(1)萬葉集代匠記卷之十五
                      僧契冲撰
                      木村正辭校
 
初、中臣朝臣宅守娶藏部女【此下疑脱更等字】娉誤作嫂
 
初、中臣朝臣宅守作歌十三首 守作兩字誤倒
 
初、中臣朝臣宅守更贈歌二首 二誤作三
 
遣2新羅1使人等、悲v別贈答、及海路慟情陣v思并當所誦詠之古謌
 
目録に天平八年丙子と云へるに依て聖武紀を考見るに漏して不v載、
 
初、遣新羅使人等云々 目録に天平八年丙子といへり。績日本紀を考るにもらして載ることなし
 
3578 武庫能浦乃伊里江能渚羽具久毛流鳥伎美乎波奈禮弖古非爾之奴倍之《ムコノウラノイリエノストリハククモルキミヲハナレテコヒニシヌヘシ》
 
武庫は近き海路なればかく云ひ出せり、ハグヽモルははぐゝめるなり、鳥の子は母を離れてはそだゝねば戀に死ぬべしとも寄せたり、
 
初、むこの浦のいりえのすとり 下右十一首贈答といへり。これは新羅使の留る妻の贈哥なり。此心ははくゝむは羽含なり。鳥のひなをそたつるに、羽かひの下にくゝみもちてあたゝめそ立るなり。ちゝ母の子をはくゝむといふも其心なり。妻も男にはくゝまるゝ事おなしけれはかくはよめり
 
3579 大舩爾伊母能流母能爾安良麻勢波羽具久美母知弖由可麻之母能乎《オホフネニイモノルモノニアラマセハハクヽミモチテユカマシモノヲ》
 
(2)此は夫の答歌なり、
 
初、大船に妹のる物に 是は夫の返歌なり。和名集云。唐韻云。舶【傍陌反。楊氏漢語抄云。都具能布禰】海中大船也。日本紀には舶をつむとよめり。久と牟と同語なれは通せり
 
3580 君之由久海邊乃夜杼爾奇里多多婆安我多知奈氣久伊伎等之理麻勢《キミカユクウミヘノヤトニキリタヽハアカタチナケクイキトシリマセ》
 
神代紀上云、吹|棄氣噴之狹霧《ウツルイキノサキリ》云々、
 
初、君か行海邊のやとに 妻の贈哥なり。神代紀上云。吹棄氣噴《フキウツルイフキノ》之|狭霧《サキリ》。第五に山上憶良
  大野山きり立わたるわかなけくおきその風に霧立わたる
 
3581 秋佐良婆安比見牟毛能乎奈尓之可母奇里爾多都倍久奈氣伎之麻佐牟《アキサラハアヒミムモノヲナニシカモキリニタツヘクナケキシマサム
 
麻左牟、【幽齋本、左作v佐、】
 
腰句の之は助語なり、落句の之は爲《シ》なり、
 
初、秋さらはあひみむものを 夫の答哥なり。秋は歸てあはん物を、何か霧とも立へきほとの息をつきて、歎たまはんなり
 
3582 大舩乎安流美爾伊太之伊麻須君都追牟許等奈久波也可敝里麻勢《オホフネヲアルミニイタシイマスキミツヽムコトナクハヤカヘリマセ》
 
伊多之、【幽齋本、多作v太、】
 
初、大ふねをあるみにいたし 妻の贈哥なり。あるみは荒海なり。良于反留なるゆへにあるみといへり。つゝむことなくはつゝかなくなり。第五にもつゝみなくさきくいましてとよみ、第六には草つゝみやまひあらせすとよめり
 
(3)3583 眞幸而伊毛我伊波伴伐於伎都波美知敞爾多都等母佐波里安良米也母《マサキクテイモカイハヽハオキツナミチヘニタツトモサハリアラメヤモ》
 
妹が眞幸ありて祝はゞ海上も障あらじと兼て留まる人を祝ふなり、
 
初、まさきくていもかいはゝは 夫の答哥
 
3584 和可禮奈波宇良我奈之家武安我許呂母之多爾乎伎麻勢多太爾安布麻弖爾《ワカレナハウラカナシケムアカコロモシタニヲキマセタヽニアフマテニ》
 
第四句の乎は助語なり、
 
初、わかれなはうらかなしけむ 婦贈哥。宇誤作v字。下にを著ませ、をは助語なり。たゝにあふ、たゝちにあふなり
 
3585 和伎母故我之多爾毛伎余等於久理多流許呂母能比毛乎安禮等可米也母《ワキモコカシタニモキヨトオクリタルコロモノヒモヲアレトカメヤモ》
 
以上八首皆妻の贈りて夫の答なり、
 
初、わきもこか下にも 夫答哥
 
3586 和我由惠爾於毛比奈夜勢曾秋風能布可武曾能都奇安波牟母能由惠《ワカユヱニオモヒナヤセソアキカセノフカムソノツキアハムモノユヱ》
 
(4)此は夫の贈るなり、
 
初、わかゆへにおもひなやせそ 夫贈哥
 
3587 多久夫須麻新羅邊伊麻須伎美我目乎家布可安須可登伊波比弖麻多牟《タクフスマシラキヘイマスキミカメヲケフカアスカトイハヒテマタム》
 
タクフスマシラキ別に注す、
 
初、たくふすましらきへ 妻答哥なり。仲哀紀云。八年秋|九月《ナカツキ》乙亥|朔《ツイタチ》己卯(ノヒ)詔(シテ)2羣臣《マチキムタチニ》1以議(リタマフ)v討(ンコトヲノ2熊|襲(ソヲ)1。時(ニ)有(テ)v神|託《カヽリテ》2皇后1而誨(ヘテ)曰。天皇何(ソ)憂(ヘタマハム)2能襲(カ)之|不1v服《マツロハヌコトヲ》。是|〓《ソシヽノ》之空國(ナリ)也。豈足(ンヤ)2擧(テ)v兵(ヲ)伐(ツニ)乎。逾《マサリテ》2茲(ノ)國(ニ)1而有2寶(ノ)國1。譬(ハ)如2美女《ヲトメノ》之|〓《マヨヒキ》1有2向津國1。【〓此云2麻用弭枳1】眼炎《マノカヽヤク》之|金《コ》銀《シ》彩色《イ》多《サハニ》在(リ)2其國(ニ)1。是(ヲ)謂2栲衾《タクフスマ》新羅《シラキノ》國(ト)1焉。此集第三には、たくつのゝしらきの國とよめり。しらきをしろきといふ心に神も枕詞をおかせたまひて、栲衾とはのたまへり。十四卷にはたくふすましら山風とつゝけ、第二十にはたくつのゝしらひけの上ゆ涙たりともよめり。日本紀に※[奚+隹]林とかきてもしらきとよめり
 
3588 波呂波呂爾於毛保由流可母之可禮杼毛異情乎安我毛波奈久爾《ハロハロニオモホユルカモシカレトモアタシコヽロヲアカモハナクニ》
 
異情はケシキコヽロとも讀べし、右二首は妻の答歌也、
 
初、はろ/\に はる/\になり。異情、けしきこゝろともよむへし。あかもはなくには、わかおもはなくになり。これも妻の哥なり
 
右十一首贈答
 
3589 由布佐禮婆比具良之伎奈久伊故麻山古延弖曾安我久流伊毛我目乎保里《ユフサレハヒクラシキナクイコマヤマコエテソアカクルイモカメヲホリ》
 
此は次の歌の注に依に暫家に歸る時の歌なり、
 
(5)右一首秦間滿
 
後に至て秦田麿に作れり、間と田と何れにつくべき事を知らず、滿は麿なり、第四に安倍蟲麻呂を蟲滿ともかけり、
 
3590 伊毛爾安波受安良婆須敝奈美伊波禰布牟伊故麻乃山乎故延弖曾安我久流《イモニアハスアラハスヘナミイハネフムイコマノヤマヲコエテソアカクル》
 
イハネフム伊駒ノ山ヲ越とは、勞を忘るゝ心なり、
 
初、いもにあはすあらは いはねふむいこまの山は長流かいはく。いこま山にいはねあるの心にはあらす。石ふむ駒といひかけたる詞なり。毛詩に渉《ノホレハ》2彼(ノ)高(キ)崗《ヤマニ》1我(カ)馬|玄《クロカリシカ》黄(ニナンヌ)云々。此心にていはふむ駒とはよめるなりといへり。第十一に
  くるみちは石ふむ山もなくもかなわかまつ君かうまつまつくも
  いはねふみかさなる山はあらねともあはぬ日あまたこひわたるかも
 
右一首※[斬/足]還2私家1陳v思、
 
初、左に※[斬/足]還(テ)2私(ノ)家(ニ)1陳(フ)v思(ヲ)とは、潮を待ほと難波よりならへ歸るなり
 
3591 妹等安里之時者安禮杼毛和可禮弖波許呂母弖佐牟伎母能爾曾安里家流《イモトアリシトキハアレトモワカレテハコロモテサムキモノニソアリケル》
 
初二句は妹と共に臥ては寒さも知らねどもの意なり、此歌夏なれば衣手寒きと云までは有まじけれども別のうさを云はむとなるべし、魚を得たらば筌《ウヘ》を忘るべし、
 
初、妹とありし時はあれとも 此哥夏なれは衣手寒きまてはあるましけれと、獨ぬることのわひしきをいふなり。意を得て言を忘へし
 
3592 海原爾宇伎禰世武夜者於伎都風伊多久奈布吉曾妹毛安(6)良奈久爾《ウナハラニウキネセムヨハオキツカセイタクナフキソイモヽアラナクニ》
 
3593 大伴能美津爾布奈能里許藝出而者伊都禮乃思麻爾伊保里世武和禮《オホトモノミツニフナノリコキイテヽハイツレノシマニイホリセムワレ》
 
下句は第六に坂上郎女歌に何れの野邊にいほりせむこらとよめるが如し、
 
右三首臨發之時作歌
 
3594 之保麻都等安里家流布禰乎思良受之弖久夜之久妹乎和可禮伎爾家利《シホマツトアリケルフネヲシラスシテクヤシクイモヲワカレキニケリ》
 
志弖、【幽齋本、志作v之、】
 
3595 安佐妣良伎許藝弖天久禮婆牟故能宇良能之保非能可多爾多豆我許惠須毛《アサヒラキコキテヽクレハムコノウラノシホヒノカタニタツカコヱスモ》
 
初、あさひらき 後に朝ほらけとよめるは、比良木保良介五音通すれはなり。たつか聲すもは聲するもなり
 
(7)3596 和伎母故我可多美爾見牟乎印南都麻之良奈美多加彌與曾爾可母美牟《ワキモコカカタミニミムヲイナミツマシラナミタカミヨソニカモミム》
 
印南妻と云名よりワギモコガ形見ニ見ムとは云へり、
 
3597 和多都美能於伎津之良奈美多知久良思安麻乎等女等母思麻我久流見由《ワタツミノオキツシラナミタチクラシアマヲトメラモシマカクルミユ》
 
思麻我久流見由、【幽齋本並校本、流作v禮、點云シマカクレミユ、】
 
第四句はアマヲトメドモとも讀べし、
 
3598 奴波多麻能欲波安氣奴良之多麻能宇良爾安佐里須流多豆奈伎和多流奈里《ヌハタマノヨハアケヌラシタマノウラニアサリスルタツナキワタルナリ》
 
此玉浦は安藝なり下に至て見ゆべし、第九によめる紀伊國の玉浦にはあらず、
 
初、ぬは玉の夜は明ぬらし 此玉浦を八雲御抄に紀國の玉浦とおほしめしけるは、よくかんかへさせたまはさりけるなり。紀國の玉浦は第九に紀伊國作とて
  わかこふる妹にあはさす玉の浦に衣かたしきひとりかもねむ
此玉浦は次下の三首備中備後の作なれは、これも兩國の間なるへし。下の第十三葉十四葉にもよめり。其下に周防國玖珂郡麻里布浦行之時作歌八首とあれは、安藝にもやと申へけれと、かならす國の次によむへきにもあらす。長門嶋をよめるは安藝なり
 
3599 月余美能比可里乎伎欲美神島乃伊素末乃宇由良舩出須(8)和禮波《ツキヨミノヒカリヲキヨミカミシマノイソマノウラユフナテスワレハ》
 
宇良由、【官本、或由作v爾、點云、ウラニ、】
 
神島は第十三の詞書に備後國神島濱とあるに付て注せし如く備中備後共に證あり、次の二首備後の歌なれば備後にや、然らばイソマノ浦知ぬべし、浦ユは浦よりなり、船出は初て發船《フナダチ》するを云のみにはあらず、
 
初、月よみの光をきよみ 神島は備中小田郡なり。延喜式第十神名帳下云。備中國小田郡神嶋神社。續拾遺集賀部に、建久九年大甞會主基方御屏風に備中國神島有神祠所を、前中納言資實
  神島の波のしらゆふかけまくもかしこき御代のためしとそみる
かゝるを此集さきの第十三備後國神島濱調使首見v屍作歌云々。其哥には神の渡とよめり。備後にも神嶋ある歟。備中なるを誤て備後とかける歟。いそまの浦は神島ある所の名なり。いそまの浦の神嶋なるへけれと、神をたふとひて神嶋のいそまのうらとはいふなるへし。類字名所抄に、八雲御抄并宗祇國分藻塩草等紀州といへり。みな誤なり。浦ゆは浦よりなり。ふなてすわれはとは初てこれより舟出するといふにはあらす。いそへによせてかゝれる舟をまた漕出すをいへり
 
 
3600 波奈禮蘇爾多?流牟漏能木宇多我多毛比左之伎時乎須疑爾家流香母《ハナレソニタテルムロノキウタカタモヒサシキトキヲスキニケルカモ》
 
香母、【校本、或母作v毛、】
 
ハナレソは離《ハナレ》礒なり、ウタカタは第十二に注せしが如し、次の歌と共に二首は備後の鞆の浦にての歌なり、第三の帥大伴卿の歌にて知るべし、
 
初、はなれそにたてるむろの木 次の哥とゝもに二首は備後國鞆浦にしてよめるなり。第三に帥大伴卿此むろの木をよめる哥三首有。そこに鞆浦といへり。はなれそは離礒《ハナレソ》にて、はなれたる礒なり。うたかたは遊仙窟に未必とあるをうたかたとよめれは、けたしといはむかことし。第十七にも二首見えたり。委は第十二にうたかたもいひつゝもあるかといふ哥に注せり。疑て未(タ)《・サル》v決(セ)辭なり
 
3601 之麻思久母比等利安里宇流毛能爾安禮也之麻能牟漏能木波奈禮弖安流良武《シマシクモヒトリアリウルモノニアレヤシマノムロノキハナレテアルラム》
 
(9)シマシは波と麻と同韻にて通ずればしばしに同じ、日本紀にも有間をシマシアリと點ぜり、久は助語なり、此歌は妻に別來て忘がたき心を下に持てよめり、
 
初、しましくもは、しはしもといふ詞にくもしを助におけるなり。今しく我しくの類なり。嶋によせていへるなり。これは下に妻を思ひてよめるなり
 
 右八首乘v舩入v海路上作歌
 
當所誦詠古哥
 
3602 安乎爾余志奈良能美夜古爾多奈妣家流安麻能之良久毛見禮杼安可奴加毛《アヲニヨシナラノミヤコニタナヒケルアマノシラクモミレトアカヌカモ》
 
此歌は古歌と云へど和銅三年以後の歌なれば天平八年までは廿餘年さきの作な るべし、
 
初、あをによしならの都に これより人丸の七夕歌まては所につけ時につけて興ある古哥を誦《スン》したるを載たるなり。此哥かくれたる所なし。古人の雲を詠したる哥なるを、今遙にそなたになかめやりて、此哥の心にかなひたれは、打すむしたるなり。景行紀に、はしきよしわきへのかたゆ、くもゐたちくも、やまとはくにのまほらま、たゝなつくあをかき山、こもれるやまとしうるはしと思邦《クニシノヒ》の御哥によませたまへるは、奈良都よりはるかのさきなれと、國もおなしく心もおなし。又あをによしならといひてあまのしら雲とよめるは、なら山の青きに映する白雲の心をふくめるか。第三湯原王宴席哥  青山の嶺のしら雲朝にけにつねにみれともめつらしわかきみ
第四には青山をよこきる雲のいちしろくともよめり。これらの心にひとしかるへき歟。杜子美か詩に、水碧(ニシテ)鳥逾白(シ)
 
右一首詠雲
 
3603 安乎楊疑能延太伎里於呂之湯種蒔忌忌伎美爾故非和多流香母《アヲヤキノエタキリオロシユタネマキユユシキキミニコヒワタルカモ》
 
田のほとりには柳をさし置けば第十四にも小山田の池の堤に刺楊とよめり、春苗(10)代に種まかむとては柳のはびこりたれば蔭とも成り、そこに通ふにも障れば技を切下すなり、ユタネは第七に湯種《ユタネ》まく荒木の小田と云に注せり、忌忌はユヽシクと讀べし、ゆたねのゆ〔右○〕を以てゆゝしくとつゞけむとて上は次第に序に云へり、
 
初、青柳のえた切おろしゆたねまき 田のほとりには柳をさしおくものなり。第十四に小山田の池のつゝみにさす柳とよめるこれなり。春苗代にたねまかむとては、柳の枝のはひこりたれは、陰ともなり、そこにかよふにもさはれは、枝をきりおろすなり。ゆたねのことは第七にゆたねまくあらきの小田とよめる哥に注せり。ゆゝしくといふ詞まうけんかために、ゆたねまきといひ、ゆたねまきといはむために上の句は惣して序によみかけたり。ゆゝしき君にとよめは、いつかしき君の心なり。ゆゝしく君にといへは、ゆゝしき大事の出來たりなといふ詞なり
 
3604 妹我素弖和可禮弖比左爾奈里奴禮杼比登比母伊毛乎和須禮弖於毛倍也《イモカソテワカレテヒサニナリヌレトヒトヒモイモヲワスレテオモヘヤ》
 
落句は忘て思はむやなり、
 
3605 和多都美乃宇美爾伊弖多流思可麻河伯多延無日爾許曾安我故非夜麻米《ワタツミノウミニイテタルシカマカハタエムヒニコソアカコヒヤマメ》
 
シカマ川は播磨餝摩郡にあり、何れの河も終には海に出るを殊に此川は海につゞけばさてかくはよめり、餝摩河の終に絶すまじければ我戀の止む期はあらじの意なり、
 
初、わたつみの海に出たるしかま川 いつれの川とてつゐに海に出ぬはなけれと、此川はやかて海になかれて出るゆへに、海に出たるとはいへり。十三卷に、ひたす川ゆきわたりてはといふに、直海川とかけるも此心にや。海に出る川なれは絶る事なきゆへに、その絶ぬまてはわか戀もやましといふ心なり。十二卷に
  久かたの天つみ空にてれる日のうせなん日こそわか戀やまめ
第二十に
  にほ鳥のおき長川は絶ぬとも君にかたらふことつきめやも
 
右三首戀歌
 
初、右三首戀歌 これは常の戀歌なるを、旅にて妻をこふる心にすしいてたるなり
 
(11)3606 多麻藻可流乎等女乎須疑?奈都久佐能野島我左吉爾伊保里須和禮波《タマモカルヲトメヲスキテナツクサノノシマカサキニイホリスワレハ》
 
初、たまもかるをとめを過て これより下四首は第三卷に有。相違は注のことし
 
柿本朝臣人麿歌曰|敏馬乎須疑?《ミヌメヲスキテ》又曰|布禰知可豆伎奴《フネチカツキヌ》
 
3607 之路多倍能藤江能宇良爾伊射里須流安麻等也見良武多妣由久和禮乎《シロタヘノフチエノウラニイサリスルアマトヤミラムタヒユクワレヲ》
 
初、白妙のふちえのうらに 第三には注のことくあらたへのふちえの浦と有。今のつゝきにても白妙の藤衣といふ心なり
 
柿本朝臣人麿歌曰|安良多倍乃《アラタヘノ》又曰|須受吉都流安麻登香見良武《ススキツルアマトカミラム》
 
3608 安麻射可流比奈乃奈我道乎孤悲久禮婆安可思能門欲里伊敝乃安多里見由《アマサカルヒナノナカチヲコヒクレハアカシノトヨリイヘノアタリミユ》
 
柿本朝臣人麿歌曰|夜麻等思麻見由《ヤマトシマミユ》
 
(12)3609 武庫能宇美能爾波余久安良之伊射里須流安麻能都里舩奈美能宇倍由見由《ムコノウミノニハヨクアラシイサリスルアマノツリフネナミノウヘユミユ》
 
柿本朝臣人麻呂歌曰|氣比乃宇美能《ケヒノウミノ》又曰|可里許毛能美太禮?出見由安麻能都里舩《カリコモノミタレテイテミユアマノツリフネ》
 
3610 安胡乃宇良爾布奈能里須良牟乎等女良我安可毛能須素爾之保美都良武賀《アコノウラニフナノリスラムヲトメラカアカモノスソニシホミツラムカ》
 
初、あこのうらに なこのうらにて津の國なり。此哥注のことくにて第一卷に有
 
柿本朝臣人麻呂歌曰|安美能宇良《アミノウラ》又曰|多麻母能須蘇爾《タマモノスソニ》
 
初、注安美能宇良、此下に爾の字をゝとせり
 
七夕歌一首
 
3611 於保夫禰爾麻可治之自奴伎宇奈波良乎許藝弖天和多流(13)月人乎登祐《オホフネニマカチシヽヌキウナハラヲコキテテワタルツキヒトヲトコ》
 
乎登祐、【官本、祐作v※[示+古]、】
 
祐は書生の誤なり※[示+古]に改たむべし.舟に乘て海を渡るに依て牽牛の事を思ひ出で時には先だてど.ふと誦したるなるべし、
 
初、おほふねにまかちしゝぬき 第十に人麿集に出たりといふ七夕哥三十八首ある中にも此哥は見えす。月人をとこは牽牛をいふと見えたり。第十の七夕哥にあまた月人をとことよめり。祐は枯の誤なるへし。もしは※[示+古]歟。許を〓にに作る。惣して此集に此字皆たゝしからす。これは時に先たちて興に乗して誦するなり。下に筑紫館に至りておの/\七夕の哥あり。わか舟に乘て海を渡るかひこほしに似たれは、ふと古哥を誦するなり
 
右柿本朝臣人麿歌
 
第十二人麿集に出たる七夕歌三十八首あれども此歌はなし、
 
備後國水調郡長井浦舶泊之夜作歌三首
 
舶、和名集云、唐韻云舶、【傍陌反、楊氏漢語抄云、都具能布禰、】海中大船也、
 
初、備後國|水調《ミツキノ》郡 和名集には御調郡
 
3612 安乎爾與之奈良能美也故爾由久比等毛我母久佐麻久良多妣由久布禰能登麻利都礙武仁《アヲニヨシナラノミヤコニユクヒトモカモクサマクラタヒユクフネノトマリツケムニ》 旋頭歌也
 
貫之歌に舟路には草の枕も結ばねばおきながらこそ夜を明しけれとよまれたれど.今は舟路ながら草枕旅行舟とつゞけらる、第七には近江の海みなとはやそぢいづくにか君が舟はて草結びけむとよみ、第十二には草枕旅行君を荒津まで送り來(14)れども飽足らずこそとよめり例に依て草枕旅とつゞくるばかりは海路も憚かるまじき證なり、
 
右一首大判官
 
從六位上壬生使主宇太麻呂、後准v之、
 
3613 海原乎夜蘇之麻我久里伎奴禮杼母奈良能美也故波和須禮可禰都母《ウナハラヲヤソシマカクリキヌレトモナラノミヤコハワスレカネツモ》
 
何處にも八十島と讀べき證とすべし、
 
初、うなはらをやそしまかくり 八十嶋は只海路には嶋々の數おほき心なり。かくりはかくれなり
 
3614 可敝流散爾伊母爾見勢武爾和多都美乃於伎都白玉比利比弖由賀奈《カヘルサニイモニミセムニワタツミノオキツシラタマヒリヒテユカナ》
 
初、ひりひてゆかな ひろひてゆかむなゝり
 
風速浦舶泊之夜作歌二首
 
3615 和我由惠仁妹奈氣久良之風早能宇良能於伎敝爾寄里多奈妣家利《ワカユヱニイモナケクラシカサハヤノウラノオキヘニキリタナヒケリ》
 
初、おきへは奥邊なり。霧たなひけり、歎の霧なり
 
(15)3616 於伎都加是伊多久布伎勢波和伎毛故我奈氣伎能奇里爾安可麻之母能乎《オキツカセイタクフキセハワキモコカナケキノキリニアカマシモノヲ》
 
右二首は上の贈答の中に君が行海邊の宿に霧たゝばとよめる歌を蹈て先初の歌を讀て奥津風の痛く吹てあの奥に見ゆる海を此方によせば吾妹子が歎の霧に飽まし物をとよめるなり、以上備後にての歌なり、
 
初、おきつかせいたく吹せは これは上に君かゆく海への宿に霧たゝはあかたちなけくいきと知ませといふ妻の哥をふめるなるへし
 
安藝國長門島舶泊礒邊作哥五首
 
3617 伊波婆之流多伎毛登杼呂爾鳴蝉乃許惠乎之伎氣婆京師之於毛保由《イハハシルタキモトヽロニナクセミノコヱヲシキケハミヤコシオモホユ》
 
古今集に石ばしる瀧なくもがなとよめるも古歌にて作者は今の發句の如く讀けむや、下の句の二つの之は共に助語なり、
 
初、いはゝしる瀧もとゝろに 瀧と蝉との聲を合たるおもしろさにつけても都の妻とゝもに見はや聞はやなと思ふ心なり。目録に夏六月とありて下に筑紫館に到て七夕の哥あれは、此時六月の末なるへけれは、蝉もさかりに瀧にひゝきあふへし
 
右一首大石蓑麿
 
3618 夜麻河伯能伎欲吉可波世爾安蘇倍杼母奈良能美夜故波(16)和須禮可禰都母《ヤマカハノキヨキカハセニアソヘトモナラノミヤコハワスレカネツモ》
 
美夜故、【別校本、故作v古、】
 
3619 伊蘇乃麻由多藝都山河多延受安良婆麻多母安比見牟秋加多麻氣?《イソノマユタキツヤマカハタエスアラハマタモアヒミムアキカタマケテ》
 
發句のイソは石にて、石の間よりなり、
 
初、いそのまゆ 石の間よりなり。またもあひみん秋かたまけては、山と河とのおもしろく石間より落くる瀧に蝉さへ聲をあはすれはおもしろさかきりなし。此山川のことく命もたえすあらは又も初秋風の涼しきにきてみんとなり
 
3620 故悲思氣美奈具左米可禰?比具良之能奈久之麻可氣爾伊保利須流可母《コヒシケミナクサメカネテヒクラシノナクシマカケニイホリスルカモ》
 
3621 和我伊能知乎奈我刀能之麻能小松原伊久與乎倍弖加可武佐備和多流《ワカイノチヲナカトノシマノコマツハライクヨヲヘテカカムサヒワタル》
 
發句の乎は乃と同韻にて通ずれば我命のなり、第十三の御佩乎劔池《ミハカシヲツルギノイケ》と云へるに同じ、
 
(17)從2長門浦1舶出之夜仰觀2月光1作歌三首
 
3622 月余美乃比可里乎伎欲美由布奈藝爾加古能己惠欲妣宇良末許具可聞《ツキヨミノヒカリヲキヨミユフナキニカコノコヱヨヒウラミコクカモ》
 
古惠、【幽齋本、古作v己、】  可母、【別校本、幽齋本、並母作v聞、】
 
3623 山乃波爾月可多夫氣婆伊射里須流安麻能等毛之備於伎爾奈都佐布《ヤマノハニツキカタフケハイサリスルアマノトモシヒオキニナツサフ》
 
3624 和禮乃未夜欲布禰波許具登於毛敝禮婆於伎敝能可多爾可治能於等須奈里《ワレノミヤヨフネハコクトオモヘレハオキヘノカタニカチノオトスナリ》
 
右挽歌一首 并 短歌
 
右は古に作るべし、是は船中のつれ/”\に語出たるを日記したるかにて今の本そのまゝにや、
 
初、古挽歌一首 古誤作v右。これも此時舟の上にてかたり出けるを、日記なとにしたるまゝにこゝには載たるなるへし
 
(18)3625 由布左禮婆安之敞爾佐和伎安氣久禮婆於伎爾奈都佐布可母須良母都麻等多具比弖和我尾爾波之毛奈布里曾等之路多倍乃波禰左之可倍※[人偏+弖]宇知波良比左宿等布毛能乎由久美都能可敝良奴其等久布久可是能美延奴我其登久安刀毛奈吉與能比登爾之弖和可禮爾之伊毛我伎世弖思奈禮其呂母蘇弖加多思吉※[人偏+弖]比登里可母禰牟《ユフサレハアシヘニサワキアケクレハオキニナツサフカモスラモツマトタクヒテワカヲニハシモナフリソトシロタヘノハネサシカヘテウチハラヒサヌトフモノヲユクミツノカヘラヌコトクフクカセノミエヌカコトクアトモナキヨノヒトニシテワカレニシイモカキセテシナレコロモソテカタシキテヒトリカモキム》
 
由布佐禮婆、【幽齋本、佐作v左、】
 
シロタヘノハネサシカヘテとは凡そ鴨は水鳥の青葉の山などそへて青き物の例《タメシ》にこそ云を、白妙ノハネと云へるはやう替りておぼつかなく思ふ人有べし、俗に羽白と云も鴨の種類なり鴛鴨《ヲシガモ》、鴈鴨《カリガモ》などよむ時は鴨は水鳥の※[手偏+總の旁]名なれば色は白きを本として何となく白妙の袖と讀如く白妙のはねと云はむ難なかるべし、はねは和名集云、爾雅集注云、羽本(ヲ)曰v※[隔の旁+羽]【下革反、字亦作v〓和名八禰、】一云羽根也、かゝれば羽とは別に出し(19)て少替れる事あれど和語の羽は只羽をはねと云ひ習へりサヌトフモノヲはさぬると云物をなり、イモガキセテシナレ衣とは初よりなれたるを著せたるにはあらず、或は新らしき或は洗へるを著せたるを今はなるれば初を後に攝してかくはよめり、
 
初、ゆふされは これ下の明くれはに對したり。第六に車持朝臣千年歌の中に、あけくれは朝きりたちて、夕されはかはつなくなへとよめるより外、猶あまたみえたり。夕になりされはといふ心なり。第十に春なれはもすの草くき見えすとも、春なれはすかるなる野のほとゝきすといふ哥を、共に春之在者とかけり。それを誤てはるされはと和點をくはへたり。これは古今集に夏なれは宿にふすふるかやり火のとも、秋なれは山下とよみ鳴鹿のともよめるにおなし。はるにあれはとよむへきを、爾阿反奈なるゆへにはるなれはとよむなり。しかるをはるされはとよみたるにより、定家卿顯注密勘に引て春されは夕されはゝはるにあれは夕にあれはといふ心なりとのたまへるは此集のおもむきをよくかんかへられさりけるなり。第十に霞たな引はるさりにけりとよめるは、春になりさりにけりといふ心なり。おきになつさふかもすらも。第三に、第九に
  輕池のいりえめくれるかもすらに玉ものうへにひとりねなくに
  さきたまのをさきの池に鴨そはねきるおのかみにふりおける霜を怫とにあらし
さぬとふものをは、さぬといふものをなり。行水のかへらぬことく。第十九に家持の悲(シム)2世間無常(ヲ)1歌にも、吹風の見えぬかことくゆくみつのとまらぬことくといへり。論語云。子在2川(ノ)上(ニ)1曰。逝(ク)者(ノハ)如(キ)v斯(ノ)夫《カ》。不v舎(メ)2晝夜(ヲ)1。陸子衡歎逝賦(ニ)曰。悲夫川(ハ)閲《スヘテ》v水以成(ス)v川(ヲ)。水滔々(トシテ)而日(ニ)度(ル)。世(ハ)閲(テ)v人(ヲ)而爲v世(ト)。人(ハ)冉々(トシテ)而行(テ)暮(ヌ)。日本紀第十九云。豈圖|一旦眇然昇遐《ニハカニハルカニホカレテ》與(ニ)v水(ト)無(テ)v歸(コト)即|安《ヤスミマサントハ》2玄室1、古今集に
  さきたゝぬくゐのやちたひかなしきはなかるゝ水のかへりこぬなり
あともなき世の人にしてとは死さりて後をいふなり。なれころもはなるゝはきならして垢つくなり。よりて第三卷に穢の字をなるゝとよめり。袖かたしきて以下はさきに引る紀國玉浦哥下句衣かたしき獨かもねんとよめり。第十に
  泊瀬風かく吹夜はゝいつまてか衣かたしきわかひとりねむ
 
反歌一首
 
3626 多都我奈伎安之敝乎左之弖等妣和多類安奈多頭多頭志比等里佐奴禮婆《タツカナキアシヘヲサシテトヒワタルアナタツタツシヒトリサヌレハ》
 
安之敝、【官本、敝作v倍、】
 
發句を承てアナタヅ/\シとよめるは第六第十一に既に見えたり、二三の句は第六に赤人の葦邊を指て鶴鳴渡るとよまれたるに同じ、
 
初、たつかなき 鶴之鳴なり。あしへをさしては、第六に
  わかの浦にしほみちくれはかたをなみあしへをさしてたつ鳴わたる
あなたつ/\しは、第六、第十一
  草香江の入江にあさるあしたつのあなたつ/\し友なしにして
  天雲にはねうちつけて飛たつのたつ/\しかも君しまさねは
 
右丹比大夫悽2愴亡妻1歌
 
此卷中丹比氏の人なし、大使判官などは唯大使等とのみ書て姓名を擧ざれば此度にのみ云べきにあらず、題下の料簡の如くなるべし、
 
(20)屬v物發v思短歌一首 并短歌
 
3627 安佐散禮婆伊毛我手爾麻久可我美奈須美津能波麻備爾於保夫禰爾眞可治之自奴伎可良久爾爾和多理由加武等多太牟可布美奴面乎左指天之保麻知弖美乎妣伎由氣婆於伎敝爾波之良奈美多可美宇良末欲理許藝弖和多禮婆和伎毛故爾安波治乃之麻波由布左禮婆久毛爲可久里奴左欲布氣弖由久敝乎之良爾安我巳許呂安可志能宇良爾布禰等米弖宇伎禰乎詞都追和多都美能於枳敝乎見禮婆伊射理須流安麻能乎等女波小舩乘都良良爾宇家里安香等吉能之保美知久禮婆安之辨爾波多豆奈伎和多流安左(21)奈藝爾布奈弖乎世牟等船人毛鹿子毛許惠欲妣柔保等里能奈豆左比由氣婆伊敞之麻婆久毛爲爾美延奴安我毛敝流許己呂奈具也等波夜久伎弖美我等於毛比弖於保夫禰乎許藝和我由氣婆於伎都奈美多可久多知伎奴與曾能未爾見都追須疑由伎多麻能宇良爾布禰乎等杼米弖波麻備欲里宇良伊蘇乎見都追奈久古奈須禰能未之奈可由和多都美能多麻伎能多麻乎伊敝都刀爾伊毛爾也良牟等比里比登里素弖爾波伊禮弖可敝之也流都可比奈家禮婆毛弖禮杼毛之留思乎奈美等麻多於伎都流可毛《アサヽレハイモカテニマクカヽミナスミツノハマヒニオホフネニマカチシヽヌキカラクニヽワタリユカムトタヽムカフミヌメヲサシテシホマチテミヲヒキユケハオキヘニハシラナミタカミウラマヨリコキテワタレハワキモコニアハチノシマハユフサレハクモヰカクリヌサヨフケテユクヘヲシラニアカコヽロアカシノウラニフネトメテウキネヲシツヽワタツミノオキヘヲミレハイサリスルアマノヲトメハヲフネノリツララニウケリアカトキノシホミチクレハアシヘニハタツナキワタルアサナキニフナテヲセムトフナビトモカコモコヱヨヒニホトリノナツサヒユケハイヘシマハクモヰニミエヌアカモヘルコヽロナクヤトハヤクキテミムトオモヒテオホフネヲコキワカユケハオキツナミタカクタチキヌヨソノミニミツヽスキユキタマノウラニフネヲトヽメテハマヒヨリウライソヲミツヽナクコナスネノミシナカユワタツミノタマキノタマヲイエツトニイモニヤラムトヒリヒトリソテニハイレテカヘシヤルツカヒナケレハモテレトモシルシヲナミトマタオキツルカモ》
 
多豆、【別校本、或豆作v都、】  比里比、【官本、或里作v呂、】 等単軸値毎
 
(22)初の二句は鏡を云はむため、鏡はミツノ濱と云はむためにて次第に序なり、ミヲヒキユケバは水尾は水の深き筋なり、それをみちびき行を云、延喜式に三韓の朝貢使など來朝の時、國使宣云、日本明神《アラミカミ》御宇天皇朝廷《アメガシタシラウスメラミカド》某|蕃王《マガキ》申上(ル)隨參上來留|客等《マラウトラ》參《マヰ》近【奴登】攝津(ノ)國(ノ)守等聞著?水脈《ミヲ》教導賜【弊登】宣隨迎賜【波久登】宜、同第五十雜式云、凡(ソ)太宰(ヨリ)貢(マツル)2雜官物1船到(ラバ)2縁海國(ニ)1澪|引《ヒキシテ》令(メヨ)v知(ラ)2泊(ル)處1、和名集云、楊氏漢語抄云、水脈船【美乎比岐能布禰】ワギモコニアハヂノシマは相とつゞけたり、アカ心アカシノ浦とは第二十に家持のよまれたる喩族歌にも加久佐波奴安加吉許己呂乎《カクサハヌアカキコヽロヲ》云云、阮元瑜爲2曹公1作v書與(ヘシニ)2孫權(ニ)1云、若能内取2子布(ヲ)1外撃2劉備1以效(ハシテ)2赤心1用復(セバ)2前好(ヲ)1則江表之任、長以相付(セム)、丘布範與(ヘシ)2陳伯之1書云、推2赤心於天下1安2反側於萬物1、日本紀に赤心又丹心をキヨキコヽロと點じ、又丹心をマコトノコヽロとも點ぜり、黒心をキタナキコヽロと點ぜるに引かへて知べし、今は勅命を承て藩國に使ふる誠の心によせて云へり、ツラヽニウケリは、第一に列々《ツラ/\》椿とよめる如くつら/\にうけりと云べきを、後のつ〔右○〕を略せり、古事記下仁徳天皇御歌云、淤岐弊邇波袁夫泥都羅之玖《オキヘニハヲフネツラシク》云云.此集中十九には小船都良奈米《ヲフネツラナメ》ともよめり、船人モ鹿子モコエヨビとは船人は※[木+施の旁]師《カヂトリ》なり、唯舟人と云はゞ鹿子も其中に有べし、今は※[手偏+總の旁]を以て※[木+施の旁]師の別名として鹿子に對するなり、水手《カコ》を鹿子とかけるは(23)第七の終の歌に注するが如し、アガモヘルは我思へるなり、ハヤクキテ見ムト思ヒテは家島を見むと思ひてなり、妹を戀る心から家島の名をなつかしみてなり、家島は揖保【伊比保】郡にあり、神名帳云、揖保郡家島神社と云へり、許藝和我由氣婆はこぎて我行ばなり、多麻能宇良は此歌安藝にてよめば彼國の地の名なり、反歌にもよめり、慥なる事なり、ワダツミノタマキノ玉は※[金+環の旁]なり、第三に笠金村歌にわだつみの手にまかしたる玉とよまれ、第七に海神手纒持在玉故《ワダツミノテニマキモタルタマユヱニ》とよめるに同じ、マタオキツルカモは又本の如く返し置なり、
 
初、朝されは妹か手にまく鏡なす 妹かかたちをよそふに鏡を手にまつはかしならす心なり。かゝみを見るといひかけたり。はまひははまへなり。たゝむかふみぬめをさして。第六にも赤人の哥に、みけむかふあはちのしまにたゝむかふみぬめのうらのとよめり。正しく向ひ見るといひかけたり。又第六にまそかゝみゝぬめの浦ともつゝけたり。是もみの字にいひかく。不見《ミヌ》とつゝくるにはあらす。みをひきゆけは。第十八にも
  ほりえよりみをひきしつゝみふねさすしつをのともは川のせまうせ
水尾は水のふかき筋なり。それをみちひきゆくを、みをひき行とはいへり。延喜式に、三韓の朝貢使なと來朝の時、國使宣云。日本爾|明神《アラミカミ》登御宇天皇朝廷登、某蕃王能申上隨爾參上來留客等參近【奴登、】攝津國守等聞著※[氏/一]、水脈《ミナヲ・ミヲヒキ》母教導賜【幣登】宣隨爾迎賜【波久登】宜。凡(ソ)太宰(ヨリ)貢(ツル)雜官物(ノ)船到(ラハ)2縁(ル)v海(ニ)國(ニ)1澪引《ミヲヒキシテ》令(ヨ)v知(ラ)2泊(ル)處(ヲ)1。和名集云。楊氏漢語抄(ニ)云。水脈船【美乎比岐能布禰。】わきもこにあはちの嶋は、わきもこにあふとつゝけたり。くもゐかくりぬ。かくれぬなり。ゆくへをしらに、ゆくへをしらすなり。あか心あかしのうらに。吾心をはとけるかゝみのことくにと思ふ故にかくはいひかけたり。第廿にかくさはぬあかき心とよめり。明なる心といへるにや。又赤心といへるにや。日本紀に赤心丹心とかきてともにきよきこゝろとよめり。又丹心をはまことのこゝろともよめり。黒心とかきてはきたなきこゝろとよめるにきよき心は對せり。拾遺集に、みつねたゝみねにとひ侍ける、參議伊衡。又とふこれひら
  白妙のしろき月をもくれなゐの色をもなとかあかしといふらん
    こたふ
  昔よりいひしきにけることなれは我らはいかゝ今はさためむ
赤き色は明にみゆれはことはのかよへるなるへし。第三に人丸の哥には、ともしひのあかしのなたとつゝけ、※[羈の馬が奇]旅哥には、居待月明石の門にはとつゝけたり。宇誤作v字。つらゝにうけりは、つら/\にうけりなり。つら/\椿のことし。第十九にふせのうみに小舟つらなへともよめり。あかときは曉なり。明時《アカトキ》といふ心になつけたり。鹿子とかけるは第七の四十二葉にかこそ鳴なるあはれその鹿子とよめる哥にその故委尺せり。にほ鳥のなつさひゆけは。にほ鳥の友とち打つれてあそふによせたり。上にもひくあみのなつさひゆけはなとよめり。なつさひは携におなし。いへしまは揖保郡にあり。揖保は粒《イヒホ》ともかけり。あかもへるはわかおもへるなり。こきわかゆけはゝ、こきてわかゆけはなり。たまの浦は上に委尺せり。なくこなすは、なくこのことくなり
第三にはなくこなすしたひきましてとよめり。なかゆはなかるなり。わたつみのたまきのたまを。海神の環の珠なり。和名集云。唐韻云。※[金+環の旁]【音與v環同。由比萬岐】指※[金+環の旁]也。環玉環(ナリ)也。第三には、わたつみの手にまかしたる玉手次かけてしのひつとよみ、第七には、わたつみの手にまきもたる玉ゆゑにとよみ、第十九には、わたつみの神のみことの、みくしけにたくはひおきて、いつくとふ玉にまさりておもへりしあかこにはあれとゝよめり。第八に山上憶良の哥に手を折てといふに指折とかけり。まことにてを折といふは指をかゝむるなれは、指卷《ユヒマキ》はすなはち手《タ》卷なり
 
反歌二首
 
3628 多麻能宇良能於伎都之良多麻比利敝禮杼麻多曾於伎都流見流比等乎奈美《タマノウラノオキツシラタマヒリヘレトマタソオキツルミルヒトヲナミ》
 
3629 安伎左良婆和我布禰波弖牟和須禮我比與世伎弖於家禮於伎都之良奈美《アキサラハワカフネハテムワスレカヒヨセキテオケレオキツシラナミ》
 
(24)オケレはおきあれを吉阿反加なればおかれと云べきを初四相通じてオケレとは云なり、
 
周防國玖珂郡麻里布浦行之時作歌八首
 
元正紀云、養老五年四月丙申分2周防國熊毛郡1置2玖珂郡1、和名集云、玖珂、【珂音如v鵝、】
 
初、周防國玖珂郡 和名集云。養老五年四月丙申、分(テ)2周防(ノ)國熊毛郡(ヲ)1置2玖珂郡(ヲ)1【元明紀歟忽忘。】玖珂【阿音如v鵝】
 
3630 眞可治奴伎布禰之由加受波見禮杼安可奴麻里布能宇良爾也杼里世麻之牟《マカチヌキフネシユカスハミレトアカヌマリフノウラニヤトリセマシヲ》
 
之はやすめ詞なり、牟は乎を誤れるなり、
 
3631 伊都之可母見牟等於毛比師安波之麻乎與曾爾也故非無由久與思乎奈美《イツシカモミムトオモヒシアハシマヲヨソニヤコヒムユクヨシヲナミ》
 
安波之麻は舊事本紀第十云、吉備穴國造云云、吉備(ノ)風治《ホムチノ》國造云云、阿波國造云云、大嶋國造云云、波久岐國造云云、周防國造云云、都怒國造云云、右の中に大嶋都怒は並に周防國にある郡名なり、周防國と云へるは和名集を考るに熊毛郡に周防郷あり、是な(25)るべし、波久岐國はいまだ考得ざれども周防の國玖珂熊毛兩郡の内に有べし、備後をば吉備穴國吉備(ノ)風治《ホムチ》國と名を顯はして次に阿波國とあれば今の歌の安波之麻此なるべし、又按ずるに舊事紀の現本誤脱多し、備後と周防との間に安藝國造あるべきことわりなるになければ波は岐の字を誤て阿岐國造にや、いかにもあれ玖珂郡にしてよめる粟嶋なれば周防に屬して南の方海中に有べし、上にあまたよめる紀伊國の粟嶋にはあらず、
 
初、いつしかもみんとおもひしあはしまを 下にもあはしとおもふ妹にあれやとよめり。第六に眉のこと雲ゐにみゆるあはの山とよみ、第七にあはしまにこきわたらんとおもへともとよめるは、阿波の國のこなたよりみゆる山を指てよめりとみゆるを、今玖珂郡にしてそこははるかに過て、めにもかゝらぬ所なれは此あたりにあはしまといふかあるにや。神代紀云。一書《アルフミニ》曰。以2淡路(ノ)洲ゐ1爲(テ)v胞生1大日本《オホヤマト》豐秋津|洲《シマヲ》1。次(ニ)淡(ノ)洲《シマ》云々。又云。即將(ニ)v巡(ラント)2天(ノ)柱《ミ ヲ》1約束《チキリテ》曰。〇次(ニ)生(ム)2淡(ノ)洲《シマヲ》1此(レ)亦不3以|充《イレ》2兒《コノ》數(ニ)1。故《カレ》還復《カヘリテ》上(リ)2詣(テヽ)於天(ニ)1具(ニ)奏《申タマフ》2其(ノ)状《アリサマヲ》1。此淡洲といふ所しれぬよしなり。もし昔は知人ありてそれをよめる歟
 
3632 大舩爾可之布里多弖天波麻藝欲伎麻里布能宇良爾也杼里可世麻之《オホフネニカシフリタテヽハマキヨキマリフノウラニヤトリカセマシ》
 
かしふる事第七に注せり、
 
初、大船にかしふりたてゝ 第七にもふねはてゝかしふりたてゝとよめり。かしは舟をつなく木なり。和名集云。唐韻云。〓〓【〓〓二音。漢語抄云。加之】所2以(ナリ)繁(ク)1v舟(ヲ)。玉篇云。〓【繋※[舟+工]大弋也。亦作〓】〓【〓〓即〓〓也。】今の世堤なとにうつ杭をかせといふは此字なるへし
 
3633 安波思麻能安波自等於毛布伊毛爾安禮也夜須伊毛禰受弖安我故非和多流《アハシマノアハシトオモフイモニアレヤヤスイモネステアカコヒワタル》
 
故非、【校本、或非作v悲、】
 
初、あはしまのあはしとおもふ妹にあれや 落著はあはしとおもふ妹にはあらぬをなり
 
(26)3634 筑紫道能可太能於保之麻思末志久母見禰婆古非思吉伊毛乎於伎弖伎奴《ツクシチノカタノオホシマシマシクモミネハコヒシキイモヲオキテキヌ》
 
筑紫道の方の大島とよめる歟、可太能大島と云地の名歟、大嶋郡は此に依て名を負歟、下に過2大島鳴門1と云と同じかるべし、八雲御抄には大島備前萬葉と注せさせ給へども今按和名を見るに備前には大島なし、備中國淺口郡には大島郷あれど今はそれにもあらず、
 
初、つくしちのかたの大しま 八雲御抄に備前と注せさせたまへるはよく考させたまはさりけるなり。和名集云。筑前國穗浪郡堅島【加多之萬。】これにや。但筑紫へ下る道をは皆筑紫路といふへけれは、此下に大島鳴門といへるを筑紫道の方の大島といへるにや。大島をうけてしましくもとつゝけたり
 
 
3635 伊毛我伊敝治知可久安里世婆見禮杼安可奴麻里布能宇良乎見世麻思毛能乎《イモカイヘチチカクアリセハミレトアカヌマリフノウラヲミセマシモノヲ》
 
3636 伊敞妣等波可敝里波也許等伊波比之麻伊波比麻都良牟多妣由久和禮乎《イヘヒトハカヘリハヤコトイハヒシマイハヒマツラムタヒユクワレヲ》
 
第二句は波也可敝里許等《ハヤカヘリコト》なり、上に和我許藝由氣婆《ワガコギユケバ》と云べきを許藝和我由氣婆《コギワガユケバ》とよめるが如し、八雲には此いはひ島をも備前と注せさせ給へり、正本を見ざればお(27)ぼつかなし、周防なること明らけし、
 
初、家人は歸りはやこと 歸りて早くこよといはふといふ心に、いはひしまとつゝけたり。いはひ嶋をも八雲御抄に備前と注せさせたまひたれと、周防國玖珂郡にしてよめる哥なれは、當國なるへし
 
3637 久左麻久良多妣由久比等乎伊波比之麻伊久與布流末弖伊波比伎爾家牟《クサマクラタヒユクヒトヲイハヒシマイクヨフルマテイハヒキニケム》
 
過2大島鳴門1而經2再宿1之後追作歌二首
 
3638 巨禮也己能名爾於布奈流門能宇頭之保爾多麻毛可流登布安麻乎等女杼毛《コレヤコノナニオフナルトノウツシホニタマモカルトフアマヲトメトモ》
 
宇頭之保は神代紀に珍の字の讀を于圖《ウヅ》と注し給へり、今宇頭と濁音の字をかけば珍鹽《ウヅシホ》にて世にまれらなる故にめづらしき鹽と云なるべし、タマモカルトフは玉藻刈と云なり、潮聲偏恐初來客、海味|甘《ナフ》久住人と作れるに似たり、
 
初、これやこの名におふ うつしほは宇頭之保とかきたれは、つもし濁音なり。須と豆と同韻なれは、渦《ウズ》まく塩といふ心にや。神代紀に珍の字を于圖とよめり。めつらしき塩といふにや。潮聲偏(ニ)恐(ル)初來(ノ)客、海味只甘(ナフ)久住(ノ)人。たまもかるとふはかるといふなり
 
右一首田邊秋庭
 
3639 奈美能宇倍爾宇伎禰世之欲比安杼毛倍香許已呂我奈之(28)久伊米爾美要都流《ナミノウヘニウキネセシヨヒアトモヘカコヽロカナシクイメニミエツル》
 
アトモヘカは第二より有て注せし如く誘《サソ》へばかの意なり、戀しく思ふ心のさそへばにや妹が心悲しく夢に見えつるとなり、第十四にあともへかあしくま山のとよめるは何と思へかの東詞にて今と異なり、
 
初、あともへかは、いさなへはかといふ心なり。日本紀に誘の字をあとふとよめるこれなり。第二第八等にもよめり。いめはゆめなり。こひしくおもふ心のさそへはにや、妹か夢にみえつるとなり
 
熊毛浦舩泊之夜作歌四首
 
和名集云、熊毛郡熊毛【久萬介、】
 
初、熊毛浦 熊毛は周防郡の名なり
 
3640 美夜故邉爾由可牟舩毛我可里許母能美太禮弖於毛布許登都礙夜良牟《ミヤコヘニユカムフネモカカリコモノミタレテオモフコトツケヤラム》
 
都礙、【幽齋本、礙作v〓、】
 
許登都礙夜良牟は事告將遣《コトツゲヤラム》なり、言附にはあらず、
 
初、許登都礙夜良牟 言告やらんなり。言附にはあらす
 
右一首羽栗
 
名の落たるか、廢帝紀云、寶字五年十一月癸未授d迎(フル)2清河1使外從五位下高元度(ニ)從五位上u、其録事羽栗(ノ)翔(ハ)者留2清河(カ)所《モトニ》1而不v歸(ラ)、若此|翔《カケル》にや、
 
初、右一首羽栗 廢帝紀云。寶字五年十一月癸未授d迎(フル)2清河(ヲ)1使外從五位下高元度(ニ)從五位上(ヲ)u。其録事羽栗(ノ)翔《カケル》者留(テ)2河清(カ)所(ニ)1而不v歸(ラ)。この人にや、又略して氏のみをかけるか名の脱たる歟
 
(29)3641 安可等伎能伊敝胡悲之伎爾宇良末欲理可治乃於等須流波安麻乎等女可母《アカトキノイヘコヒシキニウラマヨリカチノオトスルハアマヲトメカモ》
 
初二句は家を戀しく思ふ曉になり、
 
3642 於枳敞欲理之保美知久良之可良能宇良爾安佐里須流多豆奈伎弖佐和伎奴《オキヘヨリシホミチクラシカラノウラニアサリスルタツナキテサワキヌ》
 
カラノ浦熊毛郡に有なるべし、八雲御抄にからの浦石見萬鶴と注せさせ給へるは此歌に依てなり、若是は第二に人麿の辛之埼《カラノサキ》なるいくりにぞとよまれたるは石見なれば同處と思食ける歟、石見は周防よりは後《ウシロ》の方にて今の海路にあらねばおぼつかなし、
 
初、おきへよりしほみちくらしからのうらに 八雲御抄に此からの浦を石見と注せさせたまへと、熊毛浦にての哥なるうへ、石見は.周防のうしろの方なれは、海路大に違へり。もし第二に人丸の哥にことさへくからの崎なるいくりにそふかみるおふるといふが石見なれは、それなりとおほしめしあやまられけるにや
 
3643 於吉敝欲里布奈妣等能煩流與妣與勢弖伊射都氣也良牟多婢能也登里乎《オキヘヨリフナヒトノホルヨヒヨセテイサツケヤラムタヒノヤトリヲ》
 
一云|多妣能夜杼里乎伊射都氣夜良奈《タヒノヤトリヲイサツケヤラム》
 
(30)夜良奈、【幽齋本云、ヤラナ、今點誤當v依v此、】
 
佐婆海中、忽遭2逆風1、漲浪漂流、経v宿而後幸得2順風1到2著豐前國下毛郡分間浦1、於v是追2怛艱難1悽※[立心偏+周]作歌八首
 
佐婆は周防國の郡の名なろ、和名集云、佐波【波音馬、】傾向紀仲哀紀等に見えたる處なり、下毛郡は和名集云上毛【加牟豆美介、】下毛《シモツミケ》、長門國にての歌なきは此まきれ故なり、
 
初、佐婆海中 周防の國の郡の名なり。和名集云。佐波【波音馬。】今婆の字をかけるは、おのつから濁音なり。下毛《シモツミケノ》郡
 
3644 於保伎美能美許等可之故美於保夫禰能由伎能麻爾末爾夜杼里須流可母《オホキミノミコトカシコミオホフネノユキノマニマニヤトリスルカモ》
 
於保夫禰、【幽齋本、夫作v布、】
 
右一首雪宅麿
 
下には雪連宅麿とあり、連の字落たるか、
 
3645 和伎毛故波伴也母許奴可登麻都良牟乎於伎爾也須麻牟伊敝都可受之弖《ワキモコハハヤモコヌカトマツラムヲオキニヤスマムイヘツカスシテ》
 
(31)落句は不家附而なり、第十三に津にもなくとよめる如くやとり借べきやうもなきを云へり、此下に伊敝都久良之母《イヘツクラシモ》ともよめり、第十二|廬付而《イホツキテ》とよめるに同じ、
 
初、いへつかすして 家附すしてなり。第十三に家人の待らん物を津にもなくとよめるかことし
 
3646 宇良末欲里許藝許之布禰乎風波夜美於伎都美宇良爾夜杼里須流可毛《ウラマヨリコキコシフネヲカセハヤミオキツミウラニヤトリスルカモ》
 
ウラマは礒近く乘意なり、オキツミウラは奥津|御浦《ミウラ》にて海童の住深き所の意なるべし、山にみ山と云を思ふべし、第十八に於伎都美可未爾伊和多利弖とよめるも同意歟、
 
初、おきつみうらに みうらは山にみ山といふことく、みとまとかよへは眞浦なり
 
3647 和伎毛故我伊可爾於毛倍可奴婆多末能比登欲毛於知受伊米爾之美由流《ワキモコカイカニオモヘカヌハタマノヒトヨモオチスイメニシミユル》
 
第二句はいかばかりに思へばにかの意なり、落句の之は助語なり、
 
初、わきもこかいかにおもへか いかにわれをおもへはにかなり
 
3648 宇奈波良能於伎敝爾等毛之伊射流火波安可之弖登母世夜麻登思麻見無《ウナハラノオキヘニトモシイサルヒハアカシテトモセヤマトシマミム》
 
(32)第四句はともし明せなり、落句は故郷の方を見むとなり、大和島播磨の地名にあらぬ事此等を引て第三に注せしが如し、
 
初、あかしてともせは、夜を明してともせにも、又あきらかにともせにもあるへし。やまと嶋みむは大和國のかたみんなり。第三に人丸の哥にあかしのとよりやまと嶋みゆとあるにより、播磨に大和嶋ありとおもへるは大きに誤れり。そこに委この哥なとを引てわきまへたり。日本紀に大日本豐秋津|洲《シマ》といへるが、今の大和國を本とすれは、大和嶋とはいへり
 
3649 可母自毛能宇伎禰乎須禮婆美奈能和多可具呂伎可美爾都由曾於伎爾家類《カモシモノウキネヲスレハミナノワタカクロキカミニツユソオキニケル》
 
初、かもしもの 此しもしは助語なから、鳧といふ物ときこゆる詞にて、これがなくてはつゝかぬなり。集中おほし。みなのわたも。文選屈原(カ)卜居(ニ)云。將(タ)※[さんずい+巳]々(トシテ)若(ナラム)2水中之鳧(ノ)1乎《ヤ》。與v波上下(シテ)偸(シクモ)《・タノシムテ》以全(センヤ)2吾躯(ヲ)1乎
 
3650 比左可多能安麻弖流月波見都禮杼母安我母布伊毛爾安波奴許呂可毛《ヒサカタノアマテルツキハミツレトモアカモフイモニアハヌコロカモ》
 
3651 奴波多麻能欲和多流月者波夜毛伊弖奴香文宇奈波良能夜蘇之麻能宇倍由伊毛我安多里見牟《ヌハタマノヨワタルツキハハヤモイテヌカモウナハラノヤソシマノウヘユイモカアタリミム》旋頭歌也
 
至2筑紫館1遙望2本郷1、悽愴作歌四首
 
3652 之賀能安麻能一日毛於知受也久之保能可良伎孤悲乎母(33)安禮波須流香母《シカノアマノヒトヒモオチスヤクシホノカラキコヒヲモアレハスルカモ》
 
第二句|火氣燒立而《ケフリヤキタテヽ》とて第十一に見えたり、今の第二の句は下句の本意にかゝれり、
 
3653 思可能宇良爾伊射里須流安麻伊敝妣等能麻知古布良牟爾安可思都流宇乎《シカノウラニイサリスルアマイヘヒトノマチコフラムニアカシツルウヲ》
 
落句は夜を明して釣魚なり、此は我は勅命を蒙て行身なれば妹を思へどもいかゞせむ、己は心のまゝなる身にて心なく家人の持らむとも思はず魚つるにのみ心を入れて夜をあかすらむ事よとよめるなるべし、六帖にあたら夜を妹とも寢なむ取がたき鮎とる/\といはの上にゐて、
 
初、しかのうらにいさりするあま 此家人といへるは、あまか家人なり。あかしつるうをは、夜を明して釣魚なり。心はわれらは勅を承はりたる身なれは、事おはるかきりはかへる事あたはす。あまは身を心のまゝにするを、魚をつるに心をいれておのか家なる妻ともの待こふらんことをもおもはぬよと、わか身のうへよりよめるなり。六帖に
  あたら夜をいもともねなんとりかたきあゆとるとると岩の上にゐて
第九に浦嶋子をよめる哥に、かつをつりたひつりほこりなぬかまて家にもこすてなとさへよめり
 
3654 可之布江爾多豆奈吉和多流之可能宇良爾於枳都之良奈美多知之久良思母《カシフエニタツナキワタルシカノウラニオキツシラナミタチシクラシモ》
 
落句は之は助語にて波の立來らしもとよめる歟、又立しきるらしと云意歟、
 
初、かしふ江にたつなきわたる たちしくらしもは立し來らしもともきこえ、立|重《シク》らしもともきこゆ
 
一云|美知之伎奴良思《ミチシキヌラシ》
 
(34)3655 伊麻欲理波安伎豆吉奴良之安息比奇能夜麻末都可氣爾日具良之奈伎奴《イマヨリハアキツキヌラシアシヒキノヤママツカケニヒクラシナキヌ》
 
初、今よりは秋つきぬらし 秋になり付なり。上にも見えたり
 
七夕仰2觀天漢1各陳v所v思作歌三首
 
3656 安伎波疑爾爾保敞流和我母奴禮奴等母伎美我莫布禰能都奈之等理弖婆《アキハキニニホヘルワカモヌレヌトモキミカミフネノツナシトリテハ》
 
初二句は萩に觸て色の匂ふにも又秋萩の如く匂ふとよめるにも有べし、落句は綱をだに取らばぬれぬともよしとなり、之は助語なり、
 
初、秋はきににほへるわかも もほ裳なり。たなはたつめになりてよめるなり。票みふねのつなし取ては1網を引とて妾の
 ぬれは、ぬるゝとも何かおしからんとなり。とりてはのはもし濁るへし。仁徳紀に、磐之媛皇后熊野より歸たまひて、御舟の三津につくよしきこしめしける時天皇の御哥
  難波人鈴舟とらせこしなつみその舟とらせ大みふねとれ
これつなを取てひけとのたまふなり
 
右一首大使
 
從五位下阿倍朝臣繼麻呂、後准之、
 
3657 等之爾安里弖比等欲伊母爾安布比故保思母和禮爾麻佐里弖於毛布良米也母《トシニアリテヒトヨイモニアフヒコホシモワレニマサリテオモフラメヤモ》
(35)比故保思、【別校本、思作v志、】
 
拾遺集には人丸集によりて落句思ふらむやぞとあり意得ぬ落句となれり、六帖には思らむやはとあり、凡此卷上に古歌とて十首ある中の後六首は人丸歌なるに拾遺に此歌主とし、又下の夕されば秋風寒しとよめると天飛や雁を使にとよめるをばもろこしにてよめるとさへ詞書あり、此卷鏡の如くに明らかなれど三代集の中にだにかゝる不思議の事あれば後の學ぶもの迷はじとてもいかゞはせむ、
 
初、としに有て一夜いもにあふ 此哥拾選集には、結句をおもふらんやそとあらためて、人丸の哥とす。我旅に有て妹を思ふにはまさらしとなり
 
3658 由布豆久欲可氣多知與里安比安麻能我波許具布奈妣等乎見流我等母之佐《ユフツクヨカケタチヨリアヒアマノカハコクフナヒトヲミルカトモシサ》
 
初、ゆふつくよかけたちよりあひ 七日は夕月夜なれは、それをやかてかりて影とつゝけたり。影たちよりあひは、後撰集に
  立よれは影ふむはかり近けれとたれか衣の關をすへけむ
此上句の心にてふたつのほしの影をならへて、立よりてあふなり。ともしさはめつらしき心に、すくなきをもかねたるへし
 
海邊望v月作歌九首
 
此九首の中に月を望める意ある歌なし、若日を誤て月に作ける歟、然らば海邊ニ望ム日と讀べし、
 
3659 安伎可是波比爾家爾布伎奴和伎毛故波伊都登加和禮乎伊波比麻都良牟《アキカセハヒニケニフキヌワキモコハイツトカワレヲイハヒマツラム》
 
(36)伊郡登加、【幽齋本、加作v可、】
 
此初二句第十に多し、
 
初、秋風はひにけに 日に異になり。日々にことになり
 
大使之第二男
 
3660 可牟佐夫流安良都能左伎爾與須流奈美麻奈久也伊爾故非和多里奈牟《カムサフルアラツノサキニヨスルナミマナクヤイモニコヒワタリナム》
 
荒津は第十二によめり、
 
初、かむさふるあら津のさきに 神さふるとは物ふりたるをほむる詞なり。荒津は第十二にもよめり
 
右一首土師稻足
 
3661 可是能牟多與世久流奈美爾伊射里須流安麻乎等女良我毛能須素奴禮奴《カセノムタヨセクルナミニイサリスルアマヲトメラカモノスソヌレヌ》
 
初、かせのむた 風とゝもなり。上にあまたみえたり
 
一云|安麻乃乎等賣我毛能須蘇奴禮濃《アマノヲトメカモノスソヌレヌ》
 
3662 安麻能波良布里佐氣見禮婆欲曾布氣爾家流與之惠也之(37)比等里奴流欲波安氣婆安氣奴等母《アマノハラフリサケミレハヨソフケニケルヨシヱヤシヒトリヌルヨハアケハアケヌトモ》
 
後の三句第十一に旭時等鷄鳴成《アカトキトトリハナクナリ》とよめる歌と同じ、
 
右一首旋頭歌也
 
3663 和多都美能於伎都奈波能里久流等伎登伊毛我麻都良牟月者倍爾都追《ワタツミノオキツナハノリクルトキトイモカマツラムツキハヘニツヽ》
 
繩のりなればクルとつゞけたり、クル時トとは歸り來る時となり、
 
初、わたつみのおきつなはのり くる時は歸りくる時なり
 
3664 之可能宇良爾伊射里須流安麻安氣久禮婆宇良末許具良之可治能於等伎許由《シカノウラニイサリスルアマアケクレハウラマコクラシカチノオトキコユ》
宇良末、【幽齋本、末作v未、點云ウラミ、】
 
初、しかのうらにいさりするあま あけくれはゝ、明來れはにて、夜の明れはなり。明暮はにはあらす
 
3665 伊母乎於毛比伊能祢良延奴爾安可等吉能安左宜理其問理可里我禰曾奈久《イモヲオモヒイノネラエヌニアカトキノアサキリコモリカリカネソナク》
 
初、いのねらゑぬに いのねられぬになり。禰誤作v禮
 
(38)3666 由布佐禮婆安伎可是左牟思和伎母故我等伎安良比其呂母由伎弖波也伎牟《ユフサレハアキカセサムシワキモコカトキアラヒコロモユキテハヤキム》
 
拾遺集の詞書云、もろこしへつかはしける時によめる人丸とて第四句、ときあらひぎぬとあり、人丸集には詞書なし、
 
3667 和我多妣波比左思久安良思許能安我家流伊毛我許呂母能阿可都久見禮婆《ワカタヒハヒサシクアラシコノアカケルイモカコロモノアカツクミレハ》
 
アラシはあるらしなり.コノアカケル此我著るなり、
 
初、わかたひはひさしくあらし ひさしくあるらしなり。このあかけるはこのわかきるなり。此哥は東哥に似たり。大使にしたかふものゝ中にあつまの人の有かよめるか。第廿に
  旅といへと|またひ《眞旅》になりぬいへの|も《妹》かきせし衣にあかつきにけり
 
到2筑前國志麻郡之韓亭1舶泊經2三日1、於v時夜月之光、皎皎流照、奄對2此華1、旅情悽噎、各陳2心緒1、聊以裁v歌六首
 
和名集云、志摩郡|韓良《カラ》、又云釋名云、亭(ハ)人(ノ)所2停集(スル)1也【和名阿波良、】一云【阿波良也、】日本紀にはウマヤクチとも點ぜり、今は下の歌に依にからとまりなり、備前の國名なり、本朝文粹第二三善清行意見封事第十二條云、自2※[木+聖]生泊1至2韓泊1一日行、自2韓泊1至2魚住泊1一日行云云.源氏物語玉鬘に云く例の舟子どもからとまりより河尻おすほどはと歌(39)ふ聲のなさけなきもあはれに聞ゆ、弄花云、韓泊は備前國にあり、
 
初、到筑前國志麻【和名摩】郡之韓亭1和名集云。志摩郡韓良。亭(ハ)又云。釋名(ニ)云。亭(ハ)人(ノ)所(ナリ)2停集(スル)1也【和名阿波良。】一云【阿波良也。】日本紀にはうまやくちともよめり。今はとまりなり。狹衣物語に
  からとまりそこのみくつとなかれしをせゝの岩浪尋てしかな
 
3668 於保伎美能等保能美可度登於毛敞禮杼氣奈我久之安禮婆古非爾家流可母《オホキミノトホノミカトヽオモヘレトケナカクシアレハコヒニケルカモ》
 
第四句の之は助語なり
 
初、おほきみのとほのみかとゝ 第三に人丸の哥にも
  大君のとほのみかとゝありかよふしまとをみれは神代しおもほゆ
筑紫は宰府ありて只遠き都なり
 
右一首大使
 
3669 多妣爾安禮杼欲流波火等毛之乎流和禮乎也未爾也伊毛我古非都追安流良牟《タヒニアレトヨスハヒトモシヲルワレヲヤミニヤイモカコヒツヽアルラム》
 
欲流をヨスと點ぜるは書生の失錯なり、ヨルと讀べし、岑參詩云、孤燈然(シ)2客夢(ヲ)1寒杵搗(ツ)2郷愁(ヲ)1、
 
初、たひにあれとよるはひとほし 岑參詩云。孤燈然(シ)2客夢(ヲ)1、寒杵搗(ツ)2郷愁(ヲ)1。叫我は旅なれと夜は火ともしてをるを、妹は心のやみにやこひつゝ有らんなり。火ともしてあるといふもまことは孤燈照客夢なれと、やみにやといはむためなれはおもてはこなたは愁なきやうに聞ゆるなり。心を得てみれはともに心のやみはかはらぬなり。第十二に
  久にあらん君をおもふに久かたの清き月夜もやみにのみ見ゆ
 
右一首大判官
 
3670 可良等麻里能許乃宇良奈美多々奴日者安禮杼母伊敝爾(40)古非奴日者奈之《カラトマリノコノウラナミタヽヌヒハアレトモイヘニコヒヌヒハナシ》
 
古今集云、駿河なる田兒の浦浪たゝぬ日はあれども君に戀ぬ日はなし、似たる歌なり、
 
初、からとまりのこのうらなみ 源氏物語玉鬘にいはく。例の舟こともからとまりよりかはしりおすほとはとうたふこゑのなさけなきもあはれに聞ゆ。抄閑云。備前國なり。川尻まて三日ほとゝなり。弄花良惟か意見《三善清行意見封事第十二條》に載たることくならは唐泊より川尻へは三日に行道なり。此故に川尻といふ所ちかつきてふなこはからとまりよりおすほとはとうたひたるなり。唐泊は備前國に有。狭衣哥
  かへりこしかひこそなけれからとまりいつらなかれし人のゆくへは
これによれはからとまりは筑前と備前とに同名ある歟。古今集に
浪か(別筆)(三手本ナシ)
  するかなるたこのうら浦《浪か》たゝぬ日はあれとも君にこひぬ日はなし所のかはれるはかりにて、大かた似たる哥なり
 
3671 奴婆多麻乃欲和多流月爾安良麻世婆伊敝奈流伊毛爾安比弖許麻之乎《ヌハタマノヨワタルツキニアラマセハイヘナルイモニアヒテコマシヲ》
 
3672 比左可多能月者弖利多里伊刀麻奈久安麻能伊射里波等毛之安敝里見由《ヒサカタノツキハテリタリイトマナクアマノイサリハトモシアヘリミユ》
 
3673 可是布氣婆於吉都思良奈美可之故美等能許能等麻里爾安麻多欲曾奴流《カセフケハオキツシラナミカシコミトノコノトマリニアマタヨソヌル》
 
引津亭舶泊之作歌七首
 
之の下に夜の字を落せる歟、
 
初、引津亭(ニ)舶泊(テ)之作歌 疑之字下有脱字耶
第七第十に梓弓引津の邊なるなのりそのといふ哥兩所に出たり。今の引津にやとおもへるに、濱成和哥式に當麻大夫陪(テ)2駕(ニ)伊勢(ニ)1思v婦歌云とて彼歌を出されたれは同名異所なり
 
(41)3674 久左麻久良多婢乎久流之美故非乎禮婆可也能山邊爾草乎思香奈久毛《クサマクラタヒヲクルシミコヒヲレハカヤノヤマヘニサヲシカナクモ》
 
3675 於吉都奈美多可久多都日爾安敝利伎等美夜古能比等波伎吉弖家牟可母《オキツナミタカクタツヒニアヘリキトミヤコノヒトハキヽテケムカモ》
 
安敝利、【校本、敝或作v倍、】
 
右二首大判官
 
3676 安麻等夫也可里乎都可比爾衣弖之可母奈良能彌夜古爾許登都礙夜良武《アマトフヤカリヲツカヒニエテシカモナラノミヤコニコトツケヤラム》
 
彌夜古、【幽齋本、古作v故、】  都礙、【幽齋本、礙作v〓、】
 
雁の使は故ある事にて雁ならでもよめり、古事記下輕太子歌云、阿麻登夫《アマトブ》、登理母都加比曾《トリモツカヒゾ》、多豆賀泥能《タヅガネノ》、岐許延牟登岐波《キコエムトキハ》、和賀那斗波佐泥《ワガナトハサネ》、拾遺集別に今の歌をもろこし(42)にてと詞書して柿本人丸とて載らる歌後注云、人丸入唐(ノ)事此歌(ノ)外無v所v見、但上古(ノ)事唯可v任v本、今云上の夕去ば秋風寒しと云歌の詞書もあるを此歌外無所見とは誰人の注せるにか.此集は云に及ばず拾遺集をも能見ぬ人なるべし、
 
初、あまとふやかりをつかひに 拾遺集別部にもろこしにて、柿本人麿
  あまとふやかりのつかひにいつしかもならの都《・奈良都は人丸歿後なり》にことつてやらん
注云人丸入唐事此歌外無v所v見。但上古事唯可v任v本。彼拾遺集にはおほつかなき事おほし。今こゝに載たる事たしかなり。ことつけやらんはさきのことく言告やらんなり。言附やらんにはあらす
 
3677 秋野乎爾保波須波疑波佐家禮杼母見流之留思奈之多婢爾師安禮婆《アキノノヲニホハスハキハサケレトモミルシルシナシタヒニシアレハ》
 
落句の師はやすめ詞なり、
 
初、秋の野をにほはすはきは みるしるしなしはみるかひなしなり
 
3678 伊毛乎於毛比伊能禰良延奴爾安伎乃野爾草乎思香奈伎都追麻於毛比可禰弖《イモヲオモヒイノネラエヌニアキノノニサヲシカナキツヽマオモヒカネテ》
 
初、ふたつのねらゑぬ 上のことくねられぬなり。列惠同韵
 
3679 於保夫禰爾眞可治之自奴伎等吉麻都等和禮波於毛倍杼月曾倍爾家流《オホフネニマカチシヽヌキトキマツトワレハオモヘトツキソヘニケル》
 
初、時まつと我はおもへと かりそめに潮時を待とおもへとなり
 
3680 欲乎奈我美伊能年良延奴爾安之比奇能山妣故等余米佐(43)乎思賀奈君母《ヨヲナカミイノネラエヌニアシヒキノヤマヒコトヨメサヲシカナクモ》
 
初、山ひことよめ とよましむるなり。令響とかけり
 
肥前國松浦郡狛島亭舶泊之夜遥望2海浪1、各慟2旅心1作歌七首
 
3681 可敞里伎弖見牟等於毛比之和我夜等能安伎波疑須須伎知里爾家武可聞《カヘリキテミムトオモヒシワカヤトノアキハキスヽキチリニケムカモ》
 
夜等、【幽齋本、等作v度、】
 
右一首秦田麿
 
上には秦間滿《ハタノママロ》とありき、
 
3682 安米都知能可未乎許比都都安禮麻多武波夜伎萬世伎美麻多婆久流思母《アメツチノカミヲコヒツヽアレマタムハヤキマセキミマタハクルシモ》
 
神ヲ乞ツヽとは神に祈つゝなり、
 
(44)右一首娘子
 
3683 伎美乎於毛比安我古非萬久波安良多麻乃多都追奇其等爾與久流日毛安良自《キミヲオモヒアカコヒマクハアラタマノタツヽキコトニヨクルヒモアラシ》
 
君を思ひて我戀べき心は月立毎に一日をよきて思はぬと云日あらじとなり、一日も落ず思ふべしとなり、
 
初、きみをおもひあかこひまくは 十四卷東哥に
  うへこなはわぬにこふなもたとつくのゝかなへゆけはこふしかるなも《・諾兒吾立月不遁》
第十三にもあら玉のたつ月ことにといへり。畢竟一日もおちすといふ心なり。これは右の哥よめる娘子か返しなるへし
 
3684 秋夜乎奈我美爾可安良武奈曾許々波伊能禰良要奴毛比等里奴禮婆可《アキノヨヲナカミニカアラムナソコヽハイノネラエヌモヒトリヌレハカ》
 
腰句はなむぞこゝはなり、
 
3685 多良思比賣御舶波弖家牟松浦乃宇美伊母我麻都敝伎月者倍爾都々《タラシヒメミフネハテケムマツラノウミイモカマツヘキツキハヘニツヽ》
 
御舶、【別校本、舶作v船、】
 
初、たらしひめみふねはてけむ 神功紀は第五卷に引るかことし。今新羅へゆく勅使なれは、そのかみを思ひ出たるなり。松浦の海といひて妹かまつへきとつゝけたり
 
3686 多婢奈禮婆於毛比多要弖毛安里都禮杼伊敝爾安流伊毛(45)之於母比我奈思母《タヒナレハオモヒタエテモアリツレトイヘニアルイモシオモヒカナシモ》
 
妹シのし〔右○〕は助語なり、
 
3687 安思必寄能山等妣古由留可里我禰波美也故爾由加波伊毛爾安比弖許禰《アシヒキノヤマトヒコユルカリカネハミヤコニユカハイモニアヒテコネ》
 
可里我禰婆、【幽齋本、婆作v波、】
 
腰句の婆は幽齋本に波に作れる然るべし、
 
到2壹岐島1雪連宅滿忽遇2鬼病1死去之時作歌一首并短歌、
 
壹岐島は三字引合てユキとのみ讀べし、和名集云壹岐島【由岐】歌にはゆきのしまともよめり、
 
初、到壹岐島 和名集云。壹岐【由岐。】日本紀にもかんなをゆきとそ付たるを、世には伊岐とのみよひならへり
 
3688 須賣呂伎能等保能朝庭等可良國爾和多流和我世波伊敝妣等能伊波比麻多禰可多太末可母安夜麻知之家牟安吉佐良婆可敝里麻左牟等多良知禰能波波爾麻于之弖等伎(46)毛須疑都奇母倍奴禮婆今日可許牟明日可蒙許武登伊敞妣等波麻知故布良牟爾等保能久爾伊麻太毛都可受也麻等乎毛登保久左可里弖伊波我禰乃安良伎之麻禰爾夜杼理須流君《スメロキノトホノミカトトカラクニニワタルワカセハイヘヒトノイハヒマタネカタヽマカモアヤマチシケムアキサラハカヘリマサムトタラチネノハヽニマヲシテトキモスキツキモヘヌレハケフカコムアスカモコムトイヘヒトハマチコフラムニトホノクニイマタモツカスヤマトヲモトオクサカリテイハカネノアラキシマネニヤトリスルキミ》
 
麻于之弖、【官本、于作v乎、傍注、于爲v異、】  左可里弖、【別校本、里作v理、】  夜杼里、【校本、或里作v理、】
 
ワガセは宅滿を云、イハヒマタネカはいはひてまたねばかなり、タヽマカモアヤマチシケムとは欽明紀云、於是天皇|命《ノリゴチテ》2神祇伯《カムツカサノカミニ》1敬(テ)受(ケタマフ)2策神祇《タヽマチアマツカミクニツカミ》1、いはひまてども其わざのあやまちやしけむなり、カヘリマサムトとは宅滿が詞なれども歌主の引なほしてかくは云なり、等保能久爾は遠の國にて新羅なり、イハガネノより下は墓に斂《ヲサ》むるを云へり、
 
初、家人のいはひまたねか またねはかなり。たゝまかもあやまちしけんは、たゝまははかりことなり。日本紀第十九云。於v是天皇命2神祇伯《ヵンツカサノカミニ》1敬(テ)受(タマフ)2策《タヽマヲ》神祇《アマツカミクニツカミニ》1。宅滿《イヘマロ》かなすわさのことはりにやそむきけんの心なり。秋さらはかへりまさんと、歸り申さんなり。又かへりましまさんにても有へし。同船の人のよめはなり。とほのくには遠の國にて新羅を指り。あらき嶋根にやとりする君とは、墓をかまへておさめおくをいへり
 
反歌二首
 
3689 伊波多野爾夜杼里須流伎美伊敝妣等乃伊豆良等和禮乎(47)等婆波伊可爾伊波牟《イハタノニヤトリスルキミイヘヒトノイツラトワレヲトハヽイカニイハム》
 
等婆波は等波婆なりけむをさかさまに寫せるにや、
 
初、等婆波 等波婆のかへさまになれるなるへし
 
3690 與能奈可波都禰可久能未等和可禮奴流君爾也毛登奈安我孤悲由加牟《ヨノナカハツネカクノミトワカレヌルキミニヤモトナアカコヒユカム》
 
ツネは常のことわりなり、
 
右三首挽歌
 
3691 天地等登毛爾母我毛等於毛比都都安里家牟毛能乎波之家也思伊敝乎波奈禮弖奈美能宇倍由奈豆佐比伎爾弖安良多麻能月日毛伎倍奴可里我禰母都藝弖伎奈氣婆多良知禰能波波母都末良母安佐都由爾毛能須蘇比都知由布疑里爾己呂毛弖奴禮弖左伎久之毛安流良牟其登久伊低(48)見都追麻都良牟母能乎世間能比登乃奈氣伎波安比於毛波奴君爾安禮也母安伎波疑能知良敞流野邊乃波都乎花可里保爾布伎弖久毛婆奈禮等保伎久爾敝能都由之毛能佐武伎山邉爾夜杼里世流良牟《アメツチトトモニモカモトオモヒツヽアリケムモノヲハシケヤシイヘヲハナレテナミノウヘユナツサヒキニテアラタマノツキヒモキヘヌカリカネノツキテキナケハタラチネノハヽモツマラモアサツユニモノスソヒツチユフキリニコロモテヌレテサキクシモアルラムコトクイテミツヽマツラムモノヲヨノナカノヒトノナケキハアヒオモハヌキミニアレヤモアキハキノチラヘルノヘノハツヲハナカリホニフキテクモハナレトホキクニヘノツユシモノサムキヤマヘニヤトリセルラム》
 
安佐都由、【幽齋本、佐作v左、】  麻都良牟、【別校本、都作v豆、】  比登乃、【幽齋本、乃作v能、】
 
ナミノウヘユはゆ〔右○〕よりなり、キニテのに〔右○〕は助語なり、月日モキヘヌは來經ぬなり、カリガネモツキテキナケバとは仲秋に鴻雁來、季秋に鴻雁來賓するなり、第六にかりがねの來繼て皆し此につぎとよめるが如し、サキクシモアルラムゴトク、陳陶が可v憐無定河邊骨、猶是春閨夢裏(ノ)人と作れる類なり、イデミツヽマツラムモノヲは戰國策(ニ)王孫賈之母謂(テ)v賈曰、汝朝(ニ)出(テヽ)而晩來(シタモ)吾則倚(テ)v門(ニ)而望(ム)v汝(ヲ)、ヨノナカノヒトノナゲキハアヒオモハヌキミニアレヤモとは母も妻も待侘、伴なひ行人も嘆くをそれを何とも思はぬやうにて死行を云なり、チラヘルは散あへるなり、下にもよめり、第一に人丸歌に花散相秋津乃野邊爾《ハナチラフアキツノノベニ》とよめり、クモハナレは雲離にて遠き意なり、古事記下(49)仁徳天皇段云、天皇|上幸《ノボリマス》之時、黒日賣獻御歌云、夜麻登弊邇《ヤマトヘニ》、爾斯布岐阿宜弖《ニシフキアゲテ》、玖毛婆那禮《クモバナレ》、曾岐袁理登母《ソキヲリトモ》、和禮和須禮米夜《ワレワスレメヤ》、
 
初、なつさひきにて たつさはり來てなり。には助語なり。月日もきへぬは、來經ぬなり。又第五に、阿良多麻能吉倍由久等志乃とよめるは消行年ときこゆるを、吉倍とかけるは倍叡同韻なれは通してかける歟。しかれは今も消ぬといふ心にや。朝露に裳のすそひつち夕霧に衣手ぬれては、第二に人丸の泊瀬部皇女に奉らるゝ哥にも、朝露に玉もはひつち夕霧に衣はぬれてとよめり。さきくしもあるらんことくとは、死去ことはしらてつゝかなからん人のやうにまたんといふ心なり。陳陶か猶是春閨夢裏人と心かよへり。出見つゝ待らん物を。 戰國策(ニ)王孫賈(カ)之母、謂(テ)v賈(ニ)曰。、汝朝(ニ)出而晩來(ルタモ)吾(ハ)則倚(テ)v門(ニ)而望(ム)v汝(ヲ)。よのなかの人のなけきはあひおもはぬ君にあれやもとは、母も妻もまてとも待むともおもはすしにゆけは、あひおもはぬ君にあれやといふなり。もは助語なり。秋はきのちらへるはちりあへるなり。利阿反良なり。雲はなれとほき國邊とは青雲のむかふす國なといへる心なり
 
反歌二首
 
3692 波之家也思都麻毛古杼毛母多可多加爾麻都良牟伎美也之麻我久禮奴流《ハシケヤシツマモコトモヽタカタカニマツラムキミヤシマカクレヌル》
 
3693 毛美知葉能知里奈牟山爾夜杼里奴流君乎麻都良牟比等之可奈之母《モミチハノチリナムヤマニヤトドリヌルキミヲマツラムヒトシカナシモ》
 
可奈思母、【幽齋本、思作v之、】
 
比等之をヒトノと點ぜるは誤れり、ヒトシと讀べし、し〔右○〕は助語なり、
 
初、もみちはの 比等之可奈之母、ひとしかなそもとよむへし
 
右三首葛井連子老作挽歌
 
3694 和多都美能可之故伎美知乎也須家口母奈久奈夜美伎弖(50)伊麻太爾母毛奈久由可牟登由吉能安末能保都手乃宇良敝乎可多夜伎弖由加武土須流爾伊米能其等美知能蘇良治爾和可禮須流伎美《ワタツミノカシコキミチヲヤスケクモナクナヤミキテイマタニモモナクユカムトユキノアマノホツテノウラヘヲカタヤキテユカムトスルニイメノコトミチノソラチニワカレヌルキミ》
 
モナクは第五に出て注せり、ホツテノウラヘヲカタヤキヲとはほつて〔三字右○〕のつ〔右○〕は天津國津などの津にて帆綱《ホツナ》なり、手は鋼手繩手などの手なり.土佐日記にも追風の吹ぬる時は行舟のほて打てこそうれしかりけれとよめり、占はそれ/”\の事に付てする事あれば舟にては帆綱にても占なふ事あるべし、章孝標が田家詩云、田家無2五行1水旱卜(ス)2蛙聲(ヲ)1、ウラヘヲカタヤクとは第十四に武藏野にうらへかたやきと云へるに付て注せしが如し、今は帆綱を以て占する事を占の本によせてかたはむを云歟、又一つの今按あり、三代實録第二十一云、貞觀十四年夏四月廿四日癸亥、宮主從五位下兼行丹波權掾伊岐宿禰是雄卒、是雄者壹岐島人也、本姓卜部改爲2伊伎1、始祖忍見足尼命、始v自2神代1供2l龜卜事1、厥後子孫傳2習祖業1備2於卜部1、是雄、卜數之道尤究2其要1、日者之中、可v謂2獨歩1、これに依るに此先祖壹岐島に有て卜筮の道に通ずべし、保都手は最手に(51)て中にも上手に占なはするを云歟、第九に最末枝をホツエとよめり、第十七にはすぐれたる鷹を保追多加《ホツタカ》とよめり、日本紀には秀の字をホツとよめり、安末とは島人なれば海人によそへたる歟、ミチノソラヂは道の天路なり、
 
初、やすけくもなくなやみきて やすくもなくてなやみくるなり。いまたにもゝなくゆかんと、もは喪の字にてわろきことなり。下にも旅にてもゝなくはやことゝよめり。第五に憶良長哥に、玉きはる内のかきりはたひらけくやすくもあらんをこともなくもなくもあらんをよのなかのうけくつらけく云々。伊勢物語にむかしあかたへゆく人にむまのはなむけせんとてよひてうとき人にしあらさりけれはいへとうしにさかつきさゝせて女のさうそくかつけんとす。あるしのおとこ、哥よみてものこしにゆひつけさす
  出てゆく君かためにとぬきつれは我さへもなくなりぬへきかな
ゆきのあまのほつてのうらへをかたやきてゆかんとするに。ゆきのあまは壹岐の海人なり。ほつては帆手といふことなり。帆繩のことなり。土佐日記に
  追風の吹ぬる時は行舟のほてうちてこそうれしかりけれ
うらなひはそれ/\のことにつきてする事あれは、舟にては帆繩にてうらなふ事もあるへし。章孝標か田家詩に、田家(ニ)無(シ)2五行1、水旱卜(ナフ)2蛙聲(ヲ)1。うらへかたやきは第十四に武藏野にうらへかたやきといふ哥に注せり。今はたゝうらなひする事のみなれと、舌法に准してうらへかたやきとはいへり。いめのことは夢のことくなり。道の空路とほ道の中空にて死ぬるをいへり
 
反歌二首
 
3695 牟可之欲里伊比祁流許等乃可良久爾能可良久毛已許爾和可禮須留可聞《ムカシヨリイヒケルコトノカラクニノカラクモコヽニワカレスルカモ》
 
祁流、【別校本、幽齋本、並祁作v都、點云、ツル、】
 
からくにと昔より云けるが、げにもからき別を此にするとなり、
 
初、昔よりいひけることの からくにと昔よりいひけるが、はたしてからきわかれをこゝにてするとなり。からといふ名をからきといふ詞になしてかくはよめり
 
3696 新羅寄敝可伊敝爾可加反流由吉能之麻由加牟多登伎毛於毛比可禰都母《シラキヘカイヘニカカヘルユキノシマユカムタトキモオモヒカネツモ》
 
宅満が魂は新羅へか行、又故郷へか歸る、道の空にて失にし人なれば其間を思ひ得ずとなり、
 
初、しらきへか家にかかへる 宅滿かたましひは新羅へかゆくまた故郷へか歸るといふ心なり。ゆきのしまをうけてゆかむたときといへり。たときはたつきなり
 
(52)右三首六鯖作挽歌
 
六鯖は六人部連鯖麻呂を姓名共に略してかける歟、廢帝紀云、寶字八年正月授2正六位上六人部連鯖麻呂外從五位下(ヲ)1、
 
初、六鯖《ムサハ》 廢帝紀云。寶字八年正月授2正六位上六人部連鯖麻呂(ニ)外從五位下(ヲ)1。この人の氏と名とを略してかけるなるへし
 
到2對馬島淺茅浦1舶泊之時、不v得2順風1經停五箇日於v是瞻2望物華1各陳2慟心1作歌三首
 
對馬島は三字引合てツシマと讀べし、和名集云對馬島【都之萬、】
 
初、對馬島 績日本紀に津嶋とかけり。すなはち此字の心なり。上に引るかことし
 
3697 毛母布禰乃波都流對馬能安佐治山志具禮能安米爾毛美多比爾家里《モヽフネノハツルツシマノアサチヤマシクレノアメニモミタヒニケリ》
 
モミタヒニケリはもみぢにけりなり、
 
初、もゝふねのはつるつしまの 第六にももゝふねのはつるとまりとやしまくにもゝふな人のさためてしみぬめのうらはとよめり。又千船のとまるおほわたの浦ともよめり。もみたひにけりは、もみちしにけりなり。第十にはもみたすともよめり
 
3698 安麻射可流比奈爾毛月波弖禮々杼母伊毛曾等保久波和可禮伎爾家流《アマサカルヒナニモツキハテレヽトモイモソトホクハワカレキニケル》
 
第十一に月見れば國は同じくとよめる意なり、
 
初、あまさかるひなにも 第十一に
  月みれは國はおなしく山へたてうつくし妹はへたてたるかも
第十八に
  月みれはおなし國なり山こそは君かあたりを隔たりけれ
謝希逸(カ)月(ノ)賦云。隔2千里1今共(ニス)2明月(ヲ)1
 
(53)3699 安伎左禮婆於久都由之毛爾安倍受之弖京師乃山波伊呂豆伎奴良牟《アキサレハオクツユシモニアヘスシテミヤコノヤマハイロツキヌラム》
 
淺茅山のもみぢを見て都の山を思ひやるなり、
 
竹敷浦舶泊之時、各陳2心緒1作歌十八首
 
3700 安之比奇能山下比可流毛美知葉能知里能麻河比波計布仁聞安留香母《アシヒキノヤマシタヒカルモミチハノチリノマカヒハケフニモアルカモ》
 
初、あしひきの山下ひかる 第六に山したひかりにしきなす花さきをゝりとよめり。第十にはにしきにみゆる秋の山かも
 
右一首大使
 
3701 多可之伎能母美知乎見禮婆和藝毛故我麻多牟等伊比之等伎曾伎爾家流《タカシキノモミチヲミレハワキモコカマタムトイヒシトキソキニケル》
 
右一首副使
 
正六位上大伴宿禰三中、後准v之、
 
(54)3702 多可思吉能宇良末能毛美知和禮由伎弖可敝里久流末低知里許須奈由米《タカシキノウラミノモミチワレユキテカヘリクルマテチリコスナユメ》
 
右一首大判官
 
3703 多可思吉能宇敝可多山者久禮奈爲能也之保能伊呂爾奈里爾家流香聞《タカシキノウヘカタヤマハクレナヰノヤシホノイロニナリニケルカモ》
 
八雲御抄にうつかた山とあるは假名のヘ〔右○〕とツ〔右○〕となだらかに書つればまがふ故に、宸翰に遊ばされたるはうへかたなりけむを傳寫の誤にてうつかたと成ける歟、宗碩が勅撰名所抄うつかたとあるは御抄の流布本をのみ見て此集を考がへざるなり、奥義抄にはうへかた山とあり、
 
初、たかしきのうへかた山は このうへかた山を勅撰名所抄に宇津方山と載たるは、おしはかるに、かんなにうへかたやまとかける物ありて、そのへの字のなたらかなるをつもしに見あやまりて、今のことく文字になされけるなるへし
 
右一首小判官
 
小は少に作るべし、正七位上大藏忌寸麻呂、
 
3704 毛美知婆能知良布山邊由許具布禰能爾保比爾米※[人偏+弖]弖伊(55)※[人偏+弖]弖伎爾家里《モミチハノチラフヤマヘユコクフネノニホヒニメテヽイテヽキニケリ》
 
もみぢの散あふ礒の山邊より漕舟のもみぢににほはしあへるにめでゝ我も女の身なれど立出で來しとなり、日本紀に感の字をメヅとよめり、
 
3705 多可思吉能多麻毛奈婢可之己藝低奈牟君我美布禰乎伊都等可麻多牟《タカシキノタマモナヒカシコキテナムキミカミフネヲイツトカマタム》
 
奈婢可之、【官本、婢作v比、】 己藝低、【幽齋本、藝作v伎、】
 
初、たかしきの玉もなひかし 舟をこき出る浪になひくなり
 
右二首對馬娘子名玉槻
 
3706 多麻之家流伎欲吉奈藝佐乎之保美弖婆安可受和禮由久可反流左爾見牟《タマシケルキヨキナキサヲシホミテハアカスワレユクカヘルサニミム》
 
白濱の清ければ玉敷ルとはほむるなり、
 
初、玉しけるきよきなきさを 沙の明なるに浪の打よするみな玉しくといふへし。第十八にほりえには玉しかましをと有
 
右一首大使
 
(56)3707 安伎也麻能毛美知乎可射之和我乎禮婆宇良之保美知久伊麻太安可奈久爾《アキヤマノモミチヲカサシワカヲレハウラシホミチクイマタアカナクニ》
 
ウラレホミチクは浦に鹽滿來なり、
 
初、うらしほみちく 浦にしほみち來るなり。潮時のよくなれはあかねとも見さして舟にのる心なり
 
右一首副使
 
3708 毛能毛布等比等爾波美要緇之多婢毛能思多由故布流爾都寄曾倍爾家流《モノモフトヒトニハミエシヽタヒモノシタユコフルニツキソヘニケル》
 
シタユコフルは下より戀るなり、
 
右一首大使
 
3709 伊敞豆刀爾可比乎比里布等於伎敝欲里與世久流奈美爾許呂毛弖奴禮奴《イヘツトニカヒヲヒリフトオキヘヨリヨセクルナミニコロモテヌレヌ》
 
3710 之保非奈波麻多母和禮許牟伊射遊賀武於伎都志保佐爲(57)多可久多知伎奴《シホヒナハマタモワレコムイサユカムオキツシホサヰタカクタチキヌ》
 
初、おきつしほさゐ 第一、第三、第十一等に此詞ありて尺しき
 
3711 和我袖波多毛登等保里弖奴禮奴等母故非和須禮我比等良受波由可自《ワカソテハタモトヽホリテヌレヌトモコヒワスレカヒトラスハユカシ》
 
袖とたもとゝの事、第十冬の歌に我袖に降つる雪も流行てとよめる哥に付て注せるが如し、
 
初、わかそてはたもとゝほりて 袖と衣手と袂とはみなおなし詞なり。和名集云。釋名云。袖【音岫。和名曾天。下二字同】所2以受(ル)1v手(ヲ)也。袂【音〓】開(キ)張(テ)以臂屈伸(スルナリ)也。※[衣+去]【音居】其中虚(ナリ)也。今の俗におもへるは袖は※[手偏+總の旁]名なから袂に對する時は手をとほすところをいひ、たもとは袖のくたりの下をいへり。此哥もさ聞ゆるにや。兼好法師かつれ/\草に後鳥羽院定家卿に袖とたもとゝ一首にもよむやと尋零させ給へる時
  秋の野の草のたもとか花薄ほに出てまねく袖とみゆらん
といふ古今集の哥を引て、くるしかるましきよし當座に勅答申されける事なとかけり。此哥もその類なり。又拾遺集に兼盛哥に
  しくれゆへかつくたもとをよそ人ははらふもみちの袖かとやみん
 
3712 奴波多波能伊毛我保須倍久安良奈久爾和我許呂母弖乎奴禮弖伊可爾勢牟《ヌハタマノイモカホスヘクアラナクニワカコロモテヲヌレテイカニセム》
 
ヌバタマノイモとつゞけたる事別に注す、
 
初、ぬは玉のいもかほすへく 長流かいはく此哥ぬは玉といひいてゝ夜とも黒ともつゝけす、只いもといはむためと見えたり。案するに常にぬれたる袖をも妹とぬる夜はほすものなり。袖卷ほさんいもゝなとよめるその心なり。しかれはいもかほすへくといふ所によるぬる心あれは、ぬは玉とはいひ出せるなり。今案ぬは玉といひてくろきとつゝけ、くろき心に、夜とも髪ともつゝくるは常の事なり。又ぬは玉といひてうるはしき事につゝくる事もまれ/\あるか、古事記に大|己貴《アナムチノ》命の御哥に、ぬは玉のしろきみけしをまつふさにとりよそひおき云々。これはしろきといふにはつゝかて、玉きぬなといふことく、みけしといふにつゝきたるか。かれとこれとをかよはしておもふに、ぬは玉といふもののうるはしけれは、白きみけしとも妹ともつゝくなるへし。袖を妹とぬる夜はほすものなりとて、いもかほすへくといふ所に夜の心ありといへるはすこしむつかしくや。袖卷ほさむ妹もあらなくにといへるは、只衣は女の進退する物なれはいへるなり
 
3713 毛美知婆波伊麻波宇都呂布和伎毛故我麻多牟等伊比之等伎能倍由氣婆《モミチハヽイマハウツロフワキモコカマタムトイヒシトキノヘユケハ》
 
3714 安伎佐禮婆故非之美伊母乎伊米爾太爾比左之久見牟乎(58)安氣爾家流香聞《アキサレハコヒシミイモヲイメニタニヒサシクミムヲアケニケルカモ》
 
安伎、【幽齋本、伎作v藝、】
 
秋去者戀シミ妹とよめるは初より順風にあはゞ歸り來むと思ひし程を猶また此國をも離やらねばななり、戀しきと云べきを戀しみと云へるは第一の雄略天皇の御歌の籠毛與美籠母乳《コモヨミコモチ》の如し、
 
3715 比等里能未伎奴流許呂毛能比毛等加婆多禮可毛由波牟伊敝杼保久之弖《ヒトリノミキヌルコロモノヒモトカハタレカモユハムイヘトホクシテ》
キヌルは着て寢るなるべし、
 
3716 安麻久毛能多由多比久禮婆九月能毛美知能山毛宇都呂比爾家里《アマクモノタユタヒクレハナカツキノモミチノヤマモウツロヒニケリ》
 
モミヂノ山は紅葉する山を押て云、山の名にはあらず、第十九に家持の越中にての歸雁の歌にもよまれたるにて知べし、
 
初、天雲のたゆたひくれは 第十二にも、天雲のたゆたひやすき心あらはとよめり。大舟のたゆたふともよみて、俗にゆる/\といふ心なり。猶豫とも猶豫不定ともかける心なり。さるほとに山のもみちもうつろふなり。第十九にも紅葉の山とよめり。ともに名所にあらす。第十、第十七に卯花山とよめるは只この花のさける山なり。それに准してしるへし
 
(59)3717 多婢爾弖毛母奈久波也許登和伎毛故我牟須妣思比毛波奈禮爾家流香聞《タヒニテモヽナクハヤコトワキモコカムスヒシヒモハナレニケルカモ》
 
多婢爾弖毛母奈久、【幽齋本、毛在v下母在v上、】  牟須比思、【幽齋本、比作v妣、】
 
伊勢物語に昔あがたへ行人にむまのはなむけせむとてよびて、疎き人にしあらざりければ家とうじに盃さゝせて、女のさうぞくかつけむとす、あるじのをとこ歌讀て裳の腰にゆひつけをすとて歌あれば、紐を結ぶも祝ふは同じ意なるべし、
 
初、旅にてもゝなく早こと もなくして早く來よなり。もなくは上にいへるかことし
 
廻2來筑紫1海路入v京、到2播磨國家島1之時作歌五首
 
續日本紀第十二云、天平九年正月辛丑遣新羅使大判官從六位上壬生使主宇太麻呂、少判官正七位上大蔵忌寸麻呂等入京、大使從五位下阿倍朝臣繼麻呂泊2津島1卒、副使正六位上大伴宿禰三中染v病不v得2入京1、三月壬寅遣新羅使副使正六位上大伴宿禰三中等四十人拜朝、
 
初、到播磨国家島延喜式神名云。揖保《イヒホノ》郡家島神社【名神大】
 
3718 伊敝之麻波奈爾許曾安里家禮宇奈波良乎安我古非伎都流伊毛母安良奈久爾《イヘシマハナニコソアリケレウナハラヲアカコヒキツルイモヽアラナクニ》
 
(60)名ニコソ有ケレは言にし有けりとよめるに同じ、後の歌に此詞あまたよめり、
 
3719 久左麻久良多婢爾比左之久安良米也等伊毛爾伊比之乎等之能倍奴良久《クサマクラタヒニヒサシクアラメヤトイモニイヒシヲトシノヘヌラク》
 
落句は年のへぬるなり、此は明る年歸るなるべければ、去年の内に歸るべきを今年に成て歸るを年のへぬるとはよめるなり、
 
3720 和伎毛故乎由伎弖波也美武安波治之麻久毛爲爾見廷奴伊敝都久良之母《ワキモコヲユキテハヤミムアハチシマクモヰニミエヌイヘツクラシモ》
 
雲居ニ見エヌとは跡の方に成て遠く見ゆるなり、廷は延の字を書生の誤まれるなり、家ツクは上に注せるが如し、
 
初、わきもこをゆきて 延誤作v廷。いへつくらしもは家附らしもなり。秋にいたりつくを秋附といふことく家に附なり。上にも家つかすしてとよめり
 
3721 奴婆多麻能欲安可之母布禰波許藝由可奈美都能波麻末都麻知故非奴良武《ヌハタマノヨアカシモフネハコキユカナミツノハマヽツマチコヒヌラム》
 
ヨアカシモは夜令明《ヨアカシ》もにて夜舟を漕あかすなり、下句は第一にある憶良の歌と同(61)じ、落句は妹が待戀ぬらむなり、
 
初、ぬはたまのよあかしもふねは 夜ひとよ舟をこかむなり。下句は第一山上憶良哥に、いさこともはやくやまとへ大ともの、此下句と全同
 
3722 大伴乃美津能等麻里爾布禰波弖弖多都多能山乎伊都可故延伊加武《オホトモノミツノトマリニフネハテヽタツタノヤマヲイツカコエイカム》
 
下句は第一に海底奥津白浪立田山何時鹿越奈武妹之當見武《ワタノソコオキツシラナミタツタヤマイツカコエナムイモガアタリミム》、此第三句以下に似て同じ意なり、
 
中臣朝臣宅守與2狹野※[弟の二畫までが草がんむり]上娘子1贈答歌
 
配流の科は上に見えたり、聖武紀云、天平十二年六月十五日大赦、穗積朝臣老等被v恩(ヲ)入v京、石上乙麻呂、中臣宅守等(ハ)不v在2赦(ノ)限(ニ)1、廢帝紀云、天平寶字七年正月甲辰朔壬子、從六從上中臣朝臣宅守授2從五位下(ヲ)1、神龜元年に配所の遠近を定られたるに、越前安藝爲v近とあれば近流なり、狹野は娘子が姓、※[弟の二畫までが草がんむり]上は名なり、目録も今も※[弟の二畫までが草がんむり]上とあるは今按※[弟の二畫までが草がんむり]は茅にてちのへなりけるを書生魚魯を混じて※[弟の二畫までが草がんむり]に作りける歟、然云故は茅は狹野に便あり、其上第七云、印南野乃淺茅之上《イナミノノアサヂガウヘ》、第十云、春日野之淺茅之上《カスガノヽアサヂガウヘ》云云、此のみならず第七に君に似る草なども讀て多く女によそ(62)へたる物なればなり、
 
初、中臣朝臣宅守配流の科は目録につふさなり。聖武紀云。天平十二年六月十五日大赦。穗積朝臣老等被(テ)v恩(ヲ)入v京(ニ)。石上乙麻呂、中臣宅守等(ハ)不v在(ラ)2赦(ノ)限(ニ)1。廢帝紀云。天平寶字七年正月甲辰朔壬子、從六從上中臣朝臣宅守(ニ)、授2從五位下1。配所の事、聖武紀云。神龜元年三月庚申朔癸未、定(ム)2諸(ノ)流配遠近(ノ)之程(ヲ)1。伊豆、安房、常陸、佐渡、隱岐、土佐六國(ヲ)爲(シ)v遠(ト)。諏方、伊豫(ヲ)爲(シ)v中(ト)。越前、安藝(ヲ)爲(ス)v近(ト)。かゝれは近流なり
目録の中、於是夫婦相嘆易別難會。文選陸士衡答(フル)2賈長淵(ニ)1詩云。分索(スルコトハ)則易(ク)携(ルコトハ)v手(ヲ)實(ニ)難(シ)遊仙窟云。所(ハ)v恨別(コトハ)易(ク)會(コトハ)難(シテ)去留乖(キ)隔(レリ)
 
3723 安之比奇能夜麻冶古延牟等須流君乎許許呂爾毛知弖夜須家久母奈之《アシヒキノヤマチコエムトスルキミヲコヽロニモチテヤスケクモナシ》
 
心ニ持テは手に重き物を持て苦しき如く、此別を心に持事も同じければやすくもなしとなり、
 
3724 君我由久道乃奈我?乎久里多多禰也伎保呂煩散牟安米能火毛我母《キミカユクミチノナカテヲクリタヽネヤキホロホサムアメノヒモカモ》
 
道をば繩手なども云へば繰委《クリタヽネ》とはよめり、下句は左傳云、凡火人火曰(ヒ)v火天火曰v災、史紀孝景(ノ)本紀云、三年正月乙巳天火|燔《ヤク》2※[各+隹]陽東宮大殿城室1、うつぼ物語樓上に山おろしの風もつらくぞおもほえし木の葉も道をやくと見しかば、三體詩元※[禾+眞]和2樂天早春(ニ)見《ラルヽヲ》1v寄(セ)詩云、同(シク)受2新年1不2同(シク)賞1、無v由v縮(ムルニ)v地欲2如何(トカ)1、天隱注引(テ)2神仙傳1云、壺公遺2費長房一符1能縮2地脈1、今の娘子も地をしゞめまほしき意なり、
 
初、君かゆく道のなかてを 第五にも常しらぬ道の長手をくれ/\とゝよめり。繩手なともいひたれはくりたゝねとはいへり。たゝねはたゝみなり。くりよせたゝみよせなり。元※[禾+眞]和(スル)2樂天(カ)早春(ニ)見《ラルヽヲ》1v寄(セ)詩云。同受2新年1不2同賞1、無v由v縮v地欲2如何1。天隱注(ニ)引(キ)2神仙傳(ヲ)1云。壺公遺(テ)2費長房(ニ)一符(ヲ)1能縮2地脈(ヲ)1。やきほろほさむあめの火もかも。左傳(ニ)云。凡(ソ)火(ハ)人火(ヲ)曰(ヒ)v(ト)火(ト)、天火(ヲ)曰(フ)v災(ト)。史紀孝景本紀曰、三年正月乙巳天火|燔《ヤク》2※[各+隹]陽東宮大殿城室(ヲ)1。うつほ物語樓上に
  山おろしの風もつらくそおもほえし木の葉も道をやくと見しかは
 
3725 和我世故之氣太之麻可良婆思漏多倍乃蘇低乎布良左禰(63)見都追志努波牟《ワカセコシケタシマカラハシロタヘノソテヲフラサネミツヽシノハム》
 
發句の之は此かきやうにては音を借て助語にや、
 
3726 巳能許呂波古非都追母安良牟多麻久之氣安氣弖乎知欲利須辨奈可流倍思《コノコロハコヒツヽモアラムタマクシケアケテヲチヨリスヘナカルヘシ》
 
アケヲヲチヨリはをち〔二字右○〕は彼《ヲチ》にて明日よりあなたなり、貫之歌に昨日《キノフ》よりをちをば知らずとよまれたるは昨日《キノフ》よりあなたの過つる方をば知らぬなり、准らへて意得べし、
 
初、玉くしけあけてをちより をちは彼の字なり。あけておちよりなり。あすより後といはむかことし。貫之哥にきのふよりをちをはしらすともよまれたり。きのふよりあなたをはしらすの心なり
 
右四首娘子臨v別作歌
 
3727 知里比治能可受爾母安良奴和禮由惠爾伊母我可奈思佐於毛比和夫良牟《チリヒチノカスニモアラヌワレユヱニオモヒワフラムイモカヽナシサ》
 
チリヒヂはひぢ〔二字右○〕は土なリ、氏の土形《ヒヂカタ》を思ふべし、顯昭は塵泥と心得られたり、泥を和名に比知利古《ヒヂリコ》とも古比千《コヒヂ》ともあればなり、共に同じ義ながら泥をひちとのみはよ(64)まざれば猶土にや、古今集序に高き山も麓のちりひぢより成てと云へるも爭そはゞ土なるべし、杜子美云、君不(ヤ)v見管鮑舊時交、此道今人棄(テ)如b土、されば塵も土も物を汚して賤しき物とすれば數にもあらぬ我とはつゞけたり、上にしづたまきかずにもあらぬとよめるが類なり、
 
初、ちりひちの數にもあらぬわれゆへに 數ならぬちりひちのこときわれゆへになり。ちりひちは塵土《チリヒチ》なり。第四にはしつたまき數にもあらぬ命もてとよみ、、第五にもしつたまきかすにもあらぬみにはあれととよみ、第九にはしつたまきいやしきわかゆへとよめり。物こそたかひたれと數ならぬといはむためなるはおなし心なり
 
3728 安乎爾與之奈良能於保知波由吉余家杼許能山道波由伎安之可里家利《アヲニヨシナラノオホチハユキヨケトコノヤマミチハユキアシカリケリ》
 
由吉余家杼、【幽齋本、吉作v伎、】
 
ユキヨケドは行よけれどなり、
 
初、ならの大路はゆきよけと ならのおほきなるみちはゆきよけれとなり。娘子かもとへかよふ道なり。この山みちといへるは越前の配所へおもむく道なり
 
3729 宇流波之等安我毛布伊毛乎於毛比都追由氣婆可母等奈由伎安思可流良武《ウルハシトアカモフイモヲオモヒツヽユケハカモトナユキアシカルラム》
 
右の歌を蹈てよめり、
 
初、うるはしとあかもふ うるはしとわかおもふなり。次上のゆきあしかりけりといへるを、みつから尺するやうの心なり
 
3730 加思故美等能良受安里思乎美故之治能多武氣爾多知弖(65)伊毛我名能里都《カシコミトノラスアリシヲミコシチノタムケニタチテイモカナノリツ》
 
カシコミとは神を恐るゝ故なり、第十四に足柄の御坂恐み陰夜《クモリヨ》の我下はへをこちてつるかもとよめるが如し、タムケはたうげなり、俗に峠の字をかけり、山を登りはつる所にて此方より彼方へ越すにも彼方より此方へ越すにも幣の手向をする故に手向と云ひけむを、いつとなく坂のはてをたうげと云ひ習ひけるなるべし、
 
初、かしこみとのらすありしを 勅令をおそれて妹かことを人にも告すありしをなり。みこしちのたむけにたちては、近江より塩津山をこえて越前に入山の峠《タウケ》なり。およそさる所をたうけといふはもと手向なるへし。そこにて神たちにぬさ奉てつゝかなからんことをいのれはなり。逢坂山をも第六には手向山といへり。此塩津山といふは、今木の芽峠と聞ゆるにや。案内知侍らねはたかひもし侍なん。此峠を越れはいとゝさかひはるかにおほゆるゆへに、えたへすして妹か名をいひ出つるとなり
 
右四首中臣朝臣宅守上道作歌
 
3731 於毛布惠爾安布毛能奈良婆之末思久毛伊母我目可禮弖安禮乎良米也母《オモフヱニアフモノナラハシマシクモイモカメカレテアレヲラメヤモ》
 
此發句の惠を袖中抄に故なりと釋せられたり、
 
初、おもふゑにあふものならは おもふゑは思ふ縁になり。しましくもはしはらくもなり。妹かめかれてあれをらめやもは妹かめをはなれてわれをらんやなり
 
3732 安可禰佐須比流波毛能母比奴婆多麻乃欲流波須我良爾禰能未之奈加由《アカネサスヒルハモノモヒヌハタマノヨルハスカラニネノミシナカユ》
 
3733 和伎毛故我可多美能許呂母奈可里世婆奈爾毛能母?加(66)伊能知都我麻之《ワキモコカヽタミノコロモナカリセハナニモノモテカイノチツカマシ》
 
3734 等保伎山世伎毛故要伎奴伊麻左良爾安布倍伎與之能奈伎我佐夫之佐《トホキヤマセキモコエキヌイマサラニアフヘキヨシノナキカサフシサ》
 
サブシサはさびしさなり、此さびしは不樂とかける心なり、つれ/”\なるを云にあらず、
 
初、さふしさ さひしさなり。不怜不樂なとかけり。常につれ/\なるをさひしといふよりはかなしき心ふかし
 
一云|左必之佐《サヒシサ》
 
3735 於毛波受母麻許等安里衣牟也左奴流欲能伊米爾毛伊母我美延射良奈久爾《オモハスモマコトアリエムヤサヌルヨノイメニモイモカミエサラナクニ》
 
發句は後の歌におもはずよなど云如く句絶ともすべし、又不慮にまことにながらへて世に有得むやとつゞけても意得べし、落句は見えざらなくにゝて見えざるになり、此詞づかひ上にもあまたありき、
 
初、おもはすもまことあり得むや 此おもはすもは、おもはすよなと末の哥によむことく句絶ともみるへし。又不慮にまことになからへて世に有得むやとつゝけてもよむへし。見えさらなくには此てにをは第一第三第四第十四等にありて尺しき。なくはてにをはにて見えさるにといふにおなし
 
3736 等保久安禮婆一日一夜毛於母波受弖安流良牟母能等於(67)毛保之賣須奈《トホクアレハヒトヒヒトヨモオモハステアルラムモノトオモホシメスナ》
 
於母波受弖、【幽齋本、母作v毛、】
 
3737 比等余里波伊毛曾母安之伎故非毛奈久安良末思毛能乎於毛波之米都追《ヒトヨリハイモソモアシキコヒモナクアラマシモノヲオモハシメツヽ》
 
安良末思、【幽齋本、思作v之、】
 
戀と云事も知らであるべき我に物を思はしむれば世の人よりは妹ぞあしき人にはあるとなり、妹ゾモのも〔右○〕を捨て見るべし、第七に玉津島見てしよけくも我はなし都に行て戀まく思へば、名所と人とは替れどもそしるやうにてほむる意あるは同じ、
 
初、ひとよりは妹そもあしき いもそ人よりはあしきなり。妹かなくはこふる事もなくてあらましものを、ありて物をおもはしむるゆへに外の人よりはあしきとなり。第七に
  玉つ嶋見てしよけくも我はなし都にゆきてこひまくおもへは
これ名所と人とかはれとも、そしるやうにてほむる心あるはひとつなり
 
3738 於毛比都追奴禮婆可毛等奈奴婆多麻能比等欲毛意知受伊米爾之見由流《オモヒツヽヌレハカモトナヌハタマノヒトヨモオチスイメニシミユル》
 
毛等奈、【幽齋本、等作v登、】
 
(68)落句の之はやすめ言なり、
 
初、おもひつゝぬれはかもとな 上にわきもこかいかにおもへか以下此哥と全同なり
 
3739 可久婆可里古非牟等可禰弖之良末世婆伊毛乎婆美受曾安流倍久安里家留《カクハカリコヒムトカネテシラマセハイモヲハミスソアルヘクアリケル》
 
3740 安米都知能可未奈伎毛能爾安良婆許曾安我毛布伊毛爾安波受思仁世米《アメツチノカミナキモノニアラハコソアカモフイモニアハスシニセメ》
 
第四の笠女郎が廿四首歌中に能似たるあり、
 
初、あめつちの神なきものに これは第四に笠女郎か家持に贈廿四首の歌の中に
  天地の神もことはりなくはこそ我思ふ君にあはすしにせめ
似たる哥なり
 
3741 伊能知乎之麻多久之安良婆安里伎奴能安里弖能知爾毛安波射良米也母《イノチヲシマタクシアラハアリキヌノアリテノチニモアハサラメヤモ》
 
第一第二句の二つの之は共に助語なり、アリキヌは第十四に注せしが如し、
 
初、ありきぬの有て後にも 第十四にもありきぬのさゑ/\沈とよみ、第十六に竹取翁か哥にありきぬのたからのこらとよめり。いかなるをいふともしらす
 
一云、安里弖能乃知毛《アリテノヽチモ》
 
3742  安波牟日乎其日等之良受等許也未爾伊豆禮能日麻弖安(69)禮古非乎良牟《アハムヒヲソノヒトシラストコヤミニイツレノヒマテアレコヒヲラム》
 
初、あはむ日をその日としらすとこやみに 神代紀云。是時天照大神驚動以v梭《カヒヲ》傷(リタマフ)v身(ヲ)。由(テ)v此(ニ)發(シテ)v慍《イカリヲ》乃入(テ)2于天(ノ)石窟《イハヤニ》1閉《サシテ》2磐戸(ヲ)1而|幽居《カクレマス》焉。六合《クニ》之内|常闇《トコヤミニシテ》而不v知(ラ)2晝夜《ヒルヨルノ》之相(ヒ)代(ルコトヲ)1。神功皇后紀云。皇后南|詣《イタリマシテ》2紀伊國(ニ)1會2太《ヒツキノ》子(ニ)於日高(ニ)1〇適(テ)2是時(ニ)1也晝暗(コト)如(テ)v夜(ノ)已(ニ)經2多(ノ)日(ヲ)1。時(ノ)人(ノ)曰|常夜行《トコヤミユクト云リ》之也云々。第二にいはく天雲を日のめもみせすとこやみにおほひたまひて、第四に
  てれる日を闇に見なしてなく涙ころもぬらしつほす人なしに
 
3743  多婢等伊倍婆許等爾曾夜須伎須久奈久毛伊母爾戀都都須敝奈家奈久爾《タヒトイヘハコトニソヤスキスクナクモイモニコヒツヽスヘナケナクニ》
 
第二句は第十一に言に云へば耳にたやすしとよめるが如し、旅は唯一言にて云時は易けれども妹に戀つゝすべなき事のすくなからなくにの意なり、落句意を得て見るべし、
 
初、旅といへはことにそやすき 旅とはひとことはなれはことはにはやすくいはるれと、妹にこひつゝすへなさのすくなからぬにといふ心なり。下の三十六葉にもこれに似たる哥有。第十一に戀といへはみゝにたやすしといへる此上の二句に似たり。又第二十に防人か哥に旅といへとまたひになりぬともよめり。すヘなけなくには、上のいめにも妹か見えさらなくにといへるに似て心得かたきやうなれと、すへなきことのすくなからぬにと心得れはたかはす。古哥の詞はたしかならぬか例なり
 
3744 和伎毛故爾古布流爾安禮波多麻吉波流美自可伎伊能知毛乎之家久母奈思《ワキモコニコフルニアレハタマキハルミシカキイノチモヲシケクモナシ》
 
第二の句は戀るに我はなり、短かき命も惜からぬと云ことは短かければ殊に惜かるべき故なり、第十二に君にあはで久しく成ぬ玉の緒の長き命の惜けくもなしとよめると水火の如くなれど、各其いはれあり、歌は風情に依て讀やう一准ならぬ常の事なり、
 
初、わきもこにこふるにあれは こふるに我はなり。戀るに有れはとよみてもきこゆれと、我なるへしとおほゆ
 
(70)右十四首中臣朝臣宅守
 
3745 伊能知安良婆安布許登母安良牟和我由惠爾波太奈於毛比曾伊能知多爾敞波《イノチアラハアフコトモアラムワカユヱニハタナオモヒソイノチタニヘハ》
 
ハタは將の字をもよみ爲當ともかけり、まさにと云意なり、
 
3746 比等能宇宇流田者宇惠麻佐受伊麻左良爾久爾和可禮之弖安禮波伊可爾勢武《ヒトノウヽルタハウヱマサスイマサラニクニワカレシテアレハイカニセム》
 
伊麻左良爾、【幽齋本、左作v佐、】
 
宇宇流とかけるは植の字を宇惠とく故に惠と宇と同音なる故なり、今の世宇倍とかく故に宇布流《ウフル》と通はしかくは日本紀此集等にたがへり、史記高祖本紀云、不v事(トセ)2家人生産作業1、亦云、九年末央宮成、高祖大朝(セシメテ)2諸侯羣臣1置2酒未央前殿1、高祖奉2玉巵1起爲2太上皇1壽云、始大人常以v臣無v頼(シケ)不v能v治2産業1不(トシテ)v如2仲(ノ)力(ラニ)1云云、此集第二十防人が歌にさきむりにたゝむさわぎに家の妹がなるべきことをいはず來《キ》ぬかも、クニワカ(71)レシテとは國を隔てゝ別るゝなり、皆人の植る田をも植まさねば遠く別れて後我は何をよすがにてあらむとも知らねばいかにせむとなり、あはれに聞ゆる歌なり、
 
初、人のうゝる田はうゑまさす 宇宇流とかけるは下の字は惠に通するゆゑなり。およそよろつの假名つかひ日本紀、此集、延喜式、和名集等をかんかふるに、皆かなひて、中古以來にたかへれは、後のが誤なるへし。今ならはこれも宇布流とかくへし。されと第五三十二首の梅の哥に誰かはうへしさかつきのへにといふ哥のみ有倍志とかけり。倍と惠と同韻にて通しけるにや。うゑまさすは殖ましまさすなり。第五令反惑情歌に
  久かたのあまちは遠し|なほ《直》/\に家にかへりて|なり《業産》をしまさ|に《ネト通》
第二十に防人か哥に
  さき|む《モ》り《防人・島守》にたゝむさわきに家の妹か|なるへき《・可業》ことをいはすきぬかも
史記高祖本紀云。不v事(トセ)2家人(ノ)生産作業(ヲ)1。又云。九年〇未央宮成(ル)。高祖大(ニ)朝(セシメテ)2諸侯羣臣(ヲ)1置2酒(ス)未央前殿(ニ)1。高祖奉(シテ)2玉巵(ヲ)1起(テ)爲(ニ)2太上皇(ノ)1壽(シテ)云。始(メ)大人常(ニ)以v臣無(トシテ)v頼(シケ)不v能v治(ムルコト)2産業(ヲ)1不(トシキ)v如2仲(カ)力(ニ)1云云。くにわかれしては國を隔て別るゝなり。皆人のうゆる田をも植まさねは、遠くわかれて後、我はいかなるたつきによりてあらむともしらすといふ心なり
 
3747 和我屋度能麻都能葉見都都安禮麻多無波夜可反里麻世古非之奈奴刀爾《ワカヤトノマツノハミツヽアレマタムハヤカヘリマセコヒシナヌトニ》
 
松を待に云ひなしてかはらぬ心をこめたり、論語云、歳寒然後知(ル)2松栢之後(ルヽコトヲ)1v凋、莊子(ニ)云、孔子曰天寒既(ニ)至(リ)霜雪既降(ル)、吾是以知(ル)2松栢之茂(キコトヲ)1也、落句は戀しなぬ時になり、時をト〔右○〕とのみよめる事上には第十にあり、下にもよめり、
 
初、わかやとの松のはみつゝ これは松を待にいひなしてかはらぬ心をこめたり。論語云。歳寒(シテ)然後知(ル)2松栢(ノ)之後(ルヽコトヲ)1v凋(ムニ)。莊子讓王(ニ)曰。孔子曰。天寒既(ニ)至(リ)、霜雪既(ニ)降(ル)。吾是(ヲ)以知2松栢之茂(キコトヲ)1也。こひしなぬとには、こひしなぬ時になり。第十に
  わかせこをなこせの山のよふこ鳥君よひかへせ夜のふけぬとに
 
3748 比等久爾波須美安之等曾伊布須牟也氣久波也可反里萬世古非之奈奴刀爾《ヒトクニハスミアシトソイフスムヤケクハヤカヘリマセコヒノナヌトニ》
 
スムヤケクはすみやけくにてすみやかになり、落句の之をノ〔右○〕と點ぜるは書生のしわざなるべし、改て音に點ずべし、
 
初、すむやけく すみやけくにて速になり
 
3749 比等久爾爾伎美乎伊麻勢弖伊都麻弖可安我故非乎良牟(72)等伎乃之良奈久《ヒトクニヽキミヲイマセテイツマテカアカコヒヲラムトキノシラナク》
 
伊都、【別校本、都作v豆、】
 
イマセテは令徃《イマセ》てなり、
 
3750 安米都知乃曾許比能宇良爾安我其等久伎美爾故布良牟比等波左禰安良自《アメツチノソコヒノウラニアカコトクキミニコフラムヒトハサネアラシ》
 
ソコヒノウラはそこひは限と云ひ極と云章、裏は内と同じければ限の内と云なり、後の歌にもそこひなき淵やはさわぐとも、名に負ふぢの花なればそこひもしらぬ色の深さかとも.わだつみのそこひもしらずとも限なき心などを底によせてよめり、源氏物給玉鬘に物の色は限りあり人の形はおくれたるもまた又そこひある物をとて云云、同胡蝶に限なうそこひしらぬ心ざしなれど云云、サネアラジはまことにあらじなり、
 
 初、あめつちのそこひのうらに そこひはきはみといひ、かきりなといふにおなし。うらはうちなり。裏の字を宇良とも宇知ともよめり。古今集云
  そこひ《・底ヲ ヌ》なき淵やはさはく山川の淺き瀬にこそあた浪はたて後撰集に
  かきりなき名におふ藤《・淵ヲカヌ》の花なれはそこひ《底ヲカヌ》もしらぬ色のふかさか
  玉もかるあまにはあらねとわたつみのそこひもしらすいる心かな
源氏物語玉鬘に物の色はかきりあり。人のかたちはをくれたるも又そこひある物をとて云々。胡蝶にかきりなうそこひしらぬ心さしなれと人のとかむへきさまにはよもあらし。さねあらしはまことにあらしなり
 
3751 之呂多倍能安我之多其呂母宇思奈波受毛弖禮和我世故(73)多太爾安布麻低爾《シロタヘノアカシタコロモウシナハスモテレワカセコタヽニアフマテニ》
 
モテレはもちあれなり、知阿反多なればつゞめては毛多禮と云べきを多と?と初四相通してもてれと云なり、
 
3752 波流乃日能宇良我奈之伎爾於久禮爲弖君爾古非都都宇都之家米也母《ハルノヒノウラカナシキニオクレヰテキミニコヒツヽウツシケメヤモ》
 
春の日のうら/\と云意にウラカナシキニとはよそへてつゞけたるか、淮南子云、春(ハ)女悲(シミ)秋(ハ)士哀(シム)而知2物化(スルコトヲ)1、落句は第十二にも見えたり、うつゝの心もせじとなり、
 
初、春の日のうらかなしきに 春の日はうら/\とあるものなれはうらかなしとつゝけたり。第十九の終に、うら/\にてれるはるひとよめり。その哥の左注に遲々とかきてうら/\とよめり。淮南子(ニ)云。春(ハ)女悲(シヒ)、秋(ハ)士|哀《カナシムテ》而知2物化(ヲ)1。さらぬたに春は女の物おもふ時なるに、おもふ人にわかれてはるけき道をへたてすめは、まことにゆめのこゝちすへし。うつしけめやもはうつゝの心ちせんやなり。第十二にも君におくれてうつしけめやもとよめり。現心とかきてうつし心とよめるもおなし
 
