばかりの瀧は聞えねば山水の早く落るを云へる歟、小鞍嶺は立田社あるは立野より一里許西北に當りて毘沙門のおはする信貴につゞけり、世に役優婆塞の鬼を捉《トラ》へて役使せられたりとて鬼取と云所のあなるあたりにて、小倉寺とて此も優婆塞の開かれたる所と云傳へて今も形ばかりの山寺あり、定家卿こゝの詞を取て、白雲の春は重て立田山、小鞍嶺の北へ越なり、風之不息者、之は助語なり、繼而零者は、し〔右○〕は助語なり、今按ツギテフレヽバともツギツヽフレバとも讀べし、最未枝とは神代紀に上枝とあるに同じ、穗津枝の意なり、穗は高くあらはれ出たる意、津は助語なり、下枝は幽齋本の如く讀べし、落莫亂はチリナマガヒソとも讀べし、終の三句は此歌は京に留まる人のよめる故なり、
 
初、白雲の龍田の山の 或物に龍田と名つくるよしをかきたれと、信しかたけれはおきぬ。瀧の上のをくらのみねにさきをせる。次下の長歌にも、瀧の上の櫻の花と讀たれは、龍田山にも瀧のあるなるへし。又其次の哥に、嶋山をいゆきもとほる川そひの岡への道といひて、をのうへのさくらの花は瀧の瀬におちてなかれぬといひたれは、此瀧の上といへるは、山より高く落くるにはあらて、立田川のたきる所をいへるなるへき歟。をくらの嶺は、立田山の中に、一所をさしていへる名なるへし。此卷の初にある、雄畧天皇のゆふされはをくらの山にふすしかのとある御製の、をくらの山もおなし所にや。さきをせるとは、さくことをするなり。ほつえは最末枝とかけるにて知ぬへし。神代紀に、上《カムツ》枝といへるにおなし。下枝、これをしたつえとかんなをつけたれと、神代紀にもしつえとよみ、つねにもしかよめは、今も四もしにしつえにとよむへし。たひゆく君かかへりくるまて。これはとゝまれる人のよみたるやうにきこゆれと、反歌に、わかゆきはなぬかは過しといへるをおもふに、われも難波へ下る身なから、大夫のしりへにしたかへる人の、貴人のために、草枕たひゆく君か歸りくるまてといひ、みつからもゆくゆへに、我ゆきはなぬかは過しともいへるなり。相違せす
 
 
反歌
 
1748 吾去者七日不過龍田彦勤此花乎風爾莫落《ワカユキハナヌカハスキシタツタヒコユメコノハナヲカセニチラスナ》
 
發句は今按長歌の末と義相乖けり、吾と君と字相似たる故に君去者にて、きみかゆ(57)きはなるを誤て吾に作れるなるべし、龍田彦は延喜式神名帳云、龍田比古龍田比女神社二座、是風神なり、下に至て委注すべし、
 
初、わかゆきはなぬかは過し 第十七に、家持のそりたる鷹を夢にみてよまれたる哥に、ちかくあらは今ふつかたみとほくあらはなぬかの内は過めやもきなんわかせこねもころになこひそよとそ|いま《・夢》に告つる。第十三にも、ゆふうらのわれに告らくひさにあらは今なぬかはかりはやからは今ふつかはかりあらんとそきみはきこしゝなこひそわきも。龍田彦は、延喜式第九、神名上云。大和國平群郡龍田比古。龍田比女神社二社。同第八龍田風神祭祝詞云。奉(ツル)宇豆乃|幣《ミテクラ》者、比古神爾御|服明妙《ソハアカルタヘ》〇比賣神爾御服備(ヘ)金能|麻笥《ヲケ》云々。龍田彦は風神なるゆへに、ゆめ/\此花を、歸るまて風にちらしめたまふなとはよめり。龍田彦の事、今やかて委注之
 
1749 白雲乃立田山乎夕晩爾打越去者瀧上之櫻花者開有者落過祁里含有者可開繼許知期智乃花之盛爾雖不見左右君之三行者今西應有《シラクモノタツタノヤマヲユフクレニウチコエユケハタキノウヘノサクラノハナハサキタルハチリスキニケリツホメルハハナサキツキヌヘシコチコチノハナノサカリニミネトマテキミカミユキハイマニシアルヘシ》
 
合有者、【官本又云、フフメルハ、】
 
含有者はフヽメルハと讀べし、雖不見左右は此一句いとも意得がたし、推量するに既に開たるは散過て、つぼみたりつるも殘なく開つきぬべし、をちこちの花盛をば御覽じ給はぬまでも、行幸し給はむ時はせめても今なるべしとよめるなるべし、今ニシのし〔右○〕助語なり、
 
初、こちこちの花のさかりに こち/\はこと/\なり。知と登とは五音相通なり。こと/\は悉なり。みねとまて君かみゆきは今にしあるへし。此みねとまてといふ詞つかひ、此集の後又もなき詞にて、心は聞得たれと、よくは尺しかたし。よく心をつけてみるへし。此花を御覽せむとて、行幸したまはむことは、今やかてのことなるへけれとも、行末の事にて、そのみゆきをまだみねば、みねとも末まてをかねていはゝ、君か行幸は今あるへしといふ心なり。次の哥に君かみんその日まてには山おろしの風なふきそと――せな、これ今の心とおなし
 
反歌
 
(58)1750 暇有考魚津柴比渡向峯之櫻花毛折末思物緒《イトマアラハナツサヒワタリムカツヲノサクラノハナモヲラマシモノヲ》
 
御暇を賜て下るに、官制限ありて期を過て逗留すべからざれば、暇あらばとは云なり、
 
初、いとまあらはなつさひわたり なにはへ下るとて、いとまなけれは、いとまあらはとはいへり。なつさひは友たち携てなり
 
難波經宿明日還來之時歌一首并短歌
 
初、經v宿 莊(カ)三年(ノ)左傳(ニ)曰。凡(ソ)師《イクサ》一宿(ヲ)爲(シ)v舎(ト)、再宿(ヲ)爲(シ)v信(ト)、過(ルヲ)v信(ニ)爲(ス)v次(ト)。天台山賦(ニ)曰。陟降信宿(ニシテ)迄《イタル》2于仙都(ニ)1。翰(カ)曰。再宿(ヲ)爲(ス)v信(ト)。言(コヽロハ)上下兩宿(シテ)至(ルナリ)2于仙都(ニ)1也
 
1751 島山乎射徃廻流河副乃丘邊道從昨日已曾吾越來牡鹿一夜耳宿有之柄二峯上之櫻花者瀧之瀬從落墮而流君之將見其日左右庭山下之風莫吹登打越而名二負有杜爾風祭爲奈《シマヤマヲイユキモトホルカハソヒノヲカヘノミチニキノフコソワカコエコシカヒトヨノミネタリシカラニヲノウヘノサクラノハナハタキノセニオチテナカレヌキミカミムソノヒマテニハヤマオロシノカセナフキソトウチコエテナニオヘルモリニカサマツリセナ》
 
廻流、【別校本又云、メクレル、】  丘邊、【校本或丘作v岳、】
 
島山は第五に奈良路なる島の木立とよめる處なり、射往廻流は、射は發語の詞、徃廻流は人の上とも水の事とも兩方に聞ゆるにや、道從はミチユともよむべし、宿有之(59)柄には第四にも云如くから〔二字右○〕は間なり、岑上之はヲノヘノとも讀べし、君之將見とは、此君は上の歌に君之三行者とよめる天子なり、名二負有杜とは立田神社なり、延喜式云平群郡龍田坐天御柱國御柱神社二座、【並名神大、月次新甞、】天武紀云、四年夏四月甲戌朔癸未、遣2小紫美濃王小錦下佐伯連廣足1、祠2風神(ヲ)于龍田立野1云々、延喜式第八龍田風神祭祝詞云、龍田  稱辭《タヽヘコト》竟(ル)皇神志貴嶋大八島國知皇|御孫《ミマコノ》命遠御膳長御膳赤丹《アカニ》聞食五(ノ)穀物?、天下公民作物片葉至【萬?】不成一年二年不在、歳眞尼傷故物知人|等《トモ》、事?卜【止母】出御心聞看?、皇御孫命詔、神等【乎波】天社國社忘事無(ク)遺事無稱辭竟奉行【波須乎】誰神天下公民作(ル)作物不成傷神等我御心【曾止】悟(シ)奉【禮止】宇気比賜是(ヲ)以皇御孫命大御夢悟奉、天下公民作(ル)作物惡風荒水相【都々】不成傷、御名者天御柱命國御柱御名者悟奉?、吾前幣帛《ミテグラ》者御服者明妙照妙和妙荒妙五色物楯戈御掲御鞍具?品々幣帛備?、吾宮者朝日日向處夕日日隱處龍田立野小野吾宮定奉?吾前稱辭竟奉者、天下公民作(ル)作物者五穀?片葉至【万?】成幸奉【牟止】悟(シ)奉、是以皇神辭教(ヘ)悟(シ)奉處宮柱定奉?、此皇神稱辭竟奉皇御孫命宇豆幣帛令2捧持1?王臣等(60)爲使?稱辭竟奉【久止】皇神白賜事神主祝部等諸聞食宣、神代紀上云、一書曰、伊弉諾尊與2伊弉※[冉の異体字]尊1共生2大八洲國(ヲ)1、然後伊弉諾尊曰(ク)我(カ)所v生之國唯有2朝霧1而薫滿之哉、乃|吹撥《フキハラフ》之|氣《イキ》化(シテ)爲v神號曰2級長戸邊命(ト)1、亦(ハ)曰2級長津彦(ト)1かゝれば天御柱國御柱は此級長戸邊命の男女二神にて、龍田彦龍田姫は荒魂にておはする歟、風祭爲奈は風祭せむななり、延喜式第一云、大忌風神祭(ハ)並四月七月四日(ナリ)、此は風雨の災なくして五穀の成熟せむ事を廣瀬と龍田とに祈給ふなり、今風祭せむと云は臣下の私に志を云なり、月日に拘はるべならず、
 
初、嶋山をいゆきもとほる川そひの 嶋山は大和なり。第五に奈良路なる嶋のこたちとよみ、十九に嶋山にあかる橘とよめる所なり。いゆきのいは、例の發語の辭なり。もとほるは、まはる、めくるといふにおなし。一夜のみねたりしからに、此からは間の字にて、すなはちあひたといふ心なり。神代紀下(ニ)云。時(ニ)彼(ノ)國(ニ)有2美人《ヲンナ》1。名(ヲハ)曰2鹿葦《カアシ》津姫(ト)1。皇孫《スメミマ》問(テ)2此美人(ニ)1曰。汝(ハ)誰(カ)之|女子《ムスメソヤ》耶。對(テ)曰(サク)妾(ハ)是(レ)天(ノ)神娶(トテ)2太山祇(ノ)神(ヲ)1所v生《ムマシメタル》兒《コナリ》也。皇孫因|幸《メス》之。却一夜(ニシテ)而|有娠《ハラミヌ》。何《ナンソ》能|一夜之間《ヒトヨノカラニ》令v人(ヲ)有娠《ハラマセムヤ》乎。汝《イマシカ》所v懷《ハラメル》者必(ラス)非(シ)2我子(ニ)1歟。此集第十人に皇孫|未2之信《イツハリナラントオホシテ》1曰《・ノタマハク》。雖2復(タ)天(ノ)神(ト)1
  あすからはつきてきこえむほとゝきすひとよのからにこひわたるかも
君かみんその日まてには山おろしの風なふきそと。此君といへるは天子なり。さきの哥に、君かみゆきは今にしあるへしとよみし心におなし。拾遺集云。亭子院、大井川に御幸有て、行幸も有ぬへき所なりとおほせたまふに、ことのよし奏せんと申て 貞信公
  をくら山峯のもみち葉心あらは今ひとたひのみゆきまたなん
花と紅葉とはかはれと、哥も詞書もよくこゝに似たるは、こゝの二首をおもひて、貞信公もよみたまへる歟。をのつからもかよひぬへし。名におへるもりにかさまつりせな。此名におへる杜は、龍田の杜なり。延喜式第九神名上云。大和國|平群《ヘクリノ》郡龍田(ニ)坐《マシマス》天(ノ)御柱國(ノ)御柱(ノ)神社二座【並名神。大。月次。新甞。】。第三名神にもまた載たり。此神は、級長津彦《シナカツヒコノ》命をいはひたてまつれるなり。神代紀上(ニ)云。一書(ニ)曰。伊弉諾(ノ)尊與2伊弉册(ノ)尊1共(ニ)生《ウミタマフ》2大八洲(ノ)國(ヲ)1。然(シテ)後伊弉諾(ノ)尊(ノ)曰《ノ ハク》。我(カ)所生《ウメル》之國|唯《タヽ》有(テ)2朝霧(ノミ)1而|薫滿之哉《カホリミテルカトノタマヒテ》、乃(タ)吹|撥《ハラフ》之|氣《イキ》化2爲《ナル》神(ト)1。號《ミナヲ》曰(ス)2級長戸邊《シナカトノマ》命(ト)1。亦(ハ)曰(ス)2級《シ》長津彦(ノ)命(ト)1。是(レ)風(ノ)神(ナリ)也。此神を龍田にいはひ奉ることは、天武天皇の御時なり。日本紀第二十九、天武紀下云。四年夏四月甲戌朔癸未、遣2小紫美濃王小錦下佐伯(ノ)連廣足(ヲ)1祠2風神(ヲ)于龍田(ノ)立野(ニ)1。遣2小錦中|間《ハシ》人(ノ)蓋《フタ》、大山中曾禰(ノ)連韓犬(ヲ)1祭《イハヽシム》2大忌(ノ)神(ヲ)於廣瀬(ノ)河曲《カハワニ》1。此後廣瀬龍田神を祭たまふ事、紀中にあまたみえたり。延喜式第八、龍田風神祭祝詞を見るに、風神をいはひたまふ由緒あり。日本紀にあはせておもふに、天武紀に見えされとも、天武の御時といふ事、式にいはすしてしられたり。彼祝詞(ニ)云。龍田爾|稱辭竟奉《タヽヘコトオヘタテマツル》皇《スメ》神乃前爾|白《マウサ》久。志貴嶋爾大八島國知志皇|御孫《ミマノ》命乃、遠|御膳《ミケ》乃長御膳止、赤丹《アカニ》乃穗爾聞食須、五(ノ)穀《タナツ》物乎始※[氏/一]、天下乃|公民《オホムタカラノ》乃作物乎、草乃|片葉《カキハ》爾至【萬※[氏/一]】不成、一年二年爾不在、歳|眞尼《マネ》久傷故爾、百能物知人等乃卜事爾出牟神乃御心者、此神止白止|負《オホセ》賜支。此乎物知人|等《トモ》乃卜事乎以※[氏/一]卜【止母】、出留神乃御心母無止|白《マウス》止|聞《キカシ》看※[氏/一]、皇御孫命詔久。神|等《タチ》【乎波】、天社國社止、忘(ルヽ)事無久遺(ス)事無久、稱辭竟《タヽヘコトオヘ》奉止思志行【波須乎】、誰《イツレノ》神曾、天下乃|公民《オホムタカラ》乃|作《ツクル》作《ツクリ》物乎不v成傷神等波。我御心【曾止】悟《サトシ》奉【禮止】宇気比|賜《タマヒ》伎。是(ヲ)以|皇御孫命《スメミマノミコトノ》大|御《ミ》夢爾|悟奉《サトシタテマツラ》久。天下乃公民乃作(ル)作(リ)物乎、惡《アイキ》風|荒《アラキ》水爾相【都々】不成傷波、我御名者、天乃御柱乃命、國乃御柱乃命止御名者|悟《サトシ》奉※[氏/一]、吾前爾奉牟|幣帛《ミテクラ》者、御|服《ソ》者明妙照妙和妙荒妙五色乃物楯戈御馬爾御|鞍《オソヒ》具※[氏/一]、品々乃幣帛備※[氏/一]、吾宮者、朝日乃日向處、夕日乃日隱處乃、龍田能立野爾、小野爾、吾宮波定奉※[氏/一]、吾前乎稱辭竟奉者、、天下乃公民乃作(ル)作(リ)物者、五(ノ)穀《タナツモノ》乎始※[氏/一]、草乃片葉爾至【萬※[氏/一]】成幸閉奉【牟止】悟《サトシ》奉支。是(ヲ)以皇神乃辭教(ヘ)悟(シ)奉處仁、宮柱定奉※[氏/一]、此乃皇神能前爾、稱辭竟|奉《タテマツリ》爾、皇御孫命乃宇豆乃|幣帛《ミテクラヲ》令《シメ》2捧(ケ)持(タ)1※[氏/一]、王臣等乎爲(シ)v使※[氏/一]、稱辭竟奉【久止】、皇神乃前爾|白《マウシ》賜事乎、神主祝部等諸聞(シ)食《メセ》止宣。此祠詞の中に、帝の御夢に神の告させ給へる事ありて、はしめて社を立て祭そめさせ給ふよしは、まさしく天武天皇の御事なるを、いかて天武紀はさきにひけることく、唯祠2風神于龍田立野(ニ)1とのみ畧してしるしたまひけむ。天御柱命、國御柱命は、すなはち神代紀の級長津彦命なり。級長戸邊命を、または級長津彦命とまうすとあれな、一神の異名と聞えたれと、龍田には、二座にいはゝれ給ふをおもふに、もとより伊弉諾尊の息よりなりたまへる神なれは、息に出入あり。出るは陽、入るは陰、々陽かならす相對するゆへに、出息は天御柱命にて男神、入息は國御柱命にて女神となれるにあるへし。天神地祇を、あまつかみくにつかみといふかことく、國御柱といふは、天御柱に對して、地御柱といふ心なり。御柱といふは、家の柱によりてあるがことく、壽命は出入の息によりて連持すれは、たとへて名付奉るなり。日本紀に、二神日神を生たまひて、天柱《アメノミハシラ》をもて天上《アメ》に擧《ヲクリアケ》たまふといへる、天柱は風の事なるへし。内典に、日月の運轉、みな風の力によるといへり。擧の字をゝくりあくとよめるは此心なり。大日經(ノ)疏(ニ)云。念(ト)者風(ナリ)。此事極秘なり。かならす明師に相傳すへし。しかれは此御神は、大塊(ノ)之|噫《アイ》氣、衆生(ノ)之壽命にして、また/\心識なり。あめつちのみはしらを御名におひたまへるは、これらのゆへなるへし。日本紀纂疏云。級長者猶v言2息氣長(ト)1也。戸津(ハ)者皆語(ノ)助(ナリ)也。邊(ハ)者姫也。彦者男也。風神今(マ)在(リ)2大和國(ニ)1龍田(ノ)社是(ナリ)也。しなかの尺、こゝろはさもやと聞ゆれと、いかにして息のなかきを、しなかといふへき。もしおきその風といふがいきの事なれは、下のそもしを五音相通してしといへる心歟。もし息の字の音を下をすてゝ五音相通する心歟。その心ときこゆれは、和漢雑亂の誤なり。邊者姫也。これはいかに心得てかくは尺したまひけむけん。一神の上の二名ときこゆれは、男女雜亂の誤なるへし。邊と女と同韵相通のこゝろ歟。あまりの穿鑿なり。又龍田比古龍田比女神社二社とて、延喜式に別に載られたるは、案するに、天御柱國御柱の二神の荒魂《アラミタマ》にて、さきより龍田に鎭座したまひて、時を待て、天武の御時に至て和魂《ニキミタマ》はいはゝれたまへるなるへし。風まつりせなは、風祭せんなゝり。延喜式第一云。大忌風神《オホミカサカムノ》祭(ハ)竝(ニ)四月七月(ノ)四日。これは五穀成熱のために、をのをの時に先たちて、廣瀬の大忌と、龍田の風神とを祭らるゝなり。廣瀬は倉稻魂《ウカノミタマ》なり。三月晦日の鎭華《ハナシツメノ》祭もまた風《カサ》祭なり。いまはさたまれる祭にはあらす。君か行幸《ミユキ》を待つくるまて、花をちらさしかために、まつらんといふなり
 
反歌
 
1752 射行相乃坂上之蹈本爾開乎爲流櫻花乎令見兒毛欲得《イユキアヒノサカノフモトニサキヲセルサクラノハナヲミセムコモカナ》
 
射は發語の詞、行相乃坂上は處名歟、袖中抄や此集第十|※[女+感]嬬等行相乃速稻乎《ヲトメラニユキアヒノワセヲ》と云歌を釋して云、顯昭云、行相のわせとは處の名をわせに讀付たる也とて此歌を又引て此歌にて心得あはするに、前のわせの名も所に付たると聞ゆる也、今按|葛餝《カツシカ》早稻布留の早田なども讀たれば、行相と云所の早稻をゆきあひの早稻と云と意得て釋せ(61)られたる其謂なきにあらず、但今の歌に發語の詞を加へたるは不審なきに非ず、第十四にも左和多里能手兒爾伊由伎安比《サワタリノテコニイユキアヒ》とよめり、逢坂の枕辭にも未通等に、吾妹子になどおけり、道にて人に行相はいづくにもあれど、坂を登るはてに彼方此方よりゆくりもなくおかしき人に行相たらむは殊にめづらしかるべければ、坂といはむとて射行相乃とおける歟、坂とのみはかゝずして坂上とかけるも彼互に登りはてゝふと行相意にや、但行相速稻の説にひかれて所の名とせられたる先達の説に從ふべし、麓を蹈本とかけるは山に登るものは先麓よりすればふむもと〔四字右○〕と云べきを略して名付たれば蹈本は和語の正字なり、
 
初、いゆきあひの坂のふもとに いは例の發語、行相の坂は立田山の坂の名にや。神武紀云。皇師《ミイクサ》勒《トヽノヘテ》v兵《ツハモノヲ》歩《カチヨリ》趣《オモムク》2立田(ニ)1。而其(ノ)路|狹嶮《サクサカシクシテ》人不v得2竝行《ナミユクコト》1。ほそき道のさかしきを、のほりはてゝ、ゆきすりにこゆる坂なれは、ゆきあひの坂とは名付たるにや。いといふ發語をくはへたれは、もとよりの坂の名にはあらて、こなたかなたよりのほる人の、行あへは、おしていへるにもあるへし
 
萬葉集代匠記卷之九上
 
(1)萬葉集代匠記卷之九下
 
※[手偏+僉]税使大伴卿登筑波山時歌一首并短歌
 
此中に右件歌と云へるは※[女+燿の旁]歌會日の長短二首に限る、又今の歌より以下八首を合せて云へる也、其中間に注なきを以て知るべし、又下に至て鹿島郡苅野橋別大伴卿歌の左に云、右二首高橋連蟲麻呂之歌州中出、是又他人の歌を以て隔たる後なれど今の歌の首尾なり、推量するに養老年中藤原宇合卿常陸守なりし時の事にて、蟲丸は椽介等の屬官にて、旅人の※[手偏+僉]税使なるにつきて筑波山に登れる歟、
 
初、檢税使大伴卿 税はたちからとよみて年貢なり。主税頭《チカラノカミ》といふ官はこれをつかさとるによりて名つけたり。年貢の損益多少を檢校する勅使なれは、檢税使なり。大伴卿は安麻呂歟。此卷は古人のしるしをけるにまかせたりとみゆれはなり。安麻呂にても旅人にても、日本紀、績日本紀に檢税使につかはされたる事見えす。下の廿八葉に、鹿島(ノ)郡|苅野《カルノヽ》橋(ニシテ)別(ルヽ)2大伴卿(ニ)1歌一首并短歌。うたの後の注にいはく。右二首高橋連蟲麻呂之歌集中出。これ常陸の檢税事をはりて下総の國にわたる時、蟲麻呂常陸にとゝまりてよめるなり
 
1753 衣手常陸國二並筑波乃山乎欲見君來座登熱爾汗可伎奈氣木根取嘯鳴登岑上乎君爾令見者男神毛許賜女神毛千羽日給而時登無雲居雨零筑波嶺乎清照言借石國之眞保(2)良乎委曲爾示賜者歡登※[糸+刃]之緒解而家如解而曾遊打靡春見麻之從者夏草之茂者雖在今日之樂者《コロモテノヒタチノクニノフタナミノツクハノヤマヲミカクホリキミカキマストアツケキニアセカキナケキネトリスルウソフキノホリヲノウヘヲキミニミスレハヲノカミモユルシタマヘリメノカミモチハヒタマヒテトキトナククモヰアメフリツクハネヲキヨメテラシテコトトヒシクニノマホラヲマクハシニシメシタマヘハウレシミトヒモノヲトキテイヘノコトトキテソアソフウチナヒキハルミマシヨリハナツクサノシケクハアレトケフノタノシサ》
 
衣手は常陸の枕詞なり、別に注す、二並は是も亦筑波山の枕詞とも云べし、第三に儕立乃見果石山とよめるに付て注せしが如し、汗可伎奈氣木とは、さらでも山を登る時は苦しくて熱きを、夏の事なれば殊に汗の出て痛く熱ければ長き息のつかるゝをなげき〔三字右○〕と云へり、根取嘯鳴登とは、根取は笛の曲なり、餘りに山路の苦しければ根取の如くなる嘯を吹て登るなり、今按ねとりの事往古より有事歟中古より有事にやいまだ知らず、推量するに汗|可伎奈氣伎木《カキナケキキノ》根取とありてあせかきなげききのねとりなりけむを、氣の下に伎の字を落して次の句の木の字を上の句に屬すれば根取の二字讀たらぬ故にねとりするとは讀付けるなるべし、男神女神を袖中抄にはをとこがみをむながみとあれど今の點にしかねば此を取らず、二神の事第三に神名帳を引が如し、千羽日給而は袖中抄に此集第十一の靈治波布神毛吾者打棄乞四惠也壽之〓無《タマチハフカミヲモワレハウチステキシヱヤイノチノヲシケクモナシ》と云を釋して云、顯昭云、たまちはふ神とはたま〔二字右○〕は魂なり、靈とかけり、ちはふはたはふと云歟、たはふはたまふなり、たましひを給ふ神と云也、招《セウ》魂と云た(3)ましひをまねくも同事也、其神をば捨て命惜からずとよめる歟、な〔右○〕とた〔右○〕と同五音也、又長歌云とて今の男神毛より雲居爾零と云までを引て、ちはひは誓ふ意歟、又神にはもはやと云事あれば神のめぐみを云歟、さればたまちはふに命をめぐみ給ふ意にて、ちはひ給ふと云詞と同歟、兩方義可v案v之、今按第十一の歌は彼處に至て所存を注すべし、今のちはひ給ひてはいちはやひたまひてと云なるべし、ちはやぶると云もいちはやぶるの上略なり、此いちはやしと云詞はしるしのあらはなる意あれば善神惡神に亘りてちはやぶる神と云、委はちはやぶる神とつゞくるに付て別に注す、雲居雨零は雲の居て雨の零なり、班固(カ)東都賦(ニ)云、雨師汎v灑、風伯清v塵(ヲ)、言借石、借の字は郭景純遊仙詩云、借問此|何誰《タソ》、又云、借問《トフ》蜉蝣(ノ)輩、國之眞保良は第五に注せしが如し、解而曾遊は、此解而は心の打解而と云なれば今の點叶はず、トケテゾアソブと和すべ、打靡も以前注せし如くウチナビクとよむべし、以下の意は春見たらむよりは夏草の茂くて劣れども今日はたのしと云意なり、舊事紀云、阿那※[こざと+施の旁]能斯《アナタノシ》、言(心ハ)伸(テ)v手(ヲ)而舞合v指樂(シフ)事謂2之|太乃之《タノシ》1、此意今按此注の意は太は手なり、乃之はのばし〔三字右○〕の略歟、又は熨《ノス》歟、
 
初、衣手の常陸の國の 常陸國風土記(ニ)云。倭武(ノ)尊巡2狩(シテ)東夷之國(ヲ)1幸2過(ス)新治之縣(ヲ)1。所(ノ)v遣(セル)國(ノ)造《ミヤツコ》昆那良珠(ノ)命《ミコト》新(ニ)令b堀(ラ)v井(ヲ)。流泉降澄尤有2好愛1。時《ヨリ/\ニ》停(テ)乘(シニ)v輿興(ニ)翫(ソヒ)v水(ヲ)洗(ヒタマフ)v手(ヲ)。御衣(ノ)之袖|垂《タリテ》v泉(ニ)而|沾《ヌレヌ》。依(テ)2漬《ヒタス》v袖(ヲ)之義(ニ)1以爲2此國(ノ)之名(ト)1。風俗《クニヒトノ・ナラハシノ》諺(ニ)云。筑波(ノ)山(ニ)黒雲|掛《カヽリテ》衣袖漬《コロモテヒタシノ》國(トイフ)是(ナリ)焉。此風土記の説は、衣手のぬれたまへるゆへに、衣手のひたしの國となつくる心なり。筑波山黒雲掛衣袖漬國といへる諺は、先もとより衣手のひたしの國といひならへるうへにいへるなり。筑波山に黒雲のかゝれは、かならす雨のふりきて、道ゆき人なとの、そてをうるほすゆへに、けにもころもてのひたしの國とはよくなつけたりといひなす心なり。逢坂の名は、忍熊王の軍を、武内宿禰の追て、こゝにあひて戰けるゆへに名付たるを、蝉麿のこれやこのゆくもかへるもわかれてはしるもしらぬもあふさかの關とよまれたるにおなし。又ひたちは古哥にあつまちの道のはてなるひたちとつゝけよみて、東海道十五箇國のはてなれは、ひたみちといふ義なり。風土記云。往來(ノ)道路《ミチ》、不v隔2江海(ノ)之津□(ヲ)1。郡郷(ノ)境堺、相2經山川之峯谷1。《・疑上下有脱字》庄《サト》近(ク)通(スルノ)之義(ヲ)以即名(ケ)稱(フ)焉。これによりていはゝ、衣手のひたしの國といはむこそあらめ。常陸とはつゝくへうもなしと難すへけれと、もとより兩義ありて、ひたしのくにとも、ひたちのくにともいひけるを、後はひたちとのみいへと、猶ふるき一説をもて、かくはつゝけきたれりと會釋すへし。此哥作者なし。國守あるひは椽なとのよめるなるへし。ふたなみのつくはの山、此山みねふたつ相ならへり。高きを男(ノ)神といひ、ひきゝかたを女の神といふなり。第三におなし山をよめる哥に、ともたちの見かほし山と神代より人のいひつきくにみする筑羽の山を云々。あつけきにあせかきなけき。下に夏草のしけくはあれとゝいへは、あつけきは折ふしにあひ、又山をのほるには、さらぬ時もあつくて汗のいつるなり。ねとりするうそふきのほり。山をのほるに、さかしくてくるしけれは、笛の曲のねとりのやうに、息をもらすに聲あるを、うそふくといへり。わさと口笛を吹にはあらす。岑上を君に見すれは、これ國守橡なとの、つきてのほりてみするなるへし。をのかみもゆるしたまへり、めの神もちはひたまひて。延喜式第九、神名上云。常陸國筑波郡筑波山(ノ)神社二座【一(ハ)名神。大。一(ハ)小。】男神は大社、女神は小社なり。ゆるしたまへりとは、檢税使の山に登る事をゆるして、うけたまふなり。ちはひたまひてとはいはひたまひてなり。いはふはいつくなり。伊と知と同韻相通なり。第十一に、玉ちはふ神もわれをはうちすてきとよめるも、玉ちはふは神のみたまをいはふなり。延喜式神名下云。備後國|三谿《ミタニノ》郡知波夜比古神社。同國三|次《スキノ》郡知波夜比賣神社。此ちはやひこ、ちはやひめの名も、いつく心歟。又ちはやふるちはや人なといふ心歟。時となく雲居雨ふり、つくはねをきよめてらして。時ならす雲のゐて小雨のふりて、山をきよむるは、檢税使のまうつるを納受したまふなり。文選班孟堅(カ)東都賦曰。山靈護(リ)v野(ヲ)屬御(スルニ)方神(アリ)。雨師|汎灑《・ソヽイテ》(カ)(ト)、風伯清(ム)v塵(ヲ)。ことゝひし國のまほらを。檢税使なるゆへに、國中のことをとふなり。國のまほらは眞原といふことなり。保と波と通せり。日本紀景行天皇|思邦《クニシノヒノ》御歌にも、やまとはくにのまほらまとよませ給へり。中原といふ心なり。言借石とかける借の字は、文選謝玄暉詩云。借問《トフ》下v車(ヨリ)日、匪(ス)2直《タヽ》望舒(ノ)圓(ナルノミニ)1。郭景純(カ)游仙詩(ニ)、借問《トフ》此(レ)何誰《タレソ》。云(フ)是(レ)鬼谷子。又云。借問《トフ》蜉蝣(ノ)輩、寧知(ンヤ)2龜鶴(ノ)年(ヲ)1。うれしみとひものをときて家のこととけてそあそふ。欽明紀云。願(ハ)王介v襟《コロモクヒヲ》緩(ヘテ)v帶(ヲ)恬然《シツカニ》自安(シテ)勿(レ)2深(ク)疑(カヒ)懼《オソルヽコト》1。家のことはわか家のことくなり。ときてそあそふとあるは、きの字あやまれり。これは心の打とくるなり。上のひものをときてといふには異《コト》なり。打なひきは春といはむためなり。おしなへてくる春といふ心なり。又霞のたなひく心もこもるへし。春みましよりはとは、春はおもしろき時なれとも、霞もたちて見はるかされぬ事もあれは、夏草の今はしけき時なれとも、春みんより、けふ見るかまさりてたのしきとなり。春みましよりはといひたれは、此哥は四月の末なとにもよめるにや
 
反歌
 
(4)1754 今日爾何如將及筑波嶺昔人之將來其日毛《ケフノヒニイカヽヲヨハムツクハネニヌカシノヒトノキケムソノヒモ》
 
六帖に紐の歌として注して云く、右一首家持紐の歌とする事は、其日毛ト云を其紐と意得たるカ、されど歌の趣更に然らぬ物を、又家持の歌とする事もおぼつかなし、
 
初、けふの日にいかゝをよはむ よく聞えたる哥なり。此哥を六帖に紐の題に入たるは、結句にきけむそのひもといへるを、紐と心得たる歟。長哥にひもの緒ときてとあるにまとひてなるへし
 
詠霍公鳥一首并短歌
 
1755 ※[(貝+貝)/鳥]之生卵乃中爾霍公鳥獨所生而已父爾似而者不鳴已母爾似而者不鳴宇能花乃開有野邊從飛翻來鳴令響橘之花乎居令散終日雖喧聞吉弊者將爲遐莫去吾屋戸之花橘爾住度鳥《ウクヒスノカヒコノナカニホトヽキスヒトリウマレテサカチヽニニテハナカスサカハヽニニテハナカスウノハナノサケルノヘヨリトヒカヘリキナキトヨマシタチハナヲヰチラシヒネモスニナケトキヽヨシマヒハセムトホクナユキソワカヤトノハナタチハナニスミワタレトリ》
 
※[(貝+貝)/鳥]の巣の中に霍公鳥の生ルゝ事今もまれ/\は有ことなりと申す、第十九に家持の霍公鳥の歌にも卯月の立てば、夜こもりに鳴霍公鳥、昔より語り繼つる※[(貝+貝)/鳥]のうつし眞子かも云々、毛詩(ノ)召南云、維鵲有v巣、維(レ)鳩居v之、杜子美詩云、我昔遊2錦城1、結2廬(ヲ)錦水邊1、(5)有v竹一頃餘、喬木上參(ハル)v天、杜鵲暮春至(テ)、哀々叫2其間1、我見常再拜、重2是古(ノ)帝魂1、生2子百鳥(ノ)巣1、百鳥不2敢瞋1、仍(チ)爲※[食+委]2其子1、禮若(シ)v奉(ルカ)d至尊u、これらを見れば他鳥の巣に于を生む鳥はあるなリ、釋蓮禅が郭公を作れる詩に、※[(貝+貝)/鳥]子巣中春刷v翅(ヲ)、免花(ノ)墻外(ニ)曉傳v聲(ヲ)、此初句今の意を用たり、宇能花乃開有野邊從とは、第十にもうの花の散まく惜み霍公鳥、野に出山に入來鳴とよます、是も亦野にうの花をよめり、花橘爾住度鳥とは何時までも此にすめとなり、第十にも橘の林を殖む霍公鳥、常に冬まで住度るかね、第十九にも霍公鳥かひ通せらば今年經て、來向ふ夏は先鳴なむをとよめり、
 
初、鶯のかひこの中にほとゝきすひとりうまれて 鶯の巣の中よりほとゝきすのひなの出來ること、今も有ことなり。巣ことに有ものにはあらす。まれ/\出來るなり。せうとなるものゝ申けるは、江戸にて、ある人の御もとに、ひろき庭の木たちふかきに、鶯のすくひたりけるに、その中にほとゝきすひとつ出來けるを、見におはすへき人を、今しはし待つけすしてすたちけれは、あるしほいなきことにおほされき。たちての後も、しはしはそこにかよひきたると申き。第十九に、家持の哥にも、う月のたてはよこもりになくほとゝきす、むかしよりかたりつきつるうくひすのうつしまこかもとよまれたり。まこは眞子なり。子の子をいふにあらす。釋蓮禅(カ)詩(ニ)、鶯(ノ)子(ノ)巣(ノ)中(ニ)春刷(コヒ)v翅(ヲ)、兎(ノ)花(ノ)墻(ノ)外(ニ)曉傳(フ)v聲(ヲ)。此一聯上句は此哥をもて作れり。杜子美(カ)詩(ニ)云。我(レ)昔遊(テ)2錦城(ニ)1、結(ヒキ)2廬(ヲ)錦水(ノ)邊(ニ)1。有v竹一頃餘、喬木|上《カミ》參(ハル)v天(ニ)。杜鵑暮春(ニ)至、哀々(トシテ)叶(フ)2其(ノ)間(ニ)1。我見(テ)常(ニ)再拜(ス)。重(ンスレハナリ)2是(レ)古帝(ノ)魂(ナルコトヲ)1。生(トモ)2子(ヲ)百鳥(ノ)巣(ニ)1、百鳥不2敢(テ)嗔(ラ)1。仍《ナヲ》爲(ニ)《エカフ》2其(ノ)子(ニ)1。禮若(シ)v奉(ツルカ)2至尊(ニ)1。これ山谷か臣甫(カ)杜鵑再拜(ノ)詩といへる詩なり。我國に郭公といへるは、杜鵑とおほしきを、生2子百鳥巣1と作れるは、毛詩召南に維(レ)鵲有(リ)v巣、維鳩|居《ヲレリ》之といへるにおなし。しかれは百鳥の巣をかりてもすくひ、またうくひすの子よりもいてくるとこゝろ得へし。さかちゝに似てはなかす、さかはゝに似てはなかす。父母ともに、鶯なれは、似ぬといへり。第十三に、さかはゝをとらくをしらにさかちゝをとらくをしらに、いそはひをるよいかるかとしめと。歌のつくりおなし手より出るに似たり。ひねもすになけときゝよし。神代紀下云。天孫《アメミマ》幸《メス》2吾田鹿葦津《アタカアシツ》姫(ヲ)1。則一夜(ニ)有身《ハラミヌ》。遂(ニ)生(ム)2四|子《ハシラノミコヲ》1。故(レ)告《マウシテ》v状《アリサマヲ》知聞《キコエシム》。是(ノ)時(ニ)天孫|見《ミソナハシテ》2其(ノ)子等《ミコタチヲ》1嘲《アsワラヒテ》之|曰《ノ》。妍哉吾皇子《アナニエヤアカミコタチ》者、聞善《キヽヨクモ》而|生之歟《アレマセルカナ》。此神代紀の聞よくは、あさけりてのたまへは、ことよきといふに似たり。今はまことに聞によきなり。まひはせむ、まひなひはせんなり。第五第六にもよめり。幣を弊に作れるは誤なり。花橘に住わたれ鳥、第十
  橘のはやしをうへむほとゝきす常に冬まてすみわたるかね
 
反歌
 
1756 掻霧之雨零夜乎霍公鳥鳴而去成※[立心偏+可]怜其鳥《カキキラシアメノフルヨヲホトヽキスナキテユクナリアハレソノトリ》
 
掻霧之はうちきらしと云に同じ、下句は第七の終の※[羈の馬が奇]旅歌に鹿子ぞ鳴なる※[立心偏+可]怜其水手とよめる語勢なり、
 
初、かきゝらし雨のふる夜を かきゝらしは、かきくもりといふにおなし。雲につきてはくもるといひ、霧につきてはきるといふ。躰用にわたる詞なり。景行紀云。山(ノ)神之興(シ)v雲(ヲ)零《フラシテ》v水《アメヲ》峯|霧《キリ》谷|噎《クラクテ》無2復(タ)可(キ)v行之路1。これ霧の字を用につかへり。きるは遮の字、截の字の心なり。あはれその鳥は雨のふる夜なれは、常にあはれといふやうにあはれひていへりとも聞へし。又おもしろしといふ心なり。第七の終に、なこの海を朝こきくれはうみなかにかこそなくなるあはれそのかこ。此結句と同しやうなり
 
登筑波山歌一首并短歌
 
1757 草枕客之憂乎名草漏事毛有武跡筑波嶺爾登而見者尾花(6)落師付之田井爾鴈泣毛寒來喧奴新治乃鳥羽能淡海毛秋風爾白浪立奴筑波嶺乃吉久乎見者長氣爾念積來之憂者息沼《クサマクラタヒノウレヘヲナクサムルコトモアラムトツクハネニノホリテミレハヲハナチルシツクノタヰニカリカネモサムクキナキヌニヒハリノトハノアフミモアキカセニシラナミタチヌツクハネノヨケクヲミレハナカキケニオモヒツミコシウレヘハヤミヌ》
 
師付之田井、【八雲御抄云、シツキノタヰ、】
 
名草漏は、ナグサモルとも讀べし、新治は郡の名なり、鳥羽能淡海は是も湖なる故に淡海と云へり、筑波嶺乃吉久乎見者とは唯山の好のみにあらず、上に云所の佳景どもの見え渡るを兼て云なり、
 
初、にひはりのとはのあふみ 新治は郡の名なり
 
反歌
 
1758 筑波嶺乃須蘇廻乃田井爾秋田苅妹許將遺黄葉手折奈《ツクハネノスソワノタヰニアキタカルイモカリヤラムモミチタヲリナ》
 
須蘇廻(ノ)田井はすそ野などよむ如く筑波山の麓なる田を云ひて所の名にはあらざるべし、手折奈はタヲラナと讀べし、たをらむなり、タヲリナとあるは書生の誤なるべし、
 
初、つくはねのすそわの田井に 山のすそにめくれる田なり。長哥にをはなちるしつくの田井といへるは、その名を出せるを、それはやかて筑波山のすそにあれは、此哥には其所をかくいへり。田井は田中の井戸なといへる心に、田のほとりにほれる井をいふともいへとも、こゝによめるなとは、只田の事なり。田には水有ものなれは、田井といふ。田舎にてきくに、水ふかき田の廣きは、奥の田井といひならへり。秋田かるいもがりやらんは、田をかる女をあはれひて、それかもとへやるために、もみちたをらんなといへり。たをりなとあるは、かなのあやまれるなり
 
(7)登筑波嶺爲※[女+曜の旁]歌會日作歌一首并短歌
 
※[女+燿の旁]、玉篇云、徒了、徒聊二切、往來貌、韻會引2韓詩(ヲ)1云、※[女+燿の旁]巴人歌也、文選左太仲魏都賦(ハ)或|明《・アケ》發而※[女+燿の旁]歌、李善注(ニ)云、※[女+燿の旁]歌巴土人歌也、何晏曰、巴子謳歌、相引牽連v手(ヲ)而跳歌也、佻或作v〓、常陸國風土記(ニ)云、香嶋郡童子女松原(ニ)、古有2年少(ノ)僮子1、【俗云、加味乃乎止、古、加味乃乎止賣、】男(ヲ)稱2那賀寒田之郎子1、女曰2海上安是之(ノ)孃子1、並貌容端正、光透2郷里1、相聞名聲(ヲ)1、同存2望念1、自愛心滅、經v月(ヲ)累v日、※[女+燿の旁]歌之會、【俗云2宇太我岐1、又云、加我※[田+比]也、】邂逅相遇、于v時郎子歌曰云々、孃子報歌曰云々、攝津國風土記云、雄伴郡波比具利岡、此岡西有2歌垣山1、昔者男女集登2此上1常爲2歌垣1、因以爲v名、武烈紀云、立2歌場衆1、【歌場、此云2宇多我岐1、】聖武紀稱徳紀にも歌垣の事見えたり、但今の歌によめる賀我比は名は同じけれど其樣かはれり、是は常陸の昔の國のならはしなるべし、
 
初、登2筑波嶺1爲《ナス》2※[女+燿の旁]歌會(ヲ)1日作歌 ※[女+燿の旁]《テウハ》、玉篇云。徒了徒聊二(ノ)切。往來(ノ)貌。歌の終に注していはく。※[女+燿の旁]歌者東俗語曰2賀我比(ト)1。今案玉篇に※[女+燿の旁]の字を注して、往來貌とあれは、男女互に唱和して、ほしいまゝにうたふ歌なるゆへに、かけあひといふへきを、計阿切加なれは、かゝひといふ。都のものはかもしふたつなからすむを、東俗語はよこなまりて、清音をも、おほく濁音にいふゆへに、東俗語曰(フ)2賀我比(ト)1とは注せり。賀は清濁ともに通す。我は濁音なり。歌の中に加賀布※[女+燿の旁]歌爾とあるを、加賀布はかもしふたつなからすむへき歟。かけあふといふ詞なれはなり。國の名に加賀といふ時、下のかもしにこれは、東俗語にまかせて濁るへき歟。しからは、賀我比のふたつのかもし、かなたにはともににこりていふなるへし。武藏(ノ)國都築(ノ)郡針※[土+斥]郷を、和名集に罸佐久と注し、同國多摩郡を、太婆《タバ》と注するたくひなり。されとも唯下のかもしをのみ濁音によむへし。第六難波宮作歌に、ゆふなきにかゝひのこゑきこゆとよめるには、※[女+燿の旁]合之聲所聆《カヽヒノコヱキコユ》とかけり。歌をかけあひてうたふ事なるゆへに、※[女+燿の旁]合とはかけるなり。文選左太沖(カ)魏都(ノ)賦(ニ)曰。或(ハ)明發(ノ)《・アケホノマテニシテ》而|※[女+燿の旁]《テウ》歌(ス)。或(ハ)浮泳(シテ)而|卒《オフ》v歳(ヲ)。末の反哥に、しくれふりとよみ、長哥に今日のみはとよみたれは、九月の末に、筑波山神を祭る日に、此※[女+燿の旁]歌會は年にひとたひあるなるへし
 
1759 鷲住筑波乃山之裳羽服津乃其津乃上爾率而未通女壯士之徃集加賀布※[女+曜の旁]歌爾他妻爾吾毛交牟吾妻爾他毛言問此(8)山乎牛掃神之從來不禁行事叙今日耳者目串毛勿見事毛咎莫《ワシノスムツクハノヤマノモハキツノソノツノウヘニイサナヒテヲトメヲトコノユキツトヒカカフカヽヒニヒトツマニワレモカヨハムワカツマニヒトモコトトヘコノヤマヲウシハクカミノムカシヨリイサメヌワサソケフノミハメクシモミルナコトモトカムナ》
 
鷲ノ住筑波ノ山とは、和名集云、唐韻云、※[咢+鳥]、【音萼】大G也、G【音凋、和名於保和之、鷲古和之、】※[咢+鳥]鳥別名也、山海經注云、鷲【音就、】小G也、今は大小を云はず、※[手偏+總の旁]じて意得べし、此鳥は深く嶮しき山に棲で巣をもくふ故に山をほめて云なり、第十四東歌にも、筑波禰爾可加奈久和之とよめり、裳羽服津は、此神に詣づる者|此處《コヽ》にして肅敬して裳をもはく故に裳帶津と云意に名付たる歟、津は集る處を云へり、率而を袖中抄にひきゐきてあれど今の點まされり、徃集もゆきあつめとあれど猶劣れり、不禁行事叙は神も制し給はぬしわざぞとなり、伊勢物語に神のいさむる道ならなくにとよめるも同じ意なり、伊駒山雲なかくしそとよめるを取て定家卿のいさむる峰に居る雲のと讀給へるも此意を得られたるなり、君を諫ると云も非道の事をななし給ひそと申す方は下の意通ぜり、行事を袖中抄にこと〔二字右○〕と、よまれたれど、第四に人丸の今耳之(ノ)行事庭不有と云にも今の如く書たれば今の本をよしとす、但彼歌も六帖にはこと〔二字右○〕とよみたれど、第十一に凡(9)乃行者不思とよめるに行の一字をワザとよめるは、内典に諸行無常など云行を業也と釋すればわざ〔二字右○〕と和する其埋あり、行事、事業など下の意は通ずれど、こと〔二字右○〕とは和すまじければ、彼も六帖はよからぬなり、目串毛勿見、今按勿見は同じ意ながらナミノと和すべきか、其故は落句を事毛咎莫とかけり、ミルナと和すべくば落句に准ずるに見勿と書べきを然らねばなり、メクシは愛の字愍の字などをめくしとよめる意には今はあらず、見苦しくも見るなと云なり、第十七に、相見婆登許波都波奈爾《アヒミレハトコハツハナニ》、情具之眼具之毛奈之爾《コヽロクシメクシモナシニ》、波思家夜之安我於久豆麻《ハシケヤシアガオクツマ》云々、此眼其之と同じ、史記滑稽傳淳于※[髪の友が几](カ)曰、若乃州閭之會、男女雜座、行v酒稽留、六博投壺、相引(テ)爲v曹(ヲ)、握v手(ヲ)無v罰、目※[目+台]不v禁、前有2墮珥1、後有2遺簪1、※[髪の友が几]竊樂v此、飲可2八斗1、而醉二參、
 
初、鷲住つくはの山の 第十四常陸哥にも、つくはねにかゝなくわしとよめり。和名集云。唐韻云。※[咢+鳥]【音咢】大G也。G【音凋、和名於保和之。鷲古和之】※[咢+鳥]鳥(ノ)別名也。山海經注云。鷲【音就】小G也。をとめをとこのゆきつとひ、毛詩云。穀《ヨキ》旦(タ)于差《コヽニエラフ》、南方之原(ニ)、不(シテ)v績2其麻(ヲ)1、市(ニ)也婆娑(タリ)。うしはく神、第五第六にありてすてに注しつ。末にも見えたり。いさめぬわさそ。神の制しとゝめたまはぬしわさそとなり。伊勢物語に
  こひしくはきてもみよかしちはやふる神のいさむる道ならなくに
定家卿の、いこま山いさむる嶺にゐる雲のうきておもひのはるゝよもなしとよみたまへるは、君かあたりみつゝをゝらん.いこま山雲なかくしそ雨はふるとも。此哥に雲なかくしそといふは、雲を制禁する詞なれは、下にふみつゝよまれたるなり。けふのみはめくしもみるなこともとかむな。めくしはめくむといふことゝいへれと、愍の字なとをかきて、めくゝめくしなといへるにおなしからす。これはみくるしくもみるなゝり。第十七家持長哥に、あひみれはとこ初花に、心くし眼具之《メクシ》もなしに、はしけやしわかおくつまとよまれたるめくしにおなし。目のくるしといふことなり。みるなは勿見とかきたれは、おなし事なからなみそと讀へし。そのゆへは、下にとかむなといふには、咎莫とかきくたせれはなり。史記|滑《コツ》稽傳(ニ)、淳于※[髪の友が几](カ)曰。若乃州閭(ノ)之會(ニ)男女雜(ハリ)坐《ヲリ》、行(テ)v酒(ヲ)稽留(シ)、六博投壺、相引(テ)爲《ナシテ》v曹(ヲ)握《トリテモ》v手(ヲ)無(ク)v罰、目(ニ)※[目+台]《ミテモ》不v禁(セ)。前(ニ)有2墮(タル)珥《ミヽクサリ》1、後(ニ)有(ントキ)2遺《ヲチタル》簪1、※[髪の友が几]竊(ニ)樂(マハ)v此(ヲ)飲(コト)可《ハカリニシテ》2八斗1、而醉(コト)二|參《サンセン》。もはきつは、著《ハク》v裳(ヲ)津といふ心にて名付たる所の名歟。心は女の筑波山にまうつるに、こゝにして衣裳をあらためて、裳を著るといふ心にや。津は水邊よりおこれる名なれと、あつまりてとゝまる所になつく。止《ト》と津とは五音通せり。人の家の戸もたてきりて、そとなる人のそこにとゝまれは、止の字の心なるへし。所《トコロ》といふもとゝまるころといふ心にや。とゝまるとよむ止の字を、たゝとゝのみ用たるにて、意得へし
 
※[女+燿の旁]歌者東俗語曰賀我比
 
反歌
 
1760 男神爾雲立登斯具禮零沾通友吾將反哉《ヲノカミニクモタチタホリシクレフリヌレトホルトモワレカヘラメヤ》
 
二つの峰相並べる中に高き方を男神と云なり、
 
初、沾友 沾を沽に作れるは、畫あやまれり
 
(10)右件歌者高橋連蟲麻呂歌集中出
 
初、右件歌者高橋連蟲麻呂歌集中出 下に至て鹿島郡|苅野《カルノヽ》橋(ニ)別2大伴卿(ニ)1歌もまた此ぬしか集に出とあれは、常陸國守、或は、屬官なとにて、彼國にありてよまれけるなるへし
 
詠鳴鹿歌一種并短歌
 
1761 三諸之神邊山爾立向三垣乃山爾秋芽子之妻卷六跡朝月夜明卷鴦視足日木乃山響令動喚立鳴毛《ミモロノカミナヒヤマニタチムカヒミカキノヤマニアキハキツマヲマカカムトアサツクヨアケマクヲシミアシヒキノヤマヒコトヨミヨヒタテナクモ》
 
喚立鳴毛、【別校本云、ヨヒタテナクモ、】
 
初め二句、仙覺云、此句古點にはみむろなるかみのべやまと點ず、みむろのかみのべ山いまだ聞も及ばず、おぼつかなし、仍て和し換て云、みむろのかみなびやまと云べし、部の字べ〔右○〕とよめども所に隨ひてひ〔右○〕とよめり、備の字ひ〔右○〕なれども所に隨ひてび〔右○〕とよめり、備の字び〔右○〕なれども所に隨ひてへ〔右○〕とよむ、ひ〔右○〕とへ〔右○〕と通ふこと常の習なり、尋云、神邊はかみのべなり、かみべをかみぴとは云とも文字に見えざるな〔右○〕を讀かくしてかみなびとなせるをば如何意得べきや、答云、これ傍例に依て讀なり、假令|海上《ウナカミ》、水上《ミナカミ》、田上山、此野の〔右○〕をな〔右○〕とよべり云々、以上略抄義明なり、第六に倭部越鴈、第十に山跡部(11)越鴈とかけるは共に山飛越なり、渡邊はわたの〔右○〕べなるをわたな〔右○〕べとも云へば彼此を合せて仙覺の點に依るべし、延喜式に載たる出雲國造神賀詞の中に、大御和の神奈備、葛木の鴨の神奈備、宇奈提の神奈備、飛鳥の神奈備とあるを思ふに、何處も神のますあたりをば神奈備と云ひて神邊の意なるべし、立向はタチムカフと讀べし、今の點は叶はず、三垣の山の神奈備山に向ふなり、秋芽子之妻卷六跡とは、是は芽子を鹿の妻とよめるには替りて秋芽子の如くめづらしき妻を卷寢むとと云なり、令動はトヨメと讀べし、今の點は誤れり、立はタテと點ぜる本に依るべし、
 
初、みもろの山なひ山に 神邊山とかきたるを、八雲御抄に、かみへの山とよませたまへり。今の本には、かみなひ山とよめり。海邊とかきて、うなひともよみたれは、今の本をよしとすへし。神邊山は三輪山の異名といふはいはれす。立向ふみかきの山、立むかひとあるはわろし。三垣山とて、神なひ山にむかへる山の有なるへし。それを神なひ山は神のます山なれは、いかきにたとへて、名はおふせけるにこそ。秋はきの妻をまかむと、萩原にきて鹿のむつるれは、萩をも妻といへと、今秋萩の妻といへるは、鹿の妻を萩になすらへていへるなり。ともに鹿の愛しておりふしもあひにあへはなり。古事記大己貴神歌に、やちほこの神のみことやしまくに妻まきかねてといへり。古き詞なり。又日本紀の繼體紀に、安閑天皇いまた勾大兄《マカリノオヒネノ》皇子にておはしましける時、みつから春日皇女を聘《メシ》たまひける夜の御歌にも、やしまくにつままきかねて、はるの日のかすかのくにゝ、くはしめを有ときゝて、よろしめを有ときゝてなとよみ給へり。此二首には、ともにやしま國妻まきかねてとあれは、長流かいへることく、神代紀に、覓國とかきてくにまきとよめる時のやうに、妻をもとめかぬる心もあるにや。それもやしまくにの中にも、心にかなふ妻をまつはしかねてといふ心にきくにたかはす。こゝは卷といふ字をもかきたれは、まつはす心にかきれり。枕といふも纏の字の心にてなつけたり。神代紀云。又|賊衆《アタトモ》戰|死《ウセテ》而|僵《タフシ》v屍(ヲ)枕(ニセン)v臂《タヽムキヲ》處(ヲ)、呼(テ)爲2頬枕田《ツラマキタト》1。山ひことよめ、令動をとよみとかんなのあるはあやまれり。とよめはとよましむる心にて令の字にかなへり。反歌もおなし
 
反歌
 
1762 明日之夕不相有八方足日木之山彦令動呼立哭毛《アスノヨニアハサラメヤモアシヒキノヤマヒコトヨミヨヒタチナクモ》
 
夕、【六帖云、ヨヒ、】  山彦、【幽齋本、彦作v響、】  呼出哭毛、【別校本云、ヨヒタテナクモ、】
 
古事記云八千矛神將v婚2高志國之沼河比賣《コシノクニノヌナカハヒメ》1幸行之時、到2其沼河比賣之家1歌曰云々。爾《コヽニ》其沼河日賣未v開v戸自v内歌曰、夜知富許能迦微能美許等《ヤチボコノカミノミコト》云々、阿遠夜麻邇比賀迦久良婆《アヲヤマニヒガカクラバ》、奴婆多麻能用波伊傳那牟《ヌバタマノヨハイデナム》云々、故其夜者不v合而明日夜爲2御合1也、腰句以上の長歌(12)の終に同じ、上に云如く讀べし、六帖には一夜へだてたると云戀の歌とす、下の句隨義轉用すとも人の泣にはいかゞ叶はむ、おぼつかなし、
 
右件歌或云柿本朝臣人麻呂作
 
沙彌女王歌一首
 
1763 倉橋之山乎高歟夜※[穴/牛]爾出來月之片待難《クラハシノヤマヲタカミカヨコモリニイテクルツキノカタマチカタキ》
 
初、くらはしの山を高みか 此哥第三卷廿二葉にすてに出たり。注のことし。結句(ニ)光ともしきと有てみか月の哥なり。夜こもりを、管見抄に夜をこめて出くる月といはむかことしといへり。今はしかるへし。第三に三日月哥とへるにはかなはす。すてに注しき
 
右一首間人宿禰大浦歌中既見但末一句相換亦作歌雨主不敢正指因以累載
 
第三に既に出たる事注の如し、
 
初、注に兩主 兩を雨に作れるは誤なり
 
七夕歌一首并短歌
 
1764 久堅乃天漢爾上瀬爾珠橋渡之下瀬爾舩浮居雨零而風不吹登毛風吹而雨不落等物裳不令濕不息來益常玉橋渡須《ヒサカタノアマノカハラニノホリセニタマハシワタシクタリセニフネウケスヱテアメフリテカセフカストモカセフキテアメフラストモヌラサスヤマテキマセトタマハシワタス》
 
(13)上瀬下瀬は第二に注せし如くカミツセシモツセと讀べし、不息はヤマズとも讀べし、橋は織女の渡すなり、
 
初、上瀬、下湍 かみつせしもつせとよむへし。雨ふりて風ふかすとも。此つゝきは、第五山上憶良の貧窮問答哥に、風ましり雨のふる夜の雨ましり雪のふる夜はとよめる語勢に似たり。もぬらさすとは、牽牛の織女のために橋をわたすにや。上曰v衣下曰v裳とあれは、裳は牽牛の裳歟。およそ二星の事は、おもひやりて、さま/\によめは、一隅になつむへからす
 
反歌
 
1765 天漢霧立渡且今日且今日吾待君之舩出爲等霜《アマノカハキリタチワタリケフケフトワカマツキミカフナテスラシモ》
 
霧立渡はキリタチワタルと讀て句絶とすべし、夕になる故に霧の立なり、わたりと讀ては叶はず、第八第十に此歌の類あり、下句は第八に憶良のよまれたる七夕の歌の中に同じきあり、彼處には君四とありつれば今も君之はさもよまるべし、
 
初、天川きり立わたる 此所句なり。わたりとあるは誤れり。けふ/\とゝは、けふか/\と待なり。第二に人麿の石見にて身まかられける時、妻のよまれたる哥にも、けふ/\とわか待君はいしかはのかひにましりて有といはすやも。そこにも且今日/\とかけるは、治定せぬことなれはなり。霧立わたるは、夕きりなれは、舟出すらしもといへり。又雲霧の氣に乘すへけれはさていへる歟
 
右件歌或云中衛大將藤原北卿宅作也
 
初、中衛大將藤原北卿 房前なり
 
相聞
 
振田向宿彌退筑紫國時歌一首
 
初、振田 日本紀并此集に准せは、ふきたとよむへき歟
 
1766 吾妹兒者久志呂爾有奈武左手乃吾奥手爾纒而去麻師乎《ワキモコハクシロニアラナムヒタリテノワカオクノテニマキテイナマシヲ》
 
(14)去麻師乎、【六帖云、ユカマシヲ、】
 
久志呂に付て疑あり、和名集農耕具云、麻果切韻云、※[金+瓜]【普麥反、普狄反、漢語抄云、加奈加岐、一云久之路、】鉤※[金+瓜]也、此に依ればくしろ〔三字右○〕は農具の名にて今の義にあらず、釧と※[金+瓜]と字相似たれば作者誤て釧なりと思ひてよめる歟、釧は和名云、内典云、在2指上1者(ヲ)名v之曰v鐶、在2臂上1者(ヲ)名v之爲v釧、【涅槃經文也、釧音食倫反、比知萬岐、】此釧をくしろと云を漢語抄の作者※[金+瓜]の字と思ひて農具とせる歟、又和名集に備中國下道郡に釧代【久之路、】郷あり、釧の一字くしろ〔三字右○〕なるべきを如此かけるは此集第十六にやふり〔三字右○〕を破夫利とかき、第十八にみやこ〔三字右○〕を都夜故とかけるが如し、右の郷をくしろ〔三字右○〕と名付る由は知らざれど字既に釧にして※[金+瓜]にあらざればひちまき〔四字右○〕を又はくしろ〔三字右○〕とも云證なるべし、又此卷下に至て思2娘子1作歌に玉釧手爾取持而云々、此玉釧をタマタマキと和せり、常に環の字をたまきとよめるは字は鐶と通じ、和語はゆびまきと同じ、た〔右○〕とて〔右○〕と通ずれば指を折を手を折と云にて知るべし、然れば釧も臂に纏《マキ》、今も吾奥手と云ひたればたまきとも云べけれぢ、既にひぢまきくしろの二名ある上に環と混じてたまきと讀べきにあらねばたまくしろと讀べし、然らば是も亦今の證なり、又下の處女墓をよめるに宍串呂黄泉爾將待跡《シヽクシロヨミニマタムト》とつゞけてよめる歌もあり、是は彼處に至て注すべし、奥手は臂なり、たまきにあらなむとも云(15)べきを、くしろと云へるは、臂は常に袖に隱れて奧にあれば深く思ふ意なり、六帖に吾せにはくしびにあらなむ左手の、おく手にまきて我れゆかましをとて櫛の歌とせり、くしろのろ〔右○〕は助語とも云べけれど櫛は左手の臂に纏ふべき物ならねば不審の事なり、和名に釧音食備反とあるは書生の誤なるべし、玉篇には充絹切といへり、
 
初、わきもこはくしろにあらなん 紀氏六帖には、此くしろをくしとこゝろ得て、櫛の哥とせり。これは誤なり。くしろはひちまきなり。和名集云。内典(ニ)云。在(ル)2指(ノ)上(ニ)1者(ヲ)名(ケテ)v之(ヲ)曰v鐶(ト)。【ユヒマキ・タマキ】在(ル)2臂(ノ)上(ニ)1者(ヲ)名(ケテ)v之(ヲ)爲v釧(ト)。【涅槃經(ノ)文也、釧音食※[人偏+稱の旁]反。比知萬岐。】同農耕具(ノ)篇(ニ)云。麻果(カ)切韻(ニ)云。※[金+派の旁]《ハク・ヘキ》【普麥反、又普狄反。漢語抄云。加奈加岐。一云久之路。】鉤※[金+派の旁]也。又云。備中|下道《シモツミチノ》郡釧代【久之路。】和名集にも、釧の字にひちまきの和語をのみ出して、くしろの訓をは出されす。農耕具※[金+派の旁]の字の和訓に、漢語抄を引て、くしろの訓を出さる。彼かなかきといふもの、よくつちをおさめて、鍬の代にもなる心にて、くはの下のはの字を畧してなつけたるにや。備中の下道郡久之路郷には又釧の字を用たり。今案釧の字他の古本に、※[金+派の旁]に作れり。此下三十一葉に、玉|※[金+派の旁]《タマキ》手にとりもちてといふに、釧の字|旁《ツクリ》を上のことく爪に作れり。これは玉くしろなるへきを玉たまきと訓せり。それはそこにいふへし。所詮くしろは釧の字の和語なるを、釧※[金+派の旁]字のかたちやゝ似たれは、漢語抄に誤て※[金+派の旁]の字をくしろと訓せる歟。又※[金+派の旁]の字をくしろと訓するを、歌人誤て釧の字の訓と心得てよめる歟。又異物同名なる歟。釧代は※[金+派の旁]代を書まかへたるへしともいふへし。又此下三十六葉に、しゝくしろよみにまたんとゝよみ、又日本紀第十七繼躰紀に、勾大兄《マカリノオヒネノ》皇子の御哥にも、しゝくしろうまいねしと《繁梳味寢時》によませたまへり。此しゝくしろは、別の物なるへし。下に至りて注すへし。和名集にも、日本紀此集なとに見えたる和名に載さることおほくみゆ。今くしろといへるは、左手のわかおくのてにまきていなましをといひたれは、まさしくひちまきなり。おくの手は第八におくてなるなかき心とよめりし哥に注しつることく、袖にかくるゝ方の臂《ヒチ・タヽムキ》をいへり。ひちの中ほとにまくものなれはなり。衣ならは下にきんなと、物こそかはれ、此躰によめる哥おほし。これは筑紫にてかたらへる女に、別てのほる時の哥なり
 
拔氣大音任筑紫時娶豐前國娘子※[糸+刃]兒作歌三首
 
初、拔氣大首 これは拔氣は氏にて、首は姓にや。又|大首《オホオフト》といふ名歟。拔氣は二字引合てぬけとよむへき歟。またかんかへ得す
 
1767 豐國乃加波流波吾宅※[糸+刃]兒爾伊都我里座者革流波吾家《トヨクニノカハルハワキヘヒモノコニイツカリマセハカハルハワキヘ》
 
和名云、田河郡|香《カ》春、豐前國風上記云、田河郡鹿春郷、昔者|新羅《シラキノ》國(ノ)神自度到來住2此川原1、便即名曰2鹿春神1、神名帳五、田川郡辛國息長大姫大目命神社、豐比※[口+羊]命神社、元享釋書傳教大師傳には賀春山と云へり、今の歌に革流とあれば加和流と云如く云ひけるにや、谷彼處の者は川原と云やうに申すとぞ傳へ承侍る、伊都我里座者は、伊は發語の詞、ツガリは袋などの緒を※[金+巣]の如くして著るを俗につがると云はくさるなり、和名云、※[金+巣]、【蘇果反、】鐡※[金+巣]也、日本紀私記云、【賀奈都賀利、】第十八に家持の比毛能緒能移都我利安比弖《ヒモノヲノイツガリアヒテ》よまれたるも、尾張少|咋《クヒ》と云者の佐夫流兒と云遊女に迷へる事を誡らるゝ詞なり、今の歌に依てよまれたるべし、今も紐兒と云名付きてつがるとはよめり、座者(16)は今按みづからの事をよめば今の點叶はずヲレバと讀べし、歌の意は筑前と豐前とは其間遠けれど、紐子を娶て、つがりあひて居れは香春をば吾宅の如く思ふとなリ、
 
初、豐國のかはるはわきへ かはるといふは、紐兒か住所の名なり。豐前國田河郡に賀春あり。賀春山あり。神社あり。元亨釋書傳数大師の傳にも見えたり。所のものはかはらといふ、川原のことし。賀春とかけともこゝにも革流とかきたれは、かわるといふやうに昔よりいへると見えたり。いつがりませは、いは例の發語なり。つがりは、袋の口を※[金+巣]《クサリ》のやうにぬふをつかりといふ、その心なり。紐の兒といふ名より、つかりをるといふは、あひおもふ心の緒をもて、つかりたるやうなるをいへり。ませはゝ、座者とかきたれは、をれはとよむへし。わか事をいへはませはとはいふへからす。哥のすへての心は、紐の兒か住かはるはわか家なり。そのゆへは身こそこゝにあれ、心はゆきてかしこにつかりあひてあれはなりといふ心なり。わきへはわかいへの我以切義なれは、きもし濁音に讀へきことはりなるゆへ、第五には藝の字をかけり
 
1768 石上振乃早田乃穗爾波不出心中爾戀流比日《イソノカミフルノワサタノホニハイテスコヽロノウチニコルルコノコロ》
 
戀流、【別校本云、コフル、】
 
上句は振の早田のとく穗に出るやうに穗には出ずと云なり、戀流をコルヽと點ぜるは書生の失錯なり、此日は此は比に作るべし、傍例多し、此歌人丸集にも見えぬを、新古今には何に依てか人丸歌と入られけむおぼつかなし、
 
初、石上ふるのわさ田のほには出す 此哥聞あやまるへき哥なり。わさ田の穂に出すといふにはあらす。わさ田ははやくほに出るを、われはそのことく戀る心をほに出てもえあはねは、早田の穗のことくには、えあらはし出ぬといはむためなり。むろのはやわせ、かつしかわせなといふことく、布留のわせも名ある種なるへし
 
1769 如是耳志戀思渡者霊刻命毛吾波惜雲奈師《カクノミシコヒシワタラハタマキハルイノチモワレハヲシケクモナシ》
 
渡者、【幽齋本、渡作v度、】
 
初二句の二つのし〔右○〕は助語なり、渡者はワタレバとも讀べし、
 
大神大夫任長門守時集三輪河邊宴歌二首
 
初、大|神《ミワノ》大夫 大物主大神の御子、大田々根子の裔《ハツコ》なり。委崇神紀に見えたり
 
(17)1770 三諸乃神能於婆勢流泊瀬河水尾之不斷者吾忘禮米也《ミモロノヤカミノオハセルハツセカハミヲノタエスハワレワスレメヤ》
 
發句は、ミモロノと讀べし、此集は文字の有除不足を痛まず、作者みもろのやとよめらば也の字等を加ふべし、然らぬをや〔右○〕を加へて讀は後人の意にして古風にあらず、此三諸の神と云は三輪山を指て云なり、於婆勢流は所帶なり、第七に三笠の山の帶にせる、細谷川とよめるに同じ、泊瀬河とは今集る處は三輪河なれど水上に付て云へり、古今集に妹背の山の中に落る吉野の川とよめるも紀州は吉野川の末なれば水上に付てよめるが如し、水尾之はミヲシと讀てし〔右○〕は助語なるべし、
 
初、みもろの神のおはせる泊瀬河 おはせるは所帯《オハセル》といふ心なり。泊瀬川のなかれきて、三輪川となれはかくはいへり。古今集に
  なかれてはいもせの山の中におつるよしのゝ川のよしやよの中
これ妹背山の中を行時は紀の川なれとも、川上はよしの川なれは、かくよめるに今もおなし。みわ山は山すなはち神躰なれは、神のおはせるとはいへり。第七に大きみの御笠の山のおひにせる細谷川の音のさやけさ。古今集にまかねふくきひの中山おひにせる、下句上におなし。第十三の長哥にも、かみなひのみもろの神のおひにせるあすかの川の云々。史記劉敬列傳曰。且(ツ)夫秦(ノ)地(ハ)被(フリ)v山(ヲ)帶(ニス)v川(ヲ)。敏達紀云。十年春潤二月、蝦夷《エミシ》數千|寇《アタナフ》2於邊境1。由(テ)v是召(テ)2其(ノ)魁師《ヒトコノカミ》綾糟《アヤカス》等(ヲ)1詔(シテ)曰。〇於v是綾糟等|〓《オチ》然|恐懼《カシコマリ》乃|下《オリヰテ》2泊瀬(ノ)中流《カハナカニ》1面(テ)2三諸(ノ)岳(ニ)1漱《スヽテ》v水而盟(テ)曰。臣等《ヤツコラ》蝦夷自v今|以後《ユクサキ》子々孫々《ウミノコノヤソツヽキ》【古語云。生兒八十綿連々】用2清《スミ》明(ナル)心(ヲ)1事(ヘ)2奉《マツラン》天闕《ミカトニ》1、臣等若違(ハヽ)v盟(ニ)者天地(ノ)諸(ノ)神及天皇(ノ)靈《ミタマ・ミカケ》絶2滅《タエム・ホロホセ》臣(カ)種《ツキヲ》1矣。大|神《ミワ》氏の人なれは、ことにみもろの神のおはせる泊瀬川といひて、此敏達紀のことく、ちかふ心もこもるへし
 
1771 於久禮居而吾波也將戀春霞多奈妣久山乎君之越去者《オクレヰテワレハヤコヒムハルカスミタナヒクヤマヲキミカコエイナハ》
 
越去者、【幽齋本云、コシユカハ、】
 
此歌人丸集にもみえぬを續古今は何に依てか人丸の歌と定て入けむ、おぼつかなし
 
初、おくれゐてわれはや これはむまのはなむけする人の哥なり
 
右二首古集中出
 
(18)他處には古歌集とあり、歌の字落たる歟、
 
初、右二首古集 古の字の下に歌の脱せり。例みなしかり
 
大神大夫任筑紫國時阿倍大夫作歌一首
 
1772 於久禮居而吾者哉將戀稻見野乃秋芽子見都津去奈武子故爾《オクレヰテワレハヤコヒムイナミノヽアキハキミツヽイナムコユヘニ》
 
稱見野ノ秋芽子見ツヽとは、山陽道の陸を經て稻見野の芽子など見て慰て人はゆかむを、我は後れ居てやこひむとなり、
 
初、いなみのゝ秋はきみつゝ これは山陽道を經て、陸にて下るを迭るとて、かくはよめるなるへし。秋はきみつゝとは、なくさみて人はゆかむに、我はおくれゐてこひむやとなり
 
〓弓削皇子歌一首
 
1773 神南備神依板爾爲杉乃念母不過戀之茂爾《カミナヒノカミヨリイタニスルスキノオモヒモスキスコヒノシケキニ》
 
神南備神は大已貴命の御子賀夜奈流美命なり、神も依り板にもする杉とは久しき由なり、念母不過は上の杉につゞけて念を得すくやらぬ意なり、木に神の依ことは莊子人間世云、匠石歸、櫟社|見《アラハレテ》v夢曰云々、匠石覺而診2其夢1、弟子曰、趣v取2無用1、則爲v社何耶、曰、密若無v言、彼亦直寄v焉、【郭象注云、社自來寄耳、非2此木求v之爲1v社也】戰國策云、應侯謂2昭王1曰、亦聞恒思有2神叢1(19)與、恒思(ニ)有2悍少年1、請與v叢博曰、吾勝v叢々藉2我神1、三日不v勝v叢、々困v我乃左手爲v叢投、右手自爲(ニ)投勝v叢、々藉2其神1、三日叢往求v之遂弗v歸、五日而叢枯(レ)、七日而叢亡(フ)、
 
初、神なひの神より 神なひの神も三輪と同躰なり。杉は三輪の神木にて、又板にもする物なれは、神より板にする杉のといひて、やかてその杉といふをうけて、おもひも過すとつゝけたり。おもひを過すとは、思ひをはるけやるなり。上の句は序なから、神のよるも、板にするも、久しきことをいはむためなり。をとめらか袖ふる山のみつかきのといへる心なり。久しくより、こひしたひ奉れは、おもひをはるけて、なくさむかたもなしとよめるなり。第三に赤人の、飛鳥川かはよとさらす立きりのおもひ過へき戀ならなくにとよみ、第十三に  神なひのみむろの山にこもる杉おもひ過めやこけのむすまて
この中に、後の哥はことに今の哥に似たり。此外おもひをはるくるを、過すとよめる哥猶おほし。木に神のよることは、荘子人間世云。匠石歸。櫟社見(エテ)v夢(ニ)曰。〇匠石覺(テ)而診2其夢(ヲ)1。弟子曰|趣《スミヤカニ》取(ハ)無v用。則|爲《タルコトハ》v社何耶。日(ヒ)密(ニセヨ)。若(チ)無(レ)v言。彼亦直(ニ)寄(レリ)焉。【郭象注云。社自來寄耳。非2此木求v之爲1v社也】戰國策云。應侯謂2昭王1曰。亦聞(ケル)恒思(ニ)有(コトヲ)2神叢1與《カ》。【灌木中有2神靈1托v之。補曰。墨子建v國必擇2木之脩茂者1以爲2叢位1。史(ニ)叢祠(トイフ)。索隱云。高誘注云。神祠(ハ)叢樹也。今高注本缺】恒思(ニ)有2悍少年1。請(テ)與v叢博(ス)。【局戯也。六著十二棊】曰。吾(レ)勝(タハ)v叢(ニ)々|藉《カスコト》2我(ニ)神(ヲ)1三日(セヨ)。【以2神靈(ヲ)1借(セ)v我】不(ハ)v勝(タ)v叢(ニ)々困(メヨ)v我(ヲ)。乃左(ノ)手(ハ)爲(ニ)v叢(ノ)投(ケ)右(ノ)手(ハ)自《ミ ラ》爲(ニ)投。【右強。而便欲2自取1v勝。正曰。尚v左尊v神也。】勝v叢(ニ)。々藉(コト)2其神(ヲ)1三日。叢往(テ)求v之遂(ニ)弗v歸。五日(ニシテ)而叢枯(レ)七日(ニシテ)叢亡(フ)
 
〓舍人皇子歌二首
 
1774 垂乳根乃母乃命乃言爾有者年緒長憑過武也《タラチネノハヽノミコトノコトニアラハトシノヲナガクタノミスキムヤ》
 
此歌は譬ふる意有べし、ふたおやの中に母は殊にうつくしみのまめやかなる物なれば、皇子の憑もしうのたまふ御言を母の言に喩へて御詞のみを年の歸長く憑てのみ過さむや、今其しるしを見せ給ふべしとよめる歟、
 
初、たらちねのはゝのみこと 母のみことは、母をたふとみていへり。ちゝのみことゝいへるもおなし。此哥と次下の哥聞えたるまゝなるを、舍人皇子に奉るに心あるへし。君は天下の人のちゝはゝのやうにましますが、身にとりても、おりふし哥なとよましめ給ふみことのりの、いかさまにも、ちかく官位をも昇進し、俸禄をもまし賜ふへく、頼もしくて、今やと待に、さもなくて、年月を經れは、あはれまことのおやのことはならは、たのめてのみは過さしをと、此皇子まてうれへ申さるゝへし。ふたおやの中に、母はことにうつくしみのこまやかなれは、母のことはならはといへり
 
1775 泊瀬河夕渡來而我妹兒何家門近春二家里《ハツセカハユフワタリキテワキモコカイヘノミカトハチカツキニケリ》
 
家ノミカドは第十六に豐前國泉郎が歌に妹が御袖とよめるが如し、此歌も亦下意ある歟、君が恩惠を近く蒙るべき事は、譬へば人の夕去ば必らず逢はむと契りたらむに泊瀬河の早き瀬をからうじて渡り來て其家近く成りたるが如しとよめる歟
 
初、泊瀬川ゆふわたりきて 妹かみかとは眞門なり。天子をみかとゝ申奉るは、御門なり。それも眞門といふ心なるへけれと、むかしは貴賤通していへる事も、末の世にかたく差別する事おほし。第十六豐前國の泉郎《アマ》か哥には、妹かみそてともよめり。さて此哥の心は、年の緒長く憑過來し身は、泊瀬河の早き潮を、からうして夕わたり來る人のことくなるが、此皇子のあはれませたまひて、御陰にちかくかくろへぬへきことは、彼ゆふわたりせし人の、妹か家にちかつくかことしと、たとへたるなるへし。妹は我をむつましくするものなれは、貴賤ことなれと、皇子に比し奉らるゝ歟。春は舂の字なり
 
右三首柿本朝臣人麻呂之歌集出
 
(20)石河大夫遷任上京時播麿娘子贈歌二首
 
初、播磨 磨誤作v麿
 
1776 絶等寸笶山之岑上乃櫻花將開春部者君乎將思《タユラキノヤマノヲノヘノサクラハナサカムハルヘハキミヲオモハム》
 
岑上、【別校本、岑作v峯、】
 
笶は俗の矢の字なり、矢には箆ある故に義訓歟、此山播磨にて何の郡に在と云事を知らず、古今に、今はとて君がかれなば我宿の、花をば獨見てやしのばむ、今の歌此意に似たり、
 
初、たゆらきの山のをのへ たゆらきの山、八雲御抄に、播磨と注せさせたまへり。笶、玉篇云。俗矢字。矢に箆《ノ》あれはおしてのとよむ歟
 
1777 君無者奈何身將装餝〓有黄楊之小梳毛將取跡毛不念《キミナクハナソミカサラムクシケナルツケノヲクシモトラムトモハス》
 
匣有、【六帖云、ハコニアル、紀州本同v此、】
 
奈何身將装餝は、詩(ノ)衛風云、自2伯(カ)之1v東、首如2飛蓬1、豈無2膏沐1、誰適爲v容、史記、豫讓遁2逃山中1曰、嗟乎士爲2知v己(ヲ)者1死、女爲2説v己(ヲ)者1容、劉休玄擬古(ノ)詩云、涙容不v可v飾(ル)、幽鏡難2復治1、落句は今の點不念の二字叶はず、六帖にはとらむとおもはずとあれど毛の字を殘せり、古體の例に依てトラムトモモ ハスと讀べし、あはれにやさしき歌なり、
 
初、君なくはなそ身かさらん 詩(ノ)衛風云。自(リ)2伯(カ)之東(セシ)1、首(ヘ)如(シ)2飛蓬(ノ)1。豈(ニ)無(ンヤ)2膏沐1、誰(ヲ)適《アルシトシテカ》爲(ン)v容《カタチツクルコトヲ》。史記(ニ)豫讓(カ)曰。嗟呼士(ハ)爲2知(ル)v己(ヲ)者(ノヽ)1死。女(ハ)爲(ニ)2説(コフ)v己(ヲ)者(ノヽ)1容《カタチツクリス》。文選劉休玄(カ)擬古(ノ)詩(ニ)云。臥(シテハ)覺(ユ)2明燈(ノ)晦(コトヲ)1、坐(シテハ)見(ル)2輕※[糸+丸](ノ)緇(キヲ)1、涙容不v可(ラ)v飾(ル)、幽鏡難(シ)2復(タ)治(メ)1。唐韻云。梳細櫛也。とらんとももはすは、とらんともおもはすといふおの字を略せり。將取毛不念とかけるは、毛の字あまれるにや。二首ともに情ふかき哥なり
 
(21)藤井連遷任上京時娘子贈歌一首
 
藤井は以前見えたる葛井なるべし、
 
初、藤井連 これは葛井連廣成なるへし。葛井はふちゐと讀へし。和名集云。播磨國明赤郡葛江【布知衣。】これに准して知へし。又字書に藤の字を尺して、蔓(ノ)屬(ノ)※[手偏+總の旁]名といへり。こなたかなたに通せり。元正紀云。養老四年五月壬戌、改(テ)2白猪史(ノ)氏(ヲ)1賜(フ)2葛《フチ》井(ノ)連(ノ)姓(ヲ)1。これ廣成なり。此人なるへし。委は右に注せり
 
1778 從明日者吾波孤悲牟奈名欲山石蹈平之君我越去者《アスヨリハワレハコヒムナナホリヤマイハフミナラシキミカコエイナハ》
 
石越平之、【幽齋本云、イシフミナラシ、】
 
名欲山は仙覺抄には對馬と注せらる、八雲御抄にはなよ山、或なを山、播磨と注せさせ給ひ、又なほり、近江とも侍り、今按豐後國に直入【奈保里】郡あり、豐後より遷任しけるにや、
 
初、あすよりはわれはこひむな名ほり山 八雲御抄に、此名欲を、なよ山或なを山播磨と注せさせたまひ、又なほり近江とも注せさせたまひて、万石ふみならすとゝもに載らる。此題に遷任とのみあれは、いつれの國と知かたし。此右の哥に、播磨娘子歌ありて、そのつゝきなれは、播磨とおほしめしけるにや。いはふみならしは崇神紀(ニ)〓〓《テキソ》此(ヲハ)云(フ)2布瀰那羅須《フフミナラスト》1と、なら山と名つくることのよしをしるさるゝ所に見えたり。これも別《ワカレ》にあはれなる哥なり
 
藤井連和歌一首
 
1779 命乎思麻勢久可願名欲山石踐平之復亦毛來武《イノチヲシマセヒサシカレナホリヤマイシフミナラシマタマタモコム》
 
發句の志は助語なり、麻勢は遊仙窟に安穩をマセとよめる此なり、安穩にておはせよなり、久可願は今の點意得がたし、若願は禮の字などを誤れる歟、若は可は母の字などを誤てひさにもがと云へるにや、石は右の歌に准ぜばイハと讀べし、今イシと(22)よまば上をもイシと一准に讀べきなり、
 
初、いのちをしませ 遊仙窟に安穏をませとよめり。長流かまさきくといふ詞を畧したるなりといへるも通せり。久可願、此三字を、久しかれとよめる、心得かたし。久しかれといふも、ねかふ詞なれは、可の字なくは、義をもてしかよむへけれと、可の字へたゝりたれはさはよみかたし。願の字の、もし禮の字のあやまりなる歟。もしはまた、久母願《ヒサニモガ》にて、ひさにもかとよむへき歟
 
鹿島郡苅野橋別大伴卿歌一首并短歌
 
和名集云、鹿島郡輕野、今の苅野と同じ、上に※[手偏+僉]税使大伴卿云々、常陸國の※[手偏+僉]税事果て下總國海上津を指て渡らるゝ時の歌なり、
 
初、鹿島郡|苅野橋《カルノヽハシニシテ》別(ルヽ)2大伴卿(ニ)1歌 上の廿二葉云。※[手偏+僉]税使大伴卿登2筑波山1時歌。しかれは、當國の※[手偏+僉]税ことをへて、下總の國海上の津をさしてわたらるゝ時の別の哥なり。和名集云。常陸國鹿島郡、輕野
 
1780 牝牛乃三宅之酒爾指向鹿島之埼爾狹丹塗之小舩儲玉纒之小梶繁貫夕塩之滿乃登等美爾三舩子呼阿騰母比立而喚立而三舩出者濱毛勢爾後奈居而反側戀香裳將居足垂之泣耳八將哭海上之其津乎指而君之巳藝歸者《コトヒウシノミヤケノサケニサシムカフカシマノサキニサニヌリノヲフネマウケテタママキノヲカチモシヽヌキユフシホノミチノトトミニミフナコヲアトモヒタテヽヨヒタテヽミフネイテナハハマモセニオクレナヲリテコヒマロヒコヒカモヲラムアシスリノネノミヤナカムウナカミノソノツヲサシテキミカコキイナハ》
 
牝牛はコトヒウシと云點によれば牡を誤れるにや、仙覺抄云、牛は極て酒の糟を好て食ふなり、さて餘りにくらひぬれば身の發熱して醉て苦しさにたけりほゆればかしましきなり、さればみやけのさけに指向ふ鹿島の崎にと諷《ソ》へつゞくるなり、此注の意は三宅を身燒と取成し、鹿嶋を霰零かしまとつゞくる時の如くかしましと(23)取成て發句を此まで承たりと意得られたりと見えたり、ことひ牛ならでも酒は好む物なるを、さる義ならば何か別てことひとしも云はむ、酒とあるを酒の糟と云へるも違ひぬ、又三宅と云へるは何の用ぞ、殊の外の臆説と云べし、牝は仙覺抄にも此まゝにありて諸本牡に作る事なし、然ればメウシと讀べし三宅は和名集に下總國海上郡に三宅郷あり、海上の其津を指てとよめるに依るに此なるべし、三宅は昔租税の稻を納めらるゝ處を云へば、三宅ある所の本名牝牛にて、めうしの三宅と云へる歟、酒は若浦の字を誤歟、今のまゝにて意得ば酒は彼三宅の名物歟、人の指向ひて飲物なれば鹿島に指向ふと云にそへて云へる歟、夕塩之滿乃登等美爾とは滿のとゞめなるべし、滿はてゝ溝湛たる時なり、アトモヒ立而は第二に注するが如し、濱毛勢爾は、送りの人の濱もせばきばかり後れ居てなり、奈は助語なり、紅葉たをらなのな〔右○〕の如し、足垂之はアシズリシと讀べし、足垂は義訓なり、海上は上總にもあり、其津於指而、於の字の事第七に注せしが如し、
 
初、ことひ牛の 牝は牡を誤れり。和名集云。辨色立成云。特牛【俗語云。古度比】頭(ヘ)大(ナル)牛(ナリ)也。玉篇云。特【徒得(ノ)切。牡牛(ナリ)。又獨(ナリ)也。】ことひは雄《ヲ》牛なり。牝は雌《メ》牛なるゆへに、誤とはいふなり。みやけの酒にさしむかふかしまのさきに。長流かいはく。牛はあつきことをくるしふものなれは、酒をくらひては、身のやくるやうにいきつきすたくなり。よりてみやけの酒とはいふなり。さて酒をは盃とりては人にむかひてさすによりて、さしむかふとはいふ。かしまといふは、常陸の國鹿島より、下総國|海《ウナ》上の津といふ所にむかへる所なれは、かくよめるなり。以上かくのことし。今案ことひ牛のみやけの酒とつゝくる事、もし三宅といふ所の、海上郡にありて、かくはよめるか。牛のあつきことをくるしみ、また酒をすきておほくのむ物から、身もやくるやうにあへくことは、みなさる事なれとも、三宅といふ所のなくは、かくはいひ出ること用なし。用なきことはいふましけれは、かならす有て、酒はそこの名物なるへし。又さしむかふは、海上津に、鹿嶋の崎のさしむかふにはあらて、只今別るゝ所鹿嶋なれは、それをさしむかふとはいへる歟。しからは、官家とかきてみやけとよめは、只今の離別の酒、すなはち※[手偏+僉]税使のもてなしに、官家より出すに、さしむかひてのむことく、かしまの崎にもさしむかへは、かくはつゝけたるにや。ことひうしのみやけとつゝくるは、呉牛喘v月ともいへることく、熱をくるしふ心にも侍るへし。さにぬりのをふねまうけて、玉まきのをかちしゝぬき。第八山上憶良七夕の長哥に、さにぬりのをふねもがも玉まきの眞かいもがもといへり。今をかちしゝぬきといへるも、櫓をおほく立るをいへり。狹丹(ノ)狹誤作v挾。夕しほのみちのとゝみに。塩のよくみちてたゝへたる心なり。塩のとゝひといふにおなし。みふなこをあともひたてゝ。和名集云。江賦云。舟子【和名布奈古】於是|搦《トル》v棹(ヲ)。水手とかきてもふなことよめは、かことおなし。あともひたてゝ、第二に人麻呂の長歌にも、御いくさをあともひたまひとよまる。第十七、大伴池主の布勢海長哥にも、白たへのそてふりかへしあともひてわかこきゆけはとあり。これは日本紀に、誘の字をあとふとよめるは、さそふともよむ心なり。今もそれにおなし。六帖にほとゝきす春をなけとはあとふとも人のこゝろをいかゝたのまん。これもおなしきにや。第十第十五にあともふとよめるは、跡思ふなり。第十四に、あともへかとよめるは、東哥なれは、何と思ふかといふことといへり。それらはそこにいたりて尺すへし。おなし誘の字を、日本紀に、わかつる、をこつるとよめるは、此字を又あさむくとよむ、その心なり。これは事のついてにいふなり。濱もせに、野もせ、山もせ、庭もせ、道もせといふことく、濱もせはきほとに、をくりの人の別をおしむなり。おくれなをりて、なは助語なり。こいまろひ、こひとあるかんなはわろし。こやせるといふにおなし。反側とかける字のことし。あしすりし、あしすりのとある點もくるしからねと、たゝあしすりしと讀へし。蹉※[足+它]の二字をあしすりとよめり。第五の四十葉、此卷浦鳴子歌にもよめり。海上のその津をさして。此度の※[手偏+僉]税使は數ケ國を兼て、下總にわたり、それより上總安房をも此大伴卿の※[手偏+僉]校せらるゝなるへし。津を、此てにをはのをに、於の字をかけるは、差別の上に通する邊をかるなり。此外數ケ所にかけり。これらによりて、皆混するへからす。君かこきいなは。俗にいぬるといふは、もとこしかたへ歸るをのみいへり。歌はしからす
 
反歌
 
1781 海津路乃名木名六時毛渡七六加九多都波二舩出可爲八《ウミツチノナキナムトキモワタラナムカクタツナミニフナテカスヘシヤ》
 
(24)可爲八、【幽齋本云、スヘシヤ、】
 
發句の津は助語なり、日本紀にも海路をウミツヂと點ぜり、二つのナム上は唯詞、下は命令の詞なり、忠見がやかずとも草は燒なむ春日野は、たゞはるのひに、まかせたらなむとよめるに同じ、落句の點の中のカ〔右○〕は捨べし、
 
初、反歌、ふなてかすへしや かのかんなけつるへし
 
右二首高橋連蟲麻呂之歌集中出
 
初、右二首高橋連蟲麻呂 さきに登2筑波嶺1爲2※[女+燿の旁]歌會1日作歌に注せしことく、蟲麻呂彼國の國守、あるひは屬官にて、よまれけるなるへし
 
與妻歌一首
 
1782 雪巳曾波春日消良米心佐閉消失多列夜言母不往來《ユキコソハハルヒキユラメコヽロサヘキエウセタレヤコトモカヨハヌ》
 
雪こそは春日に相ては消る物ならめ、我を深く思ふ由を云ひつる人の心さへ消失てあればにやいかにやと問言の葉をだに通はせぬとなり、春贈れるなるべし、
 
初、雪こそは春日きゆらめ心さへ これは後の注をみるに、人まろの妻によみてをくられける哥なり。心は、雪こそは春の日にあひては消る物ならめ。われをふかく思ふよしをいひつる人の心さへ、その春日にあへる雪のことく消うせてあれはにや、あふことのなきのみならす、いかにやと、ゝふことのはたにかよはせぬとなり。春よみてをくられけるなるへし
 
妻和歌一首
 
初、妻和歌 人麻呂の妻に先妻後妻あり。上に注せしかことし。これはいつれとも知かたし
 
1783 松反四臂而有八羽三栗中上不來麻呂等言八子《マツカヘリシヒニテアレヤハミツクリノナカニヰコヌマロトイフハコ》
 
(25)此はいと意得がたき歌なり、今試に解せば先下句の點叶はざれば改てナカウヘコスラマロトイヘヤコと讀べし、松反とは色もかはらぬ松をかはると云ひなさば誣たる詞なり、依て誣と云はむ爲に松反とは云歟、第十七に家持も此つゞきをよまれたり、誣とは人を欺くなり、に〔右○〕は助語なり、シヒテとも讀べし、但家持の歌にも之比爾底とあれば今もに〔右○〕を加へたる歟、さてシヒニテアレヤハとは、思はぬを思ふと欺むきて申つるにあらむやはなり、三栗は中とづゞけむためなる事上に云が如し、中上コヌとは假令一月に付ていはゞ初後の十日は中の十日に對して上なり、麻呂と云は麻は眞、呂は助語にて眞人と云意歟、繼體紀云、七年十二月辛巳朔戊子、詔曰、懿哉摩呂古示2朕心於|八方《ヤモニ》1、盛哉|勾《マカリノ》大兄光2我風於萬國1、又八年正月云、朕子麻呂古、汝妃之詞深(ク)稱2於理1、此麻呂古は勾大兄の御名にはあらぬをかくのたまふはほめさせ給ふ御詞なるべし、然れば我言は君を誣たるにはあらず、今來むと憑めて人を待せ置て中上皆過れと來す人を麻呂と云はむや君となり、終の子の一字は男女互に背子吾妹子など云詞なり、上に人丸集に出る歌とて麻呂歌一首と云へる事あり、今の落句を思ふに彼麻呂のせる歌にや、
 
初、まつがへりしひにてあれやは 第十七家持の哥にも、まつかへり《・松變》しひ|《・誣》に《助語》てあれかも《・有歟》さ|やまた《・山田》の|をぢ《・翁》が|その《・其》日に|もとめあはす《・求不逢》けむとよまれたり。此まつかへりの詞、今こゝに松反とかけるにて心得られたり。松は色の變せさる物なるを、變すといふやうなるを、しふるといふ。誣の字なり。口とく、あらぬさまに物をいひなす心なり。松を變すといふは、しふる事なるゆへに、しひてといはむために、松反とはいへるなり。しひにてのには助語なり。第十七には爾の字あり。こゝには四臂而とかきたれは、しひてとのみもよむへし。しひてあれやはとは、おもはぬをおもふと、しひていへるにてあらんやはといふ心なり。上の哥に、心さへ消うせたれやといへるに、しかはあらすとこたふるなり。三栗は中といはむためなり。上に那賀郡曝井歌にすてに注しつ。さて此下句はすこし心得にくき哥なり。なかにゐこぬまろといはゝこといへるは、點もあやまれりと見えたり。上の字をいかてゐとはよまん。もし古本は止の字に作りてや、ゐとはよめりけむ。おほつかなし。今案上の字をよしとすへし。そのゆへは、第五卷に、山上憶良の、男子|古日《フルヒ》となつけられたるがうせける時の長歌の中に、ちゝはゝもうへはなさかりさき草の中にをねんとなつかしく|し《・己》がかたらへはとよまれたり。これは古日が、父母の眞中にねむといへは、兩方をうへといへり。三枝も三栗も、三つあるものゝ中をいはむためなれは、物はたかへと、おなし心なるゆへ、今上といふも、上《ウヘ》はなさかりといへるにおなし。さて此下句は、なかうへこぬをまろといへやことよむへき歟。中上は、たとへは一月をみつにわかちて、中の十日を中とすれは、上旬下旬みなうへなり。第五には、うへといふに、表の字をかけり。今もその心なり。中といふは、禁裏を禁中といふかことく、裏の字の心なり。我はおもはぬを、おもふとしひていへるにあらす。君こそ、こんと、たのめをきても、はしめなかおはり、まちにまたれてもこすして、猶まろといへとやきみといふ心なり。子は男子の通稱にて、君子ともいへは、君といふにおなし。いへやはいはむやなり。まろといふは、いにしへより、よく人の名につけり。人まろのことし。石上大臣麻呂藤原麻呂なと、唯まろとのみなのれる人もおほし。詞の意を推量するに、呂は助語にて、眞菅眞木なといふたくひに、眞人といふ心にや。繼躰紀云。七年十二月辛已朔戊子、詔曰。懿《ヨイカナ》哉摩呂古、示2朕《ワカ》心(ヲ)於|八方《ヤモニ》1。盛(ナル)哉|勾大兄《マカリノオヒネ》、光《テラス》2我|風《ノリヲ》於萬國(ニ)1。又云。八年春正月、太子(ノ)妃《ミメ》春日皇女〇妃曰。非2餘《アタシ》事1也。〇乃至2於人1豈(ニ)得(ンヤ)v無(コトヲ)v慮(ルコト)2無v嗣《ツキ》之恨(ヲ)1。〇詔曰。朕子麻呂古|汝《イマシカ》妃《メノ》之詞深(ク)稱(ヘリ)2於理(ニ)1。これ安閑天皇のいまた太子にてましませしを、勾(ノ)大兄と申せしを、まろことのたまへり。日本紀には、此詞こゝにのみ見えたり。古今集哥に
  わするらんとおもふ心のうたかひに有しよりけにまろそかなしき
一本にはまつそとかけり。拾遺集に
  旅人のかやかりおほひつくるてふまろやは人をおもひわするゝ
伊勢物語に
  つゝゐつのゐつゝにかけしまろかたけおひにけらしな妹みさるまに
まろかまろねよいくよへぬらむとよめる哥も有。源氏物語螢に、さてかゝるふることの中にまろかやうにしつほうなるしれものゝものかたりはありやといへり。眞人といふ心ならは、たのめて始終こぬを、まことあるつまといはむや君。々こそ人をしひてはあれとかへせるなり
 
右二首柿本朝臣人麿之歌集中出
 
(26)贈入唐使歌
 
1784 海若之何神乎齊祈者歟往方毛來方毛舶之早兼《ワタツミノイツレノカミヲタムケハカユクサモクサモフネノハヤケム》
 
齊祈者歟、【六帖云、イハヽハカ、】
 
最初《サイソ》に君がためと置て意得べし、齊は齋に作るべし、六帖には舟に入て人丸の歌とす、不審なり、
 
初、わたつみのいつれの神 住吉明神、知夫利の神等、皆海路をまもる神なり。齊は齋に作るへし。齋も齊の義なから、只畫のたかへるなるへし。ゆくさもくさもは、ゆきさまもかへるさまもなり
 
右一首渡海年紀未詳
 
神龜五年戊辰秋八月歌一首并短歌
 
初、神龜五年秋 これは越の國の内いつれにまれ、友たちの、國守に任せられて行時、京に留る人の、別るゝ時よみてをくる哥なり
 
1785 人跡成事者難乎和久良婆爾成吾身者死毛生毛君之隨意常念乍有之間爾虚蝉乃代人有者大王之御命恐美天離夷治爾登朝鳥之朝立爲管羣鳥之群立行者留居而吾者將戀(27)奈不見久有者《ヒトヽナルコトハカタキヲワクラハニナレルワカミハシニモイキモキミカマヽニトモヒツヽアリシアヒタニウツセミノヨノヒトナレハオホキミノミコトカシコミアマサカルヒナヲサメニトアサトリノアサタチシツヽムラトリノムラタチユケハトマリヰテワレハコヒムナミテヒサニアラハ》
 
朝立爲、【幽齋本、アサタヽシ、】
 
初四句は四十二章經云、佛言、人離2惡道1得v爲v人(ト)難、二十難の隨一なり、或は惡趣に入る者は大地の土の如く、惡趣を出て人となる事は爪上の土の如しとも見えたり、死毛生毛君之隨意常とは、友の心を堅く執なり、毛詩云、死生契闊、與v子成v悦(ヲ)、史紀范雎傳、須賈曰、唯君死生(セヨ)之、朝鳥之以下四句は古事記八千矛神御歌云、牟良登理能和賀牟禮伊那婆《ムラトリノワカムレイナハ》、比氣登理能和賀比氣伊那婆《ヒケトリノワガヒケイナハ》云々、朝立は幽齋本の點よし、行者はユカバと讀べし、吾者將戀奈と云に能叶ふなり、
 
初、人となる事はかたきを 四十二章經曰。佛(ノ)言《ノ ハク》人離(テ)2悪道(ヲ)1得(ルコト)b爲(ルコト)v人(ト)難(シ)。わくらはになれるわかみは、わくらはゝまれにたまさかになといふにおなし。第五卷貧窮問答哥にも、わくらはに人とはあるをとよめり。ともに和久良婆とかけり。此集に婆は多分濁音に用たれは、いにしへはにこりてよみけむを、今は和の字のことく讀り。しにもいきも君かまゝにとおもひつゝ。へたてなく相ともなふ心なれは、君かしなは我もしに、君かいきは我もいきむとおもへは、しにもいきも君にまかするなり。毛詩云。死生契闊、與v子成(サン)v悦(ヲ)。これは夫婦の間にいへり。史記范雎傳、須賈曰唯君死生(セヨ)之。第十六仙女の哥にいはく
  しにもいきもおなし心とむすひてし友やたかはんわれもよりなん
うつせみの世の人なれは、大きみのみことかしこみ、次下の長哥の發端にも、此四句有。第八にも、笠朝臣金村か、天平五年の入唐使にをくる長哥にも、玉たすきかけぬ時なくいきのをにわかおもふ君はうつせみのみことかしこみとよめる、そこに尺せしことく、世の人なれは大きみのといへる二句のおちたるなり。今とおなし。毛詩云。溥天之下、莫v非(トイフコト)2王土(ニ)1、率土之濱、莫v非(ストイフコト)2王臣(ニ)1。此意におなし。朝鳥の朝立しつゝ、旅に出る人の、朝とくたつを、朝に鳥のねくらよりたつによそへていへり。むら鳥のむらたちゆけは。ともの人なとあまた具してゆくを、むら鳥のたちゆくにたとふるなり
 
反歌
 
1786 三越道之雪零山乎將越日者留有吾乎懸而小竹葉背《ミコシチノユキフルヤマヲコエムヒハトマレルワレヲカケテシノハセ》
 
三越道とは越前越中越後ある故に云にはあらず、三吉野三熊野等の例に意得べし、八月の歌に雪零山とよめるは、彼方は寒國にて外より雪の早く降故に路次の艱難を思ひ遣て云へるなり、
 
初、みこしちの雪ふる山 越前越中越後あれは、三越道といへり。雪ふる山とは、秋八月の哥なれは、今雪ふるといふにはあらす。こしちは雪深き所なれは、惣していふなるへし。かけてしのはせはかけてしのへなり
 
(28)天平元年巳巳冬十二月歌一首并短歌
 
1787 虚蝉乃世人有者大王之御命恐彌磯城島能日本國乃石上振里爾※[糸+刃]不解丸寐乎爲者吾衣有服者奈禮奴毎見戀者雖益色二山上復有山者一可知美冬夜之明毛不得呼五十母木宿二吾齒曾戀流妹之直香仁《ウツセミノヨノヒトナレハオキミノミコトカシコミシキシマノヤマトノクニノイソノカミフリニシサトニヒモトカスマロネヲスレハワカキタルコロモハナレヌミルコトニコヒハサレトイロ/\ニヤマノウヘニマタアルヤマハヒトシリフネミフユノヨノアカシモエステイモネスニワレハソコフルイモカタヽカニ》
 
世人有者、【別校本云、ヨノヒトニアレハ、】
 
磯城島能日本國乃は今は本朝の惣名にはあらず、和州の別名なり、振里爾は今按フルノサトニと讀べシ、今の點は作者の意にあらず、其故は古今に日の光やぶしわかねば石上、ふりにし里に花も咲けりとよめるはふりにしとよめるに意あり、今は唯里の名なり、ふりにし里ならば振西里なども書べきをニシの詞の字のなきを以ても知べし、色二山上復有山者、今按此を三句によめるは非なり、イロニイデバと一句に讀べし、其故は古樂府に藁砧今何在(ル)、山上更安v山云々、此山上更安v山とは出の字を(29)云へり、正しく山をふたつ重てかくにはあらねど見たる所相似たる故なり、唐の孟遲が山上有v山不v得v歸(コトヲ)と作れるも此に依れり、今も此義を意得ていでと云ふに文字を山上復有山とはかけるなり,幽齋本に色毎二とあるは後人の加へたるなるべし、假令色色二とあるにても義通ぜず、其故は色色とは種々の義にして色にはあらず、山上復有山者と定て、色に出ばと云ことを謎の如く云へると意得たる點なるべければ、色色の句、色とならずば何の出るとかせむ、然れば此をは、イロニイデバとすべし、此二句の連續せる歌は、第十三に百不足山田道乎《モヽタラズヤマダノミチヲ》と讀出せる歌の中に散鈎相君名曰者色出人可知《サニヅラフキミガナイハバイロニイデヽヒトシリヌベミ》云々、古今の戀の長歌にもあり、傍例かくの如し、
 
初、うつせみの世の人なれは 此四句上にいへるかことし。しきしまのやまとの國、これは常にいふことなれと、そのゆへよくしらす。欽明紀云。元年秋七月丙子朔己丑、遷2都(ヲ)倭(ノ)國(ノ)磯城(ノ)郡(ノ)磯城嶋(ニ)1。仍號(ケテ)爲(ス)2磯城嶋(ノ)金《カナ》刺《シノ・サシノ》宮1。此磯城嶋は、大和國の一所の別名なるを、それを枕詞におきて、しきしまのやまとゝはいかていふらん。もし彼金刺宮に天下しろしめしける時、都をもとゝしてかくいひそめけるにや。大和は此國の惣名にて、又一國の別名なり。惣別ことなれとも、惣名も別名よりおこれる歟。よりてやまと哥を、しきしまの道と、後の哥によめるも、しきしまをもて、此國の名とせるは、あしひきを山とし、玉ほこを道とするたくひなるへし。我きたる衣はなれぬ。此集に穢の字をなるゝとよみたれは、塵垢にけかるゝなり。衣をあらひぬふことは、女のしわさなれは、妻をおもひ出ることを、これにつけてもいふなり。毛詩〓風柏舟(ニ)曰。心(ノ)之憂(アリ)矣、如(シ)2匪《サル》v澣《アラハ》衣(ノ)1。文選謝玄暉(カ)酬(フル)2王晉安(ニ)1詩(ニ)曰。誰能久(カラム)2京洛(ニ)1、緇塵染(ム)2素衣(ヲ)1。同陸士衡(カ)爲(ニ)2顧彦先(カ)1贈v婦(ニ)詩(ニ)曰。辭(シテ)v家遠行游、悠々(タリ)三千里、京洛多(シ)2※[風の虫が百]塵1、」素衣化(シテ)爲《ナル》v緇(ト)。みることにこひはまされといろ/\に山のうへにまたある山はひとしりぬへみ。これは色に出は人しりぬへみといふへきを、古樂府に藁砧今(マ)何(ンカ)在(ル)、山上(ニ)更(ニ)有(リ)v山といふは、藁砧をは、※[石+夫]といふゆへに夫の字とし、出の字は、まことには、中の畫上下をつらぬきて、二の山にはあらされとも、しか見ゆれは、夫はすてに遠く出てゆけりといふ心に、山上更有v山と作れるをふみて、出るといふ事を、山のうへにまたある山とはいへり。唐(ノ)孟遲か詩に、山上(ニ)有v山不v得v歸(ルコトヲ)と作れるも、古樂府によれり。色二とかけるをいろ/\にとよめるは、にをばよみつけて、義をもて、色二をいろ/\とよめる歟。物ことにつけて戀しき心を、色に出はといふ心なり
 
反歌
 
1788 振山從直見渡京二曾寐不宿戀流遠不有爾《フルヤマニタヽニミワタスミヤコニソイネステコルルトホカラナクニ》
 
戀流、【別校本云、コフル、】
 
發句はフルヤマユとも讀べし、直見渡京二曾とは古今集の詞書にも奈良のいそのかみ寺とさへかける程なればなり、京にぞは京のぞの意なり、寐不宿はイモネズと(30)も讀べし、戀流をコルヽと點ぜるは書生の誤なり、
 
初、ふる山にたゝにみわたす京にそ ふるは山邊郡石上に有。古今集には、ならの石上とさへかけることなれは、いとちかき所なり。みやこにそは、都をそと心得へし。京にそいねずてこふるとはつゝかす。長哥のことく、ふるに有て都を戀るなり
 
1789 吾妹兒之結手師※[糸+刃]乎將解八方絶者絶十方直二相左右二《ワキモコカユヒテシヒモヲトカメヤモタエハタユトモタヽニアフマテニ》
 
結テシのて〔右○〕は助語なり、
 
右件五首笠朝臣金村之歌中出
 
歌の下に集の字落たる歟、
 
天平五年癸酉遣唐使舶發難波入海之時親母贈子歌一首并短歌
 
此度の遣唐使の事第五に注せり、聖武紀云、夏四月己亥、遣唐四船自2難波津1進發、
 
初、天平五年 績日本紀第十一云。夏四月己亥、遺唐四船自2難波津1進發。此時の哥、第五第八第十九にも散在せり。大使多治比眞人廣成なり。上にくはしく注しき
 
1790 秋芽子乎妻問鹿許曾一獨子之草枕客二師徃者竹珠乎密貫垂齊戸爾木綿取四手而忌日管吾思吾子眞好去有欲得《アキハキヲツマトフカコソヒトツコフタツコモタリトイヘカコシモノワカヒトリコノクサマクラタヒニシユケハタカタマヲシヽニヌキタレイハヒヘニユフトリシテヽイハヒツヽワカオモフワカコマヨシユキテカナヽ》 奴者多本奴去古本
 
(31)秋芽子乎妻問とは、此集にを〔右○〕とに〔右○〕とかよはしてよめる事多ければ秋芽子の咲比に妻問とよめる歟、又妻子を妻とするとも云へば其意歟、鹿兒自物は和名云、陸詞切韻云、鹿斑獣也、其子曰v麑、【音迷、字作v〓、和名加呉、】客二師、師は助語なり、眞好去有欲得はマヨシユケルカナと讀べし、其外の詞ども皆以前出たり、歌下注云、奴者(ハ)多本奴去古本、此は眞好去を多本、奴者、義通じがたければ好去とあるに依と云意を仙覺にや誰にや後人の注せるなり、官本には此注なし、
 
初、秋はきをつまとふかこそ 秋はきに妻とふなり。秋萩の咲比、妻をこふるをいふ。第十三に、みはかしを劔の池とつゝけたるは、みはかしのつるきの池といふこゝろなり。ことにをとにとをは、此集にかよはしていへることおほし。從の字をゝともにとも、時にしたかひてよめるにて心得へし。ひとつ子ふたつ子とは、あるひはひとつもゝち、あるひはふたつもゝつなり。これはひとり子を、彼鹿のひとつ子によそへていはむためなり。鹿兒しもの、鹿の子をかこといふ。※[鹿/弭]の字なり。應神天皇の御子に、※[鹿/弭]《カゴ》坂(ノ)皇子忍熊《オシクマノ》皇子といふ、おはします。※[鹿/弭]《カコ》坂も忍熊も、ともに大和にある所の名なり。和名集云。麑【音迷】亦作v※[鹿/弭](ニ)。しは助語なから、常の助語のしもしにはたかひて、此しもしはかこといふ物といはむかことくにて、なくてはかなはぬ字なり。鳥しもの、鳧しものなといへるにおなし。わかひとり子、第六に、市原王悲2獨子1歌に、ことゝはぬ木すらいもとせ有といふをたゝひとり子にあるかくるしさ。伊勢物語に、ひとつ子にさへありけれは、いとかなしうしたまひけり。諸經の中にも、佛の衆生をひとしくあはれひたまふ事、慈母の一子をおもふかことしと説たまへり。竹玉をしゝにぬきたれ、第三の四十六葉に尺せり。いはひへにゆふとりしでゝ、いはひへも第三に尺せり。齊は上にもいへることく齋に作るへし。してゝは、第十九に鎭而とかきて、してつゝとよめり。今の世四手といふは、字に心あるにあらす。これを奉て、神の御心をもしつむる物なるゆへに、ゆふ取してゝといふを、やかて木綿《ユフ》の名とせるなり。皇極紀云。二年二月国内(ノ)巫覡《カムナキ》等折2取|枝葉《シハヲ》1懸2挂《トリシテ》木綿《ユフ》1、伺2候《ウカヽヒテ》大臣渡v橋之時(ヲ)1、爭《イソヒテ》陳《マウス》2神語《カムコトノ》入v微《タヘナル》之|説《コトハヲ》1。これはとりかくる心を、とりしてゝとよめり。ゆふ取かくるも、心は神をいはひしつむるなれは、心を得てよめるなり。まよしゆきてかな、眞好去有欲得とかきたれは、此點あやまれり。まよしゆけれかなとよまされは、有の字にかなはす。好去はつゝかなくゆきつくをいふ。第五に、山上憶良、大使多治比眞人廣成にをくらるゝ哥を、好去好來歌となつけたるも、つゝかなくゆきて、つゝかなくかへりきたれといふ心をよめれはなり。欲得はまことにがななり。猶願の字冀の字をかける所も有。下に奴者多本、奴去古本といへるは、仙覺律師諸本をもて校せられける時の注なるへし。二の奴の字は、ともに奴の字の誤なるへし。もしともに奴の字ならは、現本をよしとす。奴は一向に誤なり。好者とある多本誤なり。好去ならは、古本今とおなしくよし
 
反歌
 
1791 客人之宿將爲野爾霜降者吾子羽※[果/衣]天乃鶴群《タヒヒトノヤトリセムノニシモフラハワカコハクヽメアマノツルムラ》
 
吾子羽裹は.鳥は羽を以て卵を覆ひ、或は飛時も羽の下に挿で飛べば鳥より起りて人をはぐゝむと云詞もあるなり、日本紀に含の字をクヽムとも點ぜれば羽に含むと云意なり、上に客人と云ひ下に吾子と云へる唯同じ事なれど、上は總じて云ひ下は別して云なり、天乃鶴群とは鶴群はむらづるなり、鶴は高く飛べば天乃といふ.
 
初、たひ人のやとりせん野に 鶴は子を思ふ鳥なれは、ことにわかこはくゝめとあつらふるなるへし。人をはくゝむといふ詞も、鳥のかひこひなを、羽の下にかいはさむよりいへり。こゝには羽裹とかけり。これは心を得てかけるなり。まさしくは、羽含《ハクヽム》といふことなり。上にたひ人といふは、惣して此度の諸人をいふ歟。下のわか子をもいふへし。詩生民之什曰。誕《アヽ》ゥ《ヲケハ》2之寒氷(ニ)1、鳥覆(フ)翼(ス)之。鳥乃去(ヌレハ)矣、后稷|呱《ナキヌ》矣。注(ニ)覆(フ)蓋翼(フ)藉也。以2一翼(ヲ)1覆(ヒ)v之(ヲ)以21翼(ヲ)1藉(クナリ)v之(ヲ)也。これはまさしく、鳥の人をはくゝみけるなり
 
思娘子作歌一首并短歌
 
(32)1792 白玉之人乃其名矣中々二辭緒不延不遇日之數多過者戀日之累行者思遣田時乎白土肝向心摧而珠手次不懸時無口不息吾戀兒矣玉※[金+爪]手爾取持而眞十鏡直目爾不視者下檜山下逝水乃上丹不出吾念情安虚歟毛《シラタマノヒトノソノナヲナカ/\ニコトノヲノヘルアハヌヒノアマタスクレハコフルヒノカサナリユケハオモヒヤルタトキヲシラニキモムカヒコヽロクタケテタマタスキカケヌトキナククチヤマスワカコフルコヲタマタマキテニトリモチマソカヽミタヽメニミスハシタヒヤマシタユクミツノウヘニイテスワカオモフコヽロヤスキソラカモ》
 
白玉之人とは娘子をさせり、詩召南云、有v女v玉(ノ)、文選古詩云、燕趙(ニ)多2佳人1、美者顔加(シ)v玉(ノ)、人乃其名矣中々二辭緒不延とはしのぶ故に名をも中々えいはぬを辭緒不延と云なり、不延集中の例ハヘズと讀べし、思ふ事を云はぬを緒を宛《ワカネ》ておけるが如くなればたとへて辭緒不延とは云へり、肝向はキモムカフと讀べし、以前注しき、口不息吾戀兒矣とは、第十四にも春の野に草はむ駒の、口やまず、あをしのぶらむ家の兒ろはもとよめり、間もなく其人の事の云はるゝなり、玉釧は仙覺抄は古點にたまだすきなりけるを今の如く改て點ぜられたるなり、上にくしろにあらなむとよめる所に注せし如くタマクシロと讀べし、下樋山は攝津國風土記云、昔有2大神1云2天津鰐1、化爲2(33)鷲1而下2止此山1、十人從者五人去五人留、有2久波乎者1來2此山1伏2下樋1而屆2於神(ノ)許(ニ)1、從2此樋(ノ)内1通而祷祭、由v是曰2下樋山1、仙覺抄に能勢郡にありと云へり、下樋の水に寄て上に出ずと云允恭紀に輕太子歌云、阿資臂紀能《アシヒキノ》、椰摩娜烏兎〓利《ヤマタヲツクリ》、椰摩娜箇彌《ヤマタカミ》、斯〓媚烏和之勢《シタヒヲワシセ》、志〓那企貳《シタナキニ》、和餓儺句兎摩《ワカナクツマ》云々、落句は安き空あらむかもの意なり、
 
初、白玉の人のその名を 白玉は、何にてもほめんとていふ詞なり。第五に、山上憶良の子をうしなひてよめる長哥に、わか中のむまれ出たる白玉のわか子古日はといへるかことし。娘子をさして白玉の人といへり。毛詩召南に有(リ)v女如(シ)v玉(ノ)といへり。又詩に玉人とも作れり。ことのをのへすは、おもふことをいはぬは、たとへは物の緒をわがねてをけるかことく、それをいひ出るは、引はへてのふるかことし。人のその名を中々にことのをのへすとは、名をそれともえいひあらはさぬなり。不延をははへすとよみたるが、緒といふにつきてはまさるへし。おもひやるたときをしらには、おもひをはるけやるたよりをしらぬなり。上にもいへることく、此集におもひやる、おもひ過るといふは、おもひをはるけやり、おもひをはるけ過すなり。想像とかきて、おもひやるといふにはたかへり。肝むかふ心くたけて。第二卷に、人まろ石見よりのほらるゝ時の哥に、はふつたのわかれしくれはきもむかふ心をいたみとよまれたる析に委尺せり。第四第十六に、むらきもの心くたけてとよみ、第一に軍王の哥に、むらきもの心をいたみとよみ、第十に、むら肝の心おほえすとよめるむらきもといふと、肝むかふといふとおなし心なり。肝臓にかきらす、あらゆる五臓の神、こと/\く一心にあつまるを、むら肝とも、肝むかふともいへり。日本紀に、心府とかきてこゝろきもとよめり。字書に府(ハ)聚(ナリ)也と注したれは、あらゆるきものむかふことはりなり。文選歌陽建石臨終詩、痛哭(シテ)摧(ク)2心肝(ヲ)1。遊仙窟(ニ)心肝《・キモ》(ノ)恰欲v摧(ント)。又云。下官《ヤツカレ》當(テ)v見(ルニ)2此詩(ヲ)1心膽倶(ニ)碎。くちやますわかこふる子を。常にひとりことなとしてこふるなり。第十四東哥に、春の野に草はむ駒のくちやますあをしのふらん家のころはも、これとおなし心なり。たまたまき、玉※[金+爪]とかけるは、釧の字の誤なり。上の振田向宿禰が、わきもこはくしろにあらなむといふ哥に委尺せしかことし。たまきは、ゆひまきにて鐶の字なり。玉にて作れるは、字したかひて環なり。たまきはてまきなり。※[氏/一]と多と五音相通なり。手をおりてあひみしことをかそふれはといへるは、指を折ことをいへり。此集第八卷に、指折とかきて、手をおりてとよめり。しかれは、たまきといふは、すなはちゆひまきといふにおなし。釧はひちまきなり。金にてつくれるは此字なり。玉もてつくれは※[王+川]の字なり。釧はくしろともよめは、玉くしろとよむへし。玉はほむる詞、又は玉して作れは、玉くしろなり。手に取もちてとは、おもふ人を手に入るゝを、くしろを臂にまくにたとふ。下檜山、津の國にあり。攝津國風土記云。昔有2大神1云2天津鰐(ト)1化(シテ)爲(テ)v鷲(ト)而|下2止《ヲリヰル》此(ノ)山(ニ)1。十人往(ケハ)者五人(ハ)去(テ)五人(ハ)留(マル)。有2久波乎(トイフ)者(ノ)1來(テ)2此山(ニ)1伏(テ)2下樋(ニ)1而|屆《イタツテ》2於神(ノ)許(ニ)1從2此樋(ノ)内1通(シテ)而祷(リ)祭(ル)。由(テ)v是(ニ)曰2下樋山(ト)1。下ゆく水の上に出すといはむために、下樋山を取よせたり。允恭紀(ニ)木梨(ノ)輕(ノ)太子、妹の輕大娘皇女を犯して後、よみたまへる哥に、あしひきの山田を作り、山高み、したひ《・下樋》をわしせ《・令走》、下なき《・泣》に、わかなく《・吾泣》妻、かたなき《・片泣》に、わかなく《・吾泣》妻、こそ/\、やすくつたふれ《・易傳》。下樋はあるもの陰溝なりといへり
 
反歌
 
1793 垣保成人之横辭繁香裳不遭日數多月乃經良武《カキホナスヒトノヨココトシケキカモアハヌヒアマタツキノヘヌラム》
 
不遭日、【官本、遭或作v遇、】
 
發句は第四に出て既に注しき、六帖によをへだてたると云に入れて數多をおほくとあれど、集中の例に依て今取らず、
 
初、垣ほなす人のよこゝと よこしまに人のいひさまたけて、あはせぬは、かきの物をへたてさふるにおなしけれは、かきほなすとはいへり。第四第十一にも此詞あり。次の哥さねわすられすは、まことに不忘なり
 
1794 立易月重而雖不遇核不所忘面影思天《タチカハルツキカサナリテアハサレトサネワスラレスオモカケニシテ》
 
雖不遇、【六帖云、アハネトモ、】
 
月重而はツキヲカサネテともよまるべし、
 
(34)右三首田邊福麻呂之歌集出
 
挽歌
 
宇治若郎子宮所歌一首
 
應神紀云、次妃|和珥《ワニノ》臣(ノ)祖日觸(ノ)使主《オムノ》之女|宮主宅媛《ミヤヌシヤカヒメ》生2兎道稚《ウチノワカ》郎子皇子、矢田皇女、雌鳥(ノ)皇女1、今歌に今木乃嶺とよめるを以て按ずるに、應神天皇輕島豐明宮にして御世を知らせ給ひける時、此宇治若郎子のまし/\ける宮今木の邊に在けるか、荒て後其宮所とて跡の殘れるを見てよめるなるべし、
 
初、宇治若|郎子《イラツコノ》宮所(ノ)歌 宇治若郎子皇子は、應神天皇の太子なり。此哥に、今木の嶺をよめる、心得かたし。先畧して皇子の始終を記すへし。應神紀云。次|妃《ミメ》和珥(ノ)臣(ノ)祖、日觸(ノ)使主《オムノ》之女宮主|宅《ヤカ》媛生2兎道稚郎子《ウチノワカイラツコノ》皇子《ヒコミコト・ミコ》、矢田(ノ)皇女《ヒメミコト》、雌鳥《メトリノ》皇女(トヲ)1。十六年春二月王仁|來《マウケリ》之。則太子兎道(ノ)稚郎子師之習2諸(ノ)典籍《フミヲ》於王仁(ニ)1。莫v不(トイフコト)2通達《トホリサトラ》1。二十八年秋九月、高麗王遣v使朝貢因(テ)以上(レリ)v表《フミ》。其表(ニ)曰。高麗|王《キミ》教《ヲシフトイフ》2日本國(ニ)1也。時(ニ)太子菟道稚郎子讀(テ)2其|表《フミヲ》1怒(テ)之責(ニ)2高麗之|使《ツ ヲ》1以(テ)2表状無(トイフコトヲ)1v醴《イヤ》則|破《ヤフリスツ》2其|表《フミヲ》1。四十年春正月辛丑朔戊申、天皇召(テ)2大山守(ノ)命、大鷦鷯(ノ)尊(ヲ)1問之曰。汝等《イマシタチ》者|愛《ウツクシフヤ》v子耶。對(テ)言(サク)甚(ハタ)愛(クシ)也。亦問之。長《ヒトヽナルト》與v少《ワカキ》就《イツレカ》尤《イトウツクシキ》焉。大山守命對(テ)言。不v逮《シカ》2于|長子《ヒトヽナレルニ》1。於v是天皇有2不v悦《ヨロコヒタマハヌ》之|色《オモヘリ》1。時(ニ)大鷦鷯尊預(シメ)察(テ)2天皇之|色《ミオモヘリヲ》1以對(テ)言。長《ヒトヽナレルハ》者多(ニ)經(テ)2寒(ト)暑(トヲ)1既(ニ)爲2成人《ヒトヽナリタリ》1更無v悒《イキトホリ》矣。唯|少子《ワカキハ》者未v知2其(ノ)成不《ヒトヽナリヒトヽナラヌヲ》1是(ヲ)以(テ)少子甚|憐《カナシ》之。天皇大悦(タマフテ)曰。汝言寔(ニ)合(ヘリ)2朕之心(ニ)1。是時(ニ)天皇常(ニ)有(シマス)d立(テヽ)2菟道(ノ)稚郎子(ヲ)1爲《シタマハムトオホス》2太子(ト)1之|情《ミ 》u。然欲v和《アマナヘタマハント》2二皇子之意(ヲ)1故發(タマフ)2是|問《トヒコトヲ》1。是以(テ)不v悦2大山守命之|對言《ミコタヘヲ》1也。甲子立2菟道稚郎子(ヲ)1爲v嗣《ヒツキト》。即(ノ)日(ニ)任《コトヨサシテ》2大山守命(ニ)1令v掌2山川林野(ヲ)1。以2大鷦鷯尊(ヲ)1爲2太子(ノ)輔《タスケト》1之令v知2國(ノ)事(ヲ)1。仁徳紀云。四十一年春二月、譽田天皇崩。時太子菟道稚郎子讓(マシテ)2位(ヲ)于大鷦鷯尊(ニ)1未v即2帝位《アマツヒツキシロシメサス》1。仍|諮《マウシタマハク》2大鷦鷯尊(ニ)1云々。既(ニシテ)而|興《ツクテ》2宮室《オホミヤヲ》於菟道(ニ)1而|居《マシマス》之。猶由(テ)v讓(ニ)2位(ヲ)於大鷦鷯尊(ニ)1、以久(ク)不v即2皇位《アマツヒツキシロシメサス》1云々。太子曰。我知(レリ)v不(ルコトヲ)v可v奪2兄王《イロエキミノ》之志(ヲ)1。豈久(ク)生(テ)之煩(ハサン)2天(ノ)下(ヲ)1(トノタマヒテ)乎。乃|自《ミ 》死《ヲハタヒヌ》焉云々。仍葬2於菟道山上(ニ)1。仁徳天皇と互に位を讓りたまふ事、委は仁徳紀をみるへし。延喜式第二十一、諸陵式云。宇治墓【菟道稚郎皇子在2山城國宇治郡1。兆域東西十二町。南北十二町。守戸三烟。】宇治に宮造りせさせたまへる事は、仁徳紀に見えたれと、今木あたりの宮の事、考ふる所なし。是は應神天皇、輕嶋豐明宮に、天か下しろしめしける時、此皇子今木におはしましけるなるへし
 
1795 妹等許今木乃嶺茂立嬬待木者古人見祁牟《イモラカリイマキノミネニナミタテルツママツノキハフルヒトミケム》
 
茂立、【官本、茂或作v並、】
 
發句は妹が許へ今來たと云意におけり、今木の嶺は大和國高市郡なり、齊明紀云、四年五月皇孫建王薨、今城谷上起v殯而收、天皇不v忍v哀、傷慟極甚、詔2群臣1曰、萬歳千秋之後、要合2葬於我陵1、輙作v歌曰、伊磨紀那屡《イマキナル》、乎武例我禹杯爾《ヲムレガウヘニ》、倶謨娜尼母《クモダニモ》、旨屡倶之多々婆《シルクシタタバ》、那(35)爾柯那〓柯武《ナニカナゲカム》、又云、十月幸2紀温湯1、天皇憶2皇孫建王1愴爾悲位、乃口號曰、耶麻古曳底《ヤマコエテ》、于瀰倭〓留騰母《ウミワタルトモ》、於母之樓枳《オモシロキ》、伊麻紀能禹知播《イマキノウチハ》、倭須羅〓麻自珥《ワスラユマジニ》、」欽明紀云、七年秋七月倭國今來郡言云々、此外雄略紀皇極紀孝徳紀等に見えたり、新の一字をもイマキとよめり、昔三韓の人の徳化を慕ひて渡り來けるをおかせ給へる故に此名あり、一説に紀伊國と云説ある故に今慥かに和州なる證を出せり、茂立は今按シゲリタツと讀べし、嬬待木とは松の木とのみ云ひては字の足らねばかくは云へり、石上袖振川と云類なり、古人見祁牟とは稚郎子皇子の宮所は唯跡をのみ申傳ふるに、今木嶺の松は昔の人もかくこそ見けむを今も替らずして茂りて立るよと感概を起すなり、又は皇子の宮の中より御覽ぜられけむと云意にや、
 
初、いもらかりいま木のみねに いもかもとへ今來るといふ心につゝけたり。第十に、藤浪のちらまくをしみほとゝきす今城の岳をなきてこゆなり。これもほとゝきす今來るとつゝけたり。此今木嶺とも、今木岡ともいへるを、八雲御抄に、紀伊と注せさせ給へるは、よくも考させ給はさりけるなり。もし此下に、紀伊國作哥とつゝきたるを、おほしめしわたらせたまひて、あやまらせたまへる歟。これはたしかに大和國なり。雄畧紀云。於是大臣(ト)圓《ツフラ》與2黒彦皇子眉輪王1倶(ニ)被《レヌ》2燔|殺《コロサ》1。〇合(セ)2葬|新漢《イマキノアヤノ》擬《ツキ》本(ノ)南(ノ)丘(ニ)1。【擬字未v詳蓋是槻乎。】欽明紀云。七年秋七月倭國|今來《イマキノ》郡言(ス)云々。今和州十五郡の中に今來郡なし。後に名の改ける歟。隣近の郡に并せけるなるへし。雄畧紀に、新の字をいまきとよみ、欽明紀に今來とあるは、案するに、いにしへ三韓の人、我國の王化をしたひて渡り來けるを、こゝかしこにおかせたまへり。新漢《イマキノアヤ》とあれは、彼等か今渡り來たるを、おかせたまへる所なれは、今來《イマキ》とはいへるなるへし。皇極紀云。蘇我(ノ)大臣(ト)盡(クニ)發(シテ)2擧(リテ)國之民并百八十(ノ)部曲《カキタミヲ》1預(カメ)造(ル)2雙(ツノ)墓(ヲ)今來(ニ)1。孝徳紀云。蘇我倉山田麻呂大臣自2茅渟(ノ)道1逃(テ)向2於倭國境(ニ)1。大臣(ノ)長子《エコ》興志〇迎2於今來(ノ)大槻(ノモト)1。齊明紀云。四年五月皇孫|建《タケルノ》王八歳(ニシテ)薨。今城《イマキ》谷(ノ)上(ニ)起(テ)v殯《モカリヲ》而收。天皇本以2皇孫《ミマノ》有1v順而器2重之1。故不v忍2哀傷1慟《マトヒタマフコト》極(テ)甚。詔2群臣《マチキムタチニ》1曰萬歳千秋之後(ニハ)要(ラス)合(セ)2葬(レ)於|朕《ワカ》陵(ニ)1。輒作v歌曰。伊磨紀那屡、乎武例我禹|杯《ヘ》爾、倶謨娜尼母、旨屡倶之多々婆、那爾柯那|皚《ケ》柯武【其一。其二其三略v之。】又云。十月|幸《イテマス》2紀(ノ)温湯(ニ)1。天皇|憶《オホシテ》2 皇孫建王(ヲ)1愴爾悲泣乃口號《イタミカナイサチタマフクツウタテ》曰。耶麻古曳《・山越》底、于瀰倭柁留騰母《・海渡雖》、於母之樓枳《※[立心偏+可]怜》、伊麻紀能兎知播《今來内》、倭須羅〓麻自珥《忘不》【其一(ナリ)。其二其三略v之。】天武紀云。十一年三月甲午朔、命2小紫三野王及宮内官|大夫等《カミヲ》1遣2于|新城《イマキニ》1令v見(セ)2其|地形《トコロノアリカタヲ》1。仍將v都矣。大かたは高市にあるなるへし。つままつの木はとは、これ妻といふに用あるにあらす。松の木といふにもしのたらねは、君待の木といへるたくひに、つまゝつの木といふなり。ふる人見けむとは、稚郎子皇子をさして申奉るにや。こゝろは今木の嶺に幾千歳を経たりともしらぬ松の木のなみたてるを、いにしへ皇子の、宮の内よりなかめさせたまへるまゝにて、今もたてるらんと感慨をおこしてよめるなり
 
紀伊國作歌四首
 
初、紀伊國作歌 後の注に人麻呂歌集に出といへり。これは人麻呂の歌歟。こと人のよめるを書載てをかれたる歟。四首の哥をみるに、さきに夫婦ともに、紀の國にあそひて、後に妻は死して、ひとりのみふたゝひ昔見し浦々を見て、なけきてよめる哥なり。人麻呂の哥ならは、さきにも彼國にいたりてよまれたる哥見ゆへきに、なけれは、こと人の哥歟。人麻呂の哥ならは、天武天皇四年以後の哥なるへし。委第二卷に妻の身まかられたる時よまれたる哥ともにつきて尺しき
 
1796 黄葉之過去子等携遊礒麻見者悲裳《モミチハノスキユクコラトタツサヒテアソヒシイソマミレハカナシモ》
 
携、【別校本云、タツサハリ、官本云、ナツサヒテ、】
 
過去はスギニシとも讀べし、此四首は前に妻と共に紀州に遊て、後に妻なくなりて(36)又獨行て昔諸共に見し處々を見て悲てよめるなり、
 
初、もみちはの過行こらと もみちを紅顔になすらへてほとなく散過るもまた、なくなる人に似れは、もみち葉の過行こらとはいへり。第二第十三にもよめり。第一卷に、輕皇子宿2于安騎野1時人麿の奉られける哥の反哥に、みくさかるあら野にはあれと葉過ゆく君かかたみとあとよりそこし。此哥の所に申せしことく、これは葉の字の上に黄の字の有けんが、おちて、もみち葉の過ゆく君かかたみとそこしにて、今の哥とおなしつゝきにて侍らん
 
1797 塩氣立荒礒丹者雖在往水之過去妹之方見等曾來《シホケタツアリソニハアレトユクミツノスキユクイモカカタミトソクル》
 
雖在、【幽齋本云、アレト、】  過去、【六帖云、スキニシ、】
 
塩氣は第二に塩氣のみかほれる國にと云に注せり、荒礒はアリソと讀べし、
 
初、塩氣たつありそにはあれと 第二に、しほけのみかをれる國にと、伊勢の國のことをいへるありき。塩けふりのたつなり。ありそにはあれとゝいふより下は、次上に引る、みくさかるあら野にはあれとゝいふ哥に、心あひにたり
 
1798 古家丹妹等吾見黒玉之久漏牛方乎見佐府下《フルイヘニイモトワカアシヌハタマノクロウシカタヲミレハサフシモ》
 
古家を第三第十一にイニシヘと點ぜり、今は尤然讀べき所なり、吾見はワガミシと讃べし、今の點は書生の誤れるなり、
 
初、いにしへにいもとわかみし 古家をふるいへとよめるは誤なり。第三に、長屋王の哥に、わかせこかいにしへのさとのあすかにはとある哥にも、古家とそかける。くろしかたは、第七にも、此上の第八葉にも有。さふしもはさひしもなり。布と比と五音相通せり。不樂とかきてさひしとよめり。常いふよりはおもし
 
1799 玉津島礒之裏末之真名仁文爾保比去名妹觸險《タマツシマイソノウラマノマナコニモニホヒテユカナイモヽフレケム》
 
眞名の下にコ〔右○〕と讀べき字落たり、落句はイモニフレケムと讀べし、第三のみづ/\しくめの若子と云歌引合て見るべし、
 
初、玉つしまいそのうらまの 眞名、此下にことよむ字おちたり。にほひてゆかなはゆかんなゝり。妹にふれけむとは、妹か見し時、身にふれけむさへなつかしとなり。にほひてゆかなは、上にも、すみょしのきしのはにふにゝほひてゆかむなと、あまた見えたり
 
右五首柿本朝臣人麻呂之歌集出
 
(37)過足柄板見死人作歌一首
 
坂を誤て板に作れり、
 
初、過2足柄坂1 坂誤作板。これより下七首田邊福麿集出
 
1800 小垣内之麻矣引干妹名根之作服異六白細乃※[糸+刃]緒毛不解一重結帶矣三重結苦侍伎爾仕奉而今谷裳國爾退而父妣毛妻矣毛將見跡思乍往祁牟君者鳥鳴東國能恐耶神之三坂爾和靈乃服寒等丹烏玉乃髪者亂而郡問跡國矣毛不告家問跡家矣毛不云益荒夫乃去能進爾此間偃有《ヲカキウチノアサヲヒキホシイモナネノツクリキセケムシロタヘノヒモヲモトカスヒトヘユフオヒヲミヘユヒクルシキニツカヘマツリテイマタニモクニニカヘリテチヽハヽモツマヲモミムトオモヒツヽユキケムキミハトリカナクアツマノクニノカシコミヤカミノミサカニニキタマノコロモサムラニヌハタマノカミハミタエテクニトヘトクニヲモツケスイヘトヘトイヘヲモイハスマスラヲノユキノスヽミニコヽニフシタリ》
 
初の二句は孟子云、五畝(ノ)之宅、樹牆下以v桑(ヲ)、匹婦蠶v之、則老者足以衣1v帛(ヲ)矣、此意に似たり、麻は皮を剥て池に浸して又乾す物なれば引干とはいへり、妹名根は神代紀に姉の字をナネと點ぜり、名姉《ナネ》なり、妹と云ひて又姉と云べきにあらねど、妹とは親しみて並て呼詞にて姉は又女を敬まひて云へば姉妹の義を密しくは見ずして唯親みて(38)兼て敬ふ詞なりと大樣に知るべし、紐緒毛不解は紐の緒とも、又緒は詞の字とも云に妨げなし、退而はマカリテとも讀べし、第七に百師木之大宮人之退出而云々、此退出而を六帖にはまかりいでゝとあるに准らふべし、神ノ三坂は足柄なり、和靈は神功皇后紀云、和魂服2玉身1而2守壽命1、荒魂爲2先鋒1而導v師、【和魂此云2珥岐弭多摩1、荒魂此云2阿邏多摩1、】此は神の御上なり、凡人に付て云はゞ存生にあらはにはたらく心をば荒魂《アラタマ》と云ひ、死して伏する幽魂を和魂と云べし、第二に新魂《ムツタマ》とよめると同じかるべし、服寒等丹は衣も寒氣に見ゆるなり、郡は官本に邦に作れるに從がふべし、
 
初、小垣内の麻を引ほし 孟子曰。五畝之宅樹(ルニ)2牆下(ニ)1以v桑(ヲ)、匹婦蠶之則老者足(レリ)2以衣(ルニ)1v帛(ヲ)矣。妹なねのは、なはなせの君、なにも、なあになと上にもつけ、又せな、いもなねなと下にも付る字なり。白たへのひもをもとかす。此白たへといへるは、すなはち衣なり。衣は白きをもとゝするゆへなり。衣といはすして、白たへとのみいへるは、あしひきとのみいひて、山とするにおなし。白妙の衣のひもと心得へし。白妙の紐とつゝけて、紐を白たへといふにはあらす。ひもをもとかすは、紐緒毛不解とかきたれは、紐緒はひものをなり。てにをはのをにはあらす。一重ゆふおひをみへゆひ。第四にも第十三にも、またかくよめり。古詩に衣帶|日《ヒヽニ》已(ニ)緩と作れることく、身心疲弊して痩るなり。神のみさかに、足柄坂をさしていへり。かやうの所には、まもる神おはするゆへなり。にきたまのころもさむらに、にきたまは死人のたましゐなり。にきたへの衣といへるやうにつゝけたるにはあらす。衣の薄くてあれは、たましゐもさむからんやうにいふなり。古詩云。涼風|率《ニハカニ》已(ニ)氏sハケシ》、游子寒(シテ)無(シ)v衣。ぬは玉の髪はみたれて。髪はくろき物なれは、ぬは玉のくろかみといふ心につゝけたり。くにとへと國をもつけす。郡問跡とかけるは、郡をもくにとよむか。なにはのくに、よしのゝくにともいひて、國といふに寛狹あれは、郡をもくにとはよみぬへし。若は邦の字を誤れるか。又君の字の音を、ならなくにといふくにのてにをはに借用たる所もあれは、郡も音を取て用る歟。丹波をたにはと云、難波をなにはといふことく、郡なとはぬる字を、和語に用る時は、くにとやうによむなり
 
過葦屋處女墓時作歌一首并短歌
 
處女墓をよめるは此歌并に下の高橋虫丸集の歌及び第十九に家持のよまれたる歌に其故詳なれば注せず、大和物語に又一説ありて委けれど彼は此集を本として後人の作れる事と見えたり、
 
初、過葦屋處女墓 此うなひをとめをよめる哥は、此下の三十五葉にも有。第十九の廿六葉に、家持もよまれたり。大和物語に、これにつきて物語も見えたり。葦屋は津の國兎原郡なり。人まろの哥に、玉もかるをとめを過てなと、そのほかも、をとめとよみて、所の名とせるは、此處女墓あるによりて、葦星のなたをいへり。此事いつれの時といふ事をしらす
 
1801 古之益荒丁子各競妻問爲祁牟葦屋乃菟名日處女乃奧城矣吾立見者永世乃語爾爲乍後人偲爾世武等玉桙乃道邊(39)近磐構作冢矣天雲乃退部乃限此道矣去人毎行因射立嘆日惑人者啼爾毛哭乍語嗣偲繼來處女等賀奥城所吾并見者悲裳古思者《イニシヘノマスラヲノコノアヒキホヒツマトヒシケムアシノヤノウナヒヲトメノオキツキヲワカタチミレハナカキヨノカタリニシツヽノチノヒトシノヒニセムトタマホコノミチノヘチカクイハカマヘツクレルツカヲアマクモノシリヘノカキリコノミチヲユクヒトコトニユキヨリテイタチナケカムヒワヒヒトハネニモナキツヽカタリツキシノヒツキクルヲトメラカオキツキトコロワレシタミレハカナシモムカシオモヘハ》
 
丁子、【校本云、ヲトコノ、】  悲裳、【官本裳作v裘、以v裳注v異、】
 
古之荒益丁子とは血沼壯子《チヌヲトコ》と菟原壯士《ウナビヲトコ》となり、今の反歌に小竹田丁子と云へるは、菟原壯士とは住所を以て呼てそれが氏を小竹田と云ひけるなるべし、天雲乃退部乃限は、退部をシリヘと點ぜるは誤なり、ソキヘノキハミと讀べし、傍例多き中に第十九云、天雲能曾伎敝能伎波美云々、第三云、天雲乃曾久敝能極云々、射立嘆日は、射は發語の詞なり、惑人とは常は貧しくて世に有わぶる人を云やうにのみ思ひ相へり、まどふ人なり、奧城所はオクツキドコロと讀べし、第二に注せしが如し、吾并をワレシマタと點ぜるは誤なり、ワレナヘニと讀べし、并をなへ〔二字右○〕とよめる事集中の例數ふるに遑なし、
 
初、いにしへのますらをのこ さゝ田とちぬとのふたりをいふ。丁は強也壯也と注せり。本朝には廿一歳以上を上丁とさためらる。うなひをとめは、海邊處女なり。海邊にうまれけれは、海邊《ウナヒ》といふを名とせる歟。また海邊の美女なれは、おしてなつくるか。おきつきはおくつきともいふ。墓の事なり。すなはち日本紀には、墓の字をよみ又丘墓ともかけり。天雲のそきへのかきり。退部とかけるを、しりへとよめるはわろし。第四には、天雲の遠隔《ソキヘ》の極《キハミ》とよみ、第六には、山のそき野のそきとよみ、第十七には、山河乃曾伎敝乎登保美とよみ、第十九にも、天雲能曾伎敝能伎波美とよめり。そきはさかるといふにおなし心なり。退の字をしりそくとよむは、しりへにそくにて、しりへのかたへ遠さかるなり。されは天雲のそきへのかきりは、天雲の遠さかり行かきりなり。天雲のむかふす限といへるにおなし。又君かあたりやゝ遠そきぬとよめる哥も有。いたちなけかひ、いは發語の辞、立とゝまりて、見てなけくなり。わひ人は啼にもなきつゝ。常にわひ人といふは、まつしくて、世にありわふる人をいへり。今いへるは、惑人とかけれは、ふかくかなしみて、心のまとふ人をいへり。常にいふわひ人も、いかにして、世を過さんともしらて、おもひまとふ心なり。わひしきといふ詞も、惑の字にて意得へし。吾并はわれさへにとよむへし。此集餘所に并の字をさへとよめり
 
(40)反歌
 
1802 古乃小竹田丁子乃妻問石菟會處女乃奥城叙此《イニシヘノサヽタヲノコノツマトヒシウナヒヲトメノオキツキソコレ》
 
奥城、【袖中抄云、オクツキ、】
 
奥城は袖中砂に依て讀べし、
 
1803 語繼可良仁毛幾許戀布矣直目爾見兼古丁子《カタリツクカラニモコヽタコヒシキヲタヽメニミケムムカシノヲノコ》
 
一二の句のつゞきは第七に手に取しからに忘るととよめるに同じ、下句は直目に見けむ心如何なりけむとなり、
 
初、かたりつくからにも たゝめにみけむはまのあたりみけむなり。身をなけゝるをいへり。むかしのをのこといひたるは、昔のをのこはさこそかなしかりけめなり。上のもの字下をかねたり
 
哀弟死去作歌一首并短歌
 
1804 父母賀成之任爾箸向弟乃命者朝露乃銷易杵壽神之共荒競不得而葦原乃水穗之國爾家無哉又還不來遠津國黄泉(41)乃界丹蔓都多乃各各向向天雲乃別石徃者闇夜成思迷匍匐所射十六乃意矣痛葦垣之思亂而春烏能啼耳鳴乍味澤相宵畫不云蜻※[虫+廷]火之心所燒管悲悽別焉《チヽハヽカナシノマニ/\ハシムカフナセノミコトハアサツユノケヤスキイノチカミノムタアラソヒカネテアシハラノミツホノクニニイヘナシヤマタカヘリコヌトホツクニヨミノサカヒニハフツタノオノカムキムキアマクモノワカレシユケハヤミヨナスオモヒマトハシイルシヽノコヽロヲイタミアシカキノオモヒミタレテウクヒスノナキニナキツヽアチサハフヨルヒルイハスカケロフノコヽロモエツヽナケクワカレヲ》
 
弟乃、【官本又云、ヲトノ、】  思迷匍匐、【別校本云、オモヒマトハヒ、】  啼耳、【別校本又云、ネノミ、】
 
擧る所の點の異、異に依るべし、成乃任爾は、なす〔二字右○〕はうむ〔二字右○〕なり、うみのまゝなり、神代紀上云、若汝心明淨、不v有2陵奪之意1者、汝所生兒必(ラス)當男矣、竹取物語云、むすめを我にたべと伏拜み手をすりのたまへど、おのがなさぬ子なれば心にも隨がへずとなむ云ひて月日を送る、箸向フは兄弟たゞ二人あるを箸の指向ひたるに譬へて云なり、世俗の詞に兄弟のみあるを云とて箸折かゞめと云なるは意得がたけれど、今の詞を以て會釋せば箸を折かゞめと云にはあらで、竹などを著に折たるやうに唯指向ひたる兄弟と云意なるべし、神之共荒競不勝而は第二に空蝉し神にたへねばと有し意なり、壽を神と共に爭ふことあたはずなり、あらそふと云詞は今荒競とかける如くあらくきそふと云略なるべし、家無哉は家はあれどもなど還り來ぬとなり、蔓都多(42)は上の黄泉乃界丹につゞくにあらず、蔓都多乃《ハフツタノ》各各向向遠津國黄泉乃界丹天雲乃別石往者と句を置替て言得べし、各々も下の向々の點に准ぜばおの/\と讀べきにや、別シのし〔右○〕は助語なり、闇夜戚は、闇には迷ふ物なれば、まどはひと云はむためなり、所射十六は、齊明紀に天皇御製云。伊喩之之乎都那遇河播杯能倭扞矩娑能《イユシヽヲツナグカハベノワカクサニ》云々、此に依て今も古風を存してイユシヽノと讀べし、流を由に通はし用たる事集中傍例多し、味澤相は宵のよ〔右○〕もじを吉と云意につゞけたる歟、第二第六第十一第十二には皆目とつゞけたり、蔓都多乃と云より蜻※[虫+廷]火之と云まで二の句毎に枕辭を置たり、
 
初、ちゝはゝかなしのまに/\ なすはうむなり。うみのまゝなり。神代紀上云。若|汝《イマシカ》心|明浄《キヨウシテ》不v有《アラヌ》2凌(キ)奪(ハントイフ)之|意《コヽロ》1者《モノアラハ》、汝《》所v生《ナサム》兒《コ》必(ラス)當(ニ)v男《マスラヲナラン》矣。竹取物語に云。この人々、ある時は竹とりをよひ出して、むすめをわれにたへと、ふしをかみ手をすりのたまへと、をのかなさぬこなれは、心にもしたかへすとなんいひて、つきひをゝくるといへり。はしむかふなせのみことは。箸はふたつさしむかへるものなれは、箸向ふといへり。今の俗にたゝふたりある兄弟を箸をりかゝめといふは、をりかゝめこそ心得かたけれと、此箸むかふといふ古語の遺《ノコ》れるなるへし。なせは弟の字なれは、をとのみことゝよむへし。なせは兄をいひ、夫をいへり。朝露のけやすきいのち、神のむたあらそひかねて。神とゝもにあらそひかぬるなり。神は壽命長遠なるものなれはなり。第二に、天智天皇の崩し給ふ時、婦人のよめる哥にも、うつせみし神にたへねはといへる今とおなし。家なしや又かへりこぬとは、家なしや、家はあれと、なとか又かへりこぬそとなり。此所句なり。とほつくによみのさかひにはふつたのをのかむき/\。よみのさかひに、つたのはふといふにはあらす。よみのさかひにと讀切て、はふつたのをのかむき/\と心得へし。第二に、人麻呂の、石見より上らるゝ時の歌に、はふつたのわかれしくれはとあるにおなし。つたのもとはひとつなるが、末はこなたかなたへはひわかるゝにたとへて、をのかむき/\といへり。天雲のわかれしゆけは。つたをかりては、をのかむき/\とのみいへは、かさねて雲をかりて、わかれしゆけはといへり。やみよなすおもひまとはひ。やみよのことくまとふなり。まとはしとよめるは、おなし事なから、誤れり。迷匍匐とかけるものを。いるしゝのこゝろをいたみ。矢にあたれるしゝのいたむことく、心をいたましむるなり。あしかきのおもひみたれてとは、あしをつかねてゆひたる垣は、すちもとほらねは、みたるといはむとて、蘆垣とおく歟。又第六に、あし垣のふりにし里ともよみたれは、ふりたる蘆垣の、とかくみたるゝによせていへるなるへし。春鳥のねのみなきつゝ。春鳥とかきて、うくひすとよむ事は、第二の三十五葉に、春鳥《ウクヒス》のさまよひぬれはとあるに注せり。又第廿の三十七葉に、春鳥《ウクヒス》のこゑのさまよひといへるにも、おなしうかけり。ねのみは啼耳とかけれは、なきになきつゝとよめれと、此集に耳の字は多分のみとよみて、音を取てよめる事はまれなれは、ねのみなきつゝと讀を、よしとすへし。あちさはふよるひるいはす。あちさはふは、第二よりはしめて第十一第十二にもよめり。あちはよき事なり。さはゝ多の字をさはとよむ心にて、よきことのおほくよりあふは、よきなれは、よるといふよの字にかけていへるにや。かけろふの心もえつゝ、これは憂火にやかるゝをいへり。かけろふの事、長流か枕詞燭明抄に委尺せり。今蜻※[虫+廷]とかけるは、ほのほのもゆるは、ゑんはのほのめくに似たればか。古事紀に、履中天皇のよませたまへる御哥は、まさしく火なり。所詮火も、陽炎も、蜻※[虫+廷]も、みなほのめくこと、影のかけろふことくなれは、かけろふといふなるへし
 
反歌
 
1805 別而裳復毛可遭所念者心亂吾戀目八方《ワカレテモマタモアフヘクオモホヘハコヽロミタレテワレコヒメヤモ》
 
一云意盡而
 
コヽロツキテと點ぜるは誤なり.コヽロツクシテと讀べきなり、
 
1806 蘆檜木笶荒山中爾送置而還良布見者情苦喪《アシヒキノアラヤマナカニオクリオキテカヘラフミレハコヽロクルシモ》
 
(43)つれ/”\草、かゝらばけうとき山の中にをさめてとかけるも此歌の面影あり、
 
初、あしひきのあら山中に 兼好法師かからはけうとき山の中におさめてといへる、もし此哥をふみてかけるにや
 
右七首田邊福麿之歌集出
 
詠勝鹿真間娘子歌一首并短歌
 
初、詠勝鹿眞間娘子歌 勝鹿は下總國葛飾郡なり。眞間娘子か事、第三に赤人もよまれ、第十四東哥にも二首見えたり
 
1807 鶏鳴吾妻乃國爾古昔爾有家留事登至今不絶意來勝牡鹿乃眞間乃手兒奈我麻衣爾青衿著直佐麻乎裳者織服而髪谷母掻者不梳履乎谷不看雖行錦綾之中丹※[果/衣]有齊兒毛妹爾將及哉望月之滿有面輪二如花咲而立有者夏蟲乃入火之如水門入爾船已具如久歸香具禮人乃言時幾時毛不生物呼何爲跡歟身乎田名知而浪音乃驟湊之奥津城爾妹之臥勢流遠代爾有家類事乎昨日霜將見我其登毛所念可聞《トリガナクアツマノクニイニシヘニアリケルコトトイママテニタエスイヒタルカツシカノマヽノテコナカアサキヌニアヲフスマキテヒタサヲヲモニハヲリキテカミタニモカキハケツラスクツヲタニハカテユケトモニシキアヤノナカニツヽメルイハイコモイモニシカメヤモチツキノミテルオモワニハナノコトヱミテタテレハナツムシノヒニイルカコトミナトイリニフネコクコトクユキカクレヒトノイフトキイクトキモイケラヌモノヲナニストカミヲタナシリテナミノオトノサワクミナトノオキツキニイモカフシセルトホキヨニアリケルコトヲキノフシモミモムカコトモオモホユルカモ》
 
(44)青衿著、【官本又云、アヲクヒツケテ、】  不梳、【官本又云、ケツラテ、】  不看、【別校本、看作v著、】  中丹、【官本、丹、或作v爾、】  幾時毛、【別校本又云、イクハクモ、】  浪音乃、【別校本云、ナミノトノ、】  臥勢流、【別校本云、コヤセル、】  將見我其其登毛、【校本又云、ミケムカコトモ、】
 
青衿著はアヲクヒツケテと讀べし、今の點は大きに誤れり、毛詩云、青々(タル)子衿、傳云、青衿(ハ)青領也、爾雅云、衿、交領、與v襟同、和名云、釋名云、衿、【音領、古呂毛乃久比、】頸也、所2以擁1v頸也、襟【音禁】禁也、交2於前1、所3以禁2禦(スル)風寒(ヲ)1也、此集第十六竹取翁歌云、頸著之童子蚊見庭《クビツキノウナヒゴカミニハ》云々、今フスマと點ぜるは衾の字に思ひまがへたる歟、直佐麻とは、佐は、そへて云詞、ひたすらの麻なり、不看は不著に作れる本に隨ふべし、史記滑稽傳云、東郭先生久待2詔(ヲ)公車(ニ)1、貧困※[食+幾]寒、衣敝(レ)履不v完、行2雪中(ヲ)1、履有v上無v下、足盡踐v地(ヲ)、道中(ノ)人笑(フ)v之、戰國策云、賁諸(ハ)懷2錐刃(ヲ)1而(モ)天下爲v勇、西施衣v褐而天下稱v美(ヲ)、宋玉登徒子好色賦云、體美(シク)、容冶、不v待2飾※[米+莊](ヲ)1、柳妃外傳云、※[將の旁+虎]國不v施2脂粉1自《オノ》美艶(ナリ)、常素面朝v天云々、齊子は齊は齋に作るべし、面輪は第十九云、眞珠乃見我保之御面《マタマノミカホシミオモワ》、【御面謂2之(ヲ)美於毛和(ト)1】佛を讃歎する詞にも面輪圓淨如2滿月1と云へり、輪は車輪などの如く圓滿して缺たる處なき意なり、夏蟲乃入火之如は出曜經偈云、亦如d魚食v鉤(ヲ)、飛蛾入c燈火u、踐心(ニ)投2色欲1、不v惟2後受1v禍(ヲ)、心地觀經第六云、譬(ヘハ)如d飛蛾見2火光1、以v愛v火故而競(ヒ)入、不v知2※[火+陷の旁]※[火+主]燒燃力1、夭2命火中(ニ)1、甘c自焚u、世間(ノ)凡夫亦如v是、貪2愛好色1而追求、不v知3色欲染著人(45)還被2火燒1成2衆苦1、此心地觀經の文は此處によく叶ひたれども、此經は李唐憲宗元和六年に般若三藏の譯し給へば、此經に據にはあらず、莊子云、不v安2其味1而樂2其明1、是猶2蛾(ノ)去v暗(ヲ)赴v燈而死1、水門入爾船己具如久とは、湊入には我さきにと急て※[手偏+旁]なり、和名云、金谷園記云、今之競渡【布奈久良倍】楚國風也、何爲跡歟、今按是は女の思ひ取て身を投る意を云へばナニストカの點は叶はず、ナニセムトカと讀べし、幾時も生ぬ物故に我故に多くの人々を爭そはせて何かせむと思ひてか身を捨つらむとなり、浪音はナミノトと點ぜるに依べし、なみのとかぜのととよめる事集中多し、奥津城またオクツキと讀べし、昨日霜の霜助語なり、將見はミケムと讀べし、昨日見たらむやうに思ふとは、まぢかく見る事はます/\悲しければ、遠き代の事なれど近く目に見たる事のやうに悲しきとなり、
 
初、とりかなくあつまの國にいにしへに有けることゝ 赤人の哥にも、いにしへにありけむ人の、しつはたのおひときかへて、ふせやたてつまとひしけむ、かつしかのまゝのてこながなとよまれたれは、いとあがれる世の事なるへし。あさきぬにあをえりつけて、青衿著とかけるを、あをふすまきてとあるかんなは手をうちてわらふへし。これかならす後の人のしわさなるへし。衿(ハ)與v襟同(シ)。衣(ノ)領《エリ》也。毛詩子衿(ノ)篇(ニ)曰。青々(タル)子(カ)衿《コロモクヒ》、悠々(タル)我(カ)心(アリ)。傳曰。青衿(ハ)青(キ)領《コロモクヒナリ》也。學者(ノ)之所v服(ル)。箋(ニ)云。禮(ニ)父母在(ストキハ)衣純(ニ)以(ス)v青(ヲ)。ひたさをゝ。さは助字なり。ひたはひたすらなり。身にきるものはひたすら麻苧を織てきるとなり。衣裳のよからぬをいふなり。くつをたにはかてゆけとも。史記滑稽傳云。東郭先生久待詔公車、貧困饑寒衣敝履不v完(カラ)。行(ニ)2雪中(ヲ)1履有(テ)v上無(シ)v下。足盡(ク)踐(ム)v地(ヲ)。道中(ノ)人笑(フ)之。不著を不看に作れるは誤れり。戦國策云。賁諸(ハ)【孟賁專諸】懷(ケトモ)2錐刃(ヲ)1而(モ)天下爲v勇(ト)。西施(ハ)衣(レトモ)v褐(ヲ)而(モ)天下(ス)v美(ス)。文選宋玉(カ)登都子(カ)好色(ノ)賦(ニ)曰。體美(シク)容|冶《ウルハシウシテ》不v待(タ)2飾※[米+莊](ヲ)1。楊妃外傳云。※[〓+虎]國不(レトモ)v施2脂粉(ヲ)1自《ヲ》美艶(ナリ)。常(ニ)素面(ニシテ)朝(ス)v天(ニ)。當時杜甫有v詩云。※[〓+虎]國夫人承(ク)2主恩(ヲ)1、平明(ニ)上(テ)v馬(ニ)入(ル)2宮門(ニ)1、却(テ)嫌(テ)3脂粉(ノ)※[さんずい+宛](スコト)2顔色(ヲ)1、淡(ク)掃(テ)2蛾眉(ヲ)1朝(ス)2至尊(ニ)1。にしきあやの中につゝめるいはひ子も。長流か本にはいつきことよめり。いはふもいつくにおなし。良家(ノ)子《ムスメ》といふとも、此娘子にしかしなり。もち月のみてるおもわに。經に佛を讃していはく。面輪圓淨(ニシテ)如(シ)2滿月(ノ)1。第十九の十六葉にいはく。眞珠乃《シラタマノ》、見我保之御面《ミカホシミオモテ》【御面謂2之(ヲ)美於毛和(ト)1。】夏蟲の火に入かこと、みなと入に舟こくことく。夏虫は火の光を愛して身を捨る物なるゆへに、色を好む譬に經におほく出たり。莊子云。不(シテ)v安(ンセ)2其昧(ヲ)1而樂(シムハ)2其(ノ)明(ヲ)1是猶(ヲ)《・コトシ》2夕蛾(ノ)去(テ)v暗(ヲ)赴(テ)v燈(ニ)而死(スルカ)1。簡齋詩云。陽光不2照臨(セ)1、積陰生(ス)2此類(ヲ)1、非(ス)v無(ニ)2惜(ム)v死(ヲ)心1、素(ヨリ)有2賊《ソコナフ》v明(ヲ)意1、粉(ハ)穿(テ)2紅焔(ヲ)1焦(レ)、翅(ハ)撲(テ)2蘭膏(ヲ)1沸(ク)、爲(ニ)v汝(カ)一傷嗟(ス)、自《ミ》棄(ツ)非(ス)2天(ノ)棄(ルニハ)1。経文は上に引るかことし。みなと入に舟こくも、ふなくらへとて、我さきにといそく物なれは、此女をめてゝ人のまとひくるをいへり。荊楚歳時記云。南方競渡(ノ)者治(テ)2其船(ヲ)1使(ルヲ)2輕利(ナラ)1謂2之(ヲ)飛鳧(ト)1。いく時もいけらぬ物を、なにせんとか、なにすとかといふかんなは心たかへり。身をたな知て、身を知なり。第一卷にも、身はたなしらすとよめり。霞たな引といふに、輕引とかけれは、たな知は、身をかろき物と知心歟。浪のおとのさはくみなとの、おきつきにいもかふしせる。蘆屋のうなひをとめかことく、人のわれえむとあらそふにうむして、身をなけゝるなり。きのふしもみけんかことも。次下の長哥の終にも、にひものこともなけきつるかもとあり。今もその心なり。遠き代のことなれと、きのふしもまのあたりわか見たるやうに、なけかるゝといふ心なり
 
反歌
 
1808 勝牡鹿之眞間之井見者立平之水※[手偏+邑]家牟手兒名之所念《カツシカノマヽノヰミレハタチナラシミツヲクミケムテコナシソオモフ》
 
家无、【官本、牟或作v武、】
 
(46)所念はオモホユと讀べし、手兒名との之は助語なり、
 
初、かつしかのまゝの井みれは 彼娘子くつをたにはかて、此井をくめるなり
 
見菟原處女墓歌一首并短歌
 
(183)1809 葦屋之菟名負處女之八年兒之片生之時從小放爾髪多久麻庭爾並居家爾毛不所見虚木綿乃※[穴/牛]而座在者見而師香跡悒憤時之垣廬成人之誂時智奴壯士宇奈比壯士乃廬八燎須酒師競相結婚爲家類時者燒太刀乃手預押禰利白檀弓靱取負而入水火爾毛將入跡立向競時爾吾妹子之母爾語久倭文手纒賤吾之故大夫之荒爭見者雖生應合有哉完串呂黄泉爾將待跡隱沼乃下延置而打嘆妹之去者血沼壯士其夜夢見取次寸追去祁禮婆後有菟原壯士伊仰天※[口+斗]於(47)良妣※[足+昆]他牙喫建怒而如己男爾負而者不有跡懸佩之小釼取佩冬※[草がんむり/(金+又)]蕷都良尋去祁禮婆親族共射歸集永代爾※[手偏+栗]將爲跡遐代爾語將繼常處女墓中爾造置壯士墓此方彼方二造置有故縁聞而雖不知新喪之如毛哭泣鶴鴨《アシノヤノウナヒヲトメノヤトセコノカタオヒノトキニヲハナリニカミタクマテニナラヒヰテイヘニモミエスソラユフノカクレテマセハミテシカトイフセキトキシカキホナスヒトノイトムトキチヌヲトコウナヒヲトコノフセヤモエススシキホヒアヒタハケシケルトキニハヤキタチノタカヒオシネリシラマユミユキトリオヒテミツニイリヒニモイラムトタチムカヒイソヒシトキニワキコモカハヽニカタラクシツタマキイヤシキワカユヘマスラヲノアラソフミレハイケリトモアフヘクアレヤシヽクシロヨミニマタムトカクレヌノシタハヘオキテウトナケキイモカイヌレハチヌヲトコソノヨユメミテトリツヽキオヒユキケラハオクレタルウナヒヲトコモイアフキテサケヒヲラヒテツチニフシテキカミタケヒテモコロヲニマケテハアラシトカキハキノヲタチトリハキサネカツラツラツキテユケレハヤカラトモイユキアツマリナカキヨニシメサムトトホキヨニカタリツカムトヲトメツカナカニツクリオキヲトコツカコナタカナタニツクリケルオユヘヨシキヽテシラネトモニヒモノコトモネナキツルカモ》
 
麻庭爾、【別校本、庭作v?、】  相結婚、【別校本又云、アヒヨハヒ、】  手預、【官本、預作v潁、】  競時爾、【官本、又云、キホヒシトキニ、又云、アラソフトキニ、】  夢見、【官本、又云、ユメニミ、】  菟原壯士、【別校本云、ウハラヲトコモ、】  ※[足+昆]他、【官本他作v地、幽齋本點云、ツチニフシ、】  冬※[草がんむり/(金+又)]蕷都良、【校本、※[草がんむり/叙]或作v薯、】  新裳、【幽齋本、裳作v裘、】  射歸集、【別校本云、イヨリアツマリ、】
 
片生は片成と云ふに同じ、源氏の末摘花に、紫の君いともうつくしきかたおひニて云々、同|未通女《ヲトメ》に、まだかたなりに見え給へどいとこめかしくしめやかに云々、小放はヲハナリとも讀べし、第十六に、童女波奈理《ウナヰハナリ》、第十四に多知婆奈乃古婆乃波奈里とよめり、髪多久は第二に注せり、並居は、今按此は上の珠名娘子をよめる歌に指並隣とつゞけし如く同じ意なれば、ナラビスム或はナミヰタル或はナラビヲルなど讀べ(48)し、居の字第八第十等にスムとよめり、虚木綿乃※[穴/牛]而座在者とは虚木綿は遊絲を云へる歟、遊絲を此國にいとゆふと名付るは絲もてしたる白木綿に似たりとなるべし、遊絲を菅家萬葉にはかげろふに用給へり、あるにもあらぬ物にて見ゆとも見えねばかくるとはよせたるべし、第二に、蜻火之燎荒野爾《カケロフノモユルアラノニ》、白妙之天領巾隱《シロタヘノアマヒレゴモリ》などよめる類なり、又神武紀云、皇與巡幸、因登2腋上〓間《ホヽマノ》丘1、廻2望國状1曰、雖2内木綿之《ウツユフノ》眞派國1、猶2如蜻蛉(ノ)之臀〓1焉、此内木綿と云意を知らずと云へども、虚蝉の時の例に今もウツユフノと讀て神武紀を推量せる如く意得べきか、悒憤時之の之は助語なり、誂は挑と同じ、廬八燎はスヽシを凝烟に云ひかけむ爲なり、相結婚はアヒヨバヒと點ぜる本に附べし、第十二にも結婚はヨバヒと點ぜり、允恭紀には奸の字をタハクと訓ぜり、手預押禰利は、預は誤にて潁に作れる本よし、潁は稻の穗を云へば、兩字共に借て書て太刀の柄の事なり、神代紀上云、急2握《トリシバリ》劔柄《タチカヒヲ》1、今の日本紀にはかく點ぜれど釋日本紀にはタカヒと有て日向風土記を引て云、宮崎(ノ)郡高日村、昔者自v天降神、以2御劔柄1置2於此地1、因(テ)曰2劔柄村1、後(ノ)人故曰2高日村1也、かゝればたち〔二字右○〕を下略して柄をかひ〔二字右○〕と云へるなり、和名云、唐韻云、※[木+覇]【音覇、和名太知乃豆加、】劔柄也、考工記云、劔莖、人所v握鐔以上也、今按即※[木+覇]也、押禰利とは押ひねりと云へる歟、又物を練る如くたゆまずして返す/”\とりしばる意(49)にや、入水火爾毛將入跡とは第四安倍女郎が歌にもよめり、中務集屏風歌、よと共に藻塩垂つゝ誰が爲に、火にも水にも入れる心を、吾妹子之母爾語久は吾妹子は上にも云如く妻のみならず廣く女を指て云へり、倭父手纏は第四安倍虫丸の歌に注せり、父は文に改むべし、八雲御抄には賤の字をわろきとよませ給へり、宍串呂黄泉爾將待跡、此シヽクシロ、ヨミとつゞくるに付ては兩義あるべし、一つには和名云、唐韻云、〓、【初限反、與v〓同、和名、夜以久之、】炙v宍〓也、※[炙+束]【音束】〓※[炙+束]具也、かゝれば〓に刺《サシ》て炙《アフ》れば肉の味のよきと云意によみのよ〔右○〕の一文字を設む料に、おけるなり、繼體紀に勾《マカリ》大兄皇子の御歌に矢自矩失盧《シシクシロ》、于魔伊禰矢度※[人偏+爾]《ウマイネシトニ》云々、此、うましとつゞけさせ給ふも味に付る歟、二つには宍串は借てかける歟、宍は密、串は櫛《クシ》なるべし、呂はさきの如し、馬融(カ)長笛(ノ)賦云、繁手累發、密櫛疊重、此集に竹|玉乎密貫垂《タマヲシヽニヌキタレ》など密の字をシゞとよめり、又繁の字をもよめり、かくて黄泉とつゞくるに又二つの意あるべし、一つには右の如くしげき櫛はよしとつゞく、うましと云も味に限らず、よしと云意なれば、繼體紀の歌同じく意得べし、二つにはうましとつゞく、意は右の如し、今黄泉とつゞけたる意は、神代紀云、然後伊弉諾(ノ)尊追2伊弉册尊1入2於黄泉1而及之、共語云古々、伊弉諾尊又投2湯津(ノ)爪櫛(ヲ)1、此即成v筍(ト)云々、黄泉にして湯津爪櫛を投給へる故に今の如くつゞくる歟、湯津は清き意と云説(50)あれど湯津杜木《ユツカヅラ》、湯津眞椿《ユツマツハキ》、湯津磐村《ユツイハムラ》、引合て意得るに繁き意とおぼしければ今密櫛と云に同じ、但後の義にては繼體紀と一具ならざれば、やいぐしの説は恐ろしくも賤しくも聞ゆれど、古風は痛むべからざれば前の詞にて侍りなむや、又枕詞必らずしも一具ならざる事もあれば後の義に侍なむや、後人定て取給ふべし、黄泉にまたむとは母の事なり、隱沼乃下延置而は先下延はシタハヘと讀べし、此詞を第十四第十八第二十によめるは下の心にあらまし置意なれば、今隱沼に身を投て死なむと思ひ定むる事をやがて隱沼を下延の枕詞のやうに云なり、血沼壯士其夜夢見とは、反歌にも處女は心を血沼壯士によせたる由あれば夢にも見ゆるなり、追去祁禮婆とは身を投て冥途に追行なり、後有とは心の後れたるにはあらず身の後ろゝなり、菟原壯士はウハラヲトコと讀べし、伊仰天は伊は發語の詞なり、叫於良妣は、おらぶは啼なり、神代紀下云、天稚彦之妻下照姫哭泣悲哀、聲|達《キコユ》2于天1、是時天國玉聞2其|哭聲《オラブ》1、則知2夫天稚彦已死1、清寧紀云、儀2大泊瀬天皇(ヲ)于丹比(ノ)高鷲(ノ)原陵1、于v時隼人晝夜|哀2號《オラブ》陵側1、日本紀の處々に叫の字啼の字をもオラブとよめり、今も筑紫の方の詞に、さけぶ〔三字右○〕をおらぶ〔三字右○〕と云へり、※[足+昆]他は※[足+昆]の字未v詳、他は地に作る本に依るべし、牙喫は牙を喫なり、勵て瞋るなり、戰國策云、焚於期偏袒扼v腕而進曰、此臣(カ)之日夜切齒腐v心(ヲ)、楊子雲(カ)長楊賦云、鑿齒(ノ)(51)之徒、相與|磨《トイテ》v芽(ヲ)而爭(ソフ)之、建怒而はたけるなり、神代紀云、奮2稜戚之雄誥1、【雄誥、此云2烏多稽眉1、】神代紀云、却(テ)至2草香(ノ)津1、植v盾而爲2雄誥1焉、【雄誥、云2烏多?廬1、】建は健と通ずる歟、天智天皇の建皇子、近江の建部《タケベ》などを思ふべし、知己男は、もころは神代妃下云、夜者|若《モコロニ》2※[火+票]火《ホベノ》1而|喧響《オトナヒ》之云々、又同卷に如の字をアマヒニとも點ぜり、もころもあまひも常にごとしと云古語なり、如の字をもころとよめば己の字は、詮なきに似たれど、二字にてもころとよめるはおのれごときの者にと云心なればなり、論語に若人をかくのごときのひととよめるが如し、第十四に悲妹《カナシイモ》を※[弓+付]並纒《ユツカナヘマク》もころをの、事とし云はゞ、彌《イヤ》勝ましにとよめるも今と同じ意なり、孟子云夫撫v劔疾視曰、彼惡敢當v我哉、懸佩之小劔取佩は、太刃をば懸置き又は取佩物なれば懸佩と云歟、又懸合に佩やうに常に用意せるを云歟、冬※[草がんむり/(金+又)]蕷都良は第七に冬薯蕷葛とあるを今の本にはサネカツラと點ぜるを六帖にはまさきづらとあるにより今の歌を引合て六帖に從ふべき由申つるが如し、※[草がんむり/(金+又)]の字字書にいまだ考得ず、音に付て思ふに※[草がんむり/叙]なるべき歟、和名抄云、本草云、署預一名山芋、【和名、夜萬都以毛、俗云、山乃以毛、】兼名苑云、藷〓、【今按、音與、署預同、】此藷の字には似ねば此を書違へたるにはあるべからず、尋去祁禮婆〔五字右○〕、今按此をばタヅネユケレバと讀べし、後撰集云、足引の山下茂くはふ葛の、尋て戀る我と知らずや、葛の此方彼方に分れて蔓《ハヒ》行は物を尋ぬるに似たれ(52)ば尋て戀るとはよせたり、今も此になずらへて知べし、親族は日本紀の點に依らばウカラと讀べし、射歸集は、射は發語の詞、歸集は、ユキツドヒテとも讀べし、標將爲跡は、今按今の點誤れり、シルシニセムトと讀べし、故縁聞而は由緒を聞てなり、源氏物語帚木に、餘りのゆゑよし心ばせ打そへたらむをば悦びに思と云へり、新裳は裳を喪に作れる本や然るべからむ、さきに昨日しも見けむが如もと云へる意に同じ、
 
初、あしのやのうなひをとめのやとせ子のかたおひの時ゆ 片おひはかたなりといふにおなし。源氏物語末摘花に、二條院におはしたれはむらさきの君いともうつくしきかたおひにて云々。未通女に、またかたなりに見え給へといとこめかしくしめやかに云々。同巻に、またかたおひなる手のおひさきうつくしきにてかきかはしたる文ともの云々。若菜上に、またかたおひならむ事をはみかくしおしへきこえつへからむにあつけきこえはやなと聞えたまふ。をはなちに髪たくまてに。をはなちは、はなちの髪ともいへり。ふりわけかみなり。髪をたくとはたくるなり。第二卷に、人みなはいまはなかしとたけといへと君か見しかみ亂たれとも。ならひゐる家にも見えすとは、隣家の人にも見えぬなり。上の十七葉に、さしなみし隣の君と有しかことし。そらゆふのかくれてませは。そらゆふは、いとゆふなり。もろこしには、遊絲とゆふを、此國には木綿にも似たりといふ心にていとゆふとは名つけたりと聞ゆ。それが空にありて天外(ノ)遊絲(ハ)或(ハ)有無(タリ)と詩にも作る物なれは、そらゆふのかくれてませはといへり。第二に白たへの天ひれこもりといへるは、白雲かくれといへることなるに、おもひ合すへし。みてしかといふせき時し。みてしがなとおほつかなくおもふなり。かきほなす人のいとむ時。垣ほなすは上のことし。誂は挑の字の誤なるへし。ちぬをとこうなひをとこ、大和物語には、ちぬはいつみのをとこ、津の國のをとこはうはら氏と見えたり。さきに小竹田をとことよめりしや、こゝにうなひをとことよめるものゝ氏ならん。うなひは海邊とかけは、かならすしも氏にはあるへからす。たゝそのあたりの勇者なるへし。ふせやもえすゝしきほひて。ふせやにて火をたけは、ふすほりて、其屋のすゝくるなり。そのことく、互に思ふ心も切に、いとむ心も急なれは、すゝくるをすゝむにいひかけて、すゝしきほふとはいへり。人のいかりをふくみて物もいはぬを俗にふすほりかへるといふ、その心にふせやもえすゝしきほひてとはいへり。きほふはあらそふなり。あひたはけしける時には、相結婚とかけるをは、あひよはひとよむへき歟。第十二に人くにゝよはひにゆきてたちの緒もいまたとかねは明そしにける。此よはひといふに、結婚とかけり。第十三に、よはひといふには、夜延とかけり。伊勢物語源氏物語なとにもいへる詞なり。允恭紀に、姦の字をたはくるとよめるは、木梨輕皇子の、同|母《ハラ》妹輕大|娘《イラツノ》皇女に密通したまへるをいへは、道なき戀をたはくるといふにや。同しみまきに、通の字をも、たはくるとよめるは、それも輕太子の、※[(女/女)+干]犯してあひたまへるをいへは、心を得てたはくとはよめりと會尺すへき歟。もしまたよはふもたはくも本來通する歟。俗にたはけたるものといふも、わろきことにいへるは、※[(女/女)+干]の字の義の、おほえす轉せる歟。結婚とのみいふは、いまた義不義にかたよらねは、たはくるといふ詞、もし※[(女/女)+干]の字の意にさたまらは、今はかならすあひよはひしける時にはと讀へし。やきたちのたかひおしねり。たちはやきてきたひ作る物なれは、やきたちといふ。第四卷にも見えたり。たかひはたちかひをいふ歟。神代紀云。振2起《フリタテ》弓※[弓+肅]《ユハスヲ》1急2握《トリシハリ》劔柄《タチカヒヲ》1といへり。こゝに手預とかきて、たかひとよめるは、讀やう意いまた及はす。和名集云。唐韻云。※[木+覇]【音覇。和名太知乃豆加】劔柄也。考工記云。劔莖(ハ)人(ノ)所v握(ル)鐔《ツミハ》以上也。今按即※[木+覇](ナリ)也。今案手預は、もしたつかとよみて、手※[木+覇]《タツカ》と意得へき歟。預はあつかりとよめは、上下を略去して、つかとなすへくや。餘にたかひとよめることの心得かたきに、かくまて穿鑿せるなり。おしねりを、長流はおしにきりと注したれと、しひねるなるへし。靱は靫の字の誤なり。水に入火にもいらんと。第四に、わかせこは物なおもひそ事しあらは火にも水にも我ならなくに。わきもこ、わか妻ならねと、女をさしてはかくいへり。長幼となく、女をは古は妹といひけるよし、日本紀の説なり。しつたまき、第四にもよめり。倭父《シツ》の苧環《ヲタマキ》といふにおなし。卷子《ヘソ》なり。しつはあらき布にて、いにしへ賤ものゝ著けれはや、いやしきものをは、きものによりて、しつとは名付けむ。源氏物語にもいへるやうに、よき人をも、裝束につきていふ事なれは、もろこしにも、賤きを布衣といへり。されは此國にも、倭父《シヅ》とはいふなるへし。いやしきわかゆへを、八雲御抄にはわろきわかゆへとかゝせたまへと、現本にしたかへるをよしとすへし。いけりともあふへくあれやとは、あふへくあらむやなり。いつれにつきて夫とさたむへうもなけれはなり。しゝくしろよみにまたんと。此しゝくしろといふ事は、日本紀第十七繼躰紀にも見えたり。安閑天皇いまた勾大兄《マカリノオヒネノ》皇子と申奉りける時。春日皇女に逢たまひての御歌に、しゝくしろ|うまいねしと《・味宿寢時》にといふ二句あり。うまいねしとにはうまきはよき事なれは、よくいねし時になり。しかれは、しゝくしろは、今もよみといふよもしを、よしといふ心につゝけたるは、うまきといふ詞につゝけるにおなし。さて此しゝくしろとは、いかなる物をいふとならは、齒のしけくて、こまかなる櫛なり。しゝは此集に繁の字をよめり。ろは助語なり。上にわきもこはくしろにあらなんと有し哥を、紀氏六帖には、櫛の題の哥に出せり。釧《クシロ》を櫛《クシ》にまかへたるは誤なれと、櫛にろの助語をつけていふ證なり。又大隅國風土記云。大隅郡|串卜《クシラノ》郷(ハ)、昔《ムカシ》者|造國《クニツクリノ》神勒(シテ)2使者(ヲ)1遣(ハシテ)《・マタシテ》此村(ニ)1令2消息(セ)1。使者報(テ)道《イハク》。有《イマス》2髪梳《クシラノ》神1。可v謂2髪梳(ノ)村(ト)1。因(テ)曰2久四良《クシラノ》郷(ト)1。【髪梳者、隼人俗語久四良(ナリ)。今改(テ)曰2串卜郷1。】良と呂とは、よく通すれは、くしろはすなはちくしらなり。和名集云。唐韻云。梳【音疎。一訓介都留】細櫛也。枇【毘支反。和名保曾岐久之。】百刺櫛(ナリ)【佐之久之。】毛詩曰。其(ノ)比(ヘルコト)如(シ)v櫛(ノ)。文選左思(カ)呉都(ノ)賦(ニ)曰。屯營櫛(ノコトクニ)比(フ)。馬融(カ)長笛(ノ)賦(ニ)曰。繁手累發(テ)密櫛(ノコトク)疊重。しけき櫛はよき物なれは、うましとつゝけたまひ、今はよしといふ心によみとつゝけたり。そのうへ神代紀上(ニ)云。然(シテ)後伊奘諾(ノ)尊入(マシテ)2於|黄泉《ヨモツクニヽ》1而|及《シキテ》之共(ニ)語〇伊奘諾損又投(ケタマフ)2湯津(ノ)爪櫛(ヲ)1。此(レ)即|化2成《ナル》筍《タカムナト》1。醜《シコ》女亦以|拔※[口+敢]《ヌキハム》之。※[口+敢]了(テ)則|更《マタ》追(フ)。これによれは伊奘諾尊の黄泉にいり、湯津爪櫛を投させ給へることのよしをふみて、かれこれをかねて、黄泉とはつゝけゝると知へし。湯津爪櫛は、第一卷に尺せしことく、湯津いはむらといへるが、五百《イホ》津いはむらといふ心なれは、それに准するに、五百津《イホツノ》爪櫛といふ心なり。ゆつとは、歯のこまかにしけきをいへり。またんとは、さきたちて、母をまたんとなり。完は宍の字の誤なり。宍は肉の字なり。此集のみならす、古本に宍の字を皆完にのみつくれり。かくれぬの下はひおきて打なけき妹かいぬれは、身をなけたることなり。大和物語には、生田川に身をなけたるよし有。ちぬをとこその夜ゆめ見て取つゝきをひゆきけれは。ちぬをとこか夢に、うなひをとめか見えけるなり。反歌に、ちぬをとこにしよるへけらしもといへるはこれなり。ちぬをとこも、夢の告によりて、行てまたしぬるなり。おくれたるうはらをとこも。さきには宇奈比壮士とかけり。こゝには菟原壯士とかきたれは、うはらをとことよむへし。もし菟原郡は海邊《ウナヒ》なれは、心を得てこゝをもうなひをとことよむへき歟。いあふきてさけひおらひて。いは例の發語なり。仰天とかける天はてにをはなれと、下に※[足+昆]地《ツチニフシ》といふに、對するやうなるは、自然にしかるなり。おらひてはなきさけふなり。神代紀下云。天|稚《ワカ》彦之妻下照姫|哭泣悲哀《ナキイサチカナシフ》聲|達《キコユ》2于天1。是時天國玉聞(テ)2其(ノ)哭《オラブ》聲(ヲ)1、則知2夫《カノ》天稚彦己(ニ)死《カクレタリト》1。清寧紀云。冬十月癸巳朔辛丑、葬《カクシマツル》2大泊瀬(ノ)天皇(ヲ)于|丹比《タチヒノ》高鷲(ノ)原(ノ)陵(ニ)1。于v時|隼人《ハイトム》晝夜|哀2號《オラフ》陵(ノ)側《ホトリニ》1。又叶の字啼の字をもおらふとよめる所あり。今も筑紫の方の人は、さけふをおらふといへり。※[口+斗]は叫に作るへし。つちにふしきかみたけひて。他は地の誤なり。きかみはきはをかむなり。戰國策云。樊於期偏(ニ)袒(テ)扼《トリシハテ》v腕(ヲ)而進(テ)曰。此(レ)臣(カ)之日(ル)夜(ル)切《クヒシハリ》v齒(ヲ)腐(ス)v心(ヲ)。史記衛將軍驃騎列傳(ノ)賛(ニ)曰。自3魏其武安(カ)之厚(セン)2賓客(ヲ)1、天子常(ニ)切(ハル)v齒(ヲ)。楊子雲(カ)長楊(ノ)賦(ニ)云。鑿齒(ノ)之徒相與(ニ)磨《トイテ》v芽(ヲ)而爭之。劉伶人(カ)酒徳頌曰。有(テ)2貴介公子(ト)※[手偏+晉]紳處士(ト)1聞(テ)2吾※[風の虫が百]聲(ヲ)1議(ス)2其所以(ヲ)1。乃|奮《フルヒ》v袂(ヲ)攘(ケ)v衿《コロモクヒヲ》怒(ラカシ)v目(ヲ)切(ハル)v齒(ヲ)。元亨釋書第二十五云。戸部尚書藤原文範。〇果(シテ)祠側逢2沙門仲算(ニ)1。々問2宮講(ヲ)1。藤公告v實。咬v齒伴(ナツテ)來(ル)。たけひてはたけるなり。神代紀上云。奮《フルハシ》2稜威之雄詰《イツノヲタケヒヲ》1【雄誥《イウカウ》此(ヲハ)云2烏多稽眉1。】神代紀云。却(テ)至(テ)2草香(ノ)津(ニ)1植《タテヽ》v盾《タテ》而爲(ニ)雄誥《ヲタケル》焉。【雄誥《イウカウ》此(ヲハ)云2烏多※[奚+隹]廬1。】建は健と通する歟。近江の建部《タケヘ》を思ふへし。もころをにまけてはあらしと。もころは如の字若の字にて常にごとくとよむ古語なり。神代紀下云。夜(ルハ)着|若2※[火+票]火《ホヘノモコロニ》1而|喧響《ヲトナヒ》之云々。又同卷に、如の字をあまひにともよめり。これもごとしといふ古語なるへし。如己とかきたる己の字詮なきに似たれとも、第十四に、かなしいもをゆづかなへまきもころをのことゝしいはゝいやかたましにともよみたれは、をのれごときのをのこにまけてをらんやはの心なり。唯如の字をのみもころとよめる哥は、十四の廿九葉、廿の廿八葉にも見えたり。孟子曰。夫|撫《トリシハリ》v劔(ヲ)疾《ニラミ》視(テ)曰。彼惡(ソ)敢(テ)當(ラムヤ)v我(ニ)哉。かけはきのをたち取はき。太刀をは、紐解ては懸置、亦は取はくものなれは、かけつはきつといふ心なり。さねかつらつぎてゆけれは。第七に、すめろきの神の宮人さねかつらいやとこしきにわれかへりみむ。此哥にさねかつらを冬薯蕷葛とかけり。今冬※[草がんむり/(金+又)]蕷都良とあるは、※[草がんむり/(金+又)]は※[草がんむり/叙]なるへし。蕷の下に、加可等の字おちたり。つぎては、尋の字、これをたつねゆけれはとよむへし。後撰集云。あしひきの山下しけくはふ葛のたつねてこふる我としらすや。此哥はふ葛のたつぬるとつゝけたるは、葛のこなたかなたにわかれてはひゆくは、物をたつぬるに似たれはなり。今もたつねゆくといはむために、さねかつらといへるは、後撰集の哥の心におなし。いゆきあつまり。いは發語、集はつとひてともよむへし。標將爲跡、これをはしるしにせんとゝよむへし。しめさんとゝあるは誤れり。ゆへよしきゝて。源氏物語帚木に、あまりのゆへよし心はせ打そへたらんをはよろこひに思といへり。ゆへよしは由緒なり。此集に、ゆへはゆゑとかけり。にひものこともは、新喪のことくなり。さきの眞間娘子をよめる哥に、遠代に有けることを昨日しもみけむかこともおもほゆるかもといへるに心おなし
 
 
 
 
 
反歌
 
1810 葦屋之宇奈比處女之奧槨乎往來跡見者哭耳之所泣《アシノヤノウナヒヲトメカオキツキヲユキクトミテハネノミシナカル》
 
奧槨乎、【袖中抄云、オクツキヲ、】  見者、【別校本云、ミレハ、】
 
往來跡見者とは往來にみるなり、哭耳之のし〔右○〕は助語なり、袖中抄になきのみぞなくとあるは叶はず、
 
初、ゆきくとみれは ゆくとては見、歸るとてはみるなり
 
1811 墓上之木枝靡有如聞陳努壯士爾之依倍家良信母《ツカノウヘノコノエナヒケリキクカコトチヌヲトコニシヨルヘケラシモ》
 
木枝靡ケリとは陳努壯士が墓の方へ靡くなり、落句は依けらしなり、捜神記云、宋時、(53)大夫韓憑娶v妻(ヲ)而美、康王奪v之、憑怨v王、因v之論爲2城旦1、妻密遣2憑書(ヲ)1、繆2其辭(ヲ)1曰、雨淫々(タリ)、河大水深、日出當v心、既而王得2其書(ヲ)1、以示2左右1、左右莫v解2其意1、臣賀對曰、其雨淫々、言愁且思也、河大水深、不v得2往來1也、日出當v心、心有2死志1也、俄而憑乃自殺、其妻乃隱腐2其衣(ヲ)1、王與v之登v臺、妻遂因投2臺下(ニ)1、左右攬v之(ヲ)、衣不(シテ)v中(ラ)v手(ニ)而死、遺2書(ヲ)於帶1曰、王利2其生(ヲ)1、妾(ハ)利2其死1、願以2屍骨(ヲ)1、賜v憑合葬、王怒(テ)不v聽、使dv人埋(テ)2之里人之塚1相望u也、曰、爾夫婦相愛不v已、若能使2塚合1、則吾(レ)不v阻(ヲ)也、宿昔(ノ)之間(ニ)便有2大梓木1、於2二塚之間1旬日而口盈抱、屈v體以相就、根交2於下1、枝錯2於上1、又有2鴛鴦雌雄各一1、恒栖2樹上(ニ)1、晨夜不v去、交v頭悲鳴、音聲感v人(ヲ)、宋人哀v之、遂號2其木(ヲ)1、曰2相思樹1、相思之名、起2於此1也、今唯陽有2韓憑城1、其歌謠至v今存焉、今の歌此類なり、
 
初、つかのうへのこのえなひけり 長哥に、ちぬをとこその夜ゆめ見てとよみたれば、彼女はちぬかかたに心よせけるなり。そのゆへに、今もちぬがつかのかたへ木の枝もなひきてあるなり。捜神記云。宋時大夫韓憑娶(テ)v妻(ヲ)而|美《カホヨシ》。康王奪(フ)v之(ヲ)。憑怨v王(ヲ)。因(テ)v之(ニ)論(シテ)爲2城旦(ト)1。妻|密《ヒソカニ》遣2憑(ニ)書(ヲ)1。繆2其辭(ヲ)1曰。其(ノ)雨淫々(タリ)。河(ニシテ)大水深(シ)。日出(テヽ)當(ル)v心(ニ)。既而王得(テ)2其書(ヲ)1以示(ス)2左右(ニ)1。々々莫v解(スルコト)2其意(ヲ)1。臣賀對(テ)曰(サク)。其雨淫淫(タリトハ)、言(コヽロハ)愁(テ)且思(フナリ)也。河大(ニシテ)水深(シトハ)、不(ルナリ)v得2往來(スルコトヲ)1也。日出(テヽ)當(ルトハ)v心(ニ)、心(ニ)有(ルナリ)2死志1也。俄(ニシテ)而憑乃自殺(ス)。其妻乃|隱《ヒソカニ》腐《クタス》2其(ノ)衣(ヲ)1王與v之登(ル)v臺(ニ)。妻遂(ニ)因(テ)投(ス)2臺下(ニ)1。左右|攬《トレトモ》v之(ヲ)衣不(シテ)v中(ラ)v手(ニ)而死(ス)。遺(シテ)2書(ヲ)於帶(ニ)1曰。王(ハ)利(トシ)2其(ノ)生(ヲ)1妾(ハ)利(トス)2其死(ヲ)1。願(ハ)以2屍骨(ヲ)1賜(テ)v憑(ニ)合(セ)葬(タマヘ)。王怒(テ)不v聽《ユルサ》。使dv人(ヲ)埋(テ)2之(ヲ)里人(ノ)之塚(ニ)1相(ヒ)望(マ)u也。曰。爾(チ)夫婦相愛(シテ)不v已(マ)。若(シ)能使2v塚(ヲ)合1則吾(レ)不《シ》v阻(テ)也。宿昔之間(ニ)便有2大梓木1【生歟】於2二塚之間1。旬日而大(サ)盈(テリ)v抱(ニ)。屈(シテ)v體(ヲ)以相就(チ)根(ハ)交(ハリ)2於下(ニ)1枝(ハ)錯(ハレリ)2於上(ニ)1。又有2鴛鴦雌雄各一1恒(ニ)栖2樹上(ニ)1、晨夜不v去(ラ)交(ヘテ)v頭(ヲ)悲鳴、音聲感(セシム)v人(ヲ)。宋人哀(シムテ)v之(ヲ)遂(ニ)號(ケテ)2其木(ヲ)1曰2相思樹(ト)1。相思(ノ)之名起(レリ)2於此(ニ)1也。今※[目+隹]陽(ニ)有2韓憑城1。其歌謠至(マテ)v今(ニ)存(セリ)焉。文選劉孝標(カ)重(テ)答(ル)2劉秣陵沼(ニ)1書(ニ)云。若使(メハ)d墨※[羽/隹]之言(ヲシテ)无(シテ)v爽《タカフコトノ》宣室(ノ)之談(ニ)有(ラ)uv徴(シ)、冀(ハクハ)東平之樹望(テ)2咸陽(ヲ)1而西(ニ)靡(キ)、蓋山之泉聞(テ)2絃歌(ヲ)1而赴(ムカンコトヲ)v節(ニ)
 
右五首高橋連蟲麻呂之歌集中出
 
萬葉集代匠記卷之九下
 
(1)萬葉集代匠記卷之十上
                  僧 契 沖 撰
                  木 村 正 辭 校
 
萬葉集第十抄之上
 
萬葉集卷第十代匠記上
長三首短五百三十二首旋頭四首合五百三十九首
 
春雑歌
 
春雜歌 奉相聞に對して其他を云へり。夏以下准之
 
雜歌七首 詠鳥二十四首
初、萬葉集卷第十目録
 
雜歌七首      詠v鳥二十四首
 
雜歌七首 正しく哥の所に至りては、春雜歌と云※[手偏+總の旁]標に引つゝけてかけり。七首皆霞をよめる哥なれは、詠霞とある處に置き、或は彼三首を引上テ一處にも置ねきを、是は人丸集の哥なれは、別に賞する意にて初に置歟。或は霞をよめれとも本集に詠霞と云はす、何となく書連ねたる故に分て置歟。今雜歌と云はむよりは、春歌七首と云へきにやへ。冬の初の雜歌四首とかけるも、此に准らふへし
 
初、雜歌七首 哥に至りて雜の哥とは題せされと、※[手偏+總の旁]標 に春雑哥と有て、別に題なくて七首あれは、目録を作る人、こゝに雜哥七首はかけり。春雜歌といふは旋頭歌譬喩歌といふまてにかふらしめたれと、今七首と擧る時は、惣をかりて別目とするなり。春相聞も、終の問答十一首まての惣標なれと、惣標につゝけて、題をかゝぬ哥七首あれは、相聞七首と録せり。秋相聞の下の相聞五首、冬雜哥の下の雜哥四首、冬相聞の下の相聞二首、准之。今此七首は皆霞の哥なり。下に詠v霞三首といへると一所に擧すして、わかてるは故あるにや
 
詠鳥二十四首 此目録は誤れり。其故は、詠鳥とて二十首あるを見るに、初十三首は鳥をよめる哥、後十一首は雪をよめる哥なり。然れは十三首過て詠雪と有けむを、題の落たるを考かへすして、二十四首とは云へるなり
 
初、詠v鳥二十四首 これは誤なり。詠鳥哥十三首ありて
 打なひき春さりくれはしかすかに天雲きりあひ雪はふりつゝ
此哥より以下十一首は詠v雪哥なれは、此哥の前に詠雪と有けむが、落たるをしらすして、十三首と十一首とを合て、詠v鳥哥二十四首とはかけるなり。これ後人のしわさなりといふ證なり
 
1812 久方之天芳山此夕霞霏※[雨/微]春立下《ヒサカタノアマノカクヤマコノユフヘカスミタナヒクハルタツラシモ》
 
意明なり、
 
1813 卷向之檜原丹立流春霞欝之思者名積米八方《マキモクノヒハラニタテルハルカスミクレシオモヒハナツミケメヤモ》
 
霞によせてクレシ思ヒハと云へり、歌の意は、卷向の檜原はさらぬだに繁きに、春の來ぬればいとゞ霞にくれて面白く見ゆるを、此春よりさき此霞むばかり心のくれつる思ひには煩けめやと、今の霞て面白きに對して忘たるやうによめる歟、續古今にははれぬ思ひはなぐさまるやはと改られたれば今思ふ事有て慰まぬ意なり、く(2)るゝ思ひになづみけるかもなどよめらむ意にはあらずとは下句のてにをはに聞ゆるにや、
 
初、まきもくのひはらにたてる春霞くれしおもひはなつみけかやも
霞の立てはれやらぬを、わかおもひにはよせたるなり。くれしは欝の字をかける、やかてその心なり
 
1814 古人之殖兼杉枝霞霏※[雨/微]春者來良之《イニシヘノヒトノウヱケムスキカエニカスミタナヒクハルハキヌラシ》
 
杉は神依板にする杉とも、布留の神の杉神となるとも讀て久しく有木なれば、此一二の句あり、前後卷向と云中にあれば此も卷向山の杉にや、
 
1815 子等我手乎卷向山丹春去者木葉凌而霞霏※[雨/微]《コラカテヲマキモクヤマニハルサレハコノハシノキテカスミタナヒク》
 
初、子等か手をまきもく山。妹か手をたまくらにするといふ心につゝけたり
 
木葉とは檜原其外松杉等の類なり。春の初の歌と聞ゆれば若葉にはあらず、
 
1816 玉蜻夕去來者佐豆人之弓月我高荷霞霏※[雨/微]《カケロフノユフサリクレハサツヒトノユツキカタケニカスミタナヒク》
 
佐豆人は薩人にて薩雄に同じ、薩人の持弓と云心に弓槻が高とつゞく、第五に薩弓を手把持てとよめるが如し、神樂歌にさつてゝがもたせの眞弓ともよめり、
 
初、かけろふの夕さりくれは。蜻蛉は夕に出て飛かふ虫なれは、かけろふの夕とはつゝくるなり。さつ人のゆつきかたけは、薩人は上にも注する獵人なり。よりて弓とはつゝけたり。神樂哥に、さつてゝかもたせのまゆみおく山にとかりすらしもとよめり
 
1817 今朝去而明日者來牟等云子鹿丹且妻山丹霞霏※[雨/微]《ケフユキテアスハコムトイフコカニアサツマヤマニカスミタナヒク》
 
今朝、【幽齋本云、ケサ、】  來牟等、【幽齋本云、キナムト、】
 
二つの點の異、幽齋本に依て讀べし、上句は旦妻と云はむ爲の序なり、旦妻山は天武(3)紀下云、九年九月癸酉朔辛巳、幸2于朝嬬(ニ)1、因以看2大山位(ヨリ)以下之馬(ヲ)長柄杜1、乃俾2馬的射1v之、延喜式云、葛上郡長柄神社、延喜式に依て日本紀を意得るに朝嬬も葛上郡歟、藻塩草に長柄池大和といへるも長柄神社ある所にや、和名云、近江國坂田郡朝妻、【安佐都末、】西行のおぼつかな伊吹おろしのかさゝぎに、朝妻舟はあひやしぬらむとよまれたるは此なり、今は上よりのつゞき近江の朝妻は似よらず、定て大和なるべし、又仁徳紀に天皇御歌云、阿佐豆磨能、【私記曰、師説在2難波1之地名也、】避介能烏嵯介烏云々、此は私記の説の如くならば又別なり、允恭天皇を雄朝嬬稚子宿禰天皇と申奉る朝嬬も、御歌によませ給へる處をもて御名に負せ奉り給へるにや、
 
初、けさゆきてあすはこんといふこかに。今朝とかけるを、けふと有かんな、さしてはたかはねと、たゝけさとよむへし。此哥はあさつま山の朝といひ妻といふにかゝりて、けさ歸りてあすはこんといふ妻のちきりたかへぬやうに、朝な/\朝妻山に霞のたな引となり。たな引は霏※[雨+微]とかけるも、輕引とかけるもうす/\と有心なり。此旦妻山は右よりのつゝきを思ふに大和なり。天武紀云。九年九月癸酉朔辛巳、
幸《イテマス》2于朝|嬬《ツマニ》1。因(テ)以|看《ミソナハス》2大山位以下(ノ)之馬(ヲ)長|柄《エ・ラ》(ノ)杜(ニ)1。乃俾2馬的《ムマユカヲ》1射之《イサセタマフ》。これ大和の國なり。此所なるへし。下同
 
1818 子等名丹開之宜朝妻之片山木之爾霞多奈引《コラカナニツケノヨロシキアサツマノカタヤマキシニカスミタナヒク》
 
此初二句も亦朝妻と云はむ料なり、今按開の字の點六帖も同じけれどおぼつかなし、カケノヨロシキと讀べきか、子等名と云は妻にかゝり、開之宜は朝にかゝれり、若亦開は聞の字を誤てきゝのよろしきにや、但きゝのよろしきも妻と云にのみかゝる事、開の字にしてつけのよろしきと云に同じければ、さきの今按まさるべき歟、
 
初、子らか名につげのよろしき。これも朝妻の妻といふにかゝりて、こらか名につけのよろしきとはいへり。長流か本に、あけのよろしきとあるは、朝といふ字にもかゝれり。愚案開示とつゝく心にて告のよろしきとはよめるにや。あけのよろしきは、五もしにつゝきても聞えす。開は聞の字の誤にて、こらか名にきゝのよろしきなるへし
 
右柿本朝臣人麿歌集出
 
(4)詠鳥
 
1819 打霏春立奴良志吾門之柳乃字禮爾※[(貝+貝)/鳥]鳴都《ウチナヒキハルタチヌラシワカカトノヤナキノウレニウクヒスナキツ》
 
霏は靡の書たがへたるなるべし、點はウチナビクと讀べき證第五に注せしが如し
 
初、打なひき春立ぬらし。霏は靡の誤なり。前後みなしかり
 
1820 梅花開有崗邊爾家居者乏毛不有※[(貝+貝)/鳥]之音《ウメノハナアケルヲカヘニイヘヰセハトモシクモアラシウクヒスノコヱ》
 
崗邊、【幽齋本、崗作v岳、】
六帖に赤人の歌として、家しあればともしくもあらずとあるは叶はず、腰の句をいへをれば或はいへすめばとよまば其次はさも讀べし、されど近く下も家居してとよみたれば今の點にしかず、
 
初、梅花さけるをかへに。拾遺集には、家しあれは、ともしくもあらす
 
1821 春霞流共爾青柳之枝啄持而※[(貝+貝)/鳥]鳴毛《ハルカスミナカルヽトモニアヲヤキノエタクヒモチテウクヒスナクモ》
 
此集に雪の降をも花の散をも流るとよめれば今も霞の立を流と云へり、共は例に依てムタニとよむべし、青柳之枝啄而とは、※[(貝+貝)/鳥]の木傳ふにげにも然するは何をはむにかあらむ、第十六詠2白鷺啄v木飛1歌に桙啄持而とよめるも桙は木なり、源氏物語(5)胡蝶に、水鳥どものつがひを離れず遊びつゝ、細き枝どもをくひて飛ちがふと云へり、六帖に※[(貝+貝)/鳥]の歌として、初の二句うちなびきはるさりくればと改たり、
 
初、春霞なかるゝむたに。霞のたつは、水のなかるゝやうなれは、かくはいへり。唐詩に山頭(ノ)水色薄(ク)籠(マ)v煙と作れり。なかるゝともにと現本に點せり。おなし事なれと、第二以下共の字、かゝる所にはむたとよめり。古語にしたかふへし。今の世俗にめたにといふは、此詞の轉してのこれるにや。青柳の枝くひもちて、鶯の木傳ふに、まことに何をはむにかしかするなり。源氏物梧胡蝶に、水鳥とものつかひをはなれすあそひつゝ、ほそき枝ともをくひてとひちかふといへり。第十六、詠2白鷺啄v木飛1歌に、池上の力士まひかも白鷺のほこくひもちてとひわたるらん
 
1822 吾瀬子乎莫越山能喚子鳥君喚變瀬夜之不深刀爾《ワカセコヲナコシノヤマノヨフコトリキミヨヒカヘセヨノフケヌトニ》
 
拾遺にはならしのをかの夜の深ぬ時、赤人集にはならしの山の、六帖には人を留むと云に入れて唯落句のみ夜の深ぬ時とかはれり、作者は此も赤人にて紀女郎とも注せり、又六帖山の歌にも、みな月のなこしの山の喚子鳥、大ぬさにのみ聲の聞ゆると云あり、八雲御抄に大和と注せさせ給へり、今按第三にさゞれ浪いそ越道とよめるは巨勢路なれば、今も巨勢山を云ふとてかくはよそへたるにや、莫の字は石上袖振河の例と云べし、落句は夜のふけぬ時になり、時にを略してとに〔二字右○〕とよめるは、繼體紀に勾大兄皇子の于魔伊禰矢度※[人偏+爾]《ウマイネシトニ》とよませたまへるも味寢宿し時になり、此集にもあまたよめり、第十六爲鹿述v痛作歌に塩漆給時賞毛《シホヌリタベトマウサモ》、とある時は和語を下略してト〔右○〕といへり、
 
初、わかせこをなこせの山の。大和のこせ山を、夜ふけて獨なこしそといふ心にかくはつゝけたり。第七に、わかせこをこちこせ山ともつゝけたり。紀氏六帖に、をちへゆくこちこせ川にたれしかもいろとりかたきみとりそめけむ。これもこせ川にて、そこに有なるへし。夜のふけぬとにといふは、夜のふけぬ時になり。上にひける繼體紀に、しゝくしろうまいねしとに《・繁梳味宿寢時》とあるは、うまくいねし時になり。これにおなし
 
1823 朝井代爾來鳴杲鳥汝谷文君丹戀八時不終鳴《アサヰテニキナクカホトリナレタニモキミニコフレヤトキヲヘスナク》
 
(6)朝井代は烏は、朝日の指す方などに嬉しげに集りて鳴物なれば云歟、又朝は淺に借て水の淺き井手とよめる歟、汝谷文君丹戀八とは人の上より云意歟、古今云、足引の山郭公我ことや、君に戀つゝいねがてにする、此を思ふべし、
 
初、朝井代に。ゐては水を田にせきあくる堤をいふ。第七に、泊瀬川なかるゝみをのせをはやみゐてこす浪の音のさやけくといふ哥に注せり。朝日のさすゐてにきてなく心なり。かほ鳥の杲は音を取て借てかけり。見かほしといふ詞、朝杲の花なと所々にかけり。かほ鳥は第三第六、此下にいたりてもよめり。かほ花に准すれは、春さま/\うつくしき鳥のきなくをいふにや。君にこふれやは、かほ鳥の妻を君といへり。古今集戀一に、あしひきの山ほとゝきすわかことや君にこひつゝいねかてにする。これにおなし。此哥はわが人をこふるゆへに、なれ《・汝》だにもといふにはあるべからず。ひろくいふなるへし
 
1824 冬隱春去來之足比木乃山二文野二文※[(貝+貝)/鳥]鳴裳《フユコモリハルサリクラシアシヒキノヤマニモノニモウクヒスナクモ》
 
六帖にはふゆかくれはるさりくれば、發句のよみやう殊に如何、
 
1825 紫之根延横野之春野庭君乎懸管※[(貝+貝)/鳥]名雲《ムラサキノネハフヨコノヽハルノニハキミヲカケツヽウクヒスナクモ》
 
紫の根の横に延とつゞくる意なり、紫の根は横に延ふ物にはあらず直くこそはある物なるを大かたの草木になずらへてかく云へるにや、横野は仁徳紀云、十三年冬十月築2横野堤(ヲ)1、延喜式云、河内國澀川郡横野(ノ)神社、かゝれば國郡ともにまがふ所なし、君を懸ツヽとは※[(貝+貝)/鳥]の聲を聞て人の声をも思ひ出、又もろともにきかばやとも思へばなり、六帖に紫の歌に入れれたるはつくま野、春日野などの如く横野にも紫をよめりと意得たるか、根延と云へるは正しく枕詞なり、但横野に紫ありてそれが根も横にはふ二つの意を兼たりとみて一邊を取て紫の歌とせる歟、
 
初、紫のねはふ横野の。紫の根の横にはふ心に、かくはつゝけたり。紫の根を見侍るに、横にはふ物にはあらす。ほそき筆管はかりにて、四五寸なるが、なをくて、めくりに髭のことくなるほそき根の、根といふへくもなきが見ゆるなるを、大かたの草木になすらへて、かくはつゝけけるなるへし。此横野を、八雲御抄に、上野と注せさせ給へと、さばかり遠き所をよむへきにあらす。これは河内なるへし。仁徳紀云。十三年冬十月築2横野(ノ)堤(ヲ)1。延喜式第九神名上云。河内國澀川軍横野神社。今横野といふ所は承をよはす。横沼といふ所そ聞ゆる。そこにや。又横野堤和泉なりとて
 霜かれの横野の堤風さえて入しほ遠くちとりなくなり
といふ哥をある人かたり侍し。いまたかんかへす。君をかけつゝとは、鶯のなくを聞て、ともにきかはやとおもへはかくいへるなり
 
(7)1826 春之去者妻乎求等※[(貝+貝)/鳥]之木末乎傳鳴乍本名《ハルサレハツマヲモトムトウクヒスノコスヱヲツタヒナキツヽモトナ》
 
春之去者、【六帖云、ハルナレハ、官本去或作v在、去注v異、】
 
春〔右○〕、發句の去の字を官本に或は在に作れるえお思へば、六帖のにはるなれば〔五字右○〕と有るに依て古本も在にて六帖の點それに叶へたるなるべし、其故ははるにあればを爾阿を反して約むればな〔右○〕と成る故にはるなればと云なり、之は文章の助語に准じて此集にも置ける處あり、第八に高田女王の歌に春之雨をハルサメと點じ、角朝臣廣辨が歌に君之許をキミガリと點ぜり、此下に至て春之在者とかけること兩處あり、其にハルサレバと點じたれど改めてはるなればと讀べし、委は下に至て注すべしはるさればと讀べき處は前後皆春去者と書て之〔右○〕を加ふる例なし、妻ヲ求トとは毛詩云出v自2幽谷1、遷2于喬木1、嚶其鳴矣、求2其友(ヲ)1聲、友を求め妻を求むる同じ意なり、木末はコヌレとも讀べし、
 
初、木|末《スヱ》をつたひ。こぬれともよむへし。鳴つゝもとなはよしなゝり。由なしといふ心は、妻をもとむとてなけは、われもゝよほさるゝゆへなり
 
1827 春日有羽買之山從猿帆之内敝鳴往成者孰喚子鳥《カスカナルハカヒノヤマユサホノウチヘナキユクナルハタレヨフコトリ》
 
第二に人丸歌にも大鳥羽易乃山とよめり、猿の字は下略して用たり、和名云、下總國※[獣偏+爰]島【佐之萬、】郡、※[獣偏+爰]と猿は同字なり、菅家萬葉にも高砂を高猿子《タカサコ》とかゝせ給へり、
 
初、春日なるはかひの山。第二に、大鳥の羽かへの山と人麻呂のよまれし長哥に有し所なり。さほの内とは、此集にあまたよめり。猿帆とかけるは、猿の字さるとよむを、下を略して上を用るなり。和名集云。下總國|媛島《サシマ》【佐之万】郡、此例なり。續日本紀には、佐保山を藏寶山ともかけり
 
(8)1828 不答爾勿喚動曾喚子鳥佐保乃山邊乎上下二《コタヘヌニナヨヒトヨミソヨフコトリサホノヤマヘヲノホリクタリニ》
 
同じ作者の上と二首にて意を云ひ盡せるなるべし、佐保山に殊に喚子鳥をよめる事は第八に云へるが如し、
 
初、こたへぬになよひとよみそ。これは上の哥の作者をしかへしてよめり。二首にてかやうによむ事、此集におほし
 
1829 梓弓春山近家居之續而聞良牟※[(貝+貝)/鳥]之音《アツサユミハルヤマチカクイヘヰシテツキテキクラムウクヒスノコヱ》
 
腰句之〔右○〕の下に?〔右○〕等の字あるべし、第四の句赤人集にはたえずきくらむ、新古今にはたえずきゝつると改らる、六帖には家の歌として、梓弓春の山べに家居して、我先づきかむ※[(貝+貝)/鳥]の聲とあり、
 
初、梓弓はる山ちかく。居之の下に、※[氏/一]天等の字落たり。古今集に、野へちかく家居しをれは、鶯のなくなる聲は朝な/\きく。心相似たり
 
1830 打靡春去來者小竹之米丹尾羽打觸而※[(貝+貝)/鳥]鳴毛《ウチナヒキハルサリクレハシノノメニヲハウチフレテウクヒスナクモ》
 
小竹之米丹、【六帖云、サヽノハニ、幽齋本米作v末、點同、六帖又云、サヽノウレニ、】
 
發句はウチナビクと讀ぺし、腰句は米は芽《メ》にて末に卷たる葉を云とも意得つべけれど、まことには末を書あやまれるなるべし、其に取て第七に山のはと云に、末の字をもかければサヽノハニと點ぜるは葉にはあらで山の未《ハ》の末《ハ》なりとも云べけれど、草木に付て末をは〔右○〕と云へる例なければ例多きサヽノウレニの點を用べし、
 
初、しのゝめに。めは芽にて、しのゝ心《シム》なり。心は末にあれは、さゝの上にといふ心なり。第十二に、さゝのうへにきゐて鳴鳥めをやすみとよめり。此心なり。時分にあらす。さゝのめとも讀へし
 
(9)1831 朝霧爾之怒怒爾所沾而喚子鳥三舩山從喧渡所見《アサキリニシヌヌニヌレテヨフコトリミフネノヤマユナキワタルミユ》
 
之怒怒爾、【風雅集云、シノヽノ、官本點亦同、】  三船山從、【】風雅云、ミフネノヤマヲ、官本キフネノヤマユ、】
 
之怒々はシノヽと讀べし、しとゞにぬると云に同じ、此下詠雪と云題落たり、
 
初、朝きりにしぬゝにぬれて、しのゝにぬれてともよむへし。しけくぬるゝなり。こゝに詠v雪といふ二字おちたり。以下十一首春雪哥なり
 
1832 打靡春去來者然爲蟹天雲霧相雪者零管《ウチナヒキハルサリクレハシカスカニアマクモキリアヒユキハフリツヽ》
 
發句はウチナビクと讀べし、六帖には赤人の歌とす、赤人集にも載ず、おぼつかなし、
 
初、打なひき春さりくれは。此春さりくれはといひて、下のつゝき心たかへるやうに聞ゆるは、第四卷に、見まつりていまた時たにかはらねは年月のことおもほゆる君といふ哥より後度々注せしことく、此集に者の字に、今の世とかはれる事有て心得かたし。此哥にては、春去くれとゝいはされはかなひかたし。しかすかには、さすかになり
 
1833 梅花零覆雪乎※[果/衣]持君爾令見跡取者消管《ウメノハナフリオホフユキヲツヽミモチキミニミセムトトレハキエツヽ》
 
【一l】此下句第十一にもあり、
 
1834 梅花咲落過奴然爲蟹白雪庭爾零重管《ウメノハナサキチリスキヌシカスカニシラユキニハニフリカサネツヽ》
 
1835 今更雪零目八方蜻火之燎留春部常成西物乎《イマサラニユキフラメヤモカケロフノモユルハルヘトナリニシモノヲ》
 
春部常、【幽齋本云、ハルヘト、】
 
春部はハルベと讀べし、成ニシのに〔右○〕は助語なり、
 
1836 風交雪者零乍然爲蟹霞田菜引春去爾來《カセマシリユキハフリツヽシカスカニカスミタナヒキハルサリニケリ》
 
(10)風交、【新古今云、カセマセニ、官本亦點同v此、】
 
春去爾來は春は來にけりの意なる故に、薪古今には然改て入られたり、是春されば夕さればなど云は春にあれば夕にあればと云にはあらで春來れば夕來ればと云意なる證なり、
 
初、風ましり雪はふりつゝ。新古今集には.風ませにと有。第五貧窮問答哥に、風ましり雨のふる夜の雨ましり雪のふる夜はとよめるに似たり。春さりにけりは、春はきにけりの心なり。新古今集に、すなはち春はきにけりとあらためて、時にかなへたり。第六には.打なひき春さりゆくと山のへに霞たなひき、又冬こなり春さりゆけはとも、又をとめらかうみをかくてふかせの山時のゆけれは都となりぬともよめり。禮記には、孟春之月鴻雁|來《カヘル》といひ、漢武の秋風辭には草本黄(ハミ)落(テ)兮雁南(ニ)歸(ル)といへり。此哥これに准して心得へし
 
1837 山際爾※[(貝+貝)/鳥]喧而打靡春跡雖念雪落布沼《ヤマノハニウクヒスナキテウチナヒキハルトオモヘトユキフリシキヌ》
 
腰句ウチナビクと讀べし、此歌、人丸集には見えず、六帖にはあれど人丸の歌と云はず、
 
1838 峯上爾零置雪師風之共此間散良思春者雖有《ミネノウヘノフリオケルユキシカセノムタコヽニチルラシハルニハアレトモ》
 
發句は例によりてヲノウヘニと讀べし、ヲノヘニとも讀ぺし、零置もフリオクとも讀べし、雪シのし〔右○〕は助語なり、此は今ふる雪を冬より筑波根に降おける雪を風の吹おろす歟と云へるなり、
 
初、峯上にふりをける雪し。これは、あはゆきのふりくるを、冬より峯にふりおける雪を、風の吹ぐして、こゝにちるならんといへり
 
右一首筑波山作
 
1839 爲君山田之澤惠具採跡雪消之水爾裳裾所沾《キミカタメヤマタノサハニヱクツムトユキケノミツニモノスソヌレヌ》
 
(11)山田之澤、【官本又云、ヤマタノサハノ、】  所沾、【六帖云、ヌラス、仙覺抄同v此、官本又點同v此、袖中抄云、モスソヌラシツ、】
 
惠具は八雲御抄には芹の下に注し給へり、芹の異名と定させ給へるなるべし、芹には少ゑぐき味のあれば異名とする歟、和名集云、※[酉+僉]、【唐韻力減反、〓味也、〓音初減反、酢味也、俗語云、惠久之、】味につきて惠具と名付は芋などをこそ云はめと云難も有べけれど、始に名づけ終に名付る事の一定せぬは常の事なり、袖中抄には今の歌を注して云く、惠具とは女|萎《ヰ》し書てゑご〔二字右○〕とよめり、ぐとごと同音なり、花すはうに咲草の水邊にあるなり、或はゑぐとは芹を云と云義あれど、六帖には芹の外に別にゑぐを擧たり、但古き文は委明らめずして物の異名をもたゞさず名の替りたれば別にかける事もあれば一定にあらず、俊頼朝臣は若菜を仲實朝臣が許へ遣はすとてよめる、をかみ川うきつにはゆるゑごのうれを、つみしなへてもそこのみためぞ、返し、心ざし深きみたにゝ摘ためて、いしみゆすりて洗ふ根芹か、今云、此歌はゑぐをゑごとよめり、返しは芹とよめり、ゑぐと同物と思へる歟云々、六帖には此歌をゑぐの歌として發句をあしびきのと換たり、又澤の歌には今の上句にて下を沾にし袖はほせどかはずと云歌あり、又それを後撰春上には今もかはかずとて載たり、詞華集に雪きえば惠具の若菜も摘べきに、春さへ晴ぬみ山べの里と曾禰好忠がよめる歌は今の歌を取る歟、
 
初、君かため山田のさはにゑくつむと。第十一にも、あしひきの山澤ゑくとよめり。ゑぐは芹なり。和名集云。崔禹錫(カ)食經(ニ)云。茄子味(ハヒ)甘(ク)※[酉+僉]《ヱクシ》【唐韻力減反、〓味也。〓音初減反。酢味也。俗語云、惠久之。】せりにもゑくき味あるゆへに、味につきてゑくといへるなるへし。しからは芋なとをこそいはめと難すへけれと、食經にも、茄子を昧廿※[酉+僉]といひためれば、かれも芋はかりやはゑぐき。初につきて名つけ、後につきてなつくる事、これにやはかきらん、藥には半夏遠志等あり。芋になつくとも、君なを難すへし
 
(12)1840 梅枝爾鳴而移徙※[(貝+貝)/鳥]之翼白妙爾沫雪曾落《ウメカエニナキテウツロフウクヒスノハネシロタヘニアハユキソフルヽ
 
初、梅か枝になきてうつろふ鶯の。毛詩云。出(テヽ)v自(リ)2幽谷1遷(ル)2于喬木(ニ)1。嚶(トシテ)其鳴(ヌ)矣。求(ムル)2其(ノ)友(ヲ)1聲(アリ)。此哥は打きくよりおもしろき哥なり。定家卿詠哥大※[既/木]にも載られたり
 
1841 山高三零來雪乎梅花落鴨來跡念鶴鴨《ヤマタカミフリクルユキヲウメノハナチリカモクルトオモヒツルカモ》
 
一云|梅花開香裳落跡《ウメノハナサキカモチリト》
 
此注は後人異本を見て注せるにて本より撰者の注せるにはあらず、其故は開香裳落跡は落鴨來跡の句の異なれば此一句のみ注して足れり、集中の例然なり、今梅花の句を加へたるは此例に違へば後人の所爲とは知なり、
 
初、山高みふりくる雪を。高き山のふもとにては、雪のふりくるを、梅の咲たるが、風にちりくるにやとおもふなり。樂天か詩に、痩嶺梅開數萬株
 
1842 除雪而梅莫戀足曳之山片就而家居爲流君《ユキヲオキオテウメヲナコヒソアシヒキノヤマカタツキテイヘヰセルキミ》
 
右の歌は梅を愛する心にて雪をもそれかと見て感《メヅ》るやうに讀たれば、雪をば雪と見てめでずして此をおきて、なぞ彼にまがへては見ると雪の方人する意によめり、山片就而は第六に海片就而とよめるに同じ意なり、俊頼朝臣の、夕まぐれ山かたづきて立鳥の、羽音に鷹を合せつるかなとよまれたるは山形盡而と意得られたりと見えたり、不審の事なり、六帖にはやまかたかけてとあり、源氏の手習に山かたかけたる家なれば松陰しげく風の音もいと心細きにと云へるは六帖によれる歟、さら(13)でも云べし、
 
初、雪をおきて梅をなこひそ。是はかへしなれは、梅の花散かもくると思ふといへるは、梅を愛する心から雪をもそれかとみてめつるやうによみたれは、雪をは雪と見てめてすして、これをばおきて、なぞやかれにまかへては見ると、雪の方人する心によめり。山かたづきては、常にいふ片つくなり。第六には、いさなとり海片つきてとよみ、第十九には、谷かたつきてともよめり。曾丹か哥には、と山かたかけとよみ、源氏物語手習には、山かたかけたる家なれは松かけしけく風のおともいと心ほそきにといへり。これらもかたつくといふにちかし。除の字は、日本紀にも、おきてとよあり。のそくはのけそくるなり。おくとのそくとまことに通せり
 
右二首問答
 
詠霞
 
1843 昨日社年者極之賀春霞春日山爾速立爾來《キノフコソトシハクレシカハルカスミカスカノヤマニハヤタチニケリ》
 
極之賀は今按今の義訓叶へりと云へども字に當りてはハテシカと讀べき歟、第三に四極山をシハツヤマとよみ、第九に吾船將極をワガフネハテムとよめり、後撰集に今年は今日にはてぬとかきくとよめれば證とすべし、古今集に昨日こそ早苗取しかとよめるに似て、彼は時節の早く遷るに驚き、此は春と云へば霞の早く立つ意なり、三四句のつゞきは第三に云へる如く春霞かすむと承る意なり、奥義抄に道濟十體器量の歌なり、拾遺及び赤人集六帖に共に赤人の歌とす、
 
初、きのふこそ年はくれしか。古今集に、きのふこそさなへとりしかとよめる哥の詞とおなしくて、かれは時節のはやく移るにおとろき、これは春とゝもに霞のはやくたつ心によめり。奥義抄に、源道濟の十體を出せる中の、第七に器量の哥なり。極の字をくるとは、義をもてかける歟。俗にしはすを極月といふこれにかなへり。しはつ山を四極山とかけるに准すれは年ははてしかともよむへし。何の集にやらん、きのふに年ははてぬとかきくとよめる哥有
 
1844 寒過暖來良志朝烏指滓鹿能山爾霞輕引《フユスキテハルキヌラシアサヒサスカスカノヤマニカスミタナヒク》
 
一二の何は潘岳閑居賦云、背(キ)v冬(ニ)渉v春、陰謝(シ)陽(ニ)施、寒暖の字は文選呉都賦云、露往霜來、呂(14)延濟曰、露秋也、霜(ハ)冬(ナリ)也、朝烏は烏は陽鳥なり、
 
初、ふゆ過て春はきぬらし。冬に寒、春に暖の字をかけるは、文選左太沖(カ)呉都賦曰。露《アキ》往|霜《フユ》來【濟云。露(ハ)秋也。霜(ハ)冬也。】潘岳(カ)閑居(ノ)賦(ニ)曰。背(キ)v冬(ニ)渉(テ)v春(ニ)、陰(ニ)謝(シ)陽(ニ)施(ス)。持統天皇の、春過て夏來にけらしとよませたまへるにおなし。烏は金烏なり。下の十二葉にも、寒過暖來者とかきて冬過て春しきぬれはとよめり
 
1845 ※[(貝+貝)/鳥]之春成良思春日山霞棚引夜目見侶《ウクヒスノハルニナルラシカスカヤマカスミタナヒクヨメニミレトモ》
 
あらゆる鳥皆春に相て囀る中に※[(貝+貝)/鳥]は殊に春を知初る鳥なれば、春鳥子の名を得て此鳥の春をば領したる意に※[(貝+貝)/鳥]之春ニ成ラシとは云へり、郭公は五月になけば己が
五月と讀が如し、詩にも鶯春と作る事なり、
 
初、鶯の春になるらし。鶯の春とは、花の春月の秋といふかことし。韓退之(カ)送2孟東野1序には、以(ハ)v烏(ニ)鳴(ル)v春(ニ)といひて、百千鳥皆春にあひて囀る中に、鶯はことに春鳥子の名を得たれは、此下の十八葉にも、春されは先啼鳥のうくひすのことさきたてし君をしまたんとよせたり。されは鶯の春とはいへり。霞たなひく、此所句なり。管見抄云。鶯は春を知そむる鳥なれは、此烏の春をは領したる心に、鶯の春になるらしとはいへり。ほとゝきすは五月になけは、をのか五月とよむかことし
初、霜かれの冬の柳は。もえを目生とかけるは、萠《モエ》は芽生《メオヘ》といふ義なれはなり。柳眼なといひて、このめは人の目にたとへて名つけたり。芽はもと牙の意なり。人の牙のことくに出れは芽といふ。女《メ》と毛《モ》とは五音にて通し、おへを上略すれはへとなる。敝《ヘ》と睿《エ》とは、同韻にて通すれは、もえになるなり。此相通は自然の理なり。わつらはしく、相通の法によりて後に通するにはあらす
 
詠柳
 
1846 霜十冬柳者見人之※[草冠/縵]可爲目生來鴨《シモカレノフユノヤナキハミルヒトノカツラニスヘクモエニケルカモ》
 
1847 淺緑染懸有跡見左右二春楊者目生來鴨《アサミトリソメカケタリトミルマテニハルノヤナキハモエニケルカモ》
 
淺緑の絲を染て懸たるかと見るばかりなり、續古今は赤人集に依て作者を付られたり、催馬樂に、淺緑や、濃い縹《ハナタ》染懸たりや、見るまでに、詞花集に、故郷の御垣の柳遙々と誰が染懸し淺緑ぞも、此等今の歌を本とせり、
 
初、淺みとりそめかけたりと。そめてかけほすなり。詞華集に、源道濟故郷柳をよまれたる哥に、ふるさとのみかきの柳はる/\とたかそめかけし淺みとりそもとあるは、此哥をもとゝせる歟。催馬樂に、淺緑やこいはなたそめかけたりやみるまてに云々
 
1848 山際爾雪者零管然爲我二此河楊波毛延爾家留可聞《ヤマノマニユキハフリツヽシカスカニコノカハヤナキハモエニケルカモ》
 
(15)1849 山際之雪不消有乎水飯合川之副者目生來鴨《ヤマノハノユキハキエヌヲナカレアフカハノソヘレハモエニケルカ》
 
不消有乎をキエヌヲと轉ぜるは有の字に叶はず、ケザルヲと讀べし、水飯合をナガレアフとよめるやう意得がたし、八雲御抄云、いひあひの川乃、清輔抄いりあひがは如何と遊ばせり、今按叡覽の御本又は清輔朝臣所覽の本には水の字なかりけるにや、今の本に依らば、水の字をも讀べし、ナガレアフと點ぜるは皇極紀云、以v水(ヲ)送v飯(ヲ)云々、此は飯を水に漬て喫なり、然れば飯の水に依て喉に流れ入る意によめるにや、此集第十六云、味飯乎《アチイヒヲ》水|爾《ニ》釀成云々、此は飯と水を合せて酒に造るなり、此に依て何とぞ義訓すべき歟、いまだいかによむべしとも思ひつけず、又水は音をし〔右○〕と用たる事、第九の水長鳥安房とつゞく、此卷下に水良玉をシラタマとよめり、飯は神代紀上云、用2渟浪田稻1爲v飯甞v之、飯はかす物なればカスと讀べし、合は音を用て引合せてシカスガニと讀べき歟、落句は柳の事なり、此は右の歌の作者二首にて意を云ひはたすなり、盖山の雪は消ざるを、さすがに水のぬるむ川のそひたれば柳のもえたるとなり、副者はタグヘバと讀べし、
 
初、山のはの雪はきえぬを。不消有乎とかきたれは、きえざるをとか、けざるをとか讀へし。但きえすしてあるは、きえぬなれは、心を得て、きえぬをと讀たる歟。なかれあふ川のそへれは、水飯合とかけるは、飯を水にて送《スク》時、喉《ノムト・呑門》になかれ入心を得てかける歟。皇極紀云。子麻呂等以v水(ヲ)送《スクニ・スクス歟過》v飯(ヲ)恐(テ)而|反吐《タマヒテ》。これは中大兄《ナカノオヒネ》【天智天皇】と、中臣鎌子連と、共に議《ハカリ》て、蘇我(ノ)入鹿《イルカ》を誅し給ふ時、佐伯(ノ)連《ムラシ》子麻呂と、葛城(ノ)稚犬養《ワカイヌカヒノ》連|網田《アミタ》とにおほせて、斬《キラ》しめたまふ時のことなり。八雲御抄第五、名所河部に、いひあひの川万清輔抄いりあひ川如何。今案此哥は次上の哥の同し意なから、氷のとけて、なかれあふ川のそひたれは、柳のもゆるかと、同し作者のよめるなるへし。上にもいふことく二首にて思ふ心をいひはつる事、此集におほし。なかれあふとよめるは、たしかには心得かたけれと、名所とは見えす。岑參詩云、樹交(テ)花兩色、溪合水重流
 
1850 朝且吾見柳※[(貝+貝)/鳥]之來居而應鳴森爾早奈禮《アサナサナワカミルヤナキウクヒスノキヰテナクヘキモリニハヤナレ》
 
(16)朝旦は日毎の意なり、柳と鶯とを共に賞するなり、家持集に下句をきゐてなくべくしげくはやなれとあるは爾の字を忘れたれな今取らず、
 
初、もりにはやなれ。楊と鶯とを共に愛するなり。森、説文曰。木多貌
 
1851 青柳之絲乃細紗春風爾不亂伊間爾令視子裳欲得《アヲヤキノイトノホソサヲハルカセニミタレスイマニミセムコモカナ》
 
細紗、【官本紗作v沙、】
 
伊間爾は伊は發語の詞なり、
 
初、みたれぬいまに。いは發語の辭
 
1852 百礒城大宮人之蘰有垂柳者雖見不飽鴨《モヽシキノオホミヤヒトノカツラナルシタリヤナキハミレトアカヌカモ》
 
和名云、兼名苑云、柳一名小楊、【柳音力久反、和名之太里夜奈木、】 崔豹古今注(ニ)云、一名獨搖、微風太搖、故以名v之、
 
1853 梅花取持見者吾屋前之柳乃眉師所念可聞《ウメノハナトリモチミレハワカヤトノヤナキノマユシオモホユルカモ》
 
取持見者、【刊本持下或有2而字1、幽齋本云、トリモテミレハ、】
 
梅は女の顔の如く柳は眉の如くなれば、外に有て梅の花を手に取持て見るに付て宿の柳を思ひ出となり、柳ノ眉ニは妻を兼て云なるべし、眉シのし〔右○〕は助語なり、
 
初、梅花取もちみれは。わかやとの柳の眉は、妻のかほよきを、おして柳眉といへり。梅をほめて、兼て梅によりておもひ出るなり、梅花粧の心もこもれる歟
 
(17)詠花
 
1854 ※[(貝+貝)/鳥]之木傳梅乃移者櫻花之時片設奴《ウクヒスノコツタフウメノウツロヘハサクラノハナノトキカタマケヌ》
 
梅の花のうつろふ比櫻は咲初れば時片設と云へり、
 
初、鶯のこつたふ梅の。梅のうつろふ比、櫻は咲そむれは、時片まけぬといへり。時をまふけ歸るなり。盛にはならねは片設といへり。
 
1855 櫻花時者雖不過見人之戀盛常今之將落《サクラハナトキハスキネトミルヒトノコヒノサカリトイマシチルラム》
 
今之のし〔右○〕は助語なり、時の、いたく過たるにはあらねど人の愛する盛にとてや散らむと云意なり、古今集にひと盛ありなば人にと云ひ、殘なく散そめて冬きとよめる此類なり、
 
初、櫻花時は過ねと。盛の過たるにはあらねと、人の愛する盛にとてやちるらんといふ心なり。古今集に
 いさ櫻われもちりなんひと盛ありなは人にうきめ見えなん
 殘なくちるそめてたきさくら花有てよの中はてのうけれは
 
1856 我刺柳絲乎吹亂風爾加妹之梅乃散覧《ワカカサスヤナキノイトヲフキミタルカセニカイモカウメノチルラム》
 
妹之梅とは妹が宿の梅なり、
 
初、わかゝさす柳のいとを、妹か梅とは、妹か宿の梅なり。我刺は、我|頭刺《カサス》と有けん、頭の字の脱《オチ》たるか。例みなしかり。さらずは、わかさせるとよむへし
 
1857 毎年梅者開友空蝉之世人君羊蹄春無有來《トシノハニウメハサケトモウツセミノヨノヒトキミシハルナカリケリ》
 
世人君とは世間の人を※[手偏+總の旁]て指て敬て云歟、又君は吾を書誤まれる歟、羊蹄は和名云、唐韻云※[草がんむり/里]、【丑六反、字亦作v※[草がんむり/逐]、和名之布久佐、一云之】羊蹄菜也、詩祈父之什曰、我待2其野1、言《コヽニ》采2其※[草がんむり/逐]1、朱子注云、※[草がんむり/逐](ハ)(18)牛※[草がんむり/頽]【音頽】惡菜也、今人謂2之羊蹄菜(ト)1、日本紀云、後方羊蹄《シリヘシ》【此云2斯梨蔽之1、】此は蝦夷地の名なり、今は借てかけり、春無有來とは梅は散ても年毎に咲を、世人は一たび盛過ては又本の春はなしとなり、劉庭芝が年々歳々花相似、歳々年々人不v同と作り、春毎に花の盛は有なめどとよめる類なり、伊勢物語にも君が宿には春なかるらしとよめり、
 
初、としのはに梅はさけとも。第十九註云。毎年謂2之(ヲ)等之乃波(ト)1。世の人君しとは、是も次上の哥の作者、さきの哥をふみてよめるにや。心は、風にか、妹か梅のちるらん、梅はちるとも、又も春きたらはさきぬへきを、君はうつせみのはかなき世の人なれは、月日にそひてうつろはむ色の、又梅のことくもとの色にかへる春はなしと惜む心なり。しは助語なり。羊蹄とかけるは、しといふ草なり。上にすてに注しつ。第十六にもかけり。いせ物かたりに、君か宿には春なかるらし
 
1858 打細爾鳥者雖不喫繩延守卷欲寸梅花鴨《ウチタヘニトリハハマネトシメハヘテマモリマクホシウメノハナカモ》
 
歌の意は少も鳥にはませぬために守らまほしきとなり、
 
初、打たへに、第四の十八葉五十七葉にありて注せりき。崇神紀云。活目尊以2夢辭(ヲ)1奏(シテ)言。自登2御諸山之嶺(ニ)1繩(ヲ)〓《ハヘテ》2四方(ニ)1逐(カル)2食(ム)v粟(ヲ)雀(ヲ)1
 
1859 馬並而高山部乎白妙丹令艶色有者梅花鴨《ウマナメテタカキヤマヘヲシロタヘニニホハシタルハウメノハナカモ》
 
馬並而、【別校本云、ウマナヘテ、】
 
馬に騎つれて行人をかちなる人の見れば高く見ゆる故に、高きと云はむ爲の發句なるべし、
 
初、馬なへて高き山へを。馬に乘つれて行人を、かちなる人の見れは、高くみゆるゆへに、高きといふにつゝけんとていへるなるへし
 
1860 花咲而實者不成登裳長氣所念鴨山振之花《ハナサキテミハカラネトモナカキケニオモホユルカモヤマフキノハナ》
 
不成登裳、【官本云、ナラネトモ、】
 
(19)カラネドモと點ぜるは書生の失錯なり、兼明親王の御歌にも、七重八重花は咲ども山吹の、みのひとつだになきぞ恠しきとよみ給へり、長氣はなげきなり、此歎は稱嘆嘆美など云なげきなり、或は又散て後惜みて歎くにも有べし、
 
初、花さきて實はならねとも。兼明親王の御哥に、なゝへ八重花はさけとも山吹のみのひとつたになきそあやしき。長きけにおもほゆるとは、歎なり。歎といふにふたつあり。愁歎と讃歎となり。讃歎の時も、息を長くすれは、なげきは長息なり。なかき氣といふもおなし。此哥は讃歎なり。山振はかりてかけり。正字にあらす。和名集に、?冬をやまふゝきとよみて、此集を引て、山振花といへるは、さしも和漢の才人なる順も、あやまられたり。三體詩(ニ)張籍(カ)逢2賈島(ニ)1詩(ニ)云。僧房(ニ)逢著(ス)?冬花。天隱注云。本草(ニ)?冬華注出(ツ)2雍州(ノ)南山及(ヒ)華州(ヨリ)1。十一十二月(ニ)采(トイヘリ)2其華(ヲ)1。李昌(カ)増註(ニ)云。?冬華(ハ)古今方(・ニ)用(ニ・テ)爲(ス)治(スル)v嗽《スハフキヲ》之最(ト)1。これは今の俗、都和といふものなり。庭なとにもうゆ。蕗《フヽキ》に似て、莖にも葉の裏にも毛あり。葉の色きはめて青し。黒色に近し。十月の初に、一重の黄菊のことき花を生す。ある僧のかたりしは、山里にそたちたるものを具して、山路を過けるに、都和のおほかりけるを、彼もの見て、山ふきと申侍しかは、都和とこそいへとをしへて侍れは、いさ都《ミヤコ》にはさもや申らん。山里にては、山ふきとなつけて、茹《ユテ》物なとにしてくふ物に侍ると申けるよしかたられき。羊蹄《シ》菜といふものをもとゝして、大黄《オホシ》、知母《ヤマシ》、紫〓《ノシ》、白英《ホソシ》、〓蕪《スシ》なと、似たる物を名付ることく、蕗《フヽキ》をもとゝして、牛蒡《ウマフヽキ》、〓《ミツフヽキ》、?冬《ヤマフヽキ》なとも名付たるを、蕗《フヽキ》をふきとのみいふをはしめて、うまふき、みつふき、やまふきといひならへるゆへに、順もあへ物になりて《・あやかるなり》、まとはれけるなり。蕗の薹《タフ》といふ物を、?冬といふも誤なり。下學集に、朗詠集の、?冬誤(テ)綻2暮春風1といふ句を難せり。公任卿も誤につかれて、?冬と題せらる。此集にはまさしくかける事なし。山振と大かたはかき、四もしにもかけり。山ふきの花は金に似たり。金は山にほり出て吹物なれは、和名をかくはおほせけるにや。ある物に、棣棠をやまふきなりといへと、いまたしらす。※[酉+余]※[酉+靡]なりといへと、※[酉+余]※[酉+靡]花と古き詩人なともいへることにや。趙宋の作者なとのいへるは信しかたし
 
1861 能登河之水底并爾光及爾三笠乃山者咲來鴨《ノトカハノミナソコサヘニテルマテニミカサノヤマハサキニケルカモ》
 
咲來鴨は花なり、花と云はずして咲と云は第八に春山の開野を過るにとよめる例なり、下に久木今開ともよめり、
 
初、三笠の山は咲にけるかも。櫻なるへし
 
1862 見雪者未冬有然爲蟹春霞立梅者散乍《ユキミレハイマタフユナリシカスカニハルカスミタチウメハチリツヽ》
 
第九にもみ雪殘れり未冬かもと有き、
 
1863 去年咲之久木今開徒土哉將墮見人名四二《コソサキシヒサキマサクイタツラニツチニヤオチムミルヒトナシニ》
 
六帖には楸の歌に入れたれど、今開と云ひ、土にや落むと云へるは正しく花なれば楸にはあらず、第六にも有て注せる如く、唯久しき老木の事を去年咲て後又やうやう今咲けば待程の久しきに寄せて云歟、さればにや腰句より殊に見る人なくて散らむ事を惜めり、
 
初、こそさきしひさ木。こゝに久木とよめるは、久しきの木の心なり。こそ咲し花の後は、久しくして、又此春咲といふ心なり。或先賢の云。惣して此集に久木とよめるは、濱ひさ木なとも、濱に久しく有木の心なりといへり。けにもとおほゆるなり
 
(20)1864 足日木之山間照櫻花是春雨爾散去鴨《アシヒキノヤマノマテラスサクラハナコノハルサメニチリユカムカモ》
 
1865 打靡春避來之山際最木末之咲往見者《ウチナヒキハルサリクラシヤマノハノヒサキノスヱノサキユクミレハ》
 
未之、【幽齋本、之作v乃、】
 
發句はウチナビクと讀べし、最木末之は今按ホツキノウレノと讀べし、第九に最末枝をホツエとよめるを證とす、落句は上の如し、此歌第八に既に出たれど少違へり、
 
初、最木末の咲ゆくみれは。ほつきの末とよむへし。ひさ木の末とよめるはあやまれり。第九の廿葉に、最末技とかきて、ほつえとよめり。末枝とのみかきても、ほつえとよめり
 
1866 春※[矢+鳥]鳴高圓邊丹櫻花散流歴見人毛我裳《キヽスナクタカマトノヘニサクラハナチリナガラフルミルヒトモカモ》
 
六帖にはきじの歌として、はるきじのなくたかまどにとあり、邊の字を殘したれば讀やう叶はず、道邊をみちのべと讀やうに意得て讀べし、高圓野もあれど今は野邊と云はざれば山野をかけて高圓のあたりなり、
 
初、ちりなからふるは、ちりなかるゝなり。ちるをすなはちなかるといへり
 
1867 阿保山之佐宿木花者今日毛鴨散亂見人無二《アホヤマノサネキノハナハケフモカモチリマカフラムミルヒトナシニ》
 
佐宿木花、【六帖、サナキノハナ、】  散亂、【六帖云、チリミタルラム、赤人集同v之、】
 
阿保山は前後の歌大和の名所をよめる中にあれば此も大和なるべし、佐宿木花は(21)六帖にさねきの歌に入れ、さなきのはなとあり、宿は禰と奴とに用れど奈に通はせる例なければ傳寫の誤なるべし、佐宿木と云一種の花ある歟、第十二云、白香付木綿者花物事社者《シラツケユフハハナカモコトコソハ》、何時之眞枝毛常不所忘《イツノサネキモツネワスラレネ》、此眞枝は幽齋本にはマエタと點ぜり、さねきとよみてもまえたと同じ意なれば、今は櫻にまれ何の花にまれ眞木《サネキ》と云ひて、眞木《マキ》と同じ意にほめて云にや、
 
初、あほ山のさねきの花。あほ山は、八雲御抄にあを山播磨と注せさせ給へり。彼は青山、これは阿保山とかけり。いかゝ侍らん。あるものゝ申しは青山ならて阿保といふ所ありと。そこに此山あるにや。さねきは、眞《サネ》木にて、まきといふにおなしく、諸木の花をいふといへるや、よく侍らん。伊賀國に阿保郡あり。餝磨郡|英保《アホ》【安母】和名集
 
1868 川津鳴吉野河之瀧上乃馬醉之花曾置末勿動《カハツナクヨシノヽカハノタキノウヘノツヽシノハナソオクニマモナキ》
 
馬醉之花曾、【赤人集云、アセミノハナソ、六帖同v此、】
 
馬醉は今の本には處々皆ツヽシと點じて一處もアセミとは點ぜず、八雲御抄躑躅の注に、又吉野の河の瀧の上にも有と遊されたるは今の歌に依てのたまひたれば古本もつゝじ、あせみ兩方なりけるにや、落句は今の點字に應ぜず、赤人集にはさきてあだなるとあり、此は一向別なり、六帖にはてなふれそゆめ、此も亦改たるなり、されどな〔右○〕と云は勿、ゆめ〔二字右○〕は謹に叶へり、今按花曾と云を句としてスヱニオクナユメと讀べきか、吉野川の瀧の上の面白きに、蛙さへ鳴比のつゝじぞかし、徒に木の末に置て散らすな、手折來て翫べとよめる意歟、或は本は初の義、末ははて〔二字右○〕の義あればオキ(22)ハツナユメと讀てさておきはたすな折て見よとにや、
 
初、かはつなくよしのゝ川の。此下句を、紀氏六帖にはあせみの花そてなふれそゆめと載たり。馬醉木をあせみとよまは、此集にあまた有。つゝしも、羊躑躅の注をみれは、馬もゑふはかりの事は侍なんや。置末勿勤、此四もしをおくにまもなきとよめるは誤なるへし。勿勤の二字は、なゆめと讀へし。例みなしかり。置末の二字、いかによむへしともしらす。推量するに、此二字の内に誤ある歟。あるひは落たる字あるなるへし
 
1869 春雨爾相爭不勝而吾屋前之櫻花者開始爾家里《ハルサメニアラソヒカネテワカヤトノサクラノハナハサキソメニケリ》
 
拾遺集春歌に、吹風に爭ひかねて足引の、山の櫻は綻びにけり、似たる歌なり、
 
1870 春雨者甚勿零櫻花未見爾散卷惜裳《ハルサメハイタクナフリソサクラハナイマタミナクニチラマクヲシモ》
 
春雨者、【別校本云、ハルサメハ、】
 
發句の今の點は書生の誤まれるなり、新古今集に下句をまたみぬ人にちらまくもをしとて、赤人と作者を定られたるは彼家集に依れり、
 
1871 春去者散卷惜櫻花片時者不咲含而毛欲得《ハルサレハチラマクヲシキサクラハナシハシハサカテツホミテモカナ》
 
櫻花、【幽齋本、櫻作v梅、點云、ウメノハナ、】  含而毛欲得、【官本又云、フヽミテモカナ、】
 
腰句は第八にも梅の花さくふゝめらずして、ふゝめりと云ひし梅が枝などよめるを思ふに、赤人集を證として幽齋本に付べきにや、落句も官本又點に依るべし、
 
1872 見渡者春日之野邊爾霞立閲艶者櫻花鴨《ミワタセハカスカノノヘニカスミタチサキニホヘルハサクラハナカモ》
 
(23)人丸家集にもなし、風雅には何に依て、人丸の歌と載られけむおぼつかなし、下に至て又此上句あり、霞立を立霞となせるのみ替れり、
 
1873 何時鴨此夜之將明※[(貝+貝)/鳥]之木傳落梅花將見《イツシカモコノヨノアケムウクヒスノコツタヒチラスウメノハナミム》
 
イツシカモのし〔右○〕は助語なり、第十九家持歌云、袖垂而伊射吾花爾、以下三句今と同じ、
 
初、いつしかも此夜のあけむ。第十九に家持の哥に、袖たれていさ我苑に鶯のこつたひちらす梅の花見に。三の句より下おなし。みむと見にといへるのみたかへり
 
詠月
 
1874 春霞田菜引今日之暮三伏一向夜不穢照良武高松之野爾《ハルカスミタナヒクケフノユフツクヨキヨクテルラムタカマトノノニ》
 
高松、【官本又云、タカマツ、】
 
新拾遺には赤人集に依て落句をたかまどの山とあり、六帖、雜ゆふづくよに入れて此も赤人の歌とす、三伏一向をツクとよめる書樣其意を得ず、第十二には梓弓末中一伏三起《アヅサユミスヱナカタメテ》云々、第十三には菅根之根毛一伏三向凝呂爾《スカノネノネモコロコロニ》云々、これらの書やうも似たる事にて皆意得がたし、菅家萬葉集にもゆふづよを夕三里夜とかゝせ給へり、不穢は義訓なり、
 
初、暮三伏一向夜《ユフツクヨ》。此三伏一向とかきてつくとよめるやう、いかなるゆへとも得こゝろえ侍らす。第十三の十八葉に、菅の根の根もころ/\にといふに、一伏三向とかきて、ころとよめるも心得かたし。三伏一向と、一伏三向と、かきやう表裏して、つくとよみころとよめるに、後の人心を付へし。三伏は、九夏三伏の意歟。もし禮拜するを、ぬかつくといふ。其意歟。ころはころふといふ意ある歟。一向といふを思ふに、夏の三伏にはあらし。穢は淨に對する詞なれは、不穢とかきてきよくとよめり
 
(24)1875 春去者紀之許能暮之夕月夜欝束無裳山陰爾指天《ハルサレハキノコノクレノユフツクヨオホツカナシモヤマカケニシテ》
 
第二の句は木《キ》の木の間なり、夕月夜はほのかなるをおぼつかなしとは云へり、古今にも夕月夜おぼつかなきを玉匣、二見の浦は明てこそ見めとよめり
 
初、春されはきのこのくれの。木の木闇《コノクレ》なり。木の下やみといふかことし。李嘉祐か詩に、山木暗(シ)2殘春(ニ)1。此集に猶、このくれやみともよめり。夕月夜おほつかなしもとは、さらぬたに、夕月夜は、望月のことくさたかならぬに、山陰にして、木の下くらけれは、おほつかなくて待わふる心なり。古今集にも、兼輔朝臣の哥に、ゆふ月夜おほつかなきを玉くしけふたみの浦は明てこそみめ。いふせき、おほつかなき、おほゝしくなといへる、みなおなしく心もとなきなり。山陰にしては、第三湯原王の哥に、よしのなる夏箕の川の河よとに鴨そなくなる河よとにして
 
一云|春去者木陰多暮月夜《ハルサレハコカクレオホキユフツクヨ》
 
後撰集に、春來れば木がくれ多き夕月夜、おぼつかなくも花陰にして、六帖春の月に入たるも後撰に同じきは此一本に依れば歟、木陰はコカゲと讀べきか、然らずば陰は隱にや、
 
1876 朝霞春日之晩者從木間移歴月乎何時可將待《アサカスミハルヒノクレハコノマヨリウツロフツキヲイツシカマタム》
 
何時可は今按イツトカとよむべし、夕月夜なれば春日の暮たらば見るべきを、折しも茂りて木闇《コグラ》ければ暮たりとも猶いつとか待たむとなり、
 
初、朝霞はる日のくれは。朝霞のたつ春の日といへるか。春霞のはるゝとつゝくるこゝろ歟。春日のくれはゝくれたらはなり
 
詠雨
 
1877 春之雨爾有來物乎立隱妹之家道爾此日晩都《ハルノアメニアリケルモノヲタチカクレイモカイヘチニコノヒクラシツ》
 
(25)春雨にてはか/”\しくもふらぬを雨やどりして晩せしとなり、六帖雨に入れて赤人の歌とす、赤人集に依歟、
 
初、春の雨に有ける物をとは、はか/\しくもふらぬを、雨やとりしてくらせしとなり
 
詠河
 
1878 今往而※[米/耳]物爾毛我明日香川春雨零而瀧津湍音乎《イマユキテキクモノニモカスカカハハルサメフリテタキツセノオトヲ》
 
※[米/耳]物、【校本或※[米/耳]作v聞、】
 
※[米/耳]は聞と同じ、落句は瀧津湍とは讀つゞけず、タキツと切て湍ノ音ヲと讀べし、
 
初、今ゆきてきくものにもか。※[米/耳]は間の異字なり。春雨ふりてたきつせのをとをとは、瀧つせを、つゝけて體には意得へからす。たきつとも、たきちともいふは、沸《タキル》なり。たきる瀬の音をと心得て、たきつとよみきるやうにすへし
 
詠煙
 
1879 春日野爾煙立所見※[女+感]嬬等四春野之菟芽子採而※[者/火]良思文《カスカノニケフリタツミユヲトメラシハルノヽヲハキツミテニラシモ》
 
ヲトメラシのし〔右○〕は助語なり、菟芽子をヲハキと點ぜるは誤なり、ウハキと讀べし、第二に人丸の佐美乃山野《サミノヤマノ》上乃宇波疑とよまれたる但六帖にはをはぎの歌とせり、古本もヲハキと點じけるにや、和名集には於八|木《キ》とあり、於と宇と通ぜり、凡宇の音に二つあり阿伊宇要乎《アイウエヲ》の于と和爲宇惠於《ワヰウヱオ》の宇となり、天竺の梵文には二つの宇、字體(26)別なり、漢字には別なき歟、わいうえをのう〔右○〕は本韻にして聲輕し、わゐうゑおのう〔右○〕は和を聲の體とし、本韻のう〔右○〕を韻とし和宇(ノ)切宇なり、然るに阿和也は同じく喉音なりと云へども阿は喉中の喉、也は喉中の舌、和は喉中の脣なり、脣に當て聞ゆる聲は至て重し、されば和を體として生ずる宇の聲は本韻の宇よりは重ければ、本韻の乎とは通ぜずして和乎切なる重き於と通ずるなり、此に依て此集に宇波疑とあるを和名集には於八木と云へるなり、※[者/火]ラシモは※[者/火]るらしなり、第十六竹取歌序云、季春之月登v丘、忽値2※[者/火]v羮(ヲ)之九箇(ノ)女子1也云々、菅家内宴詩序云、野中※[草がんむり/毛]v菜(ヲ)、世事推2之(ヲ)※[草がんむり/惠]心1、爐下和v羮(ニ)、俗人屬2之※[草がんむり/夷]指1、うつぼ物語云、しろがねのさすなべにわかなのあつものひとなべ云々、
 
初、春日野に煙たつみゆ。春野のうはきつみてにらしも、うはきはおはきなり。宇と於と五音相通なり。第二卷に、さみの山野上のうはきとよまれたる哥に、うはきの事注し畢ぬ。俗によめか萩といふ野菜なるへし。第十六云。昔有2老翁1號(テ)曰2竹取翁(ト)1也。此翁季春之月登(テ)v丘(ニ)忽(ニ)値(フ)2※[者/火](ル)v羮(ヲ)之九箇女子(ニ)1也。本朝文粹中菅家の御秀句云。野中(ニ)※[草がんむり/毛](フ)v菜(ヲ)。世事推(ス)2之(ヲ)※[草がんむり/惠]心(ニ)1。爐下(ニ)和(シテ)v羮(ニ)、俗人屬(ス)2之(ヲ)※[草がんむり/夷]指(ニ)1。うつほ物語に、しろかねの銚にわかなのあつものひとなへといへり。源氏物語若菜上、御かはらけくたりわかなの御あつものまゐる
 
野遊
 
1880 春日野之淺芽之上爾念共遊今日※[立/心]日八方《カスカノヽアサチカウヘニオモフトチアソフケフヲハワスラレメヤモ》
 
遊今日、【六帖云、アソヘルケフハ、】
 
芽は書生の誤なり、茅に作れるよし、淺茅之上は第七にも印南野の淺茅が止とよみ(27)ておのづから莚を數たる樣に面白き物なり、六帖野遊の歌に發句をはるの野のとて入れたるは、彼所覽の本には日の字なかりけるにや、
 
初、春日野のあさちかうへに。茅は吉祥草とて、佛の成道の時も座にしたまひ、秘密の經軌の中に、處々に説(キ)、大日經疏にこれを座とする故を釋し、易にも詩にも出たるものなり。これらをはしはらくおく。打見るにきよくみゆる物にて、莚もしかす、そのまゝもをるへけれは、かくはよめり。第七にも、家にしてわれはこひむな印南野の淺茅かうへにてりし月夜を。印南野の月ばかりも、おもひ出てこふへきを、猶あさちかうへにてりしといへるをおもひて、今の哥をもみるへし
 
1881 春霞立春日野乎往還吾者相見彌年之黄土《ハルカスミタツカスカノヲユキカヘリワレハアヒミムイヤトシノハニ》
 
落句はいよ/\年ごとになり、
 
初、いやとしのはには、彌|毎年《トシノハ》なり。上にも注することく、第十九自注に、毎年謂(フ)2之(ヲ)等之乃波(ト)1。こゝに彌年之黄土とかけるは、はゝ、としのはのはにて、上につき、には、てにをはなるを、つゝけてよまるゝまゝに、黄土《ハニ》とはかけり。あらなくにといふ詞を、有莫國とかけるも、あらなくは、あらぬにて、にの字は、てにをはなるを、國の字を書て、上のくの字を下につゝけたり。かやうに無窮にかけるに心を著へし
 
1882 春野爾意將述跡念共來之今日者不※[日+脱の旁]荒粳《ハルノヽニコヽロヲヤラムトオモフトチキタリシケフハクレスモアラヌカ》
 
意將述、【赤人集云、コヽロノヘムト、】  荒粳、【官本、粳作v糠、】
 
雄略紀云、是月御馬皇子以3曾善2三輪(ノ)君身《ム》狹1故、思2欲遣1v慮而往、今按六帖にも今の本の如くあれど、赤人集字に當りてまさるべき歟、落句は六帖にくれずもあらなむと改たむ、今の點の落著の意なり、
 
初、春の野にこゝろやらんと、遣v悶(ヲ)なり。くれすもあらぬかは、くれすしてはあられぬものか。くれすしてあれの心なり。粳は※[米+亢]とおなし。糠と通する歟。さらずは、ぬかとは讀かたし。處々に此字をかけり。これもあらぬとつゝきて、かは離たるを、荒粳とかけるは、さきにいふことし
 
1883 百礒城之大宮人者暇有也梅乎挿頭而此間集有《モヽシキノオホミヤヒトハイトマアレヤウメヲカサシテコヽニツトヘリ》
 
君臣和樂の意詞の外に顯はれたり、打きくも樂しき歌なり、治世(ノ)之音(ハ)安以樂(シ)、其(ノ)政和、とは此等を申すべきにや、六帖にはかざしの歌に入れたり、赤人集には下句を櫻かざして今日も晩しつとあり、打つゞき皆此前後の歌なれば今の歌なる事疑なし、新(28)古今は、彼集に依て載らるゝなり、
 
初、百しきの大宮人は。赤人の哥とて、上句は今とおなしうして、櫻かさしてけふもくらしつとそ、常には人の覺えたる。日本紀に、内裏とかきて、おほうちとももゝしきともよめり
 
歎舊
 
歎は感歎なり、先初の歌は老を歎て、次には道理を案じて思ひ解て歎を遣るなり、
 
1884 寒過暖來者年月者雖新有人者舊去《フユスキテハルシキヌレハトシツキハアラタマレトモヒトハフリユク》
 
春シのし〔右○〕は助語なり、雖新有は今按本の點有の字を忘たり、アラタナレドモと讀べし、古今集に、百千鳥囀る春は物毎に、改まれども我ぞ古り行、拾遺集に新しき年はくれども徒に、我身のみこそ古まさりけれ、此等同意なり、
 
初、ふゆ過てはるしきぬれは。上の第八葉にも、寒過暖來とかけり。下句は古今集に、もゝちとりさえつる春は物ことにといふ哥におなし。但雖新有とかきたれは、あらたなれともとよむへき歟。新の字はあらたまるとよむへきを、有の字のあまれはなり.次の哥、物みなはあたらしきよし。これを思ふへし
 
1885 物皆者新吉唯人者舊之應宜《モノミナハアタラシキヨシタヽヒトハフリヌルノミソヨロシカルヘキ》
 
物皆者、【官本或作2物者皆1、點云、モノハミナ、】
 
尚書盤庚上云、遲任有v言、人(ハ)惟求v舊、器非v求v舊惟新、此意にてよめる歟、又知らずおのづから叶へる歟、舊之は今の點叶はず、フリヌルノミシと讀べし、し〔右○〕は助語なり、此歌春の意なけれども同じ作者の手に出て上の歌と二首にて意を云ひ盡す故に、上の歌(29)に引かれて此には入たるなり、
 
初、物みなはあたらしきよし。尚書盤庚上曰。遲任有v言《イヘルコト》。人|惟《タヽ》求(ム)v舊(キヲ)。器(ハ)非(ス)v求(ムルニ)v舊(キヲ)。惟(レ)新(シキヲス)。此哥は此書の心にてよめるか。をのつからかなへる歟。次上の哥の作者、二首にて心を足《タ》すゆへに、此哥に春はなけれとも、春の哥とせり
 
懽逢
 
1886 住吉之里得之鹿齒春花乃益希見君相有香聞《スミノエノサトノエシカハハルハナノマシメツラシミキミニアヘルカモ》
 
住吉之、【六帖云、スミヨシノ、】  希見、【六帖云、メツラシク、】
 
發句は六帖の點に同じ意なり、此は地の名にはあらず、第六に在杲石住吉里《アリカホシスミヨシサト》と久邇の京をよめり、何處にても里の富てよきをばかく云べし、津國の住吉も此※[手偏+總の旁]名を取て別名としたるなるべし、春花乃益希とは、第三に人丸の、春草の益めづらしさ我大君かもとよまれたるが如し、希見は六帖の如くメヅラシクと讀べし、神功皇后紀云、希見《メヅラシキ》物(ナリ)、【希見、此云2梅豆邏志1、】此れに字を引合て、メヅラシとよめり、今の本の點にては君と云に能つゞかず、此歌は曹顔遠詩、富貴他人(モ)合、貧賤親戚(モ)離、と云意ありて、彼は憤る事あり此は唯悦こべり、六帖に昔あへる人と云に入れたるは初の二句に少叶はざるにや
 
初、すみのえの里を得しかは。長流か抄には、住よしの里とよみて、注すらく。此すみよしの里は名所にあらす。住よき里なり。第六卷の哥に、有がほし、住よし里の、あれまくをしもとよめるは、久邇の都のことなり。いつくにても、里の富貴にてよきをは、住よしの里といふへしといへり。春花のましめつらしみとは、花の、みても又、またもみまくのほしきことくなる君といふ心なり。第三に人麿の、長皇子に奉られける哥に、春草のましめつらしき我おほきみかもといへる心におなし。めつらしみといへるみの字は、山高み里とをみなとのみ今はよむを、第一卷の最初、雄略天皇の御哥に、こもよみこもち、ふくしもよみふくしもちと讀せたまへるを、注しつることく、今此哥も、ましめつらしきといふへき所にめつらしみといへり。此哥は、文選曹顔遠(カ)詩(ニ)、富貴(ナレハ)他人(モ)合といふ心の、彼は欝憤あり。これはなきなり
 
旋頭歌
 
(30)1887 春日在三笠乃山爾月母出奴可母佐紀山爾開有櫻之花乃可見《ミカスカナルミカサノヤマニツキモイテヌカモサキヤマニサケルサクラノハナノルヘク》
 
可見、【幽齋本云、ミユヘク、】
 
春日は添上郡、佐紀山は添下郡なり、都は添下郡に在ければ都の人のよめるなるべし、第七に三笠の山に月の舟出とよめる歌も有き、月モ出ヌカモは出よと願ふ意なり、可見は六帖もみるべくとあれど、幽齋本の點然るべし、新千載集春上に柿本人丸とて、春日なる三笠の山に月は出ぬ、さける櫻の色の見ゆらむとあるは此歌を約めたる歟、家集にも見えず、
 
初、春日なるみかさの山に。月も出ぬかもは、出よかしと願ふ心なり。春日は添上郡、佐紀山は添下郡にてほと近し。第一卷の終に、長皇子與2志貴皇子1於2佐紀宮1倶(ニ)宴(シタマフ)歌有き。そこにも釋しき
 
1888 白雪之常敷冬者過去家良霜春霞田菜引野邊之※[(貝+貝)/鳥]鳴烏《シラユキノトコシクフユハスキニケラシモハルカスミタナヒクノヘノウクヒスナクモ》
 
常敷、【六帖云、ツネニシク、】
 
常敷は第九に勢能山爾黄葉《セノヤマニモミチ》常敷云々、此を顯昭の古今注にはつねしくと引かれたれば、六帖につねにしくとよめると今の本の點と優劣いづれならし、又第三に冬木成|常敷《トコシク》時跡云々、此傍例に依らば今の點なるべき歟、
 
初、白雪のとこしく冬は。とこしくは、常に雪の降しくなり。第九には、せの山にもみちとこしくともよめり。もみちのつねにふりしくなり。烏は和名集に廣韻を引て焉と通すといへり。しかれは助語に置り。をとつかふ時は、音を取、ぞとつかふ時は訓を取れり
 
(31)譬喩歌
 
1889 吾屋前之毛桃之下爾月夜指下心吉菟楯頃者《ワカヤトノケモヽノシタニツキヨサシシタコヽロヨシウタテコノコロ》
 
月夜指は唯月影のさすなり、菟楯はた〔右○〕とて〔右○〕と通ずればうたゞなり、桃は花のみあまた咲、實なる事はともし、然るを毛桃は實の名なれば此をたまさかに思ふ事の成れるに喩ふ、又桃の末は繁くて暗く、本には月影のさして面白きをば、人知れず下うれしさのまさるに喩へたり、
 
初、わかやとの毛桃。うたてはうたゝなり。桃の花のさける陰に、月のさよなかとてるによせて、うたゝ此ころ下心よしとは、おもふことの、何事にもあれ、なりゆくにたとふるなるへし。紅顔を桃によそへて戀にたとふる歟
 
春相聞
 
1890 春日野犬※[(貝+貝)/鳥]鳴別眷益間思御吾《カスカノニイヌルウクヒスナキワカレカヘリマスホトオモヒマスワレ》
 
犬の下に類留等の字落たるべし、落句は今按今の點叶へらずオモヒマセワレヲと讀べし、ませ〔二字右○〕はましませなり、若は吾は君を寫誤て、おもひませきみ歟、
 
初、かすか野にいぬる鶯。犬の下に、類留《ルル》等の字をゝとせり。鳴わかれとは、里に出てなく鶯の、春日野へ歸る時、友にも妻にもなきて別るゝが、かへりみして、ます/\なくほどに.われも次第に君をおもふ心のまさるなり。今案思御吾とかけるをは、おもひませわれをと讀へきにや。おほしめせわれをともよむへし。御の字ましますといふことを、増といふにもかるましきにはあらねと、思御とつゝけたれは、おもひましませおほしめせにて有ぬへうや
 
1891 冬隱春開花手折以千遍限戀渡鴨《フユコモリハルサクハナヲヲリモチテチヘノカキリモコヒワタルカモ》
 
花手折似、【幽齋本云、ハナヲタヲリモチ、別校本手作v乎、】
 
(32)冬隱春開花とは待々てよき程になれる人に喩ふ、手折以はそれを云ひ靡けて我手に入るゝに喩ふ、戀渡るとは上にも注せし如く飽ず思ふを戀渡と云なり、
 
初、冬こもり春さく花をたをりもて。はなをゝりもちてとよみたれと、花手所以とかきたれは、初のことくよむへし。手の字は.古本乎の字なりけるを、あやまれるにや。此哥の心は、冬こもりし梅櫻も、春になれは花さくを、しのひに物おもふ心の、ひらくる時なきを、花に感してなけくなり
 
1892 春山霧惑在※[(貝+貝)/鳥]我益物念哉《ハルヤマノキリニマトヘルウクヒスモワレニマサリテモノオモハメヤ》
 
第九に惑人をワビヾトと讀たれば第二の句はキリニワビタルとも讀べし、霧も霞も春秋に通はしてよめり、詩にも咽霧山※[(貝+貝)/鳥]鳴尚少と作れり、此歌六帖には人丸とて霧に入れたり、
 
初、春山のきりに。朗詠集云。咽(フ)v霧(ニ)山鶯(ハ)啼(コト)尚少(ナリ)。霧にまとへる鶯も、戀路にまとへるわれにはまさらしとなり。ならすはやましは、實にならすはやましなり。逢を實《ミ》にたとへたり
 
1893 出見向崗本繁開在花不成不止《イテヽミルムカヒノヲカノモトシケクサキタルハナノナラスハヤマシ》
 
六帖に、いひはじむ、と云に入れたるにて意得べし、今按向崗の下に桃の字有てムカツヲノモヽにて有べきを桃を落せる歟、第七に向峯爾《ムカツヲニ》立有桃樹云々、此れ傍證なり、向崗をムカツヲとよむ傍證は、同第七に向岡(ノ)之|若楓木《ワカカツラキ》云々、腰句以下は第七にはしきやし吾家の毛桃本繁、花のみ開て成らざらめやも、第十一に、やまとの室《ムロ》原の毛桃本繁わかきみ物を成らずはやまじ、此等を引合するに彌桃の字あるべき事知られたり、但古本より落たりけるにや、六帖にもむかひのをかのとあり、
 
(33)1894 霞發春永日戀暮夜深去妹相鴨《カスミタツハルノナカヒヲコヒクラシヨノフケユケハイモニアヘルカモ》
 
夜深去、【官本又云、ヨノフケユキテ、】
 
六帖には打來てあへると云に入れて、第二の句を、ながきはるびをとあり、夜深去、此句今の點の意は、永き日を戀くらして猶夜の深行まで戀ていねざりしかば、其かひ有て妹にあへるかもとなり、官本又點の意は、永日を戀暮らすだにあるを、夜さへ深ても逢ぬことのはかなきを云なり、
 
1895 春去先三枝幸命在後相莫戀吾妹《ハルサレハマツサキクサノサキクアラハノチモアヒミムナコヒソワキコ》
 
三枝は第五に注せしが如、さき草を承てさきくあらばと云へり、後相は今按六帖も今の點と同じけれど、相見ともなきにあひみむと讀べき理なし、ノチニモアハムと讀べし、吾妹はワキモと點ぜるに付べし、
 
初、春されはまつさき草のさきくあらは。春くれは、先もえ出るさき草とつゝけてさきくとうけたり。第五に、山上憶良戀(ル)3男子(ノ)名(クル)2古日《フルヒト》1歌に、ちゝはゝもうへはなさかりさき草の中にをねんとゝある所に委尺せり。吾妹は、わきもとのみよむへし
 
1896 春去爲垂柳十緒妹心乘在鴨《ハルサレハシタリヤナキノトヲヲニモイモカココロニノリニケルカモ》
 
柳の技の鶯にもたへずしてたはむ如く、我心をおもるばかり妹が乘たるかなとなり、乘在鴨は六帖にものりにけるかもとあれど、ノリニタルカモと讀べし、第十一に(34)是川瀬|々敷浪布布《セノシキナミシク/\》と云歌の下句も今と同じきをノリニタルカモと點ぜり、證とすべし、?阿切多なれば約めて讀なり、
 
初、春されはしたり柳の。和名集(ニ)云。兼名苑(ニ)云。柳一名(ハ)小楊【柳(ハ)音力久反。和名之太里夜奈木。】崔豹(カ)古今注云。一名(ハ)獨搖。微風(ニモ)大(ニ)搖(ク)。故(ニ)以名(ツク)v之、したるといふは、すなはちたるゝなり。日本紀に、しだるといふ人の名に、垂の字をかけり。とをゝはたわゝなり。登と多と五音相通なり。袁《ヲ》と和ともおなし。わか心の、妹か心の上にのる事、かたちある物ならは、たわむはかりなれは、したり柳の、風にあひてたわむによせて、かくはよめり。乘在鴨は、のりにたるかもと讀へし。のりにてあるかもを、※[氏/一]阿切多なれは、のりにたるとはよむなり。のりにけるかもとあるは誤なり。乘來鴨とあらばこそ、さはよまめ。第二に久米禅師か哥に、あづまづののさきのはこのにのをにもいもかこゝろにのりにけるかも。此哥におなし心にて、下の句おなし。たるとけるとのたかへるのみ
 
右柿本朝臣人麿歌集出
 
右とは上の七首を指せり、※[手偏+總の旁]標のみ有て題なき事上の春雜歌の初の如し、
 
初、右柿本朝臣人麿歌集出。したり柳の一首の注なるへし。そのゆへは、他卷にも右幾十幾首は、誰集出といひ、又只誰集出、或は右一首は誰集出とあれはなり
 
寄鳥
 
1897 春之在者伯勞鳥之草具吉雖不所見吾者見將遣君之當婆《ハルサレハモスノクサクキミヘストモワレハミヤラムキミカアタリハ》
 
春之在者、【官本又云、ハルナレハ、】
 
發句は六帖にも袖中抄にも今の點の如くあれど官本又點の如く讀べし、上に春之去者妻乎求等云々、此發句に注せしが如し、弟二の句は袖中抄に云く、もずの草くゞると云なりと注して、第十七に安之比奇能|山邊爾乎禮婆保登等藝須《ヤマヘニヲレバホトトキス》、木際多知久吉奈可奴日波奈之《キノタチクキナカヌヒハナシ》と云を初めて鶯郭公の飛くゝ立くゝとよめる歌どもを證據に引かれたり、く〔右○〕とき〔右○〕と音通ずればくき〔二字右○〕とくゝ〔二字右○〕と同じ詞なり、神代紀上に高|皇産靈損《ミムスヒノミコト》の少彦名命《スクナヒコナノミコト》か事をのたまふ所に、自2指間1漏|墮者《オチニシカハ》必彼(ナラム)矣、此事を古事記には自2我手俣1久(35)岐斯子也《クキシコナリ》、第六に谷潜をタニクヽとよめり、水をくゞると木の間などをくゞると事は替れど和語の意は同じ、又袖中抄云、今案先此歌の意は、鵙は春若は夏の初には鳴かず、されば月令には五月節に鵙始(テ)鳴と注せり、秋盛りに鳴て、冬は寒さにやう/\薄らぎて、春はいとも鳴かざれば、春は鵙の草くゞる事見えずとも我は君があたりを見やらむと詠るは、唯見えずと云はむことばかりを取なり、古歌の體皆如v此か、以上此義文明なれば拔取れり、廣く諸説を擧られたれど唯煩らはしきのみにて胸臆に任せたれば今取らず、伯勞鳥は和名集云、兼名苑云、鵙一名※[番+鳥]、【上音覓、下音煩、楊氏漢語抄云、伯勞、毛受、一云鵙、】伯勞也、日本紀私記云、百舌鳥、雖不所見はみえずともなり、
 
初、春されはもすの草くきみえすとも。春之在者とかけるをは、春なれはとよむへき歟。古今集に夏なれは宿にふすふるかやり火のとよめるかことし。そのゆへは、春去者とかけるは、上にも委尺しつるやうに、春くれはといふ心なり。これは在の字を書たれは、まさに今春にてあれはといふ心なるゆへに、はるにあれはを、爾阿切奈なるゆへに、つゝめて春なれはとよむへしとはいふなり。之の字は、文章にもかゝる所の助語に用る字なり。下の二十三葉に、はるされはすかるなる野の郭公とよめる哥にも、春之在者と、こゝのことくかけり。かれも春なれはと讀へし。もすの草くき、管見抄に説々を擧たり。其中に今顯昭の説につかむ。草くきは草くるゝなり。第八第十七第十九に、ほとゝきすの哥に、このま立くきと讀、はる/\に鳴郭公立くゝと羽ふれにちらす藤浪の花なつかしみなとよめり。又第五第六に、谷くゝとよめるも、鳥の名ときこゆ。谷くゝりといふ心なるへし。第六には谷|潜《クヽ》とかけり。神代紀云。自2指間《タマタ》2漏墮《クキオチニシカハ》者必(ス)彼(ナラム)。これ少彦名神の、形のちひさきをいへり。しかれば、くきはくゝるなり。春は霞たち、草もしけくなりて、もすの草くゝるが見えぬことく、君かあたりはよし見えすとも、われは猶見やらんとよめるなるへし。これを本哥に取には、奥義抄のことく、もすの居たる草くきをしるへとして、女の家を、男にをしへたるが、鵙は飛さりて、しるへはそれと見えねと、君かあたりをは、猶みやらんとやうに、意得てよめり。欽明紀に、騁望とかきて、みやるとよめり。もすは夏至まて鳴鳥なれは、春、もすの|な《・無》くなるとは心得へからす。周書月令反舌有v聲。讒人在v側。此反舌を鵙といへと、禮記(ノ)月令には、仲夏之月|鵙《モス》始(テ)鳴(ク)反舌《・ウクヒス》無v聲とあれは、相違せり。あるひは、反舌は鶯なりといへり、此國には、鵙は八月に初て渡り來て、春まて鳴侍り。山里にてきけは、夏もより/\なき侍り。もろこしにいへるとおなしき物有。おなしからさる物有。通局を知へし。一※[既/木]すへからす
 
1898 容鳥之間無數鳴春野之草根之繁戀毛爲鴨《カホトリノマナクシハナクハルノノノクサネノシケキコヒモスルカモ》
 
第三に赤人の長歌に此初の二句有て其烏片戀耳爾《ソノトリノカタコヒノミニ》とよまれたれば、今も草根の如く繁き戀に容鳥の如く鳴とよめるなり、
 
初、容鳥のまなくしは鳴。第三に赤人の哥に、かほ烏のまなくしは鳴雲居なす心いさよひそのその鳥のかたこひのみにとよまれたり。此卷上にも、朝ゐてにきなくかほ鳥なれたにも君にこふれや時をへすなくとよめれは、上の句は、わかかたこひになくにたとへ、おりふし草もしけれは、それをは、戀のしけきによするなり
 
寄花
 
1899 春去者宇乃花具多思吾越之妹我垣間者荒來鴨《ハルサレハウノハナクタシワカコエシイモカカキマハアレニケルカモ》
 
(36)具多思は令腐なり、第十九云、宇能花乎令腐霖雨《ウノハナヲクタスナカメノ》云々、今按彼は五月雨の晴ずして卯花をくさらす意なり、連歌の法に卯花くたしと體に云ひて、夏とする此意なり、今の歌は然らず、妹が家の卯花垣を、度々我越しは莟《ツホ》める花の、そこなはれて其まゝに朽るを云へり、垣間の荒るを我中の遠さかるに喩る歟、吾越之と云へし詞は過にし方を指せり、孟子云、踰2東家(ノ)牆1而※[手偏+婁]其處子1、則得v妻、
 
初、春されはうの花くたし。ふるき説に、長雨ふりて、卯花のくさることなり。第十九には、うの花をくたすなかめの水はなとよめり。それは五月の哥なれは五月雨には、まことにうの花もくつへきを、今はるされは、うの花くたしとよめるは、いまたさかぬほとなれは、たがひたるやうなれど、つほみなからもくさる心なり。連哥の法に、卯花くたしとしては、夏に用るなり。雨の名なり。くたしは令《シム》v腐《クタ》なり。すなはち第十九の哥には、令腐とかきてくたすとよみたれは、それは用の詞なるを、今うの花くたしと體にいひなすなり。今案これは雨の名にあらす。妹か家の卯花垣を、たひ/\わかこゆれは、衣裳にふれて、つほめる花もそこなはれて、そのまゝくつるをいへり。しかれは、うの花をくたしてといふ詞なれは、只用なり。うの花をくたすはかりこゆるゆへに、妹がかきまはあるゝといひて、そのあるゝを、今のわか中の遠さかるにたとふるなり。わかこえしといへる詞、過にしかたをさせり。孟子云。踰(テ)2東家(ノ)牆(ヲ)1而|※[手偏+婁]《ヒカハ》2其處子(ヲ)1則得(ン)v妻(ヲ)。不(ルトキハ)v※[手偏+婁]則不(ントナラハ)v得v妻(ヲ)則將(・ンヤ)v※[手偏+婁]v之乎。毛詩云。將《コフ》仲子云々
 
1900 梅花咲散※[草がんむり/宛]爾吾將去君之使乎片待香花光《ウメノハナサキチルソノニワレユカムキミカツカヒヲカタマチカテラ》
 
使を待佗て宿には居る空もなければ、梅を見るに事よせて立出てまたむとなり、人には云ひて君をしまたむとよめる類なり、落句の花の字は衍文なり、此歌第十八に田邊福麻呂が誦《ズ》せり、
 
初、梅花咲ちるそのに。片待はなかば待心なり。梅の花を見かてら、君か使をも待かてらなり。使を待わひて、宿に居る心もせねは、梅を見るに事よせて、立出てまたんとなり。香花光の花は衍文なるへし
 
1901 藤浪咲春野爾蔓葛下夜之戀者久雲在《フチナミノサケルハルノニハフクスノシタヨノコヒハヒサシクモアリ》
 
咲春野爾、【幽齋本云、サクハルノヽニ、】
 
藤は陰の暗ければ維彼《タソカレ》時によせて常に讀事なれば、今も下夜と云はむ爲に云ひ出、葛は又下に蔓物なれば合せて下夜とはつゞくる歟、下夜とは下待夜なり、六帖に人しれぬと云に入れたる此意歟、
 
初、藤波のさける春野に。藤の花の陰はくらけれは、常にたそかれ時によせてよむなり。葛は木の下なとはふものなのは、はふくすの下とうけ、藤の陰なれは夜といへり。下夜とは、下はさきにも、下うれしけむ、下心よしとよめることきの下にて、下待夜の戀の、こよひもや/\と頼み過せしをいへり。次上の哥につゝけて聞へし。また夜は心のやみをいひて、下心のやみにくらすほとの久しきをいふ歟。咲花のかくなるまてとは、かく實になるまてになり
 
(37)1902 春野爾霞棚引咲花之如是成二手爾不逢君可母《ハルノノニカスミタナヒキサクハナノカクナルマテニアハヌキミカモ》
 
此は霞のやう/\立初るより花の盛りになるまで久しく相見ぬよしなり、下の秋相聞に、芽子花咲有乎見者君不相《ハキハナサケルヲミレハキミニアハテ》、眞毛久二成來鴨《マコトモヒサニナリニケルカモ》、此と同じ意にて其時の有のまゝなるべし、
 
1903 吾瀬子爾吾戀良久者奥山之馬醉花之今盛有《ワカセコニワカコフラクハオクヤマノツヽシノハナノイマサカリナリ》
 
馬醉花、【赤人集六帖並云、アセミ、家持集與2今本1同、】
 
第八に大伴田村家大孃が、茅花拔淺茅之原乃《ツハナヌクアサチカハラノ》都保須美禮とよめる歌の下句と同意なり、奧山とは人知れぬ心の底に寄するなるべし、
 
初、わかせこにわかこふらくは。つゝしの盛のことく、我戀も今さかりなりといふなり。つはなぬくあさちか原のつほすみれ今さかりなりわかこふらくは。此第三にある哥とおなし心なり。奥山といへるは人しれぬ心によせたり
 
 
1904 梅花四垂柳爾折雜花爾供養者君爾相可毛《ウメノハナシタリヤナキニヲリマセテハナニソナヘハキミニアハムカモ》
 
花爾供養者、【赤人集云、ハナニソフルハ、官本又點同v此、】
 
折雜はヲリマジヘとも讀べし、供養者は佛に物を供養するを今もそなふと申せば此は神に奉らばと云意にや、第五には打靡く春の柳と我宿の梅の花とをいかにかわかむとよみ、第十七には春雨に萠し柳か梅の花、共に後れぬ常の物かもとよみて、(38)梅と柳とは一雙の物なる中に、梅は霜雪を凌で陽剛の徳に似、柳は雨風に靡きて女の陰柔の徳に似たれば、それを折雜へて寶前に花にそなへて逢見む事を神に祈らば所願成りて相見む歟とよめる歟、供養者をソフルハとよめるは如何なる意とも聞得ねど古今序に花をそふとてと云詞もあれは、是|耶《カ》非耶知らざれど疑しきを載て傳るになむ侍り、
 
初、梅の花したり柳に。花にそなへはとは、神の前にそなへさゝけて、逢させたまへと祈らばなり。供養をそなふとよめるは、今も佛なとに供養する物を、そなふといふめり
 
1905 姫部思咲野爾生白管自不知事以所言之吾背《ヲミナヘシサクノニオフルシラツヽシシラヌコトモテイハレシワカセ》
 
咲野は第四に注せし如くサキ野と讀べし、仙覺云、さく野は所の名と聞えたり、在所此を考がふべし、さくの、此集の中にあまた見え侍り、つゝじは春の花也、をみなへしは秋咲花なれば云つゞくべきにもあらざれども此はさくのと云はむ爲の諷詞にをみなへしと置けり、白つゝじはしらぬ事もてと云ひ出む詞の便に云へるなり、以上意明なり、但下句の意をば注せられず、此はまた相見ぬを知らぬと云ひて、相見ぬさきより人に名を立らるゝ事を夫君の爲に痛むなり、第十一に凡乃行者不念言故《オホヨソノワサハオモハスワカユヱニ》、人爾事痛所云物乎《ヒトニコチタクイハレシモノヲ》、此を引合てみるべし、
 
初、をみなへしさく野におふる。第四に、をみなへしさく澤におふる花かつみとよみ、第七にはをみなへしおふる澤邊のまくす原ともよめれは、此哥も、秋は女郎花のさく野といふ心に、ひろくよめるなるへし。古人は胸中廣かりけれは、後の世の哥のことくせはしからぬ詞おほし。しらぬこともていはれしわかせとは、あふこともなきを、はやあひみたるやうに、世にいはれしといひて、わかせこれをきゝたまへ。君ゆへにこそかゝるうきことにはあへれと、告てうれふるなり。いはれしと切て、心得へし。又わかせまてをつゝけて心得は、しらぬ事もていひさはかれし時たに、いはれてさて堪忍せし人の、なとか逢見て後とかく人のいふをいたみて、たゝんとはするといふ心をふくみていへる歟。又たゞしらぬこともていはるゝことを、人のためにいたみてよめる歟。しらつゝしは、しらぬとつゝけむための序まてなり
 
1906 梅花吾者不令落青丹吉平城之人來管見之根《ウメノハナワレハチラサシアヲニヨシナラナルヒトノキツヽミルカネ》
 
(39)平城之人、【官本又云、ナラノサトヒト、】
 
平城之、此之をナルと點ぜるは叶はず、ならにあるをつゞめてならなるとは云へぱ例として有の字在をぞかける、但假てかけると假名とをば云はず、下秋相聞の中に、吾屋前之芽子開二家里不落間爾早來可平城里《ワカヤトノハキサキニケリチラヌマニハヤキテミヘシナラノサト》人、此歌の落句と官本の又の點とを合せて按ずるに今は里の字を脱せるなるべし、梅の花によせて顔色を損ぜずして待つけむの意もこめたる歟、
 
初、平城之人。之の下に在の字落たる歟。此まゝにてもならなる人とはよむへし。見るかねは、みるかになり。爾と禰と五音通せり。日本紀には、かな《哉》といふことをも、かねといへり。顯宗紀室|壽《ホキ》の詞に見えたり。之をかとよむは、和訓にて、我の音のことくにこるを、清濁通して、すみても用るなり。第十九の十五葉にも有
 
1907 如是有者何如殖兼山振乃止時喪哭戀良苦念者《カクシアラハナニニウヱケムヤマフキノヤムトキモナクコフラクオモヘハ》
 
カクシのし〔右○〕は助語なり、何如はナニカとも讀べし、戀しくば形見にせよとて人の何か殖しとなり、山振を承てやむ時もなしと云へり、古今集に山吹はあやなゝ咲ぞ花見むと、植けむ君が今宵こなくに、今と相似たる歌なり、
 
初、かくしあらはなにゝうゑけむ。山ふきのやまをうけて、やむ時もなくとつゝけたり。みせんと思ふ人のこねは、なにしにうへけむと、われなからいへり。古今集に、山吹はあやなゝさきそ花みむとうへけむ君かこよひこなくに。これに似たる哥なり。なにゝうへけむは、わかうへたるにはあらて、古今集の哥のことく、人のうへたるにも有へし
 
寄霜
 
1908 春去者水草之上爾置霜之消乍毛我者戀度鴨《ハルサレハミクサノウヘニオクシモノケツヽモワレハコヒワタルカモ》
 
戀度、【官本度作v渡、】
 
(40)水草、水は只借てかける歟、春になりてもまだ霜の降比は水草はなき物なり、第二に久米禅師が歌に水薦苅信濃乃眞弓云々、次の歌にも同じ二句あるに三薦苅とかけるにて准らへて知べし、六帖に今歌を載て又あさなさなみぎはの草にとて以下三句同じ歌あるは、若水草とかけるを水上の草と意得て改て入れたる歟、
 
初、春されはみくさのうへに。水草と書たれとも、眞草なり。唯春の草なり。春の霜はことに消やすけれはけつゝもといはむためなり。けつゝもとは、おもひきゆるなり
 
寄霞
 
1909 春霞山椰引欝妹乎相見後濃戀毳《ハルカスミヤマニタナヒクオホツカナイモヲアヒミテノチコヒムカモ》
 
第二第三の句はヤマニタナビキオホヽシクと讀べし、
 
初、春霞山にたなひくおほつかな。かやうによめは六義の中の興の心なり。山にたなひきおほゝしくと、よみて、序とも見るへき歟
 
1910 春霞立爾之日從至今日吾戀不止本之繁家波《ハルカスミタチニシヒヨリケフマテニワカコヒヤマスモトノシケケハ》  一云|片念爾指天《カタオモヒニシテ》
 
立ニシのに〔右○〕は助語なり、本とは此集に木をも云ひ山の麓をも云へり、第十三の初に本邊未邊とよめるは次の如く麓と峯となり、今は春の歌なれば木によせて春の木の繁き如くなればヤマズと歟、繁ければと云はぬは古語なり、
 
初、もとのしけゝは。しけゝればなり。此集にかやうによめる事おほし。しもと原のやうに、おもひのひともとならぬなり
 
(41)1911 左丹頬經妹乎念登霞立春日毛晩爾戀度可母《サニツラフイモヲオモフトカスミタツハルヒモクレニコヒワタルキアモ》
 
袖中抄に發句をさにほへると有は叶はず、今の點にて意はにほふなり、春日モ晩ニ戀とは、春日は長くて晩やらぬを我意からくらすとなり、
 
初、霞たる春日もくれに。長き春日もくるゝまてなり。又てれる日をやみにみなしてなく涙とよめる心にも有へし。春日もくらく見なすなり
 
1912 靈寸春吾山之於爾立霞雖立雖座君之隨意《タマキハルワカヤマノウヘニタツカスミタチテモヰテモキミカマニ/\》
 
靈寸春は吾とつゞくる歟、別に注す、吾山は六帖にはわがやどと云ひ、袖中抄に玉ぎはるを釋する所に此歌を引にわがやと有て是は我屋をほむ流歟、又我壽をよめる歟おぼつかなし、かゝれば古本に吾屋と有ける歟、但屋之|於《ウヘ》の霞とよまむ事はいかにぞやおぼゆれば今の本まさるべき歟、雖立雖居は今按六帖も袖中抄も今の點と同じけれど雖の字を和せねば叶はず、タツトモヰトモと和し替べし、霞は立とは云にやは及ぶ、居るともよめる事雲に同じ、吾山と云は吾身を喩へて、霞の立も居るも山に依る如く身をば如何にも君に任せむとよめるなり、第十四東歌に、高き根に雲のつくのす我さへに、君に附なゝ高根ともひて、のす〔二字右○〕はなす〔二字右○〕なり、是夫を山に喩へ、我を雲に喩へたる意今と同じ、
 
初、玉きはるわか山の上に。此玉きはるは、我といはむため歟。うつせみの世といふことく、かきりある我といへるか。又我山といふまてにかゝる歟。心はわか領する山は、かきりあれは、かくはつゝくる歟。心は我領する山をは、草木をおほさんも、きりはらひて.から山になさんも、わかまゝなることく、又わか身も、たてといはゝたち、ゐよといはゝゐて、何事も君にしたかはんといふ心にや。雖立雖座とかきたるを、立てもゐてもとよめるはかなはす。たてれどをれどゝ讀へし
 
(42)1913 見渡者春日之野邊爾立霞見卷之欲君之容儀香《ミワタセハカスカノノヘニタツカスミミマクノホシキキミカスカタカ》
 
1914 戀乍毛今日者暮都霞立明日之春日乎如何將晩《コヒツヽモケフハクラシツカスミタツアスノハルヒヲイカテクラサム》
 
寄雨
 
1915 吾背子爾戀而爲便莫春雨之零別不知出而來可聞《ワカセコニコヒテスヘナミハルサメノフルワキシラスイテテコシカモ》
 
不知、【六帖云、シラテ、】
 
1916 今更君者伊不往春雨之情乎人之不知有名國《イマサラニキミハイユクナハルサメノコヽロヲヒトノシラサラナクニ》
 
伊は發語の詞、不往はユカジと讀べし、春雨之情を知とは、降出ればやがては晴ぬ物ぞと知なり、人とは上の君なり、されば春雨の意を君が知らぬにあらざれば今更に出てはゆかじと、來てやどれる人の今日も歸らであらむと憑む意なり、又伊不往をイマサジとも讀べし、赤人集によもこしと改たる此意なり、
 
初、今更に君はいゆくな。いは發語のことはなり。不在はゆかずとよむ心にては、ゆくなとはよまれす。ゆかされとよむ心にて、ゆくなとはよみたり。春雨のこゝろを人の知らざらなくにとは、人は世上の人なり。春雨にさはりてとまるぞといふ心を、人のしらすあらぬになり。落著は、春雨にさはりてとまると人の知て、とかめしといふ心なり
 
1917 春雨爾衣甚將通哉七日四零者七夜不來哉《ハルサメニコロモハイタクトホラメヤナヌカシフリハナヽヨコシトヤ》
 
第二の句はコロモハナハタとも讀べし、七日シのし〔右○〕は助語なり、春の細雨にはぬれ(43)ぬれおはすとも衣の痛く通らむや通らじを、君若かばかりの雨に障らば假令七日つゞきて降らば七夜も來じとやと理を押極て云へり、七日七夜とは、七は數のおほきを云へり、第十一に妹許と云はゞ七日越來むとよめるも同じ意なり、六帖に春雨の心は君も知れるらむとて今の下句なるは、次上の歌と二首を取合せたるにや、
 
初、春雨に衣はいたく。細雨濕(シテ)v衣(ヲ)看(レトモ)不v見といふばかりのはるさめなれは、ぬれ/\おはすとも、衣のいたくぬれとほらんや、ぬれとほらし。君もしかはかりの雨にさはらは、たとひなぬかつゝきてふらは、七夜さはりてこしとやと、理をせめていへり。七日といひ、七夜といふは、七は數のおほきをいへり。第十一に、あふみのうみおきつしらなみしらねともいもかりといはゝなぬかこえこむ。此哥をあはせてみるへし。七日しのしもしは助語なり
 
1918 梅花令散春雨多零客爾也君之廬入西留良武《ウメノハナチラスハルサメサハニフルタヒニヤキミカイホリセルラム》
 
六帖には旅に入れたり、多をおほくと讀たれど、今の點古風に叶へり、第三句絶なり、
 
初、梅花ちらす春雨さはにふる。これはあひ思ふ人を旅にやりて、おもひやりてよめるなり
 
寄草
 
1919 國栖等之春菜將採司馬乃野之數君麻思比日《クニスラカワカナツムラムシマノノヽシハ/\キミヲオモフコノコロ》
 
六帖にはくにすらのわかなつまむとしめしのゝとあれど、第三の句乃の字に背けり、たとひしめの野のと讀とも仙覺しばのゝと承ることわりなし、袖中抄には發句をくずひとのと云へるは應ぜねど第二句以下今と同じ、仙覺云、或本云、しばの野のと點ぜり、詞の便有て聞ゆるなりとは顯昭所覽の點と同じ、司馬とつゞけてかけるは、馬の字例は呉音を用たれど、今は漢音によますべき爲なるべし、麻は和訓を借て(44)用たり、國栖は神武紀云、更少(シキ)進、亦有(テ)v尾而披2磐石(ヲ)1而出(ル)者(アリ)、天皇問之曰、汝(ハ)何人、對(テ)曰、臣《ヤツカレハ》是|磐排別之《イハオシワクカ》子(ナリ)、【排別、此(ヲ)云2飫時和句1、】此(レ)則吉野國|※[木+巣]部《スラノ》始|祖也《オヤナリ》、今按イハオシワクガコとは日本紀の點なれど如何とおぼゆ、イハオシワクノコと讀べきか、親を磐排別と云ひてそれが子と云にはあらじ、假令浦島|之子《ノコ》と云が如し、子は男子の通稱なり、汝何人と問はせ給ふに知給はぬ親の名のみを答へ奉るべきに非ず、親を云はゞ盤排別之子某と申すべし、又みづから磐押分て出る事を得る故の名なり、苞苴擔之子《ニヘモツカコ》も此に准らふし、應神紀云、十九年冬十月戊戌朔、幸2吉野宮1時國※[木+巣]人|來朝《マウケリ》之、因以v酒獻2于天皇1而歌之曰、云々、歌之既訖、則打v口(ヲ)以仰(テ)咲、今國※[木+巣]獻(ツル)2土毛《クニツモノヲ》1之日、歌訖即撃v口(ヲ)仰(テ)咲者、蓋|上古之《イニシヘノ》遺|則也《ノリナリ》、夫國※[木+巣]者、其爲v人甚|淳朴《スナホナリ》也、毎《ツネニ》取(テ)2山(ノ)菓(ヲ)1食、亦煮2蝦蟇1爲2上味(ト)1、名(ヲ)曰2毛瀰(ト)1、其土自v京|東南《タツミ》之隔(テヽ)v山(ヲ)而居2于吉野河上(ニ)1、峯《タケ》嶮谷深、道路|狹《サク》※[山+獻]《サカシ》、故(レ)雖v不v遠2於京(ニ)1、本希(ナリ)2朝來1、然自v此之後、參赴《オモムキテ》以獻2土毛(ヲ)1、其土宅者栗|菌《タケ》及年魚之類焉、古事記中にも亦此事あり、延喜式第二十二民部式云、凡(ソ)吉野(ノ)國栖(ハ)、永(ク)勿(レ)v課(スルコト)v役(ヲ)、
 
初、くにすらかわかなつむらん。國栖等之とかけるをは、くすともがともよむへし。神武紀云。更(シキ)少|進《ユクトキニ》亦有(テ)v尾而|披《オシワケテ》2磐石《イハヲ》1而出(ル)者(アリ)。天皇問(テ)之曰。汝(ハ)何人(ソ)。對(テ)曰|臣《ヤツカレハ》是|磐排別之《イハオシワクカ》子(ナリ)。【排別此云2飫時和句1】此(レ)則吉野(ノ)國|※[木+巣]部始祖《クニスラノトヲツオヤナリ》也。應神紀云。十九年冬十月戊戌朔幸2吉野(ノ)宮(ニ)1。時(ニ)國※[木+巣]人|來朝《マウケリ》之。因以2醴酒(ヲ)1獻(テ)2于天皇(ニ)1而歌(テ)之曰。伽辭能輔珥、豫區周塢兎區利、豫區周珥、伽綿蘆淤朋瀰枳、宇摩羅珥、枳虚之茂知塢勢。磨呂俄智。歌(フコト)之既(ニ)訖(テ)則打(テ)v口(ヲ)以仰(テ)咲。今國※[木+巣]献(ツル)土毛《クニツモノヲ》1之日、歌訖(テ)即撃(テ)v口(ヲ)仰(テ)咲者、蓋上古之遺則也。夫國※[木+巣]者、其爲v人(ト)甚|淳朴《スナヲナリ》也。毎《ツネニ》 取(テ)2山(ノ)菓(ヲ)1食(フ)。亦※[者/火](テ)2蝦蟇1爲2上味(ト)1。名(テ)曰2毛瀰(ト)1。其|土《クニハ》自v京|東南《タツミ》之隔(テヽ)v山(ヲ)而居(レリ)2于吉野河上(ニ)1。峯嶮(シク)谷深道路|狹〓《サクサカシ》。故(レ)雖v不v遠(カラ)2於京(ニ)1本希2朝來(コト)1。然自v此之後屡|參赴《マウオモムイテ》以獻2土毛《クニツモノヲ》1。其土毛(ハ)者、栗|菌《キノコ》及(ヒ)年魚之類(ナリ)焉。延喜式二十二、民部式云。凡(ソ)吉野(ノ)國栖(ハ)永(ク)勿(レ)v課(スルコト)v役(ヲ)。しはの野の、八雲御抄にしめの野と載させ給へり。馬の字呉音に呼へき事、例はしかれとも、しは/\といはむための序なれは、もとより漢音なること治定なり
 
1920 春草之繁吾戀大海方往浪之千重積《ハルクサノシケキワカコヒオホウミノカタユクナミノチヘニツモリヌ》
 
方は六帖も今の點の如くあれど、ヘニユクナミノと讀べし、
 
初、春草のしけきわかこひ。上の二句は、戀のしけきをいはむため、下の三句はそのおもひの千重につもりぬるといはむためなり。方往浪はへにゆくなみともよむへし
 
(45)1921 不明公乎相見而菅根乃長春日乎孤戀渡鴨《ホノカニモキミヲアヒミテスカノネノナカキハルヒヲコヒワタルカモ》
 
不明、【赤人集云、オホツカナ、】
 
發句は第十二に夕月夜曉闇のほのかにもと云にも今の如くかけり、孤戀の戀は悲を誤れり、集中處處に孤悲と借てかけり、單孤にして悲哀する物は戀なれば借てかけども意を着たるか、郡郷等によき字を借てかける例あり、
 
初、孤戀の戀は悲の字の誤なり。他所にも戀を孤悲とかけり。音を用たる中に、おもひよりて.心をこめけるなるへし
 
寄松
 
1922 梅花咲而落去者吾妹乎將來香不來香跡吾待乃木曾《ウメノハナサキテチリナハワキモコヲコムカコシカトワカマツノキソ》
 
さかむとて來むとも思はじ、散なば若來むとや思はむ、猶來ざらむかと、我宿の松の名にかけて待たむとよめる歟、又花見がてらに來る人なれば梅の散なば來むも來じも定がたくてまたむとよめる歟、
 
寄雲
 
1923 白檀弓今春山爾去雲之逝哉將別戀敷物乎《シラマユミイマハルヤマニユククモノユキヤワカレムコヒシキモノヲ》
 
(46)發句は春と云はむ爲なり、今と云は石上袖振川の例なるべし、い〔右○〕もじはつゞくにはあるべからず、
 
初、白まゆみいまはる山。白眞弓張とつゝけたり。今のいもしにもつゝくといふへし。さらばはる山は縁のことはなり
 
贈※[草冠/縵]
 
1924 丈夫之伏居嘆而造有四垂柳之※[草冠/縵]爲吾妹《マスラヲノフシヰナケキテツクリタルシタリヤナキノカツラセヨワキモ》
 
居は起居るにて起臥勒《オキフシ》の意なり、第八に坂上大娘が稻※[草冠/縵]を家持に贈れる歌に似たり、六帖に玉かつらの歌に是を入る、玉をもて餝れる鬘をも玉鬘と云へど六帖の意は玉とほむる詞に取れるなり、
 
悲別
 
1925 朝戸出之君之儀乎曲不見而長春日乎戀八九良三《アサトイテノキミカヨソヒヲヨクミステナカキハルヒヲコヒヤクラサム》
 
儀乎、【六帖云、スカタヲ、】
 
朝戸出の儀は明ぬとて戸を押明て別て出るさまなり、夜戸出のすがたともよめり、
 
初、朝戸出の君かよそひを。朝戸出は、朝にわかれ歸る出立なり。儀はすかたともよむへし
 
問答
 
(47)1926 春山之馬醉花之不惡公爾波思惠也所因友好《ハルヤマノツヽシノハナノニクカラヌキミニハシヱヤヨリヌトモヨシ》。
 
馬醉、【六帖云、アセミノハナノ、官本亦點同v此、】
 
初、春山のつゝしの花のにくからぬ。にくからぬは、きらはしからぬなり
 
1927 石上振乃神杉神備而吾八更更戀爾相爾家留《イソノカミフルノカミスキカミヒテモワレヤサラサラコヒニアヒニケル》
 
神備而、【六帖云、カミサヒテ、官本或神下有2左字1、點與2六帖1同、】
 
顯宗紀云、石上振之神|※[木+温の旁]《スキ》伐v本截v末云々、神備而は第十七に伊久代神備曾《イクヨカミヒソ》とよみて神備も神佐備と同じ詞なれど、今而の字の下にモ〔右○〕と讀べき字なければ官本或神下に左字あるに從がふべし、六帖すなはち證據なり、吾八とはみづから恠しむ詞なり、第十一に石上振神杉神成戀我更爲鴨《イソノカミフルノカミスキカミトナルコヒテモワレハサラニスルカモ》、今と似たる歌なり
 
初、石上ふるの神杉。崇神紀云。先v是(ヨリ)天照大神(ヲ)祭2於天皇(ノ)大殿《ミアラカ》之内(ニ)1。然畏2其神(ノ)勢(ヲ)1共住(ニ)不v安(カラ)。故(レ)以2天照大神(ヲ)1託2豊|鍬《スキ》入姫(ノ)命(ニ)1祭2於笠縫(ノ)邑(ニ)1。仍(テ)立2磯堅城(ノ)神籬《ヒモロキ》1。【神籬此(ヲ)云2比莽呂岐1。】顯宗紀云。石上振之神|※[木+温の旁]【※[木+温の旁]此云2須擬1】伐《キリ》v本《モト》截《オシハラヒ》v末《スヱ》【伐本截末此(ヲハ)云2謨登岐利、須衛於茲婆羅比1】云々。延喜式云。大和國山邊郡、石上坐布留御魂神社【名神。大。月次。相嘗。新嘗。】神びてもは、神さひてもなり。布留社は、瑞籬宮の時、初て立られたれは、久しき事にいひ、神さふるとは、我身の老てふりぬる事にあまたよめり。第十一に、石上ふるの神杉神となる戀をも我はさらにするかも。おなしやうの哥なり。吾八をわれやとあれと、八の字音訓ともに用れは、われはさら/\と讀へし
 
右一首不有春歌而猶以和故載於茲次
 
1928 狹野方波實爾雖不成花耳開而所見社戀之名草爾《サノカタハミニナラストモハナニノミサキテミヘコソコヒノナクサニ》
 
仙覺抄に狹野方は藤の一名なりと云は推量の義歟、次下に莫告藻之花《ナノリソノハナ》、伊都藻之花《イツモノハナ》などあれば此の一種の花の名なるべし、草木の間いづれともしらず、第十三譬喩歌(48)に、師名立都久麻左野方《シナタテルツクマサノカタ》云々、此左野方も仝、花耳は今按ハナノミモと讀べし、眞實はなくともうはべの情だにあれ、なぐさめにせむの譬なり、
 
初、さのかたは實に。管見抄に、さのかたは藤の異名なり。花はおほく咲て、實はすこしなる物なりといへり。次下に、なのりその花、いつもの花なとあれは、これもことやうなる一種の花の名にや。藤の異名といへるは、次下の哥に、今更にはるさめふりて花さかめやもとよめる哥の躰にて、推量してもやいへるらん。第十三に、しなたてるつくまさのかたおきなかのとほちの小菅なと、つゝけよめるは、さはそへたる字にて、つくまのゝ方なる息長とつゝけたるにやと聞ゆれは、今とはおなしからさる歟。花耳は、はなのみもとよむへきか。見えこそのこそは、ねかふ詞。さきにも注せしことし。實にならすとも花のみもさけといふは、まことにあふ事はなくとも、うはべのなさけたにあれ。それをたに、戀のなくさめにせんとなり
 
1929 狹野方波實爾成西乎今更春雨零而花將咲八方《サノカタハミニナリニシヲイマサラニハルサメフリテサカメヤモ》
 
成ニシのに〔右○〕は助語なり、我心はいかにも眞實なればうはべの情は見えじと云意を譬へてかへすなり、
 
初、さのかたはみになりにしを。これはかへしとみゆ。一たひあひそめたれは、さのかたの實になりたることくなるを、實になりて後又花さかぬやうに、まことなきうはへのなさけのみならんやとなり
 
1930 梓弓引津邊有莫告藻之花咲及二不會君毳《アヅサユミヒキツノヘナルナノリソカハナサクマテニアハヌキミカモ》
 
濱成式に雅體十種ある中の第六頭古腰新體に、當麻大夫陪駕伊勢思v婦(ヲ)歌云とて此歌を載らる、第七に此に似たる旋頭歌に注するが如し、其歌今と少替れり、委仙覺抄にひけり、今の點は仙覺の點なり、仙覺の注は用るに足らず、新勅撰戀四讀人不知の歌に、梓弓引津の邊なる莫告藻の、誰うき物と知らせ初けむ、
 
1931 川上之伊都藻之花之何時何時來座吾背子時自異目八方《カハカミノイツモノハナノイツモ/\キマセワカセコトキオカメヤモ》
 
此は第四に吹黄刀自が歌にて既に出たり、今は上の歌と問答なるをもて再載たり、(19)落句をトキオカメヤモと點ぜるは誤なり、トキジケメヤモと讀べき事第四に注せしが如し、
 
初、川上のいつもの花の。第四卷に、吹黄刀自《フキノトシ》か哥二首ある中の、第二の哥ふたゝひ出たり
 
1932 春雨之不止零零吾戀人之目尚矣不令相見《ハルサメノヤマスフル/\ワカコフルヒトノメスラヲアヒミセサシム》
 
零零、【赤人集云、フリオチテ、】
 
初、春雨のやますふる/\。雨にさはりて、おもふ人の來ぬなり
 
1933 吾妹子爾戀乍居者春雨之彼毛知如不止雰乍《ワキモコニコヒツヽヲレハハルサメノカレモシルコトヤマスフリツヽ》
 
彼毛知如とは、彼は雨なり、雨も我かきくらす意を知如くやまずふるとなり、
 
初、わきもこにこひつゝ。はるさめのかれもしることゝは、涙の雨のふるを、春雨もしりて、おなしやうにふる心なり。わかせこにわかこひをれは、わかやとの草さへおもひうらかれにけり。此心に似たり
 
1934 相不念妹哉本名菅根之長春日乎念晩牟《アヒオモハヌイモヲヤモトナスカノネノナカキハルヒヲオモヒクラサム》
 
1935 春去者先鳴鳥乃※[(貝+貝)/鳥]之事先立之君乎之將待《ハルサレハマツナクトリノウクヒスノコトサキタテシキミヲシマタム》
 
神代紀云、如何婦人反先言乎、此集第四云、事出しは誰言にあるか云々、※[(貝+貝)/鳥]は先春を告て鳴鳥なればそれによせて我を戀る由を先立て云ひし人はよも僞はせじ、待見むとよめるなり、君ヲシのし〔右○〕は助語なり、
 
初、春されはまつなく鳥の。春はさま/\の鳥のさえつる中にも、鶯はことに春をつくれは、ことさきたてゝわれをこふるよしをいひそめし人のことを頼て、まちみむとなり。日本紀第一云。如何婦人反先《イカムソタヲヤメノカヘツテサイタツヤ》v言《コト》乎。第四に言出《コトテ》しはたかことにあるか小山田のなはしろ水の中よとにして。上の二句今の、ことさきたてし君といふにおなし
 
1936 相不念將有兒故玉緒長春日乎念晩久《アヒオモハスアラムコスヱニタマノヲノナカキハルヒヲオモヒクラサク》
 
(50)右三首、問答には一首落たる歟、
 
夏雜歌
 
詠鳥
 
1937 大夫丹出立向故郷之神名備山爾明來者柘之左枝爾暮去小松之若末爾里人之聞戀麻田山彦乃答響萬田霍公鳥都麻戀爲良思左夜中爾鳴《マスラヲニウテタチムカフフルサトノカミナヒヤマニアケクレハツミノサエタニユフサレハコマツカウレニサトヒトノキヽコフルマテヤマヒコノコタフルマテニホトヽキスツマコヒスラシサヨナカニナク》
 
大夫は出立向と云はむ爲なり、第二十云、登利我奈久安豆麻乎能故波、伊|田《デ》牟可比加弊里見也受?、伊佐美多流多家吉|軍卒等《イクサト》云々、此意なり、さて出立とは山のなりを云、第十三云、走出之《ハシリデノ》宜山|之《ノ》、出立|之《ノ》妙山叙云々、向フとは神名備山の明日香の故郷に向ふなり、答響萬田は今按田の下に爾の字なければアヒトヨムマデと讀べきか、答は問に對すればあひ〔二字右○〕と義訓すべき理なり、
 
初、ますらをに出立むかふふるさとの神なび山に。ますらをはたけき兵なり。ますらたけをともよめり。出たち向ふは、軍にいてたちて向ふ心なり。此哥は向ふといふ詞いはむために、かくつゝけたり。ふる郷は飛鳥の都なり。あすかの都の向ひに此山あれは、其心にかくよめり。明くれはつみのさえたにゆふされは小松かうれに、つみの木は小桑といふ物なり。第三に、柘枝仙媛をよめる哥に注せり。此明來れはといひて、ゆふされはといへる對《ツイ》にて、ゆふされは、春されは、秋されはなといふは、夕になりゆけは、春になりゆけは、秋になりゆけはといふ心なりと知へし。田の字は音を取て用
 
 
反歌
 
(51)1938 客爾爲而妻戀爲良思霍公鳥神名備山爾左夜深而鳴《タヒニシテツマコヒスラシホトヽキスカミナヒヤマニサヨフケテナク》
 
後撰集にはたびねしてとあり、古今集にも今朝來鳴いまだ旅なる郭公とよめり、旅人は故郷の妻を戀て泣故になずらへてよめるなり、
 
初、たひにしてつまこひすらし。古今集にも、けさきなきいまたゝひなるほとゝきすとよめり。旅行人は、故郷にのこしおく妻をこひてなくによりて、ほとゝきすも、たひにてやなくらんとなり
 
右古歌集中出
 
1939 霍公鳥汝始音者於吾欲得五月之珠爾交而將貫《ホトヽキスナカハツコヱハワレニカモサツキノタマニマシヘテヌカム》
 
於吾欲得は我に得させよの意なり、
 
1940 朝霞棚引野邊足檜木乃山霍公鳥何時來將鳴《アサカスミタナヒクノヘニアシヒキノヤマホトヽキスイツカキナカム》
 
初の二句夏に入てもまだ程なき意あり、下句は古今集に我宿の池の藤浪咲にけりと云歌と同じ、
 
初、朝霞たなひく野へに。古今集に、人まろの哥と注して、わかやとの池のふち浪さきにけりといふ哥の下句、今と全同なり
 
1941 旦霞八重山越而喚孤鳥吟八汝來屋戸母不有九二《アサカスミヤヘヤマコエテヨフコトリナキヤナカクルヤトモアラナクニ》
 
不有九二、【幽齋本云、アラナクニ、】
 
(52)八重山はおほくかさなれる山なるを、折節深き霞に寄てつゞけたり、落句の點にテ〔右○〕もじの加はりたるは寫生の誤なり、此歌は春の歌なるをいかで此處には載られけむ不審なり、上の春雜歌の詠鳥歌の終に、朝霧雨之怒々爾所沾而喚子鳥云々、此次に詠雪と云題落たれば若彼喚子鳥の次に此歌も有けむを錯亂して此處に來れる歟、霍公、喚孤、音相近ければ今もほとゝぎすと讀べき歟とも云べけれど、郭と霍とは通じたれど其外無窮に通ずる例なし、赤人集にも六帖にもよぶこどりとあり、今詠鳥歌前後二十七首、此歌を除て餘は皆霍公鳥の歌なり、喚子鳥はいつも鳴鳥ながら聞べき時は春のみなる由第八に坂上郎女がよめり、歌のやういかにも春より錯亂して來れるなるべし、
 
初、あさかすみやへ山こえて。やへ山はおほくかさなれる山なり。八重山といはむとて、朝霞とはおけり。下に朝きりの八重山こえてといへるもおなし。霞にまとひ露にむせふ勞をもこめていへるなり。さて此哥は、詠烏歌廿七首の内、前後廿六首は、皆霍公鳥の哥なるに、此一首のみよふこ鳥の哥にして、哥さまも朝かすみ八重山なといひ、よふこ鳥も、よのつねに聞はくるしきよふこ鳥とよみたれは、常になく鳥なから、彼下句にやかて、聲なつかしき春にはなりぬとよみて、春の物にしつるを、今夏の哥に、なきやなかくるとよめる、心得かたし。もし春の部に詠v鳥歌に入へきを、誤てこゝに載たる歟。もしまた霍公も、かれかなく聲によりて名付たる歟。霍公、喚孤、音相近けれは、此喚孤鳥をもほとゝきすとよむへきにや。されとも、廿七首ともに霍公鳥の哥ならは、題に詠2霍公鳥1とあるへきを、此鳥の哥一首ましれるゆへに、詠v鳥とひろく題せり。そのうへ、音相近とて、霍公鳥を喚孤と書へきにあらす。此哥の霍公鳥にましはれるゆへに、喚子烏はほとゝきすなりと思ふ人も有と見えたり。それは非なれとも、此哥のこゝにあるは不審なり
 
1942 霍公鳥鳴音聞哉宇能花乃開落岳爾田草引※[女+感]嬬《ホトヽキスナクコエキクヤウノハナノサキチルヲカニタクサヒクイモ》
 
田草引は。草取なり、玉篇云、〓《カウ》【呼勞切、拔2田草1也、或作v※[草がんむり/休]、】
 
1943 月夜吉鳴霍公鳥欲見吾草取有見人毛欲得《ツキニヨシナクホトヽキスミマクホリワカサヲトレルミムヒトモカナ》
 
草、【官本云、クサ、】
 
(53)發句はツキヨヽミと讀べし、吾草取有はワレクサトレリとも讀べし、草をサヲと點ぜるは書生の誤なり、第十八に霍公鳥こゆ鳴度れ燈を、月夜になぞへ其影もみむとよめる如く、聲を聞は更なり、月夜に飛渡る影をも見むとの意に隱ろふ草を取拂ふなり、第十九十七右に、霍公鳥來鳴|響者《トヨマバ》草等良牟、花橘乎屋戸爾波不殖而、今の歌をもて家持のよまれたるなり、
 
初、月夜よみなくほとゝきす。吾草取有、これをわかさをとれるとあるは、かんな誤れり。わか草とれる、あるひはわれ草とれりとよむへし。第十九に、ほとゝきすきなきとよまは草とらむ花橘をやとにはうえすて。此草とらむにおなし。よきまろうとなと有時、草を取、苔を拂ふことく、霍公鳥をまつまうけに、草を取てきよむるなり。鳴ほとゝきすみまくほりとは、橘のしつえなとにをりゐるをみんために、高草をかりはらふなり。見む人もかなは、かくきよめたる時に、わかやとをみせはやなり。次上の哥に、田草引いもといへるは、うの花のさきちるをかへなれは、霍公鳥を聞やとなり。此哥は彼田草引女のこたふるにはあらす。つゝきたれは、さも聞まかひぬへし
 
1944 藤浪之散卷惜霍公鳥今城岳※[口+立刀]鳴而越奈利《フチナミノチラマクヲシミホトヽキスイマキノヲカヲナキテコユナリ》
 
今城岳大和なり、第九に注するが如し、
 
初、ふちなみのちらまく。ほとゝきすの、今くるといふ心に、いまきの岡とつゝけたり。今城の岳、たしかに大和なり。第九卷にいへるかことし
 
1945 且霧八重山越而霍公鳥宇能花邊柄鳴越來《アサキリノヤヘヤマコヱテホトヽキスウノハナヘカラナキテコユラシ》
 
一二句のつゞき上に旦霞八重山と云に同じ、宇能花邊とは卯花のほとりなり、越來は今の點叶はずコエケリと讀べし、
 
初、うの花べから、卯花さけるあたりよりなり。越來はこえけりとか、こえきぬとかよむへし。こゆらしは、大にあやまれり
 
1946 木高者曾木不殖霍公鳥來鳴令響而戀令益《コタカクハカツテキウヱシホトヽキスキナキトヨミテコヒマサラシム》
 
令響而はトヨメテと讀べし、トヨミテと點ぜるは令の字に應ぜず、落句は第八に坂上郎女が歌に霍公鳥鳴聲きけば戀こそ益れとよめる意なり、顧况詩云、庭前有2箇(ノ)長(54)松樹1、半夜子規來(リ)上(テ)啼、
 
初、木高くはかつて木うゑし。顧況詩云。庭前(ニ)有(リ)2箇(ノ)長松樹1。夜半(ニ)子規來(リ)上(テ)啼。令響、とよめてと讀へし。とよみては、令の字にかなはす
 
1947 難相君爾逢有夜霍公鳥他時從者今社鳴目《アヒカタキキミニアヘルヨホトヽキスコトトキヨリハイマコソナカメ》
 
1948 木晩之暮闇有爾【一云有者】霍公鳥何處乎家登鳴渡良哉《コノクレノユフヤミナルニホトヽキスイツコヲイヘトナキワタルラム》
 
良哉、【官本、哉改作v武、】
 
哉は云までもなき誤なり、武に作るべし、
 
初、木晩の、木の下やみなり。哉は武の字のあやまれるなり
 
1949 霍公鳥今朝之且明爾鳴都流波君將聞可朝宿疑將寐《ホトヽキスケサノアサケニナキツルハキミキクラムカアサイカヌラム》
 
官本には此歌を次に置、次の歌を此に置けり、
 
初、疑《カ》、歟は疑辭なり。此ゆへに疑をすなはち歟とよめり。此字をまたはらしとよめる所あり。らしもうたかふ詞なれはなり
 
1950 霍公鳥花橘之枝爾居而鳴響者花波散乍《ホトヽキスハナタチハナノエタニヰテナキトヨマセハハナハチリツヽ》
 
1951 慨哉四去霍公鳥今社者音之干蟹來喧響目《ヨシエヤシユクホトヽキスイマコソハコヱノカルカニキナキトヨマメ》
 
此初二句の點大きに誤れり、ウレタキヤシコホトヽギスと讀べし、神武紀云、慨哉大丈夫云々、委は第八夏相聞家持の長歌の中に今の二句あるに付て注せしが如し、音之干蟹は音のかるゝかと思ふばかりにと云意なり、
 
初、うれたきやしこ霍公鳥。慨哉四去霍公鳥、これを今の本に、よしゑやしゆくほとゝきすとよめるは、大にあやまれり。第八の三十葉に、長哥の中に、宇禮多伎也、志許霍公鳥といへるにおなし。そこに神武紀を引ことく、慨哉此(ヲハ)云2于黎多棄伽夜《ウレタキカヤト》1と、自注をくはへたまへり。しこは醜の字にて、きたなし霍公鳥と罵詞なり。愛する心から、かりに見たり。こゑのかるかには、聲もかるゝかといふほどに、なきつくさてといふ心なり
 
(55)1952 今夜乃於保束無荷霍公鳥喧奈流聲之音乃遙左《コノヨラノオホツカナキニホトヽキスナクナルコヱノオトノハルケサ》
 
朗詠集に發句を五月やみと改めて入れらる、今も其意なり、赤人集に遙左をさやけさとあるは叶はず、
 
1953 五月山宇能花月夜霍公鳥雖聞不飽又鳴鴨《サツキヤマウノハナツキヨホトヽキスキケトモアカスマタナカムカモ》
 
宇能花月夜、【赤人集云、ウノハナツクヨ、】
 
五月山は此下にもよめり、唯五月の山なり、名所にあらず、春山、秋山、彌《ヤ》生山など云が如し、古今集にも五月山梢を高み郭公、鳴音空なる戀もするかなとて各其時をよめり、
 
初、五月山うの花月夜。五月山は名所にあらす。只五月の比の山なり。やよひ山とも讀かことし。うの花月夜は、卯花のさかりなるが、月夜のことくみゆるをいへり。此哥新古今集に取のせらる
 
1954 霍公鳥來居裳鳴香吾屋前乃花橘乃地二落六見牟《ホトヽキスキヰテモナクカワカヤトノハナタチハナノツチニオチムミム》
 
鳴香は鳴かななり、
 
1955 霍公鳥厭時無菖蒲※[草冠/縵]將爲日從此鳴度禮《ホトヽキスイトフトキナシアヤメクサカツラニセムヒコユナキワタレ》
 
此歌第十八に田邊福麻呂再誦す、
 
(56)1956 山跡庭啼而香將來霍公鳥汝鳴毎無人所念《ヤマトニハナキテカクラムホトヽキスナカナクコトニナキヒトオモホユ》
 
郭公を聞てなき人を思こと第八に石上堅魚のよめる歌に注するが如し、
 
初、山とにはなきてかくらん。此哥は、人をうしなひて後、よめる哥と見えたり。伊勢かうみたるみこの、かくれたまへる時よめる哥に
 しての山こしてやきつるほとゝきすこひしき人のうへかたらなん
 
1957 宇能花乃散卷惜霍公鳥野出山入來鳴令動《ウノハナノチラマクヲシミホトヽキスノニイテヤマニイリキナキトヨマス》
 
第四の句ノニデヤマニイリと讀べし、
 
1958 橘之林乎殖霍公鳥常爾冬及住度金《タチハナノハヤシヲウヱムホトヽキスツネニフユマテスミワタルカネ》
 
佐度金は住度歟になり、禰と爾と通ぜり、
 
初、橘の林をうゑむ。第九に、詠2霍公鳥1歌の終にも、わかやとの花橘にすみわたれ鳥といへり。第十九に、ほとゝきすきけともあかすあみ取にとりてなつけなかれすなくかね。住わたるかねは、住わたるかになり
 
1959 雨※[日+齊]之雲爾副而霍公鳥指春日而從此鳴度《アマハリノクモニタクヒテホトヽキスカスカヲサシテコユナキワタル》
 
雨※[日+齊]、【校本、※[日+齊]或作v霽、】  鳴度、【官本、度作v渡、】
 
1960 物念登不宿旦開爾霍公鳥鳴而左度爲便無左右二《モノオモフトイネヌアサケニホトヽキスナキテサワタルスヘナキマテニ》
 
左度、【官本、度作v渡、】
 
發句はモノモフトと讀べし、第十五に殊に此詞多し、皆於を略して毛能毛布とあり、
 
(57)1961 吾衣於君令服與十霍公鳥吾乎領袖爾來居管《ワカキヌヲキミニキセヨトホトヽキスワレヲシラセテソテニキヰツヽ》
 
於を乎に用る事以前既に注せり、但吾衣をワガコロモと讀て發句とし、於君をキミニとも讀べし、吾乎領とは我に知らせてにて心を著るなり、尋常の鳥だに袖に來居る物にあらず、まして霍公鳥は人に馴ぬ鳥なれば此は夏衣を竿に懸|干《ほ》せる其袖に來居てと云なるべし、さるにても君に著せよと知らすると云意いかにとも得がたし古今集にも韓《カラ》紅の振《フリ》出てぞ鳴と讀て霍公鳥は血に啼なれば、人に贈て著せば袖のみ紅深きを見てあはれと思ふべしと我を助る意に袖に來居て啼よと、戀する人の思ひ廻らさぬ事なう物思ふが、折しも衣に霍公鳥の居たるを見てよめるにや、せめてかくばかりも驚かし置て後の人を待に侍り、
 
初、わかきぬをきみにきせよと。吾衣於君、これをわかきぬを、きみにとよめるは、此集に、てにをはのをに、於の字をかける所あまたあり。今もその心なり。わかころもきみにともよむへし。領の字は、第十六の十二葉、三十一葉にも、しらすとよめり。われをしらせてとは、われに心をつけてなり。此哥はいかによめるにか、そのこゝろ得かたし。常の鳥たに袖に來居る物にあらぬうへに、ことにほとゝきすは、人なれぬ鳥なれは、これは竿にかけてほせる衣なとをいふにや。さるにても、君にきせよとしらするといふ心をは得ねは、後の人を待なり
 
1962 本人霍公鳥乎八希將見今哉汝來戀乍居者《モトツヒトホトヽキスヲヤマレニミムイマヤナカクルコヒツヽヲレハ》
 
本人とは昔の妻をも云ひなき人をも云ふ、此は郭公の聲を昔より聞馴て云なり、鳥けだ物草木までも人とは讀習なり、後撰集に待人は誰ならなくに郭公とよめるも郭公を指て待人と云へり、此集に鴈をも遠津人とよめり、されば本人と思ふ霍公鳥なればまれ/\にやは見む、あかずこそきかまほしきを待つゝをるに、今ややうや(58)う、汝が來る、初て聲の聞ゆるはとよめる歟、
 
初、もとつ人ほとゝきすをや。もとつ人とは、むかし相しれる友をもいひ、又むかしの妻をもいふこと有。こゝはほとゝきすの聲を、もとより聞なれたれは、むかしの友とおもひて、かくいへるなり。鳥けた物草木まても、人とは讀ならひなり。後撰集に
 待人はたれならなくにほとゝきすおもひの外になかはうからむ
これも郭公をさして待人といへり。第十二に、遠つ人かりちの池とつゝけたるは、遠よりくる雁といふ心にいへり。第十七にも、遠つ人かりがきなかんといへり。源氏物語若菜下には、御ねこともあまたはへりにけり。いつらこの見し人はと尋てみつけたまへりといへり。ほとゝきすはもとつ人なれは、まれ/\にやはみむ。つねにこそきかまほしきに、わかこひつゝをるに、今ややう/\なんぢかくる。はしめて聲のきこゆるはとよめるにこそ
 
1963 如是許雨之零爾霍公鳥宇之花山爾猶香將鳴《カクハカリアメノフラクニホトヽキスウノハナヤマニナヲカナクラム》
 
宇之花山は卯花のさける山を押て名付るなり、名所にあらす、もみぢする山を紅葉の山とよめるが如し、第十七に大伴池主が越中にてよめる長歌に、見和多勢婆宇能波奈夜麻乃保等登藝須とよめる故に越中と云説あれど、又同卷家持も越中守にての長歌に宇乃花乃爾保弊流山乎余曾能未母、布里佐氣見都追云々、是山の名ならぬ證なり、此卷に前にも後にも宇能花乃開落岳とよみ、又宇能花邊ともよめり、此歌人丸集にもなきを玉葉には何に依てか作者を定られけむ、おぼつかなし、
 
初、かくはかり雨のふらくに。ふらくにはふるになり。うの花山は名所にあらす。只卯花のおほく咲山を、おしていへるなり。第十七、大伴池主か長哥中に、見わたせはうの花山のほとゝきすとよめるもこれなるへし。上にうの花べからともよみ.又上の十九葉、下の廿二葉に、うの花のさきちるをかともよめり。又もみちしたる山を、もみちの山ともよめり。此哥を.玉葉集夏部には、人まろの哥とて載たり
 
詠蝉
 
1964 黙然毛將有時母鳴奈武日晩乃物念時爾鳴管本名《モタモアラムトキモナカナムヒクラシノモノオモフトキニナキツヽモトナ》
 
時母、【六帖云、オリモ、】
 
物念はモノモフと讀べし、
 
詠榛
 
(59)赤人集にははしばみをゑいずとて、歌にもしまのはしばみとあり、昔の人のよみときけるやうおぼつかなき事少からず、
 
1965 思子之衣將摺爾爾保比與島之榛原秋不立友《オモフコノコロモスラムニニホヒセヨシマノハキハラアキタヽストモ》
 
發句は古風の例に依てオモフコガと讀べし、腰の句は袖中抄にも今の點の如くあれど勢、世等の字もなし、以前注せし如く與は集中にこそ〔二字右○〕と讀べき處お枚ければ今も然讀べきなり、島は第五に奈良《ナラ》路なる島の木立とよめる處なり、榛の木は秋に至て皮を剥て染るが色のよき歟、木竹を伐にも秋に至らざればよからねばさも侍るべし、
 
初、おもふこの衣すらんに。爾保比與。此比の字の下に、勢世等の字をちたり。島のはきはら、島は大和にあり、第五に、ならぢなる嶋のこたちとよめり。第九第十九にも、嶋山《奈良路》とよめり。第九の哥に、第五の哥を思ひあはするに、奈良と立田のあはひに有とみゆ。此はき原とよめるは、はりの木原なり。萩にまきらはし。秋たゝずともといへるは、此木にてそむるに、秋は色のよきにや
 
詠花
 
1966 風散花橘※[口+立刀]袖受而爲君御跡思鶴鴨《カセニチルハナタチハナヲソテニウケテキミカミタメトオモヒツルカモ》
 
爲君御跡、此書やう不審なり、君御處、或は御2爲《ミタメ》君1と書けむを傳寫を經て今の如くなれる歟、此君と云は夫君なるべし、君が爲とはたき物するやうなるを云歟、袖に受留て見せむと思ふを云歟、
 
初、風にちる花橘を。橘のちるを袖にうくるは、爲(ニ)v君(カ)薫《タキモノス》2衣裳(ニ)1といふにおなし心なるへし
 
(60)1967 香細寸花橘乎玉貫將送妹者三禮而毛有香《カクハシキハナタチハナヲタマニヌキオクラムイモハミツレテモアルカ》
 
發句は仙覺抄に古點はかのほそきと有けるを今の如く改めたる由なり、但赤人集にはかぐはしきとあり、今の世にかうばしきと云詞なり、く〔右○〕とう〔右○〕とは同韻にて通ずる故にかうばしと云波を和の如く云と、濁て讀とは表裏なる事なれど、語勢に依て然るなり、應神紀の御製に云、伽愚破志波那多智麼那、辭豆曳羅波比等未那等利云々、第四の句は將送を上に連て句とし、妹者を下に連ても讀、又只讀連ねても意得べし、三禮而は第四に注せり、
 
初、かくはしき。くはしきは物をほむる詞なり。かうはしきと常にいふは、宇と久と、同韻相通なるへし。みつれは羸の字なり。第四の四十九葉に、みつれにみつれとよめるもこれなり。われをこふるに、つかれてあるらむと、心もとなくおもふなり
 
1968 霍公鳥來鳴響橘之花散庭乎將見人八孰《ホトヽキスキナキトヨマスタチハナノハナチルニハヲミムヒトヤタレ》
 
落句の落著は君にこそあれなり、
 
初、ほとゝきすきなきとよます橘の。橘のちる庭をきてみん人やたれ。君こそきてもみるへき人なれといふ心なり
 
1969 吾屋前之花橘者落爾家里悔時爾相在君鴨《ワカヤトノハナタチハナハチリニケリクヤシキトキニアヘルキミカモ》
 
悔時爾相在君とは、問來る人の悔しき時に相と云へる歟、花橘の盛に來ば見すべきを、落て後悔しき時に來たる人に我が逢へるとよめる歟、第八の遊行女婦《ウカレメ》が橘歌引合て見るべし、
 
初、わかやとの花橘は。橘のにほひにこそ、いやしき宿もまきれつれ。それさへ散過たる比、君かとへは、何のいふかひなく、くやしき時にもきましつるよとなり
 
(61)1970 見渡者向野邊乃石竹之落卷惜毛雨莫零行年《ミワタセハムカヒノノヘノナテシコノチラマクヲシモアメナフリコソ》
 
初、雨なふりこそ。こそは乞の字にて、雨なふりそと、ねかふ詞なり
 
1971 雨間開而國見毛將爲乎故郷之花橘者散家牟可聞《アママアケテクニミモセムヲフルサトノハナタチハナハチリニケムカモ》
 
國見は今は四方を見はるかすを云へり、
 
初、あまゝあけて國見もせむを。雨のはれまに立出てゆかしき所々をみんとおもふをくにみもせんをといへり。國見は第一第三にもよめり
 
1972 野邊見者瞿麥之花咲家里吾待秋者近就良思母《ノヘミレハナテシコノハナサキニケリワカマツアキハチカツクラシモ》
 
後撰集には、なでし子の花散方に成にけり、我待秋ぞ近く成らしとよめり、今の歌と違へるやうなれど歌はかやうなる常の事なり、秋の物にしてよめる歌も多し、此卷下に至て雁の初聲を聞て芽子《ハキ》の咲とよめるに、又雁にあはじとにや聲を聞ては散ともよめり、萬此等に准らふべし、
 
初、野へみれはなてしこの花。後撰集に、なてしこの花ちりかたに成にけりわか待秋そちかくなるらし。似たる哥なり
 
1973 吾妹子爾相市乃花波落不過今咲有如有與奴香聞《ワキモコニアフチノハナハチリスキヌイマサケルコトアリソハヌカモ》
 
落不過、【六帖云、チリスキテ、】
 
發句は相坂山などつゞくる如くあふちと云はむためなり、腰句はチリスギズと讀べし、スギヌと有は傳寫の誤なるべし、落句は今の點叶はず、六帖にあらむいもかも(62)とあるは讀かねて改けるにや、今按アリコセヌカモと讀べし、
 
初、わきもこにあふちの花。ちり過ぬは、落不過とかけれは、かんなあやまれり。ちりすきすと讀へし。有與奴香聞、これをありそはぬかもとある點は、心得かたし。今案與は興の字にて、ありこせぬかもとよむへし。興はおこしとよむを、上略して、おの字をさり、之と世と通すれは、しかよまるゝなり。ありこせぬかもといふ詞、集中におほし。もしは輿の字にて、上《・コセ》におなしく讀へき歟。苦《クル》しといふに、栗子とかきたれは、躰《タイ》にてうこかぬ詞も、通してうこく事あり。わきもこにあふちとは、逢といふ心にいひかけて、めつらしく見る心もそひたり
 
1974 春日野之藤者散去而何物鴨御狩人之折而將挿頭《カスカノノフチハチリユキテナニヲカモミカリノヒトノオリテカサヽム》
 
散去而はチリニテとも讀べし、
 
初、春日野の藤はちりゆきて。四月中旬以下の哥なるへし
 
1975 不時玉乎曾連有宇能花乃五月乎待者可久有《トキナラヌタマヲソヌケルウノハナノサツキヲマタハヒサシカルヘク》
 
初、時ならぬ珠をそ。五月の玉は、藥玉なるを、これ五月をまたはといへは、四月にうの花を玉にぬくなり
 
問答
 
1976 宇能花乃咲落岳從霍公鳥鳴而沙渡公者聞津八《ウノハナノサキチルヲカニホトヽキスナキテサワタルキミハキヽツヤ》
 
從はユとも讀べし、
 
1977 聞津八跡君之問世流霍公鳥小竹野爾所※[二水+舌]而從此鳴綿類《キヽツヤトキミカトハセルホトヽキスシノノニヌレテコユナキワタル》
 
第八巫部麻蘇娘子と家持との雁問答今に似たり、
 
初、うの花のさきちる岡に
きゝつやと君かとはせる。右二首は、第八卷に、巫部《カナイヘノ》麻蘇(ノ)娘子と、家持と、雁の哥を贈答せるに似たり
 
譬喩歌
 
1978 橘花落里爾通名者山霍公鳥將令響鴨《タチハナノハナチルサトニカヨヒナハヤマホトヽキストヨマセムカモ》
 
(63)もと見し人の名殘を忘れずして今更に彼處《ソコ》にかよはゞ、今住人やとがめてさはがむと云意を喩へたるべし、源氏の花散里此歌に依れり、
 
初、橘の花ちる里にかよひなは。此哥のたとふる心は、橘の花ちる里にかよふをは、戀おもふ人の、時を過さむ事をおしみて、わかゆきかよふによせ、山郭公とよませんかもといふをは、里もとゝろにいひさはかれん歟とよせたり。おもては、かよひなはゝ、ほとゝきすりかよふなり。ほとゝきすのなきとよますことく、われも人のもとにかよふから、人の物いひもあるへけれは、かくはよめるなるへし
 
夏相聞
 
寄鳥
 
1979 春之在者酢輕成野之霍公鳥保等穗跡妹爾不相來爾家里《ハルサレハスカルナルノヽホトヽキスホトホトイモニアハスキニケリ》
 
不相、【赤人集云、アハテ、官本亦點同v此、】
 
發句はハルナレバと讀べき事上に注せしが如し、赤人集にはなつなればとあり、夏こそ違ひたれど春なればと讀べき證には成ぬべし、酢輕は第九に注せし如く※[虫+果]〓なり、成は鳴に借て書けり、春草も何くれと花咲けばそれに集て鳴なり、古今集にすがるなく秋の萩原とある歌も古歌と見ゆれば、鳴《メイ》の字を書て今と同じくすがるなる〔五字右○〕なりけむをなく〔二字右○〕と讀て假名に寫されたるにも侍るべし、さて此は夏の歌なるにかく云ひ出す事は、新撰萬葉集にも、郭公鳴立春之山邊庭、沓《クツ》直不輸人哉住濫とあれば、此も春の時野を霍公鳥の急ぎ鳴立とて妻にもあはで來るによせて、霍公鳥を承(64)て殆妹にあばずして來にけりとよめるなるべし、第八に百濟野の萩の古枝に春待て住し※[(貝+貝)/鳥]鳴にけむかもとあれば、霍公鳥も野より鳴立つべき理なり、
 
初、春されはすかるなる野のほとゝきす。春之在者とかけるをは、上の十三葉に、春されはもすの草くき見えすともといふ哥にも、かくかけるにつきていへるかことく、これは春にあれはとよむへきを、爾阿《ノ》切奈なれは、つゝめてはるなれはとよむへきにや。さき/\にもいへるがことく、春去者とかきてはるされはとよむは、春くれはの心にて、此哥に春之在者とかけるには心かはれり。すかるなる野のとは、すかるは、第九に、こしほそのすかるをとめとよめる哥につきて、委尺せり。俗に似我《ジカ》といふ蜂なり。されともたゝ通して蜂をいふとみるへし。以v翼(ヲ)鳴(ク)者(アリ)といふたくひなれは、なくをなるといへり。成といふ字かきたるにまとふへからす。此集にいふせきといふに、馬聲蜂音《イフ》とかきていぶとよめるも、かれがなく聲を、意を得てかけるなり。さて此哥のよみやう古哥のやうなれは、上の句やすきものゝ、むつかしう聞ゆるなり。彼すかるは、花の香にめてゝきて、あつまりてその味を?  噂《ス》ふ物なれは、古今集にはすかる鳴秋の萩原とよみ、此哥にはすかるなる野とよめり、ほとゝきすは、野には居かたき鳥なれと、此集にはあまたよめれは、今も野の郭公といはむために、其野をいふとて、春の時はすかるの花になく野といへり。すかるは、すこしも下の妹にかゝりて、細腰の心を用るにあらす。例せは第四に、をみなへし咲澤におふる花かつみ、此卷に、さきにをみなへし咲野におふる白つゝしとよめるかことし。野に郭公をよめるは、第十四に、信濃なるすかのあら野にほとゝきすなく聲きけは時過にけり。第九には、うの花のさける野へより飛かへりきなきとよまし橘の花を居ちらしなと詠2霍公鳥1歌によみ、此卷さきには、野に出山にいりとよめり。かそふるにいとまあらす。ほとゝきすはほと/\といはむためなれは、すかるなるは野をいはむため、野は霍公鳥をいはむためにて、次第にみな序なり。畢竟は、ほとんと妹にあはすして、月日を過し來にけりとよめるなり
 
1980 五月山花橘爾霍公鳥隱合時爾逢有公鴨《サツキヤマハナタチハナニホトヽキスカクラフトキニアヘルキミカモ》
 
第八に大伴書持が橘を霍公鳥の友と讀つるに、霍公鳥の橘にあひにあふ時我も亦君に相へりと悦てよめるなり、
 
初、五月山花橘に。上にもいへることく、五月山は、只五月の山なり。古今集にも、五月山梢を高みほとゝきすなくね空なるこひもするかなとよみて、皆五月の時節にあはせたるを思ふへし。橘にほとゝきすのあひにあふ時、われもまた君にあへりと、よろこほひてよめり
 
1981 霍公鳥來鳴五月之短夜毛獨宿者明不得毛《ホトヽキスキナクサツキノミチカヨモヒトリシヌレハアカシカネツモ》
 
ヒトリシのし〔右○〕は助語なり、遊仙窟云、昔日雙眠、恒嫌2夜短1、今宵獨臥、實怨2更長1、
 
初、ほとゝきすきなくさつきの。遊仙窟云、昔日雙眠《ソノカミフタリネシトキニ》、恒(ニ)嫌(ヒキ)2夜(ノ)短(カキヲ)1。今宵《コヨヒ》獨(リ)臥(ハ)、實(ニ)怨(ム)2更《ヨノ》長(キコトヲ)1
 
寄蝉
 
1982 日倉足者時常雖鳴我戀手弱女我者不定哭《ヒクラシハトキトナケトモワカコフルタヲヤメワレハサタマラスナク》
 
時トナケドモとは禮記云、仲夏之月蝉始鳴、手弱女は腰句に連ねて句とすべし、女を呼て告る意なり、我者の下に時の字落たる歟、第六帥大伴卿宿2次田温泉1聞2鶴喧1作歌の落句に時不定鳴をトキワカズナクと點ぜり、今も此と同じかるべき證には六帖(65)にときわかずなくとあり、又此卷春雜歌詠鳥歌、朝井代爾來鳴杲鳥とよめる落句にも時不終鳴をトキヲヘズナクと點ぜり、此も亦今と似たり、
 
初、日くらしは時となげとも。禮記(ニ)云。仲夏之月蝉始(テ)鳴。孟秋(ノ)之月|寒蝉《・サムセミ》鳴。ひくらしは、茅蜩にて、蝉の屬にて、まさしき蝉にはあらされとも、さきに詠v蝉哥にも、ひくらしとよみ、今も寄v蝉とて、日くらしとよめり。されは蝉は夏こそ時とてなくを、我はいつといふわきもなく、なきてのみふるなり。我こふるたをやめとは、こふる女を呼てつくるなりは たをやめは、てよはめといふ心なり。手はたちからにて、ちからある所なれはしなやかにて、ちからよはき女なり。羅綺にも堪ぬ心なり。與《ヨ》と乎《ヲ》と同韻にて通し、はとやと又同韻なれはたをやめといふなり
 
寄草
 
1983 人言者夏野乃草之繁友妹與吾携宿者《ヒトコトハナツノヽクサノシケクトモイモトワレトシタツサハリネハ》
 
吾トシのし〔右○〕は助語なり、落句の云ひ殘せる意はさもわらばあれなり、拾遺六帖人丸集並にたづさはりなばとあり、宿の字を忘たり、古今に、里人の言は夏野の繁くとも、かれ行君にあはざらめやは、玉葉に小町歌云、世間は明日香川にも成らば成れ、君と我とが中し絶ずば、
 
初、人ことは夏野の草の。古今集に、さと人のことは夏野のしけくともかれゆく君にあはさらめやは。下句は小町か哥に、世の中はあすか川にもならはなれ君とわれとか中したえすは。たつさはりねはといひすてたるは、それはさもあらはあれなり
 
1984 廼者之戀乃繁久夏草乃苅掃友生布如《コノコロノコヒノシケヽクナツクサノカリハラフトモオヒシクカコト》
 
苅掃友をカリハラフトモとあるは誤なり、カリハラヘドモと讀べし、六帖にはかりそくれとも、人丸集にはかりはつれども、並に叶はず、第十一に吾せこに吾戀らくは夏草の、苅除《カリソクレ》ども生及如《オヒシクガゴト》、似たる歌なり、
 
初、この比のこひのしけゝく。しけくなり。しけさはといはむかことし。第十一に、わかせこにわかこふらくは夏草のかりそくれともおひしくかこと。大かた似たる哥なり
 
(66)1985 眞田葛延夏野之繁如是戀者信吾命常有目八方《マクスハフナツノヽシケクカクコヒハマコトワカイノチツネナラメヤモ》
 
1986 吾耳哉如是戀爲良武垣津旗丹類令妹者如何將有《ワレノミヤカクコヒスラムカキツハタマヅイホヘルイモハイカニモアラム》
 
如何、【官本云、イカニカ、】
 
垣津旗はにほへると云はむ爲なり、丹類は此兩字の間に落字有べし、令妹は廣韻云令、善也、ほめてかけり、落句イカニモアラムと點ぜるは誤なり、イカニカアラムと讀べし、六帖云に此歌を垣津幡に入れたり、
 
初、われのみやかくこひすらん。我のみや、かく妹をこふらん。妹もおなし心にわれをこふらん。こひすやあるらむといふ心を、いかにかあらんといへり。かきつはたは色のうるはしき物なれは、にほへるといはむとて取出るなり。第十一に、かきつはたにつらふ君をとよめるもおなし心なり。丹。類、此間に脱字あるへし。令妹は令(ハ)善也。ほむる詞なるゆへに、二字引合ていもなり
 
寄花
 
1987 片搓爾絲※[口+立刀]曾吾搓吾背児之花橘乎將貫跡母日手《カタヨリニイトヲソワカヨルワカセコカハナタチハナヲヌカムトモヒテ》
 
寄花歌なれば、此花橘は花の時見て實にならばぬかむと思ふなり、母日手は思ひての上略なり、片搓は片思の譬、橘を貫は事の成譬なり、第七に紫絲乎曾吾搓とよめる歌に似たり、
 
初、片よりにいとをそわかよる、寄v花哥なれは、此花橘は花をいへり。もひてはおもひてなり。片よりといへるは、かたおもひの譬なり。花橘をぬくをは、事のなるにたとふるなり
 
1988 ※[(貝+貝)/鳥]之往來垣根乃宇能花之厭事有哉君之不來座《ウクヒスノカヨフカキネノウノハナノウキコトアレヤキミカキマサヌ》
 
(67)拾遺に發句をほとゝぎすとて入たるは人丸集に依れり、赤人集に入たるも同じ、此歌第八に小治田廣耳が霍公鳥鳴峯乃|上《ウヘ》能云々、下三句彼に同じ、初の二句卯花に依て※[(貝+貝)/鳥]のかよひ來るを絶ず人の問ひ來しに譬ふ、※[(貝+貝)/鳥]は夏懸てもすめばなり、拾遺集云、山里のうの花に鶯の鳴侍りけるを、平公誠、卯花を散にし梅にまがへてや、夏の垣根に※[(貝+貝)/鳥]の鳴、又小町集にうの花のさける垣根に時ならず、我ことぞ鳴鶯の聲、
 
初、鶯のかよふかきねの。鶯は夏かけてもすむことあれはなり。上の句はうきのうもしまうけむための序なり。第八にほとゝきす鳴《ナク》尾のうへのうの花の、下句全同。古今集雜下、躬恒哥に、水のおもにおふる五月のうき草のうき事あれやねをたえてこぬ。これはうき草のうきと、二字をかさねたり。うきことゝはわれをいとふ事あれはにやといふ心なり。さきの人の身に、うき事あれはにやといふにはあらす。※[厭のがんだれなし]の字をかけるにて知へし。鶯のかよふ垣ねとは、鶯はくれとも、人はこぬ心あり
 
1989 宇能花之開登波無二有人爾戀也將渡獨念爾指天《ウノハナノサクトハナシニアルヒトニコヒヤワタラムカタオモヒニシテ》
 
開トハナシニとは發句をうの花の如くと意得べし、第九に布留の早田の穗には出ずとよめる類なり、腰の句は上に連ねて開とはなくてある人にと意得べし、或人にと云にはあらず、しのびに戀る人なり、
 
初、うの花のさくとはなしにある人に。これはうの花のさかぬ物といふにはあらす。うの花のことく、さくとはなしになり。さかぬをは、しのふるほとのおもひにたとへ、さくをは、おもひのひらくるにたとふ。咲とはなしにといへるは、第九に、いそのかみふるのわさ田のほには出すとよめるに准して知へし。さくとはなしにあるとつゝくる心にて、人にと心得へし。或人にといふにはあらす
 
1990 吾社葉憎毛有目吾屋前之花橘乎見爾波不來鳥屋《ワレコソハニクヽモアラメワカヤトノハナタチハナヲミニハコシトヤ》
 
吾こそはいとはしくも思はぬ吾宿に咲ける花橘をさへ見に來じとやすらむと橘にたよりてよめり、人丸集赤人集にもあれど、彼は不審なる物なり、歌のやう女のよめるなるべし、拾遺集雜戀に伊勢が歌、上は今と同じくて花見にだにも君が來まさ(68)ずとよめるあり。
 
初、われこそはにくゝもあらめ。にくゝはきらふなり。惡寒なとのにくむなり。こゝに憎の字はかきたれと怨憎なといふことく、をもくはみるへからす。我こそはきらはしくもあらめ、我ゆへに、我やとにさける、花橘をさへ、見にこしとやすらむ。情なしと、橘にたよりてよめり、女の哥なるへし。拾遺集伊勢か哥に、上の句今とまたくおなしうして、花見にたにも君かきまさぬとよめり。ともにやさしき哥なり。これらの哥を得ては、まことに、雨のふる日ならは、みのかさもきす、しとゝにぬれて、まとひゆきぬへし
 
1991 霍公鳥來鳴動崗部有藤浪見者君者不來登夜《ホトヽキスキナキトヨマスヲカヘナルフチナミミレハキミハコシトヤ》
 
見者、【幽齋本云、ミニハ、】
 
第四の句今の本の點叶はず、幽齋本に依べし、上の歌と似て、雨の降日ならば簑も笠も著てしとゞにぬれて人來さすべき歌なり、
 
初、ほとゝきすきなきとよます。此哥も右の哥とおなし心なり。ほとゝきすきなきとよますは、藤のかさりにもいへれと、ほとゝきすさへきなくを、君はこじとやと、こすしてはあられぬやうにいひやるなり。見者、これはみにはなるを、みれはとあるは、かんなあやまれり
 
1992 隱耳戀者苦瞿麥之花爾開出《カクレノミコフレハクルシナテシコノハナニサキイテ》與|朝旦將見《アサナサナミム》
 
戀者、【幽齋本云、コフルハ、】 開出與、【幽齋本云、サキイテヨ、】
 
第十六に隱耳戀者|辛苦《クルシ》云々、今の初二句と同じ、今按發句は共にコモリノミと讀べし、其故は第十七に大伴池主が長歌の中に己母理古非《コモリコヒ》、伊枳豆伎和多利《イキツキワタリ》云々、此初の一句今の二句に亘れり、
 
初、かくしのみこふれはくるし。第十六には、隱耳とかきて、したにのみとよめり。今もしかよむへし。なてしこの花にさき出よとは、しのひてこふれはくるしきに、なてしこのつほめるが、咲出ることく、今はおしあらはして、人にもしらせよ。なてしこのうるはしきをみることく.紅顔を、日に/\みんといふなり。朝な/\といへるは、日ことの心なり
 
1993 外耳見箇戀牟紅乃末採花乃色不出友《ヨソニノミミツヽヤコヒムクレナヰノスエツムハナノイロニイテストモ》
 
見箇、【六帖云、、ミツヽヲ、人丸集與2今本1同、】
 
(69)箇は筒を誤れり、落句を以て首尾を按ずるに發句はよそにのみもと云意なり、但六帖にみつゝをと有を取べきにや、を〔右○〕は助語なり、又ミツヽコヒナムとも讀べし、拾遺に見てやはこひむとて落句を色に出ずばと改られたるは、見てやこひむにては〔右○〕は助語なり、紅は和名云、辨色立成云、紅藍、【久禮乃阿井、】呉藍、【同上、】本朝式云、紅花、【俗用v之、】乃阿(ノ)切奈なる故に久禮乃阿井を約めて久禮奈井とは云へり、名付る意は呉藍なり、末摘花と云事は紅花は夏咲物なるが末より先咲そむれば其を先摘故なり、古今集にも人知れず思へば苦し紅の、末摘花の色に出なむ、六帖にかくばかり戀し渡らば紅の、末摘花の色に出ぬべし、
 
初、よそにのみ見つゝや。よそといふ事の、自然に餘所《ヨソ》にかよへるにより、餘所の音の和語に用とおもへり。もとよりの和語なるへし。筒を箇につくれるはあやまれり。末つむ花は、紅花にて、べにといふ物なり。末より咲そむるをつみとれは、末つむ花とはいふなり。古今集にも、人しれすおもへはくるしくれなゐの末つむ花の色に出なん
 
寄露
 
1994 夏草乃露別衣不著爾我衣手乃干時毛名寸《ナツクサノツユワケコロモキモセヌニワカワカコロモテノヒルトキモナキ》
 
露分衣と分る衣を押て云歟、又露を分む爲に雨衣などの樣に別に用意する衣の名歟、又古今集に山分衣とよめるは山臥の衣と聞ゆれば、それていの衣の名にや、能味はへば押て名付たるにはあらじとぞおぼしき、六帖には夏衣の歌とせり、新古今は(70)人丸集に依て入られ、家集又赤人集にもあり、
 
初、夏草の露わけ衣。四月五月まては、ことに朝露のふかき物なり。露分衣は、たゝ露をわけ行衣なり。古今集に、山わけ衣とよめるとおなし心にて、かれはをこなひ人の衣ときこゆれは、すこしかはれり
 
寄日
 
1995 六月之地副割而照日爾毛吾袖將乾哉於君不相四手《ミナツキノツチサヘサケテルヒニモワカソテヒメヤキミニアハスシテ》
 
禮記月令云、仲冬(ノ)之月、冰益々壯也、地始(テ)※[土+斥]《サク》、痛く日の照にも痛く寒きにも地は裂るなり、於君を拾遺人丸集六帖並にいもにとあり、
 
初、みな月のつちさへさけて。いたく日のてれは、つちのさくるなり。禮記月令には、仲冬(ノ)之月冰益(/\)壯|也《ナリ》。地始(テ)拆《サク》といへり。冬はいたくこほるゆへに、またつちのさくるなり
 
萬葉集代匠記卷之十上
  元禄三年三月廿二日抄之畢
 
(71)萬葉集代匠記卷之十中
 
秋雜歌
 
七夕
 
1996 天漢水左閉而照舟竟舟人妹等所見寸哉《アマノカハミツサヘニテルフナワタリフネコクヒトニイモトミエスヤ》
 
所見寸哉、【幽齋本云、ミエキヤ、】
 
水サヘ照とは丹|塗《ヌリ》などの餝れる舟なり、舟人は牽牛なり、舟人とのみかけるは第三に舟公をふねこぐきみとよめるが如し、落句は幽齋本の點に依べし、今宵織女の牽牛に妻とて相ままみえきやとなり、今按妹等はイモラとも讀べき歟、
 
初、天川みつさへにてるふなわたり。牽牛の舟をかさりてわたれは、水さへにてるふなわたりとはいへり。ふねこく人はひこほしなり。妹と見えきやは、たなはたつめの、こよひ彦星に、妹とてあひま見えきやなり。見えすやとあるかんなは、わろかるへし
 
1997 久方之天漢原丹奴延鳥之裏歎座津乏諸手丹《ヒサカタノアマノカハラニヌエトリノウラナキマシツトモシキマテニ》
 
裏歎は第一の軍王の歌に注せし如くウラナケと讀べし、袖中抄にはうらなげきつゝとあり、つゝ〔二字右○〕】こそ叶はねどなけとなげきとは具略の異のみにて替らず、落句はめ(2)づらしきまでになり、織女の歎くをめづらしと云はむは本意ならぬやうなれど、佳人も痛くゑみさかえてほこりがなるよりは少しうらぶれたる樣なるに艶なる所は添ひぬべし、マテニと云詞はさるへしと云ひはつるにあらぬ意なり、諸手と借てかけるも左右二手等に同じ、
 
初、久かたのあまのかはらにぬえ鳥の。ぬえ鳥のうらなくとは、第一卷軍|王《オホキミ》の哥にもありて、注せしことく、此鳥の喉音《ノトコヱ》につふやくやうになくによせて、人しれす下なくをいへり、裏《ウラ》といふは、下といふにおなし。第二第五此下の廿七葉にもかくよめり。第五にはぬえ鳥の喉《ノト》よひをるにといへり。此うらなきますといふは、たなはたつめなり。ともしきまてには、かゝるこひは、たくひすくなく、めつらしきまてになり。兩手を眞手といふ故に、諸手とかげり
 
1998 吾戀嬬者知遠往舩乃過而應來哉事毛告火《ワカコヒヲイモハシレルヲユクフネノスキテクヘシヤコトモツケラヒ》
 
嬬者、【紀州本云、ツマハ、】
 
第二句の點は紀州の本の如く讀べきか、其故は此歌は織女になりて讀と見えたれば彦星を指てつまと云にや、三四句は兼てあらましに云なり、我方に渡り來む船の明ぬとて榜行て過なむ後又こぎ來べしや、相見ぬさきには言をだにも早く告よとなり、落句は第九に浦島子をよめる歌にも見えたり、
 
初、わかこひを妹はしれるを。これはひこほしになりてよめるなり。我戀る人のほとを、たなはたつめは、兼てしれるを、こきゆく舟のひとたひ過ては、年のうちにまたくへきものか。言の葉をも告おこせよといふなり。告らひは告よといふ心なり
 
1999 朱羅引色妙子數見者人妻故吾可戀奴《アカラヒクシキタヘノコヲシハミレハヒトツマユヱニワレコヒヌヘシ》
 
色妙子、【六帖云、イロタヘノコ、】
 
朱羅引は第四に注す、色妙子はイロタヘノコと讀べし、匂《ニホ》ふ色の、妙なる子と織女を(3)云なり、第十一にはあから引肌ともよめり、數見者とは年毎に見るをも亦一夜の中にもつく/\とまもるをも云べし、杜※[手偏+攵]が詩に臥見牽牛織女星と作るが如し、織女は牽牛の妻にて我思ひ懸べきにあらぬ物故に、しば/\見れば戀ぬべしとなり、古今集に見ても亦またも見まくの欲ければ、馴るを人は厭ふべらなり、此意を思ふべし、第一に天武天皇未太子にてまし/\ける時の御歌の下句今と同じ、又第十二にも似たる下句あり、
 
初、あから引いろたへのこと。第十一にあからひくはたとつゝけ、第十六に、あかねさす君とよめるかことく、紅顔のにほひあるを、あからひくいろたへの子といへり。第四には、あから引日もくるゝまてとよめり。これはあかぬさす日とつゝくるにおなし。色妙子を、しきたへのことあるかんなは誤なり。色の字和訓を用へし。此色妙子といへるは、織女の事なり。しば見れはとは、下界より年ことにしは/\みれはなり。又秋來ての夜毎に、おもひやりて、打まもるをもいふへし。牡牧か詩に臥見牽牛織女星といへり。人妻は他妻なり。牽牛の妻にて、わかおもひかくへきにあらぬものゆへに、われも織女をこひぬへしとなり。古今集に、みてもまた又もみまくのほしけれはなるゝを人はいとふへらなり。此心をおもふへし。下の句は、第一に天武天皇いまた皇太子にておはしましける時の御哥に、紫のにほへるいもをにくゝあらは人つまゆへにわれこひめやも。第十二に、さゝの上にきゐて鳴鳥めをやすみ人つまゆへにわれこひにけり。これらおなし躰なり。可2戀奴1とかけるは、此集前後に此例おほし
 
2000 天漢安渡丹舩浮而秋立待等妹告與具《アマノカハヤスノワタリニフネウケテアキタチマツトイモニツケヨク》
 
安渡も天河の名なり神代紀云、于時八十萬神|會2合《ツトヒテ》於天安河邊1計2其可v?之方1、落句の與具は好く妹に告よとなるべし、第十三にも眞福在與具と云落句あり、
 
初、天川やすのわたりに。やすのわたりも、天河の名なり。神代紀上(ニ)云。于v時八十萬(ノ)神《カンタチ》會2合《カムツトヒテ》於天(ノ)安河邊《ヤスノカハラニ》1計《ハカラフ》2其(ノ)可(キ)v?(ル)之方(ヲ)1。いもにつけよくは、つけよといへるにくもしをそへたる歟。古語にかやうのことおほし
 
2001 從蒼天往來吾等須良汝故天漢道名積而叙來《オホソラニカヨフワレスラナレユヱニアマノカハチヲナツミテソクル》
 
發句を六帖にはおほそらをとあれど共に從を蒼天の上に置けるに叶はざる歟、赤人集にそらよりもとあるは叶へども古風にあらず、オホソラユと和すべきにや、天漢道を六帖にはあまのかはらをとあれど道の字を漏せり、赤人集にはあまのかはみちとあれど、第十四にも可美都氣乃乎度能多杼里我可波治爾毛云々、此今の點と叶へり、
 
(4)2002 八千戈神自御世乏※[女+麗]人知爾來告思者《ヤチホコノカミノミヨヽリトモシツマヒトシリニケリツキテシオモヘハ》
 
告思者、【官本云、ツケテシオモヘハ、】
 
八千戈神は第六に注しつ、落句はツゲテシモヘバと讀べし、し〔右○〕は助語なり、或はツゲテオモヘバとも讀べし、
 
初、やちほこの神のみよゝり。八千戈の神は、大|己貴《アナムチノ》命にて、三輪の御神なり。第六の四十六葉にもよめり。つけてしおもへはとは、世に人しれて、七夕にあふ習なれはなり
 
2003 吾等戀丹穗面今夕母可天漢原石枕卷《ワカコフルニノホノオモハコヨヒモカモアマノカハラニイソマクラマク》
 
牽牛になりてよめり、第二の句はニノホノオモワと讀べし、第九の玉名娘子をよめる歌に第十九を引て注するが如し、織女の紅顔なり、毛詩云、顔如(シ)v渥v丹(ヲ)、腰句の點モ〔右○〕の字を餘せるは書生の誤なり、石枕はイハマクラと點ぜる然るべし、此は七夕より前の夜、織女の待らむ意を牽牛の思ひやるなり、
 
初、わかこふるにのほのおもわ。牽牛となりてよめり。にのほのおもわは、紅顔をいへり。毛詩(ニ)云、顔(ハ)如(シ)v渥《ツケタルカ》v丹(ヲ)。第十九に、御面謂(フ)2之(ヲ)美《ミ》於毛和(ト)1と自注をくはへられたれは、面の字於毛和なり。第九に、もち月のみてる両輪《オモワ》ともよめり.今こゝにおもはとかんなのつきたるは面の字をおもとよみて、はもしはてにをはによみそへたる歟。只十九のことく讀へし。いそまくらは石を枕とするなり
 
 
2004 已※[女+麗]乏子等者竟津荒礒卷而寐君待難《オノカツマトモシキコラハアラソヒツアライソマキテネマクマチカネ》
 
發句は以前注せし如くオノツマノと讀べし、織女に成て牽牛を指なり、子と云も牽牛なり、乏已※[女+麗]子等者《コラハ》と云意なり、竟津は今按船竟津にてフネハテツなりけむ船の落たるにや、若は津《ツ》は竟《ハテ》つと讀て竟ると云用の詞に体の舟を、持たせたる歟、下句の(5)點もおぼつかなし、アリソマキテネムキミマチカテニと讀べきか、意は天川原に立出て待に侘はつる比やう/\舟を泊つれば宿へ歸る間も遲し、唯此荒礒を枕として諸共に臥さむとなり、
 
初、をのかつまともしきこらはあらそひつ。此哥はいとも心得かたき哥なり。竟津をあらそひつとよめるもおほつかなし。競の字ならはこそしかよまめ。今案竟の宇の上に、舟の字おちたるかとおほゆるなり。此集よそに、舟はつるといふに、泊の字をおほくかき、竟の字をもかけり。さきに天川水さへにてるふなわたりといふに、舟竟とかけり。これもわたりはつることをいへは、舟とむるを、はつるといふにおなし。舟竟津ならは、をのかつまともしきこらはふねはてつとよみ、下の句も、ありそまきてねむ。君待かねしとよみて、織女になりてよめる哥とすへし。心は、をのかつまにしてくることのともしきこらといふは、ひこほしの事なり。ひこほしの、舟をこきわたりて、すてにとめつれは宿にかへらすともあらいそを枕としてはやねむ。今や/\と君を待かねしにといふ心なり
 
2005 天地等別之時從自※[女+麗]然叙手而在金待吾者《アメツチトワカレシトキユオノカツマシカソテニアルアキマツワレハ》
 
然叙手ニ在とは我妻と領するなり、牽牛と成て織女を指なり、赤人集に落句かねをまつかなと有はいかに意得てよめりけむ、
 
初、あめつちとわかれし時ゆ。おのかつまとは、ひこほしになりて、たなはたをいふなり。しかそ手にあるは、天地すてに剖判せしより、織女はおのかつまとさたまりて、かくそ我手にあるなり。妻を手子といふは、我手に入たる女なれはなり。今もその心なり。秋待われはとは、昔より定れる事なれは、七日の夜はあはむと持なり
 
2006 彦星嘆須※[女+麗]事谷毛告余叙來鶴見者苦彌《ヒコホシノナケカスイモカコトタニモツケニソキツルミレハクルシミ》
 
彦星、【幽齋本、彦作v孫、】  告余叙、【別校本、余作v爾、】
 
今按初の二句ヒコボシハナゲカスイモニと讀べし、さらずして今の點のまゝにては牛、女の間に使する者ありてそれが詞のやうにて聞ゆるにや、但やがて下に妹傳速告與とよめるも上に秋立待等妹告與具とよめるも使の意なり、二星の事は風情の寄來るに任せて讀《ヨム》習なればさも有べきにや、余は尓を誤れる歟、第十八にも此違ひあり、尓と爾と同字なれば別校本よし、
 
初、ひこほしのなけかす。ひこほしのと先かりによみきるへし。ひこほしのなけかすにはあらす。なけかすいもかは、なけくいもかなり。いもがは※[女+麗]の字のみかきたれは、いもにとよむへし。告にそ、余は尓につくるへし。初の五もしも、彦星とのみかきたれはひこほしはと讀へし。ひこほしのとよめはなけかすといふ詞上につゝくやうにて心得かたし。心はつまこひに、なけきする織女に、物をたにいはむとてそ、天川をわたりきつる。むかひのきしよりよそめになけくをみれは、くるしさにといふ心なり。ひこほしにかはりてよめるなり。本のまゝの點にては、牛女の間を、別に使するものありて、それかことはのやうなれは、誤なり
 
(6)2007 久方天印等水無河隔而置之神世之恨《ヒサカタノアマノシルシトミナセカハヘタテヽオキシカミヨノウラミ》
 
天印等、【六帖云、アメノシルシト、】  水無河、【六帖云、ミナシカハ、八雲御抄同v此、官本又點亦同、】
 
八雲御抄に天印をあまのおしてとよませ給ひたるは古點なるべけれど、下の長歌に久方乃天驗常?云々此今と同じきを、印はしるしともおしてともよめど、驗はおしてとよまねば彼を以て此を證するに今の點當れるにや、水無瀬河はミナシガハとよめる然るべき歟、但津國の水無瀬河をも第十一には水無河とかけり、河内の天河の名も空に通へば水無瀬河も亦空に通はして名付たるにやあらむ知べからねば左右なう定がたし、古事記云、且其天尾羽張(ノ)神者逆塞2上(テ)天安河之水(ヲ)1而塞(テ)v道居、故佗神不v得v行云々、此に依れば水無河とは云ひがたかるべきを、神變は測がたければ下界の水の如くなる水のなき意に名付たるにや六帖には物へだてたると云に入れたり、
 
初、久方の天のしるしとみなせ川。八雲御抄には、あまのをしてとみなし川とかゝせたまへり。天印等とかけれは、あまのをしてともよむへけれと、下にも久方乃天驗常?《ヒサカタノアマシルシトテ》とよみたれは.今の點に隨ふへし。みなせ川は、水無河とかきたれは.八雲柳抄によるへき歟。矢橋をやはせといひ、一年をひとゝせといふに准するに、みなせ川ともいふへし。へたてゝおきし神世の恨とは、神代よりの恨なり
 
2008 黒玉宵霧隱遠鞆妹傳速告與《ヌハタマノヨキリニコモリテトホクトモイモシツタヘハハヤクツケコヨ》
 
妹傳は義訓してイモガツカヒハと讀べきにや、與はコソと訓べし、
 
初、妹傳《イモシツタヘハ》。織女たに言をつたへたらは、とくその言を告こよといへり。いもかつかひはとよむへき歟
 
(7)2009 汝戀妹命者飽足爾袖振所見都及雲隱《ナカコフルイモノミコトハアクマテニソテフルミエツクモカクルマテ》
 
初、汝かこふる。これはひこほしをさして汝といへり
 
2010 夕星毛徃來天道及何時鹿仰而將待月人壯《ユフツツモカヨフアマチヲイツマテカアフキテマタムツキヒトヲトコ》
 
往來天道を袖中抄にゆきかふそらのとあるは道の字を和せず、及何時鹿を六帖にいつしかとゝあるは及の字を忘たり、月人壯は此下にも二首よみ第十五にも七夕の歌によめり、牽牛の異名と聞ゆ、月讀男など月を讀には替れる歟、未考得、
 
初、ゆふつゝもかよふ天路を。ゆふつゝは、第二の三十三葉、第五の三十九葉にありて、すてに注しつ。俗によひ明星といふ星なり。月人おとこ、此哥にてはひこほしの異名と聞えたり。下の二十八葉二十九葉にもよめり
 
2011 天漢巳向立而戀等爾事谷將告※[女+麗]言及者《アマノカハコムカヒタチテコフラクニコトタニツケムツマトフマテハ》
 
巳向立而は來向立而なり、戀等爾は今按コフルトニとも讀べきか、く〔右○〕もじの讀がたければなり、但人丸集の歌は殊に文字簡古なれば讀付たるにても侍りなむ、此は彦星に成てよめりとも聞え又外よりの意とも聞ゆ、
 
初、天川いむかひたちて。いは發語のことは、ことたにつけむは、ものたにいはむなり。ひこほしになりてよめるなり
 
2012 水良玉五百都集乎解毛不見吾者干可太奴相日待爾《シラタマノイホツツトヒヲトキモミスワレハカカタヌアハムヒマテニ》
 
發句のかきやうに兩義あるべし、一つには水良の二字を音を假る、水は第九の水長鳥|安房《アハ》とつづきたるを仙覺發句をしながどりと讀べき由注せられたるが如し、二(8)つには眞珠は水中の良玉と云意にて義せるにや、第二句は神代紀上云、便以2八坂《ヤサカ》瓊之五百箇御統1纏2其髻鬘及腕1、第四は干は香青香黒などの如く添へたる詞、可太奴は結なり、江次第に一云元日先召(テ)2外記(ヲ)1問2諸司具否1、次令d2外記1進c外任奏u付2頭藏人(ニ)1奏v之、此次令v申d2諸司奏1可v付2内侍所1之由(ヲ)u、【御暦腹赤氷樣等也、】但腹赤(ノ)奏遲參之時七日奏v之、若亦當(レハ)2卯日1有2卯杖奏1、返給(ハル)之時故攝政於2筥中(ニ)1被v結、故土御門(ノ)右不府(ハ)稱2小野大臣(ノ)例(ト)1不v被v結、此集第十八家持の長歌に年内能許登可多禰母知云々、此歌は相日を待つ餝に五百箇の手珠を解もせずして結びて居ると織女に成てよめるなり、
 
初、しら玉のいほつゝとひを。日本紀第一云。便以2八坂瓊之五百箇御統《ヤサカニノイホツミスマルヲ》1纏《マツフニ》2其|髻鬘《ミイナタキ》及(ヒ)腕《タフサニ》1。此集第十八、家持の哥に.しらたまのいほつゝとひをてにむすひおこせんあまはむかしくもあるか。ひとすちの緒にて、五百箇《イホツ》の玉を貫きたるを、いほつゝとひといふ。神代紀には、たふさにまつふといひ、第十八には、てにむすひとよみたれは、たなはたの手玉にかさるなり。われはかゝたぬとは、かたぬはむすふなり。江次第々一云。元日先召2外記(ヲ)1問2諸司(ノ)具否(ヲ)1。次令d2外記(ヲ)1進c外任(ノ)奏(ヲ)u付(テ)2頭(ノ)藏人(ニ)1奏v之。此次(ニ)令v申d諸司(ノ)奏(ヲ)可(キ)v付2内侍所1之由u、【御肝、腹赤氷樣等也。】但腹赤(ノ)奏遲參之時(ハ)七日(ニ)奏(ス)v之(ヲ)。若又當(レハ)2卯(ノ)日(ニ)1有2卯杖(ノ)奏1。返(シ)給(ハル)之時故攝政於2筥(ノ)中(ニ)1被《ラル》v結《カタネ》。故土御門(ノ)右不府(ハ)稱(シテ)2小野大臣(ノ)例(ト)1不《ス》v被《ラレ》v結《カタネ》。此集第十八の歌に、大君のまきのまに/\、とりもちてつかふるくにの、年の内のことかたねもち、玉鉾の道に出立なとよめり。上のかもしは、かあを、かくろ、かより、かやすきなと、つけていふ事おほき詞なり。あふ日をまちて、いほつの手玉をときても見ずして、我はかたねて、手にぬきいれてをるとなり。織女になりてよめるなり
 
2013 天漢水陰草金風靡見者時來之《アマノカハミツカケクサノアキカセニナヒクヲミレハトキハキヌラシ》
 
仙覺抄云、水陰草とは稻の名なりと云へり、今按此説用べからず、唯水陰に生る草なり、第十二に山河水陰生山草とよめるを思ふべし、磐影爾生流菅根とも陰草夕陰草などもよめり、
 
初、天川水陰草の。水陰草は水の陰におふる草なり
 
2014 吾等待之白芽子開奴今谷毛爾寶比爾徃奈越方人邇《ワカマチシアキハキサキヌイマタニモニホヒニユカナヲチカタヒトニ》
 
發句は牽牛に成て云なり、白芽子をしらはきとよめるを袖中抄に嫌ひてやがて下(9)に白風をあきかぜとよめるを引て云、白風をあきかぜと讀つれば白芽子をもあきはぎと讀は勝れり、あながちに我待ししらはぎと不v可v詠歟、今按五色を以て五方に配する時、白色は西なる故にかくかけり、五行に依て金を秋とよめるに同じ、待し芽子咲とは必らず芽子に意はあるべからず、芽子の咲そむる比織女に逢へば、あはむ時を待意を芽子を待と云ひて、にほひにゆかむなと寄せたるなるべし、爾寶比は埴生榛原などによせて多くよめるが如し、越方人は織女なり、
 
初、わかまちし秋はきさきぬ。秋はきを、白芽子とかけるは、白は西方秋の色なるゆへなり。八雲御抄に萩の下にしらはきと載させたまへるは、此哥を字のまゝによみて、さはかゝせたまへる歟。白き萩もなきにはあらす。此わかまちしは、ひこほしにて、をちかた人は、たなはたつめなり。これらは、おもひやりて無窮によむなり
 
2015 吾世子爾裏戀居者天河夜舩※[手偏+旁]動梶音所聞《ワカセコニウラコヒヲレハアマノカハヨフネコキトヨミカチオトキコユ》
裏戀は下戀なり、
 
初、わかせこにうらこひをれは。織女の哥なり。うらは下心なり。毛詩に裏の字を心とよめり。以前に引り
 
2016 眞氣長戀心自白風妹音所聽※[糸+刃]解往名《マケナカクコフルコヽロシアキカセニイモカオトキコユヒモトキユカナ》
 
發句は氣長に眞の字を添へたるなり、自はユと讀べし、音を以て點ぜるは叶はず、
 
初、まけなかくこふるこゝろゆ。こゝろしとあるは誤れり。まけなかくは、眞は眞木眞菅なとつけていふにおなし。けなかくは、いきをなかくつきてなけくなり。上に度々尺せり
 
2017 戀敷者氣長物乎今谷乏牟可哉可相夜谷《コヒシケハケナカキモノヲイマタニモトモシムヘシヤアフヘキヨタニ》
 
發句をコヒシケバと點ぜるは戀しければなり、今按コヒシクハとも讀べし、こひしきはの意なり、第十六の長歌云、戀之|久《ク》爾痛|吾身曾《ワカミソ》云々、此戀之久なり、戀しくばとふ(10)らひきませなど云時は戀しからばの意にて替れり、
 
初、こひしけはけなかきものを。こひしけは、こひしければなり
 
2018 天漢去歳渡伐遷閉者河瀬於蹈夜深去來《アマノカハコソノワタリハウツロヘハカハセヲフムニヨソフケニケル》
 
渡伐は波場なり、濁音の伐の字をかける此意なり、去年の渡場の替りたる故に渡るべき瀬踏する間に夜の深たるとなり、拾遺又人丸集にこぞの渡のあさせふむまにと云へり、赤人集にもあり、於をてにをはのを〔右○〕にかける事前に注せしが如し、此歌は友則が天川淺瀬しら浪たどりつゝ渡りはてねば明ぞしにけるとよめる意に似たり、
 
初、天川こそのわたりは。わたりばのばもしは、伐の字をかきたれは、濁てよむへし。渡場なり。此哥は、古今集に天川あさせしら浪たとりつゝわたりはてねは明そしにける。これに似たり
 
2019 自古擧而之服不顧天河津爾年序經去來《ムカシヨリアケテシコロモカヘリミスアマノカハツニトシソヘニケル》
 
發句はイニシヘユとも讀べし、擧而之服とは機にあげ置和妙の衣なり、下に古織義之八多乎《イニシヘニヲリテシハタヲ》とよめるに同じ、絹も布も後には裁て服とすれば因中説果の例にかくは云なり、昔より機には擧置ながら牽牛を戀るに織ことお※[女+頼]《モノウ》ければ顧もせずして年を經たを由なり、
 
初、昔よりあけてしころも。織女は神代よりにきたへの衣おれるゆへに、たなはたつめといふ名を得たり。あけてし衣は、布おらんとて、機にはあけおきたれとも、彦星を待こふる心の切なるゆへに.其はたものをもかへりみぬよしなり。下に、いにしへにおりてしはたをとよあるを思ふへし
 
2020 天漢夜舩※[手偏+旁]而雖明將相等念夜袖易受將有《アマノカハヨフネヲコキテアケヌトモアハムトオモフヨソテカヘスアレヤ》
 
(11)落句の終に哉の字有べし、落たるにや、袖かへずあらむやかへずばあらじとなり、
 
初、あまの川よふねをこきて。夜ふねをこくほとに、たとひ明ゆくとも、かねてあはむとおもひつる夜なれは袖をかはさゝらんや。かはさんとなり。有の字の下に、哉の字のをちたりとみゆ。ひこほしにてよめり
 
2021 遙※[女+莫]等手枕易寢夜?音莫動明者雖明《トホツマトタマクラカヘテネタルヨハトリカネナクナアケハアクトモ》
 
※[女+莫]は玉篇云、〓かゝれば今の義に非ず、玉篇云、※[女+莫]、【於京切、女之美稱、】若此字を書誤れるにや、赤人集にはとほきいもとたまくらやすくとあり、第十一に遠妹をトホツマと點ぜり、妹をつまとよめる例なければ彼もとほきいもならば今もとほきいもとも讀ぬべし、易は今の點よし、たまくらやすくとよめるもあしからぬやうなれど此集を委見む人叶はぬ事を知べし、
 
2022 相見久※[厭のがんだれなし]雖不足稻目明去來理舟出爲牟※[女+麗]《アヒミマクアキタリネトモイナノメノアケユキニケリフナテセムイモ》
 
稻目、【赤人集云、シノヽメノ、六帖同v此、】  ※[厭のがんだれなし]雖不足、【六帖云、アキタラストモ、袖中抄同v此、】
 
第二の句今の點の意は牽牛のみづから云なり、六帖の意は織女の意を牽牛のくみて云なり、稻目とはしのゝめに同じ、神代紀上云、乃以2御手1細2開磐戸1窺v之、此しのゝめの明る事の本、山のはのほそくしらむをしのゝめと云は小竹目《シノヽメ》の意なるべし、人の目を少し開《アク》になずらへて細開をもホソメニアケとは點ぜる歟、俗に目の細きを薄(12)にて切たらむ程と云もしのすゝきと云へばしのゝめに近し、稻葉も細き物なればいなのめも亦しのゝめの意に同じ赤人集并六帖にしのゝめのと有は顯宗紀云、十束《トツカノ》稻穗云々、此稻をシネと點じ、和名集に※[米+造]、【加知之禰、】※[禾+古]、【乃古利之禰、】粳、【宇流之禰、】此等皆いね〔二字右○〕と云はずしてしね〔二字右○〕と云は伊と志と同韻の字にて通ずる故なり、されば此言を得てよめる歟、されども欽明天皇の御時蘇我稻目大臣あり、其讀いなめなり、名づかれけむ意はしらねど推古天皇の御時粟田(ノ)細目《ホソメ》と云人もあればほそめの意なるべし、然れば昔よりいなのめともしのゝめとも兩方に云ひ來れりと見えたれば今の點にて讀べきにや、六帖には人丸の歌とす、
 
初、あひみまくあきたらねとも。いなのめは、しのゝめにおなし。神代紀上云。乃(チ)以2御手(ヲ)1細2開《ホソメニアケテ》磐戸(ヲ)1窺《ミソナハス》v之。これしのゝめのはしめなるへし。俗に目のほそきを、薄にてきりたらんほとゝいふかことく、しのゝはもいなはも、ほそき物なれは、山のはのほそくしらむをたとへて、この名はおほせけるなるへし。又稻の字を、日本紀に、しねとよめり。伊と之とは同韻の字なれは、通せるなるへし。うるしねといふも、うるいねなり。禰と能と五音相通すれは、稻目とかけるを、しのゝめともよむへし
 
2023 左尼始而何太毛不在者白栲帶可乞哉戀毛不遏者《サネソメテイクタモアラネハシロタヘノオヒコフヘシヤコヒモツキネハ》
 
第二の句はいく程もなきにの意なり、帯可乞哉とはきぬ/\になる時其帯取て給はれと織女に乞べしやはとなり、落句は戀《コヒ》も盡《ツキ》ぬになり、二つの者の字の事以前注せしが如し、落句《ラツク》の遏を校本に過に作り、紀州の本の點にスキネハとあれど下にも此句ある歌あるに五字共に今と同じければ異を取らず、
 
初、さねそめていくたもあらねは。ねそめて、何ほとの間もなきになり。いくたもあらねは、上に度々いへることく、いくたもあらぬにの心なり。こひもつきねはも同し心なり。白たへのおひこふへしやとは、きぬ/\の時、そのおひ取て給はれなとこふへしやはなり。又別をおしむゆへに、ひこほしの帶を、たなはたつめの取をくを、それたまはれとこふへしやはと、いへる心にもあるへし
 
2024 萬世携手居而相見鞆念可過戀奈有莫國《ヨロツヨニタツサヰヽテアヒミトモオモヒスクヘキコヒナラナクニ》
(13)携手居而、【官本又云、テタツサヘヰて、幽齋本、テタツサヒヰテ、】
 
第二句赤人集にはたづさはりゐてとあり、古本には手の字のなかりける歟、今の本には叶はず、紀州本の點も赤人集と同じ、下句は弟三に明日香河々よどさらず立霧のと赤人のよまれたる歌に同じ、
 
初、よろつ世に手たつさひゐて。手たつさゐゝてとあるはわろし。あるひはたつさへゐてとよむへし。あひみともは、あひみるともといふへきを、此集にはかくいへること例おほし。おもひ過へきとは、おもひをやり過すなり。第三の廿九葉、赤人の哥に、明日香川かはよとさらすたつ霧の、下句今とおなし。只こひにあらなくにといへり。よろつよは、萬年をいへり
 
2025 萬世可照月毛雲隱苦物叙將相登雖念《ヨロツヨニテルヘキツキモクモカクレクルシキモノソアハムトオモヘト》
 
萬世までも照べき月と思へど雲隱れぬれば苦しき如く、萬世に相見むとは思へど別るゝは苦しき物をと云意なり、月の雲隱は譬なるを譬の上に別の苦しき心をこめて落句にて知らするなり、雖念はモヘドと讀べし、
 
初、萬世にてるへき月も。萬世も、月のてることく、あふことも、おなしからんとはおもへとも、雲かくれする間のことく、あはぬほとは、心もくれてくるしき物をとなり。いつれの星につきていふともなし
 
2026 白雲五百遍隱雖遠夜不去將見妹當者《シラクモノイホヘカクシテトホケトモヨカレセスミムイモカアタリハ》
 
隱、【官本云、カクレテ、】  雖遠、【幽齋本云、トホクトモ、】
 
夜不去は今按今の本の點叶はず、去をかるとよめる例なし、ヨヒサラズと讀べし、此卷下に至て奥山《オクヤマ》爾|住《スムテ》ふ男鹿之初夜不去《シカノヨヒサラス》云々、よひさらずは即夜かれせずの意なり、
 
2027 爲我登織女之其屋戸爾織白布織弖兼鴨《ワカタメトタナハツメノソノヤトニヲルシラヌノハヲリテケムカモ》
 
(14)2028 君不相久時織服白栲衣垢附麻弖爾《キミニアハテヒサシキトキニヲリキタルシロタヘコロモアカツクマテニ》
 
織服、【赤人集云、オリキセシ、】
 
織服は今の點にては織女と成てみづから織て着るなれば、君とは牽牛を指て云へり、赤人集の點に依てよめは牽牛に代て讀て君とは織女を指なり、
 
初、君にあはて。久しき時には久しき間にと心得て第三の句は下へつけてきくへし
 
2029 天漢梶音聞孫星與織女今夕相霜《アマノカハカチノオトキコユヒコホシトタナハタツメトコヨヒアフラモ》
 
孫星は和名集云、爾雅(ニ)云、子(ノ)之子爲v孫、【尊反、和名無萬古、】一云【比古、】今の俗誤て曾孫《ヒヽコ》をひこと思へり、又云、爾雅云、孫(ノ)之子(ヲ)爲2曾孫1、【和名比比古、】新拾遺は赤人集に依て作者を定められたり、
 
初、孫星《ヒコホシ》、和名集(ニ)云。爾雅(ニ)云。子之子(ヲ)爲v孫(ト)【尊反。和名無万古。】一云【比古。】世俗に、孫之子を比古といふは誤なり。同云。孫(ノ)之子(ヲ)爲2曾孫(ト)1【和名比比古】
 
2030 秋去者河霧天川河向居而戀夜多《アキサレハカハキリタチテアマノカハカハニムカヒテコフルヨソオホキ》
 
河霧、【赤人集云、カハキリワタル、】  河向居而、【官本云、カハニムカヒヰテ、】
 
河霧の下に、今の點に依らば發立等の字、赤人集に依らば渡の字落たるべし、第四句は官本の點よし、
 
初、秋されは河露。霧の下に、立の字をちたるへし
 
2031 吉哉雖不直奴延鳥浦嘆居告子鴨《ヨシヱヤシタヽナラストモヌエトリノウラナキヲルトツケムコモカモ》
 
(15)浦嘆居はウラナケヲルトと讀べし、袖中抄に一二の句をよきかなやたゞならねども、四句をうらなげきをるととあるは皆よからず、
 
初、よしゑやしたゝならすとも。たゝならすともは、たゝちにあはすともなり。ぬえ鳥はさきにいへるかことし
 
2032 一年邇七夕耳相人之戀毛不遏者夜深往久毛《ヒトヽセニナヌカノヨノミアフヒトノコヒモツキネハヨハフケユクモ》
 
戀毛不遏者は上に云如く戀もつきぬになり、不遏者を赤人集にあはねばとあるは推量するに遏を遇に見まがへたる歟、或は古本誤て遇に作りけるなるべし、
 
一云|不盡者佐宵曾明爾來《ツキネハサヨソアケニケル》
 
此に疑あり、集中異本を注する例、句に異あるを注し載て、異なきを注する事なし、今不盡者とは不遏者の異歟、共にツキネバとよめば異なし、假令不遏者はヤマネバと讀とも一云戀毛不盡者等と云べし、何ぞ一句の半を出さむ、此は撰者の注にはあらずして後人の所爲歟、若撰者の注ならば不遏者はやまねばにて今の注に戀毛の二字落たるなるべし、
 
初、一とせに。戀もつきねはゝ、上にいふことく、こひもつきぬになり
 
2033 天漢安川原定而神競者磨待無《アマノカハヤスノワタリノサタマリテコヽロクラヘハトキマツナクニ》
 
此下句いと意得がたし、赤人集にかゝるわかれはとくとまたなむとあるは取て證(16)するに足らず、今試に此を釋せば先下句を和しかへてカヾミクラベハトゲモマタナクと讀べき歟、日本紀に明神をアラカヽミと點ぜれば神を鏡になしてよまむ事無理ならず、神道家かみはかゝみの略語と云へり、後撰集に共鏡とよめるは互に見合する意なれば鏡競とも云べきにや、かくての意は牛、女の互に相思ふ心の明らかに淨き事は鏡に鏡を向へてくらぶるに此方彼方替る事なきが如し、されども其鏡は猶磨を待て然るを、此二星は淵瀬變らぬ天河の神代より定まる如くにて、心を勵して淨からむと思はねどおのづから淨きを磨もまたなくとよめるにや、
 
初、天川やすのかはらの。神代紀上云。復劔匁(ヲ)垂(ル)血是(レ)爲《ナル》2天(ノ)安河|邊所在《ラニアル》五百箇磐石《イホツイハムラト》1也。安川もまた天川の名なり。下の句は、いかによめるにか。その心得かたし。今案日本紀に、明神とかきてあらかゝみともよめり。しかれは、かゞみくらべはとぐもまたなくとよむへき歟。心は牛女たかひにあひおもふ心の、あきらかにきよきことは、かゝみにかゝみをむかへて、くらふるに、こなたかなたかはることなきかことし。されとも、そのかゝみは、猶とぐを待てしかるを.此二星はふちせかはらぬ天川の神代よりさたまることくして、きよからんと、心をはげまさねど、をのつからきよきを、とぐことをもまたぬといへるにや。後撰集に、ともかゝみとよめるに、かゝみくらべといふもおなしからんか
 
此歌一首庚辰年作之
 
庚辰年は次に人丸歌集出とあれば人丸の歌にもあれ別人の歌にもあれ天武天皇白鳳九年の作なるべし、
 
右柿本朝臣人麿歌集出
 
初、注に此哥一首庚辰年作v之。右柿本朝臣人麿歌集出。庚辰は天武天皇白鳳九年なり。人まろは持統天皇の御世に都へのほられたり。第二卷に見えたり。しかれは、此一首は石見にてよまれたる歟。作之といふ下に、引つゝけてはかゝすして、右柿本等かけるは、以前の七夕歌三十八首、ともに人麿歌集に出てみな人丸の哥なる歟。他人の哥をも書載られたる歟。第十四、東哥の中にも、人丸の集に出といふ哥あるにて知ぬへし。もしまた終の一首のみ、人麿の集に出と心得へき歟。他書に右幾十幾首誰集中出といへるに准すれは、都合を注せさるは、一首の注にや
 
2034 棚磯之五百機立而織布之秋去衣孰取見《タナハタノイホハタタテヽヲルヌノヽアキサリコロモタレカトリミム》
 
五百機は天雲の五百重とも五百重山ともよめる如く機の多き意なり、秋去衣は此(17)卷初に春は來にけりと云事を春去にけりとよめるやうに秋來ての衣と云意に名付たり、袷を云と云説あり然るべし、秋興賦云、於是乃屏2輕簾(ヲ)1釋2繊※[糸+奇]1、藉2莞蒻御袷衣(ヲ)1、此に叶へり、八雲御抄に七夕布也と注せさせ給へるは此歌に依てなり、されど待賢門院堀河が、旅にして秋去衣寒けきに、痛な吹そ武庫浦風とよめる歌は、續後撰に入れられたれば寛く前の説に通ずべし、孰取見とは彦星こそ取見めの意なり、第七にも此詞有き、
 
初、たなはたのいほはた。いほ機は、唯はたをおほくたつるをいふ、山のおほくかさなるを、いほへ山といふかことし。秋さり衣は、秋きての衣といふ心なり。袷をいふともいへり。それもたかふへからす。たれか取見むは、ひこほしこそ取著てみめなり。第七にことし行にひさきもりかあさころもかたのまよひは誰かとりみん。此誰か取見むといふに准せは、今より後の衣は、誰か取みんといふ心にや
 
2035 年有而今香將卷烏玉之夜霧隱遠妻手乎《トシニアリテイマカマカナムヌハタマノヨキリコモリテトホツマノテヲ》
 
將卷、【官本又云、マクラム、】
 
將卷をマカナムと點ぜるは誤れり、マクラムと讀べし、
 
初、年に有て今かまくらん。今かまかなむとあるは誤れり
 
2036 吾待之秋者來沼妹與吾何事在曾※[糸+刃]不解在牟《ワカマチシアキハキタリヌイモトワレナニコトアレソヒモトカサラム》
 
2037 年之戀今夜盡而明日從者如常哉吾戀居牟《トシノコヒコヨヒツクシテアスヨリハツネノコトクヤワカコヒヲラム》
 
2038 不合者氣長物乎天漢隔又哉吾戀將居《アハサルハケナカキモノヲアマノカハヘタテヽマタヤワカコヒヲラム》
 
(18)不合者、【人麿集云、アハステハ、】
 
今按發句はアハナクバと讀まば古風に叶ふべき歟、第十四にあはぬもあやしと云を阿波奈久毛安夜思とよめり、
 
2039 戀家口氣長物乎可合有夕谷君之不來益有良武《コヒシケクケナカキモノヲアフヘクアルヨニタニキミカキマサヽルラム》
 
可合有はアフベカルとも讀べき歟、九阿反加となる故なり、
 
2040 牽牛與織女今夜相天漢門爾波立勿謹《ヒコホシトタナハタツメトコヨヒアハムアマノカハトニナミタツナユメ》
 
今夜相、【別校本云、コヨヒアフ、】
 
腰句、人丸集には今の點の如し、赤人集は別校本の如し、
 
2041 秋風吹漂蕩白雲者織女之天津領巾毳《アキカセノフキタヽヨハスシラクモハタナハタツメノアマツヒレカモ》
 
白雲を領巾と云事上に既に注せり、赤人周并六帖には落句をあまつきぬかもと改ためたり、
 
初、秋風の吹たゝよはす。第二に、白たへのあまひれこもりといへるは、白雲かくれといふ事なりとは、此哥をもて證しき
 
2042 數裳相不見君矣天漢舟出速爲夜不深間《シハ/\モアヒミヌキミヲアマノカハフナテハヤセヨヨノフケヌマニ》
 
(19)2043 秋風之清夕天漢舟榜度月人壯子《アキカセノキヨキユフヘニアマノカハフネコキワタルツキヒトヲトコ》
 
2044 天漢霧立度牽牛之※[楫+戈]音所聞夜深徃《アマノカハキリタチワタルヒコホシノカチノオトキコユヨノフケユケハ》
 
天漢、【官本、漢或作v河、】
 
度をワタルと點ぜるは叶はず、ワタリと讀べし、霧も立度り※[楫+戈]の音も聞ゆとなり、
 
2045 君丹今※[手偏+旁]來良之天漢霧立度此川瀬《キミカフネイマコキクラシアマノカハキリタチワタルコノカハノセニ》
 
2046 秋風爾河浪起暫八十舟津三舟停《アキカセニカハナミタチヌシハラクハヤソノフナツニミフネトヽメム》
 
2047 天漢川聲清之牽牛之秋榜舩之浪※[足+參]香《アマノカハカハオトキヨシヒコホシノアキコクフネノナミサワクカ》
 
清之は今按落句に依て按ずるに今の點叶はず、サヤケシと讀べし、第六に足引之御山毛清落多藝都芳野河之《アシヒキノミヤマモサヤニオチタキツヨシノヽカハノ》云々、此さやは瀧の音を云へり、委は第二のさゝの葉はみ山もさやに、亂れどもと云歌に注せしが如し、※[足+參]は躁歟、驂歟、
 
2048 天漢川門立吾戀之君來奈里紐解待《アマノカハカハトニタチテワカコヒシキミキマスナリヒモトキマタム》 一云|天川河向立《アマノカハカハムキタチ》
 
(20)向立はムカヒタチと讀べし、
 
2049 天漢川門座而年月戀來君今夜會可母《アマノカハカハトニヰツヽトシツキヲコヒコシキミニコヨヒアヘルカモ》
 
座而は今の點にては織女に成て讀意なり、赤人集のよみやうは此方よ思ひやるなり、
 
2050 明日從者吾玉床乎打拂公常不宿孤可母寐《アスヨリハワカタマユカヲウチハラヒキミトハヱステヒトリカモネム》
 
明日從者、【赤人集云、アスカラハ、】
 
公常不宿はキミトハネズテと讀べし、エステとあるは寫生の誤なり、或はキミトネナクニとも讀べし、
 
2051 天原往射跡白檀挽而隱在月人壯子《アマノハラユキテヤイルト》シラマユミヒキテカクセルツキヒトヲトコ》
 
射跡、【袖中抄云、イムト、赤人集云、イモト、】
 
往の字の下に哉の字や落て侍らむ、射跡を赤人集にいもとゝあるもいむとに同じ、昔は毛と牟とを通して假名にもかけり、南無をなも〔二字右○〕と云ひ、法華|懺《セム》法するに至心懺悔をしゝもさむくわい〔八字右○〕と讀類なり、和泉式部が人もがな見せもきかせか萩が花、咲(21)く夕かげの日ぐらしの聲とよめるも、見せもせむきかせもせむを云ひ殘せるにはあらで見せむきかせむとよめるとぞおぼしき、此歌は極て意得がたき歌なり、試に強て釋せば彦星の織女に逢むと思ふを獵師の鹿を射むとするに譬へ、逢べき時を待を弓を引かくしてねらひよる程に譬ふる歟、隱在と云處句なり、上の行てやと云を承る首尾なり、此歌は上弦月をいろへてよめる作なり、楚辭九歌東君云、擧2長矢1兮射2天狼1、操2余弧1兮反淪降、
 
初、天原ゆきてやいると。此哥は心得かたき哥なり。こゝろみに尺せは、ひこほしの妻にあふを、かり人の鹿にあひて射るにたとへたるか。ゆきてやいるとゝいふ句を、ゆきているとやと見るへし。ひきてかくせるは、七日は夕月夜なり。月の入て後あふといへは、弓張月の入を、ひきてかくすといふなるへし。かくせるにて切て、句とすへし
 
2052 此夕零來雨者男星之早※[手偏+旁]船之賀伊乃散鴨《コノユフヘフリクルアメハヒコホシノハヤコクフネノカイノチルカモ》
 
早榜船、【赤人集云、トクコクフネ、家持集同v此、】
 
賀伊乃散鴨とは棹のしづくの散かとなり、赤人集にはかいのしづくかと改たり、家持集も亦同じ、古今集に、我上に露ぞ置なる天川、とわたる舟のかいのしづくかとよめるも似たる歌なり、
 
初、此夕ふりくる雨はひこほしの。はやこくは、急て早くこくとて、棹のしつくのするが、此夕の雨とふりくるかとなり。新古今集には、下の句を、とわたる舟のかいのしつくかと改て、赤人の哥とせり。古今集ならひに伊勢物語に、わかうへに露そ置なる天川とわたる舟のかいのしつくかといふ哥似たる作なり
 
2053 天漢八十瀬霧合男星之時待舩今榜良之《アマノカハヤソセキリアフヒコホシノトキマツフネハイマカコクラシ》
 
2054 風吹而河浪起引舩丹度裳來夜不降間爾《カセフキテカハナミタチヌヒクフネニワタリモキマセヨノフケヌマニ》
 
(22)引船はヒキフネと讀べし、第十一云、驛路爾引舟渡云々、
 
2055 天河遠度者無友公之舟出者年爾社候《アマノカハトホキワタリハナケレトモキミカフナテハトシニコソマテ》
 
後撰と人丸集とは今の本と同じ、拾遺と六帖とは二三句、とほきわたりにあらねどもとあり、
 
初、天河とほきわたりはなけれとも。遠きわたりにあらねともとあらためて、人まろの哥とせり。後撰集には今のことく載たり
 
2056 天河打橋度妹之家道不止通時不待友《アマノカハウチハシワタスイモカイヘチヤマスカヨカヨハムトキマタストモ》
 
打橋度は人丸集も赤人集も並に今の點と同じけれど、今按ウチハシワタセと讀べし、第十八家持七夕歌云、天河橋渡せらば其《ソノ》上ゆも、伊渡らさむを秋にあらずとも、此に思ひ合すぺし.神代紀下云、又於2天安河1亦造2打橋1、
 
初、天河打橋わたす。第二、第四、第七にも、打橋はよみて、すてに注せり。此下にもよめり。此哥結句に時またすともとあれは、打橋わたせとよみて、こゝをも句とすへし。打橋をたにわたしたらましかは、やますかよはむなり。又は打橋わたしともよむへし。これはわかわたしてやますかよはんなり。かねてより打橋わたすと心得は、わたすにても有へし
 
2057 月累吾思妹會夜者争之七夕續巨勢奴鴨《ツキカサネワカオモフイモニアヘルヨハコノナヌカノヨツキコセヌカモ》
 
落句は續こせと願ふ意なり、
 
2058 年丹装吾舟榜天河風者吹友浪立勿忌《トシニヨソフワカフネコカムアマノカハカセハフクトモナミタツナユメ》
 
2059 天河浪者立友吾舟者率※[手偏+旁]出夜之不深間爾《アマノカハナミハタツトモワカフネハイサコキイテムヨノフケヌマニ》
 
(23)2060 直今夜相有兒等爾事問母未爲而左夜曾明二來《タヽコヨヒアヒタルコラニコトトヒモイマタセスシテサヨソアケニケル》
 
2061 天河白浪高吾戀公之丹出者今爲下《アマノカハシラナミタカクワカコフルキミカフナテハイマソスラシモ》
 
高はタカシと讀べし、浪の音の高く聞ゆるは君が舟出するならむと思ふなり、月によせ山によせて高々に待などよめるこそよけれ、浪によせては讀べくもなし、
 
初、天川白浪高し。高くとあるは誤なり
 
2062 機※[足+榻の旁]木持徃而天河打橋度公之來爲《ハタモノヽフミキモチイテアマノカハウチハシワタスキミカコムタメ》
 
※[足+榻の旁]木は機織る者の尻打懸る板なり、往而はユキテと讀べし、
 
初、はたものゝふみ木。はたおる時、しり打かくる板なり
 
2063 天漢霧立上棚幡乃雲衣能飄袖鴨《アマノカハキリタチノホルタナハタノクモノコロモノカヘルソテカモ》
 
2064 古織義之八多乎此暮衣縫而君待吾乎《イニシヘニオリテシハタヲコノユフヘコロモニヌヒテキミマツワレヲ》
 
初、いにしへにおりてしはたを。義をてとよめる事此集にあまた有。その心を得す
 
2065 足玉母手珠毛由良爾織旗乎公之御衣爾縫將堪可聞《アシタマモテタマモユラニヲルハタヲキミカミケシニヌヒアヘムカモ》
 
手球は六帖も今の點と同じけれど、日本紀并に此集第十一にもタヽマと點ぜるに依べき歟.神代紀下云、天孫又問曰、其於2秀|起浪穗《タツルナミホノ》之上1起2八|尋殿《ヒロノトノ》1而|手玉玲瓏織※[糸+壬]之少(24)女者《タタマモユラニハタオルヲトメハ》是誰之子女耶、仁徳紀云、爰皇后奏言、雌鳥皇女《メトリヒメミコハ》寔當(レリ)2重罪1、然其殺之日不v欲v露2皇女身1、乃因勅2雄※[魚+即]等1莫v取2皇女所v賚《モテル》之足玉手玉(ヲ)1、御衣は日本紀には衣裳と書てもミケシとよめり、
 
初、あしたまもたゝまもゆらに。神代紀下云。天孫《アメミマ》又問(テ)曰。其於|秀起浪穗之《サキタツルナミホノ》之上(ニ)起《タテヽ》2八尋殿《ヒロノトノ》1而|手玉玲瓏織※[糸+壬]之少女《タタマモユラニハタオルヲトメハ》者是(レ)誰(カ)之|子女耶《ムスメソヤ》。仁徳紀云。爰(ニ)皇后|奏言《マウシテ》。雌《メ》鳥(ノ)皇女《ヒメミコハ》寔(ニ)當(レリ)2重罪(ニ)1。然(モ)其(ノ)殺(サン)之日不v欲(ホニシ)2露《アラハサンコト》皇女(ノ)身(ヲ)1。乃(チ)因(テ)勅(シテ)2雄※[魚+即]等(ニ)1莫(ラシム)v取(コト)2皇女所v賚《モテル》之足玉手玉(ヲ)1。此集第十一に旋頭哥に、にひむろのふむしつけこか手玉ならすもとよめり
 
2066 擇月日逢義之有者別乃惜有君者明日副裳欲得《ツキヒエリテアヒテシアレハワカレチノヲシカルキミハアスサヘモカナ》
 
擇とは七月七日と定むるなり、之は助語なり、別乃は古風に任てワカレノと讀べし、別路ともかゝぬ上に別路は古語にあらぬにや、集中今の外見えず、
 
初、つきひゑりてあひてしあれは。七月七日とさたまれは、月日ゑりてとはいへり。あすさへもがなとは、あすさへきませがなゝり。義の字上にいふかことし
 
2067 天漢渡瀬深彌泛舩而棹來君之※[楫+戈]之音所聞《アマノカハワタルセフカミフネウケテサシクルキミカカチノオトキコユ》
 
棹をサシと義訓せるは、榜をこぐとよめる意に同じ、
 
2068 天原振放見者天漢霧立渡公者來良志《アマノハラフリサケミレハアマノカハキリタチワタルキミハキヌラシ》
 
落旬は牽牛の織女の方へ來ぬらしと此方より思ひやるなり、若織女と成て牽牛を公者と云はゞきぬらしをの点叶はすクルラシ〔四字右○〕と讀べし、
 
2069 天漢瀬毎幣奉情者君乎幸來座跡《アマノカハセコトニヌサヲタテマツルコヽロハキミヲサチクイマセト》
 
(25)落句の點誤れり、サキクキマセトと讀べし、彦星の渡るべき瀬毎に我が幣を奉る情は、彦星の恙なくて渡り來ませと祈る意ぞと織女に代りてよめるなり、今の點は牽牛に代て織女を君と云へると意得たれど、天川を渡らぬ織女の爲に瀬毎に手向すべきに非ず、幸來をサチクと點ぜるは書生の誤にてサキクなるべけれど、幸の一字をサキクと讀べし、來をく〔右○〕ともき〔右○〕とも假て用ゐる事なきにはあらねど此つゞきの書やうを思ひ歌の理を思ふに今按の如くなるべし、
 
初、天川せことにぬさを。幸來座跡、これを、さきくいませとゝよめるは、たなはたつめを、さきくいませとおもふ心に、ひこほしの幣を神に奉らるゝなり。今案幸の字をさきとよみ、來の字を、くとよむましきにはあらねと、これをは、さきくきませとゝよみて、牽牛のために、織女の、幣をまつらるゝと意得へし
 
2070 久方之天河津爾舟泛而君待夜等者不明毛有寐鹿《ヒサカタノアマノカハツニフネウケテキミマツヨラハアケスモアラヌカ》
 
此舟は織女の泛るなり、
 
初、久方のあまのかはつ。よらはたゝ夜なり。あけすもあらぬかは.さきにもいへるがことく、あけすもあらなんと、かへしてこゝろうへし
 
2071 天河足沾渡君之手毛未枕者夜之深去良久《アマノカハアシヌレワタルキミカテモイマタマカネハヨノフケヌラシ》
 
足沾渡、【官本又云、アシヌレワタリ、】  深去良久、【幽齋本云、フケヌラク、】
 
第二の句は官本の又點よし、其故は牽牛に代はりて足沾て渡て織女の手枕をもせぬにはや夜の深たると歎くなり、今の點にては織女に成て讀意なり、手枕をかはすと云へど一方を云ひて一方を顯はす時は女の手を男のまくと云べき理なり、足沾(26)渡は勞苦する意なり、淮南子云、※[手偏+丞]v溺之人不v得v不v濡v足、落句の中の久をシ〔右○〕と點ぜるは書生の失錯なり、
 
初、天川あしぬれわたり。わたるとあるは誤れり。あしぬれわたるは、勞するをいへり。第十一に、おもふにしあまりにしかはにほ鳥のあしぬれくるを人みけむかも。いまたまかねは、いまたまかぬになり。此詞つかひ度々いへるかことし。よのふけぬらし。久の字にてとまりたれは、ふけぬらくとよむへし。若之の字を誤れる歟
 
2072 渡守舩度世乎跡呼音之不至者疑梶之聲不爲《ワタリモリフネワタセヲトヨフコヱノイタラネハカモオチノオトセヌ》
 
渡守、【別校本云、ワタシモリ、】
 
渡守は和名集云、日本紀云、渡子、【和名、和太之毛利、】一云、【和太利毛利、】此集第十八云、和多理母理布禰毛麻宇氣受《ワタリモリフネモマウケズ》云々、此せ准據とするにや、渡守をみなワタリモリとのみ點ぜり、乎は助語なり、或は與と同韻にて通ずれば船度せよとと云にや、第七に似たる歌有て彼處《ソコ》には呼《ヨ》とありき、
 
初、わたりもりふねわたせをと。わたしもりとも、わたりもりともいふ、おなしことなり。和名集云。日本紀云。渡子【和名和太之毛利。】一云、【和太利毛利。】又云。文選江賦云。渉人《ワタシモリ・ワタリモリ》於是|艤《タヽス》v榜《サヲヽ》【艤正也。榜和名佐乎。】わたせをの、をもしは助語なり。又はわたせよといふにおなしともみるへし。同韻にて通すれはなり。第七に、うち川を舟わたせよとよはへともきこえさるらしかちおともせす。似たる哥なり
 
2073 真氣長河向立有之袖今夜卷跡念之吉沙《マケナカクカハニムキタチタリシソテコヨヒマカムトオモヘルカヨサ》
 
河向立、【赤人集云、カハニムカヒテ、官本立或作v?、點赤人集同、】  有之袖、【赤人集云、アリシソテ、】
 
向立は上にも云如くムカヒタチと讀べし、有之袖は今の點よからず、アリシ袖と云に付べし、
 
初、まけなかく川にむきたちありし袖。たりし袖とあるは誤れり
 
2074 天漢渡湍毎思乍來之雲知師逢有久念者《アマノカハワタシセコトニオモヒツヽコシクモシルシアフラクオモヘハ》
 
(27)天漢、【官本、漢作v河、】
 
下句、第八に右大臣橘家にて安倍虫丸のよまれたるに似たり、
 
2075 人左倍也見不繼將有牽牛之嬬喚舟之近附往乎《ヒトサヘヤミツカスアラムヒコホシノツマヨフフネノチカツキユクヲ》  一云|見乍有良武《ミツヽアルラム》
 
嬬喚舟は此下にもよめり、第八に迎嬬《ツマムカヘ》船とよめるが如し、今按ツマヨビブネと六字を連ねて体になして讀べきにや、嬬喚舟の近附うれしさを、猶岸に著て迎へて歸るまでも見とげて二星の同じ意に悦ばむとなり、
 
初、人さへやみつかすあらん。ひこほしの、妻迎船の近つくうれしさを、人さへ見とゞけずあらんやはなり
 
2076 天漢瀬乎早鴨烏珠之夜者闌爾乍不合牽牛《アマノカハセヲハヤミカモヌハタマノヨハフケニツヽアハヌヒコホシ》
 
初、天川瀬をはやみかも。わたりかねて、夜をふかすをいへり
 
2077 渡守舟早渡世一年爾二遍徃來君爾有勿久爾《ワタリモリフネハヤワタセヒトトセニフタタヒカヨフキミニアラナクニ》
 
拾遺は人丸集に依て載らる、六帖にもあり、
 
2078 玉葛不絶物可良佐宿者年之度爾直一夜耳《タマカツラタエヌモノカラサヌラクハトシノワタリニタヽヒトヨノミ》
 
初、玉かつらたえぬ物から。古今集に.みつねか哥、年毎にあふとはすれとたなはたのぬる夜の數そすくなかりける。後撰集にふたゝひ載たるには、あらたまの年のわたりは
 
2079 戀日者氣長物乎今夜谷令乏應哉可相物乎《コフルヒハケナカキモノヲコヨヒタニトモシムヘシヤアフヘキモノヲ》
 
(28)上の人丸集の歌の中に大形似たる有き、落句はとく相べき物をの意なり、
 
2080 織女之今夜相奈婆如常明日乎阻而年者將長《タナハタノコヨヒアヒナハツネノコトアスサヘタテヽトシハナカケレ》
 
上に年之戀今夜盡而と有し歌に似たり、明日乎阻而とは明日は阻而なり、
 
初、たなはたのこよひあひなは。上に年のこひこよひつくしてと有し哥に似たり
 
2081 天漢棚橋渡織女之伊渡左牟爾棚橋渡《アマノカハタナハシワタスタナハタノイワタラサムニタナハシワタス》
 
伊は發語の詞、織女之と云次に彦星乎と句を添へて意得べし、
 
初、あまの川たなはしわたす。いわたらさんに、いは發語の辭。ひこほしをわたらせんために、たなはたつめの、棚橋わたすなり。橋をかけたるは、柵のことくなれは、たなはしといふ歟。また以前周賀か詩を引ることく、水棚といへるは橋なり
 
2082 天漢河門八十有何爾可君之三舩乎吾待將居《アマノカハカハトヤソアリイツコニカキミカミフネヲワカマチヲラム》
 
2083 秋風乃吹西日從天漢瀬爾出立待登告許曾《アキカセノフキニシヒヨリアマノカハセニイテタチマツトツケコソ》
 
古今集に、秋風の吹にし日より久方の、天の河原にたゝぬ日はなし、似たる歌なり、吹ニシのに〔右○〕は助語なり、
 
初、秋風の吹にし日より。古今集に、秋風のふきにし日より久かたのあまの川らにたゝぬ日はなし。似たる哥なり
 
2084 天漢去年之渡湍有二家里君將來道乃不知久《アマノカハコソノワタリセアレニケリキミカキマサムミチノシラナク》
 
2085 天漢湍瀬爾白浪雖高直渡來沼待者苦三《アマノカハセヽニシラナミタカケレトタヽワタリキヌマテハクルシミ》
 
(29)落句は今まで待つれば苦しとよめる歟、浪の静まらむ程をまてば苦しとにや、
 
初、天川せゝにしらなみ。後撰集にはせゝのしらなみ、まつにくるしみと改て載たり
 
2086 牽牛之嬬喚舟之引綱乃將絶跡君乎吾念勿國《ヒコホシノツマヨフフネノヒクツナノタエムトキミヲワカオモハナクニ》
 
引綱之、【官本又云、ヒキツナノ、】
 
嬬喚舟はツマヨビブネとよまむ歟の事上の愚按の如し、發句はヒキツナノと讀べし、つなてなり、和名集云、唐韻云、牽〓、【音支、訓豆奈天、】挽v船(ヲ)繩(ナリ)也、第十四に、谷迫み峯に蔓たる玉葛、絶むの心、我もはなくに、今のつゞき此に同じ、
 
初、ひこほしのつまよふ舟のひきつなの。和名集云。牽〓。唐韻云。牽〓【音支。訓豆奈天】挽《ヒク》v船(ヲ)繩也。ひくつなとあるはよろしからす。第十四に、谷せはみ峯にはひたる玉かつらたえむの心わか|もはなく《・不思》に
 
2087 渡守舟出爲將出今夜耳相見而後者不相物可毛《ワタリモリフナテシイテムコヨヒノミアヒミテノチハアハシモノカモ》
 
第二の句は舟出を爲て出むなり、此舟出は彦星に成て渡守に去來舟を漕還らむと云なり、下句はみづから別るゝ意を慰むるなり、
 
初、わたりもりふなてし出む。又もふなてし出てこむなり
 
2088 吾隱有※[楫+戈]掉無而渡守舟將借八方須臾者有待《ワカカクセルカチサホナクテワタリモリフネカサメヤモシハシハアリマテ》
 
蒙求云、前漢陳遵、字孟公、杜陵(ノ)人、嗜v酒(ヲ)、毎(ニ)2大飲1賓客滿v堂、輒關v門(ヲ)取(テ)2客車轄(ヲ)1投2井中1、雖v有v急終不v得v去、此意に似たり、古今集に久方の天河原の渡し守君渡りなば梶隱してよ、此(30)歌相似たり、又次上の歌は牽牛の渡守に向て云意なるを此は織女のそれに答へてよめる意なり、同じ作者の二首にて意を云ひはつるなるべし、惜は借を誤れり、
 
初、わかかくせるかちさほなくて。古今集に、久かたのあまの川原のわたしもり君わたりなはかちかくしてよ。借を惜に作れるは誤なり。かちさほをも、わか取かくしつれは、渡守とても、舟をかすましけれはしはしはとゝまれと.織女の心をよめるなり。蒙求云。前漢(ノ)陳遵字(ハ)孟公杜陵(ノ)人(ナリ)。嗜v酒(ヲ)毎(ニ)2大飲1賓客滿v堂(ニ)。輒關v門(ヲ)取(テ)2客(ノ)車轄(ヲ)1投2井中(ニ)1。雖v有(ト)v急終(ニ)不v得v去(コトヲ)
 
 
 
2089 乾坤之初時從天漢射向居而一年丹兩遍不遭妻戀爾物念人天漢安乃川原乃有通出出乃渡丹具穗舩乃艫丹裳舳丹裳舩装眞梶繁拔旗荒本葉裳具世丹秋風乃吹來夕丹天川白浪凌落沸速湍渉稚草乃妻手枕迹大舩乃思憑而※[手偏+旁]來等六其夫乃子我荒珠乃年緒長思來之戀將盡七月七日之夕者吾毛悲烏《アメツチノハシメノトキユアマノカハイムカヒヲリテヒトヽセニフタヽヒアハヌツマコヒニモノオモフヒトアマノカハヤスノカハラノアリカヨヒテヽノワタリニクホフネノトモニモヘニモフナヨソヒマカチシヽヌキハタアラシモトハモクセニアキカセノフキクルクレニアマノカハシラナミシノキオチタキツハヤセワタリテワカクサノツマタマクラトオホフネノオモヒタノミテコキクラムソノツマノコカアラタマノトシノヲナカクオモヒコシコヒハツキケムハツアキナヌカノヨヒハワレモカナシモ》
 
有通、【赤人集云、アリカヨフ、幽齋本同v此、】  夕丹、【赤人集云、ヨヒニ、幽齋本同v此、】  落沸速湍渉、【赤人集云、オチタキルハヤセヲワタリ、】  戀將盡、【赤人集云、コヒハツキナム、幽齋本同v此、】  七月、【赤人集云、フムツキノ、官本亦點同v此、】
 
初時從を赤人集にそめしときよりとあれど、かゝる點の例なければ今取らず、射向(31)居而は射は發語の詞なり、古事記上云、故爾天照大御神高木神(ノ)之命以詔2天宇受賣神1、汝者雖d有2手弱|女《メ》1人u與2伊牟迦布神1【自v伊至v布以v音】面勝神(ナリ)、赤人集并官本又點イムカヒスヱテとあれど集中の例に叶はねば今取らず、出出乃渡とは二星の互に立出て見かはす處なれば名付る歟、住吉の出見の濱の名思ひ合すべし、具穗船はくぼまりたる舟なり、易繋辭云、刳v木爲v舟、※[炎+立刀](テ)v木(ヲ)爲v楫《カチト》、旗荒は仙覺抄に多と豆と通ずれば初嵐なりと義を立て、初を波多と通じて云證據に第十九に家持より鵜を池主へ贈らるゝ時の歌の反歌に※[盧+鳥]河立取左牟安由能之我婆多婆吾等爾可伎無氣念之念婆《ウカハタチトラサムアユノシカハタハワレニカキムケオモヒシモハバ》、此婆多婆を初者《ハツハ》と云意と見て引かれたり、和名云、文選注云、鰭、【音、耆、和名波太、俗云比禮、】魚背上|鬣《ウナカミ・タチカミ》也、日本紀延喜式等にもハタと點ぜり、鰭廣物《ハタノヒロモノ》鰭|狹物《サモノ》など云へり、かゝれば引かれたる歌は鰭にやとも云べけれど、其が初をば先我方に遣せよと云にあらずば、取たる程の年魚を皆おこせよと云やうにて際限聞えぬなり、依て證となるべし、本葉は此卷下にも秋|芽子之本葉之黄葉《アキハキノモトハノモミチ》とよめり、本末《モトスヱ》と云字は唐にも木より起て作り、和語も木に付て云へば木の本葉と云に及ばず、やがて其意なり、具世丹とはひとつにと云詞歟、欽明紀に膳臣巴提便が百濟國へ勅使にて渡りし時、彼國の海濱にして少兒《ワカコ》を虎に捕られて、其跡の雪につゞけるを尋て山に入て虎に向て云ひける詞の中に云く、惟|汝《イマシ》威神愛(32)v子(ヲ)一也、齊明紀に天皇紀温湯へ行幸したまひける時皇孫建王を憶給ひての御歌云、瀰儺度能于之〓能矩娜利《ミヤトノウシホノクダリ》、于那倶娜梨《ウナクタリ》、于之廬母倶側尼飫岐底※[舟+可]〓※[舟+可]武《ウシロモクセニオキテカユカム》、此も海の面白きをも又後の方の今城|岡《ヲか》の建《タケルノ》王の墓をもひとつに跡に置て見過してや行かむと歎てよませたまへるにや、初嵐と云て又秋風と云は木がらしの秋の初風と云が如し、あらしもこがらしも用を以て体の名とすれば用と体とを交へて云意なり、風は木の葉に觸て音も聞え吻目にも見ゆれば、木葉もくせに秋風の吹來ぬとは云へり、妻手枕迹は今の點よからず、ツマノテマカムトと讀べし、枕の字を体ならで用にもよめる例多し、大船之思憑而と云はむ爲ながら實を兼たり、吾毛悲烏とは此悲しはあはれぶなり、古今に、露をかなしぶと云に同じ、烏は焉か、焉に通ずる事上に云が如し、
 
初、ああつちのはしめの時ゆ。いむかひをりて、いは發語の辭。出々のわたりにとは、ふたりのほしの、互に立出て見かはす所なれは、名つくるなるへし。住吉の出見の濱も.そこに出て、はるかになかめやれは、名つけたるにや。おなし心なるへし。くほふねは、くほまりたる舟なり。易(ノ)繋辭云。刳《クホメテ》v木(ヲ)爲(シ)v舟(ト)※[炎+立刀]《チツテ》v木(ヲ)爲v楫《カチト》。和名集云。釋名云。艇(ノ)小(シテ)而深(キ)者(ヲ)曰v※[舟+共](ト)【渠睿反字亦作v〓。今案和名太加世、世俗用2高瀬舟(ヲ)1。】はたあらしは初嵐なり。太と豆と五音相通すれは、はたあらしといふなり。第十九に家持越中守たりし時鵜を越前判官大伴池主にをくらるゝ歌の反歌に、うかはたちとらさむあゆのしがはたはわれにかきむけ。おもひしおもはゝ。これ、それがはつは、われにかきむけておこせよとたはふれてよめり。ひれをもはたといふ。延喜式の祝詞に、鰭廣物鰭狭物《ハタノヒロモノハタノサモノ》といへるこれなり。海邊とかきて、あまはたとよみ、※[木+世]の字をふなはたとよみ、すへてかゝるはたといふ詞は、皆通せり。あゆとよみたれはその鰭《ハタ》にやともいふへけれと、哥のすへてのこゝろ、その初穗《ハツホ》といふことゝきこゆれは、これをも今のはたあらしにおもひあはすへし。本葉もくせにとはくせはひとつにいふ詞なり。欽明紀に、勝臣《カシハテノオム》巴|提《ス》か百濟國へ御使に渡りし時、彼國の海濱にして、少兒《ワカコ》を虎にとられて、其跡の雪につゝけるを尋て、山に入て、虎に向ひていひける詞の中にいはく。惟(レ)汝《イマシ》威《カシコキ》神(モ)愛《イツクシム》v子(ヲ)一也《ヒトクセナリ》。かゝれは、末葉も、本葉も、ひとつに秋風の吹くるくれにといへる心なり。後撰集の哥に、うちつけに物そかなしきこのはちる秋のはしめをけふそとおもへは。齊明紀に、天皇紀の温湯《ユ》へみゆきしたまひける時、皇孫建《ミマコタケシノ》王を憶《オモヒ》たまふ御哥三首の内、第二に、瀰儺度能《ミナトノ》、于之〓能矩娜利《ウシホノクタリ》、于那倶娜梨《ウナクタリ》、于之廬母倶側尼《ウシロモクセニ》、飫岐底※[舟+可]〓※[舟+可]武《オキテカユカム》。これも浦々のおもしろきをも、またうしろのかたの、今城《イマキ》の岡の、建王《タケシノオホキミノ》墓をも、ひとつに跡におきて、見過してかゆかむとよませたまへるにや。わか草の妻の手まかんと。仁賢紀云。弱草吾夫※[立心偏+可]怜《ワカクサノアカツマハヤ》矣【古者以2弱草(ヲ)1喩2夫婦(ニ)1故以2弱草1爲v夫。】此集に、第二よりはしめてあまたよめり。此妻は織女なり。つまたまくらとゝある點は、あやまれり。大ふねのおもひたのみて。大ふねは、のるにたのもしけなる物なれは、第二よりはしめて、おもひたのみてとあまたよめり。今はことにそのよせあり。そのつまのこ、これはひこほしをいへり。夫の字をかけるもそのゆゑなり。なぬかのよひはわれもかなしも。此かなしは、おもしろきかたなり。烏は焉と通するよし、和名集に、唐韻を引て注せられたれは、助語なり。からすを、おぞ鳥といふゆへは、上略して、ぞといふかんなの、にこれるにも用たり。今もかなしぞともよむへし
 
反歌
 
2090 狛錦※[糸+刃]解易之天人乃妻問夕叙吾裳將偲《コマニシキヒモトキカハシヒコホシノツマトフヨヒソワレモシノハム》
 
天人之、【赤人集云、アマヒトノ、官本又點同v此、】
 
(33)狛錦は高麗錦なり、和名集錦の下の注云、本朝式有2暈|※[糸+間]《ケム》錦、高麗錦、軟錦、兩面錦等之名1、易之を赤人集にやすきとあるは之の字を忘れたるのみならず、易の字を以※[豆+支]切不v難也、此義を用たるも、集中にかやうに用たる所の例に違へり、今は余赤切にて交易の義を用たり、天人は今の點は※[手偏+總の旁]名の別に取て牽牛とせり、赤人集は惣名を以て彦星を呼べり、第十八に、安萬射可流《アマサカル》、比奈能都夜故爾《ヒナノミヤコニ》、安米比等之《アメヒトシ》、可久古非須良波《カクコヒスラバ》、伊家流思留事安里《イケルシルシアリ》、此腰句の天人に准らへば今もアメヒトノと讀べし、
 
初、こまにしきひもときかはし。こまにしきは、高麗の錦なり。和名集云。本朝式(ニ)有2暈※[糸+間]《ウムケム》錦、高麗錦、軟錦、兩面錦等(ノ)之名1也。允恭紀に天皇の御歌にいはく。佐瑳羅餓多《ササラガタ》、邇之枳能臂毛弘《ニシキノヒモヲ》、等枳舍氣帝《トキサケテ》、阿摩〓絆泥受迹《アマタハネズト》、多〓比等用能未《タダヒトヨノミ》。ときかへては、我もとき、人もとくなり
 
2091 彦星之川瀬渡左小舟乃得行而將泊河津石所念《ヒコホシノカハセヲワタルサヲフネノトユキテハテムカハツシソオモフ》
 
左小舟は小舟に左の字をそへたり、得行而はトクユキテ歟、今按得は和訓なるべきにや、第十一云、面忘|太爾毛得爲也登《タニモエスヤト》云々、第十二云、旅宿得爲也《タビネハエスヤ》云々、此等今はえせじなどこそをえずやと云ひたれば、えゆかじとこそ云べきをえゆきてと云へる歟、行得而と打返して意得べし、石は助語、所念はオモホユと讀べし、
 
初、ひこほしのかはせをわたる。さをふねは、さは付たる字にて、只小舟なり。とゆきては、とくゆきてなり
 
2092 天地跡別之時從久方乃天驗常弖大王天之河原爾璞月累而妹爾相時侯跡立待爾吾衣手爾秋風之吹反者立坐多土 (34)伎乎不知村肝心不欲解衣思亂而何時跡吾待今夜此川行長有得鴨
アメツチトワカレシトキユヒサカタノアマシルシトテオホキミノアマノカハラニアラタマノツキヲカサネテイモニアフトキシヲマツトタチマツワカコロモテニアキカセノフキテカヘセハタチテヰテタツキヲシラスムラキモノコヽロオホエストキキヌノオモヒミタレテイツシカトワカマツコヨヒコノカハノユキナカクアルトカモ》
 
別之時從を赤人集にわけしときよりとあれどよろしからず、第三赤人の不盡山歌の發句も天地|之《ノ》分時從云々、大王天之河原とは君を天子と申奉れば天とつゞくる歟、時シヲのし〔右○〕は助語なり、赤人集にはわきもこにあふときまつとゝあり、今の本若字の落たる歟、立待爾は立て待になり、赤人集にたちまちにとあるは誤なり、吾衣手爾の爾はを〔右○〕になして見るべし、吹シのし〔右○〕は助語なり、立坐多士伎乎不知、此二句今の點誤れり、タチヰスル、タトキヲシラニと讀べし、第十二にも此二句ある歌あり、解衣思亂而とは、衣を解ば亂るゝ故に亂ると云詞設けむ料なり、此川以下は赤人集にこのかはのゆきてながくもありえたるかもとあり、官本の又の點此に同じ、今の本の二句によめる中に落句の點殊に意得がたし、赤人集のよみやうも何時跡吾待今夜と云に違へり、今按行の字の下に如の字有て、このかはのゆくことながくありえてむかもにや有けむ、
 
初、あめつちとわかれし時ゆひさかたのあましるしとて。上の二十六葉に、久かたのあまのしるしと天川へたてゝおきし神世のうらみ。おほきみの天の川原に。みかとをは、天子天皇なと申せは、かくはつゝけたるなるへし。久方の都とつゝけたるも、ひなよりのそめは、天津空なれはいふにもあるへし。又天子のましませはいへるにや。しからは、これに准しても見るへし。智度論に、諸天を説るに、帝王を天子と申をは、名字天といへり。まことには、天にあらざ(ン)めれと、天子と申奉れはなり。わか衣手に秋風の吹し返せは。今の人のよまはわか衣手をといふへし。立てゐてたときをしらす。これをは、立居するたときをしらにと、古語にまかせてよむへし。むらきもの心おはえす。むらきもはさき/\に尺せり。心おほえすは、物をもおほえぬなり。ときゝぬのおもひみたれて。ときたるきぬは、みたるゝ物なれはかくつゝけたり。第十一第十二にもよめり。この川のゆきなかく有得むかも。此二句の上に、五字の一句、をちたる歟。昔は、句に次第せさるもおほけれは、此まゝなる歟。此川のゆきは.此川のゆくことく、こよひのなかさのありえむものかとなり。なかくあるとかもとある點は、え心得す侍り
             (以上初稿本卷十上冊)
 
反歌
 
(35)2093 妹爾相時片待跡久方乃天之漢原爾月叙經來《イモニアフトキカタマツトヒサカタノアマノカハラニツキソヘニケル》
 
詠花
 
2094 竿志鹿之心相念秋芽子之鐘禮零丹落僧惜毛《サヲシカノコヽロアヒオモフアキハキノシクレノフルニチリソフヲシモ》
 
萩をば鹿の妻とも云へば相念と云へり、シグレは凡九月下旬より十月中句に及で降雨の名なり、萩は早きは夏を懸ても開き、大底は八月の中比まで盛にて下旬の未は有事稀なるを、今しぐれに散そふと云へるは、和名云、〓雨《シクレハ》、孫〓(カ)曰、〓雨小雨也、音與v終同、漢語抄云、【之久禮、】かゝればしぐれは小雨なるを、いつとなく※[手偏+總の旁]名を別名となして秋冬のあはひに降見降らず見定めなき雨に名付たれど昔は猶廣くよめるにや、此卷の末に多く萩にしぐれを讀合せたり、古今集にも、貫之の、秋萩の花をば雨にぬらせどもとよまれたるかへしに兼覽王は、秋のしぐれと身ぞふりまけるとよまれたり(僧は増の字を誤れるなるべし、
 
初、さほしかの心あひ思ふ。萩をは鹿の妻といへは、あひ思ふといへり。しくれは、およそ九月中旬より、十月中旬にをよふほとふる雨をいへり。萩は八月下旬まてはあることまれなるに、しくれにちるとよめるは、和名集に、〓雨(ハ)小雨(ナリ)也。之久連《シクレ》。かくのことくあれは、しくれは、小雨《コサメ》の名なるを、いつとなく秋冬のあはひに、ふりみふらすみさためなきを.わきて名付たるを、人まろの比は、猶ひろくて、小雨をしくれともいへるなるへし。僧の字の音を、添の字の和訓にかりて用たるは、曾宇と曾布とたかへり。されと宇と布と同韻の字なれは、通する心にてかれる歟。紅梅をこをはいとよみ、芭蕉をはせをとよむ例に准すへし。もしは増の字を誤れる歟。ますはそふ心はれは、義をもてそふとよめる歟。第四に坂上郎女か、おもへともしるしもなしと知物をなそかくはかりわか戀わたる。此しるしといふに、知|僧《シ》とかけるは、日本妃に、此僧の字の和訓を、ほうしとよめり、法師とても音なるを、やかて和語に用たれは、僧は在家の師なれは.師の心にかける歟。僧を曾のひともしに用へけれは、二五相通して志になす歟。又曾字(ノ)切須なれは、二三隣近に通して、志と用たる歟
 
2095 夕去野邊秋芽子末若露枯金待難《ユフサレハノヘノアキハキスヱワカミツユニシカレテアキマチカタシ》
 
(36)末若、【六帖云、ウラワカミ、】
 
腰句六帖の如く讀べし、露ニシのし〔右○〕は助語なり、もし假名に書たらば露被敷而《ツユニシカレテ》と意得べきつゞきなり、ツユニカレツヽとも讀べし、柔なる葉に餘に露の置てからすなり、アキ待ガタシとは、秋の歌にかく讀たれば意得がたきやうなれば、其おり/\の秋にて盛に咲べき比を待がたしとなり、秋を時と同じく訓ずるにても意得べし。古今集物名に、友則のきちかうのはなをよまれたる歌にも、秋近う野は成にけり白露の、おける草葉も色かはり行、此發句も下句を以て見るに草の枯べき比を云へり、又秋は來ぬもみぢは宿に降しきぬとよめる發句も末の秋を指て云へるとぞ聞えたる、六帖にはまたずと云に入れて露にかれかねきみまちかねつとあり、此に依れば金の下に君公等ゆ字有けるにや、さるにてはかれかね意得がたし、カルカネと讀てかるかにと通して意得べきか、餘りにうら若き萩の露にもかるゝかにとおぼつかなき盛の待がたきが如く、戀弱れは身も君が來べき時を待がたしとにや、但六帖の意ならば秋相聞に入べきを幸に然らねば唯前の義のみなるべきにや、
 
初、夕されは野への秋はき。末若はうらわかみとよむへし。露にしかれて、しは助語なり。かんなにかきたらは、露爾被敷而《ツユニシカレテ》と心得へきつゝきなり。露枯とのみかきたれは、つゆにかれつゝともよむへし。やはらかなる葉に、あまりにいたく露のをきて、をきからすなり。秋待かたしとは、秋の哥によみたれは、心得かたきやうなれと、やすきことなり。秋といふもしを、時のことく、はきのさかりにさくへき比を秋まちかたしといへは、時待かたしの心なり。古今集に、秋はきぬもみちはやとにふりしきぬ道ふみ分て問ふ人はなし。此秋はきぬといへるを、秋は盡ぬといふ略語なりと尺せるものあり。いふにたらす
 
右二首柿本朝臣人麿之謌集出
 
(37)2096 眞葛原名引秋風吹毎阿太乃大野之芽子花散《マクスハラナヒクアキカセフクコトニアタノオホノノハキカハナチル》
 
和名集云、大和國宇智郡阿陀、【陀音可2濁讀1、】延喜式云、後阿陀墓、【武智麻呂、在2大和國宇智郡1、】
 
初、まくす原なひく秋風。あたの大野は大和なり。和名集云。宇智郡阿陀【陀(ノ)音(ハ)可2濁(テ)讀(ム)1。】定家卿此哥と古今集の
 形見こそ今はあたなれこれなくはわするゝ時もあらましものを
此兩首を取合て
 かたみこそあたの大野の萩の露うつろふ色はいふかひもなし
とよみたまへり。彼古今集の哥の顯注にいはく。かたみこそ今はあたなれとは、あたとはかたきなり。此かたみたになくはわするへきをわすれぬねたさに、うれしかりつる形見を、今はあたとおもふなり。今はあだなれと、はかなきよしによみなす人あれと、哥の心にかなはねはよしなし。定家卿の密勘にいはく。あたなれは敵なり。あだは謬説也。但はかなきよしに、あたなれとなかむる人おほかり。女房なとのいはむを、あたといへとをしへむも、すこしは聞にくゝや侍るへき。ちかく内裏哥合に、講師此詞を仇とよみあけし、ひか事とはきゝ侍らさりしを、たれとなくうちわらはるゝ聲々のし侍しかは.まことは聞よきにつきてもありぬへかりけりと思ひなりて侍るなり。此密勘に、此詞を仇とよみあけしひかことゝは聞侍らさりしをとある心は、さきに引る定家卿の自身の哥の事なり。はかなきよしにつきて、ぬしはよみ給へるを、講師は敵の心に、あたの大野のたもしを清てよみあけられしを、定家卿それも本理につきて、仇の心につらねたりと心得て、しかよみあくれはあしからすとおもはるゝを、人々は打わらへるなり。わらへる人々は、和名集に陀(ノ)音(ハ)可(シ)2濁(テ)讀(ム)1とあるをかんかへられす。定家卿は知たまへる歟。今もたもし濁音によひ侍り。阿陀|蕪《カフラ》とて名物なるよしかたりしものも侍りき。たとひ仇の心に清てよみあけんをもわらふへきことかは。伊勢か哥に、わかためになにのあたとて春風のおしむとしれる花にふくらん。かう/\よむ人あらは、仇もかへりて友となりぬへし。定家卿の哥、仇の心につゝくともおそろしかるましき哥にや
 
2097 鴈鳴之來喧牟日及見乍將有此芽子原爾雨勿零根《カリカネノキナカムヒマテミツヽアラムコノハキハラニアメナフリソネ》
 
下云、秋芽子者於雁不相常言有者香《アキハキハカリニアハシトイヘレハカ》、音乎聞而者花爾散去流《コヱヲキヽテハハナニチリヌル》、此歌に依に鴈のなけば花の散は定なり、又詠鹿鳴歌云、鴈來芽子者散跡左小壯鹿之《カリハキヌハギハチリヌトサヲシカノ》、鳴成音毛裏觸丹來《ナクナルコヱモウラフレニケリ》、此も同じ意なり、されど又下相聞寄v花歌云、鴈鳴之始音聞而開出有《カリガネノハツコヱキヽテサキデタル》、屋前之秋芽子見來吾世古《ヤドノアキハキミニコワカセコ》、此は又鴈之音を聞て咲初ると讀たれば今の歌并に初にひける二首とは相違せり、所詮歌は風情のより來るに任せてよめば一准に治定を取べからざる歟、
 
初、かりかねのきなかむ日まて。此下に、秋はきは雁にあはしといへれはか聲を聞ては花にちりぬる。およそ雁は、月令にも、仲秋之月鴻雁來とあれとも、第八卷に、櫻井王の哥に、長月のその初雁とよまれたれは、月令にいへるよりはすこしおそく來るものなり。萩は六月よりさきて、八月中旬にはうつろひはつる物なれは、そのあはひを心得てみるへし
 
2098 奥山爾住云男鹿之初夜不去妻問芽于之散久惜裳《オクヤマニスムチフシカノヨヒサラスツマトフハキノチラマクヲシモ》
 
住云、【官本亦云、スムトイフ、】  芽子之、【別校本、之作v乃、】
奥山に住と聞鹿だに夜毎に問來る萩が花妻なれば、殊に散む事の惜となり、
 
初、おく山にすむてふ鹿の。古今集にも、おく山にもみちふみ分鳴鹿とよめり。よひさらすは初夜不去とかきたれと只一夜もおちすとよめることく、よな/\ことにと心得へし
 
2099 白露乃卷置惜秋芽子乎折耳折而置哉枯《シラツユノオカマクヲシミアキハキヲヲリノミヲリテオキヤカラサム》
 
(38)落句は惜み置てさてや枯らさむの意なり、應神紀に御製の歌云、伽愚破志《カクハシ》、波那多智麼那辭豆曳羅波《ハナタチバナシツエラハ》、比等未那等利《ヒトミナトリ》、保菟曳波《ホツエハ》、等利委餓羅辭《トリヰガラシ》云々、等利は採なり、委は居にて置意と聞ゆ、餓羅辭は令枯なり、此今の置枯すに同じ、第十八家持橘歌云、香具播之美於枳弖可良之美云々、
 
初、おきやからさん。第十八橘の哥にも、おきてからしみとよめり。見すへき人もなくて、おきなからからさむやとおしむなり
 
2100 秋田苅借廬之宿爾穗經及咲有秋芽子雖見不飽香聞《アキタカルカリホノヤトリニホノマテサケルアキハキミレトアカヌカモ》
 
2101 吾衣摺有者不在高松之野邊行之者芽子之摺類曾《ワカキヌヲスレルニハアラスタカマトノノヘユキシカハハキノスレルソ》
 
高松之、【袖中抄如v今點、官本又點云、タカマツノ、】  野邊行之者、【幽齋本云、ノヘヲユキシカハ、】
 
發句はワガキヌハとも讀べし、行之者は之の下に香可等の字落たるか、芽子之摺類衣とは此は萩に行觸れて其衣に染著なり、下に事更爾衣者不摺《コトサラニコロモハスラジ》と有歌も同意なり、催馬樂に更衣《コロモカヘ》せむや、さきむたちや、我衣は野原篠原、萩の花摺や、さきむたちやと云より、範永朝臣の歌に今朝來つる野原の露に我沾ぬ、移りやしぬる萩が花摺とよまれ、頼政卿の我とはすらしなどあまた萩が花摺とよめるは皆今の歌を母とせるなり、日本紀并に此集を能考がへ見ざる人、榛を萩なりと思ひて蓁|摺衣《スリノキヌ》を萩の花摺に(39)まがへたり、
 
初、わかきぬをすれるにはあらす。行之着《ユキシカハ》、之の下に、香可等の字落たるか。し文字はよみつけて、之の字をかと用たる歟。清るかもじに、此之の字を用たる事おほし。萩のすれるそとは、行すりにふれて、わかきぬを萩かすれるなり。下にも、ことさらに衣はすらしをみなへしさく野の萩にゝほひてをらむとよめり。催馬樂に、衣かへせんやわかきぬは野原しのはら萩か花すり。これらにつきて、榛摺《ハキスリ》と、萩か花すりとよくまかふなり
 
2102 此暮秋風吹奴白露爾荒爭芽子之明日將咲見《コノユフヘアキカセフキヌシラツユニアラソフハキノアスサカムミム》
 
下にも白露爾|荒爭金手咲芽子《アラソヒカネテサケルハキ》とよめり、
 
2103 秋風冷成奴馬並而去來於野行奈芽子花見爾《アキカセハスヽシクナリヌウマナメテイサノニユカナハキノハナミニ》
 
下にも去來子等露爾爭而芽子之遊將爲《イサコトモツユニイソヒテハキノアソヒセム》とよめり、
 
2104 朝杲朝露負咲雖云暮陰社咲益家禮《アサカホハアサツユオヒテサクトイヘトユフカケニコそサキマサリケレ》
 
今按朝※[貌の旁]の夕まで殘り猶咲まさると云事は必らずなき事なり、八月の末九月の初に至ては色もうるはしからぬが午未の時までもあれどそれも夕までは待たず、况又それを賞して讀べきにもあらず、心を著てみるに明日さかむ花あさてさかむなど次第に其つぼめるやうにて今日より見ゆるなり、されば朝露にめぐまれて咲と人はいへども、しのゝめより咲花なればさはあらず、夕陰のうるほひに依てこそ咲まされと讀て、物の漸を積て功を成し、或は陰徳陽報のことわりなどを含めるなるべし、後撰集雜四云、ひとり侍ける比人の許よりいかにぞと訪らひて侍ければ朝※[貌の旁](40)の花に付て遣はしける、讀人不知、夕暮のさびしき物は朝※[貌の旁]の、花を憑める宿にぞ有ける、此は夕暮の詞あれども詞書に依て見るに朝※[貌の旁]の如くあだなる人の心を憑ける故に今は忘られて夕になれども誰を待べきなぐさめもなくてさびしとよめる歟、或は夕に萎《シホミ》たる花後咲べき朝※[貌の旁]の花につけて忘られたる身は夕になれども問はれむやと、待べき慰さめもなくて唯此朝※[貌の旁]の明日さくを見む事をのみ憑むと讀至りて夕暮のさびしき由によめる歟、但初の意ならば朝※[貌の旁]の花を憑みし宿なれば夕碁にこそさびしかりけれとぞよまゝしを、先夕暮のさびしき物はと云ひて朝※[貌の旁]の花を憑めると云へるは後の意にや、後の意ならば今按の義をたすくべし、此朝※[貌の旁]と云に二種有て久しくまがひ來れり、一つには牽牛花、和名集云、陶隱居本草注云、牽牛子、【和名、阿佐加保、】此出2於田舍1、凡人取(テ)v之牽v牛(ヲ)易v藥、故以名v之、此常に歌にもよみ俗にも云朝※[貌の旁]なり、和語の意は、かほと云はうつくしき顔の意なれば朝に見る顔なり、夕顔此に准らへたり、二つには槿花、爾雅釋草篇云、※[木+假の旁]木槿、※[木+親]木槿、郭璞註曰、別2二名1也、似2李樹華1、朝生夕(ニ)隕、可v食或(ハ)呼(テ)曰2日及1、亦曰2王蒸1、〓〓疏曰、與v草同v氣、故(ニ)在2草中1、鄭風云、顔如2舜花1、陸機疏云、舜一名(ハ)木槿一名※[木+親]、一名(ハ)※[木+假の旁]、齊魯(ノ)之間謂2之(ヲ)王蒸1、云々、和名集云、文字集略云、蕣、【音舜和名木波知須、】地蓮花、朝生夕落者也、此に依るに槿花はきはちすと云べきを、此和名流布せ(41)ず俗にはむくげと云は木菫の音の訛なり、木欒子を無久禮邇之乃木《ムクレニシノキ》と云が如し、詩(ノ)鄭風云、有v女同v車(ヲ)、顔如2舜華《アサガホ》1、流布の本の點かくの如し、和名にいかで此名を出されざりけむおぼつかなし、若天暦の比まではきはちすのはなのごとしと讀けるを其後今の點に改たる歟、又木芙蓉とて一種の花あり、一名拒霜花なり、葉は楸に似たれどつぼめるさまも花もさながら蕣花と見ゆる上に、木芙蓉はすなはちきはちす〔四字右○〕なれば別種の蕣なるべし、朗詠集に槿花をアサカホとよめるは詩の顔如2舜華1とある點と叶へるを、彼集の題目の意も牽牛花にて和歌は叶へるに、下學集に宋人の詩を引て云、槿花籬下點2秋事1、早(ク)有2牽牛(ノ)上v竹來1、木槿と牽牛花とかくの如く別なるに、和漢朗詠集に牽牛花と題すべきを槿花と書て、漢には槿花の詩文を取られて和漢混亂せるは、共にあさがほと云ひて咲比も籬にあるも女に譬ふるも相似たればまがへられけるにや、草と木と同じうするは榛《ハキ》と萩《ハキ》樒と莽との類なり。唐の〓〓が詩に、槿花半照夕陽收、かゝれば今の朝杲とよめるは槿花にやとも申すべけれど、此集なるは例皆牽牛の花なれば異論にわたるべからず、
 
初、朝かほは朝露おひて咲といへと。此哥は朝かほのことはりにかなはす。尤こゝろえかたき哥なり。こゝろみに尺せむ。見む人用捨すへし。先朝かほの夕に咲まさるといふことは.かならすなきことなり。八月の末九月にかゝらむとては、色もうるはしからぬが、午未の時まてもしほますしてあれと、夕まてはまたす。又それを賞してよむへきにもあらす。心をつけてみるに、あすさかむ花、あさてさかむ花は、けふよりそのつほめるやうにてみゆるなり。しかれは、朝露のめくみにてさくと人はいへとも、しのゝめにさく花なれは、さはあらす。夕かけのうるほひによりてこそ花は咲まされといへるなるへし 後撰集第十八にいはく。ひとり侍けるころ、人のもとより、いかにそととふらひてはへりけれは、朝かほの花につけてつかはしける   よみひとしらず
 夕くれのさひしきものは朝かほの花をたのめる宿にそ有ける
此哥に、夕くれのさひしきものはとよみて、詞書には、朝かほの花につけてといへるは、しほめる花、あるひは、あすさくへき花につけゝるなるへしとも會釋すへき歟。今の哥は、ゆふかけにこそ咲まさりけれといへることたしかなれは、さきのことくならては尺すへきやうをしらす。又ひとつの今案あり。此朝かほといへるはつねいふ麻かほにあらす。蕣《アサカホ》にて木なり。毛詩鄭風(ニ)曰。有v女同(ス)v車(ヲ)。顔《カンハセ》如(シ)2舜華《アサカホノハナノ》1。和名集(ニ)云。文字集略(ニ)云。蕣【音舜。和名木波知須。】地蓮花(ナリ)。朝(ニ)生(シテ)夕(ニ)落(ル)者(ノ)也《ナリ》。詩の古點の本にも、舜は、あさかほとよめるを、いかて和名集には、きはちすといふ和名をのみ出して、あさかほの和名を出されさりけむ。又木芙蓉といふもの有。一名拒霜花なり。葉は楸にまかふはかりに似たれと、つほめるやうも、花のやうも、まさしく舜花とみゆるうへ、きはちすといふ和名も木芙蓉といふにおなしけれは、舜花の一種なるへし。唐棣をきはちすとよめるは、大に誤れり。第八卷に、家持の唐棣花を詠せる哥に委尺せり。又日本紀に人の名に木蓮子《イタヒ》此(ヲハ)云(フ)2伊〓寢(ト)1と注せる有。木蓮子といふもの有ゆへに、彼人の名とせるなるへきを、此木蓮子といへるは何物そや。いまたかんかへす。さて此舜といへるは、むくけなり。俗にむくけといふは、木菫なり。木工頭をむくのかみといふことく、木菫の音を略して、むくけの和語とはせるなり。禮記(ノ)月令(ニ)云。仲夏(ノ)之月木菫|榮《ハナサク》。これは初て花さくにつきていへるなるへし。六月七月に盛にさきて、八月にをはるものなり。莊于云。朝菌(ハ)不v知2晦朔(ヲ)1。音義曰。菌(ハ)朝(ニ)生(シテ)暮《ユフヘニ》落。藩尼(カ)云。木槿也。高誘か淮南子の注は朝菌を蟲といへり。戰國策(ニ)云。君(ハ)危(シテ)2於累卵(ヨリモ)1而(シ)不v壽2《イノチナカヽラス》於朝生(ヨリモ)1。【木槿也。朝榮夕死。】文選陸士衝(カ)歎逝賦云。譬(フ)2日及(ノ)之在(ルニ)1v條。恒(ニ)雖v盡(ト)而不v悟(ラ)。註曰。朝菌者世謂2之(ヲ)木菫(ト)1。或(ハ)謂2之日及(ト)1也。謝靈雲(カ)田南(ニ)樹《ウヱ》v園(ヲ)激《ソヽイテ》v流(レヲ)植(シテ)v援(ヲ)【注植(ハ)種也。引2流水1種(テ)v木(ヲ)爲v援(ト)如2牆院1也。援(ハ)衛也。挿《ウヱテ・サシテ》v槿(ヲ)當(ツ)2列〓(ニ)1。玉篇云。槿【居隱切木名。】又云。蕣(ハ)【師閏切。木槿花。】韻府云。槿有2黄白(ノ)者1。一名(ハ)日及。三躰詩中卷、李徳裕(カ)嶺南(ノ)道中(ノ)詩(ノ)落句(ニ)云。紅槿華(ノ)中越鳥啼。天隱(ノ)註(ニ)、嶺南異物志(ニ)、紅槿自2正月1迄(ルマテ)2十二月(ニ)1常(ニ)開(ク)。秋冬(ハ)差《ヤヽ》少(ナシ)。李昌(カ)増注曰。嶺南(ノ)紅槿華一名(ハ)木槿。又曰露槿。又曰日及華。詩(ニ)顔(ハ)如(シ)2蕣(ノ)英(ノ)1。注(ニ)舜(ハ)木槿(ナリ)也。朝(ニ)開(キテ)暮(ヘニ)落(ツ)。又王維(カ)〓川(ノ)積雨(ノ)詩(ニ)云。山中(ノ)習靜觀(ス)朝槿(ヲ)。注(ニ)〓雅(ニ)曰。槿華(ハ)如v蔡(ノ)。朝(ニ)生(シテ)夕(ニ)隕(ツ)。一云舜(ハ)瞬(ノ)之義(ナリ)・蓋取(レリ)v此(ニ)。つねによむあさかほは、和名集(ニ)云。陶隱居(カ)本草(ノ)注(ニ)云。牽牛子【和名阿佐加保、】此(レ)出2於田舎(ニ)1凡人取(テ)v之(ヲ)牽(テ)v牛(ヲ)易(フ)v藥(ニ)。故(ニ)以名(ツク)v之(ニ)。これはいやしきものゝ實《ミ》を取て、牛を牽て市に出て、實をもて他の藥にかふるか。又凡人取之といふも句にて、牽牛易藥は、田舍の人の、おほく、牽牛子を取おさめておけるを、商人の牛を牽てゆきて、其牛に牽牛子をかへて歸るゆへに、牽牛子と名つくといへる歟。後のことくならは、藥といふはすなはち牽牛子なり。牽牛花と槿花と、ゝもにうつくしき花にて、夕をまたぬ事も又かきほにさく事も相似たれは、おなしくあさかほとなつくるを、此國には、誤て槿花を牽牛花とせり。下學集に宋人詩を引ていはく。槿花(ノ)籬(ノ)下(ニ)點(スレハ)2秋事(ヲ)1、早(ク)有(リ)2牽牛(ノ)上(リ)v竹(ニ)來(ル)1。木槿と牽牛と、かくのことく別なり。しかるを、和漢朗詠集に、槿花と題して、漢は槿花の詩文を取、倭には牽牛花の哥を載らる。此集には、木菫とも、牽牛花とも、正字をいたせる所なし。末にいたりて混亂せる事、榛と萩とのまかへるかことし。すてに木菫と牽牛花とをわかち尺しつ。木槿を、漢にはもはら朝生夕落といへとも、現に彼華を見るに、夕にもしほれす。されは竇鞏(カ)詩(ニ)云。槿華半照(シテ)夕陽收(マル)。かゝれは此朝かほは、槿花なりといはゝ、下の句さも侍るへき歟。難していはく。前後を見るに皆秋の草花なり。第八卷に山上憶良か、秋の七種の花を詠せる中にも、牽牛花をよめり。此一首の外に牽牛花の哥なし。又月令に仲夏之月木槿榮といへるにもたかへり。かれこれいかゝ和會せん。まことに此難そのいはれあり。これによりてまつ常いふあさかほにて尺せるついてに、もし木槿にもやとは、心得かねていへるなり。されとも亦こゝろみに難を會せは、前後皆草花なることは、まことにしかれとも、題に詠v花といひて、詠2草花1といはす。さきに夏の哥に詠v鳥哥廿七首の内、前後廿六首は郭公の哥にて、中に一首呼子鳥の哥あり。されと詠v鳥といひて、詠2霍公鳥1といはされは、難なきかことし。牽牛花の哥別になしといへとも、あれは載せ、なけれは載さる事、これにかきるへからす。次に月令に違せりといふ難は、彼もろこしにてたに、江南江北風土ことなり。和漢へたゝれはいよ/\かはる事あるへし。初て榮る心ならは、本朝とてもたかふへからす。異なりとも難すへからす。仲秋(ノ)之月鴻雁來(ル)。季秋(ノ)之月鴻雁來賓(ス)といへと、此集には長月のその初雁のとよめり。仲秋(ノ)之月是(ノ)月雷始(テ)收(ム)v聲(ヲ)とあれと、かみとけのひかるみそらの長月ともよみたれは、一概すへからさるかゆへに、木槿歟ともいふなり。杲は音を取用ゆ。芭蕉をはせをといふかことし。此字さき/\もおほかりき
 
2105 春去者霞隱不所見有師秋芽子咲折而將挿頭《ハルサレハカスミカクレテミエサリシアキハキサケリヲリテカサヽム》
 
(42)2106 沙額田乃野邊乃秋芽子時有者今盛有折而將挿頭《サヌカタノノヘノアキハキトキシアレハイマサカリナリヲリテカサヽム》
 
和名集云、山と國平群郡額田、【奴加多、】沙《サ》は例の添へたる詞にて此額田なるべし、時シのし〔右○〕は助語なり、
 
初、さぬか田の野への。大和に額田あり。さは野をさのといへる類なり
 
2107 事更爾衣者不摺佳人部爲咲野之芽子爾丹穗日而將居《コトサラニコロモハスラシヲミナヘシサクノヽハキニニホヒテヲラム》
 
事更爾は故の字にて俗にわざとゝ云意なり、咲野はサキノと讀べし、佳人部爲と置ける意共に上に注せしが如し、
 
2108 秋風者急之吹來芽子花落卷惜三競竟《アキカセハハヤシフキケリハキノハナチラマクヲシミオホロ/\ニ》
 
ハヤシフキケリはし〔右○〕は助語にてはやく吹けりなり、此はやきはおそきに對する詞にあらず、暴風をはやちと云ひ、風はやみなりなどよめるに同じ、今急の字をかける其故なり、今按ハヤクシフケリとも讀べし、ふきけりを吉計を反して約むれば計となる故なり、ハヤクシフキクともよまるべし、競竟の點官本にはキホヒ/\ニとあり、校本の點は今と同じ、推量するにキ〔右○〕をオ〔右○〕に誤りヒ〔右○〕をロ〔右○〕に誤りて今の點も本はキホヒ/\なるべし、競をオホロと讀べき理なし、又意も得られず、きほひ/\とよめ(43)るも亦意得ぬ事なり、上の競をば云はず、下の竟を競と同じく讀べきにあらず、今按アラソヒハテツと讀べきか、心は秋風の野分に吹來ると萩の散らまく惜きとに我心の迷ひていかで秋風を弱らせてしかな、いかで、萩を風に任せざらましと意に任せぬ物故に、心ひとつにあらそひはつるとなり、
 
初、秋風ははやし吹けり。競竟を、おほろ/\にとよめるやう心得かたし《助》。もとは競競にて有けるか。さるにてもよめるやうおほつかなし。今案今の本のまゝにて、おろかなる心にまかせてよまは
 秋風ははやくしふきくはきの花ちらまくをしみあらそひはてぬ
とよむへし。心は秋風の野分に吹來ると、萩の花のちらまくをしきとに、わか心のあらそひて、いかて秋風をやめてしがな。いかで萩を風にまかせさらましと、心にまかせぬ物ゆへに、心ひとつのあらそひはつるなり
 
2109 我屋前之芽子之若末長秋風之吹南時爾將開跡思乎《ワカヤトノハキノワカメヲアキカセノフキナムトキニサカムトオモフヲ》。
 
若末長は、今按今の點叶はず、若末は上の詠鳥長歌の中にウレと讀たればウレナガシと讀べし、秋風の吹む時にさきなむに、うれの痛く長て損なはれやしなむとうしろめたくおもひ置なり、
 
初、わかやとのはきのわかたち。此わかたち、若末長とかけれは、今案はきのうれなかしとよむへきにや。心は秋風の吹時に、さかむと思ふ萩の、餘なるまてうれのなかくてもし秋風の吹來は、あへすしておれやせんと、かねておほつかなくおもふなり。わかたちとのみいひては、下の句のとまりいひたらて、おさまらぬにやあらむ
 
2110 人皆者芽子乎秋云縱吾等者乎花之末乎秋跡者將言《ヒトミハハキヲアキトイフイナワレハヲハナカスヱヲアキトハイハム》
 
皆人は秋萩とて秋の花の中には先萩を云へど、いな我は薄を第一と云はむとなり、清少納言に秋の花はとてさま/”\かきて後に云く、是に薄を入れぬいと恠しと人云めり、秋の野押|並《ナヘ》たるおかしさは薄にこそあれ、穗さきの蘇芳《スハウ》にいと濃きが朝霧に沾て打靡たるはさばかりの物やはある、秋の果ぞいと見所なき、いろ/\に亂れ(44)咲たりし花のかたちもなく散たる後、冬の末まで頭のいと白くちりおほき名をも知らで昔思ひ出がほに靡きてこひろきたてるは人にこそいみじう似ためれ、よそふる事有てそれこそあはれとも思ふべけれ、右此一段を今の一首に籠れり、縱はよし〔二字右○〕なるを今いな〔二字右○〕と云にかけるは、此字をよし〔二字右○〕とよめるも善の字吉の字などには同じからずしていな〔二字右○〕の意あり、第四に神左失跡|不欲《イナ》者不有云々、第十二に不欲惠八跡不戀登爲杼《ヨシヱヤトコヒシトスレト》云々、此兩首に不欲をいな〔二字右○〕とよみ、よし〔二字右○〕とよめるにて知べし、
 
初、人皆ははきを。縱の字いなとよめるは誤なり。よしとよむへし。第六に元興寺の憎のよめる哥、并に延喜式にしかよめり。第二に人麿の哥によしゑやしといふにも、よしに此字をかけり。すてに上に注せり。哥の心は、皆人は秋萩とて、秋の草の中には、萩をのみいへり。よしさもあらはあれ。我はをはなを、秋の草には第一の物といはむとなり。これは心ありて、よく秋の草をしれる人のよめるなり。清少納言に、秋の花はとて、さま/\かきて後にいはく。これにすゝきをいれぬいとあやしと人いふめり。秋の野おしなへたるおかしさは、すゝきにこそあれ。ほさきのすはうにいとこきが、朝きりにぬれて打なひきたるは、さはかりの物やはある。秋のはてそいとみところなき。いろ/\にみたれ咲たりし花《これは薄の事にあらす其餘の草を惣していへり》の、かたちもなく散たるのち、冬の末まてかしらのいとしろくちりおほき名をもしらて、むかしおもひ出かほになひきて、こひろきたてるは、人にこそいみしうにためれ。よそふることありて、それこそあはれともおもふへけれとかける、この心を、此哥は一首にこめてみゆるにや
 
2111 玉梓公之使乃手折來有此秋芽子者雖見不飽鹿裳《タマツサノキミカツカヒノタヲリケルコノアキハキハミレトアカヌカモ》
 
第七に玉梓之妹とよめる如く今も玉梓公とつゞくとならば第七に注せるが如し、玉梓使とつゞくとならば集中多し、上に既に注せり、來有はキタルとも讀べし、
 
初、玉つさのきみかつかひの。君か玉つさをつたふる使なり。第二より初ておほき詞なり。第七に玉梓の妹とよめるは心かはれるか。そこに注しつるかことし
 
2112 吾屋前爾開有秋芽子常有者我待人爾令見※[獣偏+陵の旁]物乎《ワカヤトニサケルアキハキツネナラハワカマツヒトニミセマシモノヲ》
 
常有者はちらであらばの意なり、
 
初、わかやとにさける秋はき。常ならはとは、常にあらはなり。三世常恒なといふほとにはあらす。これらは久しくあらはといはむかことし
 
2113 手寸十名相殖之名知久出見者屋前之早芽子咲爾家類香聞《タキソナヘウヱシナシルクイテミレハヤトノハツハキサキニケルカモ》
 
(45)初の二句古點はテモスマニウヱシモシルクと有けるを仙覺の改られたる今の點なり、相叶ひてよし、手寸は髪多久《カミタク》など云に同じくあぐる意なり、十名相は具の字備の字などをよめり、草花の遲速淺深數を具へて殖しそれ/”\の名も知く、庭に立出て見ればそれが中に先めづらしく初萩の咲にけるよとよめるなるべし、第七に坂上郎女晩芽子歌に、奥手なる長き意と讀つれば今の早芽子はワサハギともや讀べからむ、早田《ワサダ》早飯《ワサイヒ》の例あり、但第八に先芽《ハツハキ》とよみ、第十九にも歌の注に右一首六月十五日見芽子(ノ)早《ハツ》花作v之(ヲ)とあれば驚かし置ばかりなり、
 
初、たきそなへうえしなしるく。此たきそなへは、たきは拷の字なるへし。髪をたき舟をたくなとよめり。長流かいはく。たくはたくるなれは引心なり。今おもはく。第八に山上憶良の、秋七首花をよめる哥に、秋の野にさきたる花を手ををりてかきかそふれはなゝくさの花。此かきかそふれはといふと、たきそなへといふと通すへし。そなへは員《カス》を備《ソナ》ふるなり。數をかきそなへと心得へき歟。うゑし名しるくは、初よりかの草此草、あるひははやく、あるひほおそきを、數をつくしてうゑし、それ/\の名もしるくて庭に立出てみれは、それか中に、先めつらしく初萩の咲にけるよとよめるなるへし。早芽子はわさはきともよむへきにや。第八に、早田とかきてわさ田とよみ、早飯とかきてわさいひとよめり。早蕨《サワラビ》早苗《サナヘ》も、早の字音を取にはあらす。わさわらひわさなへといふへきを、わさを上略していふなり。又第八に坂上郎女かよめる晩芽子歌に
 咲花もうつろはうきをおくてなる長きこゝろになをしかすけり
おそき萩を、おくてなりといふに對すれは、はやき萩をわさ萩といはむこと、あらそひなかるへし
 
2114 吾屋外爾殖生有秋芽子乎誰標刺吾爾不所知《ワカヤトニウヱオホシタルアキハキヲタレカシメサスワレニシラセテ》
 
誰標刺、【人丸集云、タレカシメサシ、】  吾爾不所知、【人丸集云、ワレニシラセヌ、官本又云、ワレニシラレヌ、】
 
不所知は今按不令知と書たらば今の點なるべけれど誰標刺をタレカシメサシとよまば落句はワレニシラレヌと讀べし、此は、いつく娘を守るに密によばふ男あるを聞付て、よそへよめる歟、
 
2115 手取者袖并丹覆美人部師此白露爾散卷惜《テニトレハソテサヘニヲフヲミナヘシコノシラツユニチラマクヲシモ》
 
(46)丹覆とかけるはい念を上略してもふ〔二字右○〕とのみ云が如し、
 
初、手にとれは袖さへにほふ。此にほふは色のにほふなり。又香もあるものなれは、それをもかぬへし。丹覆《ニホフ》とかけるは覆をおほふとよむを没上してよめるなり
 
2116 白露爾荒爭金手咲芽子散惜兼雨莫零根《シラツユニアラソヒカネテサケルハキチラハヲシケムアメナフリソネ》
 
2117 ※[女+感]嬬等行相乃速稻乎苅時成來下芽子花咲《ヲトメラニユキアヒノワセヲカルトキニナリニケラシモハキノハナサク》
 
袖中抄に行相の速稻とは所の名をわせに讀付たるなりとて、第九に射《イ》行相乃坂上之蹈本爾とよめる歌を引合て證せらる、葛餝早稻《カツシカワセ》などの類なり、新拾遺は人丸集に依て載らる、
 
初、をとめらに行相のわせ。女に行相はうれしきによりて、かくはつらぬたり。さて行相のわせとは、立田山に行相の坂といふ所有。そこに有田のいねなりと顯昭はいへり。第九に、いゆきあひの坂のふもとにさきをせる櫻の花をみせんこもかなとよめる所なり。むろのはやわせ、ふるのわさ田、かつしかわせなといふたくひに、顯昭は心得られたるなるへし。或説に云。行相のわせといふは、夏田をうゆる時、苗のたらされは、同し苗にもあらぬを植つくなり。これを行相の稻といふと、民間には申すとかけり。民間にさへさやうにいひならはしたらは、これを正説とすへき歟
 
2118 朝霧之棚引小野之芽子花今哉散濫未※[厭のがんだれなし]爾《アサキリノタナヒクヲノノハキノハナイマヤチルラムイマタアカナクニ》
 
此歌は人丸集にもなし、拾遺のよる所を知らず、
 
2119 戀之久者形見爾爲與登吾背子我殖之秋芽子花咲爾家里《コヒシクハカタミニセヨトワカセコガウヱシアキハキハナサキニケリ》
 
2120 秋芽子戀不盡跡雖念思惠也安多良思又將相八方《アキハキニコヒツクサシトオモヘトモシヱヤアタラシマタアハムヤモ》
 
めづる心を戀と云、めではてじと思へどもなり、安多良志は惜なり、日本紀に惜の字をよめり、
 
初、秋はきにこひつくさしと。見てもまた、又もみまくのほしきは、萩をこふる心なり。さまては心をつくさしとおもへともなり。しゑやは、よしやよしといふことを略せる詞なり。あたらしはおしきなり
(47)2121 秋風者日異吹奴高圓之野邊之秋芽子散卷惜裳《アキカセハヒニケニフキヌタカマトノノヘノアキハキチラマクヲシモ》
 
日異を六帖にヒゴトニとよめるは集中を能考がへざるなり、毎の字に假て用るにあらず、集中に勝の字殊の字此異の字をけ〔右○〕とよめるはまさる意なり、日々にまさりて吹と云なり、家持集に、秋風は日ごとに吹ぬ高砂の、尾上の萩の散まく惜も、新續古今秋上に、夜毎に吹ぬ散まくも惜とて入らる、今の歌にやと疑はし、
 
2122 大夫之心者無而秋芽子之戀耳八方奈積而有南《マスラヲノコヽロハナシニアキハキノコヒニノミヤモナツミテアラナム》
 
無而はナクテとも讀べき歟、有南をアラナムと點ぜるは誤なり、願ふ詞のなむにあらねばアリナムと讀べし、
 
初、ますらをの心はなしに。無而とかきたれは、なくてともよむへし。なつみてありなん。なつむは煩の字なり。あらなんとあるは、いにしへはしらす、今はあれかしといふ心に用れはあやまれり
 
2123 吾待之秋者來奴雖然芽子之花曾毛未開家類《ワカマチシアキハキタリヌシカレトモハキノハナソモマタマカスケル》
 
未開家類、【官本云、イマタサカスケル、校本云、マタサカスケル、】
 
第四の句の毛は助語なり、落句は官本の如く讀べし、今の點マダサカズケルをマカスとかけるは書生の誤なり、
 
初、わかまちし秋はきたりぬ。はきの花そものもは助語なり。そは濁てよむへし
 
2124 欲見吾待戀之秋芽于者枝毛思美三荷花開二家里《ミマクホリワカマチコヒシアキハキハエタモシミミニハナサキニケリ》
 
(48)シミヽは第三に注せしが如し、
 
初、枝もしみゝに。しみゝは繁の字なり。以前おほき詞なり
 
2125 春日野之芽子落者朝東風爾副而而此間爾落來根《カスカノヽハキシチリナハアサコチノカセニタクヒテコヽニチリコネ》
 
芽子シのし〔右○〕は助語なり、朝東風は第十一にもよめり、
 
2126 秋芽子者於雁不相常言有者香【一云言有可聞】音乎聞而者花爾散去流《アキハキハカリニアハシトイヘレハカコヱヲキヽテハハナニチリヌル》
 
花ニ散ヌルはあだ花なり、第八に吾宅之梅乎花爾令落莫《ワギヘノウメヲハナニチラスナ》とよめるに同じ、
 
初、秋はきは鴈にあはしと。たとへは人の中をたかふ時又もあはしといひたることをたかへぬやうに、秋萩は雁にあはしといひけれはにや、雁の聲する比はかならす花のちるとなり。花にちりぬるはあたはなといふことあれはあたにちりぬるといふ心なり。上にもかりかねのきなかん日Bまてみつゝあらん此はき原に雨なふりそね。雁は八月の末よりおよそわたりくれは、萩のうつろひはつる比なり
 
2127 秋去者妹令視跡殖之芽子露霜負而散來毳《アキサレハイモニミセムトウヱシハキツユシモオヒテチリニケルカモ》
 
秋去者、【幽齋本云、アキサラハ、】
 
發句の點、幽齋本の意は秋にして過にし春萩を殖し時の意を云へば、今のつゞきにて能聞ゆるなり、今の本の點人丸集と同じ、第三句の下へ移して意得べし、初の點作者の本意なるべし、露霜は上に注せしが如し、
 
初、秋されは妹にみせんと。此初の五もしをは、第三句の下にうつして見るへし。妹にみせんとは、春うゆる時の心なり。あきさらはとよまは、妹にみせんとゝ引つゝけて見るへし。其時は第一の句よりうゆる時の心なれはなり
 
詠鴈
 
(49)2128 秋風爾山跡部越鴈鳴者射失遠放雲隱筒《アキカセニヤマトヒコユルカリカネハイヤトホサカルカクモカクレツヽ》
 
第二の句の書やうは、第六膳王の歌に付て注せしが如し、新古今集に三四の句をかりがねの彌遠放りとあるは人丸集に同じ、今は第四の句、句絶なり、下に上の句今と同じくて聲遠離雲隱良思《コヱトホザカルクモカクルラシ》とあるは大形同じ歌なり、彼を以て此をみるに尤句絶なるべし、
 
初、秋風に山とひこゆる。山跡部越とかきたれは、大和へこゆるとよみあやまりぬへし。第六に膳《カシハテノ》王の哥に、あしたにはうなひにあさりしゆふされは山飛こゆる雁しともしもといへるにも、倭部越とかけり。海邊とかきて、うみへともうなひともよめるに准して心得へし。此下に秋風に山|飛越《トビコユル》かりかねの聲とほさかる雲かくるらし。大形似たる哥なり。そこには山飛越とかきたれは、まきれなし。新古今集には、いやとほさかりとあれは、雲かくれつゝにてきるゝなり。こゝにはいや遠さかるとあれは、此所句絶なり。下の哥に准すれは、句絶をかなへりとす
 
2129 明闇之朝霧隱鳴而去鴈者吾戀於妹告社《アケクレノアサキリカクレナキテユクカリハワカコヒイモニツケコソ》
 
朝霧隱、【幽齋本云、アサキリコモリ、】  言戀、【官本、言作v吾、】
 
明闇は第四に注しつ、即初二句彼にあるには幽齋本の點と同じかりき、雲隱になずらふれば今の點も負べからず、言、我也と注せり、此集中にも多く用たり、明闇の朝霧隱のやうなる意にて啼てのみ有よしを告よとなり、
 
初、あけくれの朝きり。くれのくもし濁てよむへし。あけぐれとは、夜の明なんとするにいたりて、とはかり更にくらうなるほとをいふなり。朝ほらけ日くらしの聲きこゆなりこやあけぐれと人のいふらん。此哥にて心得へし。明ぐれのほとの霧ふかきを、思ひのむねにふさかるによそへて、わかこひを妹につけよといふなり。言の字我とおなしく訓するは、詩經文選等におほし
 
2130 吾屋戸爾鳴之鴈哭雲上爾今夜喧成國方可聞《ワカヤトニナキシカリカネクモノウヘニコヨヒナクナリクニツカタカモ》
 
夜な/\近く聞えし鴈の今夜雲上に遠く聞ゆるは己が國つ方を戀てぞなくに鳴かとなり、胡馬依2北風1、越鳥巣2南枝1、此意に似たり、雁は北より渡り來れど此方にある(50)程は南より北へも、鳴行べき事なり、
 
初、わかやとに鳴しかりかね。國つ方かもとは、雁のわかれこし國の方をこひてなくかとなり。古詩云。胡馬依(リ)2北風(ニ)1、越鳥|巣《スクフ》2南枝(ニ)1
 
遊群《ユウグン》
 
此題不審なり、下十首の歌を見るに皆鴈の歌なれば別題あるべきに非ず、若後人の注などの詞の本文となれるにや、
 
2131 左小牡鹿之妻問時爾月乎吉三切木四之泣所聞今時來等霜《サヲシカノツマトフトキニツキヲヨミカリカネキコユイマシクラシモ》
 
切木四之泣の書やうは、第六の長歌に折木四哭之來繼皆石此續《カリカネノキツキテミナシコヽニツキ》云々、此に付て注せしが如し、今時の時は助語なり、
 
初、さをしかのつまとふ時に。切木四之泣とかきて、かりかねとよめる事は、いとも心得かたし。第六卷の十九葉長哥の中に、折木四哭之、來繼皆石、此續、この三句を、今の本に、をりふしもしきつきみなしこゝにつきとよめるを、おのか今案に、こゝの哥を引て、かりかねの、きつきてみなし、こゝにつきとよむへきよし申て、尺し侍りき。そこにも申つることく、折v木切v木は、苅《カル》義なれは、かりといふに借用へきを、彼處《ソコ》にも此處《コヽ》にも四の字を添たるは、《・都日本紀》ふつに心得られ侍らす
 
2132 天雲之外鴈鳴從聞之薄垂霜零寒此夜者《アマクモノヨソニカリカネキヽシヨリハタレシモフリサムシコノヨハ》
 
ハタレは雪に限る詞のやうにてやがてはたれとのみも讀たるに、此歌によれば霜にもいふべし、雪をはたれとよめるは、内典に據勝爲論と云が如き歟、寒は上に連ねて句と成て、此夜者の四もじ一句上を决するなり、人丸集にこよひはとあれど集中(51)の例然らねば今取らず、六帖には霜の歌とせり、
 
初、あま雲のよそにかりかね。はたれははたらとおなし。またらなり。いせ物かたりにふしの雪をみてかのこまたらにとよめるかことし。第十九にわかそのゝすもゝの花かさはにちるはたれのいまたのこりたるかもとよめるは、はたれはやかて雪なり。第三第八をよひ此下六十二葉にも、皆雪につけてはたれとはよめれは、はたれ霜降とは、霜の雪ともみるはかりふるをいへるなり
 
一云|彌益益爾戀許曾増焉《イヤマスマスニコヒコソマサレ》。
 
2133 秋田吾苅婆可能過去者鴈之喧所聞冬方設而《アキノタノワカカリハカノスキユケハカリカネキコユフユカタマケテ》
 
苅婆可は第四卷に注せり、
 
初、秋の田のわかかりはかの過ゆけは。かなはかとは、第四第十六にもよめり。刈場と、いふ心ときこゆ。此哥はかりしほときこゆれとも、第十六卷の哥はさも聞えす。
 
2134 葦邊在荻之葉左夜藝秋風之吹來苗丹鴈鳴渡《アシヘナルヲキノハサヤキアキカセノフキクルナヘニカリナキワタル》
 
左夜藝は、第二に人丸の小竹の葉はみ山もさやに亂れどもとよまれたるさや〔二字右○〕と同じ、彼處に注せるが如し、六帖にはそよぎとあり、人丸集にかきねなるはぎの花開秋風の、吹なるなへに鴈鳴度とあるは此歌の變ぜるなるべし、
 
初、あしへなる荻の葉さやき。和名集云。野王案云。荻【音狄。字亦作〓。和名乎木。】與v〓相似(テ)而非2一種(ニ)1矣。〓、玉篇云。〓【音亂】〓也。〓【音〓和名阿之豆乃】蘆之初(テ)生(スル)也。さやきはさわくなり。和(ト)與也と同韻にて通するなり。此集にはさはくに和の字を用たり。波を用ても通する事はおなし。神代紀(ニ)云。聞喧擾之響焉《サヤケリナリ》【此(ヲハ)云2左揶霓利奈離(ト)1。】さやかの心にはあらす。日本紀に、未平とかきてもさやけりとよめり。韓退之か送2孟東野(ヲ)1序に大凡《オヨソ》物不(ルトキハ)v得2其平(ヲ)1則|鳴《ナル》といへるに、をのつからかよへり
 
一云|秋風爾鴈音所聞今四來霜《アキカセニカリカネキコユイマシクラシモ》。
 
2135 押照難波穿江之葦邊者鴈宿有疑霜乃零爾《オシテルヤナニハホリエノアシヘニハカリネタルカモシモノフラクニ》
 
宿有疑、【六帖云、カリソネタラシ、】  零爾、【六帖云、フラクニ、】
 
(52)六帖にかりぞねたらしとは、寢てあるらしを?阿切多なればつゞめて云り、疑はか〔右○〕ともらし〔二字右○〕とも義訓せり、此外カリヤドレルカとも讀べけれど今の點尤好、
 
初、をしてるやなには。班固(カ)西都賦云。鳧聲鴻雁朝(ニハ)發(シ)2河海(ヲ)1夕(ニハ)宿(ス)2江漢(ニ)1。霜のふらくには、霜のふるになり。宿有疑は.やとれるかともよむへし
 
2136 秋風爾山飛越鴈鳴之聲遠離雲隠良思《アキカセニヤマトヒコユルカリカネノコヱトホサカルクモカクルラシ》
 
初、秋風に山とひこゆる。上に似たるありき
 
2137 朝爾往鴈之鳴音者如吾物念可毛聲之悲《ツトニユクカリノナクネハワカコトクモノオモフカモコヱノカナシキ》
 
朝爾往、【官本云、アサニユク、】
 
2138 多頭我鳴乃今朝鳴奈倍爾鴈鳴者何處指香雲隱良哉《タツカネノケサナクナヘニカリカネハイツコサシテカクモカクルラム》
良哉、【別校本、哉作v武、】
 
哉は定めて武を誤れるなり、
 
2139 野干玉之夜度鴈者欝幾夜乎歴而鹿己名乎告《ヌハタマノヨワタルカリハオホツカナイクヨヲヘテカオノカナヲヨフ》
 
告はノルと讀べし、鴈の鳴聲はかり/\と聞ゆればかりとよめり、後撰集に、
 行歸りこゝもかしこも旅なれや、來る秋毎にかり/\と鳴、
 秋毎に來れど歸れば憑まぬを、聲に立つゝかりとのみ鳴、
(53) ひたすらに我が思はなくに己さへ、かり/\とのみ鳴度らむ、
此等みな彼が聲の然聞ゆるに付てよめり、幾夜乎歴而鹿は、第十三に新世と書べきに新夜と書たれば今も幾世にや、又後撰集
 秋風に霧飛分て來る雁の、千世に變らぬ聲聞ゆなり、
 
初、ぬは玉のよわたる雁は。告はのるともよむへし。かりの鳴聲は、かり/\ときこゆれはかくよめり。後撰集に
 行歸りこゝもかしこも旅なれやくる秋ことにかり/\となく
 秋ことにくれと歸れは頼まぬを聲にたてつゝかりとのみなく
 ひたすらにわかおもはなくにをのれさへかり/\とのみ鳴わたるらん
これらいなかれか聲のしか聞ゆるにつきてよめり。いくよをへてかは、幾夜と書たれとも、幾世にやと聞ゆ。次下の哥は、雁になりてかへしによめる心なるに、年のへゆけはといへるをおもふへし。又後撰集に貫之哥に
 秋風に霧とひわけてくる雁のちよにかはらぬ聲きこゆなり
 
2140 璞年之經徃者阿跡念登夜渡吾乎問人哉誰《アラタマノトシノヘユケハアトモフトヨワタルワレヲトフヒトヤタレ》
 
徒に我名を告て雁々と鳴にはあらず、年月の移りゆけば人々をいざなひて常なき世を驚ろかしめむ爲に假々《カリ/\》と鳴て渡る我を聞知らずして、幾世を經てか己が名を告といふは誰人にておはしますぞとなり、上に引けるひたすらに我思はなくにと云歌に合せて見るべし、文選應徳※[王+連]詩云、朝(ノ)雁鳴2雲中1、音響一(ニ)何(ソ)哀(シキ)、問(フ)子游2何郷1、※[揖の旁+戈]v翼正徘徊、言我塞v門來、將d就2衡陽1棲u、此も雁の問答なり、
 
初、あらたまの年のへゆけはあともふと。これは雁になりてかへしによめるなり。あともふは、阿跡念とかきたれは、跡をおもふといふ事と聞たり。跡は過にし跡にて、昔の心なり。昔よりわたりなれて、年をへてこゝにくれは、昔よりの事をおもふとて、今もわすれすわたりくるを、しらすかほして、いくよをへてかおのか名をのると問ふ人は誰そとなり。第十五新羅使の、海上にてよめる哥に
 浪の上にうきぬせしよひあともへかこゝろかなしくいめに見えつる
これは故郷をさして跡といひて、あとをおもへはにかといへる歟。しからは今の心とおなし。第二第九第十七に、あともふとよめるは、日本紀に、誘の字をあとふとよめるにおなし。さそふ心なり。第十四東哥に、あともへかあしくま山のゆつるはのふゝまる時に風ふかすかもとよめるは、誘の字の心にや。また何とおもふかといへりとも聞ゆ。そこ/\にすてに注し、後注すへし。又阿跡念とはかきたれともこれも誘の字の心にや。その故はさきにひける後撰集の哥に、ひたすらにわかおもはなくにとよめるは、我は人なから、幻化無常のことはりを觀して、ひたすらにかりなる身ともおもひいれすあるを、おのれは鳥Hにして、常とも無常とも知ま亡きことなるに、人をさへおとろかして、かり/\と鳴わたるらんことよといへるなり。今もその心にて、おのか名をのるといふを、いなさにはあらす。轉變遷流する世にて、年の過ゆけは、人をさそひておとろかしめむとて、かえい/\となきて、夜ひとよわたり過る我を、假なる身とはおとろかすして、おのか名をのみはなとのると問ふ人は、誰にておはしますそとこたふるなり
 
詠鹿鳴
 
2141 此日之秋朝開爾霧隱妻呼雄鹿之音之亮左《コノコロノアキノアサケニキリカクレツマヨフシカノコヱノハルケサ》
 
亮左をハルケサとよめるは字に應ぜず、六帖にさびしさとあるも同じ、仁徳紀に寥(54)亮をサヤカナリとよめれば今もオトノサヤケサと讀べきなり、此歌は人丸集にも見えず、續古今は何に依てか作者をつけられけむ、
 
初、此ころの秋のあさけに。亮左、はるけさとよめるは誤なり。さやけさとよむへし。仁徳紀(ニ)寥亮とかきてさやかなりとよめり
 
2142 左男牡鹿之妻整登鳴音之將至極靡芽子原《サヲシカノツマトヽノフトナクコヱノイタラムカキリナヒケハキハラ》
 
妻整ト鳴とは、第三に網子調流海人之呼聲《アゴトヽノフルアマノヨヒコヱ》とよめる意にて、妻を呼びわぶるなり、妻と副て居ればとゝのほり、副《タク》はざればとゝのはぬなり、六帖に妻をしのぶとゝあるは叶はず、極はキハミと讀べし、靡芽子原は第七に我し通はゞ靡けしの原とよめるに同じ、鹿の通ひ易からむ爲に靡けとなり、玉篇、整、【之郢切、整頓整齊也、】
 
初、さをしかの妻とゝのふと。長流か抄に、妻よひ集るなりといへり。第三に、あひきすとあことゝのふるとよめるは、そろゆる心なり。整肅整理の心なり。世俗に事の成就するをとゝのふといへり。今は此心にや。なひけ萩原とは、第七に、妹かりとわかゆく道のしのすゝき我しかよはゝなひけしの原とよめるにおなし。鹿のかよひやすきためになひけといふなり
 
2143 於君戀裏觸居者敷野之秋芽子凌左牡鹿鳴裳《キミニコヒウラフレヲレハシキノノヽアキハキシノキサヲシカナクモ》
 
敷野は磯城野《シキノ》なるべし、しきしまを敷島とも磯城島ともかけり、
 
初、君にこひうらふれをれは。敷野は、大和國磯城郡にある野なるへし。磯城郡を上下にわかちて、城《シキノ》上|城《シキノ》下となして.磯の字を除たれと、猶しきのかみしきのしもとよめり。六帖に、いもにこひうらこひをれはあしひきの山下とよみ鹿そ鳴なる
 
2144 鴈來芽子者散跡左小壯鹿之鳴成音毛裏觸丹來《カリハキヌハキハチリヌトサヲシカノナクナルコヱモウラフレニケリ》
 
發句を六帖にはかりくればとあれど、舊訓に從ふべし、鴈の來れば萩の散こと上に見えたり、
 
初、雁はきぬはきは散りぬと。雁のきて、萩のちる比は、鹿の妻こひの折も過るなり。上に、秋萩は雁にあはしといへれはかとありし哥を思ひ合すへし
 
(55)2145 秋芽子之戀裳不盡者左小鹿之聲伊續伊繼戀許曾益焉《アキハキノコヒモツキネハサヲシカノコヱイツキイツキコヒコソマサレ》
 
戀モ盡ネバはつきぬになり、第四句の二つの伊は共に助語なり、落句は萩を戀るに又鹿の音の戀らるゝを云へり、
 
初、秋はきのこひもつきねは。此つきねはゝ、上に度々いへることく、つきぬにの心なるへし。鹿の心に萩をこひしたふ心もつきぬうへに、また妻をこふる心もまされは、鳴聲のつきて聞ゆるなり。ふたつのいもしは發語の辭なり。いつぎ/\は、やむ間もなく啼なり。又こひこそまされは、たゝ萩のうへにもいへるなるへし
 
2146 山近家哉可居左小牡鹿乃音乎聞乍宿不勝鴨《ヤマチカクイヘヤスムヘキサヲシカノコヱヲキヽツヽイネカテヌカモ》
 
可居はオルベキとも讀べし、第十二云、里近家哉應居云々、古今集云、山里は秋こそ殊に侘しけれ、鹿の鳴音に目をさましつゝ、
 
初、山ちかく家やすむへき。可居とかきたれは、をるへきともよむへし。家居といふは、をるゆへなり。古今集に、山さとは秋こそことにわひしけれ鹿のなくねにめをさましつゝ。後撰集に、竹ちかくよとこねはせし鶯のなくこゑきけは朝いせられぬ。此哥心の似たれは書つく
 
2147 山邊爾射去薩雄者雖大有山爾文野爾文沙小牡鹿鳴母《ヤマノヘニイユクサツヲハオホカレトヤマニセノニセサヲシカナクモ》
 
山爾文野爾文、【官本云、ヤマニモノニモ、】
 
射去の射は發語の詞、第四句の點は書生の誤歟、官本の如く改たむべし、
 
初、山のへにいゆくさつをは。いは發語の辭。山にも野にもを、山にせ野にせとあるかんなはあやまれり
 
2148 足日木笶山從來世波左小鹿之妻呼音聞益物乎《アシヒキノヤマヨリキセハサヲシカノツマヨフコヱヲキカマシモノヲ》
 
來セハはきたりせばなり、人丸集にも六帖にもきけばと有は誤なり、
 
初、足引の山よりきせは。きたりせはなり
 
2149 山邊庭薩雄乃禰良比恐跡小牡鹿鳴成妻之眼乎欲焉《ヤマヘニハサツヲノネラヒオソルレトヲシカナクナリツマノメヲホリ》
 
初、山へにはさつをのねらひ。ねらひかりなり
 
(56)2150 秋芽子之散去見欝三妻戀爲良思棹牡鹿鳴母《アキハキノチリユクミレハイフカシミツマコヒスラシサヲシカナクモ》
 
初、秋はきのちりゆくみれは。いふかしみは、鹿の心の欝陶して、むすほゝれふさかるなり
 
2151 山遠京爾之有者狹小牡鹿之妻呼音者乏毛有香《ヤマトホキサトニシアレハサヲシカノツマヨフコヱハトモシクモアルカ》
 
京、【別校本云、ミヤコ、】
 
京の字日本紀にミサトとよめり、京爾之の之は助語なり、
 
初、山遠きさと.日本紀に京をみさとゝよめり
 
2152 秋芽子之散過去者左小牡鹿者和備鳴將爲名不見者乏焉《アキハキノチリスキユケハサヲシカハワヒナキセムナミネハトモシミ》
 
2153 秋芽子之咲有野邊者左小牡鹿曾露乎別乍嬬問四家類《アキハキノサケルノヘニハサヲシカソツユヲワケツヽツマトヒシケル》
 
胸句はサキタルノベハとも讀べし、
 
2154 奈何牡鹿之和備鳴爲成蓋毛秋野之芽子也繁將落《ナニシカノワヒナキスナルケタシクモアキノヽハキヤシケクチルラム》
 
發句はなにぞ鹿のとよめる歟、又何しか人を相見そめけむなどの如く牡しかをも、てにをはに兼てつゞけたる歟、第一に物|戀之伎《コヒシキ》乃鳴|事《コト》毛とよめるを思へば後の義もあるまじきにあらぬ歟、後の人の我もしか啼てぞ人に戀られしとよめるは鹿に然を兼たり、
 
初、なにしかのわひなき。なにと切てもよし.又なにしかとつゝけて、鴫を妹こひしきの鳴聲もとよめることくにも見るへし。我もしかなきてそ人に戀られしとよめるも、然と鹿とを兼たり
 
(57)2155 秋芽子之開有野邊左牡鹿者落卷惜見鳴去物乎《アキサキノサキタルノヘニサヲシカハチラマクヲシミナキユクモノヲ》
 
2156 足日木乃山之跡陰爾鳴鹿之聲聞爲八方山田守酢兒《アシキヒキノヤマトカケニナクシカノコヱキカスヤモヤマタモルスコ》
 
トカケは第八に、スコは第一に、聞爲ヤモはきくやなり、
 
初、あしひきの山のとかけに。とかけは只陰なり。第八刀理宣令か哥にもよめり。そこには常影とかけり。もしとこかけにて、常に陰なる心歟。聲きかすやもは聞やなり。すもし清て讀へし。山田もるすこは、第一雄畧天皇の御哥にも、此をかになつむすことよませたまへり。いやしきものゝ名なり
 
詠蝉
 
2157 暮影來鳴日晩之幾許毎日聞跡不足音可聞《ユフカケニキナクヒクラシコヽタクノヒコトニキケトアカヌコヱカモ》
 
詠蟋蟀
 
2158 秋風之寒吹奈倍吾屋前之淺茅之本蟋蟀鳴毛《アキカセノサムクフクナヘワカヤトノアサチカモトニキリ/\スナクモ》
 
拾遺集には寒く吹なるひぐらしもなくとて入たるは人丸集の如し、今題あれば云に及ばざれど、淺茅が本に日晩の鳴とはいかに意得べきにか、
 
2159 影草乃生有屋外之暮陰爾鳴蟋蟀者雖聞不足可聞《カケクサノオヒタルヤトノユフカケニナクキリ/\スハキケトアカヌカモ》
 
人丸集には此もなくひぐらしはとあり、
 
初、かけ草の生たる。陰草は、山の陰草、岩のかけ草、水かけ草の類なり。それ/\の陰に生たる草なり
 
(58)2160 庭草爾村雨落而蟋蟀之鳴音聞者秋付爾家里《ニハクサニムラサメフリテキリ/\スナクコヱキケハアキツキニケリ》
 
庭草は庭に生たる草なり、和名集云、本草云、地膚一名地葵、【和名、邇波久佐、一云、末木久佐、】此名あれど今の意にあらず、拾遺人丸集六帖並に皆ひぐらしの秋はきにけりとあり、若昔の本に詠蟋蟀と云題落たりける歟、さるにても蟋蟀をいかでひぐらしとはよみけむおぼつかなし、蟋蟀之の之は衍文にあらず助語なり、此卷下秋相聞の歌にもあり、
 
初、庭草に村雨ふりて。庭草は、庭におふる草なり。俗にはゝき木といふ草にはあらす。和名集云。本草云。地膚、一名地葵【和名邇波久佐。一云末木久佐】。これ箒木といふ草なり。蟋蟀之、此之は助語にくはへたるなり。衍文にあらす。下五十三葉にもかくのことし
 
詠蝦
 
2161 三吉野乃石本不避鳴川津諾文鳴來河乎淨《ミヨシノヽイハモトサラスナクカハツウヘモナキケリカハヲサヤケミ》
 
石本不避は石のあたり離れずなり、
 
2162 神名火之山下動去水丹川津鳴成秋登將云鳥屋《カミナヒノヤマシタトヨミユクミツニカハツナクナリアキトイハムトヤ》
 
落句は蛙の聲を聞て、今正しく秋の面白き時と人の云はむとてや鳴らむとよめる歟、
 
2163 草枕客爾物念吾聞者夕片設而鳴川津可聞《クサマクラタヒニモノオモフワカキケハユフカタマケテナクカハツカモ》
 
(59)物念はモノモフと讀べし、第六車持千年歌云、夕去者川津鳴|奈辨詳紐不解《ナヘドヒモトカズ》、客爾之有者云々、
 
2164 瀬呼速見落當知足白浪爾河津鳴奈里朝夕毎《セオヲハヤミオチタキチタルシラナミニカハツナクナリアサヨヒコトニ》
 
朝夕毎、【人丸集云、アサユユフコトニ、家持集六帖同v此、紀州本點亦同、】
 
2165 上瀬爾河津妻呼暮去者衣手寒三妻將枕跡香《カミツセニカハツツマヨフユフサレハコロモテサムミツママカムトカ》
 
衣手寒三とは蝦の衣手なり、莊子云、列子行食2於道從1【傍也】見2百歳髑髏1〓v蓬而指(テ)之曰云々、得2水上之際(ヲ)1、則爲2〓〓之衣1、玄英疏云、〓〓之衣(ハ)青苔也、在2水中1若v張v綿、俗謂2之蝦蟆之衣1也、和名集云、陸詞切韻云、苔(ハ)【音〓、和名古介、】水衣也、
 