3753 安波牟日能可多美爾世與等多和也女能於毛比美太禮弖奴敞流許呂母曾《アハムヒノカタミニセヨトタワヤメノオモヒミタレテヌヘルコロモソ》
 
美多禮弖、【別校本、多作v太、】
 
第十二云、年のへば見つゝしのべと妹が云ひしきぬのぬひめを見れば悲しも、今の歌の答とせば然るべきにや、
 
初、あはむ日のかたみにせよと 第十二に
  年のへは見つゝしのへと妹かいひしきぬのぬひめをみれはかなしも
この哥のかへしになりぬへき哥なり
 
(74)右九首娘子
 
3754 過所奈之爾世伎等婢古由流保等登藝須多我子爾毛夜麻受可欲波牟《ヒマナシニセキトヒコユルホトヽキスアマタカコニモヤマスカヨハム》
 
過所をヒマとよめるは隙あればそこより物の過ればなるべし、我は咎ある身にて關山を越る事を得ぬに隙もなくあまたの郭公の飛越るは己も妻戀するなればおの/\があまたの妻にもやまず通ひて相らむと我妻戀する心から鳥を羨てよめるなるべし、郭公の妻を子と云は第十二|客《カホ》鳥の妻を君とよめるに准らふべし、
 
初、ひまなしにせきとひこゆる 過所とかけるは、ひまあれはそこより物の過れはなり。我は咎ある身にて關山をこゆることあたはぬに、ひまもなくほとゝきすのとひこゆるは、おのれも妻戀するなれは、あまたの妻にもやすくたえすこそかよふらめとなり。あまたの子とは、郭公のあまた飛こゆるか、おの/\妻にやますかよひてあふらんの心なり。ほとゝきすの妻を子としもいへるは、古今集に
  あしひきの山ほとゝきすわかことや君にこひつゝいねかてにする
わか妻をこふるゆへに、かれをかけて君とも子ともいへり。此哥は古今集序に鳥をうらやみといへる心なり
 
3755 宇流波之等安我毛布伊毛乎山川乎奈可爾敝奈里弖夜須家久毛奈之《ウルハシトアカモフイモヲヤマカハヲナカニヘナリテヤスケクモナシ》
 
ナカニヘナリテは中に隔てゝなり、へなり〔三字右○〕は隔の古語なリ、此集下にもよめり、
 
初、山川を中にへなりて 中にへたてゝなり。第十七にも山川のへなりてあれはとよめり
 
3756 牟可比爲弖一日毛於知受見之可杼母伊等波奴伊毛乎都奇和多流麻弖《ムカヒヰテヒトヒモオチスミシカトモイトハヌイモヲツキワタルマテ》
 
(75)第四云、向座而雖見不飽吾妹子二《ムカヒヰテミレドモアカヌワギモコニ》云云、六帖云、向ひ居て背く程だに肝《キモ》消《キエ》て思ひし物を月かはるまで、
 
初、むかひ居てひと日もおちす 第四に
  むかひ居て見れともあかぬわきもこに立別ゆかむたつきしらすも
六帖に
  向ひ居てそむくほとたにきもきえておもひし物を月かはるまて
月わたるまては、月を隔ていく月といふにわたるまてにあはぬ事の久しくなるなり
 
3757 安我未許曾世伎夜麻故要弖許己爾安良米許己呂波伊毛爾與里爾之母能乎《アカミコソセキヤマコエテコヽニアラメコヽロハイモニヨリニシモノヲ》
 
故要?、【幽齋本、故作v許、】
 
第十一に同じ下句ありき、
 
初、あか身こそせき山こえて 此下句は第十一に紫の名高の浦のなひきものといふ哥におなし
 
3758 佐須太氣能大宮人者伊麻毛可母比等奈夫理能未許能美多流良武《サスタケノオホミヤヒトハイマモカモヒトナフリノミコノミタルラム》
 
能未、【幽齋本、未作v美、】
 
娘子が事に依て我配流にあへるをなぶり又我あらぬ間に娘子が心をかひきなどせむことをうしろめたく思ふなるべし、毛詩|※[北+おおざと]《ハイ》風云、終《ヒメモス》風且|暴《ハヤテアリ》、顧v我則笑、謔浪《タワフレヲワイテ》、笑(ヒ)※[傲の旁]《ヲゴル》、中心是悼、遊仙窟云五嫂爲v人饒(ト)劇《タハフル・ヒトナフリ》
 
初、さすたけの大宮人は さすたけの大宮とつゝけたる哥上に第六に見え後に十六卷にも見えたり。第十一にはさすたけのはにかくれたるわかせこかともよめり。すてに尺せれはこゝに略せり。人なふりのみこのみたるらんとは、なふるやうにさま/\あるへし。遊仙窟云。五嫂爲(リ)v人(ト)饒劇(トタハフル)。又嬲の字を見て戯弄の樣を知へし。娘子か事によりてわか配流にあへるをなふり、又わかそこにあらねは娘子か心をかなひきなとせんことをも、うしろめたくおもふなるへし
 
(76)一云|伊麻左倍也《イマサヘヤ》
 
3759 多知可敝里奈氣杼毛安禮波之流思奈美於毛比和夫禮弖奴流欲之曾於保伎《タチカヘリナケトモアレハシルシナミオモヒワフレテヌルヨシソオホキ》
 
タチカヘリはかへす/”\有し事どもを思ひ出るなり、ワブレテは侘てなり、曾丹が集に薄くなるをうすれてとよめる類なり、ヌルヨシのし〔右○〕は助語なり、
 
初、立かへりなけともあれは 立かへりはくりかへしなといふ心なり。たとへは道を行人の又立歸ることく、かへす/\物をおもひてなくなり。しるしなみはかひなきなり。垂仁紀有何益とかきてなにのしるしかあらんとよめり。おもひわふれてはおもひわひてなり
 
3760 左奴流欲波於保久安禮杼母毛能毛波受夜須久奴流欲波佐祢奈伎母能乎《サヌルヨハオホクアレトモヽノモハスヤスクヌルヨハサネナキモノヲ》
 
安禮杼毛母能、【幽齋本、母字在v上毛字在v下、】
 
3761 與能奈可能都年能已等和利可久左麻爾奈里伎爾家良之須惠之多禰可良《ヨノナカノツネノコトワリカクサマニナリキニケラシスヱノタネカラ》
 
己等和利とかけるは判の字斷の字などをことわるとよむも斧を以て木をわるが(77)如く言を以て理を云ひわくる意なればなり、カクサマニは如是樣《カクサマ》なり、スヱノタネカヲは末世の業因に依てと云はむが如し、業因の宿報に依て末世に生るれば大方の世間もうきことは我のみならずかやうに成來にけるにこそとみづから世上を引て心の中をひろめて慰さむるなり、
 
初、よのなかの常のことはり 世間のおよそ人の上まての常のことはりなり。かくさまには如是樣になり。末のたねからは末世の業因からなり。末といふは今の世今の身なり。たねといふは宿世の業因なり
 
3762 和伎毛故爾安布左可山乎故要弖伎弖奈伎都都乎禮杼安布余思毛奈之《ワキモコニアフサカヤマヲコエテキテナキツヽヲレトアフヨシモナシ》
 
發句は上にも合坂の枕詞に多く云へり、今もそれながら落句までに承て娘子が事になせり、
 
3763 多婢等伊倍婆許登爾曾夜須伎須敝毛奈久久流思伎多婢毛許等爾麻左米也母《タヒトイヘハコトニソヤスキスヘモナククルシキタヒモコラニマサメヤモ》
 
初の二句はさきに見えたり、旅と云へば言にのみこそ易けれ、すべもなく苦しき物なれどもされどもたをやめの身にて後れ居て嘆くらむ兒等が悲しさにはまさめやまさじと娘子が心の中を思ひやりてよめるなり、
 
初、たひといへはことにそやすき 此二句上にもありき。此下にしかはあれとゝかりに一句をくはへて聞へし。わかくるしき旅の心をいひつめて、猶こらにまさめや。こらにはまさらしといふ心なるがあはれなり。およそは人のおもひをせんかたなけにいひて、それよりもわかおもひのまさるよしにこそよむものを
 
(78)3764 山川乎奈可爾敝奈里弖等保久登母許己呂乎知可久於毛保世和伎母《ヤマカハヲナカニヘナリテトホクトモコヽロヲチカクオモホセワキモ》
 
初の二句さきの如し、
 
3765 麻蘇可我美可氣弖之奴敝等麻都里太須可多美乃母能乎比等爾之賣須奈《マソカヽミカケテシノヘトマツリタスカタミノモノヲヒトニシメスナ》
 
マソカヾミはカケテと云はむ科なり、和名集云、鏡臺(ハ)辨色立成云、【加々美加介、】用の詞を體になせり、マツリダスは奉出《マツリダ》すなり、カタミノ物は何と知べからず、上の鏡すなはち此にはあらず、次の歌を見るべし、
 
初、まそかゝみかけて まつりたすは奉出《マツリタ》すなり。鏡は鏡臺にかくる物なれはかけてとつゝけたり。すなはち鏡をもかたみにおくりけるによりてかくはよせけるなるへし。かたみは第十六云。寄物【俗云2可多美1。】遊仙窟記念の二字をかたみとよめり
 
3766 宇流波之等於毛比之於毛婆波之多婢毛爾由比都氣毛知弖夜麻受之努波世《ウルハシトオモヒシオモハヽシタヒモニユヒツケモチテヤマスシノハセ》
 
第二句之は助語なり、於毛婆波は於毛波婆を兩字を倒に寫せるなるべし、
 
初、したひもにゆひつけもちて 鏡の外のかたみなり
 
右十三首中臣朝臣宅守
 
(79)3767 多麻之比波安之多由布敞爾多麻布禮杼安我牟禰伊多之古非能之氣吉爾《タマシヒハアシタユフヘニタマフレトアカムネイタシコヒノシケキニ》
 
タマシヒとは思ひおこする心ざしなり、
 
3768 己能許呂波君乎於毛布等須敝毛奈伎古非能未之都都禰能未之曾奈久《コノコロハキミヲオモフトスヘモナキコヒノミシツヽネノミシソナク》
 
須敝毛、【校本、或毛作v文、】
 
落句の之は助辞なり、
 
3769 奴婆多麻乃欲流見之君乎安久流安之多安波受麻爾之弖伊麻曾久夜思吉《ヌハタマノヨルミシキミヲアクルアシタアハスマニシテイマソクヤシキ》
 
アハズマのま〔右○〕は助語にて只あはずなり、こりずと云べきをこりすまにとよめるが如し、此歌は事出來ぬさきにあへる時の事を云へるなり、
 
初、あがすまにして あはすしてなり。まは助語なり。こりすといふをこりすまといふかことし。此哥はさきに事いてこぬ時にあへることをも。又今はとて配所におもむく日のさきの夜あへるをもいふへし。また夢にあひみてあくるあしたにあはすしてといへるにもあるへし
 
3770 安治麻野爾屋杼禮流君我可反里許武等伎能牟可倍乎伊(80)都等可麻多武《アチマノニヤトレルキミカカヘリコムトキノムカヘヲイツトカマタム》
 
和名集云、越前(ノ)國|今立《イマタチノ》郡|味眞《アチマ》【阿知末、】カヘリコム時ノ迎とは君が歸來と聞て迎に人をつかはすべき時をなり、又歸り來む時我を迎ふる迎をとも聞ゆ、
 
初、あちま野にやとれる君か 越前に此野あるなるへし
 
3771 宮人能夜須伊毛禰受弖家布家布等麻都良武毛能乎美要奴君可聞《ミヤヒトノヤスイモネステケフケフトマツラムモノヲミエヌキミカモ》
 
宮人は宅守の父兄弟等を云歟、
 
初、宮人のやすいもねすて 此宮人は宅守の親屬を指なるへし
 
3772 可敝里家流比等伎多禮里等伊比之可婆保等保登之爾吉君香登於毛比弖《カヘリケルヒトキタレリトイヒシカハホトホトシニキキミカトオモヒテ》
 
ホト/\シニキは驚て胸のほどばしるなり、又悦びて立ほどばしるなり、に〔右○〕は助語なり、欽明紀云、十三年冬十月|百濟《クダラ》聖明王獻2釋迦佛金銅(ノ)像一?《ミカタヒトハシラヲ》1、是(ノ)日天皇聞|已《ヲハリテ》歡喜|踊躍《ホトバシリタマフ》、第七にほと/\しくに手斧《テヲノ》はとられぬとよめるほと/\しくにとは替れり、第十一に馬の音のどゝともすれば松陰に出てぞ見つる若は君かと此歌の意あ(81)り、さてこれは天平十二年六月に大赦ありて穗積朝臣老等を召返させ給へる後よめるなるべし、
 
初、ほと/\しにき よろこふ心なり。欽明紀云。十三年冬十月百濟聖明王〇獻2釋迦佛(ノ)金銅像一躯(ヲ)1。〇是日天皇聞已歡喜|踊躍《ホトハシリタマフ》。長流かいはくおとろく心なり。今案第七に、ほと/\しくにてをのはとられぬとよめり。それは殆の字にてあふなきなり。危殆の時あやうしとよめり。今の心にあらす
 
3773 君我牟多由可麻之毛能乎於奈自許等於久禮弖乎禮杼與伎許等毛奈之《キミカムタユカマシモノヲオナシコトオクレテヲレトヨキコトモナシ》
 
初、君かむたゆかましものを 君とゝもに我もなかされてゆかましものを、おくれて都に残りをれと、物をおもふ事のおなしことにてよきこともなしとなり
 
3774 和我世故我可反里吉麻佐武等伎能多米伊能知能巳佐牟和須禮多麻布奈《ワカセコカヽヘリキマサムトキノタメイノチノコサムワスレタマフナ》
 
今は死ても惜からぬ身なれど者が還來む時のため心を取のべて命を殘すべし、あなかしこ其時我を忘給ふなとなり、第十一云、爲妹壽遺《イモガタメイノチノコセリ》云云、
 
右八首娘子
 
3775 安良多麻能等之能乎奈我久安波射禮杼家之伎己許呂乎(82)安我毛波奈久爾《アラタマノトシノヲナカクアハサレトケシキココロヲアカモハナクニ》
 
此下句第十四並に此卷の上にもありき、
 
3776 家布毛可母美也故奈里世婆見麻久保里爾之能御馬屋乃刀爾多弖良麻之《ケフモカモミヤコナリセハミマクホリニシノミマヤノトニタテラマシ》
 
ニシノミマヤは西の御|厩《ムマヤ》なり、第十三に金厩立而飼駒《ニシノウマヤタテヽカフコマ》云云、刀は外なり、娘子が父の家の厩なるべし、
 
初、けふもかも都なりせは にしのみまやのとにたてらましとは妹か家にいたりて案内せさするほと馬を御厩にたてかてらむまやのそとにたてらましものをとなり。第十三に西のうまやたてゝかふ駒、ひむかしのうまやたてゝかふ駒とよめり
 
右二首中臣朝臣宅守
 
3777 伎能布家布伎美爾安波受弖須流須敝能多度伎乎之良爾禰能未之曾奈久《キノフケフキミニアハステスルスヘノタトキヲシラニネノミシソナク》
 
落句の之は助語なり、
 
3778 之路多倍乃阿我許呂毛弖乎登里母知弖伊波敞和我勢古(83)多太爾安布末低爾《シロタヘノアカコロモテヲトリモチテイハヘワカセコタヽニアフマテニ》
 
第四云、又もあはむ由も有らぬか白妙の我衣手に齋ひ留めむ、此二首は別るゝ比の歌なるべし、
 
初、しろたへのあかころもてを 第四に
  またもあはむよしもあらぬか白妙のわか衣手にいはひとゝめむ
 
右二首娘子
 
3779 和我夜度乃波奈多知婆奈波伊多都良爾知利可須具良牟見流比等奈思爾《ワカヤトノハナタチハナハイタツラニチリカスクラムミルヒトナシニ》
 
3780 古非之奈婆古非毛之禰等也保等登藝須毛能毛布等伎爾伎奈吉等余牟流《コヒシナハコヒモシネトヤホトヽキスモノモフトキニキナキトヨムル》
 
初の二句第十一に二首によめり、
 
初、こひしなはこひもしねとや 第十一に
  こひしなはこひもしねとや玉ほこの造ゆき人にこともつけゝむ
  こひしなはこひもしねとやわきもこかわきへのかとを過て行らん
第四に
わかきみは|わけ《・戯奴》をはしねとおもへかもあふ夜あはぬ夜ふたゆくならん
古今集に
  こひしねとするわさならしうは玉のよるはすからに|夢に見えつゝ《・ウツヽニハツラキモノカラ》
伊勢物語に
  とへはいふとはねは恨むゝさしあふみかゝるをりにや人はしぬらん
今の哥もこれらの哥に心ひとし。おもふ人を都に留て、関山はるかに隔たる配所のあたりにさらぬ人たになかる國にも行てしかそのなくこゑをきけはかなしもとよめるほとゝきすのきてなきとよめは、中々にこひしなは此時こひもしねとやなくらんと聞侍りぬへし。とよむるは令響なり。とよむといふは物のおのつからとよむなり。とよむるは物をしてとよましむるなり
 
3782 多婢爾之弖毛能毛布等吉爾保等登藝須毛等奈那難吉曾安我古非麻左流《タヒニシテモノモフトキニホトヽキスモトナヽナキソアアカコヒマサル》
 
(84)落句は第十に木《コ》高くは曾て木殖じ霍公鳥來鳴とよめて戀まさらしむ、第八鏡王女の喚子鳥をも痛くなゝきそ吾戀まさるとよめり、
 
初、旅にして物もふ時に 第八に
  神なひのいはせの杜のよふこ鳥いたくなゝきそわかこひまさる
 
3782 安麻其毛理毛能母布等伎爾保等登藝須和我須武佐刀爾伎奈伎等余母須《アマコモリモノモフトキニホトヽキスワカスムサトニキナキトヨマス》
 
發句は雨隱なり、第六第八にもよめり、落句の等余母須をトヨマスと誤て點ぜり、トヨモスと讀てとよますと通して意得べし、第十九にもよめり、神代紀上云、廼復《スナハチマタ》扇《トヨモシ》v天(ヲ)扇《トヨモシ》v國《クニヲ》上(リ)2詣(ヅ)于天(ニ)1、
 
初、あまこもりものもふ時に あまこもりは雨にふりこめらるゝなり。第八にも雨こもり心ゆかしみ出みれはなとよめり。とよもすはとよますなり。神代紀上云。廼《スナハチ》復《マタ》扇《トヨモシ》v天(ヲ)扇(シ)v國(ヲ)上(リ)2詣(ツ)于天(ニ)1。舒明紀に諮歌《ワサウタ》三首《ミウタ》の中に、其二に
  をちかたのあはのゝきゝしとよもさすわれはねしかと人そとよもす
第十九長哥にちとせほきほきゝとよもし云々。とよもしも令響なり。神代紀に扇の一字とよもすとよみたれと、まことにはかうなり
 
3783 多婢爾之弖伊毛爾古布禮婆保登等伎須和我須武佐刀爾許欲奈伎和多流《タヒニシテイモニコフレハホトヽキスワカスムサトニコヨナキワタル》
 
許欲、【別校本、欲作v余、】
 
初、こよなきわたる こゆなきわたるとよめるにおなし。從此間なり。所しもこそあるへきにの心なり
 
3784 許己呂奈伎登里爾曾安利家流保登等藝須毛能毛布等伎(85)爾奈久倍吉毛能可《コヽロナキトリニソアリケルホトヽキスモノモフトキニナクヘキモノカ》
 
3785 保登等藝須安比太之麻思於家奈我奈家婆安我毛布許己呂伊多母須敝奈之《ホトヽキスアヒタシマシオケナカナケハアカモフコヽロイタモスヘナシ》
 
奈氣婆、【幽齋本、家作v氣、】
 
イタモはいともなり上にもありき、
 
初、ほとゝきすあひたしましおけ なくまをしはしおきてなけなり。いたもすへなしはいともすへなしなり。第十四になみのほのいたふらしもよとよめるも、いとふらしもよなり。宅守の蔵部女を捨て此娘子をむかへられけるは、道に背ける故に、流人となられけれとりよみかはされたる哥は、ともにあはれなるものなり
 
右七首中臣朝臣宅守寄2花鳥1陳v思作歌
 
萬葉集代匠記卷之十五
         〔2021年9月8日(水)午前8時55分、巻15初、入力終了〕
 
(1)萬葉集代匠記卷之十六上
                   僧  契沖 撰
                   木 村 正 辭 校
 
初、萬葉集卷第十六目録 從此去至第二十謬尤甚矣
有由縁雜歌 至v下縁の下に并の字ある心は、共に雜歌なりといへとも、由縁あると、ことなる由縁なき雜歌もあるゆゑに并にとはいへり。今なきは脱せるなるへし。故の字日本紀に加列と訓したるは此國の古語にて、後に由惠とよむは、此由縁の義にて音を和語に用けるにや。師の字なとの類なるへし。此集には由惠とのみかきたるを、後に由倍に轉せるは誤なるへし
 
初、二壯士誂 此字挑と通する歟。<戦國策注誂誘也。日本紀、誂【アトラフ】誘【アトフ。】あとらふはあつらふとおなし。あとふもおなし心なり。今も挑にはあらすして共に誘ふにや。但語勢は挑と見えたり>入林、入を誤て人に作れり
 
初、男女衆集 夫婦の下に其婦二字あるへし。哥後注には有。讃の字偏をうしなへり
初、時娘子時別夫 此目つたなし。又更娶2他妻1といへり。これ肝要なるを何そはふける
 
初、時娘子 時の字哥の注に有てはよし。目録には前後ともに無用にや
 
初、贈歌一種 此次下の目を省て今贈答歌二首とかくか。さらすは下の目をこゝに擧て、今すこし筆削すへきものを
 
初、椎野連長年哥一首 又和哥一首 此ふたつの目六大にあやまれり。長年か哥にあらす。和する哥にあらす
 
初、獻新田部親王哥一首 脱2部字1
 
初、消奈行文大夫 脱2消奈姓1
 
初、巨勢朝臣豐人聞之酬咲哥 脱2朝臣1
 
初、忌部首黒麻呂 脱v首
 
初、又無常歌二首 又字除はや
 
初、大伴宿祢家持嗤咲 疲當v作v痩
 
初、又戀歌 又字除はや
 
有2由縁1并雜歌
 
昔者有2娘子1字曰2櫻兒《サクラコト》1也、于v時有2二壯士1、共|誂《イトム》2此娘1而|捐《ステヽ》v生挌競《アラソヒキホヒ》、貪v死|相敵《アヒカタキナム》、於v是娘子|歔欷《キヨキシテ》曰(ク)、從2古來1于v今、未v聞3未v見4一女之身往(キ)2適《ムカフコト》二門1矣、方(ニ)今壯士之意有v難2和平1、不v如2妾死(シテ)相害(スルコト)永(ク)息《ヤメムニハ》1、爾乃尋(ネ)2入(テ)林(ノ)中(ニ)1、懸v樹|經《クヒレ》死(ヌ)、其兩(リノ)壯士不v敢2哀慟1血泣《チニナイテ》漣《ナカル》v襟《コロモノクヒニ》、各陳2心緒1、
 
 
作歌二首
 
(2)誂は挑と通用、歔欷、離騷云、曾(テ)歔欷(シテ)余(レ)欝悒兮、史紀留侯世家云、戚夫人※[口+虚]※[目+希]流v涕、
 
3786 春去者挿頭爾將爲跡我念之櫻花者散去香聞《ハルサラハカサシニセムトワカオモヒシサクラノハナハチリニケルカモ》
 
名を櫻兒と云へば妻にせむと思ひし心をかざしにせむと思ひしとは云へり、
 
初、はるさらはかさしに 櫻兒の名によせて妻にせんとおもひし心をかさしにせんと思ひしといへり
 
3787 妹之名爾繋有櫻花開者常哉將戀弥年之羽爾《イモカナニカケタルサクラハナチラハツネニヤコヒムイヤトシノハニ》
 
初、妹か名にかけたる櫻 花さかはを、ちらはとあるはかんな誤れり。いやとしのはには弥毎年なり。第十九にとしのはにきなくものゆゑほとゝきすとよめる哥に毎年とかきて注に云毎年謂2之(ヲ)等之乃波(ト)1
 
或曰昔有2三男1、同娉2一女1也、娘子嘆息(シテ)曰(ク)、一女之身、易v滅如v露、三雄之志、難v平如v石、遂(ニ)乃|彷2徨《ハウクワウ》池上(ニ)1、沈2没(ス)水底(ニ)1、於v時其壯士等、不v勝2哀|頽《タイ》之至1、各陳2所心1作歌三首、【娘子字曰2鬘兒1也】
 
初、彷徨 兩字共从v人。未v考2通否1。哀頽、類作v頽誤。所心、此集有2此心字1出處未v考
 
3788 無耳之池羊蹄恨之吾妹兒之來乍潜者水波將涸《ミヽナシノイケシウラメシワキモコカキツヽカクレハミツハカレナム》
 
無耳池は耳成山の麓なるべし、羊蹄《シ》は助語なり、かきやうは第十に注せり、潜者はカヅカバと讀べし、水ハカレナムは水はかれなでの意なり、六帖池の歌に猿澤の池もつらしな吾妹子が玉藻潜かば水もひなまし、若今の歌の變ぜるにや、
 
初、みゝなしの池しうらめし 耳なし山大和にあれはそこなるへし。羊蹄は十卷の第九葉にもかきてそこに注しき
 
(3)3789 足曳之山縵之兒今日往跡吾爾告世婆還來麻之乎《アシヒキノヤマカツラノコケフユクトワレニツケセハカヘリコマシヲ》
 
我に告たらば身を投《ナゲ》しむまじければ假令池の邊まで行たりとも還來なまし物をとなり、
 
初、あしひきの山かつらのこ 日蔭のかつらのみならす、さま/\の葛の山にあれは鬘子といはむためにかくはつゝけたり。かへりこましをは、我に告たらは身をなけさすましけれは、たとひ池邊にゆきたりともかへりきなましものをとなり。縵は玉篇云。莫旦切大(ナル)文也とあれとも、日本紀にも此集のことくに用たれは、鬘と通するにこそ
 
3790 足曳之玉縵之兒如今日何隈乎見管來爾監《アシヒキノタマカツラノコケフノコトイツレノクマヲミツヽキニケム》
 
足曳とのみ云ひて山とせること集中に多し、玉縵之兒は山葛を玉葛とほゆて女の名に云ひなせり、腰句より下は是より先何れの日か終に身をなげむと今日の如く此池に臨みて能見置て此には來けむとなり、そも/\集中に勝鹿眞間娘子、葦屋海邊處女、此卷の櫻兒鬘兒等おの/\容儀の勝れたるがために却て身をそこなへり、悲しきかな、左傳云、鄭徐吾犯之妹美【犯、鄭大夫、】公孫楚聘(ス)v之矣、【楚、子南穆公孫、】公孫黒又使2強委1禽焉、【禽雁也、納采用v雁、】犯懼告2子産1、子産曰是國(ノ)無(キナリ)v政、非2子(カ)之患1也、唯所v欲v與、犯請2於二子1、請使2女擇(ハ)1焉、皆許v之、子皙盛飾入、布v幣而出、【布2陳贄幣1、子皙(ハ)公孫黒、】子南戎服入、左右射、超乘(シテ)而出、女自v房觀v之(ヲ)曰、子皙信美矣、抑子南夫也【言丈夫、】夫夫婦婦所v謂順也、適2子南氏1、子皙怒、既而〓甲(シテ)以見2子南1欲3殺v之而取2其妻1、子南知v之執v戈逐v之及v衝、撃v之以(ス)v戈(ヲ)、【衝交道、】子皙傷而歸云々、此は女に依(4)て夫の爭そへるなり、韓馮が妻石崇が妓の緑珠はかほよきに依て人をも失なひ身をも殺せり、和漢相似たり、
 
初、足曳の玉かつらのこ 足引とのみいひて山に用たる事、此集にも第三にあしひきのいはねこゝしみとよみ、第十一にあしひきのあらし吹夜はとよみ、管家はあしひきのかなたこなたに道はあれとゝよませたまへり。かつらは山におふる故に玉かつらの兒とはつゝけたり。けふのこといつれのくまをみつゝきにけむとは、これよりさきいつれの日か、終に身をなけむとけふのことく此池にのそみてよく見おきてこゝにはきけんとなり。くまとはかくれたる所をいへり。此集に勝鹿眞間娘子末玉名娘子、葦屋海邊處女、此卷櫻兒、鬘兒等おの/\容儀すくれてかへりて身をそこなへり。かなしきかな。左傳曰。鄭徐吾犯(カ)之妹|美《カホヨシ》【犯鄭大夫。】公孫楚聘(ス)v之(ヲ)矣。【楚子南穆公孫。】公孫黒又使2強(テ)委《サツケ・オカ》1v禽(ヲ)焉。【禽(ハ)雁也。納采用v雁。】犯懼(テ)告2子産(ニ)1。子産曰。是國(ノ)無(ナリ)v政。非2子之患1也。唯所(ナリ)v欲(セム)v与(ント)。請使2女(ヲ)擇(ハ)1焉。皆許(ス)之。子皙盛(ニ)飾入|布《シキテ》v幣而出。【布2陳(スルソ)贄幣(ヲ)1。子皙(ハ)公孫黒。】子南戎服(シテ)入左右射(テ)超乘(シテ)而出。女自(シテ)v房觀(テ)之(ヲ)曰。子皙(ハ)信(ニ)美(ナルカナ)矣。抑子南(ハ)夫也。【言丈夫。】夫(ハ)夫(タリ)婦(ハ)婦(タラハ)所謂順(ナリト云)也。適2子南氏(ニ)1。子皙怒(ル)。既而〓《ツヽミテ》v甲(ヲ)以見(テ)2子南(ヲ)1欲3殺(シテ)v之而取(ント)2其妻(ヲ)1。子南知v之執(テ)v戈(ヲ)逐之及(テ)v衝《チマタニ》撃(ツニ)v之以(ス)v戈(ヲ)。【衝(ハ)交道。】子皙|傷《キスツイテ》而歸云々。
 
昔有2老翁1、號曰2竹取翁《タカトリノオキナト》1也、此翁季春之月(ニ)登《ノホテ》v丘《ヲカニ》遠(ク)望(ム)、忽(ニ)値(フ)2※[者/火]v羮之|九箇女子《コヽノヽヲトメ》1也百(ノ)嬌《コヒ》無(ク)v儔(クタクヒ)花容無v止、于v時娘子等呼(テ)2老翁1嗤(テ)曰舛父來(テ)乎吹2此(ノ)燭火1也、於v是翁曰、唯唯《ヰヽ》、漸(ク)※[走+多]《オモムキ》徐(ク)行(テ)著《ツキ》2接(ハル)座(ノ)上《ホトリニ》1、良《ヤヽ》久(シテ)娘子等皆(ナ)共(ニ)含(テ)v咲(ヲ)相推(シテ)讓v之曰、阿誰呼2此(ノ)翁(ヲ)1哉、爾(シテ)乃(チ)竹取翁謝v之曰、非慮之外偶逢(ヘリ)2神仙(ニ)1、迷惑之心無(シ)2敢(テ)所(ロ)1v禁(スル)、近狎之罪、希(クハ)贖(フニ)以(テセム)v謌即作歌一首并短歌、
 
竹取翁、今大和國十市郡に鷹取山あり、昔は竹取とかけりと云へば此翁彼處に住けるにや、源氏物蹄のおやと云へる竹取物語は此竹取翁をたけとりと讀てさて名を借て作りけるにや、彼物語の初云、今は昔竹収の翁と云もの有けり、野山にま(5)じりて竹を取つゝよろづの事につかひけり云々、今登丘遠望と云意あり、大和物語の歌にはたけとりをもたかとりとよめり、六百番歌合の判詞にはたかとりたけとり別なる由かゝる、此集中に仙女にあへるは第三に吉野味稻《ヨシヌノウマシネ》が仙|柘枝《ツミ》にあへる、第五に帥大伴卿の玉島(ノ)仙女にあへる、第九に浦島(ノ)子水江にて仙女にあへると今と以上四人なり、忽値2※[者/火]羮之九箇女子1也、第十云、春日野に煙立見ゆ云々、花容無v止は今按止は匹を疋とかけるを誤れるなるべし、舛父は叔父を寫し誤れる歟和名集云、釋名云仲父(ノ)之弟曰2叔父1、一云阿叔者父之弟也、此上に云、釋名云、父之兄曰2世父1又曰2伯父1【和名睿乎知、】伯父之弟曰2仲父1、是仙女が竹敗翁ををとをぢに比して呼詞なり、近狎之罪、戰國策云、服子曰、公之客獨有2三罪1、望v我(ヲ)而笑是狎也、希贖以v謌、史記范雎列傳云、范雎謂2須賈1曰、汝罪有(ル)幾、曰擢2賈髪1以續2【古與v贖通用】賈之罪1尚未v足、
 
初、昔有2老翁1號曰2竹《タカ》取(ノ)翁(ト)1也 此集の中に仙女にあへることを載たるは、第三卷|仙柘彼《ヒシリノツミノキカ》歌、これは吉野|美稻《ウマイネ》かあへる仙女の名なり。第五に山上憶良松浦河にて仙女にあひて贈答の哥あり。第九に浦島子丹|水江《スミノエ此集・ミツノエ日本紀》にて仙女にあへることをよめる哥、をよひ此翁なり。帥大伴卿か琴娘子を夢に見、家持の鷹を見られけるなとは此次なり。源氏物語に、物語のはしめといへる竹取物語は、此翁の名にもとつけりと見えたり。彼物語にいはく。いまはむかしたけとりのおきなといふもの有けり。野山にましりてたけを取つゝ、よろつの事につかひけり。名をはさるきのみやつことなんいひける。其竹の中にもとひかる竹けなんひとすちありけり。あやしかりてよりてみるにつゝの中ひかりたり。それをみれは三すむはかりなる人、いとうつくしうてゐたり。おきないふやう。われ朝こと夕ことに見る竹の中におはするにてしりぬ。子になり給ふへき人なめりとて、手にうちいれて家へもちてきぬ。めのをんなにあつけてやしなはす。うつくしきことかきりなし。いとおさなけれは箱にいれてやしなふ。竹とりのおきな竹とるに、此子をみつけてのちに竹をみつくる事かさなりぬ。かくておきなやう/\ゆたかになりゆく。此ちこやしなふほとにすく/\とおほきになりまさる。三月はかりになるほとによきほとなる人になりぬれは、かみあけなとさうしてかみあけさせ、きちやうの内よりも出さす。いつきかしつきやしなふほとに、此ちこのかたちのけさうなること世になく、屋のうちはくらきところなくひかりみちたり。おきなこゝちあしくゝるしき時も、此こを見れはくるしき事もやみぬ。はらたゝしきこともなくなくさみけり。おきな竹をとることひさしくなりさかへにけり。此子いとおほきになりぬれは、名をみむろといむへのあきたをよひてつけさす。あきたなよたけのかくやひめと付侍る。此ほと三日うちあけあそふ。よろつのあそひをそしける云々。竹取翁とかきたれは、たかとりともたけともよむへけれは、彼物語はたけとりとよみて、こゝのゝをとめに准して、かくやひめをは見つけさせたるなり。さて彼物語つくりたる人は博覽の人なりけるにや。おもひよらぬ内典を取あはせてかけり。こゝに用なけれと事の次にかの物語見む人のため、又つくりけむ人の才學をあらはさむために、ふと見出たれはかきつく。不空三藏の譯し給へる大寶廣博樓閣經とて三卷の經有。大藏に入れり。弘法大師請來録に載らる。其經第一卷云。佛言。乃往古昔不可思議【乃至】有2三仙人1【乃至】時(ニ)彼仙人得(テ)v法(ヲ)歡喜(シテ)心(ニ)生(シテ)2踊躍(ヲ)1於2其住處(ニ)1便捨(ツ)2身命(ヲ)1。所(ノ)v捨(ル)之身猶如(シテ)2生酵(ノ)1消融(シテ)入v地(ニ)。即於2歿處(ニ)1而生(ス)2三竹(ヲ)1。金(ヲ)爲(シ)2莖葉(ト)1七寶(ヲ)爲(ス)v根(ト)。於2枝梢上(ニ)1皆有2眞珠1。香氣芬馥(シテ)常(ニ)有2光明1。所有《アラユル》見(ル)者無v不(ト云コト)2欣悦(セ)1。其(ノ)竹生長(シテ)十月(ニ)則|自《ヲノ》剖裂(ス)。各於2竹内(ニ)1生(ス)2一童子(ヲ)1。頗貌端正(ニシテ)令2人(ヲシテ)樂見(セ)1。最勝端嚴(ニシテ)光色殊麗相好成就(ス)。時(ニ)三童子即於2是時(ニ)1竹下(ニシテ)結跏趺坐(シテ)、即入(ル)2正定(ニ)1。至(テ)2第七日(ニ)1於2其中夜(ニ)1皆成(ス)2正覺(ヲ)1。其身金色(ニシテ)、三十二相、八十種好圓光嚴飾(ナリ)。時(ニ)彼三竹皆變(シテ)成2七寶(ノ)樓閣(ト)1。云々。事の次に猶見及ふ所を引侍らん。智度論第十云。眞珠(ハ)出(ツ)2魚腹(ノ)中、竹(ノ)中、※[虫+也]腦(ノ)中(ヨリ)1。史記西南夷列傳云。西南夷(ハ)君長以v什(ヲ)數(フ)。夜郎最大(ナリ)。【索隱曰。案1後漢書1云。夜郎(ハ)東(ノカタ)接(ハル)2交趾(ニ)1。其(ノ)地在(リ)2胡(ノ)南(ニ)1。其(ノ)君長本出2於竹(ヨリ)1以v竹而爲v姓也。】後漢書西南夷傳(ニ)云。夜郎(ハ)者初(メ)有2女子1浣《カハアミス》於〓水(ニ)1。有(テ)2三節大竹1流(レテ)入(ル)2足間(ニ)1。聞(テ)3其中(ニ)有(ルヲ)2號《ナク》聲1、剖(テ)v竹(ヲ)視(レハ)v之(ヲ)得(タリ)2一男兒(ヲ)1。歸(テ)養(フ)v之(ヲ)。及(テ)v長(トナルニ)有2才武1。自《ミ》立(テ)爲《ナテ》2夜郎〓(ト)1以v竹(ヲ)爲v姓(ト)史記趙(ノ)世家(ニ)曰。遂(ニ)率(テ)2韓魏(ヲ)1攻(ム)v趙(ヲ)。々襄子懼(テ)乃奔(テ)保(ト)晉陽(ヲ)1。原過從v後(ロ)至(ル)。於2王澤(ニ)1見(ル)2三人(ヲ)1。自v帶以上(ハ)可(ク)v見(ツ)、自v帶以下(ハ)不v可(ラ)v見(ル)。与(ヘテ)2原過(ニ)竹(ノ)二節(アテ)莫(キヲ)1v通(スルコト)爲(ニ)v我(カ)以(テ)v是(ヲ)遺(レト云)2趙母〓(ニ)1。原過既(ニ)至(テ)以告2襄子(ニ)1。襄子|齊《モノイミスルコト》三日(シテ)親|自《ミ》剖(ニ)v竹(ヲ)有(テ)2朱書1曰。趙母〓余(ハ)霍泰山山陽〓天使(ナリ)也。云々かやうのことをもふくめるなるへし。値※[者/火]羮之九箇女子也。第十に
  春日野に煙立つみゆをとめらし春野の|うはき《・薺蒿》つみて|に《・※[者/火]》らしも
花容無止、案止(ハ)當(ニ)v作v匹。舛父、舛叔寫誤。近狎之罪、戦國策(ニ)云。服子(カ)曰。公(カ)之客獨有2三(ノ)罪1。望(テ)v我(ヲ)而笑(フ)是(レ)狎(タルナリ)也。希※[貝+賣]以v謌。史記范雎列傳(ニ)曰。范雎(カ)曰。汝(カ)罪有(ル)v幾(ハクカ)。曰擢(テ)2賈(カ)髪(ヲ)1以|續《アカフトモ》2【古與v贖通用】賈之罪(ヲ)1尚未(タ)v足(ラ)。長流か抄にいはく。此長哥一首并九娘子かよめるうた、此集において難義の第一なり。先賢不釋之。後々僻案の士是を注すること有といへとも用るにたらす。よりてこれをさしおくものなり。今いはくまことに此哥始終はよく心得ることかたしといへとも、およそはおもむき聞え侍り。まつ似たる詩を引侍らん。唐劉庭芝(カ)代(ル)d悲(シム)2白頭(ヲ)1翁(ニ)u詩(ニ)云。洛陽城東桃李花、飛來飛去(テ)落2誰(カ)家(ニカ)1。洛陽(ノ)女兒惜(ム)2顔色(ヲ)1、行(テ)逢(テ)2落花(ニ)1長(ク)歎息(ス)。今年花落(テ)顔色改(マリ)、明年花開(テ)復誰(カ)在(ム)。已(ニ)見2松栢(ノ)摧(テ)爲(ルヲ)1v薪(ト)、更(ニ)聞(ク)2桑田(ノ)變(シテ)成(ルヲ)1v海(ト)。古人無(シ)v復(ルコト)洛城(ノ)東、今人還(テ)對(ス)落花(ノ)風。年々歳々花相(ヒ)似(タリ)、歳々年々人不v同(カラ)。寄(ス)2言(ヲ)全盛(ノ)紅顔子(ニ)1、應v憐(ム)2半死(ノ)白頭翁(ヲ)1。此(ノ)翁(ノ)白頭眞(ニ)可v憐(ム)、伊(レ)昔(シ)紅顔(ノ)美少年。公子王孫芳樹(ノ)下、清歌妙舞落花(ノ)前。光禄池臺開(キ)2錦?(ヲ)1、將軍樓閣畫(ク)2神仙(ヲ)1。一朝臥(シテ)v病(ニ)無2相識(ル)1、三春(ノ)行樂在(ン)2誰(カ)邊(ニカ)1。宛轉(タル)蛾眉能(ク)幾時(ソ)、須臾(ニ)鶴髪亂(テ)如(シ)v絲(ノ)。但看(ル)古來歌舞(ノ)地、惟有2黄昏鳥雀(ノ)悲(ム)1
 
3791 緑子之若子蚊見庭垂乳爲母所懐搓襁平生蚊見庭結經方衣氷津裡丹縫服頸著之童子蚊見庭結幡袂著衣服我矣丹因子等何四千庭三名之綿蚊黒爲髪尾信櫛持於是蚊寸(5)垂取束擧而裳纒見解亂童兒丹成見羅丹津蚊經色丹名著來紫之大綾之衣墨江之遠里小野之眞榛持丹穩之爲衣丹狛錦※[糸+刃]丹縫著刺部重部波累服打十八爲麻續兒等蟻衣之寶之子等蚊打栲者經而織布日暴之朝手作尾信巾裳成者之寸丹取爲支屋所經稻寸丁女蚊妻問迹我丹所來爲彼方之二綾裏沓飛鳥飛鳥壯蚊霖禁縫爲黒沓刺佩而庭立住退莫立禁尾迹女蚊髣髴聞而我丹所來爲水縹絹帶尾引帶成韓帶丹取爲海神之殿盖丹飛翔爲輕如來腰細丹取餝氷眞十鏡取雙懸而已蚊果還氷見乍春避而野邉尾回者面白見我矣思經蚊狹野津鳥來鳴翔經秋僻而山邊尾往者名津蚊(6)爲迹我矣思經蚊天雲裳行田菜引還立路尾所來者打氷刺宮尾見名刺竹之舍人壯裳忍經等氷還等氷見乍誰子其迹哉所思而在如是所爲故爲古部狹狹寸爲我哉端寸八爲今日八方子等丹五十狹邇迹哉所思而在如是所爲故爲古部之賢人藻後之世之堅監將爲迹老人矣送爲車持還來《ミトリコノワクコカミニハタラチシハヽニイタカレタマタスキハフコカミニムスフカタキヌヒツリニヌヒキクヒツキノウナヒコカミニハユフハタノソテツキコロモキシワレヲニヨレルコラカヨチニハミナシツラナルカクロナルカミヲマクシモテコヽニカキタルトリツカネアケテモマキミトキミタレウナヒニナレルミツラニツカフイロニナツケクルムラサキノオホアヤノコロモスミノエノトホサトヲノヽマハリモチニホシシキヌニコマニシキヒモニヌヒツケサシヘカサネヘナミカサネキテウチソハシヲミノコラアリキヌノタカラノコラカウツタヘハヘテオルヌノヲヒニサラシアサテツクラヒシキモナセハシキニトリシキヤトニヘテイネスヲトメカツマトフトワレニソキニシヲチカタノフタアヤウラクツトフトリノアスカヲトコカナカメイミヌヒシクロクツサシハキテニハニタヽスミイテナタチイサムヲトメカホノキヽテワレニソコシミハナタノキヌノオヒヲヒキオヒナレルカラオヒニトラシワタツミノトノヽミカサニトヒカケルスカルノコトキコシホソニトリテカサラヒマソカヽミトリナメカケテオノカミノカヘラヒミツヽハルサリテノヘヲメクレハオモシロミワレヲオモフカサノツトリキナキカケラフアキサケテヤマヘヲユケハナツカシトワレヲオモフカアマクモヽユキタナヒキカヘリタチミチヲクルニハウチヒサスミヤヲミテモナサスタケノトネリヲトコモシノフラヒカヘラヒミツヽタカコソトヤオモヒテアラムカクソシコシイニシヘノサヽキシワレヤハシキヤシケフヤモコラニイサニトヤオモヒテアラムカクソシコシイニシヘノカシコキヒトモノチノヨノカタミニセムトオヒヒトヲオクリシクルマモチカヘリコネ》
 
氷津裡丹、【幽齋本、裡作v裏、】  信櫛持、【幽齋本云、マクシモチ、】  囘著、【幽齋本、囘作v廻、】
 
此歌は本より高古なる上に爛脱せるにやと見ゆる處もおほく極めて意得がたけれど推らるゝ程をだに注して後の人に便すべし、若子蚊見庭は若子之身にはなり、下皆此に准らふべし、發句より母所懷までは翁がみづからの生れ出しやがてより其一年の程を云、搓襁は今|搓手襁《ヨリタスキ》なりけむを手の字の落たるなるべし、細き物を搓て懸させたる手襁《タスキ》なるべし、源氏物語云、姫君のたすき引ゆひたまへる胸つきうつくしけさ添ひて見え給へる、清少納云、いみじう肥たるちごの二つ許なるが白ううつ(8)くしきがふたあゐのうすものなどきぬながくて手襁掛たるがはひ出くるもいとうつくし、平生をハフコとよめるは匍時はひらなればにや、結經方衣は木綿肩衣にや、第十三に白木綿の我衣手とよみたれば白妙の肩衣と云意歟、氷津裡丹縫服は未v考、延喜式に車棧と云へる事あり、階などのやうなる物にや、これらに通へる事あるか後の人考ふべし、以上四句は二三歳の間を云へり、頸著とは衿を著たる衣著る程の童子となれる比を云故に頸著を以て枕詞とす、すそつけの衣など云に准らへばクビツケノと讀べきか、結幡とは結は上に云如く木綿歟、幡は倭文幡《シヅハタ》と云へる幡にて絹布の名にや、倭文《シヅ》とのみも云を幡を添へて云へる其故あるべし、若は纈をゆはたとよむそれにや、綵纈也と字書に注したれば、染ませたるを云と見えたり、袂著衣はソデツケゴロモと讀べし、第二十云、宮人乃蘇泥都氣其呂母《ミヤヒトノソデツケゴロモ》云々、此に准らふべし、丹因子等何とは我に似よりたる同じ程の子等がなり、四千庭《ヨチニハ》、此四千は第五に余知古良等手多豆佐波利提《ヨチコラトテタヅサハリテ》とあるを思ふに四千は上の子等何と云上に有て庭は衍文なるぺし、句の字數のとゝのほらざるは古歌の例歟、或は五字の一句落る歟、此より下爛脱したる歟不審多し、三名之綿はミナノワタと讀べし、今の點と仙覺抄と同じ、大きに誤れり、蚊黒爲髪尾はカグロキカミヲと讀べし、爲は衍文なり、童兒丹成見は(9)ワラハニナシミと讀べし、推量するに似よりたる子等が來て、いで髪ゆひて參らせむとて、或は取束て纒上て見、或は解亂して大わらはのすがたになして見などさま/”\に戯ふれ弄《マサグ》る意なるべし、羅丹津蚊經はサニツロフと讀べし、第七に住吉之岸之松根打曝縁來浪之音之清羅《スミノエノキシノマツガネウチサラシヨリクルナミノオトノサヤケサ》、此はての羅の字を以て證とすべし、大綾之衣は紫の綾の紋の大きなるを云歟、綾の字は書たれど大文にて紫にて大きなる紋をつけたる衣歟、墨江之より下三句は第七に此を上句としてすれる衣の盛過行と云歌ありき、刺部は紐をさすか、重部は衣を重ぬるなるべし、波累は波のたゝみ重なる如く衣を著重ぬる意歟、服打十八爲はキテウチソヤセバと讀べき蠍、俗語に物をほめそやすなど云なるは程より過てほめなして人に誇る心をつくるやうの意なり、拾遺集物名によめるそやしまめもほどふるばかり※[者/火]たるを云なるべし、されば打そやし〔四字右○〕はほこりかにふるまふ意を云へり、麻屬兒等は此より下はかほよき女も見にくき女も皆我に心を著し事を云、今按蟻衣之寶之子等蚊と云に准らへて思ふに廠續兒等の上にも落たる句有べし、今試に補なはゞ第一に打麻乎麻續王《ウチヲヲヲミノオホキミ》とよめるに准らへて打麻|乎《ヲ》と云べし、蟻衣は第十四に注せしが如し、寶之子とは第五にまされる寶子にしかめやもとよめる意なり、此句より打栲者と云にはつゞかず、下の彼方之と云(10)につゞけり、此故に先注す、彼方之二綾裏沓とは異國などより來る二綾の裏をつけたる沓なる故に彼方之とは云へるか、此國にても遠く出さば彼方と云べし、飛鳥云々、アスカヲトコガナガメイミ、ヌヒシクログツサシハキテとは霖をいむは革などのしめりて縫がたければ歟、黒沓は和名集云、唐令(ニ)云、諸(ノ)〓履並烏色、上に二綾裏沓と云へるは襪にて黒沓は上につけてはく沓歟、或は二綾裏沓を著て或は黒沓を著《ハ》きと云へる歟、庭立住退莫立より下四句は退の字は今按ソキと讀べき歟、親などの護りてかりそめに立出るをも遠くそきてな立出そと誡むる處女なり、をとめは上のをみのこら寶のこらなり、麻續兒等より此まではかほよき女の我に依來しを云へり、此より立返て注すべし、打栲者より我丹所來爲に至るまでの十句は賤しくて見にくき女も我に心懸て依來るを云、打栲者は今按ウツタヘニと讀べし、うつたへにと云詞は第四第十に出て既に注せり、ひとへにの心なり、但此詞は白布の單《ヒトヘ》を本としてたへの詞にも云とみえたり、今は其本の白布の單の意なり、者の字をに〔右○〕と云に用たるは第四になか/\にと云に中中者とかけるが如し、アサテツクラヒは麻手作りなり、シキモナセバは醜裳をなせばなり、之寸丹取爲はシキニトラシと讀べし、しき〔三字右○〕は又醜なり、さらぬだに見にくさ裳をいとゞ見にくげに著成すなり、支屋所經(11)は支の下にき〔右○〕とよむべき字ありてシキヤニフルなるべきを吉伎等の字を落せるなり、しきやは第十三の如し、稻寸はイナギと讀べし、稻置なり、政務紀に五年秋九月に縣邑置2稻置(ヲ)1とあり、今の世の名主なるべし、若はいなつきと云べきをつ〔右○〕もじを略せる歟、丁女は今按丁は強也と注したればヲトメと點ぜるはかなへらず、古語拾遺によらばおずめ〔三字右○〕とも讀べけれどたゞヲミナと讀べし、さる女まで妻問とて我許にこしとなり、來爲は上に注せるにはこし〔二字右○〕と點じたれば今も一具に讀べし、此より水縹と云に移るべし、ミハナダは水色のはなだの意なり、玉篇云、縹【匹妙切、青白色、】今の俗水色と云は即はなだ色なり、引帶成はヒキオビナシと讀べし、和名集云、衿帶、陸詞云、衿【音與v襟同、和名比岐於比、】小帶也、釋名云、衿禁也、禁(シテ)不v得2開散1也、カラオビニトラシは又云、※[糸+辟]帶、唐韻云、※[糸+辟]【蒲革反、與v〓同、今案加良久美、】織v絲(ヲ)爲v帶(ト)也、此からくみなるべし、海神之殿に懸たる華葢《キヌガサ》なり、海神の宮殿の葢に蝶〓の飛翔ると云事内外の典籍の中に定て本據ある事なるべし、後の人考がへ給ふべし、すがる〔三字右○〕の事は第九に見えて注し侍りき、眞十鏡取雙懸而とは前後にともかゞみを懸て相てらさせて見るなり、己蚊果はオノガカホと讀べし、第三に見杲石山《ミガホシヤマ》、第十に朝杲《アサカホ》とかけり此に准らふべし、若彼は然り今は果ならば果實の義を身に借てかけるなり、カヘラヒ見ツヽは身に能叶へどもかねても心をつけ(12)てつくろふをば然云べきなり、春サリテは春來りてなり、第十に春は來にけりと云心を春去にけりとよめるにて知べし、サノツトリは雉子なり、第十三に野鳥雉動《ヌツトリキヾスハトヨム》と云に注せしが如し、天雲モ行タナビキは潘安仁が作れる楊仲武誄云、歸鳥頡※[亢+頁]行雲徘徊、愛すると痛むと事は替れども雲鳥のすゝまぬは同じ、カヘリ立道ヲ來ルニハとは野遊事をはりて大路を歸來るにはなり、宮尾見名をミヤヲミテモナと點ぜるは大きに誤れり、ミヤノヲミナと讀べし、下の舍人壯に對せり、シノブラヒは忍ぶらしの意なり、カヘラヒミツヽは顧つゝなり、誰子ぞとや思ひてあらむ此方より彼宮の女、舍人男が顧する意を酌て云なり、人の子のよきを見ては先親より思はるゝ習なり、此下又爛脱あり、イサニトヤオモヒテアラムと云二句を此に引あげてつゞくべし、イサニトヤとは我を去來やとさそはまほしう思ひてやあらむとなり、二つの如是所爲故爲、一つは衍文にて一つは此所に有べきか、上に段々若子のり時より全盛までを云ひ盡したればかくのごとくぞし來しと云なり、古部狹々寸爲我哉とは昔身の盛にてさゝめきし我やなり、ハシキヤシは下の子等に付たる詞なり、さて此子等丹の下に數句ありて古部之とつゞきけむを落たるにや意も收まらずつゞきもせぬなり、意を補て云はゞ罵らるべき物とやは思ひし、さればこそ此等の意の句(13)有べし、古部之と云より終までは孝子傳云、原穀者不v知2何許人1、祖年老、父母厭患v之、意欲v棄v之、穀年十五、涕泣苦諫、父母不v從、乃作v輿舁棄v之(ヲ)、穀乃隨收v舁歸、父謂v之曰、爾焉用2此凶具1、穀曰、乃後父老不v能2更作1、得v是以收耳、父感悟愧懼、乃載v祖歸、侍養更成2純孝1、此故事を用たり、老人を罵る仙女を却て誡しむるなり、落句の來をコネと點ぜるは誤なり、若落たる句に然有社など云有らばモテカヘリケレ或はコシなるべし、今のまゝに點ぜばモテカヘリケリと云べし、此穀が車げにも誰上にか、たぐり來らざらむ、
 
初、みとりこのわかこかみには 見庭は身にはなり。搓襁、これをたまたすきとよめるは心得かたし。和名集云。孫〓曰。襁褓【響保二音。和名無豆岐】小兄(ノ)被也。史記魯周公(ノ)世家(ニ)曰。成王少(シテ)在2強〓之中(ニ)1【索隱曰。強〓(ハ)即襁褓(ナリ)。古(ハ)字少(シ)假借(シテ)用v之。〇正義曰。襁(ハ)闊(サ)八寸長八尺用約2小兒於背1而負行。〓(ハ)小而(ノ)被也。】玉篇云。襁【居兩(ノ)反。襁褓(ハ)負v兒衣也。織v縷爲v之(ヲ)。廣(サ)八寸長二尺。以負2兒(ヲ)於背(ノ)上(ニ)1也。】搓はよるなれはよりむつきとよむへきにや。たすきは日本紀に手襁とかきてたすきとよめり。しかれはよりたすきとよむへき歟。源氏物語にひめきみのたすきひきゆひたまへるむねつきそ、うつくしさそひて見えたまへる。枕草子にいはく。ふたつはかりなるちこのいそきてはひくるみちに、いとちひさきちりなとのありけるをめさとにみつけて、いとおかしけなるをよひにとらへておとなゝとにみせたるいとうつくし。あまにそきたるちこのめにかみのおほひたるをかきはやらてうちかたふきて物なとみるいとうつくし。たすきかけにゆひたるこしのかみのしろうおかしけなるもみるにうつくし。又いはく。いみしうこえたるちこのふたつはかりなるか、しろうゝつくしきかふたあひのうすものなときぬなかくて、たすきかけたるかはひ出くるもいとうつくし。ひつりにぬひき、未考。縁起式に車|棧《ヒツリ》。くひつきの、未考。ゆふはたの、未考。袖つけ衣は第二十にも宮人の袖つけ衣とよめり。そこに蘇泥都氣其呂母《ソテツケコロモ》とかきたれはこゝをもしかよむへし。によれるこらかとはにあひたるこらかなり。よちにはとは、第五にもよちこらと、てたつさはりてとよめり。それとおなしきか。みなのわたかくろなるかみを、三名之綿をみなしつらなるとは訓あやまれり。みなのわたとよむへし。上に注之。まくしもてこゝにかきたれ、まくしはくしをほめていへり。第七にもおるはたのうへをまくしもてかゝけたくしまとよめり。につかふる、さにつかふといふにおなし。すみの江のとほさとをのゝまはきもて、第七に
  すみのえの遠里をのゝまはきもてすれるころものさかり過行
にほしゝきぬに。第八にもなら山をにほすもみちはとよめり。なみかさねは波の立かさなることく、衣をかさねきるなり。きてうちそやし。そやすは俗に人を吹擧するをほめそやすといふかことし。人にみするやうにふるまふを、うちそやしとはいへり。そやしまめといふ心もおなし心より出たる名歟。拾遺集にそやしまめ、高岳相如
  いさりせしあまのをしへし《スミカハナリ》、いつくそや嶋めくるとて有といひしは
ありきぬ《※[榻の旁+毛]衣歟上注之》のたからのこらか。ありきぬは十四十五にも見えたれと、いかなりともしらす。たからのこらといへるは、第九ににしきあやの中につゝめるいはひ子とよめる心なり。うつたへはとは、うつたへにといふにおなし。打たへは第四第十にもよめり。偏にといふ心なり。打栲者とかきたるをうつたへにともよむへし。しきもなせは。第二にしきもあふやとゝおもひてといへり。されともそこには字の落たらんとおほしき事有て、そのよし注しき。このしきもは重裳《シキモ》にてかさぬるをいふか。者の字は下へつけてはしきに取とよみ、爲支屋所經《シキヤニフル》と讀へき歟。しきやは醜屋《シコヤ》なり。第十三にさすたかむこやのしきやとよめり。稻寸丁女蚊妻問迹。これより上はうるはしくたかき女のあはんと我もとにくるよしをいひ、しきやにふるといふよりは賤しき女もよりくるをいへり。いなきをみなとよむへし。いなつきをとめといふを、つもしを畧せるなるへし。第十四にいねつけはかゝるあかてをとよみ、おしていなといねはつかねとゝもよめり。神樂哥に、さゝなみや、しかのから崎や、みしねつくをみな《眞稻舂女》よといへる、いつれもいやしき女のわさなり。又成務紀に、縣邑(ニ)置(ク)2稻置(ヲ)1。允恭紀云。初皇后隨(タマヒテ)v母《イロハニ》在《マシマシヽトキ》v家(ニ)獨遊(タマフ)2苑《ソノヽ》中(ニ)1。時(ニ)闘※[奚+隹]《ツケノ》國(ノ)造從2傍《ホトリノ》徑1行之。〇然當(テハ)2其日(ニ)1不(ト)v知《オモハ》2貴者《カシコキ人ニマサント云コトヲ》1。於是皇后赦(タマテ)2死刑《コロスツミヲ》1貶《ヲトシテ》2其(ノ)姓《カハネヲ》1謂(ヘリ)2稻置《イナキト》1。今の世に名主といふほとのものにや。それらかむすめなれは、いなきをみなといへるか。猶初の説をまさるといふへし。丁女とかけるは丁は強(ナリ)也。下女の心にてかけり。をちかたのふたあやうらくつ。をちかたといへるは、下の飛鳥のあすかをとこかなかめいみぬひしくろくつといふに對して、よそより出る沓なれは、をちかたのとはいふなるへし。又河内に彼方邑《ヲチカタムラ》といふ村あれは、それならすとも所の名にや。なかめいみとは、沓は日のてる時はくものなれは、くつぬふ男かいみきらふなり。いてなたちいさむをとめかほのきゝてわれにそこし。いてなたちは、親なとのむすめを立出て人にな見えそといさむるなり。そのをとめもわか容儀を聞及て來るなり。みはなたのきぬの帶をとは、水色のはなたといふ心なり。催馬樂に石川のこまふとに帶をとられてからきくゐする、いかなる帶そ、はなたの帶の中は絶たるといへり。引帶或は、ひきおひなしとよむへし。引帶からおひは、ともに結ひ樣をいふなるへし。海神のとのゝみかさに飛かける、すかるのこときこしほそにとりてかさらひ。海神の宮殿にすかるの飛かけるといふ本據いまたしらす。ゝかるは蜂なり。第九第十に有て委尺せり。こしほその事も第九に尺しぬ。とりてかさらひはかさるなり。彼はなたの帶をうるはしくせし事なり。まそかゝみとりなみかけて。數面のかゝみを、前後左右にかけて、相映するをみて、かたちつくりするなり。己蚊杲、杲の字を誤て果に作ておのかみのとよめり。おのかかほなり。上に第三に筑波山をよめる哥のともたちの見かほし山といふに、見杲石山とかき、第十にあさかほは朝露おひてさくといへとゝいふ哥にも、朝杲とかけり。音を取て用たり。さのつ鳥は雉子なり。第十三に野つ鳥、きゝすもとよみとよめり。繼體紀|勾大兄《マカリノオヒネノ》皇子の御哥にも、奴都等※[口+利]《ノツトリ》、枳蟻矢播等余武《キギシハトヨム》とよませたまへり。天雲もゆきたなひきとは、心なき雲鳥まて、わかかたちをめつるやうなりといふ心なり。秦青か悲歌の響遏(ム)2行雲(ヲ)1といへるを借用たるか。終にも故事を引はいふなり。文選潘安仁(カ)楊仲武誄(ニ)曰。皈鳥|※[吉+頁]※[亢+頁]《・トヒノホリトヒクタリ》行雲|徘徊《・タチトヽマル》(ト)。かへりたちみちをくるには、これは野より還る時、都の大路をくるなり。打氷刺宮尾見名。これをはうちひさすみやのをみなとよむへし。宮女なり。下のとねりをとこに對せり。うちひさすも、さす竹も上に注せり。しのふらひはしのふらしの心なり。かへらひみつゝはかへりみつゝなり。誰子そとやおもひてあるらん。拾遺集神樂寄哥に
  しろかねのめぬきのたちをさけはきてならの都をねるは誰子そ
かくそしこしは、かくのことくそして來りしなり。さてこゝには句のみたれましはりて猶落たる句あるへしとおほゆ。そのゆゑは、下のいさにとやおもひてあらんかくそしこしといふ三句は、此下に引つゝきて、いにしへのさゝきし我やはしきやしけふやもこらにとつゝきて、これよりいにしへのかしこき人もといふ間に二句はかりおちたるへし。さゝきし我やは、細許《サヽヤカ》なりしわれやといふ心なり。いさにとやおもひてあるらんとは、いさやとさそふ心にてや有けんなり。第四に岳本天皇の御哥に、人さはに國にはみちて味村のいさとはゆけとゝよませたまふをおもふへし。けふやもこらにといふ次にはいとはれん物とはおもはさりしといふ心の句ありて、一轉していにしへのかしこき人もとはつゝきぬへし。文選阮藉(カ)詠懷(ノ)詩(ニ)云。朝(ニハ)爲《タレトモ》2媚少年1夕暮(ニハ)成(ル)2醜(キ)老《オキナト》1。自(ハ)v非(ス)2王子晉(ニ)1誰(カ)能常(ニ)美好(ナラム)。おい人をおくりし車もてかへりけり。もてかへりこねとあるは誤なり。これは原穀か故事なり。孝子傳云。原穀(ハ)者不v知2何(レノ)許《トコロノ》人(ト云コトヲ)1。祖年老(タリ)。父母厭2患(シテ)之(ヲ)1意(ニ)欲(ス)v棄(ント)v之(ヲ)。穀年十五涕泣(シテ)苦《ネンコロニ》諫(ムレトモ)父母不v從。乃作(テ)v輿(ヲ)舁(テ)棄(ツ)v之(ヲ)。穀乃隨(テ)收(テ)v舁(ヲ)歸(ル)。父謂(テ)v之(ニ)曰。尓(チ)焉《イ ソ》用(ンノ)2此(ノ)凶具(ヲ)1。穀曰。乃後(ニ)父老(ハ)不《シ》v能2更(ニ)作(リ)得(ルコト)1。是(ヲ)以收(ムル)v之(ヲ)耳。父感悟(シテ)愧懼(ル)。乃(ハチ)載(テ)v祖(ヲ)歸(テ)侍養(シテ)更(ニ)成(ル)2純孝(ト)1
 
反歌二首
 
3792 死者水苑相不見在目生而在者白髪子等丹不生在目八方《シナハコソアヒミスアラメイキテアラハシラカミコラニオヒサラメヤモ》
 
生而在者、【官本又云、イキタラハ、】  不生在目八方、【別校本云、オヒスアラメヤモ、】
 
發句は仙女が今死ばこそ白髪と云物を身の上に相見ずあらめなり、翁がみづから死なばこそと云にはあらず、其故は仙女は全盛なるに翁は衰老に及びたればなり、こそ〔二字右○〕と云に水苑を借てかけるは和名集云、漢語抄云、水田【古奈太、】田填也、崇神紀云、其軍衆|脅退《ヲビヘニグ》、則追(テ)破2於河(ノ)北1、而斬v首過v半、屍骨|多溢《サハニハフレタリ》、故号(テ)2其處(ヲ)1曰2羽振苑1、此水田と羽振苑とを(14)引合て案ずるに水を灌《ソヽギ》て作る苑をこそ〔二字右○〕と云歟、さてそれを借れるにや、古事記云、亦斬2波布理其軍士1故號2其地1謂2波布理曾能1、【自v波下五字以v音、】和名集云、山城國|相樂《サカラノ》郡|祝《ハフ》園、【波布曾乃、】此等は日本紀の點と異なり、
 
初、しなはこそあひみすあらめ 此しなはこそは我しなはこそといふなり 水苑は和名集云。漢語抄云。水田【古奈太】田填也。崇神紀云。其軍(ノ)衆《ヒトヽモ》|脅退《オヒヘニク》。則追(テ)破(ツ)。於2河(ノ)北(ニシテ)而斬(コト)v首(ヲ)過(タリ)v半(ニ)。屍骨《ホネ》多溢《サハニハフレタリ》。故《カレ》号(テ)2其處(ヲ)1曰2羽《ハ》(上声)振《フ》(上声)※[草がんむり/宛]《ソト(上声)》1。これを引合ておもふに、水をそゝく苑を水苑《コソ》といふなるへし
 
3793 白髪爲子等母生名者如是將若異子等丹所詈金目八《シラカセムコラモイキナハカクノコトワカケムコラニノラレカネメヤ》
 
初、しらかせんこらもいきなは かくのことは、今わかこらにのらるゝことく、又わかき人にこらものらるゝ時あらむそとなり。原穀か車まことにめくりぬへし。將2若異1《ワカケム》、此かきやうをおもふに、常の文字の法にはかゝはらぬものなり
 
娘子等和歌九首
 
3794 端寸八爲老夫之歌丹大欲寸九兒等哉蚊間毛而將居《ハシキヤシオキナノウタニオホヽホシキコヽノヽコラヤカマケテヲラム》
 
大欲寸を袖中抄には欝悒などをおぼゝしくと云下に出されたれどこれは大きにほしき心歟、ホシキとは壽命のほしきなり、カマケテは感じてなり、皇極紀云、中臣鎌子連便感v所v過而語2舍人1曰云々、歌の心はおほさに命をむさぼり思ふ九箇の我等もなつかしき翁の今の歌のことわりの至れるに感じて居らむとなり、此は八人の仙女をつかさどるがよめるにや、九兒等と※[手偏+總の旁]じてよめり、
 
初、はしきやしおきなの哥に おほほしきは、おほきにほしきにて、壽命を貪するなり。かまけてをらんは、感してをらんなり。日本紀《・皇極紀》第二十四云。中臣鎌子(ノ)連便|感《カマケテ》v所《ルヽニ》v遇《メクマ》而語(テ)2舍人(ニ)1日。云々。孝徳紀には減の字をかまけてとも、おとしてとも兩方に訓せり。今は感の字の心なり。いつまてもかくてあらむものとおもひをごりつるに、かへりておきなの哥にはつかしめらるゝにことはりを感してをらむとなり。此ひとりはやたりをつかさとれるにや。こゝのゝこらやと惣してよめり
 
3795 辱尾忍辱尾黙無事物不言先丹我者將依《ハチヲシノヒハチヲモタシテコトモナクモノイハヌサキニワレハヨリナム》
 
(15)班昭女誡七篇第一云、謙讓恭敬先v人後v己有v善莫v名、有v惡莫v辭、忍必v辱(ヲ)含v垢《ハチヲ》、常(ニ)若2畏懼1、是謂2卑弱下(ルト)v人也、下句は翁の歌の理いちじるしければ我は翁に依けむとなり、依は歸依なり、臣の君に依り子の親に依るが如し、此は上の女の次たるが、我は依なむとよめるに、次よりは此歌を蹈て我も依なむとよめり、
 
初、はちをしのひはちをもたして 班固か妹の班昭字は惠班か作れる女誡七篇、其第一(ニ)云。謙讓恭敬(ニシテ)先(ニシ)v人(ヲ)後(ニス)v己(ヲ)。有(ハ)v善莫(レ)v名(ツクルコト)。有(ハ)v惡莫v辭(スルコト)。忍v辱(ヲ)含(テ)v垢《ハチヲ》常(ニ)若2畏(レ)懼(ルヽカ)1。是(ヲ)謂(フ)2卑弱(ニシテ)下(ルト)1v人(ニ)也。竹取翁すてに故事を引てよみつれは、仙女も此女誡の心にてやはちをしのひはちをもたしてとはよみ侍けん。翁にかくのりかへさるゝを聞に、ことはり|いやちこ《・灼然》なれは、此上はたゝ物いふことなくして、我は翁によりなんとなり。よるはよりところにたのむなり。臣の君により、子の親によるかことし。これをよめる仙女は、上の哥のぬしに次たるか、われはよりなんとよめり。これより下は我もよりなん/\と、此哥のわれはといふをうけてよめり
 
3796 否藻諸藻隨欲可赦貌所見哉我藻將依《イナモウモオモハムマヽユルスヘシカタチミエメヤワレモヨリナム》
 
貌、【幽齋本、作v※[貌の旁]】、
 
發句は日本紀に諸をセとよめり、然ればイナモセモと讀べし、後の歌にもいなせとも云ひはなれずなどよめり、思ハムマヽニユルスベシとは上の歌主の否とも諾とも思はれむやうに相隨がはむと云心をゆるすべしとは云なり、可赦とは書たれども可許なり、以v身許v人など云意なり、カタチ見エメヤ我モ依ナムとはかく思ふ心はあれど心は色もなき物なれば外に顯はれてかたちの見えむや、されど誠の心をもちて我も依なむとなり、伊勢物語にあかねどもいはにそかふる色見えぬ心を見せむ由のなければ、又カタチ見エメヤとは翁に痛く罵返されて恥を黙し忍ぶことを得ずして聲色を動かさむやと云へるにや、
 
初、いなもうも 俗に伊也遠宇といふにおなし。日本紀には諾を勢と訓せり。哥にもいなせともいひはてられすうきものはとよめり。おもはんまゝにゆるすへしとは、上の哥ぬしのいなともうともおもはれんやうにあひしたかはむといふ心を、ゆるすへしとはいふなり。可赦とはかきたれとも可許なり。以v身(ヲ)許(ス)v(ニ)なといふ心なり。かたち見えめや我もよりなんとは、かくおもふ心はあれと心は色もなき物なれは外にあらはれてかたちの見えむや。されとまことの心をもちて我もよりなむとなり。伊勢物語に
あかねともいはにそかふる色見えぬ心をみせんよしのなけれは
又かたち見えめやとは、翁にいたくのられて、はちをしのひはちをもたすことあたはすしてその心を聲色にあらはさんやといふ心にや
 
(16)3797 死藻生藻同心迹結而爲友八違我藻將依《シニモイキモオナシコヽロトムスヒテシトモヤタカハシワレモヨリナム》
 
日本紀に約をムスブとよめり、友八違、是をトモハタガハジとよめるは不の字の落たる歟、さらずはトモヤタガハムと讀べし、
 
初、しにもいきもおなし心と 毛詩云。死去契闊與v子成(サン)v悦(ヲ)。又云。穀《イケルトキハ》則異(ニニストモ)v室(ヲ)、死(スルトキハ)則同(シウセン)v穴(ヲ)。此集第十二に
  朝な/\草の上しろくおく露の消はともにといひし君はも
むすふはちきるなり。約の字を日本紀にむすふとよめり。又約束をちきるとよめり。友八違、これをともはたかはしとよめるは、八の下に不の字の脱たる歟。今のまゝにてはともやたかはんとよむへし。友やたかはん.の落著は、友はたかはしなれは、落著の心にて、今のことくよめる歟ともいふへけれと、有のまゝにともやたかはんとよむへきにこそ
 
3798 何爲迹違將居否藻諾藻友之波波我裳將依《ナニセムトタカヒハヲラムイナモウモトモノナミ/\ワレモヨリナム》
 
我裳、【別校本、裳作v藻、】
 
諾はセと讀べき事上に云が如し、
 
3799 豈藻不在自身之柄人子之事藻不盡我藻將依《アニモアラスオノカミカラヲヒトノコノコトモツクサシワレモヨリナム》
 
初の二句はアニモアラヌオノガミノカラと讀べし、あに友に隋がはむやと云心もなき我身からなり、人子之事藻不盡とは翁の歌に返答するやうに云はゞ、翁又言を盡して右の理を彌云べければ、只我もださむと云心にや、然らば人子とは翁を指なり、又尋常の人の子の男などに爭そふ如く、さありさあらずなど言を盡さじとよめる歟、
 
初、あにもあらすおのかみのからを あにもあらぬおのかみのからとよむへし。心はあに友にしたかはんやといふ心もなきわか身からなり。おのか身のからとやうによめるたくひは、古今集に
  あひみぬもうきもわか身のから衣おもひしらすもとくるひもかな
此集第十四に
  から衣すそのうちかひあはなへはねなへのからにことたかりつも
  おのかをゝおほにな思ひそ庭にたちゑます|か《ノニ同》からにこまにあふものを
ひとよのからにとよめる哥あれと、それは心かはれり。人の子のこともつくさしとは、よのつねの人の子の、男なとにあらそふことく、さありさあらすなと詞をつくさしとなるへし。又翁の哥に返答するやうにいはゝ、翁また言をつくして右のことはりをいよ/\いふへけれは、わかもださんといふ心にや。しからは人の子は竹取なり
 
(17)3800 者田爲爲寸穗庭莫出思而有情者所知我藻將依《ハタスヽキホニハイツナトオモヒテアルコヽロハシレリワレモヨリナム》
 
仲哀紀云、亦問之、除2是(ノ)神1有v神乎、答曰|幡荻穗《ハタスヽキホニ》出(シ)吾也、今ははたすゝきの如くほには出なの意なり、振早田《フルノワサダ》のほには出ずとよめる類なり、腰句はオモヒタルとも讀べし、仙境の長壽も限あれば思ひ誇るなと云心を竹取がよめる意を云歟、又友どちの恥を忍び恥を黙してなどよめるをホニハ出ナト思テアルとは云へる歟、
 
初、はたすゝきほには出なと ほには出なとゝは、仙境の長壽も限あれは、こと/\しく我は仙女なりとおもひほこるなといふ心に、竹取かよめる心をいへるにや。又友とちのはちをしのひはちをもたしてとよみ、なにせんとたかひはをらんとよめる心をもいへるか
 
3801 墨之江之岸野之榛丹丹穗所經迹丹穩葉寐我八丹穗氷而將居《スミノエノキシノヽハリニニホハセトニホハヌワレハニホヒテヲラム》
 
翁が歌に墨江之遠里小野之眞榛持丹穗之爲衣《スミノエノトホサトヲノノマハギモチニホシシキヌ》とよめれば今よめる岸野は遠里小野を云へるにや、丹穗所經迹をニホハセドと點ぜるは誤れり、ニホフレドと讀べし、我八もワレハと點ぜるは叶はず、ワレヤと讀べし、今の紅顔は墨江の岸野の榛にてすれる衣の如にほふれども終に匂ひはてぬ我や翁に云はれても猶驚かずして匂ひがほにて居らむとなり、
 
初、すみのえのきしのゝはきににほふれと 丹穗所經迹とかきたれは、にほはせとゝあるかむなはあやまれり。にほふれとゝよむへし。此榛ははりの木なり。翁か哥にすみのえのとほさとをのゝまはきもてにほしゝきぬといへるはきなり。にほふれとにほはぬ我はにほひてをらむとは、我顔色はすみのえのきし野の榛にてそめたる衣の色のことくにほへとも、翁か哥にしらかみこらに老さらめやもといふことく、つゐににほひはてぬ我なれは、只心の内にのみにほひをりて色にはあらはさしとよめるなるへし。次下の哥ににほひよりなんといへるは、心の内ににほふときこえたり 我八をわれやとよまは、榛の色にゝほはせとも、翁の哥にのられて、にほはぬ我や、恥をもしらす、猶にほひかほにてをらんの心なり
 
(18)3802 春之野乃下草靡我藻依丹穗氷因將友之隨意《ハルノノヽシタクサナヒキワレモヨルニホヒヨリナムトモノマニマニ》
 
下草靡は我下心も草の靡く如く友の心に隨がふなり、腰句はワレモヨリと讀べし、以上問答共に十二首は同じ神仙の互に主賓となりて常見ある人に事に託して無常を示せるにや、
 
初、春の野の下草なひきわれもより 友にしたかふを草のなひくによせていへり。第十四に
  むさしのゝ草はもろむきかもかくも君かまに/\吾はよりにしを
下草といへるには、謙讓の心ある歟。にほひよりなんは草の色のうるはしきによせて、心の内に艶を凝す心なるへし。以上竹取翁か長哥よりはしめて十二首、中にも長哥は解しかたき事おほし。おなし神仙の、たかひに主賓となりて、常見ある人に事に託して無常のことはりをしめせるなるへし
 
昔者有3壯士與2美女1也、【姓名未v詳】不v告2二親1、竊爲2交接1、於v時娘子之意、欲2親令1v知、因作2歌詠1送2與其父1、歌曰、
 
其父は夫を誤て父に作れり、夫に此相思ふ事の切なる歌を送るを父母の聞てさる程ならば力及ばずとて許すべからむがためなり、
 
初、其夫 夫誤作v父。下云右或曰男有2答歌1。共2歌理1爲v夫決矣
 
3803 隱耳戀者辛苦山葉從出來月之顯者如何《シタニノミコフレハクルシヤマノハユイテクルツキノアラハレハイカニ》
 
隱耳戀者は第十七に己母理古非《コモリコヒ》とよめるを證としてコモリノミコフレバと讀べし、落句の意に二つあるべし、一つにはあらはれば如何あらむ然るべしや否とよめる歟、二つには忍われは苦し山のはに出る月の如くあらはれむ又いかにせむと顯(9)はれむ事をも歎くやうによめる歟、
 
初、したにのみこふれはくるし しのひてこふるはくるし。さりとて又あらはれてちゝはゝにもしられたらはいかならんと、いひて、うらとふやうによみてつかはして、現にしらせぬやうにて知しむる心なり。古今集に
  なとり川せゝのむもれ木あらはれはいかにせんとかあひみそめけん
山のあなたにあるほとを下にのみこふれはくるしといふにたとへ、出るをあらはるゝにたとへたり。月は出るかうれしきに、戀はあらはるゝかうけれは、心はたかひたれと、涅槃經にもあらゆる譬は皆分喩にして全喩なしとのたまへり。兔を得てわなをわするへし。ことに和哥は猶しかのみあるものなり
 
右或曰、男有2答歌1者、未v得2探《サグリ》求1也、
 
昔者有(リ)2壯士1、新(ニ)成《ナス》2婚禮1也、未(タ)v經《ヘ》2幾(ノ)時(ヲ)1、忽(ニ)爲《シテ》2驛使(ト)1被v遣2遠境(ニ)1、公事有(テ)v限(リ)、會期無(シ)v日、於v是娘子、感慟|悽愴《セイサウシテ》、沈2臥疾※[やまいだれ/尓](ニ)1、累v年之後、壯士還(リ)來(テ)覆命既(ニ)了(ヌ)、乃(チ)詣《ユイテ》相視(ルニ)而娘子之姿容疲羸甚(タ)異(ニシテ)言語哽咽、于v時壯士哀嘆流v涙裁v歌口號、其歌一首
 
疾※[やまいだれ/尓]は、下の字は玉篇云※[やまいだれ/火]【恥刃切、病v熱疾也、】※[やまいだれ/尓]【同上、】
 
初、疾〓 新成婚礼未經幾時云々。當引秋胡子
 
3804 如是耳爾有家流物乎猪名川之奧乎深目而吾念有來《カクノミニアリケルモノヲヰナカハノオキヲフカメテワカオモヘリケル》
 
唯かくばかりに病つかれたる物を、さとも知らすして猪名川の奧の深き如く行末を深く憑みて思けるはかなさよと嘆き悔るなり、深目而は第二に人丸の深海松乃深目手思騰とよめるが如し、猪名川としもよめるは其邊の住人なるべし、
 
初、かくのみに有けるものを かくはかりに我を戀やせてしぬへくならんとはしらすして、只行末をかねてのみわかおもひしが悔しきとなり。第二に、次の哥は第十二に
  かみ山の山へまそゆふみしかゆふかくのみゆゑになかくと思ひき
  かくのみに有ける君をきぬにあらは下にもきんとわかおもへりける
猪名川は、第十一にも、しなかとり居名山とよに行水のとよめり。川にも奥はよむへし。第三に人丸の哥によしのゝ川のおきとよめり。第十四に行末をかくるをおくをかぬるとよめり。今のおきをふかめてはその心なり。猪名川とよめるは、津の國に住ける人にて有けるなるへし
 
(20)娘子臥(テ)聞2夫君之歌1從v枕擧v頭、應v聲和歌一首
 
3805 烏玉之黒髪所沾而沫雪之零也來座幾許戀者《ヌハタマノクロカミヌレテアハユキノフリテヤキマスコヽタコフレハ》
 
零也は今按フルニヤと讀べし、
 
初、ぬはたまのくろかみ 零也來座、これをふりてやとよめるは誤なり。ふるにやと訓すへし。わか身を置て、くろかみぬれてとをとこのうへをいたはりよめるがあはれなり。心は哥の後の注にあらはれたり
 
今案此歌其夫被(フテ)v使(ヲ)、既經2累載1、而當2還時1、雪落之冬也、因v斯娘子作2此沫雪之句1歟、
 
注に依て歌の意彌明なり、
 
3806 事之有者小泊瀬山乃石城爾母隱者共爾莫思吾背《コトシアラハヲハツセヤマノイハキニモコモラハトモニオモフナワカセ》
 
石城は天智紀云、皇太子謂2羣臣1曰、吾奉2皇太后天皇之所1v勅憂2恤萬民1之故不v起2石槨《イシキ》之役1、此によらばイシキニモと讀べき歟、第四に阿倍女郎が吾背子は物な思ひぞとよめる意に同じ、毛詩云、死則同v穴(ヲ)、又云、及v爾同v死、
 
初、ことしあらはをはつせ山の 壯士と女としのひてかたらふこと、父母のせめこはくして、事出來りなは、共に死して同し塚に埋れはするとも心かはりはあらしとよめるなり。石城は石をかまへて作れるおきつきなり。第四阿倍女郎歌に
  わかせこは物なおもひそことしあらは火にも水にも我ならなくに《只ナラムナリ》
毛詩云。穀《イキテハ》則異(ニストモ)v室(ヲ)死則同(セン)v穴(ヲ)。謂2予(ヲ)不1v信(アラ)、有v如(ナルコトリ)2皎日(ノ)1。同谷風、徳音莫(ハ)v違、及(ト)v尓同(セン)v死(ヲ)。石城はいしきともよむへし。天智紀云。皇太子謂2群臣《マウチキミニ》1曰。吾奉2皇太后天皇之所1v勅、憂2恤萬民1之故、不v起2石槨《イシキ》之|役《エタチヲ》1。史記張釋子列傳云。使2愼夫人(ヲシテ)鼓(カ)1v瑟(ヲ)、上|自《ミ》倚(テ)v瑟(ニ)而歌(フ)。意(ロ)慘悽悲懷(シテ)顧(テ)謂(テ)2群臣(ニ)1曰《ノ》。嗟乎以2北山(ノ)石(ヲ)1爲v槨(ト)、用2紵絮(ヲ)1※[昔+斤]《キツテ》2陳※[草がんむり/絮](ヲ)1漆(ラハ)2其間(ヲ)1豈可(ンヤ)v動(ス)哉。此集第九處女墓をよめる哥に、玉ほこの道のへちかくいはかまへつくれるつかをとよめるこれいはきなり。古今集に
  もろこしのよしのゝ山にこもるともをくれむと思ふ我ならなくに
此哥の心にはおなしからす。又岩木にこもる心にて、にけかくれて共に山へいらむといふことなりとかけるもひかことなり
 
右傳(ニ)云、時有2女子1、不v知2父母1、竊接2壯士1也、壯士|※[立心偏+束]2※[立心偏+易]《セフテキシテ》其(ノ)親《オヤノ》呵(21)嘖(ヲ)1、稍《ヤヽ》有(リ)2猶預之意1、因v此娘子裁2作斯謌1贈1與其夫1也、
 
※[立心偏+束]2※[立心偏+易]《シヨウテキ》、上(ハ)息拱(ノ)切、※[立心偏+束]然起v敬(ヲ)也、下(ハ)他的(ノ)切、憂懼也、
 
3807 安積香山影副所見山井之淺心乎吾念莫國《アサカヤマカケサヘミユルヤマノヰノアサキコヽロヲワカオモハナクニ》
 
安積香山は和名集を考るに陸奧國安積郡に安積郷あり此郷に有べし、影サヘミユルは清き意なり、此影はやがて安積山の移りて見ゆるをも亦は酌人の影をも云べし、是は心の濁なきに喩へたり、山井は淺き物なれば淺き心とつゞけたり、落句はワガモハナクニと讀べし、山の井は底まで澄とほれば淺きやうに見ゆれど實にはいとも淺からぬ如く、事おろそかなりとは見給ふとも淺くは思ひまゐらせず侍る物をとよめりと意得る人もあらむか、結ぶ手のしづくに濁る山の井のなどよめるすべて淺き心なり、物によせて讀やうまち/\なれば只さきの如くなるべし、古今集序云、難波津の歌はみかどの御はじめなり、淺香山の言の葉は釆女の戯より讀て此ふた歌は歌の父母のやうにてぞ手習ふ人のはじめにもしける、曾丹は淺香山に難波津とて難波津の歌を上に此歌を下にすゑて二遍よみたる歌六十二首彼家集に(22)見えたり、六帖に下句を淺くは人を思ふ物かはとあるは後の人の改ためて時にかなへたるなり、奥義抄和歌八品の第三述志よき歌の例に此歌を出せり、
 
初、あさか山かけさへみゆる 安積は陸奥にある郡の名なり。その郡にあるあさか山なり。影さへみゆるは山の井のきよきによりてなり。第十三に天雲の影さへみゆるこもりくのはつせの川にとよみ、第二十に防人か哥にはのむ水にかご《ケト通・彰》さへ見えてといへり。山にある井はあさき物なれは、あさき心とはつゝけたり。貫之の哥に、むすふ手のしつくにゝこる山の井とよまれたるも、いたりてきよきをいふうへに、あさきゆへににこりやすき心なり。古哥のならひ遠く上をうくる例あれは、あさか山をうけてあさくといへる歟ともいふへけれと、この哥におきてはしからす。安積山はそのわたりにある山なれは山の井のといはむためなり。すてに山の井のあさき心とつゝきたるをなんそ遠きあさか山をうけたりといはむ。影さへみゆるに下の心のいさきよきをこめたるへし。古今序になにはつの哥はみかとのおほんはしめなり あさか山のことのはゝうねめのたはふれよりよみて、このふた歌はうたの父母のやうにてそてならふ人のはしめにもしけるとかけり。曾丹はあさか山になには津とて、なにはつの哥を上に此哥を下に置て、二返よまれたる哥六十二首彼家集に見えたり。あさくは人を思ふ物かはとは、後の人のあらためて時にかなへたるなり。古歌の躰にあらす
 
右歌傳云、葛城王遣2于陸奧國1之時、國司祗承緩怠異甚、於v時王意不v悦、怒色顯v面、雖v設2飲饌(ヲ)1、不v肯2宴樂1、於v是有(リ)2前(キノ)采女《ウネヘ》1、風流(ノ)娘子(ナリ)、左手捧v觴《サカツキ》、右手持v水、撃2之王(ノ)膝(ヲ)1而詠2其歌1、爾乃王(ノ)意解悦(テ)、樂飲|終日《ヒネモスニス》、
 
此葛城王に不審あり、天武紀云、八年秋七月己卯朔乙未、四位葛城王卒、此葛城王と橘左大臣の初の名同じければ何れとかせむ、有2前釆女1とは前に貢擧せし釆女なり、左手捧v觴、右手持v水、撃2之王膝(ヲ)1而詠2其歌1、官本には其〔右○〕の字を此〔右○〕に作れり、其とは水を指て云なるべし、水を以て王の膝を撃は此歌を讀まむためなり、毛詩云、善(ク)戯謔兮不v爲v謔(ヲ)兮とは此類なるべし、雄略紀云、二年冬十月辛未朔癸酉、幸2御馬瀬1命2虞人1縱v獵云々、問2群臣1曰獵場之樂(ハ)使2膳夫(ヲ)割2v鮮、何2與自割1、群臣忽莫2能對1、於v是天皇大怒拔(23)刀斬2御者大津馬飼1、是日車駕至v自2吉野宮1、國内(ノ)居民咸皆振怖、由v是皇太后與2皇后1聞v之大懼、使2倭釆女日媛(ヲ)擧v酒迎進む、天皇見2釆女面貌端麗(シク)形容温雅(ヲ)1、乃和顔悦色曰、朕豈不v欲v覩2汝妍笑1、乃相携v手入2於後宮1、今の釆女が葛城王の怒を解しも似たり、
 
初、葛城王 此葛城はいつれにか侍らん。伊豫國風土記云。湯郡、天皇等於湯幸行降坐五度也。〇以2上宮聖徳皇子(ヲ)1爲2一度(ト)1。及侍(ヘル人ハ)高麗(ノ)慧慈|僧《ホウシ》、葛城王等(ナリ)也。天武紀云。八年秋七月己卯(ノ)朔乙未(ノヒ)四位葛城王|卒《ミマカリヌ》。次に左大臣橘朝臣諸兄を初葛城王と名つく。此三人の中に天武紀に見えたる葛城王なるへき歟。その故は伊与風土記は文拙けれは信しかたし。橘朝臣は家持ことに知音なりと見えたれは、當時の事にて右歌傳云といふへからす。第六卷に橘姓を賜ふ時の御製を載せ、第八に右大臣橘家宴歌を載たり。もし左大臣いまた葛城王なりける時なりとも、左大臣の事なりと注すへしとおほゆ。右手持v水撃2之王(ノ)膝1而詠2其歌(ヲ)1。これ山井といはむため、またたはふれにことよせて、怒をやはらけしめむかためなり。古今集序にたはふれよりよみてといへるは、このゆゑなり。毛詩云。善(ク)戯諺(スレトモ)兮不v爲v虐(ヲ)兮。このたくひなるへし
 
3808 墨江之小集樂爾出而寤爾毛己妻尚乎鏡登見津藻《スミノエノアソヒニイテヽウツヽニモサカツマスラヲカヽミトミツモ》
 
小集樂、【袖中抄云、ヲヘラ、官本亦點同v此、】  己妻、【袖中抄云、オノカメ、】
 
袖中抄顯昭云、をへらとは田舍者の出集りて遊ぶを云とぞ、住吉には年毎に濱にてをへらひと云ひて遊ぶ事あり、昔あやしかりけるをとこのありけるが云々、考2萬葉1昔者鄙人云々、私云世俗の詞に物をほめてゆゝしげなるををへらひかなと申すは此遊びを云より事起れるにや、【已上袖中抄、】今按仙覺抄に歌にはヲツメと點して注に有抄云とて引かれたるは袖中抄にて終に云此義にては第二句をへらに出でゝと云へるなりとあり、第七云、佐保河爾小驟千鳥《サホカハニアソフチトリ》云々、此小驟をアソブと點ぜるに准らへば今の小集樂をもアソビと讀べきにや、ヲヘラは本據慥ならむは知らず聞ところ甚鄙俗なり、ヲツメは氏の矢集をやつめと云例にや、されど樂の字を加へてヲツメとのみよまむ事意得がたし、寤爾毛はさだかなる意なり、己妻尚乎はオノツマスラ(24)ヲとも讀べし、己が妻ながらの意なり、鏡トミツモとはまず鏡の如く見るなり、
 
初、すみのえのをつめに出て をつめは人/\あつまりてあそふをいふなるへし。哥の後に于v時郷里(ノ)男女衆(/\)集(テ)野遊(ス)といへり。うつゝにもはさたかなる心なり。さかつますらを鏡とみつもとは己かつまのかほよきは見るにあかす朝な/\の鏡と覺ゆる心なり。第十一に
  まそかゝみ手にとりもちて朝な/\みれとも君にあくこともなし
つねあひみる妻はめつらしかるましきものゝ、めつらかにあかねは、さかつますらとはよめり
 
右傳云、昔者鄙人、姓名未v詳也、于v時|郷里《キヤウリノ》男女衆集(テ)野遊(ス)、是|會集《ツトヘル》之中(ニ)有2鄙人夫婦1、其婦|容姿端正《カホキラ/\シクシテ》、秀2於衆諸1、乃彼鄙人之意彌増2愛v妻之情1、而作2斯歌1賛2嘆美貌1也、
 
容姿はカタチ或スガタと點ずべし、
 
3809 商變領爲跡之御法有者許曾吾下衣反賜米《アキカハリシラストノミノリアラハコソワカシタコロモカヘシタマハメ》
 
商變は既に物と價とを定て取交して後に、忽に變じて或は物をわろしとして價を取返し、或は價を賤しとて物を取返すなり、シラストノ御法ラバコソとはさやうの事を恣にせよとの法令あらばこそと云なり、商變する事をゆるしたまふとの法令あらばそれに准らへてかたみの衣を我に返して、有し御情を取返したまはめ、商變は許したまはぬにいかで我下衣を嫌ては返し給はるぞと恨奉てよめるなり、
 
初、あきかはりしらすとの あきかはりはすてに物とあたひとを取かはして後に、たちまちに變して、あるひは物をわろしとしてあたひを取かへし、あるひはあたひをやすしとして物を取かへすなり。しらすとの御法とは、さやうの事をほしいまゝにせよとの法令あらはこそといふなり。しらすは令v領(セ)といふ心なれは、あきなひて變する事を自由《ホシイマヽ》ならしむるをいへり。此領字下三十一葉に奥(ツ)國|領《シラセシ》君《キミ》、第十の廿葉にもしらせてとよめり。さて此哥惣しての心はあきかはりすることをゆるし給ふとの法度あらはこそ、ゝれに准してかたみの衣を我にかへして、ありし御なさけを取かへし給はめ。あきかはりはゆるし給はぬに、いかてわか下衣をきらひてかへし給ふそと恨奉るなり
 
右傳云、時有2所v幸娘子1也、【姓名未v詳、】寵薄(シテ)之後、還2賜寄物1、【俗云2可多美1、】於(25)v是娘子怨恨、聊作2斯歌1獻上、
 
寄物、【俗云可多美、】  逝仙窟には記念をカタミとよめり、
 
3810 味飯乎水爾釀成吾待之代者曾無直爾之不有者《アチマイヒヲミツニカミナシワカマチシヨハカツテナシタヽニシアラネハ》
 
初二句は第四に君がためかみし待酒とよめるに同じ、待儲に酒を作るなり、代者曾無は、これを解かむに二つのやう有べし、一つには代者をヨハとよめるは叶はず、カヒハと讀べし、二つにはカハリハゾナキと續べし酒債とて酒は殊に直を云物なればそれによせて云へる歟、直爾之不有者は注に明なり、之は助語なり、
 
初、あちいひを水にかみなし これは夫君を待とて、そのまうけに酒を作り置心なり。第四に帥大伴卿哥に
  君かためかみし待酒やすの野にひとりやのまん友なしにして
此心なり。酒を作るをかもすともかむともいふ。酒を作るには飯をむして麹《カウシ》をあはせて水に和し、灰汁《アク》なとくはふる物なれは、かくはいへり。代者これをよはと訓したるは誤なり。かひはとよむへし。かひはかはりなり。ことわさに無代《ムタイ》といふは、あたひとらせすして押て物をとるやうなるをいふ。かひなきといふ詞はこれよりおこるなるへし。たゝにしあらねはとは、注に正身不v來徒(ニ)贈2裹物《ツトヲ》1。この心なり
 
右傳云、昔有2娘子1也、相2別其夫1望(ミ)戀(コト)經v年、爾時夫君更娶(テ)2他妻《アダシツマヲ》1、正身不v來、徒贈2※[果/衣]物1、因v此娘子作2此恨歌1還2酬之1也、
 
戀2夫君1歌一首 并短歌
 
3811 左耳通良布君之三言等玉梓乃使毛不來者憶病吾身一曾(26)千磐破神爾毛莫負卜部座龜毛莫燒曾戀之久爾痛吾身曾伊知白苦身爾染保里村肝乃心碎而將死命爾波可爾成奴今更君可吾乎喚足千根乃母之御事歟百不足八十乃衢爾夕占爾毛卜爾毛曾問應死吾之故《サニツラフキミカミコトヽタマツサノツカヒモコネハオモヒヤムワカミヒトツソチハヤフルカミニモオホスナウラヘスヱカメモナヤキソコヒシクニイタムワカミソイチシロクミニシミトホリムラキモノコヽロクタケテシナムイノチニハカニナリヌイマサラニキミカワヲヨフタラチネノハヽノミコトカモヽタラスヤソノチマタニユフケニモウラニモソトフシナムワカユヘ》
 
サニツラフ君は第十三にもよめり、身爾染保里は身に染てあはまくほしきなり、今按染の下に登の字ありてミニシミトホリなりけむを落たるなるべし、ニハカニ成ヌは俄に死ぬべく成なり、君ガ吾ヲ喚とは絶入らむとする故に夫君が呼返す聲のするを云なり、母ノ御事歟も母の命歟と云か、上に君が喚と云ひつればを承れば母の命の喚たまふ歟と云意なり、又母の御言歟とも云べし、落句はシヌベキワガユヱと讀べし、千歳の後に聞も悲しき歌なり、
 
初、さにつらふ君かみことゝ さにつらふは上にあまたよめり。君かみこと勅詔に通して聞ゆれと、ことはゝかよひて心ことなり。ちはやふる神にもおほすな。第十四に
  わきもこにあか戀しなは|そわ《サハ》へ《・五月蠅》かもか|め《ミ》《・神》におほせん心しらすて
伊勢物語に
  人しれすわか戀しなはあちきなくいつれの神になき名おほせん
しなむいのちにはかになりぬ。古今集哀傷在原しけはるか哥のことは書にいはく。かひのくにゝあひしりて侍ける人とふらはんとてまかりけるみちなかにてにはかにやまひをしていま/\となりにけれは云々。今更に君かわをよふたらちねのはゝのみことか。これはたえ入なんとする人の枕上にゐてよひいけなとする心なり。今更にといふは後の注にて明なり。はゝのみことかとは、母のみことはかなり。又母をたふとみてはゝのみことのよひたまふかと、上のわをよふといふを下にかぬるか。初につくへきにや。應死はしぬへきとよむへし
 
反歌
 
3812 卜部乎毛八十乃衢毛占雖問君乎相見多時不知毛《ウラヘヲモヤソノチマタモウラトヘトキミヲアヒミムタトキシラスモ》
 
(27)此は女のまた病せぬさき卜を問辻占を問し事なり、長歌によめるとは同じからず、
 
或本反歌曰
 
3813 吾命者惜雲不有散追良布君爾依而曾長欲爲《ワカイノチハヲシクモアラスサニツラフキミニヨリテソナカクホリスル》
 
右傳云、時有2娘子1姓車持氏也、其夫久逕2年序1、不v作2往來1、于v時娘子、係戀傷v心、沈2臥痾|※[病垂/尓]《チムニ》1痩《サウ》羸|日《ヒヽニ》異《コトニシテ》忽臨(ム)2泉路(ニ)1、於v是遣v使喚2其夫君1來、而乃歔欷流※[さんずい+帝]、口2號斯歌1、登時逝歿(ヌ)也、
 
痾玉篇於何切、説文病也、本作v※[病垂/可]、或作v痾、漢書五行傳(ニ)妖〓及v人謂2之痾1、病〓(ヤク)深也、
 
贈歌一首
 
3814 眞珠者緒絶爲爾伎登聞之故爾其緒復貫吾玉爾將爲《シラタマハヲタエシニキトキヽシユヘニソノヲマタヌキワカタマニセム》
 
眞珠は女に喩ふ、緒絶は夫君に捨らるゝに喩ふ、吾玉ニセムとは我妻にせむなり、第七に其緒は替て吾玉にせむとよめる歌の意なり、
 
初、しら玉はをたえ 和名集云。日本紀私記云。眞珠【之良太麻。】第七に
てるさつか手にまきふるす玉もかなそのをはかへてわか玉にせん
 
(28)答歌一首
 
3815 白玉之緒絶者信雖然其緒又貫人持去家有《シラタマノヲタエハマコトシカレトモソノヲマタヌキヒトモチイニケリ》
 
右傳云、時有2娘子1、夫君|見《ラレテ》v棄、改2適《カイテキス》他氏1也、于v時或有d壯士1不v知2改適1、此(ノ)歌(ヲ)贈(リ)遣(シテ)請(ヒ)2誂《イトム》於女之父母1者u、於v是父母之意、壯士未v聞2委曲之旨1、乃依2彼歌1報送(テ)、以顯(ス)2改適之|緑《ヨシヲ》1也、
 
穗積親王御謌一首
 
3816 家爾有之櫃爾※[金+巣]刺藏而師戀乃奴之束見懸而《イヘニアリシヒツニサヲサシヲサメテシコヒノヤツコノツカミカヽリテ》
 
※[金+巣]は和名集云、唐韻云、※[金+巣]【蘇果反、俗作2※[金+巣]子1、】銕※[金+巣]也、楊氏漢語抄云、※[金+巣]子【藏乃賀岐、辨色立成云、藏鑰、】ヲサメテシのて〔右○〕は助語なり、戀ノ奴は上に注せしが如し、此歌は旅に出る時戀の奴をば櫃に入れて※[金+巣]をおろしてをさめてこそ出にしが、いかにして櫃を逃出て我を追來て〓かゝるらむの心なり、六帖雜思に入れたるには、わがやどのひつにさうさしをさめた(29)るとてあり、
 
初、家にありしひつにさうさし 和名集云。唐韻云。鎖【蘇果反。俗作2※[金+巣]子1】銕※[金+巣]也。楊氏漢語抄云。※[金+巣]子※[藏乃賀岐。辨色立成云。藏鑰。]さうといふは藏の音と聞えたり。藏乃賀岐といひけるを、畧してさうとのみいひきたれるなるへし。今の世ざうといふと、かきといふとはかはりて、ざうは閉かきはひらくものなるに藏乃賀岐といひ鑰の字鍵の字なとの開閉に通するは、亂の字の治に通し、來の字の歸に通する類なるへし。戀の奴は第十一に、第十二に
  おもわすれたにもえすやとたにきりてうてともこりす戀の奴は
  ますらをのさとき心も今はなし戀のやつこに我はしぬへし
第四に廣河女王
  こひは今はあらしと我はおもひしをいつこの戀そつかみかゝれる
俊頼朝臣の哥に
  したひくる戀のやつこの旅にても身のくせなれや夕とゝろきは
これは此御哥に家に有しひつにさうさしとある詞を旅の心と見て取用られたるなるへし
 
右歌一首、穗積親王宴飲之日、酒酣之時、好誦2斯歌1以爲2恒賞1也、
 
酒宴の日好て右の歌を誦したまひし御心知がたし、
 
3817 可流羽須波田廬乃毛等爾吾兄子者二布夫爾咲而立麻爲所見《カルハスハタフセノモトニワカセコハニフフニヱミテタチマセルミユ》【田〓者多夫世反】
 
此發句は意得がたきを強て二義を以て注して後の人に便りすべし、一つには輕|括箭《ヤ》にや、安康紀云、是時太子行2暴虐1淫2于婦女1、國人謗v之、群臣不v從、悉隷2穴穗皇子1、爰太子欲v襲2穴穗皇子1而密設v兵(ヲ)、穴穗(ノ)皇子復興v兵將v戰、故穴穗箭(ノ)括箭《ヤハス》、輕(ノ)括箭、始起2于此時1也、古事記云、是以百官及天下(ノ)人等背2輕太子1而歸2穴穗御子1、爾輕太子畏而逃2入大前小前宿禰大臣之家1而備2作兵器1、【爾時所v作之矢者鍋2其箭之内1、故號2其矢1謂2輕矢1也、】穴穗王子亦作2兵器1、【此王子所v作之矢者即今時之矢也、此謂2穴穗矢1也、】筈を云へば箭あらはれ、箭あれば弓ある事云はずして知ぬべし、然れば弓矢をば田(30)ふせのもとに置なり、第二句の下句絶なり、ニフフニヱミテは莞爾《ニコ/\》の意歟、第十八にもさゆりの花の花ゑみに爾布夫にゑみてとよめり、落句は袖中秒にも今の點の如くなれど第六の葛井連大成が釣船を見る歌の落句に船出爲利所見とよめるに准らへてタチマセリミユと讀を古風とすべし、輕筈の箭をば田廬の許に置て吾兄子は打ゑみて今も鹿などのとほらば射むと構へて立ませるが見ゆるとにや、(吾兄子は兄弟朋友にも亘れば誰が心に成てよめるにも有べし、二つには羽は音を用て輕碓と云にや、輕き碓は蹈に勢少なければ夫の咲て立てると、賤しき者の妻に成てよめる意歟、注の〓は廬に作るべし、
 
初、かるはすはたふせのもとに 長流か抄に此かるはすはといふことはいかにいへるにかわきまへかたし。稻をかるこゝろにていへるとはきこえたれとはすはといふ詞不決之、尋ぬへしといへり。まことにしかり。今愚案をしるしてかなへりともかなはすとも、共に後の人にたよりし侍りなん。羽の字も音をとりて輕碓《カルウス》といふにや。かるきからうすを、田廬のもとにすゑて、わかせこかにこ/\とゑみてふみつゝ立ませるかみゆるとにや。臼と碓はことなれと、碓をも通してうすといふゆへに、上野のうすひこほりは、碓氷《ウスヒ》郡とかけり。かろきからうすはふむに勞すくなけれは、にふゝにゑむといふなるへし。第十八にもなつの野のさゆりの花のはなゑみににふゝにゑみてといへり。これは分に應して足ことを知へきことをいやしき身によせてよみたまへるにや
田廬は自注のことし。第八にも
  しかとあらぬいほしろ小田を苅乱たふせにをれは都おもほゆ
 
3818 朝霞香火屋之下乃鳴川津之努比管有常將告兒毛欲得《アサカスミカヒヤカシタノナクカハツシノヒツヽアリトツケムコモカナ》
 
兒毛欲得、【官本又云、コモカモ、】
 
此上句第十に有しには香を鹿に作り乃は爾なりき、今は字に任せて讀べきにや、下句は香火屋之下を承て第四句を云ひ鳴川津を承て第五句を云へり、將告は我に告むなり、六帖には人知れぬと云に入れたり、
 
初、朝霞かひ《香火》やか下の 第十に、次は第十一に
  朝かすみかひ《鹿火》やか下に鳴かはつしのひつゝありとつけんこもかな  足引の山田もるをのおくかひ《蚊火》の下こかれのみわかこひをらく
上の句の心は第十に尺せり。下の句の心はかひやか下にかくれてなくかはつのことく、しのひて鳴つゝありと我につけむ人もかなといふ心なり。二首ともにいやしきものゝ身になりてよまれたるにや。又我しのひつゝ有と告やらん兒もかなとや
 
(31)右歌二首河村王宴居之時、彈v琴而即先誦2此歌1以爲(ス)2常(ノ)行(ト)1也、
 
光仁紀云、寶龜八年十一月己酉朔戊辰、授2無位川村王從五位下1、十年十一月甲午爲2少納言1、桓武紀云、延暦元年閏正月庚子阿波守、八年四月備後守、
 
初、河村王 續日本紀云。寶亀八年十一月己酉朔戊辰授2無位川村王(ニ)從五位下(ヲ)1。十年十一月甲午爲2少納言1。延暦元年閏正月庚子阿波守。八年四月備後守
 
3819 暮立之雨打零者春日野之草花之末乃白露於母保遊《ユフタチノアメウチフレハカスカノヽヲハナカスヱノシラツユオモホユ》
 
此歌第十に既に出たり、
 
初、ゆふたちの雨うちふれは 此哥第十の四十二葉に既に出たり。雨|落毎《フルコトニ》とありて注に一云。打零者といひ、末を上とせ
 
3820 夕附日指哉河邊爾構屋之形乎宜美諸所因來《ユフツクヒサスヤカハヘニツクルヤノカタチヲヨシミシカシヨリクル》
 
右の歌に春日野をよめるに此歌に河邊につくる屋と云は若佐保川のつらなどに小鯛王の別業の有けるにや、構は玉篇云、古候切、架v屋也造也、允恭紀云、則別構2殿屋於藤原1而居也、形ヲヨシミとは屋の樣の面白くてよきなり、第四にまがきのすがたとよめる類なり、落句は六帖も今の點と同じけれどウベゾヨリクルと讀べし、人々の入來を主人ながら景趣の面白ければげにもなりと思ふ心なり、六帖雜思に入れた(32)るには初の二句をゆふづくよさすやをかべにとあり、てる日の歌とせるにはゆふづく日とあり、ヲカベとあるは若《モシ》河の上に乎尾〔二字右○〕等の字の有けるにや、
 
初、夕附日さすやかはへに ゆふ日のはれやかにさす川邊に、心有人のよしありて作れる家には、所からといひ、人からといひ、けにそあまたの人のこゝによりくるとなり。諾はうへとよむへし。以上穗積皇子の御哥よりこのかた、作者の心をよせらるゝ所面々にあるなるへし
 
右歌二首、小鯛《コタイノ》王宴居之日、取v琴登時、必先吟2詠此歌1也、其小鯛王者、更名2置始多久美(ト)1、斯人也、
 
小鯛壬、續日本紀には見えず、
 
兒部女王嗤歌一首
 
此女王第八但馬皇女の御歌に異本を注するに見えたり、延喜式云、大和國十市郡子部神社二座、かゝれば子部は地の名なり、
 
3821 美麗物何所不飽矣坂門等之角乃布久禮爾四具比相爾計六《ヨキモノノナソモアカヌヲサカトラカツノヽフクレニシクヒアヒニケム》
 
第二の句今の點何所の二字に叶はず、イヅクアカヌヲと讀べし、然れば發句より改(33)てヨキモノハ云々と讀べし、角ノフクレとは牛の角などの樣して中の〓《フクレ》出たる顔つきを云なるべし、シクヒアヒニケムは第十八に紐の緒のいつかりあひてと云が如し、
 
初、よきものゝなそもあかぬを 何所不飽矣とかきたれは、いつくあかぬをと讀へし。よきとたにいふものは、いつくとてあかれぬものをといふ心なり。つのゝふくれにとは、ふくれは※[暴+皮]の字なり。しくひあひにけむは、しくひは俗にしくむといふ詞なり。枕草子に、むとくなる物こまいぬしくまふものゝおもしろかりはやりていてゝおとるあしをと。角のふくれは見にくゝ賤しきものゝかたちを鬼にたとへていふ心なり。第十三にかゝれをらんおにのしき手をさしかへてねなん君ゆゑとよめるかことし。又牛の角鹿の角なと、みな下のふくれたれは、さやうのいやしきかほつきしたらんをとこにおもひつきてなとしくひあひたるそとあさけりわらはるゝ心にや
 
右時有2娘子1、姓|尺度《サカトノ》氏也、此娘子|不《ス》v聽(サ)2高姓美人之所(ロヲ)1v誂(ム)、應v許(ス)2下姓|※[女+鬼]《シコ》士之所1v誂也、於v是兒部女王裁2作(シテ)此(ノ)歌(ヲ)1、嗤2咲彼(ノ)愚(ナルヲ)1也、
 
所誂、戰國策云、楚人有2兩妻者1、人誂2其長者1、【注云、誂相呼誘也、】此にては挑の字に通しては讀べからず、イザナフと讀べし、日本紀にはアトフと點ぜり、※[女+鬼]士は玉篇云、※[女+鬼]【居位切、慙也、或作v※[女+鬼]、】醜を誤て※[女+鬼]には作れるなり、
古歌曰
 
3822 橘寺之長屋爾吾率宿之童女波奈理波髪上都良武可《タチハナノテラノナカヤニワカヰネシウナヰハナリハカミアケツラムカ》
 
橘寺は大和國高市郡にあり、橘は即地の名なり、上に橘島宮などよめりし處なり、聖(34)徳太子傳暦に太子の草創したまひて時の人菩提寺と名付たる由見えたり、元享釋書第十五云、推古十四年秋七月帝請2太子1講2勝鬘經1太子披2袈裟1握2塵尾1坐2師子座1儀則如2沙門1、講已天雨2蓮華1、大三尺、帝大喜、即2其地1建2伽藍1、今橘寺是也、長屋は寺の廻りに下部などの居る處を別に長く立つゞけたるを云べし、吾率宿之《ワガヰネシ》は我率て寢しなり、
 
初、橘の寺の長屋に 聖徳太子傳暦を見るに太子の草創したまふ寺にて、時人菩提寺となつく。元亨釋書第十五(ニ)云。推古十四年秋七月帝請(シテ)2太子(ヲ)1講(セシメタマフ)2勝鬘經(ヲ)1。太子披2袈裟(ヲ)1握2塵尾(ヲ)1坐(ス)2師子座(ニ)1儀則如2沙門(ノ)1。講(シ)已(テ)天雨(ラス)2蓮華(ヲ)1。大(サ)三尺。帝大喜(テ)即《ツイテ》2其地(ニ)1建(タマフ)2伽藍(ヲ)1。今(ノ)橘寺是(ナリ)也。わかゐねしは我ゐてゆきてねしなり。第七にもいつくに君かわれゐしのかむとよめり。うなゐは和名集云。後漢書注云。髫髪【召(ノ)反。和名宇奈爲】俗用2重髪(ノ)二字(ヲ)1謂2之(ヲ)童子垂髪(ト)1也【※[髪の友が匕]同。】用明紀云。是(ノ)時厩戸(ノ)皇子|束髪於額《ヒサコハナニシテ》【古(キ)俗《ヒト》年少兒《ワラハアコノ》年十五六(ノ)間(ハ)束髪於額《ヒサコハナス》。十七八(ノ)間(ハ)分(テ)爲2角子《アケマキカラハ》1今(モ)亦然(リ)之】而隨2軍(ノ)後《ウシロニ》1。此用明紀の文は童女の事にあらされはこゝに用なけれと、事の次に引なり。はなりははなちといふにおなし。第十四に、橘のこはのはなりとよめり。第七にはをとめらかはなちの髪をゆふの山とつゝけ、第九にはをはなちに髪たくまてにとよみ、第十一にはふりわけの髪をみしかみとよめる、皆おなしことなり。髪上つらんかは、女の年のよきほとになりぬる時、髪あけとてするなり。かみおきともいへり。允恭紀云。適《アタリテ》d産《アラシマス》2大泊瀬(ノ)天皇(ヲ)1之夕(ニ)u天皇始(テ)幸(ス)2藤原(ノ)宮(ニ)1。皇后聞(テ)之恨(テ)曰。妾《ヤツコカ》初自(リ)2結髪《カミオイシ》1陪(ヘルコト)2於|後《キサキノ》宮(ニ)1既(ニ)經(ヌ)2多(ノ)年1。【云々。】史記李廣傳云。且臣|結《アケテ》v髪(ヲ)而與2匈奴1戰(カフ)。又云。廣結《アケテ》v髪(ヲ)与2匈奴1大小七十餘戰(ス)。六帖には寺の部に此哥を載たり。わかゐねしをひとめ見しとあらため、うなゐはなりはを、うなゐは今はといふになせり
 
右歌|椎野連《シヒノヽムラシ》長年(カ)脉(ニ)曰(ク)、夫寺家之屋者、不v有2俗人(ノ)寢處(ニ)1、亦※[人偏+稱の旁](テ)若冠女(ヲ)、曰2放髪仆《ウナヰハナリト》1矣、然則腹句(ニ)已(ニ)云2放髪仆1者、尾句(ニ)不v可(カラ)3重(テ)云(フ)2著v冠之辭(ヲ)1哉、
 
聖式紀云、神龜元年五月辛未、正七位上四比忠勇賜2姓椎野連1、第三に志斐嫗が歌あり、四比と志斐と同じかるべし、長年は考ふる所なし、脉は此に二つの意有べし、一つには血脉の義、此時は相傳の意なり、二つには診脈の義、脉に依て氣血の實等を知るが如く義味をあぢはひてたゞす意なり、大寺家之屋者不v有2俗人寢處(ニ)1、此論尤謂れたり、但澆末に至ては不思議の事なきにもあらず、舒明紀云、唯兄子毛津逃匿(35)于尼寺瓦舍1即※[(女/女)+干]2一二尼1、於v是一尼嫉妬令v顯云々、三體詩杜牧宣州開元寺(ノ)詩云、松寺曾(テ)同2一鶴(ト)棲云々、天隱註(ニ)云、詳(カニ)味2詞意1情思殊(ニ)甚、首句所v謂同v鶴棲(ト)者恐是與2婦人1同v宿託2名(ヲ)鶴(ニ)1爾、唐人多如v此(ノ)、亦※[人偏+稱の旁]若冠女曰2放髪仆1矣は今按※[人偏+稱の旁]の下に未を落せるか、和名集云、後漢書注云、〓髪【召反、和名宇奈爲、】俗用2垂髪(ノ)二字1謂2之童子垂髪1也、【〓同、】腹句とは今は第四の句を指せり、第一句を頭とし第二を胸とし第三四を腹とし第五句を尾とする意なるべし、此長年が評は少不審あり、童女はなりの時我ゐて行て寢し女は今は髪上つらむ歟と後になりて云はむ事難あるべしともおぼえずや、但撰者も同心なれば不審ありとは云なり、六帖には寺の歌に入れて腰句以下をひとめみしうなゐは今は髪上つらむとあり、
 
初、椎野連 聖武紀云。神龜元年五月辛未正七位上四比(ノ)忠勇(ニ)賜(フ)2姓(ヲ)椎野連(ト)1。第三に志斐(ノ)嫗《ヲウナ》か哥あり。四比と志斐おなしくして椎野連かさきにや。脉はこれにふたつの心あるへし。ひとつには血脈の義。この時は相傳のこゝろなり。ふたつには診賑の義。脉をとりこゝろみることく、義味をあちはひてたゝす心なり。夫寺家(ノ)之屋(ニハ)者不v有(ラ)2俗人(ノ)寢處1。此理たしかなり。されとも澆末にいたりては不思議の事なきにもあらす。舒明紀云。唯|兄子《コノカミタル・エコ・コノカミニアタル》毛《ケ》野|逃2匿《カクス・齊明紀ニケカクル》于尼寺(ノ)瓦|舍《ヤニ》1。即|※[(女/女)+干]《ヲカシツ》2一(リ)二(リノ)尼(ヲ)1。於v是一(リノ)尼|嫉妬《ウハナリネタミシテ》令v顯(ハレ)。圍(テ)v寺(ヲ)將v捕(ント)。乃出(テ)之入2畝傍《ウネヒ》山(ニ)1。因(テ)以(テ)探《アナクル》v山(ヲ)。毛津|走《ニケテ》無(シテ)v所v入刺(テ)v頸(ヲ)而死。杜牧(カ)宣州(ノ)開元寺(ノ)詩(ニ)云。松寺曾(テ)同(シク)2一鶴(ト)1棲(ム)。云々。天隱註云。詳(ニ)味(ヘハ)2詞意(ヲ)1情思殊(ニ)甚(シ)。首句(ニ)所v謂同(シク)v鶴(ト)棲(トハ)者、恐(クハ)是与2婦人1同宿(シテ)託2名(ヲ)鶴(ニ)1尓。唐人多(ハ)如(シ)v此(ノ)。亦※[人偏+稱の旁]若冠女曰放髪仆矣。若冠は著冠にてそのうへに未の字の脱たるなるへし。下に著冠といへり。疑ふへからす。仆は顛仆、今の義にあらす。是は丱の字の誤れるなり。下おなし。さて此長年か脉は、かへりて長年か誤なるへきにや。うなゐはなりはといひたれは、かみあけつらんかといふへからすといふは、此哥をいかにこゝろ得けむ。わかゐねしうなゐはなりはといふは、過にしかたをいへり。かみあけつらんかは、今はかみあけつらんかといふにさまたけなし
 
决曰
 
3823 橘之光有長屋爾吾率宿之宇奈爲放爾髪擧都良武香《タチハナノテレルナカヤニワカヰネシウナヰハナリニカミアケツラムカ》
 
此歌にては第四句のウナヰを上句につゞけ放ニを落句へ引分て落句へつゞけて意得ぺし、上句は今のにても然るべし、下句はさきのやまさり侍らむ、
 
初、橘のてれる長屋に 橘のあかみて色のてるその下にある長屋なり。うなゐはなりはのはもしをにゝ改たるは、わかゐねしうなゐとつゝけて、よみきりて、はなりにかみあけつらんかといふ心にや。橘の寺の長屋はてれる長屋にても有ぬへし。下句はうなゐはなりはといへるこそまさり侍らめ
 
(36)長忌寸意吉麻呂歌八首
 
3824 刺名倍爾湯和可世子等櫟津乃檜橋從來許武狐爾安牟佐武《サシナヘニユワカセコトモイチヰツノヒハシヨリコムキツニアムサム》
 
櫟津、【別校本云、イチヒツ、】
 
刺名倍はサシナベとも讀べし、和名集云、辨色立成云、銚子佐之奈閉、俗云佐須奈倍、櫟津は櫟井歟、古事記應神天皇御歌云、伊知比韋能和邇佐能邇《イチヒヰノワニサノニ》云々、允恭紀云、於v是弟姫【衣通姫也】則從2烏賊津使主《イカツノオミニ》1而來之、到2倭(ノ)春日(ニ)1食2于櫟井(ノ)上(ニ)1、續日本紀第九に正八位下大伴(ノ)櫟津(ノ)連子人と云ものあり.今の櫟津を氏とせるにや、檜橋は櫟津に渡せる橋の名歟、檜木にて作れる橋歟、來許武は許〔右○〕は衍文なるべし、狐は伊勢物語にもきつねと云はずしてきつにはめなでくだかけのとよめり、
 
初、さすなへにゆわかせことも さすなへは、和名集云。、辨色立成(ニ)云。銚子(ハ)佐之奈閉。俗云佐須奈倍。妨色立成(ニ)云。銚子(ハ)佐之奈閉。俗云佐須奈倍。四聲字苑云。銚(ハ)【徒弔反】燒器似(テ)2※[金+烏]※[金+育](ニ)1而上(ニ)有v鐶也。唐韻云。※[金+烏]※[金+育](ハ)【烏育(ノ)二音】温器(ナリ)也。櫟津のひはしより。允恭紀云。於v是弟姫《・衣通姫》則從2烏賊津使主《イカツノオムニ》1而|來《マウク》之。到(テ)2倭(ノ)春日(ニ)1食《ヲシス》2于櫟井(ノ)上(ニ)1。こゝにや。績日本紀第九に、正八位下大伴櫟津(ノ)連子老といふものあり。來許武、許は衍文なり。あむさんは、令浴《アムサム》なり。關此饌具、湯櫟これなるへし。崔禹錫(カ)食經云。櫟子【上音歴。和名以知比】相似(テ)而大2於椎子(ヨリ)1者(ナリ)也。さすなへは雜器なり。櫟津は河なり。説文云。狐(ハ)妖獣也。鬼(ノ)所v乘(ル)也。きつとのみいへるは、伊勢物語にも、夜も明はきつにはめなてとよめり
 
右一首傳云、一時衆集宴飲也、於v時夜漏三更、所2聞《キコユ》狐聲《キツネノコヱ》1爾《テ》乃(チ)衆諸|誘《サソフテ》2興麿《オキマリヲ》1曰、關(カル)2此饌具(ニ)1雜器狐聲河橋等物、但作歌者、(37)即應v聲作2此歌1也、
 
詠2行騰蔓菁食薦屋※[木+梁]1歌
 
和名集云、釋名云、行〓(ハ)【音與v騰同、行〓和名、無加波岐、】行騰也、言裹v脚(ヲ)可2以跳騰輕便也、又云蘇敬本草注云、蕪菁【武青二音、】北人名2之蔓菁1、【上音蠻、和名阿乎奈、】古事記下仁徳天皇段云、乃自2其淡路島1而幸2行吉備國1、爾黒日賣命令v大2坐其國(ノ)(ノ)山方地1而獻2大御飯(ヲ)1於v是爲v煮2大御羮(ヲ)1、採2其地之※[草がんむり/松]菜(ヲ)1時、天皇到2坐其孃子之採v※[草がんむり/松]處1、歌曰、夜麻賀多邇《ヤマガタニ》、麻祁流阿袁那母《マケルアヲナモ》、岐備比登々《キヒヒトヽ》、等母邇斯都米婆《トモニシツメハ》、多怒斯久母阿流迦《タノシクモアルカ》、和名集云、温※[草がんむり/松]崔禹錫經云、温※[草がんむり/松]、【音終、和名古保禰、】味辛大温無v毒者也、かゝれば古事記に※[草がんむり/松]を用られたるはおぼつかなし、食薦は延喜式掃部式云、穉薦食薦《ワカコモノスコモ》一枚、和名云、漢語抄云、食單須古毛、屋※[木+梁]は又云、唐韻(ニ)云、梁、【音良、和名宇都波利、】棟梁也、釋名云、屋梁與2絶v水之梁1同v義、今の本木に從がへてかけるは俗字歟、
 
3825 食薦敷蔓菁※[者/火]將來※[木+梁]爾行騰懸而息此公《スコモシキアヲナニモチコウツハリニムカハキカケテヤスムコノキミ》
 
旅より來著て行騰をぬぎて梁に懸て息む此公に進むべければ、食薦を敷、羮には蔓菁を煮て早く飯持て來よと奴婢を急がす意なり、若落句をヤスメコノキミとよま(38)ば其程にあをなを煮てもて來よと云なり、
 
初、すこもしきあをな 和名集云。食單【須古毛。】行〓(ハ)和名又云。釋名云。行〓【音与v騰同、行〓(ハ)和名無加波岐】行騰(ナリ)也。言(ハ)裹(テ)v脚(ヲ)可2以跳騰(シテ)輕便(ナル)1也。※[木+梁]は俗字にや。哥の心は道行つかれてむかはきをぬきてやすむ此君かために、すこもをしきて、あをなを※[者/火]てもて來よとなり
 
詠2荷葉1歌
 
3826 蓮葉者如是許曾有物意吉麻呂之家在物者宇毛乃葉爾有之《ハチスハハカクコソアレモノオキマロカイヘナルモノハイモノハニアラシ》
 
有物は物は助語なり、或はアルモノとも讀べし、宇毛は宇と伊と同意なれば通してイモと點ぜり、うも〔二字右○〕と讀ていも〔二字右○〕と通しても同じ事なり、和名集云、四聲字苑云、芋【于遇反、和名以閉都以毛、】葉似v荷其根可v食v之、葉の相似たる物なれは荷葉を殊にほめむとて芋の葉をば云ひ出せり、和名にいへついもと云へるは薯蕷をやまついもと云に對してなり、
 
初、蓮葉はかくこそあれも もは助語なり。有物とかきたれはあるものとも讀へし。うもの葉はいもの葉なり。いもの葉のよくはすの葉に似たる心なり。和名集云。四聲字苑云。芋【于遇反。和名以閉都以毛】葉似(タリ)v荷(ニ)。其根可v食(ツ)之
 
詠2雙六(ノ)頭《メヲ》1謌
 
和名云、兼名苑云、讐六子一名六菜、【今案博奕是也、俗云須久呂久、】又云雙六菜、楊氏漢語抄云頭子、【雙六乃佐以、今案見2雜題雙六詩1、】かゝれば頭をメと點ぜるは誤なり、サイと讀べし、音を以て和語とせり、歌に佐叡とよめるは才の字をさえと云に准らへて意得べし、
 
初、詠雙六(ノ)頭《メヲ》歌 和名集云。兼名苑云。讐六子。一名六菜【今案博奕是也。俗云須久呂久】雙六乃菜。楊氏漢語抄云頭子【雙六乃佐以。今案見2雜題雙六詩1。】五雜組云。雙陸一名握※[朔/木]。本(ト)胡戯也云々
 
(39)3827 一二之目耳不有五六三四佐倍有雙六乃佐叡《イチニノメノミニアラスコロクサムシサヘアリケリスクロクノサイ》
 
是は略攝の頌文の如し、第八山上憶良秋七種花をよまれたる第二の歌の類なり、
 
初、佐叡はさえとよみて、五音相通に心得へし。此哥は聖教の中にある畧攝の頌のことし
 
詠2香塔厠屎鮒奴1歌
 
屎鮒は二種なるを歌には一種によめる歟、初より鮒の中の別名にて葛に屎葛あるが如き歟、
 
3828 香塗流塔爾莫依川隅乃屎鮒喫有痛女奴《カウヌレルタウニナヨリソカハスミノクソフナハメルイタキメヤツコ》
 
川隅は厠の名にや、厠、釋名云、厠(ハ)雜也雜2厠其上1也、かはる/”\行はまじはる意なれば交屋と云心に名付たるにやと思ふを、川の隅などに作りて不淨をも流し捨る意に川隅とも川屋とも名付る歟、然らざれば題に叶はず、痛女奴は日本紀に婢をメノヤツコとよめり、イタキは甚にて賤しき者の限なる意なり、香塗れる塔は清淨にて敬まひ尊とぶべき事の限りなるに川隅の屎鮒はみて其身賤しき限なる女奴は依てなけがしそとよめるなり、
 