初、かみつせにかはつつまよふゆふされは衣手さむみ。此夕されは衣手寒みは、作者のこゝろにて、かはつもゆふへの寒さに、妻をまかむとよふかと、かれか心をおもひやりてよめるか。かれに衣手似つかねはなり。もしまたまかむといふも、手枕せんといふ心なれは、それとてもかはつによくはにつきたらねは衣手さむみも活氣の作者、人の上に准して、おしてかれかうへにいへる歟
 
詠鳥
 
2166 妹手乎 取石池之浪間從鳥音異鳴秋過良之《イモカテヲトロシノイケノナミマヨリトリノコヱナクアキスキヌラシ》
 
取と云はむ爲に妹手乎とは置けり、取石池は六帖にはとりこの池と云ひ、八雲御抄も其定にて近江なる由注し給へり、仙覺抄云、古點にはとりこのいけと點ぜり、此は(60)取|古《コ》池とかける本あるに依てなり、證本どもには取石とかけり、此に依てとりしと點ぜられたり、此|取石《トリシ》と云ことは人の姓の中にもあり、とろしとよむと申侍るなり、とりしは聞にくからねばさても有べきにや、後賢沈思して定めらるべき歟、以上分明なり、鳥音異鳴は、今の點異の字を和せず、トリノネケニナクと讀べし、水鳥どもの音のすれば秋過ぬらしとよめるなるべし、
 
初、妹か手をとろしの池。妹か手を執とつらねたり。取石池とかけるを、八雲御抄に池部にとりこの近と注し載させたまへり。長流かかける物にも、取子池とかけり。古本は子の字なりけるが、變して石となれる歟。和泉國和泉郡にまかりける道に、池を堤を道にてすき侍る所ありき。其池の名を、人の登呂須《トロス》の池となん申侍りけれは、此哥を思ひ出侍けるを、いまもおほえ侍り。鳥音異鳴を、とりのこゑなくとよめるは誤なり。とりのねけになくとよむへし。水gはさむき比なくなれは、秋過ぬらしとはいへり
 
2167 秋野之草花我末鳴舌百鳥音聞濫香片聞吾妹《アキノノヽヲハナカスヱニナクモスノコヱキクラムカカタキクワカモ》
 
吾妹、【官本云、ワキモ、】
 
舌百鳥は、百舌鳥を上の二字かへさまに寫し傳へたるなるべし、但八雲御抄に伯勞鳥を擧させ給ひて細注に舌百鳥、普通には百舌鳥常事歟と遊ばされたるは此集に依て舌百鳥と注せさせ給ひて通例の百舌鳥を出して兩方を示させ給ふなるべし、官本に百舌鳥に作られたれど御秒を證として却て今取らず、片聞は六帖も今の本の點と同じけれどことわり叶はざれげカタキケと改たむべし、其故は音聞らむかとは聞もきかずもいまだ知らぬ詞なるに、何ぞ忽に治定してかたきくと云べき、互奪て兩つながら失なひて上下共に理なし、片聞は片待等の片の如し、吾妹は今の點(61)は書生の誤なり、官本に依べし、
 
初、秋の野のをはなか末に。舌百鳥は、百舌鳥のさかさまになれる歟。されと八雲御抄にも、普通百舌鳥とかゝせたまへは、いにしへより此まゝなりと見えたり。舌百ともかくましきにあらす。和名集云。兼名苑云。鵙、一名〓【上音覓。下音煩。楊氏漢語抄云。伯勞、毛受。一云鵙】伯勞也。日本紀私記云。百舌鳥。わきもをわかもとあるは、例にまかせてわきもとすへし。をはなを草花とかける、集中に猶見えたり。山草とかさてやますけとよめる、これら心得かたし
 
詠露
 
2168 冷芽子丹置白露朝朝珠斗曾見流置白露《アキハキニオケルシラツユアサナサナタマトソミユルオケルシラツユ》
 
第八に家持の歌に玉跡見までおける白露とよまれたるに似たり、冷の字は義訓なり、第十一にも秋風を冷風とかけり、此歌六帖には家持の歌とす、家持集にはなくて人丸集にあり、
 
2169 暮立之雨落毎【一云打零者】春日野之尾花之上乃白露所念《ユフタチノアメフルコトニカスカノノヲハナカウヘノシラツユオモホユ》
 
此歌第十六には小鯛王宴居歌と注して再出たり、委は彼注を往て見るべし、夕立を昔は秋の物とせり、されど夕立と云べき雨は七月下旬までこそ降侍るを、古は仲秋の比までも云ひけるにや、
 
初、ゆふたちの雨ふることに。此哥第十六にふたゝひ出たり、今一首有て後に注すらく.右歌二首|小鯛《コタヒノ》王宴居(ノ)之日取(テ)v琴(ヲ)登時《スナハチ》必先吟2詠(ス)此歌(ヲ)1也。其小鯛王者、更名《マタノナハ》置始《オイソメノ》多久美斯(ノ)人(ナリ)也。かゝれは小鯛王の哥歟。もしは古歌なるを、おもしろくおほえて詠せられけるにや。そこには雨ふることにを、打ふれはとあり。今の注のことし。尾花かうへを末といへり。夕立を昔は秋の物とせり。されと夕立といふへき雨は、七月下旬まてふり作るを、此哥にては、秋雨をみなゆふたちともいへりけるなるへし
 
2170 秋芽子之枝毛十尾丹露霜置寒毛時者成爾家類可聞《アキハキノエタモトヲヽニツユシモオキサムクモトキハナリニケルカモ》
 
2171 白露與秋芽子者戀亂別事難吾情可聞《シラツユトアキノハキトハコヒミタレワクコトカタキワカコヽロカモ》
 
(62)戀亂とは露と芽子とを共に痛く愛する意なり、貫之の春秋に思ひ亂て分かねつ、時に付つゝうつる心はとよまれたるは今の歌に似たり、新勅撰は人丸集に依て秋の萩とをこきまぜてとて入られたり、六帖には白露を秋の萩原にこきまぜてとあり
 
初、白露と秋のはきとはこひみたれ。こひみたれとは、をとこをんなの中の戀に、心のみたるゝこときをいふにあらす。露と萩とは、いつれかまさるとゝはん人に、露もおもしろく、萩もおかしけれは、左右に心ひかれて、いつれをいかにともいひかたく侍りと、こたふるやうによめるなり。此哥人麿のなりともおほえ侍り。何に出てか見たりけん
 
2172 吾屋戸之麻花押靡置露爾手觸吾妹兒落卷毛將見《ワカヤトノヲハナオシナミオクツユニテフレワキモコチラマクモミム》
 
手フレは手を觸よなり、
 
初、わかやとのをはなおしなみ。手ふれわきもこは、手をふれよなり
 
2173 白露乎取者可消去來子等露爾争而芽子之遊將爲《シラツユヲトラハケヌヘシイテコトモツユニイソヒテハキノアソヒセム》
 
去來をイテと點ぜるは誤なりイザと讀べし、六帖にいざやこらとあれど上に注せし如くなれば今取らず、ハギノ遊は秋の野遊なり、
 
初、白露をとらはけぬへし。去來はいさなり。いては誤れり。萩のあそひは、萩の咲たる野に出てあそふなり。花の宴といふかことし。此哥は古今集に、萩の露玉にぬかんとゝれはけぬよしみむ人は枝なからみよといふ哥の心なり
 
2174 秋田苅借廬乎作吾居者衣手寒露置爾家留《アキタカルカリイホヲツクリワカヲレハコロモテサムシツユオキニケル》
 
借廬はカリイホとよめる所もあれど多分に隨てカリホと讀べし、落句の家留とてはてたるを思ふに、露の下に曾の字落たる歟、若然らば衣手寒はころもでさむくなるべし、此歌は後撰集の天智天皇の御製に似たり、
 
初、秋田かるかりいほを。和名集云。毛詩云。農人作(テ)v廬(ヲ)以便(リス)2田事(ニ)1【力曾反。和名伊保。】此哥は後撰集に天智天皇の御哥とて載たる、秋の田のかりほのいほのとまをあらみわか衣手は露にぬれつゝといふに似たる哥なり。衣手さむしとはよむへからす。さむくとよむへし
 
(63)2175 日來之秋風寒芽子之花令散白露置爾來下《コノコロノアキカセサムシハキノハナチラスシラツユオキニケラシモ》
 
人丸集にも六帖にもあり、
 
2176 秋田苅※[草がんむり/店]手揺奈利白露者置穗田無跡告爾來良思《アキタカルトマテウコクナリシラツユハオクホタナシトツケニキヌラシ》
 
一云|告爾來良思母《ツケニケラシモ》
 
※[草がんむり/店]の字未2考得1、今按苫なるべし、和名集云、爾雅注云、苫【土廉反、和名度萬、】編2菅茅(ヲ)1以覆v屋也、かりほを作たる其戸口に苫を垂て風雨を防ぐを苫手と云へる歟、動とは風に觸て搖ぐを、田を皆刈果つれば我置べき處なしと露が告に來たる歟と讀なせり、露の深き時は苫のしづくの落る音などをも搖くとは云べし、曾丹が集に、何處邊《イツコヘ》によな/\露のおけとてか、稻葉を人の急刈らむ、此は今の歌を蹈てよめりとみゆ、すべて彼が歌集には此集に依てよめる事多し、梅の花夢に語らくとも櫻の花は迎へ來らしもとも讀たれば、歌の習にて露にも思ふ事をば告さすべきなり、
 
初、秋田かるとまてうこくなり。※[草がんむり/店]の字は苫なるへし。和名集云。爾雅注云。苫【士廉反。和名度萬。】編(テ)2菅茅(ヲ)1以覆(フナリ)v屋也。日本紀に、和訓をもてかんなに用たるは、此苫と跡といふふたもしを、とゝいふに用たり。但歌につきてのことなり。哥の心は、田をかるとていほりを作たる、其戸口に、苫をたれて、風なとをふせくを、苫手といへるなるへし。うこくとは、風にふれてうこくを、田を皆かりはてつれは、わかおくへき所なしと、露か告にさたるやうにいひなせり。露のふかき時は、苫よりしつくの落る音なとのするをも、うこくとはいふへし。風にふれてと申侍しは、經信卿の夕されはかと田のいなはをとつれてあしのまろやに秋風そふくとよまれたる哥をおもひてそへ侍り。曾丹か集に
 いづこべによな/\露のをけとてかいなはを人の急きかるらん
これは今の哥をふみてよめりとみゆ。すへてかれか集には、此集によりてよめりとみゆる哥おほし。秋田は穗に出たる田なり。第四第八にもよめり
 
詠山
 
(64)2177 春者毛要夏者緑丹紅之綵色爾所見秋山可聞《ハルハモエナツハミトリニミユルアキノヤマカモ》
 
山を詠ずる歌なる故に春夏も面白かりける事を云ひて、秋は殊に當分なれば錦に見ゆると云へり、第十三におのづからなれる錦をはれる山かもともよめり、
 
初、春はもえ夏はみとりに。詠v山哥なるゆへに、春夏もおもしろかりける事をいひて、ことに秋は當分なれは、錦にみゆるといへり。第九に、山しろのくせの鷺坂かみよゝり春ははりつゝ秋は散けり。第十三に、山の邊のいそしの御井はをのつからなれるにしきをはれる山かも、第八に、大津皇子御哥。たてもなくぬきもさためずをとめこかおれるもみちに霜なふりそね。同皇子詩に、山機霜杼織2葉錦1。拾遺集に春はもえ秋はこかるゝかまと山
 
萬葉集代匠記卷之十中
 
(65)萬葉集代匠記卷之十下
 
詠黄葉
 
2178 妻隱矢野神山露霜爾爾寶比始散卷惜《ツマコモルヤノヽカミヤマツユシモニニホヒソメタリチラマクヲシモ》
 
妻隱、【六帖云、ツマカクス、玉葉同v此、別校本點、亦同、】
 
發句は矢を屋になしてつゞくる事第二の嬬隱屋|上乃《カミノ》山乃とあるに同じ、點も第二に隱の下に有の字あるに准らふれば今の點叶へり、矢野神山は和名集を考るに、備後甲奴郡に矢野あり、伊豫喜多郡に矢野【也乃】あり、宗祇法師の國分に伊豫に屬せるは考たる事ある歟、此外播磨赤穗郡に八野《ヤノ》あり、出雲神門郡に八野あり、應神天皇の皇女八田皇女を矢田とも書たれば、此集と文字替りたりとも何れならむ知べからず、
 
初、妻こもるやのゝかみ山。長流か枕詞燭明抄云。妻こもるは、妻隱と書たれは、つまかくすともよみたり。是は妻をかくすやといふ心にてつゝけたり。人しれぬ屋にをくを、かくれ妻とも、こもりつまともよめり。よのつねにも、妻をは人にみせぬものにて、奧屋にこめ置なれは、つまかくす屋とはいふへし。つまこもるやかみの山ともよみたり。皆屋といふ詞まうけんためなり。俊頼朝臣哥云
 つまかくすやのゝ山なるかへの木のつれなき戀にわれもとしへぬ
是やのゝ神山を畧して、やのゝ山とも詠したる歟以上。此つまこもるといふを、こめをく心なれは毛と牟と五音相通して、つまこむると心得へし。又おのつから妻かこもり居る心ならは、通せすしてそのまゝに心得へし。つまかくすともよめは、こむるといふ方なり。此矢野の神山いつれの國に有ともしらす。類字抄といふ物に未勘といひて、宗祇國分屬(ス)2伊與(ニ)1と注したり。的證を見されは信しかたし
 
2179 朝露爾染始秋山爾鐘禮莫零在渡金《アサツユニソメハシメタルアキヤマニシクレナフリソアリワタルカネ》
 
在渡金は散らずして有はつる歟になり、
 
初、朝露にそめはしめたる。ありわたるかねは、禰と爾と通して、ありわたるかになり。ありわたるかには秋のみならて、冬まてもあるをいへり。夜わたる月といふも、有明にて、一夜ありわたるをいへり
 
(2)右二首柿本朝臣人麿之謌集出
 
2180 九月乃鐘禮乃雨丹沾通春日之山者色付丹來《ナガツキノシクレノアメニヌレトホリカスカノヤマハイロツキニケリ》
 
2181 鴈鳴之寒朝開之露有之春日山乎令黄物者《カリカネノサムキアサケノツユナラシカスカノヤマヲモミタスモノハ》
 
後撰集には鴈なきて寒き朝の露ならし立田の山をもみたす物はとあり、た〔右○〕もじ清て讀べし、第八には如此曾毛|美照《ミテル》とよみ、第十五には志具禮能安米爾毛美多比爾家里とよめり、
 
初、かりかねの寒き朝けの。もみたすは、たもし清ても、濁てもよむへし。黄葉をもみちといふは、揉出《モミデ》といふ心にてなつくる歟。紅はふり出すものなれはなり。古今集に、から紅のふり出てそなくとも、紅のふり出つゝなく涙にはともよめり。露の、このはをしてもみちせしむれは、令黄とはかけり。今の俗、此令の字を何となく用て、心のたかへることおほし。使令教遣俾等の字を、おなし心に用るをおもふへし。後撰秋下によみひとしらす
 雁なきて寒きあしたの露ならし立田の山をもみたすものは
今の哥なり。古本に立田の山とも有けるにや
 
2182 比日之曉露丹吾屋前之芽子乃下葉者色付爾家里《コノコロノアカツキツユニワカヤトノハキノシタハハイロツキニケリ》
 
拾遺集は人丸集に依て作者を付らる、下に芽子乃下葉者を秋之芽子原とかへて再出たる歌あり、古今集に夜を寒み衣かりがね鳴なへに芽子の下葉も色付にけり、
 
2183 鴈鳴者今者來鳴沼吾待之黄葉早繼待者辛苦母《カリカネハイマハキナキヌワカマチシモミチハヤツケマテハクルシモ》
 
鴈の鳴につゞきて早くもみぢせよとなり、
 
初、かりかねは今は。もみちはやつけとは、雁のなくにつゝきてもみちせよとなり
 
2184 秋山乎謹人懸勿忘西其黄葉乃所思君《アキヤマヲユメヒトカクナワスレニシソノモミチハノオモホユルキミ》
 
(3)秋山の紅葉の事を言葉に懸てゆめ/\我になきかせそ、其紅葉の如く紅顔の匂へる人を暫忘つるが、聞に付て思ひ出らるゝにとなり、第七の雜挽に蜻野を人の懸ればとも、秋山の黄葉|※[立心偏+可]怜《アハレ》と浦觸《ウラフレ》て、入にし妹は待に來まさぬともよめるを思へば、妻の身まかりたるを山に納めて後よめる歟、君と云へるに依れば憑みつる貴人などの薨じ給ひて後よめる歟、忘ニシのに〔右○〕は助語なり、
 
初、秋山をゆめ人かくな。ゆめ/\秋山のもみちの事を、人の言の葉にかけて我にきかすな。そのもみちのことく、紅顔のにほへる人を、しはしわすれたるが、おとろかされておもひ出らるゝにといへる心なり。これはもし妻なとをうしなへる人のよめるか。第七にあきつ野を人のかくれはとよめる哥も挽哥なれは、かくはいふなり。此上に、君をかけつゝ鶯なくもとよめる哥も有。すへて此かくるといふ詞、集中にあまた見えたり
 
2185 大坂乎吾越來者二上爾黄葉流志具禮零乍《オホサカヲワカコエクレハフタカミニモミチハナカルシクレフリツヽ》
 
和名集云、葛上郡大坂、黄葉流とは上にも有つる如く黄葉の散を云へり、
 
初、大坂をわかこえくれは。大坂は葛上郡に有。ふたかみにもみち葉なかるとは、ちるをなかるといへり。ちりなからふるともよめり
 
2186 秋去者置白露爾吾門乃淺茅何浦葉色付爾家里《アキサレハオクシラツユニワカカトノアサチカウラハイロツキニケリ》
 
浦葉は末葉なり、新古今には人丸集に依てうはゝとあり、家持集にはうれはとあり、
 
2187 妹之袖卷來乃山之朝露爾仁寶布黄葉之散卷惜裳《イモカソテマキキノヤマノアサツユニニホフモミチノチラマクヲシモ》
 
朝露爾、【六帖云、アサキリニ、別校本露作v霧、點與2六帖1同、】
 
發句は卷と云はむ爲なり、卷來乃山を六帖にもまきもくやまと云ひ、續後拾遺集にもしかあれど、纒向は卷向《マキモク》卷目などこそ書たれど卷來とかける例もなし、况まきも(4)くならばまきもく山とこそ云べきに、今乃を加へたれば今の點如くまききの山にて、かく名付たる山の何處《イツク》にぞ有なるべし、上よりつゞけるやう大和歟、
 
初、いもか袖まきゝの山。妹か袖を枕にするといふ心につゝけたり。まき木の山前後をみるに大和なるへし。かんかふる所なし
 
2188 黄葉之丹穗日者繁然鞆妻梨木乎手折可佐寒《モミチハノニホヒハシケシシカレトモツマナシノキヲタヲリカササム》
 
ニホヒハ繁シとは紅葉によき木の多きなり、妻梨とは梨を賞してなつかみて呼詞歟、第十九に十月之具禮能常可吾世古河屋戸乃黄葉可落所見《カミナツキシグレノツネカワカセカヤトノモミチハチリヌベクミユ》、注云、當時矚2梨黄葉1作2此歌1也、唐陸龜蒙詩云、村邊(ノ)紫豆花垂(レ)次、岸上(ノ)紅梨葉戰初、
 
初、もみちはのにほひはしけし。さま/\の木に、うるはしき色のもみちはあれとも、中にもつまなしの木のもみちをかさゝんとなり。第十九に、かみな月しくれのつねかわかせこかやとのもみち葉ちりぬへくみゆ。哥の後の注に云。右一首(ハ)少納言大伴宿禰家持當時矚《ミテ》2梨(ノ)黄葉(ヲ)1作2此歌(ヲ)1也。陸龜蒙(カ)詩(ニ)云。村邊(ノ)紫豆花(ノ)垂(ルヽ)次、岸(ノ)上紅梨葉(ノ)戰(ク)初。濱成和哥式査躰七種中に、五(ニ)有頭無尾
八坂入姫答(ヘマツル)2活目天皇1
 このなしをうへておほさはかしこけむ
六直語 活目天皇贈2八坂入姫1歌云
 みま《・御座》し|する《・爲》をか《・岡》に|かけ《・蔭》する此|なし《・梨》を|うへ《・殖》て|おほ《・生》して陰に|よけむ《・將好》も
 
2189 露霜聞寒夕之秋風爾黄葉爾來毛妻梨之木者《ツユシモノサムキユフヘノアキカセニモミチニケリモツマナシノキハ》
 
聞をノ〔右○〕と點ぜるは誤なり、
 
初、露霜もさむき夕の。露霜のとあるはあやまれり
 
2190 吾門之淺茅色就吉魚張能浪柴乃野之黄葉散良新《ワカカトノアサチイロツクフナハリノナミシハノノヽモミチチルラシ》
 
吉魚張は以前注せし如くヨナバリと讀べし、宇陀と城上と兩郡に亘れば、浪柴乃野何れの方にかある未v詳、
 
初、わかゝとのあさち色つく。ふなはりは、第二にも第八にも有。此下の四十六葉六十二葉にも有。日本紀には、宇?郡に有。延喜式には、城上郡に有。なみしはの野は、ふなはりの内にあるなるへし
 
2191 鴈之鳴乎聞鶴奈倍爾高松之野上之草曾色付爾家留《カリカネヲキヽツルナヘニタカマトノノヽウヘノクサソイロツキニケル》
 
(5)高松之、【家持集云、タカマツノ、】
 
野上はノカミと讀べし、
 
初、雁かねを聞つるなへに。野上はのかみともよむへし。上におほかりき
 
2192 吾背兒我白細衣往觸者應染毛黄變山可聞《ワカセコカシロタヘコロモユキフレハウツリヌヘクモモミツヤマカモ》
 
應染毛はソマリヌベクモと讀べきか、
 
 
2193 秋風之日異吹者水莖能罔之木葉毛色付爾家里《アキカセノヒニケニフケハミツクキノヲカノコノハモイロツキニケリ》
 
日異吹者は上にも有て云如く今の點よし、周囲人丸集六帖並にひことにふけばとあり、周囲には發句もあきかぜしとよみて腰句をわがやどのと改ためらる、人丸集には久方のとあるはみづくきのを書たがへたるか、若はわがやどのなる故に拾遺は依られける歟、
 
初、秋風の日にけにふけは。新古今集に水莖の岡のこのはを吹かへし誰かは君をこひむとおもひし。彼集の比の作者の哥にはあらぬ古哥とおほしき哥ともの中にあり
 
2194 鴈鳴乃來鳴之共韓衣裁田之山者黄始有《カリカネノキナキシトモニカラコロモタツタノヤマハモミチソメタリ》
 
共、【官本又云、ムタニ、】
 
第二句例に依てキナキシムタニと讀べし、此歌六帖人丸集家持集にはあり、赤人集にはなし、玉葉のよられたる處を知らず、
 
初、雁かねのきなきしともに。きなくとひとしくといはむかことし。共の字むたとはおほくよめり
 
(6)2195 鴈之鳴聲聞苗荷明日從者借香能山者黄始南《カリカネノコヱキクナヘニアスカヨリハカスカノヤマハモミチソメナム》
明日從者、【幽齋本云、アスヨリハ、】
 
腰句をアスカヨリハと點ぜるは筆者の誤れるなるべし、
 
2196 四具禮能雨無間之零者眞木葉毛爭不勝而色付爾家里《シクレノアメマナクシフレハマキノハモアラソヒカネテイロツキニケリ》
 
之は助語なり、眞木は艪ノあらず唯木なり、爭不勝而と云に當りて昔より艪ニ意得たるか、能因の歌に
 しくれの雨染かねてけり山城の、常磐杜のまきの下葉は
是今の歌に依れり、新古今集に冬に入られたるに同心なり、又此歌は人丸集にもなし、新古今に人丸の歌とて入たるは依る所を知らず、櫻の歌に春雨に爭かねてと云ひ、萩の歌に白露に爭芽子とも白露に爭かねてさける萩ともよめる歌を引合て見ば、おのづから疑なかるべし、
 
初、しくれの雨まなくしふれは。此まきのはといへるは、只木のことにもあるへけれと、昔より艪ニ心得きたれる歟。能因の哥にも
 時雨のあめそめかねてけり山しろのときはのもりのまきの下葉ゝ
これは今の此哥を飜案して、大かたしくれにはまきの葉さへ色つくを、常磐杜なれはそめかぬるといへり。あらそひかねてといふを、あまりつよく聞ゆへに、  椎かとはみゆるなりり。此前後のもみちの哥をみるに、此哥は唯木の葉といへるなり。上に
 春雨にあらそひかねてわかやとのさくらの花はさきそめにけり
 白露にあらそひかねてさける萩ちらはをしけむ雨なふりそね
あらそひかねての詞、これらをもて見るへし。後鳥羽院の
 深みとりあらそひかねていかならんまなくしくれのふるの神杉
これは本哥を艪ニ御覽して、おなし常磐木なれは、杉にうつさせたまへるなり
 
2197 灼然四具禮乃雨者零勿國大城山者色付爾家里《イチシロクシクレノアメハフラナクニオホキノヤマハイロツキニケリ》
 
官本此歌の下細注云、謂大城山者在2筑前國御笠郡之大野山頂1、号曰2大城1者也、他本に(7)はなければ後人の大城山を知たるが注せるにや、六帖には山の歌に此を入れて、いちしるくしぐれのふればつくしなる、大野の山もうつろひにけりとあり、
 
初、大城の山は。筑前なり。第四第五第八にも見えたり
 
2198 風吹者黄葉散乍小雲吾松原清在莫國《カセフケハモミチチツヽシハラクモワカマツハラハキヨカラナクニ》
 
吾松原は伊勢と筑前とにあり、伊勢なるは第六聖武天皇の御歌に見えたり、筑前なるは第十七の初に三野連石守が歌云、和我勢兒乎安我松原從見度婆《ワガセコヲアカマツハラユミワタセハ》云々、是彼國にてよめり、委は彼處の詞書を見るべし、今彼國に若松と聞ゆる處歟、兩處ある中に今の歌によめるは筑前なるべし、其故は次上の大城山に連なり又隔たれど上下に水莖岡をもよめり、昔は太宰府ありて官人多く有ければ見る所をよめる歌なるべし伊勢は此つゞきに便なし、落句はきたなしと云意にはあらず、黄葉の散しくを朝清めなどしたるにくらべて云なり、
 
初、風ふけはもみち散つゝ。これも筑前なり。第十七の初に云。天平二年庚午冬十一月、太宰帥大伴卿被(レテ)v任(セ)2大納言(ニ)1 【兼v帥如v故】上(ル)v京(ニ)時、陪從(ノ)人等別(ニ)取(テ)2海路(ヲ)1入(ル)v京(ニ)。於|是《コヽニ》悲2傷(シテ)覊旅(ヲ)1各《/\》陳(テ)v所(ヲ)v心《オモフ》作(ル)歌十首
和我勢兒乎、安我松《・待》原|欲《ユ》、見|度《ワタセ》婆、安麻乎等女登母、多麻藻可類美由
 右一首三野連石守作云々
今の哥は此あか松原なり。今若松ときこゆる所なるへし。第六に聖武天皇の、伊勢の三重郡にして、妹爾戀|吾乃《ワカノ》松原見渡者とよませたまへるわかの松原にはあらす。そのゆへは、かれはわかの松原と、のもしくはゝりたり。そのうへ右の大城の山は色付にけりといふ哥につゝけたれは、太宰府にてよみける哥の、その人と作者の聞えさるなるへし
 
2199 物念隱座而今日見者春日山者色就爾家里《モノオモフトシノヒニヲリテケフミレハカスカノヤマハイロツキニケリ》
 
發句はモノモフトと讀べし、隱座而を家持集にはかくれのみゐてとあれどコモリヲリツヽと讀べし、今日見者とは時候の變改に驚く意なり、此下句、以上三度見えたり
 
(8)2200 九月白露負而足日木乃山之將黄變見幕下吉《ナカツキノシラツユオヒテアシヒキノヤマノモミチムミマクシモヨシ》
 
2201 妹許跡馬鞍置而射駒山撃越來者紅葉散筒《イモカリトウマニクラオキテイコマヤマウチコエクレハモミチチリツヽ》
 
初の二句は序なり、妹がもとへ馬に鞍置而いくとい〔右○〕もじにつゞける歟、古と久と通ずればいくまと云意に二もじにかけて云へる歟、仙覺の云もみぢをば黄葉とのみかけるなり、此歌一首紅葉とかけるなり、
 
初、いもかりと馬にくらおきて。いもかもとへとて、馬にくらおきて、打乘ていくといふ心につゝけたり。此妹かりを茸狩櫻狩なとのやうに心得るはあやまれり
 
2202 黄葉爲時爾成良之月人楓枝乃色付見者《モミチスルトキニナルラシツキヒトノカツラノエタノイロツクミレハ》
 
秋深るまゝに月もあかくなるは、野山も紅葉する時に成らしとなり、忠岑が歌に、久方の月の桂も秋は猶もみぢすればや照まさるらむ、
 
初、もみちする時になるらし。此月人の桂の枝といへるは、兼名苑云。月中(ニ)有v河。々水(ノ)上(ニ)有2桂樹1、高(サ)五百丈。これ月の桂なり。古今集に
 久かたの月のかつらも秋は猶もみちすれはやてりまさるらむ
今の哥も此心にて、秋ふくるまゝに、月のすみまさるを色付といへるか
 
2203 里異霜者置良之高松野山司之色付見者《サトモケニシモハオクラシタカマトノヤマノツカサノイロツクミレハ》
 
仙覺云、此歌第四句諸本おほむね野山同之とかく、此に依て古點にはさとことにしもはおくらしたかまつの、のやまおなじくいろづくみればと點ぜり、帥中納言|伊房《コレフサ》卿の手跡兩本、並に基長中納言の本には、野山司之とかけり其理尤相叶へるなり、今和(9)し換て云、さともけに、しももはおくらしたかまとの、のやまつかさの、いろづくみれば、かゝれば今の點に野の字を腰句に屬して山司之をヤマノツカサノとあるは誤れり、仙覺抄に依べし、野山司は野司、山司なり、
 
初、里もけに霜はおくらし。山のいろつくをみれは、里も此比にかはりて霜やをくらんとなり。山のつかさは高きをいへり。第四に岸司とよみ、第十七第二十に野司とよめるも、をの/\其所につきて高きをいへり。高松とかけるを、今本には皆たかまとゝ點したれは子細なし。八雲御抄には、字のまゝに、たかまつとよませたまひて、高圓の外にのせたまへり
 
2204 秋風之日異吹者露重芽子之下葉者色付來《アキカセノヒニケニフケハツユオモミハキノシタハヽイロニツキケリ》
 
落句をイロニツキケリと點ぜるは書生の誤なり、イロヅキニケリと讀べし、
 
2205 秋芽子乃下葉赤荒玉乃月之歴去者風疾鴨《アキハキノシタハモミチヌアラタマノツキノヘユケハカセヲイタミカモ》
 
風疾鴨、【官本又云、カセハヤミカモ、】
 
2206 眞十鏡見名淵山者今日鴨白露置而黄葉將散《マソカヽミミナフチヤマハケフモカモシラツユオキテモミチチルラム》
 
眞十鏡はみ〔右○〕のひともじをまうけむためなり、
 
初、まそかゝみみなふち山は。鏡をみるといひかけたり
 
2207 吾屋戸之淺茅色付吉魚張之夏身之上爾四具禮零疑《ワカヤトノアサチイロツクフナハリノナツミノウヘニシクレフルラシ》
 
吉魚張はヨナバリど讀べし、夏身之上とは、夏身は野か山か、又上に云如く宇※[こざと+施の旁]城上兩郡何れに屬する事を知らず、
 
初、わかやとのあさち色付。此哥、さきにふなはりのなみしはの野とよめる哥に似たり。なつみの上、これはよしのゝなつみ川にまきるへし。疑の字をらしとよめるは、らしもかとおなしくうたかひの詞なれはなり
 
(10)2208 鴈鳴之寒鳴從水莖之岡乃葛葉者色付爾來《カリカネノサムクナクヨリミツクキノヲカノクスハハイロツキニケリ》
 
此歌人丸集には見えず、玉葉集に作者を定られたるは未v知2其據1、
 
初、雁かねのさむくなくより。水莖の岡は、上にも水莖の岡のこのはとよめる所なり。古今集第二十太哥所御哥にあふみふりの哥の衣に、みつくきふり
 水くきのをか巧のかたに妹とあれとねてのあさけの霜のふりはも
此哥を昔より近江の國の哥といひきたれり。今案これあやまれる説なり。これはあふみふりにつゝきたるゆへに、かく心得たるなるへし。彼國|蒲生《カマフ》郡に、水海の入江によりて、ちひさき岡のひとつ侍るを、水莖の岡と今も申よし、彼國のものかたり侍り。源氏物語は作物語なるを、宇治の十帖によりて、彼所のもの、さま/\の事なと申傳るよしなれは、彼水莖の岡も、古今集の哥を、あふみに水莖の岡といふ所ありと傳たるによりて、それを實にせんとて、後に名付たるにも侍るへし。又異處にして同名なかるへきにもあらす。うねの野をよめる哥をあふみふりとあれは、水莖のをかあふみのならは、わきてみつくきふりとはいふへからす。あふみすてに惣名なるものを。又彼いとちひさき岡に屋形といふものあるへからす。彼國守も栗太郡國府なれはそこにこそをらめ。みつくさふりに次て、しはつ山ふりの哥有。八雲御抄には、豐前と注せさせたまひ、宗碩の勅撰名所抄には、豐後大|分《キタ》郡と注せらる。郡をさへ注したるは、かんかへられける所有なるへし。いつれにもあれ、豐前豐後を出ざれは、彼集の水莖の岡も筑前なるへし。筑前豐前豐後ともに九州の内にて、よく屬類せり。水莖の岡筑前にあることは、第七に
 天きりあひ日かた吹らし水莖の岡のみなとに浪たちわたる
此哥に、日本紀の仲哀紀ならひに筑前風土記を引て委尺せり。これは彼國の下座《シモアツアサクラ》郡にありて太宰府ならひに國府より近く、都へ上る道なりと見えたり。第六に大納言大伴卿のよまれたる哥に
 ますらをとおもへる我や水莖の水城《ミツキ》のうへになみたのこはむ
これは大納言に任せられて、筑紫より上らるゝ道にて、遊行女婦《ウカレメ》兒嶋か別をなけく哥をよみけるかへしなり。彼兒嶋か哥の後の注を見、又|彼處《ソコ》に日本紀を引て注せるをも引合てみるへし。しかれは、彼國の水莖の岡には屋形ありぬへき所なり。後々に水莖の岡に葛葉をよむはみな此哥をもとゝす
 
2209 秋芽子之下葉乃黄葉於花繼時過去者後將戀鴨《アキハキノシタハノモミチハナニツクトキスキユケハノチコヒムカモ》
 
時過去者、【官本又云、トキスキユカハ、】
 
今の點の意は萩の下葉の花に繼て黄葉したる時の今は過ゆけば後はこひむかとなり、此は於花繼と云所を句とせぬなり、官本の亦點の意に二つ有べし、一つには腰句を句絶として如此して時過ゆかbあ後は戀かと云なり、二つには句とせずして上下連ねて意得るなり、此時は初二句を讀連ね、假によみたるやうにて腰句より下へ讀つらぬるなり、今按第八に芽子者散去寸黄葉早續也《ハキハチリニキモミチハヤツゲ》とねがへるを思へば今の腰句もはなにつげと讀、下句は官本又點の如く讀て、意は此興あるをりにもみずして徒に時過てもみぢば後は戀むや、さしも戀じとなり、もみぢをもよほす意にや、
 
2210 明日香河黄葉流葛木山之木葉者今之散疑《アスカカハモミチハナカルカツラキノヤマノコノハハイマシチルラシ》
 
新古今集には山の秋風吹ぞしぐらしとて人丸の歌なり、人丸集には此歌なし、家持(11)集に落句今か散らむとてあり、
 
初、あすか川もみち葉なかる。古今集に、立田川もみち葉なかる神なひのみむろの山に時雨ふるらし。注に又はあすか川もみちはなかる。山のこのはゝといへるは、やかて上にいへるもみち葉なり。上古の哥、ことはをいたはらさること、かくのことし
 
2211 妹之※[糸+刃]解登結而立田山今許曾黄葉始而有家禮《イモカヒモトクムスヒテタツタヤマイマコソモミチハシメタリケレ》
 
※[糸+刃]は立て解物なればさきより結べる※[糸+刃]を今解とて立と序ににつゞけたり、解時結びて立と云にはあらず、和名集云、説文云、紐、【女久反、楊氏漢語抄云、紐子、比毛、】結而可v解者也、此説文注に同じ、結びて解とと句を打返して意得べし、後撰集并家持集には解と結ぶととあり、解とても立ち結ぶとても立つと云意に改ためたりしは意得やすし、下句は共に今ぞ紅葉の錦織けるとあり、
 
初、いもか紐とくとむすひて。紐は立てとく物なれは、結へる紐を解とて立といふ心に、立田山とつゝけたり。紐をとく時むすひて立といふにはあらす。妹か紐むすひてとくと立田山と、二の句を打返して見るへし。さきにむすひておきしを、今とくとてたつなり。後撰集秋下には
 妹か紐とくとむすふと立田山今そ紅葉のにしきおりける
これはとくとてもむすふとても立といふ心にあらためたれは、心得やすし。第十二につは市のやそのちまたに立ならしむすひしもひをとかまくおしもとよめる哥は、むすふとて立といふ心に立ならしむすひし紐とはつゝけたり。和名集云。説文云紐。【女久反。楊氏漢語抄云々、紐子比毛】結(テ)而可(キ)v解(ク)者(ナリ)也。此説文の結而可解也の注にて、今の哥のつゝきをみるへし
 
2212 鴈鳴之喧之從春日有三笠山者色付丹家里《カリカネノサハキニシヨリカスカナルミカサノヤマハイロツキニケリ》
 
サワグは鳴聲の多きなり、に〔右○〕は助語なり、第十七にも鴈我禰波都可比爾許牟等佐和久良武《カリカネハツカヒニコムトサワクラム》とよめり、喧を集中の例なく〔二字右○〕とのみ用たれば、若は喧之日にてナキなりけむを日の字の落たるにや、家持集にはなきにしよりぞとあれど落句叶はず、
 
2213 比者之五更露爾吾屋戸乃秋之芽子原色付爾家里《コノコロノアカツキツユニワカヤトノアキノハキハライロツキニケリ》
 
上の似たる歌に注して云が如し、
 
初、此ころのあかつき露に。上の四十四葉に、大かたこれとおなし哥あり
 
(12)2214 夕去者鴈之越往龍田山四具禮爾競色付爾家里《ユフサレハカリノコエユクタツタヤマシクレニキホヒイロツキニケリ》
 
初、夕されはかりのこゑゆく。下の五十六葉には、秋されは雁とひこゆるたつた山
 
2215 左夜深而四具禮勿零秋芽子之本葉之黄葉落卷惜裳《サヨフケテシクレナフリソアキハキノモトハノモミチチラマクヲシモ》
 
2216 古郷之始黄葉乎手折以而今日曾吾來不見人之爲《フルサトノハツモミチハヲタヲリモチケフソワカクルミヌヒトノタメ》
 
以而、【官本云、タヲリモテ、】
 
以而をモチと點ぜるは書生の誤れる歟、官本に依べし、
 
2217 君之家乃黄葉早落之者四具禮乃雨爾所沾良之母《キミカイヘノモミチハハヤクチリニケリシクレノアメニヌレニケラシモ》
 
今按此歌上句は、發句の下に落字ありて早者の二字倒に寫されたるにや、然らばきみがいへの何のもみぢははやくちるなるべし、如何樣にも今の點は強て點ぜるなり、所沾の下にも家等の字落たるべし、
 
初、君か家のもみちは早く。此上句君之家乃之黄葉早者落とかけるをみるに、乃の字の下に何のもみちはとつゝくかんなにて、ふたもしある字|脱《ヲチ》たる歟。早者は者早にて、者は二の句の字、早落の二字は第三の句にて、はやくちるとよむへき歟。しからされは、之の字衍文にて、者の字あまり、落の字の下に、けりとよむへき字なし
 
2218 一年二遍不行秋山乎情爾不飽過之鶴鴨《ヒトトセニフタヽヒユカヌアキヤマヲコヽロニアカススコシツルカモ》
 
不飽、【人丸集云、アカテ、家持集與2今本1同、】
 
二遍不行とは我行かぬと云にはあらず、秋のゆかぬなり、ゆかぬとは來ぬなり、上に(13)世やもふたゆくなどよめるが如し、秋山とは黄葉なり、題を思ふべし、
 
初、一とせにふたゝひゆかぬ秋山を。ふたゝひゆかぬとは、我ふたゝひ秋山にゆかぬといふにはあらす。一とせにふたゝひゆかぬ秋とつゝけたり。此ゆかぬといふは、ふたゝひこぬ秋といふ心なり。ふたゝひかへり來る秋ならは、又孟秋より仲秋季秋とゆくへけれはなり。第四に、うつせみの世やもふたゆくとよみ、第七に世の中はまことふた世はゆかさらし過にし妹にあはぬおもへは。これらを思ひ合すへし。第九に詠2仙人形1哥に、とこしへに夏冬ゆけやともよめり。過しつるかもは、あかて過しやりつることをおしむなり
 
詠水田
 
2219 足曳之山田佃子不秀友繩谷延與守登知金《アシヒキノヤマタツクルコヒテストモシメタニハヘヨモルトシルカネ》
 
落句は守ると知かになり、六帖には山田にも入れ、雜思の中にしめの歌ともせり、佃は和名云、唐韻云、佃(ハ)作(レル)田也、音與v田同、【和名豆久太、】
 
初、足引の山田つくるこ。もるとしるかねは、もると知歟になり。知とは、鹿のしりておそれてこしとなり。第七に、いそのかみふるのわさ田をひてすともしめたにはへよもりつゝをらむ
 
2220 左小牡鹿之妻喚山之岳邊在早田者不苅霜者雖零《サヲシカノツマヨフヤマノヲカヘナルワサタハカラシシモハフルトモ》
 
不苅、【人丸集云、カラス、】  雖零、【人丸集云、フレトモ、新古今集云、オクトモ、】
 
新古今集並に詠歌大※[既/木]にはつまとふやまのしもはをくともとあり、六帖はつままつやまの人丸集は新古今と同じ、此等は改たるなり、早田は七月末にも刈を、霜は降ともからじとは、其陰を便にそこもとに出て妻をも喚、又鹿は人を恐るゝを苦しひとするものなれば彼を痛はりてかくはよめるなり、第十六に乞食者が爲v鹿述v痛(ヲ)作(レル)(14)歌に對ふべし、是君子の仁愛のひろく禽獣までに及ぶなり、仁徳天皇菟餓野の鹿のかよひ來て鳴をあはれと聞召けるを猪名縣の佐伯部さる事は夢にも知らず、獲て苞苴に奉けるを、其夜より聲の聞えざりしかば恠しませ給ひて尋させ給ふに菟餓野にて獲て奉る由申ければ、彼が過にはあらずと思召とかせ給ひながら、猶うとましく思召て遠き國へ移し遣はすべき由詔ありけるは深き御なさけなり、尊卑殊にしてかけまくもかしこけれど此作者の意近くや侍らむ、問然らば實に刈らずして鹿にはませはつべしや、答て云、是いまだ歌の趣きを知らざるなり、遍昭の吉野にての歌に、今更に我は還らじ瀧見つゝ、よべどきかずと問はゞ答へよ、西行、吉野山やがて出じと思ふ身を、花散なばと人や待らむ、右の二人かくよまれたれど住も果られぬを誰かまことなき人と云ひたる、 
 
初、さほしかのつまよふ山の。新古今ならひに詠哥大※[既/木]には、つまとふ山霜はをくともとあらたむ。新古今には、人麿の哥とす。わさ田は七月末にもかるを、霜はふるともからしとは、その陰をたよりに、そこもとに出て、妻をもとひ、又鹿は人をおそるゝをくるしひとするものなれは、かれをあはれひて、かくはよめるなり。第十六に、乞食者(ノ)爲(ニ)v鹿(ノ)述(テ)v痛(ヲ)作(レル)歌に對すへし。これ君子の仁愛の、ひろく禽獣まてにをよふなり。仁徳天皇佐伯部氏のものゝ、兎餓《ツケ》野の鹿を獲《カリ》て、苞苴《ミニエ》にたてまつりけるを、彼か過《トカ》にはあらすとおほしめしとかせたまひなから、猶うとましくおほしめして、遠き國へ移せとみことのりせさせたまへる、かたしけなく御情ふかし。此哥の作者、彼天皇の御こゝろに、かしこけれとひとしかるへき歟。問。しからは、霜はおくともまことにからすして、打すてゝ鹿にはますへしや。答へていはく。これいまた歌のこゝろをしらさるなり。僧正遍昭のよしのにてよみたまへる哥に
 今更にわれはかへらし瀧みつゝよへときかすとゝはゝこたへよ
西行法師
 よしの山やかて出しとおもふ身を花ちりなはと人や待らん
右のふたりかくよまれたれと、すみはてたりや。もしそれはまことなきにやといふ人あらは、ことわさにいふ尾をくふいぬなるへし
 
2221 我門爾禁田乎見者沙穗内之秋芽子爲酢寸所念鴨《ワカカトニモルタヲミレハサホノウチノアキハキスヽキオモホユルカモ》 
 
田を守る比は萩薄も盛なれば思ひやるなり、是は佐保に別業を持、或は妻などのある人のよめるにこそ、
 
初、我門にもる田をみれは。田をもる比は、萩薄もさかりなれは、おもひやるなり
 
詠河
 
(15)2222 暮不去河蝦鳴成三和河之清瀬音乎聞師吉毛《ユフサラスカハツナクナリミワカハノキヨキセノオトヲキクハシヨシモ》
 
第二の句はカハヅナクナルとよみ、第四句はキヨキセオトヲと讀べし、師は助語なり、
 
詠月
 
2223 天海月船浮桂梶懸而※[手偏+旁]所見月人壯子《アマノウミニツキノフネウケカツラカチカケテコクミユツキヒトヲトコ》
 
第七の初の人麿集の歌に似たり、月船桂梶は懷風藻文武天皇御製月詩云、月舟移2霧渚1、楓※[楫+戈]泛2霞濱1、楚辭九歌云、桂櫂兮蘭※[將/木]、
 
初、天の海に月の舟うけ。楚辭(ノ)九歌(ニ)云。桂(ノ)櫂兮蘭(ノ)※[將/木]《カネ》。第七に、あめの海に雲の浪たち月の舟ほしのはやしにこきかくるみゆ
 
2224 此夜等者沙夜深去良之鴈鳴乃所聞空從月立度《コノヨラハサヨフケヌラシカリカネノキコユルソラニツキタチワタル》
 
立度、【官本、度作v渡、】
 
第九に.此歌の少詞かはりたるが既出たり、
 
初、此よらはさよ更ぬらし。第九にさよ中と夜は更ぬらし鴈かねの聞ゆる空に月わたるみゆ。似たる歌なり。彼第九の哥は、古今集にあやまりてふたゝひ載たり
 
 
 
2225 吾背子之挿頭之芽子爾置露乎清見世跡月者照良思《ワカセコカカサシノハキニオクツユヲサヤカニミヨトツキハテルラシ》
 
2226 無心秋月夜之物念跡寐不所宿照乍本名《コヽロナキアキノツキヨノモノオモフトイノネラレヌニテリツヽモトナ》
 
(16)三四の句古風の例に依てモノモフトイノネラエヌニと讀べし、
 
2227 不念爾四具禮乃雨者零有跡天雲霽而月夜清烏《オモハヌニシクレノアメハフリタレトアマクモハレテツキヨキヨキヲ》
 
不念爾は不慮なり、清烏は人丸集にもきよきをとあれば烏は音を用たる歟、今按集中に烏を焉に通してかける歟、或は書生の失錯歟、焉なるべき處に烏をかける事あまたあれば、今も焉にて漢の助語にや、然らばサタケシなるべし、
 
初、おもはすにしくれの雨は。天雲はれてとは、時雨によりて中々に雲の皆はれつくすなり。諺にいふ雨ふりてつちかたまるなり
 
2228 芽子之花開乃乎再入緒見代跡可聞月夜之清戀益良國《ハキノハナサクノヲフタリヲミヨトカモツキヨノキヨキコヒマスラクニ》
 
初の二句は開乃はサキノとよみて處の名にて、それをつゞけむ爲に時につけたる芽子ノ花とおける歟、上に或は春山或は垣津幡或女郎花と置てさきの、さきぬ、さきさはなどよめるに同じき歟、又今の點の如く唯萩の咲たる野とよめるか、緒は助語なり、落句は戀のますになり、相思ふ人と二人花野を見よとて月の照らむに、おもふ人と見ることあたはざれば唯徒に戀のみまさる物をとなり、
 
初、はきの花さくのをふたりを。さくのは、上にも春山のさく野をすくるにとよみ、をみなへしさく野ともよめるを、名所なりといふ説有。春山のさくのといふ哥をとりて、藤原基俊はる山のさき野とつゝけて名所によまれたり。開乃咲野なとかきて、一所も佐幾野とも佐久野ともかゝされは、さきのともさくのともよまむに、あらそひあるへからす。されとも基俊すてにさきのとよまれたれは、それにしたかふへき歟。しからは大和に狹城《サキ》といふ所有。仲哀紀云。六十年天皇【成務】崩《カンアカリマス》。明(ル)年秋九月、壬辰朔丁酉、葬《カクシマツル》2于倭(ノ)國|狹城盾列《サキノタヽナミノ》陵(ニ)1【盾列此云2多々那美1。】延喜式第二十一諸陵式(ニ)云。此所にある野なるへし。をみなへし咲野におふる白つゝし、又をみなへし咲野の萩、をよひ此哥もみなさきのとよむへし。まことに春山の開乃といへるは名所なるへし。それにつきて、をみなへし咲野とよめるも、さき野にて名所ならは、第四にをみなへし咲澤におふる花かつみとよめる哥も、さきさはとよみて、さき野にある澤の名といふへき歟。されとも第七にをみなへしおふる澤邊のまくす原とよめるに引合てみれは、只をみなへしの、秋はその澤へさく心にてよめりとみゆ。又をみなへしはもとよりさはへに咲ものなるに、さきさはといふ名のをのつからよせあれは、さはつゝけたりと會通せは、それもたかふまし。ふたりをのをもしは助語なり。此開乃名所にて、さき野とよまは、萩の花といへるは枕詞なから、すなはち其野にさける萩なり。その萩のおもしろきを、あひおもふ人とふたりみよとてや、月のおもしろくてるらん。獨のみ見れは、おもしろきにつけて、いとゝ戀のますにとよめるなり。長流か抄に再入緒をふたしほをとよみて、はきか花に月をそへてふたしほと見よといふ心なりと注せり。まことにかきさまにつかはふたしほとよむへけれと、戀ますらくにといへるところ、ふたりをといふかまさるへき歟。長流か説につかは、こひますらくにはいとゝみあかぬをいふとこゝろ得へし
 
2229 白露乎玉作有九月在明之月夜雖見不飽可聞《シラツユヲタマニナシタルナカツキノアリアケノツキヨミレトアカヌカモ》
 
作有、【人丸集云、ツクレル、】
 
(17)第二の句は六帖も今と同じ、玉作部と云事もあれば、タマニツクレルとよめるやまさり侍なむ、日本紀には玉作をタマスリと點じたればタマニスリタルと讀とも無理には侍らじ、
 
初、白露を玉になしたる。玉作有とかけれは、玉につくれるとも讀へし。又神代紀上に玉作とかきて、たますりとよみ、所作とかきてすれるとよみたれは、たまにすりたるともよむへし
 
詠風
 
2230 戀乍裳稻葉掻別家居者乏不有秋之暮風《コヒツヽモイナハカキワケイヘヰセハトモシクモアラシアキノユフカセ》
 
田家の秋風のかすかなるを戀つゝも、さすがに稻葉を掻別てまことに家居してきかば、侘しき事多くて思ひしに似ずめづらしくもあらじとなり、唐太宗の人(ハ)皆苦(ミ)炎熱(ヲ)1、我(ハ)愛(ス)2夏日(ノ)長(キヲ)1とあるを、柳公權、薫風自v南來、殿閣生2微涼1とつがれしを東坡是を譏れり、歌の道も亦同じ、山家田家までもやさしくも面白くも云ひなすとも又かくの如く實を蹈べし、
 
初、こひつゝもいなはかきわけ。此こひつゝもといふは、先もの字は捨へし。こひつゝとは、田家秋風のかすかなるおもむきをしたふ心なり
 
2231 芽子花咲有野邊日晩之乃鳴奈流共秋風吹《ハキノハナサキタルノヘニヒクラシノナクナルトモニアキカセノフク》
 
野邊、【人丸集云、ニヘハ、】
 
共は人丸集も今の點の如くなれど古風に依てムタと讀べし、
 
(18)2232 秋山之木葉文未赤者今日吹風者霜毛置應久《アキヤマノコノハモイマタモミチネハケサフクカセハシモヽオキヌヘク》
 
今日、【人丸集云、ケサ、官本日作v旦、】  吹風者、【人丸集如2今點21、官本無v者、點云フクカセニ、】  置應久、【江本云、オクヘク、】
 
未赤者はいまだもみぢぬになり、今日は今旦なるべし、
 
初、秋山のこのはも。此いまたもみちねはといふ詞はもみちぬになり
 
詠芳
 
歌に秋の香と讀たれど、一首の意唯黄葉の上なれば、芳は鼻に入る香を云にあらず、芳春芳園などほめて云時の芳なり、明徳惟馨と云へる類、たゞほむる詞なる多し、
 
初、詠芳。此芳の字を意得るにふたつの心有。芳園芳地芳春芳艸なといふ時は、ほむる詞なり。芳野とかきてよしのとよむ時の芳の字これなり。これをもかうはしといへと、明徳惟馨といへるかことく、鼻に入香にあらす。芬芳芳馥なといふ時は鼻に入香なり
 
2233 高松之此峰迫爾笠立而盈盛有秋香乃吉者《タカマトノコノミネモセニカサタチテミチサカリナルアキノカノヨサ》
 
笠立而、【官本又云、カサタテヽ、】
 
峰迫爾は山もせに野もせにと云が如し、笠立而は紅葉の錦の蓋を立たらむやうなるを云へり、第十九に厚朴葉を青蓋とよめるが如し、
 
初、高まとの此みねもせに。長流か抄に、笠たちては、もみちのにしきを、きぬかさにたちて、山のいたゝきにきするといへるなり。みちさかりは、紅葉の嶺もせはきまて充滿したるなり。秋の香とは、色のかうはしきなり。鼻に入香にあらす。此こと上にもしるしぬといへり。これ芳は色につさて尺せるなり。衣かさといへるは、第十九に
 わかせこかさゝけてもたるほゝかしはあたかもにるか青きゝぬかさ
此こゝろなり。今案題を芳馥のこゝろにて、鼻に入香なりと心得へき歟。そのゆへは、芳菲なとの芳にては、それとさしたる體なきかゆへなり。芳馥の義ならは、秋草の花の香をいふへし。笠立てといふをは、風立《カサダチ》てとよむへし。字をかり用るに、清濁通せる事かそふるにいとまあらねはなり。これは餘意をつくすなり。題の字芳菲のこゝろにて立へくは、さきのか正説なるへし
 
詠雨
 
(19)2234 一日千重敷布我戀妹當爲暮零禮見《ヒトヒニハチヘニシキ/\ワカコフルイモカアタリニシクレフレミム》
 
敷布、【官本云、シクシク、】
 
落句の意は何となくそなたをながめば人の見とがむべければ、しぐれのふらばもみぢしつゝや散つるやなど事よせてやすく見やりだにせむとよめる歟、
 
初、ひと日にはちへにしき/\。第二に柿本朝臣人麿妻|死之《ミマカリテ》後泣血|哀慟《イタムテ》作(レル)歌に、天とふや、かるのみちをは、わきもこか、里にしあれは、ねもころに、みまくほりすと、やますゆかは、人めをおほみ、まねくゆかは、人しりぬへみ、さねかつら、後もあはむと、大ふねの、おもひたのみて、かけろふの、いはかきふちの、かくれのみ、こひつゝあるに云々、今の哥此こゝろをもて見るへし。しくれふれ見むとは、何となくそなたをなかめは、人の見とかむへけれは、しくれのふらは、もみもしつるや、散つるやなと事よせてそなたの方をたに、やすくなかめんといふ心なり。心のふかき哥といふへし
初、秋田かるたひのいほりに。かりそめにをる所をは、皆たひといふへし。下にも、たつかねのきこゆる田井にいほりしてわれたひなりといもにつけこそとよめり
 
右一首柿本朝臣人麿之歌集出
 
2235 秋田苅客乃廬入爾四具禮零我袖沾干人無二《アキタカルタヒノイホリニシクレフリワカソテヌレヌホスヒトナシニ》
 
客とは常に云羈旅にはあらず、唯常の家にあらぬを云へり、今やがて下にもみゆべし、新勅撰は人丸集六帖に依て作者を定らるゝ歟、六帖には第二句をたびのそらにてと改たる意おぼつかなし、
 
2236 玉手次不懸時無吾戀此具禮志者者沾乍毛將行《タマタスキカケヌトキナシワカコヒハシクレシフラハヌレツヽモユカム》
 
不懸時無とは妹を心に懸て思はぬ時のなきなり、志は助語なり、者者は上の者は零なるべし、人丸集にも六帖にも三の句かけぬ時なく我戀るとあるは其意を得ず、
 
初、玉手次かけぬ時なし。かけて思はぬ時なきなり。古今集に、ちはやふるかものやしろのゆふたすきひとひも君をかけぬ日はなし。者者、此上の者は、零の字なるへし
 
(20)2237 黄葉乎令落四具禮能零苗爾夜副衣寒一之宿者《モミチハヲチラスシクレノフルナヘニヨサヘソサムキヒトリシヌレハ》
 
令落、【人丸集云、オトス、】  夜副衣寒、【幽齋本云、フスマモサムシ、】
 
2238 天飛也。鴈之翅乃。覆羽之。何處漏香。霜之零異牟。
 
夜副衣をフスマとよめるは義訓巧なれど、今の點よき上に兩集の傍證あれば是を正義とすべし、
 
初、天とふや雁のつはさの。あまたの鴈の、羽をひろけたるをいふ心なり。鴈は古今集の哥にも、白雲にはね打かはし飛鴈とよみて、ことに高く飛くる物なれは、此集にあまた天飛やとおきて、鴈とつゝけたり。霜をもらさぬことは、鴈ならても、第九にたひ人のやとりせむ野に霜ふらはわか子はくゝめ天のつるむらともよめり。鶴と鴈とは、此集に一首によみ合せたるも見えたり
 
詠霜
 
2238 天飛也鴈之翅乃覆羽之何處漏香霜之零異牟《アマトフヤカリノツハサノヲヽヒハノイツコモリテカシモノフリケム》
 
あまた飛連なれる鴈の羽をひろげたるを云意なるべし、鴈ならで鶴をも第九には霜ふらば我子羽ぐゝめとよめり、此歌人丸集にはなし、續後拾遺に作者を定られたるは依る所を知らず、
 
秋相聞
 
2239 金山舌日下鳴鳥音聞何嘆《アキヤマノシタヒカシタニナクトリノコヱタニキカハナニカナケカム》
 
舌日は古事記中仁徳天皇段云、於是有2二神1、兄号2秋山之下氷壯夫1、弟名(ク)2春山之霞壯夫1(21)云々、此二神の名の故をば知らねど、秋山之下氷は今の金山舌日と同じかるべし、黄葉に隱て啼鳥のすがたは見えねぞ聲開けば慰さむ如く、思ふ人も出て相みるわざはせずとも聲をだにきかせば歎はあらじとせめての事によめり、金山を六帖にかねやまのとあれど、今の本の點ある上に古事記の傍例さきの如し、八雲御抄にかなやま陸奥の由有て金山は多くあき山とよめりと注せさせ給へり、彼國に初て金の出たるは天平天平勝寶元年なり、此歌は人麿集出とありて遙に以前の事なり、况陛奥山の外に出させ給ひしとはいとも恐けれど不審なり、
 
初、あき山のしたひか下に。長流かいはく。あき山をは金山とかけるは、五行にとれるなり。秋風を金風とかける所も有。これをかなやまと訓したるはいかゝとあれとも、昔よりかな山ともよめるか。したひか下は舌日とかけり。此集のかきやうかゝる事のみおほし。したひは、下ひかるといふ、紅葉の心なり。木葉にかくれてなく鳥の、姿は見えねと、聲きけはなくさむことく、思ふ人も、出てあひみるわさはせすとも、聲をたにきかせは、歎はあらしと、せめての事にいへり。以上。これは、第十五に、あしひきの山下ひかるもみち葉とよめる心にいへり。今案第二にすなはち人麿の哥に秋川のしたへる妹とよみ、第十三には、春山のしなひさかへてとよめるをおもふに、此したひも、多と奈と同韻相通して、しなひか下といふことにや。しなふは莫々《シナフ》然と日本紀にかき、文選には  確報とかきて、おなしくよみ、垂の字をもかけり。長袖颯纒(ト)なともいへり。上にすてに委引り。第二のしたへる妹は、下ひかるときこえす。第十三はしなひさかへてといへは、今もしなひにもやとそおほゆる。下ひかる心もかなへれは、いつれにもつくへし。金山を、八雲御抄には、かな山とよませたまひて、奥州と注せさせたまへるは、第十八に見えたる小田の郡のみちのく山とおほしめしけるにや。此五首の下に來て、右柿本朝臣人麿之歌集出と注せるは、五首ともにいへる歟。彼陸奥山に金の初て出けるは、天平勝寶元年なれは、人麿の時そこはよむへからす。只秋山のしたへる妹とよまれたると、ひとつにみるへし。やかて容儀をたとへていへり
 
2240 誰彼我莫問九月露沾乍君待吾《タレカレトワレヲナトヒソナカツキノツユニヌレツヽキミマツワレヲ》
 
發句を幽齋本にはたそかれととあれど。人丸集も六帖も今の點と同じければ彼を取らず、是は他人に對ひて云にあらず、下の君と指人に云なり、男の問來て闇き夜なれば女にたぞやと問時、たれかれとおぼつかなげにな問ひ給ひそ、長月の露に立沾て、夜深るまで誰かあらむ.君待吾にてあるをとよめる意なり、
 
2241 秋夜霧發渡夙夙夢見妹形矣《アキノヨノキリタチワタルアサナサナユメノコトミルイモカスカタヲ》
 
(22)此歌の點其意を得ず、今按中の三句をキリタチワタリホノ/\ニユメカトゾミルと讀べきにや、夙をほのかとよめり、此集にほのにとも、ほのめかしつゝとも讀つれば、ほの/\にと讀れぬにもあらず、義は注をまたずして明なり、
 
初、秋の夜の霧たちわたる。此哥を點したる心は、しのひたる人によな/\あへとも、霧立わたるあさな/\妹かすかたを夢のことくにみると、見の字の下を句にして心得たるにや。點の心を得す。今案夙々は二字ともに音を取て、しく/\に夢にもみはやとよむへきにや。心はあふこともなくいふせくてあるほとを、秋の夜の霧立わたるといひて、せめてかくてのみあらんよりは、しけく夢にも妹かすかたをみはやとよめる歟。又夙はほのかともよむ歟。しからはきりたちわたりほの/\にゆめにもみはやとよみて、夢にもほのかにたにみはやと心得へき歟
 
 
 
 
 
2242 秋野尾花末生靡心妹依鴨《アキノノヽヲハナカスヱノオヒナヒクコヽロハイモニヨリニケルカモ》
 
生靡、【幽齋本云、オヒナヒキ、】
 
生靡をオヒナヒクと點ぜるは誤れり、オヒナビキと讀て腰句までを尾花が上に云ひて妹に依と云序とすべし、家持集には打靡くとあれば是は今の點よりはつゞけり、
 
初、秋の野のをはなか末のおひなひき。今の本はなひくとあれとも、なひきとよみて、第三の句まてを、尾花の上とし、その尾花のなひくことく、心は妹によりにけるかもと心得へし
 
2243 秋山霜零覆木葉落歳雖行我忘八《アキヤマニシモフリヲヽヒコノハチルトシハユクトモワレワスレメヤ》
 
腰句は今の點のみならず家持集并六帖にもこのはちるとあれど、今按コノハチリと讀て、下まで連ねはてゝ意得べし、其故は秋山は紅葉の意にて女の盛りに譬へたれば、霜の零如く髪しらけ、木葉の落る如く髪落齒落て歳の行如く老果たりとも我忘れめや忘れじと云意なればなり、ちるとよめば下につゞかずして句となる故に、上句當時をうなになれる意なれば、歳雖行をばいつとかせむや、
 
初、秋山に霜ふりおほひこのはちり。このはちると句絶に點はあれと、このはちりとよみて、下まて一連とすへし
 
(23)右柿本朝臣人麿之歌集出。
 
寄水田
 
2244 住吉之岸乎田爾墾蒔稻乃而及苅不相公鴨《スミノエノキシヲタニハリマキシイネノシカモカルマテアハヌキミカモ》
 
墾は玉篇墾、【苦很切耕也治也、國語云土不v備墾々發也又耕用v力也、】
 
水墾田を小治田等もかき、人の名に治をはる〔二字右○〕とよむも墾と義同じ、人麿集にも拾遺集にもほる〔二字右○〕とあるは掘の字にて穿《ウガ》りほる也、和語なれば波と保と音は通ずれど今の義にあらず、苗代のさきより刈まであはぬとは久しき程をあらはすなり、
 
初、すみのえのきしを田にはり。はるとは、田をすきかへして治《オサム》るをいふむ 治の字をはるとよむもこれなり。王篇云。墾【苦很切。耕也。治也。國語土不v備墾發也。又耕用v力也。】拾遺集戀三には、これを田にほりといひ、しかもかるまてあはぬ君かもをかりほすまてもあはぬ君かなとあらためて、柿本人麿と作者を出されたり。ほるはうかつにて心すこしかはれる歟
 
2245 釼後玉纏田井爾及何時可妹乎不相見家戀將居《タチノシリタママクタヰニイツマテカイモヲアヒミスイヘコヒヲラム》
 
釼後は鞘尻《サヤシリ》なり、玉マクは金銀にて張をも云べし、又は實の玉にも有べし、史記春申君傳云、趙使欲v※[誇の旁]v楚爲2※[王+毒]瑁簪(ヲ)1、刀劔(ノ)室《サヤ》以2珠玉1飾(ル)v之、日本紀云、凡|横刀《タチ》、銕者以v絲纒(ニ)造(ル)、勿(レ)d用(テ)2素木(ヲ)1令uv脆焉、今按此玉纒は地の名と聞えたればたまゝきのたゐなるべきにや、今の點にては地の名と成らず、腰句以下は田を守る人の意なり、發句は枕詞を以て六帖(24)に太刀の歌に入れたるは不審なり、
 
初、たちのしり玉まく田井に。たちのしりは鞘尻なり。玉まくは金銀にても張をいふへし またまことの玉にもあるへし。史記 春申君(カ)傳(ニ)曰。趙使欲(シテ)v※[誇の旁](ラント)v楚(ニ)、爲《ツクテ》2※[王+毒]瑁(ノ)簪(ヲ)1、刀劔(ノ)室《サヤ》以2珠玉(ヲ)1飾(ル)之(ヲ)。これはまことの珠玉にて飾れるなり。日本紀(ニ)曰。凡|横刀《タチノ》銕者以v絲(ヲ)纒(ヒ)造(レ)。勿(レ)d用(テ)2素木(ヲ)1令(ムルコト)uv脆(カラ)焉。さて此玉まく田井といふは、所の名なるへし。いつくといふことをしらす。名所にては、玉まきの田井とよむへき歟。いつまてか妹をあひみすとは、秋の田をもり居る心なり。寄2水田1秋の哥にて心得へし
 
2246 秋田之穗上爾置白露之可消吾者所念鴨《アキノタノホノウヘニオケルシラツユノケヌヘクワレハオモホユルカモ》
 
第八に下句同じ歌あり、拾遺には人丸集に依て作者を付らる、
 
2247 秋田之穗向之所依片縁吾者物念都禮無物乎《アキノタノホムケノヨレルカタヨリニワレハモノオモフツレナキモノヲ》
 
二三の句ホムキノヨレルと讀べきか、第二に但馬皇女の御歌に上句今と同じきありて彼處に委注しき、新古今にはほむけの風のと改らる、物念は例のモノモフと讀べし、
 
初、秋の田のほむけのよする。第二に、上の句は今とおなしくて、君によりなゝこちたかりとも。ほむけのよするとよみては、ほむけは風の事なり。ほむきのよれるとよまは、只稻のかたなひきするなり。秋の田のほむき見かてりとよめるは、田の熟否を見るなり
 
2248 秋田※[口+立刀]借廬作五百入爲而有藍君※[口+立刀]將見依毛欲將《アキノタヲカリイホツクリイホリシテアルラムキミヲミムヨシモカモ》
欲將、【別校本將作v得、又點云カナ、】
 
發句は田を刈とつゞけたる歟、第十三に御佩の劔池と云べき御佩|乎《ヲ》と云へる如く、秋田のと云べきをかく云へるにや六帖にはあきはぎをとあり、將は得に作れるをよしとす、
 
初、秋の田を借廬つくり。欲將、將は得の字の誤なり
 
(25)2249 鶴鳴之所聞田井爾五百入爲而吾客有跡於妹告社《タツカネノキコユルタヰニイイホリシテワレタヒナリトイモニツケコソ》
 
客と云事上に注するが如し、此に依て上の歌客の廬とあれども新勅撰には秋下に入れり、新後拾遺にも玉葉にも※[羈の馬が奇]旅に入たるは不審なり、又此歌は人丸集にも見えぬを玉葉に作者を付られたるは未v考v所v據、
 
初、たつかねのきこゆる。上の四十九葉にも秋田かるたひのいほりとよめり
 
2250 春霞多奈引田居爾廬付而秋田苅左右令思良久《ハルカスミタナヒクタヰニイホリシテアキタカルマテオモハシムラク》
 
腰句イホリシテと點ぜるは誤なり、イホツキテと讀べし、第十五に伊敝都久《イヘツク》とよめるが如し、説文云廬寄也、秋冬(ハ)去、春夏(ハ)居、此歌上の住吉の岸を田にはりとよめる意に同じ、
 
初、春霞たな引田居に。上の住のえのきしを田にはりといへる哥の、おなしこゝろなり。廬付は付の字仕の字の誤歟。仕にても音を取て用るなり。富士に不仕とかけるかことし。もしまた片什秋付といへることく、もとより此字にて、いほつきてとよめりけるにや
 
2251 橘乎守部乃五十戸之門田早稻苅時過去不來跡爲等霜《タチハナヲモリヘノイヘノカトタワセカルトキスキヌコシトスラシモ》
 
橘を人は取らせじとて守るとつゞく、守部は地の名なるべし、此集に守部王あり、地名を以て名とし給へる歟、大和なるべし、五十戸は今按、孝徳紀云、凡五十戸爲v里とあれば義訓して守部ノサトと讀べし、たとひ今の點に讀とも家と云にはあらず里の意なり、
 
初、橘をもりへの家の。橘を人にとらせしとまもるとつゝけたり。守部は所の名にて、そこに家の有人のよめる歟。此集に守部王といふ人あり。守部におはしけるゆへの名歟。所の名ならは、やまとなるへし。枕詞よりつゝけたるやうをおもふに、所の名なるへくおほゆ
 
(26)寄v露
 
2252 秋芽子之開散野邉之暮露爾沾乍來益夜者深去鞆《アキハキノサキチルノヘノユフツユニヌレツヽキマセヨハフケヌトモ》
 
六帖には第二の句さけるをかべのとあり、新古今集は人丸集に依て作者を付らる、家持集にもあり、
 
2253 色付相秋之露霜莫零根妹之手本乎不纏今夜者《イロツキアフアキノツユシモナフリソネイモカタモトヲマカヌコヨヒハ》
 
第七に注せし如く寄露と云第に此歌露霜と讀たれば露と霜とにあらぬこと明なり、
 
2254 秋芽子之上爾置有白露之消鴨死猿戀爾不有者《アキハキノウヘニオキタルシラツユノケカモシナマシコヒニアラスハ》
 
此歌第八弓削皇子御歌なり、
 
初、秋はきの上に置たる。けかもしなまし。死猿とかきたれとも、爲《シ》なましにて、死の字に心なし。次の葉右の第七行の哥、大かたおなし哥なり。第三行の哥も似たる作なり
 
2255 吾屋前秋芽子上置露市白霜吾戀目八面《ワカヤトノアキハキノウヘニオクツユノイチシロクシモワレコヒメヤモ》
 
吾戀目八面、【官本又云、ワカコヒメヤモ、】
 
2256 秋穗乎之努爾押靡置露消鴨死益戀乍不有者《アキノホヲシヌニオシナミオクツユノケカモシナマシコヒツヽアラスハ》
 
(27)穗は荻薄にも出れど秋穗と云へるは稻なり、秋田を穗田とよめるにて知べし、又新撰萬葉集に幾之間丹秋穗垂濫草砥見芝程幾裳未歴無國《イツノマニアキホタルラムクサトミシホドイクバクモイマダヘナクニ》とあるも稻なり、
 
2257 露霜爾衣袖所沾而今谷毛妹許行名夜者雖深《ツユシモニコロモテヌレテイマタニモイモカリヤラナヨハフケヌトモ》
 
行名、【別校本云、ユカナ、】
 
行名をヤラナと點ぜるは誤なり、ユカナと讀べし、六帖にはゆかむ〔三字右○〕とあり、
 
初、露霜に衣手ぬれて。いもかりゆかな。行名をやらなとよめるは誤なり
 
2258 秋芽子之枝毛十尾爾置露之消毳死猿戀乍不有者《アキハキノエタモトヲヲニオクツユノケカモシナマシコヒツヽアラスハ》
 
 
家持集に上句今と同じくて今朝消ぬとも色に出めやと云歌あり、新古今戀一に取て載らる、
 
2259 秋芽子之上爾白露毎置見管曾思努布君之光儀乎《アキハキノウヘニシラツユオクコトニミツヽソシノフキミカスカタヲ》
 
第八田村大孃が、吾宿の秋の芽子開夕陰に、今も見てしか妹が光儀乎《スガタヲ》とよめるに似たる歌なり、
 
寄風
 
(28)2260 吾妹子者衣丹有南秋風之寒比來下著益乎《ワキモコハキヌニアラナムアキカセノサムキコノコロシタニキマシヲ》
 
2261 泊瀬風如是吹三更者及何時衣片敷吾一將宿《ハツセカセカクフクヨハハイツマテカコロモカタシキワカヒトリネム》
 
泊瀬風は明日春風佐保風の類なり
 
寄雨
 
2262 秋芽子乎令落長雨之零比者一起居而戀夜曾大寸《アキハキヲチラスナカメノフルコロハヒトリオキヰテコフルヨソオホキ》
 
令落、【人丸集六帖並云、オトス、】
 
令落は集中の例今の點よし、
 
2263 九月四具禮乃雨之山霧煙寸吾告※[匈/月]誰乎見者將息《ナカツキノシクレノアメノヤマキリノケフキワカムネタレヲミハヤマム》
 
山霧、【幽齋本云、ヤマキリニ、】
 
山霧のけふきとつゞくるは霧の立ふさがるを云て、胸に思ひのみてるに譬ふるなり、和名集云、唐韻云、〓、【音〓、俗語云介布太之、】烟氣也、〓は〓の義なるべし、和語は煙痛と云意歟、
(29)けぶたき時は目など痛し、さらずとも風のつよきを風を痛と云如く煙のはなはだしき意歟、誰ヲミバヤマムとは君を見ずばやまじとなり、
 
初、なか月のしくれの雨の。山きりのけふきとつゝくるは、霧の煙のことくにたつなり。常にいふは、けふりの目なとにしむをけふたしといふ。和名集(ニ)云。唐韻(ニ)云。〓【音欝。俗語云介布太之】烟氣也。此〓の字も欝の字にて作れる字なれは、けふきわかむねとは、霧の立ふたかりたることく、結ほゝれたるをいへり。誰を見はやまんとは、君をあひ見すはやましなり。告は音を通してかる歟
 
一云|十月四具禮乃雨降《カミナツキシクレノアメフリ》
 
寄蟋
 
目録には蟀の字を加へたれば今は落たる歟、常にも二字連綿して用來れリ、但下に蟋|多鳴屋前《サハニナクヤトニ》云々、此も一字を用たれば此まゝなりけるにや、
 
初、寄蟋。目録には、蟀字をくはふ。常にも二字連綿せるを、下に至りて、哥にも蟋の字のみかけり。目録と今といつれにつくへしといふことをしらす
 
2264 蟋蟀之待歡秋夜乎寐驗無枕與吾者《キリ/\スマチヨロコヘルアキノヨヲヌルシルシナシマクラトワレハ》
 
文選王?聖主得賢臣頌云、蟋蟀俟v秋(ヲ)※[口+金]、蜉蝣出以v陰、源氏野分に、いかにぞよべ宮は待よろこび給ひきや、寐驗無はぬるかひなきなり、枕與吾者とは第四に坂上郎女が枕と我はいざふたりねむとよめるに同じ、蛬は待得て悦ぷ秋の夜なれども、我は枕とのみ二人ぬれば何のかひなしとなり、
 
初、きり/\す待よろこへる。文選王?(カ)聖主得賢臣頌云。蟋蟀俟(テ)v秋(ヲ)※[口+金](シ)、蜉蝣出(ルニ)以(ス)v陰(ヲ)。四子講徳論にもおなしく此二句あり。此哥初の句をもてよめる歟。をのつからかよへる歟。源氏物語野分に、いかにそよへ宮はまちよろこひたまひきや。此哥にてかけるにや。ぬるしるしなしとは、ぬるかひなしなり。日本紀に無益とかきて、しるしなしとよめり。第四に坂上郎女か哥に
 玉もりに玉はさつけてかつ/\もまくらとわれはいさふたりねむ
上にも蟋蟀の下に、之の字をそへたり。第四十一葉に。きり/\すは秋を待得てよろこへと、人の手枕をもせて、枕とのみぬれは、ぬるゝかひなしといふなり
 
寄蝦
 
(30)2265 朝霞鹿火屋之下爾鳴蝦聲谷聞者吾將戀八方《アサカスミカヒヤカシタニナクカハツコヱタニキカハワレコヒメヤモ》
 
鹿火屋に説々あれど、山田に猪鹿のつく所に少き屋作て、布のきれ何くれの臭き物に火をくゆらかし烟をたてゝ鹿をやらひやるを云と意得べし、第十六に今の上句と同じ歌あり、彼處には香火とかかえり、又第十一に山田守翁置蚊火之とよめる歌あり、田を守る比までも蚊の有て咬がうるさければ蚊遣火を置にや、然らば蚊火屋と云へるにやとも意得つべけれどそれ然らず、山邊は早く寒ければ田を守比蚊火あるべからず假令彼歌は蚊火なりとも蚊火立る屋とて別にあらばこそ蚊火屋とはよまめ、必らず前の義なるべし火の字濁りて讀て顯昭の飼屋の説にまがふべからず、朝霞と云へるは鹿火の烟の朝までも立が霞の如くなる故なるべし、下爾と云へるは、後撰集には相宿して鳴蛙とさへ讀たればまして鹿火屋の邊にはいくらも有べし、蝦をば上にも云如く集中に面白き物にして讀たれば、今も妹が形は見えずとも聲だに聞かばと云事を寄たり、上の金山舌日下《アキヤマノシタヒガシタニ》とよめる歌と同意なり、
 
初、朝霞かひやか下に。霞は秋もたつ物なり。むねとは春たては、哥には春の物とするなり。王逸(カ)楚辭(ノ)注(ニ)引(テ)2陵腸子明經(ヲ)1言(ク)。朝霞者日(ノ)始(テ)出(ル)時(ノ)赤黄(ノ)氣(ナリ)也。文選張景陽(カ)雜詩(ニ)曰。朝霞迎2白日(ヲ)1、丹氣臨(ム)2暘谷(ニ)1。○輕風|摧《オス》2勁草(ヲ)1、凝霜|竦《アク》2高木(ヲ)1。又云。金風扇(キ)2素節(ヲ)1、丹霞啓(ク)2陰期(ヲ)1。此集第二に、秋の田のほのうへきりあふ朝霞といふ哥にも、文選の別の文章なと引侍て注しつ。かひやか下になくかはつとは、此かひやにつきて先達の説々あれとも信しかたし。只俊成につくへし。山田の廬に煙をたてゝ鹿をゝふ火をおけは、かひやといへり。今は鹿火屋とかけり。第十六河村王歌に
 朝かすみかひやか下になくかはつしのひつゝありとつけむこもかな
彼處《ソコ》には香火屋とかけり。又第十一に
 あしひきの山田もろをのおくかひの下こかれのみわかこひをらく
彼處には蚊火とかけり。かきやうをの/\ことはり有。いつれにさためんとも知かたし。鹿香はいふにをよはす。田をもる比まても、蚊のありてうるさけれは、鹿を追ふをかねて、蚊をもやらふへけれは、蚊とかけるも心あるに似たり。此集には、さきにも蛙を秋の虫とし、またおもしろきものにいへり。後撰集に
 わかやとにあひやとりしてなくかはつよるになれはや物はかなしき
孔徳璋は庭に蛙のなくを、兩部の鼓吹にもまさるときけり。かくたにあることなれは、山田もる屋は、水のなかれちかく作り、又田にもをる物なれは、其屋の下に入來りてなかむ事疑なし。しかれは香火の説を正義にさたむへし、朝霞とおけるは、鹿火のけふりの殘て、朝まてもたなひく心なり。さてこれもかたちは見えすして、鳴聲のみ聞ゆれは、さきの秋山のしたひか下に鳴鳥のとよめるおなし心に、聲をなりともきかは、こふる事はあらしと、せめての事にいへり。第六に
 おもほえすきませる君をさほ川のかはつきかせてかへしつるかも
あるひは蛙をわすれかぬるなと、あまためてゝよめれは、おもふ人の聲によするにたより有
 
寄鴈
 
(31)2266 出去者天飛鴈之可泣美且今日且今日云二年曾經去家類《イテヽイナハアマトフカリノナキヌヘミケフケフトイフニトシソヘニケル》
 
是は餘りに物えむじなど妻のうるさければ打捨ていなばやと思へど、天飛鴈の如く思ふにさすがに悲しくて、今日は/\と思へども得思ひたゝぬ程に年のねたるとなり、古事記云須勢理※[田+比]賣命甚爲2嫉妬1、故其日子遲神和備弖【三字以v音】自2出雲1將d上2坐倭(ノ)國1而來u装《ヨソヒ》立時、片御手(ニハ)者繋2御馬之鞍1、片御足踏2入其御鐙1而歌曰、奴婆多麻能久路岐美祁斯遠《ヌバタマノクロキミケシヲ》云々、牟良登理能和賀牟禮伊那婆《ムラトリノワガムレイナバ》、比氣登理能和賀比氣伊那婆《ヒケトリノワガヒケイナバ》、那迦士登波《ナカジトハ》、那波伊布登母《ナハイフトモ》、夜麻登能比登母登須須岐《ヤマトノヒトモトススキ》、宇那加夫斯《ウナカブシ》、那賀那加佐麻久《ナガナカサマク》、阿佐阿米能《アサアメノ》、疑理邇多多牟敍《キリニタタムゾ》云々、今の歌此意と同じ、宇那加夫斯は神代紀云、低徊、又云頗傾也、此云1歌矛志(ト)1、然れば薄の靡きたる如くうなだれかたぶくなり、那賀那加佐麻久長く泣まくなり、次の二句は涙は朝雨の如く、歎く息は霧の如ならむとなり、
 
初、出ていなは天とふ鴈の。あふ事も、さはる事ともありてかたけれは、いたつらに物おもひをらんよりは、いつかたへも出ていなはやとおもへと、君か天とふ鴈の友をしたひてなくやうに、なけかむことのいとをしくて、けふは/\とおもふほとに、たけくもえおもひたゝて、年をへたるとなり。第五に山上憶良の哥に
 すへもなくゝるしくあれは出はしりいなゝとおもへとこらにさやりぬ
子をおもふと、妻をおもふは、ことなれと、哥の心はおなし。いせ物語には、いてゝいなは誰かわかれのかたからんとよめり
 
寄鹿
 
2267 左小牡鹿之朝伏小野之草若美隱不得而於人所知名《サヲシカノアサフスヲノヽクサワカミカクロヒカネテヒトニシラルナ》
 
鹿は常に隱れて獵師にあはじとする物なればかく譬へたり、草若ミとは短かき草(32)の若きは柔らかにて靡やすけらば、心づよく人にも得あらがはでかくと知らるなとなり、
 
2268 左小牡鹿之小野草伏灼然吾不問爾人乃知良久《サヲシカノヲノヽクサフシイチシロクワカトハサルニヒトノシルラク》
 
吾不問爾は今按ワガトハナクニと讀べし、吾いはぬになり、鹿の伏所は隱すとすれど跡有て能見ゆれば、灼然と云ひてやがていちじろくも我は云はねど、度|重《カサナ》れば人の知れるをとなり、此は右の歌と問答してよめるに似たり、
 
初、さをしかのをのゝ草ふし。わかとはさるには、わかいはさるになり。ことゝはぬ木なといふは、物いはぬ木といふなり。哥の心は、鹿のふしとをは、かくすとすれと、あと有ていちしろきかことく、しのひていはぬおもひをも、人の知となり
 
寄鶴
 
初、寄鶴。鶴は雜の鳥に|す《・爲》めるを、こゝには、哥にも外に秋の詞なくて、只鶴をのみよめるは、これも秋はことにわたりくれはなり
 
2269 今夜乃曉降鳴鶴之念不過戀許増益也《コノヨラノアカツキクタチナクタツノオモヒハスキスコヒコソマサレ》
 
長き夜一夜物思ひて、曉方に鶴の鳴か聞に付て、思ひをば得過しやらで彼に催されて却て戀のまさるとなり、鶴を今は雜の鳥とすれど歌にも秋の詞なければ昔は秋の物に定めけるにや、
 
初、このよらのあかつき。くたちはくたるにてふけゆくなり。夜ひとよ物おもひ明して、曉にたつの鳴をきゝてよめる哥なり。曉になれとも、たつとゝもになきて、おもひをはえ過しやらて、かれにもよほされてこひのまさるとなり。也は助語にくはへたり
 
寄草
 
(33)2270 道邊之乎花我下之思草今更爾何物可將念《ミチノヘノヲハナカシタノオモヒクサイマサラナニノモノカオモハン》
 
下之、【六帖云、モトノ、幽齋本同v此、】
 
思草の事説々あれど今按尾花がもとに限らず物の陰に生ひたる陰草をすべて思ひ草と云歟、第十一に
 我背兒爾吾戀居者吾屋戸之草佐倍思浦乾來《ワカセコニワカコヒヲレハワカヤトノクササヘオモヒウラカレニケリ》
 帖思ひ痩すと云題に入れたる歌
 初蒔の麻生《ヲフ》の下草陰繁み有か無かに侘つゝぞ經る、
 櫻|麻《ヲ》の苧《ヲ》生の下草痩たれど、喩ふばかりもあらぬ我身は、
 蝉の鳴雲の上なる陰草の、かげにや蝉は戀痩ぬらむ、
等陰草は痩る物なればよそへよめり、されば陰草の痩るは下思に痩る人に似たる意にて思草とは名付たる歟、上文の草さへ思と云は思草の意にて我戀痩れば我宿の陰草さへ物を思ふやうにしなえてうらかるゝとなり、又同卷に
 我屋戸甍子太草雖生戀忘草見未生《ワカヤトノヽキノシタクサオフルトモコヒワスレクサミルニマタオヒス》
此軒の下草と云へるも思ひはしげれどと云意と見えたり、又第十二に櫻麻之麻原(34)乃下草早生者、妹之下※[糸+刃]不解有(ラ)申尾《マシヲ》、此も麻原の下草の如く痩する許に我を思ふ意のとくより有せば我ならぬ人の爲に下※[糸+刃]はとかざらましをとよめる歟、然れば今の歌の意は尾花の陰に生ひでたる草の如く思ひ痩て、其かひ有て逢みる君なれば今更何をか思はむとなり、思草を承て將念と云へり、今更爾何はイマサラニナドと讀べし、今の點は字に當らず、六帖には初てあへると云に入れたり、
 
初、みちのへのを花かもとの。思ひ草はたしかならねと、まつは龍膽の花といふ説につくなり。古今集戀哥一に
 秋の野のをはなにましり咲花の色にやこひむあふよしをなみ
顯昭の云。尾花にましりさく花とは、すゝきにましり咲いろ/\の花とよめり。色に出てこふといはむとて、させる色なき《・薄の事なり》花にましりて咲花とおけるなり。定家卿の密勘にいはく。此心たかひ侍らし。薄にましる花の、色々におほく侍らん、これらはとてもかくてお侍ぬへき事なり。秋のすゝきまそほの糸をくりかけたるさかりは、まことにちくさの花もこきませ侍らん。猶此哥はおなし事なれと、秋の野のさかり過、心ほそけなる長月の霜のうちに、をはなはかり殘たるころ、りうたんのはなやかにさき出たるを、尾花にましりさく花とは、紫の色のゆかりをおもへるにやとそ申人侍し。これは源氏物語夕霧に、かれたる草の下よりりんたうのわれひとりのみ心なかうはひ出て露けうみゆるなと云々。これをふみてかゝれけるなるへし。八雲御抄第三に、龍膽物名外不v聞。但時平哥合に、下草の花をみつれは紫にとよめり。今案顯昭も定家卿も、此八雲御抄に引せたまへる、本院左大臣家の哥合の哥は哥は見をよはさりけるにこそ。古今集の哥よりはしめて、下草の花といひかれたる草の下よりといへるは、皆此集の今の哥より出たるなるへけれは、さてはおもひ草は、定家卿もりうたんといふに心をよせ給へるうへに、證する所もかれこれなれは、此説にはつき侍るなり。哥の心は、尾花は高き物なれは、我人しれす下に人を思ふことのしけきを、りうたんの名によせて、尾花かもとのおもひ草とはいへり。下の句に、今更に何ものかおもはんとは、上のおもひ草をうけてはしめより人しれす思ひそめたる戀を、あらためて今更に誰をか思はんとよめるなり。第四に、安倍女郎か哥に、今更に何をかおもはん打なひきこゝろは君によりにしものを。此こゝろにおなし。わかせこをわかこひをれはわかやとの草さへおもひうらかれにけり。此哥に草さへおもひうらかるゝといへる、もしわかやとにある草たにおもひ草なるか、うらかるゝとよめるにや。龍膽を和名集にはゑやみ草といへり
 
寄花
 
2271 草深三蟋多鳴屋前芽子見公者何時來益牟《クサフカミキリ/\スイタクナクヤトニハキミニキミハイツカキマサム》
 
初の二句は繁き思に我泣を寄る歟、此歌人丸集にはなし、玉葉の據れる所未v考、
 
2272 秋就者水草花乃阿要奴蟹思跡不知直爾不相在者《アキツケハミクサノハナノアエヌカニオモヘトシラシタヽニアハサレハ》
 
水草花は唯秋草花なり、水は假てかけり、上に春去者水草之上爾置霜之云々、此に同じ、千種の花の交れるごとくさま/”\に物を思へど直に相て云はねば知らじとなり、古今集に貫之の、秋の野に亂てさける花の色の、千種に物を思ふ比かな、此意なり、
 
初、秋つけはみくさの花の。此みくさの花は、よろつの草をいふといひ、あるひは簿といふ説有。此哥は薄をいへるにや。そのゆへは、あゑぬかにといふは、不和歟《アエヌカ》にといふことなり。ましはらぬにかといふにおなし。薄はこと草より高くて、ましはらぬことくわか人を思ふ心も人よりはぬき出てことなれと、たゝちにあひて、そのほとをみせされはしらしとなり。第八に、家持の、橘花を坂上大孃におくらるゝ哥にも、玉にぬく五月をちかみあえぬかに花咲にけりとよめるも、實とましはらしとかに、とく花咲にけりとよめるなり
 
2273 何爲等加君乎將※[厭の雁だれなし]秋芽子乃其始花之歡寸物乎《ナニストカキミヲイトハムアキハキノソノハツハナノウレシキモノヲ》
 
(35)發句を六帖になにすらかと有は今取らず、其始花とは見る度にめづらしき意なり、
 
初、なにすとか君をいとはむ。萩の初花のことく、あひみるたひにめつらしくてうれしきものを、何とて君をはいとはんとなり
初、ことにいてゝいはゝ。朝かほのほにはさき出ぬとは、さき出てひらくる花をかりて、あらはにいひ出ぬ戀をさき出ぬといへり。あらはるゝをほに出とはいへり。薄のほに出るを、花薄尾花といひ、稻の穗に出るを、稻花といひ、蓼花蘆花なとゝもいへは、ひろくいはゝ、よろつの花をほに出ともいふへし。日本紀に、秀の字をほとよめるを思ふへし。此二首の、朝皃によせたるは女の哥にや
 
2274 展轉戀者死友灼然色庭不出朝容貌之花《コヒマロヒコヒハシヌトモイチシロクイロニハイテシアサカホノハナ》
 
古今集に紅の色には出じかくれぬの、下に通ひて戀は死《シヌ》ともとあるは詞替りて意同じ、此歌は女のよめる歟、
 
2275 言出而云忌染朝貌乃穗庭開不出戀爲鴨《コトニテヽイハヽイミシミアサカホノホニハサキイテヌコヒヲスルカモ》
 
忌染、【六帖云、ユユシミ、】
 
第二の句は六帖に依て讀べし、穗庭開不出とは物のあらはるゝを穗と云意なり、此は朝貌の咲如く穗に出ぬと云意なり、上にうの花の咲とはなしに、とよめるが如し、
 
2276 鴈鳴之始音聞而開出有屋前之秋芽子見來吾世古《カリカネノハツコヱキヽテサキテタルヤトノアキハキミニコワカセコ》
 
上に芽子を鴈の啼とよめる意と此歌は違へれど、其所以は彼處に注せしが如し、鴈の鳴や遲きと芽子の咲出る如く、見に來と云はゞ早く來ませとなり、
 
初、鴈かねのはつこゑきゝて。上の三十四葉三十七葉に鴈かねのきなかむ日まてみつゝあらむ此はき原に雨なふりそね
 秋はきは鴈にあはしといへれはか聲を聞ては花に散ぬる
 此等の哥と相違せるやうなれと、哥は興によりてよみやうかきりあるへからす。そのうへ秋のくる日ひと葉ちりそむれと、落葉は九月中下旬より、十月中下旬にいたるに准して心得へし。仲秋之月鴻鴈至といふは、彼ひと葉のちるかことし。今の哥これにおなし。きなかむ日まてといひ、聲を聞てはといへるは、秋冬のあはひにかゝる時のことし
 
2277 左小牡鹿之入野乃爲酢寸初尾花何時加妹之將手枕《サヲシカノイルノヽスヽキハツヲハナイツシカイモカタマクラニセム》
 
(36)鹿の分入るとつゞく、第七によめる納野歟、すゝきと云ひて初尾花と云は古風の上に、尾花の中の初尾花と云意なり、かく云ひて下句に連なる意は、いつか初尾花の如くなる妹が手枕をせむとなり、毛詩衛風云、手(ハ)如2柔?1註云、?芽之初生者也、此意に同じ、イツシカのし〔右○〕は助語なり、下句はイヅレノトキカ妹ガ手マカムともよまるべし、人丸集にもあり、六帖にも人丸の歌とす、新古今集此等に依らるゝなり、戀の歌に入らぬはおぼつかなし、
 
初、さをしかのいる野の簿。いる野は、第七に釼後鞘納野《タチノシリサヤニイルノ》とよめり。そこに注せしことく、和名集(ニ)云。丹後國|竹野《タカノ》郡|納野《イルノ》。これなるへけれは、こゝによめるもそれにや。さをしかのわけ入野といふ心につゝけたり。入野の薄といひて、初尾花といへるは、眞玉手の玉手さしかへといひ、みよしのゝよしのゝ山といふかことし。但すゝさの中にも、はしめて穗に出てうるはしきを賞して、初尾花といへり。いつしか妹か手枕にせんとは、此手枕をいはむために、上の句をはつくれり。詩(ノ)鄭風(ニ)曰。手(ハ)如(シ)2柔(ナル)?《チノ》1、【?(ハ)茅(ノ)初(テ)生(スル)者也。】今の哥此心におなし、初尾花のことく、やはらかなる妹か手を、いつか枕にせんとよめるなり。新古今集秋上に、人麿の哥とてこれを載られたり。戀の哥に載られさりけるは、いかに心得られけるにか、おほつかなし。此集にはたとひ秋部に有とも、彼集には戀部に入らるへき哥なり。本朝文粹中に、爐下和v羮(ニ)、俗人屬(ス)2之(ヲ)  葉指(ニ)1といへる菅家の御秀句も、詩より出たり。又詩云。出(レハ)2其 闍《イントヲ》1有(リ)v女如(シ)v茶(ノ)【茶(ハ)茅華。】これは容顔を茅華にもたとへたり
 
2278 戀日之氣長有者三苑圃能辛藍花之色出爾來《コフルヒノケナカクアレハミソノフノカラアヰノハナノイロニイテニイテニケリ》
 
三苑圃能、【別校本三或作v吾、點云、ワカソノヽ、】
 
初、こふる日のけなかくあれは。からあゐの花は、第三第七にすてに尺せり。第十一にもよめり
 
2279 吾郷爾今咲花乃女郎花不堪情尚戀二家里《ワカサトニイマサクハナノヲミナヘシタヘスコヽロニナホコヒニケリ》
 
女郎花、【別校本作2娘敝之1、】  不堪情、【官本云、タヘヌコヽロニ、】
 
今咲花乃女郎花とは女郎花の初花にて、處女の初て簪などする程の譬なり、不堪情とは下句は押へ忍ぶ意も堪ぬ故に尚戀しきとなり、
 
初、わかさとに今咲花の。女のさかりによせたり。たへすとは思ひをおさへしのふにえたへぬなり。をみなへしといひて、たへすとつゝきたるは、もしをみなへしの露おもけなるといふ心にもいへる歟
 
2280 芽子花咲有乎見者君不相眞毛久二成來鴨《ハキノハナサケルヲミレハキミニアハテマコトモヒサニナリニケルカモ》
 
(37)上の春歌に咲花之如是成|二手《マテ》爾とよめるに付て注せしが如し、
 
初、はきの花さけるをみれは。あるひはうゆる時、あるひはわかたちの比、人にあひて、花を見て、あはぬほとの久しさをいへるなるへし
 
2281 朝露爾咲酢左乾垂鴨頭草之日斜共可消所念《アサツユニサキスサヒタルツキクサノヒタクルトモケヌヘクオモホユ》
 
すさぶにあまたの意あり、手すさび口すさびなどは慰む意いきほへるを云歟、日斜共は今按ヒクダツムダニとよむべし、日斜は夜降曉降の如し、鴨頭草の夕に至てしほるゝを、戀する人の夕の陰氣に催ほされて心細く物悲しく成て身も消失ぬべくおぼゆるによそふるなり、鴨頭草を消ぬべくとは、消るは必らず霜雪の消る如くなるのみを云にあらず、増韻云衰也、かゝればおとろふる類をも云べし、今按下に此に似たる歌あるに、其鴨頭草を別校本の或點にツユクサと云へり、露草とは俗に云由なれども清少納言にもあればもとよりふたつの名ある歟、然らば今もツユクサと讀てけぬべくとは名に依て云へると意得べきにや、但六帖にはつきくさの歌に入たれども薄の歌に尾花とよめるを入まじきにあらぬが如し、
 
初、朝露にさきすさひたる。すさひは手すさひ、くちすさひなとの心なり。花なれは、さくをそのわさとするなり。日たくるともには、たくる日とゝもになり。夕にはつき草のしほるゝことく、戀する人も、陰氣にもよほされて心ほそくものかなしくなるをいへり。今案つき草をつゆくさともいへり。けぬへくと下にいへるをおもへは、此哥にてはつゆ草とよむへきにや。下の哥にも朝さき夕はけぬるつき草のけぬへきこひもわれはするかも。これもつゆ草にてけぬへくとはうけたるかとおほゆ
 
2282 長夜乎於君戀乍不生者開而落西花有益乎《ナカキヨヲキミニコヒツヽイケラスハサキテチリニシハナニアラマシヲ》
 
花有益乎、【人丸集云ハナナラマシヲ、】
 
(38)不生者は今按アラザラバと讀べきにや、其故は集中にこひつゝあらずばとよめる例多し、生をある〔二字右○〕と讀べき事は日本紀にアレマスと點ぜり、下句は第二に弓削皇子御歌に有き、落ニシのに〔右○〕は助語なり、
 
2283 吾妹兒爾相坂山之皮爲酢寸穗庭開不出戀渡鴨《ワキモコニアフサカヤマノシノスヽキホニハサキイテスコヒワタルカモ》
 
發句は相坂とつゞけむ爲なり、皮爲酢寸はハタスヽキと讀べぎ歟の事第三博通法師が歌に注せしが如し、吾妹兒に相見ばやと思ながら忍びてのみ戀渡る意なり、
 
初、わきもこにあふ坂山の。此哥古今集減哥なり。彼集にはほには出すもこひわたるかなと有。しのすゝきは皮爲酢寸とかけり。これをはたすゝきとよむへき歟と、第三の廿五葉に、博通法師か、皮すゝきくめのわかことよめる哥につきて委尺せり。下の五十九葉にも、今の三四の二句ありて、おなしやうにかけり。此しのすゝきほには出すもと、古今にあるにりつきて、しの薄はほに出ぬ物なりとおもへるもひか事なるゆへに、彼博通法師か哥に尺せり
 
2284 率爾今毛欲見秋芽之四搓二將有妹之光儀乎《イサナミニイマモミテシカアキハキノシナヒニアラムイモカスカタヲ》
 
率爾、【別校本或云、タチマチニ、】  欲見、【別校本或云、ミマホシ、】
 
初の二句六帖にはたゞいまもみまくぞほしきとあり、改たれば文字は叶はねど、たゞいまも意得合するに、發句は昔もタチマチニと讀けるにや、四搓二將有はしなやかにあらむなり、
 
初、いさなみに今もみてしか。いさなみは、いさなひなり。いさやとさそふ心なり。秋はきのしなひにあらんとは、萩か枝のたはやかなるによそへていへり。しなやかといふにおなし。藤のしなひ柳のしなひなといふこれなり、日本紀には、莫々然とかきてしなふとよみ、文選には??とも垂ともあるをよめり。これらは草木の上にいへり、颯※[立+麗]《・シナヤカナリ》(ト)。これは人の上にいへり。欲見はみまほしとも讀へし
 
2285 秋芽子之花野乃爲酢寸穗庭不出吾戀度隱嬬波母《アキハキノハナノノスヽキホニハイテスワカコヒワタルコモリツマハモ》
 
隱嬬波母、【六帖云、カクシツマハモ、官本又點同v此、】
 
(39)秋芽子之花野をば女に喩へ、薄の穗に出ぬ程を人知れぬ中に喩ふ
 
初、秋はきの花野のすゝき。こもりつまはもとは、忍ひつまはと尋ねしたふ心なり。仁賢紀に、弱草吾夫※[立心偏+可]怜《ワカクサワカツマハヤ》。此※[立心偏+可]怜はあはれとよむへきを、は《ワ》やと點せり。これは景行紀に、日本武尊の吾嬬者耶《アカツマハヤ》とのたまへるに、尋てなけかせ給ふ心あるゆへにそれらの意を得てこれをも|は《ワ》やとはよめるなるへし。は《ワ》もといへるも|は《ワ》やといふに同し
 
2286 吾屋戸爾開秋芽子散過而實成及丹於君不相鴨《ワカヤトニサケルアキハキチリスキテミニナルマテニキミニアハヌカモ》
 
開はサキシと讀ても然るべし、
 
初、わかやとにさける秋はき。あはぬ事の久しくなるをいへり。萩の實になることは第七にも
 みまくほりこひつゝまちし秋はきは花のみさきてならすかもあらん
 わきもこかやとの秋萩花よりは實になりてこそ戀まさりけれ
 
 
 
2287 吾屋前之芽子開二家里不落間爾早來可見平城里人《ワカヤトノハキサキニケリチラヌマニハヤキテミヘシナラノサトヒト》
 
2288 石走間間生有貌花乃花西有來在筒見者《イシハシノマヽニオヒタルカホハナノハナニシアリケリアリツヽミレハ》
 
花ニシのに〔右○〕は助語なり、在/\て相見る人のめづらしきを云はむとて、石走は間を隔てある物なれば其石走の間間に咲たる貌花と見ゆるとよめり、萬の物いかによきも朝夕見馴ればさもなきを、たま/\見れば目さむるこゝちするは常の習なり、
 
初、いしはしのまゝにおひたる。いしはし上に度々尺し畢ぬ。かほ花も第八に尺せり。第十四にも見えたり。只何となきうつくしき草の花と見えたり。花にし有けりは、かほといふより、花のことくなるおもてといふ心にいへり。ありつゝみれはとは、あり/\てあひみれは、いとゝめつらしき心なり。第十四東哥にも
 かみつけのまくはしまとにあさひさしまきらはしもなありつゝみれは
 
2289 藤原古郷之秋芽子者開而落去寸君待不得而《フチハラノフリニシサトノアキハキハサキテチリニキキミマチカネテ》
 
此は都を寧樂へ遷されて後の歌なるべし、
 
初、ふちはらのふりにしさとの。これは元明天皇和銅三年に、藤原宮より、奈良宮へうつらせたまひて後、猶かの藤原にのこり居たる人の、奈良なる人へよみておくれるなるへし。藤原は高市郡に在
 
2290 秋芽子乎落過沼蛇手折持雖見不怜君西不有者《アキハキヲチリスキヌヘミタヲリモテミレトモサヒシキミニシアラネハ》
 
君ニシのに〔右○〕は助語なり、
 
初、秋はきを散過ぬへみ。萩のうるはしさは、人にもをとるましけれと、心なき物にて、君にあらねは、手折てみれともさひしきとなり
 
(40)2291 朝開夕者消流鴨頭草可消戀毛吾者爲鴨《アシタサキユフヘハケヌルツキクサノケヌヘキコヒモワレハスルカモ》
 
消流、【六帖云、キユル、別校本亦點同、】  鴨頭草、【別校本或加v乃、點云ツユクサノ、】
 
初、朝さき夕はけぬる。上の朝露に咲すさひたるつき草のといふ哥に尺せしことく、此哥もけぬるといひ、けねへきといへるをおもへは、鴨頭草をは、つゆくさと訓すへき歟
初、あきつ野の尾花。これは旅なる人によみてをくれるなるへし。葺核はふかさねとよむへし。第一額田王歌に
 金《アキ》の野のみくさかりふきやとれりしうちの都のかりほしおもほゆ
 
2292 ※[虫+廷]野之尾花苅副秋芽子之花乎葺核君之借廬《アキツノノヲハナカリソヘアキハキノハナヲフキサネキミカカリイホ》
 
葺核、【幽齋本云、フカサネ、】
 
葺核はさ〔右○〕は添へたる詞、ふきね〔三字右○〕なり、是は旅なる人に贈れるなり、
 
2293 咲友不知師有者黙然將有此秋芽子乎令視管本無《サキヌトモシラスシアラハモタモアラムコノアキハキヲミセツヽモトナ》
 
發句はサケリトモと讀べし、其故は第十七に家持の池主へ贈られし歌云、佐家理等母之良受之安良婆母太毛安良牟己能夜萬夫吉乎美勢追都母等奈《サケリトモシラズシアラバモタモアラムコノヤマブキヲミセツヽモトナ》、此今歌の秋芽子を夜萬夫吉と換たるばかりを異とする故ぞ、若上の歌と贈答ならばふけとて贈りし芽子をよめるなるべし、不知師のし〔右○〕は助語なり、
 
初、咲ぬともしらすし。さきたりといふ事もしらすしあらはなり。雖咲といふにはあらす
 
寄山
 
2294 秋去者鴈飛越龍田山立而毛居而毛君乎思曾念《アキサレハカリトヒコユルタツタヤマタチテモヰテモキミヲシソオモフ》
 
(41)王仲宣詩云、我(カ)思弗v及、載坐載起、落句のし〔右○〕は助語なり、念はモフと讀べし、新古今に作者付て入れられたるは人丸集に有に依てなり、
 
初、秋されは鴈とひこゆる。上にも、夕されは鴈とひこゆる立田山といへり。今は立てもといはむために、上は序にいへり。文選王仲宣(カ)贈(ル)2士孫文始(ニ)1詩(ニ)云。我(カ)思弗v及(ハ)、載(ハチ)坐《ヰ》載(チ)起(ツ)。舒明紀(ニ)、山背(ノ)大兄《オイネノ》王(ノ)曰《ノタマハク》。立(テ)思(ヒ)矣居(テ)思(ヘトモ)矣未(タ)v得2其理(ハリヲ)1
 
寄黄葉
 
2295 我屋戸之田葛葉日殊色付奴不座君者何情曾毛《ワカヤトノクスハヒニケニイロツキヌキマサヌキミハナニコヽロソモ》
 
不座、【官本不下有v來、】
日殊を別校本にヒコトニと點じ、六帖にも然あれど日異と集中に多くあると同じ、日毎の義にあらざる事上に云如くなれば今取らず、不座は官本に不來座とあるに依べし、今の本は來を脱せり、
 
2296 足引乃山佐奈葛黄變及妹爾不相哉吾戀將居《アシヒキノヤマサナカツラモミツマテイモニアハスヤワカコヒヲラム》
 
山佐奈葛は山のさねかづらなり、
 
2297 黄葉之過不勝兒乎人妻跡見乍哉將有戀敷物乎《モミチハノスキカテヌコヲヒトツマトミツヽヤアラムコヒシキモノヲ》
 
黄葉の過と云事上に多く出たり、不勝はカヌルとも讀べし、此も亦上に多くあり、黄(42)葉の散過る如く思ひ過しあへぬ妻兒をとなり、
 
初、もみち葉の過かてぬ。もみち葉の過といへる事、上に度々尺せり。過かてぬは過しあへぬなり。えおもひ過しあへす、つぎておもはるゝなり。もみちはの過とはちりて過るなり
 
寄月
 
2298 於君戀之奈要浦觸吾居者秋風吹而月斜烏《キミニコヒシナエウラフレテワカヲレハアキカセフキテツキカタフキヌ》
 
初、きみにこひしなえうらふれ。しなえは、物おもひになよ/\となるなり。第二に人麿の哥に、夏草のおもひしなえてといへり。夏草の日にいたみてなえたるにたとへたり。しは上にあれとも助語なるへし。なえは萎の字をかけり。人の身のなゆるには痿の字をかけり。烏は焉の字の誤或は通する歟。上に注しき
 
2299 秋夜之月疑意君者雲隱須臾不見者幾許戀敷《アキノヨノツキカモキミハクモカクレシハシモミネハコヽラコヒシキ》
 
幾許、【官本亦云、ココタ、】
 
疑意は此卷下に至てもかけり、カモと云も〔右○〕は助語なればか〔右○〕とのみ云にも二字引合て書べし、幾許は拾遺集にも人丸集にもこゝらとあれど此集にては例に依てコヽダと讀べし、
 
初、秋の夜の月かも。意《モ》は裳の字の誤なるへし。月の雲にかくるゝほとをおほつかなくおもふことく、人も見ぬほとのしはしもあれはこひしきとなり
 
2300 九月之在明能月夜有乍毛君之來座者吾將戀八方《ナカツキノアリアケノツキヨアリツヽモキミカキマサハワレコヒムヤモ》
 
君之、【拾遺人丸集、六帖、別校本、並云、キミシ、】  吾將戀八方、【別校本云、ワレコヒメヤモ、】
 
寄夜
 
(43)2301 忍咲八師不戀登爲跡金風之寒吹夜者君乎之曾念《ヨシヱヤシコヒシトスレトアキカセノサムクフクヨハキミヲシソオモフ》
 
發句を六帖にも袖中抄にひけるにもおしゑやしとあれど、お〔右○〕とよ〔右○〕とは同韻の字なれば只集中の例に任て今の點に讀べし、
 
初、よしゑやしこひしと。忍はおしとよむを、今よしといふに用たるは、於と與と同韻の字なれは、通するゆへなり。此哥は古今集に
 秋風の身にさむけれはつれもなき人をそ頼むくるゝよことに
此哥の心に似たり
 
2302 惑者之痛情無跡將念秋之長夜乎寢師耳《ワヒヒトノアナコヽロナトオモフラムアキノナカヨヲネサメシテノミ》
 
師耳、【別校本或作2臥可1、】
 
此歌落句に落字あるに依て後人強て點ぜる歟、先發句は第九に處女墓をよめる歌ニイヘル好色の人のなり、其人我をあな孃情無の人やと思らとなり、其思ふらむやうを云に長夜をねざめしてのみあるが情なしとはいかゞ云べき、古今集に、
 如此許《カクハカリ》惜と思ふ夜を徒に、寐て明すらむ人さへぞうき、
後撰集に獨寐をいたづらいねと讀たれば、人と諸共にも語らず月をもみずして獨寢に明すをば人さへうしと云意なり、然れば丸寢師?耳などぞあるべき、さてかくよむ意は、意にもあらぬ獨寢に長夜を展轉て朋しかぬるを、諺に云損の上の耻とかやの風情に、人は色もなき男かなと思はれむがうき事と義勢を作り懸てつれなき人を驚かすなるべし、師耳を臥可に作れる本に依らばイネフスベシヤとよみて獨(44)り徒にいねふすべき物かと思はむと意得べき歟、
 
初、わひ人のあなこゝろなと思ふらん。此哥はやすきやうにて、心得かたし。そのゆへは、古今集にみつねかうたに
 かくはかりをしと思ふ夜をいたつらにねてあかすらん人さへそうき
此よめるやうに、ねて明すらん人こそ心なしとはいはめ。ねさめかちにて明さんをは、あなこゝろなとはおもふへからす。もしこれはやむことなき人をおもひかけて、みっから身をかへりみて、かくはよめるにや。さいふ心は、此こゝろなはなさけもしらぬといふにはあらて、事のこゝろを得はからはぬをいへるにや。身のほとをもしらす。秋の長夜を、いたつらにねさめて思ひあかしたりとて、あふへきものか。あなにつかはしからぬ物おもひするわひ人やと、やんことなき人のおもふらんといへるにや。もしまたよるはぬへきためなるに、長き夜をねさめのみして明すは、事の心もしらぬわひ人やと、人のおもふらんといへるにや。惑者《ワヒヒト》とは、第九に葦屋處女墓を過る時よめる哥に、わひ人はねにもなきつゝといふにも、惑人とかけり。つねに窮困の人なとをいふにはたかひて、物おもひに心のまとふをいへり。寢の下に覺の字をち、師の下に※[氏/一]《テ》手《テ》等の字脱たるへし
 
2303 秋夜乎長跡雖言積西戀盡者短有家里《アキノヨヲナカシトイヘトツモリニシコヒヲツクセハミシカカリケリ》
 
たま/\遇てかたみに積たる思を語れば短て明となり、小町はことふともなく、躬恒はいづらは秋のと侘たるが如し、
 
初、秋の夜をなかしといへと。たま/\あひてかたみにつもりたるこひをかたれは、みしかくてあくるといふ心なり。古今集小町哥に
 秋の夜もなのみなりけりあふといへはことそともなく明ぬるものを
 
寄衣
 
2304 秋都葉爾爾寶敝流衣吾者不服於君奉者夜毛著金《アキツハニニホヘルコロモワレハキシキミニマタセハヨルモキルカネ》
 
奉者、【古點云、マツラハ、幽齋本云、マタサハ、】
 
秋都葉ニニホヘル衣は、紅葉の如なる紅の衣と云なり、第三に湯原王宴席歌に獨玉へる秋津羽の袖と云には替れり、其故は字を秋葉とかきて此外に秋の詞なければ紛なき事なり、我こそあはざらめ、我衣を君にまたせば晝こそ他眼《ヒトメ》を憚て著ずとも夜だに身にそへて著てぬるかにとなり、
 
初、あきつはににほへる衣。第三に湯原王宴席歌に、あきつはの袖ふる妹とよみ給へるに注せしことく、こゝによめる心は、秋都葉とかけれは、紅の衣なり。秋の哥にて此外に秋のことはなく、秋葉の字にて、秋の相聞に入たれは、まきれなく紅のきぬなり。君にまたせはとは、奉の字をまたすとよむは、たてまつるといふ古語なり。よるもきるかねは、よるもきるかになり。我こそあはさらめ、わか衣をさへ、君か夜身にそへてねは、うれしからんの心なり
 
問答
 
(45)2305 旅尚襟解物乎事繁三丸宿吾爲長此夜《タヒニスラヒモトクモノヲコトシケミマロネワレスルナカキコノヨヲ》
 
第六に※[糸+刃]不解客爾之有者と讀たるを今は襟解物乎と云へるは事たがひたるやうなれど、かゝる事は風情のより來るに任せて詠ずる事にて定まれる事あるべからず、上には鴈のなけば芽子の散とよみ又咲出るともよめるが如し、襟はころものくびにて衿の字と同じ、字書を見にひもとよむべき義なし不審なり、若字を書たがへたるにや、次の答歌には※[糸+刃]の字なれば此は※[糸+刃]の誤れるにや、
 
初、旅《タヒ》にすらひもとくものを。長き此夜といへるにて秋なり。襟の字紐とおなし訓ありや、いまたかんかへす
 
2306 四具禮零曉月夜紐不解戀君跡居益物《シクレフルアカツキツキヨヒモトカスコヒシキキミトヲラマシモノヲ》
 
曉月夜は朝月夜夕月|夜《ヨ》の例にアカツキツクヨと讀べし、戀をコヒシキと點ぜるは誤なり、コフラムと讀べし、問答を引合すれば此義分明なり、六帖に君をかなしととあるは意得がたし、
 
初、しくれふるあかつき。これは右の哥のかへしなれは、ひもとかすこふらん君とよむへし。ひもとかす戀しき君とつゝけは、わかひもとかぬにて、かへしの哥に心うとし
 
2307 於黄葉置白露之色葉二毛不出跡念者事之繁家口《モミチハニオクシラツユノイロハニモイテシトオモヘハコトノシケケク》
 
色葉二毛不出跡とは、色葉は言を言の葉と云ごとく思ふ事を色に出れば、葉を見て草木を知わくる如く、いはぬ心の中をも知故に色葉とは云へり、此の二句は次の二句(46)を云はむ爲なり、
 
初、もみちはにおく白露の。色葉はたゝ色にも出しといふなり
 
2308 雨零者瀧都山川於石觸君之摧情者不持《アメフレハタキツヤマカハイハニフレキミカクタカムコヽロハモタシ》
 
さらぬだにたけき山川に雨の零はいとゞたぎり落水をば他《ヒト》言の繁きに譬へ、其水は石に觸て浪の摧散れば、人言は然りとも我におきては更々君が思ひ摧くべきやうのおぼつかなきふた心をばもたじ、雨のやめば本の細谷川と成如く、人言のさわぎも暫の程こそあらめ、物な思ひそと慰むる意なり、落句は第三第十一第十四にもあり、皆情は我情なれば今も君之摧情とつゞけては意得べからず、摧はクダケムとも讀べし、六帖には於石觸をいはくづれとよみて相思ふと云題に入れたり、
 
初、雨ふれはたきつ山川。岩にふるゝ水は、浪のくたけて散ゆへに、下の句をいはむために、上は序にいへり。雨ふれはといへるは、いとゝ水のはやくなりていはにつよくふれてくたくれはなり。第十一に
 たかねより出くる水のいはにふれわれてそおもふいもにあはぬ夜は
第三に
 いもゝわれもきよみの河のかはきしのいもかくゆへき心はもたし
第十四相模歌に
 かまくらの見こしのさきのいはくえの君かくゆへき心はもたし
さてかへす心は、我におきては、いかにあらんとおほつかなくおもひて、君に心をくたかすへき心はもたし。しかるうへは、よし人ことはしけくとも誰かはさけむ。物なおもひそとなくさむるなり。此哥秋の心はなきゆへに下に注をくはふるなり
 
右一首不v類2秋謌1而以v和載v之也、
 
後難を避け痛が爲の注なり、
 
譬喩歌
 
2309 祝部等之齋經社之黄葉毛標繩越而落云物乎《ハフリラカイハフヤシロノモミチハモシメナハコエテチルテフモノヲ》
 
(47)落云物乎、【拾遺云、チルトイフモノヲ、】
 
社の黄葉をば主ある人に喩へ、標繩越て散をば痛く戀る人には制禁を越ても逢習あるに譬ふ、越とは内より外へ越るなり、第七に齋此神社可超とも、第十一に神之伊垣毛可越ともよめるは外より内へ越るなり、今の歌は第四に大伴安麿の歌あり、それに意相似たり、人丸集にも六帖にもしめの歌とせり、又六帖社の歌に人丸とていかきしてまもる社のとて下三句今と同じき人丸の歌あり、
 
初、はふりらかいはふやしろの。しめなはゝ神代紀上云。於是《コヽニ》中臣(ノ)神、忌部(ノ)神、則|界《ヒキワタシ》2以端出之繩《シリクメナハヲ》1【繩亦(タ)云(ク)左(リ)繩(ノ)端出(タルヲ)此(ヲハ)云2斯梨倶梅儺波1】乃|請《マウシテ》曰(サク)。勿2復還幸《マタナカヘリイテマシソ》1。和名集(ニ)云。顔子家訓云(ク)。注連章斷、師説注連【之利久倍奈波】章斷【之度太知。】日本紀私記云。端出之繩【讀與2注連1同。】哥のこゝろは、はふりともかしめひきていはふやしろに、内外にある木の葉も、秋ふかくなりてうつろふ時は、たかひにしめなはをこえてちるといへは、大かたのこひしさにこそ、制禁をもまもり、人めをもしのへ、今はもみちのしめをこえて散ことく、身をすてゝもあはむとふてゝよめるなり。第七に
 木綿かけていみしやしろもこえぬへくおもほゆるかもこひのしけきに
第十一には
 ちはやふる神のいかきもこえぬへし今はわか名のおしけくもなし
 
旋頭歌
 
2310 蟋蟀之吾床隔爾鳴乍本名起居管君爾戀爾宿不勝爾《キリ/\スワカユカノヘニナキツヽモトナオキヰツヽキミニコフルニイノネラレヌニ》
 
床隔は第五に敷多倍乃登許能邊佐良受云々、此に依て今もトコノヘと讀べし、毛詩云、十月蟋蟀入2我牀下1、宿不勝爾は六帖にもいもねられぬにとあれど今按字に相叶はず、イネガテナクニと讀べし、
 
初、きり/\すわかゆかのへに。ゆかのへは床のほとりなり。毛詩云。十月蟋蟀入(ル)2我(カ)牀下(ニ)1。上の四十一葉五十三葉にも、蟋蟀の下に之の字を加へたり。宿不勝爾、これをいのねられぬにとよめるも、義をもては誤にはあらねと、いねもかてぬにとか、いねもあへぬにとよむが字にあたるなり
 
2311 皮爲酢寸穗庭開不出戀乎吾爲玉蜻直一目耳視之人故爾《シノスヽキホニハサキイテスコヒヲワカスルカケロフノタヽヒトメノミミシヒトユヱニ》
 
皮はハタと讀べき事上に注せしが如し、玉蜻は今按かげろふに見しばかりにやな(48)とよめるに依らば今もカゲロフニと點じ換べきか、ほのかにと云意なり、
 
初、しのすゝきほには。上の五十七葉に、わきもこにあふ坂山のしのすゝきといふ哥に注せしことく、こゝにも皮爲酢寸とかけるをは、はたすゝきとよむへき歟。委は第三に尺せし
 
冬雜歌
 
2312 我袖爾雹手走卷隱不消有妹爲見《ワカソテニアラレタハシリマキカクシケストモアレヤイモカミムタメ》
 
不消有、【六帖云、ケタステアラム、】
 
手走は六帖にもたばしりとあれど腰の句につゞけてはことわり叶はず、タバシルと讀て句絶とすべし、不消有は今の點よからず六帖に依て讀べし、
 
初、我袖にあられたはしる。たはしりとあるはわろし。たはしる、此所句絶なり。不消有、これをはけたすやあらましとよむへし。けすともあれやは、きえすともあらむやといふ心なれは、ことはりたかへり
 
2313 足曳之山鴨高卷向之木志乃子松二三雪落來《アシヒキノヤマカモタカキマキモクノキシノコマツニミユキフリケリ》
 
2314 卷向之檜原毛未雲居者子松之末由沫雪流《マキモクノヒハラモイマタクモヰネハコマツカスヱニアハユキソフル》
 
末、【別校本云、ウレ、】
 
未雲居者、いまだ雲居ぬになり、落句の點誤れり、アハユキナガルと讀べし、雪の降を流るとよめる事集中多し、新古今集には家持集に依て作者を定らる、但家持集にも冬歌にこそあるを、引替て沫雪を後には春の物のやうにのみ讀あへればさる意歟、
(49)若はくもゐねばと云を霞まねばと心得られたる歟、
 
初、まきもくのひはらもいまた雲居ねは。これは上にあまた有ていひつることく、いまた雲居ねと雲ゐぬにといふ心なり、沫雪流はあはゆきなかるともよむへし。雪のふるをいくらもなかるとよめり。此哥を新古今集に、家持の哥とて、春哥に入られたるには、ひはらもいまたくもらねは、小松か原にと改らる。作者のこゝろにたかへり。くもらねはとは、かすまねはといふことゝ心得られけるなるへし、此集に心をつけて見たる人の、昔もまれなりけるゆへなり。又作者もたかへり、下に人麿哥集出といへるは、四首なから人丸の哥といふ注なり。其ゆへは、但一首は或本云三方沙彌作と異を注しくはへたり。次下の白かしの哥の事なり。但一首といへる詞うたかひなし
 
2315 足引山道不知白杜※[木+戈]枝母等乎乎爾雪落者《アシヒキノヤマチモシラスシラカシノエタモトヲヽニユキノフレヽハ》 或云|枝毛多和多和《エタモタワタワ》。
 
不知白杜※[木+戈]とつゞきたるは白かしのしらずとつゞけたらむに同き歟、又古歌なればさる意はなくておのづから然る歟、白かしは又はくまかしとも云ひ、又はあまかしとも云歟、景行紀の思邦御歌云、多多彌許莽《タタミコモ》、幣愚利能夜摩能《ヘグリノヤマノ》、志邏伽之餓延塢《シラカシガエヲ》、于受珥左勢《ウズニサセ》、許能固《コノコ》、古事記雄略天皇段云、久佐加弁能《クサカベノ》、許知能夜麻登《コチノヤマト》、多多美許母《タタミコモ》、弊具理能夜麻能《ヘグリノヤマノ》、許知碁知能《コチゴチノ》、夜麻能賀比爾《ヤマノカヒニ》、多知邪加由流《タチサカユル》、波※[田+比]呂久麻加斯《ハビロクマカシ》云々、此同じ平群山の白かしを葉|廣《ヒロ》】熊がしとよませ玉ひたれば白かしを又は葉廣くまがしとも云と知られたり、又古事記垂仁天皇段云→、又在2甜白檮《アマカシ》之前1葉廣熊白檮《ハビロクマカシ》令2宇氣比枯1、忽令2宇氣比生1、此甜白檮之前と云は允恭紀に味橿丘之辭禍戸碑《アマカシノヲカノコトノマガトノサキ》と云へる探湯せし所なり、葉廣熊白檮を又は甘|檮《カシ》とも云歟にて、それが多ければやがて地の名とせる歟、又用明紀云、舍人迹見赤檮、【迹見姓也、赤檮名也、赤檮此云2伊知比1、】赤檮は櫟なり、甜白檮《アマカシ》熊白檮とかゝれたる(50)を見るに赤檮に對したる白檮にや、清少納言云、白かしなど云物ましてみ山木の中にもいと氣遠くて、三位二位のうへのきぬ染るをりばかりぞ葉をたゞ人の見るめる、めでたき事おかしき事に取出べくもあらねど、いつとなく雪の降たるに見まがへられて、そさのをのみことの出雲の國におはしける御供にて、人まろよみたる歌などを見るいみじうあはれなり、此は今の歌の事なるべきに素盞嗚尊の御供にてなどかける何に見えたる事にかおぼつかなし、人丸集には枝もたわゝにとあれば今と同じ、拾遺集と六帖とには枝にも葉にもと改て入たるは、枝の雪は實の雪にて葉にもと云へるは清少納言がいつとなく雪の降たるに見まがへられてと云へる本よりの葉のいろを云意にや、今の歌は白樫と云へども色に付てよめりとは見えず、み山木にて氣遠ければ深き山路にて雪に遇たる唯其時の樣を有のまゝによめる歟とぞおぼしき、杜※[木+戈]をかしとよめる意未v考、又※[木+戈]の字、字書に未2考得1、
 
初、足引の山ちもしらす白かしの。山ちもしらすといひて、白かしのといへるも、白かしのしらすといはむかことし。日本紀に景行天皇の思邦《クニシノヒノ》御哥にいはく、多々彌許|莽《モ》《・疊薦》、幣遇利能夜摩能《平群山》、志邏伽之餓延塢《・白橿之枝》、于|受珥《ズニ》左勢許能固《髻華刺此子》。【上略之。】後拾遺集落葉道を隱といふ心をよめる、法印清成
 もみちゝる秋の山へは白かしのしたはかりこそ道は見えけれ
清少納言にいはく。木は○しらかしなといふもの、ましてみ山木の中にも、いとけとほくて、三位二位のうへのきぬそむるをりはかりそ、葉をたに人のみるめる。めてたきこと、おかしきことに、とりいつへくもあらねと、いつとなく雪のふりたるに見まかへられて、そさのをのみことの、いつもの國におはしける御ともにて、人まろよみたる哥なとをみる、いみしうあはれなり。これは此哥のことなるに、そさのをのみことの、いつものくにゝおはしける御ともにて、ひとまろよみたる哥とは、いかなることにか。手も中々につけかたきことなり。白かしはかしの木の中の一種なり。こゝに白杜※[木+戈]とかけるいまた出るところをしらす。又いつとなく雪のふりたるに見まかへられてといへるは、葉の白けれは此哥にはよらて惣していへる歟。此哥の枝もとをゝには、まことの雪をいへり
 
右柿本朝臣人麿之歌集出也但一首
 
或本云三法沙彌作
 
右と云へるは四首を※[手偏+總の旁]じて云へり、但一首と云へるは後の一首近く指す故なり、(51)若遠き三首の中を指さば何れの一首と云べし、
 
詠雪
 
2316 奈良山乃峰尚霧合宇倍志社前垣之下乃雪者不消家禮《ナラヤマノミネナホキリアフウヘシコソマカキノシタノユキハケスケレ》
 
下乃、【別校本云、モトノ、】
 
初、なら山のみねなをきりあふ。うへしこそは、ことはりにこそなり。前垣は第四の五十七葉にもかくかけり。すなはち此前の垣といふこゝろにてまかきとなつけたり。けすけれはきえすありけれの略なり。此集におほし
 
2317 殊落者袖副沾而可通將落雪之空爾消二管《コトフラハソテサヘヌレテトホルヘクフラムヲユキノソラニケニツヽ》
 
將落雪之、【官本又云、フリナムユキノ、】
 
殊落者は第七に殊放者と云に注せしが如し、
 
初、ことふらは袖さへぬれて。ことふらはとは、すくれてことにふらはなり。第七には、ことさけはおきにさけなむとよみ、第十三には、ことさけは國にさけなんとよめる、殊は今とおなし。古今集に、ことならはと初の五もしにおきてよめる哥三首あり。これもおなし。沾の字誤て沽となれり
 
2318 夜乎寒三朝戸乎開出見者庭毛薄大良爾三雪落有《ヨヲサムミアサトヲアケテイテミレハニハモハタラニミユキフリタリ》
 
一云|庭裳保杼呂爾雪曾零而有《ニハモホトロニユキソフリテアル》
 
(52)フリタルと讀べし、
 
初、夜を寒み朝戸を。庭もはたらに、前後にあまたある詞なり
 
2319 暮去者衣袖寒之高松之山木毎雪曾零有《ユフサレハコロモテサムシタカマトノヤマノキコトニユキソフリタル》
 
高松之、【家持集云、タカマツノ、官本點同v此、六帖與2今本1同、】
 
初、夕されは衣手寒し。高まと山の雪をみて、衣手のさむきをけにもとそ解するなり。古今集に
 ゆふされは衣手さむしみよしのゝよしのゝ山にみゆきふるらし
 
2320 吾袖爾零鶴雪毛流去而妹之手本伊行觸糠《ワカソテニフリツルユキモナカラヘテイモカタモトニイユキフレヌカ》
 
流去而はナカレユキテと讀べし、此は我袖の雪の消て流れ行てと云にはあらず、降行て妹にも觸ぬか觸よとなり、伊は發詞の詞なり、妻をなつかしむ心によめるなり、第十二に妹に戀いねぬ朝に吹風の妹に觸なば吾とふれなむとよめるに同じ意也、
上に袖と云ひ下に手本と云は、元來古語は詞をさまで痛はらねば全く同じ義にても苦しからねど少しかはれり、其故は第十五に和我袖波多毛登等保|里?奴禮《リテヌレ》奴等母云々、俗に袖の下の方をたもとゝ云意に叶へる歟、又第十四に多母登乃久太利ともよめり、木の本、山の蹈本も下より云へば軸の本と云意にたもとと云歟、物に開合※[手偏+總の旁]別まち/\なれば一※[既/木]すべからず、古今集に秋の野の草のたもとか花薄、穗に出てまねく袖と見ゆらむとよみ、拾遺集にしぐれ故かづく手本をよそ人は、拂ふ紅葉(53)の袖かとや見むとよめるは、其比の作者は詞を痛はるべきに此を避《サ》らざるは右の意なるべし、和名云、釋名云、袖、【音岫、和名曾天、下二字同、】所2以受1v手也、袂【音弊】開張以v臂(ヲ)屈伸也、※[衣+去](ハ)【音居】其中虚也、此三字共にそで〔二字右○〕と讀中に袂の字はたもとに用訓來れり、げにも開帳て臂を屈伸するに便なる所は俗に云たもと〔三字右○〕なれば其故なきにあらず、
 
初、わかそてにふりつる。流去而はなかれゆきてと讀へし。いゆきふれぬか、いは發語の辭。ゆきてふるましきか。ふれよかしの心なり。袖にかゝりて寒き心ならは、ゆきて妹か袖にふれて寒さをしらせよ。さらはそれにつきて.妹もわかことくおもひ出むの心なるへし。袖にかゝれるがおもしろき心ならは、それにしたかひて知へし
 
2321 沫雪者今日者莫零白妙之袖纏將干人毛不有惡《アハユキハケフハナフリソシロタヘノソテマキホサムヒトモアラナクニ
 
不有惡、【別校本惡或作v君、】
 
惡は集中に此歌ならでは借て用たる所なきに不有惡をアラナクニとは讀がたし、君は例多ければ書たがへたる歟、
 
初、沫雪はけふはなふりそ。不有惡は、あらなくとのみよむへし。あらなくにとよまは、にはよみつくるなり
 
2322 甚多毛不零雪故言多毛天三空者隱相管《ハナハタモフラヌユキユヱコチタクモアマノミソラハクモアリアヒツヽ》
 
甚多毛、【家持集云、イタクシモ、】
 
甚多は第七にはなはだもふらぬ雨故と云にかけり、六帖も同じくよめり、言多毛は此にてはこと/”\しくもの意なり、隱は陰なるべし、第十二にくもりよと云にかけり、若は今のまゝにてカクレアヒツヽと讀べき歟、六帖天の原の歌に此を入るゝに(54)雪を雨と改ためたり、
 
初、はなはたもふらぬ。こちたくもはこと/\しくなり
 
2323 吾背子乎且今且今出見者沫雪零有庭毛保杼呂爾《ワカセコヲケフカケフカトイテミレハアハユキフレリニハモホトロニ》
 
第二の句はイマカ/\と讀べし、六帖にけさか/\とあるも叶はず、
 
初、わかせこをけふか/\と。けふか/\には、且今日且今日とかくへし。但今のことくにて、けふか/\ともよむへけれとも、こゝはいまか/\とよむへし。第十二にけふ/\とわか待君はと、人丸の身まかられし時妻の依羅娘子かよめるより、集中におほきことはなり
 
2324 足引山爾白者我屋戸爾咋日暮零之雪疑意《アシヒキノヤマニシロキハワカヤトニキノフノクレニフリシユキカモ》
 
朝戸開て山の雪を眺望せる体なり、
 
初、あしひきの山にしろきは。意は裳の字なるへし
 
詠花
 
2325 誰苑之梅花毛久竪之清月夜爾幾許散來《タカソノヽウメノハナソモヒサカタノキヨキツキヨニコヽラチリクル》
 
幾許、【別校本或云、ココタ、】
 
苑を人丸集にはやどとあれどやがて下の歌も誰苑とあれば異を取らず、花の下にには曾の字の落たる歟、幾許はコヽダと讀べし、
 
2326 梅花先開枝手折而者※[果/衣]常名付而與副手六香聞《ウメノハナマツサクエタヲタヲリテハツトトナツケテヨソヘテムカモ》
 
(55)梅の初花を折て※[果/衣]として、人をおろそかに思はぬ意をよそへて贈らむとよめる歟、第八に角朝臣廣辨歌にも沫雪爾所落開有梅花君之許遣者與曾倍弖牟可聞《アワユキニフラレテサケルウメノハナキミガリヤラバヨソヘテムカモ》とあり、
 
初、梅花まつさく枝を。よそへてむかもは、こゝろさしのほとを、梅かえによそへむかとなり。黍稷非v馨、明徳惟馨なといへることく、かうはしき心を梅によそふるにもあるへし。第八に
 沫雪にふられてさける梅の花いもかりやらはよそへてむかも
 
2327 誰苑之梅爾可有家武幾許毛開有可毛見我欲左右手二《タカソノヽウメニカアリケムコヽタクモサケルカモミテワカオモフマテニ》
 
下句點誤れり、ヒラキタルカモミガホシキマデニと讀べし、
 
初、誰そのゝ梅にか有けむ。此下の句の點は後人のしわさにや。いとあさまし。ひらきたるかも。見かほしきまてにとよむへし
 
2328 來可視人毛不有爾吾家有梅早花落十方吉《キテミヘキヒトモアラナクニワキヘナルウメノハツハナチリヌトモヨシ》
 
2329 雪寒三咲者不開梅花縱比來者然而毛有金《ユキサムミサキニハサカテウメノハナヨシコノコロハサカテモアルカネ》
 
第二の句の點意得がたし、家持集にさきもひらけぬとあるはよけれど者をさきもとあるが叶はねばサキハヒラケズと讀べし、下句は上に、春去ば散まく惜き櫻花、暫はさかりふゝみてもがな、此意に同じ、
 
初、雪さむみさきにはさかて。咲者不開、これをはさきはひらけぬと讀へきにや。雪の寒さに咲なんとする梅の、えさかぬこゝろなり。下の句の心は、よしひらけすしてあらは、この比はちらてさてもあるかにといふ心なり。さきはつれは、ちることのをしけれは、なかはさきなんとして、雪寒きはとを過させはやとおもふ心にいへり。上の第十葉に
 春されはちらまくをしきさくら花しはしはさかてつほみてもかな
 
詠露
 
2330 爲妹末枝梅乎手折登波下枝之露爾沾家類可聞《イモカタメホツエノウメヲタヲルトハシツエノツユニヌレニケルカモ》    
 
(56)詠黄葉
 
2331 八田乃野之淺茅色付有乳山峯之沫雪寒零良之《ヤタノノノアサチイロツクアラチヤマミネノアハユキサムクフルラシ》
 
有乳山は敦賀郡なれば八田野も大和國添下郡に名高き地蔵菩薩のおはします金剛寺なる矢田なるべし、應神紀の矢田皇女を仁徳紀には八田皇女と書たまへり、字に依て疑ふべからず、寧樂京の時官事なとに付て秋の末に越前へ赴きける人を、或は留れる妻、或は親族朋友等の、八田野の淺茅の色付行を見て、彼越路は聞ゆる寒國なれば今は荒乳山に雪の寒く降らむを凌てや越らむと想像てよめる歌なるべし、冬部に入れたるを秋の歌ならむと云事は、淺茅色付は冬の事にあらず、第八に橘奈良麻呂結集宴歌は秋部に有て黄葉のなどよめど後注を見れば冬十月十七日の宴なり、又十月の維摩會に佛前唱歌も秋に入れたり、又同卷相聞の中に家持の非時藤花并芽子黄葉を坂上大孃に贈られし歌の後注に夏六月往來とあれども、歌にも秋風もいまだわかねばとよまれたれど芽子黄葉と云方に引かれてや秋の相聞に入れり、然れば今も峯の沫雪と思ひやれるむねとする詞と意とに依て此處には入たるなるべし、人丸集に依て新古今集には作者の定られたるは此集にては沙汰に及(57)べからず、
 
初、やたの野のあさち。やた野のあさちの色つくをみて、あらち山は今や雪のさむくふるらんとおもひやるなり。あらち山は越前敦賀郡
 
詠月
 
2332 左夜深者出來牟月乎高山之峯白雲將隱鴨《サヨフケハイテコムツキヲタカヤマノミネノシラクモカクシテムカモ》
 
今按此鵜は第七などにある雜月の類にて秋にさへ入まじきに冬の詞なくて此に入たる事尤不審なり、此に依て若白雲は白雪にやとさへ思ひめぐらせど雪の月をかくさむずる理もなければ疑がはしきを闕に侍り、
 
冬相聞
 
2333 零雪虚空可消雖戀相依無月經在《フルユキノソラニケヌヘクコフレトモアフヨシヲナミツキソヘニケル》
 
月經在は在の點叶はずツキゾヘニタルと讀べし、
 
初、ふるゆきのそらにけぬへく。身もこひしぬへくおほゆるを、空にけぬへくとそへたり。經在はへにたると訓すへし。へにてあるを、※[氏/一]阿反多なれはへにたるとはよむなり
 
2334 沫雪千里零敷戀爲來食永我見偲《アハユキノチサトフリシキコヒシクハケナカクワレヤミツヽシノハム》
 
此歌の點よからずかく讀べし、千里零シケ戀シキニ氣永キ我モ見ツヽ偲バム、千里に降しけとは遠路を隔てゝ戀る人の有けるなるべし、謝惠連雪賦云、馳2遙思(ヲ)於千里1、(58)願接v手而同歸
 
初、沫雪のちさとふりしき。此一首かく點すへし。古點ことはりなし
 沫雪はちさと降しけこひしくてけなかきわれも見つゝしのはむ
 
右柿本朝臣人麿之歌集出
 
此は二首の注なり、其故は冬雜歌の初に※[手偏+總の旁]標に引つゞけて無題の歌四首ありて右人丸歌集と注したれば、詠雪より詠月までは例の如く他の歌なり、其上冬相聞は※[手偏+總の旁]標を以て別題を兼たれば、※[手偏+總の旁]標を越て後の注は必らず以前を合すまじき事明らかなり、
 
寄露
 
2335 咲出照梅之下枝置露之可消於妹戀頃者《サキイテタルウメノシツエニオクツユノケヌヘクイモニコフルコノコロ》
 
下枝、【別校本、枝下有v爾、】
 
發句はサキテルと讀べきか、て〔右○〕とた〔右○〕と通ずれど照をたるとは讀べからず、上に梅をば妹に譬へたりと見ゆれば、此卷上に山の間照らす櫻花とよめる如く、又第十一に玉のごと照たる君とも讀たれば、梅と人とをかけてほめて照と云なるべし、梅之下枝は第五に烏梅我志豆延爾《ウメガシヅエニ》と讀たれば今も然讀べし、下枝置露とは妹にかくる(59)思ひの喩なり、
 
初、咲出照《サキイテタル》。※[氏/一]と多と通するゆへに、照の字をかりてたるとよめり
 
寄霜
 
2336 甚毛夜深勿行道邊之湯小竹之於爾霜降夜烏《ハナハタモヨフケテユクナミチノヘノユササカウヘニシモノフルヨヲ》
 
湯小竹は湯津磐村湯種など云如く繁き意なるべし、霜降夜烏はシモノオクヨヲとも讀べし、此歌は夜深ぬさきにゆけとにはあらず、明して行けと留る意なり、第十一に、苧原《ヲフ》の下草露しあれば明していゆけとよめるが如し、
 
寄雪
 
2337 小竹葉爾薄太禮零覆消名羽鴨將忘云者益所念《サヽノハニハタレフリヲヽヒケナハカモワスレムトイヘハマシテオモホユ》
 
ハタレは雪なり、はたれに降と云をやがて体に呼て雪に名付たり、さゞれ石をさゞれとのみもよめるが如し、第十九にも波太禮能未遺有可母《ハタレノイマダノコリタルカモ》と家持の李花をよまれたり、小竹葉に降おほふ雪の暫はあれど消る如く、我身も死たらば忘れむや、死なぬ程は忘れじと妹が云へるを聞てます/\思はるゝとなり、第四に人丸妻の歌に吾(60)者《ワレハ》不忘命不死者とありつるが如し、
 
初、さゝのはにはたれふり。はたれは雪のまたらにふることなるを、用をもて躰になつけて、はたれをやかて雪とせり。第十九卷家持哥に
 わかそのゝすもゝの花かさはにちるはたれのいまたのこりたるかも
これもはたれは雪なり。けなはかもわすれむといへはましておもほゆとは、さゝのはにふりおほふ雪のしはしはあれときゆることく、我身もししたらはわすれんや。しなぬほとはわすれしと、妹かいへるをきゝて、ます/\おもふといふ心なり
 
2338 霰落板敢風吹寒夜也旗野爾今夜吾獨寐牟《アラレフリイタマカセフキサムキヨヤハタノニコヨヒワカヒトリネム》
 
霰落、【六帖云、アラレフリ、江本同v此、】
 
和名集云、爾雅注云、霰(ハ)冰雨雜下(ルナリ)也、【和名美曾禮、】此に依れば今の點叶へども、霰は昔よりあられと讀習ひ、六帖江本も然よみたればアラレフリと讀べし、板敢をイタマとよめる事不審なり、さりとていかに讀べしとも思ひよらず、旗野は何れの國に有と云事を知らず、六帖には寒き夜にはたやこよひもとあれば第一の文武天皇の御製と同じ、されど今の本に叶はざれば取らず、
 
初、みそれふりいたま風ふき。霰は和名集(ニ)云。爾雅(ノ)注云。霰(ハ)冰雨雜(ハリ)下(ルナリ)也【和名美曾禮。】板敢をいたまとよめるやう心得かたし。もしこれはいたくと讀へき歟。敢の音をからは加なり。加と久と五音通すれはしかいふなり。野にぬるには、板間ことはりもなし。旗野は大和にある歟。波多氏あり。所によりて名つくる歟。信貴山のあたりにはたと聞ところ有。又第一卷に波多(ノ)横山あり。伊勢なり。そこにある野歟
 
2339 吉名張乃野木爾零覆白雪乃市白霜將戀吾鴨《フナハリノノキニフリヲヽフシラユキノイチシロクシモコヒムワレカモ》
 
發句はヨナバリノと讀べき事上に云が如し、野木は野に立木なり、俊頼の長歌にも野木に吹風のとよまれたり、
 
初、ふなはりの野木に。ふなはりの、上にいへることく大和國宇陀郡に有
 
2340 一眼見之人爾戀良久天霧之零來雪之可消所念《ヒトメミシヒトニコフラクアマキラシフリクルユキノケヌヘクオモホユ》
 
(61)2341 思出時者爲便無豐國之木綿山雪之可消所念《オモヒイツルトキハスヘナミトヨクニノユフヤマユキノケヌヘクオモホユ》
 
木綿山は第七にもよめり、此は豐後に官事などにて下れる人の故郷の妻を思出てよめるなるべし、
 
初、おもひ出る時は。とよくにのゆふ山、第七に、をとめらかはなちの髪をゆふの山とよめる哥に委注せり。山雪とつゝけたるは、下にもうからふと見る山雪といへり。此哥は豐前豐後いつれにもあれ、そこにてよめる哥なるへし
 
2342 如夢君乎相見而天霧之落來雪之可消所念《ユメノコトキミヲアヒミテアマキラシフリクルユキノケヌヘクオモホユ》
 
後朝の歌歟、
 
初、ゆめのこと君を。さきのひとめ見し人にこふらくといふ哥におほかたおなし
 
2343 吾背子之言愛美出去者裳引將知雪勿零《ワカセコカコトウツクシミイテユケハモヒキモシラムユキナフリコソ》
 
腰句以下出ユカバ裳ヒキシルケム雪ナフリソネと讀べし、裳引は裳のすそを引なり、雪に跡のつきて人に知らるべきとなり、
 
初、わかせこかことうつくしみ。出去者裳引將知、此二句をは、いてゝゆかはもひきしるけんとよむへし。わかせこか、ふかくおもふよしをいふことはのうるはしけれは、それにめてゝそのもとへ今出てゆかむに、雪のふりなは、もを引あとのゝこりてしるかるへけれは、雪なふりそとなり。あかもすそひきとも、裳ひきならしゝすかはらのさとゝもよめり
 
2344 梅花其跡毛不所見零雪之市白兼名間使遣者《ウメノハナソレトモミエスフルユキノイチシロケムナマツカヒヤラハ》
 
是も亦使によりて人のしらむとなり、
 
初、梅の花それとも。古今集人丸の哥の初の二句と同し。いちしろけんのしろといふ詞まうけむとて、かくはつゝけたり。まつかひやらは、いちしろからんとは、跡あるへけれはなり。まつかひは、第六第九にも見えたり。ふたりのあひたに、おもふ心をつたふるものなれは、間使とはいふなり。眞使にはあらす
 
一云|零雪爾間使遣者其將知名《フルユキニマツカヒヤラハソレトシラムナ》
 
(62)2345 天霧相零來雪之消友於君合常流經度《アマキリアヒフリクルユキノキユレトモキミニアハムトナカラヘワタル》
 
消友、【人丸集云、キエヌトモ、】
 
天霧相はアマギラヒと讀べきか、上に水霧相の例を云が如し、消友は心の思ひきゆるなり、ながらへ渡るは雪の降を流るゝと云へば命を兼て云へり、
 
初、天きりあひふりくる。あすか川みなきらひつゝ行水のと、齊明紀に天皇のよませたまへる哥をのせたれは、それに准して、これもあまきらひともよむへし。きゆれともは、心のおもひきゆるなり。なからへわたるは、雪のふるをなかるゝといへは、雪といのちとをかねていへり。消なはきえぬともともよむへし。たとひ終に戀にしぬともといふ心を、雪によせて、きえぬともといふなり
 
2346 窺良布跡見山雪之灼然戀者妹名人將知可聞《ウカラフトミルヤマユキノイチシロクコヒハイモカナヒトシラムカモ》
 
ウカラフはうかゞふなり、字書に窺小視也と注せり、いたく寒き時山の雪をゆかしく思ひて戸を細めに開てうかゞひみる如く、妹にも少し目を著てみば人の知らむかとなり、山雪はまれなる詞なり、上にも木綿山雪とよめり、灼然は雪の白きによせてつゞくる事以前にも多かり、
 
初、うからふとみる山雪。うからふはうかゝふなり。加と良と同韻なれは、通してうからふとはいへり。窺は小(シク)視(ルナリ)也。董仲舒傳云。三年不v窺(カハ)v園(ヲ)。戰國策(ニ)云。鄒忌朝服(シテ)窺《ミル》v鏡(ヲ)。神代紀上(ニ)云。乃以2御手(ヲ)1細2開《ホソメニアケテ》磐戸《イハトヲ》1窺之《ミソナハス》。此集第八の哥に、此をかにをしかふみおこしうかねらひとよめり。うかゝひねらひなり。みる山雪はさきにゆふ山雪ともよめり
 
2347 海小舩泊瀬乃山爾落雪之消長戀師君之音曾爲流《アマヲフネハツセノヤマニフルユキノケナカクコヒシキミカヲトソスル》
 
泊瀬の枕詞に海小船と置こと別に注す、落雪ノ消長とつゞくるは氣を消に兼るなり、今其意をあらはさむ爲に消長とは假てかけるなるべし、
 
初、海人をふねはつせの山に。ふるゆきのけなかくとつゝけたるは、雪のきゆるとつゝくる心なり。さて氣長はさき/\おほかりし息なかきにてなけくなり。君か音はをとつれなり。雪もふるに音あれは縁のことはなり
 
(63)2348 和射美能嶺往過而零雪乃※[厭の雁だれなし]毛無跡白其兒爾《ワサミノヽミネユキスキテフルユキノウトミモナシトマウセソノコニ》
 
※[厭の雁だれなし]毛、【官本又云、イトヒモ、】
 
發句をワサミノヽと點ぜるは誤れり、字のまゝに四もじに讀べし、美濃國不破郡なり、第二に既に見えたり、此歌は美濃に妻を置て使を遣はす人の使にむきて云意なり、汝和暫嶺を過て我妻の許に至らば此雪を見るにうき事もなき如く君を思ふ由を告よとなり、※[厭のがんだれなし]はウケクとも讀べし、
 
初、わさみのみねゆき過て。和射美能、これをわさみのゝと訓したれと、五もしの所に四もしある例おほけれは、たゝよもしによむへし。これは美濃にあり。第二に、こまつるきわさみか原、第十一に、笠のかりてのわさみのなとよめる所なり。美濃につまある人の、つかひにいふ心なり。汝わさみのね行過てといふ心に讀きりて、ふる雪のうとみいとふ事なきかことく、われはいつもあかすおもふよしを、つまのこに申せよとをしへてやる心にみるへし
 
寄花
 
2349 吾屋戸爾開有梅乎月夜好美夕夕令見君乎祚待也《ワカヤトニサキタルウメヲツキヨヨミヨナ/\ミセムキミヲソマツヤ》
 
落句は六帖家持集并校本又點にきみをこそまてとあれば祚の上に古許等の字の落たる歟、或は社を誤て祚に作れる歟にて、也は助語なりけるにや、傍例を思ふに六帖等尤然るべし、人丸集にはよな/\きつゝ見む人もがなと改たり、
 
寄夜
 
(64)2350 足檜木乃山下風波雖不吹君無夕者豫寒毛《アシヒキノヤマシタカセハフカネトモキミナキヨヒハカネテサムシモ》
 
人丸集にあり、六帖にも人丸の歌とす、
 
萬葉集代匠記卷之十下
 
萬葉集卷第十
 
明治三十六年五月二日印刷
明治三十六年五月五日發行   定價金七拾五錢
 校訂者  木村正辭
 發行者  荒川信賢
   東京市小石川區關口町二百番地
 印刷者  熊田宜遜
   東京市神田區錦町三丁目廿五番地
 印刷所  熊田活版所
   東京市神田區錦町三丁目廿五番地
東京府豐多摩郡戸塚村大字下戸塚六百四十七番地
 發行所  早稻田大學出版部
 (電話番町三七四番)
 
 發賣元    博文館
         東京市日本橋區本町三丁目
 發賣所    有斐閣書房
         東京市神田區一ツ橋通町
 同      東京堂書店
         東京市神田區表神保町
 同      全國各地書林
         東京市神田區表神保町
 
(1)萬菓集代匠記卷之十一上
                  僧契冲撰
                  木村正辭校
 
初、萬葉集卷第十一
古今相聞往來歌類之上。相聞の哥おほきゆへに、上下にわかてり。日本紀に天武紀の上下あるかことし。此相聞の哥は、男女の中によみかはせるにかきれり。上下共に長歌なし。【寄物陳思歌二百八十二首也。作三百二首誤矣】
 
旋頭歌
 
初、旋頭歌。旋は回旋、頭は頭首なり。三十六人の集の中には、かなにてかうへにめくらすうたともかけり。常の哥に、五字にもあれ。七字にもあれ。下の句に一句くはへて、上下をの/\三句あれは、下の句の躰上の句にかへる心なり。およそ頭尾といふにふたつのやう有。ひとつには、初のいつもしを頭といひ、終の七もしを尾といふ。濱成式に査《サ》躰七種を出す中に、第三無頭有尾、神日本磐余彦天皇《カムヤマトイハレヒコノスメラミコト》撃《ウチタマフ》2梟師《タケルヲ》1哥(ニ)云。【今云。考2日本紀1道臣命歌也】
あみしほ、ひたりもゝなひっ、人はいへとも、たむかひもせす《エオヲトノト日本紀・夷一人百人雖云手對不爲》
無(シ)2初(ノ)五字1。故(ニ)云(フ)2無頭有尾(ト)1。これはしめの五字を頭といへり。されとも四句をは通して尾とする歟。第二の猿尾、第四の列尾は、結句につきていへは、第五を尾とす。ふたつには、上の句を頭とし、下の句を尾とす
式云。五有頭無尾、八坂入姫《ヤサカイリヒメ》答《カヘシタテマツル》2活目天皇《イクメノスメラミコトニ》1哥(ニ)云
 このなしをうへておほさはかしこけむ
無(シ)2腰以下1。故(ニ)云2無尾(ト)1。第三句(ヲ)爲(ス)v腰(ト)。々以上(ヲハ)爲(シ)v頭《カシラト》、以下(ヲハ)爲(ス)v尾(ト)。この第二の義の、上句を頭とする心にて、旋頭とは名付たり。此ゆへに式に七種の雅躰を立る中に、第三を雙本とす。式にいはく。三(ニ)雙本【以2六句1爲2二絶1。第三句終字爲2終韻1第六句終字爲2終韻1。】
   大《オホ》神《ウワ・ミワ》(ノ)高市萬呂卿哥云
 しらくものたなひく山は見れとあかぬかも
 たつならはあさとひこえてゆふへこましを
もとをと同韻の字なり。今は韵を用されは其義は用なし。雙本となつくることは、上の句を本とし、下の句を末として、共に三句あれは、末の句、本の句に相雙ふ心にて、名を立たり。しかれは旋頭におなし心なり。奧義抄に、旋頭は上にかへるとよむなり。昔にかへる義なり。かるかゆへに.濱成式には、此哥を雙本となつく。これ本にならふといへは、むかしにかへる義におなしと尺せらる。猶昔にかへるといふ義を、問答をまうけて、餘義をつくすとせられけれと、そのことはりあたらす。又旋頭哥のよみやうを出されたるも、こゝろ得かたきことあり。いまかきのせて指へし
旋頭哥 【五句の外一句をくはふ。胸腰終又七字五字心にまかす】      山上憶良草花(ノ)哥(ニ)云
 はきのはなをはなくすはななてしこのはな
 をみなへし又ふもはかまあさかほのはな
是はむねに七字くはへたるなり。此哥本式になし。今書2人之1。今いはく。此胸といふは、第二の句なり。七字くはへたるなりとは第三の句の事なり。しかれは第四の句を常の腰の句とす
    橘貞樹朝臣の舟にの員てよめる哥
 ふねにのりうしほかきわけたまもかる
 ほとはかりしらなみたつなありかみゆへく
これは腰に五字をくはへたるなり
今いはく。腰といふは第三の句なり。五字をくはへたるなりとは、ほとはかりの句なり
    小町哥云
 ゆめちにはあしもやすめすかよへとも
 なをやかひなきうつゝにひとめみしことはあらす
是は終に七字くはへたるなり
今いはく。これは下の句の初に七字の句をくはへたるなり。此本式といへるは、いつれの式にか。あなわつらはし。只下の句の初に、五字七字心にまかせて一句をくはへ、腰の句は、常のことく五字にも、あるひは七字にもよむといひて有なん。貞樹朝臣の哥の後に、腰に五字をくはへたりといへと、其五字下の句の初となれは、只下句にくはふといふへきにや。又此集第十六には、五句の哥の第四の句を腹句といへり。今私に五句の哥につきていはゝ、第一を頭とし、第二を胸とし、第三を腹とし、第四を腰とし、第五を尾といふへし
 
2351 新室壁草刈邇御座給根草如依逢未通女者公隨《ニヒムロノカヘクサカリニミマシタマハネクサノコトヨリアフヲトメハキミカマニ/\》
 
新室とは新らしく作る家なり、清寧紀云、忍海部造細目新室、顯宗紀云、適會2縮見屯倉首縱賞新室以v夜繼1v晝、又云稚室葛根、私紀曰、稚室、師説新室也、カベ草は、新らしく造れる屋は、先壁をも草を刈てかこふなり、今も田舍には柴などにてかこひて壁のかはりにする故にや、壁をかき〔二字右○〕と申すめり、屈原九歌湘夫人云、※[草がんむり/全](ノ)壁《カキ》兮紫(ノ)壇此に壁をカキと點じたるを思ふに、田舍には却て古語の殘れるなり、御座給根、今按此をばオハシタマハネと讀べきか、たとひ今の點にても然意得べし、新室の壁草刈に事よせておはしませ、其草の靡く如く心の依逢未通女は、ともかくも君に任せむとなり、此は人(2)の娘の許へよき男の忍びて通ひ來るを、親の許さむと思ひてよめるなるべし、
 
初、新室のかへ草かりに。新室とは、あたらしく作る家なり。清寧紀云。二年冬十一月依2大甞供奉之料(ニ)1遣2於播磨(ノ)國(ノ)司《ミコトモチ》山部(ノ)連(ノ)先祖伊與來目部(ノ)小楯(ヲ)於赤石郡(ノ)縮見屯倉《シヽミノミヤケノ》首|忍海《オシノミ》部(ノ)造《ミヤツコ》細目(カ)新室《ニヒムロニ》1。見2市(ノ)邊(ノ)押|磐《ハノ》皇子(ノ)子|億計《オケ》弘計《ヲケ》1。顯宗紀云。適會(ス)2縮見(ノ)屯倉(ノ)首(カ)縱賞新室《ニヒムロアソヒシテ》以v夜繼(テ)1v晝(ニ)1。かへ草は、あたらしく造れる屋は、先草をかりて壁をもかこふ心なり。今も田舍には、柴なとにてかこひて、壁のかはりにするゆへにや、壁をかきと申めり。楚辭屈原(カ)九歌(ノ)湘夫人(ニ)云。※[草がんむり/全](ノ)壁《カキ》兮紫(ノ)壇《センアリ》。これに壁の字を牆《カキ》の和訓によみたれは、田舍にはかへりて古語の殘れるなり。※[草がんむり/全]壁とあれは、常の草にてもかこひぬへし。御座《ミマシ》たまはね。これをはおはしたまはねとよむへし。新室のかへ草刈にことよせておはしませといふ心なり。草のごとよりあふをとめは君かまに/\とは、かへ草といふをうけて、其草のなひきてよりあふことく、君に心のよりたる我なれは、おはしましたらはの心なり。これより以下十二首は人まろの集の哥なり。下の注に見えたり
 
2352 新室蹈靜子之手玉鳴裳玉如所照公乎内等白世《ニヒムロノフムシツノコシタタマナラシモタマノコトテリタルキミヲウチヘトマヲセ》
 
靜子之、【別校本亦點同v此、シツケコカ、】
 
今按此歌はさきの歌主二首にて心を云ひ盡すと見えたり、今の仙覺の點意得ず、第二の句は古點然るべし、依て上下の點を少しかへてニヒムロヲ、フムシヅケコガ、タヽマナラスモ、タマノゴト、テラセルキミヲ、ウチニトマヲセと讀べし、新室はさきの新室なり、蹈とは俗に親の跡を蹈など云蹈なり、靜子とは沈靜なる男なり、新室を作てよく治むる沈靜なる人とほむる意なり、手玉鳴裳は昔は男も手玉を以て身を飾れる歟、履中紀云、時仲皇子冐2太子(ノ)名1以※[(女/女)+干]2黒媛1、是夜仲皇子忘2手(ノ)鈴於黒媛(カ)之家1而歸焉、此に准らへて知べし、玉如所照以下は上の歌に壁草を承て草如と云如く此も手玉を承て玉如所照公と云へり、此公は上の靜子なり、所照をテリタルだ點ぜるを今テラセルと改むるは集中の例テリタルと讀べき時は照而有《テリタル》、照而在花《テリタル》どやうにかける故なり、内等白世とは内へ入たまへと申せと娘に親の下知するなり、
 
初、新室のふむしつの子し。新室踏靜子之手玉鳴裳、これをはにひむろをふむしつけこかたゞまならすもと讀へし。心は、蹈とは俗に親の跡をふむといふ蹈なり。新室のあるしにて、よく住つくをいふ。しつけことは、容貌閑靜にして、さはかしからぬ人なり。すなはち上の哥に、おはしたまはねといひし人なり。手玉ならすもは、その人の來て手玉のなる音のするなり。履中紀(ニ)云。時(ニ)仲(ツ)皇子|冒《タカヘテ》2太子(ノ)名(ヲ)1以※[(女/女)+干](ス)2黒媛(ヲ)1。是(ノ)夜仲(ツ)皇子忘(テ)2手(ノ)鈴(ヲ)於黒媛(カ)之家(ニ)1而歸(ル)焉。これに准するに、をとこも手玉を懸へし。玉のごとてらせる君を内にとまをせ。右の哥に、かへ草といひて草のごとゝいへるごとく、手玉をうけて、玉のごとてらせる君とはいへり。此君は、しつけごなり。此よめる人は草のごとよりあふをとめといへる人のみつからなり。二首にて心をいひつくせり。又ひとつの心あり。此二首は、むすめもちたる人のもとへをとこのかよひくるを、おやの心にゆるさんとおもひてよめる心にや。しからはまつ上にかへ草かりにおはしたまはねとは、むこにせんの心なれは、わかつくれるにひむろのかへ草かりにきて給はれとなり。草のことくよりあふをとめといふは、かのをとこに心をあはするむすめなり。それをは君か心のまゝにまいらせんとなり。次に後の哥をは、新室にふむしつけことよむへし。にひむろにしてふむといふは、はたをおる心なり。機おる時、まねきに緒をつけて、それか一足にかけて、引つゆるしつしておるをふむといへりお。しつけこはしつかにしなやかなるむすめなり。手玉ならすもは、神代紀下(ニ)云。天孫又問(テ)曰《ノ》。其《カノ》於|秀起《サキタテル》浪穗(ノ)之上(ニ)起《タテヽ》2八尋《ヤヒロノ》殿1而|手玉玲瓏繊 鍾之少女《タタマモユラニハタオルエオトメ》者、是(レ)誰(カ)之|子女《ムスメソヤ》耶。此集第十に七夕哥
 足玉も手玉もゆらにおるはたをきみかみけしにぬひあへむかも
左右の手にたかひにかはる/\杼《ヒ》をなけ筬《ヲサ》をうち、足にはまねきを引つゆるしつするゆゑに、手玉も足玉もなるなり。織具も皆なるものなれは、第十九にひかる神なるはたをとめともよめり。内にとまをせは、をとこのきて門にたてるを内にいらせ給へとまうせと、むすめにゆるすなり。所照をてりたるとよめるもあしからねと、てりたるは、てりてあるなれは、まさしくはかなはす。只てらせるとよむへし。第十に、はたものゝふみ木とよめるは、しりかくる板とみゆ。にひむろのふむしつのことよまは、しつはいやしきをいふにはあらて、倭文を織子といふ心にみるへし。かとりをとめとよめるかことし
 
(3)2353 長谷弓槻下吾隱在妻赤根刺所光月夜邇人見點鴨 《ハツセノユツキカシタニワカカクセルツマアカネサシテレルツキヨニヒトミテムカモ》 一云|人見豆良牟可《ヒトミツラムカ》
 
長谷、【續千載集云、ハツセノヤ、官本同v此、】  吾隱在妻、【續千載集云、ワカヽクシタルツマ、別校本同v此、】
 
長谷には昔名木の槻の木在けるにや、古事記雄略天皇段云、又天皇坐2長谷之百枝槻下1爲2豐樂1之時云々、爾《コヽニ》其百枝槻葉落2浮於大御盞1云々、三重妹歌曰、毛毛※[こざと+施の旁]流【百足也】都紀賀延波【槻之枝者也】云々、又春日之|袁杼比賣《ヲトヒメカ》歌曰、夜須美斯志《ヤスミシシ》、和賀淤富岐美能《ワカオホキミノ》、阿佐計爾波《アサケニハ》、伊余理※[こざと+施の旁]多志《イヨリタタシ》、由布計爾波《ユフケニハ》、伊余理※[こざと+施の旁]多須《イヨリタタス》、知岐《チキ》【千木也】豆紀賀《ツキカ》、斯多能《シタノ》、伊多爾母賀《イタニモガ》、阿世袁《アセヲ》、弓槻《ユツキ》とは槻心槻弓とて弓の良材なる故に云なり、和名集云、唐韻云槻【音規、和名豆木乃木、】木(ノ)名堪v作v弓也、弓槻カ下ニ隱セル妻とは誘ひ出たるを云歟、第十四に安豆左由美欲良能夜麻邊能之牙可久爾伊毛呂乎多?天左禰度波良布母《アツサユミヨラノヤマベノシゲカクニイモロヲタテヽサネドハラフモ》、此はよらの山べの繁き所に妹をたゝせて寢處を打掃ふとよめれば引合せて見るべし、赤根刺は顯昭は日より起れる詞と意得られたれど然らず、第一にも云如く唯にほゝと云意なれば月日の外にもよめり、委は別に注す、
 
初、はつせのゆつきかしたに。弓につくるによき木なれは、ゆつきといふなり。和名集云。唐韵云。槻【音規和名豆木乃木】木名堪(タリ)v作(ルニ)v弓(ヲ)也。第二にもゝ枝槻の木とよみて、陰のしけき物なれは、ふかくしのひてかくすよしに深くはつせ山のしけきつきの木のもとにかくせる妻といへり。まことにさる事あるにはあらす。長谷といへるはそのあたりにて讀るにや
 
(4)2354 健男之念亂而隱在其妻天地通雖光所顯目八方《マスラヲノオモヒミタレテカクセルソノツマアメツチノカヨヒテルトモアラハレメヤモ》 一云|大夫乃思(ヒ)多鷄備?《マスラヲノオモヒタケヒテ》
 
此も亦右の歌主二首にて餘意を盡すなり、通雖光は今按トホリテルトモと讀べし、神代紀上云、於是共生2日(ノ)神(ヲ)1號2大日〓貴《オホヒルメノムチト》1、此子|光華明彩《ヒカリウルハシウシテ》照2徹《トホル》於|六合之《クニノ》内1、此照徹の字の意なり、但今は上に所光月夜と云を踏て、大かたの月明き夜をば猶深く此ますらをが樣々に思ひ廻らして隱せる妻なれば、假令此月の光の天地をとほして照らすとも顯はれめや顯はれじとなり、心を武く思ひはげむなり、
 
初、ますらをのおもひみたれて。右の作者おしかへしてふたゝひ讀り。常の月をは猶おきて、たとひ天地のてりとほる事ありとも、あらはれしとなり。神代紀上云。於是共(ニ)生《ウミマツリマス》2日(ノ)神(ヲ)1號2大|日〓貴《ヒルメノムチト》1。此|子《ミコ》光華明彩《ヒカリウルハシウシテ》照2徹《テリトホル》於|六合之《クニノ》内1(ニ)1
 
2355 惠得吾念妹者早裳死耶雖生吾邇應依人云名國《メクマムトワカオモフイモハハヤクモシネヤイケリトモワレニヨルヘシトヒトノイハナクニ》
 
吾邇、【幽齋本云、ワニ、】
 
發句は今の點叶はず、袖中砂にオシヱヤシとあるは猶云にたらず、此をはウツクシトと讀べし、集中例多し、早裳死耶とは實に云にはあらず、云ひ侘思ひ侘るまゝに、君がながらへたりとも終に我に依べしとは人の云はねば、中中に君がとく死たらば(5)我思ひはやまむと切なる心を打返して云なり、後撰集の詞書にまだあはず侍ける女の許に死べしと云へりければ返事に、はやしねかしと云へりければ云々.
 
初、惠得。これをはうつくしとゝよむへし。いつくしみといふにおなし。かほよきを常にうつくしといふは、かほよき人をは、うつくしみおもふゆへにいへり。うつくしといふが、すなはちかかほよきといふにはあらす。はやくもしねやとは、あまりの事にいふなり。後撰集にいはく。またあはす侍ける女のもとに、しぬへしといへりけれは、返事にはやしねかしといへりけれは、又つかはしける
 
2356 狛錦※[糸+刃]片叙床落邇祁留明夜志將來得云者取置待《コマニシキヒモノカタヘソトコニオチニケルアスノヨシキナムトイハヽトリオキテマタム》
 
※[糸+刃]に、雄※[糸+刃]雌※[糸+刃]、其片方の落たるなり、明夜志のし〔右○〕は助語なり、
 
初、こまにしきひものかたへそ。ひもには、めひもをひもあるを、かた/\のおちてあるなり。さきにひける仲(ツ)皇子の、黒媛かもとに手の鈴をわすれて歸りたまへるたくひなり。古今集にいはく。五せちのあしたにかんさしの玉のおちたりけるを、たかならんとゝふらひてよめる。こまにしきは、上にも注しつる高麗の錦なり。にしきの紐は、允恭紀に、天皇の御哥にいはく。佐|嵯《サ》羅餓多、邇之枳能臂毛《・錦紐》弘、等枳舍氣《・解辟》亭、何麻〓絆泥受《・數者不寢》迹、多〓比等用能末《・唯一夜耳》
 
2357 朝戸出公足結乎閏露原早起出乍吾毛裳下閏奈《アサトイテノキミカアユヒヲヌラスツユハラハヤクオキテイテツヽワレモモノスソヌレナ》
 
朝戸出はアサトテノと讀べし、露原は露しげき原なり、毛詩云、謂行多v露、
 
初、朝戸出のきみか。朝戸出はわかれて歸る朝なり。あゆひはあしにさしはく物の名なり。雄略紀(ニ)云。大臣|圓《ツフラ》出2立(ツ)於庭(ニ)1索《コフ》2脚帶《アユヒヲ》1。ぬらす露原とは、露のしけくある所なり。詩云
閏は潤にや。閏もうるふなれはさもありなん。我も裳のすそぬれんなとは、見をくらんといふなり
 
2358 何爲命本名永欲爲雖生吾念妹安不相《ナニセンニイノチヲモトナナカクホリセムイケリトモワカオモフイモニヤスクアハナクニ》
 
腰句イケレトモと點ぜるに依べし、
 
2359 息緒吾雖念人目多社吹風有數數應相物《イキノヲニワレニオモヘトヒトメオホミコソフクカセノアラハシハ/\アフヘキモノヲ》
 
吾雖念、【官本云、ワレハオモヘト、】
 
第二句の吾をワレニと點ぜるは書生の誤なるべし、ワレハと讀べし、人目多社はえ(6)あはねと云事を云ひ殘して含めり、句絶なり、吹風をフクカセノと點ぜるは又誤なり、フクカセニと讀べし、人目の繁きを侘て我身風にてあらば人目にもみえずして通ひて度々相べき物をとなり.伊勢物語云、吹風に我身をばさば玉簾ひま求ても入らましものを、曹子建七哀詩云、願爲2西南風1長逝入2君懷1、
 
初、いきのをにわれはおもへと。人めおほみこそは、人めのおはけれは、行てもえあはぬなり。此所句なり。吹風にあらはとは、風は人の目に見えすして、いつくまてもいたらぬ所なし。わかみふく風にあらは、人めいとふことなく、しは/\かよひてあはむ物をとなり。此下にも、玉たれのこすのすけきに入かよひきね。たらちねのはゝかとはれは風とまうさんといへり。伊勢物語には
 吹風にわか身をなさは玉すたれひまもとめてもいるへきものを
 
2360 人祖未通女兒居守山邉柄朝朝通公不來哀《ヒトノオヤノヲトメコスヱテモルヤマヘカラアサナアサナカヨヒシキミカコヌハカナシモ》
 
守山と云はむ爲に上の二句を置けり、守山は第六に山守居守云山爾とよめる歌に注せし如く、第十三に三諸者人之守山と讀出せる歌の終に泣兒守山とあれば三諸山の別名なり、朝朝は日々の意なり、第廿に阿佐奈佐奈とかき前々もあさなさなと點じたればアサナアサナと點ぜる後のあ〔右○〕を刊るべし、
 
初、人のおやのをとめこすへて。第十三の哥にいはく
 みもろは人のpもる山、もとへには、つゝしはなさき.末邊には、椿花さき、うらくはし山そ、なくこ守山
かゝれは、みもろ山を、又はもる山といふなるへし。をとめこは、ちひさきむすめなり。なくこもる山とよめるにおなし。膝のもとにすへ置て、守て人なせは、かくはつゝくるなり。みもろ山も、大己貴《オホアナムチノ》神のましますゆへに、こと山よりは、山守をすへてもるゆへに、もる山とはいふなるへし。朝な/\は、唯日ことにといふ心なり
 
2361 天在一棚橋何將行穉草妻所云足莊嚴《アメニアルヒトツタナハシイカテユクラムワカクサノツマカリトイフアシヲウツクシ》
 
初三句は獨木橋の危をいかで渡るらむと勞を思ひやりて天河に彦星の渡る橋を引懸て云なり、足莊嚴とは妻の許へ行道とて獨梁を渡る足をいくはしと云なり、此はよき男の妻の許へ往來《カヨフ》を見る人のあはれみてよめるなるべし、
 
初、天にあるひとつたなはし。これは獨梁《ヒトツハシ》をわたりて、妻のもとへ行人をあはれひてよめる心なり。天川にたなはしわたすとよみたれは、折角の心にて、天川にはよせていへり。足をうつくしとは、うつくしむなり。あやうきひとつはしをわたりてゆくらんことよ、いたはしやといはむかことし。唐(ノ)周賀(カ)送(ル)2僧(ノ)還(ルヲ)1v嶽(ニ)詩(ニ)曰。辭(シテ)僧(ヲ)下(ル)2水棚(ヲ)1。橋は河の上にかけたるが、棚に似たれは、漢には水棚といひ、和にはたなはしといふなるへし
 
(7)2362 開木代來背若子欲云余相狹丸吾欲云開木代來背《ヤマシロノクセノワカコカホシトイフワレアフサワニワカホシトイフヤマシロノクセ》
 
欲云余はホシトイフワレヲと讀べし、吾欲云をもワカホシトイフと點ぜるは誤なり、ワレヲホシトイフと讀べし、吾欲云は上の欲云余を打返して再たびいふ詞なれば上をもホシト云ワレヲと讀べしとは云なり、此歌は第七に來背社草勿手折とよめる歌に引合せて注せしが如し、古今集云足引の山田のそぼつ己さへ我をほしてふうれはしきこと、此れ今の歌に似たるを此は卑賤の人を嫌ひ、今の來背若子は賤しきを嫌にはあらず、主ある身を威勢あるに依て※[(女/女)+干]さむとするを嫌ふなり、二つの欲云は古今の歌に准らへば約めてホシテフとも讀べきか、相狭丸は第八に注せり、丸をわ〔右○〕とよめるは輪《ワ》廻《ワ》等の意なり、日本紀に處の名にも氏にもある和珥を古事記には丸邇とかゝれたり、
 
初、山しろのくせの。和名集(ニ)云。山城國久世郡、久世。此集に、久世の鷺坂、久世の社なとよめる、此所なり。わかこは古語拾遺(ニ)云。天照太神|育《ヒタシタマフニ》2吾勝《アカツノ》尊(ヲ)1特《コトニ》甚(ハタ)鍾愛《メクシトオモホシタマフヲ》常(ニ)懷(キタマヘハ)2腋(ノ)下(ニ)1稱(ケテ)曰2腋子《ワキコト》1。【今俗號(ケテ)2稚子(ヲ)1謂(ハ)2和可古(ト)1是(レ)其(ノ)轉語也。】ほしといふわれとは、われをつまにほしといふなり。あふさわにとは、第八にもありて尺せしことく、第四におほなわにといへるかことし。おもひもいれす、大かたにいふなり。ことのなくさとよめるにおなし。われをほしといふは、上にほしといふわれといふ句を、かへさまにふたゝひいふなり。古謌の躰なり。毛詩もおほく此躰なり。山しろのくせといふもおなし。これは久世といふに、僻をもたせて、くちくせといふ心にもあるへし。われをほしといふを。わかほしといふとよめるは大に誤なり。此哥は古今集に
 足引の山田のそほつをのれさへわれをほしてふうれはしきこと
此哥に似たる心なり。但かれはいやしきものにおもひかけられてうれはしといひ、これはなをさりにいふ人にあはんやの心なり。開木代は第七卷にもかくかけり。來背は氏にや
 
右十二首柿本朝臣人麿之歌集出
 
初、右十二首。人丸の集に出といへるは、彼朝臣の哥とのみ定かたき事、右より注するかことし
 
2363 崗前多未足道乎人莫通在乍毛公之來曲道爲《ヲカサキノタミタルミチヲヒトナカヨヒソアリツヽモキミカキマサムヨキミチニセム》
 
神武紀云、丘岬、【此云嗚介佐棄】多未足道とは廻《タミ》たる道なり、榜轉舟《コギタムフネ》などよめるに同じ詞なり、(8)第二十の長歌にも乎可之佐伎伊多牟流其等爾《ヲカノサキイタムルゴトニ》云々、曲道は第七にもよめり人をよくる道なり、たみたる道は人をよくるによければ直道を行てたみたる道をば常の人は通ふなとなり、
 
初、崗前のたみたる道を。をかさきは、をかのさきなり。日本紀云。丘岬【此(ヲハ)云2塢介佐棄《ヲカサキト》1。】山のさきともよめり。名所にはあらす。たみたる道は、こきたむ舟なとよめるたむにて、まはるなり。廻の字轉の字運の字なとをよめり。岡のさきをめくりて、大かたの人のしらぬ間道なり。それを知たる人ありとも、我ために心してなかよひそ。あり/\てたに君かきまさん時のよき道にせんとなり。よき道は、よしあしのよしにはあらす。春風は花のあたりをよきてふけといへるよくるなり。避《サル》v路(ヲ)なり。曲はよしともよむへけれとも、曲直の曲はまかるなれは、よくるといふ心にかけり。第七に
 みわのさきあらいそも見えす浪たちぬいつこよりゆかんよき道はなしに
これもよくる道はなしにといふ心にて今とおなし。しかれは去聲にはよまて上聲によむへし。きもしのすみにこりは、心にまかすへし。第七に尺せることし。たみたる道は、多末足道とかけれは、俊頼なとも、これをおほみあしちとよまれたれと、たみたるみちを正義とすへし
 
2364 玉垂小簾之寸鶴吉仁入通來根足乳根之母我問者風跡將申《タマタレノコスノスケキニイリカヨヒキネタラチネノハヽカトハレハカセトマウサム》
 
寸鶴吉を袖中砂にはきけき〔三字右○〕とあれど仙覺抄に注こそ信られね、今の如くすけき〔三字右○〕とあり、すけきは透《スキ》なるべし、古語にはかゝる事多し、來根は例によりてコネと讀べし、風と申さむとは簾の音のするを若母の聞つけて何ぞと問はれば風と云ひなさむずるをとなり、清少納言に伊與簀《イヨス》など打懸たるを打かつぎてさら/\とならしたるもいとにくし、
 
初、玉たれのこすのすけき。すけきは透なり。けもしは助字なり。寒きをさむけき、あつきをあつけきといふかことし。下のうたに
 玉たれのこすのたれすをゆきかちにいをはねゝとも君はかよはす
 はしこやしふかぬ風ゆへ玉くしけあけてさねにしわれそくやしき
紀氏六帖には
 風ふけと人にはいひて戸はさゝしあはむと君にいひてしものを
玉たれの小すは、玉をたるゝ小すたれなり。簾を簀《ス》とのみもいへり。史記范雎列傳云。雎|佯《イツハリ》死(ヌ)。即卷(ニ)以(ス)v簀《スヲ》。【索隱曰。簀(ハ)謂2葦荻(ノ)之簿1也】簀を垂《タ》るゝ故に、すたれとはいふなり。こすを鈎簾とこゝろ得たるはひかことなり。第七に、玉たれのこすのまとほしといへるにも、今のことく玉垂之小簾とかけり。下の十八葉の哥も、主垂之小|簀《ス》之|垂簾《タレス》とかけり。玉たれとのみいふは、玉をぬきてたるゝ心なれと珠簾にして用るなり。清少納言にくき物、いよすなと打かけたるをうちかつきてさら/\とならしたるもいとにくし。もかうのすはましてたいしのうちおかるゝいとしるし。それもやをら引あけていていりするはさらにならす
 
2365 内日左須宮道爾相之人妻垢玉緒之念亂而宿夜四曾多寸《ウチヒサスミヤチニアヘリシヒトツマユヱニタマノヲノオモヒミタレテヌルヨシソオホキ》
 
相之、【別校本云、アヒシ、】
 
※[女+后]の字今を初て後にも用たる事多し、字書を考がふるにユヱと讀べき義見えず、玉(9)緒之念亂而と連ぬる意は絶て亂るゝなり、四は助語なり、
 
初、うちひさす。垢、ゆゑとよめる、その心をしらす。此卷下にいりておほし。玉篇云。※[女+后]【古侯功。遇也。又易(ノ)卦名也。】故の字のかんな、常にはゆへとかくを、此集には由惠とかけり。よろつのかんな、日本紀此集和名集なと大かた同し。すゑの世はたかへり
 
2366 眞十鏡見之賀登念妹相可聞玉緒之絶有戀之繁此者《マソカヽミシカトオモフイモニアハムカモタマノヲノタエタルコヒノシケキコノコロ》
 
此考、【幽齋本、此作v比、】
 
見之賀登念とは見てしがなと思ふなり、妹相可聞は又更にあはむかあはじとなり、此〔右○〕は書生の誤なり、比〔右○〕に作れるに依べし、此歌人丸集にはなし、拾遺に人丸の歌とて載られたるは未v知v所v據、
 
初、まそかゝみ見しかと。見てしかなとおもふなり。又見たるかみぬかとおもふほと、わつかに見るを、疑て、見し歟といふ心歟。後の心ならは、疑の歟にて清へし。いもにあはむかもは、後の心ならはいもに又あはむ物か。あふへくもあらぬにの心なり。玉の緒の絶たる戀といへる心、たえて後又こふる心なれは見し歟なるへし
 
2367 海原之路爾乘哉吾戀居大舟之由多爾將有人兒由惠爾《ウナハラノミチニノリテヤワカコヒヲラムオホフネノユタニアルラムヒトノコヱニ》
 
海は船に乘て渡れば心に乘てや戀をらむとよせて大舟の如くゆたかにて何とも思ふまじき人の娘故にとよめるなり、
 
初、海原のみちにのりてやとは、下に大舟といふゆへに、妹か心にのるといふことを、海路に舟にのるによせていへり。第二に妹か心にのりにけるかもといふをはしめてあまたよめり。後撰集に舟にてものへまかりける人につかはしける    伊勢
 をくれすそ心にのりてこかるへき浪にもとめよ舟見えすとも
大舟のゆたにあるらんは、ゆたか、ゆたのたゆた、
 
右五首古歌集中出
 
正述心緒
 
(10)2368 垂乳根之母之手放如是許無爲便事者未爲國《タラチネノハヽノテソキテカクハカリスヘナキコトハイマタセナクニ》
 
第五云、多羅知斯夜波波何手波奈例《タラチシヤハハガテハナレ》云々、此に依て今の第二句も點じ改てハヽガテハナレと讀べし、俗にも親の手を放れてよりこのかたと云は人と成てと云意なり、腰の句以下はかゝる進退きはまりたる思ひをばいまだせざりしとなり、
 
初、はゝのてそきて。放の字なれは、はなれともよむへし。そきてもさかりてはなるゝなり。常に親の手をはなれてといへる心なり。人となりて、母の手をはなれてよりこのかたに、かゝるせんかたなきことをはいまたせぬなり。事とは戀なり。允恭紀(ニ)皇后(ノ)曰。妾《ヤツコカ》初(テ)自2結髪《カミオイシ》1陪《ハムヘルコト》2於|後《キサキノ》宮(ニ)1既(ニ)經2多年(ヲ)1。母か手そきては、此髪おきしよりとのたまへるかことし。第五に山上憶良の、大伴熊凝かためによまれたる哥にも、うちひさす宮へのほるとたらちしや母かてはなれといへり。此哥より以下百四十九首は人丸集より出たりと後に注せり
 
2369 人所寐味宿不寐早敷八四公目尚欲嘆《ヒトノヌルウマイモネステハシキヤシキミカメスラヲホシミナケクカ》
 
味宿はよくいぬるなり、味酒うま人などの如し、菓の熟するをもうむ】云へば熟寢と云とも通ずべし.或本にアチネとも點ぜれど、字を見て推量する點なり.繼體紀の勾大兄皇子の御歌に于魔伊禰矢度※[人偏+爾]《ウマイネシトニ》云々、此|味宿寢《ウマイネ》し時になり.公目尚は第十三云、己之《サガ》家尚乎、第十六云、己妻尚|乎《ヲ》、此等に准らへてキミカメスラヲと讀べし、目尚欲とは逢ことをばかけてもいはず、せめて見る事だにほしきなり.ナゲクカのか〔右○〕は哉なり、
 
或本歌云|公矣思爾曉來鴨《キミヲオモフニアケニケルカモ》
 
(11)2370 戀死戀死耶玉桙路行人事告兼《コヒシナハコヒモシネトヤタマホコノミチユキヒトニコトモツケケム》
 
戀モシネトヤと云意第四に和氣ヲハ死ネト念ヘカモとよめるに付て注せしが如し、道行人に言傳するはなをざりなり、忘れむとすれば言傳あり、言傳はあれど逢ことはなければ戀死ねとてのしわざにやと思ふなり、拾遺集は人丸集に依てことつてもなしとあり、六帖にはことつてもせずとあり、此等は戀死耶の言に叶はむ事おぼつかなし、魯仲連が將を殺せし書却て醤をおほひなむとす、
 
初、こひしなはこひもしねとや。此下に又第十五に
 戀しなはこひもしねとやわきもこかわきへのかとを過て行らん
 こひしなはこひもしぬとや郭公物もふ時に來鳴とよむる
古今集に
 こひしねとするわさならしむはたまのよるはすからに夢に見えつゝ
道ゆき人に事をつくるは、なをさりのことつてなり。わすれむとすれはことつてあり。ことつてはあれとあふことはなけれは、こひしねとてのしわさにこそとおもへること、上の哥どもみな似たり。かゝるをりにや人はしぬらんとよめる哥も.おもひあはすへし
 
2371 心千遍雖念人不云吾戀※[女+麗]見依鴨《コヽロニハチヘニオモヘトヒトニイハヌワカコヒツマヲミムルシモカモ》
 
2372 是量戀物知者遠可見有物《カクハカリコヒシキモノトシラマセハヨソニミルヘクアリケルモノヲ》
 
2373 何時不戀時雖不有夕方枉戀無乏《イツトテモコヒヌトキトハアラネトモユフカタマケテコヒハスヘナシ》
 
古今集云.いつとても戀しからずはあらねども秋の夕はあやしかりけり、似たる意なり、枉は第七に岸に雉を借れるに同じ.
 
初、いつとてもこひぬ時とは。これは古今集に
 いつはとは時はわかねと秋の夜そもの思ふことのかきりなりける
夕と夜とはたかひたれと、似たる哥なり。夕方枉は上にありし片設《カタマケテ》なり。くれなんとする時を得てといはむかことし
 
(12)2374 是耳戀度玉切不知命歳經管《カクシノミコヒヤワタラムタマキハルイノチモシラストシハヘニツヽ》
 
第九云、如是|耳志戀思渡者《ノミシコヒシワタラバ》云々、此に依て今の發句もカクノミシと點じ替べき歟、し〔右○〕は助語なり、
 
2375 吾以後所生人如我戀爲道相與勿湯目《ワカノチニムマレムヒトモワカコトクコヒスルミチニアヒアフナユメ》
 
相與勿湯目はアヒコスナユメと讀べき歟、與の字の事以前注せしが如し、
 
初、わか後にむまれん。小杜か阿房宮賦云。秦人不v暇2自哀1而後人哀v之。後人哀v之而不(ンハ)v鑑v之、亦使2後人1而復哀c後人u也。王右軍蘭亭記云。後之視v今、亦猶2今(ノ)之觀1v昔。悲夫○後之覽者亦將v有v感2於斯文1。あひあふなゆめ、相與勿湯目とかけるは、あひこすなゆめにや。かくいふゆへは、第十に
 わきもこにあふちの花は散過す今さけることありそはぬかも
此ありそはぬに有與奴とかけり。又同卷七夕の哥に
 天川やすのわたりに舟うけて秋立まつといもにつけよく
此よくに與具とかけり。さきのありそはぬも心得かたく、此よくといふも心得かたし。今案此與具の具は其の字の誤にや。其の字をそといふに用たる所あれは、さきのありそはぬかもは、ありこせぬかも、後のつけよくは告こそにや。しからは今のあひあふなゆめをは、あひこすなゆめとよまん事うたかひなし。此下にも此字有。(以下傍書)第十三にしきしまのやまとのくにはことたまのたすくるくにそ、まさきくあれよくとよめり。これに准するに妹に告ときりて、告よといふ下知の心にきりて、よくとよみて、妹によく告よとみるへし。此注けつらるへし。但第十の一首の事なり(以上)
 
2376 健男現心吾無夜晝不云戀度《マスラヲノウツシコヽロモワレハナシヨルヒルイハスコヒシワタレハ》
 
現心はうつゝの心にてさだかなる心なり、コヒシのし〔右○〕は助語なり、此歌人丸集にもあり、六帖にも戀の歌とす、又六帖鹽の歌にあらしほのうつし心も我はなしよるひる人を戀しわたればとあるは、若今の發句の健男をあらしをと點ぜる本ありけむ、それを荒鹽と意得損じけるにや、
 
初、ますらをのうつし心も。うつし心はうつゝ心にて、つよくたしかなるをいふ。神代紀に顯國玉《ウツシクニタマ》といふ神の名あり。顯と現とおなし心なり
 
2377 何爲命繼吾妹不戀前死物《ナニセンニイノチツキケムワキモコニコヒセヌサキニシナマクモノヲ》
 
(13)死物、【官本云、シナマシモノヲ、】
 
落句の點官本に依べし、
 
初、なにせんにいのち。しなましものを、しなまくとあるはあらたむへし
 
2378 吉惠哉不來座公何爲不厭吾戀乍居《ヨシヱヤシキマサヌキミヲナニストカウトマスワレハコヒツヽヲラム》
 
第十云、何爲等加君乎將※[厭のがんだれなし]《ナニストカキミヲイトハム》云々、此に准らへば不厭をイトハズと讀べきか、
 
2379 見度近渡乎回今哉來座戀居《ミワタセハチカキワタリヲタモトホリイマヤキマストコヒツヽソヲル》
 
戀居、【別校本、戀下有v乍、】
 
第七云、視渡者近里廻乎田本欲《ミワタセハチカキサトワヲタモトホリ》云々、似たる上句なり、見度せば近き渡に夫君の家はあれど來る事の遲ければ他眼《ヒトメ》をつゝみてよき道より廻りてや來ますと心を取のべて待居る意なり、
 
初、見わたせはちかきわたりを。見わたせはちかきわたりに夫《ツマ》の家はあれと、くることの遲けれは、人めをつゝみて、よき道をまはりやきますと、心を取のへて待なり。第七にも
 みわたせはちかきさとわをたもとほり今そわかくれひれふりし野に《・このてにをは此集二首あり》
このうたとよく似たり
 
2380 早敷哉誰障鴨玉桙路見遺公可來座《ハシキヤシタカサヘテカモタマホコノミチワスラレテキミカキマサヌ》
 
誰障鴨、【袖中抄云、タガサフルカモ、校本、タカサワルカモ、】  路見遺、【袖中抄云、ミチハワスレテ、】
 
早敷哉は惜哉の意なり、
 
(14)2381 公目見欲是二夜千歳如吾戀哉《キミカメヲミマクホリシテコノフタヤチトセノコトモワカコフルカナ》
 
六帖にきみをめにみまくほしきにとあるは今の點にしかず、
 
2382 打日刺宮道人雖滿行吾念公正一人《ウチヒサスミヤチノヒトハミチユケトワカオモフキミハタヽヒトリノミ》
 
第四岳本天皇御歌云、人多國爾波滿而味村乃去來者行跡吾戀流君爾之不有者《ヒトサハニキニニハミチテアチムラノイサトハユケトワカコフルキミニシアラネハ》云々、此意の歌多し、六帖にわきて思ふと云歌に内日刺大宮人は多かれどわきて戀るはたゞひとりそも、
 
初、うちひさすみやちの人は。第四岳本天皇御哥に、人さはに國にはみちて味村のいさとはゆけとわかこふる君にしあらねは。反歌に
 山のはに味村さはきゆくなれと我はさふしゑ君にしあらねは
第十二に
 内田刺宮にはあれとつき草のうつしこゝろはわかおもはなくに
第十三に、しきしまのやまとのくにゝ人さはにみちてあれとも。反哥
 式嶋のやまとのくにゝ人ふたり有としおもはゝなにかなけかむ
毛詩鄭風云。出(レハ)2其(ノ)東門(ヲ)1、有(リ)v女如(シ)v雲(ノ)。雖2則(ハチ)如(ナリト)v雲(ノ)、匪(ス)2我(ノ)思(ヒノ)存(スルニ)1
 
2383 世中常如雖念半手不忘猶戀在《ヨノナカニツネカクソトハオモヘトモハテハワスレスナホキヒニケリ》
 
世中、【幽齋本云、ヨノナカノ、】
 
如をカクソトハと點ぜる不審なり、若如此なりけむを此〔右○〕の字の落たるか、今按如は女を誤て作れる歟、第四云、世間之女爾思有者《ヨノナカノヲトメニシアラハ》云々、第五云、余乃奈迦野都禰爾阿利家留遠等※[口+羊]良何《ヨノナカノツネニアリケルヲトメラカ》云々、此等を以て思ふべし、其上右の歌と連ねたるにも意あるべし、餘(15)りせむ方なさに女の程を思ひ下して人なみの女なるを何かかく世に二人ともなきやうには戀らるヽぞとみづから戀を醒《サマ》さむとすれどかひなくて、はては立かへり猶戀しきとなり、是は上の歌と同じ主のよめる歟、さらずとも意を以て接て連ねたるなるべし、戀在はコヒニタリと讀べし、
 
初、世の中のつねのもころに。これは上の哥をうけて心得へし。宮道を行人は、とり/\にうるはしき中にも、わかおもふはたゝひりのみなるを、わすれむことをはかりて、只大かたの世の人なみにおもひなせとも、はて/\はえわすれすして猶こふるとなり、第五に、山上憶良のよまれたる哀《カナシム》2世間(ノ)難(キコトヲ)1v住(マリ)歌に、よのなかのつねに有けるをとめらかさなす板戸をおしひらき云々。よのなかのつねのもころといふこれなり。もころははことくとおなし。つねのことくにともよむへし。第十、七夕の哥にも、常のことくやわか戀をらんとあり。戀在はこひにたりとよむへし。こひにてあるなり。※[氏/一]阿(ノ)反多なれは、こひにたりとつゝめてよむなり。けりといふには來の字をかけり
 
2384 我勢古波幸座遍來我告來人來鴨《ワカセコハサキクイマストカヘリキテワレニツケコムヒトノクルカモ》
 
遍來、【校本、遍作v還、】 人來鴨、【官本云、ヒトモクルカモ、】
 
初、遍來。遍は返と通する歟。千遍《チカヘリ》なとあまたかけり。密教に念誦の教をいふ時、みな此遍の字なり。唐本は彳?に作。遍與?同
 
2385 麁玉五年雖經吾戀跡無戀不止恠《アラタマノイツトセフレトワカコフルアトナキコヒノヤマヌアヤシモ》
 
跡無戀は驗のなきなり、五年經て戀るに驗なくば思ひやまるべき事なるに、猶やまねばみづから恠しぶなり、恠しとは常に殊なる故なり、
 
初、あとなきこひ、驗《シルシ》なきなり
 
2386 石尚行應通建男戀云事後梅在《イハホスラユキトホルヘキマスラヲモコヒテフコトハノチノクヰアリ》
 
建男、【官本、建作v健、】
 
發句はイハヲスラとも讀べし、神武紀云、更少進亦有v尾而披2磐石1而出者云々、石をも(16)蹈裂て通るべき程のますらをも戀には顧みて悔る事のあるとなり、
 
初、いはほすらゆき。神武紀云。更《マタ》少|進《ユクトキに》亦有(テ)v尾而|披《オシワケテ》2磐石《イハヲ》1而出(ル)者(アリ)。天皇問之曰。汝(ハ)何人(ソ)。對(テ)曰《マウサク》。臣《ヤツカレハ》是(レ)磐|排別《オシワク》之子(ナリ)。いはをも踏ささきとほるへきほとのつはものも、戀といふことには後のくやみあるとなり。大敵にむかひてもおそれぬをのこの、戀といへはかへりみしてくゆるはこれかおもしろきことなり。第十四東哥に
 かまくらのみこしのさきの岩くえの君かくゆへきこゝろはもたし
建は健と通する歟。ます/\あらきをのこといふ心なり
 
2387 日位人可知今日如千歳有與鴨《ヒクレナハヒトシリヌヘシケフノヒノチトセノコトクアルヨシモカモ》
 
日位、【幽齋本、位或作v※[人偏+弖]】
 
位は幽齋本に※[人偏+弖]に作れるを正字とすべし、クレナバと義訓せる事尤叶へり、可知はシリヌベミと讀べきか、日くれなば人の知らむと云ことは上に夕かたまけて戀はすべなしとよめる如く、夕はいとゞ心細を涙もゝろければなり、有與鴨は今の點強てつけて叶べらず、與の字の事前々より云如くなれば、アリコセヌカモと讀べし、但與の下に奴の字落たるか、
 
初、日くれなは人知ぬへし。上に夕かたまけて戀はすへなしとよめることく、夕になれはいとゝ心ほそく涙もろになるゆへに、人知ぬへしとはいふなり。有與鴨、これさきに我後にむまれむ人とある哥に注していへることく、ありこせぬかもとよむへし
 
2388 立座態不知雖念妹不告間使不來《タチヰスルワサモシラレスオモヘトモイモニツケネハマツカヒモコス》
 
2389 烏玉是夜莫明朱引朝行公待苦《ヌハタマノコノヨナアケソアカラヒクアサユクキミヲマテハクルシモ》
 
是夜、【拾遺、コヨヒ、】  朝行公、【六帖云、アシタユクキミ、】  待苦、【拾遺云、マツクルシキニ、】
 
待苦は六帖にも今の點の如くあれど少叶ひがたし、マタバクルシモと讀べし、
 
初、ぬは玉のこのよなあけそ。あからひく朝とつゝくるは、日の出ん前相に、山のはのあかくなりゆく故にいへり。第四に、あから引日もくるゝまてとよめるにおなし。あかねさすといふもまたこれなり。紅の裳なとはおもひよるへからす。待苦はまたはくるしもとよむへし
 
(17)2390 戀爲死爲物有者我身于遍死反《コヒヲシテシニスルモノニアラマセハワカミハチタヒシニカヘラマシ》
 
戀爲、【拾遺、人丸集、六帖、並云、コヒスルニ、】
 
第四に笠女郎が家持に贈れる二十四首の中に戀爲を念西《オモヒニシ》とかへ我身千遍を千遍曾吾者と換て已に出き、
 
初、こひをしてしにするものに。第四に笠女郎か家持に贈哥廿四首の中に
 おもひにししにする物にあらませはちたひそ我はしにかへらまし
 
2391 玉響昨夕見物今朝可戀物《タマユラニキノフノユフヘミシモノヲケフノアシタハコフヘキモノカ》
 
昨夕、【人丸集云、キノフノクレニ、官本、昨下有v日、】
 
玉ゆらは暫の意なりと云ひ來れども此秋の意を思ふに然らず、玲瓏をゆらとよめば玉の光のゆら/\とみゆるを人のかほはせに譬へてよめる歟、
 
初、玉ゆらにきのふの夕。玉ゆらはしはしのことなりといへり。定家卿の
 玉ゆらの露もなみたもとゝまらすなき人こふるやとの秋風
とよみたまへるも其定歟。しはしの心にては此哥心得られす。此卷初に引る神代紀に、手玉玲瓏織?之少女《タタマモユラニハタオルヲトメ》といへるに、今|玉|響《ユラ》とかけるをあはせて案するに、玉の聲にや。きれとも饗にてはこゝにかなはす。神代紀下(ニ)又云。於是《コヽニ》棄《ステヽ》v籠《カタマヲ》遊行《イテマス》。忽(ニ)至(リタマフ)2海神《ワタツミノカミノ》之宮(ニ)1。其(ノ)宮也|雉 整頓臺宇玲瓏《タカヽキヒメカキトヽノホリタカトノヤテリカヽヤケリ》。つねに玲瓏と用るも此心なり。しかれは玉と玉との相觸てなる時に、たかひに光りあひてゆるけは、玉ゆらといふに、光と聲とをかぬる中に、今はてりかゝやく方をとれる歟。さきに玉のごとてらせる君を内にとまをせとよめることく、きのふの夕玉顔をあひ見しものをといふ心なるへし。第廿に家持の哥に
 初春のはつねのけふの玉はゝきてにとるからにゆらく玉の緒
これもゆらく玉とつゝけたり。玉のをのゆらくといふにあらす。人にはつけよあまのつりふ船とよめることし
 
2392 中中不見有從相見戀心益念《ナカ/\ニミサリシヨリモアヒミテハコヒシキコヽロマシテオモホユ》
 
初、中々に見さりしよりも。六帖後のあした
 逢みての後のこゝろにくらふれはむかしは物もおもはさりけり
 
2393 玉桙道不行爲有者惻隱此有戀不相《タマホコノミチヲユカスシアラマセハシノヒニカヽルコヒニアハマシヤ》
 
道を行に依て人を見初て戀るなり、爲は助語なり、落句はコヒニハアハジヲと讀べ(18)き歟、今の義訓は過たりと云べし、
 
初、玉ほこの道をゆかすし。道ゆきふりに見そめて物おもひとなる心にてかくはよめり。不相はあはしをとよむへし
 
2394 朝影吾身成玉垣入風所見去子故《アサカケニワカミハナリヌタマカキノスキマニミエテイニシコユヘニ》
 
朝には鏡を取て見れば朝影とは云へり、戀痩て影の如くに成るなり、玉垣は玉はほむる詞なり、入風は透間よりは風の入れば義訓なり、
 
初、朝影にわか身はなりぬ。戀にやせて影のことくなるなり。朝影は朝には人の鏡を取みれはいふ歟。朝かけ夕影は只詞のつゝきにいへるなるへし。古今集にも
 戀すれは我身は影となりにけりさりとて人にそはぬものゆへ
玉垣は垣をほめていへり。神社にあけの玉垣とよむならてはめつらしき詞なり。入風は、すきまよりは風のいれは、心を得てかけり
 
2395 行行不相妹故久方天露霜沾在哉《ユケト/\アハヌイモユヘヒサカタノアマツユシモニヌレニタルカナ》
 
發句はユキ/\テと讀べきか、古詩云、行々重(テ)行々、今の點は雖行雖行と書たらむには叶ふべし、但此古詩并に伊勢物語にゆき/\てとかけるは遠路の意なり、今の歌は夜な/\行意にて詞は同じけれど意替れり、
 
初、行々不相妹ゆゑ、これをはゆき/\てとよみて、心をは雖行《ユケト》/\心得へきにや。古詩云。行(キ)々(テ)重(テ)行(キ)々(ク)
 
2396 玉坂吾見人何有依以亦一目見《タマサカニワカミシヒトハイカナラムヨシヲモチテヤマタヒトメミム》
 
依以、【官本云、ヨシヲモチテカ、】
 
依以はヨシヲモチテヤとあるは書生の誤なるべし、官本よし、
 
初、いかならんよしをもちてか。もちてやはかんなあやまてり
 
2397 暫不見戀吾妹日日來事繁《シハラクモミネハコヒシミワキモコニヒニ/\クレハコトノシケヽム》
 
(19)不見ば戀しきと來れば事繁きと兩方にて思ひ侘るなり、
 
2398 年切及世定恃公依事繁《トシキハルヨマテサタメテタノメヌルキミニヨリテモコトノシケヽム》
 
年切は靈刻と云に同じ意なり、世マデ定テ恃とは互に偕老を約するなり、公依はキミニヨリテヤと讀べきにや、
 
初、としきはる世まて。此年きはるといふ詞は、玉きはるいのち、玉きはる内とつゝけたるにおなしく心得へし。玉きは世まてとさためてたのめぬるとは、偕老同穴の心なり。きみによりてやを、よりてもとあるかんなはあやまれり
 
2399 朱引秦不經雖寐心異我不念《アカラヒクハタモフレステネタレトモコヽロニコトニワカオモハナクニ》
 
朱引秦とは紅顔に應じて肌もにほふなり、第十に朱羅引|色妙子《シキタヘノコ》と云ひたるに同じ心異をばコヽロヲケニハと讀べきか、異心とあらばアダシゴヽロと讀べけれど秦は氏なるを肌に借てかけり、古語拾遺云.秦公祖弓月率2百二十縣民1而歸化矣云々、至2於長谷朝倉朝1云々、秦酒公進仕蒙v寵(ヲ)云々、蠶織貢調云々、自注云、所v貢絹綿軟2於肌膚1故訓2秦字1謂2之波※[こざと+施の旁]1、かゝれば秦も肌の義を以て和訓せるなり、
 
初、あからひくはたもふれすて。此あからひくは、第十六に、あかねさす君とよめるにおなし。それは紅顔のにほひをいひ、今ははたへの雪のことくなるに、すこし紅のにほひあるをいへり。第十、七夕の哥にも、あから引いろたへの子とよめり。肌も紅顔に相應してにほふへし。心にことにおもはぬとは、あはねともあたし心はもたぬなり。はたをふれてねても、ふれすしてねても、それがことならぬといふにはあらす。秦《ハタ》は古語拾遺(ニ)云。秦(ノ)公(ノ)祖弓月率2百廿縣(ノ)民而歸化矣。○至(テ)2長谷朝倉(ノ)朝(ニ)1○秦酒(ノ)公《オモト》進仕(シテ)蒙v寵(ヲ)。○蠶織貢調。自《ミ》注(シテ)云。所(ノ)v貢(ツル)絹綿軟(カニス2於膚(ヲ)1。故《カル ニ》訓(テ)2秦(ノ)字(ヲ)1謂2之(ヲ)波陀(ト)1。經は日本紀に觸と訓したり。此集第十二に、吹風の妹にふれなはといへるに經者とかけり
 
2400 伊田何極太甚利心及失念戀故《イテイカニキハミハナハタトコヽロノウスルマテオモフコフラクノユヱ》
 
利心は下に情利とよめるも同じ、智慧も失るまで物思ふなり、
 
初、いていかにきはみ。いては發語のことはなり。とごゝろはとき心なり。こゝろとゝもよめり。第十二、第十三、第十九にもあり。ますらをのさとき心もわれはなしとよめるにおなし。おもふといふ所、句絶なり
 
(20)2401 戀死戀死哉我妹吾家門過行《コヒシナハコヒモシネトヤワキモコカワキヘノカトヲスキテユクラム》
 
拾遺集には第一二の句をこひてしねこひてしねとやと有れど、さきに此二句有しも今の點と同じきにそれは拾遺も同じ、其上第十五に中臣宅守歌云、古非之奈婆古非毛之禰等也《コヒシナハコヒモシネトヤ》云々、此と叶ふに依るべし、人丸集にはこひ/\てこひてしねとやとあれば猶更に叶はず、下句は内へは入らぬ物の※[勅/心]に門を過て行はさきの道行人の言傳の類なり、
 
初、こひしなはこひもしねとや。上に似たる哥ありて注せり
 
2402 妹當遠見者恠吾戀相依無《イモカアタリトホクミユレハアヤシクモワレハコフルカアフヨシヲナミ》
 
妹があたりの遠きがみえずは中中さても有べきを、遠き物故に見渡されて、さりとて逢べき由はなければ恠しきまで戀らるゝとなり、
 
初、妹かあたり遠くみゆれは。あやしくもは上につゝけてみるへからす。妹かあたりとほくみゆれは、あふよしをなみあやしくも我はこふるかと三四の兩句を終に置て心得へし。あやしくもは、あやしきまての心なり
 
 
2403 玉久世清河原身※[禾+祓の旁]爲齋命妹爲《タマクセニキヨキカハラニミソキシテイノルイノチモイモカタメナリ》
 
玉久世河は何れの國に有としらず、若玉はほむる詞にて山城の久世河をかく云へるにや、齋はイハフとも讀べし、妹爲とは妹あるが爲なり、下に爲妹壽《イモカタメイノチ》遺とよみ第十(21)二に吹飯の濱に出居つゝ贖命は妹か爲こそとよめるに同じ、
 
初、玉くせの清きかはら。此川いつれの國に有ともしらす。山城國久世郡に久世郷あり。そこに川有を、ほむる詞をくはへて玉久世の川といふ歟。妹かためなりとは、妹かためいのちのこせりとよめる哥の心なり。第十二にも
 ときつかぜ吹飯のはまに出居つゝあかふいのちも妹かためこそ
 
2404 思依見依物有一日間忘念《オモフヨリミルヨリモノハアルモノヲヒトヒヘタツルワスルトオモフナ》
 
六帖に一夜へだてたると云に此を入れたるにも下句今の點の如くあれど、今按念と、念莫とは水火の如くなれば叶はず、和し替て云、ヒトヒノホドモワスレテオモヘヤ、歌の意は人の方より我心を量り見色を伺かひ見るよりは我思ひは深くてあれば一日のほども忘れて思はむやとなり、
 
初、おもふよりみるより。人のかたより、我かおもひのほとをおもひはかり、色をうかゝひ見るよりは、わか思ひはふかくてあるものを、たとひさはる事ありて、一日へたてゝあはぬ事ありとも、わすれたりやとは思ふなとなり。ひとひのほともともよむへし
 
2405 垣靡鳴人雖云狛錦※[糸+刃]解開公無《カキホナスヒトハイヘトモコマニシキヒモトキアクルキミモナキカモ》
 
人にはいはれで君とは寢ぬとなり、六帖紐の歌錦の歌に入れたるは然るべし、かきほの歌とせるはおぼつかなし、
 
初、かきほなす。とかく人をいひへたつるを、かきほなすといへり。第四第九に既に尺せり。狛錦は源氏物語繪合に、みきはちんのせむかうのしたつくへうちしきはあをちのこまのにしきといへり。錦の紐はさきにも尺せり。紐とく君もなしとは、いたつらに人には名をたてられて、人にはあふことのなきなり
 
2406 狛錦※[糸+刃]解開夕戸不知有命戀有《コマニシキヒモトキアケテユフヘトモシラサルイノチコヒツヽカアラム》
 
紐解開は人を待に祝ひてする事なり、
 
2407 百積舩潜納八占刺母雖問其名不謂《モヽサカフネカツキイルヽヤウラサシテハヽハトフトモソノナハイハシ》
 
(22)此上句の意を案ずるにモヽサカノフネカツキイレヤウラサシと點を改たむべき歟、百積の船に三つの義有べし、先積は何れの義にても音を借てかけるなり、陸奥安積郡の如し、一つには積《サカ》は百|斛《サカ》なり百斛つむ船なり、顯宗紀云、稻斛銀錢一文、欽明紀(ニ)云、以2麥種一|千斛《チサカヲ》1賜2百濟王1、宋玉賦云、海水深浩波浪廣闊非2萬斛舟1不v可v泛、舟の大きさ小さゝをば斛の多少をもて量るなり、二つには百|尺《サカ》なり、白氏文集司天臺云、九重天子不v得v知、不v得v知安用2臺高百尺1爲、此は尺をさかとよむ證なり、文選海賦云、候2勁風1掲2百尺1、注(ニ)李善(カ)曰、百尺(ハ)帆檣也、此に依れば十丈の檣を立るほどの舟なり、三には又尺なり、此は舟の長さの百尺あるなり、應神紀云、五年冬十月科2伊豆國1令v作v船長|十丈《トツエ》云々、十丈《トツエ》と百尺《モヽサカ》と同じ、三義の中には百|斛《サカ》の義叶ふべき歟、其故は第十六云、大舟に小船|引副《ヒキソヘ》かつくとも志賀の荒雄《アラヲ》に潜《カツキ》あはむやも、此は荒雄と云、海人《アマ》の沖に溺死《オホレ》けることを悼《イタミ》てよめる歌なれば潜とは海に潜き入て荒雄を求むもと云意なり、舟は其かつく者の乘る舟なり、
 
初、百さかの舟《・モヽサカフネ》かつきいる《・ル》やうらさし《・テ今本》。もゝさかの舟に三の尺あり.一にはさかは斛《サカ》なり。顯宗紀云。是(ノ)時天下安平民無2徭役《サシツカフコト》歳|比登稔《シキリニトシエテ》百姓|殷《サカリニ》富。稻|斛《ヒトサカニ》銀(ノ)錢|一文《ヒトツニカフ》。牛馬|被《ホトコレリ》v野(ニ)。欽明紀云。十二年春三月以2麥|種《タネ》一|千斛《チサカヲ》1賜2百濟王(ニ)1。宋玉賦曰。【或引云爾未考所出】海水深浩、波浪廣闊、非(ンハ)2萬斛(ノ)舟(ニ)1不v可(ラ)v泛(フ)。つむところの斛の數をもて、舟のおほきさをはかれは、百斛つむ舟をもゝさかの舟といふ。二にはさかは尺《サカ》なり。ほはしらの高さ百尺《モヽサカ》なるを立る舟をもゝさかの舟といふ。海(ノ)賦(ニ)云。候《マチテ》2勁風(ヲ)1掲《アク》2百尺(ノ)《・ホハシラヲ》1。注(ニ)善(カ)曰。百尺(ハ)(ハ)帆檣(ナリ)也。三にはもゝさかは、さかは又尺なり。これは舟のなかさ百尺《モヽサカ》あるをいへり。應神紀云。五年冬十月|科《フレオホセテ》2伊豆國(ニ)1令v作v船(ヲ)。長《タケ》|十丈《トツエ》船既(ニ)成之。試(ニ)浮(ルニ)2于海(ニ)1便輕(ク)泛(テ)疾(ク)行(コト)如v馳(ルカ)。故名2其船(ヲ)1曰2枯《カラ》野(ト)1。【由2船輕疾1名2枯野(ト)1是(ノ)義《コトハリ》違焉。若謂2輕野1後人訛歟。】延喜式に伊豆國田方(ノ)郡輕野神社あり。彼舟こゝにて作ける故に、所の名となる歟。所の名輕野なるゆへに、舟の名としたまへる歟。韓退之詩曰。不須十丈藕如船。此みつの義いつれもことはりなきにあらされとも、第一の義は、今の世の百斛つむ舟もおほきならされは、百さかの舟とて、こと/\しくいふへからす。まして昔は、升の量もちひさきよしなれは、いよ/\しかるへからす。第二《・自義》の義は、もろこしの文なれは、猶これをゝくへし。第三の義は、應神紀の支證たしかなるうへ、やすらかなれは、これを正義とすへし。長流も此義につけり。積《サカ》は呉音を、かく此國のことはのやうによみなせるなり。陸奥安積《ミチノクノアサカノ》郡を思ふへし。七條の朱雀をすさかといへるもこれなり。尺の字をさかといふも、音を和訓とせるなるへし。天武紀に大分《オホワタ・オホキタ》君惠尺《ノキミヱサカ》といふ人あり。長流かいはく、かつき入は、舟の水にうかふこと、水鳥のことくなれは、かつくといふか。八うらは浦々のおほきことなり。それをやたひうらなひをするにいひかけたり。占をは問ふものなれは。母はとふともとつゝけたり。此哥は忍ひて男もたる女の心になりてよめるなり。かの男の我許にかよふを我母のいふかりて、占なと問きくことくに、度々我をせめとふとも、其人の名をは、母にもいひきかせしと、心さしをたてゝよめるなり。かつくは、第十六卷の哥にも
 大舟に小ふね引そへかつくともしかのあらをにかつきあはんやも
此哥も、かつくは舟こきありくことゝそ聞えたるといへり。その名はいはしは此下にいたりても
 あらくまの住といふ山のしはせ山せめて問ふともなか名はつけし
 
2408 眉根削鼻鳴※[糸+刃]解待哉何時見念吾君《マユネカキハナヒヒモトキマツラムヤイツシカミムトオモフワカキミ》
 
眉根削は第四に既に見えたり、鼻鳴は人の我を相思ふ相なり、詩※[北+おおざと]風云、寤言不v寐、願(23)言《ワレ》則|嚔《ハナヒル》、注云我甚憂悼而不v能v寐、汝思v我心如v是我則嚔、紐解〔二字右○〕はいはひて解なり、ヒモトケとも讀べし、それも人の來て逢べき先相なり、削の字を用たる事未v詳、
 
初、まゆねかきはなひゝもとき。まゆねかくことは、さきにすてに注せり。はなをひるは、人の我を相思ふなり。毛詩※[北+おおざと]風終風篇云。寤《サメテ》言《ワレ》不v寐(ラレ)、願《オモフ》)言《ワレ》則|嚔《ハナヒル》。注云。我(レ)甚(ハタ)憂悼(シテ)而不v能v寐(ルコト)。汝思v我心如v是我則嚔。ひもときは、いはひてとくなり。ひもとけとよまは、をのつからとくるにて、それも人のきてあふへき前相なり.待哉は、もしまちなんやとよみて、わかいつしか見むとおもふ君をまたんやと心得へき歟。そのゆへは、次下のつゝき、上の哥、みなわかこゝろをよめはなり
 
2409 君戀浦經居悔我裏※[糸+刃]結手徒《キミコフトウラフレヲレハクヤシクモワカヒタヒモヲムスヒテタヽニ》
 
裏紐、【官本云、シタヒモヲ、】
 
裏紐をヒタヒモと點ぜるは書生の誤なり、今按下句の點叶はず、ワガシタヒモノユフテモタヾニと讀べし、古今集に思ふとも戀ともあはむ物なれや結手もたゆく解る下紐、此下句の意と同じ、度々とくれども其驗とて人も來ねば結手の徒なるを悔しと云へり、第十二にも此意の歌あり、
 
初、君こふとうらふれ。下の句をは、我したひものゆふ手もたゝにとよむへし。第十二にも
 都邊にきみはいにしをたれとけかわかひものをのゆふてたゆしも
古今集戀一に
 おもふともこふともあはむ物なれやゆふてもたゆくとくる下ひも
今も我下ひもの結へはとけ、又むすへはとくれと、そのしるしありて人もこねは、ゆふ手のいたつらになりたるがくやしとなり。上のまゆねかきはなひゝもときみないたつらになれることを、ひとつをいひてあらはせり。紐はとくにても、をのつからとくるにても通すへし
 
2410 璞之年者竟杼敷白之袖易子少忘而念哉《アラタマノトシハクルヽトシキタヘノソテカハシシヲワスレテオモヘヤ》
 
竟杼は、ハツレドと讀べし、第十に昨日社年|者《ハ》極之賀とあるをハテシカと讀べきかの由注せし所に云が如し、今のまゝにてもクルレドと讀べし、袖易子はソデカヘシコと讀べし、
 
初、あら玉の年はくるれと。竟の字ははつれとゝよむへし。後撰集に
 物おもふと過る月日もしらぬまにことしもけふにはてぬとかきく
袖易子少は、そてかへしこをとよむへし。敷白とかけるは、日本紀にたへのはかまとよみ、此集第一第十三に、たへのほとよめる、皆白きをたへといへはなり。わすれておもへやは、わすれておもはんやなり。年はくるれとゝは、あはすしてくるゝなり
 
(14)2411 白細布袖小端見柄如是有戀吾爲鴨《シロタヘノソテヲハツカニミシカラニカヽルコヒヲモワレハスルカモ》
 
袖小端、【六帖云、ソテノカタハシ、幽齋本又點同v此、】  見柄、【六帖云、ミルカラニ、】
 
第七に小端をハツ/\にと點じたれば、今もソデヲハツ/\ニと讀べし、此下にも端端をハツ/\ニとよみ、第四第十四には波都波都爾とかけり、六帖のよみは叶はず、
 
初、小端。第七の廿九葉には、はつ/\とよみたれは、今もそてはつ/\にともよむへし。第四には、四もしにはつ/\とかけり。はつかもはつ/\におなし
 
2412 我妹戀無之夢見吾雖念不所寐《ワキモコニコヒテスヘナミユメミムトワレハオモヘトイネラレナクニ》
 
落句古語の例に依てイネラエナクニと讀べし、
 
2413 故無吾裏※[糸+刃]令解人莫知及正逢《ユヘナシニワカシタヒモノトケタルヲヒトニシラスナタヽニアフマテ》
 
令解の點叶はず、依て第二句より改ためてワガシタヒモヲトケシメテと讀べし、
 
2414 戀事意追不得出行者山川不知來《コフルコトナクサメカネテイテユケハヤマカハシラスキニケルモノヲ》
 
意追、【幽齋本、追作v退、】
 
(25)第二三の句は我宿より人の許へ行にはあらず、つれなければ云ひ侘て人の許より歸るなり、第十三に浪雲の愛妻《ウツクシツマ》と語らはで別《ワカレ》し來れば速川《ハヤカハ》の往《ユクヘ》も知らず衣袂《コロモデ》の反《カヘル》も知らず云々、此今の意と同じ、下句は心此處にあらずして物もおぼえぬなり、川は清べし山も川もなり、意追は下にもかけり、
 
初、こふることなくさめかねて。山川しらすきにけるものをとは、心空にておほえぬなり。意追《ナクサメ》は後にもかけり。追はもし遣にや
 
 
寄物陳思
 
2415 處女等乎袖振山水垣久時由念來吾等者《ヲトメラヲソテフルヤマノミツカキノヒサシキヨヨリオモヒキワレハ》
 
此歌第四に既に出たり、發句の乎は古語にかやうの事多し、若同韻を以て通せばヲトメラノなり、此より下四首寄v神、
 
初、をとめらを袖ふる山。第四にすてに出て注しぬ。をとめらをは、をとめらかと有しに同し。みはかしの劔の池といふへきを、みはかしをといへるかことし
 
2416 千早振神持在命誰爲長欲爲《チハヤフルカミノタモテルイノチヲモタカタメニカハナカクホリスル》
 
神の如く幾久しき命もがなとは誰故にか思ふ君故にこそとなり、
 
初、ちはやふる神のたもてる。第二にうつせみし神にたへねはなとよめるやうに、神は天地とひとしき壽命なれは、そのことくなる命もかなとは、誰ゆへにかおもふ。君ゆへにこそねかへの心なり
 
2417 石上振神杉神成戀我更爲鴨《イソノカミフルノカミスキカミトナルコヒヲモワレハサラニスルカモ》
 
第十に振乃神杉神備而とよめるに似たり、年古たる杉の又神と成と云は老て後更(26)に戀する喩なり、
 
初、石上ふるの神すき。第十に
 いそのかみふるの神杉かみひてもわれやさら/\こひにあひにける
此哥とおほかた似たり。人をひさしくこふるよしをきはめていへり
 
2418 何名負神幣嚮奉者吾念妹夢谷見《イカナラムカミニヌサヲモタムケハカワカオモフイモヲユメニタニミム》
 
仙覺抄に今の發句の點を古點とて嫌へり、然れども仙覺のナニ/\ノもうけられず、唯字に任せてやすらかにナニノナオフと讀べし、腰句の點も亦か〔右○〕を餘せり、タムケセバと改たむべし、
 
初、何名負。なにと名おふとよむへし
 
2419 天地言名絶有汝吾相事止《アメツチトイフナノタエテアラハコソナレニワカアフコトモヤミナメ》
 
此一首は寄2兩儀1、
 
2420 月見國同山隔愛妹隔有鴨《ツキミレハクニハオナシクヤマヘタテウツクシイモハヘタテタルカモ》
 
謝希逸月賦云、隔2千里1兮共2明月(ヲ)1、魴明遠詩云、三五二八時千里與v君同、此より去て七首は寄v山、
 
初、月みれは國はおなしく。第十八に古人云
 月みれはおなし國なり山こそは君かあたりを隔たりけれ
答(テ)2古人1云、家持
 足引の山はなくもか月みれはおなしき里をこゝろへたてつ
はしめの哥は、大伴池主、家持へをくる哥の中に有。もし今の哥を、時にかなへむとて、詞をかへたれと、もと古人の哥なれは、古人云といへる歟。猶今の哥の外に、彼哥の有けるか。第十五にも
 あまさかるひなにも月はてれゝとも妹そとほくはわかれきにける
 
2421 ※[糸+參]路者石蹈山無鴨吾待公馬爪盡《クルミチハイシフムヤマモナクモカモワカマツキミカウマツマツクモ》
 
※[糸+參]路、【校本、※[糸+參]又作v繰、】
 
(27)繰を誤て※[糸+參]に作れり、改たむべし、來るに借れり、
 
初、繰路者。來る道はなり。※[糸+參]に作はあやまれり
 
2422 石根蹈重成山雖不有不相日數戀渡鴨《イハネフミカサナルヤマハアラネトモアハヌヒアマタコヒワタルカモ》
 
日數、【拾遺集云、アハヌヒカスヲ、】  重成山、【伊勢物語云、カサナルヤマニ、】
 
第二句伊勢物語にかさなるやまにとあるは此集にては叶はず、右の歌のつゞき然らねばなり、拾遺集に坂上郎女歌となれるは彼集に作者の落たるにや、
 
初、石根ふみかさなる山は。おもふか中に高き山はへたゝらねとも、外にさはる事のおほくて、あはぬ日のおほきなり。拾遺集には
 いはねふみかさなる山はなけれとも逢ぬ日かすをこひやわたらん
とあらためて坂上郎女か哥とせり。伊勢物語には
 いはねふみおかさなる山にあらねともあはぬ日おほくこひわたるかな
 
2423 路後深津嶋山暫君目不見苦有《ミチノシリフカツシマヤマシハラクモキミカメミネハクルシカリケリ》
 
路後は和名云、越後【古之乃美知乃之利】丹後【太邇波乃美知乃之利】備後【吉備乃美知乃之利】筑後【筑紫乃美知乃之利】肥後【比乃美知乃之利】豐後【止與久邇乃美知乃之利】此六箇國を彼處《ソコ》のみちのしりと云は道の口に向ひてなり、假令越前【古之乃三知乃久知】此に准らへて知べし、唯丹波のみ太邇波乃三知乃か久知《タニハノミチノクチ》と云はず、應神紀に大鷦鷯尊の髪長媛に賜へる御歌云、瀰知能之利《ミチノシリ》、古破※[人偏+嚢]塢等綿《コハタヲトメ》云々、二首あり共に初二句かくの如し、髪長媛は日向より上らる、日向は九國の中の西の極なり、彼國に古破※[人偏+嚢]ありて彼處《ソコ》より上られければかくつゞけさせ給へる歟、又古事記中孝靈天皇段云、而針間爲2道口(ト)1以(テ)言2向《コトムケ》吉備國1也、此等は和名集の例にあらず別義なり、(28)又催馬樂の道口歌に道のくちたけふのこふに我はありと親には申たへ心あひの風、是は越前武生は國府なる由注に見えたれど、越前に六郡あれど武生なし、不審なり、されども何れの道の口と云はざれとつゞくる所の名に依て顯はるゝ證なり、和名集を考るに備後に深津【布加津】郡あり、然れば深津島山とつゞけたるにより、此路後は備後と知られたり、暫は今按しばし〔三字右○〕としまし〔三字右○〕と同じ詞なる中に深津島山と云を承たればシマシクモと讀べきなり、第十五云、筑紫道|能可太能於保之麻思末志久母《カタノオホシマシマシクモ》云々、此を例證とすべし、
 
初、みちのしりふかつ。八雲御抄に陸奥と載させたまへるは、よく考させ給はぬなり。およそみちのしりといふは、越後をこしのみちのしりといふをはしめて、丹後《・タニハノミチノシリ》、備《キヒノ》後、豐《トヨクニノ》後、筑《ツクシノ》後、肥《ヒノ》後をの/\そのみちのしりといへり。越前、備前、豐前、筑前、肥前をは、みなそのくにのみちの口といへり。常陸は東海道のはてなるゆへに、あつまちの道のはてなるひたちとはいひたれと、あつまちのみちのしりとはいはす。奥州は東山道のはてにて、みちのおくとはなつけたれと、これまた道のしりとはいはす。應神紀に、仁徳天皇また|鷦鷯《サヽキノ》尊にて、髪長媛にたまひける御哥の二首、ともに初の二句|瀰知能之利《ミチノシリ》、古破※[人偏+嚢]塢等綿《コハタヲトメ》なり。これはいかにしてみちのしりとのたまへるといふ事をしらす。今案紀云。十三年春三月天皇遣(テ)2專使《タウメツカヒヲ》1以|徴《メサシム》2髪長媛(ヲ)1。秋九月|中 《ナカノトヲカニ》髪長媛|至《マウイタレリ》v自2日向1。便|安2置《ハムヘラシム》於桑津(ノ)邑《ムラニ》1。爰皇子大鷦鷯(ノ)尊及v見(ニ)2髪長媛(ヲ)1感《メテヽ》2其形之|美麗《カホヨキニ》1常有2戀《シノフル》情1。於是天皇知(メシテ)2大鷦鷯尊(ノ)感(タマフコトヲ)2髪長媛(ニ)1而|欲《オホス》v配《アハセント》。云々。かゝれは古破※[人偏+嚢]《コハタ》は桑津《クハツ》と五音通すれはこゝにや。此みちのしりはさきにいへる越後等にはあらて、その邊にて道のきはまれるにや。天王寺の東にあたりて桑津邑あり。大隅宮におはしましては、そこにもおかせたまふへし。又いにしへの詞にては、日向をも道のしりといふへし。日向にこはたといふ所ありて、そこより參られけるにや。さて今のみちのしりふかつしま山は、備後國なり。和名集云。備後【吉備乃美知乃之利】深津【布加津】郡。續日本紀云。養老五年夏四月丙申、分(ツ)2備後國安那(ノ)郡(ヲ)1置2深津郡(ヲ)1。日本紀云。日本武尊既而從2海路《ウミツチ》1還(ニ)v倭(ニ)到(テ)2吉備(ニ)1以渡2穴《アナノ》海(ヲ)1。其處(ニ)有2惡(キ)神1則殺(シツ)之。かゝれは空海は安那郡にあり。深津も初は安那郡の内の一所の別名なるを、養老五年に分て郡とせられたれは、此哥の出來ける時は、また《・人丸文武朝死去》安那郡に屬せるなり。みちのしりおほけれは、髣髴なりといふ人あらん。深津島山といふにて、備後とはしらるゝなり。仁徳天皇の御哥も、日向ならは此定なるへし。又催馬樂の道口歌にいはく
 みちのくちたけふのこふに我はありと親には申たへ心あひの風
たけふ《・催馬樂注に見えたり。越前六郡中に武生見えす。不審》は武生にて越前の國府なれは、こしのみちのくちといはされとも、越前としらるゝなり。かゝる事和漢ともに文章のたくみなり。詩に十月蟋蟀入2我(カ)牀下(ニ)1といへる法のことし。しはらくもは、しましくもとよむへし。上の嶋山をうけたるゆへなり
 
2424 ※[糸+刃]鏡能登香山誰故君來座在※[糸+刃]不開寐《ヒモカヽミノトカノヤマモタカユヱカキミキマセルニヒモトカスネム》
 
紐鏡は小さき鏡を袋にも入れ絹にも裹て紐結たるを云べし、垂仁紀に匕首をひもかたなとよめるは荊軻が始皇を刺むとせし物なり、それを古事記には八塩折《ヤシホヲリ》之紐小刀と云へるを思ひ合すべし、能登香の山とつゞくるは能と奈と通ずればなときの山と云意なり、落句は今按上にも紐解開とあればヒモアケズネムと讀べし、紐鏡なときそと云山の名は誰故か思ふ人の來たる夜などか紐解開て寢ざらむと云意なり、能登香山いまだ何れの國に在と云事を知らず、此等おの/\其所につけてよ(29)めるなるべし、
 
初、ひもかゝみのとかの山。燭明抄云。これは鏡を袋にもきぬにもつゝみて、紐結たるなり。のとかの山とつゝくるは、なとかの山といふ義なり。其紐なときその心なり。さて末の句にたれゆへか君きませるに紐とかすねんとよみたる心は、紐かゝみなときそといふ山の名はたれゆへそ、思ふ人のきたる夜、なとか紐ときてねさらんといふ心なりといへり。よく注しあらはせり。異義あるへからす。今いはく。ひもかゝみはちひさきかゝみを、袋にもつゝみて、懷中する名歟。俗に用意あるものゝ鬢なとそゝけたるをつくろふとて見るを、鬢鏡といふたくひにや。日本紀の垂仁紀に匕首をひもかたなといへり。荊軻か始皇を刺むとせし物なり。其やうは、女のものたち、つまきりなといふかたなに似たるへし。それをひもかたなといふにつけて、ちひさき鏡の名にもやとはいふなり。誰故はなにゆへかともよむへし。能登香山は國未勘
 
2425 山科強田山馬雖在歩吾來汝念不得《ヤマシナノコハタノヤマニウマハアレトカチヨリワレクナレヲオモヒカネ》
 
初、山科のこはた。山城國宇治郡にあり。馬をかるまもなくかちよりくるは、切におもふゆへなり
 
2426 遠山霞被益遐妹目不見吾戀《トヲヤマニカスミタナヒキイヤトホニイモカメミステワカコフルカモ》
 
初、遠山に霞たな引。これはあはぬほとの、いやとほきにたとふるなり
 
2427 是川瀬瀬敷浪布布妹心乘在鴨《コノカハノセセノシキナミシク/\ニイモカコヽロニノリニタルカモ》
 
右三首義おのづから明なり、此より下六首寄v川、
 
初、この川のせゝの。下句は第十に、春されはしたり柳のとをゝにもといふ歌に全同。第二久米禅師歌に、あつま人の荷前《ノサキ》のはこのにの緒にもいもか心にのりにけるかも
 
2428 千早人宇治度速瀬不相有後我※[女+麗]《チハヤヒトウチノワタリノハヤキセニアハスアリトモノチモワカツマ》
 
千早人は第七に既に出たり、別に注す、速瀬は人言に譬ふ、速瀬の如くなる人言に障られて今こそはあはずとも後も我妻にせむとなり、六帖には、ちぎる〔三字右○〕と云歌とす、
 
初、ちはや人うち。第七にも、ちはや人うちとつゝけたり。枕詞を注して別に附屬たる中に有。はやき瀬にあはす有とも後も我妻とは、下にかも川の後瀬しつけみ後もあはむとよめることく、人ことのしけきをはやせにたとへ、後瀬は次の瀬にてぬるけれは、人ことのやむにたとへて、今こそさはり有てえあはすとも、後にもわか妻にせんといふ心なり
 
2429 早敷哉不相子故徒是川瀬裳襴潤《ハシキヤシアハヌコユヘニイタツラニコノカハノセニモノスソヌラス》
 
裳襴潤、【袖中抄云、モノスソヌラシツ、別校本云、モノスソヌレヌ、】
 
發句は惜哉の意なり、此卷下に大かた似たる歌あり、
 
初、はしきやしあはぬ子ゆへに。これは古今集に
 いたつらに行てはきぬるものゆへにみまくほしさにいさなはれつゝ
此心なり
 
(30)2430 是川水阿和逆纒行水事不反思始爲《コノカハノミナアワサカマキユクミツノコトカヘサスソオモヒソメテシ》
 
水阿和、【別校本又點同v此、ミナワ、】  事不反.【六帖云、コトハカヘサテ、】
 
仙覺抄に古點はことかへさふなおもひそめてきなりけるを不反と爲の點叶はざるにより、今の點に改られたる由にて、みなあわ逆卷て行水の如く我は只一方にぞ思ひそめてしとよそへよめるなりと注せらる、て〔右○〕は助語なり、六帖あつらこと云に入る、年経て云と云にも入れたり、
 
初、この川のみなわさかまき。おもひの切なるを、行水のはやさにたとへて、ことかへさすそおもひそめしといへり。ことかへさぬは、思案をめくらさぬなり。たけく行水のかへらぬ心によせていへり
 
2431 鴨川後瀬靜後相妹者我雖不今《カモカハノノチセシツケミノチモアハムイモニハワレヨケフナラストモ》
 
後瀬は下瀬の意なり、神代紀云、上瀬是(レ)太(ハダ)疾《ハヤシ》下(ツ)瀬是(レ)太(ハタ)弱、便濯2之中瀬1也、譬ふる意は上に云が如し、下句はイモニハワレハイマナラズトモと讀べし、
 
初、鴨川の後瀬しつけみ。先浪高き早瀬の有て、さて後の瀬なれは、しつけみとはよめり。後のあふ瀬によせたり。第四に
 一瀬にはちたひさはらひゆく水の後にもあはむ今にあらすとも
 
2432 言出云忌忌山川之當都心塞耐在《コトニイテヽイハヽユユシミヤマカハノタキツコヽロヲセキソカネタル》
 
忌忌、【六帖云、イミシミ、別校本又點同v此、】
 
塞耐在を別校本亦點にセキゾタヘタルとあるは叶へども、第七に名毛伎世婆人可知(31)見山川之瀧情乎塞敢而有鴨《ナケキセハヒトシリヌヘミヤマカハノタギツコヽロヲセカヘタルカモ》、※[手偏+總の旁]しては此歌に似、別しては第三句以下同じき歟、然らば今もセカヘタルカモと點ずべきか、さらずはセカヘテゾアルとよむべし、
 
初、ことに出ていはゝ。塞耐在、せきそかねたるとよめるは、耐の字にそむけり。塞敢とかきてせかへとよめり。今もせきそあへたるとか、せかへてそあるとかよむへし
 
2433 水上如數書吾命妹相受日鶴鴨《ミツノウヘニカスカクコトキワカイノチイモニアハムトウケヒツルカモ》
 
涅槃經云、是(ノ)身無常念念(ニ)不住、猶(シ)v如2電光暴水幻炎1、亦如(シ)2畫v水隨畫隨合1、古今にも行水に數かくよりもはかなきはとよめるも此なり.
 
初、水のうへかすかくことき。涅槃經曰。ぜ身無常○亦如2畫(ク)v水(ニ)隨(テ)書(ケハ)隨合(フカ)1。うけひつるかもは、いのりつるかなゝり。祈の字を日本紀にうけふとよめり。誓の字をよめるはちかふ心なり
 
2434 荒礒越外往波乃外心吾者不思戀而死鞆《アライソコエホカユクナミノホカコヽロワレハオモハシコヒテシヌトモ》
 
初、あらいそこえ。下に、蘆鴨のすたく池水まさるともまけみそかたにわれこえめやも。おなし心なり
 
2435 淡海海奧白浪雖不知妹所云七日越來《アフミノウミオキツシラナミシラストモイモカリトイハヽナヌカコエコム》
 
白浪をかさねて雖不知と云へり、今按シラネドモと讀べき歟、
 
初、あふみの海おきつ白波しらねとも。白波しらぬとつゝけたり。奧の風浪はいかにあらからんもしらねと、妹かあたりへとたにいはゝ、七日其難をしのきてもこえこんとなり。七日はたゝ日數のおほきことなり。第十に、春雨に衣はいたくとほらめや七日しふらは七夜こしとや。又これはまことにあふみの海をへたてゝこふるにはあらす。たゝまうけていへるなり
 
2436 大舩香取海慍下何有人物不念有《オホフネノカトリノウミニイカリオロシイカナルヒトカモノオモハサラム》
 
大船の楫取の意につゞく香取は近江にも下總にもあれど、此前後淡海海とよめる中に有れば第七に高島之香取乃《タカシマノカトリノ》浦とよめると同じく近江なり、慍は碇に借てかけり、慍をたゝみて何有とつゞく、いかりおろすは泊定めたるなり、妻を定めて心もゆ(32)るがぬは舟の碇を下して泊たるが如し、我は定たるよるべもなくて浮たるにいかなる人か大舟の泊れる如く思ひ定めて物思はで有らむとなり、大船を香取浦の枕詞としてやがていかりおろしとつゞけたるは、躬恒か梓弓春立しより年月の射るが如くも思ほゆるかなとよめるが如くにて、梓弓は猶唯引よせたる物なるを、大船香取海におのづからよれり、
 
初、大舟のかとりの海に。大ふねの楫取といふ心につゝけてやかて舟になすらへたり。此かとりの海、下總近江兩國の間いつれならん。されともこゝの前後に、あふみの海とよめる哥の中にあれは、第七に、高嶋の香取の浦とよめる所ならん歟。ことに下の哥にあふみの海おきこく舟にいかりおろしともよめり。いかりおろしは、泊さためたるなり。たとへは人の妻を思ひさためて心もゆるかぬは、舟のいかりにつなかれたるかことし。我は定たるよるへもなくて浮たるに、いかなる人か、大舟の泊れることく思ひさためて.物思はぬは有そといふ心なり。下に
 大舟のたゆたふ海にいかりおろしいかにしてかもわかこひやめむ
おなし心なり。裏は曾丹か、ゆらのとをわたるふな人かちをたえゆくゑもしらぬ戀のみちかな。此心なり。いかりは和名集云。四聲字苑云。海中以v石(ヲ)駐(ムルヲ)v舟(ヲ)曰v碇。【丁定反。字亦作〓。和名伊加利】
 
2437 奧藻隱障浪五百重浪千重敷敷戀度鴨《オキツモヲカクサフナミノイホヘナミチヘシキ/\ニコヒワタルカモ》
 
隱障は第一にも注せる如く隱し障るなり、
 
初、おきつもをかくさふ浪の。かくしさふるなり。第一にも心なき雲のかくさふへしやといふに、今のことく隱障とかけり
 
2438 人事暫吾妹繩手引從海益深念《ヒトコトハシハラクワキモツナテヒクウミヨリマシテフカクシソオモフ》
 
和名云、唐韻云牽〓【音支、訓豆奈天】挽v船繩也、第二句は暫の間ぞ吾妹と云意にて句絶なり、今按舟の綱手は渚を引物なれば海より益てと云處には云まじくや、此は字も繩手と書たれば第六に四八津之泉郎網手綱乾有《シハツノアマアミテナハホセリ》とよめるてなはをなはてと云ひて綱を引海と云意にや、女は人の物云ひなどに苦しぶ物なれば、海よりまして深く思ふ心はかはりて淺くはなるまじきぞと教へて慰むる意なり、
 
初、人ことはしはらくわきも。人の物いひさはかしきはしはらくのほとそ勘忍せよ。海よりふかく思ふ心は終にかはるましきそとよめるなり。女のはかなきは、人のものいひなとにくるしふ物なれは、かくをしふる心なり。つなて引は、舟の綱にても、網繩にても有へし
 
(33)2439 淡海奥島山奥儲吾念妹事繁《アフミノウミオキツシマヤマオキマケテワカオモフイモニコトノシケヽム》
 
此發句には海と云字の今一つあるべきを落たるか、さらずばあふみのと讀たるかなるべし、奧島山は延喜式云、蒲生郡奥津島神社【名神大】奥儲はおきまへてと云に同じ、
 
初、あふみのおきつしま山。延喜式云。近江國蒲生郡奧津島神社【名神大。】竹生嶋の神なとをかしこにいはへる歟。しからは今いへるは竹生嶋をさす歟。但第十三にあふみの海とまりやそ有八十嶋のしまのさき/\なとよみたれは、かの嶋々をすへていふなるへし。おきまけては、おくまへてといふかことし。おくふかく思ふなり。淡海とかけるを、あふみの海とはよみかたし。よつて上には淡海(ノ)々とかけり
 
2440 近江海奧滂舩重下藏公之事待吾序《アフミノウミオキコクフネニイカリオロシカクレテキミカコトマツワレソ》
 
滂は榜なり改たむべし、重は下の大船乃絶多經海爾重石下云々、此に依に重石なりけむを石の字を落せるにや、和名集云、四聲字苑云、海中以v石(ヲ)駐v舟曰v碇、【丁定反、字亦作v〓、和名伊加利、】重石と書て義訓を用たるは此意なり、今イカリオロシと云はかくれてと云はむ爲なり、近江海底に下せる碇の如く深くかくれて君が憑むる詞を待我ぞとなり、
 
初、あふみの海おきこく舟に。これは、さきにいかりおろしといへるには心かはれり。今はかくれてといはむためなり。あふみの海の底におろせるいかりのことく、ふかくかくれて、君かたのむることのはをまつ我にてあるをとなり。かくれてはしのひての心なり。滂は榜の誤なり。重の下に石の字を脱せり。下三十六葉に、大舟のたゆたふ海にいかりおろしといふには。重石とかけり。脱たるへし
 
2441 隱沼從裏戀者無乏妹名告忌物矣《カクレヌノシタユコフレハスヘヲナミイモカナツケツユヽシキモノヲ》
 
隱沼【校本又云、コモリヌノ、】
 
第十七云、許母利奴能之多由孤悲安麻里《コモリヌノシタユコヒアマリ》云々、此に准らへて今の一二の句もコモリヌノシタユコフレバと讀べし、下句も妹ガ名ノリツイムベキモノヲと讀べし、イムベキ物ヲとは名をのらるゝ事を妹がいみきらふべき物をとなり、此一首寄v沼、
 
初、かくれぬの下に。忌物はいむへきものとよむへし。妹かいみはゝかるへきことをとなり
 
(34)2442 大土採雖盡世中盡不得物戀在《オホツチモトレハツクレトヨノナカニツキセヌモノハコヒニサリケリ》
 
戀在、【別校本云、コヒニサリケル、】
 
最勝王經如來壽量品偈云、一切大地(ノ)土可v知2其(ノ)塵數1無v有2能寄知1釋迦之壽量(ナリ)、迷悟異なれど此意と同じ、盡不得物、此をツキセヌモノハと點ぜるは叶はず、ツクシエヌモノハと讀べし、戀在は今の點はてにをは違へり、書生の誤なるべし、別校本點によるべし、此一首寄v土、
 
初、おほつちもとれはつくれと。最勝王經(ノ)如來壽量品(ノ)偈云。一切(ノ)大地(ノ)土(ハ)可v知2其塵數(ヲ)1。無(キハ)v有(ルコト)2能(ク)算知(スルモノ)1釋迦(ノ)之壽量(ナリ)。こひにざりけりは、こひにさりけると讀へし。こひにそ有けるを、曾阿切(ノ)坐なれは、つゝめてかくよめは、けりにてはてにをはたかへり
 
2443 隠處澤泉在石根通念吾戀者《コモリツノサハイツミナルイハネヲモトホシテオモフワカコフラクハ》
 
此に至て隠處澤立見爾有石根從毛遠而念君爾相卷者《コモリツノサハタチミナルイハネヲモトホシテオモフキミニアハマクハ》、此大かた今の歌と同じ、彼處の仙覺抄云、此歌第二句古點には、サハタヽミナルと點ず其意相叶はず、今和し替て云、サハタチミナルと云べし、隱津とは下に隱れたる水なり、サハタチミナルとは、サハとはおほしと云詞、多〔右○〕文字の讀なり、タチミとは出る水なり、水にたち水ふし水と云事あり、ふし水とは下にたまりたれども出流るゝ事なき水なり、立水とは涌出て流るゝ水なり、今の歌にサハタチミナルとよめるはあまた涌出る立水なり云々、(35)今按立ミはたつみ〔三字右○〕ともたゝみ〔三字右○〕とも讀べき歟、此義は第十三に直海川《ヒタスカハ》とも潦川ともよめる事あり彼處に至て引合て注すべし、今の歌に泉と立見と同じかるべし、石根を通して思ふとよめるは、古今集に芳野河石きりとほし行水とよめるが如し、せかれはてずしてつよく行を云へり、第四句の下句絶なり、處をつ〔右○〕とよめるは津に同じ、津は舟の泊り人の留まる處を云、豆と登と通ずる故に津《ツ》は止の義なり、處は止の義なれば此も亦止〔右○〕なり、依て通ずるなり、爾雅第七釋水(ニ)云、濫泉(ハ)正出、正出涌出也、郭璞註曰、公羊傳曰、直出、直猶v正也、〓〓疏曰、詩大雅瞻※[仰の旁]云、〓沸(タル)檻泉、故此釋v之也、詩(ニ)言檻泉者、正直上出之泉也、其水涌出故更云正出涌出也、李巡(カ)云、水泉從v下上出曰2涌泉1、濫檻音義同、註公羊傳(ニ)云(トハ)者、案昭五年傳云、叔弓帥v師敗2※[草がんむり/呂]師(ヲ)于濆泉1、濆泉直泉也、直泉者涌泉也、是其事也、郭云、直出者、蓋以v義言v之、彼言v直此言v正、其言一也、故云猶v正也.此より二首寄v石、
 
初、こもりつのさはいつみなる。こもりつは、かくれたる所なり。かくれたる澤に水のわき出るいはねなり。とほしておもふとは、古今集に、よしの川いはきりとほし行水とよめるかことし。石の中をとほすにはあらす。せかれはてすして、つよく行をいへり。わかおもひの切なるもそのことくなりとよめる心なり。おもふといふ所句絶なり。下にいたりて似たる哥あり。いはゆる
 隱津の澤たつみなるいはねをもとほしておもふ君にあはまくは
 
2444 白檀石邊山常石有命哉戀乍居《シラマユミイソヘノヤマノトキハナルイノチナラハヤコヒツヽヲラム》
 
弓を射ると云意にい〔右○〕もじをまうけむとて白眞弓とはおけり、古今集に人丸の歌と注する中にも梓弓いそべの小松とづゞけたり、石邊山は近江の神崎郡にある由彼(36)國の者申しき、前後に近江をよめる歌多ければ然るべきにや、佐々木承禎の陪臣に磯邊某と聞えしも彼國の住人にて此石邊を以て氏とせるにや、山は何れの山も動なき中に石邊山と云名によりて常石有とはつゞけたり、命哉は願ふ詞にはあらず命にて有たらばやの意なり、ときはなる命にてだにあらば遂には逢時あらむと心長く憑て戀つゝも有べきを、我も人もはかなき命なればいとゞ心のいられて戀しき意なり、六帖山の歌に白眞弓いるさの山の常石なる命かあやな戀つゝやあらむとあるは此歌の變ぜるなり、
 
初、白まゆみいそへの山の。弓を射るとつゝけたり。古今集に、梓弓いそへの小松とつゝけたる哥も人丸のと注せり。此いそへの山、國未考。もし此前後近江をよめる哥おほけれは、今石邊【伊之敝】といふ所にや。又佐々木承禎にしたかひし人に、磯邊の某と聞ゆるあり。彼承禎重代の近江の住人なれは、磯邊も所の名を氏とせるにや。命ならはやはねかふ詞にはあらす。命にて有たらはやなり。心は、ときはなる命にてたにあらは、終にはあふ時あらんと、心なかくたのみて、戀つゝもあるへきを、我も人もはかなきいのちなれは、いとゝ心のいられて戀しきなり
 
2445 淡海海沈白玉不知從戀者令益《アフミノウミシツクシラタマシラスシテコヒセシヨリハイマシマサレル》
 
令益、【幽齋本、令作v今、】
 
沈白玉は第七に多くよめる親の深窓にこめて養なへる齋《イハヒ》子の譬なり、白玉をたゞみて知らずしてと承たり、拾遺集に逢見ての後の心にくらぶれば昔は物も思はざりけり、今の歌此意と同じ、令は書生の誤なり今に改たむべし、次の歌准v之、上の淡海海奧白浪と云より此歌まで近江をよめる事多きは第一第三に人丸の近江にての歌近江より歸り上らるゝ時の歌あれば、近江守の屬官などにて彼國に有て見聞に(37)任てしるされたるにや、此より下四首寄v玉、
 
初、淡海のうみしつく白玉。これはしらすしてといはむためなり。しつくは、第七にも此沈の字をかけり。白玉は浪の玉なり。しらすして戀せしよりといへるは拾遺集に
 逢みての後のこゝろにくらふれは昔は物もおもはさりけり
これにおなし心なり。第七に浪つま君ともよみ、第十三に浪雲のうつくし妻ともよみたれは、白玉も女によせ、あふみの海も逢といふ心をそへたり。次下の哥を引合てみるへし。今を令に作れるは誤れり
 
2446 白玉纒持從令吾玉爲知時谷《シラタマヲマキテモタレハイマヨリハワカタマニセムシルトキタニモ》
 
從令、【幽齋本、令作v今、】
 
吾玉爲は妻として珍愛せむとなり、第七に其緒は替て我玉にせむ、第十六に其緒又ぬき我玉にせむとよめるも同意なり、
 
初、白玉をまきてもたれは。上の哥をふみてよめり。すてに女を我手に入たるなり。今をまた令に作れり。我玉にせん、知時たにもは、今初て逢て、よそに見しよりまさることを知れは、玉のことく愛せんとなり。第七に
 照さつか手にまきふるす玉もかなその緒はかへてわか玉にせん
第十六に
 眞珠はをたえしにきと聞しゆへにその緒またぬきわか玉にせん
 
2447 白玉從手纒不忘念何畢《シラタマヲテニマキシヨリワスレシトオモヒシコトハイツカヤムヘキ》
 
畢をイツカヤムベキとはあまり義訓なり、イツカヲヘナムと讀べし、第二云天地與共將終登云々、
 
初、白玉をてにまきしより、又次上の哥をふみてよめり
 
2448 烏玉間開乍貫緒縛依後相物《ヌハタマノヒマシフミツヽヒモノヲノムシテシヨリノチアフモノカ》
 
貫緒、【袖中抄云、ヌキシヲノ、】  間開乍、【袖中抄云、ヒマヲアケ、】  後相物、【幽齋本云、ノチアフモノエオ、】
 
此歌今の點は仙覺の新點なり、今按ヌバタマノアヒダアケツヽヌケルヲモムスベバヨリテノチアフモノヲと讀べし、烏玉は第十五云、奴波多麻能、伊毛我保須倍久安(38)良奈久爾、和我許呂母弖乎奴禮弖伊可爾勢牟、此奴波多麻は妹をほめむとておけり、常の黒きとつゞくるには替れり、今も唯白玉と云はむやうに聞ゆるは黒き玉のうるはしき方を取て云なるべし、烏玉の事別に注す、第二の句をアヒダアケツヽとよめるは此卷末云、玉緒之間毛不置欲見云々、此第二句に准らへてなり、縛依をムスベバヨリテとよめるはムスビテシヨリともムスビニシヨリとも讀て依は從に借なり、初玉と玉との間を置けども緒をむすべば依相物を逢初つればなどか互の意から依相はざらむと、憑念ふ意によりてかくは點じたるなり、
 
初、ぬは玉のひましらみつゝ。夜といはねと夜のことなり。ぬは玉のくろかみとつゝくへきを、只髪とのみつゝけたるも有。かやうによむは哥の習なり。ひましらむは、閨の隙しらみてあくるなり。貫緒は義をもてかけり。いれひもの心なり。あふはひもの緒の縁ともなるなり
 
1449 香山爾雲位桁曳於保保思久相見子等乎後戀牟鴨《カクヤマニクモヰタナヒキオホヽシクアヒミシコラヲノチコヒムカモ》
 
雲位桁曳は雲の居てたなびくなり、桁は棚の字を誤れるなるべし、
 
初、かく山に雲居たなひき。雲のゐてたな引心に、雲ときるやうにてよむへし。桁《ケタ》をたなとよむにや。棚の字の誤歟。おほゝしくは、おほ/\しくにて、ほのかにおほつかなきなり
 
2450 雲間從※[行人偏+夾]徑月乃於保保思久相見子等乎見因鴨《クモマヨリサワタルツキノオホヽシクアヒミシコラヲミルヨシモカモ》
 
サワタルは唯渡るなり、
 
2451 天雲依相遠雖不相異手枕吾纒哉《アマクモノヨリアヒトホミアハストモアタシタマクラワレハマカメヤ》
(39)初二句の意は或は東西或は南北にある雲の此方彼方間の遠くて依相はぬを借て久しくあはずともと云によそふるなり、異は日本紀に此字の外、餘他等の字をもアダシとよめり、あだなると云意にも亦戀に限る詞にもあらず其意字の如し、
 
初、あたし手枕。思ふひとをおきて、こと人の手枕するをいへり。日本紀(ニ)此異の字、餘他等の字を、あたしとよめり。あたなるといふにあらす。又戀にかきる詞にもあらす。字のことし
 
2452 雲谷灼發意追見乍爲及直相《クモタニモシルクシタヽハナクサメニミツヽモシテムタヽニアフマテニ》
 
齋明紀に皇孫建王薨ましける時天皇|慟《マトヒ》たまひてよませ給へる御歌云、伊磨紀那屡乎武例我禹杯爾倶謨娜尼母旨屡倶之多多婆那爾柯那皚柯武《イマキナルヲムレガウヘニクモダニモシルクシタタバナニカナゲカム》、此御製の三四句今の一二と同じ、し〔右○〕は助語なり、共に巫山より出たる雲にや、宋玉高唐賦序云、妾在2巫山之陽高丘(ノ)之岨1、旦|爲《ナリ》2行雲(ト)1暮爲2行雨1、
 
初、雲たにもしるくし。宋玉(カ)高唐(ノ)賦(ノ)序(ニ)云。妾(ハ)在(リ)2巫山(ノ)之陽(ミ)高丘(ノ)之岨(ニ)1。旦(ニハ)爲《ナリ》2行雲(ト)1暮(ニ)ハ爲(ル)2行雨(ト)1。齋明紀に建《タケルノ》王かくれたまひける時、天皇なけかせ給ひける御哥
 今城なるをむれかうへに雲たにもしるくしたゝは何かなけかむ
 
2453 春楊葛山發雲立座妹念《ハルヤナキカツラキヤマニタツクモノタチテモヰテモイモヲシソオモフ》
 
葛山、【別校本云、葛城山カ、】
 
發句を拾遺集にあしひきのとあるは改られたるなり、人丸集にはあをやぎのとあり、後の歌よみは此に依れり、春柳を義訓せばあをやぎとも讀べきをはるやなぎは古語なり、第五云、波流楊奈宜可豆良爾乎利志云々、葛の下に木か城か此兩字の間を(40)落せり、妹念はイモヲシゾモフと讀べし、
 
初、春楊かつらき山。柳を折てかつらにする心にてつゝけたり。春楊とかきてあをやきとよめる所も有。第五にははるやなきとよめり
 
2454 春日山雲座隱雖遠家不念公念《カスカヤマクモヰカクレテトホケレトイヘハオモハスキミヲシソオモフ》
 
雖遠はトホケドモと讀べし、公念もキミヲシゾモフと讀べし、し〔右○〕は助語なり、遠き故郷は思はずして近き君を思となり、
 
初、春日山くもゐかくれて。ゐかくしてとも讀へし。遠き故郷の家よりは、ちかき君をのみおもふとなり
 
2455 我故所云妹高山之岑朝霧過兼鴨《ワカユヱニイハレシイモハタカヤマノミネノアサキリスキニケムカモ》
 
所云妹とは第四に山菅のみならぬことを我に依り云はれし君は誰とかぬらむとよめるが如し、高山は第一卷にかくやまとよめり、今の前後地の名をよめるを一類とする中にあればかぐ山なるべき歟、朝霧が過とは第三に赤人の河よどさらず立霧の思ひ過べき戀ならなくにとよまれたるに同じ、我故人にとかく云はれし妹はそれにうむじて高山の朝霧の晴過る如く我を思ふ心を過しやりても忘けむかの意なり、
 
初、我ゆへにいはれし妹は。我ゆへに人にとかくいはれし妹は、それにうむして、峯の朝露のはれ行ことく、我をおもふ思ひを過しやりて忘けんかとなり。第一に高山とかきてかく山とよめれは、こゝにてもさも讀ぬへし。第四に
 山菅のみならぬことを我によりいはれし君は誰とかぬらん
 
2456 烏玉黒髪山山草小雨零敷益益所思《ヌハタマノクロカミヤマノヤマスケニコサメフリシキマス/\ソオモフ》
 
黒髪山第七に見えたり、山草は點のやう意得がたきに似たれど、をはなを草花とか(41)ける類に例すべし、若はやまくさにて狼毒《ヤマクサ》にはあらで唯山の草を云へる歟、されど第十二は山河水陰生山草《ヤマカハノミカゲニオフルヤマスゲ》とよめるは第四に奥山之磐影爾生流菅根乃《オクヤマノイハカゲニオフルスガノネノ》とよめると同じ体なれば、唯本點に任すべし、益益所思はマスマスオモホユと讀べし、山草のうるはしきに小雨の零敷ていとゞ飽れぬとよそへたる歟、又小雨に依て山草ますます滋きに思ひのしげきをよする歟、
 
初、ぬは玉のくろかみ山。黒髪山、第七にもよめり。山草とかきていかて山すけとはよめるらん。草花とかきてをはなとよめるにおなしく心得かたし
 
2457 大野小雨被敷木本時依來我念人《オホノラノコサメフリクコノモトニトキトヨリコネワカオモフヒト》
 
大野、【別校本又云、オホノラニ、】
 
發句はオホノラニと讀て第二句の下を句絶とすべし、時依來は大野に小雨降て立やどるべき家もなければ木本をせめての陰と憑て立寄る如く依來《ヨリコ》よとなり、
 
初、大のらのこさめ。おもひかけぬ小さめのふるには、木のもとにも立よりて雨を過せは、そのことく、我おもふ人も、今はよりくへき時とよりこよとなり。被はこゝろを得てかけり
 
2458 朝霜消消念乍何此夜明鴨《アサシモノケナハケナマクオモヒツヽイカテコノヨヲアカシナムカモ》
 
2459 吾背兒我濱行風彌急急事益不相有《ワカセコカハマユクカセノイヤハヤニハヤコトマシテアハスヤアラム》
 
不相有、【官本又云、アハズヤハアラム、】
 
(42)濱行風は第一に弓削皇子の吾妹子乎早見濱風とよませ給へるに注せし如く、濱は物の障なければ風のとく吹過るを頻に物を云ひおこするに譬へて、さるから言を食てあはずやはあるべき、來て相ぬべしと女の歌に男の言を憑むなり、右一首寄v風、
 
初、わかせこか濱ゆく風。初の五もしをは、かりによみきりて、いやはやにの下に置て心得へし。濱ゆく風はさはりなけれは、とく吹過れは、彌急といへり。第一卷に、弓削皇子の、わきも子をはやみ濱風とよませたまへるもこれなり。はやことましては、おもひの切なるよしをしきりにいひおこせつれは、あはすやは有へきといふなり
 
2460 遠妹振仰見偲見月面雲勿棚引《トホツマノフリサケミツヽシノフラムコノツキノオモニクモナタナヒキ》
 
今按遠妹を遠妻と義訓せるは然るぺけれど、妹をいもの外に何とも義訓せる例集中になければ、字のまゝにトホキイモと讀べきか、此より五首寄v月、
 
2461 山葉追出月端端妹見鶴及戀《ヤマノハニサシイツルツキノハツ/\ニイモヲソミツルコヒシキマテニ》
 
追出をサシイヅルとよめる意考べし、
 
初、山のはにさし出る月の。はつ/\にみるといはむためなり。山のはにまた半輪はかりさし出る月によそへて、見すもあらす見もせぬほとなるは、中々の物おもひとなれは、こひしきまてにとはいへり。追をさすとよめるは未考。端々は、第七に小端とかきてもはつ/\とよめり。此第六葉には小端をはつかとよめり。衣をたつに、きぬのやう/\たれるを、はつ/\と常にいへり。絹布のはつるゝともまたそれをはつすともいふも皆端につきていへは、はつ/\、はつか、はつるゝ、もとは皆おなし詞なるへし
 
2462 我妹吾矣念者眞鏡照出月影所見來《ワキモコカワレヲオモハハマソカヽミテリイツルツキノカケニミエコネ》
 
雄略紀云、吾妹【稱v妻爲v妹、蓋古之俗乎、】  照出月影と云へるは月影の如くにの意なり、
 
 
 
2463 久方天光月隱去何名副妹偲《ヒサカタノアマテルツキノカクレナハナニノソヘテイモヲシノハム》
 
天光月隱去、【拾遺集云、アマテルツキモカクレユク、】  何名副、【幽齋本云、ナニニナソヘテ、】
 
(43)何名副は今の點ナニヽナソヘテと讀べし、
 
初、何名副、なにゝなそへてとよむへし。なにゝなそらへてなり
 
2464 若月清不見雲隱見欲宇多手比日《ミカツキノサヤカニミエスクモカクレミマクソホシキウタタコノコロ》
 
宇多手、【別校本又云、ウタテ、】
 
うたては第十にも注せし如くウタゝなり、
 
初、宇多手比日、うたて此ころとよみて、うたゝと心得へし。第十春譬喩歌にもうたてこのころとよめり。菟楯頃者《ウタテコノコロ》とかけり
 
2465 我背兒爾吾戀居者吾屋戸之草佐倍思浦乾來《ワカセコニワカコヒヲレハワカヤトノクサヽヘオモヒウラカレニケリ》
 
草佐倍思浦乾來とは第十に思草とよめるに付て注せし如く、陰草を思草と云意にて、草さへ思草にて末|枯《カル》となり.六帖にはわがせこと云に入れて右に笠女郎とありて、それを承て同じ人と作者を付たるは不審なり、此より寄v草歌なり、
 
初、我せこにわかこひをれは。わかせこをわかこひつゝをれは、草さへ我心を知て、ともになけくやうに、うらかるゝとなり。夏草のおもひしなえてとよめることく、秋の末にも打しほれるれは、ものおもふ心よりかくはみるなり。今案草さへおもひは、第十に、道のへの尾花かもとのとよめる思ひ草にや。草も草こそあらあ。我宿の草さへ、思ひ草にてうらかれてしほるらんことよとよめるにや。上の三句は竹をさくいきほひに、わかといふ詞のかさなれるがおほえすおもしろし。第四に額田王の哥に君まつとわかこひをれは我やとの簾うこかし秋の風ふくとあるに語勢相似たり。これより橘のもとに我たちといふ哥まては、皆草木によせたる哥ともなり
 
2466 朝茅原小野※[仰の旁]空事何在云公待《アサチハラヲノニシメユフソラコトヲイカナリトイヒテキミヲハマタム》
 
朝茅原、【六帖云、アサチフノ、】  小野印、【六帖云、ヲノノシルシノ、】
 
第十二云、波茅原小野爾標結空言毛《アサチフノヲノニシメユフソラコトモ》云々、此に准らふれば發句は六帖の如く讀し、印は此下云|大野跡状不知印結《オホノラノアトカタシラズシメユヒテ》云々、此に依に今も印の下に結の字の有けるが昔よ(44)り落たるか、傍例に依るに六帖にをのゝしるしのとよめるはよからねど、結の字の落たる證なり、印結とは我野と定て人を入れじとしめゆひまはすなり、心に此野は我爲にせむなどあらまし置て有をば空にしめゆふと云なり、依て小野にしめゆふ空言とはつゞけたり、さて人を待宵のけしきなど人のとがめ恠しむるを侘て、いかなる事を作りてか君待と云事を人に知られじとよめるなり、末に山より出る月待と人には云ひてとよめる是なり、虚言をかまへたるなり、野にしめゆふによせたる歌前後おほし、
 
初、あさちはら小野にしめゆふ。此哥そらことゝいはむとて、小野にしめゆふとはいふなり。しめゆふとは淺茅おひたる野をわか野とさためて、人をいれしとしめゆひまはすなり。又心に此野はわかためにせんなと思ひ置てあるをは、空にしめゆふといふなり。よりて小野にしめゆふ空ことゝはつゝけたり。さて人を待よひのけしきなと、人のとかめあやしむるをわひて、いかなるつくりことをかいひて、君まつといふことを人にしられしとよめるなり。足引の山より出る月まつと人にはいひて君をこそまて。これ虚言をかまへたるなり。人を待もくれかたなれは、月まつといつはれる心なり。以上長流かゝけるものに有。野にしゆふことによせたる哥あまた有。下の十一葉、三十八葉、第十二の廿四葉、第十三の十四葉にも見えたり
 
2467 路邊草深百合之後云妹命我知《ミチノヘノクサフカユリノノチニテフイモカミコトヲワレハシラメヤ》
 
初二句は第七に既に注せり、後とつゞくるは此百合は早百合にくらべては遲き歟にて云へるなるべし、妹命は六帖にも今の點の如くあれど、イモガイノチヲと讀べきか、下に月草の借なる命ある人をいかに知てか後もあはむてふ、此は我命を云へど人の命の借なるも亦同じ、後にあはむと云詞を疑て知らめやと云なるべきにや、
 
初、道のへの草ふかゆりの。第七にも、道のへの草ふかゆりとよめり。夏草の深き中にさくをいふなるへし。第九に坂上郎女
 夏の野のしけみにさけるひめゆりのしられぬ戀はくるしかりけり
此哥によりてみれは、しけみの中のゆりによせて、我はすらめやといへるにや。草深ゆりの後にてふとはつゝけす。草深ゆりのときりて、後にてふ妹かみことを、草深ゆりのしられぬことく、我はしらめや。いまたしらすといへるなり。後にてふは、後にあはむなり。妹かみことは、妹かみことはなり。
 
2468 潮葦交在草知草人皆知吾裏念《ミナトシニマシレルクサノシリクサノヒトミナシリヌワカシタオモヒ》
 
(45)潮葦は六帖にしほあしのとあれど、第十四云|美奈刀能也安之我奈可那流多麻古須氣《ミナトノヤアシガナカナルタマコスゲ》云々、此に依に今の點然るべし、知草は鷺尻刺《サギノシリサシ》にて藺の事なり、和名集云、玉篇云藺【音吝、和名爲、辨色立成云鷺尻刺】似v莞而細(ク)堅宜v爲v席、
 
初、みなとあしにましれる。潮葦を六帖にはしほあしとよめり。下にみなとゝよめり。知草は藺《イ》のことなるへし。和名集云。玉篇云。藺(ハ)【音吝。和名爲。辨色立成(ニ)云。鷺尻刺《サキノシリサシ》】似(テ)v莞(ニ)《・オホヒ》而細(ク)堅(シ)。日本紀|莞ネカマ】宜(シ)v爲《ツクルニ》v席(ヲ)。まことに鷺の尻さしといひぬへき草なり。今案みなとあしにましるといふは、俗に久愚といふなるへし。上句は人みなしりぬといはむための序にて、蘆は高く、しり草はひきけれは、下おもひといふにもかなへり
 
2469 山萵苣白露重浦經心深吾戀不止《ヤマチサノシラツユオモミウラフレテコヽロニフカクワカコヒヤマス》
 
心深、【六帖云、、コヽロニフカキ、】
 
山萵苣は第七に既に注せり、浦經は第七にも裏觸立三和之檜原者《ウラフレタテリミワノヒハラハ》とよめる如く、山ちさの露にしほるゝは人の物思ひたる顔をみるやうなれば、山ちさにかけて我上を云なり、山萵苣は木なるを此處に置は萵苣の名に依てか、例せば和名集に蕣を蓮類に入れたるが如し、
 
初、山ちさの白露おもみ。山ちさは第七に尺せり。第十八には、ちさの花とよめり。常にもちさの木といひならへり。うらふれては、顯昭物おもひなつみたる心と注せらる。しなえうらふれとつゝけたるは、第七にみわのひはらをうらふれたりとよみたれは、しほれて葉をたれたる心と聞ゆ。こゝも白露おもみうらふれてとつゝけたるほとは、山ちさのしほれたるをいひて、物おもふ心によせたり。經をふれてとよめるは、上に注せることし
 
2470 潮核延子菅不竊隱公戀乍有不勝鴨《ミナトニネハフコスケノシノヒステヽキミニコヒツヽアリカテヌカモ》
 
核延、【校本核或作v根、】  不竊隱、【幽齋本云、シノヒステ、】
 
核は説文云※[草がんむり/亥](ハ)草根也、徐曰※[草がんむり/亥](ハ)草木枯根也、通作v核、かゝれば今ネ〔右○〕と點ぜり、六帖にしほのねにねさすこすげのとあるは能讀解たるにあらず、字に合せて知べし、不竊隱は(46)第六に之努布草解除而益|乎《ヲ》とよめるに注せし如く、菅の根の下はふを、しのぶに喩ふ、きしなどに根はふ菅は浪に洗はれて根の顯はるればしのびずてと云へり、しのばざる故に君を戀ふ心のさて有にたへぬとなり、
 
初、みなとにねはふこすけの。核延子菅とかきたれは、さねはふこすけとよみて、さは物によく付ていふことはなれは、ねはふ小菅と心得へし。しのひすては、これを心得るにふたつのやう侍るへし。ひとつには、菅の根のしのひにとは、やかて此下にもよみ、そのほかあまたよめるは、菅の根のかくれたるによせていへり。いそのかみふるのわさ田のほには出すとよめるがことく、ねはふ菅のしのふるといふをかりて、しのひすてといへり、又のやうは、みなとなれは、浪にあらはれて根のみゆれは、しのひきてといへりともいふへし。ありかてぬかもは、ありもえたへぬなり
 
2471 山代泉小菅凡浪妹心吾不念《ヤマシロノイツミノコスケヲシナミニイモカコヽロヲワレハオモハス》
 
泉は相樂郡にあり、凡浪ニとは押靡と云に並々には思はぬと云事をそへたり、
 
初、山しろのいつみの小すけ。蛙なくいつみの里とよめる所なり。おしなみには、押靡《オシナミ》になり。すゝきおしなみふれる白雪とよめるかことし。それをなみにおもはぬになしていへり
 
2472 見渡三室山石穗菅惻隱吾片念爲《ミワタセハミムロノヤマノイハホスケシノヒテワレハカタオモヒヲスル》
 
惻隱、【別校本又云、シノヒニ、】  片念爲、【六帖云、カタオモヒソスル、】
 
落句はカタモヒヲスルと讀べし、
 
初、見わたせはみむろの山の。みわたせは見ゆるといふ心につゝけたり。いはほ菅はいはねにおふる菅なり。かたおもひも菅によせていへり。第十四東哥の挽哥
 かなしいもをいつちゆかめと山菅のそかひにねしく今しくやしも
山すけは麥門冬をいへと、此集にてみれは山におふる菅をも山すけとよめりとみゆ。山すけのそかひとつゝけたる心は、いつれにもあれ。片方は東になひき、今かた方は西になひくこときは、うらむる事ありてあひそむくに似たれは、さはつゝけたれは、今も人はおもはて、我のみおもふは、菅のこなたかなたにわかれてなひけるやうなれは、根のふかくかくれたる心にしのひてとつゝくるのみならす、かたおもひともいへり
 
一云|三諸山之石小菅《ミモロノヤマノイハコスケ》
 
2473 菅根惻隱君結爲我※[糸+刃]緒解人不有《スカノネノシノヒニキミカムスヒテシワカヒモノヲヽトクヒトアラメヤ》
 
落句は字のまゝにトク人ハアラジと讀べきか、第七に葦根《アシノネ》の懃念《ネモコロオモ》ひて結びてし玉の緒と云はゞ人とかむやも、相似たる歌なり、
 
初、解人不有、とく人あらめやとは、義をもてよめり。まさしくは、とく人はあらしとよむへし
 
(47)2474 山菅亂戀耳令爲乍不相妹鴨年經乍《ヤマスケノミタレコヒノミセサセツヽアハヌイモカモトシハヘニツヽ》
 
第四に菅根の思亂てとも第十二に山菅の思胤てともよめり、
 
2475 我屋戸甍子太草雖生戀忘草見未生《ワカヤトノノキノシタクサオフレトモコヒワスレクサミレトマタオヒス》
 
甍ノ下草は陰草なり、此に依て六帖にも下草の歌とせり、第十の思草の下に注せし如く、陰草を思草と云なるべければ思ひはまされど忘るゝ事はなきを、二つの草の名によせてよめるなるべし、称名集云、蘇敬本草注云、屋遊【和名夜乃倍乃古介、】屋(ノ)瓦上青苔衣也、又云本草云、垣衣一名烏〓【和名之乃布久佐、】かくなれば垣衣は築墻に生るを云べけれど、軒のしのぶと讀は常の心なれば、甍子太草はしのぶにて、人をしのぶ心はまされど忘るゝ事出來ずとよめるにやとも思ふ人あるべけれど、初に六帖を引て證するが如し、
 
初、わかやとの軒のした草。軒のした草はしのふ草なり。和名集(ニ)云。本草云。垣空一(ノ)名(ハ)烏〓【和名之乃布久佐。】又云。蘇敬(カ)本草(ノ)注(ニ)云。屋遊【和名夜乃宇倍乃古介。】屋(ノ)瓦(ノ)上(ノ)青苔衣(ナリ)也。この國にしのふ草といふは、屋遊垣衣に通するにや。此哥は、人をこひしのふ心はいやまされとも、わすれむとすれとわすれぬを、ふたつの草の名にもたせていへるなり
 
2476 打田稗數多雖有擇爲我夜一人宿《ウツタニモヒエハカスアマタアリトイヘトエラレシワレヲヨルヒトリヌル》
 
稗は和名集云、左傳注云※[草がんむり/稗]【音俾、和名比衣、】草(ノ)之似v穀者也、稻と※[草がんむり/稗]と初は同じ様にて植らるゝを、後には擇て拔取るに、猶殘てあまた有と云へど、これかれ思ひ懸る人の中には我(48)そ擇出して捨られはてゝ獨寢ぬるとなり、第十二にも似たる歌あり、古今集に花かたみ目並ぶ人のあまたあれば忘られぬらむ數ならぬ身はとあるは意の似たる歌なり、我の字はワレゾと讀べし、ワレヲとあるは書生の誤なり、
 
初、うつ田にもひえはあまたに。稻と※[草がんむり/稗]《ヒエ》と、はしめはおなしやうにてましりてうゑらるゝを、後にやゝ見えわかるゝ時えりてぬきすて、穗に出る時こと/\く盡すものなり。田にはひえのあまたありてえらるるときけと、これかれおもひかくる人の中には、我をえり捨られてひとりねするとなり。第十二に
 水をおほみあけに種まきひえをおほみえられしわさをわか獨ぬる
似たる哥なり。古今集に
 花かたみめならふ人のあまたあれはわすられぬらん數ならぬ身は
此哥も心はかよへり。數多、かすあまたともよむへし。えられし我そを、我をとあるはあやまれり
 
2477 足引名負山菅押伏公結不相有哉《アシヒキノナニオフヤマスケオシフセテキミシムスハヽアハスアラメヤ》
 
和名集云、本草云麥門冬【和名夜末須介、】山菅の靡き靡かぬをも試みず、押伏て結ぶ如く思ふ心の切にてわりなく君が云はゞあはざらめやとなり、第四に我背子し遂むと云はゞとよめりし類なり、毛詩鄭風云、叔兮伯兮倡v与和v女、
 
初、足引の名におふ山菅。これはもとより山すけといふ名なれは、足引の名におふといへり。しかれは、山にある菅を、おして山菅といへるにはあらて、麥門冬にや。おしふせて君しむすはゝとは、かの山菅のなひくをも、なひかぬをもいはす。おしふせてむすふことく、まことにおもふ心のせちにて、理非をいはす我にあはむとおもふほとならは、我あはさらめやとなり。第四に
 わかせこし遂むといはゝ人ことはしけく有とも出てあはましを
此心なり。毛詩鄭風〓兮(ノ)篇(ニ)曰。叔兮伯兮|倡《イサナハヽ》v予(ヲ)和(セム)v女《ナンチニ》
 
2478 秋柏潤和川邊細竹目人不顔面公無勝《アキカシハヌルヤカハヘノシノヽメニヒトモアヒミシキミニマサラシ》
 
秋柏は夜霧朝露にぬるゝ意に潤和川とつゞく、下に朝柏閏八河と云へるも同じ意なり、和名集云、飛騨國益田郡秋秀【阿佐比天、】此郷の名に秋をあさとよめる例あれば今の秋柏をも下の朝柏と同じくも讀べきか、六帖雜思に入れたるにはあさがしはと云ひたれど、あはずと云に入れたるにはあきがしはとあり、潤和川とかき閏八河とかきたれば沾と云意につゞけて合歡木などの如く柏の寢ると云意には置かぬ事明(49)なり、其上草木に夕に至て葉を卷ものは朝には舒れば柏の寢ると云意ならば夕柏とこそ置べけれ、朝柏とやはつゞくべき、和の字を書たるに依て袖中抄にぬるわ川とあるは誤なり、第三に草取可奈和《クサトリカナヤ》、第十三に率和出將見《イザヤイデミム》、此等の證ある上に閏八河とかけるをぬるわがはとは讀べからぬ事明なり、此潤和川何れの國に有と云事を知らず、細竹目とは潤和川の川べに生たる細竹とつゞけて細目にもと云なり、しのゝめの事第十に七夕歌に稻目と云に付て注せしが如し、今は夜の明むとする時を云しのゝめにはあらず、人不顔面とは君ならぬ人をば細目にも見じとなり、公無勝をキミニマサラジとよめるは義訓たがはずとは云ひながら、無の字を不の字の訓にかよはしたる事集中例なし、キミニマスナシと讀べき歟、六帖雜思に入れたるには下句を人もあひあはずきみなしかちに、又くれどあはずと云に入れたるには人もあひみずつまなしがちに、袖中抄には人もあひみずつまなきがちに、何れもおぼつかなし、此歌は潤和川に近くすめる人のよめるなるべし、
 
初、あきかしはぬるや川邊の。下の三十八葉に
 朝柏ぬるや川へのしのゝめのおもひてぬれは夢に見えけり
これに准するに、今の哥も秋柏とはかきたれとも、あさかしはとよむへき歟。さいふゆへは、和名集(ニ)云。飛騨國、益田《マシタノ》郡、秋秀【阿佐比天。】これいかなれは阿佐とよめるはしらされとも、すてに此證あれは、下とおなしくよむへしと申すなり。ぬるや川へとつゝくるは、下の哥には閏八河邊とかけれは、今潤の字をかけるにおなし。しかれは、朝の柏の.夜きり朝露にぬるゝ心にや。合歡木にあらされとも、よろつの草木、大かたは夜は葉をまき、晝は葉をのふれは、その中にも柏のいちしるき歟にて、いぬるやといふ心につゝけたる歟。淨土にさへ花は開合をもて晝夜を知といへり。事文類聚後集二十三云。漢(ノ)園中(ニ)有v柳|状《カタチ》如v人(ノ)。號(テ)曰2人柳(ト)1。一日(ニ)三(タヒ)起(キ)二(タヒ)倒(ル)。故(ニ)江之檜〓(カ)賦(ニ)云。不v比2禁中(ノ)人柳(ニ)1、終朝剰得2三眠(ヲ)1。後の説につかは、朝になりてぬるといふにはあらす。朝まても葉のまきてあれは、かくはつゝくと心得へし。定家卿のよる出てぬるや川邊とつゝけられたるは、後の心にて、納涼のために川邊に出てぬる心なり。朝柏とおきて、ぬるや川へとつゝけたるは、ぬるや川といふ川のありてよめりと覺ゆ。されとも昔よりかむかふる所なし。拾芥抄をみるに、中の末に、宮城部を立る中に、諸院と標して、八省院、豐樂院等を次第に出して、終に至りて云
紙屋院【圖所(ノ)別所在2野宮東1】
漆室【内匠(ノ)別所今荒廢】在2上西門(ノ)北(ノ)脇(ニ)1。【これのみ院の字なきは落たる歟。しかれとも圖もまた此まゝなり】
鷹屋院【在2紙屋北2人不出之云々。】今荒廢
此中にもし漆室をぬるやと讀歟。氏に漆部《ヌリヘ》あり。うるしは塗《ヌ》る物なるゆへなり。文屋を文室ともかけはなり。紙屋院は紙屋川なれは、漆室も昔都とならさる時、ぬるや川有ける所にもやと、有職の故實もしらぬ身の、ことわさにいふめしゐのへみおそれぬ風情に書付侍り。さて川邊のしのゝめとつゝけたるは、川邊におふるしのといひかけたるなり。人もあひみしとは、こと人にはあひみし。君にまさる人は又あらしなり。しのゝめに人もあひみしとは、しのゝめは、目のほをき心なり。又しのゝめはいまたくらくて、物のわきも見えぬほとなれは、人もあひみしといはむとて、上の句は段々に〓《クサ》れるなり。不顔面も、無勝も、ともに心を得てよめり。作者の心かゝりけむや知かたし。又秋柏は字のまゝによみても心得へし。潤とつゝかはさきのことし。寢る心ならは、卷舒をもて寤寐に配すれは、秋になりて、葉のかれてまけるを、ぬるといふへき歟。又今案次上の哥につゝけてみるに、これも女の哥にや。しからは下の句を、人にはあはし君にまさなくとよむへし。上を山菅を、おしふせて結ふことくせはあはさらむやとよめるは、ふかくゆるして心をつくるこゝろ有。此哥にきみといふすなはち上の君なり。しのゝめにあふ人なきかことく、こと人にはわれま見えし。世の人にくらへみるに、君にます人はなき物をといへるなるへし
 
2479 核葛後相夢耳受日度年經乍《サネカツラノチモアハムトユメニノミウケヒソワタルトシハヘニツヽ》
 
夢耳は今按ユメノミヲと讀べき歟、夢にだに神祇の相見るべき由の告あらば後に(50)も相見と思ひて、年經て夢に其由をみむと祈《ウケ》ひ渡れどかひなしとなり、
 
初、さねかつらも後もあはむと。五味子の葛のはひわかれて末にまたあふによせたり。うけひそわたるはいのりそわたるなり
 
2480 路邉壹師花灼然人皆知我戀※[女+麗]《ミチノヘノイチシノハナノイチシロクヒトミナシリヌワカコヒツマハ》
 
壹師花は和名云、本草云大黄一名黄良【和名於保之、】此にや、此花白くて莖の一尺許も立のびいちしるくみゆる物なればいちしの名を承ながら灼然とは云へるなるべし、路邊とは人皆知と云はむ料なり、
 
初、みちのへのいちしの花の。みちのへは、下に人みなしり内といはむためなり。いちしは覆盆子《イチコ》の花なりといへり。いちしろくとつゝけんためなり。雄略紀に、田邊史伯孫《タナヘノフヒトハクソム》於2蓬?《イチヒコノ》丘(ニ)譽田(ノ)陵(ノ)下(ニ)1【蓬?此(ヲハ)曰2伊致寐姑1】逢d騎(ル)2赤|駿《ムマ》1者《ヒトニ》u1
 
或本歌云|灼然人知爾家里繼而念者《イチシロクヒトシリニケリツキテシオモヘハ》
 
此は撰者の注にはあらざるべし、其故は腰句共に灼然にて替らぬを再たび灼然とは云べからず、是仙覺の義なり其謂あり、之〔右○〕は助語なり、
 
2481 大野跡状不知印結有不得吾眷《オホノラノアトカタシラスシメユヒテアリトモエメヤワカカヘリミム》
 
野にしめゆふは上に注するが如し、下句の意は心のしめを結て有とも其如く人を得めや、得べからねばかへりみて思ひやまむとにや、然らば吾をばワレと點じ改たむべきか、今按アリシカヌレバワガカへリミムと讀べきか、大野に跡状知らず結し(51)めの如く、我思ひもはかなき事とは知ながら、さても有かぬれば猶其野を立歸り見る如く戀しき心の立かへるなり、
 
初、おほのらのあとかた。野にしめゆふは、さきの注のことし。今の點の心は、大なる野に、あとかたしらすしめゆひたりとも、我領することを得めや。そのことき得かたき人を得むとすとも、心にまかすましけれは、身のほとをかへり見て、おもひやまんといふ心歟。下の句を有かねぬれはわかかへりみしとも讀へき歟。心は、大野にゆふしめの、あとかたなきことく、身におはぬ人を得むとすとも、かひあらしとは知なから、さても有かぬれは、もしやしめゆひし跡のゝこるとかへりみて、尋ぬることく、くり返して人にいひわたるといふ心なり
 
2482 水底生玉藻打靡心依戀此日《ミナソコニオフルタマモノウチナヒキコヽロヲヨセテコフルコノコロ》
 
此日、【官本、此作v比、】
 
水底は人知れぬ心の中に喩ふ、此の字は比に作れるよし、
 
初、水そこにおふる玉もの。みなそこは、人しれぬ心の内に、人に心をよすといふ心なり。哥は明なり
 
2483 敷栲之衣手離而玉藻成靡可宿濫和乎待難爾《シキタヘノコロモテカレテタマモナルナヒキカヌラムワヲマチカテニ》
 
玉藻成、【幽齋本云、タマモナス、】
 
腰句幽齋本の點に依べし、第二卷の如し、以上の歌と共に二首は寄v藻歌なり、藻も亦草の類なれば草に攝屬せり、
 
初、玉もなすなひきかぬらん。第二卷に注せり
 
2484 君不來者形見爲等我二人植松木君乎待出牟《キミコスハカタミニセムトワレフタリウヱシマツノキキミヲマチイテム》
 
君と共に植し松なれば名に負て君を待出となり、此より橘本我立と云までは寄v木歌なり、
 
初、君こすはかたみに。第三に、大伴卿筑紫にて妻をうしなひて京に歸ていたみてよまれたる哥三首の中に
 いもとしてふたりつくりしわか山は小高くしけくなりにけるかも
 
(52)2485 袖振可見限吾雖有其松枝隱在《ソテフルヲミルヘキカキリワレハアレトソノマツカエニカクレタリケリ》
 
此は上の歌のかへしの意なり、君が我を待とて袖ふるを見るべき程に吾はをれども、君が袖の見えぬは二人して植し其松が枝に隱れたるとなり、發句はソデフラバとも讀べし、第八七夕歌云、袖振らば見もかはしつべく近けれど云々、
 
初、袖るをみるへき限。袖ふるをみるへきほとになり。その松かえは、上の哥によめる松をさせり
 
2486 珍海濱邊小松根深吾戀度人子垢《チヌノウミハマヘノコマツネフカメテワカコヒワタルヒトノコユヱニ》
 
或本歌云|血沼之海之塩干能小松根母巳呂爾戀屋度人兒故爾《チヌノウミノシホヒノコマツチネモコロニコヒヤワタラムヒトノコユヱニ》
 
初、ちぬのうみ、和泉なり。※[女+后]、上にいへり
 
2487 平山子松未有廉叙波我思妹不相止者《ナラヤマノコマツウレニアレコソハワカオモフイモニアハスヤミナメ》
 
有廉叙波を今の點の如くよまば叙の上に己許等の字落たるべし、今按第三に通觀法師の歌に宇禮牟曾とよめるは何ぞの意と聞ゆれば、今も子松末をコマツガウレノと讀て、以上は序にてウレを承てウレムソハとよめるなるべし、然らば下句をワガモフ妹ニアハデヤミナムと讀べし、者は文の助語に置字なり、又文の終に此字を(53)置てしか/\てへりと讀はしか/\といへりを約めたる詞なり、今彼に依らばワガモフ妹ガアハデヤメテフと讀て何ぞかゝる思ひをあはれともいはずしてあはでやめとは云やと恨むる意歟、
 
初、なら山のこまつ。あれこそはとは、あらはこそといふかことし。廉の下に古許等の字おちたり。哥の心は、なら山の松の梢の、おらんとするに、をよひなきかことくならはこそ、あはてやみなめ。手のをよふへき木のことくなれば、あはすはやましとなり
 
2488 礒上立回香瀧心哀何深目念始《イソノウヘニタチマフタキノコヽロイタクナニノフカメテオモヒソメケム》
 
第二句の今の點香をふ〔右○〕とよめること叶はず、其上前後木に寄たる歌の中に瀧をよめる歌有べからざれば、今按瀧は※[木+龍]にてタテルワカマツと讀べし、其故は玉篇云※[龍/木]【力同切、房室之疏、亦作v※[木+龍]、】かゝれば※[窗/心]と同じく讀常の事なり、集中に高圓を高松と書たれば※[木+龍]を松に借こと恠しぶべからず、まどのと〔右○〕もじは濁り、まつのつ〔右○〕もじは清めば通ずる時清濁やたがはむと難ずる人あらむ歟、伏を富土に借り雉を岸に借れる例を思はゞ此疑おのづから除こりぬべし、さて松を承て心哀とつゞくるは、中心をなかこと云、なかこはこゝろと同じ、和名集云、周易説卦云、其(ノ)於(ケルカv木(ニ)也爲2堅多心《ナカゴカチナリト》1【師説多心讀2奈賀古可遲1、】禮記云、禮(ハ)其(ノ)在v人也、如(シ)2竹箭之有1v※[竹/均]也、如2松柏之有1v心也、陸士衡演連珠(ニ)云、勁陰殺v節(ヲ)不v凋寒木之心、第十二に松根之君心者《マツカネノキミガコヽロハ》とも聞濱松心喪《キクノハマヽツコヽロニモ》ともつゞけたるは今に同じ、何は官本の如くナニヽと讀べし、深目とは人は石の上の若松の根淺き如く何の思ひ入るゝ事(54)もなきを、我のみ心痛きにて何か深く思ひそめけむとなり、然れば深も松に縁ある詞なり、
 
初、いそのうへに立まふ瀧。立囘香瀧、かきやう、よみやうならひに心を得す。さきにいふことく、わかせこにわかこひをれはといふ哥より、此次の哥まて皆草木によせたるに、此一首草木の心なけれは、瀧の字もし誤字歟。立囘香の三字は、たてるわかとか、たつわかとかよみぬへし。今愚案をめくらすに、瀧は※[木+龍]に作るへし。※[木+龍]は?《マト》なり。清濁を通して、雉を岸にかり用たれは、其例にて、的《マト》のことくよみぬへし。それを登と豆と通すれは松となる。上の囘香《ワカ》につゝくれは若松なり。高圓を高松とかきたれは、穿鑿なりといふへからす。今これにて尺すへし。いそのうへは石の上なり。たてるわか松は、思ひかけたる人にたとふ。石の上なれは、根の入る事なきを、人の相おもはぬによせて、我のみ心いたく何ゆへにふかくおもひそめけむといふなり。ふかめては、松の根淺きに對していへり
 
2489 橘本我立下枝取成哉君問子等《タチハナノモトニワレタチシツエトリナリヌヤキミトヽヒシコラハモ》
 
我立は女の我なり、下枝取は下枝を取て示すなり、成は橘の實によせて今この思ふ事の心に叶ひて如此成たれと云ひし女の後は相見ぬをいづらやと尋てよめる意なり、問しは云ひしなり、
 
初、橘のもとにわれ立。是は橘の實のなりぬやといふを、戀の成就するによそへたるなり。我立は女の身の我なり。下枝とりは、下枝を取てしめすなり。思ふことのかなひて相見し時に、今こそは成たれといひし女の、後はあいみぬを、いづちやと尋てよめる心なり。とひしはいひしなり
 
2490 天雲爾翼打附而飛鶴乃多頭多頭思鴨君不座者《アマクモニハネウチツケテトフタツノタツタツシカモキミシマサネハ》
 
上句は古今集に白雲にはね打かはし飛鴈のとよめるに似たり高く飛意なり、鶴を承て多頭多頭思とつゞけたるは第四の帥大伴卿の歌に同じ、君シのし〔右○〕は助語なり、六帖にはきみきまさねばとあり、然れば今の本君不の下に來の字の落たる歟、此より三首は寄v鳥歌なり、
 
初、天雲にはね打つけて。これよりさりて四首は鳥とけた物によするを一類とす。白雲にはね打かはしとふ鴈と、古今集によめるに似たり。とふたつは、たつ/\しといはむためなり。たつ/\しは、たと/\しにて、たとる/\なり。おほつかなく心のおちゐぬ心なり。第四に
 草香江のいりえにあさる蘆鶴のあなたつ/\し友なしにして
 
2491 妹戀不寐朝明男爲鳥從是此度妹使《イモコフトイネヌアサケニヲシトリノココユワタルイモカツカヒカ》
 
(55)度、【官本云、ワタルハ、】
 
鴛鴦は雌雄相思ふ鳥なれば妹が使かとは云へり、從是此は今の點は是此を引合せてコヽとよむ意なり、度の點は官本に依べし、今は〔右○〕の字なきは書生の落せるなるべし、若は從是をコヽニとよみ、此は第七に木綿|懸而齋此神社《カカテイミシヤシロ》と云にも音を借たればコヽニシワタルと讀て句絶とすべき歟、三四句を六帖に水鳥もの聲弱り行とあるは一向に改たるなり、
 
初、いもこふといねぬ朝けに。をし鳥は、雌雄あひ思ふ鳥なれは、わか戀明したる朝に、こゝにしもわたりくるは、おなし心にこひ明したる妹か心をつたふる使かとなり。從是此度、こゝにわたるはとも、こゝにしわたるとも讀へし。是此を引合てこゝとよめは、こゝにわたるはなり。此は音を取て、しのてにをはと見れは、こゝにしわたるなり。後のことくよめは、度の下、句絶なり
 
2492 念餘者丹穗鳥足沾來人見鴨《オモフニシアマリニシカハニホトリノアシヌレクルナヒトミケムカモ》
 
發句のし〔右○〕次何のに〔右○〕は助語なり、にほは同じ水鳥の中にも暫も水を離ねば足沾來と云はむ爲なり、川を渡り野原の露をわけなどしてはゆかでもあらむかとためらへど、猶思ひ餘りてかちにて足ぬれ來る程なれば、人もかゝる気色恠しとや見とがむらむとなり、第十に七夕歌にも天川足沾渡りとよめり、
 
初、おもふにしあまりにしかは。足ぬれくるといはむために、にほ鳥とはいへり。雨の後の道をは、ゆかてもあらむかとためらへと、猶おもひあまりて、かちにて足よこれくるほとなれは、人もかゝるけしきあやしとやみとかむらんとなり。第十に、七夕の哥にも、天川あしぬれわたりとよめり。にほはおなし水鳥の中にも、しはしも水をはなれねは、足ぬるゝたとへにとれり。又後撰集に
 春の池の玉もにあそふにほ鳥のあしのいとなき戀もするかな
これは古今集に
 いたつらに行てはきぬるものゆへにみまくほしさにいさなはれつゝ
此哥に心かよへは、今の哥も後撰の哥の心なるへし。又水鳥陸歩とてなつむ事にいへは、その心もこもるへし
 
2493 高山岑行完友衆袖不振來忘念勿《タカヤマノミネユクシヽノトモオホミソテフリコヌヲワスルトオモフナ》
 
友衆、【六帖云、トモヲオホミ、】
 
(56)宍友衆は詩云鹿斯之奔(ル)維(レ)足伎々(タリ)、【伎々舒貌、宜v疾而舒留2其群1也、】後の歌に鹿の群友とも讀て打つれ行物なれば我も其如く友の多かれば他目に憚て、思ふ意はあれども袖打振てもえこぬを忘るゝとや思はむ、さな思ひそとよめるなり、此一首は鳥に次て寄v獣歌なり、
 
初、高山のみねゆくしゝの。詩云。鹿(ノ)斯《コヽニ》之奔(ル)。維(レ)足伎々(タリ)。【伎々(ハ)舒貌。宜v疾而舒留2其野1也。】鹿のうちつれたちて有ことく、我も友のおほかれは、ひとめにはゝかりて、思ふ心はあれとも、袖打ふりてもえこねを、わするゝとや思はむ。さな思ひそとよめるなり、鹿は妻に戀するものなれは、それによせたるへし。後の哥に、鹿のむら友ともよめり。群のおほきものなれはなり。完は宍に作るへし。肉なり。借てかけり
 
2494 大舩眞※[楫+戈]繁拔※[手偏+旁]間極太戀年在如何《オホフネニマカチシヽヌキコクホトヲイタクナコヒソトシニアルイカニ》
 
君か許にとくゆかばやと思ふ事は、大船に櫓を多く立てゝ漕げども浪風の障に進み難き如く切なれども、人目をしのぶ程あるを暫の程心を取延て待て痛くな戀そ、暫の程を待かねて痛く戀ば、若事の障に依てあはぬ事一年もあらば如何せむとか思ふとなり、今按極太戀をイタクナコヒソとはよまれず、其故はな〔右○〕はなかれ〔三字右○〕にて禁止の詞なれば莫〔右○〕の字勿〔右○〕の字なり、唯何となき詞はいくらも讀付べし、かゝる字は讀付られねば腰句より點を如此改たむべし、イタクシコヒバトシニアラバイカニ、此歌は寄v船歌なり、上の歌には意を以て連たり、
 
初、大ふねにまかち。これはいかてとく、妹かもとへゆかんとおもふ間を待なわひそ。もしさはる事有て、あはぬ事も一年もあらはいかにせむ。そこをおもひて、心を取のはへてまてとおしふるなり。今案極太戀、これをいたくなこひそとよまは、太の下に莫勿等の字なくてはよみかたし。いたくこひなはとよむへき歟。又こくほともいたくこふるを年にあらはいかにともよむへし
 
2495 足常母養子眉隱隱在妹見依鴨《タラチネノハヽノカフコノマユコモリコモレルイモヲミルヨシモカモ》
 
足常はつ〔右○〕とち〔右○〕と通して常の字は借れり、母は我母にはあらず妹が母なり、蠶をも母(57)がかひ娘をも母のそだつれば蠶の繭にこもれる如く深き閨に養なはれぬる妹をも見る依もがなと、ゆかしさをよめるなり、第十二にも第十三の長歌にも今の上句あり、繭の名は眉と同じく名付たり、
 
初、たらちねのはゝのかふこの。蚕をかふことく、むすめをもはゝおやのそたつれは、彼蚕なまゆこもりするによせて、深窓のうちにかくれたる人を、いかてみるよしもかなといへり。第十二に
 たらちねのはゝかかふこのまゆこもりいふせくもあるか妹にあはすて
第十三の長哥にも、たらちねのはゝのかふこのまゆこもりいきつきわたりなとよめり。足常は知と豆と五音通すれは、かりてかけり
 
2496 肥人額髪結在染木綿染心我忘哉《コマヒトノヒタヒカミユヘルソメユフノソメシコヽロヲワレワスレメヤ》
 
一云|所忘目八方《ワスラレメヤモ》
 
肥人をコマヒトと點ぜるは高麗人の意歟、肥をこま〔二字右○〕とよめる意いまだ知らず、朝鮮の人を見るにいたくふつゝかなるまで肥たるが多ければさる意にや、古點にコエヒトとよめるは一向義なし、今按ウマヒトノと點ずべき歟、鳥獣の肉も肥たるはうまき理なり、古今集に濃紫《コムラサキ》我もとゆひにとも讀たれば、染木綿《ソメユフ》も其類歟、六帖に、ひたひがみゆふありそみの、ゆふぞみ心、の中の三句をよめるは今の點にしかず、
 
初、うまひとのひたひかみゆへる。うま人は、高貴富有のよき人なり。良家、君子、 播紳、これらを日本紀にうまひとゝよめり。第二卷に、久米禅師かうま人さひてとよめる哥に注し畢ぬ。又第五卷に帥大伴卿の家にて、みな人のよみける二十三首の梅の哥の中の作者の名にも、少令史田氏肥人あり。鳥も魚も獣の肉も、肥たるはうまきことはりなり。長流か抄に、こえ人とよめるを義なしといへり。今の本にはこま人とよめり。高麗人なるへし。いかてこま人とはよめりけむ。今朝鮮の人のわたりくるを見るに、いたくふつゝかにこえふとりたるがおほけれは、その心をもてやよめりけむ。たゝうま人にしたかふへし。ひたひ髪ゆへるそめゆふは、古今集にこむらさきわかもとゆひをとよめるかことし。そめし心とはおもひしみにし心なり
 
2497 早人名負夜音灼然吾名謂※[女+麗]恃《ハヤヒトノナニオフヨコエイチシロクワカナヲイハシツマトタノマム》
 
早人は第三隼人薩摩とつゞきたるに付て注せり、名負夜音とは隼人は犬の吠るまねして仕ふまつる故なり、延喜式第七云、十一月卯日平明、隼人司率2隼人1分立2左右1、朝(58)集2堂前1待v開v門(ヲ)乃發v聲、吾名謂〔三字右○〕、此をワガナヲイハシと點ぜるは誤れり、ワガナヲイヒテと讀べし、初は名をも告ざりしが打解さまに成ぬれば押あらはして我名をなのりて妻に定めて憑まむとなり、謂を六帖にかくらはとよめる時は女の歌にて吾名とは男の吾なり、右二首は物の中に雜なり、
 
初、はや人の名におふ。はや人のおこりは、第三に長田王の、隼人のさつまのせとゝよみ給へる哥に注し畢ぬ。延喜式第二十八に隼人《ハイトム》司の式あり。第七卷大甞會式云。十一月卯日平明隼人司率(テ)2隼人(ヲ)1分(レ)立(チ)左右(ニ)1朝集堂(ノ)前(ニ)待(ツ)v開v門(ヲ)乃發(ス)v聲(ヲ)。わかなをいひて、上の句はこれをいはむためなり。初は名をも告さりしか、人の心も打とけさまになりぬれは、おしあらはして我名をなのりて、つまにさためてたのまむとなり。わかなをいはしとあるは誤なり
 
2498 釼刀諸刃利足蹈死死公依《ツルキタチモロハノトキニアシヲフミシニヽモシナムキミニヨリナハ》           ′、r
 
和名集云、四聲字苑云似v刀兩刃曰v劔【擧欠反、】今按僧家所v持是也、禮記中庸云、白刃可v蹈也、中庸不v可v能也、
 
初、つるきたちもろは。玉劔、つるきたちなとよめるは、只かたなをいへるを、こゝは兩匁の劔なり。和名集云。四聲字苑云。似(テ)v刀(ニ)兩刃(ナルヲ)曰(フ)v劔(ト)【擧欠切。】今按(スルニ)僧家(ニ)所v持(スル)是(ナリ)也。此僧家に持ところといへるは、顯教には更に用る事なし。密教に文珠不動等の三摩耶形に准して執ことあるをいへり。此哥は君かためといはゝ、つるきの刃をふんて死すとも辭せしとなり。下につるき太刀もろはのうへにゆきふれてしにかもしなむこひつゝあらすは
禮(ノ)中庸(ニ)云。天下國家(ヲハ)可v均(シウス)也。爵録(ヲハ)可v辭(シツ)也。白刃(ヲハ)可v蹈(ツ)也。中庸(ヲハ)不v可(ラ)v能(ス)也、あふことはかたなのはをもあゆむかな人の心のあやふまれつゝといふ哥も、心はことなれと、此哥をもてよめるなるへし。又第四卷に
 大舟をこきのすゝみにいはにふれかへらはかへれいもによりては
これまた心今の哥に似たり
 
2499 我妹戀度劔刀名惜念不得《ワキモコニコヒシワタレハツルキタチナノヲシケクモオモホエヌカモ》
 
コヒシのし〔右○〕は助語なり、劔刀名とつゞくる事第四に注せしが如し、念不得をオモホエヌカモと點ぜるは誤なり、カモヒカネツモと改たむべし、右二首は寄v劔、
 
初、わきもこにこひしわたれは。下句名惜念不得とかけれは、今の點不得の二字にかなはす。名のをしけさもおもひかねつもとよむへし。つるきたち名のをしきとつゝくる事は、刀には鍛冶の名を雕《エリ》つくる故なり。委第四卷山口女王の哥に注せり。又第十二にもよめり。名は人の惜む物なれと、そのおしさも念しかねてあはれ逢よしたにあらは、名をすてゝもとおもはるゝよしをよめり
 
2500 朝月日向黄楊櫛雖舊何然公見不飽《アサツクヒムカフツケクシフリヌレトナニシカキミカミレトアカレヌ》
 
朝月日向とは第七にもつゞけてそこに注せり、殊に男も女も朝は髪結とて櫛を取(59)鏡に向へば向フツゲグシとは云へり、さて櫛はもてならして古きをも我心に叶ひたるは捨難き物なれば、馴て年經れど飽れぬ人に喩ふるなり、何シカのし〔右○〕は助語なり、此一首寄v櫛、
 
初、朝つくひむかふ。朝月日とかきたれとも、只あさ日なり。朝つく夜とよめるは、朝まて月のてるなり。夕つく日もまた唯夕日にて、夕つくよは月夜なり。心を付へし。延喜式の祝詞にも、朝日の日むかひなといへることく、朝日はむかふにめてたき物なれは、向ふといはむとて、朝つく日とはいへり、ことに朝はをとこも女も髪ゆふとて、櫛を取鏡に向へは、むかふつけくしとはいへり。さて櫛はもてならしてふるきをも、わか心にかなひたるは、すてかたき物なれは、なれて年ふれと、あかれぬ人にたとふるなり
 
2501 里遠眷浦經眞鏡床重不去夢所見與《サトトホミウラフレニケリマソカヽミユカノヘサラスユメニハミエヨ》
 
床重はトコノヘと讀べし、夢所見與はユメニ見エコソと讀べき歟、
 
初、里遠みうらふれにけり。夢所見與は、上の第四葉にいへることく、これもゆめに見えこそなるへし。上のますかゝみは、見えこそといはむためなり。床のへさらすは、床のほとりをさらすなり。里とほみは、見ることあたはぬ心にて、下に鏡によせて、ゆめに見えこそとはいふなり。下の廿五葉に似たる哥ありてそこに注あり
 
2502 眞鏡手取以朝朝雖見君飽事無《マソカヽミテニトリモチテアサナサナミレトモキミヲアクコトモナシ》
 
初、まそかゝみ手に取もちて。これも廿五葉に、上の句はおなしくて、みん時さへやこひのしけゝむ
 
右二首寄v鏡、
 
2503 夕去床重不去黄楊枕射然汝主待固《ユフサレハユカノヘサラヌツケマクライツシカナレカヌシマチカタシ》
 
床重はトコノヘと讀べし、射然はつ〔右○〕もじは射に讀付たるか、若は津字など有けむが落たるか、汝主とは來ぬ人なり、此一首寄v枕、
 
初、夕されはゆかのへさらぬ。汝主《ナレカヌシ》とはこぬ人なり
 
2504 解衣戀亂乍浮沙生吾戀度鴨《トキキヌノコヒミタレツヽウキテノミマナコナスワカコヒワタルカモ》
 
浮沙生吾戀度鴨は繊沙成浮《マサゴナスウキ》てのみ吾戀度と云なり、此歌解衣も沙も共に寄たる物(60)なれど、枕と弓との間にあるは寄v衣也、
 
初、ときゝぬのこひみたれつゝ。ときゝぬはみたるゝといはむためなり。うきてのみまなこなすわかは、まなごなすうきてのみわかといはむかことし。水のわきかへる所に、繊沙《マナコ》のうきてめくるにたとへたり
 
2505 梓弓引不許有者此有戀不相《アツサユミヒキテユルサスアラマセハカヽルコヒニハアハサラマシヲ》
 
六帖弓の歌に人丸とて梓弓引はり持てゆるさずと我思ふ妹は知や知らずや、此一首寄v弓、
 
初、梓弓ひきてゆるさす。禮云。張而不(ルハ)v弛文武(モ)不v爲也。第十二にも、あつさ弓引てゆるさぬますらをとよめり。又あつさ弓引はりもちてゆるさすとゝもよめり、はれる弓をゆるさぬことく、はしめこひせしとおもひしまゝの心ならは、かゝる物おもひはせしものをと侮る心なり
 
2506 事靈八十衢夕占問占正謂妹相依《コトタマノヤソノチマタニユフケトフウラマサニイヘイモニアヒヨラム》
 
事靈は第五に注せり、夕占は辻占なり、
 
初、ことたまのやそのちまたに。ことたまは、目に見えぬ神靈なり。第五に好去好來歌に、空みつやまとの國はすへ神のいつくしき國ことたまのさきはふ國とかたりつきいひつかひけり云々。そこに言靈とかけるか正字なり。そのほかにもよめり。うらを問きく時は、神の靈《ミタマ》の人に託して、その吉凶を告しらしめたまふなり。八十のちまたとは、道のちまたのおほきなり。大鏡に此御時そかし。村上のみかとむまれさせ給へる御|五十日《イカ》のもち殿上へ出させ給へるに伊衡中將うたつかうまつり給へるはとておほゆるめる
 一とせにこよひかそふる今よりはもゝとせまての月かけをみむ
とよむそかし。御返し、みかとのせさせたまふかたしけなさよ
 いはひつることたまならはもゝとせの後もつきせぬ月をこそみめ
 
2507 玉桙路往占々相妹逢我謂《タマホコノミチユキウラニウラナヘハイモニアハムトワレニイヒツル》
 
路往占も亦辻占なり、右二首寄v占、
 
問答
 
2508 皇祖乃神御門乎懼見等侍從時爾相流公鴨《スメロキノカミノミカトヲカシコミトサフラフトキニアヘルキミカモ》
 
侍從、【幽齋本又云、サモラフ、】
 
(61)此は衛門府の屬官などの番に當りて祗候する時女を見てよめる歟、又別の官人なるか、御門の出入制禁の懼きをいふ、
 
初、すめろきの神のみかとを。此神といへるは君なり。あふ時も時こそあらんを、つゝしみて出仕したる時しもあへるよといふなり
 
2509 眞祖鏡雖見言哉玉限石垣淵乃隱而在※[女+麗]《マソカヽミミトモイハメヤタマキハルイハカキフチノカクレタルツマ》
 
初、ますかゝみ見ともいはめや。見てもみたりといはむや、いはしとなり。玉限、かくのことくかける事、此集に三所有。第一には玉限ゆふさりくれはとつゝけ、次には今のことしゝ。第十三には、玉限日もかさなりてとつゝけたり。長流か本には、かけろふとよめり。ゆふさりくれはには、蜻蛉の心にてつゝき、今は石火の心にてつゝけとも、日もかさなりてとはつゝくましくや。但石火の火といふ心につゝくといはむや。しかはあれと、かけろふとよむへきやう心得す。今の本には、三所みな玉きはるとよめり。きはるはきはまるといふ言の略なれは、まさしく和訓はあたれるを、つゝけさまの心得かたきを、こゝろみに釋せは、今は垣といふにつゝける歟。垣は内外をへたてゝかきりある物なれはなり。いはほの垣のことくたてる淵はかくれてあれは、かくれたる妻とつゝけたり
 
右二首
 
2510 赤駒之足我枳速者雲居爾毛隱往序袖卷吾妹《アカコマノアカキハヤクハクモヰニモカクレユカムソソテマクワキモ》
 
2511 隱口乃豐泊瀬道者常濟乃恐道曾戀由眼《コロモリクノトヨハツセチハトコナメノカシコキミチソコフラクハユメ》
 
初、こもりくのとよはつせちは。とこなめは、第一第九にも有て注せり。なめらかなる川中の石なり。濟は滑の誤なるへし。第一には常滑とかけり。心すなはち字のことし。こふらくはゆめとは、心しつかにあふ時有ぬべし。水まさり石なめらかなるに、我をこふる心の切なるまゝに、しいてわたりてあやうき事し給ふなとなり。次の哥は馬の音をきゝて悦ふ哥なるに、先かくよめるは、をとこをおもふことのあつきなり
 
2512 味酒之三毛侶乃山爾立月之見我欲君我馬之足音曾爲《ウマサカノミモロノヤマニタツヽキノミカホシキミカウマノアノオトソスル》
 
初、うまさけのみもろの山に。此みむろ山、豐泊瀬路といふにつゝきたれは、三輪山なり。立月は立のほる月なり。みかほしといはむためなり。下の句見かほしききみかうまのあのおとそするとよむへし。見かほしき一句。君かうまの二句。あの音そする三句。旋頭哥なり
 
右三首
 
2513 雷神小動刺雲雨零耶君將留《ナルカミノシハシトヨミテサシクモリアメノフラハヤキミヤトマラム》
 
小動、【別校本又云、シバシウゴキテ、校本、小或作v少、】  君、【官本云、キミカ、】
 
君をキミヤと點ぜるは書生の失錯なるべし、キミガとよむべし、
 
初、雨のふらはや君かとまらんは、雨のふりてあらは、君もとまらんやなり
 
(62)2514 雷神小動雖不零吾將留妹留者《ナルカミノシハシトヨミテフラストモワレハトマラムイモシトヽメハ》
 
小動、【別校本並校本如v上、】
 
妹シのし〔右○〕は助語なり、
 
右二首
 
布細布枕動夜不寐思人後相物《シキタヘノマクラウコキテヨルモネスオモフヒトニハノチモアハムモ》
 
枕動は下にもよめり、展轉反側する故なり、古今集によひ/\に枕定めむ方もなしとよめるも同じ、三四の句連ねて見るべし、落句はノチモアフモノヲとも讀べし、
 
初、しきたへの枕うこきて。下にもしきたへの枕うこきていねられすとよめり。展轉反側するゆへに、枕のうこくなり。古今集に、よひ/\に枕さためむかたもなしとよめるかことし。枕うこきてよるもねぬまて我をおもふ人には後々まてもあはんとなり。はてのもは助語なり
 
2516 敷細布枕人事問哉其枕苔生負爲《シキタヘノマクラセシヒトコトトヘヤソノマクラニハコケムシニタリ》
 
生負爲をばオヒヲセリと讀べし、第二に生をせれる川藻とよめり、君が後をばたのむれど來ぬ程の久しさに枕には日なく苔の生たりとなり、
 
初、敷たへの枕せし人。生負爲、これをはおひをせりとよむへし。第二に打橋《ウチハシニ》、生乎爲禮留《オヒヲセレル》、川藻毛叙《カハモモゾ》、干者波由流《カルレハハユル》とよめり。花のさくを開《サキ》をせるといへるにおなし。かへしの心は、我もとにかよひきて枕せし人は、後をたのめすとも、はやくとひこよ。其さきにせし君か枕に苔おひたりとなり。まことに苔のおふることはなけれと、ちりばみてあるを、とひこぬほとの久しきよしにかくはいへり。下にもわかこまくらにこけおひにけりとよめり
 
右二首
 
(63)以前一百四十九首柿本朝臣人麿之歌集出
 
初、以前一百四十九首。皆人丸の哥と見えたり。下にさとゝほみこひわひにけりとある哥に、右一首上(ニ)見(タリ)2柿本朝臣人麿之歌(ノ)中(ニ)1也云々。又いはく、此百四十九首は文字簡略なり。よみやうに心を著へし。惣して人丸集に出たるといへる哥は、かきやう簡古にみゆ
 
萬葉集代匠記卷之十一上
 
(1)萬葉集代匠記卷之十一中
 
正述心緒
 
初、正述心緒。さきにもかく標したれとも、人丸の哥と、よみ人しらすとをわかたむために、更に標するなり。後の寄v物陳v思歌も准v之
 
2517 足千根乃母爾障良婆無用伊麻思毛吾毛事應成《タラチネノハヽニサハラハイタツラニイマシモワレモコトヤナルヘキ》
 
伊麻思は汝なり即此字をよめり、下に至て此に似たる歌に母白者と云へり、今も同じ意にて母に知らせば障るべし、さはらば事の成らじとよめるか、又母の氣色をもはからずして押て君に隨がはむとせば却て末かけて事の成まじければ障らぬさまをはからひて後あはむとよめる歟、毛詩云、將仲子兮無v踰2我里1、無v折2我(カ)樹※[木+巳]1、豈敢愛之、畏2我父母1、仲可v懷也、女母乃言、亦可v畏(ル)也、
 
初、たらちねのはゝに。いましは汝の字なり。下の第十八葉に
 たらちねのはゝにまうさはきみもあれもあふとはなしに年はへぬへし
今も此心にて、母にしらせはさはるへし。さはらは事のならしとよめるか。また母のいさむるを、氣色をもはからはすして、おして君にしたかはむとせは、ことのならしとよめる心歟。毛詩云。將《コフ》仲子兮無(レ)v踰(ルコト)2我里(ヲ)1、無(レ)v折(ルコト)2我樹※[木+巳](ヲ)1。豈敢(テ)愛(マシヤ)之。畏(ルレハナリ)2我(カ)父母(ヲ)1。仲(チモ)可v懷(フ)也、父母(ノ)之言(ヲモ)亦可v畏(ル)也。無用は第一卷の廿三葉にもかけり
 
2518 吾妹子之吾呼送跡白細布乃袂漬左右二哭四所念《ワキモコカワレヲオクルトシロタヘノソテヒツマテニナキシオモホユ》
 
2519 奥山之眞木乃板戸乎押開思惠也出來根後者何將爲《オクヤマノマキノイタトヲオシヒラキシヱヤイテコネノチハイカヽセム》
 
奥山は眞木と云はむ爲なり、眞木は※[木+皮]なり、何將爲六帖にもいかゞせむとあれどナ(2)ニセムと讀べし、戀死なむ後はなにせむとよめるに同じ、
 
初、おく山のまきの板戸を。第十四東哥ににも
 おく山のまきの板戸を|とゞ《・動》としてわかひらかんに入來てなさね
なさねはねさねなり。此下にも
 おく山のまきのいたとを音はやみ妹かあたりの霜の上にねぬ
第五には、をとめらかさなす板戸をおしひらきいたとりよりてなとよめり。繼躰紀に、勾大兄《マカリノオヒネノ》皇子御哥にも、まきさくひのいたとをおしひらきわれいりまし云々。今のまきの戸は、板戸にて、檜の板戸とよみたまへることく、まきの板にてつくれる戸なり。後はなにせん、いかゝせんは誤なり
 
2520 苅薦能一重※[口+立刀]敷而紗眠友君共宿者冷雲梨《カリコモノヒトヘヲシキテサヌレトモキミトシヌレハヒヤケクモナシ》
 
冷雲梨、【六帖云、サムケクモナシ、別校本又點、同v此、】
 
菰を苅て編故に席をも薦《コモ》と云なるべければ苅薦の一重とは云なり、君トシのし〔右○〕は助語なり、第四に蒸被奈胡也我下丹雖賦《ムシフスマナコヤカシタニフセレトモ》とあると裏表に云ひて意同じ、
 
2521 垣幡丹頬經君※[口+立刀]率爾思出乍嘆鶴鴨《カキツハタニホヘルキミヲイサナミニオモヒイテツヽナケキツルカモ》
 
丹頬經は六帖にも袖中抄にも今の點と同じけれど、今按ニツラフと讀べし、第十云、左頬經妹乎念登《サニツラフイモヲオモフト》云々、左は添へたる詞にて今と同じ、和名集云、野王按(ニ)云頬【音挾、和名豆良、一云保々、】面|旁《ハウ》目(ノ)下也、此保々の和訓を以て頬はほ〔右○〕とも用べし、經はふ〔右○〕と云ひふる〔二字右○〕とこそ申せ年月をへる布〔右○〕をへると云はゞ大きに俗なるべし、必らずニホヘルとは讀べからず、率爾は此も亦六帖にも袖中抄にも今の點の如くあれど此詞意得がたし、日本紀(ノ)私記云、惶根(ノ)尊、伊弉諾尊、伊弉册尊、此等(ノ)之神號、先師相傳云未(タ)v詳(セ)、此神號の伊弉册だに其説詳ならぬにて知べし、第十云、率爾今毛欲見云々、此發句を六帖には、たゝいま(3)もとあり、別校本には、たちまちにと點じたれな今もタチマチニと讀べし、思出乍とつゞきたるも能叶へり、
 
初、かきつはたにつらふ君を。丹頬經を、にほへるとよめるは誤なり。につらふは、さにつらふとおなし。さはそへたる詞なり。につらふと、にほへるとゆきてはおなし心なり。いさなみには、第十に、いさなみに今もみてしか秋萩のしなひにあらん妹かすかたをとよめるは、いさなふ心なり。今の哥にては心得かたし。たちまちにとよむへきにや
 
2522 恨登思狹名盤在之者外耳見之心者雖念《ウラミムトオモフカセナハアリシニハヨソニノミミシコヽロハオモヘト》
 
此歌第二三の句今の點にてはいと意得がたし、今按オモフセナヲハアリユケハと讀べきか、之〔右○〕の字は第八巫部麻蘇娘子《カムナイヘノマソガムスメ》が鴈歌にもゆくとよめり、詩などには常の事なれど集中の證を引て疑をのこさゞらしめむがためなり、さて今按の點の意は恨めしき事あるせなを心にはにくからず思へど恨みて懲らしめむと思ひてあり/\て來ればよに見て物をも云はずしてつれなし作るとなるべし、古今集詞書云、恨むる事ありて暫の間晝は來て夕さりは歸のみしければ云々此類なり、落句は心ハモヘドと讀べし、仁徳紀に宇治|稚《ワカ》郎皇子の御歌に智破椰臂等《チハヤビト》、于泥能和多利珥《ウヂノワタリニ》、和多利涅珥《ワタリネニ》、多?屡阿豆瑳由瀰摩由彌《タテルアヅサユミマユミ》、伊枳羅牟苫《イキラムト》、虚虚呂破望閉耐《ココロハモヘド》、伊斗羅牟苫《イトラムト》、虚虚呂破望閉耐《ココロハモヘド》云々古語の例かゝり、
 
初、怨みんとおもふかせなは。此點にては、え心得侍らす。今私にこれをよまは、うらみんとおもひてせなは有しかはとよむへし。心は、せながつらさをかねてうらみむとおもひて有しかは、心にはこひしくおもひなから、こらしめむとて、よそめには見えてあはぬよしなり。古今集にいはく。なりひらの朝臣きのありつねかむすめにすみけるをうらむるありてしはしのあひたひるはきてゆふさりはかへりのみしけれはよみてつかはしける
 あま雲のよそにも人のなりゆくかさすかにめにはみゆる物から
これを思ふへし。心はおもへとは、人の心をいふにはあらぬものを
 
2523 散頬相色者不出小文心中吾念名君《サニツラフイロニハイテススクナクモコヽロノウチニワカオモハナクニ》
 
(4)小文を袖中抄にちひさくもとあるは今にしかず、すくなく思はぬは多く思ふなり、ちひさきは大きなるに對する詞なれば當らず、落句はワガモハナクニと讀べし、
 
2524 吾背子爾直相者社名者立米事之通爾何其故《ワカセコニタヽニアハヽコソナハタヽメコトノカヨヒニナニソソノユヘ》
 
何、【幽齋本又云、ナニカ、】
 
落句の意は何そ其故に名の立らむ或は名のたゝむなり、
 
2525 懃片念爲歟比者之吾情利乃生戸裳名寸《ネムコロニカタオモヒスルカコノコロノワカコヽロトノイケリトモナキ》
 
懃、【幽齋本、ネモコロニ、】  生、【六帖云、イケル、】
 
發句の點幽齋本よし、片念はカタモヒと讀べし、落句はイケルハモナキと讀べし、第二に第十九を引て注せしが如し、
 
初、わかこゝろと。とこゝろにおなし。十三十九にもこゝろとゝよめり
 
2526 將待爾到者妹之懽跡咲儀乎徃而早見《マツラムニイタラハイモカウレシミトヱマムスカタヲユキテハヤミム》
 
下に似たる歌あり、
 
初、まつらんにいたらは。下の十七葉に、おもはすにいたらは妹かとよめる哥、大かたあひ似たり
 
2527 誰此乃吾屋戸來喚足千根母爾所嘖物思吾呼《タレソコノワカヤトキヨフタラチネノハヽニイハサレモノオモフワレヲ》
 
(5)足千根、【別校本、根下有v乃、】  所嘖、【別校本又云、イサハレ、】
 
發句を官本にたれかこのと點ぜれど第十四に多禮曾許能屋能戸於曾夫流《タレソコノヤノトオソブル》【押振云】云々、今の點此と叶へり、所嘖はイサハレと讀べし、イサハレは中の二字書生の誤てさかさまにせるなり、物思はモノモフと讀べし、
 
初、たれそこのわかやときよふ。女に似つきたる哥なり。第十四東哥に
 誰そこの屋の戸おそふるにふなみにわけせをやりていはふこの戸を
 
2528 左不宿夜者千夜毛有十方我背子之思可悔心者不持《サネヌヨハチヨモアリトモワカセコカオモヒクユヘキコヽロハモタシ》
 
2529 家行人路毛四美三荷雖來吾待妹之使不來鴨《イヘヒトハミチモシミミニカヨヘトモワカマツイモカツカヒコヌカモ》
 
雖來、【古本、雖下有v往、】
 
家人は、此歌にては妹が家人なり、雖來は六帖も今の點と同じければ古本の如く雖往來なりけむを往の字を今の本に落せるなるべし、
 
2530 璞之寸戸我竹垣編目從毛妹志所見者吾戀目八方《アラタマノスコカタケカキアミメニモイモシミエナハワレコヒメヤモ》
 
寸戸を或はすととも點ぜる本あれど何れにても璞之と云ことを置けるやう意得がたし、今按これをばキヘと讀べし、其故は第十四遠江國相聞歌云、阿良多麻能伎倍乃波也之爾《アラタマノキヘノハヤシニ》云々、又云、伎倍比等乃萬太良夫須麻爾《キヘヒトノマタラフスマニ》云々、此は彼國に麁玉郡【和名集云、阿良多末、(6)今稱2有玉1、】ありて彼郡に伎倍と云處のあるなり、然れば今の璞は郡の名、寸戸は號の名、正述心緒と云中にあれば彼處《カシコ》の者のよめるなるべし、下に徊徘往箕之里大原《タチトマリユキミノサトオハラノ》古郷などもよめり、竹垣の網目にも見えなばとは相見ぬ餘りに云なり、上に玉垣のすきまに見えていにし兒とよめり、志は助語なり、
 
初、あらたまのすとか竹垣、或はあらたまのすこか竹垣ともよめり。いつれもあらたまといふを尺し煩へり。今案これはすとにもあらす。すこにもあらす。又あらたまも枕詞にもあらす。あらたまるといふにもあらす。これは遠江國|麁玉《アラタマ》郡|伎倍《キヘ》といふ郷《サト》にある家の竹垣なり。第十四葉哥に、遠江國歌
 阿良多麻能、伎倍乃波也之爾、奈乎多※[氏/一]天、由伎可都麻思自、移乎佐伎太多尼
 伎倍比等乃、萬太良夫須麻爾、和多佐波太、伊利奈麻之母乃。伊毛我乎杼許爾
これにて麁玉郡に伎倍といふ所ありとしられたり。又第五に、山上憶良哥に、かくのみやいきつきをらむあらたまのきへゆく年のかきりしらすて。消はきえなるを、吉倍とかけるは、此所によせてよめる歟とおほゆ。和名集に、麁玉【阿良多末、今稱2有玉1】とあれは、後にはありたまといひけるなるへし。今の世も其定にや。寸戸をきへとよむは、ともに和訓をかれり。きへか竹垣とのみいひては、ことたらぬやうなれと、東哥は、かみつけのまくはし窓に朝日さしともよみ、いかほせよとよめるは、いかほにあるせなゝり。第二十に常陸國久慈郡にある母を、くしがはゝとよめるをおもふへし。正述2心緒1哥なれは、これは遠江國にありてよめるなるへし。下にいつれの國にあるか、ゆきみのさとゝもよめり、麁玉には大河もあるか。續日本妃に、麁玉川に大水出て、堤を決ておほくそこなへる事を記せり。靈龜元年四月遠江地震。山崩壅2麁玉河1。水爲v之不v流。經2數十日1潰、没2敷智、長下、石田、三郡民家百七十餘區1、并損v苗。寶字五年七月癸未朔辛丑、遠江國荒玉河堤決三百餘丈。役2單功1三十萬三千七百餘人、充v粮修築。おほよそは誰みんとかも。これは第九に、君なくはなそ身かさらんくしけなるつけのおくしもとらむともはすとよめるに似たり
 
2531 吾背子我其名不謂跡玉切命者棄忘賜名《ワカセコカソノナイハシトタマキハルイノチハステツワスレタマフナ》
 
たとひ命を失なふ程の事ありとも夫の名をばいはじと思ひ定たるを命者棄つと云へり、
 
2532 凡者誰將見鴨黒玉乃我玄髪乎靡而將居《オホヨソハタレミムトカモヌハタマノワカクロカミヲナヒキテヲラム》
 
毛詩云、豈無2膏沐1、誰|適《アルシトシテカ》爲v容、
 
2533 面忘何有人之爲物鳥言者爲金津繼手志念者《オモワスレイカナルヒトノスルモノソワレハシカネツツキテシオモヘハ》
 
鳥、【官本、作v烏、】
 
鳥は書生の誤れるなり、烏を正字とす、志は助語なり、念者はモヘバと讀べし、
 
初、おもわすれいかなる人の。下におもわすれだにもえすやとよめるにおなし。烏を誤て鳥に作れり
 
(7)2534 不相思人之故可璞之年緒長言戀將居《アヒオモハヌヒトノユヱニカアラタマノトシノヲナカクワカコヒヲラム》
 
2535 凡乃行者不念言故人爾事痛所云物乎《オホヨソノワサハオモハスワカユヱニヒトニコチタクイハレシモノヲ》
 
言故、【幽齋本或云、ワレユヱニ、】
 
大かたの人のつらきわざをば思ひもとがめず、我故に他の人にこと/”\しく云ひさわがれし勞ある物をとなり、
 
初、おほよそのわさは。おほよその人のつらきわさをは、とかともおもひとかめす。われゆへに、世の人に、人もこと/\しくいひさはかれしを、たへしのひてきつるものをとなり。人のつらさをかくゆるすほとの心あらは、すてられしかし
 
2536 氣緒爾妹乎思念者年月之往覽別毛不所念鳧《イキノヲニイモヲオモヘハトシツキノユクラムワキモオモホエヌカモ》
 
妹乎思念者、【六帖云、イモヲシオモヘバ、】
 
第二の句今の點は思念の二字引合てオモヘバと點ぜり、六帖は思は意を借て助語なりと思へり、何れも理あり、六帖によらばイモヲシモヘバと讀べし、
 
2537 足千根乃母爾不所知吾持留心者吉惠君之隨意《タラチネノハヽニシラセスワカモタルコヽロハヨシヱキミカマニ/\》
 
不所知は今按シラエズと讀べし、しられずと云べきをしらえずと云は古語の例第五に殊に多かりき、しらせずと讀べき時は不令知と書故にかくは云なり、吉惠は惠(8)は助語なり、第十三に似たる歌あり、
 
初、たらちねのはゝに。是はしのひて男もたる女の哥の心なり。我かかく此ことをしのひて、母にもしらせぬ心は、親のためはうけれとも、よしさはあれ、わか身は君かまゝになひきしたかはむとなり。よしゑはよしやなり。やとゑと五音通せり
 
2538 獨寢等※[草がんむり/交]朽目八方綾席緒爾成及君乎之將待《ヒトリヌトコモクチメヤモアヤムシロヲニナルマテニキミヲシマタム》
 
發句は獨寢とてもの意なり、※[草がんむり/交]は和名集云、本草云菰一名(ハ)蒋【上音孤、下音將、和名古毛、】辨色立成云※[草がんむり/交]草【※[草がんむり/交]音穀肴反、一云2菰蒋草1、】今は正字ならば薦なるを※[草がんむり/交]は借てかけるなり、綾席は紋ある席なり、※[草がんむり/交]と席とは同じ義なれど※[草がんむり/交]は惣じて云ひ綾席は別に一種の名なり、之は助語なり、
 
初、ひとりぬとこもくちめやも。※[草がんむり/交]は菰蒋とおなしきを借て薦に用たり。哥の心は、獨ぬるとてこもはくちさらじ。しきやふりて緒は出とも、君かくるをまたんとなり。あやむしろは、さま/\にそめて、文を織たるむしろなり。緒は席をあめる絲なり
 
2539 相見者千歳八去流否乎鴨我哉然念待公難爾《アヒミテハチトセヤイヌルイナヲカモワレヤシカオモフキミマチカテニ》
 
第十四に全く同じ歌あり、彼處には第四句を安禮也思加毛布とあれば今もさよむべし、第四に坂上郎女が歌にも相似たるありて注しき、
 
初、あひみては千とせやいぬる。逢て後に千歳や過しなり。第四に
 この比にちとせやゆきも過ぬるとわれやしかおもふみまくほりかも
 
2540 振別之髪乎短彌青草髪爾多久濫妹乎師曾於母布《フリワケノカミヲミチカミワカクサヲカミニタクラムイモヲシソオモフ》
 
青草、【官本、青作v春、校本與v今同、】
 
まだ振別髪にて短かきは若草の如くうるはしくておひさき憑もしきをたぐり擧らむ妹を忘られず思ふとなり、師は助語なり、弱草の妻と云は飽れずめづらしく思(9)ふ心なれば今もまだおひそろはぬ髪によせてめづらしくなつかしき心をそへたり、
 
初、ふりわけの髪を。またふりわけ髪にてみしかきは、わかくさのことくうるはしく、おひさきたのもしきを、たくりあくらん妹をわすられすおもふとなり。弱《ワカ》草の妻といふは、あかれすめつらしくおもふ心なれは、今もまたおひそろはぬ髪によせて、めつらしくなつかしき心をそへたり
 
2541 徊徘住箕之里爾妹乎置而心空在土者蹈鞆《タチトマリユキミノサトニイモヲオキテコヽロソラナリツチハフメトモ》
 
徊徘、【別校本又云、ヤスラヒテ、古本或作2徘徊1、】  住箕、【官本、住作v往、】
 
徊徘は常にも徘徊とのみ連ねて見馴たれば古本に徘徊とあるや然るべからむ、往箕の里は八重御抄に山城の由注せさせ給へり、今按人を行見るとつゞくるにはたちとまり〔五字右○〕もやすらひて〔五字右○〕も叶はぬにや、六條校本にはたちわかれと點じたれど字に應ぜねば今取らず、されども意は叶へる事あり、下句の意も別て歸る折ともみゆれば發句は今の點を用、往箕之里をばイナミノサトと讀て播磨の印南と意得べきにや、稻見とも稻日とも將行とも書たれば往箕とも書まじきにあらず、往を住に作れるは書生の失錯なり、下句は第十二に同じきも似たるもあり、伊勢にも野にありけど心は空にてと云ひ源氏物語にもたれも/\足を空にてとかけり、
 
初、たちとまりゆきみの里に。たちとまりて又行見るといふ心につゝけたり。徘徊はやすらひてともよむへし。下の句は第十二にも
 わきもこかよとての姿みてしよりこゝろ空なりつちはふめとも
又同卷に
 立居するたときもしらすわか心あまつ空なりつちはふめとも
伊勢物語に、野にありけと心は空にてといへり。源氏物語にはたれも/\足を空にてまかてたまふ
 
2542 若草乃新手枕乎卷始而夜哉將間二八十一不在國《ワカクサノニヰタマクラヲマキソメテヨヲヤヘタテムニクヽアラナクニ》
 
(10)第十四に布流久佐爾仁比久佐麻自利《フルクサニニヒクサマシリ》とよめるは若草なれば若草ノ新手枕とは云へり、是にも亦めづらしき意を兼たり、落句を六帖にはにくからなくにと約めたれど書やうを思ふに唯今の點然るべし、
 
初、わか草のにひ手枕。第十四東哥に、新草《ニヒクサ》とよめり。その心にて、つゝけたり。又わか草はめつらしき物にてやはらかなれは、わか草のとはいへりともいふへし。第十に入野の薄といふ哥に、詩を引て注しつるかことし
 
2543 吾戀之事毛語名草目六君之使乎待八金手六《ワカコヒノコトモカタラヒナクサメムキミカツカヒヲマチヤカネテム》
 
此下句は第四坂上郎女が長歌の末にも有き、近く下にもあり、
 
2544 寤者相縁毛無夢谷間無見君戀爾可死《ウツヽニハアフヨシモナシユメニタニマナクミムキミコヒニシヌヘシ》
 
間無見君は見むと云に願ふ意あり、みえよとも讀べき歟、落句はさらずは戀死ぬべしとなり、
 
初、うつゝにはあふよしもなし。こひにしぬへしは、夢にたに見すは、戀にしぬへしとなり
 
2545 誰彼登問者將答爲便乎無君之使乎還鶴鴨《タソカレトトハヽコタヘムスヘヲナミキミカツカヒヲカヘシツルカモ》
 
初、たそかれと問は。君か使をたに今しはしとめてかたらはまほしけれと、たそかれと、人のとひあやしめむことをわひて、かへすといふ心なり
 
2546 不念丹到者妹之歡三跡咲牟眉曳所思鴨《オモハヌニイタラハイモカウエシミトヱマムマタヒキオモホユルカモ》
 
初、おもはすにいたらは。不慮にいたらはなり。まよひきは眉なり。仲哀紀に、〓の字を注していはく。〓《ロク》此(ヲハ)云(フ)2麻用弭枳《マヨヒキト》1。此集第六第十四にも見えたり
 
2547 如是許將戀物衣常不念者妹之手本乎不纒夜裳有寸《カクハカリコヒムモノソトオモハネハイモカタモトヲマカヌヨモアリキ》
 
(11)かく月日を隔てゝ人を戀べき物とも思はざりしかば怠てあはぬ夜も有たるとよめり、、第十二に世《ヨノ》間に戀繁けむと念はねば君が手本をまかぬ夜も有き、同じ意なり、六帖雜思に入る、又手枕に妹が手枕まかぬ夜もありきとて人丸の歌とす、
 
初、かくはかりこひむものそと。これほと月日をへたてゝ、人をこひむ物そともおもはさりしかは、おこたりてあはぬ夜もありしがくやしきといふ心なり。第十二にも
 世の中にこひしけゝむとおもはねは君かたもとをまかぬ夜もありき
第七に、わかせこをいつちゆかめとさきたけのそかひにねしく今しくやしも。此挽哥は此の悔のかきりなり
 
2548 如是谷裳吾者戀南玉梓之君之使乎待也金手武《カクタニモワレハコヒナムタマツサノキミカツカヒヲマチヤカネテム》
 
初、かくたにも我はこひなむ。戀南とはかきたれとも、祈?《コヒナム》なり。かくまてさへ君にあはさせたまへと、我は神にもこひのむに、あふことこそなからめ。君かたまつさをもてくる使をさへ待やかねてむといふ心なり。第三に、坂上郎女が祭(ル)v神(ヲ)歌に、しゝしもの、ひざおりふせて、たをやめが.あふひとりかけ、かくだにも、われは祈奈牟《コヒナム》。君にあはしかも。反哥に
 ゆふたゝみ手にとりもちてかくたにも我は乞甞《コヒナム》君にあはしかも
日本紀に?の字の外、請罪とも、叩頭ともかきて、のむとよめり。これらは罪科を謝する心なり。?はまさしくいのるなり。那と能と五音相通なれは、なむはのむなり。呑と甞とも和語のもとはかよへるなるへし
 
2549 妹戀吾哭涕敷妙木枕通而袖副所沾《イモコフトワカナクナミタシキタヘノマクラトホリテソテサヘヌレヌ》
 
木枕通而は第四に枕をくゝる涙とよめるに同じ、今按木の字あればコマクラトホリテと讀べきか、若二字引合せてマクラとよまば、異本を注するに枕通而と云べからねばなり、
 
或本歌云|枕通而卷者寒母《マクラトホリテマケハサムシモ》
 
2550 立念居毛曾念紅之赤裳下引去之儀乎《タチテオモヒヰテモソオモフクレナヰノアカモスソヒキイニシスカタヲ》
 
舒明紀云、立思矣居思矣、未(タ)v得2其理1、居毛曾のてにをはは立ても居ても念ふと云に曾は決定の詞を加ふるなり、かへりもぞする葛のうら風、忍ぶる事の弱りもぞするな(12)どよめるには替れり、下引は六帖裳の歌に入れたるも新勅撰にも別校本にも皆たれひきとあり、源氏眞木柱に赤裳たれ引いにしすがたをとにくげなる古言なれど、御ことぐさに成てなむながめさせ給ひけるとかけるも此歌の事なり、されど今の點よければ他を取らず、第六云、赤裳須素引《アカモスソヒク》、第九云、赤裳數十引、此等の例證かぞふるにいとまなし、
 
初、立ておもひ居てもそおもふ。上に注せり。あかもすそ引は、源氏物語眞木柱に、あかもたれひきいにし姿をとにくけなるふることなれと、御ことくさになりてなんなかめさせたまひけるとかけるは此哥なり。下引を昔はたれひきとよみけるか、式部か空におほえてたかへける歟
 
2551 念之餘者爲便無三出曾行之其門乎見爾《オモフニシアマリニシカハスヘヲナミイテヽソユキシソノカトヲミニ》
 
發句のし〔右○〕次句のに〔右○〕共に助語なり、六帖に思ふと云題に入れたるには發句おもひにしとあれど、上に此二句有し歌も今の點と同じき上、思ふに餘ると云べし、念ひに餘るとは云べからざる歟、又六帖に家の歌とせるには人丸とて落句いへのあたり見にあとあり、
 
2552 情者千遍敷及雖念使乎將遣爲便之不知久《コヽロニハチヘニシクシクオモヘトモツカヒヲヤラムスヘノシラナク》
 
敷及、【別校本又云、シキシキ、】
 
2553 夢耳見尚幾許戀吾者寤見者益而如何有《ユメニノミミテスラコヽタコフルワレハウツヽニミテハマシテイカナラム》
 
(13)2554 對面者面隱流物柄爾繼而見卷能欲公毳《ムカヘレハオモカクレスルモノカラニツキテミマクノホシキキミカモ》
 
逢へば恥かゞやきて面隱する物から繼《やが》て見まくほしきとなり、第十二に誰有香相有時左倍面隱爲《タレナルカアヘルトキサヘオモカクレスル》、白居易九、琵琶行(ニ)云、猶抱(チ)2琵琶1半|遮《サシカクス》v面、
 
初、むかへれはおもかくれする。まさしくあへははつかしくて、さしうつむき、あるひはかほをそはめて、おもかくしする物から、あはされはやかて打つゝきてみまくほしき者君なといふなり。白居易か琵琶引(ニ)曰。猶抱(テ)2琵琶(ヲ)1半(ハヽ)遮《サシカクス》v面(ヲ)。此集第一に、伊勢の隱野をいふとてよひにあひて朝《アシタ》おもなみ、かくれにかといひ、第八にもよひにあひて朝かほはつる隱野とよめり。此おもかくれなり
 
2555 旦戸遣乎速莫開味澤相目之乏流君令夜來座有《アサトヤリヲハヤクナアケソアチサハフメノホルキミカコヨヒキマセル》
 
發句は朝の遣戸《ヤリト》をなり、目之乏流君とは見る事のほしき君なり、乏をホルとよめるはともしき物は欲き故なり、今を令に作れるは書生の誤なり、
 
初、あさとやりをはやくな明そ。朝にやり戸をあくる音のくるしけれは、早く明るなといふなり。めのほる君は、めのほりする君にて、見のほしき君なり。今を誤て令に作
 
2556 玉垂之小簀之垂簾乎徃褐寐者不眠友君者通速爲《タマタレノコスノタレスヲユキカチニイオヲハネヽトモキミハカヨハス》
 
徃褐、【六帖云、ユキカテニ、官本同v此、】
 
腰句は六帖の如く讀べし、今の點の意は簾の鳴らむ事を思ひ侘て我は出て往がてにて、さりとて打も眠らねど、君が通ひ來るをば制せずして通はしむとや、聞わきがたし、今按下句をイヲバネズトモ君ハカヨハセと讀べし、往がてには來がてにの意なり、來るを往と云こと上に度々云が如し、たとひ簾を揚て來がてにして諸友に寢ずとも實に我を思ふ心あらば通ひ來よとなり、
 
初、玉たれのこすの。今の點の心は、簾をあくる音せは、人に聞つけられて、とかめられむことをわひて、我は出てゆきかてにして、さりとていをはねゝとも、その簾をあげてくる人は、かよはしむるとや。下の句を、いをはねすとも君はかよはせと讀へし。心はゆきかてには、かなたの人になりて、こなたへくるをいふ。簾の音せんことをおそれて、我もとにきかねて、たとひもろともにぬることはなくとも、おもふとならは、かよひこよといへるなり。これなるへし
 
(14)2557 垂乳根乃母白者公毛余毛相鳥羽梨丹年可經《タラチネノハヽニマウサハキミモアレモアフトハナシニトシハヘヌヘシ》
 
六帖におやと云にも亦年經てと云にも此を入れたるに母をおやとよめり、凡垂乳根乃と云ひて母とつゞけたるをば皆おや〔二字右○〕とよめり、今の本には皆はゝと點ぜり、第三赤人の歌に父母とかけるをはおやと點ず、おや〔二字右○〕は父にも母にも亘る詞なれば通ずる中の一邊を取て母をおやとよむ事、理なきにはあらねど、垂乳根乃と云につゞく時は必母の字をかきて、親とも父ともかゞず、其上第五に熊凝を慟て憶良《オクラ》のよまれたる歌に多羅知斯夜波波何手波奈例《タラチシヤハヽガテハナレ》云々、集中の例數ふべからず、別名を捨て※[手偏+總の旁]名をのみ取べからず、殊に父をおきて母とのみ云へるには意ある事多し、依て母をおやとよめるをば今取らず、白者をも年經て云と云に入れたるにはかたらばとあれと叶はず、おや〔二字右○〕と云に入れたるにはまかせてとあるは改ためたるか、又年ハ經ヌベシと云は母にかくと申さば制せられて年をへぬべしと、末をこそ云ひたるを年經て云ひ渡りたる歌とせるは不審なり、
 
初、たらちねのはゝにまうさは。上に母にさはらはといふ哥にこれを引り。孟子曰。萬章問曰。詩云娶(ルコト)v妻如之何。必告2父母(ニ)1。信(ニ)斯(ノ)言也。宜v莫(ル)v如《シクハ》v舜。々之不(シテ)v告而娶(ルコトハ)何(ソ)。孟子(ノ)曰。告(ハ)則不v得v娶(ルコトヲ)。男女居(ルハ)v室(ニ)人之大倫(ナリ)。如《モシ》告(ハ)則廢(シテ)2人之大倫(ヲ)1以|?《アタトセン》2父母(ヲ)1。是(ヲ)以不v告也。今の哥此心をもては見るへからされとも.おもひ出るまゝに書つく。和漢おなしからさる事あり。かなたの文になつむへからす
 
2558 愛等思篇來師莫忘登結之※[糸+刃]乃解樂念者《ウツクシトオモヒニケラシワスルナトムスヒシヒモノトクラクオモヘハ》
 
我を忘てあだし人の爲に解なとて君が結びし我下紐のおのづからとくるは我を(15)うつくしみて常に思ひけるにこその意なり、篇はひむ〔二字右○〕の音を丹波《タニハ》難波の例に用て思篇《オモヒニ》と添へてかけり、今按へむ〔二字右○〕の音を播磨などの例に用てオモヘリケラシとも讀べきか、
 
初、うつくしと。思篇來師。おもひにけらしとよめるは篇を比牟の音を用て、難波《ナニハ》丹波《タニハ》の例に比爾とつかへりと心得たるなるへし。今おもはく。おもへりけらしと讀むへし。遍の音を取て播磨《ハリマ》なとの例に准するなり
 
2559 昨日見而今日社間吾妹兒之幾許繼手見卷欲毛《キノフミテケフコソアヒタワキモコカコヽタクツキテミマクホシカモ》
 
幾許、【六帖云、ココハク、】
 
第二の句定家卿の花こそあるじ誰を待らむとよみたまへるやうに、今日社問なれと意得べし、句絶なり、欲毛はホシキモと讀べし、
 
初、きのふみてけふこそあひた。あひたなれといふ心に心得て、こゝにて句とすへし。欲毛はほしきもとよむへし。毳をこそかもとよめ
 
2560 人毛無古郷爾有人乎愍久也君之戀爾令死《ヒトモナクフリニシサトニアルヒトヲメクヽヤキミカコヒニシニセム》
 
古郷、【校本、古作v故、】
 
後の人〔右○〕はみづから云へり、令死は六帖にも今の點の如くあれど令の字に叶はず、シナセムと讀べし、歌の意はひとめもなき故郷に唯君が音づるゝを憑む事にてある我を問も來ずしてかはゆけに戀死なせむやとなり、
 
初、人もなくふりにしさとに。有人といへる人はみつから我をいへり。めくゝは、こゝにては俗にいふかはゆげにといふ心に見るへし。令死はしなせむなり。哥の心は、人めもなきふるさとに、たゝ君か音つるゝをたのむ事にてある我を、問もこすして、かはゆけにこひしなせんものかとなり
 
2561 人事之繁間守而相十方八反吾上爾事之將繁《ヒトコトノシケキマモリテアヘリトモヤヘワカウヘニコトノシケケム》
 
(16)繁間守而は繁間を守てなり、繁を間守而と云にはあらず、八反吾上爾は吾上に八重《ヤヘ》にと云なり、
 
2562 里人之言縁妻乎荒垣之外也吾將見惡有名國《サトヒトノコトヨセツマヲアラカキノヨソニヤワカミムニクカラナクニ》
 
里人とは多くの人の意なり、言縁妻とは下に名耳所縁之内妻波母《ナニノミヨセシウチツツマハモ》とよめる如く、夫妻のやうに云ひなすなり、外也をばホカニヤと讀べし、第十七云、安之可伎能保加爾母伎美我余里多多志《アシカキノホカニモキミカヨリタヽシ》云々、此を例證とす、言縁妻得なるに依て彌近よりがたければ、嫌はしう思ふ意はあらねどせむ方なく垣の外よりよそめにや見むとよめるなり、垣穗成人ことゝ讀たれば荒垣之外也と云へるに其意もこもるべし、
 
初、里人のことよせ妻を。里人とはおほくの人の心にいへり。ことよせ妻とは.下に名にのみよせしこもりつまはもとよめり。此名にのみよするといふにおなし。我と人とを夫妻のやうにいひなすなり。あらかきのよそにやわかみむとは、いひさはかれていとゝちかよりかたきなり。きらはしくおもふゆへによそに見るにはあらすとことはるなり
 
2563 他眼守君之隨爾余共爾夙興乍裳裾所沾《ヒトメモルキミカマニ/\ワレトモニツトニオキツヽモノスソヌレヌ》
 
夙、【校本云、ハヤク、】  所沾、【六帖云、ヌラス、】
 
2564 夜于玉之妹之黒髪令夜毛加吾無床爾靡而宿良武《ヌハタマノイモカクロカミコヨヒモカワレナキトコニナヒキテヌラム》
 
第十五に奴波多麻能伊毛とつゞく、今のつゞきも其意歟、但是は黒髪を云はむ爲なるべし、令は今に改たむべし、
 
初、ぬは玉のいもかくろかみ。下のなひきてぬらんは、上の黒髪によせて、たをやかなる身の、うるはしく玉藻なとの浪になひきたることくしてふすをいへり
 
(17)2565 花細葦垣越爾直一目相視之兒故千遍嘆津《ハナクハシアシカキコシニタヽヒトメアヒミシコユヱチヘニナケキツ》
 
此發句六帖に物をへだてたると云に入れたるには、くさほそきとあり、別校本に或は花を草に作てくさほそしと點ぜるを思へば、六帖も草細とある本を見たりけるなり、或ははなはそきと點ぜるもあり、或ははなたへのと點ぜるもあれど皆わろし、今の點を正義とす、允恭紀に天皇御歌云、波那具波辭《ハナクハシ》、佐區羅能梅涅《サクラノメデ》云々、此御歌の發句と同じ、橘を香細《カクハシ》と云如く蘆花の白くうるはしきをほむる意に云へり、
 
初、花くはしあしかきこしに。花くはしは、蘆の花をほむる詞なり。允恭紀に、天皇衣通姫の御許にみゆきせさせたまひ、櫻を御覽してよませたまへる御哥に、波那具波辭《・花細》、佐區羅能梅涅《・愛》、許等梅涅麼《・異感》、波椰區波梅涅孺《・早不感》、和我梅豆留古羅《・吾感愛兒等》
 
2566 色出而戀者人見而應知情中之隱妻波母《イロニイテヽコヒハヒトミテシリヌヘシコヽロノウチノコモリツマハモ》
 
下句は第八に情妻とよめるに同じ、
 
2567 相見而者戀名草六跡人者雖云見後爾曾毛戀益家類《アヒミテハコヒナクサムトヒトハイヘトミテノチニソモコヒマサリケル》
 
見後爾會毛は毛を捨て意得べし、上の人丸集の歌に中中不見有從《ナカ/\ニミザリシヨリモ》と有しに同じ意なり、
 
初、あひみてはこひなくさむと。みて後にぞものもは助語なり。これはあひみての後の心にくらふれはといふ哥の心におなし
 
2568 凡吾之念者如是許難御門乎退出米也母《オホヨソニワレシオモハヽカクハカリカタキミカトヲタチイテメヤモ》
 
退出米也母、【六帖云、マカリイテメヤモ、別校本同v此、】
 
(18)吾之の之は助語なり、難きは出る事の易からぬなり、延喜式第十六、左右衛門式云、凡黄昏之後出2入内裏1、五位已上稱v名、六位已下稱2姓名1、然後聽v之、其宮門皆令2衛士炬1v火(ヲ)、閤門亦同、
 
初、おほよそに我し。かたきみかどゝは、禁裏の門は出入やすからぬをいへり。延喜式第十六、左右衛門式云。凡黄昏之後出2入(セハ)内裏(ニ)1、五位已上(ハ)稱v名(ヲ)六位已下(ハ)稱2姓名(ヲ)1、然(シテ)後|聽《ユルセ》v之(ヲ)。其宮門皆|令《シメヨ》2衛士(ヲシテ)炬《タカ》1v火(ヲ)。閤門(モ)亦同
 
2569 將念其人有哉烏玉之毎夜君之夢西所見《オモセケムソノヒトナレヤヌハタマノヨコトニキミカユメニシミユル》
 
將念、【官本云、オモヒケム、】
 
發句の今の點は書生の失錯なり、我思ひけむ其人なればにや夜毎に君が夢に見ゆるとなり、夢ニのし〔右○〕は助語なり、
 
初、おもひけむその人なれや。此おもひけむは、わか人をおもふにても、又人のわれをおもふにても有へし
 
或本歌云|夜晝不云吾戀《ヨヒルイハスワカコヒワタル》
 
2570 如是耳戀者可死足乳根之母毛告都不止通爲《カクシノミコヒハシヌヘシタラチネノハヽニモツケツヤマスカヨハセ》
 
カクシのし〔右○〕は助語なり、
 
2571 大夫波友之驂爾名草溢心毛將有我衣苦寸《マスラヲハトモノソメキニナクサミチコヽロモアラムワレソクルシキ》
 
驂爾、【官本又云、サワキニ、】  名草溢、【官本又云、ナクサムル、】
 
驂は此歌にては昔よりソメキとよめる歟、袖中抄にも今の點と同じく見えたり、さ(19)ど他處にはサワグと讀たれば今も然讀べきか、そめきと云詞は古語に見及ばざれば新語なるべし、名草溢をナクサミチと點ぜるは、溢の字盈也餘也と注したれば字に付ては叶へども詞に付て義なし、此歌は第四に丈夫もかく戀けるをたをやめの戀る心にならへらめやもとよめるに似たり、男は物思へど友どちの交に何くれと紛て慰さみても過るを深閨に獨居る我思ひはやる方なく苦しきとなり、
 
初、ますらをは友のそめきに。そめきはさはきなり。溢はあふるゝなれは、もるともよむ歟にて、なくさもるなるへし。漏の字を借てかける所あり。おとこは物おもへと、友とちのましはりに、何くれとまきれても過るを、深閨にひとり居る我おもひは、やるかたなく苦しきとなり。第四に
 ますらをもかくこひけるをたをやめのこふるこゝろにならへらめやも
驂。倉含切。驂馬也。そめきとよむへきやういまたかんかへす。驟をあやまれる歟。驟(ハ)奔(ナリ)也。もし騷歟。騷(ハ)動(ナリ)也
 
2572 僞毛似付曾爲何時從鹿不見人戀爾人之死爲《イツハリモニツキテソスルイツクニカミヌヒトコヒニヒトノシヽスル》
 
何時從鹿、【六帖云、イツヨリカ、別校本又點同v此、】  死爲、【官本云、シニスル、】
 
是は唯聞渡りてまだ見ぬ人にかくては戀死ぬべしと云へる時に返事によめる意なり、初二句は第四に家持の坂上大孃に贈らるゝ歌にも見えたり、三句、六帖にいつよりかとあるは何の代よりかなり、
 
初、いつはりもにつきてそする。人のしにする、第四にも
 いつはりも似つきてそするうつしくもまことわきもこ我にこひめや
 
2573 情左倍奉有君爾何物乎鴨不云言此跡吾將竊食《コヽロサヘマタセルキミニナニヲカモイハスイヒシトワカヌスマハム》
 
奉有、【別校本云、マツレル、】
 
心をも參らする程の君なれば何か云ひたる事を云はずと云ひ、云はぬ事を云ひたりと我ながら詞を盗みて君を欺むかむやとなり、落句は下にも吾竊|舞師《マヒシ》とあるに(20)同じやうなるを、今按將竊食の三字を僻名に記する時食の字の用やうおおぼつかなし、食v言と云事あればヌスハマムと讀て言を竊み言を食むやと意得べき歟、
 
初、こゝろさへまたせる君に。心さへは心をそへてといふ心なり。またせるはたてまつるなり。下にも、心をし君にまたすとおもへれはとよめり。しかれは我身を君に奉るはもとよりの事にて、心さしをもともによせたるほとの君なれは、何かいつはりをは申さんそとなり。いはぬことをいひたりといひ、又いひたることをもいはぬなといふは、我なから詞をぬすみて、人をあさむくなり。さやうのいつはりは我はいはすとなり
 
2574 面忘太爾毛得爲也登手握而雖打不寒戀之奴《オモワスレタニモエスヤトタニキリテウテトモコリスコヒノヤツコハ》
 
不寒、【幽齋本、寒い或作v塞、】
 
發句より第二句へ移るわたりは第九處女墓をよめる歌の反歌に語繼可良仁文幾許戀布矣《カタリツクカラニモコヽタコヒシキヲ》云々此に似たり、得爲也は得て爲るやなり、第十二に旅宿得爲也《タヒネハエスヤ》ともよめり、此集の後はえせぬえせじなどやうにのみ聞なれて失たる詞つかひなり、不寒は凝と凍《コホル》と通へる詞なるに、寒ければ水の凝て氷と成、日寒からぬ時は凝らざれば、此義を以て不懲と云に借用たる歟、若は塞に作れる正字にてサハラズと讀べきか、戀の奴は俊頼朝臣の慕ひ來る戀の奴とよまれたるは戀の身を離れずして我に從がふを奴に喩へたりと意得られたる歟、歌林良材集には戀につかはるゝ意なりと注したまへり、此の集に戀の奴とよめる歌三首あり、一首は今の歌、一首は第十二にあり、一首は第十六にあり、引合せて意得るに萱草を鬼志許草《オニノシコグサ》とよめる如く戀を罵て賤しめ呼詞なり、奴やうの者は物のことわり知らねば教へ難きが故に、戀も思はじ(21)とすれど思はれ、忘れむとすれど忘れがたく、萬に制しがたければ云なるべし、拳を握て打ども耻なくてこりぬやうに、又葬送の時など哀を泄《モラ》さむがために胸を打如く、餘りに物を思ひ餘る時は、今よりはかゝる用なき物思ひはせじなど濁|言《ゴト》して、拳をもて疊などをも打ぬべし、さる態《ワザ》するを戀の奴を打とよめる歟、
 
初、おもわすれたにも得すやと。上にも、おもわすれいかなる人のする物そとよめり。得すやは、得てするやなり。第十二にも、たひねはえすやとよめり。此集の後はなき詞つかひなり。えせぬえせしなとやうにのみきゝなれたり。戀のやつこはふたやうにいへり。戀に身のつかはるゝとて、我ことをもいへり。またいつくにゆけとも、戀は身をはなれすして、我にしたかひくる心にて、戀を奴といふなり。今案、只いやしきものを、やつ原といふことく、戀を罵ていやしめよふ詞にや。いやしきものは、物のことはりしらねは、をしへかたきかことく、戀もおもはしとすれはおもはせ、わすれむとすれと、わすれかたく、よろつに制しかたけれはの名にや。手にきりてうてともこりすといふは、いやしきものゝはちをしらぬ心なるへし。第十六に穗積皇子の御哥あり
 家にありしひつにざうさしおさめてし戀のやつこのつかみかゝりて
第四に廣河女王哥に
 戀は今はあらしと我はおもひしをいづこの戀そつかみかゝれる
これはたゝいやしき奴の、ことはりなく、人につかみかゝるやうなり。又第十二に
 ますらをのさとき心も今はなし戀のやつこに我はしぬへし
これはさきの二説の中には、戀につかはるゝ心とはいふへし。後の説はすこしうとくや。神武紀に、五瀬命|孔舍衛《クヽサヱノ》戰に手を負たまひて、茅渟《チヌノ》山|城水門《キノミナト》にして矢瘡《イタヤクシノキス》いたみ給ふ事はなはたしき時、太刀の柄を握てのたまはく。慨哉大丈夫被v傷2於虜手1將不v報而死耶《ウレタキカヤマスラヲニシテイヤシキヤツコノテヲオヒテムクヒスシテヤミナムト云》第十二の哥も此心なれは、戀をいやしき奴と罵ていふなり。景行紀には、賤々とかきていやしきやつことよめり。不寒は、寒けれは水のこほるなり。氷と凝とおなし心なれは、心を得てかり用たるなり。正字は不v懲なり
 
2575 希將見君乎見常衣左手之執弓方之眉根掻禮《マレニミムキミヲミムトソヒダリテノユミトルカタノマユネカキツレ》
 
此歌第二句の衣と落句の終の禮と、てにをは違へり、六帖に君見むとこそとあるは能叶へ君乎見常己衣《キミヲミムトコソ》など有けむこ〔右○〕もじの落たるにや、されど第七第十八にも此てにをはあれば古風の意知がたし、執弓方は今も左の方を弓手《ユムデ》と云ひ習へり、
 
初、まれにみむ君を。弓とる方は、今も左を弓手《ユムテ》といふこれなり。眉かゆみなとこそよみたるを、それは惣していひて、まことには、左のまゆのかゆきが人にあふへき相にこそ申ならひて侍けめ。君をみむとそといひて、まゆねかきつれは、てにをはたかへるは、禮と留と通する心歟。第七に
 みわたせはちかささとわをたもとほり今そわかくれひれふりし野に
此注に今そは今こそなりけるを、許の字なとのおちけるにやと申せしは、此哥をいまた見付さりしほとの事なり。留と相通する心ならねと、昔の人の心には、てにをはたかはぬゆへもや侍りけむ。此外にも、にこれるはもし、又ならなくにといふ詞のたかへるやうなるあまた侍り。ともにすてに申つ
 
2576 人間守蘆垣越爾吾妹子乎相見之柄二事曾左太多寸《ヒトマモルアシカキコシニワキモコヲアヒミシカラニコトソサタオホキ》
 
發句は人間を守なり、舒明紀には間の一字をヒトマとよめり、間道など此意なり、古今に梅を貫之のいつのひとまにうつろひぬらむとよまれたるも此なり、左太は此ころの意なり.下に此左太過而ともよめり、源氏に中比と云意を中さたと云へり、
 
初、ひとまもりあしかきこしに。舒明紀には、間の字のみをもひとまとよめり。人のなき間なり。間道なと此心なるへし。古今集に貫之の梅の花の哥にも、いつの人まにうつろひぬらむとよめり。ひとまもるとよめるはわろし。さたは比といふ心なり。さたの浦のこのさた過てと後にあるもおなし。人言を此ころおほきといへるなり。源氏物語に中比といふことをなかさたといへり
 
2577 今谷毛目莫令乏不相見而將戀年月久家眞國《イマタニモメナトモシメソアヒミステコヒムトシツキヒサシケナクニ》
 
(22)令谷、【幽齋本、令作v今、】
 
令は書生の誤なり、久家莫國は久しからなくにの意なり、涙の瀧と何れ高けむなどよめるも何れ高からむの意なるが如し、此歌は程なく相見ざらむ事の由あるを互に知てよめるなるべし、
 
初、今たにもめな。今を誤て令に作れり。こひむ年月久しけなくには.久しからなくにといはむかことし。たとひ目にはあくまてみるとも、逢ことなくは、こひむ年月のいくはくもなくてこひしぬへけれは、せめて今のほとたにめにもみせよとなり
 
2578 朝宿髪吾者不梳愛君之手枕觸義之鬼尾《アサネカミワレハケスラシウツクシキキミカタマクラフレテシモノヲ》
 
拾遺集は人丸集にあるに依て作者を付らる、
 
初、朝ねかみわれは。君か手ふれしあさね髪なれは、けつりてあらためしとなり。義《テ》、鬼《モノ》、鬼物なり。日本紀に邪鬼をあしきものとよめり
 
 
 
 
 
2579 早去而何時君乎相見等念之情令曾水葱少熱《ハヤユキテイツシカキミヲアヒミムトオモヒシコヽロイマソナキヌル》
 
令曾、【幽齋本、令作v今、】
 
令は今に改たむべし、イツシカのし〔右○〕は助語なり、少熱は湯より出たる義訓なり、
 
初、はやゆきていつしか なきぬるとは、逢見れはなり。今誤て又令に作れり。少熱は、湯のいまたよくわかぬ義にてかりてかけり。神代紀には弱の字をぬるしとよめり
 
2580 面形之忘戸在者小豆鳴男士物屋戀乍將居《オモカタノワスルトナラハアチキナクヲノコシモノヤコヒツヽヲラム》
 
發句をオモカケノと點ぜるは誤なり、第十四云、於毛可多能和須禮牟之太波《オモカタノワスレムシタハ》云々、今の字に依り此例證に依てオモカタノと讀べし、忘戸在者は忘らるゝ物ならばなり、小豆嶋は文選古詩に無爲をアヂキナシと讀たればすべなきと云に同じ意なり、小(23)豆は上にたらちねを足常とかける如く今も知と豆とを通はして借れり、男士物は男士を引合てをのこにてし〔右○〕を助語に讀付たるにはあらず、士をじ〔右○〕に當てかけり、第二に男自物《ヲトコジモノ》、第三に雄自毛能《ヲトコジモノ》とかけり、凡そ鳥自物《トリジモノ》伊奴時母能《イヌジモノ》など皆濁音の字を書たれば、四志等の字を助語に添へたるには異なり濁て讀べし、
 
初、おもかたのわするとならは おもかけのとよめるは誤なり。第十四東哥にも、おもかたとよめり。わするとならはゝ、わすらるゝ物にてあらはの心なり。あちきなくは、文選古詩に無爲をあちきなしとよめれは、すへなきといふとおなしく、せんかたなきなり。日本紀には無端、無状をあちきなしとよめり
 
2581 言云者三三二田八酢四小九毛心中二我念羽奈九二《コトニイヘハミヽニタヤスシスクナクモコヽロノウチニワカオモハナクニ》
 
言は意を盡さぬ習なれば死ぬばかり思ふ事も云ひ出づれば人の耳には輒く聞ゆるなり、腰句以下は上に見えたり、
 
初、言にいへは耳にたやすし 言(ハ)不v盡v意(ヲ)といへることく、しぬはかりおもふ事も、いひ出れは他《ヒト》の耳にはたやすく聞ゆるなり。和泉式部か哥にや
  こひしともいはゝはしたになりぬへしなきてそ人にみすへかりける
 
2582 小豆奈九何枉言令更小童言爲流老人二四手《アチキナクナニノマカコトイマサラニワラハコトスルヲヒヒトニシテ》
 
令更、【幽齋本、令作v今、】
 
老人にしてあぢきなく今更にわらは言するは何の枉言ぞとなり、此は左太過たる人の人を戀て、其由をきかせて後みづから身を顧て、童の遠慮もなく物云やうに齡の程をも思はずしてわかく/\しき事をも云ひ出づるよと侮る意歟、或は老人に物云ひ懸られて厭ふ意によめる歟、
 
初、あちきなく何のまかこと 今亦誤作令。何のまかことゝは、わか人にこひしきよしをいふを、みつからかへりみて罵詞なり。老人となりても、身をわすれて、わく/\しく、わらはへの遠慮もなきやうに、まとふ心から、いひ出れは、まかことゝはいへり。まかことは第二に尺せり
 
(24)2583 相見而幾久毛不有爾如年月所思可聞《アヒミテハイクヒサシサモアラナクニトシツキノコトオモホユルカモ》
 
幾久毛、【拾遺集、人丸集、六帖並云、イクヒサヽニモ、】  所思、【官本、思作v念、】
 
第四に坂上郎女歌云、相見而者幾毛不有國幾許吾者戀乍裳荒鹿《アヒミテハイクヒサシサモアラナクニコヽハクワレハコヒツヽモアルカユルカモ》、此歌を以て今の上句を思ふに發句の意相見て後はと意得るにたがはぬと云へども、不の字落て、點のて〔右○〕もじは濁て不の字の假名にや、相見而と書て、は〔右○〕の字を讀付たるも疑がはし、六帖には日ころへたてたると云に入れて人丸の歌とす、
 
2584 丈夫登念有吾乎如是許令戀波小可者在來《マスラヲトオモヘルワレヲカクハカリコヒセシムルハウヘニサリケル》
 
小可者在來、【幽齋本云、ウヘニハアリケリ、】
 
落句は第七に少可者有來をスクナカリケリと點ぜるを今の歌を引て證して、ウヘニハアリケリと讀べき由申つるに同じ、今の點字に當らざれば幽齋本に依るべし、我はますらをなりと思ひあがれるを、底にとほれるますらをにあらぬ事を知らせるとて君が我に戀せしむるはことわりにて、げにぞさとき心も失てはかなく戀しかりけるとなり、
 
初、ますらをとおもへる我を 我はますらをなりとおもひあかりて、※[立心偏+喬]慢の心あるを、底にとほれるますらをにあらぬ事をしらせむとて、君が我にこひせしむるは、ことはりにて、げにぞさとき心もうせて戀しきといへり。諾をむへとよめり。諾は小可の心あれは、心を得てかけり。うへにざりけるはうへにぞありけるなり。増阿(ノ)切坐なれは、つゝめてかくいへり。延喜天暦の間かくよめる哥おほし
 
(25)2585 如是爲乍吾待印有鴨世人皆乃常不在國《カクシツヽワカマツシルシアラムカモヨノヒトミナノツネナラナクニ》
 
常不在國、【官本云、ツネナラナクニ、】
 
初、かくしつゝわか待しるし 人の心とけて、あふことありやと待かひのあらむかもなり
 
2586 人事茂君玉梓之便不遣忘跡思名《ヒトコトヲシケクテキミニタマツサノツカヒモヤラスワスルトオモフナ》
 
2587 大原古郷妹置吾稻金津夢所見乞《オホハラノフリニシサトニイモヲオキテワレイネカネツユメニミエコソ》
 
古郷、【幽齋本、古作v故、】
 
第二に天武天皇の和歌にも大原の古にし里とよませ給へり、に〔右○〕は助語なり、
 
初、大原のふりにし里 大和なり。第二に天武天皇の御哥にも、大原のふりにし里とよませたまへり。委そこに注せり。第四にも見えたり。頼政卿の
  山しろのみつのゝ里に妹を置ていくたひよとの舟よはふらん
これは今の哥をおほえてやよまれ待けむ
 
2588 夕去者公來座跡待夜之名凝衣令宿不勝爲《ユフサレハキミマスカトマチシヨノナコリソイマモイネカテニスル》
 
公來座跡、【幽齋本云、キミキマスヤト、】  令、【校本或作v今、】
待シ夜ノナゴリとは待弱りて後も忘られずして猶問や來ると心に懸りて寢られぬなり、第十二にも腰句以下大かた似たる歌あり、
 
初、夕されはきみ まちし夜のなこりとは、待よはりてまたぬ夜もねられぬをいへり。今をまた令に作れり
 
2589 不相思公者在良思黒玉夢不見受旱宿跡《アヒオモハスキミハアルラシヌハタマノユメニモミエスウケヒテヌレト》
 
初、あひ思はすきみは うけひは祈なり。神武紀云。是(ノ)夜|自《ミ 》祈《ウケヒテ》而|寢《ミネマセリ》
 
2590 石根蹈夜道不行念跡妹依者忍金津毛《イハネフミヨミチユカシトオモヘトモイモニヨリテハシノヒカネツモ》
 
(26)念跡はオモヘレドと讀べきか、
 
2591 人事茂間守跡不相在終八子等忘南《ヒトコトノシケキマモルトアハサレハツヰニハコラカオモワスレナム》
 
終八、【幽齋本云、ツヰニヤ、】
 
不相在はアハザラバとも讀べし、終八は幽齋本の點に依べし、面忘南は我面を子等が忘れむとよめる歟、又秋胡子が久く妻にあはで面忘したるためしもあれば、妻子等が面を我見忘るゝ程にやならむとよめる歟、
 
初、つゐにはこらか 終八とかきたれは、つゐにやとよむへし
 
2592 戀死後何爲吾命生日社見幕欲爲禮《コヒシナムノチハナニセムワカイノチイクルヒニコソミマクホリスレ》
 
生日社、【古點又云、イキタルヒコソ、】
 
第四大伴百代歌に多分似たり、生日之《イケルヒノ》爲社とあるに依るに、いきたるひこそよりは今の點よし、
 
初、こひしなん後は何せん 第四大伴百代哥に
  戀しなむ後は何せんいける日のためこそ妹をみまくほりすれ
大かた似たる哥なり。遊仙窟云。生(ルトキニハ)《・メノマヘニ》前有(トモ)v日2但|爲《ナスニ》1v樂(ヲ)。死後無(ム)v春《トキ》2更著(ニ)1v人(ニ)。祗《マコトニ》可3倡2佯(トタノシクス・トホシイマヽニス)一生(ノ)意(ヲ)1。何(ヲ)須(テカ)負2持(トナヤマス・トナヤマスヘキ)百年(ノ)身(ヲ)1
 
2593 敷細枕動而宿不所寝物念此夕急明鴨《シキタヘノマクラウコキテイネラレスモノオモフコヨヒハヤアケムカモ》
 
宿不所寢はイネラエズとよみ物念はモノモフと讀べし、
 
初、しきたへの枕うこきて 上の十四葉にも、枕動てとよめり。又第十二に
  さよ更て妹をおもひてゝ敷妙の枕もそよになけきつるかも
 
2594 不徃吾來跡可夜門不閉※[立心偏+可]怜吾妹子待筒在《ユカメワレクトカヨカトモサヽスシテアハレワキモコマチツヽアラム》
 
(27)六帖に上句をゆかなくにわれくらむとかあさとあけてとあるは改たるにても朝戸明てはおぼつかなし、今按上句を又はユカナクニアラクトカヨモカドサヽデともよまるべし、古今集に君や來む我やゆかむのいざよひに※[木+皮]の板戸もさゝず寢にけり、
 
初、ゆかぬ我くとか ゆかぬ我をくるとかなり。古今集に
  君やこむ我やゆかんのいさよひにまきのいた戸もさゝすねにけり
人と我とことなれと、似たる哥なり
 
2595 夢谷何鴨不所見雖所見吾鴨迷戀茂爾《ユメニカモナニカモミエヌミユルトモワレカモマトフコヒノシケキニ》
 
2596 名草漏心莫二如是耳戀也度月日殊《ナクサムルコヽロハナシニカクシノミコヒヤワタラムツキニヒニケニ》
 
如是耳、【六帖云、カクテノミ、別校本又點同v此、】
 
或本歌云|奥津浪敷而耳八方戀度奈武《オキツナミシキテノミヤモコヒワタリナム》
 
2597 何爲而忘物吾妹子丹戀益跡所忘莫苦二《イカニシテワスルヽモノソワキモコニコヒハマサレトワスラレナクニ》
 
落句は古風に依てワスラエナクニと讀べし、
 
2598 遠有跡公衣戀流玉桙乃里人皆爾吾戀八方《トホクアレトキミヲソコフルタマホコノサトヒトミナニワレコヒメヤモ》
 
發句はトホカレドとも讀べし、玉桙乃里人とは成務紀云、五年秋九月令2諸國1以國郡(28)立2造長1縣邑置c稻置i、並賜2楯矛(ヲ)1以爲v表、邑に稻置を置て彼に矛を賜て表としける故に玉桙の里とは云にや、和名集に加賀國加賀郡玉戈【多萬保古、】此郷の名あれと今はそれにはあらず、定家卿は道の程をば一里二里など云へば玉桙の里とつゞけたるも其意歟とのたまへり、山谷が詩に從來美酒無2深巷1と作れるに此歌の意通へり、
 
初、とほくあれと つゞめてとほかれどゝも讀へし。とほくあれと、取わきて君をこふるとは、山谷か詩に、從來美酒(ニ)無(シ)2深巷1といへる心なり。玉桙の里とは、定家卿は道のほとりは、一里二里なといへは、玉ほこの里とつゝけたるも其心かと侍り。成務紀に、五年秋九|令《ノリコトシテ》2諸國(ニ)1以國郡(ニ)立造《ミヤツコ》長1縣邑《アカタムラニ》置2稻置(ヲ)1、並(ニ)賜(テ)2楯矛(ヲ)1以(テ)爲v表《シルシト》。これによれるにや。いつれにも付ぬへし
 
2599 驗無戀毛爲鹿暮去者人之手枕而將寐兒故《シルシナキコヒヲモスルカユフサレハヒトノテマキテネナムコユヱニ》
 
第十三云、鬼のしき手を指易て寢なむ君故云々、意此と同じ、
 
初、しるしなきこひをもするか 日本紀に有2何益1とかきて、なにのしるしかあらんとよめり。しるしなきはかひなきなり。人の手まきては、第十三の長哥に、おにのしき手をさしかへてねなん君ゆへあかすさすひるはしみらになとよめるに心おなし
 
2600 百世下千代下生有目八方吾念妹乎置嘆《モヽヨシモチヨシモイキテアラメヤモワカオモフイモヲオキテナケカム》
 
吾念はワガモフと讀べし、六帖にはわぎもこの題に人丸の歌とす、
 
2601 現毛夢毛吾者不思寸振有公爾此間將會十羽《ウツヽニモユメニモワレハオモハサリキフリタルキミニコヽニアハムトハ》
 
六帖に昔あへる人と云に入れたり、
 
初、うつゝにもゆめにも ふりたる君とはむかしあひ見し人なり
 
2602 黒髪白髪左右跡結大王心一乎令解目八方《クロカミノシラカミマテトムスフキミコヽロヒトツヲイマトカメヤモ》
 
令、【幽齋本、作v今、】
 
(29)結大王は第七にも玉の緒によせし歌にかく云ひかくかけり、日本紀に約の字をムスフと讀たれば髪を結ぶにちぎりを結ぶを兼たり、下句は髪を結ぶと云によせて約を變ぜむやと云意を解めやと云へり、六帖には思ひ煩ふと云に入れて、黒髪のしらくるまでとゆふきみが心のうちを今しらめやもとあり、解の字を知解の解になして讀たるは結ぶと云にかけあはず歌の意もたがひて思ひ煩ふ意となれり、次下の歌を引合せて見るべし、
 
初、くろかみのしらかみまてとむすふきみ 結はちきるなり。約の字をむすふと、日本紀によめるこれなり。それを髪によせて、もろともにしらかとなるまて、かはらしとちきる心にいへり。ゆふもむすふもおなしことなれは、むすふ君といへり。又結の字をあくとよめり。伊勢物語に、くらへこしふりわけ髪もかた過ぬ君ならすして誰かあくへきとよめるこれなり。李廣か髪を結《アケ》しょり、匈奴と大小七十餘戰すといへることあり。允恭紀には結髪をかみおくとよめり。今の哥あけしきみともよむへけれとも、下に今とかめやもといへるは、むすふにつきていへは、今の點に過ず。第三に高橋朝臣の長哥に、白たへの袖さしかへて、なひきねしわかくろかみの、ましらかになりきはまりて、あたらよにともにあらむと、玉の緒の絶しや妹と、むすひてしことははたさす云々。西京雑記卓文君白頭吟云。願(ハ)得(テ)2一心(ノ)人(ヲ)1、白頭(マテニ)不(シ)2相離(レ)1。こゝろひとつを今とかめやもとは、白髪まてとてちきりをむすひし君が、その一心を約をたかへむやなり。むすふをとくは約にそむくなり。つらき心のとくるといふにはたかへり。伊勢物語に
  ふたりして結し紐をひとりしてあひみるまては解しとそおもふ
これをおもふへし。今亦誤作令
 
2603 心乎之君爾奉跡念有者縱比來者戀乍乎將有《コヽロヲシキミニマタストオモヘレハヨシコノコロハコヒツヽヲアラム》
 
之〔右○〕は助語なり、心ヲ奉スとは上にもよめるが如し、身に心をさへ副て君に奉せつれば、心とても我心ならねば戀しくは戀しきに打任せてあらむとよめるなり、右二首は女の歌なるべし、
 
初、心をし君にまたすと 上にもこゝろさへまたせる君にとよめり。第四にも、心も身さへよりにしものをと有。哥の心はすてに身に心をそへて、君かまに/\とまいらせつれは、心とてもわか心ならねは、とはすともうらみし。こひしくはたゝこひつゝあらむとなり。かゝる心もてる人、末の世に有なんや
 
2604 念出而哭者雖泣灼然人之可知嘆爲勿謹《オモヒテヽネニハナクトモイチシロクヒトノシルヘクナケキスナユメ》
 
2605 玉桙之道去夫利爾不思妹乎相見而戀比鴨《タマホコノミチユキフリニオモハスニイモヲアヒミテコフルコロカモ》
 
不思、【古今顯注定家卿密勘云、オモハザル、】
 
(30)古今集に躬恒が歸雁の歌に白雲の道行ぶりにとよめるを顯昭注して云、道行ぶりとは行ふれなり、鳥のはふりと云もはふれなり、かさふりと云もかさふれなり、定家卿の密勘も同心にてすなはち今の歌を引給へり、妹を相見てとよめる歌の玉葉集に坂上郎女が作とて入たる不審の事なり、
 
初、玉ほこの道ゆきふりに 道ゆきさまにといはむかことし。古今集にみつねか哥にも
  春くれは鴈かへるなり白雲の道ゆきふりにことやつてまし
道行觸の心にもかよふへし。哥の心はさきにも、玉ほこの道をゆかすしあらませはかゝるこひにはあはさらましを。これにに同し。
 
2606 人目多常如是耳志侯者何時吾不戀將有《ヒトメオホミツネカクノミシマタマセハイツレノトキカワカコヒサラム》
 
侯者、【六帖云、マモラレバ、】
 
侯者は侯は候に作て六帖に依てマモラレバと讀べし、
 
2607 敷細之衣手可禮天吾乎待登在濫子等者面影爾見《シキタヘノコロモテカレテワレヲマツトアリケムコラハオモカケニミユ》
 
在濫、【六帖、アルラム、幽齋本又點同、】
 
衣手可禮天は別てより後の意なり、吾乎はワヲと讀べし、在濫をアリケムと點ぜるは濫を監にまがへたるなり、
 
初、敷細の衣手かれて 衣手かれては、別てよりの心なり。在濫は、あるらんとよむへし。ありけんのかむなによらは、在監にてありけるを、濫に誤ける歟。あるらんにつくへし
 
2608 妹之袖別之日從白細乃衣片敷戀管曾寐留《イモカソテワカレシヒヨリシロタヘノコロモカタシキコヒツヽソヌル》
 
2609 白細之袖者間結奴我妹子我家當乎不止振四二《シロタヘノソテハマヨヒヌワキモコカイヘノアタリヲヤマスフリシニ》
 
(31)マヨフは第七に注せしが如し、
 
初、白妙の袖はまよひぬ まよふは※[糸+比]の字なり。よるともいへり。古今集に蝉の羽のひとへにうすき夏衣なれはよりなん物にやはあらぬも、此よるによせたり。委は第七に麻衣肩のまよひとよめる哥に注せり
 
2610 夜干玉之吾黒髪乎引奴良思亂而反戀度鴨《ヌハタマノワカクロカミヲヒキヌラシミタレテカヘリコヒワタルカモ》
 
引奴良思は第二に多氣婆奴禮《タケバヌレ》とあるに注せしが如し、亂而反は滑らかなる髪の結あぐれど又すべりて亂やすきが如く。心を制してをさむれど又立返て亂れて戀渡るとなり、
 
初、ぬは玉の我くろかみ 引ぬらしは、引まとはしなり。第二にたけはぬれたかねはなかき妹か髪とよめり。第十四に、いはゐつらひかはぬる/\とよめるもおなし。みたれてかへりは、髪のみたるゝによせて、心のおさむれはまたみたるゝをいへり
 
2611 今更君之手枕卷宿米也吾※[糸+刃]緒乃解都追本名《イマサラニキミカタマクラマキネメヤワカヒモノヲノトケツヽモトナ
 
此歌は古今集に思ふとも戀とも逢はむ物なれや結手もたゆく解る下紐とよめるに似たるやうなれど心替れり、君が我に絶はてつれば獨こひたりとも今更に手枕を卷て寢めや、さるを吾紐の緒の逢べき前相のやうに解るが由なしとよめるなり、
 
2612 白細布乃袖觸而夜吾背子爾吾戀落波止時裳無《シロタヘノソテヲフレテヤワカセコニワカコフラクハヤムトキモナキ》
 
袖觸而夜は袖をだに觸たるや觸ざるにの意なり、
 
初、白たへの袖をふれてや 此心は、袖をたにふれたるか、袖たにふれさるにといはむかことし
 
2613 夕卜爾毛占爾毛告有令夜谷不來君乎何時將待《ユフケニモウラニモツケルコヨヒタニキマサヌキミヲイツシカマタム》
 
告有、【拾遺集云、ヨクアリ、幽齋本云、ツケタル、】  令、【幽齋本、作v今、】  何時、【六帖云、イツトカ、別校本、同v此、】
 
(32)夕占は辻占なり、占は常の占なり、共に今夜逢べしと告るなり、拾遺にうらにもよくありとあるは告を古本に吉に作りたりけるにや、令は今に改むべき事云に及ばぬ程の事なり、何時はイツトカと讀べし、拾遺にはイツカマツベキと改らる、此歌人丸集にはなし、六帖にも作者をいはねば拾遺集に人丸の歌とて入たる據を知らず、又かく夕卜《ユフケ》にも占《ウラ》にも逢べしと告たるにだに來ぬ人なれば、さてはいつ來むとかまたむと且はわび且は恨むる意なるを、六帖にまたずと云に入れたるもおぼつかなし、
 
初、ゆふけにもうらにも 告あるは、つしうらにも、また占にもあはんと告るなり。今を又誤れり
 
2614 眉根掻下言借見思有爾去家人乎相見鶴鴨《マユネカキシタイフカシミオモヘルニイニシヘヒトヲアヒミツルカモ》
 
言借は第四にもかくかけり、去家人とは上に振有むとよめるに同じ、
 
初、まゆねかき下いふかしみ いふかしみは、おほつかなきなり。又訝の字をいふかるとよむは、不審の心なり。ゆきてはおなし。いにしへ人は昔あへりし人なり。わかれて後久しくて、今あふへしとも覺えぬをもいふへし。言借は第四の三十九葉にもかけり。實方朝臣の、かくとたにゑやはいふきのさしも草といふ秀句のつゝき、是にて證すへし
 
或本歌曰|眉根掻誰乎香將見跡思乍氣長戀之妹爾相鴨《マユネカキタレヲカミムトオモヒツヽケナカクコヒシイモニアヘルカモ》
 
一書歌曰|眉根掻下伊布可之美念有之妹之容儀乎令日見都流香裳《マユネカキシタイフカシミオモヘリシイモガスカタヲケフミツルカモ》
 
初、一書哥の中、今日、令に依るは誤なり
 
(33)2615 敷栲乃枕卷而妹與吾寐夜者無而年曾經來《シキタヘノマクラヲマキテイモトワレヌルヨハナクテトシソヘニケル》
 
妹與吾、【六帖云、イモトアレト、別校本、同v此、】
 
此歌人丸集になし、六帖にも作者を云はず、新千載集人丸歌とて載られたるは未v知v所v據、
 
初、敷妙の枕をまきて 催馬樂に
  ぬき川の岸のやはら田やはらかにぬる夜はなくて親さくるつま
 
 
2616 奥山之眞木之板戸乎音速見妹之當乃霜上爾宿奴《オクヤマノマキノイタチヲオトハヤミイモカアタリノシモノウヘニネヌ》
 
妹が閨の板戸を開むとすれば音の高くて人の聞付む事を恐れ、さりとて歸りもえやらで其あたりの霜の上に一夜寢たるとなり、
 
初、奥山のまきの板戸 上にもかくよめり。音はやみは、あくれは音の高きなり。その音せむことをおそれて、あけてもえいらすして、せめても、妹かあたりの霜の上にねて歸るなり
 
2617 足日木能山櫻戸乎開置而吾待君乎誰留流《アシヒキノヤマサクラトヲアケオキテワカマツキミヲタレカトヽムル》
 
櫻戸は櫻にて作れる戸なり、誰留流とは誰か障て留て來まさしめぬとなり、六帖には戸の歌に入れたれど作者を云はず、續後拾遺に人丸の歌と定られたるは未v考v所v據、
 
初、あしひきの山さくら戸を 櫻戸は、さくらの板にてはれる戸なり。櫻戸といはむとて、あしひきの山といへるは、おく山のまきの坂戸といへる心におなし。戸をあけおきてまてともこねは、誰かとゝめてかよはしめぬそといふ心なり。曾丹集に
  君待とねやの坂戸をあけおきて寒さもしらす冬のよな/\
 
2618 月夜好三妹二相跡直道柄吾者雖來夜其深去來《ツキヨヨミイモニアハムトタヽチカラワレハクレトモヨソフケニケル》
 
初、月夜よみいもに たゝちは径なり。俗にちかみちといへり
 
寄v物陳v思
 
初、萬葉集第十一代匠記下
 
(34)2619 朝影爾吾身者成辛衣襴之不相而久成者《アサカケニワカミハナリヌカラコロモスソノアハステヒサシクナレハ》
 
襴之不相而とは襴はうはかへ下かかへ此方彼方よりあふ物なるをかく云は、布留の早田の穗には出ずと云へる如く、あふ物を借てあはぬ事を云なり、第十四にも可良許呂毛、須蘇乃宇知可倍、康波禰杼毛云々、此今と同じ、此より下八首寄v衣、
 
初、朝影にわか身はなりぬ 只影のことくになりぬといはむを、詞たらねは、朝影といへり。から衣すそのあはすてとは、衣のすそは左右より打合する物なれはなり。下かひをは、内襟といひ、うはかひをは外襟といふ。第十四東哥にも、から衣すそのうちかへあはねともとよめり。思ふ人に久しくあはぬゆへに、わか身はこひやせたりとよめるなり
 
2620 解衣之思亂而雖戀何如汝之故跡問人毛無《トキキヌノオモヒミタレテコフレトモナソナカユヱトトフヒトモナシ》
 
問人毛無、【古點云、トフヒトモナキ、】
 
第十二に此歌重ねて出たるには第四の句|何之《ナニノ》故其跡とあれば今汝之故と書たるは何故なり、六帖にはなぞなにゆゑととふ人もなしとあり、是を意得るに二つのやうあり、物を思ふは何ぞや何の故ぞやと問人通なしとみれば無をナシと讀て叶へり、何故に物思ふやともなぞ問人もなきと見れば古點にナキと點ぜる叶へり、
 
初、ときゝぬのおもひみたれて 汝は妻をさせり。問人もなしは、とふ人もなきとよむへし。我こひを、汝かゆへとなんそとふらふ人もなきやとなり
 
2621 摺衣著有跡夢見津寐者孰人之言可將繁《スリコロモキルトユメミツウツヽニハイツレノヒトノコトカシケヽム》
 
寐者、【幽齋本、寐或作v寤、】
 
著有跡は今按キタリトと讀べし、寐は書生の失錯なり寤に作るべし、列子云、藉v帶而(35)眞則夢v?、此はうつゝの事の夢に通へば夢の事のうつゝに通ふも同じかるべし、第四に笠女郎が匣を開と見つれば我思ひを人にしらすや太刀を身に副と見つるは君に逢はむためなどよめる各似つきたれば、摺衣は樣々の紋を亂れ摺物なればそれを著たりと見たらむは、他言の多からむ相なるべし、後の歌に沾衣と云事をよめるも此類なるべし、
 
初、すり衣きると夢みつ 第四に笠女郎か哥に
  我おもひを人にしらすや玉くしけひらきあけつと夢にしみゆる
  釼太刀身にとりそふと夢にみつなにのさとしそ君に逢むため
これらに准するに、摺衣はさま/\の紋をみたれする物なれは、それをきると夢みるは、他言《ヒトコト》のおほき相と、いにしへの風俗にいひけるなるへし。列子(ニ)云。藉(テ)v帶(ヲ)而寢(ルトキ)則夢(ミル)v※[虫+也](ヲ)。これを思ふへし
 
2622 志賀乃白水郎之塩燒衣雖穢戀云物者忘金津毛《シカノアマノシホヤキコロモナルトイヘトコヒテフモノハワスレカネツモ》
 
雖穢、【續古今云、ナルレドモ、紀州本云、ナレヌレド、】  白水郎、【古本作2泉郎1、】
 
相語らひて年久しくなれど飽ぬ由をよめり、此歌人丸集、
 
初、しかのあまのしほやき衣 わか身のふりゆくことを塩やきゝぬのきならしたるにたとふるなり。雖v穢はなるれとも共よむへし。又塩やき衣は、唯なるれともといはむためにて、なるるはよろつの事身はならはしの物なれと、戀といふことはかりは、なれてもわすれかたきとよめる歟
 
2623 呉藍之八塩乃衣朝旦穢者雖爲益希將見裳《クレナヰノヤシホノコロモアサナサナナレハスレトモマシメツラシモ》
 
六帖衣の歌に發句をからあゐのとて入る、幽齋本の又の點も同じけれどからは三韓より唐をもかけて云ひ、くれは呉國を云へば、からとくれと異なり、紅花は呉國より出て物を染る事藍の如くなれば呉藍と云、からあゐは此卷下に鷄冠草とかけり、本來別の草にして呉の字も亦から〔二字右○〕と讀例なければ誤なれど、昔より習ひ來れり、然れば今の本にては取むされと知つゝ舊きに依る習をば遮るにあらず、朝旦は日毎(36)にの意なり、益希將見裳は今按マシメヅラミムモと讀て行末をかくべし、然らざれば將見の二字和せられず、此に依て穢者雖爲を今の點の外六帖にはなるとはすれどとあれど、ナレハシヌトモと讀てマシメヅラミムモに叶はしむべし、第十二にも此下句あり、
 
初、紅の八しほの衣 朝な/\は日に/\の心なり。益|希將見裳《メツラシモ》、このよみやうよしといへとも、文字にあたらす。將は將來にて、見の字につゝく時みむなり
 
2624 紅乃深染衣色深染西鹿齒蚊遣不得鶴《クレナヰノコソメノコロモイロフカクソミニシカハカワスレカネツル》
 
第六云、紅に深く染にし心かも云々、上の人丸集歌云、染木綿の染し心を我忘めや、染西のに〔右○〕は助語なり、
 
初、紅のこそめの衣 第六にも
  紅にふかくそみにしこゝろかもならの都にとしのへぬへき
 
2625 不相爾夕卜乎問常幣爾置爾吾衣手者又曾可續《アハナクニユフケヲトフトヌサニオクニワカコロモテハマタソツクヘキ》
 
さきに問し夕卜にあはむと告つれど驗もなくて人にあはざりしにも懲ずして、又衣を幣に置て重て夕卜をきかまほしきとなり、六帖衣の歌に不相爾をあさなけに可續をつらぬくとあるは傳寫の誤にや、
 
初、あはなくにゆふけを あはなくには、ゆふけには、あはむとつけしかは、たのみしかとも、しるしなくて、人に逢ぬなり。又ゆふけのあはぬにも有へし。ぬさに置とは、衣をぬさに置しか、ゆふけはしるしなかりしかと、こりぬ心にて、續てまた衣をぬさに置て、ゆふけのとはまほしくおほゆるよしなり
 
2626 古衣打棄人者秋風之立來時爾物念物其《フルコロモウチステヒトハアキカセノタチクルトキニモノオモフモノソ》
 
身を古衣によそへて古すヒチを打棄人と云へり、後の歌に隔たり行人を霧立人とよ(37)める類なり、衣をふるしとて打捨つれば寒きが如く人をふるして打捨れば秋風の立來る時心細さをも語合せて慰さむべき方もなく、更に物思ふ物にて有ぞとつらき人を喩す意なり、古今集素性の歌に秋風の身に寒ければつれもなき人をぞ憑むくるゝ夜毎に、此等の意を思ひ合すべし第七に橡解濯衣之恠殊欲服此暮可母《ツルバミノトキアラヒギヌノアヤシクモコトニキホシキコノユフベカモモ》、第十二に橡之衣解洗又打山古人爾者猶不如家利《ツルバミノキヌトキアラヒマツチヤマモトツヒトニハナホシカズケリ》、
 
初、古衣打すて人 我をふるして打すつる人を身をふる衣によせてかくはいへり。霧立人と後の哥によめるも此類なり。衣をふるしとて打すつれは、寒きかことく、人をもふるして打すつるは、秋風の立くる時、心ほそさをかたりあはせてなくさむへき人もなくて、更にこひしく物おもふものにてあるそと、つらき人におしふる心なり。古今集に素性法師
  秋風の身にさむけれはつれもなき人をそ頼むくるゝよことに
此哥におもひ合すへし
 
2627 波禰蘰令爲妹之浦若見咲見慍見著四※[糸+刃]解《ハネカツライマスルイモカウラワカミヱミヽイカリミツケシヒモトク》
 
令爲、【幽齋本、令作v今、】
 
波禰蘰は第四に注せしが如し、著四は六帖うなゐの歌に入れたるにもきつゝとあれど紐に付たる詞なればつけしと讀べし、今はねかつらしてうるはしくうら若き妹がまたしめやかに由つかぬさまにて、或は打咲域は慍りみして、されど我にすまはずして紐とくがおかしき由なるべし、此一首は寄v紐、
 
初、はねかつらいまする 第四第七にも、はねかつらいまする妹とよめり。はねかつらは花かつらなり。さねかつらをさなかつらといふことく、奈と禰とを通して、はねかつらといふといへと、第四に二首以上四首ともに、はねかつらとのみいひたれは、反鬘《ハネカツラ》といふ事にや。今はしめてはねかつらする妹といふことなれは、女のはしめて簪する時に、はねかつらとて、かさりにはねたる物なとのあるをいふ名にや。著四はつけしとよむへし。但きるといふ詞も、衣ならすとも帶被等の字わつかなる物にもいへは、紐にもいふへき歟。哥の心は、今はねかつらして、うるはしくうらわかき妹か、あるひはうらみていかり、あるひは打ゑみて、されどすまはずして紐とくが、あはれにおもふよしなり。仁徳天皇髪長媛にあひたまふ夜の御哥
  みちのしりこはたをとめあらそはす|ね《・寢》しくをしぞ、うるはしみ|も《・思》ふ
今をまた令に作れり
 
2628 去家之倭文旗帶乎結垂孰云人毛君者不益《イニシヘノシツハタヲヒヲムスヒタレタレトイフヒトモキミニハマサシ》
 
倭文旗帶は第三に注せしが如し、父は文に作るべき事又同じ、此歌上句は結垂を承て乳とつゞけむ爲ながら兼て人の服餝をほめたり、武烈紀に鮪臣が影姫に替て太(38)子の答に奉る歌に云、於〓枳瀰能瀰於寐能之都波〓夢須寐陀黎《オホキミノミオビノシヅハタムスビタレ》、陀黎耶始比登謀《タレヤシヒトモ》、阿避於謀婆儺倶※[人偏+爾]《アヒオモハナクニ》、又繼体紀に春日皇女の勾大兄皇子に答《カヘシ》奉り給ふ御歌云、野須美矢矢《ヤスミシシ》、倭我於朋枳美能《ワガオホキミノ》、於魔細屡《オバセル》、裟佐羅能美於寐能《ササラノミオビノ》、武須彌陀例《ムスビタレ》、駄例夜矢比等母《タレヤシヒトモ》、紆倍※[人偏+爾]泥堤那皚矩《ウヘニデテナゲク》、今の歌のつゞき此二首に同じ昔はかやうの事を避らずして誰々もよめり、後の先達盗古歌證歌などとて出されたるは、後の盗む意ある後代の意をもて盗む意なき昔をはかられたり、ひとしめては云ひがたかるべし、袖中抄にゆひたれてたれてそ人も君にまさらしとあれど日本紀の歌と今の點と叶へるに、此は違ひたれば取らず、六帖には帶の歌に入れて家持の作とす、家持集にもみえず、此一首寄v帶
 
初、いにしへのしつはた帶を 長流かいはく。上句は序なり。結たれといふ詞を、誰とつゝけむためなり。君より思ひまさる人は誰かあらんとの心なり。しつはた帶は、賤かはたおる時、尻卷《シリマキ》とて腰にあつる板のことく有ものをいふなといへとも、結たれなとあれは、常する帶とそ聞えたる。賤かはたぬのゝ帶なるへし云々。顯昭の説なり。此哥一本には、いにしへのさおりの帶を結たれ誰しの人も君にはまさしといへり。さおりはせはく織たる布の帶なり。今案第三に山部赤人過2勝鹿眞間娘子(カ)墓(ヲ)1時の歌にも、いにしへに有けん人のしつはたの帯解かへてとよめれは、尻卷にあらさる事治定せり。武烈紀云。太子贈2物部(ノ)影媛(ニ)1歌曰。擧騰我瀰※[人偏+爾]《コトガミニ》、枳謂屡箇皚比謎《キヰルカケヒメ》《・來居影媛》、※[手偏+施の旁]摩儺羅磨《タマナラバ》《玉在者》、婀我〓屡※[手偏+施の旁]摩能《アガホルタマノ》《・我欲玉》、婀波寤之羅陀魔《アハコシラタマ》《・白玉》。鮪臣《シヒノオム》爲(ニ)2影媛1答《カヘシマツル》歌(ニ)曰。於〓枳瀰能《オホキミノ》《・》、瀰於寢能之都波※[手偏+施の旁]《ミオビノシヅタハタ》《・大王御帯倭父》、夢須寢陀黎《ムスビタレ》《・結垂》、陀黎耶始比登謀《タレヤシヒトモ》《・誰賤人》、阿避於謀婆儺倶※[人偏+爾]《アヒオモハナクニ》《・不相思》。此鮨か御かへしの哥には、みおひのしつはたとよみたれは、しつはたといふは、さる布の名なりとしられたり。これによれは、あか人の苛もさそきこゆる。繼體紀に、春日皇女の、勾大兄皇子《マカリノオヒネノヒコミコ》【安閑天皇】の御返しの哥にいはく。野須美矢々《ヤスミシシ》《・八隅知》、倭我於朋枳美能《ワガオホキミノ》《・我大王》、於魔細屡《オバセル》《・所帯》、娑佐羅能美於寐《ササラノミオビ》《・御帶》、武須彌陀例《ムスビタレ》《・結垂》、駄例夜矢比等母《タレヤシヒトモ》《・誰賤人》、※[糸+于]陪※[人偏+爾]泥堤那皚矩《ウヘニデテナゲク》《・上出歎》。此御哥の、さゝらのみおひは、允恭天皇のさゝらかたにしきの紐とよみたまへるが、ちひさきかたのつきたる錦の紐なりといへは、ちひさき、紋ある御帶とのたまへるなるへし。鮪か哥も、春日皇女の御哥も、ともに結ひたれといひて、たれとつゝきたれは、此哥もそれらにならへるなるへし
 
一書歌|古之狹織之帶乎結垂誰之能人毛君爾波不益《イニシヘノサヲリノヲヒヲムスヒタレタレシノヒトモキミニハマサシ》
 
一書歌、【幽齋本歌下有v云、】
 
狹織之帶は帶のためにことさらにせばく織れるなるべし、誰之の之〔右○〕は助語なり、
 
初、一書にたれしの人とある、しもしは助語なり
 
2629 不相友吾波不怨此枕吾等念而枕手左宿座《アハストモワレハウラミシコノマクラワレトオモヒテマキテサネマセ》
 
(39)遊仙窟云、遂喚2奴曲琴1取2相思枕1留與2十娘1以爲2記念1、因詠曰、南國傳2椰子1、東家賦2石榴(ヲ)1、聊將代2左腕1長夜枕2渠頭1、此より下三首は寄v枕、
 
初、あはすとも吾はうらみし 遊仙窟(ニ)云。遂喚2I奴曲琴(ヲ)1取《モタシテ》2相思(ノ)枕(ヲ)1、留2與(ヘテ)十娘(ニ)1以爲2記念《カタミト》1。因(テ)詠曰。南國(ニ)傳2椰子(ヲ)1、東家(ニハ)賦(シ)2石榴(ヲ)1、聊將(テ)代(テ)2左(ノ)腕(ニ)1、長夜(ニ)枕(セヨ)2渠《キミカ》頭(ニ)1
 
2630 結※[糸+刃]解日遠敷細吾木枕蘿生來《ムスフヒモトカムヒトホキシキタヘノワカコマクラニコケヲイニケリ》
 
結紐解日遠、【六帖云、ユヒシヒモトクヒヲトホミ、】  蘿生來、【六帖與v今點同、官本、コケムシニケリ、】
 
結紐は紐の名にもあり、天武紀云、又詔曰、男女並衣服者、有v襴無v襴及結紐長紐、任v意服v之、今は結びし紐をと云なり、
 
初、結紐とかむ日とほみ 天武紀云。又詔曰。男女並|衣服《コロモ》者、有v襴《スソツキ》無v襴、及|結《ムスフ》紐長紐、任《マヽニ》v意(ノ)服(ヨ)之。其|會集《マウウコナハム》之日(ハ)著(テ)2襴衣(ヲ)1而|著《ツケヨ》2長紐1。此紀は、結紐長紐はともに紐の様によれる名と見えたり。今はとかむ日とほみといひたれは、唯むすひたるひもなるへし。下の句は、上の十四葉にありし哥に似たり
 
2631 夜干玉之黒髪色天長夜※[口+立刀]手枕之上爾妹待覽蚊《ヌハタマノクロカミシキテナカキヨヲタマクラノウヘニイモマツラムカ》
 
手枕の上に待とはみづからの手を枕にして臥ながら我を待らむかとなり、六帖には此を髪の歌とす、
 
初、ぬは玉のくろかみ 下の句は、妹かみつからの手枕して、我を待らんかとなり
 
2632 眞素鏡直二四妹乎不相見者我戀不止年者雖經《マソカヽミタヽニシイモヲアヒミスハワカコヒヤマシトシハヘヌトモ》
 
不相見者、【六帖云、アヒミネバ、】  不止、【六帖云、ヤマズ、】  雖經、【六帖云、フレドモ、】
 
直二四のし〔右○〕は助語なり、此より下三首は寄v鏡歌なり、此歌は人丸集には見えず、六帖にも作者を出さず、新拾遺集に人丸の歌とて入られたる未v考v所v據、
 
初、まそかゝみ手に取 上の十三葉に似たる哥あり。見人は人の字の呉普を上畧する心歟。禁は、制禁は物をさふるゆへに
 
(40)2633 眞十鏡手取持手朝旦見人時禁屋戀之將繁《マソカヽミテニトリモチテアサナサナミムトキサヘヤコヒノシケケム》
 
此歌上句は上の人丸集歌中にあり、見人時、此人〔右○〕の字不審なり、第二卷にはに〔右○〕の假名に用たるに意得やすし、若今はにむ〔二字右○〕の音を没上して用る意歟、
 
2634 里遠戀和備爾家里眞十鏡面影不去夢所見社《サトトホミワヒニケリマソカヽミオモカケサラスユメニミエコソ》
 
右一首上見2柿本朝臣人麻呂之歌中1也但以2句句相換1故載2於茲1
 
歌の下に集の字有べし、落たる歟、
 
2635 劔刀身爾佩副流丈夫也戀云物乎忍金手武《ツルキタチミニハキソフルマスラヲヤコヒテフモノヲシノヒカネテム》
 
欽明紀云、紀男麻呂宿禰令2軍中1曰云々、況復平安(ノ)之世、刀劔不v離2於身(ヲ)1、蓋君子之武備不2以已1、丈夫と云はるゝもの戀ほどの事をやは忍びかねむと心をはげめども猶忍かぬるとなり、此より下三首は寄v刀、
 
初、つるきたち身に 欽明紀云。紀(ノ)男麻呂(ノ)宿禰|令《ノリコチテ》2軍中1曰。〇況復平安之世|刀《カ》劔《ツ》不v離2於身1。蓋|君子《サカシヒトノ》之武(キ)備不2以已1。ますらをやはこひをしのひかねむと、みつからはけませとも、猶忍ひかぬるなり
 
2636 釼刀諸刃之於荷去觸而所殺鴨將死戀管不有者《ツルキタチモロハノウヘニユキフレテシニカモシナムコヒツヽアラスハ》
 
初、つるきたちもろは 上の十三葉に似たる哥ありて注しき
 
(41)2637 ※[口+酉]《ウチナケキ》鼻|乎曾嚔鶴劔刀身副妹之思來下《ハナヲソヒツルツルキタチミニソフイモカオモヒケラシモ》
 
※[口+酉]の字未v考、劔刀は身に副妹とつゞけむ爲なり、身副とは心を思ひ遣せて身に副なり、鼻の字の點を落せり、
 
初、うちなけきはなをそひつる はなひる事上に注せり。※[口+酉]此字未v考
 
2638 梓弓未之腹野爾鷹田爲君之弓食之將絶跡余甕屋《アツサユミスヱノハラノニトカリスルキミカユツルノタエムトオモヘヤ》
 
末之腹野は今按腹弓の未を腹と云故に梓弓腹野とつゞくべきを文字の足らねば末の腹野とは云へる歟、石上袖振川の類なるべし、弓の末を腹と云、古事記云、而|弓腹振立而堅庭者《ユハラフリタテテカタニハハ》於《ニ》2向股《ムカモヽ》1蹈那豆美《フミナヅミ》云々、此集第十三云、梓弓弓腹振起《アヅサユミユスヱフリオコシ》、此弓腹を別校本にゆはらと點ぜるは今と叶へり、鳥打の程よく腹に似たれば云なるべし、さらばにぎりの程をこそ云べけれと云人あらむ、物は初を取中を取後を取て名づくる事一准ならぬ事例多し、此野何れの國にありと云事を知らず、鷹田は第十九にも始鷹獵をハツトカリとよめり、鷹をと〔右○〕と點ぜるは鳥の義なり、此に付て二つの意あるべし、一つには第七には鳥獵とかければ鳥を取る獵は鷹をもとゝすれば、鷹を鳥と云意にはあらで、二字引合せて惣じて云歟、二つには鷹を鳥と云意歟、源氏物語夕霧に鳥の兄鷹やうのものゝとかけるは鷹をやがて鳥と云へり、なるかみを神と云ひ鷄を鳥(42)と云如く惣即別名の意なり、弓食は此かきやういまだ詳ならず、落句は絶むと思はむや思はぬの意なり、甕は忌瓮を日本紀にイハヒヘとよめり、瓮と甕と同じ瓦器|罐《ツルベ》堝《ナベ》たゝいべなど云物、皆瓮をべ〔右○〕と云意なるべし、此より下三首寄v弓、
 
初、梓弓末のはら野に 弓の末とつゝけたり。末のはら野は名所歟。國いまたかんかへす。末之腹野とかきたれと、末原野なるへし。とかりはとり狩なり。鷹をとりといへり。こゝに鷹田とかけるその心なり。第十四第十七にも有。第十九に始鷹獵《ハツトカリ》とよめるも、かくのことくかけり。初鷹狩は、秋とや出の鷹をつかひそむるをいふ。小鷹狩にはあらぬを、人のおもひまかふなり。鳥をかれは鳥狩といふ心歟とおもふへけれと、源氏物語にも、とりのせうのやうにてといへるとりは、鷹をさしていへり。第十九と今と、やかて文字にあらはれたれは、異義あるへからす。大鷹狩は先は冬なれと、かならす冬にもかきるへからす。鷹狩にも、若は弓にても射るへけれは、君かゆつるのたえむとおもはんや。たえむとはおもはすといふ心なり。弦はたゆる事もある物なれは、たえんとおもへやといはむとて、君かゆつるといひ、ゆつるをいはむとて、上の句をはいへり。第九にくらなしの濱をよめる哥のことく、只一句をいはむために、四句を序にくされり。仁徳紀に、八田皇女をめしいれむとて、磐姫皇后に、そのよしをほのめかしたまふ御哥
  うまひとの《・君子》、たつることたて《・立言立》、うさゆつる《・儲弦》、たゆまつがむに《・斷間將續》、ならべてもがも《將並鴨・並願》
うさゆつるはおさゆつるなり。神功皇后紀に見えたり。儲弦とかけり。軍中に張替の弦を儲《マウケ》置をいへり。今弓食とかけるは、いまも其こゝろを得す。甕《ヘ》は忌瓮《イハヒヘ》なとの心にて用たり
 
2639 葛木之其津彦眞弓荒木爾毛憑也君之吾之名告兼《カツラキノソツヒコマユミアラキニモタノメヤキミカワカナツケヽム》
 
憑也、【六帖云、ヨリシヤ、】
 
古事記云、此建内宿禰(ノ)子|并《アハセテ》九云々、次葛城長江(ノ)曾都※[田+比]古者【玉手臣、的臣、生江臣、阿藝那臣等之祖也、】云々、日本紀には神功皇后五年紀より處々にみえたり、六十二年新羅不v朝、即《ソノ》年(ニ)遣2襲津彦1撃2新羅1、應神紀云、十四年云々、是歳弓月君自2百濟1來歸、因以奏v之曰、臣領2己國之人夫百二十縣1而歸化、然因2新羅人(ノ)之拒1皆留2加羅國1、爰遣2葛城襲津彦1而召2弓月之人夫於加羅1、然經2三年1而襲津彦不v來焉、十六年八月遣2平群|木菟《ツクノ》宿禰、的戸由宿禰於加羅(ニ)1、云々、乃率2弓月之人夫(ヲ)1與2襲津彦1共來(レリ)焉、かくの如く武將となれる人なれば其持てる弓に寄せたる名なるべし、荒木はまだ手馴ぬ意なり、まだ我身の君が手に能も馴ねども憑む心の有にや其名をば告知らせけむとなり、末終に憑むまじと思ふ妻には先名をもきかせぬが昔の人の習なり、此は打付より憑みはてむの心有てぞ名をば名乘けむ(43)となり、君之吾之名とはすなはち君が名なり、憑也を今の點の如くよめばたのめばにやなり、タノムヤとよまばたのむにやなり、何れも叶へり、
 
初、かつらきのそつひこまゆみ 葛城(ノ)襲《ソ》津彦は、仁徳天皇の御后、磐之媛皇后の父なり。履中紀云。去來穗別天皇(ハ)大鷦鷯天皇之太子也。母曰2磐之媛(ノ)命1。葛城(ノ)襲《ソ》津彦(カ)女也。襲津彦の事、神功皇后紀云。五年春二月〇因以副(テ)2葛城(ノ)襲津彦(ヲ)1面遣之。〇六十二年新羅|不v朝《マウコス》。即《ソノ》年(ニ)遣(テ)2襲津彦(ヲ)1撃2新羅(ヲ)1注云々。應神紀云。十四年〇是歳|弓月《ユツキ》君自2百濟1來《マヰ》歸(ケリ)。因(テ)以奏(テ)之曰。臣|領《ヒキヰテ》2己國之|人夫《オホムタカラ》百二十縣(ヲ)1而|歸化《マウク》。然因(テ)2新羅人之|拒《フセクニ》1皆留(レリ)2加羅(ノ)國(ニ)1。爰(ニ)遣2葛城(ノ)襲津彦(ヲ)1而召2弓月之人夫於加羅(ニ)1。然|經《フルマテ》2三年1而襲津彦不v來《マウコ》焉。十六年八月遣2平群|木菟《ツクノ》宿禰、的《イクハノ》戸由宿禰(ヲ)於加羅(ニ)1仍授2精兵(ヲ)1詔之曰。襲津彦久之不v還《カヘリマウテコ》、必由(テ)2新羅人拒(ニ)1而|滯《トヽコホレルナラム》之。汝等|急《ス ニ》往(テ)之撃(テ)2新羅(ヲ)1披(ケ)2其|道路《ミチヲ》1。於是木菟宿禰等進(テ)2精兵(ヲ)1莅2于新羅之境(ニ)1。新羅|王《キミ》愕《オチテ》之|服《フシヌ》2其罪(ニ)1。乃率(テ)2弓月之人夫(ヲ)1與2襲津彦1共(ニ)來(レリ)焉。かくのことく、武將となれる人なれは、其もてる弓によせたるへし。荒木はまた手なれぬ心なり。たとふる心は、またわか身の君か手によくもなれねとも、たのむ心の有にや。その名をはしらせけむとなり。末終にたのむましと思ふ妻には、先名をもきかせぬが、昔の人の習なり。これは打付よりたのみはてむの心有てそ、名をはなのりけむとなり。わかなとは、君かみつからの名なり。そつひこまゆみのことは、猶可考。俊頼朝臣哥に、もゝつての五十師の篠生時雨してそつひこまゆみもみちしにけり。これは檀の名に有と聞えたり。たのむやとよめは、たのむにやなり。たのめやとよめは、たのめはにやの心なり
 
2640 梓弓引見絶見不來者不來來者來其乎奈何不來者來者其乎《アツサユミヒキミユルヘミコスハコスコハコソヲナソコスハコハソヲ》
 
絶見、【別校本、絶作v弛、】  奈何、【六帖云、、ナト、】
 
第四句の來者其は今按コハソと讀て上句に屬して句絶とすべし、そ〔右○〕はそれにて、來ては來るにてこそあるべけれの意なり、此歌は意得がたき歌なり、句を置替て意をかく得べし、不來ばひたすら來ず、來ばひたすら來べきに、それをなどか梓弓を別もはてず、ゆるべもはてずして或時は引、或時はゆるぶる如く、或は來り或は來らずして一方ならぬや、不來《コズ》ばそれを、來《コ》ばそれをとなり、其乎は不來者と來者との二つを一つに兼て云なり.不來者其乎とは腰句の不來者不來を再たび去ひ、來者其乎とは來者其を再たび云なり、此歌人丸集には梓弓引見ひかず見、不來は來ず來ば來そをなぞよそにこそ見め、拾遺集これに同じ、此はなぞと云ひてよそにこそみめと云へるてにをは不審ありて一首の意其落著を知らず、六帖には弓の歌に入れてなぞを(44)などと有て、其外は落句のみ人丸集と同じ、紀女郎と作者を定たるは不審なり、奧義抄に四條大納言の和歌九品を引かれたるには下々品に入れて落句をこずばそをいかにとあり、何れも此集に叶はねば取らず、又拾遺集には戀外雜戀をも立られたるに、それらには入らずして此歌の何によりて雜賀には入けむ不審なり、
 
初、あつさ弓ひきみゆるへみ 此哥よみやう、かきやう、まきらはし。先上の二句は下をいはむための喩なり。弓をひかは、ひたすらに引、ゆるへはひたすらにゆるふへきに、引見ゆるへみすることくと心得て、下を取合てみるへし。第四の句、來者其は來者來なり。七もしの内三字句絶にてそをなそと下へつゝくやうによみて心得へし。三四二句の心は、こすはこすといひ、こはこんにてこそあらめ。それをなんそやなり。上の二句に合する時、こんともこしともいひはなたぬは、引見ゆるへみかたつかぬ心なり。こすはこはそを、此一句心を著てみるへし。こすはといふは、第三の句のこすはこすの不來者なり。來者は、第四の句の、來者|其《コ》の來者なり。其乎《ソヲ》は第四の句の其乎《ソヲ》なり。心は上のこすは不來、來者其其乎奈何といふことを、ふたゝひ反していふなり。されとも七もしなれは、略していへるなり。今案はての句の其の字は、上の來者來《コバコ》を反していふと見て、音を取てよむへき歟。心は不來は不來、來者來《コハコ》とこそいひはなつへきをの心なり。こすはこす、こはこをといふへきを、もしのあまれは、不來といふことを略するなり。すこしくた/\しくむつかしき哥なり。公任卿の九品には下々品とせり。絶は弛の字にや
 
2641 時守之打鳴鼓數見者辰爾波成不相毛恠《トキモリノウチナスツヽミカソフレハトキニハナリヌアハヌモアヤシ》
 
打鳴鼓、【六帖云、ウチナラスツヾミ、】  數見者、【六帖云、カスミレバ、】  不相、【六帖云、アハナク、】
 
時守は時をつかさどりて鼓を打者なり、ナスはならすなり、古今集に秋風にかきなすこととよめるも掻鳴琴なり、此集上にかきほなすと云にも垣廬鳴と借てかけり、鼓は玉篇云、〓【音戚、守夜鼓也、】數見者は今の點叶はず、六帖に依て讀べし、かぞへ見るなり、延喜式第十六陰陽寮式云、諸時撃鼓、子午各九下、丑未八下、寅申(ハ)七下.卯酉六下辰戌五下、己亥四下、並平聲、鐘依2刻數1、齊明紀云、又皇太子初造2漏刻1、使2民知1v時(ヲ)、天智配云、十六年夏四月丁亥朔辛卯置2漏刻於新臺1、始打2候時1動2鐘鼓1始用2漏刻1云々、辰爾波成、六帖にたつにはなりぬとよめるは誤なり、朝に至て五下の鼓を聞時は別るゝ時にだにあらぬ物をなり、落句はアハナクモアヤシと讀べし、第十四に安思我良能波姑禰乃夜麻爾《アシガラノハコネノヤマニ》、(45)安波麻吉?《アハマキテ》、實登波奈禮留乎《ミトハナレルヲ》、阿波奈久毛安夜思《アハナクモアヤシ》、此落句を例證とすべし、約を變じたるか人の障たるかなど取集めて恠しく思ふなり、拾遺集云、内にさぷらふ人をちぎりて侍ける夜遲くまうできける程うしみつと時申けるを聞て、女の云ひつかはしける、人心うしみつ今は頼まじよ 良岑宗貞 夢に見ゆやとねぞ過にける、此歌は寄v鼓、
 
初、時守の打なすつゝみ 時守は時をつかさとりて鼓を打ものなり。陰陽頭の屬官なるへし。延喜式十六、陰陽式云。諸時(ニ)撃(コト)v鼓(ヲ)子午(ハ)各九下。丑未(ハ)八下。寅申(ハ)七下。卯酉(ハ)六下。辰戌(ハ)五下。巳亥(ハ)四下。並(ニ)平聲。鐘(ハ)依2刻數(ニ)1。齊明紀云。又皇太子初造2漏刻《トキノキサミヲ》1使2v民(ヲ)知(ラ)1v時(ヲ)。天智紀云。十年夏四月丁卯朔辛卯、置2漏刻《トキノキサミヲ》於新|臺《ウテナニ》1、始打候時動鐘鼓始用漏尅、此漏尅者天皇爲2皇太子1時始親所2製造1也【云々。】數見者、かそへみれはとよむへし。時にはなりぬ、あはぬもあやしとは、その時のほとにあはむといひし時にはなりぬるを、いかなるさはりかいてきつらんとあやしまるゝなり。打なすは打ならすなり。ならすをおほくなすとよめり。古今集に、秋風にかきなす琴とよめるも掻鳴すなり。此集にかきほなすといふに、垣廬鳴とかけるも、此心にて借てかけるなり
 
2642 燈之陰爾蚊蛾欲布虚蝉之妹蛾咲状思面影爾所見《トモシヒノカケニカカヨフウツセミノイモカヱメリシオモカケニミユ》
 
カヽヨフは第六に注せしが如し、虚蝉之妹とは蝉鬢に依てほむるなり、崔豹古今注云、魏文帝絶(ハタ)所v愛宮人莫瓊樹始製爲2蝉鬢(ヲ)1、望(メハ)v之※[目+票]眇(トシテ)如2蝉翼1、故曰2蝉鬢1也、咲状は今の點状の字を忘たり、咲容をヱマヒと點じたれば今もヱマヒと讀べし、思〔右○〕は助語なり、六帖には妹がおもかげ戀《コヒ》しく思ほゆと改ありて面影の歌とす、
 
初、燈の影にかゝよふ かゝよふは、第六にかゝよふ玉といふに注せり。うつせみは蝉鬢なり。崔豹(カ)古今(ノ)注(ニ)云。魏(ノ)文帝|絶《ハナハタ》所(ノ)v愛(スル)宮人莫瓊樹始(テ)製(シテ)爲(ス)2蝉鬢(ヲ)1。望(ムニ)v之(ヲ)※[目+票]眇(トシテ)如2蝉翼(ノ)1。故(ニ)曰2蝉鬢(ト)1也。咲状はゑまひとよむへし。燈の影にほのめきし妹か蝉鬢のうるはしきに、ゑめりしがおもかけにみゆるとなり
 
2643 玉戈之道行疲伊奈武思侶敷而毛君乎將見因母鴨《タマホコノミチユキツカレイナムシロシキテモキミヲミムヨシモカモ》
 
袖中抄にいなむしろ川とつゞく事を釋する所に云く、稻莚と申すは田舍《ヰナカ》にはおのづから稻を敷ことあれば田舍をばいなしきとも云ひ、稻莚とも云なりとて此歌を引て次云、公實卿詠云、これにしく思ひはなきを草枕旅にかへすはいなむしろとや、萬葉の歌は道にしくと云ひ今の歌は旅に敷意なり、田舍をいなしきと云意に違は(46)ず云々、今按此歌も必らず道に敷とも定むべからざる歟、道を行疲たる人の旅宿にあひていなしきの小屋をも撰ばず借て休らふが如く、戀疲れたる身もさる賤しき所にもいかで相見て思ひを休めてしがなとよめるなるべし、稻莚は藁《ワラ》をしきたるのみならず藁《ワラ》をもて織たる莚をも云べし、今の敷而毛はしき/\の意を兼べし、新勅撰集は人丸集に依て作者を付られたり、六帖は莚の歌とす、
 
初、玉ほこの道ゆきつかれ 此哥にふたつの心有。ひとつには、しきては以前にもおほきかさねての心なり。しきてといはむために、上は序にいへり。ふたつには、旅人の道ゆきつかれて宿をかるに、あさましき稲莚をしきても、くるしさのやすみて打ふすことく、さる躰にてもあはゝやの心なり。但後のことくにて、敷てもに、間もおかすといふ心をもそへたるへし。伊勢物語に、おもひあらはむくらの宿にねもしなんひしき物にはそてをしつゝも
 
2644 小墾田之板田乃橋之壞者從桁將去莫戀吾妹《ヲハリタノイタヽノハシノコホレナハケタヨリユカム》
 
小墾田は大和國高市郡なり、推古紀云、十一年冬十月己巳朔壬申遷2于小墾田宮1、續日本紀云、高市小治田宮云々、日本紀にはヲハタと點ず、をはりた〔四字右○〕と云べきをり〔右○〕を略じたり、和名集に近江國|栗本《クルモトノ》郡|治田《ハタ》【發多】此注の假名に准ふべし、六帖橋の歌に此を入れたるにはをは田のとあり、續後拾遺集此に同じ、此は誤なれどおそひ來れり、板田の橋を渡て君が許へ通ふに若橋の舊てこぼれたらば、行棚《ケタ》の危きを渡りても行てあはむと思ふ心あれば、慥に憑みて、なこひそとなり、此歌人丸集にはなし、續後拾遺集に作者を出されたるは未v知v所v據、
 
初、をはり田のいた田の橋の 小墾田は大和なり。延喜式にも、小治田宮は、推古天皇の御世しろしめしたる宮としるせり。後々の哥には、をはた田とよめり。誤なれとしか讀來れり。績後拾遺集戀二に此哥を、をはたゝのといひて、結句をこふなわかせことあらためて、人麿の哥とせり。哥の心は、板田の橋をわたりて、君かもとへかよふに、もし橋のふりてこほれたらは、ゆきけたをわたりてもゆきてあはむと思ふ心あれは、さたかにたのみてなこひわひそといふ心なり。玉葉集に、攝州に屬せられたるは誤なり
 
2645 宮材引泉之追馬喚犬二立民乃息時無戀渡可聞射《ミヤキヒクイツイミノソマニタツタミノヤムトキモナクコヒワタルカモ》
(47)泉杣のあり所説々あれど山城相樂郡|水泉《イヅミ》なるべし、其故は第十三云、眞木|積泉《ツメリツミ》河乃云々、第六讃2久邇新京1歌云、山並之宜國跡川次之立合郷跡《ヤマナミノヨロシキクニトカハナミノタチアフサトト》云々、又云、百樹成山者木高之《モヽキナスヤマハコダカシ》云々、第三云、於保爾曾|見谿流和豆香蘇麻《ミケルワツカソマ》山、此和豆香も同じあたりなれば此等の證に依て知べし、宮材を引民の息む時なく苦しきをつれなき人を思ひかけ戀渡るに譬へたり、六帖には杣の歌として立民乃以下をたつくものやむ時もなしわがこふらくはとあり、追馬をそ〔右○〕とよめるは今も馬を追とてし〔右○〕と申せば、昔はそ〔右○〕と云ひける歟、喚犬をま〔右○〕とよめるも昔犬を呼聲なりけるにや、喚?をつゝ〔二字右○〕に用たるに准らふべし、
 
初、宮木引いつみのそま 追馬喚犬はこれをはしめにて此後まそ鏡といふに犬馬鏡なとあまたかけり。今も馬をおふに志といへは、志と曾と通すれはいにしへは曾といひて追けるゆへ、追馬とはかけるなるへし。喚犬は昔犬をよふにまといひけるにや。津々といふに喚※[奚+隹]とかける所有。今も登々といひてよへは、いにしへは津々といひてよひけるなるへし。追馬喚犬も其たくひなり。此いつみの杣を、八雲御抄には大和としたまひ、宗碩は和泉とし、ある人は山城とす。山城相樂郡に出水郷あり。第六に久邇新京をほむる哥に、國はしもおほくあれとも、里はしもさはにあれとも山なみのよろしき國と、川なみの立あふさとゝなとより。これ相樂郡なれはおもひ合すへし。又第三にわつかそま山と家持のよまれしも同郡なり。山おほきよしなれはそこなるへし。宮木引とて立民の引やむ間なきことく、障もなく戀わたる心なり。又一人か上にて、やすむまもなく役をつとむることく、こふる心のやすむまもなきにもたとへたるなるへし
 
2646 住吉乃津守網引之浮笶緒乃得干蚊將去戀管不有者《スミノエノツモリアヒキノウケノヲノウカヒカユカムコヒツヽアラスハ》
 
津守は和名集には西生郡にあり、難波の三津を住吉の三津とも讀たれば隣近の處兩郡に亘るなるべし、浮は和名集云、蒋魴切韻云泛子【漢語抄云、宇介、今案網具又有2此名1、此故別置v之、】釣別名也、此中に順の今案に網具又有2此名1と云へる今に叶へり、得干は今案ウカヒと點ぜるは叶はず、ウカレと讀べし、此一首寄v網、
 
初、すみのえのつもりあひき つもりの浦にあひきするをいへり。うけは和名集に泛子とかけり。得干はうかれとよむへし
 
2647 東細布從空延越遠見社目言踈良米絶跡間也《ヨコクモノソラニヒキコストホミコソマコトウトカラメタユトヘタツヤ》
 
(48)東細布をヨコクモとよめるは横雲は布をはへたるに似たる故にかくかけり、第十四云、由布佐禮婆美夜麻乎左良奴爾努具母能《ユフサレバミヤマヲサラヌニフクモノ》云々、爾努は奴乃なり、夕の山のはに居る雲の布の如くなるを布雲と云へり、今此に准らへて知べし、空ニ引越ス遠ミとは夜の明行まゝに横雲の山にわかるゝ其間の遠ざかり行なり、其如く暫隔たりてまびあたり物云ことこそ疎からめ、絶とては隔たらむやとなり、
 
初、よこくもの空に引こす 横雲は、布をはへたるやうなれは、義をもて東細布とかけり。空に引こすとほみとは、明ゆくまゝに、横雲の山にわかるゝ、其間の遠さかり行なり。その横雲のとほみのほとはかり、さはる事ありて、物いはすとも、たゆとてはへたてむや。さなおもひそとをしふるなり。まことは只言なり。垂仁紀に不言とかきて、まことゝはすとよめり
 
2648 云云物者不念斐太人乃打墨繩之直一道二《カニカクニモノハオモハスヒタヒトノウツスミナハノタヽヒトスチニ》
 
一道、【六帖云、ヒトミチ、官本點同v此、】
 
斐太人は第七に墨繩は第五に注せり、君をのみ墨繩のたゞ一筋なるが如くに思ひて、其外の人をとにかくに思ふ事はなしとなり、古今集に津の國のなには思はず山城のとはに相見む事をのみこそ、此今の歌と詞は替て意は同じ、定家卿此歌を取てひだゝくみうつ墨繩を心にて猶とにかくに物をこそ思へ、六帖に發句をいひしいはゞとあるは讀損ぜるなり、拾遺集は人丸集と同じ、
 
初、かにかくに物はおもはす これは、かれをおもひこれをおもひなと、あた/\しき心にはあらす。大工のうつ墨繩のことく、唯ひとすちに君をこそおもへといふ心なり。大工をひた人といふは、昔は飛騨の國より番匠の上りて、宮中の造營修理等をつとめけるゆへなり。令義解云。凡(ソ)斐陀(ノ)國(ハ)、庸調倶(ニ)免(シ)、毎(ニ)v里點(セヨ)2匠丁十ん(ヲ)1。【謂若不v足v里者即率2此法1而降減也。】延喜式二十二、民部式上云。凡(ソ)飛騨(ノ)國(ハ)毎(ニ)v年|貢《タテマツレ》2匠丁一百人(ヲ)1。其返抄准(セヨ)2諸國調庸(ノ)例(ニ)1。凡飛騨(ノ)匠丁役中(ニ)身死(スル)者(アラハ)勿(レ)v貢(スルコト)2其|代《カヘリヲ》1。役畢(テ)還v國者免(セ)2當年(ノ)徭役(ヲ)1。同三十四、木工《ムク》寮式云。凡工部一人。飛騨工一人。充(テヽ)2大學寮(ニ)1令(メヨ)3修2理小破(ノ)官舎(ヲ)1。凡飛騨國(ノ)匠丁三十七人以2九月一日1相共(ニ)參2著(シテ)寮家(ニ)1不(レ)v得2參差(スルコトヲ)1。すみなはゝ、第五好去好來歌に有て注しき
 
2649 足日木之山田守翁置蚊火之下粉枯耳余戀居久《アシヒキノヤマタモルヲノオクカヒノシタコカレノミワカコヒヲラク》
 
翁は今案日本紀に老翁をヲヂとよみたれば今もヲヂガと讀べきか、蚊火の事第十(49)に鹿火屋と云に付て注せり、若今は蚊火と書たるに依て田を守る比まで蚊のあるがうるされば、此をやらむ爲に置意ならば彼鹿火屋と此蚊火とは殊なりと知べし、新古今集は人丸集に依て作者を付らる、
 
初、あしひきの山田もる翁の 第十に、朝霞かひやか下に鳴かはつといふ哥を注せるにて、此哥も聞えたり。新古今集には、下こかれつゝわかこふらくはと改て、人丸の哥とせり
 
2650 十寸板持蓋流板目乃不令相者如何爲跡可吾宿始兼《ソキイタモテフケルイタマノアハサラハイカニセムトカワカネソメケム》
 
十寸板は殺板なり、杉板にはあらず、まそかゞみをますかゞみと通はして云には異なり、今の俗唯そぎ〔二字右○〕とのみ言ひ習へり、拾遺集六帖にはすぎいたもてとあり、杉の板なり、人丸集にすぎたもてとあり、すぎいたの略なり、後京極殿のあはで月日やすぎふけるいほとよませたまへるは杉板の説に付給へり、板目はイタメとも讀べし、不令相者は今按今の點のみならず他本も同じけれど不相者とかく歟、不相有者とかきたらば叶ふべし、令の字ありては叶はねばアハセズバと讀べし、此方彼方の親の詐さずしてあはしめずばと云なり、古今集に忠岑が名取川瀬々の埋木とよめる歌此に似たり、
 
初、そき板もてふけるいための 十寸板は殺《ソキ》板なり。今もそきと申ならへるは、殺《ソク》ゆへなり。新古今集に後京極殿御哥
  山かつの麻のさころもをさをあらみあはて月日や杉ふけるいほ
上句は古今集の
  すまのあまのしはやき衣おさをあらみまとほにあれや君かきまさぬ
下句は今の哥を取て、まとほにしてあはぬよしをよみたまへり。此御哥をはしめて、杉ふくとよめるは、此哥を杉板と心得きたれるなり。あはさらはいかにせんとか我ねそめけむとは、あひそめて後、あはさらは、いかにして過さんとおもひてねそめけむとなり。板屋のいためのあはぬは、雨のもりてわひしけれは、それによそへてかくはよめり。いたまとよめるもあしからす
 
2651 難波人葦火燎屋之酢四手雖有己妻許増常目頬次吉《ナニハヒトアシヒタクヤノスヽタレトオノカツマコソトコメツラシキ》
 
酢四手雖有は今按今の點は叶はず、スシテアレドと讀べし、すゝしてあれどもの略(50)語なり和名集云、唐韻云※[火+台]煤【臺梅二音、和名須々、】灰集v屋也、舊事本紀并古事記には凝烟をスヽとよめり、拾遺集人丸集六帖等にすゝたれどとあるは煤雖垂の意に改ためたるを、今改たむまじき此集に彼改ためたる如く點ぜるは僻《ヒガ》事なり、校本にすしたれどとある點は?阿を反してつゞめたれば叶へども煤をすしと云ひて煤雖垂《スシタレド》と意得たらむやうに聞ゆれば、唯今按の如く讀べし、己妻許増は屋にも妻と云事のあればよせたる歟、落句のてにをはは第一より多きが如し、拾遺等にとこめづらなれと改られたるに依て意得べし、推古紀聖徳太子十七條憲法第七に永久をトコメヅラとよめり、住ふるして煤の垂たる家も馴たれば心安く住よきが如く、己が妻も久しく住古したる中なれどもあかぬ心あれば唯いつもめづらかにおぼゆるとよめるなり、第二十に防人が歌云、伊波呂爾波安安之布多氣騰母須美與氣乎《イハロニハアシフタケトモスミヨケヲ》云々、六帖に家とうじを思ふと云歌に鹽風に今朝ひえにけり出て來し葦火燒屋ぞ戀しかりける、此等も同じ意なり、難波人は難波に住人なり、仁徳紀に帝の御歌云、那珥波譬苫《ナニハヒト》、須儒赴泥苫羅齋《スズフネトラセ》云々、
 
初、難波人あしひたく 難波人はなにはに住人をいへり。第三にはなにはをとこともよめり。仁徳紀に天皇御製に、那珥波譬|苫《和訓トマノ略》《・難波人》、須儒赴泥苫羅|齊《セ》《・鈴舟取》。許辭那豆瀰《・腰煩》、曾能赴尼苫羅齊《・其舟取》。於朋瀰赴泥苫禮《・大御舟取》。かゝれはふるき詞なり。腰の句すゝたれとゝよみたるは、雖2煤垂1《スヽタレト》といふ心にて點したれと、酢四手雖有とかきたれは、よみやうかなはず。すゝしてあれとゝいふを畧して、すしたれとゝよむへし。文字あまりにすしてあれとゝよむは猶たしかなり。和名集云。唐韻云。※[火+台]煤(ハ)【臺梅二音。和名須々。】灰(ノ)集(ルナリ)v屋(ニ)也。哥の心は住ふるして煤の垂たる家も、をのか家とおもへは心おちゐて住よきかことく、をのか妻も久しく住ふるしたる中なれとも、あかぬ心あれは只めつらかに覺ゆるとよめるなり。第二十卷に防人か哥に
  いはろにはあしぶたけとも住よけを筑紫にいたりてこふ《・ヒ》しけ《・ク》も《・思》はも
いはろは家ろなり。ろは助語なり。あしふは蘆灰なり。住よけをは住よきなり。こふしけもはもは、こひしくおもはんなり。相聞と離別とはたかひたれと、哥の心はあひにたり。こそといひてきとうけたるは、第一に中(ノ)大兄《オヒネノ》三山の御哥につきていひしことく、此集にあるほか、後の集には見えぬことなり。此哥拾遺集には、あしひたく屋はすゝたれと、とこめつらなれと改て、人丸の哥と載らる
 
2652 妹之髪上小竹薬野之放駒蕩去家良思不合思者《イモカカミアケサヽハノヽハナレコマアレユキケラシアハヌオモヘハ》
 
(51)蕩去家良思、【六帖人丸集並云、タハレニケラシ、別校本亦同、】
 
妹が髪を上るとつゞく、上小竹葉野を人丸集にはうへをさゝのとあれば發句につゞかず、を〔右○〕の字餘りて葉の字を和せざれば叶はず、六帖にはあげをさゝのとあれば發句につゞきたるは今と同じけれど、下は人丸集と同じ、此野何れの國に有と云ことを知らず、春駒の草につきて手に取られずに心の變《カハ》りてかへりみもせぬをよそへて云へり、此より下三首は寄v馬、
 
初、妹か髪あけさゝ葉野 妹か髪をあくるとつゝけたり。上小竹葉野いつれの國に有といふことをしらす。放駒あれゆきけらしとは、春駒の草につきて手にとられぬに、人の心のかはりてかへりみもせぬをよそへていへり
 
2653 馬音之跡杼登毛爲者松陰爾出曾見鶴若君香跡《ウマノオトノトトトモスレハマツカケニイテヽソミツルモシハキミカト》
 
跡杼は轟なり、第十四にも、眞木乃伊多度乎等杼登之?《マキノイタドヲトドトシテ》とよめり、松は待を兼たり、
 
初、馬のおとのとゝともすれは とゝはとゝろなり。轟の字なり。第十四にもおく山のまきのいた戸をとゝとしてとよめり。松陰は待心をよせたり。第十五茅上娘子か哥に
  歸りける人きたれりといひしかはほと/\しにきもしは君かと
 
2654 君戀寝不宿朝明誰乘流馬足音吾聞爲《キミコフトイネヌアサケニタレノレルウマノアシオトソワレニキカスル》
 
誰乘流、【六帖云、タカノレル、別校本又點同v此、】
 
腰句タガノレルと讀べし、歌の意上の歌に引合せてみるべし、
 
2655 紅之襴引道乎中置而妾哉將通公哉將來座《クレナヰノスソヒクミチヲナカニオキテワレヤカヨハムキミヤキマサム》
 
下句は古今集の君やこむ我やゆかむのいざよひなり、女の歌なる故に妾をワレと(52)よめり、第十三にもあり、
 
初、紅のすそひく道を これまて三首は女の哥なり。これによりて此哥に妾の字をわれとよめり。心を著へし。比下句は古今集に、君やこむ我やゆかむのいさよひに、此上句におなし
 
一云|須蘇衝河乎《スソツクカハヲ》又曰|待香將待《マチニカマタム》
 
須蘇衝河乎は第七に袖衝許《ソデツクバカリ》とよめるが如し、
 
2656 天飛也輕乃社之齋槻幾世及將有隱嬬其毛《アマトフヤカルノヤシロノイハヒツキイクヨマテアラムコモリツマソモ》
 
輕の社は延喜式云、輕樹村坐神社二座【並大月次新甞】齋槻は彼社の神木布留の神杉の如し、輕の樹村の中にある老木の槻によせて我隱嬬もいつまで人知れずかくてはあらむずるぞと歎く意なり、此より下八首は寄v神、
 
初、天飛やかるの社の 天とふ鴈といふ心につゝけたり。石上ふりにし里ともよめる例にて、かるとかりとたかひたるやうなれと、かくはつゝくるなり。鴈は高く飛物なれは、おほく天飛鴈とよめり。輕社は大和國に在。延喜式第九神名上云。高市郡輕(ノ)樹村(ニ)坐《マス》神社二座【並大、月次、新甞。】いはひつきとは、彼社には槻の木を神木とすれはなるへし。此木の久しきによせて、いく世まてあらんといはむためなり。こもり妻はかくしたる妻なり。ひとめしのひてもたる妻なれは、あふことのまれなるをわひて、いつまてかやうにてはあらむ妻そとなけきよめるなり
 
2657 神名火爾※[糸+刃]呂寸立而雖忌人心者間守不敢物《カムナキニヒモロキタテヽイムトイヘトヒトノコヽロハマモリアヘヌカモ》
 
紐呂寸は和名集云、日本紀私記神籬【俗云比保路岐、】神代紀下云、高皇産靈尊因勅曰、吾(ハ)則|起2樹《オキシテテヽ》天津|神籬《ヒモロギ》及(ヒ)天津|磐境《イハサカ》1、當(ニ)爲2吾孫1奉v齋矣、汝(シ)天兒屋命太玉命、宜(ク)持2天津神籬(ヲ)1降2於葦原(ノ)中(ツ)國1、亦爲2吾孫1奉v齋《イハヒ》焉、纂疏云、神籬謂(フ)2叢祠1、崇神紀云、以2天照大神1託2豐鍬入姫命1、祭2於倭(ノ)笠縫邑1仍立2磯堅城《シカタキ》神籬1、【神籬此云2比莽呂岐1、】瑞籬をミヅガキともイガキとも云にて准らへて思ふべし、仙覺抄に〓と同じ物と思ひて釋せられたるは極て誤なり、彼は※[まだれ/苗]などに祭(53)る肉なり、此國にては惣て神に奉る食物の類を云と見えたり、同じ名に異なる吻あること和漢例多し、不敢物はアヘヌカモと讀べくば香可等の字あるべきを、なければアヘズモと讀べし、歌の意は神名火山には社を立て神のます處と定めて禁忌を慎しみて犯さねど、我は他妻なればゆめ/\思ひな懸そと云人の心をば守りあへず猶標繩を越ぬべく思はるゝをよめる歟、
 
初、神なひにひもろきたてゝ ひもろきは、神代紀下云。高皇産靈尊因(テ)勅《ミコトノリシテ》曰《ノ ク》。吾(ハ)則|起2樹《オコシタテヽ》天津|神籬《ヒモロキ》及(ヒ)天津|磐境《イハサカヲ》1當(ニ)爲(ニ)2吾孫《スメミマノ》奉《マツラン》v齋《イハヒ》矣。汝(シ)天兄屋命(ト)太玉《フトタマノ》命宜(ク)持《タモチテ》2天津神籬(ヲ)1降(テ)2於葦原(ノ)中(ツ)國(ニ)1亦爲(ニ)2吾孫《スメミマノ》1奉《マツレ》v齋《イハヒ》焉。疏云。神籬謂叢祠。和名集云。日本紀私記、神籬【俗云。比保路岐。】崇神紀云。以(テハ)2天照大神(ヲ)1託《ツケマツリテ》2豐|鍬《スキ》入姫(ノ)命(ニ)1祭2於倭(ノ)笠縫(ノ)邑(ニ)1。仍立2磯堅城《シカタキ》神籬(ヲ)1【神籬此云2比莽呂路1。】神供をひもろきといふにはたかへり。神なひ山に神のために社をたてゝいはふといへとも、神のさためなき人のこころをまもりて、約をたかへす常ならしめたまふことはあたはぬにやといふ心なり。雖忌はいはへとも共よむへし。不敢物はあへすもと讀へし。かもならは鳧鴨あるひは香物なとかくへし
 
2658 天雲之八重雲隱鳴神之音爾耳八方聞度南《アマクモノヤヘクモカクレナルカミノオトニノミヤモキヽワタリナム》
 
拾遺には人丸集に依て作者を付らる、六帖にはなるかみの歌とす、
 
2659 爭者神毛惡爲縱咲八師世副流君之惡有莫君爾《アラソヘハカミモニクマスヨシヱヤシヨソフルキミカニクカラナクニ》。
 
發句は六帖にも袖中抄にも今の點の如くあり、別校本又點にあらそひばとあれど此はよくもあらず、アラソヘバとは讀べし、世副流君とは君と我とを夫妻のやうに人の云ひなずらふるなり、君をいなと思はぬ我心をば神の本より知し食たるを、人の云ひよそふるをいな然らずと強てあらかへば、神の惡み給ふ事なれば、よしやよそへて云はゞ云はれてあらむしなり、六帖に惜まずと云に入れたるは名を惜まずなり、
 
初、あらかへは神もにくみす あることをなしとやうにあらかへは、神明もにくみたまふことなり。よしや人の、我と君とは心をあはせたりと、すてによそへていふも、君によりてはさもあらはあれ、いとはしからぬ君なれは、有のまゝによそへられて有なんの心なり
 
(54)2660 夜並而君乎來座跡千石破神社乎不祈日者無《ヨナラヘテキミヲキマセトチハヤフルカミノヤシロヲネカヌヒハナシ》
 
夜並而は夜を重ての意なり、第八に日並而とよめるに意同じ、家持集によひ/\に天川原はならせども夜並ぶ年もあらじとぞ思ふ、
 
初、夜ならへて君をきませと 夜ならへては、第一にひとよもおちすとよめるかことし。第八に、あしひきの山さくら花日ならへてかくし咲なは我こひめやも。日ならへてと、夜ならへてと、晝夜はことなれと、心はおなし。ねかぬ日はなしは、則不祈とかける字のことく、いのらぬ日はなしなり。神に仕ふるものを禰宜といふも、自他のためによろつの事をいのれはなり。願樂等の字をねかふとよむも、ねくといふにおなし
 
2661 靈治波布神毛吾者打棄乞四惠也壽之※[立心偏+〓]無《タマチハフカミヲモワレハウチステキシヱヤイノチノオシケクモナシ》
 
靈治波布は第九に登筑波山歌に女神毛千羽日給而《メノカミモチハヒニマヒテ》と云に注しつ、猶ちはやぶる神と云に付て別に委注す、第二三の句は今按カミモワレヲバウチステコソと讀ぺし、逢ことのなければ命も惜からねば、今は中中に我を守る神も打捨よと思ひの切なる餘りによめる意なり、さりとて神を恨て此方よか打捨べからず、乞の字集中き〔右○〕と用たる例もなし、
 
初、たまちはふ ちはふはいはふなり。以知は同韻にて通せり。第九に登2筑波山1歌にも、めのかみもちはひてたまひてといへるこれにおなし。靈威まします神なれは、いはひてあかむるゆへに、玉ちはふといへり。神毛吾者、かみをもわれはとあれとも、かみもわれをはと讀へきにや。心にまかすへし。神をもわれはとよめは、祈れとしるしなきかゆへに、神をさへ恨奉て打すつるなり。よしやあふことのあらはこそ命もおしからめ。あふことのなけれは、命も惜からす。神の御たゝりとても命のほかはあらしといふ心なり。神もわれをはとよむ心は、たのみ所にせし神たに、我を打すてゝ、祈奉りしことのかなはねは、よしや今は命をおしみても何にかせんなれは、をしくもなしといふなり。切なるあまりには、神をもうらむるは人情なれは、いつれにも付へし
 
2662 吾妹兒又毛相等千羽八振神社乎不祷日者無《ワキモコニマタモアハムトチハヤフルカミノヤシロヲネカヌヒハナシ》
 
2663 千葉破神之伊垣毛可越令者吾名之惜無《チハヤフルカミノイカキモコエヌヘシイマハワカナノヲシケクモナシ》
 
令者、【幽齋本、令作v今、】
 
伊垣は和名云、日本紀私記云、瑞籬【俗云美豆加岐、一云2以賀岐1、】令は今に改たむべし、吾名は人丸集(55)六帖拾遺皆わがみとあり、名は身を離れねば同じ意なり、垣を越たりと人に聞かれば名を失なひぬべし、よしや戀しき餘りには吾名の失せむ事の惜からねば、逢ことだにあらば、大かたの垣をばおきて神の伊垣を越てもあはむと思ふとなり、唯切なる志を云なり、
 
初、ちはやふる神のいかきも 和名集云。日本紀私記云。瑞籬【俗云美豆加岐一云以加岐。】哥の心は、神はうやまふへきかきりなれと、たとひその神のいかきをふみこえても、あふとたにいはゝこえぬへし。そのたゝりゆへに、いかなることありて、名をけかすとも、それも惜からすとなり。又神のいかきたにこえぬへし。いはむやよのつねの垣をや。垣をこゆるは、すり《・うつほ物語》のするわさなれは、人に見つけられて、たとひ盗賊なといひなさるとも、あふことたにあらは名は惜からすとよめるにや。我身といはすして、わか名といへるにより、後の尺をなせり。初のをよしとすへき歟。第七に
  ゆふ懸ていみしやしろもこえぬへくおもほゆるかもこひのしけきに
第十には
  はふりらかいはふやしろのもみちはもしめなはこえて散てふものを
これらに合てみるへし。今を又誤て令に作れり。以上八首は神社によせてよめる哥ともなり
 
2664 暮月夜曉闇夜乃朝影爾吾身者成奴汝乎念金丹《ユフツクヨアカツキヤミノアサカケニワカミハナリヌナレヲオモフカニ》
 
暮月夜は定て曉闇なり、よひに相見し人に曉は別るゝを月の入て闇に成るにたとへ、其明の朝は鏡を取てみれば朝影に身の成とよめるなり、汝乎念金丹は今按ナレヲオモヒカニと讀て、仁を禰に通して汝を念ひかねと意得べし、別ていにし汝を念ひ兼て身は影の如くやつるゝとなり、此より下十首寄v月、
 
初、夕月夜あかつきやみの 夕月夜はかならす曉やみなり。これは此哥に取て用なし。古哥には序をおほくいへは、これも朝影といはむとてかくいへり。なれを思ふかには、汝を思ふゆへに歟の心なり
 
2665 暮月夜曉闇夜乃朝影爾吾身者成奴汝乎念金丹《ツキシアレハアクラムワキモシラスシテネテワカコシヲヒトミケムカモ》
 
之〔右○〕は助語なり、詩齊風云、東方明矣、朝既昌矣、匪2東方則明1、月出之光、第四坂上郎女歌云、月之あれば夜はこもるらむ云々、
 
初、月しあれはあくらんわきも 毛詩齊風云。東方明矣。朝既(ニ)昌(ナリ)矣。匪(ス)2東方則明(ルニ)1、月(ノ)出(ル)之光(ナリ)。新古今集藤原惟成
  まてしはしまた夜はふかし長月の有明の月は人まとふなり
此集第四に
  こひ/\て相たる物を月しあれは夜はこもるらんしはしは有まて
 
2666 妹目之見卷欲家口夕闇之木葉隱有月待如《イモカメノミマクホシケクユフヤミノコノハコモレルツキマツカコト》
 
(56)見マク欲ケクとは.見まくほしく思ふことはの意なり、
 
初、いもかめのみまく 妹をみまくほしさは、夕やみのおほつかなきに木の葉かくれしたる月をいつかと待かことしとなり
 
2667 眞袖持床打拂君待跡居之間爾月傾《マソテモチトコウチハラヒキミマツトヲリシアヒタニツキカタフキヌ》
 
此歌赤人集には見えず、玉葉集に赤人の歌とて入たるは未v知2其據1、
 
2668 二上爾隱經月之雖惜妹之田本乎加流類比來《フタカミニカクロフツキノヲシケトモイモカタモトヲカルヽコノコロ》
 
雖惜は集中の例に依てヲシケドモとよむべし、此歌は高市郡に住める人などのよめるなるべし
 
初、ふたかみにかくろふ月 上句をは下のためにいへり。二上にかくれ行月のことくをしけれとも、公役をつとめ、人めをつゝみなとするゆへに、このころは妹かたもとをはなれてあはぬとなり。葛上葛下兩郡に有てよめるなるへし
 
2669 吾背子之振放見乍將嘆清月夜爾雲莫田名引《ワカセコカフリサケミツヽナケクラムキヨキツキヨニクモナタナヒキ》
 
上の人麻呂集に似たる歌あり、
 
2670 眞素鏡清月夜之湯徙去者念者不止戀社益《マソカヽミキヨキツキヨノウツロヘハオモヒハヤマスコヒコソマサレ》
 
第四に月者由移去《ツキハユツリヌ》とよめるに同じ、歌の意は月の移れば今は來じと思ひ捨ても寢べき事なるに、思ひはやまずしていとゞ戀のまさるとなり、
 
初、まそかゝみ清き ゆつろへはゝ、うつろへはなり。由と宇と同韻にて通せり。月のかたふけは人を待たのみもなきゆへにかくよめり
 
2671 今夜之在開月夜在乍文公乎置者待人無《コノヨノアリアケノツキヨアリツヽモキミヲオキテハマツヒトモナシ》
 
(57)あり/\ても來むときこゆる夜は恨ながらも君をこそまて、恨めしとて今更に誰を待べき人もなしとなり、
 
初、このよらの有明の月夜 ありつゝもとは、あり/\てくる人をいへり
 
2672 此山之嶺爾近跡吾見鶴月之空有戀毛爲鴨《コノヤマノミネニチカシトワカミツルツキノソラナルコヒモスルカモ》
 
山より出來る時も月は空にある物なれど歌の習なれば嶺に近きやうに見えし程を云はで立のぼりて中天に到れるを空なるとは云へり、今來ぬべしと待人も嶺に近く見えし月の如く宵の間は夜深るまゝになかそらの月の遙けきが如くして待ことの徒に成行を空なるとは云へり、此歌人丸集にも見えず、續古今戀一に人丸とあるは據を知らず、六帖には知らぬ人と云に入れて第二の句をみねのあらしととあり、
 
初、此山のみねにちかしと 嶺にちかく見えしほとも、月は空にある物なれと、哥の習なれは、そのほとは山より出來るやうにいひて、立のほるまゝに、中空にいたれるを月の峯なるとはいへり。たとふる心は、物を思ふことも、はつかに見初るよりおこりて、いやましゆくまゝに、いとゝ心の空になりて、物もおほえぬはかりになれは、此山のみねにちかしと見し月の、中空になるにょせたり。古今集に貫之
  五月山こすゑを高みほとゝきすなくね空なるこひもするかな
 
2673 烏玉乃夜渡月之湯移去者更哉妹爾吾戀將居《ヌハタマノヨワタルツキノユツロヘハサラニヤイモニワカコヒヲラム》
 
上に湯徙去者と云詞ありし歌に意も同じ、
 
初、ぬは玉のよわたる月 夜わたる月は、有明の月をいへり。ゆつろふは、さきにいへることくうつろふなり。さらにやといふ心は、一夜にしていはゝ、月の出るによりて、共にみはやとおもひ、おもかけによせなと、さま/\おもはぬ事なくおもふを、又月のかたふくにつけても、さま/\におもひみたるゝ事ありぬへし。又初てあひ見るを、月の出るになすらへ、人の心のかはるをうつろふにょせて、昔は物もおもはさりけりの心を、さらにやともいふへし。以上十首は月に寄てよめる哥ともなり
 
萬葉集代匠記卷之十一中
 
(1)萬葉集代匠記上卷之十一下
 
2674 朽網山夕居雲薄往者余者將戀名公之目乎欲《クタミヤマユフヰルクモノウスラカハワレハコヒムナキミカメヲホリ》
 
景行紀云、即留(テ)2于|來田見《クタミノ》邑(ニ)1權《カリニ》興2宮室1居v之、云々、此來田見は豐後なり、其故は紀の上文云、天皇遂(ニ)幸(テ)2筑紫1到2豐前國長峽縣(ニ)1、興2行宮1而居、故號2其處(ヲ)1曰v京《ミヤコ》也、此は今の豐前|京都《ミヤコノ》郡なり、次云、冬十月到2碩田國1、其地形廣大亦麗(ハシ)、因(テ)名2碩田1也、【碩田此云2於保岐陀1、】到2速《ハヤ》見邑1云々、又於2直入《ナホリノ》縣之禰疑野《ネギノニ》1有2三(ノ)土蜘蛛1云々、此中に碩田は豐後の國府ある大分《オホイタ》【於保伊多、】郡なり、直入【奈保里、】速見【波夜見、】此二つの名も亦豐後の郡の名なり、又紀の下文云、天皇初將v討v賊《アタヲ》次2于|柏峽《カシハヲノ》大野1云々、是れ又今の豐後大野【於保乃、】郡なるべし、又下文云、十一月到2日向國1、起2行宮1以居之、是(ヲ)謂2高屋宮1、是豐前より豐後に遷らせ給ひ、豐後より日向に行幸し給ふ次第分明なり、八雲御抄にくたみ山、豐前と注せさせ玉へるは、紀文に到2豐前國長峽縣1、興2行宮1而居とありて後に豐後と簡別せられざる故に歟、豐前と云からに豐後あるべき理なれば彼を擧て此を示されたる歟、延喜式神名帳云、伊勢國度會郡|朽羅《クタミノ》神社、(2)又云因幡國|八上《ヤカミ》郡久多美神社、若は此等の神の坐す處歟、此より下三首は寄v雲、
 
初、くたみ山ゆふ居る雲の くたみ山、いつれの國に有といふ事をしらす。景行紀云。留(テ)2于|來田見《クタミノ》邑(ニ)1權《カリニ》興《ツクル》2宮室(ヲ)1。これは碩田《オホキタノ》國にいたりたまひての事なり。碩田國は、今の豐後なれは、來田見邑ある所に、此くたみ山もあるか。延喜式云。伊勢國度會郡|朽羅《クタミノ》神社。因幡國八上郡久多美神社。これらの神のおはします所にある山歟。八雲御抄に、豐前と注せさせたまへれは、景行紀に見えたる所歟。うすらかはといふにふたつの心あるへし。もしたとふる心ならは、おもふ中の遠さかり行を、雲のうすらくにたとへて、雲のうすらきゆくことく、うとくなりゆかはといふ心なるへし。もしいつくにもあれ、此山のあたりにて見るまゝによまは、夕居る雲のあつきほとは、中々におもひかけすも有なむ。うすらきゆくにつけては、山の色も見え、夕月夜の光もみゆるにつけて、君かめをもみまくほしう、われはこひむなといふ心なり。齊明紀に、天皇崩御のゝち、天智天皇いまた太子にてよませたまへる御哥
  枳瀰我梅能《・君之目》、姑|〓《ホ《五音通》》之枳※[舟+可]羅※[人偏+爾]《・戀從》、娑底《サテ《同音通五音通》》々威底《・立而居而》、※[舟+可]矩野姑悲武謀《・如是哉懸將》。枳瀰我梅|弘《ヲ》報黎《・君之目欲》
從此以下三首寄v雲
 
2675 君之服三笠之山爾居雲乃立者繼流戀爲鴨《キミカキルミカサノヤマニヰルクモノテタハツカルヽコヒヲスルカモ》
 
此歌は第三に赤人の登春日野にてよまれたる歌の反歌と似たる歌の同意なり、彼を見て此を知べし、戀はコヒモと讀べし、立者繼流を六帖にも新千載集にも絶て別るゝと改たるは作者の本意と大きに異なり、又六帖に笠の歌とせるもおぼつかなし、。又此歌は人丸集にもなきを、薪千載集に人丸とて入れられたるは未v知2其據1、
 
初、君かきるみかさの山に 雲の立とは、起てゆくなり。雲のたつかとみれは、又跡より居ることく、こふる心の過るかとすれは、跡よりつゝきてなけかるゝことをいへり。第三に赤人の哥に
  高くらのみかさの山に鳴鳥のやめはつかるゝ戀もするかも
鳥と雲と物はかはりたれと、おなし心なり
 
2676 久竪之天飛雲爾在而然君相見落日莫死《ヒサカタノアマトフクモニアリテシカキミニアヒミテオツルヒナシニ》
 
在而然は願ふ意なり、
 
初、久かたの天飛雲 ありてしかは、有てしかなゝり。おつる日なしには、一日もかけす行てみんなり。第二にひとよもおちすと軍王の歌にありしかことし。第十四に
  みそら行雲にもかもなけふゆきて妹にことゝひあすかへりこむ
 
2677 佐保乃内從下風之吹禮波還者胡粉歎夜衣大寸《サホノウチニアラシフケレハカヘルサハクタケテナケキヌルヨシオホキ》
 
第二句之〔右○〕の字あればアラシノフケレバと讀べき歟、蟋蟀の下に添へたる如く助語歟、腰句以下は今按落字ありて點もたがひたる歟、然云ふ故は、胡粉の二字、第十三に處女等之心乎胡粉《ヲトメラガコヽロヲシラニ》云々、此も同じく點ぜるを、粉粹の義にてよまば胡の字餘れり、胡(3)粉は彩色の具なれば、義訓して白丹《シラニ》となして不知《シラニ》に借ると云べし、第一に軍王歌云、思遣鶴寸乎白土《オモヒヤルタツキヲシラニ》云々、此に准らへて知ぺし、歎より下は落句にてナゲク夜ゾオホキと讀べし、然れば者〔右○〕の字の下に假名にて四文字の落たるべし、試に補なはゞ還者をカヘリテハとよみてサムサヲシラニなるべき歟、我が人に問はれざるを歎のみならず、却て君が一人寢るに寒さのいかばかりならむとも知らで歎夜のおほきなり、第八に或者贈v尾歌にかへりては〔五字右○〕と云を還者とかけり、第六云、吾背子我著衣薄《ワガセコガキタルキヌウスシ》、佐保風者《サホカゼハ》、疾莫吹及家左右《イタクナフキソイヘニイタルマデ》、第十三云、三諸之神奈備山從《ミモロノカミナビヤマニ》云々、反歌云々、彼卷を披て見るべし、若還者をカヘルサハとか、カヘルヒトとか讀べくば此等を引合せても意得べけれど、歎夜衣大寸とよめる事一夜の事ならねば、補なふ詞當らずとも唯初の意なるべきにや、此より下三首は寄v風、
 
初、さほの内にあらし あらしを下風之とかけるは、孫※[立心偏+面]云。嵐(ハ)山下(ニ)出(ル)風(ナリ)也。此心なり。又おろしともよめり。之は助語にくはへたり。蟋蟀にも、第八にはそへてかけり。かへるさはくたけてなけきとは、妹かりゆけともあはすしてのかへるさなれは、心もおもひくたけてぬるなり。胡粉とかきてくたけてとよめるは、粉碎の心なり。第十三にも、心をくたきといふに、今のことくかけり。胡粉も粉なれは、義をもてかけり。以下四首寄v風歌なり
 
2678 級子八師不吹風故玉※[しんにょう+更]開而左宿之吾衰悔寸《ヨシヱヤシフカヌカセユヱタマクシケアケテサネニシワレソクヤシキ》
 
發句をヨシヱヤシと點ぜるは誤なり、ハシコヤシと讀べし、吉と古《コ》と通ずればはしきやしにて、此にては惜哉の意なり、第四の句はヒラキテサネシと讀べし、閨の戸を開き置なり、六帖に、風ふけど人には云ひて戸はさゝじ、あはむと人に云ひてし物を、(4)此意にて暑き夜人の來べきが、戸を開く音を親などに聞付られじと、兼てより凉むに事よせて開置て待に見え來ざれば、風さへ吹入れぬ物故に徒にあけおきしを悔るなり、風の吹入れぬをやがて人の來ぬにそへたり、
 
初、はしこやしふかぬ風ゆへ 級子八師を、よしゑやしとよめるは誤なり。ふかぬ風ゆへとは、上に母かとはれは風と申さんといふ哥にひける六帖の哥に
  風ふけと人にはいひて戸はさゝしあはむと人にいひてしものを
此哥の心にて、あつき夜人のくへきが、戸をあくる音を、親なとに聞つけられんことをわひて、すゝむにことよせて、明置て待に、見えこされは、風さへ吹入て涼しくもあらぬ物ゆへに、徒に明置ることをくゆるなり。風のふかぬに、人のこぬをやかてそへたり。玉くしけは、あけてといはむためなり。匣を誤て※[匣の甲が臾]に作
 
2679 窓超爾月臨照而足檜乃下風吹夜者公乎之其念《マトコシニツキサシイリテアシヒキノアラシフクヨハキミヲシソオモフ》
 
下風、【六帖云、オロシ、】
 
月臨照而を六帖にはつきはてらしてとあれど共に叶はず、今按オシテリテと讀べし、月の照を第七第八におしててらせるとよみ、難波の枕詞のおしてるを第六にも此卷の末にも臨照とかけるを引合せて證とす、陸士衡(カ)擬2明月何皎々(ニ)1詩云、明月入2我〓1、足檜の山と云はずして下風とつゞけたるは、足引すなはち山の意なり、集中例多し、落句の之〔右○〕は助語、念はモフと讀べし、初の二句は面白きにつけて人を思ひ、次の二句は寒きに依て思ふなり、
 
初、まとこしに月臨照而 此臨照而をさしいりてとよめるは、窓こしといふに心を得て、さしいりてとよめれと誤なり。おしてりてとよむへし。第八に月押照有とかきて、月おしてれりとよめり。第七にかすか山|押而照有此月者《ナヘテテラセルコノツキハ》ともよめり。第六に、おしてるやなにはの宮、此卷の下に至りて、おしてるやなには菅笠といふに、共におしてるといふに臨照とかけり。よりておしてるとよむへしとはいふなり。陸士衡(カ)擬(ス)2明月何(ソ)皓々(タルトイフヲ)1詩(ニ)曰。明月入(ル)2我(カ)〓(ニ)1。此哥も足引といふをすなはち山に用たり
 
2680 河千鳥住澤上爾立霧之市白兼名相言始而者《サハチトリスムサハノウヘニタツキリノイチシロケムナアヒイヒソメテハ》
 
第一二の句のつゞき、今按住澤はすみさは〔四字右○〕と云處の名にて河千鳥は住と云はむ料、(5)垣津幡開澤《カキツバタサキサハ》とつゞけたる類にやあらむ、下句の意は志の程を云ひ通はしたりしも、相見そめて後ぞいちしろくは知らむとよめる歟、けしきのいちしろくて人の知らむとよめる歟、此一首は寄v霧、六帖には千鳥の歌として、河千鳥住川の上に立霧の、まぎれにだにも相見てしかなと下句をあらぬ心に改たり、
 
初、河千鳥すむさはの上に 白霧とて、霧も白き物なれは、いちしろけむなといはむためなり。此一首は寄v霧
 
2681 吾背子之使乎待跡笠毛不著出乍其見之雨落久爾《ワカセコカツカヒヲマツトカサモキスイテツヽソミシアメノフラクニ》
 
此歌第十二には問答の歌となりて不著をキデと點じて再たび出たり、此より下五首寄v雨、
 
初、わかせこか使をまつと 雨のふらくには、雨のふるになり。これより以下五首は寄v雨哥なり。此哥第十二にふたゝひ載たり。そこは問答にて、これにこたふる哥あり
 
2682 辛衣君爾内著欲見戀其晩師之雨零日乎《カラコロモキミニウチキセミマクホリコヒソクラシヽアメノフルヒヲ》
 
内著を六帖にうちつけとあるは能も讀とかぬなり、雨にあひて辛衣を道より打被て來たらむ姿はおかしからむとみまくほしう待て戀暮らすなり、
 
初、から衣君にうちきせ 君か雨にあひてから衣を、道にてうちかつきてきたらんはおかしからんと、みまくほしくまちてこひくらすなり
 
2683 彼方之赤土少屋爾※[雨/脉]霖零床共所沾於身副我妹《ヲチカタノハニフノコヤニコサメフリトコサヘヌレヌミニソヘワキモ》
 
※[雨/脉]霖、【校本、霖作v※[雨/沐]、】
 
(6)彼方は第二にも彼方野邊と有し意にて、里はなれの然るべき人の住まぬあたりなり、赤土少屋ははにつちにて塗たる小屋なり、※[雨/脉]霖は校本に霖を※[雨/沐]に作れるに依るべし第七に※[雨/脉]霖とかけり、和名と叶へり、※[雨/沐]と霖と似たる故に書違へたるなるべし、下の句の意は床さへ沾たれば彌|此方《コナタ》へよりて我身にそへとなり、發句をひさかたのとよみ※[雨/脉]霖零をこしあめふりとよめる事袖中抄に見えたれど、取べからぬ事なれば今引かず、又袖中抄に霖を※[雨/淫]に作れるも、こさめの義にあらざれば又取らず、
 
初、をちかたのはにふのこや あさましきはにふのこやといふ心に、おちかたのはにふとはいへり。※[雨/脉]霖は霖は※[雨/泳]に作るへし。上に和名集を引きて尺せり
 
2684 笠無登人爾者言手雨乍見留之君我容儀志所念《カサナシトヒトニハイヒテアマツヽミトマリシキミカスカタシソオモフ》
 
所念、【六帖云、オモホユ、】 
 
初二句は山より出る月待と人には云ひてと第十二によめる類なり、志は助語なり、所念は六帖に依て讀べし、
 
初、笠なしと人にはいひて 雨つゝみは雨をつゝしむなり。笠のなきにことよせてとまるなり
 
2685 妹門去過不勝都久方乃雨毛零奴可其乎因將爲《イモカヽトユキスキカネツヒサカタノアメモフラヌカソヲヨシニセム》
 
落句はそれを留る由にせむとなり、第三句以下を六帖に、ひちかさの雨もふらなむあまかくれせむとあるに依り、又催馬樂妹門歌にも、妹が門、せなが門、行過かねてや、(7)我ゆかば、ひちかさの、雨もふらなむ、してのたをさ、あまやどり、笠やどり、やどりて罷らむ、してのたをさ、とある故に、源氏物語須磨にも、風いみじく吹出で空かきくれぬ、御祓もしはてず立さはぎたり、ひちかさ雨とか降ていとあはたゞしければ、皆歸り給ひなむとするに笠も取あへずなど書たれど、此集にては沙汰にも及ぶべからず、第十二袖を笠に著と讀たる歌もあれば、昔も假名の本などを書たがへ或は讀たがへたるにや、
 
初、いもか門ゆき過かねつ 雨もふらぬかは、雨もふらぬかふれかしとねかふよしなり。そをよしにせんは、雨やとりをよしにして、行過かたき妹かやとにとまらむなり。催馬樂に、いもか門やせなか門行過かねてわかゆかはひちかさの雨もふらなんなとうたふは、此哥より出けんを、ひさかたをひちかさとあやまれるにや
 
2686 夜占問吾袖爾置白露乎於公脊視跡取者消管《ユフケトフワカコロモテニオクツユヲキミニミセムトトレハキエツヽ》
 
吾袖爾置白露乎、【別校本又云、ワカソテニオクシラツユユヲ、六帖與2今本1點同、幽齋本無2白字1、】
 
發句は今按ヨウラトフと讀べきか、第十三に夕卜をユフウラともよめり、夜を夕、暮等と同訓には讀べからずや、六帖にはゆふとけてとあり、意得がたし、匡房卿の、かく山のはゝかの下にうらとけてとよまれたる腰句は此より出たる歟、下句は第十の七葉にも有き、此より下六首寄v露、
 
2687 櫻麻乃苧原之下草露有者令明而射去母者雖知《サクラアサノヲウノシタクサツユシアレハアカシテイユケハヽハシルトモ》
 
(8)櫻麻、【六帖云、サクラヲ、】
 
櫻麻は説々あれど、今按立たるさま、葉のさまの櫻にやゝ似たれば云なるべし、露シのし〔右○〕、射去のい〔右○〕共に助語なり、此は人を留むる女の詞なり、毛詩云、豈不2夙夜1謂2行多露、六帖に露しあらばあかしてゆかむとあるは男の歌となりて意叶はず、
 
初、さくらあさのをふの 櫻麻は、櫻のさく比まく物なるゆへにいふといへり。彼麻をみるに、すなをにおひたちて、枝のやう葉のやうも、やゝ櫻に似たれはいふにや。露しあれはゝ毛詩云。いゆけはいは發語のことはなり。第十二にも、櫻麻のをふの下草とよめり
 
2688 待不得而内者不入白細布之吾袖爾露者置奴鞆《マチカネテウチニハイラシシロタヘノワカコロモテニツユハオキヌトモ》
 
古今集に、君こずば閨へもいらじ深紫《コムラサキ》、我もとゆひに霜は置とも、似たる意なり、
 
初、待かねてうちにはいらし 古今集云
  君こすはねやへもいらしこむらさきわかもとゆひに霜は置とも
 
2689 朝露之消安吾身雖老又若反君乎思將待《アサツユノケヤスキワカミヲイヌトモマタワカヽヘリキミヲシマタム》
君ヲシのし〔右○〕は助語なり、歌の意は遂に待得むとなり、第十二に發句露霜乃と替りて再たび出たり、
 
初、朝露のけやすき 第十二に此哥ふたゝひ出たり。但初の句露霜のとあるをことなりとす。わかゝへりは、第四第六にも見えたり。わかやくなり
 
2690 白細布乃吾袖爾露者置妹者不相猶預四手《シロタヘノワカコロモテニツユハオキテイモニハアハスタユタヒニシテ》
 
落句は來むや來じやを思ひ定かぬるなり、
 
初、白たへのわかころもてに たゆたひにしては、君やこむわれやゆかんのいさよひにといへるかことし。やすらひといふもおなし
 
2691 云云物者不念朝露之吾身一者君之隨意《カニカクニモノハオモハスアサツユノワカミヒトツハキミカマニ/\》
 
(9)初二句は二心なきなり、
 
初、かにかくに物はおもはす さきに初は此二句にて、ひたゝくみうつすみなはのたゝひとすちにとありし哥に、今の心もおなし。以上六首は寄v露哥なり
 
2692 夕凝霜置來朝戸出爾甚踐而人爾所知名《ユフコリノシモオキニケリアサトイテニアトフミツケテヒトニシラルナ》
 
甚踐而、【二條院御本、甚作v跡、】
 
第四の句はハナハダフミテ或はイタクフミツヽと讀べし、此歌一首寄v霜、
 
初、夕こりの霜 露結爲v霜といへり。凝は凝結にて、露のこりて霜となるなり。甚踐、これをあとふみつけてとよめるは誤なり。はなはたふみてとか、いたくふみつゝとかよむへし。此一首は寄v霜
 
2693 如是許戀乍不有者朝爾日爾妹之將履地爾有申尾《カクハカリコヒツヽアラスハアサニヒニイモカフムラムツチニアラマシヲ》
 
此歌は寄v土、
 
初、かくはかりこひつゝあらすは 此哥一首寄v土
 
2694 足日木之山鳥尾乃一峰越一目見之兒爾應戀鬼香《アシヒキノヤマトリノヲノヒトヲコエヒトメミシコニコフヘキモノカ》
 
山鳥ノ尾は一峯と云はむため、一峯は一目と云はむために次第に序なり、此より下五首寄v山、
 
初、足引の山鳥の尾の 今哥上の句はひとめみしこといはむための序にて、ひるはきてよるはわかるゝ心を用るにはあらさる歟。以下五首は寄v山
 
2695 吾妹子爾相縁乎無駿河有不盡乃高嶺之燒管香將有《ワキモコニアフヨシヲナミスルカナルフシノタカネノモエツヽカアラム》
 
2696 荒熊之住云山之師齒迫山責而雖問汝名者不告《アラクマノスムトイフヤマノシハセヤマセメテトフトモナカナハツケシ》
 
(10)師齒迫山は八雲御抄に駿河と注し給へり、迫の字を承て責而雖問とつゞく、今按熊を獵人の責て獵によせ山の名をしば/\せむると云意に承たるか、不告はノラジと讀べし、
 
初、あらくまの住といふ山の 八雲御抄に、しはせ山駿河或しはを山と載させ給へり。あるひはしはをと注せさせ給へるは、こゝに師歯迫山とかきたるを、かんなにしはせ山とかけるを、或本にせとをとをまかへて、しはを山とかけるを、御覽しけるにや。下の句は、上に八占刺母はとふともとよめりしかことし
 
2697 妹之名毛吾名毛立者惜社布仕能高嶺之燒乍渡《イモカナモワカナモタヽハヲシミコソフシノタカネノモエツヽワタレ》
 
燒乍渡、【幽齋本、燒作v燎、官本、乍作v管、】
 
落句はヤケツヽワタレと讀べし、
 
初、妹か名もわか名も 注或歌曰は、或の字の下に本の字落たるなるへし。今の本は男の哥、注には女の哥とせると、結句のすこしかはれるを異とす
 
或歌曰|君名毛妾名毛立者惜己曾不盡乃高山之燒乍毛居《キミカナモワカナモタヽハヲシミコソフシノタカネノモエツヽモヲル》
 
燒乍毛居、【幽齋本、燒作v燎、點云、モエツヽモヲレ、】
 
或の下に本の字落たる歟、此は女の歌なる故わがなを、妾名とかけり、落句はヤケツヽモヲレと讀べし、
 
2698 徃而見而來戀敷朝香方山越置代宿不勝鴨《ユキテミテキテソコヒシキアサカヽタヤマコシニオキテイネカテヌカモ》
(11)第十四云、安齊可我多志保悲乃由多爾《サカカタシホヒノユタニ》云々、今の朝香方此と同じくは此はあづまながら國山川の名をいまだ勘かへ知らずと云る中にあり、今按六帖には遠道へたてたると云に入れ、山越に置てとよみたるを思ふに、來テゾコヒシキの點叶はぬにや、クレバコヒシキヲと讀ぺき歟、近き程にて夕に行て見て歸りくればやがて戀しきを、まして浅香方に在て妹を山越に置たれば、戀しさに夜もいねあへぬとよめるなり、
 
初、ゆきてみてきてそこひしき 此朝香方は、第十四東哥云
  あさかかたしほひのゆたにおもへらはうけらか花の色にでめやも
これらの哥あまたありて、奥にすへて注していはく。以前歌詞未(タ)v得3勘(カヘ)2知(ルコトヲ)國士山川之名(ヲ)1也。今の哥朝香方といひて、山こしとあれは、陸奥|安積《アサカ》郡にもやともいひつへけれと、古人それはかりの事をかんかへさらむや。只打まかせて有なん。山こしに置ていねかてぬかもは、いねかてぬはいねあへぬなり。第四に
  朝日かけにほへる山にてる月のあかさる君を山こしにおきて
今案第二の句を、きてこひしきをと讀へきにや。心はまちかきほとにてたに、ゆきてみて、宿にくれはやかて戀しくおほゆる人を、朝香かたにして、猶さかしき山こしに置て、いつあふへしともしらねは、こひしさに、夜たにまとろみあへぬなり。山こしにおける妹を、ゆきてみてきてそこひしきといふはかなはすや
 
2699 安太人乃八名打度瀬速意者雖念直不相鴨《アタヒトノヤナウチワタスセヲハヤミコヽロハオモヘトタヽニアハヌカモ》
 
梁は殊に瑞の早き所に打物なれば重之歌にも最上《モカミ》川やなせの浪ぞさわぐなるとよめり、其早瀬の如く思ふとは俗にやるせもなく苦しと云が如し、下句は第四人麿歌にあり、此より下廿三首は寄v水、
 
初、あた人のやなうちわたす あた人は、第三第七に注せり。魚梁《ヤナ》うつは、日本紀に作の字をよみたれはつくるなり。杙なと打て作る物なれは、うつといふ豫。川の中に、ことにはやき所にうつものなれは、源重之哥にも、もかみ川やなせの浪そさはくなるとよめり。瀬をほやみ心はおもへとゝは、切におもはるゝを、水のはやきによせたり。古今集に、よしの川水の心は早くともとよめるにおなし。以下二十三首は寄v水哥なり
 
2700 玉蜻石垣淵之隱庭伏以死汝名羽不謂《カケロフノイハカキフチノカクレニハフシテシヌトモナカナハイハシ》
 
隱庭はコモリニハと讀べし、以は漢の助語なり、
 
2701 明日香川明日文將渡石走遠心者不思鴨《アスカカハアスモワタラムイハハシノトホキコヽロハオモホエヌカモ》
 
(12)第四に石走間近君と讀たるを今遠心者不思鴨と云へるは石走の間遠しと云心にはあrず、布留の早田の穗には出ずとよめる類にて、石走の間近き如く明日香川の明日も渡て妹許ゆかむ、明日をおきて其後渡らむなど、遠き心をば思はぬとなり、
 
初、あすか川あすも 石はしの速き心はとは、これ心得あやまることなり。しの薄ほには出すもとつゝきたるにつけて、しの薄はほに出ぬ物なりとおもへるかことし。石はしは、さき/\もおほく有て注せしことく、間近く踏こえてわたるへきために、そのあたりの石をならへ置なり。今の世、庭に飛石とてふせ置かことし。あすか川といふをうけて、あすもわたらんといふは、けふもわたりて、又あすもわたらむなり。しかれは、あふことのまちかきにたとふるなり。石はしもまとをなれは用なきゆへに、まちかくわたせは、そのことく、あすをゝきてあさてともそのゝちとも、遠くちきる心はおもはぬとなり
 
2702 飛鳥川水往増彌日異戀乃増者在勝申目《アスカカハミツユキマサリイヤヒケニコヒノマサレハリカテヌカモ》
 
落句の點誤れり、アリガテマシモと讀べし、て〔右○〕とね〔右○〕と同韻にて通ずれば、がて〔二字右○〕はかね〔二字右○〕なり、
 
初、あすか川水ゆきまさり 在勝申目は、ありかてましもとよむへし。申は猿なれはましとよめり
 
2703 眞薦刈大野川原之水隱戀來之妹之※[糸+刃]解吾者《マコモカルオホノカハラノミコモリニコヒコシイモカヒモトクワレハ》
 
大野川原は大和国高市郡に大野あり、石川と同じ處なり、是なるべし、
 
初、まこもかる大野川原の 八雲御抄には、此大野川原をおほのかはらとよみて、石見と注せさせたまへり。今案野の字は音を取てよむへき歟。第十四武蔵國の哥に、いりまちのおほやかはらとよめり。此川入間郡に有と見えたり。孝謙天皇を、高野《タカヤ》天皇と申は、大和國添下郡佐貴郷|高野《タカヤ》に納め奉るゆへなり。高野は高屋ともかきて、野は音を取てよむを、紀州の高野山とおなしく、和訓にて讀はあやまりなるかことく、今もそれに准すへき歟。尾の句七字のうちに紐解と四もしにて句に作り、われはと三字一句に心得へし
 
2704 惡氷木之山下動逝水之時友無雲戀度鴨《アシヒキノヤマシタトヨモユクミツノトキトモナクモコヒワタルカモ》
 
時友無雲とはいつを時ともなくいつも/\の意也、
 
初、あしひきの山下とよみ 時ともなくもは、山下とよみてゆく水の、いつとも時をわかすたきりてゆくことく、物おもふとなり。古今集に、いつはとは時はわかねとゝよめるかことし
 
2705 愛八師不相君故徒爾此川瀬爾玉裳沾津《ヨシエヤシアハヌキミユヱイタツラニコノカハノセニタマモヌラシツ》
 
發句はハシキヤシと讀べし、上の人麿集の歌に大かた似たる歌ありしには發句を(13)早敷哉《ハシキヤシ》とかけり、袖中抄にはしきやしを釋する所に、愛八師あはぬこゆゑにいたづらに此川の瀬にもすそぬらしつとあるは、上の歌と今の歌とをまろかしたり、六帖には瀬の歌に入れて愛八師をおもはしみと讀たるは、此集の前後を能見合せざるなり、
 
初、はしきやし 玉もは、裳をほめていへり。第二に玉もはひつちとよめるかことし
 
2706 泊湍川速見早湍乎結上而不飽八妹登問師公羽裳《ハツセカハハヤミハヤセヲムスヒアケテアカスヤイモトトヒシキミハモ》
 
速見早湍は早き早瀬なり、此清き水の如くあかずや妹と云ひし男の心替りて後よめるなり、飽ぬ事を水によするは、莊子之云、君子之交(ハ)淡而若v水、古今集に石間行水の白波立かへりかくこそは見めあかずも有かな、
 
初、泊潮川はやみ早瀬を 泊瀬川のはやき瀬の清き瀬をむすひて、妹にあかぬ心は、此水にあかぬことしといひし君は、いつらやその君はと、心かはりて尋る心なり。二首は女の哥なり。
 奥義抄人丸哥とて、行水のいしまをせはみ山川のいはかきしみつあかすも有かな。古今、石ま行水のしらなみ立かへりかくこそはみめあかすも有かな。同貫之、結ふ手のしつくににこる山の井のあかても人に別ぬるかな
 
2707 青山之石垣沼問乃水隱爾戀哉度相縁乎無《アヲヤマノイハカキヌマノミコモリニコヒヤワタラムアフヨシヲナミ》
 
此歌人丸集にはなし、拾遺のよる所未v考、六帖にはぬまの歌とす、
 
初、青山のいはかきぬま 名所にあらす
 
2708 四長鳥居名山響爾行水乃名耳所縁之内妻波母《シナカトリヰナヤマトヨニユクミツノナニノミヨセシツマハモ》
 
内妻、【官本云、コモリツマ、】
 
(14)トヨニはとよみになり、山響を此集にやまひこと讀たれば、今もヰナヤマヒコニとも讀べきか、行水とは第十六に猪名川之奧乎深目而《ヰナカハノオキヲフカメテ》とよめる是なり、此上句は人言の繁く云にさわぐ意なり、内妻は例のコモリヅマと讀べし、六帖にはかくれづまと讀てかくれづまの歌とす、
 
初、しなか鳥ゐな山とよに ゐな山とよには、とよみになり。これは第十六に、猪名川のおきをふかめてといへる猪名川なり。その猪名川の、山もとよむことく、みな人に名にのみいひよせられし、いつらそのこもり妻はと、これも下に心をかよはせしが、かはりて後よめるなり。名にのみよせしは、上に里人のことよせ妻とよみしかことし。内妻はこもりつまとよむへし
 
一云|名耳之所縁而戀管哉將在《ナノミシヨセテコヒツヽヤアラム》。
之は助語なり、
 
2709 吾妹子吾戀樂者水有者之賀良三超而應逝衣思《ワキモコニワカコフラクハミツナラハシカラミコエテユクヘクソオモフ》
 
超而、【幽齋本。超作v越、】
 
第十四に妹がぬる床の當に岩くゞる水にもがもよ入てねまたも、此と同じ意なり、今一つの意あり下に注す、
 
初、わきもこに我こふらくは 我身もし水にてあらは、しからみこえて行ことく、おしてゆきて妹にあはむなり。第十四東哥に
  妹かぬるとこのあたりにいはくゝる水にもかもよ入てねまくも
此心におなし。又たゝ切なる心をいへるにも有へし
 
或本歌句云|相不思人乎念久《アヒオモハヌヒトヲオモハク》
 
【官本、歌下有v發、】
(15)歌の下に發の字を脱せり、相思はぬ人は、ながるゝ水をしがらみしてせくが如く、我思ひに隨かはずし押留むるを、猶思ふ意は水のたけきが柵を越る如く、押てもあはむと思ふなり、
 
2710 狗上之鳥籠山爾有不知也河不知二五寸許須余名告奈《イヌカミノトコノヤマナルイサヤカハイサトヲキコセワカナツケスナ》
 
寸許須、【官本、須作v瀬、】
 
不知也河は第四岳本天皇の御歌に既に注せり、不知二五寸許須と云はむ爲の序歌なり、イザトヲのを〔右○〕は助語なり、二五は十の義をかれり、劉孝標辨命論云、知2二五1而未v識2於十1其蔽一也.寸許須は官本に須を瀬に作れるに依らば子細なし、今の本に依らばキコスと讀べし、キコスは加と古と通じてきかすなり、第十三に母寸巨勢友《ハヽキコセトモ》、又、君者聞之二二《キミハキカシヽ》、第二十に可久志伎許散婆《カクシキコサハ》などよめり、余名告奈はワガナノラサナと讀べし、此點にて意得ば、御名を承はらば君が心に隨がはめど、いざやいかなる人とも知らねばおぼつかなしと返事にきかしむれば、さらば今は我名を告むなどよめる歟、古今集に入たるに付て、六帖後拾遺集序源氏物語等に異義あれど此に用なければさしおきぬ、
 
初、いぬかみのとこの山なる 犬上は近江國にある郡の名なり。そこに鳥籠の山有て、その山よりなかれ出るいさや川なり。天武紀云。時近江命2山部(ノ)王、蘇我臣|果安《ハタヤス》、巨勢臣比等(ニ)1、率2數万衆(ヲ)1襲2不破1兒軍2于犬上川(ノ)濱《ホトリニ》1。いさや川は、此犬上川といふなるへし。これはいさとをきこせといはむためなり。をは助語にてきこ|す《セ》はきかせよなり。古と幾と五音相通せり。もし人のわか名をとはゝ、いさしらすといひきかせて、ゆめ/\告なとなり。寸許須とかきたれは、きこすとよむへきに似たり。須と世と通すれと、此集に此須の字、他の聲によめることなし。余名告奈、これをはわかなをつけなとむよむへし。あはせていさとをきこす。わかなをつけなとよまは、きこすはきかすにて、令v聞なり。告なはつけんなゝり。昔の人は、初には名を告さりしかは、御名をうけたまはらは、ともかくも君か心にまかせめど、いさやいかなる人ともしらねは、おほつかなしと、妹か我に返事にきかしむれは、さらは今はわか名を告むなとよめるにや。次下の哥に、おときゝしより常わすられすといふ哥のつゝきたるにては、いよ/\後のやうに聞ゆるを、此哥古今集に又載て滅哥なり。彼集には、異説まち/\なり。先一本を出して後に異説をあくへし
  いぬかみのとこの山なるなとり川いさとこたへよわかなもらすな
いさやとなとりのかたはらに注して異とす。哥の後に注すらく。このうたある人あめのみかとのあふみのうねめにたまへる
   返し うねめのたてまつれる
  山しなの音羽の瀧の音にたに人のしるへく我こひめやも
六帖には 名をおしむ あめのみかと
  いぬかみやとこの山なるいさゝ川いさとこたてわかなもらすな
源氏物語紅葉賀には、まことにはよしや世中よといひあはせて、とこの山なるとかたみにくちかため給へり。槿に、いとかく世のためしになりぬへきありさまもらし給ふなよ。ゆめ/\いさら川もなれ/\しやとて云々。枕草子に、とこの山はわかなもらすなとみかとのよませたまひけむいとおかし。後拾遺集の序に、よしの川よしといひなかさむ人に、あふみのいさゝ川いさゝかに此集をえらへり。源氏物語抄の引哥にいはく
  玉さかにゆきあふみなるいさら川いさとこたへてわかなもらすな
此中になとり川は沙汰の外なり。いさら川を、かんなのなたらかなるに見あやまりていさゝ川とはよみなせりとみゆ。此集第四岳本天皇の御製にも、あふみちのとこの山なるいさや川とあるうへは、此集にては、異義を用へからす。哥の心は、先昔より心得きたれるにしたかふへし。二五は十の心にかけり。文選劉孝標辨命論云。知(テ)2二五(ヲ)1而未(タ)v識(ラ)2於十(ヲ)1其(ノ)蔽一也
 
(16)2711 奥山之木葉隱而行水乃音聞從常不所忘《オクヤマノコノハカクレテユクミツノオトキヽシヨリツネワスラレス》
 
木葉隱而は上にもこのはこもれる月待が如と有つれば、今もコノハコモリテと讀べし、此歌人丸集には見えず、六帖には水の歌に入れたれど作者なし、續千載集のよれる所いまだ考がへず、
 
初、おく山のこのは 音きゝしよりは、聲きゝしよりなり。又おとつれをもいふへし
 
2712 言急者中波余騰益水無河絶跡云事乎有超名湯目《コトヽクハナカハヨトマシミナセカハタユテフコトヲアリコスナユメ》
 
水無河、【校本、無下有v瀬、】
 
言急者とは上にはやことましてと有しに同じ、頻に玉梓を通はして音づるゝなり、益の字は伏を富士にかれる例なり、絶跡云はタユトユフとも或はタユトフとも讀べし、
 
初、ことゝくは中はよとまし ことゝくはとは、しきりにたえすいひかはすなり。みなせ川は攝津國嶋上郡にあり。下にも
  うらふれて物はおもはしみなせ川有ても水はゆくてふものを
中はよとましは第四にも
  ことでしはたかことにあるか小山田のなはしろ水の中淀にして
余騰益は不v淀なり。益の字を借てかけるは、清濁を通せるなり。第七に岸に雉を借てかけるに、表裏せり。ありこすなゆめは、ゆめ/\あり過すなゝり
 
2713 明日香河逝湍乎早見將速登待良武妹乎此日晩津《アスカカハユクセヲハヤミハヤミムトマツラムイモヲコノヒクラシツ》
 
將速登をばハヤケムトと讀べし、其故は早見の見は語の字なり、早を承て云ひて將速見登ともかゝざればなり、落句は障る事など有て遲く行意なり、
 
初、明日香川 初の二句ははやみむとゝいはむためなり。速の字の下に見の字の落たるへし。しからすははやけむとゝよむへし。其時は上の句を、さきにあた人のやな打わたす瀬をはやみ心はおもへとたゝにあはぬかもと有しことく、わかこふる心の切なることをよせて、さる心にては、とひくる事もはやからんと、妹か待らんものを、ひとめをつゝむゆへに、徒に此日をえゆかてくらしつるとなり
 
2714 物部乃八十氏川之急瀬立不得戀毛吾爲鴨《モノヽフノヤソウチカハノハヤキセニタチアヘヌコヒモワレハスルカモ》
 
(17)立不得をタチアヘヌと點ぜるは誤なり、タチエヌ或はタチカヌルと讀べし、宇治川の早瀬には押流されて立がたし、其如く戀しき事を念じてしのばむとするにしのび得がたきなり、第七に早川之瀬者立友とよめるに同じ、
 
初、ものゝふのやそうち川の 立あへぬこひも我はするかもとは、宇治河のはやせには、おしなかされて立かたし。そのことく、こひしきことを念して、しのはむとするに、しのひあへかたきを、はやき瀬に立あへぬとはよせていへり。第七に
  みこもりにいきつきあまり早川の瀬には立とも人にいはめやも
これしのひかたきをこらへて忍ふとも、人にはいはしとよめり。立といふ詞今におなし。又おなし第七に
  ちはや人うち川浪をきよみかも旅ゆく人の立かてにする
これは、今とおなしく、宇治川につきて立かてとよみたれと、心かはれり。これは古今集にからにしきたゝまくおしきとよみ、たつことやすき花の陰かはとよめるにおなし
 
一云|立而毛君者忘金津藻《タチテモキミハワスレカネツモ》
 
急き瀬に立てもと云は、早瀬に立たる如く堪べくもあらず忘かねて戀しきなり、
 
2715 神名火打廻前乃石淵隱而耳八吾戀居《カムナヒヲウチマフサキノイハフチニカクレテノミヤワカコヒヲラム》
 
打廻前は第四云、衣手乎打廻乃里《コロモテヲウチワノサト》云々、此に依るにウチワノサキノと讀て地の名なるべき歟、然らば神名火ノ打廻ノ前ノコモリテノミヤと讀べきか、
 
初、神なひをうちまふさきの 此哥は第四に笠女郎か家持に贈れる哥二十四首の中に
  衣手を打廻乃里《ウチワノサト》にある吾をしらてそ人はまてとこすける此哥の注に今の哥をも引て證して申つることく、打廻前乃とかけるをは、上につらねて、神なひのうちわのくまのとよみて、高市郡にある地の名とすへくおほゆ
 
2716 自高山出來水石觸破衣念妹不相夕者《タカネヨリイテクルミツノイハニフレワレテソオモフイモニアハヌヨハ》
 
發句の高山を八雲御抄に、たかやま大和いでくる水と注せさせ給へり、今按第一并に此卷末にかくやまと讀たればカクヤマユと讀べきか、其故は曾丹集に、かこ山の瀧の氷も解なくに吉野の峯は雪消にけり、此歌を思ふにかく山に瀧ありと知られたれば出來水と云べし、石觸は謝靈運詩云、石横(テ)水分流、
 
初、たかねより出くる水の 自高山とかけるを、八雲御抄山部にたか【同いてくる水又在2常陸1。】かく注せさせ給へるは、同とは、上に大和名所あまたつゝきたるを注せさせたまへは、同は大和なり。今案たか山ゆとか、たか山にとかよませ給ひたる歟。只常の高山にてもあるへけれと、もし名所と見は、かく山ゆとよむへし。高山とかきてかく山とよめる證は、第一卷に天智天皇三山をよませたまへる御哥に、かくやまはとよみいたさせたまへるに、高山波《カクヤマハ》とかけり。天のかく山とも、神のかく山ともいひて、神代より名高き山なるゆへに、義をもてかけるにや。又曾丹か集に  
  かこ山の瀧の氷もとけなくによしのゝみねは雪消にけり
これによれは、かこ山に瀧有と見えたるゆへに、かれこれを合て、かく山とよむへきにやとは申なり。出くる水の岩にふれは、文選謝靈運詩(ニ)、石横(テ)水分(レ)流(ル)。第十には
  雨ふれは瀧つ山川いはにふれ君かくたかむ心はもたし
われてそおもふは、われてくたけて。ともよめるかことし
 