初、かうぬれるたふになよりそ 香の字日本紀にこりとよみたれは、和訓にもよむへきか。川すみはかはやの名にや。かはやといふはかはる/\ゆけは、交屋《カハヤ》といふ心の名なり。くそふなは葛にくそかつらあることく、ふなの中にさる名おひたるが有なるへし、川すみといふを川にいひなして、くそふなとはつゝけたり。いたきめやつこは、はなはたしきめやつこにて、いやしきものゝかきりなり。日本紀に婢の字をめのやつことよめり。香ぬれる塔は清淨にてうやまふへき事のかきりにて、淨穢はるかにへたゝりたれは、なよりつきそといふこゝろなり。くそといふはよろつのものゝ屑の名なり。火をうちてつくる物をほくそといふ類なり。そのゆゑに古今の作者にくそといふ女あり。今はひとへにきたなきことにのみいひならひたれは、その名さへうたておほゆるなり
 
(40)詠2酢醤〓鯛水葱1歌
 
〓は蒜の字の誤なり、和名云、鯛【都條反、和名太比、】此は和名をたゞさむために引なり、水葱は延喜供奉雜菜云、水葱四把、【准2四升1五六七八月、】和名云、唐韻云、〓【胡谷反、】水菜可v食也、楊氏漢語抄云、水葱【奈木、】一云〓菜、【〓音與v〓同、今案〓宜作v〓、〓者石〓、他草(ノ)名也、】
 
初、酢醤蒜【誤作御】次哥おなし
 
3829 醤酢爾〓都伎合而鯛願吾爾勿所見水葱乃※[者/火]物《ヒシホスニヒルツキカテヽタイネカフワレニナミセソナキノアツモノ》
 
〓、【官本作蒜、】
 
第二句は蒜を搗合てなり、和名云、食療經云、搗蒜〓【比流豆木、】又云四聲字苑云、〓【即〓反、訓安不、一云、阿倍毛乃、】擣2薑蒜1以v醋和v之、此和名のひるつきは醤酢に蒜をつきかてて成ての後用を以て體とせる名なり、今はまだ成らぬ先の用の詞なり、かつるはまじふるなり.西京賦云、〓v良雜v苦、蜀都賦云、雜以2〓藻1〓以2蘋〓1、推古紀云、島人不v知2沈木1以交v薪燒2於竈1、
 
初、ひしほすにひるつきかてゝ 五雑組云。禮有2〓醤、卵醤、芥醤、亘醤1。用v之各有v所v宜。故聖人不v得2其醤不1v食。今江南當有2亘醤1。北地則但熟麺爲v之而己。寧辨2二多種1耶。又桓譚新論有2〓醤1。漢武帝有2魚腸醤1。南越有2〓醤1。晋武帝與2山濤1書致2魚醤1。枚乘七發有2芍藥之醤1。宋孝武詩有2匏醤1。又漢武内傳有2連珠雲醤、玉津金醤1。神仙食經有2十二香醤1。〇凡聶而切之〓藏者※[既/木]謂2之醤1矣。乃古之〓非v醤也。ひるつきかてゝ、和名集云。食療経云。搗蒜〓【比流豆木】又云四聲字苑云。〓【即〓反、訓2安不1。一云阿倍毛乃】擣(テ)2薑蒜(ヲ)1以v醋(ヲ)和(ス)v之。かてゝはあはするこゝろなり。又ましふるなり。俗に事をとりあはするを、かてゝくはへてなといひ、人の我をましへぬを、かてぬなと申めり。和名によれはひるつきはさいふもの有て躰なれと、今はひるを搗《ツキ》あはせてと用の詞になしてみるへし。たひねかふ、和名集云。鯛【都條反。和名太比】日本紀云。赤女即赤鯛(ナリ)也。水〓のあつもの、和名集云。唐韻云。〓【胡谷反】水菜可v食也。楊氏漢語抄云。水〓【奈木】一云〓菜【〓音与v〓同。今案〓宜v作v〓。〓者石〓。他艸名也。】延喜式供奉雑菜水〓四把【准2四升1。五六七八月。】※[者/火]は※[者/火]れは物のあつくなるゆへにかけるなるへし。哥の心はひしほと酢とにひるをつきかてゝ、あはれ鯛もかなこれをかけてくはむとねかふわれに、あらぬ水〓のあつ物はなみせそとなり
 
詠2玉掃鎌天水香棗1歌
 
水は木を誤まれり、第三に帥大伴卿の歌に天木香とかけり、玉掃は第二十に寶字二(41)年正月三日内裏にて王臣に玉箒を賜はりて肆宴ありける時、家持の始春の初子の今日の玉箒とよまれたるに付て先達の異説樣々なれど、今の題並に歌に依に玉箒は草の名なりと見えたり、されど如何なる草と云事を知らず、字書を見るに帚に宜しき草多し、爾雅云、〓王〓、郭璞註(ニ)云、王帚也、似v藜其樹可3以爲2掃〓(ヲ)、江東呼v之曰2落帚1、又云〓馬帚似v〓可3以爲2掃〓1、玉篇云甍【莫耕切、〓草可v爲v帚】〓【莫公切、草可2以作1v帚、】此中に先達の説に〓を云と申されたれば馬帚此に近きにや、
 
初、詠玉掃 第二十に初春のはつねのけふの玉箒と家持のよまれたる哥につきて、さま/\に申めり。玉はよろつ物をほむる時くはへていふ詞なれは、常のはゝきをも哥には玉はゝきとよみ侍るへきを、これは題に玉掃と侍れは、もとより玉はゝきと名付る物をよめるにこそ。天木香、木を誤て水となせり。第三に帥大伴卿の哥に、わきもこか見しとものうらのむろの木はとあるにも天木香樹とかけり
 
3830 玉掃苅來鎌麻呂室乃樹與棗本可吉將掃爲《タマハヽキカリコカママロムロノキトナツメカモトヽカキハカムタメ》
 
鎌に麻呂の名を付て奴などのやうに云ひなせり、
 
初、玉掃かりこ鎌まろ 今ひとつの愚案をめくらすに玉はゝきかりこといひたれは玉箒は木あるひは草なり。そのはらやふせやにおふるはゝき木のとはよみたれと、それは木の名にはあらぬよしなれは、さては地膚のことにや。和名集云。本草云。地膚一名地葵【和名迩波久左。一云末木久佐。】ふたつの和名を出されたる中に、玉はゝきといふへきよしはなけれと、世に波々岐久佐とてまさしく、はゝきにゆひて用侍り。かまゝろはいなこをも和名集にいなこまろと侍れは、只鎌をもかまゝろとはいふへきを、これはやつこなとの名にいひなせるなるへし
 
詠白鷺啄v木飛歌
 
3831 池神力士※[人偏+舞]可母白鷺乃桙啄持而飛渡良武《イケカミノリキシマヒカモシラサキノホコクヒモチテトヒワタルラム》
 
初の二句に二つの意侍るべし、一つには池神のために鷺の桙啄持て力士※[人偏+舞]をなすなり、二つに池神の鷺と化して力士※[人偏+舞]をしてみづから心を慰さむるなり、第九の細領巾の鷺坂山とよめるに付て詩を引つる如く、鷺の羽を舞人の翳として用る事あ(42)ればおのづから其よせあり、第十に※[(貝+貝)/鳥]をよめる歌にも青柳の枝啄持てと讀たり、
 
初、池神の力士※[人偏+舞]かも 海よりはしめて井池にいたるまて神あらすといふ事なし。力士まひとは、いにしへ力士まひとて鉾をもちてまふ舞の有けるなるへし。神の手力あるを、力士といふ。執金剛を金剛力士といふも、ちからによりて得たる名なり。鷺の木の枝くはへて飛ありくは、池の神の出て鉾を横たへもちて、力士まひし給ふかといふ心なり。まひとは鷺の空を飛めくる心なり。第十に
  春かすみなかるゝともに青柳の枝くひもちて鶯なくも
源氏物語胡蝶云。みつとりとものつかひをはなれすあそひつゝほそきえたともをくひてとひちかふといへり。此鷺の木をくはへて飛はすつくる料なるを、かくよめるなるへし。又鷺は舞の具に彼羽を用れはそのよせ有。詩(ノ)宛丘(ニ)云。坎(トシテ)其撃鼓(ヲ)、宛丘(ノ)之下(ニ)、無(ク)v冬(ト)無(ク)v夏(ト)、値《タツ》2其(ノ)鷺羽(ヲ)1。【朱熹注云。賦也。坎(ハ)撃v鼓聲。値(ハ)植也。鷺(ハ)春※[金+且](ナリ)。今(ノ)鷺〓(ソ)。好而潔白(ナリ)。頭上有2長毛十數枚(ノ)羽1。以2其羽1爲v翳。舞者持以指麾也。言(コヽロハ)無(トナリ)4時(トシテ)不(ト云コト)3出遊(テ)而鼓2舞(セ)於是1也】
 
忌部首詠2敷種物1歌一首 名忘失也
 
3832 枳棘原苅除曾氣倉將立屎遠麻禮櫛造刀自《カラタチノムハラカリソケクラタテムクソトホクマレクシツクルトシ》
 
神代紀云、送糞此云2倶蘇摩屡《クソマル》1、
 
初、からたちのむはらかりそけ 第十一に夏草のかりそくれともとよみ、第十四にあかみ山草根かりそけとよめり。くそとほくまれは日本紀云。送糞此(ヲハ)云(フ)2倶〓摩屡《クソマルト》1。又云復見2天照太神|當新甞《ニハナヒキコシメス》時(ヲ)1則|陰《ヒソカニ》放2〓《ケカシス》於新宮(ニ)1。疏云。放屎(ハ)屎(ハ)式視(ノ)切、与v矢同。竹取物語にいはく。まつ|しそく《紙燭》してこゝの|かひ《卵》かほみんと御くし《頭》もたけて御てをひろけたまへるにつはくらめの|まり《送》おけるふるくそをにきりたまへるなりけり。刀自は女なり。上に注せり。女のわさにくしをはつくるものなり
 
境部王詠2數種物1歌一首【穗積親王之子也】
 
元正紀云、養老元年正月乙巳、授2無位坂合部王從四位下1、五年六月治部卿、懷風藻云、從四位上治部卿境部王二首、【年二十五、】
 
初、境部王 元正紀云。養老元年正月乙巳授2無位坂合部王(ニ)從四位下(ヲ)1。五年六月治部卿。懷風〓云。從四位上治部郷境部王二首【年二十五】
 
3833 虎爾乘古屋乎越而青淵爾鮫龍取將來劔刀毛我《トラニノリフルヤヲコヱテアヲフチニサメトリテコムツルキタチモカ》
 
鮫龍、【官本又云、ミツチ、】
 
古屋を越ては履中紀云、鷲住王爲v人強力輕捷、由v是獨馳2越八尋屋1而遊行云々、青淵は清少納言に名おそろしき物に云へり、名のみならず見ても怖ろしき物なり、鮫龍は六帖に此歌を虎の歌に入れたるにもさめとあれど鮫は淵にある物にあらず、鮫は(43)鮫にて鮫龍の二字引合せてみづちなりけむを、昔より誤て鮫に作ける故字に隨て點じける歟、鮫は誠にさめなれど龍の字をばいかゞ意得べき、文選王子淵聖主得2賢臣1頌云、及v至d巧冶鑄2干將之璞1、清水|※[さんずい+卒]《ニラギ》2其鋒1越砥※[僉+欠]c其鍔u、水斷2蛟龍1陸〓2犀革1、忽若2〓v※[さんずい+巳](ヲ)畫塗、李善注曰、胡非子曰、負2長劔1赴2榛薄1析2咒豹(ヲ)1、赴2深淵1斷2蛟龍1、郭景純江賦云、壯(ナリトシ)2荊飛(カ)之擒1v蛟終成(サリ)2氣乎太阿1、李善注曰、呂氏春秋曰、荊有2欣飛者1得2寶劔於于遂1、反渉v江至2于中流(ニ)1、有2兩蛟1夾2繞其船1、欣飛拔2寶劔1曰、此江中腐肉朽骨也、赴v江刺v蛟殺v之、荊王聞v之、仕以2執珪1、晉書云周處字(ハ)子隱、少孤、未2弱冠1、膂力絶v人、縱情恣欲、州里患v之、處自知2爲v人所1v惡、慨然有2改飼V志1、謂2父老1曰、今時和歳豐、何苦而不v樂邪、父老歎曰、三害未v除、何樂之有、處曰、何謂也、答曰、南山白額猛虎、長橋下(ノ)蛟、并v子(ヲ)爲2三害(ト)1、處乃入(テ)v山射2殺猛虎1投v水搏v蛟、又自改v志行2忠孝(ヲ)1、仁徳紀云、是歳【六十七年】於2吉備中國川鳴河(ノ)派《カハマタニ》有(テ)2大(ナル)〓《ミヅチ》1令v苦v人云々、於v是笠臣(ノ)祖縣守、爲v人勇捍而|強力《コハシ》云々、即擧v劔入v水(ニ)斬(ル)v〓(ヲ)、更求2〓之黨類1、乃諸〓(ノ)族滿2淵底之岫穴1、悉斬(ル)v之河(ノ)水|變《カヘヌ》v血、故号(テ)2其水1曰2縣守淵1也、和名云、説文云、蛟(ハ)【音交、和名美豆知、日本紀用2大〓二字1、】龍屬也、山海經注云、似v蛇而四脚、池魚滿2二千六百1則蛟來爲2之長1、又云文字集略云、〓【音球】龍(ノ)之有v角青色也、此歌は虎古屋淵蛟劔の五種を故ありて讀たまふに依て壯志をふるひて讀給へる歟、若佛法の喩ならば虎に乘は勇猛の精進なり、古屋を越るは三界を度越するなり、(44)法華の長者の朽宅の如し、青淵は衆生の生死なり、蛟龍は無明なり、劔は智慧なり、智慧の決斷は譬へば昆吾の劔の玉を切こと泥の如くなるに似たり、文珠等の尊此故に此を執て智徳を表す、勇猛の大精進に依て三界を度越して還て大智慧力を以て生死の中の衆生の無明の巣穴を探て悉斷割せばやと讀たまへる歟、
 
初、とらにのりふるやをこえて これは故事なとにやいまたかんかへ侍らす。あをふちはあを/\とみゆる淵なり。枕草子に名おそろしきもの、青ふち。鮫龍、これをさめとよめるは誤なり。淵はさめあるところにあらす。鮫は蛟にあらたむへし。みつちなり。みつちは龍属なれは、二字引合てたつとよむへし。鮫にても蛟に通する歟。いまたかんかへす。たつとりてこんは、晉書曰。周處字(ハ)子隱少(シテ)孤(ナリ)。未2弱冠1膂力絶v人。縱v情恣v欲。州里患v之。處自知2爲v人所1v惡、慨然有2改飼V志1。謂2父老1曰。今時和歳豐。何苦而不v樂邪。父老歎曰。三害未v除。何樂之有。處曰何謂也。答曰。南山白額猛虎、長橋下(ノ)蛟、并v子爲2三害1。處乃入v山射2殺猛虎1投v水搏v蛟又|自《ミ》改v志行2忠孝(ヲ)1。【畧抄。】欽明紀云。六年冬十一月膳臣|巴提便《ハスヒ》還v自2百濟1言。〇巴提便忽申2左手1執2其虎舌1右手刺殺剥2取皮1還。又蛟を殺せる人有。ありところをわする又感高祖の故事歟
 
 
作主未詳歌一首
 
3834 成棗寸三二粟嗣延由葛乃後毛將相跡葵花咲《ナシナツメキミニアハツキハフクスノノチモアハムトアフヒハナサク》
 
此は飲宴の時盤中の物を戀によせてよめる歟、寸三は黍歟、粟嗣は舂《ツキ》たる粟を竹の筒に入れて能|擣堅《ツキカタ》めて酒の糟に藏して用る事侍る由申す者あり、さる體の物を云名にや、君に逢見むと云意につらねたり、由は田の誤なり、葵は和名園菜部云、本草云、葵【音逵、和名阿布比、】味甘(シ)寒無v毒物也、延喜式供奉雜菜葵四把、【准二升、五八九十月、】此は賀茂の祭に名高き草にも亦蜀葵にもあらで別の園菜なり、文選には青々園中(ノ)葵と云ひ、王維が詩には林下清齋折2露葵1とも作り秋葵なども云へり、此國にも昔は有けるを今の世には聞えぬにや、何れも日に向ひて傾くと云へば、まぎらはし、
 
初、なしなつめ君にあはつき なしのきなつめの木といふ心にきみとはつゝけたる歟。粟嗣とは、粟をよくつきて、竹の筒に入れてつきかため、糟にかくして食侍るよしかたり申ものゝ侍し。さることをいへるにや。きみにあふことのたえすつゝくといふ心にいへり。はふくすの由は田の字の誤なり。第七第十等に田葛とかけり。後もあはんとは、上にさねかつら後もあはんとあまたよめるかことく、葛のはひわかれゆくか、又末にてはひあふことくなれは、たとへていへり。これは上のあはつきをうけたり。あふひ花さくとは、これも逢といふ心にいひなして、後もあはむとゝいふをうけて、後もあはむしるしには、時いたれは今葵の花もさけりとなり。これは人のあるしまふけしたるところに、そのあるものをよめるなるへし。梨、棗、粟、葛、葵、五種なり。寸三は黍にはあるへからさるか。葵は和名集、園菜部云。本草云。葵【音逵。和名阿布比】味甘(シテ)寒(ナリ)。無(キ)v毒物(ナリ)也。延喜式供奉雜菜葵四把【准2二升1。五八九十月】
 
(45)萬葉集代匠記卷之十六上
 
(1)萬葉先代匠記卷之十六下
 
獻2新田部親王1歌一首
 
3835 勝間田之池者我知蓮無然言君之鬢無如之《カツマタノイケハワレシルハチスナシシカイフキミカヒケナキカコト》
 
鬢無如之、【官本又云、ヒケナキカコトシ、】
 
勝間田の池のあり所の事、先達の説に或は下總或は美作など申されたる事袖中抄等に委見えたり、今案これ皆此集の前後をよく見合せて意得られざる故なり、注に出2遊于堵裡1御2見勝間田(ノ)之池(ヲ)1と云へり、堵は第一第三第六にも有て既に注せし如く都の字にて通して用たれば紛なく奈良の京の内なり、招提寺は添下郡にありて今の奈良と云よりは西北の方に當れり、此地は元は新田部親王の舊宅なりけるを寶字年中鑑眞大和尚に賜りて伽藍となれり、親王の御墓も彼寺の北に當りて今の俗蓬莱と云處に侍る由彼寺の縁起に載たりとかや、袖中抄云、或人申侍しは勝間田池(2)は奈良西京藥師寺の跡を申傳へたりと云々。良玉集云、物へ參りける道に昔のかつまたの池とて※[木+戚]《イヒ》の跡ばかり見えけるに道濟
 朽たてるいひなかりせば勝間田の昔の池と誰か知らまし、
又藥師寺の跡とも聞えず、かつまたの池とていひばかり見ゆとかけり、彼邊の案内知人の申侍りしは、彼寺の近き程に侍るとぞ承と申侍りし、それは違はず侍る歟、今云藥師寺は彼招提寺の南に侍るを藥師寺の跡と云へるは勝間田の池の跡の藥師寺となれりと云意歟、續日本紀に文武天皇二年十月に藥師寺事成ぬる由記せり、此時は高市郡岡本なり、元明天皇都を奈良に遷させ姶ひて後、元正天皇養老二年に彼藥師寺を添下郡右京の二坊に遷されたりと彼寺の縁起に載たる由なれば、池と寺とは初より異處なる事明らけし、藥師寺の近き程にある池ならば遊覽に出させ給ふに尤便あり、六帖にかつまたの池に住てふこひ/\てまれにもよそにみるぞ悲しき、曾丹が集にかつまたの池の氷のとけしよりやすの浦とぞにほ鳥もなく、此等その比までも猶あせずしてよめる歟、あせたれど昔に准らへてよめる歟、和名に遠江|蓁原《ハイハラ》【波伊波良、】郡に勝田【加豆萬多、】あり、美作勝田【加豆萬多、】郡に【加豆萬多、】あれど今の用にあらず、鬢は和名云、説文云、鬢【卑吝反、】頬髪(ナリ)也、かゝれば俗に保保比介《ホホヒヘ》と云物にや、但常に和名を出さ(3)ず、又美人をほむるに蝉鬢など云ひ、常にも音に云なるは髪の耳の前に生ひさがりたるを云へば頬髪と注せるもそれにや.然れば鬚の字の誤歟、無如之は今の點に依らば之如を倒に寫せる歟、今の字に任せて點ぜばヒゲナキゴトシと讀べし、されど古風の例ヒゲナキガゴトなるべし、傳の意に依るに彼池に蓮はなかりけるを蓮華灼々たりとのたまへど我よく彼池の蓮あるべくしてなき事は知參らせてさぶらふ、なあざむかせたまひそ、然のたまふ君の鬚おはしますべき御顔になきが如くにて候と戯たるなり、此親王には鬚のおはしまさゞりけるなるべし清輔袋草子に三井寺勝觀法師衆中にして此歌を釋して聞が如くならは此親王は大鬚にておはしましけりと云へるを、滿座感じける由かゝる、勝觀が云が如くならば勝間田の池はげにも蓮多く侍べり、然のたまふ君に大鬚おはする如く侍りと云べきを戯てかへざまによめりと意得たる歎、我知と云を能味はゝぬなり、
 
初、かつまたの池は我しる蓮なし かつまたの池は大和なり。哥後傳云。新田部親王出2遊于堵裡1御2見勝間田之池1といへり。玉篇云。堵【都魯切。垣也。五版爲v堵。】二尺を板といへは、五板は一丈なり。高さ一丈の築垣《ツイチ》なるへし。今出2遊于堵裡1といふは、ちかきあたりへ出てあそはせたまふといふ心なるへし。又都と通して用たる歟。第一云。高市古人感2傷近江舊堵1作歌。第三云。式部卿藤原宇合卿被v使改2造難波堵1之時作歌。上にすてに委注せり。その哥ともをみるに、都と通せりとみゆれは、かつまたの池は奈良の都のかたはらに有にや。類字名所抄云。八雲御抄、并範兼卿五代集哥枕下總國【云云。】仍當國載v之。清輔抄美作【云云。】彼國有2勝間田郡1。其所乎可v決v之。今いはくことはり右のことし。異義に及ふへからす。又美作の勝田郡を勝間田郡といへるは誤なり。曾丹家集に
  かつまたの池のこほりのとけしよりやすの浦とそにほ鳥もなく
やすの浦はあふみなるを、にほの海といふにおもひよせて、かつまたの池の氷とけぬれは、かつくにさはりなくて、にほ鳥の心にやすの浦のことく心やすくひろ/\とあるよしによめるなり。さて此哥の心は傳にあらはなり。彼池に蓮はなきを、蓮花灼灼たりとのたまへは、我よく蓮なきことはしりてさふらふ。さのたまふ君のひけおはしますへき御かほに、なきかことくにてさふらふとたはふれたるなり。鬢は鬚の字の誤歟。和名集云。鬚【和名之毛豆比介】頤(ノ)下(ノ)毛(ナリ)也。鬢無如之とかきたれは、ひけなきことしとも讀へし。彼親王にはひけのおはしまさゝりけるにこそ
 
右或(ハ)有人聞v之曰、新田部親王出2遊于堵裡1、御2見勝間田之池1感2緒御心之中1、還(テ)v自(リ)彼(ノ)池1、不《ス》v忍《シノヒ》2憐愛1、於v時語2婦人《タヲヤメ》1曰、今日(4)遊行(シテ)見(ルニ)2勝間田(ノ)池(ヲ)1水(ノ)影(ケ)濤濤《タウ/\トシテ》、蓮花|灼灼《シヤク/\タリ》、可憐斷(ツ)v腸(ヲ)、不《ス》v可《ヘカラ》v得《ウ》v言《イフコトヲ》爾乃婦人作2此戯歌1、專輙吟詠也、
 
水影濤々.説文云、濤(ハ)大波也、かゝれど水の滿る※[貌の旁]なるべし、蓮花灼々、毛詩云、桃之夭々(タルアリ)灼々(タル)其華(アリ)、傳曰、灼灼(ハ)華之盛(ナルナリ)也、
 
初、水影濤々 蓮花灼々、陶潜詩云。明々雲間月。灼々葉中花。可憐与2※[立心偏+可]怜1同
 
謗2佞人1歌一首
 
論語云、子曰焉(ソ)用v佞(ヲ)、禦《アタルニ》v人(ニ)以(シ)2口給(ヲ)1、屡憎(マレテ)2於人(ニ)1、不v知2其仁1焉(ソ)用v佞(ヲ)、
 
初、佞人 玉篇云。佞【奴定切。口材也。】論語曰。子曰焉(ソ)用(ン)v佞(ヲ)。禦《アタルニ》v人以(シ)2口給(ヲ)1屡(/\)憎(マレテ)2於人(ニ)1不v知2其仁(ヲ)1。焉(ソ)用(ン)v佞(ヲ)。莊子漁父篇云。莫(シテ)2之(ヲ)顧1而進(ム)之謂2之(ヲ)佞(ト)1。【疏云強進2忠言1人不2來顧1謂2之佞1也】
 
3836 奈良山乃見手柏之兩面爾左毛右毛倭人之友《ナラヤマノコノテカシハノフタオモニカニモカクニモネシケヒトカトモ》
 
兩面爾、【六帖云、フタオモテ、別校本、無2爾字1點與2六帖1同、幽齋本、點亦同、】
 
兒手柏とは若《ワカ》兒の手に似たる柏なり、鶏冠樹を蝦手《カヘルテ》、蕨を紫塵〓蕨人擧(ル)v手(ヲ)と云へる類なり、第二十にも下總國防人が歌に千葉の野の兒手柏とよめり、六帖にも柏の歌とせり、おほとちと云草を云などは用べからぬ説なり、兩面ニとは柏の葉の風にかへりやすきを手を打かへすによせて、佞人の口材あるに任せて善惡の筋をとほさ(5)ずとかく云ひ成して人をまどはすに喩へたるべし、落句はネヂケビトガトモと讀べし、トモはともがらなり、末に至てしづをのとも大夫之徒《マスラヲノトモ》などもよめり、
 
初、なら山のこのてかしは 第二十に防人か哥にも
  ちは《千葉》の野のこのてかしはの|ほゝまれと《雖含有》あやにかなしみおきて|たか《高》き《來》ぬ
能困哥枕に云。かしはをはこのてかしはといふ。ひらてともいふと云々。このてかしはとて別にはあらす。只かしはなり。小兒の手によくにたる故にいふなり。かへるの手に似たれは、かへてといひ、早蕨を人手をにきると詩に作れるかことし。ふたおもにとは手にたなこゝろとたなうらと有によせて、風なとのふく時うらおもてをみすれは、かにもかくにもねちけ人とつゝけんためなり。かにもかくにもは、とにもかくにもなり。ねしけ人がともは佞人のともからなり。ますらをのともなとよみとめたるにおなし。佞人之友とかけるを、ねしけひとかもとよめるは誤なり
 
右歌一首博士|消奈行文《セナノユキフム》大夫作v之
 
元正紀云、養老五年正月戊申朔甲戍詔(シテ)曰、文人武士(ハ)國家(ノ)所v重、醫卜方術(ハ)古今斯崇云々、明經第二博士正七位上背奈公行文云々、各賜v※[糸+施の旁]十五疋、絲十五※[糸+句]、布三十端、鍬二十口1、聖武紀云神龜四年十二月丁亥授2正六位上背奈公行文從五位下(ヲ)1、懷風藻云、從五位下大學助背奈王行文二首【年六十二、】今は行文大夫と云故に氏の下に公の字を略せる歟、懷風藻に背奈王とあるは聖武紀云天平十九年六月辛亥正五位下背奈福信外正七位下背奈大山等八人賜2背奈王(ノ)姓1、此中に背奈福信は此集第十九に見えたる高麗朝臣福信にて行文が甥《ヲヒ》なり、行文は天平に入ては紀に見えねば神龜の末天平の初に卒去せるなるべし、然れば後に福信等に賜はりたる姓《カバネ》を初に廻らしてかけるにや、福信が傳に依れば行文も本は高麗より王化を慕ひて渡り來たる人の子孫にて武藏國高麗郡より都へ上れる人なり、
 
初、消奈行文 續日本紀第八云。養老五年正月戊申朔甲戌詔曰。文人武士(ハ)國家(ノ)所v重醫卜方術(ハ)古今斯崇。〇明經第二博士正七位上背奈公行文〇各賜※[糸+施の旁]十五疋、絲十五※[糸+句]、布三十端、鰍二十口。聖武紀云。神亀四季十二月丁亥〇授2正六位上背奈公行文(ニ)從五位下(ヲ)1。懷風藻云。從五位下大學助背奈王行文二首【年六十二。】こゝに消奈とありて公の字なきは脱せるなるへし。懷風藻に背奈王とあるは、聖武紀云。天平十九年六月辛亥正五位下背奈福信、外正七位下背奈大山等八人賜2背奈王姓1。此中に背奈幅信は第十九に見えたる高麗朝臣福信なり。行文かためには甥《オヒ》なり。行文は天平に入ては傳も見えねは、神龜天平の間に死去せるなるへし。しかれは後に甥に賜たる背奈王を初にめくらしてかけるにこそ。福信か傳によれは、武藏の高麗郡の人と見えたり。もとは高麗より出たり
 
(6)3837 久堅之雨毛落奴可蓮荷爾渟在水乃玉似將有見《ヒサカタノアメモフラヌカハチスハニタマレルミツノタマニニタルミム》
 
蓮荷をハチスバとよめるは爾雅云、其葉(ハ)※[草がんむり/遐]【胡歌反、】郭璞(カ)注云、※[草がんむり/遐]亦荷字(ナリ)也、第十三にも蓮葉爾渟有水之往方無《ハチスハニタマレルミヅノユクヘナシ》とよめり、落句は六帖に蓮の歌に入れたるも今の點と同じけれど有見をみむ〔二字右○〕と讀べきやうなければ今のまゝならばタマニニラムミムと讀べし、或は有の字は衍文にや、
 
初、久かたのあめもふらぬか ふらぬかふれかしなり。荷はもし葉の字にや。但葉を荷といへは、さも有へし。第十三にもみはかしをつるきの池のはちす葉にたまれる水のゆくへなみわかする時にとよめり。玉尓似將v有見《タマニニラムミム》、これをは玉ににらん見むと讀へし
 
右歌一首傳云、有2右兵衛1【姓名未v詳】多(ク)能《タヘタリ》2歌作之藝(ニ)1也、于v時府家備2設酒食1、饗2宴(ス)府官人等1、於v是饌食盛v之皆用2荷葉1、諸人酒酣謌舞駱驛(ス)、乃誘2兵衛1云關2其荷葉1而作v歌者、登時應v聲作2斯歌1也、
 
右兵衛は屬官なり、府家と云へるは右兵衛督なり、駱驛〔二字右○〕、韻會絡下注云、絡繹連屬(ルナリ)不v絶、集韻或(ハ)作v※[素+各]通作v落、莊子|落《マトフ》2馬首(ヲ)1云々、繹(ノ)下(ノ)注(ニ)云、往來不v絶曰2絡繹(ト)1、通作2絡驛1、亦作2落繹1、かくありて絡と駱と通ずと云はず、但駱下注云、廣雅白馬朱鬣、陸佃(カ)云、今呼2黄馬(ノ)(7)尾鬣一道通黒(キコト)如v界者1爲v絡、蓋(シ)馬無v分(ツコト)2黄白1皆謂2之絡1、若2今衣脊絡縫1故曰v絡(ト)、此注駱は駱の義と聞ゆれば今通じてかけるにや、
 
無心所著歌二首
 
此は濱成卿の和歌式に求韻|査《サ》體雅體の三體を立らるゝ中の査體に、別有2七種1中の雜會なり、此例に出さるゝ歌、資人久米廣足歌云、春日山嶺こぐ舟の藥師|寺《テラ》淡路の島の犂《カラスキ》の※[金+辟]《ヘラ》牛馬犬鼠等一處如(シテ)2相會1無(キカ)v有(ルコト)2雅意1故雜會(ナリ)、源氏物語|常《トコ》夏に近江の君が歌、草若み常陸の海のいかゞさきいかで相見むたごの浦波、女御のかへし、常陸なる駿河の海の須磨の浦に浪立出よ箱崎の松、此等も今の歌の類なり、
 
初、無心所著歌 これは濱成の式にいへる雜會躰なり。式云。和歌三種躰、一者求韻、二者査躰、三者雅躰。〇査體別有七種。一(ニハ)雜會。資人久米廣足哥云
  かすか山みねこく舟の藥師てらあはちのしまのからすきのへら
牛馬犬鼠等一處(ニシテ)如2相會(ルカ)1無v有2雅意1。故曰 歟 雜會(ナリ)
源氏物語床夏に近江の君か哥
  草わかみひたちの海のいかゝさきいかてあひみむ田子のうらなみ
女御の返し
  ひたちなるするかの海のすまの浦に浪立出よはこさきのまつ
これら今の無心所著の類なり
 
3838 吾妹兒之額爾生流雙六乃事負乃牛之倉上之瘡《ワキモコカヒタイニオヒタルスクロクノコトヒノウシノクラノウヘノカサ》
 
額、【校本云、ヒタヒ、】
 
和名云楊雄方言(ニ)云、額【五陌反、和名比太比、】かゝれば校本の點に依べし、
 
初、わきもこかひたいに ことひは特なり
 
3839 吾兄子之犢鼻爾爲流都夫禮石之吉野乃山爾氷魚曾懸有《ワカセコカタフサキニスルツフレイシノヨシノヽヤマニヒヲソサカレル》
 
(8)【懸有反云2佐家禮流1】
 
犢鼻は神代紀下云、於是兄著犢鼻《コヽニコノカミタフサギシテ》云々、和名云、方言注云、袴(ニシテ)而無v跨謂2之(ヲ)褌1、【音昆、和名須万之毛乃、一云知比佐岐毛乃、】史記云、司馬相如著2犢鼻褌1、韋昭(カ)曰、今三尺(ノ)布(ヲモツテ)作v之形如2牛鼻(ノ)1者也、唐韻云、※[衣+公]【職容反、与v鍾同、楊氏漢語抄云、※[衣+公]子毛乃之太乃太不佐岐、一云、水子、】小褌也、ツブレ石は?と禮と同韻にて通ずればつぶて石歟、雄略紀に禿の字をツブルと讀たれば物に觸て禿《ツビ》たる石歟、又圓の字をつぶらとよめり、良と禮と通ずれば、つぶら石にてまろなるを云歟、氷魚は和名云、考聲切韻云、※[魚+小]【音小、今案俗云氷魚是也、】白小魚名也、似2※[魚+白]魚《シロウヲ》1、長一二寸(ナル)者也、注の中の家は我を誤れるなるべし,
 
初、わかせこかたふさき 和名集云。史記云。司馬相如著著2犢鼻褌1。韋昭曰。今三尺布作v之。形如2牛鼻1者也、唐韻云。※[衣+公](ハ)職容反。与v鍾同。小褌也。楊氏漢語抄云。※[衣+公](ハ)子毛乃之太乃太不佐岐。一云、水子褌。方言注云。袴而無v袴謂2之(ヲ)褌(ト)1。【音昆、和名須万之毛能。一云知比佐岐毛乃。】雄畧紀云。乃|喚2集《ツトヘテ》采女(ヲ)1使《シム》d脱《ヌイテ》2衣裙《キヌモヲ》1而|著犢鼻《タフサキニシテ》露《アラハナル》所(ニシテ)相撲《スマヒトラ》u。つふれ石、つふて石なり。禮と※[人偏+弖]と同韻なり。氷魚は和名集云。考聲切韻云。※[魚+小]【音小。今案俗云2氷魚1是也。】白小魚名也。似2※[魚+白]魚《シロウヲニ》1長一二寸(ナル)者也
 
右歌者舍人親王令2侍座1曰、或有(ラム)v作(コト)d無(キ)2所由1之歌(ヲ)u人者、賜(ニ)以2錢帛1、于v時大舍人安倍朝臣子祖父、乃作2斯歌1獻上、登時以2所v寡《ツノル》物餞二千文1給v之也、
 
天武紀云、朱鳥《アカミトリ》元年春正月壬寅朔癸卯、御《オハシマシテ》2大極殿1而賜2宴《トヨノアカリヲ》於諸(ノ)王卿1、是日詔曰、朕問2王卿1以(セム)2無端事《アトナシコト》1、仍對言得v實(ヲ)必(ラス)有v賜、於v是高市皇子被v問以v實對、賜2蓁摺《ハリスリノ》御衣三|具《ヨソヒ》(9)錦袴二具并※[糸+施の旁]二十疋絲五十斤緜百斤布一百端1、伊勢(ノ)王亦得v實、即賜2皀《クリソメノ》御衣三具紫袴二具※[糸+施の旁]七匹絲二十斤緜四十斤布四十端1、丁巳天皇御2於大安殿(ニ)1喚《メシテ》2諸王卿1賜v宴、因以賜v※[糸+施の旁]綿布1各有v差、是日問2群臣1以2無端事1、則當時得v實重(テ)給2綿※[糸+施の旁]1、此無端事とあるは如何なる事と知らねど凡そ今も此類にや、募は説文云廣求(ムルナリ)也、
 
初、右歌者舍人 天武紀云。朱鳥元年春正月壬寅朔癸卯|御《オハシマシテ》2大|極《アム》殿1而賜2宴《トヨノアカリヲ》於諸王卿(ニ)1。是(ノ)日詔曰。朕問2王郷1以2無端事《アトナシコトヲ》1。仍對言(ニ)得(ハ)v實(ヲ)必(ラス)有(ン)v賜。於v是高市皇子被v問以v實(ヲ)對。賜2蓁摺《ハリスリノ》御衣三|具《ヨソヒ》、錦袴二具、并※[糸+施の旁]二十疋、絲五十斤、緜百斤、一百端(ヲ)1。伊勢(ノ)王亦得v實(ヲ)、即賜(フ)2皀《クリソメノ》御衣三具、紫(ノ)袴二具、※[糸+施の旁]七匹、絲二十斤、緜四十斤、布四十端(ヲ)1。丁巳天皇御2於大安殿(ニ)1喚《メシテ》2諸(ノ)王卿(ヲ)1賜v宴(ヲ)。因以賜(コト)v※[糸+施の旁]綿布(ヲ)1各有v差《シナ》。是(ノ)日問(ニ)2群臣(ニ)1以(ス)2無端事(ヲ)1。則當時得(レハ)v實(ヲ)重(テ)給2綿※[糸+施の旁](ヲ)1。此あとなしことゝあるは如何なる事と知らねとおよそ此たくひにや
 
池田朝臣嗤2大神朝臣奧守1歌一首【池田朝臣名忘失也】
 
廢帝紀云寶字八年正月乙巳正六位下大神朝臣奥守授2從五位下1、
 
3840 寺寺之女餓鬼申久大神乃男餓鬼被給而其子將播《テラ/\ノメカキマウサクオホウワノヲカキタハリテソノコハラマム》
 
昔は寺寺に餓鬼を作置ける故に第四に笠女郎も大寺の餓鬼のしりへとよめり、奧守が其身いたく痩たる故に我夫に此人給はらむ子を多くまうけむと女餓鬼が申すと戯ぶるゝなり、將播をハラマムと點ぜるは誤なり、ウマハムと讀べし、うまはむ〔四字右○〕はうまむ〔三字右○〕なり、允恭紀云、一氏|蕃息《ウマハリテ》更爲2萬姓1、雄略紀云、田邊史伯孫聞2女産兒《ムスメヲノコヽウマハリセリト》1往(テ)賀《ヨロコブ》2聟《ムコノ》家(ヲ)1、又同紀に蔓生をもウマハルとよめり、仁賢紀云、遠近清平《ミヤコヒナスミヤハライデ》、戸口滋殖《オホムタカラマス/\ウマハル》、玉篇云、播種也、韻會云、播(ハ)布也、書曰|播《ホトコス》2時《コノ》百穀(ヲ)1、
 
初、寺/\のめかき申さく 寺には餓鬼を作り置こと有。めかき男餓鬼とて有ことなり。第四に
  あひおもはぬ人をおもふは大寺の餓鬼のしりへにぬかつくかこと
大神朝臣奥守か其身いたくやせたる故に、女餓鬼か申やうは、わか夫に此人給はらん。子をおほくまうけんとなり。はらまんとあれともうまはむとよむへし。允恭紀云。然三(ノ)才《ミチ》顯(ハレ)分以來多歴2萬歳1。是(ヲ)以一氏|蕃息《ウマハリテ》更爲2萬姓1難v知2其實(ヲ)1。仁賢紀云。八年冬十月|百姓《オホムタカラ》言(サク)。〇遠近清平《ミヤコヒナスミヤハライテ》戸口《オホンタカラ》滋殖《マス/\ウマハル》焉。雄略紀云。田邊史伯孫聞2女《ムスメ》産《ウマハリセリト》兒《ヲノコヽ》1往(テ)賀《ヨロコフ》2聟《ムコノ》家(ヲ)1。又云。高麗諸將言2於|王《コニキシ》1曰。百濟|心計《コヽロハヘ》非v常《アヤシ》。臣毎(ニ)v見v之不v覺自失。恐更|蔓生《ウマハリナムカ》。請逐除(カン)v之。韻會曰。播(ハ)布(ナリ)也。玉篇曰。播(ハ)種(ナリ)也、書曰。播《ホトコス》2時《コノ》百穀(ヲ)1。【注波左切。】うまはむは、うまんなり
 
(10)大神朝臣奧守報v嗤歌一首
 
初、大神朝臣奥守 廢帝紀云。寶字八年正月乙巳正六位下大神朝臣奥守授2從五位下1
 
3841 佛造眞朱不足者水渟池田乃阿曾我鼻上乎穿禮《ホトケツクルアカニタラスハミツタマルイケタノアソカハナオウヘヲホレ》
 
造はツクリと讀べきか、佛は木などにて造て眞朱は其後彩色を加ふる具なれば眞朱を以て佛を造るとは云べからずや、但彩色を以て成就するをつくるとも云べき歟、眞朱は和名云、考聲切韻云、丹砂(ハ)【丹音都寒反、和名※[人偏+爾]】似2朱砂1而不2鮮明1者也、又云本草云、朱砂最上者(ヲ)謂2之光明砂1、水渟は池と云はむためなり、應神紀に大|鷦鷯《サヽキノ》尊の御歌云、瀰豆多摩蘆豫佐瀰能伊戒珥《ミヅタマルヨサミノイケニ》、奴那波區利《ヌナハクリ》云々、此池田朝臣は俗語に云|石榴鼻《ザクロハナ》にて極めて赤かりけるなり、源氏物語末摘花に先居たけの高うをせながに見え給ふに、さればよと胸つぶれぬ、打繼て人あなかたはと見ゆる物は御鼻なりけり、ふと目とまる普賢ぼさちの乘物とおぼゆ、あさましう高うのびらかにさきのかた少たりて色つきたるほどことのはかにうたてあり、五雜爼云、宋王h張亢倶在2晏元獻幕客1、亢體肥大(ナリ)、目《ナヅケテ》v之(ヲ)爲v牛、h(ハ)枯痩(ス)、亢目(ケテ)爲v猴、h甞嘲v亢曰、張亢觸v牆成2八字1、亢應v聲(ニ)曰、王h望v月※[口+斗]三聲、一坐爲v之絶倒、調戯は何處にもある事なり、
 
初、ほとけつくるあかにたらすは 佛を造ては、彩色の具に朱を用る故にいへり。和名集云。※[石+朱]砂本作2朱丹1。出2於辰州(ヨリ)1爲2辰砂(ト)1。化2水銀(ヲ)1爲v朱(ト)名2銀朱(ト)1。丹土【二豆知。】水たまるは、池はたむるものなれは、池とつゝけんためなり。應神紀に、大鷦鷯皇子の御哥にも、瀰豆多摩蘆《ミヅタマル》、豫佐瀰能伊戒珥《ヨサミノイケニ》、奴那波區利《ヌナハクリ》云々。遊仙窟云。少府頭中|有《タマレリ》v水何(ソ)不v生(セ)2蓮(ヲ)1。あそは朝臣なり。元正紀云。靈龜元年八月庚午正三位安倍朝臣宿奈麻呂言。正七位上池田臣萬呂本系同v族實非2異姓1。追2尋親道1理須2改正1。請賜(ハムト)2安倍池田朝臣姓1許v之。はなのうへをほれとは、俗にいふ柘榴鼻《サクロハナ》にてあかゝりけれはなり。五雜組云。唐封抱一任2櫟陽尉(ニ)1。有v客過v之。既短又患v眼及鼻塞。泡一用2千字文語1作2嘲之詩1曰。面作2天地玄1、鼻有2雁門紫1、既無2老達承1、何身罔談v彼。源氏物語末摘花に、まつゐたけのたかうをせなかに見え給ふに、されはよとむねつふれぬ。うちつぎてあなかたわとみゆるものは御はなゝりけり。ふとめとまる。ふけんほさちののりものとおほゆ。あさましうたかうのひらかに、さきのかたすこしたりて色つきたるほとことのほかにうたてあり。又いはく。わか御かけのきやうたいにうつれるか、いときよらなるを見たまひて、手つから此あかはなをかきつけにほはして見たまふに、かくよきかほたにましれらんはみくるしかるへかりけり
 
(11)或云
 
此下に注落たる歟、但注せざれども其意あらはなる故に次の二首の異を云詞歟、
 
平群朝臣嗤歌一首
 
3842 小兒等草者勿苅八穗蓼乎穗積乃阿曾我腋草乎可禮《ワラハヘモクサハナカリソヤホタテヲホツミノアソカワキクサヲカレ》
 
發句の點等の字にかなはず、ワラハドモと讀べし、八穗蓼は穗の多かるなり、第十三に水蓼の穗積に至りとつゞけたるやうに、やほたでの〔右○〕と云べきをを〔右○〕と云へるは御佩乎劔池と云へるに准らふべき歟、若又是は八穗蓼を其穗を摘と云へるにや、腋草とは腋の下の毛なり、腋毛の多かりける人にこそ、
 
初、わらはへら草はなかりそ 小兒等はわらはどもともよむへし。やほたてをほつみのあそとは、ほたてを摘とつゝくるか、又みはかしのつるきの池とつゝくへきを、第十三にみはかしをつるきの池といへることく、やほたてのほつみといふ心につゝけたるか。第十三には水たてのほつみにいたりとつゝけたり。わき草は腋の下の毛をいへり
 
穗積朝臣和歌一首
 
3843 何所曾眞朱穿岳薦疊平羣乃阿曾我鼻上乎穿禮《イトコニアカニホルヲカコモタヽミヘクリノアソカハナノウヘヲホレ》
 
阿所曾、【校本云、イツクニソ、】
 
(12)薦疊は平群の枕言なり、下の乞食者が歌にも八重疊平群の山とよめり、第十四に丸小菅刈來我背兒床《マロコスゲカリコワガセコトコ》のへだしにとよめる如く薦を敷て床と身とを隔つる意なり、景行紀、思邦《クニシノビノ》御歌にも多々瀰許莽弊遇利能夜摩能《タヽミコモヘグリノヤマノ》云々、私記に上句を注して平群山安留之義也と云へるは誤なり、古事記雄略天皇の御歌にも、久佐加弁能《クサカベノ》、許知能夜麻登《コチノヤマト》、多々美許母《タヽミコモ》、弊具理能夜摩能《ヘグリノヤマノ》、許知碁知能《コチコチノ》、夜麻能賀比爾《ヤマノカヒニ》云々、
 
初、いとこにそあかにほるをか あかにほるをかはいつくにあるそ。へくりのあそんかはなの上をほれ。そこにこそよきあかにはあれとなり。こもたゝみへくりとつゝけたるは、下の乞食者か哥に、やへたゝみへくりのやまにとよめるかことく、かさねてしく心なり。一重ふたへもゝへちへなと、へといふはみなへたてかさなる心なり。日本紀に景行天皇の御哥にも、たゝみこもへくりの山の白かしとよませたまへり。第九に、わかたゝみ三重の川原とつゝけたることく心得へし。第十一に、
  たゝみこもへたてあむかすかよひせはといふは、似たることなれと、今の心にあらす。八重疊へくりの山とつゝけたる心うたかひなし
 
嗤2咲黒色1歌一首
 
3844 鳥玉之斐太乃大黒毎見巨勢乃小黒之所v念可聞《ヌハタマノヒタノオホクロミルコトニコセノヲクロカオモホユルカモ》
 
烏玉は大黒と云はむためなり、大黒小黒は黒の馬によそへて云なり、斐太も巨勢も共に氏なり、下の注に明なり、第六に帥大伴卿|日本路《ヤマトヂ》の吉備の兒鳥を過て行かば筑紫の兒島おもほえむかもとよまれたると誠と戯とは殊なれど相似たる歌なり、五雜組云、唐(ノ)初梁實好2嘲戯(ヲ)1曾因(テ)2公行1至2貝州1、問2貝州(ノ)佐史(ニ)1云、此州(ニ)有2趙神徳(トイフモノ)1甚能(ク)嘲(ス)、即令v召v之、寶顔甚(ハダ)黒、廳(ノ)上憑v案以待(ツ)、須臾《シバラクアツテ》神徳入、兩眼倶赤、寶即云趙神徳天上既(ニ)無v雲、閃電何(ヲ)以(テカ)無2准則1、答云|向《サキニハ》者入v門來(レハ)案後惟見2一挺墨1、寶又云官裏料2※[石+朱]砂(ヲ)1半眼供2一國1又答云、(13)磨(バ)2公小拇指1塗2得太社北(ヲ)1寶更無2以對1、愧謝遣v之(ヲ)、
 
初、ぬは玉のひたの大くろ くろといへは馬ときこゆるなり。第四第十三にぬはたまの黒馬とあるを、こまとよめるも、かひのくろこまなといひて、くろきに名馬もきこゆる故なるへし。第六に大納言大伴卿
  やまとちのきひのこしまを過てゆかはつくしの小嶋おもほえんかも
これ筑紫より上らるゝ時に、遊女兒島かよめる哥のかへしなり。たはふれとまことゝことなれと、哥のやう似たり。五雜組曰。唐(ノ)初梁實好2嘲戯(ヲ)1。曾因2公行1至2貝州1。問(ニ)2貝州佐史1云(ク)。此州有2趙神徳(ト云モノ)1甚能嘲(ト)。即令v召v之。寶顔甚黒。廳上憑v案以待。須臾神徳入。兩眼倶赤。寶即云。趙神徳、天上既無v雲。閃電何以無2准則1。答云。向者《サキニ》者入v門來案後惟見2一挺墨1。寶又云。官裏料2※[石+朱]砂1半眼供2一國1。又答云。磨2公小拇指1塗2得太社北1。寶更無2以對1。愧※[言+身+矢]遣v之
 
答歌一首
 
3845 造駒土師乃志婢麻呂白爾有者諾欲將有其黒色乎《コマツクルハシノシヒマロシロニアレハサモホシカラムソノクロイロヲ》
 
土師氏は後に菅原と改たむ、埴を以て樣々の物の形を作る事をつかさどる氏なりさて駒造ルとは云へり、諾はウベと讀べし、水通が歌に所念と云へるに依てほしからむと云へり、甲斐の黒駒など云ひて馬は黒《クロ》に名の聞ゆるが多けれげ、小黒がおもほゆるとて、我等が黒色をほしがらるゝは、諾ことわりなりとよめるなり、若は水通が色は源氏物語に色は雪耻かしう白くてさをにとかけるばかり白過けるにや、神代紀上云、天(ノ)穗日(ノ)命、此出雲|臣《オブト》武藏國|造《ミヤツコ》土師《ハシノ》連等(ガ)遠祖(ナリ)也、垂仁紀云、三十二年秋七月甲戌朔己卯、皇后日葉酢媛命【一云2日葉酢根命1也、】薨、臨v葬有v日焉、天皇詔2群卿1曰從v死之路前知v不v可、今此行之葬|奈之爲何《イカヾセム》、於v是野見宿禰進曰云々、喚2上出雲國之|土師《ハシ》壹佰人1、自領2土師《ハシ》等1、取v埴以造2作人馬及種種物形(ヲ)1獻2于天皇1曰云々、天皇厚賞2野見宿禰之功1亦賜2鍛地1、即任2土部職1因改2本姓1謂2土部臣1云々、所謂野見宿禰是土部連等之始祖(ナリ)也、光仁紀云、天應元(14)年六月戊子朔壬子遠江介從五位下土師宿禰古人、散位外從五位下土師宿禰道長等一十五人言、土師之先出v自2天穗日命1、其十四世孫名(ヲ)曰2野見宿禰1云々、望請因2居地名1改2土師1以爲2i菅原姓1、勅|依《マヽニ》v請《コハシノ》許v之、
 
初、こまつくるはしのしひまろ 土師氏は、埴をもてさま/\の物の形を作ることをつかさとれは、かくはつゝけたり。神代紀上云。天穗日命。此出雲|臣《オフト》、武藏國(ノ)造《ミヤツコ》、土師《ハシノ》連等(カ)遠(ツ)祖(ナリ)也。垂仁紀云。三十二年秋七月甲戌朔己卯皇后日葉酢媛命【一云日葉酢根命也】薨。臨v葬有v日焉。天皇詔2群卿1曰。從v死之道前知v不v可。今此行之葬奈之爲何。於v是野見宿祢進曰。〇喚2上出雲國之|土部壹佰人1自領2土部等1取v埴以造2作人馬及種々物形1獻2于天皇1曰。〇天皇厚賞2野見宿祢之功1亦賜2鍛地1。即任2土部職1。因改2本姓1謂2土部臣1。〇所謂野見宿祢是土部連等之始祖也。光仁紀云。天應元年六月戊子朔壬子、遠江介從五位下土師宿祢古人、散位外從五位下土師宿祢道長等一十五人言。土師之先出v自2天穗日命1。其十四世孫名曰2野見宿祢1。〇望請因2居地名1改2土師1以爲2i菅原姓1。勅依v請許v之。しろにあれはとは、源氏物語に色は雪はつかしうしろうてさをにといへるかことし。俗にもなましらけたりといへり。馬と水通か色の白過たるによせて、さもほしからんとは戯るゝなり。諾はむへともよむへし
 
右歌者傳云、有2大舍人土師宿禰水通1、字曰2志婢麻呂1也。於v時大舍人巨勢朝臣豐人字曰2正月《ムツキ》麻呂1、與2巨勢斐太朝臣1【名字忘之也、島村大夫之男也、】兩人竝此彼1貌《カタチ》黒色(ナリ)烏、於v是土師宿禰水通作2斯歌1嗤咲者、而巨勢朝臣豐人聞之、即作2和歌1酬咲也、
 
豐人は未詳、巨勢斐太朝臣は元正紀云、養老三年五月己丑朔癸卯從七位上巨勢斐太臣|大男《オホヲ》等二人並賜2朝臣姓1、注島大夫は島村大夫なるを村の字の落たる歟、聖武紀云、天平十六年閏正月天皇|行2幸《イデマス》難波(ノ)宮(ニ)1、治部大輔正五位下紀朝臣清人、左京亮外從五位下巨勢斐太朝臣島村二人爲2平城宮(ノ)留守1、十七年正月己未朔乙丑外從五位下巨勢斐多朝臣授2外從五位上1、十八年五月從五位下、同九月刑部少輔、烏は焉に作るべし、
 
初、巨勢斐太朝臣 元正紀云。養老三年五月己丑朔癸卯從七位上巨勢斐太臣|大男《オホヲ》等二人並賜2朝臣姓1。注島大夫は島村大夫なるを、村の字を脱せる歟。聖武紀云。天平十六年閏正月天皇行2幸難波宮1。〇治部大輔正五位下紀朝臣清人、左京亮外從五位下巨勢【疑脱斐太二字】朝臣島村二人爲2平城宮留守1。十七年正月己未朔乙丑外從五位下巨勢斐多朝臣嶋村授2外從五位上1。十八年五月從五位下。同九月刑部少輔。色烏、焉の誤字なり。此集中おほし。但和名集に唐韻を引て通するよしをいへり【ありところをわする】
 
(15)戯2嗤僧1歌一首
 
3846 法師等之鬢乃剃杭馬繋痛勿引曾僧半甘《ホフシラカヒケノソリクヒニウマツナキイタクナヒキソホウシナカラカモ》
 
鬢は上に云如く鬚歟、馬は杙にも繋げばかくは云なり、僧半甘は痩たる僧なれば僧の半分許なれば痛くひかば倒るべければなひきそと云なり、
 
初、ほふしらかひけのそりくゐに これはちひさき僧を檀那か戯にあさけりてよめるなり。ほふしなからかもは、なからにならんといふ心なり。鬢は鬚のあやまりなるへし
 
法師報歌一首
 
3847 檀越也然勿言?戸等我課?徴者汝毛半甘《タムヲチヤシカモナイヒソサテコラワカエタスハタラハナレモナカラカモ》
 
檀越は舊譯の梵語、新譯には檀那なり、唐には布施と飜す、僧の施主を呼詞なり、?戸等我をテコラワガと點ぜるは誤なり、テコドモガと讀べし、手兒は妻なり、課役をモエタチと讀べし、課役は房事なり、徴るは責る意なり、房勞に虚損せば汝も今やがて半にならむぞと戯ふれてかへせり、
 
初、檀越やしかもないひそ 檀越は舊《ク》譯の梵語、新譯は檀那《ダンナ・タンナウ》なり。此には布施といふ。三施の中に財施をなすをおもてとす。しかもないひそはさはないひそなり。てこともかは、妻妾をいへり。ゑたしはたらはとは、房勞にせめられは、汝も今やかて虚損してなからにならんそとたはふるゝなり
 
夢裡作歌一首
 
(16)3848 荒城田乃子師田乃稻乎倉爾擧藏而阿奈干稻干稻吾戀良久者志《アラキタノシシタノイネヲクラニツミテアナウタウタシワカコフラクハ》
 
荒城田は第七に荒木の小田とよめるに同じ、大和國宇智郡の荒城なり、子師田は第十二に鹿猪田禁如《シヽタモルゴト》とよめるしゝ田〔三字右○〕にて、しゝのつく田なめり、アナウタ/\シとは稻を熟《コナ》すにはこきもし打もすればあなうたまほしと云ひて多と登と通ずればあなうと/\しとそへたる歟、于稻于稻志とかけるは稻と云より思ひよりてなり、梅を烏梅、楊を楊奈疑とかける類なり、第六に忌部首黒麿恨2友?1歌とて有しに今の注を引合せて思ふべし、友を戀たる人と見えたり、
 
初、あらきたのしゝ田の稻を 荒木田は第七にも、ゆたねまくあらきの小田をもとめむとゝよめり。その哥前後にあまた大和の名所をよめる中につゝまれたれは、延喜式第九神名上に、大和國宇智郡荒木神社と載られたるそこなるへし。しゝ田は、第十二にも、小山田のしゝ田もることゝよめる哥に、鹿猪田とかけり。しゝのつく田をいへり。あなうた/\しとは稻を打といふによせて、長流はうと/\しなといふ義あれとひかことなり。うたゝといふ心なり。うたゝはあまりなるといふ心なれは、わかこふらくのあまりなりとはよめるなりといへり。子師田のいねといふよりおもひよりて、于稻于稻志とはかけり。多宇反豆なれは三五相通して、豆を登にも轉して、うと/\しとこゝろ得むも、かならすひかことゝもさためかたかるへし
 
右歌一首忌部首黒麿、夢裡伸2此戀歌1贈v友、覺而不誦習如v前、
 
不誦習は不は衍文なるべし、
 
初、注の中の不の字は衍文なるへし
 
厭2世間無常1歌二首
 
(17)智度論云、無常(ニ)有2二種1、一(ニハ)相續法壞無常1、二(ニハ)念念生滅無常、攝大乘論云、無常(ニ)有2三種1、一(ニハ)念念壞滅無常、二(ニハ)和合離散無常、三(ニハ)畢竟如是無常(ナリ)、
 
初、厭世間無常歌 攝大乘論云。無常有2三種1。一(ニハ)念々壞滅(ノ)無常。二(ニハ)和合離散(ノ)無常。三(ニハ)畢竟如是(ノ)無常
 
3849 生死之二海乎厭見潮干乃山乎之努比鶴鴨《イキシニノフタツノウミヲイトヒシミシホヒノヤマヲシノヒツルカモ》
 
生死の海は華嚴經(ニ)云(ク)、何能(ク)度2生死海1入2佛智海1、は深くして底なく廣くして限りなき物の能人を溺らすこと無邊の生死の衆生を沈没せしむるに相似たれば喩ふるなり、潮干乃山は名所にあらず、海水の滿る時も山はさりげなき如く生死を海に喩へたるに付て涅槃究竟の處には生滅の動轉もなければ涅槃山とも云故に寂滅無爲の處に強て名付たり、鹽の滿ぬ處には干ると云名もなけれど生死の此岸より彼岸を指て假に潮干の山と云なりと云が如し、
 
初、いきしにのふたつの海を 華嚴經云。云何能度(シテ)2生死海(ヲ)1入2佛智海1。生死の苦海とて海に喩ふるは常の事なり。生死におほるゝ六凡を此岸とし、涅槃に差別ありといへとも四聖を彼岸として其間を海にたとふるなり。ふかうして底なく、廣うしてかきりなき生死なれは、海はしたしきたとひなり。潮干の山といふは、かのきしなり。しほのひたるを生死海のかはきたるになして、それをしのふといふは、無爲の樂果をねかふなり。しほひの山はもとよりさいふ名所あるを、名をかり用たるへし
 
3850 世間之繁借廬爾住々而將至國之多附不知聞《ヨノナカノシケキカリホニスミ/\テイタラムクニノタツキシラスモ》
 
宮も藁屋もはてしなければ皆旅人のかりほの如し、
 
右歌二首河原寺之佛堂裡(ニ)在(ル)佞琴(ニ)面v之
 
(18)孝徳紀云、聞2旻《ミム》法師命終1而遣(シテ)v使弔云々、遂爲(ニ)2法師1多造2佛菩薩像1安2置於川原寺1、元享釋書に齊明天皇の時是ある由かゝれたるは誤りなり、天武紀云、二年三月、是月聚2書生1始(テ)寫2一切經於川原寺1、凡そ天式紀には大官大寺川原寺飛鳥寺の三寺と云ひ、又川原寺とのみ云へることあまた處に見えたり、橘寺より二町許北に當て礎今に殘れりとぞ、
 
初、河原寺 舒明紀云。十一年秋七月詔曰。今年造2作大宮及大寺1。則以2百濟川側1爲2宮處(ト)1。是以西民造v宮東民作v寺。便以2書《フムノ》直縣(ヲ)1爲2大匠(ト)1。十二月於2百濟川側1建2九|重《コシノ》塔1。孝徳紀云。聞2旻《ミン》法師命終1而遣v使弔。〇遂爲2法師1多造2佛菩薩像(ヲ)1安2置於川原寺1。天武紀云。是月【二年三月】聚2書生1始寫2一切經於川原寺1。十一年三月甲午朔丁卯爲2天皇體不豫1之三日誦2經於大官大寺、川原寺、飛鳥寺(ニ)1。因以v稻納2三寺1各有v差。十四年秋七月乙巳朔丙戌幸2于川原寺1施2稻於衆僧(ニ)1。九月甲辰朔丁卯爲2天皇體不豫1之三日誦2經於大官大寺、川原寺、飛鳥寺1因以v稻納2三寺1各有v差。朱鳥元年夏四月庚午朔壬午爲v饗2新羅客等1運2川原寺|伎《クレ》樂於筑紫1。仍以2皇后宮之私稻五十束1納2于川原寺1。五月庚子朔葵亥天皇體不v安。因以於2川原寺1説2藥師經1。六月己巳朔丁亥勅遣2百官人等於川原寺1爲2燃燈供養1
 
3851 心乎之無何有乃郷爾置而有者藐孤※[身+矢]能山乎見末久知香谿務《コヽロヲシフカウノサトニオキタラハハコヤノヤマヲミマクチカケム》
 
無何有、【六帖如2今點1、別校本云、ムカウ、】  置而有者、【官本又云、オキテアラハ、】
 
無何有の郷藐孤※[身+矢]の山は共に荘子に出たり、莊子云、彼至人者歸2精神乎無始1而甘2瞑乎無何有(ノ)之郷(ニ)1、又云周※[行人偏+扁】咸三(ノ)者異(ニシ)v名同(シテ)v實(ヲ)其|指《ムネ》一(ナリ)也、甞相與(ニ)遊2乎無何有(ノ)之宮(ニ)1、同合而論無v所2終窮(スル)1乎、又云、惠子謂(テ)2莊子(ニ)1曰、吾有2大樹1人謂2之(ヲ)樗(ト)1云々、莊子曰、今子有2大樹1患2其無(ヲ)1v用、何不v樹2之於無何有(ノ)郷廣莫(ノ)之野(ニ)1、又云、厭則(トキハ)又乘(テ)2夫《カノ》莽眇之鳥(ニ)1以出(テハ)2六極之外1、而遊2無何有之郷(ニ)1、以處2壙※[土+艮](ノ)野(ニ)1莊子は老子に依て虚無を宗とす、道を説こと寓言多ければ無(19)何有山は彼虚無の處に名付たり、さる處有にあらず、藐孤※[身+矢]山は又云、藐姑射(ノ)山(2)有(テ)2神人1居(レリ)焉、肌膚若(シ)2氷雪1、綽約(トシテ)若(シ)2處士(ノ)1、不v食2五穀(ヲ)1、吸(ヒ)v風飲(テ)v露(ヲ)乘2風氣1御(シテ)2飛龍(ニ)1而遊2四海(ノ)之外(ニ)1、其神凝(テ)使《シム》dv物(ヲ)不2疵※[病垂+萬](セ)1而年穀熟(セ)u、姑を今孤に作れるは不審なり、暗記してふとたがへる歟、列子云、列姑射山(ハ)在2海何(ノ)州中(ニ)1、此列姑射に似たる名なれば同じうして別處ある歟、本朝の習ひ太上天皇の仙洞を藐姑射の山によそへて申事は脱?して無爲に優遊したまふ意なり、偏に仙院をのみ申す事と思へるは誤なり、見マク近ケムは見る事の近からむとなり、六帖に此歌を雜思に入れたるはおぼつかなし、
 
初、こゝろをしふかうのさとに これは莊子のこゝろにて無爲にあそふことをよめり。莊子云。彼至人者歸2精神乎無始1而甘2瞑(ス)乎無何有之郷(ニ)1。又云。周※[行人偏+扁】咸三者異v名同v實其指一也。甞相與遊2乎無何有之宮1同合而論無v所2終窮1乎。又云。惠子謂2莊子1曰。吾有2大樹1人謂2之樗1。〇莊子曰〇今子有2大樹1患2其無1v用何不(ル)v樹2之於無何有郷、廣莫之野1。又云。厭則又乘2夫莽眇之鳥1以出2六極之外1而遊2無何有之郷1以處2壙※[土+艮]野1。はこやの山は莊子又云。藐姑※[身+矢]山有2神人1居焉。肌膚若(シ)2氷雪1。綽約若2處士1。不v食2五穀1吸v風飲v露乘2風氣1御2飛龍1而遊2四海之外1。其神凝使d物(ヲシテ)不(シテ)2疵※[病垂+萬](セ)1而年穀熟(セ)u。列子云。列姑※[身+矢]山(ハ)在2海河(ノ)洲中(ニ)1。此列姑射も藐姑※[身+矢]なるへし。本朝にはいつとなく仙洞をのみはこやの山と申ならへれと、心を得はひろく澹然無爲の境をいふへし。本文は藐姑射なるをこゝに姑を孤になせるは音の相近き故か。暗記のたちまちにわすれてたかへる歟
 
右歌一首
 
3852 鯨魚海海哉死爲流山哉死爲流死許曾海者潮干而山者枯爲禮《イサナトリウミヤシニスルヤマヤシニスルシネハコソウミハシホヒテヤマハカレスレ》
 
此は旋頭歌なり、落句は神代紀上云、復使2青山(ヲシテ)變枯《カラヤマトナセ》1第十三に高山與海社者《タカヤマトウミコソハ》とよめる歌は人のはかなきに對してしばらく海山を常なるやうに云へり、今は末遂に其海山も變壞に至る事をよめばことわり違はず、
 
初、いさなとりうみやしにする 依報正報の中に正報の人身等は無常なりとおもへとも、依報の山海等は常住なるやうにおもへるを、おとろかしてよめるなり。神代紀上云。復使2青山(ヲシテ)變枯《カラヤマトナセ》1。第十三に
 高山と海こそは山のまにかくもうつなひ海のまにしかたゝならめ人はあたものそ空蝉の世人。これはしはらく人のはかなきに對して、海山を常なるやうにいへり。今の哥はつゐに變壞にいたることをよめはことはりたかはす
 
(20)右歌一首
 
嗤2咲痩人1歌二首
 
3853 石麻呂爾吾物申夏痩爾吉跡云物曾武奈伎取食《イシマロニワレモノマウスナツヤセニヨシトイフモノソムナキトリメセ》 賣世《メセ》反也
 
吾物申は仁徳紀に國依媛が歌云、椰莽辭呂能《ヤマシロノ》、菟菟紀能瀰椰珥《ツヽキノミヤニ》、茂能莽烏輸《モノマヲス》云々、古今集云、打渡す彼方人に物申す我云々、夏痩は或醫師に尋侍りしかば此國に申習はしたる事にて中華の醫書には見えず、夏病と云をそれにやと推し意得る由申しき、ムナキは俗にはうなぎ〔三字右○〕と云ふ、武と宇とは同韻にて通ず、和名云、文字集略云、※[魚+壇の旁]【音天、和名無奈木、】黄魚鋭頭(ニシテ)口在(ル)2頸下(ニ)1者也、本草云、※[魚+旦]【上音善、和名上同、】爾雅(ノ)注(ニ)云※[魚+單](ハ)似(タリ)v蛇(ニ)【今按※[魚+單]即※[魚+旦]字也、】俗には鰻をうなぎとよめども本草云鰻※[魚+麗]魚【變〓二音、和名波之加美伊乎、】とあれば別なり、むなきの夏痩を治すると云も俗説に付てなるよし、第八に紀女郎が家持に※[草がんむり/弟]花を贈る歌に御食て肥ませとよめるが如し、
 
初、石まろにわれ物まうす むなきはうなきにて、※[魚+壇の旁]の字なり。第八に紀女郎か家持に茅花を贈る哥に
  わけかためわか手もすまに春の野にぬけるつはなそめしてこえませ
 
(21)3854 痩々母生有者將在乎波多也波多武奈伎乎漁取跡河爾流勿《ヤセ/\モイケラハアラムヲハタヤハタムナキヲトルトカハニナカルナ》
 
ハタヤハタはまさにやまさになり、あなかしこといましむる意なり、此歌は右の歌の意をみづから押返してよめり、神仙を求むとて其器にあらざる者多くは藥のために誤まられ、韓退之が病を治するとて硫黄を服して死し、賈島が牛内を※[口+敢]ふに依て病を得て死したる類皆うなぎ取とて河に流れたるものなり、
 
初、やせ/\もいけらはあらむを これ世の人のためによきをしへの哥なり。賈島か牛肉をくらふによりて、かへりて病を得て死けるは、※[魚+壇の旁]とるとて川になかれしものなり。おしあけていはゝ、天然貧賤なるものゝ、しひて富貴をとらんとするたくひ、富貴の手にいらさるのみにあらす、いとゝ貧賤になりまさるもまた川になかるゝものなり
 
右有2吉田連老(イフモノ)1字曰2石麻呂1、所v謂仁教之子也、其老爲v人身體甚(ダ)疲《ヤセタリ》、雖(トモ)v多(シト)2喫《ケイ》飲1、形似2飢饉(ニ)1、因v此大伴宿禰家持聊作2斯歌1以爲2戯咲1也、
 
石麻呂は宜かねなり第五に宜が處に文徳實録を引が如し、光仁紀云、寶龜九年二月辛巳内藥佐外從五位下吉田連古麻呂爲2豊前(ノ)介(ト)1、十年二月壬午外正五位下、天應元年四月已丑朔癸卯正六位上、此は外正五位上を外を落し五を誤て六に作れ(22)る歟、此古麻呂は今の石麻呂を石を誤て古に作れるにや、儒教の君子なりとほむる意なり、疲は痩を誤れるなり、此歌并注は上に黒色を嗤咲歌あり、其次に有べし、若錯亂せる歟、
 
初、字曰石麻呂 光仁紀云。寶亀九年二月辛巳内藥佐外從五位下吉田連古麻呂爲2兼豊前介1。十年二月壬午外正五位下。天應元年四月己丑朔癸卯正六位上。石麻呂を紀にあやまりて古麻呂になすなるへし。印本誤おはきゆへなり。疲はこれ痩の字なるへし
 
高宮王詠2數種物1歌二首
 
高宮王は考る所なし高宮は葛上郡の郷の名なり、此二首上の境部王の歌のつゞきに有べき歌なり、
 
3855 葛英爾延於保登禮流屎葛絶事無官將爲《フチノキニハヒオホトレルクソカツラタユルコトナクミヤツカヘセム》
 
葛英、【幽齋本、作2※[草がんむり/皀]莢1、】
 
葛英は和名集葛類云、「本草云、※[草がんむり/皀]莢【造夾二音、和名加波良布知、俗云2蛇結1、」周禮云、其桓草(ハ)宜2莢物(ニ)1、注(ニ)云、薺莢(ハ)三棘之屬、疏云即今皀莢也、今按※[草がんむり/皀]莢は葛類なる故に葛莢とかけるを莢と英と似たれば今の如く誤りかける歟、本より※[草がんむり/皀]莢と書たらば※[草がんむり/皀]と葛とは書たがふべくも見えず、字書に※[白/十]を皀に作れる事はあれど艸に從ふる由(ノ)事は見えぬを後に加へたる歟、さて此※[草がんむり/皀]莢は俗に西海子の木と云へり、大木になる物なり、唐の文に※[草がんむり/皀]莢樹とか(23)ける事あるは※[草がんむり/皀]莢は草にて實などの※[草がんむり/皀]に似たるを云歟、然らば西海子は皀莢樹なるべし、和名に葛類に入れて俗云?結とは葛の?に似たる歟、實の似たる歟、西海子は長さ六七寸もありて黒くて恐ろしく?結とも云べく見ゆる物なり、今フヂノキと點ぜるは和名の加波良布知を略して西海子の木なるべし、ハヒオホトレルとははひゝろがりて亂るゝ意なり、源氏物語手習の卷に髪のすその俄におほとれたるやうにしどけなくさへぞかれたる云々、枕草子に薄を云へるに冬の末までかしらいと白くおほとれたるをもしらで云々、屎葛は和名集云、辯色立成云、細子草【和名久曾加豆良、】君を※[草がんむり/皀]莢樹にたとへ我身を細子草になして云へる下句なり、
 
初、ふちの木にはひおほとれる 葛英は二字ともにあやまりて※[草がんむり/皀]莢なるへし。和名集葛類下云。※[草がんむり/皀]莢(ハ)本草云。※[草がんむり/皀]莢【造夾二音。和名加波良布知。是俗云2※[虫+也]結《ジヤケチト》1。」西海子といふ木なるを、葛類に入られたるはいかなる心にか。※[虫+也]結は彼木の實なり。そのかたちまことに※[虫+也]結ともいふへく、百足《ムカテ》にも似たり。清少納言か見たらましかは、おそろしき物の中につるはみのかさとおなしく載へき物なり。物なとあらふにも用、馬醫なとも用とかや。おほとれるははひこる心なり。源氏物語手習にかみのすそのにはかにおほとれたるやうにしとけなくさへそかれたるむつかしき事ともいはてつくろはむ人もかなといへり。くそかつらは和名集云。辨色立成云。細子草【和名久曾加豆良】
 
3856 波羅門乃作有流小田乎喫烏瞼腫而幡幢爾居《ハラモンノツクレルヲタヲハムカラスマナフタハレテハタホコニヲリ》
 
梵語の波羅憾摩《ホラカムマ》は清淨の義なり、此を略して婆羅門と云ひ最略して梵とのみ云へり、天竺に四種の姓ある中に婆羅門は漢に准らへば土の如し、梵天種姓にて淨行を宗とし廣學多智にして國家の宰臣ともなるなり、今此婆羅門を取出られたる其故をしらず、奥義抄に、はつをもの作りたる田をとあるは假名本の書たがへたるを見られけるにや、マナフタハレテとは烏はまなふたの腫たるやうに見ゆる鳥なり、ハ(24)タホコニヲリは田をはみ飽て後幢に上りてをるなり、今も桔※[木+旱]の柱上などに居るを見ては先此歌の思ひ出らるゝなり、
 
初、婆羅門のつくれる小田を 梵語の没羅《ボラ》【二合】憾摩《カムマ》【二合】は清浄の義なり。これを畧して婆羅門といひ、猶畧して梵とのみいへり。天竺に四姓あり。婆羅門は梵天種姓にて浄行をもとゝし、廣學多智にして國家の宰臣ともなるものなり。漢土の士、本朝の武士やゝこれに似たり。今かうしもよみ出られたる、その故をしらす。當座に人の所望なとによりてよまれて、只ものゝふやうのものゝ名のみなる歟。※[月+僉]は瞼に作るへし。烏はまことにまなふたの腫たるやうにみゆる鳥なり。此哥は婆羅門、田、烏、瞼、幢、以上五種、初の哥は※[草がんむり/皀]莢、細子草、都合七種を二首によめるなり。奥義抄にはつをものつくりたる田にとあるはいかなることそや
 
戀2夫君1歌一首
 
3857 飯喫騰味母不在雖行往安久毛不有赤根佐須君之情志忘可禰津藻《イヒハメトウマクモアラスアリケトモヤスクモアラスアカネサスキミカコヽロシワスレカネツモ》
 
戰國策云、秦王告(テ)2蒙※[螯の虫が鳥](ニ)1曰、寡人一城圍(マレヌレバ)食不v甘v味(ヲ)、臥(トモ)不v便v席《ヤスム》也、アカネサス君とはにほへる君なり、心シのし〔右○〕は助語なり、此歌は七句あれば旋頭歌にあらず、六帖にはかやうなるを小長歌と云へり、
 
初、いひはめとうまくもあらす 文選曹植求2自試1表曰。寢不v安v席食不v違v味。注善曰。戦國策曰。秦王告2蒙|※[敖/馬]《カウ》1曰。寡人一城圍食不v甘v味臥不v便《ヤスンセ》v席也。日本紀第十九云。食《モノ トモ》不v甘《ムマンセ》v味(ヲ)寢不v安v席《シキヰヲ》。あかねさす君とは、紅顔のにほへるをいへり。第十にあから引いろたへの子とよみ、第十一にはあから引はたもふれすてとよめり
 
右歌一首傳云、佐爲王有2近習婢1也、于v時宿直|不《スシテ》v遑《イトマ》、夫君難(シ)v遇(ヒ)、感情馳結、係戀實(ニ)深(シ)、於v是當宿之夜、夢裡相(ヒ)見《ミル》、覺寤《サメサメテ》探抱(クニ)曾(テ)無(シ)v觸(コト)v手(ニ)、爾(シテ)乃(チ)哽※[口+周]《カウエツ》歔《キヨ》欷(シテ)高聲(ニ)吟2詠(ス)此(ノ)歌(ヲ)1、因王聞v之哀慟(シテ)永(25)免(ス)2侍宿《トノヰヲ》1也、
 
覺寤探抱曾無觸手、第四に長門賦遊仙窟など引が如し、哽咽、咽を※[口+周]に作れるは誤なり、
 
初、佐爲《サヰノ》王 すけためとあるかんなは後人のしわさなり。夢裡相見、遊仙窟云。少時坐睡《シハラクヰナカヲマトロムニ》則夢見2十娘1。驚覺攪之忽然空v手。余因乃詠曰。夢中疑2是實1覺後忽非v眞 文選司馬長卿長門賦云。忽寢寐(ニシテ)而夢想(ス)兮。魂若2君(ノ)之在(ルカ)1v傍(ニ)。※[立心偏+易]寐覺《オトロキネサメ》而無v見兮。魂廷々(トシテ)若v有v亡(ナヘル)。此集第四第十二の哥にもよめり。哽咽、咽誤作v※[口+周]
 
3858 比來之吾戀力記集功爾申者五位乃冠《コノコロノワカコヒチカラシルシアツメクウニマウサハコヰノカウフリ》
 
戀力とは戀に勞を積を云へり、源氏の朝顔にかみさびにける年月の勞かぞへられ侍るにと云へり、戀に積たる勞を記し集めて勲功に申すべき事ならば五位にも叙せらるべき程なりと云へるなり、
 
初、此ころの戀ちから 苦労をこひちからといへり。周禮(ニ)王功曰(ヒ)v勲、國功曰v功、民功曰v庸(ト)、事功曰v勞、治功曰v力、戰功曰(フ)v多。此集第四に
  こひ草をちから車になゝくるまつみてこふらくわか心から
源氏物語朝※[白/八]にかみさひにけるとし月のらうかそへられ侍るにといへり。朝※[白/八]の返事にらうなとはしつかにやさためきこえさすへうはへらんときこえ出たまへり。胡蝶に宮大將はおほな/\なをさりことをうち出たまふへきにあらす。又あまりものゝほとしらぬやうならんも御ありさまにたかへり。そのきはよりしもはこゝろさしのおもんきにしたかひてあはれをもわきたまへらうをもかそへ給へなときこえたまへは君はうちそむきておはするそはめいとおかしけなり。螢に兵部卿の宮なとはまめやかにせめきこえたまふ御らうのほとはいくはくならぬに云々
 
3859 頃者之吾戀力不給者京兆爾出而將訴《コノコロノワカコヒチカラタマハスハミヤコニイテヽウタヘマウサム》
 
京兆ニ出テとは田舍の人などの都に出てと云にはあらで左右京職をさして云歟然らばミサトニ出テと讀べきか、京職大夫をみさとのかしと云故なり、
 
右歌二首
 
(26)筑前國志賀白水郎歌十首
 
此歌の故は下の注に詳なり、
 
初、筑前國志賀白水郎歌 此哥の所以《ユエ》は後の注に見えたり
 
3860 王之不遣爾情進爾行之荒雄良奧爾袖振《オホキミノツカハサヽルニサカシラニユキシアラヲラオキニソテフル》
 
不遣爾はツカハサナクニと讀べし、落句は溺るゝさまなり、神代紀下云、潮至(ル)v頸(ニ)時則擧(テ)v手(ヲ)飄掌《タヒロカス》、
 
初、おほきみのつかはさゝるに さかしらは、俗にかしこだてといふかことし。第三に帥大伴卿か酒をほむる哥に、あな見にくさかしらをすと酒のまてとよめる哥には賢良とかけり。此下に情出とかけり。又第三に家おもふとこゝろすゝむなといふに今のことく情進莫とかけるは、さかしらするなともよみぬへし。おきに袖ふるはおほるゝ時の躰をいへり
 
3961 荒雄良乎將來可不來可等飯盛而門爾出立雖待來不座《アラヲラヲコムカコシカトイヒモリテカトニイテタチマテトキマサス》
 
飯盛而とは海人などの妻には似付たり、
 
初、いひもりて門に出立 いやしき妻のまことなり。遊仙窟云。喚2桂心1盛(ラシム)v飯(ヲ)。伊勢物語にてつからいひかひとりてけこのうつわものにもるといへり
 
3862 志賀乃山痛勿伐荒雄良我余須可乃山跡見管將偲《シカノヤマイタクナキリソアラヲラカヨスカノヤマトミツヽシノハム》
 
ヨスガノ山とは荒雄が死骸を尋出て志賀の山に葬けるにや、第三高橋朝臣が悲v傷2死妻1歌にも吾妹子《ワギモコ》が入にし山をよすがとぞ思ふとよめり、
 
初、しかの山いたくなきりそ 第三にも、ことゝはぬ物にはあれとわきもこかいりにし山をよすかとそおもふとよめり。日本紀に因の字資の字をよすかとよめり
 
3863 荒雄良我去爾之日從志賀乃安麻乃大浦田沼者不樂有哉《アラヲラカユキニシヒヨリシカノアマノオホウラタヌハカナシクモアルカ》
(27)去ニシのに〔右○〕は助語なり、安麻は海をあまとも云へば志賀の海なり、大浦田沼は海邊に田ありてそれに沼水を任するを云歟、不樂は第三第四にさびしと讀つれば今の落句もサビシクモアルカと讀てありぬべし、
 
初、大うらたぬ これは海邊に田ありて、それにぬま水をまかするが、荒雄か行てかへらねは、妻子がわさには田をつくりかね、水をまかせかぬる心なり。不樂有哉はさひしくもあれやとよみて、落著をさひしからんと心得へきにや
 
3864 官許曾指弖毛遣米情出爾行之荒雄良波爾袖振《ツカサコソサシテモヤラメサカシラニユキシアラヲラナミニソテフル》
 
第一の歌に大形似たり、
 
初、つかさこそさしてもやらめ さきの第一の哥に大かたおなし心なり。波に袖ふるは神代紀下云。潮至v頸(ニ)時則擧v手(ヲ)飄掌《タヒロカス》
 
3865 荒雄良者妻子之産業乎波不念呂年之八歳乎待騰來不座《アラヲラハメコノワサヲハオモハスロトシノヤトセヲマテトキマサス》
 
産業はナリと讀むべし、第五に家に還てなりをしまさにとよみ、第二十に家の妹が在るべき事と云はず來ぬかもとよめり、胸句のなりはなりはひなり、呂は助語なり、妻子世に立べきやうを計らふ事をも思はず八年までまてども返り來ぬとなり、後注云右以2神龜年中1云々、或云筑前國守山上憶良臣作2此歌1云々、第五に天平二年によまれたる歌にひなに五年すまひつゝ云々、かゝれば天平三年十二月に都へは歸り上られければ今八年と云をまされりとす、數ふれば神龜元年の事にて歌は天平三年によまれたる歟、若あまたの年の心にて八年と云はゞ阿れの年の事とも何れの(28)年の歌とも定むべからず、
 
初、あらをらはめこのわさをはおもはすろ ろは助語なり。第十五に
  人のうゝる田はうゑまさす今更にくにわかれして我はいかにせむ
 
3866 奧鳥鴨云舩之還來者也良乃埼守早告許曾《オキツトリカモトイフフネノカヘリコハヤラノサキモリハヤクツケコソ》
 
神代紀下彦火々出見尊の御歌云、飫企都※[登+こざと]利軻茂豆句志磨爾《オキツトリカモツクシマニ》云々、鴨は能水に浮ぶ物なれば名とするなり、屈原(カ)卜居(ニ)云、將(タ)※[さんずい+巳]々(トシテ)若2水中之鳧1乎、與v波上下|偸《イヤシクモ・タノシムテ》以(テ)全(セムヤ)吾?(ヲ)1乎、鴨云船はカモテフフネハとも讀べし、次の歌此に准らふべし、也良ノ埼は八雲に筑前と注せさせ給へり、此下に熊來乃夜良《クマキノヤラ》とよめり、日本紀に海をアラとよめり、阿と也と同韻にて共に喉音なれば殊に親しく通ぬれば也良は阿良にて海の字にや、
 
初、おきつ鳥かもといふ舟の 鳧は水によくうかふ鳥なるゆへに、舟の名とせるなり。舟に名をつくる事、神代紀下云。于v時彦火々出見尊乃歌之曰。飫企都※[登+こざと]利《・奥津鳥》、軻茂豆句志磨尓《・鳧付島》、和我謂《ヰ》祢志《・我率寢》、伊茂播和素邏珥《・妹不忘》、譽能據※[登+こざと]馭※[登+こざと]母《・世悉》。荊楚歳時記云。南方競渡者治2其船1使2輕利(ナラ)1、謂2之(ヲ)飛鳧(ト)1。穆天子傳云。天子乘2鳧舟1。郭璞曰。舟爲2鳧形制1今呉之青雀舫此(レ)其遺象也。文選屈原卜居曰。將※[さんずい+巳]々若2水中之鳧1乎与v波上下(シテ)偸《イヤシクモ・タノシムテ》以全2吾躯1乎。木玄虚海賦云。鷸《−タルコト・トキコト》如(ク)2驚(ク)鳧(ノ)之失(カ)1v侶(ヲ)※[倏の犬が火](タルコト)如(シ)2六龍之所1v製。張景陽七命曰。榜人奏2采※[草がんむり/陵]之歌1々曰。乘2鳧舟1今爲2水|嬉《タハフレヲ》1。續日本紀第九云。唐人王元仲始造2飛舟1進2之天皇1。嘉歎授(ラル)2從五位下(ヲ)1。應神紀云。五年課2伊豆國1令v造v船名曰2枯野1。廢帝紀云。寶字七年八月辛未朔壬午初遣2高麗國1船名曰2能登1。歸朝之日風波暴急漂2蕩(セントス)海中1。祈曰。幸頼2般靈1平安到v國必請2朝庭1酬以2錦冠1。至v是縁2於宿祷1授2從五位下1。其冠製錦之表※[糸+施の旁](ノ)裏以2紫組1爲v纓(ト)
 
3867 奥鳥鴨云舟者也良乃埼多未弖※[手偏+旁]來跡所聞禮許奴可聞《オキツトリカモトイフフネハヤラノサキタミテコキクトキカレコヌカモ》
 
3868 奧去哉赤羅小舩爾※[果/衣]遣者若人見而解披見鴨《オキユクヤアカラヲフネニツトヤラハワカキヒトミテトキアケミムカモ》
 
アカラ小船は上にあけのそぼ船さにぬりの小船などよめるに同じ、※[果/衣]ヤラバとは荒雄がために奥を行小舟につとをことづけてやらばなり、下句は若き人などは心(29)淺きものなれば解あけてもや見むと心もとなく恥思ふ由なり、今按若人見而をばモシヒトノミテと讀べき歟、
 
初、おきゆくやあからをふねに あからをふねは、上にあけのそほふねといへるかことし。おきゆくあからをふねにことつてゝ、あらをかもとへつとをやらは、ざれたるわかき人がときあけ見むかと心もとなくおもふよしなり。若人見而、これをはもしも人みてともよむへき歟。續齊諧記曰。漢建武中(ニ)長沙區囘白日忽見2一人1。自称2三閭大夫1。謂v囘曰。聞君常被v祭甚善。但常年所v遺並爲2蛟龍1所v竊。今若有v惠可d以2練樹葉1塞v上以2五色絲1轉c縛之u。此物蛟籠所v憚。囘依(ル)2其言(ニ)1
 
 
3869 大舶爾小舩引副可豆久登毛志賀乃荒雄爾潜將相八方《オホフネニヲフネヒキソヘカツクトモシカノアラヲニカツキアハムヤモ》
 
和名云、唐韻云艇【徒鼎反、上聲之重、漢語抄云、艇乎夫禰、遊艇波之布禰、】小船也、釋名云、一二人所(ナリ)v乘也、カヅクトモとは海人なれば海に潜入りて荒雄を尋ぬともなり、
 
初、大ふねに小舟引そへ 和名集云。唐韻云。艇艇【徒鼎反。上聲之重。漢語抄云。艇乎夫祢。遊艇波之布祢】小船也。釋名云、一二人所v乘也。かつくとは舟こきあるくをいへり。第十一にももゝさかの舟かつきいるやうらさしとよめり
 
右以2神龜年中1大宰府|差《サシテ》2筑前國宗像郡之|百姓《ミタカラ》宗形部津麿1、充《アツ》2對馬送v粮船〓師1也、于v時津麻呂|詣《ユイテ》2於澤屋郡志賀村白水郎荒雄之許1、語(テ)曰(ク)、僕有(リ)2小事1、若(シ)疑(クハ)不v許歟、荒雄答曰、走(リ)雖(トモ)2異郡(ナリト)1、同v舩|日《ヒ》久(シ)、志|※[草がんむり/馬]《アツウシテ》2兄弟(ヨリモ)1、在(リ)2於|殉《シユム》死(ニ)1、豈復辭(セムヤ)哉、津麻呂曰、府官差v僕、充2對馬送v粮舶〓師1、客|齒《シ》袁老(シテ)不v堪2海路(ニ)1、故(ニ)來(テ)※[示+弖](タレヨ)侯、願(クハ)垂(レヨ)2相賛(コトヲ)1矣、於v是荒雄許|諾《タク》、遂(ニ)從(フ)2彼(ノ)事(ニ)1、自2肥前國松浦(ノ)縣|美禰(30)良久《ミネラクノ》埼1發舶《フナタチシテ》直(ニ)射《サシテ》2對馬1渡(ル)v海(ヲ)、登(ノ)時忽天暗冥(トシテ)暴風交(フ)v雨(ヲ)、竟《ツヰニ》無2順風1沈2没(ス)海中(ニ)1焉、因v斯妻子等|不《スシテ》v勝2犢慕1裁2作(ス)此謌(ヲ)1、或云、筑前國守山上憶良臣悲2感(シテ)妻子之傷(ヲ)1述v志而作2此(ノ)歌(ヲ)1、
 
充2對馬送v粮舶〓師〔八字右○〕1、延喜式(ノ)主税式上云、凡筑前筑後肥前肥後豐前豐後等國、毎年穀二千石、漕2送對馬島1以充2島司及防人等(ガ)粮(ニ)1、同第五十雜式云、凡運2漕(スル)對馬島(ニ)1粮者毎(ニ)v國作(テ)v番(ヲ)以v次運(セ)送(レ)、和名集云、唐韻云、※[舟+施の旁]【徒可反、上聲之重、字亦作v舵、】正v船木也、楊氏漢語抄云、柁【船尾也、或作v※[木+施の旁]、和語云多伊之、今案舟人呼2挾抄1、爲2※[舟+施の旁]師1是、】詣2於滓屋郡志賀村〔八字右○〕1、延喜式云、糟屋郡志加海神社、和名云。糟屋郡志阿、此は加と阿と通ずる故なり、筑前風土記には資阿島とかけり、今按澤は糟とは似ぬ字なれば滓屋《カスヤ》郡なりけむを滓を澤には書たがへけるなるべし、走雖2異郡〔四字右○〕1、司馬遷答2任少卿1書云、太史公牛馬(ノ)走、文選張平子東京賦云、走雖2不敏(ナリト)1、薛綜(カ)注(ニ)云、走(ハ)公子(ノ)自稱、走使之人(ナリ)、如2今(ノ)言1v僕(ト)矣、殉死〔二字右○〕(ハ)玉篇云殉【詞峻切、用v人送v死也、】願垂2相賛1矣〔五字右○〕、今按賛はたすくとよめども替の字を誤れる歟、美禰良久埼〔五字右○〕は禰は彌にてみゝらくのさきなるを誤まれり、袖中抄云、みゝらくの我日の本の島ならば今日も御影にあはまし物を、顯(31)昭云、此は俊頼朝臣歌也、其詞云、尼上失給ひて後みゝらくの島の事を思ひてよめると有、今考納院坤元儀云、肥前國ちかの嶋、此嶋にひゝらこのさきと云所あり、其所には夜となれば死たる人顯れて父子相見ると云々、俊頼我日本の嶋ならばと詠るは日本にはあらずと存ずるか、考2萬葉第十六1自2肥前國松浦縣美彌良久崎1發v舶云々、此國と云事は一定なり、能因はひゝらこと云ひたれど俊頼みゝらくと讀めるはたがはず、如v此の事慥に考2本文2可(ナリ)v詠(ス)也、不v然者僻事出來歟、沈2歿海中1焉〔五字右○〕、光仁紀云、寶龜三年十二月己未、太宰府言(フ)、壹岐嶋掾從六位上上(ノ)村主《スクリ》墨繩等送2年粮(ヲ)於對馬嶋(ニ)1、俄(ニ)遭2逆風(ニ)1船破(レ)人没(ス)、所(ノ)v載之穀隨(テ)復漂失云々、
 
初、充2對馬送v粮船〓師1 延喜式主税上云。凡筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後等國毎v年穀二千石漕2送對馬島1以充2島司及防人等(カ)粮(ニ)1。同第五十雜式云。凡運2漕對馬島1粮者、毎v國作v番以v次運(ヒ)送(レ)。〓、和名集云。唐韻云※[舟+施の旁]【徒可反。上聲之重。字亦作v舵】正v船木也。楊氏漢語抄云。柁【船尾也。或作v※[木+施の旁]。和語云多伊之。今案舟人呼2挾抄1爲2※[舟+施の旁]師1是。】糟屋郡、糟誤作v澤。糟屋郡志加海神社延喜式。糟屋郡志珂和名集。走《ヤツカリ》。殉死。玉篇云。殉【詞峻切。用v人送v死也。】相替、替誤作賛。美彌良久埼、弥を誤て祢に作れり。顯昭法師の袖中抄云。みゝらくのわかひのもとの嶋ならはけふもみかけにあはまし物を。此哥は俊頼朝臣哥なり。其詞にいはく。尼うへうせ給ふて後みゝらくの嶋のことを思ひてよめると有。今考能困坤元儀云。肥前國ちかの嶋、此嶋にひゝらこのさきといふ所有。其所には夜となれは死たる人あらはれて父子相見ると云々。俊頼わか日のもとの嶋ならはと詠るは日本にはあらすと存する歟。考万葉第十六曰肥前國松浦縣美弥良久崎發船と云々。此國といふ事は一定なり。能因はひゝらこといひたれと俊頼みゝらくとよみたるはたかはす。如此の事慥考本文可詠也。不然は僻事出來なりといへり。此國の外ともいへり。登時《スナハチ》。沈没海中。續日本紀第三十二、光仁紀云。寶龜三年十二月己未太宰府言。壹岐嶋掾從六位上、上(ノ)村主《スクリ》墨繩等送2年粮於對馬嶋1俄遭2逆風1船破人没。所v載之穀隨(テ)復漂失(ス)。謹※[手偏+僉]2天平寶字四年格1漂失之物以2部領使(ノ)公廨1愼備。而(ルヲ)墨繩等※[疑の左+欠](シテ)云。漕送之期不v違2常例1。但風波之災非2力能制1船破人没足v爲2明證1。府量v所v申寶難2黙止1。望請自今己後評2定虚實1徴免(セント)。許之。犢慕、慕誤作v暴
 
3870 紫乃粉滷乃海爾潜鳥珠潜出者吾玉爾將爲《ムラサキノコカタノウミニカツクトリタマカツキイテハワカタマニセム》
 
紫の色の濃《コキ》と云心にコガタノ海とつゞく、八雲に筑前と注せさせ給へり、第十二に越懈乃子難懈《ヲチノウミノコカタウミノ》とよめる越懈をこしのうみとよまば今の粉滷の海もそこなるべし、志賀泉郎の歌のつゞきに何となくて書たれば筑前と思食けるにや、
 
初、紫のこかたのうみに 紫の色の濃といふ心につゝけたり。こかたの海は、八雲御抄に筑前と載させたまへるは、志賀白水郎か歌十首につゝけれはにや。此哥のひたりに右歌一首とあり。次下に角島のせとのわかめとよめる哥は長門なり。しかれは第十二に
  わきもこをよそのみやみんこしの海のこかたのうみの嶋ならなくに
これとおなしく北陸道に有といふへし。又清原元輔家集にいはく。中つかさかあるところにまかりたりしに貝をこにいれて侍しに
  浪まわけみるかひしなしいせのうみのいつれこかたのなこりなるらん
これによれはいせにもこかたといふ所のあるにこそ
 
右歌一首
 
(32)3871 角島之迫門乃稚海藻者人之共荒有之可杼吾共者和海藻《ツノシマノセトノワカメハヒトノトモアレタリシカトワカトモハワカメ》
 
角島は長門なり、延喜式第二十八云、長門國角島牛牧云々、二つの共は並にムタと讀べき歟、人ノムタは人とゝもにて人のためにはと云はむが如し、吾共者も此に准らへて知べし、荒有之可杼はアラカリシカドとも讀べし、ワカメを若女《ワカメ》になして人の刈にはわかめの名にもおはずあらめのやうにあらかり、アレタリシカドも我刈には誠の名に負わかめにてやすく刈らるゝなり、にきめとも云へばわかめもやはらかなる意なり、落句に和海藻とかけるは和〔右○〕はわか、海藻〔四字右○〕はめ〔右○〕なり、此にても意得べし人の云ひ依るをばあらびて聞入れず、我にはやすく靡き隨ふをうれしびてよめるなり、歌のやうを思ふに長門國の白水郎がよめるにや、第二に内大臣藤原卿の我はもや安見兒《ヤスミコ》得たりと讀たまへる歌の意に似たり、
 
初、角島のせとのわかめは 角島は長門なり。演義式第二十八云。長門國角嶋牛牧。わかめは和名集云。本草云。海藻(ハ)味苦鹹。寒(ニシテ)無毒。【和名迩木米。俗用2和布1。】下に和海藻とかけるも、和は音を取にあらす。和布の心にて、和を和加とよみ、海藻を女とせり。此哥の心は、わかめといふ名より女にたとへて、人のともあれたれしかとゝは、つの嶋のせとのわかめを、人がからんとすれは、わかめといふ名にもおはず、せとのことくあれてありしかとも、わかゝるからにまことのわかめにて、やすくかるといふ心にて、人のいひよるにはあらびてきゝいれず、我にはなひきしたかふをかなしふ心なり。右二首はあまか哥なるへし
 
右歌一首
 
3872 吾門之榎實毛利喫百千鳥千鳥者雖來君曾不來座《ワカカトノエノミモリハムモヽチトリチトリハクレトキミソキマサヌ》
 
第二句は毛利と牟禮と同音にて通ずれば榎實を群《ムレ》てはむとよめる歟、又各榎實を(33)守り居てはむと云にや、百千鳥は鳥の多きなり、上に百鳥とよみ、末に五百津烏千鳥などよめるに同じ、百千鳥と云鳥の名にあらず、再たびたゝみて云時百を捨て千鳥ハ云にても知べし、八雲に※[(貝+貝)/鳥]の所に又榎實をくふと云へりと遊ばされたるは※[(貝+貝)/鳥]を百千鳥と云説に依て此歌を思召たがへられたる歟、第七に鳥はすだけど君は音もせずとよめると意同じ、
 
初、わかかとのえのみもりはむ 長流がいはく。もりはむは盛てはむなり。鳥のこのみくらふに器にもることはなけれとも、惣してくひものをは盛てはむならひなれは、かくよむことならひなりといへり。今案毛と牟と、利と禮と、共に五音通すれは、むれ居てはむ心に、むれはむといへるにや。もゝちとりは何となく、よろつのちひさき鳥のあつまることなり。鶯をいふ説あれと、此哥にはかなはさるなり。もゝちとりといひて、千鳥はくれとゝいへるにて心得へし。八雲御抄に、鶯はえのみをくふといへりと有。これ此哥によりていひならはせる説をあけさせ給ふめれと、鶯は榎のみくふものにあらぬことは、その比すへてこゝにをらぬ鳥なり。えのみはまんとておほくの小鳥ともはくれとも君はこぬとなり。第七に
  夏そひくうなかみかたのおきつすに鳥はすたけと君は音もせす
第五第六には百鳥とよみ、第十七には朝かりにいほつ鳥たてゆふかりにちとりふみたてともよめり
 
3873 吾門爾千鳥數鳴起余起余我一夜妻人爾所知名《ワカヽトニチトリシハナクオキヨオキヨワカヒトヨツマヒトニシラスナ》
 
所知名、【校本云、シラルナ、】
 
千鳥は上の歌の千鳥、又第十一に明ぬべく千鳥しば鳴とよめると同じ、冬鳴水鳥の別名にて起ヨ/\我一夜妻とは女の夫君を催ほして起すなり、落句は人ニ知ラルナとよめるよし、神樂歌に庭鳥はかけろと鳴ぬなり、起よ/\我かとよつま、人もこそ見れ、是今の歌に似て意も同じ、かとよつまは日とよつまなど書たる日の字の草の可の字を極草にかけるにやまがひけむ、
 
初、わかゝとにちとりしは鳴 第十一に
  あけぬへく千鳥しは鳴白たへの君か手まくらいまたあかなくに
神樂哥に
  庭鳥はかけろとなきぬなりおきよ/\わかかとよつま人もこそみれ
かとよつまは、一夜妻を日とよつまとかきけんか、日の字のかとなれるなるへし。ひとよつま、常は遊女をいへと、これはひとよあふつまをおしていへるなるへし
 
右歌二首
 
(34)3874 所※[身+矢]鹿乎認河邉之和草身若可倍爾佐宿之兒等波母《イルシカノトムルカハヘノニコクサノミワカキカヘニサネシコラハモ》
 
所※[身+矢]、【別校本、※[身+矢]作v射、】
 
發句は古風に依てイユシヽヲと獨べし、齊明紀云、四年五月、皇孫|建《タケルノ》王八歳薨、輒作v歌曰、伊喩之之乎《イユシヽヲ》、都都遇何播杯能《ツナグカハベノ》、倭柯矩娑能《ワカクサノ》、倭柯倶阿利岐騰《ワカクアリキト》、阿我謀婆儺倶爾《アガモハナクニ》、此御製の發句を證とすべし、認と云には二義有べし、一つには獵師の手負せたる鹿の跡を認て行なり、齊明天皇の御歌につなぐとよませ給へるも、俗に跡を認るを跡をつなぐと云へば認《トムル》と繁《ツナグ》と同じ義なり、二つには射られたる鹿の逃行が河邊の和草にあひて彼處に留まりて食居《ハミヲ》る意なり、和名云、鱧賜草【鱧音禮、和名宇末木太之、】狼牙【和名古末豆奈木、】此草馬を來らしむればうまきたし駒の得さらずして食《ハメ》ば駒つなぎとは名付たるべければ准らへて思ふべし、和草を承て身若可倍爾と云へり、今按古事記雄略天皇御製云|比氣多能《ヒケタノ》、和加久流須婆良《ワカクルスバラ》、和加加閉爾《ワカヽヘニ》、韋泥?麻斯母能《ネテマシモノ》、淤伊爾祁流加母《オイニケルカモ》、是は引田《ヒケタノ》赤猪子と云女をまだ處女なりける時物洗ふを御覽じて召べき由勅有けるを待ける帝は忘させ給ひけるをも知らで、彼女老女に成まで待てせめては己が志をも知らせ奉らむと思ひて便を設けてかくと奏しける時、あはれませ給ひて讀せたまへる(35)御歌なり、此御歌に准らへばミノワカヽヘニと讀べき歟、若き時にと云意とおぼえたり、六帖にゝこ草の歌としたるには身若きが上にとあれど古事記も今の書やうも若之上《ワカキガヘ》と云にはあらず、意も亦さは聞えず、所射鹿をば昔逢しに喩ふ、彼鹿の跡を認る河べの和草の如く若かりし時に相寢し兒等はやと尋ぬる意なり、落句の尋ぬる意を以て初め兩義を按ずるに認の字をかけるは正字にて跡を認る方に付べし、
 
初、いるしゝをとむるかはへの 齊明紀云。四年五月皇孫|建《タケル》王八歳薨。〇輙作歌曰。伊|喩《ユ》之々《・所※[身+矢]鹿》乎、都那遇何播杯《・係河邊》能、倭柯矩婆《・若草》能、倭柯倶阿利《・若有》岐騰、阿我謨婆儺倶《・吾不思》尓。これはともにふたつの心あるへし。とむるといふに認の字をかきたれは、かり人の射あてたる鹿の跡をとめゆくなり。俗に跡をとむるを跡をつなくとも申めれはこれ一義なり、又認とはかきたれと留の字の心ともみゆ。手を負たる鹿の跡もなくにけ行が、かはへのにこ草にあひてそこにはみをる心なり。狼牙といふ草を、和名集にこまつなきといへるは、野かひにあるゝ駒も、彼草につきては、つなきたることくそこをはなれぬといふ心になつけたるなるへけれは、つなくとゝもにまたこれ一義なり。和草は上にもいへることく、萩をいへるにやとおほゆ。萩は枝もたをやかに、葉も後まてやはらかなる物なり。ことに鹿の愛する物なれは、かれこれそのよせあり。身わかきかへにとは、身わかきかひにといへる心歟。かひといふは此卷上にあちいひを水にかみなし我待しかひはかつてなしたゝにしあらねは。此かひに代の字をかける所に注しつることし。身のわかきかひありてもろともにねしこらはと、たえて後尋るやうによめるなり
 
右歌一首
 
3875 琴酒乎押垂小野從出流水奴流久波不出寒水之心毛計夜爾所念音之少寸道爾相奴鴨少寸四道爾相佐婆伊呂雅世流菅笠小笠吾宇奈雅流珠乃七條取替毛將申物乎少寸道爾相奴鴨《コトサケヲオシタレヲノユイツルミツヌルクハイテスヒヤミツノコヽロモケヤニオモホユルオトノスクナキミチニアヒヌカモスクナキヨミチニアハサハイロチセルスカカサヲカサワカウナケルタマノナヽツヲトリステモマヲサムモノヲスクナキミチニアヒヌカモ》
 
初の二句琴をばおさへ酒をばたるゝ物なればさてかくはつゞくるなり、琴詩酒とつゞけて云はれ、共に賢人の愛する物なれば琴酒とは云へり、押垂小野は何處に有(36)と云事を知らず、出ル水とは押垂小野に名ある清水の出るなるべし、寒水ノ心モケヤニとは痛くつめたき水を飲つれば肝にこたへてきや/\とおぼゆるを吉と計と通ずればケヤニとは云へり、さてケヤニ思ホユルとは思ひもよらぬ處にて美麗の人に行相て肝のつぶれて驚く意なり、此ケヤニを云はむために發句より下五句は序に云へるなり、音ノ少ナキ道とは人音の少なき道なり、四道は四衢道にて辻なり、義訓してチマタと讀べき歟、相の下に奴鴨の二字落たる歟、少寸道爾相奴鴨にて足れるを古歌なれば少詞を替て少寸四道爾相奴鴨と再たび云へるにや、佐婆伊呂雅世流は雅をチと點ぜるは稚を誤て雅に作れる歟、本より雅にて點もケなりけるをチとケと相似たれば書生の誤てチとは點ぜる歟、此句意得がたし、今按雅は下の宇奈雅流に目をうつせる衍文にて鯖色《サバイロ》せるにや、和名云鯖【音青、和名阿乎佐波、】口|尖《トガリ》背蒼(キ)者也、白菅とて菅笠は白きこそうるはしきに、人にも似ぬ青色なるよからぬ菅の小笠を著たる歟、さてそれを鯖色せる菅笠とは云へる歟、菅笠小笠は菅笠を小笠と云て菅の小笠なり、吾ウナケルは我懸ると云意なり、神代紀上云、已而素戔嗚尊以2其頸(ニ)所嬰《ウナゲル》五百箇御統之瓊《イホツミスマルノニヲ》1濯《フリスヽギテ》2于天(ノ)(ノ)渟名井《ヌナヰ》亦(ノ)名(ハ)去來之眞名井《イサノマナヰニ》1而|食《ヲス》之、又同(シキ)下に下照姫歌云、阿妹奈屡夜《アメナルヤ》、乙登多奈波多廼※[さんずい+于]奈餓勢屡《ヲトタナバタノウナガセル》、多磨廼彌素磨屡廼《タマノミスマルノ》、阿奈陀磨波夜《アナタマハヤ》云々、韻會云、(37)嬰(ハ)伊盈切、音與v※[嬰の女が缶]同(シ)、説文頸(ノ)飾(ナリ)也、從2女※[嬰の女なし](ニ)1、※[嬰の女なし](ハ)貝(ノ)連(ナリ)也、胡人連(テ)v貝飾(ルヲ)v頸(ヲ)曰v※[嬰の女なし]、女子之飾也、又加也繞也※[螢の虫が糸]也繋也、説文に頸飾也とあるは體の名なり、神代紀に其頸(ニ)所嬰《ウナゲル》とあるは説文の意ながら用の詞なれば豆と宇と同韻なればつなげると云にや、棄はすつるなるを神代紀にウツルと點ぜるも此意なり、取替毛は今按トリカヘモと讀べし、彼菅笠のよからぬはよき菅笠に我うなげる玉の緒の七條を取替て菅笠の緒に著て參らせむ物をとよめる歟、七條とは細き緒を七筋とほせるなるべし、絲七筋を合せたるを云にはあるべからず、此歌能は意得がたし、凡そ如v此歟、
 
初、ことさけをおしたれ小野に 琴をは押へ、酒をはたるゝによりておしたれ小野とはつゝけたり。琴と酒とは賢人隱士の愛する二物なれは、ことさけとつらねてはいふなり。おしたれ小野いつれの國に有といふことをしらす。心もけやにおもほゆるおとのとは、心もけやは心もきやといふ心なり。常に肝きえするをきや/\するといへり。いとつめたき水を手にくみ、もしはのめは身もひえ心もきや/\とおほゆるによせて、おもふ人のうるはしき聲を道にて聞て、きものつふるゝ心ちするをかたとれり。よみちはやちまたといへるかことく、よつゝじなるへし。あへるさはは、あへるにて、さはゝ助語にや。いろちせるは心得かたし。菅笠をかさはかさねことはなり。わかうなける玉のなゝつを取かへも申さんものをとは、日本紀第一云。已而素戔嗚尊以2其頸(ニ)所嬰五百箇御統《ウナケルイホツミスマル》之|瓊《ニヲ》1濯2于天(ノ)渟名井(ニ)1亦名2去來之眞名井1而|食《ヲス》之。下照姫の哥にも、をとたなはたのうなかせる玉のみすまるといへり。玉のなゝつをとはおほかる數なり。菅のをかさきたるうるはしき女に、ふとゆきあひて、心もきゆるやうにおほえて、かの菅笠の緒とわかくひにかされる玉の緒とを取かへて、かたみにもしてみはやとおもふよしなり。すくなき道はちひさきみちなり。ちひさき道にあへるゆへに、袖をもふるゝほとなれは、いとゝきもきえておほゆるなり。これは此集の中にも古哥の躰なり
 
右歌一首
 
豐前國白水郎歌一首
 
3876 豐國企玖乃池奈流菱之宇禮採跡也妹之乎御袖所沾計武《トヨクニノキクノイケナルヒシノウレヲツムトヤイモカミソテヌレケム》
 
抹跡也、【六帖云、トレトヤ、】
 
郭景純江(ノ)賦(ニ)云、忽忘(テ)v夕(ヲ)而|宵《ヨル》歸(ル)、詠(シテ)2採菱(ヲ)1以叩v舷(ヲ)、王維(カ)詩云、渡頭燈火起(ル)、處々採v菱(ヲ)歸(ル)、御袖は眞袖なり、第十三云、三袖持床打拂《ミソデモチトコウチハラヒ》云々、是我袖を云へり、
 
初、とよくにのきくの池なる 豊前に企救郡あり。令義解には規矩郡とかけり。第七第十二にきくの濱とよめり。ともに彼郡にあるなるへし。第七に
  君かためうきぬの池のひしとるとわかそめし袖ぬれにたるかな
文選郭景純江賦云。忽忘v夕(ヲ)而|宵《ヨル》歸(ル)。詠(シテ)2採菱(ヲ)1以叩(ク)v舷(ヲ)
 
(38)豐後國白水郎歌一首
 
3877 紅爾染而之衣雨零而爾保比波雖爲移波米也毛《クレナヰニシメテシコロモアメフリテニホヒハストモウツロハメヤモ》
 
此は人を深く思ひそめたる心のたとひ事ありとし彌思ひこそせめかはりはせじと云意をたとへたり、第七に月草に衣はすらむ朝露に沾ての後はうつろひぬともとよめるは、うつるは人の上なり、此歌は歌に豐後の意はなし、唯かくよめる由聞て載たるなり、六帖には紅の歌とす、
 
能登國歌三首
 
3878 ※[土+皆]楯熊來乃夜良爾新羅斧墮入和之河毛※[人偏+弖]河毛※[人偏+弖]勿鳴爲曾禰浮出流夜登將見和之《ハシタテノクマキノヤラニシラキヲノオトシイルヽワシカモテカモテナナカシソネウキイツルヤトハタミテムワシ》
 
※[土+皆]楯は梯立《ハシタテ》なり、さて熊來とつゞくるに二つの意あるべし、一つには橋立の倉橋山とつゞけたるやうに熊の上のく〔右○〕の一文字を倉になしてつゞくる歟、玉匣あしきの(39)川草枕多胡の入野の例あり、二つには第十四に久麻許曾之都等にくまこそしつとゝ云に付て注せし如く若は山をくま〔二字右○〕と云歟、然らばはしだてのさがしき山とつゞくる心なるべし、熊來は第十七云、能登郡從2香島(ノ)津1發船行射2於熊來村1往時作歌、和名集云能登郡熊來【久萬岐、】夜良は仙覺抄云、やらとは水つきてかつみ蘆やうの物など生しげりたるうき土也、田舍の者はやはらとも云ふ、今按ぬき川の岸のやはら田と云も是歟、さきにやらの埼と云に注せし如くやらは海にや、下注云斧墮2海底1と云を思ふべし、但底の字に依て云はゞ仙覺の説の助とも成べし、新羅斧は彼國より渡りたる斧を云へる歟、此方《コナタ》にて造れども新羅にて作れるとは替れども此國にて其|形《ナリ》に學べるを云歟、欽明紀云、十五年冬十二月、百濟《クダラノ》王聖名獻(レリ)2好錦二疋|〓〓《・アリカモ》一|領《クダリ》斧|三百《ミホ》口(ヲ)於我(ガ)天朝《ミカドニ》1、云々、此|百濟斧《クダラヲノ》に准らへば新羅にて造れる斧なるべし、和之とは同等の人を指して云北國の詞、或は※[手偏+總の旁]じて田舍の詞なるべし、今の俗語にも奴僕のみならず我より下ざまに向ひて和我と云へば和は此和にて之は助語なるべし、又今の俗語にみづからの上を和之と云は私と云詞を中を略して上下のみを云にやと思へど己も我も自他に通して云へば今の和之をみづからの上に云にや、カケテ/\は今の俗語のかまへて/\なり、勿鳴爲曾禰はなゝきそなり、斧を失ふを悲て泣を慰む(40)るなり、今按ナヽリシソネと讀べし、魚鳥などをねらふ者のなりを靜めて待如く斧の浮出るを待て見るべければ其程物音なせそと云なり、今按落句は待將見和之《マチミテムワシ》など有けむを字の落たるにやと見ゆるなり、此は愚人が斧を海底に墮し入れて若や浮出ると待けるを見て彼が心に成て讀て愚なるをさとし教ふるなる、
 
初、はしたてのくまきのやらに 第十四にくまこそしつとわすれせなふもといへるあつま哥に、くまこそしつは山こすしゝとゝいふ事にや侍らんと注したる所にも、此哥を引しことく、山をくまといふ事はいまたしらねと、仁徳紀にもはしたてのさかしき山とよまれたれは、かれこれを思ひ合ていへるなり。此哥一首にては、玉くしけ明とつゝくる心に、玉くしけあしきの川といひかけたることく、はしたてのくらといふ心に、くもしひとつにかゝりて、かくはつゝけたりとも申侍なん。第十七に云。能登郡從2香島津1發船行於射《兩字倒恐》2熊來村1往時作歌二首といへり。和名集云。能登郡熊來【久万岐。】やらは水の底なる泥を、北國の俗にいひならへりと長流か抄にかけり。今案歌後注に斧墮海底といへり。日本紀に大海をおほあらとよめり。耶と阿と同韻にて通すれは、やらはあらにて海をいへるにや侍らん さきに筑前志加白水郎かことをよめる哥にもやらのさきといふ所の名は、これより名付けるにや。しらきをのは新羅よりわたれる斧なり。欽明紀云。十五年冬十二月百濟王聖明獻2好錦二|疋《ムラ》、〓〓《アリカモ》一領、斧三百口於我天朝(ニ)1。この中に斧三百口といへるはくたらをのなれは、これに准して知へし。又この國の斧にても、新羅につくるかたちにせは、新羅斧といふへし。わしは汝といふこゝろなり。わきみなといふかことし かけて/\は、俗にかまへて/\といふかことし。又かねて/\なり。なゝかしそねは、なゝきそなり。新羅斧を海底におとしいれて、いかにせんとなくをうき出んもしらぬさきにかけてなゝきそうきや出ると待みんと心をなくさむるなり
 
右歌一首傳云、或有2愚人1、斧墮2海底1而不v解2鐡(ノ)沈(テ)無(コトヲ)1v理(リ)v浮(フニ)v水(ニ)、聊(カ)作(テ)2此歌(ヲ)1口吟(シテ)爲《ナス》v喩《サトスヲ》也、
 
不v解2鐡沈無1v理v浮v水〔八字右○〕、呂氏春秋云、楚人有2渉(テ)v江(ヲ)行《ヤルモノ》v舟、自v舟|遺《オトス》v劔(ヲ)、遽(ニ)刻(テ)2其舟1曰(ク)、吾(レ)於v此墜(ス)v劔(ヲ)、求(メバ)必(ラズ)得(ムト)之、其迷(ヘルコト)有2如(ナル)v此者(ノ)1、
 
初、注云々 呂氏春秋曰。楚人有2渉v江行1v舟、自v舟遺v劔。遽刻2其舟1曰。吾於v此墜v劔求必得(ント)v之。其迷有2如v此者1。成十八年左傳云。無(シテ)v慧不v能v辨2〓麥(ヲ)1故不v立。杜預注、無v慧世所v謂白癡(ナリ)。周子有v兄而無v慧。不v能v辨(マフルコト)2〓麥(ヲ)1。故不v可v立。蒙求云〓大豆也。豆麥殊v形易v別。故以爲2癡者之候1。不v慧蓋世所v謂白癡(ナリ)
 
3879 ※[土+皆]楯熊來酒屋爾眞奴良留奴和之佐須比立率而來奈麻之乎眞奴良留奴和之《ハシタテノクマキサカヤニマノラルノワシサスヒタテヰテキナマシヲマノラルノワシ》
 
眞奴良は後の奴は奈と同音にて通ずれば眞所罵莫《マノラルナ》なり、アシタテは曾と須と同音なればさそひたてなり、酒に醉て酒屋がために罵らるな、今行て誘ひ立てゝ、率て(41)來なましを其間罵られぬやうにせよとなり、源氏に醉泣こそのりあひいさかひてとかけるが如し、
 
初、はしたてのくまきさかやに まのらるのは、眞は助語なり。のはなと通すれは莫なり。のらるは所罵なり。酒に醉たる人の、心狂して詞あらくいさかふ心なり。源氏に醉なきこそのりあひいさかひてといへる心なり。さる人に汝のらるなとなり さすひたてはさそひたてなり。ゐてきなましをはひきゐてこんなり。ゑひたる人をいさとてつれてかへりて人にのらせしの心なり。又ゑひてかしましく物なといふを酒屋かのれば、酒屋にのらるなといふにもあるへし
 
右一首
 
3880 所聞多禰乃机之島能小螺乎伊拾持來而石以都追伎破夫利早川爾洗濯辛塩爾古胡登毛美高坏爾盛机爾立而母爾奉都也目豆兒乃刀自父爾獻都也身女兒乃刀自《ソモタネノツクヱノシマノシタヽミヲイヒロヒモチキテイシモチテツヽキヤフリハヤカハニアラヒスヽキカラシホニコヽトモミタカツキニモリツクヱニタテヽハヽニマツリツヤメツチコノマケチヽニマツリツヤミメチコノマケ》
 
能登にそもたぬと云處有て彼處に机の島と云が有にや、小螺は神武紀に御製云、迦牟伽筮能《カムカゼノ》、伊齊能于瀰能《イセノウミノ》、於費異之珥《オホイシニ》、夜異波臂茂等倍屡《ヤイハヒモトヘル》、之多※[人偏+嚢]瀰嚢《シタタミノ》云々、和名集云、崔禹錫(カ)食經(ニ)云、小〓子【楊氏漢語抄云、細螺、之太太美、】貌似(テ)2田螺(ニ)1而細小(ナリ)、口(ニ)有(ル)2白玉(ノ)蓋1者也、拾遺集物名にしたゝみ、讀人知らず、吾妻にて養なはれたる人の子は舌だみてこそ物は云ひけれ、伊拾、伊は發語詞なり、陂夫利《ヤブリ》は第十八に比奈野都夜故《ヒナノミヤコ》とかけるに同じ、菅家萬葉集云、匂筒散西花曾思裳保湯留《ニホヒツヽチリニシハナソオモホユル》云々、此腰句のかきやう又同じ、古胡登毛美は幾許揉《コヽダモミ》なり、高林は器の名なり、伊勢物語にも女方より其海松をたかつきに盛て云々、机爾立(42)而は神代紀下云、兼(テ)設(ク)2饌百机《モヽトリノツクヱモノ》1云々、和名云、唐韻云机【音與v几同、和名都久惠、】案(ノ)屬也、史記云、持v案進v食【案音與v按同、】蒙求云、後漢梁鴻受2業(ヲ)大學1、家貧(シテ)尚2節介(ヲ)1、遂(ニ)至(テ)v呉(ニ)依2大家皐伯通(ニ)1、居2※[まだれ/無]下1、爲v人(ノ)賃舂(ス)毎v歸(ル)妻爲(ニ)具(フ)v食(ヲ)、不d敢(テ)於2鴻(カ)前(ニ)1仰(カ)u、擧(ルコト)v案(ヲ)齊(ス)v眉(ニ)云々、文選束廣微(ガ)補亡詩云、馨《シウシ》2爾(ヂノ)夕膳(ヲ)1潔《セロ》爾(ノ)晨|餐《サムヲ》1、メヅ兒は人のめづる兒と云へる歟、負は仙覺抄に儲なりと云へり、今按和名云、劉向(カ)列女傳(ニ)云、古語老母(ヲ)爲v負(ト)漢書王媼武負注引v之、今按俗人謂(テ)2老女(ヲ)1爲v※[刀/目]、字從v目也今訛以v貝爲v自歟、【今按和名度之、】此負の字の事史記陳丞相世家に張負あり、絳※[侯の異体字]周勃世家に許負あり、索隱の説列女傳に同じ、然れば今もメヅシゴノトジ、ミメチゴノトジと讀べき歟、老女の名を處女にも呼は刀自になるまでながらへよと祝ふ意歟、第四に坂上郎女もむすめの大孃を我子の刀自とよまれたり、ミメチゴはみめよき兒なり、
 
初、そもたねのつくゑの嶋の 能登にそもたねといふ所に、机の嶋のあるなるへし。したゝみは、和名集云。崔禹錫食經云。小〓子【楊氏漢語抄云。細螺(ハ)之太太美】貌似2甲螺(ニ)1而細小口有2白玉之蓋1者(ナリ)也。神武紀云。乃|爲御謠《ミウタヨミシテ》之|曰《ノタマハク》。迦牟伽筮《・神風》能、伊齊能于瀰《・伊勢海》能《》、於費異之《・大石》珥夜、異波臂茂等倍屡《・匍匐所囘》、之多※[人偏+嚢]瀰《・細螺》嚢《》云々。拾遺集物名にしたゝみ、よみひとしらす
  あつまにてやしなはれたる人の子はしたゝみてこそ物はいひけれ
いひろひもちきて、いは發語のことはなり。こゝともみはこゝたもむなり。つくゑにたてゝ。神代紀下云。兼(テ)設(ク)2饌百机《モヽトリノツクエモノ》1。蒙求云。後漢梁鴻受2業大學1。家貧尚2節介1。〇遂至v呉依2大家皐伯通1居2※[まだれ/無]下1爲v人(ノ)賃舂(ス)。毎v歸妻爲具v食。不d敢於2鴻前1仰u。擧(ルコト)v案(ヲ)齊(ス)v眉(ニ)云々。めつちこのまけは、女津兒のまうけなり。めつちこはめのわらはなり。みめちこのまけは、みめよき兒といふ心なり。上のめつちこをふたゝひいふなり。まつりつやはたてまつりつるやなり。第一にも、たてまつるみつきといふ心を、まつるみつきとよみ、第四にも見たてまつりてといふを、みまつりてといへり。負は今案ふたつなから刀自とよむへき歟。和名集云。劉向列女傳云。古語老母爲v負。漢書五 娼武負位引v之。今按俗人謂2老女1爲v※[刀/自]1字從v人也。今訛以v貝爲v自歟【今案和名度自。】此集第四に坂上郎女むすめの大孃に贈る哥に、小かなとにものかなしらにおもへりしわかこのとしをぬはたまのよるひるといはすおもふにしわかみはやせぬなとよめり。允恭紀なと引てすてに委尺せりき。わかこの刀自とよみたれは何となく女の惣名ときこゆ
 
越中國歌四首
 
3881 大野路者繁道森徑之氣久登毛君志通者徑者廣計武《オホノチハシケチハシケチシケクトモキミシカヨハヽミチハヒロケム》
 
和名云、礪《ト》波野大野【於保乃、】小野【乎乃、】第二句シゲヂハシケヂは誠にしげぢなりと云意なり、繁道とは草木のしげれる道なり、君志の志は助語なり、
 
初、大野路はしけちはしけち 和名集云。礪波郡、大野【於保乃】小野【乎乃】
 
(43)3882 澁溪乃二上山爾鷲曾子産跡云指羽爾毛君之御爲爾鷲曾子生跡云《シフタニノフタカミヤマニワシコウムトイフサシハニモキミカミタメニワシソコウムトイフ》
 
子産跡云、【六帖云、コウムテフ、落句准v之、】
 
二上山は射水郡にあり、第十七に見えたり、子産跡云はコムトイフと讀べし、下准v此、仁徳紀に五十年春三月に茨田《マンダノ》堤に鴈子うめりと聞召てさる事昔も有きやと武内宿禰に尋させ給ふ御歌云、箇利古武等《カリコムト》、儺波企箇輸椰《ナハキカズヤ》、宿禰、答歌にも箇利古武等《カリコムト》、和例波枳箇儒《ワレハキカズ》、此二首の古風を證とす、指羽ニモとは鷹にさしはと云事あれど鷲の羽は用なし、和名の服玩具に翳【翳音於計反、和名波、】此を延喜式にはさしは〔三字右○〕と點じたれば此にや、此歌は旋頭歌なり、
 
初、しふたにのふたかみ山に 第十七以下しふたにのふたかみ山はあまたよめり。さしはにもとは、鷲の羽を矢にさしはく心なり。天子にたてまつりて御とらしの矢の羽に用る心にて、君かみためとはよめるなり。今按縁起式に翳の字をさしはとよめり。そのさしはなとをも、鷲の羽にて作る物にていへる歟。和名集にははとのみいへり。まるはといふ物も有
 
3883 伊夜彦於能禮神佐備青雲乃田名引日良※[雨/沐]曾保零《イヤヒコノオノレカミサヒアヲクモノタナヒクヒスラコサメソホフル》
 
延喜式第十云、越後國|蒲原《カムハラ》郡伊夜比古神社、【名神大、】文武紀云、大寶二年三月甲申分2越中國四郡(ヲ)1屬(ス)2越後(ニ)1かゝれば此歌は大寶二年よりさきの歌なり、延喜式に又能登國能登郡に伊夜比※[口+羊]神社あり、此伊夜彦の女神なるべし、今イヤヒコと云へるは山を指(44)て云故にオノレ神サビと云へり、神佐備はカムサビと讀べし、日の下に須の字有べし落たる歟、※[雨/沐]を袖中抄にあられと有は誤なり、今のコサメよし、曾保零は伊勢物語に時はやよひのついたち雨そぼふるに云々、此を注するに添降と云詞なりと云へど後撰集詞書に八月中の十日ばかりに雨のそぼふりける日女郎花ほりに藤原もろたゞを野邊に出して遲く歸ければ遣はしけるとあれば俗にそぼ/\と降と云なるべし、添降雨ならばいかで女郎花堀には遣はさるべき、神のおはする高山などには必らず時ならぬ雨の降ことなり、第九に登2筑波山1時、歌に時となく雲居雨零とよめるが如し、屈原が九歌の山鬼(ニ)云、東風飄兮神靈|雨《アメフラシム》九章の渉江云、山峻高(ニシテ)蔽(ヌ)v日(ヲ)兮|下《シモ》幽晦(ニシテ)以多(シ)v雨、
 