(18)2717 朝東風爾井提越浪之世蝶似裳不相鬼故瀧毛響動二《アサコチニイテコスナミノセテウニモアハヌモノユヱタキモトヽロニ》
 
世蝶似裳は瀬と云にもなり、六帖にたやすくもと改たるに依て意得るに、朝東風に依て井手をさへ越浪は、まして瀬を越ことはたやすければ、其浪のこす瀬と云ばかたやすくもあはぬ物故、瀧もとゞろに名の立つとよめる歟、
 
初、朝こちにゐてこす浪の せてふにもは、瀬といふにもなり。瀬は逢瀬なり。たとへは、ふかき川のたけきをしのきてわたる人の、あさせにあふことく、懸にも勞をつみて、あひみて心をやすむるを、彼浅瀬に息を續てやすむにたとへて、逢瀬とはいへり。さる瀬といふへきほとのあふこともなきものゆへに、名のたつことは瀧の音のとゝろなるかことしとなり。ゐては第七第十にも見えたり。鬼《モノ》は和名集云。日本紀云。邪鬼【和名安之岐毛乃】
 
2718 高山之石本瀧千逝水之音爾者不立戀而雖死《タカヤマノイハモトタキチユクミツノオトニハタテシコヒテシヌトモ》
 
下句は古今集に、吉野川いはきりとほし行水の音にはたてじこひはしぬとも、此下句と今と同じ、こひはとあるのみ替れり、
 
初、たか山の 高山、また上のことくかく山とよむへき歟。古今集云
  吉野川いはきりとほし行水の音にはたてしこひはしぬとも
  山高みした行水のしたにのみなかれてこひむ懸はしぬとも
 
2719 隱沼乃下爾戀者飽不足人爾語都可忌物乎《カクレヌノシタニコフレハアキタラスヒトニカタリツイムヘキモノヲ》
 
發句はコモリヌと讀べし、上の人麿集歌に大かた似たる有き、
 
2720 水鳥乃鴨之住池之下桶無欝悒君令日見鶴鴨《ミツトリノカモノスムイケノシタヒナミユカシキキミヲケフミツルカモ》
 
欝悒、【六帖、イフカシキ、幽齋本、又點同v此、】  令日、【幽齋本令作v今、】
 
桶は樋に作るべし、令は今を書生の誤まれるなり、下樋のなければ水のふさがれば、(19)いぶせきとはつゞけたり、
 
初、水鳥のかものすむ池の 此ゆかしきは、おほつかなき心なり。池の下樋なくて、ふかさあさゝの知かたく、又水をためてたゝへたるを、おもひのつもれるによそへていへり。樋を桶に作、今を令に作れるはともに誤れり
 
2721 玉藻苅井提乃四賀良美薄可毛戀乃余杼女留苦情可聞《タマモカルヰテノシカラミウスキカモコヒノヨトメルワカコヽロカモ》
 
井提は山城國相樂郡なり、我思ひをしのぷ事は井提の川に柵をかけて水を防ぐ如なるを、しのびあへぬはつゝむ心の弱きか、又柵は薄からねどはどめる水のいきほひには堤を崩すやうに、つゝむ心は弱からねど戀る心の積りぬれば、おのづから得忍びあへぬかと譬と意とを交てよめるか、
 
初、たまもかるゐてのしからみ 井手は山城相樂郡に在。しからみは、堤あるひは岸のきはにゐくゐをうちて、それに竹をからみつけて、水をせくものなり。そのしからみの薄けれは、水のおほくもりて外ゆく故に、みをなるかたの、いつとなく水の行ことぬるけれは、あさひて水のよとむなり。それによせて、我おもひを胸にとゝめしとおもふことは、水をふせくものゝ、しからみをしけくゆふことくして、こふる心をやり過せとも、こひの心のよとめるは、もし制する心のたゆめるか、又もとよりこふる心のよとみやすきわか心歟といふ心なり。此集に不行不逝なとかきて、よとむとよめるにて心得へし。又上の句のはてのかもをは、歟の字にこゝろえ、下の句のはてのかもをは、哉の字にも見るへし
 
2722 吾妹子之笠乃借手乃和射見野爾吾者入跡妹爾告乞《ワキモコカカサノカリテノワサミノニワレハイリヌトイモニツケコソ》
 
笠に小さき輪を著てそれに緒を著る其輪を借手と云に依て、和射見野 の和にほともじにつゞく、第二の狛劔《コマツルギ》とてつゞけたる意に同じ、此は野に寄と云べき歟、
 
初、わきもこか笠の わきもこか著る笠とつゝけたり。笠のかりては、笠に緒を著る所に、ちひさき輪をしてつくるなり。そこをかりてといふ。よりてかりての輪とつゝくる詞なり。第二に人麻呂の長歌に、狛劔《コマツルキ》わさみか原とつゝけたるも、太刀の柄頭《ツカカシラ》に、異國の人は鐶を著る、その鐶を輪といふ心につゝけたれは、今とおなし心なり。第十にも、わさみの嶺とよめり。美濃國にあり。天武紀に高市皇子の陣を取せたまひける所なり。紀には和※[斬/足]とかけり
 
2723 數多不有名乎霜惜三埋木之下從其戀去方不知而《アマタアラヌナヲシモオシミムモレキノシタニソコフルユクヘシラステ》
 
霜は助語なり、此は寄2埋木1、
 
初、あまたあらぬ 千名の五百名なとよめるは、惡名なり。よき名はふたつともなき物なれは、あまたあらぬ名といへり。されはその名をおしむゆへに、埋木の人しれぬことく、しのひ/\にこふることは、ふかくしのひすは、こふる心のゆくへいかならんと知かたけれはなり。これは寄2埋木1
 
2724 冷風之千江之浦回乃木積成心者依後者雖不知《アキカセノチエノウラワノコツミナルコヽロハヨリヌノチハシラネト》
 
(20)浦回、【幽齋本、回作v廻、】  木積成、【官本云、コツミナス、】
 
冷風之とおける意知がたし、若千江を千枝に取なして、秋風は木に觸て聞ゆればかくは云へる歟、此浦八雲御抄に石見と注せさ給へり、木積成はコツミナスと讀べし、木積の如く心の依るなり、此は寄2木糞1、
 
初、あき風のちえのうらわ 長流かいはく。ちえは千枝なり。風はつねにふけとも、とりわき秋風は木ことにあたりて吹ものなれは、秋風の千枝とはつゝけたり。近江名所なりといへり。考る所有て近江とは定ける歟。八雲御抄には、石見のよし注せさせたまへり。さき/\も申つることく、彼御抄には、あまたの所を石見と注せさせたまへり。木つみなすは、木の屑のことくなり。物以v類(ヲ)聚(マル)ならひなれは、木糞《コツミ》も、浪にゆられては、一所に寄あつまることく、我心も君によりぬ。轉變する世の習なれは、後の心をはかねて、知されともとなり。これは寄2木糞1
 
2725 白細砂三津之黄土色出而不云耳衣我戀樂者《シラマナコミツノハニフノイロニイテヽイハステノミソワカコフラクハ》
 
白き細砂の滿と云意に三津とはつゞけたる歟、又三津は押並て白細砂を敷たる意歟、不云耳衣はイハナクノミゾと讀べし、
 
初、白まなこみつのはにふ 白まなこは、徹塵のことくして、浪の立ほとはうくはかりなるをいへり。それがみちてある心なりといへり。さらすとも、みつの濱は皆白きまなこなれは、滿といふ心ならすともかくはつゝくへし。不云耳衣、いはさるのみそともよむへし。これは寄2黄土1
 
2726 風不吹浦爾浪立無名乎吾者負香逢者無二《カセフカヌウラニナミタツナキナヲモワレハオフカモアフトハナシニ》
 
負香はオヘルカと讀べし、吹風に相て浪の立は理なり、然るを風も吹 かで浪のたゝむやうに、我はひとにもあはずしてなき名を立らるゝことと侘てよめるなり、古今集に、兼てより風にさきだつ浪なれやあふことなきにまだき立らむ、六帖いかなれば千尋の舟もかゝるらむ、風のさきにもさわぐ浪かな、此より下二十四首は寄v海歌なり、其中に湖あり、
 
初、風ふかぬ浦に浪たつなき名をも 吹風にあふて浪のたつはことはりなり。しかるを風もふかて浪のたつことく、我は人にもあはすして、なき名をたてらるゝことよとよめるなり。古今集に
  かねてより風にさきたつ浪なれやあふことなきにまたき立らん
おなし心なり。是は風にさきたつ浪といふに、立名をもたせたり。これより二十四首は寄v海哥なり。水海その中に有
 
(21)一云女跡念而
 
ヲトメトモヒテと讀べし、此は女なりとあなづりて名を立と云歟、をとめなれば、人の云もことわりぞかしと忍てなき名を負意歟、古今集にこりずまに又もなき名は立ぬべし人にくからぬ世にしすまへば、
 
初、注に一云女跡念而。これは結句の異なるへし。それにとりても、女の字の上に落字のあるにや。もしはなんちとおもひてとよむへき歟
 
2727 酢蛾島之夏身乃浦爾依浪間文置吾不念君《スカシマノナツミノウラニヨルナミノアヒタモオキテワカオモハナクニ》
 
次の歌につゞく意、酢蛾島は近江歟、第九に鹽津菅浦とよめるは淺井郡なり、此管浦の名を思ふに菅島彼處にある歟、紀伊國と云一説あれどさらば下の名高浦の前後にぞあるべき、落句はワガモハナクニと讀べし、此句下第十二にもあり、
 
初、すか嶋のなつみの浦 八雲御抄になつみの浦を紀伊に屬せさせたまへと、彼御抄名所部はことにくはしく考させたまはぬ事おほしと見えたり。紀伊にあらは、これより下第四首に、名高の浦あれは、それにこそつゝけめ。今案塩津菅浦とつゝけよめるは、近江なり。此下のつゝき近江なれは、此すか嶋は菅嶋にて、管浦にあるなるへし。塩津は浅井郡なれは、菅浦菅嶋ともにその郡に有にや。吾不念君はわかおもはぬきみともよむへし
 
2728 淡海之海奥津島山奥間經而我念妹之言繁《アフミノウミオキツシマヤマオキマヘテワカオモフイモカコトノシケヽム》
 
此歌上の人麿集歌の中に既に出たり、
 
初、あふみの海おきつ 上の人丸集に出る哥の中に、寄v物陳v思中に、此哥有。そこにはおきまけてわかおもふいもにと有。こゝに妹之とあるをも、いもにとも讀へし
 
2729 霰零遠津大浦爾縁浪縱毛依十方憎不有君《アラレフルトホツオホウラニヨルナミノヨシモヨシトモニクカラナクニ》
 
第七云、丸雪降遠江吾跡川楊《アラレフルトホツアフミノアトカハヤナギ》云々、此に依り上の歌のつゞきに依るに近江なるべし、(22)縱毛は唯よしにても〔右○〕は助語なり、六帖にたとひとあるは讀損じたるなり、依十方はヨストモと讀べし、人の云ひよすともなり、
 
初、霰ふるとほつ大浦に とほつのともしを音になして、霞ふる普といふ心につゝけたり。これは第七に、あられふるとほつえにあるあと川楊とつゝけよめる所にて、近江の高嶋郡なるへし。よしもよるともにくからぬ君とは、よしものもは助語なり
 
2730 木海之名高之浦爾依浪音高鳧不相子故爾《キノウミノナタカノウラニヨルナミノオトタカシカモアハヌコユヱニ》
 
名高浦を取出せるは音高鳧と云はむためなり、
 
初、木の海の名高の浦に 名高の浦といふ名によせて、おとたかしかもといへり。普高しとは、我名の世にいひさはかるゝをいへり。名高浦を、八雲御抄に、速江のよししるさせ給へるは、此哥をかむかへさせたまはさりけるなり。第七に、二首、此下に一首あるは、ともに紫の名高の浦とつゝけたり。下句は第十四東哥に
  まくらかのこかのわたりのからかちの音高しもなねなへこゆへに
ねなへこゆへには、ねぬ子ゆへになり。今と似たり
 
2731 牛窓之浪乃塩左猪島響所依之君爾不相鴨將有《ウシマトノナミノシホサヰシマヒヽキヨラレシキミニアハスカモアラム》
 
牛窓は備前にあり、鹽左猪は別に注す、所依之は今按ヨセテシと讀べきか、人の云ひよするなり、六帖に下句をこひしき君にあはずもあらなむとあるは不審なり、
 
初、牛窓の浪の塩さゐ 塩さゐは、第一に人麻呂しほさゐにいらこか嶋へこく舟のとよまれ、第三羈旅哥に、しほさゐの浪をかしこみとよみ、第十五にはおきつしほさゐ高くたちきぬと讀り。島ひゝきは、潮のおそろしくみちくる時、嶋もひゝきわたるなり。それを人にこと/\しくいひよせらるゝにたとへて、かゝるうへはあはさらんやはといふ心なり。牛窓は備前なり
 
2732 奥波邊浪之來縁左太能浦之此左太過而後將戀可聞《オキツナミヘナミノキヨルサタノウラノコノサタスキテノチコヒムカモ》
 
左太能浦は八雲に筑紫也と注せさせ給へり、此左太過ては年の盛の比の過るなり、源氏物語などに多き詞なり、此歌第十二に再たび出づ、
 
初、おきつ浪へなみのきよる さたの浦は筑紫なるよし、八雲御抄にしるさせたまへり。此さた過ては、此比過ての心なり。上の二十葉にも、あひ見しからにことそさたおほきとよめり。此哥第十二に又出たり
 
2733 白波之來縁島乃荒礒爾毛有申物尾戀乍不有者《シラナミノキヨスルシマノアライソニモアラマシモノヲコヒツヽアラスハ》
 
荒礒はアリソとも讀べし、恐ろしき浪の來よれども荒礒は唯もとのまゝにさりげ(23)なくてあれば、あらまし物をとは云なり、
 
初、白浪のきよする嶋の あらいそにもあらましものをとは、おそろしく波の打よすれとも、そこなはるゝこともなく、またそのなみをとゝめぬは、只つれなき人に似たれは、かくこひつゝかひあらさる事をかねてしらは、彼あらいそのやうにてあらましものをといふなり
 
2734 塩滿者水沫爾浮細砂裳吾者生鹿戀者不死而《シホミテハミナハニウカフマナコニモワレハナリシカコヒハシナステ》
 
吾者生鹿は今按ワレハナレルカと讀べし、落句は中々に戀は死なでなり、
 
初、塩みてはみなはにうかふ われはなりしかは、われはなりにしがなの心なり。たとへは塩のみちたる時、水の沫にうかふまなこぼ、うくましき物から、塩にしたかひてしつまぬは、戀に心のうかれて、身のなか空なるに似たれは、たとふるなり。戀はしなすては、中々にこひはしなすしてなり
 
2735 住吉之城師乃浦箕爾布浪之數妹乎見因欲得《スミノエノキシノウラミニシキナミノカスニモイモヲミルヨシモカナ》
 
布浪之、【校本又云、シクナミノ、】  欲得、【幽齋本又云、カモ、】
 
腰句は校本の點然るべし、數はシバ/\とよめらばまさるべし、
 
初、住のえのきしのうらみに 數はしは/\とも、しく/\とも讀へし
 
2736 風緒痛甚振浪能間無吾念君者相念濫香《カセヲイタミイタフルナミノアヒタナクワカオモフキミハアヒオモフラムカ》
 
甚振浪は第十四にも奈美能伊多夫良思毛與とよめり、夫の字を書たれば今も濁りて讀べし、此卷下に白濱浪乃不肯縁荒振妹《シラハマナミノヨリモアヘスイタフルイモ》ともよめるも、浪によせてあらぶると云へり、相模風土記に浪を伊曾布利と云ひて謂v振v石(ヲ)也と注せる如く、打よせていたくふるふ浪と云なり、吾念はワガモフと讀べし、
 
初、風をいたみいたふる浪の いたふる浪とは、いたくふるふ浪なり。第十四東哥に
  おしていなといねはつかねと浪のほのいたふらしもよ|きそ《・昨夜》ひとりねて
哥の心はそこに尺すへし。又相模國風土記云。鎌倉郡(ノ)見越《ミコシノ》崎(ハ)毎《ツネニ》有(テ)2速浪1崩(ス)v石(ヲ)。國人名(テ)號《イフ》2伊曾布利(ト)1謂《イフコヽロハ》振(フナリ)v石(ヲ)也。土佐日記に
  いそふりのよするいそには年月をいつともわかぬ雪のみそふる
 
2737 大伴之三津乃白浪間無我戀良苦乎人之不知久《オホトモノミツノシラナミアヒタナクワカコフラクヲヒトノシラナク》
 
(24)2738 大舩乃絶多經海爾重石下何如爲鴨吾戀將止《オホフネノタユタフウミニイカリオロシイカニシテカモワカコヒヤマム》
 
重石下も、重石を承て何如とつゞけたるも、上に云が如し、
 
初、大舟のたゆたふ海に 上に大舟のかとりの海にいかりおろしといふ哥に注したるにて、此哥の心もあらはれぬ
 
2739 水沙兒居奥麁礒爾縁浪往方毛不知吾戀久波《ミサコヰルオキノアライソニヨルナミノユクヘモシラスワカコフラクハ》
 
麁礒はアリソとも讀べし、水沙兒居ル、此卷下にも今の如く借てかけり、第三には美沙居《ミサゴヰル》とかき、第十二には三佐呉集荒礒《ミサゴヰルアライソ》、又|三沙呉居渚爾居舟《ミサゴヰルスニヲルフネ》などよめるみさごは皆雎鳩なり、引合せて見るべし、
 
2740 大舩之舳毛艫毛依浪依友吾者君之任意《オホフネノヘニモトモニモヨルナミノヨルトモワレハキミカマニ/\》
 
依浪、【六帖云、ヨスルナミ、】  任意、【幽齋本、任作v隨、】
 
初、大舟のへにもともにも これはともかくも君にしたかはんとて、へにもともにもよるなみといへり
 
2741 大海二立良武浪者間將有公二戀等九止時毛梨《オホウミニタツラムナミハマモアラムニキミニコフラクヤムトキモナシ》
 
間將有、【官本云、マモアラム、別校本云、ヒマモアラム、】
 
古今集云、駿河なる田子の浦波たゝぬ日はあれども君に戀ぬ日はなし、
 
(25)2742 牡鹿海部乃火氣燒立而燎塩乃辛戀毛吾爲鴨《シカノアマノケフリヤキタテヤクシホノカラキコヒヲモワレハスルカモ》
 
第十五に胸句を一日毛於知受《ヒトヒモオチズ》とかはれる歌あり、注によらば戀とは故郷の妻を戀るを云べし、
 
右一首或云石川君子朝臣作之
 
第三に神龜年中太宰少貳なりし由見えたり、其時の歌なるべし、
 
2743 中中二君二不戀者牧浦乃白水郎有申尾玉藻苅管《ナカ/\ニキミニコヒスハヒラノウラノアマナラマシヲタマモカリツヽ》
 
牧浦、牧は枚を書たがへたるべし、賤しき海人と成ても、君に戀せぬ物ぞとならば中々に玉もを刈ても安くてあらむとなり、第十二羈旅發思歌云、後居而戀乍不有者田籠之浦乃海部有申尾珠藻苅々《オクレヰテコヒツヽアラズハタゴノウラノアマナラマシヲタマモカルカル》、此歌の似たるに依れば故郷に留れる妻のよめるにや、
 
初、中々に君にこひすは 枚を誤て牧に作れり。ひらの浦は近江なり。あまならましをは、あまにてあらましものをなり。戀せすは、中々にひらの浦のあまとなりて、玉も打かりて、物思ふことのなくてあらましものをとなり。これはみやこに妻を置て、あふみの國に下りける人のよめるなるへし。第十二に、おくれゐて戀つゝあらすはたこの浦のあまならましを玉もかる/\。これは似たる哥にて、とゝまれる妻のよめりとみゆ
 
或本歌曰|中中爾君爾不戀波留牛馬浦之海部爾有益男珠藻刈刈《ナカ/\ニキミニコヒスハアミノウラノアマニアラマシヲタマモカルカル》
 
(26)留鳥之浦は第一に伊勢と讃岐とにあり、今よめるは何れの國ならむと云事わかちがたし、留鳥は第三大伴三中が歌にも牛留鳥をひくあみとよめり、
 
初、或本歌あみの浦は讃岐と伊勢とにあり。いつれにつかんといふ事をしらす。されとも第一卷に軍王の哥に見えたる讃岐のは、網浦とかけり。字のまゝに名付たる歟。同し巻に人麿のよまれたる伊勢のは、嗚呼見浦とかけり。あゝと稱嘆して見る浦といふ心にて名付たるか。今こゝに留鳥とかけるは、網の義にてかけり。卷三の五十一葉にも、ひくあみといふに、牛留鳥とかけり。今のことし。文字にかゝはるましけれと、またひたふるにもいふましけれは、此哥はさぬきのにや
 
2744 鈴寸取海部之燭火外谷不見人故戀比日《スヽキトルアマノトモシヒヨソニタニミヌヒトユヘニコフルコノコロ》
 
初、すゝきとるあまの よそにたにみぬとつゝくるは、ともしひはよそにもみゆるものなるをかりていへり。ふるのわさ田のほには出すとよめる例なり。以下五首は寄v海中に又舟に寄るを一類とせり
 
2745 湊入之葦別小舟障多見吾念公爾不相頃者鴨《ミナトイリノアシワケヲフネサハリオホミワカオモフキニアハヌコロカモ》
 
繁き葦を分て湊へ入る舟は障る事の多きをたとへむとて云へり、拾遺集は人丸集に依て作者を定らる、此より下五首は寄v船、
 
初、みなといりのあしわけをふね みなとに入舟のおほくの舟のつとひてあらそふうへに蘆間を過るほと、おほくのあしのさはるをかりて、もとよりのさはり、時にのそみてのさはり、さま/\にて、おもひなからえあはぬにたとへてわふるなり。第十二に上の句はおなしくて、今くる我をこしとおもふな
 
2746 庭淨奥方※[手偏+旁]出海舟乃執梶間無戀爲鴨《ニハキヨミオキヘコキイツルアマフネノカチトルマナキコヒモスルカモ》
 
海舟は海の下に人の字落たる歟、
 
初、にはきよみおきへ にはきよみは、天気よくて海上静なるをいへり
 
2747 味鎌之塩津乎射而水手舩之名者謂手師乎不相將有八方《アチカマノシホツヲサシテコクフネノナハイヒテシヲアハサラメヤモ》
 
第十四云、阿遲可麻能可多爾左久奈美《アチカマノカタニサクナミ》云々、又云|康治可麻能可多家能水奈刀爾《アチカマノカケノミナトニ》云々、東國ながら何れの國に在と知らざる由注せる中にあれば今の味鎌も然意得べし、射は第十六云、直(ニ)射《サシテ》2對馬(ヲ)1渡v海(ヲ)水手船之名者謂手師乎とは第十六云、奧鳥鴨云船之《オキツトリカモイフフネノ》云々、(27)應神紀には枯野と名付給へる舟あり、上に憑也君之吾之名告兼《タノメヤキミガワガナツゲヽン》とよめり、されば舟の名によせて我を大かたには思はぬにや、名を云ひつればさるからあはざらむやとなり、手は助語なり、
 
初、味鎌の塩津をさして 第十四東哥に、あちかまのかたにさく浪とも、あちかまのかけのみなとゝも有て、おほくの哥の後にすへて注していはく。以前(ノ)歌詞未(タ)v得3勘(カヘ)2知(ルコト)國土山川(ノ)之名(ヲ)1也。とあれは、坂東には有なから、いにしへより知られさりける所なり。こくふねの名はいひてしを。長流か抄にいはく。舟はとも綱、へつな、また帆繩、ほつゝしめなは、いかり繩なとゝて繩のおほくあるなり。今それらの繩によせていふなりと。今案第十六筑前國志賀白水郎歌十首の中に
  奥津鳥かもといふ船のかへりこはやらのさきもり早く告こそ
  奥津鳥かもといふ舟はやらの崎たみてこきくときかれこぬかも
應神紀に、伊豆國におほせて作らさせ給へる舟を、枯野となつけさせたまへる事もあれは、劔太刀名のおしけくもなとつゝけたるは、鍛冶の名をえりつくるによせていへることく、今も舟の名によせていへり。さきにたのむや君かわかな告けむとよめることく、おほろけにてはなのらぬに、すてに名をきかせてしかは、人もあはさらめやとなり。水手は舟をこくものなれは、體をもて用にかりて、こくとよめり
 
2748 大舟爾葦荷刈積四美見似裳妹心爾乘來鴨《オホフネニアシニカリツミシミヽニモイモカコヽロニノリニケルカモ》
 
大舟は乘と云はむため、葦荷は四美見と云はむ爲なり、
 
初、大舟にあしにかりつみ しみゝはしけきなり。しみゝといはむとて、あしにかりつみといへり。此下句は、第二の久米禅師か哥よりはしめて全同なるおほし
 
2749 驛路爾引舟渡直乘爾妹情爾乘來鴨《ハイマチニヒキフネワタシタヽノリニイモカコヽロニノリニケルカモ》
 
驛は日本紀にもハイマとのみ點ぜり、はやうまを也字を反して約むれば由となる故に、第十四には波由馬宇馬夜とよめり、伊と由と通してはいまとは云なり、驛をおかるゝ河ある所には水驛とて舟をおかるゝなり、令義解第八厩牧令云、凡水驛不v配v馬處、量2閑繁1驛別置2船四隻以下二隻以上1、隨v船配v丁、【謂船有2大小1、故隨v船配v人令v應v堪v行、若應2水陸兼送1者、亦船馬並置v之、】驛長(ハ)准2陸路1置、引舟は綱手にて引舟なり、第十の七夕歌にもよめり、舟も多かる中に驛路の引舟を云事は直乘にと云はむためなり、
 
初、はいまちに引舟わたし はいまは早馬なり。はゆまともいへり。驛を置るゝに、わたしある所は、水驛とて舟を置るゝなり。
令義解第八厩牧令云。凡水驛不v配v馬(ヲ)處(ニハ)量(テ)2閑繁(ヲ)1驛別(ニ)置v船(ヲ)四隻。丁(ハ)二隻以上隨(テ)v船(ニ)配v丁(ヲ)【謂船有2大小1故隨v船配v人令v應v堪v行。若應2水陸兼送1者亦船馬並置v之。】驛長(ハ)准(シテ)2陸路(ニ)1置(ケ)。引舟とは、なかれの早く、又わたる事を急ゆへに、綱をもて引をいへり。これはたゝのりに妹か心にのるといはむためなり。下句上の哥と全同
 
2750 吾妹子不相久馬下乃阿倍橘乃蘿生左右《ワキモコニアハテヒサシモウマシモノアヘタチハナノコケノムスマテ》
 
(28)馬下乃、【六帖云、ウマシノ、別校本又點、同v此、】  蘿生左右、【六帖云、コケオフルマテ、幽齋本云、コケムスマテニ、】
 
馬下を仙覺ウマシタノと云古點を破りて今の點に改らる、今按第十四三つ〔二字左○〕牟思太とよめるも所の名と聞ゆれば、古點のごとくうましたにても此も地の名にや、上にも云如く犬し物鳥し物など云時のし〔右○〕は濁音の自などを書て四之等の字をかける事なし、然れば仙覺の新點の如くよむべくば今の如くは書べからず、又敢て立と云意につゞけむとて馬自物とも云べからず、阿倍橘は和名集云、七卷食經云、橙(ハ)【宅耕反、和名安倍太知波奈、】似v柚而小者也、仙覺抄云、東宮切韻云、橙(ハ)陸法言云直耕反柚屬、郭知玄(カ)云、子(ハ)大皮黄皺、釋名云、似v橘而大、麻果云、葉正圓廣(シ)、博物志、春夏秋冬或花或實、淮南子、橘樹 仙覺は枳かと思れたれど俗に花柚と云物にやとおぼし、名を思ふに阿倍氏の人より世にひろまりたるにや、此より下四首は寄v木、
 
初、わきもこにあはて久しも あへたち花は、和名集云。七卷食經云。橙(ハ)它耕(ノ)反【和名安倍太知波奈】似(テ)v柚(ニ)而小(サキ)者(ナリ)也。柚に似てちひさしとあれは、俗に花柚といふ物にや。うましものは、馬下とはかきたれと、可怜物《ウマシモノ》といふ心にや。うましといふは、味のよきにかきらす、神代紀には、可怜小汀とかきて、うましをはまとよめれは、おもしろしとも、あはれなりとも、いふへきほとの事は、すへてうましといふに難なし。又菓子なれは、味の甘美によりてもいふへt。花柚ならは、あまりおほきにもならぬ木なるに、苔のむすまてといへるは、久しきことをいはむために、わきて取出てよめるにや。これより下四首は寄v木陳v思哥なり
 
2751 味乃住渚沙乃入江之荒礒松我乎待兒等波但一耳《アチノスムスサノイリエノアライソノマツワレヲマツコラハタヽヒトリノミ》
 
第十四に未v得v勘2知國土山川之名(ヲ)1也と注する歌の中にも阿知乃須牟須沙能伊利江乃許母理沼乃とよめるにて、東國ながら何れの國に在と云事の知られぬ處と知べし、腰句はアライソマツと讀べし、の〔右○〕もじを加へたるは書生の誤なり、松を承て我乎(29)待と云へり、落句を思ふに上の松は一松なるべし、
 
初、あちの庄すさのいりえ 味は味村なり。八雲御抄には、魚に鯵といふもの有。それなりとおほしめしけるなり。長流か今案に、あちは味村といへる鳥の、海河の洲によくあつまり居ものなれは、味むらの住洲といひかけたりとそきこえたるとかけり。あちとのみいふが、彼鳥の名なり。鴨屬にてあちかもともいへり。哥におほくあち村とよむは、おほくむれて居る物なれは、かりかねは鴈之音といふことなるを、つゝけてかれか名にいひなれたることく、あちの村鳥を、ひとつ居るをもあち村といへり。すさの入江は第十四東哥に
  あちの住すさのいりえのこもりぬのあないきつかし見す久にして
以前歌詞未v得3勘2知國土山川之名1也と注したる中にあれは、坂東にては有なから、さして其國とはなきなるへし。津の國なるよしをいへと、此第十四卷の外、異義あるへからす。住を往に作れるは改へし。延喜式云。須佐神社紀伊
 
2752 吾妹兒乎聞都賀野邊能靡合歡木吾者隱不得間無念者《ワキモコヲキヽツカノヘノナヒキネフワレハシノヒエスマナクオモヘハ》
 
第二の句は聞ともに處の名にはあるべからず、都賀野と云はむとて吾妹兒が上の事を、人の語るを聞繼と云意につゞけたる歟、此例集中に多し、第十四に都武賀野爾須受我於等伎許由云々、今の都賀野は若此都武賀野にや、すさの入江と共に東國なれば思ひよれるなり、靡合歡木と云ひて吾者隱不得とつゞけたるは合歡木の風にも雨にも打靡に忍ぶに堪がたき心をよそふるなり、落句はすなはち第一より第二へ移る意を承たり、
 
初、わきもこをきゝつか野への わきもこか事を聞つくといふ心につゝけたり。なひきねふは、ねふの木はしなやかに打なひくものなれはいへり。われはしのひえすとつゝくる心は、ねふの木の露にも風にもあへす打なひくを、しのふにたへぬ心によせていへり
 
2753 浪間從所見小島濱久木久成奴君爾不相四手《ナミマヨリミユルコシマノハマヒサキヒサシクナリヌキミニアハスシテ》
 
第八云、波上從所見兒島之雲隱《ナミノウヘユミユルコシマノクモガクレ》云々、此は備前の兒島歟とおぼしきに、今の初の二句も似たれば又兒島にや、前後地の名を讀たる中にあればかくは思ひよれり、久木は前に注せしが如し、伊勢物語にははまひさしとあるは傳寫の誤なるべし、此歌は旅に在夫君を戀て故郷に留れる妻のよめるなるべし、
 
初、浪まよりみゆるこしまの 濱久木は濱楸にて、濱におふる楸なりといへと、第十に、こそさきし久木今さくとよめるは、こそさきし木の、久しくて今咲をいふ歟。又年久しき老木をいへりと聞ゆれは、こゝも何の木にもあれ。濱にひさしく世をへてたてる木をいふにや。第十五に
  はなれそにたてるむろの木うたかたも久しき時を過にけるかも
これは鞆の浦のむろの木をみてよめる哥なり。此久しき時をとよめるおもひ合すへし。楸にても久しく成ぬといはむにたりぬへけれと、久しくたてる木ならは、言も心もそのよせあり。伊勢物語には、濱ひさしになして、結句を君にあひ見てとあらためて、業平の哥とせり。時にあひたれは、古哥をもて人におくられけるなるへし。拾遺集にも載らる
 
(30)2754 朝柏閏八河邊之小竹之眼笶思而宿者夢所見來《アサカシハヌルヤカハヘノシノヽメノオモヒテヌレハユメニミエケリ》
 
初二句は上に云が如し、小竹之眼笶とは第九に宇合卿の歌に曉之夢所見乍とよまれたる如く人を思ひてぬればしののめにの夢に見ゆとなり、又物を按ずる時は目を細くして心を凝せば其心をも兼たる歟、此より下二十四首寄v草、
 
初、朝柏ぬるや 上の十一葉に秋柏ぬるや川へのしのゝめにといふ哥に注せり。おもひてぬれはゝ、上の朝柏ぬるや川へといふにつゝけ、夢に見えけりは、夜ひとよおもひてぬれは、しのゝめの夢に見ゆるとなり。古今集小町哥におもひつゝぬれはや人の見えつらんとよみ、躬恒哥には、君をのみおもひねにねし夢なれはわか心からみつるなりけり。これより下二十四首寄草陳思を一類とせり
 
2755 淺茅原苅標刺而空事文所縁之君之辭鴛鴦將待《アサチハラカリシメサシテソラコトモヨセテシキミカコトヲシマタム》
 
所縁之、【別校本又云、ヨラレシ、】
 
限も知らぬ淺茅生に刈しめさヽむやうに、空言にもあれ我に心をよすと云ひし君が言のしるしを待見むとなり、言ヲシのし〔右○〕は助語なり、古今集に、僞と思物から今更に誰まことをか我は憑まむ、
 
初、淺茅原かりしめさして 上にあさちはら小野にしめゆふそらことゝよめる哥に、此哥の心も顯はれたり。空言もよせてし君とは、かきりもしらぬ淺茅原に、刈つくすへきしめさゝんやうに、空ことにはあるらめと、我に心をよすといひし君かことのしるしを待となり。古今集に
  いつはりとおもふ物から今更にたかまことをか我は頼まん
此集第十二に
  淺茅原をのにしめゆふそらこともあはむときかせ戀のなくさに
 
2756 月草之借有命在人乎何知而鹿後毛將相云《ツキクサノカリナルイノチアルヒトヲイカニシリテカノチモアハムチフ》
 
月草は朝に咲て夕にしほるれば借なるとつゞく、人とはみづから云へり、又は廣く世上にかけて云ともすべし、
 
初、月草のかりなる 月草は朝に咲て夕にしほるゝ花なれはかりなる命といへり。人は我みつからいへり
 
(31)2757 王之御笠爾縫有在間菅有管雖看事無吾妹《オホキミノミカサニヌヘルアリマスケアリツヽミレトコトナキワキモ》
 
延喜式第七、踐祚大甞式云、車持朝臣一人執2菅蓋1、子部宿禰一人笠取直一人並執2蓋綱1、膝行、各供2其職1、同主殿寮式云、正月元日執2威儀物1殿部左方十一人、一人執2梅枝1二人紫※[糸+散]三人紫蓋二人菅※[糸+散]三人菅蓋云々、有管と云はむとての序なり、有管雖看とは年月を經て見る意なり、事無吾妹とはわろき所なき人なり、うつぼ物語に云、形もいと事もなし、
 
初、おほきみのみかさに 此みかさといへるは蓋なり。延喜式第七、踐祚大甞會式云。車持(ノ)朝臣一人執2菅(ノ)蓋(ヲ)1。子部宿禰一人、笠取直一人並(ニ)執2蓋(ノ)綱(ヲ)1、膝行(シテ)各《/\》供(ス)2其(ノ)職。同主殿寮式云。正月元日燒香史生左右各二人、其禮服(ハ)者袷。〇執2威儀物(ヲ)1殿部《トノモリ・トモノミヤツコ》左方十一人、一人執2梅枝1。二人紫※[糸+散]。三人紫蓋。二人菅※[糸+散]。三人菅蓋。大神宮に奉る物の注文には、菅笠あり。在つゝみれとことなしとは、ありつゝは年月を經てみる心なり。事なきは、わろしといふへき所なきなり。好事もなからんにはしかしといふことく、事なきは上品の人なり
 
2758 菅根之懃妹爾戀西益卜思而心不所念鳧《スカノネノネモコロイモニコヒセマシウラオモフコヽロオモホヘヌカモ》
 
卜思而心は猶豫をうらおもひとよめり、卜《ウラ》は心に疑がひ有時にする物なれば、ともかくも思ひ定めぬをうら思ひとは云なり、而は衍文なるべし、
 
初、管の根のねもころ うらおもふ心は、うらなひおもふ心なり。うらなふは心の猶豫してさたまらぬなり。而は文章の法にておける助語にや。もしは布の字の誤欺。猶豫をうらおもひともよめり
 
2759 吾屋戸之穗蓼古幹採生之實成左右二君乎志將待《ワカヤトノホタテフルカラツミハヤシミニナルマテニキミヲシマタム》
 
穗蓼をつみはやして古幹と成て實になるまでとは久しき程を云へり、つみはやしは見はやすもてはやすなどよめる如く賞する意にはあらで、採てまたばえするを云へり、第十四に可美都氣野《カミツケノ》、左野乃九久多知《サノノククタチ》、乎里波夜志《ヲリハヤシ》、安禮波麻多牟惠《アレハマタムヱ》、許登之許(32)受登母《コトシコストモ》、今の古幹は去年の枯たるを云事此歌を引合せてみるべし、志は助語なり、
 
初、わかやとのほたてふるから つみはやしといふにふたつの心あるへし。ひとつには、上にふるからといふは、去年のふるからといふにあらす。蓼はふるからよりは出す。これは今年おひたれと、ひとたひつみて、跡よりおふるをはやして、それか實になるまての心なり。ふたつには、はやすは古今集に
  山高み人もすさめぬさくら花いたくなわひそ我見はやさん
後操集に
  なにゝ菊色そめかへしにほふらん花もてはやす人もなき世に
俗に人の上を吹擧するを、はやしたつるなといふやうにも心得へし。第十四東哥に
  かみつけのさのゝくゝたち折はやし我はまたんゑことしこすとも
此心は、ことしのくゝたちを折て人をもてなすまうけとして待にこすは、又こむ年も折りて待むといへるなり。こゝの哥もそれに准せは、たとひふるからより出すとも、哥のならひなれは、又おひ出るものにして、來年つまんをふるからといへる歟。久しく來すとも、よはらてまたむと、こゝろさしをいへり
 
2760 足檜之山澤回具乎採將去日谷毛相爲母者責十方《アシヒキノヤマサハヱグヲツミユカムヒノタニモアハムハヽハイフトモ》
 
回具、【袖中抄、回作囘、校本、同v此、】  責十方、【六帖云、、セムトモ、別校本、同v此、】
 
採將去、六帖にはとりにゆかむとあれど、ツミニユカムと讀べし、責はセムと讀べし、上に師齒迫山責而雖問《シハセヤマセメテトフトモ》とよめるを證とす、ゑぐを採る事をよせてだにも相見むとなり、
 
初、あしひきの山さはえくを えくは芹なるへし。第十に、君かため山田の澤にえくつむとゝよめる哥に委注せり。女の心に今はゆるしてあはむとおもへと、逢見るへきよしのなけれは、ゑくつむといふにことよせてたに出てあはむ。もし母はきゝつけて我をせむるともとなり
 
2761 奥山之石本菅乃根深毛所思鴨吾念妻者《オクヤマノイハモトスケノネフカクモオホヽユルカモワカオモヒツマハ》
 
吾念妻者、【六帖云、ワカオモヒツマハ、官本、同v此、】
 
奥山とは心の底によそふるなり、所思鴨はオモホユルカモと讀べし、
 
2762 蘆垣之中之似兒草爾故余漢我共咲爲而人爾所知名《アシカキノナカノニコクサニコヨカニワレトヱミシテヒトニシラルナ》
 
似兒草は第十四には箱根山ににこ草の花とよみ、第十六第二十には河邊のにこ草とよめり、容花《カホバナ》などの類にうるはしき草をほめて云歟、若は別名歟、いまだ考がへず、六帖に草の外ににこ草とて此等の歌を載たれど、彼は顯昭の申されたるが如く委(33)たゝさぬ事も有べし、爾故余漢はにこやかになり、日本紀には温の字をニコヤカとよみ、東京賦には莞爾をニコ/\シテとよめり、下句は第四にありき、
 
初、あしかきの中のにこ草 にこ草は和草なり。かほ花はいつれとなくうるはしき花をいふことく、にこ草も何にまれ。やはらかなる草といふ心にや。もしわらはへの、かつらに作りて、やかてかつら草とわらはことにいふめるは、いとつやゝかにやはらかにして、よくかきねなとにおふれは、それらをもいふにや。これはにこよかにといはむためなり。にこよかは、にこやかにて、にこ/\とするなり。莞の字をかけり。にこやかといふ和語は、和顔の心なり。第四大伴坂上郎女哥に、青山をよこきる雲のいちしろく、下句今と全同なり。第二十に家持の七夕哥に、秋風になひく川へのにこ草のにこよかにしもおもほゆるかも
 
2763 紅之淺葉乃野良爾苅草乃束之間毛吾忘渚菜《クレナヰノアサハノノラニカルカヤノツカノアヒタモワレワスレナナ》
 
苅草乃、【六帖云、カルクサノ、別校本又點同v此】  吾忘渚菜、【別校本又云、ワレワスラスナ、】
 
發句は紅の色に淺きも深きもあれば淺と云はむ科におけり、淺葉野は和名云、武藏國|入間《イルマノ》郡麻羽、【安佐波、】此なるべし、信濃と云説あれど清輔朝臣の露深きあさまの野らにちかやかる賤の袂もかくはぬれじをと云歌は千載集に入て侍る、さては波と麻と同韻にて通ずれば淺葉を淺間と意得られて、淺葉野と云所のさだかに有てよまれたるにはあらずと知られたり、三四句のつゞきは第二の日並皇子の御歌と同じ、落句はアヲワスラスナと讀べし、六帖にわれをわするなと有は同じ意なれど彼は字にあたらず、
 
初、紅のあさはの野らに 紅の色にこきもうすきもあれは、うすきにつきてあさしといふ心につゝけたり。淺葉野は信濃にあるよしなり。第十二にもあさは野にたつみわ小菅とよめり。かるかやのつかの間とつゝくるは、草をかりてはつかぬれは、かくはつらねて、一束はみしかけれは、つかのまといへり。第二に日並皇子尊の御哥に、大名兒を彼方野へにかるかやのつかのあひたも我わすれめや。第四に人丸の哥に、をしかのつのゝつかのまともよめり。われわすれなゝは我わすれなんなといふなり。心はいかにして、つかのまにわすれなんとなり
 
2764 爲妹壽遺在苅薦之思亂而應死物乎《イモカタメイノチノコセリカリコモノオモヒミタレテシヌヘキモノヲ》
 
初、いもかためいのちのこせり 君かためはかりに、わか命をこひしなすしてのこせり。中々にかくあふこともなくてあらんよりは、おもひみたるゝ心に、打まかせてこひしなましものをとなり。忍ふゆへありて、心はかよひなから、えあはぬ中によめるなるへし。上の人丸の哥に、玉くせの清きかはらにみそきしてあかふいのちも妹かためなりといへる下句、今の上の二句におなし
 
2765 吾妹子爾戀乍不有者苅薦之思亂而可死鬼乎《ワキモコニコヒツヽアラスハカリコモノオモヒミタレテシヌヘキモノヲ》
 
(34)2766 三島江之入江之薦乎苅爾社吾乎婆公者念有來《ミシマエノイリエノコモヲカリニコソワレヲハキミハオモヒタリケレ》
 
苅爾社は苅に假を兼たり、
 
初、三嶋江の入江のこもを 三嶋江は津國なり。かるをかりそめによせていへり
 
2767 足引乃山橘之色出而吾戀南雄人目難爲名《アシヒキノヤマタチハナノイロニイテヽワカコヒナムヲヤメカタクスナ》
 
上句第四の春日王の歌に同じ、今は我忍びかねぬればかくと色に出で戀なむ、其戀る心をやめむもやめざらむも君が心なれば、やめがたきやうにはすなとなり、六帖にやめむかたなしとあるは字義ともに叶はず、
 
初、あしひきの山橘 山橘は珊瑚の色したれは、色に出てといはむために取出たり。第四に春日王の哥に、此上句と全同なる有。下の句の心は、今は我忍かねぬれは、かくと色に出てこひなん。そのこふる心をやめむも、やむましきも、君か心なれは、やめかたきやうにはすなといへり。古今集友則、わかこひをしのひかねてはあし引の山たちはなの色にてぬへし
 
2768 葦多頭乃颯入江乃白菅乃知爲等乞痛鴨《アシタツノサワクイリエノシラスケノシラレムタメトコヒイタムカモ》
 
上句は白菅を承て知ラシム爲ト云べき序ながら、君に知られむ爲とて鶴の住入江の如くわざとこと/”\しくさわぎて戀痛むかは、然らず、唯おのづから戀る心のかく戀通むぞとなり、第二に長皇子の御歌に戀痛吾弟《コヒイタムワカセ》とよませ給へるに依れば、今の乞は戀に假てかかけり、若はコチタメルカモと讀べきか、こちたくに二義ある中にこと/”\しくなり、うたの意は我戀の程を君に和られむ爲に、葦鶴のさわぐ如く事々しく戀る由を見するか、さにはあらず、實にやるかたなき心より出るぞとにや、古(35)今集に葦鴨のさわぐ入江の白浪の知らずや人をかく戀むとは、心は替たれど作りやう似たる歌なり、六帖に人丸の歌とて、葦鴨のすまふ入江の白浪の知らずや君は我戀らくを、此も亦似たり、
 
初、あしたつのさわくいりえの 上の句は、白管のしられんためとつゝくへき序なから、又用を借たり。乞痛はこちためると讀へし。さてしられんためと、こちためるかもとは、世の人にわかこひのほとをしられんためとて、色に出てこと/\しくするか。さにはあらす。をのつからおもひあまりて、こと/\しくはなれりといふ心なり。上のあしたつのさはくは、こちためるをいはむためなり。次上の哥に、色に出てわかこひなんをとよめる心につゝけてみるへし。こちたきにふたつの心あり。人の言をいたむ心に用たると、こと/\しき心に用たるとなり
  はなはたもふらぬ雨ゆへこちたくも天のみ空はくもり相つゝ
これらはこと/\しくといふ心にかよへり。こひいたむとよまは、第二に長皇子の、こひいたむとよませ給へるは、戀痛とかきて、こひに心のいたむなり。今乞痛とかけれと、こひていたむとみるへし。心は君にしられむためにとて、こひていたむかは。さにはあらねと、をのつから頼る心のいたむといへり。古今集に
  あしかものさわくいりえのしらなみのしらすや人をかくこひむとは
心はことなれと、つくりやう似たる哥なり
 
2769 吾背子爾吾戀良久者夏草之苅除十方生及如《ワカセコニワカコフラクハナツクサノカリソクレトモオヒシクカコト》
 
第十に似たる歌ありき、第十四云、久左禰可利曾氣云々、此と今と同じきを、第十六云、枳棘原苅除曾氣《カラタチノハラカリソケ》、此は苅除二字引合てかり〔二字右○〕とよめり、曾氣は放の字、退の字の意なれば、除は拂には親しく退には疎し、
 
初、わかせこにわかこふらくは 第十にも
  此比の戀のしけゝくなつ草のかりはらへともおひしくかこと
かりそけは、かりしりそくるなり。かりのくるなり。第十四にも、あかみ山草根かりそけとよめり
 
2770 道邉乃五柴原能何時毛何時毛人之將縱言乎思將待《ミチノヘノイツシハハラノイツモイツモヒトノユルサムコトヲシマタム》
 
此何時毛何時毛は第三八束朝臣の歌によまれたると同じくいつにてもの意なり言乎思の思《シ》は助語なり、六帖に、はしゝばの歌とす、草の中にあれば五柴はいちしの芝と思へるなるべし、
 
初、道のへのいつしは原の 第四に、大原の此いつしはのいつしかとゝ志貴皇子の御哥にもよませたまへり。そこに尺せり。いつしはのいつといふをうけて、いつも/\といへり。此いつも/\は、いつなりとも/\といはむかことし。人のゆるさむことをしまたむとは、ゆるすは、わかいふことを聞入て許容するなり。心なかくこひて、いつにもあれ、ゆるすをまちてあはむといふは、ねふかくて一旦ならぬおもひなり
 
2771 吾妹子之袖乎憑而眞野浦之小菅乃笠乎不著而來二來有《ワキモコカソテヲタノミテマノヽウラノコスケノカサヲキステキニケリ》
 
六帖には笠の歌に入れたれど作者なし、人丸集には見えず、續後撰集に人丸の歌と(36)て載られたるは未v考v所v據、
 
初、わきも子か袖をたのみて袖をたのみてとは、もし雨のふることあらは、妹か袖をかりて、うちかつきてかへらんとおもひて、とくといそく心に、空のおほつかなきに、菅笠をたに取あへすきつるとなり。伊勢物語に、みのもかさもとりあへすしとゝにぬれてまとひきにけり
 
2772 眞野池之小菅乎笠爾不縫爲而人之遠名乎可立物可《マノヽイケノコスケヲカサニヌハスシテヒトノトホナヲタツヘキモノカ》
 
眞野池も眞野浦に同じく津の國なり、菅を笠に縫ぬをばまた事の成らぬに喩ふ、遠名とは虚名なり、第十二に三空去名《ミソラユクナ》とよみ、古今集に塵ならぬ名の空に立らむなど讀て空に立意なり、
 
初、まのゝ池の小菅を 次上のまのゝ浦津の國なれは、これもそのあたりに有なるへし。菅を刈て笠にぬへは我物なり。ぬはねはいまたわか物ならす。人をわか物ともえせぬをたとへたるなり。人のとほ名は遠名とはかけれとも、十名といふ心なり。さま/\おほくの名のたつといふ心なり。千名五百名《チナノイホナ》なともよめり。また其人をわか物ともなさぬに、いろ/\の名をやは立へきとよめるなり。事のまたならぬを、笠にぬはぬほとの菅にたとへてよめる哥、猶見えたり
 
2773 刺竹齒隱有吾背子之吾許不來者吾將戀八方《サスタケノハニカクレタルワカセコカワカリシコスハワレコヒメヤモ》
 
刺竹は第十三云、刺將燒少屋之四忌屋爾《サシヤカムコヤノシキヤニ》云々、此を合せて按ずるに、さすとのみも云竹の類の有なるべし、下に淺小竹原《アササヽハラ》とよめる歌を連たるも類を以ておける歟、齒は葉に借れり、齒隱有をばハガクレニアルとも讀べし、刺竹の繁きに隱てあなたに住人は、我身女にて閨を出ざれば有とも知らずしても有べきに、我許に通ひ來て、とかく云ひよるをゆるしてより戀しきとよめる意なり、三つの吾は上に我背兒爾吾戀居者吾屋戸之とよめると同じく、ことさらに重ねたり、ワガリシのし〔右○〕は助語なり、
 
初、さす竹のはにかくれたる 此さす竹といふものは、ひとつの竹の名歟。さす竹の大宮人なと、枕詞におけるも、まことには知かたきことなれと、それをは枕詞をおほかた取出て尺する中に注しおけり。後の哥に、さゝ竹の大宮人とつゝけられたれは、須と佐と五音通するゆへに、さす竹はさゝ竹なりと心得られけるにや。第十三に、さすたかむこやのしきやにといへるも、たきものには、さゝをたくらんちひさき家のきたなき家と、のりていへる詞なり。蘆火たく屋なとよめることく、篠なとはよき家にはたかぬ物なれは、刺《サス》とのみいひたるも、けにもさゝとそ聞えたる。次下に淺さゝ原とよめる哥をつらねたるもその心ある歟。歯隱有は歯は葉に借てかけり。はかくれにあるともよむへし。哥の心は、刺竹のしけきにかくれて、あなたにすむ人は、わか身女にしてねやを出されは、有ともしらすして、こひしきこともあるましきに、わかもとにかよひきて、とかくいひよるをゆるしてより、とはぬたえまはこひおもはるゝとなり。三のわれは、わかせこをわかこひをれはわかやとのとよめることく、水の瀬をくたるいきほひに、ことさらに重ねたり
 
2774 神南備能淺小竹原乃美妾思公之聲之知家口《カミナヒノアササヽハラノヲミナヘシオモヘルキミカコヱノシルケク》
 
(37)淺小竹原は地の名歟、思ふに唯淺き小竹原なるべし、小竹はシノとも讀べし、美妾とは女郎花の義を以てかけり、を〔右○〕とお〔右○〕と同韻にて通じ、み〔右○〕とも〔右○〕と同音にて通ずれば、をみなへしを承ておもへるとつゞくる歟、さらでも女郎花を女になし、公とはやがてそれを云ひて、小竹原の淺きが縁なるに、女郎花の黄に咲て色の見わかれたる如く、我を思ふ心は聲に依て知らるとよめる歟、凡そ占相の書にも聲を聞て相するを要とせり、瞋喜愛憎等に依て音聲それに随がふ習なれば、こはざし.如知けしとは云へり、
 
初、神なひの淺さゝ原の 淺さゝ原は、ふかゝらぬをいへるにて、小さゝ原におなしかるへし。所の名とは聞えす。をみなへしは、女郎花ともかきて、女によそふれは、こゝにも心を得て、美妾とはかけり。をみなへしといひて、おもへるきみかとつゝけたるは、乎と於とは同韻なり。美と毛とは五音相通なるゆへに、をみといへるをうけて、おもへるとかさねたり。聲のしるけくとは、およそ人を相するにも、聲に過ることなきよし、占相の書にいへり。愛惡によりて聲も變する物なれは、われをおもへるゆへは、聲にあらはれて、しらるゝといへり。淺さゝ原にをみなへしの高く咲たるは、黄なると緑なると、色もまきれぬによせていへり。又さゝのはゝみやまもさやにとよめるも、さゝのはの風にふるゝ音のさやくをいひたれは、聲のしるけくとはいふなるへし
 
2775 山高谷邊蔓在玉葛絶時無見因毛欲得《ヤマタカミタニヘニハヘルタマカツラタユルトキナクミルヨシモカナ》
 
第十二第十四にも此上句に似たる歌あり、毛詩云、葛(ノ)之※[譚の旁]兮|施《ウツル》2于中谷1、維葉萋々、女は男を高き山と憑む物なれば第十四にも高嶺に喩へてよめり、されば此は女の歌にて山高みとは男を云ひ、谷の葛をば我身によそへて、谷せばみ峯を指てはひ上る葛の如く憑む人に絶る時なく相見るよしもがなとよめるなるべし、
 
初、山高み谷へにはへる たゆる時なくといはむために、上は序にいへる中に、かつらの、木によることく、女はおとこによる物なれは、それをもそへたるへし。第十二に
  谷せはみ峯へにはへる玉かつらはへてしあらは年にこすとも
第十四に
  谷せはみ峯にはひたる玉かつら絶むの心わかもはなくに
毛詩云。葛之|覃《ハフテ》施《ウツル》2于中谷(ニ)1、維(レ)葉萋々(タリ)
 
2776 道邊草冬野丹履干吾立待跡妹告乞《ミチノヘノクサヲフユノニフミカラシワレタチマツトイモニツケコソ》
 
(38)冬野丹とは冬野の霜枯たる如くになり、道に立せて待事の度かさなる驗を云心なり、六帖人をまつと云に入れたるに告乞をつけたへとあるは此集には叶はず、
 
初、道のへの草を冬野に 冬野の草の霜かれたることくに、草をふみからして立待と妹に告よとなり。道に立出て待ことの度かさなるしるしをいふこゝろなり
 
2777 疊薦隔編數通者道之柴草不生有申尾《タヽミコモヘタテアムカスカヨヒセハミチノシハクサオヒサラマシヲ》
 
隔編數、【六帖云、ヘタテアムカスニ、】
 
薦を編には薦槌と云物に絲を卷てあとさきへ取ちがへて編なり、隔編とは薦一條ツヽ編意なり、又は假令|十府《トフ》にあむに初の度間を隔ていつふ編て次の度初に編ざる所をいつふ編、かくの如く次第を逐て編をも云べし、其薦槌の行戻るに人の往來を喩へて、さばかりかよふ數の繁く重なりなば道芝も生まじきを絶々なる故に生たりとよめるなり、柴は莱草にかれり、
 
初、たゝみこもへたてあむかす 薦をあむには、薦槌《コモツチ》といふものに、糸を卷て、あとさきへ、とりちかへ/\編なり。へたてあむとは、薦ひとすち/\をあむ心なり。其こもつちのゆきもとるに、人のかよひちをたとへたり。しかれは、こもつちの隙なきことく、行かよふ數のかさなりなは、道の草もおふましきを、絶々なるゆへに草は生たりとよめるなり。上はわか人を待に、草をふみからすといひ、これは人のとふことのたえ/\なるゆへに草生たりといへは、相反してよき次第なり。第十二に
  あふよしの出くるまてはたゝみこもかさねあむ數ゆめにし見えむ
第六に
  立かはりふるきみやことなりぬれは道のしは草長く生にけり
 
2778 水底爾生玉藻之生不出縱比者如是而將通《ミナソコニオフルタマモノオヒテイテスヨシコノコロハカクテカヨハム》
 
生不出、【幽齋本云、オヒモイテス、】
 
腰句幽齋本に依て讀べし、如是而とは上の玉藻の水底に生て水の上に顯はれ出ぬを、しのび/\にだに通はむとなり、此より下五首寄v藻、
 
初、水底におふる玉ものおひいてす しのひにかよはんといふ心を、水底になひく藻によせたり。上に水底におふる玉もの打なひき心をよせてこふる此ころ。これより下五首寄藻
 
(39)2779 海原之奥津繩乘打靡心裳四怒爾所念鴨《ウナハラノオキツナハノリウチナヒキコヽロモシノニオモホユルカモ》
 
繩乘は海苔の名なり、心裳四怒爾も繩海苔の繁きによせて云へり、此歌六帖に相思ふと云に入れて中臣女郎が歌とせるは不審なり、又繩乘を古本乘〔右○〕を誤て垂〔右○〕に作れる歟、若は乘なるを見損じけるか、なはたれ〔四字右○〕とあり、
 
初、うなはらのおきつなはのり 心もしのにといはむためなり
 
2780 紫之名高乃浦之靡藻之情者妹爾因西鬼乎《ムラサキノナタカノウラノナヒキモノコヽロハイモニヨリニシモノヲ》
 
ヨリニシのに〔右○〕は助語なり、六帖には藻の歌としてよせてし〔四字右○〕とあり、袖中抄云、紫の名高の浦のなのりその礒に靡かむ時待我を、明日香川瀬々の玉藻の打靡きこころは妹に依にけるかな、此二首は萬葉歌也、而六帖云とて今の歌を出して、此歌は萬葉二首が上下の句にて作立るか如何とあるは、今の歌をおぼえられざりけるなり、明日香川の歌は第十三にあり、それは猶落句少替れり、今の下句とまたく同じきは第十五にあり、
 
初、紫の名高の浦の 名高の浦は、上の三十六葉に、木の海の名高の浦とよめり。第七の三十九葉四十葉に、二首、今の哥の初の二句とおなし哥ありき。紫の名高とつゝくる事、そこに注せり
 
2781 海底奥乎深目手生藻之最今社戀者爲便無寸《ワタツミノオキヲフカメテオフルモノイトモイマコソコヒハスヘナキ》
 
海底、【六帖云、ウミノソコ、校本同v此、】  令社、【幽齋本、令作v今、】
 
(40)發句ワタノソコと讀べき事第一に注せしが如し、令は今に作るべし、下句のてにをはも亦第一に云へるが如し、歌の意は海の底の藻の浪の上に出べきやうもなく、又依べき方もなきを忍びに思ふ事のあらはすべくもなく、又思ひをよすべきお方もなきによそへて、いと今こそせむ方なけれと云へり、
 
初、わたのそこおきをふかめて 海の底にふかくおひたる藻は、上にあらはるへきやうもなく、又よるへきかたもなけれは、しのひにふかくおもふことの、人はつれなくて、おもひをよすへきかたのなけれは、いといまこそせむかたなけれといへり。今を令に作は誤なり。こそといひてきとゝめたるてにをは、上のをのかつまこそとこめつらしきといふ哥にいへるかことし。第一第六にも有
 
2782 左寐蟹齒孰共毛宿常奥藻之名延之君之言待吾乎《サネカニハタレトモヌレトオキツモノナヒキノキミカコトマツワレヲ》
 
此發句はさぬるからにはと云意にやと聞ゆ、されどからにと云べきをかにとは云まじくや、今按第四に坂上郎女歌に張之來者立隱金《ハルシキタラハタチカクルカニ》、かやうに立かくるかにと云べきをかねと云ひたれば、かね〔二字右○〕と云べきをかに〔二字右○〕と云べき理なり、然れば此發句はさねかねばと意得て、孰共毛宿常をタレトモネメドと讀べきか、名延之はナビキシと讀べし、新點の心は昔の人の夫ならぬ人なしと云へる如く、獨いねかねばいづれの人とも寢べけれど、我は奧つもの如く靡きしなひたる君が、憑めし言の末を待て、更に誰とも寢むなど思ふ心はなしとなるべし、
 
初、さねかにはたれともぬれと 此初の句は、さぬるからにはといふ心なり。たれともぬれとゝは、左傳云。此心にて、ねむとたにおもへは、男ならぬ人はなけれと、おきつものなひくことく、しなひたる君かとはむといひおこすることを、我はまつとなり。名延之君之、なひきし君かとよむへし。なひきてぬるといへるにおなし
 
2783 吾妹子之奈何跡裳吾不思者含花之穗應咲《ワキモコカナニトモワレヲオモハネハフヽメルハナノホニサキヌヘシ》
 
(41)しのひに思ふをば如何に思へども何とも人の思はぬは、色こき花のつぼめるほどのやうなれば、人の目だつばかりに咲出る如く、我思ひも穗に出で見せむとなり、此より下四首寄v花、
 
初、わきもこかなにとも つほめる花のことく、しのひにおもふをは人のしらねは、花の咲出ることく、今はおしあらはして色に出て、心のほとをみせんといふ心なり。以下四首寄花
 
2784 隱庭戀而死鞆三苑原之鷄冠草花乃色二出目八方《シノヒニハコヒテヌヌトモミソノフノカラアヰノハナノイロニイテメヤモ》【類聚古集云、鴨頭草又作2鷄冠草1云々、依2此義1者可v和2月草1歟、】
 
死鞆はシヌトモと讀べし、ヌヌトモとあるは書生の誤なり、六帖に藍の歌に入れたるは不審なり、和名集に蓮類に蕣を入れたるには替るべし、注類聚古集云、云々、此は後人の私の注なるを、又後の人のさながら本に書入れたるなり、袖中抄に夜戸出のすがたを注する所に云く夜戸出をよこでと讀たる類聚古集の本に付て、清輔朝臣よこでとよまれきとあれば、此一つにても類聚古集は用るに足らざる物と知られたり、又敦隆部類古集とひかれたる所もあり、名の似たるは同書にや、和名集云、楊氏漢語抄云、鴨頭草【都岐久佐、】辨色立成云、【押赤草、】此中に鷄冠草と云はず、それは猶漏たる事も有なむを和名集海菜類云、楊氏漢語抄云、鷄冠菜【土里佐加乃里、式文用2鳥坂苔1、】又木類云、楊氏漢語抄云、鷄冠木【賀倍天乃木、辨色立成云、?頭樹加比留提乃木、今案是一木名也、】此兩種色も形も?冠に似たる故に名づく、?(42)冠木を?頭樹とも云へば?冠草は?頭花なるべき義明なり、鴨頭草も亦色と形と鴨頭と似たれば名づくるなるべし?冠と鴨頭と色も形も異なるを何ぞ一草に名付むや、其上六帖にもからあゐとよみたれば今の注用べからず、
 
初、しのひにはこひて これは上の哥に問答して、まてしはしと制してよめる心なり。もと問答の哥にはあらねと、撰集の時、撰者次第をさやうにするなり。からあゐは、第三、第七、第十にもよめり。此哥の下の注は、此集をえらむ時にくはへられたる歟。又初て點をくはへたる人の注せる歟。點せし人の注なるへし。類聚古集は、山上憶良の類聚歌林歟。又別にしかいふ書の有ける歟。鷄冠草花は、色に出めやもとよめる心、鷄頭花にて、紅なるをいふへし。すてに注せしことし
 
2785 開花者雖過時有我戀流心中者止時毛梨《サクハナハスクルトキアレトワカコフルコヽロノウチハヤムトキモナシ》
 
上にも花によそへて今盛なり吾戀らくはなどあまたよめるに、花は盛あれど散過る時あるを人を戀る心はさやうに過る時なしとよそへよめり、續後拾遺集春下には初二句をさくらばなころすぎぬれどとて人丸の歌と載らる、おぼつかなし、
 
初、さく花は過る時あれと 花は盛あれとうつろひ過る時あるを、わか人をこふる心は、いつも花のさかりのことくにて、うつろひ過る時なしとなり
 
2786 山振之爾保敝流妹之翼酢色乃赤裳之爲形夢所見管《ヤマフキノニホヘルイモカハネスイロノアカモノスカタユメニミエツヽ》
 
山振の如くうるはしく艶なる妹なり、第十九に山吹を妹爾|似草等見之欲里《ニルクサトミシヨリ》と家持もよまる、
 
初、山ふきのにほへる妹 山ふきは唯にほへる妹といはむ料なり。はねすは、第八に家持の唐棣華《ハネス》をよまれたる哥に委尺せり。第四第十二にも有
 
2787 天地之依相極玉緒之不絶常念妹之當見津《アメツチノヨリアハムカキリタマノヲノタエシトオモフイモカアタリミツ》
 
依相極、【別校本又云、ヨリアフキハミ、】
 
初、あめつちのよりあはんかきり 依相極とかきたれは、よりあひのきはみとも讀へし。以下七首は寄2玉緒1陳v思歌なり
 
(43)此より七首寄2玉緒1、
 
2788 生緒爾念者苦玉緒乃絶天亂名知者知友《イキノヲニオモヘハクルシタマノヲノタエテミタレナシラハシルトモ》
 
亂名は亂れむななり、古今集に下にのみ戀れば苦し玉の緒の絶て亂れむ人なとがめそ、似たる歌なり、
 
初、いきのをにおもへはくるし みたれなはみたれんなゝり。古今集に
  したにのみこふれはくるし玉のをの絶て亂れん人なとかめそ
 
2789 玉緒之絶而有戀之亂者死卷耳其又毛不相爲而《タマノヲノタエタルコヒノミタルレハシナマクノミソマタモアハスシテ》
 
2790 玉緒之久栗縁乍末終去者不別同緒將有《タマノヲノククリヨセツヽスヱツヰニユキハワカレテオナシヲニアラム》
 
友則歌に下の帶の道はかた/”\別るとも行めぐりてもあはむとぞ思ふ、此意と同じ、
 
初、玉のをのくゝりよせつゝ これも古今集に
  下の帶の道はかた/\わかるとも行めくりてもあはんとそ思ふ
これに似たり
 
2791 片絲用貫有玉之緒乎弱亂哉爲南人之可知《カタイトモテヌキタルタマノヲヽヨハミミタレヤシナムヒトノシルヘク》
 
2792 玉緒之島意哉年月乃行易及妹爾不逢將有《タマノヲノシマコヽロニヤトシツキノユキカハルマテイモニアハサラム》
 
玉緒は括時しむれば島意とつゞく、第十二に玉勝間安倍島山とつゞけたるも島に(44)かけて云へる事今と同じ、島意は引しむる心を云歟、思ひ亂れむとする心を引しめて忍ぶなり、さてや年月の替るまで妹にあはで過すらむ、さらずばかく久しくあはでは得あらじをとよめる歟、又玉の緒を括てしむるとつゞくるさきの如くにて、島意とは染心と云にや、人に染得て戀る意にや、年月の行易るまで妹に逢はでも猶やまず戀て有らむとよめる歟、
 
初、玉の緒のしまこゝろにや 玉の緒をしむるといひかけたるなり。しま心とは、玉のをゝくゝる時、しむることく、おもひみたれんとする心を、引しめてしのふなり。引しめてしのふ心にや、年月のかはるまで妹にあはても過すらん。さらすは年月のゆきかはるまて、あはてはえあらしをといふ心なり
 
2793 玉緒之間毛不置欲見吾思妹者家遠在而《タマノヲノアヒタモオカスミマクホリワカオモフイモハイヘトホクアリテ》
 
間は玉と玉との間なり、落句にてことわれども猶云ひ殘せり、※[厭のがんだれなし]はぬ君を山越に置ての類なり、
 
初、玉の緒のあひたもをかす 玉をつらぬくに、玉と玉との間もなきを、あひたもおかすといへり。第四の句まてひとつゝきによみて、家遠くありてといふ句にてことはれとも、猶いひのこせる哥なり。あかさる君を山こしにおきてと留たるかことし
 
 
2794 隱津之澤立見爾有石根從毛遠而念君爾相卷者《コモリツノサハタチミナルイハネヲモトホシテオモフキミニアハマクハ》
 
澤立見爾有、【幽齋本又云、サハタツミナル、】  遠而、【幽齋本、遠作v達、】
 
此歌上の人丸集歌の中に似たる歌有て注せるが如し、此一首寄v泉、
 
初、こもりつのさはたつみなる 上の第九葉人丸集の哥に大かた似たるありてそこに注せりき。此一首寄水
 
2795 木國之飽等濱之礒貝之我者不忘年者雖歴《キノクニノアクラノハマノワスレカヒワレハワスレストシハフレトモ》
 
不忘、【新拾遺云、ワスレシ、】  歴、【新拾遺云、フルトモ、】
 
(45)飽等濱は人をあくにそへたり、此より下四首寄v貝、
 
初、木國のあくらのはまの あくらのはまは、人にあくによせたり。これより以下四首寄v貝
 
2796 水泳玉爾接有礒貝之獨戀耳年者經管《ミナソコノタマニマシレルイソカヒノカタコヒノミニトシハヘニツゝ》
 
水泳、【六帖云、ミツノアハノ、】
 
發句は今按、今の點は叶はず、六帖にみづのあはのあとあるに依れば 泳は古本には沫なりける歟、今の本に依らばミナクヾルと讀べし、景行紀に泳宮を注して云、泳宮此云2區玖利能彌椰《クヽリノミヤト》1、みづくゝるとは玉の光を云べし、玉爾接有礒貝とは玉を女にたとへ、玉もなき礒貝をみづから喩ふ、獨戀とつゞくるは鰒は偏のみある故なり、和名集云、四聲字苑云、鰒(ハ)魚名似v蛤、偏著v石云々、
 
初、みなくゝる玉に みなくゝる玉は波なり。古今集に物名かにはさくら
  かつけとも波の中にはさくられて風吹ことにうきしつむ玉
これにおなし。水泳とかけるを、みなそこのとよめるは誤なり。いそかひは石貝といふ心にて鰒《アハヒ》なり。かた/\あるゆへに、かたこひのみにとはつゝけたり。四聲字苑云。鰒(ハ)魚(ノ)名以(タリ)v※[虫+含](ニ)。偏(ニシテ)著(ケリ)v石(ニ)。肉乾(シテ)可(シ)v食(ツ)。このゆへに、第七にはあはひ玉といふに、石著玉とかけり
 
2797 住吉之濱爾縁云打背貝實無言以余將戀八方《スミノエノハマニヨルテフウツセカヒミナキコトモテワレコヒメヤモ》
 
余將戀八方、【六帖云、ワレコヒムヤモ、別校本又點同v此、】
 
打背貝はからになりたる貝なり、うつせうつぼなど云は虚の字の心なり、僞《イツハリ》を日本紀にウツハリと點ぜるも虚言なれば皆同じ詞なり、實無言とはまことならぬ言なり、
 
初、すみのえの濱によるてふ うつせ貝は空貝なり。からのみ有をいへり。よりてみなきこともてわれこひめやもといへり。いつはりにはこひすとなり
 
(46)2798 伊勢乃白水郎之朝魚夕菜爾潜云鰒貝之獨念荷指天《イセノアマノアサナユフナニカツクテフアハヒノカヒノカタオモヒニシテ》
 
獨念はカタモヒと讀べし、鰒貝の獨念と云に付て先達の注せられたる物語あれど、慥ならぬ事なり、獨戀とつゞけたるを上に注せると同じく意得べし、古今に是と上句同じ歌あり、
 
初、いせのあまのあさなゆふなに 朝な/\といふことく、なはそへたる字にて、あしたゆふへの心とおもふを、朝魚夕菜とかけるを見るに、朝|食《ケ》夕|食《ケ》の菜肴の料に、貝をかつき取、めを刈をいふにや。朝魚夕菜は、文を互にするなり。朝菜夕魚ともかくへし。古今集にこれと上の句はおなしくて、みるめに人をあくよしもかなともよめり
 
2799 人事乎繁跡君乎鶉鳴人之古家爾相語而遣都《ヒトコトヲシケシトキミヲウツラナクヒトノイニシヘニアヒイヒテヤリツ》
 
古家、【フルイヘ、校本又點、同v此、】
仙覺云、此歌第四句古點にはひとのふるいへにと點ず、今和し替て云くヒトノイニシヘニと云べし、古家と書ていにしへと和する事傍例多し、歌の心は戀しき人のたまさかに問來たれども人言の繁きをつゝむ程にとく返して、人のきゝには我にはあらぬ人のいにしへ相見し人ぞなど云ひて空しく歸しつるなり、今按古家をいにしへとよめるは第三長屋王の歌に我背子我古家《ワカセコカ》古家乃里乃云々、此をも袖中抄にはふるいへのさとのとよめり、第九に古家丹妹等吾見《フルイヘニイモトワカミル》云々、此は今の點誤れり、いにしへにと讀べき事彼卷に注せり、鶉鳴と云ひてふるきとつゞけたるは第四に鶉鳴|故郷從《フルキサトヨリ》云々、第八云、鶉鳴古郷之云々、第十七云、鶉鳴布流之登比等波《ウツラナクフルシトヒトハ》云々、かゝれば古家は(47)ふるいへともいにしへとも兩方に讀べし、鶉鳴と云ひては皆ふるしとのみつゞけたれば今も讀べし、鶉鳴昔とやうにはつゞくべきことわりなし、さてよめる意は我宿にて逢事は人言繁しと思ひて、人の住あらして鶉鳴ばかりの古家に出相て、語りて歸し遣つるとなり、此より下九首寄v鳥、
 
初、人ことをしけしと うつらなく人のいにしへとは、第三に長屋王の哥に、わかせこかいにしへの里のあすかにはとよみたまへり。そこにも、又第九に、いにしへに妹とわか見しぬは玉のくろうしかたをみれはさひしもといへるにも、古家とかけり。いにしいへといふ心にて、ふる里なり。鶉なくとは、鶉はひとめなき所に鳴物なれは、第四、第八、第十七にも、皆ふるさとにつゝけよめり。さてこの哥の心は、人のくちさかなけれは、君を家にむかへてもえおかて、人の住あらして、人めもなくて鶉啼ふるさとにあひかたりて後、やりてをけるとなるへし。これより下九首は鳥に寄て陳思歌なり
 
2800 旭時等鷄鳴成縱惠也思獨宿夜者開者雖明《アカツキトトリハナクナリヨシヱヤシヒトリヌルヨハアケハアクトモ》
 
鷄鳴成、【六帖云、トリノナクナル、】
 
發句は今按アカトキトと讀べし、集中兩方によめる中に今は時の字に當てかくよむべきなり、豆《ツ》と刀《ト》と通ずればあかつきも明時なり、第三句より下第十五の旋頭歌に全同なる歌あるに、落句|安氣婆安氣奴等母《アケハアケヌトモ》とあれば今も然讀べし、
 
2801 大海之荒礒之渚鳥朝名且名見卷欲乎不所見公可問《オホウミノアライソノストリアサナアサナミマクホシキヲミエヌキミカモ》
 
朝名旦名は例に依てアサナサナと讀べし、第二十に阿佐奈佐奈安我流比婆理爾《アサナサナアガルヒバリニ》云々、これを證とす、荒礒はアリソとも讀べし、渚鳥によせて見まく欲きをとよめるは、今按渚鳥は雎鳩の一名にやとおぼしきは、集中にみさごゐるすとも荒礒ともあまた(48)よめり、みさごを又はしなが鳥とも云かとおぼしければ、しなが鳥猪名と云事を別に注するに、見まく欲きと云意も顯はるべし、
 
初、大海のあらいそのすとり 長流か抄に、洲に居る鳥のあさるといふ心に、朝なくとはいひかけたりといへり。今案同抄に、さきに、すとりとは、一説にみさこをいふよしかけり。しかるに、景行紀云。五十三年冬十月、至2上總(ノ)國(ニ)1從2海(ツ)路1渡2淡(ノ)水門(ヲ)1。是(ノ)時|聞《キコユ》2覺賀《カクカノ》鳥(ノ)之聲1。欲(シテ)v見(ムト)2其鳥(ノ)形(ヲ)1尋(テ)而出(タマフ)2海中(ニ)1。和名集云。爾雅注云。雎鳩【雎音七余反。和名美佐古。今按古語用2覺賀鳥三字1云2加久加乃土利(ト)1。見(タリ)2日本紀私記1。公望案2高橋氏文1云2水佐古1。】※[周+鳥]屬也。好在2江邊山中(ニ)1。亦食(フ)v魚(ヲ)者(ナリ)也。委は第九上總末珠名娘子を詠せる哥の發句に、水長鳥安房とつゝけたるにつけて尺せり。又第十三に、鳥の音の開ゆる海にとよみ出せる哥有。今先彼景行紀によるに、其鳥のかたちをみんとおほしめして、尋て海《ワタノ》中に出たまふといひ、さらても洲さきの木陰なとにゐたらんは、心ある人はおもしろくもみるへけれは、あさるといふ心にはつゝけすして、朝な/\は日に/\その鳥のみまくほしきによせて、みまくほしきをみえぬ鳥かもとはよめるにやとそおほゆる
 
2802 念友念毛金津足檜之山鳥尾之永此夜乎《オモヘトモオモヒモカネツアシヒキノヤマトリノヲノナカキコノヨヲ》
山鳥尾は唯永きとつゞくるのみならず獨寢る心をそへたり、
 
或本歌曰|足日木乃山鳥之尾乃四垂尾乃長永夜乎一鴨將宿《アシヒキノヤマトリノヲノシタリヲノナカナカシヨヲヒトリカモネム》
 
山鳥之尾乃四垂尾乃とは山鳥の尾の長き中のしだり尾なり、第七に可?乃垂尾乃亂尾乃《カケノタレヲノミダレヲノ》とよみ、第十四に、夜麻杼里乃乎呂能波津乎《ヤマトリノヲロノハツヲ》とよめるが如し、日本紀にも此集第十にも垂をしたる〔三字右○〕とよめり、落句は又山鳥のひとりぬるに寄す、此歌人丸集にあるに依て拾遺には作者を定められたり、六帖山鳥の歌には落句を我ひとりぬるとあり、
 
2803 里中爾鳴奈流鷄之喚立而甚者不鳴隱妻羽毛《サトナカニナクナルカケノヨヒタテヽイタクハナカヌコモリツマハモ》
 
(49)鷄之、【官本又云、トリ、】
 
鷄はトリとよめる然るべし、喚立而とは時を作るにはあらで餌などはむ時妻を呼なり、甚者不鳴とは鷄の上を云にあらず、里中にて妻を喚立て、鷄の鳴如く押あらはしては物をも得云はぬを、鷄によせて云故に、イタクハナクヌと云へり、第七に水手《カコ》を鹿子によする故に舟歌うたふを鹿子ぞなくなるとよめるが如し、
 
初、さと中に鳴なるかけの よひたてゝいたくはなかぬとつゝくるは、鷄はいたく心のまゝになくをかりて、我は人めをしのへはなくことたに心にまかせす、しのひになきてこひし、そのこもりつまは、いつらやと尋ぬる心なり。よひたてゝ、いたくはなかぬとつゝけたるは、彼ふるのわさ田のほには出すといへるかことし
 
一云|里動鳴成鷄《サトトヨミナクナルカケ》
 
此も鷄はトリとも讀べし、カケノと點ずべし、
 
2804 高山爾高部左渡高高爾余待公乎待將出可聞《カクヤマニタカヘサワタリタカ/\ニワカマツキミヲマチイテムカモ》
 
高山爾、【別校本又云、タカヤマニ、】  左渡、【幽齋本云、サワタル、】
 
上句の語勢を思ふに發句もタカヤマニと讀べし、我背兒爾吾戀《ワガセコニワガコヒ》をれば吾屋戸《ワガヤド》のとよめる類なり、
 
初、高山にたかへさわたり 此たか山を、今の本にかく山とよめり。わかせこにわかこひをれはわかやとのといふ哥の語勢に、たか山にとよみて三句おなし言を重たるを曲とすへくや。高々に人を待とは、あまたよめり。さきのことし。たかへは※[爾+鳥]《タカヘ》にて鴨の類なり
 
2805 伊勢能海從鳴來鶴乃音杼侶毛君之所聞者吾將戀八方《イセノウミニナキケルタツノオトトロモキミカキコエハワレコヒムヤモ》
 
音杼侶毛の侶は助語なり、今按君之所聞者と云に依れば初の二句をイセノウミユ(50)ナキクルタヅノと讀べきにや、鳴て來る鶴の如く君がきこえ來ばと云へるなるべし、
 
初、いせのうみに鳴けるたつの 音杼侶毛を、長流か本にはとゝろにもとよめれと、今の本おとゝろもとよめり。ろを助語として、これをよしとすへし。たつのまもなく鳴ことく、君か物いふを常にきゝ、あるひは使にても聞かはさは、かくはかり我こひむやとなり
 
2806 吾妹兒爾戀爾可有牟奥爾住鴨之浮宿之安雲無《ワキモコニコフルニカアラムオキニスムカモノウキネノヤスケクモナシ》
 
鴨之浮宿之とは鴨のうきねの如くなり、又第四に枕をくゝる涙にぞ浮宿をしけるとよめるに准らへば、奧に住鴨とよせたるに涙を含みて浮宿は我浮宿にや、六帖鴨の歌とす、又六帖水鳥の歌に人言のしげみにさればとて下は今と同じ歌あり、
 
初、わきもこにこふる こふるにかあらんは、こふるゆへにかあらんといふ心なり。しらぬよしゝてかくよみなすは、哥のならひなり
 
2807 可旭千鳥數鳴白細乃君之手枕未厭君《アケヌヘクチトリシハナクシロタヘノキミカタマクライマタアカナクニ》
 
此千鳥は多くの鳥を云、第十六云、吾門爾|千鳥數鳴《チドリシバナク》云々、其外あまたよめり、白細は手の白きなり、
 
初、あけぬへくちとりしはなく 此千鳥は、唯よろつの鳥を、ちゝの鳥といふ心にていへり。川に住鳥のひとつの名にはあらす。第十六に
  我門に千鳥しは啼おきよ/\わかひとよ妻人にしらるな
此哥の次上に
  我門のえのみもりはむ百千鳥ちとりはくれと君そきまさぬ
又第十七には、朝かりにいほつ鳥たて夕かりに千鳥ふみたてなともよめり。しはなくは、しは/\啼なり
 
問答
 
2808 眉根掻鼻火紐解待八方何時毛將見跡戀來吾乎《マユネカキハナヒヒモトキマタメヤモイツカモミムトコヒコシワレヲ》
 
右上見2柿本朝臣人麿之歌中1、但以2問答故1累載2於茲1也、
 
(51)歌下に集の字落たるか、但上の注にもなき所あり、人麿集歌は落句念吾君にて今と替れるを、其由注せられざる事不審なり、
 
2809 今日有者鼻之鼻之火眉可由見思之言者君西在來《ケフナレハハナシハナシヒマユカユミオモヒシコトハキミニシアリケリ》
 
今日有香とは鼻を嚔《ヒ》眉の痒きを恠しと思はしむる今日の事なれば、君が來むとのさとしなりけるよと云へたる意なり、鼻之鼻之火は鼻をはなひと云へる歟、二つの之〔右○〕助語なり、若は鼻火鼻之火にて度々はなひし意なりけむを書たがへける歟、君ニシのし〔右○〕も助語なり、六帖には打來てあへると云に入れたり、
 
初、けふなれははなし おもひしことはとは、あやしみおもひしは、けふの事なれは、さては君にあはむとての前相にて有けりとかへせるなり。君にしのしもしは助語なり
 
右二首
 
2810 音耳乎聞而哉戀犬馬鏡直目相而戀卷裳太口《オトノミヲキヽテヤコヒムマソカヽミメニタヽニミテコヒマクモオホク》
 
犬馬鏡とかけるは上に追馬喚犬をソマとよめり、今は其義訓の略なり、太口は集中の例に依に太は大に作るべし、歌の意は音のみ聞たるばかりにこひむ物かとなり、
 
初、音のみを聞てやこひむ 音のみ聞たるはかりにこひむ物か。聞はかりにたにこふる我なれは、たゝちにあひ見て後こひむことのおほさはかねて知るゝとなり。犬馬鏡は、上の廿七葉に、いつみのそまとあるそまに、追馬喚犬とかける所に申つ
 
2811 此言乎聞跡乎眞十鏡照月夜裳闇耳見《コノコトヲキクトニヤアラムマソカヽミテレルツキヨモヤミニノミミユ》
 
(52)第二の句落字あり、今の點は強てつけたれば叶はず、乎は例としてを〔右○〕とのみ用ゆ、今按乎は手にて鴨の字などの落てキカムトテカモにや、君が此言を聞かむとてや、我も此比君を戀て、鏡の如く照月夜も、かきくらす心に闇のやうに見なれつるは、さては同じ心の通ひけるにやとよめる歟、
 
初、此ことをきくとにやあらん 聞跡乎、この三字は、おもふに上下の間におちたる字有ぬへくおほゆ。跡の下に有の字ありて、きかむとなれやとよむへき歟。又乎の字はをのかなにのみ用て、一所も外に他の音訓を用たることなし。古の音に用へきを、乎と用たるは、弘の字をもをといふかなに用れは、袁《ヲ》と古と同韻にて通する歟。又句中に此字を置て、上へかへりてよむ時、和訓にをといふ助になる事あれは、和語のかたを用る歟。先此集にはをとのみつかひたれは、今は手の字の誤にて、下に鴨鳧なとの字の落たるにや。聞跡手鴨《キカムトテカモ》とあらは、きかんとてかもと讀へし。まそかゝみは、上の哥にいへるをうけて、照るとつゝけ、みゆといふまてにわたれり。さてかくかへす心は、をくれる哥に、ふかく我を思ふよしをいへは、君かかゝる言をきかんとてにや、われも此ころ君をこひて、鏡のことくてれる月夜も、かきくるゝ心に、やみのやうに見なしつるは、さてはおなし心のかよひけるにやといひやるなり。第十二に
  久にあらむ君を思ふに久かたの清き月夜もやみにのみ見ゆ
第四に
  てれる日をやみに見なしてなく涙衣ぬらしつほす人なしに
 
右二首
 
2812 吾妹兒爾戀而爲便無三白細布之袖反之者夢所見也《ワキモコニコヒテスヘナミシロタヘノソテカヘシヽハユメニキエキヤ》
 
仙覺云、戀しきひとを夢に見むと思ふには衣をかへして寢れば夢に見ゆと云事あり、又袖ばかりを返すとも云へり、今の歌の心にや、但常に人の云ひ習たるは衣をかへしてねたれば戀しき人の我夢に見ゆるとぞ思ひ習たるに、今の歌は我袖を反て寢たれば人の夢に見ゆと聞えたり、次の歌は男の袖を反して寢たるに戀らるゝ女の夢に男の見えけると聞えたるなり、今按魂のあへば夢に見ゆるなれば、此方に袖を反して人を夢に見る夜は彼|方《タ》にも見ゆべきか、袖反す事はあまたよめる中に、第十七云、之伎多倍能蘇泥可敝之都追宿夜於知受伊米爾波見禮登《シキタヘノソデカヘシツヽヌルヨオチズイメニハミレド》云々、此は此方に見る證なり、
 
初、わきもこにこひてすへなみ 此集には、おもふ人をゆめにみんとては、衣をかへすとも、袖をかへすともよめり。衣をかへさゝれは、袖もかへらされは、袖をかへすは、やかて衣をかへすなり。ゆひは手につきたる物なれと、ゆひを折を、手をゝるといふに准すへし
 
(53)2813 吾背子之袖反夜之夢有之眞毛君爾如相有《ワカセコカソテカヘスヨノユメナラシマコトモキミニアヘリシカコト》
 
如相有、【六帖云、アフコトアリキ、】
 
六帖に右二首を夢野歌に入れたるに、此發句をわぎもこがと改たるは誤れり、
 
右二首
 
2814 吾戀者名草目金津眞氣長夢不所見而年之經去禮者《ワカコヒハナクサメカネツマケナカクユメニミエステトシノヘヌレハ》
 
2815 眞氣永夢毛不所見雖絶吾之片戀者止時毛不有《マケナカクユメニモミエスタユレトモワカカタコヒハヤムトキモナシ》
 
今按雖絶をタエヌトモとよみ、不有をアラジとも讀べし、
 
初、まけなかく夢にも 不有は庶詮のことはりにてかけり
 
右二首
 
2816 浦觸而物魚念天雲之絶多不心吾念魚國《ウラフレテモノナオモヒソアマクモノタユタフコヽロワカオモハナクニ》
 
物魚念、【幽齋本魚作v莫、】  吾念魚國、【幽齋本、魚作v莫、】
 
落句はワガモハナクニと讀べし、
 
初、うらふれて物なおもひそ 天雲のたゆたふ心は、雲のなかそらにして、ゆくともなきことくなるにたとへていへり
 
(54)2817 浦觸而物者不念水無瀬川有而毛水者逝云物乎《ウラフレテモノハオモハシミナセカハアリテモミツハユクテフモノヲ》
 
名には水無瀬川と云ひて水の絶たるやうにおぼゆれども、猶行く水の有なれば絶たるやと見ゆれども下に通ふ志さしの殘たるは憑もしければ、さのみ物思ひはせじとよめるなり、古今集に水無瀬川有て行水なくばこそ終に我身を絶ぬと思はめ、今の歌を取れる歟、第七に泊瀬川流水沫之 絶者許曾吾念心不遂登思齒目《ハツセガハナガルミナワノタエバコソワガオモフコヽロトケストオモハメ》、今の下句此歌の意と同じ、
 
初、うらふれて物はおもはし 名にはみなせ川といひて、水の絶たるやうにおほゆれとも、猶行水は有なれは、たえたる中とみゆれとも、下にかよふ心さしの殘たるは、たのもしけれは、さのみ物おもひはせしとよめるなり。古今集に、みなせ川有て行水なくはこそ終に我身をたえぬとおもはめ。これ今の哥をとれりといへり
 
右二首
 
2818 垣津旗開沼之菅乎笠爾縫將著日乎待爾年曾經去來《カキツハタサクヌノスケヲカサニヌヒキムヒヲマツニトシソヘニケル》
 
開沼は上に云つる如くサキヌと讀べし、地の名なり、三四の句は笠に縫て著そむる日を待と云にはあらず、笠には縫置て著む日を待なり、第十一に置古《オキフル》し後者誰將著《ノチハタガキム》とよめるにて知べし、笠に縫は約る譬、著るは逢譬なり、
 
初、かきつはたさくぬの菅を かきつはたは、和名集云。蘇敬本草注云。劇草一名馬藺【和名加木豆波太。】此集にさま/\かりてかけり。中古以來杜若とかくは、よる所ある歟。杜若香草とあれは、かきつはたとは見えすや。さくぬの菅とは、かきつはたのさくぬまなり。をみなへしさく澤におふる花かつみ、をみなへしおふる澤邊のまくす原なとよめるたくひなり。もし又さきのといふ所にあるぬまにて、さきぬの菅ともよむへき歟。かさにぬひおきて、きん日を待とは、心は互にかはしおきて、あふ時を待こゝろにたとへたり
 
2819 臨照難波菅笠置古之後者誰將著笠有魚國《オシテルヤナニハスカヽサヨキフルシノチハタカキムカサナラナクニ》
 
(55)置古之、【官本云、オキフルシ、】  魚、【幽齋本、作v莫、】
 
置をヨキと點ぜるは書生の誤なり、下句は君こそ著めにて、君が妻とこそならめの意なり、
 
初、おしてるやなには菅笠 津の國を、すへてなにはの國といひ、東|生《ナリ》西生の兩郡を、わきて難波大郡といへり。東生にまします生國魂《イクタマノ》社を、延喜式に、難波(ノ)大社と載らる。今も東生郡におほく菅笠を出せり。おきふるしは、俗に著物なとを著すして、年を經て箱に入置を、ふもしをにこりて、おきふるしといふこれなり。此かへしにふたつの心有歟。きん日を待といひて、我をおきふるさは、おきぶるしの笠の、人もきぬことく、いたつらにおうなにならんと、はげます心ともきこゆ。又きん日を待ておきふるすとも、後は誰きん笠ならす、君こそきめとたとへて、たとひ年月はふるとも、我は君か手にこそいらめといふ心にかへしたりともきこゆ。臨照は、第六卷赤人歌にもかけり。これおしてるの正字と見えたり。別に此集の枕言を尺して附る中に委注せり
 
右二首
 
2820 如是谷裳妹乎待南左夜深而出來月之傾二手荷《カクタニモイモヲマタナムサヨフケテイテクルツキノカタフクマテニ》
 
待南はマチナと讀べし、
 
2821 木間從移歴月之影惜俳徊爾左夜深去家里《コノマヨリウツロフツキノカケヲシミタチヤスラフニサヨフケニケリ》
 
木間より庭にうつる月を見捨むが惜さに、しばし立ややらふとせしほどに、夜の深つるなりと答せり、逢ことをも急ぐべき心の木の間の月をも惜みけむ情あるかし、
 
右二首
 
2822 栲領布乃白濱浪乃不肯縁荒振妹爾戀乍曾居《タクヒレノシラハマナミノヨリモアヘスアラフルイモニコヒツヽソヲル》
 
栲領巾は白濱と云はむ爲ながら下の妹に懸たり、第三に栲領巾乃懸卷欲寸妹名乎《タクヒレノカケマクホシキイモガナヲ》(56)とよめるに同じ、白濱は第六に藤井浦にも敏馬浦にも清白濱とよめるに同じかるべき歟、和名集に安房國平群郡白濱【之良波萬、】此白濱あれば今枕詞を置てよめるは若は是にやと思へど、いと遠ければそれをしも讀べからねば、初云が如くなるべし、不肯縁は今按今の點肯の字に叶はぬ歟、下に不肯盛をもりかへにと點ぜれば今もヨリカヘニとと讀べし、かへにと云は不知をしらにと讀が如し、荒振妹は第四に荒振公《アラフルキミ》とよめる意なり、我に依ことをがへむぜずしてあらびて冷じき妹なり、縁っも荒振《アラフル》も共に浪の縁の詞なり、上に甚振浪ともよめり、
 
初、たくひれの白はま浪 たくひれは白きひれなり。白はまとつゝけむとて、かくは枕詞を置り。白濱はたゝまさこのしろくてしきみちたる濱をいへり。名所にはあらす。第六に赤人の藤江浦にてよまれたる哥に、清き白濱とよまれたるにて知へし。六帖には但馬國に雪の白濱とよめる哥あり。よりもあへすあらふる妹とは、浪のよるかとみれは立歸ることく、あらくなりゆく人を、浪によせていへるなり。上に風をいたみいたふる浪とよめる哥に引しことく、第十四東哥に、なみのほのいたふらしもよと女のよめるは、俗につな引するを、ふるといふ心なり。ふりはなちてよせぬ心なれは、あらふる妹といへり。日本紀に荒俗荒神なとかきて、あらふるとよめり。又上に
  いもか髪あけさゝ葉野のはなれ駒あれゆきけらしあはぬおもへは
 
一云|戀流己呂可母《コフルコロカモ》
 
2823 加敝良末爾君社吾爾栲領巾之白濱浪乃縁時毛無《カヘラマニキミコソワレニタクヒレノシラハマナミノヨルトキモナシ》
 
加敝良末と云にはこつのやう有べし、一つには第十八に可敝流末能美知由可牟日波《カヘルマノミチユカムヒハ》云々、此はかへりの道を行かむ日はと云詞なり、る〔右○〕とら〔右○〕と通ずればかへりにと云意にて劫而と云に同じかるべし、かへるをかへらひとあまたよめり、二つには左と良と通ず、第七にさやけさと云を清羅とかけるも此なり、然ればかへさまにと云にや、何れも浪の歸ると云意より所有て聞ゆれど古語の意を思ふに初の義なるべき(57)歟、落句の無をナシと點ぜるは上の君社に叶はず、ナキと讀べし、
 
初、かへらまに君こそわれに かへらまは却《カヘツテ》なり。まはあはずまこりずまなとのたくひにそへたる字なり。君こそといひて、よる時もなきと留たるてにをは、右にいへるかことし
 
右二首
 
2824 念人將來跡知者八重六倉覆庭爾珠布益乎《オモフヒトコムトシリセハヤヘムクラハヒタルニハニタマシカマシヲ》
 
初、おもふ人こんと知せは 第十九に
  むくらはふいやしき宿もおほきみのまさんとしらは玉しかましを
第六に
  かねてより君きまさんとしらませはかとに宿にも玉しかましを
 
2825 玉敷有家毛何將爲八重六倉覆小屋毛妹與居者《タマシケルイヘモナニセムヤヘムクラハヒタルコヤモイモトシスマハ》
 
妹トシのし〔右○〕は助語なり、六帖むぐらの歌に、何せむに玉のうてなも八重葎はへらむ中にふたりこそねめ、
 
初、玉しける家も何せん 伊勢物語に
  おもひあらはむくらのやとにねもしなんひしき物にはそてをしつゝも
 
右二首
 
2826 如是爲乍有名草目手玉緒之絶而別者爲便可無《カクシツヽアリナクサメテタマノヲノタエテワカレハスヘナカルヘク》
 
爲便可無、【六帖云、、スヘナカルヘシ、】
 
次の歌に依に此は夫の旅に出るに妻のよめるなり、
 
初、かくしつゝ有なくさめて 玉の緒の絶てわかれはとは、おなしをにぬかれたる玉は、間もなくてよりあひてあるを、緒のたゆれは、こなたかなたへまろひのくにたとへたり
 
2827 紅花西有者衣袖爾染著持而可行所念《クレナヰノハナニシアラハコロモテニソメツケモチテユクヘクソオモ》
 
(58)花ニシのし〔右○〕は助語なり、君がかほばせは唯紅と見ゆるを、若誠の紅の花ならば旅の衣に染著けて、身にそへてゆかまし物をとなり、所念はオモホユと讀べし、
 
初、紅の花にしあらは 心を得て言を捨たるかへしなり。君かもし紅の花ならは、袖にそめつけてもそひてゆかんものをとなり
 
右二首
 
譬喩
 
目録に歌の字を加ふ、集中の例まことに有ぬべくおぼゆ、
 
2828 紅之深染乃衣乎下著者人者見久爾仁寳比將出鴨《クレナヰノコソメノキヌヲシタニキハヒトノミラクニニホヒイテムカモ》
 
人者、【官本、者作v之、】
 
深く人を思ふ心の顯はれやせむと云意を喩たり、第七に紅衣染雖欲著丹穗哉人可知《クレナヰニコロモヲソメテホシケレドキテニホハヾヤヒトノシルベキ》とありしに同じ、
 
初、紅のこそめのきぬを ふかく人を思ふ心の下にあらは、つゐに色に出て人にしられむこと、紅のこきゝぬを下にきつれは、上ににほふかことくならんかとたとへていへり
 
2829 衣霜多在南取易而著者也君之面忘而有《コロモシモオホクアラナムトリカヘテキテハヤキミカオモワスレセム》
 
霜と者とは助語なり、多はサハニとも讀べし、落句は今按此和相叶はず、オモワスレタルと讀べし、喩ふる意は我衣ながら多ければ見まがひ忘るゝ如く、君は思ふ人(59)のあまたあれば我を面忘すらむ、我も衣の多き如く思ふ人の多からば君を面忘せむ物をとなり、上に面忘何有人之爲物烏《オモワスレイカナルヒトノスルモノゾ》云々、面忘太爾毛得爲也登《オモワスレダニモエスヤト》云々、此等の歌引合せて見るべし、女の歌なるべし、】
 
初、衣しもおほくあらなん 尾の句、面忘而有、これをおもわすれせむとよめるは誤なり。而有をいかてせんとはよむへき。おもわすれたるとよむへし。上の二句は、わか衣をおほくほしきとねかふなり。三の句より下の心は、おもわすれは、おほき衣の中にては、わかきぬなから見わするゝなり、君は衣をあまたもちて、とりかへ/\きれはにや、みわするらん。我は衣のあまたなけれは、見まかふこともなしといひて、さてたとふる心は、君はおもふ人のおほきゆへに、かなたこなためのうつりて、わかかほをわするらん。われもおもふ人をあまたもちて、君かかほのわすらるゝ物か心みんといふ心なり。我は君より外おもふ人のなけれは、おもわすれをえせてこひおもふといふが所詮なり。上に  おもわすれいかなる人のするものそわれはしかねつゝきてしおもへは
  おもわすれたにもえすやとたにきりてうてともこりす戀のやつこは
 
右二首寄衣喩思
 
2830 梓弓弓束卷易中見判更雖引君之隨意《アツサユミユツカマキカヘアテミテハサラニヒクトモキミカマニ/\》
 
此歌は我を捨て人に移りたる男の又立かへり云時によめる女の歌と聞ゆ、弓束の古たると思ひて新しき革に卷かへたれども、心ゆかずしてもとの弓束に思ひ返して引と喩たり、さは有とも我は替る心もなし、君がまゝに隨ひ依らむとよめるなり、
 
初、梓弓ゆつかまきかへ 此哥は、我を捨て人にうつりたる男の、又立かへりいふ時によめる女の哥ときこゆ。ゆつか卷かへとは、弓束の古たると思ひて、新しき革に卷かへたれとも、心ゆかすして、もとのゆつかに思ひかへして引とたとへたり。さは有とも、我はかはる心もなし。君かまゝに隨ひよらんとよめるなり。惣して弓は男の手にとる物なれは、女のわか身にたとふるなり
 
古一首寄弓喩思
 
2831 氷沙兒居渚座舩之夕塩乎將待從者吾社益《ミサコヰルスニヲルフネノユフシホヲマツラムヨリハワレコソマサメ》
 
氷沙兒、【官本、氷作v水、】
 
氷は書生の誤なり、水に作るべし、渚座船は今按スニヰルフネと讀べし、和名集舟事(60)類云、説文云、〓【子紅反、俗云爲流、】船(ノ)著v沙(ニ)不v行也、今の俗に舟のすわると云なれば、をるもゐるも皆居の字の心にて違ふまじけれど、和名集に依てゐると讀べき歟とは云なり、安康紀云、大草香皇子對言、僕頃患2重病(ヲ)1不v得v愈、譬(ヘハ)如(シ)2物積v船(ニ)以待v潮者1、
 
初、みさこゐるすにをる舟 舟の夕しほを待てこき出んとするよりも、わか君を待心こそまさらめなり。人をも夕にまては、夕しほを待にたとへたり。水を氷に作れるは誤なり。みさこをすとりといふ一説には、これらも引ぬへし.
 
右一首寄船喩思
 
2832 山河爾筌乎伏而不肯盛年之八歳乎吾竊舞師《ヤマカハニウヘヲフセオキテモリカヘニトシノヤトセヲワカヌスマヒシ》
 
筌は毛詩云、毋v逝2我(カ)梁1、毋v發2我※[竹/句]1、和名集云、野王按筌【且※[さんずい+玄]反、和名宇倍、】捕v魚竹※[竹/句]也、※[竹/句]【古厚反、】取v魚竹器也、山川に石をたゝみよせて水の早く落る所にまろく簀を編て、簀の尻をひとつにくゝりて魚の出ぬやうにして、其水落にあてゝ置て、人にも取られじ鳥獣にも取られじとて、人は其傍に居て守るなり、盛は守に借てかけり、伏而は今按フセツヽと讀べし、されども六帖も今の點と同じければ、伏の下に置の字の落たるか、ヌスマヒシはぬすみしなり、山川に筌を伏て守れども久しくしてたゆむ時に、人も鳥獣も來て盗むが如く、我思ふ人をも親などの守れども、此年の八歳の程ひま/\を窺て我相みしとなり、魚をは女に喩へたるなり、
 
初、山川に筌をふせ置て 和名集云。野王按(ニ)筌(ハ)【且※[さんずい+玄]反。和名宇倍】捕(ル)v魚(ヲ)竹※[竹/句](ナリ)也。※[竹/句]【古厚反】取(ル)v魚(ヲ)竹器(ナリ)也以上。毛詩之谷〓(ニ)云。毋(レ)v逝《ユクコト》2我(カ)梁《ヤナニ》1。毋(レ)v發《アハクコト》2我(カ)※[竹/句]《ウヘヲ》1。山川に石をたゝみよせて、水の早く落る所に、丸く簀を編て、簀の尻をひとつにくゝりて魚の出ぬやうにして、其水落にあてゝおくなり。さて人にもとられし。鳥けた物にもとられしとて、其かたはらに人は居て守るなり。よりてもりあへすとよめり。盛といふ字かきたれと守るなり。もりかへにと今の本によめるもよし。かへにはかへずなり。不知とかきてしらにとよめるは古語なり。それに准して知へし。阿と加とはよく通する字なれは、かへすはあへすなり。不肯を聖教よむ人、かへむせすとよむ時、かもし濁りならへり。かへむせすは、うけかはすといふ心なり。ぬすまひしは、ぬすみしなり。上にも、心さへまたせる君に何をかもいはすいひしとわかぬすまはんとよめるにおなし。哥の惣しての心は、山川に筌をふせてまもれとも、久しくはまもりかたくてたゆむ時に、人も鳥けた物もきてぬすむかことく、わか思ふ人をも親なとのまもれと、此年のやとせのほと、ひま/\にうかゝひて、わかあひみしとなり。魚を女にたとへたるなり
 
(61)右一首寄魚喩思
 
2833 葦鴨之多集池水雖溢儲溝方爾吾將越八方《アシカモノスタクイケミツマサルトモマケミソノカタニワレコエメヤモ》
 
雖溢、【別校本又云、ミチヌトモ、】
溢を日本紀にはイハムと點じたればイハムトモと讀べし、又あぶると常によめり、今の點よりは、みちぬとも、いはむとも、あふるとも、此等の内まさるべし、儲溝とは池水の多き時水を放て塘をそこなはじと兼て儲け置溝なり、人言は葦鴨のすだく如く、さわぎてしのぶる思ひは胸にあまるとも、あだし心を持て、たとひ逢やすからむ人有とも、君ならで心を動かさじとよめるなり、
 
初、あしかものすたく まけみそかたは、池水をはなたんためにまうけたる溝のかたなり。たとふる心は、たとひおもひかけたる人にあふことかたくして、しのふるおもひはむねにあまるとも、あたし心をもちて、君ならてあひやすからん人有とも、心をうこかさしといふ心なり。上に
  あらいそ越ほかゆく浪のほかこゝろわれはおもはしこひてしぬとも
 
右一首寄水喩思
 
2834 日本之室原乃毛桃本繁言大王物乎不成不止《ヒノモトノムロフノケモヽモトシケミワカキミモノヲナラスハヤマシ》
 
發句はヤマトノと讀べし、室原は和名集流布本に城下郡に載て、注に他本也とあるは他本の誤なり、延喜式云、宇陀郡室生龍穴(ノ)神社※[木+聖]生ともかけり、歌の喩ふる意は第七第十に既に見えたり、
 
初、やまとのむろふのけもゝ 日本之とかけるを、ひのもとのと和點をしたれと、たゝよもしに、やまとのと讀へし。和州なり。室原は和名集云。大和國城下郡室原。これ室生山といふ靈地なり。村も有なり。ならすはやましは、桃の實によせて、逢を戀のなるといへり
 
(62)右一首寄菓喩思
 
2835 眞葛延小野之淺茅乎自心毛人引目八面吾莫名國《マクスハフヲノノアサチヲコヽロユモヒトヒカメヤモワレナラナクニ》
 
淺茅は第七に君に似る草と讀たれば女に喩ふ、眞葛はかつはりからみて分入がたければ守る人多きに喩へたる歟、さらずともさわる事多きに喩たるべし、葛はふ野に入て淺茅を人のひかぬ如く、さわること有て逢がたきひとを我ならぬ人は心長く戀むや戀じの意なり、又葛引とも眞葛原いつかもくりてとも第七によみ、浅茅原茅生丹足蹈意具美《アサヂハラチフニアシフミコヽロクミ》と第十二に讀たれば、茅の葉の苛に足そこなはむ事を恐れて入て葛を引かぬるを、我は入て引と云を喩とせる歟ともおぼしきを、さらば眞葛延小野之淺茅乎と云はずとも淺茅原之小野之眞葛乎《アサチフノヲノヽマクスヲ》と讀べければ、初の義なるべし、第三に菅根乎引者難三等《スガノネヲヒカハカタミト》と讀たれば淺茅をも引べし、
 
初、まくすはふをのゝあさちを 人ひかめやもといへるは、葛のことなり。第七に、太刀のしりさやに入野に葛引わきもとよめり。又おなし卷に、まくす原いつかもくりてわかきぬにせんともよめり。淺茅は、第十二に、淺茅原ちふに足ふみ心くみとよめり。心くみは心くるしきなり。茅の葉には、兩邊にいらありて、足をそこなひ、かりたるかりくゐは、針のことくさしつき、又むはらなとも生ましれは、入ことのむつかしさに、大かたの人はいらぬなり。しかれは、葛を引て、くりて布におらはやとはおもへとも、さるむつかしき淺茅原には、まめやかに入て誰かひかん。人はわかことくならぬ物をとなり。さはる事なとおほくて、あひかたき人を、心なかく誰かはこひむ。われこそ、つゐにくりためて布におらむとおもふことく、勞をわすれてこふれといふ心なり
 
2836 三島菅未苗在時待者不著也將成三嶋菅笠《ミシマスケイマタナヘナリトキマタハキスヤナリナムミシマスカヽサ》
 
未苗在とは童女の喩なり、三島菅の苗なる程は刈べくもなく、時を待むとすれば人に刈られて、菅笠を著ざらむかとおぼつかなきが如く、童女には逢べくもなければ(63)髪など上たらむ後をまたむと思へば人に迎へられて、あはでやまむ歟ととにかくに思ひ煩らふ由なり、
 
初、みしま菅いまたなへなり これはおかしけなる童女をおもひかけて、今はまた菅のなへなるかことし。時まちて刈て笠にぬひてきんとせは、人のえて打著ることく、わか妻とはなりかたからんやと、おほつかなくおもふ心を、菅にたとへ出せり。苗は稻ならねと、よろつの草木のちひさきほとをいふなり。今も松苗杉苗なといふこれなり。文選左太沖詠史詩云。欝々(タル)沼底(ノ)松、離々(タル)山上(ノ)苗、以2彼徑寸(ノ)莖(ヲ)1、蔭《カクス》2此百尺(ノ)條(ヲ)1。古今集(ノ)叙(ニ)云。譬(ハ)猶d拂(フ)v雲(ヲ)之樹生(リ)v自2寸苗(ノ)之煙1浮(フル)v天(ヲ)之波起(ルカ)c於一滴之露(ヨリ)u
 
2837 三吉野之水具麻我菅乎不編爾苅耳苅而將亂跡也《ミヨシノノミクマカスケヲアマナクニカリノミカリテミタレナントヤ》
 
水具麻は水隈なり、吉野川の水隈に生たる菅なり、不編爾は笠にあまぬにて相見ぬなり、刈ノミ刈テとはちぎりのみおく意なり、落句の菅の縁なり、
 
初、みよしのゝみくまか菅を みくまは水のくまにて水のいりまかりたる所なり。河くまといふ心なり。そこに有菅なり。名所にはあらす。あまなくには、笠にぬはぬなり。あむは人を我物と領するなり。かりのみ刈ては、人の心に時待てあはむとゆるすほとなり。みたれなんとやは、かりたる菅のみたるゝに、おもひみたるゝをかけたり
 
2838 河上爾流若菜之流來而妹之當乃瀬社因目《カハカミニアラフワカナノナカレキテイモカアタリノセニコソヨラメ》
 
續齊諧記云、後(ノ)漢明帝永平中、※[炎+立刀]縣有2劉晨阮肇1、入2天台山1採v藥迷失2道路1云々、下v山得2澗水1飲v之、並澡洗、望2見蔓菁菜葉1從v山復出云々、姓氏録云、譽田天皇爲v定2國界1車駕巡幸到2針間(ノ)國神崎郡瓦村東崗上1、于v時青菜葉自2崗邊川1流下、天皇詔應2川上有1v人也云々、川上にて洗ふ若菜の籠より漏て流るゝが末の瀬に依ごとく我も遂には妹をより所にせむと云意なり、業平朝臣の流ても終によるせはとよまれたるも同じ意なり、千載集に刑部卿範兼の歌に妹があたり流るヽ川の瀬によらば沫と成ても消むとぞ思ふ、是今の歌を取て事を替られけるなめり、
 
初、河上にあらふわかなの 河上にてわかなをあらふに、籠よりもりてなかるゝか、末の瀬によることく、われもつゐには妹をより所にせんといふ心なり。逢瀬後瀬なといへは、いもかあたりの瀬にこそよらめとはいへり。續齊諧記云。後漢(ノ)明帝永平中(ニ)※[炎+立刀]縣有2劉晨阮肇1、入2天台山1採v藥、迷2失道路1。粮盡望2山頭1有v桃。共(ニ)取(テ)食(テ)之、如v覺(ユルカ)2少(シキ)健(ナルコトヲ)1。下v山得2澗水1、飲v之、下v山得2澗水1飲v之、並澡|洗《サイス》。望2見(ルニ)蔓菁菜(ノ)葉從v山復出云々。姓氏録云。譽田(ノ)天皇爲(ニ)v定(メンカ)2國界(ヲ)1車駕《オホムタ》巡(リ)幸《イテマス》。到2針間《ハリマノ》國(ニ)神崎郡瓦村東崗(ノ)上(ニ)1。于v時青菜葉自2崗邊川1流(レ)下(ル)。天皇詔(シタマハク)應(シ)2川上(ニ)有(ル)1v人也。仍(テ)差(テ)2伊許自(ノ)命(ヲ)1往(テ)問(ハシム)。即答(テ)曰。己等(ハ)是(レ)日本武尊|平《ムケタマヒシ》2東夷(ヲ)1時、囚俘蝦夷《トリコニシタマヒシエミシカ》之後(ナリ)也云々。古今集に
  大ぬさとなにこそたてれなかれても終によるせは有てふものを
後撰集に、つらゆき
  わひわたるわか身は露をおなしくは君かかきねの草にきえなん
千載集に、刑部卿範兼
  妹かあたりなかるゝ川のせによらは沫となりてもきえんとそ思ふ
これは今の哥をもとゝしてよまれたるとおほゆ
 
(64)右四首寄草喩思
 
2839 如是爲哉猶八成牛鳴大荒木之浮田之社之標爾不有爾《カクシテヤナヲヤヤミナムオホアラキノウキタノモリノシメナラナクニ》
 
第二の句今の點に依らば八の下に止の字有て猶八止《ナホヤヤミ》成牛鳴なりけるを、止の字の落たる歟、大荒木は大和國宇智郡なれば浮田之杜は彼處《ソコ》におはする神ある杜なるべし、浮田の杜の標の如何に思へども越べからぬ如く、守る人ある女をばかくばかり思へども猶思ひの徒に成て止なむやとなり、若止の字落たらず今のまゝによまばナホヤナリナムと云べし、歌の意は浮田の杜の標にはあらねど、かくしつゝ猶心長く成時の有て其標引たる如く、人を我妻と領する事やあらむと云意をよめる歟、成の字なむと云假名のみには書べからぬにやとおぼしければ後の義にや、續古今集にはかくしつ/\さてやゝみなむと載らる、又人丸の歌とて入られたれど彼集にも見えず、所v據未v考、
 
初、かくしてや猶や 第七卷に、かくしてや猶やおいなんみゆきふる大あらき野のさゝならなくにといふ哥につきて、大あらきの杜は山城なりといへと、大和なるへきよしを注し畢ぬ。大あらきの杜といふは、大あらき野に浮田のもりあるを、やかて大あらきの杜といふなるへし。こゝに大あらきといへるは、惣名にて、そこにあるうき田のもりと聞えたり。ふなはりの猪養(ノ)山といふかことし。大和国字智郡荒木神社と、延喜式第九に載らる。又荒城氏あり。大荒城なりけるを、大文字を除けるよし績日本紀の末にいたりて有ける歟とおほゆ。もししからは、荒木はすなはち大荒木なり。泊瀬を大泊瀬豐泊瀬といひ、比睿山を大ひえともいふかことくなるへし。さて此哥は、第二の句猶八成牛鳴、これを猶やゝみなんとよめる心得かたし。牛鳴の二字は、義をもて牟とよめり。牛のほゆる聲しか聞ゆれはなり。陀羅尼の中に吽字あり。※[合+牛]とおなし。これを雲の音のことく、常によめり。猶宇牟の上をすてゝ、牟とのみよむを習とす。其吽字如2牛鳴1と注したる所あり。今もそれに准して心得へし。しかれはなをやなりなんとよみぬへくおほゆ。なんのなは、成によみつくるなり。その心は、大あらき野にかりしめさゝむことは、あまりにおほけなくて、空ことゝなりぬへし。浮田の杜の神のためにしめ引ことは、やすきほとの事なり。その浮田のもりのしめにはあらぬに、かく月日へてこひは、猶なる事ありて、浮田の杜にしめゆふことく、人をわか物と領する事やあらんとよめる歟。もし又今の本のかんなのことくならは、八の下に止の字なとのおちける歟。其の字をそといふかんなに用たることく、成の字をなと用へし。かゝる例此集にあけてかそふへからす。それにして心得は、かくはかり人をこひても、かひなくて猶やゝみなむ。大あらきの浮田の杜のしめの、神のためにひけは、只いたつらに朽て、領する人もなし。そのしめなはにはあらねともといへる心なり
 
右一首寄標喩思
 
2840 幾多毛不零雨故吾背子之三名乃幾許瀧毛動響二《イクハクモフラヌアメユヘワカセコカミナノコヽタクタキモトヽロニ》
 
(65)初の二句は逢と云ばかりもなき物故にの意なり、第七にも寄v雨歌に甚多毛不零雨故《ハナハタモフラヌアメユヱ》云々、今も此に同じ、
 
初、いくはくもふらぬ雨ゆへ 雨ふりて瀧の音のまさるはことはりなり。はか/\しくもふらぬ雨のことく、あふといふへくもなきものゆへに、わかせこかみなのあまた立ことの、瀧のとゝろなることくなるがをしきとなり。上にも、朝こちにゐてこす浪のせてふにもあはぬものゆへ瀧もとゝろにといへり
 
右一首寄瀧喩思
 
萬葉集代匠記卷之十一下
 
(1)萬葉集代匠記卷之十二上
 
                     僧   契 沖 撰
                     木 村 正 辭 校
正述2心緒1
 
初、正述心緒
 
2841 我背子之朝明形吉不見今日間戀暮鴨《ワカセコガアサアケノスカタヨクミステケフノアヒタヲコヒクラスカモ》
 
朝明形、【別校本云、アサケノスカタ、】
 
朝明形は別校本に依て讀べし、集中にも其外にもあさけとのみ云ひてあさあけとは云はず、但土御門院御製にあさあけの霞の衣ほしそめて春立なるゝ天の香山とあそばされたるは霞は日出むとての赤氣を云由字書にも見えたれば淺朱《アサアケ》とよませ給ふなるべし、順の家集に深緑松にむあらぬ淺あけの衣さへにぞ沈そめけむ、此歌を思ふべし、今の上句は第十に朝戸出之君之儀乎曲不見而《アサトテノキミカスガタヲヨクミズテ》とよめるに同じ、
 
初、わかせこかあさあけのすかた 此わかせこは妻をさせり。朝明は、あさけともよむへし。土御門院、あさあけの霞の衣ほしそめてとよませたまへるは、これによらせたまへるなるへし
 
2842 我心等望使念新夜一夜不落夢見與《ワカコヽロトノソミオモヘハアタラヨノヒトヨモオチスユメニミエケリ》
 
望使念は使〔右○〕はし〔右○〕にて助語にや、然らばノゾミシモヘバと讀べきか、歌の意は躬恒が(2)君をのみ思ひねにねし夢なれば我心から見つるなりけり、此に似たり、
 
初、我心とのそみおもへは 望使念とかけれは、のそみしおもへはとよむへし。あはゝやとねかひおもふなり。六夢の中の思夢なり。古今集に躬恒哥に
  君をのみおもひねにねし夢なれはわか心からみつるなりけり
ひとよもおちすは一夜もかけすなり
 
2843 愛我念妹人皆如去見耶手不纒爲《ウツクシトワカオモフイモヲヒトミナノイマユキミルヤテニマカスシテ》
 
發句は若愛與を倒に寫せるか、我念妹はワガモフイモヲと讀べし、如は今按モシと讀べき歟、手玉を手に卷如く我妻とも定めぬ程なれば、皆人のもし行て見て思ひ懸云ひ入などやせむと心もとなく思ふ意なり、
 
初、うつくしとわかおもふ 與愛とかけるを、うつくしとゝよめるは、此集にはかりてかけるもしをも、かやうによむ例もあれと、愛與とかゝはこそうつくしとゝはよまめ。彼(ト)與《ト》v此(レ)なといふことく、かぬる心なきともしなるに、與愛とはかくへからすや、今案これをはこそはしくとよむへきにやとおほゆ。與はこそとよむへき事さき/\もかけり。愛の字をはしきとよめる事はあまた有。第十九に家持の追(テ)和(スル)2處女墓(ヲ)1歌に、いにしへに有けるわさの、くすはしきことゝいひつく、ちぬをとこうなひをとこの、うつせみの名をあらそふと、玉きはるい.のちもすてゝ、あらそひにつまとひしける、をとめらかきけはかなしさなとよめるくすはしきは、くすしといへるとおなしく、あやしき心にやとおもへと、はもしもそひたれは、くすとこそと五音通すれは、それもこそはしくにて、こそはねかふ心、はしきはおしみめつるにや。うつくしととはもとよりよくきこえたり。如の字はもしとよむへき歟。哥の心はわかうつくしむへくおもふ妹なから、いまた手枕して妻ともさためねは、みな人のもしゆきてみて、おもひかけ、いひいれなとやせんと、おほつかなくおもふ心なり。いまゆきみるやもいふかる心なり。わか手枕をかはす妻ならは、人には見すましきを、また手にいらねは、今ゆきてやみるらん。妹か心もうつらんやなと、心もとなきなり
 
2844 比日寢之不寢敷細布手枕纒寢欲《コノコロノイノネラレヌニシキタヘノタマクラマキテネマクホシケム》
 
第二の句古風に依てイノネラエヌニと讀べし、落句の點の欲ケムといへる意叶はず、ネマクホシカモと讀べし、
 
初、この比のいのねられぬに 寝欲、これをねまくほしけむとよみては、上の心にかなはす。ねまくほしかもとよむへし。ねまくほしきかなゝり。又いねてしもかなともよむへし。ねまくほしけむは、ねまくほしからんの心なれは、かなはすとはいふなり
初、わすれめやものかたりして ものかたりするは、友たちなとゝかたりて、心をやりて見るなり。又かくもよむへし
  わするやとものかたりして心やりすくせと過す猶こひにけり
 
2845 忘哉語意遣雖過不過猶戀《ワスレメヤモノカタリシテコヽロヤリスクレトスキスナヲコヒシクテ》
 
忘哉はワスルヤトと讀べし、雖過はスグセドと讀べし、落句をもナホコヒニケリと讀べし、
 
2846 夜不寢安不有白細布衣不脱及直相《ヨルモネスヤスクモアラスシロタヘノコロモヽヌカシタヽニアフマテ》
 
(3)夜不寢、【幽齋本、寢作v寐、】  及直相、【幽齋本云、タヽニアフマテニ、】
 
2847 後相吾莫戀妹雖云戀間年經乍《ノチニアハムワレヲコフナトイモハイヘトコフルアヒタニトシハヘニツヽ》
 
發句はノチモアハムと讀べし、
 
初、後にあはむわれを 第二人丸の妻依羅娘子歌に
  おもふなと君はいへともあはむ時いつと知てかわかこひさらん
 
2848 不直相有諾夢谷何人事繁《タヽニアハスアルハコトハリユメニタニイカナルヒトノコトノシケヽム》
 
有諾、【校本、有下有v者、】
 
諾は今按ウベナリと讀べし、何人はナニシカ人ニと讀べし、し〔右○〕は助語なり、現には人目のあれば相見ぬもことわりなり、夢は人知れず見る物なるを、それさへ何か人事のしげきとは見るらむとなり、小町歌に現にはさもこそあらめ夢にさへ他目《ヒトメ》をもると見るが佗しさ、此意相似たり、
 
初、たゝにあはすあるは うつゝは人めをしのへは、まほにあはぬもことはりなるを、夢の内をはしる人もなきに、いかなる人ことにて、夢にさへしけしとみて、しのひてえあはぬとはみるらんといふ心なり。今案諾は、うへなりともよむへし。何人はなにしか人にともよむへし。うへなりは、ことはりといふにおなし。なにしか人には、さきの心とかはれり。いかなる人のといふ人は、いひさはく世の人なり。なにしか人にといふ人は、妻をさせり。今案をよしとすへき歟。古今集に
  すみの江の岸による浪よるさへや夢のかよひち人めよくやん
  うつゝにはさもこそあらめ夢にさへ人めをもるとみるかわひしさ
あるはことはり、此所句なり
 
或本歌曰|寢者諾毛不相夢左倍《ウツヽニハウヘモアハステユメニサヘ》
 
寢は寤に改たむべし、不相はアハナクとも讀べし、
 
初、注或本歌 寢は寤の字の誤なり
 
2849 烏玉彼夢見繼哉袖乾日無吾戀矣《ヌハタマノソノヨノユメニミツキヽヤソテホスヒナキワカコフラクヲ》
 
(4)袖乾日無、【幽齋本云、ソテホスヒナク、】
 
彼夢をソノヨノユメニと點ぜるは無理なり、二三の句をソノユメニダニミエツゲヤと讀べし、
 
2850 現直不相夢谷相見與我戀國《ウツヽニハタヽニモアハスユメニタニアフトハミエヨワカコフラクニ》
 
一二の句をウツヽコソタヾニアハザラメ、四の句をアフトミエコソとも讀べし、與の字の事、上に注せしが如し、
 
初、うつゝにはたゝにも 相見與はあふと見えこそともよむへし
 
寄v物陳v思
 
2851 人所見表結人不見裏紐開戀日太《ヒトメニハウヘモムスヒテシノヒニハシタヒモトケテコフルヒソオホキ》
 
表結、【校本云、ウヘヲムスヒテ、】
 
人所見と人不見とは相對して義訓せり、開はトキテと讀べし、祝ひてする事なればトケテと點ぜるは誤なり、今按第十一に狛錦紐解開《コマニシキヒモトキアケテ》云々、此に依れば今もアケテとよまば然るべし、此歌寄紐歌なれば下の白細布我紐緒と云歌の前後に有ぬべくおぼゆ、
 
初、ひとめにはうへも うへもむすふとは、下ひもときてといふに相映せり。人所見と、人不見とも、義をもて相對してかけり。人不見は、第三卷安倍女郎か屋部坂哥にもかけり。紐は此集おほく※[糸+刃]を用たれと共に比毛なり。開はときてとよむへし。あふへき相にをのつからもとくれと、此哥にはときていはひて待心かなへり。開をとくとよめるも開解の義なり
 
(5)2852 人言繁時吾妹衣有裏服矣《ヒトコトノシケレルトキニワキモコカコロモナリセハシタニキマシヲ》
 
繁時はシゲヽキトキニと讀べきか、衣有はキヌニアリセバとも讀べし.次の歌と二首は寄v衣、
 
初、人言のしけれる時に しけかる時とよむへき歟
 
2853 眞珠眼遠兼念一重衣一人服寢《シラタマモメニヤトホケムオモヒツヽヒトヘコロモヲヒトリキテヌル》
 
眞珠とは人をほめて云、眼遠兼とは今夢に見るべしの意なり、衣とのみも云べきを一重衣と云へるは偏に思ふ意をそへたる歟、
 
初、しら玉もめにや遠けむ しら玉とは、人のかたちのうつくしくてりかゝやくをよせていふ。第九に白玉の人のそのなとよめるかことし。詩文に玉人玉顧なといふもこれなり。めにや遠けむとは、これは夢のことなりとみゆ。心は人をおもひつゝぬる夜のさむきに、衣をたに唯たゝひとへきてぬれは、白玉のことき人もめに遠からむや。今夢にみんとよめるなるへし
 
2854 白細布我※[糸+刃]緒不絶間戀結爲及相日《シロタヘノワカヒモノヲノタエヌマニコヒムスヒセムアハムヒマテニ》
 
戀結爲とは古今集に戀の亂の束緒にせむとよめるが如し、
 
初、白たへの我ひものをの こひむすひせんとは、ひものたえぬほとにむすひて、戀のみたれぬやうにせんなり。古今集にこひのみたれのつかねをといへるかことし
 
2855 新治今作路清聞鴨妹於事矣《ニヒハリノイマツクルミチサヤケクモキコエケルカモイモカウヘノコト》
 
新治は地の名にはあるべからず、第十四に信濃道者伊麻能波里美知《シナノヂハイマノハリミチ》とよめる如くなるべし、新らしく作る道はいさぎよき物なれば、それによせて清とは云なり、下句の心は人の我云ひかはす妹とは知らで其上の事を語るがさはやかに聞ゆとなり
 
初、にひはりの今つくるみち 新しく開くを新治といふ。治は作なり。第十四に、信濃路は今のはり道とよめるかことし。常陸の新治郡も、國の名をおもへは、あたらしく道をひらきそめける所にて名付けるにや。高野の麓にも、はりみちといふ所あるやうに申もの侍て、ふるき名と聞ゆれは、久しき事なれと忘す侍り。さやかはさはやかにてきよきをいふ。ふるき道は、馬人のかよひしけゝれは、高くひきく、ちりあくたにもけかるゝを、あらたに作りてすなゝとしきたるは、いさきよき物なれは、さやけくもといはむために取出らる。天武紀に潔身とかきて身をさやむとよめり。聲のさやかなるといふも清き心なり。されは人のわかおもひかはす妹とはしらて、事にふれてそのありさまをいふをきくに、心にかなひてきよくきこゆるとなり
 
此一首寄道
 
(6)2856 山代石田杜心鈍手向爲在妹相難《ヤマシロノハタノモリニコヽロオソクタムケシタレハイモニアヒカタキ》
 
石田杜に速く手向して逢やすからむ事は由緒ある事にや、若は所以はなくとも此神のおはします處の人のよめる歟、大野杜の神の知らむと誓ひたるに又うなての杜の神をも懸たる類にて推て知べし、第十三云、山科之《ヤマシナノ》、石田之森之須馬神爾《イハタノモリノスメカミニ》、奴左取向而《ヌサトリムケテ》、吾者越往《ワレハコエユカム》、相坂山遠《アフサカヤマヲ》、此歌に依て若末の世の歌ならば相坂の名を云ひ殘せるかとも云べけれど、古歌なれば只有のまゝなるなきにや、此歌は寄v神、
 
初、山しろのいは田のもりに 石田杜は山科なり。第十三に、山科の石田の杜のすめ神にぬさ取むけて我はこえゆかむ相坂山をとよめり。第九にも、山しなの石田の小野とよめり。第九に注しつることく、延喜式にも、和名集にも、宇治郡山科とあるを、石田神社は延喜式に久世郡に載らる。もし石田神社ある所は、山科も久世郡にわたれる欺。もしは昔は宇治郡に屬しけるか、延喜の比は久世郡に屬せるにや。津の國には百濟《クタラ》郡失たり。諸国にかゝることおほかるへし。神こそおほかるに、石田杜に、心のおろかにて、とく手向せさりしかは、妹にあひかたきとは、いかなるゆへ有てかよまれけむ。哥はよく聞えて、そのゆへは知かたし。今案さきに引る第十三の哥のことく、あふ坂のこなたにます神に手向せさりしゆへ、逢坂山の越かたきといふ心を、いひのこせる歟。心鈍は心|利《ト》といへるに表裏せり。第九に浦嶋子をよめる哥の反哥に、おそやこの君といへるにおなし
 
2857 菅根之惻隱惻隱照日乾哉吾袖於妹不相爲《スカノネノシノヒシノヒニテラスヒニホスヤワカソテイモニアハスシテ》
 
照日は今按テレルヒニと讀べし、集中の例然なり、此腰句を發句の止に廻らして意得べし、此は寄v日、
 
初、菅の根のしのひ/\に てらす日にしのひ/\にほすなり
 
2858 妹戀不寢朝吹風妹經者吾與經《イモニコヒイネヌアシタニフクカセノイモニフレナハワレトフレナム》
 
妹が身に觸來たる風ならば吾にも觸よとなり、經の字の事上に注せしが如し、此は寄v風、
 
初、妹にこひいねぬ 第十一に
  吾袖にふりつる雪もなかれゆきて妹かたもとにいゆきふれぬか
雪はかなたへゆきて妹にふれよといひ、風はこなたへ來て我にふれよといへと、おなし心なり。經は第十一に注せり
 
2859 飛鳥川高川避紫越來信今夜不明行哉《アスカカハタカカハトホシコエテクルツカヒハコヨヒアケスユカメヤ》
 
(7)高河とは水の高く出たる時を云、それを凌て渡り來るをトホシとは云へり、避は避遠の意を通て假たり、勞して來たる使なれば明て後歸れよと留むる意なり、今按三四の句をコエクレバマコトコヨヒハと讀べき歟、信の字下にもまこととよめり、次の歌と共に寄v河、
 
初、飛鳥川高かはとほし あすか川の水の、高く出たる時を、高川とはよめるなり。此川を隔て、速き所より越來たる使なれは、くれて後ゆかめや。あけて後かへれよとなり。勞をおもひて使をいたはるのみならす。第十一に
  我戀の事もかたらひなくさめむ君かつかひを待や兼てむ
此哥の心なり。折しも得たる使なれは、妻の上の事をもとひきゝ、わかこふる心をもかたりきかせて、なくさまんとてとむるなり
 
2860 八鈎河水底不絶行水續戀是比歳《ヤツリカハミナソコタエスユクミツノツキテソコフルコノトシコロハ》
 
初、八釣川みなそこ 八釣川大和なり。第三に矢釣山をよめる所に注せり
 
或本歌曰|水尾母不絶《ミヲモタエセス》
 
鈎は釣に作るべし、八釣川大和なる事第三に注せしが如し、
 
2861 礒上生小松名惜人不知戀渡鴨《イソノウヘニオフルコマツノナヲヲシミヒトニシラレスコヒワタルカモ》
 
礒上は石の上なり、小松は子松ともかける所あれば子等《コラ》がために名を憎むと云意にかくはつゞけたり、下に至て巖爾生松根之君心者《イハホニオフルマツカネノキミカコヽロハ》などもよめり、此は寄v木、
或本歌曰|巖上爾立小松名惜人爾者不云戀渡鴨《イハノウヘニタテルコマツノナヲヲシミヒトニハイハテコヒワタルカモ》
 
初、いそのうへにおふる小松の 長流かいはく。いその上は岩の上なり。松は石上に生たてるものなれは、立名のおしきといへる心なり。一本の哥に、いはの上にたてる小松の名をおしみ云々。此一本の哥にて證する心は、おふる小松といへる哥を、立といふ事の、おもてにきこえねは、たてる小松といへるを借てあらはすとなり。今案小松といふは妻をさして、妻のために名をおしむといふ心にや。下にいたりて
  神さひていはほにおふる松かねの君かこゝろはわすれ兼つも
たとへは時にしたかひて一定せぬものなれと、これに准せは、妻をさすといふへきにや。おひかたき石の上に生つきて、風霜をしのくことく、約をまもりて、我にかはる心なき人のために名をおしむゆへに、人しれぬこひをするとなるへし。又石の上におふるなとはいひたれと、只松といはむためにて、待といふによせたる歟。千世まつの木、君まつの木なとよめる哥おほし。されは人にちきりおきて、待といはれむ名のおしさにえあはてこひわたるとやすくも聞へき歟
 
不云、【官本云、イハス、】
 
(8)2862 山河水陰生山草不止妹所念鴨《ヤマカハノミカケニオフルヤマスケノヤマスモイモカオモホユルカモ》
 
山草は不止とつゞけむ爲ながら、水陰生とはしのびに思ふ譬なり、後の歌と共に寄v草、
 
2863 淺葉野立神古菅根惻隱誰故吾不戀《アサハノニタツミワコスケネカクレテタレユヘニカハワカコヒサラム》
 
淺葉野は第十一に注しつ、今案山菅占と云事あれば古は占の字にて中の三句はタツカムウラノスガノネノシノビテタテレユヱと讀べきにや、其證は異本を注するに誰葉野爾立志奈比垂《タカハノニタチシナヒタル》とのみあれば、菅根をスガノネノとよまざればつゞかずして注の義成らず、神をミワと點ぜるも意得がたく、神小菅とかゝずして古の字をかけるも、他處をぱ云はず此上のつゞきの書やうにはおぼつかなし、神占とは神代紀云、時天(ノ)神以2太占《フトマニヲ》1而|卜《ウラヘ》合之、かゝれば神も占なひ給へば云べし、又神に依て占なへば云べし、又占すなはち測《ハカリ》がたき事なれば神占と云べし、惻隱は上にもしのびとよめり、
 
初、淺葉野にたつみわこすけ 第十一にも、紅の淺葉の野らとよめり。信濃といへり。千載集にあさま野とよめり。あさはあさま似たるにまとへる歟。もしかよはしてもいふ歟。神をはみわともうわともよめり。さてみわ小菅とは、菅は神のめて給ふ草なり。祓の具にも用、また山菅占とて、菅の葉にてうらなひするも、神のよりたまふ草なるゆへなり。杉を神杉なといふことくに、神小菅とはよめるなり。根かくれては、菅の根のかくれたるを、しのひてといふ心に下へつゝけたり。誰ゆへにかは我こひさらんとは、ふてゝいへるなり。誰ゆへにかしのひて我戀せさらん。人を戀るもわかためなれは、よし人のいひさはきて名はたゝはたて、あひみることたにあらはそれもおしからすとなり
 
或本歌云|誰葉野爾立志奈比垂《タカハノニタチシナヒタル》
 
誰葉野は未考、立シナヒタルはしなやかにて立るなり、
 
初、注誰葉野 いつくともしらす。誰の字なれとも、かもしすむへし。竹葉野といふなるへし。立しなひたるは、まきのはのしなふせの山なとよめるにおなし。莫々とかき、垂の字をもよめり
 
(9)右二十三首柿本朝臣人麻呂之歌集出
 
正述2心緒1
 
2864 吾背子乎且今且今跡待居爾夜更深去者嘆鶴鴨《ワカセコヲイマカイマカトマチヲルニヨノフケユケハナケキツルカモ》
 
2865 玉釼卷宿妹母有者許増夜之長毛歡有倍吉《タマツルキマキヌルイモモアラハコソヨノナカケキモウレシカルヘキ》
 
腰句と尾句とのてにをは第一に注せしが如し、
 
初、玉つるきまきぬる ものゝふは、ぬる時も太刀を枕上にはなたねは、かくはつゝくるなり。此哥もこそといひてきとうけたり
 
2866 人妻爾言者誰事酢衣乃此※[糸+刃]解跡言者孰言《ヒトツマニイフハタカコトサコロモノコノヒモトケトイフハタカコト》
 
我は人の妻に定まりたるに、あらぬ人の我ために紐とけと云は誰詞ぞと貞婦のよめるなり、酢衣は狹衣にて狹《セ》はせばしと云古語なり、
 
初、人妻にいふはたかこと 我は人の妻にさたまりたるに、ひもをわかためにとけといふはたかことはそとなり。さころものさもしはたゝそへたる字なり
 
2867 如是許將戀物其跡知者其夜者由多爾有益物乎《カクハカリコヒムモノソトシラマセハソノヨハユタニアラマシモノヲ》
 
上句は別て後かく久しくあはざらむ物と知らばなり、
 
初、かくはかりこひむ その夜はゆたとは、あへるその夜はゆたかにねてかへらましものを、かく月日を經てあはすしてこひむとしらて、とくおきわかれて歸しかくやしきとなり
 
2868 戀乍毛後將相跡思許増己命乎長欲爲禮《コヒツヽモノチニアハムトオモヘコソオノカイノチヲナカクホリスレ》
 
(10)後はノチモと讀べし、思許増はおもへばこそなり、
 
2869 今者吾者將死與吾妹不相而念渡者安毛無《イマハワレシナムヨワキモアハスシテオモヒワタレハヤスケクモナシ》
 
發句をイマハアハと讀べし、
 
2870 我背子之將來跡語之夜者過去思咲八更更思許理來目八面《ワカセコカコムトカタリシヨハスキヌシヱヤサラ/\シコリコメヤモ》
 
思咲八も思許理も上に既に見えたり、
 
初、わかせこかこむとかたりし その夜こんといひてちきりし夜は過ぬ。よしや今は、更におもひかへしてしきりにこめやとなり。しこるは俗にしこりかゝりてといふにおなし。しきりなり。第七にも、かへりしきぬのあきしこりかもとよめり
 
2871 人言之讒乎聞而玉桙之道毛不相常云吾味《ヒトコトノヨコスヲキヽテタマホコノミチニモアハスツネイフワキモ》
 
應神紀云、九年夏四月、遣2武内宿禰於筑紫1以|監2察《ミセシム》百姓1、時武内宿禰弟|甘美《ウマシ》内(ノ)宿禰|廢v兄《イロネヲ》、即讒2言于天皇1、催馬樂に葦垣まかき掻分ててふこすとおひこすと、誰が此事を親にまうよごしけらしも、とどろける此家の※[女+弟]婦《ヲトヨメ》親に申讒《マウヨゴ》しけらしも云々、毛詩云、營々青蠅|止《ヰル》2于|樊《カキニ》1、豈弟君子無v信(スルコト)2讒言1、蠅の能白黒を變して※[さんずい+于]《ケカ》すを以て讒佞の言の善惡を變亂するに喩ふ、されば常に物を※[さんずい+于]すをよごすと云是なり、人の中言して言ひよご(11)すを信《ウケ》て、常に物云吾妹が道にだにも面を合せてはあはぬなり、
 
初、人ことのよこすをきゝて よこすは讒の字をかけり。讒言なり。物を汚すをよこすといふ。人をいひけかすゆへによこすとはいへり。應神紀云。九年夏四月遣2武内宿禰於筑紫(ニ)1以|監2察《ミセシム》百姓(ヲ)1。時(ニ)武内宿禰(の)弟|甘美《ウマシ》内(ノ)宿禰廢v兄《イロネヲ》、即|讒2言《ヨコシマウス》于天皇1云々。催馬樂に、蘆垣まかきかきわけて、てふこすとおもひこすと、誰か此事を、親にまうよこしけらしも。とゝろける、此家のをとよめ、おやにまうよこしけらしも。あめつちの神もしようこしたべ。我はまうよこし申さす。すかのねの、すかなきことをわれはきくかな。毛詩云。營々(タル)青蠅、止《ヰル》2于|樊《カキニ》1。豈弟(ノ)君子、無(シ)v信(スリコト)2讒言(ヲ)1。營々(タル)青蠅、止(レ)2于棘(ニ)1。讒人|罔《ナシヤ》v極(ムコト0)、交(/\)亂(ル)2四國(ヲ)1。これ蠅のよく白黒をけかすをもて、讒者の忠良の人を汚すにたとふ。下の句の心は、人のわかことをいひよこすをうけて、常にへたてなくものいふ妹か、みちにあひても、道をかへてあはぬとなり。今案道にもあはしといへるわきもことよむへき歟
 
2872 不相毛懈常念者彌益二人言繁所聞來可聞《アハナクモウシトオモヘハイヤマシニヒトコトシケクキコエコムカモ》
 
發句はアハナクモと讀べし、あはぬをさへうしと思ひつゝあるになり、來はクルと讀べし、
 
初、あはぬをもうしとおもへは 來はくるとよむへし。さはる事ありてあはぬを、うしとおもふ、それたにあるを、いやましに世の人ことの、さま/\にきこえくるとなり
 
2873 里人毛謂告我禰縱咲也思戀而毛將死誰名將有哉《サトヒトモイヒツクカネニヨシヱヤシコヒテモシナムタカナナラメヤ》
 
里人はあまたの人なり、第二句今按イヒツグガネはね〔右○〕とに〔右○〕と通じていひつぐがになるをガネニと點ぜるは誤なり、カタリツグガネと讀べし、告は繼に借れり、よしや君故に戀死たりと後の世まであはれなる事に語も傳るかに我戀死ぬべし、然らばつれなくて死なせたりと云はむは誰名にか有べき、偏に君こそ名に立べければ、後の名を思ひて生ける日にあはれと見よの意なり、下に人目多直不相而蓋雲《ヒトメオホミタヾニアハズテケダシクモ》とよめる下句今の意なり、古今集に戀死なば誰名はたゝじ世中の常なき物と云はなすとも、 
 
初、里人もいひつくかねに 謂告我禰、これをよむにふたつのやうあり。今の本はわろし。我禰とかきたれと、我は清て今のことくよむなり。禰と爾と通すれは、いひつくかにといふ心なり。しかれはかにゝといふ心になりて、後のにもしあまれり。つくは告を繼の字にかれるなり。もしのたらぬもあれと、しかよめは六もしなれは、告の字只ありのまゝにして、いひつくるかねとよむへし。さらすはかたりつくかねとよむへし。後のことくよめは、又告の字繼に借用るなり。里人はあまたの人の心なり。第十一に、里人みなにわれこひめやもとよめりしかことし。よし/\君かつれなくは、君ゆへに戀しにたりとあまたの人の後の世まてに、あはれなる事にかたりもつたふるかに、我こひしぬへし。我こひしなは、そのつれなくてしなせたりといはむは、たか名にか有へき。ひとへに君こそ名にたゝめ。後の名をおもひてわかこひしなぬほとに、あはれとはみよとなり。古今集に
  こひしなはたか名はたゝしよの中の常なき物といひはなすとも
此下に
  人めおほみたゝにあはすてけたしくもわかこひしなはたか名かあらんも
 
2874 ※[立心偏+送]使乎無跡情乎曾使爾遣之夢所見哉《タシカナルツカヒヲナシトコヽロヲソツカヒニヤリシユメニミエキヤ》
 
慥は玉篇云、七到切、言行相應貌、論語云、遽伯玉使2人於孔子(ニ)1云々使者出、子曰使(ナルカナ)乎使乎(12)莊子人間世云、爲(ルコトハ)2人(ノ)使1易(シ)2以(テ)僞1爲(ルコトハ)2天使1難2以(テ)僞1、郭象注云、視聽之所v得(ル)者(ハ)粗、故(ニ)易v欺也、至2自然之報1細、故難v以v僞也、又云、傳2其常情1無v傳2其溢言(ヲ)1則(チ)幾《チカシ》3乎全1、竹取物語云、火《ヒ》鼠の皮と云なる物を買《カヒ》て遣《オコ》せよとて、仕ふ奉る人の中に心慥なるを擇て小野《ヲノヽ》ふさもりと云人をつけて遣《ツカ》はす、後拾遺集第十九云、若菜|摘《ツム》春日の原に雪降ば心使を今日さへぞやる、曾丹が集に思ひやる心使は暇《イト》なきを夢に見えぬと聞が※[立心偏+喜]しさ、此は今の歌を取てよめるなるべし、
 
初、たしかなるつかひをなしと 慥、玉篇云。七到(ノ)切。言行相應(ノ)貌。今の本※[立心偏+送]に作れるは改むへし。莊子人間世(ニ)云。爲(ルコト)2人(ノ)使1易(シ)。以(スレハナリ)v僞(ヲ)。爲(コトハ)2天(ノ)使1難(シ)。以(スレハナリ)v僞(ヲ)。郭氏玄注云。、視聽(ノ)之所(ノ)v得(ル)者(ハ)粗(ナリ)。故(ニ)易(シ)v欺也。至(テハ)2於自然之報(ニ)1細(ナリ)。故(ニ)難(シ)v以(テ)v僞(ヲ)也。又云。傳(テ)2其(ノ)常情(ヲ)1無(ハ)v傳(フルコト)2其(ノ)溢言(ヲ)1則|幾《チカシ》3乎全(ニ)1。論語憲問篇(ニ)云。遽伯玉使(ハス)2人(ヲ)於孔子(ニ)1。孔子與v之(レ)坐(シテ)而(シテ)問(テ)焉曰。夫子何(ヲか8)爲(ル)。對(テ)曰夫子(ハ)欲(スレトモ)v寡(カラマク)2其(ノ)過1而未v能也。使者出(ツ)。子曰使(ナルカナ)乎。毛詩有2皇々者(ノ)華篇1。竹取物語にいはく。ひねすみのかはといふなるもの、かひておこせよとて、つかふたてまつる人のなかに、心たしかなるをえらひて、をのゝふさもりといふ人をつけてつかはす。後拾遺集第十九
  わかなつむ春日原にゆきふれは心つかひをけふさへもやる
曾丹集に
  おもひやる心つかひはいとなきをゆめに見えすと聞かあやしさ
これは今の哥を取てよめるなるへし
 
2875 天地爾小不至大夫跡思之吾耶雄心毛無寸《アメツチニスコシイタラヌマスラヲトオモヒシワレヤヲコヽロモナキ》
 
小は少に通じてかけり、天地にまじはりて三つと云へるは至聖にて、それをば天地に至ると云べし、兵の心つかひの高く廣きは天地にも大かたは至るべきと思ふにより、少至らぬと云へるなり、かばかり思ひあがれる我やなどか戀にはをめ/\と成て日比の心のなきとよめり、下に大夫之聰神毛今者無《マスラヲノサトキコヽロモイマハナシ》とよめるに同じ、
 
初、天地にすこしいたらぬ 天地にましはりてみつといへるは至聖にて、それをは天地にいたるといふへし。兵の心つかひの、高く廣きは、天地にも大かたはいたるへきと思ふにより、すこしいたらぬといへるなり。さはかりおもひあかれる我や、戀にあひておめ/\とあるへきとなり。下にますらをのさとき心も我はなしとよめるもおなし
 
2876 里近家哉應居此吾目之人目乎爲乍戀繁口《サトチカクイヘヤヲルヘキコノワカメノヒトメヲシツヽコヒノシケヽク》
 
應居はスムベキと讀べし、第十に山近家哉可居《ヤマチカクイヘスムヘキ》、其外居をあまたすむ〔二字右○〕とよめり、戀する人は里近くは住まじき物となり、此吾目之人目乎爲乍とは他目を守れば吾目な(13)がらさながら他目《ヒトメ》になりて、思ふ人を心に任せて得見ぬを云へり、
 
初、里近く家やをるへき 里近く、こひする人の家はをるましき物なり。人にしのふとて、この目はわかめなから、人のめのこゝちして、おもふ人をえ見すして、こひのしけきとなり。第十に
  山近く家やをるへきさをしかの音を聞つゝいねかてぬかも
 
2877 何時奈毛不戀有登者雖不有得田直比來戀之繁母《イツトナモコヒスアリトハアラネトモウタヽコノコロコヒノシケキモ》
 
發句はイツトナクモと云べきをく〔右○〕を略せるか、或はイツハナモと讀べきか、なむ〔二字右○〕と云詞を續日本紀等の中に載たる宣命などの詞にはなも〔二字右○〕とのみあり、得田直はウタテと讀てうたゝと言得べし、直をて〔右○〕と訓ずる事、代をもて〔右○〕と訓じたるに同じ、第十には菟楯《ウタテ》、第十一には宇多|手《テ》、第二十には宇多弖《ウタテ》とかけり、
 
初、いつとなもこひす有とは いつとなもは、いつとなくもなり。もは捨て聞へし。第十一に
  いつとてもこひぬ時とはあらねとも夕かたまけて戀はすへなし
古今集に
  いつはとは時はわかねと秋の夜そ物おもふ事のかきりなりける
得田直比來は、うたて此ころとよみて、うたゝ此ころと心得へし。第十に春譬喩歌に、うたて此ころとよめるには、菟楯頃者とかけり。第十一の十葉には宇多手比日《ウタテコノコロ》とかけり。直をてとよめるは、日本紀に玉代とかきてたまてとよめり。玉のしろといふ心にて名つけたる所の名なり。菅家萬葉集には、沓代とかきてくつてとよめり。世俗に酒をかふあたひをさかてといふも酒代なり。直も代とおなし心の字なれは、てとよむへし。又ひたともよめは、上畧してたともよむへき歟。されと第十第十一にかけるを、さきに引かことくなれは、うたてこのころとよむへし
 
2878 黒玉之宿而之晩乃物念爾割西※[匈/月]者息時裳無《ヌハタマノネテノユフヘノモノオモヒニサケニシムネハヤムトキモナシ》
 
黒玉は黒きとつゞくる意に夜とも髪ともつゞくれば今も晩《ユフベ》と云はむ爲なり、墨染《スミゾメ》の夕とも云り同意なり、宿而之晩はねての夜と云はむが如し、夜占問とかきて第十一にゆふけとふとよめればゆふべ〔三字右○〕とよ〔右○〕と通してよめり、戰國策云、雛忌修八尺有餘云々、暮(ヘニ)寢而思之曰云々、物念爾はモノモヒニと讀べし、割西※[匈/月]者、に〔右○〕は助語なり、遊仙窟云、不(レトモ)v憶v呑(ント)v刃(ヲ)腸穿似v割、最勝王經捨身品云、悶亂荒迷失2本心1、勿v使2我※[匈/月]今(ニ)破裂1、
 
初、ぬは玉のねてのゆふへ 朝暮、旦夕、早晩なといふも、晝夜晦明といふ心に通していへは、夜をもゆふへといふなり。戦國策云。鄒忌修八尺有餘云々。暮(ヘニ)寢而思之曰云々。ぬは玉はよろつのくろきにおく枕詞なり。くらきもくろきと、もとおなし心の詞なれは、夜ともやみともつゝくるゆへに、夜の心にてかくはつゝけたり。又すみそめのゆふへとつゝくるも、空のくろくなりゆくゆへにいへは、よのつねの夕にも、ぬは玉といはむに子細あるへからす。さけにしむねとは、おもひの、むねにみちてさくるやうにおほゆるなり。最勝王經捨身品(ニ)云。悶亂荒迷(シテ)失(ス)2本心(ヲ)1。勿(レ)v使(ムルコト)d2我※[匈/月](ヲシテ)1今破裂(セ)u。遊仙窟(ニ)云《不憶刃腸穿似割》。如上引。此下にわかむねはわれてくたけてともいへり
 
2879 三空去名之惜毛吾者無不相日數多年之經者《ミソラユクナノヲシケクモワレハナシアハヌヒアマタトシノヘヌレハ》
 
(14)發句は名の空までも立行意なり、
 
初、みそらゆく名のおしけくも みそらゆくは名の空まても立ゆく心なり。伊勢か塵ならぬ名の空にたつらんとよめるかことし。名のおしからぬは、下にもつるきたち名のおしけくもわれはなしとよめり。おもひのあまりなり。あはぬ日あまた年のへぬれはとは、あはぬ日あまたになりぬとおもふほとに、あまさへ年のへぬれは、名もおしからすとふてゝいふなり。又あはぬ日あまたは、あはぬ日のおほさ年のへたれはといふにもあるへし
 
2880 得管二毛今見牡鹿夢耳手本纒宿登見者辛苦毛《ウツヽニモイマモミテシカユメニノモタモトマキヌトミレハクルシモ》
 
第十九に似たる歌あり、
 
初、うつゝにもいまも 見牡鹿とはかきたれと、かもし濁てよむへし。又濁らされとも、此集にはねかふ詞に用たるかとみゆる所おほし
 
或本歌登句云|吾妹兒乎《ワキモコヲ》
 
登句、【別本、登作v發、當v依v之、】
 
初、或本歌發句云 發を登に作は誤なり
 
2881 立居店爲便乃田時毛今者無妹爾不相而月之經去者《タチテヰルスヘノタトキモイマハナシイモニアハステツキノヘユケハ》
 
經去者、【官本又云、ヘヌレハ、】
 
或本歌云|君之目不見両月之經去者《キミカメミステツキノヘユケハ》
 
經去者、【官本又云、ヘヌレハ、】
 
2882 不相而戀度等母忘哉彌日異者思益等母《アハスシテコヒワタルトモワスレメヤイヤヒニケニハオモヒマストモ》
 
2883 外目毛君之光儀乎見而者社吾戀山目命不死者《ヨソメニモキミカスカタヲミテハコソワレコヒヤマメイノチシナスハ》
 
初、よそめにも君かすかたを みてはこそは、上にみてはのみこそとも、此山のつきはのみこそ、此川のたえはのみこそなとよめる類なり。みてこそとか、みえこそとかいひてきこゆれは、てはの二字たかひに助語なり。者の字和のことくもよむへし。又にこりてもよむへし。
 
(15)一云|壽向吾戀止目《イノチニムカフワカコヒヤマメ》
 
2884 戀菅母今日者在目杼玉※[しんにょう+更]將開明日如何將暮《コヒツヽモケフハアラメトタマクシケアケナムアスヲイカイカテクラサム》
 
拾遺には人丸集に依て作者を定らる、
 
初、こひつゝもけふは あすまてはなからへかたく戀しきなり。※[しんにょう+更]は匣の誤字なり
 
2885 左夜深而妹乎念出布妙之枕毛衣世二嘆鶴鴨《サヨフケテイモヲオモヒテヽシキタヘノマクラモソヨニナケキツルカモ》
 
念出、【幽齋本云、オモヒイテヽ、】
 
枕毛衣世二は稲葉にのそよととよめる如く、さくり上て泣聲に枕の戰《ソヨ》ぐなり、第二十に於比曾箭乃曾與等奈流麻?奈氣吉都流香母《オヒソヤノソヨトナルマテナゲキツルカモ》とあるも同じ、凡そさわぐさやぐそよぐ此三つの詞は音の轉ぜるのみにて本同じ、そよぐは動く心ある故に第十一に敷妙の枕動きてとよめるにも同じ、
 
初、さよふけていもを 枕もそよは、稻葉のそよとゝいふことく、そよくなり。なく聲にて枕もそよくといふ心なり。そよくは戰の字なり。寒氣の齒牙を戰かはしむるといふも、上下の相觸てなるをいへり。戰慄といふもおそるゝ事ある時、身のわなゝきふるふことなれは、そよといふも音とうこくをかぬへし。しかれは上にしきたへの枕うこきてといふもかよふへし。第二十には、はろ/\に家を思ひ出おひそやのそよとなるまて歎つるかもとよみ、第十三には此とこのひしとなるまて歎つるかもとよめり
 
2886 他言者眞言痛成友彼所將障吾爾不有國《ヒトコトハマコトコチタクナリヌトモソコニサハラムワレニアラナクニ》
 
彼所とはそれになり、落句はソレナラナクニとも讀べし、
 
初、ひとことはまこと そこにはそれになり。他言はこれを正字とす
 
2887 立居田時毛不知吾意天津空有土者踐鞆《タチヰスルタトキモシラスワカコヽロアマツソラナリツチハフメトモ》
 
初、立居するたときも 第十一に、立とまりゆきみの里に妹を置て心空なりつちはふめとも。そこに委注せり。又此下にいたりて、十一の哥の下句とおなし哥有
 
(16)2888 世間之人辭常所念莫眞曾戀之不相日乎多美《ヨノナカノヒトノコトハトオモホスナマコトソコヒシアハヌヒヲオホミ》
 
世の中の人言とは僞又は言のなくさなり、
 
初、世の中の人のことは 俗にいふくちくせの心なり。此下にもうつせみの常のことはとおもへともとよめり。まことそこひし、此戀之をは、戀を去聲のことくよみ、しもしは平聲によむべし。又戀を常にこひといふことく、平聲の輕にもよむへし
 
2889 乞如何吾幾許戀流吾妹子之不相跡言流事毛有莫國《イテイカニワカカクコフルワキモコカアハシトイヘルコトモアラナクニ》
 
幾許はコヽタと讀べし、
 
初、いていかにわかかくこふる いては發語の辭なり。乞の字をかけるは、允恭紀に、壓乞とかきていてとよめり。委は第四卷に引り。是はいて其物ひとつ給はれといふやうの時用る詞なり。皇極紀に、咄哉とかきていてやとよめるは、常にいてさらはなと俗にいふいてなり。古今集に、いてわれを人なとかめそ、いて人はことのみそよきなとよめるもこれなり。しかれは、今はかりてかける歟。もしは通する歟。哥の心はあはしといはゝこそ、さま/\にこひもせめ。あひぬへけれは、心をやすむへきことなるに、いてやいかにかくはかり、やるかたなくはわかこひおもふらんとなり
 
2890 夜干玉之夜乎長鴨吾背子之夢爾夢西所見還良武《ヌハタマノヨヲナカミカモワカセコカユメニユメニシミエカヘルラム》
 
一夜の中に頻に見ゆれば夜の長ければかと云なり、夢ニシのし〔右○〕は助語なり、
 
2891 荒玉之年緒長如此戀者信吾命全有目八目《アラタマノトシノヲナカクカクコヒハマコトワカイノチマタカラメヤモ》
 
如此、【別校本、此作v是、】  八目、【幽齋本、目作v面、】
 
年は打はへてある物なれば年の緒とは云へり.凡て氣の緒辭の緒など此に准らふべし、
 
2892 思遣爲便乃田時毛吾者無不相數多月之經去者《オモヒヤルスヘノタトキモワレハナシアハステアマタツキニヘユケハ》
 
經去者はヘヌレバとも讀べし、
 
初、おもひやるすへの おもひやるは、おもひをやるなり。上に立てゐるすへのたときも今はなしといふ哥に大かた似たり
 
(17)2893 朝去而暮者來座君故爾忌忌久毛吾者歎鶴鴨《アサユキテユフヘハキマスキミユヘニユヽシクモワレハナケキツルカモ》
 
藤原道信の明ぬればくるゝ物とは知ながら猶恨めしき朝ぼらけかなとよまれたる意を此は女のよめるなり、
 
初、朝ゆきてゆふへは 明ぬれはくるゝ物とは知なから猶うらめしき朝ほらけかな。此哥と作者男女にかはりて、哥のやうはかはれと、心おなし
 
2894 從聞物乎念者我胸者破而摧而鋒心無《キヽシヨリモノヲオモヘハワカムネハワレテクタケテトコヽロモナシ》
 
初、聞しより物をおもへは わかむねはわれてくたけては、上にさけにしむねともよめり。とこゝろ、心とおなし。上に尺せり
 
2895 人言乎繁三言痛三我妹子二去月從未相可母《ヒトコトヲシケミコトタミワキモコニイニシツキヨリイマタアハヌカモ》
 
2896 歌方毛曰管毛有鹿吾有者地庭不落空消生《ウタカタモイヒツヽモアラルカワレナラハツチニハオチシソラニケナマシ》
 
歌方は遊仙窟云。著時未必相著死《ヨリツカムウウタカタモアハムトハオモハザリキ》、又云|未必《ウタカタモ》由(テ)v詩(ニ)得(ムトニハアラズ)、かゝれば决定せぬ言葉なり、第十五、第十七にもよめり、蓋《ケダシ》と云ひたらむやうに聞ゆ、後撰集に思川絶ず流るゝ水の泡のうたかた人にあはで消めや、源氏に霖する軒のしづくに袖ぬれてうたかた人をしのばざらめや、狹衣にいつまでと知らぬ霖の庭たづみうたかたあはで我ぞけぬべき、此等を引合せて意得べし、顯昭はうたゝと云心かと見ゆと釋し、定家卿は寧《ムシロ》と云に通ふ由のたまへり、古き先達の説々ども袖中抄に見えたり、又顯昭水の沫によせて詞にそふる歌に此を入られたり、下句空にけなましとよめるに依てなり、(18)そのうたかたは和名集云、淮南子(ノ)註云、沫雨(ハ)雨2潦上(ニ)1沫起(ルコト)若2覆盆(ノ)1、【和名宇太加太、】潦をば雨水と注したれど此國にうたかたとよめるは雨水の上に浮くならねど只水の沫の壺の如くして浮をも云へり、それを又第二十にはみつぼともよめり、内典の十喩の中に浮泡喩あるは此なり、此うたは有にもあらぬ物なれば詞のうたかたにおのづから通へり、歌の意はあはむともあはじとも云ひ放たず懸て云ひつゝも有かな、君が心の我にてあらば、さる沫雨《ウタカタ》のやうなる詞は空に消て地には落じとよめるは、たゆたふ詞はいはじとなり、空とは水の上に浮たる程を云ひ地とは潦水を云べし、不落はオチズとも讀べき歟、此歌は極て意得がたき歌なり、後の人能按ずべし、今注するもみづから不審あり、若さる意ならば正述2心緒1と云には入れずして寄v物陳v思歌のり中にあるべきが故なり、若寄v物歌の中より此に來て交はる歟、
 
初、うたかたもいひつゝもあるか うたかたにふたつ有。水にうく沫の、つほのことく有をうたかたといふ。第二十に、みつほなすかれる身とつゝけよめる物これなり。和名集(ニ)云。淮南子(ノ)註(ニ)云。沫雨(ハ)雨《アメフツテ》2潦上(ニ)1沫(ノ)起(ルコト)若(シ)2覆盆(ノ)1【和名宇太加太。】又遊仙窟(ニ)云。著《ヨリツカン》時|未必《ウタカタモ》相2著《アハントハオモハサリキ》死(ニ)1。これは今の人のよまは、よりつかむ時いまたかならすしも死にあひつかんとはおもはさりきと、未の字かへりてふたゝひよむへきを、心を得て、未必をうたかたもとよめり。しかれはいまたかならすとせぬ心なれは、不定のことはにて、けたしといふにちかし
此集第十五に
  はなれそにたてるむろの木うたかたも久しき時を過にけるかも
第十七に
  あまさかるひなに有我をうたかたもひもゝときさけておもほすらめや
  鶯のきなく山ふきうたかたも君か手ふれす花ちらめやも
後撰集伊勢か哥に
  おもひ川絶すなかるゝ水の泡のうたかた人にあはてきえめや
源氏物語に
  なかめする軒のしつくに袖ぬれてうたかた人をしのはさらめや
狭衣に
  いつまてとしらぬなかめのにはたつみうたかたあはて我そけぬへき
第十五第十七の三首は、ひたすら遊仙窟とおなし。後の三首は、沫雨に、未必をかねたり。今の哥もふたつの事にいひかけたりときこゆ。あはんとも、あはしとも、いひはなたす。こなたかなたをかけて、不定にいひつゝもあるかな。われならはそのうたかたは、下におつるまてもなく、空にきえなましとなり。下の句の、つちにはおちすといひ、空にけなましといふは、未必の心にいひ出せるを、沫雨に取なしていふなり。聖教の十喩中の泡の喩は、此沫雨なり。みつほなすかれる身といへるも、彼泡の喩によれり。うたかたも、有ともなしともさためかたけれは、未必にかよへり。されは我ならはさやうの猶豫不定の心をは、泡の水の上にきゆることくして、おもひもせしといふ心を、つちにはおちすして、空にきえなましとはいへりときこゆ。空といふは水の上なり
 
2897 何日之時可毛吾妹子之裳引之容儀朝爾食爾將見《イカナランヒノトキニカモワキモコカモヒキノスカタアサニケニミム》
 
初、いかならん日の時にかも 第五にも
  いかにあらむ日の時にかもこゑしらん人のひさのへわかまくらかむ
裳引のすかたとは、あかもすそ引とも、裳引ならしゝすか原の里ともよめり。裳のすそをつちにひくなり
 
2898 獨居而戀者辛苦玉手次不懸將忘言量欲《ヒトリヰテコフルハクルシタマタスキカケテワスレムコトハカリセヨ》
 
戀者、【幽齋本云、コフレハ、】
 
(19)落句はコトハカリモガと讀べし、
 
初、ひとりゐてこふるは かけてわすれむは、常に心にかゝりこひしきはわひしきに、いかて心にかけすしてわするへきはかりこともかなとなり。言量欲、ことはかりもがとねかふ心に讀へし。第四にも此下にも、事許爲與《コトハカリセヨ》とかけるにはおなしからす
 
2899 中中二點然毛有申尾小豆無相見始而毛吾者戀香《ナカ/\ニモタモアラマシヲアチキナクアヒミソメテモワレハコフルカ》
 
點は黙を誤れり、改たむべし、
 
初、中々にもたもあらましを 黙を點に作れるは誤なり
 
2900 吾妹子之咲眉引面影懸而本名所念可毛《ワキモコカヱマヒマヨヒキオモカケニカヽリテモトナオモホユルカモ》
 
咲、【幽齋本云、ヱメル、】
 
咲はヱメルと讀べし、ゑまひの時は上に喫状《ヱマヒ》、咲容《ヱマヒ》、咲※[人偏+舞]《ヱマヒ》などかけり、懸而を袖中抄にかけつゝとあれど今にしかず、
 
2901 赤根指日之暮去者爲便乎無三千遍嘆而戀乍曾居《アカネサスヒノクレユケハスヘヲナミチヘニナケキテコヒツヽソヲル》
 
2902 吾戀者夜晝不別百重成情之念者甚爲便無《ワカコヒハヨルヒルワカスモヽヘナルコヽロシオモヘハイトモスヘナシ》
 
念者はモヘバと讀べし、
 
初、わかこひはよるひるわかす もゝへなるこゝろしおもへはゝ、第四に人丸の哥にも
みくまのゝうらのはまゆふもゝへなる心はおもへとたゝにあはぬかも
 
2903 五十殿寸太薄寸眉根乎徒令掻管不相人可母《イトノキテウスキマユネヲイタツラニカヽシメツヽモアハヌヒトカモ》
 
發句は第五に既に注しつ、此歌第四に出たる大伴百代が歌に大かた同じ、
 
初、いとのきてうすきまゆねを いとのきては、第五に二首第十四にも一首見えたり。いとゝの心なり。此哥は第四に
  いとまなき人のまゆねをいたつらにかゝしめつゝもあはぬいもかも
大形似たる哥なり
 
 
(20)2904 戀戀而後裳將相常名草漏心四無者五十寸手有目八面《コヒ/\テノチモアハムトナクサムルコヽロシナクハイキテアラメヤモ》
 
四は助語なり、拾遺は人丸集に依て作者を付らる、
 
2905 幾不生有命乎戀管曾吾者氣衝人爾不所知《イクハクモイケラシイノチヲコヒツヽソワレハイキツクヒトニシラレス》
 
2906 他國爾結婚爾行而大刀之緒毛未解者左夜曾明家流《ヒトクニニヨハヒニユキテタチノヲモマタトケサレハサヨソアケニケル》
 
未解者、【官本、イマタトカネハ、】
 
結婚は伊勢物語云、女のえうまじかりけるを年を經てよばひわたりけるを云々、源氏物語玉葛云、けさう人はよにかくれたるをこそよばひとはいひけれ、太刀之緒はタチガヲモイマダトカネバと讀べし、とかねばは例のとかぬになり、古事記上、八千矛《ヤチホコノ》神(ノ)御歌云、作用婆比爾《サヨバヒニ》、阿理多多斯《アリタタシ》。用婆比邇《ヨハヒニ》、阿理加用婆勢《アリカヨハセ》、多知賀遠母《タチガヲモ》、伊麻陀登加受?《イマダトカズテ》、淤須比遠母《オスヒヲモ》、伊麻陀登加泥婆《イマダトカネバ》云々、延喜式云、凡衛府舍人刀緒左近衛緋|※[糸+施の旁]《アヅマギヌ・アシギヌ》、右近衛緋|纈《ユハタ》、左兵衛深緑、右兵衛深緑纈、左門部淺|縹《ハナタ》、右門部淺縹纈、拾遺集物名をかはのはし業平、筑紫よりこゝまで來れど※[果/衣]《ツト》もなし、太刀の緒革《ヲカハ》の端《ハシ》のみぞある、
 
初、ひとくにゝよはひにゆきて 此ひとくには、なにはのくに、よしのゝ國といへるたくひに心得へし。なりひらの、龍田山をこえて、河内の高安へかよはれけるは、兩國にかゝれは、いつれにもつくへし。結婚は、第九に、うなひをとめをよめる哥には、たはけとよめり。第十三にはこもりくのはつせをくにゝよはひするわかすめろきよとよめり。そこには夜延とかけり。夜匍匐《ヨハヒ》といへる心なるへし。源氏物語玉葛に、けさう人はよにかくれたるをこそよはひとはいひけれ。結婚は義をもてよめるなるへし。伊勢物語に、むかしをとこ有けり。女のえうましかりけるを、年をへてよはひわたりけるを、からうしてぬすみいてゝ、いとくらきにきけり。又いはく。むかしをとこやまとにある女をみてよはひてあひにけり。たちのをは、延喜式云。凡衛府舍人(ノ)刀緒、左近衛(ハ)緋(ノ)※[糸+施の旁]《アツマキヌ》。右近衛(ハ)緋(ノ)纈《ユハタ》。左兵衛(ハ)深緑。右兵衛(ハ)深緑(ノ)纈。左門部淺|縹《ハナタ》。右門部(ハ)淺縹(ノ)纈。拾遺集物名をかはのはし、業平
  つくしよりこゝまてくれとつともなしたちのをかはのはしのみそある
またとかされは、いまたとかねはともよむへし。いまたとかぬになり。此てにをは上に注し畢ぬ
 
2907 大夫之聰神毛今者無戀之奴爾吾者可死《マスラヲノサトキコヽロモイマハナシコヒノヤツコニワレハシヌヘシ》
 
(21)戀之奴爾とは戀の奴が手にと云はむが如し、
 
初、ますらをのさときこゝろも さとき心もなしとは、戀には心のほれ/\となる心なり。上にをこゝろもなきとよみ、心ともなしとも、とこゝろのうするともよめるにおなし。戀のやつこは、戀といふ奴にとのる詞なり。竹取物語にかくやひめてふ大盗人のやつかといへるかことし
 
2908 常如是戀者辛苦暫毛心安目六事計爲與《ツネニカクコフレハクルシシハラクモコヽロヤスメムコトハカリセヨ》
 
上に此に似たる歌と共に第四に田村大孃が坂上大孃に贈れる歌に似たり、
 
2909 凡爾吾之念者人妻爾有云妹爾戀管有米也《オホヨソニワレシオモハヽヒトツマニアリトイフイモニコヒツヽアラメヤ》
 
發句はオホロカニとも讀べき事以前云が如し、
 
2910 心者千重百重思有杼人目乎多見妹爾不相可母《コヽロニハチヘニモヽヘニオモヘレトヒトメヲオホミイモニアハヌカモ》
 
2911 人目多見眼社忍禮小毛心中爾吾念莫國《ヒトメオホミメコソシノフレスクナクモコヽロノウチニワカオモハナクニ》
 
小毛、【別校本、小作v少、】
 
落句はワガモハナクニと讀べし、
 
2912 人見而事害目不爲夢爾吾今夜將至屋戸閇勿勤《ヒトノミテコトトカメセヌユメニワレコヨヒイタラムヤトサスナユメ》
 
第四家持の坂上大孃に贈られし歌に此歌を以てよまれたる歌あり、
 
初、人のみてことゝかめせぬ ことはのとかめせぬなり。君のみ見るゆめなれは、見あらはしてとかむる人のなきなり。人は世上の人なり。やとさすなは、遊仙窟云。今育莫(レ)v閉《サスコト》v戸(ヲ)、夢(ノ)裏(ニ)向(ハン)2渠邊《キミカアタリニ》1。下に
  人のみてことゝかめせぬ夢にたにやますをみえよわかこひやめん
  かとたてゝ戸もとちてあるをいつくゆか妹かいりきて夢に見えつる
第四に
  ゆふされはやとあけまけてわれまたむ夢にあひ見にこむといふ人を
文選潘岳(カ)寡婦賦曰。夢1良人(ノ)兮來(リ)遊(ヲ)1若2※[門/昌]闔(ノ)兮|洞《トホリ》開(タルカ)1。古今集小町哥に
  かきりなきおもひのまゝによるもこんゆめちをさへに人はとかめし
 
(22)2913 何時左右二將生命曾凡者戀乍不有者死上有《イツマテニイカムイノチソオホヨソハコヒツヽアラスハシヌルマサレリ》
 
2914 愛等念吾妹乎夢見而起而探爾無之不怜《ウツクシトオモフワキモヲユメニミテオキテサクルニナキカサヒシサ》
 
此歌も第四に家持の取用られたり、拾遺集に哀傷に入たる事不審なり、
 
初、うつくしとおもふわきもを 第四家持の哥にも
  夢のあひはくるしかりけり驚てかきさくれとも手にもふれねは
相如長門賦ならひに遊仙窟、第四にひけるかことし
 
2915 妹登曰者無禮恐然爲蟹懸卷欲言爾有鴨《イモトイヘハナケレカシコシシカスカニカケマクホシキワレニアルカモ》
 
無禮、【別校本又云、ナメシ、】  言爾、【幽齋本云、コトニ、】
 
發句を今按イモトイハヾと讀べし、其故は無禮も言爾も今の點は誤て右に出せる異本の點よければ、それに叶ふはイハヾなり、此は貴女を思ひ懸て君を吾妹と云はむ事は恐ある事なれどあはれ妹と云名を懸まほしきとなり、第三に栲領巾乃懸卷欲寸妹名乎《タクヒレノカケマクホシキイモカナヲ》とよめるが如し、
 
初、妹といはゝなめしかしこし 無醴を、今の本になけれとよめるは誤なり。第六に太宰帥大伴卿京へ上られける時、遊女兒島か、別を悲てよめる二首の哥の中に
  やまとちは雲かくれたりしかれともわかふるそてを無禮《ナケレ古・ナメシ新思》ともふな
これをもなけれと訓せり。そこをもなめしとよむへきなり。日本紀の孝徳紀に、輕の字をなめしとよめり。あなとりかろむすれは、無禮とおなし心なり。伊勢物語に、むかし、をとこ、かくてはしぬへしといひやりけれは、女
  白露はけなはけなゝむきえすとて玉にぬくへき人もあらしを
といへりけれは、いとなめしと思ひけれと、心さしはいやまさりけり。源氏物語、未通女に、いさゝか物いふをもせいす。なめけなりとてもとかむ。同梅かえに、おほしすつましきをたのみにて、なめけなるすかたを御覽せさせ侍るなり。同夕霧に、いかさまにして、そのなめけさを見しとおほしけれは。同眞木柱に、うちにもなめく心あるさまに聞しめし、人々もおほす所あらん。清少納言にも、なめけなる物とかけり。さて此哥は、貴人をおもひかけてよめるなるへし。心は、わかこときいやしき身にて、妹といはむは、無禮にておそれあることなれと、さすかに妹といふ言をかけて、我手に入まくほしきとなり。言は上に妹といはゝとあれは、ことゝよむをまされりとすへし。われと讀てもたかはす
 
2916 玉勝間相登云者誰有香相有時左倍面隱爲《タマカツマアハムトイフハタレナルカアヘルトキサヘオモカクレスル》
 
袖中抄に此歌を引畢て顯昭云、玉かつまとは妻をほめて玉かつまと云といへり、良玉集云、玉かつま待夕暮の眞木の戸は音なふさへぞ人憑めなる、此兩首にてはさも意得つべし、玉之妻とぞ書べけれど盤之根《イハカネ》をも石金《イハカネ》と書く習ひにて萬葉集に侍れ(23)ば申べきにあらず、今二首の歌は妻をよめりともおぼえずとて、此卷末にある二首を又引畢て云、此二首歌共に嶋に懸たり、いかにつゞきたるにか、又夕に懸たり、下句に旅寢しかねつとも云ひ又獨か君が山路越らむと云へる、是は妻の事ともきこえず、たとひ妻の事なるにても初句と事はなれたり、花かつみなど讀置やうにはなかつまと云物の名歟、詞の有歟にてぞ三首の歌は心得合せらるべき、清輔朝臣も妻の叶はぬ由をば不2沙汰1侍き、以上明らかなり、但妻と云義に付て玉之妻と意得たるを沙汰せられぬぞぼつかなき、凡て玉椿玉|篠《サヽ》などこそほめ申すめれば、玉妻とこそ云べけれ、玉之妻と云はゞ玉がための妻のやうにきこえて其ことわり成らず侍りなむ、然れば良玉集の歌は誤れる作なるべし、仙覺抄云、玉勝間と云は玉|匣《クシゲ》と云詞なり、阿波國風上記云、勝間井冷水出2于此(ヨリ)1焉、所3以(ハ)名(クル)2勝間井(ト)1者、昔倭健天皇命乃依2大御櫛笥之忌(ニ)1而勝間栗人者穿v井故爲v名也【已上】、されば今の歌にはむあはむと云はと云ひ出むための諷詞《フウシ》に玉勝間とおける也、今云、先阿波風土記信じがたし、倭健命を倭健天皇命と云やうやは有べき、又大御櫛笥之忌と云事いまだ其意を得ずと云へども、只其事に依て勝間栗人と云者が井を穿たる故に井の名を勝間と云とこそ云へるを、玉勝間は玉匣を云とはいかに意得られけむ、唯勝間井をほめて玉勝間と云ひ、勝間は(24)風土記に載て阿波に名あればあはむを阿波にそへむために玉勝間とは置けりとぞ申さべき、但後の二首に阿倍嶋山又嶋熊山とつゞけたるには阿波にそふと云べきやうなければ、曲説をなさむために太御櫛笥之忌と云事あるにすがりて暗推を加へられたり、智あらむ人迷ふべからず、今按古事記上云、爾|鹽椎《シホツチノ》神云、我爲2汝《イマシ》命1作2善|議《ハカリコト》1即造2無(シ)v間《マ》勝間之小船1、載2其船1以教(ヘマツテ)曰云々、是は彦火火出見尊兄の火闌降《ホスソリノ》命と海山の幸《サチ》を易《カヘ》て鯛のために鈎《チ》を呑《ノマ》れて兄に責られ海畔《ウミヘタ》に吟《サマ》よひ給ひし時の事なり、日本紀には乃作(テ)2無目籠《マナシカタマヲ》1内《イレ》3彦火火出見尊於2籠《カタマノ》中(ニ)1、沈《シヅム》2之于海(ニ)1、又云、作(テ)2大目麁《オホマアラ》籠1云々、又云、一云、以2無目堅間《マナシカタマヲ》爲《ツクテ》2浮木《ウケキニ》1、以2細繩《ホソナハ》1繋2著《ユヒツケマツテ》火火出見尊1而沈之所謂|堅間《カタマ》是今之竹(ノ)籠《コ》也日本紀に依らば古事記の勝間をもかたまとも讀べきか、さらずともた〔右○〕とつ〔右○〕と通ずれば籠の名なり、しげく組て堅ければ堅間とは云歟、和名集云、苓※[竹/青]四聲字苑云、苓※[竹/青]【二音與2零青1同、漢語抄云賀太美、】小籠也、此かたみもま〔右○〕とみ〔右○〕と通ずればかたかの轉ぜるにや、然れば玉は褒美の詞にて玉堅間なるべし、あはむととつゞくるは組もて行まゝに末の行あへば云歟、又相は見るなれば古今集に花かたみ目並ぷ人とも云へる如く目のしげき物なれば相見る心につゞくる歟、誰有香は此は人を指てあはむと云しは君にて有をなどかあへば面隱するとよめる歟、又みづから我を指歟、
 
初、玉かつまあはんといふは 長流か抄にいはく。此玉かつまは、或説に妻をほめていふといへり。或説には櫛をいふと有。又櫛笥をいふなとゝいへり。此哥一首によらは、妻ともいふへし。又くしけともいふへし。あはんとよめるは、妻の縁にも、又箱の縁にもなる故なり。此卷に玉勝間安倍嶋山の夕露にとも讀、又玉かつま嶋くま山の夕くれにともよめり。此二首は、嶋とつゝけ、又夕とつゝけたり。案するに玉かつまは、もし玉の緒をいふ歟。上に玉の緒の嶋心といへり。これは玉を緒にてしむるといふ心なり。復二首のうたに、共に嶋といふ字をよみたるはその心なるへし。また夕とつゝけたるは、緒を結心によせたりときこゆ。こゝのうたに玉かつまあはんといふはとよめるは、玉の緒をは、合するものなれは、かくつゝくへし。かれこれ引よせて心得るに、玉の緒の心なるへしと覺ゆるなりといへり。玉の緒を玉勝間といへる事、外にかんかふる所なしといへとも、長流か此集中にてかんかへていへる事、そのいはれ有。およそ此玉勝間は、此卷にのみさきのことくにて有詞なり。さて哥の心は、君にあはむといひしは誰にてかある。さいひしは我にてこそあるを、あへる時たになとおもかくれはするそと、みつからにむかひていへり。あへる時さへといへるは、人をよく見はやとても、あはぬ時は見るへきやうもなし。なとあへる時さへといふ心にみるへし。おもかくれは、第十一にも、むかへれはおもかくれするものからにとよめり
 
(25)2917 寤香妹之來座有夢可毛吾香惑流戀之繁爾《ウツヽニカイモカキマセルユメニカモワレカマトヘルコヒノシケキニ》
 
伊勢物語に君や來し我や行けむと齋宮の讀給へる意を男の後朝によめるなり、第十一に夢にだに何かも見えぬ見ゆれども吾かも迷ふ戀のしげきに、似たる作にて下句大かた同じ、
 
初、うつゝにか妹かきませる夢にかも これは伊勢物語の、君やこしわれやゆきけむおもほえすゆめかうつゝかねてかさめてか。この心にて、をとこのよめるがかはれるなり。こひのしけきにとは、こひのしけきによりて、夢にわかまとひゆきてあへるか。更にうつゝともゆめともわきまへすとなり。後朝の哥なり
 
2918 大方者何鴨將戀言擧不爲妹爾依宿牟年者近侵《オホカタハナニカモコヒムコトアケセスイモニヨリネムトシハチカキヲ》
 
近侵、【別校本、侵作v綬、】
 
初二句は大方の人ならば何かも戀むとよめる歟、又大底のことわり一を思ひて業平の大かたは月をもめてしとよまれたる如くよめる歟、後の意なるべし、腰句以下の意は親の約して定め置たれどまだ童女にて今暫時を待程の歌と見えたり、侵はをかすと云上の一文字を取て用たるか、別校本に綬に作れるは和名集云、禮記注云綬【音受、和名、久美、】所d以貫2珮玉(ヲ)1相(ヒ)受承u也、かゝればを〔右○〕とも讀べし、
 
初、大かたは何かもこひむ ことあけせすは、とにかくにいふへきこともなし。もとよりこれはおやの約しおけと、また童女なとにて、今しはし時を待ほとの哥と見えたり。大かたはとは、おほかたの人ならはの心なり。侵はをかすといふ和訓の心にて用ゐたり。ことあけせすは、上に既に注せり。後にも有。日本紀にもあまた見えたり
 
2919 二爲而結之※[糸+刃]乎一爲而吾者解不見直相及者《フタリシテムスヒシヒモヲヒトリシテワレハトキミシタヽニアフマテハ》
 
伊勢物語に下句を相見るまではとかじとぞ思ふとかへてあり、
 
初、ふたりしてむすひし紐を 伊勢物語に
  ふたりして結ひし紐を獨してあひみるまてはとかしとそ思ふ
 
(26)2920 終命此者不念唯毛妹爾不相言乎之曾念《シナムイノチコロハオモハスタヽシクモイモニアハサルコトヲシソオモフ》
 
此者、【官本云、コヽハ、】
 
此者は今の本にコロハとあるはココハを書生の誤れるるなり、コレハとも讀べし、ココハ思ハズとは此事をば何とも思はずなり、唯毛はタヾにて、シクモの三字は助語なり、落句はコトヲシゾモフと讀べ、之〔右○〕は助語なり、
 
2921 幼婦者同情須臾止時毛無久將見等曾念《ヲトメコハオナシコヽロニシハラクモヤムトキモナクミナムトソオモフ》
 
幼婦者、【紀州本云、タヲヤメハ、】
 
落句はミナムトゾモフと讀べし、
 
2922 夕去者於君將相跡念許憎日之晩毛※[立心偏+呉]有家禮《ユフサレハキミニアハムトオモヘコソヒノクルラクモウレシカリケレ》
 
※[立心偏+呉]、【官本云、娯歟、】
 
念許憎はおもへばこそなり、※[立心偏+呉]は誤と同じ改て娯に作るべし、
 
初、夕されは君に おもへこそは、おもへはこそなり
 
2923 直今日毛君爾波相目跡人言乎繁不相而戀度鴨《タヽケフモキミニハアハメトヒトコトヲシケミアハステコヒワタルカモ》
 
初、たゝけふも君には しけみあはすての句は、上の人ことをいふにしけみとつゝけて、よみきるやうにてあはすては下につゝけて心得へし
 
(27)2924 世間爾戀將繁跡不念者君之手本乎不枕夜毛有寸《ヨノナカニコヒシケヽムトオモハネハキミカタモトヲマカヌヨモアリキ》
 
第十一に似たる歌有て注しき、下句彼には妹之と有のみ替れり、
 
初、世の中にこひしけゝむと 第十一に
  かくはかりこひむ物そとおもはねは妹かたもとをまかぬ夜も有き
彼注にて今の哥はあらはる
 
2925 緑兒之爲社乳母者求云乳飲哉君之於毛求覽《ミトリコシスモリメノトハモトムテフチノメヤキミカオモモトムラム》
 
緑兒之、【別校本又云、ミトリコノ、】  爲杜、【幽齋本杜作v社、點云、タメコソ、】
 
發句の之は助語なり、爲杜乳母は今按スモリチオモと讀べし、其故は乳母をばめのと〔三字右○〕ともちおも〔三字右○〕ともよめども、下句に於毛と云は母の字なれば常は親の名なれど今は上のちおもに意顯はれたれば乳を略し云故に下と一具にちおもと云べきなり、爲杜は爲は須兒など云如く賤しきに云詞歟、杜に守にかれり、乳母は神代紀下云亦云、彦火火出見尊取2婦人《ヲミナ》1爲2乳母湯母《チオモユオモ》及(ヒ)飯嚼湯坐《イヒカミユヱヒトヽ》1、凡|諸部備行《モロトモノヲソナハリ》以奉(ル)v養《ヒダシ》焉、于v時(ニ)權用《カリニトリテ》他姫婦《アダシヲミナヲ》1以v乳焉、此|世《ヨノナカニ》取2乳母《チオモヲ》養《ヒダス》v子(ヲ)之|縁《コトノモトナリ》、是後|豐《トヨ》玉姫聞2其兒(ノ)端正《キラ/\シキヲ》1、甚憐|重《アカメテ》欲2復歸(テ)養1、於v義《コトワリニ》不v可、故遣2女弟玉依姫1以來養者也、和名集云、乳母日本紀私記師説【女乃於止、】言|妻《メノ》妹也、事見2彼書1、彼書とは初に引文王なり、又云唐式云、皇子乳母皇孫乳母【乳母、和名女乃止、】辨色立成云、※[女+爾]母、【和名知於毛、】今按即(ハチ)乳母也、乃禮反、字亦作v※[女+尓]、めのと〔三字右○〕はめのをと〔四字右○〕の略なり、めのをとゝ云事は豐玉姫を火火出見尊の御|妻《メ》として玉依姫は豐玉姫の妹なるが※[盧+鳥]※[茲+鳥](28)草葺不合《ウガヤフキアヘズノ》尊に乳を初て參らせ給へるに依て此名あり、乳母字に和語はたがひの心の叶へるは?牀子を蛭莚《ヒルムシロ》とよめるに准らふべし、歌の意は緑兒こそすもりめのとは求むと云なるを、君も乳のめばにやちおもすべき女をば求むらむとなり、次の歌も同じ女の讀て二首にて心を云ひはてたりと見ゆれば、誠に乳母を求むるにはあらで年深たる女の思ひ懸られて身を顧てよめるなるべし、ミドリコノタメコソと云を用ゐばチオモハモトムトイヘと讀べし、乳母をば緑兒ありて其爲にこそ求と云へ、君に緑兒有て乳をのめばや乳母《チオモ》は求むらむとなり、戯るゝ意にはあれど君が乳のめばやと云よりは後の義まさりぬべくや、たとひ今の本に依るべくとも、發句はミドリコノと讀て乳飲哉をば其緑兒ののめばにやと意得べし、
 
初、みとりこのすもりめのとは みとりこのもりをするめのとなり。すもりは山田もるすこといふがいやしきものをよふ名なれは、すもりといふすもしも、それにおなしき歟。俗に人のいりきたるに、物もくはせす、酒をも出さすして、只ものかたりをのみするを、すものかたりといひ、わろき田をす田なと農民はいへは、すもしはいかなる心とはしらねと、わろきことにつくることはにや。乳母は和名集云。乳母(ハ)日本紀師説【女乃於止】言(ハ)妻《メノ》妹也。事(ハ)見(タリ)2彼書(ニ)1。唐式(ニ)云(ク)。皇子の乳母、皇孫(ノ)乳母【乳母和名女乃止。】辨色立成云。※[女+爾]母【和名知於毛。】今按(スルニ)即(ハチ)乳母(ナリ)也。乃禮(ノ)反、字亦作v※[女+尓](ニ)。神代紀下云。亦云彦火々出見尊取(テ)2婦人《ヲミナヲ》1爲2乳母《チオモ》、湯母《ユオモ》、及(ヒ)飯嚼《イヒカミ》、湯坐《ユヱヒトヽ》1。凡《スヘテ》諸部備行《モロトモノヲソナハリテ》以|奉《マツル》v養《ヒタシ》焉。于v時|權《カリニ》用《トリテ》2他姫婦《アタシヲミナヲ》1以v乳(ヲ)養《ヒタス》v皇子《ミコヲ》1焉。此(レ)世《ヨノナカニ》取2乳母《チオモヲ》1養《ヒタス》v兒《コヲ》之|縁《コトノモトナリ》。是(ノ)後|豐《トヨ》玉姫聞(テ)2其兒(ノ)端正《キラ/\シキヲ》1、甚(ハタ)憐(レヒ)重《アカメテ》欲2復《マタ》歸(テ)養《ヒタサムト》1。於v義(ニ)不《ス》v可《ヨカラ》。故《カレ》遣《マタシテ》2女弟《イロト》玉依姫(ヲ)1以來(シ)養《ヒタシマツル》者也。和名集に事見2彼書1といへるはこれなり。めのとは、めのをとなり。これは彦|火《ホ》々出見尊、龍宮に到て、豐玉姫を妻としたまひて、彦波瀲武※[盧+鳥]※[茲+鳥]草葺不合尊《ヒコナキサタケウカヤフキアハセスノミコト》は、豐玉姫海中より出て海濱《ウミヘタ》にて生て、龍宮へ歸て、女弟《イロト》玉依姫を來して、乳をまいらせて人なし奉らる、緑《コトノモト》にて|め《・妻》のをとゝいふを、畧してめのとゝはいふなり。もろこしには、兒に乳をふくめてそたつる事、母に似たれは、乳母とも、※[女+尓]母ともいふを、此國に、まさしくはちおもといふがあたれる名なれとも、右のゆへにて、義をもて乳母をめのとゝよむ事、※[虫+也]床を蛭莚《ヒルムシロ》とよむに准しで心得へし。さて哥の心は君かみとりこのためにすもりめのとをもとむといふ。ちをのめはにや、ちおもはもとむらんとなり。次の哥と二首にて、心をいひつくすなり。さきにもいへるかことし。緑兒之、みとりこのと讀へし。乳飲哉。ちのめや、ちのむや
 
2926 悔毛老爾來鴨我背子之求流乳母爾行益物乎《クヤシクモオヒニケルカモワカセコカトムルメノトニユカマシモノヲ》
 
求流乳母爾はモトムルチオモニと讀て上の歌と一具にすべし、凡そ乳母は中年の女のする事なるを、悔モ老ニケルカモとよめるは其程をも過けるにや、又憑めたる男のこと人を迎て子の出來たりと聞てねたく恨めしさに、程より老たるやうに云なして今少若くば乳母にだに出て仕へまし物をと人を痛ましむるやうによめ(29)る歟、
 
初、悔しくもおいにけるかも くやしくも我身の老にけるかな。今少わかくは、君か妻とこそならさらめ。みとり子のためにもとむる、乳母にたに出てつかへて、君をみましものをとなり。下の心をおもふに、たのめたるをとこの、ねひたる女に心かはりて、こと人をむかへて、子の出來たりときゝて、ねたくうらめしさに、わか身をほとよりもおいたるやうにいひて、人の心をいたましめむがために、よみておくれるなるへし
 
2927 浦觸而可例西袖※[口+立刀]又卷者過西戀也亂今可聞《ウラフレテカレニシソテヲマタマカハスキニシコヒヤミタレコムカモ》
 
二の西のに〔右○〕は共に助語なり、今は將來なり、多くの人の行過たるが打群て歸來る如く、絶たる人に又あはゞ昔の戀や打亂れて歸り來むとなり、
 
初、うらふれてかれにし かれにし袖とは、久しく絶てかたみにかはさぬ袖なり。その袖を又まかは、過しやりにしひころのこひも、またみたれきて、我をなやまさんかとなり
 
2928 各寺師人死爲良思妹爾戀日異羸沼人丹不所知《オノカシシヒトシニスラシイモニコヒヒニケニヤセヌヒトニシラセス》
 
不所知、【幽齋本云、シラレス、】
 
各寺師は思|共《ドチ》の意なり、源氏橋姫に春のうらゝかなる日影に池の水鳥どものはねうちかはしつゝおのがしゝさへづる聲などを常ははかなき事と見たまひしかども云々、
 
初、をのかしゝ人しにすらし をのかじゝは、をのかおもふとちなり。あひおもふとちは、世の人もしにをする物にて有らしなり。源氏物語橋姫に、春のうらゝかなる日影に、池の水鳥とものはね打かはしつゝをのかしゝさへつる聲なとを、つねはゝかなきことゝ見給ひしかとも云々
 
2929 夕夕吾立待爾若雲君不來益者應辛苦《ヨヒ/\ニワカタチマツニソコハクモキミキマサスハクルシカルヘシ》
 
腰句の點意叶はざる歟、幽齋本にもしくもやと點ぜれど、書やう然よむべくもなきが上に落句をくるしかるべきと改ためざればてにをは違へり、モシクモちは讀べし、よひ/\に待侘て猶強て待今宵君が若來まさずばいとゞ苦しかるべしとなり、
 
初、よひ/\にわか立待に そこはくもは、數のおほきなり。あまたの夜をいへり。不來益者は不來坐者とこそ書へきを、無窮にかきなせるなり
 
(30)2930 生代爾戀云物乎相不見者戀中爾毛吾曾苦寸《イケルヨニコヒテフモノヲアヒミネハコヒノウチニモワレソクルシキ》
 
2931 念管座者苦毛夜干玉之夜爾至者吾社湯龜《オモヒツヽヲレハクルシモヌハタマノヨルニシナラハワレコソユカメ》
 
夜爾至者はヨルニイタラバと讀べし、
 
初、おもひつゝをれは 君やくると待て、おもひつゝをれはくるしとなり。古今集に、君やこんわれやゆかむのいさよひに云々
 
2932 情庭燎而念杼虚蝉之人目乎繁妹爾不相鴨《コヽロニハモエテオモヘトウツセミノヒトメヲシケミイモニアハヌカモ》
 
2933 不相念公者雖座肩戀丹吾者衣戀君之光儀《アヒオモハスキミハマセトモカタコヒニワレハソコフルキミカスカタヲ》
 
2934 味澤相目者非不飽携不問事毛苦勞有來《アチサハフメニハアケトモタツサハリトハレヌコトモクルシカリケリ》
 
非不飽をアケドモとよめるは、あかずにはあらずあけどもの意なり、第七に雖凉常をほせどゝよめる類なり、不問はトハザルと讀べし、君が目をば見れども近く居寄て手を※[手偏+雋]て物を云はぬが苦しきとなり、
 
初、あちさはふめには あちさはふは上に注することく、よきことのおほくよりあふなり。今は人の上にうるはしきことのおほき、それをみるめなれは、あちさはふめにはあけともとつゝけたり。もとよりめをあちさはふといふにはあらす非不飽とかきて、あけともとよめるは、あかさるにはあらされともといふは、あけともの心なれは、所詮を取りてかくよめり。たつさはりとはれぬ事とは、おなしやうの宮つかへなとして、たかひにめにはあくまてみれとも、たつさひよりて、いかにやなと問れぬかくるしきとは、畢竟あはぬかくるしきなり。とはさる事もともよむへし。物をもいはぬ事のくるしきなり
 
2935 璞之年緒永何時左右鹿我戀將居壽不知而《アラタマノトシノヲナカクイツマテカワカコヒヲラムイノチシラステ》
 
2936 今者吾者指南與我兄戀爲者一夜一日毛安毛無《イマハワレハシナムヨワカセコヒスレハヒトヨヒトヒモヤスケクモナシ》
 
初、今はわれはしなむよわかせ 上に
  今はわれしなむよわきもあはすしておもひわたれはやすけくもなし
作者は男女かはりたれと、心は相似たり
 
(31)2937 白細布之袖折反戀者香妹之容儀乃夢二四三湯流《シロタヘノソテヲリカヘシコフレハカイモカスカタノユメニシミユル》
 
袖折反は第十一に袖反とよめるに同じ、四は助語なり、
 
2938 人言乎繁三毛人髪三我兄子乎目者雖見相因毛無《ヒトコトヲシケミコチタミワカセコヲメニハミレトモアフヨシモナシ》
 
毛人髪三とかけるは毛人は蝦夷《エミシ》なり、蝦夷は身にだに獣の如く毛の生れば其髪はさこそ蓬の如く乱れたるべければかくは義訓せるなるべし、山海經云、毛人國爲v人身生v毛在2玄股北1、敏達紀云、十年春|閏《ノチノ》二月、蝦夷《エミシ》數千《チアマリ》寇《アダナス》2於邊境1、由v是召2其|魁帥《ヒトコノカミ》綾糟《アヤカス》等(ヲ)1【魁帥者大毛人也、】詔曰云々、
 
初、人ことをしけみ 毛人髪三とかきて、こちたみとよめるは、三はすてかなゝり。毛人はゑひすにて、身にもけたものゝやうに毛生ひ、髪もよもきのことくみたるれは、人言のみたれてしけくして、もとすゑともなきを、彼か蓬頭にたとへてかくはかけり。山海經(ニ)云。毛人國(ハ)爲v人(ト)身生(ス)v毛(ヲ)。在2玄股(ノ)北(ニ)1。敏達紀(ニ)云。十年春|潤(ノ)二月、蝦夷《エミシ》數千《チアマリ》寇《アタナス》2於|邊境《・ホトリ》(ニ)1。由(テ)v是(ニ)召(テ)2其(ノ)魁帥《ヒトコノカミ》綾糟《アヤカス》等(ヲ)1【魁帥者、大|毛人《エヒス》也】詔(テ)曰(ク)云々。毛人の事、性靈集第一贈2野陸州1歌、同第三贈(ル)2伴(ノ)按察平章事(カ)赴(クニ)陸府(ニ)1詩に、かれが人となりを明さるゝ事、畫を見るかことし。今の用にあらさるゆへに不v引
 
2939 戀云者薄事有雖然我者不忘戀者死十方《コヒトイヘハウスキコトアリシカレトモワレハワスレスコヒハシヌトモ》
 
不忘、【官本又云、ワスレシ、】
 
不忘を今本の點誤れり、ワスレジと讀べし、薄事有とは世間を見るに深く思ふ由を云へど程なく忘るゝ類多きを云へり、
 
初、こひといへはうすきこと有 世上を見るに、戀といへはうすきことありて、深くおもふよしをいへと、やかてわするゝもあり。されとなからへてみよ。我においてはわすれしとなり。われはわすれすとあるは、かんなあやまれり
 
2940 中中二死者安六出日之入別不知吾四九流四毛《ナカ/\ニシナハヤスケムイツルヒノイルワキシラスワレシクルシモ》
 
四は助語なり、
 
初、中々にしなは 第十七に平群女郎か家持に贈哥
  中々にしなはやすけむ君かめをみすひさならはすへなかるへし
古今集に、しにはやすくそあるへかりけるといへるは心かはれり。それは易なり。今は安なり。出る日の入わきしらぬは、朝夕のわかちもなく、もの思くるしき心なり。第一に軍王哥に、霞立なかき春日のくれにけるわつきもしらすとあるも同し心なり
 
(32)2941 念八流跡状毛我者今者無妹二不相而年之經行者《オモハルトカタチモワレハイマハナシイモニアハステトシノヘユケハ》
 
發句は思はるゝともの意歟、今按オモヒヤルアトカタモワレハと讀べし、第十一云大野跡状不知《オホノラノアトカタシラズ》云々、我すがたを君が想像《オモヒヤル》とも戀やつれて昔の跡状も今はなしとよめるなり、
 
初、おもはるとかたちも我は 戀にやせおとろへて、妹におもはるとも、もとのかたちも今はなしとなり。念八流跡、これをおもひやるとゝよみて、妹か心に我を昔のまゝにおもひやるとも、そのあひみし時のかたちも今はなしと心得へき歟
 
2942 吾兄子爾戀跡二四有四小兒之夜哭乎爲乍宿不勝苦者《ワカセコニコフルトニアラシミトリコノヨナキヲシツヽイネカテラクハ》
 
戀跡二四有四とは我ながら知らぬまねして云へり、初の四は助語なり、小兒之夜哭は清少納言に苦し氣なる物の中に夜啼と云物する兒《チゴ》のめのととかけり、落句は今の點誤れり、イネカヌラクハと讀べし、不勝をかぬるとよめる事上に多かり、
 
初、わかせこにこふとにし 上のしもしは助語なり。清少納言に、くるしけなる物、よなきといふものするちこのめのとゝかけり。七倶〓佛母儀〓に、小兒の夜啼を止る法を説り。宿不勝苦者、これをはいねかぬらくはとよむへし。いねかてらくはとよめるは誤なり。宿難の心なれは、らくはのてにをはかなはす。かてをかつに通すれは、理かなはぬ上に、不の字にもかなはす
 
2943 我命之長欲家口僞乎好爲人乎執許乎《ワカイノチノナカクホシケクイツハリヲヨクスルヒトヲトラフハカリヲ》
 
第二の句は下より返る意にて句絶なり腰句以下の意は度々あはむと云ひて逢はぬ人は譬ば足の速《ト》からむ者の此に來て我を捕らへよと云ひて追ふに隨て※[しんにょう+外]るが如し、俄には捕ずとも久しく追はゞ補ふる事有ぬべきが如く、我も戀死ずして心長く人を戀ば、僞する人も弱りて逢事有ぬべければ其程の命の長くて欲きとなり、
 
初、わかいのちのなかくほしけく 命をなかくしてほしきなり。いつはりをよくする人をとらふはかりをとは、たとへは、たひ/\あはむといひてあはぬ人は、足のはやき人の、こゝにきて我をとらへよといひて、をひゆくにしたかひてにくるかことし。にはかにはとらへすとも、久しくをはゝ、とらふる事有ぬへし。そのことく我もこひしなて、心なかく人をこひは、いつはりする人もよはりて、あふ事ありぬへしといふ心なり。とらふはかりをと留たるは、とらふるはかりのあひたを、命のほしきといふなり
 
(33)2944 人言繁跡妹不相情裏戀比日《ヒトコトヲシケシトイモニアハスシテコヽロノウチニコフルコノコロ》
 
此下句第九にありき、
 
2945 玉梓之君之使乎待之夜乃名凝其今毛不宿夜乃大寸《タマツサノキミカツカヒヲマチシヨノナコリソイマモイネヌヨノオホキ》
 
第十一に夕去者公來座跡待夜之名凝衣今宿不勝爲《ユフサレバキミキマスカトマチシヨノナゴリゾイマモイネガテニスル》、此に似たり、
 
初、玉つさの君かつかひを 名こりそとは、今は待よはりたれと、猶その使を待し時の、心ならひとなりてねられぬといふ心なり
 
2946 玉桙之道爾行相而外目耳毛見者吉子乎何時鹿將待《タマホコノミチニユキアヒテヨソメニモミレハヨキコヲイツシカマタム》
 
落句はイツトカマタムとも讀べし、イツシカのし〔右○〕は助語にて.いつかまたむとはいつか其夜と憑むるばかり云ひよりて持たむとなり、
 
2947 念西餘西鹿齒爲便乎無美吾者五十日手寸應忌鬼尾《オモヒニシアマリニシカハスヘヲナミワレハイヒテキイムヘキモノヲ》
 
上句は第十一の十八葉にあり、下句は第十一人麿集の歌に妹名告忌物矣《イモガナノリツイムベキモノヲ》、此に同じ、
 
或本歌曰|門出而吾反側乎人見監可毛《カトニイテヽワカコヒフスヲヒトミケルカモ》
 
見監可毛はミケムカモと讀べし、監をケルと點ぜるは書生の誤なり、
 
可云|無乏出行家當見《スヘナクモイテアルキテソイヘノアタリミシ》
 
(34)可は或を誤歟、官本には一云とあり、三句は第十一云、念之餘者爲便無三出曾行之其門乎見爾《オモフニシアマリニシカバスヘヲナミイデヽゾユキシソノカトヲミニ》、六帖に家の歌に落句をいへのあたりみにとて人丸の歌とせり、今此に注せると同じければ、スベヲナミイデヽゾユキシイヘノアタリミニと讀べし、今の點はよからず、又爲便乎無三と無乏と同じきを再たび出したるは後人の所爲歟、
 
初、注、監けん 或云を可云に作は誤なり
 
柿本朝臣人麿歌集云|爾保鳥之奈津柴比來乎人見鴨《ニホトリノナツサヒコシヲヒトミケンカモ》
 
人麿集歌は第十一云、念餘者丹穗鳥足沾來人見鴨《オモフニシアマリニシカバニホトリノアシヌレクルヲヒトミケンカモ》、この足沾來を今奈津柴比來乎と云へるは撰者の暗記の違へる歟、第七に遠有而雲居爾所見妹家爾早將至歩黒駒《トホクアリテクモヰニミユルイモガイヘニハヤクイタラムアユメクロコマ》、第十四に此歌を注せるにも違へる事あり、
 
2948 明日者其門將去出而見與戀有容儀數知兼《アケムヒハソノカトユカムイテヽミヨコヒタルスカタアマタシルケム》
 
住吉物語に君が門今ぞ過行出て見よ戀する人の成れるすがたを、今の歌を作り替たる歟、
 
初、あけむ日はそのかとゆかん こひたるすかたあまたしるけんとは、打しほれやせおとろへてかくれあらしとなり。住吉物語に
  君か門今そ過ゆく出てみよこひする人のなれるすかたを
 
2949 得田價異心欝悒事計吉爲吾兄子相有時谷《ウタカヘルコヽロイフカシコトハカリヨクセヨワカセコアヘルトキタニ》
 
(35)異は累を誤れる歟不審なり、吉爲はヨクセと讀てよくせよと意得べし、もてこよと云べきをもてこと云類の例多し何故に我を疑ふらむ心の中いぶかし、事のはからひを能爲てあへる時だに我心の清きを見て疑を解けとなり、
 
初、うたかへる心いふかし 何故に我をうたかふらん。心のうちのおほつかなし。ことのはからひをよくして、あへる時にたにわか心のきよきを見て、疑をとけとなり。累を誤て異に作れる歟。價異の二字を連綿してかへるとよめる歟
 
2950 吾妹子之夜戸出乃光儀見之從情空成地者雖踐《ワキモコカヨトテノスカタミテシヨリコヽロソラナルツチハフメトモ》
 
情空成、【幽齋本、成作v有點云、コヽロソラナリ、】
 
袖中抄云、ヨトデノスガタとはよる戸を出る姿なり、夜戸出をよこでと讀たる類聚古集の本に付て清家朝臣よこでとよまれき、又俊成卿もよこでと百首にもよまれたりき、如何、戸文字の音はこ〔右○〕なり、上戸下戸など云へるが如し、訓はと〔右○〕なり、よこでと云べからず、又萬葉には朝戸出とよめる歌あり、凡萬葉に此戸文字こ〔右○〕とよめる事なし、以上明、但戸の字音を用たる事なきにあらず、第十六に法師を檀越の嗤て歌よめる時法師の報歌にも腰句にてこどもがと云を?戸等我とかけり、見テシのて〔右○〕は助語なり、情空成はコヽロソラナリと讀べし、ナルと點ぜるは書生の誤なり、此下句第十一にありき、
 
初、わきもこかよとてのすかた 夜戸出は第十一に、朝戸出の君かあゆひをぬらす露原といへる朝戸出におなし。離《ワカレ》て歸るほとの明くれなれは、たかはぬなり。下句は第十一におなし哥有。上の第六葉にも、あまつ空なりつちはふめともとよめり。又第十四に
  下つけのあそのかはらよ石踏す空ゆときぬよなかこゝろのれ
 
2951 海石榴市之八十衢爾立平之結※[糸+刃]乎解卷惜毛《ツハイチノヤソノチマタニタチナラシムスヒシヒモヲトカマクヲシモ》
 
(36)海石榴市と名づくる處凡そ大和國に三處豐後に一處、以上四處に聞ゆる中に今よめるは山邊郡に有歟、武烈紀云、於是太子思3欲聘2物部麁鹿火大連女影媛1、遺2媒人1向2影媛宅1期v會、影媛|會《イムサキニ》※[(女/女)+干]《ヲカサレタリ》2眞鳥大臣男|鮪《シビニ》1、【鮪此云2茲寐1、】恐v違2太子|所期《チギリタマフニ》、報《カヘリコトシテ》曰、妾《ヤツコ》望奉v待2海柘榴《ツバキ》市巷1、武烈天皇御即位の後は泊瀬|列城《ナミキノ》宮におはしましけれど、此はいまだ仁賢天皇のまし/\たる石上廣高宮なりける時の事なり、又物部氏は石上に住まれけるに海柘榴市巷に待奉らむと云山邊郡にて石上の邊なるべし、延喜式に山邊郡石上市神社とて載られたるは海石榴市歟、市邊押磐皇子も此市邊におはしける故の御名歟、弘計《ヲケノ》王(ノ)室壽《ムロホギノ》詞の後名乘たまふにも石上振之|神※[木+温の旁]《カミスギ》伐v本|截《オシハラヒ》v末《スヱ》於2市邊宮1治2天下1天萬國萬|押磐《オシハノ》尊御裔《ミナスヱ》是也とのたまへり、續日本紀にも高倉朝臣福信の事を記すに少年隨2伯父|背奈《セナノ》行文1入v都(ニ)時、與2同輩1晩頭往2石上衢1遊戯相撲(トル)云々、下にも海石榴市之八十街とよみ、古今集に貫之も石上布留の中道とよまる、奈良都の時近き處なれば此なるべし、今たむは市と云處は此つば市を訛れるにや、又高市郡に橘寺の艮五六町に榴市《イチ》と云所も海石榴市なり、敏達紀云、有司便奪2尼等三衣(ヲ)1禁2錮《カラメトラ》楚2撻《シリカタウチキ》海石榴市亭1、用明紀云、逆《サカヘノ》君潜自v山出隱2後《キサキノ》宮(ニ)1、【謂炊屋姫皇后之別|業《トコロ》是名2海石榴市宮(ト)1、】推古紀云、十六年秋八月辛丑朔癸卯唐客入v京、是日遣2飾|騎《ウマ》七十五疋1而迎2唐客於海石榴市衢1、此等は高市郡の椿市なり、(37)枕草子云、市は辰市つばいちは大和にあまたある中に長谷寺にまうづる人の必らずそこにとゞまりければ觀音の御縁あるにやと心ことなり、此つばいちは大和にあまたある中にと云へるはつばいちと云所のあまたある中に此つば市と云心歟、又つばいちはと云ひたれど※[手偏+總の旁]標に市はと云ひつれば大和に市はあまたある中につば市はと云心歟、源氏玉鬘につばいちと云所に四日と云巳の時ばかりにいけるこゝちもせでいきつき給へり、此を彼抄の中に當時俗に丹波市といへる此所歟とあれど、つゞきを見るに、おほみあかしの事などこゝにてしくはへなどする程に日くれぬ云々、日くれぬと急ぎてみあかしの事どもしたゝめはてゝ急がせば、中中いと心あはたゞしくて立別るとかけり、此は玉鬘の供したる三條に同じ宿にて右近が逢ての事なり、京より四日につばいちまでやう/\つける女の足にて、三里あまり隔たる所より暮てまうづべきことわりなし、近比或者林逸抄と云を引て、初瀬より五十町ばかり北かなや村と云より四町許東とかければ、此は長谷と同じく城上郡なり、豐後にあるは景行紀に見えたり、此にまぎらはしからねば引かず、八十衢は市は此方彼方より里人の打つどふ所なれば道の多かるなり、立平之とは市に立と云を承て紐をも立て結ぶ物なればかくはつゞく、其上さきの武烈紀の末に云く、果(シテ)(38)之《ユキテ》v所(ニ)v期立2歌場衆《ウタカキノヒトナカニ》云々、拾遺大和物語云、なかごろはよき人々市にいきてなむ色好むわざはしける、かゝれば實に市に相て二人して結びし紐を獨はとかじと互に約したれど、早く人の心|變《カハ》りて獨打ときたるに、さのみやは我獨結びはつべきならねば今はと解かむ事の惜きとなり、
 
初、つはいちのやその 海石榴市は、大和國泊瀬の邊なり。武烈紀云。於是太子思欲(テ)聘《メサムト》2物部(ノ)麁鹿火《アラカヒノ》大連(ノ)女影媛(ヲ)1、遺(テ)2媒人《ナカタチヲ》1向(シテ)2影媛(カ)宅(ニ)1期會《アハントチキラス》(・コトヲ)。影媛|會《イムサキニ》※[(女/女)+干]《ヲカサレタリ》2眞鳥大臣(ノ)男|鮪(ニ)1。【鮪《ヰ》此(ヲハ)云2茲寐(ト)1。】恐(レテ)v違(コトヲ)2太子(ノ)所期《チギリタマフニ》1報《カヘリコトシテ》曰。妾《ヤツコ》望《ネカハクハ》奉(ラム)v待2海柘榴《ツハキ》市(ノ)巷《チマタニ》1。用明紀云。逆《サカヘノ》君〇潜(ニ)自v山出隱2後《キサキノ》宮(ニ)1。【謂炊屋姫皇后之別業是名2海石榴市宮1。】敏達紀云。有司便奪2尼|等《タチノ》三衣(ヲ)1禁錮《カラメトラヘ》楚2撻《シリカタウチキ》海石榴市(ノ)亭《ウマヤクチニ》1。源氏物語玉鬘に、つはいちといふ所に四日といふみの時はかりにいける心ちもせていきつきたまへりとかけり。これは玉かつらの初瀬にまうつるとての事なり。逍遥院の細流に、當時俗に丹波市といへる此所歟とかゝせたまへるは、つはとたんはと似て聞ゆる故なるへし。されとも此つゝきをみるに、おほみあかしのことなとこゝにてしくはへなとするほとに日くれぬ。〇日くれぬといそきて御あかしのことゝもしたゝめはてゝいそかせはなか/\いと心あはたゝしくてたちわかるとかけり。これは玉鬘の供したる三條に、おなし宿にて、右近かあひての事なり。京より四日につはいちまてやう/\つける女のあしにて、三里はかりへたてたる所より、くれてまうつへきことはりなし。但武烈紀を見るに、影媛か市に待奉らんとちきりたれは、たむは市にや。武烈天皇、御即位の後は、泊瀬列城宮におはしましけれと、これはいまた仁賢天皇のおはしましたる、石上廣高宮にての事なり。又物部氏は石上にありて、後は氏をも石上といひ、布留の神寶をもつかさとりけれは、市に出るといふも近かるへし。延喜式に、山邊郡石上市神社と載たるも此市におはす神にや。源氏は物語なるゆへに、大かた似つきてかけるなるへし。又豐後に同名あり。景行紀云。又於2直入《ナホリノ》縣禰疑野1有2三土蜘蛛1。〇則採2海石榴(ノ)樹(ヲ)1作v椎《ツチ》爲《タマフ》v兵(ニ)。簡2猛卒(ヲ)1授2兵椎1以穿v山|排《ハラヒテ》v草襲2石室《イハムロノ》土蜘蛛(ヲ)1而破2于稻葉(ノ)川上(ニ)1、委殺2其|黨《トモ》1、血流(テ)至v踝《ツフサキニ》。故時人其作2海石榴(ノ)椎《ツチヲ》1之處(ヲ)曰2海石榴市(ト)1。亦血流(レシ)之處(ヲ)曰2血田1也。やそのちまたは、第十一にも、ことたまのやそのちまたにゆふけとふとよめり。市にはおほくの人のかた/\より出る道の有ゆへに、八十のちまたとはよむなり。又績日本紀云。延暦八年十月乙酉、散位從三位高倉朝臣福信薨。〇少年隨2伯父|背奈《セナノ》行文1入v都(ニ)。時(ニ)與2同輩1晩頭(ニ)往2石上(ノ)衢(ニ)1遊戯相撲云々。古今集に貫之
  いそのかみふるの中道なか/\にみすはこひしとおもはましやは
かゝれはかしこに名ある道ある所と見えたり。影媛哥にもいすのかみふるを過こもまくら高橋過云々。此哥立ならしといはむ料に、市をは取出たり。紐を結ふには、かならす立なれは、立ならし結ひし紐といふなり。後撰集に、妹か紐とくとむすふと立田山とつゝけたり。哥の心は、ふたりして結ひし紐を、ひとりしてはとかしと、たかひに約したれと、はやく人の心かはりて、ひとり打ときたるに、さのみやはわれひとり結ひはつへきなれは、今はととかむことのおしきとなり。紐には、雄紐、雌紐とてさす物なれは、男女の中の譬にとる物なり。又約の字をむすふとよめは、かた/\その縁有。下廿九葉にも、つは市をよめり。此哥にのこる心を、そこにて引合注すへし
 
2952 吾齡之衰去者白細布之袖乃狎爾思君乎母准其念《ワカヨハヒオトロヘユケハシロタヘノソテノナレニシキミヲシソオモフ》
 
吾齡、【幽齋本、齡作v齒、】
 
發句はワガヨハヒノ或はワガヨハヒシと讀べし、落句は君ヲモゾオモフと讀べし、准其の兩字の間一字は衍文なるべし、袖ノ狎ニシ君とは衣も著るまゝになるれば齡の衰へ行に隨て狎にし君を思へば君も同じ心に思ふらむと我にて知る意なり、君をもと云へる母の字を思ふべし、
 
初、わかよはひおとろへゆけは 袖のなれにしとは、上になるゝといふに穢の字をもかけり。なるゝはよこれふくたむなり。わか年のおとろへゆくにつけて、白妙衣のきならす袖のことく、なれにし君をも、わかおもふことく君もまめやかにあひおもはるらんとおもふといふ心なり。君をもそといふてにをはをみるへし。君をしそとある點はあやまれり。新古今集にも、きみをしそと載らる。其は衍文なり
 
2953 戀君吾哭涕白妙袖兼所漬爲使母奈之《キミコフトワカナクナミタシロタヘノソテサヘヒチテセムスヘモナシ》
 
2954 從今者不相跡爲也白妙之我衣袖之干時毛奈吉《イマヨリハアハシトスレヤシロタヘノワカコロモテノヒルトキモナキ》
 
2955 夢可登情班月數多二干西君之事之通者《ユメカトモオモヒワカメヤツキヒサニカレニシキミカコトノカヨヘハ》
 
(39)登の下には毛母等の字落たるか、カレニシのに〔右○〕は助語なり、
 
2956 未玉之年月兼而烏玉乃夢爾所見君之容儀者《アラタマノトシツキカネテヌハタマノユメニソミユルキミカスカタハ》
 
初、あら玉の年月かねて 年月かけてなり
 
2957 從今者雖戀妹爾將相哉母床邊不離夢所見乞《イマヨリハコフトモイモニアハメヤモトコノヘサラスユメニミエコソ》
 
2958 人見而言害目不爲夢谷不止見與我戀將息《ヒトノミテコトトカメセヌユメニタニヤマスヲミエヨワカコヒヤマム》
 
不止見與はヤマズミエコソと讀べし、與の字の事上に云が如し、
 
初、人のみてことゝかめせぬ 上の八葉に、此初の二句有。不止見與は、上にもいへることく、やます見えこそともよむへし
 
或本歌頭云|人目多直者不相《ヒトメオホミタヽニハアハス》
 
2959 現者言絶有夢谷嗣而所見而直相左右二《ウツヽニハコトタエタレヤユメニタニツキテモミエヨタヽニアフマテニ》
 
所見而、【別校本、而作v與、】
 
今按言絶有はコトタエタルヲと讀べし、嗣而所見而は而を與に作れるを證としてツギテミエコソと讀べし、
 
初、うつゝにはこと絶たるを 所見而、此而は與の字の傳寫の誤なるへし
 
2960 虚蝉之宇都思情毛吾者無妹乎不相見而年之經去者《ウツセミノウツシコヽロモワレハナシイモヲアヒミテトシノヘユケハ》
 
(40)虚蝉はウツシ情と云はむためながら、よのつねのと云心なり、不相見而はアヒミズテと讀べし、
 
初、うつせみのうつしこゝろ 此うつせみは、うつし心といはむ料なり。うつし心はうつゝ心なり。顯の字現の字なり
 
2961 虚蝉之常辭登雖念繼而之聞者心遮焉《ウツセミノツネノコトハトオモヘトモツキテシキケハコヽロハナキヌ》
 
虚蝉之常辭とは上に世間之人辭とありしが如し、繼而之の之は助語なり、心遮焉は第四湯原王の歌にも今の如くかける落句ありて彼處に注せり、
 
初、うつせみのつねのことは 此うつせみは世といふ枕詞なるを、玉鉾足引なとの例に、空蝉をやかて世の事にいへり。上によの中の人のことはとおもほすなとよめるにおなし。おもふといふは、戀する人のことのなくさそとおもへと、たえすつゝきてきけは、心のなくさむとなり。遮は遮斷にて、おもひをとゝむる心なれは、なくとよめるなるへし。第四に湯原王哥に
  たゝひとよへたてしからにあら玉の月かへぬるとおもほゆるかも
此おもほゆるかもに、心遮とかけるゆへに、そこに今の哥を引て、心不遮にて心はなかすなるへきを、不の字のをちたるにやと申き
 
2962 白細之袖不數而宿烏玉之今夜者早毛明者將開《シロタヘノソテカヘスシテヌルヌハタマノコヨヒハハヤモアケハアケナム》
 
袖不數而宿は今按不數をカヘズと點ぜるは意得がたし、第一に馬數而をうまなめてと點ぜる如く、ソデナメズテヌルと讀べし、第八に織女之袖續三更《タナバタノソデツクヨヒ》とよめるは抽を並ぶるなり.
 