初、いやひこのおのれ神さひ 縁起式第三に、名神二百八十五座を出す中に、伊夜比古神社一座、注に越後國といへり。同第十神名下云。越後國蒲原郡伊夜比古神社【名神大。】文武紀云。大寶二年三月甲申分2越中國四郡1屬2越後國1。かゝれは弥彦は今は越後なるを、此哥は大寶二年以前によめるなるへし。能登國能登郡に伊夜比※[口+羊]神社あり。弥彦のひめ神なるへし。おのれ神さひとは、いやひこの山すなはち神なるゆへにいへり。日の字の下に須の字なとの脱たるなるへし。そほふるはそほ/\とふるなり。古今集ことは書に、やよひのついたちよりしのひに人に物をいひて後に雨のそほふりけるによみてつかはしける。後撰集に、はつきなかの十日はかりに雨のそほふりける日をみなへしほりに藤原もろたゝを野へにいたしておそく歸りけれはつかはしける。新古今集に題しらす 源重之
  春雨のそほふる空のをやみせすをつる涙に花そ散ける
威靈ある高山には、時ならす雨のふることなり。第九に登2筑波山1時歌に、をのかみもゆるしたまへりめの神もちはひたまひて時となく雲居雨ふりつくはねをきよめてらしてとよめり。文選屈平九歌山鬼云。東風飄兮神靈|雨《アメフラシム》。九章渉江云。山峻高(ニシテ)以蔽(ヌ)v日(ヲ)兮。下《シモ》幽晦(ニシテ)以多(シ)v雨。一本あなにかむさひは、あやになり。那と夜と同韵なり
 
一云、安奈爾可武佐備《アナニカムサビ》
 
神武紀云、登(テ)2腋(ノ)上(ノ)?間丘《ホヽマノヲカニ》1而|廻2望《オセリテ》國(ノ)状(ヲ)1曰、妍《アナニヤ》哉乎|國之獲《クニヲエツ》矣、【妍哉、此(ヲハ)云2鞅奈珥夜(ト)1、】今の安奈爾は此妍の字にて山をほむる詞なり、
 
3884 伊夜彦乃神乃布本今日良毛加鹿乃伏良武皮服著而角附(45)奈我良《イヤヒコノカミノフモトニケフラモカシカノフスラムカハノキヌキテツノツキナガラ》
 
神ノフモトとは山の麓なり、鹿は彌彦神の使令の獣にてかくよめる歟故あるべき歌なり、應神紀云、唯以2著《ツケル》v角鹿(ノ)皮(ヲ)1處2衣服《キモノト》1乎、委は第七の終に引が如し、此歌は旋頭歌なり、集中の旋頭歌皆第三句七字第四句五字なるを此歌のみ第三句五字第四句七字なり、
 
初、いやひこの神のふもとに 三輪明神のことく、いやひこの山やかて神なれは神のふもとゝいへり。ふもとは蹈本といふ心なり。穀梁傳云。林屬(スルヲ)2於山(ニ)1曰v麓(ト)。々を神代紀にははやまとよめり。此哥の心はもし鹿は弥彦神の使令の獣にてかくよめる歟。應神紀云。時天皇幸2淡路嶋1而遊獵之。於v是天皇西望之數十麋鹿浮v海來之便入2于播磨鹿子水門1。天皇謂2左右1曰。共何麋鹿也泛2巨海1多來。茲左右共視而奇則遣v使令v察。使者至見皆人也。唯以2著v角鹿皮1爲2衣服1耳
 
乞食(ノ)者(ノ)歌二首
 
列子云、乞兒曰、天下(ノ)之辱(ハ)莫v過(ルハ)2於乞(ヨリ)1、
 
3885 伊刀古名兄乃君居居而物爾伊行跡波韓國虎云神乎生取爾八頭取持來其皮乎多多彌爾刺八重疊平羣乃山爾四月與五月間爾藥獵仕流時爾足引乃此片山爾二立伊智比何本爾梓弓八多婆佐彌比米加夫良八多婆左彌宍待跡吾(46)居時爾佐男鹿乃來立來嘆久頓爾吾可死王爾吾仕牟吾角者御笠乃波夜詩吾耳者御墨坩吾目良波眞墨乃鏡吾爪者御弓之弓波受吾毛等者御筆波夜斯吾皮者御箱皮爾吾完者御奈麻須波夜志吾伎毛母御奈麻須波夜之吾美義波御塩乃波夜之耆矣奴吾身一爾七重花佐久八重花生跡白賞尼白賞尼《イトフルキナアニノキミハヲリ/\テモノニイユクトハカラクニノトラトイフカミヲイケトリニヤツトリモチキソノカハヲタタミニサシテヤヘタヽミヘクリノヤマニウツキトサツキホトニクスリカリツカフルトキニアシヒキノコノカタヤマニフタツタツイチヒカモトニアツサユミヤタハサミヒメカフラヤタハサミシヽマツトワカヲルトキニサヲシカノキタチキナケカクタチマチニワレハシヌヘシオホキミニワレハツカヘムワカツノハミカサノハヤシワカミヽハミスミノツホニワカメラハマスミノカヽミワカツメハミユミノユハスワカケラハミフテノハヤシワカカハヽミハコノカハニワカシヽハミナマスハヤシワカキモヽミナマスハヤシワカミキハミシホノハヤシオイハテヲヌワカミヒトツニナヽヘハナサクヤヘハナサクトマウサネマウサネ》
 
藥獵、【幽齋本、獵作v※[獣偏+葛]、】
 
發句は今按點誤れり、イトコノと讀べし、古事記上に八千戈神の御歌云、伊刀古夜能伊毛能美許等《イトコヤノイモノミコト》云々、此伊刀古夜能と云と同じかるべし、今伊刀古とのみあるは夜の字の落たる歟、夜は助語にて今は加へざる歟、此の伊刀古と云義は未詳、從父兄弟【和名伊止古、】是若親しむ意の名ならば通ふべき歟、神功皇后紀に熊之凝が歌に宇歴比等破《ウマヒトハ》、(47)于摩避苫奴知野《ウマヒトドチヤ》、伊徒姑幡茂《イトコハモ》、伊徒姑奴知《イトコドチ》、伊装阿波那和例波《イザアハナワレハ》云々、此はうまびとは君子とも良家子ともかけば、いとこはもは夜と伊と通じ豆《ツ》と徒《ト》と通ずればヤツコトハとよめる歟とおぼゆれば今の伊刀古とは別なるべし、名兄乃君、此をばナセノキミハと讀べき歟、物爾伊行跡波、伊は發語詞、物に行は他處へ行なり、物語或は歌の詞書などに多き詞なり、貫之の歌にも又もこそ物へ行人わが惜め涙の限君に啼つる、虎云神乎|蛇《オロチ》を神と云ひ狼を神と云へる事は上に注せり、後漢書東夷傳云、※[さんずい+歳]人常(ニ)用2十月(ヲ)1祭v天(ヲ)云々、又祠v虎以爲v神(ト)、欽明紀云、六年冬十一月、膳《カシハテノ》臣巴提便還(テ)v自2百濟1言、臣被v遣v使(ニ)、妻子《ヤカラ》相|逐去《シタガヒテマカル》、行2至百濟(ノ)濱(ニ)1、【濱、海濱也、】日晩(テ)停v宿、小兒《ワカゴ》忽亡不v知v所v之、其夜大(ニ)雪(フル)、天|曉《アケテ》始(テ)求(ニ)、有2虎(ノ)連《ツヾケル》跡1、臣乃帶v刀|※[手偏+鐶の旁]《キテ》v甲(ヲ)尋《トメテ》至2巖岫(ニ)1、拔(テ)v刀(ヲ)曰、敬(テ)受(テ)2絲綸1劬2勞《タシナミ》陸海《クガウミニ》1、櫛v風沐v雨|藉《マクラトシ》v草《カヤヲ》班《シキキ》v荊《シバヲ》者、爲(ナリ)d愛(シテ)2其子(ヲ)1令uv紹(カ)2父業(ヲ)1也、惟|汝《イマシ》威《カシコキ》神愛v子(ヲ)一《ヒトクセ》也、今夜兒亡、追(テ)v蹤|覓《マキ》至、不v畏v亡v命、欲v報|故《タメニ》來、既而其虎進v前開v口(ヲ)欲v噬2巴提便1、忽申2左手1執2其虎舌(ヲ)1、右手(ヲモテ)刺殺、剥2取(テ)皮(ヲ)還、萬象名義云、虎(ハ)【呼古反、】山獣(ノ)君也、發句よりタヽミニサシテと云までの十句は八重疊と云はむ爲の序をいみじうゆゝしく云ひ出せり、神代紀下云、海神《ワタツミノカミ》於是《コヽニ》鋪《シキテ》2設|八重席薦《ヤヘタヽミヲ》1以(テ)延内《ヒイテイル》之、又云乃|鋪《シキテ》2設海驢皮《ミチノカハ》八重(ヲ)1使(ム)v坐《スヱマツラ》2其上(ニ)1、古事記景行天皇段云、弟橘比賣命將v入v海時、以2菅疊八重皮疊八重絹疊八重1敷2于波上1而下2座其上1、四月與五月間爾はウヅキトサツ(48)キノホドニと讀べし、藥獵は第一卷に注せしが如し、足引乃此片山爾、顯宗紀(ノ)室壽《ムロホギノ》御詞(ニ)云、脚日木此傍山牡鹿之角擧而吾※[人偏+舞]者《アシビキコノコノカタヤマサヲシカノツノサヽゲテワガマハレバ》云々、梓弓八多婆佐彌は、八はヤツと讀べし、下准v之、ヒメカブラは舊事本紀云、大己貴神出遊行矣、事八十(ノ)神見且欺率(テ)入v山而切2伏大樹(ヲ)2茄《ハメ》v矢(ヲ)打2立其木(ニ)1令v入2其(ノ)木(ノ)中(ニ)1則打2離其|氷目矢《ヒメヤヲ》1而|拷殺《ウチシヌ》矣、古事記此に同じ、此氷は矢なるべし、然うして茄矢を氷目矢とよむ歟、茄矢の中に氷目矢は別名歟、此は木をわりて矢を入れ大己貴神を彼木の中へ入れまつりて矢を打はつして挾み奉れりと見えたり、來立來歎久は下の來は衍文にてキタチナゲカクなるべし、王爾吾仕牟は獵に死して身の殘る所なく供御等に用らるゝを云へり、吾角ハ御笠ノ林とは詩大明云、殷商之|旅《モロモロ》、其會(コト)如(シ)v林(ノ)、注曰如(シトハ)v林言(ハ)衆也、書曰受卒其旅若v林(ノ)、文選東京賦云、戈矛若(シ)v林【薛綜曰、若v林言v多也、】下に林と云へるは皆此に准らふべし、昔は華葢の飾に鹿の角を立けるにや、吾耳ハ御墨坩とは鹿の耳を墨の坩に用るにはあらず、似たる故に云なり、仁徳紀云、六十七年冬十月庚辰朔甲申、幸2河内(ノ)石津(ノ)原1以以定2陵地1、丁酉始築v陵、是日有v鹿忽起2野中1走之入2役民之中1而仆死、時異2其忽死1以探2其痍1即|百舌鳥《モズ》自v耳出之飛去、因視2耳中1悉|咋割剥《クヒサキカキハケリ》、故號2其處1、曰2百舌鳥耳原《モズノミヽハラト》1者其是之縁也、坩は和名云、坩古甘反、和名都保、今按木謂2之壺1瓦謂2之坩1、延喜式にはかはしりつきと點ぜり、吾メラハマスミノ鏡、是又耳(49)を云が如し、集中まそかゞみとのみよめるにますみの鏡とは只これのみよめり、吾爪ハ御弓ノユハズは角弓あれば爪をもても弭をかたむべし、御筆(ノ)林とは崔豹古今注云、蒙恬作2秦筆(ヲ)1以2枯木1爲v管(ト)、鹿毛(ヲ)爲v柱(ト)、羊毛(ヲ)爲v被(ト)、御箱皮は箱の覆にするを云へり、御ナマス林は和名云、唐韻云、鱠【音會、和名奈万須、】細(ニ)切(レル)肉(ナリ)也、雄略紀云、今日(ノ)遊獵《カリニ》大獲(タリ)2禽獣《トリシヽヲ》1欲d與2群臣1割鮮野饗《ナマスツクリテノアヘムト》u云々、昔は供御にも鹿などを聞食けるなめり、吾美義波以上(ハ)潘岳が射雉賦に尾(ハ)飾(テ)v※[金+〓]《クツハミヲ》而在v服、肉(ハ)登(テ)v爼(ニ)而永(ク)御(ス)、此意を委くよめるなり、耆矣奴は矣は助語なり、鹿の身に有とある所皆用るに殘る事なし、依て七重八重花咲と榮華あるやうに云ひなすは却て痛む意なり、マウサネ/\はかう/\鹿は申すと申上よとの意なり、
 
初、いとふるきなあにの君は.名兄は名背名妹なとよめるたくひなり。兄の君なるか故に、いと古きといふなり。年の高き心なり。物にいゆくとはいは發語のことは、物へゆくといふは、此國の詞なり。後の集詞書なとにおほし。貫之集に
  又もこそ物へゆくひとわかをしめ涙のかきり君になきつる
虎といふ神を、後漢書東夷傳云。※[さんずい+歳]人常用2十月1祭v天
晝夜飲v酒歌舞名v之爲2舞天1。又祠v虎(ヲ)以爲v神。萬象名義云。虎杜反。山獣(ノ)君也。欽明紀云。六年冬十一月|膳《カシハテノ》臣巴|提《ス》便還v自2百濟1言。臣被v遣v使|妻子《ヤカラ》相|逐去《シタカテマカル》。行2至百濟濱1【濱海濱也】日晩停宿|小兒《ワカコ》忽亡不v知v所v之。其夜大雪。天曉始求有2虎|連《ツヽケル》跡1。臣乃帶v刀|※[手偏+鐶の旁]《キ》v甲|尋《トメテ》至2巖岫1拔v刀曰。敬受2絲綸1劬2勞《タシナミ》陸《クヌカ》海1櫛v風沐v雨|藉《マクラトシ》v草《カヤヲ》班《シキキ》v荊《シハヲ》者爲d愛2其子1令uv紹2父業1也。惟|汝《イマシ》威《カシコキ》神愛v子|一《ヒトクセ》也。今夜兒亡追v蹤|覓《マキ》至。不v畏v亡v命欲v報|故《タメニ》來。而其虎進v前開v口欲v噬2巴|提《ス》便1。忽申2左手1執2其虎舌1右手刺殺剥2取皮1還。皇極紀云。四年夏四月戊戌朔高麗學問僧等言。同|學《ヒト》鞍作(ノ)得志以v虎爲v友(ト)學2取(レリ)其|術《ハケヲ》1。或使3枯《カラ》山|變《カヘテ》爲《ナラ》2青山(ニ)1。或使3黄地變爲2白水(ニ)1種種(ノ)奇術《ミハケ》不v可2〓《ツクシ》究(ム)1。又虎授2其針(ヲ)1曰。愼《ユメ》矣愼矣。勿v令2人(ニ)知1。以v此治(ハ)之病無v不v愈。果(シテ)如v所v言治無v不v差《イユ》。得志恒以2其針1隱2置(ケリ)柱中1。於v後虎|折《ホリテ》2其柱1取v針|走《ニケ》去。高麗國知2得志欲v歸之意1与v毒《アシモノヲ》殺之。虎は百獣の中にすくれてたけく道は千里をもかけるはやきけたものなれは神とはいふなり。欽明紀には狼をも汝(ハ)是|貴神《カシコキカミ》といへり。我朝にはすくれたるけたものなれはかくいふなるへし。八頭は獣をかそふるに一頭二頭といふゆへなり。第十三にうをやつしつめといふにもかくかけり。そこに注せり。第十九にもかけり。これは疊にさして八重疊へくりの山にとつゝけむためなり。八重疊まては序にて、へくりの山といひつれは、皆用なけれと、古哥の躰おほく序よりつゝく。これら非常のよみやうなり。八重疊へくりのつゝけやうは此巻上に、こもたゝみへくりのあそとつゝけたる所に注せり。神代紀下云。海神於是《ワタツミノカミコヽニ》鋪《シキ》2設|八重席薦《ヤヘタヽミヲ》1以|延内《ヒイテイル》之。一書云。是(ノ)時(ニ)海神|自《ミ》迎(ヒ)延入《ヒキイテ》乃|鋪《シキ》2設(テ)海驢皮八重《ミチノカハヤヘヲ》1使v坐《スエタテマツラ》2其上(ニ)1。う月とさつきのほとに藥かりつかふる時に、藥獵の事上に推古紀を引てすてに尺せり。第十七に
  かきつはたきぬにすりつけますらをのきそひかりする月はきにけり
此きそひかりといふも藥かりにおなし。鹿茸をとらんためなり。推古紀天智紀に見えたるは、皆五月五日なれと、此哥によれは惣して四月五月の間にかると見えたり。あしひきの此かた山に、顯宗紀に室壽《ムロホキ》の詞の中に、脚日木此傍山牡鹿《アシヒキノコノカタヤマサヲシカ》之|角擧《ツノサヽケテ》吾※[人偏+舞]《マハム》者【云々。】梓弓やつたはさみひめかふら八たはさみ、やつといふは、狩人のあまた弓矢を帶する心なり。ひめかふらは蟇目鏑矢のことなり。おほきみに我はつかへむ、鹿の獵に死して、身の殘る所なく天子の供御等に用らるゝをつかへむとはいへり。わか角はみかさのはやし、はやしは林の字の心なり。ものゝおほきをはやしといへり 御笠のいたゝきに鹿の角をたつることの有けるとなり。わかみゝはみすみのつほに、鹿の耳を墨の坩に用るにはあらす。御墨の坩に似たる故なり。坩は和名集云。坩古甘反。和名都保。今案木謂2之(ヲ)壺(ト)1瓦謂2之(ヲ)坩(ト)1。延喜式にはかはしりつきとよめり。わかめらはますみのかゝみ、目の明なる心なり。しかのまなこを鏡に用るにてはなけれとも、似たることなれはかさりにいふなり。下みなそれ/\の用に立をいへり。詩大明云。殷商之|旅《モロ/\》、其會如v林。注曰如v林言(ハ)衆也。書曰。受(カ)率其旅若v林。みふてのはやしは古今注曰。恬始作2秦筆1。以2枯木1爲v管、鹿毛爲v柱、羊毛爲v被。文選潘安仁(カ)※[身+矢]雉賦云。尾(ハ)飾(テ)v※[金+庶]《クツハミヲ》而在v服(ニ)。肉(ハ)登v俎(ニ)而永(ク)御(ス)。論語曰。鱠(ハ)不v厭v細。説文云。鱠(ハ)細(カニ)切(レル)肉(ナリ)也。御箱の皮とは箱のおほひとする心なり。わかみきはみしほのはやし。此美義といへるは右の訓のことし。いかにいへることゝもしらす。もし氣血等を左右にわかつ心ある歟。おいはてをぬわかみひとつに、をは助語なり。鹿の身にありとある所皆用るに殘る所なし。よりて七重八重花さくとはいへり。身をころして君につかふるに、鹿の榮華あるやうにいひなせと、かへりていたむ心なり。まうさね/\はかう/\鹿か申すと申あけよといふ心なり
 
右歌一首爲v鹿述v痛作v之也
 
3886 忍照八難波乃小江爾廬作難麻理弖居葦河爾乎王召跡何爲牟爾吾乎召良米夜明久吾知事乎歌人跡和乎召良米夜笛吹跡和乎召良米夜琴引跡和乎召良光夜彼毛令受牟等(50)今日今日跡飛鳥爾到雖立置勿爾到雖不策都久怒爾到東中門由參納來弖命受例婆馬爾巳曾布毛太志可久物牛爾巳曾鼻繩波久例足引乃此片山乃毛武爾禮乎五百枝波伎垂天光夜日乃異爾于佐比豆留夜辛碓爾舂庭立碓子爾舂忍光八難波乃小江乃始垂乎辛久垂來弖陶人乃所v作瓶乎今日往明日取持來吾目良爾塩漆給時賞毛時賞毛《オシテルヤナニハノヲエニイホツクリカタマリテヲルアシカニヲオホキミメストナニセムニワヲメスラメヤアキラケクワカシルコトヲウタヒトヽワヲメスラメヤフエフキトワヲメスラメヤコトヒキトワヲメスラメヤカレモウケムトケフケフトアスカニイタリタテレトモオキナニイタリウタネトモツクヌニイタリヒムカシノナカノミカトユマイリイリキテオホスレハウマニコソフモタシカクモウシニコソハナナハハクレアシヒキノコノカタヤマノモムニレヲイホエハキタレアマテルヤヒノケニホシテサヒツルヤカラウスニツキニハニタチカラウスニツキオシテルヤナニハノヲエノハツタレヲカラクタレキテスヱヒトノツクレルカメヲケフユキテアストリモチキワカメラニシホヌリタヘトマウサモマウサモ》
 
令受牟等、【幽齋本、等作v跡、】
 
庵作は蟹の穴なり、葦河爾は葦原蟹なり、和名云、兼名苑(ニ)云※[虫+彭]※[虫+骨]【彭骨二音、楊氏漢語抄云、葦原蟹】形似v蟹而小也、王召跡とは此句句絶り、大君の召と蟹にきかする時何と云大君召とやと蟹が云詞なり、下の十句も亦蟹に成て云なり、次の二句は我を何せむとてめさむやなり、次の二句は我無用なる事を明らかにみづから知物をとなり、歌人トワヲ召(51)ラメヤとは此歌人は歌ふ人なり、蟹にも白き沫をふく時少聲あれど歌人とて召されむやはとなり、次の二句は是も沫をふくに依てなり、次の二句は手の數も多く爪ありて琴をも引つべく見ゆる故なり、彼毛令受牟等は今按彼毛は一句なり、然れどもなど云意の句なるべき所なれば落字あるべし、令は命の字をたがへてみことうけむとなり、下の命受例婆の句今の點は誤てミコトウクレバなれば此首尾に依て知べし、今日今日跡は飛鳥ニ到りと云はむためなり、飛鳥に都有ける允恭天皇の遠飛鳥宮、顯宗天皇の近飛鳥八釣宮、舒明天皇の岡本宮、齊明天皇の後岡本宮、天武天皇淨御原宮、持統文武御兩代まし/\ける藤原宮も朝日香なる中に此歌は舒明天皇より後の歌なるべし、雖立置勿爾到とは蟹のありくは立つなれど横にすゑ置たる物のやうなれば云歟、オキナは處の名なるべし、雖不策は今按ツカネドモと讀べき歟、都久怒もツクノと讀て處の名なるべし、蟹は足の多かれば杖はつかねどもつきたるが如しと云意につゞけたる歟、杖と云はでつくと云事は古歌の習なり、古事記中應神天皇段御歌云、許能迦邇夜伊豆久能迦邇《コノカニヤイヅクノカニ》、毛毛豆多布《モモツタフ》、都奴賀能迦邇《ツノガノカニ》、余許佐良布《ヨコサラフ》、伊豆久邇伊多流《イヅクニイタル》云々、參納來弖はマウイリキテと讀べし、命受例婆はさきに云如くミコトウクレバと讀べし、召給ふ由承て參侍る何の爲にか召給ひ候やらむと奏(52)せしむる意なり、布毛太志は絆《ホダシ》なり、和名云、釋名云絆【音半、和名保太之、】半也、物d使2半行(ニシテ)不uv2得2自縱(ナルコトヲ)1、フモダシとは蹈黙《フモダシ》の意にて名付たる歟、雜令(ニ)云、※[足+翕](ム)v人(ヲ)者(ヲハ)絆(ス)v足(ヲ)と云へり、布毛反保なればふもだし〔四字右○〕をつゞめてほたし〔三字右○〕と云なるべし、又景行紀に蹈石をホシヽと點じ、仲哀紀に穴門(ノ)直踐立《ヒエホムタチ》、此等を思ふにほみもだし〔五字右○〕のみ〔右○〕を略する歟、二つ共に末は同じ、鼻繩ははなつらなり、和名云、蒼頡篇(ニ)云、縻【音與v麋同、和名波奈都良、】牛(ノ)※[革+橿の旁]也、莊子秋水云、北海若(カ)曰、牛馬(ノ)四足(ナル)是(ヲ)謂v天(ト)、落《マトヒ》2馬首(ヲ)1穿(テ)2牛鼻(ヲ)1是(ヲ)謂v人(ト)、牛馬こそ角あれば絆を懸、鼻繩はくる物なれとなり、毛武爾禮は和名云、爾雅注云、楡之皮色白名v枌、【上音臾、下音汾、和名夜仁禮、】皮の白きと白からぬにて楡と枌との名唐にも替れば此國にも同じ意にて毛武爾禮は別名歟、若は揉《モム》物にて揉楡《モムニレ》にや、延喜式第三十九内膳式(ニ)云、檎皮一千枚、【別長一尺五寸廣四寸、】搗(テ)得2粉二石(ヲ)1、【枚別二合、】右楡皮年中雜御菜并羮等料、或者の語り侍りしは楡の皮を以て楡餅《ニレモチヒ》とて山里には餅にし侍り葉をも糯《モチ》米に合せて餅に舂よし申き、波伎垂は皮を剥垂なり、日乃異爾干は日の氣ほすなり、詩云、|雨《フレル》※[さんずい+(鹿/れっか)]《ヒョウ》々(タリ)、見(バ)v※[日+見]《ヒノケヲ》曰《コヽニ》消(ナム)、【※[日+見](ハ)日氣也、】佐此豆留夜辛碓爾舂は今按辛碓はカナウスと讀べき歟、庚辛は西方の二千金に當れば義訓せる歟、サビツルヤとはかなうすなる故に云べし、又下に碓子と云ひつれば上は同詞なるべからぬにや、始垂とは殊に辛き鹽を云はむとなり、陶人は雄略紀云、新漢陶部高貴《イマキノアヤノスヱモノツクリカウクヰ》云々、(53)和名云、莊子(ニ)云陶者曰、我治v埴(ヲ)陶【桃反、】訓【須惠毛乃豆久流、】黏(シテ)v埴(ヲ)爲(ル)v器(ヲ)者(ヲ)、俗呼爲2造手陶者(ト)1、是乎鹽漆給とは昔は楡の粉に鹽を合せて蟹を漬置けるなるべし、玉篇云、胥【思餘切、蟹醢也、】遊仙窟(ニ)云、熊(ノ)腥《ナマス》純(ハラ)白(シ)、蟹(ノ)醤《ヒシホ》純(ハラ)黄(ナルアリ)、マウすモは申さむなり、今按此落句の書やう不審なり、上句の時は和語を下略して用たり、第十二喚子鳥をよめる歌に君呼かへせ夜の深ぬとにと云は夜の深ぬ時にと云なりしが如し、落句の時は衍文なるべし、さるにても賞毛をマウサモとよまむ事意得がたし、右の歌の落句に白賞尼をマウサネとよめるは白賞を引合せて申す〔二字右○〕とよめる歟、賞はさ〔右○〕のかなに用たる歟、
 
初、をしてるやなにはのをえにいほつくり かにのあなは、かれかための家なれは、いほつくりとはいへり。あしかには蟹はあしへによくをるものなれはいへり。俗にあしはらかにといふには、かきるへからす。おほきみめすと、これ句絶なり。たとへは人ならはおほきみめすとくまゐれと使の急かす心なり。なにせんとわをめすらめやあきらけくわかしることを。これは蟹か返事の心なり。我は無用のものなることをあきらかに心にしれり。何せんとてかめさんとなり。哥人とわをめすらめや。此うた人とは哥を詠するにはあらす。うたふ心なり。蟹の白き沫を吐時に、こゑの聞ゆる故に、うたよくうたふと大君にきこしめしてめさるゝかといふ心なり。笛ふきといふも其沫をふくによりてなり。ことひきとわをめすらめや。蟹は爪ありて、琴をも引へく手のかすおほきゆへにかくいふなり。螫の字はかにのおほつめなり。彼毛令受牟等。これをかれもうけむとゝよみたれと、彼毛は一句にて、下はみことうけむとゝよむへし。令は下に命受例婆とあるを思ふに命の字の誤なるへし。令にてもみことゝはよむへし 彼毛はもし上下の間に字の落たる歟。さらすはかれをしもと讀へし。哥人とも、ふえ吹とも、こと引ともわれをめさるへきやうはおほえねと、猶みことのりをうけたまはりてまいらんとなり。けふ/\とあすかにいたり、今日明日とつゝけむためなり。飛鳥に帝都のあるゆへに、君にめされて難波よりまいりてあすかにいたるとなり。飛鳥に宮居し給へる天皇は、先遠飛鳥宮允恭 近飛鳥八釣宮顯宗 飛鳥岡本宮舒明 明日香川原宮皇極 飛鳥淨御原宮天武 同藤原宮持統文武。元明天皇和銅三年まて猶藤原宮にまし/\けれは、此哥は天武天皇より、元明天皇の初まての作なるへし。たてれともおきなにいたりうたねともつくぬにいたり。此おきなにいたりつくぬにいたりといふことその心をしらす。もしふたつなから所の名歟 東(ノ)、中(ノ)門《ミカト》由《ユ》、參納來※[氏/一]《マヰリキテ》、命受例婆《ミコトウクレハ》。この間をは四句に、ひむかしの中のみかとゆまゐりきてみことうくれはとよむへし。馬にこそふもたしかくもは、馬にこそほたしはかくれの心なり。うしにこそはなゝははくれ。牛にこそ、はなつらははくるものなれの心なり。荘子秋水篇云。北海若曰。牛馬四足是(ヲ)謂v天(ト)落《オモツラハケ》2馬首(ニ)1穿《ハナツラハケ》2牛鼻1(ヲ)是謂v人(ト)。【人之生也可v不2服v牛乘1v馬乎。服v牛乘v馬可v不3穿2落之1乎。牛馬不v辭2穿落1者天命之固當也。苟當2乎天命1則雖v寄2之人事1而本2乎天1也。】あしひきの此かた山のもむにれをいほえはきたれ。もむにれは、百楡にてにれの木のおほきをいふなるへし。又揉こともありていふ歟 五百枝はきたれは、にれの木の皮を剥て日にほして、うすにつき粉にして賤かくふ物なり。和名集云。亦雅注云。楡之皮色白名v※[木+分]。【上音臾。下音汾。和名夜仁禮】。延喜式第三十九、内膳式云。楡皮一千枚【別長一尺五寸。廣四寸】搗(テ)得2粉二石1。【枚別二合。】右楡皮年中雜御菜并羮等料。これを見れは天子の供御にも用る物と見えたり。楡餅とて餅にもし侍るよしなり。葉をも賤はくひ侍るとかや。ひのけは詩角弓曰。雨《フレル》雪※[漉/れっか]《ヒヨウ》々(タリ)。見(ハ)v※[日+見]《ヒノケヲ》曰《コヽニ》消(ナム)【※[日+見](ハ)日氣也。】辛碓はかなうすとよむへきか。十支を五行に配する時庚辛は金なれはなり。さひの出たるかなうすにてつくなり。庭にたちからうすにつきとは、彼楡をかなうすにて大かたこなして又からうすにてつくなるへし。蟹味噌といふものも有といへはにれの粉にかにをあはせてつくにや。されと我目らに塩ぬりたへといへるはそのまゝ漬るなるへし ふたつの舂の字皆あやまりて春に作れり。難波の小江のはつたれ。初て垂たる塩なり。よき塩をいはむとなり。すゑ人のつくれるかめを。瓶壺のたくひをつくるをすゑものつくるといふその人を陶人とはいふなり。そのすゑ人か作れる瓶に楡粉に塩をあはせて蟹を漬《ツケ》おく心なり。仁徳紀云。即以2白塩1塗2其身1如2霜|素《シロイ》云々。まうさも/\は申さん/\なり。下の時の字は衍文なり
 
右歌一首爲v蟹述v痛作v之世
 
怕物歌三首
 
怕は玉篇云、普駕切、恐也、此は怕怖にて今の意なり、匹白切の時は、説文云無爲也、此は憺怕なり、怕物の二字下より返らずしてオソロシキモノと和語の體に讀べし
 
初、怕物歌 怕にふたつの音あり。説文匹白切。無爲也。これは憺怕にてしつかなる義、今の心にあらす。普駕切。恐也。これ怕怖にておそるゝなれは、今の義なり。目録にものにおそるゝと讀たれと、おそろしき物の哥と讀へきにや
 
3887 天爾有哉神樂良能小野爾茅草苅草苅婆可爾鶉乎立毛《アメニアルヤサヽラノヲノニチカヤカリカリハカニウツラヲタツモ》
 
發句はアメナルヤと讀べし、神代紀下云、阿妹奈屡夜《アメナルヤ》、乙登多奈波多※[しんにょう+西]《ヲトタナバタノ》云々、此をアモ(54)ナルヤと點ぜるは誤なり、古事記に阿米那流夜《アメナルヤ》とあり、梅米毎等皆め〔右○〕に用たれば妹も此に准らへて知べし、サヽラノ小野は第三にも有て注しき、八雲御抄にかぐらのをのとよませ給ひて山城と注せさせ給へるは神樂岡と同じ所と思召ける歟、今は神樂良と書たる上第三にもあれば今の點叶ふべき歟、苅婆可も上に有き、世に足もとより烏の立とて肝のつぶるゝ事に云へり、鶉は殊にふと立物なればかくはよめり、天ナルヤサヽラノ小野と云に彼野かう/\しく聞ゆるに、茅草も深からむはいとゞしかるべし、
 
初、天にあるやさゝらの小野に 神樂良能小野とかきたるを、八雲御抄にはかくらの小野とよませたまひて、山城と注せさせ給へり。日神天の石戸にこもらせたまひける時、諸神の神樂有けれは、天にあるやはその心にて、神樂岡なとゝもやおほしめしけん。第三にも天有《アメニアル》左佐羅能小野之|七相菅《ナヽフスケ》とよめるにおなし。第三によるに大和に有なるへし。それをあめにあるやといへるは第六に坂上郎女か哥に
  山のはにさゝらゑをとこ天の原とわたる光みらくしよしも
哥の後の注云。右一首歌或云月別名曰2佐散良衣壯士1也。縁2此辭1作2此歌1。しかれは天にある月といふ心につゝけたるなり。かりはかは刈場にて、かは助語なるへし。第四第十にもまた此詞あり。俗にもふとしたる事をは、あしもとより鳥のたつとて、肝のつふるゝ事にいひならへは、何心なく草かるてもとより、鶉のたゝむはおそろしかるへき上に、さゝらの小野はふかき野にて、おそろしきやうにその比いへる所にこそ
 
3888 奧国領君之染屋形黄染乃尾形神之門渡《オキツクニシラセシキミカソメヤカタキソメノヤカタカミノトワタル》
 
奥國は海路を隔たる遠島國なり、シラセシ君は知れる君なり、染屋形は染たる屋形舟なり、和名云、唐韻云篷?【蓬備二音、和名布奈夜加太、】舟上(ノ)屋也、釋名(ニ)云、舟上屋謂2之(ヲ)廬(ト)1【力居反、言《イフコヽロハ》象(トレハナリ)2廬舍(ニ)1也、黄染乃屋形は上の染屋形を再たび云へり、但染屋形は何にても染て彩《イロ》どるを云べきを今は梔子などにて黄に染たる屋形と云なり、黄染としも云へるは黄色をば海神の愛してほしがる歟、嫌ひて※[厭のがんだれなし]ふ歟、西域記云、度2石碩1至2凌山(ニ)1、山則※[草がんむり/総の旁]嶺(ノ)北原、山谷積v雪(ヲ)春夏合(ス)v凍(ヲ)、經(ルコト)v途險阻(ナリ)、寒風慘烈(ナリ)、多2暴龍(ノ)難1陵2犯(ス)行人(ヲ)1、由(ル)2此路(ニ)1者(ハ)不v得2赭(ウシ)v衣(ヲ)大聲(ニ)(55)呼(コトヲ)1微(シキ)有(レバ)2違反1禍罪目(ニ)睹(ユ)、土左日記云、舟に乘そめし日より舟には紅こくよきゝぬ著ず、それは海の神におぢてもいみて云々、海賦云、若夫(レ)負(テ)v穢(シキヲ)臨(ミ)v深(キニ)、虚(シテ)v誓(ヲ)※[衍/心](ツ)v祈(ヲ)、則有2海童邀(キリ)v路(ヲ)馬銜當(ルコト)v※[足+奚](ニ)、天呉乍(マチニ)見而|髣髴《ホノカナリ》、魍像暫(ラク)曉(ハレテ)而|閃屍《ホノメク》、羣妖|※[しんにょう+溝の旁]※[しんにょう+午]《アヒサカヘテ》眇※[目+謡の旁](ト)冶夷《コヒタリ》。决《ヤブリ》v帆(ヲ)摧《クダイテ》v橦(ヲ)※[爿+戈]《シヤウ》風起(ス)v惡《アシキヲ》廓《ホノカナルコト》如2靈變(スルガ)1、惚《タチマチニ》※[立心偏+兄]幽暮(ナリ)、氣|似《ノレリ》2天霄(ニ)1、※[雲+愛]※[雲+(弗/貝)](・ト)《クラウシテ》雲(ノゴトクニ)市《シケリ》、※[雨/脩の月が黒]※[日/立]《シクイツ》絶電百(ノ)色(ニ)妖露、呵※[口+炎+欠](ト)、掩欝(ト)※[目+穫の旁]※[目+炎](ト)無v度《アラハルヽコト》、
 
初、おきつくにしらせし君か 奥つ國とは、こゝにて.は海路を隔たる遠嶋國なり。其國を領したる人をしらせし君とはいふなり。しれる君なり。此領の字此卷上にも、第十にも見えたり。そめやかたは舟のやかたなり。黄染のやかたはそれをふたゝひいふなり。和名集云。唐韻云篷〓【蓬備二音。和名布奈夜加太】舟上屋也。釋名云。舟上屋謂2之廬1。【力居反】言象2廬舍1也。神のとわたるとは海神ははかりかたくおそろしき物にて、廣大の資財に貪する物なれは、舟に財あれは心をかけ、色よきものをもほしかるなり。よりてさはりをなすなり。西域記云。度2石碩1至2凌山1。々則※[草がんむり/総の旁]嶺北原。山谷積v雪春夏合v凍。經v途險阻寒風懍烈。多2暴龍(ノ)難1陵2犯行人1。由2此路1者不v得2赭v衣大聲呼1。微有2違反1禍災目(ニ)覩(ユ)。文選木玄虚海賦云。若夫負(テ)v穢(シキヲ)臨(ミ)v深(ニ)虚(シテ)v誓(ヲ)愆《アヤマツ》v祈則有2海童邀(キリ)v路(ヲ)馬銜當(ルコト)1v※[足+奚]。天呉乍(チ)見而|髣髴《ホノメク・ホノカナリ》(ト)。※[虫+罔]像暫(ク)曉《アラハレテ》而|閃屍《ホノメク》(ト)。羣妖|※[しんにょう+溝の旁]※[しんにょう+午]《アヒサカヘテ・ヲカシテ》眇※[目+謡の旁](ト)冶夷《コヒタリ》(ト)。决《ヤフリ》v帆(ヲ)摧《クタイテ・ヲリ》(テ)v橦(ヲ)※[爿+戈]《シヤウ》風起v惡《アシキヲ・ニクミヲ》廓《ホノカナルコト》如(ト)2靈變(スルカ)1。惚《タチマチニ》※[立心偏+兄](ト)幽暮(ナリ)。氣|似《ノレリ》2天霄(ニ)1。※[雲+愛]※[雲+(弗/貝)]《・クラウシテ》(ト)雲(ノ如ニ)市《シケリ》。※[雨/脩の月が黒]※[日/立]《シクイクト・トクシテ》絶(タル)電百(ノ)色(ニ)妖露《コヒアラハル》。呵※[口+炎+欠]《・タチマチニ》(ト)掩欝《・タチマチニシテ》(ト)※[目+穫の旁]※[目+炎]《・ミミルニ》(ト)無v度《アラハルヽコト》。土左日記にふねにのりそめし日より、舟にはくれなゐこくよきゝぬきす。それは海の神におちてもいみてなにのあしかけにことつけてほやのつまのいすしすしあはひをそこゝろにもあらぬはきにあけてみせける。此集第七に
  塩みたはいかにせむとかわたつみの神か手わたるあまのをとめら
龍神のとよむへき黄染のやかた舟にのりて、おそろしきせとをわたらんはまことにおそるへきことのかきりなり
 
3889 人魂乃佐青有公之但獨相有之雨夜葉非左思所念《ヒトタマノサヲナルキミカタヽヒトリアヘリシアマヨハヒサシトソオモフ》
 
人魂は火の青からむを見むやうにいま/\しく得もいはぬ色なれば怕物の意を云はむために青き物の多からむ中に擇び出て佐青とはつゞけたり、さらば阿と左と同韻にて通ずればあを〔二字右○〕をさを〔二字右○〕と云、常に眞青《マアヲ》とも眞佐青《マサヲ》とも云是なり、催馬樂にあをのまはなれば取繋げ、さをのま離れば捕つなげと云は後のさを〔二字右○〕は初の青なり、又狹青にて少し青き意にも有べし、白き色の餘りなれば必青み出來る物なり、米のましらげに精の字を作れるも此故なるべし、されば人の色も白過たれば青く見ゆる故に源氏物語末摘花に色は雪耻かしう白うてさをにと云ひ、若菜には色はまを(56)に白くうつくしげにともかけり、落句はヒサシクオモホユと讀べし、思の下に久九等の落たるべし、さらぬだに雨夜の暗きは物恐しくおぼゆる物なるに、人魂の色に青きすぢ白き顔なる人に相ては忽に物に取らるゝこゝちして明るを待心から久しくおぼゆべきなり、伊勢物語にゆくさきおほく夜も深にければ鬼ある所とも知らで、神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降ければ、あばらなるくらに女をば奥に押入て男弓やなぐひを負て戸口に居り、はや夜も明なむと思ひつゝ居たりけるに云々、
 
初、ひとたまのさをなるきみか 人たまは人のたましひの、火のやうにてとふをいふなり。さをは只青きことなり。さもしは助字なり。又阿と佐と同韵なれは通してあをといふをさをともいふなり。常に眞青《マアヲ》といふことをまさをといへり。催馬樂にあをのまはなれは取つなけ、さをのまはなれは取つなけといふは、後にさをといふは初の青なり 人玉は色の青き火のやうにて、いま/\しくうれはしき色なり。きて白き色のあまりに過ぬれはかならす青み出來るものなり。米のしらけきはまれるに精の字を作れるかことし。まことにましらけは青くみゆるなり。人の色も白過たれはあをくみゆれは、源氏物語末摘花に色は雪はつかしうしろうてさをにといひ、若菜下には、色はまをに白くうつくしけにともかけり。雨夜のくらきは物おそろしくおほゆるものなるに、人たまの色して、あをきまて白きかほなる人にたゝひとりあひては、たちまち物にとらるゝ心ちしてあくるまを待かぬる心から、ひさしくおほゆる心なり。あをき物こそおほかるに、人たまとしもをけるは、うちきくより、題にかなひぬへく聞ゆ。伊勢物語に、ゆくさきおほく夜もふけにけれは、おにあるところともしらて、神さへいといみしうなり雨もいたうふりけれはあはらなるくらに女をはおくにおしいれてをとこゆみやなくひをおひてとくちにをり。はや夜もあけなんとおもひつゝゐたりけるにおにはやひとくちにくひてけり。今雨夜のひさしとおもふといふに似たり
 
萬葉集代匠記卷之十六下
〔2021年10月7(木)午前11時55分、初撰本入力終了〕
 
(1)萬葉集代匠記卷之十七上
                僧 契 冲 撰
                木 村 正 辭 校
 
初、萬葉集卷第十七目録
 
初、天平二年云々 上京之時倍從人等【脱之陪兩字】
 
初、山邊宿禰赤人詠春※[(貝+貝)/鳥]歌一首 赤誤作明
 
初、同七月越中守大伴宿禰家持赴任時 脱家持
 
初、椽大伴宿禰池主 集中椽悉誤作〓
 
初、同十九年二月云々。歌一首并短歌 一誤作二
 
初、守大伴家持贈椽 當改云同二十年二月二十九日守大伴家持贈椽大伴池主悲歌二首并書
 
初、同二十年二月云々 此日當刪去
 
初、姑【誤作※[さんずい+古]】洗二日云々 當改云三月二日椽大伴池主報守大伴家持歌二首并書。以上目逐行誤當至下辯之
 
天平二年庚午冬十一月、太宰帥大伴卿被v任大納言1、【兼v帥如v舊】上v京之時、陪從人等、別取2海路1入v京、於v是悲2傷※[羈の馬が奇]旅1、各陳2所心1作歌十首
 
倍從人、【官本、陪作v※[人偏+兼]】無v人、】
 
3890 和我勢兒乎安我松原欲見度婆安麻乎等女登母多麻藻可流美由《ワカセコヲアカマツハラヨミワタセハアマヲトメトモタマモカルミユ》
 
我背子を我待とつゞけたり、第六に聖武天皇の御歌に妹爾戀吾乃松原見渡者《イモニコヒワガノマツハラミワタセバ》と遊(2)ばされたると處は替れど相似たり、此安我松原は今筑前に若松と聞ゆる處にて第十に黄葉をよめる吾松原も同じかるべし、
 
初、わかせこをあか松原ゆみわたせは わかせこかくるかと立出てわか待といふ心につゝけたり。第六に聖武天皇御製
  妹にこひ吾の松原みわたせはしほひのかたにたつ鳴わたる
これは伊勢へ行幸の時、三重郡吾松原をよませ給へるなり。こゝによめるは筑前に若松と聞ゆる所なるへし。第十に
  風ふけはもみち散つゝしはらくも吾松原はきよからなくに
此哥は伊勢筑前いつれとも分かたけれと、次上に大城の山はいろつきにけりとよみたれは、こゝによめるとおなしからんとそこにも注し侍りき
 
右一首三野連石守作
 
石守は第八冬雜歌に見えたり、
 
3891 荒津乃海之保悲思保美知時波安禮登伊頭禮乃時可吾孤悲射良牟《アラツノウミシホヒシホミチトキハアレトイツレノトキカワカコヒサラム》
 
荒津は第十二第十五にも見えたり、落句は筑紫に住なれしなごりを云なり、
 
初、あらつの海しほひしほみち 荒津は筑前なり。第十五にもしかみえたり。第十二にも三首よめり
 
3892 伊蘇其登爾海夫乃釣舩波底爾家里我舩波底牟伊蘇乃之良奈久《イソコトニアマノツリフネハテニケリワカフネハテムイソノシラナク》
 
家利、【幽齋本、利作v里、】
 
3893 昨日許曾敷奈底婆勢之可伊佐魚取比治奇乃奈太乎今日(3)見都流香母《キノフコソフナテハカシカイサナトリヒチキノナタヲケフミツルカモ》
 
袖中抄に此歌を出して顯昭云、ひぢきのなだは播磨にあり、俗説にはひゞきのなだとも云、考(ルニ)2孫姫式(ヲ)1云、遇時はますみの鏡はなるれば響のなだの浪もとゞろに、又忠見集云、延喜(ノ)御時躬|恒《ツネ》が御厨子《ミヅシ》所にさぶらひける例にて年來津の國に候らひけるを召上て天暦御時御厨子所に候らひて奏する歌、年を經て響のなだに沈む舟浪のよするを待にぞ有ける、然者ひぢきひゞき共有2本説1歟、或歌枕にはちびきのなだとかけり、ち〔右○〕とひ〔右○〕と同じひゞきなれば通ひて云歟、ひぢき〔三字右○〕さをちびき〔三字右○〕と上下して書たがへたるにや、【以上袖中抄、】源氏物語玉鬘(ニ)云、ひゞきのなだもなだらかに過す、又歌(ニ)云、うき事に胸のみさわぐひゞきにはひゞきのなだも名のみなりけり、河海抄云、李部王記云、天徳四年六月十一日、是(ノ)日備前備中淡路等飛驛至(ル)、備前使申云、賊船二艘【純友等也、】從2響(ノ)奈多1捨v舟(ヲ)曉(ニ)遁(ル)、疑(ハ)入(ル)v京(ニ)歟云々、今按忠見集云、伊豫にいきたるによしあるうかれ女の云ひたる、音にきゝ目にはまだ見ぬ播磨なる響のなだと聞は誠か、返し、年經れば朽こそまされ橋柱昔ながらの名だに替らで、彼家集を見るに攝津播磨守などの數ならぬ屬官に沈まれけると見ゆれば此贈答あり、袖中抄にひかれたる忠見の歌と詞書と(4)に付て源氏の抄に津國歟と疑ふ人あるもことわりなり、伊與の遊女が歌を見つれば疑をのこされざらまし、一首の意は古今の日こそ早苗取しかとよめるに似たり、勢をカと點ぜるは書生の誤なり、
 
初、きのふこそふなてはせしか 源氏物語玉鬘に、はや舟といひて、さまことになんかまへたりけれは、思ふかたの風さへすゝみて、あやうきまてはしりのほりぬ。ひゝきのなたもなたらかに過ぬ。かいそくのふねにやあらむちひさきふねのとふやうにしてくるなといふもあり。河海抄に今の哥を引て後
  あ《孫姫式》ふ時はますみの鏡はなるれはひゝきのなたの浪もとゝろに
  年《忠見集》をへてひゝきのなたにしつむ舟の浪のよするを待にそ有ける此哥の詞には年ころ攝津國《ツノクニ》にさふらひけるをといへり。然は當國名所歟。袖中抄顯昭云。ひちきのなたは播磨にあり。俗説にはひゝきのなたともいふと云々。李部王記云。天徳四年六月十一日是(ノ)日備|前《後歟》備中淡路等飛驛至。備前(ノ)使申(テ)云。賊船二艘【純友等也】從2響奈多1捨b舟曉(ニ)遁(ル)。疑(ハ)入v京歟云々。こゝに此次下に淡路嶋武庫なとよみたれは、淡路よりは西のほとにあたるか。李部王記に、備前備中淡路等の使、賊船のひゝきのなたより曉に遁るといへるによらは、備後より猶西にや
 
3894 淡路島刀和多流舩乃可治麻爾毛吾波和須禮受伊弊乎之曾於毛布《アハチシマトワタルフネノカチマニモワレハワスレスイヘヲシソオモフ》
 
落句のし〔右○〕は助語なり、次の歌准v之、此歌は赤人集にもなきを新續古今集に赤人の歌とて入たるは未(タ)v知v所v據(シ)
 
初、かちまにも 梶取間なり
 
3895 多麻波夜須武庫能和多里爾天傳日能久禮由氣婆家乎之曾於毛布《タマハヤスムコノワタリニアマツタフヒノクレユケハイヘヲシソオモフ》
 
發句は藍《ラム》田に玉を種《ウヱ》しためしもあれば、眞珠は海より出る故に玉を生《オホ》する所とて廣く海をほめて云歟、又武庫の浦に限りて云故の有歟、日本紀等にも見えたる處なれど限て然云べき由もなし、唯玉敷みてたる渡なりとほむる意なるべし、第十五に(5)對馬の竹敷《タカシキ》の浦にても玉しける清きなぎさとよめり、
 
初、玉はやすむこのわたりに 玉はやすは、藍田に玉を種 しこともあれは、玉をおほすといふ心歟。又もてはやす見はやすなといふことく、玉をめつる心か。いつれにもあれ、むこの浦をほめて玉しきみてるわたりなりとよめるなるへし。眞珠もあれは、まことの玉にもあるへし。又しらすなこをも浪をもいふへし。第五に、玉しけるきよきなきさとよめるも、白沙のてれるをいへる歟。第十八にほりえには玉しかましをといへるは、天子の御ためにまことの玉をしかまし物をといふなり
 
3896 家爾底母多由多敷命浪乃宇倍爾思之乎禮波於久香之良受母《イヘニテモタユタフイノチナミノウヘニオモヒシヲレハオクカシラスモ》 一云|宇伎底之乎禮八《ウキテシヲレハ》
 
家は慥な住處なるだに命は定がたきに、まして浪の上なればいとゞ行末知らぬ意なり、大船のたゆたふと云より家にてもとは云へり、思之のし〔右○〕は助語なり、注のし〔右○〕も同じ、
 
初、家にてもたゆたふ命 家はたしかなる住ところなるたに、命は定かたきに、まして浪の上なれは、いとゝゆくすゑしらすとなり。大舟のたゆたふといふ心に、家にてもたゆたふ命とはいへり
 
3897 大海乃於久可母之良受由久和禮乎何時伎麻佐武等問之兒良波母《オホウミノオクカモシラスユクワレヲイツキマサムトトヒシコラハモ》
 
3898 大舩乃宇倍爾之居婆安麻久毛乃多度伎毛思良受歌乞和我世《オホフネノウヘニシヲレハアマクモノタトキモシラスウタコフワカセ》 諸本如v此可v尋v之
 
ウヘニシのし〔右○〕は肋語なり、船の上も大虚雲の如く定て附がたなきに似たればよそ(6)へて云へり、落句は今按ウタコソと點じけむを乞の字の音を思ひて歌知らぬ寫生などのこさかしくウタコツとはなせる歟、下の後人の注も此處を不審に思へるなり、今按ウタコソと讀べきか、歌をよみて歌ふも亦たゞ歌ふも歌と云は同じ意なれば何れにでも有べし、さま/”\に思ひめぐらせり、天雲の如くたつきも知らねば此心を遣らむがために乞ふ吾背歌へとなり、吾背は傍輩をも云べし、文選劉越石(ガ)答2盧※[言+甚]1詩云、何(ヲ)以(カ)叙(ン)v懷(ヲ)、引(テ)v領《クビヲ》長(ク)謠(ヘ)、
 
初、歌乞和我世 此下に諸本如此可尋之といへるは、此歌乞をうたこつとよめるを不審して、仙覺の注せられたるなるへし。これによみやう心得やうあるへし。先うたこつは誤れり。うたこふなるへし。此哥といふに、詠する哥と、舟哥とのかはりあり。さま/\におもへは、天雲のたよりなきかことし。このこゝろをやらんがために、こふわかせ哥をよめ。あるひはうたへなり。又うたへこそともよむへし。こそはねかふ詞なり。又うたこへともよむへし。舟子にこひてうたはしめよなり
 
3899 海未通女伊射里多久火能於煩保之久都努乃松原於母保由流可聞《アマヲトメイサリタクヒノオホヽシクツノノマツハラオモホユルカモ》
 
いさり火のほのかなるによせてオボヽシクと云へり、角の松原は第三に既に出たり、
 
初、いさりたく火のおほゝしく おほゝしくはおほつかなきなり。いさりひのほのかなるによせていへり。つのゝまつはらは、第三に
  わきもこにゐな野はみせつ名次山角松原いつかしめさむ
延喜式に名次神社武庫郡にあれは、角松原もおなし郡にあるなるへし
 
右九首作者不v審2姓名1、
 
十年七月七日之夜、獨仰2天漢1聊述v懷一首
 
初、十年七月七日 述懷の下に目録には歌の字あり。述懷は、文選顔延之元皇后哀策文云。乃命2史臣1累v徳速v懷
 
(7)3900 多奈波多之舩乘須良之麻蘇鏡吉欲伎月夜爾雲起和多流《タナハタシフナノリスラシマソカヽミキヨキツキヨニクモタチワタル》
 
右一首大伴宿禰家持
 
迫和2太宰之時梅花1新歌六首
 
第五卷の梅花三十二首歌の事なり、
 
初、追和太宰之時 これは第五に梅花歌三十二首并序あり。天平二年正月十三日帥大伴卿家にての會なり。それを十二年にいたりて、家持の追和せらるゝなり
 
3901 民布由都藝芳流波吉多禮登烏梅能芳奈君爾之安良禰婆遠流人毛奈之《ミフユツキハルハキタレトウメノハナキミニシアラネハヲルヒトモナシ》
 
發句は三冬盡《ミフユツキ》なり、孟冬仲冬季冬の限つきて春の來るなり、今按三冬盡ならば都吉などゝも書べきを都藝とかけるは繼にて三冬に繼て春の來ると云意歟、多分濁る處に此藝の字を用たれば驚かし置ばかりなり、下句の意は心ある君ならでは折人もなしとなり、君ニシのし〔右○〕は助語なり、
 
3902 烏梅乃花美夜萬等之美爾安里登母也如此乃未君波見禮(8)登安可爾氣牟《ウメノハナミヤマトシミニアリトモヤカクノミキミハミレトアカニセム》
 
安可爾氣牟、【袖中抄云、アカニケム、別校本、幽齋本、並氣作v勢、】
 
ミヤマトシミニを袖中抄に釋して云、顯昭云、みやまは奥山なり、日本紀には太山と書てみやまとよめり、トシミは時しみと云詞を略歟、ときしみは常にと云心也、と〔右○〕は常盤《トキハ》也常也とこ〔二字右○〕也、しみ〔二字右○〕はしげき〔三字右○〕也しみゝ〔三字右○〕なり、ときはとこはと元も同事也、然者ときはにしげく有ともよめる也、今按み山としみゝにと云也、しみゝ〔三字右○〕をしみ〔二字右○〕とのみよめるは第一に藤原宮御井歌云、春山路之美佐備立有《ハルノヤマヂシミサビタテリ》云々、日本紀に太山と書てミヤマとよめる事見及び侍らず、等之美を時しみと云詞の略歟と云ひて又其中の之美をしみゝ〔三字右○〕なりと云義意得がたし、唯等〔右○〕はとこ〔二字右○〕の略、之美〔二字右○〕はしみゝ〔三字右○〕なりとぞ申さるべき、アカニケムは不知をしらにと云如く、あかずけむなり、あかずけむはあかであらむと推量する意なり、此梅の花のたとひみ山の如く繁く有とも其時に君は唯かくのみや見れど飽ずてあらむとなり、氣をセ〔右○〕と點ぜるは書生の誤歟、勢に作りたる本の點を寫せるに依て字と違ひたる歟、セならばあかずせむにて猶意得やすし、
 
初、うめの花みやまとしみに み山には木のしけゝれは、み山のことく梅のしけく有ともや、その梅のしけきにあらぬことく、いつもかく君はみれともあかさらんといふ心なり。眞《ミ》山|繁《シミ》に雖有哉《アリトモヤ》なり。見れとあかにけむは、不知《シラス》といふをしらにといへることく、みれとあかすけむなり
 
(9)3903 春雨爾毛延之楊奈疑可烏梅乃花登母爾於久禮奴常乃物香聞《ハルサメニモエシヤナキカウメノハナトモニオクレヌツネノモノカモ》
 
烏梅乃花、【校本無v乃、】  物香聞、【別校本、物下有v能、】
 
柳カは柳哉なり、梅柳と一雙の物に云はれて共におくれずして一時に並び賞せらるゝをこめて云へり、
 
初、春雨にもえし柳か 柳かなゝり。ともにおくれぬ常の物かもとは、梅柳と一雙にいひ、をりふしもおなしけれは、よき友とちの心なとのやうに常ある物かとなり
 
3904 宇梅能花伊都波乎良自等伊登波禰登佐吉乃盛波乎思吉物奈利《ウメノハナイツハヲラシトイトハネトサキノサカリハヲシキモノナリ》
 
落句は愛する心に折らまほしきを惜むと云へり、折を惜み散を惜むなど云には替れり、
 
初、うめの花いつはをらしと をしきものなりは、折ことのをしきにあらす。愛の字をゝしむとよむその心なり。惜の字もおなし心あり
 
3905 遊内乃多努之吉庭梅柳爾乎理加謝思底婆意毛比奈美可毛《アソフウチノタノシキニハニウメヤナキヲリカサシテハオモヒナミカモ》
 
(10)加謝思底婆、【別校本、婆作v波、】
 
發句は遊ぶ間の意なり、折カザシテバは今の本婆の字をかきたれば折かざしたらばの意なり.此によれば落句も思ふ事なからむかもの意なり、波に作る本に依らば落句は思ふ事のなきなり、
 
初、おもひなみかも おもふことのなきなり
 
3906 御苑布能百木乃宇梅乃落花之安米爾登妣安我里雪等敷里家牟《ミソノフノモヽキノウメノチルハナノアメニトヒアカリユキトフリケム》
 
登妣、【別校本、妣作v比、】
 
天ニ飛アガリは仁徳紀に隼別皇子(ノ)舍人歌云、破夜歩佐波《ハヤブサハ》、阿梅珥能朋利《アメニノボリ》、等弭箇慨梨《トニカケリ》云々、
 
初、みそのふのもゝ木のうめの 梅のおほきをいはむとて、もゝ木の梅とはいへり。第六にも百木なす山はこたかしとよめり。あめにとひあかり雪とふりけむは、百木の梅のちるが、鳥のことく天に飛のほりてや、雪とはふりつらんといひなすなり。仁徳紀に、隼別皇子舍人か哥に
  隼は|あめ《比寶位》にのほりとひかけり|い《由ト通》つきかうへの|はさき《指大鷦鷯諱》とらさね《・天升飛翔弓槻之上羽取》
 
右天平十二年十一月九日大伴宿禰家詩作
 
讃2三香原新都1歌一首 并短謌
 
初、讃2三香原新都1歌 第六にも長短合て九首あり
 
3907 山背乃久爾能美夜古波春佐禮播花咲乎乎理秋左禮婆黄(11)葉爾保比於婆勢流泉河乃可美都瀬爾宇知橋和多之余登瀬爾波宇枳橋和多之安里我欲比都可倍麻都良武萬代麻底爾《ヤマシロノクニノミヤコハハルサレハハナサキヲヽリアキサレハモミチハニホヒオハセルイツミノカハノカミツセニウチハシワタシヨトセニハウキハシワタシアリカヨヒツカヘマツラムヨロツヨマデニ》
 
都加倍、【幽齋本、可作v加、】
 
宇枳橋和多之は和名云、魏略(ノ)五行志(ニ)云、洛水(ノ)浮橋、【和名、宇岐波之、】詩(ノ)大明(ニ)云、造(テ)v舟(ヲ)爲v梁(ト)、朱子注(ニ)云、作(テ)2船(ヲ)於水(ニ)1比(ヘテ)之而加(ヘテ)2版(ヲ)於其上(ニ)1以通2行者(ヲ)1、即今(ノ)之浮橋也、
 
初、うきはしわたし 和名集云。魏略五行志云。洛水浮橋【和名宇岐波之】
 
反哥
 
3908 楯竝而伊豆美乃河波乃水緒多要受都可倍麻都良牟大宮所《タテナメテイツミノカハノミヲタエスツカヘマツラムオホミヤトコロ》
 
發句はタヽナメテと讀べし泉河の枕言なり、別に注す、
 
初、楯並而いつみの川の 崇神紀云。更《マタ》避2那羅山1而進(テ)到2輸韓河(ニ)1。埴安彦挾v河|屯《イハミテ》之、各相挑焉。故時人改號2其河(ヲ)1曰2挑河(ト)1。今謂(ハ)2泉河(ト)1訛(レルナリ)也。たてをつきならへていとむといふ心につゝけたり。神武紀に御製の哥を載ていはく。※[口+多]※[口+多]奈梅※[氏/一]《・盾並而》、伊那瑳能|椰摩《・山》能、虚能莽由《・木之間從》毛、易喩耆摩毛羅※[田+比]《・行守》、多多介陪磨《・戰者》云々。仲哀紀云。六十年天皇【成務】崩。明(ル)年秋九月壬辰朔丁酉。葬2于倭(ノ)国|狹城盾列《サキノタヽナミノ》陵(ニ)1【盾列此(ヲハ)云2多多奈美2。】これらによらは、今の哥もたゝなめてとよむへきか。又神武天皇の御哥に、たゝなめていなさの山とつゝけさせたまへるは、楯をならへて弓を射る心にや。又下のいゆきまもらひにつゝける歟。楯はおほくは矢をふせかむためなれは、いなさのいもしを射になしてつゝけたまふ心ならは、此哥もそれにおなしかるへし
 
右天平十三年二月右馬寮頭境部宿禰老麿作也
 
(12)老麿は未v詳、古事記中云、神八井耳命者坂合部連等(ガ)之祖也、
 
詠2霍公鳥1歌二首
 
3909 多知婆奈波常花爾毛歟保登等藝須周無等來鳴者伎可奴日奈家牟《タチハナハトコハナニモカホトヽキススムトキナカハキカヌヒナケム》
 
常花爾毛歟は常磐《トキハ》なる花にもがななり、スムトキナカバとは其橘を宿にして住とて來鳴者なり、
 
初、橘はとこ花にもか 橘の花のときはにもかなとなり。すむときなかはとは、橘にすむとてきてなかはといふ心なり
 
3910 珠爾奴久安布知乎宅爾宇惠多良婆夜麻霍公鳥可禮受許武可聞《タマニヌクアフチヲイヘニウヱタラハヤマホトヽキスカレスコムカモ》
 
發句は楝の花を藥玉に貫なり、
 
右四月二日大伴宿禰書持從2奈良宅1贈2兄家持1和歌二首
 
三を誤て二に作れり改むべし、
 
初、和歌三首 三誤作v二
 
(13)橙橘初咲、霍公鳥飜嚶、對2此時侯1、※[言+巨]不v暢v志、因作2三首短歌1以散2鬱結之緒1耳、
 
橙は第十一あへたちばなとよめる歌に付て注す、玉篇云、嚶(ハ)於耕切、鳥(ノ)鳴(ナリ)也、侯は候に作るべし、
 
初、嚶 玉篇云。於耕切。鳥鳴也。時候、候作v侯非
 
3911 安之比奇能山邊爾乎禮婆保登等藝須木際多知久吉奈可奴日波奈之《アシヒキノヤマベニヲレハホトヽキスコノマタチクキナカヌヒハナシ》
 
初、木のまたちくき このま立くゝりなり。日本紀に漏の字をくきとよめり。心は字のことし
 
3912 保登等藝須奈爾乃情曾多知花乃多麻奴久月之來鳴登餘牟流《ホトヽキスナニノコヽロソタチハナノタマヌクツキシキナキトヨムル》
 
玉ヌク月は五月なり、之は助語なり、
 
初、ほとゝきすなにのこゝろそ 上にもほとゝきすのこゑを玉にぬくとよみつれは、玉にぬきましへよと今しもなくかといふ心なり
 
3913 保登等藝須安不知能枝爾由吉底居者花波知良牟奈珠登(14)見流麻泥《ホトヽキスアフチノノエタニユキテヰハハナハチラムナタマトミルマテ》
 
右四月三日内舍人大伴宿禰家持從2久邇京1報2送弟書持1、
 
思2霍公鳥1歌一首 田口朝臣馬長作
 
3914 保登等藝須今之來鳴者餘呂豆代爾可多理都具倍久所念可母《ホトヽキスイマシキナカハヨロツヨニカタリツクヘクオモホユルカモ》
 
今之の之は助語なり、
 
右傳云、一時交遊集宴、此日此處、霍公鳥不v喧、仍作2件歌1以陳2思慕之意1、但其宴書并年月、未v得2詳審1也、
 
山部宿禰赤人詠2春※[(貝+貝)/鳥]1歌一首
 
3915 安之比奇能山谷古延底野豆加佐爾今者鳴良武宇具比須(15)乃許惠《アシヒキノヤマタニコエテノツカサニイマハナクラムウクヒスノコヱ》
 
野ツカサは第二十にもよめり、山のつかさに准らへて知べし、訳も御抄※[(貝+貝)/鳥]を注せさせ給へる所に、万、やつかさに鳴と云へり、【やつかさは山谷こえてといふ也、】是は叡覽の御本に今の野豆可佐をやつかさ〔四字右○〕と點じけるなるべし、
 
初、野つかさに さきに野上とよめり。野つかさも野のたかき所をいふなるへし。第廿にもよめり。第四には、きしのつかさとよみ、第十には、山のつかさとよめり。おの/\そのたかき所をいふにこそ
 
右年月所處未v得2詳審1、但隨2聞之時1記2載於茲1、
 
初、右年月所處未得詳審云々 これ家持の聞書の詞なり
 
十六年四月五日獨居2平城故宅1作歌六首
 
此端作は後人加へたるにや歌の後注も全く替らぬを具t略なり、前後に書べきにあらざる歟、おぼつかなし、
 
3916 橘乃爾保敝流香可聞保登等藝須奈久欲乃雨爾宇都路比奴良牟《タチハナノニホヘルカヽモホトヽキスナクヨノアメニウツロヒヌラム》
 
橘の香こそ雨にはうつろふ物なれ、霍公鳥の夜聲も雨の降からにうつりいにて聞えぬは汝の聲も橘の香歟となり、
 
初、橘のにほへる香かも 橘の香こそ雨にはうつれ。ほとゝきすの聲の夜きこえつるも、雨ふるからにうつりいにて、聞えぬは、汝かこゑも橘の香かとなり
 
(16)3917 保登等藝須夜音奈都可思安美指者花者須具登毛可禮受加奈可牟《ホトヽキスヨコヱナツカシアミサヽハハナハスクトモカレスカナカム》
 
アミサヽバとは網を張て霍公鳥を捕らばなり、花ハ過トモとは橘花は散過ともなり、菅家萬葉集云、春霞網爾張※[穴/牛]《ハルカスミハナニハリコメ》、花散婆可移奴鶯將留《ハナチラバウツロヒヌベキウグヒストメム》、
 
初、ほとゝきすよこゑなつかし あみさゝはとは、あみはらはなり。菅家萬葉集に
  春かすみあみにはりこめ花ちらはうつろひぬへき鶯とめむ
花は過ともいへるは、橘の花なり
 
3918 橘乃爾保敞流苑爾保等登藝須鳴等比登都具安美佐散麻之乎《ホトヽキスニホヘルソノニホトヽキスナクトヒトツクアミサヽマシヲ》
 
3919 青丹余之奈良能美夜古波布里奴禮登毛等保登等藝須不鳴安良久爾《アヲニヨシナラノミヤコハフリヌレトモトホトヽキスナカスアラクニ》
 
不鳴安良久爾、【別校本點、ナカスアラナクニ、又云、ナカナラナクニ、】
 
モトホトヽギスは第十に本人霍公鳥乎八希將見《モトツヒトホトヽギスヲヤマレニミム》とよめるに注せしが如し、落句はナカズアラナクニと點ぜるに依べし、良の下に奈那等の字落たるべし、古今集に忠(17)岑がむかしべや今も戀しき郭公故郷にしも鳴て來つらむとよめる此に似たり、
 
初、あをによしならの都は これは久邇の都のさかえたる比なれは、ふりぬれとゝいへり。まことにふるさとゝなれるは、桓武天皇よりこなたなり。もとほとゝきすは、第十に、もとつ人ほとゝきすとよめるにおなし心なり。古今集に、ならのいそのかみ寺にてほとゝきすのなくを聞て、そせいほうし
  いそのかみふるき都のほとゝきすこゑはかりこそ昔なりけれ
又はやく住ける所にて郭公の鳴けるを聞てよめる、忠岑
  むかしへや今もこひしきほとゝきすふるさとにしも鳴てきつらん
安良久爾、良の字の下に奈の字なとのをちたるへし
 
3920 鶉鳴布流之登比等波於毛敝禮騰花橘乃爾保敷許乃屋度《ウツラナキフルシトヒトハオモヘレトハナタチハナノニホフコノヤト》
 
布流土登とは故郷と思ふなり、上に鶉鳴|故郷《フリニシサト》などよめるが如し、下句は花橘は昔忘れずにほふ意なり、初の歌は※[手偏+總の旁]て奈良の都の古ぬるを云に此歌わきてみづからの宿の古ぬるを云へり、
 
初、鶉なくふるしと人は 第四にも、うつらなくふるき里よりおもへれとゝよめり。鶉はあれて人めなき所になけは、鶉のなくふるさとゝ人はおもへとゝいふ心なり。伊勢物語に
  年をへて住こし里を出ていなはいとゝふか草野とやなりなん
返し
  野とならは鶉となりて年はへむかりにたにやは君はこさらん
六帖に
  わかやとは鶉なくまてはらはせし小鷹手にすへこん人のため
 
3921 加吉都播多衣爾須里都氣麻須良雄乃服曾比獵須流月者伎爾家里《カキツハタキヌニスリツケマスラヲノキソヒカリスルツキハキニケリ》
 
第七にも淺澤小野之垣津幡衣爾摺著《アサヽハヲノヽカキツバタキヌニスリツケ》とよめり、キソヒ狩は藥獵なり、第一に注せしが如し、きそふ〔三字右○〕ときほふ〔三字右○〕と同詞なれば我先にと競てかる故の名なり、それをかきつばたを衣に摺て著粧《キヨソ》ふと云意につゞくる故に服曾比獵と服の字をかけり、
 
初、かきつはたきぬにすりつけ 第七に
  すみのえの淺澤をのゝかきつはたきぬにすりつけきん日しらすも
きそひかりは、きほひかりなり。第十六乞食者か哥に、藥獵とよめるにおなし。日本紀の推古紀天智紀に見えたるは、皆五月五日なれと、彼乞食者か哥には、う月とさつきのほとに、藥かりつかふる時にとよめり。かきつはたを衣にすりつけて、ますらをか著るといふ心に、いひつゝけたり
 
右六首歌者天平十六年四月五日、獨居2於平城故郷舊宅1大伴宿禰家持作
 
(18)天平十八年正月、白雪多零、積v地數寸也、於v時左大臣橘卿率2大納言藤原豐成朝臣及諸王臣等1、參2入太上天皇御在所1、【中宮兩院】供2奉掃雪1、於v是降v 詔、大臣1、參議并諸王者令v侍2于大殿上1、諸卿大夫者令v侍2于南細殿1、而則賜v海肆宴、 勅曰、汝諸王卿等聊賦2此雪1各奏2其謌1、
 
正月の下に一日の二字落たる歟、葛井連諸會が歌に依るに然るべしとおぼえたり.但其の他の歌に元日の意なければ一日にはあらぬにや、さりとも二日三日などの間なるべきを某日と云事の落たる歟、大納言藤原豐成朝臣、此に不審なる事あり、聖武紀を考るに此豊成卿は天平十三年五月に從三位に叙し.十五年五月中納言、二十年三月に從二位大納言とは成給ければ十八年には從三位中納言にておはしけるを大納言とあるは若中の字を書生の誤て大に作ける歟、凡そ集中の例大納言以上には名を云はず、考て知るべし、今豊成朝臣と云へり、中納言なる事知べし、此人は南(19)家にて武智麻呂の嫡男なり、勝寶元年に右大臣と成り、寶字元年に正二位に叙せらる、同年六月弟仲麻呂の讒に依で太宰員外帥に左遷し、八年九月召還されて右大臣に復し.同月從一位に昇り神護元年十一月に薨じ給へり、世に當麻の如空尼の父|横佩《ヨコハキノ》右大臣と云人是なり、分注中宮兩院を官本に兩を西に作れり、南細殿は和名云、唐韻云、廊音郎、【和名保曾止乃、】殿下外屋也、賜海は酒を誤て海に作れり、
 
初、南細殿 和名集云。唐韻云。廊音郎【和名保曾止乃】殿下外屋也。賜v酒、酒誤作v海
 
左大臣橘宿禰應 v詔歌一首
 
3922 布流由吉乃之路髪麻泥爾大皇爾都可倍麻都禮婆貴久母安流香《フルユキノシロカミマテニオホキミニツカヘマツレハタフトクモアルカ》
 
落句の香はかなゝり、次下の歌の落句效v之、
 
紀朝臣清人應 v詔歌一首
 
元明紀云、和銅七年二月己丑朔戊戌詔(シテ)2從六位上紀朝臣清人三宅臣藤麻呂(ニ)1令v撰2國史(ヲ)1、元正紀云、養老五年正月諸道博士(ニ)賜v物(ヲ)、從五位下紀朝臣清人等文章科各※[糸+施の旁]十五疋、絲十五※[糸+句]、布三十端、鍬二十口、同月詔(シテ)退(ク)v朝(ヲ)之令v侍2東宮(ニ)1焉、聖武紀云、天平十六年十(20)一月從四位下、孝謙紀慍、勝寶五年七月庚戌散位從四位下紀朝臣清人卒、
 
初、紀朝臣清人 元明紀云。和銅七年二月己丑朔戊戌詔2從六位上紀朝臣清人、三宅臣藤麻呂1、令v撰2国史1。元正紀云。養老元年七月賜2從五位下紀朝臣清人穀一百斛1。優2學士1也。養老五年正月戊申朔庚午詔2從五位上佐爲王〇從五位下紀朝臣清人〇等1退朝之令v侍2東宮1焉。五年正月 諸道博士賜v物。從五位下紀朝臣清人等文章科各※[糸+施の旁]十五疋、絲十五※[糸+句]、布三十端、鰍《スキ》二十口。靈龜元年正月甲申朔癸巳從五位下。秋七月賜2從五位下【紀朝臣歟】淨人【等歟】數人穀【一歟】百斛1。優2學士1也。同七年正月從五位上。聖武紀云。天平四年九月右京亮。十三年七月治部大輔兼文章博士。十五年五月正五位下。十六年十一月從四位下。十八年五月武藏守。孝謙紀云。勝寶五年七月庚戌散位從五位下紀朝臣清人卒
 
3923 天下須泥爾於保比底布流雪乃比加里乎見禮婆多敷刀久母安流香《アメノシタステニオホヒテフルユキノヒカリヲミレハタフトクモアルカ》
 
雪の光を天子の風光に喩ふ、
 
初、天の下すてにおほひて 雪の光を天子の恩光にたとへたり
 
紀朝臣男梶應 v詔歌一首
 
聖武紀云、天平十五年五月正六位上紀朝臣小楫授2外從五位下1、十七年正月從五位下、
 
初、紀朝臣男梶 聖武紀云。天平十五年五月正六位上紀朝臣小楫授2外從五位下1。六月彈正弼。十七年正月從五位下。孝謙紀云。勝寶二年三月山背守。六年十一月東海道巡察使。廢帝紀寶字四年正月和泉守
 
3924 山乃可比曾許登母見延受乎登都日毛昨日毛今日毛由吉能布禮禮婆《ヤマノカヒソコトモミエスヲトツヒモキノフモケフモユキノフレヽハ》
 
和名云、考聲切韻云、峽《カウハ》山間(ノ)陝《セバキ》處|也《ナリ》、咸夾(ノ)反、俗【山乃加比、】
 
初、山のかひそことも見えす かひは峽なり。山あひをいふ。字書に山(ノ)夾(ムヲ)v水ゐ曰v峽(ト)とあれと、此國にてはそれまてはなし。古今集に、山のかひよりみゆる白雲、山のかひあるけふにやはあらぬなとよめる、これなり。此下にも、山かひにさける櫻、とよめり
 
葛井連諸會應 v詔歌一首
 
(21)聖武紀云、天平十七年四月戊子朔壬子正六位上葛井連諸會(ニ)授2外從五位下(ヲ)1、孝謙紀云、寶字元年從五位下、
 
初、葛《フチ》井連諸會 聖武紀云。天平七年正六位下葛井連諸會。十七年四月戊子朔壬子、正六位上葛井連諸會授2外從五位下1。十九年四月相模守。孝謙紀云。寶字元年從五位下
 
3925 新年乃婆自米爾豐乃登之思流須登奈良思雪能敷禮流波《アタラシキトシノハシメニトヨノトシシルストナラシユキノフレルハ》
 
トヨノトシは禮記云、祭(ハ)豐年(ニモ)不v奢《マサ》、凶年(ニモ)不v儉《オトサ》、佐傳豐年、註、五穀皆熟(スルヲ)爲2有年(ト)1、大熟(ハ)大有年(ナル)也、宋孝武帝大明五年正月朔日雪降、義泰以v衣(ヲ)受(テ)v雪(ヲ)爲2佳瑞(ト)1、謝惠連(カ)雪(ノ)賦云、盈(ルトキハ)v尺則呈(ハシ)2瑞於豐年(ニ)1袤《アガルトキハ》v丈(ニ)則表(ハス)2 於陰徳に1、シルトナラシとは豐年の驗《シルシ》となる意なり、
 
初、あたらしき年のはしめに 孝武帝大明五年正月朔日雪降。義泰以v衣受v雪爲2佳瑞(ト)1。文選謝惠連雪賦云。盈v尺則呈(ハシ)2瑞於豐年(ニ)1〓《アカル》v丈則表(ハス)2〓《ワサワヒヲ》於陰徳(ニ)1。とよのとし、左傳、豐年註、五穀皆熱爲2有年(ト)1。大熟(ハ)大有年(ナリ)也。禮記云。祭(ハ)豐年(ニモ)不v奢《マサ》、凶年(ニモ)不v倹《ヲトサ》。しるすとならしは、記の字なり
 
大伴宿爾家持應 v詔歌一首
 
3926 大宮能宇知爾毛刀爾毛比賀流麻泥零須白雪見禮杼安可奴香聞《オホミヤノウチニモトニモヒカルマテフルスシラユキミレトアカヌカモ》
 
零須はフラスと讀べし、ふるなり、
 
初、ふらすしらゆき ふるしらゆきなり。ふるすはかんなあやまれり
 
藤原豐成朝臣 巨勢奈底麿朝臣
 
巨勢奈底麿朝臣 聖武紀云、天平十一年四月爲2參議1、十三年閏三月從四位上、七月辛亥爲2左大弁兼神(22)祇伯(ト)1、辛酉授2正四位上(ヲ)1、并賜(フニ)以(テス)2金牙飾斑竹(ノ)御杖(ヲ)1、十四年二月丙子朔授2徒三位(ヲ)1、十五年五月中納言考謙紀云、勝寶元年四月大納言從二位 五年三月辛未、大納約言從二位蒹神祇伯造宮卿巨勢朝臣奈※[氏/一]麻呂薨。小治田朝小徳大海之孫、淡海朝中納言大雲比登之子也
 
初、藤原豐成 神龜元年二月正六位下轉2從五位下1。天平四年正月從五位上。九年二月正五位上。九月己亥從四位下。十二月辛亥以2兵部卿從四位下藤原朝臣豐成1爲2參議1。十一年正月正四位下。十三年五月從三位。十五年五月中納言。十八年四月兼2東海道鎭撫使1。二十年三月從二位大納言。勝寶元年四月甲午朔丁未、拜2右大臣1。寶字元年五月丁卯正二位。六月戊午左2降太宰員外帥1。八年九月以2太宰員外帥正二位1。〇愎(シテ)爲2右大臣1。同月從一位。神護元年十一月戊午朔甲申薨。これによるに天平十八年はいまた從三位中約言なりけれは、こゝに大納言とあるは中納言を誤れる歟
巨勢奈底麿 天平元年三月正六位上巨勢朝臣奈※[氏/一]麻呂授2外從五位下1。八年正月從五位上【從五位下轉。】九年九月正五位下巨勢朝臣奈※[氏/一]麻呂授2從四位下1。十年正月爲2民部卿1。十一年四月爲2參議1。十三年閏三月從四位上。七月辛亥爲2左大辨兼神祇伯1。辛酉授2正四位上1。并賜以2金牙(ヲ以)飾(レル)斑竹(ノ)御杖1。十四年二月丙子朔授2從三位1。十五年五月中納言。十八年四月兼2北陸山陰兩道鎭撫使1。二十年二月正三位、勝寶元年四月朔大納言。同月從二位
 
大伴牛養宿禰  藤原仲麻呂朝臣
 
大伴牛養宿禰 元明紀云々、元正紀云々、聖武紀云、天平十七年正月己未朔乙丑從三位、孝謙紀云、勝寶元年四月朔日正二位中納言、閏五月甲午朔壬戌薨、大徳|咋子《クヒコ》連孫、贈大錦中|小吹負《ヲフケヒ》之男、
藤麻原仲麻呂朝臣
聖武紀云、天平十五年五月參議從四位上、十七年正月正四四位上、此人孝謙天皇の御時殊遇を蒙り藤原(ノ)惠美(ノ)押勝と云姓名を賜はり官位の昇進肩を並ぶる人なし、廢帝紀云、寶字四年正月從一位即日高野天皇口勅爲2太師(ト)1、太師(ハ)太政大臣(ナリ)、六年正月正一位、入年九月乙巳逆謀頗泄(ル)、壬子大石村主石楯斬(テ)2押勝(ヲ)1傳(フ)2首(ヲ)京師(ニ)1、
 
初、大伴宿禰牛養 和銅三年五月戊午以2從五位下大伴宿禰牛養1爲2遠江守1。七年三月授2從五位上1。十年正月庚午朔從四位下。同年閏七月攝津大夫。十一年四月參議。十五年五月從四位上。十七年正月己未朔乙丑從三位。十八年四月兼山陽道鎭撫使。勝寶元年四月朔日正三位中納言。閏五月甲午朔壬戌薨。大徳昨子(ノ)連(ノ)孫、贈大錦中小吹負之男《・委見天武紀》
藤原仲麻呂【武智麿之男。】天平六年正月正五位下藤原朝臣伸麻呂授2從五位下1。十一年正月從五位上。十二年正月正五位下。同十一月正五位上。十三年閏三月從四位下。七月爲2民部卿1。十五年五月從四位上參議。六月左京大夫。十七年正月正四位上。九月兼近江守。十八年三月式部卿。同四月兼東山道鎭撫使。十八年四月癸卯從三位。二十年三月正三位。勝寶元年七月大納言。八月兼紫微令。二年正月從二位。寶字二年八月甲子任2大保1勅曰。〇自v今以後宜3姓(ノ)中(ニ)加2惠美二字1。禁v暴勝v強止v戈靜v亂故名曰2押勝1。朕舅之中汝卿良(ニ)尚。故字稱2尚舅1。更絵2功封三千戸、功田一百町1、永爲2傳世之賜1以表2不常之勲1。別聽2鑄錢擧稻1−及用2惠美家印1。是日大保〇等奉v勅改2易官號1。〇右大臣曰2大保1。四年正月從一位。即日高野天皇口勅爲2太師1。太師(ハ)大政大臣(ナリ)。六年正月正一位。八年九月乙巳逆謀頗(フル)泄(ル)。壬子【大歟】石|村主《スクリ》石楯斬2押勝1傳(フ)2首(ヲ)京師(ニ)1
 
三原王
 
第八に注せり、
 
(23)智努王
 
元正紀云、養老元年正月乙巳授2無位智努王從四位下(ヲ)1、聖武紀云、天平十一年三月癸丑詔云、從四位上治部卿茅野王云々、此に准てチノと續べし、十二年十一月正四位下、十八年四月正四位上、孝謙紀云、勝寶四年八月從三位智努王等賜2文室眞人(ノ)姓(ヲ)1、廢帝紀云、寶字四年正月中納言、文徳實録第十云、天安二年正月丁巳散位從五位上文室朝臣海田麻呂、傳云大納言從二位知奴王之孫云々、
 
初、智努《チノヽ》王 養老元年正月乙巳授2無位智努王從四位下1。天平元年三月從四位上。十二年十一月正四位下。十三年八月木工頭。十八年四月正四位上。勝寶四年八月從三位智努王等賜2文室眞人姓1。寶字元年六月治部卿。二年六月和雲守。四年正月中納言。天平十一年三月癸丑詔曰。從四位上治部《・不審》卿|茅野《チノヽ》王
 
舩王
 
第六に注せり、
 
邑知王
 
聖武紀云、天平十一年正月甲午朔丙午無位大市王(ニ)授2從四位下(ヲ)1、孝謙紀云、勝寶三年正月從四位上、寶字元年五月文室眞人大市、光仁紀云、寶龜二年三月大納言、五年十一月正二位、十一年十一月戊子前大納言正二位文室眞人|邑珍《オホチ》薨《ミウセヌ》邑珍(ハ)三品長親王(ノ)之第七子(ナリ)也云々、大市を邑智ともかけるは和名集に備前の邑久《オホク》を大伯《オホク》ともか(24)けるが如し、
 
初、邑知《・大市》《オホチノ》王 慶雲元年春正月丁亥朔癸巳無位大市王授2從四位下1。三年十一月戊申從|五《四歟》位下大市王爲2伊勢守1【以上別人也。】天平十一年正月甲午朔丙午無位大市王授2從四位下1。十八年四月内匠頭。十九年正月丁丑朔從三位《不審》。勝寶三年正月從四位上。六年九月文室眞人大市爲2大藏卿1。寶字元年五月文室眞人大市授2正四位下1。六月弾正尹。三年十一月節部卿大藏。五年六月進2爵一級1。同十月出雲守。八年九月民部卿。神護元年正月從三位。二年七月參議。寶亀元年十月己丑朔正三位。二年三月大納言。七月兼彈正尹。十一月從二位。十二月兼治部卿。寶龜五年兼中務卿。十一月正二位。寶龜十一年十一月戊子前大納言正二位文室眞人|邑珍《オホチ》薨。邑珍(ハ)三品長親王之第七子也。天平中授2從四位下1拜2刑部卿1。勝寶四歳賜2姓文室眞人1。勝寶以後宗室枝族陷v辜者衆。邑珍削v髪爲2沙門1以圖2自全1。寶龜初至2從二位大納言1。年老致仕有v詔不v免。五年重乞2骸骨1許v之。尋授2正二位1。薨時年七十七。寶龜三年二月癸丑乞2致仕1表。臣大市言。臣以2愚質1幸逢2聖朝1。※[手偏+邑]v紫懷v金、叨掌2喉舌1、貪v榮負v貴、戰過2薄1深1。臣之如v斯不v知v所v措。伏惟陛下徳洽仁厚、邦奮命新。維城之遇2千年1、終譽之儀2一命1。臣蒲柳向v衰、桑楡方晏。病亦稍篤、垂v盡無v期。伏願辭2官俊乂1、賜2老丘園1、止v足以送2餘年1、返v初而待2終日1。【然歟】則上有2成物之主1、下無2尺禄之臣1矣。矜2老疾苦1有國嘉猷。天鑒曲垂暫慰2朽邁1。不v任《タヘ》2前路之至促1、謹詣2朝堂1奉v表陳乞以開。詔報省2所v上表1盛念蒹懷。宜隨2力所1v堪如v常仕奉u。五年七月戊申大納言從|三《・二歟》位文室眞人大市重乞2致仕1。詔卿年及2懸車1告v老言v退。古人(ノ)所謂知(レハ)v足不v辱、知(レハ)v止不v殆此(ノ)之謂也。思2欲留連1恐悲2優老之道1。體力勇健隨2時節1而朝參。因賜2御杖1
 
山田王
 
系譜未v詳、聖武紀云、木工頭從五位下小田王、又云從五位上、若山と小とを彼紀歟此集歟に書生の寫誤まれる歟、
 
林王
 
聖式紀云、天平十五年五月無位林王(ニ)授2從五位下1、廢帝紀云、寶字五年正月從五位上、光仁紀(ニ)云、寶龜一年九月甲申朔内申從四位上三嶋王(ノ)之男林(ノ)王(ニ)贈2姓(ヲ)山邊眞人(ト)1、
 
初、林王 天平十五年五月無位林王授2從五位下1。六月圖書頭。寶字三年六月庚戌|無《不審》位林王授2從四位下1。五年正月從五位下林王授2從五位上1。六年正月木工頭。寶龜二年九年甲申朔丙申從四位上三嶋王之男林王贈2姓山邊眞人1
 
穗積朝臣老
 
上に既に見えたり、
 
小田朝臣諸人
 
小治田なるを治の字を落せり、聖武紀云、天平九年十二月壬戌外從五位下小治田朝臣諸人(ヲ)爲2散位(ノ)頭1、十年八月乙亥爲2備後守(ト)1、十八年五月從五位下、孝謙紀云、勝寶六(25)年正月從五位上、
 
初、小治田朝臣諸人【脱洽字】天平九年十二月壬戌外從五位下小治田朝臣諸人爲2散位頭1。十年八月乙亥爲2備後守1。十八年五月從五位下。勝寶六年正月從五位上
 
小野朝臣網手
 
聖武紀云、天平十二年十一月正六位上小野朝臣綱手(ニ)授2外從五位下(ヲ)1、十八年四月從五位下、
 
初、小野朝臣綱手 天平十二年十一月正六位上小野朝臣綱手授2外從五位下1。十五年六月内藏頭。十八年四月上野守。同月從五位下
 
高橋朝臣國足
 
初、高橋朝臣國足 天平十五年五月正六位上轉2外從五位下1。十八年四月從五位下。閏九月越後守
 
聖武紀云、天平十五年五月授2外從五位下1、十八年四月從五位下、
 
太朝臣徳太理
 
聖武紀云、天平十七年正月正六位上太朝臣徳足(ニ)授2外從五位下(ヲ)1、十八年四月從五位下、
 
初、大朝臣|徳《トコ》太《・足》理 天平十七年正六位上太朝臣徳足授2外從五位下1。十八年四月從五位下
 
高丘連河内
 
上に既注せり、
 
秦忌寸朝元
 
(26)元正紀云、養老三年夏四月丁夘秦臣朝元賜2忌寸(ノ)姓(ヲ)1、五年正月戊申朔甲戌詔云、【如2二津守連通(ノ)下引1從六位下秦朝元醫術科、賜v物與v通同、】聖武紀云、天平二年三月乙酉朔辛亥太政官奏※[人偏+稱の旁]云々、又諸蕃異域風俗不v同、若無2譯《ヲサ》語1難(シ)2以通(シ)1v事(ヲ)、仍仰(セテ)2粟田朝臣馬養、播磨直乙安、陽胡《ヤコ》史眞身、秦忌寸朝元、文元貞等五人(ニ)1各取2弟子二人(ヲ)1令v習(ハ)2漢語(ヲ)1者《テヘリ》詔(シテ)並(ニ)許(ス)v之(ヲ)、七年四月戊申外從五位下秦忌寸朝元授2外從五位上(ヲ)1、九年十二月壬戌爲2圖書頭1、十八年三月爲2主計(ノ)頭(ト)1、懷風藻云、辨正法師者、俗姓(ハ)秦氏、性滑稽(ニシテ)善(シ)2談論(ニ)1、少年(ニシテ)出家(シテ)頗洪2玄學(ニ)1、大寶年中遣2學(ニ)唐國(ニ)1時(ニ)遇2李隆基龍潜1之日(ニ)以v善2圍棊(ニ)1屡見2賞遇(セ)1、有2子朝慶朝元1、法師及(ビ)慶在(テ)v唐(ニ)死(ス)元歸2本朝(ニ)1仕(テ)至2大夫(ニ)1、天平年中(ニ)拜2入唐判官1到2大唐1見(ユ)2天子1、天子以2其父故1(ニ)優詔厚(ク)賞賜(ス)、還(テ)至(テ)2本朝(ニ)1尋(テ)卒(ス)、
楢原造東人
聖武紀云、天平十七年正月己未朔乙丑正六位上楢原造東人授2外從五位下(ヲ)1、孝謙紀云、勝寶二年三月戊戌駿河國守從五位下楢原造東人等於2部内廬原(ノ)郡多胡(ノ)浦濱(ニ)1獲(テ)2黄金(ヲ)1獻v之【練金一分、沙金一分、】於是東人等(ニ)賜2勤臣(ノ)姓(ヲ)1、寶字元年五月正五位下、【文徳實録第四云、仁壽二年二月乙巳參議正四位下兼行宮内卿相摸守滋野朝臣貞主卒、貞主者右京人也、曾祖父大學頭兼博士正五位下楢原東人該2通九經1爲2名儒1、天平勝寳元年爲2駿河守1、于時(ニ)土出2黄金1、東人採而兼v之、帝美(テ)2其功(ヲ)1曰(フ)勤哉《イソシイカナ》臣也、遂取2勤臣之義1賜2姓伊蘇志臣(ト)1父尾張守從五位上家譯、延暦年中|賜2姓滋野宿禰1云々、是に依れば勤臣はイソシノオムとよむべし、】
 
初、秦忌寸朝元 養老三年夏四月丁卯秦臣朝元賜2忌寸姓1。五年正月戌申朔甲戌詔云。【如2第二之二葉津守連通下引1。從六位下秦朝元醫術科賜v物與v通同。】天平二年三月乙酉朔辛亥大政官奏※[人偏+稱の旁]之〇又諸蕃異域風俗不v同。若無2譯語《ヲサ》1難2以通(シ)1v事(ヲ)。仍仰2粟田朝臣馬養、播磨直乙安、陽胡史眞身、秦朝元、文元貞等五人1、各取2弟子二人1命v習2漢語1者。詔並許之。七年四月戊申、外從五位下秦忌寸朝元授2外從五位上1。九年十二月壬戌爲2圖書頭1。十八年三月爲2主計頭1。懷風藻云。辨正法師者、俗姓秦氏。性滑稽善2談論1。少年出家頗洪2玄學1。大寶年中遣2學(ニ)唐國1。時遇2李隆基《・玄宗》龍潜之日1、以v善2圍棊1屡見2賞遇1。有2子朝慶朝元1。法師及慶在v唐死。元歸2本朝1仕至2大夫1。天平年中拜2入唐判官1、到2大唐1見2天子1。天子以2其|文《父歟》故1特優詔厚賞賜。還至2本朝1尋卒
楢原(ノ)造《ミヤツコ》東人 天平十年正月己未朔乙丑、正六位上楢原造東人授2外從五位下1。十八年五月從五位下。十九年三月駿河守。勝寶二年三月戊戌駿河國守從五位下楢原東人等於2部内廬原郡多胡浦濱1、獲2黄金1獻v之。【練金一分。沙金一分。】於v是東人等賜2勤臣姓1。十二月葵亥從五位上。寶字元年五月正五位下
三原王船王は共に舍人親王の御子、哥にも上に見えたり。山田王は續日本紀に見えす。穂頼朝臣老、高丘連河内は上に見えたり
 
(27)右件王卿等應 v詔作v歌依v次奏之、登時不v記、其歌漏失、但秦忌寸朝元者、左大臣橘卿諺曰、靡v堪v賦v歌以v麝贖之、因v此黙已也、
 
大伴宿祢家持以2閏七月1被v任2越中國守1、即取2七月1赴2任所1、於v時姑大伴氏坂上郎女贈2家持1歌二首
 
聖武記云、天平十八年六月壬寅從五位下大伴宿禰家持爲2越中守(ト)1、閏は衍文なり、聖武紀を考ふるに閏は九月にあり、前の十六年の閏は正月にあり、後の勝寶元年の閏は五月にあり、此を引合て案ずるに紀を以て正義とすべし、目録にも閏と云はずやがて今も即取(テ)2七月(ヲ)1赴2任所(ニ)1と云へれば閏は衍文なる證なり、若は七日を寫誤て七月となせる歟、紀は六月壬寅とあれど此は今の本を以て正とすべし、此より第二十の終に至るまで次第して日記なり、日本紀纂疏云、越洲者彼地(ニ)有v坂名(テ)曰2角鹿(ト)1、行人必踰2此坂(ヲ)入(ルガ)v絶(ニ)故名(テ)曰v越(ト)也、
 
初、大伴宿禰家持以天平十八年 聖武紀云。六月壬寅大伴宿禰家持爲2越中守1。七月の閏、紀には九月にあり。相違如何。此集をもて正とすへき歟。越と名付る事は、日本紀纂疏云。越洲者彼地有v坂名曰2角鹿1。行人必踰2此坂1入2越絶1故名曰v越也。姑、をはともしうとめともよむへし。坂上郎女は家持のためにはをはにしてしうとめなるか故なり
越中守 延喜式民部云。越中國上。令義解職員令云。上國(ハ)守一人。介一人。椽一人。目一人。史生三人
 
(28)3927 久佐麻久良多妣由久吉美乎佐伎久安禮等伊波比倍須惠都安我登許能弊爾《クサマクラタヒユクキミヲサキクアレトイハヒヘスヱツアカトコノヘニ》
 
3928 伊麻能其等古非之久伎美我於毛保要婆伊可爾加母世牟須流須邊乃奈左《イマノコトコヒシクキミカオモホエハイカニカモセムスルスヘノナサ》
 
更贈越中國歌二首
 
3929 多妣爾伊仁思吉美志毛都藝底伊米爾美由安我加多孤悲乃思氣家禮婆可聞《タヒニイニシキミシモツキテイメニミユアカカタコヒノシケヽレハカモ》
 
志毛は助語なり、君も此方を相思ふ故に夢に見ゆる歟、相思はざれども我片戀の思ひ寢に見るかとなり、
 
初、旅にいにし君しもつきて これは君もこなたをあひおもふゆへに夢にみゆるか。あひはおもはねとも我かたこひのしけき故におもひねにみるかとなり。古今集に、みつね
  君をのみおもひねにねし夢なれはわか心からみつるなりけり
 
3930 美知乃奈加久爾都美可未波多妣由伎母之思良奴伎美乎(29)米具美多麻波奈《ミチノナカクニツミカミハタヒユキモシシラヌキミヲメクミタマハナ》
 
和名云、越中【古之乃三知乃奈加、】かくは云へども此は越中に限らず只道中にまします神たちを云べし.シヽラヌは只知らぬなり、落句はめぐみだにはむなゝり、
 
初、みちのなかくにつみかみは 越中をこしのみちの中といへと、これは越中にかきらす只道中にまします神たちをいふへし。地祇とかきてくにつかみとよめり。たひゆきもしゝらぬ君とは、爲不知《シシラヌ》君にてたひをしてみぬ心なり。めくみたまはなは、めくみたまはねといふなり。又めくみたまはむにても有へし
 
平群氏女郎贈2越中守大伴宿禰家持1歌十二首
 
家持は風流の美男なりけるにや、第三に笠女郎の託《ツク》馬野の紫深く思ひそめしより第四第八及び今此女郎に至るまであまたの心を摧けり、
 
3931 吉美爾餘里吾名波須泥爾多都多山絶多流孤悲乃之氣吉許呂可母《キミニヨリワカナハステニタツタヤマタエタルコヒノシケキコロカモ》
 
獨はなれたる山を斷山と云へば立田山絶タル戀とはつゞけたる歟、平群氏にて平群郡にあれば先立田山をよめり、
 
初、きみによりわか名は 斷山とて、山あひのきれて遠くひとりたつもあれは、立田山たえたるとはつゝけたる歟。さらても、立田の立を絶といふ心にてたえたるとはつゝくへし。君ゆへにわかなのすてに立たれは、おもひなからえあはて、絶たるこひの、遙にへたゝるにつけて、さらにしけき比かもとなり
 
3932 須麻比等乃海邊都禰佐良受夜久之保能可良吉戀乎母安(30)禮波須流香物《スマヒトノウミヘツネサラスヤクシホノカラキコヒヲモアレハスルカモ》
 
此下句第十一第十五にもありき、
 
初、すまひとのうみへ常さらす 海邊を常にはなれすなり
 
3933 阿里佐利底能知毛相牟等於母倍許曾都由能伊乃知母都藝都追和多禮《アリサリテノチモアハムトオモヘコソツユノイノチモツキツヽワタレ》
 
初、ありさりて後も あり/\てとよめる哥、上に有き。ありさりてもおなし。阿と佐と同韵にて通するなり
 
3934 奈加奈加爾之奈婆夜須家牟伎美我目乎美受比佐奈良婆須敞奈可流倍思《ナカナカニシナハヤスケムキミカメヲミスヒサナラハスヘナカルヘシ》
 
初、中々にしなはやすけむ しにたらは中々に心のやすからんとなり。第十二に
  中々にしなはやすけむ出る日のいるわきしらぬ我しくるしも
 
3935 許母利奴能之多由孤悲安麻里志良奈美能伊知之路久伊泥奴比登乃師流倍久《コモリヌノシタユコヒアマリシラナミノイチシロクイテヌヒトノシルヘク》
 
此歌第十二に既に出たり、
 
初、こもりぬの下ゆこひあまり かくれたるぬま水のことく、しのひにこひあまりて、そのこもりぬも風なとのあらくふけは、白波の立出ることく、わかおもふ心を、人の見知はかり色に出たるとなり
 
3936 久佐麻久良多妣爾之婆之婆可久能未也伎美乎夜利都追(31)安我孤悲乎良牟《クサマクラタヒニシハシハカクノミヤキミヲヤリツヽアカコヒヲラム》
 
3937 草枕多妣伊爾之伎美我可敝里許牟月日乎之良牟須邊能思良難久《クサマクラタヒイニシキミカヽヘリコムツキヒヲシラムスヘノシラナク》
 
初、草まくらたひいにし君か 旅にいにし君かなり
 
3938 可久能未也安我故非乎浪牟奴婆多麻能欲流乃比毛太爾登吉佐氣受之底《カクノミヤアカコヒヲラムヌハタマノヨルノヒモタニトキサケスシテ》
 
乎浪牟、【別校本、浪作v良、】
 
3939 佐刀知加久伎美我奈里那婆古非米也等母登奈於毛比此安連曾久夜思伎《サトチカクキミカナリナハコヒメヤトモトナオモヒシアレソクヤシキ》
 
是は家持の都に有し時の事なり、
 
初、さとちかく君かなりなは 平群氏は平群郡にあれは、上にもわか名はすてに龍田山とよめり。家持は奈良に家あれは、かく千里にわかるへきことはしらて、あはれ今すこし我か里ちかく君かなることもあらは、かうはこひじものをなと、おもひしことのくやしきとなり
 
3940 餘呂豆代爾許己呂波刀氣底和我世古我都美之手見都追(31)志乃備加禰都母《ヨロツヨニコヽロハトケテワカセコカツミシテミツヽシノヒカネツモ》
 
ツミシヲミツヽとは第七旋頭歌に玉緒念委《タマノヲノオモヒステヽモ》とありしをおもひつみてもと續べき由注し侍りし如く、つむも重なる意なれば萬世までも相思はむと心は打解ながら此紐の緒を我ならぬ人には解なと結びかさねて置けるを躬つゝ忍びかぬるとよめるなり、
 
初、よろつよに心はとけて つみしをみつゝ、此句心得かたし。心はとけてといふによりておもへは、むすひしひものをゝみつゝといふ心にや。積といふは、かさぬる心なれは、紐もむすへはかさなるを、つみしをといへるか。哥の心は、萬世まてもあひおもはんと、心は打とけて、此ひもを我ならぬ人はとくなとむすひおけるを見つゝ、しのひかねてなくといへる心にや。又毛詩に耳をつむといひ、古今集に
  春かすみたな引のへのわかなにもなりみてしかな人もつむやと
これもおもふよしをしらせんとて、身をつむ心をそへてよめりとみゆ。身をつむとも足をつむともよめり。背を拊、耳を※[手偏+斯]は、人にたしかにいふことをきかしめんためなれは、これもたはふれに、君か我をつみたりしあとをみつゝしのひかぬるといへるにや
 
3941 ※[(貝+貝)/鳥]能奈久久良多爾之宇知波米底夜氣波之奴等母伎美乎之麻多武《ウクヒスノナククラタニシウチハメテヤケハシヌトモキミヲシマタム》
 
久良多爾之、【仙覺抄云、クラタニニ、官本之作v上爾重點、】
 
第二句官本を正とすべし、毛詩云、伐(コト)v木(ヲ)丁《タウ》々(タリ)、鳥(ノ)鳴(コト)嚶々(タリ)、出(テ)v自2幽谷1遷(ル)2于喬木1、此意を用たる歟、ウチハナテは幽谷に身を役るなり、古今集に世の中のうき度毎に身を投ば深き谷こそ淺くなりなめ、後撰集にも世中に知られぬ山に身投とも谷の心や云はで思はむ、ヤケハシヌトモ、思ひに燒は死するともなり、落句のb〔右○〕は助語なり、待々てさても有られぬ時あらば幽谷に身を打はめて思ひに燒かれては死ぬともそれまで(33)は變らず君が還るを待たむとなり、
 
初、鶯の鳴くらたにゝ 毛詩云。伐v木丁々。鳥鳴嚶々。出v自2幽谷1、遷2于喬木(ニ)1。ふかき谷は、日のめも見えす、くらき故にかくはいへり。うちはめてとは身をなけての心なり。古今集に
  世の中のうきたひことに身をなけはふかき谷こそ淺くなりなめ
後撰集に
  世中にしられぬ山に身なくともたにの心やいはておもはむ
やけはしぬともは、おもひにやけては死ぬるともなり
 
3942 麻都能波奈花可受爾之毛和我勢故我於母敝良奈久爾母登奈佐吉都追《マツノハナハナカスニシモワカセコカオモヘラナクニモトナサキツヽ》
 
松の花は待によそへて君が目に花と見る人多からむ中に、我は松の花の如くにて花の數に入れても思はれぬを、由なく片思して待と云意を花に寄たればモトナ咲ツヽとは云へり、第十五|狹野茅上《サヌノチカミノ》娘子が歌にも我宿の松の葉見つゝ君またむとよめり、
 
初、松の花はなかすにしも 松の花は松花、松黄、松蕊なといへり。唐姚合か採2松花1詩あり。仙術なと學ふにはほめたる物なれと、花にては花といふへくもなきを、松を待によせてよしなく人なみに待といへり
 
右件十二首歌者、時時寄2便使1來贈、非d在2一度1所uv送也、
 
八月七日夜、集2于守大伴宿禰家持舘1宴歌
 
初、家持舘 和名集云。唐韻云。館(ハ)官(ノ)反。作v舘。【和名多知。】一云【無路豆美。】客舍之也
 
3943 秋田乃穗牟伎見我底里和我勢古我布左多乎里家流乎美奈敝之香物《アキノタノホムキミカテリワカセコカフサタヲリケルヲミナヘシカモ》
 
(34)次の池主が歌に依に部内の熟否を知らむがためがてら、池主が野に出て女郎花を手折來けるなり、ふさたをるは第八にもよめり、
 
初、秋の田のほむきみかてり かてりはかてらなり。國の守なれは、なりはひのやうをみるを、秋田のほむき見かてらといへり。ふもたをりけるは、ふさ/\とたをるなり。第八に、とみのをかへのなてしこの花ふさたをりともよめり
 
右一首守大伴宿彌家持作
 
3944 乎美奈敝之左伎多流野邊乎由伎米具利吉美乎念出多母登保里伎奴《ヲミナヘシサキタルノヘヲユキメクリキミヲオモヒテタモトホリキヌ》
 
初、たもとほりきぬ もとほるは囘なり。たは手の字にて、道の手折なといへるたくひなり
 
3945 安吉能欲波阿加登吉左牟之思路多倍乃妹之衣袖伎牟餘之母我毛《アキノヨハアカトキサムシヽロタヘノイモカコロモテキムヨシモカモ》
 
白妙の妹が衣著む由もがなゝれど字の足らねば衣袖と云へり、古人はかやうの處ゆるやかなり、
 
3946 保登等藝須奈伎底須疑爾之乎加備可良秋風吹奴余之母安良奈久爾《ホトヽキスナキテスキニシチカヒカラアキカセフキヌヨシモアラナクニ》
 
(35)第二句の爾は助語なり、乎加備は岡邊なり、乎をチと點ぜるは筆者の誤なるべし、落句は由なくなり、あかぬ霍公鳥は鳴て過し其岡邊より物悲しき秋風の吹來るが由なきなり、
 
初、ほとゝきすなきて過にし をかひからは岡邊からなり。よしもあらなくにはよしなきなり。聞はやとおもふほとゝきすは鳴過るその岡邊から、ものかなしき秋風のよしなく吹來るとなり。第八に
  ほとゝきす聲きくをのゝ秋風にはき咲ぬれや聲のともしき
 
右三首〓大伴宿禰池主作
 
初、右三首椽大件宿禰池主作 漢制以v曹爲v椽。如2島之椽1。言有v所2負荷1
 
3947 家佐能安佐氣秋風左牟之登保都比等加里我來鳴牟等伎知可美香物《ケサノアサケアキカセサムシトホツヒトカリカキナカムトキチカミカモ》
 
氣佐、【幽齋本、氣作v家、】
 
雁を遠津人とは上にもよみき、
 
初、とほつ人鴈かきなかむ 第十二にも、とほつ人かりちの池とつゝけよめるは、鳥けたもの草木をも人とよむならひなり。上にもしるしぬ。鴈は遠き國よりまたれてきなく物なれは、かくよめり
 
3948 安麻射加流比奈爾月歴奴之可禮登毛由比底之紐乎登伎毛安氣奈久爾《アマサカルヒナニツキヘヌシカレトモユヒテシヒモヲトキモアケナクニ》
 
右二首守大伴宿禰家持作
 
(36)3949 安麻射加流比奈爾安流和禮乎宇多我多毛比母登吉佐氣底於毛保須良米也《アマサカルヒナニアルワレヲウタカタモヒモトキサケテオモホスラメヤ》
 
比母毛、【校本無v毛、點亦無、】
 
第四句は紐も解|放《サケ》ずしてなり、落句は故郷の人の心を云へり、
 
初、あまさかるひなにある うたかたは、第十二、第十五にありてしるせり。此卷下にいたりて見えたり。遊仙窟云。著《ヨリツカン》時|未必相2著《ウタカタモアハントハオモハサリキ》死(ニ)1。ひもゝときさけて、てもし濁るへし。紐も解さけすしてなり
 
右一首〓大伴宿禰池主
 
3950 伊弊爾之底由比底師比毛乎登吉佐氣受念意緒多禮賀思良牟母《イヘニシテユヒテシヒモヲトキサケスオモフコヽロヲタレカシラムモ》
 
落句は妹は知らじの意なり、
 
右一首守大伴宿禰家持作
 
3951 日晩之乃奈吉奴流登吉波乎美奈弊之佐伎多流野邊乎遊吉追都見倍之《ヒクラシノナキヌルトキハヲミナヘシサキタルノヘヲユキツヽミヘシ》
 
(37)右一首大目秦忌寸八千島
 
系譜等未v詳、
 
古歌一首【大原高安眞人作】年月不v審、但隨2聞時1記2載茲1焉、
 
初、古歌一首云 これ家持の詞なり
 
3952 伊毛我伊弊爾伊久里能母里乃藤花伊麻許牟春母都禰加久之見牟《イモカイヘニイクリノモリノフチノハナイマコムハルモツネカクシミム》
 
妹が家に行とつゞく、或者の語りしは南京の十町許隔ていぐりと云神の社有と申き、若彼處にや、く〔右○〕もじを濁て申つれどさる事は例あり、藤も色よくて女に喩ふる物なれば又來む春もかくあかず見むと云は發句を下まで承くる意なり、落句の之は助語なり、
 
初、妹か家にいくりのもりの 妹か家にゆくとつゝけたり。あるものゝかたり侍しは、南都より十町はかりもかたはらに、いくり大明神とて社あるよし申しき。くもしをにこりて申つ。たとひそこにて濁るとむ、かくつゝくるは例のことなり。今こむ春もつねかくしみむとは、妹にあかぬによせて、藤の花をも此春のみならす、又こん春、そのゝちの春も今のことくかくこそあかすみめとなり。かくしのしもしは、助語なり
 
右一首傳誦僧玄勝是也
 
3953 鴈我禰波都可比爾許牟等佐和久良武秋風左無美曾乃可(38)波能倍爾《カリカネハツカヒニコムトサワクラムアキカセサムミソノカハノヘニ》
 
その河の邊とは雁の住胡國の川邊なり、
 
3954 馬竝底伊射宇知由可奈思夫多爾能伎欲吉伊蘇末爾與須流奈彌見爾《ウマナメテイサウチユカナシフタニノキヨキイソマニヨスルナミヽニ》
 
右二首守大伴宿禰家持
 
3955 奴婆多麻乃欲波布氣奴良之多末久之氣敷多我美夜麻爾月加多夫伎奴《ヌハタマノヨハフケヌラシタマクシケフタカミヤマニツキカタフキヌ》
 
多末久之氣、【校本或末作v麻、】
 
二上山は下に射水郡にありと注せり、此歌別に作者ある上に家持集にも見えぬを續古今に家持歌とあるは未v考v所v據、
 
右一首史生土師宿禰道良
 
(39)未v知2系譜1、
 
大目秦忌寸八千島之舘宴歌一首
 
3956 奈呉能安麻能都里須流布禰波伊麻許曾婆數奈太那宇知底安倍底許藝泥米《ナコノアマノツリスルフネハイマコソハフナタナウチテアヘテコキテメ》
 
フナタナウチテは屈原漁父辭云、漁父莞爾而笑|鼓《タヽイテ》v※[木+世](ヲ)而去(ヌ)、和名集云、野王案※[木+世]【音曳、字亦作v※[木+曳]、和名不奈太那、】大船(ノ)旁(ノ)板也(ナリ)、顯昭の古今集注云、ふなたなとはせかいとで舟の左右のそばに縁のやうに板を打つけたるなり、それを踏てもあるくなり、落句は喘て榜出ぬなり、
 
初、ふなたなうちて ふなたなうつは、ふなはたをうつなり。文選屈平漁父辞云。漁父莞爾而笑(テ)鼓《タヽイテ》v※[木+世](ヲ)而去(ンヌ)。神代紀云。蹈2船※[木+世]1【船※[木+世]此(ヲハ)云2浮那能倍(ト)1。】和名集云。野王按※[木+世]【音曳。字亦作※[木+曳]。和名不奈太那】大船(ノ)旁(ノ)板也。古今集のほりえこくたなゝしをふねといふ哥につきて、顯昭注云。たなゝし小舟とは、ちひさき舟には、ふなたなのなきなり。萬葉には、棚無小船とかけり。ふなたなとは、せがいとて、ふねの左右のそはにえむのやうに板をうちつけたるなり。それをふみてもあるくなり。とものかたにつけたるをは、したなといふ。尻のたなゝり。あへてこきてめは、あへきて漕出めなり。第三にも、いさこともあへてこき出むにはもしつけしとよめり
 
右舘之客屋居望2蒼海1、仍主人八千島作2此歌1也、
 
哀2傷長逝之弟1歌一首 并短歌
 
3957 安麻射加流比奈乎佐米爾等大王能麻氣乃麻爾未爾出而許之和禮乎於久流登青丹余之奈良夜麻須疑底泉河伎欲(40)吉可波良爾馬駐和可禮之時爾好去而安禮可弊里許牟平久伊波比底待登可多良比底許之比乃伎波美多麻保許能道乎多騰保美山河能弊奈里底安禮婆孤悲之家口氣奈我枳物能乎見麻久保里念間爾多麻豆左能使乃家禮婆宇禮之美登安我麻知刀敷爾於餘豆禮能多波許登等可毛波之伎余思奈弟乃美許等奈爾之加母時之波安良牟乎波太須酒吉穗出秋乃芽子花爾保弊流屋戸乎《アマサカルヒナヲサメニトオホキミノマケノマニマニイテヽコシワレヲオクルトアオニヨシナラヤマスキテイツミカハキヨキカハラニウマトヽメワカレシトキニヨシユキテアレカヘリコムタヒラケクイハヒテマテトカタラヒテコシヒノキハミタマホコノミチヲタトホミヤマカハノヘナリテアレハコヒシケクケナカキモノヲミマクホリオモフアヒタニタマツサノツカヒノケレハウレシミトアカマチトフニオヨツレノタハコトヽカモハシキヨシナオトノミコトナニシカモトキシハアラムヲハタスヽキホニイツルアキノハキカハナニホヘルヤトヲ》【言斯人爲v性好愛2花草花樹1、而多植2於寝院之庭1、故謂2之花薫庭1也、】
 
麻氣は日本紀に拜の字任の字をよめり、此にては越中守に任じ給ふにまかせてなり、道ヲタトホミはもとほる〔四字右○〕をたもとほる〔五字右○〕と云如くた〔右○〕はそへたる詞にて遠みなり、使乃家禮婆は今按ツカヒノケレバと讀べし.きあればと云を吉阿を反して約むれ(41)ばか〔右○〕なり、加を初四相通ずれば家となるなり、オヨツレ、タハコト第三に注せり、ナニシカモ時シハアラムヲ、二つのし〔右○〕は助語なり、
 
安佐爾波爾伊泥多知奈良之暮庭爾敷美多比良氣受佐保能宇知乃里乎徃過安之比紀乃山能許奴禮爾白雲爾多知多奈妣久等安禮爾都氣都流《アサニハニイテタチナラシユフニハニフミタヒラケスサホノウチノサトヲユキスキアシヒキノヤマノコヌレニシラクモニタチタナヒクトアレニツケツル》
 
アサニハニ、ユフニハニは第十三に既に出たり、イデタチナラシは出立ならさずと云べきを下のフミタヒラゲズの句を待て并せて結ぶなり、朝庭には出立ならしたれども暮庭には蹈平らげぬと云にはあらず、かゝる事例多き事なり、佐保の内より下は自注に明らかなり、落句は上のあが待間にと云首尾なり、
 
初、こしひのきはみ 來し日のかきり。道をたとをみ、たは助語なり。山川のへなりてあれは、隔てあれはなり。〇使乃家禮婆、家は久と通してかけり。およつれのたはことゝかも。第三に、石田王卒之時丹生王作哥にも、およつれか吾きゝつる。まかことかわか聞つるもといへり。天智紀云。九年春正月乙亥朔戊子〇復|禁2斷《イサヒヤム》誣妄妖僞《タカ《・タハ歟》コトオヨツレコトヲ》1。天武紀云。四年十一月辛丑朔癸卯有(テ)v人登2宮(ノ)東(ノ)岳(ニ)1妖言《オヨツレコトシテ》而|自《ミ》刎《クヒハネテ》死之。光仁紀左大臣藤原朝臣永手薨時、詔詞中云。天皇朝乎置而、罷還止聞看而、於母富佐久。於與豆禮加母、多奈美許止乎加母云云々。なをとのみこと、あにをなあにといへるかことしあさにはに出立ならし夕庭にふみたひらけす。花草花樹を愛してうゑおきなから、いまた朝に出立てもならさす。夕にふみたひらけもせぬまに身まかる心なり
 
佐保山火葬、故謂2之佐保乃宇知乃佐刀乎由吉須疑1、
 
此注火葬と云は白雲に立たなびくと云までなるを略して二句を擧たるなり、
 
3958 麻佐吉久登伊比底之物能乎白雲爾多知多奈妣久登伎氣(42)婆可奈思物《マサキクトイヒテシモノヲシラクモニタチタナヒクトキケハカナシモ》
 
イヒテシとは家持の言なり、長歌の平げくいはひてまてとかたらひてと云を蹈てなり、
 
3959 可加良牟等可禰底思理世婆古之能宇美乃安里蘇乃奈美母見世麻之物能乎《カヽラムトカネテシリセハコシノウミノアリソノナミモミセマシモノヲ》
 
アリソは只荒礒なり、名所にあらず、下に之夫多爾能佐吉乃安里蘇《シフタニノサキノアリソ》ともよめり、此歌第五に憶良の妻を失なはれたる時の歌の反歌にくやしかもかく知らませばとよめるに似たり、
 
初、かゝらむとかねて知せは かくはかなかるへき人としりたらましかは、我をおくりし時、そのまゝいさなひて、此こしの海のおもしろきあらいそ浪をもみせましものをとなり。第五に
  悔しかもかくしらませはあをによしく|ぬ《ニウ》ち《・國内》こと/\く《ク》みせましものを
此ありそといふは、只あらいそなり。こしのくにゝありそといふ所ありといふは、此哥によりてあやまれる歟
 
右九月廿五日、越中守大伴宿祢家持遙聞2弟喪1感傷作v之也、
 
相歡歌二首 越中守大伴肩彌家持作
 
(43)3960 庭爾敷流雪波知敝之久思加乃未爾於母比底伎美乎安我麻多奈久爾《ニハニフルユキハチヘシクシカノミニオモヒテキミヲアカマタナクニ》
 
落句は我不侍爾《ワガマタナクニ》と云にはあらず、奈は助語にて我またくになり、上に此格多かりき、千重降しく雪の如くしく/\に待つるにうれしくもあへるかなと悦こぶ心なり、
 
初、庭にふる雪はちへしく 千里にふり敷なり。しかのみにはかくのみになり。あかまたなくには、これは常の、見なくに、いはなくに、なといふにはあらす。我待にといふにて、なくは詞の字なり。第三に、人丸香具山に屍を見ていたむ哥に
  草枕たひのやとりに誰つまかくにわすれたる家またなくに
これは家にまたんにの心を、またなくにといへり。これに准して心得へし。惣して此なくといふ詞は、第一の廿九、第四の十五、第十五の三十二葉なとにも有。あらきをあらけなくといふたくひなり
 
3961 白浪乃余須流伊蘇末乎榜舩乃可治登流間奈久於母保要之伎美《シラナミノヨスルイソマヲコクフネノカチトルマナクオモホエシキミ》
 
右以2天平十八年八月1、〓大伴宿禰池主、附2大帳使1赴2向京師1、而同年十一月、還2到本任1、仍設2詩酒之宴1彈絲飲樂、是日也白雪忽降、積v地尺餘、此時也復漁夫之舩入v海浮v瀾、爰守大伴宿禰家持寄2情二眺1、聊裁2所心1、
 
(44)附大帳使は大帳を附る使とよまば即大帳使なり、大帳使に附てとよまば別に大帳使ありて池主はそれに附けば副使《ソヘツカヒ》の意なり、下に此類多し、初の意なり、二眺は雪と漁夫船となり、上の二首次の如く當れり、
 
忽洗2枉疾1殆臨2泉路1、仍作2謌詞1以申2悲緒1一首 并2短歌1
 
洗枉疾、【洗、官本、作v沈、】
 
初、忽沈枉疾 沈誤作v洗
 
3962 大王能麻氣能麻爾麻爾大夫之情布里於許之安思比奇能山坂古延底安麻射加流比奈爾久太理伎伊伎太爾毛伊麻太夜須米受年月毛伊久良母阿良奴爾宇都世美能代人奈禮婆宇知奈妣吉等許爾許伊布之伊多家苦之日異益多良知禰乃波波能美許等乃大舩乃由久良由久良爾思多呉非爾伊都可聞許武等麻多須良牟情左夫之苦波之吉與志都(45)麻能美許登母安氣久禮婆門爾餘里多知己呂母泥乎遠理加弊之都追由布佐禮婆登許宇知波良比奴婆多麻能黒髪之吉底伊都之加登奈氣可須良牟曾伊母毛勢母和可伎兒等毛波乎知許知爾佐和吉奈久良牟多麻保巳能美知乎多騰保彌間使毛夜流余之母奈之於母保之伎許登都底夜良受孤布流爾思情波母要奴多麻伎波流伊乃知乎之家騰世牟須辨能多騰伎乎之良爾加苦思底也安良志乎須良爾奈氣枳布勢良武《オホキミノマケノマニマニマスラヲノコヽロフリオコシアシヒキノヤマサカコエテアマサカルヒナニクタリテイキタニモイマタヤスメストシツキモイクラモアラヌニウツセミノヨノヒトナレハウチナヒキトコニコイフシイタケクシヒニケニマセハタラチネノハヽノミコトノオホフネノユクラユクラニシタコヒニイツカモコムトマタスラムコヽロサフシクハシキヨシツマノミコトモアケクレハ》カトニヨリタチコロモテヲヲリカヘシツヽユフサレハトコウチハラヒヌハタマノクロカミシキテイツシカトナケカスラムソイモヽセモワカキコトモハヲチコチニサワキナクラムタマホコノミチヲタトホミマツカヒモヤルトシモナシオモホシキコトツテヤラスコフルニシコヽロハモエヌタマキハルイノチヲシケトセムスゲノタトキヲシラニカクシテヤアラシヲスラニナケキフセラム》
 
久太理伎、【幽齋本、伎作v弖、】  宇都世美能、【幽齋本、都作v津、】  伊多家苦之、【幽齋本、イタケクノ、】  麻多須良武、【幽齋本、武作v牟、】
 
久太理伎は下り來なるをタダリテと點ぜるは書生の誤歟、さらずば幽齋本の如く(46)伎を弖に作れる本の點を寫して字と點と違へる歟、イキダニモ以下の四句は第五に憶良の妻の死去を慟て作られたる歌にもありき、コイフシは展《コイ》臥なり、上にあまたあり、伊多家苦之はイタケクノと讀べし、下に伊多家苦乃日異麻世婆《イタケクノヒニケニマセハ》云々、是今の二句と同じ證とすべし、ハヽノミコトノは光仁紀云、天應元年八月丁亥朔甲午正四位上大伴宿禰家持爲2左大弁兼春宮大夫(ト)1、先v是(ヨリ)遭2母(ノ)憂(ニ)1解v任(ヲ)至(テ)v是復(ス)焉、此に依に旅人《タビト》卿の本妻大伴郎女は神龜五年に死去せられたれば家持は妾の腹に出來たるにこそ、イモヽセモとは家持の子の男子女子なり、男子は續日本紀に子息永主等並v家流(サル)焉とあり、委は第三奥卷書を注せし所に引が如し、女子は此集第十九(ニ)云、右大伴(ノ)宿禰家持弔(ラフナリ)d聟(ノ)南右大臣家(ノ)藤原(ノ)二郎之喪2慈母(ヲ)1患(ヲ)u也、見えたる事かくの如し、孤布流爾思は思は助語なり、アラシヲスラニはアラシヲはますらをの意なり、
 
初、おほきみのまけのまに/\ますらをの いきたにもいまたやすめす。此哥の初は、第五に、山上憶良妻のみまかられける時よまれたる長哥の初をまなひて、大かたおなしやうによまれたり。あけくれは門によりたち。戦國策云。王孫賈之母謂v賈曰。汝朝(ニ)出而晩(ニ)來(タモ)、吾則倚v門而望(ム)v汝(ヲ)。明來れは夕去れはゝ對する詞なり。いもゝせもわかきこともは。此いもせは家持の子の兄と妹となり。續日本紀云。延暦四年八月癸亥朔庚寅中納言從三位大伴宿禰家持死。〇死後二十餘日其屍未v葬。大伴繼人竹良等殺2種繼1事發覺下v獄。案2驗之1事連2家持等1。由v是追除名。其息永主等並家流焉。むすめも有けるなるへし。をちこちにさわきなくらん。第五に、山上憶良哥に、さはへなす《・如五月蠅》さわくこともを、う|つて《チス・打捨》ゝはしなんはしらす、みつゝあれは心はもえぬなとよめり。玉ほこの道をたとほみ、たは助語なり。かくしてやあらしをすらになけきふせらむ、すらはさへの心なり。病人なれは大かたのなけきにそへて嵐をもうれふるなり。孟子公孫丑篇云。王使2人(ヲシテ)來1曰。寡人如2就見1者也。有(テ)2寒疾1不v可2以風(ス)1。古今集に、こゝちそこなひてわつらひける時に、風にあたらしとて、おろしこめてのみ侍けるあひたに、をれる櫻のちりかたになれりけるをみてよめるなとかけり。うつほ物語にも、風ひきたまひてむとてふさせたまひぬ。又第二十に、あらしをのいをさたはさみとよめるはあらちをの五百矢たはさみなり。あらちをはますらをといふにおなし。しかれは嵐にはあらてあらちをとおもふ我すらなけきふせらんとよめる歟
 
3963 世間波加受奈吉物能可春花乃知里能麻可比爾思奴倍吉於母倍婆《ヨノナカハカスナキモノカハルハナノチリノマカヒニシヌヘキオモヘハ》
 
數ナキ物カとは多き事を數々といへば程もなくはかなきを云なり、
 
初、よのなかはかすなきものか 第二十にも、臥病悲無常欲修道作歌に、うつせみはかすなき身なりとよまる。よはひの數のすくなきなり
 
(47)3964 山河乃曾伎敝乎登保美波之吉余思伊母乎安比見受可久夜奈氣加牟《ヤマカハノソキヘヲトホミハシキヨシイモヲアヒミスカクヤナケカム》
 
山河乃曾伎敝とは山と河とのはての意なり、上に天雲のそぎへのきはみとも山のそぎ野のそぎ見よとなどもよめるに同じ、
 
初、山川のそきへをとほみ 川の字清へし。山と川とのへたゝりてはるかなるなり
 
右天平十九年春二月二十日、越中國守之舘臥v病悲傷聊作2二此歌1、
 
萬葉集代匠記卷之十七上
 
(1)萬葉集代匠記卷之十七下
 
守大伴宙請家持贈2〓大伴宿禰池主1悲歌二首
 
忽沈2枉疾1累v旬痛苦、祷2恃百神1且得2消損1、而由身體疼羸、筋力怯軟、未v堪2展謝1、係戀彌深、方今春朝春花流2馥於春苑1春暮春※[(貝+貝)/鳥]囀2聲於春林1、對2此節候1、琴翠ツv翫矣、雖v有2乘v興之感1不v耐2策v杖之勞1、獨臥2帷幄之裏1、聊作2寸分之謌1、輕奉2机下1、犯v解2玉※[阜+頁]1、其詞曰、
 
且得2消損1〔四字右○〕、維摩經疏云、療治有損、一有2從v初服v藥但増而不1v損、終無2差理1、是名2増増1、二或雖2困篤1方v治即愈(ル)、是名2増損1、三或有d服v藥(ヲ)初雖2漸損1而後更増u、是名2損増1、四從v初漸損乃至2平服1、是爲2損損1、栴檀樹經(ニ)曰、佛言(ク)維衛佛(ノ)時父子三人【乃至】父言、汝二子諍使2我頭痛1、大(2)兒報言、願破2我身1爲v藥、令2父平損1云々、帷幄〔二字右○〕、和名云、帷【音維、和名加太比良、】圍也、以2自障1圍也、四聲字苑云、幄【於角反、和名阿計波利、】大帳也、犯解玉※[阜+頁]〔四字右○〕、※[阜+頁]は頤に作るべし、和名云、方言云、頤【怡反】謂2之頷1、【感反、上聲之重字、亦作v頤和名於止加比、】前漢匡衡傳曰、匡衡説v詩解2人頤(ヲ)1、注如淳曰、使2人笑不1v能v止也、列子云、五年之後心庚念2是非1、口庚言2利害1、夫始一解v顔面笑、
 
初、守大伴宿禰家持贈椽
帷幄、和名集云。釋名云。帷【音維。和名加太比良】圍也。以自障圍(スルナリ)也。四聲字苑云。幄(ハ)【於角反。和名阿計波利】大帳也。犯v解2玉※〓【作v[阜+頁]非。】列子云。五年之後、心|庚《サラニ》念2是非1、口|庚《サラニ》言2利害(ヲ)1。夫始一解v顔面笑。前漢(ノ)匡衡傳曰。諸儒爲v之語曰。無(レ)説v詩匡衡|鼎《マサニ》來。匡説v詩解2人頤(ヲ)1。注如淳曰。使(ルナリ)2人(ヲシテ)笑(テ)不1v能v止也。およそ此集にましへ載たる文筆は、皆四六の躰なり。秘府論に散文をよしとのたまへと、弘法大師も猶四六の躰にのみかゝせたまへり。これ其時に隨ふ故なるへし。其工拙にいたりては隅になつむへからさる歟。末世に至りて東福寺の師錬、近來の元政等偏に散文に耽て、偶儷の文をそしる。しからは沈約か韻を用るも古風にあらす。唐律の躰にものとるへからす。それは猶跡を追ふ物から、文のみ四六を嫌ふは公道に背けり。四六の古文に劣れるをこのますは、あなかちにそしらすして、みつからは散文をかくへし。趙宋にいたるまて、詔勅の類は猶四六を用たるよしなり。其後もしかるにや。元政は近來の庸僧にはあらすとみゆるを、古文眞寶諺解序をかゝれたるを見るに、王楊盧洛を貶して、偏に韓柳歐蘇をのみ褒せり。彼中に王勃か滕王閣序あり。北山移文、大寶箴、弔古戰場文、陋室銘等もあるにあらすや。所謂獵者の鹿を逐て山を見さるものなり
 
3965 波流能波奈伊麻波左加里爾仁保布良牟乎里底加射佐武多治可良毛我母《ハルノハナイマハサカリニニホフラムヲリテカサヽムタチカラモカモ》
 
3966 宇具比須乃奈枳知良須良武春花伊都思香伎美登多乎里加射左牟《ウクヒスノナキチラスラムハルノハナイツシカキミトタヲリカサヽム》
 
イツシカのし〔右○〕は助語なり、
 
天平二十年二月二十九日大伴宿禰家持、
 
忽辱2芳音1、翰苑凌v雲、兼垂2倭詩1、詞林舒v錦、以吟以詠、能※[益+蜀]2戀(3)緒1、春可v樂、暮春風景最可v怜、紅桃灼灼、戯蝶廻v花※[人偏+舞]翠柳依依、矯※[(貝+貝)/鳥]隱v葉歌、可v樂哉、淡交促v席、得v意忘v言、樂矣美矣、幽襟足v賞哉、豈慮乎、蘭※[草がんむり/惠]隔v※[草がんむり/聚]、琴趨ウv用、空過2令節1、物色輕v人乎、所v怨有v比、不v能2黙已1、俗語云、以v藤續v錦、聊擬2談咲1耳、
 
凌雲〔二字右○〕、史記司馬相如列傳云、相如既奏2大人之頌1、天子大説、飄々有2凌雲之氣1、似d遊2天地(ノ)之間1意u、能※[益+蜀]〔二字右○〕、玉篇云、※[益+蜀]【古玄古〓二切、除也、】矯※[(貝+貝)/鳥]〔二字右○〕、遊仙窟云、嬌鶯亂2於錦枝1、淡交〔二字右○〕、禮表記曰、君子之接如(ク)v水、小人之接(ハ)如v醴、君子淡以成、小人(ハ)甘以壞、莊子山木篇云、君子之交淡若v水(ノ)、小人之交(ハ)甘若v醴(ノ)、君子(ハ)淡以親、小人甘以絶、促席〔二字右○〕(ハ)、左大冲蜀都賦云、合樽促v席、有此〔二字右○〕は有は在に作べし、以v藤續v錦〔四字右○〕、藤は藤葛の布なり、本朝文粹第八、源順沙門敬公集序(ニ)云、譬猶d狐貉(ノ)之袖(ノ)端謬綴2毛布1貂蝉之飾上(ニ)妄加2頭巾(ヲ)u者乎、
 
初、凌雲 史記司馬相如列傳云。相如既奏(ス)2大人之頌(ヲ)1。天子大説。飄々(トシテ)有2凌v雲之氣1似d游2天地之間1意h。紅桃灼々、毛詩云。桃之夭々。灼々其華。傳曰。灼々(ハ)華之盛(ナルナリ)也。文選陶淵明詩云。明々雲間月。灼々葉中花。嬌※[(貝+貝)/鳥](ハ)遊仙窟云。嬌鶯亂2於錦枝1。有此【有當改作在。】以藤續錦、第一にあらたへのふちはらか上とよみ、第三にあらたへのふちえのうらとよめる所にしるせるかことし
 
3967 夜麻我比爾佐家流佐久良乎多太比等米伎美爾弥西底婆(4)奈爾乎可於母波牟《ヤマカヒニサケルサクラヲタヽヒトメキミニミセテハナニヲカオモハム》
 
ミセテバはみせたらばなり、
 
初、やまかひにさけるさくらを 山のかひにさけるなり。阿と加と通すれは、山あひの心なり
 
3968 宇具比須能伎奈久夜麻夫伎宇多賀多母伎美我手敷禮受波奈知良米夜母《ウクヒスノキナクヤマフキウタカタモキミカテフレスハナチラメヤモ》
 
初、鶯のきなく山ふき うたかたは上にしるせり。けたしといはむかことし。けたし君か手ふれすして花ちらめや。君か手折て後ならすはちらしといふ心なり
 
沽洗二日〓大伴宿禰池主
 
三月の異名なり、姑(ハ)故、洗(ハ)鮮、萬物去v故就v新、莫v不2鮮明1、
 
初、姑洗二日 姑誤作v※[さんずい+古]。姑故。洗鮮。萬物去v故就v新、莫v不2鮮明1
 
更贈歌 首并短歌
 
含弘之徳垂2恩蓬體1、不貲之思報2慰陋心1、載荷末v春、無v堪v所喩也、但以2稚時不v渉2遊藝之庭1横翰之藻、自乏2乎彫蟲1焉、幼年未v※[しんにょう+至]2山柿之門1、裁歌之趣詞失2乎聚林1矣、爰辱2以v藤續v錦(5)之言1、更題2將v石同v瓊之詠1、固v是俗愚懷v癖不能2黙止1、仍捧2數行1、式酬2嗤咲1、其詞曰、
 
含弘之徳〔四字右○〕、易(ニ)云、坤(ハ)厚載v物、徳合2無疆1、含光大品物咸亨、蓬體〔二字右○〕は第五の蓬身蓬客等に同じ、不貲之思〔四字右○〕、列子云、虞氏者梁之富人也、家充殷盛、錢帛無量財貨無貲、史記賃殖傳(ニ)云、巴蜀寡婦清、其先得2丹穴1而擅2其利1數世、家亦不貲【正義曰、音子兒反、言2贅財衆多不1v可2貲量1、一云清多以v財※[食+向]2遺四方1、用衛2其業1、故財亦不v多2積聚1、】韻會云、貲將支切、通作2※[此/言]、貲量也、載荷未v春〔四字右○〕、今按載は戴未は末にて季春の歌を頂戴荷負すと云なるべし、自乏乎彫蟲焉〔六字右○〕、自は目なるべし、懷風藻釋智藏詩云、雖v喜2遨遊志1還〓乏2彫蟲1、彫蟲本何の書にか出たる考ふべし、才子傳云、張祐字承吉云々、元※[禾+眞]曰、張祐(ハ)彫蟲小巧壯夫不v爲云々、此は元張祐が文章の小巧を謗る詞歟、今は別の本據あるべし、懷癖〔二字右○〕は蒙求云、晋書杜預字(ハ)元凱、預甞稱(ス)王濟有v馬癖2和〓有2財癖1、武帝聞v之謂曰、卿有2何癖1、對曰、臣有2左傳(ノ)癖1、
 
初、舎弘之徳(ハ)、易云。坤(ハ)厚(シテ)載(ス)v物。徳合(ヘリ)2無疆(ニ)1。含弘光大品物成亨。文選云。大人含弘。注云。弘(ハ)大也。言天子能含2其大道1。蓬體、文選渚安仁西征賦曰。飄(トシテ)蘋(ノ如ニ)浮而蓬(如)轉(ス)。張銑曰。言竟如2浮蘋轉蓬1無v所2止託(スル)1也。不貲之思、莊子人間世云。外|含《カナテ》而内不v※[此/言]。列子云。虞氏者梁之富人也。家充殷盛錢帛無v量財貨無v※[此/言]。史記貨殖傳云。巴蜀寡婦清(ハ)其先得2丹穴1而擅2其利1。數世家亦不※[此/言]【正義曰。音子兒反。言2贅財衆多不1v可2※[此/言]量1。一云清多以v財※[食+向]2遺四方1用衛2其業1、故財亦不v多2積聚1。】文選陳孔※[王+章]檄2呉將校部曲1文云。故乃建2丘山之功1享2不※[此/言]之禄1。王仲宣(カ)詠史詩受(ルコト)v恩(ヲ)良《マコトニ》不v※[此/言]《ハカラ》。五雜組云。吾※[門/虫]玉華洞石似2崑山1而精瑩過v之。〇若得3四面如v一無2粗石皮傳1之、其價亦不v貲(ラレ)也。貲與v※[此/言]通。載荷2末春1【未當v作v末。】自乏、自(ハ)恐(ハ)是目。彫蟲【楊雄曰】才子傳云。張祐字承吉。〇祐至2京師1。屬d元府號2有城府1偃c臥内庭u。上因召問2祐之詞藻上下1。※[禾+眞]曰。張祐彫蟲小巧、壯夫不v爲云々。これらは今とかなはす。懷風藻釋智藏詩曰。雖v喜2遨遊(ノ)志(ヲ)1還(テ)※[女+鬼]v乏(コトヲ)2彫蟲(ニ)1。今の心これとおなしと見えたり。出處かんかふへし。懷癖、記大學云。人|之《ヲイテ》3其所(ニ)2親愛(スル)1而辟焉云々。晉書、杜預、字元凱、既立v功之後從容無事。乃耽2思經籍1爲《ツクル》2春秋左氏傳集解1。〇時王濟解v相v馬、又甚愛v之。而和※[山+喬]頗聚斂。預甞稱。濟有2馬癖1。※[山+喬]有2財癖1。武帝聞(テ)之謂曰。卿有2何(ノ)癖(カ)1。對(テ)曰《マ》。臣有2左傳(ノ)癖1。式《モテ》酬、酬誤作v※[酉+羽]
 
3969 於保吉民能麻氣乃麻爾麻爾之奈射加流故之乎遠佐米爾伊泥底許之麻須良和禮須良余能奈可乃都禰之奈家禮婆(6)宇知奈妣伎登許爾己伊布之伊多家苦乃日異麻世婆可奈之家口許己爾思出伊良奈家久曾許爾念出奈氣久蘇良夜須家奈久爾於母布蘇良久流之伎母能乎安之比紀能夜麻伎弊奈里底多麻保許乃美知能等保家波間使毛遣縁毛奈美於母保之吉許等毛可欲波受多麻伎波流伊能知乎之家登勢牟須辨能多騰吉乎之良爾隱居而念奈氣加比奈具佐牟流許己呂波奈之爾春花乃佐家流左加里爾於毛敷度知多乎里可射佐受波流乃野能之氣美登妣久久※[(貝+貝)/鳥]音太爾伎加受乎登賣良我春菜都麻須等久禮奈爲能赤裳乃須蘇能波流佐米爾爾保比比豆知底加欲敷良牟弖時盛乎伊多豆良(7)爾須具之夜里都禮思努波勢流君之心乎牟流沈之美此夜須我浪爾伊母禰受爾今日毛之賣良爾※[手偏+瓜]悲都追曾乎流《オホキミノマケノマニマニシナサカルコシヲヲサメニイテヽコシマスラワレスラヨノナカノツネシナケレハウチナヒキトコニコイフシイタケクノヒニケニマセハカナシケクコヽニオモヒテイラナケクソコニオモヒイテナケクソラヤスケナクニオモフソラクルシキモノヲアシヒキノヤマキヘナリテタマホコノミチノトホケハマツカヒモヤルヨシモナミオモホシキコトモカヨハスタマキハルイノチヲシケトセムスヘノタトキヲシラニコモリヰテオモヒナケカヒナクサムルコヽロハナシニハルハナノサケルサカリニオモフトチタヲリカササスハルノヽノシケミトヒククウクヒスノコヱタニキカスヲトメラカワカナツマストクレナヰノアカモノスソノハルサメニニホヒヽツチテカヨフラムトキノサカリヲイタツラニスクシヤリツレシノハセルキミカコヽロヲムルハシミコノヨスカラニイモネスニケフモシメラニコヒツヽソヲル》
 
曾許爾念出、【別校本云、ソコニオモヒテ、】  牟流波之美、【官本牟作v宇、點云、ウルハシミ、】
 
シナサカルは越の枕詞なり、別に注す、マスラツレスラはますらをのつれさへなり、ツネシナケレバのし〔右○〕は助語なり、カナシケクより下の四句は仁徳紀に大山守皇子の屍を菟道稚郎子皇子の御覽じてよませまたへる御歌にも望苫弊破《モトヘハ》、枳瀰烏於望臂泥《キミヲオモヒテ》、須惠弊破《スヱヘハ》、伊暮烏於望比泥《イモヲオモヒテ》、伊羅那?區《イラナケク》、曾虚珥於望比《ソコニオモヒ》、伽那志鷄區《カナシケク》、虚虚珥於望む臂《コヽニオモヒ》、云々、此御歌を取用ゐられたる歟、悲シケクは悲しくなり、イラナゲクもいらなくなり、いきほひなき心にや、假令|木賊《トクサ》椋葉《ムクノハ》などの物を瑩て後苛のなくなりたるやうの心にや、いらなくふるまひてと後にかけるは風流ならぬ體に聞ゆれば今と同じからず、コヽニ思出はこゝを思出にて我身の上を如何ならむと思ひ出るなり、彼《ソ》處ニ念出は彼處《ソコ》を思出にて故郷の事を思ひ出るなり、ヤマキヘナリテは山來隔てゝなり、トホケバは遠ければなり、スグシヤリツレは過し遣つればなり、牟流沈之美は牟を宇に作れる本然るべき歟、沈は波を誤れり、ケフモシノメラニは第十三に終をしみ(8)らとよめるに同じ、ひねもすの意なり、
 
初、しなさかるこしをさめにと 舒明紀云。十一年冬十二月己巳朔壬午|幸《イテマス》2于伊豫(ノ)温湯(ノ)宮(ニ)1。是月於2宮濟川(ノ)側《ホトリニ》1建2九重《コヽノコシノ》塔(ヲ)1。層級等の字をもこしとよめり。しなは階《ハノ》の級《コシ》なれはそれを降《クタ》りて避《サカル》心にしなさかるこしとはつゝけたり。十八、十九にも、かくのことくつゝけたり。十三、十九に、ひなさかるとよめるは、只あまさかるひなといふ心にておなしからす。ますらわれすらは、ますらをのわれさへといふ心なり。かなしけくこゝにおもひ出、いらなけくそこにおもひ出。いらなけくはいらなくとて、いきほひなき心なり。仁徳紀、菟道稚郎子皇子御歌にも、伊羅那※[奚+隹]區、曾虚珥於望比、伽那志※[奚+隹]區、虚々珥於望臂云々。そこにおもひ出はそこをおもひ出なり。山きへなりて、來隔てなり。みちのとほけは、とほけれはなり。いのちをしけと、をしけれとなり。しけみとひくゝは、とひくゝるなり。過しやりつれ、過しやりつれはなり。むるはしみ、うるはしみなり。梅をうめともむめともかくことし。波の字誤て〓に作れり。けふもしめらに。上にひるはしみらにとよめるにおなし。終の字をしみらとよめり。孤悲、孤誤作抓
 
3970 安之比奇能夜麻佐久良婆奈比等目太爾伎美等之見底婆安禮古非米夜母《アシヒキノヤマサクラハナヒトメタニキミトシミテハアレコヒメヤモ》
 
古非米夜母、【幽齋本、非作v悲、】
 
初、きみとしみては、みたらはなり
 
3971 夜麻扶枳能之氣美登※[田+比]久久※[(貝+貝)/鳥]能許惠乎聞良牟伎美波登母之毛《ヤマフキノシケミトヒククウクヒスノコヱヲキクラムキミハトモシモ》
 
3972 伊尼多多武知加良乎奈美等許母里爲底伎彌爾故布流爾許己呂度母奈思《イテタヽムチカラヲナミトコモリヰテキミニコフルニコヽロトモナシ》
 
伊尼、【官本、尼作v泥、】  爲底、【幽齋本、底作v弖、】
 
尼は泥に作るべし、
 
初、伊泥多々武 泥作尼非。こゝろともなし。上に利心とも心|鋒《ト》ともよめり。又ますらをのさときこゝろもわれはなしともよめり。おなし心なり
 
(9)三月三日大伴宿禰家持
 
初、脱持字
 
七言晩春三日遊覧一首并序
 
覽の下に詩の字あるべき歟、なきも亦あしからず、
 
初、七言晩春三日遊覽【恐脱詩字】一首并序
 
上巳名辰、暮春麗景、桃花昭v瞼以分v紅、柳色含v苔而競v緑、于v時也携v手曠2望江河之畔1、訪須※[向+しんにょう]遏2野客之家1、既而也開嵩セv性、蘭契和v光、嗟乎今日所v恨、徳星已少歟、若不2扣v寂含v章、何以※[手偏+慮]2趙遙之趣1、忽課2短筆1聊勒2四韻1云爾、
 
上巳〔二字右○〕は韓詩外傳云、鄭國之俗、三月上巳於2※[さんずい+秦]※[さんずい+有]之上1招魂續魄、秉2蘭草1祓2除不祥(ヲ)1、漢禮儀志、三月上巳、官人並禊2飲水上1謂v滌2邪疾1、沈約(ガ)宋書(ニ)云、魏已後但用2三日1、不2復用1v巳也顯宗紀云、元年三月上巳幸2後苑1、曲水宴是本朝上巳の初なり、訪須〔二字右○〕は須の字意得がたし、官本に酒に作たるも然るべしともおぼねえず、強解せば訪須を以て携手に(10)對せるは字對(ノ)例か、須は鬚と同じければ手に對すれども字義別なり、爾雅云、魚曰v須、郭璞註云、鼓v顋(ヲ)須v息、※[刑の旁がおおざと]※[日/丙](カ)疏(ニ)云、魚之鼓2動兩※[月+思]1若d人(ノ)之欠須2導其氣息1者u名v須(ト)、かゝれば魚の須息によせて休息すべき處を訪てと云意歟、開〓〔二字右○〕、官本に開を琴に作れり蘭契〔二字右○〕は契は禊なるべし、徳星已少歟〔五字右○〕は異苑陳※[うがんむり/是]字(ハ)仲弓、荀淑字(ハ)季和、仲弓(ト)與2諸子姪1造2季和1、父子討論、于v時徳星聚、太史奏曰、五百里内有2賢人聚1、家持を闕故に已少歟と云へり、若不扣寂含章〔六字右○〕、文選陸士衡、叩2寂莫(ヲ)1、求v音(ヲ)、注云叩2撃無聲之外1而求2音韻1、寂莫無聲也、叩與v扣同、左太沖蜀都賦云、楊雄含v章而挺v生、聊勒四韻〔四字右○〕、釋名云、勒刻也、刻2識之1也、
 
初、上巳名辰 漢禮儀志、三月上巳官人並禊2飲水上1。謂v滌2邪疾1已去祈2介※[示+止]1也。魏已後但用2三日1不2復用1v巳《ミヲ》。風俗通云。巳(ハ)者※[示+止]也。携手、李陵詩云。携v手上2河梁(ニ)1。訪須【須者友耶。】廻作※[しんにょう+向]非。蘭契和v光、易云。同心之言其(カ)臭如v蘭。老子云。和2其光1同2其塵1。是謂2玄同1。徳星、異苑陳寔字仲弓。 
荀淑字季和。仲弓與2諸子姪1造《イタテ》2季和1父子討論。于v時徳星聚。太夫奏曰。五百里内有(ム)2賢人(ノ)聚1。扣寂、文選陸士衡文賦云。叩2寂莫1求v音。注曰叩2撃無聲之外(ヲ)1而求2音韻(ヲ)1。寂莫(ハ)無聲也。叩與v扣同。逍遥【逍誤作趙。】詩云。伊《コノ》人於焉逍遥(ス)。莊子逍遥遊
 
餘春媚日宜2怜賞1、       上巳風光足2覽遊1、
楊陌臨v江縟2※[衣+玄]服1、  桃源通v海泛2仙舟1、
雲※[田三つ/缶]酌v桂三清湛、 羽爵催v人九曲流、
縱v醉陶v心忘2彼我1、      酩酊無3處不2淹留1、
 
(11)三月四日大伴宿禰池主
 
縟2※[衣+玄]服1〔三字右○〕、顔延年(カ)曲水(ノ)序云、※[衣+玄]服縟v川、左太沖蜀都賦注蘇林(カ)曰、※[衣+玄]服謂2盛服1也、説文云、縟繁彩色也、桃源〔二字右○〕、陶淵明桃花源記云々、通海〔二字右○〕、博物志云、天河與v海通、泛2仙舟1〔三字右○〕、後漢郭泰字林宗、始見2河南尹李膺1、々大奇v之、後歸2郷里1、諸儒送至2河上1、車數千兩、林宗唯與v膺同v舟而|濟《ワタル》、賓客望v之、以爲2神仙1焉、雲罍〔二字右○〕、詩(ノ)卷耳云、我姑酌2彼金罍(ヲ)1、維以不2永懷1、史記梁孝王世家曰、初孝王在時有2罍樽山1、【鄭徳曰、上蓋刻爲雲雷象、索隱曰、應劭曰、詩云、酌彼金罍、々有d畫2雲雷之象1以v金飾uv之、】和名云、櫑子、唐韻云、櫑、【音與雷同、字亦作v罍、本朝式云、櫑子、】酒器也、酌桂〔二字右○〕、楚辭九歌云、奠2桂酒1兮椒漿(ナリ)、羽爵〔二字右○〕、應休※[王+連]與2滿公※[王+炎]1書(ニ)云、繁爼綺錯羽爵飛騰、註善曰、漢書音義云、羽觴作2生爵形1、九曲〔二字右○〕は遊仙窟云、樹(ノ)※[病垂/嬰〕蝎(ノ)唇九曲(ノ)酒池【九曲者、其※[病垂/嬰〕九廻、盤曲、形如2九曲1、】陶心〔二字右○〕、爾雅(ニ)欝陶?(ハ)喜也、註、孟子曰、欝陶思v君、禮紀曰、人喜則斯(ニ)陶々斯(ニ)詠詠斯(ニ)猶々即?也、古今字耳疏、欝陶者、心初悦而未v暢之意也、又云、禮記鄭註云、欝陶(ハ)陶也、劉伶酒徳頌云、無v思無v慮、其樂陶々、酩酊〔二字右○〕、韻會云、醉甚貌、通作2茗※[草がんむり/丁]1、晋山簡傳云、茗※[草がんむり/丁]無v所v知、
 
初、縟絃服 説文云。縟繁栄色也。文選鄒陽上2呉王1書云。夫(レ)金趙之時、武力鼎士、※[衣+玄]2服叢臺之下1者、一旦成v市、不v能v止2幽王之沈患(ヲ)1。左太沖蜀都賦云。都人士女|※[衣+玄]絃服(ソ)親粧(ト)《・ヨソホヒヨソホフ》。蘇林曰。※[衣+玄]服謂盛服也。※[衣+玄]苦練反。萌延年曲水序云。※[衣+玄]服縟川。桃源通海。博物志云。天河輿v海通。泛2仙舟1。後漢郭太字林宗〇始見2河南尹李膺1。々大奇v之。〇後歸2郷里1。諸儒送至2河上1車數千兩。林宗唯與v膺同v舟而濟。賓客望v之以爲2神仙1焉。雲罍。詩卷耳曰。我姑酌2彼金罍1維以不2永懷1。集注云。罍酒器。刻爲2雲雷之象1。以2黄金1飾(ル)v之(ヲ)。史記梁孝王世家云。初孝王在時有2罍樽1。【鄭徳曰。上蓋刻爲2雲雷象1。〇索隱曰。應劭曰。詩云。酌彼金罍1。々有v畫2雲雷之象1。以v金飾v之。】和名集云。唐韻云。櫑【音與雷同。字亦作v罍、本朝式云櫑子。】酒器也。酌桂。謝惠連雪賦云。酌2桂酒1兮揚2清曲1。秘府論側對例詩曰。忘v懷接2英彦1申v歡引2桂酒1。羽爵、文選應休※[王+連]與2滿公※[王+炎]1書云。繁爼綺(ノ如ニ)錯《マシハテ》羽爵飛騰(ス)。張衡西京賦云。羽觴行(リテ)而無v算。善曰。漢書音義曰。羽觴作2生爵形1。良曰。杯上綴v羽以速飲也。陶心。酒徳頌云。無v思無v慮、其樂陶々。唐崔曙九日登2仙臺1呈2劉明府1詩落句云。陶然一酔2菊華盃1。酪酊。世説曰。山季倫爲2荊州1時出酣暢。人爲v之歌曰。山公時一醉、径造2高陽池1、日|莫《ホ》倒載(シテ)歸、茗※[草がんむり/丁]無v所v知。茗※[草がんむり/丁]與2酩酊1同。死罪、遊仙窟曰。伏(シ)v地叩(キ)v頭(ヲ)慇懃(ト)死罪。日本紀訓與2遊仙窟1同
 
三月四日大伴宿禰池主
 
(12)昨日述2短懷1、今朝※[さんずい+于]2耳目1、更承2賜書1且奉2不次1、死罪謹言、
 
初の一句は三日に詩并に序を作るなり、次の一句は今朝家持に見せんと思ひて清書するなるべし、次の二句は家持の更贈歌の奧に三日とあれば三日に贈られたれども上巳の禊に出て醉て還り次の朝返書を遣はすべき次第なるに、先昨日の詩并序を皇し其後此返事返歌を遣はす故に不次とは云なり、死罪〔二字右○〕、遊仙窟云、伏v地叩v頭、慇懃死罪、日本紀にもカシコマルと點ぜり、
 
初、昨日述短懷とは上の三月四日の書并詩なり。今朝※[さんずい+于]耳目とは後家持よりの歌并詩到來せるゆへに又其答書をかき、返哥をして五日につかはすゆへなり
 
不v遺2下賤1、頻惠2徳音1、英雲(ノ)星氣、逸調過v人、智水仁山、既※[韋+温の旁]2琳瑯之光彩1、潘江陸海、自坐2詩書之廊廟1、※[娉の女が馬]2思非常1、託2情有理1、七歩成v章、數篇滿v紙巧遣2愁人之重患1、能除2戀者之積思1、山柿謌泉、比v此如v蔑、彫龍筆海、粲然得v看矣、方知2僕之有1v幸也、敬和v歌、其詞云、
(13)徳音〔二字右○〕は第五に注するが如し、智水仁山〔四字右○〕、論語(ニ)子曰、智者樂(ミ)v水(ヲ)仁者(ハ)樂v山(ヲ)、琳瑯〔二字右○〕(ハ)美玉(ノ)名、潘江陸海〔四字右○〕、潘岳陸機が才を江海に喩ふるなり、沈約宋書謝靈運傳(ノ)論(ニ)云、降及2元康1、潘陸特(リ)秀(タリ)云々、廊廟〔二字右○〕、文選潘安仁詩、廊廟惟清、李善(ガ)曰、史記(ニ)曰、賢人深謀2於廊廟(ニ)1、爾雅曰、室有2東西廂1、曰v廟、捷爲舍人曰、殿有2束西(ノ)小堂1也、然廊廟(ハ)君之居臣朝覲(ノ)之所、七歩〔二字右○〕(ハ)世説云、魏文帝甞令d東阿王七歩(ニ)作uv詩、作不v成當v行v法、即應v聲爲v詩曰、箕在2釜下1然、豆在2釜中1泣、本自同根(ヨリ)生、相煎何太急、帝探有2慙色1、雕龍〔二字右○〕、史記孟荀列傳云、※[馬+鄒の左]衍(ガ)之術(ハ)迂大而閑辯(ナリ)、〓文具(テ)難v施、淳于※[髪の友が几]久(ク)與(ニ)處時有v得2善言1、故齊人頌曰、談v天(ハ)衍、雕v龍(ハ)〓、炙2轂過1※[髪の友が几]、【徐広曰、劉向別録曰、※[馬+鄒の左]衍之所v言五徳終始、天地広大、盡言2天事1、故曰2談天1、※[馬+鄒の左]〓脩2歌2衍之文1飾若v雕2鏤龍文1、故曰2雕龍1、】筆海〔二字右○〕、李善上2文選註1表曰。※[塞の土が手]2中葉(ノ)之詞林(ヲ)1酌2前脩(ノ)之筆海1、粲然〔二字右○〕、詩粲々(タル)衣服、毛傳云、粲々鮮潔也、
 
初、徳音 詩谷風云。徳音莫(ハ)v違(コト)及《ト》v爾同(セム)v死(ヲ)。李少卿答2蘇武1書尾曰。時因2北風1、復惠(メ)2徳音(ヲ)1。英雲星氣。智水仁山。論語云。子曰知者樂v水仁者樂v山。琳瑯。釋氏要覧云。慧苑琳瑯【隋(ノ)高僧志念有學名當時號也。】なをかんかふへし。潘江陸海。沈休文宋書謝靈運傳論(ニ)降及2元康1潘陸特(リ)秀(タエイ)。廊廟。潘安仁詩、器非2廊廟姿1。又云、廊廟惟清。史記張釋之馮唐列傳賛云。二君之所2稱誦1可v著《シルシツ》2廊廟(ニ)1。七歩。世説云。魏文帝甞令2束阿王(ヲシテ)七歩作1v詩、作不v成當v行v法。尋應v聲爲v詩曰。※[草がんむり/其]在2釜下1然。豆在2釜中1泣。本自同根生、相煎何太急。帝深有2愁色1、東阿即陳思王曹植舊封。彫龍。史記孟荀列傳云。※[馬+鄒の左]衍之術(ハ)迂大而※[門/宏のうがんむりなし]辯。〓(ハ)也文具難v施。淳于※[髪の友が几]久與(ニ)處(ハ)時有v得2善言1。故齊人頌曰、談v天衍。雕v龍〓。炙2轂過1※[髪の友が几]。【徐廣曰。劉向別録曰。※[馬+鄒の左]衍之所v言五徳終始天地廣大盡言2天事1。故曰2談天、※[馬+鄒の左]1。〓脩2衍之文1飾若v雕2鏤龍文1故曰v雕v龍。】文選江淹別賦云。賦有2※[さんずい+陵の旁]之稱1辯有2雕龍之聲1、※[言+巨]能※[莫/手]2暫※[禹+隹]之状1寫2永訣之情1者乎。任彦升宣徳皇后令曰。文擅(ニスレトモ)2雕龍1、成(ハ)輒(ハチ)削(ル)v藁(ヲ)。筆海。李善上2文選註1表曰。※[塞の土が手]《トツテ》2中葉(ノ)之詞林(ヲ)1酌2前脩(ノ)之筆(ノ)海(ヲ)1
 
3973 憶保枳美能彌許等可之古美安之比奇能夜麻野佐波良受安麻射可流比奈毛乎佐牟流麻須良袁夜奈爾可母能毛布安乎爾余之奈良治伎可欲布多麻豆佐能都可比多要米也己母理古非伊枳豆伎和多利之多毛比余奈氣可布和賀勢(14)伊爾之敝由伊比都藝久良之餘乃奈加波可受奈枳毛能賀奈具佐牟流巳等母安良牟等佐刀妣等能安禮爾都具良久夜麻備爾波佐久良婆奈知利可保等利能麻奈久之婆奈久春野爾須美禮乎都牟等之路多倍乃蘇泥乎利可弊之久禮奈爲能安可毛須蘇妣伎乎登賣良波於毛比美太禮底伎美麻都等宇良呉悲次奈里巳許呂具志伊謝美爾由加奈許等波多奈由比《オホキミノミコトカシコミアシヒキノヤマノサハラスアマサカルヒナモヲサムルマスラヲヤナニカモノモフアヲニヨシナラチキカヨフタマツサノツカヒタエメヤコモリコヒイキツキワタリシタモヒヨナケカフワカセイニシヘユイヒツキクラシヨノナカハカスナキモノカナクサムルコトモアラムトサトヒトノアレニツクラクヤマヒニハサクラハナチリカホトリノマナクシハナクハルノノニスミレヲツムトシロタヘノソテヲリカヘシクレナヰノアカモスソヒキヲトメラハオモヒミタレテキミマツトウラコヒスナリコヽロクシイサミニユカナコトハタナユヒ》
 
可受奈枳毛能賀、【刊本賀作v曾、點應之、】  佐刀妣等能、【幽齋本、妣作※[田+比]、】  宇良呉悲次奈里、【幽齋本、次作v須、里作v理、】
 
之多毛比余は下思よりなり、徒を乎とも爾とも用たれば、下思にの意なり、宇良呉悲次奈里は幽齋本に次を須に作れるに依るべし、落句は言者|棚結《タナユヒ》の意歟、言には思ふ事の云ひ盡されねば始終を結びて暗《ソラ》に推量れと云意にや、
 
初、なにかものもふ 何かものおもふなり。ならちきかよふ。奈良路來かよふなり。こもりこひ、こもりゐてこふるなり。したもひよ、したおもひよりなり。なけかふわかせ、なけくわかせなり。家持をさせり。かほとりのまなくしは鳴。第三、第六、第十にも、かくよめり。うらこひすなり。下に戀をするなり。次は五音相通にてかける歟。もしは須の草書なとのまきれたる歟。こゝろくしは、心くるしなり。ことはたなゆひ。第十三に、ことはたなしりともよめり。第一、第九に、身はたなしらすともよめり。こゝに許等波多奈由比とかきたれとも、多奈伊比にや。雲霞のたな引といふに、輕引とかけるをおもふに、輕言といふ心に、謙退して、かろ/\しく申すといへるにや。此哥初より玉つさのつかひたえめやといふまては家持をなくさめ、こもりこひといふよりよのなかはかすなきものかといふまては、家持のわつらはるゝを、ともになけき、なくさむることもあらむとゝいふより、君まつとうらこひすなりといふまては、人のことはをあけて、心くしいさみにゆかなは、家持をもよほして野遊に.いさなふなり
 
(15)3974 夜麻夫枳波比爾比爾佐伎奴宇流波之等安我毛布伎美波思久思久於毛保由《ヤマフキハヒニヒニサキヌウルハシトアカモフキミハシクシクオモホユ》
 
初の二句は下の三句を發起すれば詩の興の體なり、山吹の日々に咲まさる如くうるはしと我思ふ君はしく/\に思ほゆるとなり、家持のかへしを合せて案ずるに折て贈れるなり、
 
初、やまふきは日に/\さきぬ これは興の心あり。日に/\さきぬといひて、しく/\おもほゆといふ心をおこせり。山ふきの花の日に/\咲ことく、わかおもふ君は、かさね/\おもはるゝとなり
 
3975 和賀勢故爾古非須弊奈賀利安之可伎能保可爾奈氣加布安禮之可奈思母《ワカセコニコヒスヘナカリアシカキノホカニナケカフアレシカナシモ》
 
ナゲカフは歎なり、蘆垣の外に嘆とは病者に頻々對面せむ事のかたければなり、掾にして守を敬の心歟とも云べけれど下の家持の和歌に蘆垣の外にも君がよりたゝし戀けれこそはとあれば只初の心のみなるべし、
 
初、わかせこにこひすへなかり 第十二にも、わきもこにこひすへなかりとよめり。あしかきのほかになけかふとは、家持は守にして池主は椽なれは、卑下していへり
 
三月五日大伴宿禰池主
 
(16)昨暮來使幸也、以垂2晩春遊覽之詩1、今朝累信辱也、以※[貝+兄]2相招望v野之歌1、一看2玉藻1、稍寫2鬱結1、二吟2秀句1已※[益+蜀]2愁緒1、非2此眺翫1孰能暢v心乎、但惟下僕、稟性難v彫、闇神靡v瑩、握v翰腐v毫、對v研忘v渇、終日因流綴v之不v能、所v謂文章天骨、習之不v得也、豈堪3探v字勒v韻叶2和雅篇1哉、抑聞2鄙里少兒1、古人言無v不v酬、聊裁2拙詠1、敬擬2解咲1焉、 如令賦v言勒v韻、同2斯雅作之篇1、豈殊將v石間v瓊、唱v聲遊2走曲1歟、抑小兒譬2※[にすい+監]※[言+餡の旁]敬寫2葉喘1式擬v亂曰、
 
難彫〔二字右○〕は、論語云、子曰朽木不v可v離也、因流綴之〔四字右○〕は淵明(ガ)歸去來辭(ニ)云、臨2清流1而賦詩、文章天骨〔四字右○〕、天然風骨なり、古人言無v不v酬〔六字右○〕、毛詩云、無2徳不1v讎、蕪2言不1v報、抑小兒譬濫諂〔六字右○〕、是は上に抑聞鄙里少兒と云を指歟、葉端〔二字右○〕は紙端なり、擬亂〔二字右○〕、史記屈賈列傳索隱云、王師叔云、(17)亂者理也、所d以發2理辭指1總2撮其要1而重理(テ)c前意u也、今按楚辭九章抽思有2少歌倡亂1、右の書一首の内いまだ考へざる事ありいまだ其意を得ざる事あり
 
初、玉藻 文選陸士衡文賦序云。故作2文賦1以述2先士之盛藻1。注善曰。孔安國尚書傳曰。藻水草之有v文者。故以喩v文焉。難彫。論語云。宰予晝寢。子曰朽木不v可v雕也。糞土之牆不v可v※[土+巧の旁]也。於v予與何|誅《セメン》。勒。釋名曰。勒刻也。刻識v之也。古人言無v不v酬【作※[酉+羽]非。】毛詩曰。無(ク)2徳(トシテ)不1v報、無(シ)2言(トシテ)不1v酬(ヒ)。禮記曰。詩曰。無2言(トシテ)不1v讎、無2徳(トシテ)不1v報。解咲、解頤也。遊走。張平子東京賦云。走雖2不敏(ナリト)庶斯(レ)達矣。【今案走下疑脱2一之字1耶】式擬亂曰。史記屈賈列傳索隱云。王師叔云。亂者理也。所3以發2理辭指1。總撮2其要1而重|理《ヲサムルナリ》2前意1也
 
七言一首
 
來韻をば和せずして別に押されたり、
 
抄春餘日媚景麗  初巳和風拂自輕
來燕銜v泥賀宇入  歸鴻引v蘆※[しんにょう+向]赴v瀛、
聞君嘯侶新流曲  禊飲催v爵泛2河清1、
雖v欲v追2尋良此宴1、  還知染※[こざと+奧]脚※[足+令]※[足+丁]
 
玉篇云、※[木+少]〔右○〕【彌紹切、木末也、】禮記云、冢宰制2國用1必於2歳之※[木+少]1、文選謝靈運詩云、※[木+少]秋尋2遠山1、賀宇〔二字右○〕、淮南子云、湯沐具而※[虫+幾]虱相弔、大厦成而燕雀相賀、引蘆〔二字右○〕、又云、雁銜v蘆而翔以避2※[矢+曾]※[糸+激の旁]1、嘯侶〔二字右○〕、文選曹子建名都篇云、鳴v儔嘯2匹侶1、呂延濟曰、鳴嘯(ハ)皆命呼也、儔匹侶(ハ)皆友朋也、良此宴〔三字右○〕、古詩云今日(ノ)良宴會、染※[こざと+奧]〔三字右○〕、玉篇云、襖【烏到切、浦※[こざと+奧]也、水涯也、又藏也、】※[足+令]※[足+丁]〔二字右○〕は切韻云、音令※[木+聖]、行不v正、水(18)涯の濕氣に中りて脚ひるみて※[足+令]※[足+丁]せむ事を恐れて良宴を追はずと云にや、
 
初、※[木+少]春 玉篇云。玉篇云、※[木+少]【彌紹切。木末也。】禮記曰云。冢宰制(スルコト)2國用(ヲ)1必(ラス)於(ス)2歳(ノ)之|※[木+少]《スエニ》1。文選謝靈運詩、※[木+少]《スエノ》秋尋(ヌ)2遠山(ヲ)1。賀宇。淮南子曰。湯沐具而※[虫+幾]虱相弔、大厦成而燕雀相賀。引蘆。淮南子曰。雁※[銜の金が含]v蘆而翔、以避2※[矢+曾]※[糸+激の旁]1。嘯侶【侶疑〓耶。】禊飲。蘭亭記云。脩2禊事1也。注云。禊者潔也。良此宴。古詩云。今日(ノ)良宴會。染※[こざと+奧]【疑懊耶。】未考。※[こざと+奧]【烏到切、浦※[こざと+奧]也。水涯也。又藏也。】班孟堅西都賦云。防禦之阻、天地之※[こざと+奧]【烏號】區。善云。※[こざと+奧](ハ)四方之土可2定居1者也。濟曰。※[こざと+奧]猶2深險(ノ)1也。日本紀に墺區をもなかとよめり。※[こざと+奧]と通する歟。※[足+令]※[足+丁]、切韻音令※[木+聖]。行不(ルナリ)v正(カラ)
 
短歌二首
 
長歌に對せざれども短歌と云證なり、
 
3976 佐家理等母之良受之安良婆母太毛安良牟巳能夜萬夫吉乎美勢追都母等奈《サケリトモシラスシアラハモタモアラムコノヤマフキヲミセツヽモトナ》
 
知ラズシのし〔右○〕は助語なり、
 
3977 安之可伎能保加爾母伎美我余里多多志孤悲家禮許曾婆伊米爾見要家禮《アシカキノホカニモキミカヨリタヽシコヒケレコソハイメニミエケレ》
 
第四の句は戀ければこそはなり、
 
三月五日大伴宿禰家持臥v病作之
 
(19)述2戀緒1歌一首并短歌
 
3978 妹毛吾毛許己呂波於夜自多具弊禮登伊夜奈都可之久相見婆登許波都波奈爾情具之眼具之毛奈之爾波思家夜之安我於久豆麻大王能美許登加之古美阿之比奇能夜麻古要奴由伎安麻射加流比奈乎左米爾等別來之曾乃日乃伎波美荒璞能登之由吉我弊利春花乃宇都呂布麻泥爾相見禰婆伊多母須弊奈美之伎多倍能蘇泥可弊之都追宿夜於知受伊米爾波見禮登宇都追爾之多太爾安良禰婆孤悲之家口知弊爾都母里奴近在者加弊利爾太仁母宇知由吉底妹我多麻久良佐之加倍底禰天蒙許萬思乎多麻保己乃路(20)波之騰保久關左閑爾弊奈里底安禮許曾與思惠夜之餘志播安良武曾霍公鳥來鳴牟都奇爾伊都之加母波夜久奈里那牟宇乃花能爾保弊流山乎余曾能未母布里佐氣見都追淡海路爾伊由伎能里多知青丹吉奈良乃吾家爾奴要鳥能宇良奈氣之都追思多戀爾於毛比宇良夫禮可度爾多知由布氣刀比都追吾乎麻都等奈須良牟妹乎安比底早見牟《イモヽワレモコヽロハオヤシタクヘレトイヤナツカシクアヒミレハトコハツハナニコヽロクシメクシモナシニハシケヤシアカオクツマオホキミノミコトカシコミアシヒキノヤマコエノユキアマサカルヒナヲサメニトワカレコシソノヒノキハミアラタマノトシユキカヘリハルハナノウツロフマテニアヒミネハイトモスヘナミシキタヘノソテカヘシツヽヌルヨオチスイメニハミレトウツヽニシタヽニアラネハコヒシケクチヘニツモリヌチカクアラハカヘリニタニモウチユキテイモカタマクラサシカヘテネテモコマシヲタマホコノミチハシトホクセキサヘニヘナリテアレコソヨシヱヤシヨシハアラムソホトヽキスキナカムツキニイツシカモハヤクナリナムウノハナノニホヘルヤマヲヨソノミモフリサケミツヽアフミチニイユキノリタチアヲニヨシナラノワキヘニヌエトリノウラナケシツヽシタコヒニオモヒウラフレカトニタチユフケトヒツヽワレヲマツトナスラムイモヲアヒテハヤミム》
 
春花乃、【幽齋本、乃作v之、】  都奇爾、【官本、奇或作v棄、】
 
初の二句は一篇の大意を括てオヤシ句絶なり、次の二句は常にたぐひて住てはめづらしかるまじきことわりなるに、いとゞなつかしきなり、次二句は見る度に常に初花の如く思はるゝなり、永縁僧正の聞郭公をいつも初音のこゝちこそすれとよまれたるが如し、次の二句は心苦しくも見苦しくもなしになり、アガオクツマは我居置妻なり、伊多母はイタモと讀ていともと意得べし、第十五の終の歌の落句に此(21)あるにはイタモと點ぜり、ウツヽニシのし〔右○〕は助語なり、カヘリニダニモは第六に注せり、ミチハシトホクは道は遠くにてし〔右○〕は助語歟、或は間をはし〔二字右○〕とよめば道の間遠くとよめる歟、次の二句アレコソはあればこそ行ても得あはねと云意にて句絶なり、ヨシハアラムゾとは逢由のあらむぞとなり、是は五月に正税帳を以て京に入べき故なり、下に見えたり、イツシカモはいつか、淡海路ニイユキノリタチは伊は發語の詞、舟に乘立なり、吾乎麻都等はアヲマツトと讀べし、奈須良牟妹乎は須と久と同韻にて通ずれば泣らむ妹と云歟、第十九に安寢不令宿をヤスイシナサデと點じたれば古事記上に沼河比賣の歌に、麻多麻傳《マタマデ》、多麻傳佐斯麻岐《タマデサシマキ》、毛毛那賀爾《モモナガニ》、伊波那佐牟遠《イハナサムヲ》云々、又須勢理※[田+比]賣の歌にも此句どもあり、伊波那佐牟遠を伊遠斯那世《イヲシナセ》とありなすとは寢るを云歟、然らば我を待と待侘て寢むずる妹をと云にや、
 
初、いもゝわれも心はおやし 心はおなしなり。たくへれとゝは夫婦とさたまりて相|割《タクヘ》ともなり。心くしめくしもなしに。心くるしくも見くるしくもなきなり。第九に、筑波山※[女+燿の旁]歌會をよめる哥に、けふのみはめくしもみるなとよみしもこれなり。あかおくつま、妻にすゑおくなり。伊多《イタ》もすへなみ、いともすへなみといふにおなし。第十三に、此長月の過まくをいたもすへなみといひ、第十四にも、なみのほのいたふらしもよといひ、第十五の終にも、あかもふ心いたもすへなしとよめり。ちかくあらはかへりにたにもうちゆきて。ゆきてほとなく歸るをかへりにたにもといへり。世俗に一夜とまりにゆく、あるひは立歸りにゆきてこんなといふたくひなり。第六にもおなし家持の哥に
  關なくはかへりにたにも打ゆきていもか手枕まきてねましを
道はし遠く、道は遠くなり。しは助語なり。俊頼の哥には、道橋遠くとよまれたり。せきさへにへなりてあれこそ。關さへ道の遠きうへに隔てあれはこそえかへらねといふ心なり。こその下句なり。よしはあらんそ。あふよしはあらむそなり。うの花のにほへる山を。第十にうの花山とよみ、此卷下にいたりて池主の長哥にも、うの花山といへるは、みな卯花のさける山をおしてさはいへりとは、これらによりてもしるへし。あふみちにいゆきのりたち。これは馬もあれと、あふみの海を舟にのるなり。ぬえ鳥のうらなげしつゝ。第一にも、奴要子鳥、卜歎居者とよみ、第十にも奴延鳥之、裏|歎座《ナケマシ》津。又奴延鳥浦|嘆居《ナケヲルト》とよめり。したなけきをるといふ心なり。第五に、ぬえ鳥の喉呼《ノトヨヒ》をるにとよめるはつぶやくやうに、のとこゑになくをいへり。こゝに宇良奈氣之都追とあると、第一、第十に歎といふ字を用たるとかなへり。うらなげくなり。うらなくといふにはあらす。末にてはひとつなり。わをまつとなすらん妹を、なくらん妹なり。久と須と同韵にて通するなり。長流か抄にわれを待身と成らん妹といふ詞なりとかけり。さも侍るへし
 
3979 安良多麻乃登之可弊流麻泥安比見禰婆許巳呂毛之努爾於母保由流香聞《アラタマノトシカヘルマテアヒミネハコヽロモシノニオモホユルカモ》
 
3980 奴婆多麻乃伊米爾波母等奈安比見禮騰多太爾安良禰婆(22)孤悲夜麻受家里《ヌハタマノイメニハモトナアヒミレトタタニアラネハコヒヤマスケリ》
 
3981 安之比奇能夜麻伎弊奈里底等保家騰母許己呂之遊氣婆伊米爾美要家里《アシヒキノヤマキヘナリテトホケトモココロシユケハイメニミエケリ》
 
3982 春花能宇都路布麻泥爾相見禰婆月日餘美都追伊母麻都良牟曾《ハルハナノウツロフマテニアヒミネハツキヒヨミツヽイモマツラムソ》
 
右三月二十日夜裏忽兮起2戀情1作、大伴宿禰家持
 
立夏四月、既經2累日1、而由未v聞2霍公鳥喧1、因作恨歌二首
 
立夏四月と云は四月節なり、下注に三月廿九日とあり、上に廿日とありて、既經累日と云は二十四五日に立夏の有けるなるべし、
 
3983 安思比奇能夜麻毛知可吉乎保登等藝須都奇多都麻泥爾(23)奈仁加吉奈可奴《アシヒキノヤマモチカキヲホトヽキスツキタツマテニナニカキナカヌ》
 
3984 多麻爾奴久波奈多知波奈乎等毛之美思巳能和我佐刀爾伎奈可受安流良之《タマニヌクハナタチハナヲトモシミシコノワカサトニキナカスアルラシ》
 
腰句は花橘を少なしと我思ひし里に郭公のなかぬはことわりなりと云歟、又思は爲にて郭公の心に花橘を少なしとしてとよめる歟、二首の意自注に見えたり、
 
初、花橘をともしみし 越中なれは、柑類すくなきなり
 
霍公鳥者立夏之日來鳴必定、又越中風土希v有2橙橘1也、因v此大伴宿祢家持感發2於懷1、聊裁2此歌1、 三月二十九日
 
立夏の日鳴と云事是を證すべし、十八十九にもみえたり、第十に春さればすがるなく野の霍公鳥とよみ新撰萬葉集に郭公なき立春の山べには沓代いたさぬ人やすむらむとあるも、春の内に郭公をよめり、文選呂安與2※[禾+(尤/山)]叔夜1書云、今將v植2橘柚(ヲ)於玄朔1、李善(カ)曰、曹植(カ)橘賦曰、背(キ)2江州(ノ)之氣※[火+爰]1處2玄朔之肅清1、
 
初、希有橙橘也 和名集云。燈、七卷食經云。橙【宅耕反。和名阿倍太知波奈】似v柚而小者也。文選趙景眞與2※[(禾+尤)/山)]茂齊1書云。又北土(ノ)之性、難2以託(ケ)1v根(ヲ)。投(ルニ)2人(ニ)夜光(ヲ)1鮮v不(トイフコト)v按《トリシハラ》v劍(ヲ)。今將d植2橘柚(ヲ)於玄朔(ニ)1、蔕《ホソツケ》2華藕於脩陵(ニ)1、表(シ)2龍章於裸壤(ニ)1、奏(セント)c※[音+召]武於聾俗(ニ)u、固難2以取1v貴矣
 
(24)二上山賦一首 此山者有2射水郡1也
 
子夏詩序云、詩有2六義1焉、一曰風、二曰賦云々、注に賦者敷2陳其事1直言v之(ヲ)者也、班固兩都賦序云或曰、賦者古詩之流也、注の中の有は在に作るべし、射水郡は國府此郡にあり、舊事本紀第十に伊彌頭國造云々、此も射水なり、
 
初、二上山賦一首 卜商詩序云。故詩有2六義1焉。一曰風。二曰賦云々。注云。賦者敷2陳其事1而直言之者也。詩序疏日。賦之言鋪。直陳2今之政善教惡1。班固兩都賦序云。或曰。賦者古詩之流也。釋名云。敷2布其義1之(ヲ)賦1。此山者有【有當2改作1v在】
 
3985 伊美都河泊伊由伎米具禮流多麻久之氣布多我美山者波流波奈乃佐家流左加利爾安吉能葉乃爾保弊流等伎爾出立底布里佐氣見禮婆可牟加良夜曾許婆多敷刀伎夜麻可良夜見我保之加良武須賣可未能須蘇未乃夜麻能之夫多爾能佐吉乃安里蘇爾阿佐奈藝爾餘須流之良奈美由敷奈藝爾美知久流之保能伊夜麻之爾多由流許登奈久伊爾之(25)弊由伊麻乃乎都豆爾可久之許曾見流比登其等爾加氣底之努波米 《イミツカハイユキメクレルタマクシケフタカミヤマハハルバナノサケルサカリニアキノハノニホヘルトキニイテタチテフリサケミレハカムカラヤソコハタフトキヤマカラヤミカホシカラムスメカミノスソミノヤマノシフタニノサキノアリソニアサナキニヨスルシラナミユフナキニミチクルシホノイヤマシニタユルコトナクイニシヘユイマノヲツヽニカクシコソミルヒトコトニカケテシノハメ》
 
イユキメグレルは伊は例の發語の詞なり、神カラ、山カラは上にとく出にき、スメカミとは二上山を神と云なり、スソミはすそはの如し、すそめぐりなり、イマノヲツヽは第五に注しつ、此次に短歌或反歌ありけむが落たる歟、
 
初、いみつかはいきゆめくれる いゆきのいは發語の辭なり。かむからやそこはたふとき。光仁紀云。寶亀十一年十二月甲辰、越中國射水郡二上神、礪波郡高瀬神並叙2從五位下1。神の威徳にてやそこはくたふときとなり。第二にも人丸の哥に、玉もよきさぬきの國はくにからかみれともあかぬ。神からかこゝはかしこきといへり。すめ神のすそみの山のしふたにのさきのありそに。すめ神とは、二上山をやかて神といへり。しふたにの山はそのすそにありて、その崎をしふたにのさきといへり。ゆふなきにみちくるしほのいやましに。第四に
  あしへよりみちくる塩のいやましにおもふか君かわすれかねつゝ
第十二、第十三にもおなしやうによめり。いまのをつゝには、いまのうつゝにて、今の現在なり。第五に、山上憶良の哥に、かんなからかむさひいます、くしみたま、今のをつゝにたふときろかも
 
3986 之夫多爾能佐伎能安里蘇爾與須流奈美伊夜思久思久爾伊爾之弊於母保由《シフタニノサキノアリソニヨスルナミイヤシクシクニイニシヘオモホユ》
 
3987 多麻久之氣敷多我美也麻爾鳴鳥能許惠乃孤悲思吉登岐波伎爾家里《タマクシケフタカミヤマニナクトリノコヱノコヒシキトキハキニケリ》
 
十八十九にも二上山に霍公鳥をよめれば今鳴鳥と云は霍公鳥なり、
 
初、玉くしけふたかみ山になく鳥の 三月三十日の哥なれは、此鳥といへるはほとゝきすなるへし
 
右三月三十日依v興作v之、大伴宿禰家持
 
(26)四月十六日夜裏遙聞2霍公鳥喧1述懷歌一首
 
3988 奴婆多麻能都奇爾牟加比底保登等藝須奈久於登波流氣之佐刀騰保美可聞《ヌハタマノツキニムカヒテホトヽキスナクオトハルケシサトトホミカモ》
 
右大伴宿禰家持作之
 
大目秦忌寸八千島之舘餞2守大伴宿禰家持1宴歌二首
 
初、大目 令義解云。上國目一人。掌d受v事|上(ケ)《・ノセ》抄《シルシ》勘2署文案1※[手偏+僉]2出稽失1讀c申(コトヲ)公文u
 
3989 奈呉能宇美能意吉都之良奈美志苦思苦爾於毛保要武可母多知和可禮奈婆《ナコノウミノオキツシラナミシクシクニオモホエムカモタチワカレナハ》
 
3990 和我勢故波多麻爾母我毛奈手爾麻伎底見都追由可牟乎於吉底伊加婆乎思《ワカセコハタマニモカモナテニマキテミツヽユカムヲオキテイカハヲシ》
 
右守大伴宿禰家持以2正税帳1須v入2京師1、仍作2此謌1聊陳2(27)相別之歎1、 四月二十日
 
遊2覽布勢水海1賦一首并短歌【此海者有2射水郡舊江村1也、】
 
注の中の有は在に作るべし、布勢は延喜式に射水郡布勢神社、和名に布西とあり舊江村は和名に古江【布留江、】
 
初、遊覽布勢水海 延喜式載2布勢神社1此海者有【有當改作1v在】
 
3991 物能乃敷能夜蘇等母乃乎能於毛布度知許已呂也良武等宇麻奈米底宇知久知夫利乃之良奈美能安里蘇爾與須流之夫多爾能佐吉多母登保理麻都太要能奈我波麻須義底宇奈比河波伎欲吉勢其等爾宇加波多知可由吉加久遊岐見都禮騰母曾許母安加爾等布勢能宇彌爾布禰宇氣須惠底於伎弊許藝邊爾己伎見禮婆奈藝左爾波安遲牟良佐和(28)伎之麻未爾波許奴禮波奈左吉許已婆久毛見乃佐夜氣吉加多麻久之氣布多我彌夜麻爾波布都多能由伎波和可禮受安里我欲比伊夜登之能波爾於母布度知可久思安蘇婆牟異麻母見流其等《モノヽフノヤソトモノヲノオモフトチココロヤラムトウマナメテウチクチフリノシラナミノアリソニヨスルシフタニノサキタモトホリマツタエノナカハマスキテウナヒカハキヨキセコトニウカハタチカユキカクユキミツレトモソコモアカニトフセノウミニフネウケスヱテオキヘコキヘニコキミレハナキサニハアチムラサワキシママニハコヌレハナサキコヽハクモミノサヤケキカタマクシケフタカミヤマニハフツタノユキハワカレスアリカヨヒイヤトシノハニオモフトチカクシアソハムイマモミルコト》
 
ウチクチブリは遠近振なるべし、波をいそぶりとも云へば遠近のいそに振ふなり、マツタエノ長濱は此卷下にもよめり、ウナヒ川は和名に射水郡宇納【宇奈美、】あり、ソコモアカニとは彼處《ソコ》も飽となり、
 
初、こゝろやらんと おもひをやるなり。うまなめてうちこちふりの、馬ならへてむちうつといふ心にいひかけて、をちこちふりとつゝけたるなり。ふりは白浪の振といふ心なり。第十一、第十五にも、浪のふるとよめり。うなひ川、和名集云。字納【宇奈美。】そこもあかにと、そこもあかすとなり。今もみることは今見ることくなり。あともひて、上におほくしるせり。誘《アトフ》 日本紀
 
3992 布勢能宇美能意枳都之良奈美安利我欲比伊夜登偲能波爾見都追思奴播牟《フセノウミノオキツシラナミアリカヨヒイヤトシノハニミツヽシノハム》
 
右守大伴宿禰家持作v之 四月廿四日
 
(29)敬和d遊2覽布勢水海1賦u一首 并一絶
 
3993 布治奈美波佐岐底知理爾伎宇能波奈波伊麻曾佐可理等安之比奇能夜麻爾毛野爾毛保登等藝須奈伎之等與米婆宇知奈妣久許已呂毛之努爾曾已乎之母宇良胡非之美等於毛布度知宇麻宇知牟禮底多豆佐波理伊泥多知美禮婆伊美豆河泊美奈刀能須登利安佐奈藝爾可多爾安佐里之思保美底婆 都麻欲妣可波須等母之伎爾美都追須疑由伎之夫多爾能安利蘇乃佐伎爾於枳追奈美余勢久流多麻母可多與理爾可都良爾都久理伊毛我多米底爾麻吉母知底宇良具波之布勢能美豆宇彌爾阿麻夫禰爾麻可治加伊奴(30)吉之路多倍能蘇泥布理可邊之阿登毛比底和賀己藝由氣婆乎布能佐伎波奈知利麻我比奈伎佐爾波阿之賀毛佐和伎佐射禮奈美多知底毛爲底母已藝米具利美禮登母安可受安伎佐良婆毛美知能等伎爾波流佐良婆波奈能佐可利爾可毛加久母伎美我麻爾麻等可久之許曾美母安吉良米々多由流比安良米也
《フチナミハサキテチリニキウノハナハイマソサカリトアシヒキノヤマニモノニモホトヽキスナキシトヨメハウチナヒクコヽロモシノニソコヲシモウラコヒシミトオモフトチウマウチムレテタツサハリイテタチミレハイミツカハミナトノストリアサナキニカタニアサリシシホミテハツマヨヒカハストモシキニミツヽスキユキシフタニノアリソノサキニオキツナミヨセクルタマモカタヨリニカツラニツクリイモカタメテニマキモチテウラクハシフセノミツウミニアマフネニマカチカイヌキシロタヘノソテフリカヘシアトモヒテワカコキユケハヲフノサキハナチリマカヒナキサニハアシカモサワキサヽレナミタチテモヰテモコキメクリミレトモアカスアキサラハモミチノトキニハルサラハハナノサカリニカモカクモキミカマニマトカクシコソミモアキラメヽタユルヒアラメヤ》
 
伎美我麻爾麻等、【官本或等作v爾點云、ニ、】
 
ホトヽギス鳴シトヨメバ、しは助語なり、此トヨメバは令動者にはあらで動者《トヨメバ》なり、打靡ク心モシノニとは霍公鳥に心をなすなり、カタニアサリシは滷にて干滷なり、妻呼カハス、此處を句としても見るべし、又トモシキニとつゞけても見るべし、マカヂカイヌキは二梶棹|貫《ヌキ》なり、※[舟+虜]と棹となり、
 
(31)3994 之良奈美能與世久流多麻毛余能安比太母都藝底民仁許武吉欲伎波麻備乎《シラナミノヨセクルタマモヨノアヒタモツキテミニコムキヨキハマヒヲ》
 
タマモは玉藻なり、ヨノアヒダモは第十九に家持のよまれたる處女墓の歌に靡|珠藻節間毛云々、此をツカノマモと點ぜるは叶はず、フシノマモと讀べしと存ず、藻にも節のあれば其兩節の間をば竹葦などの如くよ〔右○〕と云べければ今度々相繼て見に來むと云心を玉藻の短き節の間によせて云なり、
 
右〓大伴宿禰池主作 四月廿六日迫和
 
初、椽 大国大椽一人。掌d糺2判國内1審2署文案1勾2稽失1察c非違u。餘椽准v此。少椽一人。掌同2大椽1
 
四月二十六日〓大伴宿彌池主之舘錢2税帳使守大伴宿禰家持1宴謌并古歌四首
 
餞を誤て錢に作れり、改むべし、此宴歌三首主人の傳誦する古歌一首なるを今古歌四首とあるは并の字上の宴謌を兼て新舊并せて四首と云心歟、然らずは四首の二字は後人の加へたる歟、具に云ひ分ば宴謌三首并古歌一首と云べし、
 
初、餞税帳使 餞誤作v錢。税帳使は四度使の隨一なり
 
(32)3995 多麻保許乃美知爾伊泥多知和可禮奈婆見奴日佐等麻禰美孤悲思家武可母《タマホコノミチニイテタチワカレナミミヌヒサマネミコヒシケムカモ》
 
和可禮奈婆をワカレナミと點ぜるは誤なり、ワカレナバと改むぺし、第四句の等は衍文なり、サマネミはそへたる詞、マネミは第二第四にまねくと有し詞にて間なくの意なり、
 
初、みぬ日さまねみ さはそへたる字にて、まねみはまなみなり。第二、第四にもまなくといふをまねくといへり。等は衍文なるへし
 
一云|不見日久彌戀之家牟加母《ミヌヒヒサシミコヒシケムカモ》
 
右一首大伴宿禰家持作v之
 
3996 和我勢古我久爾弊麻之奈婆保等登藝須奈可牟佐都奇波佐夫之家牟可母《ワカセコカクニヘマシナハホトヽキスナカムサツキハサフシケムカモ》
 
初、わかせこかくにへましなは くにはと故郷をさせり。郷の字、土の字なと、みなくにとよめり
 
右一首介内藏忌寸繩麿作v之
 
繩麿系圖等未v詳、
 
(33)3997 安禮奈之等奈和備和我勢故保登等藝須奈可牟佐都奇波多麻乎奴香佐禰《アレナシトナワヒワカセコホトヽキスナカムサツキハタマヲヌカサネ》
 
奈和備はなわびそなり、
 
初、あれなしとなわひわかせこ 我なしとてなわひそわかせことなり
 
右一首守大伴宿禰家持和
 
石川朝臣水通橘歌一首
 
石川水通未v詳、
 
3998 和我夜度能花橘乎波奈其米爾多麻爾曾安我奴久麻多婆苦流之美《ワカヤトノハナタチハナヲハナコメニタマニソアカヌクマタハクルシミ》
 
ハナゴメニは花と共にの意なり、伊勢が歌に根ごめに風のとよめるに同じ、落句は露霜を經てあからむべき時を待たば遠くて苦しとなり、
 
初、花こめに玉にそぬける 花こめは花ともになり。伊勢か哥に、ねこめに風のふきもこさなんとよめるも、根ともに吹おこせよといへるなり。花こめに玉にぬくとは、橘のあかみてもてはやすへき比のとほけれはといふ心なり
 
右一首傳誦主人大伴宿禰池主云爾、
 
(34)守大伴宿禰家持舘飲宴歌一首 【四月二十六日】
 
3999 美夜故弊爾多都日知可豆久安久麻底爾安比見而由可奈故布流比於保家牟《ミヤコヘニタツヒチカツクアクマテニアヒミテユカナコフルヒオホケム》
 
立山賦一首并短歌 此山者有2新河郡1也、
 
此山者有2新川郡1、有〔右○〕當v作v在〔右○〕、新川郡は今の歌には爾比可波とよめり、和名集には新川【邇布加波、】とあり、
 
4000 安麻射可流比奈爾名可加須古思能奈可久奴知許登其等夜麻波之母之自爾安禮登毛加波波之母佐波爾由氣等毛須賣加未能宇之波伎伊麻須爾比可波能曾能多知夜麻爾等許奈都爾由伎布理之伎底於婆勢流可多加比河波能伎(35)欲吉瀬爾安佐欲比其等爾多都奇利能於毛比須疑米夜安里我欲比伊夜登之能播仁余増能未母布利佐氣見都々余呂豆餘能可多良比具佐等伊末太見奴比等爾母都氣牟於登能未毛名能未母伎吉底登母之夫流我禰《アマサカルヒナニナカヽスコシノナカクヌチコトコトヤマハシモシヽニアレトモカハヽシモサハニユケトモスメカミノウシハキイマスニヒカハノソノタチヤマニトコナツニユキフリシキテオハセルカタカヒカハノキヨキセニアサヨヒコトニタツキリノオモヒスキメヤアリカヨヒイヤトシノハニヨソノミモフリサケミツヽヨロツヨノカタラヒクサトイマタミヌヒトニモツケムオトノミモナノミモキヽテトモシフルカネ》
 
名カヽスは名懸なり、越中と人の言に懸て名高き意なり、延喜式に紀伊國に國懸神社あり、此|懸《カヽスと同じ、クヌチコト/”\は第五にも有て注せし如く國中悉なり、山ハシモ、川ハシモの二つのしも〔二字右○〕は助語なり、ウシハキイマスは上に注せしが如し、ニヒカハは郡の名、トコナツニは常《ツネ》にと云心なり、撫子を常夏と云も春こそさかね秋も咲、冬野にも若は咲ことのあれば常磐の意なるべし、山海經云、由首山、小咸山、空桑山、皆冬夏有v雪、漢書西域傳云、天山冬夏有v雪、張平子南都賦云、幽谷|〓岑《タカクサカシウシテ》夏含2霜雪1、タツキリノオモヒスギメヤは第三に赤人の歌に有て注しき、カタラヒ草は笑《ワラヒ》草などの類なり、
 
初、あまさかるひなに名かゝす 名かゝすは名をかくるなり。妹か名にかけたる櫻なといへることし。國懸《コクケム・クニカヽス》神社【紀伊延喜式】くぬちこと/\は。國うちこと/\くなり。爾宇反奴なれは、かくいへり。第五に、あをによしくぬちこと/\とよめるにおなし。うしはきいます。上に、第五、第六、第九等にありてすてに尺しき。とこなつにゆきふりしきて。とこなつはたゝ常にといふなり。文選張平子南都賦云。幽谷|〓岑《サカシウシテ》(ト)夏含(メリ)2霜雪(ヲ)1。五雜組云。山海經曰。由首山、小威山、空桑山皆冬夏有v雪。漢書西域傳日。天山冬夏有v雪。今蜀蛾眉山夏有2積雪1。其中有2雪蛆1云
 
(36)4001 多知夜麻爾布里於家流由伎乎登已奈都爾見禮等母安可受加武賀良奈良之《タチヤマニフリオケルユキヲトコナツニミレトモアカスカムカラナラシ》
 
4002 可多加比能可波能瀬伎欲久由久美豆能多由流許登奈久安里我欲比見牟《カタカヒノカハノセキヨクユクミツノタユルコトナクアリカヨヒミム》
 
四月二十七日大伴宿禰家持作v之
 
敬和2立山賦1一首并二絶
 
4003 阿佐比左之曾我比爾見由流可無奈我良彌奈爾於婆勢流之良久母能知邊乎於之和氣安麻曾曾理多可吉多知夜麻布由奈都登和久許等母奈久之路多倍爾遊吉波布里於吉底伊爾之邊遊阿理吉仁家禮婆許其志可毛伊波能可牟佐(37)備多末伎波流伊久代經爾家牟多知底爲底見禮登毛安夜之彌禰太可美多爾乎布可美等於知多藝都吉欲伎可敷知爾安佐左良受綺利多知和多利由布佐禮婆久毛爲多奈※[田+比]吉久毛爲奈須已許呂毛之努爾多都奇理能於毛比須具佐受由久美豆乃於等母佐夜氣久與呂豆余爾伊比都藝由可牟加波之多要受波《アサヒサシソカヒニミユルカムナカラミナニオハセルシラクモノチヘヲオシワケアマソヽリタカキタチヤマフユナツトワクコトモナクシロタヘニユキヽフリオキテイニシヘユアリキニケレハコヽシカモイハノカムサヒタマキハルイクヨヘニケムタチテヰテミレトモアヤシミネタカミタニヲフカミトオチタキツキヨキカフチニアサヽラスキリタチワタリユフサレハクモヰタナヒキクモヰナスコヽロモシノニタツキリノオモヒスクサスユクミツノオトモサヤケクヨロツヨニイヒツキユカムカハシタエスハ》
 
御名所帶とは立山と名に負給ふ如く高きと云意なり、やがて立山とはつゞけずして白雲ノと云より中に三句を云へることゆるやかなり、白雲ノ千重ヲ押分とは天孫の天降り給ふ時排2分天|八重雲《ヤヘグモ》1と云には替りて此は立あがるとて下より押分る意なり、アマソヽリは俗に沙などのなだれたるを上へ高く積やうの事をそゝり上と云如く天に高くそゝり擧たる意なるべし、コヾシカモイハノカムサビは巖の物(38)古てこゞしきなり、タマキハル幾世經ニケムは一世と云はかぎりあれば玉きはるとは云へり、行水ノ音モ清ケクとは立山の名をかたかひ川の水の音の如くさやかに云ひつがむとなり、落句の之は助語なり、
 
初、あまそゝりたかきたち山 しらくものちへをおしわけといひてかくつゝけたるはあまくたるといふ詞ときこゆれと、かんかふる所なし。天にそゝりあけたることく、高き立山とよめるなりと、長流か抄にはかけり。玉きはるいくよへにけん。第十には、たまきはる吾山のうへに立かすみとよみ、第十一には、としきはる世まてさためてともよめり。世といふはかきりあることなれは、玉きはるとはいへり。こゝしかもは、こゝしくもなり。こゝしくはこりしくにて、いはねのこりかたまりてしくなり
 
4004 多知夜麻爾布理於家流由伎能等許奈都爾氣受底和多流波可無奈我良等曾《タチヤマニフリオケルユキノトコナツニケステワタルハカムナカラトゾ》
 
初、けすてわたるはとは、きえすしてわたるはなり
 
4005 於知多藝都可多加比我波能多延奴期等伊麻見流比等母夜麻受可欲波牟《オチタキツカタカカヒカハノタエヌコトイマミルヒトモヤマスカヨハム》
 
右〓大伴宿禰池主和v之 四月廿八日
 
入v京漸近悲情難v撥述v懷一首并一絶
 
4006 可伎加蘇布敷多我美夜麻爾可牟佐備底多底流都我能奇毛等母延毛於夜自得伎波爾波之伎與之和我世乃伎美乎(38)安佐左良受安比底許登騰比由布佐禮婆手多豆佐波利底伊美豆河波吉欲伎可布知爾伊泥多知底和我多知彌禮婆安由能加是伊多久之布氣婆美奈刀爾波之良奈美多可彌都麻欲夫等須騰理波佐和久安之可流等安麻乃乎夫禰波伊里延許具加遲能於等多可之曾己乎之毛安夜爾登母志美之努比都追安蘇夫佐香理乎須賣呂伎能乎須久爾奈禮婆美許登母知多知和可禮奈婆於久禮多流吉民婆安禮騰母多麻保許乃美知由久和禮播之良久毛能多奈妣久夜麻乎伊波禰布美古要弊奈利奈婆孤悲之家久氣乃奈我家牟曾則許母倍婆許巳呂志伊多思保等登藝須許惠爾安倍奴(39)久多麻爾母我手爾麻吉毛知底安佐欲比爾見都追由可牟乎於伎底伊加婆乎思《カキカソフフタカミヤマニカムサヒテタテルツカノキモトモエモオヤシトキハニハシキヨシワカセノキミヲアサゝラスアヒテコトゝヒユフサレハテタツサハリテイミツカハキヨキカフチニイテタチテワカタチミレハアユノカセイタクシフケハミナトニハシラナミタカミツマヨフト》ストリハサワクアシカルトアマノヲフネハイリエコクカチノオトタカシソコヲシモアヤニトモシミシノヒツゝアソフサカリヲスメロキノヲスクニナレハミコトモチタチワカレナハオクレタルキミハアレトモタマホコノミチユクワレハシラクモノタナヒクヤマヲイハネフミコエヘナリナハコヒシケクケノナカケムソソコモヘハコヽロシイタシホトヽキスコヱニアヘヌクタマニモカテニマキモチテアサヨヒニミツヽユカムヲオキテイカハヲシ》
 
發句は第八に憶良の秋の野に咲たる花を手を折て掻數ふれば七種花とよまれたる如く一つ二つとかぞふる意につゞけたり、モトモエモは本も枝もなり、アユノカゼは下に東風とかきて自注ありイタクシフケバのし〔右○〕は助語也.ヲスクニナレバは食國なればなり、ミコトモチは司の字をふこともちと讀て職とす、今は御事《ミコト》を持と用に意得べし、正税帳を以て京へ入るを云、オクレタル君ハアレドモとは後れ居て君が我を思はむずる事はあれどもなり、ソコモヘバはそこを思へばなり、ソコはそれなり、心シ痛シ上のし〔右○〕は助語なり、ホトヽギスコヱニアヘヌクタマニモガとはアヘヌクは相貫なり、第八夏雜歌の初藤原夫人歌に此意を讀て相貫左右二と云落句をアヒヌクマデニと點ぜるを今の歌等を證としてアヘヌクと讀べき由注し侍りしが如し、玉は藥玉の事なり、
 
初、かきかそふゝたかみ山 かきかそふとは、ゆひを折かゝめてひとつふたつとかそふる心にて、ふたかみ山とつゝけたり。第八に、山上憶良の秋花をよまれたる哥二首の中に
  秋のゝに咲たる花をてををりてかきかそふれはなゝ草の花
かむさひてたてるとかの木、もともえもおやしときはに。第一、第三等に、とかの木のいやつき/\にとよめる心なり。もとは本にて木の幹なり。えは枝なり。大伴氏の嫡庶にたとへたり。あゆの風いたくしふけは。下にあゆのかせいたく吹らしとよめる哥、あゆのかせを東風とかきて、注にいはく、越俗語東風謂2之(ヲ)安由之可是(ト)1也。しかれは、こゝもとにいふこちかせなり。今も安以乃可是と申侍るとそ承し。すめろきのをすくになれはとは、をすくには食國なり。みこともちは、みことをもちてなり。日本紀に、司の字、宰の字を、みこともちとよめるは、彼みことのりをたもつものゝ名なり。家持も國司なれはみこともちなれと、今は税帳使にてのほらるれは、用に心得へし。おくれたる君はあれともとは、おくれてある君か、我をおもひおこさむ心はあれともといふ心なり。そこもへは心しいたしとは、そこをおもへはなり。そこはそれなり。心しのしもしは助語なり。ほとゝきすこゑにあへぬく玉にもかとは、藥玉のことなり。あへぬくはましへぬくなり。和名集云。四聲字苑云。〓【即※[(禾+尤)/山]反。訓安不。一云阿倍毛乃】擣2薑蒜(ヲ)1以v醋和(スルナリ)v之。和の字もあへものとよめり。今あへぬくはその心なり
 
4007 和我勢故波多麻爾母我毛奈保登等伎須許惠爾安倍奴伎(41)手爾麻伎底由可牟《ワカセコハタマニモカモナホトヽキスコヱニアヘヌキテニマキテユカム》
 
安倍奴吉、【幽齋本、伎作v吉、】
 
右大伴宿禰家持贈2〓大伴宿禰池主1、【四月卅日】
 
忽見2入京述懷之作1生別悲兮斷v腸萬回、怨緒難v禁、聊奉2所心1一首 并2二絶1
 
初、生別悲兮 屈原九歌云。悲莫v悲(シキハ)2兮生(テ)別離(スルヨリ)1。樂莫v樂(シキハ)2兮斯(ニ)相知(ヨリ)1
 
4008 安遠爾與之奈良乎伎波奈禮阿麻射可流比奈爾波安禮登和賀勢故乎見都追志乎禮婆於毛比夜流許等母安利之乎於保伎美乃美許等可之古美乎須久爾能許等登理毛知底和可久佐能安由比多豆久利無良等理能安佐太知伊奈婆於久禮多流阿禮也可奈之伎多妣爾由久伎美可母孤悲無(42)於毛布蘇良夜須久安良禰婆奈氣可久乎等騰米毛可禰底見和多勢婆宇能婆奈夜麻乃保等登藝須禰能未之奈可由安佐疑理能美太流流許己呂許登爾伊泥底伊波婆由遊思美刀奈美夜麻多牟氣能可味爾奴佐麻都里安我許比能麻久波之家夜之吉美賀多太可乎麻佐吉久毛安里多母等保利都奇多々婆等伎毛可波佐受奈泥之故我波奈乃佐可里爾阿比見之米等曾《アヲニヨシナラヲキハナレアマサカルヒナニハアレトワカセコヲミツヽシヲレハオモヒヤルコトモアリシヲオホキミノミコトカシコミヲスクニノコトヽリモチテワカクサノアユヒタツクリムラトリノアサタチイナハオクレタルアレヤカナシキタヒニユクキミカモコヒムオモフソラヤスクアラネハナケカクヲトヽメモカネテミワタセハウノハナヤマノホトヽキスネノミシナカユアサキリノミタルヽコヽロコトニイテヽイハヽユヽシミトナミヤマタムケノカミニヌサマツリアカコヒノマクハシケヤシキミカタヽカヲマサキクモアリタモトホリツキタヽハトキモカハサスナテシコカハナノサカリニアヒミシメトソ》
 
許等登里毛知底、【幽齋本、里作v理、】
 
キハナレは來難なり、ミツヽシヲレバ、し〔右○〕は助語なり、ワカクサノアユヒタツクリはアユヒは第十一にもよめる脚帶《アユヒ》なり、タツクリはた〔右○〕はもとほるをたもとほるなど云た〔右○〕にてそへたる詞なり、皇極紀に蘇我大臣蝦夷の歌にも、阿庸比※[木+施の旁]豆矩梨とよめ(43)り、若草のと云へるは第二に葦若未足痛我背とよめるやうに足のうつくしく柔なるをほむる意に云へる歟、又は若草を以て脚帶に作る歟、ウノ花山は卯の花の咲たる山を押て云なり、本より然云山の有にはあらず、第十にもかくよめるに付て注せしが如し、トナミ山は越中の礪浪郡にあり、タムケノカミは和名云、唐韻云、【示+場の旁】音觴、【和名太無介乃加美、】道上祭一云、道神也、アガコヒノマクは我請《ワガコヒ》祷なり、アリタモトホリはありめぐりてなり、た〔右○〕はそへたる詞なり、月タヽバとは此は五月二日の歌なれば六月を云なり、トキモカハサズは時もたがへずなり、アヒミシメトゾは令相見給へよとぞなり、
 
初、おもひやることもありしを おもひをやることも有しものをなり。わかくさのあゆひたつくり。わか草はうつくしき足をほめて足といふにつゝくるなり。第二に、あしかひのあなへくわかせとつゝけたるかことし。あゆひは此集には、上に足結とかけり。日本紀に脚帶とかけり。上にしるせり。たつくりは、たは助語にて、あゆひを作るなり。見わたせはうの花山のほとゝきす。うの花山は、只卯花のおほくさける山をおしていへり。上にうの花のにほへる山とよめるかことし。第十にも、うの花山とも、うの花へからともよめり。となみやまたむけのかみに。和名集云。唐韻云。※[衣+易]音觴【和名太無介護乃加美】道上祭。一云道(ノ)神也。あかこひのまく。わかこひいのらくなり。日本紀に祷の字をのむとよめり。あひみしめとそ、あひみしめよとそなり。第三に
  さほ過てならの手向におくぬさは妹をめかれすあひみしめとそ
 
4009 多麻保許乃美知能可未多知麻比波勢牟安賀於毛布伎美乎奈都可之美勢余《タマホコノミチノカミタチマヒハセムアカオモフキミヲナツカシミセヨ》
 
4010 宇良故非之和賀勢能伎美波奈泥之故我波奈爾毛我母奈安佐奈佐奈見牟《ウラコヒシワカセノキミハナテシコカハナニモカモナアサナサナミム》
 
(44)右大伴宿禰池主報贈和歌 五月二日
 
思2放逸鷹1夢見感悦作歌一首并短歌
 
本朝に鷹の初て渡れるは仁徳紀云、四十三年秋九月庚子朔、依網|屯倉《ミアケノ》阿弭古捕2異鳥1獻2於天皇1曰、臣|毎《ツネニ》張v網捕v鳥未3曾得2是鳥之類1、故奇而獻之、天皇召2酒君(ヲ)1示1v鳥曰、是何鳥矣、酒君對(テ)言、此鳥類多在2百濟1、得馴而能従v人、亦捷(ク)飛之掠2諸鳥1、百濟俗號2此鳥1曰2倶知1、【是今(ノ)時(ノ)鷹也、】乃授2酒(ノ)君1令2養馴1、未2幾時1而得v馴、酒君則以2韋緡1著2其足1、以2小鈴1著2其尾1、居2腕上1獻2于天皇1、是日幸2百舌鳥《モズ》野1而遊獵、時雌雉多起、乃放v鷹令v捕、獲2数十雉1、是月甫定2鷹甘部《タカカヒベヲ》1、故時人號2其養v鷹(ヲ)之處1曰2鷹甘《タカカヒノ》邑1也、此依網は攝津國住吉郡にあり、和名集に大羅【於保與佐美】とある處なり、延喜式に、依羅神社四座【並名神大、月次新甞相甞、】と注せられたる神のおはする處なり、依網池は崇神天皇六十二年冬十月に造らせ給ひて彼邊の民今に至るまて恩波に潤ほへり、日本紀に阿弭古を網子と讀べきやうに聲をさしたるは誤歟、古事記孝元天皇段云、又娶2葛城之垂見宿禰之女※[壇の旁+鳥]比賣1生2御子建豊波豆羅和氣王(ヲ)1、所謂建豊波豆羅和氣王者【道守臣、忍海部(ノ)造、御名部(ノ)造、稻羽之忍海部、丹波之竹野別、依網之阿※[田+比]古等之祖也、】聖武紀云、天平十八年閏九月戊子正六位上依羅我孫忍麻呂授2外從五位下1、孝謙紀云、勝(45)寶二年八月辛未攝津國住吉郡人外從五位下依羅我孫忍麻呂等五人賜2依羅宿禰姓1、神奴|意支奈祝長月《オキナノハフリナガツキ》等五十三人(ニ)賜2依羅(ノ)忌寸(ノ)姓1、今も我孫子《アヒココムラ》村とて侍るは、彼阿弭古のすまれたる故にすなはち名とせるなるべし、昔は我孫なりけるを今子の字を加へたるは孫をまご〔二字右○〕ともひこ〔二字右○〕とも云ひ、ひこの子をばひゝご〔三字右○〕と云を俗には知らで孫の子をひこ〔二字右○〕と云と意得て然れば子の字を加ふべしとて添へたるなるべし、阿珥古は長壽の人なり、神功皇后紀云、既而神有v誨曰、和魂服2玉身1而守2壽命1、荒魂爲2先鋒1導2師船(ヲ)、即得2神(ノ)教1而拜禮之、因以2依網吾彦男垂見1爲2祭神主1、是にて年の程を知べし、鷹甘邑は今鷹合村とて我孫の東北の方に有と承りき、和名集云、蒋紡切韻云、※[執/鳥]【音四、和名太加、今按古語云倶知急讀屈、百濟俗號v鷹也、見2日本紀私記1、】鷹※[搖の旁+鳥](ノ)總名也、たかと名付るは高の義なるべし、詩(ニ)云、時維鷹揚(ル)、朱子注云、如2鷹(ノ)之飛揚而將1v撃、言2其猛1也、仁徳紀の中におぼつかなき事あり、紀云四十年春三月納2 雌鳥皇女1欲v爲v妃、以2隼別皇子1爲v媒、時隼別皇子密(ニ)親娶而久之不2復命1云々、俄而隼別皇子枕2皇女(ノ)之膝1以臥(セリ)、乃語之曰、孰2捷《イヅレトシ》鷦鷯與1v隼焉、曰隼(ハ)捷也、乃皇子曰、是我所v先也、天皇聞2是言1更亦起v恨、時隼別皇子之舎人|等《トモ》歌曰、破夜歩佐波《ハヤブサハ》、阿梅珥能朋利《アメニノボリ》、等珥箇慨梨《トニカケリ》、伊菟岐餓宇倍能《イツキガウヘノ》、婆弉岐等羅佐泥《ハサギトラサネ》、古事記云、其夫|速總《ハヤフサ》別王到來之時、其妻女鳥王歌曰、比婆理波《ヒバリハ》、阿米邇迦氣流《アメニカケル》、多迦由玖夜《タカユクヤ》、波夜夫佐和(46)氣《ハヤブサワケ》、佐邪岐登良佐泥《サザキトラサネ》、天皇聞2此歌1即興v軍欲v殺云々、和名集云、斐務齊切韻云、※[骨+鳥]【音骨、和名八夜布佐、】鷹屬(ナリ)、隼【音笋、訓上(ニ)同、】※[執/鳥]鳥也、大名21祝1、往古より※[骨+鳥]は有ければこそ應神天皇既に皇子の御名を隼別と付させたまひけめ、又隼の鳥を捕こと右の日本紀の歌に見えたるに此は四十年の事にて四十三年に鷹を得たらむには※[骨+鳥]に准らへても凡そは知らるべき事にや、但隼も彼がおのづから鳥を捕ことは見て知たれどもいまだ飼て取らしむる事の世になかりける故歟、古事記の歌は日本紀の歌の異説なるべし、任邪岐登良佐泥《サザキトラサネ》と云を以て見るに日本紀の婆弉岐は娑を誤て婆に作れるなり、
 
4011 大王乃等保能美可度曾美雪落越登名爾於弊流安麻射可流比奈爾之安禮婆山高美河登保之呂思野乎比呂美久佐許曾之既吉安由波之流奈都能左加利等之麻都等里鵜養我登母波由久加波乃伎欲吉瀬其等爾可賀里左之奈豆左(47)比能保流露霜乃安伎爾伊多禮婆野毛佐波爾等里須太家里等麻須良乎能登母伊射奈比底多加波之母安麻多安禮等母矢形尾乃安我大黒爾《オホキミノトホノミカトソミユキフルコシトナニオヘルアマサカルヒナニシアレハヤマタカミカハトホシロシノヲヒロミクサコソシケキアユハシルナツノサカリトシマツトリウカヒカトモハユクカハノキヨキセコトニカヽリサシナツサヒノホルツユシモノアキニイタレハノモサハニトリスタケリトマスラヲノトモイサナヒテタカハシモアマタアレトモヤカタヲノアカオホクロニ》【大黒者蒼鷹之名也】之良奴里能鈴登里都氣底朝※[獣偏+葛]爾伊保都登里多底暮※[獣偏+葛]爾知登理布美多底於敷其等爾由流須許等奈久手放毛乎知母可夜須伎許禮乎於伎底麻多波安里我多之左奈良弊流多可波奈家牟等情爾波於毛比保許里底惠麻比都追和多流安比太爾多夫禮多流之許都於吉奈乃許等太爾母吾爾波都氣受等乃具母利安米能布流日乎等我理須等名乃未乎能里底三島野乎曾我比爾見都追二上山登妣古要底久母我久理可氣理伊爾伎(48)等可弊理伎底之波夫禮都具禮呼久餘思乃曾許爾奈家禮婆伊敷須弊能多騰伎乎之良爾心爾波火佐倍毛要都追於母比孤悲伊伎豆吉安麻利氣太之久毛安布許等安里也等安之比奇能乎底母許乃毛爾等奈美波里母利弊乎須惠底知波夜夫流神社爾底流鏡之都爾等里蘇倍巳比能美底安我麻都等吉爾乎登賣良我伊米爾都具良久奈我古敷流曾能保追多加波麻追太要乃波麻由伎具良之都奈之等流比美乃江過底多古能之麻等妣多毛登保里安之我母乃須太久舊江爾乎等都日毛伎能敷母安里追知加久安良婆伊麻布都可太未等保久安良婆奈奴可乃乎知波須疑米也母伎(49)奈牟和我勢故禰毛許呂爾奈孤悲曾余等曾伊麻爾都氣都流《シラヌリノスヽトリツケテアサカリニイホツトリタテユフカリニチトリフミタテオフコトニユルスコトナクタハナレモヲチモカヤスキコレヲオキテマタハアリカタシサナラヘルタカハナケムトコヽロニハオモヒホコリテヱマヒツツワタルアヒタニタフレタルシコツオキナノコトタニモワレニハツケストノクモリアメノフルヒヲトカリストナノミヲノリテミシマノヲソカヒニミツヽフタカミノヤマトヒコエテクモカクリカケリイニキトカヘリキテシハフレツクレヲクヨシノソコニナケレハイフスヘノタトキヲシラニコヽロニハヒサヘモエツヽオモヒコヒイキツキアマリケタシクモアフコトアリヤトアシヒキノヲテモコノモニトナミハリモリヘヲスヱテチハヤフルカミノヤシロニテルカヽミシツニトリソヘコヒノミテアカマツトキニヲトメラカイメニツクラクナカコフルソノホツタカハマツタエノハマユキクラシツナシトルヒミノエスキテタコノシマトヒタモトホリアシカモノスタクフルエニヲトツヒモキノフモアリツチカクアラハイマフツカタミトホクアレハナヌカノヲチハスキメヤキナムワカセコネモコロニナコヒソヨトソイマニツケツル》
 
奈都能左加利等、【幽齋本、加作v可、】  麻郁太要乃、【幽齋本、都作v追、】
 
ミ雪フルは越の枕詞、第十二にもよめり、ヒナニシのし〔右○〕は助語なり、河トホシロシは第十三に在て注せり、草コソシゲキ、此てにをは上に多かり、シマツトリは和名云、辨色立成云、大云2※[盧+鳥]※[茲/鳥]1、【※[盧+鳥]茲二音、日本紀私記云、志萬豆止利、】小曰2鵜〓1、【啼胡二音、俗云宇、】かくはあれども鵜をも通じてしまつ鳥と云故に神武紀の御製にも之摩途等利《シマツトリ》【私記云、欲v讀v※[盧+鳥]之發語也、】宇介辟餓等茂《ウカヒカトモ》云々、今此に同じ、ともは徒なり、カゞリサシは鵜舟のかゞり常の事なり、和名云、漢書陳勝(ガ)傳云、夜篝v火、【師説云、比乎加加利邇須、今按漁者以v〓作v篝盛v火照v水者名v之、此類乎、】ナツサヒノボル此所句なり、鷹ハシモはしも〔二字右○〕の二自助語なり、矢形尾は袖中抄に鷹の相經を引て屋像尾|町像《マチカタ》尾の事をかゝれたれど此集に今も反歌にも第十九にも三所一樣に矢形尾と書たれば相經の説用べからず、奧義抄云、尾のふの矢の羽のやうにさがりふに切たる鷹なり、綺語抄童蒙抄の説大かた此に同じ、アガ大黒は十六嗤歌にもぬば玉のひたの大黒とよめり、注の蒼鷹は和名云、廣雅云.一歳名2之黄鷹1、【俗云和名太加、】二歳名2之撫鷹1、【加太加閉利、】三歳名2之青鷹(50)白鷹1、隋(ノ)魏彦深鷹賦云、三歳成v蒼、今按青鷹と蒼鷹と同じ、シラヌリノ鈴取著テは延喜式第三八十島神祭注文云、白塗(ノ)鈴八十口、イホツトリタテは五百津鳥起なり、オフゴトニは毎v逐なり、鳥を鷹の追なり、ゆるす事なくは一つも取はづさぬなり、ヲチモカヤスキは上より落來て鳥を捕を云歟、但オフゴニユルス事ナクと云ひつれば鳥を捕をはりて後手にかへりてすわりて落居るを云歟、手放に對すれば後の義なるべし、於知とかゝずして乎知とかけるは第五に雲に飛藥はむとも又落めやもと云ひ、遠知米也母、次に賤しき我身又落ぬべしと云に麻多《マタ》越知奴倍之とかけるに同じ、折々通じてかける事あり、カヤスキのか〔右○〕はかよれるかよわきの類なめり、サナラヘルとは然習へるにて、かく飼習はして能馴たる鷹は世に又も有まじきと思ふ意なり、タフレタルは齊明紀に狂心をタフレゴヽロとよめり、左傳云、國狗之※[病垂/犬]無v不v噬也、【〓狂也、噬齧也、】シコツオキナは醜翁なり、下の註に見えたる鷹飼山田史君麿を物くるはしきしこ翁と詈詞なり、コトダニモ我ニハ告ズとは此秘藏の大黒を使ふ由を告ずなり、下にトカリスト名ノミヲノリテと云へば只何となく鳥狩に罷侍るとのみ云て、三島野は和名云、射水郡三島【美之萬】シハブレツグレとはしはぶき打して告ればなり、ヲクヨシノソコニナケレバは措言べき由も中々なきなり、於久を呼久とかけるは(51)さきの乎知の如し、火サヘモエツヽは瞋火なり、アシビキノヲテモコノモは山の彼面此面なり、ヲテモコノモは第十四にもよめり、テル鏡シヅニ取副とは照にてるます鏡を倭文幣に取副て神に奉て此鷹の事を祈るなり、ヲトメラガイメニツグラクとは神靈の童女と成て夢に入て告給ふなり、ソノホツタカハとは第九にほつえを最末枝とかけるを此に准らふるに最鷹なり、最上の鷹と云なり、又神武紀秀眞國、此(ニ)云2袍圖莽句※[人偏+爾](ト)1、此に依れば秀鷹と書べし、秀逸の鷹なり、ツナシトルはつなしは※[魚+利]に似たる魚なり、比美乃江も射水郡なるべし、多古ノ嶋はたこの浦に有べし、第十八にはたこのさきともよめり、たこの浦は第十九の詞書に遊2覽布勢水海1船泊2於多※[示+古]灣1云々、此に依に射水郡なり、今二日太未とは太未は上に舟を榜たむと云に運の字轉の字廻の字などをよめれば今二日ばかり日のめぐらばの意なり、ナヌカノウチハとは第十三にも久有今七日許早有者今二日許將有等曾《ヒサナラバイマナヌカバカリハヤクアラバイマフツカバカリアラムトソ》云々、キナムワガセコは鷹の歸り來なむとなり、イマニツゲツルは伊と由、麻と米共に同音にて通ずれば夢なり、或は寢間にて宿たる間にと云にも有べし、
 
初、大きみのとほのみかとそ 第十五には、新羅をもとほのみかとゝよめり。第三には人丸筑紫をとほのみかとゝよまる。山高み河とほしろし。とほしろしは、大なるなり。神代紀下云。集《ツトフ》2大《トホシロク》小(ヒキ)之|魚《イヲトモヲ》1。第三に、赤人の哥にもあすかのふるきみやこは山高み河とほしろしとよめり。草こそしけき。此こそといひてきとうけとめたるは、第一に、天智天皇の御哥に、いにしへもしかにあれこそ、うつせみもつまにあひうつらしきとあるより、第六、第十一なとにも見えたり。夏のさかり。樂天詩云。盛夏(ニ)不v消雪。しまつとりうかひかともは、しまつとりは鵜の名なり。和名集云。辨色立成云。大云2※[盧+鳥]※[茲/鳥]1【※[盧+鳥]茲二音。日本紀私記云。志萬豆止利】小曰2鵜※[胡+鳥]1。【啼胡二音。俗云宇。】しかれは大小によりて、嶋津鳥とうとの名かはれりといへとも、又通してもいふなり。日本紀に、神武天皇の御哥に
  たゝなへて《・盾並而》、いなさの山の、このまゆも《・木間從》、い《發語》ゆきま《・往守》もらひ、たゝかへは《・戰者》、我|はや《・早》ゑぬ《困日本紀》《・瘁日本紀》。しまつとり《・嶋津鳥》、うかひかとも《・鵜養之徒》、いますけにこね《・今助來》
これはそれよりさき、阿太の鵜養《ウカヒ》等か先祖|苞苴擔《ニヘモチ》が子に吉野にてあはせたまへるをおほしめし出て、今諸卒のつかれたる時なれは、まゐりて軍の助となれとよませたまへるなり。此御哥にも、嶋津鳥鵜養かともとつゝけさせたまへは、嶋津鳥とは鵜はよく嶋なとにゐるゆへに、異名にいへるなるへし。ともはともからなり。かゝりさし。和名集云。漢書陳勝傳云。夜篝(ニス)v火。【師説云。比乎加加利邇須。案漁者以v鐵作v篝盛v火照v水者名v之。此類乎。】なつさひのほる、たつさひのほるなり。此所句絶なり。鳥すたけりと、すたくはあつまるなり。第十一には、かも鳥のすたく池水といふに多集とかけり。第七にも、鳥はすたけとゝよめり。伊勢物語には
  むくらおひてあれたる宿のうれたきはかりにもおにのすたくなりけり
鷹はしもあまたあれとも。鷹はにて、しものふたもしはみな助語なり。やかたをのあか大くろに。鷹の尾にさかりふとて、苻のすちかひに、もとのかたさまへきりたるを、やかた尾とはいふなり。大黒苻といふは、尾すけの毛まて苻をきりたるをいふとなり。今案たゝ大鷹の黒苻なるを、名つけてわか大黒といへるなるへし。第十六に嗤2咲黒色1歌に
  ぬは玉のひたの大黒見ることにこせの小黒かおもほゆるかも
とよめるたくひなるへし。注蒼鷹、隋魏彦深(カ)鷹賦曰。三歳成v蒼。戰國策云。要離之刺2慶忌1也、倉鷹撃2於殿上(ニ)1。【補云倉即蒼。】文選云。蒼鷹※[執/鳥]而受v紲、鸚鵡惠而入v籠。和名集引2廣雅1云。一歳名2之(ヲ)黄鷹1。【俗云。和賀太加】二歳名2之(ヲ)撫鷹(ト)1。【俗云。加太加閉利。】三歳名2之(ヲ)青鷹白鷹(ト)1。しらぬりの鈴とりつけて、鈴をよくみかきたるをいふへし。延喜式第三、八十島《ヤソシマ》神祭料注文中云。白塗鈴八十口。日本紀第十五、顯宗紀云。繩(ノ)端(ニ)懸|鐸《ヌテヲ》。和名集云。三體圖云。鐸(ハ)【音澤】今之鈴(ソ)。鐸もよくみかきたる故にぬりてといふ歟。ぬてはぬりての畧語なり。朝かりにいほつとりたて、五百箇鳥たてなり。ゆふかりにちとりふみたて。いほつ鳥ちとりは只鳥のおほかるをいふなり。第三に朝かりにしゝふみおこし、ゆふかりにとりふみたてゝと、おなしぬしのよまれたり。第十六にもゝちとりちとりはくれとゝもよめり。おふことにゆるすことなくは、毎v逐無v免なり。をちもかやすきとはをとすことのやすきなり。かもしはあをきをかあを、くろきをかくろといふことく、そへたる字なり。源氏物語に、かやすき、かよはき、かよれるなといへる、かもしは、みなたすけなり。詩大明云。時《コヽニ》維鷹(ノ如ニ)揚(ル)。注曰。如2鷹之飛揚(シテ)而將(ルカ)1v撃(ント)。言(ハ)其(レ)猛也。手はなれは、鳥にあはする時、手をはなれて行ことのやすきなり。第十四に
  さきもりにたちしあさけのかなとてにたはなれをしみなきしこらはも
手はなれすることもおちて鳥とることもやすきこれをおきてとつゝけて心得へし。さならへるは、しか習へるなり。かくならはし入れたる鷹は、世になけんとおもひほこるなり。第五に、憶良の貧窮問答歌に、あれをおきて人はあらしとほころへとゝよめるに似たり。ゑまひつゝは、ゑみつゝなり。たふれたるしこつおきなの、齊明紀に、狂心をたふれこゝろとよめり。顛狂といへは心も身のたふれたることくなれは、たふれたるといふなり。左傳曰。國(ノ)狗(ノ)之夕|〓《タフルヽトキニ》無v不v噬《カマ》也。【〓(ハ)狂也。噬(ハ)齧也。】しこつおきなは、おにのしこ草、しこほとゝきすなといふことく、見にくゝきたなきおきなと罵そしる詞なり。此翁は下の注にいへる山田史君麿なり。ことたにもわれにはつけす。我に此鷹をすゑて出ることをよくつけすなり。とかりすと。上に鷹田とかきてとかりとよめり。源氏物語に、とりのせうのやうにといへるは、鷹の兄鷹のことくといへることなり。これにあはせて、鷹を鳥といへることを知へし。名のみをのりて。とかりしに出とてたゝなのりをのみして行なり。三島野は、和名集に、射水郡に三島あり。しはふれつくれ、しはふきして、鷹のそれたるよしを告るなり。しはふれつくれはなり。をくよしのそこになけれは、をくは措《ヲク》v言(ヲ)といふかことし。心には火さへもえつゝ。よくもいひきかせすして狩に出て鷹をそらしやりたるに腹立せらるゝなり。けたしくもあふことありやと。けたしかの鷹をもとめあふこともありやとなり。あしひきのをてもこのもにとなみはりもりへをすゑて。あしひきとのみいひて山に用たる事、上に第三、第十一、第十六にも見えたり。をてもこのもは、をちもこのもなり。彼面此面《ヲチモコノモ》とかきて、このもかのもといふにおなし。第十四に、あしからのをてもこのもとも、つくはねのをてもこのもともよめり。となみは鳥網なり。第十三にも、となみはるさかとを過とよめり。和名集云。爾雅曰。鳥罟謂2之羅(ト)1。【和名度利阿美。】てるかゝみしつにとりそへ、鏡を倭父幣《シツヌサ》にそへてたてまつりて、鷹のことを祈申なり。日本紀に、明神をあらかかみとよめるは、あきらかなるかゝみなり。神の智慧圓滿にして萬事に應すること鏡のことなるゆゑに、御正躰にも鏡を奉るは、人にさへ物を贈るには、その好むところをはかりてそれにしたかふかことし。内侍所は天照大神の御影をうつしたまへる鏡なるを三種の神器の隨一とす。第十二に
  はふりらかいはふみもろのまそかゝみかけてそしのふ逢人ことに
をとめらかいめに告らく。神靈の童女となりて夢に入て告るなり。なかこふるそのほつたかは。なかこふるは汝かこふるなり。ほつたかは最《ホツ》鷹なり。木のほつえといふに、第九に最末枝とかけり。末の枝は高く立出れはなり。土佐にほつみさきといふ所にも最御崎とかけり。はつとほつとおなし。第十四に、山鳥のをろのはつをとよめるも、山鳥の尾のしたり尾といへることく、尾の末にことになかき尾のあるをいへは、はつはすくれたるをいふ詞なる故に、ほつたかは逸物をいふなり。まつたえのはまは、上にもまつたえの長濱過てとよめり。つなしは魚の名、※[魚+制]《コノシロ》のちひさきに似たりとも申。又あるものはやかてこのしろのちひさきほとの名ともいへり。たこのしまは、第十八に、たこのさきとよみ、第十九に、たこのうらとよめる水海の嶋なり。あしかものすたくふる江に。第十一にも、あしかものすたく池水とよめり。ふる江は、和名集云。射水郡古江【布留江。】をとつ日もきのふもありつ。をとつ日、をとゝひ、おなし詞なり。彼津日《ヲチツヒ》といふ心なり。貫之の哥に、きのふよりをちをはしらすとよまれたるをおもふへし。きのふよりさきをは皆いふへけれと、きのふのきのふをいへり。第六に
  さきつ日もきのふもけふもみつれともあすさへみまくほしき君かも
前日毛とかきたれは、をとつ日もともよむへし。その故は、第四に、家持の哥に、をとゝしのさきつ年よりことしまてといふに、前年とかきてをと年とよめれはなり。今ふつかたみは、今ふつかはかりといふ詞と聞ゆれと、たみといふ詞、此外いまた見をよはす。考ふへし。第八に
  我宿のはきの花さけり見にきませ今ふつかはかりあらは散なん
とほくあらはなぬかのうちは過めやと。第九に
  我ゆきはなぬかに過し龍田彦ゆめ此花をなぬかちらすな
第十三の長哥に、ひさにあらは今なぬかはかり、とくあらは今ふつかはかりあらんとそ君はきこしゝなこひそわきも。今は此哥をふみてよまれたるにや。いまに告つるは、夢に告つるなり。ゆめともいめともいへは、女と麻と五音通する故に、いまともいへり。又|寝間《イマ》の心にてねたるあひたにといへる心にや。それにても夢なり
 
4012 矢形尾能多加乎手爾須惠美之麻野爾可良双日麻禰久都(52)寄曾倍爾家流《ヤカタヲノタカヲテニスヱミシマノニカラヌヒマネクツキソヘニケル》
 
初、からぬ日まねく まねくはまなくなり。又からぬ日もなくともいふへし。月そへにけるは、初鷹狩よりあまたの月をふるなり
 
4013 二上能乎底母許能母爾安美佐之底安我麻都多可乎伊米爾都氣追母《フタカミノヲテモコノモニアミサシテアカマツタカヲイメニツケツモ》
 
4014 麻追我弊里之比爾底安禮可母佐夜麻太乃乎治我其日爾母等米安波受家牟《マツカヘリシヒニテアレカモサヤマタノヲチカソノヒニモトメアハスケム》
 
此初の二句第九に有て注せり、シヒニテのに〔右○〕は助語なり、サヤマダノヲチは山田|老翁《ヲヽヂ》なり、佐はそへたる詞なり、皇極紀の童|謠《ウタ》に山背王の頭髪の斑雜毛、山羊に似たまへるを柯麻之之能烏膩《カマシシノヲヂ》とよめり、歌の心は彼鷹我を欺きて翔いにきと云歟、又實に求めたれとも求め相はずして歸りたる歟、おぼつかなき意なり、
 
初、まつかへりしひにてあれかも 第九に此二句ありてそこに注せり。さやま田は、さは助語にて、山田は君丸か氏なり。をちは日本紀に、老翁とかきてをちとよめり。皇極紀の謠歌《ワサウタ》に
  いはのへにこさるこめやくこめたにもたけてとほらせかましゝのをち
此尾句を尺していはく。而喩3山背(ノ)王《ミコ》之|頭髪《ミクシ》班雜《・フヽキ》毛《フヽセニシテ》似《ニタマヘルニ》2山羊《カマシヽニ》1。かゝれはをちはみくしのふゝせにましませは、老翁といへるなり。さて哥の惣しての心は、霜雪をへてもかはらぬ松をかはるとしひていふことく、我に山のをちがしひてあるか。その日に、もとめばもとめあふへきを、三嶋野をそかひに見つゝ、ふたかみの山とひこえて雲かくり、かけりいにきといひなして、もとめあはさりけむといふなり
 
4015 情爾波由流布許等奈久須加能夜麻須可奈久能未也孤悲和多利奈牟《コヽロニハユルフコトナクスカノヤマスカナクノミヤコヒワタリナム》
 
(53)ユルブコトナクは彼鷹を暫も忘れで心の緩くもならぬなり、須加能夜麻は此も射水郡に有にや越中をば出べからず、スガナクは透なくなり、
 
初、こゝろにはゆるふことなく 緩ふ事なくなり。すかの山すかなくのみやは、すかの山をかへしてすかなくといへり。すかなくは、すきなくにて、透間なく鷹をこひおもふなり。催馬樂蘆垣第五段に、菅の根のすかなきことをわれはきくかなといへるは、すけなきことゝいふにて、今とおなしからす
 
右射水郡古江村取2獲蒼鷹1形容美麗※[執/鳥]v雉秀v群也、於v時養吏山田史君麻呂、調試失v節、野獵乖v候、搏風之翅、高翔匿v雲、腐鼠之餌、呼留靡v驗、於v是張2設羅網1窺2乎非常1、奉2幣神祇1特2乎不虞1也、奥以夢裏有2娘子1、喩曰、使君勿d作2苦念1空費c精神u、放逸彼鷹、獲得未v幾矣哉、須臾覺寤、有v悦2於懷1、因作2却v恨之歌1式旌2感信1、守大伴宿祢家持、 九月廿六日作也
 
※[執/鳥]雉〔二字右○〕は戰國策云、夫智伯(ガ)之爲v人也、好v利而※[執/鳥]、【※[執/鳥]殺鳥也、喩2其殘忍1、】調試失節〔四字右○〕、魏彦深鷹賦云、調v之實難(シ)、搏風之翅〔四字右○〕、莊子云、有v鳥焉、其名爲v鵬、背(ハ)如2大山1翼若2垂天(ノ)之雲(ノ)1、搏2扶搖1羊角而上者九萬里、絶2雲氣1負2青天1、然後圖v南、腐鼠之餌〔四字右○〕、莊子曰、夫※[宛+鳥]雛發2於南海1而飛2北海1、非2梧桐1(54)不v止、非2練實1不v食、非2醴泉1不v飲、於是鴟得2腐鼠1※[宛+鳥]雛過v之(ヲ)仰而視之曰嚇、特〔右○〕は待歟、
 
初、※[執/鳥]雉 戰國策云。夫智伯之爲人也、好v利而|※[執/鳥]《・ツカミトル》。【※[執/鳥](ハ)殺v鳥也。喩2其殘忍1。】搏風之翅。莊子云。有v鳥焉其名爲v鵬。背如2大山1翼若2垂天之雲1。搏2扶搖《・五雜組風名》1、羊角而上者九萬里。絶2雲氣1負2青天1然後圖v南。腐鼠之餌。莊子又云。夫※[宛+鳥]雛發2於南海1而※[非/虫]2北海1。非2梧桐1不v止。非2練實1不v食。非2醴泉1不v飲。於v是鴟得2腐鼠1。※[宛+鳥]雛過v之。仰而視(テ)之|曰《コヽニ》嚇《カヽナク》。調試失節。魏彦〓鷹賦云。調v之(ヲ)實(ニ)難(シ)。粤以、粤誤作奥
 
高市連黒人謌一首 年月不審
 
4016 賣比能野能須須吉於之奈倍布流由伎爾夜度加流家敷之可奈之久於毛倍遊《メヒノノヽスヽキオシナヘフルユキニヤトカルケフシカナシクオモヘユ》
 
メヒノ野は婦負野なり、婦負は越中郡名なり、和名集には婦負【禰比】とあり、第一に輕皇子の阿騎野に宿り給へる時人麿のよまれたる長歌の末に似たり、落句の倍は保の字を寫し誤れる歟、オモヘユとよめる例なし、袖中抄におもはゆとあるは字にあたらず、
 
初、めひの野のすゝきおしなへ 越中に婦負郡あり。下にめひ川ともよめり。和名集云。婦負【禰比。】此集とはたかへり。かゝる事常ある例なり。かなしくおもへゆは、おもほゆなり
 
右傳2※[言+漏の旁の雨が用]此誦1三國真人五百國是也、
 
此誦の誦は謌を寫し誤れる歟、官本には歌に改たり、五百國は未v詳、
 
4017東風《アユノカセ》【越俗語東風謂2之安由乃可是1也】伊多久布久良之奈呉乃安麻能都利須(55)流乎夫禰許藝可久流見由《イタクフクラシナコノアマノツリスルヲフネコキカクルミユ》
 
北國には今も東風をあゆのかぜと申習はす由承る、六帖にははるかぜのと改て春の風の歌とせり、
 
初、あゆのかせ、注云々 五雜組云。元微之詩云。江喧過雲雨。船泊打頭風。【二皆俚語也。】李賀詩、門前流水江陵道。鯉魚風起芙蓉老。【九月風也。】又六月中有2束南風1、謂2之黄雀風1。〓〓也、舶〓也、石尤也、羊角也、少女也、扶搖也、孟婆也、皆風之別名世。海風謂2之颶風1。以其具2四方之風1
 
4018 美奈刀可是佐牟久布久良之奈呉乃江爾都麻欲妣可波之多豆左波爾奈久《ミナトカセサムクフクラシナコノエニツマヨヒカハシタツサハニナク》
 
六帖にはみなとの歌に入れたり、
 
一云|多豆佐和久奈里《タツサワクナリ》
 
4019 安麻射可流比奈等毛之流久許己太久母之氣伎孤悲可毛奈具流日毛奈久《アマサカルヒナトモシルクコヽタクモシケキコヒカモナクルヒモナク》
 
落句は慰さむ日もなくなり、六帖にはなかぬ日もなくとて戀の歌として作者なし、
 
初、あまさかるひなともしるく 越中はひなの都ともいふへき國なれと、ひなとしられておほくのこひのなくさむる日なきとなり
 
4020 故之能宇美能信濃《コシノウミノシナノ》【濱名也】乃波麻乎由伎久良之奈我伎波流(56)比毛和須禮弖於毛倍也《ノハマヲユキクラシナカキハルヒモワスレテオモヘヤ》
 
初、こしのうみのしなのゝはまを これは信濃の長き濱路を行くらすほとにおほゆる春日にも、しはらくたにわすれておもふや。わするゝ時なきとなり
 
右四首天平二十年春正月二十九日大伴宿禰家持
 
今按是は天平二十一年なるを一の字を落せるにはあらずして後人長暦等を見るに天平に二十一年なきに依て思慮もなく一の字を削り捨たるなり、先二十一年なるべき故は此卷より下は年月等日記の如くなるを上に天平二十年二月より九月までの歌有て又立返り正月の歌あるべからず、其上十九年二月より二十年三月まで重く煩らはれたれば堅く此歌を正月によまるべきことわりなし、一の字を落せるにはあらずして削り捨たりと云故は、第十八の初の詞書云、天平二十年春三月廿三日云々、是彌天平二十一年なるを二十年とあれば削り捨たるに極まれり、二十一年五月に天平感寶元年と改元したまひ、同七月に皇太子に御位を讓らせ給ふに依て感寶元年を改めて勝寶元年としたまへり、年中の改元なれば感寶をば捨て勝寶元年とのみ知れり、此集は感寶と勝寶とを並べ擧たるは日記の故なり、されば五月より此方を天平二十一年と云へる事明らかなるものなり、定家卿抄にも、第十七自2天平二年1至2于廿年1、第十八(57)自2天平廿年三月廿三日1至2于同勝寶二年正月二日1とあり、
 
礪波郡雄神河邉作歌一首
 
延喜式神名帳云、礪波郡雄神神社あり、
 
初、礪波郡雄神河 延喜式神名云。越中國礪波郡雄神神社
 
4021 乎加未河伯久禮奈爲爾保布乎等賣良之葦附《ヲカミカハクレナヰニホフヲトメラシアシツキ》【水松之類】等流登湍爾多多須良之《セニタヽスラシ》
 
腰句の之は助語なり、葦附は自注に見えたり、
 
婦負郡渡※[盧+鳥]坂河邊1時作歌一首
 
神名帳に婦負郡に鵜坂神社あり、
 
初、婦負郡渡※[盧+鳥]坂河 神名帳云。婦負郡鵜坂神社
 
4022 宇佐可河伯和多流瀬於保美許乃安我馬乃安我枳乃美豆爾伎奴奴禮爾家里《ウサカヽハワタルセオホミコノアカマノアカキノミツニキヌヽレニケリ》
 
(58)見2潜※[盧+鳥]人1作歌一首
 
4023 賣比河波能波夜伎瀬其等爾可我里佐之夜蘇登毛乃乎波宇加波多知家里《メヒカハノハヤキセコトニカヽリサシヤソトモノヲハウカハタチケリ》
 
新川郡渡2延槻河1時作歌一首
 
初、新河郡 和名集云。新川【邇布加波】
 
4024 多知夜麻乃由吉之久良之毛波比都奇能可波能和多理瀬安夫美都加須毛《タチヤマノユキシクラシモハヒツキノカハノワタリセアフミツカスモ》
 
ユキシのし〔右○〕助語なり、クラシモは雪消して其水の流れ來らしなり、アブミツカスモは鐙を衝なり、
 
初、立山の雪しくらしも 立山の雪の消てその雪消の水の來るらしといふ心なり。はひつきは、今彼國には、やつきと所のもの申侍るよしなり。あふみつかすもは、水のまさりて乘る馬の鐙を衝て過る心なり。第七に廣瀬川袖|衝許《ツクハカリ》とよめる心におなし。毛詩云。濟《ワタリ》盈(テ)不v濡《ウルホサ》v軌《ワタチ》
 
赴2參氣比大神宮1行2海邊1之時作歌一首
 
今按能登國羽咋郡氣多神社、此氣多を知らずして氣比とせり、又延喜式第三名神祭二百八十五座の中に氣多神社一座能登國とあれば神名帳に大一座と標して(59)大と注せることなきを引合せて神名帳の氣多神社の下に名神大の三字の注を失なへり、稱徳紀云、神護景雲二年十月甲子充2能登國氣多神封二十戸田二町1、光仁紀云、寶亀元年八月庚寅朔辛卯遣2神祇員外少史正七位上中臣葛野連飯麻呂1奉2幣帛於越前國氣比神、能登國氣多神1、桓武紀云、延暦三年三月壬申朔丁亥敍2徒三位氣太神正三位1、延喜式第三云、能登國氣多神宮司准2少初位官1、【以2神封1給v之、】源順家集云、天元三年春能登に成て下る左衛門佐誠信餞する日の歌、神のます氣多のみ山木繁くとも別て祈らむ君ひとりをば、能登國は元正紀云、養老二年五月甲午朔乙未割2越前國之羽咋能登鳳至珠洲四郡1置2能登國1、聖武紀云、天平十三年十二月能登國并2越中國1、孝謙紀云、寶字元年五月能登安房和泉等國依v舊分立、かゝれば今は能登をまさせたる越中守なる故に能登へも赴むかるゝなり、境を越て越前へは赴くべきにあらず、下の歌どもゝ、能登にての作なり、
 
初、赴參氣多大神宮 多を誤て比につくれり。これは能登國羽咋郡にまします御神なり。聖武紀云。天平十三年十二月能登國(ヲ)并(ス)2越中國(ニ)1。これによりて越中守なれとも、能登をも兼て治めらるゝ故に、まうてらるゝなり。延喜式神名を考るに、羽咋郡十四座。下注云。大一座。小十三座。かくして神名を載るには、大社のよし注することなし。これ漏脱なり。同第三卷、名神祭二宮八十五座の中に、神名を奉る中に、いはく。氣多神社一座。能登國。これにて知ぬ神名下巻には氣多神社の下に名神大の注を落せるなり。又第三云。能登國氣多神宮司(ハ)准2少|初《ソ》位(ノ)影官(ニ)1。【以2神封1給v之。】續日本紀云。景雲二年十月甲子充2能登國氣多神(ノ)封(ニ)二十戸(ト)田二町(トヲ)1。寶龜元年八月庚寅朔辛卯遣(シテ)2神祇員外少史正七位上中臣葛野連飯麻呂(ヲ)1奉2幣帛(ヲ)於越前國(ノ)氣比(ノ)神(ト)能登國(ノ)氣多(ノ)神(トニ)1。延暦三年三月壬申朔丁亥、叙(ス)2從三位氣太(ノ)神(ヲ)正三位(ニ)1
 
4025 之乎路可良多太古要久禮婆波久比能海安佐奈藝思多理舩梶母我毛《シヲチカラタヽコエクレハハクヒノウミアサナキシタリネカチモカモ》
 
(60)之乎路は延喜式神名帳云、羽咋郡志乎神社、かゝれば之乎は所の名なり、乎の字を書たれば鹽のにはあらず、船梶は第六笠金村歌は長歌短歌ともにフナカヂと點ぜり、
 
初、しをちから 延喜式云。羽咋郡志乎神社。かゝれはしをは羽咋郡にある所の名なり。第十四に塩をしほとかゝすして、しをとかけれは、これも塩に名付たる歟
 
能登郡從2香島津1發舩行放2射熊來村1往時作歌二首
 
香島は和名集に加島【加之萬、】とあり、於射は射於なるべし、
 
初、從香島津 和名集云。加島【加之萬。】於射熊來村往時、射於倒して於射となれるなるへし。第十六云。自2肥前國松浦縣美彌良久埼1發船、直(ニ)射《サシテ》2對馬(ヲ)1渡(ル)v海(ヲ)。熊來村は和名集云。能登郡熊來【久萬岐。】此集第十六能登國歌云。はしたてのくまきのやら。又はしたてのくまきさかや
 
4026 登夫佐多底舩木伎流等伊有能登乃島山今日見者許太知之氣思物伊久代神備曾《トフサタテフナキヽルトイフノトノシマヤマケフミレハガコタチシケシモイクヨカミヒソ》
 
伊有、【官本或有作v布、】
 
發句は第三に云が如く別に注す、有は布に作れるを用べし、能登乃島山は能登郡にさ云山の有なるべし、能登はのどかの意などにて舟木をも祝ひて伐る歌、廢帝紀云、寶字七年八月辛未朔壬午、初遣2高麗國1、船名曰2能登1、歸朝之日風波暴急漂2蕩海中1、祈曰幸頼2船靈1平安到v國、必請2朝庭1酬以2錦冠1、至v是縁2於宿祷1授2從五位下1、其冠製錦表※[糸+施の旁]裏以2紫組1爲v纓、船材キルト云能登ノ島山と云へるを思ふべし、落句は幾代を經てかく神さびたるぞとほむる意なり、第十にもふるの神杉神備てもとよめり、
 
初、とふさたてふなきゝるといふ 第三沙彌滿誓の哥に、とふさたてあしから山の舟木をも木によりよせつあたらふなきを。此哥にすてに尺せり。伊有は伊布をあやまれるなるへし。いくよ神びぞは幾代をへて神さひたるそとなり。第十にもいそのかみふるの神杉かみひてもとよめり
 
(61)4027 香島欲里久麻吉乎左之底許具布禰能可治等流間奈久京師之於母保由《カシマヨリクマキヲサイテコフネノカチトルマナクミヤコシオモホユ》
 
京師、【別校本、師作v都、】
 
落句の之は助語なり、
 
凰至郡渡2饒石河1之時作歌一首
 
官本凰を鳳に作れり、和名集云鳳至【不布志、】今の本は書生の誤れるなるべし、饒石河を後に錦川とよめるは誤なり、
 
初、鳳至郡 和名集云。鳳至【不布志。】鳳を凰に作れるは誤なり。饒石河は哥に爾藝之河波とかけるをおもふに、きもしにこれり。饒速日命のことし。にきはふといふ時のことし。後にはこれをあやまりてにしき川とよめり。錦河のことし
 
4028 伊毛爾安波受比左思久奈里奴爾藝之河波伎欲吉瀬其登爾美奈宇良波倍底奈《イモニアハスヒサシクナリヌニキシカハキヨキセコトニミナウラハヘテナ》
 
ミナウラハハヘテナは水占をしていつかあはむと占なひて見むとにや、第三に石卜とよめり、饒石河とは石の多きに名付たるべければ清き瀬毎に石のあざやかに見(62)ゆるを踏こゝろ見て占なふを水古と云にや、
 
初、みなうらはへてなは水占せんなといふ心なり。石占足占のたくひなるへし
 
從2珠洲郡1發舩還2太沼郡1之時泊2長濱灣1作2見月光1作歌一首
 
珠洲〔二字右○〕、和名云珠洲【須須、】延喜式第十神名帳云珠洲郡須須神社あり、太沼郡は能登四郡の内此名なし、今按和名集を考ふるに羽咋【波久比】郡に太海【於保美、】郷あり、然れば海を誤て沼に作り郷を誤て郡に作れるなるべし、長濱は和名集云、能登郡長濱【奈加波萬、】灣は烏關切、水曲也、作見は官本に作を仰に作る尤此に依るべし、
 
初、從珠洲郡 和名集云。珠洲【須々。】延喜式第十、珠洲郡須々神社。還太沼郡。能登は四郡こゝにみな出て、太沼郡といふは越中にもなし。和名集を考ふるに、羽咋郡に太海【於保美】郷あり。延槻河をわたりて羽咋郡にまします氣多大神宮にまうてゝ、能登郡より鳳至郡にいたり、それより珠洲にいたりて、舟にてまた羽咋郡へ還らるゝなるへし。しかれは海郷の二字を誤て、沼郡となせるなるへし。長濱灣は和名集云。能登郡長濱【奈加波萬。】仰見、仰誤作v作(ニ)
 
4029 珠洲能宇美爾安佐妣良伎之底許藝久禮婆奈我波麻能宇良爾都奇底理爾家里《スヽノウミニアサヒラキシテコキクレハナカハマノウラニツキテリニケリ》
 
右件謌詞者、依2春出擧1巡2行諸郡1、當時所2屬目1作v之、大伴宿祢家持
 
(63)司馬彪(ガ)云、凡郡長治v民進v賢勸v功決v訟※[手偏+僉]v姦、常以v春行2所v至縣1、勸2民農桑1振2救乏絶1、令義解第十雜令云、凡公私以2財物1出擧者、【謂、公者、公廨之物也、】任依2私契1官不2爲理1、【謂、凡以v物出v息者、雖2是官物1、不d毎經2官司1以爲c判理u、任修2私契1、和擧取v利、故云3官不2爲理1也、】凡以2稻粟1出擧者【謂此條亦包2公私1、故下文云、其官半倍也、】任依2私契1、官不2爲理1、仍以2一年1爲v斷、【謂、春時擧受、以2秋冬1報、是爲一年也、】不v得v過2一倍1、其官半倍、並不v得d因2舊本1更令v生v利及※[しんにょう+囘]v利爲uv本、若家資盡、亦准2上條1、【謂2役身折庸1、】凡出擧、兩情和同私契、取v利過2正條1者、任人糺告、利物並賞2糺人1、
 
初、依春出擧 司馬彪曰。凡郡長治v民進v賢勸v功決v訟※[手偏+僉](ニハ)v姦、常(ニ)以v春行所v至縣、勸2民(ニ)農桑(ヲ)1振2救(ス)乏絶(ヲ)1。令義解第十雜令云。凡公私以2財物1出擧者【謂公者公廨之物也】任依d2私契1官不2爲理1。【謂凡以v物出v息者、雖2是官物1不d毎《ツネニ》經2官司1以爲c判理u。任修2私契1和擧取v利故云3官不2爲理1也。】凡以2稻粟1出擧者【謂此條亦包2公私1故下文(ニ)云2其官半倍1也。】任依2私契1官不2爲理1。仍以2一年1爲v斷。【謂春時擧受以v私冬報是爲2一年1也。】不(レ)v得v過2一倍1。其官半倍。並不(レ)v得d因2舊本1更令v生v利及※[しんにょう+囘]v利爲uv本。若家資盡亦准2上條1【謂役v身折v庸。】凡出擧(センニ)兩情和同(シテ)私契(ヲ以)取v利過2正條1者、任2人糺告1利物並賞2糺人1。屬目。戰國策云。田簡謂2司馬喜1曰。趙使者來屬v耳【霍光傳(ノ)注(ニ)屬近也。正曰。詩(ニ)耳屬2于垣1。史記注(ニ)屬猶v注也。言趙使屬2耳中山之事1
 