初、白たへの袖かへすしてぬる 袖不數而宿、これをはそてなめすてとよむへし。第一に、玉きはる内の大野にうまなめてといへるに、馬數而とかけり。袖續とも、玉手さしかへともよみたれは、義をもては、かはさぬ心にかへずともよむへけれと、袖をならへぬにて、すくになめすてとよむへきにや
 
2963 白細之手本寛久人之宿味宿者不寐哉戀將渡《シロタヘノタモトユタケクヒトノヌルウマイハネスヤコヒワタリナム》
 
寄物陳思
 
2964 如是耳在家流君乎衣爾有者下毛將著跡吾念有家留《カクシノミアリケルキミヲキヌニアラハシタニモキムトワカオモヘリケル》
 
如是耳、【幽齋本云、カクノミニ、】  衣爾有者、【幽齋本又云、キヌナラハ、】
 
發句はカクノミニと讀べし、第十六云、如是耳爾有家流物乎猪名川之奧乎深目而吾念有來《カクノミニアリケルモノヲヰナガハノオキヲフカメテワガオモヘリケル》、似たる体なれば此に依べし、唯かくのみの淺きちぎりと知らで衣ならば上にきるは猶疎し身につけて親しく著むと思ひつるがはかなきとなり、人の心の變りて後よめるなるべし、此より後九首寄v衣、
 
初、かくしのみ有ける君を たゝかくはかりの淺き心にて有ける君ともしらて、もし君か、衣ならは常によるひる下に著て、身にふれんとさへおもひしことのくやしきとなり。以下九首寄衣陳思
 
2965 橡之袷衣裏爾爲者吾將強八方君之不來座《ツルハミノアハセノキヌノウラニセハワレシヒメヤモキミカキマサヌ》
 
袷は薄き物なり、男は表の如く女は裏の如し、依て女の歌にて我をかくばかり薄く思はゞの意なり、下句ノ意はかゝらむと知らば吾強てあはめや、思ふ心の薄き故に終に君が來ず成ぬるとなり、第四に中臣女郎が家持に贈れる歌に不欲常云者將強哉吾背《イナトイハヽシヒムヤワカセ》云々、
 
初、橡のあはせのきぬの つるはみの衣は右に注せり。あはせのきぬのうらにせはとは、あはせはうすし。男はおもてのことく、女はうらのことし。よりて女の哥にて、我をかくはかりうすくおもはゝの心なり。われしひめやも君かきまさぬとは、おもふことのうすしとしらは、われかねてしひて君にあはめや。おもふ心のうすきゆへに、終に君かこすなりぬるとなり。第四に中臣女郎か家持に贈たる哥にも
  いなといはゝしひむやわかせ菅の根の思ひ亂て戀つゝもあらん
 
2966 紅薄染衣淺爾相見之人爾戀比日《クレナヰノウスソメコロモアサハカニアヒミシヒトニコフルコロカモ》
 
淺ハカニは人の心の深からぬをも、亦かりそめなるをも云べし、
 
初、紅のうすそめ衣 あさはかにといはむかためなり。あさはかにあひみし人とは、人の心のあさはかなるなり。又かりそめにあひ見たるをもいふへし
 
2967 年之經者見管偲登妹之言思衣乃縫目見者哀裳《トシノヘハミツヽシノヘトイモカイヒシキヌノヌヒメヲミレハカナシモ》
 
(42)第十五に狹野茅上娘子が中臣宅守に贈れる歌云、|安波牟日能可多美爾世與等多和也女能於毛比美多禮弖奴敝流許呂母曾《アハムヒノカタミニセヨトタワヤメノオモヒミダレテヌヘルコロモゾ》、
 
初、年のへはみつゝしのへと あはすして年のへはなり。第十五茅上娘子か、中臣朝臣宅守か越前へなかさるゝ時にをくる哥
  あはむ日のかたみにせよとたわやめの思ひ亂てぬへる衣そ
 
2968 橡之一重衣裏毛無將有兒故戀渡可聞《ツルハミノヒトヘコロモノウラモナクアルラムコユヘコヒワタルカモ》
 
和名集云釋名(ニ)云、衣無(キヲ)v裏曰v單(ト)【單衣、比止閉岐沼、】一重衣は裏モナクと云はむためにて、裏モナクは心もなくなり、心もなくは俗に何心もなくと云に同じ、下の三十七葉第十三の三十二葉第十四の十八葉によめる皆同じ意なり、伊勢物語にうらなく物をと業平の妹のよまれたるも、世の譏嫌をもはからて何心なくとさらぬ體に此方《コナタ》より取成して云なるべし、思ふかとだに思ひたらず、諺に云、鹿の角を蜂の螯《サス》風情にて有らむ人故徒にも年月を戀渡るかなとよめるなり、
 
初、つるはみのひとへ衣 うらもなくは、伊勢物語にうらなく物をおもひけるかなとよめることく心に表裏なきなり。今案うらなくは表裏なき心といひきたれと、此哥ならひに下にうらもなくいにし君ゆへとよめる哥を案するに、うらなくは心なくにて、なに心もなけにある人なり。わか心をつくしてこひわたるをも何とも思はぬ人を、なんそ其ゆへにわれのみ年月へてこひわたるらんとみつからもとく心なり
 
2969 解衣之念亂而雖戀何之故其跡問人毛無《トキキヌノオモヒミタレテコフレトモナニノユヘソトトフヒトモナシ》
 
此歌第十一に第四の句少替りて既に出たり、
 
初、ときゝぬのおもひ亂て 第十、七夕の哥より後見えたる詞なり。何のゆへそとゝはぬといふは、こふる人のとはぬを恨るなり
 
2970 桃花褐淺等乃衣淺爾念而妹爾將相物香裳《アラソメノアサラノコロモアサラカニオモヒテイモニアハムモノカモ》
 
褐は今按カチと讀べし、和名集云、兎褐【此間云2止加千1、】唯かちとのみ云も此に准らふべし、桃(43)花は其染色の名なり、今按此をもモヽカチと讀べきか、天智紀云、桃染布五十八端、令第六衣服令云、衛士(ハ)皀(ノ)縵|頭巾《カウフリ》、桃染|衫《ヒトヘギヌ》、延喜式衛門府式云、衛士(ハ)桃染布衫、左右京式云、凡兵士(ハ)以2淺|桃染《モヽソメヲ》1爲2當色1、不v得d與2衛士1雜亂(スルコトヲ)u、アラソメは彈正式云、凡|紵《テツクリノ》布衣者雖2染|退紅《アラソメ》1自(ハ)v非2輕細(ニ)1不v在2制限1、縫殿寮式云、退紅《アラソメ》帛一疋紅花小八兩酢一合藁半圍薪三十斤、此は退紅《アラソメ》に染る料の注文なり、江次第第二大臣大饗次第云、仕丁二人著2荒染1云々、縫殿寮式に退紅の外に桃染の料の注文なければあらそめもゝぞめ名は異にして實は同じき歟、退紅とかけるは桃色にても有ぬべく見ゆ、
 
初、桃花褐あさらの衣 長流か本には、あらかちとよめり。あらそめのかちなり。延喜式に、今の本には退紅とかきて、あらそめとよみ、桃染とかきてはもゝそめとよめり。天智紀云。桃染布五十八端云々。令義解第六衣服令云。衛士(ハ)衛士(ハ)皀縵(ノ)頭巾《カウフリ》桃染(ノ)衫《ヒトヘキヌ》云々。延喜式縫殿寮式云。退紅《アラソメ》帛一疋。紅花小八兩。酢一合。藁半圍。薪三十斤。弾正式云。凡|紵《テツクリノ》布衣者、雖2染|退紅《コキアラソメト》1自(ンハ)v非(ス)2輕細(ニ)1不v在(ラ)2制(ノ)限(ニ)1。【染(ハ)可v作v深乎。不v然和點誤耶。】衛門式(ニ)衛士桃染布衫。左右京式云。凡兵士(ハ)以2淺|桃染《モヽソメヲ》1爲2當色(ト)1。不v得d與2二衛士1雜亂(スルコトヲ)u。江次第第二大臣家大饗次第云。仕丁二人著2荒染(ヲ)1。縫殿寮式に、さま/\のそめ色の注文あれとも、桃染は見えす。しかれは、此集を證として、桃染とかけるをも、退紅とおなしく、あらそめとよむへき歟。たとひ退紅はあらそめ、桃染はもゝそめとよむとも、一色の上の二名なるへし。俗にもゝ色といふが、桃染なるへし。退紅の字につきておもふに、桃色なるへし。あさらの衣は、あらそめの色の淺きをいへり。俗にあさりといふかことし。これはあさはかにおもひてといはむためなり。人をあさく思ひてあはむものか、ふかくおもふとなり
 
2971 大王之塩燒海部乃藤衣穢者雖爲彌希將見毛《オホキミノシホヤクアマノフチコロモナレハスレトイヤメツラシモ》
 
大王ノ塩|燒《ヤキ》は越前敦賀海のあまなり、武烈紀云、於v是大伴大連率v兵(ヲ)、自|將《イクサノキミトシテ》圍2大臣宅(ヲ)1縱《ハナツテ》v火(ヲ)燔(ク)v之、所v※[手偏+爲]《サシマネク》雲(ノゴトクニ)靡、眞鳥大臣恨2事不1v濟(ルコトヲ)、知(テ)2身(ノ)難(キコトヲ)1v兔、計窮(マリ)望(ミ)絶、廣指v鹽(ヲ)詛《ノロフ》、遂被2殺戮1、及其子弟(サヘニ)詛時唯忘(テ)2角鹿(ノ)海鹽1不2以爲1v詛、由v是角鹿之鹽爲2天皇所v食、餘《アダシ》海鹽(ハ)爲2天皇1、所v忌、此事の本なり、下句はナレハシヌトモイヤメヅラミムモと讀べし、第十一に呉藍之八鹽乃衣朝旦穢者雖爲益希將見裳《クレナヰノヤシホノコロモアサナサナナレハスレドモマシメヅラシモ》、此下句に付て注せしが如し、今はなれはしぬともとつゞけむ爲のみなり、藤衣のなれてもめづらしからむとまで喩ふるには(44)あらず、
 
初、おほきみのしほやくあまの 武烈紀云。於是大伴大連率v兵|自《ミ》將(トシテ)圍2大臣(ノ)宅(ヲ)1縱《ハナツテ》v火(ヲ)燔之、所v※[手偏+爲]雲(ノ如ニ)靡。眞鳥(ノ)大臣恨(ミ)2事(ノ)不(ルコトヲ)1v濟《ナラ》、知(ニ)2身(ノ)難(キコトヲ)1v兔(カレ)、計《ハ》窮(マリ)望(ミ)絶(テ)、廣(ク)指(テ)v塩(ヲ)詛《トコフ》。遂(ニ)被(ヌ)2殺戮《コロサ》1。及(ヒ)其子弟(サヘニ)詛(フ)。唯忘(テ)2角鹿(ノ)海塩(ヲ)1不2以爲1v詛。由(テ)v是(ニ)角鹿(ノ)之塩(ハ)爲(ニ)2天皇(ノ)1所v食《メサ》餘《アタシ》海(ノ)塩(ハ)爲(ニ)2天皇(ノ)1所v忌。かゝれは、延喜式等にも、供御の塩敦賀にかきるとは見えされとも、此哥よめる比は、敦賀なる故に、おほきみのしほやくあまとはおけるなるへし。なれはすれともとは、久しくあひみれと、あかぬといはむためなり。第三に
  すまのあまの塩焼衣のふちころもまとをにしあれはいまたきなれす
第六に
  すまのあまの塩やきゝぬのなれなはかひと日も君をわすれて思はむ
心のおなし哥は
  なには人あしひたくやのすしてあれとをのか妻こそとこめつらしき
彌希將見毛、これをいやめつらしもとは、義をもてもよみかたし。將見はみんとよみて、後をかぬる詞なり。文章にてはまさにみむとすと讀へし。しかれはいやまれにみんもと文字あまりによむへき歟
 
2972 赤帛之純裏衣長欲我念君之不所見比者鴨《アカキヌノスミウラコロモナカクホリワカオモフキミカミエヌコロカモ》
 
純は鈍一にてもはらなり、スミと讀ても其意なりやいまだ知らず、仙覺抄に純裏衣とは表《オモテ》も裏《ウラ》も赤き衣なりと釋せられたるは然らず、表は何の色にもあれもはら赤き帛を裏にしたる衣なり、長欲とは裏の方の表よりも少長くてあらはれてうるはしく見ゆるはなつかしき物なれば、それを諸共に長く相思はむ事をほしく思ふによせて、不所見とは然思うを衣の裏の隱て見えぬ如く此比見えぬは障ることある心や替りぬるとおぼつかなむ意なり、
 
初、あかきぬのすみうら衣 裳の字は、此集にしたともよみたれは、あかきゝぬの下衣とも心得へし。又あかきうらつけたる衣といはむもたかふへからす。純は純一にて、もはらにてましはらぬをいへは、ひとへにあかきなり。此字を延喜式やらんには、にひとよめり。鈍色《ニフイロ》といふにおもひ合すれは、鈍純通する歟。しからはにひうら衣ともよむへき歟。なかくほりは、衣のうらにもあれ、下衣にもあれ、うへよりもすこしなかくてみゆるは、なつかしき物なれは、それを、なかくあひおもはむことをほしくおもふによせて、なかくと思ふ人の、此ころ見えぬは、さはることやある、心やかはりぬると、おほつかなくてよめり
 
2973 眞玉就越乞兼而結鶴言下※[糸+刃]之所解日有米也《マタマツクヲチコチカネテムスヒツルワカシタヒモノトクルヒアラメヤ》
 
上の二句第四に坂上郎女が歌にありて既に注せり、此より下五首寄v紐、
 
初、眞玉つくをちこちかねて 玉をつらぬく緒とつゝけて、をちこちはあちこちにて、緒のふたつのはしをくゝりよするをいへり。又そのかなたこなたのはしに、人と我とをもかねて、ふたりしてむすひて後あはすはとくる日あらしとなり。第四に
  眞玉つくをちこちかねていひはいへとあひて後こそ悔には有といへ
眞玉つくは、眞玉つくるなり。以下五首寄紐帯
 
2974 紫帶之結毛解毛不見本名也妹爾戀度南《ムラサキノオヒノムスフモトクモミスモトナヤイモニコヒワタリナム》
 
妹が帶を二人して紡びしまゝにてやある、解て齋ひやするも知らぬなり、今按次下の歌に引合て思ふに、帶ノ結ビモトキモ見ズと讀て、我帶とすべきか、帶のおのづか(45)ら結ぼるゝるゝをば世間にも人に相見る相とすれば或時結びたるを解も見ずしてはかなき事を憑みてや年月を戀渡りなむとなり、
 
初、紫の帶のむすふも あふ時は帶をとくをもむすふをも見るなり。されはとくもむすふもみぬはあはぬをいへり。とくには心のとくるを見、結ふには契を結ふ心を見るをも、そへたるへし
 
2975 高麗錦紐之結毛解不放齋而待杼驗無《コマニシキヒモノムスヒモトキサケスイハヒテマテトシルシナキカモ》
 
紐は常は解るを祝ひ或はみづから解て祝ふを、此はおのづから結ぽゝるゝを祝ふなり、
 
初、こまにしき紐の こまにしきは上に注す。延喜式第三十織部式云。白地高麗錦一尺料云々。紐のむすひもときさけすいはひてまてと、此集には、紐をときていはふとも、むすひていはふともあれは、時にしたかひて、心々にする事と見えたり。ときさけすしていはふ心は、人とゝもにむすはぬ紐なれと、ふたりしてむすへるやうにしていはふ心なり。齊も齋に通すれと、唯齋をうつしあやまれるなり
 
2976 紫我下※[糸+刃]乃色爾不出戀可毛將痩相因乎無見《ムラサキノワカシタヒモノイロニイテスコヒカモヤセムアフヨシヲナミ》
 
紫なれど下紐なれば色爾不出とはつゞけたり、
 
初、紫の我下ひもの 紫にして下紐なれは、色に出すとよせたり
 
2977 何故可不思將有※[糸+刃]緒之心爾入而戀布物乎《ナニユヘカオモハスアラムヒモノヲノコヽロニイリテコヒシキモノヲ》
 
古今集云、よそにして戀れば苦しいれひもの同じ心にいざ結びてむ、此を顯昭釋して云、いれひもは雄紐雌紐ふたつを取合せてさす物なれば同じ心に結ばむとはよめるなり、と今心に入てといへるも入紐の意なり、
 
初、何ゆへかおもはすあらん 古今集戀一に
  よそにしてこふれはくるしいれひものおなし心にいさ結ひてん
これを顯昭法師尺していはく。いれひもは、雄紐雌紐ふたつを取あはせてさす物なれは、おなし心にむすはんとはよめるなり。今の哥に心にいりてといへるもその心なり
 
2978 眞十鏡見座吾背子吾形見將持辰爾將不相哉《マソカヽミミマセワカセコワカカタミモタラムトキニアハスアラメヤモ》
 
見座は鏡によせて見よ/\今やがてあはむずるぞとよめるなり、落句はアハザラ(46)ムヤモと讀べきか、今日點に依らば相の下に有の字を置べし、此より下四首寄v鏡、
 
初、まそかゝみみませ 以下四首寄鏡
 
2979 眞十鏡直目爾君乎見者許増命對吾戀止目《マソカヽミタヽメニキミヲミテハコソイノチニムカフワカコヒヤマメ》
 
初、まそかゝみたゝめに 第八にも、玉きはるいのちにむかふこひよりはとよめり
 
2980 犬馬鏡見不飽妹爾不相而月之經去者生友名師《マソカヽミミアカヌイモニアハスシテツキノヘユケハイケリトモナシ》
 
落句はイケルトモナシと讀べし、
 
2981 祝部等之齊三諸乃犬馬鏡懸而偲相人毎《ハフリラカイハフミムロノマソカヽミカケテソシノフアフヒトコトニ》
 
三諸乃、【官本又云、ミモロノ、】
 
齊は齋に作るべし、社には御正體とて鏡を懸れば懸てと云はむ爲の上句なり、懸而偲はカケテシノビツと讀べし、相人毎ニ、相はみるともよめばミル人ゴトニとも讀べきか、似たる人同じ程にうるはしき人或しなかたちの及ばぬ人それ/\に付て思ひ出て偲ぶとなり、
 
初、はふりらかいはふみむろ みむろはやしろなり。第十には、はふりらかいはふ社のもみち葉もとよめり。社には御正躰とて鏡をかくれは、みむろのまそかゝみかけてとつゝけたり。かけてそしのふあふ人ことにとは、此あふ人ことには、みる人ことになり。相の字みるともよめは、もしはみる人ことにともよむへし。心はもし似たる人あるひはおなしほとにうるはしき人、あるひはしなかたちのをよはぬ人、それ/\に、みる人につけて、おもひ出てしのふとなり。齊は齋に作るへし。さきにいふかことし
 
2982  針者有杼妹之無者將著哉跡吾乎令煩絶※[糸+刃]之結《ハリハアレトイモシナケレハツケヌヤトワレヲナヤマシタユルヒモノヲ》
 
將著哉跡、【幽齋本云、ツケムヤト、】  ※[糸+刃]之結、【別校本、結作v緒、】
 
妹之の之は助語なり、點のツケメヤトのめ〔右○〕をぬ〔右○〕に作れるは書生の誤なり、結の字は(47)第二第七にも緒に用たり、此歌は第の阿倍女郎と中臣東人が問答を引合せて見るべし、此一首寄v針、
 
初、はりはあれといもしなけれは 針はありとも、妹かなけれは、えつけしと、われをなふりて、なやますやうに、ひものをのたゆるとなり。第四に
  獨ねてたえにしひもをゆゝしみとせむすへしらにねのみしそなく
  わかもたるみつあひによれる糸もちてつけてましものを今そ悔しき
第二十防人か妻の哥
  草枕たひのまるねのひもたえは|あかて《吾手》と|つけろこれのはるもし《・助此針持》
此針をもて、我手にてつくるとおもひて、つけよとなり。われをなやましてたゆるは、古今集に、ゆふてもたゆくとくる下ひもといへるかことし。此二首は寄針
 
2983 高麗劔已之景迹柄外耳見乍哉君乎戀渡奈牟《コマツルキサカカケユヘニヨソニノミミツヽヤキミヲコヒワタリナム》
 
高麗劔は第二に見えたり、己之景迹故は今改てサガコヽロユヱと讀べし、景迹をこゝろと讀べき事は天武紀下云、十一年八月壬戌朔甲戌詔曰、几諸(ノ)應考選者能《シナサダメカウブリタマハラムモノハ》。檢《カウガヘテ》2其|族《ウカラ》姓《カバネ》及|景迹《ココロバセヲ》1、方(ニ)後考之、若雖2景迹|行能《シハサ》灼然《イヤチコナリト》1、其族(ノ)姓不v定(マラ)者、不v在2考選之|色《タネニ》1、劔に心と云事は第九の浦島子歌い反歌の如し、次と二首は寄v劔、
 
初、高麗劔己之景迹故 こまつるきさか心ゆへと讀へし。こまつるきは、第二に人丸の哥にも、こまつるきわさみか原とつゝけよめり。さか心ゆへは、をの心からなり。太刀にはなかこあり。それをこゝろといふことは、第九に浦鳴子をよめる哥の反歌に
  とこよへに住へき物をつるきたちさかこゝろからおそや此君
右の哥に委尺せり。景迹をこゝろとよむことは、天武紀云。十一年八月壬戌朔甲戌、詔曰。凡諸(ノ)應考選者《シナサタメカウフリタマハンモノハ》、能(ク)※[手偏+僉]《カウカヘテ》2其(ノ)族姓《ウカラカハネ》及(ヒ)景迹《コヽロハセヲ》1、方(ニ)後(ニ)考之。若雖2景迹《コヽロハセ》行能《シワサ》灼然《イヤチコナリト》1、其(ノ)族姓不v定(マラ)者不v在2考選(ノ)之|色《シナニ》1。こゝろはせは、こゝろなり。よりてかくはかけり
 
2984 劔大刀名之惜毛吾者無比來之間戀之繁爾《ツルキタチナノヲシケクモワレハナシコノコロノマノコヒノシケキニ》
 
此上句第四山口女王の歌にあり、
 
初、つるきたち名のおしけくも 第四に、山口女王の家持に贈る哥
  劔太刀名のおしけくも我はなし君にあはすて年のへぬれは
太刀の名とつゝくる事、此哥に注せり。第十一にも有。此上には、みそらゆく名のおしけくもわれはなしとよめり。こひしさのあまりに、うちふてゝいふなり。以上二首寄劔
 
2985 梓弓末者師不知雖然眞坂者君爾縁西物乎《アツサユミスヱハシシラスシカレトモマサカハキミニヨリニシモノヲ》
 
師不知は只不知にて師は發語の詞の類なり、第十七に坂上郎女も多妣由伎母之思良奴伎美乎《タヒユキモシシラヌキミヲ》とよめり、眞坂は指當りの意なり、縁ニシのに〔右○〕は助語なり、此より下五首寄v弓、
 
初、梓弓末はししらす 末はしのしもしは助語なり。まさかは、たゝかといふかことし。當分さしあたりては、うらおもてなく君に心のよりにしものをとなり。以下五首寄v弓
 
(48)一本歌曰、梓弓末乃多頭吉波雖不知心者君爾因之物乎《アツサユミスエノタツキハシラネトモコヽロハキミニヨリニシモノヲ》
 
2986 梓弓引見縱見思見而既心齒因爾思物乎《アツサユミヒキミユルヘミオモヒミテステニコヽロハヨリニシモノヲ》
 
縱見、【古本、縱作v緩、】
 
第十一云、梓弓引不許有者云々、かゝれば縱見をばユルシミと讀べし、爾は助語なり、
 
初、梓弓引見ゆるへみ 俗にとりつおきつ思案するといふことく、おもひ見て、わか心はすてに君によりにし物をとなり。よるは皆弓の縁なり。縱はゆるしみともよむへし。下同
 
2987 梓弓引而不緩大夫哉戀云物乎忍不得牟《アツサユミヒキテユルヘスマスラヲヤコヒテフモノヲシノヒカネテム》
 
不縱は又ユルサヌと讀べし、腰句以下は第十一に劔刀身爾佩副流《ツルギタチミニハキソフル》と云下と同じ、
 
初、梓弓引てゆるへぬ 心を常に張て弛ぬ弓のことくもつをのこやは、戀はかりの事を忍ひかぬへきとおもへと、心のみたるなり。李陵か持滿引へし。第十一に
  梓弓引てゆるさすあらませはかゝるこひにはあはさらましを
 
2988 梓弓末中一伏三起不通有之君者會奴嗟羽將息《アツサユミスヱナカタメテユカサリシキミニハアヒヌナケキハヤメム》
 
弓の中をため末をたむる如く我心を能々見すましてあはむとて、久して事ゆかざりし君にはあひぬ、我心を憑もしく思てあへる人なれば變る心も出來まじければ今は久しき嘆はやめむとなり、
 
初、梓弓すゑ中ためて ゆかさりしは、心のゆかぬなり。弓をためかぬることく、こひかねしをいへり。一伏三起は、弓をたむる折の樣躰にて、義をもてかけるなるへし。第十には、暮三伏一向夜とかきて、ゆふつくよとよみ、第十三には、根毛一伏三向凝呂爾とかきて、ねもころ/\にとよめり
 
2989 今更何牡鹿將念梓弓引見弛見縁西鬼乎《イマサラニナニヲカオモハムアツサユミヒキミユルヘミヨリニシモノヲ》
 
初二句は第四にあり、下三句は上にあり、縱見はユルシミと讀べし、女の歌と見えた(49)り、
 
初、今更になにをかおもはん 君をおきて今更になに事をか思はんなり。第四に
  今更に何をか思はん打なひきこゝろは君によりにしものを
第十に
  道のへのをはなかしたの思ひ草今更に何ものかおもはん
 
2990 ※[女+感]嬬等之續麻之多田有打麻懸續時無二戀度鴨《ヲトメラカウミヲノタタリウチヲカケウムトキナシニコヒワタルカモ》
 
多田有は絲を繰《クル》時(ノ)具なり。※[衣+峠の旁]の絲を此に懸て〓《ワク》に移す物なり、令義解第二云、凡天皇即位※[手偏+總の旁]祭2天神地祇1、散齋一月致齋三日、其大幣者三月之内令2修理訖1、【金|水桶《ヲケ》金|線柱《タヽリ》奉2伊勢神宮1、楯戈奉2住吉神1之類是也云々、釋云云、伊勢大社奉2金麻槽笥金多多利1、住吉奉2楯戈1之類也、】延喜式九月神甞祭注文云、金銅多多利二基金銅麻笥二合金銅(ノ)賀世比二枚云々、和名集云、絡※[土+朶]、楊氏漢語抄云、【多多理、下他果反、】玉篇云〓亦作v※[土+朶]、延喜式に又※[木+端の旁]の字を用たるは※[木+而]歟、和名集云、※[木+而]【音而、文選師説多多利加太、】※[木+薄]櫨《ハクロ・ヒチキ》也、六帖云、但馬絲のよれどもあはぬ思ひをば何のたゝりにつけてはらへむ、源氏物語|總角《アゲマキニ》云、結びあげたるたゝりの簾のつまより几帳のほころびにすきて見えければ云々、打麻は第一に注せり、續時無二は今按|續《ウム》は繰《クル》を誤れるにや、既に上に續麻《ウミヲ》のたゝりと云ひつればうむ時なしにと云べき理なし、其上|苧《を》をば績《ウミ》て紡《ツムキ》てそれを※[衣+峠の旁]にかけ、※[衣+峠の旁]よりたゝりには懸て繰《クル》物なれば誤れる事疑なし、たゝりに懸たればくらむくらじは我心のまゝなれば此を人の我によらむと約するに譬へ、障有て得あはぬを繰時なしに戀渡るとは嘆くなり、第七に眞田葛原《マクスハラ》いつかも絡《クリ》て我衣にきむとよめるが如し、
 
初、をとめらかうみをのたゝり たゝりは、糸をくる時の具なり。和名集云。絡※[土+朶]、楊氏漢語抄云。【多多理、下他果反。】令義解第二云。凡天皇即位※[手偏+總の旁]祭2天神地祇1、散齋一月致齊三日。其大幣者、三月之内令2修理1訖(レ)。【金(ノ)水桶《ヲケ》金(ノ)線柱《タヽリ》奉2伊勢神宮1楯戈奉2住吉神1之類是也。〇釋云〇伊勢大社奉2金(ノ)麻笥金(ノ)多多利1住吉奉2楯戈1之類也。】延喜式九月神甞祭。金銅多多利二基。金銅麻笥二合。金銅賀世比二枚云々。延喜式にまた※[木+端の旁]の字を用。玉篇云。市專切。木名又丁果切。※[木+端の旁]は※[木+而]と通する歟。和名集云。※[木+而]爾雅注云。梁上〇謂2之※[木+而]1【音而。文選師説多多利加太。】※[木+薄]櫨《ハクロ・ヒチキ》也。※[土+〓]は玉篇云。亦作※[土+朶]《・アツチ》。※[木+端の旁]丁果切の時絡※[土+〓]歟。水桶をゝけといふは麻笥より出たる名と見えたり。絡※[土+〓]をまたは絡※[木+尼]ともいふ。六帖の哥に
  但馬絲のよれともあはぬおもひをは何のたゝりにつけてはらへむ
源氏物語總角にいはく。むすひあけたるたゝりの、簾のつまより木丁のほころひにすきて見えけれは云々。左の方に燈臺の、臺なきやうなる物ふたつ、左右に置て、※[木+(上/下)]《カセヒ》にかけたる糸をかく。これをふたつたゝりといふ。もしかせひの長けれは、今ひとつをさきの方に置て、かなへのことくするを三たゝりといふ。其空の方に、木にても竹にても横につりて、ちひさき穴をえりて彼|絡※[土+朶]《タヽリ》のいとくちをとほして、右の方に〓《ワク》を置てくるなり。打麻は第一にも、打麻《ウチアサ》を麻續王《ヲミノオホキミ》とよめり。麻をはきては、さま/\にやはらけてうめは、打麻とはいふなるへし。うむは、和名集云。蒋魴切韻云。績【則歴切。宇無。】。續2麻苧1名也。此集にも日本紀等にも績の字をかゝすして、皆續の字を用たり。さて哥の心は、人をうちをにたとへ、あはて過すをうまぬにたとへたり。後の續は、もし繰の字の誤歟。くる時なしにといふへき所なり。人を菅にたとへてあはぬを笠にあまぬにたとへたる哥おほし。心それにおなし。此一首寄v麻陳v思
 
(50)2991 垂乳根之母我養蚕乃眉隱馬聲蜂音石花蜘※[虫+厨]荒鹿異母二不相而《タラチネノハヽカカフコノマユコモリイフセクモアルカイモニアハステ》
 
養蚕、【六條本、蚕或作v蠶、】
 
上句は第十一にありき、イブセキはおぼつかなく胸に思ひのふたがるなり、鹿は哉なり、馬聲は馬の聲は伊と聞ゆる故なり、いなゝくと云も其意なるべへし、蜂音も亦上になずらへて知べし、馬聲に對すれば蜂の字の音と云にはあらず、石花は第三の富士の歌に書るに注しき、此歌を拾遺に作者を定られたるは人丸集に依てなり、六帖にわぎもこの歌に入れたるには作者なし、おやの歌にはいへりのをとくろまろと云へり、此一首は寄v蠶、
 
初、たらちねのはゝかかふこの 此はゝは妹か母なり。かひこをも女のかひ、むすめをも母のそたつれは、そのよせあるうへ、以前引る捜神記にも、蠶は女に比するゆへあり。さてかひこのまゆにこもれるも、いかならんとおほつかなく、人のむすめも、ねやふかくこもりをるは、おほつかなけれは、いふせくもあるか妹にあはすしてとはいへり。いふせき、ゆかしき、おほつかなき、おほゝしきなとみなかよふ詞なり。第十一に
  たらちねのはゝのかふこのまゆこもりこもれる妹をみるよしもかも
第十三の長哥にも、たらちねのはゝのかふこのまゆこもりいきつきわたりなとよめり。今の哥古今集序なすらへ哥の注には、たらちめのとて出せり。馬聲は馬のいなゝくに、初にいの聲あるゆへなり。蜂音は蜂のなく聲しか聞ゆれはなり。春なれはすかるなる野とよめるこれなり。蜂の呉音もおなしけれは、謎のやうにやとおもへと、馬聲に對すれは、蜂の鳴響なり。石花は第三富士山の哥に、せのうみと名つけてあるもその山のつゝめる海そといへるにもせのうみを石花海とかけり。和名集云。崔禹錫(カ)食經云。尨蹄子【和名勢。】貌似(テ)2犬蹄(ニ)1而附(テ)v石(ニ)生(スル)者也。兼名苑注云。石花【花或作v華】二三月皆紫(ニシテ)舒(フ)v花(ヲ)。附(テ)v石(ニ)而生(ス)。故(ニ)以名v之。此哥は寄v蠶
 
2992 玉手次不懸者辛苦懸垂者續手見卷之欲寸君可毛《タマタスキカケネハクルシカケタレハツキテミマクノホシキキミカモ》
 
不懸者とは相見ぬさきの喩なり、第十一に下句同じ歌ありき、此一首寄2手襁1、
 
初、玉たすきかけねは 此哥寄2手繦1。かけねはくるしとは、また女の我手にいらぬなり。かくるは手繦の上の成就なり。菅によするに、笠にあむをこひのなるにたとふるかことし。つきてみまくのほしきも、またくるしきなり
 
2993 紫綵色之※[草冠/縵]花八香爾今日見人爾後將戀鴨《ムラサキノイロノカツラノハナヤカニケフミルヒトニノチコヒムカモ》
 
綵色をば第七にはいろどるとよみ、第十には、にしきとよめり.又日本紀には綵絹を(51)シミノモノとよめり、今二字引合せてイロとのみ讀ては綵の字詮なき歟、依てニシキノカツラと讀べきにや、次と二首は寄v鬘、
 
2994 玉※[草冠/縵]不懸時無戀友何加妹爾相時毛名寸《タマカツラカケヌトキナクコフレトモナニソモイモニアフトキモナキ》
 
初、玉かつらかけぬ時なく 玉かつらは安康紀云。元年春二月戊辰朔、天皇爲大泊瀬皇子|欲《オ》v聘《アトヘトメムト》2大草香(ノ)皇子(ノ)妹幡|梭《ヒノ》皇女1云々。雄畧紀云。夏四月甲午朔、天皇|欲《オホシテ》設《アヘタマハムト》呉人|歴2問《トナヘトヒテ》群臣(ニ)1曰。かけぬ時なくは、心にかけぬ時なきなり。古今集云
  ちはやふるかもの社のゆふたすきひと日も君をかけぬ日はなし
  よひ/\にぬきてわかぬるかり衣かけておもはぬ時のまもなし
二首奇鬘
 
2995 相因之出來左右者疊薦重編數夢西將見《アフヨシノイテクルマテハタヽミコモカサネアムカスユメニシミエム》
 
三四の句の意は第十一に注せり、夢ニシのし〔右○〕は助語なり、此一首寄v薦、
 
初、あふよしのいてくるまては たゝみこもへたてあむ數は、第十一に
  疊薦へたてあむかすかよひせは道のしは草おひさらましを
右の哥に注せり。此哥寄v薦
 
2996 白香付木綿者花物事社者何時之眞枝毛常不所忘《シラカツクユフハハナカモコトコソハイツノサネキモツネワスラレネ》
 
眞枝毛、【幽齋本又云、マエタモ、】
 
白杏付木綿は第三に注せる如く白香付はシラカツケと讀べきか、花の下には香可等の字を落せる歟、事は言《コトバ》なり、眞枝は第三に仙柘枝歌に仁徳紀を引つる如く枝をき〔右○〕ともよめどもまえだと點ぜる然るべき歟、賢木之枝爾白香付木綿取付而《サカキガエダニシラカツケユフトリツケテ》などよみ、白木綿花とも讀たれば眞枝とはそれによせて云ひおこする詞の花を云なるべし、木綿花と云へどもそれは人の作る物なれば實の花かは、其根を心地に託《ツケ》たる人の詞の花こそいつの眞枝もめづらしくて常に忘られずおぼゆれとよめるにや、或(52)は第二には弓削皇子の吉野より蘿生たる松枝を額田王に賜ひ第八には櫻の枝を折て藤原廣繼の或娘子へ贈られたる歌あれば、折節の花紅葉の枝に付て文おこするを眞枝と云歟、此歌寄2木綿1、
 
初、白香付ゆふは花かも さねきは、第十にもあぼ山のさねきの花とよめり。眞木といふかことし。眞枝とかけるは、仁徳紀云。天皇|浮江《カハフネヨリ》幸《イテマス》2山背(ニ)1時(ニ)桑枝《クハノキ》沿《シタカヒテ》v水(ニ)而流(ル)之。此集第三の目録にも、仙柘枝歌三首といふに、つみのきとかんなを付たり。ゆひを折を手をゝるといふかことく、枝をも木とよむなり。しかれは、第十にさねきとよめるは木にて、今は枝と心得へし。さて哥の心は、白ゆふを白ゆふ花といへと、それは花かは。人の詞の花こそ、得ては常にわすれねとなり。いつのさねきもは、詞をまことの花にして、それを折ておこするいつのひと枝も、めつらしくて常にわすられぬなり。使にいひおこするを、花の枝をえさせたるやうにいへり。此哥寄木綿
 
2997 石上振之高橋高高爾妹之將待夜曾深去家留《イソノカミフルノタカハシタカ/\ニイモカマツラムヨソフケニケル》
 
布留河に反《ソリ》橋など渡せるを振の高橋とよめる歟、堀河院御時の百首に布留野の沼に渡す丸橋ともよめり、崇神紀云、八年夏四月庚子朔乙卯以2高橋邑(ノ)人活目1爲2大神之掌酒《オホムワノサカヒト》1云々、武烈紀物部影媛歌云、伊須能箇瀰《イスノカミ》、賦屡嗚須擬底《フルヲスギテ》、擧慕摩矩羅《コモマクラ》、※[手偏+施の旁]箇播志須擬《タカハシスギ》云々、神名帳云、大和國添上郡高橋神社、後撰集の歌云、石上奈良の都ともつゞけたれば山邊|添《ソフノ》上此高橋を云歟、此歌寄v橋、
 
初、いそのかみふるの高橋 崇神紀云。八年夏四月庚子朔乙卯、以2高橋(ノ)邑人活日(ヲ)1爲2大神《オホムワノ》之|掌酒《サカヒト》1。【掌酒此云2佐介弭苫1。】武烈紀物部影媛(カ)歌(ニ)云。伊須能箇瀰《イスノカミ・石上》、賦屡嗚須擬底《フルヲスギテ・布留過》、擧慕摩短羅《コモマクラ・薦枕》、〓箇播志須擬《タカハシスギ・高橋過》云々。延喜式第九神名上云。大和國添上郡高橋神社。石上は山邊郡、高橋は添上郡なれと、ほとちかけれは、いそのかみふるの高橋とはいへり。山科は宇治郡、石田は久世郡なれと、山科の石田の小野とも、杜ともいふかことし。古今集の詞書には、ならのいそのかみ寺にて郭公の鳴をよめるとかき、後撰集の哥には、いそのかみならの都ともつゝけたり。高々に待といふ事は、上にもおほかりき。此哥寄橋
 
2998 湊入之葦別小舩障多今來吾乎不通跡念莫《ミナトイリノアシワケヲフネサハリオホミイマクルワレヲコストオモフナ》
 
此上句第十一に出たり、落句は今按タユトオモフナと讀べきか、下に河余杼能不通牟心《カハヨトノタエサランコヽロ》云々、此たえざらむこゝろと云點叶はねば、たえなむ心或はよどまむ心と讀べければ准らへて知べし、此歌寄v船、
 
初、みなといりのあしわけをふね 第十一に
  みなと入のあしわけ小舟さはりおほみわかおもふ君にあはぬ比かも
みなとにては、おほくの舟のつとひて入うへに、あしをわくれは、かれこれさはりおほし。ますらをは友のそめきなとよめるやうに、えさらぬさはりあれは、湊入とはよせたり。そのさはりをしのきて、今まうてくる我を、こすとおもひて、なうらみそとなり。今案いまこんわれをこしとおもふなとよむへし。此哥寄v舟
 
(53)或本謌曰|湊入爾蘆別小舩障多君爾不相而年曾經來《ミナトイリニアシワケヲフネサハリオホミキミニアハステトシソヘニケル》
 
蘆別、【官本蘆又作v葦、】
 
2999 水乎多上爾種蒔比要乎多擇擢之業曾吾獨宿《ミツヲオホミアケニタネマキヒエヲオホミエラレシユヘソワカヒトリヌル》
 
業曾、【官本又云、ワサソ、】
 
水ヲ多ミとはひきゝ田に多きなり、又水の多くて高きに種蒔にもよしと云にも有べし、上は神代紀下云、又教(テ)曰《マ》兄《コノカミ》作(ラバ)2高田《アゲタ》1者|汝《イマシ》可v作2※[さんずい+誇の旁]《クボ》田1、文選東廣寐補亡詩云、無2高(トシテ)不《トイフコト》1v播《ホドコサ》、無2下《ミシカシトシテ》不《トイフコト》1v植、腰句以下は第十一に此に似たる歌有て注しき、業曾をユヱゾと點ぜるは内典に業は行作の義、善惡の行作によりて果を感ずれば果がために業はゆゑなればユヱと訓ずる歟、ワザゾとよまば此を句絶として落句をワガヒトリネバと讀べし、次の歌と共に寄v田、
 
初、水をおほみあけに あけは今農民の畠田といふものなり。神代紀下云。又教(テ)曰《マ》。兄《コノカミ》作(ラハ)2高田《アケタ》1者、汝《イマシミコト》可v作2※[さんずい+夸]田《クホタ》1。文選東廣微(カ)補亡(ノ)詩(ニ)云。無2高(トシテ)不(トイフコト)1v播無2下《ミシカシトシテ》不1v植。※[さんずい+夸]田は今下田といふものなり。苗に稗のましりたるをは、ぬきすつるにたとへて、あまたの人の中に、我をは數ならすとて、えり捨られたれは、ひとりねをのみするとよめるなり。上の句の心は、窪《クホ》田には水おほしとて、高田にたねまきたれは稗のましりたるとなるへし。第十一に
  うつ田にもひえはあまたに有といへとえられし我そ夜ひとりぬる
業はゆゑとあれとわさとよむへし。古今集に、花かたみめならふ人のあまたあれはわすられぬらん數ならぬ身は。此哥も心は今の哥にかよへり
 
3000 靈合者相宿物乎小山田之鹿猪田禁如母之守爲裳《タマアヘハアヒヌルモノヲヽヤマタノシシタモルコトハヽシモラスモ》
 
霊合者とは心の相かなへばなり、相宿物乎とは相共に寢るものをなり、鹿猪田禁はしゝのつく田を守なり、第十六にも荒城田乃子師田乃稲《アラキタノシヽタノイネ》とよめり、母之はハヽガと(54)讀べし、女の母なり、
 
初、たまあへはあひぬるものを たまはたましゐにて、心のあひかなへは、終に相共にぬる物をとなり。第三には、大君のむつたまあへやとよみ、十三には玉あはゝ君きますやとゝよみ、十四には
  つくはねのをてもこのもに守部すゑ母|こもれ《・子守或隱》とも玉そあひにける
しゝ田もることゝは、第十六にも、あらき田のしゝ田のいねとよめり。山田には、ゐのしゝかのしゝなとのつけは、それをもるを、しゝ田もるといふ。そのことく、母かむすめを守りて、我をよせしとすることよとなり。もらすもはたゝ守るなり。二首寄田
 
一云|母之守之師《ハヽカモラシヽ》
 
3001 春日野爾照有暮日之外耳君乎相見而今曾悔寸《カスカノニテレルユフヒノヨソニノミキミヲアヒミテイマソクヤシキ》
 
夕日は一邊にさす物なれば其如く外耳《ヨソニノミ》見てと云なり、此一首寄v日、
 
初、春日野にてれるゆふ日の 春日野に、ゆふ日のさすを、こなたより見ることく、よそなから君を見て、戀となれるが悔しきとなり。ゆふ日のとよみきりて心得へし。ゆふひのよそとつゝくにはあらす
 
3002 足日木乃從山出流月待登人爾波言而妹待吾乎《アシヒキノヤマヨリイツルツキマツトヒトニハイヒテイモマツワレヲ》
 
よき事よせなり、第十三に百不足山田道乎《モヽタラズヤマダノミチヲ》と讀初たる長歌の終り五句今り歌と同じ、唯妹を君と云へるのみ替れり、六帖人を待と云に山のはに出ずいさよふ月待と人には云ひて君待我ぞとあるは此歌なるべし、拾遺は人丸集に依て作者を付らる、此より下七首寄v月、
 
初、あしひきの山より出る月まつと 第十三に、百たらぬ山田の道をとよみ出せる長歌の、末にいたりての五句、全此一首なり。たゝ妹をかしこには君と改たるのみなり。此哥は第四に、いつはりも似つきてそするといふによくかなへり
 
3003 夕月夜五更闇之不明見之人故戀渡鴨《ユフツクヨアカトキヤミノホノカニモミシヒトユヘニコヒワタルカモ》
 
初、夕月夜あかつきやみの 夕月夜は、かならす曉やみなれは曉闇といはむとて、夕月夜といひ、ほのかにもといはむとて、曉やみのとはいへり。夕月夜も曉闇も、ともにほのかなれは、ならへてもいへるやうなれと、第十一に、夕月夜あかつきやみの朝影にとよめるをおもふへし
 
3004 久堅之天水虚爾照日之將失日社吾戀止目《ヒサカタノアマツミソラニテレルヒノウセナムヒニコソワカコヒヤマメ》
 
照日之、【幽齋本、日或作v月、】
 
書湯誓(ニ)云、時日|害《イツカ》喪《ホロヒム・ウセム》、予《ワレ》及《ト》v汝《ナムヂ》偕(ニ)亡(ヒム)、今此意にて戀やむ時はあらじと云なり、但前後(55)月に寄たる中にあれば照月之とある本に依てテルツキノと讀べき歟、さらずば春日野爾照有暮日之と云歌の次より移古來て此に交はる歟、第十五に思可麻河伯多延無日爾許曾《シカマカハタエムヒニコソ》とよめる歌も意亦同じ、
 
初、久かたのあまつみそらに 書(ノ)湯誓(ニ)云。時《コノ》日|害《イツカ》喪《ホロヒン・ウセン》。予(ト)及《ト》v女《ナムチ》偕(ニ)亡(ヒム)。心のおなしうたは、第十五に
  わたつうみの海に出たるしかま川たえむ日にこそあか戀やまめ
 
3005 十五日出之月乃高高爾君乎座而何物乎加將念《モチノヒニイテニシツキノタカ/\ニキミヲイマセテナニヲカオモハム》
 
望月の高く出るによせて君を遠く望みて高々に待より外は更に何事をか思はむとなり、出ニシのに〔右○〕は助語なり、
 
初、もちの日に出にし月の もち月の高く出るによせて、高々に君をいませてといへり。君を遠くのそみて、高々に待ほかは、更になにことをかおもはむとなり。上に今更に何をかおもはんと有しかことし
初、月夜よみ門に出たち 第四に家持
  月夜には門に出立ゆふけとひあしうらをそせし行まくをほり
あしぅらはそこに注せり。續古今集に、權中納言定頼
  ゆきゆかすきかまほしきはいつかたにふみさたむらん足占の山
 
3006 月夜好門爾出立足占爲而往時禁八妹不相有《ツキヨヨミカトニイテタチアシウラシテユクトキサヘヤイモニアハサラム》
 
第四の五十一葉に家持のよまれたる此に似たる歌に注せり、
 
3007 野干玉夜渡月之清者吉見而申尾君之光儀乎《ヌハタマノヨワタルツキノサヤケクハヨクミテマシヲキミカスカタヲ》
 
3008 足引之山呼木高三暮月乎何時君乎待之苦沙《アシヒキノヤマヲコタカミユフツキヲイツカトキミヲマツカクルシサ》
 
三四の句は夕月をいつかと待如く君を待となり、
 
3009 橡之衣解洗又打山古人爾者猶不如家利《ツルハミノキヌトキアラヒマツチヤマモトツヒトニハナホシカスケリ》
 
(56)第六に古衣又打山《フルコロモマツチヤマ》とつゞく、今も其意にて山の麓をもとゝ云へばモトツ人とは承たり、第十三云、三諸者人之守山本邊者《ミモロハヒトノモルヤマモトヘハ》云々、古|樂《カ》府詩云、上(テ)v山(ニ)採2菲蕪1、下v山逢2故夫(ニ)1、長跪(シテ)問2故夫(ニ)1、新人復(タ)何如、新人雖v云v好、未(タ)v若(シカ)2故人(ノ)※[女+朱]《カホヨキニ》1、其色(ハ)相似、手爪不2相|如《シカ》1、新人從v門入(リ)、故人(ハ)從v閣去(ル)、新人(ハ)工織v※[糸+兼]、故人工織v素、織(ルコト)v※[糸+兼](ヲ)日(ニ)一疋、織v素(ヲ)五丈餘、將《トリテ》v※[糸+兼]來比(スレバ)v素、新人不v如《シカ》v故、此一首寄v山、
 
初、つるはみのきぬときあらひ つるはみにてそめたる衣を、ときあらひて、またうつとつゝけたり。多宇(ノ)切豆なれは、かくはつゝくるなり。第六の長歌にもふる衣まつち山とつらねたり。哥の心は、古衣は、ときあらひてきよくなれとも、地も色もうすらきてあたらしき時にをよはねは、それを、むかしあひ見し人をうらみなとして、中絶てこと人にあひてくらへみれは、猶昔の人にをよはすとおもひかへすたとひなり。第十八に
  紅はうつろふものそつるはみのなれにし衣になほしかめやも
古|樂《カ》府詩云。上(テ)v山(ニ)採2菲蕪(ヲ)1、下(テ)v山(ヲ)逢(フ)2故夫(ニ)1。長跪(シテ)問(フ)2故夫(ニ)1。新人復(タ)何如(ン)。新人雖v云v好(ト)、未(タ)v若《シカ》2故人(ノ)※[女+朱]《カホヨキニ》1。其色(ハ)似(テ)相(ヒ)類、手爪不2相如1。新人(ハ)從(リ)v門入(リ)、故人(ハ)從(リ)v閣去(ル)。新人(ハ)工(ニ)織(リ)v※[糸+兼](ヲ)、故人(ハ)工(ニ)織(ル)v素(ヲ)。織(ルコト)v※[糸+兼](ヲ)日(ニ)一疋、織(ルコト)v素(ヲ)五丈餘。持《トテ》v※[糸+兼](ヲ)將(テ)比(スレハ)v素(ニ)、新人(ハ)不v如(カ)v故(ニ)
 
3010 佐保川之川浪不立靜雲君二副而明日兼欲得《サホカハノカハナミタヽスシツケクモキミニタクヒテアスサヘモカモ》
 
人言を河浪に喩ふ.此より下廿首寄2池河等(ニ)1、
 
初、さほ川のかは浪たゝす ひとこともなきを、浪のたゝて、靜なるによするなり
 
3011 吾妹兒爾衣借香之宜寸川因毛有額妹之目乎將見《ワキモコニコロモカスカノヨシキカハヨシモアラヌカイモカメヲミム》
 
宜寸河を承て因毛有額と云へり、因は逢べき由なり、
 
初、わきもこに衣かすか わきもこにきぬをかしてきするといふ心につゝく。よしき川をうけて、よしもあらぬかとつゝくる心は、妹を見るよきよしのあれかしとねかふ心なり
 
3012 登能雲入雨零川之左射禮浪間無毛君者所念鴨《トノクモリアメフルカハノサヽレナミマナクモキミハオモホユルカモ》
 
人丸集には見えず、六帖には作者なし、拾遺に人丸の歌とて載られたるは未v知2其據1、
 
初、とのくもりあめふる川の とのくもりはたなくもりなり。五音相通して、とのくもりとはいへり。霏※[雨/微]とかきてたなひくとよみ、又棚引ともかけり。しかれは、とのくもりは、たなひきくもるにて、薄曇なり。雨のふるとつゝけて、ぶる川は次の哥に、いそのかみ袖ふる川といへる布留川なり。下にいたりて
  さゝなみの浪こすあさにふる小さめあひたもおきてわかおもはなくに
 
3013 吾妹兒哉安乎忘爲莫石上袖振川之將絶跡念倍也《ワキモコヤアヲワスラスナイソノカミソテフルカハノタエムトオモヘヤ》
 
安乎忘爲莫は我を忘るななり、落句はたえむと思はむや思はずとなり、
 
初、わきもこやあをわすらすな あをわすらすなは、われをわするなゝり。をとめこか袖ふる山とよめるは、唯布留山をいはむとて、つゝけたる事、此哥にて證して知へし。たえむとおもへやは、わか心はたえむとおもはんや。たえしとなり
 
(57)3014 神山之山下響逝水之水尾不絶者後毛吾妻《カミヤマノヤマシタトヨミユクミツノミヲシタエスハノチモワカツマ》
 
神山之、【幽齋本云、ミワヤマノ、】
 
神山は神岳《カミヲカ》にて三室山の異名なり、山下響逝水とは人言のさわぎに喩ふ、水尾は水の深き筋を云へば水尾の如く深く思ふ心だに絶ずば今ならずとも後も吾妻にせむとなり、第十一の第八紙の第二行第五行の歌合て見るべし、水尾シのし〔右○〕は助語なり、
 
初、みわ山の山下とよみ みわ川なり
 
3015 如神所聞瀧之白浪乃面知君之不所見比日《カミノコトキコユルタキノシラナミノオモシルキミカミエヌコノコロ》
 
初の二句は鳴神の如く音のとゞろく瀧なり、應神紀云、大鷦鷯尊與2髪長媛1既得v夫|殷勤《ネンコロ》、獨對2髪長媛(ニ)1歌之曰、彌知能之利《ミチノシリ》、古破※[人偏+嚢]塢等綿塢《コハタヲトメヲ》、伽美能語等《カミノゴト》、枳虚曳之介廼《キコエシカド》、阿比摩區羅摩區《アヒマクラマク》、第六第七に鳴神の音のみ聞しと有しも此類なり、白浪は第七にも住吉波豆麻君《スミノエノナミツマキミ》とよみし如くうるはしき物なれば白面郎によそへ、しら〔二字右○〕を承てしる〔二字右○〕と云ひておもしる君と云へり、面知は第二に注せしが如し、
 
初、神のこときこゆる瀧の なるかみのことく、音のとゝろく瀧なり。應神紀云。大鷦鷯尊與2髪長媛1既得v夫殷勤、獨對2髪長媛1歌之曰、彌知能之利《・路後》、古破※[人偏+嚢]|塢等綿塢《・處女》、伽美能語等《・神如》、枳虚曳之介廼《・雖所聞》、阿比摩區羅摩區《・相枕纏》。しらなみは、おもしるといふしるは、しろといふにかよへは、白波のしらといふをうけて、つらねたり。おもしるは、かほを見なれて、よく見おほえてしる人といふ心なり。第二に
  ともしひもとりてつゝみてふくろにはいるといはすやおもしるなくも
此下に
  水莖のをかのくすはを吹返しおもしるこらか見えぬ比かも
 
3016 山川之瀧爾益流戀爲登曾人知爾來無間念者《ヤマカハノタキニマサレルコヒストソヒトシリニケルマナクオモヘハ》
 
(58)3017 足檜木之山川水之音不出人之子※[女+后]戀渡青頭鷄《アシヒキノヤマカハミツノオトニイテスヒトノコユヘニコヒワタルカモ》
 
山河水の音の如く音には出ずなり、青頭鷄は鴨の義訓なり、
 
初、あしひきの山川水の 山川の水のことくには、音に出すといふ心なり。山川水の音せぬといふにはあらす。ふるのわさ田のほには出すといへるに准して知へし。妬。青頭鷄は鴨なり。もろこしの文にもあること歟。音に出すは、色に出ぬといふかことし。音に立ぬなり
 
3018 高湍爾有能登瀬乃川之後將合妹者吾者今尓不有十方《タカセクルノトセノカハノノチニアハムイモニハワレハイマニアラストモ》
 
高湍爾有、【幽齋本云、タカセナル、】
 
初句はタカセクルとあるは書生の誤なり、タカセナルと讀べし、上に高河とよめる如く水の高く出たる湍なり、此も亦他言のさわぐに喩へたり、能登瀬河は第三に注せし如く大和なるを八雲御抄に河内一説津と注せさせ給へるは昔の先達發句の高湍と云へるを薦枕高瀬の淀と催馬樂に云へる所と思ひて云ひ置ける歟、和名集を見るに河内國|茨田《マムタノ・マツダ今ノ俗》郡に高瀬あり、催馬樂に云へるは是なるべし、登と知と通ずれば能登河を承て後もあはむと云へり、第十九に能登河乃後者相牟とよめるも同じ、腰句より下は第十一に鴨川後瀬靜《カモカハノノチセシツケミ》と云歌と同じ、落句は約めてイマナラズトモとも讀べし、
 
初、高瀬なるのとせの川の 第三に波多朝臣少足か哥に、さゝれ浪いそこせちなるのとせ川とよめり。さゝなみのいそをこすといひかけて、巨勢路にある能登瀬河といへは、大和國高市郡にあり。後にあはむとつゝくるは、登と知と通するゆへに、のとせをのちせといふ心にうけたり。第四に坂上大嬢か家持に贈歌に
  かにかくに人はいふともわかさちの後瀬の山の後もあはむきみ
今の哥これに似たり。又おなし卷に
  一瀬にはちたひさはらひゆく水の後にもあはむ今にあらすとも
第十一に
  鴨川の後瀬しつけみ後もあはむ妹にはわれはけふならすとも
宗碩勅撰名所抄、野戸瀬川河内交野郡といへり。非なり
 
3019 浣衣取替河之河余杼能不通牟心思兼都母《アラヒキヌトリカヘカハノカハヨトノタエサラムコヽロオモヒカネツモ》
 
(59)浣衣、【別校本、浣作v洗、】
 
衣を洗ひては著かふれば取替河とはつゞけたり、取替河は八雲にも載給ひながら何れの國と注せさせ給はず、上のつゞきを思ふに大和歟、今按和名集を考るに添(ノ)下郡|鳥貝《トリカヒ》【止利加比、】和語は文字は定なし、取替はトリカヒともよむべければ若此鳥貝にある川にや。不通牟心をタエザラム心と點ぜるは誤なり、水に付ては不通をばたゆと義訓すべきことわりなれば、タエムコヽロハと讀べし、又第七に不行をよどむとは讀たれば今もヨドマム心とも讀べし、
 
初、あらひきぬとりかへ川 衣をあらひて、取かへてきるといふ心にいへり。取替川、八雲御抄にも載させたまひなから、いつれの國に有とも注したまはす。不通牟心をたえさらん心とよめるは誤なり。不の字なくはこそ、義をもてさはよまめ。これをは、よとまん心とよむへし。第七によとむといふに、不行とも、不逝ともかけり。今も此に准すへし。よとまむ心をおもひかぬるとは、人をこふることのくるしさに、中絶てよとみやせましと、こゝろにおもひみれとも、よとまるへくはおもはれぬをいへり。又はゆかさらんとも讀へし。土師宿禰|水通《ミユキ》といふ人、此集に哥あり。御通ともかけり。君かもとへゆかてあらんとおもへとも、ゆかてはあられぬなり
 
3020 班鳩之因可乃池之宜毛君乎不言者念衣吾爲流《イカルカノヨルカノイケノヨロシクモキミヲイハネハオモヒソワカスル》
 
班は斑に作るべし、聖徳太子のまし/\たる斑鳩宮は大和國平群郡にて今の法隆寺其跡なりと云へば因可の池今は聞えねど昔そこもとに有ける歟、八雲御抄には津國と注せさせ給ふ時は斑鳩は地の名にはあらで此鳥は友の聲を慕ひてより集まる物なればよると云詞取出むとて置けるなるべし、留と呂と通ずる故によろしくもと云はむとて.因可の池とも云なり、吾故に君が名も立て人の宜しくも云はねば吾も思ひをすると云心なり、
 
初、いかるかのよるかの池 やまとの國に、いかるかといふ所有。聖徳太子の住せたまふ所なり。そこにある所の池なりといへとも、たしかならす。案するにいかるかといふ鳥は、友の聲をしたひてより集るものなり。よりてよるといふ詞とらんとて、いかるかとはいへるなるへし。よるかの池は、よろしくとつゝけむためなり。よろしくも君をいはぬとは、我ゆへに君か名のたては、我もおもひをするといふ心なり
 
(60)3021 絶沼之下從者將戀市白久人之可知歎爲米也母《コモリヌノシタニハコヒムイチシロクヒトノシルヘクナケキセメヤモ》
 
絶沼は義訓なり、下從者はシタユハとも讀べし、腰句より下の三句は第十一にも似たる歌ありき、此卷下にもあり、
 
初、絶沼 義をもてかけり
 
3022 去方無三隱有小沼乃下思爾吾曾物念頃者之間《ユクヘナミコモレルイケノシタオモヒニワレソモノオモフコノコロノマハ》
 
初二句は第二高市皇子尊城上殯宮之時人麿のよまれたる歌の反歌云、埴安乃池之堤之隱沼乃去方乎不知舎人者迷惑《ハニヤスノイケノツヽミノコモリヌノユクヘヲシラニトネリハマトフ》、此に依れば今の小沼もをぬ〔二字右○〕と讀べきか、第九にも前玉之小崎乃沼《サキタマノヲサキノイケ》と點ぜざるにはあらず、下思爾はシタモヒニ、物念はモノモフと讀べし、
 
初、小沼 和名集云。沼(ハ)池也
 
3023 隱沼乃下從戀餘白浪之灼然出人之可知《コモリヌノシタニコヒアマリシラナミノイチシロクイテヌヒトノシルヘク》
 
此歌第十七に家持越中守にて下られける時平群女郎が贈りたる十二首の中にあり、古歌なるを似つかはしければ交へたる歟、六帖に人に知らるゝと云題に入れて家持と作者を定たるは不審なり、
 
3024 妹目乎見卷欲江之小浪敷而戀乍有跡告乞《イモカメヲミマクホリエノサヽラナミシキテコヒツヽアリトツケコソ》
 
(61)見まくほしきと云意につゞくる故に欲江とかけり、
 
初、いもかめをみまくほりえ いもをみまくほしきとつゝけたり
 
3025 石走垂水之水能早敷八師君爾戀良久吾情柄《イシハシルタルミノミツノハシキヤシキミニコフラクワカコヽロカラ》
 
發句はイハヽシルと讀べし、第十五云、伊波婆之流多伎毛登杼呂爾鳴蝉乃《イハハシルタキモトドロニナクセミノ》云々、此に准らふべし、垂水は第七に注せしが如し、早敷八師とつゞくるはは〔右○〕のひともじをはやと云意に云へり、玉匣あしきの川、白眞弓斐太の細江など上に有しに准らへて知べし.此ハシキヤシは惜哉の意なり、
 
初、石走たるみの水のはしきやし たるみは津國に有。第七の十二葉、第八の十四葉にも見えたり。水のはやきとつゝくる心に、はしきやしとはうけたり。玉くしけあしきの川とつゝけたるは、玉くしけあくるといふ心につゝけたるかことし
 
3026 君者不來吾者故無立浪之數和備思如此而不來跡也《キミハコスワレハユヘナミタツナミノシク/\ワヒシカクテコシトヤ》
 
吾ハ故ナミとは何の故とて彼方へ行べき由のなきなり、
 
初、君はこすわれはゆゑなみ 君はわかもとにこす。我は君かかたへゆくへきよしもなし。いく夜もかくわひさせて、さて終には君かこしとやすらんとなり。立浪は、しは/\といはむためなり。しは/\は、たひ/\なれは、いく夜もの心なり
 
3027 淡海之海邊多波人知奥浪君乎置者知人毛無《アフミノウミヘタハヒトシルオキツナミキミヲオキテハシルヒトモナシ》
 
ヘタハ人知とは淺き故に底の見ゆるを深くしのばざれば人の氣色を見て知に喩ふ、奧《オキツ》波は君を置てはと云はむためなるに奥《オキ》は深ければ測《ハカ》り知人なきに喩ふ、置とは第十七にも波思家夜之安我於久豆麻《ハシケヤシアガオクツマ》とよめり、我妻と居置《スヱオク》なり、袖中抄云、白露のおける女にする女郎花わな煩らはし人なてふれそ、顯昭云、此は白露の置たる妻に(62)すと女郎花を云也、女郎花をば女によせて人の妻とこそは讀事にてあるに、是は白露の置たる女と云也、只行すりの妻にはあらで家に置たるうるはしき女と云也、後撰云、秋の野の露におかるゝ女郎花拂ふ人なみ沾つゝぞふる、女によせて露におかるゝとよめり、此心なるべし、是は拾遺歌也、今は此置〔右○〕なり、古今集に君をおきてあだし心を我もたばなどよめるおく〔二字右○〕は日本紀にも此集にも除の字を書けり、然れば君を除《おき》て外に相知る人はなしとよめるにはあらず、第二の句にも心を著べし、
 
初、あふみの海へたは人しる おきつなみは、ふかくといふ心にて、君を置てはといはむためなり。此おきてはといふは、除の字をよめる心にはあらす。安置なり。すゑおくなり。あふみの海のみきはゝあさきことく、はしちかき所におけは人の知ゆへに、ふかき所にしのひてすゑおきつれは、しる人もなしとなり。もし又置の字はかきたれと、除の字の心歟。わかよのつねの大かたの心は知人あり。まことにふかき心をは、君をのそきての外には、知人もなしとにや
 
3028 大海之底乎深目而結義之妹心者疑毛無《オホウミノソコヲフカメテムスヒテシイモカコヽロハウタカヒモナシ》
 
結テシは約《チギリ》しなり、て〔右○〕は助語なり、下句第四に同じ歌有き、
 
初、結|義之《テシ》 義の字その心を得す
 
3029 貞能納爾依流白浪無間思乎如何妹爾難相《サタノウラニヨスルシラナミアヒタナクオモフヲイカニイモニアヒカタキ》
 
納、【幽齋本、作v※[さんずい+内]、】  無間、【又云、ヒマモナク、】  如何、【又云、ナソモ、】
 
貞能納は第十一に既に見えたり、
 
初、さたのうらによする 第十一に、すてに見えたり。下の三十五葉にもあり。納は※[さんずい+内]歟
 
萬葉集代匠記卷之十二上
 
(1)萬葉集代匠記卷之十二下
 
3030 念出而爲便無時者天雲之奧香裳不知戀乍曾居《オモヒテヽスヘナキトキハアマクモノオクカモシラスコヒツヽソヲル》
 
奧香裳不知はゆくへも知らぬ意なり、此より下三首寄v雲、
 
3031 天雲乃絶多比安心有者吾乎莫憑待者苦毛《アマクモノタユタヒヤスキコヽロアラハワレヲタノムナマテハクルシモ》
 
獏憑は獏の下に令の字をおとせる歟、然らざれば我心をなたのみそと云意と成て義|乖《ソム》けり、
 
初、あま雲のたゆたひ われをたのむなは、われをたのむるな。たのめおきても、こぬをまつかくるしきにとなり
 
3032 君之當見乍母將居伊駒山雲莫蒙雨者雖零《キミカアタリミツヽモヲラムイコマヤマクモナカクシソアメハフルトモ》
 
此は奈良京の方の人より平群郡の方に思ふ人を置てよめるなるべし、伊勢物語には見つゝをとあり、新古今集同じ、
 
初、君かあたりみつゝも 伊勢物語にはみつゝを
 
3033 中中二如何知兼吾山尓燒流火氣能外見申尾《ナカナカニナニヽシリケムワカヤマニモユルケフリノヨソニミマシヲ》
 
何か悔しく君を相知そめけむなり、吾山は第十にも吾山の上に立霞とよめりき、我(2)家所の山なり、六帖にはなにあひみけむかすが野のやくるほのほをとて春野の歌とせり、山を燒煙の如く思ひにもゆと云事を外に見てあらまし物をとなり、此歌寄v烟、
 
初、中々になにゝ知けむ なにゝ知けんは、なに事に君にあひて知そめにけむなり。わか山にとは、我家所の山をわか山とはよめり。第十にも、玉きはるわか山の上に立かすみとよめり。我岡我嶋なとよめるもおなし。もゆる煙とは、春は山やくことの有をいへるなるへし。煙のたつは、よそよりしてみゆる故にかくつゝけたり。煙のことくよそめにみてあらましかは、かくおもひにもゆることはあるましきものをとなり
 
3034 吾妹兒爾戀爲便名鴈※[匈/月]乎熱旦戸開者所見霧可聞《ワキモコニコヒスヘナカリムネヲヤキアサトアクレハミユルキリカモ》
 
第十に山霧のけぶき我※[匈/月]と讀つれば、こゝに霧と云へるは夜もすがら思ひに燃つる驗に朝戸開たれは煙の見ゆると云意なり、第十に朝霞鹿火屋《アサカスミカヒヤ》が下《シタ》とよめる霞の如し、此より下三首寄v霧、
 
初、わきもこにこひ 夜もすから思ひにこかれて、さて朝戸押明て、つく息の白くみゆるを霧といへり。第十に、山霧のけふきわか胸とよみたれは、こゝに霧といへるは、夜もすから思ひにもえつるしるしに、朝戸明たれは、煙のみゆるといふ心なり。第十第十六に、ともに朝霞かひやか下に鳴かはつとよめる哥も、朝霞は鹿火屋のよもすからの煙の、朝まて殘たるをいへりと聞ゆれは、こゝもそれに准して心得へし
 
3035 曉之朝霧隱反羽二如何戀乃色丹出爾家留《アカツキノアサキリコモリカヘルサニイカテカコヒノイロニイテニケル》
 
反羽二をカヘルサニとよめるは羽の和訓は〔右○〕とさ〔右○〕と同韻にて通ずる意歟おぼつかなし、今按反の上に黄の字落たる歟、然らば朝霧コモルモミヂバノと讀べければ下句の色に出と云も能叶なり、
 
初、曉の朝霧こもり 人めをつゝめは、しのゝめの霧のまきれにこそ、人のもとより歸つるに、いかてわか戀の色に出て、人しれにけむとなり。羽は和訓左と同韻なれは、かくはかけるにや
 
3036 思出時者爲便無佐保山爾立雨霧乃應消所念《オモヒイツルトキハスヘナミサホヤマニタツアマキリノケヌヘクオモホユ》
 
3037 殺目山往反道之朝霞髣髴谷八妹爾不相牟《キリメヤマユキカフミチノアサカスミホノカニタニヤイモニアハサラム》
 
(3)往反、【官本云、ユキカヘル、】
 
殺目山を奥義沙并に幽齋本にはいためやまとあれど第四に坂上郎女が青山をよこぎる雲とよめるにも横殺と書たれば今の讀然るべし、今の讀にて八雲御抄に紀と注せさせ給へるは切目王子のおはします處ともや思しめしけむ、此一首寄v霞、
 
初、殺目山往反道之 此きりめ山を、奥義抄にはいため山とよまる。八雲御抄には、今のことくよませたまひて、紀伊のよし注し給へり。第四に大伴坂上郎女か歌に、青山をよこきる雲のいちしろくとよめる哥に、横殺雲とかきたれは、きりめ山とよめるをよしとすへし。これはきりめ山をこえて、妹かりゆきて、いひかゝつらふ人の、いたつらに行ては歸りて、おもひわつらひてよめりときこゆ
 
3038 如此將戀物等知者夕置而旦者消流露有申尾《カクコヒムモノトシリセハユフヘオキテアシタハキユルツユナラマシヲ》
 
旦者、【後撰集云、アクレハ、】
 
此より六首寄v露、
 
3039 暮置而旦者消流白露之可消戀毛吾者爲鴨《ユフヘオキテアシタハキユルシラツユノケヌヘキコヒモワレハスルカモ》
 
3040 後遂爾妹將相跡旦露之命者生有戀者雖繁《ノチツヒニイモニアハムトアサツユノイノチハイケリコヒハシケレト》
 
妹將相跡、【幽齋本、妹下有v爾、】  雖繁、【幽齋本云、シケヽト、】
 
3041 朝旦草上白置露乃消者共跡云師君者毛《アサナサナクサノウヘシロクオクツユノキエハトモニトイヒシキミハモ》
 
消者、【紀州本云、ケナハ、】
 
(4)毛詩云、穀則異v室、死則同v穴、第四に家持の吾屋戸之草上白久置露乃とよまれたるは此歌を取てなるべし、六帖には思ひ出と云に入れたり、
 
初、あさな/\草の上しろく 毛詩云。穀《イケルトキハ》則異v室(ヲ)、死則同(セン)v穴(ヲ)。新撰六帖歌
  いかにせむしなはともにとちきる身のおなしかきりの命ならすは
 
3042 朝日指春日能小野爾置露乃可消吾身惜雲無《アサヒサスカスカノヲノニオクツユノケヌヘキワカミヲシケクモナシ》
 
3043 露霜乃消安我身雖老又若反君乎思將待《ツユシモノケヤスキワカミオヒヌトモマタワカヽヘリキミヲシマタム》
 
又若反、【歌林良材集云、マカコマカヘリ、別校本又點同v此、】
 
此歌第十一に發句を朝露之とて既に出たり、
 
初、露霜のけやすきわか身おいぬとも 此哥既に第十一に出たり。但發句を朝露のといへり
 
3044 待君常庭耳居者打靡吾黒髪爾霜曾置爾家類《キミマツトニハニシヲレハウチナヒキワカクロカミニシモソオキニケル》
 
庭耳、【幽齋本云、ニハニノミ、】
 
庭耳はよそにのみと云べきをよそのみとよめる例にニハノミと讀べし、今の點はよからず、次の歌と共に寄v霜、
 
初、きみまつと庭にし 打靡は、うちなひきとも、うちなひくともよむへし。うちなひきとよめるは、霜によりてなひくなり。打なひくとよめは、はしめより髪のみつからなひくなり
 
或本歌尾句云|白細之吾衣手爾露曾置爾家留《シロタヘノワカコロモテニツユソオキニケル》
 
3045 朝霜乃可消耳也時無二思將度氣之緒爾爲而《アサシモノケヌヘクノミヤトキナシニオモヒワタラムイキノヲニシテ》
 
(5)時無二とは時わかずなり、
 
3046 左佐浪之波越安暫仁落小雨間文置而吾不念國《ササナミノナミコスアサニフルコサメアヒタモオキテワカオモハナクニ》
 
安暫は遠淺を云歟、此歌は寄v雨、
 
初、さゝなみのなみこすあさに あさはあさきなり。遠淺《トホアサ》をいへり。小雨によりて、浪の隙なきにそへたり。上にあめふる川とつゝけたる哥これに似たり。引合すへしひ
 
3047 神左備而巖爾生松根之君心者忘不得毛《カミサヒテイハホニオフルマツカネノキミカコヽロハワスレカネツモ》
 
發句は物ふりたる意なり、松根之君心とつゞけたるは第十一に注せしが如し、巖に生たる松の根は拔る事なきが如く我を思ふ心も動くまじう憑もしげなれば忘れかぬるなり、次と二首は寄v木、
 
初、神さひていはほにおふる 神さひてとは、此集にはふりたることを神の上ならてもいへるは、神のいのちははかりかたく、そのおはします所も、かう/\しけれはなり。此哥も、物ふりていはほにおふるといふ心なり。いはほにさへ根さしたる松なれは、いかなる大風にもぬかるましく、そま人のをのもをよひかたく、霜雪に色もかはらねは、それにたとふる人は、たのもしき事かきりなけれは、わすれかぬるなり
 
3048 御獵爲鴈羽之小野之櫟柴之奈禮波不益戀社益《ミカリスルカリハノヲノヽナラシハノナレハマサラテコヒコソマサレ》
 
鴈羽は獵場《カリバ》に借てかけり、袖中抄にいつしばはらを釋する所に此歌を引に、腰句かしは木のと在て此歌を或本にかりばのをのゝ櫟柴のとかけり、いちしばはいちひ柴と云歟、六帖には芝部に入たり僻事歟、此歌をば常にはかりばのをのゝ楢|柴《シバ》のとも云へば、今按今の本にてはイチシバと讀べし、さて奈禮波不益とつゞく意は獵人の櫟柴を蹈ならしてしゝ鳥を尋ぬるによするなり、かしはぎのと云へるはおぼつ(6)かなし、ならしばのとよめるは奈禮波と云に打付につゞきて聞ゆれば後世の新意を以て強て讀なせるなるべし、此歌は人丸集にも見えず、新古今に作者を付られたるは未v考2其據1、
 
初、みかりするかりはのをのゝなら柴の なれはまさらてといはむためなり。今案櫟柴とかきて、ならしはとよめる、心得かたし。これをはいちしはとよむへき歟。第十六に長忌寸意吉麻呂哥に
  さすなへにゆわかせこともいちひつのひはしよりこんきつにあむさん
此いちひ津に櫟津とかけり。又允恭紀云。於是弟姫|以爲《オモヘラク》〇則從(テ)2烏賊津使主《イカツノオムニ》1而|來《マウク》。到(テ)2倭(ノ)春日(ニ)1于|櫟井《イチヒヰノ》上(ニ)1。和名集云。崔兎錫(カ)食經云。櫟子【上音歴。和名以知比。】相似而大2於椎子1者也。その木のやうは、かしに似たる物なり。ならは文字も楢にて、此集にもかける字なり。その木は、かしはのたくひにて、いちひには似ねはかれこれうたかはし。なれはまさらてとつゝけたれは、おしてならとよめるにやあらん。もしいちしはならは、第四に志貴皇子大原の此市柴とよみたまへり。市柴とかきたれとも、いつしはと訓せり。第八雪の哥に、此五柴にふらまくをみむとよめり。第十一に、いつしは原のいつも/\とつゝけよめるも五柴とかけり。きつねをきつとのみもいへは、いちひしはを、いつしはとも、いちしはともいふへきことさまたけなし。それにて、なれはまさらてとつゝくるやうをいはゝ、御狩場なれは、かり人の分ならす心にてつゝけたり。もしならしはといふ方人となりて會釋せは、およそ楢《ナラ》※[木+解]《カシハ》櫪《クヌキ》柞《ハヽソ》これらみな似たる物なり。櫪と櫟と通する歟。くぬきの實を、つるはみといふ。俗にどんぐりといふは、栗に似たる物からくはれねは、そしりて鈍粟といふなるへし。和名集云。唐韻云。橡【徐兩反。上聲之重。和名都流波美。】櫟實也。又そのつるはみをつゝめる、栗のいかに似たるを、つるはみのかさといふ。櫟※[木+求]とも櫟斗ともいふ物なり。清少納言におそろしき物に入たり。又橡をはとちともよめは、とちも一類歟。楢《ナラ》と歴木と一類なるによりて、今ならしはとよめりといふへき歟。此哥戀そまされると改て、人丸の哥と、新古今集には載たり
 
3049 櫻麻乃麻原之下草早生者妹之下※[糸+刃]不解有申尾《サクラアサノヲフノシタクサハヤクオヒハイモカシタヒモトカサラマシヲ》
 
發句は第十一に櫻麻|乃苧原之《ノヲフノ》下草露有者と云をさくらをのとあれば今も准らへても讀べし、麻原之下草早生者とは第十に乎花我下《ヲハナガシタ》之思草と云に付て注せし如く思草の名を含みて云へり、我を思ふ心の早く草の如くしげからば二人して結びし紐を獨はとかざらましをとなり、此より下二十五首は寄v草、
 
初、櫻麻のをふの下草 第十一に、櫻麻のをふの下草露しあれはといふ哥に、櫻麻の事は注せり。櫻麻の、をふに、下草のおふることく、君か戀草の、我にはやくおひせは、もろともに、あふまてはとかしといひし下ひもを、ひとりしてはとかさらまし物をとなり。早生者、今の本に、はやくおきはとよめるは、かんな誤れる歟。そのまゝにてしひて尺せは、此集に意の字をおとのみ用たり。以と於と通するゆへなり。今もそのことく、いきといふを、おきとなして草のおふるを、おこる心に、おきといひて、やかてそれを、もろともにふして、起るにいひかけたり。第十一の、さきに上句を引る下に、あかしていゆけはゝは知ともといへり。わか心もとよりわかれかてなるに、あひにあひて、あかしてゆけと留られて、やすらふほとに、母にも人にもしられて、つよくまもらるれは、又かよふへきやうなくて、我ならてはとくなとむすひし妹か下紐も、今はときぬ。あはれその夜、早おきわかれてきたらましかは、今も妹か下紐は、もろともにむすひしまゝにて、とけすしてあらましものをと尺すへし
 
3050 春日野爾淺茅標結斷米也登吾念人者彌遠長爾《カスカノニアサチシメユヒタエメヤトワカオモフヒトハイヤトホナカニ》
 
淺茅を女に喩たるコト上に多かり、吾念はワガモフと獨べし、
 
初、春日野にあさちしめゆひ 第七に
  君に似る草とみしよりわかしめし野山のあさち人なかりそね
  山高み夕日かくれぬ淺茅原後みんためにしめゆはましを
これらは女のうるはしきを淺茅にたとへたり。詩鄭風、出(レハ)2其(ノ)〓闍《イントヲ》1、有(リ)v女如(シ)v荼(ノ)。注云。荼(ハ)茅華(ソ)。又第七に
  家にして吾はこひむないなみ野のあさちかうへにてりし月夜を
第十に
  春日野のあさちかうへにおもふとちあそふけふをは忘られめやも
これらは、あさち原のきよきをほむる心あり。第十一に、あさち原小野にしめゆふいつはりとよめるには、心かはれり。人をわか手にいれたるをしめゆひといひて、しめはなはを引めくらせは、それによせてたえめやとゝいへり。いやとをなかにとは、これもなはによせて、行末を遠く長くあひみんと思ふよしなり。第三に、はふくすのいやとほなかにとも、玉葛いやとほなかくとも讀り
 
3051 足檜之山菅根乃懃吾波曾戀流君之光儀乎《アシヒキノヤマスカノネノネモコロニワレハソコフルキミカスカタヲ》
 
或本歌曰|吾念人乎將見因毛我母《ワカオモフヒトヲミムヨシモカモ》
 
(7)3052 垣津旗開澤生菅根之絶跡也君之不所見項者《カキツハタサクサハニオフルスカノネノタユトヤキミカミエヌコノコロ》
 
開澤は上に注せし如くサキサハと讀べし、項は頃に改べし、
 
初、かきつはたさくさはに 第十一にかきつはたさくぬの管とよみ、第四にはをみなへしさく澤におふる花かつみとよめるにおなし。菅の根のたゆとやとつゝけたるは、引は根のたゆるによせたり。頃誤作v項
 
3053 足檜木之山菅根之懃不止念者於妹將相可聞《アシヒキノヤマスカノネノネモコロニヤマスオモハヽイモニアハムカモ》
 
3054 相不念有物乎鴨菅根乃懃懇吾念有良武《アヒオモハスアルモノヲカモスカノネノネモコロコロニワカオモヘラム》
 
子モコロゴロは唯ねむごろなり、後にもあり、吾念有良武はわがおもひあらむを比阿反波なるを又初四相通して陪となせば陪の字に阿はこもる故に、有をあのひともじによむ心に加へてかけるなり、
 
3055 山菅之不止而公乎念可母吾心神之頃者名寸《ヤマスケノヤマステキミヲオモヘカモワカタマシヒノコノコロハナキ》
 
念可母はおもへばかもなり、
 
初、山菅のやますて 古今集に
  あかさりし袖の中にやいりにけむわかたましひのなきこゝちする
 
3056 妹門去過不得而草結風吹解勿又將顧《イモカヽトユキスキカネテクサムスフカセフキトクナマタカヘリミム》
 
草結と云所句なり、此は我來たると云事を心づかせむの意に結ぶなり、
 
一云|直相麻?爾《タヽニアフマテニ》
 
(8)3057 淺茅原茅生丹足蹈意具美吾念兒等之家當見津《アサチハラチフニアシフミコヽロクミワカオモフコラカイヘノアタリミツ》
 
淺茅は葉の兩邊に刃あり若刈たる跡は針を並べたるやうなれば歩もやられずして心苦しきを、障る事多くてえかよはざりし程に喩ふ、吾念はワガモフと讀べし、
 
初、あさち原ちふにあしふみ こゝろくみは、こゝろくるしみなり。第四第八第十七なとにも、心くしとよめり。第九第十七に、めくしとよめるは、めのくるしきにて、見くるしきなり。淺茅原には、かりたるあとは、針をならへたることく、からさるには、葉の兩邊にいらあり。又むはらある草も生ましれは、それに足をそこなひて、心くるしきに、あはさりしほとの心をよせていへり
 
一云|妹之家當見津《イモカイヘノアタリミツ》
 
此は撰者の注にあらず、其故は第四句のみ替りたれば一云吾念妹之と注して足れるを、第四の句は下の半を擧て無用の落句を注せればなり、
 
3058 内日刺宮庭有跡鴨頭草之移情吾思名國《ウチヒサスミヤニハアレトツキクサノウツシコヽコロハワカオモハナクニ》
 
月草は物を染とて紙などに移し置なり、江次第第五於2圓宗寺1被v行法華會用途料(ノ)永宣旨(ノ)中(ニ)云.鴨頭草移二帖 上野 、宮ニハアレドとは第四に家持の百礒城《モヽシキ》之大宮人者雖2多有1とよまれたる如く、かほよき人多けれどと云なり、落句はワガモハナクニと讀べし、
 
初、うちひさす宮にはあれと みやのうちには、かほよき人おほけれと、うつり心はおもはぬとなり。第四にも
  百敷の大みや人はおほかれとこゝろにのりておもほゆるいも
月草は、物をそむとて、紙なとにうつし置は、月草のうつし心とはつゝけたり。江次第第五於2圓宗寺(ニ)1被v行(ナハ)2法華會(ヲ)1用途料(ノ)永宣旨(ノ)中(ニ)云。鴨頭草(ノ)移《ウツシ》二帖上野
 
3059 百爾千爾人者雖言月草之移情吾將持八方《モヽニチニヒトハイフトモツキクサノウツシコヽロハワレモタメヤモ》
 
(9)とかく人は云ひ妨たぐともなり、
 
初、もゝにちに 第四に、わかなはもちなのいほなに立ぬともとよめり
 
3060 萱草吾※[糸+刃]爾著時常無念度者生跡文奈思《ワスレクサワカヒモニツクトキトナクオモヒワタレハイケリトモナシ》
 
萱草を紐に著る事第三第四に見えたり、
 
初、わすれ草わかひもにつく 第三の三十葉帥大伴卿哥、第四の五十葉の家持の哥を見合すへし。委そこに注せり
 
3061 五更之目不醉草跡此乎谷見乍座而吾止偲爲《アカツキノメサマシクサトコレヲタニミツヽイマシテワレシヽノハセ》
 
曉は目をさます時なれば目さまし草とつゞけむ爲なり、目さまし草は人に忘形見贈るそれを云へる歟、何にても目に見て慰さむ物をいふ、集中に戀草語らひ草と云へる類なり、五雜爼云、有2睡草1亦有2却(ル)v睡之草1、有2醉草1亦有2醒醉之草1有2宵明之草1亦有2晝暗之草1、有2夜合之草1亦有2夜舒之草1、物(ノ)性相反有2如v此者1、不醉は醒の義にて酒の醒るを眠の覺にかりて用たり、吾止はワレトと讀べし、
 
初、あかつきのめさまし草と 此哥は、人にわすれかたみおくりてよめるとそ聞ゆる。目さまし草は、何にても目に見てなくさむ物なり。曉とおけるは、目さます時分なれは、めさまし草といはむためなり。めさまし草は、こひ草のたくひなり。われしとあれと吾止とかけれは、止は例のことく和訓を取て、われとゝよむへし。我とおもひしのへとなり。不v醉は醒の字の心にて、酒のさむるを、眠のさむるにかり用たり。五雜組云。有2睡草1。亦有2却v睡之草1。有2醉草1。亦有2醒v醉之草1。有2宵明之草1。亦有2晝暗之草1。有2夜合之草1。亦有2夜(ル)舒(ル)之草1。物(ノ)性相(ヒ)反(スルコト)有2如(キ)v此者1
 
3062 萱草垣毛繁森雖殖有鬼之志許草猶戀爾家利《ワスレクサカキモシミヽニウヱタレトオニノシコクサナホコヒニケリ》
 
鬼之志許草は第四の如し、
 
初、わすれ草垣も 第四の五十葉家持哥に委尺せり
 
3063 淺茅原小野爾標結空言毛將相跡令聞戀之名種爾《アサチフノヲノニシメユフソラコトモアハムトキカセコヒノナクサニ》
 
令聞はきかせよなり、
 
初、あさちふのをのに そらことになりとも、あはんよしをいひきかせよ、わか戀なくさめむとよめるなり。第十一に
  淺ちはらをのにしめゆふいつはりをいかなりといひて君をはまたん
  浅ち原かりしめさしてそらこともよせてし君かことをしまたん
そらことゝつゝくる心そこに有
 
(10)或本歌曰|將來知志君矣志將待《コムトシラセシキミヲシマタム》又見柿本朝臣人麻呂歌集然落句小異耳
 
或本歌曰、將來知志、後の志は助語なり、又見2柿本朝臣人麿歌周1、今按第十一人麿集歌云、朝茅原小野印空事何在云公待《アサチハラヲノニシメユフソラゴトヲイカナリトイヒテキミヲバマタム》、下句の心すべて替れるを然落句小異耳とは不審なり、
 
3064 皆人之笠爾縫云有間菅在所後爾毛相等曾念《ヒトミナノカサニヌフテフアリマスケアリテノチニモアハムトソオモフ》
 
發句の點かへざまなり、拾遺集人丸集六帖共にみなひとの〔五字右○〕とあり、集中に人皆とも皆人ともよめり、
 
初、みな人のかさにぬふてふ ありて後とは、あり/\ての後なり。年月へて後にもといふ心なり。第十一に
  おほきみのみかさにぬへるありま菅ありつゝみれとことなきわかせ
皆人之とかけるを、ひとみなのと點したるは、人皆とかける所あまた有にならへり。今はみなひとのと讀へし
 
3065 三吉野之蜻乃小野爾苅草之念亂而宿夜四曾多《ミヨシノヽアキツノヲノニカルカヤノオモヒミタレテヌルヨシソオホキ》
 
刈草之、【幽齋本云、カルクサノ、】
 
袖中抄にかたちのをのにかるかやのと引て注云、蜻をばあきつと讀也、然而此歌をばアキツノ小野と讀べし、かたちの小野は旁其いはれなし、俊頼朝臣歌云、三吉野のかたちの小野の女郎花たはれて露に心おかるな、是はかたちの小野と點じたる本(11)に付てよめるなり、萬葉のよみはやう/\なるを能々見定て可v詠也、一説に付てよみつれば僻事になる也、かげろふの小野と讀たる事もあり、それもいはれず、以上明らかなり、今かたちのをのと點ぜる本はなけれど事の便に引侍り、刈草は念亂てと云はむとてなり、落句のし〔右○〕は助語なり、
 
3066 妹待跡三笠乃山之山菅之不止八將戀命不死者《イモマツトミカサノヤマノヤマスケノヤマスヤコヒムイノチシナスハ》
 
3067 谷迫峯邊延有玉葛令蔓之有者年二不來友《タニセハミミネヘニハヘルタマカツラハヘテシアラハトシニコストモ》
 
令蔓之有者は今按ハヽセシアラバと讀べし、今の點は令の字に叶はず、し〔右○〕は助語なり、谷のせばければ峯を指てはふ玉葛をはふまゝにさてはゝせ置如く、我を思ふ心だに絶ずして打はへてあらば一年の内に來ずともまたむとなり、
 
初、谷せはみ峯へにはへる 谷より峯へはひのほるなり。第十一には
  山高み谷邊にはへる玉葛たゆる時なくみるよしもかな
第十四に
  谷せはみ峯にはひたる玉かつらたえむのこゝろわかもはなくに
はへてしあらはとは、われを思ふ心のたえすして、葛のはひしけることくにたにあらは、こぬことの一とせになるとも、物はおもはしとなり。注にいはつたのはへてしあらはとほ、第六にいはつなとよめるものなり。絡石なり。委第六に尺せり
 
一云|、石葛令蔓之有者《イハツタノハヘテシアラハ》
 
石葛は第六に石綱とよめるに同じ、彼處に注しき、
 
3068 水莖之岡乃田葛葉緒吹變面知兒等之不見比鴨《ミツクキノヲカノクスハヲフキカヘシオモシルコラカミエヌコロカモ》
 
第十雜にも水莖岡の葛葉をよめり、吹變とのみ云ひて風を云はぬは古歌の体なり、(12)嵐の葛葉を吹返せば裏のみ見えて表の見えねば面知兒等が見えぬ比かもとはつゞけたり、六帖雜思に上句は今と同じくて誰かも君を戀むと思ひしと云は、恨て戀むとは思はざりしと云意にて後の歌の体なり新古今にはそれを岡の木の葉をとて戀一に入られたり、
 
初、水くきの岡のくす葉を 水莖の岡は、筑前|下座《シモツアサクラ》郡に有。第十に委注せるかことし
  かりかねの寒く鳴より水くきの岡の葛葉は色つきにけり
風といはされとも、吹返しとよめるは、古哥の例なり。新古今集にも
  水くきの岡もこのはを吹返し誰かは君をこひむと思ひし
おもしるこらとは、此卷さきにおもしる君か見えぬ此ころといふに注せり。此哥葛葉を吹返しといふは、後々の哥のやうに、恨を裏見るといふ心にいひなす心にはあらす。吹返せは、おもてのかくれて、うらのみ見ゆれは、よく見なれたる人の、みえこぬといはむためなり
 
3069 赤駒之射去羽計眞田葛原何傳言直將吉《アカコマノイユキハハカリマクスハラナニノツテコトタヽニシヨケム》
 
此歌は日本紀に載られたる童謠なり、天智紀云、十年十二月癸亥朔乙丑天皇崩2于近江(ノ)宮1、癸酉殯2于新宮1、于v時童謠曰云云|阿箇悟馬能以喩企波波箇屡麻矩儒播羅《アカゴマノイユキハバカルマクズバラ》、奈爾能都底擧騰多※[木+施の旁]尼之曳鷄武《ナニノツテゴトタダニシヨケム》是今の歌なり、此上に二首あり今の用にあらざれば引かず、實には童|謠《ウタ》にて物のさとしなるべければ殊なる心あるべし、此に載たる心は駒の行憚かる眞葛原の如く、何か我許には來がてにして唯|言傳《コトヅテ》のみはする、直に來てあはむこそよからめとなるべし、
 
初、赤駒のいゆきはゝかる いは發語の辭。行はゝかるはまくすはらの、ひつめにまつはるれは、行ことをはゝかるなり。後の哥に
  みくまのにこまのつまつくまくす原君こそまろかほたしなりけれ
第三卷赤人の富士山の哥、ならひに今一首のふしの寄にも、雲たにもいゆきはゝかりとよめり。なにのつてことゝつゝくる心は、まくす原にこそ駒のつまつけは、ゆきはゝかれ。さるさはりもなきに、なぞやなほさりのつてことのみはする。たゝにきてあはむこそよけれとなり。雄畧紀に、流言とも飛聞ともかきてつてことゝよめり。此哥まことには、童謠《ワサウタ》なれは、ことなる心あるへし。天智紀云。十年十二月癸亥朔乙丑(ノ日)、天皇|崩《カムアカリマス》2于近江(ノ)宮(ニ)1。癸酉|殯《ムカリス》2于新宮(ニ)1。于v時(ニ)童謠《ワサウタアテ》曰。阿箇悟馬能《・赤駒》、以喩企波波箇屡《・行憚》、麻矩儒播羅《・眞葛原》、奈爾能都底擧騰《・何流言》、多※[手偏+施の旁]尼之曳鷄武《直將善》
 
3070 木綿疊田上山之狹名葛在去之毛不令有十方《ユフタヽミタナカミヤマノサナカツラアリサリテシモアラシメストモ》
 
第六に木綿疊医手向の山とつゞけたるは玉匣|蘆城河《アシキノカハ》と開《アケ》と云心に云ひ懸たる如く田上山のた〔右○〕もじを手向と云意にかくは置ける歟、狹名葛と云ひてアリサリテシモ(13)と云へるは、さな葛のはひ行如く徒に年月をありさりて、我をかくてのみあらしめずとも問來よかしとなるべし、し〔右○〕、も〔右○〕は共に助語なり、仙覺抄に在去之毛を古點にはあるもいにしもと點じたるを今の點に改られたる由見えへたり、仙覺の功なり、第四に家持の久須麻呂に贈られたる歌に有去而不有今友《アリサリイテイマナラズトモ》とあるを第十七に平群女郎が歌に阿里佐利底能知毛相牟等《アリサリテノチモアハムト》云々、此を引て有去而をありさりてと讀べき由證し申つるに叶へり、袖中抄にもあるもいにしもとあり、
 
初、木綿たゝみたなかみ山の 長流か抄に、是はゆふをたゝむ手とつゝけたるかといへり。今案木綿は神にたむくる物なり。たなかみは田のかみなり。たな心たなうらも、手の心手の裏なるかことし。されはゆふをたむくる田の神といふ心につゝけたるか。神代紀に、倉稻魂とかきて、うかのみたまといへるは、五穀の精神なり。田の神とまてはなくとも、只上といふを神と取なしても、かくはつゝくへし。さなかつらは、さねかつらなり。ありさりてしもあらしめすともとは、まつつゝけやうは、さきの哥に、玉かつらはへてしあらはといひしは、人の心のかはらすあらはとたのむゆへに、年にこすともといへり。今は待わふる心にて、さねかつらのはへたることく、絶す思ふよしをのみきくは、おほつかなし。まことにたえぬ心ならは、年月をあり/\て、いたつらにあらしめすとも、とひこよかしといふ心なり。又かつらのはひもてゆくを、ありさりてともいふへし。それにても、ありさりてしもあらしめすともといへる心は、さきのことし。第六に、ゆふたゝみ手向の山とよめり。玉くしけあくるとつゝくる心に、玉くしけあしきの川ともつゝけたれは、此哥もゆふたゝみ手向といふ心に、たのひともしにいひかくるにや
 
3071 丹波道之大江乃山之眞玉葛絶牟乃心我不思《タニハチノオホエノヤマノサナカツラタエムノコヽロワレハオモハス》
 
我不思、【六帖云、ワカオモハナクニ、】
 
大江山は桑田郡にあり、天武紀(ニ)云、八年十一月初(テ)置2關於龍田山大江山1、下句六帖に依てよまば第十四に谷せばみ峯にはひたる玉葛とよめる歌に同じくワガモハナクニと讀べし、
 
初、たにはちの大江の山の 大江山は桑田郡にあり。天武紀云。八年十一月初(テ)置(ク)2關(ヲ)於龍田山大江山(ニ)1。第十に七夕の哥に
  ひこほしのつまよふ舟の引綱のたえんと君をわかおもはなくに
第十四東哥に
  たにせはみ峯にはひたる玉かつらたえむのこゝろわかもはなくに
 
3072 大埼之有礒乃渡延久受乃徃方無哉戀度南《オホサキノアリソノワタリハフクスノユクヘヲナクヤコヒワタリナム》
 
大埼は第六に大埼乃神之小濱《オホサキノカミノヲハマ》とよめる處歟、然らば彼卷に注せし如く紀伊國なる(14)べし、葛のはひもて行は往方も定めぬ物なればいつを限ともなく戀るに喩へたり、
 
初、大ざきのありそのわたり 此大崎は紀伊國なるへし。第六に
  大埼の神のをはまはせはけれともゝふな人も過といはなくに
紀伊ならんとおもふ事は、かの哥につきて委注せり。ゆくゑもなくやとは、くすのはひもてゆくは、そことゆくゑをさためぬを、わか戀のいつをはかりとなきにそへたり、又谷にはへるかつらは、峯へものほるを、海にむきてはふくすなれは、ゆくゑもなくやといふにもあるへし
 
3073 木綿※[果/衣]《ユフツヽミ》【一云疊】白月山之佐奈葛後毛必將相等曾念《シラツキヤマノサナカツラノチモカナラスアハムトソオモフ》
 
つゝみたゝみ音通ずれば木綿※[果/衣]も木綿疊なるべし、白き物なれば白月山とつゞく白月山は近江なり、袖中抄に白槻山なるを白月ともかける由見えたり、念はモフと讀べし、
 
初、ゆふつゝみ白月山 津と多と通すれは、ゆふつゝみもゆふたゝみといふ心にや。又ゆふを物にてつゝむにや。一本はゆふたゝみなり。ゆふは白けれは、白月山とつゝけたり。かつらははひわかれても、後にまたはひあふことのあるによせて、下句はつゝけたり。第二に人丸の長哥にも、さねかつら後もあはむと大舟のおもひたのみてとつゝけたる。そのほか猶よめり。白月山は近江といへり。未考
 
或本謌曰|將絶跡妹乎吾念莫久爾《タエムトイモヲワカオモハナクニ》
 
落句ワガモハナクニと讀べし、
 
3074 唐棣花色之移安情有者年乎曾寸經事者不絶而《ハネスイロノウツロヒヤスキコヽロアレハトシヲソキフルコトハタエステ》
 
寸繼は來經なり、第五に、阿良多麻能吉倍由久等志乃《アラタマノキヘユクトシノ》とよめるが如し、人の心の仇にして移ろひ易《ヤス》ければ、つねに問來し人のさすが言のかよひは絶ねどあはずして年を來經るとなり、次の歌と二首は寄v花、其中に初は木の花、後は草の花なり、
 
初、はねす色のうつろひやすき はねすは、第八に家持の唐棣華をよまれたる哥に委注せり。はねすはあかき色なり。第十一に、はねす色のあかものすかたとよめり。日本紀には朱華とかけり。第四に坂上郎女
  おもはしといひてし物をはねす色のうつろひやすきわか心かも
人の心のあたにして、うつろひやすけれは、さすかにことはのかよひはたえねと、あはすして年を來り經るとなり
 
3075 如此爲而曾人之死云藤浪乃直一目耳見之人故爾《カクシテソヒトノシヌチフフチナミノタヽヒトメノミミシヒトユヘニ》
 
死云、【幽齋本云、シヌトイフ、】
 
(15) 藤浪は色よきに喩へて云へり、第十三にも藤浪乃思纒とよめり、見ねば戀死なず逢ては猶戀死ず、中々にひとめ見たるやうの事にてなまじひなるに、戀死ぬる由を世にも語り傳へたるを、げにもさるべき事なりと身の上に思ひ知なり、
 
初、かくしてそ人のしぬてふ みねはこひしなす。あひては猶わひしなす。なましひに、ひとめ見たるやうの事にて、なかはなるにこひ死ぬるよしを、世かたりにもいふとの心なり。智度論に、捕魚師の術婆伽が、國王のむすめ倶牟頭に戀死けるも、ひとめみしゆへなり。藤浪は色よきにたとへていへり
 
3076 住吉之敷津之浦乃名告藻之名者告而之乎不相毛恠《スミノエノシキツノウラノナノリソカナハノリテシヲアハヌモアヤシ》
 
落句はアハナクモアヤシと讀べし、第十四相摸國歌の中に阿波奈久毛安夜思《アハナクモアヤシ》、此に依て云へり、第十一に憑むや君が我名告けむとよめる如く、語らひとげむと思ふ程ならねば名のらぬを、既に名をさへ告つるにあはぬはいかなる故にやと恠しまるるなり、此より下五首寄v藻、
 
初、すみのえのしきつ 名はのりてしをとは、第十一にも、たのむや君かわか名つけゝむとよめることく、かたらひとけんとおもふほとならねは、名のらぬをすてに名をさへ告つるに、あはぬ心のいかにやとあやしまるゝなり
 
3077 三佐呉集荒礒爾生流勿謂藻乃吉名者不告父母者知鞆《ミサコヰルアライソニオフルナノリソノヨシナハノラシオヤハシルトモ》
 
荒礒はアリソと讀べし、序歌ながら荒礒と云へるには人の心のあらびて憑がたき心あり、父母は女の親なり、たとひ親は知て我にゆるすとも人の心の憑がたければ名をば告知らすまじきとなり、第四句を袖中抄によきなはつげずとあるは叶はぬにや、又此歌は第三の赤人の歌に大かた似て心替れり、
 
初、みさこゐるあらいそにおふる これは序哥なから、あらいそといへるに人の心のあらくて、頼かたき心こもれり。下の句は、おやは人のおやなり。たとひ親は知て我にゆるすとも、人の心のあらいそのやうなれは、名をは告しらすましきとなり
 
(16)3078 浪之共靡玉藻乃片念爾吾念人之言乃繋家口《ナミノムタナヒクタマモノカタオモヒニワカオモフヒトノコトノシケケク》
三四の句カタモヒニワガモフ人ノと讀べし、人のとて言乃繁家口とあれば聞えにくき樣なれど吾思ふ人に人言乃繁《ヒトコトノシゲ》けくと云なり、繁は玉藻の縁なり、
 
初、浪のむたなひく玉もの 浪にしたかふ玉もの、かたよるによせて、かたおもひとはつゝけたり
 
3079 海若之奧津玉藻之靡將寐早來座君待者苦毛《ワタツミノオキツタマモノナヒキネムハヤキマセキミマテハクルシモ》
 
第十五に同じ下句あり、彼處に待者を麻多婆《マタバ》とあれば今も然よむべし、
 
3080 海若之奧爾生有繩乘乃名者曾不告戀者雖死《ワタツミノオキニオヒタルナハノリノナハソモノラシコヒハシヌトモ》
 
曾はカツテと讀べし、第十云、木高者|曾木不殖《カツテキウヱシ》云々、
 
3081 玉緒乎片緒爾搓而緒乎弱弥亂時爾不戀有目八方《タマノヲヽカタヲニヨリテヲヽヨハミミタルヽトキニコヒサラメヤモ》
 
搓而、【官本云、ヨリテ、】
 
片緒は片絲に同じ、搓而をヨリシと點ぜるは誤れり、玉の緒を片緒によれるが弱さに絶て玉の亂るゝ如く我思ひもしのぶる事弱りては人の知べく戀ざらめやもとなり、此より下三首は寄2玉緒1、
 
初、玉のをゝかたをによりて なはのことくには、よりあはせすして、かたいとによるを、かたをといへり
 
(17)3082 君爾不相久成宿玉緒之長命之惜雲無《キミニアハテヒサシクナリヌタマノヲノナカキイノチノヲシケクモナシ》
 
玉緒は古今集に貫之の長歌にも玉の緒の短かき心など凡ぞ短かき事に云を、此は玉の緒に寄て長き命とつゞく、第十に鴈の來れば萩の散と云ひ、又初聲聞て咲出るともよめる類なり、
 
3083 戀事益今者玉緒之絶而亂而可死所念《コフルコトマサレハイマハタマノヲノタエテミタレテシヌヘクオモホユ》
 
3084 海處女潜取云忘貝代二毛不忘妹之光儀者《アマヲトメカツキトルテフワスレカヒヨニモワスレシイモカスカタハ》
 
取云はトルトイフともよむべし、代とは我一世を云なり、此一首寄v貝、
 
3085 朝影爾吾身者成奴玉蜻髣髴所見而往之兒故爾《アサカケニワカミハナリヌカケロフノホノカニミエテイニシコユヘニ》
 
次と二首寄v虫、
 
初、朝影にわか身はなりぬ 第十一にも
  朝かけにわか身はなりぬ玉垣のすきまに見えていにしこゆへに
 
3086 中中二人跡不在者桑子爾毛成益物乎玉之緒許《ナカ/\ニヒトヽアラスハクハコニモナラマシモノヲタマノヲハカリ》
 
人跡不在者とは人にてなくばなり、玉之緒許は玉の緒の短かきほどもなり、宗祗の云少の意也、桑子に縁ある詞なり、伊勢物語には戀にしなずば桑子にぞ成べかりけ(18)ると改て見えたり、
 
初、中々に人とあらすは こひ/\てもえあはねは、中々に人にあらぬ身なりせは、玉のをのみしかきほとはかりも、かふことなりてふたこもりなともせまし物をとなり、中々にといふことをは末の世にはゝかるは、初心の人えいひとゝのへされはなり。伊勢物語には
  中々にこひにしなすは桑子にそなるへかりける玉のをはかり
 
3087 眞菅吉宗我乃河原尓鳴千鳥問無吾背子吾戀者《マスケヨキソカノカハラニナクチトリマナシワカセコワカコフラクハ》
 
發句は奈良の枕詞なる安乎爾余志《アヲニヨシ》に准らへてマスゲヨシと讀べし、宗我乃河原は説々あれど大和なり、延喜式神名帳云、高市郡宗我坐宗我都比古(ノ)神社二座、此に依て證す、宗我を蘇我とも蘇賀ともかけり、古事記中孝元天皇の段に武内宿禰の男女を記す中に云、次(ノ)蘇賀石河宿禰(ハ)者蘇我臣等(ノ)之祖也、石河も高市郡の地の名なり、菅と宗我と音の通へるは彼地もとより菅のよきを出しければ名付たる歟、さて眞菅吉とも置歟、推古紀云、二十年春正月辛巳朔丁亥置v酒宴2群卿1、是日大臣上2壽歌1曰云々、天皇和曰、摩蘇餓豫《マソガヨ》、蘇餓能戸羅破《ソガノコラハ》云々、此大臣は蘇我馬子宿禰なれば眞蘇我よと大臣を呼應させ給へる發句歟、若は豫の下に志之等の字脱て今の發句の如く蘇餓能古羅破とのたまふべき枕詞にや、此より去て下九首は寄v鳥、
 
初、ますけよしそかの川原.ますけよしは、そかの川原によき菅のあれは、玉もよきさぬき、あをによしならなとつゝくる例なり。この宗我は大和なり。延書式第九、神名上(ニ)云。大和國高市郡宗我坐宗我都比古神社二座【並大。月次。新甞。】推古紀に、二十年春正月おほみきめして、羣卿《マウチキミタチ》にとよのあかりしたまへる時、蘇我大臣ことほき奉りてよまれたる哥に、みかと御かへしし給ふ哥の初に、摩《・眞》蘇餓豫、蘇|餓能古羅破《・我子等者》云々。此初の四文字は、眞蘇我よと、大臣をほめて呼たまふ詞歟。もしは彼蘇我氏の、此宗我に先租の居住して、氏とするにや。そかとすけと通すれは、ますけよしそかのこらはとよませたまへる歟。八雲御抄には、石見と注したまひ、あるひは出雲、一説には下野なと取々なり。延喜式に載たると、今こゝにかけるとさいはひに文字もおなしけれは、異義を求へからす。よりて神代紀のすか/\しとある一段を不v引なり
 
3088 戀衣著猶乃山爾鳴鳥之間無時無吾戀良苦者《コヒコロモキナラノヤマニナクトリノマナクトキナシワカコフラクハ》
 
著楢、【別校本、猶作v楢、】
 
第六云、韓衣服|楢乃里之《ナラノサトノ》云々、此に依に猶は定て書生の誤なり、戀衣とは戀する人の(19)衣を云といへど今按紅の深染|衣《コロモ》色深く染にしかばか忘かねつるなど、多く深く思ふ心を紅の色に寄たれば、濃き紅の衣を戀衣とは云にや、古今集に耳梨の山の梔子得てしがな思ひの色の下染にせむ、新古今集に大空に照日の色を禁ても天の下には誰か住べき、續後撰集に百敷の袂の數は見しかども別て想ひの色ぞ戀しき、此等皆紅の色を火によせ日に寄せたれば、昔もこひのひを火になして云へるにや、物戀しきの鳴音などよめれば、まれ/\さる事のあるべきにもあらず、腰句以下は第三に高※[木+安]《タカクラ》の三笠の山に鳴鳥の止《ヤメ》はつがるゝ戀もするかもとよめるに同じ意なり、下句は第四坂上郎女歌にも見えたり、又此卷下にもあり、
 
初、戀衣きならの山に 懸衣は懸する人の衣といへり。今案古今集に
  みゝなしの山のくちなしえてしかなおもひの色の下そめにせん
これは思ひのひもしを、火に取なして、紅の色にいひたれは、こひ衣もこき紅の衣にいひなせる歟。績後撰集にも
  百敷のたもとのかすはみしかともわきておもひの色そこひしき
新古今集にも
  おほ空にてる日の色をいさめても天の下には誰かすむへき
これらに思ひ合すへし。きならの山は、たゝなら山なるを、こひ衣をきならすといふ心につゝけたり。第六に、から衣きならの里ともよめり。さきに、ふる川を石上袖ふる川とよめるにて、奈良山なりと知へし。第三に赤人の哥に
  高くらのみかさの山になく鳥のやめはつかるゝ戀もするかも
これとおなし心にて、なかぬまのなきによせたり
 
3089 遠津人獵道之池爾住鳥之立毛居毛君乎之曾念《トホツヒトカリチノイケニスムトリノタチテモヰテモキミヲシソオモフ》
 
鴨は遠く渡り來る物なれば獵を雁に云ひなしてかくはつゞけたり、第二に天飛也輕路者《アマトブヤカルノミチヲバ》ともそへたるに同じ、鴈を人と云へるは第十に霍公息を本人と云へるに委注せしが如し、第七にも登保都比等加里《トホツヒトカリ》我來鳴牟とよめり、此獵道池は第三に人麿の弱薦乎獵路乃小野爾《ワカクサヲカリチノヲノニ》とよまれたる長歌の題に長皇子遊2獵路池1之時とかける池なり、
 
初、遠つ人かりちの池に 鴈はとほくわたりくる物なれは、遠つ人鴈といふ心につゝけたり。第十七に
  けさのあさけ秋風さむし遠つ人鴈かきなかん時近みかも
第十には、ほとゝきすを、もとつ人といへり。獵道の池は大和なるへし。天とふやかるのみちとも、天とふやかるの社ともよめるは、かるとかりとを通していへは、此かりちは彼かるのみちにや。第三に長皇子の、獵路池にあそひたまふ時、人丸のよまれたる哥に委注せり
 
(20)3090 葦邊往鴨之羽音之聲耳聞管本名戀度鴨《アシヘユクカモノハオトノオトニノミキヽツヽモトナコヒワタルカモ》
 
3091 鴨尚毛己之妻共求食爲而所遺間爾戀云物乎《カモスラモオノカツマトチアサリシテオクルヽホトニコフトイフモノヲ》
 
第三譬喩歌の中の紀皇女の御歌引合てみるべし、
 
初、かもすらもおのかつまとち 第三に紀皇女の御哥
  かるの池の入江めくれる鴨すらも玉ものうへに獨ねなくに
 
3092 白檀斐太乃細江之菅鳥乃妹爾戀哉寐宿金鶴《シラマユミヒタノホソエノスカトリノイモニコフレヤイヲネカネツル》
 
白眞弓を引と云意に斐〔右○〕のひともじにつゞけたるは玉匣蘆城河の如し、斐太の細江は第十四東歌に未勘國の歌に比多我多能伊蘇乃和可米乃《ヒタガタノイソノワカメノ》云々、若此は難波潟と云如く斐太潟と云にて比多とのみも云處に今よめる細江も有にや、八雲御抄には飛騨と注せさせ給へり、第十一に斐大人乃|打墨繩之《ウツスミナハノ》云々、此と今の書やうさへ同じきを彼國はいとちひさくて海もなく湖も聞えねば細江あらむことおぼつかなし、菅鳥はいかなる鳥とも知らず八雲にも、鳥の所に出させ給へるのみなり、菅鳥乃と云へるは菅鳥の妻を戀て鳴如く我も妹を戀ればにや啼明していねかねつるとなり、
 
初、白まゆみひたのほそ江 白まゆみ引といふ心につゝけたり。引の字ひとはかりもよむなり。引板とかきて、ひたとよむたくひなり。又玉くしけ明といふ心に、玉くしけあしきの川とよめるをも思ふへし。ひたのほそ江、八雲御抄に、飛騨のよし注し載させたまへるは、斐太の細江といふ名によりて歟。彼國海なき所なれは、おほつかなし。いもにこふれやは、こふれはにやなり
 
3093 小竹之上爾來居而鳴鳥目乎安見人妻※[女+后]爾吾戀二來《サヽノウヘニキヰテナクトリメヲヤスミヒトツマユヱニワレコヒニケリ》
 
(21)第十云、打靡春去來者|小竹之米丹尾羽《シノノメニヲハ》打觸而※[(貝+貝)/鳥]鳴毛、此歌に依れば今鳴鳥と云へるは※[(貝+貝)/鳥]歟、米を末に作れる本を然るべくは思へど、當本によらば篠の末に卷たる葉あるを芽と云ひて、今目乎安見とは彼芽によそへて女の形の目安く見ゆる故に人妻とは思ふ物から戀しきとよめる歟、若他本の意ならば鳥の聲もよく形もよきに女を譬へて目を安みとは云なるべし、下句は第一と第十とに似たる有き、
 
初、さゝの上にきゐて啼鳥 第十哥に、しのゝめに尾羽うちふれて鶯鴬なくもとよめることく、今もめをやすみは、さ、のめによせて、目やすきといふ心なり。めやすきは、事なきわきもとよめることく、わろき事のなくて、目のやすきなり。されは人の妻と知ものゆへに、我こひにけりとなり。第一に
  むらさきのにほへる妹をにくゝあらは人つまゆへに我こひめやも
第十に
  あから引いろたへのこをしはみれは人つまゆへに我こひぬへし
※[女+后]、いまた考さる事、さきにいふかことし。今案第十一に、秋柏ぬるや川へのしのゝめに、又朝柏ぬるや河邊のしのゝめの
とよめる哥、共に寄v草哥につらねたり。ふたつともに、しのゝめもしに用あり
 
3094 物念常不宿起有旦開者和備弖鳴成鷄左倍《モノオモフトイネスオキタルアサケニハワヒテナクナリカケノトリサヘ》
 
發句はモノモフトと讀べし、第二句はネズテオキタルともネナクニオクルともよまるべし、落句はニハツトリサヘとよまばまさるべき歟、物思ひて終夜寢も入らずして起る心から鷄の聲さへ我心を知て侘て鳴やうに聞なすなり、吾戀居者吾屋戸之草佐倍思浦乾來《ワガコヒヲレバワガヤドノクササヘオモヒウラカレニケリ》とよめるが如し、
 
初、ものおもふといねす 第十一に
  我せこをわか戀をれは我宿の草さへおもひうらかれにけり
 
3095 朝烏早勿鳴吾背子之旦開之容儀見者悲毛《アサカラスハヤクナナキソワカセコカアサケノスカタミレハカナシモ》
 
初、朝烏はやくなゝきそ 遊仙窟云。可憎《アナニクノ》病《ヤモメ》鵲(ノ)夜半驚(カス)v人(ヲ)。第十一に
  朝戸やりを早くな明そ味さはふめのほる君かこよひきませる
 
3096 ※[木+巨]※[木+若]越爾麥咋駒乃雖詈猶戀久思不勝焉《マセコシニムキハムコマノノラルレトナホモコヒシクオモヒカテヌヲ》
 
※[木+巨]※[木+若]越爾、【幽齋本云、カキコシニ、】
 
(22)雖詈は古語の例に依てノラユレドと讀べし.落句は思ひあへぬ心なり、又烏は焉に通ずる歟、書生の失錯歟、助語とせる事上にも多かれば今もオモアヘナクとも讀べきか.歌の意はませ越に駒のはむまじき麥はむを見て人の詈りて叱れども獨目かれぬれば又はまむとする如く人を戀る心もみづからいさむれども猶立返りて戀しく成得思ひやまぬ由なり、此より四首は寄v獣、中に初三首は寄v馬、後一首は寄v鹿、
 
初、ませこしにむきはむ駒の ませ垣こしに青麥はむ駒を、人の罵《ノリ》いさへとも、猶もはまゝほしき心に、又かしらさし出して、たひ/\のらるゝことく、我も人をまもる人に、のられしかと、猶こひしさをおもひ忍ひかぬるは、彼麥はむ駒のことしとたとふるなり。第十四に
  くべこしに麥はむこうまのはつ/\にあひみしこらしあやにかなしも
六帖に
  ませこしに麥はむ駒のはつ/\にをよはぬ戀も我はするかな
※[木+巨]※[木+若]《マセ》未v考。十三の十二|※[木+若]垣《ミツカキ》の久しき世より云々。※[木+若]《シモト》、延喜式
 
3097 左檜隈檜隈河爾駐馬馬爾水令飲吾外將見《サヒノクマヒノクマカハニウマトメテウマニミツカヘワレヨソニミム》
 
檜隈河は第七に既に注せり、水令飲をミヅカヘとよめるは水をのましめよと云は、かへと云義なる故なり、第十一に非不飽をあけ〔二字右○〕ともよめる意に同じ、落句は我よそにも見むなり、第三の滿誓の月歌にいざよふ月をよそに見てしか、第四百枝娘子が家持に贈れる歌に何れの日にか又よそに見む、共に今とおなじ、古今集にはかげをだに見むと改たり、
 
初、さひのくまひのくま川に 馬に水かひてしはしとゝまれ。あかぬ別のかなしきに、われよそにたに今しはしみんとなり。ひのくま川大和なり。第二第七に注せり。古今集に
  さゝのくまひのくま川に駒とめてしはし水かへ影をたにみん
 
3098 於能禮故所詈而居者※[馬+総の旁]馬之面高夫駄爾乘而應來哉《オノレユヘノラレテヲレハアシケウマノオモタカフタニノリテクヘシヤ》
 
所詈而居者は古語に依てノラエテヲレバと讀べし、※[馬+総の旁]馬は和名集云、〓馬、説文云、〓【音※[馬+總の旁]、漢語抄云、〓青馬也、黄〓馬葦花毛馬也、日本紀私記云、美太良乎乃宇萬、】青白雜毛馬也、又云、毛詩注云、騅【音錐、漢語抄云、騅馬鼠毛也、】 蒼(23)白雜毛馬也、爾雅注云、〓騅、【今按〓者蘆初生也、吐敢反、俗云葦毛是、】 青白如v〓色也、此引かれたる中に初の説文と後の爾雅注の〓騅の注と同じやうなれば今アシゲウマと點ぜる歟、漢語抄に依らばあをうまと讀べし、日本紀私記に依らばみたらをまのと讀べし、第十三には大分青馬と書てあしげと讀たればまがひぬべき物なり、面高夫駄は馬は常に頭を高く指擧て有物なれば面高と云歟、但然する事は馬ごとの常なり夫駄は物を負する下品の馬なれば馬のかほの高きはよからぬ相などにてかくは讀給へる歟、歌の意は下の注によるに高安王の道はけしかる夫駄に乘て紀皇女の御許へ通ひ給ひける其夫駄に付て事のあらはれて帝より責させ給へる事あるを侘てよませ給へるなるべし、
 
初、おのれゆゑのられてをれは 馬はつねにかしらを高くさしあけて有ものなれは、おも高ふたといへり。夫駄は人夫なとの荷を負する馬なるへし。下の注によりて、歌を心得るに、紀皇女は、天武天皇の皇女、高安王は、和銅六年正月に、初て從五位下に叙せらる。二三世の間にや。養老元年正月に、從五位上に昇進せられて、紀皇女に事ありしは、其年のことなるへし。元正紀に、養老三年七月令3伊豫國守從五位上高安王(ニ)管(セ)2阿波讃岐土佐三國(ヲ)1。かゝれは、位ひきゝ人を馬によせて、おのれゆゑにわかあさましくのられてをれは、あしけうまの、けしかるおもたかふたに乘て、來へき物かとよませたまへるにや。位いやしき人におもひかけられて、心ならすあはせたまへるに、事出來ぬれは、高安王をも、詈らせ給ふ心の哥歟。それにてはなさけなし。いまたよく心を得す。もしにおひうまに乘て、かよひたまへるに、それにつきて、事の出來けるゆへありて、おのれゆへとはよませたまへる歟
 
右一首|平羣文屋《ヘクリノフムヤノ》朝臣益人傳云
 
益人系譜未v詳、
 
昔聞紀皇女竊嫁高安王被責之時御作此歌但高安王|左降《サカウノ》任之伊與國守也、
 
左降(ハ)増韻、人道尚v右以v右爲v尊、故非世(ノ)之術曰2左道1、謫官曰2左遷1云々、自v漢以來至v唐亦(24)謂d去2朝廷(ヲ)1爲c州縣(ヲ)u曰2左遷1、元正紀云、養老三年七月令d伊豫國守從五位上高安王管c阿波讃岐土佐三國u、養老元年正月に從五位下より上に昇進せられたれば左降の年月を知らすと云へども三年までの間なり、
 
3099 紫草乎草跡別別伏鹿之野者殊異爲而心者同《ムラサキヲクサトワク/\フスシカノノハコトニシテコヽロハオナシ》
 
上句は紫を鹿のむつましみてふしどゝすべき草と別入と云へる歟、又紫を異草とわきて伏とよめる歟、句は鹿の野に伏すとは異なれど我妻をむつましみて伏すと彼が紫を伏すと心は同じとよめる歟、
 
初、むらさきを草とわけ/\ 第一卷に、天武天皇いまた皇太子にておはしましける時、額田王の哥のかへしに、むらさきのにほへる妹とよませたまへる御哥に、今のことく、紫草とかけるを、現本に秋はきのとよめり。それはそこに注せることく誤と聞ゆ。こゝは今の本もむらさきとよめり。もしあきはきとよむことはりあらは、今はあきはきとよまは、いよく鹿にたより有ぬへき所なり。鹿も紫をむつましき物に、わけ/\て、そこをふしとゝさたむるは、所々はかはりて、野はことなれと、、鹿の心はおなしきかことく、人もむつましきにつく心は、かはらぬといふ心なるへし
 
3100 不想乎想常云者眞鳥住卯名手乃社之神思將御知《オモハヌヲオモフトイハヽマトリスムウナテノモリノカミシシルラム》
 
落句は神シヽラサムと讀べし、し〔右○〕は助語なり、此歌は第四に太宰大監大伴百代が大野有三笠杜之《オホノナルミカサノモリノ》と同じ歌なり、此一首寄v神、
 
初、おもはぬをおもふといはゝ 第四に
  おもはぬをおもふといはゝ大野なるみかさの森の神し知らみ
まとり住うなての森は、第七に尺せり
 
間答歌
 
3101 紫者灰指物曾海石榴市之八十街爾相兒哉誰《ムラサキハハヒサスモノソツハイチノヤソノチマタニアヘルコヤタレ》
 
紫を染るには灰をさし合せて染るなり、其灰は椿を用ゐれば椿市と云はむために(25)かくは云ひかけて又下のあふと云も其縁なり、和名集云、蘇敬(カ)云、又有2※[木+令]灰1【※[木+令]音靈、】燒2※[木+令]木(ノ)葉1作v之、並入v染用、今按俗所v謂椿灰等是也、延喜式第十四縫殿式去、紫綾一疋【綿紬絲紬東※[糸+施の旁]亦同、】紫草卅斤酢二升灰二石薪三百六十斤、後拾遺集に齋宮女御、紫に八入《ヤシホ》染たる藤の花池にはひさす物にぞ有ける、源氏の眞木柱になどてかく灰あひがたき紫を心に深く思ひそめけむ、紫と灰とは似付べき物とも見えねど能相ことの男女の中も思ひよらぬが相逢戀の習のおかしきなり、道中にて行相たる女に俄に目とまりなどして誰家の子ぞと尋たる心なり、和名を引中に※[木+令]木とは同木類云、玉篇云※[木+令]【音零、一音冷、漢語抄、比佐加木、】似v荊可v作(ル)2染灰1者也、和語の比作加木と云意は比はいまだ其意を知らず、佐加木は龍眼木なるべし、※[木+令]の葉さかきに似てちひさし俗には誤てひさゝぎと云へり、
 
初、紫は次さす物そ 紫をそむるには、灰をさし合てそむるなり。その灰は椿を用れは、つはいちといはむために、かくはいひかけて、又下のあふといふも、その縁なり。和名集(ニ)云。蘇敬(カ)云。又有2※[木+令]灰1。【※[木+令]音靈。】燒2※[木+令]木(ノ)葉(ヲ)1作v之。並(ニ)入(テ)v染(ニ)用。今按(スルニ)俗所謂椿灰等是也。後拾遺集、齋宮女御
  紫にやしほそめたるふちの花池にはひさす物にそ有ける
源氏物語眞木柱に
  なとてかくはひあひかたき紫を心にふかくおもひそめけん
椿市は、上につは市のやそのちまたに立ならしといふ哥に注せり。武烈紀等をもそこにひけり。大和物かたりに、なかころは、よき人々いちにいきてなん色このむわさはしける。拾遺集雜戀に
  すくろくのいちはにたてる人妻のあはてやみなん物にやはあらぬ
紫と灰とはもと似つくへきものとも見えねと、合すれはよくあふなり。男女もたかきいやしき相あふ戀のならひのおかしきなり。みちなかにて行相たる女に、俄に目とまりなとして、誰か家の子そと尋たる心なり
 
3102 足千根乃母之召名乎雖白申路行人乎孰跡知而可《タラチネノハヽノメスナヲマウサメトミチユクヒトヲタレトシリテカ》
 
雖白、【別校本云、マヲサメト、】
 
胸句はハヽガヨブナヲとも讀べし、第十六戀夫君歌に今更|君可吾乎喚《キミガアヲヨブ》足千根乃母之御事歟云々、是母の命の呼かと上の喚を承て云へり、第九詠2上總末珠名娘子1歌に不召爾門至奴云々、今の點柔らかにて女の答には面白くやさしけれど古語の趣を(26)注し侍なり、落句は誰人と知參らせてか我名を申さむと云事を云ひ殘せり、
 
初、たらちねのはゝのめす名を 母のめす名なと、女の返しにはおもしろくやさしきこたへなり
 
右二首
 
3103 不相然將有玉梓之使乎谷毛待八金手六《アハサラムシカモハアリトモタマツサノツカヒヲタニモマチヤカネテム》
 
胸句の點叶はずアハナクバシカモアラムと讀べし、あはぬ事はさも有ぬべきを玉梓をもてくる使をさへ待かねむやとなり、
 
初、あはさらんしかは有とも あはさることの、それはさありとも、使をえてなくさむほとのことつては聞へきを、その使をさへ待やかねてむといへり。將有はあらんをとも讀へし
 
3104 將相者千遍雖念蟻通人眼乎多戀乍衣居《アハムトハチヘニオモヘトアリカヨフヒトメヲオホミコヒツヽソヲル》
 
右二首
 
次の問答は同作者の此を踏める歟、
 
3105 人目太多直不相而蓋雲吾戀死者誰名將有裳《ヒトメオホミタヽニアハステケタシクモワカコヒシナハタカナカアラムモ》
 
下句は上に戀ても死なむ誰名ならめやとよめる如く、誰名にかあらむ君こそ戀死なせたれと云はれめとなり、
 
初、ひとめおほみたゝに わかこひしなは誰名かあらんもとは、君か名こそたゝめと、人をはけましてもよほすなり。上に
  里人もいひつくる《・カタリツク》かねよしゑやしこひてもしなんたか名ならめや
古今集に
  こひしなは誰名はたゝし世の中のむなしき物といひはなすとも
 
3106 相見欲爲者從君毛吾曾益而伊布可思美爲也《アヒミマクホシミシスレハキミヨリモワレソマサリテイフカシミスル》
 
(27)ホシミシのし〔右○〕は助語なり、也は漢の助語に加へたり、
 
右二首
 
3107 空蝉之人目乎繁不相而年之經者生跡毛奈思《ウツセミノヒトメヲシケミアハスシテトシノヘヌレハイケリトモナシ》
 
腰句はアハナクテとも讀べし、落句はイケルトモナシと讀べし、
 
3108 空蝉之人目繁者夜干玉之夜夢乎次而所見欲《ウツセミノヒトメシケケハヌハタマノヨルノユメニヲツキテミマホシ》
 
第四句のを〔右○〕は助語なり、靈のあへば夢に見ゆる故に實に相思ふやを夢にても知べき心こもるべし、
 
右二首
 
3109 慇懃憶吾妹乎人言之繁爾因而不通比日可聞《ネモコロニオモフワキモヲヒトコトノシケキニヨリテアハヌコロカモ》
 
不通は將絶常云而とは此に當りてよめる故なり、
 
初、ねもころにおもふわきもを 不通はゆかぬとよむへし
 
3110 人言之繁思有者君毛吾毛將絶常云而相之物鴨《ヒトコトノシケクシアレハキミモワレモタエムトイヒテアヒシモノカモ》
 
繋思有者はシゲクシアラバと讀べし、し〔右○〕は助語なり、人言の繁くば其時又絶むと云(28)ひて相つるやさは期らざりし物をと勵ましてかへせり、
 
初、人ことのしけくしあらは かくあひて後、人ことのしけくは、その時又たえんといひて、こゝろみにあひしものかと、はけましてかへせるなり
 
右二首
 
3111 爲便毛無片戀乎爲登比日尓吾可死者夢所見哉《スヘモナクカタコヒヲストコノコロニワカシヌヘキハユメニミエキヤ》
 
發句はスベモナキとも讀べし、
 
3112 夢見而衣乎取服装束間爾妹之使曾先爾來《ユメニミテコロモヲトリキヨソフマニイモカツカヒソサキタチニケル》
 
右の一首を發句にてかへしていでゆかむと思ひて衣など著替る程に、そなたよりの使の先立たるとなり、
 
右二首
 
3113 在有而後毛將相登言耳乎堅要管相者無尓《アリアリテノチモアハムトイフノミヲカタミニシツヽアフトハナシニ》
 
言耳乎竪要管はコトノミヲカタクイヒツヽと讀べし、下に要之をいひし〔三字右○〕とよめり、
 
3114 極而吾毛相登思友人之言社繁君爾有《キハマリテワレモアハムトオモヘトモヒトノコトコソシケキキミニアレ》
 
下句第四坂上郎女が必者忘日無久雖念《コヽロニハワスルヽヒナクオモヘトモ》、此歌と同じ、
 
(29)右二首
 
3115 氣緒爾言氣築之妹尚乎人妻有跡聞者悲毛《イキノヲニワカイキツキシイモスラヲヒトツマアリトキクハカナシモ》
 
人妻有跡、【別校本云、ヒトツマニアリト、】
 
第四句ヒトツマアリトと點ぜるは、ひとつまにありとを書生のに〔右○〕を落せるか、ひとつまなりとをな〔右○〕をあ〔右○〕に誤れる歟の間なるべし、
 
3116 我故爾痛勿和備曾後遂不相登要之言毛不有爾《ワレユヘニイタクナワヒソノチツヰニアハシトイヒシコトモアラナクニ》
 
下句は上に乞如何吾幾許戀流吾妹子之《イデイカニワガカクコフルワギモコガ》とよめる歌と同じ、
 
右二首
 
3117 門立而戸毛閉而有乎何處從鹿妹之入來而夢所見鶴《カトタテヽトモトチテアルヲイツクユカイモカイリキテユメニミエツル》
 
胸句は戸モサシタルヲとも讀べし、閉は神代紀にもサスと點ぜり、
 
初、門たてゝ戸も 此上に度々注しつ
 
3118 門立而戸者雖闔盗人之穿穴從入而所見牟《カトタテヽトハサシタレトヌスヒトノヱレルアナヨリイリテミエケム》
 
穿、【幽齋本云、ホレル、】
 
(30)雖闔は今按今の點も能意得れば背かねどサセリとも或はサシヌトモと讀べき歟サセレドモとよまば此も今の點と同じ或はホレバと讀べき歟、第十六に眞朱穿丘をあかにほるをかとよめり、
 
初、かとたてゝ戸はさしたれと 和名集云。世説云。園中夜呵(シテ)云有2偸兒1【和名奴須比止。】竊盗【和名美曾加奴須比止。】
 
右二首
 
3119 從明日者戀乍將在今夕彈速初夜從緩解我妹《アスヨリハコヒツヽアラムコヨヒタニハヤクヨヒヨリヒモトケワキモ》
 
將在、【幽齋本、在或作v去、點云ユカム、】  緩、【別校本作v綏、幽齋本或作v紐、】
 
緩はヒモと讀べき由字書に見えず、別校本に綏に作れども綏の字も亦此義なし、綬を組也と注してくみとよめば此字の義ひもに近し、然れば此を誤て緩には作れる歟、此歌は任國などに赴くべき人のよめる歟、
 
初、緩【未v考】綏歟【此字未v考】
 
3120 今更將寐哉我背子荒田麻之全夜毛不落夢所見欲《イマサラニネムヤワカセコアラタマノマタヨモオチスユメニミマホシ》
 
荒田麻之全夜毛不落とは荒田麻の夜と云へるも年月などつゞけたるに同じ、全夜は一夜の心なるべし、此は初の歌の末の三句は云に及ばぬ事にて初の二句を委かへせり、
 
初、今更にねむやわかせこ あらたまのまた夜もおちす、あらたまの夜とつゝくるは、年月日夜みなあらたまりて、うつりゆく故なるへし。また夜もおちすは、ひと夜もおちすといふにおなし。たとへは書なと、もとより一卷あるを、全といふかことし
 
(31)右二首
 
3121 吾勢子之使乎待跡笠不著出乍曾見之雨零爾《ワカセコカツカヒヲマツトカサモキテイテツヽソミシアメノフラクニ》
 
此歌第十一に既に出たり、
 
3122 無心雨爾毛有鹿人目守乏妹爾今日谷相乎《コヽロナキアメニモアルカヒトメモリトモシキイモニケフタニアハムヲ》
 
相牟、【官本、牟作v乎、】
 
牟は乎なるべし、
 
右二首
 
3123 直獨宿杼宿不得而白細袖乎笠爾著沾乍曾來《タヽヒトリヌレトネカネテシロタヘノソテヲカサニキヌレツヽソクル》
 
3124 雨毛零夜毛更深利今更君將行哉※[糸+刃]解設名《アメモフルヨモフケニケリイマサラニキミハユカメヤモヒモトキマケナ》
 
深の下に計氣等の字を脱せるか、
 
右二首
 
3125 久堅乃雨零日乎我門爾※[草がんむり/衣]笠不蒙而來有人哉誰《ヒサカタノアメノフルヒヲワカカトニミノカサキステクルヒトヤタレ》
 
(32)伊勢物語に蓑も笠も取あへでしとゝにぬれて迷ひ來にけり、
 
初、久かたの雨のふる日を さらても天象には久かたと置へきを、雨は天におなしけれは、久かたとはいへり。伊勢物語に、雨のふりぬへきになん見わつらひ侍。みさいはひあらは此雨はふらしといへりけれは、れいのおとこ、女にかはりてよみてやらす
  かす/\におもひおもはすとひかたみ身を知雨はふりそまされる
とよみてやれりけれは、みのもかさも取あへてしとゝにぬれてまとひきにけり
 
3126 纒向之病足乃山爾雲居乍雨者雖零所沾乍焉來《マキモクノアナシノヤマニクモヰツヽアメハフレトモヌレツヽソクル》
 
第七に連庫山爾雲居者雨曾零智否《ナミクラヤマニクモヰテハアメゾフルチフ》とよめるが如し、
 
初、まきもくのあなしの山に 第七に
  さゝ浪のなみくら山にくもゐては雨そふるちふかへりこわかせ
 
右二首
 
羈旅發思
 
3127 度會大川邊若歴木吾久在者妹戀鴨《ワタラヒノオホカハノヘノワカクヌキワレモヒサニアラハイモコヒムカモ》
 
度會は伊勢の郡の名、大河は五十鈴川なるべし、歴木の若きが行末久しくあらむによせて我久ニアラバとはよめり、ワガヒサナラバとも讀べし、
 
初、わたらひの大川のへの 度會は伊勢なり。わかくぬきの、行末久しくあらんによせて、われひさにあらはといへり
 
3128 吾妹子夢見來倭路度瀬別手向吾爲《ワキモコヲユメニミエコトヤマトチノワタルセコトニタムケワレスル》
 
うつゝに相見む事は思ひもかけず夢にも見え來よと其ために倭路を出しより度る河ごとに神に幣を手向るとなり、
 
3129 櫻花開哉散及見誰此所見散行《サクラハナサキテヤチルトミルマテニタレカコヽニテチリユクヲミム》
 
(33)此は道まで伴なひ來たる人のそれも行方かはりて別るとてよめる歟、故郷を別て出し時は櫻の散行を惜む如く妹が別を惜みしを、今|此處《コヽ》にて散々《チリ/”\》になれど誰か櫻の如くは見むと、彌妻を思ひ出てよめるなるべし、
 
初、櫻花さきてやちると これは道まてともなひきたる人の、それも中比より、ゆくかたかはりてわかるとてよめる歟。心は、ふるさとをわがわかれ出し時は、櫻のちるをゝしむことく、妹か別を惜みしを、今こゝにて、心ほそくちり/\になれと、誰か櫻のちるやうには見ておしむ人あらんと、故郷の妹をおもひ出てこふるなり
 
3130 豐洲聞濱松心喪何妹相之始《トヨクニノキクノハママツコヽロニモナニトテイモカアヒシソメケム》
 
心喪、【紀州本云、ココロイタク、】  何妹、【幽齋本云、ナニトテイモニ、】  相之始、【幽齋本、之作v云、】
 
聞濱は第七に注せし如く豐前なり、心喪を紀州本にこゝろいたくと點ぜるに依らば喪は哀の字なるべき歟、第十一に礒上立回香瀧心哀《イソノカミタチマフタキノコヽロイタク》云々、此第二の句瀧は※[木+龍]にてたてるわかまつなるべしと申き、然らば今のつゞき相同じ、何妹はナニシカイモニと讀べし、し〔右○〕は助語なり、ナニトテは惡からねど古語めかぬ故なり、相之始は今の點にてはし〔右○〕は又助語なり、幽齋本に之を云に作れるに依らばアヒイヒソメケムと讀べし、此は都より豐前へ下りける日人の女を思ひ出て戀しければ何か都にて心いたく物を相云ひそめけむ、さらずばかくまでは旅もうからざらましをとよめるなり、
 
初、とよくにのきくの濱松 聞濱は豐前なり。第七にすてに注せり。此下にもあり。第十六には、豐前國白水郎か哥に、とよくにのきくの池ともよめり。心とつゝけたるは、禮記云。禮(ハ)其在v人(ニ)也、如2竹箭(ノ)之有(ルカ)1v※[竹/均]也。如2松柏(ノ)之有(ルカ)1v心也。易(ニ)云。其(ノ)於(ル)v木(ニ)也、爲(ス)2堅(シテ)多(シト)1v心《ナカコ》。天竺には質多《シツタ》と、汗栗駄《カリタ》との名あり。質多は縁慮の心なり。汗栗多は處中に名つくとて、草木等の心といふ、此に攝す。此わかちあれとも、和語に心といふ事おなし。今豐國に來て、聞濱松を見るにつけても、妹をわすれされは濱松のこゝろにいひつゝけて、かく旅のうれへにそへて戀しくは、何とて悔しく妹にあひそめけむとなり。第三に人丸筑紫へ下らるゝ時の哥あり。其度の哥なるへし
 
右四首柿本朝臣人麿歌集出
 
(34)3131 月易而君乎婆見登念鴨日毛不易爲而戀之重《ツキカヘテキミヲハミムトオモカモヒモカヘスシテコヒノシケヽキ》
 
念鴨、【官本云、オモヘカモ、】
 
六帖に遠道へだてたると云題に、月かへて君をばみむと云ひしかど日だにくるれば戀しき物をとて貫之とあるは似たる歌歟、其歌後撰集には第四句日だにへだてずとあり、
 
初、月かへて君をはみんと 月かへてとは、たひに出る人の、八月に出て九月に歸ることきをいふ。おもへかもは、おもへはにかもなり。日もかへすしては、わかれてのやかてにこひしきなり。古今集に
  わかれてはほとを隔つとおもへはやかつみなからにかねてこひしき
 
3132 莫去跡變毛來哉常顧爾雖往不滿道之長手矣《ナユキソトカヘリモクヤトカヘリミニユケトカヘラスミチノナカテヲ》
 
我をな行そとて送りぬる人の道より我方へ立歸ても云はゞそれを由にして止まりなむと思ひて顧しつゝゆけども送の人のなゆきそと立返りて呼も返さずとよめり古今集に人やりの道ならなくに大かたはいきうしと云ひていざ歸りなむ、
 
初、なゆきそとかへりもくやと 我を送る人の、さらはよとわかれていぬるが、おもひかねて我かたへ立かへり來て、なゆきそとゝめもやする。とゝめもせはけふはとゝまらんとかへり見をしつゝゆけとも、とまれとてよひもかへさぬといふ心なり。
古今集に
  人やりの道ならなくに大かたはいきうしといひていさかへりなん
文選宋玉(カ)九辯(ニ)云。〓慄(タリ)。若(シ)d在(テ)2遠行(ニ)1登(リ)v山(ニ)臨(テ)v水(ニ)兮送(テ)將(ニ)uv歸(ラント)。潘岳(カ)秋興(ノ)賦(ニ)云。若(シ)d在(テ)2遠行(ニ)1、登(リ)v山(ニ)臨(テ)v水(ニ)送(テ)將(ルカ)uv歸(ラント)。夫送(テ)歸(ラントスレハ)懷2慕徒之戀(ヲ)1兮。遠(ク)行(ントスレハ)有2※[羈の馬が奇]旅(ノ)之憤1。わかるゝ時はたれも/\さる事にて、あはれなる哥なり
 
3133 去家而妹乎念出灼然人之應知歎將爲鴨《タヒニシテイモヲオモヒイテイチシロクヒトノシルヘクナケキセムカモ》
 
去家は義訓なり、腰句以下は此卷上にも第十一にも大方同じ歌ありき、落句は唯歎をせむかなり、歎せむやせじとにはあらず、
 
初、去家 義をもてかけり
 
3134 里離遠有莫國草枕旅登之思者尚戀來《サトハナレトホカラナクニクサマクラタヒトシオモヘハナヲコヒニケリ》
 
(35)發句はサトサカリと讀べし、旅トシのし〔右○〕は助語なり、
 
3135 近有者名耳毛聞而名種目津今夜從戀乃益々南《チカケレハナノミモキヽテナクサメツコヨヒソコヒノイヤマサリナム》
 
今夜從は今の點誤れり、コヨヒユと讀べし、
 
3136 客在而戀者辛苦何時毛京行而君之目乎將見《タヒニアリテコフレハクルシイツシカモミヤコニユキテキミカメヲミム》
 
イツシカのし〔右○〕は助語なり、
 
3137 遠有者光儀者不所見如常妹之咲者面影爲而《トホケレハスカタハミエスツネノコトイモカヱマヒハオモカケニシテ》
 
3138 年毛不歴反來甞跡朝影爾將待妹之面影所見《トシモヘスカヘリキナメトアサカケニマツラムイモカオモカケニミケム》
 
妹之、【幽齋本云、イモシ、】  所見、【官本云、ミユ、】
 
第二句の跡〔右○〕は雖〔右○〕なり、朝影爾とは思ひ痩るなり、落句の點誤れり、官本に依てたゞすべし、
 
初、年もへすかへりきなめと ともし濁て、雖の字となして讀へし。我は年もへす、かへりきなめとも、戀やせて、影のことくになりて、待らん妹かおもかけにみゆるとなり。所見はみゆと讀へし
 
3139 玉梓之道爾出立別來之日從于念忘時無《タマホコノミチニイテタチワカレコシヒヨリオモフニワスルヽトキナシ》
 
玉梓、【幽齋本、梓作v桙、】
 
(36)梓は桙に作るべし、
 
初、玉桙之道爾 桙誤作梓
 
3140 波之寸八師志賀在戀爾毛有之鴨君所遺而戀敷念者《ハシキヤシヽカアルコヒニモアリシカモキミニオクレテコヒシキオモヘハ》
 
發句は下に君と云は夫君を云へば波之寸八師君よと呼懸て物を問やうに云ひ出せる歟、然在習にて有し物が君に後れ居て戀しきを以て思へばと戀しき心をつよく云はむために、戀と云事を初より知らぬまねしてよめるにや、
 
初、はしきやししかあるこひにも こひといへは、昔よりしかのことくあるものにて有しかもなり
 
3141 草枕客之悲有苗爾妹乎相見而後將戀可聞《クサマクラタヒノカナシクアルナヘニイモヲアヒミテノチコヒムカモ》
 
下句は第十に春霞山棚引欝《ハルカスミヤマニタナヒクオボツカナ》とよめる末と同じながら、今の意は歸て妹に相見て後彌なつかしく戀思はるべしとよめるなり、又歸て相見て後はいかにあはずして程經る事有とも戀思むや、此旅に在て音信《オトヅレ》をもきかぬ悲しさをくらべば戀思はじとよめる歟、
 
初、草枕たひのかなしく有なへに 家に歸てふたゝひ妹にあひ見て後こひむかも。後はいかにあはすして過すとも、旅にくらへてこひもせしとなり
 
3142 國遠直不相夢谷吾爾所見社相日左右二《クニトホミタヽニハアハスユメニタニワレニミエコソアハムヒマテニ》
 
3143 如是將戀物跡知者吾妹兒爾言問麻思乎今之悔毛《カクコヒムモノトシリセハワキモコニコトトハマシヲイマシクヤシモ》
 
言問麻思乎とは別るゝ時に能物をいはまし物をとなり、第四の人麿の歌に家の妹(37)に物云はず來て思ひかねつもと有しが如し、之〔右○〕は助語なり、
 
3144 容夜之久成者左丹頬合※[糸+刃]開不離戀流比日《タヒノヨノヒサシクナレハサニツラフヒモトキサケスコフルコノコロ》
 
容は書生の誤なり客に作るべし、不離を袖中抄にとさあへずとあるは誤なり、
 
初、客夜之久成者 客誤作容。あをしのふらしは我をなり
 
3145 吾味兒之阿乎偲良志草枕旅之丸寐爾下※[糸+刃]解《ワキモコカアヲシノフラシクサマクラタヒノマロネニシタヒモトケヌ》
 
吾妹兒之、【校本古點云、ワキモコシ、】
 
阿乎は吾をなり、
 
3146 草枕旅之衣※[糸+刃]解所念鴨此年比者《クサマクラタヒノコロモノヒモトケテオモホユルカモコノトシコロハ》
 
紐解所念鴨とは前後の歌故郷の妻の我を思ふ驗に我紐のとくると讀たれば、此歌も我妻を思ふに依て我紐の解と云にはあらず、妻の我を思ふ驗に依て紐の解るまで年比の久しくおもほゆるとよめる歟、
 
初、草まくら旅の衣の 人の、我をこふれは、ひもとくるなり
 
3147 草枕客之※[糸+刃]解家之妹志吾乎待不得而歎良霜《クサマクラタヒノヒモトクイヘノイモシワヲマチカネテナケキスラシモ》
 
紐解とはおのづから解るなり志は助語なり、吾之はアガと讀べし、われをかなりあ〔右○〕はやがて上に阿乎《アヲ》と云へり、之は第十に梅を來つゝ見るかねとよめるか〔右○〕にもかけり、
 
(38)3148 玉釼卷寢志妹乎月毛不經置而八將越此山岫《タマツルキマキネシイモヲヨモツカスオキテヤコエムコノヤマノサキ》
 
月毛不經、【幽齋本云、ツキモヘス、】
 
腰句今の點誤れり、幽齋本に依るべし、岫は和名鈔云、陸詞云、岫(ハ)山穴(ノ)似v袖(ニ)、似祐反【和名久木、】今按洞は和名保良なれども仲哀紀に洞此云2久岐1と注し給へば、ほら〔二字右○〕とくき〔二字右○〕と同じ事にや、此は妻を迎へて程なく任國などに赴く人のよめる歟、
 
初、玉つるきまきねし妹を 月毛不經を、よもつかすと讀たれと、只字のまゝに、月もへすとよむへし。これは妻をむかへて、ほとなく任國なとにおもむく人の哥なるへし。第四に
  朝日影にほへる山にてる月のあかさる君を山こしに置て
岫は陸詞云。岫山穴似(タリ)v袖(ニ)。しかれは、※[山+袖]の心にて、衣をはふけるなり
 
3149 梓弓末者不知杼愛美君爾副而山道越來奴《アツサユミスヱハシラネトウツクシミキミニタクヒテヤマチコエキヌ》
 
君とは夫君を指て云へば夫を弓に喩へ我身を矢によそへて發句を承て副ふと云歟、然らば末は知らねどゝは男の心を云なり弓と云へば矢と云はざれど一具の物なれば其意を云にそなはるなり、神功皇后紀に熊之凝が歌に菟區喩彌珥末利椰塢多具陪《ウクユミニマリヤヲタクヘ》云々、
 
初、あつさ弓すゑはしらねと 男女のなからひの行末と旅の行末とをかぬへし。これは妻を具して旅に行人の哥なり。日本紀に、隼別皇子、雌鳥皇女を盗て、難波より大和へにけて、兎《ウ》田(ノ)素珥《ソミ》山を越たまふとての哥
  はしたてのさかしき山もわきもことふたりこゆれはやすむしろかも
 
3150 霞立春長日乎奧香無不知山道乎戀乍可將來《カスミタツハルノナカヒヲオクカナクシラヌヤマチヲコヒツヽカコム》
 
3151 外耳君乎相見而木綿牒手向乃山乎明日香越將去《ヨソノミニキミヲアヒミテユフタヽミタムケノヤマヲアスカコエナム》
 
(39)木綿牒を六帖にゆふたすきとあるは誤なり、
 
初、よそにのみ君をあひみて ゆふたたみ手向の山とつゝけたるは、第六に坂上郎女哥に注せしことく、あふ坂なり。彼哥の詞書に見えたり
 
3152 玉勝間安倍島山之暮露爾旅宿得爲也長此夜乎《タマカツマアヘシマヤマノユフツユニタヒネハエスヤナカキコノヨヲ》
 
發句は上に注せしが如し、安倍島山とつゞくる意は籠は引しめてくむ物なれば島をしむと云になしてなり、下に島熊山とつゞけたるもしめてくむと云になせり、第十一に玉緒之島意とつゞけたるを思ひ合すべし、又竹取物語云、世の人々安倍の大臣火鼠の裘をもていましてかくやひめに住給ふとてこゝにやいますなど問ふ、或人の云、皮は火にくべて燒たりしかばめら/\わ燒にしかば、かくや姫あひ給はずと云ひければ、是を聞てぞとげなきものをばあへなしと云ける、今此に依れば、あへてしむると云意につゞくる歟、又第八、十九長歌に霍公鳥|喧始音乎橘珠爾安倍貫《ナクハツコヱヲタチバナノタマニアヘヌキ》とよめるは第八藤原夫人の歌に五月玉爾相貫左右《サツキノタマニアヒヌクマデ》にとあるに引合せて注せし如く相貫なれば今もあひしむと云意につゞくる歟、得爲也は第十一にも見えつ、今は得爲すと云落着なり、
 
初、玉かつまあへしま山 上に注せしことく、玉かつまは、玉の緒をいふ歟。玉の緒のしま心とつゝけたるを思ふに、嶋の字につゝけたるへし。安倍嶋山は第三赤人の哥にもよめり。八雲御抄に津の國歟と注せさせたまへり。たひねはえすや、此やうのえもし、今はえせしとやうにのみいひならへり。此集の後は見えさるつかひやうなり。此集にも、第十一に、おもわすれたにもえすやとよめると、此哥とのみなり。これはをとこの出てゆけるをおもひて、つまのよめるなり
 
3153 三雪零越乃大山行過而何日可我里乎將見《ミユキフルコシノオホヤマユキスキテイツレノヒニカワカサトヲミム》
 
三雪零は越の枕詞なり、第十七十八にもかくつゞけたり、大山は和名鈔云、越中國婦(40)負【禰比】郡大山【於保也萬、】行過テとは大山のあなたを云にあらず官事など事畢て歸てと云なり、
 
初、みゆきふるこしの大山 おほ山は越中なり。和名集云。越中國婦負《ネヒ和名・メヒ此集》郡大山【於保也萬】
 
3154 乞吾駒早去欲亦打山將待妹乎去而速見牟《イテアカコマハヤクユカムヨマツチヤママツラムイモヲユキテハヤミム》
 
早去欲、【催馬樂云、ハヤクユキコセ、六帖同v此、】  乞吾駒、【催馬樂云、イテワカコマ、六帖同v此、】
 
早去欲は今按ハヤユカマホシと讀を此集の意とすべし、今の點はよからず、催馬樂の讀は集中に例なし、亦打山を承て待ランとたゝみて云へり、今按此亦打山は大和なるにはあらで紀伊國なり、
 
初、いてあかこまはやくゆかんよ いては物をこふ詞なり。允恭紀に厭乞戸母《イテトジ》といへる詞、第四卷坂上郎女か、我子の刀自とよめる哥に、刀自につきてひけり。よりて乞の字をかけり。さきにも有き。まつち山をうけて、まつらんといへり。此哥催馬樂には
  いてわか駒早く行こせまつち山待らん人をゆきてはやみむ
早去欲とかきたれははやゆかまほしにても有けむ
 
3155 惡木山木末悉明日從者靡有社妹之當將見《アシキヤマコスヱコソリテアスヨリハナヒキタルコソイモカアタリミム》
 
惡木山は筑前蘆城野|蘆城河《アシキガハ》を讀たれば此も蘆城山にや、木末悉はコヌレコト/”\と讀べき歟、靡有社はナビキタルコソとあるは書生の失錯なるべし、ナビキタレコソと讀べし、或は約めずしてナビキテアレコソとも讀べし、第二に妹之門《イモガカド》將見靡此山とある意なり、
 
初、あしき山こすゑこそりて あしき山は筑前なり。第八に、太宰諸卿大夫并官人等宴(スル)2筑前國蘆城(ノ)驛家1歌二首云々。その哥に、あしき野とも、あしきの川ともよめり。こそりては、世こそりて、舟こそりてなといふことく、こと/\くの心なり。すなはちこゝに悉の字をかきたれは、木すゑこと/\とも、こすゑをつくしともよみぬへし。なひきたれこそは、なひきてあれこそなり。靡垂《ナヒキタレ》よといふにはあらす。第二に人丸の哥に、いもか門みむなひけ此山とよまる。第十三に、なひかすと人はふめともかくよれと人はつけとも心なき山のおきそ山みのゝ山ともよめり
 
3156 鈴鹿河八十瀬渡而誰故加夜越爾將越妻毛不在君《スヽカカハヤソセワタリテタレユヘカヨコエニコエムツマモアラナクニ》
 
(41)鈴鹿河は伊勢國鈴鹿郡にあり、催馬樂云、鈴鹿川八十瀬の瀧を皆人のあくるもしるく時にあへるかも、源氏物語に鈴鹿川八十瀬の波にぬれ/\て伊勢まで誰か思ひ遣《オコ》さむ、此等皆今の歌より出たり、
 
初、鈴鹿川やそせわたりて 催馬樂にも
  鈴香川八十瀬の瀧をみな人のあくるもしるく時にあへるかも
源氏物語に
  すゝか河やそせの浪にぬれ/\ていせまて誰かおもひおこさん
 
3157 吾妹兒爾又毛相海之安河安寐毛不宿爾戀度鴨《ワキモコニマタモアフミノヤスカハノヤスイモネスニコヒワタルカモ》
 
安河は野洲郡にあり、戀渡は河の縁の詞なり、
 
初、わきもこに又もあふみの やす川は、野洲郡にあり
 
3158 客爾有而物乎曾念白浪乃邊毛奧毛依者無爾《タヒニアリテモノヲソオモフシラナミノヘニモオキニモヨルトハナシニ》
 
3159 湖轉爾滿來塩能彌益二戀者雖剰不所忘鴨《ミナトワニミチクルシホノイヤマシニコヒハマサレトワスラレヌカモ》
 
雖剰、【幽齋本云、マセトモ、】
 
第四の山口女王の歌の意に同じ、落句はワスラエヌカモと讀べし、
 
初、みなとわにみちくるしほの 第四に
  あしへよりみちくる塩のいやましにおもふか君かわすれかねつる
 
3160 奧浪邊浪之來依貞浦乃此左太過而後將戀鴨《オキツナミヘナミノキヨルサタノウラノコノサタスキテノチコヒムカモ》
 
第十一に既に出たり、
 
初、おきつ浪へなみのきよる 此哥既見2第十一巻之三十六葉(ニ)1
 
3161 在千潟在名草目而行目友家有妹伊將鬱悒《アリチカタアリナクサメテユカメトモイヘナルイモヤイフカシミセム》
 
(42)在千方は何れの國に在と云事を知らず、在ナグサメテとは在千方の名を承て此處に在て面白き景氣を見て幾日も在て慰てゆかむずれどもなり、伊をや〔右○〕とよめるは第五の房前卿の歌の落句の都地爾意加米移毛《ツチニオカメヤモ》の移の字の如し、
 
初、ありちかたありなくさめて 在干潟は、いまたいつれの國に有といふことをしらす。ありなくさめては上のありちかたをうけてこゝにありて、心をなくさむるなり。伊は也と通して用たり。第五に房前の哥に、たなれのみことつちにおかめやもといふやには、移の字をかけり。移と伊と音おなし
 
3162 水咫衝石心盡而念鴨此間毛本名夢西所見《ミヲツクシコヽロツクシテオモカモコノマモモトナユメニシミユル》
 
顯昭の古今秘注にみをつくしとはみをじるしなり、江河の深き所に木をたてゝ是ぞ水尾としらすればそれをみをと知て舟をばのぼり下すなり、又云、國史には難波江に始立2澪標1之由しるせり、今按日本紀續日本紀等には見えざれば國史とは類聚國史にや、名の意は水脉津|籤《クシ》にてつ〔右○〕は助語なり、延喜式第五十雜式云、凡難波津(ノ)頭海中立2澪標1、若有2舊標朽折者1捜求拔去、今咫衝石心とかけるは咫の字不審なり、之爾切なれば音を借るにあらず、日本紀に七咫をナヽアタと點ぜれば和訓を借れるにもあらず、若越の字の傳寫の誤にや、今みをつくしと云へるは難波津に立るを始とする故にや此たてる所にやがてみをつくしと名づくるなり、土左日記云、六日みをつくしのもとより出て難波の津を來て河尻に入ると云へり、忠見集に名所の御屏風の歌の中にみをつくしをよめる歌、吹風に任する事もみをつくし待と知らでや指て(43)來つらむ、今元良親王の難波なる身を盡してもとよそへさせ給へる如く、心つくしてと承けたるは念鴨を六帖にはおもふかもとあれどオモヘカモと讀べし、是は故郷の妻の心を盡して我を思へばにか魂の通ひて此方にも由なく頻に夢に見ゆるとなり、うつゝにはあはで夢のみにみゆればもとな〔三字右○〕とは云なり、夢ニシのし〔右○〕は助語なり、
 
初、みをつくし心つくして みをつくしは、顯昭の古今注に、みをつくしとは、みをしるしなり。江河のふかき所に、木をたてゝ、これそみをとしらすれは、それをみをと知て、舟をはのほりくたすなり。延喜式第五十雜式云。凡(ソ)難波津(ノ)頭《ホトリノ》海中(ニ)立(ヨ)2澪標《ミヲツクシヲ》1。若有(ラハ)2舊(キ)標(ノ)朽(テ)折(ルヽ)者(ノ)1捜(リ)求(テ)拔(キ)去(レ)。顯注に、國史には、難波江に始立(ル)2澪標(ヲ)1之由しるせりといへと、日本紀續日本紀等に見ゆることなし。若菅家の類聚國史なとに有ける歟。六帖、みをつくし
  川浪もうしほもかゝるみをつくしよするかたなき戀もするかな
土佐日記にいはく。六日みをつくしのもとより出て、なにはの津をきて、河尻にいるといへり。これによるに、此哥羈旅の作にて、前後におほく名所をよみたれは、難波にての作なるへし。みをつくしをうけて心つくしてといへり。おもへかもは、おもへはかもなり。此間もは、このあひたなり。第七にも此月の此間にくれはとよめり。水咫衝石とかけるは、正字にはあらす。かりてかけり。しかるに、咫の字をのかんなに用たる、いまたその心を得す。音を取にあらす。日本紀に、七咫とかきて、なゝあたとよめり。八咫鏡はやたのかゝみ、八咫烏はやたからす、これらはやあたといふへきを、やのひゝきをうけて、下を上畧せるなり
 
3163 吾妹兒爾觸者無二荒礒回爾吾衣手者所沾可母《ワキモコニフルトハナシニアラソワニワカコロモテハヌレニケルカモ》
 
荒礒回爾、【幽齋本、囘作v廻、】
 
腰句はアリソワニと讀べし、思はぬ荒礒に袖を觸てぬらすとなり、
 
初、わきもこにふるとは 妹にこそ袖をかはして觸へきに、あらぬあらいその浪にぬらすとなり
 
3164 室之浦之湍門之崎有鳴島之礒越浪爾所沾可聞《ムロノウラノセトノサキナルナキシマノイソコスナミニヌレニケルカモ》
 
室の浦は播磨なり、鳴島は今も同じ名に呼べり、此島の名に我泣を兼、礒越浪に涙を兼たり、
 
初、むろの浦のせとのさきなる 播磨の室浦なり。鳴島からみしまなといふ嶋今もきこゆ。なきしまを、故郷の妻を戀てなくによせて、いそこす浪にぬるゝといふに、涙をかねたり
 
3165 霍公鳥飛幡之浦爾敷浪乃屡君乎將見因毛鴨《ホトヽキストハタノウラニシクナミノシハ/\キミヲミムヨシモカモ》
 
霍公鳥のとぷとつゞく四に白鳥能飛羽山松《シラトリノトバヤママツ》とつゞけたるになずらへば今も飛ぶ(44)羽と云へる歟、八雲御抄に石見の由注せさせ給へり、
 
初、むろの浦のせとのさきなる 播磨の室浦なり。鳴島からみしまなといふ嶋今もきこゆ。なきしまを、故郷の妻を戀てなくによせて、いそこす浪にぬるゝといふに、涙をかねたり
 
3166 吾妹兒乎外耳哉將見越懈乃子難懈乃島楢名君《ワキモコヲヨソノミヤミムオチノウミノコカタノウミノシマナラナクニ》
 
第二句はよそにのみや見むなり、越懈をヲチノウミと點ぜるは彼方の海と云意歟、第十六に紫乃|粉滷乃《コガタノ》海とよめるを八雲御抄に筑前と注せさせ給へるは筑前に然云處の有にや、然らば今の子難懈も同處なるべし、但第十六の歌は前に筑前國志賀白水郎歌十首ありて其注の終に或云筑前國守山上憶良臣云々、此次にあるは上と共に筑前なりと思召ける歟、元輔集云、中務がある所に罷りたりしに貝を籠《コ》に入れて侍しに波間分みるかひもなし伊勢の海のいづれこがたのなごりなるらむ、此に依れば伊勢にもこがたと云所ある歟、今按越懈は校本の又の點にこしのうみとある然るべし、懈は借てかけり、若は※[さんずい+解]にや、子難の海の島こそよそに見えめ吾妹兒は島ならぬをもよそにのみや見むとなり、唯よそに有を云へり、島の如くも見ゆるにはあらず、
 
初、わきもこをよそのみやみん よそのみやみんは、よそにのみやみんなり。越懈は、こしのうみとよむへし。こかたの海は、第十六に
  紫のこかたの海にかつく鳥玉かつき出はわかたまにせん
これもおなし所なるへし。懈はもし※[さんずい+解]歟。但懈もうむとよめは、かりてかけるなるへし
 
3167 浪間從雲位爾所見粟島之不相物故吾爾所依兒等《ナミノヨリクモヰニミユルアハシマノアハヌモノユヘワレニヨソルコラ》
 
粟島を承てアハヌと云へり、遙なる見ゆる粟島の如く相見ぬ物故に彼處《ソコ》より此方(45)にも依り來る浪の如く我に依れる兒等が心の忘られぬとなり、
 
初、浪まより雲ゐにみゆる 粟嶋をうけて、あはぬ物ゆへとつゝけたり。旅の戀の哥なれは、見る所の粟嶋をかりて、あひ見ぬものゆへに、我によれるこらをこひおもふといふよしなり
 
3168 衣袖之眞若之浦之愛子地間無時無吾戀钁《コロモテノマワカノウラノマナコチノマナクトキナシワカコフラクハ》
 
眞袖と云事のあれば白管の眞野と云如く眞の字をまうけむとて衣袖之とはおけり、眞若浦は八雲に石見と注せさせたまへり、愛子地は第七に注せし如く女を兼たり、さてまな〔二字右○〕の二もじを承て間無とはいへり、此下句上に二首見えたり、
 
初、ころもてのまわかの浦 ふたつの袖をまそてといふゆへに、眞の字にかゝりて、衣手のといへり。白菅の眞野といふかことし。眞若の浦、八雲御抄には、これをも石見と注したまへり。外にかんかふる所なし。まなこちをうけて、まなく時なしといへり。此下句、上にこひ衣きならの山になく鳥のといふに全同なり
 
3169 能登海爾釣爲海部之射去火之光爾伊往月待香光《ノトノウミニツリスルアマノイサリヒノヒカリニイマセツキマチカテラ》
 
伊往、【官本亦云、イユケ、】
 
第四句は官本亦點に依べし、伊は發語の詞なり、此歌は遊女などの別を惜みてよめる歟、落句は月待ガテリと讀べし、
 
初、能登海につりする 伊往はいゆけなり。いは發語のことはなり。いませとよめるは誤なり
 
3170 思香乃白水郎乃鉤爲燭有射去火之髣髴妹乎將見因毛欲得《シカノアマノツリニトモセルイサリヒノホノカニイモヲミムヨシモカナ》
 
鉤は釣に作るべし、ホノカニはほのかにだにもなり、將見はミムと讀べし、今の點は誤れり、
 
初、しかのあまのつりに 鉤は釣に作るへき歟。但鉤にても有ぬへし。將見はみむとよむへし
 
(46)3171 難波方水手出舩之遙遙別來禮杼忘金津毛《ナニハカタコキイツルフネノハル/\トワカレテクレトワスレカネツモ》
 
3172 浦廻榜熊野舟附目頬志久懸不思月毛日毛無《ウラワコクヨシノフナツキメツラシクカケテオモハヌツキモヒモナシ》
 
此浦囘と云へるは前後の歌に依に難波浦なり、第二句は今按能は熊にてクマノフネツキ或クマノフネツクと讀べし、第六に眞熊野船と云に注せり、六帖に貫之の歌に津の國のながらへ行けば忘られて猶ぞみくまの堀汀なるらむ、此第四の句は猶ぞ水隈のとよめる歟、猶ぞ三熊野と讀て今の愚按の舟の名歟、いまだ歌の意をよく知らざれば慥には證とする事を得ず、メヅラシクとつゞけたるは第九にありそべにつきて榜海人とよめる歌の如く、浦囘をこぐ熊野の小舟の附たるをめなれねばめづらしく見るによせて、故郷の妻をも然めづらかにみつれば心に懸て思はぬ月日もなしとなり、舟をよせてとむるを俗にかゝると云へば懸てと云へるも縁の詞なるべし、
 
初、うらわこくよしのふなつき 此うらわといへるは、右になにはかたといひ、左にほりえとあれは、難波の浦わなり。能野舟附は、先能は熊の字の列火をうしなへるなり。第六の十八葉、おなし卷の三十九葉に、寢熊野船とよめるにおなし。神代紀(ノ)下(ニ)云、故《カレ》以(テ)2熊野諸手船《クマノノモロタフネヲ》1【亦名天鳩船】載《ノス》3使者稻背彦《ツカヒイナセヒコヲ》1。かゝれは、小舟の名なるへし。舟附はふなひとゝよむへし。そのゆへは、第八に、市原王七夕歌に
  妹かりとわかゆくみちの川のあれはひとめつゝむと夜そ更にける
此ひとめといふに、附目とかけり。いまたそのよむゆへをしらすといへとも、これに准して、舟人と意得へし。さてめつらしくとつゝけたる心は、第九に
  ありそへにつきてこくあまから人の濱を過れはこひしくあるなり
此哥、いそへにつきて小舟こくあまの見なれぬ目におもしろく思ふほとに、こき過ゆけは、こひしきといへるに、過にしかたをもよせたるへし。今もその哥の心にて、なにはのうらわをこき行ふな人のめつらしくておほゆるに、やかてふるさとにのこしをく妻をよせて、かけておもふといへり。鎌倉右大臣の哥に
  なきさこくあまのをふねの、つなてかなしもとよまれたるは、これらをも引合せられける歟。舟附は、もしは字のまゝにて、舟著《フナツキ》の心にても侍るへし
 
3173 松浦舟亂穿江之水尾早※[楫+戈]取間無所念鴨《マツラフネミタレホリエノミヲハヤミカチトルマナクオモホユルカモ》
 
亂穿江之、【幽齋本云、ミタルホリエノ、】
 
(47)松浦舟は第七に出たり、亂はミダルと讀べし、第三に亂|出《イデ》所見海人釣船、
 
初、松浦舟みたるほりえ みたれとあるかんなはあやまれり。松浦舟は、第七にも
  さよふけてほりえこくなる松浦舟かち普高しみをはやみかも
みたるは、第三にも、みたれてみゆるあまのつりふねと有
 
3174 射去爲海部之※[楫+戈]音湯鞍于妹心乘來鴨《イサリスルアマノカチオトユクラカニイモカコヽロニノリニケルカモ》
 
温鞍于、【幽齋本云、鞍或作v※[木+安]、】
 
ユクラカニはゆるやかなる意を俗にゆくりと云に同じ、第二に長皇子の遊久遊久登とよませたまへるも此なり、いさりする海人小舟なれば急がぬ※[楫+戈]音に寄て我心も故郷の妹が情に乘居る事もかくの如しとなり、
 
初、いさりするあまのかちおと ゆくらかには、ゆるやかの心なり。いさりするあまなれは、舟いそかぬ心なり。俗にゆくりと居るといふにおなし。十三十七十九に、大舟のゆくら/\とよめる、みなこれなり。此下句は、第二に久米禅師が、あつま人のゝさきの箱のにのをにもといふに有しより、今まてにまたくおなしき哥六七首にをよへり。舟によせて乘といへり。わか玉しひのゆきて、妹か心にそふをいへり。心は君か影となりにきと、古今集にあるかことし。妹かわか心にのるならは、心にいもかとも、ゝしはよむへきを、皆いもか心にのりにけるかもとこそいへれ
 
3175 若浦爾袖左倍沾而忘貝拾杼妹者不所忘爾《ワカノウラニソテサヘヌレテワスレカヒヒロヘトイモハワスラレナクニ》
 
拾跡はヒリヘトと讀べし、不所忘爾はワスラエナクニと讀べし.
 
或本歌末句云|忘可禰都母《ワスレカネツモ》
 
3176 草枕羈西居者苅薦之擾妹爾不戀日者無《クサマクラタヒニシヲレハカリコモノミタレテイモニコヒヌヒハナシ》
 
タビニシのし〔右○〕は助語なり、
 
3177 然海部礒爾苅干名告藻之名者告手師乎如何相難寸《シカノアマノイソニカリホスナノリソカナハツケテシヲナソアヒカタキ》
 
(48)第四句ナハノリテシヲと讀べし、て〔右○〕は助語なり、宰府の官人などの女を思ひ懸てよめるにや、腰句以下上に似たる歌有き、
 
初、しかのあまのいそに なのりそがなはのりてしをと讀へし。名をのるは、さきにもいへることく、人をかたらひても、しかるへしとたのもしくおもふゆへなるに、なそや人のあひかたきとなり。上に
  すみのえのしきつのうらのなのりそか名はのりてしをあはぬもあやし
これに似たる哥なり。これは筑前に任官の人なとの、そこにてよめるにや。さらすは羈旅發思哥にはあらし
 
3178 國遠見念勿和備曾風之共雲之行如言者將通《クニトホミオモヒナワヒソカセノムタクモノユクコトワレハカヨハム》
 
言者は今の點誤まれり、コトハと讀べし、
 
初、國遠みおもひなわひそ 言はことゝよむへき歟。言はしきりにかよはすへし。いかて國遠きに、風につれて雲のゆくことく、かよはむといふことはりあらん。もしは夢に入て見えむの心歟
 
3179 留西人乎念爾※[虫+廷]野居白雲止時無《トマリニシヒトヲオモフニアキツノニヰルシラクモノヤムトキモナシ》
 
留ニシのに〔右○〕は助語なり、此は吉野郡より旅に出たる人のよめるなり、
 
初、とまりにし人をあきつ野に、まなくをりゐる雲のことく、とゝめおきし人を、やむ時もなくおもふとなり
 
悲別歌
 
3180 浦毛無去之君故朝旦本名烏戀相跡者無杼《ウラモナクイニシキミユヘアサナサナモトナソコフルアフトハナシト》
 
發句は上に一重衣裏毛無とよめるに同じ、落句の無杼は今按ナケドと讀べし、なけれどなり、深く我をも思はねば別を重ぜずして何心なく行し人故日毎に由なく戀るかな、旅に出ざればとても心の行まで逢事はなけれどゝなり、
 
初、うらもなくいにし君ゆへ 此うらもなくといふは、ふかくわれをおもふ心もなく、薄情なるをいへり。上にもつるはみの一重衣のうらもなくあるらんこゆへこひわたるかも
 
3181 白細之君之下※[糸+刃]吾左倍爾今日結而名將相日之爲《シロタヘノキミカシタヒモワレサヘニケフムスヒテナアハムヒノタメ》
 
(49)吾左倍爾は我共になり、二人して結ばむとなり、又我下紐さへと意得とも叶ふべし、
 
3182 白妙之袖之別者雖惜思亂而赦鶴鴨《シロタヘノソテノワカレハヲシケレトオモヒミタレテユルシツルカモ》
 
雖惜はヲシケドモと讀べし、思亂而は思ひ亂ながらの心なり、
 
3183 京師邊君者去之乎孰解可言※[糸+刃]緒乃結手懈毛《ミヤコヘニキミハイニシヲタレトケカワカヒモノヲノムスヒテトケモ》
 
孰解可はタガトケカとも讀べし、誰解ばにかなり、落句の點は今按字に叶はずして誤れり、ムスブテウムモと讀べし、第十一に君戀浦經居悔我裏※[糸+刃]結手徒《キミコフトウラブレヲレバクヤシクモワガシタヒモヲムスビテタヾニ》、此意なり、
 
初、みやこへに君はいにしを たれとけかとは、たれとけばかなり。結手懈毛、これをむすひてとけもとよめるは、字を見損して、おほきにあやまれり。むすふ手うむもとか、ゆふてたゆしもとかよむへし。ともによし。古今集に
  おもふともこふともあはん物なれやゆふ手もたゆく解る下紐
哥の心は、たかひたれと、下の句は同し心なり。下紐のをのれと解るは、人にあふへき相なりと、いふによりて、あふへき人は、速く都のかたへいにしものを、たかとけはにか、用なく下ひもの、ゆふ手もたゆくとくらんとなり。ゐなかの女のよめるなるへし。あはれにやさしき哥なり。第十一にも
  君こふとうらふれをれはくやしくも我下ひものゆふてもたゝに
 
3184 草枕客去君乎人目多袖不振爲而安萬田悔毛《クサマクラタヒユクキミヲヒトメオホミソテフラスシテアマタクヤシモ》
 
初、草枕たひゆく君を 第六に、太宰帥大伴卿京へ上らるゝ時、遊女兒島かよめる二首の哥の中に
  おほならはかもかくもせんをかしこしとふりたき袖を忍ひたるかも
 
3185 白銅鏡手二取持而見常不足君爾所贈而生跡文無《マソカヽミテニトリモチテミレトアカヌキミニオクレテイケリトモナシ》
 
落句はイケルトモナシと讀べし、
 
3186 陰夜之田時毛不知山越而徃座君乎者何時將待《クモリヨノタトキモシラスヤマコエテイマスキミヲハイツシカマタム》
 
何時、【幽齋本點云、イツトカ、】
 
陰夜は田時毛不知と云はむ爲なり、第二十に防人が歌に夜未乃欲能由久左伎之良(50)受由久和禮乎《ヤミノヨノユクサキシラズユクワレヲ》とよめるが如し、第十三に雲入夜之迷間《クモリヨノマヨヘルホドニ》とよみ、くもれる夜出で行と云にはあらず、往座はいにますなり、落句の今の點はいつかまたむなり、其意はいつか歸るべき時となりてまたむとにや、古今に、すがる鳴秋の萩原朝立て旅行人をいつとかまたむと云に叶はねば幽齋本の點に依べし、
 
初、くもり夜のたときもしらす くもりたる夜は、ことにたと/\しけれは、たつきもしらすといはむためなり。夜山をこゆといふにはあらす。何時將待は、いつとかまたむとよむへし。第二十に、防人か哥に
  やみの夜のゆくさき□す行我をいつきまさんとゝひしこらはも
 
3187 立名付青垣山之隔者數君乎言不問可聞《タタナツクアヲカキヤマノヘタツレハシハ/\キミヲコトトハヌカモ》
 
田立名付、【古本無2田字1、】  言不問可聞、【幽齋本云、コトトハシカモ、】
 
青垣山の隔は延喜式の出雲國造神賀詞にも出雲國の青垣山の内にとあれば何處にも云べけれど此は大和より旅立つ人のよめるとぞ聞えたる、落句の點別るゝ時の詞に叶はず幽齋本に依て讀べし、
 
初、たゝなつく青垣山 第一第六に注せり。名所にあらす
 
3188 朝霞蒙山乎越而去者吾波將戀奈至于相日《アサカスミタナヒクヤマヲコエテイナハワレハコヒムナアハムヒマテニ》
 
3189 足檜乃山者百重雖隱妹者不忘直相左右二《アシヒキノヤマハモヽヘニカクストモイモハワスレシタヽニアフマテニ》
 
一云|雖隱君乎思苦止時毛無《カクセトモキミヲオモハクヤムトキモナシ》
 
(51)今按此異を注せるは撰者にはあらじ、其故は此三句を以て繼げば覊旅發v思歌にして悲v別(ヲ)歌にあらず、
 
3190 雲居有海山超而伊徃名者吾者將戀名後者相宿友《クモヰナルウミヤマコエテイユキナハワレハコヒムナノチハアヒヌトモ》
 
此吾も妻のみづからなり、落句は後は相て共に寢るともなり下にも裏戀監後者會宿友《ウラコヒシケムノチハアヒヌトモ》、此も宿の字をかけるを思ふべし、
 
初、くもゐなるうみ山 いゆきなは、いは例の發語のことはなり
 
3191 不欲惠八跡不戀登爲杼木綿間山越去之公之所念良國《ヨシヱヤシコヒシトスレトユフマヤマコエニシキミカオモホユラクニ》
 
不欲惠八跡、【別校本、跡或作v師、】
 
第十に吉哉をよしゑやしと讀てゑ〔右○〕とし〔右○〕とは助語なれば今ゑ〔右○〕の字ひとつを助語としてよしやと〔四字右○〕と云へるなり、不欲をよしとよめる事は第十に縱の字をいなとよめる所に注せしが如し、木綿間山は第十四東歌に國土を考ざる中にあり、
 
初、不欲惠八跡 よしゑやとゝよむへし。不欲とかきてさきにいなとよめり。今|縱《ヨシ》とおなしくよむ事は、たとへは、我心にかなはぬことを、人のしひてせむといふ時、よしともかくもせよ。我はしらすといふがこときは、まことには、うけぬ心あるゆへに、かくはかけり。ゆふま山、いづれの國に有ともしらす
 
3192 草陰之荒藺之埼乃笠島乎見乍可君之山道超良無《クサカケノアラヰノサキノカサシマヲミツヽカキミカヤマチコユラム》
 
藺は枝葉と云事もなくて生る物なれば其陰の荒きと云心につゞけたる歟、八雲御抄に笠島を武蔵と注せさせ給へれば荒藺崎はおのづからしらたり、注の三坂と(52)云を以て和名鈔を考るに横見郡に御坂《ミサカ》【美佐加】あり、埼|玉《タマノ》郡に笠原【加佐波良】あり、此笠原ある處などに笠島のあるにや、下句は第九に宇合卿の石田(ノ)小野の柞原とよみ給へるに同じ、可《カ》と哉《ヤ》との違へるのみなり、
 
初、草陰のあらゐかさき 藺は枝葉といふもなくて、おふる物なれは、その草の陰のあらきといふ心につゝけたり。八雲御抄に、笠嶋を武藏としるさせたまへは、あらゐの崎はいふにをよはす。下句は第七に、宇合卿の、山しなのいは田のをのゝはゝそ原といふ哥におなし。見つゝやとあるそたかへる
 
一云|三坂越良牟《ミサカコユラム》
 
3193 玉勝間島熊山之夕晩獨可君之山道將越《タマカツマシマクマヤマノユフクレニヒトリカキミカヤマチコユラム》
 
玉勝間と置て鳥熊山とつゞけたる事より阿倍島山とつゞけたるに付て注せしが如し、島熊山八雲御抄に攝津の由注せさせ給へり、但此前後各二首あづまの名所をよめる中にあれば若東國に有にや、此下句も亦第九に在て可と哉との替れるのみなり、
 
初、玉かつま嶋熊山の 玉かつま嶋とつゝくる心、上にいへるかことし。八雲御抄に、嶋熊山攝州のよし注せさせたまへと、前後の哥のつゝき、東海道の哥なる中に、津の國の哥載へからす。推量するに、さきの玉かつまあへ嶋山とつゝけたるを、津の國とおほしめしけるに、これもおなし枕詞を置たるに、おほしめしたかへられけるにや
 
一云|暮霧爾長戀爲乍寢不勝可母《ユフキリニナカコヒシツヽイネカテヌカモ》
 
長戀は長き息を吐て戀るなり、第五にも於久禮爲天那我古飛世殊波《オクレヰテナガコヒセズバ》とよめり、落句の點悲別歌には叶はず、イネガテシカモと讀べし、
 
3194 氣緒爾吾念君者鷄鳴東方坂乎今日可越覽《イキノヲニワカオモフキミハトリカナクアツマノサカヲケフカコユラム》
 
(53)第二句はワガモフキミハと讀べし、東方坂は足柄御坂なり、
 
初、いきのをにわかおもふ君は 鳥かなくあつまの坂は、景行紀を考るに、日本武尊上野國碓日嶺にのほりて、弟橘媛をしのひ給ひて、東南《タツミノカタ》を望て、吾嬬《アカツマ》者耶とのたまひしゆへに、山東の諸国を、あつまの國といふと見えたれは、今はうすひの坂をいふ歟。ひろくいへは、逢坂のあなたより坂東なれは、かきりなし
 
3195 磐城山直越來益礒埼許奴美乃濱爾吾立將待《イハキヤマタヽコエキマセイソサキノコヌミノハマニワレタチマタム》
 
磐城山許奴美乃濱、共に八雲御抄に擧させ給ひながら何れの國に在とも定させ給はねば昔より此まゝなりけるにや、然るを續後撰集雜中に俊頼朝臣歌云、いほ崎のこのみの濱のうつせ貝藻に埋もれて幾代へぬらむ、新拾遺集戀三能譽法師歌云、憑めてもこぬみの濱の奥津風何いほ崎の松に吹らむ、此等の歌を以て駿河の名所とするは彼國に廬崎と云所の有ればなり、今接今の歌に磯崎と云へるを俊頼朝臣かなの本などにいほさきと有けるを見てよまれたる歟、彼朝臣和歌の風骨はさる事なれど物をばこまやかにも見ざりし人と見ゆれば指南としがたき事多かりぬべし、歌の心は磐城山を直越に越て歸り來ませ磯崎こぬみの濱に我待てあらむと吾妻の女の男の旅に出るに別るとてよめるなり、或物に駿河國の風土記に有とて第四に手兒乃欲妣左賀《テコノヨヒサカ》とよめる歌二首と今の歌とを男神と女神との問答の歌として其中には今の歌をば女神の歌とせり、彼二首は國を勘得ぬ中に載られ今の歌は悲別歌に入られたれば雜説をば今取らず、
 
初、いはき山たゝこえきませ 此哥につきては、駿河国風土記の説とて、由緒ある物語あり。長流か續哥林良材集に具に載たり。よりて八雲御抄以下、いは木山こぬみの濱、皆駿河國の名所なり。但彼物語は、いほさきのこぬみの濱にて、廬原《イホハラノ》崎といふ心と聞ゆ。今はいそさきといへり。いはさきといふにて、駿河國とは定らるゝ歟。今は悲v別心にて見るへし。彼物語にては女神の哥、今はあつまの女の、夫君に別るとて、岩城山をすくにこえて歸りきませ。我はこぬみの濱に出て立待むといへるなり
 
(54)3196 春日野之澤茅之原爾後居而時其友無吾戀良苦者《カスカノヽアサチカハラニオクレヰテトキソトモナシワカコフラクハ》
 
初、かすかのゝ淺茅か原に おくれ居ては、男の旅に出たるに、おくれゐるなり。淺茅原は、ふるさとの、あれてさひしきなり。時そともなしは、時をわかぬなり。古今集に
  我ことく物やかなしきほとゝきす時そともなくよたゝ啼らむ
 
3197 住吉乃崖爾向有淡路島阿怜登君乎不言日者無《スミノエノキシニムカヘルアハチシマアハレトキミヲイハヌヒハナシ》
 
阿は※[立心偏+可]の字を誤れるなり、淡路島を承てかはれと云とは淡路島の面目きに夫君をよそへて戀ぬ日はなしとなり、此歌人丸の集にもなきを拾遺集に人丸歌とて入られたるは未v知2其據1、六帖に浪の歌とせるもおぼつかなし、
 
初、住のえのきしに 應神紀云。二十二年秋九月辛巳朔丙戌、天皇狩(シタマフ)2于淡路島(ニ)1。是野島(ハ)横《ヨコタハテ》v海(ニ)在(リ)2難波之西(ニ)1。峯《タケ》巖|紛錯《マヨヒマシリテ》、陵谷相(ヒ)續(ク)。芳草|薈蔚《モクシケクシテ》、長《。タカキ》瀾《ナミ》潺湲《ソヽキナカル》。あはちしまをうけて、あはれといへり。※[立心偏+可]を誤て阿に作れり。これ筑紫なとに下りける人の妻のよめりとみゆ。常は人丸の哥とす
 
 
3198 明日從者將行乃河之出去者留吾者戀乍也將有《アスヨリハイナミノカハノイテヽイナハトマレルワレハコヒツヽヤアラム》
 
留吾者、【幽齋本云、トヽマルワレハ、】
 
將行乃河、八雲御抄に播磨と注せさせ給へり、印南川なり、將行をいなみとはいなむと云意につゞけたれはやがてかくは假てかけり、いなむのかはと點ぜる本もあり、さていなみと心得むもあしからじ、出去者も將行乃河の名を承て明日はいなむと云人の其期と成て實に出ていなばとなり、
 
初、あすよりはいなみの川の いなみをうけて、出ていなはといへり。いなみは播磨なり。長流か抄には、いなんの川とかきたれと、たゝその心にて、かりてかけり。將を、ゐてゆくなとのゐとよみ、行は行樹なといふ時、なみなれと、唯|行將《イナム》の心に見るへし
 
3199 海之底奧者恐礒廻從水手運往爲月者雖經過《ワタノソコオキハオソロシイソワヨリコキタミイマセツキハヘヌトモ》
 
恐はカシコシとも讀べし、往爲もユカセとも讀べし、雖經過をヘヌトモとよめるは(55)過は過去の義なればへいぬとも〔五字右○〕と云意歟、舟人も昔は此歌のやうに奥を恐れて磯邊にそひしかば還て波風の荒くて舟をそこなへりとて、今の世には磯邊を恐て奥の方に乘とぞ承はる、
 
3200 飼飯乃浦爾依流白浪敷布二妹之容儀者所念香毛《ケヒノウラニヨスルシラナミシクシクニイモカスカタハオモホユルカモ》
 
白浪は敷布にとつゞけむためのみならず、妹之容儀者と云までにかゝれり、色白ううるはしきを浪によそふる事第七に波妻君《ナミツマノキミ》とよめるが如し、
 
初、飼飯乃浦爾 飼は笥にやとおもへと、第三人丸の哥にもかゝり。越前敦賀郡なり
 
3201 時風吹飯乃濱爾出居乍贖命者妹之爲社《トキツカセフケヰノハマニイテヰツヽアカフイノチハイモカタメコソ》
 
時風は吹飯とつゞけむためなり、吹飯の濱は吠飯の浦の濱にて紀伊なり、和泉と云へど紀伊なり、贖命者とは祓をして祓具を出し罪を清めて命を贖ふなり、第十一に玉久世清河原身祓爲齋命妹爲《タマクセノキヨキカハラニミソギシテイノルイノチモイモガタメコナリ》、此意に同じ、唯旅に出で別を悲て祓するをかはれりとす、
 
初、時つ風ふけひのはまに 時つ風吹とつゝけたり。吹飯は、皆人あやまりて、和泉なりとおもへと、紀伊の國なり。大和物語に、故う京のかみ宗于の君、なりいつへきほとに、我身のえなりいてぬ事と思ひ給ひけるころほひ、亭子の御門に、紀伊國より石つきたるみるをなむ奉りたりけるを題にて、人々哥よみけるに、うきやうのかみ
  おきつ風ふけひのうらに立波のなこりにさへや我はしつまむ
清|正《タヽ》家集にいはく。紀のかみになりて、また殿上もかへりせて
  天つ風ふけひのうらに住《・ゐる新古今》たつのなとか雲居にかへらさるへき
此哥新古今集には、詞書に、殿上はなれ侍てよみ侍けるとのみかゝれたれと、すてに家集かくのことし。これらの證によるに、紀伊の國なる事疑なし。あかふ命とは、六月の祓なとに、天子よりはしめで御|贖《アガ》物とて出させ給ふ物あり。身に罪あれは、神の祟《タヽ》らせたまふゆへに、命にもさはりあり。罪を謝せんために、身のかはりに、物を出すが贖物なり。京より出て紀伊國に有人の、吹飯の濱に出て、祓をして罪をきよめて、わかかくのことくして命をのふるは、妹かためをおもひてぞといふ心なり。第十一に
  玉久世の清き川らにみそきしていのるいのちも妹かためなり
 
3202 柔田津爾船乘將爲跡聞之苗如何毛君之所見不來將有《ニキタツニフナノリセムトキヽシナヘニナニカモキミカミエコサルラム》
 
柔田津に舟乘して歸らむと先立て告おこせしからに、程を數へて待に其比過ても(56)いまだ君が見え來ぬはいかなる故ならむとおぼつかなく思ふ意なり、此より下九首は女の歌なり、
 
初、にきたつにふなのりせんと にきたつは、伊與なり。第一よりみゆ。にきたつにふなのりせむと告おこせしかは、ほとをかそへて待に、その比過ても、いまた君か見えこぬは、いかなるゆへならんと、おほつかなく思ふ心なり
 
3203 三沙呉居渚爾居舟之榜出去者裏戀監後者會宿友《ミサコヰルスニヲルフネノコキイテナハウラコヒシケムノチハアヒヌトモ》
 
渚爾居、【幽齋本云、スニヰル、】
 
初二句は第十一に有て注せり、落句は此卷の上に注せり、
 
3204 玉葛無怠行核山菅乃思亂而戀乍將待《タマカツラタエスユカサネヤマスケノオモヒミタレテコヒツヽマタム》
 
行核、【官本又云、ユキサネ、】
 
無怠をタエズとよめるは義訓なり、第十一に無勝をマサラジとよめるが如し、山菅乃思亂而は初の二句に句を隔て對する文法の如くよめり、第四第十一にもよめり、
 
初、玉かつらたえすゆかさね 玉かつらはたえすといはむためなり。ゆかさねは、ゆきねにてゆけなり。たえすゆけば、かへる事もはやけれは、すゝむるなり。又道にてやまひなともすれは、行こともたゆれは、いはふ心も有。無怠は心を得てかけり
 
3205 後居而戀乍不有者田籠之浦乃海部有申尾珠藻苅々《オクレヰテコヒツヽアラスハタコノウラノアマナラマシヲタマモカル/\》
 
此は第十一に中中二君二不戀者|枚浦乃《ヒラノウラノ》云々、此と下句同じくて一首も亦似たり、
 
初、おくれゐてこひつゝあらすは これは男の駿河の國に行けるあとにて、妻のよめる哥と見えたり。第十一の三十七葉に
  中々に君にこひすはひらの浦のあまならましを玉もかりつゝ
 
3206 筑紫道之荒礒乃玉藻苅鴨君久待不來《ツクシチノアライソノタマモカルニカモキミカヒサシクマテトコサラム》
 
荒磯はアリソとも讀べし、腰句は苅にかもいましつると云やうに意得て句とすべ(57)し、待はマツニと讀べし、マテドは雖待と書てこそよめば今の點は叶はず、
 
初、つくしちのあらいその玉も これはつくしへ下りたる人の妻の讀るなり。あらいその玉もをかりにゆきて、かりかねて久しく家にかへらさる歟。都にてまてとも、時を過してこぬとなり。かりにかもといふ所を句絶とす
 
3207 荒玉乃年緒永照月不厭君八明日別南《アラタマノトシノヲナカクテルツキノアカレヌキミヤアスワカレナム》
 
不厭、【幽齋本云、イトハス、】
 
3208 久將在君念爾久堅乃清月夜毛闇夜耳見《ヒサニアラムキミヲオモフニヒサカタノキヨキツキヨモヤミニノミミユ》
 
第十一にも照月夜裳闇耳見《テレルツキヨモヤミニノミミユ》とあり、
 
初、久にあらむ君をおもふに 旅に出て久しくあらむと、君を思ふに、月夜なれとも、心もかきくれ、なみた目にみちて、闇に見ゆるとなり。第十一に
  此ことをきくとにやあらむまそかゝみてれる月夜も闇にのみ見ゆ
第四には、てれる日をやみに見なしてなく涙とよめり
 
3209 春日在三笠乃山爾居雲乎出見毎君乎之曾念《カスカナルミカサノヤマニヰルクモヲイテミルコトニキミヲシソオモフ》
 
雲は居るかと見れば立、此處に有かと見れば彼處に行て旅人のさまに似たればそれに付ても思ひ出るなり、落句の之は助語なり、念はお〔右○〕を略して讀べし、
 
初、春日なるみかさの山に みかさの山にゐる雲は、行かとすれは又ゐるを、族に出たる人は、歸りきて家にもゐねは、雲をみるにつけてこひしきとなり
 
3210 足檜乃片山雉立往牟君爾後而打四鷄目八方《アシヒキノカタヤマキヽスタチユカムキミニオクレテウシケメヤモ》
 
雉は立往牟君と云はむためなり、落句はうつゝのこゝちせむやの意なり、
 
初、あしひきのかた山きゝす 顯宗紀云。脚日木《アシヒキノ》、此傍山《コノカタヤマ》云々。きゝすの立によせて立ゆかむとつゝけんためなり。第十四に
  武藏野のをくきがきげし《・小郊之雉子》立わかれ《・別》いにしよひより《・去宵從》せろにあはなふよ《・兄不逢》
うつしけめやもは、うつゝならんやなり。上にうつせみのうつし心とよめるにおなし。注そこに有。君におくれては、夢のやうにて、更にうつゝ心もせしとなり
 
問答歌
 
此は悲別問答にて上の問答とは別なるを目録に合せたるは誤なり、
 
初、問答歌 さきにも問答の歌有けれと、これは悲v別問答歌なるゆへに、こゝに載たり
 
(58)3211 玉緒乃徙心哉八十梶懸水手出牟舩爾後而將居《タマノヲノウツシコヽロヤヤソカカケコキイテムフネニオクレテヲラム》
 
緒を組を打と云へばうつゝ心にやはと云意につゞけたる歟、今按第十一云、 玉緒之島意哉年月乃行易及妹爾不逢將有《タマノヲノシマコヽロヤトシツキノユキカハルマデイモニアハザラム》、此歌に依て思ふに徙は音を假て此下に麻末等の字落たる歟、然らばシマコヽロニヤと讀べし、八十梶懸は第二十にも夜蘇加奴伎伊麻波許伎奴等《ヤソカヌキイマハコキヌト》とよめり、歌の心は八十梶懸て榜出る時我やは玉の緒を括てしめたる如く亂れぬ心に後れて居らむ、亂れずしては得あるまじきとの意なり、
 
初、玉の緒のうつしこゝろや 長流かいはく、緒をくむをは、うつともいふなり。よりてうつし心とつゝけたりといへり。まことに、物の緒をくむをは、今もよのつねにうつといへり。されと今案するに、これは命の事なるへし。うつし心は、上にいふうつゝ心なり。うつゝ心は、人の玉の緒なり。よりて玉の緒のうつし心とはつゝけたるなるへし。八十梶は櫓なり。あまたの櫓を立る心に、八十とはいへり。やそかとあれとも、たゝもしあまりに、やそかちかけとよむへし。あまたの櫓をたてゝ、鳥の飛かことく、早く出てゆかん舟に、うつゝの心にてやは我おくれさらん。更にうつゝの心ちせしとなり。玉の緒のうつし心にてやはと心得へし
 
3212 八十梶懸島隱去者吾妹兒之留登將振袖不所見可聞《ヤソカカケシマカクレナハワキモコカトマレトフラムソテミエシカモ》
 
第二の句シマカクリナバと讀べし、第十五云、夜蘇之麻我久里伎奴禮抒母《ヤソシマガクリキヌレドモ》云々、
 
右二首
 
3213 十月鐘禮乃雨丹沾乍哉君之行疑宿可借疑《カミナツキシクレノアメニヌレツヽヤキミカユクラムヤトカカルラム》
 
初、かみな月しくれの 鍾禮、此鍾の字いかて入聲のやうにはかり用らん。いにしへの文字つかひ、後の人の及ふましき事のみなり。黄鐘調等は、音にても不審なる讀やうのみなり。沾な訛作沽
 
3214 十月雨間毛不置零爾西者誰里之宿可借益《カミナツキアマノマモオカスフリニセハタカサトノマニヤトカカラマシ》
 
雨之間毛不置、【官本又云、アメノマモオカス、】
 
(59)爾は助語なり、此二首は自問自答歎、
 
初、かみな月あまゝも 誰さとのまには、誰さとのほとにかなり
 
右二首
 
3215 白妙乃袖之別乎難見爲而荒津之濱屋取爲鴨《シロタヘノソテノワカレヲカタミシテアラツノハマニヤトリスルカモ》
 
荒津濱は筑前なり、第十五に筑前にての歌に可牟佐夫流安良都能左伎爾《カムサフルアラツノサキニ》云々、第十七にも同國にて荒津乃海之|保悲思作美知《ホヒシホミチ》云々、此歌は筑前より都へ上る人を送れる時上る人のよめるなり、
 
初、白妙の袖のわかれを わかれをかたみしては、わかれかたくしてなり。あらつの濱は筑前なり。第十五に見えたり
 
3216 草枕※[羈の馬が奇]行君乎荒津左右送來飽不v足社《クサマクラタヒユクキミヲアラツマテオクリクルトモアキタラメコソ》
 
送來、【幽齋本云、オクリクレトモ、】
 
第四の句幽齋本に依るべし、點の心を按ずるに雖送來なりけむを雖の字の落たる歟、
 
右二首
 
3217 荒津海吾幣奉將齋早還座面變不爲《アラツノウミワレヌサマツリイハヒテムハヤカヘリマセオモカハリセテ》
 
聞ゆる海神等をも君がために我幣を奉て齋ひなごめむとなり、落句は孝徳紀云、汝(60)佐平【百濟國使名、】等不v易v面來云々、此集第十八第二十にも亦よめり、
 
初、あらつのうみわれぬさまつり われぬさまつりは、ぬさたてまつりなり。祭祀等の字も、物を奉りそなへて、啓請するゆへに、まつるとはいふなるへし。第一に、山つみのまつるみつきとよみ、第四に、見奉而といへり。おもかはりせては、もとのかほにて早くかへれなり。孝徳紀云。汝(チ)佐平【百濟國使者】等|不v易v面《オモカハリセスシテ》來《マウコ》。此集第二十防人か哥に
  まけ《キト通》はしら《・眞木柱》ほめて作れるとのゝこと《・如》いませはゝとし《・母刀自》おめかはりせす《・不易面》
あら津の海といひ、われぬさまつりとつゝけたるはあらき津といふ心こもれり。さて此哥は筑紫の女のよめるなり
 
3218 早早筑紫乃方乎出見乍哭耳吾泣痛毛爲便無三《アサナサナツクシノカタヲイテミツヽネノミワレナクイタモスヘナミ》
 
此は後の心を今になしてかへせり、
 
右二首
 
3219 豐國乃聞之長濱去晩日之昏去者妹食序念《トヨクニノキクノナカハマユキクラシヒノクレユケハイモヲシソオモフ》
 
落句はイモヲシゾモフと讀べし、し〔右○〕は助語なり、かへしに君待夜等者とよめるは宰府の官人などの豐前へ行けるにや、
 
初、とよくにのきくの長濱 豐前企救郡。これはかへしに、君まつよらといへるは、筑前なとより、豐前へわたりけるにや
 
3220 豐國能聞乃高濱高々二君待夜等者在夜深來《トヨクニノキクノタカハマタカ/\ニキミマツヨラハサヨフケニケリ》
 
上の歌は去晩と云はむために長濱と云ひ、此歌には高高二待とつゞけむために高濱と云へり、高濱は濱風の眞砂を吹上て高くなれる濱なり、在は左に作るべし、
 
右二首
 
萬葉集代匠記卷之十二下
 
(1)萬葉集代匠記卷之十三上
                僧 契冲撰
                木村正辭校
雜歌 是中長歌十六首
 
定家卿勘物云、卷第十三、此卷悉長歌反歌書2連之1、不v書2并短歌之字1、
備後國神島濱調使首見屍作歌一首并短歌 長歌反歌各一首 無分明所見【以上】此によれば此長歌十六首の注は後人の所爲なり、下皆效v此、但三十四葉に長短の分明なる注あるを見殘されたり、
 
3221 冬木成春去來者朝爾波白露置夕爾波霞多奈妣久汗湍能振樹奴禮我之多爾※[(貝+貝)/鳥]鳴母《フユコナリハルサリクレハアシタニハシラツユオキテユフヘニハカスミタナヒクアメノフルコヌレカシタニウクヒスナクモ》
 
多奈妣久、【別校本、妣或作v※[口+比]】
 
(2)汗湍能振は今按此點誤れり、カゼノフクと讀べし、汗は音を用、湍は和名(ニ)云、湍(ハ)唐韻云、他端(ノ)反、一(ノ)音(ハ)專、【和名、世、】急瀬也とあれば汗と一具に專の音を用とも云べし、又和訓の世を取とも云べし、振をふくと讀はふる〔二字右○〕をふく〔二字右○〕と云は古語なり、神代紀上云、故《カレ》伊弉諾尊《イザナギ》尊拔《ヌイテ》v釼|背揮《シリヘニフキツヽ》以(テ)逃《ニグ》矣、此集に山吹を、多分山振と假字にかけるも此故なり、風も草木にふるへは吹と云も振《フル》なり、風の吹と云は春風ののどかに吹意なり、
 
初、冬こなりはるさりくれは 汗湍能振、これをはかせのふくと讀へし。汗は音を取、湍は和訓を取、振は日本紀にも、ふるふをふくといへり。風のふくも、物にふれてふるふ心なれは、和語かよへり。今の本にあめのふるとよめるは誤れり。かせのふくは春風のゝとかにふくなり
 
右一首
 
3222 三諸者人之守山本邊有馬醉木花開未邊方椿花開浦妙山曾泣兒守山《ミモロハヒトノモルヤマモトヘニハツヽシハナサキスヱヘニハツハキハナサクウラクハシヤマソナクコモルヤマ》
 
第十一の旋頭歌に人祖未通女兒居守山邊柄《ヒトノオヤノヲトメコスヱテモルヤマヘカラ》云々、此に今の歌を合せで注せしにて守山は三諸山の一名と知べし、本邊は麓、未邊は峰なり、仁徳紀に宇治(ノ)稚郎子《ワカイラツコノ》皇子の御歌に望苫弊破枳瀰鴉於望臂泥《モトヘハキミヲオモヒテ》、須惠弊破伊暮烏於望比泥《スヱヘハイモヲオモヒテ》云々、此は言同じくて意異なり、浦妙山曾とは浦はうらさびしなどのうらなり、妙とは物をほむる言なり、下に隠來之長谷之山青幡之忍坂山者《コモリクノハツセノヤマアヲハタノオサカヤマハ》と讀る歌に至て雄畧紀の御製の歌を引を待べ(3)し、泣兒守山とは上の人之守山と云を再たび云へり、古歌の習なり、幼なき子の泣を乳母が能慰さめて守時は泣を留むる如くに此山も人の心を慰さむる事多きをほめたるなるべし、
 
初、みもろは人のもる山 人のもる山とは、人のもりする山といふ心なり。此哥、終の句に、なく子もる山といへり。二たひ其ことはりをいふ古哥のならひなり。なく子もるとは、いときなき子の泣を、めのとかよくなくさめてもる時は、泣をとゝむるなり。其ことくに此山のなくさみおほきをほめたるなり。以上長流か抄にいへり。第十一に
  人のおやのをとめこすへてもる山へから朝な/\かよひし君かこぬはかなしも、
此哥もみもろ山をいへる歟。第二に應神紀を引ることく、應神天皇五年に、山守部を定させたまひて後山々に山もりなきはなけれとも、三諸山は、ことに神のためにもるなり。第十四に、つくはねのをてもこのもにもりべすゑともよめり。もとべすゑべは山のふもとみねなり。仁徳紀に、兎道稚郎子(ノ)皇子の御哥に、望苫弊破《モトベハ・本邊者》、枳瀰烏於望臂泥《キミヲオモヒデ・君思出》、須惠弊破《スヱヘハ・末邊者》、伊暮烏於望比泥《イモヲオモヒデ・妹思出》云云。うらくはし山そとは、うらはうらさひし、うらかなしのうらなり。くはしはほむることはなり。雄畧紀に、帝泊瀬の小野にあそひたまひて、山野の體勢《ナリ》をほめてよませたまへる御歌にも、據暮利矩能《コモリクノ・隱口》、播都制能夜麻播《ハツセノヤマハ・泊瀬山》、阿野※[人偏+爾]于羅虞波斯《アヤニウラクハシ》、阿野※[人偏+爾]于羅虞波斯《アヤニウラクハシ》
 
右一首
 
3223 霹靂之日香天之九月乃鍾禮乃落者鴈音文未來鳴神南備乃清三田屋乃垣津田乃池之堤之百不足三十槻枝丹水枝指秋赤葉眞割持小鈴文由良爾手弱女爾吾者有友引攀而峯文十遠仁※[木+求]手折吾者持而往公之頭刺荷《カミトケノヒカルミソラノナカツキノシクレノフレハカリカネモイマタキナカスカミナヒノキヨキミタヤノカキツタノイケノツヽミノモヽタラスミソノツキエニミツエサスアキノモミチハマサケモチヲスヽモユラニタワヤメニワレハアレトモヒキヨチテミネモトヲヽニウチタヲリワレハモテユクキミカカサシニ》
 
和名云、兼名苑云電(ハ)堂練反、【和名伊奈比如利、】一云【伊奈豆流比、】一云【伊奈豆萬、】電之光也、一云霹靂辟歴(ノ)二反、俗云【加美於豆、】一云【加美止介、】霹折也靂(ハ)歴也所v歴皆枝折也、日本紀にはカムトキとも云へり、日香天之は香の下に留流等の字脱たる歟、九月乃とは今按月令云、仲秋之月雷殆收v聲、かくはあれども九月に至るまでも折々雷鳴り電の光る事あればかくは云へり、(4)鍾禮乃落者、此てにをは上に云へるが如し、しぐれのふるになり、雁音文未來鳴とは是は下の紅葉の初もみぢにてめづらしきを云はむため歟、清三田屋とは神供の料に作る田を守る屋なり、垣津田とは第十九に和我勢故我垣郡能谿爾《ワガセコガカキツノタニニ》とよめるは谷の垣の如く廻りて有を云と聞ゆれば今も三田屋守が廬《イホリ》を廻れる田を垣津田と云なるべし、さて田には池より水を任すれば池の堤のとはつゞけたり、百不足は三十槻枝と云はむためなり、堤に槻有てそれが枝多く分れて榮たれば三十槻枝とは云なるべし、水枝は第六に有て注せり、眞割持小鈴文由良爾は今按此をばマサゲモツコスヾモユラニと讀べし、神功皇后紀云、拆鈴《サクスヾ》五十鈴《イスヾノ》宮、同(ジキ)私記云、師説鈴口さけたり故云2拆鈴1、かゝれば眞割は鈴をほむる言なり、履中紀云、是(ノ)夜仲(ツ)皇子忘2手(ノ)鈴於黒媛(カ)之家(ニ)1而歸焉云々、かゝれば古は男女鈴を手に繋て飾とせりと見えたり、峰文十遠仁は今按今の點叶はず、峰を義訓してスヱと讀べし、槻の枝の末なり、※[木+求]手折は※[木+求]は※[手偏+求]に改ためてナカタヲリと讀べし、第九に注せしが如し、吾者持而往をユキと點ぜるは書生の誤歟、ユクと讀べし、
 
初、かみとけのひかるみそらの かみとけを、日本紀にはかみときともいへり。和名集(ニ)云。霹靂(ハ)辟歴(ノ)二(ノ)反。俗(ニ)云【加美於豆。】一云【加美止介。】霹(ハ)折也。靂(ハ)歴也。所(ロ)v歴(ル)皆破折(スルナリ)也。春秋云。震2夷伯之廟(ニ)1、劈歴(シテ)破(ル)之。郭璞(カ)曰(ク)。雷(ノ)之急(ニ)激(スル)者(ヲ)曰(フ)2霹靂(ト)1。日本紀(ニ)靂を※[石+歴]に作れり。禮記(ノ)月令(ニ)云。仲秋(ノ)之月雷始(テ)收(ム)v聲(ヲ)。かくあれとも、今はいなひかりのはけしくして、しくれのふる長月といへは、さきに十月を神無月といふことは、いかつちのならぬによりてなつけたるならんと申き。さてしくれのふれはかりかねもいまたきなかすといへるは、事のたかへるやうなれと、第四に、みまつりていまた時たにかはらねは年月のことおもほゆる君といふ哥よりこのかた、此てにをはおほし。しくれのふるにと心得へし。きよきみた屋は、神供のために作る田をまもる屋なり。かきつたの池の堤の。かきつ田とは、第九に、みもろの神なひ山にたちむかふみかきの山にとよめり。そのみかきの山にある田をいふ歟。神垣の内のことくまちかく作るをもいふへし。第十九にわかせこかかきつの谷ともよめり。池のつゝみのもゝたらぬみそのつきえに。第二に人丸の哥に、わしり出の堤にたてるつきの木のこちこちのえの春の葉のしけきかことく云々。或本哥出立のもゝえつきの木といへり。百たらぬは、上にもゝたらぬいはれの池とも、やその嶋わともつゝけよめるかことし。おほくの枝のさせるをみそのつきえといへり。みつえさすは、水枝指とかきたれと、三枝《ミツエ》さすなり。雉を岸に用たるかことし。およそ木は、こなたかなたに枝のさせは、中をあはせて三枝といへり。眞割持、長流か抄にいはく。枝を折取をもさくといふなり。或物にかきて侍しは、もみちの枝おし折て、手にさけもちたるなりといへり。此義よろしからす。わたくしなる尺なり。眞さきの眞はたゝ助語なりといへり。今案これをはまさけもつとよみて、下のこすゝもゆらにといふ句につゝくへし。そのゆへは、神功紀云。三月壬申朔〇神風《カムカセ》伊勢(ノ)國(ノ)之|百傳度逢縣《モヽツタフワクラヒアカタノ》之|拆鈴《サクスヽ》五十鈴宮所居《イスヽノミヤニヲル》神、名(ハ)撞賢木嚴《ツキサカキイツノ》之|御魂天疎向津媛《ミタマアマサカルムカツヒメノ》命焉。此拆鈴といふは、鈴は人の口をすこしあきたるに似たるに似たるものなれはいふなるへし。しかれは、眞はほむることはにて、まさけもつ小鈴とはつゝくるなり。履中紀云。是(ノ)夜仲(ツ)皇子忘(レテ)2手(ノ)鈴於黒媛(カ)之家(ニ)1而歸焉。明日《くるつの》夜太子不(シテ)v知(タマハ)2仲(ツ)皇子(ノ)自《ミ》※[(女/女)+干]《ヲカセルコトヲ》1而到(テ)之乃入v室《ヨトノニ》開v帳(ヲ)居2於|玉床《ミユカニ》1。時床頭有2鈴(ノ)音1。太子|異《アヤ》之問(テ)2黒媛(ニ)1曰何(ソノ)鈴(ソ)也。對(テ)曰|昨夜《キス》之非(スヤ)2太子(ノ)所v賚《モタマヘシ》鈴(ニ)1乎。何(ソ)更《また》問v妾《ヤツコニ》。太子自知(メシテ)3仲(ツ)皇子(ノ)冒《タカヘテ》v名(ヲ)以※[(女/女)+干](セルコトヲ)2黒媛(ヲ)1黙(シテ)之避也。ゆらには手玉もゆらといへるかことし。第十九に家持の白大鷹をよめる哥にも、白ぬりの小鈴もゆらにはなちやりとよめり。たわやめに我はあれともとは、女は手にちからのなけれは、たよはめといふ心にたわやめとも、たをやめともいへり。第三に
  いは戸わる手ちからもかなたよはきをとめにしあれはすへのしらなく
さきに秋のもみちはといひすてゝ、まさけもつ小鈴もゆらに手わやめに我はあれともといひて、こゝにて上の秋のもみち葉につゝけて、引よちてとこゝろうへし。峯は筆峯なといふ時、佐幾とも波之ともよめり。今は義をもてすゑもとをゝにとよむへし。つきの枝の末なり。此上に、もとべには、つゝし花さき、すゑへには、椿花咲といへる末邊は峯の事なれは、今すゑとよむへきなり。こゝに引よちてすゑもとをゝにうちたをりとあれは、いよ/\まさけもつは小鈴の事なること明なり。往はゆくとよみて句絶とすへし。ゆきとあるはかな誤れり。※[手偏+求]手折は、第九にうちたをるたむの山きりといふ哥にもかくかけり
 
反歌
 
(5)3224 獨耳見者戀染神名火乃山黄葉手折來君《ヒトリノミミレハコヒシミカミナヒノヤマノモミチハタヲリコムキミ》
 
戀染とは君と云へる人と共に見ぬ故なり、落句の點又叶はず、タヲリキヌキミと讀べし、上の長歌に合せて今の點の誤を知べし、
 
初、獨のみ見れは 手折來君は、たをりきぬきみとよむへし。たをりこむ君はあやまれり。物を見て人を思ふは常のならひなり
 
此一首入道殿讀出給【幽齋本校本共細字、下傚v此、】
 
此一首とは反歌一首なり、此注は後人の朱などにて注しけむを誤て本文に書加へたるなるべし、仙覺の奥書に松殿入道殿下御本光明峰寺入道前攝政左大臣家御本と云へり、此中にて松殿の御事なるべし、
 
初、此一首入道殿 これは仙覺なとの注せられたるを後の本に書くはへたる歟
 
右二首
 
3225 天雲之影寒所見《アマクモノカケサヘミ》隱來笶長|谷之河者浦無蚊舩之依可來礒無蚊海部之釣不爲吉咲八師浦者無友吉畫矢寺礒者無友奧津浪淨※[手偏+旁]入來白水郎之釣舩《セノカハヽウラナキカフネノヨリコヌイソナミカアマノツリセヌヨシヱヤシウラハナクトモヨシヱヤシイソハナクトモオキツナミイソヒコキイリコアマノツリフネ》
 
(6)影寒、【濱成和歌式、可氣佐倍、】  長谷之河者、【式云、婆都勢能可婆努、】  浦無蚊、【式云、宇羅那美可、】  磯無蚊、【式云、伊蘇那美可、】  海部之釣不爲、【式云、阿麻母都利勢奴、】  淨※[手偏+旁]入來、【式云、宇羅那美可、岐與倶己岐利己、官本淨作v諍、】
 
濱成和歌式云、柿本若子詠長谷四韻歌曰とあるは此歌なり、柿本若子誰人ぞや未v考、影寒は寒は書生の書損じたるなるべし塞に作てカゲサヘと點ずべし、式に可氣佐倍とある是證なり、第十六云、安積山影副所見山井之《アサカヤマカゲサヘミユルヤマノヰノ》云々、第二十防人歌云、乃牟美豆爾加其佐倍美曳弖《ノムミヅニカゴサヘミエテ》云々、加其《カゴ》は藝《ゲ》と其《ゴ》と通ずれば影なり、此等の傍證にも依るべし、カゲサエと云べきことわりなし、第十一に手握而雖打不寒《タニキリテウテトモコリス》云々、此寒も塞にてうてどさはらずにやと既に注しき、第七に玉障清《タマサヘキヨク》と云さへ〔二字右○〕に障の字をかり、第十二にゆくときさへやと云さへ〔二字右○〕に禁の字をかれり、此れ又塞の字なるべき例證なり、影さへ見ゆるとは清きを云なり、浦無蚊より下の八句は第二に人丸の石見より上れる時の歌の中のつゞきに似たり、浦無蚊磯無紋はウヲナミカ、イソナミカと讀べし、奧津浪とは波の互に相撃て隙なくたゝみかけるによせて其如くあらそひて釣船を※[手偏+旁]入れよとなり、第九に爭ふ事を水門入爾船己具如久と云へり、淨は諍に作るに依べし、日本紀に爭をイソフと讀たれば若は誤て三水を加へたる歟、但和歌式に依て字のまゝにキヨクコギリコと讀べきか、是はおきつなみきよくとつゞけたる事詮な(7)きに似たる歟、若古本も諍を草に書たるを撰式者も淨の草と見まがへられけるにや、此歌長谷川をほめて業平朝臣の河原院にして釣する舟はこゝによらなむとよまれたるに似たれど又思ふに河しもこそ多けれ別て此川に海人の釣舟の入來む事を願ひたるは思ふ心有ける歟とも云つべし、第十に海小船泊瀬乃山爾《アマヲフネハツセノヤマニ》云々是さへ思ひ合せられたり、
 
初、あま雲の影さへみゆる これは泊瀬河のきよき心なり。第十六には、あさか山影さへみゆる山の井とよめり。古今集に月のあきらかなることをよむに、飛鴈の數さへみゆるといふかことし。その哥も顯昭の注には、一本に影さへみゆるといふを執せらる。今案今こゝに影寒所見とかきたるをは、かけさむくみるとよむへしとおほゆ。もし副にてはなくてさえてみゆるといふ心歟。影副の心ならは、寒は佐|叡《エ》、副は佐|弊《ヘ》にて、かむなたかへり。もしは同韻相通の心にて、副《サヘ》并《サヘ》等にかへて用たるか。第五卷に
  はる柳かつらにをりしうめの花たれかはうへし盃のへ《・上》に
此集のかんなにては有惠志《ウヱシ》とかくへきを、有倍《ウヘ》志とかけり。又同卷に
  かくのみやいきつきをらむ荒玉のきへゆく年のかきりしらすて
吉|叡《エ》由久とかくへきを、吉|倍《ヘ》由久とかけり。これら倍と叡と通してかけるに准せは、かけさへみゆるにても有へし。こもりくのはつせの河は浦なきか船のよりこぬ――いそはなくとも。第二卷に人丸哥に、いはみの海つのゝうらわを、うらなしと人こそみらめ、かたなしと人こそ見らめ、よしゑやし浦はなくとも、よしゑやしかたはなくともとよまれたるににたり。長流か枕詞燭明抄に、あまをふねはつせとつゝくるよしを尺すとて、此集第十の
  あまを舟はつせの山にふる雪のけなかくこひし君か音そする
といふ哥を引て、舟の泊りをははつるといふ義にてかやうにつゝけたるなりといひて、又此哥を引ていはく、河しもこそおほけれ。わきて此川に海人のつりふねの入來むことをねかひたるは、思ふ心有ける歟ともいひつへしとかけり。淨は諍の誤あるひは爭なるへし。いそふはあらそふなり。第一に藤原宮の役民か哥にも、いそはく見れはとよめり。おきつなみいそひこきいりことつゝけたるは、浪の立かさなるは、物をきほひあらそふに似たれはなり。第九に勝鹿眞間娘子をよめる哥に、みなと入に舟こくことくといへるは、かの娘子をわれ得む人得むとあらそふたとひにいへり。哥のおもむきは、泊瀬河の清きを愛して、業平朝臣の河原院にして、朝なきにつりする舟はこゝによらなんとよまれたるに似たれと、長流かいへることく、故あるへきに似たり。むかし長谷にまうてたりしに、かの寺の法師の人にかたるを聞侍しは、觀音の御足の下の石、しほ時になれはうるほふるよし申き
 
反歌
 
3226 沙邪禮浪浮而流長各河可依礒之無蚊不怜也《サヽレナミウキテナカルヽハツセカハヨルイヘキイソノナキカサヒシサ》
 
也は助語なり、
 
初、さゝれ浪うきて 水のはやくて浪のよるへきかたなしといひて、長哥に、浦なきか舟のよりこぬとあるをうけてかくはいへり
 
右二首
 
3227 葦原笑水穗之國丹手向爲跡天降座兼五百萬千萬神之神代從云續來在甘南備乃三諸山者春去者春霞立秋徃者紅丹穗經甘甞備乃三諸乃神之帶爲明日香之河之水尾速生(8)多米難石枕蘿生左右二新夜乃好去通牟事計夢爾令見社劍刀齋祭神二師座者《アシハラノミツホノクニヽタムケストアモリマシケムイホヨロツチヨロツカミノカミヨヨリイヒツキキテアルカミナヒノミモロノヤマハハルサレハハルカスミタチアキユケハクレナヰニホフカミナヒノミモロノカミノオヒニセルアスカノカハノミヲハヤミイキタメカタキイハマクラコケムスマテニアタラヨノヨシユキカヨハムコトハカリユメニミエコソツルキタチイハヒマツラムカミニシイマサハ》
 
霰立、【校本霰作v霞、】
 
手向爲跡とは常は神に物を奉るやうの事を云へり、是は此國のあしき神を平らげて人を安くすましむる國となし給ふ意と聞ゆれば將來の人にたまものすとてと云はむが如くなるべし、春去者も秋往者も共に來ればの意なり、霰は書生の失錯なり霞に改たむべし、三諸乃神とは雄略紀云、朕|欲《オモフ》v見2三|諸岳《モロノヲカノ》神之形1【或云此山之神(ヲハ)爲2大物代主神1也、或云菟田墨坂神也、】かくはあれども今はすなはち山を指して云へり、水尾速生多米難とは第七に水隱爾氣衝餘《ミゴモリニイキツキアマリ》、早川之瀬者立友《ハヤカハノセニハタツトモ》とよみ、第十一に急瀬立不得戀毛《ハヤキセニタチカヌルコヒモ》とよめる如く息の暫もためて居り難き程の水の早さを云なり、石枕とは河中に横たはれる石なり、瀧枕瀬枕など云も石に觸るゝ水の高くあがる事を云へり、蘿生マデニとはさばかり水の早き所には洗ひ流されて蘿むす隙もなきを其石にも蘿むさむは久しかるべきなり、今按上の生多米難をばオヒタメガタキと讀て苔のおひたまりがたきと意(9)得べきか、蘿ときかぬ程は何事にかとおぼゆとも云べけれど、おひためがたき石枕の蘿生までと意得むにつゞかざるにはあらぬにや、息《イキ》タメガタキと讀ては猶髣髴なる歟、新夜は新代なり、好去通牟も事計も皆上に出で注しき、夢爾令見社は今按令見をミエと點ぜるは令の字に叶はず、ユメニミセコソと讀べし、釼刀齋祭とは垂仁紀云、二十七年秋八月癸酉朔己卯、令《ノリコチテ》2祠官《カムツカサニ》1卜(シムルニ)2兵器《モノヽクヲ・ツハモノヲ》爲(コトヲ)2神(ノ)幣《マヒト》1吉|之《シ》、故(レ)弓矢及|横刀《タチヲ》納2諸神《モロカムタチノ》之社(ニ)1、仍更(ニ)定2神地《カムトコロ》神戸《カムヘ》1以v時(ヲ)祠之、盖|兵器《モノヽクヲモテ》祭2神祇1始興2於是(ノ)時1也、神二師座者とは實の神にてまさば夢に示たまへとなり、師は助語なり、
 
初、あしはらのみつほの國に たむけすとあもりましけんとは、たむけは常は神に物を奉るやうのことをいへり。これは此國のあしき神をたひらけて、人をやすくすましむる國となしたまふ心ときこゆ。たまものすといふたくひなるへし。あもりましけんは、第三にもあもりつく天のかく山とよめり。第十九にもあもりまし、はらひたひらけとよめり。あもりは天くたりなり。神代よりいひつきてある。日本紀云。甞大己貴命謂2少彦名命1曰。吾等所v造之國豈謂2善成1之乎。對曰。吾欲v住2於日本國之三諸山1。故即|營《ツクテ》2宮彼處1使2就而居1。此大三輪之神也。みわ山とおなしく、みもろ山といひて、ともにおなし神のましませり。下にも神なひ山の帶にせる明日香の川といへり。第九には、みもろの神のおばせる泊瀬川といへり。みわ山も此みむろ山も、ともに山をさして神といへり。みをはやみいきためかたきとは、第十一に
  ものゝふの八十氏川のはやきせにたちあへぬこひもわれはするかも
水尾のはやき所には、をよく人の、底にかつきてしはしのほとも息をためてたもつことあたはぬをいへり。いはまくらは河中によこたはれる石をいへり。瀬枕なといふも、瀬にあたりて水の高くあかるをいへり。あたらよは新夜とかきたれとも、世の字なり。第一に藤原宮の役民か哥に、ふみおへるあやしき龜もあたら代といつみの川といへるかことし。よしゆきかよはんことはかり夢に見えこそとは、いかにしていくひさしくゆきかよひて見るへきはかりことあらむ。夢にそのよしをしめしたまへとなり。つるきたちいはひまつらん神にしまさはとは、垂仁紀云。二十七年秋八月癸酉朔己卯、令《ノリコチテ》2祠宮《カンツカサニ》1卜(シムル)3兵器《モノヽク・ツハモノ》爲2神(ノ)幣《マヒト》1吉之。故弓矢及|横刀《タチヲ》納2諸神《モロカムタチノ》之社(ニ)1。仍更(ニ)定2神地《カムトコロ》神戸《カンヘヲ》1、以v時(ヲ)祠之。蓋|兵器《モノヽクヲモテ》祭2神祇(ヲ)1始興2於是(ノ)時(ニ)1也。神にしまさはとは、誠の神にていまさは夢にしめしたまへ。しめしたまはゝ神と知て、太刀をたてまつりていはひまつらんとなり。春されは秋ゆけはは、上に委申つることなり。春霞を霰に作れるは誤なり
 
反歌
 
3228 神名備能三諸之山丹隱藏杉思將過哉蘿生左右《カミナヒノミムロノヤマニカクレタルスキシスキムヤコケノムスマテ》
 
三諸之、【校本云、ミモロノ、】
 
三四の句は今按カクススギオモヒスギメヤと讀べし、杉は三諸の神木にて秘藏し給ふをかくす杉と云、杉を承て思ひ過めやとは第九にも神南備神依板爾爲杉乃念母不過戀之茂爾《《カミナビノカミヨリイタニスルスギノオモヒモスギズコヒノシゲキニ》とよめる如く思ひ過されめや過されじとなり、杉の蘿むすまで幾(10)久しくとも此山の神徳并に景趣は忘られじの意なり、
 
初、かみなひのみもろの山に 隱藏杉思將過哉、これをは、かくす杉、おもひ過むやとよむへし。杉はみもろの神の神木にて、秘藏してふかくかくしおかせたまふ心なり。杉をうけておもひすきむやといへり。第九に
  神なひの神より板にする杉のおもひも過すこひのしけきに
思ひ過むやは、思ひ過ゆかむやなり。おもひの過るはわするゝなり。此山をあかぬ心のわすれしとなり
 
3229 五十串立神酒座奉神主部之雲聚玉蔭見者乏文《イクシタテミワスヱマツルカミヌシノウスノタマカケミレハトモシモ》
 
串は〓に作るべき事第九處女墓をよめる歌の中の宍串呂《シヽクシロ》と云詞に付て注せしが如し、五十串立は多くの串に幣を挿て立るを云べし必らずしも幣串の五十本に限るにはあるべからず、仙覺は五十は發語の詞也と注せられたるも然るべし、神酒は第二に注せり、雲聚玉蔭は聚は冠の餝なり、推古紀十一年十二月戊辰朔壬申始(テ)行2冠位1云々、并(テ)十二階《トシナアマリフタシナ》並(ニ)以2當色|※[糸+施の旁]《キヌヲ》1縫《ヌヘリ》之、頂(ハ)撮※[手偏+總の旁]《トリスヘテ》如v嚢而|著《ツケタリ》v縁《モトヲリニ》焉、唯|元日《ムツキツイタチノヒ》著2髻華《ウズ》1、【髻華此云2于孺1、】十六年八月辛丑、是時皇子諸王諸臣悉(ニ)以2金|髻華《ウズ》1著頭《サセリ・カムサシニセリ》、孝徳天皇三年紀云、是歳|制《ツクル》2七(ノ)色一十三階之冠1云々、其冠之|背《セニハ》張2漆羅《ウルシヌリウスモノヲ》1、以縁與v鈿《ウス》異(ナリ)、其高(サ)下《ミジカサ》形似v蝉《カザリクシ》、小錦冠以上之鈿(ハ)雜(テ)2金銀1爲v之、大小青冠之鈿(ハ)以v銀(ヲ)爲v之、大小黒冠之鈿(ハ)以v銅爲v之、建武之冠無v鈿也、かゝれば字は髻華とも鈿ともかくなり、今は音を借てかけり、景行紀思邦御歌云、多多瀰許莽《タタミコモ》、弊遇利能夜摩能《ヘグリノヤマノ》、志羅伽之餓延塢《シラカシガエヲ》、于受珥左勢《ウズニサセ》、許能固《コノコ》、此集第十九云、島山爾照在橘宇受爾左之《シマヤマニテレルタチハナウズニサシ》云々、景行紀の御製によればうずは往古よりある事なるを推古天皇の御時冠に刺、孝徳天皇の御時鈿をも亦官位相當に定られたりと見えたり、又(11)景行紀の御製此集第十九の歌に依にかざしの別名歟、和名集楊氏漢語抄云、鈔頭花【賀佐之、俗用2挿頭花1、】落句は見ればめづらしき意なり、
 
初、いくしたてみわすゑまつる 串に幣をさしはさみて立るを、いくしといへり。あなかち幣串の五十本にかきるにはあらす。只おほかる數なり。神ぬしのうすの玉かけとは、神ぬしは神事をつかさとる人の名なり。うすは冠のかさりに作れる花なり。推古紀云。十一年十二月戊辰朔壬申、始(テ)行2冠位(ヲ)1。〇唯|元日《ムツキツイタチノヒ》著《キヌ》2髻華《ウス》1。【髻華此(ヲハ)云2于孺1。】まことは鈿の字なり。或は金銀或は銅にても作る。其位の高下によることなり。かねをもて作る物をも、おしなへて玉とよむなり。弓弭太刀の尻にも玉まくとよめる皆金にて張るをいへり。ともしは見たらはぬ心なり
 
右三首但或書此短歌一首無有載之也
 
3230 帛※[口+立刀]楢從出而水蓼穗積至鳥網張坂手乎過石走甘南備山丹朝宮仕奉而吉野部登入座見者古所念《ミテクラヲナラヨリイテヽミツタテノホツミニイタリトアミハルサカトヲスキテイハハシルカミナヒヤマニアサミヤニツカヘマツリテヨシノヘトイリマスミレハムカシオモホユ》
 
甘南備山、【別校本甘又作v神、】
 
仙覺云、帛はなら/\とまとはるればならと云はむとて帛と置けり、今按此は帛にと云べきを古語なればかく云へる歟、帛の使に出る人なり、水蓼は穗積とつゞけむためなり、俗にいぬたでと云ひて蓼に似て澤邊などに多く生て辛からぬ物なり、樂天詩云、風荷老葉(ハ)蕭條緑、水蓼殘花寂寞(トシテ)紅、第十六には八穗蓼乎穗積乃阿曾我《ヤホタデヲホヅミノアソガ》と云へり、穗積は或者の云、十市郡の西南のはてに有、今の俗|蒲津《ホツ》とかくと云へり、鳥網張はトナミハルと讀べし、第十七云、安之比奇能平底母許乃毛爾等奈美波里《アシヒキノヲテモカノモニトナミハリ》云々、和名云爾雅曰鳥罟謂2之羅1、【和名度利阿美、】第一に人麿の歌に坂鳥乃朝越座而とよまれたる如く、鳥の(12)定て坂飛越る處あるに網を張て捕ことなる故に坂と云はむとて鳥網張とは云へり、坂手は或者又云|城《シキノ》下郡に坂手《サカテ》村あり、蒲津《ホツ》村の西なりと云へり、今按延喜式云、十市郡坂門神社、此に依れば十市郡なるを今は變じて城下郡に屬しけるにや、景行紀云、五十七年秋九月造2坂手(ノ)池(ヲ)1即竹(ヲ)蒔《ウヽ》2其堤上(ニ)1、石走甘南備山とは仙覺の云、神は磐之《イハカ》根のゆゝしき所をも輙走り通ひ給へば神と云ひ出む諷詞に石走とおけるなり、今按神通多けれど神足をもて殊に云へばさも有べきにや、朝宮仕奉而より下は甘南備の神に朝に幣帛を捧てそれより吉野の神たちに幣帛を捧げむ爲に勅使の行を見れば昔の聖の帝のしおかせ給へる儀式の違はぬを見ていにしへを思ふとなるべし、古はイニシヘとも讀べし、
 
初、みてくらをならより出て 此哥は、幣帛を諸社にてたてまつらるゝ時、勅使の次第に祭て過るを見てよめる哥と見えたり。みてくらをもて、ならより出るといふへきを、古哥にはことはくはしからぬ事おほし。水蓼は、俗にいぬたてとて、葉上有(ル)2黒點1者也。樂天詩云。風荷老葉蕭條(トシテ)緑、水蓼残華寂寞(トシテ)紅(ナリ)。此集第十六には、八穗蓼を穗積の朝臣《アソ》とよめり。天武の皇子穗積皇子もそこにおはしませは名付奉ける歟。となみはるさかとを過て。鳥の坂とひ越る所に網を張てとる故に、坂といはむとて、鳥網張とはいへり。第一卷に、坂鳥の朝越ましてとよめるも此心なり。坂手は、延喜式第九、神名上云。十市郡坂門神社。平群郡にも坂門あれとも、此つゝきをみるに十市郡なるへし。いはゝしるかみなひ山に。長流か燭明抄にいはく。神のたけきちからは、磐をも裂て行とほるなり。道速振《チハヤフル》の義なりといへり。今案石走とかきて石橋ともよめり。第二十に、天川いしなみおかはとよめるも、此いしはしの事なれは、なひ《・ヒトミト通》といふにつゝけんとて、いしはしといへるにや。朝宮につかへまつりてとは、朝に幣帛を捧るなり。むかしおもほゆとは、昔のかしこきみかとのしおかせたまへる儀式のたかはぬことをおもふなり
 
反歌
 
3231 月日攝友久經流三諸之山礪津宮地《ツキモヒモカハリユクトモヒサニフルミモロノヤマノトツミヤトコロ》
 
攝友、【清少納言云、カハリユケトモ、袖中抄云、アラタマレトモ、】  三諸之、【清少納言云、ミムロノ、】
 
攝をカハリユクとよめる意いまだしらず、字書にしかよむべき義見えず、若接の字にや、説文交也と注したれば義少し近し、落句は神の宮を云なり、日本紀には宮の一(13)字をトヅミヤとよめり、第二に常都御門《トコツミカド》とよめる如くとこつみやと云べきをこ〔右○〕を略せり、集中に常をと〔右○〕とのみ借てかける事多きも此なり、
 
初、月も日もかはりゆく滝 とつ宮は、とこつ宮所なり。常にしてかはらぬをいへり。日本紀には、宮の一字をとつみやとよめり。こゝにしてとつ宮といへるは、みもろの神の宮をいふなるへし。此哥六帖やらんにも載たる歟。攝をかはりゆくとは、いかにしてよめりともいまたえ心得侍らす
 
此歌入道殿讀出給 【幽齋本細字】
 
清少納言云、宮の御前の御凡帳押|遣《ヤリ》てなげしのもとに出させ給へるなど、只何事もなく萬にめでたきを、さぶらふ人も思ふ事なきこゝちするに、大納言殿月も日もかはりゆけども久に經るみむろの山のと云ふるごとをゆるゝかに打よみ出して居給へるいとおかしとおぼゆる、げにぞちとせもあらまほしげなる御ありさまなるや、此に依れば天暦帝の勅にて點じける時よりかく讀ときけるか、清少納言は元輔が女なればなり、
 
初、此哥入道殿讀出給 これ後人かたはらに注しけんをそのまゝ書くはへたるなり
 
右二首但或本歌曰|故王郡跡津宮地《フルキミヤコノトツミヤトコロ》也
 
3232 斧取而丹生檜山木折來而機爾作二梶貫礒榜回乍島傳雖見不飽三吉野乃瀧動動落白浪《ヲノトリテニフノヒヤマノキコリキテフネニツクリテマカチヌキイソコキタミツヽシマツタヒミレトモアカスミヨシノヽタキモトヽロニオツルシラナミ》
 
(14)機爾作、【官本機作v艤、別校本作v※[木+義]、幽齋本或作v〓、】  ※[手偏+旁]囘乍、【官本囘作v廻、】
 
機爾作は今按機は※[木+伐]にてイカダニツクリなるべし、第十九云、漢人毛※[木+戊]浮而遊云《カラヒトモフネヲウカヘテアソフチフ》云々、此※[木+戊]も※[木+伐]を書違へたる歟、幽齋本には※[木+筏]に作れり、※[木+伐]をば義をもてフネとも讀べし、
 
初、斧とりてにふの檜山 此山に檜原生たれは、檜山とよめり。大和の名所なり。機をふねとはいかてよめりけむ。其心をしらす。第十九に、から人のふねをうかへてあそふてふけふそわかせこ花かつらせよといふ哥の舟に、〓此字をかけり。もとより此字ある歟。いまたしらす。もし※[木+伐]の字の誤れるにや。筏とおなしくしていかたなれは、類をもては、かりて舟ともよむへし。今此機も※[木+伐]を誤れる歟。しからはいかたにつくりともよむへし
 
旋頭歌
 
官本には反歌とて下に傍に注して旋頭歌とあれと集中に旋頭を反歌に用たる例なければ是は別によみて反歌にはあらざるべし、六帖にも此歌ばかりをせどうかとて入れたり、
 
3233 三芳野瀧動動落白浪留西妹見卷欲白浪《ミヨシノヽタキモトヽロニオツルシラナミトマリニシイモヲミマクホシキシラナミ》
 
妹見卷、【六帖云、イモヲミマクノ、】
 
留ニシのに〔右○〕は肋語なり、瀧の白浪はうるはしければ見るに付て故郷に留し妹をかくの如く見まくほしきとなり、若は第四句を妹ニミセマクとも妹ト見卷ノとも讀て、さも意得つべき歟、
 
初、みよしのゝ瀧も とまりにし妹をみまくのほしきしらなみとは、瀧の白波を見て、妹をおもひ出るなり。第七に、すみのえのなみつま君とよめり。浪のしろくて花のやうにみゆるによりて、かほよきによそへて、おもひ出てみまくほしきなり。下になみくものうつくしつまとよめるもはれたる空にしら雲のなみのやうにあるは、うるはしけれは、よそへたるなり。もしはとまりにしいもとゝも讀へし。それは注するにをよはす
 
右二首
 
(15)3234 八隅知之和期大皇高照日之皇子之聞食御食都國神風之伊勢乃國者國見者之毛山見者高貴之河見者左夜氣久清之水門成海毛廣之見渡島名高之己許乎志毛間細美香母挂卷毛文爾恐山邉乃五十師乃原爾内日刺大宮都可倍朝日奈須目細毛暮日奈須浦細毛春山之四名比盛而秋山之色名付思吉百磯城之大宮人者天地與日月共萬代爾母我《ヤスミシシワカオホキミノタカテラスヒノワカミコノキコシヲスミケツクニカミカセノイセノクニハクニミレハシモヤマミレハタカクタフトシカハミレハサヤケクキヨシミナトナスウミモユタケシミワタセルシマノナタカシコヽヲシモマクハシミカモカケマクモアヤニカシコキヤマノヘノイソシノハラニウチヒサスオホミヤツカヘアサヒナスマクハシモユフヒナスウラクハシモハルヤマノシナヒサカヘテアキヤマノイロナツカシキモヽシキノオホミヤヒトハアメツチトヒツキトヽモニヨロツヨニモカ》
 
聞食、【別校本云、キコシメス、】  高貴之、【別校本又云、タカクカシコシ、】  挂卷毛、【別校挂又作v掛、】
 
神風之はカムカゼノと讀べし、國見者之毛は今按國見者は一句にて此下に落字有て之毛の二字は一句の末なるべし、山邊は第一に長田王の歌よめる所なり、間細美香母とは天照大神の此處をよしと思召定給ひてかなり、五十師の原は礒宮ある處歟、和名集云、度會郡伊蘇、【以曾、】内日刺大宮都可倍とは下にも百磯城之大宮人と云は行(16)宮に帝の入らせ給へる御供の人のよめるやうに聞ゆれど大神宮を鳳闕に比して申すなるべし、朝日奈須目細毛は朝日の指せばかゞやきてうるはしければ云なり、第十四にも麻具波思麻度爾安佐日左指《マクハシマドニアサヒサシ》、麻伎良波之母奈《マキラハシモナ》とよめり、此目細毛は上に間細美香母と云へるには替れり、上は眞細《マクハシ》なり、今は目細とかける字の如く見る事の細しきなり、崇神天皇の妃《ミメ》に遠津年魚眼眼妙媛《トホツアユメメクハシヒメ》、此名をも思ひ合すべし、暮日奈須浦細毛は夕日の指もまたうるはしければ浦細と云へり、浦は心なり、是は日神のまします宮なれば殊に言に便あり、舊事本紀云、此地者朝日直刺國夕日(ノ)日照國也、古事記雄略天皇段に伊勢三重妹が歌云、麻岐牟久能比志呂乃美夜波《マキムクノヒシロノミヤハ》、阿佐比能比傳流美夜《アサヒノヒテルミヤ》、由布比能比賀氣流美夜《ユフヒノヒカゲルミヤ》云々、春山之四名比盛而は第二以下に見えたり、此歌末の五句を六帖に一首としてもゝしきの題に入れて人丸の歌とせり、
 
初、やすみしゝわか大きみの 此つゝき上におほかり。くにみれは、此下に之毛の上に、かんなにて五もし落たり。こゝをしもまくはしみかもは、此所をよきところと神のおほしめしさためてかもなり。垂仁紀云。二十五年春三月――則天照大神始自v天隆之處也。山のへのいそしの原に、第一にも山邊御井をよめる哥有。朝日なすまくはしも、此まもしは眞にはあらす。こゝに目細とかけることく、めのくはしきにて、みることのよきなり。第十四にも、かみつけのまくはしまとに朝日さしとよめり。崇神天皇の妃《ミメ》に遠津|年魚眼眼妙媛《アユメマクハシヒメ》といふ有。春山のしなひさかへてとは、葉のもえ出、花のさけるによせていへり。第二に秋山のしたへる妹とよめるよりこのかた、あまた有。もゝしきの大宮人、これは大神宮の奉幣使の容儀あるか、禮敬をいたすを見てよめるなるへし。但上にいそしの原にうちひさす大宮つかへといひたれは鳳闕に比して、齋宮をはしめて神官のつかへたてまつるをいふにや
 
反歌
 
3235 山邉乃五十師乃御井者自然成錦乎張流山可母《ヤマノヘノイソシノミヰハヲノツカラナレルニシキヲハレルヤマカモ》
 
春の花秋の紅葉を長歌に云ひつれば自然成錦と云へるはそれなり、蜀(ノ)成都府西城(ハ)江山明媚(ニシテ)錯華如v錦故曰(フ)2錦城1、これを思ひ合すべし、
 
初、山邊のいそしの御井はをのつからなれる錦とは、春の花秋の紅葉の事を長歌にいへるを、ふたゝひこゝに錦といへり。蜀都を錦城となつくるは、山川の明媚なるによりていふといへるになすらふへし。第六の長哥に、鶯のきなく春へはいはほには山下ひかり錦なす花さきをゝりといへり。第八には大津皇子
  たてもなくぬきもさためすをとめらかをれるもみちに霜なふりそね
第十
  春はもえ夏はみとりにくれなゐのにしきにみゆる秋の山かも
 
(17)此歌入道殿下令2讀出1給、
 
官本朱にて傍に細注、
 
此哥入道殿下 これまた後人の注を、そのまゝ本に書入たるなり
 
右二首
 
3236 空見津倭國青丹吉寧山越而山代之菅木之原血速舊于遲乃渡瀧屋之阿後尼之原尾千歳爾闕事無萬歳爾有通將得山科之石田之森之須馬神爾奴左取向而吾者越往相坂山遠《ソラミツヤマトノクニアヲニヨシナラヤマコエテヤマシロノツヽキノハラチハヤフルウチノワタリタキノヤノアコニノハラヲチトモニカクルコトナクヨロツヨニアリカヨハムトヤマシナノイハタノモリノスメカミニヌサトリムケテワレハコエユカムアフサカヤマヲ》
 
千歳爾、【官本云、チトセニ、】  森【別校本作v杜、】
 
寧山は寧樂山なるを樂の字を落せる歟、管木之原は仁徳紀云、皇后更還(テ)2山背1興《タテヽ》2宮室《オホトノヲ》於筒城岡(ノ)南1而居之、和名云、山城國綴喜郡【豆豆木、】瀧屋之阿後尼之原未v詳、千歳をチトモと點ぜるは書生の誤れるなり、此歌は奈良より近江へ赴く人のよめるなり、次の或(18)本歌の落句に依れば注の樣あるべけれど反歌を見るに却て近江に赴く外の心なしと見ゆる歟、
 
初、空みつやまとのくに 寧の下に樂の字脱たり。つゝきの原は、和名集云。山城國綴喜【豆々木】郡。仁徳紀云。皇后更(ニ)還(テ)2山背(ニ)1興《タテ》2宮室《オホトノヲ》於筒城岡(ノ)南(ニ)1而居之。こゝにも管木とかきたれは、日本紀の簡城とおなしやうなれと、唯和名集のことくよむへし。玉かつらを、菅家萬葉集に玉桂とかゝせたまへるかことし。ちはやふるうちのわたり。古今集にちはやふるうちの橋守なれをしそあはれとは思ふ年のへぬれは。此哥につきて、此集を見ぬもの、ちはやふるの詞にまとひて、橋守は神の事なりとおもへるあやまり、此哥にてとくへし。たきのやのあこにの原を。たきのやといふ所にある、あこにの原なり。此哥の外には聞えさる歟
 
或本歌曰
 
3237 緑青吉平山過而物部之氏川渡未通女等爾相坂山丹手向草絲取置而我妹子爾相海之海之奧津浪來因濱邊乎久禮久禮登獨曾我來妹之目乎欲《アヲニヨシナラヤマスキテモノヽフノウチカハワタリヲトメラニアフサカヤマニタムケクサイトリオキツヽワキモコニアフミノウミノオキツナミキヨルハマヘヲクレクレトヒトリソワカクルイモカメヲホリ》
 
絲取置而は絲はいしのと〔右○〕を略して發語の詞に假れる歟、蜘の絲をくものいと云が如し、若はシトリオキツヽと讀べき歟、倭文《シヅ》をしとりとも云へり、此卷下云、倭文幣乎手取持而《シヅヌサヲテニトリモチテ》云々、第十七云、底流鏡之都爾等里蘇倍《テルカヾミシヅニトリソヘ》云々、かゝれば倭文幣《シヅヌサ》を手向に置なり、未通女等爾と云ひ我妹子爾と云は共に枕詞ながら落句を思ふに兼て用あり、久禮久禮登は第五にもよめり、
 
初、あをによしなら山過て こゝに緑青吉とかける、これあをによしの正字なり。委枕詞を別に注して附たるに尺す。ものゝふのうち川わたり、ものゝふの八十氏川といはされとも、面々に氏姓あれは、ものゝふのうち川とのみいへり。をとめらにあふ坂山とは、古今にわきもこにあふ坂山とつゝけたるにおなし。手向草いとりおきつゝ、草は戀草なとそへていふたくひなり。何にまれ、神にたむくるをいふ。第一に白浪の濱まつかえのたむけ草ともよめり。いは發語のことはなり。もし絲の字は音を用て、しとりおきつゝとよむへき歟。倭父を、之豆とも之登利ともいへり。よく神に奉る物なり。縁起式諸社祭の注文に、大かた見えたり。相坂は畿内を越て東海道におもむく初の所なれは、手向をして、つゝかなからんことをいのるゆへに、此集第六に、ゆふたゝみ手向の山と坂上郎女かよめるも此山なり。古今集序には、あふ坂山にいたりてたむけをいのりとかけり。くれ/\は遠きをいふことはなり。第五にも、道のなかてをくれ/”\とゝいへり
 
反歌
 
(19)3238 相坂乎打出而見者淡海之海白木綿花爾浪立渡《アフサカヲウチイテヽミレハアフミノウミシラユフハナニナミタチワタル》
 
打出濱の名は此歌などにて付たる歟、
 
初、相坂を打出てみれは ある人のいはく、近江にうち出の濱といふは此哥よりいひならへり
 
右三首
 
3239 近江之海泊八十有八十島之島之埼邪伎安利立有花橘乎末枝爾毛知引懸仲枝爾伊加流我懸下枝爾此米乎懸己之母乎取久乎不知己之父乎取久乎思良爾伊蘇婆比座與伊加流我等此米登《アフミノウミトマリヤソアリヤソシマノサキサキアリタテルハナタチハナヲホツエニモチヒキカケナカツエニイカルカカケシツエニシメヲカケサカハヽヲトラクヲシラスサカチヽヲトラクヲシラニイソハヒヲルヨイカルカトシメト》
 
不和、【官本云、シラス、】  伊加流我、【幽齋本加作v可、】
 
伊加流我懸此米乎懸は共に媒鳥《ヲトリ》なり、伊蘇婆比座與とはい〔右○〕は發語の詞にて、そばへをるとよめる歟、婆の字多分濁て讀べき所にかけり.又|爭《イソ》ひをるよとよめる歟、鵤《イカルガ》※[旨+鳥《シメ》ふたつの鳥其形能似て打つれありけば黐《モチ》にて父《チヽ》鳥|母《ハヽ》鳥を取も知らで、其子どもの(20)何心なく打むれて遊びをるをはかなき事と憐れびてよめるなるべし、
 
初、あふみの海とまりやそ有 第七にも、あふみの海みなとはやそちといへり。八十はおほきをいへり。有たてるは、有てたてるなり。第一に、はにやすの堤のうへにありたゝしみしたまへれはともよめり。ほつえ、中つえ、しつえは、應神紀云。御製云々。伽愚破志《・香妙》、波那多智麼那《・花橘》、辭豆曳《・下枝》羅破、比等未那等利《・人皆把》、保兎曳波《・末枝》、等利|委《發語》餓羅辭《・取令枯》、瀰兎愚利能《・三栗》、那伽兎曳能《・中枝》、府保語茂利《・含隱》、阿伽例蘆淤等※[口+羊]《・所熟處女》、伊奘佐伽麼(ン)曳那《・去來榮》神代紀仲哀紀等に、賢木の枝に鏡等をかくる事に、今のこといへり。上に引しかことし。もち引かけは、鳥を取もちなり。第五にもち鳥のかゝらはしもよとよめる長哥に、和名集を引るかことし。いそはひをるよいかるかとしめと。いは發語のことは、そはへ居るといふ心なり。或云いそふはあらそふなり。あらそひをるといふ心なり。いかるかしめふたつの鳥、其かたちよく似て、つれたちありくなり。いかるかは鵤、日本紀等管斑鳩とかけり。しめは※[旨+鳥]の字なり。此哥はいかるかしめか、ともに父母をもちにて取もしらてあそふは、智もなくて、おさなきを、たとふることなと有てもよめるにや
 
右一首
 
3240 王命恐雖見不飽楢山越而眞木積泉河乃速瀬竿刺渡千速振氏渡乃多企都瀬乎見乍渡而近江道乃相坂山丹手向爲吾越往者樂浪乃志我能韓崎幸有音又反見道前八十阿毎嗟乍吾過往者彌遠丹里離來奴彌高二山文越來奴釼刀鞘從拔出而伊香胡山如何吾將爲往邊不知而《オホキミノミコトカシコミミレトアカヌナラヤマコエテマキツメルイツミノカハノハヤキセヲサヲサシワタリチハヤフルウチノワタリノタキツセヲミツヽワタリテアフミチノアフサカヤマニタムケシテワカコエユケハサヽナミノシカノカラサキサキクアラハマタカヘリミムミチノクマヤソクマコトニナケキツヽワカスキユケハイヤトホニサトサカリキヌイヤタカニヤマモコエキヌツルキタチサヤユヲケイテヽイカコヤマイカヽワアカセムユクヘシラステ》
 
彌遠丹以下の四句は第二の人麿歌に注せり、釼刀鞘從拔出而伊香胡山、かくつゞくる意は太刀をいかくとつゞくるなり、伊〔右○〕は發語の詞かく〔二字右○〕は撃《ゲキ》の字なり、崇神紀云、會明《アケホノニ》兄|豐城命《トヨキノミコト》以2夢辭1奏《マウシテ2于天皇(ニ)1曰、自《ミ》登(テ)2御諸山1、向(テ)v東(ニ)而|八廻弄槍《ヤタヒホコユゲシ》、八廻撃刀《ヤタヒタチカキス》、史紀司馬相如列傳云、少(ナキ)時好讀v書學v撃v釼【索隱曰、呂氏春秋釼技云、持v短入v長倏忽縱横之術也、魏文典論(ニ)云、餘好撃v釼以v短乘v長是也、】伊香胡は第六に注せり、伊香胡を承て如何と云へり、
 
初、おほきみのみこと まきつめるいつみの川とは、杣木をつみて下すなり。しかのからさきさきくあらは。第一に人丸の哥に
  さゝ浪のしかのからさきさきくあれと大宮人の舟まちかねつ
みちのくまやそくまことに。神代紀下云。大己貴神白(シテ)2於二神(ニ)1曰。今我當於百不足之八十|隈《クマチ》將隱去矣。いやとをにさとさかりきぬいや高に山もこえきぬ。第二に、人丸の石見國より上らるゝ時の哥に、此道のやそくまことに、よろつたひかへりみすれと、いやとをに里さかりきぬ、ますたかに山もこえきぬ。つるきたちさやをぬき出ていかこ山。近江に伊香郡あり。かくつゝくる心は、太刀をぬきてかくといふ心なり。いは例の發語なり。かくといふは、太刀にてうつことなり。日本紀第五曰。會明《アケホノニ》兄|豐城命《トヨキノミコト》以2夢(ノ)辭(ヲ)1奏《マウシテ》2于天皇(ニ)1曰。自《ミ》登(テ)2御諸山(ニ)1向(テ)v東(ニ)而|八廻《ヤタヒ》弄槍《ホコユケシ》八廻《ヤタヒ》撃刀《タチカキス》。史記司馬相如列傳云。司馬相如者、蜀郡成都(ノ)人也。字(ハ)長卿。少時好(テ)讀v書(ヲ)學v撃v劍。【索隱曰。呂氏春秋劔技云。持v短入v長倏忽縱横之術也。魏文典論云。餘好撃v劔以v短乘v長是也。】第八にも笠金村伊香山にてよまれたる哥有。いかこをうけていかゝわかせんといへり
 
(21)反歌
 
3241 天地乎難乞祷幸有者又反見思我能韓埼《アメツチコヒネキカタシサキクアラハマタカヘリミムシカノカラサキ》
 
注に依て考るに元正紀云、養老六年正月癸卯朔壬戌、穗積朝臣老|坐《ツミセラレテ》3指2斥(スルニ)乘輿《スベラミコトヲ》1處2斬刑(ニ)1、而依(テ)2皇太子奏(ニ)1降2死一等1配2流(ス)於佐渡島1、かゝれば乘輿を指斥するは斬刑に當る罪なるを太子の申宥めさせ給ひて一等を赦されて謫處に赴むく罪人の身なれば、天神地祇にも平安を乞ねがひ難し、死ぬべくして死なぬが幸なれば我身若思ひの外にながらへば又此韓崎を歸て見むとなり、冥加の有けるにや、聖武紀云、天平十二年六月十五日大赦、穗積朝臣老等五人召令v入v京(ニ)、十六年閏正月幸2難波宮1以2正五位上穗積朝臣老等五人1爲2恭仁《クニノ》宮留守(ト)1、さだかなる人とおぼしめしければこそ留守司にはおかせたまひけめ、第三に幸2志賀(ニ)1時此朝臣のよめるも相似たる歌なり、
 
初、あめつちをこひねきかたし 天神地祇のうけたまふほとにはこひねきかたしとなり。注によれは、元正紀云。養老六年正月癸卯朔壬戌、穗積朝臣老老|坐《ツミセラレテ》3指2斥(スルニ)乘輿(ヲ)1處2斬刑1。而依2皇太子(ノ)奏(ニ)1降(シテ)2死一等(ヲ)1、配2流(ス)於佐渡島(ニ)1。かゝれは乘輿を指斥するは、斬刑に當る罪なるを太子の申なためさせ給ひて、一等を降さるれは、あまつ神くにつ神にも、罪ある身にては、平安をこひねかひかたし。死ぬへくしてしなぬかさいはひなれは、わか身もしおもひの外のさいはひもあらは、又此しかのからさきをかへりみむとなり。冥加ありけるにや、聖武紀云。天平十二年六月十五日大赦。穗積朝臣老等五人召(テ)令v入(ラ)v京(ニ)。十六年閏正月幸(ス)2難波宮(ニ)1。以2正五位上穗積朝臣老等五人(ヲ)1爲2恭仁《クニノ》宮(ノ)留守(ト)1。さたかなる人とおほしめしけれはこそ、留守司には置せたまひけめ。第三に幸2志賀1時穗積朝臣老歌一首
  わか命のまさきくあらは又もみむしかの大津によするしらなみ
これ似たる哥なり
 
右二首、但此短歌者或書云、穗積朝臣老配2於佐渡1之時作歌者也、
 
(22)3242 百岐年三野之國之高北之八十一隣之宮爾日向爾行靡闕矣有登聞而吾通道之奧十山三野之山靡得人雖跡如此依等人雖衝無意山之奧磯山三野之山《モヽクキネミノヽクニノタカキタノクヽリノミヤニヒムカヒニユキナヒカクヲアリトキヽテワカカヨヒチノオキソヤマミノヽヤマナヒカストヒトハフメトモカクヨレトヒトハツケトモコヽロナキヤマノオキソヤマミノヽヤマ》
 
百岐年は百|岫嶺《クキネ》と云義にて山の多き意歟、やがて下に奥十山三野山などあり、梓杣も此國にあり、字書を考るに岐をくきとよむべき意見えず不審なり、此卷下には百小竹之三野王とつゞけたれど今の義と通ふべくは見えず、高北之八十一隣之宮爾とは高北と云所に八十一隣之宮の舊跡の有なるべし、高北何れの郡に在る歟未v詳、景行紀云、四年春二月甲寅朔甲子、天皇幸(ス)2美濃1居2于|泳《クヽリノ》宮(ニ)1、【泳宮此云2區玖利能彌椰1、】かゝれば今八十一隣とは書たれど括《クヽリ》の如くは讀べからぬ歟、日向爾とは西を云歟、景行紀云、幸2子湯《コユ》縣1遊2于|丹裳《ニモノ》小野1、時(ニ)東(ノカタヲ)望《ミソナハシテ》之謂(テ)2左右《モトコヒトニ》1曰、是國也直向2於日(ノ)出方1、故號2其國1曰2日向1也、延喜式龍田風神祭祝詞云、吾宮者、朝日日向處夕日日隱處云々、此等に例して思ふべし、行靡闕矣とはありく姿のたをやかなるを以て美人を呼なり、雄略紀云、麗哉《カホヨキカナ》女子《ヲミナゴ》、徐《シメヤカニ》歩《アリク》2清庭《イサギヨキニハニ》1者《ヒトハ》言(ヘル)2誰女子1云々、此集第二云|吾王乃立者玉藻之如《ワガオホキミノタヽセレバタマモノゴトク》云々、奥十山(23)何れの郡に在と云事未v考、三野之山は和名云|本巣《モトス》郡即美濃是なるべし、靡得人雖跡は跡は踏なるべし、如此依等人雖衝、二つの人と云はすなはち我なり、左太冲呉都賦云、雖v有2石林之|〓〓《サカククタル》1請|攘《カヽゲテ》v臂而靡(カサム)v之、趙景眞與(ル)2※[禾+(尤/山)]茂齊1書云、蹴2〓〓1西(ニ)倒2〓太山1令2東覆1、項羽歌云、力拔v山兮氣蓋v世、歌の心は泳宮の西に行けば玉藻の靡くが如なる人の有と聞て其人を見て得むと思ひて通ふ道に、奥十山三野山など踏越がたく險しきがあれば其山を靡かすとて吾足もて踏み、かく此方に依れとて手して突《ツケ》ども奥礒山も三野山も我爲に心なくして靡かぬ依らぬと云なり、若は山の靡かぬ依らぬと云を人のつれなきによそへたる歟、
 
初、もゝくきねみのゝ國の 此枕詞は、長流か燭明抄に出せり。今案百岐年とかけるを、岐は唐の山の名なり。いかてくきとはよめりけん。くきとよめるは岫の心にや。しからは、年は嶺にて、やかて下におきそ山、みのゝ山なとよめれは、美濃は山おほき國にて、もゝのくきみね有といふ心に、百くきねみのとはいふなるへし。高北のくゝりの宮は、高北といふ所にくゝ
 
 
りの宮の造られけるなるへし。景行紀云。四年春二月甲寅朔甲子、天皇幸2美濃1。〇居2于|泳《クヽリノ》宮(ニ)1【泳宮此云2區玖利能彌椰1。】こゝには八十一隣とかきたれは括の字の和訓によむへきやうなれと、景行紀のことくよむへし。其例さきにいふかことし。日むかひにゆきなひかくを有ときゝてとは、高北といふにつきては、日むかひは北なるへし。延喜式第八、龍田風神祭祝詞云。吾宮者、朝日乃日向處、夕日乃日隱處乃龍田能立野爾小野爾吾宮波定奉※[氏/一]云々。これは西を朝日の日向といひて、其所山の東なれは、又夕日の日かくれといへり。此集第二に向南山とかきてきた山とよみたれは、今は北なるへし。ゆきなひかくとは容儀をいへり。靡鬘のすかたをほむるなり。第二にたゝせれは玉ものことくころふせはかはものことくなひきあひしよろしきゝみかと人丸のよまれたるかことし。なひかすと人はふめとも、かくよれと人はつけとも。足をもて山をふみ、手をもてつく心なり。第二に、人丸の長哥の結句に、妹か門みむなひけ此山といへり。第十二には
  あしき山梢こそりてあすよりはなひきた《有・テア》れこそ妹かあたりみん
項羽歌云。力拔v山兮氣蓋v世。文選左太沖呉都賦云。雖v有2石林之|〓〓《イカククタル》1請|攘《カヽケテ》v臂(ヲ)而靡(カサン)v之。注楚辭天問篇云。烏(ソ)有(ン)2石林1。此(レ)本(ト)南方楚(ノ)圖畫(ナリ)。而(ルヲ)屈原難2問(ス)之(ヲ)1。於(ハ)v義(ニ)則石林當v在(ル)v南也。向(カ)曰。〓〓(ハ)深險(ノ)貌。雖2石險(シク)林深(キ)之處(ト)1擧(テ)v臂(ヲ)則倒(サントナリ)之。趙景眞與(フル)2※[(禾+尤)/山)]茂齊(ニ)1書(ニ)云。蹴(テ)2崑崙(ヲ)1使(シテ)2西(ニ)倒(ル)※[足+榻の旁](テ)2太山(ヲ)1令2東(ニ)覆《フサ》1。上にゆきなひかくといふと、下になひかすとゝいへるはかはれり。哥のすへての心は、高北に、あゆめは玉ものなひくことくなる人の有ときゝて、その人を見て得むとおもひてゆく道に、おきそ山、みのゝ山なとふみこえかたくさかしきがあれは、その山をなひかすとてわかあしもてふみ、かくかたはらによれとて手もてつけとも、おきそ山も、みの上山も、わかために心なくしてなひかす、よらぬといふなり。人はふめともといふ人は、すなはち我なり。山のなひかすよらぬを、人の心のつれなきによせたるか。下の相聞にも入へき哥なれとも、名所をよめる事前後似たれはこゝに載る歟。雖跡は雖v蹈をあやまれるなるへし。但ふめは跡あるゆへに、もしは義をもてかけるにや。みのゝ山は美濃の中山とよむ山なるへし。わかかよひちは第七に
  妹かりとわかかよひちのしの薄われしかよはゝなひけしのはら
 
右一首
 
3243 處女等之麻笥垂有續麻成長門之浦丹朝奈祇爾滿來鹽之夕奈祇爾依來波乃波鹽乃伊夜益舛二彼浪乃伊夜敷布二吾妹子爾戀乍來者阿胡之海之荒礒之於丹濱菜採海部處(24)女等纓有領巾文光蟹手二卷流玉毛湯良羅爾白栲乃袖振所見津相思羅霜《トメカヲケニタレタルウミヲナスナカトノウラニアサナキニミチクルシホノユフナキニヨリクルナミノナミシホノイヤマスマスニソノナミノイヤシクシクニワキモコニコヒツヽクレハアコノウミノアライソノウヘニハマナツムアマヲトメラカマツヒタルヒレモテルカニテニマケルタマモユララニシロタヘノソテフリミセツアヒオモフラシモ》
 
麻笥は苧を績《ウミ》て入るゝ器にて績桶《セキトウ》と云物なり、水桶《ヲケ》云名も此麻笥より付たる歟、令義解第二云、金|水桶《ヲケ》金線柱奉2伊勢神宮1、釋云伊勢大社奉2金|麻笥《ヲケ》金多多利1云々、本文には金|水桶《ヲケ》、釋文には金|麻笥《ヲケ》とあるにて知べし、續麻成長門之浦丹とは發句より此長門之浦を云はむための序なり、第六に續《ウミ》麻成長柄之宮と云へるに同じ、長門之浦は安藝なり、第十五云、安藝國長門島舶泊2礒邊1作歌次の端作云、從2長門浦1舶出之夜仰觀2月光1作歌、波鹽乃は今按波は下の彼浪乃《ソノナミノ》と云如く彼鹽乃《ソノシホノ》なりけむを誤て波に作れるを字に隨て點ぜるなり字點ともに改たむべし、伊夜益舛二は舛は升に改たむべし吾妹子爾戀乍來者とは下の海部處女を指せり、都より安藝の國に下りて住人の任官の限など滿て歸り上るとてよめる歟、阿胡之海は奈呉海にて攝州なり、荒礒はアリソと續べし、濱菜は礒菜と云に同じ、領巾文光蟹はてるかと見ゆるばかりにの意なり、第十に霍公鳥の歌に音之干蟹《コヱノカルカニ》とよめるなどを引合て見るべし、袖振所見(25)津はソデフリミエツと讀べし
 
初、をとめらかをけに をけは苧をうみているゝものなり。績桶といへり。水桶をゝけといふも、此麻笥にて名を得たりと見えて、以前引る令義解に、天照大神に金(ノ)水桶《ヲケ》金(ノ)線柱《タヽリ》を奉るよし、すなはち、かく書たまへるにて知へし。さてかくよみ出たるは、うみをはなかけれは、長門の浦とつゝけんためなり。第六にはうみをなす長柄の宮とつゝけたり。長門の浦は安藝なり。第十五云。安藝國長門島(ニシテ)舶(ヲ)泊(テ)2礒邊(ニ)1作歌五首。從2長門(ノ)浦1舶(ヲ)出(ス)之夜仰(テ)觀(テ)2月光(ヲ)1作歌三首といへり。哥にもわか命をなかとのしまの小松原とよめり。此哥は安藝より京へ上る人の、難波にて故郷を戀てよめるなり。波塩乃、これは彼《その》塩乃にて、そのしほのなるを、文字をかき損したるを、やかて字のまゝになみしほのとよめるなり。そのしほのいやます/\には、みつる塩の次第にますによせて、妻をこふる心をいへり。升誤作(セム)v舛。第四に
  あしへよりみちくる塩のいやましにおもふか君かわすれかねつる
第十二に
  みなとわにみちくる塩のいやましにこひはまされとわすられぬかも
あこの海はなこの海なり。濱菜は磯菜といふにおなし。みるめ、わかめ、あらめなとのたくひ皆濱菜なり。ひれもてるかには、てるかと見ゆるはかりの心なり。玉もゆらゝは、上に注せり。あひおもふらしもは、あまをとめか、濱菜つむとて立居て手をうこかすに、をのつから袖をふるも、おりふしにふれてわかふるさとをこふるを知て、わかためにふるやうに見なして、あひおもふらしもといへり
 
反歌
 
3244 阿胡乃海之荒礒之上之小浪吾戀者息時毛無《アコノウミノアライソノウヘノサヽラナミワカコフラクハヤムトキモナシ》
 
下句第十一に白細布乃袖觸而夜吾背子爾《シロタヘノソデヲフレテヤワカセコニ》と云歌と同じ、彼は第二句の夜を承る故に無をなきとよめるのみ替れり、
 
右二首
 
3245 天橋文長雲鴨高山文高雲鴨月夜見乃持有越水伊取來而公奉而越得之早物《アマハシモナカクモカモタカヤマモタカクモカモツキヨミノモチコセルミツイトリキテキミハツカヘテコユルトシハヤモ》
 
天橋とは天浮橋歟、唐逸史云、羅公遠(ハ)※[咢+おおざと]州人、開元中中秋(ノ)夜侍(テ)2玄宗於宮中(ニ)1翫v月、公遠奏(シテ)曰陛下莫(ンヤ)v要(ムルコト)d至(テ)2月中(ニ)1看u否(ヤ)、乃取(テ)2桂杖1向v空(ニ)擲(レハ)之化爲2大橋1其色如v銀、請(テ)2玄宗1同登、約行數十里、精光奪(ヒ)v目寒氣侵v人(ヲ)、遂至2大城闕1、公遠(カ)曰此(レ)月宮也云々、論語云天子之不(ルハ)v可v及也猶d天之不uv可2階而升1也、かくはあれども羅公遠が如きの術もあればかくは願ふなり、又日(26)神月神を天柱を以て天上に送擧まつりたる事も此なり、月夜見乃持有越水は甘露の事なるべし、胎藏廣大儀軌下云、瑜伽圓滿、淨圓實體、性遍清淨普(ク)照(ラス)2於世間1、能除2極熱悩1施2清淨法樂1、甘露十六分、十五施2有情1、一分還謂2生滅無生滅1、淨月喩2三昧1、智證大師請來大日經十卷義釋第五末云、造暦者傳云、此甘露有2十六分1、乃至以2十五分1遍施2衆生1、以2所餘一分1還(テ)生、此文に造暦者の傳云とあれば世典の中にも月中に甘露あることを説ける書あるべし今は見及ぶに任せて引なり、竹取物語云、天人の中に持せたる箱あり天の羽衣いれり、又あるは不死の藥いれり云々、かぐや姫は月の宮人なるに不死の藥と云へるは甘露なり、今按落句を思ふにモテルコシ水と讀べし、コシミヅとは此甘露に依て千世萬歳をも越す意なるべし、伊取來而は伊は發語の詞なり、末の二句今の字點にては意得がたし、公奉而越得之早物は今按キミニマツリテ或はキミニマタシテと讀べし、越得之早物は早は旱の字にてコエエテシカモにや、反歌を以て意得るに徳あり功ありて世のおもしとなる人の年の老行を惜める歌なり、
 
初、天橋も長くもかも 天のうきはしのことなり。伊奘諾伊奘册の二神御立せし所なり。唐通史(ニ)云。羅公遠(ハ)※[咢+おおざと]州人也。開元中中秋夜侍(テ)2玄宗(ニ)於宮中(ニ)1翫v月(ヲ)。公遠奏(シテ)曰。陛下莫《ナシヤ》v要《モトムルコト》d至2月中(ニ)1看《ミンコトヲ》u否(ト)。乃取(テ)2桂杖(ヲ)1向(テ)v空(ニ)擲(レハ)之化(シテ)爲2大橋(ト)1。其色如v銀(ノ)。請(テ)2玄宗(ニ)1同登(ル)。約《オホムネ》行(コト)數十里。精光奪(ヒ)v目(ヲ)寒氣侵(ス)v人(ヲ)。遂(ニ)至(ル)2大城闕(ニ)1。公遠(カ)曰。此(レ)月宮(ナリ)也。見2仙女數百(ヲ)1。皆素練覚衣(ニシテ)舞(フ)2於廣庭(ニ)1。玄宗問(テ)曰。此(レ)何(ノ)曲(シ)也。霓裳羽衣(ノ)曲也。元宗|密《ヒソカニ》記2其聲調(ヲ)1逐(ニ)囘(ル)。却(テ)觀2其橋(ヲ)1隨(テ)v歩(ニ)而滅(ス)。旦(ニ)召2伶官(ヲ)1依(テ)2其聲(ニ)1作(ル)2霓裳羽衣(ノ)之曲(ヲ)1。月よみのもちこせる水いとりきて。いは發語の辭なり。月は水の精なるかゆへに、月のたもてる月といへり。世上の醴泉たに壽命をのふれは、まして月中の水を得はいよ/\久しきよはひをたもちぬへし。密教の中には、月中に甘露ありと説り。越得之早物は、こえむとしはもとよむへし。心は君につかへてこえゆかん年は、いかはかりならんと、たつぬるやうによめるなり
 
反歌
 
3246 天有哉月日如吾思有公之日異老落惜毛《アメニアルヤツキヒノコトクワカオモヘルキミカヒニケニオイラクヲシモ》
 
(27)天有哉、【別校本云、アメナル、】  惜毛、【幽齋本、毛作v文、】
 
吾思有はワガモヘルとも讀べし、發句は別校本に依てアメナルヤと讀をよしとすべし、古事記下照姫歌云、阿米那流夜淤登多那婆多能《アメナルヤオトタナバタノ》云々、
 
右二首
 
3247 沼名河之底奈流玉求而得之玉可毛拾而得之玉可毛安多良思吉君之老落惜毛《ヌナカハノソコナルタマハモトメツヽエテシタマカモヒロヒツヽエテシタマカモアタラシキキミカオイラクヲシモ》
 
沼名河は天上に有河なるべし、神代紀上云、已(ニシテ)而|素戔嗚《スサノヲノ》尊以2其(ノ)頸|所嬰五百箇御統之瓊《ウナゲルイホツノミスマルノニヲ》1濯《フリスヽギ》2于天|渟名井《ヌナヰ》亦名(ハ)去來之眞名井《イザノマナヰニ》1而|食《ヲス》之、又云、用(テ)2渟浪田《ヌナタノ》稻(ヲ)1爲《ナシテ》v飯|甞《ニハナヒス》之、神武紀云、神沼名河耳尊《カムヌカハミヽノミコト》、是は綏靖天皇の御名なり、天武天皇をば天|渟中原瀛《ヌナハラオキノ》眞人(ノ)天皇と申奉れば此等を引合せて知るべし、此は人を譽て沼名河の底の玉の如くなる人をばいかにして得たるぞと云意を、求めて得たるかおのづから拾ひて得たるかと云ひて、さるめづらしき人の老るが惜きとよめる歟、今按上の歌に准らへば沼名河の底の玉を得て持ば老せぬと云事の有て、もとめつゝえましたまかもひろひつゝえました(28)まかもとよめる歟、求而拾而はモトメテヒリヒテとも讀べし、上の如く君に奉而とこそ云べけれど、得がたき事を願ひて君が老らく惜もと云へば得て奉らばやの心云はずして顯はるゝなり、安多良思吉は第十に注せし如く惜きなり下に老落惜毛と云はもとより人がらのよきを惜みてそれが老たるが惜きと云へば煩はしからず、又新代と云はめづらしき世とほむる意なれば今もさも意得べし、
 
初、ぬな川の底なる玉は ぬな川は、いつれの國に有といふことをしらす。綏靖天皇を、神渟名川耳《カミヌナカハミヽノ》尊と申奉るも、此沼名河によりての御名にや。此川の底なる玉とは、由緒有ことなるへし。これは人を玉にたとへて、沼名川の底にあるは求ても得す。ひろひても得す。をのつからある玉なり。その玉のことくなる、君は、千世よろつよもとおもふに、おいゆくことのおしきなり。あたらしきも、あたらといふにおなし。日本紀に惜の字をあたらしむとよめり。おしむなり。此哥は賢君をいへる歟。みかとの御哥なとにて忠臣のおいたるをおしみたまふにもや
 