※[死/心]※[(貝+貝)/鳥]晩哢1歌一首
 
4030 宇具比須波伊麻波奈可牟等可多麻底婆可須美多奈妣吉都奇波倍爾都追《ウクヒスハイマハナカムトカタマテハカスミタナヒキツキハヘニツヽ》
 
造酒歌一首
 
延喜式第四十造酒司式云、祭神九座、二座【洒弥豆男神、酒弥豆女神】並從五位上、四座【竈神、】三座【從五位上大邑刀自、從五位下小邑刀自、次邑刀自、】
 
初、造酒歌 延喜式第四十、造酒司《サケツカサ》式云。祭神九座。二座【酒(ノ)彌豆男(ノ)神酒(ノ)彌豆女(ノ)神】並從五位上。四座【竈《ヘツヰノ》神。】三座【從五位上大邑刀自。從五位下小邑刀自。次邑刀自】
 
(64)4031 奈加等美乃敷刀能里等其等伊比波良倍安賀布伊能知毛多我多米爾奈禮《ナカトミノフトノリトコトイヒハラヘアカフイノチモタカタメニナレ》
 
延喜式第八云、凡祭祠祝詞者、御殿御門等祭(ニハ)齋部氏祝詞、以外(ノ)諸齋中臣氏祝詞、神代紀上云、乃使2天兒屋命1掌2其解除之太諄辭1而宣之焉、大諄辭、此(ニ)云2布斗能理斗1、神樂酒殿歌云、酒殿は廣しまひろしみかこしの我手な取そしかつけなくに 本 酒殿は今朝はなはきをむれかめの裳引裙曳今朝ははきてき、天原振放見者八重雲の雲の中なる雲の中臣の天の小菅をさきはらひ祈りし事は今日の日のため、あなこなや我皇神のかみろぎのよさて、下句は贖命も誰爲になれとか贖はむ妹がためにこそ贖へとなり、落句の云ひたらひても聞えぬやうなるは例の古風なり、上に妹が爲命殘せりとも贖命は妹が爲こそともよめるを引合せて意得べし、
 
初、なかとみのふとのりとこといひはらへ 延書式第八云。凡祭祠祝詞者、御殿御門等(ノ)祭(ハ)齋部氏。以下(ノ)諸齋(ハ)中臣氏祝詞。神代紀
上云。乃使(シテ)2天兒屋命(ヲ)1掌(トリ)2其|解除《ハラヘノ》之|太諄辭《フトノリトヲ》1而|宣《ノラシム》之焉。太諄辭《タイシユンシ》此(ヲハ)云2布斗能理斗《フトノリトヽ》1。神樂酒殿哥。本さかとのはひろしまひろし、みかこしのわか手なとりそ、しりつけなくに。末さかとのはけさはなはきそ、むれかめのもひきすそひきけさははきてき。天原ふりさけみれは、八重雲の雲の中なる雲の中とみの、天の小すけをさきはらひ、いのりしことはけふの日のため。あなこなや。わかすへの神のかみろきのよけこ。彼中臣祓をいひはらへてありと有罪科をあかなひて、神の御心をなこめ命なかくなるなり。たかためになれは、たかためになれや。故郷の妹かためにこそといふなるへし。第十一に
  玉くせのきよきかはらにみそきしていはふ命もいもかためなり
第十二に
  時つかせふけひのはまにいてゐつゝあかふいのちは妹かためこそ
 
右大伴宿禰家持作v之
 
萬葉集代匠記卷之十七下
〔2021年10月27(水)午後12時50分、初稿本入力終了〕
 
(1)萬葉集代匠記卷之十八上
                   僧契沖撰
                   木村正辭校
 
初、萬葉集卷第十八目録 又大に誤れり
 
初、太上皇御在於難波宮時歌七首 此惣標にてたれり。下の別目煩らはし。いはむや御船以云々。傳誦之人、田邊史福麿是也と七首の終に注したるは、泝江遊宴時の二首にかきるにあらす。七首を惣して福丸か傳誦なりと注したるをや。そのうへ右件歌者御船以綱手泝江遊宴之日作也と決して、傳誦之人田邊史福麿是也。かくのことくありてこそ當時異時のわかちはあれ。御舶以綱手泝江遊宴時田邊史福麿傳誦歌二首といへるは、あさましき事なり。田邊二字おちたり
 
初、先國師從館 館の字を僧にあらたむへし
 
初、行2英遠《アヲノ》浦(ヲ)1日【當v加2守大伴家持1】作哥一首
 
初、幸行芳野離宮時儲作歌 哥に至りては、爲幸行等といひて爲の字あり。けにも越中にありて京へ歸りて後、行幸有む時のため、まうけつくらるゝ哥なれは、爲の字を略しては、そのことはりなし
 
初、十七日大伴家持云々 此目大に拙して、家持の先妻の自來るやうにかけり。十七日史生尾張少咋前妻不v待2夫君使1自來時、守大伴家持作歌一首といふへし。今のまゝにても作哥の二字脱たり
 
初、廿三日 下に閏五月といへり
 
初、椽久米〇任時 此下に、舘聊設2詩酒宴1主人守大伴家持作歌一首并短歌といふへきにや
 
初、霍公鳥歌一首 上に大伴家持を加ふへし
 
初、二月十一日守云々 此目小序の大意を盡さす。又十八日なるを、十一日といへるも誤なり。當d改(テ)云c二月十八日守大伴家持緑(丙)※[手偏+僉](乙)察墾2田地1事(甲)、宿2礪波郡主帳多治比部北里之家1、于v時忽起2風雨1不v得2辭去1作歌一首(ト)u
 
初、田邊福麿 聖武紀云。天平十一年四月正六位上田邊史難波授2外從五位下1。福麿も此親族なるへし。雄略紀に田邊史伯孫といふもの有。先祖歟。爰新歌。爰作新歌なるへき歟
 
天平二十年春三月二十三日左大臣橘家之使者造酒司|令史《サクワン》田邊福麿(ヲ)饗(ス)2于守大伴宿禰家持(カ)舘(ニ)1、爰新歌并使誦(シテ)2古詠1各述2心緒1、
 
田邊、【官本邊下有v史、】  爰新歌、【官本、爰下有v作、】
 
第十七に注して云が如く天平二十一年なるを後人一の字を誤て削れり、目録に云はざるは目録は卷々の端作を拾ひ擧て後人の作る故なり、田邊の下の史の字爰の下の作の字官本に依るべし、
 
4032 奈呉乃字美爾布禰之麻志可勢於伎爾伊泥?奈美多知久(2)夜等見底可敝利許牟《ナコノウミニフネシマシカセオキニイテテナミタチクヤトミテカヘリコム》
 
ナミタチクヤとは浪立來るやとなり、此歌は次の歌をよまむためなり、
 
初、舟しましかせ しはしかせなり
 
4033 奈美多底波奈呉能宇良末爾余流可比乃末奈伎孤悲爾曾等之波倍爾家流《ナミタテハナコノウラマニヨルカヒノマナキコヒニソトシハヘニケル》
 
間ナキ戀とは家持を都にて戀たるを云へり、
 
4034 奈呉能宇美爾之保能波夜悲波安佐里之爾伊泥牟等多豆波伊麻曾奈久奈流《ナコノウミニシホノハヤヒハアサリシニイテムトタツハイマソナクナル》
 
鶴の上を云は我も見にゆかばやの心こもるべし、
 
4035 保等登藝須伊等布登伎奈之安夜賣具左加豆良爾勢武日許由奈伎和多禮《ホトヽキスイトフトキナシアヤメクサカツラニセムヒコユナキワタレ》
 
(3)此歌は第十に已に出たり、使誦2古詠1とは此歌と下に今一首あるを云へり、第四句を校本の點にかつらにきむと云ひ、幽齋本に勢を藝に作りて點校本と同じけれど第十に※[草冠/縵]將爲日《カツラニセムヒ》とかけるを證として今取らず、
 
初、あやめ草かつらにせん日 績日本紀第十七云。天平十九年五月丙子朔庚辰、天皇|御《オハシマシテ》2南苑(ニ)1觀《ミソナハス》2騎射走馬(ヲ)1。是(ノ)日太上天皇詔曰。昔者五日之節常(ニ)用(テ)2菖蒲(ヲ)1爲(ス)v縵(ト)。比來已停(ム)2此事(ヲ)1。從v今而後非(ラム)2菖蒲(ノ)縵(ニ)1者(ノハ)勿入《ナイリソ》2宮中(ニ)1
 
右四首田邊史福麿
 
三首の新歌一首の古歌※[手偏+總の旁]じて云へり、
 
于v時期之明日將v遊2覽布勢水海1仍述v懷各作歌
 
于時とは上の二十三日の饗宴を指にあらず、後の注の二十四日の宴を指す詞なり、其故は二十五日に布勢海を遊覽せられたれば明日の言二十五日を指故なり、
 
初、布勢水海 和名集云。射水郡|布西《フセ》
 
4036 伊可爾世流布勢能宇良曾毛許己太久爾吉民我彌世武等和禮乎等登牟流《イカニセルフセノウラソモコヽタクニキミカミセムトワレヲトヽムル》
 
世流、【幽齋本、世作v安、點云、アル、】
 
初、いかにせるふせのうらそも いかはかりおもしろきふせの浦なれはといふ心なり
 
(4)右一首、田邊史福麻呂
 
4037 乎敷乃佐吉許藝多母等保里比禰毛須爾美等母安久倍伎宇良爾安良奈久爾《ヲフノサキコキタモトホリヒネモスニミトモアクヘキウラニアラナクニ》
 
一云|伎美我等波須母《キミカトハスモ》
 
キミガトハスモは第二句の異なり、をふのさきはいかばかりなる所ぞとおろかにも君が問となり、
 
初、をふのさき 十七にも、をふのさき花ちりまかひとよめり。みともあくへき、みるともあくへきなり。一云、きみかとはすも、君かとふなり。これはこきたもとほりといふを、一にはきみかとはすもといふなり。いかにせるふせのうらそもと福丸かよめるによりて、君かとはすもといひて、ひねもすにみるともあくましき浦そとこたふる心なり。此集に處々に、一云とて句なとかはれる事有は、作者もとよりふたつによめるもあり。古今集に、山高み人もすさめぬ櫻花といへる哥に注して、又はさとゝほみ人もすさめぬ山櫻といひ、わすらるゝ身をうち橋の中たえてといふ哥の下句を、又はこなたかなたに人もかよはすといへるたくひなり。又異本あるによりて後に注したるもあるへし
 
右一首守大伴宿禰家持
 
4038 多麻久之氣伊都之可安氣牟布勢能宇美能宇良乎由伎都追多麻母比利波牟《タマクシケイツシカアケムフセノウミノウラヲユキツヽタマモヒリハム》
 
初、玉くしけいつしかあけむ いつか夜のあけんなり。玉くしけは明むといふへきためのみならす。あけてみぬほとは中のゆかしき物なれは、明るを待心おのつからこもれり。古今集に
  夕つくよおほつかなきを玉くしけふたみの浦は明てこそみめ
 
4039 於等能未爾伎吉底目爾見奴布勢能宇良乎見受波能保良(5)自等之波倍奴等母《オトノミニキヽテメニミヌフセノウラヲミスハノホラシトシハヘヌトモ》
 
4040 布勢能宇良乎由吉底之見弖波毛母之綺能於保美夜比等爾可多利都藝底牟《フセノウラヲユキテシミテハモヽシキノオホミヤヒトニカタリツキテム》
 
由吉底之、【幽齋本、吉作v伎、】  見弖波、【幽齋本、波作v婆、】
 
第二句の波は婆に作れる本然るべし、行て見たらばなり、之は助語なり、落句はカタリツゲテムとも讀べし、
 
4041 宇梅能波奈佐伎知流曾能爾和禮由可牟伎美我都可比乎可多麻知我底良《ウメノハナサキチルソノニワレユカムキミカツカヒヲカタマチカテラ》
 
此歌第十に既に出たり、使誦2古詠1と云に當れり、第十九云、但越中(ノ)風土、梅花柳絮三月初(テ)咲|耳《ノミ》、かゝれば今の歌時に叶ふべし、
 
初、梅の花咲ちるそのに これは第十の十四葉に出て全同なり。福丸古哥を用てそのまゝ時にあへは出されたるか。今の心は君かふせの海を見むとさそひにおこす使を待かてら、梅の花の咲ちる苑に我立出むとなり。第十九に、二月三日の作
  君かゆきもし久にあらは梅柳たれとゝもにかわかかつらかむ
哥後の注にいはく。但越中風土梅花柳絮三月初咲耳。今三月二十四日の哥なれは、梅のさきちるは、都にみぬめつらものなるゆゑに、すむしたるなるへし
 
4042 敷治奈美能佐伎由久見禮婆保等登藝須奈久倍吉登伎爾知可豆伎爾(6)家里《フチナミノサキユクミレハホトヽキスナクヘキトキニチカツキニケリ》
 
奈久倍吉、【幽齋本、吉作v伎、】
 
玉葉集に赤人の歌とて載られたるは、彼家集と云物にさへ見えねば未v知(ラ)2其據(ヲ)1、
 
右五首田邉史福麿
 
新歌四首古歌一首を※[手偏+總の旁]じて云へり、
 
4043 安須能比能敷勢能宇良末能布治奈美爾氣太之伎奈可受知良之底牟可母《アスノヒノフセノウラマノフチナミニケタシキナカスチラシテムカモ》
 
發句はあす見むずる布勢の浦とつゞくなり、昨日今日をきのふけふと云時は比と布と通よはして云へば、下句は來なかでちらしてむやきなかずばちらさじとなり、
 
一頭云|保等登藝須《ホトヽキス》
 
初、あすの日のふせのうらまの あすゆきてみんとちきれはかくはいへり。又きのふけふといふは《昨昨夜共日本紀》、きす《・キソ此集十四》の日この日《今》《ヒ》といふ心なり。比と布と通すれはなり。しかれは今もあすの日の日とかさねてつゝけいふ心もある歟。けたしきなかすといふはほとゝきすなり。一頭云保等登藝須、これは注するにをよはす。あすの日のといへるにては、なりひらの、あめのふる日藤を折て人につかはすとて、ぬれつゝそしひてをりつる、とよまれたる類に心得へし
 
右一首大伴宿禰家持和v之
 
(7)前件十首歌者二十四日宴作v之
 
十首と云は誤なり、八首なり、是は後人の誤れるなるべし、八首の中に古歌一首あればそれを除て七首と云へるを書生の誤て十に作れる歟、但二十三日宴の歌も古歌を除けば三首なるを右四首と注したれば今も八首なりけむをや、
 
二十五日徃2布勢水海1道《ミチノ》中(ノ)馬上口號二首
 
雄略紀云、天皇乃|口號《クチヅカラウタヒテ》曰《ノタマハク》、
 
初、馬上口號 雄略紀云。天皇乃(チ)口號《クチツウタシテ》曰云々
 
4044 波萬部余里和我宇知由可波宇美邊欲里牟可倍母許奴可安麻能都里夫禰《ハマヘヨリワカウチユカハウミヘヨリムカヘモコヌカアマノツリフネ》
 
欲利、【別校本、或利作v理、】
 
第四句の落著は迎へ來よの意なり、
 
4045 於伎敞欲里美知久流之保能伊也麻之爾安我毛布支見我(8)彌不根可母加禮《オキヘヨリミチクルシホノイヤマシニアカモフキミカミフネカモカレ》
 
落句は禮と留と通ずれば御船かも借るなり、君を載すべき御船を借置つる歟の意なり、此てにをは上にも下にもあり、古風にて今に叶はず、此左に右二首大伴宿禰家持と注したりけむが落たるなるべし、
 
初、おきへよりみちくるしほの 第四に、あしへよりみちくるしほのいやましにおもふか君かわすれかねつる。あかもふは、わかおもふなり。みふねかもかれは、みふねかれなり
 
至2水邉1遊覽之時各述v懷作歌
 
初、至水邊 水誤作v氷
 
4046 可牟佐夫流多流比女能佐吉許支米具利見禮登裳安可受伊加爾和禮世牟《カムサフルタルヒメノサキコキメクリミレトモアカスイカニワレセム》
 
下句は第十四にぬれどあかぬをあどかあがせむとよめる意に同じ、
 
右一首田邊史福麿
 
4047 多流比賣野宇良乎許藝都追介敷乃日婆多奴之久安曾敝移比都支爾勢牟《タルヒメノウラヲコキツヽケフノヒハタノシクアソヘイヒツキニセム》
 
(9)日婆、【幽齋本、婆作v波、當v依v此、】  多奴之久、【幽齋本、奴作v努、】一》
 
初、いひつきにせん 第三赤人不盡山の哥にかたりつけいひつきゆかむとよめり
 
右一首|遊行女婦土師《アソヒヒメハシ》
 
4048 多流比女能宇良乎許具夫禰可治末爾母奈良野和藝弊乎和須禮?於毛倍也《タルヒメノウラヲコクフネカチマニモナラノワキヘヲワスレテオモヘヤ》
 
許具夫禰、【幽齋本、夫作v不、當v隨v之、】
 
右一首大伴家持
 
4049 於呂可爾曾和禮波於母比之乎不乃宇良能安利蘇野米具利見禮度安可須介利《オロカニソワレハオモヒシヲフノウラノアリソノメクリミレトアカスケリ》
 
オロカはおろそかの意なり、古今集に小町が歌にもおろかなる涙ぞ袖に玉はなすとよめり、
 
初、おろかにそ我はおもひし おろそかにそ我はおもひしなり
 
(10)右一首田邊史幅麿
 
4050 米豆良之伎吉美我伎麻佐波奈家等伊比之夜麻保登等藝須奈爾加伎奈可奴《メツラシキヽミカキマサハナケトイヒシヤマホトヽキスナニカキナカヌ》
 
伎麻佐波、【幽齋本、波作v婆、】
 
右一首〓久米朝臣廣繩
 
4051 多胡乃佐伎許能久禮之氣爾保登等藝須伎奈伎等余米波婆太古非米夜母《タコノサキコノクレシケニホトヽキスキナキトヨメハハタコヒメヤモ》
 
婆太、【幽齋本、婆作v波、】
 
第二句は木闇《コノクレ》の繁き如くしげく鳴かばの意なり、第四句の終第五句の始の波婆の二字は婆波をさかさまに寫し誤まれるなるべし、
 
初、たこのさきこのくれしけに 第三にも、櫻花このくれしけにとよめり。木陰のしけりそひてくらきなり。猶あまたよめり。その木のくれのことく、ほとゝきすもしけくなきとよめは、こひめやとなり
 
右一首大伴宿禰家持
 
(11)前件十五首歌者二十五日作v之
 
八首なるを十五首とは二十四日の歌古歌を除けば七首あるを十首後人誤て合せたる歟、
 
〓久米朝臣廣繩之舘饗2田邊史福麿1宴歌四首
 
4052 保登等藝須伊麻奈可受之弖安須古要牟夜麻爾奈久等母之流思安良米夜母《ホトヽキスイマナカスシテアスコエムヤマニナクトモシルシアラメヤモ》
 
今日の良宴になかずば明日我獨越る山路に聞ともかひあらじとなり、
 
初、あすこえむ山になくともしるしあらめや けふの宴席にきかすして、あすわか獨かへる山道にきくとも、かひあらしとなり
 
右一首田邉史福麿
 
4053 許能久禮爾奈里奴流母能乎保等登藝須奈爾加伎奈可奴伎美爾安敞流等吉《コノクレニナリヌルモノヲホトヽキスナニカキナカヌキミニアヘルトキ》
 
初、このくれになりぬるものを このくれ、上のことし
 
右一首久米朝臣廣繩
 
(12)4054 保等登藝須許欲奈枳和多禮登毛之備乎都久欲爾奈蘇倍曾能可氣母見牟《ホトヽキスコヨナキワタレトモシヒヲツクヨニナソヘソノカケモミム》
 
初、ほとゝきすこゆなきわたれ これより啼わたれなり。ともしひをつくよになそへは、ともし火の影のあきらかなるを月夜になそらへて、その飛過る影をもみむとなり
 
4055 可敝流末能美知由可牟日波伊都波多野佐可爾蘇泥布禮和禮乎事於毛波婆《カヘルマノミチユカムヒハイツハタノサカニソテフレワレヲシオモハヽ》
 
カヘルマは歸間《カヘルマ》なり、イツハタは延喜式云、越前國|敦賀《ツルガノ》郡|五幡《イツハタノ》神社、後撰に君をのみいつはたと思ふこしなればゆきゝの道ははるけからしを、新古今に伊壹、忘なむよにもこしぢの歸山いつはた人にあはむとすらむ、紫式部が集に、行めぐり誰も都にかへる山いつはたと聞程のはるけさ、落句のし〔右○〕は助語なり、
 
初、かへるまの道ゆかん日は まは助語なり。歸るさの道ゆかん日はなり。第十一に、かへらまに君こそ我をといへるは、かへりての心なり。これに准すへし。いつはたの坂は越前なり。延喜式云。越前國、敦賀郡、五幡神社。後撰集別、よみひとしらす
  君をのみいつはたと思ふこしなれはゆきゝの道ははるけからしを
新古今集別、伊勢
  わすれなんよにもこしちの歸る山いつはた人にあはむとすらん
紫式部家集に                               ゆきめくり誰も都にかへる山いつはたときくほとのはるけさ
 
右二首大伴宿彌家持
 
前件歌者二十六日作v之
 
歌の員を云はぬは初に四首と云へる故なり、
 
(13)大上皇御2在於難波宮1之時哥七首【清足姫天皇也】
 
下の細注は後人の所爲なり、去年四月まで御在世にて紛るゝ事なければ撰者の注すべきにあらず、第七首の發句に奈都乃欲波《ナツノヨハ》とあれば此御幸は十九年の夏なるべし、
 
左大臣橘宿禰歌一首
 
4056 保里江爾波多麻之可麻之乎大皇乎美敷禰許我牟登可年弖之里勢婆《ホリエニハタマシカマシヲオホキミヲミフネコカムトカネテシリセハ》
 
腰句は乎と乃と同韻にて通ずれば大きみのなり、下の注(ニ)在2於左大臣橘卿之宅1肆宴とあればかくはよみ給へるなり、新拾遺集※[羈の馬が奇]旅部に亭子院なにはにみゆきの時|貞數親王《サダカズノミコ》、君がため浪の玉敷三津の濱行過がたしおりて拾はむ、今の左大臣の歌を思ひたまへるにや、奧義抄灌頂卷、古今集まきもくのあなしの山の山人とよめる歌の注の末に.事の便に此歌をひかれたるに、腰句をみづかきのとかきて注の前後大き(14)に誤れる事どもあり、煩らはしければひかず、考て知べし、歌道の博覽人に許されて事々しき奧書あるだにかくの如し、
 
初、ほりえには玉しかましを 第十九におなし橘卿
  むくらはふいやしき宿も大君のまさんとしらは玉しかましを
第六、第十一にも似たる作あり。大君をは、大君のなり。乎と乃と同韻にて通せり
 
御製歌一首 和
 
4057 多萬之賀受伎美我久伊弖伊布保理江爾波多麻之伎美弖々都藝弖可欲波牟《タマシカスキミカクイテイフホリエニハタマシキミテヽツキテカヨハム》
 
御舟こがむと兼て知らば堀江に玉しかまし物をとある故に君が悔て云とはよませ給へり、
 
初、玉しかすくいて 玉しかましをとは、かねてしきおかぬことをくゆる詞なれは、君かくいていふとはよませたまへり。元正天皇の御返哥なり
 
或云|多麻古伎之伎弖《タマコキシキテ》
 
こきちらす瀧の白玉とよめるが如し、
 
右一首件歌者御船泝v江遊宴之日左大臣奏并御製
 
右二首と有けむを、御製歌一首と云へるに迷ひて後人のかしこげに一首とは(15)改けるなるべし、左大臣奏并御製と云へるにて二首なること掌を指て明なり、
 
御製歌一首
 
4058 多知婆奈能登乎能多知婆奈夜都代爾母安禮波和須禮自許乃多知婆奈乎《タチハナノトヲノタチハナヤツヨニモアレハワスレシコノタチハナヲ》
 
是は左大臣の姓によせてよませ給へるなり、トヲノタチバナとは橘に十種の異あるか、聖武紀云、神龜二年十一月己丑、中務少丞従六位上佐味朝臣虫麻呂、典鑄正從六位上播磨直弟兄、並授(ク)2從五位下1、弟兄初賚2甘子1從2唐國1來、虫麻呂先殖2其種1結v子、故有2此授1焉、かゝれば此國に柑子は聖武天皇の時より有そめけるなり、十と云員を承て八代とのたまへり、第二十に橘左大臣のあぢさゐの八重咲如く八代にをと讀たまへるも今の御製のつゞきに似たり、さて八代とは久しき意なり、
 
初、橘のとをのたちはな とをは十なり。香菓のかす/\あるを、とをとはよませたまへり。あまた名の立を、人のとを名とよめるかことし。聖武紀云。神龜二年十一月己丑、天皇|御《オハシマシテ》2大|安《アム》殿(ニ)1受(タマフ)2冬至(ノ)賀辭《ヨコトヲ》1。〇中務少丞從六位上佐味朝臣虫麻呂、典鑄正【正歟從歟】六位上播磨直弟兄(ニ)並(ニ)授2從五位下(ヲ)1。弟兄初賚2甘子1從2唐國1來。虫麻呂先殖2其種1結v子。故有2此授1焉。田道間守か常世の橘を得て歸りし後、弟兄また柑子を唐國より傳へ來りて、柑類さま/\にわかれたれは、大數を擧てとをの橘とのたまへるなり。八代と、十に對してあまたの代々も忠功をわすれたまはしとのたまへり。諸兄の氏によせ給へり
 
河内女王歌一首
 
聖武紀云、天平十一年正月甲午朔丙午、從四位下河内女王授2從四位上(ヲ)1、光仁紀云、寶(16)龜十年十二月己未正三位河内女王薨、淨廣壹高市皇子之女也、此あはひにあまた處見えたり、
 
4059 多知婆奈能之多泥流爾波爾等能多弖天佐可彌豆伎伊麻須和我於保伎美可母《タチハナノシタテルニハニトノタテヽサカミツキイマスワカオホキミカモ》
 
第十六にも橘のてれる長屋とよめり、サカミヅキは酒宴なり、古事記雄略天皇段に御製歌云、毛毛志紀能《モヽシキノ》、淤富美夜比登波《オホミヤビトハ》、爾波須受米《ニハスヾメ》、宇受須麻理韋弖《ウズスマリヰテ》、祁布母加母《ケフモカモ》、佐加美豆久良斯《サカミヅクラシ》云々、
 
初、橘のしたてる庭に 次下の哥にあから橘とよめるは、あからめる橘なり。橘のおほくなりてあからむ時は、下もてるはかりなる故に、下てる庭といへり。第十六に、橘のてれる長屋ともよめり。さかみつきいますは、酒宴しましますなり。此卷下にいたりて、ほとゝきすきなくさつきのあやめ草よもきかつらきさかみつきあそひなくれとなとよめり。第十九にも、さかみつきさかゆるけふのあやにたふとさとよめり
 
粟田女王歌
 
聖武紀云、天平十一年正月從四位下粟田女王授2從四位上1、二十年三月正四位下粟田女王授2正四位上1、廢帝紀云、寶字五年六月從三位粟田女王進2一階1、八年五月庚子正三位粟田女王薨、
 
初、粟田女王 天平十一年正月甲午朔丙午、從四位下粟田女王授2從四位上1。二十年三月、正四位下粟田女王授2正四位上1。寶字五年六月、從三位粟田女王進2一階1。八年五月庚子、正三位粟田女王薨
 
4060 都寄麻知弖伊敝爾波由可牟和我佐世流安加良多知婆奈(17)可氣爾見要都追《ツキマチテイヘニハユカムワカサセルアカラタチハナカケニミエツヽ》
 
初、月まちて家にはゆかん 酒宴にあそひて月の出るを待てわたくしの家にはゆかん。あからめる橘をかさしにさせる影さへ、月に見えて歸らは興あらんとなり。日本紀に、應神天皇髪長姫を橘によせて、あかれるをとめとよませたまへり。第廿には、かしはをも、いなみのゝあからかしはとよめり。日本紀に熟の字をあかめるとよめり。このみもいねも熟すれはおほく色もあかめは、さる心にて熟の字をあかめりとはよめるなるへし
 
右件歌者在2於左大臣橘卿之宅1肆宴御歌并奏歌也、
 
4061 保里江欲里水乎妣吉之都追美布禰左須之津乎能登母波加波能瀬麻宇勢《ホリエヨリミヲヒキシツヽミフネサスシツヲノトモハカハノセマウセ》
 
シヅヲノトモはしづのをのともがらなり、もろこしにも賤しき事を布衣といへば、此國にもいにしへ倭文《しづ》をのみ著る者をしづとは名付たる歟、河ノ瀬申セとは此處《コヽ》は河の瀬にてさふらふと申て案内せよとなり、
 
初、ほりえよりみをひきしつゝ みをひきは水尾の筋をみちひき行なり。第十五の長哥にたゝむかふみぬめをさして塩待てみをひきゆけはといへる所に委しるせり。しつをのともは、しつのをのともからなり。いやしきものをしつといふは、古今集にも、いにしへのしつのをたまきいやしきもよきもさかりは有しものなりとよめり。もろこしにもいやしきものを布衣といふことく、わか國にも倭父はいにしへのいやしきものゝ衣にきる物にて、それにつきて名付たりと見えたり。かはのせまうせは川の瀬ありて、舟のなつむへき所あらは、奏せよとなり
 
4062 奈都乃欲波美知多豆多都之布禰爾能里可波乃瀬其等爾佐乎左指能保禮《ナツノヨハミチタツタツシフネニノリカハノセコトニサヲサシノホレ》
 
初、さをさしのほれ 和名集云。唐韻云。〓【音高。字又作v※[竹/高]、和名佐乎。】棹竿也。方言云。刺v船竹也
 
右件歌者御舩以2綱手1泝v江遊宴之日作也、傳誦之人田(18)邉史福麿是也、
 
後追2和橘歌1二首
 
是は御製の意を追て私に和するなり、
 
4063 等許余物能已能多知婆奈能伊夜?里爾和期大皇波伊麻毛見流其登《トコヨモノコノタチハナノイヤテリニワコオホキミハイマモミルコト》
 
トコヨ物はすなはち橘の事なり、下の橘の長歌に注すべし、
 
初、今もみることは、今みることくなり
 
4064 大皇波等吉波爾麻佐牟多知婆奈能等能乃多知婆奈比多底里爾之?《オホキミハトキハニマサムタチハナノトノヽタチハナヒタテリニシテ》
 
初、ひたてりにして 常にてるなり。常陸をひたちとよむかことし。たちはなのとのゝ橘といへるによりて思ふに、さきの御製に、たちはなのとをのたちはなとよませたまへるも、乎と能と通して橘の殿の橘にや。又とのゝ橘といへるか、かへりてとをの橘にや。此二首は河内女王と粟田女王との哥を和せるなるへし
 
右二首大伴宿禰家持作v之
 
射水(ノ)郡(ノ)驛舘之屋(ノ)柱(ニ)題(シ)著(タル)歌一首
 
(19)4065 安佐妣良伎伊里江許具奈流可治能於登乃都波良都婆良爾吾家之於母保由《アサヒラキイリエコクナルカチノオトノツハラツハラニワカヘシオモホユ》
 
吾家之、【官本云、ワキヘ、】
 
第四句はつまびらか/\にと云なり、第十九には八峯《ヤツヲ》の椿つばらかにとよめり、舒明紀云、仍|曲《ツバヒラケク》擧2山背大兄之語1、かぢの音のさやかに聞ゆるやうにつまびらかに故郷のおぼゆるとなり、落句のし〔右○〕は助語なり、上の都波良の波は下の如く婆なるべし、
 
初、つはら/\に つまひらかといふ詞なり。日本紀第二十三云。仍|曲《ツハヒラケク》擧2山背大兄之語(ヲ)1。此集第十九におく山のやつをのつはきつはらかにともよめり。第三にあさちはらとさまかくさまに物おもへはといへる帥大伴卿の哥に曲々とかけるを、とさまかくさまとよめるはつはら/\にてあらんとそこにも尺し侍き
 
右一首山上臣作不v審v名、或云憶良大夫之男、但其正名未v詳也、
 
四月一日〓久米朝臣廣繩之舘宴歌四首
 
4066 宇能花能佐久都奇多知奴保等登藝須伎奈吉等與米余敷(20)布《ウノハナノサクツキタチヌホトヽキスキナキトヨメヨフヽ》里|多里登母《タリトモ》
 
敷布里、【幽齋本、里作v美、點云フヽミ、】
フヽリはふゝむにてつぼむなり、
 
初、ふゝりたりとも ふくみてありともにて、うの花はまたつほみて有とも、ほとゝきすになけとよめるなり
 
右一首守大伴宿禰家持作v之
 
4067 敷多我美能夜麻爾許母禮流保等登藝須伊麻母奈加奴香伎美爾妓可勢牟《フタカミノヤマニコモレルホトヽキスイマモナカヌカキミニキカセム》
 
第四句はなけかしの意なり、
 
初、ふたかみの山にこもれる 第十九にも
  ふたかみのをのへの|しゝ《繁》にこもに《リ・ル》し《・之》は《・句》助《》ほとゝきすまてといまたきなかす
 
右一首遊行女婦土師作v之
 
4068 乎里安加之許余比波能麻牟保等登藝須安氣牟安之多波奈伎和多良牟曾《ヲリアカシコヨヒハノマムホトヽキスアケムアシタハナキワタラムソ》
 
(21)乎里安加之、【幽齋本、之下有2母字1點亦應v此、】
 
發句は居明《ヲリアカシ》なり、
 
初、をりあかし 居明《ヲリアカシ》なり
 
二日應2立夏節1、故謂2之明旦將1v喧也、
 
立夏に必らず鳴由第十七に既に見えたり、
 
初、注、二日應立夏節故云々 第十七云。霍公鳥者立夏之日來鳴必定。第十九云。二十四日應2立夏四月節1也云々
 
右一首守大伴宿禰家持作v之
 
4069 安須欲里波都藝弖伎許要牟保登等藝須比登欲能可良爾古非和多流加母《アスヨリハツキテキコエムホトヽキスヒトヨノカラニコヒワタルカモ》
 
アスヨリと云こと上の注に見えたり、ヒトヨノカラは一夜之間《ヒトヨノカラ》なり、第四にも讀て注せしが如し、
 
初、ひとよのからに 一夜の間なり。第九にもひとよのみねたりしからに、をのうへの櫻の花は、たきのせにおちてなかれぬとよめり。神代紀下云。雖2復天(ノ)神(ト)1何(シ)能|一夜《ヒトヨノ》之|間《カラニ》令v人(ヲ)有娠《ハラマセンヤ》乎
 
右一首羽咋郡擬主張能億巨乙美作
 
擬主帳、【官本、張作v帳、】  能登巨、【官本、巨作v臣、】
 
(22)張の字巨の字共に官本の如く改むべし、職員令云、大郡主帳三人、掌d受v事(ヲ)上抄勘《ノセシルシ》署(シ)文案1檢2出(シ)稽失(ヲ)1讀c申(スコトヲ)公文u、餘主帳准v此、上郡二人、中郡一人、下郡一人、
 
初、擬主帳 帳誤作v張。職員令云。大郡主帳三人。掌d受v事上抄、勘2署文案1※[手偏+僉]2出稽失1讀c申公文u。除主帳准v此。上郡二人。中郡一人。下郡一人。但張帳通する歟。第二十防人か名にも主張とかける事あり
 
詠2庭中牛麥花1一首
 
瞿麥を牛麥とかけるは一切經(ノ)音義第十二(ニ)云、瞿|此《コヽニハ》謂(テ)云v牛(ト)、官本并に目録には花の下に歌あり、
 
初、詠庭中牛麥花一首 一切經音義第十二(ニ)曰。瞿|此《コヽニハ》謂(テ)云v牛(ト)。これにつきて瞿麥を今牛麥とかけるを思ふに、瞿麥の瞿は梵語なりとしられたり。牛を梵語に瞿といふ。あるひは遇の字を用ゆ。瞿も梵語には濁音に用たり。秘密藏の經軌におほく見えたり。瞿と牛と梵漢ことなれと、自然に音相近し。かゝること往々にあり。梵語の蘇羅は天なり。和語の空これに通せり。又梵語の摩斯多は猿なり。【未v考2出(ト)相傳如v此】此國にましらといふに似たり。目録に歌一首といへり。誠に歌の字ありぬへきを
 
4070 比登母等能奈泥之故字惠之曾能許己呂多禮爾見世牟等於母比曾米家牟《ヒトモトノナテシコウヱシソノコヽロタレニミセムトオモヒソメケム》
 
歌の本意は君に見せむとこそ植つるに見捨て京へ上るが名殘惜きとなり、
 
初、たれにみせんとおもひそめけむ 君にみせんとおもひそめしとなり
 
右先國師從僧清見可v入2京師1、因設2飲饌1饗宴、于v時主人大伴宿禰家持作2此哥詞1送(クル)2酒清見(ニ)1也、
 
文武紀云、大寶元年二月戊戍朔丁巳|任《ヨサス》2諸國國師1、送酒とは遊仙窟云、兒《ワレ》與《タメニ》2少府公1送(23)v酒(ヲ)、姚合詩云、滿座詩人吟送v酒、
 
初、送酒清見とは盃をさすをいふなるへし
 
4071 之奈射可流故之能吉美能等可久之許曾楊奈疑可豆良枳多努之久安蘇婆米《シナサカルコシノキミノトカクシコソキナキカツラキタノシクアソハメ》
 
吉美能等、【校本點云、キミラト、幽齋本、官本、並能作v良、點與2校本1同、】  楊奈疑、【別校本云、ヤナキ、】
 
第二句注に依るに能を良に作てコシノキミラトとよめるに依べし、カクシのし〔右○〕は助語なり、楊をキと點ぜるは書生の失錯なり、
 
初、しなさかるこしのきみのと 第十七にしなさかるこしをゝさめに出てこしますらわれすらとよめる所に、しなさかるこしとつゝくるよしはしるせり。こしのきみのとゝは、下にひなのみやこといへるも越中射水郡國府をさしてみつからいへれは、こゝもみつから諸人にかはりていへるなるへし。此宴はこしのきみのめくみといへるなり
 
右郡司巳下子茅巳上諸人多集2此(ノ)會(ニ)1國守大伴宿禰家持作2此歌1也、
 
弟を誤て茅に作れり、官本改v之、
 
初、子弟 弟誤作茅
 
4072 奴婆多麻能欲和多流都奇乎伊久欲布等余美都追伊毛波和禮麻都良牟曾《ヌハタマノヨワタルツキヲイクヨフトヨミツヽイモハワレマツラムソ》
 
(24)右此(ノ)夕(ヘ)月(ノ)光(リ)遲(ク)流(レテ)和風稍扇(ク)、即因2屬目1聊作2此歌1也、
 
越前國〓大伴宿禰池主来贈歌三首
 
聖武紀云天平十八年九月從五位下大伴宿禰駿河麻呂爲2越前守1、かゝれば此時駿河麻呂に屬せる掾なり、
 
以2今月十四日1、到2來深見村1、望2拜彼北方1、常(ニ)念(フ)2芳徳(ヲ)1、何(レノ)日(カ)能(ク)休《ヤマム》、兼(テ)以(テ)2隣近(ナルヲ)1、忽(ニ)増v戀、加以先書云、暮春可v惜、促v膝未v期、生別悲兮夫復|何《イカヽ》言(ハム)、臨v紙|悽《セイ》斷、奉(ルニ)v状不v備(ナラ)、
 
深見村は以2隣近1忽増v戀と云へるは越前の北にして越中に近き歟、悽斷は悽愴斷腸(ナリ)、
 
三月十五日大伴宿禰池主
 
此贈答は次第を云はゞ此卷の初に有べきを記し漏して此には置れけるにや、
 
(25)一古人云
 
此は第十一に人麿集歌に月見國同山隠愛妹隠有鴨《ツキミレバクニハオナジクヤマヘダテウツクシイモハヘダテタルカモ》、此歌の意は今に叶ひて下句の言は叶はねば作り替ながら本は古人の意なるを以てかくは題せられたるなり、
 
4073 都奇見禮婆於奈自久爾奈里夜麻許曾婆伎美我安多里乎敝太弖多里家禮《ツキミレハオナシクニナリヤマコソハキミカアタリヲヘタテタリケレ》
 
初、つきみれはおなしくになり 此哥、古人云といへるは、第十一に人麿集の哥に
  月みれは國はおなしく山へたてうつくしいもはへたてたるかも    .此哥を時にかなふやうに引なをしたれと、たゝ古人の心なれは古人云とはいへるか。又第十五に
  あまさかるひなにも月はてれゝともいもそ遠くはわかれきにける
 
一屬v物發v思
 
4074 櫻花今曾盛等雖人云我佐不之毛支美止之不在者《サクラハナイマソサカリトヒトハイヘトワレハサフシモキミトシアラネハ》
 
落句の之は助語なり、
 
初、櫻花今そさかりと 第四に岳本天皇
  山のはに味村さはきゆくなれと我はさふしゑ君にしあらねは
 
一所心耳
 
官本耳を歌に作れり、若然らば哥と似たれば此を誤る歟、今按たゞ今の本然るべ(26)し、
 
4075 安必意毛波受安流良牟伎美乎安夜思苦毛奈氣伎和多流香比登能等布麻泥《アヒオモハスアルラムキミヲアヤシクモナケキワタルカヒトノトフマテ》
 
第四句の香は哉なり、落句は兼盛が物や思ふと人の問までとよめるに同じ、
 
初、あひおもはすあるらん君を 終の句は拾遺集に平兼盛
  しのふれと色に出にけりわかこひは物やおもふと人のとふまて
 
越中國守大伴家持報贈歌四首
 
一答2古人(ノ)云1
 
4076 安之比奇能夜麻波奈久毛我都奇見禮婆於奈自伎佐刀乎許己呂敝太底都《アシヒキノヤマハナクモカツキミレハオナシキサトヲコヽロヘタテツ》
 
落句は山に依て實に心の隔たるにはあらず、下の心は通へども面談を隔つればへだゝるに似たるをヘダテツとは云へり、
(27)一答2屬目發(ス)1v思(ヲ)兼(テ)詠(シテ)云《イヘルニ》遷任(ノ)舊宅(ノ)西北隅《イヌヰノスミノ》櫻樹(ナリ)
 
初、あしひきの山はなくもか 月はそこもこゝもおなしひかりのかよふを、山にへたてられてみかはさぬことく、身もまた山にへたてられたれは、あふことのなきによりて、人もうらむれは、心を山のへたてたるといへり
 
官本に目の傍に物の字を注せられたるは池主が贈歌に屬物發思とあるに依て贈答ひとしかるべければ屬物を誤て屬目となしける歟と疑ひてなり、此も其謂なきにはあらねど屬物と屬目と末はひとつなる上に、下に更屬目と云へるは、今を踏める詞なれば今の本を正義とす、
 
4077 和我勢故我布流伎可吉都能佐久良婆奈伊麻太敷布賣利比等目見爾許禰《ワカセコカフルキカキツノサクラハナイマタフヽメリヒトメミニコネ》
 
一答(フ)2所心(ヲ)1、即以(テ)2古人之跡(ヲ)1代(フ)2今日之意(ニ)1、
 
4078 故敷等伊布波衣毛名豆氣多理伊布須敝能多豆伎母奈吉波安賀未奈里家利《コフトイフハエモナツケタリイフスヘノタツキモナキハアカミナリケリ》
 
第二句に二つのやう侍るべし、一つにはよくも名附たりと云なり、住吉をすみのえ、(28)日吉をひえと云時、吉はえ〔右○〕なり、二つには得も名附たりにて名附得たりの意なり、第十一に面忘だにも得爲哉《エスヤ》とよみ、第十二に旅寢は得爲哉とよめる得の字を思ふべし、
 
初、こふといふはゑもなつけたり よくもなつけたりといふ心なり
 
一更矚目
 
矚は屬に作るべし、
 
4079 美之麻野爾可須美多奈妣伎之可須我爾伎乃敷毛家布毛由伎波敷里都追《ミシマノニカスミタナヒキシカスカニキノフモケフモユキハフリツヽ》
 
雪ハ零ツヽとは櫻の咲を云へる歟、其故は越の國なれども三月十六日の歌なれば實の雪の降べき時にあらず、右に屬目と云へるは櫻なるに、いまだふゝめりとよめれば、今も散を雪と見しにはあらで日にそひて咲まさるを云へると知られたり、
 
初、三島野に霞 和名集云。射水郡三島【美之萬】
 
三月十六日
 
姑大伴氏坂上郎女來2贈越中守大伴宿禰家持1歌二首
 
(29)4080 都禰比等能故布登伊敷欲利波安麻里爾弖和禮波之奴倍久奈里爾多良受也《ツネヒトノコフトイフヨリハアマリニテワレハシヌヘクナリニタラスヤ》
 
故布登、【別校本、或登作v等、】
 
常人《ツネビト》はよのついねの人なり、落句はなりにてあらずやにて落著はなりたりと云なり、に〔右○〕は助語なり、
 
初、つねひとのこふといふよりは 此人を清てよめは、常に人のと聞ゆ。濁てよめは、よのつねの人のこふといふよりはと聞ゆ。濁をよしとすへし。なりにたらすやは、なりにてあらすやなり
 
4081 可多於毛比遠宇萬爾布都麻爾於保世母天故事部爾夜良波比登加多波牟可母《カタオモヒヲウマニフツマニオホセモテコシヘニヤラハヒトカタハムカモ》
 
フツマは太馬《フトウマ》なり、登宇(ノ)反《カヘシ》豆なる故につゞめてフツマとは云なり、馬の中にも太く逞《タクマ》しきに負せて持となり、第四に戀草を力車に七車とありし類なり、コシベニヤラバは越邊に遣らばなり、ヒトカタハムカモは阿と加とは同韻にて通ずれば人あたはむかもにて荷《ニナ》ふに堪《ヤヘ》じの意なり、
 
初、かたおもひをうまにふつまに ふつまはふとうまなり。登宇反|都《ツ》なれはふつまといへり。よくこえたる馬なり。人かたはんかもは、人あたはむかもなり。阿と加と同韻にて通ずるうへに、梵語は初に阿を置、終に訶を置り。阿訶一躰とて悉曇《シツタン》に習あるよしなり。こしべは越邊なり。第四に廣河女王哥に
  戀草をちからくるまになゝくるまつみてこふらくわか心から
 
越中守大伴宿彌家持報歌并所心三首
 
(30)4082 安萬射可流比奈能都夜故爾安米比度之可久古非須良波伊家流思留事安里《アマサカルヒナノミヤコニアメヒトシカクコヒスラハイケルシルシアリ》
 
ヒナノミヤコとは何れの國にても國府を云べし、都夜故を二條院の御本の流にはつやこ〔三字右○〕と點じたるを第十六能登國歌に破夫利と書てやぶり〔三字右○〕とよめる例などを引てみやこ〔三字右○〕と讀べき由を證せらる、其理分明なり、アメヒトシは天人にて之は助語なり.カクコヒスラバは良と留と同音なればかくこひするはなり.此處は鄙にては都なれど實の帝都にくらべては賤しき地なるを天人の如此戀するは生て世にあるかひありとなり、久方の都ともよめば即女を天女に比してよめるなり、
 
初、あまさかるひなの都に 上にこしの君ともよめり。越中國府はひなにての都なれはかうはいへり。あめひとしは、しもしは助語にて天人なり。第十三に、久かたの都とつゝけてよめることく、天子のまします所にすむ坂上郎女なれは、天女にいひなせり。かれよりの哥に、つね人のこふといふよりはあまりにてといへるをうけて、つね人ならぬ天女のかくわれをこひすれは、いきたるかひありとなり
 
4083 都禰乃孤悲伊麻太夜麻奴爾美夜古欲里宇麻爾古非許婆爾奈比安倍牟可母《ツネノコヒイマタヤマヌニミヤコヨリウマニコヒコハニナヒアヘムカモ》
 
我常の戀のいまだやまぬ上に都より太馬に負せて戀をおこせたらばげにも荷ひあへじとなり、
 
初、つねのこひいまたやまぬに これもつね人といふをうけて、次の哥にかへせり。わかつねのこひのいまたやまぬうへに、都よりふとうまにおふせてこひおこせたらは、まことにになひあへしとなり。人かたはんかもといふをうけて、人のこひをおもにのこつけにいひなせり
 
(31)別所心一首
 
4084 安可登吉爾名能里奈久奈流保登等藝須伊夜米豆良之久於毛保由流香母《アカトキニナノリナクナルホトヽキスイヤメツラシクオモホユルカモ》
 
右四日附v使贈2上京師1
 
今按四日は四月なるべし、其故は上に國師の從僧清見をもてなさるゝ歌の左の注に、右此夕月光遲流とあり、其上に四月一日の歌あれば四月にして四日にあらざるべき事明なり、然らば十四日なるを十を落せる歟とも救ふべからず、其故は上に池主と家持との贈答は三月十五日十六日の歌なるを書入て上と隠たれば、たゞ十四日とのみは云べからずや、
 
初、あかときになのりなくなる あかときはあかつきなり。なのるは博物志曰。杜宇啼(テ)苦則自呼(テ)v名(ヲ)曰2謝豹(ト)1。ほとゝきすのなのりなくによそへて、坂上郎女か、われはしぬへくなとよめる哥をほむるなり
 
天平感寶元年五月五日饗d東大寺之古2墾地1使僧平榮等u、于v時守大伴宿禰家持送(クル)2酒(ヲ)僧《ホウシニ》1歌一首
 
(32)聖武紀天平感寶元年閏五月甲午(ノ)朔癸卯(ノヒ)、大赦(ノ)詔(ニ)曰、自2天平感寶元年閏五月十日昧爽1云々、又云、秋七月甲午皇太子受v禅(ヲ)即(タマフ)2位(ニ)於太|極《アム》殿(ニ)1、是(ノ)日改(テ)2感寶元年(ヲ)1爲勝寶元年(ト)1、古墾地(ノ)古は占の字を誤れり、目録には占に作れり、墾は玉篇(ニ)云、苦※[獣偏+艮](ノ)切、耕(ナリ)也、治(ナリ)也、國語(ニ)土不(レハ)v備墾發也、又耕(スニ)用(ルナリ)v力(ヲ)也、
 
初、天平感寶元年五月 績日本紀天平感寶元年閏五月甲午朔癸卯、大赦詔曰。自2天平感寶元年閏五月十日昧爽1云々。秋七月甲午皇太子受v禅即2位(ニ)於大|極《アム》殿(ニ)1。是日改(テ)2感寶元年(ヲ)1爲2勝寶元年(ト)1。占墾地使僧。占を古に作るは誤なり。目録には占の字なり。玉篇云。墾、苦※[獣偏+艮]切。耕也。治也。國語、土不(ト云ルハ)2備(ニ)懇(カ)1發也。又耕用v力也
 
4085 夜岐多知乎刀奈美能勢伎爾安須欲里波毛利敝夜里蘇倍伎美乎等登米牟《ヤキタチヲトナミノセキニアスヨリハモリヘヤリソヘキミヲトヽメム》
 
燒太刀をとぐと云意につゞけたり、礪波の關は越中礪浪郡なり、
 
初、やきたちをとなみのせきに やきたちをとくとつゝけたり。といしといふもとく石なり。唯砥とのみいふも、とくといふ用の詞を躰にいひなせり。やきたちは第四第六に見えたり。燒て作れはやきたちとはいへり。もりへやりそへ、關をもるものなり。上にもあまたもりへとよめり
 
同月九日、諸僚會2少目秦伊美吉石竹之舘1飲宴、於v時主人造(テ)2百合(ノ)花縵三枚(ヲ)1疊(ミ)2置(テ)豆器(ニ)1捧2贈(テ)賓客(ニ)1、各賦2此縵1作三首
 
日本紀に諸僚〔二字右○〕の讀トモダチなり、石竹〔二字右○〕は光仁紀云、寶龜七年三月正五位下大伴宿禰潔足(ヲ)爲(シ)2播磨(ノ)守(ト)1、外從五位下秦(ノ)忌寸石竹(ヲ)爲(ス)v介(ト)、聖武紀云、天平二十年五月己丑右大史正六位上秦老等一千二百餘烟(ニ)賜(フ)2伊美吉姓(ヲ)1、廢帝紀云寶字三年十月辛丑天下(ノ)諸(ノ)(33)姓《カバネ》著(ル)2君(ノ)字(ヲ)者換(ルニ)以(ス)2公(ノ)字(ヲ)1、伊美吉(ハ)以(ス)2忌寸(ヲ)1豆器〔二字右○〕、爾雅釋器云、木豆謂2之(ヲ)豆(ト)1、郭璞註曰、豆(ハ)禮器也、〓〓(ガ)疏(ニ)曰、豆者以v木(ヲ)爲《ツクル》v之(ヲ)、高(サ)一尺、口(ト)足(トノ)徑《ワタリ》一尺、其(ノ)足(ヲ)名(ツク)v鐙(ト)、中央直(ク)竪者(ヲ)名v校(ト)、校徑(リ)二寸、總(テ)而言(ヲ)v之(ヲ)名v豆(ト)、其(ノ)實四升、用(テ)薦(ム)2〓〓(ヲ)1、作の下に歌の字有べきか、目録には歌の字を以て作に替たり、
 
初、同月九日|諸僚《トモタチ日本紀・》會《ツトフ》2少目秦伊美吉|石竹《ナテシコ》之舘1 廢帝紀云。寶字三年十月辛丑、天下(ノ)諸(ノ)姓《カハネ》著(ル)2君(ノ)字(ヲ)1者換(ルニ)以(ス)2公(ノ)字(ヲ)1。伊美吉(ハ)以(ス)2忌寸(ヲ)1。光仁紀云。寶亀七年三月正五位下大伴宿禰潔足(ヲ)爲(シ)2播磨守1、外從五位下秦忌寸石竹(ヲ)爲(ス)v介(ト)。聖武紀云。天平二十年五月己丑、右大史正六位上秦老等一千二百餘烟(ニ)賜2伊美吉(ノ)姓(ヲ)1。作三首。作の字の下に、歌の字落たるへし。詩なとには作とのみもいへと、哥の詞書には歌の字有ぬへくおほゆ。目録には作の字なくて哥の字有。豆器。論語云。百合根のいまたひらけぬ蓮花のことくして瓣々相かさなる故の名なり。縵。日本紀もおなし。鬘と通する歟
 
4086 安夫良火乃比可里爾見由流和我可豆良佐由利能波奈能惠麻波之伎香母《アフラヒノヒカリニミユルワカヽツラサユリノハナノヱマハシキカモ》
 
アブラ火は燈なり、燈盞をあぶらつきとよめり、下句は第七に草深百合の花ゑみとよめるに注せしが如し、
 
初、あふらひのひかりにみゆる あふら火はともし火なり。延喜式に燈盞をあふらつきとよめり。さゆり《・早百合》はわさゆりなり。早蕨早苗なとのことし。さゆりの花のゑまはしきかもとは、花のさくをゑむといへはなり。第七に  道のへの草ふかゆりの花ゑみにゑみせしからに妻といふへしや
 
右一首守大伴宿禰家持
 
4087 等毛之火能比可里爾見由流左由理婆奈由利毛安波牟等於母比曾米弖伎《トモシヒノヒカリニミユルサユリハナユリモアハムトオモヒソメテキ》
 
ユリモアハムトは百合を承て云へり、物をゆる合すれば能あふなり、鬘は糸を以て(34)花を貫ぬけば面々にある花も一處に集まる如く心の相叶へる諸僚の中も行末かけてかゝらむと思ひ初てきとなり、
 
初、ともしひのひかりに さゆりはなゆりもあはんとゝは、ゆりをうけて汰もあはむとつゝけたるなり。ものをゆりあはすれはよくあふ心なり。次下の哥、ならひに第二十九葉にもおなしやうによめり
 
右一首介内藏伊美吉繩麿
 
4088 左由理婆奈由里毛安波牟等於毛倍許曾伊末能麻左可母宇流波之美須禮《サユリハナユリモアハムトオモヘコソイマノマサカモウルハシミスレ》
 
腰句は思へばこそなり、行末懸てゆりもあはむと思へばこそ指向へる今より互にうるはしうはすれ、僞て親しみて後に疎からむやはの意なり、
 
右一首大伴宿禰家持和
 
獨居2幄裏1遙聞2霍公鳥喧1作歌一首并短歌
 
和名集云、四聲字苑云、幄【於角反、和名阿計波利、】大帳也、小爾雅云、覆帳謂2之(ヲ)幄(ト)1、杜預左傳注、幄(ハ)帳也、
 
(35)4089 高御座安麻能日繼登須賣呂伎能可未能美許登能伎巳之乎須久爾能麻保良爾山乎之毛佐波爾於保美等百鳥能來居弖奈久許惠春佐禮婆伎吉能可奈之母伊豆禮乎可和枳弖之努波無宇能花乃佐久月多弖婆米都良之久鳴保等登藝須安夜女具佐珠奴久麻泥爾比流久良之欲和多之伎氣騰伎久其等爾許巳呂豆呉枳弖宇知奈氣伎安波禮能登里等伊波奴登枳奈思《タカミクラアマノヒツキトスメロキノカミノミコトノキコシヲスクニノマホラニヤマヲシモサハニオホミトモヽトリノキヰテナクコヱハルサレハキヽノカナシモイツレヲカワキテシノハムウノハナノサクツキタテハメツラシクナクホトヽキスアヤメクサタマヌクマテニヒルクラシヨワタシキケトキクコトニコヽロツコキシウチナケキアハレノトリトイハヌトキナシ》
 
豆呉枳弖、【官本點云、ツコキテ、幽齋本、豆作都、】
 
高御座は第三に云ひつル如く別に注す、キコシヲス國ノマホラも上の如し、山ヲシモはしも〔二字右○〕の二字共に助語ナリ、イヅレヲカワキテシノバムとは春の鳥は何れも面白けれど同じやうなれば取分しのびがたしとて霍公鳥を賞するがために春の鳥(36)をばさしおくなり、ウノ花ノと云より卯月五月の間此鳥のあかれぬ由なり、心ツコキシは弖をし〔右○〕と點ぜるは今按?を氏に作りけるか、或は見損じて點ぜるなるべし、官本に依て改たむべし、宇と豆と同韻なれば心動きてと云なるべし、聞たびに耳を驚かし心を動かすなり、アハレノ鳥とは第九にも霍公島をあはれ其鳥とよめる歌有き、
 
初、高みくらあまのひつきと 高御座の事、第三に赤人の春日野にてよまれたる哥に、春の日をかすかの山の高くらのみかさの山になとよまれたる長哥につきて委尺せり。あまのひつきとゝは、天照大神より、皇統の絶すつゝかせたまふ故なり。神のみこと。君を神と申事、上にあまた見えたり。きこしをすは、きこしめすなり。食の字をゝすとよめり。くにのまほらに、國眞原なり。百鳥のきゐてなく聲。第五第六にも百鳥とよめり。第十六には、千鳥とも百千鳥ともよめり。第十七には、朝かりにいほつ鳥たて夕かりに千鳥ふみたてとよめり。今こゝをもて、古今集に
  もゝちとりさえつる春はものことにあらたまれとも我そふり行
此哥をも思ふへし。ひるくらしは日くらしといふ心、終日のことなり。夜わたしは、夜もすからなり。心つこきては、心うこきてなり。宇と豆と同韻にて通せり。聞たひことにおとろく心なり。あはれの鳥といはぬ時なし。あはれはおもしろきなり。※[立心偏+可]怜とかきておもしろしとも、あはれとも、かなしともよめり。第九に
  かきゝらし雨のふる夜をほとゝきす鳴てゆくなりあはれその鳥
 
反歌
 
4090 由久敞奈久安里和多流登毛保等登藝須奈枳之和多良婆可久夜思努波牟《ユクヘナクアリワタルトモホトヽキスナキシワタラハカクヤシノハム》
 
初の二句は待侘る里をかれずしてはながら此方彼方に有渡るともなり、第四句のし〔右○〕は助語なり、
 
初、ゆくへなく有わたるとも かくはかりあはれとおもふ人の宿をおきて、あらぬ方へ飛過るともの心なり
 
4091 宇能花能開爾之奈氣婆保等得藝須伊夜米豆良之毛名能里奈久奈倍《ウノハナノサクニシナケハホトヽキスイヤメツラシモナノリナクナヘ》
(37)第二句の之は助語なり、卯花の咲初ると霍公鳥の初音とあひにあひてめづらしき意なり、
 
4092 保登等藝須伊登禰多家口波橘乃播奈治流等吉爾伎奈吉登余牟流《ホトヽキスイトネタケクハタチハナノハナチルトキニキナキトヨムル》
 
初、ほとゝきすいとねたけくは いとねたましきはなり。日本紀に、爲慨憤時《ネタミツヽアルトキニ》 神武紀。憤慨《ネタミツヽ》、嫉《ネタ》、所v嫌《ネタシトオモフ》之人 崇峻紀
 
右四首十日大伴宿禰家持作v之
 
行2英遠浦1之日作歌一首
 
射水郡の國府に近く有なるべし、
 
4093 安乎能宇良爾餘須流之良奈美伊夜末之爾多知之伎與世久安由乎伊多美可聞《アヲノウラニヨスルシラナミイヤマシニタチシキヨセクアユヲイタミカモ》
 
第四句の之は助語にて立こせ來とよめる歟、立頻依來《タチシキヨセク》とよめる歟、
 
初、あをのうらによする 立しきよせく。これにふたつあり。ひとつには、しは助語にて、立來寄來《タチキヨセク》なり。ふたつには、立重寄來《タチシキヨセク》なり。立重寄來をよしとすへきか。あゆは東風なり。第十七の、あゆの風いたく吹らしといふ哥の自注に見えたり
 
(38)右一首大伴宿禰家持作v之
 
上の歌は十日、次の歌は十二日の作なれば此は十一日の作なるべし、
 
賀(スル)2陸奧國(ヨリ)出(セル)v金(ヲ) 詔書1哥一首 并2短歌1
 
聖武紀云、天平二十一年二月丁巳、陸奥國(ヨリ)始(テ)貢(マツル)2黄金(ヲ)1、於v是(ニ)奉(テ)v幣(ヲ)以告2畿内七道諸社(ニ)1、夏四月甲午朔天皇幸(マシテ)2東大寺1御《オハシマシテ》2盧舍那佛(ノ)像(ノ)前(ノ)殿(ニ)1北面對v像(ニ)、皇后太子並(ニ)侍焉、群臣百寮及士庶分(テ)v頭(ヲ)行2列(ス)殿後(ニ)1、勅(シテ)遣2左大臣橘宿禰諸兄(ヲ)白(シタマハク)v佛、三寶仕奉天皇【羅我】命盧舍那像太前《フトマヘ》奏《マウシ》賜【部止】奏此大倭國者天地開闢以來黄金人國【用理】獻(ツル)言《コト》有《アレ》【登毛】斯地(ニ)者無物念【部流仁】聞看食《キコシメス》國中東方陸奥國守從五位上百濟(ノ)王敬福部内|少《ヲ》田(ノ)郡黄金在?獻(レリ)此聞食驚念【久波】盧舍那佛慈賜福【波倍】賜物受賜戴持百官人等率禮拜(シ)仕奉事挂(マクモ)畏(コキ)三寶太前恐【美毛】奏賜【波久止】奏、從三位中務卿石上朝臣乙麻呂宣、現神御宇《アラミカミトアメガシタシラシメス》倭根子(ノ)天皇(ノ)詔《ミコトラマト》旨宣(タマフ)大命(ヲ)親王諸王諸臣百官人等天下(ノ)公民《オホムタカラ》衆々聞(シ)食《メセト》宣云々、此後初て黄金の出たる由の詔書を七道へ下させ給ふを家持越中守にて承はり私に(39)賀し奉りてよまれたるなり、陸奥國より金を出せる詔書を質する歌と讀べし、
 
初、賀(スル)2陸奥(ノ)國(ヨリ)出(セル)v金(ヲ) 詔書(ヲ)1哥一首并短歌
聖武紀云。天平十八年九月庚戌朔壬戌、從五位下百濟王敬福爲2陸奥守1。同閏九月、從五位下百福王敬福授2從五位上1。天平二十一年二月丁巳、陸奥國始貢2黄金1。於v是拳v幣以告2畿内七道(ノ)諸社(ニ)1。四月|庚午《有疑》朔、授2王敬福(ニ)從三位1。乙卯陸奥守從三位百濟王敬福貢(ツル)2黄金九百兩(ヲ)1
 
4094 葦原能美豆保國乎安麻久太利之良志賣之家流須賣呂伎能神乃美許等能御代可佐禰天乃日嗣等之良志久流伎美能御代御代之伎麻世流四方國爾波山河乎比呂美安都美等多弖麻豆流御調寶波可蘇倍衣受都久之毛可禰都之加禮騰母吾大王乃毛呂比登乎伊射奈比多麻比善事乎波自米多麻比弖久我禰可毛多能之氣久安良牟登於母保之弖之多奈夜麻須爾鷄鳴東國乃美知能久乃小田在山爾金有等麻宇之多麻敝禮御心乎安吉良米多麻比天地乃神安比宇豆奈比皇御祖乃御霊多須氣弖遠代爾可可里之許登乎(40)朕御世爾安良波之弖安禮婆御食國波左可延牟物能等可牟奈我良於毛保之賣之弖毛能乃布能八十伴雄乎麻都呂倍乃牟氣乃麻爾麻爾老人毛女童兒毛之我願心太良比爾撫賜治賜婆許己乎之母安夜爾多敷刀美宇禮之家久伊余與於母比弖大伴乃遠都神祖乃其名乎婆大來目主等於比母知弖都加倍之官海行者美都久屍山行者草牟須屍大皇乃敝爾許曾死米可敝里見波勢自等許等太弖大夫乃伎欲吉彼名乎伊爾之敝欲伊麻乃乎追通爾奈我佐敞流於夜乃子等毛曾大伴等佐伯氏者人祖乃立流辭立人子者祖名不絶大君爾麻都呂布物能等伊比都雅流許等能都可左曾梓(41)弓手爾等里母知弖劔大刀許之爾等里波伎安佐麻毛利由布能麻毛利爾大王乃三門乃麻毛利和禮乎於吉弖比等波安良自等伊夜多弖於毛比之麻左流大皇乃御言能左吉乃《アシハラノミツホノクニヲアマクタリシラシメシケルスメロキノカミノミコトノミヨカサネアマノヒツキトシラシクルキミノミヨミヨシキマセルヨモノクニニハヤマカハヲヒロミアツミトタテマツルミツキタカラハカソヘエスツクシモカネツシカレトモワカオホキミノモロヒトヲイサナヒタマヒヨキコトヲハシメタマヒテクカネカモタノシケクアラムトオモホシテシタナヤマスニトリカナクアツマノクニノミチノクノヲタナルヤマニクカネアリトマウシタマヘレミコヽロヲアキラメタマヒアメツチノカミアヒウツナヒスメロキノミタマタスケテトホキヨニカヽリシコトヲワカミヨニアラハシテアレハミケクニハサカエムモノトカムナカラオモホシメシテモノヽフノヤソトモノヲヽマツロヘノムキノマニマニオイヒトモヲミナワラハコモシカネカフコヽロタラヒニナテタマヒヲサメタマヘハコヽヲシモアヤニタフトミウレシケクイヨヽオモヒテオホトモノトホツカミオヤノソノナヲハオホクメヌシトオヒモチテツカヘシツカサウミユクハミツクカハネヤマユクハクサムスカハネオホキミノヘニコソシナメカヘリミハセシトコトタテマスラヲノキヨキソノナヲイニシヘヨイマノヲツヽニナカサヘルオヤノコトモソオホトモトサヘキノウチハヒトノオヤノタツルコトタテヒトノコハオヤノナタヽスオホキミニマツロフモノトイヒツケルコトノツカサソアツサユミテニトリモチテツルキタチコシニトリハキアサマモリユフノマモリニオホキミノミカトノマモリワレヲオキテマタヒトハアラシトイヤタテオモヒシマサルオホキミノミコトノサキノ》【一云 乎】 聞者貴美《キケハタフトミ》
 
多弖麻豆流、【幽齋本、豆作v都、】  牟氣乃麻爾麻爾、【校本、幽齋本、並云ムケノマニマニ、】  海行者、【幽齋本云、ウミユカハ、】  山行者、【校本、幽齋本、並云、ヤマユカハ、】  佐伯氏者、【幽齋本、或伯下有v乃、】
 
山河乎は河を清て讀べし、山と河となり、奉る御調寶と云は唯金のみなかりしに其始て出來る事をほめ奉らむ爲なり、モロヒトヲイザナヒタマヒ善事《ヨキコト》ヲハジメタマヒテは大佛を作らせ給へる事なり、聖武紀云、天平十五年十月辛巳詔曰、朕以3薄コ1恭承(ク)2大位(ヲ)1、志(ザシ)存(シ)2兼濟(ヲ)1勤(メ)2撫2人物(ヲ)1雖2率士(ノ)之濱已(ニ)霑(フト)2仁恕(ニ)1、而普天(ノ)之下未(タ)v洽(ラ)2法恩(ニ)1誠(ニ)欲(ス)d頼(テ)2三寶(ノ)之威靈(ニ)1乾坤相(ヒ)泰、修2萬代(ノ)之福業(ヲ)1動植咸榮(エムコトヲ)u、粤(ニ)以2天平十五年歳次癸未十月十五日(ヲ)1、發(シテ)2菩薩(ノ)大願(ヲ)1奉(ル)v造(リ)2盧舍那佛金銅(ノ)像一躯(ヲ)1、盡(シテ)2國銅(ヲ)1而鎔v象(ヲ)、削(テ)2大山(ヲ)1以構2堂(ヲ)、廣(ク)及(ボシテ)2法界(ニ)1爲2朕(ガ)知識1、遂使d同蒙2利益(ヲ)1共(ニ)致(サ)c菩提(ヲ)u、夫有(ツ)2天下(ノ)之富(ヲ)1者(ノハ朕(ナリ)也、有(ツ)2天下(ノ)之勢(ヲ)1者(ノモ)朕也、以2此(ノ)富勢(ヲ)1造(テハ)2此(ノ)尊像(ヲ)1、事(ハ)(42)事之易(クトモ)v成(リ)心(ハ)之難(ケム)v至(リ)、但恐(ラクハ)徒(ニ)有(テ)v勞(スルコト)v人(ヲ)無(ケム)2能(ク)感(ズルコト)1v聖、或(ハ)生(シテ)2誹謗(ヲ)1反(テ)墮(ナムコト)2罪辜(ニ)1、是(ノ)故(ニ)預(ラム)2知識(ニ)1者(ハ)懇(ニ)發2至誠(ヲ)1各々招(ケ)2介幅(ヲ)1、宜(シク)《ヘシ》d毎日三(タビ)拜(テ)2盧舍那佛(ヲ)1自當(ニ)存念(シ)各造(ル)2盧舍那佛(ヲ)u也、如更(ニ)有(テ)v人情(ニ)願(ハヾ)d持2一枝(ノ)草一把(ノ)土(ヲ)1助(ケント)uv造(ルコトヲ)v像者、恣(ニ)聽(セ)v之(ヲ)、國郡等(ノ)司莫(レ)d因(テ)2此事(ニ)1侵2擾(シテ)百姓(ヲ)1強令c收斂u、布2告(テ)遐邇1知(シメヨ)2朕意(ヲ)1矣、上の四句此詔の意なり、是は近江の紫香樂にて事をはじめさせ給へる時なり、天平十七年に南京へ引せ給へり、此佛の事は大宋の高僧傳にも載て見えたる事なり)コガネカモ以下の四句は、タノシは日本紀に貴盛をタノシと讀めれば金薄をもて飾りたらむは貴盛ならむを黄金の多少如何あらむと宸襟を安くし給はぬを下悩マスと云へり、下は御心なり、宣命(ニ)云、衆《モロ》人不《ジ》v成《ナラ》【※[加/可]登】疑(ヒ)、朕金|少《スクナケ》【牟止】念憂【都都】在《アル》、此意なり、良辯僧正などに勅して祈らしめ給へる事元亨釋書の中に詳に記せり、鷄鳴、東海道東|山《セン》道を共にあづまと云こと常の如し、小田ナル山は小田は陸奥の郡の名なり、聖武紀云、出(ス)v金(ヲ)山(ノ)神主小田(ノ)郡|日下部《クサカベノ》深淵(ニ)授2外少初位下(ヲ)1、神名帳云、小田(ノ)郡黄金山(ノ)神社、金有等麻宇之多麻敝禮は、奏し給へればなり、聖武紀云、二月丁巳陸奥國始(テ)貢(マツル)2黄金(ヲ)1、四月午朔授2王敬福(ニ)從三位(ヲ)1、乙卯陸奥守從三位百濟(ノ)王敬福貢(マツル)2黄金九百兩1、同紀前(ニ)云、天平十八年九月庚戌朔壬戌從五位下百濟王敬福(ヲ)爲2陸奥守(ト)1、御心ヲアキラメ給ヒとは、黄金を貢たるに依て宸襟を安くし給ふ事暗き夜の明たる如くになれる意なり、天(43)地乃神安比宇豆奈比とは、第十三に現の字をうつなに〔四字右○〕とよめり、天神地祇の相共に助けてあらはし給の意なり、元明紀和銅元年詔(ニ)曰、東方武藏國自然作成《オノヅカラナレル》和銅出|在《タリ》獻焉此物(ハ)者天(ニ)坐(ス)神地(ニ)坐(ス)神相【于豆奈比】奉福【波倍】奉事依而|顯《ウツシク》出【多留】寶在【羅之止奈母】神|隨《マニ》所念行《オヒシメ》、延喜式第八大甞(ノ)祝詞(ニ)云、天都御食長御食遠御食皇御孫命大甞聞食爲故皇神|等《タチ》相宇豆乃比奉?云々、皇御祖乃御靈多須氣?は今按皇御組乃をばスメミオヤノと讀べし、神功皇后紀云、吾|被《ウケ》2神祇《アマツカミクニツカミ》之|教《ミコトヲ》1、頼《カフヽリ》2皇祖之靈《オホオヤノミタマノフユヲ》1、浮2|渉《ワタリテ》滄海《アヲキウナハラヲ》1躬欲2西(ヲ)征(ムト)1、遠代ニカヽリシ事ヲ朕御世ニアラハシテアレバとは文武天皇の御世に金の少出たる事あれど慥ならぬを今紛なく出來たるを云歟、文武紀云、二年十二月辛卯令3對馬《ツシマ》嶋(ニ)冶《ワカサ》2金(ノ)鑛《アラカネヲ》1、大寶元年三月戊子|遣《マタシテ・ツカハシテ》2追大肆|凡海《オシノミノ》宿禰|麁鎌《アラカマヲ》于陸奧(ニ)1冶《ワカサシム》v金(ヲ)、甲午對馬嶋(ヨリ)頁(マツル)v金(ヲ)、建v元(ヲ)爲2大賓元年(ト)1、八月丁未、先v是(ヨリ)遣(ハシテ)2大倭國|忍海《オシノミ》郡(ノ)人三田(ノ)首《オブト》五瀬(ヲ)於對馬嶋(ニ)1冶《ワカシ》2成(シム)黄金(ヲ)1、至(テ)v是(ニ)詔(シテ)授2五瀬(ニ)正六位上(ヲ)1賜2封五十戸田十町并|※[糸+施の旁]《アヅマキヌ・アシキヌ》綿布|鍬《スキヲ》1、仍免2雜戸(ノ)之名(ヲ)1、對馬嶋(ノ)司《ミコトモチ》及(ビ)郡司主典已上進2位一階1、其(ノ)出(ス)v金(ヲ)郡司(ハ)者二階、獲(ル)v金(ヲ)人家部(ノ)宮道(ニ)授2正八位上(ヲ)1、并(ニ)賜2※[糸+施の旁]綿布鍬(ヲ)1、復2其戸(ヲ)1終(シム)v身(ヲ)、百姓(ニハ)三年(ナリ)、又贈右大臣大伴(ノ)宿禰御行《ミユキ》首《ハジメ》遣2五瀬(ヲ)1冶(サシム)v金(ヲ)、因(テ)賜2大臣(ノ)子(ニ)封百戸田四十町(ヲ)1、【年代暦曰、於v後五瀬之詐欺發露、知d贈右大臣爲2五瀬1所uv誤也、】文武天皇は今上の御父なれども元明天皇元正天皇の御世を隔たれば遠代とは云へり、牟氣乃麻(44)爾麻爾は、ムケノマニ/\と讀べし、女童兒毛は、メノワラハコなり、今按、ヲミナワラハモと讀て、老たる人も女も童もと意得べし、之我願は、己が願なり、心太良比爾は、老少男女面々に願ふ事の足るやうに治めさせ給ふなり、論語云、子路曰、願聞2子之志1、子曰、老者安v之、朋友信v之、少者懷v之、大伴乃より下六句は、神代紀下云、一書曰、高皇産靈尊以2眞床覆衾1裹2天津彦國光彦火瓊瓊杵尊1則引2開天磐戸1排2分天八重雲1以奉降之、于v時大伴連遠祖天忍日命帥2來目部遠祖天※[木+患]津大來目1背負2天磐靫1臂著2稜威高鞆1手捉2天梔弓天羽羽矢1及副2持八目鳴鏑1又帶2頭槌劔1而立2天孫前1遊行降來、到2於日向襲之高千穗※[木+患]日二上峯天浮橋1云云)姓氏録云、【左京神別】大伴宿禰高皇産靈尊五世孫、天押日命之後也、初天孫は牽(産)火瓊瓊杵尊神駕之降也、天押日命帥2大來目部1立2於御前1降2日向高千穗峯1、然後以2大來目部1爲2天靫負1、天靫負之號起2於此1也、雄略天皇御世(ニ)以2天(ノ)靫負(ヲ)1賜2室屋大連公(ニ)1、神武紀云、是(ノ)時大伴氏(ノ)之遠祖日(ノ)臣《オミノ》命|帥《ヒキヰテ》2大來目督將元戎《オホクメノイクサノキミノオホツイハモノヲ》1、蹈(ミ)v山(ヲ)啓v行《ミチヲヒラキユキテ》、乃(ハチ)尋《マニ/\》2烏(ノ)所向《ムカヒノ》1仰視而|追《オフ》之、于v時|勅《ミコトノリヲモテ》譽2日(ノ)臣《オミノ》命(ヲ)1曰、汝|忠《タヾシクシテ》而且勇(メリ)、加《マタ》能有2導之功《ミチビキノイサヲシ》1、是(ヲ)以改(テ)2汝《シガ》名(ヲ)1爲《ス》2道(ノ)臣《オムト》1、道(ノ)臣(ノ)命|帥《ヒキヰテ》2大來目部(ヲ)1、奉2承《ウケタマハリテ》密策《シノビオホムコトヲ》1能以(テ)2諷歌倒語《ソヘウタサカシマコトヲ》1掃2蕩《ハラヘリ》妖氣《ワザハヒヲ》1、二年春二月甲辰朔乙巳、天皇定(メテ)v功《イサヲシサヲ》行《タマフ》v賞《タマモノヲ》、賜(テ)2道(ノ)臣(ノ)命(ニ)宅地《イヘトコロヲ》1居《ハムベラシム》2于|築《ツキ》坂(ノ)邑(ニ)1、以(ニ)寵2異《コトニメグミタマフ》之1、亦使大來目(ヲシテ)居2《ハムベラシメタマフ》于|畝傍山《ウネヒヤマノ》以西川邊(ノ)之|地《トコロニ》1、今號2來目(ノ)邑(テ)1此(レ)其(ノ)(45)縁也、海行者より下八句は、上に云石上乙麻呂奉v勅宣云、又大伴佐伯(ノ)宿禰天皇(ノ)朝(ノ)守(ニ)仕(ヘ)奉(ル)事顧【奈伎】人等阿禮汝【多知乃】祖【止母乃】云(ヒ)來《ケラ》海行美豆屍《カハネ》山行草【牟須】屍王弊【爾去曾】死能杼【爾波】不《ジ》v死(ナ)云來人等【止奈母】聞召、此詔の詞なり、海行者山行者を幽齋本にうみゆかばやまゆかばと點ぜる然るべし、ミツク屍とは、美《ミ》と之《シ》と同韻にて通ずれば沈《シヅク》屍と云なるべし、第二十にも、美豆久白玉《ミヅクシラタマ》とよめり、たとひ事ある時勅命を蒙りて海をゆかば屍を潮に沈め山をゆかば屍に草むすとも私なく仕へ奉りて大君のあたりにこそ死なめ顧をばせじと言を立るなり、第二十喩族歌にも、加久佐波奴《カクサハヌ》、安加吉許己呂乎《アカキココロヲ》、須賣良弊爾《すめらへに》、伎波米都久之弖《キハメツクシテ》、都加倍久流《ツカヘクル》、於夜能都可佐等《オヤノツカサト》、許等太弖弖《コトタテテ》云々、イニシヘユイマノヲツヽニナガサヘルトは古より今の現在に流せるなり、流せるは流れ傳ふなり、大伴等佐伯氏者とは續日本紀第二十(ニ)云、大伴佐伯(ノ)之族(ハ)此(レ)擧《ミナ》前(ニ)將《ス》v無(ラント)v敵、又寶字元年七月詔曰、又大伴佐伯(ノ)宿禰等 波 自2遠(キ)天皇御世1内仕奉來、姓氏録云、【左京神別】佐伯(ノ)宿禰(トハ)同祖(ナリ)、道(ノ)臣《オムノ》命七世(ノ)孫室屋大連公之後也、大王ノミカドノ守は大甞會の時も大伴佐伯の兩氏は御門を守る事を主どるなり、伊夜多底は若?の字の二つ有けむを一つおとせるにや、文選潘安仁射雉(ノ)賦(ニ)云、敷《シケリ》2藻翰《ウルハシキハネノ》之陪|鰓《サイト》《イヨタテルコトヲ》1、【蘇來(ノ)反、徐爰(ガ)曰、陪鰓(ハ)舊怒(ノ)之※[貌の旁]也、】此いよたてるに同じ、注に奮怒之[貌の旁]と云へる如く志を奮ひ(46)はげますなり、オモヒシマサルはし〔右○〕は助語なり、御言ノサキとは幸なり、大伴氏の事をかくまでのたまふは分に過たるい幸にて、承に貴しと畏て謙下するなり、以上猶四月朔の詔詞に合せて見るべし、
 
初、あしはらのみつはのくにを天くたり 皇孫瓊々杵尊の御事なり。しらしめしけるはしろしめしけるなり。しらしくるはしろしめしくるなり。治の字領の字なとみなしるとよめり。山川をひろみあつみと。廣は河につき、厚は山につけり。川の字清てよむへし。かそへえす。つくしもかねつ。つくしもかねつは知つくす事あたはぬなり。以上は天地開闢以來よりをいひて、国家の豐饒なることをほめたてまつるなり。しかれともといふより下は、聖武天皇の盧遮那佛の大像を造らせ給へることをいへり。此像は天平十五年に紫香樂に創させたまひて、後に奈良へ移させ給へる東大寺の大佛なり。天平十五年十月辛巳詔曰。朕以2薄徳1恭承2大位1。志存2兼濟1勤撫2人物1。雖3率土之濱已霑2二仁恕1而普天之下未v給《洽歟》2法恩1。誠欲d頼2三寶之威靈1乾坤相泰、修2萬代之福業1動植咸榮u。粤以2天平十五年歳次癸未十月十五日1發2菩薩大願1奉v造2盧舍那佛金銅|像一躰《ミカタヒトハシラヲ》1。盡2國銅1而鎔v像、削2大山1以搆v堂。廣及2法界1爲2朕知識1。遂使d同蒙2利益1共致2菩提1。夫有2天下之富1者朕也。有2天下之勢1者【亦歟】朕也。以2此富勢1造2此尊像1。事(ハ)也易(シテ)v成、心(ハ)之難v至。但恐徒有v勞v人無2能感1v聖、或生2誹謗1反墮2罪辜1。是故預2知識1者懇發2至誠1各招2介幅1。宜(丁)毎日三(タヒ)拜(シテ)2盧舍那佛1自《ミ》當(ニ)存(丙)念(ス)各(/\)造(リ上ルト)(乙)盧舍那佛(甲)也。如《モシ》更(ニ)有(ント)v人情(ニ)願d持2一枝(ノ)草一把(ノ)土1助c造像u者恣聽v之。國郡等(ノ)司莫(レ)d因2此事1侵2擾百姓1強(テ)令(ムルコト)c收斂(セ)u。布2告遐邇1、知(ラシメヨ)2朕意1矣。天平二十一年夏四月甲午朔、天皇幸2東大寺1御2盧舍那佛像前殿1北面對v像。皇后太子並(ニ)侍焉。群臣百寮及士庶分v頭行2列殿後1。勅遣2左大臣橘宿禰諸兄1白v佛。三寶乃奴止仕奉流|天皇《スメ》【羅我】命、盧舍那像能|太《フト》前仁|奏《マウシ》賜【部止】奏久。此大倭國者、天地開闢以來爾、黄金波、人國【用理】獻(ツルコト)言波|有《アレ》【登毛、】斯|地《クニヽ》者無物止念【部流仁、】聞看食《キカシメス》國中能東(ノ)方(ノ)陸奥國守從五位上百濟王敬福伊、部内|少《ヲ》田(ノ)郡仁|黄金《コカネ》在《アリト》奏※[氏/一]獻《マツレリ》。此遠聞食驚伎、悦備、貴備念【久波、】盧舍那彿乃、慈《ウツクシ》賜(ヒ)比|福《サイ》【波倍】賜《タマフ》物爾有止念閉受賜里、恐理戴持、百官《モヽツカサ》乃人|等《タチ》率《ヰ》天|禮拜仕奉《ヰヤマヒツカヘマツル》事遠、挂畏《カケマクモカシコキ》三寶乃太前爾恐毛無久奏賜【波久止】奏。從三位中臣卿石上朝臣乙麻呂宣。現神御宇倭根子天皇詔旨宣《アラミカミトアメノシタシロシメスヤマトネコノスメラカミコトラマトノタマフ》大|命《ミコトヲ》、親《ミ》王諸王諸臣百(ノ)官(ノ)人|等《タチ》天下(ノ)公民《オホンタカラ》衆《モロ/\》聞|食《メセト》宣云々。寶龜五年冬十月己巳、散位從四位下國中達公麻呂卒。本是百済國人也。其祖父徳率國骨富近江朝廷歳次癸亥|屬《アタテ》本蕃(ノ)喪亂(ニ)1歸化。天平年中聖武皇帝發2弘願1造2盧舍那銅像1。其長【十歟】五丈。當時鑄工無2敢加v手者1。公麻呂頗有2巧思1。竟成2其功1。以v勞遂授2【從歟】四位1【下歟】官至2造東大寺次官1。県2但馬員外(ノ)介1。寶字二年以v居2大和國葛下郡國中村1。因v地命v氏焉。元亨釋書第十七王臣篇云。聖武皇帝者云々。第十八神仙篇云。伊勢皇太神宮者云々。賛曰云々。第二十八寺像志云。東大寺云々。石山寺者云々。大宋高僧傳云。異國の傳記まてに載、すてに千載に及ふまて、つゝかなくてまします事は、ひとへに聖武皇帝の大願力のいたす所なり。都をうつし給ふに費ありしよしは國史にも見え、本朝文粹三善清行の異見封事にも刺《ソシリ》奉られけれと、天地もみちぬ所あり。日月も蝕する習あり。1凡慮のはかるへからさる所有ぬへし。もししからしといはゝ、胎中《ホムタノ》天皇は八幡宮といはゝれさせたまへとも、武内宿禰の弟|甘美《ウマシ》内宿禰か讒《ヨコス》を信《ウケ》たまひて、武内宿禰を殺さむとせさせたまへるをはいかゝすへき。こかねかもたのしけくあらんとおもほしてしたなやますに。金薄を押奉らはたふとからんとおほしめすなり。日本紀に貴盛をたのしとよめり。したなやますは、したは心をいふ。うらといふもおなし。したうれし、下こゝろよしなと、すへていひ出すして心ひとつにおもふをしたといへり。下心をなやましておほしめすなり。石上乙麻呂卿の宣命にいはく。衆人波|不《シ》v成《ナラ》【※[加/可]登】疑(カヒ)、朕波金|少《スクナケ》【牟止】念(ヒ)憂【都々】在爾。これを下なやますにといへり。みちのくの小田なる山に。小田郡にある山なり。紀云。出(ス)v金(ヲ)山(ノ)神主小田郡|日下部《クサカヘノ》深淵(ニ)授2外少|初《ソ》位下(ヲ)1。延喜式第十、神名下云。小田郡黄金山(ノ)神社。まうしたまへれ。奏したまへはなり。あめつちの神あひうつなひ。第十三に、高山と海こそは山のまにかくもうつなひ、うみのまにしかたゝならめといふうつなひに、現の字をかけり。又第十一には現心とかきてうつしこゝろとよみ、第十二には現の字をうつゝとよみたれは、うつなひもうつゝにあらはれ出てといふ心なり。元明天皇和銅元年詔云。東方武藏園國|自然作成《オノツカラナレル》和銅|出在《イテタリ》止奏而献焉。此物者|天坐《アメニマス》神、地坐神乃相【于豆奈比】奉、福【波倍】奉事爾依而、顯《ウツクシ》久出【多留】寶爾在【羅之止奈母、】神隨《カミノマニ・カミナカラ》所念《オホシメ》須。延喜式第八大嘗會祝詞云。天都御食乃、長御食能、遠御食登皇御孫《スメミマノ》命乃、大嘗聞食牟爲故爾皇神|等《タチ》相宇豆乃比奉※[氏/一]云々。すめろきのみたまたすけて。神功紀云。皇后還(テ)|詣《イタリマシテ》2橿日(ノ)浦(ニ)1、解《トイテ》v髪《ミクシヲ》臨(テ)v海(ニ)曰。吾|被《ウケ》2神祇《カミ》之|教《ミコトヲ》1頼《カヽフリ》2皇祖之靈《オホオヤノミタマノフユヲ》浮2渉《ワタリテ》滄海《アヲキウナハラヲ》1躬欲2西(ヲ)征(ント)1。とほき世にかゝりしことをわか御代にあらはしてあれは。これは優填王の赤栴檀をもて初て佛像を造られし天竺の佛在世のことをいへるか。又此國にそのさきもこかねのすこし出たることあれは、それをいへるか。文武紀云。二年十二月辛卯、令3對馬嶋(ヲシテ)冶2金(ノ)鑛《アラカネヲ》1。大寶元年三月戊子|遣《マタシテ》2追大肆|凡海《オシノミノ》宿禰|麁鎌《アラカマヲ》于陸奥(ニ)1、冶《ワカサシム》v金(ヲ)。甲午對馬嶋(ヨリ)貢(ツル)v金(ヲ)。建(テヽ)v元(ヲ)爲2大寶元年(ト)1。八月丁未先v是(ヨリ)左遣2大倭國|忍海《オシノミ》郡(ノ)人三田(ノ)首《オフト》五瀬(ヲ)於對馬嶋(ニ)1冶(シ)2成(シム)黄金(ヲ)1。至v是詔(シテ)授2五瀬正六位上(ヲ)1賜2封五十戸、田十町、并|※[糸+施の旁]《アツマキヌ・アシキヌ》綿布|鍬《スキヲ》1。仍兎2雑戸(ノ)之名(ヲ)1。對馬嶋(ノ)司《ミコトモチ》及郡司主典已上進2位階一階(ヲ)1。其出v金郡司者二階。獲v金人家部宮道授2正人位上1并賜2※[糸+施の旁]綿布|鍬《スキヲ》1。復2其戸1終身。百姓(ニハ)三年(ナリ)。又贈右大臣大伴宿禰御行|首《ハシメ》遣2五瀬1冶v金。因賜2大臣子(ニ)封百戸田四十町1。【年代歴曰、於v後五瀬之詐欺發露(スト)。知(ヌ)贈右大臣爲2五瀬1所v誤也。】此年代暦を引て注を加へたるにてみるに、對馬嶋より金を貢し故に、大寶の年號をたて、陸奥へも凡海宿禰麁鎌をつかはさし金をふかさせたまふ跡あれと、あるひはあさむき、あるひは髣髴なるに、今さたかに黄金の出來たれは、わかみよにあらはしてあれはとはいへり。さきに引る宣命の中に、黄金波人國【用理】献言波有【登毛】斯地者《コノクニヽハ》無物止念【都流爾】とあるは、對馬嶋より奉りしはいつはりあさむける故、あるひは少分屬無なるへし。今遠き代にかゝりし事といふが、もし金の事ならは、文武天皇の御時なれは、遠き世とはいふましきにやといふ難もあるへけれと、五十年にをよふ事なれは難あるへからす。かむなからは神なからなり。君をすなはち神と申奉るなり。第一卷以下におほきことはなり。まつろへのむけのまに/\。まつろふはしたかひ奉るなり。日本紀に服の字をまつろふとよめり。此集第二卷にまつろはぬといふに不奉仕とかきたれは、奉仕はまつろふなり。むけは平の字を日本紀にかきてたひらくるなり。おい人もめぬわらはこもしがねかひ心たらひに。めぬわらはこはめのわらはこなり。しがねがひはさかねがひにて、おのかねかひのまゝに心にたるとなり。論語曰。子路(カ)曰。願(ハ)聞(ン)2子之志(ヲ)1。子曰。老者(ヲハ)安(ンシ)v之(ヲ)、朋友(ヲ)信(セシメ)v之(ヲ)、少者(ヲハ)懷(ケン)v之(ヲ)。しがとは第十九にもよめり。大伴の遠つ神祖。神代紀下云。一書曰。高皇産靈尊以2眞|床覆《トコオフノ》衾(ヲ)1裹《キセマツリ》2天津彦國|光《テル》彦火(ノ)瓊々杵(ノ)尊1則引2開《アケ》天(ノ)磐戸(ヲ)1排《オシ》2分(テ)天(ノ)八重雲(ヲ)1以(テ)奉降《アマクタリマス》之。于v時大伴(ノ)連(ノ)遠(ツ)祖天(ノ)忍日《オシヒノ》命帥(テ)2來目《クメノ》部遠祖|天《アメ》※[木+患]津大來目(ヲ)1背《ソヒラニハ》負(ヒ)2天(ノ)磐靫《イハユキヲ》1臂《タヽムキニハ》著《ハキ》2稜威《イヅノ》高|鞆《カラヲ》1手(ニハ)捉(リ)2天(ノ)梔《ハシ》弓天(ノ)羽羽矢(ヲ)1、及|副2持《トリソヘ》八目(ノ)鳴鏑《カブラヲ》1、又|帶《ハキ》2頭《カフ》槌(ノ)劔(ヲ)1而立(シテ)2天孫《アメミマ》之|前《ミサキニ》1遊行降來到《ユキメクリテ》2於日向(ノ)襲(ノ)之高千穗(ノ)※[木+患]日《クシヒノ》二|上峯《ガンノタケ》天(ノ)浮橋(ニ)1而立(シテ)2於|浮渚在《ニマリ》之|平地《タイラニ》1膂宍空國《ソシヽノムナクニヲ》自2頓丘《ヒカヲカヲ》1覓《マキ》v國|行去《トホリ》到(マス)2於|吾《ア》田(ノ)長屋笠狹(ノ)御《ミ》碕(ニ)1。古語拾遺云。仍使d2大伴遠組天忍日命1帥2來目《クメノ》部遠(ツ)祖天(ノ)※[木+患]津大來目1帶v仗(ヲ)前驅u。萬多親王、姓氏録云。【左京神別】大伴宿禰(ハ)、高皇産靈尊五世孫、天押日命之後也。初天孫彦火(ノ)瓊々杵尊神駕之降也。天押日命帥2大來目部1立2於御前1降2日向高千穗峯1。然後以2大來目部1爲2天靫負(ト)1。天靫負之號起2於此1也。雄略天皇御世以2天靫負1賜2大連公1。姓氏録又云。【神別】佐伯(ノ)直《ア》(ハ)景行天皇(ノ)々子、稻背入彦命之後也。男御諸別(ノ)命|稚足《ワカタラシ》彦天皇【諡成務】御世中2分|針間《ハリマノ》國(ヲ)1給v之。仍號2針間別(ト)1。男阿良都命、【一名伊許自】譽田天皇爲v定2國(ノ)界(ヲ)1車駕《スヘラミコト》巡幸到2針間國神崎郡瓦村東崗上(ニ)1。于v時青菜葉自2崗邊(ノ)川1流下。天皇詔。應(シト)2川上有1v人也。仍差2伊許自命1往問。即答曰。己等、是日本武尊平2東夷1時|囚俘《トリコニセラレシ》蝦夷之後也。散遣2於針間、阿藝、阿波、讃岐、伊豫等國1。仍居v此−《サヘキ》氏也。【後改爲2佐伯1。】伊許自別命以v状《アルカタチ》復奏。天皇詔曰。宜2汝爲(ニ)治《シラス》1v之。即賜(フ)2氏(ヲ)針間別佐伯直(ト)1。佐伯者所v賜氏姓也。直者謂君也。爾後至2庚午年1脱2落針間別三字1偏爲2佐伯直1。又云。【左京神別】佐伯(ノ)宿禰(ト)大伴(ノ)宿禰(トハ)同祖。道(ノ)臣《オムノ》命七世(ノ)孫室屋大連公之後也。此外録中有2佐伯(ノ)造《ミヤツコ》佐伯(ノ)首《オフト》1。性靈集第三、贈(ル)3伴平章事(カ)【大伴國道也】赴(ムクニ)2陸府(ニ)1詩序云。昔景行天皇撫運之日、東夷未v賓。日本武尊率2左右(ノ)將軍武彦【吉備】武日等1征之。毛人面縛(セラル)之。日(ノ)命《ミコトハ》則君之先也。〇貧道與v君淡交(ニシテ)、玄度遠公(ナリ)。緇素區(/\ニ)別(タレトモ)伴【大−】佐【−伯】昆季(ナリ)。弘法大師、俗姓は佐伯直、これによりて大伴佐伯は姓よりしたしきよしなり。今いふこゝろは大伴と佐伯の氏は先祖は先祖たる道を立、子孫は相續て先祖の名を斷絶せしめぬなり。海ゆくはみつくかはね山ゆくは草むすかはね大君のへにこそしなめ。上に略して引る石上乙麻呂卿奉v勅宣曰。又大伴佐伯宿禰波、常母云久。天皇(ノ)朝(ノ)守仕奉事、顧【奈伎】人等爾汝【多知乃】祖【止母乃】云來《ケラ》久。海行波、美【内久】屍、山行波、草【牟須】屍、王乃弊【爾去曾】死米。能杼《ノド》《・和》【尓波】不v死止云來流人等【止奈母】聞召須。かへりみはせしとことたて。たては言を立るなり。第二十にも出むかひかへりみせすていさみたるたけき軍とよみ、又
  けふよりはかへりみなくて大君のしこのみたてと出立我は
大君のへは邊なり。海路に死なは水つくかはね、山路に死なは草むす屍となりて、とにかくに天皇の御ために我命をはかへりみしと言を立たるとなり。いにしへゆいまのをつゝに。いにしへより今の現在になり。うつゝをゝつといへる事、第五第十七にも見えたり。なかさへるおやの子ともそ。なかせる子孫といふなり。子モ孫モを末流といふ故なり。大伴と佐伯の氏は人のおやの立ることたて、人の子は祖の名たゝす。續日本紀第二十云。大伴佐伯之族(ハ)此(レ)擧《ミナ》前將v無v敵。寶字元年七月詔曰。又大伴佐伯宿禰等波自2遠(キ)天皇(ノ)御世1内乃兵止爲而奉來。あさまもりゆふのまもりに大きみのみかとのまもり。大嘗會の儀式にも、大伴佐伯の両氏大嘗宮門の開閉をつかさとれり。具に延喜式に載たり。われをおきてまた人はあらしと。第五貧窮問答哥にも、しかとあらぬひけかきなてゝあれをおきて人はあらしとほころへとゝよめり。いやたて。上にかへりみはせしとことたてといふによりて、いよ/\くりかへして其言を立る心なり。集中哥のもし有餘不足あけてかそふへからねと、此哥はよくとゝのほりたれは、此句も伊夜多※[氏/一]※[氏/一]にて有けんが、ひとつの※[氏/一]もしうせたるか。みことのさきは、みことのさきはひなり
 
一云|貴久之安禮婆《タフトクシアレハ》
 
續日本紀第十七に載たり、之は助語なり、
 
反歌三首
 
4095 大夫能許己呂於毛保由於保伎美能美許登乃佐吉乎《マスラヲノコヽロオモホユオホキミノミコトノサキヲ》【一云能】聞者多布刀美《キケハタフトミ》
 
初二句は大夫の心の振|起《オ》して思はるゝなり、
 
初、ますらをの心おもほゆ 此みことのりを聞がかたしけなさに、いよ/\ますらをの心をおもふとなり
 
一云貴久之安禮婆
 
4096 大伴乃等保追可牟於夜能於久都奇波之流久之米多弖比(47)等能之流倍久《オホトモノトホツカムオヤノオクツキハシルクシメタテヒトノシルヘク》
 
シルクシメタテはしるくしたてよなり、
 
初、おくつきはしるくしめたて おくつきは墓なり。しるくしめたては人の見てそれとしるはかりにしめゆひたてよなり。汝【多知乃】祖【止母乃】云來久とある宣命の詞によりてかくはよめるなるへし
 
4097 須賣呂伎能御代佐可延牟等阿頭麻奈流美知乃久夜麻爾金花佐久《スメロキノミヨサカエムトアツマナルミチノクヤマニコカネハナサク》
 
榮ゆるは第三にも木綿花の榮ゆる時にとよみ、第七にもあしびなす榮しキミと讀て、花に付て云詞なれば花の中にも金花の咲たるは君が代の榮えむとての驗なりとよめるなり、陸奥山は金の出たる山の名にはあらず、陸奥の小田なる山と長歌によめるにて知るべし、延喜式に黄金山とあるも金の出てより後の名歟、聖武紀にも出v金山とのみあれば本はさして名もなき山なるべし、我心つくしの山とよめる如く陸奥にある山なれば押て陸奥山とはよめるなり、
 
初、みちのく山に金花さくは 彼小田郡の山の名をみちのく山といふとは見えす。只みちのくの山といふ心なり。こかね花咲とは、山にはよろつの木の花さく故に、みちのく山には、金の花さけりとよめるなり。奇妙の詞なり
 
天平感寶元年五月十二日、於2越中國守舘1大伴宿禰家持作v之
 
(48)萬葉集代匠記卷之十八上
 
(1)萬葉集代匠記卷之十八下
 
爲d幸2行芳野離宮1之時u儲作歌一首并短歌
 
歸京の後芳野離宮へ行幸あらむ時、御供せば奏せむがために兼て詠ぜらるゝなり、
 
4098 多可美久良安麻乃日嗣等天下志良之賣師家類須賣呂伎乃可未能美許等能可之古久母波自米多麻比弖多不刀久母左太米多麻敝流美與之努能許乃於保美夜爾安里我欲比賣之多麻布良之毛能乃敷能夜蘇等母能乎毛於能我於弊流於能我名負名負大王乃麻氣能麻久麻久此河能多由(2)流許等奈久此山能伊夜都藝都藝爾可久之許曾都可倍麻都良米伊夜等保奈我爾《タカミクラアマノヒツキトアメノシタシラシメシケルスメロキノカミノミコトノカシコクモハシメタマヒテタフトクモサタメタマヘルミヨシノヽコノオホミヤニアリカヨヒメシタマフラシモノヽフノヤソトモノヲモオノカオヘルオノカナニナニオホキミノマケノマクマクコノカハノタユルコトナクコノヤマノイヤツキツキニカクシコソツカヘマツラメイヤトホナカニ》
 
於能我名負名負は荷《ニ》は或はになひ或は負物なれば負を荷と同じく義訓せる歟、第十一に敷細布枕人事問哉其枕苔生負爲《シキタヘノマクラセムヒトコトトヘヤソノマクラニハコケムシニタリ》、此負の點と同じ、今按引所の歌はコケオヒヲセリと讀べしと存ず、今はオノガナオヒナオヒと讀べし、上の長歌にも多能之氣久安良牟登《タノシケクアラムト》と云へるは九字を一句とせしは今も長きを※[厭のがんだれなし]ふべからず,第十七より第二十に至るまでは難義にかける事なき中に此負の字のみさる義訓を用べきにあらず、孝コ紀云、始2於祖子(ヨリ)1奉仕《ツカマツル》、卿大夫臣連伴(ノ)造氏氏(ノ)人等【或本云、名名王民《ナナノオホムタカラ》云々、マケノマク/\は任《マケ》のまに/\の意なり、第十三に天雲之行莫莫《アマクモノユキノマクマク》とよめり、引合せて意得べし、此山ノイヤツギ/\ニとは山の相つゞけるによそへて云へり、
 
初、於能我|名負名負《ナニナニ》 負の字をにとよめるは、荷を負ふ心にて、義をもてかける歟。十七卷より廿卷にいたるまては、かゝる異躰の字を用す。負の字日本紀にとるとよみたれは、おのか名とりてとよみて、今ひとつの名負は衍文にや。まけのまく/\は任の字をまけとよめり。まく/\はまに/\といふにおなし詞と見えたり。第十三にも天雲のゆきのまく/\とよめり。君の任し給ふ官位のまに/\なり。此山のいやつき/\にとは、山の谷峯のつゝきたるによせていへり。第三に赤人の哥に、とかの木のいやつき/\にとよめり。山城の枕詞に、つきねふとおきたるも、此いやつき/\といへる心なり
 
反歌
 
4099 伊爾之敝乎於母保須良之母和期於保伎美余思努乃美夜(3)乎安里我欲比賣須《イニシヘヲオモホスラシモワカオホキミヨシノノミヤヲアリカヨヒメス》
 
初二句は故事を思召て行幸したまふを云へり、
 
4100 物能乃布能夜蘇氏人毛與之努河波多由流許等奈久都可倍追通見牟《モノヽフノヤソウシヒトモヨシノカハタユルコトナクツカヘツヽミム》
 
此初の二句に付て物部の八十氏河とつゞくるにことやうなる説あり、用べからず、
 
初、ものゝふのやそうち人も これは長哥に、ものゝふのやそとものをもとよめるにおなし。此哥につきて異説をなすものあるゆへに此注をくはふるなり
 
爲v贈2京家1願2眞珠1哥一首并短歌
 
4101 珠洲乃安麻能於伎都美可未爾伊和多利弖可都伎等流登伊布安波妣多麻伊保知毛我母波之吉餘之都麻乃美許登能許呂毛泥乃和可禮之等吉欲奴婆玉乃夜床加多古里安佐禰我美可伎母氣頭良受伊泥?許之月日余美都追奈氣(4)久良牟心奈具佐余保登等藝須伎奈久五月能安夜女具佐波奈多知婆奈爾奴吉麻自倍可頭良爾世餘等都追美?夜良牟《スヽノアマノオキツミカミニイワタリテカツキトルトイフアハヒタマイホチモカモハシキヨシツマノミコトノコロモテノワカレシトキヽヌハタマノヨトコカタコリアサネカミカキモケツラスイテヽコシツキヒヨミツヽナケクラムコヽロナクサヨホトヽキスキナクサツキノアヤメクサハナタチハナニヌキマシヘカツラニセヨトツヽミテヤラム》
 
和可禮之等吉欲、【別校本云、ワカレシトキヨ、】
 
於伎都美可未は奧津御神《オキツミカミ》にて三輪の山などをすなはち神と云へるやうに奧津島山を指て神と云、第二の反歌の意是なり、伊和多利弖は伊は發語詞なり、イホチモガモは五百千もがなゝり、夜床加多古里は片凝《カタコリ》にて夜床の片つ方に依て物の凝たるやうにて臥すを云歟、凝は打解ても寢ぬ意なり、今按古は左の字を誤て夜床方去にや、第四に敷細之枕片去《シキタヘノマクラカタサリ》とよめるに准らふべし、夜床の片つ方に依り去て臥なり、心奈具佐余、余は尓の誤なり、第三の反歌初の第二句の如し、
 
初、すゝのあまの 能登の珠洲の海なり。おきつみかみにいわたりて。龍神のしれる海なれは奥つ御神とはいふなり。山のすそをいふとてすめ神のすそみなとよめるかことし。いは例の發語なり。いほちもかもは五百も千もかなゝり。夜床かたこりは、片凝なり。床のかたはらによりて、物のこりたるやうにしてふすなり。もし古は左の字の誤にて、かたさりか。第四に第五に
  いくそはくおもひけめかも敷妙の枕片さり夢に見え來し
  たゝにあはすあらくもおほく敷妙のまくらさらすていめにし見えむ
床と枕とことなれと、これに准して思ふへし。心なくさよは心なくさめよといへる歟。さらすは余は尓の字の誤れるにて、心なくさになるへし。第二の短哥に心なくさにやらんためとよめるを思ふへし
 
4102 白玉乎都々美?夜良婆安夜女具佐波奈多知婆奈爾安倍母奴久我禰《シラタマヲツヽミテヤラハアヤメクサハナタチハナニアヘモヌクカネ》
 
(5)此歌は第三笠金村の鹽津山歌の反歌の如く云ひはてず貫てやらばやの意を殘せり、若は次下の歌を兼る歟、
 
初、白玉を 日本紀に眞珠をしらたまとよめり。つゝみてやらは。此波の字はもし那の字なとをかきまかへたる歟。さらてはあへもぬくかねといひては哥のをさまらぬなり。されとも第三にも
  ますらをのゆすゑりおこしいつる矢を後みん人はかたりつくかね
此哥もおなし躰なれは、古哥のさまにていひのこせるにや
 
4103 於伎都之麻伊由伎和多里弖可豆久知布安波妣多麻母我都々美弖夜良牟《オキツシマイユキワタリテカツクチフアハヒタマモカツヽミテヤラム》
 
伊は發語の詞なり、
 
4104 和伎母故我許己呂奈久佐爾夜良無多米於伎都之麻奈流之良多麻母我毛《ワキモコカコヽロナクサニヤラムタメオキツシマナルシラタマモカモ》
 
4105 思良多麻能伊保都都度比乎手爾牟須妣於許世牟安麻波牟賀思久母安流香《シラタマノイホツヽトヒヲテニムスヒオコセムアマハムカシクモアルカ》
 
一云我家牟伎波母
 
(6)都度比、【幽齋本都作v追、】
 
初の二句は第十の七夕の歌に有て注せり、ムカシクモアルカは向はしくもあるかにて、さる海人《アマ》には相向《アヒムカ》はまほしくも有かなの意歟、物の嫌はしきには背かるれば心に叶へるには向ふべき理なり、異を注するに我家牟伎波母と云へるは我家へもて向へと云心にや、牟賀思久と牟伎と同じかるべし、或は牟と由と同韻にて通ずればユカシクモ有哉とよめる歟、
 
初、しら玉のいほつゝとひを 五百箇集《イホツツトヒ》なり。五百はおほき數なれは、おほくの玉の心をきはめていへる歟。神代紀上云。便以2八坂|瓊《ニノ》之|五百箇御統《イホツノミスマルヲ》1纏《マツフ》2其|髻鬘《ミイナタキ》及|腕《タフサニ》1【前注云。瓊(ハ)玉也。々】これをふめる歟。第十、七夕哥に
  しら玉のいほつゝとひをときもみす我はかゝたぬあはむ日まつに
むかしくもあるか。長流かいはくゆかしくも有かなゝり。むとゆと同韻相通なりといへり。今案此説いはれたりといへとも、左に一云、我家牟伎波母《ワキヘムキハモ》といへるを思ふに、むかはしくもあるかなといへるにや。物のきらはしきにはそむくに違ひて、心にかなへるにはむかふへきことわりなり。わきへむきはもは、我家へもてむかへといふ心にや
 
右五月十四日大伴宿禰家持依v興作
 
教2喩史生尾張少咋1歌一首并短歌
 
職員令云、上國史生三人、延喜式民事云、越中國上、
 
七出例云、
 
但犯2一條1即合v出v之、無2七出1輙棄者徒一年半、
 
令義解第二云、凡(ソ)棄(ルニ)v妻須(ラク)《・ベシ》v有2七出(ノ)状1、一(ニハ)無v子、【謂雖有2女子1亦爲v無v子、更取2養子1故、】二(ニハ)婬※[さんずい+失]、【謂婬者蕩也、※[さんずい+失]者過也、須2其※[(女/女)+干](7)訖1乃爲2姪※[さんずい+失]1也、】三(ニハ)不v事(ヘ)2舅姑(ニ)1、【謂夫父曰v舅、夫母曰v姑、上條云、母之昆弟曰v舅、父之姉妹曰v姑、一字兩訓、隨v事通用也、】四(ニハ)口舌、【謂多言也、婦有2長舌1維※[蠣の旁】之階、是也、】五(ニハ)盗竊、【謂雖v不v得v財亦同2盗例1也、】六(ニハ)妬忌、【謂以v色曰v妬、以v行曰v忌也、】七(ニハ)惡疾、夫手(ヅカラ)書棄(テヨ)v之、與2尊属近親1同署、【謂尊属近親相須、即男家女家親屬共署也、】若不v解(セ)v(ヲ)書畫v指爲(セ)v記(ヲ)、
 
三不去云、
 
難v犯2七出1不v合棄v之、違者杖一百、唯犯※[(女/女)+干]惡疾得v棄v之、
 
兩妻例云
 
有v妻更娶者徒一年、女家杖一百離v之、
去の下に例の字を脱せる歟、令義解云、妻雖v有v棄有2三不去1、一(ニハ)經v持(スルコトヲ)2舅姑(ノ)之喪1、【謂持猶2扶持1也、】二(ニハ)娶時賤後(ニ)貴、【謂依v律稱v貴者、皆據2三位以上1、其五位以上即爲2通貴1、但此條曰v貴者、直謂2娶時貧苦下賤、棄日官位可1v稱而已、不2必五位以上1也、】三(ニハ)有v所v受無v所v歸、【謂無2主婚之人1是(ヲ)爲v無v所v歸、言不v窮也、】即《モシ》犯(サバ)2義絶淫※[さんずい+失]惡疾1不(レ)v拘(ハラ)2此令(ニ)1、集に引は、律の文なるべし、
 
初、七出例云 七出、令義解第二云。凡棄v妻須v有2七出状1。一無v子【謂雖2女子亦有《有亦歟》1爲v無v子。更取2養子1故。】二婬洪。【謂婬者蕩也。洪者過也。須2其※[(女/女)+干]訖1乃爲2姪洪1也。】三不v事2舅姑1。【謂夫父曰v舅夫母曰v姑。上條云。母之昆弟曰v舅。父之姉妹曰v姑。一字兩訓隨v事通用也。】四口舌。【謂多言也。婦有2長舌1維飼V階(ト云)是也。】五盗竊。【謂雖v不v得v財亦同2盗例1也。】六妬忌。【謂以v色曰v妬以v行曰v忌也。】七惡疾。夫手(ツカラ)書與v之。與2尊屬近親1同|署《ナシルセ》。【謂尊屬近親相須(テ)。即男家女家親屬共(ニ)署也。】若不(ンハ)v解v書(ヲ)指(ヲ以)爲(セ)v記
三不去云。去下疑脱2例而耶。令義解云。妻雖v有v棄有2三不去1。一(ニハ)經《フ》v持2舅姑之喪1。【謂持(ハ)猶2扶持1也。】二(ニハ)娶(ル)時賤(シテ)後(ニ)貴。【謂依v律稱v貴者皆據2三位以上1。其五位以上即爲2通貴1。但此條(ニ)曰v貴者、直謂2娶時貧苦下賤(ニシテ)棄日官位可(ヲ)1v稱而已。不2必五位以上(ノミ)1也。】三有v所v受無v所v歸。【謂無2主婚之人1是爲v無v所v歸。言不v窮也。】即犯(サハ)2義絶、淫洪、惡疾(ヲ)1不(レ)v拘(ハラ)2此令(ニ)1。集に引るは、律の文なるへし。古樂府詩云【第十二つるはみのきぬときあらひまつち山といふ哥の注にひけり。】後漢書曰。貧賤之知不v可v忘。糟糠之妻不v可v下v堂
 
詔書云、
(8)愍2賜義夫節婦1、
謹案2先件數條1逮法之基、化道之源也、然則義夫之道、情存無v別、一家同v財、
 
元明紀、和銅七年六月二十八日大赦詔書云、孝子順孫義夫節婦(ハ)表(シテ)2其門閭(ニ)1終(ルマデ)v身(ヲ)勿(ラシメヨ)v事、令義解第三云、凡(ソ)孝子順孫、【謂高柴泣血三年、顧悌絶漿五日之類、孝子也、原穀喩父迎祖、※[登+おおざと]殷冒雪獲芹之類、順孫也、】義夫節婦、【謂辛威五代同〓、郭〓七世共居之類、義夫也、衛共姜、楚白妃之類、節婦也、】志行聞2於國郡1者申(シテ)2太政官(ニ)1奏聞(シテ)表(セヨ)2其門閭(ニ)1、
 
初、詔書云愍賜義夫節婦 元明紀、和銅七年六月廿八日大赦詔書云。〇孝子順孫義夫節婦表2其門閭1終(ルマテ)v身勿(ラシメヨ)v事。令義解第三云。凡孝子順孫【謂高柴泣血三年、顧悌絶v漿五日之類孝子也。原穀喩v父迎v祖、※[登+おおざと]殷冒v雪獲v芹之類順孫也。】義夫節婦【謂辛威五代同〓、郭〓七世共居之類義夫也。衛(ノ)共姜楚白妃之類節婦也。】志行聞2於國郡1者申2太政官1奏聞表2其門閭1。【謂假名於其門及里門尋推之※[片+旁]題云2孝子門若里(ハ)1也。】同籍悉免(セ)2課役1。有(ラハ)2精誠通感者1【謂孟宗泣生冬笋、梁妻哭崩城之類通感。】別加(ヘヨ)2優賞(ヲ)1。豈有忘舊愛新之志哉。
 
豈有2忘v舊愛v新之志1哉、所以綴2作數行之歌1、令v悔2棄v舊之惑1、其詞曰、
 
4106 於保奈牟知須久奈比古奈野神代欲里伊比都藝家良之父母乎見波多布刀久妻子見波可奈之久米具之宇都世美能(9)余乃許等和利止可久佐末爾伊比家流物能乎世人能多都流許等太弖知左能花佐家流沙加利爾波之吉余之曾能都末能古等安沙余比爾惠美々惠末須毛宇知奈氣支可多里家末久波等己之部爾可久之母安良米也天地能可未許等余勢天春花能佐可里裳安良多之家牟等吉能沙加利曾波居弖奈介可須移母我何時可毛都可比能許牟等末多須良无心左夫之苦南吹雪消益而射水河流水沫能余留弊奈美左夫流其兒爾比毛能緒能移都我利安比弖爾保騰里能布多理雙坐那呉能宇美能於支乎布可米天左度波世流支美我許己呂能須敞母須弊奈佐《オホナムチスクナヒコナノカミヨヨリイヒツキケラシチヽハヽヲミレハタフトクメコミレハカナシクメクシウウツセミノヨノコトワリトカクサマニイヒケルモノヲヨノヒトノタツルコトタテチサノハナノサケルサカリニハシキヨシソノツマノコトアサヨヒニヱミヽヱマスモウチナケキカタリケマクハトコシヘニカクシモアラメヤアメツチノカミコトヨセテハルハナノサカリモアラタシケムトキノサカリソナミヲリテナケカスイモカイツシカモツカヒノコムトマタスラムコヽロサフシクミナミカセユキヽエマシテイミツカハナカルミナワノヨルヘナミサフルソノコニヒモノヲノイツカリアヒテニホトリノフタリナラヒヰナコノウミノオキヲフカメテサトハセルキミカコヽロノスヘモスヘナサ》 言2佐夫流1者、遊行女婦之字(10)也
 
伊比都藝家良之、【別校本、之作v久、】  曾能都末能古等、【官本、等字點云vト、】  佐可里裳安良多之家牟、【官本、良下有2牟等末三字1、注云、此三字諸本無v之、】  那具能宇美能、【校本、幽齋本、並具作v呉、】
 
父母乎より下六句は第五の山上憶良令v反2惑情1歌を本とせられたる歟、世人ノ立ルコトタテは仁コ紀に御製云、于磨臂苫能多菟屡虚等太弖《ウマヒトノタツルコトダテ》云々、今は夫妻は人の常の道なるを云なり、曾能都末能古等は官本に依て等を音に讀べし.カタリケマクハとは語りつらむはと云はむが如し、第三に通計萬四波《カヨヒケマシハ》と云へるに同じてにをはなり、天地ノ神言ヨセテ、第四に笠金村歌にもよめり誓ふなり、佐可里裳安良多之家牟、是は官本に、佐可里裳安良牟等末多之家牟《サカリモアラムトマタシケム》、と有に依べし、波居弖は今按是も波奈禮居弖《ハナレヰテ》なりけむを奈禮の兩字落たるなるべし、イツシカモし〔右○〕は助語なり、南吹は今按吹をかぜと讀こと勿論なれどみなみかぜならば此にては南風と書べければミナミフキと讀べし、古事記仁徳天皇段に、吉備(ノ)黒日賣歌に夜麻登弊邇爾斯布岐阿宜弖《ヤマトヘニヽシフキアゲテ》云々、風と云はずして南ふきと云べきこと此に准らふべし、春の比より佐夫流兒に迷ひそめたるべければかくはつゞけられたるなるべし、ヨルベナミはよるべなき(11)なり、うかれめなればかくは云へり、紐ノ緒ノイツカリアヒテは第九に紐兒爾伊都我里座者《ヒモノコニイツカリヲレバ》と云に注せるが如し、移《イ》は發語の詞なり、那具能宇美は具は呉に作れる本に依べし、オキヲフカメテサドハセルは末と左と同韻にて通ずれば深く迷へるなり、
 
初、大なむちすくなひこなの神代より かやうにつゝけたる事、第三第六第七等にも有て、神代紀を引て尺しき。父母をみれはたふとくめこみれはかなしくめくし。これは第五に、山上憶良、令v反2惑情1歌に、ちゝはゝをみれはたふとし、めこみれはめくしうつくし、よのなかはかくそことわりとよみ出されたるにおなし。うつせみのよのことわりとかくさまにいひけるものを。これは第十五に中臣宅守哥に
  よのなかのつねのことわりかくさまになりきにけらし末のたねから
よのひとのたつることたては、日本紀に仁徳天皇御哥
  うま人のたつることたてうさゆつるた|ゆ《エ》まつかんにならへてもかも《・君子立言立儲《ヲサ》弦神功紀絶間將續並》
ちさの花、山ちさなり。第七第十一にもよめり。かたりけまくはとは、かたりけむはなり。第三にも、つのさはふいはむらの道をあさかれすよりけむ人のおもひつゝかよひけましはとよめり。今の心におなし。とこしへにかくしもあらめやは、とこしなへにかくてのみまつしくいやしくてあらんやなり。第九にも、とこしへに夏冬ゆけやとよめり。允恭紀に衣通姫の哥にもとこしへに君もあへやもと讀たまへり。天地のかみことよせて、第四に笠金村の長哥にも此二句あり。天神地祇をかけてちかふなり。春花の。此下の二句に文字落たり。今これをゝきなはゝ、佐可里裳安良波多能之家牟なり。波居※[氏/一]。これは波は彼の字の誤にて、をちにゐてなるへし。第十三に、うみをなす長門の浦に朝なきにみちくる塩の、夕なきによりくるなみの、そのしほのいやます/\に、その浪のいやしくくにとよめる中の、そのしほのといふ句を、波塩乃とかけるを、點はそれにまかせてなみしほのとつゝけたり。そのなみのといふ句に彼浪乃とかけるをもてみれは、彼塩乃にて有けること、掌をさすかことし。今もそれに准して誤れる事を知へし。南風雪きえまして。越中にして五月中旬の哥なれは、をりふしによせて遊女を妻とせることをそしりて、なかるゝみなわのことくいつかたともよるへさためぬさふることいへり。さふるは遊女の名、後の注に見えたり。ひものをのいつがりあひてとは、いは發語のことは、つかりあふなり。袋なとの口を※[金+巣]のやうにまつふを、つかりといふ。つかりあふもその心なり。今俗にくさりあふといへるなり。にほとりのふたりならひゐ、第五卷憶良の哥にも此二句有。なこのうみは、なこ江ともよめる越中にある所の名なり。津のくにゝはあらす。おきをふかめてさとはせるは、ふかくまとへるなり。佐と末と同韻相通なり。舜南風歌云。柳公權聯句云。薫風自v南來、殿閣生2微涼1。伊勢物語にその夜南の風ふきて浪いと高し
 
反歌三首
 
4107 安乎爾與之奈良爾安流伊毛我多可多可爾麻都良牟許巳呂之可爾波安良司可《アヲニヨシナラニアルイモカタカタカニマツラムコヽロシカニハアラシカ》
 
落句は憶良の令v反2惑情1長歌の終と同じ、汝が佐夫流に迷ひて本妻を忘れたるが如くはあるまじきかの意なり、
 
初、高々に待らん心 上におほかりし詞なり。しかにはあらしかとはさやうにてはあるましきかなり。佐夫流にまとひて、本妻を打わすれたる少咋《ヲクヒ》には似す、もとの心にて今やかへりくると高々に望てまたんとなり
 
4108 左刀妣等能見流目波豆可之左夫流兒爾佐度波須伎美我美夜泥之理夫利《サトヒトノミルメハツカシサフルコニサトハスキミカミヤテシリフリ》
 
里人は多くの人の意なり、落句の美夜泥は第二に宮出とかけり、出仕のやう知たるふりをするを知ふりと云へり、尻打振て出仕すると云にはあらず、初の二句はさる(12)道なき史生の使ふは家持のみづからも人の思はむ處耻かしと當りて誡しめらるゝ意も有ぬべし、
 
初、みやてしりふり みやては出仕なり。第二に日並皇子かんさりましける時、舍人等かよめる哥の中に
  夢にたに見さりし物をおほつかな宮出もするかさひのくまわを
しりふりは、宮出のやう我こそ知たれと、知たるふりをするなり。之理夫利とかきたれはふもし濁るへし。此字およそ呉音を用たり。尻打ふりてほこらしけにみやてするといふにはあらす。濁音の夫の字を用たるにても知へし
 
4109 久禮奈爲波宇都呂布母能曾都流波美能奈禮爾之伎奴爾奈保之可米夜母《クレナヰハウツロフモノソツルハミノナレニシキヌニナホシカメヤモ》
 
紅をば佐夫流に喩へ橡の衣をば本妻に喩ふ、ナレニシのに〔右○〕は助語なり、
 
初、くれなゐはうつろふものそ 佐夫流を紅にたとへ、先妻をつるはみのきぬにたとへたり。第十二に
  つるはみのきぬときあらひまつち山もとつ人には猶しかすけり
此哥にてよまれたるなるへし
 
右五月十五日守大伴宿禰家持作之
 
先妻不v待2夫妻之喚使1自來時作歌一首
 
夫妻、【仙覺抄、妻作v君、今本誤矣、】
 
仙覺抄に先妻を家持の先妻と意得られたるは手を拍て笑ふべし、前より鉤※[金+巣]明らかなり、
 
初、先妻不待夫君之喚使 君誤作v妻、目録爲v正。上の哥ともにつゝきたれは、かく題してことわりよく聞え、又哥の後に同月十七日大伴宿禰家持作之といひ、哥にはさふるこかとよみたれは、まきるゝことなし。目録この心を得すして、大に誤れり
 
4110 左夫流兒我伊都伎之等乃爾須受可氣奴婆由麻久太禮利(13)佐刀毛等騰呂爾《サフルコカイシキシトノニスヽカケヌハイマクタレリサトモトヽロニ》
 
伊都伎之、【仙覺抄、並官本、イツキシ、今本訛矣、】  婆由麻、【校本婆作v波、別校本點云、ハユマ、】
 
イツキシ殿ニは小咋《ヲクヒ》が許になり、鈴カケヌとは官使の驛には鈴を懸るを、是は先妻が佐夫流が事を聞付けて腹立て京より急ぎて下る故に鈴かけぬ驛とは云へり、孝徳紀云、几2驛《ハイ》馬傳馬1皆依2鈴傳(ノ)符刻數(ニ)1、凡諸國及關(ニハ)給2鈴契1、並|長官《カミ》執(レ)、無(クハ)次官《スケ》執(レ)、婆は波に作れるをよしとし、點はハユマに依べし、佐刀毛等騰呂爾とは里も此事に噪ぐばかりにの意なり、然らむと思ひつる事よの意なるべし、五雜爼云、唐(ノ)王鐸鎭2渚宮(ヲ)1以禦2黄巣(ヲ)1寇兵漸近、鐸赴v鎭以2姫妾1自隨、留2夫人(ヲ)於家中1、忽(ニ)報夫人離(テ)v京(ヲ)徑(ニ)來(テ)在(ト)2道中(ニ)1、鐸謂(テ)2從事(ニ)1曰、黄巣漸以v南來(リ)、夫人又將v北(ヲ)至、旦夕情味何(ヲ)以(テカ)安處(セム)、幕寮戯曰、不v如v降(ラムニハ)黄巣1、公(モ)亦大(ニ)笑(フ)、
 
初、さふるこかいつきし殿に 少咋を、佐夫流かいつきまつれは、少咋か家を殿といへり。鈴かけぬはゆまくたれり。これは驛 の鈴といふことの有をよめり。それは官使として七道へおもむく人は、鈴を給りて、馬屋つたひに打ふりて過るを聞て、馬やの長か馬のまうけをもするなり。大やけに七の鈴をもてひとりつゝに給るに、其中に口のかけたる鈴あり。其鈴を給はれる使は、道のほとよろつにつけてあしゝとはいへり。はゆまは早馬《ハヤウマ》なり。也宇反由なれははゆまといへり。第十四東哥にも、すゝかねのはゆまうまやとよめり。第十一に、はいまちに引舟わたしともよめり。日本紀にも驛路をはいまちとよみ、はいまはせてなといへり。伊と由と五音通すれはおなしことなり。孝徳紀云。初脩2京師1置2畿内國司、郡司、關塞、斥候、防人、驛馬、傳馬1、及造2鈴(ノ)契1定2山河1。凡給2驛馬《ハイマ》傳馬1皆依2鈴(ノ)傳符刻數1。凡諸国及關給2鈴契1並|長官《カミ》執(レ)。無(ハ)次官《スケ》執(レ)。天武紀上云。即遣2大|分《イタノ》君惠|尺《サカ》〇于留守司高坂王1而令v乞2驛鈴1。〇既而惠尺等至2留守司1擧2東宮命1乞2驛鈴於高坂王1、然不v聽矣。温庭※[竹/均]詩云。晨(ニ)起(テ)動(カス)2征鐸(ヲ)1。朗詠集云。驛路鈴声夜過v山。少咋かもとの妻、都よりおして越中國にくたれるを、鈴もかけぬ驛使下れりと、あまねく人のいひさわくを、里もとゝろにとはよまれたり。五雜組云。唐(ノ)王鐸鎭2渚宮1以禦2黄巣1、寇兵漸近。鐸赴v鎭以2姫妾1自随留2夫人於家中1。忽報夫人離v京徑來已在2道中1。鐸謂2從事1曰。黄巣漸以v南來、夫人又將v北至。旦夕情味何以安處。幕寮戯曰。不v如v降2黄巣1。公亦大笑
 
同月十七日大伴宿禰家持作v之
 
橘歌一首并短哥
 
和名集云、橘【居密反、】一名金衣、【和名太知波奈、】南方草木状下(ニ)云、橘(ハ)白華赤實(ナリ)、皮馨香(テ)有2美味1、今、按此橘と云は今の世に蜜柑と名づくる是なり、俗に橘と云は柑子《カウジ》に似て少さく(14)皮の色黄にして赤からず、味も少酸くして苦《ニガ》ければ美味にあらず、凡そ橘と柑とも詳には分けがたかるべし、
 
初、橘歌一首 南方草木状下曰。橘白華赤實皮馨香有2毒味1。和名集云。兼名苑云。橘【居密反】一名金衣【和名太知波奈】
 
4111 可氣麻久母安夜爾加之古思皇神祖乃可見能大御世爾田道間守常世爾和多利夜保許毛知麻爲泥許之登吉時支能香久乃菓子乎可之古久母能許之多麻敞禮國毛勢爾於非多知左加延波流左禮婆孫枝毛伊都追保登等藝須奈久五月爾波波都婆奈乎延太爾多乎理?乎登女良爾都刀爾母夜里美之路多倍能蘇泥爾毛古伎禮香具播之美於枳弖可良之美安由流實波多麻爾奴伎都追手爾麻吉弖見禮騰毛安加受秋豆氣婆之具禮乃雨零阿之比奇能夜麻能許奴禮(15)波久禮奈爲爾仁保比知禮止毛多知波奈乃成流其實者比太照爾伊夜見我保之久美由伎布流冬爾伊多禮波霜於氣騰母其葉毛可禮受常磐奈須伊夜佐加波延爾之可禮許曾神乃御代欲理與呂之奈倍此橘乎等伎自久能可久能木實等名附家良之母《カケマクモアヤニカシコシスメロキノカミノオホミヨニタチマモリトコヨニワタリヤホコモチマヰテコシトキシキノカクノコノミヲカシコクモノコシタマヘレクニモセニオヒタチサカヘハルサレハヒコエモイツヽホトトキスナクサツキニハハツハナヲエタニタヲリテヲトメラニツトニモヤリミシロタヘノソテニモコキレカクハシミオキテカラシミアユルミハタマニヌキツヽテニマキテミレトモアカスアキツケハシクレノアメフリアシヒキノヤマノコヌレハクレナヰニニホヒチレトモタチハナノナレルソノミハヒタテリニイヤミカホシクミユキフルフユニイタレハシモオケトモソノハモカレストキハナスイヤサカハエニシカレコソカミノミヨヨリヨロシナヘコノタチハナヲトキシクノカクノコノミトナツケヽラシモ》
 
於非多知、【官本、非或作v悲、】  波都婆奈乎、【幽齋本、婆作v波、】  多乎理?、【校本、或多作v手、】  冬爾伊多禮波、【幽齋本、波作v婆、】
 
可見能大御世とは神は垂仁天皇を指て申奉れり、田道間守は田道は氏、間守は名なり、垂仁紀云三年春三月、新羅|王子《コキシノコ》天(ノ)日|槍《ホコ》來歸《マウケリ》云々、自注云、故(レ)天(ノ)日槍、娶2但馬(ノ)出嶋《イツシマノ》人|太耳《フトミヽガ》女麻多烏(ヲ)1生2但馬|諸助《モロスケヲ》1也、諸助生2但馬|日楢杵《ヒナラキヲ》1、日|楢《ナラ》杵生2清彦(ヲ)1、清彦生2田道間守(ヲ)1之、古事記應神天皇段云、又昔有3新羅国主之子名謂2天之日矛1、是人参渡來也、所2以參渡來1者云々、於是天之日矛聞2其妻遁1乃追渡來、將v到2難波1之間、其渡之神塞以不入、故更還泊2多遲摩國1、即留2其國1而娶多遲摩之俣尾之女名前津見1、生2多遲摩母呂須玖1、此之子多遲(16)摩斐泥、此之子多遲摩比那良岐、此之子多遲麻毛理、次(ニ)多遲摩比多訶、次(ニ)清日子【三柱】云々、是に依れば田道間の三字は今の但馬なり、常世爾和多利以下は、垂仁紀云、九十年春二月庚子朔、天皇命2田道間守1遣2常世國1令v求2非時香菓《トキジクノカグノコノミヲ》1、今謂v橘(ト)是也、九十九年秋七月戊午朔、天皇|崩《カミアガリタマフ》2於纒向宮(ニ)1、時御年百四十歳、冬十二月癸卯朔壬子葬2於菅原伏見陵(ニ)1、明(クル)年春三月辛未朔壬午、田道間守至v自2常世國1則|賚物《モチマイデイタルモノ》也、非時香杲八竿八縵《トキジクノカグノミヤホコヤカケ》焉、田道間守於v是|泣《イサチテ》悲歎(テ)之曰、受《ウケタマヒテ》2命|天朝《ミカドニ》1、遠(クヨリ)往《マカル》2絶域《ハルカナルクニヽ》1、萬里《トホク》踏(テ)v波(ヲ)遙(ニ)度(ル)2弱水《ヨワノミヲ》1、是(ノ)常世(ノ)國(ハ)則|神仙秘區《ヒジリノカクレタルクニ》、俗《タヾヒトノ》非(ズ)v所(ニ)v臻(ラム)、是以(テ)往來《カヨフ》之間(ニ)、自(ニ)經《ナリヌ》2十年1、豈|期《オモヒキヤ》獨凌(テ)2峻瀾《タカキナミヲ》1更《マタ》向《マウデコムトイフコトヲ》2本土《モトノクニヽ》1乎、然|頼《ヨリテ》2聖帝之神靈《ヒジリミカドノフユニ》1僅(ニ)得(タリ)2還(リ)來《マウクルコトヲ》1、今天皇既(ニ)崩(テ)不v得2復命《カヘリコトマヲスコトヲ》1、臣雖v生之、亦何(ノ)益《シルシカアラム》矣、乃|向《マヰリテ》2天皇之陵(ニ)1、叫哭《オラヒナキテ》而|自《ミ》死《マカレリ》之、群臣聞(テ)皆|流《ナガシツ》v涙也、古事記中垂仁天皇段云、又天皇以2三宅連等之祖《ミヤケノムラジタチノオヤ》、名(ハ)多遲麻毛理(ヲ)1遣(ハシテ)2常世(ノ)國1、令v求2登岐士玖能迦玖能木實《トキシクノカグノコノミヲ》1、【自v登下八字以v音、】故多遲摩毛理逐(ニ)到2其(ノ)國(ニ)1採2其木(ノ)實1以2縵《カゲ》八矛(ヲ)1將來《モテクル》之間(ニ)天皇既(ニ)崩(マス)、爾多遲摩毛理分(テ)2縵四縵矛四竿(ヲ)1獻(テ)2于太后1以2縵《カケ》四縵矛四竿(ヲ)1獻2置天皇之御陵戸1而|※[敬/手]《サヽゲテ》2其|木《コノ》實(ヲ)1叫哭《オラヒナキテ》以白(サク)、常世《トコヨノ》國(ノ)之登岐士玖能迦玖能|木實《コノミ》持参《モテマヰテ》上|侍《ハベリ》、遂叫哭|死《ウセヌ》也、其登岐士玖能迦玖能木實|者《ハ》是(レ)今(ノ)橘(トイフ)者(ナリ)也、遍照發揮性靈集第四獻2柑子(ヲ)1表(ニ)云、又此菓(ハ)本出(タリ)2西域(ヨリ)1、同詩云、太奇珍妙(ナリ)、何(ヨリカ)將(テ)來(ル)、定(テ)是(レ)天上王母(ガ)里(ナラム)云々、西域記(ニ)云、石榴甘橘諸國皆樹(ウ)、ヤホコモチは紀の如し、又延喜(17)式内膳式云橘子|二十四蔭《ハタカヾアマリヨカケ》、梓《ホコ》橘子十枝云々、時支能は支の下に久の字を落せる歟、ノコシタマヘレ、古風にてはは〔右○〕の字なし、加へて意得べし、孫枝は枝よりさしたる枝は喩へば人の孫子の如し、木を斬て復生ずるを蘖《ヒコバエ》、【魚列反、比古波衣、】と云もひこ〔二字右○〕はまご〔二字右○〕なればまごばえの意なり、毛伊都追は伊と衣と同音なれば萠《モエ》つゝなり、ハツハナヲエダニタヲリテ、屈原九章橘(ノ)頌(ニ)云、緑葉素榮《・ミドリノハシロキハナ》(ノ)紛《・サカムニシテ》(ト)其(レ)可(シ)v喜《ヨミシツ》兮、梁簡文帝(ノ)詠(ズル)v橘(ヲ)詩(ニ)云、擧(テ)v枝(ヲ)折(ル)2縹幹1、ツトニモヤリミは、遣て見るなり、コイレも、カクハシミもオキテカラシミもアユルミも皆上に既に注せり、久禮奈爲爾は仙覺抄に或證本に禮奈爲の三字を落せる由あり、イヤサカハエニは、彌榮になり、應神紀に髪長媛を大鷦鷯に賜ふ時橘によそへてよませ給へる御歌の落句にも伊弉佐伽磨曳那《イササカバエナ》とよませ給へり、シカレコソは然ればこそなり、神の御代は又垂仁天皇を申奉れり、
 
初、田道間守常世にわたり 田道は氏、間守は名なり。垂仁紀云。三年春三月新羅|王子《コキシノコ》天(ノ)日|槍《ホコ》來歸《マウケリ》焉云々。自注云。故天(ノ)日槍娶2但馬(ノ)出嶋《イツシマノ》人|太耳《フトミヽカ》女麻多烏1生2但馬諸助1也。諸助生2但馬日|楢杵《ナラキ》1。々々々生2清彦1。々々生2田道間守1之。九十年春二月庚子朔。天皇命2田道間守1遣2常世園1、令v求2非時香菓《トキシクノカクノコノミヲ》1。今謂v橘是也。九十九年秋七月戊午朔、天皇崩2於纒向宮1。時御年百(アマリ)四十歳《ヨソチ》。冬十二月癸卯朔壬子、葬2於菅原伏見陵1。明(クル)年春三月辛未朔壬午、田道間守至(レリ)v自2常世國1。則|賚物《モチマイデイタルモノ》也、非時香菓八竿八縵《トキシクノカクミヤホコヤカケ》焉。田道間守於v是|泣《イサチテ》悲歎(テ)之曰。受《ウケタヒテ》2命《オホムコトヲ》天朝《ミカトニ》1遠(クヨリ)往《マカル》2絶域《ハルカナルクニヽ》1。萬里《トホク》踏(テ)v浪(ヲ)遙(ニ)度(ル)2弱水《ヨハノミヲ》1。是(ノ)常世(ノ)國(ハ)則|神仙秘區《ヒシリノカクレタルクニ》俗《タヽヒトノ》非v所v臻(ム)。是以(テ)往來《カヨフ》之間(ニ)自(ニ)經《ナヌ》2十年(ニ)1。豈|期《オモヒキヤ》獨凌(テ)2峻瀾《タカキナミヲ》1更《マタ》向《マウテコムトイフコトヲ》2本土《モトノクニヽ》1乎。然|頼2聖帝之神靈《ヒシリミカトノミタマノフユニヨリテ》1僅(ニ)得2還(リ)來《マウクルコトヲ》1。今天皇既崩(テ)不v得2復命《カヘリコト申コト》1。臣雖v生之亦何(ノ)益《シルシカアラム》矣。乃|向《マヰリテ》2天皇之陵1叫哭《オラヒナキテ》而|自《ミ》死《マカレリ》之。群臣聞(テ)皆|流涙《カナシフ》也。性靈集第四獻2柑子1表云。又此菓本出2西域1。同詩云。桃李雖v珍不v耐v寒。豈如2柑橘遇v霜美1、如v星如v玉黄金質、香味應堪實※[竹/甫/皿]※[竹/艮/皿]、太奇珍妙何將來。定是天上王母里、應v表2千年一聖會1、擧摘持獻2我天子1。西域記云。石榴甘橘諸國皆樹(フ)。やほこもちまゐてこし時。やほこは上に引る日本紀に見えたり。又延喜式内膳式云。橘子|二十四蔭《ハタチアマリヨカケ》。桙《ホコ》橋十枝。のこしたまへれ。のこしたまへれはなり。毛詩に貽(ス)2厥(ノ)孫謀(ヲ)1といふかことし。まごえもいつゝは。まこえたもえつゝなり。枝より出る小枝を孫枝といへり。文選※[禾+(尤/山)]叔夜琴賦云。乃|〓《キリテ》2孫枝(ヲ)1准2量所1v任(スル)。第五云。梧桐日本琴一面【對馬(ノ)結石山(ノ)孫枝。】袖にもこきれは、こきいれなり。おきてからしみ。手折たるをそのまゝ置て枯しめてみるなり。をしみてかるゝまて置心なり。應神天皇御哥にも。かくはし《・香妙》。花橘。しつえらは《・下枝等》。人みなとり《・皆把》。ほつえらは《・末枝等》。とりいからし《摘發語令乾》。みつくりのなかつえのふほこもり《三栗中枝含隱》なとよませたまへり。あゆる實はましはる實はなり。第八にも。もゝえさしおふる橘玉にぬく五月をちかみあえぬかに花咲にけりとよめり。第十にも
  秋つけはみ草の花のあえぬかにおもへとしらしたゝにあはされは
霜おけともその葉もかれすときはなすいやさかはえに。第六に葛城王等に氏を橘と給はる時の御哥
  橘は實さへ花さへその葉さへ枝に霜おけとましときはの木
いやさかはえにはいやさかえになり。さきの應神天皇御哥の末にも。みつくりのなかつえのあかれるをとめいささかはえなとよませ給へり。髪長姫を大鷦鷯皇子にたまはる時の御哥なり。しかれこそはしかあれはこそなり。神の御代よりは。垂仁天皇の御代をいふへし。又神代紀にも。橘の名はあれは。まことの神代とも心得へき歟。よろしなへは。よろしくなり。第一。第三。第六等にもよめり。ときしくのかくのこのみ。さきに引る垂仁紀に非時香菓とかけり。非時といふは常は春あるものゝ夏あることきをいふにあらす。いつといふ時をわかぬ心なり。かくはかくはしきなり
 
反歌一首
 
4112 橘波花爾毛實爾母美都禮騰母移夜時自久爾奈保之見我保之《タチハナハハナニモミニモミツレトモイヤトキシクニナホシミカホシ》
 
(18)落句の上の之は助語なり、
 
閏五月二十三日大伴宿禰家持作v之
 
庭中花作歌一首并短哥
 
目録には初に詠の字あり、今は落たる歟、詠にては下の作歌の二字あまりに重疊する歟、見の字などの落たるにや、
 
初、詠庭中花作歌 詠の字目録にあり。こゝにはおとせるなるへし
 
4113 於保伎見能等保能美可等々末支太末不官乃末爾末美由支布流古之爾久太利來安良多末能等之乃五年之吉多倍乃手枕末可受比毛等可須末呂宿乎須禮波移夫勢美等情奈具左爾奈泥之故乎屋戸爾末枳於保之夏能能佐由利比伎宇惠天開花乎移低見流其等爾那泥之古我曾乃波奈豆末爾左由理花由利母安波無等奈具佐無流許已呂之奈(19)久波安麻射可流比奈爾一日毛安流部久母安禮也《オホキミノトホノミカトヽマキタマフツカサノマニマミユキフルコシニクタリキアラタマノトシノイツトセシキタヘノタマクラマカスヒモトカスマロネヲスレハイフセミトコヽロナクサニナテシコヲヤトニマキオホシナツノノヽサユリヒキウヱテサクハナヲイテミルコトニナテシコカソノハナツマニサユリハナユリモアハムトナクサムルコヽロシナクハアマサカルヒナニヒトヒモアルヘクモアレヤ》
 
久太利來、【幽齋本、太作v多、】  安麻射可流、【幽齋本、麻作v末、】
 
マキタマフはまけのまに/\と有しまけ〔二字右○〕に同じ、拜の字任の字などをよめり、コヽロシナクハのし〔右○〕は助語なり、アルベクモアレヤはあるべくもあらむやにて落著はあるべくもあらずなり、
 
初、まきたまふはまけたまふなり。任するなり。まにまはまに/\なり。みゆきふるこしにくたりきは、第十二にも、みゆきふるこしの大山とつゝけたり。越路は雪深き國なれはなり
 
反歌二首
 
4114 奈泥之故我花見流其等爾乎登女良我惠末比能爾保比於母保由流可母《ナテシコカハナミルコトニヲトメラカヱマヒノニホヒオモホユルカモ》
 
4115 佐由利花由利母相等之多波布流許巳呂之奈久波今日母倍米夜母《サユリハナユリモアハムトシタハフルコヽロシナクハケフモヘメヤモ》
 
シタハフルは第九處女墓歌にもよめり、下心に思ひおくなり、心シナクハのし〔右○〕は助(20)語なり、今日モ經メヤモとは長歌の終の意なり、
 
初、さゆり花ゆりもあはむとゝは、此巻上にもかくよめり。したはふる。第九にもかくれぬの下はひおきてとよみ、第十四東哥にも、くもり夜のあかしたはへとよめり。下心にあらまし置心なり。第九に下延とかけり。草木の根の下に打はへてあるやうの心なり。けふもへめやもは、けふ一日も經むやとなり
 
同閏五月二十六日大伴宿禰家持作
 
國〓久米朝臣廣繩以2天平二十年1附2朝集使1入v京、其事畢而天平感寶元年閏五月二十七日還到2本任1、仍長官也舘設2詩酒宴1樂飲、於v時主人守大伴宿禰家持作歌一首并短歌、
 
4116 於保伎見能末支能末爾末爾等里毛知底都可布流久爾能年内能許登可多禰母知多末保許能美知爾伊天多知伊波禰布美也末古衣野由伎彌夜故敝爾末爲之和我世乎安良多末乃等之由吉我敞理月可佐禰美奴日佐未禰美故敷流(21)曾良夜須久之安良禰波保止止支須支奈久五月能安夜女具佐余母疑可豆良伎左加美都伎安蘇比奈具禮止射水河雪消溢而逝水能伊夜末思爾乃未多豆我奈久奈呉江能須氣能根毛己呂爾於母比牟須保禮奈介伎都都安我末川君我許登乎波里可敝利末可利天夏野能佐由里能波奈能花咲爾々布夫爾惠美天阿波之多流今日乎波自米?鏡奈須可久之都禰見牟於毛我波利世須《オホキミノマキノマニマニトリモチテツカフルクニノトシノウチノコトカタネモチタマホコノミチニイテタチイハネフミヤマコエノユキミヤコヘニマヰシワカセコアラタマノトシユキカヘリツキカサネミヌヒサマネミコフルソラヤスクシアラネハホトトキスキナクサツキノアヤメクサヨモキカツラキサカミツキアソヒナクレトイミツカハユキヽエミチテユクミツノイヤマシニノミタツカナクナコエノスケノネモコロニオモヒムスホレナケキツヽアカマツキミカコトヲハリカヘリマカリテナツノノヽサユリノハナノハナヱミニヽフヽニヱミテアハシタルケフヲハシメテカヽミナスカクシツネミムオモカハリセス》
 
コトカタネモチは事結《コトカタネ》持なり、第十の七夕歌に、我はかたすと云に注せしが如し、末爲之和我世とは參《マヰリ》し我背なり、ミヌ日サマネミは上に既に注せり、ヤスクシアラネバのし〔右○〕は助語なり、ユク水ノイヤマシニノミ、是よりネモコロニとつゞくを其間の二句はネモコロを云べき序なり、オモヒムスボレは今はむすぼゝれとのみ云を是(22)は古風なり、安我末川君我、此川〔右○〕の字をつ〔右○〕に用たること集中に唯此一字のみなり、常の以呂波のつ〔右○〕片假名のつ〔右○〕共に此川の字の草なり、爾布夫爾惠美天は第十六に既によめり、阿波之多流は逢たるなり、可久之の之は助語なり、
 
初、年の内のことかたねもち 結の字かたぬとよめり。結束の義にてつかねあつむる心なり。第十に
  しら玉のいほつゝとひを解も見す我はかゝたぬあはん日まつに
これも上のかもしはかよはき、かやすきなとのことくそへたる字にて此かたねもちといへるにおなし。江次第々一云。元日先召2外記1問2諸司具否1、次令d2外記進c外任奏u、付2頭蔵人1奏v之。此次令v申d諸司奏可v付2内侍所1之由u。【御暦、腹赤、氷樣等也。】但腹赤(ノ)奏遲參之時七日奏v之。若又當2卯日1有2卯杖奏1。返給之時、故攝政於2筥中1被《ラル》v結《カタネ》。故土御門右府稱2小野【宮歟】大臣例1不v被v結《カタネ》
みやこへにまゐしわかせを 都邊に參りしわかせをなり。みぬひさまねみは、さは助語にて、あひみぬ日まなくなり。第十七にも
  玉鉾の道に出たちわかれなはみぬ日さまねみこひしけむかも
まなくといふをまねくとよめる事、集中にあまた見えたり。さかみつきは上にも有。酒宴なり。いみつ川雪きえみちて行水の。上にも南風雪消ましていみつ川なかるみなわのとよめり。あかまつ君か。川の字をつとよめる事、此集中たゝ此一所のみなり。今以呂波の中のつもし此最略なり。かたかんなに用るも此畧なり。又此つもしもおなし。にふゝにゑみて。第十六にも、わかせこはにふゝにゑみてといへり。あはしたる、逢たるなり。けふをはしめて、第八にもけふをはしめてよろつよまてにとよめり
 
反歌二首
 
4117 許序能秋安比見之末末爾今日見波於毛夜目都良之美夜古可多比等《コソノアキアヒミシママニケフミレハオモヤメツラシミヤコカタヒト》
 
末末爾、【幽齋本、作2末爾末1、點云マニマ、】
 
下句は面彌《オモイヤ》めづらし都方人《ミヤコカタヒト》なり、
 
初、おもやめつらし 面彌めつらしなり。みやこかた人は都のかたの人なり
 
4118 可久之天母安比見流毛能乎須久奈久母年月經禮波古非之家禮夜母《カクシテモアヒミルモノヲスクナクモトシツキフレハコヒシケレヤモ》
 
落句はこひしくあれやもを久阿(ノ)反加なれば約めて戀しかれやもと云べきを加と家と初四相通して今の如くはよめり、年月經れば少なく戀しからむや多く戀しと(23)なり、
 
聞2霍公鳥喧1作歌一首
 
4119 伊爾之敝欲之怒比爾家禮婆保等登伎須奈久許惠伎吉?古非之吉物能乎《イニシヘヨシノヒニケレハホトヽキスナクコヱキヽテコヒシキモノヲ》
 
保等登伎須、【幽齋本、伎作v藝、】
 
下句は聞に付て彌あかず戀しき意なり、
 
爲d向v京之時、見2貴人1、及相2美人1飲宴之日述uv懷、儲作歌二首
 
4120 見麻久保里於毛比之奈倍爾加都良賀氣香具波之君乎安比見都流賀母《ミマクホリオモヒシナヘニカツラカケカクハシキミヲアヒミツルカモ》
 
三四の句は玉鬘を懸、第三の句は桂蔭なるべし、第十四にも夜麻可都良加氣《ヤマカツラカゲ》とよめり、桂は香はしき木なればカグハシ君ヲとつゞけたり、香細《カグハシ》はコの馨《カウバ》しきなり、是は貴人にまみゆる時のために讀おかるゝなれば我身其陰に依る心に桂蔭とはよそ(24)へらるゝなり、
 
初、かつらかけかくはし君を かつらをかけて衣裳にたきものしたる君なり。又かはそへたる詞にてくはし君歟。細妙等の字をくはしとよめり
 
4121 朝參乃伎美我須我多乎美受比左爾比奈爾之須米婆安禮故非爾家里《マヰイリノキミカスカタヲミスヒサニヒナニシスメハアレコヒニケリ》
 
是は美人に相時のためなり、仍て假粧などよくして宮に參る君がすがたを久しく見ずしてとは云へり、第四句の之は助語なり、美人の中に貴女に相時のためなれば君と云へり、
 
一頭云波之吉與思伊毛我須我多乎
 
此は同輩の美人に相時のために妹と云へり、
 
同閏五月二十八日大伴宿禰家持作v之
 
天平感寶元年閏五月六日以來起2少旱1、百姓田畝稍有2凋色1也、至2于六月朔日1忽見2雨雲之氣1、仍作雲歌一首短歌一絶
 
4122 須賣呂伎能之伎麻須久爾能安米能之多四方能美知爾波(25)宇麻乃都米伊都久須伎波美布奈乃倍能伊波都流麻泥爾伊爾之敝欲伊麻乃乎都頭爾萬調麻都流都可佐等都久里多流曾能奈里波比乎安米布良受日能可左奈禮波宇惠之田毛麻吉之波多氣毛安佐其登爾之保美可禮由苦曾乎見禮婆許巳呂乎伊多美彌騰里兒能知許布我其登久安麻都美豆安布藝弖曾麻都安之比奇能夜麻能多乎理爾許能見油流安麻能之良久母和多都美能於枳都美夜敝爾多知和多里等能具毛利安比弖安米母多麻波禰《スメロキノシキマスクニノアメノシタヨモノミチニハウマノツメイツクスキハミフナノヘノイハツルマテニイニシヘヨイマノヲツヽニヨロツヽキマツルツカサトツクリタルソノナリハヒヲアメフラスヒノカサナレハウヱシタモマキシハタケモアサコトニシホミカレユクソヲミレハコヽロヲイタミミトリコノチコフカコトクアマツミツアフキテソマツアシヒキノヤマノタヲリニコノミユルアマノシラクモワタツミノオキツミヤヘニタチワタリトノクモリアヒテアメモタマハネ》
 
日能可左奈禮波、【幽齋本、波作v婆、】
 
四方ノ道は七道なり、ウマノツメより下の四句二つの伊は發語の詞、初の二句は陸路《クガヂ》のはて次の二句は海路《ウミツヂ》のはてまでなり、延喜式|祈年《トシコヒノ》祭(ノ)祝詞(ニ)云、青海原者棹柁不v干(26)舟舳《アヲウナハラハサヲカヂホサズフナノヘノ》至(リ)留(ラム)極《キハミ》大海|舟滿都都氣?《ニフネミチツヅケテ》自v陸《クガ》徃道者荷緒縛堅?磐根木根履佐久彌?馬瓜《ユクミチハニノヲユヒカタメテイハネコノネフミサクミテウマノツメ》至(リ)留(マル)限(リ)長(キ)道|無v間立都都氣?《マナクタテツツケテ》云々、ソノナリハヒヲは日本紀私記云、農|奈利波比《ナリハヒ》、マキシハタケモは和名集云、續捜神記云、江南(ノ)畠(ニ)種v豆(ヲ)、畠一(ニハ)云2陸田1、【和名八太介、】アサゴトニは日毎になり、シホミカレユクは文選應休※[王+連](ガ)與(フル)2廣川(ノ)長岑文瑜1書云、頃者炎旱|日《ヒヾニ》更(ニ)増々甚(シウシテ)沙礫銷※[金+樂](シ)草木焦卷(ス)、元正紀養老六年秋七月丙子詔(ニ)曰、奉2幣(ヲ)名山(ニ)1奠2祭(スレトモ)神祇(ヲ)1甘雨未(タ)v降(ラ)、黎元失v業、朕(カ)之薄コ致(ス)2于此(ヲ)1歟、百姓何(ノ)罪(アテカ)※[火+焦]萎(スルコト)甚(シキ)矣、ソヲミレバは其を見ればなり、アマツ水アフギテゾ待は第二に日並皇子の薨じ給へる時人麿のよまれたる歌にありき、アシビキノより下四句は廬山記云、天將(ル)v雨(フラン)、則有(テ)2白雲1或冠(フラシ)2峰巖(ニ)1或(ハ)亘2中嶺(ニ)1、謂2之(ヲ)山帶(ト)1不v出2三日(ヲ)1必(ナラズ)雨(フル)、ワタツミノオキツミヤベは神代紀上云、已而天照大神則以2八坂|瓊《ニノ》曲玉1、浮(ケ)2寄(セテ)於天眞名井(ニ)1噛2斷(テ)瓊(ノ)端(ヲ)1而吹出(ル)氣噴《イフキ》之中(ニ)化生《ナル》神(ヲ)号2市杵《イチキ》島姫(ノ)命(ト)1是(ハ)居(マス)2于|遠瀛《トホツミヤニ》1者|也《ナリ》、
 
初、うまのつめいつくすきはみふなのへのいはつるまてに ふたつのいもしは助語なり。延喜式祈年祭祝詞云。青海原者棹|枚《カチ》不v干《ホサス》、舟舳《フナノヘ》能至(リ)留(ラン)極《キハミ》、大海爾舟滿都々氣※[氏/一]、自v陸往道者、荷緒縛堅《ニノヲユヒカタメ》※[氏/一]磐根木(ノ)根|履《フミ》佐久彌※[氏/一]、馬(ノ)瓜(ノ)至(リ)留(ラン)限、長(キ)道無v間久立都々氣※[氏/一]云々。いまのをつゝは、今のうつゝなり。上にいふかことし。よろつつきまつるつかさと、よろつのみつき物奉る官。そのなりはひ。農業なり。はたけ、和名集云。續捜神記云。江南畠種v豆。畠一云陸田【和名八太介。】朝ことにしほみかれゆく。孟子曰。七八月之間旱則苗槁矣。天油然(トシテ)作《オコシ》v雲、沛然(トシテ)下v雨、則苗※[さんずい+悖の旁]然(トシテ)興之矣。文選應休※[王+連]與2廣川長岑文瑜1書曰。頃者炎旱|日《/\ニ》更増甚(シ)。沙礫銷※[金+樂](シ)草木焦卷(ス)。文武紀云。慶雲二年六月丙子太政官奏。比日亢旱田園※[火+焦]卷。元正紀云。養老六年秋七月丙子詔曰。奉2幣名山1奠2祭神祇1、甘雨未v降黎元失v業。朕之薄徳致2于此1歟。百姓何罪※[火+焦]萎甚矣。そをみれははそれをみれはなり。みとりこのちこふかことく。乳をほしかりて乞ふかことくなり。あまつ水あふきてそまつ。天つ水は雨なり。景行紀云。山神之興(シ)v雲(ヲ)零《フラシム》v水《アメヲ》。第二人麻呂長歌に、おほふねのおもひたのみてあまつ水あふきて待にとよめり。第十四に
  かなとでを、あらかきまゆみ、ひが|と《テ》れは、あめをま|との《ツナ》す《・金戸出荒垣間從見日之照者雨待成》、君をと|ま《・待》と《ツ》も
史記晋世家云。繆公曰。知3子欲2急反1v國矣。趙衰與2重耳1下再拜曰。孤臣之仰v君如3百穀之望2時雨1。文選司馬長卿難2蜀父老1檄云。擧v踵思慕若2枯旱之望1v雨。あしひきの山のたをりに。第十三にも、高山のみねのたをりにいめたてゝしゝまつかことゝよめり。文選班彪北征賦云。渉2長路之緜々1兮、遠|紆廻《・メクリテ》(ト)以|樛流《・モトレリ・タヲル》(ト)。宋玉高唐賦云。道|互折《・ツヽラヲリニシテ》(ト)曾累《・カサナレリ》(ト)。わたつみのおきつみやへにたちわたり。神代紀上云。已而天照大神則以2八坂|瓊《ニノ》之曲玉(ヲ)1浮(ケ)2寄(テ)於天(ノ)眞名井(ニ)1、囓2斷(テ)瓊(ノ)端(ヲ)1而吹|出《イツル》)氣噴《イフキ》之中(ニ)化生《ナル》神(ヲ)號(ク)2市杵《イチキ》嶋姫(ノ)命(ト)1。是(ハ)居(マス)2于|遠瀛《オキツミヤニ》1者《カミナリ》也。盧山記云。天將v雨則有2白雲1、或冠2峰巖1或亘2中嶺1。謂2之(ヲ)山帶(ト)1。不v出2三日1必雨
 
反歌一首
 
4123 許能美由流久毛保妣許里弖等能具毛理安米毛布良奴可(27)許己呂太良比爾《コノミユルクモホヒコリテトノクモリアメモフラヌカココロタラヒニ》
 
ホビコリテははびこりてなり、公羊傳云、雲觸(テ)v石(ニ)而生(ス)、膚寸(ニシテ)而合(テ)不(シテ)v崇《ヲヘ》v朝(ヲ)而※[行人偏+扁]2天下(ニ)1者太山之雲(ナリ)也、雨モフラヌカはふれかしなり、
 
初、このみゆる雲ほひこりて 雲はひこりてなり。公羊傳云。雲觸v石而生、膚寸而合(テ)不(シテ)v崇《ヲヘ》v朝(ヲ)而※[行人偏+扁]2天下1者太山之雲也。あめもふらぬかはふれかしなり。心たらひには、上にも、老人もめぬわらはこもしがねかひ心たらひになてたまひをさめたまへはとあり。心にたるほとにふれなり
 
右二首六月一日晩頭守大伴宿禰家持作v之
 
賀2雨落1歌一首
 
4124 和我保里之安米波布里伎奴可久之安良波許登安氣世受杼母登思波佐可延牟《ワカホリシアメハフリキヌカクシアラハコトアケセストモトシハサカエム》
 
腰句の之は助語なり、
 
右一首同月四日大伴宿禰家持作v之
 
七夕歌一首并短哥
 
4125 安麻泥良須可未能御代欲里夜洲能河波奈加爾敝太弖々(28)牟可比太知蘇泥布利可波之伊吉能乎爾奈氣加須古良和多里母理布禰毛麻宇氣受波之太爾母和多之?安良波曾乃倍由母伊由伎和多良之多豆佐波利宇奈我既里爲?於毛保之吉許登母加多良比奈具左牟流許己呂波安良牟乎奈爾之可母安吉爾之安良禰波許等騰比能等毛之伎古良宇都世美能代人和禮毛許己宇之母安夜爾久須之彌徃更年乃波其登爾安麻乃波良布里左氣見都追伊比都藝爾須禮《アマテラスカミノミヨヽリヤスノカハナカニヘタテヽムカヒタチソテフリカハシイキノヲニナケカスコラワタリモリフネモマウケスハシタニモワタシテアラハソノヘユモイユキワタラシタツサハリウナカケリヰテオモホシキコトモカタラヒナクサムルコヽロハアラムヲナニシカモアキニシアラネハコトヽヒノトモシキコラウツセミノヨノヒトワレモコヽウシモアヤニクスシミユキカヘルトシノハコトニアマノハラフリサケミツヽイヒツキニスレ》
 
ワタリモリ舟モマウケズ、此處句絶なり、ソノヘユモは其上よりもなり、伊ユキワタラシ、伊は發語詞、行渡るなり、ウナカケリヰテは舊事紀第四云、大己貴(ノ)命將v婚《ミアハムト》2高志《コシノ》國之沼河姫(ニ)1、行幸《イデマス》之時到(テ)2其沼河姫(ノ)家(ニ)1歌曰云々、如v此歌即爲2宇岐由比1、而宇那賀氣理?(29)至(マデ)v今(ニ)鎭(マリ)坐(ス)也、此(ヲ)謂2神語《カムゴトト》1矣、古事記上、須勢理※[田+比]賣歌云云々、如v此歌即爲2宇岐由比1、【四字以音、】而宇那賀氣理?【六字以音、】至(マデ)v今鎭(マリ)坐(ス)也、此(レ)謂(フ)2之(ヲ)神語《カンゴト》1也、此兩文に依て案ずるに所嬰を神代紀にウナケルと讀たればうなげる玉の如く纏はり居る意なるべし、所嬰は第十三に我うなげる玉のなゝつをとよめる所に注せしが如し、何シカモ秋ニシアラネバ、二つのし〔右○〕は助語なり、コヽウシモは、う〔右○〕とを〔右○〕と同音なればこゝをしもなり、或は宇は乎を誤まれる歟、アヤニクスシミは奇の字をよめり、あやしひと云に同じ意なり、稱徳紀云、天平神護二年十月壬寅、奉v請2脇寺(ノ)※[田+比]沙門像(ヨリ)所v現舍利於法華寺1詔曰、然今示現賜【弊流】如來大御舍利常奉見【余利波】大御色光照?甚美大御形圓滿別好大【末之末世利】特久須之奇事思議【許止】極難、此中に須之久とあるに同じ、延喜式山口祭祝詞云、汝屋船命 爾 天津|奇護言《クスシイハヒコト》 乎【古語云、久須志伊波比許止、】以 ? 言壽鎭白 久 云々、源氏物語帚木に吉祥天女を思ひ挂むとすればほうげづきくすしからむこそ又侘しかるべけれなど見えぬ、此くすしからむは今の意にはあらずと見えたり、又神武紀に※[立心偏+復の旁]※[獣偏+艮]をクスカシマニモトリテとよめるも今の義にあらず、年ノハゴトニは毎年謂(フ)2之|等之乃波《トシノハト》1と第十九に注あれば、年ノハと云上にコトニと云は重言なれど優曇華《うどむげ》の花(30)と源氏の歌にもよめる如く、かゝる例歩き事なり、終の句の須禮は今ならば須留と讀べき所なり、禮と留と通ずればかくよめる歟、上にも此禮の字ありき、
 
初、あまてらす神のみよゝりやすの川中にへたてゝ 日本紀第一云。乃入(テ)2于天(ノ)石窟《イハヤニ》1閉《サシテ》2磐戸1而|幽居《カクレマス》焉。六合《クニ》之内|常闇《トコヤミニシテ》而不vレ知2晝夜《ヒルヨル》之相|代《カハルワキモ》1。于v時八十万(ノ)神《カムタチ》會2合《カムツトヒテ》於天(ノ)安河邊《ヤスノカハラニ》1、計《ハカル》2其可v祷《イノル》之|方《サマヲ》1云々。第十の七夕の哥あまたある中にも、天川やすのわたりとも、天川やすのかはらの有かよひなともよめり。ふねもまうけす。此所句なり。そのへゆもは、その上よりもなり。いゆきわたらし。いは發語の詞、ゆきわたりなり。うなかけりゐて。うなは海なり。天の海に月の舟うけなと第七にもあれは、うなかけりゐては、あまかけりゐてなり。第八の七夕の哥に天川とはよみなから、朝なきにいかきわたり夕塩にいこきわたりともよめれは、なつむへからす。こゝうしもあやにくすしみ。宇と乎と五音相通なれは、こゝをしもなり。くすしみはくるしみなり。すとると同韻にて通せり。上にもあまた有し詞なり。としのはことに。十九に毎年謂2之等之乃波1とあれは、ことにといふは、あまれるやうなれと、うとんけの花ともよめるかことき例なり。いひつきにすれ。此れもし此まゝにては今のてにをはにかなはす。昔はかくも讀ける歟。第七に第十一にも
  みわたせはちかき里わをたもとほり今そわかくれひれふりし野に
  まれにみん君をみんとそひたり手のゆみとるかたのまゆねかきつれ
 
反歌二首
 
4126 安麻能我波々志和多世良波曾能倍由母伊和多良佐牟乎安吉爾安良受得物《アマノカハヽシワタセラハソノヘユモイワタラサムヲアキニアラストモ》
 
伊は發語詞なり、
 
4127 夜須能河波許牟可比太知弖等之乃古非氣奈我伎古良河都麻度比能欲曾《ヤスノカハコムカヒタチテトシノコヒケナカキコラカツマトヒノヨソ》
 
初、やすのかはこむかひたちて 第八にあまの川相向立而、これをこむかひたちてとよみたれは、あひむかひたつといふ詞なり。第十にも、あまの川こむかひたちてこふらくにとよめり。年の立は年に有て唯ひと夜あへはなり。第十にも年のこひこよひつくしてと七夕の哥によめり
 
右七月七日仰2見天漢1大伴宿禰家持作v之
 
越前國〓大伴宿禰池主來贈戯歌四首
 
忽辱2恩賜1、驚欣巳深、心中含v咲、獨座稍開、表裏不v同相違何(31)異、推2量所由1、率爾作策歟、明知加v言豈有2他意1乎、凡貿2易本物1、其罪不v輕、正贓倍贓宜2急并滿1、今勒2風雲1、發2追徴使1、早速返報不v須2延廻1、
 
勝寶元年十一月十二日物所貿易下吏
 
恩賜は下の歌に依るに針袋なり、表裏不v同相違何異、又云、凡(ソ)2易本物(ヲ)1罪不2輕とは下の書云、僕作v囑(ヲ)羅且悩2使君(ヲ)1、夫乞(テ)v水(ヲ)得v酒、從來能口、此等の文に今の第二の歌を合せて按ずるに池主より家持の許へ此を針袋にぬはせて給べとて羅を遣されたるを家持の許によき絹の有けるを表とし池主より遣はされたる羅を裏として面白き袋を縫て贈られたるをかうは戯ふれて書にもかき歌にもよまれたる歟、貿(ハ)爾雅云、貿(ハ)賈市也、註詩曰、抱(テ)v布貿(フ)v絲(ヲ)、贓、玉篇云、作郎切、蔵也、
 
初、貿易【上亡候反。市賣也】
 
謹訴2 貿易人斷官司  廳下1
 
廳下、廳は日本紀にはマツリコトヤとよめり、和名集(ニ)云、四聲字苑云.廳 【汀反、萬豆利古止止乃、】延v賓屋(ナリ)也人衙(ナリ)也、
 
初、廳下 和名集云。四聲字苑云。廳(ハ)打反【万豆利古止止乃】延《ヒク》賓屋也。人衙也
 
(32)別日可v怜之意、不v能2黙止1、聊述2四詠1、准2擬睡覺1、
 
今按別日は別曰にて別紙曰の意なるべし、其故は池主遷任して越前掾と成ことは去年の事なるに今に至て別日と云べからず、又四首の歌の中に別日と云に叶へるもなし、次の書の後云別奉云々歌二頸、此も亦證とすべし、書は彼針袋のために遣はせる羅を除《オキ》てよき絹にて縫て遣はされたるを貿2易本物(ヲ)1など引替て戯たる故に此歌は戯ながらなほく謝するなり、
 
4128 久佐麻久良多比乃於伎奈等於母保之天波里曾多麻敞流奴波牟物能毛負《クサマクラタヒノオキナトオモホシテハリソタマヘルヌハムモノモカ》
 
物能毛負、【幽齋本、負作v賀、】
 
負は賀の誤なり、針は旅にて衣の綻《ホコロビ》たるを縫などして殊に用ある物なれば第二十に防人が妻の歌にも草枕旅のまるねの紐絶ば我手と著《ツケ》ろこれのはるもし、此落句は此針を以てと云へるなり、引合せて見るべし、ヌハム物モガとは、針はあれど衣のなければ衣もがなと云なり、
 
初、草まくらたひのおきなと 第二十に、武藏國防人か妻の哥に
  草枕旅のま|る《ロ》ねの紐たえはあが手とつけ|ろ《東助語》これのはるもし《・吾著此針持》
負は賀の字を誤れり
 
(33)4129 芳理夫久路等利安宜麻敝爾於吉可邊佐倍波於能等母於能夜宇良毛都藝多利《ハリフクロトリアケマヘニオキカヘサヘハオノトモオノヤウラモツキタリ》
 
カヘサヘバは飜せばなり、源氏物語|賢木《サカキ》云、致仕《チシ》の表奉り給ふを云々、せめてかへさひ申たまひてこもり居給ひぬ、床夏云、おとゞもねむころに口《クチ》入れかへさひたまはむはこそはまけざまにてもなびかめとおぼす、下句は己が針袋とも己が針袋や裏も表の如く樣々に續集めたりと云へる歟、若此針袋は人たがへにもやと思ひて引かへして裏を見れば囑《アツラヘ》をなしつる羅を續たるにて己がための袋と慥に知る意にや、
 
初、はりふくろ 針袋なり。旅行人に送るものなり。それをとりあけてまへにおきて、うらをかへしてみれはなり。おのともおのやはおのれか袋ともおのれか袋ともやとなり。うらもつぎたりは裏も續てありなり。前後の心を引合て案するに、家持のかたへ針袋をぬはせて給はれとて、池主のかたよりきぬのはしなとつかはしけむを、それよりまされるおもてに取かへて、うらは池主よりのを續てつかはすゆへに、もしこれはわがにはあらぬにやとかへして裏をみれは、おのかともいかにもおのかなりと決するなり。源氏物語常夏に、おとゝもねんころにくちいれかへさひたまはむにこそはまけさまにてもなひかめとおほす
 
4130 波利夫久路應婢都都氣奈我良佐刀其等邇天良佐比安流氣騰比等毛登賀米授《ハリフクロオヒツヽケナカラサトコトニテラサヒアルケトヒトモトカメス》
 
第二句に二つの意あるべし、一つには常に帶つゞけて放たぬをも云べし、二つには和名云、唐韻(ニ)云〓【音騰、和名於比不久呂、】嚢(ノ)之可(ナリ)v帶也、催馬楽云、庭に生るから薺《ナヅナ》はよきになり、宮人のさぐる袋を己さげたり.此は薺《ナヅナ》の實《ミ》の成たるが袋のやうに見ゆるを云にや、帶(34)袋《オビフクロ》の上に更に針袋を帶るをおびつゞくと云へる歟、テラサヒアルケドは光彩ある絹の針袋を帶てあたりを照して行《アリ》けどもなり、又は衒《テラ》ひてありくと云歟、此を見よかしの意なるを衒ふとは云べし、落句は人も目にたてゝ見とがめぬなり、田舍なる故に好絹をも知らぬなり、
 
初、はりふくろおひつゝけなから 帶續なからなり。てらさひあるけと人もとかめすとは、てらさひは照しなり。錦やうの物を表とせられけれは、光彩あるゆへに、てらさひあるくとはいへるか。又衒の字にて、てらひあるくといふ心歟。これをみよかしといはぬはかりにするを、てらひあるくといふへし。人もとかめすは、過分の針袋なれと、越中守殿より給はりたりと聞て、人もとかめぬなり。又みつから旅の翁とよみたれは、ゆきひらのおきなさひ人なとかめそとよめるやうに、分に應せねと、翁さひすと見て、人もとかめすといへる歟。催馬樂に、庭におふるからなつなはよきなゝり。はれ《拍子詞》、宮人のさぐるふくろをおのれかけたり。雄略紀、狹々城山君韓※[代/巾]といふもの有り。下に※[代/巾]といふ韓袋の心によき名とはいへる歟。※[草がんむり/亭]※[草がんむり/歴]子ヲ袋ニ喩タル歟
 
4131 等里我奈久安豆麻乎佐之天布佐倍之爾由可牟等於毛倍騰與之母佐禰奈之《トリカナクアツマヲサシテフサヘシニユカムトオモヘトヨシモサネナシ》
 
フサヘシニはふさはしになり、ふさふとは相應するを云へばかゝるめでたき針袋を帶ては吾妻などに行てこそふさふべければ此袋をふさはしに吾妻の方へゆかばやと思へど行べき由のなきとなり、離騷云、高(シテ)2余(ガ)冠(ノ)之岌々(タルヲ)1兮、長(ス)2余(ガ)佩《オムモノヽ》之陸離(タルヲ)1、芳(コト)與v澤(ヒ)雜(ハリ)糅(ハレリ)兮、唯(リ)昭(ラカニ)質(シウシテ)其猶未v虧《・ツキ》(ステ)、忽(トシテ)反(リ)顧(テ)以遊(ハシム)v目(ヲ)兮、將(ニ)2往觀(ムト)2乎四荒(ヲ)1佩繽紛(トシテ)其繁飾(セリ)兮、芳(コト)菲々(トシテ)其(レ)彌章(ラカナリ)。又云、及(テ)2余(ガ)飾(ヲ)之方(ニ)壯(ナルニ)兮、周流(シテ)觀(ム)2乎上下(ヲ)1、 
 
初、とりかなくあつまをさして ふさへしにはおさへしにといふ心なり。國のおさへとなる心なり。此針袋をさけては、いかなる鎭守府將軍なとにてゆくとも、はつかしかるまし。あはれさる事にゆかはやとおもへと、ゆくへきよしのまことになしとなり。みなたはふれの詞なり
 
右歌之返報歌者脱漏不v得2探求1也
 
返報の草藁を失なはれたる由の自注なり、
 
初、右歌之返 返哥の草藁をうしなはれたるよしの自注なり
 
(35)更來贈歌二首
 
依d迎2驛使1事u、今月十五日到2來部下加賀郡境1、面蔭見2射水之郷1戀緒結2深海之村1、身異2胡馬1心悲2北風1、乘v月徘徊、曾無v所v爲、梢開2來封1、其辭云、著者、先所v奉書返畏度v疑歟、僕作2嘱羅1且悩2使君1、夫乞v水得v酒、從來能口、論v時合v理何題強v吏乎、尋誦2針袋詠1、詞泉酌不v渇抱v膝獨咲、能※[益+蜀]2旅愁1、陶然遣v日、何慮何思、短筆不宣、
 
部下加賀郡〔五字右○〕、和名集云、加賀國弘仁十四年割(テ)2越前(ノ)國加賀江沼(ノ)二郡(ヲ)1置2此國(ヲ)1、今按|江沼《エヌマ》能美《ノミ》加賀《カヾ》石川《イシカハ》の四郡あれば江沼郡より能美を割、加賀郡より石川を割ける歟、然れば此に加賀郡と云は加賀石川兩郡の内何れと知べからず、面蔭〔二字右○〕は和語なり、影は水に浮て見ゆれば見2射水之郷1と云、是は家持の舘のある方なり、戀緒〔二字右○〕も和語歟、(36)結2深海之村1〔五字右○〕、深海は今池主が到加賀郡の村の名なり、此は深と云詞の戀緒に便よきなり、結は緒の字の縁なり、身異2胡馬1心悲2北風1〔七字右○〕、古詩云、胡馬依2北風1、越中は北に當る故にかくは云へり、其辭云著者〔五字右○〕、此詞いまだ其意を得ず、嘱〔右○〕玉篇云、止屠切符也、夫乞v水得v、從來能口〔九字右○〕は遊仙窟云、乞(テ)v奨(ヲ)得(ルハ)v酒(ヲ)舊來(ノ)神口、打(テ)v兎得v〓(ヲ)、非2意(ノ)所(ニ)1v望、今の意は少の羅を遣はして好き針袋を得たるを喩ふる意なり、不渇〔二字右○〕は官本に渇を竭に改たるに依べし、抱膝〔二字右○〕は劉越石(ガ)扶風(ノ)歌(ニ)云、抱(テ)v膝(ヲ)獨(リ)推藏(ス)陶然〔二字右○〕(ハ)崔曙九日(ニ)登2仙臺1呈2劉明1詩(ノ)落句(ニ)云、陶然(トシテ)一(タヒ)醉(ヒ)酔2菊華(ノ)盃1、
 
初、依迎驛使事 池主初は越中椽にて家持に屬せられけるが、後には越前判官にうつりて、加賀郡より更に此書を家持へ贈なり。加賀は弘仁十四年に越前國より割て置れたりといへは、勝寶元年に部下といへる勿論なり。加賀郡は今の加賀國四郡のうちに有。加賀を一説に天平廿年に置るといへるは誤なるへし。其ころあるひは割あるひは越前に并せなとせは、續日本紀にも見ゆへきを、しからぬうへに、今部下といへるは慥なる證なり。面蔭は和語をもて對句を作られけれは、文字にかゝはるへからす。文選顔延年秋胡詩云。日|落《クレテ》游子|顔《オモカケアリ》。深海之村、加賀郡にある村の名なるへし。おもかけの水にうつりて見え、戀の心のふかき海に結ふといふ、皆所の名にその寄せ有。身異2胡馬1心悲2北風1。古詩云。胡馬依2北風1、越鳥巣2南枝1。越中は越前よりは猶北なるゆへに、かくはいへり。夫乞水得酒從來能口。遊仙窟云。乞v漿得v酒舊來神口。打v兎得v※[鹿/章]非2意(ノ)所(ニ)1v望。よきおもてをつけらるゝ故にかうはいへり。其辭云著者先問奉書返(テ)畏(ル)度(ル)疑(ニ)歟。此心を得す。論時合理何題強吏乎。上におなし。不渇、竭歟。抱膝獨咲。文選劉越石扶風歌、梗概窮林中、抱v膝獨摧藏
 
勝寶元年十二月十五日徴物下司
 
謹上 不伏使君 紀室
 
初、記室 記誤作紀
 
別奉云云歌二首
 
4132 多多佐爾毛可爾母與己佐母夜都故等曾安禮波安利家流奴之能等能度爾《タヽサニモカニモヨコサモヨツコトソアレハアリケルヌシノトノトニ》
 
(37)夜都故等曾、【校本云、ヤツコトソ、】
 
成務紀に阡陌をタヽサノミチ、ヨコサノミチとよみ、縱横をタヽシ、ヨコシとよめり、然れば縱にも横にも左《ト》にも右《カク》にもなり、腰句今の點誤れり校本に依て讀べし、安禮は我なり、落句は主の殿外になり、日本紀に大人をも君をも卿の字をもウシとよめるは宇と奴と同韻にて通ずれば皆ぬしなり、奴の進退主人の命のまゝなる如く我も殿外に在て縱横左右唯君が奴に等しとよめり、崇神紀の歌に瀰和能等能渡《ミワノトノト》とよめるは三輪殿戸《ミワノトノト》なれど今は殿外なるべし、
 
初、たゝさにもかにもよこさも たゝさにもは、たてさにもなり。よこさもは、よこさまにもなり。かにもは、此集にとにもかくにもといふを、かにもかくにもとよめる、そのかにもなり。たてさまにもよこさまにも、とにもかくにも、君かために我はやつこにてそありけるなり。ぬしのとのとには、日本紀に、大人とも君とも卿ともかきて、うしとよめるは、ぬしなり。うとぬと同韻にて通せり。第五に、憶良の帥大伴卿をさして、あがのしのとよまれたるもわかぬしといふことにて、主人とあかめていへるなり。とのとには殿外なり。日本紀に、崇神天皇の御哥に、みわのとのと《・三輪殿戸》とよませたまへるにはかはるへし。それはおしひらかねとあれは、殿戸なり。家持は大伴氏の棟梁と見えたれは、其殿外にありて、やつこの禮をとるといふなり。たゝさよこさは、成務紀云。則|隔《サカヒテ》2山河(ヲ)1而分2國縣(ヲ)1、隨2阡陌《タヽサノミチヨコサノミチニ》1以定(ム)2邑里《ムラヲ》1。因(テ)以2東西(ヲ)1爲2日縱《ヒヽタシ》1南北爲2日横《ヒヨコシト》1
 
4133 波里夫久路巳禮波多婆利奴須理夫久路伊麻婆衣天之可於吉奈佐騰勢牟《ハリフクロコレハタハリヌスリフクロイマハエテシカオキナサヒセム》
 
伊麻婆、【別校本、婆作v波、】
 
スリフクロは火燧を入るゝ袋なり、敦忠家集云、親盛からものゝ使にていくにかねの火うちほくそに沈〔左○〕をしてをゝすりたる袋に 〔左○〕打つけに思ひ出やと故郷の忍ぶ草にてすれるなりけり、後撰集を初て旅に行人に火打つかはせる歌ども見えたり、(38)エテシカは得てしかななり、オキナサビセムは第五にをとめさびをとこさびとよめるを注せしに准らへて知べし、おきなだてと云はむが如し、
 
初、すりふくろ今はえてしか すりふくろは火燧《ヒウチ》を入るゝ袋なり。敦忠家集にいはく。親盛からものゝ使にていくに、かねの火うち、ほくそにちんをして、をゝすりたる袋に
  打つけに思ひ出やとふるさとのしのふ草にてすれるなりけり
翁さひせんは翁めかむなり。第五に、をとめさひとも、をとこさひともよめるかことし
 
宴席詠2雪月梅花1哥一首
 
4134 由吉乃宇倍爾天禮流都久欲爾烏梅能播奈乎理天於久良牟波之伎故毛我母《ユキノウヘニテレルツクヨニウメノハナヲリテオクラムハシキコモカモ》
 
右一首十二月大伴宿禰家持
 
家持、【官本家持下加2作字1、】
 
4135 和我勢故我許登等流奈倍爾都禰比登乃伊布奈宜吉思毛伊夜之伎麻須毛《ワカセコカコトヽルナヘニツネヒトノイフナケキシモイヤシキマスモ》
 
第四句の思毛は助語なり、落句は彌頻益《イヤシキマス》なり、第七詠和琴歌あり引合せて見るべし、
 
初、わかせこかことゝるなへに 第七詠2和琴1歌云
  琴とれは嘆さきたつけたしくも琴の下樋につまやこもれる
古今集に、ならへまかりける時にあれたる家に女のことひきけるをきゝてよみていれたりける、よしみねのむねさた
  佗人の住へきやとゝみるなへになけきくはゝることのねそする
史記樂書云。絲聲哀。※[禾+(尤/山)]叔夜琴賦云。懷(ル)v戚《ウレヘヲ》者聞v之莫v不2※[立心偏+僭の旁]※[立心偏+禀]惨悽※[立心偏+秋]愴(セ)1。傷(シメ)v心(ヲ)含v哀|懊《イク》※[口+伊](ト)《・コヽロカシナヒテ》(「コヽロカナシヒテ」カ)不v能2自《ミ》禁(スルコト・タフルコト)1。いやしきますもは、いやかさなりますなり。つね人は上にもよめり。よのつねの人なり
 
右一首少目秦伊美吉石竹舘宴守大伴宿禰家持作
 
(39)天平勝寶二年正月二日於2國廳1給2饗諸郡司等1宴歌一首
 
定家卿云、第十八自2天平廿年三月廿三日1至(シト)2于同勝寶二年正月二日(ニ)1然れば彼卿の本には此より後の二首落たりけるにやおぼつかなし、
 
4136 安之比奇能夜麻能許奴禮能保與等理天可射之都良久波知等世保久等曾《アシヒキノヤマノコヌレノホヨトリテカサシツラクハチトセホクトソ》
 
保與は和名集云、本草(ニ)云、寄生一名寓生、【寓亦寄也、音遇、和名夜止里木、一云保夜、】夜と與と同音にて通ぜり、祝ふ事には日蔭を用るを寄生も似たる物にて同じく用るにや、カザシツラクハとはかざしつるはなり、千年ホグトゾとは祝の字壽の字をほぐとよめり、千年を祝ふなり、
 
初、山のこぬれのほよよりて ほよはほやなり。和名集云。本草云。寄生。一名寓生【寓亦寄也。音遇。和名夜止里木。一云保夜。】ほやは或は古き木の俣なとに、こと木のはえ出たるをいふことも有。また木にはひかゝりて有かつらをもいふなり。こゝによめるは、かつらのことなり。第十九に山下ひかけかつらけるとよめるこれなり。ひかけはそこに尺すへし。かさしつらくはとは、かさしつるはなり。千年ほくとそは、祝の字をほくとよめり。壽の字をことふきとよむもことほきなり。又さかほかひとよむも、盃の上にて、ほく心なれは、ほくはいはふといふにおなし
 
右一首守大伴宿禰家持作
 
判官久米朝臣廣繩之舘宴歌一首
 
4137 牟都奇多都波流能波自米爾可久之都追安比之惠美天婆(40)都枳自家米也母《ムツキタツハルノハシメニカクシツヽアヒシヱミテハトキシケメヤモ》
 
第四句は相共に咲たらばにて之は助語なり、落句は喜《ヨロコ》びの時じけむやなり、非時をときじくとよめばいつと云限なからむやの意なり、時じけむやときじからじとは意得べからず、
 
初、あひしゑみては しは助語にて、相咲てはなり。ときしけめやもは時しけんやなり。非時とかきてときしくとよめり。時わかぬ心なり。今もいつとわく時あらんや。なからしといふ心にて、ときはならんといふ心なり
 
同月五日守大伴宿禰家持作v之
 
縁d※[手偏+僉]2察墾田地1事u宿2礪波郡主張多治比部北里之家1、于v時忽起2風雨1不v得2辭去1作歌一首
 
主張は帳を誤て張に作れり、
 
初、礪波郡主帳 帳誤作張。但また帳と張と通してかけるか
 
4138 夜夫奈美能佐刀爾夜度可里波流佐米爾許母理都追牟等伊母爾都宜都夜《ヤフナミノサトニヤトカリハルサメニコモリツヽムトイモニツケツヤ》
 
ヤブナミノ里は北里が家ある里の名なり、コモリツヽムは隱り居てつゝしむなり、(41)妹ニ告ツヤは今按第十九に今と同じ年三月廿日の歌ありて次に云く、爲(ニ)3家(ノ)婦《メノ》贈(ルガ)2在(ス)v京尊母(ニ)1所(レテ)v誂(ラヘ)作歌、さて下に同月二十三日の歌あり、此卷上に勝寶元年閏五月までの歌は家絆の妻坂上大孃は京におかれたる由なり、かゝれば其後秋冬の間に喚下されたるなるべし、
 
初、やふなみの里 北里か家ある所なり。はるさめにこもりつゝむと。上に雨こもりとも、雨つゝみともよめり
 
二月十八日守大伴宿禰
 
初、二月十八日守大伴宿禰 家持作の三字落たる歟。もとよりなくともたりぬへし
 
萬葉集代匠記卷之十八下
〔2021年11月18日(木)午前10時40分、初稿本、入力終了〕
 
(1)萬葉集代匠記卷之十九上
                   僧 契冲 撰
                   木村 正辭 校
 
初、萬葉集卷第十九目録
 
初、見翻翔鴫作歌 至v下見下有2飛字1
 
初、八日詠 日誤作v月
 
初、過澀溪崎 上當v加2九日1
 
初、慕v振2勇士名1歌 慕誤作v暮
 
初、詠2霍公鳥并花1歌 下題云時花。脱2時字1
 
初、爲3家婦贈2在京尊母1所v誂作歌 誂誤似v誹
 
初、九日贈水烏 烏誤作鳥
 
初、見2芽子早花1 芽誤作v※[草がんむり/井]
 
初、藤原皇后 后誤作v右
 
初、三形沙彌贈2左大臣1歌二首 此目大誤。當d改云c三方沙彌承2贈左大臣藤原北卿語1作歌一首并短歌u
 
初、二月三日判官 三誤作v二
 
初、七月十七日越中守家持時 守下脱v氏、持下剰v時
 
初、設2國厨之饌1餞 脱2饌字1
 
初、五月平旦云々 當d改云c五日平旦上v道、于vレ時射水郡大領安努君廣島設2餞宴1、時大帳使大伴宿禰家持和2内藏伊美吉繩麻呂捧1v盞歌一首u
 
初、爲v壽2左大臣橘卿1預作一首 作下脱2歌字1
 
初、閏三月於 當v冠(ラシム)2勝寶四年1。古慈悲上可v如2大伴1
 
 
天平勝寶二年三月一日之暮眺2矚《シヨクシテ》春苑桃李花1作二首
 
眺は望也、矚は朱欲切視之甚也
 
4139 春苑紅爾保布桃花下照道爾出立※[女+感]嬬《ハルノソノクレナヰニホフモヽノハナシタテルミチニイテタテルイモ》
 
下照道は桃の紅なるが映ずるなり、史記云、桃李不v言下自成v蹊、文選 阮嗣宗詠懷詩云、嘉樹下成v蹊、東園桃與v李、落句は花見に出立女の紅顔も桃花にあひにあふなり、毛詩に桃之夭夭、灼灼其華と云へるも桃を顔色に比して云へり、
 
初、はるのそのくれなゐにほふ 桃花の紅なれは下てる道といふ。毛詩曰。桃(ノ)之夭々(タル)、灼々(タル)其華(アリ)。之《コノ》子|于歸《ユキトツク》、宜(シ)2其室家(ニ)1。これも色よき女のたとひなり。よりて桃花のもとに出立る妹といふなり。史記日。桃李不v言、下自成(ス)v蹊(ヲ)。文選阮嗣宗詠懷詩云。嘉樹下成v蹊、東園桃與v李。第十八に橘の下てる庭ともありき。第二に橘の陰ふむ道のやちまたなとよめる心かよへり。花見に出立妹なり
 
4140 吾園之李花可庭爾落波太禮能未遣有可母《ワカソノヽスモヽノハナカニハニチルハタレノイマタノコリタルカモ》
 
遺有、【幽齋本、有作v在、】
 
第十にも雪をはだれとのみよめり、
 
初、わかそのゝすもゝの花か はたれは第十に、はたれ霜ふりともよみたれと、おなし卷に寄v雪相聞の哥に
さゝのはにはたれふりおほひけなはかもわすれむといへはましておもほゆ
これは雪をはたれとのみよめり。今もおなし。残雪の心に、すももの花のおほくさきちるをほめていへり。すもゝは味のすれは酸桃《スモヽ》の心に名つけたり。右2首は六帖にもゝとすもゝの哥に載たり
 
(2)見2飛翻(リ)翔《カケル》鴫1作歌一首
 
官本に飛の字異本にはなしと注せり、鴫は和名集云、玉篇云、〓【音〓、楊氏漢語抄云、之木、一云田鳥、】野鳥也、今按鴫は字書にみえぬ字なり、和語の田鳥を偏旁に置て此國に作れる字にて田鳥を又は之木とも云故にしぎとよめる歟、和名集又云、睦詞切韻云、〓【古活反、和名多止利、】小鳥似v雉也、此は別に出せるは同名異體の鳥歟、然れども本草に云、釣樟一名鳥樟【音章、和名久沼木、】本草云、擧樹【和名久沼木、】日本紀私記云、歴木とて同名同體の木を兩處に出せるに准らふるに異體ならざる歟、神代紀上云、足化爲2〓《シキ》山祇1、纂疎云、〓山謂2山密1也、〓鳥名此取2其訓1訓曰2志伎1、
 
4141 春儲而物悲爾三更而羽振鳴志藝誰田爾加須牟《ハルマケテモノカナシキニサヨフケテハフリナクシキタカタニカスム》
 
後の歌も鴫立澤のなどあはれなる物によみならはせり、以上三首、六帖に桃と李と鴫との歌に載たり、
 
初、はるまけてものかなしきに 鳥はなかんとて羽をふるへは、羽ふりなくとはいへり。下にも打はふりとりはなくともとよめり。羽振とかきたれは、はふき鳴ともよむへし。※[者/羽]の字をはふるとよめり。第一に
  旅にして物こひしきの鳴こともきこえさりせはこひてしなまし
後の哥にも鴫立澤なとよみて、あはれなる物にすめり
 
二日攀2柳黛1思2京師1歌一首
 
是より下六首は同日の歌とみえたり、
 
(3)4142 春日爾張流柳乎取持而見者京之大路所念《ハルノヒニハレルヤナキヲトリモチテミレハミヤコノオホチオモホユ》
 
下句の意京の大路を行かふ美女の黛の匂ひを思ひ出るなり、題に攀2柳黛1思2京師1とかける黛の字かねて此意を含めり、第十に梅の花取持見れば我宿の柳の眉し思ほゆるかも、此歌を取用られたるべし、
 
初、はるの日にはれる柳を はれるとは、芽のつはるなり。京の大路おもほゆとは、題に攀2柳黛1思2京師1とかける黛の字、かねて此心をあらはせり。京の大路をゆきかふかほよき人のまゆすみのにほひをおもひ出るなり。第十に
  梅の花とりもちみれはわかやとの柳のまゆしおもほゆるかも
第十四に
  うらもなくわか行道に青柳のはりてたてれはもの|も《・思》ひつゝも
 
攀2折堅香子草花1歌一首
 
六帖に今の歌落句をかたかしの花とて木部類に入たれど題に既に草花とあれば木に入れたるは誤なり、かたかしとよめるも仙覺抄に古點とて嫌へり、げにも題も歌も共に堅香子とかけるやう、子の字音に讀べくはあらず見えたり、仙覺抄にかたかご又はゑのしりと云春花さく草なり、其花の色は紫なりとかかれたるは、彼沙おぼつかなき事のみあれば慥には信じがたし、昔より此歌ならではよまぬにや、草木の間をだに能知らず侍りけむ、越中にての歌なれば郡にはなき草などにや、
 
初、攀2折堅香子草花1歌一首 堅香子草花といひたれは、かならす春花さく草と見えたり。さて哥にかたかこの花とよみたるを、紀氏六帖に木の部にいれて、かたかしとよみなせり。名はいつれをいはれたりと知侍らねと、木の部に入たるはたかひておほえ侍り。ある名人の傳に、かしなるよしをやかき給ひけむ。長流か材林抄にもかしの哥にましへ載たれと、今これを案するに、紀氏六帖たに、これはすこしうけかたきに、いはむやかしよりあまたの木ともをへたてゝ、かたかし、つまゝ、さねきとて、木の部ははて侍り。もし、かしの別名ならませは、櫻のつゝきに、かにはさくら、花さくら、山櫻、庭さくら、ひさくらなとたくひをならへてのせたるやうに、かしにつゝけて、かたかしとこそ侍らめ。彼先賢もかたりしとて、木となされたるにこゝろを得て、樫の中にもかたきをいふなとやかゝれて侍けむ。見侍らぬことを材林抄にておしはかりたれは、これさへ又たかひてや侍らん。此一首ならては古哥もなしとみゆれは、花のうせたるか、名のあらたまりたるかにて、草木のあひたさへわきまふる人のふるくよりなかりけるにこそ
 
4143 物部乃八十※[女+感]嬬等之※[手偏+邑]亂寺井之於乃堅香子之花《モノヽフノヤソヲトメラカクミマカフテラヰノウヘノカタカコノハナ》
 
(4)※[手偏+邑]亂、【別校本云、クミマヨフ、】
 
第十三に物部の八十の心とよめるが如く多かるなり、多くの女どもの來てくむ井なれば八十と云、其爲における發句なり、六帖にやそをとめらがふみとよむと有はかなへらず、寺井は越中の國府にある井の名なるべし、花と人と互に匂ひとなる心あり、
 
初、ものゝふのやそのいもらか 六帖には
  ものゝふのやそをとめらかふみとよむ寺井のうへのかたかしの花
此よみときやうも、今の世の此本にはたかへり。今の本にては今よめるをよしとすへし。ものゝふのやそうち川とつゝけたるやうに、ものゝふは氏々のおほかれは、あまた水くむ女のあるをいはむとて、かくはつゝくるなり。第十三にはものゝふのやその心をあめつちにおもひたらはしともよめり。寺井といふは井ある所の名なるへし。つねの寺にある井ならは、八十のいもらはくみまかふへからす
 
見2歸鴈1歌二首
 
4144 燕來時爾成奴等鴈之鳴者本郷思都追雲隱鳴喧《ツハメクルトキニナリヌトカリカネハフルサトオモヒツヽクモカクレナク》
 
月令云、孟春之月、鴻雁來、仲春之月、是月也玄鳥至、注玄鳥燕也、六帖につばくらめの歌として初の二句をつばくらめときになりぬととよみ思都追をこひてと改たり、初二句の讀やう今の本よし、
 
初、つはめくる時になりぬと 月令曰。孟春(ノ)之月鴻雁|來《カヘル》。是月也玄鳥至。注曰。玄息(ハ)燕也。かくあれとも、かなたにも燕は春の社日に來りて秋の社日に歸るなともいひたれは、今三月二日にかくよみたりとて、たかへりとは思ふへからす。和漢おなしことゝまたおなしからぬことあり
 
4145 春設而如此歸等母秋風爾黄葉山乎不超來有米也《ハルマケテカクカヘルトモアキカセニモミチノヤマヲコエコサラメヤ》
 
黄葉の山は第十五によめる所に云しが如く地の名にあらず、六帖に雁の歌として如此をかり〔二字右○〕と改たむ、しからざれば雁の歌と聞えがたき故なるべし、落句もこえざ(5)らめやはとあり、
 
初、春まけてかくかへるとも もみちの山はたゝもみちする山をおしていへり。さいふ山の名にはあらす。第十五に對馬の竹敷浦にてよめる哥にも、長月のもみちの山とよめり。第十第十七にうの花さく山を卯花山とよめるかことし
 
一云|春去者歸此鴈《ハルサレハカエルコノカリ》
 
夜裏聞2千鳥喧1歌二首
 
二日の夜なるべし、
 
4146 夜具多知爾寢覺而居者河瀬尋情毛之努爾鳴知等理賀毛《ヨクタチニネサメテヲレハカハセトメコヽロモノノニナクチトリカモ》
 
情毛、【官本、毛作v母、】  之奴爾、【官本點云、シノニ、今之點ノ誤矣、】
 
4147 夜降而鳴河波知登里宇倍之許曾昔人母之努比來爾家禮《ヨクタチテナクカハチトリウヘシコソムカシノヒトモシノヒキニケリ》
 
家禮、【官本云、ケレ、】
 
腰句の之は助語なり、家禮をケリと點ぜるは書生の失錯なり、
 
聞2曉鳴※[矢+鳥]1歌一首
 
三日の曉なり、
 
4148 椙野爾左乎騰流※[矢+鳥]灼然啼爾之毛將哭己母利豆麻可母《キスノノニサヲトルキヽスイチシロクネニシモナカムコモリツマカモ》
 
(6)椙野爾、【官本云、スキノニ、】
 
椙野は射水郡に有て國府に近き歟、椙は誤なり※[木+温の旁]に作るべし、此字の事第三に鴨君足人が歌に有て注せしが如し、サヲドルは狹踊なり、潘安仁(カ)射雉賦云、意※[さんずい+念]躍以振(ヒ)踊《ホトバシル》、第四句の之毛は助語なり、こもり妻なれば灼然はねになくまじき物をの意なり、六帖にはきじとかくれづまとに入れて、さをどるきじのいちしろくなきしもなかむかくれづまかもとあり、かくれ妻の方には心を用かへて入れたるなるべし、
 
初、すきのゝにさをとるきゝす 杉の野は、越中に射水郡は府なれはそこにあるなるへし。※[木+褞の旁]を椙になせるは、誤れり。和名集杉字下に注云。今按、俗用2※[木+褞の旁]字(ヲ)1非也。※[木+褞の旁]温於粉反。柱也。見2唐韻1。玉篇云。於渾切。柱也。於勃切。果也。かくて杉とおなしうよむへしとは見えねと、第三に、かく山のほこすきかもとゝよめるにも、此字をかけり。日本紀第十五、顯宗天皇寶壽の御詞の中にも、いそのかみふるのかみすきといふに、石上振之神※[木+褞の旁]とかきて、注にいはく。※[木+褞の旁]此(ヲ)云2須擬(ト)1。かゝれは、須は非なりと申されけれと、いにしへの字書に、舎人親王の御覽せられたる事こそ侍りけめ。さをとるはさは例のそへたる字にて、をどるなり。文選潘安仁射雉賦云。意|※[さんずい+念]躍《センテキト・ホトハシリテ》以振(ヒ)踊《ホトハシル》。をとるとほとはしるは同し詞なり。いちしろくねにしもなかんこもりつまかもとは、ねになく故に、人にもありかをしられてとらるれは、おのかこもり妻ゆへねになかん物かとなり。第八におなし家持の哥に
  春の野にあさるきゝすのつまこひにおのかあたりを人にしれつゝ
詩小辨云。雉之朝(ニ)※[句+隹]《ナク》、尚求2其雌(ヲ)1
 
4149 足引之八峯之※[矢+鳥]鳴響朝開之霞見者可奈之母《アシヒキノヤツヲノキヽスナキトヨムアサケノカスミミレハカナシモ》
 
初、あしひきのやつをのきゝす やつをはみねのおほかるをいへり
 
遙聞2泝《サカノホル》v江舩人之唱1歌一首
 
此は三日の朝の歌なり、
 
4150 朝床爾聞者遙之射水河朝已藝思都追唱舩人《アサトコニキケハハルケシイミツカハアサコキシツヽウタフフナヒト》
 
射水河を八雲御抄にさみつかはと載させ給へるは叡覽の御本に射の字音を以て點じたりけるにや、上に舊事本紀和名集等を引けるが如し、第十七に伊美都河泊《イミツカハ》、又|伊美豆河波《イミツカハ》などかけり、
 
(7)三日守大伴宿禰家持之舘宴歌三首
 
4151 今日之爲等思標之足引乃峯上之櫻如此開爾家里《ケフノタメトオモヒテシメシアシヒキノヲノヘノサクラカクサキニケリ》
 
4152 奥山之八峯乃海石榴都婆良可爾今日者久良佐禰大夫之徒《オクヤマノヤツヲノツハキツハラカニケフハクラサネマスラヲノトモ》
 
ツバキを承てツバラカニと云へり、ツバラカは第三第十八に注せし如く曲なり、心の底を殘すことなく打解て遊びくらせとの意なり、
 
初、おくやまのやつをのつはきつばらかに つはらかといはむ料に、椿を取出、つはきといはむために、おく山の八峯とはいへり。つはらかはつまひらかなり。舒明紀云。仇|曲《ツハヒラケク》擧2山背大兄之語(ヲ)1。此集第十八に、かちの音のつはら/\にといへり。つまひらかは、※[疑の旁が欠]曲を盡すといふことく、心をのこさすまことをつくしてあらはすなり
 
4153 漢人毛※[木+戊]浮而遊云今日曾和我勢故花縵世余《カラヒトモフネヲウカヘテアソフチフケフソワカセコハナカツラセヨ》
 
※[木+戊]浮而、【幽齋本、※[木+戊]作v※[楫+戈]、】  世余、【官本余作v奈、點云、セナ、】
 
第二句は第十三に斧取而丹生檜山木折來而機爾作《ヲノトリテニフノヒヤマノキコリキテフネニツクリ》云々、此機をも幽齋本に或は※[木+筏]に作れり、今※[木+戊]も亦※[木+筏]に作りたればイカダウカベテと讀べき歟、筏の字を※[木+伐]ともかけば今は※[木+伐]の字を誤まれるなるべし、東※[折/日]傳云、晋武帝問2尚書※[執/手]虞1曰、三月曲水其義何、※[折/日]答曰、漢章帝時、平原徐肇以2三月初1生2三女1至2三日1而倶亡、一以爲v怪、乃招※[手偏+雋]之2水(8)濱1、盥洗遂因v水泛v觴、曲水之義起2於此1、帝曰、若如v所v談便非2好事1、尚書郎束※[折/日]、仲治小生不v足2以知1v之、臣請説2其始1、昔周公城2洛邑1因2流水1以汎v酒、故逸詩云、羽觴隨v波云々、又秦照王以2三日1置2酒河曲1、見2金人1、奉2水心之劍1曰令dv君制2有西夏1乃覇c諸侯u、因v此立爲2曲水1、帝大悦、張平子(ガ)南京賦云、於v是暮春之禊、元巳之辰、方v軌齊v軫、祓2于陽瀕1、爾乃撫2輕舟1兮浮2清池1、亂2北渚1兮掲2南涯1、顔延年三月三日侍v游2曲阿後湖1作、神御出2瑤軫1、天儀隆2藻舟1、萬軸胤行衛、千翼泛飛浮、王融曲水詩序云、綬v几肆v筵(ヲ)因2流波1而成v次、※[草がんむり/惠]肴芳醴、任2激水1而推移、沈休文三月三日詩云、清農戯2伊水1、薄暮宿2蘭池1、ケフゾと云處句なり、ワガセコトは宴に預れる衆を指て云、花カツラセヨトは花を折てかつらとして遊べとなり、落句の終は六帖も新古今もせよなれば今の本を正義とすべし、
 
初、から人もふねをうかへて 晋武帝問2三月曲水(ノ)義(ヲ)束※[折/日](ニ)1。對曰。昔周公城2洛邑1因2流水1以汎v酒。逸詩云。羽觴隨v波。韓詩外傳云。鄭園之俗、三月上巳、於2※[さんずい+秦]※[さんずい+有]之上1招v魂續v魄秉2蘭草1祓2除不祥1以歸。韻語陽秋云。上巳於2流水上1洗濯祓除去2宿垢1。謂2之祓禊1。文選張平子南京賦云。於是暮春之禊、元巳之辰、方(ヘ)v※[車+几]齊v軫祓2于陽瀕1。〇爾乃|撫《ノリテ》2輕舟1兮浮2清池1、亂《ワタリテ》2北渚1兮掲《イタル》2南(ノ)涯(ニ)1。王融曲水詩序云。綬v几肆v筵因2流波1而成v次、※[草がんむり/惠]肴芳醴任2激水1而推移。顔延年車駕幸(シ)2京口1、三月三日侍(シ)v游(シニ)2曲阿後湖1作。神御出2瑤軫1、天儀隆2藻舟1。萬軸|胤《ツラネテ・ツイテ》行衛、千翼泛(テ)飛浮(ス)。沈休文(カ)三月三日詩(ニ)、清農戯2伊水1、薄暮宿(ス)2蘭池(ニ)1。顯宗紀云。元年|三月《ヤヨヒノ》上(ノ)巳(ノヒ)幸《イテマシテ》2後苑《ミソノ》(ニ)1曲水宴《メクリミツノトヨノアカリキコシメス》。本朝に曲水の宴あることは此顯宗紀を初とす。これより後國史に見えたり。漢よりさきは皆上巳を用たりしを、魏文帝より後三月三日となりにけれと、猶昔に准して、上巳とはいふなり。顯宗紀のこゝろはまことの巳の日なりけるにや。蘭亭記をはしめて、およそ此日は和漢に名高き詩文等の會あり。第十七にも池主と家持との贈答の書、詩哥ありき。あそふてふけふそとつゝけて、こゝを句と心得へし。わかせこ花鬘せよとは、花を折かさして、打とけてあそへとなり。此せこは宴の衆をさせり。※[木+戊]の字は※[木+伐]の字の誤にや。※[木+伐]は筏と同し。いかたは舟の類なれは、ふねともよみぬへし。又やかていかたうかへてとよみたらんもくるしかるまし。第十三に、をのとりてにふの檜山の木こりきて、機爾作《フネニツクリテ》まかちぬきいそこきたみつゝとよめる哥の機の字は、舟も機巧にて作り出せるものなれは、義をもてかける歟。もしはそこも※[木+伐]の字を誤て機となせる歟
 
八日、詠2白大鷹1歌一首并2短歌1
 
和名集云、廣雅云、一歳名2之青鷹白鷹1、【今按青白隨v色名v之、俗説鷹白者不v論2雌雄1皆名2之良太賀1、不論2青白1、大者皆名2於保太加1、小者皆名2勢宇1、漢語抄用2兄鷹二字1爲名、所v出未v詳、俗説雄鷹謂2之兄鷹1、雌鷹謂2之大鷹1也、】隋魏彦深鷹賦云、雌則體大、雄則形小、今按雌鷹を俗に大と云へば雄鷹を勢宇と云は、大に對すれば小なるべし、然るを兄鷹とかけるは男女を妹兄と云如く兄の和訓と鷹の音を上略して和漢を交へて作れる俗字(9)にて出處ある程の事には侍らじ.
 
初、八日詠白大鷹 和名集云。廣雅云。〇三歳名2之青鷹白鷹1。今按、青白隨v色名之。俗説鷹白者不v論2雌雄1皆名2之良太賀(ト)1。不v論2青白1大者皆名2於保太加1、小者皆名2勢宇1。漢語抄用2兄鷹二字1爲v名、所v出未v詳。俗説雄鷹謂2之兄鷹1、雌鷹謂2之大鷹1也。隋魏彦〓(カ)鷹賦云。雌(ハ)則體大。雄(ハ)則形小
 
4154 安志比奇乃山坂超而去更年緒奈我久科坂在故志爾之須米婆大王之敷座國者京師乎母此間毛於夜自等心爾波念毛能可良語左氣見左久流人眼 乏等於毛比志繁曾巳由惠爾情奈具也等秋附婆芽子開爾保布石瀬野爾馬太伎由吉?乎知許知爾鳥布美立白塗之小鈴毛由良爾安波勢也理布里左氣見都追伊伎騰保流許已呂能宇知乎思延宇禮之備奈我良枕附都麻屋之内爾鳥座由比須惠?曾我飼眞白部乃多可《アシヒキノヤマサカコエテユキカヘルトシノヲナカクシナサカルコシニシスメハオホキミノシキマスクニハミヤコヲモコヽモオヤシトコヽロニハオモフモノカラコトハサケミサクルヒトメトモシミトオモヒシシケシソコユヱニコヽロナクヤトアキツケハハキサキニホフイハセノニウマタキユキテヲチコチニトリフミタテヽシラヌリノヲスヽモユラニアハセヤリフリサケミツツイキトホルコヽロノウチヲオモヒノヘウレシヒナカラマクラツクツマヤノウチニトクラユヒスヱテソワカフマシラフノタカ》
 
山坂超而、【幽齋本、超作v越、】  我飼、【官本云、ワカカフ、】
 
(10)故志爾之の之は助語なり、大王之より下六句は第六に父の大伴卿のよまれたる歌の意なり、語左氣は今の點誤れりカタリサケと讀べし、次の句と共に第三に尼理願が死せる時の坂上郎女の歌に注せり、於毛比志繁は志は助語なり、石瀬野は和名集云、新川郡石瀬【伊波世、】馬太伎由吉?は第十四にも悲しきが駒はたぐともとよめり、馬の手綱をたぐり行なり、イキドホル心ノ中とは鬱憤をいきどほるとよめり、心のはれぬなり、須惠?曾我飼はワカフと點ぜるはよからず、ワガカフと續べし、眞白部乃多可を袖中抄にましらへのたかと讀て注云、顯昭云、ましらへのたかとはましらふの鷹と云にや、へ〔右○〕とふ〔右○〕とは同五音なる故なり、しらふの鷹とは鷹にはあかふ、くろふ、しろふ、とて三つの毛の有中にしらふはしろみ、くろふはくろみ、あかふはきばみたるなり、其しらふの中に能白みたるをましらふと云歟、又云ましろのたかと云あり、綺語抄云、目の白き也、めのけの白きなり、童蒙抄云、ましろとは目の上の白きを云、此ましろの鷹に詞を替てましろへのたかと云歟、今云ましらへのたか〔七字右○〕はしらふ〔三字右○〕と云は今少便りあり、さればましらふのたかとかける本もあり、又眞白とかきたるもかなへり、又萬葉の題にも詠2白大鷹1歌とあり、ましろのたかとは麻之路とかきて其文字も見えず、次に今の反歌を引て云此も詠2白大鷹1歌云々、さればましろ〔三字右○〕とましらへ(11)のたか〔七字右○〕と同事歟とも云ひつべし、今按顯昭ほどの先達のこれほどの事をことを切て申されざるもおぼつかなき事なり、先眞白部はたとひ古點にましらへ〔四字右○〕としたりともしらふ〔三字右○〕と云事のあるには物部の例になどかましらふ〔四字右○〕と讀べしと申されざるや、眞と云は眞木眞玉など云如く白きに付て云へり、五色ともにつよく云時皆眞白眞黒など云へり、和名集に※[米+礪の旁〕【和名、比良之良介乃與禰、】※[米+卑]米【和名、之良介與禰、】〓米【眞之良介乃與禰、】此ひらしらげ〔五字右○〕とましらげ〔四字右○〕との勝劣ある如くしらふの中に能白みたるをましらふと云とまでは意得べからず、
 
初、おほきみのしきます國は 第六に大伴旅人
  八すみしゝわか大君のみけ國はやまともこゝもおなしとそ思ふ
かたりさけみさくる人めともしみと。ことはさけとあるは誤なり。かたりて愁をさけ、あひみて愁をさくへき人めの、田舍なれはともしきなり。とひさくるやからはらからなき國にわたりきましてと第三によみ、いは木をもとひさけしらすと第五によめり。光仁紀に、藤原左大臣永手の薨したまひける時の詔にいはく。朕大臣誰【爾加毛】我語【比佐氣牟】誰【爾加毛】我問【比佐氣牟止】云々。おもひししけし。中のしもしは助語なり。そこゆゑにはそれゆへになり。石瀬野、和名集云。新《ニフ》川石勢【伊波世。】うまたきゆきては、第十四にも、かなしきか駒はたくともとよめり。たくはたくるなり。手綱かいくりゆくなり。とりふみたてゝは、第三におなし家持の哥に、あさかりにしゝふみおこしゆふかりにとりふみたてゝとよみ、十七にも、朝かりにいほつ鳥たてゆふかりにちとりふみたてとよめり。白ぬりの小鈴もゆらに。これも十七に見えたり。いきとほるは、いふせき、おほつかなき、おほゝしくなとよめるにおなし。心のむすほゝれてふさかるなり。神功皇后紀に、忍熊王の瀬田に沈たまひける御屍を、いまたさくり出さゝりける時、武内宿禰の哥に
  あふみのみせたのわたりにかつくと鳥めにし見えねはいきとほろしも
 
反謌
 
4155 矢形尾乃麻之路能鷹乎屋戸爾須惠可伎奈泥見都追飼久之余志毛《ヤカタヲノマシロノタカヲヤトニスヱカキナテミツヽカハクシヨシモ》
 
矢形尾は第十七に注せり、マシロノ鷹は眞白なり、第三に赤人の富士をよまれたる歌の反歌云、田兒之浦從打出而見者眞白衣云云、今題に詠2白大鷹1と云によく心を著ば綺語抄の水量の僻案沙汰に及ぶべからず、落句は飼が好となり、上に見らくしよ(12)しもなどよめるに同じ詞づかひなり、
 
初、ましろの鷹 長哥によめるましらふの鷹なり。眞白鷹なり。赤人のふしの哥も、此集第三には、たこのうらに打出てみれはましろにそと侍り。子細なきことなり。かはくしよしもは、かふしよしもなり。しは助語なり
 
潜※[盧+鳥]歌一首
 
目録には并短歌とあり、
 
4156 荒玉能年往更春去者花耳爾保布安之比奇能山下響墮多藝知流辟田乃河瀬爾年魚兒狹走島津鳥※[盧+鳥]養等母奈倍可我理左之奈津左比由氣波吾妹子我可多見我?良等紅之八塩爾染而於已勢多流服之襴毛等寳利?濃禮奴《アラタマノトシユキカヘリハルサレハハナノミニホフアシヒキノヤマシタヒヽキオチタキチナカルサキノカハノセニアユコサハシリシマツトリウカヒトモナヘカカリサシナツサヒユケハワキモコカカタミカテラトクレナヰノヤシホニソメテオクリタルコロモノスソモトホリテヌレヌ》
 
年往更、【官本又云、トシユキカハリ、】  奈津左比、【幽齋本、津作v頭、左作v佐、】
 
辟田河は射水郡にあるか、トモナヘは伴なひなり、オコセタルは遊仙窟に遣の字をよめり、
 
反歌
 
(13)4157 紅衣爾保波之辟田河絶巳等奈久吾等眷牟《クレナヰコロモニホハシサキタカハタユルコトナクワレカヘリミム》
 
看は今按眷の字を寫し誤まれるなるべし、第三第十にはかへるとよみ第十一にはかへりみむとよめり、看は此訓なし、
 
初、吾等眷牟 【三之廿三右四之十三右三。】眷誤作看歟
 
4158 毎年爾鮎之走婆左伎多河※[盧+鳥]八頭可頭氣?河瀬多頭禰牟《トシノハニアユシハシレハサキタカハウヤツカツキテカハセタツネム》
 
可頭氣?、【官本又云、カツケテ、】
 
六帖に此を鵜の歌とせるに發句をとしことにとよめるは此卷の末の注を寿へずして古風にたがへり、胸句の之は助語なり、可頭氣?も六帖に今の點と同じきは誤なり、官本又點にかづけてとあるよし、かづけてはかづかしむる心なり、かづきてはみづからかづくなり、意替れり、其上氣は集中の例呉音を用たり、
 
初、うやつかつけて やつは、たゝおほきをいへり。第十三にも、うをやつひたしとよめり。八頭とかけるは鳥獣をかそふる詞なり。彼十三の哥にもかくかけり。そこに注せり。第十六に、とらといふ神をいけとりにやつとりもちきとよめるにも、八頭とかけり。かつきてとあるは誤なり。可頭氣※[氏/一]とかけり。氣の字呉音を取こと例なり。そのうへかつきては鵜がみつからかつくなり。今はかつかしむれは、かつけてといふなり。令潜とかくへし
 
季春三月九日|擬《タメ》2出擧之政1行2於舊(ル)江《エノ》村1道(ノ)上《ホトリニテ》屬《ツクル》2目《メヲ》物花《モノヽクワナルニ》1之詠并興(ノ)中(ニ)所v作之歌
 
花は華に改たむべし、此七首の※[手偏+總の旁]標の詞なり、
 
初、屬目物花 花は華に作るへき歟
 
(14)過2澁溪埼1見2巖上樹1歌一首 樹名都萬麻
 
此都萬麻と云木は北陸或は※[手偏+總の旁]じて田舍にのみある木なるべし、其故は梅櫻松杉などの如くならば過2澁溪埼1見2巖上都萬麻1歌一首と云て樹名都萬麻とは注すべからず、第十七云、東風【越俗語、東風謂2之安由乃可是1也、】葦附【水松之屬、】と注せるも越の國の風俗にして他處の人の知るまじきを慮てなれば今の注も此に准へて思ふべし、六帖にも木のたぐひの中に、つままとては、只此一首を入れ、其外これをよめる歌を承及ばぬは都あたりになき木故にこそ侍りけめ、
 
初、過澀溪埼見巖上樹歌一首 樹名2都萬麻1此つまゝといふ木は、北陸あるひは田舍にのみある木なるへし。その故は、松杉柳櫻のことくならは見2巖上都萬麻1作哥とて下の注あるへからす。巖上樹といひて、下にその名を注せるは、第十七に東風【越俗語、東風謂之安由乃可是也。】と注し、葦附【水松之類】と注をくはへたるたくひに心得へし。六帖にも、木のたくひの中につまゝとて、此哥たゝ一首をのせ、そのほかに聞をよはぬは、まれにもみやこあたりにはなき物にこそ侍けめ
 
4159 礒上之都萬麻乎見者根乎延而年深有之神左備爾家里《イソノウヘノツママヲミレハネヲハヘテトシフカヽラシカミサヒニケリ》
 
發句題によれば石上と意得べし、されども第十七に澁溪埼の荒磯と讀たれば何れをも兼べし、腰句六帖にはねをひてとあり、同じ詞ながら今の點に付べし、
 
初、年ふかゝらし 年久しきを深しとはいふなり。根をはへてといふよりつゝけたるは、根のふかきをもかねたり
 
悲2世間無1v常歌一首并短歌
 
4160 天地之遠始欲俗中波常無毛能等語續奈我良倍伎多禮天(15)原振左氣見婆照月毛盈※[日/呉]之家里安之比奇能山之木未毛春去婆花開爾保比秋都氣婆露霜負而風交毛美知落家利宇都勢美母如是能未奈良之紅能伊呂母宇都呂比奴婆多麻能黒髪變朝之咲暮加波良比吹風能見要奴我其登久逝水能登麻良奴其等久常毛奈久宇都呂布見者爾波多豆美流※[さんずい+帝]等騰米可禰都母《アメツチノトホキハシメヨヨノナカハツネナキモノトカタリツキナカラヘキタレアマノフリサケミレハテルツキモミチカケシケリアシヒキノヤマノコヌレモハルサレハハナサキニホヒアキツケハツユシモオヒテカセマシリモミチチリケリウツセミモカクノミナラシクレナヰノイロモウツロヒヌハタマノクロカミカハリアサノヱミユフヘカハラヒフカセノミエヌカコトクユクミツノトマラヌコトクツネモナクウツロフミレハニハタツミナカルヽナミタトトメカネツモ》
 
木未、【別校本、未作v末、】
 
遠始欲はトホキハジメユと讀べし、ナガラヘキタレはながらへきたればなり、命のながらふると云にはあらず、常なき物と語りつぐ事のながらへ來ると云なり、第一に流經妻吹風とよめるも衣の妻のすそに流るる意なり、木未は未を末に作れる本に依べし、ウツセミモははかなき人の上かもなり、朝之咲暮加波良比は班孟堅答賓(16)戯云、朝爲2榮華1夕爲2〓〓1、
 
初、なからへきたれ なかれきたれはなり。世は常なきものといふ言の世々になかれつたはるなり。てる月もみちかけしけり。第三第七にもかくよめり。易曰。日中(スル)則|昃《カタフキ》月盈(ル)則食(ス)。うつせみもかくのみならし。うつせみは枕言をもてすなはち世とす。上におほし。紅の色もうつろひ、紅顧の變するなり。朝のゑみゆふへかはらひ。文選班孟堅答賓戯日。朝爲2榮華1夕爲2鷦※[卒+鳥]1。楊子雲解嘲曰。旦|握《トリテハ》v權則爲2卿相1、夕失v勢則爲2匹夫1。吹風の見えぬかことく行水のとまらぬことく。第十五の古挽歌にも、行水のかへらぬことく吹風の見えぬかことくとよめり。論語文選なとそこにひけり。にはたつみなかるゝなみたは、第二に日並皇子かくれさせたまへる時とねりとものよめる哥の中にも
  御立せし嶋を見る時にはたつみなかるゝなみたとめそかねつる
和名集云。潦音老【和名爾八太豆美】
 
反歌
 
4161 言等波奴木尚春開秋都氣婆毛美知遲良久波常乎奈美許曾《コトトハヌキスラハルサキアキツケハモミチヽラクハツネヲナミコソ》
 
モミヂチラクハとは散るはなり、
 
初、ことゝはぬ木すら 第九にも
  山しろのくせのさき坂神代より春ははりつゝ秋はちりけり
 
一云|常無牟等曾《ツネナケムトソ》
 
4162 宇都世美能常無見者世間爾情都氣受?念日曾於保伎《ウツセミノツネナキミレハヨノナカニコヽロツキステオモフヒソオホキ》
 
都氣受?、【官本點云、ツケステ、】
 
第四の句は心を著ずしてなり、氣をキと點ぜる誤上に云が如し、人間のはかなきを見て世上に心を置べき事にあらぬを心を著ずしてとにかくに物を念日のおほきと心を著たる時に當てみづから知なり、
 
初、心つけすておもふ日そおほきとは、心をつけておもはぬ日そおほきといふ心なり
 
一云|嘆日曾於保吉《ナケクヒソオホキ》
 
(17)無用の世間の嘆なり、
 
豫《カネテ》作(ル)七夕(ノ)歌一首
 
4163 妹之袖我禮枕可牟河湍爾霧多知和多禮左欲布氣奴刀爾《イモカソテワレマクラセムカハノセニキリタチワタレサヨフケヌトニ》
 
枕可牟、【別校本、可作v世、】
 
第二句ワレマクラカムと讀べき事第五の琴娘子が歌の落句も此第二句と同じてに波《ハ》に付て注せしが如し、落句は夜深ぬ時になり、時をトとのみよめる事上に有て注しき、
 
初、いもか袖われまくらかむ 枕可牟とあるを、まくらせむと點をくはへたるはあやまれり。第五に
  いかにあらん日のときにかも聲しらん人のひさのへわかまくらかむ
此哥も和我摩久良可武とかけるを、わかまくらせんとよめるは誤今におなし。又此巻下にいたりて、梅柳たれとゝもにかわか蘰《カツラ》可牟といふをもわかかつらせんとよめる誤今に同し。第十八に、柳かつらきとも、ほとゝきすきなくさつきのあやめ草よもきかつらきともよみ、此卷下に、山下ひかけかつらけるとも、青柳のほつえよちとりかつらくはともよみたれは、かつらかむとよむへきことあきらかなれは、まくらかむこれに例して知へし。よりてみところの點みなあやまれりとさためをはりぬ。きりたちわたれさよふけぬとには、さよふけぬ時になり。第十に、第十五に
  わかせこをなこせの山のよふこ鳥君よひかへせよのふけぬとに
  我宿の松の葉みつゝあれまたむはやかへりませこひしなぬとに
これら皆、時なり。霧のはやく立わたりたらはそのまきれにはやくあはむなり。又きりによせてひこほしにはやくわたれといふにも有へし
 
慕v振(コトヲ)2勇士《ヨウシノ》之名(ヲ)1歌一首并短歌
 
4164 知智乃寶乃父能美許等波播蘇葉乃母能美己等於保呂可爾情盡而念良牟其子奈禮夜母大夫夜無奈之久可在梓弓須惠布理於許之投矢毛知千尋射和多之劔刀許思爾等理波伎安之比奇能八峯布美越左之麻久流情不障後代乃可(18)多利都具倍久名乎多都倍志母《チチノミノチヽノミコトハヽソハノハヽミコトオホロカニコヽロツクシテオモフラムソノコナレヤモマスラヲヤムナシクアルヘキアツサユミスヱフリオコシナクヤモチチヒロイワタシツルキタチコシニトリハキアシヒキノヤツヲフミコエサシマクルコヽロサハラスノチノヨノカタリツクヘクナヲタツヘシモ》
 
寶は書生の誤なり實に作るべし、仙覺鈔云、知智の木は葉は似2楊梅葉1菓如2胡黏子1、熟時色赤、鵯好食v之云々、此木在2走湯山1、又伊豆大島此未茂盛也云云々、柞《ハヽソ》葉者如v常(ノ)似2橡葉1厚者也、知智の實も波播蘇葉も父母と云詞をつづけむためなり、於保呂可爾より下の四句は父も母もおぼろげに思ひてそだてたる其子ならむや、おぼろげには思はずしてそだてし其子ぞとなり、大夫夜無奈之久可在《マスラヲヤムナシクアルベキ》は下注に依て第六云、山上臣憶良沈痾之時歌一首、士也母空應有萬代爾、語續可、名者不立之而、此初二句を今按マスラヤモムナシクアルベキと讀べしと申て今の歌を引て、證し侍しが如し、千尋射和多之、史記蘇秦傳云天下之彊弓勁弩皆從v韓出云云、皆射2六百歩之外1、サシマクルは麻と牟と同五首なればさしむくると云にや、向ふ處に敵なきを指向る心不障とは云べし、終の三句憶良歌の下句の意なり、此歌曹植が白馬篇を引合せて見るべし、
 
初、ちゝのみのちゝのみことはゝそ葉のはゝのみこと ちゝのみは木の實なり。葉は楊梅のことくして、實は胡黏子のことし。伊豆の國走湯の山をよひ伊豆大嶋なとにおほしといへり。ちゝのみことゝつゝけんためなり。はゝそ葉は柞の木の葉なり。はゝのみことゝつゝけんためなり。おぼろかにはおろそかになり。第八藤原廣嗣哥にもよめり。おろかとのみいふもおなし。ますらをやむなしく有へき。下に右二首追和山上憶良臣作歌といへり。憶良の哥は第六に天平五年の下に有て尺せり。そのうたに
  ますらやもむなしかるへきよろつよにかたりつくへき名はたゝすして
此初の二句なり。彼憶良の哥を、人なれはむなしかるへしとよみなせるは誤、此二首にて知へし。あつさ弓すゑふりおこし。第三に笠金村哥に、ますらをのゆすゑふりおこしいつる矢とよめり。神代紀上云。振2起《フリタテ》弓※[弓+肅]《ユハスヲ》1。なくやもち。第十三に、なくるさのとほさかり居てとも、きみかおひくしなくやしそおもふともよめり。神代紀云。於v是取v矢還|投下《ナケオロシタマフ》之。いやるをもなくるといふへし。ちひろいわたし。史記蘇秦傳云。天下之彊弓勁弩皆從v韓出。〇皆射2六百歩之外1。尋は、あるひは七尺あるひは八尺といへり。曇鸞往生論注云。案2此間詁訓1六尺曰v尋。又云。里舎(ノ)間(ノ)人不v簡2縱横長短1、咸謂3横舒2兩手臂1爲v尋(ト)。つるきたちこしに取はき。欽明紀(ニ)、紀(ノ)男麻呂曰。況復平安之世刀劔不v離2於身1。さしまくるは、さしむくるなり。かたりつくへく名を立へしもは、憶良のかたりつくへき名はたゝすしてとよめる心なり。曹子建白馬篇云
 
反歌
 
4165 大夫者名乎之立倍之後代爾聞繼人毛可多里都具我禰《マスラヲハナヲシタテヘシノチノヨニキヽツクヒトモカタリツクカネ》
 
(19)第二句の之は助語なり、
 
右二首追2和山上憶良臣作歌1
 
詠2霍公鳥并時花1謌一首并短歌
 
4166 毎時爾伊夜目都良之久八千種爾草木花左伎喧鳥乃音毛更布耳爾聞眼爾視其等爾宇知歎之奈要宇良夫禮之努比都追有爭波之爾許能久禮罷四月之立者欲其母理爾鳴霍公鳥從古昔可多里都藝都流※[(貝+貝)/鳥]之宇都之眞子可母菖蒲花橘乎※[女+感]嬬良我珠貫麻泥爾赤根刺晝波之賣良爾安之比奇乃八丘飛超夜干玉乃夜者須我良爾曉月爾向而往還喧等余牟禮杼何如將飽足《トキコトニイヤメツラシクヤチクサニクサキハナサキナクトリノコヱカハラフミヽニキヽメニミルコトニウチナケキシナエウラフレシノヒツヽアラソフハシニコノクレヤミウツキシタテハヨコモリニナクホトヽキスムカシヨリカタリツキルウクヒスノウツシマコカモアヤメクサハナタチハナヲヲトメラカタマヌクマテニアカネサスヒルハシメラニアシヒキノヤツヲトヒコエヌハタマノヨルハスカラニアカツキノツキニムカヒテユキカヘリナキトヨムレトイカヽアキタラム》
 
(20)宇知歎、【幽齋本、歎作v嘆】  許能久禮罷、【幽齋本、罷作v能點ノ、】  八丘、【別校本、丘作v岳、】
 
有爭波之爾は第二に高市皇子殯宮の時人丸のよまれたる歌に此言ありて注せし如くあらそふあひだになり、八千種の花と百千の鳥と彼を見此を聞て花の中にはいづれかまさり、鳥の中にはいづれか劣るなど、心の中にあらそふ間になり、許能久禮罷は幽齋本に罷を能に作れる然るべし、其故は四月は木晩の盛なれば木|闇《クレ》止と云にはあらで木暮闇なり、然れば罷は假てかける字なり、此あたりはさはかかぬ、つづきなればなり、四月之の之は助語なり、ウツシマゴは現の子歟と云なり、眞子をほむる詞なり孫にはあらず、第九に※[(貝+貝)/鳥]之生卵乃中爾霍公鳥獨所生而《ウグヒスノカヒコノナカニホトヽギスヒトリウマレテ》云云、是を取用られたり、珠貫マデニは四月より五月までと云なり、
 
初、うちなけきしなえうらふれ 第二に、人丸の哥に夏草のおもひしなえてとよみ、第十には、きみにこひしなえうらふれわかをれはともよめり。あらそふはしにとは、上の花鳥のさま/\のいろねのおもしろさのいつれとわきかたくて、あらそふあひたになり。第二にも、ゆくとりのあらそふはしにとよめり。間の字をはしとよめり。このくれやみう月したてはとは、木陰のしけりそひてくらきをいへり。上にもあまたよめり。罷の字にはかゝはるへからす。鶯のうつしまこかもは、第九にほとゝきすの哥に、鶯のかひこの中にほとゝきすひとりむまれてなとよめる長哥有。うつしはうつゝにて、現在の眞實の子かといふ心なり。日本紀には顯の字をうつしとよみ、此集には現の字をかけり。顯現はつゝける文字にておなし心なり。まこは子の子にはあらす。第九に人ならは親のまなこそとよめるにおなし。第廿防人か哥にもうつくしきまこか手はなれとよめる、皆眞子なり。ひるはしめらには、ひねもすの心なり。第十七にもよめり。第十三にはしみらとよめるおなしことなり
 
反歌二首
 
4167 毎時彌米頭良之久咲花乎折毛不折毛見良久之余志母《トキコトニイヤメツラシクサクハナヲヲリモヲラスモミラクシヨシモ》
 
落句の之は助語なり、
 
4168 毎年爾來喧毛能由惠霍公鳥聞婆之努波久不相日乎於保(21)美《トシノハニキナクモノユヱホトヽキスキケハシノハクアハヌヒオホミ》 毎年謂(フ)2之(ヲ)等之乃波《トシノハト》1、
 
落句は霍公鳥を聞は只四月と五月とにて其外を云なり、
 
初、あはぬ日をおほみ きかぬ日おほきをいへり
 
右二十日雖v未v及v時依v興|豫《カネテ》作也、
 
爲3家(ノ)婦贈2在v京尊母1所v誂作歌一首并短歌
 
家婦は坂上大孃なり、尊母は坂上郎女なり、
 
初、爲2家婦1 坂上大孃なり。尊母、大伴坂上郎女なり。誹は誂也
 
4169 霍公鳥來喧五月爾笶爾保布花橘乃香吉於夜能御言朝暮爾不聞日麻禰久安麻射可流夷爾之居者安之比奇乃山乃多乎里爾立雲乎余曾能未見都追嘆蘇良夜須家久奈久爾念蘇良苦伎毛能乎奈呉乃海部之潜取云眞珠乃見我保之御面多太向將見時麻泥波松柏乃佐賀延伊麻佐禰尊安我吉美《ホトヽキスキナクサツキニサキニホフハナタチハナノカヲヨシミオヤノミコトノアサユフニキカヌヒマナクアマサカルヒナニシヲレハアシヒキノヤマノタヲリニタツクモヲヨソノミミツヽナケクソラヤスケクナクニオモフソラクルシキモノヲナコノアマノカツキトルテフシラタマノミカホシミオモワタヽムカヒミムトキマテハマツカヘノサカエイマサネタウトキアカキミ》【御面謂2之美於毛和1、】
 
(22)麻禰久、【官本又云、マネク、】
 
笶は誤れり、咲に作るべし、推量するに書生咲を笑に作り傳へて寫す時、笑を笶には誤れるなるべし、花橘乃香吉とはかうばしき親の御詞と云なり、ミコトノと點ぜるはかなはずミコトヲと讀べし、麻禰久は今の點誤れりマネクと讀べし。此までは京に在し時の事なり、夷ニシのし〔右○〕は助語なり、松柏は和名集云、兼名苑云、柏一名〓【百菊二音、和名加閉、】本草云、柏實【柏音百、】一名榧子、【榧音匪、和名加倍、】神代紀云、至v期果有2大※[虫+也]1松柏生2於背上1云云、これに依らばマツカヤとも讀べし、
 
初、笑爾保布 笑作笑【俗矢字】非。花橘のかをよしみおやのみことゝつゝくるは、香は鼻に入るをいふのみにあらす。明徳惟馨といふことく、よきことをほむるに香芳等の字をくはふる心なり。きかぬ日まねくは、きかぬ日なく、きかぬまなくなり。禰と奈と通する故に、まねくはまなくなり。上にたひ/\見えし詞なり。しら玉のみかほしみおもわ。しら玉のことくみまくほしき御かほなり。玉顔といふ心なり。おもわは注のことし。第九に勝鹿眞間娘子をよめる哥にも、もち月のみてる面輪《オモワ》に花のことゑみてたてれはとよめり。松柏のさかえいまさね、柏はかやなり。和名集云。兼名苑云。栢一名※[木+掬の旁]。【百菊二音、和名加閉。】又云。本草云。柏實【柏音百。】一名榧子【榧音匪。和名加倍。】惠と倍と通《・同韻》すれは加|倍《ヘ》を加|惠《エ》になし、惠と也と通《・五音》すれは、展轉してかへをかやといふなるへし。松柏は霜雪にもかれすしてときはなる物なれは、そのことくさかえてましませといはふなり。論語云。歳寒然後知2松栢之後1v凋。莊子讓王篇曰。孔子曰天寒既至(リ)、霜雪既降。吾是以知2松栢之茂1也。第六市原王宴祷2父安貴王(ヲ)1歌に
  春草は後はかれやすしいはほなすときはにいませたふときわか君
 
反歌一首
 
4170 白玉之見我保之君乎不見久爾夷爾之乎禮婆伊家流等毛奈之《シラタマノミカホシキミヲミスヒサニヒナシヲレハイケルトモナシ》
 
夷ニシのし〔右○〕は助語なり、
 
廿四日應2立夏四月節1也、因v此廿三日之暮忽思2霍公(23)鳥曉喧聲1作歌二首
 
春の内にも立夏の日より鳴こと第十七第十八に事舊たり、
 
初、二十四日應2立夏四月節1也 第十七云。霍公鳥者、立夏之日來鳴必定。第十八に遊行女婿《ウカレメ・アソヒ》土師《ハシ》か哥に
  をりあかしこよひはのまむほとゝきすあけむ朝は鳴わたらむそ
哥後注云。二日應2立夏節1故謂2之明旦將1v喧也
 
4171 常人毛起都追聞曾霍公鳥此曉爾來喧始音《ツネヒトモオキツヽキクソホトヽキスコノアカツキニキナクハツコヱ》
 
郭公の初聲を臥て聞は忌ことにや、
 
初、常人もおきつゝきくそ 此下にいたりて
  月立し日より|をき《乎伎・起也》つゝ打しのひまてときなかぬほとゝきすかも
 
4172 霍公鳥來喧響者草等良牟花橘乎屋戸爾波不殖而《ホトヽキスキナキトヨマハクサトラムハナタチハナヲヤトニハウヱステ》
 
第十云月夜吉鳴霍公鳥欲見吾草取有見人毛欲得、
 
初、ほとゝきすきなきとよまは草とらむ 草を引てさはやかにして、ほとゝきすの飛わたるをみむ。橘をうへはそのしけみにかくれてみゆましけれはうゑしとなり。第十に、第十八に
  月夜よみ鳴霍公鳥みまくほりわか草とれる見む人もかな
  郭公こゆなきわたれともしひをつくよになそへその影もみん
後の哥は、はとゝきすのなきわたるをみんといふ下心に引合するなり
 
贈2京丹比家1歌一首
 
下の二十七葉にも右一首贈2京丹比家1とあり、田村大孃などが丹比氏の妻となれる歟、
 
4173 妹乎不見越國敝爾經年婆吾情度乃奈具流日毛無《イモヲミスコシノクニヘニトシフレハワカコヽロトノナクルヒモナシ》
 
初、わか心との 上にとこゝろとも、心とゝも、ますらをのさとき心ともよめる哥あけてかそふへからす。なくる日もなしはなくさむ日もなしなり
 
追和2筑紫太宰之時春花梅1謌一首
 
初、追和筑紫太宰 第五卷に三十三首梅哥并序并追和哥あり。第十七にも追和六首有
 
4174 春裏之樂終者梅花手折乎伎都追遊爾可有《ハルノウチノタノシミヲヘハウメノハナタオリオキツヽアソフニカアラム》
 
(24)此歌の點不審なり、春の樂の終らむ時梅の花を手折置たりとも何の用かあらむ、今按第二の句はタノシキハテハと讀べきか、春は面白き中にも樂しききはまりはと云意なり、乎は手を寫し誤まりてタヲリテキツヽと云へるにや、置は此集の假名於伎なれば乎の字なるべからず、落句はアソブニアルベシと讀べし、春の樂しき限りを云はば梅を手折來て遊ぶ時に有べしとよめる歟、
 
初、春のうちのたのしみをへは 此哥はかく訓しあらたむへき歟
  春のうちのたのしきはては梅の花たをりをきつゝあそふに有へし
はてはきはまりなり。手折をきつゝは、めのまへに折てをくなり。今の點の心は、手をりをきつゝといふを、其會の日の後の事をいふと心得て、かくは訓したれと、古今集に
  梅かゝを袖にうつしてとゝめては春は過ともかたみならまし
これには似すして、しほみかれたる花の枝はあまりのことなるへし。手折於伎都追《・置此集オク今樣ヲク》とかゝすして、乎伎とかけるは、乎と於と通する故なり。下に月立し日よりおきつゝといふをも、於伎都追《・起也此集與今共同》とはかゝすして、乎伎都追とかけるも、これにおなしことはりなり
 
右一首二十七日依v興作v之
 
詠2霍公鳥1歌二首
 
4175 霍公鳥今來喧曾无菖蒲可都良久麻泥爾加流流日安良米也《ホトヽキスイマキナキソムアヤメクサカツラクマテニカルヽヒアラメヤ》 毛能波(ノ)三箇(ノ)辭《コトハ》闕v之(ヲ)
 
菖蒲、【官本或菖v晶、】
 
初、ほとゝきす今きなきそむ 毛能波三箇辞闕v之とは、此みつのかなをのぞきて、よまんとおもひてよみたれは、そのよしを注せらるゝなり。次の哥に六箇辭をのそけるは、右の上の、てにをの三字をくはへて除てよむなり。古今集におなしもしなき哥あり。これらより出たる歟
 
4176 我門從喧過度霍公鳥伊夜奈都可之久雖聞飽不足《ワカカトユナキスキワタルホトヽキスイヤナツカシクキケトアキタラス》 毛能波?爾乎六箇辭闕v之
 
(25)四月三日贈2越前判官大伴宿禰池主(ニ)1霍公鳥歌、不v勝2感舊之意1述v懷一首并短歌
 
4177 和我勢故等手携而曉來者出立向暮去者振放見都追念鴨見奈疑之山爾八峯爾波霞多奈婢伎谿敞爾波海石榴花咲宇良悲春之過者霍公鳥伊也之伎喧奴獨耳聞婆不怜毛君與吾隔而戀流利波山飛超去而明立者松之佐枝爾暮去者向月而菖蒲玉貫麻泥爾鳴等余米安寐不令宿君乎奈夜麻勢《ワカセコトテタツサハリテアケクレハイテタチムカヒユフサレハフリサケミツヽオモフカモミナキシヤマニヤツヲニハカスミタナヒキタニヘニハツハキハナサキウラカナシハルシスクレハホトヽキスイヤシキナキヌヒトリノミキケハサヒシモキミトワレヘタテヽコフルトナミヤマトヒコエユキテアケタテハマツノサエタニユフサレハツキニムカヒテアヤメクサタマヌクマテニナキトヨメヤスイシナサテキミヲナヤマセ》
 
念鴨、【官本又云、オモヘカモ、】  松之佐枝爾、【幽齋本、佐作v挾、】
 
念鴨をオモフカモと點ぜるは誤なり、オモヘカモと讀べし、ミナキシ山は射水郡にあるか、ミナキノ山と讀べきか、みて心をなぐさむと云ひつづけたり、イヤシキナキ(26)ヌは彌頻喧ぬなり、是までは池主が越中掾にて有し時かたみに隔なく時につけて遊び慰さまれし事を述らるるなり、獨耳聞婆不怜毛は同し郭公なれど獨きけばさびしとなり、不怜は上に云如くつれづれなるを云のみにはあらず面白からぬ心なり、安寢不令宿はし〔右○〕は助語、な〔右○〕はね〔右○〕と同五音なればやすいねせでと云なり、第五に憶良の思2子等1歌の落句に夜周伊斯奈佐農と云に同じ、今按ヤスイネサセデ又はヤスイネシメデと讀べし、落句はうき事々に同じからむとなり、
 
初、うらかなし春の過れは これは第二に日並皇子尊の舎人か哥に
  朝日てる嶋のみかとにおほつかな人音もせねはまうらかなしも
これとはたかひて、心おもしろき春の過れはといふ心なり。ほとゝきすいやしきなきぬは、いよ/\つゝきて鳴なり。此卷下に、鳴※[奚+隹]《ナクトリ》はいやしきなけとゝいふに、彌及鳴杼とかけり。追付《オヒツク》といふことを、をひしくといふは、をひて及ふなり。その心なり。やすいしなさて君をなやませとは、ほとゝきすの鳴を聞ては、君も我を思ひ出へけれは、行てなけといふ心なり。鳴をきゝては物をおもへはなやませとはいへり。今案、安寢不令宿とかけれは、やすいねしめてとよむへき歟。その故は、第五に山上憶良の思2子等1 歌に、麻奈迦比爾、母等奈可可利提、夜周伊斯奈佐農《ヤスイシナサヌ》とよめるは、安寢《ヤスイ》を不2爲成1《シナサヌ》といふ心、あるひはしもしは助語にて、やすいをなさぬといふ心と聞えたり。もしこゝをやすいしなさてとよまは、かしこをは奈と禰とをかよはし、佐と勢とをかよはして、やすいしねせぬと見るへし
 
反歌
 
4178 吾耳聞婆不怜毛霍公鳥丹生之山邊爾伊去鳴爾毛《ヒトリノミキケハサヒシモホトヽキスニフノヤマヘニイユキナクニモ》
 
和名集云、越前國丹生【爾不】郡丹生、此丹生は池主のすまるる處なり、そなたに鳴ゆけどもろともにきかねば不怜となり、落句の伊は發語の辭なり、
 
初、ひとりのみきけはさひしも 吾耳は心を得てかけり。にふの山へにいゆきなくにもは、池主か越中椽にて有ける家や、家持の舘よりは丹生といふ山の方に侍けん。いは發語の詞なり
 
4179 霍公鳥夜喧乎爲管和我世兒乎安宿勿令寐由米情在《ホトヽキスヨナキヲシツヽワカセコヲヤスイシナスナユメコヽロアレ》
 
安宿勿令寢、【官本云、ヤスイシナスナ、】
 
第四句はヤスイナネセソと讀べし、
 
初、霍公鳥よなきをしつゝ 第二にも、さたのをかへに鳴鳥のよなきかはろふとよめり。第十二には、みとりこの夜啼をしつゝともよめり。安宿勿令寢。これをはさきの今案のことくならは、やすいなねせそとよむへし。さらすは、やすいしなすなと讀へし。しは助語にて奈と禰とをかよはすれは、やすいしねすなゝり。ねすなは、ねしむなといふ心なれは、勿令寢とかけるにかなへり。やすいしなさてとよみてはかなはす
 
(27)不v飽d感2霍公鳥1之情(ニ)u述v懷作歌一首并短歌
 
4180 春過而夏來向者足檜木乃山呼等余米左夜中爾鳴霍公鳥始音乎聞婆奈都可之菖蒲花橘乎貫交可頭良沼久麻而爾里響喧渡禮騰母尚之努波由《ハルスキテナツキムカヘハアシヒキノヤマヨヒトヨメサヨナカニナクホトヽキスハツコヱヲキケハナツカシアヤメクサハナタチハナヲヌキマシヘカツラヌクマテニサトトヨミナキワタレトモナホシヽノハユ》
 
可頭良沼久、【官本、幽齋本、並無2沼字1、】
 
第二句はナツコムカヘバと讀べし、可頭良沼久麻而爾、沼の字なきをよしとす、ナホシのし〔右○〕は助語なり、
 
初、春過て夏來むかへは 第一に持統天皇の御哥に、春過て夏來にけらしとよませたまへるにおなし。昌蒲、秘密の儀軌經の中にも、昌の字、艸に不v从してかける事おほし。未考本草等、疑後人从艸歟
 
反歌三首
 
4181 左夜深而曉月爾影所見而喧霍公鳥聞者夏借《サヨフケテアカツキツキニカケミエテナクホトヽキスキケハナツカシ》
 
喧霍公鳥、【幽齋本、喧作v鳴、】
 
4182 霍公鳥雖聞不足網取爾獲而奈都氣奈可禮受鳴金《ホトヽキスキケトモアカヌアミトリニトリテナツケナカレスナクカネ》
 
(28)不足をアカヌと點ぜるはアカズなりけむを書生の誤れるなるべし、今按字に任せてタラズとも讀べきか、腰句は今の本然るべし、ナヅケナはなづけむなと云なり、落句はかれずなくかになり、
 
初、あみとりにとりてなつけな なつけんなゝり。かれすなくかねは絶すなくかになり。禰と爾と通す。第十七に
  郭公夜こゑなつかしあみさゝは花は過ともかれすかなか牟
不足《アカズ》、あかぬは誤也
 
4183 霍公鳥飼通良婆今年經而來向夏波麻豆將喧乎《ホトヽキスカヒトホセラハヨトシヘテイマコムナツハマツナキナムヲ》
 
今年、【官本云、コトシ、】
今年をヨトシと點ぜるは筆者の失錯なり、來向をイマコムと點ぜるは點者の誤なり、コムカフと讀べし、第一にもかく書てこむかふとよめり、
 
初、ほとゝきすかひとほせらはことしへてこむかふ夏はまつなきなんを 來向をこゝろを得て今こんと訓したれと、只こゝは有のまゝによむへきにや。こむかはん夏はといはすして、こむかふといひても定てきたりむかふものなれは事たれり
 
從2京師1贈來歌一首
 
家持妹の家持妻坂上大孃に贈るなり、下云、贈2京人1歌二首とあるは今の答歌なり、
 
4184 山吹乃花執持而都禮毛奈久可禮爾之妹乎之努比都流可毛《ヤマフキノハナトリモチテツレモナクカレニシイモヲシノヒツルカモ》
 
山吹をもて家持妻によそふるなり、カレニシのに〔右○〕は助語なり、山吹をば手に取もてど此花に似たる人は我を置て遠くゆきたれば、つれなくかるる妹と云、つれなくか(29)るれども山吹に似たる人なれば花を取持につけてもしのぶとなり、
 
右四月五日従2留女之《トヽムルムスメノ》女良1所v送也
 
女良、【官本、良作v郎、】
 
留女はトヾマルヲムナと讀べし、其故は下に女郎者即大伴家持之妹とあればなり、良は官本に依て郎に作るべし、
 
初、從留女之女郎【誤作良】所送也 上の女をむすめと訓したるは誤なり。末にいたりて返哥二首ありて注云。右爲贈留女之女郎所誹家婦作也。女郎者即大伴家持之妹。今あによめにおくれはつれもなくかれにしいもとはいへり。つれもなくとは我を京にとゝめてひとり下れるをうらむやうにいひてしたふなり
 
詠2山振花1歌一首并2短歌1
 
4185 宇都世美波戀乎繁美登春麻氣?念繁波引攀而折毛不折毛毎見情奈疑牟等繁山之谿敝爾生流山振乎屋戸爾引植而朝露爾仁保敝流花乎毎見念者不止戀志繁母《ウツセミハコヒヲシケミトハルマケテオモヒシケレハヒキヨチテヲリモヲラスモミルコトニコヽロナキムトシケヤマノタニヘニオフルヤマフキヲヤトニヒキウヱテアサツユニニホヘルハナヲミルコトニオモヒハヤマテコヒシシケシモ》
 
落句の志は助語なり、
 
反詠
 
官本詠作v歌、
 
(30)4186 山吹乎屋戸爾殖?波見其等爾念者不止戀已曾益禮《ヤマフキヲヤトニウヱテハミルコトニオモヒハヤマスコヒコソマサレ》
 
六日遊2覽布勢水海1作歌一首并短歌
 
4187 念度知大夫能許乃久禮能繁思乎見明良米情也良牟等布勢乃海爾小舩都良奈米眞可伊可氣伊許藝米具禮婆乎布能浦爾霞多奈妣伎垂姫爾藤浪咲而濱淨久白波左和伎及及爾戀波末佐禮杼今日耳飽足米夜母如是巳曾禰年乃波爾春花之繁盛爾秋葉能黄色時爾安里我欲比見都追思努波米此布勢能海乎《オモフトチマスラヲノコノコノクレニシケキオモヒヲミアキラメコヽロヤラムトフセノウミニヲフネツラナメマカイカケイコキメクレハヲフノウラニカスミタナヒキタルヒメニフチナミサキテハマキヨクシラナミサワキシク/\ニコヒハマサレトケフノミニアキタラメヤモカクシコソイヤトシノハニハルハナノシケキサカリニアキノハノモミツルトキニアリカヨヒミツヽシノハメコノフセノウミヲ》
 
及及爾、【官本又云、シキシキニ、】
 
コノクレニとは木晩の如くになり、或はコノクレノとも讀べし、今の點と同意なり、(31)ミアキヲメは物を見て心をはらして明らかになすなり、文選に目察をみあきらむとよめり、小船ツラナメは列並なり、古事記、仁徳天皇段の御製云、淤岐弊邇波袁夫泥都羅之玖《オキベニハヲブネツラシク》云云、これも列敷にて今と同意なり、伊コギメグレバ、伊は發語詞なり、シクシクは白浪を承たり、戀ハマサレドとは布勢海をしのぶを云なり、カクシコソのし〔右○〕は助語なり、
 
初、このくれにしけき思ひを 木の下やみのことく、おもひのふさかりて、しけきをいへり。みあきらめ、文選に目察を見あきらむとよめり。小舟つらなめは、列並なり。第十五に、いさりするあまのをとめは小舟のりつらゝにうけりとよめり。つら/\にうけりなり。をふのうらたるひめ皆上に見えたり。白浪さわきしく/\にとは、しき浪の心につゝけたり。戀はまされとゝはおもしろさをこふる心のまさるなり
 
反歌
 
4188 藤奈美能花盛爾如此許曾浦已藝廻都追年爾之努波米《フチナミノハナノサカリニカクシコソウラコヘミツヽトシニシノハメ》
 
贈2水烏越前判官大伴宿禰池主1歌一首并短歌
 
初、水烏 和名集云。尓雅云。※[盧+鳥]※[茲/鳥](ハ)水烏也
 
4189 天離夷等之在者彼所此間毛同許己呂曾離家等之乃經去者宇都勢美波物念之氣思曾許由惠爾情奈具左爾霍公鳥喧始音乎橘珠爾安倍貫可頭良伎?遊波之母麻須良乎乎等毛毛奈倍立而叔羅河奈頭左比泝平瀬爾波左泥刺渡早(32)湍爾波水鳥乎潜都追月爾日爾之可志安蘇婆禰波之伎和我勢故《アマサカルヒナトシアレハヲココヽモオナシコヽロソイヘサカリトシノヘユケハウツセミハモノオモヒシケシソコユヱニコヽロナクサニホトヽキスナクハツコヱヲタチハナノタマニアヘヌキカツラキテタハムレハシモマスラヲヽトモヽナヘタテヽシクラカハナツサヒノホリヒラセニハサテサシワタシハヤキセニハウヲシツメツヽツキニヒニシカシアソハネハシキワカセコ》 江家
 
經去者、【校本云、ヘヌレハ、】  等毛毛奈倍立而、【幽齋本無2一毛1、點亦隨v無、】  水烏乎、【別校本、鳥作v烏、】
 
夷等之の之は助語なえ、ソコユヱニはそれ故になり、遊波之母、タハルヽハシモと續べし、然よむ上に兩義あるべし、一つには波之は愛にて母は助語にて句絶なるべし、第八に吾波之|嬬乃《ツマノ》と讀たればはしきと云はで波之と云も波之佶と云に同じ、二つには波之は間にて橘を玉に貫て鬘として遊ぶ間もなり、此時は句絶にあらず、等毛毛奈倍立而は一つの毛は衍文なり、叔羅河は越前なり丹生郷に有べし、國府ある處なる故なり、平瀬は淺瀬なり、和名集云、説文云瀬、【音頼、】水流2於砂上1也、早湍は和名集云、湍、唐韻云、他端反、一音專、【和名世、】急瀬也、水鳥は水烏に作れる本に依べし、潜都追はカヅケツヽと讀べし、之可志アソバネは然爲てと云へる歟、然遊べにて志は助語歟、下に江家と注せるは後人江家の點と云へるなり、下効v之、
 
初、たはるれはしも 遊波之母とかけり。これをは、たはるゝはしもとよみて句とすへし。はしもは愛の字にて、たはるゝかよしといふ心なり。これまてはなくさむへきやうをいひて、これより下は鵜を送るよしなり。ますらをゝともなへたてゝ。一の毛の字あまれり。しくら川なつさひのほり。しくら川は越前なり。越前判官に鵜を送るゆへに、かなたの川をいへり。ひら瀬には、和名集云。説文云。瀬(ハ)音頼。水流2於砂上(ニ)1也 世。早湍には和名亦云。湍(ハ)唐韻云。急瀬也。水烏をしつめつゝ、烏を誤て鳥に作れり
 