右一首
 
相聞 此中長歌一十九首
 
3248 式島之山跡之土丹人多滿而雖有藤浪之思纏若草之思就西君自二戀八將明長此夜乎《シキシマノヤマトノクニヽヒトサハニイハミテアレトフチナミノオモヒマトヒシワカクサノオモヒツキニシキミヨリニコヒヤアカサムナカキコノヨヲ》
 
滿而雖有、【六帖ミチテアレトモ、】  思纏、【六帖云、オモヒマツハシ、】  君自二、【六帖云、キミカメヲ、】
 
人多を六帖にひとはおほくとあれど第十四にも夜末佐波妣登乃比登佐波爾《ヤマサハヒトノヒトサハニ》とよみたれば今の點に付べし、滿而雖有は日本紀に滿をイハムと點じたれど此集には例なければ六帖の如くミチテアレドモと讀べし、以上の意第四岳本天皇の御製を(29)初て上にあまた見えたり、藤浪乃思纏は此も纏をマトヒシと點ぜるは用べからずマトハレと讀べし、藤は葛また松などにまとへど色よき花なれば女に喩へがてらにかくは云へり、若草乃思就西とは若草の妻と云もつやゝかにてめづらしき物なれば喩へて云意なれば今も思就と云へり、六帖におもひなれにしとあるは叶はねば今取らず、に〔右○〕は助語なり、君自二は今按君二自にてキミニヨリなるを書寫を經てかへざまに成たるを、それに隨て今の如く點じたる歟、但六帖にきみかめをとあれば君目二にてきみがめになりけるを目を誤て自に作れる本を傳へて字に隨て點ぜる歟、後の義なるべし、落句を六帖には此長き夜をと有は改たるなるべし、
 
初、しきしまのやまとのくにゝ 滿而雖有は、みちてあれともとも讀へし。いはむもみちあふるゝなり。第四に岳本天皇の御哥に、人さはに國にはみちて、味村のいさとはゆけと、わかこふる君にしあらねは。第十一に、うちひさすみやちの人はみちゆけとわかおもふ君はたゝひとりのみ。纏體紀に、安閑天皇いまた勾大兄《マカリノオヒネノ》皇子と申ける時、春日皇女を聘《メシ》たまへる夜の御哥に、やしまくにつまゝきかねてとよませたまへるも今とおなし心なり。ふちなみのおもひまとはしとは、藤のかつらの木にまつはるゝ心なり。古今集に僧正遍昭の哥に
  よそに見てかへらん人に藤の花はひまつはれよ枝はをるとも
此集第十二に
  かくしてそ人のしぬてふ藤浪のたゝひとめのみ見し人ゆへに
これは藤のむつましき色あるを、人のかほよきにたとへてよめれは、今も只まつはしとのみいはむためにはあらて、その心を兼たり。下にわか草のおもひつきにしといふにあはせてみるへし。君自二は君からにとよむへし。古今集にあふ人からのとよめるにおなし。さらすは君二自を、さかさまにうつして、君によりなるへし
 
反歌
 
3249 式島乃山跡乃土丹人二有年念者難可將嗟《シキシマノヤマトノクニヽヒトフタリアリトシオモハヽナニカナケカム》
 
第四句はアリトシモハヾと讀べし、し〔右○〕は助語なり、遊仙窟云、天乃上《ウラニ》無v雙(ビ)、人間《ヨノナカニ》有v一(ツノミ)、六帖ないがしろと云に入れたる歌に、いなと云はむ人をば強じ式島の山跡の國に人や絶たる、是は今とたがひてげにもないがしろなり、又六帖に今の歌を國の歌とせる(30)は山跡を和州の別名と思へる歟、歌の意長歌と共に此國の惣名なる物を、
 
初、しきしまのやまとの 遊仙窟云。天(ノ)上《ウラニ》無(ク)v雙(ヒ)、人間《ヨノナカニ》有v一(リノミ)
 
右二首
 
3250 蜻島倭之國者神柄跡言擧不爲國雖然吾者事上爲天地之神毛甚吾念心不知哉往影乃月文經徃者玉限日文累念戸鴨※[匈/月]不安戀列鴨心痛末遂爾君爾不會者吾命乃生極戀乍文吾者將度犬馬鏡正目君乎相見天者社吾戀八鬼目《アキツシマヤマトノクニハカミカラトコトアケセヌクニシカレトモワレハコトアケスアメツチノカミモハナハタワカオモフコヽロシラスヤユクカケノツキモヘユケハタマカキルヒモカサナリテオモヘカモムネヤスカラヌコフレカモコヽロイタマシスヱツヰニキミニアハスハワカイノチノイケラムキハミコヒツヽモワレハワタラムマソカヽミマサメニキミヲアヒミテハコソワカコヒヤマメ》
 
神毛、【校本或毛作v文、】  正目、【別校本又云、タタメニ、】
 
天地之と云より下四句は神を恨むるなり、二首の反歌を以て見るに夫の旅に出たる跡に留り居たる妻の待佗て久しく神に祈りつる驗もなければ思を漏してかくは云なり、徃影乃月文經徃者とは此月は月次の月なれどそれも月の滿闕によりて數ふる故に月と云へば徃影乃とはおけり、玉限は第一第十一にもかけり、カゲロフのと讀べき歟と思ふ故あれば別に注す、念戸鴨はおもへばかなり、戀列鴨はこふれ(31)ばかなり、心痛はコヽロノイタキと讀べし、正目はタヾメとよめるに付べし、鬼をま〔右○〕とよめるは魔鬼の意に義訓せる歟、
 
初、あきつしまやまとの國は 神からとことあけせぬ國しかれとも我はことあけすとは、神のよくおさめおかせたまひて、言を高く出していふへきことのなき國なり。されと我はおもふこと有てえしのひすして、高言《コトアケ》するとなり。ゆく影の月もへゆけはとは、月影のゆくを、月次の過るにいひなせり。一月を月といふは、月のみちかくるにょりてなり。釋名云。月缺也。もろこしにも同し音の缺の字をもて尺せり。此方に都伎と名付るは、盡の義なり。晦日にいたりてつくれは、つきとはいふなり。つこもりといふも月隱なり。朔《ツイタチ》は月生《ツイタチ》なり。ゆく影のつきといふに、盡の心をもこめたる欺。玉きはる日もかさなりてとは、玉きはるは物のかきりあるをいへは、日もひと日/\かきりあるゆへにいへり。玉限とかける所は、第一の二十一葉、第十一の十三葉、今とゝもにみつなり。今の本にはみな玉きはるとよみ、長流か本には、かけろふのとよめり。此事さきに委申つ。おもへかもはおもへはかもなり。こふれかもはこふれはかもなり。鬼をまとよめるは、魔の心なるへし
 
反歌
 
3251 大舟能思憑君故爾盡心者情雲梨《オホフネノオモヒタノメルキミユヱニツクスコヽロハヲシケクモナシ》
 
思憑、【別校本云、オモヒタノミシ、】
 
情は惜なるべし、但第一の麻續王歌に注せるを見るべし、
 
初、大舟のおもひたのめる 情は惜なるへし。大舟のおもひたのむは、第二よりこのかたあまた有
 
3252 久堅之王都乎置而草枕覊徃君乎何時可將待《ヒサカタノミヤコヲオキテクサマクラタヒユクキミヲイツシカマタム》
 
何時可、【袖中抄云、イツトカ、】
 
都と云はむとて久堅とおけるは天子のまします處なれば空の如くに云ひなす歟、第十に大王《オホキミノ》天河原|爾《ニ》ともよめり、日本紀には天闕とかきてミカドともよめり、又宮殿を立らるゝを下つ磐根に宮柱ふとしきたてゝ高天原に搏風《チキ》高知てなど神武紀にもかゝれたれば宮殿の事を空に准らへて高く申さむとて云へるにも有べし、内(32)日刺宮とこそつゞくるを第三第二十には内日指京《ウツヒサスミヤコ》ともつゞけ、都へ上るとこそ云を第五には宇知比佐受宮弊能保留等《ウチヒサスミヤヘノホルト》とよめり、宮より起て都の名も付たるなるべし、落句は袖中抄の如く讀べし、
 
初、久かたのみやこをおきて 長流か燭明抄に、久方の天といふ下に、又久かたの都とつゝけたる哥も有とて、此哥を引ていはく。これは帝都の久しくて、たちろくましきことをほめていへることはにや。又天子のまします所なれは、空のことくにいひなして、久かたの都とはよめるにや。帝都たてらるゝことをは、日本紀にも下つ磐根に宮柱ふとしきたてゝ高天の原に千木高知てなとかけるにて思へは、宮殿のことをは空になすらへてたかく申さむとていへるにも有へし。長哥には、旅の心見えねと、おとこの旅に出たる跡にて女のよめるなるへしとは、此哥にてしられたり
 
柿本朝臣人麿歌集歌曰、
 
3253 葦原水穗國者神在隨事擧不爲國雖燃辭擧叙吾爲言幸眞福座跡恙無福座者荒礒浪有毛見登百重浪千重浪爾敷言上爲吾《アシハラノミツホノクニハカミノマニコトアケセヌクニシカレトモコトアケソワカスルコトサキクマサキクマセトツヽカナクサキクイマサハアライソナミアリテモミムトモヽヘナミチヘナミニシキコトアケスルワレ》
 
眞福座跡此處も句なり、恙無は常につゝがなくとのみ云へど集中の例に依て今もツヽミナクと讀べし、荒礒浪はアリソ浪と讀べし、有毛と承たる故なり、第十七に多く安里蘇とかけり、千重浪爾敷は千重浪の如く重てしげくと云なり、此も右の歌の異なる故に下に合せて右五首と注せり、
 
初、あしはらのみつほのくには まさきくませと、此所句絶にて、上のことあけそわかするといふへかへれり。あらいそなみありてもみんとは、あらといふ詞をうけて、ありてといへり。ちへなみにしきとは、しきは此集におほし。かさなるなり。日本紀に重播種子《シキマキシ》とも重浪《シキナミ》ともあるかことし
 
反歌
 
(33)3254 志貴島倭國有事靈之所佐國叙眞福在與具《シキシマノヤマトノクニハコトタマノタスクルクニソマサキクアレヨク》
 
初、しきしまのやまとのくには ことたまはことのしるしなり。いはへはいはふかひのあるなり。第五第十一にもことたまはよめり。與具は好なり。第十に七夕の哥にもかくとゝめたるあり。これも旅人を祝てよめるなり
 
右五首
 
3255 從古言續來口戀爲者不安物登玉緒之繼而者雖云處女等之心乎胡粉其將知因之無者夏麻引命號貯借薦之心文小竹荷人不知本名曾戀流氣之緒丹四天《ムカシヨリイヒツキクラクコヒスレハヤスカラヌモノトタマノヲノツキテハイヘトヲトメラカコヽロヲクタキソヲシラムヨシノナケレハナツソヒクミコトヲツミテカリコモノコヽロモシノニヒトシレスモトナソコフルイキノヲニシテ》
 
玉緒之繼而とは絶ぬは繼なり、心乎胡粉は第十一にも此胡粉の字ありて今を引て注せし如くコヽロヲシラニと讀べし、夏麻引命號貯は今按後の句の今の點意得がたし、イノチナツミテと讀べし、夏麻引は命の打はへてつゞけるをいはむためなり、ナツミテとは常は命を惜む物なれど思ひに苦しむ身は命をもてあつかふ意なり、借薦之心文小竹荷とは薦はしげき物なればしのにとつゞくるなり、
 
初、むかしよりいひつきくらく こゝろをくたき、胡粉とかけるを、くたきとよめるは誤なるへし。粉の字のみならはしかよむへし。胡の字のそひたれは、これをはしらにとよむへし。白丹《シラニ》といふ心に借用て、しらすといふ事なり。第一卷軍王の哥に、たつきをしらにといふに、鶴寸乎白土《タツキヲシラニ》とかけるも、白土は、今の胡粉の心なるへし。胡粉、第十一にさほのうちにあらしふけれはかへるさをしらになけきてぬるよしそおほき。還者胡粉歎とあるを、今の本にかへるさはくたけてなけきとよめり。彼處《そこ》にはそのまゝに注せり。今おもふに誤れり。かへるさをしらには、嵐の吹夜の人のかへるさの勞のほとをしらすとおもひやりてこなたにとまるかなけくなり夏麻引命號貯。これをなつそひくみことをつみてとよめれと、其義心ゆかす。いのちなつみてとよむへし。一期(ヲ)爲(シ)v壽(ト)連持(ヲ)爲v命(ト)。聖教に見えたれは、月日をふるほともいのちなり。夏麻をうみて引はへたるにたとへて、いのちとはつゝけて、なつみてとは、いのちもたえぬへくおもひなやむをいへり。かりこもの心もしのにとは、しのはしけきなり。かりこものみたれてしけきを、こふる心のしけきにたとへていへり
 
反歌
 
(34)3256 數數丹不思人者雖有暫文吾者忘枝沼鴨《カス/\ニオモハヌヒトハアリトイヘトシハシモワレハワスレエヌカモ》
 
上句は物をかず/\にも思はぬ人の有と人は云へどもなり、物を思はぬ人のかずかず有と云にはあらず、落句はワスラエヌカモと讀べし、不所忘《ワスラレヌ》の古語なり、今忘得ぬと云意に點ぜるは誤なり、
 
初、かす/\におもはぬ人は 物をかす/\にはおもはぬ人なり。又物思はぬ人はかす/\に有といへともなり。わすらえぬはわすられぬなり。禮と叡と同韵相通なり
 
3257 直不來自此巨勢道柄石椅跡名積序吾來戀天窮見《タヽニコヌコノコセチカライシハシトナツミソワカクルコヒテスヘナミ》
 
直不來とは夫君の巨勢道から吾許へ直に來ぬなり、自此は二字引合せてコノなり、如今をいまとよむが如し、石椅跡名積序吾來とは夫君の來ぬを待かねて巨勢道は大路なれど女の身なれば石椅を飛越飛越てわたる如くなつみながら來るとなり、來とは夫君の許へ行なり、
 
初、たゝにこぬこのこせちから たゝにこぬとは、すくみちならてまはりゆくをいへり。いしはしは、川に石をあつめて、其上をわたりゆけは、石ふむ道なとをそれによせていへり
 
或本以2此歌一首1爲2之|紀伊國之濱爾縁云鰒珠拾爾登謂而往之君何時到來《キノクニノハマニヨルトイフアハヒタマヒロヒニトイヒテユキシキミイツキマサムト云》哥之反歌1也、具見v下也、但依2古本1亦累載v茲、
(35)拾爾はヒリヒニと讀べし、謂而の下に、下には妹乃山勢乃山越而と云二句あり、今は此二句なけれども苦しからざれば繁を恐れて略せるなるべし、下には三四句石瀬踏求曾吾來《イハセフミモトムソワカクル》とあり、
 
右三者
 
3258 荒玉之年者來去而玉梓之使之不來者霞立長春日乎天地丹思足椅帶乳根笶母之養蚕之眉隱氣衝渡吾戀心中少人丹言物西不有者松根松事遠天傳日之闇者白木綿之吾衣袖裳通手沾沼《アラタマノトシハキユキテタマツサノツカヒノコネハカスミタツナカキハルヒヲアメツチニオモヒタラハシタラチネノハヽノカフコノマユコモリイキツキワタリワカコフルコヽロノウチヲヒトニイフモノニシアラネハマツカネノマツコトトホシアマツタフヒノクレヌレハシラユフノワカコロモテモトホリテヌレヌ》
 
松事遠、【校本云、マツコトトホミ、】
 
天地丹思足椅は、下にもよめり、足椅は令足《タラハシ》なり、天地は限なき物なれど其天地にも滿て足ほどの思ひなりと云へるなり、古今集に我戀は空しき空に滿ぬらしとよめる同じ意なり、母之養蠶は第十一第十二にもよめり、此は女の歌にて我身をやがて(36)蠶になして眉隱せる如くいぶせければ氣衝て月日を渡るなり、物ニシのし〔右○〕は助語なり松根は松は待と云はむため根は遠と云はむ爲なり、松の根は遠くはふ故なり、第三にも松之根也遠久寸《マツカネヤトホクヒサシキ》と赤人のよまれたるが如し、天傳は上に云如くアマヅタヒと讀べし、白木綿之吾衣袖とは白妙の袖と云意なり、
 
初、あらたまの年はきゆきて きゆきては、年の來り、年のゆくなり。あめつちにおもひたらはしは、天地はかきりなく廣きものなれと、其天地にもたるほとの思ひなりといへるなり。古今集哥に、わか戀はむなしき空に滿ぬらしなとよめる同し心なり。たらちねのはゝのかふこ、十一十二にもよめり。まゆこもりとのみいひたるは、おほつかなくおもひやるなり。白ゆふのわか衣手とは、ゆふのことくなる白たへのわか衣手なり
 
反歌
 
3259 如是耳師相不思有者天雲之外衣君存可有有來《カクノミシアヒオモハサラハアマクモノヨソニソキミハアルヘカリケレ》
 
發句の師は助語なり、第二句の下に中中にと心を入れて見るべし、
 
初、かくのみしあひおもはさらは かくはかりあひもおもはぬ人ならは、中々に天雲をみることく、はるけきよそにあらは、おもひもかけすして物おもひもせし物をとなり
 
右二首
 
3260 小沼田之年魚道之水乎間無曾人者※[木偏+邑]云時自久曾人者飲云※[手偏+邑]人之無間之如飲人之不時之如吾妹子爾吾戀良久波已時毛無《ヲヌマタノアユチノミツヲヒマナクソヒトハクムテフトキシクソヒトハノムテフクムヒトノヒマナキカコトノムヒトノトキナキカコトワキモコニワカコフラクハヤムトキモナシ》
 
(37)小沼田之年魚道は何れの國に有と云事をしらず、尾張の愛智《アイチ》郡を日本紀には年魚市とあれば若は彼處にや、※[木+邑]は※[手偏+邑]に作るべし、
 
初、をぬまたのあゆちの水を 小沼田はかんかふる所なし。あゆちの水とは、もし尾張の年魚市郡にしみつの有にや。しからは小沼田も尾張なるへし。時しくは時なきにていつもの心なり
 
反歌
 
3261 思遣爲便乃田付毛今者無於君不相而年之歴去者《オモヒヤルスヘノタツキモイマハナシキミニアハステトシノヘヌレハ》
 
第四に山口女王の家持に贈らるゝ五首の中の第四首の下句と今と同じ、又第十二の第五葉第十一葉に似たる歌あり、
 
初、おもひやるすへの おもひをやるなり
 
今案2此反歌1謂2之於君不相1者於v理不v合也、宜v言2於妹不相》1也、
 
長歌に吾妹子とよめるに合せてはげにも於君不相と云へる事たがへり、第十二云、妹登曰者無禮恐《イモトイハハナメシカシコシ》云々、かゝれば既に妹と云人を忽に君とは云べからず、凡そ男女互に君と云へども集中の例多分女の夫君を指て云詞なり、
 
初、注の心は長哥にわきもこといひて、反哥に君にあはすてといふはかなはす。長哥に應して、いもにあはすてといふへしとなり。第九に浦鳴子をよめる哥に、さか心からおそやこの君とよめるも、さかといへるに此君といへるはかなはぬに似たり。それかくるしからすは、長哥にわきもこといひて、反哥に君にあはすてともいふへきにや。今は第十二にいもといはゝなめしかしこしといへる哥には心たかひて、妹としたしみよはゝ、吾とはいふましき心なり
 
或本反歌曰
 
(38)3262 ※[木+若]垣久時從戀爲者吾帶綾朝夕毎《ミツカキノヒサシキヨヨリコヒスレハワカオヒユルフアサユフコトニ》
 
發句は今按六帖も今の點と同じきは第四人麿歌に袖振山乃水垣之久時從《ソデフルヤマノミヅガキノヒサシキヨヨリ》とよまれたるに依てなるべし、されどみづがきは瑞籬とこそ書なれ※[木+若]垣をみづがきとよまむ事おぼつかなし、第十二に※[木+巨]※[木+若]越爾麥咋駒乃《マセコシニムギハムコマノ》云々、此に依て今もマセガキノと讀べきか、第六にも葦垣乃古郷《アシガキノフリニシサト》とよめる如く太古には萬すなほにおろそかなりければ築墻《ツイヒチ》すべき家なども纔にませ垣しわたして有けむ意にて云へる歟、綾は緩に作るべし、
 
初、みつかきの久しきよゝり 第四に
  をとめらか袖ふる山のみつかきの久しきよゝりおもひきわれは
第十二にも第四とおなし哥有。こゝに※[木+若]垣とかけるは、これはませかきにや。第十二に、ませこしに麥はむ駒といふに、※[木+巨]※[木+若]とかきて、ませとよめり。延喜式には此※[木+若]の字しもとゝよめり。日本紀に弱木林とかきてしもとはらとよめれは、萩のことくほそき木のなみたてるなり。さる木にてゆへるかませ垣なり。第六にはおしてるやなにはの國はあしかきのふりにし里とよめり。昔はみつかきをも※[木+若]にてゆひけれは、ませ垣の久しき世よりとつゝけたる歟。みつかきの久しとつゝくる事さきに尺せり。つれなき人に久しくこひやせて、帶のゆるさの日々にまさるなり。緩作綾誤
 
右三首
 
3263 巳母理久乃泊瀬之河之上瀬爾伊※[木+兀]乎打下湍爾眞※[木+兀]乎格伊※[木+兀]爾波鏡乎懸眞杭爾波眞玉乎懸眞珠奈須我念妹毛鏡成我念妹毛有跡謂者社國爾毛家爾毛由可米誰故可將行《コモリクノハツセノカハノカミツセニイクヒヲウチシモツセニマクヒヲウチイクヒニハカヽミヲカケマクヒニハマタマヲカケマタマナスワカオモフイモヽカヽミナスワカオモフイモヽアリトイハヽコソクニニモイヘニモユカメタレユヘカユカム》
 
(39)伊※[木+兀]は伊は發語詞なり、應神紀に大鷦鷯尊の御歌云、委愚比菟區伽破摩多曳能《ヰグヒツクカハマタエノ》云々、此|委愚比《ヰクヒ》とよませ給へるは堰杙《ヰクヒ》にて堰※[土+隷の旁]《ヰセキ》に柵《シガラミ》かゝむために打|杙《クヒ》なれば今と別なり、假名もかはれり、※[木+兀]は株※[木+兀]とて木の久比世なるを誤て杙に用るなり、和名集云、杙【餘織反、訓久比、今案俗以v※[木+兀]爲v杙非也、音兀、木名、見2唐韻1、】眞※[木+兀]も唯※[木+兀]なり、眞は木を眞木と云類なり、※[木+兀]を打て鏡を懸玉を懸るは何の爲と云事を知らず、眞珠奈須我念妹毛はアガモフイモヽと讀べし、古事紀には阿賀母布伊毛とありて後の毛なし、鏡成我念妹毛は又アガモフイモヽと讀べし、古事記には阿賀母布都麻とありて後の毛なし、國爾毛より下は古事記には伊弊爾母由加米、久爾袁母斯怒波米とあり、
 
初、こもりくのはつせの ふたつのいくゐの上のいは發語の辭。ふたつのまくゐの眞は眞菅眞木なとのことし。さて杭うちて鏡を懸、玉をかくるは祓なとの時する事にや
 
檢2古事記1曰、伴歌者木梨之輕太子自死之時所v作者也、
 
伴、【官本作v件、】
 
伴は書生の誤れるなり、官本に依べし、此は古事記の全文にはあらず意を得て引けり、古事記に今の歌の次には如此歌(テ)即共(ニ)自死《ミミマカリヌ》、上云其輕太子者流(ス)2於伊余(ノ)湯1也云々、其衣通王獻v歌云々、故追到之時待懷而歌曰云云、又歌曰云々、すなはち今の歌なり、輕太子の事委第二卷に自注あれば略v之、太子なれども罪ありて死給ふ故薨と(40)云はずして死と云へるは貶《オト》せるなり、
 
初、檢古事記 件誤作v伴。安康紀云。四十二年【允恭】春正月〇大前宿禰乃啓2太子1曰。願|勿v害《ナソコナヒタマヒソ》2太子1。臣將v議。由(テ)v是太子|自《ミ》死(ヌ)2于大前宿禰(カ)之家(ニ)1【一説流2伊豫國1】
 
反歌
 
3264 年渡麻弖爾毛人者有云乎何時之間曾母吾戀爾來《トシワタルマテニモヒトハアリトイフヲイツノマニソモワカコヒニケリ》
 
此歌は第四藤原麻呂の大伴郎女に贈られし歌なり、初の二句|好渡人者年母《ヨクワタルヒトハトシニモ》と有しのみ替れり、古歌の時に似つかはしきを少引直して贈られけるにや、然れば下句を彼卷に申つるやうにいつのほどぞもわれこひにけりと讀て第四の句を句絶として意得べし、腰句第四にはありてふをと點ぜり、發句より第二句へつゞくわたりは第七に手取之柄二忘跡《テニトリシカラニワスルト》とよめるを奧義抄に遣句體に出されたるに類せり、第九に語繼可良仁文幾許《カタリツグカラニモコヽタ》云々、第十一に面忘太爾毛得爲也登《オモワスレダニモエスヤト》云々、此等皆一類なる、此歌并に次の歌古事記にはなし、六帖には戀の歌に入れたり、
 
初、年わたるまてにも人は 第四藤原麿大夫の哥に
  よくわたる人は年にも有てふをいつのまにそもわかこひにける
大かた似たる哥なり。古哥をすこし引なをして大伴郎女に贈られけるにや
 
或書反歌曰
 
3265 世間乎倦跡思而家出爲吾哉難二加還而將成《ヨノナカヲウシトオモヒテイヘテセシワレヤナニニカカヘリテナラム》
 
(41)日本紀に出家とも出俗とも度とも書てイヘデとよめるは皆沙門となる事なり、然れば此歌は世を厭ひて出家したる人のさても有はてずして又白きぬに還る時さすがに身を省て心のさだかならぬを愧てよめるなるべし、或書に誤て右の長歌に連ねてかける歟、
 
初、よのなかをうしと 日本紀に、出家とも、出俗とも度ともかきて、以倍※[氏/一]とよめり。此哥はもし出家したる人の還俗する時によめるにや。哥のやうさそきこゆる。それを誤て右の長哥につゝけてかけるなるへし
 
右三首
 
3266 春去者花咲乎呼里秋付者丹之穗爾黄色味酒乎神名火山之帶丹爲留明日香之河乃速瀬爾生玉藻之打靡情者因而朝露之消者可消戀久毛知久毛相隱都麻鴨《ハルサレハハナサキヲヽリアキツケハニノホニキハムウマサカヲカミナヒヤマノオヒニセルアスカノカハノハヤキセニオフルタマモノウチナヒキコヽロハヨリテアサツユノケナハケヌヘクコフラクモシルクモアヘルコモリツマカモ》
 
丹之穗爾黄色は今按ニノホニモミヅと讀べし、第八に山部王歌に黄反をきばむと點ぜるをも、もみづると讀べき由申しき、况や今はきばむと云ひては丹之穗爾と云に忽叶はず、味酒乎はウマサケヲと讀べし、酒を作るを釀《カム》と云へば神名火山とはつゞけたり、
 
(42)反歌
 
3267 明日香河瀬湍之珠藻之打靡情者妹爾因來鴨《アスカカハセヽノタマモノウチナヒキコヽロハイモニヨリニケルカモ》
 
第十一第十五に似たる下句あり、
 
初、あすか川せゝの玉も 第二に人丸の哥にも
 
右二首
 
3268 三諸之神奈備山從登能陰雨者落來奴雨霧相風左倍吹奴大口乃眞神之原從思管還爾之人家爾到伎也《ミムロノカミナヒヤマニトノクモリアメハフリキヌアマキリアヒカセサヘフキヌオホクチノマカミカハラニオモヒツヽカヘリニシヒトイヘニイタリキヤ》
 
從はユと讀べきか、然よめば雨者落來奴と云に殊に叶へり.雨霧相はアマキラヒと讀べし.上に引齋明天皇の御歌のあすか川みなぎらひつゝ行水のとある例なり.今の雨霧相は第六以下の天霧相とは心替れり、彼は唯霧のたなびき相なり、此は雨に依て立霧なり、第十二に雨霧とよめり、天雲と雨雲との替れるが如し、思管より下は夫君の雨風に相つゝ還れるを恙なく家に到りつやと想像《オモヒヤル》なり、反歌に依に又の日などよめるなるべし.彼《ソノ》夜よめるにはあらず、
 
初、みもろの神なひ山に 大口の眞神か原におもひつゝ。おもひつゝは、我にわかれつゝ歸る道に、我をおもひつゝゆく人の、雨と風とにあへるが、からうして今は家にいたりきやとなり。第八に
  大口の眞神か原にふる雪はいたくなふりそ家もあらなくに
 
(43)反歌
 
3269 還爾之人乎念等野于玉之彼夜者吾毛宿毛寢金手寸《カヘリニシヒトヲオモフトヌハタマノソノヨハワレモイモネカネテキ》
 
初、かへりにし人をおもふと 第十一に
  さほの内にあらしふけれはかへるさを《かへるさは・私》しらになけき《くたけてなけき》てぬる夜しそおほき
 
右二首
 
3270 刺將燒少屋之四忌屋爾掻將棄破薦乎敷而所掻將折鬼之四忌手乎指易而將宿君故赤根刺晝者終爾野于玉之夜者須柄爾此床乃比師跡鳴左右嘆鶴鴨《サスヤカムコヤノシキヤニカキステムヤレコモヲシキテカヽレヲラムオニノシキテヲサシカヘテネナムキミユヘアカネサスヒルハシミラニヌハタマチヨルハスカラニコノトコノヒシトナルマテナケキツルカモ》
 
刺將燒は今按今の點誤れり、サスタカムと讀べし、刺は第十一云|刺竹齒隱有《サスタケノハニカクレタル》云々、此に依れば一種の竹の名なり、然れば葦火燒屋と云類に刺竹をたかむずる小屋なり、少は小に通じてかけり、四忌屋はき〔右○〕とこ〔右○〕と音通ずれば醜《シコ》屋なり、小屋を彌罵り賤しめて云なり、掻將棄破薦乎敷而とは然るべき家ならば掻捨むずる程のやれごもを敷物としてなり、所掻將折より下四句は所掻は長き爪にて女の柔膚《ヤハハダ》をかゝるゝな(44)り、將折は打折られたらむずるやうの意なるべし、鬼之四忌手は四忌は四忌屋の四忌に同じ、上に萱草を罵て鬼乃志許草と云如く鬼の醜手《シコテ》と云なり、思ふによき女の賤しき男のみめさへわろきが妻となれるを思ひかけてかくまでは云なるべし、第十一云、驗なき戀をもするか夕去ば人の手卷て寢なむ子故に、遊仙窟云、一(ツ)床《ユカニ》無(シ)2兩|好《カホヨキ》1、此より下四句は此卷下にもよめり、赤根刺は晝のひ〔右○〕もじを日になして云、終爾はひねもすの意なり、第十七第十九には之賣良爾《シメラニ》ともよめり、夜者須柄爾は夜もすがらなり、古今集にも夜はすがらに夢に見えつゝとよめり、此床乃比師跡鳴左右は仙覺抄云、大隅國風土記云、必志里昔者此村之中在2海之洲(ニ)1因(テ)曰2必志里(ト)1、海中(ノ)之洲者隼人(ノ)俗語《クニコトニ》云2必志1、かゝれば戀の涙に此床の海中の洲となるまで嘆つるかもとよめるなりと云へり、今按隼人の俗語を今此に取出て讀べからず、此は第十二にまくらもそよに嘆つるかもと讀たるが如く床もひし/\と鳴《ナル》まで泣と云意なり、源氏物語夕※[白/ハ]に母屋《モヤ》のきはにたてたる屏風のかみこゝかしこのくま/\しくおぼえたまふに物の足音ひし/\と踏ならしつゝうしろより來るこゝちす、同總角に宵少過る程に風の音荒らかに打吹にはかなきさまなる蔀などはひし/\と紛るゝ音に人のしのび給へるふるまひはえ聞付たまはじと思ひてなど云へり、
 
初、刺將燒こやのしきやに 此發句をはさすたかむとよむへし。さすは上にいへることくさゝなるへし。第十一に
  刺竹の葉かくれに有わかせこかわかりしこすは我こひめやも
さすたけの大宮とはあまたつゝけてよめり。わひ人のさすなとたく家は、すゝけてきたなけれは、こやのしきやといへり。しきやは醜屋《シコヤ》なり。幾と許と五音相通なり。第九にふせやもえすゝしきほひてとつゝけ、第十一にあしひたくやのすゝたれとゝよめるにあはせて思ふへし。かゝれをらむおにのしきてをとは、將折とかきたれと、將居なり。爪のなかくて身をかくなり。おにのしきてをさしかへてねなん君ゆへとは、しきては醜手にて、きたなき手なり。第十一に
  しるしなき戀をもするか夕されは人の手まきてねなんこゆへに
ひるはしみらとはひねもすなり。しめらともいへり。此床のひしとなるまてとは、ひし/\と床のひしめくことなり。なけく聲にひゝきて、床もひしめくといふなり。源氏物語夕※[白/八]に、もやのきはにたてたるひやうふのかみこゝかしこのくま/\しくおほえたまふに物のあしおとひし/\とふみならしつゝうしろよりくるこゝちす。同總角に、よひすこし過るほとに風のおとあらゝかにうちふくに、はかなきさまなるしとみなとはひし/\とまきるゝ音に、人のしのひたまへるふるまひはえきゝつけたまはしとおもひてなといへり。此集第十二には、枕もそよになけきつるかもといひ、第二十には、おひそやのそよとなるまてなけきつるかもとよめり。此哥はよき女の賤の男もたるを戀てよめるなり
 
(45)反歌
 
3271 我情燒毛吾有愛八師君爾戀毛我之心柄《ワカコヽロヤクモワレナリハシキヤシキミニコフルモワカカコヽロカラ》
 
愛八師は上にも云如くハシキヤシと讀べし、君を戀るも我心からにて人知れねば我心を燒も人の燒にあらず、心づからの思の燒なりとみづから身を恨むるなり、
 
初、我心からやくもわれなり 我心のやくることく物思ふも、おもへは人のしわさならす。よし/\君にこふるも、君かかたよりこひおもはしむるにあらす。わか心つからの事なれは、おもひにやけてしぬるともうらみしとなり
 
右二首
 
3272 打延而思之小野者不遠其里人之標結等聞手師日從立良久乃田付毛不知居久乃於久鴨不知親親巳之家尚乎草枕客宿之如久思空不安物乎嗟空過之不得物乎天雲之行莫莫蘆垣乃思亂而亂麻乃麻笥乎無登吾戀流千重乃一重母人不令知本名也戀牟氣之緒爾爲而《ウチハヘテオモヒシヲノハトホカラスソノサトヒトノシメユフトキヽテシヒヨリタツラクノタツキモシラスヲルラクノオクカモシラスオヤ/\ノサカイヘスラヲクサマクラタヒネノコトクオモフソラヤスカラヌモノヲナケクソラスコシエヌモノヲアマクモノユカマクマクニアシカキノオモヒミタレテミタレヲノヲノケヲナミトワカコフルチヘノヒトヘモヒトシレスモトナヤコヒムイキノヲニシテ》
 
(46)不遠、【幽齋本云、トホカラヌ、】  麻筍乎、【官本又云、ヲケヲ、】
 
打延而思之小野者とは女を野に喩へて我標結はむと思しなり、不遠はトホカラヌと讀べし、不遠其里人とは彼女の親族或は近き邊の人の妻と成なり、聞手師の手は助語なり、親親とは女と我との親歟、然れども此歌并に反歌までに女も共に心を通はせりとは見えざれば我親のみを親親とは云べからず、允恭紀には此をはウカラドモと點じたれど此に叶はず、此集第八に京中閭里不v得2集宴1、但親親一二飲樂聽許者云々、此には點なければかひなし、第六に笠金村の娘子に代てよまれたる長歌の中に親をむつましきと點じたれば今も引合て然讀べきにや、天雲之行莫莫はねもころをねもころ/\と云如く、女の許へゆかばやと思ふ意をゆかまくにと云べきを今の如く云へる歟、今按第十八云、大王乃麻氣能麻久麻久《オホキミノマケノマクマク》云々、此は任《マケ》のまに/\なり、此に准らへば今もユキノマク/\と讀べき歟、此卷未に天雲乃行之隨爾《アマクモノユキノマニマニ》とあるを思ふべし、心の空に成て雲の如く行に任せて制せむと思ふ心もなきなり、又日本紀に莫莫然をシナフとよめり、上に行靡闕矣有登聞而《ユキナヒカクヲアリトキヽテ》とよめる如く天雲の如く行ことのしなひなる人にと云心にユキノシナヒニとよめる歟、巫山の神女の旦爲2朝雲1と云しより雲を美人に喩ふ、下に浪雲乃愛妻とよめり、シナヒは第十二秋芽の(47)しなひにあらむ妹がすがたとよみ、第二十二多知之奈布伎美我須我多ともよめり、蘆垣乃思亂而は第九にもよめり、麻笥乎無登はヲケヲナミトと讀べし、麻笥は麻を績入れてをさむる物なるに亂麻にして麻笥なしとは思ひ亂たる心のをさむべくもなき喩なり、
 
初、打はへておもひし小野は しめとはいひ出さねとも、しめはへて思ひし野といふ心なり。やかて下にその里人のしめゆふと聞てし日よりとよめり。第十一第十二に、小野にしめゆふとあまたよめり。色よき人を、わかえむとはかるほとに、人にとられてさてよめるなり。天雲のゆかまく/\にとは、天雲のゆくことく人のもとへゆかまくほしきなり。ねもころをねもころ/\といへることく、ゆかまくなるを今ひとつのまくをそへたり。第十八に、大君のまけのまく/\とよめるは、まけのまに/\ときこゆ。今もゆきのまく/\とよみて、人をおもひやる心のゆきのまに/\といふ心歟。今案ゆきのしなひにとよむへき歟。神代紀上云。其秋(ノ)垂穎八握莫々然甚快《タリホヤツカホニシナヒテハナハタコヽロヨシ》也。第二十に立しなふ君かすかたとよみ、第十には秋はきのしなひにあらん妹かすかたをとよみ、第二には立たれは玉ものことくといひ、此上には、ゆきなひかくを有ときゝてとよめれは、雲の行ことくして、しなやかなるありきすかたをこふる心なり。巫山の神女の旦(ニハ)爲2朝雲1といひしょり、美人にたとふれは、よりところあり。下にも浪雲のうつくし妻といへり。あしかきのおもひみたれてとは、第九にもよめり。第六に蘆垣のふりにし里とよめれは、ふるきあしかきの、こなたかなたへかたよりたるによせて、おもひみたれてとはよめるなるへし。みたれをの麻笥《ヲノケ》をなみとゝは、上のおもひみたれてといふを引つゝけて、みたれをといひて、苧は麻笥にうみいるゝものなるを、いとゝさへみたれたるをに、麻笥のなけれは、つゐにみたれはつることく、おもひをもたれにいふへきよしのなきを、麻笥なしといへり。みたるゝおもひを、いかにしておさむへきやうのなきなり。千重のひとへもとは、第六第七にも、ちへのひとへもなくさまぬとよめり。千中にひとつもなり
 
反歌
 
3273 二無戀乎思爲者常帶乎三重可結我身者成《フタナミニコヒヲシスレハツネノオヒヲミヘニユフヘクワカミハナリヌ》
 
二無、【六帖云、フタツナキ、】
 
發句は六帖に依て讀べし、思は助語なり、三重可結は第四に此と同下の句ある歌にみへむすぶべくと點ぜり、六帖は今と同じ、
 
初、ふたなみにこひをしすれは ふたつなきこひをしすれはともよむへし。世に又なきなり。常の帶を三重にゆふへくとは戀にやせはつるなり。第四に    一重のみ妹かむすはむ帶をすらみへむすふへく我身はなりぬ
第九人丸集の哥にも、ひとへゆふ帶を三重ゆひとよめり。そのほかおほし。すてに上に注しぬ
 
右二首
 
3274 爲須部乃田付呼不知石根乃興凝敷道乎石床※[竹/矢]根延門呼朝庭丹出居而嘆夕庭入居而思白拷乃吾衣袖呼折反獨之(48)寢者野于玉黒髪布而人寢味眠不睡而大舟乃往良行羅二思乍吾睡夜等呼續文將敢鴨《セムスヘノタツキヲシラニイハカネノココシキミチヲイハトコノネハヘルカトヲアサニハニイテヰテナケキユフニハニイリヰテオモヒシロタヘノワカコロモテヲヲリカヘシヒトリシヌレハヌハタマノクロカミシキテヒトノヌルウマイハステオホフネノユクラユクラニオモヒツヽワカヌルヨラヲツキモアヘムカモ》
 
此歌は此卷下の挽歌の中に白雲之棚引國之《シラクモノタナビククニノ》と讀出せる歌の末の半にて少かはれるなり、石根乃より下の四句は彼後の歌には石根之許凝敷道之石床之根延門爾《イハガネノココシキミチノイハトコノネハヘルカドニ》とあれば乎は乃の意なり、此下の御佩乎釼《ミハカシヲツルギノ》池の如し、山片懸て住宿なれば假初に立出るにも石根の險しき道の磐石の根の門まで延なり、石根と云からに木の根によそへて長く有を根延とはいへり、朝庭丹より下四句は石床の根延門とも云はず思ひ餘りて爲方《セムカタ》なければ朝も夕も立出て嘆くなり、入居而と云も上に出居而と云にむかへて詞を替たれど立出て嘆くが暮はつるまゝにさて有べからねば又入居て思なり、朝庭、夕庭は第十七にも安佐爾波《》爾伊泥多知奈良之暮庭爾敷美多比良氣受《アサニハニイデタチナラシユフニハニフミタヒラゲス》とよめり、第二の人麿歌に朝宮夕宮とよまれたる類なり、獨之の之は助語なり、大舟乃往良行羅二思乍とは第十二に海部之|※[楫+戈]音湯鞍干《カチオトユクラカニ》とよめるが如し、大舟のとくも行やらずゆる/\と有如く物思ふなり、落句の續〔右○〕は今按讀〔右○〕の字を誤れるなり反歌を(49)合せて思ひ後の歌に敷物不敢鴨とあるを思ふべし、
 
初、せんすへのたつきをしらに 此哥は下に至りて挽歌に、白雲のたな引國の、青雲のむかふす國の、天雲の下に有人は、われのみかも君にこふらんとよみはしめたる哥の、下のなかはにて、すこし句のかはれるなり。いはかねのこゝしき。石根をも木の根にたくへて、長く有をは、石の根はふといへり。案するにいはかねのこゝしき道をといへとも、いはとこをいはむために、いはかねのこゝしき道のいはとことつゝくる心なり。此下にみはかしのつるきの池といふことを、みはかしをといへるかことし。いはとこのねはへる門は、石すへをたしかにいひなしていへるなるへし。神武紀に、底磐《シタツイハ》之|根《ネニ》に宮柱太立《ミヤハシラフトツキタテ》てといへるかことし。朝庭夕庭は、第二の人丸の哥に、朝《アサ》宮夕宮といへるたくひなり。白たへのわか衣手を折かへしは、夢にたにみんといはふなり。袖かへす事は、上にすてにあまたみえたり。大舟のゆくら/\におもひつゝ。これも上に見えたり。續は讀の字の誤なり。わかぬるよらをよみもあへむかもなるを、字のまゝにつぎもあへむかもとよめるは又誤れり。やかて反哥にひとりぬる夜をかそへむとおもへともといへり。又下の挽歌には、數物不敢鳴とかきて、かそへもあへすなくとよめれと、よみもあへすなくとよむへき歟。かゝれは續は讀なる事しられたり
 
反歌
 
3275 一眠夜※[竹/弄]跡雖思戀茂二情利文梨《ヒトリヌルヨヲカソヘムトオモヘトモコヒノシケキニコヽロトモナシ》
 
初、ひとりぬる夜をかそへむと 景行紀云。日本武尊自2日高見(ノ)國1還(テ)之|西南《ヒツシサルノカタ》歴(テ)2常陸(ヲ)1至(テ)2甲斐(ノ)國(ニ)1居2于酒折(ノ)宮(ニ)1。時(ニ)擧v燭《ヒトモシテ》而|進v食《ミヲシス》。是(ノ)夜以v歌(ヲ)之問(テ)2侍者《サフラヒヽトニ》1曰。珥比麼利《・新治》、兎玖《・筑》波塢須擬《・過》※[氏/一]、異玖用加禰菟流《・幾夜寢》。諸(ノ)侍者|不v能2答言1《ミコタヘマウサス》1。時(ニ)有|秉燭《ヒトモシ》者續(テ)王|歌《ミウタノ》之末(ニ)而歌(テ)曰。伽餓奈倍※[氏/一]《・勘》、用珥波虚々能用《・夜九夜》、比珥波苫塢伽塢《・日十日》。即美(タマフ)秉燭人之|聰《サトキコトヲ》而敦(ク)賞《メクミクマフ》。此集第十八に
  ぬは玉のよわたる月を幾夜経とよみつゝいもはわれまつらんそ
こゝろどはとこゝろとおなし。上にあまた見えたり
 
右二首
 
3276 百不足山田道乎浪雲乃愛妻跡不語別之來者速川之往文不知衣袂※[竹/矢]反裳不知馬自物立而爪衝爲須部乃田付乎白粉物部乃八十乃心呼天地二念足橋玉相者君來益八跡吾嗟八尺乃嗟玉桙乃道來人之立留何常問者答遣田付乎不知散鈎相君名曰者色出人可知足日木能山從出月待跡人者云而君待吾乎《モヽタラスヤマタノミチヲナミクモノウツクシツマトカタラハテワカレシクレハハヤカハノユクヘモシラスコロモテノカヘルモシラスウマシモノタチテツマツキセムスヘノタツキヲシラニモノヽフノヤソノコヽロヲアメツチニオモヒタラハシタマアハヽキミキマスヤトワカナケクヤサカノナケキタマホコノミチクルヒトノタチトマリイカニトトヘハコタヘヤルタツキヲシラニサニツラフキミカナイハヽイロニイテヽヒトシリヌヘミアシヒキノヤマヨリイツルツキマツトヒトニハイヒテキミマツワレヲ》
 
(50)往文、【別校本又云、ユクヲモ、】  心呼、【幽齋本、呼作v※[口+立刀]、】
 
百不足は山の上のや〔右○〕もじを八の數になしてつゞけたる歟、然らば百より内の數をば何れも百不足と讀べき歟、今按|三十《ミソ》とも八十《ヤソ》とも云はむをこそ百不足とは云はめ八つはいまだ十にだに足らぬを百たらずと云はむはおぼつかなし、第一に眞木乃都麻手乎百不足五十日太爾作《マキノツマテヲモヽタラズイカタニツクリ》云々、五十は五十鈴《イスヾ》河など云時いそ〔二字右○〕と云はずしてい〔右○〕とのみ云ひ、其外はみそなど云ひて三十をみ〔右○〕四十をよ〔右○〕とのみ云へる例いまだ見及ばねど五十に准らへば又あるまじき事にもあらねば今も百不足八十と云心につゞけたる歟、山田は和州高市郡なり、孝徳紀に蘇我倉山田麻呂大臣の宅山田にあり、又山田寺を建られたる由見えたり、或者今も山田と云村ありと申す、浪雲とは浪の如くなる雲のうるはしきによそへて愛妻とはつゞけたり、此妻は夫君なり、第七に住吉波豆麻《スミノエノナミツマ》君ともよめり.不語別之來者とは忠岑が有明のつれなく見えし別よりとよめるに同じ.但下に玉相者君來益八跡とあればつれなくてあはぬにはあらず障る事有てあはで歸るなり、速川之往文不知は今按此本の點の如くならば往方文とあるべきを方の字なければ別校本に依て讀べし、心空にて物もおぼえねば歸來る道にたけき速川の往て危きをも知らずと云に我ありくをも知らぬと云を兼(51)たる歟、第十一に戀る事なぐさめかねて出行ば山川知らず來にけるものを、此意に同じ、司馬子長報2任少卿1書云、居(ル)則(ハ)忽々(トシテ)若v有v所v亡(ヘル)、出則不v知2其所1v徃、衣袂笶反裳不知とは風の袖を吹返すをも知らぬなり、此反と云に我歸をも兼たる歟、馬白物立而爪衝は第四に既に注せり、白粉は和名云、俗云波布邇、此は音を和語になして云なり、今借て用たるは第一軍王の歌に白土をしらにとよめる類にて白丹の意なり、粉は和名之路岐毛能なり、物部乃八十乃心とは物部の種姓は多ければ物部の八十氏河ともつゞくるやうにさま/”\物思ふことの多かるを云はむとてかくはつゞけたり、第十九にも物部能八十乃※[女+感]嬬等《モノヽフノヤソノイモラ》とよめり、天地二念足橋は此卷上に有て注せり、玉相者も第三第十二に注せり、君來益八跡とは此は歸來る道の間にてかく思ふなり、八尺之嘆とは息を衝長さを云へり、散鈎相君とは第十一に垣幡丹頬經君《カキツハタタニツラフキミ》とよめるに同じ、さ〔右○〕は例の附たる言なり、足日木能より下は第十二の一首なり、但彼は男の歌なる故に落句を妹待吾乎と云へり、此歌第四に笠金村の或娘子に代てよまれたる歌に似たる所多し、
 
初、百たらぬやまたの道を 百たらぬ八といふ心なり。百より内の數をはいつれをも百たらぬとよむへきなり。山田は所の名なるへし。山田史といふ氏あり。居所をもて氏とせる歟。第二十に山田御母とあるは、孝謙天皇の御乳母なり。なみ雲のうつくし妻とは、浪雲を長流は浪と雲とのふたつと見て、浪も雲も白たへにうつくしけれは、さてかくつゝけたりといへり。よく晴たる日、白雲の、浪のことくたてるを浪雲といふなるへし。常に雲の浪とよみて、雲をやかて浪といへり。その浪雲はうるはしけれは、うつくし妻とはつゝけたり。第七にすみのえの浪つま君ともよめり。かたらはてわかれしくれはとは、人のもとにゆきたれとも、さはる事なと有て、えかたらはすして、いたつらに心の内の別をして歸りくるなり。下をみるに、つれなきをいひわひて歸るにはあらす。忠岑か有明のつれなく見えし別よりといふ哥は、つれなき人にえあはていたつらに歸る哥なり。はや川のゆくへもしらすとは、歸りくる道に川のあるによせて、ゆくへもしらすといへり。物をもおほえぬはかりなれは、道のゆくへもしらぬなり。衣手のかへるもしらすとは、袖を風の吹返すをもおほえぬといふ心に、我歸りくるをもわするゝ心なり。馬しものたちてつまつきとは、第三第七に馬そつまつく家こふらしもとよめり。第四にはみちもりのとはむこたへをいひやらむすへをしらすと立てつまつくとよめれは、馬のつまつくによせて、心も空にてくるゆへに、物につまつくをいへり。ものゝふのやその心をとは、あまたの心なり、ものゝふの八十宇治川なとつゝくる時のことく、氏々のおほき心に八十といへり。第十九には女のおほかるをものゝふのやそのいもらといへり。あめつちにおもひたらはしは上にもありき。玉あはゝとは、第十二にもたまあへはあひぬる物をとよめり。たかひに心のかなひてゆきかよふなり。八尺のな   けきとは、息をなかくつきてなけく心なり。此下にも杖たらぬやさかの歎とよみ、第十四には
  奥にす|も《ム》をかものもころ《・住小鳧如》八尺鳥《鳧ノ息ノ長ヲイヘリ》いきつ《息吐》く妹を置てき《來》ぬかも
足引の山より出る、この五句は、第十二の十八葉にある一首なり
 
反歌
 
(52)3277 眠不睡吾思君者何處邊今身誰與可雖待不來《イヲモネスワカオモフキミハイツコニソコノミタレトカマテトキマサヌ》
 
何|處〔右○〕邊、【別校本又云、イツコヘソ、】
 
腰句の今の點叶はずイヅコヘゾと讀べし、曾丹が歌にいづこべによな/\露のおけとてか云々、下句の意は八尺の嘆する我此身をよそ/\しくいかなる誰とてかまたせて來まさぬと恨むる意なり、
 
初、いをもねすわか思ふ君は何處邊は、いつこへにともよむへし。それにても句絶に心得へし。このみたれとかとは、此身といふは我なり。哥の心は、わか待こひておもふ君はいつくにかある。もとの所にこそあるらむを、八尺のなけきする我《ワカ》此身をよそ/\しくいかなる誰とてか、またせてきまさぬとうらむる心なり。
 
右二首
 
3278 赤駒厩立黒駒厩立而彼乎飼吾徃如思妻心乘而高山峯之手折丹射目立十六待如床敷而吾待公犬莫吠行年《アカコマノウマヤヲタテクロコマノウマヤヲタテヽカレヲカヒワカユクカコトオモヒツマコヽロニノリテタカヤマノミネノタヲリニイメタテヽシヽマツカコトトコシキニワカマツキミヲイヌナホエコソ》
 
床敷而、【別校本又云、トコシキテ、】
 
初六句は思妻心乘而と云はむとての序なり、思妻は男をさせり、高山より下四句は吾待公と云べき序なり、床敷而はトコシキテと讀べし、諸共に臥べき床を敷設るなり、落句は君が來たらば心して犬なほえそと云に獵には犬のよきを用れば思ひよ(53)せたる歟、戰國策云段産謂(テ)2新城君(ニ)1曰、夫(レ)宵行(ク)者能無(ケレトモ)爲(ルコト)v※[(女/女)+干](ヲ)而不v能v令2v狗(ヲ)無(ラ)1v吠(ルコト)、清少納言に、にくき物の中にしのびて來《ク》る人見しりてほゆる犬は打も殺しつべし、
 
初、あかこまのうまやをたて 下にも西のうまやたてゝかふこま、ひむかしのむまやたてゝかふ駒といへり。かれをかひわかゆくかことゝは、かれをかひをきて、道をゆく時にかれにのりて行ことく、おもひつまの心にのるとなり。心にのるといはむとてかくいひ出ること、此集の中にても古體のおもむきなり。此おもひ妻といふは、下にきみといへるにて男をさせり。心にのりてとはこれはわか心に人のゝるなり。俗に一すちにその事をのみおもふを、こゝろたまにのるといへるこれなり。高山の峯のたをりにいめたてゝしゝまつかこととは、心にのりてといふよりつゝくにあらす。しはらくよみきりて心得へし。手折は俗に道のかいたをりといふかことし。ゆきまかりてひちをる所なり。文選班叔皮(カ)北征(ノ)賦(ニ)云。渉2長路(ノ)之緜々(タル)1兮、遠|紆廻(ト)《・メクリテ》以|樛流(ト)《・モトレリ・タナル》。いめは第八にいめたてゝとみのをかへとよみ、第九にいめ人のふしみか田井とつゝけよめり。床敷而、これをとこしきにとよめるは、つねにといふ心なり。長流はゆかしくてといふなるへしといへり。ゆかしきはいふせきにて、おほつかなきなり。今案とこしきてわか待君といへるにや。もろともにふすへきとこをしきまうけて待君なれは、いたらは心して犬なほえそとなり。しゝ待かことは、わか待君といはむ料なり。戰国策云。段産謂(テ)2新城君(ニ)1曰。夫(レ)宵(ル)行(ク)者(ノハ)能無(レトモ)v爲v※[(女/女)+干]而不v能(ハ)v令(・ルコト)2v無(ラ)1v吠(ルコト)已。獵には犬を用るものなれは、思ひょせてよめるにや
反歌
 
3279 葦垣之末掻別而君越跡人丹勿告事者棚知《アシカキノスヱカキワケテキミコユトヒトニナツケソコトハタナシリ》
 
腰句はキミコストとも讀べし、催馬樂にあし垣まかき掻分ててふこすとおひこすと云々、此は今の歌より出たるなるべし、落句は第一藤原宮役民が歌の多奈不知と云に付て注せしが如し、袖中抄にことはたななりと標して歌をも然かきて注云たなゝりとは棚利とかけり云々、又云ことはたなしりとかける本もあり云々、注はわろければ今取らず、棚利とかける本は誤なり、第一に身もたなしらず、第九に身はたな知らず又身をたな知てと有を以て今を證して疑がふ事なかれ、
 
初、あしかきの末かきわけて かの犬のほゆるかゝなしけれは、いひおしへたる心なり。あしかきかき分て君かかよひくるを、汝か聲たてゝ人にも告しらするなれは、わかいふ事をもしりて、人にな告そとよめるなり。清少納言に、にくき物に、しのひてくる人見しりてほゆる犬はうちもころしつへし。催馬樂にあしかきまかきかきわけててふこすとおもひこすとはれてふこすとたれかこのことをおやにまうよこ《申讒》しけらしもとうたふは此哥よりうたふなるへし。あし垣なれは、末かきわけてのことはまことにおもしろきなり。たなしりは第九に勝鹿眞間娘子をよめる哥にも、いく時もいけらぬものをなにす《セム》とか身をたなしりてなとよめり。第十七にはことはたなゆひともよめり
 
右二首
 
3280 妾背兒者雖待不來益天原振左氣見者黒玉之夜毛深去來(54))左夜深而荒風乃吹者立留待吾衣袖爾零雪者凍渡奴今更公來將座哉左奈葛後毛相得名草武類心乎持而三袖持床打拂卯管庭君爾波不相夢谷相跡所見社天之足夜于《ワカセコハマテトキマサスアマノハラフリサケミレハヌハタマノヨモフケニケリサヨフケテアラシノフケハタチトマリマツワカソテニフルユキハコホリワタリヌイマサラニキミキマサメヤサナカツラノチモアハムトナクサムルコヽロヲモチテミソテモテトコウチハラヒウツヽニハキミニハアハスユメニタニアフトミエコソアメノアシヤニ》
 
三袖持、【幽齋本云、ミソテモチ、】
 
妾をワガと點ぜるは女の歌なる故なり、三袖持は眞袖を持てなり、落句をアマノアシヤニと點ぜるは其意を得ず、若|海部《アマ》の葦屋《アシヤ》と云にかく假てかけると意得たるにや、葦屋は葦の八重|葺《フキ》とよみて隙なきことにすればひまなくしきりに夢にだに見えよとにや、今按アメノタルヨニと讀べき歟、第二に天智天皇后の天原振放見者大王乃御壽者長久天足有《アマノハラフリサケミレバオホキミノオホミイノチハナガクテタレリ》是を思ひ合するに天の長き如く長き事の足たる夜にとよめる歟、冬の歌なれば尤長き夜なり、第十二に夜干玉之夜乎長鴨名脊子之夢爾西所見還良武《ヌハタマノヨヲナガミカモワガセコガユメニユメニシミエカヘルラム》、
 
初、わかせこはまてと 女の哥なるゆへに妾をわれとよめり。あまのあしやには天之足夜とかきたれとも、海人葦星なり。これにふたつの心あるへし。わかすむ宿を卑下して、あまのあしやのやうなる宿にもあふと見は、うれしからんの心なり。又和泉式部か哥に、隙こそなけれあしの八重ふきとよめる心にて、あまのすむ蘆屋のことく、一夜もおちすひまなく夢にたに見えよといふなるへし。みそては眞袖なり。さなかつら後もあはんとは、第二、第十一、第十二にもよめり、
 
或本歌曰
 
(55)3281 吾背子者待跡不來鴈音文動而寒烏玉乃宵毛深去來左夜深跡阿下乃吹者立待爾吾衣袖爾置霜文氷丹左叡渡落雪母凍渡奴今更君來座目八左奈葛後文將會常大船之思憑迹現庭君者不相夢谷相所見欲天之足夜爾《ワカセコハマテトキマサスカリカネモトヨミテサムシヌハタマノヨモフケニケリサヨフクトアラシノフケハタチマツニワカコロモテニオクシモモヒニサエワタリフルユキモコホリワタリヌイマサラニキミキマサメヤサナカツラノチモアハムトオホフネノオモヒタノメトウツヽニハキミニハアハスユメニタニアフトミマホシアマノアシヤニ》
 
待跡不來はマテドキタラズと讀べし、同歌の少替れる故に又載れば右の歌には不來益とかけるを今は益の字なきにて知べし、阿下は阿良下なりけむを良の字を落せるか、下はしもした〔四字右○〕何れにもあれ下略する意歟、君來目八はキミキタラメヤと讀べき事さきの如し、
 
反歌
 
3282 衣袖丹山下吹而寒夜乎君不來者獨鴨寢《コロモテニヤマオロシフキテサムキヨヲキミキマサスハヒトリカモネム》
 
君不來者、【六帖云、キミキマサネハ、】
 
(56)腰句長歌に依に六帖の點にきみきまさねばとよめる殊に叶へる歟、以上の歌に准らへばキミキタラネバと讀べき歟、此歌六帖にも作者を云はず、人丸集には見えず、新古今集に人麿とて載られたるは未v考2其所1v據、
 
3283 今更戀友君爾相目八毛眠夜乎不落夢所見欲《イマサラニコフトモキミニアハメヤモヌルヨヲオチスユメニミマホシ》
 
右四首
 
萬葉集代匠記卷之十三上
 
(1)萬葉集代匠記卷之十三下
 
3284 管根之根毛一伏三向凝呂爾吾念有妹爾縁而者言之禁毛無在乞常齊戸乎石相穿居竹珠乎無間貫垂天地之神祇乎曾吾祈甚毛爲便無見《スカノネノネモコロコロニワカオモヘルイモニヨリテハコトノイミモナクテモカナトイハヒヘヲイハヒホリスヱタカタマヲマナクヌキタレアメツチノカミヲソワカイノルイトモスヘナミ》
 
一伏三向をコロとよめるはいまだ其意を知らず、妹爾縁而者は注に云へる如く反歌に依に女の歌にて夫君を指て公之《キキノ》と云ひつれば今も君爾縁而者と云べきことわりなり、言之禁とは他言の障なり、無在乞常は今按今の點叶はず、ナクアレコソトと讀べし、齊は齋に作るべし、
 
初、一伏三向《コロ》 上にいへるかことし。無在乞常はなくあれこそとゝ讀へし。齊は齋に作るへし。いはひへ竹玉、第三以下見えたり。所はねくともよむへし
 
今案不v可v言2之因v妹者1應v謂2之縁1v君也、何則反歌云2公之隨意1焉
 
初、注云々 上にも此心ありき
 
(2)反歌
 
3285 足千根乃母爾毛不謂※[果/衣]有之心者縱公之隨意《タラチネノハヽニモイハスツヽメリシコヽロハユルスキミカマニマニ》
 
縱はヨシヱと讀べきか、其故は第十一云、足千根乃母爾不所知吾持留心者吉惠君之隨意《タラチネノハヽニシラセズワガモタルコヽロハヨシヱキミガマニ/\》、此歌と今と大形同じ歌なる故なり、
 
或本歌曰
 
3286 玉手次不懸時無吾念有君爾依者倭父弊乎手取持而竹珠呼之自二貫垂天地之神呼曾吾乞痛毛須部奈見《タマタスキカケヌトキナクワカオモヘルキミニヨリテハシツヌサヲテテニトリモチテタカタマヲシヽニヌキタレアメツチノカミヲソワカノムイタモスヘナミ》
 
君爾依者は前後に依に此下にこ句ばかり落たるか、倭父弊乎は父は文を誤り弊は幣を誤れり、倭文を以て作れる幣なり、
 
初、玉たすきかけぬ しつぬさは倭父にてしたるぬさなり。幣を誤て弊に作れり
 
反歌
 
3287 乾地乃神乎祷而吾戀公以必不相在目八方《アメツチノカミヲイノリテワカコフルキミニカナラスアハサラメヤモ》
 
(3)祷而、【六帖云、ネキツヽ、】
 
以は似歟、
 
初、あめつちの神を 以は似なるへきにや
 
或本歌曰
 
反の字餘れり削るべし、
 
初、或本反歌曰 反衍文
 
3288 大舩之思憑而木始已彌遠長我念有君爾依而有言之故毛無有欲得木綿手次肩荷取懸忌戸乎齊穿居玄黄之神祇二衣吾祈甚毛爲便無見《オホフネノオモヒタノミテコシヲノレイヤトホナカクワカオモヘルキミニヨリテハコトノユヘモナクテモカナトユフタスキカタニトリカケイハヒヘヲイハヒホリスヘアメツチノカミニソワカノムイトモスヘナミ》
 
木始己は此句不審なり、今按始の下に如の字ありてねもころになりけむを如の字の落たるか、然云故は木の始は根なる故に木始を義訓してね〔右○〕と讀べし、知己は第九の終に見菟原處女墓歌に如己男《ヂヨキダム》をもころを〔四字右○〕とよめるを以て知れり、我念有はワガモヘルと讀べし、君爾依而有、此有は者を書生の書たがへたるなり、無有欲得は今の點有の字に當らず、ナクアレカナトと讀べし、欲得はカナ〔二字右○〕にてト〔右○〕は讀付たるなり、齊(4)は齋に作るべし玄黄は千字文の初にも天地玄黄と云へり、玄は天の色、黄は地の色なる故にかけり、
 
初、無有欲得 なくあれかなとか、なからまほしとかよむへし
 
右五首
 
3289 御佩乎釼池之蓮葉爾渟有水之往方無我爲時爾應相登相有君乎莫寝等母寸巨勢友吾情清隅之池之池底吾者不忍正相左右二《ミハカシヲツルキノイケノハチスハニタマレルミツノユクヘナミワカセルトキニアハムトアヒタルキミヲナネリヨトハヽキコセトモワカコヽロキヨスミノイケノイケノソコワレハシノヒスタヽニアフマテニ》
 
莫寝等、【別校本云、ナネソヨト、幽齋本寢作v寐、】  我爲、【別校本又云、ワカスル、】
 
日本紀云、御刀【御刀此云2彌波迦志1、】又釼をみはかしとよめり、はく〔二字右○〕をはかし〔三字右○〕と云は立をたゝしと云が如し、古事記云、故《カレ》二柱神立【訓v立云2多多志1、】天浮橋云々、此れ古語と云ひながら貴きに云詞と見えたり、はかし此に准らへて知べし、かくて用を以て體に名付るなり、乎は乃と同韻にて通ずれば、御佩の釼池と云に同じ、第十八に、橘左大臣の歌に大皇|乎美敷禰許我牟登《ヲミフネコカムト》と讀たまへる乎も亦今の如し、釼池は應神紀云、十一年冬十月、作2釼池(5)輕池鹿垣池厩坂池1、開化紀云、五年春二月丁末朔壬子、葬2大日本根子彦國|牽《クル》天皇(ヲ)于釼池嶋上陵1、此は應神天皇より遙にさきなれど後を以て初に廻らして書たまへり、日向國の名は景行天皇より始まれど神代紀下にも日向高千穗峰と云が如し、此孝元天皇の御陵を延喜式第二十一諸陵式には在2大和國高市郡1と注せり、平氏が太子傳に高市郡難波釼池と云へり、舒明紀云、七年秋七月、瑞蓮生2於釼池1、一(ノ)莖二花、皇極紀云、三年夏六月癸卯朔戊申、於2釼池蓮中1有2一莖二萼者1、蓮葉爾より下の四句は蓮葉に水の越てたまりたるを風の吹などしてこぼるれば、さりげもなくて跡の殘らぬを思ふ事の驗なかりし程によそへて云なり、應相登、今按アハムトと點ぜるは誤なり、アフベシトと讀べし、莫寢等をナネリヨトと點ぜるはナネソヨトと點ぜるを書生の誤れるなり、今按此をもナイネソトと讀べし、母寸巨勢友は母雖令聞《ハヽキコセドモ》にて云ひきかすれどもなり、吾情清隅之池之とは二心なく思ふをきよくすむ水の意に云ひかけたり、此清隅池も高市郡に有なるべし、堀河院次郎百首にみぎはには立もよられぬ山がつの影恥しき清隅の池、顯仲の歌なり、池底とは下心をよそへて云へり、吾者不忍はワレハシノビジと讀べきか、
 
初、みはかしをつるきの池 みはかしのといふ心なり。乎と能と同韵にて通するなり。日本紀云。御刀【御刀此云2彌波迦志1。】又劔の字をもみはかしとよめり。應神紀云。十一年冬十月作2劔池、輕池、鹿垣池、厩坂池(ヲ)1。舒明紀云。七年秋七月瑞蓮生2於劔(ノ)池(ニ)1。一莖二花(ナリ)。皇極紀云。三年夏六月癸卯朔戊申於2劔池(ノ)蓮中(ニ)1有2一莖二萼(ノ)者1。此池は大和國高市郡に有。たまれる水のゆくへなみわかせる時にとは、蓮葉に水のこえてたまりたるを風なとの吹てこほるれはさりけもなくて跡の殘らぬなり。さま/\におもふ心のしるしなきを、それによそへていへり。第十六にも
  久かたの雨もふらぬか蓮葉にたまれる水の玉ににむみん
應相登、あふへしとゝ讀へし。はゝきこせともとは君にあひてなねそよと、いひきかすといへともなり。わか心きよすみの池の。心のそこの君かためにきよくすみて、あたし心をもたぬとなり。此池も大和に有。掘河院後百首に、顯仲  みきはには立もよられぬ山かつの影はつかしききよすみの池
 
反歌
 
(6)3290 古之神之時從會計良思今心文常不所念《イニシヘノカミノミヨヽリアヒケラシイマノコヽロモツネワスラレス》
 
上句は宿世の因縁と云に似たり、落句の念は忘なりけむを書生のかくはたがへたるか、古語に依てツネワスラエズと讀べし、六帖には社の歌に入れて常をとこと讀たれど今の點にしかざれは取らず、
 
初、いにしへの神のみよゝり 此哥によりておもへは、みつかきの久しき世よりと、第四にも此上にもよみたるは天子の御事を宮殿なとによせて申奉ることく、只神の御世よりといふ事にて、此哥にいへるとおなしかるへし。先世の因縁といはむかことし
 
右二首
 
3291 三芳野之眞木立山爾青生山菅之根乃慇懃吾念君者天皇之遣之萬萬《ミヨシノヽマキタツヤマニアヲミオフルヤマスカノネノネモコロニワカオモフキミハスメロキノツカハシヽマヽ》【或本云王命恐】夷離國治爾登《ヒナサカルクニオサメニト》【或本云天疎夷治尓等】群島之朝立行者後有我可將戀奈客有者君可將思言牟爲便將爲須便不知《ムラトリノアサタチユケハオクレタルワレカコヒムナタヒナレハキミカオモハムイハムスヘセムスヘシラス》【或書有2足日木山之木末尓句1也】延津田乃歸之《ハフツタノカヘリニシ》【或本無2歸之句1也】別之數惜物可聞《ワカレノアマタヲシキモノカモ》
 
夷離、【幽齋本云、シナサカル、】
 
此歌は吉野郡に宅地ある人の遠國の國の守に任ぜられて下る時妻のよめるなり、(7)吾念君者はワガモフキミハと讀べし、遣之萬萬もマダシノマニ/\とも讀べし、夷離國治登は都を本として夷は遠く離りてあれば夷離國と云、天踈夷と云に同じ、第十九の挽歌にも今の如くよめり、幽齋本にしなさかると點ぜるは第十七十八十九の三卷にしなさかる越とつゞけよめる所五首あり、されどもそれは別義にて越の枕詞と見えたり、別に注して附たり、夷をしな〔二字右○〕とよめる例なし、若比と志と同韻なれば夷放《ヒナサカル》と科坂在《シナサカル》と同じ義と意得たるか、蝦夷をえみし〔三字右○〕と云時えみ〔二字右○〕はえひ〔二字右○〕にて蝦の字に付、し〔右○〕は夷の字に當るはしな〔二字右○〕の下略歟、後の人に心を著させむがためにかくは驚かし置侍れど夷放は廣く通じ、之奈射加流は狹く越に限たれば別なり、群鳥之より下六句は第十七に大伴池主の長歌にも少替りて見えたり、歸之は注の或本の如く此句なきをよしとす、有ては上にも下にもつゞかず、
 
初、みよしのゝまき立山に ひなさかる國おさめにと、天さかるひなの國といふ心なり。第十九にも、すめろきのみことかしこみひなさかる國をおさむとゝいへり。歸之、此句なきをよしとすへし
 
反歌
 
3292 打蝉之命乎長有社等留吾者五十羽旱將待《ウツセミノイノチヲナカクアレコソトトヽマルワレハイハヒテマタム》
 
右二首
 
(8)3293 三吉野之御金高爾間無序雨者落云不時曾雪者落云其雨無間如彼雪不時如間不落吾者曾戀妹之正香爾《ミヨシノヽミカネノタケニヒマナクソアメハフルトイフトキナクソユキハフルトイフソノアメノヒマナキカコトソノユキノトキナラヌコトヒマモオチスワレハソコフルイモカマサカニ》
 
此歌第一の天武天皇の御製に似たり、彼卷に云が如し、御金高は延喜式云.吉野郡金峰神社常に藏王權現の此山の金を護て彌勒の出世を待せ給ふと申習へり、源仲正歌云、吾戀の金の御嶽の金ならば彌勒の世をもまたまし物を、不時曾は垂仁紀に非時をトキジクと讀たれば今もトキジクゾと讀べきか、然らば不時如も此を承ればトキジクガゴト、と讀べし、若不時曾をトキナクゾとよまば不時如をもトキナキガゴトと讀べし、
 
初、みよしのゝ御金のたけに 延喜式第九、神名上云。大和國吉野郡吉野水分神社。吉野山口神社。金峯神社。蔵王權現の金をうづみおかれて、彌勒の出世を待といふ山なり。常に金の御嶽とそ申める。源氏物語の夕※[白/八]、清少納言なとに御たけさうしの事をかけるは此金のみたけなり。さて此哥は第一に有天武の御製によく似たる哥なり。不時如は上のことく時なきかことゝもよむへし。時なきは時ならぬなり。後京極殿の御哥に
  しもとゆふかつらき山のいかならん都のゆきもまなく時なし
  し《本哥》もとゆふかつらき山にふるゆきのまなく時なくおもほゆるかもこれを定家卿新勅撰集に入たまへるを、逍遙院殿、日本紀を引て、此下句は後京極殿の御よみあやまりなるを、定家卿も心つかすして載られたるよしのたまへりと、長流か語侍りし。今案これはかへりて逍遙院殿の御誤なり。まなく時なしといへはとて、密教に三世常住摩訶盧遮那如來といふやうにやは心得へき。膠柱の説なり。此哥にていはゝ、金の御たけに雪と雨との時なきとよめはとて、ひと日かた時はるゝ事なく春夏も猶雪ふらんや。ふしのねにさへみな月のもちにはきゆとよめるものを。又雪も隙なくふり、雨もひまなくふることはりあらんや
 
反歌
 
3294 三雪落吉野之高二居雲之外丹見子爾戀度可聞《ミユキフルヨシノヽタケニヰルクモノヨソニミシコニコヒワタルカモ》
 
高天の山の峰の白雲とよめるに似たり、
 
右二首
 
(9)3295 打久津三宅乃原從當土足迹貫夏草乎腰爾莫積如何有哉人子故曾通簀文吾子諾諾名母者不知諾々名父者不知蜷腸香黒髪丹眞木綿持阿邪左結垂日本之黄楊乃小櫛乎抑刺刺細子彼曾吾※[女+麗]《ウツクツノミヤケノハラユヒタツチニアトヲツラネテナツクサヲコシニナツミテイカナルヤヒトノコユヘソカヨハスモワカコウヘ/\ナハヽハシラシウヘ/\ナチヽハシラレスミナノワタカクロキカミニマユフモチアサヽユヒタレヒノモトノツケノヲクシヲオサヘサスサスタヘノコハソレソワカツマ》
 
當士、【別校本、當作v常、】
打久津三宅乃原とは打久津と云所にある三宅の原歟、三宅の枕詞歟、當土に足迹貫と云にて思へば履の名にて打久津ヲと讀て三宅の原のひたつもに履の跡を連ねてと云意歟、三宅は和名集云、城下郡三宅【美也介、】是か、當土は常土に作れるに依るべし、常陸國の如し、夏草乎腰爾莫積は腰に至るまで繁き夏草に煩《ナツ》むなり、古事記景行天皇段歌云、阿佐志怒波良《アサシヌハラ》、許斯那豆牟《コシナヅム》、蘇良波由賀受《ソラハユカズ》、阿斯用由久那《アシヨユクナ》、日本紀仁徳天皇の御製云、那珥波譬苫《ナニハビト》、須儒赴禰苫羅齊《スズフネトラセ》、許辭那豆瀰《コシナヅミ》、曾能赴尼苫羅齊《ソノフネトラセ》、於朋瀰赴泥苫禮《オホミフネトレ》、如何有故人子放曾通簀文吾子とは凡そ此より上はみづから或人と成て問ひ、此より(10)終まではそれに答ふる意によめり、吾子はアゴと讀べし、第十九に藤原太后の藤原清河に賜へる御歌にも此吾子とよませ給へり、神功皇后紀云、忍熊王逃無v所v入、則喚2五十狹宿禰1而歌(テ)曰、伊装阿藝《イザアギ》、伊佐智須區禰《イサチスクネ》云々、應神紀云、時※[手偏+爲]2大鷦鷯尊(ヲ)1以將指2髪長媛1乃歌之曰、伊装阿藝《イザアギ》、怒珥比蘆菟彌珥《ノニヒルツミニ》云々、此を古事記には伊邪古杼母怒※[田+比]流都美邇《イザコドモノビルツミニ》とあれば阿藝も吾子なるべし、通簀文は第四坂上郎女歌に通爲君毛不來座とあるに、准らへばカヨヒスモとも讀べし、遙かなる三宅路のひたすらの土に迹をつらね夏草の深きを腰になづみて吾子《アゴ》が通ふはいかなる人の子のかほよきに依てぞやと問なり、此より下四句を讀にふたつのやう有べし、一つには名の字を諾諾に屬して母者不知をハヽハシラナクと讀べし、次の二句此に准らへて知べし、仁徳紀に河内の茨由堤に雁の子うみたる由聞食て武内宿禰は長命の人なれば古よりかゝるためし有きやと歌を以て問せ給へる時、武内宿禰の答奉り給ふ歌云、夜輸瀰始之和歌於朋枳瀰波《ヤスミシシワガオホキミハ》、于陪儺于陪儺《ウベナウベナ》、和例烏斗浪波輸儺《ワレヲトハスナ》云々、此于陪儺于陪儺《ウベナウベナ》は今の諾々名に同じ、上の問事をげにも/\と云意なり、二つには諾諾を一句とし名を次の句に屬してナハヽハシラズと讀べし、次の二句又此に准らへて知べし、名父名母と云べきは兄を名兄、弟を名|弟《ヲト》、姉を名姉、夫を名背、妻を名妹など皆名を加へて呼故なり、(11)凡そよき人を名ある人と云ひ賤しき者を名もなき者と云へば名は貴びて付る詞なるべし、さて義は初と同じ、父母にも告ずして通ふ故に知らねば其外の人の知らぬは諾なりと先づ問人にことわりを付て、蜷腸と云より終までは女の容儀をほめて、かゝる故に辛勞を辭せずして通ひ侍るぞと告る意なり、眞木綿持は第十一に額髪結在染木綿《ヒタヒカミユヘルソメユフ》とよめるに同じ、阿邪左結垂は和名集水菜類云、爾雅注云、※[草冠/行]菜【上音杏、字亦作v※[草冠/杏]、和名阿佐々、】叢2生(ス)水中1、葉圓在v端、長短隨2水深淺1者也、六帖云、見るからに思ひ益田の池に生るあさゝの浮て世をば經よとや、毛詩云、參差(タル)※[草冠/行]菜(ノ)、左右(ニ)流之、安康紀に幡梭《ハタヒノ》皇女を大泊瀬稚武皇子の妃とし給はむため皇女の御兄大草香皇子の御許へ勅使を立て其由詔ありける時、草香皇子の勅答の言の中に云、今陛下不v嫌2其醜1將v滿2※[草冠/行]菜(ノ)數1是(レ)甚之大恩也云々、此は毛詩に依て※[草冠/行]菜をヲムナメと點ぜる歟、※[草冠/行]菜の水の淺深に隨てしなひたるを靡曼の姿に比するなるべし、然るを今此に髪に譬て云へるは第二に髪をも多氣波奴禮《タケハヌレ》とよみ第十四に可保夜我奴麻能《カホヤガヌマノ》、伊波爲都良《イハヰツラ》、比可波奴禮都追《ヒカハヌレツヽ》と讀て共に滑らかなる物に云へば伊波爲都良と云へるに准らふれば阿邪左も滑らかなる髪によそへたるなるべし、朝朝をあさなさなの如く後のあを略して云へるかとも云べけれど邪の字をかけるは其義にあらぬ故なるべし、日本之黄楊乃小櫛乎(12)とは日本は和州をも云へり、第十一に日本之室原乃|毛桃《ケモヽ》とよめるが如し、若はヤマトノとも讀べし、筑紫櫛と云如く昔大和よりよき櫛を出しける歟、又山邊郡に都介と云所のあれば黄楊をそれにそへむために云歟、室原も宇※[こざと+施の旁]郡に有を上の如く云へば是も亦准らふべし、小櫛乎抑刺とはさしぐしなり、和名集云、百刺櫛【佐之久之、】抑刺を承て刺細子と云は第十一にしづはた帶を結び垂れ誰と云人もとよめるつゞきに同じ、刺細子とは刺は此上に刺將燒と云ひ第十一に刺竹齒隱在《サスタケノハニカクレタル》とよめる刺なるべし、舊事紀云、折竹之登遠々邇《ヲレタケノトヲヽニ》云々、此集第三云、名湯竹乃十縁皇子《ナユタケノトヲヨルミコ》云々、刺も此類にてたをやかなる形によそへてほめて云なるべし、
 
初、うつくつのみやけの原に うつくつはうつくしき沓といふなり。三宅とつゝける詞にはあらす。ひたつちに跡をつらねてといふは、沓の跡の土につらなる心なれは、かくつゝけたり。三宅の原といふ道をしけくかよふ時の哥なり。以上長流か注なり。景行紀云。五十七年冬十月|令《ノリコトテ》2諸國(ニ)1興2田部(ノ)屯倉《ミヤケヲ》1。かゝれはみやけの原いつくとも知かたし。今も三宅といふ村の名、河内に有。そのほかあまたきこゆ。武烈紀に物部影暖か哥に、伊須能箇瀰《・石上》、賦屡嗚須擬底《・布留過》、擧慕摩短羅《・薦眈》、※[手偏+施の旁]箇播志須擬《・高橋過》、慕能娑幡※[人偏+爾]《・物多》、於〓野該須擬《・官家過》、播屡比能《・春日》、箇須我嗚須擬《・春日過》云々。おほやけをみやけともいへは、奈良と石上とのあひたにや。うつくつはいかさまにみやけとつゝく故ありて、かねて下へつゝけるなるへけれと、いかなる心ともしらす。當は常の誤なるへし。常陸を思ふへし。夏草をこしになつみてとは、夏草のしけりてわけ行は、腰を過るほとなるにつかるゝなり。第十九に
  ふる雪をこしになつみてまゐりこししるしも有か年のはしめに
仁徳紀に、天皇御製にいはく。那珥波譬苫《・難波人》、須儒赴禰苫羅齊《・鈴舟取》。許辭那豆瀰《・腰煩》、曾能赴尼苫羅齊《・彼舟取》。於朋瀰赴泥苫禮《・大御舟取》、いかなるや人の子ゆへそかよはすもわかことは、かく夏草をわけわひて、三宅路をかよふは、いかなる人の子ゆへそやととひて、又下にかほよき人によりてそとこたふる心なり。かよはすもわか子、此一句八字は、もし此上に五字の一句おちたるにや。さらても古哥にかやうによめるも有。此まゝに尺せはわかことは吾子とかきたれはあことよむへし。第十九に藤原清河入唐の時光明皇后の御哥に清河をさして此吾子とよませたまへるにおなし。みつからの事なれとも、とふ人になりてかくはいへり。いかなる人の子ゆへそや、つねにかよふわか子はと問なり。うへ/\なとは、けにも/\といはむかことし。母はしられすは、母にはしられすなり。父はしられすも心おなし。反哥に父母にしらせぬこゆへとは、こゝを取てよめるなり。ちゝはゝにさへしらせねはそこにしらぬはけにもことはりといふ心なり。みなのわたかくろき髪は上に尺しぬ。まゆふもては木綿をもてもとゆひとするなり。神にたむくる白ゆふも、木綿にてつくるゆへの名なり。上に和名集を引て注せり。第十一にも、うま人のひたひ髪ゆへるそめゆふとよめり。あさゝゆひたれは、あさゝは水草なり。毛詩云。參差(タル)※[草冠/行]菜《・アサヽ》(ノ)左右(ニ)流《トル》之。和名集云。爾雅(ノ)注(ニ)云。※[草冠/行]菜(ハ)【上(ノ)音杏。字亦作v※[草冠/杏]。和名阿佐々。】叢2生(ス)水中(ニ)1。葉圓(ニシテ)在v端(ニ)。長短隨(カフ)2水(ノ)深淺(ニ)1者也。しかれは髪を結たるさまを※[草冠/行]菜の葉の形にたとへて、あさゝゆひたれとはいふなるへし。日本紀に※[草冠/行]菜とかきて、をむなめとよめるは毛詩によれるにや。ひのもとのは日本之とかきたれは、やまとのとよむへき歟。筑紫櫛なといへることく、昔やまとの固よりよき櫛を出せるなるへし。おさへさすは、和名集云。百刺櫛【佐久久之。】刺細子とは、たへはものをくはしとほむる詞なり。されは髪ゆひたれて櫛をさしなれたる妹といふ心なり。こゝにてこたへはつるなり
 
反歌
 
3296 父母爾不令知子故三宅道乃夏野草乎菜積來鴨《チヽハヽニシラセヌコユヘミヤケチノナツノヽクサヲナツミクルカモ》
 
右二首
 
3297 玉田次不懸時無吾念妹西不會波赤根刺日者之彌良爾烏(13)玉之夜者酢宰二眠不睡爾妹戀丹生流便爲無《タマタスキカケヌトキナクワカオモフイモニシアハネハアカネサスヒルハシミラニヌハタマノヨルハスカラニイモネスニイモヲコフルニイケルスヘナシ》
 
爲便無、【別校本又云、スヘナシ、】
珠ニシのし〔右○〕は助語なり、落句の無はナシと讀べし、
 
反歌
 
3298 縱惠八師二二火四吾妹生友各鑿社吾戀度七日《ヨシヱヤシシナムヨワキモイケリトモカクノミコソワカコヒワタリナメ》
 
二二火四は二二は四の義に借り、火は五行を以て五方に配する時南方は火なる故に火を南の字の音になしてかれる歟、袖中抄にこひじわぎもことあるは叶はず、又各をおの〔二字右○〕と和訓によめるも同じ、
 
初、よしゑやししなんよわきも さき/\もしなんよわかせ、しなんよわきもなとよめり。二二は四なり。火は南の義なるへし
 
右二首
 
3299 見渡爾妹等者立志是方爾吾者立而思虚不安國嘆虚不安國左丹漆之小舟毛鴨玉纏之小※[楫+戈]毛鴨※[手偏+旁]渡乍毛相語妻遠《ミワタシニイモラハタヽシコノカタニワレハタチテオモフソラヤスカラナクニナケクソラヤスカラナクニサニヌリノヲフネモカモタママキノヲカイモカモコキワタリツヽモアヒカタラメヲ》
 
(14)小※[楫+戈]はヲカヂと讀べし、和名集云、釋名云、※[楫+戈]【音接、一音集、和名加遲、】使2v舟(ヲ)捷疾1也、相語妻遠は相語らむをなり、め〔右○〕とむ〔右○〕と同内相通の故に此集に通じて用たる事多し、第三の滿誓の月歌に不所見十方孰不戀有米《ミエズトモタレコヒザラメ》の如し、
 
初、みわたしにいもらはた1し これは二星のやうに、河を中に隔て、人をこふる人のよめりとみゆ。左丹|漆《ヌリ》の小舟、以下の四句、上にあまた有き。小※[楫+戈]《ヲカチ》、和名集云。※[楫+戈]【音接。一音集。和名加遲。】使2舟(ヲシテ) 捷疾(ナラ)1也。兼名苑云。※[楫+戈]一名撓【奴效反一音饒。】今はかちといへとも櫓なり。あひかたらめをは、あひかたらむをなり
 
 
或本歌頭句云
 
巳母里久乃波都世乃加波乃乎知可多爾伊母良波多多志已乃加多爾和禮波多知?《コモリクノハツセノカハノヲチカタニイモラハタヽシコノカタニワレハタチテ》
 
有一首
 
3300 忍照難波乃埼爾引登赤曾朋舟曾朋舟爾綱取繋引豆良比有雙雖爲曰豆良賓有雙雖爲有雙不得叙所言西我身《オシテルヤナニハノサキニヒキノホルアケノソホフネソホフネニツナトリカケテヒキツラヒアリナミスレトイヒツラヒアリナミスレトアリナミエヌソイハレニシワカミ》
 
初の六句は引豆良比と云はむための序なり、引豆良比は引つるゝなり、有雙雖爲はならびあらむとすれどなり、曰豆良賓は物云ひつるゝなり、落句のに〔右○〕は助語なり、是(15)は友舟の引つれて舟人の互に物語などするによせて、人々とかく云はれし身なれば心に任て引つれ物云ひつれて並び有ことを得ぬとなり、
 
初、おしてるやなにはの あけのそほ舟は第三以下に見えたり。引つらひは引つるゝなり。ありなみすれとゝはならひあらむとすれともなり。いひつらひはものいひつるゝなり。これは友舟のひきつれて、舟人のたかひに物かたりなとするによせて、人にとかくいはれし身なれは、心にまかせて引つれ物いひつれてならひあるゝことを得ぬとなり。ありなみえぬそといひて句とすへし
 
右一首
 
3301 神風之伊勢乃海之朝奈伎爾來依深海松暮奈藝爾來因俟海松深海松乃深目師吾乎俟海松乃復去反都麻等不言登可聞思保世流君《カミカセノイセノウミノアサナキニキヨルフカミルユフナキニキヨルマタミルフカミルノフカメシワレヲマタミルノマタユキカヘリツマトイハシトカモオモホセルキミ》
 
神風はカムカゼと讀べし、朝奈伎爾と云より復去反と云までの八句は第二に人麿の石見より妻に別て上らるゝ時の歌に似たり、是は伊勢の國の人の外へ行に妻に別るとてなぐさめ置意なり、
 
初、神風のいせのうみの朝なきに 第二に人丸の歌に、ことさへくからのさきなる、いくりにそふかみるおふる、あらいそにそ玉もはおふる、玉もなすなひきねしこを、ふかみるのふかめておもふと云々。深海松は延喜式に、深海松、長海松なといへり。第二に引かことし。ふかみるはふかめしわれをといはむため、またみるはまたゆきかへりといはむためなり。ふかめし我をとは、思ひのふかきなり。またゆきかへりは、しはらく絶たる人も又たちかへるなり
 
右一首
 
3302 紀伊國之室之江邊爾千年爾障事無萬世爾如是將有登大(16)舟乃思恃而出立之清瀲爾朝名寸二來依深海松夕難伎爾來依繩法深海松之深目思子等遠繩法之引者絶登夜散度人之行之長爾鳴兒成行取左具利梓弓弓腹降起志之岐羽矣二手挟離兼人斯悔戀思者《キノクニノムロノウミヘニチトセニサハルコトナクヨロツヨニカクシアラムトオホフネノオモヒタノミテイテタチシキヨキナキサニアサナキニキヨルフカミルユフナキニキヨルナハノリフカミルノフカメシコラヲナハノリノヒケハタユトヤサトヒトノユキシツトフニナクコナスユキトリサクリアツサユミユスヱフリオコシシノキハヲフタツタハサミハナチケムヒトシクヤシモコヒシトオモヘハ》
 
大舟乃、【幽齋飜、乃作v之、】 行之長爾、【官本、長作v屯、】 弓腹振起、【別校本又云、ユハラフリタテ、】
 
室之江邊爾はムロノエノヘニと讀べし、牟漏郡に有江なるべし、カクシのし〔右○〕は助語なり、室の江のほとりに海人の女を相知て千年萬世と云とも我中に何の障る事なく常にかくのみあらむと憑もしく思ひし心を今舟にで旅に出たてば大舟乃思恃而と似付事によそへて云なり、出立之はイデタチノと讀べきか、此卷下に出立之妙山叙《イデタチノクハシキヤマゾ》云々、成出たるなぎさのさまをほむる詞なり、それを舟に乘て出立と女の容態をほむいるとにかくる歟、繩法之引者絶登夜とは多くの人のとかく云ひかゝりて、繩海苔の引ばたゆる如く我中も絶置意なり、行之長爾は長の字除亮切多也と玉篇に(17)あればつとふとも讀べき歟、長はいはむ〔三字右○〕ともあつまるとも此集第九にはむれて〔三字右○〕とも讀たれば、此もつとふとも讀ぬべし、然らば行之長爾の一句ユキノツトヒニと讀べきか、鳴兒成行取去具利とは行は靱に借てかけり、幼兒の泣時に物を弄て泣如く我も靱を取さぐりて泣意なり、若は鳴は嗚にて男成《ヲノコナス》と云へるにや、梓弓などつゞけるやうは然も聞ゆるなり、弓腹振起は第十一に梓弓末之腹野爾とよめる歌に注せし如く、ユハラフリタテとよめるも然るべき歟、志之岐羽は矢なり、矢は敵を凌ぐ物なる故なり、江文通別賦云、或乃邊郡未v和負v羽從v軍、今按之〔右○〕の字はてにをはの外にの〔右○〕と用たる例なければシヽキハにや、和名云、※[穀の禾が糸]【胡谷反、和名古女】其形※[糸+戚]々視v之(ヲ)如v粟也、唐韻云、※[糸+戚]【于六反、與v叔同、此間云2之同良岐1、】※[糸+曾]文貌也、古歌云わぎもこが額の髪やしゝくらむ云々、羽にも然見ゆるがあれば云歟、離兼は箭を放つと人を別るゝとを兼たり、下に投左乃遠離居而《ナゲクサノトホザカリヰテ》とも讀たればサカリケムとも讀べき歟、人斯悔は人は我なり、斯は助語なり、第十一に石尚行應通建男戀云事後悔在《イハホスラユキトホルベキマスラヲモコヒテフコトハノチノクイアリ》とよめる如く、我はますらをにて弓押張大箭さしはげて射る身なれど戀にはかへり見せられて悔ありとなり、
 
初、きのくにのむろのえのへに 牟漏郡の江にて、熊野浦をいふなるへし。千年にさはる事なくとは、第四にひとせにはちたひさはらひゆく水とよめり。これによりておもふに、江の水のさはる事なきによりていふなるへし。長流は大海こく舟のさはるものもなきことく、我おもひかけたる中も、千年萬世もさはりあるましきと思ひたのみて有し女に、あまたの里人のいひかゝり、行かよひして、口舌なと出來りてやかて中を引はなれ絶ぬれは、たけきものゝふなれとも、悔しきことの有といふよしなりといへり。出立のきよきなきさにとは、海邊のなり出たる地形をほめたるなり。下に泊瀬山忍坂山を出立のくはしき山とよめるにおなし。さてきよきなきさをやかて容儀によせていへり。行之長爾《ユキノツトヒニ》。長ほ玉篇云。長除亮(ノ)切多(ナリ)也。この心にてつとふと訓せり。鳴兒成行取左具利。此心はいときなきこのなく時に、何にても手まさくりすることく、をのこも靫を取さくりてなくなり。下のつゝきを見るに、鳴は嗚の誤にて、をのこなすにや。弓腹とはいかてかきけむ。その心を得す。ゆすゑふりおこすとは第三にもよめり。第十九にもあつさ弓すゑふりおこし、なくやもち千尋いわたしとよめり。神代紀上云。振2起《フリタテ》弓※[弓+肅]《ユハスヲ》1云々。凌羽は矢のことなり。凌は侵す心なり。矢は敵をしのく器なり。ふたつ手はさみはもろ矢なり。おほよそ弓射るには、矢ひと手を取ゆへなり。此集にとも矢たはさみとあまたよめるもこれなり。人しくやしもといへる人は、我みつからいへり
 
右一首
 
(18)3303 里人之吾丹告樂汝戀愛妻者黄葉之散乱有神名火之此山邊柄《サトヒトノワレニツクラクナカコフルウツクシツマハモミチハノチリマカヒタルカミナヒノコノヤマヘカラ》【[或本云彼山邊】 烏玉之黒馬爾乗而河瀬乎七湍渡而裏觸而妻者會登人曽告鶴《ヌハタマノクロウマニノリテカハノセヲナヽセワタリテウラフレテツマハアヒツトヒトソツケツル》
 
愛妻は反歌に公之と云に依に夫君を指せり、
 
初、ぬはたまのくろうまにのりて 第四に夜千玉之黒馬とかきて、こまとよみ、此下に野干玉之黒馬とかきて又こまとよめるは、今の寄をもて證するに誤れり。そのゆへはぬはたまの髪とつゝけたるは、髪はかならすくろけれはしかるへし。駒《コマ》は小馬といふ心なれは、くろにやはかきらん。但第十六に、駒つくるはしのしひまろ白にあれはむへほしからんそのくろ色を。此哥をもて心得るにかひのくろこまなといひて馬はまことに黒を賞する心にて惣名を別名によひて黒馬をこまとよめるか。こまといへともたゝうまなり。河の瀬をなゝせわたりて。これは明日香川なり。第七にもあすか川なゝせのよとゝよめり。此妻は夫なり
 
反歌
 
3304 不聞而然黙有益乎何如文<>之正香乎人之告鶴《キカスシテモタシアラマシヲナニシカモキミカマサカヲヒトノツケツル》
 
然黙【官本作2黙然1、點云、モタモ、】
 
然黙は倒せり、官本に依べし、ナニシカのし〔右○〕は助語なり、
 
初、きかすしてもたもあらましを 然黙は黙然なるへし
 
右二首
 
問答
 
(19)3305物不念道行去毛青山乎振放見者茵花香未通女櫻花盛未通女汝乎曾母吾丹依 云吾※[口+立刀]毛曾汝丹依云荒山毛人師依者余所留跡序云汝心勤《モノオモハテミチユキナムモアヲヤマヲフリサケミレハツヽシハナニホヘルヲトメサクラハナサカヘルヲトメナレヲソモワレニヨルトイフワレヲモソナレニヨルトイフアラヤマモヒトシヨルニハワカモトニトヽムトソイフナカコヽロユメ》
 
道行去毛はミチユキヌルモと讀べき歟、何の思ふ事もなく道を行ぬるにの意なり、青山乎より下六句は春山を見あぐれば茵花の咲たるが其如くにほへる未通女櫻花の咲たるが其如くさかゆる未通女に行相て初て見そめて物思ひとなれると云意なり、汝乎曾母より下四句は今按我叫毛曾は毛曾の二字倒して是も亦吾叫曾毛なり、下の人麿集の歌を見合すべし、人の云を聞くは吾と汝と互に相依ると云ふとなり、荒山毛より下は人師のし〔右○〕は助語なり、余所とは山の余なり荒山だに留むと云なればまして石木ならぬ人のかくばかり思ふ我をあはれと見ざらむやとなり、落句は云ひはげますなり、
 
初、物おもはて道ゆきなんも これは道ゆきふりに人を見て戀そめて後よめる哥と見えたり。毛は乎と同韵なれは道ゆきなんをといへるにや。青山をふりさけみれはといふに、ふと人を見そめて目とまるをそへたり。茵花《ツヽシハナ》にほへるをとめは、和名集云。本草云。茵芋【因于二音。和名仁豆々之。一云乎豆々之。】第三にも茵花、香《ニホヘル》君之なとよめり。第六にも龍田路の岡邊のみちににつゝしのにほはむ時のさくら花咲なん時にとよめり。つゝしのことくににほ櫻のことくにさかりなるをとめに見そめて物思ひのつく心なり。なれをそものもは助語なり。われをもそ、上に准するにわれをそもにてあるへきを、毛曾とかへさまにうつせるにや。下の人麿集の哥にもなれをそもといへり。世の人の、なれ《汝》ははや我により、我はなれによると、いひなせは、その人言にまかせてあひよらんの心にいへり。あら山も人しよるにはわがもとにとゝむとそいふとは、あら山は山みつからあらきにあらす。神のいましてたゝはしきなり。されはぬさをまつりなとして入ぬれは、あらふる神たになこみてわかもとにとゝめたまふといへは、なんちか心もつとめてわかよるをはよせよとなり。第三に
  すはうなるいは國山をこえむ日はたむけよくせよあらきそのみち
 
反歌
 
(20)3306 何爲而戀止物序天地乃神乎祷迹吾八思益《イカニシテコヒヤムモノゾアメツチノカミヲイノレトワレヤオモハマシ》
 
落句の點誤れり、ワレハオモヒマスと讀べし、古今集にもみたらし川にせしみそぎ神はうけずぞとよめるに同じ意なり、
 
初、いかにして戀やむものそあめつちの神をいのれと我はおもひます
古今集に
  こひせしとみたらし川にせしみそき神はうけすそなりにけらしも
 
3307 然有社歳乃八歳※[口+立刀]鑽髪乃吾同子※[口+立刀]過橘末枝乎過而此河ヲスキテコノカハ能下文長汝情待《シカレコソトシノヤトセヲキルカミノワカコヲスキテタチハナノホツエノシタニモナカクナカコヽロマテ》
 
發句はシカレコソとも讀べし、しかあればこそなり、問の歌の汝乎曾母と云より下を承て云へり、鑽髪とは左太沖魏都賦云、或鏤v膚而鑽v髪、吾同子叫過とは同子の字意得がたし、若同は胴か、玉篇云、徒棟切大腸也、常に胴を音に云は凡そ腹の間なり、和名集云、中黄子(ニ)云三〓【魚反、和名美乃和太、】孤立爲2中涜之府1、美乃和太と云へる美も一身の中央を云意歟、子は萬にそへて云詞なり、伊勢物語に振分髪も肩過ぬとよめろを是は猶それよりも長し、橘末技乎過而とは橘の未枝は長き物なれどその長さにも過てなり、此河能下文長とは、此河は女の住あたりに川の流るれば其河の長さに歳の間情を符つるとなり、
 
初、しかあれこそ年のやとせを 此哥はもし此上に落たる句とものあるにや。但問答の哥なれは、右の哥にあら山も人しよるにはなといひて、なかこゝろゆめといふをうけて、しかれこそとよめるにや。下の人丸集の歌は、此問答二首を一首にあはせてよめり。なれはいかにおもへや《・下人丸集の哥の事》といふまては右の哥なり。おもへこそといふより後は此哥なり。しかれはしかあれこそにてたれるなり。しかあれこそは、しかあれはこそなり。年のやとせをきる髪のわか身を過て橘のほつえを過て。年のやとせは、第十一にも年のやとせをわかぬすまひしとよめり。伊勢物語には、あら玉の年のみとせを待わひてとよめり。きるかみのわかみを過てとは、女の年のよきほとになれは、髪上といふことして髪のさきをそくなり。髪そきといふことあるは是なり。きるかみとはかみそきなり。さて髪のなかくて其長にもあまる心を、其身をすくるとはいふなり。第二に
  人皆は今はなかしとたけといへと君か見し髪みたれたれとも
伊勢物語にはふりわけ髪も肩過ぬとよめり。橘のほつえを過てとは、橘は人の愛するくたものなれは、よく女にたとふる故に今みつからもたとへたり。應神紀に髪長媛を大鷦鷯尊に賜ふ時の帝の御哥に、伽愚破志《・香細》、波郡多智麼那《・花橘》、辭豆曳羅波《・下枝等》、比等未那等利《・人皆執》、保菟曳波《・末枝》、等利委餓羅辞《・執居令枯》、瀰兎愚利能《・三栗》、那伽兎曳能《・中枝》、、府保語茂利《・含隱》、阿伽例蘆塢等※[口+羊]《・所熟處女》、伊奘佐伽麼曳那《・去來集》。此集第十一に
  橘のもとに我立しつえとりなりぬや君といひしこらはも
ほつえを過てといひ捨たるか句絶なり。此河の下にもなかくなか心まてとは、此河は河近く住女にて、いへるなり。河の底を下といひて、下は下こゝろなり。君による心のしかあれはこそ、年のやとせのほとをちきりしまゝにて、そきたる髪はわか身を過れとも、しつえを取へき橘のほつえを過るやうにほとは過れとも、かはる心はもたね。そこにも下にかよふ心をたのみて、心なかく逢時あらんことをまてとなり。今案しかれこそのてにをはほつえを過てとのみにては應しかたきにや。きるかみのわかみを過れとよみてこゝを句とすへき歟。下の人丸の集の哥もおなし。しからは橘のほつえを過ても心なかくまてとつゝくなり。鑽髪は、左太沖(カ)魏都(ノ)賦云。或(ハ)※[鬼+隹]《タイ》髻(シテ)而左言(ス)。或(ハ)鏤v膚(ヲ)而|鑽《キレリ》v髪(ヲ)。同子は、子は助字にて同は胴なるへし
 
(21)反歌
 
3308 天地之神尾母吾者祷而寸戀云物者都不止來《アメツチノカミヲモワレハイノリテキコヒテフモノハスヘテヤマスケリ》
 
都は第四に中臣女郎が家持に贈れる五首の第一の歌に點ぜる如くカツテと讀べし、
 
柿本朝臣人麿之集歌
 
3309 物不念路行去裳青山乎振酒見者都追慈花爾太遙越賣作樂花在可遙越賣汝乎叙母吾爾依云吾乎叙物汝爾依云汝者如何念也念社歳八年乎斬髪與和子乎過橘之末枝乎須具里此川之下母長久汝心待《モノオモハテミチユキナムモアヲヤマヲフリサケミレハツヽシハナニホエルヲトメサクラハナサカエルヲトメナレヲソモワレニヨルトイフワレヲソモナレニヨルトイフナレハイカニオモヘヤオモヘコソトシノヤトセヲキルカミトワカミヲスクリタチハナノホツエヲスクリコノカハノシタニモナカクナカコヽロマテ》
 
在可遙、【幽齋本、在作v佐、】 念也、【別校本又云、オモフヤ、】
 
此歌は右の問答二首を一首に合せて少替れる所あるなり、路行去裳はミチユキヌル(22)モと讀べし、爾太遙は太はおほ〔二字右○〕と云を上略する歟、古事記上云、故大國主神坐2出雲(ノ)之|御太之御前《ミホノミサキ》1云々、聖徳太子の御母を日本紀云|間人穴太部皇女《ハシウトノアナホヘノヒメミコ》云々、遙は音を用て轉ぜり、上野群馬【久留末】郡の類なり、在可遙は在は左なるべし、如何念也と云までは問なり、念社より答なり、念社はおもへばこそなり、斬髪與和子乎過とは斬髪の和子《ワガミ》を過ると共に八歳を過るなり、和子は今按|和我同子《ワガミ》なりけむを字の落たる歟、
 
初、人丸集の哥、きるかみとわか身をすくりは年の髪とゝむに身を過るなり
 
右五首
 
3310 隱口乃泊瀬乃國爾左結婚丹吾來者棚雲利雪者零來奴左雲理雨者落來野鳥雉動家島可鷄毛鳴左夜者明此夜者旭奴入而且將眠此戸開爲《コモリクノハツセノクニヽサヨハヒニワカキタレヽハタナクモリユキハフリキヌサクモリアメハフリキヌノツトリキヽスモトヨミイヘツトリカケモナクサヨハアケコノヨハアケヌイリテアサネムコノトアケセヨ》
 
雉動、【別校本云、キキスモトヨム、】
左結婚丹とは左はそへたる字なり、古事記八千矛神御歌云、佐用婆比爾《サヨバヒニ》、阿理多多斯《アリタヽシ》、用婆比邇阿理加用婆勢《ヨバヒニアリカヨハセ》云々、棚雲利より雨者落來と云までを袖中抄にさくらかり(23)を釋する所にひかれたるは、今に叶はぬ事あり引合せて見る人知べし、野鳥より下四句は上に引八千矛神神歌云、遠登賣能《ヲトメノ》、那須夜伊多斗遠《ナスヤイタトヲ》、淤曾夫良比《オソブラヒ》、和何多多勢禮婆《ワカタヽセレバ》、比許豆良比《ヒコヅラヒ》、和何多多勢禮婆《ワガタヽセレバ》、阿遠夜麻邇《アヲヤマニ》、奴延波那伎《ヌエハナキ》、佐怒都登理《サヌツドリ》、岐藝斯波登與牟《キヾシハトヨム》、爾波都登理《ニハツドリ》、迦祁波那久《カケハナク》、宇禮多久母《ウレタクモ》、那久那留登理加《ナクナルトリカ》、許能登理母《コノトリモ》、宇知夜米許世泥《ウチヤメコセネ》云々、繼體紀勾大兄皇子御歌云、矢自矩矢盧《シシクシロ》、于魔伊禰矢度※[人偏+爾]《ウマイネシトニ》、※[人偏+爾]播都等利《ニハツトリ》、柯稽播惧儺梨《カケハナクナリ》、奴都等※[口+利]《ヌツトリ》、枳蟻矢播等余武《キギシハトヨム》云々、此等に准らへて雉動はキヾスモトヨムと讀べし、入而且將眠はイリテカツネムと讀べし、かつ/\だにねむなり、此戸開爲はコノトヒラカセと讀べし、
 
初、こもりくのはつせのくにゝ さくもりは只くもるなり。たなくもりといふが、うすらかにくもる心なれは、それに對すれは、すこしくもるといふ心もあるへき歟。野鳥は野鷄の心にてやかてきゝすなり。第十六竹取翁か哥には、狹野津鳥《サノツトリ》、來鳴翔經《キナキカケラフ》とよめり。繼體紀(ニ)勾大兄《マカリノオヒネノ》皇子|親《ミツカラ》聘《メス》2春日皇女(ヲ)1歌(ノ)畧(ニ)云。矢自矩矢盧《繁櫛》、于魔伊禰矢度※[人偏+爾]《熟寢・味寢宿時》、※[人偏+爾]播都等※[口+利]《・庭津鳥》、柯稽播儺倶儺梨《・※[奚+隹]鳴在》。奴都等嘲※[口+利]《・野津鳥》、枳蟻矢播等余武《・雉動》云々。大周の則天皇后の諱を避て、雉を野鷄と呼しをもおもひ合すへし。且はもし苟且の且にてかつにや。開爲はひらかせとよむへし
 
反歌
 
3311 隱來乃泊瀬少國爾妻有者石者履友猶來來《コモリクノハツセヲクニニツマシアレハイシハフメトモナホソキニケル》
 
少國爾、【別校本、少作v小、幽齋本、爾作v丹、
ツマシのし〔右○〕は助語なり、
 
3312 隱口乃長谷小國夜延爲吾大皇寸與奥床仁母者睡有外床(24)丹父者寢有起立者母可知出行者父可知野干玉之夜者※[永+日]去奴幾許雲不念如隱※[女+麗]香聞《コモリクノハツセヲクニヽヨハヒセスワカスメロキヨオクトコニハヽナネテアリソトトコニチヽハネテアリオキタヽハハヽシリヌヘシイテユカハチヽシリヌヘミヌハタマノヨハアケユキヌコヽタクモオモフコトナラヌコモリツマカモ》
 
大皇寸與、【官本云、大作v天、】 母可知、【幽齋本云、ハハシリヌヘミ、】
 
是は右の答歌なり、夜延爲はヨバヒスルと讀べし、我大皇寸與は大は天に改むべし、寸の字を加へたるは天皇をすべろぎとよますべきためなり、女は夫をもて天とすれば貴てかくは云へり、※[永+日]は丑兩切明也、
 
初、夜延爲 よはひするとよむへし。わかすめろきよ。女は男をもて天とすれは、貴てかくはいへり。第十一にわかきみ物をならすはやましといふ哥のきみに大王とかけるも此心おなし。睡有はねふれりともよむへし
 
反歌
 
3313 川瀬之石迹渡野干玉之黒馬之來夜者常二有沼鴨《カハノセノイハトワタリテヌハタマノコマノクルヨハツネニアラヌカモ》
 
川瀬は泊瀬川の瀬なり、黒馬は上廿三葉の歌の如くクロマと讀べし、
 
初、川の瀬のいはとわたりて 泊瀬川なり。ぬはたまの黒馬、上の廿三葉にくろうまとよめるにつきてこまとよめるは誤なるへきよし申つ。くろまとよむへし
 
右四首
 
3314 次嶺經山背道乎人都未乃馬從行爾巳夫之歩從行者毎見(25)哭耳之所泣曾許思爾心之痛之垂乳根乃母之形見跡吾持有眞十見鏡爾蜻領巾負並持而馬替吾背《ツキネフヤマシロノミチヲヒトツマノウマヨリユクニサカツマノカチヨリユケハミルコトニネノミシナカルソコオモヒニコヽロシイタシタラチネノハヽノカタミトワカモタルマソミカヽミニアキツヒレオヒソヘモチテウマカヘワカセ》
 
持有、【校本云、モテル、】
 
次嶺經は、山背の枕詞なり別に注す、人都末は人の妻と定まりたる女のみづから云なり、己夫は上に云如くオノヅマともよむべし、哭耳之所泣はネノミシナカユと讀べし、第五に憶良の長歌の終に思和豆良比《オモヒワヅラヒ》、禰能尾志奈可由《ネノミシナカユ》、反歌の落句も同じくよめり、し〔右○〕は助語なり、曾許思爾はそれを思ふになり、第三にもあり、心之のし〔右○〕は助語なり、眞十見鏡はますみ鏡なり、凡そ常にはますみの鏡と云ひ略してますかゞみと云を此集にはまそかゞみとのみよめるを、唯第十六乞食者の爲v鹿述v痛作歌に吾目良波眞墨乃鏡《ワガメラハマスミノカヾミ》とよみ今の歌に眞十見鏡とよめり、延喜式第八出雲國造神賀詞云、麻蘇比《マソヒ》大御鏡《オホミカヾミ》面《オモテ》意志波留加志《オシハルカシ》見行事《ミソナハスコト》能己登久云々、此まそひ〔三字右○〕もますみ〔三字右○〕と同じ、蜻領巾とは蜻|羽《ハ》の如くなる領巾なり、第三に秋津|羽《ハ》之袖振妹乎とある類なり、負並持而はオヒナベモチテとも讀べし、馬替吾背はウマカヘヨワガセと讀べき歟、今の點にてもかへよと云意なり、我鏡と領巾とを持て背子は馬に騎れ我|歩《カチ》より、行かむとな(26)り、馬二匹あるを乘替るにはあらず、
 
初、次嶺經山背道乎 長流か枕詞燭明抄云々。此中に日本紀の哥といへるは、第十一仁徳紀(ニ)皇后至2山背河1歌曰。兎藝泥赴椰莽之呂餓波烏《・次嶺經山背川》云々。越(テ)2郡羅山(ヲ)1莅2葛城(ヲ)1歌曰。【其略如v上。】至v下有2天皇御製1。發句云。兎藝泥赴、椰摩之呂謎《山背女》能云々。又云【其畧同v上。】そこおもひにとはそれをおもふになり。あきつひれはあきつはのことくなるひれなり。馬かへは、我かちよりゆかん。君は我鏡に領巾おひそへもちて馬にのりたまへとなり。馬かへよといはさるは古哥はことはくはしからぬ事おほけれはなり
 
反歌
 
3315 泉河渡瀬深見吾世古我旅行衣《イツミカハワタルセフカミワカセコカタヒコロモ》蒙沾|鴨《カモ》
 
蒙沾、【官本云、キテヌラスカモ、別校本云、ヌレヌラムカモ、】
 
初二句は延喜式第五十雜式云、凡山城國泉河|樺《カハ》井渡瀬者、官長率2東大寺工等1、毎年九月上旬造2假橋1來年三月下旬壞収、其用度以2除帳得度田地子稻一百束1充v之、旅行衣は露分衣などの如くクビユキゴロモと體に讀べし、落句は今の本點なし、官本にきてぬらすかもとあるも蒙はきてとよむべけれどをさなく聞ゆ、別校本にぬれぬらむかもと有も蒙の字に當りても聞えず、今按蒙沾の二字引合てヌレと讀てヌレニケルカモと讀べし、
 
初、泉川わたるせふかみ 延喜式第五十、雜式云。凡山城國泉河(ノ)樺井《カハヰノ》渡瀬者、官長率2束大寺(ノ)工等(ヲ)1、毎年九月上旬造2假橋(ヲ)1、來年
 
或本反歌曰
 
此は初の一首の事なり、其故は後の一首は夫の答歌なるを以て問答には入れたればなり、其上夫の歌なる故長歌の同じ意にあらず、
 
(27)3316 清鏡雖持吾者記無君之歩行名積去見者《マソカヽミモタレトワレハシルシナシキミカカチヨリナツミサルミハ》
 
雖持はモテレドモとも讀べし、落句は官本の如く讀べし、清鏡はは女の寶として重くする物なるに我はそれを持たれど夫君の歩行《カチ》にて行を見る悲しさに持たるかひもなくおぼゆるとなり、又は心のかきくらさるゝをそへてもよめるなるべし、
 
初、まそかゝみもたれと しるしなしとはかひなきなり。去はゆくとよむへし。しるしなしとは、おもしろきことをは見すして、君かかちよりなつみゆくことをのみ見れはなり。見るは鏡の縁なり
 
3317 馬替者妹歩行將有縱惠八子石者雖履吾二行《ウマカハハイモカチナラムヨシヱヤシイシハフモトモワレフタリユカム》
 
馬替者、【別校本云、ウマカヘハ、】
 
發句の點誤まれり、別校本に依べし、落句の意は我が馬に乘て妹が歩行ならば女の足にては石蹈道を馬に付て來る事なるまじければ唯なづみながらも我歩行にて打つれてゆかむとなり、富貴ならぬ男の大和より山背へ妻を具して行ける時の事なるべし、
 
初、うまかへは妹かちならん 馬かはゝとあるはよろしからす。これはおとこのかへしなり。妹にかはりて我馬にのらは妹はかちにて、女の足なれはえゆかし。よし/\我石をふみてなつむとも、妹を馬にのせてふたり相具してこそゆかめとなり
 
右四首
 
3318 木國之濱因云鰒珠將拾跡云而妹乃山勢能山越而行之君(28)何時來座跡玉桙之道爾出立夕卜乎吾問之可婆夕卜之吾爾告良久吾妹兒哉汝待君者奧浪來因白珠邊浪之縁流白珠求跡曾君之不來益拾登曾公者不來益久有今七日許早有者今二日許將有等曾君者聞之二二勿戀吾妹《キノクニノハマニヨルトイフアハヒタマヒロハムトイヒテイモノヤマセノヤマコエテユキシキミイツキマサムトタマホコノミチニイテタチユフウラヲワカトヒシカハユフウラノワレニツクラクワキモコヤナカマツキミハオキツナミキヨルシラタマヘツナミノヨスルシラタマモトムトソキミカキマサヌヒロフトソキミハキマサヌヒサニアラハイマナヌカハカリトクアラハイマフツカハカリアラムトソキミハキヽコシナコヒソワキモ》
 
濱因云、【別校本云、ハマニヨルテフ、】  聞之二二、【幽齋本又云、キコシシ】
 
將拾跡云而はヒリハムトイヒテと讀べし、拾登曾、此に准らふべし、早有者はハヤクアラバとも讀べし、君者聞之二二は今の點誤れり、キミハキコシヽと讀べし、
 
初、ひさにあらは今なぬかはかり 第十七家持の鷹をゆめみられける哥にも、ちかくあらは今ふつかたみとほくあらはなぬかのうちは過めやとゝよめり。第八萩の哥に今ふつかはかりあらはちりなん。第九にわかゆきはなぬかに過しともよめり。君者聞之二二、きみはきこしゝとよむへし。なこひそわきもといふまてみな夕卜の告るなり。君はきこしゝは、久しくは七日はやくは二日はかり有てかへらんと、君かうへをはきかしめつれはなこひそとなり
 
反歌
 
3319 杖衝毛不衝毛吾者行目友公之將來道之不知苦《ツエツキモツカテモワレハユカメトモキミカキマサムミチノシラナク》
 
第三丹生王歌云、杖策毛《ツエツキモ》不衝毛|去而《ユキテ》云々、此|不衝毛《ツカズモ》の點今よりはまさりて聞ゆ、下句は第十の七夕歌に天漢去年之渡湍有二家里《アマノガハコゾノワタリセアレニケリ》、此歌と同じ、
 
初、杖つきもつかすも 第三に石田王卒之時丹生王作歌にも、天雲のそくへのきはみあめつちのいたれるまてに杖つきもつかすもゆきてなと有
 
(29)3320 直不徃此從巨勢道柄石瀬蹈求曾吾來戀而爲便奈見《タヽニコヌコノコセチカライハセフミトメソワカクルコヒテスヘナミ》
 
不徃は第六に時の來ればと云べきを時之《トキノ》徃者と云へるに意同じ、此從巨勢道柄は從をカラとよまば柄の字あまり、柄をカラとよまば從の字無用なれば兩字の間に衍文ある歟、但菅家萬葉集にかゝる例多くみえたり、
 
初、たゝにこぬこのこせちから 此哥上にありしはいはゝしとなつみそわかくるといへり。そこに注ありき。たゝにこぬを直不往とかけるにて、夕されはといふたくひを意得へし。此從巨勢道柄とかけるは從と柄との兩字のうちに衍文あるへきやうにおほゆれと、此集にをり/\さること見えたり
 
3321 左夜深而今者明奴登開戸手木部行君乎何時可將待《サヨフケテイマハアケヌトトヲアケテキヘユクキミヲイツシカマタム》
 
何時可、【別校本又云、イツトカ、】
 
左夜深而とは待深すなり、木部行君乎とは紀の國へ行君をなり、第九にも朝裳吉木方徃君我《アサモヨシキヘユクキミガ》とよめり、若は山邊野邊など云如く紀邊と云へる歟、落句は今の點叶はずイツトカマタムとよめるに依べし、
 
初、さよふけて今は明ぬと さよふけてとは夜に入ても歸るやとまちふかして、明ぬれはいとゝはやく戸をあけて又待心なり
 
3322 門座郎子内爾雖至痛之戀者今還金《カトニヲルヲトメハウチニイタルトモイタクシコヒハイマカヘリコム》
 
此一首夫の答歌なるに依て問答なり、第十一云、待不得而内者不入《マチカネテウチニハイラジ》云々、今云意はたとひをとめは我を待かねて内に入とも痛く戀る心だにあらば今やがて還り來むずるぞとなり、之は助語なり、
 
初、かとにをるをとめは これは男の哥の心なり。かとに立出てまつをとめの待わひて内にかへり入るとも、猶やますいたく我をこふるものならは、立歸り今こんとなり。古今集に
  君こすはねやへもいらしこむらさきわかもとゆひに霜はをくとも
これこそ人を待本意なるに、しはらくかとにありて内にいるは不足なり。されとも、猶こひは今歸來むなり。下句は行平朝臣のまつとしきかは今かへりこんに似たり
 
(30)右五首
 
譬喩歌
 
3323 師名立都久麻左野方息長之遠智能小菅不連爾伊苅持來不敷爾伊苅持來而置而吾乎令偲息長之遠智能子菅《シナタテルツクマサノカタオキナカノトホチノコスケアマナクニイカリモチキシカナクニイカリモチキテオキテワレヲシノハムオキナカノトホチノコスケ》
 
持來而、【幽齋本云、モチキテ、】 令偲、【別校本又云、シノハス、】
 
師名立は筑麻のみならずすべて近江國にかゝる枕詞なり、別に注す、都久麻左野方は左〔右○〕はそへたる字、筑麻野方のと云意なり、古事記の應神天皇の御歌に伊知此韋能和邇佐野邇《イチヒヰノワニサノニ》とあるも和邇野なり、筑摩野は第三に注せり、息長は延喜式第二十一諸陵式云、息長墓【舒明天皇之祖母名田廣姫、在2近江國坂田郡1、】是にて知べし、筑摩野の方に息長ありて息長に遠智池あるなるべし、小菅は女にたとふ、不連爾は笠にあまぬなり、いまだ語らはぬに譬ふ、伊苅持來は伊は發語の詞下准、此苅持來をば既に云ひなびけて約するに喩ふ、不敷爾は薦にしかぬを妻ともせぬに喩ふ、吾乎令偲はワレヲシノバスと點ぜる(31)に依べし、さらずばワヲシノバシムと讀べし、
 
初、しなたてるつくまさのかた しなたてるはしなひたてるなり。下に菅をいはむとていひ出たる詞なり。第十二に、あさは野に立みわこすけといふ寄、或本は誰葉野爾立志奈比垂《タカハノニタチシナヒタル》とあれは、立しなひたるみわこすけなり。第二十に立しなふ君かすかたをわすれすはとよみたれは、下にたとふる人の上にもかゝれる詞なり。筑摩は近江國坂田郡にあり。さのかたは、第十にさのかたは實にならすともとよめるにはあらす。さは萬の物につける詞にて、きゝすを野つ鳥といふを、さのつとりともよめることく、つくまのゝかたなる息長とつゝくる心なり。延喜式第二十一、諸陵式云。息長墓【舒明天皇之祖母、名曰2廣姫1在2近江國坂田郡1。】とほちは息長にある池の名なるへし。あまなくには笠にあまぬなり。いかりもちき、いは發語のことは下おなし。しかなくには薦にあみてもしかぬなり。第十一に
  みよしのゝみくまか菅をあまなくにかりのみかりてみたれなんとや
かやうによめる哥おほし。笠にあみ薦に敷は、逢見て戀のなるなり。かりもて來るといふは、人のわれにしたかふなり。人は心をよすれともあふことのなきをなけきてたとへたり。もしおきなかは息をなかくつきてなけく心をふくみ、とほちにはすめる所のへたゝれる心ある歟。さらすはそこに住人のよめるにや
 
右一首
 
挽歌
 
3324 挂纏毛文恐藤原王都志彌美爾人下滿雖有君下大座常往向年緒長仕來君之御門乎如天仰而見乍雖畏思憑而何時可聞曰足座而十五月之多田波思家武登吾思皇子命者春避者殖槻於之遠人待之下道湯登之而國見所遊九月之四具禮之秋者大殿之砌志美彌爾露負而靡芽子乎珠手次懸而所偲三雪零冬朝者刺楊根張梓矣御手二所取賜而所遊我王矣煙立春日暮喚犬追馬鏡雖見不飽者萬歳如是霜欲(32)得常大舩之憑有時爾涙言目鴨迷大殿矣振放見者白細布飾奉而内日刺宮舍人方《カケマクモアヤニカシコシフチハラノミヤコシミミニヒトハシモミチテアレトモキミハシモオオホクイマセトユキムカフトシノヲナカクツカヘキテキミカミカトヲソラノコトアフキテミツヽオソルレトオモヒタノミテイツシカモイヒタラマシテモチツキノタヽハシケムトワカオモフミコノミコトハハルサレハウヱツキノウヘノトホツヒトマチシシタミチユノホラシテクニミアソハセナカツキノシクレノアキハオホトノノミキリシミミニツユオヒテナヒケルハキヲタマタスキカケテシノハムミユキフルフユノアシタハサスヤナキネハリアツサヲミテニトラシタマヒテアソヒシワカキミヲカスミタツハルノヒクラシマソカヽミミレトアカネハヨロツヨニカクシモカナトオホフネノタノメルトキニナクワレカメカモマヨヘルオホトノヲフリサケミレハシロタヘノカサリマツリテウチヒサスミヤノトネリモ》【一云者】雪穗麻衣服者夢 現前鴨跡雲入夜之迷間朝裳吉城於道從角障經石村乎見乍神葬葬奉者往道之田付※[口+立刀]不知雖思印乎無見雖嘆奧香乎無見御袖往觸之松矣言不問木雖在荒玉之立月毎天原振放見管珠手次懸而思名雖恐有《タヘノホノアサキヌキルハユメカモヤウツヽカモトクモリヨノマヨヘルホトニアサモヨイキノウヘノチヨリツノサハフイハムラヲミツヽカムハフリハフリマツレハユクミチノタツキヲシラニオモヘトモシルシヲナミトナケケトモオクカヲナシミミソテノユキフレシマツヲコトトハヌキニハアレトモアラタマノタツヽキコトニアマノハラフリサケミツヽタマタスキカケテオモフナカシコケレトモ》
 
懸而所偲、【別校本云、カケテシノハセ、】  刺楊、【別校本又云、サシヤナキ、】  我王矣、【幽齋本又云、ワカオホキミヨ、】  煙立、【別校本又云、ケフリタツ、】
 
此歌并反歌及び次の長歌は題なしと云へども紛なく高市皇子尊薨給ひて後仕へ奉れる人のよめるなり、如天はアメノゴトとも讀べし、雖畏は古語に依てカシコケドと讀べし、日足座而とは帝と申べきを云なり、十五月之多田波思家武登《モチヅキノタヾハシケムト》とは第二(33)に望月乃滿波之計武跡《モチヅキノミチハシケムト》と有しを今を引てタヾハシケムトと讀べき由注せしに、又神代紀に太高をタヽヘリと點ぜり、是も通ずべし、又日本紀の中に偉の字をタヾハシとよめり、是も亦通ずべき歟、殖槻は添下郡今の郡山と云所にありと云へり、和銅二年に淡海公淨達法師を招きて維摩會行なはせ給ひし所なり、神樂の小前|張《ハリ》に植槻や田中の森やともうたへり、遠人待之下道湯は今按今の點誤れり、マツガシタミチユと讀べし、下に御|袖《ソデ》往觸之松矣と云へるは此を指せり、遠人は第五に松浦とつゞけたる如く殖槻にも時々通ひ往給ふ宮を作おかせ給ひて列樹に松を植させ給へるにや、所偲はシノバセと讀べし、刺楊根張梓矣とは梓とは梓弓なり、張梓と云はむために刺たる楊の根のはるとつゞけたり、第十四に乎夜麻田乃伊氣能都追美爾左
須楊奈疑《ヲヤマダノイキノツツミニサスヤナギ》とよめるはあれど、今はサシヤナギと體によめるがまさり侍りなむや、御手にはオホミテニと讀べし、第二人麿の歌には大御手爾弓取持之とあれば今も大御手になりけむを大の字の落たるにや、所遊は今按アソバセシと讀べし、鷹《タカ》獵獣獵などに出たまひて弓を遊ばすなり、遊ばすは古語なり、古事記にも多し、我王矣はワガオホギミヲとよめる本に依べし、煙立は煙霞と云ひつゞくるも霞歟、熊孺登詩に山頭水色薄(ク)籠v煙(ヲ)など霞の意なれば、今もカスミとよめり、カクシモのし〔右○〕は助語なり、(34)雪穗はタヘノホノとも讀べきか、第一には栲乃穗爾とかけるを今雪の字をかけるは義訓なり、第十一にしきたへを敷白とかける類なり、夢鴨現前鴨跡は今按ユメニカモウツヽニカモと讀べし、雲入夜之迷間は第十二に陰夜之田時毛不知云々、第九にも闇夜成《ヤミヨナス》思ひ迷はひとよめるが如し、朝裳吉城於道從は第二に出たり、キノヘノミチユと讀べし、角障經石村乎見乍、是も亦第三春日蔵首老が歌に見えたり、イハレヲミツヽと讀べし、印乎無見はシルシヲナミと讀べし、下の無見此に准らふべし、天原振放見管とは殖槻の松下道の松を御袖の往觸しなごりだにあれば空の如くに仰ぎ見るとは深く御徳を慕ひ參らするなり、毛詩召南云、蔽※[草がんむり/市]甘棠、勿v翦勿v伐、召伯所v※[草がんむり/友]、此類なり、
 
初、かけまくもあやにかしこし 此哥以下三首は高市皇子尊薨したまひて後よみていたみ奉れる哥なり。第二に人丸のいたみ奉られける哥有。たかひにみるへし。皇子の事迹すなはち彼哥につきて日本紀等を引り。君はしもおほくいませと、此時皇子たちあまたおはしましけれはなり。いひたらましてとは、皇子尊《ミカトミコト》とは申せと、いまたみかとにはおはしまさねは、いつか高みくらにのほらせたまひて、天子といひたらはさんと思ひしをといへり。もち月のたゝはしけむとゝは、第二に日並知皇子尊殯宮之時人丸のよまれたる哥にもわかきみのみこのみことの天の下しらしめしせは春花のかしこからむともち月の滿はしけむとゝよまれたるを、みちはしけむと訓したるを、今の哥によりておもふに、かれをもたゝはしけむとよむへし。塩のたゝふるといふも、みちてあるをいへは、もち月も圓滿したるを湛ふといへり。天子とあふかれたまはゝ、皇子の御上にかけのこりたるかたあらしとおもふなり。殖槻のうへの。殖槻は地の名なり。淡海公いまた興福《山階》寺を建立したまはさりし時、此殖槻にて維摩會を行はせ給ひけるなり。神樂の小前張に、うゑつきや田中の杜やとうたふも此所なり。遠つ人まつの下みちゆ。とほくたひに有人を待といひかけて、松の下道はなみ木に松をうへたるその下をゆく道なり。ゆはよりの古語なり。第五にもとほつ人まつらの川、とほつ人まつらさよひめなとつゝけよめり。國見は第一に舒明天皇の御歌よりこのかたあまたよめり。所偲はしのはせと讀へし。刺楊、柳の枝をさせるなり。第十四にも小山田の池のつゝみにさす柳とよめり。根はる梓を、さしたる楊より根の出來てはるといひて、弓を張にうけたり。梓は弓の良材なれははるといふ詞にておして弓の名とせり。第七に玉梓の妹は玉かもとよめるも、玉梓は弓をいへるにや。委はそこに尺せり。御手二は此上に大の字の落たるにや。さらすともおほみてにと讀へし。第二に人丸の此皇子尊をいたみ奉らるゝ哥にも、大御手爾弓取持之とよまる。所遊、あそはせしとよむへし。煙立、これをかすみたつとよめるは、おほよそ詩文に煙といへるは、火氣にかきらす。霞なとをいヘり。熊孺登か詩に、山頭(ノ)水色薄(ク)籠(ム)v煙(ヲ)といへるも霞なり。喚犬追馬《マソ》鏡、第十一に宮材引泉之追馬喚犬《ミヤキヒクイツミノソマ》とかけるより此かた、あまたみゆ。白たへのかさりまつりては、白たへのかさりをたてまつりてなり。又白たへは布の事なり。第九にもをかきうちのあさをひきほし妹なねのつくりきせけむ白たへの紐をもとかすとよめるは、白たへのぬのゝころもの紐をもとかぬといふ心なり。しかれは白たへをもてかさりたてまつりてとも心得へし。たへのほは白きをいへり。第一にもたへのほによるの霜ふりとよめり。第十一にしきたへといふに敷白とかけるをおもへは、たへといふ詞は、白色につきていへは、今雪穗とかけるその心なり。くもり夜のまよへるほとにとは、くもり夜には道をゆくにも、ゆくへの見えすしてまよふに心のやみをよそへていへり。第十二にもくもり夜のたときもしらす山こえてとよめり。あさもよいは紀のくにの枕言なるを、城といふことのおなしけれは、かりてよめり。第二の人丸の哥にもかくよめり。城於道從は、きのうへのみちゆともよむへし。石村はいはれとよむへし。さきに績日本紀を引て證せり。延喜式第二十諸陵式云。三立岡墓【高市皇子。在2大和國廣瀬郡兆域東西六町南北四町無2守戸1。】みそてのゆきふれし松を。上に遠つ人松の下道ゆといへる松なり。文選陶淵明(カ)歸去來(ノ)辭(ニ)云。撫(シテ)2孤松(ヲ)1而盤桓(ス)。詩(ノ)召南(ニ)云。蔽※[草がんむり/市](タル)甘棠勿(レ)v翦(ルコト)勿(レ)v伐(コト)、召伯(ノ)所(ナリ)v※[草がんむり/友]《ヤトツシ》。韓詩外傳云。昔者邵侶在v朝(ニ)。有司請(フ)3營(テ)以居(ント)2邵伯(ヲ)1。々(ノ)曰。嗟以2吾一身(ヲ)1而勞2百姓(ヲ)1、此(レ)非2吾(カ)先君女王(ノ)之志(ニ)1也。於v是出而就2蒸庶(ニ)于阡陌(ノ)之間(ニ)1而|听斷《キヽコトハル》焉。邵伯暴處2遠野(ニ)1廬(リス)2于樹下(ニ)1。百姓大(ニ)悦(テ)耕桑(スル)者倍v力(ヲ)以勸。于2是歳1大(ニ)稔。其後詩人見d邵伯之所2休息1樹下u、歌詠之作2甘棠之詩(ヲ)1。史記燕世家云。召公之治(シトキ)2西方1、甚得(タリ)2兆民(ノ)和(ヲ)1。召公巡2行郷邑(ヲ)1、有2棠樹1。【正義曰。今之甞※[黎の上半/木]樹也。】決2獄政事(ヲ)其下(ニ)1。自2※[危の厄が矢]伯1至(マテ)2庶人(ニ)1、各得(テ)2其所(ヲ)1無2失(ナフ)v職(ヲ)者(ノ)1。召公卒而民人思(テ)2召公之政(ヲ)1懷2棠樹(ヲ)1不2敢(テ)伐1、歌詠(シテ)之作(ル)2甘棠之詩(ヲ)1。此集第三に博通法師歌に
  いはやとにたてる松の木汝をみれは昔の人を相みることし
あら玉の立月ことにとは、第十五に
  君をおもひあか戀まくはあら玉の立月ことによくる日もあらし
今も此心にて月ことにといへとも、まことは日ことになり。天原ふりさけみつゝとは、御袖にふれし松なれは、やかて皇子尊を見奉るやうにうやまひてみる心をいへり。かけておもふなは、かけておもふにて、なは妹かこひしなゝといへるなゝり。ことはなり。第二の人丸の長哥終にも、天のことふりさけみつゝ玉たすきかけてしのはんかしこけれともとよまる。それは上に、しかれともわか大きみのよろつよとおもほしめしてつくらしゝかく山の宮よろつ世に過むとおもへやとよまれたれは、その宮を天のことあふくなり
 
反歌
 
3325 角障經石村山丹白拷懸有雲者皇可聞《ツノサハフイハムラヤマニシロタヘノカヽレルクモハオホキミニカモ》
 
石村山はイハレノ山ニと讀べし、白栲はシロタヘニとも讀べし、白雲は皇《オホキミ》にかもと云は神さりまして天へ昇らせ給へば一片の雲氣も彼神靈にやと思ふなり、袖中抄に發句をつのさふる落句をはれにけるかもとあるは落句殊に誤れり、
 
初、つのさはふいはれの山に 第三の人丸の哥に
  こもりくのはつせの山の山のはにいさよふ雲はいもにかもあらん
此哥をはしめて此躰あまた見えたり。齊明紀に建《タケルノ》皇子薨たまへるをなけかせ給へる御門の御哥
  今來なるをむれかうへに雲たにもしるくしたゝは何かなけかむ
 
(35)右二首
 
3326 磯城島之日本國爾何方御念食可津禮毛無城上宮爾大殿乎都可倍奉而殿隱隱在者朝者召而使夕者召而使遣之舎人之子等者行鳥之羣而待有雖待不召賜者釼刀磨之心乎天雲爾念散之展轉土打哭杼母飽不足可聞《シキシマノヤマトノクニニイカサマニオホシメシテカツレモナクキノウヘノミヤニオホトノヲツカヘマツリテトノクモリコモリイマセハアシタニハメサシテツカハシユフヘニハメサシテツカヘツカハシヽトネリノコラハユクトリノムラカリテマチアリマテトメシタマハネハツルキタチトキシコヽロヲアマクモニオモヒシチラシコヒマロヒヒツチナケトモアキタラヌカモ》
 
殿隱、【幽齋本云、トノコモリ歟、】  隱在者、【幽齋本、在作v座、】
 
一二の句は今は和州の別名なるべし、何方より下四句は第三に坂上郎女が尼理願が死を慟みてよめる歌に何方爾念鷄目鴨《イカサマニオモヒケメカモ》、郡禮毛奈吉《ツレモナキ》、佐保乃山邊爾《サホノヤマベニ》云々、此に似たり、ツレモナキキノヘノミヤニと讀べし、殿隱はトノゴモリと讀べし、二つの召而使はメシテツカヒと讀べし、釼刀磨之心乎とは奉公の忠勤をはげます意なり、散之は今按オモヒハラヽシと讀べきか、神代紀上云、若2沫雪1以※[就/足]散、【※[就/足]散、此云2倶穢簸邏々箇須1、】此集第二十云、安麻乎夫禰波良々爾宇伎弖《アマヲフネハラヽニウキテ》云々、釼を磨ごとく思ひし心も詮なければ天雲の(36)ちり/\に行やうに念ひちらしてくづす意なり、
 
初、しきしまのやまとの國にいかさまにおほしめしてか 第一に人丸近江舊都を過る時の哥にも、いかさまにおほしめしてか、天さかるひなにはあれとなとよまる。つれもなき城上宮、第三坂上郎女か新羅尼理願を悲嘆する哥にも、いかさまにおもひけめかもつれもなきさほの山へになくこなすしたひきましてなとよめり。第六にもおしてるやなにはのくにはあしかきのふりにしさとゝ人みなのおもひやすみてつれもなく有しあひたになとよめり。さひしくてえすみ堪ましき所にたへて住心にいへるなるへし。殿隱、とのこもりとよむへし。めしたまはねは、第二に日並皇子の舎人か哥に
  ひむかしのたきのみかとにさもらへときのふもけふもめすこともなし
つるきたちときし心をとは久しくつかへ奉て忠をつくさんとこゝろさしをたつるを太刀をとくに譬ていへり。第二十に家持の哥にも、劔たちいよゝとくへしとよまれたり。第四に坂上郎女歌にはまそかゝみときし心をとよめり。劔をとくといひ、鏡をとくといへる、これ男女の差別にて、おの/\こゝろさしをはけますなり。天雲におもひしちらしとは、劔をときたてたることくにおもひしかひなけれは、天雲のことくに心のみたれちるなり。こいまろひゝつちなけともとは、第三に安積皇子の薨したまひける時家持のよまれたる哥にもこれにおなしつゝきあり。ひつちは手をもてつちをうつなり。ひちうちといふへきを知宇(ノ)反登なれは、ひつちといへり。かなしひの心をもらすなり。又衣はひつちといふにおなしくひつるにても有へし
 
右一首
 
3327 百小竹之三野王金厩立而飼駒角厩立而飼駒草社者取而飼旱水社者※[手偏+邑]而飼旱何然大分青馬之鳴立鶴《モヽサヽノミノヽオホキミニシノウマヤタテヽカフコマヒムカシノウマヤタテヽカフコマクサコソハトリテカヘカニミツコソハクミテカヘカニナニシカモアシケノウマノイハヘタチツル》
 
大荒城野の小竹などよみて小竹は野に繁き物なれば三野と云はむとて百小竹とはおけり、三野王は天武紀上云、且遣2佐伯連男於筑紫1、男至2筑紫1、時栗隈王承v符對曰、云々、時栗隈王(ノ)之二(ノ)子三野王、武家王、佩v釼立2于側1無v退云々、元明紀云、和銅元年五月辛酉從四位下美弩王卒、孝謙紀云、天平寶字元年正月庚戌朔乙卯前左大臣正一位橘朝臣諸兄薨、大臣(ハ)贈從二位栗隈(ノ)王(ノ)之孫、從四位下美弩王之子也、かゝれば此諸兄公の父なるべし.又天武紀上云、亦徴2美濃王(ヲ)1乃參赴而從矣、此時三野王は宰府に居られたれば別の人なり、天武紀に小紫美濃王、持統紀に淨廣肆三野王と云へる此別の人歟、角をヒムカシと讀は杜預左傳注(ニ)云、青聲角、此意なり、青は東方春の色なり、草社者より下の四句は馬は食物のほしき時水のほしき時飼馴たる人を見てはいなゝくを、草(37)も水も飼へるに何故に馬の鳴とは、犬馬は主を戀るものなれば王の身まかられたるを戀悲しびて鳴ぞと云はむとなり神樂歌に其駒や我に草飼ふ草は取飼へ水は取飼むとあるは此歌を取れるにや、毛詩云、蕭々馬鳴、文選曹子建作(ノ)王仲宣誄(ニ)云、靈轜廻軌白驥悲鳴、潘安仁寡婦賦云、馬悲鳴而跼顧、陶淵明挽歌詩云、馬爲仰v天鳴、風爲自蕭條、
 
初、百さゝのみのゝおほきみ 百さゝはさゝのおほきなり。みちのへのゆさゝとよめるも五百篠といふ事なれは、今もそれにて心得へし。小竹のしけくおふる野といふ心につゝけたり。三野のおほきみは天武紀にふたり見えたり。いつれとも分かたし。今よくわきまへてわかたん。天武紀上云。亦|徴《メス》2美濃(ノ)王(ヲ)1。乃(ハチ)參赴而|從《オムトモツカマツル》矣。同下云。小紫美濃王。又上云。且遣2佐伯連男於筑紫(ニ)1遣2樟使主《クスノオム》磐手(ヲ)於吉備(ノ)國(ニ)1並(ニ)悉(ニ)令v興v兵(ヲ)。〇男至3筑紫(ニ)1。時粟隈(ノ)王承(テ)v符《オシテノフミヲ》對(テ)曰。〇時(ニ)栗隈王(ノ)之二(ノ)子三野王、武家《タケムヘ》王佩(テ)v劔(ヲ)立(テ)2于側(ニ)1而無v退。於是男|按《トリシハリ》v劔(ヲ)欲(ニ)v進還(テ)恐(ハ)見《レンコトヲ》v亡(ホサ)。故(ニ)不(シテ)v能(ハ)v成(コト)v事(ヲ)而空(シク)還(ル)之。下云。十三年二月癸丑朔庚辰、是日遣2【恐脱2官位1】三野王、小錦下采女臣|筑《ツク》羅等(ヲ)於信濃(ニ)1、令v看2地(ノ)形《アリカタヲ》1。將v都(ツクラント)是(ノ)地(ニ)歟。持統紀云。八年九月壬午朔癸卯、以1淨廣斯三野王(ヲ)1拜《マケタマフ》2筑紫(ノ)太宰(ノ)率(ニ)1。元明紀云。和銅元年五月辛酉從四位下|美弩《ミノヽ》王卒。孝謙紀云。天平寶字元年正月庚戌朔乙卯、前左大臣正一位橘朝臣諸兄薨。〇大臣贈從二位栗隈(ノ)王(ノ)之孫、從四位下|美弩《ミノヽ》王(ノ)之子也。いまこゝに三野王とかけるは天武紀持統紀に、三野王といへるにおなしけれは、粟隈王の子にして、橘左大臣の父なり。角《ヒムカシ》、杜預(カ)左傳(ノ)注(ニ)青(カ)聲(ハ)角。此義によりてひむかしとよめり。草こそは取てかへかにとは、馬ははみものゝほしき時人を見てはいなゝく物なり。又さたまりて飼ふ時のいたれは、いなゝくなり。草をもかひ水をもかへるに、なにゆへに馬のいはふそといへるは、犬馬は主を戀る物なれは、三野のおほきみの身まかられたるをこひかなしみてなくといふ心なり。毛詩云。蕭々(トシテ)馬(ノ)鳴(アリ)。文選曹子建(カ)作(ノ)王仲宣誄(カ)(ニ)云。靈轜廻(ラシテ)v軌(ヲ)白驢悲(シミ)鳴。潘安仁(カ)寡婦賦云。馬悲(ヒ)鳴《イナヽヒテ》而|跼顧《・クビヲリカヘリミル》(ト)、陶淵明(カ)挽歌詩云。馬爲(ニ)仰(テ)v天(ヲ)鳴、風爲(ニ)自蕭條。古詩云。胡馬依2北風1。神樂歌に
  そのこまや我に草こふ草はとりかへ水はとりかはむ
大分青馬は、和名集云。爾雅注云。※[草がんむり/炎]騅(ハ)【今按※[草がんむり/炎者蘆初生也。吐敢反。俗云2葦毛(ト)1是(ナリ)。】青白(ニシテ)如2※[草がんむり/炎]茶(ノ)色(ノ)1也。かへかにのてにをはは古哥の躰にてたしかには心得かたし。こゝろをとりて見るへし
 
反歌
 
3328 衣袖大分青馬之嘶音情有鳧常從異鳴《コロモテノアシケノウマノナクコヱモコヽロアルカモツネニケニナク》
 
袖は白妙の袖と云ひ此卷上に白木綿之吾衣袖《シラユフノワガコロモデ》とも讀て白きを本とすれば白妙の袖の色の葦毛とつゞくる意なり、大分青馬をアシゲノウマとよめる心は青白の色相交はる中に多分青き意歟、字にもかくかき常に葦毛とは純白の馬をは云はぬを歌には白馬のやうによめる歟、六帖にまなづるの葦毛の駒よ汝が主の我門過ば歩み留まれとよめるは、まなづるは白鶴なればなり、又此歌を源氏には秋の夜の月毛の駒よと改て入れたり、和名集云、毛詩注云、※[馬+假の旁]、【音遐、漢語抄云、赭白馬、※[年+鳥]毛也、赭馬赤※[年+鳥]毛也、今按※[年+鳥]字未v詳、】※[丹+彩の旁]白雜毛馬也、爾雅注云、※[馬+假の旁]今之赭白馬也、かゝれば※[年+鳥]馬と葦毛と異なれど※[年+鳥]毛も白き方によめ(38)り、凡そ雜毛の馬の毛色は紛らはしき中に青白相交るは殊に紛らはしきにや、日本紀に白馬をアヲウマとよめるにても知べし、嘶音はイバフコヱとも讀べし、馬のえをだにかく云へば人の悲は云ずして知べし、
 
初、ころもてのあしけの馬 是は衣手の色はもとよりしろたへなり。しかれは衣手の色のあしけとつゝけたる心なり。蘆毛をは蘆の花毛ともよめり
  難波江のあしの花毛の見えつるはつのくにかひのこまにやあるらん
爾雅注に※[草がんむり/炎]騅を尺して青白なること※[草がんむり/炎]《アシツノ》のことくなれは名つくといひて今大分青馬とかけるもその心と見えたれと、此國にあしけあしの花毛といふはおなしことにて、ともに花の白きにたとへたる名なり。世に※[年+鳥]毛と蘆毛とはかはれと哥にはともにおなしやうによめり。よりて六帖にまなつるのあしけのこまとよめるを源氏には秋の夜のつきけのこまよと引かへたり。因幡の白兎はたま/\似たる故事なれとそれによりて蘆の花毛と馬にやはなつくへき。まなつるのあしけの駒と六帖にあるは、まなつるは白鶴なれはそれに似たれはなり。しかれは今のつゝけさまにおなし。心あるかもつねにけになくとは常にかはりてなくは、主人をこふる心あるかとなり。心あるましき馬のうへをたにかくいへは、人のかなしひはいふにをよはさるなり
 
右二首
 
3329 白雲之棚曳國之青雲之向伏國乃天雲下有人者妾耳鴨君爾戀濫吾耳鴨夫君爾戀禮薄天地蒲言戀鴨※[匈/月]之病有念鴨意之痛妾戀叙日爾異爾益何時橋物不戀時等者不有友是九月乎吾背子之偲丹爲與得千世爾物偲渡萬代爾語都我部登始而之此九月之過莫乎伊多母爲便無見荒玉之月乃易者將爲須部乃田度伎乎不知石根之許凝敷道之石床之根延門爾朝庭出居而嘆夕庭入座戀乍烏玉之黒髪敷而(39)人寢味寢者不宿爾大舩之行良行良爾思乍吾寢夜等者數物不敢鳴《シラクモノタナヒククニノアヲクモノムカフスクニノアマクモノシタニアルヒトハワレノミカモキミニコフラムワレノミカモツマニコフレハアメツチニコトハヲミテヽコフルカモムネノヤミタルオモヘカモコヽロノイタキワカコヒソヒニケニマサルイツハシモコヒヌトキトハアラネトモコノナカツキヲワカセコカシノヒニセヨトチトセニモシノヒワタレトヨロツヨニカタリツカヘトハシメテシコノナカツキノスキマクヲイトモスヘナミアラタマノツキノカハレハセムスヘノタトキヲシラニイハカネノココシキミチノイハトコノネハヘルカトニアサニハニイテヰテナケキユフニハニイリヰコヒツヽヌハタマノクロカミシキテヒトノヌルウマイハネスニオホフネノユクラユクラニオモヒツヽワカヌルヨラハカソヘモアヘヌナク》
 
下有人者、【別校本又云、シタナルヒトハ、】  妾戀叙、【官本、妾作v吾、】
 
天地滿言は上に天地丹思足椅《アメツチニオモヒタラハシ》と云へるが如し、戀鴨はコフレカモと讀べし、何時橋物はいつは〔三字右○〕にてしも〔二字右○〕は助語なり、此より下三句は第十一第十二にもよめり、是九月乎吾背子之偲丹爲與得とは夫の九月に身まかりたるを妻の嘆て云なり、伊多母はイタモとも讀べし、第十五之終の歌に今の如く書ていたもと點ぜり、將爲須部乃と云より終までは大形似たる歌上に有で注せり、落句はヨミモアヘナクと讀べし、上の歌には、讀文將敢鴨《ヨミモアヘヌカモ》と有つれば今の鳴も鴨にてヨミモアヘヌカモにや
 
初、白雲のたな引くにのあをくものむかふす國の 上にすてに注せり。天地にことはをみてゝこふれかも。上にあめつちにおもひたらはしとよみ、古今集にわかこひはむなしき空にみちぬらしとよめるにおなし。いつはしもこひぬ時とはあらねとも。何時橋物とかきたれとも、いつはにてしものふたもしは助語なり。第十一に、十二に
  いつとてもこひぬ時とはあらねともゆふかたまけてこひはすへなし
  いつとなもこひす有とはあらねともうたて此ころこひのしけきも
古今集に
  いつはとは時はわかねと秋の夜そ物おもふことのかきりなりける
  いつとてもこひしからすはあらねとも秋の夕はあやしかりけり
此長月をわかせこかしのひにせよとゝは九月に死すれは、後もことにその月は常よりことなれは、いつはしもなとはいへるなり。せんすへのたときをしらに。これより下は上の十五葉の哥におなし。白たへのわか衣手をといふ三句こゝはなし。そのほかすこしかはれり。くらへて知へし。敷物不敢鳴は上に讀を誤て續に作たれは、こゝをもよみあへすなくとよむへし
 
右一首
 
3330 隱來之長谷之川之上瀬爾鵜矣八頭漬下瀬爾鵜矣八頭漬上瀬之年魚矣令咋下瀬之點矣令咋麗妹爾鮎遠惜投左乃(40)遠離居而思空不安國嘆空不安國衣社薄其破者縫乍物又母相登言玉社者緒之絶薄八十一里喚?又物逢登曰又毛不相物者※[女+麗]爾志有來《コモリクノハツセノカハノノホリセニウヲヤツヒタシシモツセニウヲヤツヒタシカミツセノアユヲクハシメシモツセノアユヲクハシメクハシメニアユヲアタラシナケクサノトホサカリヰテオモフソラヤスカラナクニナケクソラヤスカラナクニキヌコソハソレヤレヌレハヌヒツヽモマタモアフトイヘタマコソハヲノタエヌレハクヽリツヽマタモアフトイヘマタモアハヌモノハツマニシアリケリ》
 
上瀬はカミツセと讀べし、八頭は唯八つなり、史記三皇本紀云、天地初立有2天皇氏1十二頭、【然言2十二頭1者非謂v3一人之身有2十二頭1、葢古質比2之鳥獣1、頭以數(フル)故也、】第十六第十九にもかけり、多くの鵜を使ふ意なり、年魚矣令咋は麗妹爾とつゞけむためなり、上の黄楊の小櫛を押さす刺細の兒とよめるつゞきに同じ.麗妹は古事記上八千矛神御歌云、登富々々斯《トホ/\シ》、故志能久邇々《コシノクニニ》、佐加志賣遠《サカシメヲ》、阿理登岐加志?《アリトキカシテ》、久波志賣遠《クハシメヲ》、阿理登伎許志良?《アリトキコシテ》云々、繼體紀勾大兄皇子御歌云、播屡比能《ハルヒノ》、※[加/可]須我能倶※[人偏+爾]※[人偏+爾]《カスカノクニニ》、倶婆※[糸+施の旁]謎嗚阿※[口+利]等枳枳底《クハシメヲアリトキキテ》、與盧志謎嗚阿※[口+利]等枳枳底《ヨロシメヲアリトキキテ》云々、鮎遠惜は麗妹に鮎を惜みてあたへずと云にはあらず、鮎はやがても料理せず押鮎干鮎などにして後を期する意を云へるにや、第二に人麿の歌に玉藻成《タマモナス》、靡寐之兒乎《ナビキネシコヲ》、深海松乃深目手思騰《フカミルノフカメテオモヘド》、左宿夜者《サヌルヨハ》、幾毛不有《イクラモアラズ》とよまれたる類なるべし、投左乃遠離居而とは投左はナグサノと讀べきか、左は箭なり、也と左と同韻にて通ずれば箭を(41)さ〔右○〕ともよめり、此卷未に投箭、第十九に投矢とあるを共になぐや〔三字右○〕と點ぜれど今の歌に准らへて共にナグサと讀べき歟、投とは射て遣《ヤル》をも云べし、又手にて衝遣をも云べし、神代紀下云、高皇産靈《タカミムスビ》尊於是取v矢還投下之云々、乃取v矢(ヲ)而咒之曰云々、因還|投之《ステタマフ》、古事記云、於是高木神取2其矢1自2其矢穴1衝返下者中d天若日子(ノ)寢2胡床《アグラニ》1之高※[匈/月]坂u以死、【此還矢可v恐之本也、】箭をさ〔右○〕と】云證は綏靖紀云、時神渟名川耳尊掣2取其兄(ノ)所v持弓矢1而射2手研耳命1,一發《ヒトサニ》中v※[匈/月]|再發《フタサニ》中v背遂殺v之、天武紀上云、乃擧2高市皇子之命1喚2穗積臣百足(ヲ)於小墾田兵庫1、時百足下v馬遲之、便取2其襟1以引墮、射中2一箭《ヒトサ》1、因拔v刀斬而殺v之、此集第二十防人歌云、阿良之乎乃伊乎佐太波佐美云々、是|五百箭手挾《イホサタバサミ》と云なり、第十九に投矢毛知千尋射和多之《ナグヤモチチヒロイワタシ》とよめる如く遠く射遣る物なれば遠離居而と云はむために投左乃とは云へり、嘆空不安國の下に死したる由を聞意の句有けんが落たる歟、但末の二句に其意聞ゆれば不安國の下には見る者唯其意を加へて見るべし、落句の山の字は丹を誤れるなるべし、志は助語なり、
 
初、こもりくのはつせの川のかみつせに鵜をやつひたし 八頭とかけるは鳥けた物をかそふる時、一頭二頭なといふなり。史記三皇本紀云。天地初立有2天皇氏十二頭1。註云。然言2十二頭(ト)1者非v謂(ニハ)3一人(ノ)之身有(ト)2十二頭1。蓋(シ)古質(ニシテ)比(シテ)之(ヲ)鳥獣(ニ)頭(ヲモチテ)數(フル)故(ナリ)也。此集第十六乞食者(ノ)哥にからくにの虎といふ神をいけとりに八頭《ヤツ》とりもちき云々。第十九に
  年のはにあゆしはしれはさき田川うやつかつけて川瀬尋ねむ
これにも八頭とかけり。二字引合て八とよむへし。つもし濁てよむへからす。物のおほきなゝつやつといへは、今もたゝおほくの鵜をつかふ心なり。鮎は下にあゆをあたらしといはむため、くはしめは麗妹にといはむためなり。くはしめは繼體紀勾皇子【安閑天皇】御歌云。播屡比能《・春日》、※[加/可]須我能倶※[人偏+爾]※[人偏+爾]《・春日郷》、倶婆※[糸+施の旁]謎嗚《・麗女》、阿※[口+利]等枳々底《・有聞》、與盧志謎嗚《・宜女》、阿※[口+利]等枳枳底《・有聞》云々。古事記大己貴命の御哥にも見えたり。こゝには麗妹とあれは、くはしいもにとよむへきにや。くはしとは妙の字細の字なとをよみてほむる詞なり。あゆはあゆるといふ詞にて、その女に相ましはる心なり。和の字をあえものとよめるこれなり。第十八橘の哥にあゆる實はとよめるにおなし。あたらしはおしきなり。おしきはあかぬ心なり。されは相ましはるたひ毎にあかすめつらしきなり。なくるさは下になくやとよめるにおなし。第十九にもなくやもてちひろいわたしとよめり。なくるは射るなり。又たゝ手をもてなくるをもいふ歟。神代紀下云。高皇産靈尊、於是取矢還投下之。さはやと同哥にて通せり。第廿の防人か哥に、阿良之乎乃いをさたはさみとよめるはあらちをの五百|矢《ヤ》たはさみなり。神武紀云。時(ニ)神渟名川耳《カムヌナカハミヽノ》尊掣2取其兄(ノ)所持弓矢(ヲ)1而射2手研《タキシ》耳(ノ)命(ヲ)1、一發《ヒトサニ》中《アテツ》v※[匈/月]《ムネニ》再發《フタサニ》中(ツ)v背《ソヒラニ》。逐(ニ)殺之。ひとさふたさはひとやふたやなり。天武紀上云。乃擧(テ)2高市(ノ)皇子(ノ)之命(ヲ)1喚《メス》2穗積(ノ)臣百足(ヲ)於|小墾田兵庫《ヲハリタノヤクラニ》1。〇時百足|下《オルコト》v馬(ヨリ)遲(シ)之。便取(テ)2其襟(ヲ)1以引墮(シテ)中《アテヽ》2一箭《ヒトサヲ》1因(テ)拔(テ)v刀(ヲ)斬(テ)而殺之。くはしめなれはあかすおしとおもへとも人めをはゝかりなとしてとほくいわたしたる矢のことく、遠さかりてゐるほとの心たにやすからさりしをの心なり。きぬこそはそれやれぬれは。やれたるきぬも猶ぬひあはすれはあひ、をたえしてみたれたる玉もふたゝひくゝれはあふものを、又もあはぬものはなくなりたるつまなりとなけく心なり。喚※[奚+隹]は今の世には鳥をよふに登々といへはいにしへも津々といひてよひけるゆへにかくはかけるなるへし。第八文忌寸馬養か哥にも此字をかけり。※[女+麗]山、此山は丹の字の誤なるへし
 
3331 隱來之長谷之山青幡之忍坂山者走出之宜山之出立之妙山叙惜山之荒卷惜毛《コモリクノハツセノヤマアヲハタノオシサカノヤマハハシリイテノヨロシキヤマノイテタチノクハシキヤマソアタラシキヤマノアレマクオシモ》
 
(42)青幡は第二第四に木旗《コハタ》とも葛木ともつゞけたるやうに忍坂山も青き旗を立たる如く見ゆる意なり、顯昭の幡は佛の具、旗は戰の具と分別せられたるは僻事なり、和名集征戰具云、考工記云幡【音翻、和名波太、】旌旗【精期二音、】之總名也、忍坂山は和名集城上郡の下に長谷【波都勢、】同書に忍坂【於佐加】、とあればオサカノヤマハと讀べけれど、日本紀にオシサカと點ぜり、兩方に云ひ來れるなるべし、走出は成出たる意なり、ワシリデと讀べし雄略紀云、六年春二月壬子朔乙卯、天皇遊2乎泊瀬小野1觀2山野之體勢1、慨然興v感歌曰、擧暮利矩能《コモリクノ》、播都制能野磨播《ハツセノヤマハ》、伊麻※[手偏+施の旁]智能《イマタチノ》、與盧斯企野磨《ヨロシキヤマ》、和斯里底能《ワシリデノ》、與盧斯企夜磨能《ヨロシキヤマノ》、據暮利矩能《コモリクノ》、播都制能夜麻播《ハツセノヤマハ》、阿野※[人偏+爾]于羅虞波斯《アヤニニウラグハシ》、阿野※[人偏+爾]于羅虞波斯《アヤニウラグハシ》、於是名2小野1曰2道(ノ)小野1、今の歌に出立之妙山叙とあるより思へば伊麻※[手偏+施の旁]智能とある麻は底を寫し誤れるにや、山の荒むことを惜むは麗妹が見ざれば有にもあらぬ意なるべし、
 
初、こもりくのはつせの山 青幡のおしさか山は、青幡といひてつゝくるは第二に天智天皇后の御哥に、青旗の木旗の上をとよませたまひ、第四には青旗の葛木山とよめり。今のつゝくる心は、この山草木しけりて青き旗を立たるに似たる心なるへし。和名集云。城上《シキノカミ》郡長谷【波都勢】恩坂【於佐加。】かゝれは今もおさかの山はとよむへき歟。これはふたつの山をならへていへるにや。又こもりくのはつせの山の青幡のおしさか山はとよみて、忍坂山をいはむために上は取出たりとみるへきにや。されとも忍坂山長谷に屬せりやいなやをしらす。はしり出のよろしき山の出立のくはしき山そとは、雄畧紀云。六年春二月壬子朔乙卯、天皇遊(テ)2乎泊瀬(ノ)小野(ニ)1觀《ミソナハシテ》2山野之|體勢《ナリヲ》1慨然《ナケイテ》興v感《ミオモヒヲオコシテ》歌(ヨミシテイハク)曰。擧暮利矩能、播都制能野磨播、伊麻《底歟》※[手偏+施の旁]智能、譽慮斯企野磨、和斯里底能、與盧斯企夜磨能、據暮利矩能、播都制能夜麻播、阿野※[人偏+爾]于羅虞波斯、阿野※[人偏+爾]于羅虞波斯。於v是名(ケテ)2小野(ヲ)1曰2道(ノ)小野(ト)1。長流かいはく。走出てむかひ、出たちて向ふにも見所おほくよき山といふ心なり。或云山の顯れ出たるかたちをほむるなり
 
3332 高山與海社者山隨如此毛現海隨然直有目人者充物曾空蝉與人《タカヤマトウミコソハヤマノマニカクモウツナヒウミノマニシカスナヲナラメヒトハアタモノソウツセミノヨヒト》
 
現はうつゝにて有意なり、第十八に天地乃神安比比宇豆奈比《アメツチノカミアヒウツナヒ》とよめる所に至て委注(43)すべし、然直有目はシカタヾナラメと讀べし、其まゝに有を云なり、第十六には海山も死《シニ》すると讀たれど歌は趣に依てよめばかぎるべからぬ事なり、充物は古今集にも命やは何ぞは露のあた物をとよめり、充は假字なり、あつ〔二字右○〕ともあて〔二字右○〕ともあたる〔三字右○〕ともよめば伏を富士にかれる例に用たり、落句は人者と云へるをかへして空蝉の世の人は押並て皆あた物ぞと云なり、
 
初、高山と海こそは うつなひはうつゝの心なり。又顯の字現の字をうつゝとよめるにおなし。第十八に神あひうつなひとよめるは、うつゝに現し給ふやうの心なり。直はたゝとよむへし。山は山のまゝにかくあらはれてうつゝに見え、海はうみのまゝにてすなをにむかしのまゝにあらめとも、うつせみの世人はみなあたなるものそとしるなり。第十六に
  いさなとり海やしにする山やしにするしねはこそ海はしほひて山はかれすれ
今の哥とは心かはれり。充はあつるといふをあたにかれり。古今集集にいのちやは何そは露のあたものをといへり
 
右三首
 
3333 王之御命恐秋津島倭雄過而大伴之御津之濱邊從大舟爾眞梶繋貫且奈伎爾水手之音爲乍夕名寸爾梶音爲乍行師君何時來座登大夕卜置而齋度爾枉言哉人之言鈎我心盡之山之黄葉之散過去常公之正香乎《オホキミノミコトカシコミアキツシマヤマトヲスキテオホトモノミツノハマヘユオホフネニマカチシヽヌキアサナキニカコノオトシツヽユフナキニカチノオトシツヽユキシキミイツキマサムトオホユフケオキテイハヒワタルニマカコトヤヒトノイヒツルワカコヽロツクシノヤマノモミチハノチリテスキヌトキミカマサカヲ》
 
梶音、【別校本云、カチオト、】
 
大夕卜置而は大は衍文にてユフケオキテなるべし、言鈎は鈎は釣歟、我心盡之山と(44)は我心をつくすとつゞく、第十二にみをつくし心盡てとつゞけたるに同じ、筑紫の山とは寛《ヒロ》く彼處にある山を云べし、散過去常、此句々絶に似て句に非ず、斎度爾と云より我心とつゞけ、落句より還て枉言哉人之言鈎と意得べし、或は齋度爾より落句につゞけ落句より我心とつゞけ散過去常より枉言哉人之言鈎とも意得べし、
 
初、おほきみのみことかしこみ これはおとこの筑紫のつかさ給はりて下りけるが、そこにてみまかりける時、妻のよめる哥なり。まかことや人のいひつる。まかことは第三第七にもよめり。我心つくしの山は待わひて心をつくすといふ心に、筑紫の山とつゝけたり。もみちはの散て過ぬとゝは、さきにあまたよめり。此哥はまかことや人のいひつるといふ二句を、散て過ぬとゝいふ句の下にうつして結句より立かへりて聞へし
 
反歌
 
3334 枉言哉人之云鶴玉緒乃長登君者言手師物乎《マカコトヤヒトノイヒツルタマノヲノナカクトキミハイヒテシモノヲ》
 
玉の緒は短かき事にこそ常は云を、是は長と云はむ爲に云は第十二に玉緒之長命とつゞけたるに同じ、落句の手は助語なり、
 
右二首
 
3335 玉桙之道去人者足檜木之山行野往直海川往渡不知魚取海道荷出而惶八神之渡者吹風母和者不吹立浪母疎不立(45)跡座浪之立塞道麻誰心勞跡鴨直渡異六《タマホコノミチユキヒトハアシヒキノヤマユキノユキヒタスユキワタリイサナトリウミチニイテテカシコキヤカミノワタリハフクカセモノトニハフカスタツナミモオホニタヽストタカナミノフサケリミチヲタカコヽロイタハシトカモタヽワタリケム》
 
往渡、【幽齋本云、ユキワタリテハ、】
 
此歌と次の歌とを下に或本歌は合せて一首とせり、上の問答の中の二首を人麿集には一首とせるが如し、或本歌に依れば此二首並反歌は海を渡り損じて備後の神島にて溺死たる人を見てよめるなり、直海川は此をヒタスガハとよめる事おぼつかなし、或本歌には潦川とあるを今と同じく點ぜり、潦をばニハタヅミと讀ば庭立水の意と見ゆ、雨水也と注したれば庭ならぬ處には唯たつみとのみも云べし、豆と多と通ずればたつみ〔三字右○〕をたゝみ〔三字右○〕とも云べければ此直海川もタヾミガハと讀べきか、或は必しも前後同かるべきにあらねば今はタヾミガハと讀て深く廣き事直に海の如しと云意にや、神之渡は或本歌に依に神島なり、和者不吹とはのどかには吹かずなり、踈不立跡とはオホニハタヽズと讀べし、おぼろげにはたゝずなり、跡座浪之はアトヰナミノと讀べし、第二讃岐狹岑島にして人麿のよまれたる歌云、奧見者|跡位《アトヰ》浪立云々、此と同じ、立塞道麻はタチフサグミチヲと讀べし、誰心より下は誰か待らむ意を勞はりてか波風の荒き時とも云はず押て渡て船打はめて溺死けむとな(46)り、又故郷の人の心を勞はるにはあらで同船の中にも急ぐ人あるべければ其心を勞はるをも云べし、
 
初、玉ほこの道ゆき人は ひたす川は直海川とかけるを思ふに、海に出たるしかま川なとよめることく、やかて下は海なる川をいふなるへし。往渡ゆきわたりてはとよむへし。下の或本の哥もしかり。神の渡は下の哥によるに神島なり。景行紀云。既而從2海(ツ)路1還(テ)v倭(ニ)到(テ)2吉備(ニ)1以渡2穴(ノ)海(ヲ)1。其處(ニ)有2惡神1則殺(シツ)之。但延喜式第十、神名帳下を見るに、備中國小田郡神島神社と載らる。續拾遺集賀部に、建久九年大甞會主基方御屏風に、備中國神島有2神祠1所を、前中納言資實
  神島のなみのしらゆふかけまくもかしこき御代のためしとそみる
彼|安那《ヤスナ》郡は備後に有れは、神島はそこにやとおもへと、延喜式并續拾遺集によれはたかへり。此集の比まては備後に屬しけるが、小田郡と隣近にて、後に備中につけられけるにや。のとにはふかすは、のとかにはふかすなり。第二人丸の哥にもなかるゝ水ものとにかあらましといへり。立浪母疎不立跡座浪之立塞道麻。これをたつなみもおほにたゝすとたかなみのふさけるみちをとよめるは誤なり。立なみもおほにはたゝす、あとゐなみのたちせくみちをとよむへし。おほにはたゝすはおほよそにはたゝす、つよく立心なり。あとゐなみは、第二讃岐(ノ)狹岑島(ニシテ)視(テ)石中(ニ)死《ミマカレル》人(ヲ)柿本朝臣人麿(ノ)作(レル)歌(ニ)云。奥見者跡位浪立《オキミレハアトヰナミタチ》云々。又しほさゐとよめる哥あまたあり。さは物ことにつくる字なれは、しほゐといふか、あとゐなみといふにおなしものにや。たか心いたはしとかもは、妻なとの待わふらんことをいたはしくおもひて、かゝるおそろしき海をたゝちにわたるとて、わたり損しておほれしにけむといたむなり
 
3336 鳥音之所聞海爾高山麻障所爲而奧藻麻枕所爲蛾葉之衣浴不服爾不知魚取海之濱邊爾浦裳無所宿有人者母父爾眞名子爾可有六若蒭之妻香有異六思布言傳八跡家問者家乎母不告名問跡名谷母不告哭兒如言谷不語思鞆悲物者世間有《トリカネノキコユルウミニタカヤマヲヘタテトナシテオキツモヲマクラトナシテカハノキヌスヽキテキヌニイサナトリウミノハマヘニウラモナクネテアルヒトハハヽチヽニマナコニカアラムワカクサノツマカアリケムオモハシキコトツテメヤトイヘトヘハイヘヲモツケスナヲトヘトナタニモツケスナクコノコトコトタニツケスオモヘトモカナシキモノハヨノナカナレヤ》
 
不語、【別校本、語作v諮、】
 
初の二句は唯鳥の音のみ聞ゆる海にの意なり、天水茫々として見ることなく聞所なき心なり、蛾葉之衣とは蛾は和名集云、説文云蛾【音※[口+我]、和名比々流、】蠶化2飛虫1也.古事記上云、故大國主神坐2出雲之御太之御前1時、自2波穗1乘2天之|蘿摩《カヾミ》船1而内2剥鵝皮1爲2衣服1有2歸來神1、此鵝皮は今按舊事紀も同じけれど蛾なるべき歟、此は少彦名神の御事なるに形(47)ちひさくて蘿摩《カヾミ》を船とし給ふに鵝は大鳥にて御衣に似合ざるべし、神代紀に以2鷦鷯羽1爲v衣とあれば異説は蛾なるべき理なり、葉は羽に假てかけり、仁徳紀に磐之媛の御歌に夏虫の火虫の衣とよませ給へるは似たる事ながら彼は燭蛾にでうるはしきをのたまふ歟、此は薄き意なるべし、浴不服爾はアラヒモキズニとも讀べし、浦裳無は第十二に注せし如く何心なくなり、哭兒如は今按神代記云、如五月蠅《サハヘナス》、此に准らへばナクコナスと點ずべき歟、
 
初、鳥のねのきこゆる海に 景行紀云。五十三年冬十月至(テ)2上總國(ニ)1從2海(ツ)路1渡2淡(ノ)水門(ヲ)1。是(ノ)時聞(ユ)2覺賀《カクカ》鳥之聲1。欲《オホシテ》v見(ント)2其鳥(ノ)形(ヲ)1尋(テ)而出(タマフ)2海中(ニ)1。しなか鳥安房とつゝけて第九によめる哥につきて尺せり。かはのきぬ、蛾羽の衣なり。蛾は燭蛾なり。仁徳紀に磐之媛皇后の御哥に、夏虫の火虫の衣ふたへきてとよませたまへるこれなり。蛾の羽に似たるうるはしき衣なり。蛾は音のまゝによめり。六帖に人の心をいかゝたのまむといふにありはらのしけはるかつぎたる上の句
  蛾の眉にくにこほりをはたてつとも
これは蠶蛾なれとも、音を用たる事は今とおなし。浴不服爾はあらひもきすにと讀へし。さらすはすゝきもきすにと讀へし。すゝきてきぬにはよろしからす。うらもなくは心もなくなり。第十一につるはみのひとへ衣のうらもなくとも、うらもなくいにし君ゆへともよめり。おもはしき、遊仙窟云。※[立心偏+可]怜嬌裏面《ウツクシケナルトコヒノウナノカホ》、可愛《オモハシキトメテタキ》語中聲。又たゝ心におもふことを告むやといふにも有へし
 
反歌
 
3337 母父毛妻毛子等毛高高二來跡待異六人之悲沙《ハヽチヽモツマモコトモモタカ/\ニコムトマチケムヒトノカナシサ》
 
子等は和訓なり、
 
3338 蘆檜木乃山道者將行風吹者浪之塞海道者不行《アシヒキノヤマチハユカムカセフケハナミノフサケルウミチハユカシ》
 
清少納言に打解まじき物と云へる所に、舟の道とてさま/”\の事かける中に云く、思へば舟に乘てありく人ばかりゆゝしき物こそなけれ、又云よろしき人は乘てありくまじき事とこそ猶おぼゆれ、
 
(48)或本歌
 
備後國|神島濱《カミシマノハマ》調《ツキ》使首見v屍作歌一首並短歌
延喜式第十神名下云備中國小田郡神島神社、續拾遺集賀部云、建久九年大嘗會|主基《スキ》方(ノ)御屏風に備中國神島有神祠所を前中納言資實、神島の浪の白木綿かけまくも恐き御代のためしとぞ見る、此等に依れば備中にあり、若古は備後なりけるが小田郡に近き處にて後に備中に屬せる歟、又同名にて異處なる歟、景行紀云、既而從2海路1還v倭到2吉備1、以渡2穴(ノ)海(ヲ)1、其處(ニ)有2惡神1則殺v之歌に恐耶神之渡乃と云に依れば若此穴海にや、舊事紀第十云、吉備穴國造云々、和名集を考るに備後に安那【夜須奈、】郡あり、推量するに穴を安那と書なしても猶名の海上などにはよからねば安の字を和訓に轉ぜるなるべし、
 
3339 玉桙之道爾出立葦引乃野行山行潦川往渉鯨名取海路丹出而吹風裳母穗丹者不吹立浪裳箆跡丹者不起恐耶神之(49)渡乃敷浪乃寄濱邊丹高山矣部立丹置而※[さんずい+内]潭矣枕丹卷而占裳無偃爲公者母父之愛子丹裳在將稚草之妻裳將有等家問跡家道裳不云名矣問跡名谷裳不告誰之言矣勞鴨腫浪能恐海矣直渉異將《タマホコノミチニイテタチアシヒキノノユキヤマユキヒタスカハユキワタリテハイサナトリウミチニイテヽフクカセモオホニハフカスタツナミモノトニハタヽスカシコミヤカミノワタリノシキナミノヨスルハマヘニタカヤマヲヘタテニオキテイルフチヲマクラニマキテウラモナクフシタルキミハハヽチヽノマナコニモアラムワカクサノツマモアラムトイヘトヘトイヘチモイハスナヲトヘトナタニモツケスタカコトヲイタハシトカモユフナミノカシコキウミヲタヽワタリケム》
 
濱邊丹、【幽齋本、邊作v部、】  ※[さんずい+内]、【同本、作v納、】  將有、【同本、作2有將1、】
 
母穗丹者、此母を於に借たるは和訓の於毛を下略したるなり、※[さんずい+内]は玉篇云水相入(ル)也、偃爲はフシセルと讀べし、第九勝鹿眞間娘子を詠ぜる歌に妹之臥勢流と云句あるを以て准らふべし、誰之言矣勞鴨は前の歌に誰心と云へるに同じ、腫浪は夕浪なり、今按夕浪は常の事にて強に恐るべきに非ず、又腫を夕と同じくよめる意得がたし和名云野王案〓【之勇反、字亦作v腫、波留、】身體〓(レ)起(テ)虚(ク)滿(ル)也、神代記云、時伊弉册(ノ)尊脹滿|太高《タヽヘリ》、此等の心を以で義訓してタカナミノと讀べき歟、
 
初、玉ほこの道に出たち 母をおとよめるはおもの下をすつるなり。※[さんずい+内]は玉篇云【而税切。水相入※[白/八]。】偃爲《フシセル》。腫浪能、これをゆふなみとはいかてよみけん。いまた其心をしらす。高浪となしてたかなみとよむへき歟。和名集云。身體|〓《フクレ》起(テ)虚滿(スルヲ)曰v腫(ト)【波留。はるれはたかくなれは、義をもてたか浪とよむへき歟とはいへり
 
反歌
 
(50)3340 母父裳妻裳子等裳高高丹來將跡待人乃悲《ハヽチヽモツマモコトモモタカ/\ニコムトマチケムヒトノカナシサ》
 
此は前の第一の反歌と全同、
 
3341 家人乃將待物矣津煎裳無荒礒矣卷而偃有公鴨《イヘヒトノマツラムモノヲツニモナクアライソヲマキテフセルキミカモ》
 
津煎裳無とは津に泊りても居らずの意なり、荒磯はアリソと讀べし、
 
初、いへひとの待らんものを 津にもなくは津にも居すなり
 
3342 ※[さんずい+内]潭偃爲公矣今日今日跡將來跡將待妻之可奈思母《イルフチフシタルキミヲケフケフトコムトマツラムツマノカナシモ》
 
妻之、【官本云、ツマシ、】
 
偃爲はフシセルと讀べし、妻之をツマノと點ぜるはよろしからず、官本に依てツマシと讀べし、し〔右○〕は助語なり、
 
3343 ※[さんずい+内]浪來依濱丹津煎裳無偃有公賀家道不知裳《イルナミノキヨスルハマニツニモナクフシタルキミカイヘチシラスモ》
 
右九首
 
3344 此月者君將來跡大舟之思憑而何時可登吾待居者黄葉之(51)過行跡玉梓之使之云者螢成髣髴聞而大士乎太穗跡立而居而去方毛不知朝霧乃思惑而杖不足八尺乃嘆嘆友記乎無見跡何所鹿君之將座跡天雲乃行之隨爾所射完乃行文將死跡思友道之不知者獨居而君爾戀爾哭耳思所泣《コノツキハキミモキナムトオホフネノオモヒタノミテイツシカトワカマチヲレハモミチハノスキテユキヌトタマツサノツカヒノイヘハホタルナスホノカニキヽテマスラヲヽハタトヽフトタチテヰテユクヘモシラスアサキリノオモヒマトヒテツヱタラスヤサカノナケキナケヽトモシルシヲナミトイツクニカキミカマサムトアマクモノユキノマニ/\イルシヽノユキモシナムトオモヘトモミチノシラネハヒトリヰテキミニコフルニネノミシナカル》
 
道之、【幽齋本云、ミチシ、】  杖不足、【別校本又云、ツヱタラス、】
 
君將來跡はキミキマサムトとも讀べし、大士乎太穗跡は今按此二句の間落たる字誤れる字有べし、今の點は強て點じたれば注すべきにあらず、杖不足とは仲哀紀云|身《ミ》長十尺、一丈をひとつゑと云故に八尺乃嘆と云はむために此詞を置けり、百不足八十などつゞくるが如し、所射宍乃は古語に依てイユシヽノと讀べし、行文將死跡思友とは手を負たる鹿の行疲れたる所にて死する如くせむと思へどもなり、道之不知者は第二高市皇子の御歌に道之白鳴とあるに准らへば今の點もよし、幽齋本に依てミチシとも讀べし、し〔右○〕は助語なり、落句は上に注せし如くネノミシナカユと讀べし、し〔右○〕は助語なり、
 
初、ほたるなすは、螢のことくなり。大士乎太穗跡、此間に誤れる字、脱たる字なと有へし。杖たらぬ八尺のなけきとは、杖はもと丈の字なり。丈夫の策《ツク》所なるゆへなり。後に木をそへて杖には作けるなり。三十、五十、八十等を百たらぬといへることく、一丈にたらねは、杖たらぬ八尺のなけきとはいへり。仲哀紀云。身長十尺《ミタキヒトツエ》。上にもわかなけく八尺のなけきとよめり。なけきは長息なり。離騒云。長《トコシナヘニ》大息(シテ)以|掩《ノコフ》v涙(ヲ)兮。あま雲のゆきのまに/\は、上に天雲のゆきのまく/\といへるにおなし。いるしゝのゆきもしなんとおもへともは、手をおひたる鹿の、つゐにゆきつかれてしぬることく、命のかきり君か死たる所をたに見にゆかんとおもへともなり
 
(52)反歌
 
3345 葦邊徃鴈之翅乎見別公之佩具之投箭之所思《アシヘユクカリノツハサヲミワカレテキミカオヒコシナクヤシソオモフ》
 
鴈之翅乎見別、【別校本又云、カリノハヲミテワカレニシ、】
此歌を意得るに二つのやう侍るべし、一つには葦邊の鴈の忽に立て行に夫の防人にさゝれて出立たるを喩へて、其時君が矢を負て行し樣のおぼえて忘られぬとなり、二つには胸腰の句をカリノツバサヲミワカレニシと讀べし.に〔右○〕は助語なり、夫の死たる由聞て後、葦邊行鴈の翅を見るに付ても別し君が箭を負て行し樣の思ひ出られて悲しきとなり、鴈の羽を見て矢の羽を思ふはさもあるべき事なり、
 
初、ほたるなすは、螢のことくなり。大士乎太穗跡、此間に誤れる字、脱たる字なと有へし。杖たらぬ八尺のなけきとは、杖はもと丈の字なり。丈夫の策《ツク》所なるゆへなり。後に木をそへて杖には作けるなり。三十、五十、八十等を百たらぬといへることく、一丈にたらねは、杖たらぬ八尺のなけきとはいへり。仲哀紀云。身長十尺《ミタキヒトツエ》。上にもわかなけく八尺のなけきとよめり。なけきは長息なり。離騒云。長《トコシナヘニ》大息(シテ)以|掩《ノコフ》v涙(ヲ)兮。あま雲のゆきのまに/\は、上に天雲のゆきのまく/\といへるにおなし。いるしゝのゆきもしなんとおもへともは、手をおひたる鹿の、つゐにゆきつかれてしぬることく、命のかきり君か死たる所をたに見にゆかんとおもへともなり
 
右二首但或云、此短歌者防人妻所v作也、然則應v知2長歌亦此同作1焉、
 
集中に歌一首并短歌とのみありて長歌とは云はざれども并短駅と云へるにて長歌とは知られたり、第五に長短の注あれど彼卷にわきまへ申つるやうに後人(53)の加へたれば證とするに足らず、此卷上に雜歌相聞歌に長歌の數を注したれど此も亦後人のしわざなり、其故は問答歌にも挽歌にも並に長短あれど注せず、撰者本より注せば何ぞ半は注し半は注せざるべきや、又注には二十卷悉注すべし、一二卷のみ注すべき理なし、唯此注に長歌と云ひ顯はされたるにて長短の意義悉すたれたり、
 
3346 欲見者雲井所見愛十羽能松原少子等率和出將見琴酒者國丹放甞別避者宅仁離南乾坤之神志恨之草枕此覊之氣爾妻應離哉《ミマクホリクモヰニミエテウツクシキトハノマツハラミトリコトイサヤイテミムコトサケハクニニサケナムワカレナハイヘニカレナムアメツチノカミシウラメシクサマクラコノタヒノケニツマカルヘシヤ》
 
少子等、【幽齋本、少作v小、】
 
此歌は夫婦ともに旅に出たる人の道中にて妻を失て嘆てよめるなり、初の二句は妻を葬れる所をさても有べからねば遙に行過て云へるなり、愛はナツカシキとも讀べし、うつくしきも同じ心なり、十羽能松原、何れの國に有と云事を知らず、第九に新治乃鳥羽能淡海《ニヒバリノトバノアフミ》とよめるは常陸なれば若其湖の邊に有松原にや、少子等は今按(54)今の點誤れり、第十六竹取翁が歌にみづからの幼兒の時よりの事を云述とて初に緑子之若子《ミドリコノワカゴ》と云ひ次に平生《ハツコ》と云ひ次に童子《ウナヒゴ》と云へり、然れば緑子は生れて一年の内外を云なればいざやとさそふべきに非ず、第七云、此崗草刈|小子《ワラハ》、第十六云、小兒《ワラハヘ》等草者勿苅、此等に依て今もワラハドモと讀べし、率和はイザワとも讀べし、神武紀云、先遣(テ)2使者1徴2兄磯城1、兄磯城不v承《ウケ》v命、更遣2頭八咫烏1召之、時烏到(テ)2其營1而鳴(テ)之曰、天神(ノ)子召v汝、怡弉過怡弉過《イザワイザワ》【過音倭、】此もいざや/\と誘ふなり、琴酒者は第七に殊放者と有て注せしに同じ、別避者宅仁離南も今按此二句の點誤れり、是をもコトサケバイヘニサケナムと讀べし、夫婦の(ノ)中を神の常に替りさくべくば國に有し時こそさけめ、家に有し時こそさけめとの意なり、神志の志は助語なり、落句もツマサクベシヤと讀べし、
 
初、みまくほりは雲井に見えてとは おとこの身まかりたる所なれは、みまくほしき所といへり。鳥羽の松原は、いつれの國ともしらす。みとりこといさや出みんとは夫は鳥羽の松原に死して、みとり子のかたみにのこれるを、いさとさそひて、そなたをたに出みんといふなり。和《三之三十九葉右二、十一之十一葉右第八行》はさきにも見えたり。ことさけばとは、ことさらにさけはなり。第七に
  ことさけはおきにさけなめみなとよりへつかふ時にさくへきものか
別避者、これをもことさけはとよむへし。別の字第二の十二葉第七の三十葉にことにとよめり。天津神國津神もうらめしきはことさらにわか中をさけは、國にてもさけ、家にある時もさけすして、此旅人に氣長きおもひをさせてさけん物かとなり
 
反歌
 
3347 草枕此覊之氣爾妻放家道思生爲便無《クサマクラコノタヒノケニツマサカリイヘチオモヘハイケルスヘナシ》
 
初、草まくら此たひのけに 便を誤て使につくれり
 
或本歌曰|覊乃氣二爲而《タヒノケニシテ》
 
胸の句の異なり、
 
(55)右二首
 
萬葉集代匠記卷之十三下
 
(1)萬葉集代匠記卷之十四上
                    僧契冲撰
                    木村正辭校
 
初、萬葉集第十四代匠記
 
東歌
 
3348 奈都素妣久宇奈加美我多能於伎都渚爾布禰波等杼米牟佐欲布氣爾家里《ナツソヒクウナカミカタノオキツスニフネハトヽメムサヨフケニケリ》
 
宇奈加美、【官本、加作v賀、】
 
此上句第七に既に見えたり、六帖に瀉の歌とす、
 
初、なつそ引うなかみかたの 引といふは根なから引といふ説あれといかゝとおほゆ。うは皮を剥取を引といふ歟。葛をも引といへり。第七に
  たちのしりさやに入野に葛引わきも眞袖もてきせてむとかも夏葛かるも
第十一に
  眞葛はふをのゝ淺茅を心ゆも人ひかめやもわれならなくに
これらは葛かつらを引よするをいふ心なり。さてうなかみにつゝくる心は、乎と宇とは五音通すれは夏麻引|苧《ヲ》といふ心にてつゝけたり。古語拾遺云。天富命更(ニ)求(テ)2沃壌《ヨキトコロヲ》1分(テ)2阿波(ノ)齋部1率2往(テ)東(ノ)土《クニヽ》1、播2殖《ホトコシウフ》麻穀《アサカチヲ》1。好麻(ノ)所v生|故《カレ》謂2之(ヲ)總(ノ)國(ト)1。穀(ノ)木(ノ)所v生故謂2之|結城郡《ユフキノクニト》1。自注云。古語謂2之(ヲ)總(ト)1也。今爲「2上(ツ)總下(ツ)總(ノ)二國(ト)1是也。これによれは上總下總のふたつの國はもとより麻のよろしき國なるゆへに、かくはつゝけたる欺とおもへと、下の武藏國の哥にも、夏麻引うなひをさしてとふ鳥のと讀たれは、唯うといふもしにのみつゝくるなるへし。海上郡は下總にもあり。第九にうなかみのその津をさしてとよめるは下總なり。第七に
  夏麻引うなかみかたのおきつすに鳥はすたけと君は音もせす
 
右一首上總國歌
 
3349 可豆思加乃麻萬能宇良末乎許具布彌能布奈妣等佐和久(2)奈美多都良思母《カツシカノママウラマヲコクフネノフナヒトサワクナミタツラシモ》
 
此歌第七に風早之三穗乃浦廻乎《カザハヤノミホノウラワヲ》とよめる歌と下三句同じ、
 
初、かつしかのまゝの 第七に
  風早のみほのうらわをこく舟のふな人さわく浪立らしも
 
右一首下總國歌
 
3350 筑波禰乃爾比具波麻欲能伎奴波安禮杼伎美我美家思志安夜爾伎保思母《ツクハネノニヒクハマユノキヌハアレトキミカミケシシアヤニキホシモ》
 
欲の字喩の音あれば初よりマユとよめる歟マヨとよめるをゆ〔右○〕に通じて意得べきか、最初の歌に佐欲《サヨ》、近き證なり、和名集云、唐韻云〓(ハ)【音象、和名久波萬由、】桑※[爾/虫](ナリ)即桑蠶也、新桑※[爾/虫]と云へるは蚕は春夏飼に先春初て桑の若葉を以て飼たる蚕の絹が殊によければ絹の勝れたるを云はむとて新桑眉と云なり、但六帖に今年生の新桑繭の韓衣千世を兼てぞ祝ひ初ける、貫之集にもあり、此歌に依らば今年生の桑を新桑と云へる歟、又今年生の桑の若葉を以て飼蚕と云へる意にて新桑とは今年生ならねど若葉を云歟、下句の意は二義あるべし、一つには伎美は男女の中に云へる君なり、二つには古今集の常陸歌に筑波嶺の此面彼面に蔭はあれどゝ云歌も古風にて今の歌と意も(3)相似たれば天子のめぐみをあかず被ぶらまほしきを御衣によそへてよめる歟、美家思志の志は助語なり、
 
初、筑波根のにひくはまよの まよはまゆなり。神代紀云。時|保食《ウケモチノ》神實(ニ)已(ニ)死矣。〇眉(ノ)上(ニ)生《ナレリ》v※[爾/虫]。和名集云。桑※[爾/虫]、唐韻云。※[虫+象]【音象。和名久波万由。】桑※[爾/虫](ナリ)。即桑蠶(ナリ)也。蠶は春夏飼ふに、先春はしめてかひたる蠶のきぬかことによきなり。よりてきぬのすくれたるをいはむとて新桑眉といふなり。みけしは日本紀に衣裳とかきてよめり。又此集第十には御衣とかけり。あやにきほしもは、ねんころにきまほしきなり
 
或本歌曰|多良知禰能《タラチネノ》又云|安麻多伎保思母《アマタキホシモ》
 
集中に多良知禰能と云ひつれば必波波とつゞけたれば此は足引と云ひてやがて山とする例なり、
 
3351 筑波彌爾由伎可母布良留伊奈乎可母加奈思吉兒呂我爾努保佐流可母《ツクハネニユキカモフラルイナヲカモカナシキコロカニノホサルカモ》
 
爾奴、【仙覺抄云、ニヌ、官本云、爾異本作v企、校本點云、キヌ、】
 
布良留は降れるなり、伊奈乎可母は否《イナ》にかもの意にて此一句も亦句絶なり、袖中抄にいなてかもとあるは乎を手に書たがへたる本を見られける歟、第四句の呂は良にて悲しく思ふ兒等がと云なり、爾努は布なり、保佐流はほせるなり、凡此卷并に第二十の内の防人が歌は東の風俗の語にて訛音《ナマレルコヱ》多し、此歌に准らへて五音相通同韻相通音の清濁等に心を著べし、歌の意は筑波根の白く見ゆるは雪のふれる歟否や(4)又は兒等が布を乾たる歟となり、雪を見て興じてよめる歟、又下に筑波禰乃伊波毛等杼呂爾於都流美豆とよめるは瀧と聞ゆればそれを雪歟布歟と見まがへたる歟、袖中抄云甲斐が根に白きは雪かいなをさのかひのけごろもさらすてつくり、顯昭云此は風俗の歌也號2甲斐之根(ト)1云々、注こと長けれど理解る事なし、今按今の歌を今引直して甲斐が根に白きは雪か否をかも悲しき兒等がさらす手作なりけむを三寫を經てかゝる物にはなれるなるべし、六帖に彼方《ヲチカタ》に白きは何ぞいなおそかしかひのくなのさらす手作、此も亦右の風俗歌に准らふべし、
 
初、つくはねに雪かもふらる ふらるはふれるなり。いなをかもはいやさにはあらぬかもなり。かなしき子ろかはかなしきこらかなり。思ふことの切なるをかなしふといふなり。ろは東俗つねに何にもつけていふ詞なり。にのほさるかもはぬのほせる歟なり。これは筑波根に雪のふれるをおもしろしと見て、かくいひなすなり。第一に持統天皇の
  春過て夏きにけらし白妙のころもほすてふあまのかく山
とある御製にあはせてみるに、山に布ほす事のあるゆへなり。第十一に
  相見てはちとせやいぬるいなをかも我やしかおもふ君まちかてに
 
右二首常陸國歌
 
3352 信濃奈流須我能安良能爾保登等藝須奈久許惠伎氣婆登伎須疑爾家里《シナノナルスカノアラノニホトヽキスナクコヱキケハトキスキニケリ》
 
和名集云、筑摩《ツカマノ》郡|宗賀《ソガ》【曾加】素戔嗚尊《スサノヲノミコト》の御名、又武烈紀に物部影媛が歌に伊須能箇瀰賦屡嗚須擬底《イソノカミフルヲスギテ》云々、此|素《ス》と須《ソ》とを思ふに今の須我能安良能は宗賀に有なるべし、落句は、時の至ると云意なり、第六に時のゆければ都と成ぬとよめるを思ふべし、霍公鳥(5)は農を催ほす鳥なればさる心などにてもかくはよめる歟、
 
初、しなのなるすかのあら野に 時過にけりは時は來にけりの心なり。第六に
  をとめらかうみをかくてふかせの山時のゆけれは都となりぬ
 
右一首信濃國歌
 
相聞
 
3353 阿良多麻能伎倍乃波也之爾奈乎多?天由吉可都麻思自移乎佐伎太多尼《アラタマノキヘノハヤシニナヲタテヽユキカツマシヽイオヲサキタタニ》
 
由吉、【官本吉作v伎、】
 
阿良多麻は遠江國の郡の名なり、和名集云、麁玉【阿良多末今稱2有玉1、】元正紀云、靈龜元年四月遠江地震山崩※[雍/土]2麁玉河(ヲ)1水爲v之不v流經2數十日(ヲ)1潰(テ)没(ス)2敷智長下石田三郡(ノ)民家百七十餘區1并(ニ)損(ス)v苗(ヲ)、廢帝紀云、寶字五年七月癸未朔辛丑、遠江國荒玉河堤決三百餘丈、役2單功三十萬三千七百餘人(ヲ)1、充(テヽ)v粮(ヲ)修築(ス)、伎倍の林は次の歌に伎倍比等とあれば伎倍と云處に此林有なり、舊事紀第十云、道江岐閉國(ノ)造《ミヤツコ》云々、若道は遠にて此伎倍にや、但道奧(ノ)菊多國造と云次にあればおぼつかなし、古事記上云、次天津日子根命【道尻岐閉國造等之祖也、】此道尻と云は陸奥も東山道のはてなれば云歟、和名を考ふるに陸奥には岐閉と云べき處見(6)えねど遠江を道尻と云べきやうなければ舊事紀の道江は江の字の誤て陸奥にや、奈乎多?天は汝を立てゝなり、立は立待なり、由吉可都麻思自は雪が積《ツ》ましゝにて雪が多く降積て侘しからむなり、落句は寢を先立《サキタテ》ねとなり、冬の此道を隔たる所から伎倍に住女の許へ通ふ男の伎倍の林に汝が立待らむに雪が積て侘しからむ、唯先立て寢よ今到りて諸共に寢むずるぞと云意なり、
 
初、あらたまのきへのはやしに 麁《アラ》玉は遠江の郡の名なり。和名集云。麁玉【阿良多末。今稱2有玉1。】ぁら玉郡にあるきへの林なり。第十一にあらたまのきへか竹垣とよめり。なをたてゝは汝を立てなり。ゆきかつましゝはゆくかと待しなり。われをくるかと待しといふ心なれともこなたよりいへはゆくかとゝいふなり。いをさきたゝにはするかの庵崎よりたゝちになり。伊保佐伎とかゝすして移乎佐伎とかける、保と乎とのたかひは東哥ゆへなり。いほさきよりたゝちにくるかとまちしといふ心なり。次下の哥に女をさしてきへ人といへるは、駿河なる男の遠江にかよへはいへるなるへし
 
3354 伎倍比等乃萬太良夫須麻爾和多佐波太伊利奈麻之母乃伊毛我乎杼許爾《キヘヒトノマタラフスマニワタサハタイリナマシモノイモカヲトコニ》
 
よその男なる故に女を指てキヘ人と云へり、マダラ衾は第七に斑衣とよめる類に樣々に染交たる衾なり、和多佐波太は和多は綿、佐波太は狹膚なり、乎杼許は小床《ヲトコ》なり、或は乎と與と同韻にて通ずれば夜床歟、されど此卷にも夜は與と讀たれば初の義なるべし、斑衾に綿を入るゝ如く、我も妹が小床に膚を入れて寢なまし物をとなり、右の歌主の同じくよめる歟、
 
初、きへ人のまたらふすま 色々にそめわけたるふすまなり。わたさはたはわたそへてなるへし。ふすまにわたをいるゝにそへて、我身も妹か夜床に入てねなましものをとなり。をとこは長流か抄に小床と申たる、さにも侍るへし。利誤作v刹
 
右二首遠江國歌
 
(7)3355 安麻乃波良不自能之婆夜麻巳能久禮能等伎由都利奈波阿波受可母安良牟《アマノハラフシノシバヤマコノクレノトキユツリナハアハスカモアラム》
 
由都利、【官本、利作v梨、】
 
富士は極て高くて空に聳たれば天原とはおけり、毛詩云、嵩高維(レ)嶽(タリ)、峻(タリ)極《イタレリ》2于天1、之婆夜麻とは俗に柴|刈《カル》山を云ひ或は芝《シバ》のみ生る山を云、柴山は去聲によび芝山は上聲に呼べり、柴刈る山は草木とも云はず皆刈拂ひ、芝山は本より木などの生ひぬを云へば富士の半腹より上つ方には草木もなきを右の二つの内に譬へて云歟、又しばとは繁きを云へば半腹より下つ方のしげきをしげ山と云歟、慈圓、天の原ふじの煙の春の色の霞になびく曙の空、定家卿此歌を取て天の原寓士のしば山しばらくも烟絶せず雪もけなくにと讀たまへり、己能久禮能とは此暮歟、若之婆夜麻はしげ山の意ならば木の晩にて春夏のあはひに相見むと期りしを其期の移りなむとすればおぼつかなく思ふ心歟、
 
初、天のはらふしのしは山 此山きはめて高くて空にそひへたれは天の原とはつゝけたり。毛詩云。嵩高維(レ)嶽(タリ)。峻《タカク》極《イタレリ》2于天(ニ)1。しは山、しけ山なりと長流はいへり。しは/\といふはしけきことなれと草木の滋《シケ》きをいふにはあらす。たひ/\の心なり。さらてはしけき心おもひよらす。俗に柴山芝山なと申山にや。柴かる山ははけ山となれはそれにたとへていふか。このくれも此暮歟|木闇《コノクレ》歟。長流か抄には木のくれと見て木の下くらきなりといへと、此夕くれといへるにやと聞ゆ。時ゆつるは時うつるなり。時刻のうつるなり。木のくれならは此集に春の末にいひたれは時節の過るなり。此暮なるへし
 
3356 不盡能彌乃伊夜等保奈我伎夜麻治乎毛伊母我理登倍婆(8)氣爾餘婆受吉奴《フシノネノイヤトホナカキヤマチヲモイモカリトヘハニヨハスキヌ》
 
第四の句は妹許《イモガリ》と云へばなり、落句の氣は異と食との兩義有べし、餘婆受吉奴は不v及來ぬなり、氣は異ならばかはれる思案に及ぶまでもなくて來ぬなり、食の義ならば莽蒼を行ものは兼て糧を舂《ツク》習ひなるを、それまでもなくて來ぬとなり、又第七に白氣をキリとよみたれば餘婆受は不迷にて霧の深きにも迷はずして來ぬとよめる歟とも云べけれど妹許と思ひ立とも霧には迷ふまじきにあらねばさきの二つの中にて猶|食《ケ》にも及ばずと云なるべし、
 
初、ふしのねのいやとほなかき いもかりとへはゝ妹許といへはなり。けによはすきぬは、けは霧なるへし。第七に此小川白氣結《コノヲカハキリソムスヘル》とよめる哥をかけるやうを思ふへし。よはすはまよはすなり。遠く長き山路なれとも、妹かりといへは霧にもまよはすしてきぬるとなり。次下の哥霞居るといひたれは此氣といへるも霞にや。雲霞霧煙等みな氣なれはいつれにもわたるへし。又けは異にてよはすは不及にや。異は意義異見なといふ異にて、遠く長きは山路なれは大方の事には、いかゝとためらひて、異義にもをよふへきを、妹か許へとおもひたちてくれはことなる思案をめくらすにをよはすしてきぬるとなり。伊勢物語にみのもかさもきすしてしとゝにぬれてまとひきにけりといふかことし
 
3357 可須美爲流布時能夜麻備爾和我伎奈婆伊豆知武吉?加伊毛我奈氣可牟《カスミヰルフシノヤマヘニワカキナハイツチムキテカイモカナケカム》
 
爲流は居るなり、雲の居ると云が如し、夜麻備はヤマビと讀て山邊と意得べし、霞居る富士の山邊を指て我別れて歸らばそこの程とも見ゆまじければ何方へ向ひてか見おこせで妹が歎かむとなり、下に宇惠多氣能《ウヱタケノ》と讀初たる歌の下句今と同じ、
 
初、かすみゐるふしの山ひに 山ひは山へなり。下にうゑたけのもとさへとよみいてゝいなはといふ哥の下の句今とおなし。霞ゐる富士の山へにわかれてきなは、そなたともみゆましけれは、いつれのかたへむかひてか妹かなけかむとなり
 
(9)3358 佐奴良久波多麻乃緒婆可里古布良久波布自能多可禰乃奈流佐波能其登《サヌラクハタマノヲハカリコフラクハフシノタカネノナルサハノコト》
 
サヌラクハとはさぬるはなり、玉の緒許は玉の緒の短かき程の間なり、鳴澤ノ如とはなり止む期もなければ玉の緒の短きに對して云へり、逢ことは玉の緒ばかり名の立は吉野の川の瀧津瀬のごとゝ云歌も是より出たる歟、伊勢物語に逢事は玉の緒ばかりおもほえてつらき心の長く見ゆらむ、
 
初、さぬらくは玉のをはかり さぬらくは只ぬるほとは玉のをのほとにてみしかきなり。なる澤は此山のいたゝきに大なる澤あり。山のもゆる火の氣と其澤の水と相尅して常にわきかへりなりひゝくゆへになるさはといふ。都良香富士山記云。【如2上引1。】おもひによりて涙のわきかへるによせたり
  逢ことは玉のをはかり名のたつはよしのゝ川の瀧つせのこと
伊勢物語に
  逢ことは玉のをはかりおもほえてつらき心のなかく見ゆらん
 
或本哥曰|麻可奈思美奴良久波思家良久奈良久波伊豆能多可禰能 奈流佐波奈須與《マカナシミヌラクハシケラクナラクハイツノタカネノナルサハナスヨ》
 
マカナシミは眞悲にて女を眞實にうつくしむなり、奴良久波思家良は寢るが愛《ハシ》きにて良は助語歟、寢る事は繁しと云へる歟、久奈良久波は來《ク》る事はなり、伊豆の高根の鳴澤とは走湯なるべし、奈須與は奈流左波の如くよなり、絶ず通ひ來る意なり、
 
初、或本哥 まかなしみはまことにかなしくおもふ妹なり。ぬらくはしけらは、ぬることのしけきなり。くならくは、それかもとへかよひくることはなり。いつの高嶺のなるさはなすよとは、いつの高嶺のなるさはのことくよなり。かよひくることのたえぬをいへり。これは走湯といふ所なりといへり
 
(10)一本歌曰|阿敞良久波多麻能乎思家也古布良久波布自乃多可禰爾布流由伎奈須毛《アヘラクハタマノヲシケヤコフラクハフシノタカネニフルユキナスモ》
 
タマノヲシケヤは玉の緒しくやなり、此も玉の緒許の意なり、不二の高嶺に降雪なすと云も絶ぬ意なり、
 
初、又一本、あへらくは玉のをしけやとは、あふらくは玉の緒しくやなり。俗に何しくといふはみなそれをめくといふ心なれは、玉のをめきてわつかなる心なり。ふる雪なすもは降雪のことく常にこふる心のやまぬなり
 
3359 駿河能宇美於思敝爾於布流波麻都豆夜伊麻思乎多能美波播爾多我比奴《スルカノウミオシヘニオフルハマツヽライマシヲタノミハハニタカヒヌ》  一云|於夜爾多我比奴《オヤニタカヒヌ》
 
於思敝、【官本敝、作v倍、】
 
於思敝は礒邊なり伊と於とは同韻にて通じ曾と思とは同内にて通ず、ハマツヾラは濱邊に生る防巳《アヲツヾラ》なるべし、夜は書生の良の字を書たがへたるなり、第十二に大埼のありその渡はふ葛のとよめる類なり、汝を憑みとつゞけたるは濱黒葛《ハマツヾラ》のはふ如く長く絶せじと云へる詞を憑みて、母の制すれども猶約を守る故に遂に母の心に違ひぬるぞとなり、女の歌なり、
 
初、駿河のうみおしへにおふる いそへにおふるなり。濱つゝらは濱へにおふる防巳《アヲツヽラ》なるへし。第十二に大埼のありそのわたりはふくすのとよめるたくひなり。夜は良の誤なり。いましをたのみは汝を頼みなり。母にたかひぬは親の心にそむくなり。哥の心は濱つゝらのことく汝か我にたえぬ心をたのみて、母がこと人をむかへてえさせむなといふをもうけひかすして、心に背けるといふ心なり
 
(11)右五首駿河國歌
 
3360 伊豆乃宇美爾多都思良奈美能安里都追毛都藝奈牟毛能乎美太禮志米梅楊《イツノウミニタツシラナミノアリツヽモツキナムモノヲミタレシメメヤ》
 
白浪ノ有ツヽモと接くるにはあらず繼ナム物ヲとつゞくるなり、落句は將令亂哉《ミダレシメヽヤ》とよめる歟、有つゝも繼て相見む物を君が心をして亂れしめゝや亂しめじとにや、亂るとは物を思ひ亂るゝをも云べし、又古今集の河原左大臣の御歌に誰故に亂れむと思ふ我ならなくにと獨たまへるは人を除《オキ》て又|異《コト》人を思ふを亂るとはあれば今も異心あらのやと云心にもあるべし、又有つゝも繼なむ物にてこそあるを有つゝもつがずして我心を君が亂しめゝやとよめるにや、又注の或本の落句を思ふに志と曾と通ずれば志米は曾米にて將亂初哉《ミダレソメヽヤ》と云へる歟、此も人と我とに亘るべき事は上の如し、
 
初、いつのうみにたつ しらなみのありつゝとつゝけたるにはあらす。つきなん物をとつゝくるなり。浪のあとより立つゝくによせて、あり/\て後にも心たにかはらすはつきて逢見むものを、えしのひすして亂そめゝや。よくたへてみたれそむるとなり
 
或本歌曰|之良久毛能多延都追母都我牟等母倍也美太(12)禮曾米家武《シラクモノタエツヽモツカムトモヘヤミタ
レソメケム》
 
伊豆乃宇美爾多都之良久毛能とつゞくなり、多都の二文字落たる歟、奥を見やれば雲と浪との連なれるを云へり、第七に海原のたゆたふ浪にたてる白雲とよめるが如し、下句はつかむと思へばにや、大夫なる人のかく我故に思ひ亂そめけむなり、或はつがむと思はむや人の心の我ならぬ人に亂そめけむをとよめる歟、
 
初、或本哥しらくものとは、いつの海にたつ白雲のとつゝけたり。これはおきをみやれは雲と浪とのつゝけるやうにみゆるをいへり。第七に
  大海に島もあらなくにうな原のたゆたふ浪にたてる白雲
 
右一首伊豆國歌
 
3361 安思我良能乎?毛許乃母爾佐須和奈乃可奈流麻之豆美許呂安禮比毛等久《アシカラノヲテモコノモニサスワナノカナルマシツミコロアレヒモトク》
 
?と知と通ずれば乎?毛は彼方《ヲチモ》、許乃母は此方《コノモ》にてこのもかのもと云ひこなたかなたなど云も皆同じ詞なり、ヲテモは東詞にはあらぬか、第十七に家持の歌にも安之比奇能乎底母許乃母爾《アシヒキノヲテモコノモニ》とよまれたり、和奈は周易に蹄の字をよめり、日本紀には羂の字なり、可奈流麻之豆美は第二十に防人が歌にもよめり、鹿鳴間枕《カナルマシヅミ》なり、鹿を捕(13)むと蹄を刺て守り居る者の鹿の鳴て依り來るなど屏息して靜まりて待如く、しのびて通ふ所にも皆人の臥しづまるを待て兒等も吾も共に下紐解となり、
 
初、あしからのをてもこのもに をちもこのもにて、此面彼面《コノモカノモ》といふにおなし。<此下にもつくはねのをてもこのもとよみ、第十七にもあしひきのをてもこのもにとなみはりとよめり>わなは鳥をもけた物をもとらんとてさすなり。易云。得(テ)v兎(ヲ)忘v蹄(ヲ)。神代紀<下>云。時(ニ)有2川雁1嬰《カヽリテ》v羂《ワナニ》困厄《クルシム》。神武紀云。于〓能多伽槻《・宇※[こざと+施の旁]高城》珥、辞藝和奈破蘆《・〓羂張》、和餓末〓《・我待》夜、辞藝破佐夜羅孺《・〓不障》。かなるましつみは鹿鳴間沈《カナルマシツミ・第十にすかるなく野といふへきをすかるなる野とよめり》なるへし。第二十に防人か哥にも
  あらし《千》をのいをさ《・五百矢》たはさみ向ひたちかなるましつみ出てと《ゾ》あかくる
わなさす人の鹿のかゝりてなくほと、しつまりて待ことく、人のもとにいたりても人のねぬほとは、屏息して待て、夜ふけ人しつまりて後こらとわれとあふといふ心なり。持統紀に沈靜とかきてしめやかとよめり。しつむとしつまるともゝとはおなし詞なり
 
3362 相模禰乃乎美禰見所久思和須禮久流伊毛我名欲妣?吾乎彌之奈久奈《サカミネノヲミネミソクシワスレクルイモカナヨヒテワヲネシナクナ》
 
乎美禰は小嶺なり、見所久思は見過しなり、落句は吾は音を泣なり、之は助語なり、終の奈は由可奈《ユカナ》など云へる奈なり、相模根の小嶺の面白きを見て暫忘來れども忘はてねば妹が名を呼て泣となり、
 
初、さかみねのをみねみそくし 小嶺見過しなり。わすれくるとはさかみねのおもしろきをみてまきらはしてわすれくる妹を又思ひ出て名をよひて音なくとなり。わをはわれはなり。第二十にも防人か哥にわすらんと野ゆき山ゆきわれくれとゝよめり
 
或本歌曰|武藏彌乃乎美禰見可久思和須禮遊久伎美我名可氣?安乎彌思奈久流《ムサシネノヲミネミカクシワスレユクキミカナカケテアヲネシナクル》
 
落句は久と加と通じて吾者哭所泣《ワレハネナカル》なり、
 
3363 和我世古乎夜麻登敞夜利?麻都之太須安思我良夜麻乃須疑乃木能未可《ワカセコヲヤマトヘヤリテマツシタスアシカラヤマノスキノコノマカ》
 
(14)やまとへやりては都へ遣てなり、マツシタスはまつしたつなり、マツシはまふしなり、潘岳射雉賦云、※[波/手]《ハラヒ》v場|※[手偏+主]《タテ》v翳《マツシヲ・マフシヲ》云々、鳥獣を射る者のまつしをさして窺がふ如く足柄山の杉の木間より今や歸ると見れば杉の木の間を翳《マツシ》に立と云意なり、落句の可は哉なり、又マツシタスは待《マチ》し立《タツ》歟、それはし〔右○〕文字弱く聞ゆ、
 
初、わかせこをやまとへやりて 大和に都の有ける時の哥なれは、古今集みちのく哥に、わかせこをみやこへやりてといふにおなし。まつしたすはまつしたつなり。まつしはまふしなり。文選潘安仁(カ)射雉賦云。爾(レハ)乃※[波/手]《ハラヒ》v場(ヲ)※[手偏+主]《たて》v翳《マツシヲ・マフシヲ》停僮(ト)《・」マトヤカニシテ》葱翠(ト)《アヲヤカナリ》。鳥けた物をかるものゝまふしさしてうかゝふことく、足柄山の杉のこのまより今や歸るとみれは、杉の木の間を、まつしにたつるといふ心なり。このまかのかもしはかなゝり。又まつしたすは待《マチ》し立《タツ》にてもあるへし
 
3364 安思我良能波姑禰乃夜麻爾安波麻吉?實登波奈禮留乎阿波奈久毛安夜思《アシカラノハコネノヤマニアハマキテミトハナレルヲアハナクモアヤシ》
 
波姑彌、【幽齋本、姑作v※[示+古]、或作v枯、】
 
粟を蒔て實となれば粟あるべき理なるに粟なくも恠しと云はあはぬ〔三字右○〕をあはなく〔四字右○〕と云へばなり、粟蒔て實と成と云に童女の時より云ひそめたるが、程よく成てもあはぬをかく恠とは云なるべし、
 
初、あしからのはこねの山に あはなくもあやしは、あはぬもあやしなり。粟をまきて實となれるに、あはなきかあやしといふ中に、實とはなれるをに、おもひかけて久しくなりて人もうけひくを、實とはなれるをといひて、事にさはりてえあはぬをあやしとはいへり
 
或本歌未句云|波布久受能比可利與利巳禰思多奈保那保爾《ハフクスノヒカハヨリコトシタナホナホニ》
 
(15)落句は下の心すなほにと云なり、六帖には葛の歌として下何かせむとあり、
 
初、或本歌、下なほ/\にとは下心すなほになり。利《ハ》これは誤字なり
 
3365 可麻久良乃美胡之能佐吉能伊波久叡乃伎美我久由倍伎巳許呂波母多自《カマクラノミコミコシノサキノイハクエノキミカクユヘキコヽロハモタシ》
 
仙覺云、美胡之能佐吉とは今の腰越を云ひけるとなむ申す、昔も石の弱くて崩けるにや、相模國風土記云、鎌倉郡見越崎毎v有2速浪1崩(ス)v石(ヲ)、國人名(ケテ)號2伊曾布利(ト)1、謂(ハ)振v石也、イハクエは悔ベキと云はむためなり、仁徳紀の歌に以播區娜輸《イハクヤス》、
 
初、鎌倉のみこしのさきの 相模國風土記云。鎌倉(ノ)郡見越(ノ)崎(ニ)毎《ツネニ》有(テ)2速浪1崩(ス)v石(ヲ)。國人名(ケテ)號《イフ》2伊曾布利(ト)1。謂《イフコヽロハ》振(フナリ)v石(ヲ)也。仁徳紀(ニ)播磨(ノ)國(ノ)造(ノ)祖|速待《ハヤマチカ》歌(ニ)云。
瀰箇始報《ミカシホ》、破利摩波椰摩智《ハリマハヤマチ・播磨速待》、以播區娜輸《イハクヤス・巖令崩》、伽之古倶等望《カシコクトモ・雖惶》、阿例椰始儺破務《アレヤシナハム・吾將養》。いはくえは石のくつるゝをいふ。風土記の説のことし。いはくえをうけて君かくゆへきといへり。第三に
  妹も我もきよめし川の河きしの妹かくゆへきこゝろはもたし
第十に
  雨ふれはたきつ山川いはにふれ君かくたかむ心はもたし
 
3366 麻可奈思美佐禰爾和波由久可麻久良能美奈能瀬河泊〓思保美都奈武賀《マカナシミサネニワハユクカマクラノミナノセカハニシホミツナムカ》
 
河泊〓、【官本〓作v尓、】
 
〓は余歟、よ〔右○〕ともゆ〔右○〕とも云はより〔二字右○〕なり、されども第十の七夕の歌に告爾叙來鶴《ヅゲニゾキツル》と云句の爾をも誤て余に作り、第十八の長歌に心奈具佐爾《コヽロナグサニ》と云句の爾をも亦誤て余に作れる例あれば爾を治定とすべし、思保美都奈武賀《シホミツナムカ》は潮滿なむかとおぼつかなく(16)思ふなり、
 
初、まかなしみさねにわはゆく 寢に吾はゆくなり。しほみつなんかは塩滿なんかなり。海にほとなき川にて塩のみつる時は水のまさる心なり。此川をわたりてゆく道なれは、塩のみちなんことをうれふるなり。〓は尓歟。字のまゝならは與とよむへし
 
3367 母毛豆思麻安之我良乎夫禰安流吉於保美目許曾可流良米巳許呂波毛倍杼《モヽツシマアシカラヲフネアルキオホミメコソカルラメコロヽハモヘト》
 
百津島は多くの島々なり、それを傳ひ行足の輕き舟とつゞくる意なり、第七に島傳足速乃小舟《シマツタフアシハヤノヲフネ》とよめるに同じ、相模國風土記に此山の杉を以て作れる舟の足の輕かりけるより山の名に負せける由侍るとかや、それを男の心輕くこなたかなたに心を懸て行によせて、さてこそそれが故に我に目かれすらめ我心には忘れず思へどもとなり、
 
初、もゝつしまあしから小舟 八雲御抄に、もゝつしまを相模のよし注せさせたまへと、これはたゝ嶋々のおほきを百の嶋といへるなり。八十嶋といへるかことし。第七に
  島傳ふあしはやの小舟風まもり年はやへなん逢とはなしに
今の哥此つゝきに心おなし。足から小舟はかの山の木を切て作れる舟なり。第三にも足から山に舟木伐とよめり。さて舟の早きをは足かろきといへは、ありくことのおほきとよめり。これは女の哥にて、男は心のかろきものにてこなたかなたに心をかけてゆくかたのおほくてめこそかるらめ。われはかくふた心なくおもへとゝなり
 
3368 阿之我利能刀比能可布知爾伊豆流湯能余爾母多欲良爾故呂何伊波奈久爾《アシカリノトヒノカフチニイツルユノヨニモタヨラニコロカイハナクニ》
 
熱海《アタミ》伊藤など今もあまた温泉《イデユ》の聞ゆれば此よめるはそれらの中にや、下句は代をへても絶むやうには兒等《コラ》がいはぬになり、
 
初、あしかりのとひのかふちに あしかりもあしからにおなし。足柄は足上郡足下郡にわかる。土肥の河内とあるはいつれにか屬し侍るらん。そこもとにはそこくら熱海《アタミ》伊藤なとあまた温湯《イテユ》の聞え侍り。温泉のわきてたえぬによせて、よにたえぬへきさまにはこらかいはさりしに、いかてたえぬらんとなり
 
(17)3369 阿之我利乃麻萬能古須氣乃須我麻久良安是加麻可左武許呂勢多麻久良《アシカリノママノコスケノスカマクラアセカマカサムコロセタマクラ》
 
麻萬能、【官本、萬或作v乃、】
 
須我麻久良は菅にてしたる枕なり、薦枕の如し、安是加麻可左武はなぞかまかせむなり、落句は兒等は我手枕をせよなり、我手枕を兒等がまき兒等が手枕を我まかば管枕も何せむの意なり、
 
初、あしかりのまゝの小菅 まゝはさいふ池のあるなるへし。あせかまかさんはなぜかまかせんなり。ころせ手枕はこらせよ手枕なり。なせか菅枕をせさせむ、こらはわか手枕をせよとなり
 
3370 安思我里乃波故禰能禰呂乃爾古具佐能波奈都豆麻奈禮也比母登可受禰牟《アシカリノハコネノネロノニコクサノハナツツマナレヤヒモトカスネム》
 
禰呂は根等なり、野を野等《ノラ》と云如く唯根にて呂は助語なり、爾古具佐は上に見えたり、波奈都豆麻奈禮也、此都豆兩字の中に衍文あり、花妻ナレヤとは萩を鹿の妻と云如く名のみしてまことならぬを云歟、花妻ならばこそ紐とかずねめ花妻ならねばなどか紐廨て寢ざらむの意なり、
 
初、あしかりのはこねのねろの ねろは只根にて嶺なり。にこ草は和草なり。花妻は名のみしてまことなきをいふ歟。花妻ならはこそ紐とかすねめ。花つまならねはなとか紐ときてねさらんの心なり。今案にこ草は萩の異名にや。第十一に
  蘆垣の中のにこ草にこよかに我とゑみして人にしらるな
第十六に
  いる鹿をとむる川へのにこ草の身わかきかへにさねしこらはも
第廿に
  秋風になひく川へのにこ草のにこよかにしもおもほゆるかも
今の哥は萩か花妻といふに似たり。萩はことにたをやかなれはにこ草ともいひぬへし。今引く哥とも皆萩といはむにかなひぬへくきこゆれは、かくは申侍るめり。都豆兩字間疑有(ン)2衍文1
 
(18)3371 安思我良乃美佐可加思古美久毛利欲能阿我志多婆倍乎許知?都流可毛《アシカラノミサカヽシコミクモリヨノアカシタハヘヲコチテツルカモ》
 
可毛、【幽齋本、毛作v母、】
 
知と登と通ずれば許知?は言にて云ひ出すなり、足柄の御坂は第九にも神の御坂とよみてつゝしみをいたす所なれば曇夜に物のわきの見えぬ如く心の中に下|延《ハヘ》置し妹が名を思ひがねて云ひ出るなり、第十五云、加思故美等《カシコミト》、能良受安里思乎《ノラスアリシヲ》、美故之治能《ミコシチノ》、多武氣爾多知?《タムケニタチテ》、伊毛我名能里都《イモガナノリツ》、此を引て思ふべし、
 
初、あしかりのみさかかしこみ 第九に鳥かなくあつまのくにのかしこみや神のみさかにとよめるも足柄坂なり。あかしたはへは第九にかくれぬの下はひおきて打なけき妹かいぬれはとよめり。したはへは下延にて、下に心のかよひてかつらのはへてたえぬことくなる心なり。こちてはことてなり。あしからの神のみさかのことく、人ことをおそろしくおもひて、くもり夜の物のわきも見えぬことく、心のそこにかくしたる人を、おもひあまりてはことはに出しつるかなとなり。
 
3372 相模治乃余呂伎能波麻乃麻奈胡奈須兒良久可奈之久於毛波流留可毛《サカミチノヨロキノハマノマナコナスコラハカナシクオモハルヽカモ》
 
兒良久、【幽齋本、久作v波、】
 
相模治は相模路なり、ヨロギノハマは後の歌にこゆるぎの礒と讀處なり、和名集云、餘綾【與呂岐、】郡此にある濱の名なり、麻奈胡奈須は繊沙《マナコ》はこまかにて白くうつくしけ(19)れば其如くなる兒等と云なり、又下に麻奈登伊布兒我安夜爾可奈思佐《マナトイフコカアヤニカナシサ》とよみたれば愛子《マナコ》と云心をも兼たるべし、久は書生の誤にて波に作れる本然るべし、
 
初、さかみちのよろきのはまの 相模に餘綾《ヨロキノ》郡あり。こゆるきのいそといふもこよろきの音の轉せるなり。まなこなすとは、繊沙《マナコ》はうつくしけなれはたとふるなり。兒良久(ハ)、此久の字は誤れるなるへし。こらか來るともいふへけれと只あやまれるなるへし
 
右十二首相模國歌
 
3373 多麻河泊爾左良須?豆久利佐良左良爾奈仁曾許能兒乃巳許太可奈之伎《タマカハニサラステツクリサラサラニナニソコノコノコヽタカナシキ》
 
袖中抄云、兒玉郷と云所より流たる川を玉川とは云なり、今按和名集を考るに武藏國に兒玉郡はあれど兒玉郷はなければ郡の字を郷に寫し誤りけるにや、?豆久利は和名集云、唐式云、白絲布【今按俗用2手作布三字1、云2天都久利乃沼乃1、是乎、】左良須と云を承て佐良左良爾と云へり、古今集に久米のさら山さら/\にとつゞけたるも同じ、和泉式部が竹の葉に霰降なり更々にとつゞけたるは、つゞけがらの俗にて殊に女の歌よみにはうたてあり、更にとは絶たる中の再たび相思ふなり、拾遺には下句を昔の人の戀しきやなぞと改らる、六帖布の歌に入れたるも同じ、又六帖布の歌に白川にさらす布にもあらなくになぞわがこひのこゝら悲しきと云歌も今の歌を作りかへたるにや、
 
初、たまかはにさらすてつくり 布なり。麻手つくらすとよめる心なり。夏そを手引の糸にしてつくる布なれは手つくりといふ。
 和名集云。唐式云。白絲布。【今按俗用2手作布三字1云2天都久利乃沼乃1是乎。】調布【豆岐乃沼能】たまかはゝ今たは川といへり。和名集云。多|磨《バ》【太婆】郡。此郡より出るにや。さら/\にはかさね/\の心なり。更の字をまたともよめり。さらすをうけてさら/\といへり
 
(20)3374 武藏野爾宇良敝可多也伎麻左?爾毛乃良奴伎美我名宇良爾低爾家里《ムサシノニウラヘカタヤキマサテニモノラヌキミカナウラニテニケリ》
 
第十五云、由吉能安末能保都手乃宇良敝乎可多夜伎弖《ユキノアマノホツテノウラヘヲカタヤキテ》云々、第十六云、卜部座龜毛莫燒曾《ウラベスヱカメモナヤキソ》云々、此二首を以て今の歌を意得るに卜部氏の者のかたやくと云にはあらず宇良敝は唯|卜《ウラ》なり、カタヤクと云は龜を燒なり、兆をうらかたと讀は占形の意なり、吉凶を形に示す故なり、尚書洛誥(ニ)曰、予(レ)惟乙卯(ノ)朝《ツトニ》至2于洛師1、我卜(ス)2河朔黎水(ヲ)1、我(レ)乃卜(スルニ)2※[さんずい+間]水(ノ)東※[さんずい+廛]水(ノ)西(ヲ)1惟(レ)洛食(メリ)、我又卜(スルニ)2※[さんずい+廛]水(ノ)東1惟(レ)洛食(メリ)、※[人偏+平]《シム》【敷耕切】2來(テ)以v圖(ヲ)及獻1v卜(ヲ)、孔安國傳曰、卜(スルニハ)必先墨(ヲモツテ)畫(シテ)v龜(ヲ)然(シテ)後灼《ヤク》v之、孔穎達疏曰、凡卜(スル)之者必(ウス)先(ツ)以v墨畫v龜(ヲ)要(ス)3※[土+斥]《タク》依(ムコトヲ)2此墨(ニ)1然後灼v之、崇神紀云、盍2命神《ウラヘテ》龜以極2致災之|所由《コトノヨシヲ》1也、令義解云、凡卜者必先墨畫龜、然後灼v之、兆順食v墨是爲2卜食1、武藏野ニと云は龜策傳に蓍下有2神龜1とあれば武藏野に蓍《メト》生て有べければ其下に神龜も有べけらば云歟、又唯占する處を何となく云へるにも侍るべし、可多也伎と云へるを古説には鹿の肩の骨を拔てする占なる故に云と意得られたるは誤なり、古事記云、召2天兒屋命布刀玉命(ヲ)1而|内2拔《ウツヌキニ》天香山之眞男鹿之肩1拔而取2天香山之天婆々迦1而令(21)占、日本紀云、時天神以2大占《フトマニヲ》1而|卜《ウラヘ》合(タマフ)之云々、私記云問是何(ノ)占(ソ)乎、答是卜(ノ)之謂也、上古之時未v用2龜甲(ヲ)1只以2肩骨(ヲ)1而用也云々。此等たゞ鹿肩骨を内拔に拔と云ひて燒と云はねば龜の占と似たる事ながら上古の事にて占の樣傳はらぬなるべし、麻左?はまさだなり、落句は第二に大津皇子の竊に石川女郎をめしける時津守連通が占なひあらはせし類なり、
 
初、むさしのにうらへかたやき 日神天の石戸へかくれまし/\ける時、いかにしてか出まさむことをはしらんとて、思乗の神のはかりことに、天香山の鹿をとらへて、其肩の骨をぬき取、鹿をはゝなちやりて、同しくかく山の葉わかの木を根こしにして、かの肩の骨をやきうらなひし給ふ。其占にまかせて神樂といふ事せしかは、日神ふたゝひ石戸を出たまひしより、うらなひするをは、うらへかたやきといふなり。思兼神は卜部氏か祖なり。今も其規殘て亀の甲をやきてうらなふにも、はわかの木をもちゆといへり。むさしのも鹿のおほき所なれは、東のならはしに肩やくうらなひするなるへし。まさてにもはまさたにもにて正しくもなり。下にも大おそ鳥のまさてにもとよめり。のらぬはなのらぬなり。わかもとにかよふ君か名を親なとにも告されとも、占に顯て出るとなり。第二に大津皇子の石川女郎をめしけるを津守連通かうらなひあらはせること見えたり。其類なり。第十一に、八占さし母は問ともとよめり
 
3375 武蔵野乃乎具奇我吉藝志多知和可禮伊爾之與比欲利世呂爾安波奈布與《ムサシノノヲクキカキケシタチワカレイニシヨヒヨリセロニアハナフヨ》
 
乎具奇は顯宗紀云、或本云、弘計天皇之宮有2二所1焉、一(ニハ)宮2於|少郊《ヲクキ》、二(ニハ)宮2於池野(ニ)1、此|少郊《ヲクキ》は所の名なれど所の名も其義を以て名づくべければ今の乎其奇も此歟、字書に四井曰v邑(ト)邑(ノ)外(ヲ)曰v郊と注せり、若は武藏野の内に少郊《ヲクキ》と云所の有にや、吉藝志はキヾシとも讀べし、キゲシとよまばけ〔右○〕とき〔右○〕と通じて雉子《キヾシ》なりと知べし、繼體紀に勾大兄皇子御歌云、奴都等※[口+利]枳蟻矢播等余武《ノツトリキギシハトヨム》云々、此集第十二に片山雉立往牟君爾後而《カタヤマキヾスタチユカムキミニオクレテ》とつゞけたるに似たり、世呂は背等なり、男を指せり、安波奈布與は久と布とは同韻にて通(22)ずればあはなくよなり、
 
初、武蔵野のをくきかきけし をくきは顯宗紀云。或本云。弘計天皇之官有2二所1焉。一宮2於少郊《ヲクキ・ヲノ私》1。二宮2於池野1。字書野外(ヲ)
曰v郊(ト)とあれは此心なるへし。顯宗紀少郊は所の名なり。今は武藏野の内に別に一所をいふなるへし。小野といふ心なり。きけしはきゝしにてきしなり。吉藝志とかきたれはきゞしともよむへし。繼體紀勾大兄皇子御哥云。奴都等※[口+利]《ノツトリ》、枳蟻矢播等余武《キキシハトヨム。あはなふよは、あはなくよにてあはぬよなり。第十二に
  あしひきの片山きゝす立ゆかん君におくれてうつしけめやも
雉子は夜のあくれは鳴ゆへに、立わかれとつゝくるのみにあらす。その心なり
 
3376 古非思家波素?毛布良武乎牟射志野乃宇家良我波奈乃伊呂爾豆奈由米《コヒシケハソテモフラムヲムサシノノウケラカハナノイロニツナユメ》
 
發句は戀しければなり、又久と家と通ずれば戀しくはとよめる歟、宇家良はをけらにて白朮なり、和名集云、爾雅注云、朮【儲律反、和名乎介良、】云々、莖端(ニ)生v花淡紫碧紅數色(ナリ)、かゝれば花の色樣々なる中に紅紫などある故に、朮の花の色の如くゆめ/\色に出なと人を口かたむるなりいましむるなり、俊頼朝臣長歌にうけらが花の咲ながらひらけぬ事のいぶせさに云々、此は此集にうけらが花とよめる歌どもを開けぬとよめると意得られけるなめり、此卷にうけらが花とよめる歌注の或本歌共に四首皆色に出るを假て其如く色に出なとよめり、本草の諸説も咲ながら開けぬ意見えず、凡此集に卯花の開とはなしにとも朝顔の穗には咲出ぬとも旗薄《ハタスヽキ》穗《ホ》には出なとも振の早田の穗には出ずともよめるは咲花を假てさき出すと云ひ穗に出る物を假て穗に出ずと云なり、今の歌等准らへて知べし、先達此意を得ずして言に隨て義を取ら(23)れたるは集中を能見られざるに依てなり、
 
初、こひしけは袖もふらんを こひしけはとはこひしくはなり。又こひしけれはにても有へし。色につなゆめはゆめ/\色に出て人にしらすなとなり。うけらはをけらにて白朮なり。和名集云。爾雅注云。朮【儲律反、和名乎介良、】似(テ)v薊(ニ)生(スルカ)2山中(ニ)1故(ニ)亦(ハ)名2山薊(ト)1也。本草網目云。按(ニ)宋(ノ)蘇頌(カ)曰。朮今處々(ニ)有v之。以2茅山嵩山(ノ)者(ヲ)1爲v佳(ナリト)。春生(ス)v苗(ヲ)。青色(ニシテ)無2椏《ア・エタ》莖1、作2嵩幹(ノ)状(ヲ)1。青赤色(ニシテ)長(サ)三二尺以來。夏開v花(ヲ)紫碧色(ナリ)。亦似(タリ)2刺薊花(ニ)1。或(ハ)有2黄白(ノ)色(ナル)者(ノ)1。入(テ)v伏(ニ)後結v子《ミヲ》、至(テ)v秋(ニ)而苗枯。根似(テ)v薑(ニ)而旁(ラニ)有2細根1。皮黒(ク)心黄白色(ナリ)。中(ニ)有2膏液1紫色(ナリ)。其(ノ)根乾濕並(ニ)通用(ス)。〇陶隱居(カ)曰。朮(ニ)有2二種1。則爾雅(ニ)所謂(ル)抱薊(ハ)即白朮(ナリ)也。今(マ)白朮生(ス)2杭越舒宣州(ノ)高山(ノ)崗上(ニ)1。葉々相對(シテ)上(ニ)有(テ)v毛方莖(ナリ)。々端(ニ)生(ス)v花(ヲ)。淡紫碧紅(ノ)數色(アリ)。根作(ス)v椏(ヲ)。生(ス)2二月三月(ニ)1。八月九月(ニ)采(テ)暴(シ)乾(シテ)用。以2大魂紫花(ヲ)1爲v勝(レリト)。古方(ニ)所(ノ)v用(ヰルノ)朮(ハ)皆白朮(ナリ)也。三體詩僧貫休(カ)詩云。黒壌生(シ)2紅朮(ヲ)1黄猿領(ス)白兒(ヲ)1。季昌(カ)増註(ニ)云。朮(ハ)按(スルニ)2本草(ヲ)1止《タヽ》稱(シテ)2蒼白(ノ)二種(ヲ)1不v言2紅朮(ヲ)1。或書云。蒼朮、一名赤朮。白朮、一名抱薊。これによるに季昌は蒼朮の別名を赤朮といふことをかんかへさりけるなり。蒼朮を赤朮といふは、さきの陶隱居か莖端生v花淡紫碧紅數色といへるをあはせて案するに、花の紅なるか蒼朮にてや、赤朮とも紅朮とも申侍るならん。今色に出なといへるはをけらの花の色々ある中に、むらさき紅なるによせてよめるなるへし。をけらか花の色に出ることくには色にな出そとなり。此下にも
  わかせこをあとかもいはむゝさしのゝうけらか花の時なきものを
  あさかゝたしほひのゆたにおもへらはうけらか花の色にてめやも
かゝるを千載集に源俊頼朝臣の掘河院に奉らるゝ百首の哥の中の述懷長哥に、うけらか花のさきなからひらけぬことのいふせさにとよまれたるより、ひらけぬ物にいへるは本草ならひに此集にはたかへるにや。彼朝臣哥においては奇逸なれとも、其説はたしかならぬことおほかるへし
 
或本歌曰|伊可爾思?古非波可伊毛爾武藏野乃宇家良我波奈乃伊呂爾低受安良牟《イカニシテコヒハカイモニムサシノノウケラカハナノイロニテスアラム》
 
此歌の落句上に釋するが如し、
 
3377 武藏野乃久佐波母呂武吉可毛可久母伎美我麻爾末爾吾者余利爾思乎《ムサシノノクサハモロムキカモカクモキミカマニマニワレハヨリニシヲ》
 
尚書君陳(ニ)云、爾(チハ)惟(レ)風、下民(ハ)惟(レ)草、論語云、君子(ノ)之徳風、小人之徳草(ナリ)、草|上《クハフレハ》2之風1、必(ラス)偃、落句の爾は助語なり、
 
初、むさしのゝ草はもろむき 論語云。君子(ノ)之徳(ハ)風(ナリ)。小人之徳(ハ)草(ナリ)。草|上《クハフルニ》2之(ニ)風(ヲ)1必(ラス)偃《フス》。もろむきはこなたへもかなたへも風にまかせてむかふをいへり。かたふくは片向といふ心なれは加多牟久とかきぬへきことなるを、加多布久とかきならへり
 
3378 伊利麻治能於保屋我波良能伊波爲都良比可婆奴流奴流和爾奈多要曾禰《イリマチノオホヤカハラノイハヰツラヒカハヌルヌルワニナタエソネ》
 
發句は入間路なり、入間は郡の名、和名集には伊留末と注し、伊勢物語にもいるまの(24)こほりみよしのゝさとなどあれど是ほどのたがひは多き事なり、於保屋我波良《オホヤガハラ》は大屋之原歟、大屋河原歟、下に可保夜我奴麻能伊波爲都良とよめるを思ふに伊波爲都良は水に生る物と聞ゆれば大屋河原にや、和各集に入間郡に大家【於保也介】郷あり此處歟、伊波爲都良は如何なる物とはしらねど石藺葛《イハヰツラ》と書べし、比可婆奴流奴流はいはゐつらの引けばぬる/\と滑らかに依來る如くなり、和爾は我《ワ》に、奈多要曾は莫絶そなり、
 
初、いりまちのおほやかはらの いりまちは入間路なり。入間は郡の名なり。おほやかはらは、第十一にまこもかる大野川原のみこもりにとよめる哥を、おほのかはらとよめるは、野はもし音を取て、此於保屋我波良にや。いはゐつらは長流か抄に云。はへるかつらなり。ゐつらはみつらといふ心なり。苔のみつらとよめるも日蔭といふものゝたかくはふ心なり。かつらは髪のなかきによせたれは、みつらといふもひとつなり。いはの二字はいはへるといふ詞なり。ゐつらのゐもしをいはひのひもしにもとれるなり。亦云。岩ゐつらといふことなり。石にはへるかつらなり。此義面白しといへり。下に
  あはをろのをろ田におはるたはみつらひかはぬる/\あをことなたえ
今の哥におなし心なり。爲と美と同韵の字なれは、ゐつらはみつらにや。引はぬる/\はかつらのなかく引寄らるゝ心なり。第一第十一に髪をぬるとよみしもこれなり。わになたえそねはわれになたえそといふことなり
 
3379 和我世故乎安杼可母伊波武牟射志野乃宇家良我波奈乃登吉奈伎母能乎《ワカセコヲアトカモイハムムサシノノウケラカハナノトキナキモノヲ》
第二の句は何とか云はむなり、落句の意上に引本草に夏開花とあればうがらが花の常にあると云にはあらず、見れどあかぬ事のいつとなきを彼花によそへて云へるなり、されば第二の句はうつくしむ心の言に盡されぬ意なり、
 
初、わかせこをあとかもいはむ 何とかもいはむなり。うけらか花の時なきものをとは、さきにひける本草に夏開v花といへは、彼花の常にあるといふにはあらす。みれとあかぬことのいつとなきを、うけらか花の見あかぬによせて、時なき物をとは心をいへるなり。あとかもいはむはめつる心のことはにいひつくされぬなり
 
3380 佐吉多萬能津爾乎流布禰乃可是乎伊多美都奈波多由登毛許登奈多延曾禰《サキタマノツニヲルフネノカセヲイタミツナハタユトモコトナタエソネ》
 
(25)和名集に埼玉郡に埼玉《サイタマノ》【佐以多萬】郷あり、
 
初、さきたまの津にをる舟の 埼玉は郡の名なり
 
3381 奈都蘇妣久宇奈比乎左之?等夫登利乃伊多良武等曾與阿我之多波倍思《ナツソヒクウナヒヲサイテトフトリノイタラムトソヨアカシタハヘシ》
 
宇奈比は海備《ウナヒ》にて武藏の國にさ云所の有歟、然らずば此歌武藏國の歌とはいかで定めて入べき、和名集には郡郷ともにかく云所見えず、落句は我下心に打延て思ひしなり、
 
初、なつそひくうなひをさして なつそひくことは上に注せり。うなひは海邊なり。宇と乎と通すれは、うもしにつゝけたり。此うなひといふは常のうみへにはあらて、武藏の國にさいふ所のあるなるへし。さらすは此哥いかて武藏とはさためむ。此卷は地の名によりてこそ皆その國の哥とは定たれ。第二十の防人か哥はおなし東哥にて國をわかちたれと、そのわかつ心今とおなしからす。いたらむとそよは、いたらむとそなり。あかしたはへしはわかした心に打はへておもひしなり。かのうなひのかたに鳥の飛行を見てそこにおもふ人のあれはわれも鳥にそひていたらはやとなり
 
右九首武蔵國歌
 
3382 宇麻具多能禰呂乃佐左葉能都由思母能奴禮?和伎奈婆汝者故布婆曾母《ウマクタノネロノササハノツユシモノヌレテワキナハナハコフハソモ》
 
宇麻具多は和名集云、望※[こざと+施の旁]【末宇太、】郡是なり、馬を上略し具と宇と同韻にて通じ或は具の韻は宇なれば聲を捨て韻を取なり、したくづをしたうづと云類なり、舊事本紀第十云、馬來田國造云々、前云|須惠《スヱノ》國(ノ)造《ミヤツコ》、後云、上(ツ)海上《ウナカミノ》國(ノ)造、此三つ皆上總國の郡の名なれ(26)ば馬來田は望※[こざと+施の旁]なること明らけし、古事記上云、次天津日子根命、【馬來田國造等(カ)祖也、】繼體紀に馬來田皇女《ウマクタノヒメミコ》の御名あり、天武紀上云、大伴|連《ムラジ》馬來田《ウマクタ》、同紀下云、十二年六月丁巳朔己未(ノヒ)、大伴連|望多《ウマクタ》薨、此大伴連の名初は馬來田後は望多とあるも名づかれたる由は知らねど、今の宇麻具多は望※[こざと+施の旁]なる證とは成べし、和伎奈姿は我來なばなり、來なばとは歸らばの意なり、さゝ葉の露霜の寒きに打たれて我歸らば汝は戀むぞとなるべし、落句は其比吾妻の俗語なる故に、慥には意得がたし、
 
初、うまくたのねろの 繼體紀云。馬來田《ウマクタノ》皇女。天武紀云。大伴(ノ)連馬來田。又云。十二年六月丁巳朔己未、大伴連|望多《ウマクタ》薨《ミウセヌ》。これともに此所とおなし名にや。ぬれてわきなはとは、ぬれてわれきなはとも、ぬれてわけなはともきこゆ。なはこふはそもは、なんちはこひむそといふにや。この心はかへるとてさゝはを分るなり。伊勢物語に秋の野のさゝわけし朝の露よりもとよめるかことし。又ぬれてわかくることは汝をこふれはそといふにや。吾妻の詞にてたしかに心得かたし
 
3383 宇麻具多能禰呂爾可久里爲可久太爾毛久爾乃登保可婆奈我目保里勢牟《ウマクタノネロニカクリヰカクタニモクニノトホカハナカメホリセム》
 
可久里爲は隱れ居なり、是は古語なり、顯宗紀に老女|置目《オキメ》が故郷へ歸るに賜ひたる御歌にもみ山がくれてと云事を彌野磨我倶利底《ミヤマガクリテ》とよませ給へり、登保可婆は遠からば歟、可と久と五音通ずれば遠くば歟、奈我目は汝が目なり、
 
 初、うまくたのねろにかくりゐ うまくたのみねにかくれゐなり。かくりは東俗の語のみにもあらす。此集に猶見えたり。くにのとほかはゝ、國のとほくはなり。又とほからはともきこゆ
 
右二首上總國歌
 
(27)3384 可都思加能麻末能手兒奈乎麻許登可聞和禮爾余須等布麻末乃?胡奈乎《カツシカノママノテコナヲマコトカモワレニヨストフママノテコナヲ》
 
和禮爾余須等布は我によすと云なり、眞間ノ手兒奈は名高きかほよき女なるを、我をそれによそへて云は誠にや。假にもさる佳麗の人によせて云は我を思ふにやと女の心に憑みてよめるなり、
 
初、かつしかのまゝのてこなを 眞間娘子かことは第三第九の長哥に見えたるかことし。われによすとふはわれによせていふなり。いにしへの眞間のてこなは名高きかほよき人なるを、まことにや我をそのてこなによせていふはとなり。女の哥なり。さるかほよき人によそへていふは、まことの心ならは我をふかく思ふらんとたのむ心なり
 
3385 可豆思賀能麻萬能手兒奈家安里之可婆麻末乃於須比爾奈美毛登杼呂爾《カツシカノママノテコナカアリシカハママノオスヒニナミモトトロニ》
 
手兒奈家、【幽齋本、家作v我、】
 
家は我に作るべし、於須比は礒邊なり、此歌は右の歌よめる女の同じく讀て二首にて心を云ひ盡す歟、昔眞間娘子が有しかば礒邊に依り來る浪のとゞろに聞ゆる如く人の云ひかゝりてさわぎつれば、我は彼娘子に似る程の女にはあらねど、とかく云人もあるべけれど二心あらむと思ふなの心なるべし、然らざれば唯眞間娘子を(28)よめる雜歌にして相聞にあらず、
 
初、かつしかのまゝのてこなか まゝのおすひはまゝのいそへなり。さきにおしべといへるにおなし。浪もとゝろには上に瀧もとゝろにといへることく、いそへによる浪の音のことく、おもひかけていひさはく人のおほきなり
 
3386 爾保杼里能可豆思加和世乎爾倍須登毛曾能可奈之伎乎刀爾多?米也母《ニホトリノカツシカワセヲニヘストモソノカナシキヲトニタテメヤモ》
 
袖中抄に此歌を出して發句を保と比と同音なれば通ひて新取《ニヒトリ》と云なりと注せるは速《ト》く出來る稻をわせと云へばそれを苅取を云と意得られたるか、此は僻事なり、奧義抄も同じ義なり、にほ鳥は能潜ぐ物なれば潜ぐと云意にかつしかと云はむとておけるなり、是仙覺注の義にて正義と云べし、爾倍須登毛は袖中抄云、ゐなかに初て早稻を苅て物して里となりの者集りてくふをばニヘストモと云なり、ニヘスと云はくひ物に付たる名なり、おほやけに奉る物をも御贄《ミニヘ》と云、又私に食物する所をも贄殿と云但にへは多くは魚に事よりたる名なめり、魚入れたる桶をばにへをけと云、にへどのと云もしるあはせなどする所なり、飯する所をば大炊殿《オホヒドノ》とこそ申めれ、さはあれどくひ物にことは似たればそのにへに通はむも違ふべからず、其にへの時に來たる人をば内へは入れねばさる時なりとも君が使をば入れてむとよめ(29)るなり、委しくは無名抄にあればかゝず、無名抄云、にへすともと云へるは春田作らむとする時によろづに物よき人の障なきをいくたりとも數を定て家に呼集めてたぶるに隨がひて物をくはせ饗應して年木と云物を切らせて家のうしろの園に立るなり、其木は細長なり、木の枝もなきを切てさきに小さき瓶に水を入れておとろと云へる物を具してさきに結《ユヒ》付て家のしりへにたてゝ其年の秋作りたる田を初て刈て春きりしにへの人々を集めて門をさし竪めて障の出來ぬさきにおものにしてくひのゝしろなり、其程に來る人はいかにもあひことをだにもせざるなり、たとへば年久しく田舍などに有つる親のめづらしく上りで是あけよとて叩き立てるをもいれぬなり、さらむ折なりとも君が使をばかへさで呼入れむと心ざしあるさまをよめるなり、私云年木は賀茂の小屋どもにぞ家毎に立て侍る松の細くて二丈ばかりが枝もぎで末ばかりに葉つきたるにてぞ侍る、かめなど付たりとは見えず、今按俊頼も顯昭も曾能可奈之伎乎と云へるを使と意得られたるは誤なり、カナシキとはかなしく思ふ人をやがてかく云へり、下にも見えたり、今は夫を指て云へり、古事記に輕太子歌云、宇流波斯登佐泥斯佐泥弖婆《ウルハシトサネシサネテハ》云々、是もうるはしと思ふ人をやがてうるはしととよみたまひたれば准らへて知べし、奥義抄に此時に來る人(30)をば内へも入れねども君來たらば外《ト》に立むやはとよめるなりと有はよし、家特集に吾宿の早田《ワサタ》刈あげてにへすとも君が使をたゞにはやらじ、是は似て別なり、又贄をにへと云は凡そおほやけに物を奉るを云歟、左傳云、男贄(ハ)大者玉帛小者禽鳥、女贄(ハ)不v過2榛栗束脩(ニ)1、日本紀には苞苴をもニヘとよめり、今按此等のにへ〔二字右○〕にはあらでにはすとも〔五字右○〕と云べきを波と倍と同音なればにへすとも〔五字右○〕と云歟、神代紀云、當新甞時《ニハナヒキコシメストキニ》、私紀云、問新甞之義如何、答新甞者是新穀既(ニ)熟(シテ)乃後饗甞也、謂2之爾波1也、今加(ルハ)2奈比之辭1者是師説(ニ)之所2讀加1也、即是會之義也、言是新甞之會(ナリ)、これに准らへて知べし、又は新饗の中を略したる謂歟、下に爾布奈未爾とよめるも是なり、袖中抄に防人が歌とかきたるは誤なり、
 
初、にほとりのかつしかわせ にほ鳥のかつくといふ心につゝけたり。かつしかわせはむろのはやわせなといふたくひに名をえたる種なり。にへすともとは、田舎には田つくる時やとひたる人々をあつめてはしめて刈たる稲にて贄《ニヘ》をして饗《キヤウ》するなり。その日は門をさしてさはりの出來ぬさきにくひのゝしるなり。此時にくる人をはうちへもいれねとも君かきたらはそとにたゝしめむやは、よひこそいれめとなり。下に
  誰そ此家の戸おそふるにふなみにわけせをやりていはふ此戸を
此にふなみも贄次《ニヘナミ》なるへし。たかひににへをすれはいふにこそ。又家持家集の哥に
  わかやとの早田刈あけてにへすともきみかつかひをたゝにはやらし
 
3387 安能於登世受由可牟古馬母我可都思加乃麻末乃都藝波思夜麻受可欲波牟《アノオトセスユカムコマモカカツシカノママノツキハシヤマスカヨハム》
 
可都思加、【幽齋本、都作v豆、】
 
發句は足の音せずしてなり、麻末乃都藝波思はつぎてやまず通はむとつゞくる意なり、
 
初、あの音せすゆかんこまもか あの音はあしの音なり。馬のあしをとを、しのふわたりにわひて、音せさらん駒もかなとねかふなり。まゝのつきはしは、それをわたりてかよふ道なから、つきてやますかよはんの心にいへり
 
(31)右四首下総國歌
 
3388 筑波禰乃禰呂爾可須美爲須宜可提爾伊伎豆久伎美乎爲禰?夜良佐禰《ツクハネノネロニカスミヰスキカテニイキツクキミヲヰネテヤラサネ》
 
忍びに通ひ來たる男の歸りねとやらへど霞の筑波根に居たる如くして過がてにて息をつぎ居るをあはれと思ひて寢て還しやらむなどよめるなり、爲禰?は爲は率なり、ゐて入て寢るなり、伊禰?と云には同じからず、神代紀下、彦火火出見尊御歌に軻茂豆句志磨爾《カモツクシマニ》、和我謂禰志《ワガヰネシ》、伊茂播和素邏珥《イモハワスラジ》、此謂彌志も今と同じ、又古事記に雄畧天皇の御歌にも多斯美※[こざと+施の旁]氣《タシミダケ》、多斯爾波韋泥受《タシニハヰネズ》とよませ給へるは不2率寢1なり、此卷下にも爲禰?己麻思乎《ヰネテコマシヲ》とよみ、第十六にも吾率宿之童女《ワガヰネシウナヰ》とよめり、夜良佐禰は禰は奈と通ずればやらさなにて佐はそへて云詞なればやらむなゝり
 
初、つくはねのねろに霞居 過かてにとは筑波根にゐる霞のはれやらぬに妹かあたりを行過かぬるをかねていへり。ゐねてやらさねはいねてやれよとなり。いねてを爲禰※[氏/一]とかけるは東哥にて聲に輕重あるゆへなるへし。此哥は女のもとにおとこのきてとかくいひわひて外に立なからえ過やらぬを、かたへの女なとの見てあはれみてよひいれていねてやれとよめるにや
 
3389 伊毛我可度伊夜等保曾吉奴都久波夜麻可久禮奴保刀爾蘇提婆布利?奈《イモカカトイヤトホソキヌツクハヤマカクレヌホトニソテハフリテナ》
 
(32)第二の句は彌遠退《イヤトホゾキ》ぬなり、此は女の許より歸る道にてよめるなり、
 
初、妹かかといやとをそきぬ いよ/\とほのきぬなり。袖はふりてなは振てむなゝり。わかれて歸るおとこの哥なり
 
3390 筑波禰爾可加奈久和之能禰乃未乎可奈岐和多里南牟安布登波奈思爾《ツクハネニカカナクワシノネノミヲカナキワタリナムアフトハナシニ》
 
奈岐、【幽齋本、岐作v伎、】
カヾナクは和名集云、文選蕪城賦云、寒鴟嚇雛《コヾエタルトビカヾナクヒナニ》【嚇讀2加加奈久1、】莊子(ニ)云、於是鴟得2腐鼠1、※[宛+鳥]雛過v之仰而視v之|曰嚇《コヽニカヾナク》、玉篇云、以v口距(ム)v人謂2之嚇1、
 
初、つくはねにかゝなくわしの 第九の長哥にもわしの住つくはの山といへり。かゝなくは和名集云。嚇【呼格反。加加奈久。】。莊子云。於是鴟得2腐鼠(ヲ)1・※[宛+鳥]雛過v之。仰而視(テ)之|曰嚇《コヽニカヽナク》。文選鮑明遠(カ)蕉城(ノ)賦(ニ)云。寒《コイタル》鴟|嚇《カヽヤク・カヽナク》v雛《ヒナニ》。鳥のえなとはむ時、こと鳥にうはゝれしとするによりてなくをいへり。嚇雛といふもこゞえたるとひなれは、ひなのあまたゐよりてえをこふを、うるさくおもひていさふやうになくをいへり
 
3391 筑波禰爾曾我比爾美由流安之保夜麻安志可流登我毛左禰見延奈久爾《ツクハネニソカヒニミユルアシホヤマアシカルトカモサネミエナクニ》
 
安之保夜麻は仙覺抄に新治郡にありと云へり、葦穗の山の名を承てアシカルとつゞけたり、左禰は眞實になり、歌の意は筑波禰に眞實には何のあしかるとがも見えぬに如何なる心にて葦穗山の向ひてもあらずして背向《ソガヒ》には見ゆらむと云へるは、我には何の咎もなきを如何なる恨みに妹が打背きて見ゆらむとよせて云なり、落(33)句の意表は山の上を云へりと見えたり、第七に辟竹之背向爾宿之久《サキタケノソガヒニネシク》とよみ、此卷末に山菅の背向に寢しくとよめるも恨こと有折のしわざなり、
 
初、つくはねにそかひにみゆる つくは山とあしほ山とは、いもせの山のやうにさしむかはすして、そむきてみゆれは、それによそへて、何事にかあらん。我をうらむやうにておもてをむかへぬ時、あしほ山といふをうけて、あしくあるとかもなきに、なとふたつの山のことくそむきてはあるそといふなり。あしかるとかとは、ちきりをたかふるやうの心なり。さね見えなくには、まことに見えなくになり。此卷のはてに
  かなし妹をいつちゆかめと山菅のそかひにねしく今しくやしも
今の哥のそかひも此心なり
 
3392 筑波禰乃伊波毛等杼呂爾於都流美豆代爾毛多由良爾和家於毛波奈久爾《ツクハネノイハモトトロニオツルミツヨニモタユラニワカオモハナクニ》
 
和家、【幽齋本、家作v我、】
 
上句は陽成院の筑波禰の嶺より落るみなの川とよませ給へるに同じ、落る水とは瀧なり、古今集に躬恒がひえの山なる音羽の瀧を見て世を經て落る水とよめり、六帖水の歌に今の歌を入れて又てる日の歌に筑波根のいはもとゞろに照日にも我袖ひめや妹にあはずてと云を載たり、照日を石もとゞろにとよめるはいまだ其意を得ず、
 
初、筑波根の岩もとゝろに わげはわがなり。つくはねよりいはほもとゝろきておつる水の代をへてもたえぬことく、君にも絶んやうにはわかおもはぬとなり。おつる水とは瀧なり。古今集に、みつねかひえの山なるおとはのたきをよめる哥
  風ふけと所もさらぬ白雲はよをへておつる水にそ有ける
陽成院のつくはねのみねよりおつるみなの川とある御製も、今の哥をもてあそはしけるにや。又六帖にてる日
  つくはねのいはもとゝろにてる曰にもわか袖ひめやいもにあはすて
 
3393 筑波禰乃乎?毛許能母爾毛利敞須惠波播巳毛禮杼母多麻曾阿比爾家留《ツクハネノヲテモコノモニモリヘスヱハハコモレトモタマソアヒニケル》
 
(34)毛利敞須惠は守部居にて山守を置なり、山守を借て下句を云なり、波播己毛禮杼母は兩義あるべし、一つには母が娘を守れどもなり、二つには毛と牟と通ずれば母雖隱《ハヽコムレドモ》にて母が守りて深き閨にこもらせおけどもなり、落句は二人の心の相叶て相見るなり、第十二に靈合者相宿物乎《タマアヘバヒヌルモノヲ》云々、此意なり、
 
初、つくはねのをてもこのもに おちもこのもなり。上にもあしからのおてもこのもとよめり。もりへは山もりなり。第十八にもやきたちのとなみのせきにあすよりはもりへやりそへ君をとゝめんとよめり。はゝこもれともは、母は子をもれともなり。玉そあひにけるはも、ろともに心のあひかなふなり。第十二に
  玉あへはあひぬるものを小山田のしゝ田もることはゝしもらすも
又母こもれともは、母雖v隱《ハヽコモレトモ》にて、はゝかふかきねやにこめおくにも有へし
 
3394 左其呂毛能乎豆久波禰呂能夜麻乃佐吉和須良許波古曾那乎可家奈波賣《サコロモノヲツクハネロノヤマノサキワスエコハコソナヲカケナハメ》
 
許婆古曾、【幽齋本、波作v婆、】
 
初の二句は狭衣の紐を著と云意につゞけたり、仙覺抄に緑兒の衣には帶を著たればといへるは誤なり、緒は紐緒とも云ひて紐なり、第十二に人妻《ヒトツマ》に云は誰言狹衣の此紐解けと云はたが言とよめるを思ふべし、仙覺云、筑波山に二つの峰あるに西の方なるを小筑波と云と云へり、山のさきを來るに汝を忘られ來らばこそ言にもかけざらめとなり、
 
初、さころものをつくはねろの 衣にひものをゝつくるといふ心につゝけたり。わすらゑこはこそは、わすられてきたらはこそなり。なをかけなはめはなんちを心にかけすあらめなり
 
3395 乎豆久波乃禰呂爾都久多思安比太欲波佐波太奈利努乎(35)萬多禰天武可聞《ヲツクハノネロニツクタシアヒタヨハサハタナリヌヲマタネテムカモ》
 
都久多思は吉と久と同音、知と志と同韻にて通ずれば月立にて月の立のぼるなり、安比太欲波は相たる夜はなり、佐波太奈利努乎は禮と利と同音にて通ずれば狹膚《サハダ》馴ねをなり、膚を觸て能も馴ぬ間に明れば起別るとて又寢る夜もあらむかとなげく意なり、筑波山よりは西なる人のよめるにや、
 
初、をつくはのねろにつくたし 月立なり。月の高く出たるなり。あひたよは、長流か抄にいはく、あひしよりはなり。今案逢たる夜はなり。さはたなりぬを、長流が抄云。おほくなりぬるをなり。今案さはたなれぬをなり。さはよろつに付ていふ詞、はたは膚なり。はたをふれてなるゝまもなく、わかるゝなり。又ねてむかもは、又あひてねてむかもなり
 
3396 乎都久波乃之氣吉許能麻欲多都登利能目由可汝乎見牟左禰射良奈久爾《ヲツクハノシケキコノマヨタツトリノメユカナヲミムサネサラナクニ》
 
之氣吉許能麻欲は欲はよりなり、目由可は目にかなり、從の字を由《ユ》とも爾《ニ》ともよめるを思ふべし、滋き木の間より立鳥は暫の程も物越にて能も見ぬ心なり、落句はさねざらなくににて寢ざるになり、奈は助語なり、此樣の詞上にも多かり、
 
初、をつくはのしけきこのまよ 木の間よりなり。めゆかなをみんは、めよりかなんちをみむなり。さねさらなくには、これ常の哥にてはさねすはあらぬにといふ心なり。されと今はさねさるにといふ詞なり。第一之廿九葉第三之四十七葉第四之十五葉第十五之三十二葉に此てにをは有。上にもすてに注せり。しけきこのまよ立鳥のめゆかなをみんとは、しけきこのまより立鳥はさたかにも見す立鳥なれは、久しくもみぬ心なり
 
3397 比多知奈流奈左可能宇美乃多麻毛許曾比氣波多延須禮阿杼可多延世武《ヒタチナルナサカノウミノタマモコソヒケハタエスレアトカタエセム》
 
(36)仙覺云、常陸の國に奈佐可の海と云は何處《イヅク》にあるぞと年|來《ゴロ》あまたの人に尋ぬれどもすべて知たる人なし名をだにもきかずとなむ申す云々、又云、常陸の鹿嶋の崎と下總の海上《ウナカミ》とのあはひより遠く入たる海あり末は二《フタ》流なり、風土記には此を流海《ナカレノウミ》とかけり、今の人は内の海となむ申す、其海|一《ヒト》流は北の方鹿嶋の郡南の方|行方《ナメカタノ》郡との中に入れり、一《ヒト》流は北の方|行方《ナメカタノ》郡と下總の國の境を經て信太《シタノ》郡|茨城《ウバラキノ》郡までに入れり云々、六帖にはあさかのうらのとあり、海には浦も有べし、阿と奈とは同韻にて通ずれば津の國の奈呉の海を阿胡の海ともよめる如く奈左可の海を阿左可の海とも云べし、和名集を見るに茨城郡に佐賀郷あり、若奈左可を上略してこれなどにや、阿杼可はなどかなり、
 
初、ひたちなるなさかの海の あとかはなとかなり
 
右十首常陸國歌
 
3398 比等未奈乃許等波多由登毛波爾思奈能伊思井乃手兒我許登奈多延曾禰《ヒトミナノコトハタユトモハニシナノイシヰノテコカコトナタエソネ》
 
波爾思奈は埴科にて信濃國の郡の名なり、
 
初、ひとみなのことはたゆとも はにしなは埴科郡なり。石井の手兒とはみつからのことをいへるなるへし。長流か抄には眞間娘子かたくひにかきたれと、本據なけれはたゝみつからの上をいへり
 
(37)3399 信濃道者伊麻能波里美知可里婆禰爾安思布麻之牟奈久都波氣和我世《シナノイハイマノハリミチカリハネニアシフマシムナクツハケワカセ》
 
伊麻能波里美知は今の治《ハリ》道なり、第十二に新治今作路《ニヒハリノイマツクルミチ》とよめるが如し、元正紀云、和飼七年閏二月戊午(ノ)朔賜2美濃守從四位下笠朝臣麻呂封七十戸田六町(ヲ)1以(ナリ)v通2吉蘇路1也、此歌よめる比は今の治道と云べし、可里婆禰は留と里と思じ爾と禰と通じて輕埴なり、埴の輕きは上《ウハ》なめりし泥《ヒチリコ》の足に痛く黏《ツク》なり、古事記|衣通《ソトホリノ》王の歌に那都久佐能《ナツクサノ》、阿比泥能波麻能《アヒネノハマノ》、加岐賀比爾《カキカヒニ》、阿斯布麻須那《アシフマスナ》、阿加斯弖杼富禮《アカシテトホレ》、
 
初、信濃路はいまのはり道 今あらたにつくれる道なり。第十二ににひはりの今つくるみちとよめるにおなし。かりはねには輕埴《カルハニ》にいへるなるへし。今も田舍の土おほくはかろくうきて、雨なとふれは池のうきつちのことくなるなり。されは今つくれる道はふみもかためねは、ふみこみて足もよこるれは、さるみちをすあしにてふみてなきそ。くつをはきて用意してこよとなり。長流か抄にかりはねは刈たる草木の根の殘たるなりとかけり。いつれかいはれて侍らん
 
3400 信濃奈流知具麻能河泊能左射禮思母伎彌之布美?婆多麻等比呂波牟《シナノナリチクマノカハノササレシモキミシフミテハタマトヒロハム》
 
和名集云、筑摩《ツカマ》【豆加萬、】郡、天武紀には束間《ツカマ》ともあり、豆と知と加と具と共に同音にて通ずれば知具麻は豆加萬に同じ、伎彌之の之は助語なり、布美?婆は蹈たらばの意なり、君は夫を指すなり、
 
初、信濃なるちくまのかはの 彼國に筑摩郡あり。さゝれしは細石なり。君しふみては玉とひろはむとは、君かふみたりとたにおもはゝさゝれ石をも愛して玉とおもひてひろはむとなり。第四にもさほ川のさゝれふみわたりとよめり
 
(38)3401 中麻奈爾宇伎乎流布禰能許藝?奈婆安布許等可多思家布爾思安良受波《ナカマナニウキヲルフネノコキテナハアフコトカタシケフニシアラスハ》
 
中麻奈は信濃の地の名、何の郡にありと云事を知らず、家布爾思のし〔右○〕は助語なり、
 
初、中まなにうきをる舟 なかまなは所の名なるへし。これによりて信濃の國の哥とさたむれはなり
 
右四首信濃國歌
 
3402 比能具禮爾宇須比乃夜麻乎古由流日波勢奈能我素低母佐夜爾布良思都《ヒノクレニウスヒノヤマヲコユルヒハセナノカソテモサヤニフラシツ》
 
日ノ晩ニとは、景行紀にうすひの坂を碓日坂とあれば夕日の光の薄きと云意につゞけたり、夕陽の山に舂《ウスツク》と云事もあれば碓の字にもかゝるやと思ふ人も有べけれどひなくもりうすひともあれば薄日の意なり勢奈能はせなゝなり、
 
初、ひのくれにうすひの山を 第二十筑紫防人か哥には、ひなくもりうすひの坂とよめり。かれは日のくもりて日かけのうすき心につゝけたり。これは日のくるゝ時に光のうすき心なり。和名集には碓氷郡とかき、日本紀には碓日坂とかけり。さやにふらしつはさやかにふりつなり
 
3403 安我古非波麻左香毛可奈思久佐麻久良多胡能伊利野乃於父母可奈思母《アカコヒハマサカモカナシクサマクラタコノイリノノオフモカナシモ》
 
(39)久佐麻久良多胡能と連ねたるは多胡の多のひともじを旅の心につゞくるなり、第八に玉匣蘆城《タマクシゲアシキ》河とつゞけ、第十二に垂水之水能早敷八師《タルミノミヅノハシキヤシ》とつゞけたる類なり、多胡は上野國の郡の名なり、和名集云、多胡、【胡音如v呉、】元明紀云、和銅四年三月辛亥、割(テ)2上野國(ノ)甘良《カムラノ》郡(ノ)織裳《オリモ》、韓級《カラシナ》、矢田《ヤタ、大家《オホヤケ》、緑野《ミドノ》郡(ノ)武美、片岡郡(ノ)山宗《ヤマナ》等六郷1別置2多胡郡1、於父は、父と久と同韻にて通ずれば於久なり、或は久を誤て父に作れるも知べからず、多胡の入野は深く入たる野にて名付たる歟、さて假て於父母可奈思母とはよめるなるべし、
 
初、あかこひはまさかもかなし まさかもかなしとは、さしあたりたる所も切に思はるゝなり。草枕たこのいり野とつゝけたるは、野には草を枕としてぬる故にかくつゝけたりといへと、今案第八に玉くしけあしきの川とつゝけたるは、明るといふ心にうけたれは、今もたもしひとつを旅の心に、草枕旅とつゝけたるなるへし。おふもかなしもは、おくもかなしきなり。布と久と同韻にて通せり。もしは父は久の字のあやまれる歟。たこの入野といへは、奥ふかき野ときこゆれは、心のうはへもそこもみな人をねんころにおもふよしにかくはよめり。多胡は上野にある郡の名なり。和名集云。多胡【胡(ノ)音如v呉】郡。績日本紀第五、元明紀云。和銅三年三月辛亥割(テ)2土野國(ノ)甘良《カムラ》郡(ノ)織裳《オリモ》、韓級《カラシナ》、矢田、大家、緑野《ミトノ》郡(ノ)武美、片岡郡(ノ)山《・前後恐脱一字》等六郷(ヲ)1別(ニ)置2多胡(ノ)郡(ヲ)1
 
3404 可美都氣努安蘇能麻素武良可伎武太伎奴禮杼安加奴乎安杼加安我世牟《カミツケノアソノマソムラカキムタキヌレトアカヌヲアトカアカセム》
 
下野には安蘇郡あれど上野には何れの郡に安蘇と云所の有にか和名集には見えず、麻素武良は眞麻村《マソムラ》なり、可伎武太伎は掻|抱《イダキ》なり、日本紀に抱の字をムタクと點ぜり、麻を刈てはいだきはかりつゝたばね置て、それを取運ぶには大きなれば輙も得とらで、伏て掻抱けばよそへよめり、掻抱て寝れども猶飽事を飽足らぬやうなれば此上は何とか我が爲むとなり、
 
初、かみつけのあそのまそむら まそむらは眞麻村なり。かきむたきはかき抱なり。眞麻を刈てたはねてかきいたくことくに、妹をいたきてぬるよしなり。下野に安蘇郡あれと、これは上野なれはそこにはあらぬなり。欽明紀云。調(ノ)吉士伊企儺〇由v是見v殺(サ)。其子舅子亦|抱《ムダカヘテ》2其父(ヲ)1而死。秘府論七言三平聲例出句(ニ)云。相抱(テ)長(ナヘニ)眠(テ)不v願越(ンコト)1。あとかあかせんとは何とか我せんなり。古今集に
  おもふよりいかにせよとか秋風になひくあさちの色ことになる
  心をそわりなき物とおもひぬるみるものからやこひしかるへき
 
(40)3405 可美都氣努乎度能多杼里我可波治爾毛兒良波安波奈毛比等理能未思?《カミツケノヲトノタトリカカハチニモコラハアハナモヒトリノミシテ》
 
或本の歌に依るに乎野は和名集に甘樂郡|緑野《ミドノ》郡に共に小野《ヲノ》【乎乃】郷あり、度と乃と同韻にて通ずれば乎度も乎乃なるべし、可波治は河路なり、第十の七夕歌にもよめり、安波奈毛はあはなむなり、
 
初、かみつけのをとのたとりか 或本歌にはをのゝたとりかあはちといへり。あはちもかはちにて、河路なり。をのは和名集に緑野郡に小野郷を出せり。登と能と同韻なれは、をと、をの、通する歟。たとりも川の名にや。こらはあはなもはあはなんなり
 
或本歌曰|可美都氣乃乎野乃多杼里我安波治爾母世奈波安波奈母美流比登奈思爾《カミツケノヲノヽタトリカアハチニモセナハアハナモミルヒトナシニ》
 
安波治は安と可と同韻にて河路道なり、
 
3406 可美都氣野左野乃九久多知乎里波夜志安禮波麻多牟惠許登之許受登母《カミツケノサノノククタチヲリハヤシアレハマタムヱコトシコストモ》
 
發句の野は今按音に讀べし、九九多知は和名集云、唐韻云、※[草がんむり/豐]【音豐、和名久久太知、俗用2莖立二字1、】蔓菁(ノ)苗(41)也、拾遺集物名に、くゝだちを、山高み花の色をも見るべきににくゝ立ぬる春霞かな、乎里波夜志は今年の莖立を人を待つ設に折て又來年の莖立をはやすなり、第十一に穗蓼古幹採生之《ホタテフルカラツミハヤシ》とよめるが如し、第四の句は惠と與と同韻なれば我はまたむよなり、或はあなにゑやよしゑやしなどのゑ〔右○〕は助語なれば今も助語にや、
 
初、かみつけのさのゝくゝたち 和名集云。唐韻云。〓【音豐和名久久太知俗用2莖立二字1】蔓菁(ノ)苗(ナリ)也。拾遺集物名くゝたち、すけみ
  山高み花の色をもみるへきににくゝたちぬるはるかすみかな
あれはまたんゑは、我はまたんよなり。をりはやしは見はやすもてはやすなといふかことし。ことしこすとも來年まても待てきだにせはさのゝくゝたちを折はやして君をもてなさんとなり。第十一に
  わかやとのほたてふるからつみはやし實になるまてに君をしまたん
 
3407 可美都氣努麻具波思麻度爾安佐日左指麻伎良波之母奈安利都追見禮婆《カミツケノマクハシマトニアサヒサシマキラハシモナアリツヽミレハ》
 
仙覺云、※[窗/心]はあかりのためなれば垣壁のなからより上によりてしたるがよければ上野のまくはし※[窗/心]とよそへつゞけたり、今按此説然るべしともおぼえねど國の名を擧て郡郷以下をも云はずしてまくはし※[窗/心]とつゞけたるはさる意にもやあらむ、マクハシとは※[窗/心]をほむる詞なり、朝日の指て羞明《マバユキ》を紛らはしもなどは云へり、遊仙窟云、雲母《・キラヽ》餝(レル)v※[窗/心]玲瓏(ト)、宋玉神女賦云、其始來|耀(タルコト)乎《・テルトキ》若3白日初(テ)出照2屋梁1、詳(ニシテ)而視(ハ)v之奪2人目精1、落句は程ありて見れば彌まばゆきまで人の形のきら/\しき意なり、
 
初、かみつけのまくはしまとに 第十三に朝日なすまくはしもゆふひなすうらくはしもとよめり。日本紀にまくはしひめといふに眼妙《マクハシ》姫とかけり。十三にも目細《マクハシ》とかけり。朝日のさすまとはてりかゝやきてみることのうるはしきをかくはいへり。遊仙窟曰。雲母《・キラヽ》(ノ)餝(レル)v※[窗/心](ヲ)玲瓏《・テリテ》(ト)映《カヽヤク》v日(ニ)。文選宋玉神女賦云。其始(テ)來也耀(タルコト)乎若(シ)3白日(ノ)初(テ)出(テヽ)照(スカ)2屋梁(ヲ)1。〇詳而視(レハ)v之(ヲ)奪(フ)2人(ノ)目精(ヲ)1。まきらはしもなは朝日に向ふことのまはゆきによりえ向はぬことく、人もあり/\てみれは、かたちもてりかゝやくやうなるをいへり。羞明といふことく、目に嫌はしきといふ心なり。神武紀に眩の字をまきえてとよめるもこれに通すへし。上野といひて郡をも郷をもいはてまくはし窓といへるは、あら玉のきへか竹垣といへるたくひなり。ありつゝみれはゝ第十にも
  石はしのまゝにおひたるかほ花の花にし有けりありつゝみれは
 
3408 爾比多夜麻禰爾波都可奈那和爾余曾利波之奈流兒良師(41)安夜爾可奈思母《ニヒタヤマネニハツカナナワニヨソリハシナルコラシアヤニカナシモ》
 
可奈思母、【幽齋本、母作v毛、】
 
新田は郡の名なり、禰爾汝都可奈那は久と可と同音なれば根には付なとなり、後の那は助語なり、此は雲とは云はざれども夫を山によそへ女を雲によそへて云へるなり、次の歌より初て此卷下にも其意によめり、腰句は我に依なり、波之奈流は間の字をはしとよめり、第二卷に注せしが如し、師は助語なり、歌の意は新田山の雲の嶺に付如く夫を定めて高き山とな仰ぎそ、我に心を依せて此方とも彼方とも得定めずある女の心のあはれなるとなり、此は我妻とは得すまじき女の人の妻と成ぬべきがたゞよひてある程の事なり、
 
初、にひた山根にはつかなゝ 彼國に新田郡あり。ねにはつかなゝは嶺にはつくなゝり。上のなは莫なり。下のなは付たる字なり。わによそりはわれによそりなり。よそりはよるなり。第四にかすかのゝ山への道をよそりなくとよみ、此下にいさよふ雲のよそりつまはもともよめり。はしなるははしたなるなり。哥の心は新田山の根に雲のつかぬことく、こらも人の手にさたまりてなつきそ。われに心をよせて親のあはせんとするおとこにもつかすして、はしたなるやうにて居たるかねんころにかなしきとなり。はしは下にもひとめをおほみ汝をはしにおけれとよめり。古今集高津内親王の、はしにわか身はなりぬへらなりとよませたまへるも、皆はしたなり
 
3409 伊香保呂爾安麻久母伊都藝可奴麻豆久比等登於多波布伊射禰志米刀羅《イカホロニアマクモイツキカヌマツクヒトトオタハフイサネシメトラ》
 
伊香保は延喜式云、群馬郡伊加保神社、下に伊香保禰とよめり、天雲伊續とよめれば伊香保嶺なり、伊は發語の詞なり、可奴麻豆久は彼眞附《カノマツク》なり、彼とは、上の雲を指す、眞(43)附は眞は萬つに眞實なるに付る詞なり、雲の山に附如く夫に附依る女とつゞくる意なり、比等登は曾と登と同韻にて人ぞなり、下に此に似たる歌の殊に下の三句同じきあり、それにはやがて比等曾と云へり、比等は女なり、於多波布は穩にて居るを云豫、光仁紀に藤原永手朝臣の薨ぜられし時の詔に宇之呂輕意《オ》太比念而云々、此意太比と同じかるべし、落句は去來《イサ》寢《ネ》よと、云意歟、女の許に通ふに伊香保根に續て雲の附如く我に附心にや、いざねよとて女の打もさわがず穩にてあるとよめる歟、
 
初、いかほろにあま雲いつき 延喜式云。群馬郡伊加保神社【名神大。】しかれはいかほの沼も群馬郡なり。東俗のことは濁音おほけれは保の字を菩のことくにいへり。あま雲は天雲なり。いつぎはいは發語のことはつきは繼て居るなり。かぬまつくは彼眞附《カノマツク》なるへく聞ゆ。下にいたりて
  いはのへにいかゝる雲のかぬまつく人そおたはふいざねしめとら
  高き根に雲のつくのすわれさへに君につきなゝ高根ともひて
ひとゝおたはふは、人そのたまふなるへし。乃と於と同韵なり。ひとゝのともしもそと同韵なれは人そのたまふなるへし。すなはち下の哥は人そといへり。いさねしめとらはいさ寝しめよとなり。らはろとおなしく助たる詞なり。第五卷に山上憶良の子をうしなへる時の長哥に、夕つゝのゆふへになれはいさねよと手をたつさはりといへり。天雲のいかほの山に繼て立ことく、彼《カノ》我にまことに託依《ツキヨル》人そ、いさ寝しめよとのたまふといへるなるへし
 
3410 伊香保呂能蘇比乃波里波良彌毛巳呂爾於久乎奈加彌曾麻左可思余加婆《イカホロノソヒノハリハラネモコロニオクヲナカネソマサカシヨカハ》
 
蘇比は川そひ柳などよめるそひなり、傍の字の意なり、岨《ソバ》と云も同じ詞歟、波里の木の根と承てねもごろにとつゞく、於久乎奈加禰曾は奥を莫《ナ》懸《カケ》そなり、奥は行末なり、麻左可思の思は助語ながらまさかさへの意あり、余加婆はよからばを略せる歟、加と久と同音なれば余久婆とよめる歟、指當りて憑もしくよきを置て餘りに知らぬ(44)行末を如何ならむと思ひはかれば心の安き事なし、唯まさかしよくば行末は任せてをあれとなり、
 
初、いかほろのそひのはり原 下にも此二句あり。そひは傍なり。川そひ柳なといふかことし。山の岨《ソハ》といふも山にそひてかたはらを行やうの所をいへは、もとはおなしことはなるへし。はり原は榛といふ木のしけみなり。ねもころのねもしを根にいひなしてつゝくる序なり。おくをなかねそは行すゑをなかけそとなり。まさかしよかはゝまさかしよくはなり。まさかはさしあたりたる所をいへり。上にまさかもかなしおふもかなしもといへるもこれなり。さしあたりたる所のまことありてたのもしきを置て、しらぬゆく末をあならんとかねてうたかへは、心のやすきことなし。遠慮なけれは禍床下よりおこるならひなれと、それもほとよくはからふへきことなれは、此哥は世の教ともなりぬへし
 
3411 多胡能禰爾與西都奈波倍?與須禮騰毛阿爾久夜斯豆之曾能可把與吉爾《タコノネニヨセツナハヘテヨスレトモアニクヤシツノソノカホヨキニ》
 
斯豆之、【官本、斯作v新、點云、シツシ、】  可把、【官本、把作v抱、】
 
ヨセツナは寄綱にて鹿《シヽ》狩に引はへて鹿を寄する綱なり、責子《セコ》繩とも云、阿爾久夜は豈來むやなり、此夜の字の下句絶なり、斯豆之は下に久麻許曾之都《クマコソシツ》とよめるも隈越鹿《クマコスシヽ》と聞えたれば今もしゝのと云へる歟、之と須と同音なれば之之を之須と云べし、東の俗語|訛《ナマ》れば須を豆と云べければ之之の轉じて斯豆とは云はれたるなるべし、曾能可把與吉爾は今の本によらばソノカハヨキニと讀で皮吉《カハヨキ》を顔吉《カホヨキ》に通して意得べし、鹿は斑獣にて皮の麗はしければそれをみめよき男によそへて、多胡の根には寄綱|※[糸+亘]《ハヘ》て鹿をよすれども絶たる男は我方に再たび依り來むやは、あはれかほよかりし物をと慕ひてよめる歟、
 
初、たこのねによせつなはへて 此哥下の句心得かたき哥なり。こゝろみに尺せは、あにくやしつのはあにこんやしつのなり。しつは第十一に新室のふむしつけこといへるかことし。容儀沈靜なるをほむるなり。そのかほよきには上の句にあはせておもふに彼《ソノ》鹿《カ》者|吉《ヨキ》《・曾能可把與吉爾》にといふことを妍《カホヨキ》にといひなせる歟。上にあはゝまけるをあはなくもあやしとよめる意を思ふへし。よせつなは寄綱なり。今も大獵には繩にて網《アミ》を結《スキ》て張よしいへは、そのたくひなるへし。絶たる男を女のしのひて、男を鹿にたとへてよせつなはへて鹿をよすることくすとも、絶たる人の今は豈來耶《アニコムヤ》しめやかにしてそのかほよかりしにといへる心ときこゆ。あにくやといふ所句なり。斯豆|之《ノ》はしつのと今はよめり。しつしとも讀へし。沈《シツミ》しといふ心なり。上にかなるましつみといふ句を尺せしかことし。今案あにくやしつのそのかはよきにとは、あにくやはあにこんやなり。しつは東俗の語に|しゝ《鹿》をいふ歟。下にくまこそしつとゝいへるは隈越鹿《クマコスシヽ》といへるにやとおほゆ。しからはそのかはよきには其皮吉といふを、かほよきにいひなせるなるへし。鹿の皮は、第十六にも、わか皮はみはこの皮にとよめり。かのこまたらになとよめるもそれなれは、うるはしき色にたとふるなり
 
(45)3412 賀美都氣野久路保乃禰呂乃久受葉我多可奈師家兒良爾伊夜射可里久母《カミツケノクロホノネロノクスガカタカナシケコラニイヤサカリクモ》
 
發句の野は上にも云如く音にも讀べき歟、久受葉我多は久路保にある地の名歟、又葛の繁く延たる處を押て云へる歟、可奈師家はかなしきなり、落句は葛の遠く延ふ縁の詞によせて朝に別來る道の遠放《トホサカリ》來るを云へり、
 
初、かみつけのくろほのねろの 久受葉我多は葛葉方にて、葛のしけくはへる所をいひてそのくすの緑にいや遠さかりくるとつゝけたり。第二に人丸の哥に、はふつたのわかれしくれはとも、第九にはふつたのおのかむき/\天雲の別しゆけはともよめることく、葛のはひゆきて遠さかるによせたるへし。又かの葛葉かたはおもしろき所にて、それをかなしきこらとよせて、つゝけたるにも侍るへし。古今集につなてかなしもとよめる哥は、しほかまのうらのおもしろきをいへり
 
3413 刀禰河泊乃可波世毛思良受多多和多里奈美爾安布能須安敝流伎美可母《トネカハノカハセモシラスタヽワタリナミニアフノスアヘルキミカモ》
 
多多、【幽齋本、作2多太1、】
 
利根《・トネ》は郡の名にて彼處にある河を利根河と云、第四句は浪《ナミ》に相成《アフナス》にて浪に相如くなり、通ひ來る道に利根河あるを淺瀬をも知らずすぐに渡る時に浪に相つる如く君にもからうじて相とよめり、痛く守る人ある中にあへるなるべし、
 
初、とねかはのかはせもしらす 上野に利根郡ありてそこなる大河なり。たゝわたりはたゝちにわたるなり。浪にあふのすは浪にあふなすなり。日本紀に如五月蠅とかきてさはへなすとよめるとおなし。浪にあふことくあへる君かなとはたかき浪にあふことく又君にもおそろしくてあふとなり。おやはらからさらぬひとめをしのひておそるゝをいへり。又人からのよきにもおそるゝ心あるへし
 
3414 伊香保呂能夜左可能爲提爾多都弩自能安良波路萬代母(46)佐禰乎佐禰?婆《イカホロノヤサカノヰテニタツノシノアラハロマテモサネヲサネテハ》
 
弩自能、【幽齋本、弩作v努、官本又云、ヌシノ、】
 
和名集に群馬《クルマノ》郡に井出《ヰデノ》郷あり、今夜左可能爲提と云は此にや、弩自は虹なり、下句は虹の立て見ゆる如くしのびし事のあらはるゝまでを限にも同じ心に寢だに寢たらば何をか思はむとなり、
 
初、いかほろのやさかのゐてに やさかのゐても所の名なるへし。たつのしは起虹《タツニシ》なり。水ある所よりよく虹はたつなり。遊仙窟云。梅(ノ)梁桂(ノ)棟(ハ)、疑(カフ)2飲《ノメル》v澗(ニ)長(キ)虹(カト)1。三體詩(ニ)祖詠(カ)汝墳(ノ)別業詩(ニ)、虹※[虫+兒]出(ル)v澗(ヲ)雲。注(ニ)筆談(ニ)曰。世傳(ハ)虹※[虫+兒]入(テ)2溪澗(ニ)1飲(ムト)v水(ヲ)信(ニ)然(リ)。あらはろまてもはあらはるゝまてもなり。さねをさねてはゝ、ねたにねたらは何をかおもはむなり。虹のたつによせてしのふことのあらはるゝをたとへて、たとひ終にあらはるゝまても、心をあはせてねたにねたらはといふなり
 
3415 可美都氣努伊可保乃奴麻爾宇惠古奈宜可久古非牟等夜多禰物得米家武《カミツケノイカホノヌマニウヱコナキカクコヒムトヤタネモトメケム》
 
奴麻、【官本、奴作v努、】  古奈宜、【幽齋本、宜作v伎、】
 
第三にも春日里爾殖子水葱苗有跡云師《カスカノサトニウヱコナキナヘナリトイヒシ》とよめり、人の娘のまた童なるより色よきを見置ていかで相見てしがなと思へど戀のみ増りて逢事はなければ小水葱を植むとて種を求むる如く、いはけなき人を得むとせしはかく戀むとてのはしにやと憶ひ得たるなり、第三に子水葱とかける如く今も古もじを人の子になして落句は譬の上を云ひて下の意をそへたり、
 
初、いかほのぬまに殖小水葱 第三にも春霞かすかのさとにうゑこなきとよめり。こなきか花をきぬにすりともよめれは、うるはしき物にして女にたとふるなり。たねをもとむるをは、その人有ときゝていかてえてしかなゝとおもへる心を、かくこひむとてのはしなりけりとおもひ得たるなり
 
(47)3416 可美都氣努可保夜我奴麻能伊波爲都良比可波奴禮都追安乎奈多要曾禰《カミツケノカホヤカヌマノイハヰツラヒカハヌレツヽアヲナタエソネ》
 
安乎は我をなり、
 
初、かみつけのかほやかぬまの いはゐつらは上に
  いりまちのおほやかはらのいはゐつらひかはぬる/\わになたえそね
すへて所こそことなれ。哥の心はおなし。あをなたえそねは我をなたえそなり
 
3417 可美都氣奴伊奈良能奴麻乃於保爲具左與曾爾見之欲波伊麻許曾麻左禮 《カミツケノイナラノヌマノオホヰクサヨソニミシヨハイマコソマサレ》【柿本朝臣人麻呂歌集出也】
 
右二首の沼の名何の郡にありと云事を知らず、於保爲具左は和名云、唐韻云、莞【音完、一音丸、漢語抄云、於保井、】可2以(テ)爲(ル)1v席(ニ)者也、日本紀には莞子をカマと點ぜり、俗につくもと云草などぞ太藺《オホヰ》と云へど蒲《ガマ》はいと似ずや、ヨソニミシヨハはよそに見しよりはなり、落句は莞の沼に生たるを見るよりは刈持來て席に敷たるがよき如く、人をもよそめに見たるよりも今相見たるが彌まさるとなり、六帖におほゐ草の歌に入れて人丸の歌とせるは今の歌の下の注に依てなり、
 
初、かみつけのいならのぬまの おほゐくさは、和名集云。唐韻云。莞【音完。一音丸。漢語抄云。於保井】可(キ)2以|爲《ツクル》1v席(ニ)者(ナリ)也。日本紀に莞子とかきてかまとよみたれは、今のおほゐくさも蒲《カマ》にや。大藺《オホヰ》といふ心になつけたり。よそに見しよはとはよそにみしよりはなり。沼に生たるおほゐをかりきて、席にあみて敷なとするを、よそにみし人を手に入て見るか猶まさるといふにたとへたり。注に人丸の集に出といふは、およそ此卷にこれをはしめて五首見えたり。これらによりておもふにたしかに人丸の哥といはすして、人丸集に出といへるは、彼朝臣の聞つたふる中に、心にかなへるをはわがならねとも集の中に載ておかれけるなるへし。それを古今の間にたくひなき作者なれは、印可にせんとて撰者も注したるなり。又誰とも作者なけれは彼朝臣の集に屬するなるへし
 
3418 可美都氣努佐野田能奈倍能武良奈倍爾許登波佐太米都(48)伊麻波伊可爾世母《カミツケノサノタノナヘノムラナヘニコトハサタメツイマハイカニセモ》
 
努、【幽齋本、作v奴、】
 
八雲御抄にさやたと出させ給へるは此佐野田の野を音を以て點ぜる本有てそれを叡覽ありけるにや、若然らば和名集云、那波郡鞘田、【佐也多、】此にや、但上に左野のくゝたち下に佐野のふなはし皆同じ文字なれば佐野にある田と云にや、ムラナヘは村苗にて苗代のおほく村々なるなり、邑草村竹と云が如し、苗代はぬし/\の定まる限あれば其如く我思ふ人にも親の約する人ありて主の定まりつれば今は何とかせむと歎く心なり、母は牟と通ぜり、
 
初、かみつけのさのたのなへの 八雲御抄にさや田とよませたまへとも、さのゝくゝたちとも、さのゝふなはしともよめるみなおなし所なれは、たゝ今の本のことくよむを正義とすへし。むらなへは苗のおほき心なり。村草村竹といふかことし。ことはさためつとは、苗代はぬし/\のさたまるかきりあれは、そのことくわかおもふ人にも早親なとのぬしを約して定つれは、今はいかにとかせんとなけくこゝろなり
 
3419 伊可保世欲奈可中次下於毛比度路久麻許曾之都等和須禮西奈布母《イカホセヨナカナカシケニオモヒトロクマコソシツトワスレセナフモ》
 
發句は伊加保の我背子よと他の郡に住女の夫を呼懸る詞なり、第二十に常陸國の防人が歌に久自我波波とよめるに同じ、第二句は下の字の下に爾の字落たる歟、此卷は讀付る例なし、長々し氣なるを東の風俗は清て云を濁り濁りて云べきを却て(49)清こと多ければさてかくはかゝれたり、第三句は倍と比と通ずればおもへどにて呂は助語なり、第四句は今按久麻は田舍の詞に山を申すにや、第十六に※[土+皆]楯熊來乃夜良《ハシタテノクマキノヤラ》、又|※[土+皆]楯熊來酒屋《ハシテテノクマキサカヤ》とよめり「此|梯《カケハシヽ》v山(ニ)航《フネワタシス》v海(ニ)と云如くさがしき山に※[土+皆]だてゝ上る意歟、仁徳紀にも隼別皇子雌鳥皇女を率て菟《ウ》田の素珥《ソニ》の山を登り給ふ時の御歌にも破始多?能《ハシタテノ》、佐餓始枳椰摩茂《サガシキヤマモ》と讀たまへり、但※[土+皆]楯熊來とつゞけたるには又別の今按もあり、それは彼處に至て云べし、若山をくまと云にあらずば隈なるべし、第一に天武天皇吉野へ行幸したまふ時の御歌に隈毛不落《クマモオチズ》とよみ給へるは山路の隈なり、許曾は須と曾と同韻なれば越なり、第二十防人が歌に志保不尼乃弊古古祖志良奈美《シホフネノヘコソシラナミ》とよめるも舳越白浪《ヘコスシラナミ》なり、之都は上に云如く鹿《シヽ》なり、落句は忘せなくもにて忘れぬなり、伊加保の我背よ相見ぬ事の久しければ長々しき氣をつきて思ひはすれど、くまこす鹿の同じ道を忘れずして通ふ如く我も君を忘れやらずとよめるなり、
 
初、いかほせよなか/\しけに いかほにあるせなよと呼かけていふなり。第二十に常陸國の防人か哥に、久自我波々佐氣久阿利麻※[氏/一]とよめるも、久慈郡にある母をくじがはゝといへるにおなし。なか/\しけには奈可中次下とかけるを、長流か抄に中を長にかよはしてよめり。長々しき氣に思ふといふことなりとかけり。東哥にてことは訛《ヨコナマレル》ゆへに、清へきを濁り濁るへきをすめり。下の字の下に爾の字なとの脱たるか。此卷にはよみつけすして皆ことはのまゝに書るが例なれはなり。おもひとろはろは東俗の助語にて雖思《オモヘト》なり。くまこそしつとは長流か抄にくまは思ひのくまなり。思ふ心のかくれてうたかはしき所を心のくまともいふ。長き氣に思ふ心にすこしくまは有ともといふよしなりと注せれと、雖思といひてくまをこそしたりともといはゝ心たかへり。上をおもはゝといふ心にいはゝくまこそしつともの心かなふへし。今案|隈《クマ》は田舎のことはに山を申けるか。第十六能登國歌にはしたてのくまきのやらにとも、はしたてのくまきさかやにともよめり。これ梯(シ)v山(ニ)航(ス)v海(ニ)といふ心にてつゝけたるへし。仁徳紀に、隼別《ハヤフサワケノ》皇子雌鳥(ノ)皇女を率《ヰ》て兎田《ウタノ》素|弭《ミ》の山をこえたまふ時の哥
  はしたてのさかしき山も吾妹子とふたりこゆれはやすむしろかも
此御哥によりておもふに、はしたてのくまきといふははしをたつるさかしき山といふ心につゝくるにや。こそはこすなるへし。第二十防人か哥に塩舟のへこそしら浪とよめるは舳越白浪なり。しつはしゝなるへし。上にあにくやしつのといへるに今案をくはへしかことし。之と都とは五音の字にも同韻の字にもあらねと之と須と五音通すれは、須と都と同韻の字にて遠く通するなり。しかれはくまこそしつとは、山越鹿といふこと歟。又隈越鹿といふ心にて山路のくまをこえ行鹿にや。わすれせなふもはわすれせなくにて忘ぬなり。山こすしゝとわすれぬとは君か山路こえていぬるすかたを、山こす鹿を見たることくにはえわすれぬとなり。いかほせよといへるは、女は所を隔たるゆへにいへるなり
 
3420 可美都氣努佐野乃布奈波之登利波奈之於也波左久禮騰和波左可禮賀倍《カミツケノサノヽフナハシトリハナシオヤハサクレトワハサカルカヘ》
 
(50)左可禮、【幽齋本、禮作v流、】
 
舟橋は詩大明曰、造v舟爲v梁(ト)、註曰造(ハ)作梁(ハ)橋(ナリ)、作(テ)2船(ヲ)於水1比(ヘテ)v之(ヲ)而加(テ)2版於其上(ニ)1以通2行者1、即今之浮橋(ナリ)也、舟橋を取はなしつれば渡なれし所も渡られぬ如く相思ふ中をも親のさかしらしてさくれど我心はさかるかはりなり、催馬樂の貫河にも親さくる妻とよめり、禮を|る〔右○〕と點ぜるは誤なり、れ〔右○〕と讀て|る〔右○〕に通して意得べし、賀倍は東國の俗語大意を推量して有べし、此歌に付て物語などあり、或は腰句を鳥は無など意得る説は云に足らざる事どもなり。
 
初、かみつけのさのゝふなはし 詩(ノ)大明(ニ)日。造(テ)v舟(ヲ)爲v梁(ト)。晦奄註曰。造(ハ)作。架(ハ)橋(ナリ)也。作(テ)2船(ヲ)於水(ニ)1比(ヘテ)v之(ヲ)而加(テ)2版(ヲ)於其上(ニ)1以通(ナリ)2行者(ヲ)1。即今之浮橋也。傳(ニ)曰。天子(ハ)造v舟(ヲ)、諸〓(ハ)維v舟(ヲ)、大夫(ハ)方《ナラヘ》v舟(ヲ)、士(ハ)特《ヒトヘニス》v舟(ヲ)。張子(カ)曰。造(テ)v(ヲ)舟爲(ル)v梁(ト)文王(ノ)所(ニシテ)v制(スル)而周(ノ)世遂(ニ)以爲2天子之禮(ト)1也。文選東都賦辟雍(ノ)詩(ニ)曰。造《ナラヘテ》v舟(ヲ)爲v梁(ト)。わはさかれかへはわはさかるかはなり。此哥にはふるき抄に物語あり。長流か續歌林良材集のことし。これはたゝ、父母のゆるさぬ中をたとへてよめるなり。舟橋はこなたかなたより作り出して中にて作り合するを、をとこ女のたかひにかたらひあふになすらへて、其中を取さけたるは、橋の中をたちたるにおなし心をもてたとへによめる哥なり。よつて親のさかしらにこそ中はさくれ我はさからすといへるなり。下に至りて
  我まつま人はさくれと朝※[白/八]のとしさへこゝとわはさかるかへ
これ似たる哥なり。催馬樂に
  ぬき川のきしのやはら田やはらかにぬる夜はなくておやさくるつま
後撰集の参議|等《ヒトシノ》朝臣か哥はこゝの哥をとれると見えたり
  東路のさのゝ舟はしかけてのみ思ひわたるをしるひとのなき
天武紀上云。辛亥男依等到2瀬田(ニ)1時大友皇子及群臣等共營2於橋(ノ)西(ニ)1而大成v陣《ツラヲ》。〇依切2斷橋中(ヲ)1須v容《イルハカリ》2三丈1置2一(ノ)長板(ヲ)1。設《タトヒ》有(ラハ)2〓(テ)v板(ヲ)度(ル)者1乃引(テ)v板(ヲ)將v墮(サント)。是(ヲ)以不v得2進(ミ)襲(フコト)1
 
3421 伊香保禰爾可未奈那里曾禰和我倍爾波由惠波奈家杼母兒良爾與里?曾《イカホネニカミナナリソネワカヘニハユヱハナケトモコラニヨリテソ》
 
和我倍は我家歟、我上歟、奈家杼母はなけれどもなり、女は物をぢする物なればそれに依て神も痛くなゝりそとは思ふぞとなり、拾遺集に神痛く鳴侍けるあした宣耀殿の女御の許につかはしける天暦御製、君をのみ思ひやりつゝ神よりも心の空になりし宵かな、
 
初、いかほねに神なゝりそね わかへにはゝわか家にはなり。又わか上にはにて我身のうへなり。ゆへはなけともはゆゑはなけれともなり。神のなるとても何のおそるへきゆゑはなけれと、女はものおちするものなれは、それによりていたくなゝりそといふそとなり。拾遺集に神いたくなり侍けるあしたに宣耀殿の女御のもとにつかはしける、天暦御製
  君をのみおもひやりつゝ神よりもこゝろの空になりしよひかな
 
(51)3422 伊可保可是布久日布加奴日安里登伊倍杼安我古非能未思等伎奈可里家利《イカホカセフクヒフカヌヒアリトイヘトアカコヒノミシトキナカリケリ》
 
伊香保風は明日香風などの如く所に付たる名なり、第四句の思は助語なり、古今集に田兒の浦波たゝぬ日はあれども君にとよめる類なり、
 
初、いかほ風ふく日ふかぬ日 いかほ風はいかほの嶺より吹おろす風なり。佐保風、明日香風、泊瀬風なとよめるたくひなり。かく昔よりよみ來らぬ所は今更に吉野風立田風とはよみかたし。第四に
  我もおもふ人もわするなおほなわに浦吹風のやむときなかれ
古今集に
  するかなるたこのうら浪たゝぬ日はあれとも君にこひぬ日はなし
 
3423 可美都氣努伊可抱乃禰呂爾布路與伎能遊吉須宜可提奴伊毛賀伊敞乃安多里《カミツケノイカホノネロニフルヨキノユキスキカテヌイモカイヘノアタリ》
 
布路與伎能を路を|る〔右○〕と點ぜるは書生の誤歟、フロヨキノと讀てふるゆきのと通すべし、節四句は第三を承たり、
 
初、かみつけのいかほのねろに ふるよきのはふるゆきのなり。行過かてぬは行過かねぬなり。上のよきをうけてゆきといへり。かてぬは難の字にはあらす
 
右二十二首上野國歌
 
3424 之母都家野美可母乃夜麻能許奈良能須麻具波思兒呂波多賀家可母多牟《シモツケノミカモノヤマノコナラノスマクハシコロハタカケカモタム》
 
(52)發句の野は上に云ごとく音に讀べきか、ミカモノ山何れの郡に有と云事を知らず、許奈良能須は小楢成《コナラナス》にて小楢の木のつやゝかなる如く眞麗《マクハシ》き兒等なり、落句は高きがもたむにて高きは夫なり、夫は妻のためには天なれば高きと云へり、かなしく思ふ人をかなしきがなどよめるが如し、夫がもたむとはしのびて通ふ女に親のこと人に約して我ならぬ夫をかもたむとおぼつかなむなり、
 
初、しもつけのみかもの山の こならのすは小楢成なり。ちひさきならの木のつやゝかにしけりたるによそへてまくはしころはとはいへり。こぬれといふはすこし遠し。たかけかもたんは高くかまたんなり。われを遠く高々に待らんとおもひやるなり。又高きかもたむにても有へし。高きは高き山と頼む心にて、をとこをいへり。下に君につきなゝたかねともひてとよめる心なり。こならの木のことくわかおもふこらか、今はいかなる男をかもたりつらんとおほつかなくおもひやるなり
 
3425 志母都家努安素乃河泊良欲伊之布麻受蘇良由登伎奴與奈我巳許呂能禮《シモツケノアソノカハラヨイシフマスソラユトキヌヨナカココロノレ》
 
和名集を考るに安蘇郡に安蘇郷あり、アソノ河原彼處なるべし、欲はより〔二字右○〕なり、三四の句は蘇良由登とは空よりとなり、まことに石をふまぬにはあらねど心空にて物もおぼえず急ぎ來たるを云はむ爲なり、落句は我が汝を思ふ心はかゝり、汝が我を思ふ心は如何なるにか、誠を以て告よとよめるなり、
 
初、下野のあそのかはらよ あそのかはらよりなり。下野に安蘇郡あり。石ふます空ゆときぬよは、石をふますして、空よりときぬるよとなり。十一十二に心空なりつちはふめともとよめる心なり。そこに注せり。なか心のれは汝かわれをおもふ心を告よ。我は汝をおもひて心空にてこしといふなり
 
右二首下野國歌
 
3426 安比豆禰能久爾乎佐杼抱美安波奈波婆斯努比爾勢毛等(53)比毛牟須婆佐禰《アヒツネノクニヲサトホミアハナハヽシノヒニセムトヒモムスハサネ》
 
勢牟、【別校本、牟作v毛、】  左禰、【幽齋本、左作v佐、】
 
安比豆は會津にて郡の名、會津嶺は後撰集に會津の山の遙けきやなぞとよめる山なり、第二句の國はすなはち會津の國なり、佐はそへたる言なり第三句はあはなくばの意なり、落句は紐結ばねなり、左は亦添へたる字なり、是は夫の旅に出るに妻のよめる歌なり、
 
初、あひつねのくにをさとほみ さはそへたる字にて國をとほみなり。あひつ嶺は會津山なり。後撰集に
  君をのみしのふの里へゆくものをあひつの山のはるけきやなそ
あひつねの國とつゝくるにあらす。會津嶺のとよみ切て、あひつねのへたゝりて國を遠みあはすはと心得へし。此國といへるは吉野泊瀬なとを國といへるやうに見るへし。しのひにせんとひもむすはさねはむすへなり
 
3427 筑紫奈留爾抱布兒由惠爾美知能久乃可刀利乎登女乃由比思比毛等久《ツクシナルニホフコユヱニミチノクノカトリヲトメノユヒシヒモトク》
 
爾抱布は色より艶なるなり、可刀利乎登女とはかとりは若彼國にある地の名歟、和名集には郡郷の間に見えず、和名集云、毛詩注云、※[糸+肖]【所交反、又音消、和名加止利、】※[糸+兼]也、此※[糸+兼]を織處女にてかづから云へる歟、此は契りたる男の筑紫の防人に差《サヽ》れて行たるが約をたがへて彼處にて或女に物云と聞て恨てよめる意なり、
 
初、つくしなるにほふこゆゑに にほふは艶の字をよめり。今の俗しほらしきといふにちかし。かとりをとめはかとりは所の名にや。いまたかんかへす。かとりをおる女をいふ歟。和名集云。毛詩注云。※[糸+肖]【所交反。又音消。和名加止利。】※[糸+兼]《カトリナリ》也。第十九にひかる神なるはたをとめとよめり。此哥は防人のこゝろをかよはしける女の、防人のつくしにいたりて、約をたかへて、かなたにてふた心出來たるを聞て、恨てよめるなるへし
 
(54)3428 安太多良乃禰爾布須思之能安里都都毛安禮波伊多良牟禰度奈佐利曾禰《アタヽラノネニフスシヽノアリツヽモアレハイタラムネトナサリソネ》
 
禰度は寢處なり、もとの寢處を去らずしてあれ、あり/\ても問夜あらむぞとなり、しゝは同じ所に七夜臥など云へばさる意をもよする歟、
 
初、あたゝらのねにふすしゝの 有つゝもはあり/\て後もなり。あれはいたらんは我はいたらんなり。ねとなさりそねは、ねところをたかへてさらすしてもとの所にあれなり。しゝはおなし所に七夜ふすなといへはさる心をもよするか
 
右三首陸奧國歌
 
譬喩歌
 
3429 等保都安布美伊奈佐保曾江乃水乎都久思安禮乎多能米?安佐麻之物能乎《トホツアフミイナサホソエノミヲツクシアレヲタノメテアサマシモノヲ》
 
遠江に引佐【伊奈佐、】郡あり、第四の句は我をたのめずしてなり、又我は憑まずしてとも通ずれば聞ゆるなり、落句は六帖に此を國の歌に入れたるにはあらましものをとあ、佐と良と同韻にて通ずれば同じ意ながら改たるなるべし、譬の意は澪標は鹽(55)の滿干に依て深さ淺さの定なければ其如く變《カハ》り易き心ならばとて下句兩方の意右の如し、
 
初、とほつあふみいなさほそ江の 彼國に引佐《イナサノ》郡あり、下句は我はたのますしてあらましものをなり。みをつくしはしほのみちひにしたかひてふかさあさゝのさたまらねは、それを人の心のうつりかはるにたとへたり
 
右一首遠江國歌
 
3430 斯太能宇良乎阿佐許求布禰波與志奈之爾許求良米可母與余志許佐流良米《シタノウラヲアサコクフネハヨシナシニコクラメカモヨヨシコサルラメ》
 
駿河に志太郡あり三四句の落著は由あればこそ榜らめなり落句はなぞこざるらむと通して意得べし、譬の意は斯太の浦を朝|漕《コギ》して出る舟も各由ありて漕なるべければ其如く君も相見に來べき由を構へてなどか問來ぬやの意なり、
 
初、したのうらをあさこく舟は 駿河國に志太郡あり。よしなしにこくらめかもよとは、ゆゑなしにはこがじとなり。長流はよる所なくてはこかしと注せり。なしこさるらめはなせこさるらんなり。あぜといへるにおなし。朝こきして出る舟もおの/\ゆゑあれはこそこきいつれ。そのことく君もなとわかもとへあはむをゆゑにしてはこさるそといへるが喩なり
 
右一首駿河國歌
 
3431 阿之我里乃安伎奈乃夜麻爾比古布禰乃斯利比可志母與許巳波故賀多爾《アシカリノアキナノヤマニヒコフネノシリヒカシモヨココハコカタニ》
 
(56)腰句は引舟のなり、斯理は艫なり、比可志母與はひかしく思ふ意なり、許己波はこれはなり、集中にこれをこゝそれをそことよめる事めづらしからず、故賀多爾は兒之爲《コガタ》になり、ため〔二字右○〕をた〔右○〕とのみ云事第五に奈良乃美夜古邇許牟比等乃多仁《ナラノミヤコニコムヒトノタニ》と云歌に注せしが如し、さて兒が爲にとは兒が故にの心にてまことには我ためなり、あきなの山の方へよせむと舳を向て引舟とは舟を女に喩へあきなの山を實の夫と成べき男に喩ふ引をば媒して誘ふに喩ふ、斯利比可志母與とは舟は舳の方へ引こそことわりなるを艫の方へ引かしく思ふはわりなく奪ひても彼女を人の妻となさずして引かへて我手に入れまほしき心の喩なり、落句はかゝるすぢなき心のつくも此はうるはしく思ふ兒等が故なりとよめるなるべし、
 
初、あしかりのあきなの山に ひこ舟は引舟なり。しりひかしもよはしりひかしめよにて、しりは舟の腹をいへり。こゝはこかたには、こゝはく子かためになり。第五に
  龍の馬をあれはもとめむあをによしならの都にこん人のたに
これこん人のためにといふへきをめの字を略せり。常にもいふ詞なり。哥の心はあきなの山のふもとは海にて其山へよせんと引舟のともつなをひかしむることく、こゝはくにおもふ子かためによりこよとたとふる心なり。又ひかしもよはひかしめよにてはなくてひかはやとねかふ心ともきこゆ。こかたにを長流は子か方にと心得たり。又引舟といへるは舟木をやかて舟とのみいへるにや。上に足柄山に舟木きりとも、あしから小舟ともよめり
 
3432 阿之賀利乃和乎可?夜麻能可頭乃木能和乎可豆佐禰母可豆佐可受等母《アシカリノワヲカケヤマノカツノキノワヲカツサネモカツサカストモ》
 
仙覺抄に建長三年霜月の比駿河の國へ越侍りしに關本の宿にてわをかけ山と云は何處ぞと問侍りしが、當時はかくらの嶽と申すをこそ昔はわをかけ山とは申け(57)ると承はれと申侍りしなり、今按石上袖振河のとよめる如く可?山と云名を末を懸る心に云ひなさむため和乎の二字を加へたる歟、和乎は我者なり、下に和乎と云へるを思ふべし、可頭乃木は持《ヂ》と頭《ヅ》と通ずれば穀なり、和名云、玉篇云、楮【都古反、】穀木也唐韻云、穀【音穀和名加知、】木名也、紙にすく木なり、和乎は我はなり、二つの可豆は可頭乃木を承たり、佐禰母は狹寢むなり、佐可愛等母とは花のひらくをさくと云のみにあらず葉の開くをも云なり、此歌は童女に思ひかけて穀の木のまだ葉のよくも開けぬに譬へて穀も末つゐに木綿花《ユフハナ》に造り紙にもすくがために初より能生するなれば童女の時よりかつ/\諸共に寢初て後には妻ともせむの譬なり、
 
初、あしかりのわをかけ山の これは石上ふる川とつゝくへきを、第十二に石上袖ふる川とよめるかことく、あしからのかけ山なるをもしのたらねは我をかけ山といふ心に、もしをそへていへるなるへし。かつの木は穀《カチ》の木なり。樫ならは可知乃木、あるひは可豆乃木といふへし。可頭乃木とかきたれはつもし濁れり。よりてかちの木なりとはいふなり。わをかつさねもはわれはかつ/\さねむなり。かつさかすともは、花のみならすこのめのひらくるをもさくといへり。それをさかすともいへるは、女のまたをとめなるにたとへたり。つほめる花にたとへてもよめり。下にあしくま山のゆつる葉にたとへたるも今の心なり。ふたつのかつはかつの木をかへしていへるなり
 
3433 多伎木許流可麻久良夜麻能許太流木乎麻都等奈我伊波婆古非都追夜安良牟《タキヽコルカマクラヤマノコタルキヲマツトナカイハハコヒツヽヤアラム》
 
初二句は薪を折《コル》鎌と枕詞に兼てつゞけたり、凡そは斧《ヲノ》※[金+彩の旁]《ナタ》にては伐り鎌にては刈るを、かるきるこる、本は通じたる詞なり、第六第十に折木又切木と書て雁に借れるも刈の義訓を雁に移せるなり、薪こる山のあらはなるに獨年久しく斧に漏て木垂る(58)ゝまで殘たる松の名の如く、うつろはずして汝が我を待と云はゞ我も同じやうにて年來を戀つゝや渡らむとなり、相見る事難き中によめるなるべし、
 
初、たきゝこるかまくら山の 薪を折《コル》嫌といひかけたるなり。此山にあなかち薪きるにはあらさるへし。こたる木は枝のたれさかるなり。第三に門部王の東市中樹をよまれたる哥にも、ひむかしの市のうゑ木のこたるまてといへり。常にもこのみなとのおほくなれるをこたるほとなると申めり。まつとなかいはゝは松と待とをかねて、待となんちかいはゞ、われもわすれすこひつゝやいつもあらんといへるなり。老たる松は枝のたるれは、久しく待心にこたる木をとはいへり
 
右三首相模國歌
 
3434 可美都家野安蘇夜麻都豆良野乎比呂美波比爾思物能乎安是加多延世武《カミツケノアアソヤマツヽラノヲヒロミハヒニシモノヲアセカタエセム》
 
發詳の野は音に讀べき歟波比爾思の爾は助語なり、安是加はなぜかにて、なぜかはなぞかなり、
 
初、かみつけのあそ山つゝら あせかたえせんはなせか絶むなり。下に谷せはみ峯にはひたる玉葛とよめる哥の心なり
 
3435 伊可保呂乃蘇比乃波里波良和我吉奴爾都伎與良之母與多敝登於毛敝婆《イカホロノソヒノハリハラワカキヌニツキヨラシモヨタヘトオモヘハ》
 
多敝登、【仙覺抄云、ヒタヘト、幽齋本、多上有v比、點與2仙覺抄1同、】
 
初の二句は上に有て注せり、ツキヨラシモヨはつきよらしめよなり、タヘトオモヘバはたへとおもはゞなり、榛原と衣とは似つかぬ物なれど彼皮を以て染れば能そ(59)まれば我を栲《タヘ》の衣の如く思ふ物ならば伊香保根のそひに立如く我に著き依れと譬ふるなり、又落句の多敝は女を細《タヘ》なりと我思へばとよめる歟、細も妙も並にたへとも、くはしともよめばくはしめと思ふ心なり、仙覺抄にはひたへとありて、多と登と通ずるを以て衣の單《ヒトヘ》によそへてひとへに思へばとよめるも意得たり、比の字の有事何れをよしとせむ、事定がたし、
 
初、いかほろのそひのはりはら 上にも此二句ありき。つきよらしもよはつきよらしめよにて、きぬにすりつけよの心なり。たへとおもへはとは、たへとおもはゝなり。たへは白きをいひ、妙の字細の字なとをたへといふも、白き色のたへなるよりいふと見えたり。よく此集の前後を見て心をつくへし。しかれは君か心にわれを白きゝぬのことくたへなりとおもはゝ、白きゝぬはよろつの色をうくれは、はりすりのきぬのことく心をふかくおもひしめよとなり
 
3436 志良登保布乎爾比多夜麻乃毛流夜麻乃宇良賀禮勢奈那登許波爾毛我母《シラヨホフヲニヒタヤマノモルヤマノウラカレセナナトコハニモカモ》
 
宇良賀禮、【官本賀、作v可、】  勢那奈、【官本、作2勢奈那1、幽齋本同v此、】
 
發句は今按白玉とほす緒とつゞくる意歟、日本紀私記云、眞珠(ハ)之良太麻、かゝればさゞれ石をさゞれ、雪をはたれとのみもよめる例なれば、眞珠をしらとのみも云べきにや、上に左其呂毛能乎豆久波禰《サコロモノヲツクハネ》とも讀たれば小新田山の小を緒になしてつゞけむも同じ、毛流夜麻は上に三諸は人の守山とよめる如くやがて小新田山を云なり、宇良賀禮は裏枯にて下葉より枯れ移るなり、勢那奈はすなゝにて後の奈は助語なり、登許波は常葉《トコハ》なり、第六の葛城王に橘姓を賜はる時の御歌に注せしが如し、山の(60)裏枯する如く我にかるな常葉《トコハ》にてある木のやうに變《カハ》らぬ心ともがなとなり,
 
初、しらとほふをにひた山の 長流か抄に此しらとほふといへるはいかにいへるにかわきまへかたしといへり。まことにしかり。こゝろみに今案をめくらすに眞珠通《シラタマトホス》す緒とつゝけたるにや。をにひた山は小新田山なり。上野に新田郡あり。もる山は別の名にあらす。すなはち新田山を山守すへてもれはなり。第十三にみもろは人のもる山とよめるかことし。うらかれせなゝは、うらかれは、木も草も末のかるゝなり。せなゝはすなといふに今ひとつのなを詞の助にそへたるなり。とこはにもかもは、常葉《トコハ》にもかなゝり。常にときはといふは常磐の心なり。これは葉をかへぬをいへり。第六に
  橘は實さへ花さへその葉さへ枝に霜おけとましときはの木
此哥につきて委尺せり。新田山の木の常葉なる松杉なとのことく、おもふ中も末かけてかれすなとたとふるなり
 
右三首上野國歌
 
3437 美知乃久能安太多良末由美波自伎於伎?西良思馬伎那婆都良波可馬可毛《ミチノクノアタタラマツミハシキオキテサラシメキナハツラハカメカモ》
 
末由美、【官本云、マユミ、】
 
波自伎オキテは彈置《ハジキオク》なり、弓弦の斷たるなり、サラシメキナバは反《ソラ》しめ來なばなり、弦の斷れば反《ソル》心なり、戰國策云、弓|撥《ソリ》矢|鉤《カヾマル》【撥(ハ)弓(ノ)反《ソリ》也、】ツラハガメカモは弦はげめかもなり、歌の心は一たび絶たる中の背きはてゝ久しく成ぬるを、股我物と引よすべきやうやは有と云意なり、それを弓弦の絶て久しく反《ソラ》し置ぬるには又弦のはげがたきに喩へたるなり、
 
初、みちのくのあたゝらまゆみ 第七にもあたゝらまゆみとよめり。あたゝらは所の名、そこより出る弓なり。はしき置は弾置なり。弓弦の斷たるなり。さらしめきなはゝ、そらしめきたりなはなり。弦のたゆれは反《ソル》心なり。戦國策云。弓|撥《ソリ》矢|鉤《カヽマル》【撥弓反也。】つらはかめかもは弦はけめかもなり。第二にもあつさ弓つらをとりはけとよめり。哥の心は一たひ絶たる中のそむきはてゝ久しくなりぬるを又わか物と引よすへきやうや有といふ心なり。それを弓弦のたえて久しくそらし置ぬるには、又弦のはけかたきにたとへたるなり
 
右一首陸奧國歌
 
雜歌
 
(61)此より終まで未勘國の歌なり、
 
3438 都武賀野爾須受我於等伎許由可牟思太能等能乃奈可知師登我里須良思母《ツムカノニスヽカオトキコユカムシタノトノヽナカチシトカリスラシモ》
 
可牟思太は神下にて地の名なるべし、等能は東國にて威勢ある人をば殿と云ひ習はすなり、ナカチシは、子三人ある中をなかちと云、し〔右○〕は助語なり、雄略記云、市邊(ノ)押磐《オシハノ》皇子(ノ)帳内《トネリ》佐伯部(ノ)賣輪《ウルワ》【更名《マタノナハ》、仲子《ナカチコ》、】舒明記(ニ)云、境部臣聞(テ)2軍至(ルト)1牽《ヒキヰテ》2仲子《ナカチニアタル》阿椰(ヲ)1出(テ)2于門(ニ)1坐(テ)2胡床《アクラニ》1而待(ツ)、
 
初、つむか野にすゝか音聞ゆ つむか野いつれの國としらす。およそ此哥より終にいたりてよめる名所はあり所つまひらかならす。終に至て以前歌詞未v得3勘(カヘ)2知(ルコトヲ)國土山川之名(ヲ)1也と注せるにて知ぬへし。すゝか音は鈴の音なり。かむしたは所の名なるへし。とのは東國にて威ある人をは殿といひならはすなり。なかちしは日本紀に仲の字をなかちとよめり。子三人ある中をなかちといふ。しは助語なり。とかりすらしもは鷹狩すらしなり。第十一第十九に鷹田《トカリ》鷹狩《トカリ》とかけり
 
或本歌曰|美都我野爾《ミツカノニ》又曰|和久胡思《ワクコシ》
 
ワクゴはわかごなり、し〔右○〕は助語なり、
 
初、或本わくこはわかこなり。上に拾遺集を引しかことし
 
3439 須受我禰乃波由馬宇馬夜能都追美井乃美都乎多麻倍奈伊毛我多太手欲《スヽカネノハユマウマヤノツヽミヰノミツヲタマヘナイモカタヽテヨ》
 
(62)孝徳紀云、凡給2驛《ハイ》馬傳馬1皆依2鈴傳(ノ)符刻數(ニ)1、波由馬は早馬《ハヤウマ》なり、也字反由なればつゞめてはゆま〔三字右○〕と云なり、又それを二三相通してはいま〔三字右○〕とも云へり、はゆまもうまやも共に驛の字なれどもうまやは彼《カノ》はゆまを置所の名なり、令第八厩牧令云、凡諸道須v置v驛者毎(ニ)2三十里1置(ケ)2一驛(ヲ)1、若地勢險(シク)及無2水草1處隨(テ)v便安置不v限2里敷(ヲ)1、凡驛(ニハ)各置2長一人1、取(テ)2驛戸(ノ)内(ノ)家口富(テ)幹v事《ヲサ/\シキニ》者(ヲ)1爲(セ)v之(ヲ)、凡諸道(ニ)置(コト)2驛馬1大路(ニハ)【義解云、謂2山陽道1、其太宰以去即爲2小路1也、】二十疋、中路【謂2東海東山道1其自外、皆爲2小路1也、】十疋、小路五疋、ツヽミ井は仙覺云、人馬などをも落入らせじ、不淨の物を入れじとていほりを作り覆へる井なり、水ヲタマヘナは早馬なれば息を繼むために水を乞て飲むなり、源氏物語にみづむまやと云へる事あるも是より起れり、落句の妹は※[手偏+總の旁]じて女を指す詞なり、多太手欲は從《ヨリ》2直手《タヽテ》1と云なり、
 
初、すゝかねのはゆまうまやの はゆまは早馬なり。日本紀に驛の字をはいまとよめり。伊と由と通すれははゆまはいまひとつにて、はゆまむまやは重詞の趣なり。驛鈴とて鈴をさためおかるれは鈴の音の早きとつゝけたり。第十一に驛路《ハイマチ》に引舟わたしとよめる哥に注せり。令義解第八厩牧令云。凡諸道須v置v驛者、毎2三十里1置2一驛1。別地勢險及無2水草1處隨v便安置(シテ)不(レ)v限2里數(ヲ)1。其乘具及蓑笠等(ハ)各准(シテ)2所(ノ)v置馬(ノ)數(ニ)1備(ヘヨ)v之。【謂下條云。驛長替代之日、馬及鞍具欠闕、並微(レト)2前人1。即知(ヌ)乘具(ハ)是(レ)官司備。蓑笠者驛子私備。其驛子替代之日亦雜人自備。】凡驛各置2長一人1。取(テ)2驛戸(ノ)内(ノ)家口富(テ)幹《ヲサ/\シキ》v事(ニ)者(ヲ)1爲(セ)v之。凡諸道(ニ)置(コト)2驛馬(ヲ)1大路(ニハ)【謂山陽道。其太宰以去即爲2小路1也。】二十疋、中路(ニハ)【謂東海東山道(ナリ)。其自外皆爲2小路1也。】十疋、小路(ハ)五疋。使稀(ナルリ)之處(ニハ)國司量(テ)置(ケ)。不2必(ラス)須《モチヰルコトヲ》1v足(ルコトヲ)。皆取(テ)2筋骨強壯(ナル)者(ヲ)1充(ヨ)。毎(ニ)v馬各令2中々戸(ヲシテ)養(ナヒ)飼(ハ)1。つゝみ井は長流か抄に堤井なり。これは池水なと放つ細き川の水をいふ。常に井みそなといふ小川の事なりといへり。下の句は水をたまはれな妹かまさしき手よりといふ心なり。源氏物語に水うまやといふことあり。彼抄をみるへし。早馬なれは息を繼むために水をこひてのむなり 
 
3440 許乃河泊爾安佐菜安良布兒奈禮毛安禮毛知余乎曾母?流伊低兒多婆里爾《コノカハニアサナアラフコナレモアレモチヨヲソモテルイテコタハリニ》
 
知余、【仙覺抄云、ヨチ、幽齋本作2余知1、點與2仙覺抄1同、】
 
知余は、他本に余知とある然るべきか、第五云、余知古良等手多豆佐波利提《ヨチコラトテタヅサハリテ》云々、相生《アヒオヒ》(63)のよき子と云はむやうに聞ゆれば今も同じかるべし、落句の爾は禰に通はしていで汝が娘たまはりねなり、女の朝菜洗ひに出たるを呼懸て汝も我もよきあはひの子を持たれば汝が娘をたべ我子にあはせてよめにせむとなり、伊低兒と云へる兒は上に安佐菜安良布兒と云へる女を指て再たび云歟、それにても余知をたばりねと云に事足れり、又上の余知を指ていで其兒とよめりとも云べし、
 
初、此かはにあさなあらふ子 なれもあれもは汝も我もなり。我はあらふといはされとも共に立出てあらふなり。よりて若菜はいはふ物にすれは千世をそもてるとはいへり。いてこたはりにはいてこたはらむにて、いて其兒賜はらむとなり。これは伊勢物語にむかしゐなかわたらひしける人の子とも、井のもとに出てあそひけるを、をとなになりにけれは、おとこも女もはちかはしてありけれは、おとこはこの女をこそえめとおもふ、女はこのおとこをとおもひつゝ、おやのあはすれともきかてなん有けるとかける一段にちかくて、ちかき家のむすめのおかしけなるか河に朝菜あらふを見て、我もおなしく朝なをあらへは、ともにおなしく千とせのよはひを持てよきあはひなれは、いてあのこを我にたまはらんと女の現に乞ふ哥なり。いては允恭紀に壓乞とかけり。しひて物をこふ詞なり。此集には只乞の字をいてとよめり。又欲得ともかけり
 
[一云|麻之毛安禮母《マシモアレモ》
 
マシはいましにて、汝の字なり、
 
3441 麻等保久能久毛爲爾見由流伊毛我敝爾伊都可伊多良武安由賣安我古麻《マトホクノクモヰニミユルイモカヘニイツカイタラムアユメアカコマ》
 
發句は眞遠《マトホク》とも間遠《マトホク》とも聞ゆ、何れならむ、伊毛我敝爾は妹之家爾《イモガイヘニ》なり、
 
初、まとほくのくもゐにみゆる まとほくは間遠なり。いもかへは妹か家なり
 
柿本朝臣人麿歌集曰|等保久之?《トホクシテ》又曰|安由賣久路古麻《アユメクロコマ》
 
第七に行路と題して此注の歌あり、但彼卷は發句|遠有而《トホクアリテ》、題四(ノ)句|早將至《ハヤクイタラム》とあり(64)て違へるぞおぼつかなき、
 
3442 安豆麻治乃手兒乃欲妣左賀古要我禰?夜麻爾可禰牟毛夜杼里波奈之爾《アツマチノテコノヨヒサカコエカネテヤマニカネムモヤトリハナシニ》
 
奈之爾、【校本、之或作v思、】
 
腰句の我は東歌なれば濁るべきか、清て讀所にも用たる例上に云が如し、此歌并にしたにも手兒乃欲婢佐可をよめる歌二首は駿河國風土記に彼國におはす男神の歌とし、第十二に磐城山直越來益《イハキヤマタヾコエキマセ》と云歌をば女神の歌として其由縁を書たる由を引ける物あれど此集に叶はず、又風土記の正文を見ざればおぼつかなし、紫式部が集にも手兒の呼坂をよめる歌あり、
 
初、あつまちのてこのよひさか 此哥ならひに下の
  あつまちのてこのよひ坂越ていなはあれはこひむな後は逢ぬとも
此二首は駿河國風土記に異説有て神の哥とす。委長流か續哥林良材集にかけり。第十二に有けるいは木山たゝこえきませといふ哥は、此神の女神の哥といへり。しかれはてこの呼坂は駿河國なり。此集にては神の哥にもあらす。東の哥なからいつれの國の哥とも定かたし。紫式部家集云
 
3443 宇良毛奈久和我由久美知爾安乎夜宜乃波里?多?禮波物能毛比豆都母《ウラモナクワカユクミチニアヲヤキノハリテタテレハモノモヒツヽモ》
 
豆都母、【仙覺抄傍注云、テツモ イ 幽齋本、豆作v弖、點云、テツモ、】
 
(65)發句は第十二に有て注せし如く何心もなくなり、アヲヤギノハリテとは芽《メ》の張なり、腰句以下の心は柳のたをやかなるが目の張れるを見て似たる妻を思ひ出て物思ふなり、第十九に春の日にはれる柳を取持て見れば都の大路思ほゆ、此に似たり、又第二十に見渡せば向つ尾上の花にほひ照てたてるははしき誰妻、是は江南美女を見て家持のよまれたり、今青柳の張て立ればと云も美女を見てやがて柳とよめる歟、
 
初、うらもなくわかゆくみちに うらもなくは何心もなくといふ心なり。第十二につるはみのひとへ衣のうらもなくとも、うらもなくいにし君ゆへともよみ、第十三にいさなとりうみのはまへにうらもなくねてある人はともよめる、みな此心なり。あをやきのはりてたてれはものもひつゝもとは、張は柳のめのはるなり。ものもひつゝもは、ものおもひつゝもなり。何心もなくて道をゆくに、青柳のたはやかなるかめのやゝはりてたてるをみて、家なる妹を思ひ出て物思ふとなり。又これに感してかゝる色にたくふ人をえはやともおもぷへし。又第廿に、家持在(テ)2難波(ノ)館門(ニ)1見(テ)2江南美女(ヲ)1作歌
見渡せはむかつをのへの花にほひてりてたてるははしき誰妻
今青柳のはりてたてるといふは、やかてかほよき人をたとひの上にていへる歟。第九にも花のことえみてたてれはとよめり
 
3444 伎波都久乃乎加能久君美良和禮都賣杼故爾毛乃多奈布西奈等都麻佐禰《キハツクノヲカノクヽミラワレツメトコニモノタナフセナトツマサネ》
 
仙覺云、枳波都久岡、常陸國眞壁郡にあり、風土記に見えたり、久君美良は莖韮なり、莖をくゝ〔二字右○〕と云は上の左野乃九久多知の如し、韮をば常には爾良と云へど又美良とも云へり、和名云韮【擧有反與v玖同、和名古美良、】又云本草(ニ)云、薤(ハ)味辛苦無v毒、【和名、於保美良、】蘇敬注云、是韮類也、今岡の莖韮《クヽミラ》とよめるは此薤なるべし、コニモノタナフは、た〔右○〕はとほきをたどほみ、もトホルヲたもとほる、など添へて云詞也、なふ〔二字右○〕は無くにて籠に物無しとなり、落句の佐も亦添へて云詞、禰は奈に通してせなとつまむなど云なり、莖韮《クヽミラ》を獨つめば興も(66)なく籠にもたまらねばせなと共に摘《ツマ》むなど女のよめるなり、
 
初、きはつくのをかのくゝみら 長流か抄にきはつくの岡常陸國なりといへるはかむかへたる事や有けむ。くゝみらは莖たてる※[韮の草がんむりなし]なりといへり。爾良とも美良ともかよはしていへはさも侍るへし。こにものたなふはたはことはのたすけにて、籠に物なしといふなりといへり。せなとつまさねはせなとゝもにつまんなり
 
3445 美奈刀能也安之我奈可那流多麻古須氣可利巳和我西古等許乃敞太思爾《ミナトノヤアシカナカナルタマコスケカリコワカセコトコノヘタシニ》
 
玉小菅は菅をほめて云へり、可利己は刈來よなり、落句は諸共に寢る床の隔にせむなり、床と臥身とを隔つる物は薦なれば菅薦《スガコモ》の料に刈來よとなり、古事記に神武天皇御歌云、阿斯波良能《カシハラノ》、志祁去岐袁夜邇《シケコキヲヤニ》、須賀多多美《スガタタミ》、伊夜佐夜斯岐弖《イヤサヤシキテ》、和賀布多理泥斯《ワガフタリネシ》、又景行天皇段にも菅疊八重《スガタヽミヤヘ》とあれば疊にもするなり、
 
初、みなとのやあしか中なる 第十一にもみなとあしにましれる草の知草のとよめり。玉小菅は菅をほめていへり。かりこわかせこはかりこよわかせこなり。とこのへたしには床の隔になり。へたては席の心なり。床は木にてしたる物なり。其上に席を敷て、ふせは、席は身と床とのへたてになるゆへなり。みなとあしにましりて生たる菅をかりて來れ。菅莚にあみてあひともにぬる床の莚にしかむとなり
 
3446 伊毛奈呂我都可布河泊豆乃佐左良乎疑安志等比登其等加多里與良斯毛《イモナロカツカフカハツノサヽラヲキアシトヒトコトカタリヨラシモ》
 
加多里、【官本、里作v理、】
 
發句は唯妹なり、ツカフは常にも水を使ふなど萬に物を用るに云|語《コトバ》なり、河泊豆は川門なり、佐左良乎疑は小さき荻なり、さゝら浪の如し、下句は和名集云、野王案云、荻(67)【音狄、字亦作v〓、和名乎木、】與v〓《アシツノ》相(ヒ)似(テ)而非2一種1矣、與良斯毛はよらすもなり、蘆荻とてあしとをぎとは似たる草の生ひ交る物なれば其如く妹と我とを他言に夫婦のやうに云ひよするなり、上に里人のことよせ妻とよめるが如し、
 
初、いもなろかつかふかはつの いもなろは第九にはいもなねともよめり。なろのふたもしともに助語なり。つかふは水をくみもちゆるを俗に水をつかふといふこれなり。使の字の心なり。さゝらをきは細石とかきてさゝれいしとよめは、細荻の心にて、ちひさきをきなり。下の句は蘆と人言かたりよらすもなり。和名集云。野王案云。荻【音狄。字亦作v〓。和名乎木】與v〓《アシツノ》相似(テ)而非2一種(ニ)1矣、〓【音亂】※[草がんむり/炎]也。※[草がんむり/炎]【音※[毛+炎]。和名阿之豆乃。】蘆荻とつゝけていふものにておひましりて似たる物なれはそれにたとへて我と妹とを、人言に心をかよはすらん。後は夫婦となりなんなといひよするとなり。上に里人のことよせ妻といへるかことし
 
3447 久佐可氣乃安努弩奈由可武等波里之美知阿努弩波由加受?阿良久佐太知奴《クサカケノアノトナユカムトハリシミチアノトハユカステアラクサタチヌ》
 
安努弩奈は今按アノヽナと讀みてあのゝは地の名歟、奈は爾と通ずればあの野になり、草陰なりし故に彼處にゆかむと思ひて先草を拂ひて道を開くなり、あのゝ若地の名ならずは彼野なるべし、道えおば作りたれども終にゆかずして本の荒草の生立ぬるなり、感ずる事ありてよめるにや、
 
初、草陰のあのゝなゆかんとはりしみち 第十二に草陰のあらゐの崎の笠嶋とよめり。草陰もあのゝも所の名にや。あのゝなのなもしはになり。所の名にあらすは、草陰のかの野にゆかんと作たる道なり。あら草たちぬは荒草生立ぬなり。感する事ありてよめるなるへし
 
3448 波奈治良布巳能牟可都乎乃乎那能乎能比自爾都久佐麻提伎美我與母賀母《ハナチラフコノムカツヲノヲナノヲノヒシニツクサマテキミカヨモカモ》
 
治良布、【官本、知作v治、】  都久佐麻提、【官本無v佐、點云、ツクマテ、仙覺抄并別校本、字點共與v今同、】
 
(68)發句は第一卷に花散相《ハナチラフ》とかり、乎那能乎能とは尾中の尾のと云なるべし、繼體紀云、三國(ノ)坂中《サカナ》井【中此(ハ)云v那(ト)】天武紀上云、天渟中《アマノヌナ》【渟中此(ヲハ)云2農難《ヌナト》1、】原瀛《ハラオキ》眞人天皇、此等皆|中《ナカ》をな〔右○〕とのみよめるに、今の那をも准らふべし、比自は仙覺第十三に此床のひしとなるまでと云を意得損じて大隅風土記を引て海中の洲を隼人の俗語にひしと云由注せられたる故に、今ひしにつくまでとは海中の洲をひしと云第十三卷に釋するが如しと讓られたり、今按土をひぢとも云へば治《ヂ》と自《シ》と同韻にて通ずれば此治《ヒヂ》にや、都久佐麻提とは佐と須と同音なれば盡すまで歟、佐の字なき本に依らば山の尾の中の高き尾の尋常の平地の上と等しく成までとは云意歟、何れにもあれ君が代の限なからむ事を極て云なり、さゞれ石巖と成てとも嶺のつゞきの海となるまでなどゝもよめる類なり、花ちらふ此向つ尾と云ひ初めたるは此祝ひ其時に當れるなるべし、
 
初、花ちらふこのむかつをの 花ちらふは花散相なり。此むかつをは此むかひの山の尾なり。花ちらふは此哥に取て用ありと見えす。尾上は春くれは花のさきちる所なるゆへに、此むかつをといはむためのかさりにいへり。をなのをは、長流か抄に峯の中の峯といふなり。たかき峯の中にもすくれてたかきをいふ心なり。ひしにつくさまては海中の洲なり。つくさまてのさは助語なり。ひしにつくまてなりといへり。しかれは峯の中に高き峯のたひらになりて海中の洲につくまて君か世のあれかしといはふ心なり。あるましきことをいひて君かよはひのかきりなからんことをねかへり。洲をひしといふ事は、大隅國風土記云。必志(ノ)里(ハ)、昔者此村之中(ニ)有2海之洲1。因(テ)曰2必志(ノ)里(ト)1。海中之洲(ニハ)者、隼人(ノ)俗語(ニ)云2必志(ト)1。今案をなのをのひしにつくさまては斧柯《ヲノヽエノ》土《ヒチ》に盡すまてといへるにや。晉王質か山中に入て仙翁の碁うつを見てをのゝえの朽し故事をよめるにこそ。那と乃とかよひ惠と乎とかよへり。比自とかけれは自は濁る所におほく用たり。土をひちとよむ時ちもしは清濁ともに用れは、にこりて讀方ます/\かなへり。つくさは盡すにかよへり。斧柯の朽つくして土となることはり、穿鑿を用すしてよろしかるへくや。君か世はみかとにや。またはさす人のありけるか、知かたし
 
3449 思路多倍乃許呂母能素低乎麻久良我欲安麻許伎久見由奈美多都奈由米《シロタヘノコロモノソテヲマクラカヨアマコキクミユナミタツナユメ》
 
初の二句はまくらかと云べき序なり、枕香は地の名なり、此下に麻久良我乃許我能(69)和多利《マクラカノコカノワタリ》とつゞけよめるを仙覺抄にこがのわたり下總國と注せられたるは關東居住の僧にて考ふる所有ける歟、こがの渡下總ならば枕香は隨て彼國なり、欲はよりなり、
 
初、しろたへの衣の袖をまくらかよ 袖を枕にする心につゝけたり。下に枕香のこかりのわたりとよめる哥を枕香のこきといふ心につゝけたる枕言なりと思へる人は、こゝの哥をかんかへさるゆへなり。枕香よのよもしはゆなり。此集によりといふことをおほくゆとよめり。よりといふをりもしを略せりと心得む人のためにわきまへ置なり。由と與里とおなし事なれと、此わきまへをなすへし
 
3450 乎久佐乎等乎具佐受家乎等斯乎布禰乃那良敝?美禮婆乎具佐可利馬利《ヲクサヲトヲクサスケヲトシホフネノナラヘテミレハヲクサカリメリ》
 
斯乎、【別本、乎作v抱、】
 
ヲグサヲトは小草男《ヲクサヲ》とと云歟、草かりなど云やうに草かる男をいふ歟、ヲクサスケヲトは小草助男《ヲクサスケヲ》とと云歟、小草男を助て草かる男なり、若は二つの乎は男にはあらで第四に坂上郎女が汝乎與吾乎人曾離奈流《ナヲトワヲヒトソサクナル》とよめる汝乎《ナヲ》の乎《ヲ》と同じく助語にや、かく云故は落句に乎其佐乎可利馬利《ヲグサヲカリメリ》と云はねばなり、但上に讓ることわりもあれば助語ならずも有なむ、斯乎布禰は鹽海を渡る舟なり、此下并に第二十にもよめり、斯保と書べきを斯乎とかけるは訛《ナマリ》に隨がへる歟、同韻にて通ぜる歟、さて此舟は用あるにあらず並ベテ見レバと云はむ料のみなり、並べテミレバはくらべ見ればの(70)意なり、可利馬利は利と流と通じて刈めりなり、初より身に當りて草刈る男と其男を助て刈男とを並べくらべて見れば小草男は怠たらずして能刈とよめる歟、此ことわり萬に亘りてある事なり、
 
初、をくさをとをくさすけをと 長流かいはく。此哥は小草刈男と菅かる男とならひて刈心なり。舟はこきつるゝによせてならへていはむために、塩舟のとはおけるなりといへり。今おもはく此哥は心得かたき哥なり。先右の注にすこし今案をくはふへし。をくさをは小草男なり。をくさすけをは、小草助男なるへし。小草かる男を手つたひしてたすけてかるをとこなり。しをふねは塩舟なり。しほちをこけは名つくるなり。下にもしほふねのおかれはかなしとよみ、第二十にもよめり。共に志保とかきたるを、こゝに斯乎とかけるは、乎と保と通する故なり。狹乎鹿とも狭保鹿ともかけるに准して思ふへし。ならへてみれはゝ、史記張儀傳云。舫《ナラヘ・モヤヒ》v船(ヲ)載(ス)v卒(ヲ)。【索隱曰。舫(ハ)音方。謂並2兩船1也。】文選班固(カ)西都賦云。方(テ)v舟(ヲ)並(ヘ)駑《ハス》。今はくらへてみれはの心なり。をくさかりめりは、小草かるめりにて、たすけてかる人よりは初よりおもひたちて刈男かよく刈といふ心なり。たとふる心なとも有てよめる歟。をくさすけをといへるか、菅刈男といふ心ならは、小菅かるをとゝいふへし。をくさすけをとはいふへからすや
 
3451 左奈都良能乎可爾安波麻伎可奈之伎我古麻波多具等毛和波素登毛波自《サナツラノヲカニアハマキカナシキカコマハタクトモワハソトモハシ》
 
カナシキガは悲しく思ふ男なり、コマハタグトモは駒の手綱をたぐりて粟を損ずるなり、ワハソトモハジとは我はそれをそれとも思はじとなり、人を深く思ふ由を設けてよめるなり、神代紀云、時素戔嗚尊秋(ハ)則放(テ)2天(ノ)斑《ブチ》駒(ヲ)1使2臥《フス》田《ミタノ》中(ニ)1、
 
初、さなつらのをかにあはまき この粟は女の家にまくなり。かなしきかとは上にもそのかなしきをといへることく、かなしきせなかなり。駒はたくともは駒は引ともなり。第十九にも、秋つけは萩咲にほふいはせ野に馬たきゆきてとよめり。手綱かいくりて行なり。神代紀云。時素戔嗚尊〇秋(ハ)則放(テ)2天(ノ)斑《フチ》駒(ヲ)1使v臥《フス》2田《ミタノ》中(ニ)1。わはそともはしとは我はそれともおもはしなり。さなつらのをかにわかあはまきて、おけるか、たとひわかかなしくおもふせなか駒にのりてゆきて、かれをかひ、かれをふませ、引よすとて手綱をさへてみなそこなひたりとも我は心にかけてそれを何ともおもはしといへるは、いたく人を切に思ふよしをまうけていへるなり
 
3452 於毛思路伎野乎婆奈夜吉曾布流久左爾仁比久佐麻自利於非波於布流我爾《オモシロキノヲハナヤキソフルクサニニヒクサマシリオヒハオフルカニ》
 
説文云、〓(ハ)陳草復(タ)生(ズルナリ)也、落句の我は上に注せしが如し、
 
初、おもしろき野をはなやきそ 古草に新草のましりておひはおふるまゝにしておもしろき野をなやきそとなり。春野の躰なり。第七に
  玉くしけみむろと山を行しかはおもしろくして昔おもほゆ
 
3453 可是乃等能登抱吉和伎母賀吉西斯伎奴多母登乃久太利(71)麻欲比伎爾家利《カセノトノトホキワキモカキセシキヌタモトノクタリマヨヒキニケリ》
 
等は音《オト》の上略なり、風の音とは遠きと云はむためなり、タモトノクダリは袖の下の方かけての心なり、落句は※[糸+比]の字ヲマヨフとよむ事第七に注せしが如し、それを心も道も迷ふによせたるべし、此は妻に別て旅に出たる者の歌なり、
 
初、風のとの遠きわきもか 風のとは音なり。浪の音をなみのとゝもいへり。此哥は夫の旅に行て國にのこし置妹かことつてを聞か、風の音つれにきこえて遠きといふ心なり。たもとのくたりは今も袖くたりたもとくたりと申めり。まよひきにけりは第七に
  ことし行新さき守か麻衣かたのまよひはたれかとりみん
此哥に和名集を引て注せるかことし。まよふは※[糸+比]の字にてよるともよめり。きぬのやふれんとするをいへり。それを心もまよひ道もまよふによせたるへし。領《クタリ》
 
3454 爾波爾多都安佐提古夫須麻許余比太爾都麻余之許西禰安佐提古夫須麻《ニハニタツアサテコフスマコヨヒタニツマヨシコサネアサテコフスマ》
 
發句より第二句につゞけるやうは第四に有て注しつ、第四句は第九に妻依來西尼《ツマヨリコサネ》とよめる釈あり、さ〔右○〕はそへたる言にて妻より來ねなり、利と之と同韻にて通ずれば今もそれにや、妻は衾の縁の詞なり、
 
初、庭にたつあさてこふすま 庭にたつ麻とつゝくることは、第四に庭にたつあさてかりほしといふ哥に尺せり。第九に小垣内のあさを引ほしとよめるをも思ふへし。つまよしこさね、長流かいはくつまよしかさねといふ心歟といへり。衾は上にきる物なれとしくは下にしくのみならす、物をのふるをいへは、上にきるをも敷といふにさまたけなし。今案第九につまよりこさねとよめる哥有。妻よりこよなり。利と之とは同韻にて通すれはこれにや
 
萬葉集代匠記卷之十四上
 
(1)萬葉集代匠記卷之十四下
 
相聞
 
3455 古非思家婆伎麻世和我勢古可伎都楊疑宇禮都美可良思和禮多知麻多牟《コヒシケハキマセワカセコカキツヤキウレツミカラシワレタチマタム》
 
カキツヤギは垣津柳也、
 
初、こひしけはきませわかせこ こひしくはきませなり。かきつやきは垣つ柳なり。あをやなきをあをやきといふかことし
 
3456 宇都世美能夜蘇許登乃敞波思氣久等母安良蘇比可禰?安乎許登奈須那《ウツセミノヨソコトノヘハシケクトモアラソヒカネテアヲコトナスナ》
 
ウツセミは世なり、夜蘇許登はヤソコトとよむべし、他言の多きを八十言とよめる歟、さらずばよそに通ずべし、此卷宇知日佐須などの日の字のやうに體に當れる字は除て其外は和訓を借て用たる事すくなし、必なしと云にはあらず事あはひを能わきまふべし、ヨソの|よ〔右○〕を世になしてつゞくる意にはあらず、敝波は上はなり、又隔(2)つるを|へ〔右○〕とのみもよみたれば八十言の隔はと云へる歟、他言の繁きに心弱く爭ひかねて我通ふ事を知らせて我に事あらすなとなり、
 
初、うつせみのやそことのへは やそはよそなり。うつせみは世の枕言なるを上にもあまたうつせみとのみいひて世の事に用たれは今も世上のよそことゝいふ心なり。よそことのへはとは、よそことの隔なり。へたつるをへとのみもいへはなり。又よそことの上にても有ぬへし。あをことなすなは我を事出來らすなとなり
 
 
3457 宇知日佐須美夜能和我世波夜麻登女乃比射麻久其登爾安乎和須良須奈《ウチヒサスミヤノワカセハヤマトメノヒサマクコトニアヲワスラスナ》
 
夜麻登、【幽齋本、登作v等、】
 
此は男の宮仕に都へ上りたる其妻が歌なり、依て宮の我背と云、大和女は河内女の如し、すなはち都の女なり、ヒザマクゴトニは膝枕《ヒザマクラ》する度になり、落句は我を忘るなゝり、上に筑紫なるにほふ子故にとよめる歌引合すべし、
 
初、うちひさす宮のわかせは これは宮つかへに、男の大和の京へ上りたる其妻かよめるなり。やまとめは大和國の女なり。河内女のことし。ひさまくことには膝を枕にすることにといふなり。あをわすらすなは、我をわすらすなにて、かのやまとめにおもひつきて我をわするゝなとなり。第五に琴娘子か哥に
  いかにあらん日の時にかも聲しらむ人のひさのへわかまくらかむ
第七にもひさにふす玉の小琴とよめり。史記樊※[口+會]傳云。上獨枕(シテ)2一宦者(ヲ)1臥(リ)。垂仁紀云。仁徳紀云。【共同2第五引1。】上につくしなるにほふこ故にとよめる歌引合てみるへし
 
3458 奈勢能古夜等里乃乎加耻志奈可太乎禮安乎禰思奈久與伊久豆君麻?爾《ナセノコヤトリノヲカチシナカタヲレアヲネシナクヨイクツクマテニ》
 
ナセノコヤは名兄之子《ナセノコ》哉なり、夫を貴て云なり、神代紀云、吾夫《アガセノ》君尊云云、トリノヲカは地の名、ヲカヂシは岡道にて|し〔右○〕は助語なり、ナガタヲレは長手折れなり、第九に注(3)せり、アヲネシナクヨは、あれはねなくよなり、し〔右○〕は助語なり、伊久は息なり、我背子はとりの岡道を長手折て來よ君を戀て息をつくばかり我は哭《ネ》を泣居るよとよめるなり、
 
初、なせのこやとりのをかちし なせのこやはせなよといふにおなし。神代紀云。時(ニ)伊奘册尊(ノ)曰(ク)。吾夫君《アカナセノ》尊(ト)何(ソ)來之晩《ヲソクイテマシツル》也。とりのをかちしはとりのをかは所の名と聞ゆ。ちは路。しは助語なり。なかたをれは中ころより道をたをりてこよとか歸れとかいふ心なり。道のたをり峯のたをりなとよめり。あをねしなくよはあれはなくなり。いくつくはいきつくなり
 
3459 伊禰都氣波可加流安我手乎許余比毛可等能乃和久胡我等里?奈氣可武《イネツケハカヽルアカテヲコヨヒモカトノヽワクコガトリテナケカムテ》
 
カヽルアガ手ヲとはかくあら/\しき我手をなり、賤しき女の然るべき人に思はれて身を知て恥らひてよめるはあはれなり、
 
初、いねつけはかゝるあか手を 下にもおしていなといねはつかねとゝよめり。かゝるあか手をはかゝるあら/\しきわかてをなり。とのゝわくこはとのゝわかこなり。上に殿のなかちし、其或本にはとのゝわくごしといへり
 
3460 多禮曾許能屋能戸於曾夫流爾布奈未爾和家世乎夜里?伊波布許能戸乎《タレソコノヤトノオソフルニフナミニワケセヲヤリテイハフコノトヲ》
 
屋能戸、【官本云、ヤノト、】  和家世乎、【官本云、ワカセヲ、別校本、家作v氣、官本、或作v我、】
 
屋能戸の今の點は書生の誤なり官本に依べし、オソフルは押振なり、振は動かすなり、押の一字をおさふると云には替れり、古事記八千矛神御歌云、遠登賣能《ヲトメノ》、那須夜伊(4)多斗遠淤曾夫良比《ナスヤイタドヲオソブラヒ》、和何多多勢禮婆《ワガタタセレバ》云々、此淤曾夫良比に同じ、共に夫の字を書たるは濁てよむ故なり、此二句は第十一に誰そ此|我宿來呼《ワガヤドキヨブ》とよめるに似たり、爾布奈未爾は上にかつしかわせをにへすともとよめり、敝と布と同音にてかよひ米《メ》と未とも亦通へばにへなめにと云へる歟、又互ににへすべければ贄次《ニヘナミ》にと云意にや、和家世は戯奴《ワケ》が兄《セ》とよめる歟、集中我を誤て家に作れる所あまた見えつれば今も我にや、イハフ此戸ヲとは唯にへする家のみにあらず、にへに行たる人の家にもにへのほどは戸をさしこめて居るを祝ひとするなるべし、我は人妻にてにふなみに行たる夫のために殊に祝て戸をさしこめ】有に、夫のなき間をはかりて來て此屋の戸を押へうごかすは誰ぞやとなり、
 
初、誰そこの屋の戸おそふる おそふるはおさふるにて、戸をあけよと押なり。第十一にもたれそ此わかやときよふとよめり。にふなみには贄次《ニヘナミ》なるへし。上にかつしかわせをにへすともとよめり。田をうゑたるものゝより合てわさいひくふに、事のさはりにあはしとて戸をさしていかなる人をもよひ入れねは其許に男のいたりたる跡にも戸をさしかためていはふなるへし。
 
3461 安是登伊敞可佐宿爾安波奈久爾眞日久禮?與比奈波許奈爾安家奴思太久流《アセトイヘカサネニアハナクニマヒクレテヨヒナハコナニアケヌシタクル》
 
發句は初の安は奈に通じて何と云心にかなり、次句は實《サネ》に不相《アハナク》ににあらず、相寢るやうにはあはずしてなり、佐宿ニとかけるを思ふべし、ヨヒナハコナニは夕には來(5)なくになり、落句は明ぬるあした來るなり、夕に來て明る朝こそ歸るべきに、さはせで明る朝に來るは何と云へる意ぞと疑ふなり、 
 
初、あせといへかさねにあはなくに なにといふ心にか、實《サネ》にあはぬになり。眞日暮てはまことによく日のくれてなり。よひにはこなには、よひにはこなくになり。あけぬしたくるは明ぬる朝來るなり。よひに來て明る朝こそ歸るへきに、さはせて明る朝に來ては、逢てもまことに手枕もかはさぬに、何といへる心そとなり。古今集のことはかきにひるはきてゆふさりはかへりのみしけれはよみてつかはしけるとかけるににたり
 
3462 安志比奇乃夜末佐波妣登乃比登佐波爾麻奈登伊布兒我安夜爾可奈思佐《アシヒキノヤマサハヒトノヒトサハニマナトイフコカアヤニカナシサ》
 
ヤマサハ人とは多きを云、世に物の多かるを山ほどゝ云ひ.澤山《タクサム》と云は古語の殘れるなり、神代紀云。頃者人《コノコロヒト》雖2多請《サハニマウスト》1云云、私記云、問多(ノ)字讀2左波(ト)1又讀(コト)2於保之(ト)1如何、答一部之内皆云2左波(ト)1、古者謂2聚多1爲2左波又於保之1、義同耳、山(ハ)産也、と注して萬物化産する心なれば多き事に云もことわりなり、澤は潤澤にて物をうるほす徳ある名なり、物をうるほすは水多き故なり、澤と多と和語の同じきは心の通へる故なるべし、ヒトナハニは山澤人をふたゝび云なり、神武紀に道(ノ)臣《オムノ》命の歌云、於佐箇廼《オサカノ》、於朋務露夜珥《オホムロヤニ》、比苫瑳破而《ヒトサハニ》、烏利苫毛《ヲリトモ》、比苫瑳破而枳伊離利苫毛《ヒトサハニキイリヲリトモ》云云、マナト云兒とは愛子と書てまなごとよめる意なり、
 
初、あしひきの山さは人の 物のおほきを澤山と常に申めり。又物のいたりておほきを山ほとゝもいひならへり。多の字を日本紀に佐波と訓したるは澤の訓とかよへり。まなといふ子かとは眞《マナ》にて、まめなる女なり。山さは人の中にとりておほくの人のまめなる子なりとさたむる子か、ねんころにかなしきとなり。又勿の字を日本紀に萬奈と訓したるはなかれといふにおなし。しかれは唯なしといふをもまなといふへき歟。第四に岳本天皇、神代よりあれつきくれは、人さはにくにゝはみちて、味村のいさとはゆけと、わかこふる君にしあらねはとよませたまひ、第十三に
  式嶋のやまとのくにゝ人ふたり有としおもはゝなにかなけかむ
これらの心にて山さは人の中に又たくひなしといふ心歟
 
3463 麻等保久能野爾毛安波奈牟巳許呂奈久佐刀乃美奈可爾(6)安敝流世奈可母《マトホクノヽニモアハナムコヽロナクサトノミナカニアヘルセナカモ》
 
初、まとほくの野にもあはなん さとのみなかは里の眞中なり
 
3464 比登其登乃之氣吉爾余里?麻乎其母能於夜自麻久良波和波麻可自夜毛《ヒトコトノシケキニヨリテマヲコモノオヤシマクラハワハマカシヤモ》
 
其等乃、【幽齋本、等作v登、】
 
マヲコモは眞小薦《マヲコモ》なり、オヤジマクラは同じ枕なり、第七に薦枕相卷之兒《コモマクラアヒマキシコ》とよめり、同じをおやじ〔三字右○〕と云は古語なり、夜と奈と同韻にて通ぜり、天智紀|童謠《ワザウタ》にも於野兒《オヤジ》とよめり、此集末にもあり、
 
初、まをおこものおやし枕は 眞小薦の同枕なり。第七にこもまくらあひまきし子とよめるにおなし。武烈紀に物部影姫哥にこもまくら高橋過とよみ、催馬樂にこもまくら高瀬の淀ともつゝけよめるは、こもまくらは高き物なれはなり。哥の心は人ことのしけきによりて同し枕をせさらんやは。人ことはしけくともあひともにこそねめとなり
 
3465 巨麻爾思吉比毛登伎佐氣?奴流我倍爾安杼世呂登可母 安夜爾可奈之伎《コマニシキヒモトキサケテヌルカヘニアトセロトカモアヤニカナシキ》
 
ヌルガヘニは寢るが上になり、アトセロトカモは何とせむとかなり、上にあそのまそむらかきむたきとよめる意に同じ、
 
初、こまにしきひもときさけて ぬるかへにはぬるか上になり。あとせろとかもは何とせよとかなり。もろともに心とけてぬるかうへにも猶あかぬ心の切なるをみつからあやしみてよめるなり。古今集におもふよりいかにせよとかといへるかことし。又同集に
  心をそわりなきものとおもひぬるみるものからやこひしかるへき
 
(7)3466 麻可奈思美奴禮婆許登爾豆佐禰奈敝波巳許呂乃緒呂爾能里?可奈思母《マカナシミヌレハコトニツサネナヘハココロノヲロニノリテカナシモ》
 
コトニヅは人言に出るなり、サネナヘバは寢ねばなり、
 
初、ぬれはことにつは、逢てもろ共にぬれは人言にいひ出るなり。さねなへはゝねゝはなり。心のをろは心の緒なり
 
3467 於久夜麻能眞木乃伊多度乎等杼登之?和我比良可武爾伊利伎?奈左禰《オクヤマノマキノイタトヲトトヽシテワカヒラカムニイリキテナサネ》
 
等杼登之?は第十一にも馬音之跡杼登毛爲者《ウマノオトノトドトモスレバ》とよめり、奈左禰は禰と奈と通ずれば寢さねにて左は付たる字なり、第十九に安寢不令宿《ヤスイシナサデ》とあるも宿を|な〔右○〕とよめるは今と同じ、
 
初、おく山のまきのいたとを 第十一におく山のまきのいたとを押ひらきとも、おく山のまきの板戸の音はやみともよめり。とゝとしてはとゝろとしてなり。同十一に、うまのおとのとゝともすれはともよめり。いりきてなさねはねさねにてねよなり
 
 
3468 夜麻杼里乃乎呂能波都乎爾可賀美可家刀奈布倍美許曾奈爾與曾利?米《ヤマトリノヲロノハツヲニカヽミカケトナフヘミコソナニヨソリケメ》
 
乎呂は雄にて呂は助語なり、波都乎は波と保と通ずればほつをなり、木のほつえを(8)第九に最末枝と書たれば此に准らふるに最末尾《ホツヲ》なり、又神武紀に秀の字をほつとよめるも最の字と義同じ、第十一に山鳥の尾のしだり尾とよめるに同じく長き尾の中に殊に長き尾なり、山?の鏡の事は魏時南方(ヨリ)獻(ス)2山?(ヲ)1、帝欲(スレトモ)2其(ノ)歌舞(セムコトヲ)1而無v由、公子蒼舒令d以2大鏡1著c其前(ニ)u、山?鑑(テ)v形(ヲ)而舞、不(シテ)v知(ラ)v止(コトヲ)逐(ニ)至(ル)v死、韋仲將爲(ニ)v之(カ)賦(ス)、此は己が形を愛して舞たりと見ゆ。、物志云(ニ)云、山?有2美毛1自《ミ》愛2其色1終日映(テ)v水(ニ)目眩(テ)則溺(レ)死(ス)此説に類せり、地理志云、山?形如2家?1雄斑雌黒者也、かゝれば雄はうるはしくて雌はさしもなきなり、以2大鏡1著2其前1と云と尾に懸と云とは違ひたれどいかさまにも此故事を踏てよめるなるべし、清少納言に云、山?は友を戀て啼に、鏡を見せぬれば慰さむらむ、いとわかうあはれなり、又鸞にも鏡を見せたればなける事あり、似て紛らはしければ次に出す、異苑云、〓賓王置2一鸞(ヲ)1其鳴不v可(ラ)v致、飾(リ)2金樊1饗2珍羞1、對(シテ)v之|兪《イヨ/\》戚《イタミテ》三年(マテニ)不v鳴、夫人曰、甞(テ)聞(ク)鸞見(ルトキハ)v類則鳴、乃(ハチ)懸v鏡照(シテ)v之覩(シムルニ)應v影悲鳴(ス)、中宵一奮而絶矣、事文頬聚後集第四十二に載たる宋范泰が鸞鳥詩序の説此に同じ、下句はトナフは東の詞鳴を云なるか、。聲たてゝ鳴ぬべきまで、我心は汝に依けめとなるべし、よそりけれと云べきをけめ〔二字右○〕と云へるは、人の上を推量して云やうなれど心は限なき物にて我ながら知れれねば汝によそりはてたるにてこそ有けめと云はむは奥深く聞ゆるにや、此哥は山?の(9)捕られて〓《トリコ》に有如く、思ひながら障ることありて女の許へも得ゆかぬ男のせめても志の程をだに知らせむとてかくはよそへ出してよめるにこそ、
 
初、やまとりのをろのはつをに ろは助語にてをは雄なり。はつをはほつをなり。木のほつえといふを此集に末枝とも最末枝ともかけれは、はつをは最末尾《ハツヲ》とかくへし。山鳥の尾のしたり尾のとよめることく、尾の上にすくれて長き尾の有をいふなり。山とりの鏡のことは、魏時南方(ヨリ)獻(ス)2山※[奚+隹](ヲ)1。帝欲(スレトモ)2其(ノ)歌舞(セムコトヲ)1而無(シ)v由。公子蒼舒令d以2大鏡(ヲ)1著c其前(ニ)u。山※[奚+隹]鑑(テ)v形(ヲ)而舞(フ)。不(シテ)v知(ラ)v止(コトヲ)遂(ニ)至v死(ニ)。韋仲將爲(ニ)v之(カ)賦(ス)。博物志(ニ)曰。山※[奚+隹]有2美毛1自《ミ》愛(シテ)2其色(ヲ)1、終日映v水(ニ)、目眩(テ)則溺(レ)死(ス)。清少納言にいはく。山とりはともをこひてなくにかゝみをみせたれはなくさむらん、いとわかうあはれなり。谷へたてたるほとなといとこゝろくるし。鸞にも鏡を見せてなかせたること有。似てまきらはしけれはついてに出す。異苑云。〓賓王置(ニ)2一鸞(ヲ)1、其鳴不v可(ラ)v致(ス)。飾(リ)2金|樊《・カコ》(ヲ)1饗(スルニ)2珍羞(ヲ)1、對(シテ)v之(ニ)兪《イヨ/\》戚(テ)三年(マテニ)不v鳴(カ)。夫人(ノ)曰。甞(テ)聞(ク)鸞(ハ)見(ルトキハ)v類(ヲ)則鳴(ト)。乃(ハチ)懸(ト)v鏡(ヲ)照(シテ)v之(ヲ)、覩《ミシムルニ》應(シテ)v影(ニ)悲鳴(ス)。中宵一奮(シテ)而絶矣。事文頬聚後集第四十二曰。鸞鳥詩并v序宋范泰。昔〓賓王結2罟峻卯之山1獲2一鸞鳥1。王甚愛v之、欲2其鳴1不v能v致。乃飾以2金樊(ヲ)《新迦界託此(ニハ)云賤種》1饗以2珍羞1、對v之逾〓三年不v鳴。其夫人曰。甞聞鳥見2其類1而鳴。何不2懸(テ)v鏡(ヲ)映1。王從2共意1。鸞覩v形悲鳴哀響。中霄一奮而絶。嗟乎茲禽何情之深。昔鍾子破2琴于伯牙1、匠石韜2斤于郢人1、蓋悲2妙賞之不1v存、慨2神質于當年1耳。矧乃一擧而殞2其身1者哉。悲夫乃爲v詩曰。神鸞棲2一高梧1、爰翔2霄漢際1、軒v翼揚2輕風1、清響中天氏A外患難2預謀1、高羅掩2逸勢1、明鏡懸2中堂1、顧v影悲2同契1、一激2九霄音1、響流形已斃。和名集云。七卷食經云。山※[奚+隹]一名〓〓【峻儀二音。和名夜万土利。今按山※[奚+隹]〓〓種類各異。見2漢書注1。】地理志云。山※[奚+隹]形如2家※[奚+隹](ノ)1雄(ハ)斑(ニシテ)雌(ハ)黒(キ)者(ナリ)也。となふへきそはなきぬへくこその心なり。夫唱婦和といへは、男の哥にことにかなへり。なによそりけめは汝によりけめなり。心は山とりの尾を隔たることくひとりねて汝をおもふ心は、彼山鳥に鏡を見せたれはなきしにけることく、我も音にたてゝ鳴ぬへくこそおほゆれは、わか心は底を盡して皆汝にこそよりはてけめとなり
 
3469 由布氣爾毛許余比登乃良路和賀西奈波阿是曾母許與比與斯呂伎麻左奴《ユフケニモコヨヒトノラロワカセナハアセソモコヨヒヨシロキマサヌ》
 
ノラロはのれるにて告るなり、アゼソモはなぞそもなり、ヨシロは上の妻よしこさねねのよし〔二字右○〕に同じ、呂は助語なり、
 
初、ゆふけにもこよひとのらろ ゆふけは辻占なり。のらろは告《ノル》なり。あせそもはなせそもにてなんそなり。よしろきまさぬはろは助語にてよしきまさぬなり。よしは好の字なり。第五に好去好來歌あり。よしゆきて又かへりみんなと此好の字あまたよめり。つゝかなき心なり。辻占にもこよひはきまさんと告たるに、我せなはなんそこよひつゝかなくてきまさぬやといふなり
 
3470 安比見?波千等世夜伊奴流伊奈乎加母安禮也思加毛布伎美末知我弖爾《アヒミテハチトセヤイヌルイナヲカモアレヤシカモフキミマチカテニ》
 
加母、【幽齋本、母作v毛、】
 
此歌第十一に既に出たり、
 
初、あひみてはちとせやいぬる 此哥第十一の十七葉に既に出て全同なり。あれやしかもふをそこにはわれやしかおもふといへり。下の注はなし
 
柿本朝臣人麻呂歌集出也
 
(10)第十一に人麿歌集歌百四十九首を載畢て正述2心緒1歌中にあるを今かく注せられたるは不審なり、つら/\按ずるに彼卷には他本によのつねの歌の中に入れたるに依て載せ、今は人丸集に東歌と注せられたるに依て此處にも載る故に後人に兩卷の相違を疑がはしめじとて注せらるゝなり、
 
3471 思麻良久波禰都追母安良牟乎伊米能未爾母登奈見要都追安乎禰思奈久流《シマラクハネツヽモアラムヲイメノミニモトナミエツヽアヲネシナクル》
 
落句は可と久と同音にて通ずればわれはねなかるなり、し〔右○〕は助語なり、寢ツヽモアラムヲとは中々に夢にだに見ずば、何となく暫は寢て忘てもあらむをの意なり、
 
初、しまらくはねつゝもあらんを しまらくはしはらくなり。あをねしなくるはあれは音しなかるなり
 
3472 比登豆麻等安是可曾乎伊波牟志可良婆加刀奈里乃伎奴乎可里?伎奈波毛《ヒトツマトアセカソヲイハムシカラハカトナリノキヌヲカリテキナハモ》
 
曾乎とはそれをなり、伎奈波毛は著なくもの意なり、他の妻とてなむでう其人を云ひてかりにもあはずしてさてやまむ、人妻なりとで假にも相まじくば然らばいた(11)く寒き時に隣の人の衣を借て著ぬ事かはとよめる意なり、第九筑波山〓歌會の日の歌を合せで思ふに此風俗有けるにや、戰国策云、鄙語(ニ)豈(ニ)不(ヤ)v曰(ハ)2借v車者(ハ)馳借v衣者(ハ)被(ルト)v之哉云云、
 
初、ひとつまとあせかそをいはむ ひとつまは他妻なり。あせかそをいはむはなせにかそれをいはむ、しからはかはさあらはかなり。隣の衣をかりてきなはもとは隣の衣をかりてきなくもなり。上のしからはかのかもしを下へくたして、かりてきなはかもと心得へし。かりてきぬかもなり。心は他の妻なりとなんてうその人をいひてさてやまむ。人つまなりとてさてやむへくは、さあらはいたく寒き時に隣の人にきぬをかりてきぬかはとなり。第九筑波山※[女+燿の旁]歌會この心ににたり。戰國策云。趙王封(スルニ)2孟甞君(ヲ)1以(ス)2武城(ヲ)1。孟甞君擇(テ)2舎人(ヲ)1以爲2武城(ノ)吏(ト)1而遣(ハス)v之。曰。鄙語(ニ)豈(ニ)不(ヤ)v曰(ハ)2借(ル)v車(ヲ)者(ハ)馳(セ)、借(ル)v衣者(ハ)被(ルト)1v之(ヲ)哉云云、
 
3473 左努夜麻爾宇都也乎能登乃等抱可騰母禰毛等可兒呂賀於由爾美要都留《サノヤマニウツヤヲノトノトホカトモネモトカコロカオユニミエツル》
 
乎能登は斧音《ヲノオト》なり、毛詩(ニ)云伐(コト)v木(ヲ)丁《タウ》々(タリ)、トホカトモは遠くともなり、ネモトカコロガは寢むとか兒等《コラ》がなり、オユニ見エツルとは此に二つの意あるべし一つには、おゆは老《オユ》なり、孝徳紀云、小乙下中臣(ノ)間《ハシ》人(ノ)連老【老此(ヲハ)云2於喩(ト)1、】我は年老兒等は若ければ其あはひさの山に木を伐る斧の音を此《コヽ》にして聞ばかり遠けれど相寢むと思ひてや我に見えつるとよめる歟、然らば四十にも餘る者のよめるなるべし、二つには相見る事は遠くとも終にはねむと思ひてや、わか/\しくももてさわがず、をとなびて我に見えつるとよめる歟、
 
初、さの山にうつやをのとの さの山は山の名なるへし。をのとは斧の音なり。うつは木をきるなり。毛詩云。伐(ルコト)v木(ヲ)丁《タウ》々(タリ)。とほかともは遠くともなり。ねもとかはねむとかなり。おゆに見えつるは、おとなしくみゆる心にや。孝徳紀云。小乙下中臣(ノ)間《ハシ》人(ノ)連老【老此(ヲハ)云2於喩1。】老たる人は智惠まさりておとなしく、物の心をもしれは、おゆに見えつるとはいへる歟。日本紀の中に不賢、不肖、不敏なとかきてをさなしとよめり。おさなきものは智惠すくなけれは、此裏に心得へし。遠くともねんとかとは、また年のいとわかけれはいへる歟。さはることゝもおほくてあふことのおそかるへけれはいへる歟。よはひのほとよりおとなしきをおゆに見えつるとはいへるなるへし。綏靖紀云。武(キ)藝《ワサ》過(テ)v人(ニ)而|志尚《ミコヽロサシ》沈毅《オエユシ》。此おゆゝしも大事なとをたゆまてとくるやうの心なれは、これにても侍るへきにや
 
3474 宇惠太氣能毛登左倍登與美伊低?伊奈婆伊豆思牟伎?(12)可伊毛我奈藝可牟《ウヱタケノモトサヘトヨミイテヽイナハイツシムキテカイモカナケカム》
 
ウヱタケは植竹なり、動植と云時植は草木をいへば今植ずとも植竹と云べし、モトサヘトヨミは末葉は風の渡りてとよみ、本は別るとて其竹の本に立よりてさくりあげて泣響にとよむなり、上に此床のひしとなるまで歎つるかもとよめるを思ふべし、イヅシはいづちなり、此下句上にも見えたり、
 
初、うゑたけのもとさへとよみ うゑたけはうゑたる竹なり。植の字をたつともよめり。うゆるもたてる心なり。もとさへとよみは、竹の末は風になり、もとは別て歸るとて諸共になくにひゝくなり。上に枕もそよになけきつるかもとも、此床のひしとなるまてなけきつるかもともよみ、第廿にはおひそやのそよとなるまて歎つるかもともよめるにおなし。いつしむきてかはいつちむきてかなり。上に霞ゐるふしの山びにわかきなはといへる哥も下句今におなし
 
3475 古非都追母乎良牟等須禮杼遊布麻夜萬可久禮之伎美乎於母比可禰都母《コヒツヽモヲラムトスレトユフマヤマカクレシキミヲオモヒカネツモ》
 
初の二句は戀ながらもさて堪てをらむとすれどなり、ユフマ山は第十二にもよめり
 
初、こひつゝもをらんとすれと こひなからもさてたへてあらんとおもへとも、別ていにし人をおもへは、しのひかたきとなり
 
3476 宇倍兒奈波和奴爾故布奈毛多刀都久能努賀奈敝由家婆故布思可流奈母《ウヘコナハワヌニコフナモタトツクノヌカナヘユケハコフシカルナモ》
 
(13)兒奈は只兒にて女を云、ワヌは我なり、コフナモは戀るナニて、も〔右○〕は助語なり、タトツクノは立月のなり、ヌカナヘユケバとは遁《ノガレ》ゆけばなり、月立てより朔日二日とひと日も落ず行なり、第十五に君を思ひ我戀まくはあらたまの立月毎によくる日もあらじとよめるも同じ意なり、コフシカルナモは戀しくあるなにて、も〔右○〕は又助語なり月日の過行まゝに我戀しきを以て兒等が我に戀る由聞えさせしは、げにもさぞあらむとよめるなり、
 
初、うへこなはわぬにこふなも ことはりに妹はわれにこふるなゝり。たとつくのは起《タツ》月のなり。のかなへゆけはゝのかれすゆけはなり。立月ことに朔日二日といふより一日もかけぬをいへり。第十五に
  君をおもひあかこひまくはあら玉の立月ことによくる日もあらし
こふしかるなもはこひしくあるなゝり。わかこひしきより、うへも妹か我にこふるとはいふなといふ心なり
 
或本歌末句曰|努我奈敝由家杼和奴賀由乃敞波《ノカナヘユケトワノカユノヘハ》
 
努我、【別校本、努作v奴、】  和奴、【別校本、奴作v努、】
 
ユノヘハとは行《ユキ》の上はと云べきをかく云へる歟、君が行と上に有し行は旅なり、立月はのがれずゆけどそれをば常の事にて何とも思ひたらで我行の上はやがても立かへらねば戀るも諾なりとにや、
 
初、或本歌、わぬかゆのへはといへるはわきまへかたし
 
3477 安都麻道乃手兒乃欲婢佐可古要?伊奈婆安禮婆古非牟奈能知波安比奴登母《アツマチノテコノヨヒサカコエテイナハアレハコヒムナノチハアヒヌトモ》
 
(14)安禮婆、【幽齋本、婆作v波、】
 
第十二に雲居有海山越而伊徃名者《クモヰナルウウミヤマコエテイユキナハ》、此歌と下句同じ、アヒヌトモは雖逢《アヒヌトモ》にはあらず雖相寢《アヒヌトモ》なり、
 
3478 等保斯等布故奈乃思良禰爾阿抱思太毛安波乃敝思太毛奈爾己曾與佐禮《トホシトフコナノシラネニアホシタモアハノヘシタモナニコソヨサレ》
 
發句は遠しと云なり、アホシタモはあはしてもにてあひてもなり、第十八云、爾布夫爾惠美天阿波之多流《ニフブニヱミテアハシタル》云云、アハノヘシタモはあはなくしてもなり、ナニコソヨサレは汝にこそ依れなり、よされは上のよそりと同じ、
 
初、とほしとふこなのしらねに とほしといふこなのしらねのことくになり。あほしたもはあひしてもなり。あふことをしてなれは、逢てもなり。あはのへしたもはあはすしてもなり。なにこそよされは、汝にこそよれなり。遠き所に有といへとこなのしら山はおもしろき山ときゝをよひて、ゆきてみる人もえゆかてみぬ人も心をよすることく、君にはあふ時もあはぬ時時も心をよするとなり
 
3479 安可見夜麻久左禰可利曾氣安波須賀倍安良蘇布伊毛之安夜爾可奈之毛《アカミヤマクサネカリソネアハスカヘアラソフイモシアヤニカナシモ》
 
あかみ山の繁き草を刈のけて人を入らしむる如く、障る事ども有を凌ぎて逢が上に人に向ひてはまたくさる事なしと爭ふ妹があはれなるとなり、伊毛之の之〔右○〕は助(15)語なり、
 
初、あかみ山草根かりそけ かりそけはかりのくるなり。第十一にも夏草のかりそくれともとよめり。除の字をかけり。あはすかへは逢か上になり。あかみ山のしけき草根をかりのけて人をいらしむることく、しけきさはりをしのきて逢しむるかうへに、人にむかひてさることなしとあらそふがあはれにおもしろきとなり
 
3480 於保伎美乃美巳等可思古美可奈之伊毛我多麻久良波奈禮欲太知伎努可母《オホキミノミコトカシコミカナシイモカタマクラハナレヨタチキヌカモ》
 
ヨタチキヌカモはえ〔右○〕とよ〔右○〕と通ずればえたちきぬるかもなり、徭の字役の字をえたちとよめり、軍役に差るゝなり、第十六にも課役をえたすとよめり、或は夜《ヨ》をこめて立て來るとよめる歟、此は防人などに差れて出とてよめるなるべし、
 
初、よたちきぬかもは、ゑたちきぬるかもなり。徭役の字をかけり。筑紫の防人なとにさゝるゝたくひなり
 
3481 安利伎奴乃佐惠佐惠之豆美伊敞能伊母爾毛乃乃伊波受伎爾?於毛比具流之母《アリキヌノサヱサヱシツミイヘノイモニモノノイハスキニテオモヒクルシモ》
 
毛乃乃伊波受、【官本并幽齋本、毛乃伊波受、點云モノイハス、】
 
此歌は注の如く第四に人麿歌とで既に出たり、アリキヌは第十六に蟻衣之寶之子等《アリキヌノタカラノコラ》とよめれば重寶とする物歟、古事記下雄略天皇の段に伊勢三重妹が歌にも阿理岐奴能美弊能古賀《アリキヌノミヘノコガ》とよめり、和名集云、玉篇云、※[虫+少]【三消反、和名與v蟻同、】蠶初生(ズルナリ)、此は蠶の子の紙(16)などに著たるが初て蠢めき初るを云歟、第十六に蟻衣とかけると順の注と叶へば此にや、然らば※[虫+少]《アリ》の時絹と成るにはあらねど飼まゝに繭をも作れば因中説果の如く後の功を初に攝《ヲサ》めて絹をほめて云にや、第四には珠衣とありき、又欽明紀云、十五年冬十二月百濟王聖明獻2好錦二|疋《ムラ》〓〓《アリカモ》一|領《クダリ》斧|三百《ミホ》口(ヲ)於我(カ)天朝《ミカトニ》1、此〓〓は毛を以て織れる物なるべし、稀なる物なればこそ一領は奉られけめ、寶子とつゞけたる心は此にや、サヱ/\は第四に佐藍《サヰ》佐藍とありき、ゑ〔右○〕と|ゐ〔右○〕同韻にて通ず、第四句は幽齋本に依べし、第四には爾の字なし、落句はおもひかねつなり、注は彼卷を見るべし、
 
初、ありきぬのさゑ/\しつみ 此哥は第四卷にすてに出たるゆへに今哥の後に注あり。ありきぬは第十五にもよみ、第十六竹取翁か哥には、ありきぬのたからの子とつゝけよみたれは、いかなるきぬとも知かたし。第四には玉きぬのといへり。さゑ/\しつみは第四にさゐ/\沈といへり。さあゐ/\なり。ものいはすきにて第四にはにもしなし。おもひくるしもは第四はおもひかねつもなり。注は上に見えたり。毛乃乃、此後の一の乃もしはあまれり。此下に水鳥のたゝむよそひにといふ哥の下大かた似たり。欽明紀曰。十五年冬十二月、百濟王聖明献好錦二疋、〓〓一領、斧三百口、於我天朝。此|〓〓《アリカモ》一領といへるをおもふに、ありきぬは〓衣にて〓をもてしたる衣歟。〓はまれにある物なれはありきぬのたからの子ともいへるにや
 
柿本朝臣人麻呂歌集中出見v上巳詮也
 
已詮也、【幽齋本、詮作v記、私云註歟、】
 
3482 可良許呂毛須蘇乃宇知可倍安波禰杼毛家思吉巳許呂乎安我毛波奈久爾《カラコロモスソノウチカヘアハネトモケシキココロヲアカモハナクニ》
 
ウチカヘは内襟と外襟と打|合《ア》はすれば打交《ウチカヘ》の意なり、アハネドモは第十一に襴之不相而《スソノアハズテ》とよめるが如し、あふべき物を假てあはぬを云へり、ケシキは|け〔右○〕は異《ケ》の字な(17)り、あだし心を我思はぬなり、
 
初、から衣すそのうちかへ うちかへは或本歌にうちかひと有もおなし。上かへ下かへを打ちかふれは打交《ウチカヘ》といふ心なり。内襟外襟といふか次のことく下かへ上かへなり。うちかへあはねともといへるは、あふ物をかりてあはぬといへり。ふるのわさ田のほには出すとつゝけたるかことし。けしき心をあかもはなくには、けは異の字なり。あたし心といふにおなし。久しくあはねともあたしき心をはわかおもはぬとなり。第十一にも、から衣すそのあはすてとよめり
 
或本歌曰|可良己呂母須素能宇知可比阿波奈敝婆禰奈敝乃可良爾許等多可利都母《カラコロモスソノウチカヒアハナヘハネナヘノカラニコトタカリツモ》
 
ウチカヒもうちかへに同じ、アハナヘバはあはねばなり、ネナヘノカラニは寢なくのからになり、第十六に自身之柄《オノガミノカラ》とよめる句の體なり、コトタカリツモはこちたかりつもなり、
 
初、或本歌、あはなへはゝあはねはなり。ねなへのからにはねぬのからになり。のもしの中にくはゝれるは、第十六仙女哥に
  あにもあらすをのか身のから人の子のこともつくさし我もよりなむ
古今集にあひみぬもうきもわか身のから衣とつゝけたるもおなし。ことたかりつもは、こちたきといふにおなし。もろともにねぬ物からに人ことのしけきとなり
 
3483 比流等家波等家奈敝比毛乃和賀西奈爾阿比與流等可毛欲流等家也須流《ヒルトケハトケナヘヒモノワカセナニアヒヨルトカモヨルトケヤスル》
 
トケナヘはとけぬなり、アヒヨルトカモは紐のおのづから解るは相べき前相なればあひよらむかもの意なり、
 
初、ひるとけはとけなへひもの とけぬひものなり。ひるときてみれはとけぬひものをのれとよるとくるはわかせなとあひよりてねんといふ相かといふ心なり
 
3484 安左乎良乎遠家爾布須左爾宇麻受登毛安須伎西佐米也(18)伊射西乎騰許爾《アサヲラヲヲケニフスサニウマストモアスキセサメヤイサセヲトコニ》
 
登毛、【官本、毛或作v母、】
 
發句の良は助語なり、フスサはふさにて多きなり、アスキセサメヤは明日著せざらめやなり、イサヽヲトコニとは日本紀に小の字をイサヽカと讀たれば苧をすこしばかる績《ウミ》たらば明日はあればかりの小男に麻衣を著せざらめやと戯てよめるなり、
 
初、あさをらををけにふすさに 麻苧を麻笥にふさにうますともなり。ふさは物のあつまりておほきをいふ。第八に旋頭哥にいめたてゝとみのをかへのなてしこの花、ふさたをりわれはもていなんなら人のため。此哥に注せり。第十七にもふさたをりけるをみなへしかもとよめり。常にもふさ/\なと申詞なり。そのうへ古語拾遺に麻を古語に總《フサ》といひけるよし見えたり。さきにすてに引るかことし。しかれはいよ/\こゝはそのよせあり。あすきせさめやはきせさらめやなり。いさゝをとこには長流か抄に勇《イサメル》をとこなりとかきたれと、哥のおもむきしからす。細許とかきてさゝやかと遊仙窟によめり。又聊の字をい
 
3485 都流伎多知身爾素布伊母乎等里見我禰哭乎曾奈伎都流手兒爾安良奈久爾《ツルキタチミニソフイモヲトリミカネネヲソナキツルテコニアラナクニ》
 
身ニソフ妹は面影なり、依て取見カネと云へり、後漢書に神仙の道を影を捕り風を係《ツナ》ぐに譬へたるが如し、落句の手兒は稚乎《ワカゴ》なり、第二に戀に沈まむたわらはのごとゝよめる意なり、
 
初、つるきたち身にそふ妹を とりみかねは手に取て見かぬるなり。太刀は男の身をはなたねは身にそふとつゝけ、手に取物なれはとりみかねといへり。てこにあらなくには、長流かいはくてこは女なり。女は心よはくてなくものなれは、男に有なから女しく泣ことよといへるなりとかけり。第四に坂上女郎か長哥にたをやめといはくもしるくたわらはのねのみなきつゝとよめる心なり。今案初に身にそふ妹といへるは面影の身にそふをいへはとりみかねとはいへり。てこにあらなくにはさたまれるわか妻にもあらぬにといへるなるへし
 
3486 可奈思伊毛乎由豆加奈倍麻伎母許呂乎乃許登等思伊波婆伊夜可多麻斯爾《カナシイモヲユツカナヘマキモコロヲノコトヽシイハヽイヤカタマシニ》
 
(19)ナヘマキは並纏《ナベマキ》なり、モコロヲは第九に如己男とかけり、コトヽシの|し〔右○〕は助語なり、イヤカタマシニは彌勝ましになり、歌の意はもし男どちの爭ひならば※[弓+付]《ユツカ》を並卷弓押張などして立向ひていよ/\かたまし物を、かなしく思ふ妹に向ひては萬にかへりみせられて負《マケ》てのみやむと云意なり、
初、かなし妹をゆつかなへまき なへまきはにきりに革を並て卷心なり。もころをのことゝしいはゝとは、第九に處女墓をよめる哥に、もころをにまけてはあらしとゝいへるに如己男とかきてもころろをとょめり。日本紀に若の字をもころとよめり。ごとくといふ古語なり。しかれは如の一字にてたれとも、おのれこときの男といふ心なれは如己とはかけり。いやかたましにはいよ/\勝ましにといふこゝろなり。すへての心は、もし男どちのあらそひならは弓束をならへまき押張て立向ひて、いよ/\かたましものを、かなしく思ふ妹にむかひてはかへりみせられて、よろつにまけてのみやむといふこゝろなり
 
3487 安豆左由美須惠爾多麻末吉可久須酒曾宿莫奈那里爾思於久乎可奴加奴《アツサユミスヱニタマヽキカクススソネナナヽナリニシオクヲカヌカヌ》
 
宿奈莫、【幽齋本、作2宿莫奈1、】
 
末ニ玉纏は第九に梓弓末珠名《アヅサユミスヱノタマナ》とつゞけたるに注せしが如し、カクスヽソは隠すとぞの意なり、かくすは忍ぶなり、初の二句はこれが序なり、ネナヽナリニシはねずなりにしなり、に〔右○〕は助語なり、行末かけて久しくあはむとて餘りにしのぶとせし程に、相て寢る事のなく成にしとなり、上に奥をなかねそまさかしよかばとよめるはよき思案なり、
 
初、あつさ弓末に玉まき 第九に、梓弓末のたまなとつゝけよめるにおなし。第十にはたちのしり玉まく田井ともよめり。かくすゝそはかくすとその心なり。弓の末を金なとにて卷てつゝみたるによせて、しのふことをかくすとそとはいへり。ねなゝなりにしはねすなりにしなり。おくをかぬ/\はゆくへをかぬる/\なり。ゆく末をかけて久しくあはんとて、しのひて人にしられしとあまりにしのふとせしほとに、あひてぬることのなくなりにしとなり。上におくをなかねそまさかしよくはとよめり
 
3488 於布之毛等許乃母登夜麻乃麻之波爾毛能良奴伊毛我名(20)可多爾伊?牟可母《オフシモトコノモトヤマノマシハニモノラヌイモカナカタニイテムカモ》
 
發句はおふるしもとなり、和名集云、唐韻云、〓【音聰、和名之毛登、】木(ノ)細枝也、景行紀云、是(ノ)野也|麋鹿甚多《オホシカニヘサナリ》、氣(ハ)如2朝霧1足如2茂林《シモトハラノ》1、雄略紀云、今於2近江(ノ)來田綿蚊屋野1猪鹿《シヽ》多有(リ)、其戴(ケル)角|類《ニタリ》2枯樹(ノ)末(ニ)1、其聚(レル)脚如(シ)2弱木林《シモトハラノ》1、清少納言に云、桃の木わかだちていとしもとかちに指出たる云云、延喜式には※[木+若]の字をシモトとよめり、罪ある者を打|笞《シモト》も此しもとばかりの細さなれば同じ名に云なるべし、さて此は木本山とつゞけむ料におけり、マシバニモとは眞の字を取らむためにて柴は用なけれど後の歌にも人には告よあまの釣舟とよめる類多し、まさだにも妹が名をば名のらねども兆《ウラカタ》などにやあらはれむとよめる歟、
 
初、おふしもとこのもと山の しもとはほそき木をいへり。景行紀云。日本武尊初至2駿河(ニ)1其(ノ)處(ノ)賊|陽《イツハテ》從之欺(テ)曰。是(ノ)野也|麋鹿《オホシカ》甚多《ニヘサナリ》。氣(ハ)如2朝霧(ノ)1足(ハ)如2茂林《シモトハラノ》1。臨而|應v狩《カリシタマヘ》。雄畧紀云。今於2近江(ノ)來田綿(ノ)蚊屋野(ニ)1猪鹿多(ニ)有(リ)。其(ノ)戴(ケル)角|類《ニタリ》2枯樹(ノ)末(ニ)1。其(ノ)聚(レル)脚如(シ)2弱木林《シモトハラノ》1。枕草子にいはく。もゝの木わかたちていとしもとかちにさし出たる、かたつかたはあをく、今かたえたはこくつやゝかにして云々。延喜式には※[木+若]の字をしもとゝよめり。笞杖鞭等の字をよめるにはかはれり。おふるしもとの木のもとゝつゝけたり。ましはにものらぬとつゝくる心は眞柴の眞の字を用て、まさしく告ぬ名のうらかたに出んやとなり。かたはうらかたなり
 
3489 安豆左由美欲良能夜麻邊能之牙可久爾伊毛呂乎多?天左禰度波良布母《アツサユミヨラノヤマヘノシケカクニイモロヲタテヽサネトハラフモ》
 
梓弓引けば我方に依ると云心にヨラノ山べとつゞけたり、シゲカクニは繁きになり、サネトハラフモは|さ〔右○〕はそへたる詞、寢所を打掃て清むるなり、此は女をよらの山(21)べに率て出てよめるなるべし、長谷弓槻下吾隱在妻《ハツセノユツキガシタニワガカクセルツマ》と第十一によめるに似たり、大和物語云、やまとの國なりける人の娘いときよらにて有けるを、京よりきたりける男のかいまみて見けるにいとおかしげなりければ、盗て掻抱て馬に打のせてにげていにけり、いとあさましうおそろしう思ひけり、日くれて立田山にやどりぬ、草の中に障泥《アフリ》を解しきてふせり云云、此風情なり、
 
初、梓弓よらの山への 弓は引時もと末の我かたへよる物なれは、あつさゆみよるといふ心につゝけたり。しけかくにはしけきになり。いもろをたてゝは妹をたてゝなり。さねとはらふもはさはそへたる字にてねところの塵を打はらふなり。上陸奥相聞歌にねとなさりそねとよめるにおなし。よらの山へのしけきに妹をたつるといへるは、かならすさることのあるにはあるへからす。第十一にはつせのゆつきか下にわかかくせる妻とよめることく、人しれぬ所にふかくかくせるをいへるなるへし
 
3490 安都佐由美須惠波余里禰牟麻左可許曾比等目乎於保美奈乎波思爾於家禮《アツサユミスヱハヨリネムマサカコソヒトメヲオホミナヲハシニオケレ》
 
梓弓は未は依寢むとつゞけむ爲なり、落句は汝《ナ》を間《ハシ》に置たれなり、間《ハシ》は上にはしなる兒等とよめる如く此方にも彼方にもつかぬを云なり、
 
初、なをはしにおけれ 汝をはしたにしておけとなり。上にはしなるこらしあやにかなしもとよめるかことし
 
柿本朝臣人麻呂歌集出也、
 
3491 楊奈疑許曾伎禮波伴要須禮余能比等乃古非爾思奈武乎伊可爾世余等曾《ヤナキコソキレハハエスレヨノヒトノコヒニシナムヲイカニセヨトソ》
 
(22)和名集云、纂要云、斬(テ)而復(タ)生(ズルヲ)曰v蘖(ト)【魚列(ノ)反、和名比古波衣、】此より下六首は木に寄たるを一類とせり、
 
3492 乎夜麻田乃伊氣能都追美爾左須楊奈疑奈里毛奈良受毛奈等布多里波母《ヲヤマタノイケノツヽミニサスヤナキナリモナラスモナトフタリハモ》
 
刺たる柳の能生ひ付を成ると云、生ひつかで枯るもあれば成モナラズモとは云へり、ナトフタリハモは汝《ナ》と二人《フタリ》いはむなり、い〔右○〕を略して牟と母とを通せり、古今集にをふの浦に片枝指おほひなる梨《ナシ》のなりもならずも寝て語らはむ、此と同じ意なり、
 
初、柳こそきれははえすれ きれははゆれなり。第七に
  あられふるとほつえにあるあと川柳刈つとも又もおふてふあと川柳
よのひとの以下は第四に
  空蝉の世やもふたゆくなにすとか妹にあはすてわかひとりねん
此心をもておもふへし
 
3493 於曾波夜母奈乎許曾麻多賣牟可都乎能四比乃故夜提能安比波多家波自《オソハヤモナヲコソマタメムカツヲノシヒノコヤテノアヒハタカハジ》
 
多家波自、【官本云、タケハシ、袖中抄如2今本點1、】
 
發句の意は遲く來るとも速く來るともなり、コヤテは衣と夜と同音、多と提と又同音にて通ずれば小枝なり、落句の家は我を書かへたるにやあらむ、さらずば官本の(23)如く讀て今の點に音を通して意得べき歟、さて椎の小枝に寄て相ハタガハジと云には二つの意あるべし、一つには椎はもみぢせぬ物なれば心の變《カハ》るまじき事を寄て云歟、後の歌に椎はもみぢすとも椎柴のはがへはすともなどよめるも終にもみぢぬ物とてなれば今も其意にや、二つには其意ならばこやてと云はずも有なむ、又かはらぬ色を云とて相はたがはじともよむまじくや.然れば椎の小枝の參羞《カタタガヒ》なるによせて我此ちぎりは椎の小枝のかたゝがひなる如くにはあらじとよめる歟、身の若ければ小枝とは云歟、
 
初、をやま田の池のつゝみに 戦國策曰。今夫楊横(ニ)樹《ウユレハ》v之(ヲ)則生(シ)、倒(ニ)樹(レハ)v之(ヲ)則生、折(テ)而樹(レハ)v之又生(ス)。然(モ)使《シメテ》2十人樹(ヱ)1v楊(ヲ)一人拔(トキハ)v之則無2生揚1矣。故(ニ)以2十人之衆(ヲ)1樹(ルタモ)2易(キ)v生之物(ヲ)1然而不(ルコトハ)v勝2一人(ニ)1何(ソヤ)也。樹(ルコトハ)之難(シテ)而去(ルコトノ)之易(ケレハナリ)也。なりもならすもは刺たる柳のよく生つくをなるといふ。生つかでかるゝもあれはなりもならすもとはいへり。なとふたりはもは汝とふたりいはむなり。古今集いせうたに
おふのうらにかたえさしおほひなるなしのなりもならすもねてかたらはん
遊仙窟云々。且(タ)取2雙六(ノ)局《ハシヲ》1來(レリ)。〇十娘笑曰。漢(ラハ
)騎v驢《ウサキウマ・ウマ》(ニ)即胡(ハ)歩(ヨリ)行(ケ)。胡歩(ヨリ)行(ハ)則漢|騎《ノラント云》v驢(ニ)。總(テ)悉(ニ)輸(シメハ)v他(ニ)便(リヲ)點《ヽクレナム》。兒《・ワラハヽ》(ハ)遞《タカヒニ》換(ル)作《ワサナリ》。少府公|太《イト》能(ク)生。なんちとふたりいはむといへるこれにちかし。又紀氏六帖に
  人つまはもりかやしろかからくにのとらふす野へかねてこゝろみむ
 
或本歌曰|於曾波夜毛伎美乎思麻多武牟可都乎能思比乃佐要太能登吉波須具登母《オソハヤモキミヲシマタムムカツヲノシヒノサエタノトキハスクトモ》
 
波也母、【幽齋本、也母作2夜毛1、】
 
君ヲシのし〔右○〕は助語なり、サエダは小枝なり、時ハ過トモとはさえだのつやゝかなるを我身の盛りによそへてたとひ、身の盛は過とも推の色かへぬ如く變ぜずして君をまたむとなり、
 
初、おそはやもなをこそまため 遅くとも速くとも汝をこそまたんすれなり。しひのこやては推の小枝なり。あひはたけはしはあひはたかはしなり。推の葉の色かへぬことく、約をたかへしといふをあひたかはしといへり。後撰集に、次は拾遺集
  わするとは恨さらなんはしたかのとかへる山の椎はもみちす
  はしたかのとかへる山のしひ柴のはかへはすとも色はかはらし
 
(24)3494 兒毛知夜麻和可加敝流?能毛美都麻?宿毛等和波毛布汝波安杼可毛布《コモチヤマワカヘルテノモミツマテナモトワハモフナハアトカモフ》
 
第八に吾やどにもみづるかへでとよめり、第十に山さな葛もみづまでとよめり、ネモトワハモフはねむと我は思ふなり、ナハアトカモフは汝は何とか思ふなり、今按兒持山は此歌よめる者の住あたりにある山にて何となく云ひ、若カヘル手ノモミヅマデとは折節卯月か比見る物につけて久しく相寢たりとも飽まじき由によめる歟、又は子持山とは子の出來たれば山の名によせて其わかごが人となりて老るまで相寢ともあかじと云事を若かへる手のもみづまでとよせたる歟、伊勢物語に秋の夜の千夜をひと夜になずらへて八千夜し寢ばや飽時のあらむ、引合せて見るべし、
 
初、こもち山わかかへるてのもみつまて 第八に吾屋戸爾|黄變蝦手《モミツルカヘテ》とよめり。和名集云〇菓のやうが蝦の手に似たれはかへるてといふを、略してかへてともいへり。下句はねんとわれはおもふ汝は何とかおもふなり。わかかへてのもみちするまては久しき事をいへり。秋の夜の千夜をひとよになすらへて八千夜しねはやあく時のあらん
 
3495 伊波保呂乃蘇比能和可麻都可藝里登也伎美我伎麻左奴宇良毛等奈久毛《イハホロノソヒノワカマツカキリトヤキミカキマサヌウラモトナクモ》
 
(25)奈久毛、【幽齋本、毛作v文、】
 
發句は巖のと云へる歟、若は巖を名とせる山歟、いはほにそひて生たる若松は此よりあなたに又生べき所なければ限トヤと云はむ序なり、ウラモトナクモは心もとなくもなり、久しく人の見え來ぬを今は限と思ひてや來ぬとおぼつかなくてよめるなり、
 
初、いはほろのそひのわかまつ いはほのかたそはのわかまつなり。上にいかほろのそひのはり原とよめるそひなり。和可麻都とかきたれは若松にてかきりとやとつゝけたるは、松を待にいひなせる事、此集尤おほけれは、待かきりとやの心なり。我待といふ心ならは和我麻都と濁音の字をかくへし。うらもとなくもとは心もとなきなり
 
3496 多知婆奈乃古婆乃波奈里我於毛布奈牟巳許呂宇都久志伊?安禮波伊可奈《タチハナノコハノハナリカオモフナムココロウツクシイテアレハイカナ》
 
宇都久志、【幽齋本、志作v思、】・細憾輌
 
タチバナノコバとは濃葉と云へるにや、橘の葉は緑のいたく深ければ翠鬟緑髪など云如く髪をほめて濃葉の放髪丱《ハナリ》と云歟、柳こそとよめるより此歌までは木に寄るを一類とすれば所の名などにはあるべからず、ハナリは童女なり、第十六に童女波奈理《ウナヰハナリ》とよめり、放髪《ハナチノカミ》にて居る故の名なり、オモフナムは思ひなむなり、心ウツクシは心いとをしと云はむが如し、待思ひなむがいとをしければいでわれはゆかむ(26)なとなり、
 
初、たちはなのこはのはなりか 橘のこはは、もし所の名にや。武藏に橘樹郡あり。されとそれならは武藏に入へけれは知かたし。應神天皇の日向髪長媛を大鷦鷯皇子尊に賜ふ時の御哥に、かくはし花橘しつえらは人みなとり、ほつえはとりいからし、三栗の中つ枝の、ふほこもりあかれるをとめ、いさゝかはえなとあるは、橘のあかみたるに髪長媛をよそへさせたまへは、今もその心ある歟。但こはといふが所の名なとにて橘の木といふ心につゝけたる歟。はなりは女のいまたふりわけ髪にてあるをいふ。十六卷の哥に、うなゐはなりは髪上つらんかとよめる是なり。ふり分髪をは放の髪といふ。はなりも同し字なり。おもふなんはおもひなんなり。いてあれはいかなはいてや我はゆかんなゝり
 
3497 可波加美能禰自路多可我夜安也爾阿夜爾左宿佐寐?許曾巳登爾?爾思可《カハカミノネシロタカカヤアヤニアヤニサネサネテコソコトニテニシカ》
 
仙覺云、川上に生たる高|萱《カヤ》は水に洗はれて根の白ければ根白高|萱《カヤ》とよめり、今按古事記仁徳天皇段に天皇の御歌云、都藝泥布《ツギネフ》、夜麻志呂賣能《ヤマシロメノ》、許久波母知《コクハモチ》、宇知斯於富泥《ウチシオホネ》、泥士漏能《ネジロノ》、斯漏多※[こざと+施の旁]牟岐《シロタヾムキ》云云、此も、大根《オホネ》の白きを根白とよませ給へり、アヤニ/\はあやにと云詞を重ねたるなり、さて此初の二句は落句を云はむためなり、河上の高|萱《カヤ》も初より根の白くあらはるゝにあらず浪の間もなく寄て洗ふによりて顯はれて見ゆる如く、寢《ヌ》る事の度《タビ》重なりてこそ我中も人の言に出にしかとなり、出るは根の出るによそへたり、此より下十二首は草に寄るの一類とす、
 
初、かはかみのねしろたかゝや 根白高|草《カヤ》なり。高く生立たる萱なり。或先達の云川上のといへるは水にあらはれて根の白くみゆるかやといはむためなり。さてかくよみ出たる心をもとむるにあやにくといふにつゝけたるか。菅の根のねもころとつゝけたるは根といふ詞をかさぬるのみならす。彼根のいとしけきをこまやかにねんころなるにたとふと見えたり。あやにもねんころの心と聞ゆれはさてこれちにつゝけたるかとはいふなり。又ねしろのねもしよりさね/\てうくる心歟。又川上の浪にあらはれて高かやの根の白く出る心にてことに出にしかといふ出といふもしにてあひしらへるか。又これらをみなかぬる歟
 
3498 宇奈波良乃根夜波良古須氣安麻多阿禮婆伎美波和須良酒和禮和須流禮夜《ウナハラノネヤハラコスケアマタアレハキミハワスラスワレワスルレヤ》
 
(27)阿禮婆、【幽齋本、阿作v安、】
 
根ヤハラ小菅は海邊にさ云菅のあるか、いかにもあれ根の柔なる菅なり、催馬樂にもぬき川の岸のやはら田やはらかにとそへたる類なり、それをやはらかにぬる女あまたが許へ通ふによせてあまたあればと云へり、古事記上に須勢埋※[田+比]賣《スセリヒメノ》命の八千矛《ヤチホコノ》神にかへしたまふ歌云、夜知當許能《ヤチホコノ》、加微能美許登夜《カミノミコトヤ》、阿賀淤富久邇奴斯許曾波《アガオホクニヌシコソハ》、遠邇伊麻世婆《ヲニイマセハ》、宇知微流《ウチミル》、斯麻能佐岐邪岐《シマノサキザキ》、加岐微流伊蘇能佐岐淤知受《カキミルイソノサキオチズ》、和加久佐能《ワカクサノ》、都麻母多勢良米《ツマモタセラメ》、阿波母與《アハモヨ》、賣邇斯阿禮婆《メニシアレバ》、那遠岐弖《ナヲキテ》、遠波那志《ヲハナシ》、那遠岐弖《ナヲキテ》、都麻波那志《ツマハナシ》、云云、此御歌の意なり、
 
初、うなはらのねやはら小菅 海きはに生たる菅は塩にあひて根のやはらかなるといふなり。女のはたのやはらかなるとねる心によそへて、ねやはら小菅とはよめり。催馬樂に、ぬき川のきしのやはら田やはらかにぬるはなくて親さくる妻といへるもこれなり。第二にたゝなつくやはゝたすらをなともよめり。こなたかなたにかよひてやはらかなるはたへにそひてぬるかたの君はあまたあるゆへに、われをわするれと、我は君をおきてあたし心なけれはわするゝやは、わすれすとなり。古今集に
  花かたみめならふ人のあまたあれはわすられぬらん數ならぬ身は
 
3499 乎可爾與世和我可流加夜能佐禰加夜能麻許等奈其夜波禰呂等敝奈香母《ヲカニヨセワカヽルカヤノサネカヤノマコトナコヤハネロトヘナカモ》
 
與世、【幽齋本、世作v西、】
 
ヲカニヨセは岡に依なり、サネカヤは眞萱《マカヤ》とほむる詞にてまことゝ云はむためなり、ナコヤはなごやかにて女をほむる詞をやがて女の體とするなり、かなしきがと(28)云へる類なり、ネロトヘナカモは呂は例の助語、ねよと云はなむかとなり、岡に依て我刈かやのしなひて、打靡く如く誠になごやかなる人ならば我をねよと云はなむかとなり、
 
初、をかによせわかゝるかやの 岡によりてかるかやなり。さねかやはまことのかやとほむる心にて、下にまことゝいはむ料なり。なこやはなこやかにはなり。第四にあつふすまなこやか下とよめり。ねろとへなかもはねよといはなんかもなり
 
3500 牟良佐伎波根乎可母乎布流比等乃兒能宇良我奈之家乎禰乎遠敝奈久爾《ムラサキハネヲカモオフルヒトノコノウラカナシケヲネヲオヘナクニ》
 
乎布流は終るを波と布と通ずれば乎布流と云なり、終るとは有とぐるなり、ウラカナシケヲはけ〔右○〕とき〔右○〕と通ずればうら悲しきをなり、ネヲヽヘナクニは寢を終《ヲヘ》なくになり、初の二句は此を云はむためなり、歌の意は紫の根は色のうつくしければ人の尋て掘取れど猶漏れてさて有とげもやすらむ、人の兒のかなしく思ふには寢を終なくにとよめるなり、根と寢とをよするは粟を借てあはなくもあやしとてよめる例なり、
 
初、むらさきは根をかもをふる 於布流とかゝすして乎布流とかけるは東哥ゆへなるへし。うらかなしけをはうらかなしきをなり。これもかなしく思ふといふにおなし。ねをゝへなくに、これにはふたつの心あるへし。ともに初の二句をうくるなり。むらさきは根をかもをふる我はねをゝへなくになり。ひとつには寢を終なくにゝて、もろともにぬることの末まてとほらぬなり。ふたつには根を生ぬにて、根なき草のことく、しはらくのほとに中のかるゝなり。いつれかいはれて侍らん
 
3501 安波乎呂能乎呂田爾於波流多波美豆良比可婆奴流奴留(29)安乎許等奈多延《アハヲロノオロタニオハルタハミツラヒカハヌルヌルアヲコトナタエ》
 
安波乎は乎は山の尾にて山の名歟乎呂田は呂は發句の呂と同じく助語にて被尾にある田を尾田と云へるなるべし、於波流は生るなり、多波美豆良は未考、落句はあれを言なたえそとなり、
 
初、あはをろのをろ田におはる ふたつのろは例の助語にてあはをは所の名、をろ田は小田にや。おはるはおふるなり。たはみつらはたはやかにはひたる葛なり。ひかはぬる/\は上に見えき。あをことなたえはわれをことなたえそなり。たはみつらのひけはぬる/\とよりくることく絶なといへるなり
 
3502 和我目豆麻比等波左久禮杼安佐我保能等思佐倍巳其登和波佐可流我倍《ワカメツマヒトハサクレトアサカホノトシサヘココトワハサカルカヘ》
 
目豆麻、【官本、メツマ】
 
發句はワカメツマ或はワカモツマと讀、同音を以て通ずれば眞妻なり、アサガホノとは我心にあさがほの花の如くめでゝ思ふなり、トシサヘコヽトは年さへ幾許《コヽタ》なり、上にうけらが花の時なき物をとよめるが如し、落句は我はさかるかさからずと云なり、上の佐野の舟橋とよめる歌引合せて見るべし、
 
初、わかまつまひとはさくれと 我眞妻なり。長流は我あひみる妻といへり。朝かほのとは女を朝※[白/八]にたとへて、やかてたとひを女の事にいへり。年さへこゝとはこゝたなり。己其登とかける其は濁音例の東哥ゆへなり。下の我の字同し。さかるかへはさかるかはなり。上のさのゝふなはしとよめる哥の心におなし
 
3503 安齊可我多志保悲乃由多爾於毛敝良婆宇家良我波奈乃(30)伊呂爾?米也母《アサカカタシホヒノユタニオモヘラハウケラカハナノイロニテメヤモ》
 
第十一にも朝香方山越に置てとよめり、塩干ノユタとは第六に塩干みちいかくれゆかばとよめるも干|潟《カタ》を鹽干だ云へり、今も同じ、干潟の遙に廣きをゆかなりと云心なり、第三にみほの浦のゆたに見えつゝ物思ひもなしとよめるが如し、ウケラガ花は上の如し、歌の心は朝香潟の干潟を見る如く人を思ふ心もゆたかにてせは/\しからずばうけらが花の如く色に出めや、忍びて色に出さじを忍び餘て色に出るにて思ふ心の程を知れとなり、
 
初、あさかかたしほひのゆたに 第十一にも、朝香方山こしにおきてとよめり。ひかたの遙なるをゆたかなりといふ心なり。第三にみほのうらのゆたに見えつゝとよめり。うけらか花は上のことし。哥の心はあさかかたのしほひかたのことく、人を思ふ心もゆるやかならは、うけらか花のことく色に出めや。しのひて色に出さじを、しのひあまりて色に出るにて思ふ心のほとをしれとなり
 
3504 波流敝左久布治能宇良葉乃宇良夜須爾左奴流夜曾奈伎兒呂乎之毛倍婆《ハルヘサクフチノウラハノウラヤスニサヌルヨソナキコロヲシモヘハ》
 
ウラハは末《ウラ》葉なり、ウラヤスは裏安《ウラヤス》にて裏は心を云へば心安《コヽロヤス》になり、神武紀云、昔伊弉諾(ノ)尊|目《ナツケテ》2此國(ヲ)1曰、日本《ヤマト》者|浦安國《ウラヤスノクニ》云云、是も浦は假字にてとこしなへに治りて心の安き國と名付たまへる歟、後撰集に春日さす藤のうら葉の裏《ウラ》解て君し思はゞ我も憑まむとよめるも今の歌のつゞきに同じ、落句は兒等を思へばなり、之は助語なり、
 
初、はるへさく藤のうらはの うらやすとつゝけんためなり。うらやすは心やすきなり。ころをしもへはゝこらをしおもへはなり。後撰集に
  春日さす藤のうら葉のうらとけて君しおもはゝ我もたのまん
 
(31)3505 宇知比佐都美夜能瀬河泊能可保婆奈能孤悲天香眠良武伎曾母許余比毛《ウチヒサスミヤノセカハノカホハナノコヒテカヌラムコシモコヨヒモ》
 
佐都をサスと點ぜるは誤なり、東歌なれば佐須と云べきを訛《ナマリ》て佐都とよめるなり、須と都と同韻にて通ず、カホハナは名を以て女によするなり、キソは第二にもよめり、昨夜なり、
 
初、うちひさつみやのせ川の うちひさつは内日さすなり。宮とつゝけたるなり。かほ花は上にあまた見えたり。川へにさけるうつくしき花なり。それをかほよきにたとへていへり。きそもこよひもとはさきの夜もこよひもなり。日本紀に昨の字をきすとよめり。又昨夜をもきすとよめり。しかれはきのふといふはきすの日といふをすもしを略し、比と布とをかよはせるなり。けふは此日といふをのもしをはぶきて、氣と古とをかよはし用たるへし。ふは右におなし
 
3506 爾比牟路能許騰伎爾伊多禮婆波太須酒伎穗爾?之伎美我見延奴己能許呂《ニヒムロノコトキニイタレハハタススキホニテシキミカミエヌコノコロ》
 
新室は第十一に見えたりコトキニイタレバはこがひする時節に至ればとにや、こがひする時は物にあやかり易き物とて人にもおぼろけには見せぬやうに隱り居て飼ことにて、又桑を採それを飼に暇なきなり、さて此歌も兩義侍るべし、一つには女の歌にて男を君と云歟、我こがひする時に至れば暇なくして行たりともえあはじと思ひてや、旗薄の如く穗に出し君が此比は見え來ぬとよめる歟、二つには男の(32)歌にて女を君と云へる歟、こがひの時に至ればあはむと思ひてゆけども旗薄の穗に出る如くあらはに我に見えし君が此比はこもりゐて見えぬとよめる歟、女は母にそだてらるゝ物なれば母とゝもにこがひせむにはげにも暇なかるべし、穗爾?之の?は清べし、東國の人は濁音多きはさる事にて都の人の濁て云をば却て清て云、今の俗然れば昔も然るべし、初より濁る詞に田提などの字を用ずして?の字を用たるは右の意なり、此卷前後并に第二十の防人が歌にかゝることに心を着べし、
 
初、にひむろのこときにいたれは にひむろは人の家のあたらしきをいふ。第十一のはしめの旋頭哥にもよめり。こときは蠶時なり。桑子といひこかひするともいふ。こかひする時は物によくあやかるとて、人にもおほろけには見せぬやうにこもり居て女のかふ物にて、又桑をとりそれを飼ふにいとまなけれは、花薄の穗に出たることくうるはしき君か、此ころは我に見えぬとなり。又はたすゝきほに出し君とはあらはれて我に心のなひくをもいふへし
 
3507 多爾世婆美彌年爾波比多流多麻可豆良多延武能已許呂和我母波奈久爾《タニセハミミネニハヒタルタマカツラタエムノコヽロワカモハナクニ》
 
伊勢物思に俗せばみ峰まではへる玉葛絶むと人に我思はなくにとあるは此歌なり、第十一第十二に似たる歌あり、
 
初、谷せはみみねにはひたる わかもはなくにはおもはなくになり。伊勢物語にはなりひらの哥にて
  谷せはみ峯まてはへる玉かつらたえむと人にわかおもはなくに
十一巻十二卷にも似たる哥有き。詩なとそこに引り
 
3508 芝付乃御宇良佐伎奈流根都古具佐安比見受安良婆安禮古非米夜母《シハツキノミウラサキナルネツコクサアヒミスアラハアレコヒメヤモ》
 
(33)芝付の御浦と云處あるか、芝付と云所にある御浦崎歟、相模に御浦郡あれど今は國を勘ざる中にあればそれなるべからず、ネツコ草未v考、あひ見ずあらばとつゞけたるを思ふにねつこの名を人に寢付と云意に取出たるべし、
 
初、芝付のみうらさきなる しはつきのみうらとつゝけるにはあらす。これは芝草生たる所にねつこ草も生つきて有の心なり。ねつこ草不分明。根のつく草といふ心にて只芝のことを重ていへるにやあらん。いかさまにも人と寝付といふ心によせてあひみすあらはあれこひめやもとよめるにはあるなり。以上長流か抄なり。今案芝付も所の名にて、そこなるみうらさきなるか。又いかなる故にて枕詞におけるも知へからす。相模に御浦郡あれはみうらさきはそこにやとも申つへけれと、此つゝきは皆國のしれぬ哥なれはこと所なるへし。芝は靈芝にて瑞菌なれは延喜式治部省式にも上瑞に出せり。皇極紀云。倭國言。頃者兎田郡人押坂直【闕名】將(テ)2一|童子《ワラヘヲ》1、欣遊《ウレシヒ》雪(ノ)上(ニ)1、登(テ)2菟田山(ニ)1便見(ニ)紫(ノ)菌《タケ》挺《ヌキノキテ》v雪(ヨリ)而生(タリ)。高六寸餘。滿2四丁許(ニ)1。乃使(テ)2童子(ヲ)1採取(テ)還(テ)示《ミス》2隣(ノ)家(ニ)1。※[手偏+總の旁]《ミナ》言(フ)v不(ト)v知。且疑2毒《アシキ》物(ナリト)1。於v是押坂直與2童子1※[者/火](テ)而食(フ)之。大有2氣《カウハシキ》《・カ》味(ハヒ)《・アチハヒ》1。明《クルツ》日往(テ)見(ニ)都《カツテ》不在《ナシ》焉。押坂直與2童子1因(テ)v喫(ヘルニ)2菌(ノ)羮(ヲ)1無(テ)v病而|壽《イノチナカシ》。或人云。蓋|俗《クニヒト・ヒト》不v知芝草(トイフコトヲ)而妄(ニ)言(ル)v菌(ト)耶《カ》。しは草には和名集に莱の字を出していはく。辨色立成云。莱草【上音來。和名之波】一名類草。かゝるを此集にもこゝに一所此芝の字を用。今世にあまねく此字を用るは別に出處あるにや
 
3509 多久夫須麻之良夜麻可是能宿奈敞杼母古呂賀於曾伎能安路許曾要志母《タクフスマシラヤマカセノネナヘトモコロカオソキノアロコソエシモ》
 
栲衾は白山と云はむ爲なり、新羅とつゞくるに付て別に注す、此白山は北國のにはあらざるべし、ネナヘドモは雖不宿なり、コロガオソギは兒等がおすひのきぬのなり、第三に坂上郎女が手弱女之押日取懸《タヲヤメガオスヒトリカケ》とよめる所に注せしが如し、アロコソエシモはあるこそよしもなり、あるこそと云ひてよしもと云こと今の世のてにをはには違へり、此集には上にも今とてにをはの違へる歌いくらも例あり、白山風の寒さに寢ざれども兒等がおすひの衣を形見に著たるが有こそよけれなり、今按同じ衾にふさぬことを云はむとて栲衾は枕詞ながら兼て云へる歟、古事記上に須勢理※[田+比]賣命の八千矛神の御答歌にも阿夜加岐能《アヤカキノ》、布波夜賀斯多爾《フハヤカシタニ》、牟斯夫須麻《ムシフスマ》、爾古夜賀斯(34)多爾《ニコヤカシタニ》、多久夫須麻《タクフスマ》、佐夜具賀斯多爾《サヤクガシタニ》など讀たまへり、風の止を寢ると云事のあれば白山風のやまぬによそへてネナヘドモとよめる歟、さては諸共には寢ざれども兒等が形見のおすひの衣を兒等と思ひて身にそへて臥がよきとの意にや、此一首は風によす、
 
初、たくふすましら山風の 仲哀紀の神託に栲衾新羅《タクフスマシラキノ》國とのたまふ事あり。此集十五卷にもたくふすましらきへいます君とよめり。第三に坂上郎女か尼理願か死しける時よめる長哥に、たくつのゝしらきの國ゆとよめるにつきて委尺しき。たくは白きをいふ古語にて、神代紀にも栲幢千千姫なといふ御名も見えたり。しかれは栲衾新羅といふ神託の詞も、しらきを白きといふ心に、栲衾と枕詞をのたまひけるなり。新羅につゝくにかきらぬことはなれは、今はしら山とつゝけたり。此白山は加賀に聞ゆるにはあらす。いつくとも知かたし。ねなへともは、ねゝともなり。山風のふく時はねられぬ物なれは、かくはつゝけて、もろともにねぬ心にいへり。ころかおそきのとは、こらか襲著《オソヒキ》なり。あろこそゑしもはあるこそよしもにて、かたみにうはきをえさせたるを身にふれてぬるかよしといふ心なり。あろこそといひてゑしもととゝめたるは、今の世のてにをはにはかなひかたし。たくふすましら山風といへるには、もし同衾にふさぬ心をもこめけるにや
 
3510 美蘇良由久君母爾毛我母奈家布由伎?伊母爾許等杼比安須可敝里許武《ミソラユククモニモカモナケフユキテイモニコトヽヒアスカヘリコム》
 
第四の安貴王の長歌の中に此歌の意詞大かた相交はりて見えたり、此より下十一首は寄v雲、
 
初、みそら行雲にもかもな 第四卷安貴王哥にも、み空ゆく雲にもかもな、高く飛鳥にもかもな、あすゆきて妹にことゝひ、わかために妹もことなく、いもかためわれも事なくなと有
 
3511 安乎禰呂爾多奈婢久君母能伊佐欲比爾物能安乎曾於毛布等思乃許能己呂《アヲネロニタナヒククモノイサヨヒニモノアヲソオモフトシノコノコロ》
 
物能安乎曾、【官本、無2安字1、】
 
アヲネは青嶺《アヲネ》にて青山に同じ、三吉野の青根が峰も此心に名付たるべし、モノアヲ(35)ソオモフは物我はぞ思ふなり、次下の歌に合せて意得るに安乎と云に吾をもたせて女は男を高き山と憑なればたなびく雲とよそへてさすがに安乎は發句を承る心あれば安の字なき本あれど、有べきにや、トシノコノコロは此|年來《トシゴロ》なり、
 
初、あをねろにたなひく雲の いさよひにとは、立て見居て見の心なり。ものあをそおもふは、あはそにて物を我はそおもふなり。あをねろは只青山といふことく青きみねなり
 
3512 比登禰呂爾伊波流毛能可良安乎禰呂爾伊佐欲布久母能余曾里都麻波母《ヒトネロニイハルモノカラアヲネロニイサヨフクモノヨソリツマハモ》
 
ヒトネは一峰《ヒトネ》なり、それを比登を人になして女の夫となるべきを云意なり、イハルモノカラは云はるゝ物からなり、某が妻と云はるゝ物からなり、安乎ネは上の一嶺に對すれば安と云に吾を兼たり、歌の意は人の方には云はるゝ物から我にも心をよせていざよふ雲の如くあはれなりし其女のゆくへはやと尋ぬる意なり、
 
初、ひとねろにいはるものから ひとねろは一嶺なり。第三に妹も我もひとつなるかもとよめり。心をひとつにあはせたりと人のいひなすをかくはよめり。よそりつまはもとは、いつら人の我にいひよする妻はと尋ぬるやうにいへるなり。上に里人のことよせ妻とよめる心なり。いさよふ雲のといふよりつゝけたるは、いさよふ雲のつくかたなくて消うすることく、はか/\しう逢こともなくてやむ心なり
 
3513 由布佐禮婆美夜麻乎左良奴爾努具母能安是可多要牟等伊比之兒呂婆母《ユフサレハミヤマヲサラヌニノクモノアセカタエムトヒシコロハモ》
 
ニノクモは布雲なり、夕の山に布を引はへたる如くなる雲の立を云へり、古今集に(36)夕されば雲の旗手に物ぞ思ふとよめる類なり、朝に横雲の束の嶺に引が布の如くなりとて第十一には東細布とかきてヨコクモとよめり、
 
初、にのくもの 布雲なり。夕にも山の上に布を引はへたる雲のたつをいへり。朝に横雲の引か布のことく東の山にみゆれは、此集に心を得て東細布とかきてしのゝめとよめり。あせかたえむとゝはなせかたえんなり
 
3514 多可伎禰爾久毛能都久能須和禮左倍爾伎美爾都吉奈那多可禰等毛比?《タカキネニクモノツクノスワレサヘニキミニツキナヽタカネトモヒテ》
 
ツクノスはつくなすにて著如くなり、
 
初、くものつくのす 雲のつくなすにて雲のつくことくなり。君につきなゝはつきなんなゝり。たかねともひては、高嶺と思ひてなり
 
3515 阿我於毛乃和須禮牟之太波久爾波布利禰爾多都久毛乎見都追之努波西《アカオモノワスレムシタハクニハフリネニタツクモヲミツヽシノハセ》
 
初の二句は我面の忘れもしたらばなり、クニハフリは國溢《クニハフリ》にて國に滿なり、崇神紀云、其軍(ノ)衆脅退《ヒトドモヲビエニゲ》、則追(テ)破2於河(ノ)北(ニ)1而斬(コト)v首(ヲ)過v半(ニ)、屍骨《ホオ》田|溢《ハフレタリ》、故《カレ》號2其處(ヲ)1曰2羽振苑《ハフリソノト》1國中に滿嶺に立雲と云意なり、若は流と利と通じて國にみてる嶺に立雲歟、下に似たる歌あり、
 
初、あかおものわすれむしたは わかおもてのわすれもしてはなり。くにはふりは、國溢《クニハフリ》にて國にみつるなり。崇神紀云。其軍(ノ)衆脅退《ヒトヽモヲヒエニク》。則迫(テ)破(ツ)。於河(ノ)北(ニシテ)而斬(コト)v首(ヲ)過v半(ニ)屍骨《ホネ》多|溢《ハフレタリ》。故號(テ)2其處(ヲ)1曰2羽振苑《ハフソト》1。くにはふるねにたつ雲とつゝけて嶺の國にみちてあるをいへる歟。雲は遠く行めくる物なれは雲につきていへる歟。雲につかはくにはふりのりもしをそのまゝ用へし。處につかはくにはふるとりもしをるに通すへし。雲をみてしのへといふ心は、雲はつくかたなきものなれは我身をそれにたとふるなるへし。下におもかたのわすれむしたはといへる哥大かたこれに似たり
 
3516 對馬能禰波之多具毛安良南敷可牟能禰爾多奈婢久君毛(37)乎見都追思怒波毛《ツシマノネハシタクモアラナフカムノネニタナヒククモヲミツヽシノハモ》
 
思怒波毛、【幽齋本、怒作v努、波作v婆、】
 
シタクモは下雲なり、アラナフはあるなり、カムノネは上の嶺なり、シノハモはしのばむなり、
 
初、つしまのねはしたくもあらなふ 第一にありねよしつしまのわたりとよめるにやとおもへと、國しらぬ哥なれは、東國につしまの嶺といふかあるなるへし。したくもは下雲なり。あらなふはあらなくといふ詞なり。下に雲はなし。上の根にたな引雲を見でしのはむとよめるなり
 
3517 思良久毛能多要爾之伊毛乎阿是西呂等許巳呂爾能里?許己婆可那之家《シラクモノヤエニシイモヲアセヽロトココロニノリテコヽハカナシケ》
 
タエニシの|に〔右○〕は助語なり、アセヽロとは何とせよとてかの意なり、カナシケは悲しきなり、
 
初、あせゝろとは、何とせよとなり。こゝはかなしけはこゝはくかなしきなり。白雲のことく絶にし人なれは、せんかたもなきを、いかにせよとてかわか心に妹かのりてそこはくかなしくはおもはるゝそとなり
 
3518 伊波能倍爾伊賀可流久毛能可努麻豆久比等曾於多波布伊射禰之賣刀良《イハノヘニイカヽルクモノカヌマツクヒトソオタハフイサネシメトラ》
 
伊賀可流、【幽齋本、賀可作2可賀1、】
 
(38)イカヽルは伊は發語の詞なり、此歌は上に伊香保呂爾愛麻久母伊都藝《イカホロニアマクモイツキ》と讀出せると下三句同じ、
 
初、いはのへにいかゝる雲の 岩の上にかゝる雲なり。いは發語のことはなり。此哥は上の上野哥にいかほろにあまくもいつきといふ哥に下の三句は全同なり
 
3519 奈我波伴爾巳良例安波由久安乎久毛能伊?來和伎母兒安必見而由可武《ナカハヽニコラレアハユクアヲクモノイテコワキモコアヒミテユカム》
 
發句汝之母《》ナガハヽになり、コラレは所驅《カラレ》なり、いねとてやらはるゝなり、アヲクモは出來と云はむためなり、
 
初、なかはゝにこられあはゆく 汝か母に駈《カラ》れて我出行となり。しのひてかよふに、見つけられてゆるさすして母かかりやらふゆへに、せんかたなくで、すご/\と歸るなり。あを雲はいてこよといはむためなり。出きたれせめて見てたにゆかむとなり
 
3520 於毛可多能和須禮牟之太波於抱野呂爾多奈婢久君母乎見都追思努波牟《オモカタノワスレムシタハオホノロニタナヒクヽモヲミツヽシノハム》
 
オモカタは面形なりオホノロは大野等《オホノラ》なり、第十一にもよめり、只廣き野なり、
 
初、おもかたのわすれむしたは おもかたは面形なり。かほのかたちなり。十一巻にもおもかたのわするとならはとよめり。さて此哥は上にわかおものわすれんしたはと有しに大形おなし
 
3521 可良須等布於保乎曾杼里能麻左低爾毛伎麻左奴伎美乎許呂久等曾奈久《カラストフオホヲソトリノマサテニモキマサヌキミヲコロクトソナク》
 
(39)發句は烏と云なり、オホヲソトリは袖中抄云、古書云、あづまことばに云あづまの國には烏をばおほをそ鳥と云なり、物くひきたなしと云なり、さてからすと云大をそ鳥とはつゞくるなり、今按此集中に、曾と云假名に烏の字をかける事多きは乎曾を上略して借る意なり、きたなきををそしと云故に高野山には不淨を流す川ををそ川と云ひ習へり、字書に似(テ)v鴨食(フ)v糞と云ひ、貪烏又烏合之群など云ひて鳥の中に心貪欲に非常なる物に云ひ習はしたればをそ鳥と異名を負するなり、源氏の東屋《アヅマヤ》にめのと、はたいとくるしと思ひて物つゝみせず、はやりかにおぞき人にて云云、是は別の詞にて假名も古語拾遺云、天|鈿女《ウズメノ》命【古語天乃於須女其神強悍猛固(ナリ)、故以爲v名、今俗強女謂(ハ)2之(ヲ)於須志(ト)1此縁也、】是と同じ、今の俗には男女をいはず恐ろしき人をこはき人おぞき人と云ひ習へり、今烏と云ひて足《タ》るお重て大をそ鳥と云は萱草を鬼のしこ草とよめる如く烏を罵《ノ》る詞なり、マサテは上の如く眞貞《マサタ》なり、此句は人の上を云ひて第四の句につゞくる歟、又烏の上を云ひて第四句の下に移して聞べき歟、落句は此に二つの意あるべし、一つには袖中抄云ころくと云も東詞なり、人をこかしと云をばころくと云なり、こ〔右○〕はこよと云詞也、ろ〔右○〕は詞の助なり、く〔右○〕はそれも詞の助なり、よろづの詞のはてに加へたり、さて烏のこか/\となくをばころくと鳴と云なり、今按|喜鴉《キア》はころ/\と鳴やうなれば背(40)子等が來ると告るを憑みて待つればあなにくの大をそ鳥や僞しけるよと罵てよめる歟、然らば|く〔右○〕は烏の聲ならずとも此方よりそへて來の字なるべし、※[亞+鳥]の字も彼が聲の然聞ゆるに依て作り、※[(貝+貝)/鳥]をひとくと鳴と云ひ雁をかり/\と鳴などこれなみに和漢に云へる事多ければ音に付て云へるさも有べし、二つには、今日ばかりとぞたづも鳴なるとよみ、君が御世をば八千世とぞ鳴とよみたれど鶴も千鳥も實は然鳴と云にはあらねば今も烏の聲に付てはよまざる歟、西京雜紀云、陸賈云、乾鵲噪(テ)而行人至(ル)、遊仙窟云、今朝《ケサ》聞(ツル)2烏鵲語《カラスノカタラヒヲ・マラウトカラスノコトヲ》1眞成好客《マメヤカニヨキマラウト》來(レリ)、上にも山?の鏡の本文を踏て讀たる歌あれば今も此に依てよめる歟、此より下八首は寄v鳥一類なり、
 
初、からすとふおほをそとりの からすとふはからすといふといふへきを、いもしを略していへり。又東の詞にてからすてふといへるにてもあるへし。其時は登伊(ノ)反※[氏/一]にて※[氏/一]布といふ心なり。おほをそ鳥は烏の異名なり。おそきは東の語にきたなきをいへは、大にきたなき鳥といふ心に名付たり。書にも貪烏といひて心貪欲に非常なる物にいひならはしたり。人の屍牛馬の斃たるまてつゝきてくらへはいへり。字書に似(テ)v鴨(ニ)食v糞(ヲ)といへり。此集に曾といふ所に烏の字をかけるは、此乎曾を上を略去して用たり。これらにて異名とはしるなり。高野山にきたなき物なかすみそ川を乎曾《ソゾ》【濁音】川《カハ》と申習へるも、きたな川の心なり。又恐ろしきをもをそしといへば、ふたつにかよふ詞なり。古語拾遺云。天(ノ)鈿女《ウズメノ》命【古語天乃於須女。其神強悍猛固。故以爲v名。今俗強女謂(ハ)2之於須志1此縁也。】これは女にかきるやうなれは、鈿女神もとより女神なるゆへに、女のたけきを於須之といへと、常の俗語におそろしき人といふ心をゝそき人なりなといふにおなしく、男女に通すへし。源氏物語東屋にも、めのとはたいとくるしとおもひて、ものつゝみせすはやりかにおそき人にてなといへり。さて今の歌烏にてことたるへきにかさねて大をそ鳥といふことは、第二におにのますらをといひ、第四にわすれ草をおにのしこ草といひ、第八にしこほとゝきすなとよめることく、烏を罵《ノリ》ていふなり。まさでにもは、まさたにもなり。まことにさたかにもきまさぬ君をこらくとなきつることよとて、大をそ鳥とはそしる心なり。ころくと鳴といふは、烏のなく聲のさ聞るゆへか。又西京雜記云。陸賈(カ)云。乾鵲噪(テ)而行人至(ル)。遊仙窟云。今朝《ケサ》聞(ツル)2烏(ノヒト)鵲《カラスノ》語(ラヒヲ)(・ノマラフトカラスノコトヲ》1、眞成好客《マメヤカニヨキマラウト》來(レリ)。此心なるへし。かり/\とのみなきわたるらんとよめるは鴈のなくがしか聞ゆれはよめれと、けふはかりとそたつもなくなるとよめるは、たつのしか啼にはあらす
 
3522 伎曾許曾波兒呂等左宿之香久毛能宇倍由奈伎由久多豆乃麻登保久於毛保由《キソコソハコロトサネシカクモノウヘユナキユクタツノマトホクオモホユ》
 
第十一に玉ゆらに咋の夕見し物を又咋日見て今日こそあひぬなどよめる歌の意なり、第八云、雲の上に鳴なる雁の遠けども云云、
 
初、きそこそはころとさねしか きそは上にもいへることく昨夜なり。雲の上ゆは上よりなり。鳴行たつのまとほくおもほゆとは、さきの夜こそもろともにねしか、いかて雲の上に鳴行つるのことく隔て遠きやうにはおほゆらんの心なり
 
3523 佐可故要?阿倍乃田能毛爾爲流多豆乃等毛思吉伎美波 (41)安須左倍母我毛《サカコエテアヘノタノモニヰルタツノトモシキキミハアスサヘモカモ》
 
仙覺は阿倍ノ田面を駿河にて、坂越テと云へるを宇津の山の坂なるべしと存ぜられたれど、然らば阿倍は郡の名にて國府なれば駿河の歌に入らるべきを此にあればそこならぬこと明らかなり、坂越テは、第一に坂鳥の朝越ましてとよめる如く鶴も坂を越すなるべし、さて此たづを云ひ出るはともしき君はとよそへむためなり、第七にも足柄の筥根飛越行鶴の乏き見ればやまとしおもほゆとよめり、
 
初、坂こえてあへの田のもに 駿河に安倍郡あれとそこにはあらぬなるへし。ゐるたつのともしきとつゝけたるは見たらぬ心なり
 
3524 麻乎其母能布能未知可久?安波奈敝波於吉都麻可母能 奈氣伎曾安我須流《マヲコモノフノミチカクテアハナヘハオキツマカモノナケキソアカスル》
 
フノミチカクテは、未之可久?と書べきを之を知とかけるは東の俗語なり、之と知同韻にて通ずるなり、凡之と知と共に濁音に云時東の人は之も全く知となり畿内の人は知も之と成て能々心を著ざれば持地等唯慈の如くなるなり、薦をばひとふ、ふたふとて編を、ふの足らねば床にも敷合せられぬに寄てアハナヘバと云へり、アハナヘバはあはねばなり、オキツマカモは鴨をばおきつ鳥と云、神代紀彦火火出見(42)尊の御歌にも飫企都※[登+おおざと]利《オキツトリ》、軻茂豆句志磨爾《カモツクシマニ》云云、マカモは眞鴨なり、鴨ノナゲキとは水に入居て浮び上りてはためたる息を衝によするなり、やがて下にやさか鳥いきつく妹とよめり、
 
初、まをこものふのみちかくて まをこもは上にもまをこものおやしまくらとよめり。ふのみちかきは、未之可久※[氏/一]とかくへきを、東哥なれは未知可久※[氏/一]とかけり。今もあつま人はしもしのにこれるをもちもしのにこれることく申めり。知と之は同韻にて通せり、あはなへはあはねはなり。薦をはひとふゝたふとて編を、ふのたらねは床にも敷合せられぬによせて、人にあはぬ心をいふ。奥津眞鳧の歎とは、水鳥は水に入居てうかひ上りてためたる息をつくなり。我もそのことくあはぬによりてなけくとなり。下にやさかとりいきつく妹とよめるもこれなり。なけきは長息の心なるゆへなり
 
3525 水久君野爾可母能波抱能須兒呂我宇倍爾許等乎呂波敞而伊麻太宿奈布母《ミクヽノニカモノハホノスコロカウヘニコトヲロハヘテイマタネナフモ》
 
於呂、【幽齋本、於作v乎、】
 
ミクヾノは水潜野と書なるべし、鴨は水を潜れば此野の名其よせあり、野には池も澤もあれば野と云に籠れり、ハホノスは匍《ハフ》成にてはふ如くなり、此はみづから女の許へ忍びで通ふ事を水底を潜て鴨のはふに喩ふ、コトオロハヘテは於は乎なるべきを東歌なればかける歟、幽齋本によれば云に及ばず、呂は助語なり、コトヲは異雄なり、鴨の雄鳥によす兒等が兼て典《コト》男を通はす故に我はいまだ相寢ねぬとなり、
 
初、みくゝのにかものはほのす みくゝ野は所の名なれとも、水をくゝるといふ心にてかものはほのすとはよめり。はほのすははふなすにてはふことくなり。ことおろはへては異なる男のはひてなり。はふははひよるなり。十三卷にはつせをくにゝ夜延《ヨハヒ》してとよめるかことし。第五にはをとめらかさなすいた戸を押開いたとりよりてともよめる同し心なり。上の鳧のはほのすは此ことおろはへてをいはむためなり。いまたねなふもはいまたねなくもにて、いまたねぬなり。これにつきて上をことおろのはひよるゆへにわかいまたねぬともきこえ、又ふた心なきゆへにことをとこのよはひてはいまたねぬとたのむ心ともきこゆ。次下の哥と問答のやうなれは、ことをとこのはひてわかいまたねぬと、さる事はあるましけれと、人の心をかなひくなるへし。於呂、於は乎なるへきを、此集に通して用たる所あり。または東哥のゆゑなるへし。男を今の世おとことかけと、此集并に和名集等をとこなり。をとめに對すれはしかるへきことなり
 
3526 奴麻布多都可欲波等里我栖安我巳許呂布多由久奈母等(43)奈與母波里曾禰《ヌマフタツカヨハトリカセアカココロフタユクナモトナヨモハリソネ》
 
許己呂、【幽齋本、作2己許呂1、】
 
カヨハトリガセは通ふ鳥が巣なり、フタユクナモトはふたゆきなむとなり、ナヨモハリソネはなおもはれそなり、歌の心は沼二つを彼方《カナタ》此方《コナタ》かけて通ふ鳥の巣の如く、我心も妹ならで外にも人を知置て我心も二ゆきなむとはな思ひそ、我は妹より外には心の行かたはなきぞとよめるなり、
 
初、ぬまふたつかよはとりかせ かよはとりかせはかよふ鳥か巣なり。ふたつの浴に水鳥のかよひて住がこなたかなたに心のかよへは、我心もさやうにふたつのかたへゆきなんとうたかはしくなおもはれそなり。巣といふは住所をいへり。ふたゆくは第四にあふ夜あはぬ夜ふたゆくならんとも、うつせみの世やもふたゆくともあれと、詞はおなしくて心は皆たかへり。心の似たるは第十一に  あらいそこえ外ゆく浪のほか心我はおもはしこひてしぬとも
  あしかものすたく池水まさるともまけみそかたにわれこえめやも
 
3527 於吉爾須毛乎加母乃毛巳呂也左可杼利伊伎豆久久伊毛乎於伎?伎努可母《オキニスモヲカモノモコロヤサカトリイキツククイモヲオキテキヌカモ》
 
母己呂、【幽齋本、母作v毛、】  伊伎豆久久、【官本、無2一久字1、】
 
スモはすむなり、ヲカモは小鳧なり、モコロは如くなり、ヤサカ鳥は第十三に杖不足八尺嘆《ツヱタラズヤサカノナゲキ》とよめる如く鴨の水を出ては長き息を衝故に八尺鳥と云へり、すなはち上の小鴨を指て云へり、小鴨の如八尺鳥とつゞけたれば鴨の外にさる鳥のあるやうに聞ゆるなり、八尺鳥の名を以てやがて妹が息の長さに云ひ成さむとてかくは云(44)へるなり、第四句の一つの久は衍文なり、此歌と次の歌とは防人などに出立とてよめる歟。
 
初、おきにすも【すむなり】をかものもころ【如小鳧】やさか鳥【八尺鳧】此やさか鳥は上のをかもなり。第十三に我なけくやさかのなけき、又杖たらぬ八尺のなけきともよめることく、鴨の水より出て長き息をつく心には八尺鳥といへり。きぬかもは來ぬるかもなり。久久、此後の久(ハ)剰
 
3528 水都等利乃多多武與曾比爾伊母能良爾毛乃伊波受伎爾?於毛比可禰都毛《ミツトリノタタムヨソヒニイモノラニモノイハスキニテオモヒカネツモ》
 
可禰都毛、【幽齋本、毛作v母、】
 
水鳥はたゝむと去はむためながらふと立物なれば其意下までに亘るなり、妹ノラニは妹なろとよめるに同じ、下句は第四の珠衣のさゐ/\沈みとある人丸の歌と同じ、キニテの|に〔右○〕は助語なり、
 
初、水鳥のたゝんよそひに 水鳥のたつを我旅にたつ心によせたり。よそひは裝束するなり。妹のらはいもなろと同し詞なり。ことわさにふとしたる事を足もとより鳥のたつことくとたとふるやうに、およそ鳥はにはかに立ものなれは、ものいはすきにてといへるかあはれなり。には助語なり。おもひかねつもはおもはしとすれともえたへぬなり。此下句は第四に玉きぬのさゐ/\しつみ家のいもにといへる人丸の哥におなし。その哥とおなしきが、此卷の上二十三葉に有しは、ものいはすきにておもひくるしもなり。又第二十に防人か哥に
  水鳥のたちのいそきにちゝはゝにもの|はすけ《不言來》に《助》て今そ悔しき
 
3529 等夜乃野爾乎佐藝禰良波里乎佐乎左毛禰奈敝古由惠爾波伴爾許呂波要《トヤノヽニヲサキネラハリヲサヲサモネナヘコユヱニハハニコロハエ》
 
ヲサギはうさぎなり、ネラハリはねらはれなり、ヲサ/\モは頗《スコブル》と云意と云へり、兎は此を云はむためなり、ネナヘコユヱニは寢ぬ兒ゆゑになり、ハヽは女の母なり、コ(45)トハエはきらはれなり、ネラハリは此を云はむためなり、女の許へしのびて通ひてをさ/\も寢ぬほどに兼て母に聞付らるればとや野の菟をねらふやうにうかゞはれて嫌はれて徒に歸る由をよめる歟、此より下十四首は寄v獣たり、
 
初、とやの野にをさきねらはり うさきねらひなり。をさ/\は頗の心なり。をさきをかへしてをさ/\といへり。ねなへこゆゑにはねぬ兒ゆゑになり。猟師の兎ねらふとてをさ/\ねぬによせて妹にあはむとしのひくるさまをいへり。はゝにころはえは母にきらはれなり。うさきねらふ猟師のねぬものゆへに、うさきをもえとらすして歸ることく、我も妹にあはむとからうして來て、ねぬものゆへに、はては母にさへきらはれていたつらに歸るとなり。六帖に
  あたらよを妹ともねなんとりかたき鮎とる/\と岩の上にゐて
 
3530 左乎思鹿能布須也久草無良見要受等母兒呂家可奈門欲由可久之要思毛《サヲシカノフスヤクサムラミエストモコロカカナトヨユカクシエシモ》
 
兒呂家、【幽齋本、家作v我、】  要思毛、【幽齋本、毛作v母、】
 
鹿は能隱て臥物なれば兒等が臥所は見えずともとよするなり、第四句は兒等が門よりなり、家は我に作る本然るべし、落句は行しよしもなり、之は助語なり、六帖に物へだてたると云髄に人麿の歌とて草隱鳴さをしかの見えねども妹があたりをゆけば戀しもとあるは此歌なり、次の歌と二首は十四首の内鹿によするなり、
 
初、さをしかのふすや草村 鹿はよくかくれてふす物なれは、みえすともといはむためなり。第十に
  さを鹿の朝ふすをのゝ草わかみかくろひかねて人にしらるな
  さをしかのをのゝ草ふしいちしろくわかとはさるに人のしるらく
ころかかなとゆは、こらかかとよりなり。ゆかくしゑしもはゆくしよしもなり。草村にふしたる鹿のことく妹は見えねとも、そのかとをゆくかよきとなり。せめてのことなり。第十に
  春なれはもすの草くき見えすとも我はみやらん妹かあたりは
かなとは第四第九にもよめり。かと《門》は金戸《カナト》の心にて、なもしを畧せり。委上に注せしかことし
 
3531 伊母乎許曾安比美爾許思可麻欲婢吉能與許夜麻敝呂能思之奈須於母敝流《イモヲコソアヒミニコシカマヨヒキノヨコヤマヘロノシヽナスオモヘル》
 
(46)マヨヒキは横にあれば横山邊とつゞく、呂は助語なり、第二十に玉の横山とよめるは武藏なりそれにはあらず、シヽナスオモヘルは鹿の如く思へるなり、かく云意は鹿は人に疎く殊に獵師などをばいたく恐れて隱るゝ物なれば、其如く我に深く隱れて形をだに見せじとするを云へり、
 
初、いもをこそあひみにこしか まよひきは眉なり。仲哀紀に※[目+碌の旁]の字をよめり。眉は横にあるゆへに横山とつゝけたり。第廿に
武藏の防人か妻の哥に、玉の横山とよめれと、それにはあらぬなるへし。横山へろは横山邊なり。しゝなすおもへるはしゝのことくおもはるなり。これにみつの心あり。ひとつには次上の哥のことくあひみぬをもいふへし。ふたつにはかれかつまこひしてもえあはて啼明すことく我もつれなきにいひわつらひてなき明して歸るともいふへし。みつには人にはえあはて鹿の草ふしすることく、十一卷の哥に妹かあたりの霜の上にねぬとよめるやうに、そのあたりに打ふして歸るをもいふへし。人々の心にしたかふへし
 
3532 波流能野爾久佐波牟古麻能久知夜麻受安乎思努布良武伊敝乃兒呂波母《ハルノノニクサハムコマノクチヤマスアヲシノフライヘノコロハモム》
 
初の二句は口不v息と云はむためなり、第九にも珠手次不懸時無口不息吾戀兒矣《タマタスキカケヌトキナククチヤマズワガコフルコヲ》云云、常に我上をのみ云意なり、落句の意旅にてよめりと見ゆ、此より下十二首は十四首の内に寄v馬歌也、
 
初、はるの野に草はむこまの 第九に春草をうまくひ山とつゝけたることく、春草をはことに愛して駒のはめは、そのたゝくちなきことく、我上を人にいひ出てしのふらん家のこらはやとなり。これは旅にての哥と見えたり。第九の長哥に玉たすきかけぬ時なく口やますわかこふるこは云々
 
3533 比登乃兒乃可奈思家之太波波麻渚杼里安奈由牟古麻能乎之家口母奈思《ヒトノコノカナシケシタハヽマストリアナユムコマノヲシケクモナシ》
 
カナシケシタハは悲しくしてはなり、ハマスドリはアナユムと云はむためなり、陸(47)機謝2平原内史(ヲ)1表云、使d春枯之條更(ニ)與2秋蘭1垂(レ)v芳(ヲ)陸沈之羽復(タ)與2翔鴻1撫《ナデ》uv翼(ヲ)、本朝文粹第三、邑上御製辨2散樂(ヲ)1勅問云、宜(シク)・《ベシ》學2峽猿之奇態1、莫v泥(ムコト)2水鳥之陸歩(ニ)1、源氏物語玉鬘云、たゞ水鳥の陸にまどへるこゝちして云云、河海抄云、如2魚鼈之居(ルガ)1v陸(ニ)似(タリ)2鳥雀之覆(スニ)1v巣、【古願文、】アナユムは足悩むなり、落句は惜くもなしなり、遊仙窟云、若使(メバ)2人心(ヲシテ)密(ナラ)1莫v惜(ムコト)2馬蹄(ノ)穿(ナムコトヲ)1、
 
初、ひとのこのかなしけしたは【かなしくしてはなり】 濱すとりは、濱のすに居る鳥なり。但洲は海にも川にも中にあるをいへは、濱へをすとはいふましくや。一説にみさこをすとりといふといへるがしかるへき歟。第十一に大海のあらいそのすとりといふ哥に委尺せり。さてあなゆむ駒とつゝくるは、水鳥の陸に歩む心なり。本朝文粹村上天皇御製辨(スル)2散樂《サルカクヲ》1文(ノ)終句云。莫v習2水鳥陸歩1【暗記當v考2文粹1。】源氏物語玉鬘に、たゝ水鳥のくかにまとへるこゝちしてといへるに、河海抄に古願文とて引るは如(ク)2魚鼈(ノ)之居(ルカ)1v陸(ニ)、似(タリ)2鳥雀之覆(スニ)1v巣(ヲ)。なを此出處有ぬへし。東方朔か陸沈も此類歟。水鳥は陸をあゆむにはなつむものなれは、それを我乗る駒のつかるゝによせてそれもをしからすといへり。遊仙窟云。若使(ハ)2人心(ヲシテ)密(ナラ)1、莫(レ)v惜(ムコト)2馬蹄(ノ)穿(ナンコトヲ)1・あなゆむは第二に石川女郎か哥にあしかひのあなへくわかせとよめるに委尺せり。ひとのこは人のむすめなり。第二に但馬皇女
  みまくほりわかせし君もあらなくに何にかきけむ馬つからしに
あなゆむは足悩《アシナヤム》なり。和名集云。蹇【阿之奈倍。那閉久】。
 
3534 安可胡麻我可度?乎思都都伊?可天爾世之乎見多?思伊敝能兒良波母《アカコマカヽトテヲシツヽイテカテニセシヲミタテシイヘノコラハモ》
 
初、あかこまかかとてをしつゝ 和名集云。唐韻云。※[馬+辛]【音征漢語抄云。※[馬+辛](ハ)赤毛馬也】馬赤色也
 
3535 於能我乎遠於保爾奈於毛比曾爾波爾多知惠麻須我可良爾古麻爾安布毛能乎《オノカヲヽオホニナオモヒソニハニタチヱマスワレカラニコマニアフモノヲ》
 
惠麻須我、【別校本云、ヱマスカ、】
 
オノガヲヽは己之尾をなり、オホニは凡になり、上に多く見えたり、惠麻巣我可良爾をヱマスワレカラニと點ぜるは誤なり、ヱマスガヽラニと讀べし、上にねなへのからにと有し詞づかひにてゑむからにの意なり、又神代紀に一夜之間《ヒトヨノカラニ》云云、此に准ら(48)へばゑむがあひだにとも云なるべし、此は親のいつく娘などに忍びに相知れる男の、尾のことやうにておかしげなる馬に乘て女の門を過る時、唯今おかしき馬こそ通りさふらへと下女などの彼女に告るに依ていづらやとて庭に立出て、げにもおかしき馬かなとて打咲を事の由にて相見つれば、己が尾のことやうなるが還て事の便に成つればおほよそに思はで珍重せよと馬に對して女のよめる意なり、駒に逢とは其駒に乘て來る人なれば駒と云はやがて人なり、かけまくもかしこけれど行幸などの時は乘輿を以て天子を申奉るが如し、
 
初、おのかをゝおほになおもひそ これは女の哥にて馬によせて男にたはふるゝ哥と見えたり。己か尾をおほよそになおもひそとは、本朝文粹にある源順の無尾牛歌のたくひに、馬の尾のおかしけなるを、かへりて重寶とせよといふ心なり。庭に立ゑますかからにとは、その尾のおかしきを庭に立て我見てゑむからに、それによりて君か我を見そめていひかゝつらひけるゆへに、その駒にあひみるものをとなり。駒はやかて男をいふなるへし。ゑますかからにのかもしは、上にねなへのからにといへるのもしにおなし。又神代紀に一夜之間とかきて、ひとよのからとよめり。しかれはゑますかあひたにといふこゝろにも有へし
 
3536 安加胡麻乎宇知?左乎妣吉巳許呂妣吉伊可奈流勢奈可 和我理許武等伊布《アカコマヲウチテサヲヒキコヽロヒキイカナルセナカワカリコムトイフ》
 
サヲヒキは引行意なり、源氏物語處女にさをひきて立たうひなむなどおどし云もいとおかし、コヽロヒキは心の引なり、ワカリは第十一に我許とかけり、駒に鞭打て引行如く心も我に引ていかなるせなか我許へ來むとは云となり、此は男の初ゆかむと云ひおこせたる時女のよめるなるべし、
 
初、あかこまをうちてさをひき うちてのてもしはてにをはにもきこえ、文濁て打出といへるにも聞ゆ。さをひきは引行心なり。源氏物語未通女に、さをひきて立たうひなむなとおとしいふもいとおかし。わかりは我許にてわかもとなり。馬とゝもに心も我かたへ引て、いかなるせなかわかもとへこんとはいふとの心なり
 
(49)3537 久敞胡之爾武藝波武古宇馬能波都波都爾安比見之兒良之安夜爾可奈思母《クヘコシニムキハムコウマノハツハツニアヒミシコラシアヤニカナシモ》
 
クヘは垣なり、くへ垣ともよめり、又こへ垣とも云へり、コウマは駒を具に云なり、和名集云、王仁〓曰、駒、【音倶、和名古萬、】馬子也、小馬《コマ》と云心に名付たるか、子馬《コマ》の意歟、垣越に頭指
出して麥はまば能もはまれずして小端《ハツ/\》なるべきなり、兒良之の之は助語なり、六帖に垣越に麥はむ駒のはつ/\に及ばぬ戀も我はするかな、
 
初、くへこしにむきはむこうまの くへは垣なり。くへ垣なともよめり。又こへ垣ともいへり。こうまは駒なり。和名集云。王仁〓曰。駒【音倶。和名古萬】馬子也。垣こしにかしらさし入て麥はまは、よくもはまれすしてはつ/\なるへきなり。はつ/\は第七に小端とかき、第十一に端々とかけり。第四にもはつ/\に人をあひ見てとよめり
 
或本歌曰|宇麻勢胡之牟伎波武古麻能波都波都爾仁必波太布禮思古呂之可奈思母《ウマセコシムキハムコマノハツハツニニヒハタフレシコロシカナシモ》
 
第十二云、※[木+巨]※[木+若]越爾麥咋駒乃《マセコシニムギハムコマノ》云云、今の初の二句と同じ、ニヒハダフレシは新肌觸《ニヒハダフルヽ》にて初て逢なり、コロシのし〔右○〕は助語なり、
 
初、或本歌うませこしはませこしにてくへこしとおなし。第十二に
  ませこしに麥はむ駒のゝらるれと猶もこひしくおもひかてぬ《不勝・アヘヌ也》を
六帖に
  垣越にむきはむ駒のはつ/\にをよはぬこひも我はするかな
にひはたふれしは新膚觸しなり。くへこしは文選屈原九歌湘夫人云。※[草がんむり/全](ノ)壁《カヘ》兮紫(ノ)壇《セムアリ》。十一巻に新室のかへ草かりにとよめり。垣と壁と往ては通すれは、くへこしは壁越ともいふへし
 
3538 比呂波之乎宇馬古思我禰?巳許呂能未伊母我理夜里? (50)和波巳許爾思天《ヒロハシヲウマコシカネテコヽロノミイモカリヤリテワハコヽニシテ》
 
ヒロハシは尋橋にて纔にひとひろ許の細き橋歟、催馬樂云、あげまきやひろばかりやさかりて寢たれども云云、今按六尺曰v尋と云ひ或は八尺曰v尋とも云ひ、曇鸞徃生論注には案此間詁訓六尺曰v尋、又云里舍間人不v簡2縱横長短1咸横舒2兩手臂1爲v尋と注せられたり、何れをも馬は越かぬまじければ布と比と通じ留と呂と通ずれば古橋にやあらむ、菅家文草第五云、門扁(シテ)人不v到(ラ)、橋破馬無v過(ルコト)、さて此は妹許《イモガリ》行道にかゝる橋の有て騎たる馬の越かぬる故にえゆかぬとにはあらず、誠に馬の越かねばかちにても行べし、障る事有故に得ゆかぬを喩へて云なめり、
 
初、ひろはしを馬こしかねて 廣さの一ひろはかりなる橋ともいふへし。又五音相通して古橋とも聞ゆ。これまさるへし
 
或本歌發句曰|乎波夜之爾古麻乎波左佐氣《ヲハヤシニコマヲハサヽケ》
 
ヲハヤシは小林なり、皇極紀の童謠《ワサウタニ》云、烏麻野始※[人偏+爾]《ヲハヤシニ》、倭例烏比岐例底《ワレヲヲヒキレテ》云云、ハサヽケは左と世と同音にて通じ氣と世と同韻にて通ずればはせさせなり、駒のはなれて馳行て林の中へ遠ざかり入て乘べき駒のなければなり、
 
初、或本哥をはやしは小林にてたゝ林なり。こまをはささけは駒をはさゝせにて、令馳なり。氣と勢と同韵なり。駒のはなれて馳ゆきて、林の中へ遠さかり入て、のるへき駒のなけれは、心のみいもかりやるとなり。第二十に防人か妻の哥に、次の哥は第十一
  赤駒を山野に|はかし《ハナチ》取か|に《ネ》てたまのよこ山かしゆか《歩行ヨリ》やらむ
  妹か髪あけさゝは野のはなれ駒あれゆきけらしあはぬおもへは
 
3539 安受乃宇敝爾古馬乎都奈伎?安夜抱可等比登麻都古呂(51)乎伊吉爾和我須流《アスノウヘニコマヲツナキテアヤホカトヒトマツコロヲイキニワカスル》
 
比登麻都、【幽齋本、作2比等豆麻1、點云、ヒトツマ、仙覺本、同2今本1、】
 
アスは葦《アシ》なり、アヤホカトはあれやはかとなり、夫の外へいきて歸るべき日をはかりて、迎の馬を女の引せ行て、葦の上に繋て、人だに過ればあれやはかと、人を待兒等を見て、思ひと成て長き息つくを、息ニ我爲ルとよめるなり、今按馬をひかせて女の迎に出む事もいかにぞやあれば第四句にも比登豆麻古呂乎とあれば今も麻都は都麻のかへさまに寫されたる歟、幽齋本には豆麻に作れるも澄とすべし、然らば我駒を葦に繋て休らふ程によろしき人妻の過るをあれやはと目留まりて後思と成て息衝なり
 
初、あす【受濁音】のうへに駒をつなきて あすは葦なり。あやはかとゝはあれやはかとなり。いきにわかするは、それを見そめて物おもひとなりて長き息をつくなり。あしの上に駒をつなきては我つなくともきこえ、又人のむかひに女の引せて出てつなき置て、我過るを彼待人かとおもひて、あれやはかといふを聞て、長き息つく物おもひとなるともきこゆ。第七に
  みなとなる蘆の末葉を誰か手折しわかせこかふる手をみんと我そ手をりし
 
3540 左和多里能手兒爾伊由伎安比安可胡麻我安我伎乎波夜美許等登波受伎奴《サワタリノテコニイユキアヒアカコマカアカキヲハヤミコトヽハスキヌ》
 
サワタリは道を徃渡るなり、左はそへたる詞なり、第十一に雲間よりさわたる月とよめるが如し、第二句の伊は助語なり、
 
初、さわたりのてこにいゆきあひ わたるは道を行なり。さはそへたる字なり。いは發語のことは
 
(52)3541 安受倍可良古麻能由胡能須安也波刀文比登豆麻古呂乎麻由可西良布母《アスヘカラコマノユコノスアヤハトモヒトツマコロヲマユカセラフモ》
 
ユコノスは行成にて行如くなり、葦の隙より駒の行を見るは慥に能も見えぬ意なり、マユカセラフモはまゆかさすらくもの意歟、眉に手を覆ひて物を見るを俗にまかさしと云、源氏物語に老たる尼の物を見るをいたちとか云物のすなるやうに額に手をあてゝと云へり、唐に拆額と云も此なり、高唐賦云、其(ノ)少(ヤク)進也※[目+折]《セツタルコト》兮若2※[女+交]《カウ》姫揚v袂《ソデヲ》※[章+おおざと]《サヘテ・カクシテ》v日ゐ而望(ムガ)1v所(ヲ)1v思(フ)、
 
初、あすへからこまのゆこなす ゆこなすはゆくなすにて、行ことくなり。あやはともはあれやはともなり。上のあやほかとゝいへるにおなし。人つまころをは人つまのこらをなり。まゆかせらふもは、眉にかさしする心と見えたり。常にまかさしといへり。もろこしにはしかするを拆額といふ歟。源氏物語に、いたちとかいふものゝすなるやうにひたひに手をあてゝとへるこれなり。まゆは眉なるへし。かせらふはかさす心なるへけれと、文字はいつれならんともいまたわきまへす。あしへから駒の行ことくとは、蘆間よりみれは、物のさたかに見えねはよくくうかゝひみることくあれやはわかこふる人妻ならんと、ひたいに手をあてゝまかさししてみる心なり。比登豆麻古呂乎は上にひと待ころをといふにあはせて思ふに、豆麻は麻豆のさかさまになれるにや
 
3542 佐射禮伊思爾古馬乎波佐世?巳許呂伊多美安我毛布伊毛我伊敝乃安多里可聞《サヽレイシニコマヲハサセテコヽロイタミアカモフイモカイヘノアタリカモ》
 
ハサセテは令馳而《ハサセテ》なり、馬の蹄《ヒヅメ》を痛むによそへて心痛みと云へり、
 
初、さゝれいしにこまをはさせて はさせては馳させてなり。さゝれ石は長流かいはく河原の心なりとさも侍るへし。第四に
  さほ川にさゝれふみわたりぬは玉のくろまのくる夜は年にもあらぬか
心いたみはさゝれ石にはする馬の足のいたむによせてかくつゝけたり。あかもふはわかおもふなり
 
3543 武路我夜乃都留能都追美乃那利奴賀爾古呂波伊敝杼母(53)伊末太年那久爾《ムロカヤノツルノツヽミノナリヌカニコロハイヘトモイマタネナクニ》
 
ムロカヤノツルノ堤と云へるつゞき知がたし、試に云はゞ、ムロカヤは室|草《カヤ》なり、新室を葺べき草なれば空蝉の鳴と云如くいまだ刈らぬさきにも此名を呼なり、良と留と通ずれば都良になして室草《ムロカヤ》の生|列《ツラ》なれる意歟、椿の繁きを列々椿《ツラ/\ツバキ》と云ひ、詩に草連(ナル)v天など作れるを思ふべし、都留ノ堤は甲斐國に都留郡あれど彼處にはあらざるべし、ナリヌカニは堤を築をはりたるによせて戀の心に叶ふを云へり、第十一に成ぬや君と問し子等はもとよめるが如し、賀は疑の詞なり、大かたは成たる歟の意なり、
 
初、むろかやのつるのつゝみの 甲斐に都留郡あり。都留の堤はそこなとにもや侍るらん。むろかやはかやをかりては人の家に葺ゆへにいふなり。さてつるのつゝみとつゝけたるは生しけりてつらなる心に侍るへし。椿のしけく生ならひたるをつら/\椿といふを思ふへし。又草連天なと詩にも作れり。ならぬかにはかやの生立心によせてよめるなり。上に池の堤にさす柳なりもならすもとよめるうたに思合て疑なく侍るにや。又第十一に
  橘のもとに我立しつえとりなりぬや君ととひしこらはも
さてなりぬといふは思ふことのなるによせてよむなり。なれるかには今の俗語にてはなれるやうにといふにおなし
 
3544 阿須可河泊之多爾其禮留乎之良受思天勢奈那登布多理左宿而久也思母《アスカヽハシタニコレルヲシラスシテセナヽトフタリサネテクヤシモ》
 
此アスカ川は吾妻に有なるべし、人の心の上にはいさぎよきやうに見えて底に契りをとほさぬ心の僞あるを知らずして打見るまゝに清しとのみ思ひてゆるして相たるを悔しむなり、六帖に利根《トネ》川は底は濁て上すみて有ける物をさねて悔しき(54)と有も今の意なり、勢奈那はたゞせな〔二字右○〕なり、後の那は助たる詞なり、
 
初、あすか川下にこれるを 人の心の上にはいさきよきやうに見えて、底にきたなき心のあるを、只きよきとのみ思ひてねそめたるか悔しきなり。男女の中には契をとほさぬ心のいつはり有をきたなしといふなり。紀氏六帖に
  とね川はそこはにこりて上すみて有けるものをさねて悔しき
此あすか川は大和に有川ともきこえす。國未勘とてあれは其分たるへし。せなゝはせなゝり。後のなは添たる字なり
 
3545 安須可河泊世久登之里世波安麻多欲母爲禰?巳麻思乎世久得四里世波《アスカカハセクトシリセハアマタヨモヰネテコマシヲセクトシリセハ》
 
セクは親などの制する喩なり、爲禰?は上にも有て云如く率宿而なり、伊禰?には同じからず、
 
初、あすか川せくとしりせは おやなとのあはせしとさくるをせくによせて、しからはまださけられぬ時に、あまたの夜をねて、それをたにおもひ出にせましものをといふ心なり。爲禰※[氏/一]とかけるは伊禰※[氏/一]なるを東哥なれはかくかけり。以伊等と爲葦等と輕重かはるへし
 
3546 安乎楊木能波良路可波刀爾奈乎麻都等西美度波久末受多知度奈良須母《アヲヤキノハラロカハトニナヲマツトセミトハクマスタチトナラスモ》
 
ハラロは張《ハ》れるにて目の張なり、ナヲマツトとは汝を待とてなり、女の歌にて夫を指なり、セミトハクマスは西と之と豆と度と共に同音にて通ずれば清水は不v酌なり、タチトナラスモは立所《タチト》を蹈ならすなり、
 
初、青柳のはらろ【はれるなり】かはとになを【汝を】まつとせみとは【しみつはなり】くますたちと【立所】ならすも【令平】
 
3547 阿知乃須牟須沙能伊利江乃許母理沼乃安奈伊伎豆加思(55)美受比佐爾指天《アチノスムスサノイリエノコモリヌノアナイキツカシミスヒサニシテ》
 
阿知、【幽齋本、知作v遲、】
 
初の二句は第十一に出たり、コモリヌは彼入江の別處にある歟、入江の水の隱れる所を云歟、アナイキツカシとは隱沼に入て潜《カツキ》する海人に寄する歟、又但こもり沼の水の如く思ひのやる方なきをすなはち隱沼と云ひてアナイキツカシと云へるにや、
 
初、あちのすむすさのいりえの 第十一に此二句はおなしくて、あらいそ松われをまつこらはたゝひとりのみ。八雲御抄にすさの入江つのくにと注したまへと今は國未勘とあれはさて有へし。こもりぬのあないきつかしとつゝけたるは、こもりぬの水のことく物をおもひためたれは、いきのつかるゝ心なり
 
3548 奈流世呂爾木都能余須奈須伊等能伎提可奈思家世呂爾比等佐敝余須母《ナルセロニキツノヨスナスイトノキテカナシケセロニヒトサヘヨスモ》
 
奈流世呂、【幽齋本、呂作v路、】
 
ナルセは鳴瀬にて所の名にや、今の世成瀬と云氏の聞ゆるは先祖のそこもとより出られけるにや、水木都能余須奈須は木積の依する如くなり、こつみの|み〔右○〕を下略せり、狐をよすなすとも聞ゆれど上にすさの入江下にたゆひがた有て、なるせも亦狐よすべき所にあらず、木都とかけるも木糞《コツミ》の故なり、イトノキテはいろゝの心なり、第(56)五第十二に既に見えたり、カナシケセロは悲しや背等なり、落句は初の二句は此を云はむために云ひ出たり、
 
初、なるせろにきつのよすなす 鳴瀬は所の名なるへし。今の世に成瀬といふ氏の聞え侍るは、先祖のそこもとより出られけるにや。きつのよすなすは、狐をよすることくといふ心とも、木つみのよすることくともきこゆ。されと上にすさの入江、下にたゆひかたありて、此哥又なるせろとよみたれは、狐にはあるへからす。木つみなるへし。第二十に木糞とかけり。木の枝葉なとのなかれよるなり。第七第十一第十九にもよめり。しかれは木くつのよすることくなり。いとのきては、第五第十二にもよめり。いとゝの心なり。かなしけせろにはかなしきせろになり。人さへといへるはいとゝしくわか心のよるかうへに人さへいひよするとなり
 
3549 多由比我多志保彌知和多流伊豆由可母加奈之伎世呂我和賀利可欲波牟《タユヒカタシホミチワタルイツユカモカナシキセロカワカリカヨハム》
 
イヅユカモはいづくよりかなり、
 
初、たゆひかたしはみちわたる 越前に田結の浦あれと、そこにはあらすと見えたり。手結浦は第三に笠金村哥に見えたり。いつゆかもは、いつくよりかもなり
 
3550 於志?伊奈等伊禰波都可禰杼奈美乃保能伊多夫良思毛與伎曾比登里宿而《オシテイナトイネハツカネトナミノホノイタフラシモヨキソヒトリネテ》
 
發句は押而否となり、押而は強《シヒ》ての意なり、イナを承て稻ハツカネドと云へり、古今集歌にも秋の田のいねてふこともかけなくになどもよめり、ナミノホは唯浪なり、穗とは浪の立出たるを云、稻薄などの穗の意なり、神代紀下云、秀起浪穗之上云云、神武紀云、三毛入野命亦蹈(テ)2浪秀《ナミホヲ》1徃2乎《イデマシヌ》常世郷《トコヨノクニヽ》1矣、イタフラシモヨは第十一にも風を痛み甚振浪《イタフルナミ》とよみ、又|白濱浪乃不肯縁荒振妹《シラハマナミノヨリカヘニアラフルイモ》ともよめり、此は賤しき女の許に男來たる(57)時に少恨むる心有てよめるなり、いざ諸共に寢むなど云ひて手を取を強て否とすまひはてゝあひしらはで稻を舂にはあらねど昨日の夜來むと期《チギ》りて徒にまたせて獨ねさせつるが恨めしさに振も放たばやとまで思ふを風に依て立浪によせていたく振らしもよとよめるなり、上の稻つけばかゝる我手をとよめる女の此をもよめるにや、
 
初、おしていなといねはつかねと 上にもいねつかはかゝるあかてをとよめり。これはいやしき女のもとに男のきたる時にすこしうらみてよめるなり。しひていなとていなひはつるにはあらねとゝいふ心をかくはつゝけたり。否と稻ときゝのかよへはいねをいなといふ心につゝけたり。古今に秋の田のいねてふこともかけなくにとよめるもいなといふ心にかけたりと聞え、來たる人をいねといふ心にいへるともきこゆ。もろともにはやくねむといふを猶すまひていねをつきてをる心なり。なみのほのは浪穂なり。神代紀に秀起浪穂《サキタテルナミホノ》之上云々。これはいたふらしもよといはむためなり。いたふらしもよはいとふらしきなり。第十一に
  たくひれの白濱浪のよりもあへすあらふる妹にこひつゝそをる
浪のふるふによせて袖を取手を取にふりはなつやうなるをふらしもとはいへり。きそひとりねてはよべひとりねてなり。昨夜とかきて日本紀《應神紀等》にきすとよめる事上に引り。さきの夜こむとちきりてまたせてこさりつれは、なく/\ひとりねしゆへにふかき恨にてしひていなと思ふにはあらねと、ふらまほしきとなり
 
3551 阿遲可麻能可多爾左久奈美比良湍爾母比毛登久毛能可加奈思家乎於吉?《アチカマノカタニサクナミヒラセニモヒモトクモノカヽナシケヲオキテ》
 
爾母、【官本、母或作v毛、】
 
アヂカマは第十一にも味鎌の鹽津をさしてとよめり、サクナミは浪華の開なり、第六に白浪のいさきめぐれるすみのえの濱とよめるが如し、此浪は人のうるはしきによそへたり、落句は此より云へり、第七に住吉の波妻君《ナミツマキミ》とよめるが如、ヒラセは平瀬にて鹽瀬の淺きなり、深く悲しと思ふ人をおきて平瀬の如く淺はかなる人に紐解物かとは君を除《おき》てふた心はもたずと志をあらはすなり、
 
初、あちかまのかたにさく浪 第十一に味鎌の塩津をさしてとよめり。下にあちかまのかけのみなとゝもよめり。かたは滷にも方にもあるへし。さくなみは秀起《》といへるかことし。浪の花のことく見えて立をいへり。ひらせにもは平瀬にて塩瀬のあさきなり。かなしけをおきては、かなしき人をおきてなり。さくなみのことくかなしき人を置て、ひらせのこときあさはかなる人にふた心もちて※[糸+刃]ときてねんものかはとなり。第七にすみのえのなみつま君とよめるをおもふへし
 
(58)3552 麻都我宇良爾佐和惠宇良太知麻比等其等於毛抱須奈母呂和賀母抱乃須毛《マツカウラニサワヱウラタチマヒトコトオモホスナモロワカモホノスモ》
 
佐和惠は波と和と倍と惠を共に同韻にて通ずれば五月蠅《サバヘ》なり、牟と宇と同韻にて通じ豆と知と同音にて通ずればウラタチはむらたつなり、マヒトゴトは眞他言《マヒトコト》なり、五月蠅《サバヘ》の群立《ムラタツ》如くさわぐ眞他言なり、オモホスナモロは何ともおもほすな妹にて、呂は例の助語なり、落句の抱は波、乃は奈と同音、須は久と同韻にて通ずればわがもはなくもにて、其人言を我はそれとも思はぬとなり、
 
初、まつかうらにさわゑうらたち 讃岐に松か浦あれと、これはそこにはあらす。佐和惠は佐波敝なるを、よこなまるゆへに佐和惠なり。五月蠅の心なり。うらたちはむらたつなり。まひとことは眞他言《マヒトコト》なり。此つゝけやうは、まつかうらのうらをうけてうらたちとつゝくるのみならす、松か浦に立浪のことく、むらたつさはへなす人ことゝいふ心なり。松か浦に五月蠅のむらたつといふにはあらす。ひろきよみやうなり。第三には、さはへなすさはくとねりとよみ、第五にはさはへなすさわくこともをとよめり。毛詩神代紀等皆そこに引り。皆こゝによくかなへり。おもほすなもろはいもろなり。わかもほのすもはわかおもはなくもなり。久と須と横通なり。人ことをことゝもおもほしめすな。我も何とも思はぬとなり
 
3553 安治可麻能可家能水奈刀爾伊流思保乃許?多受久毛可伊里?禰麻久母《アチカマノカケノミナトニイルシホノコテタスクモカイリテネマクモ》
 
入塩とは塩の滿て入來るなり、コテタスクモカは來てたゞに過る物かと云へるにやとおぼゆ、入來る塩も滿べき處まで滿はてずしてたゞに過る物ならねば我も其如く辛うじて來たる夜徒に歸されむ物か閨に入て寢まくほしとにや、
 
初、あちかまのかけのみなとの いるしほのはみちていりくるしほなり。こてたすくもかは、來てたゝに過る物かなり。塩はみちきてたゝへて後、又ひけは、それによせてくるとひとしくいたつらに過へきものか。夜床に入てねまくほしとなり。いるしほをうけて入てといへり
 
(59)3554 伊毛我奴流等許能安多理爾伊波具久留水都爾母我毛與伊里?禰末久母《イモカヌルトコノアタリニイハクヽルミツニモカモヨイリテネマクモ》
 
戸などさしつれば隙あれど入ことを得ぬを、水はいかなる石間をも潜りて至らぬ所なければかくは羨やめり、第十一にも水ならばしがらみ越てゆかまし物をと有き、
 
初、いもかぬるとこのあたりに 水はいはにせかれても猶くゝりゆくを、おもふ中も人めにさへられ、夜は戸なとさゝれて入ことあたはねは水をうらやむなり。第十一に
  わきもこにわかこふらくは水ならはしからみこえてゆくへくそ思ふ
此巻上には
  きへ人のまたらふすまにわたさはたいりなましもの妹かをとこに
 
3555 麻久良我乃許我能和多利乃可良加治乃於登太可思母奈宿莫敝兒由惠爾《マクラカノコカノワタリノカラカチノオトタカシモナネナヘコユヱニ》
 
於登、【幽齋本、登作v等、】
 
カラカヂはからろなり、倭漢朗詠集云、唐櫓聲高(シテ)入(ル)2水煙1、諸共に寢ぬ物故に他言《ヒトコト》に聞ゆるを塩の早き所を漕舟の櫓の音の高きによせて云へり、
 
初、まくらかのこかのわたりの 上に衣の袖を枕香ゆ、あまこきくみゆとよめれは、枕香といふは惣名にて、そこにこかのわたりはあるなり。からかちはからろなり。朗詠集云。唐櫓聲高(シテ)入2水煙(ニ)1。舟こく音によせて、ねぬ兒ゆゑに人ことに開ゆるをいへり。十一に
  木海の名高のうらによるなみの音高しかもあはぬ子ゆゑに
 
3556 思保夫禰能於可禮婆可奈之左宿都禮婆比登其等思氣志(60)那乎杼可母思武《シホフネノオカレハカナシサネツレハヒトコトシケシナヲトカモシム》
 
オカレバカナシはうかればかなしにてあはぬ程を舟のうかれたゞよふに喩ふる歟、おくればかなしにて時に後《オク》るれば悲しと云事を友舟などに漕後るゝに喩ふる歟、落句はなにとかもせむなり、
 
初、塩舟のおかれはかなし 塩舟は上にもならへてみれはとよめり。おかれはかなしは、長流云。おけれはといふなり。捨をくによせてよめる哥なりといへり。今案うけれはかなしにや。舟のうかふによせて、諸友にふさぬほとをいたつらにうけおく心にいへる歟。なをとかもしむはなにとかもせむなり
 
3557 奈夜麻思家比登都麻可母與許具布禰能和須禮波勢奈那伊夜母比麻須爾《ナヤマシケヒトツマカモヨコクフネノワスレハセナヽイヤモヒマスニ》
 
和須禮婆、【幽齋本、婆作v波、】
 
發句は悩ましきなり、人を悩ます意なり、遊仙窟云、窮鬼《イキスガタ・イキスダマ》故《ノコトサラニ》調《ナヤマスヤ・セルカ》人《・ワレヲ》(ヲ)、コグ舟ノ忘ハセナヽは舟を漕ものはたゆめば進まぬ故にたゆまぬを人を思ふ事の絶間なきに喩へてなり、セナヽはせなくなにてせぬなど云也、
 
初、なやましけはなやましきなり。遊仙窟云。窮鬼故調(・セルカ)《イキスカタ《・イキスタマ》ノコトサラニナヤマスヤ》人《・ワレヲ》(ヲ)。こく舟のわすれはせなんないやおもひますにとは、舟をこくものはたゆめはすゝまぬゆへに、たゆまぬを、人をおもふことのたえまなきにたとへていへり
 
3558 安波受之?由加婆乎思家牟麻久良我能許賀已具布禰爾 伎美毛安波奴可毛《アハスシテユカハヲシケムマクラカノコカコクフネニキミモアハヌカモ》
 
(61)布禰爾とは舟の如くになり、君モアハヌカモはあへかしの意なり、君が許へ思ひ立て來たるに徒に歸らば惜かりなむ、こがのわたりに漕舟人の上り下りに逢如くあはぬかの意なり、
 
初、あはすしてゆかはをしけむ この哥の心は、君かもとへきてあはて徒にゆかんはをしきとなり。こかのわたりをのほりくたりにあふてふな人のたかひにかたることくにあはさらんや。あへかしとなり
 
3559 於保夫禰乎倍由毛登母由毛可多米提之許曾能左刀妣等阿良波左米可母《オホフネヲヘユモトモユモカタメテシコソノサトヒトアラハサメカモ》
 
第二句は舳よりも艫よりもなり、許曾は大和物語云、秋の夜の長きに目をさましてきけば鹿なむ鳴ける、物も云はで聞けり、かへを隔たる男聞たまふや西こそと云ひければ云云、此西こそは源氏物詐夕※[貌の旁]にあはれいと寒しや、ことしこそなりはひにも憑む所すくなく、ゐなかの通ひも思ひかけねばいと心細けれ、北殿こそ聞給へやなど云ひかはすも聞ゆとかける北殿こそのこそ〔二字右○〕に同じ、又うつぼ物語にたゞこそと云名あり、同物語に京くそたちと云ひ、源氏物語手習にいつらくそたち琴取てまゐれと云になど云へるくそ〔二字右○〕と久と古と同音にて通ずれば同じ詞なり、其意は知らねども貴からず賤しめぬ程の人を呼詞と聞えたり、大和物語の西こそはもとの女(62)に云へる詞なれば今も兒等がと云ほどの意にや、
 
初、大ふねをへゆもともゆも【へよりもともよりもなり】へつなともつなつけてむすひかたむることく、口をかためし子を、其里人はおほくともあらはさんや。えあらはさしとなり
 
3560 麻可禰布久爾布能麻曾保乃伊呂爾低?伊波奈久能未曾安我古布良久波《マカネフクニフノマソホノイロニテヽイハナクノミソワカコフラクハ》
 
マカネフクは眞金吹なり、古今集に眞金吹吉備の中山とよめる歌に付て眞金とは鐵を云と云説あるは彼吉備の中山よりは鐵を出しけるかにてさは云にや、説文云、五金黄爲2之長1、〓不v生v衣、百錬不v輕(カラ)、從v革《アラタムルニ》不v違、西方之行生2於土1、徐(カ)曰五色黄白赤青黒也、かゝれば簡びて云はゞ黄金をこそ眞金とは云はめ、されど眞は何をもほむるに付る詞なれば五金に亘りて云べし、吹とはこりたるをわかす時|踏鞴《タヽラ》を立てゝ吹けばなり、ニフは丹生にて地の名なるべし、マソホは眞赭《マソホ》なり、神代紀下云、於是兄著犢鼻《コヽニコノカミタフサギシテ》1以v赭《ソホニテ》塗(リ)v掌《タナウラニ》塗(テ)v面《オモテニ》告2其弟《ソノナセノミコトニ》1曰(サク)云云、説文云、赭赤土也、かゝれば此そほにのよき所なる故に丹生と名たるか、赤土なれば色ニ出テとは云へり、
 
初、まかねふくにふのまそほの 丹生といふ所にかねをふけはかくはつゝけたり。古今集にまかねふくきひの中山とよめるにおなし。にふは又あかきつちなり。よりて所の名をかねてにふのまそほとはつゝけたり。まそほは眞蘇芳《マスハウ》なり。色に出ていはぬのみそとは、心の内にはまそほの色のことく、しみておもふとなり
 
3561 可奈刀田乎安良我伎麻由美比賀刀禮婆阿米乎萬刀能須(63)伎美乎等麻刀母《カナトタヲアラカキマユミヒカノレハアメヲマトノスキミヲトマトモ》
 
刀禮婆、【官本云、トレハ、】
 
カナトデは金戸出にて門出《カドデ》なり、アラカキマユミは荒垣の間より見なり、腰句今の點誤れり官本に依てヒカトレバと讀べし、日之照《ヒガテ》ればにて旱《ヒデリ》すればなり、アメヲマトノスは雨を待成にて雨を待如くなり、第二に天水《アマツミヅ》仰て待にと有しが如し、落句は君をと待もなり、又近く君を來ませと今より待心も喩へば旱する時雨を待が如しとなり、
 
初、かなとてをあらかきまゆみ 金戸出を荒垣の間より見てなり。かなとは門なり。上にも妹かかなとゝよめり。後朝のわかれのかとてを垣間よりみるなり。ひかとれはゝ日か照れはにて、旱すれはなり。あめをまとのすは雨を待なすにて、日のてる時雨を待ことくなり。第二に人丸の日並皇子尊の薨し給へるをいたみ奉てよまれたる哥に、大舟のおもひたのみてあまつ水あふきてまつにとよまれたる心なり。君をとまともとは君をと待もなり。雨を待ことく、又ちかく君をきませと待となり
 
3562 安里蘇夜爾於布流多麻母乃宇知奈婢伎比登里夜宿良牟安乎麻知可彌?《アリソヤニオフルタマキノウチナヒキヒトリヤヌラムアヲマチカネテ》
 
發句は荒磯回《アリソワ》になり、和と夜と同韻にて通ず、
 
初、ありそやにはありそわになり。荒磯囘とかけり。うちなひき獨やぬらん、此つゝき上にあまた有。あを待かねて、我を待かねてなり
 
3563 比多我多能伊蘇乃和可米乃多知美多要和乎可麻都那毛伎曾毛已余必母《ヒタカタノイソノワカメノタチミタエワヲカマツナモキソモコヨヒモ》
 
(64)美多要、【幽齋本、多作v太、】
 
ワカメは和名集云、本草云、海藻味(ハヒ)苦鹹寒(ニシテ)無毒、【和名邇木米、俗用2和布2、】にきめはやがてわかめと同じ意なり、タチミタエは立亂なり、立て見、居て見、思ひ亂るゝを云はむためなり、ワヲカマツナモは我をか待なむなり、
 
初、ひたかたのいその たちみたゑは立亂なり。惠と禮と横通なり。わかめはみたるといはんためなり。立といふにつゝくにはあらす。わをかまつなもは、われをかまちなんなり。きそもこよひもは、さきの夜もこよひもなり。立みたれは立て待なり
 
3564 古須氣呂乃宇良布久可是能安騰須酒香可奈之家兒呂乎於毛比須吾左旡《コスケロノウラフクカセノアトスヽカカナシケコロヲオモヒスコサム》
 
發句の呂は例の東詞にて小菅の浦なり、アトスヽカは上にも安豆左由美須惠爾多麻末吉可久須酒曾とありし腰句はかくすとぞと云へるやうに承はりき、今は何としてかと云心にや、初の二句は落句を云はむためにて小菅の浦吹過る風の如く何としてか悲しき兒等を思ふ心をやすく遣過さむとなり、
 
初、あとすゝか 何としてかなり。うら風のたえす吹て過る時なきことく、おもひをもえ過しやらぬなり。第四に
  われも思ふ人もわするなおほなわに浦ふく凰のやむ時なかれ
うらふく風のと切て、結句の上に置て心得へし
 
3565 可能古呂等宿受屋奈里奈牟波太須酒伎宇良野乃夜麻爾都久可多與留母《カノコロトネスヤナリナムハタスヽキウラノヽヤマニツクカタヨルモ》
 
(65)宿受屋、【幽齋本、屋作v夜、】
 
ウラ野ノ山のうらを末《ウラ》になしてハタスヽキとはおけり、ツクカタヨルモは月片依もなり、西の方に近づくを云なり、
 
初、はたすゝきうらのゝ山 薄の末《ウラ・ウレ》とつゝけたり。つくかたよるもは月かたよるもなり。暁になりて山のはちかく月のかたふきかゝるなり。第七に
  明日のよもてらむ月夜はかたよりにこよひによりて夜長からなん
これはことはゝおなしくて心かはれり
 
3566 和伎毛古爾安我古非思奈婆曾和敞可毛加米爾於保世牟已許呂思良受?《ワキモコニアカコヒシナハソワヘカモカミニオホセムコヽロシラステ》
 
ソワヘカモは五月蠅《サハヘ》かもなり.加米の米は未に作れるを正字とすべきか、但東歌なる上に備後國神石郡を和名に加女志と注せられたればかめ〔二字右○〕にてかみ〔二字右○〕と通ずべきにや、吾妹子に人知れず我戀死なばさばへなすあしき神の祟にやと科なき神に負せやせむずらむとなり.伊勢物語に人知れず我戀死なばあぢきなく何れの神に無き名負せむ、此と同意なり.
 
初、わきもこにあか戀しなは 我こひしにたらはなり。そわへかもかめにおほせんは、五月蠅かも神におほせむなり。さはへなす神とてあしくよこしまなる神をいふなり。戀にしなはその心をはしらて、さはへなす神のためにとりもころされたりとや神にとかをおほせんとなり。第十六に、ちはやふる神にもおほすな、うらへすゑかめもなやきそ、こひしくにいたむ吾身そなとよめり。伊勢物語には
  人しれすわかこひしなはあちきなくいつれの神になき名おほせん
 
防人歌
 
3567 於伎?伊可婆伊毛婆摩可奈之母知?由久安都佐能由美(66)乃由都可爾母我毛《オキテイカハイモハマカナシモチテユクアツサノユミノユツカニモカモ》
 
伊可婆、【官本、婆或作v波、】  摩可奈之、【幽齋本、摩作v麻、】
 
マカナシは眞悲なり、
 
3568 於久禮爲?古非波久流思母安佐我里能伎美我由美爾母 奈良麻思物能乎《オクレヰテコヒハクルシモアサカリノキミカユミニモナラマシモノヲ》
 
右二首問答
 
3569 佐伎母理爾多知之安佐氣乃可奈刀低爾手婆奈禮乎思美奈吉思兒良婆母《サキモリノタチシアサケノカナトテニテハナレヲシミナキシコラハモ》
 
手婆奈禮、【幽齋本亦云、タハナレ、】
 
第十七に手放をタハナレと點ぜれば今も幽齋本亦點に依て讀べし、
 
3570 安之能葉爾由布宜利多知?可母我鳴乃左牟伎由布敝思 (67)奈乎波思奴波牟《アシノハニユフキリタチテカモカネノサムキユフヘシナヲハシノハム》
 
由布宜利、【幽齋本、利作v里、】  思努波牟、【官本又云、シヌハム、校本、努作v奴、點與2官本1同、】
 
此歌は先難波まで到らむ時を思ひてよめるに似たり、ユフベシのし〔右○〕は助語なり、
 
初、かもかね 鴨の聲なり。なをはしのはん、なんちをはしのはんなり
 
3571 於能豆麻乎比登乃左刀爾於吉於保保思久見都都曾伎奴流許能美知乃安比太《オノツマヲヒトノサトニオキオホヽシクミツヽソキヌルコノミチノアヒタ》
 
オノツマは己妻《オノツマ》なり、ヒトノサトは他郷なり、
 
譬喩歌
 
3572 安杼毛敝可阿自久麻夜末乃由豆流波乃布敷麻留等伎爾可是布可受可母《アトモヘカアシクマヤマノユツルハノフフマルトキニカセフカスカモ》
 
發句は何と思ふかの意なり、ユヅルハは清少納言云、ゆづりはのいみじうふさやかにてつやめきたるはいと青うきよげなり、後の人もかく云物なれば女に喩ふ、フヽ(68)マル時とはまだ葉の能も開けぬ時なり、童女なるに喩ふ、第二十に防人が知波乃奴乃《チハノヌノ》、古乃弖加之波能《コノテカシハノ》、保保麻例等《ホヽマレト》とよめるも今の意なり、仙覺云、風フカズカモと喩ふる心は草木の葉の風に靡き隨ふ事は盛なる時のみかは、ゆづり葉のいまだひらけもせずみる/\とあるも風吹けば靡くが如くいまだ盛にならずとも我になびけかしと喩ふるなり、今云末より返て、發句を意得べし、
 
初、あともへか、何とおもふかなり。ゆつるはのふゝまる時にとは、ふくめる時になり。いまた芽のひらけぬ時なり。妹は何とおもふそゆつるはのふゝめる時に風はふかすやとなり。これは童女をおもひかけて、それをゆつるはのひらけぬにたとへ、おもふ心をいひて音つれするを凰の吹にたとへて、さて風は増長してひらかしむるものなれは、ゆつるはのひらくることく、人ならは我妻にせんの心なり
 
3573 安之比奇能夜麻可都良加氣麻之波爾母衣我多奇可氣乎於吉夜可良佐武《アシヒキノヤマカツラカケマシハニモエカタキカケヲオキヤカラサム》
 
ヤマカツラカゲは山桂蔭なり、劉安招隱云、桂樹叢(カリ)生(タリ)兮山之|幽《フカキトコロニ》眞柴ニモ得ガタキ陰とは梢の高ければ柴にきる事の得がたきなり、是は我より高き人を思ひかけて及ばぬ枝に喩ふるなり、
 
初、あしひきの山かつらかけ 山桂陰なるへし。和名集に楓はをかつら桂はめかつらとよめり。許渾か詩に賣(リ)v藥(ヲ)修(メテ)v琴(ヲ)歸(リ)去(ルコト)遲(シ)。山風吹盡(フ)桂華枝。招隱(ニ)云。桂樹叢(カリ)生(タリ)兮山之|幽《フカキトコロニ》。されはこそましはにもえかたき陰をおきやからさんとはよめれ。これは我よりは高き人におもひかけてよめると見えたり。おきやからさんはさておきなからやからさんなり。たとふる心知ぬへし
 
3574 乎佐刀奈流波奈多知波奈乎比伎余知?乎良無登須禮杼宇良和可美許曾《ヲサトナルハナタチハナヲヒキヨチテヲラムトスレトウラワカミコソ》
 
(69)余知?、【幽齋本、知作v治、】
 
ヲサトは小里なり、京の字をみさとゝよめばそれに對して常の處よりはほむる意あり、第十九にもよめり、此歌も童女を思ひかけてよめり、
 
初、をさとなるはなたち花を 小郷にある花橘なり。小はそへたる字なり。人の家のむすめを橘によそへてうらわかみこそとは、また橘のをるほとの枝なきかことく、女の年のまたしきなり
 
3575 美夜自呂乃緒可敝爾多?流可保我波奈莫佐吉伊低曾禰許米?思努波武《ミヤシロノヲカヘニタテルカホカハナナサキイテソネコメテシノハム》
 
緒可敝爾、【袖中抄にはスカヘとあり、幽齋本、緒《ヲ》作v渚、點如2袖中抄1、校本、緒或作v須、】
 
スカヘは其義意得がたし、今の岡邊にて有ぬべし、カホガ花はかは花なり、名を借て女に喩ふ、ナサキ出ソネはかくと色にな出その喩なり、
 
初、みやしろのをかへに かほか花は上に有つる※[白/八只花なり。女にたとへたり。なさき出そとは色に出て人にしらすなゝり。こめてしのはむは人しれすしのひおもはむなり
 
3576 奈波之呂乃古奈伎我波奈乎伎奴爾須里奈流留麻爾末仁安是可加奈思家《ナハシロノコナキカハナヲキヌニスリナルヽマニマニアセカカナシケ》
 
古奈伎、【幽齋本、伎作v宜、】
 
苗代は第三に春日の里に殖子水葱苗《ウヱコナキナヘ》なりと云ひしなとよみたれば小水葱の苗代(70)なり、苗代より移し殖る小水葱が花を衣に摺とは童女の時より見おきて後に妻とするなり、
 
初、なはしろのこなきか花を 長流かいはく。こなきは上に注せり。水草の花の紫にさく故に、女にたとへたり。なはしろといふは田に苗代する比、花さくものなりといへれとも、しからす。こなきのたねを水にうふるをなはしろとはよめるなり。第三卷に春日のさとにうゑこなき苗なりといひしえはさしにけむとよみ、又此卷上野國のうたにいかほの沼にうゑこなきかくこひむとやたねもとめけんともいへり。以上長流か抄よく聞え侍り。第十一には菅をもみしますけいまたなへなりとよめり。しかはあれとも此苗代は猶常のなはしろにて侍るへきにや。そのゆへは苗代といふ詞は稻につきてのみいへり。水※[草がんむり/公/心]をいふとも、苗代といふ位にそのまゝ花咲にあら□そのうへたるあまりを捨置たるに咲をいふへし。常の苗代もさなへ取て後まてそのまゝにて捨おけは、なきのみならす何くれとさま/\あらぬ草まておひましる常のことなり。水※[草がんむり/公/心]は今の俗水あふひと申ならはし侍り。土民はかへりてなきと申めり。廷菩式には天子供御の注文にも載たり。すてに上に注し侍りぬ。あせかかなしけはなせかかなしきなり
挽歌
 
3577 可奈思伊毛乎伊都知由可米等夜麻須氣乃曾我比爾宿思久伊麻之久夜思母《カナシイモヲイツチユカメトサキタケノソカヒニネシクイマシクヤシモ》
 
第七に大形似たる歌有て注しき、山管の此方彼方に靡くをソガヒニネシクと寄せたり、
 
初、かなしいもを 第七卷に
  わかせこをいつちゆかめとさき竹のそかひにねしく今しくやしも
わかせことかなし妹とかはり、さき竹と山菅とのかはりたるのみにて大かた心詞おなし哥なり。山すけのそかひとつゝけたるは、葉のこなたかなたにわかれて、なひくものなれは、夫婦そむきてねたる事もありしを、侮るなり。さて此哥は菅の根といふによりて、そかひにねしくとつゝけたりときこえたり。ねしくのくもしは今しくはなといへることくそへたる字なり。第十二に
  世の中にこひしけゝむとおもはねは君かたもとをまかぬ夜も有き
此哥も心の似たるかたあるなり
 
以前歌詞未v得v勘2知國土山川之名1也、
 
萬葉集代匠記卷之十四下
 
 
贈正四位釋契沖撰
文學博士木村正辭校訂     八輯
 
萬葉集代匠記
 
   早稲田大學出版部蔵版
〔2021年8月17(火)午前8時8分、巻14初、入力終了〕