4190 叔羅河湍乎尋都追和我勢故波宇可波多多佐禰情奈具左(33)爾《シクラカハセヲタツネツヽワカセコハウカハタヽサネコヽロナクサニ》
 江家
 
第二句は早瀬を尋つつなり、
 
4191 ※[盧+鳥]河立取左牟安由能之我婆多婆吾等爾可伎無氣念之念婆《ウカハタチトラサムアユノシカハタハワレニカキムケオモヒシオモハヽ》
 
※[盧+鳥]河立、【幽齋本又云、ウカハタテ、】  之我婆多婆、【幽齋本二婆共作v波、仙覺抄、與2今本1同、】
 
取サムアユはからむあゆなり、シカハタハは兩義あるべし、之我《シガ》は己之《サガ》と云に同じ、下にも秋花之我色色爾とよめり、豆と多と通ずれば己之初者にて鮎のはつほはと云なり、二つには鰭者なり、鰭は俗にひれと云物なり、神代紀にも鰭廣物鰭狹物《ハタノヒロモノハタノサモノ》と云へり、カキムケは掻向よにておこそかなり、是にも亦兩義あるべし、はたはを初者と意得、吾におこせよと云意なるべし、鰭者と得得ば唯今かかる鮎をこそ捕たれと我方へ鰭を掻向よとなるべし、落句はオモヒシモハヾと讀べし、し〔右○〕は助語なり、六帖に鵜の歌とせり、
 
初、うかはたちとらさんあゆ とらんあゆなり。しかはたはわれにかきむけ。しかはそかにて、それかなり。上のあゆをいへり。はたはとは、多と豆と通する故に、初はなり。第十に、はたあらしもとはもくせにと七夕の哥によめるも、初あらしなり。うかはに立てとらんあゆの、それか初穗《ハツホ》をは、我をまことにおもはゝわかかたへむけておこせよといへるなり。魚のひれをはたといふ。鰭廣物《ハタノヒロモノ》鰭(ノ)狹物《サモノ》なと延喜式第八祝詞にも見えたれは、それかひれをはわかかたへかきむけよといふにやとも申へき歟。立春日獺祭v天といふになすらへは、初て鮎を得たらんには、鵜をやりたる人のかたへひれかきむくへきにや
 
右九日附v使贈v之、
 
(34)詠2霍公鳥并藤花1一首并2短歌1
 
花の下に歌の字落たるか、
 
4192 桃花紅色爾爾保比多流面輪乃宇知爾青柳乃細眉根乎咲麻我理朝影見都追※[女+感]嬬良我手爾取持有眞鏡盖上山爾許能久禮乃繁溪邊乎呼等米爾旦飛渡暮月夜可蘇氣伎野邉遙遙爾喧霍公鳥立久久等羽觸爾知良須藤浪乃花奈都可之美引攀而袖爾古伎禮都染婆染等母《モヽノハナクレナヰイロニニホヒタルオモワノウチニアヲヤキノホソキマヨネヲヱミマカリアサカケミツヽヲトメラカテニトリモタルマソカヽミフタカミヤマニコノクレノシケキタニヘヲメスラメニアサトヒワタリユフツキヨカソケキノヘニハル/\ニナクホトヽキスタチクヽトハフレニチラスフチナミノハナナツカシミヒキヨチテソテニコキレツシマハシムトモ》
 
發句より手ニ取特有までは眞鏡を云はむため、眞鏡は蓋上山を云はむ爲にて次第に序なり、細眉根乎咲麻我理は宋玉(ガ)神女賦云、眉聯娟似2蛾揚1兮、張平子(ガ)南京賦云、蛾眉連卷、傅武仲(ガ)舞賦曰、眉連娟以増v繞兮、鑑は匣に入て持吉れば匣と云はざれど蓋上山とつづけたり、呼等米爾はヨブラメニと讀べきか、人よぶらむやうにの意なり、暮月夜はユフヅクヨと讀べし、カソケキ野邊はかすかなるなり、此かすかは常の言に云(35)とは少替れり、班孟堅(ガ)西都賦、又揚子雲(ガ)羽獵賦に並に云く、原野|簫條《カスカニシテ》、雄略紀云、寒風|肅然《カスカナル》之|晨《トキ》云云、物さびたるを云なり、羽觸爾知良須は羽に觸て散らすなり、袖中抄に打羽振と云と同語なりと思はれたるは誤なり、終の二句は第八三野連石守が梅歌の下句と同じ、
 
初、細きまゆねをゑみまかり 文選宋玉神女賦云。眉|聯娟《・マカリテ》(ト)似v蛾揚兮。傅武仲舞賦云。眉|連毛娟《・ホソクシテ》(ト)以増v繞《マカレルコトヲ》兮。張平子南京賦云。蛾眉|連卷《・マカレリ》(ト)。まそかゝみふたかみ山とつゝけむために上はこと/\く序にいへり。第十六に乞食着か鹿をあはれみてよめる哥に、八重たゝみへくりの山といはむとて、こと/\しく序をいへるが、哥のかさりとなりてみゆるたくひなり。第十七に、二上山賦等には、玉くしけふたかみ山といへり。今も鏡をいるゝくしけの心に、まそかゝみふたかみ山とはつゝけたり。めすらめに朝とひわたり。めすらめは、人のめすやうにといふ心なり。みつから越中守なれはその心なるへし。第十六乞食者か蟹をあはれふ哥にも、なにせんにわをめすらめや。あきらけく、我知ことを、哥人と、わをめすらめや、ふえふきと、わをめすらめや、ことひきと、わをめすらめやなとよめり。夕月夜かそけき野へにとは、かそけきは、かすけきといふ詞なり。下にもいさゝむら竹吹風の音のかそけきとよめり。文選班孟堅西都賦云。原野蕭條(ト)。揚子雲羽獵賦亦有2此句1。雄畧紀云。寒風《サムカセ》肅然《カスカナル》之|晨《トキ》云々。肅は西都賦によるに、蕭歟。肅にてもさはよみぬへし。袖にこきれつは、こきいれつなり。第八に
  引よちてをらは散へく梅の花袖にこきいれつそまはそむとも
第十八橘長哥にも、白たへの袖にもこきれとよめり。古今集に素性法師の哥にも
もみちはゝ袖にこきいれてもて出なん秋はかきりとみん人のため
 
4193 霍公鳥鳴羽觸爾毛落爾家利盛過良志藤奈美能花《ホトヽキスナクハフレニモチリニケリサカリスクラシフチナミノハナ》
一云|落奴倍美袖爾古伎禮都藤浪乃花《チリヌヘミソテニコキレツフチナミノハナ》也
 
初、一云ちりぬへみ袖にこきれつ これはかやうにもよまれていつれをもすてぬなり。古今集にもこれあり。上に注之
 
同九日作v之
 
更怨2霍公鳥哢晩1歌三首
 
更と云は上に既に聞たる歌あり、初音の後久しくなかねばなり、
 
4194 霍公鳥喧渡奴等告禮騰毛吾聞都我受花波須疑都追《ホトヽキスナキワタリヌトツクレトモワレキヽツカスハナハスキツヽ》
 
4195 吾幾許斯努波久不知爾霍公鳥伊頭敞能山乎鳴可將超《ワカコヽタシノハクシラニホトヽキスイツヘノヤマヲナキカコユラム》
 
(36)第二句はしのぶを知らでなり、イヅベノ山は何邊の山なり、何處邊の山をと云なり、
 
初、いつへの山をなきかこゆらんは 何邊の山なり。名所にはあらす
 
4196 月立之日欲里乎伎都追敲自努比麻低騰伎奈可奴霍公鳥可母《ツキタチシヒヨリヲキツヽウチシノヒマテトキナカヌホトヽキスカモ》
 
乎伎都追は起つつなり、上にも常人も起つつ聞をとよめり、於伎とかかずして乎の字をかける同韻相通の意歟、乎は本音於は末音なれば末を攝《オサ》めて本に歸《カヘ》する意歟、
 
初、月立し日よりをきつゝ 此月立といふは、立夏にて四月節なり。上に自注にくはしく見えたり。四月朔日にはあらす
 
贈2京人1歌二首
 
4197 妹爾似草等見之欲里吾標之野邊之山吹誰可手乎里之《イモニニルクサトミシヨリワカシメシノヘノヤマフキタレカタヲリシ》
 
是は第七に君に似る草と見るより我標し野山の淺茅人な刈そねと云を學ばれたり、京の女郎は家持の妻を山吹によそへたるを今は引替て云へり、今も山吹を草と云ひ、和名集にも六帖にも草に入れたるを、今の連歌の法には木に定めたり、
 
初、妹ににる草と見しより これは上に山振の花とりもちてと家持妹より家持の妻坂上大孃のもとへよみてつかはしたるを、家持のかはりて二首にてかへさるゝなり。第十一にも、山ふきのにほへる妹とよみて、美麗にくらふへき花なれは、やかてかくはいへり。連哥するものは、山吹を木といへと、こゝにたしかに草とよめり。此哥は第七に
  君ににる草とみるよりわかしめし野山の淺茅人なかりそね
此哥にてよまれけるなるへし
 
4198 都禮母奈久可禮爾之毛能登人者雖云不相日麻禰美念曾吾爲流《ツレモナクカレニシモノトヒトハイヘトアハヌヒマネミオモヒソワカスル》
 
(37)京の女郎が歌につれもなくかれにし妹をしのびつるかもと云をかへすなり、カレニシのに〔右○〕は助語なり、アハヌヒマネミはあはぬ日は間もなくなり、
 
初、つれもなくかれにしものと これは、つれもなくかれにし妹をしのひつるかもといふ返しなり。つれもなくはつれなしといふにおなし。無頬《ツラナシ》といふ心なるへし。つらは顔のそはなれは、やかてかほなり。なさけなきことをも、よく堪てさりけなきは、面目もなきことゝいふ心にて、つれもなしとはいふなるへし。あはぬ日まねみは上にも有し詞なり
 
右爲v贈2留女之女郎1所v誂2家婦1作也
 
女郎者即大伴家持之妹
 
十二日遊2覽布勢水海1、舩泊2於|多祐灣《タコノウラニ》1望2見藤花1各述v懷作歌四首
 
祐は※[示+古]を誤れり下效v之、
 
初、多※[示+古]灣 ※[示+古]誤作祐
 
4199 藤奈美乃影成海之底清美之都久石乎毛珠等曾吾見流《フチナミノカケナルウミノソコキヨミシツクイシヲモタマトソワカミル》
 
六帖に藤の歌として腰句をしづむ石をも玉とこそ見れと改たり、
 
初、しつく石をも玉とそわかみる しつくは沈なり。第七に、わたのそこしつく白玉とも、みなそこにしつく白玉ともよめる寄v玉歌に、ともに沈の字をかけり。又第十一にも、あふみの海しつく白玉といふに、又沈の字なり。古今集哀傷哥に
  水の面にしつく花の色さやかにも君かみかけのおもほゆるかな
顯昭のいはく。水のおもにしつく花の色とは、しつむといふなり。されは普通本にはしつむとかけり。しつむといふは、うつるといふ心なり。水の面にうつれる花の色のやうにさやかに見えて、おほむかほのおほゆるとよめり。萬葉云 今哥なり。催馬樂云。かつらきのてらのまへなるや、とよらのてらのにしなるや、えのは井に、しらたましつくや。ましらたましつくや。定家卿密勘云。しつくといふ詞、心はさまてたかひ侍らす。おさへてしつむとは申にくゝや。沈はそこへいり、ひたるは水に入たり。たとへはひたれるやうにて、水波にあらはれゆられて、かくれあらはるゝやうにするをいふ。又底より、さき出たらん石も、波にあらはれて、ゆらるゝやうに、はつれて見えむをいふへしとそ申されし。此ひたる證哥にも是は叶て可侍。今おもはく。心は定家卿のゝたまへることくみゆれと、沈はかならすそこへ入のみにあらす。うかふをもいふへし。浮沈とわかつ時は、定家卿のことし。うかふをも沈むといふ證おほかるへし。おもひ出るは、菅三品の哥
  なには江のあしまにやとる月みれはわかみひとつはしつまさりけり
此哥もそこきよみ沈石といへるは、さきの出たる心にはあらす。底清き海なれは、さらても石は玉とみゆへきを藤の影のうつるに映して、ことにさはみなすなり。これ藤によりてなれは、藤をほむるなり。第十四、東哥に
  しなのなるちくまのかはのさゝれしも君しふみては玉とひろはむ
これをあはせておもふへし
 
守大伴宿禰家持
 
4200 多※[示+古]乃浦能底左倍爾保布藤奈美乎加射之?將去不見人(38)之爲《タコノウラノソコサヘニホフフチナミヲカサシテユカムミヌヒトノタメ》
 
拾遺集は人丸集に依て載らる、六帖には作者を云はず、
 
初、たこのうらの 又※[示+古]を祐に作れり。次下の哥おなし。此哥世に人丸のとおほえたる歟
 
次官《シクワン》内(ノ)藏(ノ)忌寸繩麻呂
 
4201 伊佐左可爾念而來之乎多祐乃浦爾開流藤見而一夜可經《イサヽカニオモヒテコシヲタコノウラニサケルフチミテヒトヨヘヌヘシ》
 
發句はかりそめの意なり、落句は一夜寢ぬべしなり、
 
初、いさゝかにおもひてこしを 此哥つねには赤人のとて
  いさゝめにおもひし物をたこのうらにさける藤浪一夜ねぬへし
一夜へぬへしは、第八に赤人のすみれの哥に野をなつかしみひと夜ねにけるといへる心なり
 
判官久米朝臣廣繩
 
4202 藤奈美乎借廬爾造灣廻爲流人等波不知爾海部等可見良牟《フチナミヲカリホニツクリアサリスルヒトトハシラニアマトカミラム》
 
初、藤なみをかりほにつくり 藤の陰にかくるゝを、かりほにつくりとはいひなせるなり。あさりする人とはしらにあまとかみらん。此ていによめる哥上にあまたみえたり
 
久米朝臣繼麻呂
 
恨2霍公鳥不1v喧歌一首
 
(39)4203 家爾去而奈爾乎將語安之比奇能山霍公鳥一音毛奈家《イヘニユキテナニヲカタラムアシヒキノヤマホトヽキスヒトコヱモナケ》
 
發句を拾遺集には家にきて、六帖にはいへにいきて、落句は共に一こゑもかなともり、
 
初、家にゆきて何をかたらん 是も同時の哥なれはかくはよめり
 
判官久米朝臣廣繩
 
見2攀折保寶葉1歌二首
 
和名集云、本草云、厚朴一名厚皮、【楊氏漢語抄云、厚木、保保加之波乃木】葉の字幽齋本にかしはと點ぜり、仁コ紀にかなへり、
 
4204 吾勢故我捧而持流保寶我之婆安多可毛似加青蓋《ワカセコカサヽケテモタルホヽカシハアタカモニルカアヲキキヌカサ》
 
蜀志云、先主劉備字玄コ云云、舍(ノ)東南角(ノ)籬上(ニ)有2桑樹(ノ)生(ズルモノ)1高五丈餘、遙望見童童如2小車蓋1、或謂當v出2貴人1、先主少時與2諸小兒1於2樹下1戯言、吾當v乘2此羽葆蓋車1、令第六儀制令云、凡蓋一位深緑、三位以上紺、四位縹云云、上に此峯も迫《セ》に笠立てとも青旗の葛木山などもよめるを引合すべし、六帖には落句をあをきかさにはとてほほかしはの歌とせり、
 
初、わかせこかさゝけてもたるほゝかしは 和名集云。本草云。厚朴一名厚皮【楊氏漢語抄云。厚木(ハ)保々加之波乃木。】あたかもにたるか青きゝぬかさは、蜀志云。先主劉備字玄徳。〇舍東南角籬上有2桑樹1生。高五丈餘。遙望見童々如2小車蓋1。或謂當v出2貴人1。先王少時與2諸小兒1於2樹下1戯言。吾必當v乘2此羽※[草がんむり/保]蓋車1。第十に、高まとの此みねもせにかさたちてとゝもよみ、青※[竹/旗]のこはたの山、青※[竹/旗]の葛木山、青※[竹/旗]の忍坂山なとよめるも、みな木のしけれるが青き※[竹/旗]のやうなるをたとへて、枕言におけり。今青きゝぬかさににたりといふも、まことに似たるへし。そのうへ越中守のさゝけてもたるは青き蓋そのよせあり。令義解第六、儀制令云。凡蓋(ハ)〇一位|深緑《コキミトリ》。三位以上(ハ)紺。四位(ハ)縹。四品以上及一位(ハ)頂角履v錦垂v總云々。四位以下には蓋はさゝぬ事にや
 
(40)講師(ノ)僧(シ)惠行
 
延喜式玄蕃云、凡諸國講師擇2年四十五已上、讀師四十已上者1補v之、但雖2階業已滿之輩1而年限未v及不v可2擬補1、
 
初、講師僧 延喜式玄蕃云。凡諸國講師擇2年四十五已上1。讀師四十已上者補v之。但雖2階業已滿之輩1而年限未及不v可2擬補1
 
4205 皇神祖之遠御代三世波射布折酒飲等伊布曾此保寶我之波《スメロキノトホミヨミヨハイヒキオリサケノムトイフソコノホヽカシハ》
 
第三句射は發語の詞、布折はシキヲリと讀べし、若は射折布にてありけむが倒に寫されけるにや、日本紀云、葉盤八枚、【葉盤此云2※[田+比]羅耐1、】和名集云、本朝式云、十一月辰日宴曾、其飲器、參議以上朱漆椀、五位以上葉椀、【和語云2久保天1、】又云、漢語鈔云、葉手【比良天、】古は食ふ物をも木の葉に盛、又柏など折敷て其上に居もしければ椎の葉に盛るともよみ、膳夫をかしはでと云ひ.食物居る盤を折敷とも云へり、神供は後までも柏に盛故に曾禰好忠が歌にさか木取卯月になれば神山の楢の葉かしは本つ葉もなしとよめり、延喜式の大甞會其外供御料の注文に青※[木+斛]干※[木+斛]などあまた處に見えたり、
 
初、すめろきのとほきみよ/\はいしきをり いは發語の詞なり。いにしへはくふ物をもこのはにもり、又柏なと折しきて、その上にすゑもしけれは、椎の葉にもるともよみ、膳夫をかしはてともいひ、くふものすゆるを、をしきといふは、折敷といふ心なり。神供は後まてもかしはにもるゆへに、曾丹か哥に
  榊取う月になれは神山のならの葉柏もとつはもなし
延喜式の大甞會の式、其外供御料の注文に青※[木+斛]干※[木+斛]《アヲカシハホシカシハ》なとまた所に見えたり。日本紀云。葉盤八枚《ヒラテヤツ》【葉盤此(ヲハ)云2※[田+比]羅耐《ヒラテ》1。】和名集云。本朝式云。十一月辰日宴曾、其飲器參議以上朱漆椀。五位以上(ハ)葉椀【和語云、久保天。】又云。漢語鈔云。葉手【比良天】
 
守大伴宿彌家持
 
(41)還時濱上仰2見月光1歌一首
 
此まで八首同日の歌なり、
 
4206 之夫多爾乎指而吾行此濱爾月夜安伎?牟馬之未時停息《シフタニヲサシテワカユクコノハマニツクヨアキテムウマシマシトメヨ》
 
之未時、【別校本、未作v末、】
 
澁谷に入らば月を見はるかしがたかるべければ、此濱に馬を暫駐めて月を見飽むなり、未は末に作れるよし、
 
初、月夜あきてむ 月夜をみてあきたらんなり。馬しましとめよは、しはしとめよなり。第六に
  馬のあゆみおしてとゝめよすみのえのきしのはにふににほひてゆかむ
以上同時の哥なり
 
守大伴宿禰家持
 
萬葉集代匠記卷之十九上
 
(1)萬葉集代匠記卷之十九下
 
廿二日贈2判官久米朝臣廣繩1霍公鳥歌怨恨歌一首并短歌
 
霍公鳥歌、【官本無v歌、衍文也、】
 
4207 此間爾之?曾我比爾所見和我勢故我垣都能谿爾安氣左禮婆榛之狹枝爾暮左禮婆藤之繁美爾遙遙爾鳴霍公鳥吾屋戸能殖木橘花爾知流時乎麻多之美伎奈加奈久曾許波不怨之可禮杼毛谷可多頭伎?家居有君之聞都都追氣奈久毛宇之《コヽニシテソガヒニミユルワカセコカカキツノタニヽアケサレハナラノサエタニユフサレハフチノシケミニヨリ/\ニナクホトヽキスワカヤトノウヱキタチハナハナニチルトキヲマタシミキナカナクソコハウラミスシカレトモタニカタツキテイヘヰセルキミカキヽツヽツケナクモウシ》
 
(2)垣都(ノ)谿とは青垣山とも云如く家を廻りて垣の如くある谷なり、播磨風土記(ニ)云、香山里、【本名鹿來墓、】家内谷(ハ)是香山(ノ)之谷(ナリ)、形如(シ)2垣(ノ)廻(レルカ)1故號2家内谷(ト)1云々、和名集云、揖保《イヒホノ》郡香山、【加古也萬、】此を思ひ合すべし、榛をナラと點ぜるは誤なり、ハギと讀べし、遙遙は上に云如くハロゝニと讀べし、幽齋本によそ/\にと點ぜるはよからず、今のヨリ/\は彼ヨソ/\を書生の又誤まれるなるべし、谷カタツキテは上に海片就而《ウミカタツキテ》とも山片就而《ヤマカタツキテ》ともよめるが如く谷片|懸《カケ》て住なり、
 
初、かきつのたにゝ これは所の名にはあらす。廣繩か家ちかく垣のことくある谷をいへるなり。第十三に、神なひのきよきみたやのかきつ田の池の堤とつゝけたるにおなし心なり。榛之狹枝爾。はきのさえたになり。ならとあるは誤なり。遙々爾、はる/\になり、時をまたしみ、時いまたしきなり。谷かたつきては、第六に、いさなとり海かたつきてとよみ、第十に、あしひきの山かたつきてとよめるたくひなり
 
反歌一首
 
4208 吾幾許麻?騰來不鳴霍公鳥比等里聞都追不告君可母《ワカコヽタマテトキナカヌホトヽキスヒトリキヽツヽツカヌキミカモ》
 
不告、【官本云、ツケヌ、今點誤矣、宜v依2官本1、】
 
詠2霍公鳥1歌一并短歌
 
4209 多爾知可久伊敞波乎禮騰母許太加久?佐刀波安禮騰母保登等藝須伊麻太伎奈加受奈久許惠乎伎可麻久保理登(3)安志太爾波可度爾伊?多知由布敝爾波多爾乎美和多之古布禮騰毛比等巳惠太爾母伊麻太伎巳要受《タニチカクイヘハヲレトモコタカクテサトハアレトモホトトキスイマタキナカスナクコヱヲキカマクホリトアシタニハカトニイテタチユフヘニハタニヲミワタシコフレトモヒトコヱタニモイマタキコエス》
 
安志太、【幽齋本、太作v多、】
 
木高クテ里ハアレドモとは里にある木も高くて霍公鳥の來鳴に便よかるべく見ゆれどもなり、
 
4210 敷治奈美乃志氣里波須疑奴安志比紀乃夜麻保登等藝須奈騰可伎奈賀奴《フチナミノシケリハスキヌアシヒキノヤマホトヽキスナトカキナカヌ》
 
右二十三日〓久米朝臣廣繩和
 
追(テ)和2處女墓歌1一首并短歌
 
初、追和處女墓歌 第九に田邊福磨か集に出たる哥三首高橋連蟲麻呂か集に出たる哥三首、以上六首のうち、長歌二首あり。これらをさして今追和とはいふなり
 
4211 古爾有家流和射乃久須婆之伎事跡言繼知努乎登古宇奈比壯子乃宇都勢美能名乎競争登玉尅壽毛須底?相争爾(4)嬬問爲家留※[女+感]嬬等之聞者悲左春花乃爾太要盛而秋葉之爾保比爾照有惜身之莊尚大夫之語勞美父母爾啓別而離家海邊爾出立朝暮爾滿來潮之八隔浪爾靡珠藻乃節間毛惜命乎露霜之過麻之爾家禮奥墓乎此間定而後代之聞繼人毛伊也遠爾思努比爾勢餘等黄楊小櫛之賀左志家良之生而靡有《イニシヘニアリケルワサノクスハシキコトヽイヒツキチヌヲトコウナヒタケヲノウツセミノナヲアラソフトタマキハルイノチモステヽアラソフニツマトヒシケルヲトメラカキケハカナシサハルハナノニホエサカエテアキノハノニホヒニテレルヲシキミノサカリナルスラマスラヲノコトイタハシミチヽハヽニマヲシワカレテイヘサカリヘタニイテタチアサユフニミチクルシホノヤヘナミニナヒクタマモノツカノマモヲシキイノチヲツユシモノスキマシニケルオクツキヲコヽマサタメテノチノヨノキヽツクヒトモイヤトホニシノヒニセヨトツケヲクシシカサシケラシオヒテナヒケリ》
 
壯子、【官本又云、ヲトコ】  過麻之爾家禮、【別校本云、スキマシニケレ、】  生而靡有、【校本、無v而、】
 
久須婆之伎は題十八に七夕の長歌にあやにくすしみとありしを注せしに同じ、あやしき意なり、言繼はイヒツグと讀べし、ウナビ壯子もヲトコと讀べし、相爭爾はアラソヒニと讀べし、爾太要盛而は第十三人麿集歌に都追慈花爾太遙越賣作樂花在可遙越賣《ツヽジハナニホエルヲトメサクラハサカエヲトメ》、此よふやうに似て書やう同じ、節間毛は第十七池主歌に白波の寄來る玉藻よのあひだもとよめるによらば今も然讀べし、和名集に兩節之間をよ〔右○〕と讀よし(5)注せられたるに同じ、さらずはフシノマモと讀べし、今の點は誤れり、過マシニケレは過いにければなり、奧墓乎はオクツキヲと讀べし、此間はコヽニなるをコヽマと點ぜるは書生の誤なり、終の三句は第九につかの上に木の枝靡けりとよめるは黄楊櫛を墓に刺たるが木と成て生出けるにや、神代紀上(ニ)云、伊弉諾《イサナキノ》尊又投(タマフ)2湯津(ノ)爪櫛(ヲ)1、此即|化2成《ナル》筍《タカムナト》1、同下云、鹽土老翁《シホツヽノヲヂ》即取2嚢|中《ナカノ》玄《クロ》櫛1投(シカバ)地則|化2成《ナリヌ》五百箇竹林《イホツタカハラニ》1山海經云、夸|父《ホ》與v日競走逐v日(ヲ)、渇欲v得(ムト)v飲、飲2于河渭1、河渭不v足、北(ノカタ)飲2大澤1未(ダ・ルニ)v至道渇而死棄(タリ)2其杖1、化爲2※[登+おおざと]林1、かゝる例和漢に多なれば黄楊小櫛も實に生つきぬべし、
 
初、くすはしき事といひつく くすはしきは、あやしきなり。奇の字を日本紀にくしひとよめる心なり。第十八七夕哥に、こゝをしもあやにくすしみともよめり。稱徳紀云。神護二年十月壬寅奉v請2脇寺※[田+比]沙門像(ヨリ)所v現舍利於法華寺1詔曰。然今示現賜【弊流】如來乃尊岐大御舍利波、常奉v見【余利波】大(キク)御色毛光照※[氏/一]甚美之。大《オホ》御形毛圓滿天別好久大【末之末之波、】特爾久須之久奇事乎思議【許止】極難之。をしき身のさかりなるすら。壯を莊に作れるは誤なり。なひくたまものふしのまも。節間とかけるをつかのまとよめるは誤なり。藻にもふしのあれは、ふしのまもといひて、そのふしのまのほとなけれは、心はつかのまといふもたかはす。伊勢か哥に、なにはかたみしかき蘆のふしのまもといへる、これとおなし心なり。露霜の過ましにけれとは、露霜のきゆるにたとへて、此世を過いましけれはといふ心なり。つけをくししかさしけらしは、しか、は然にてかくなり。まことにつけのをくしを刺置たるがおひつきてなひけるか。さらすは第九に、つかの上のこのえなひけりとよめるを、黄楊の小櫛といふ木の名より、くしもさす物なれは、つかのしるしにさし置けるが、おひつきて有といひなせる歟。神代紀上云。伊弉諾尊又投2湯津(ノ)爪櫛(ヲ)1此(レ)即|化2成《ナル》筍《タカンナト》1。下云。老翁《ヲチ》即取(テ)2嚢(ノ)中《ナカノ》玄《クロ》櫛(ヲ)1投(シカハ)v地(ニ)則|化2成《ナリヌ》五百箇竹林《イホツタカハラニ》1。山海經曰。夸|父《ホ》與v日競走逐v日。渇欲(シテ)v得v飲飲2于河渭(ニ)1、不(シテ)v足北(カタ)飲(ントス)2大澤1。未v至道(ニシテ)渇而死。棄(タリ)2其杖(ヲ)1。化(シテ)爲2※[登+おおざと]林(ト)1。かゝるためし和漢におほけれは、黄楊のをくしもまことにおひつきぬへし
 
4212 乎等女等之後能表跡黄楊小櫛生更生而靡家良思母《ヲトメラカノチノシルシトツケヲクシオヒカハリオヒテナヒキケラシモ》
 
右五月六日依v興大伴宿禰家持作v之
 
4213 安由乎疾美奈呉能浦廻爾興須流浪伊夜千重之伎爾戀度可母《アユヲイタミナコノウラミニヨスルナミイヤチヘシキニコヒワタルカモ》
 
右一首贈2京丹比家1
 
初、右一首贈京丹比家 上にも贈京丹比家歌とて、妹をみすこしのくにへに年ふれは、とよまれたれは親族の女なるへし
 
(6)挽歌一首并短歌
 
4214 天地之初時從宇都曾美能八十伴男者大王爾麻都呂布物跡定有官爾之在者天皇之命恐夷放國乎冶等足日木山河阻風雲爾言者雖通正不遇日之累者思戀氣衝居爾玉桙之道來人之傳言爾吾爾語良久波之伎餘之君者比來宇良佐備?嘆息伊麻須世間之厭家口都良家苦開花毛時爾宇都呂布守都勢美毛無常阿里家利足千根之御母之命何如可毛時之波將有乎眞鏡見禮杼母不飽珠緒之惜盛爾立霧之失去如久置露之消去之如玉藻成靡許伊臥逝水之留不得常枉言哉人之云都流逆言乎人之告都流梓弓弦爪夜音之遠(7)音爾毛聞者悲彌庭多豆水流涕留可禰都母《アメツチノハシメノトキニウツソミノヤソトモノヲハオホキミニマツロフモノトサタメタルツカサニシアレスメロキノミコトカシコミヒナサカルクニヲオサムトアシヒキノヤマカハヘタテカセクモニコトハカヨヘトタヽニアハスヒノカサナレハオモヒコヒイキツキヲルニタマホコノミチユキヒトノツテコトニワレニカタラクハシキヨシキミハコノコロウラサヒテナケキテイマスヨノナカノウケクツラケクサクハナモトキニウツロフウツセミモツネナクアリケリタラチネノミモノミコトノナニシカモトキシハアラムヲマソカヽミミレトモアカスタマノヲノヲシキサカリニタツキリノウセユクコトクオクツユノキエユクカコトタマモナスナヒキコイフシユクミツノトヽメモエストマカコトヤヒトノイヒツルサカコトヲヒトノツケツルアツサユミツマヨルオトノトホオトニモキケハカナシミニハタツミナカルヽナミタトヽメカネツモ》
 
正不遇、【官本又云、タタニアハヌ、】  遠音爾毛、【官本又云、トホトニモ、】
 
初時從はハジメノトキユとも讀べし、ウツソミノヤソトモノヲハとは世の中に有としある物部はの意なり、官爾之在者は之は助語なり、國乎冶等は冶もをさむとはよめども今は治の字を書生の誤れるなるべし、山河阻は河をすみて讀べし、玉桙之道來人之は今按第二第十三にも此二句あり、並にみちくるひとのと點ぜれば今もなずらへて讀むべし、守都勢美毛は守は宇を誤まれり改むぺし、御母之命は今按ミオモノミコトと讀べし、ナニシカモはし〔右○〕は助語なり、時之波の之も同じ、梓弧爪夜音之遠音爾毛は今按爪の下に引の字落てアヅサユミツマヒクヨトノトホトニモなり、是は第四に海上女王奉和歌の上句なり、然るを引の字の落たるを知らずして強て點ぜる故に誤なり、庭多豆水より終までは第二に日並皇子舍人等が歌の中に御立爲之島乎見時《ミタチセシシマヲミルトキ》と云歌の下の三句なり、但彼落句は止曾金鶴《トゾカネツル》とあるのみ替れり、
 
初、ひなさかる國をゝさむと 冶は治なるへし。たゝし冶にてもをさむとよむへし。風雲にことはかよへと、使のことなり。第八、七夕の哥にも、風雲はふたつのきしにかよへともとよみ、第廿、防人か哥には、家風は日にけにふけとゝも、又みそらゆく雲もつかひともよめり。みちゆき人のつてことに。雄畧紀に、流言とも、飛聞ともかきて、つてことゝよめり。うけくつらけく、うくつらくなり。宇都勢美。宇誤作守
 
反歌二首
 
(8)4215 遠音毛君之痛念跡聞都禮婆哭耳所泣相念吾者《トホオトニモキミカナケクトキヽツレハネノミナカルアヒオモフワレハ》
 
遠音毛、【官本又云、トホトニモ、】  痛念跡、【校本又云、イタムト、】
 
發句は官本の又點の如く讀べし、第四句はネニノミナカユと讀べし、
 
4216 世間之無常事者知良牟乎情盡莫大夫爾之?《ヨノナカノツネナキコトハシルラムヲコヽロツクスナマスラヲニシテ》
 
弔らひ終て此歌は慰さむるなり、情盡莫とは性を滅《ホロボ》すばかりはなゝげきそとなり、
 
右大伴(ノ)宿禰家持|予《トフラフ》d聟南右大臣家藤原二郎之喪2慈母1患u也、【五月二十七日】
 
和名集云、爾雅云、女子之夫爲v壻【細反、】作2聟〓1、【和名無古、】孝謙紀云、勝寶元年四月、以2大納言從二位藤原朝臣豊成1拜2右大臣1、二郎の名未v詳、
 
初、聟南右大臣家藤原二郎 和名集云。爾雅云。女子之夫爲v壻【細反。】作2聟〓1【和名無古。】孝謙紀云。勝寶元年四月以2大納言從二位藤原朝臣豐成(ヲ)1拜(ス)2右大臣(ニ)1。二郎はいまた誰といふ事を不考     .
 
霖雨晴日作歌一首
 
4217 宇能花乎令腐霖雨之始水逝縁木積成將因※[貌の旁]毛我母《ウノハナヲクタスナカメノミツハナニヨルコツミナスヨラムコモカモ》
 
(9)卯花は四《ウ》月の名をもこれが咲て負すれど五月に盛なれば五月山卯花月夜などもよめり、五月の長雨の異名を今卯花くたしと連歌などにするも此歌を本とせるなり、第十春相聞歌に春去者宇乃花具多志《ハルサレバウノハナクタシ》とよめるは同じ詞ながら彼處に注せし如く心替れり、始水逝は今按ミヅバナユキと讀べし、みづばなは俗に水の出ばななど云へり、始をはなとよめるは鼻の意なり、鼻をはじめともよめり、漢書楊雄傳(ニ)反離騷(ニ)曰、有2周氏之蝉※[女+焉](タル)1兮、或(ハ)鼻2祖(タリ)於汾隅1、注(ニ)劉コ曰、鼻(ハ)始也、増韻云、鼻(ハ)面之中部、易艮爲v鼻(ト)、鼻(ハ)始也、人之胚胎鼻先受v形(ヲ)、故謂(テ)2始祖1爲2鼻祖1、兒を誤て※[貌の旁]に作れり改むべし、
 
初、うの花をくたすなかめのみつはなに 五月に長雨ふりて、卯花をくさらするを、卯花くたしといふなり。くたしはこゝに令腐とかきて、くたすと用によめるを、くたしと躰によみなして、五月雨の名とするは、此哥よりはしまれる歟。うの花は四月の物なれと、多分五月にかゝるゆへに、第十には、五月山うの花月夜とよめり。又第十春相聞の哥に
  春されはうの花くたし我こえし妹かかきまはあれにけるかも
此哥は雨にてくつるにあらす。わか度々うの花垣をこゆとて、つほみをそこなひてくたすなり。そこに委尺せり。始水逝とかけるをは、みつはなゆきとよむへし。みつはなは、俗に水の出はなといふにおなし。始をはなといふは、鼻の字の心なり。人の顔の中に鼻はさし出てまつ見ゆる物なれは、鼻の字をやかてはしめともよめり。木つみは上にもあまたよめり。第二十に糞とかけり。木の屑なとをいへり
 
見2漁夫火光1歌一首
 
和名集云、漁夫一云漁翁、【無良岐美、】
 
4218 鮪衝等海人之燭有伊射里火之保爾可將出吾之下念乎《シヒツクトアマノトモセルイサリヒノホニカイテナムワカシタオモヒヲ》
 
古事記下、袁祁《ヲケノ》皇子(ノ)御歌云、意布袁余志斯※[田+比]都久阿麻余《オフヲヨシシビツクアマヨ》云々、大魚吉《オホヲヨシ》は鮪とのたまはむためなり、衝とは〓《ヒシ》を以て衝なり、第六には赤人の歌鮪釣とよめり、六帖に火の歌に入れたるに發句をいたづらにと改たるはおぼつかなし、
 
初、しびつくとあまのともせる 第六赤人の哥には、しひつるとよめり。つきても取なるへし。第三に門部王の哥に
  みわたせはあかしの浦にたける火のほにそ出ぬるいもにこふらく
此哥に模せられたりとみゆ
 
(10)右二首五月
 
4219 吾屋戸之芽子開爾家理秋風之將吹乎待者伊等遠彌可母《ワカヤトノハキサキニケリアキカセノフカムヲマタハイトトホミカモ》
 
初、わかやとのはきさきにけり 第八に天平十二年六月に非時藤花と、芽子《ハキ》の黄葉とを、家持の坂上大孃におくられたる哥二首有。その萩の哥
  わか宿のはきの下葉は秋風もいまたふかねはかくそもみてる
 
右一首六月十五日見2芽子早花1作v之
 
從2京師1來贈歌一首并短歌
 
4220 和多都民能可味能美許等乃美久之宜爾多久波比於伎?伊都久等布多麻爾末佐里?於毛敝里之安我故爾波安禮騰宇都世美乃與能許等和利等麻須良乎能比伎能麻爾麻爾之奈謝可流古之地乎左之?波布都多能和可禮爾之欲理於吉都奈美等乎牟麻欲妣伎於保夫禰能由久良由久良耳於毛可宜爾毛得奈民延都都可久古非婆意伊豆久安我(11)未氣太志安倍牟可母《ワタツミノカミノミコトノミクシケニタクハヒオキテイツクトフタマニマサリテオモヘリシアカコニハアレトウツセミノヨノコトワリトマスラヲノヒキノマニマニシナサカルコシチヲサシテハフツタノワカレニシヨリオキツナミトヲムマヨヒキオホフネノユクラユクラニオモカケニモトナミエツヽカクコヒハオイツクアカミケタシアヘムカモ》
 
和我禮爾之欲理、【別校本、理作v里、】  麻欲比伎、【幽齋本、比作v妣、】
 
ミクシゲニは御匣になり、タクハヒオキテは貯へ置てなり、イヅクトフはいづくと云なり、海神は殊に珠玉の壘を貪愛するにより娘を玉によそふるからかくは讀出せり、マスラヲノ引ノマニ/\とは家持の喚下さるゝに任てなり、シナサカルより下の四句のつゞき第二よりあまた見えたり、オキツナミ等乎牟マヨヒキはとをむ〔三字右○〕は遠むにて浪の遠ざかるに喩へたるか、集中の例遠の假名は登保なれば今の書やうはたがへるに似たれど、まれ/\は通してかける事此詞のみならず、上にも見えたりき、浦島子を詠ぜる歌に釣舟之得乎良布見者《ツリフネノトヲラフミレバ》とよめるも彼處に注せし如く釣船の遠ざかるを見ればと云へる意と聞ゆるに、さらば得保良布《トホラフ》とこそ書べきを乎の字をかければ今も彼に准らふべし、楚詞云、目(ハ)※[目+弟]而《ナガシメニシテ》横(タフ)v浪(ヲ)也、宋玉神女賦云、望2余(ガ)帷2延視兮、若2流波之將1v瀾、傳武仲舞(ノ)賦云、眉連|娟《・ホソクシテ》以増v繞《マガレルコトヲ》兮、目|流※[目+弟]而《ナガシメニシテ》而横(タフ)v波《シロヲ》(シロヲ)、遊仙窟云、※[陷の旁+炎]《・カヘレル》々横(レル)浪、翻|成《ナセリ》2眼尾《マナジリヲ》1、又文選に曾波をたかはめ〔四字右○〕と訓ぜり、意伊豆久安我未は老附我身なり、老に至れるを老付と云、秋付《アキツク》家付《イヘツク》などよめるに准(12)らふべし、ケダシアヘムカモは蓋將堪《ケダシタヘム》か不堪《タヘジ》となり、不堪とは待得て相見るにたへじとなり、第四にも此郎女跡見庄より此家持妻いまだ坂上大孃なりけるに贈られたる長歌あり、慈愛の深さ引合せて見るべし、
 
初、わたつみの神のみことの 龍神はことに寶珠等を貪愛するものなり。よりてみくしけにたくはへていつくといふ玉にまさりてとはつゝけたり。引のまに/\は、第六にも、あたら世のことにしあれはおほきみの引のまに/\とよめり。ますらをは夫君家持をいへり。坂上大孃は、ことし勝寶二年の春になりて下られたりと見えたり。しなさかるこしちをさしてはふつたの別にしより。しなさかるは上にあまたありき。はふつたのわかれにしよりは、第二に人丸の哥にも、玉もなすなひきねしこを、ふかみるのふかめておもふと、さぬる夜はいくはくもあらす。はふつたのわかれしくれはとよめり。第九にも、とほつ國よみのさかひに、はふつたのおのかむき/\、天雲のわかれしゆけはともよめり。おきつなみとをむまよひき。これはおきつなみのよせきたるか引てとをよることく、うるはしきまゆと、むすめの大孃をほむるなり。第七に、朝こく舟もおきによるみゆとよみ、あち村のとをよる海ともよめり。とをむは其心なり。まよひきは第六、第十二、第十四等にも見えたり。楚詞云。目(ハ)※[目+弟]《ナカシメニシテ》而横(タリ)v波(ヲ)也。遊仙窟云。※[陷の旁+炎]々《・カヘレル》(ト)横(レル)浪(ハ)翻(テ)成《ナセリ》2眼尾《マナシリヲ》1。今この心にていへり。大ふねのゆくら/\に。上にあまたよめり。おいつくあかみは、老附吾身なり。秋になるを、秋つけはとよめることく、おいたるを老付とはいへり。けたしあへむかもは、けたしこひによく堪て逢まての命有得むやとなり。第四にも坂上郎女跡見庄より此家持の妻いまた坂上大娘なりける時おくられたる長哥あり。慈愛ふかゝりける人と見えたり
 
反歌一首
 
4221 可久婆可里古非之久志安良婆末蘇可我彌美奴比等吉奈久安良麻之母能乎《カクハカリコヒシクシアラハマソカヽミミヌヒトキナクアラマシモノヲ》
 
古非之久志、【校本無v志、六帖亦無、】  末蘇可我彌美奴比、【幽齋本、彌美二字作2美彌1、】
 
第二句の志は助語なり、ミヌヒトキナクは見ぬ日もなく見ぬ時もなくなり、六帖に鏡の歌に入れて第四句をねぬひとよなくと有に付て推量するに幽齋本に上句の終の彌下句の始の美を訂正してかけるが古本にて、六帖の作者の見たるは其彌を誤て禰に作りける歟、或は見誤りける歟、吉は和訓と思ひけるなるべし、若は六帖も見ぬ一夜なりけるを流布の本の誤れる歟、何れにもあれ此集にはかなはず、
 
初、みぬひ時なく みぬ日もみぬ時もなくなり
 
右二首大伴氏坂上邸女賜2女子大孃1也、
 
(13)九月三日宴歌二首
 
4222 許能之具禮伊多久奈布里曾和藝毛故爾美勢牟我多米爾母美知等里?牟《コノシクレイタクナフリソワキモコニミセムカタメニモミチトリテム》
 
六帖にはわぎもこがつとに見せむともみぢをりてむとあり、
 
右一首〓久米朝臣廣繩作v之
 
4223 安乎爾與之奈良比等美牟登和我世故我之米家牟毛美知都知爾於知米也母《アヲニヨシナラヒトミムトワカセコカシメケムモミチツチニオチメヤモ》
 
也母、【幽齋本、母作v毛、】
 
右一首守大伴宿禰家持作v之
 
4224 朝霧之多奈引田爲爾鳴鴈乎留得哉吾屋戸能波義《アサキリノタナヒクタヰニナクカリヲトヽメエテムヤワカヤトノハキ》
 
注の意に依に行幸し給ふ君を田井に鳴鴈に喩へ、雁は鹿などの如く芽子《ハギ》をば好ま(14)ねば吾身色あれど御意にさしもいらねば行幸を留め得てむやと京に留られ給ふべきことを恨させ給ふ意に喩へてよませたまへるにや、
 
初、朝きりのたなひく田井に 注を見るに、吉野へみゆきしたまふ君を鳴行鴈にたとへ、皇后の御身つからをはきの花にょそへて、鴈は鹿のことく萩を愛せぬものなれはとゝむともとゝめえしとよませたまふ心なるへし
 
右一首歌者幸2於芳野宮1之時、藤原皇后御作、但年月未2審詳1
 
十月五日河邊朝臣東人傳誦(シテ)云v爾《シカ》
 
上に引つゞけて書べし、東人も越中へ下られけるにや、
 
4225 足日木之山黄葉爾四頭久相而將落山道乎公之超麻久《アシヒキノヤマノモミチニシツクアヒテチラムヤマチヲキミカコエマク》
 
シヅク相テとは黄葉と山のしづくとの落相なり、下句を六帖にはおつる山べを君や越らむとあり、
 
初、あしひきの山のもみちにしつくあひて 山のしつくともみちとのおちあふなり
 
右一首同月十六日餞2之朝集使少目秦伊美吉石竹(ヲ)1時守大伴宿禰家持作v之
 
初、朝集使 四度の使《朝集使大帳使税帳使正税使》の隨一なり。雄畧紀云。國(ノ)司《ミコトモチ》郡(ノ)司隨v時|朝集《マウテコハ》、何(ソ)不(ンヤ)d※[聲の耳が缶]2竭《ツクシテ》心府《コヽロキモヲ》1誡勅慇懃《イマシメミコトノリスルコトネンコロナラ》u
 
(15)雪日作歌一首
 
4226 此雪之消遺時爾去來歸奈山橘之實光毛將見《コノユキノケノコルトキニイサカヘナヤマタチハナノミノテルモミム》
 
腰句はいざかへりなむなど云なり、
 
初、此雪のけのこる時に 第廿に、おなし家持
  けのこりの雪にあへてるあしひきの山橘をつとにつみこな
 
右一首十二月大伴宿禰家持作v之
 
4227 大殿之此廻之雪莫蹈禰數毛不零雪曾山耳爾零之雪曾由米縁勿人哉莫履禰雪者《オホトノヽコノモトホリノユキナフミソネシハ/\モフラサルユキソヤマノミニフラシシユキソユメヨルナヒトヤナフミソネユキハ》
 
大殿は下の注に依るに贈左大臣藤原房前の亭なり、寶字四年に太政大臣を贈給ひたれど今はさきなればかくは云へり、
 
初、おほとのゝ此もとほりの雪なふみそね もとほりはめくりなり。ゆめよるな人や。これ一句なり。よるなはあたりへなよりそなり
 
反歌一首
 
4228 有都都毛御見多麻波牟曾大殿乃此母等保里能雪奈布美曾禰《アリツヽオミヽタマハムソオホトノヽコノモトホリノユキナフミソネ》
 
(16)第二句はオホミタマハムゾと讀べし、
 
右二首歌者三形沙彌承2贈左大臣藤原此卿之語1、作(ヲ)誦v之也聞v之傳者笠朝臣|子君《コキミ》、復後傳讀者越中國極久米朝臣廣繩是也、
 
此卿は北を誤て此に作れり、改たむべし、笠朝臣子君世系未v詳、
 
初、贈左大臣藤原北卿【房前也。】北誤作v此
 
天平勝寶三年
 
歌の後委注すべきために唯年をのみ先記さるゝなり、
 
4229 新年之初者彌年爾雪蹈平之常如此爾毛我《アラタシキトシノハシメハイヤトシニユキフミナラシツネカクニモカ》
 
年之初者、【校本、無2之字1、】
 
右一首歌者、正月二日守館(ニシテ)集宴、於v時零雪殊多、積有四尺焉、即主人大伴宿禰家持作2此歌1也、
 
(17)4230 落雪乎腰爾奈都美?參來之印毛有香年之初爾《フルユキヲコシニナツミテマヰリコシシルシモアルカトシノハシメニ》
 
第二句は第十三に夏草乎腰爾莫積《ナツクサヲコシニナツミテ》と云に注せしが如し、第四句の香は哉なり、
 
初、ふるゆきをこしになつみて 上の哥の左注に正月二日守舘集宴。於時零雪殊多積有2四尺1焉。今の哥は三日なれは腰のたけになつむへし。第十三にも、夏草を腰になつみてとよめり。日本紀に仁徳天皇御製歌
 那珥波譬苫《ナニハヒト・難波人》、須儒赴禰苫羅齊《スズフネトラセ・鈴船捉》。許辭那豆瀰《コシナツミ・腰煩》、曾能赴泥苫羅齊《ソノフネトラセ・其船執》。於朋瀰赴泥苫禮《オホミフネトレ・大御船取》
第四に家持
  かくしてや猶やかへらんちかゝらぬ道のあひたをなつみまゐきて
 
右一首三日會2集介内藏忌寸繩麻呂之館1案樂時、大伴宿禰家持作v之
 
于v時積雪彫(リ)2成(シ)重巖之|起《タテルヲ》1、奇|巧《カウニ》綵(リ)2發《ヒラク》草樹之花(ヲ)1、屬v此掾久米朝臣廣繩作歌一首
 
謝惠連雪賦云、瞻v山則千巖倶(ニ)白、
 
4231 奈泥之故波秋咲物乎君宅之雪巖爾左家理家流可母《ナテシコハアキサクモノヲキミカイヘノユキハイハホニサケリケルカモ》
 
撫子は巖におふれど秋こそ花は咲なれど君が宅の雪は秋をもまたで巧に今巖に咲て興を添へたりとよめる意なり、古今にいはほにも咲花かとぞ見るとよめるも此意なり、
 
初、雪はいはほに咲にけるかも 文選謝惠連雪賦云。山則千巖倶(ニ)白(シ)。古今集に、紀秋岑
  白雪の所もわかすふりしけはいはほにもさく花とこそみれ
 
(18)遊行|女婦《ヒメ》蒲生娘子歌一首
 
4232 雪島巖爾殖有奈泥之故波千世爾開奴可君之挿頭爾《ユキシマノイハホニオフルナテシコハチヨニサキヌカキミカカサシニ》
 
雪島、【官本、校本、幽齋本、並又點云、ユキノシマ、】  開奴可、【幽齋本又云、サカヌカ、】
 
雪島は雪の積りて嶋のやうに見ゆるをやがて島と云へり、殖有を仙覺オフルを嫌ひてうゝる〔三字右○〕と讀べき由申されたれど、文選にも此字をおふ〔二字右○〕とよめり、左傳云、夫(ル)學殖也、杜注(ニ)生長也と云へり、うゝる〔三字右○〕と讀ては意かなはず、古點を正義とすべし、ナデシコと云も雪の花を假りに名付たり、千世にさかぬかは咲かじの意なり、サキヌカと點ぜるは誤なり、
 
初、雪嶋のいはほにおふる 雪嶋とは名所にあらす。雪の巖につもれるかたちをいふなり。なてしことよめるもまことのなてしこにあらす。なてしこは岩に生立て花さくものなれは、岩に雪のふりかゝれるを興して、なてしこの花にいひなすなり。とこなつともいふ物なれは、ちよにさかぬか君かかさしに、さけかしといふなり。いにしへはうかれめやうのものもかゝるお
 
于v是諸人酒酣、更《カウ》深|鷄《トリ》鳴、因v此主人内藏伊美吉繩麻呂作歌一首
 
官本是字傍注異云時、
 
4233 打羽振鷄者鳴等母如此許零敷雪爾君伊麻左米也母《ウチハフリトリハナクトモカクハカリフリシクユキニキミイマサメヤモ》
 
(19)打羽振、【六帖云、ウチハフキ、】
 
六帖人を留むと云に入れたるには發句うちはふきとあり、されど和名云、文選射雉賦云、軒〓、波布流俗云波豆々、又此卷の上にも羽振鳴志藝《ハフリナクシギ》とよめり、そのも猶はぶく〔三字右○〕とも點じてむを第二に人麿の歌に朝羽振風社依米夕羽振流浪社來縁《アサハフルカゼコソヨラメユフハフルナキモソキヨレ》と云へり、既に夕羽振流と流の字を添へたれば彼に准らふるに今の鮎にてあるべし、落句は君いにまさめやもなり、在の字をいますと云には替れり、
 
守大伴宿禰家持和歌一首
 
4234 鳴鷄者彌及鳴杼落雪之千重爾積許曾吾等立可?禰《ナクトリハイヤシキナケト《フルユキノチヘニツムコソワレタチカテネ》
 
摘許曾はツメコソと讀べし、つめばこそなり、落句は我立あへねの意なり、立難《タチガテ》と云にはあらず、
 
初、なくとりはいやしきなけと 上にもほとゝきすいやしきなきぬとよめり。千重につめこそは、千重にふりつめばこそなり。われ立かてねは我立あへねなり。上にもかてぬといふ詞おほし。不勝なり
 
太政大臣藤原家之|縣《アガタ》大養命婦奉2天皇1歌一首
 
元正紀云、養老元年正月戊申授從四位上縣犬養橘宿禰三千代從三位、五年五月乙丑正三位縣犬養宿禰橘三千代縁2入道1辭2食封資人1、優詔(アテ)不v聽、聖武紀云、神龜四年十(20)二月丁丑、正三位縣犬養橘宿禰三千代言、天平五年正月庚子朔庚戌、内命婦正三位縣犬養橘宿禰三千代薨、遣2從四位下高安王等1監2護喪事1、賜2葬儀1准2散一位1、命婦(ハ)皇后之母也、十二辛酉遣(ハシテ)2一品舎人親王、大納言正三位藤原朝臣武智麻呂、式部卿從三位藤原朝臣宇合、大藏卿從三位鈴鹿王、右大辨正四位下大伴宿禰道足(ヲ)1、就2縣犬養橘宿禰第(ニ)1、宜v詔贈2從一位1、別勅(アテ)莫v收(ムルコト)2食封資人1、八年十一月丙戌、從三位葛城王、從四位上佐爲王等上v表曰、【第六既引v之、】廢帝紀云、寶字四年八月甲子勅曰、【第三奥書既引2之注1、】繼室從一位縣狗養橘宿禰贈2正一位1爲2大夫人1、初三野王に嫁して葛城王任爲王を生み、後に淡海公の繼室と成て光明皇后を生み給へる人なり、天皇は元明元正聖武の間何れを指て申奉るとも知がたし、
 
初、太政大臣藤原家之縣犬養命婦 元正紀云。養老元年正月戊申授2從四位上縣犬養橘宿禰三千代(ニ)從三位(ヲ)1。五年五月乙丑正三位縣犬養宿禰橘三千代縁2入道1辭2食封資人(ヲ)1。優詔不v聽。聖武紀曰。神龜四年十二月丁丑正三位縣犬養橘宿禰三千代言。縣犬養連五百依、安麻呂、小山守、大麻呂等(ハ)是一祖(ノ)子孫骨肉孔(ハタ)親(シ)。請共(ニ)沐2天恩(ニ)1同給2宿禰姓(ヲ)1。詔許v之。天平五年正月庚子朔庚戌、内命婦正三位縣犬養橘宿禰三千代薨。遣2從四位下高安王等1監2護喪事1賜2葬儀1准2散一位1。命婦(ハ)皇后(ノ)之母也。十二月辛酉遣2一品舎人親王、大納言正三位藤原朝臣武智麻呂、式部卿從三位藤原朝臣宇合、大藏卿從三位鈴鹿王、右大辨正四位下大伴宿禰道足1、就2縣犬養橘宿禰第1宜詔贈2從一位1。別勅(アテ)莫(ラシム)v收(ムルコト)2食封資人(ヲ)1。八年十一月丙戌從三位葛城王從四位上佐爲王等上v表曰。〇葛城親母贈從一位縣犬養橘宿禰上歴2淨御原朝廷1下逮2藤原大宮1、事v君致v命移v孝爲v忠、夙夜忘v勞累代竭v力。和銅元年十一月二十一日供2l奉擧國大甞1。二十五日御宴。天皇譽2忠誠之至1賜2浮杯之橘1。勅曰。橘者菓子之長、上人所v好。何※[さんずい+凌の旁]2霜雪1而繁茂、葉經2寒暑1而不v彫。與2珠玉1共競v光、交2金銀1以逾美。是以汝姓者賜2橘宿禰1一也云々。廢帝紀云。寶字四年八月甲子勅曰。子以v祖爲v尊。祖以v子亦貴。此則不易之〓式、聖主之善行也。其先朝大政大臣藤原朝臣者、非3唯功高(ノミニ)2於天下1。是復皇家外戚。〇宜d依2大公故事1、追以2近江國十二郡1対爲c淡海公u。餘官如v故。以2繼室從一位縣狗養橘宿禰1贈2正一位1爲2大夫人1。諸兄公の表に親母とあるは、初に三野王に嫁して、葛城王、佐爲王等をうみ、三野王卒去の後、淡海公に嫁して、藤原皇后なとをうみ申されけるなるへし。橘奈良麻呂謀反に似たる事有ける時、皇太后のめして教誡せさせ給へる御詞も、したしくのたまへり。つふさに續日本紀に見えたり。今天皇とさしたてまつるは、元明、元正、聖武のうちいつれの御門とも知かたし
 
4235 天雲乎富呂爾布美安多之鳴神毛今日爾益而可之古家米也母《アマクモヲホロニフミアタシナルカミモケフニマサリテカシコケメヤモ》
 
ホロは上に國のまほらとよめるほら〔二字右○〕に同じ、ほ〔右○〕とは〔右○〕とろ〔右○〕とら〔右○〕とかよへば原にと云なり、フミアタシは阿と和と同韻なれば蹈渡しなり、古今集に貫之の天原踏とゞろ(21)かし鳴神もとよまれたる如く、天原に雲を蹈渡し鳴神もと云意なり、袖中抄に顯昭云、ほ〔右○〕はあらはなる詞也、ほに出ほにこそなど云詞也、ろ〔右○〕はやすめ字也、天雲をあらはに蹈渡して鳴神と云也、或はふろにふみあたしともあり、ほ〔右○〕とふ〔右○〕と同五音なり、今按ほろ〔二字右○〕は前の如くなるぺし、ふろ〔二字右○〕の點は用べからず、富の字集中皆ほ〔右○〕の音に用てふ〔右○〕と用たる例なし、天雲を蹈渡して鳴神は恐ろしけれど今日御前にめされてみことのりを承はるにはいかゞまさるべきとなり、
 
初、天雲をほろにふみあたし ほろは原なり。ふみあたしはふみ渡しなり。古今に天原ふみとゝろかしなるかみとよめる心なり。國のまほらといふは、眞原なり。ほろもこれに准すへし。けふにまさりてかしこけめやもとは、天原をふみわたしてなる神はおそろしけれと、けふみかとの御前にめされて、かたしけなきみことのりをうけたまはるほとのおそれたてまつるにはまさらしとなり
 
右一首傳誦〓久米朝臣廣繩也
 
悲2傷死妻1歌一首并短歌 作主未v詳
 
4236 天地之神者無可禮也愛吾妻離流光神鳴波多※[女+感]嬬携手共將有等念之爾情違奴將言爲便將作爲便不知爾木綿手次肩爾取挂倭文弊乎手爾取持而勿令離等和禮波雖祷卷而寢之妹之手本者雲爾多奈妣久《アメツチノカミハナカレヤウツクシキワカツマハナルヒカルカミナルハタヲトメタツサヒテトモニアラムトオモヒシニコヽロタカヒヌイハムスヘセムスヘシラニユフタスキカタニトリカケシツヌサヲテニトリモチテナサケソトワレハイノレトマキテネシイモカタモトハクモニタナヒク》
 
(22)離流、【幽齋本云、サカル、】  鳴波多※[女+感]嬬、【幽齋本又云、ナリハタヲトメ、】  取持而、【幽齋本、而作v?、】
 
ナカレヤはなくあれやにて、なくあればにやの意なり、吾妻離流はワガツマサカルと讀べし、天神地祇に祈申しかどもかひなかりしかば恨奉るやうに云は悲しみの故なり、光神鳴波多※[女+感]嬬とは雷の鳴はためくを女は貴賤ともに機織る物なればハタと云詞設けむとて光神とは云へり、馬季長(カ)長笛(ノ)賦云、雷|叩《ウツガ》v鍛《・ツチヲ》之|※[山/及]※[山/合]《・ナリハタメクガゴトシ》(ト)兮、張平子西京賦、※[手偏+謬の旁]蓼《・ナリハタメイテ》、左太沖(ガ)呉都賦、雷※[石+良]《・ナリハタメイテ》、竹取物語云、霜月しはすのふりこほり、みな月のてりはたゝくにもさはらず來たり、俗にはたゝかみとも云へり、機をはた〔二字右○〕と云も織音のはためく故に名付たる歟、神代紀下云、手玉玲瓏織※[糸+壬]《タタマモユラニハタオル》之|少女《ヲトメ》者誰|之《ガ》子女耶《ムスメゾヤ》、倭父弊は父は文に弊は幣に改たむべし、第十三にも今の如く誤れり、雖祷はノメドモとも讀べし、終の二句は火葬の意なり、
 
初、天地の神はなかれやうつくしき我妻はなる 妻のわつらふ時、あまつ神國津神に祈申せとかひなかりしかは、恨たてまつるやうによみ出せり。ひかる神なるはたをとめとは、いなひかりして神なりはためく心にてはたおるをとめといひかけたり。俗にもはたゝかみといへり。第十に七夕の哥に、あし玉も手玉もゆらにおるはたとよめり。神代紀下云。天孫又問曰。其《カノ》於|秀起《サキタツル》浪穗之上(ニ)、起《タテヽ》2八尋(ノ)殿1而|手《タ》玉(モ)玲瓏織※[糸+壬]之少女《ユラニハタオルヲトメ》者是誰之|子女《ムスメソヤ》耶。倭父幣、々誤作v弊。妹かたもとは雲にたなひくとは、打しなひたる袖の雲のことく見えしが、死して火葬すれは、煙のゝほるを彼袖によそへて雲にたな引とはいへり。第三に土形娘子を泊瀬山に火葬する時、いさよふ雲と人丸のよまれ、出雲娘子を吉野に火葬する時も、霧なれやよしのゝ山の嶺にたな引とよまる。丈部《ハセツカヘノ》龍麿か死ける時大伴三中も雲とたな引とよめり。第七、第十三、第十七にも、およそかやうによめる哥は火葬の煙の心なり
 
反歌一首
 
4237 寢爾等念?之可毛夢耳爾手本卷寢等見者須便奈之《ウツヽニモオモヒテシカモユメノミニタモトマキヌトミルハスヘナシ》
 
寢爾等、【幽齋本、寢作v寤、官本又點云、ウツヽニト、】
 
發句の寢は寤を寫誤れり、等をモと點ぜるも書生の誤なり、ウツヽニトと讀べし、此(23)歌第十二にうつゝにも今も見てしか夢のみに手本まきぬと見ればくるしもと云に大形同じ、
 
初、うつゝにもおもひてしかも 寢は寤の字の誤なるへし。夢にのみ妹かたもとをまきぬると見るはくるしきにこれをうつゝになしてかくおもはゝやなり
 
右二首傳誦遊行女婦蒲生是也
 
二月三日會2集于守舘1宴作歌一首
 
4238 君之往若久爾有婆梅柳誰共可吾※[草冠/縵]可牟《キミカユキモシヒサニアラハウメヤナキタレトトモニカワカカツラカム》
 
吾※[草冠/縵]可牟、【官本、校本、幽齋本、並又點云、ワカカツラカム、】
 
落句はワガカヅラカムと讀べし今の點は誤まれり、
 
初、吾蘰可牟 わかかつらかむとよむへし。柳かつらきともよもきかつらきともあまたよめり。かつらせんと點をくはへたるは誤なり
 
右判官久米朝臣廣繩以2正税帳1應v入2京師1、仍守大伴宿禰家持作2此歌1也、但越中風土梅花柳絮|三月《ヤヨヒニ》初(テ)咲《サク》耳、
 
但と云より下の注の意は第二句の疑をさらむがためなり、
 
詠2霍公鳥1歌一首
 
(24)4239 二上之峯於乃繁爾許毛爾之波霍公鳥待騰未來奈賀受《フタカミノヲノヘノシヽニコモニシハホトヽキスマテトイマタキナカス》
 
第三句意得がたし、今按第十二梅の花吾は散さじ青丹吉ならなる人の來つゝ見るかね、此みるかねを見之根と書たれば今もコモニカハと讀てこもるにかと意得べきか、第十八にも二上の山にこもれるほとゝぎすとよめり、若此歌は文字の誤脱などあるか、第四句の拙くおぼゆるなり、
 
初、ふたかみのをのへのしゝにこもにしは しゝは、しけ木なり。こもにしはゝ、こもりにしほとゝきすとつゝく心なり。之の字をかと用たる事もおほけれは、こもにかはとよみて、こもるにかはといふ心にこゝにて句をきりて心得へき歟。十八卷にも
  ふたかみの山にこもれるほとゝきす今もなかぬか君にきかせん
 
右四月十六日大伴宿禰家持作之
 
春日祭神之日、藤原太后御作歌一首、即賜2入唐大使藤原朝臣清河1、【參議從四位下遣唐使、】
 
春日祭は二月上申なり、清河は聖武紀云、天平十二年十一月正六位上藤原清河授2從五位下1、十三年七月中務少輔、十五年五月正五位下、同六月大養コ守、十七年五月正五位上、十八年四月從四位下、孝謙紀云、天平靜寶元年七月參議、三年九月丙戌朔己酉任2遣唐使1、以2從四位下藤原朝臣清河1爲2大使1從五位下大伴宿禰古麻呂爲2副使1、判官主典各四人、三年二月庚午遣唐使雜色人一百十三人叙位有v差、夏四月丙辰遣(ハシテ)2(25)參議左大辨從四位上石川朝臣年足等1奉2幣帛(ヲ)於伊勢大神宮1、又遣(ハシテ)v使奉2幣帛(ヲ)於畿内七道諸社(ニ)1爲v令2遣唐使等平安(ナラ)1也、十一月丙戌以2從四位上吉備朝臣眞備(ヲ)爲2入唐副使1、四年三月庚辰遣唐使等拜朝、閏三月丙辰召2遣唐使副使已上於円裏1詔給2節刀(ヲ)1、仍授2大使從四位上藤原朝臣清河(ニ)正四位下、副使從五位上大伴宿禰古麻呂(ニ)從四位上、留學生無位藤原朝臣刷雄從五位下(ヲ)1、廢帝紀云、寶字七年正月在唐大使仁部卿正四位下藤原濟河爲2兼常陸守1、八年正月從三位、光仁紀云、寶龜七年四月戊午朔壬申御2前殿1賜2遣唐使(ニ)節刀(ヲ)1、賜2前入唐大使藤原清河書1曰、汝奉2使絶域1、久經2年序1、忠誠遠(ク)著(ハレ)消息有v聞、故(ニ)今因2聘使便1命送v之、仍賜2※[糸+施の旁]一百匹細布一百端砂金大一百兩1、宜努力、共v使歸朝(セヨ)、相見非v※[貝+余](ナルニ)、指不2多(ク)及(ボサ)1、十年二月乙亥贈2故入唐大使從三位藤原朝臣清河從二位1、清河(ハ)贈太政大臣房前之第四子(ナリ)也、勝寶五年爲2大使1入v唐廻(ル)日、遭2逆風1漂2著唐國南邊〓州1、時遇2土人反1。合《コゾリテ》v船被v害、清河僅(ニ)以v身免(カル)、遂留2唐國1不v得2歸朝(スルコト)1、於v後十除年薨2於唐國(ニ)1、
 
初、春日祭神之日 二月十一月共に上の申の日なり。延喜式に具に載たり。入唐大使藤原清河。天平勝寶二年九月丙戌朔己酉、任2遣唐使1。以2從四位下藤原朝臣清河1爲(シ)2大使1、從五位下大伴宿禰古麻呂爲(ス)2副使1。判官主典各四人。三年二月庚午遣唐使雜色人一百十三人叙位有v差。夏四月丙辰遣2參議左大辨從四位上石川朝臣年足等1、奉2幣帛於伊勢大神宮1、又遣v使奉2幣帛於畿内七道諸社1。爲v令2遣唐使等(ヲ)平安(ナラ)1也。十一月丙戌以2從四位上吉備朝臣眞備1爲2入唐副使1。四年三月庚辰遣唐使等拜朝。閏三月丙辰召2遣唐【大歟】使副使已上於内裏1、詔給2二節刀1。仍授2大使從四位上藤原朝臣清河(ニ)正四位下、副使從五位上大伴宿禰古麻呂(ニ)從四位上、留學生無位藤原朝臣|刷雄《・押勝男》(ニ)從五位下(ヲ)1。天平十二年十一月正六位上藤原朝臣清河授從五位下(ヲ)。十三年七月中務少輔。十五年五月正五位下。六月|大養徳《オホヤマト》守。十七年正月正五位上。十八年四月從四位下。勝寶元年七月參議。寶字七年正月在唐大使仁部卿正四位下藤原|河清《紀倒》爲2兼常陸守1。八年正月從三位。寶亀六年六月癸亥朔辛巳以2正四位下佐伯宿禰今|毛人《エミシ》1爲2遣唐大使1。正五位上大伴宿禰盆立從五位下藤原朝臣鷹取(ヲ)爲2副使1。判官録事各四人、造2使船四隻於安藝國1。七年四月戊午朔壬申御前殿賜2遣唐使(ニ)節刀(ヲ)1。賜2前入唐大使藤原清河1書曰。汝奉2使絶域1久經2年序1。忠誠遠著消息有v聞。故今因2聘使1便命送之、仍賜2※[糸+施の旁]一百匹、細布一百端、砂金大一百兩1。宜2能努力共v使歸朝1。相見非v※[貝+余]指不2多及1。寶亀九年十一月乙卯、遭唐第二船到2泊薩摩國出水郡1。又第一船海中斷(テ)舳艫各分。主神津守宿禰國麻呂并唐判官等五十六人乘2其艫1而著2甑嶋郡1。判官大伴宿禰繼人并前入唐大使藤原朝臣清河之女喜娘等四十一人乘2其舳1而著2肥後國天草郡1。寶龜十年二月乙亥贈2故入唐大使從三位藤原朝臣清河(ニ)從二位1。清河(ハ)贈太政大臣房前之第四子也。勝寶|五《四歟》年爲2大使1入v唐。廻日遭2逆風1漂2著唐國南邊驩州(ニ)1。時遇2土人之反(ニ)1合(ツテ)v船被v害。清河僅以v身免、遂留2唐國1不v得2歸朝。於v後十餘年薨2於唐國1
 
4240 大船爾眞梶繁貫此吾子乎韓國邊遣伊波敝神多智《オホフネニマカチシヽヌキコノアコヲカラクニヘヤルイハヘカミタチ》
 
此吾子乎、【校本、乎作v等、】
 
初、此あこを 清河をさしてのたまへり。あこはしたしむ詞なり。皇后の御ために清河は甥なり
 
大使藤原朝臣清河歌一首
 
(26)4241 春日野爾伊都久三諸乃梅花榮而在待還來麻泥《カスカノニイツクミモロノウメノハナサキテアリマテカヘリクルマテ》
 
麻泥、【官本或作v?、】
 
榮而はサカエテと續べし、上に松栢作賀延伊麻佐禰《マツカヘサカエイマサネ》とよぬるが如し、續古今には贈從二位清河と載らるべき事なり、
 
初、春日野にいつくみもろの 光仁紀云。寶亀八年二月戊子、遣唐使拜2天神地祇於春日山下1。去年風波不v調不v得v渡v海。使人亦復頻以相替。至v是副使少野朝臣石根重修2祭禮1也。後のことなれと類したることなれは引之
 
                      即主人卿作v之
大納言藤原家(ニ)餞2之入唐使等1宴日歌一首
 
孝謙紀云、勝寶元年七月藤原朝臣仲麿爲2大納言1、今按宴日歌三首にて此右に即主人卿作之とあるは歌の下の注の誤て處を移せる歟、次の二首も同日の宴の歌なるべし、
 
初、大納言藤原家 これをは大納言藤原家餞之入唐使等宴日歌三首と題して、即主人卿作之六字は哥の左に注すへき歟
 
4242 天雲乃去還奈牟毛能由惠爾念曾吾爲流別悲美《アマクモノユキカヘリナムモノユヱニオモヒソワカスルワカレカナシミ》
 
上句は天雲の行かと見れば又還る如く入唐使も今やがて歸らむ物故になり、六帖に家とうじを思ふとと云に入れたるは心を替て用たる歟、此集には違へり、
 
民都少輔多治眞人古作歌一首
 
(27)古作、【官本、古改作v土、當v依v此、】
 
多治の下に比の字を落せり、聖武紀云、天平十二年正月戊子朔庚子、正六位上多治比眞人|土作《ハシニ》授2從五位下(ヲ)1、十八年四月民部少輔、孝謙紀云、寶字元年五月從五位上、廢帝紀云、寶字七年正月甲辰朔壬子從五位上多治比眞人士師(ニ)授2正五位下(ヲ)1、八年四月文部大輔稱コ紀云、神護二年十一月丁巳從四位下、景雲二年七月治部卿、光仁紀云、寶龜元年六月參議從四位上、二年六月乙丑參議治部卿從四位上多治比眞人土作卒、
 
初、民部少輔多治比【脱比字。】眞人|土作《ハシ》【土誤作古】歌一首 天平十二年正月戊子朔庚子、正六位上多治比眞人|土作《ハシ》授2從五位下1。十五年三月乙巳筑前國司言。新羅薩※[にすい+食]金序貞等來朝。於v是遣2從五位下多治比眞人土作、外從五位下葛井連廣成(ヲ)於筑前1※[手偏+僉]2校供宮之事1。同六月爲2攝津介1。十八年四月民部少輔。勝寶元年八月兼大忠【紫微。】六年四月尾張守。寶字元年五月從五位上。五年十一月西海道巡察副使。七年正月甲辰朔壬子從五位上多治比眞人|土師《ハシニ》授2正五位下1。八年四月文部大輔式部也。神護二年十一月丁巳、從四位下。神護景雲二年正月爲2左京大夫1讃岐守如v故《モトノ》。七月壬申朔爲2治部卿1。左京大夫讃岐守如v故《モトノ》。寶龜元年六月參議從四位上。二年六月乙丑參議治部卿從四位上多治比眞人土作卒(ス)
 
4243 住吉爾伊都久祝之神言等行得毛來等毛舶波早家無《スミノエニイツクハフリカカミコトヽユクトモクトモフネハハヤケム》
 
發句はすみのえをの意なり、腰句はカムゴトと讀べし、神語に云如くの意なり、第九に往方毛來方毛舶之早兼《ユクサモクサモフネノハヤケム》とよめると今の下句似たり、
 
初、すみのえにいつくはふりか 住吉は海上を守りたまふ御神なれは、祝部等か神ことにも、舟の行時も歸る時も、あらき波風にあはすたひらかならんよしをいふ。そのことくにあれといはふ哥なり。第九に
  わたつみのいつれの神をたむけはかゆくさもくさも舟のはやけむ
 
大使藤原朝臣清河歌一首
 
4244 荒玉之年緒長吾念有兒等爾可戀月近附奴《アラタマノトシノヲナカクワカオモヘルコラニコフヘキツキチカツキヌ》
 
第三句ワガモヘルと讀べし、此歌に依るに今年入唐せらるべかりしが其比打つゞき、にはのよからずして明年の春まで遲引しけるなるべし、
 
(28)天平五年贈2入唐使1歌一首并短歌【作主未詳】
 
初、天平五年贈入唐使歌 大使は多治比眞人廣成なり。第五、第八にも此時の哥有。第九にも遣唐使舶海に入時母の子に贈る歌あり。天平五年といへり
 
4245 虚見都山跡乃國青丹與之平城京師由忍照難波爾久太里住吉乃三津爾舶能利直渡日入國爾所遣和我勢能君乎懸麻久乃由由志恐伎墨吉乃吾大御神舶乃倍爾宇之波伎座船騰毛爾御立座而佐之與良牟礒乃埼々許藝波底牟泊々爾荒風浪爾安波世受平久率而可敝理麻世毛等能國家爾《ソラミツヤマトノクニアヲニヨシナラノミヤコユオシテルナニハニクタリスミノエノミツニフナノリタヽワタリヒノイルクニニツカハサレワカセノキミヲカケマクノユヽシカシコキスミノエノワカオホミカミフナノヘニウシハキイマシフナトモニミタテイマシテサシヨラムイソノサキ/\コキハテムトマリ/\ニアラキカセナミニアハセスタイラケクヰテカヘリマセモトノミカトニ》
 
御立座而、【校本、幽齋本並云、ミタチイマシテ、】
 
日入國とは大唐なり、日本紀纂疏云、隋書曰、大業三年其王多利思比孤遣(ス)2使者1、其國書曰、日(ノ)出處天子致2書(ヲ)日(ノ)没《イル》處(ノ)天子(ニ)1無v恙《ツヽガ》云々、帝覽v之不v悦、謂2鴻臚卿1曰、蠻夷既自謂2日出處天子(ト)1不v可v言2大唐之所1v名(クル)、此意なり、尚書云、分命2和仲1宅《ヲラシム》v西、曰2昧谷《・ヒノイルクニト》1、寅《ツヽシムテ》餞《オクル》2納《イル》日1、列子云、廼觀2日(ノ)之所v入、希逸口義云、日之所v入|※[合/廾]《オホフ》v山也、又云夸|父《ホ》不v量v力(ヲ)欲v逐2日影1逐2之於隅谷之際1、希逸云、隅谷日入處也、これらまでには及ぶべからず、所遣をツカハサレと讀ては(29)能も心のつゞかねば、つかはさるの古語にツカハサユと讀むべし、御立はミタチと點じけむを書生のミタテとは誤れるにや、此歌懸麻久乃と云より終までは第六に石上乙麿卿の土佐國に配する時の第二の長歌に凡相似たり、
 
初、日の入國につかはされ もろこしをいへり。日本より西にあたりて遠けれほかくいふなり。尚書曰。分命(シテ)2和仲(ニ)1宅《ヲラシム》v西(ニ)。曰2昧谷《・ヒノイルクニト》(ト)1、寅《ツヽシムテ》餞《オクル》2納《イル》日(ヲ)1。日本紀纂疏曰。隋書傳曰。大業三年其王多利思|此《比歟》孤遣2使者1曰。聞海西菩薩天子重興2佛法1。故遣2朝拜1。兼沙門數十人來學2佛法1。其国書曰。日出處天子致2書(ヲ)日(ノ)没《イル》處(ノ)天子1。無(シヤ)v恙云々。帝覽v之不v悦、謂2鴻臚卿1曰。蠻夷既自謂2日出處天子1、不v可v言2大唐之所1v名。大明陳留謝肇※[さんずい+制]著五雜組云。又倭國有d日出天子致2書日入天子1之語u。列子周穆王篇云。廼觀2日之所v入。希逸口義云。日之所(ハ)v入|※[合/廾]《エン》山也。又云。夸父不v量v力、欲v逐2日影1逐2之於隅谷之際1。希逸云。隅谷(ハ)日(ノ)入(ル)處也。うしはきいまし、第五、第六、第九、第十七にも出たり。ゐてかへりませは、住吉の御神もろこしまてまもりおはしまして歸來む時またひきゐてかへらせたまへとなり
 
反歌一首
 
4246 奥浪邉波莫越君之舶許藝可敞里來而津爾泊麻泥《オキツナミヘナミナコシソキミカフネコキカヘリキテツニハツルマテ》
 
莫越とは舟をなこしそと云なり、後撰集に舟越す潮ともよめり、
 
初、おきつ浪へなみなこしそ 第廿に防人か哥にも、しほふねのへこそ白浪とよめり。へこす白浪なり。後撰集に伊勢
  おさへつゝ我は袖にそせきとむる舟こす塩になさしとおもへは
 
阿倍朝臣老人遣v唐時奉v母悲v別歌一首
 
老人が傳未v詳、
 
4247 天雲能曾伎敞能伎波美吾念有伎美爾將別日近成奴《アマクモノソキヘノキハミワカオモヘルキミニワカレムヒハチカツキヌ》
 
上句は天の限なき如く限なう念へるなり、腰句アガモヘルと讀べし、落句の點も誤れり、ヒチカクナリヌと讀べし、
 
初、天雲のそきへのきはみ 第四丹生女王の哥にも、天雲のそきへのきはみとほけともと有。その外あまたよめり。日近成奴、ひちかくなりぬとよむへし。そきへのきはみおもふとは、かきりなく恩を報せはやとおもひ奉りしといふ心を、今別るゝゆくへの遠きによせていへり
 
右件歌者傳誦之人、越中大目|高安倉《タカヤスクラノ》人種麻呂是也、但(30)年月次者隨2聞之時1載2於此1焉、
 
件歌とは藤原皇后の御取より此方八首なり、種麻呂は未v詳、
 
以2七月十七日1遷2任少納言1仍作2悲別之歌1、贈2貽《ヲクリヲクル》朝集使〓久米朝臣廣繩之館1二首
 
孝謙紀には此選任の事漏たり、七月十七日に少納言に任ぜられて何くれの事取したゝめて、八月四日に明日たゝむとて朝集使に上りたる廣繩が舘の留守の者に、歸られたらば見せよとて書て殘さるゝなり、此までは歌の詞書なり、
 
既滿2六載之期(ヲ)1忽|値《アフ》2遷替之運1、於是別舊之悽、心中(ニ)欝結(ス)、拭《ノコフ》v※[さんずい+帝]之袖、何以《ナニヲモテカ》能|旱《カハカム》、因(テ)作(テ)2悲(ノ)歌二首1式《モテ》遺《ノコス》2莫(キ)v忘(コト)之志(ヲ)1其詞曰、
 
此よりは廣繩に歌を贈(リ)[貝+台]《ノコ》さるゝ小序なり、六載之期とは孝謙紀云、天平寶字二年冬十月甲子勅、頃年國司交替皆以2四年1爲v限、斯則|適《マサニ》足v勞(スルニ)v民、未《・ズ》v可2以(テ)化1、自v今後宜(シク)d以2六歳1爲uv限、【略抄】今は此詔より前なれば實に治むる事は五年なれども六年に亘るを滿2(31)六載之期1とは云なり、下に越爾五年住々而《コシニイツトセスミスミテ》とよまれたるを合せて見るべし、此歌のみならず第五憶良も比奈爾伊都等世周麻比都都とよみて其年も遷任せられざりければ是も六年に亘れるを上の詔に皆以2四年1爲v限とあるは相違の故を知らず、勿は忽の字の誤なり、
 
初、既滿六載之期 孝謙天皇寶字二年冬十月甲子勅曰。頃年國司交替皆以2四年1爲v限(ト)。斯則|適《マサニ》足v勞v民。未v可2以化1。自v今後宜d以2六歳1爲uv限【取略。】今こゝは此詔よりさきなれは、此心にあらす。天平十八年七月に下りて、今勝寶三年七月に歸らるれは、前後六年にわたる故に、六載とはいふなり。以2四年1爲v限とあるもかなはす。心得かたし。忽値、忽誤作v勿
 
4248 荒玉乃年緒長久相見?之彼心引將忘也毛《アラタマノトシノヲナカクアヒミテシカノコヽロヒキワスラレヌヤモ》
 
第三句の?は助語なり、彼心引は彼は古き點に多くその〔二字右○〕と讀たれば今もしか續べきか、心引は芳心なり、ワスラレメヤモのメをヌになしたるは書生の誤なり、又古語に依てワスラエメヤモと讀べし、
 
4249 伊波世野爾秋芽子之努藝馬並始鷹獵太爾不爲哉將別《イハセノニアキハキシノキウマナメテハツトカリタニセテヤワカレム》
 
第八に丹比眞人が歌に宇※[こざと+施の旁]乃野之秩芽子師弩藝鳴鹿毛《ウタノノノアキハキシヌキナクシカモ》とよめり、始鷹獵《ハツトカリ》とは大鷹の鳥屋出《トヤデ》したる仕ひそむるを云なり、小鷹狩に紛らはすべからず、新拾遺集并に官本校本幽齋本にこたかがりだにとあるは誤なり、六帖に大たかがりの歌に入れて三四の句をこまなべてたかゞりをだにと改たるは半は意を得て半は意を得ぬな(32)り、されど小鷹狩にあらぬ慥なる證なり、發句をすまのせきとかきたるは傳寫の誤なるべし、
 
初、初鷹狩 此はつとかりは、大鷹のとや出したるをつかひそむるなり。小鷹狩にまきらはすへからす。鷹獵とかきてとかりとよめるは、とりかりなり。源氏物語に、たかのせうといふへきをとりのせうといへる、此心なり
 
右八月四日贈v之
 
便附(ス)2大帳使(ニ)1、取2八月五日1應v入2京師1因v此以2四日1設(テ)3國(ノ)厨之《クリヤノ》饌(ヲ)於2介《スケ》内藏伊美吉繩麻呂(カ)舘(ニ)1餞v之、于v時大伴宿禰家持作歌一首
 
4250 之奈謝可流越爾五箇年住々而立別麻久惜初夜可毛《シナサカルコシニイツトセスミ/\テタチワカレマクヲシキヨヒカモ》
 
下句は古今集に思ふどちまとゐせる夜は唐錦たゝまくをしき物にぞ有ける、是に似たり、
 
初、しなさかるこしにいつとせ さきに六載といへるは六年にわたるをいひ、今はまさしく五年をみつることをいへり。第五に山上憶良の哥にも
  天さかるひなにいつとせすまひつゝみやこのてふりわすらゑにけり
立わかれまくをしきよひかもは、古今集に
  おもふとちまとひせる夜はからにしきたゝまくおしき物にそ有ける
 
五日平旦(ニ)上道、仍國司次官已下諸僚、皆共|視《ミ》送、於v時|射水《イミツ》郡大領安努(ノ)君《キミ》廣島門前之林(ノ)中(ニ)、預《カネテ》設(ク)2餞饌之宴(ヲ)1、于v時大帳(33)使大伴宿禰家持和2内藏伊美吉繩麻呂捧(ル)v盞《サカヅキヲ》之歌1一首
 
平旦を日本紀にトラノトキと點ぜり、大領はこほりのみやつこ〔八字右○〕ともおほみやつこ〔六字右○〕とも點ず、少領はすけのみやつこ〔七字右○〕なり、廣島は系譜等未v詳、
 
初、平旦 日本紀にとらのときとよめり
 
4251 玉桙之道爾出立徃吾者公之事跡乎負而之將去《タマホコノミチニイテタチユクワレハキミカコトヽヲオヒテシユカム》
 
事跡は行事の蹤迹なり、旅にはさま/”\の具を持物なればそれによせて君が功勞の事迹を記しおけるを負持て都へ上りて具に申上むとの意なり、落句の之は助語なり、六帖に別の歌に入れたるに君が事をしおもひてゆかむとあるは今の心に違へり、
 
初、きみかことゝを 君か事迹にて、功勞のほとを、都にて申さむの心なり。道をゆく物は、さま/\の具をもては、それによせて、君か行事のあとのしるしをおひもちてゆかんとなり
 
正税帳(ノ)使(ヒ)〓久米朝臣廣繩事畢退v任、適遇2於越前國〓大伴宿禰池主之舘1、仍共飲樂也、于v時久米朝臣廣繩|矚《ミテ》2芽子花1作歌一首
 
上に朝集使と云ひて今正税帳使と云へるいまだ其意を得ず、又越中掾を退て他(34)官に遷らば京にての事にこそ有べきを越前にて行あはれたるも其故を知らず、
 
4252 君之家爾殖有芽子之始花乎折而※[手偏+卒]頭奈客別度知《キミカイヘニウヱタルハキノハツハナヲヲリテカサヽナタヒワカルトチ》
 
客別度知とは家持と廣繩となり、
 
初、插誤作v※[手偏+卒]
 
大伴宿彌家持和歌一首
 
4253 立而居而待登待可禰伊泥?來之君爾於是相※[手偏+卒]頭都流波疑《タチテヰテマテトマチカネイテヽコシキミニコヽニアヒカサシツルハキ》
 
腰句は家持も遷任して上らるれども、廣繩が歸るを待かねて跡を尋に出たるやうに云ひなすなり、出て來し君とつゞくるにあらず、
 
向v京洛上依v興|預《カネテ》作侍v宴應v詔歌一首并短歌
 
洛は路を誤れるなり、仙覺抄も路に作れり、官本にも改たり、
 
初、向京路上 路誤作v洛
 
4254 蜻島山跡國乎天雲爾磐舩浮等母爾倍爾眞可伊繁貫伊許藝都追國看之勢志?安母里麻之掃平千代累彌嗣繼爾所(35)知來流天之日繼等神奈我良吾皇乃天下治賜者物乃布能八十友之雄乎撫賜等登能倍賜食國毛四方之人乎母安天左波受愍賜者從古昔無利之瑞多婢未禰久申多麻比奴手拱而事無御代等天地日月等登聞仁萬世爾記續牟曾八隅知之吾大皇秋花之我色色爾見賜明米多麻比酒見附榮流今日之安夜爾貴左《アキツシマヤマトノクニヲアマクモニイハフネウケテトモニヘニマカイシシヌキイコキツヽクニミシセシテアモリマシハラヒタヒラケチヨカサネイヤツキツキニシラシクルアマノヒツキトカミナカラワカオホキミノアマノシタオサメタマヘハモノヽフノヤソトモノヲヽナテタマヒトヽノヘタマヒヲシクニノヨモノヒトヲモアマサハスメクミタマヘハムカシヨリナカリシミツモシタヒミネクマウシタマヒヌコマヌキテコトナキミヨトアメツチノヒツキトヽモニロツヨニシルシツカムソヤスミシシワカオホキミハアキハナノシカイロ/\ニミエタマヒアキラメタマヒサカミツキサカユルケフノアヤニタフトサ》 江
 
天下、【校本、幽齋本並又云、アメノシタ、】  愍賜者、【官本、愍作v※[立心偏+民]無v點、】
 
發句より掃平と云までは饒速日尊の先天降て大和國を見定たまへるを云へり、此事日本紀の處々に見えたるは猶簡略なり、委は先代舊事本紀の第三を見るべし、第一紙より第六紙に至て其説慇懃なり、其磐船の船長跡部首等(ガ)祖天津羽原《アマツハハラ》なり、伊許藝都追は伊は發語辭なり、國看シセシテは國見|爲《シ》てなり、せし〔二字右○〕は共に助語なり、千代累より下は饒速日尊は天降て後神去たまふ故に其弟|瓊々杵尊《ニヽギノミコト》を重て天降したま(36)ひて其御裔の相傳へて御世を知しめす事を云へり、掃平千代累と云をわろくせばつゞけて意得ぬべき所なれば注するなり、天下をアマノシタと點ぜるは誤なり、アメノシタと云ひ習へり、アテサハズは煩らはさずと云意の詞なるべし、あてずさはらずの意歟、多婢未禰久は仙覺云、たゆみなくなり、今按多婢は度《タビ》なるべし、未は末を誤て度々《タビ/\》間無《マナ》くと云にや.まねくは上に多き詞なり、申多麻此奴は奏聞するなり、文選顔延年三月三日曲水詩序云、〓莖素毳并柯共穗之瑞、史不v絶v書《・スルスコトヲ》(ヲ)、桟《カケハシヽ》v山(ニ)航v海《フナワタシシテ》踰沙※[車+失]漠(ノ)之貢、府無2虚月1、李善注曰、左氏傳晋(ノ)司馬叔侯曰、魯之於v晋也、職貢不v乏、史不v絶v書、府無2虚月1、如v是可矣、手拱而は手の字を加へたれば第六に聖武天皇賜2酒(ヲ)節度使卿等(ニ)1御歌に手抱而とあるをたにぎりて〔五字右○〕と點ぜるをたむたきて〔五字右○〕と讀べしと注せし如く、今も然讀べきか、又拱の字日本紀にテヲツクルと讀たればテツクリテと讀べきか、三つの訓共に同じ義なり、尚書の垂拱も第六に引しが如し、君大皇は君は吾を寫し誤まれり改むべし、秋花は春花とも讀たれば准らふるにあきはなとも讀べけれど反歌の發句にあきのはなとあれば今もアキノハナと讀べきにや、之我色々ニは己が色々になり、臣下の才コ忠功をほど/\につけて見そなはしわくるを喩へて云へり、折節秋なれば秋花とは云へり、今按秋は司召あれば其意なり、見賜はミセタマヒと點(37)じけむを書生のミエタマヒとはなせる歟、みせたまひも見たまひなり、
 
初、天雲にいはふねうけて 神武紀云。抑《ハタ》又聞(シク)2於塩|土老翁《ツヽノヲチニ》1。曰(シク)東(ニ)有2美地《ヨキクニ》1。青山四(ニ)周(レリ)。其中(ニ)亦有(ト云キ)d乘(テ)2天(ノ)磐船(ニ)1飛降(レル)者u。余謂(フニ)彼地《ソノクニハ》必當(ニ)v足d以恢2弘《ヒロメノヘテ》天(ツ)業《ヒツキヲ》1、光c宅《ミチヲルニ》天下(ニ)u。蓋|六合《クニ》之|中心乎《モナカカ》。厥(ノ)飛降(ト云)者、謂(フニ)是|饒速《ニキハヤ》日(ヲ云)歟。何(ソ)不(ンヤ)2就《ユイテ》而都(ツクラ)1之乎。いこきつゝ、いは發語の詞、磐舟をこくなり。国見しせしては、くに見してなり。あもりましは、天くたりますなり。第三に天降付《アモリツク》天之芳來山とよめり。天降とかける字のことし。神なから、上におほかりし詞なり。君をすなはち神といふなり。あてさはすは、わつらはさすといふ心ときこゆ。あたらすさへすといへるにや。むかしよりなかりしみづもたひみねくまうしたまひぬ。いにしへよりいまた見きかぬ祥瑞をも、たゆみなく奏するなり。又多婢は度、未禰久は、上にもまなくといふ事をまねくとおほくいひつれは、未は末にてたひ/\まなく奏する心にや。こまぬきて事なき御代と。こまぬくは手をつくるなり。日本紀に拱の字をてをつくるとよめり。第六に、手むたきて我はあそはんとあるもこれにおなし。書武威(ニ)曰。惇(クシ)v信明(ニシ)v義崇(トヒ)v徳(ヲ)推(シカハ)v功(ヲ)垂拱而天下治(マル)。蔡(カ)注曰。垂衣拱手(シテ)而天下|自《ヲ》治(マル)。人のしわさなき時、手をつくれは無事なるをいへり。吾大皇、吾を誤て君に作れり。秋花のしかいろ/\にみせたまひあきらめたまひ。しかはさかなり。己をさとよめは、おのかいろ/\なり。目察を文選にみあきらむとよめり。みせたまひあきらめたまひは、みたまひあきらめたまふなり。たとへは人の才徳をわかちて、應にしたかひて用る事。秋野の花の色々あるを、それ/\にめつることくなるを喩ていへり。秋花は、春の花を春花といへるにおなし。さかみつきは十八卷にも有。酒宴なり。さかみつきをうけて、さかゆるとはいへり
 
反歌一首
 
4255 秋時花種爾有等色別爾見之明良牟流今日之貴左《アキノハナクサ/\ニアレトイロコトニミシアキラムルケフノタフトサ》
 
秋時花種爾有等、【官本又云、アキノトキハナクサニアレト、幽齋本又云、アキノトキハナクサニアリト、】
 
クサとのみ云もくさ/”\なれば官本の又の點然るべきにや、見之の之は助語なり、
 
爲v壽《シウセンカ》2左大臣橘卿(ヲ)1預作歌一首
 
延喜式第八、大殿祭祝詞云、言壽《コトホギ》、【古語云、許止保企、言2壽詞1、如2今壽觴之言1、】師古(ガ)云、凡言v爲v壽(ヲ)謂v進2爵《サカツキ》于尊者1、獻(ズルナリ)2無v疆《カギリ》之壽1、日本紀にサカホギともサカホカヒとも點ぜり、
 
初、爲壽左大臣 師古云。凡言v爲(スト)v壽(ヲ)謂v進(メテ)2爵《サカツキヲ》于尊者(ニ)1而獻(スルナリ)2無|疆《カキリ》之壽(ヲ)1。【サカホカヒ、コトホキ】共日本紀。祝の字をほくとよめり。さかほかひは酒祝《サカホキ》の心なり。ことほきは言祝《コトホキ》なり。ことふきともいへり
 
4256 古昔爾君之三代經仕家利吾大主波七世申禰《イニシヘニキミカミヨヘテツカヘケリワカオホヌシハナヽヨマウサネ》
 
吾大王波、【校本點云、ワカオホヌシハ、官本或王作v主、點如2校本1、】
 
三代經とは此大臣葛城王なりし時和銅三年に初て從五位下に叙せられ、元明元正(38)聖武の三代に仕へたまへるを古ニ君ガ三代ヘテとは云なるべし、吾大王波とは今の本に依らば本より葛城王なれば然云なるべし、吾大主に作れる本に依らば第五に憶良の帥大伴卿をわがぬしのとよまれたる意なり、七世申禰とは今より後七代の天子に仕へて政を執り奏したまへとなり、七世は多かる心なり、
 
初、いにしへに君かみよへて これは武内宿禰なとの事にや。わか大君とは左大臣をさしていへり。第十三には、夫君をさしてわかすめろきといへり。いはむやもとは葛城王なれは、かくはいふなり。七世まうさねは、七代のみかとにつかへ、政を執申たまへとなり
 
十月二十二日於2左大弁紀飯麻呂朝臣家1宴歌三首
 
左は誤れり右に作るべし、聖武紀云、天平元年八月外從五位紀朝臣飯麻呂授2從五位下1、五年三月從五位上1、十二年九月藤原朝臣広嗣反(ス)、勅以2從四位上大野朝臣東人1爲2大將軍1、從五位上紀朝臣飯麻呂(ヲ)爲2副將軍1、十三年閏三月從四位下、七月右大辨、孝謙紀云、勝寶元年七月從四位上、寶字元年六月左大辨、八月正四位下參議、廢帝紀云、寶字三年六月正四位上、六年正月從三位、七月丙申散位從三位紀朝臣飯麻呂薨、淡海朝(ノ)大納言贈正三位大人之孫、平城朝(ノ)式部大輔正五位下古麻呂之長子|也《ナリ》、仕至2正四位上左大辨參議(ニ)1授2從三位(ヲ)1、病久(シク)不v損、上v表乞2骸骨1、詔許v之、天平十三年に、右大辨と成り寶字元年に左大辨とは成られければ此時いまだ右大辨なる事明らかなり、
 
初、紀飯麻呂 天平元年八月外五位紀朝臣飯麻呂授2從五位下1。五年三月從五位上。十二年九月藤原朝臣廣嗣反。勅以2從四位上大野朝臣東人1爲2大將軍1、從五位上紀朝臣飯麻呂爲2副將軍1。〇委2東人等1持v節討之。十三年閏三月從四位下。同七月右大辨。十六年九月畿内巡察使。十八年九月常陸守。勝寶元年二月大和守。七月從四位上。五年九月太宰大式。六年四月大藏卿。九月右京大夫。十一月西海道巡察使。寶字元年六月左京大夫。同月左大辨。八月正四位下參議。三年六月正四位上。十一月義部卿【刑部。】河内守如v故。四年正月美作守。六年正月從三位。七月丙申散位從三位紀朝臣飯麻呂薨。淡海朝大納言正三位|大人《ウシ》之孫、平城朝式部大輔正五位下古麻呂之長子也。仕至2正四位下左大辨參議1授2從三位1。病久不v損上v表乞2骸骨1。詔許之。寶字元年にこそ左大辨とはなられけるを、こゝには極官をかける歟。さらすは右大辨を誤けるにや
 
4257 手束弓手爾取持而朝獵爾君者立去奴多奈久良能野爾《タツカユミテニトリモチテアサカリニキミハタチイヌタナクラノノニ》
 
(39)立去奴、【六帖并袖中抄、仙覺抄、與2今點1同、官本注云、松殿本入、左京兆本、基長卿本、皆作2立之奴1、】
 
袖中抄云、顯昭云、手束弓とは考(ルニ)2紀伊國風土記1云、弓のとつかを大きにするなり、至下云、ゆつかはとつかなり、それは紀伊國の雄山の關守が持弓なりとぞ云へる、さればとつか弓と云をた〔右○〕とと〔右○〕と同五音なればたつか弓と云なるべし、たとへばとつかおほきなる弓と云心歟、古歌にあさもよひきのせきもりがたつかゆみ云々、此歌同心歟、仙覺云、是はたゞ手にとるをたつかと云へるにや、此集第五卷哀(シム)2世間難1v住(マリ)歌の中に多都可豆惠許志爾多何禰提《タツカツヱコシニタカネテ》といへるも手に取て策《ツキ》たる杖を腰につがへたると聞えたり、今按今の歌に依れば手束弓は紀の關守が弓をのみ云にあらず、とつか〔三字右○〕をたつか〔三字右○〕と通はすも彼國に限て云はゞこそあらめ、然らざれば別義なり、是は仙覺の申されたる手束杖《テツカツヱ》に准らふる義謂れたり、仙覺の引かれたる同歌に佐都由美乎多爾伎利物知提《サツユミヲタニギリモチテ》、第二十喩v族歌に波自由美乎多爾藝利母多之《ハジユミヲタニギリモタシ》とよめる類を思ふべし、第四句の君は松殿などの御本に依に帝を申奉るべし、多奈久良能野は延喜式神名帳云、山城國|綴喜《ツヾキノ》軍|棚倉孫《タナクラヒマノ》神社【大月次新嘗、】此に依れば綴喜郡なり、此歌六帖に狩の歌に入れたるに左大辨紀飯丸と作者をつけたるは誤なり、又六帖に依るに昔の本も誤て左大辨と書けるなるべし
 
初、手束弓手にとりもちて 第五には、たつか杖ともよめり。弓もつかねてもつ物なれは、手束弓とはいへり。古哥に
  あさもよい紀の關守かたつか弓ゆるす時なくあかもへるきみ
此哥をかたく執して紀の關守か弓ならては、たつか弓とはいふましきやうに思ふは、ことちににかはつけたるなり。たなくらの野は山城の國に有。延喜式第九、神名上云。綴喜郡|棚倉孫《タナクラヒコノ》神社【大。月次。新嘗】   
 
(40)右一首治部卿舩王傳2誦之1久邇京都時歌、未v詳2作主1也、
 
4258 明日香河河戸乎清美後居而戀者京彌遠曾伎奴《アスカカハカハトヲキヨミオクレヰテコフレハミヤコイヤトホソキヌ》
 
後居而戀者とは注に依るに藤原故郷に明日香河の清きを名残惜くて殘居たる人のよめるなり、第一の志貴皇子の御歌の意に似たり、
 
初、明日香川かはとをきよみ これは淨御原宮より、藤原宮にうつらせたまひて後、淨御原の宮にちかく住ける人のよめるなるへし。されはこそ、こふれは都のいよ/\遠のくとはよみけめ。第一に明日香宮より、藤原へうつらせ給ふ時、志貴皇子御哥
  たをやめの袖ふき返すあすか風都を遠みいたつらに吹
此哥を引合てみるへし。古京時歌也。藤原宮の時をいへり
 
右一首左中辨中臣朝臣清麻呂傳誦、古京時歌也、
 
聖武紀云、天平十五年五月正六位上轉2外從五位下(ニ)1、孝謙紀云、勝寶六年七月左中辨、今勝寶三年に左中辨とあれば是は紀の誤にや、廢帝紀云、寶字六年正月從四位下、十二月乙巳朔參議、七年正月甲辰朔壬子左大辨、八年正月從四位上、九月正四位下、稱徳紀云、神護元年正月授2勲四等(ヲ)1、十一月戊午朔庚辰詔曰、神祇伯正四位下中臣朝臣清麻呂其心如v名清慎勤勞累(リニ)奉2神祇官1、朕見v之誠有v喜焉、是以天皇喜曰其心如v名、特授2從三位(ヲ)1神護景雲二年二月中納言、三年六月丁酉朔乙卯詔(スラク)因(ルニ)2神語1有v言(ルコト)2大中臣(ト)1、而中臣朝臣清麻呂、兩度任2神祇官(ニ)1供奉無v失、是以賜2姓大中臣(ノ)朝臣1、光仁紀云、寶龜元年十月己丑朔正三位、二年正月己未朔辛巳大納言正三位大中臣朝臣清麻呂爲2兼(41)東宮傅1、二月癸卯左大臣暴病、詔攝2行大臣事1、三月戊午朔庚午爲2右大臣1授2從二位1、十一年四月辛丑勅備前國|邑久《オホクノ》郡荒廢田一百餘町賜2右大臣正二位大中臣朝臣清麻呂(ニ)1、天應元年六月戊子朔庚戌右大臣正二位大中臣朝臣上v表乞v身(ヲ)、詔許v焉(ヲ)、因賜2几杖1、桓武紀云、延暦七年七月癸酉前右大臣正二位大中臣朝臣清麻呂薨、曾祖國子小治田(ノ)朝小徳冠、父|意《オ》美麻呂中納言正四位上云々、清麻呂歴2事數朝1爲2國舊老1、朝儀國典多所2暗練(セル)1、在v位視(ルコト)v事雖2年老(タリト)1而精勤匪v怠(ルニ)、年及2七十1上v表致仕、優詔(アテ)弗v許(サ)、今上即位重乞2骸骨1、詔許v之、薨時年八十七、
 
初、中臣清麻呂 天平十五年正六位上轉進2外從五位下1。同六月丁酉爲2神祇大副1。十九年五月尾張守。勝寶三年正月從五位上。六年四月神祇大副。同七月左中辨。寶字元年五月正五位下。三年六月正五位上。六年正月從四位下。同十二月乙巳朔參議。七年正月甲辰朔壬子左大辨。同四月兼攝津大夫。八年正月從四位上。同九月正四位下。神護景雲元年正月授2勲四等1。同十一月戊午朔庚辰詔曰。神祇伯正四位下大中臣朝臣清麻呂(ハ)其心如v名。清愼勤勞(シテ)累(リニ)奉2神祇官1。朕見v之誠有(リト)v喜焉。是以天皇喜曰。其心如v名。特授2從三位1。二年二月中納言。景雲三年六月丁酉朔乙卯詔。因2神語1有v言2大中臣1。而中臣朝臣清麻呂兩度任2神祇官1供奉無v失。是以賜2姓大中臣朝臣1。寶龜元年十月己丑朔正三位。二年正月己未朔辛巳大納言正三位大中臣朝臣清麻呂爲2兼東宮傅1。同二月癸卯左大臣暴病。詔攝2行大臣事1。三月戊午朔庚午爲2右大臣1授2從二位1。十一年四月辛丑勅《寶龜無十一年是天應元年未改》。備《元前也》前國|邑久《オホクノ》郡荒廢田一百餘町賜2右大臣正二位大中臣朝臣清麻呂1。天應元年六月戊子朔庚戌右大臣正二位大中臣朝臣清麻呂上v表乞v身詔許焉。因賜2几杖1。〇延暦七年七月癸酉前右大臣正二位大中臣朝臣清麻呂薨。曾祖國子(ハ)小|治《ハリ》田《・推古》朝小徳冠。【恐脱祖】父|意美《オミ》麻呂中納言正四位上。〇行状具見2續日本紀第三十九卷1。至v末云。清麻呂歴2事數朝1爲2國舊老1。朝儀國典多v所2諳練1。
 
4259 十月之具禮能常可吾世古河屋戸乃黄葉可落所見《カミナツキシクレノツネカワカセコカヤトノモミチハチリヌヘクミユ》
 
第二句はしぐれする時のさだまれる事歟となり、
 
初、かみなつきしくれのつねか しくれのよのつねかくある事かなり
 
右一首少納言大伴宿禰家持當時矚2梨黄葉1作2此歌1也、
 
初、當時矚梨黄葉 第十に
  もみち葉のにほひはしけししかれともつまなしの木を手折かさゝん
  露霜も寒き夕の秋風にもみちにけりもつまなしの木は
唐陸龜蒙詩、村邊(ノ)紫豆花垂次、岸上紅梨葉(ノ)戰初
 
壬申年之亂平定以後歌二首
 
天武天皇元年の亂なり、
 
初、壬申年之亂 天武天皇元年なり
 
4260 皇者神爾之座者赤駒之腹婆布田爲乎京師跡奈之都《オホキミハカミニシマセハアカコマノハラハフタヰヲミヤコトナシツ》
 
(42)神ニシのし〔右○〕は助語なり、匍匐を神代紀にハラハフとよめり、天武紀上云、廬井鯨乘2白《アヲ》馬(ニ)1以逃之、馬墮2?《フカ》田1、不v能2進行(コト)1、於v是甲斐勇者追之比v及v鯨、鯨急鞭v馬、馬能拔(テ)以出v?《チリコヲ》、即馳(テ)之得v脱(カルヽコトヲ)、今は都と成がたかるべき所を都と成したまへるは神にて坐す故なりとほめ申さるゝなり、淨御宮成て後の歌なり、此歌初の二句は第三人丸の歌と同じ、すべては幸(マス)2于難波宮1時笠金村のよまれたる歌の二首の反歌の第一此に似たり、
 
初、おほきみは神にしませは 第三に第六に
  すめろきは神にしませは天雲のいかつちのうへにいほりするかも
  すめろきは神にしませは眞木の立あら山中に海をなすかも
  あらのらに里はあれとも大君のしきます時はみやことなりぬ
赤駒のはらはふ田井とは、深田にて駒もえすゝまぬなり。天武紀上云。是日三輪君高市麻呂、置始連兎當2上道1戰2于箸(ノ)陵(ノモトニ)1。大破2近江軍1。而乘v勝兼斷2鯨(カ)軍之後1。鯨軍悉解走多殺2士卒1。鯨乘2白《アヲ》馬《・アヲウマ》(ニ)1以逃之。馬墮2※[泥/土]《フカ》田1不v能2進行1。則將軍吹負謂2甲斐勇者1曰。其《カノ》乘2日馬1廬井《イホノヰノ》鯨也。急追以射。於v是甲斐勇者馳追之。比v及v鯨急鞭v馬。馬能拔以出v※[泥/土]《ヒチリコヲ》、即馳之得v脱
       
右一首大將軍贈右大臣大伴卿作
 
文武紀云、大寶元年正月乙亥朔己丑大納言正廣參大作宿禰御行薨、帝甚悼2惜之1、遣(ハシテ)2直廣肆榎井朝臣倭麻呂等(ヲ)2監2護(セシム)喪事(ヲ)1、遣2直廣壹藤原朝臣不比等等1就v第宣詔贈2正廣貳右大臣1、御行(ハ)難波(ノ)朝右大臣大紫|長コ《チヤウトクガ》之子|也《ナリ》、壬辰廢(ス)2大射(ヲ)1以2贈右大臣喪1故也、
 
初、大將軍贈右大臣大伴卿 文武紀云。大寶元年春正月乙亥朔己丑、大納言正廣參大伴宿禰御行薨。帝甚悼2惜之1。遣2直廣肆榎井朝臣倭麻呂等2監2護喪事1。遣2直廣壹藤原朝臣不比等等1、就v第宣v詔贈2正廣貳右大臣1。御行(ハ)難波朝右大臣大紫長徳之子也。壬辰廢(ス)2大射1。以2贈右大臣喪1故也
 
4261 大王者神爾之座者水鳥乃須太久水奴麻乎皇都常成都《オホキミハカミニシマセハミツトリノスタクミヌマヲミヤコトナシツ》
 
作者不v詳
 
皇都常成都、【幽齋本、成都作2成通1、】
 
神爾之の之〔右○〕助語なり、六帖に都の歌とす、
 
初、水鳥のすたくみぬまを すたくはあつまるなり。第十一に、あしかものすたく池水といふ哥に、多集とかけり
 
(43)右件二首天平勝寶四年二月二日聞v之即載2於茲1也、
 
閏三月於2衛門|督《カミ》大伴|古慈《コシ》悲宿禰家1餞2之入唐副使同胡麻呂宿禰等1歌二首
 
聖武紀云、天平九年九月己亥從六位上大伴宿禰|※[示+古]信備《コシビ》等授2外從五位下1、十一年正月從五位下、孝謙紀云、勝寶元年十一月從四位佗上、寶字元年六月土左國守大伴古慈悲(ノ)便流2任國(ニ)1、光仁紀云、寶龜元年十一月己未朔癸未復2無位大伴宿禰古慈斐(ヲ)本位從四位上(ニ)1、十二月丙辰大和守、六年正月乙未朔己酉從三位、八年八月丁酉大和守從三位大伴宿禰古慈斐薨、飛鳥朝(ノ)|常道頭《ヒタチノカミ》贈大錦吹負之孫、平城朝越前按察使、從四位下祖父麻呂之子|也《ナリ》、少有2才幹1、略渉2書記1、起v家(ヨリ)大學(ノ)大允(タリ)、贈太政大臣藤原朝臣不比等以v女妻(ハス)v之、勝寶年中累(リニ)遷2從四位上衛門督(ニ)1、俄遷2出雲守1、自v見(ルヽ)v疎(ンセ)v外、意常(ニ)欝々(タリ)、紫微内相藤原仲滿誣(ルニ)以2誹謗1、左2降土左守(ニ)1、促令v之v任、未(ダ。ルニ)v幾(ナラ)勝寶八歳之亂便流2土左(ニ)1、天皇宥v罪入v京以2其舊老(ナルヲ)2授2從三位1、薨時年八十三、今按古慈悲は小鮪《コシヒ》なるべし、
 
初、大伴古慈悲 天平九年九月己亥從六位上大伴宿禰※[示+古]信備等授2外從五位下1。十一年正月從五位下。十二年十一月從五位上。十四年四月河内守※[示+古]志備授2正五位下1。十九年正月從四位下。勝寶元年十一月從四位上。寶字元年六月土佐國守大伴古慈斐便流2任國1。寶亀元年十一月己未朔癸未復2無位大伴宿禰古慈斐(ヲ)本位從四位上1。同十二月丙辰大和守。二年十一月癸未朔丁未正四位下。六年正月乙丑朔己酉從三位。寶龜八年八月丁酉大和守從三位大伴宿禰古慈斐薨。飛鳥朝|常道頭《・常陸守歟》贈大錦吹負之孫、從四位下祖父麻呂之子也。少有2才幹1略渉2書記1。起v家大學大允。贈大政大臣藤原朝臣不比等以v女妻之。勝寶年中累遷2從四位上衛門督1。俄遷2出雲守1。自v見v疎v外意常|爵々《欝々歟》。紫微内相藤原仲滿誣以誹謗【朝廷歟】左2降土佐守1、促命之任未v幾勝寶八歳之亂便流2土佐1。天皇宥v罪入v京。以2其舊老1授2從三位1。薨時年八十三。聖武紀に※[示+古]信備《コシビ》とかけるをおもふに小鮪《コシヒ》といふ心の名なるへし
胡麿 天平十七年正月己未朔乙丑正六位上大伴宿禰古麻呂授2從五位下1。勝寶元年八月左少辨。三年正月從五位上。六年正月入唐副使從四位上大伴宿禰古麻呂來歸。唐僧鑒眞法進等八人隨而歸朝。同年四月左大辨。同月正四位下。寶字元年六月左大辨正四位下大伴宿禰古麻呂爲2兼陸奥鎭守將軍1。同月爲陸奥按察使。同月下v獄杖下死。此集第四卷をみるに大納言旅人の姪《ヲヒ》なり
 
(44)4262 韓國爾由伎多良波之?可敝里許牟麻須良多家乎爾 美伎多?麻都流《カラクニニユキタラハシテカヘリコムマスラタケヲニミキタテマツル》
 
第二句は行|足《タラ》はしてなり、行到て事畢るを云、
 
初、からくにゝゆきたらはして 行たらはすは、ゆきたるなり。足とは滿足にて事をよくとゝのふるなり
 
右一首多治比眞人鷹主壽2副《ソヘ》使大伴胡麿宿禰1也
 
鷹主は寶字元年六月の孝謙紀に見えたり.橘奈良麻呂等の黨類なり、
 
4263 梳毛見自屋中毛波可自久左麻久良多婢由久伎美乎伊波布等毛比?《クシモミシヤナカモハカシクサマクラタヒユクキミヲイハフトモヒテ》 作者未v詳
 
旅人の出立日は留まる人の梳を取らぬを祝ふ事にするにや、今も屋中をはかぬ事は習はし侍り、
 
初、くしもみし屋中もはかし 昔よりかくいひならへることの有けるなるへし。此櫛もみしといへるは、妻の哥にはあらねは、旅人をいはふ人は、たれにてもかうするにこそは侍らめ。いはふともひてはいはふとおもひてなり
 
右件歌傳誦大伴宿禰村上、同清繼等是也、
 
清繼は未v詳、
 
(45)勅2從四位上高麗朝臣福信1遣2於難波1賜2酒肴(ヲ)入唐使藤原朝臣清河等1御歌一首并短歌
 
桓武紀云、延暦八年十月乙酉散位從三位高倉(ノ)朝臣福信薨、福信(ハ)武藏國高麗郡人|也《ナリ》、本姓背奈、其祖福コ屬2唐將李※[責+力]1拔2平壤城1來歸2國家1居2武藏1焉、福信《ハ》即福徳之孫|也(ナリ)、小年(ノトキ)隨2伯父背奈行文1入v都、時(ニ)與2同輩1晩頭(ニ)往(テ)2石上衢(ニ)1遊戯(シテ)相撲(トル)、巧用2其力1能勝2其敵(ニ)1、遂聞2内裏1、召令v侍(ベラ)2内竪所1、自v是著(ハス)v名、初任2右衛士|大志《サシハムニ》1、稍遷、天平中授2外從五位下1任2春宮亮(ニ)1、聖武皇帝甚加2恩幸1、勝寳初至2從四位紫微少弼(ニ)1、改2本姓1賜2高麗朝臣1、遷2信部大輔(ニ)1神護元年授2從三位1、拜2造宮卿1、兼歴2武藏近江守1、寳龜十年上書言、臣自v投2聖化1、年歳已深、但雖2新姓之榮朝臣過分1、而舊俗之号高麗未v除、伏乞改2高麗以爲2高倉1、詔許v之、天鷹元年遷2彈正尹兼武藏守1、延暦四年上v表乞v身、以2散位1歸v第(ニ)焉、薨時八十一、上云四年二月丁未弾正尹武藏守高倉朝臣福信上v表乞v身、優詔許v之賜2御杖并衾1、福コが孫なればふくしむ〔四字右○〕と音にてつきたる名なるべし、
 
初、高麗朝臣福信 福信は音に讀へし。延暦紀云。延暦八年十月乙酉散位從三位高倉朝臣福信薨。福信(ハ)武藏國高麗郡人也《ナリ》。本姓(ハ)背奈《セナ》。其祖福コ屬2唐將李※[責+力]1拔2平壤城1。來歸2國家1居2武藏1焉。福信《ハ》即福徳之孫也。年隨2伯父背奈行文1入v都。時與2同輩1晩頭往2石上《イソノカミノ》衢1遊戯相撲、巧用2其力1能勝2其敵1。遂聞2内裏1召令v侍2内竪所1。自v是著v名。初任2右衛士大|志《サクワン》1。稍遷(テ)天平中授2外從五位下1任2春宮亮1。聖武皇帝甚加2恩幸1。勝寳初至2從四位紫微少弼1。改2本姓1賜2高麗朝臣1、遷2信部大輔1。神護元年授2從三位1拜2造宮卿1、兼歴2武藏近江【等歟】守1。寳龜十年上書言。臣自v投2聖化1年歳已深。但雖2新姓之榮朝臣過1v分、而舊俗之號高麗未v除。伏乞改2高麗以爲2高倉1。詔許v之。天鷹元年遷2彈正尹兼武藏守1。延暦四年上v表乞v身、以2散位1歸v第焉。薨時八十一
 
4264 虚見都山跡乃國波水上波地往如久舩上波床座如大神乃(46)鎭在國曾四舶舶能倍奈良倍平安早渡來而還事奏日爾相飲酒曾斯豐御酒者《ソラミツヤマトノクニオハミツノウヘハツチユクコトクフネノウヘハトコニマスコトオホカミノシツムルクニソヨツノフネフナノヘナラヘタヒラケクハヤワタリキテカヘリコトマウサムヒニアヒノマサケソコノトヨミキハ》
 
虚見都、【官本、幽齋本、並都小字、】  山跡乃國波、【官本、幽齋本、並之波小字、】  水上波、【兩本並波小字、】  地往如久、【兩本並久小字、】  船上波、【兩本並久小字、】  大神乃、【兩本並乃小字、】  鎭在國曾、【兩本並曾小字、】  奏日爾、【兩本並爾字、】  相飲酒曾、【兩本並曾字、】
 
末の四句は第六に聖武天皇賜2酒節度使卿等1御歌の末の三句と相似たり、終二句は全く同じ、
 
初、よつのふねふなのへならへ 四船は大使、副使、判官、主典なり。かへりこと申さん日に、第六に天平四年に聖武天皇酒を節度使卿等に贈る時の御製の長哥のはても、かへりこん日あひのまん酒そこのとよみきはなり
 
反歌一首
 
4265 四舶早還來等白香著朕裳裙爾鎮而將待《ヨツノフネハヤカヘリコトシラカツキワカモノコシニシテツヽマタム》
 
早還來等、【官本、幽齋本並等小字、】  白香著、【幽齋本又云、シラカツケ、】  朕裳裙爾、【別校本云、ワカモノスソニ、官本爾小字、】
 
四舶は大使副使判官録事各一艘に乗なり、録事をば主典とも云へり、第四句はワガモノスソニとよめるに依べし、伊勢物語に裳のこしにゆひつけさすなどあるは後の詞なるべし、落句はシヅメテマタムともよむべし、
 
初、しらかつけは、木綿のことなり。してつゝは、ゆふを御裳のすそにつけたまひていはひしつめたまふなり。神功皇后の鎭懷石の哥第五卷に有。神功紀とゝもにおもひあはすへし
 
(47)右發2遣勅使1并賜v酒樂宴之日月未v得2詳審1也、
 
4266 安之比奇能八峯能宇倍能都我能木能伊也繼繼爾松根能絶事奈久青丹余志奈良能京師爾萬代爾國所知等安美知之吾大皇乃神奈我良於母保之賣志弖豐宴見爲今日者毛能乃布能八十伴雄能島山爾安可流橘宇受爾指紐解放而千年保伎保伎吉等餘毛之惠良惠良爾仕奉乎見之貴者《アシヒキノヤツヲノウヘノトカノキノイヤツキ/\ニマツカネノタユルコトナクアヲニヨシナラノミヤコニヨロツヨニクニシラレムトヤスミシシワカオホキミノカミナカラオモホシメシテトヨノアカリミセマスケフハモノノフノヤソトモノヲノシマヤマニアカルタチハナウスニサシヒモトキサケテチトセホキホキヽトヨモシヱラヱラニツカヘマツルヲミルカタフトサ》
 江説
 
見之貴左、【幽齋本、左作v者、】
 
萬代爾國所知等は第二日並皇子尊の舍人が歌にも萬代爾國所知麻之《ヨロヅヨニクニシラレマシ》と有しをクニシラサマシと讀べき歟と申つる如く今もタニシラサムトと讀べき歟、島山は上(48)にも有し地の名なり、アカルは皇極紀に熟稻をアカメルイネともアカラメルイネとも讀たれば今も熟の字なり、宇受は第十三に注せり、紐解放而は第五第九にもよめり、保伎は壽の字祝をかけり、トヨモシは第十五中臣宅守が歌にも讀て注せり、とよますなり、ヱラ/\は神代紀上云、云何天鈿女命《イカムゾアメノウズメノミコト》|※[口+虐]樂《ヱラクスル》如1v此者乎(ヤ)、雄略紀云、皇太后視2天皇悦(タマフヲ)1歡喜盈懷《エラキマス》1、稱徳紀、神護元年十一月戊午朔庚辰詔曰、黒紀白紀《クロキシロキ》御酒赤丹2【乃保仁】多末倍惠良伎1云々、
 
初、とかの木のいやつき/\に 第一、第三、第六にもかくのことくつゝけたり。島山にあかる橘。島山は第五に奈良路なるしまのこたちとよめる所なり。第九、第十にもよめり。下にも、しま山にてれる橘とよめり。あかるは熟するなり。日本紀に熱の字をあかむとよめり。應神天皇の御製に、髪長姫を橘によそへて、みつくりのなかつえのあかれるをとめとよませたまへり。うすは第十三に、かみぬしのうすの玉かけといふ所に尺せり。ひもときさけては第五にもひもときさけて立はしりせむとよみ、第九にもひものをときて家のこととけてそあそふとよめり。此心なり。欽明紀云。願(ハ)王開v襟《コロモクヒヲ》緩(ヘテ)v帶|恬然《シツカニ・シメヤカニ》自安(シテ)勿(レ)2深(ク)疑(ヒ)懼(ルヽコト)1。ちとせほきは千年といはふなり。日本紀に祝の字をほくとよめり。延喜式第八、大殿祭祝詞云。言壽《コトホキ》【古語云許止保企。言(コヽロハ)壽詞。如2今壽觴之詞1。】十八にも此下にもちとせほくとよめり。ほききとよもしはいはひたてまつる聲をもてとよますなり。神代紀上云。廼復|扇《トヨモシ》v天(ヲ)扇《トヨモシ》v國(ヲ)上(リ)2詣(ツ)于天(ニ)1。ゑら/\はうれしみたのしふなり。日本紀第一云。云何天釦|鈿女命《ウスメノミコト》※[口+虐]樂《エラクスル》如此者乎。同十四雄略紀云。皇太后視(テ)2天皇悦(タマフヲ)1歡喜盈懷《エラキマス》。續日本紀第二十六云。天平神護元年十一月戊午朔庚辰詔曰。今勅久。今日方大新嘗《ケフハオホニヒナメ》乃|猶《ナホ》【良比能】豐(ノ)明(リ)聞行《キコシメス》日仁在。〇由紀、須伎、二國乃献禮留黒|紀《キ》《・酒》白紀能御酒乎赤|丹《ニ》2【乃保仁】多末倍《・賜》惠良伎1、常毛賜(フ)酒幣《サカマヒ》乃物乎賜|方《ハ》利以天退止爲【天那毛】御物賜【方久止】宣
 
反歌一首
 
4267 須賣呂伎能御代萬代爾如是許曾見爲安伎良目米立年之葉爾《スメロキノミヨヨロツヨニカクシコソミセアキラメメタツトシノハニ》
 
カクシのし〔右○〕、ミセのせ〔右○〕共にやすめ字なり、
 
右二首大伴宿禰家持作v之
 
天皇太后共幸2於大納言藤原家1之日、黄葉澤蘭一株《モミチセシサハアラヽキヒトモトヲ》※[木+拔の旁]《ヌキ》取(テ)(49)令v持2内侍|佐佐貴山君《サヽキノヤマノキミニ》1、遣2賜大納言藤原卿并|陪從大夫等《ハイシヨウマウチキミラニ》1卸歌一首
 
澤蘭は和名集云、陶隱居(カ)本草注云、澤蘭、【和名佐波阿良良岐、一云、阿加末久佐、】生2澤傍1故以名(ヅク)v之、文選謝靈運遊2南亭1詩、澤蘭漸被(タリ)v徑、延喜式典藥云、大和國三十七種、澤蘭十五斤、佐佐貴山君は孝元紀云、七年春二月丙寅朔丁卯立2蔚色謎命1爲2皇后1、后生2二男一女1、第一曰2大彦命1、云々、兄大彦命是阿部臣、膽臣、阿閉臣、狹々城山君、筑紫國造、越國造、伊賀臣、凡七族之始祖也、雄略紀云、近江|狹々城山《サヽキノヤマ》君|韓袋《カラフクロ》言云々、聖武紀云、天平十六年八月乙未詔授2蒲生郡大領正八位上佐々貴山君親人從五位下1并賜2食封五十戸※[糸+施の旁]一百疋布二百端綿二百屯錢一百貫(ヲ)、神前郡大領正八位下佐々貴山君足人(ニ)正六位上并※[糸+施の旁]四十疋布八十端綿八十屯錢四十貫1、斯(ノ)二人並伐2除紫香樂(ノ)宮邊山木1、故有2此賞1焉、孝謙紀云、勝寶八歳五月乙卯太上天皇崩云々、丙辰佐々貴山君親人爲2養役夫司1、此親人が娘などにや、延喜式云、蒲生郡沙々貴(ノ)神社、和名集云、蒲生郡|篠笥《サヽキ》、
 
初、澤蘭和名集云。陶隠居本草注云。澤蘭、【和名佐波阿良々岐。一云阿加末久佐。】生2澤傍1故以名之。文選謝靈運遊2南亭1詩、澤蘭漸被(タリ)v徑。芙蓉始發(タリ)v池。阮籍詠懷詩云。【皐蘭被2徑路1。延喜式典藥式云。大和國三十七種、澤蘭十五斤。拔誤作v※[禾+〓]。佐々貴山君。雄略紀云。
近江|狹々城《サヽキノ》山君|韓※[代/巾]《カラフクロ》言云々。續日本紀云。天平十六年八月乙未詔授2蒲生郡大領正八位上佐々貴山君親人(ニ)從五位下(ヲ)1、并賜2食封五十戸、※[糸+施の旁]一百疋、布二百端綿、二百屯、錢一百貫1。神前郡大領正八位下佐々貴山君足人正六位上、并※[糸+施の旁]四十疋、布八十端、綿八十屯、錢四十貫。斯二人並伐2除紫香樂宮邊山木1。故有2此賞1焉。勝寶七歳五月乙卯太上天皇崩。〇佐々貴山君親人爲2養役夫司1。延暦六年四月乙卯朔戊寅從七位下佐々貴山公賀比授2從五位下1。延喜式云。近江國蒲生郡沙々貴神社
 
命婦誦曰
 
初、命婦【ヒメトネ。ヒメマチキミ】共日本紀。命婦はすなはち内侍佐々貴山君なるへし。親《チカ》人かむすめなとにや
 
(50)4268 此里者繼而霜哉置夏野爾吾見之草波毛美知多里家利《コノサトハツキテシモヤオクナツノノニワカミシクサハモミチタリケリ》
 
夏野に御覽じたる澤蘭の程もなく思召すにかくもみぢしたるは此里には打繼て霜や置らむと遊ばされたるなり、
 
初、此さとはつきて霜やおく 此里は打つゝきて早く霜や置らん。夏野にてちかころ御覽したりし草の色付たるはとの御哥なり
 
十一月八日、在2於左大臣橘朝臣宅1肆宴歌四首
 
目録に八日の下に太上天皇の四字あり尤あるべし、此には落せるなり、橘朝臣は孝謙紀云、勝寶二年正月庚寅朔乙巳賜2朝臣姓1、
 
4269 余曾能未爾見者有之今日見者乎年爾不忘所念可母《ヨソノミニミレハアリシヲケフミレハトシニワスレスオモホユルカモ》
 
左大臣の亭をよそながら御覽じてはさて有しを今日御覺ずれば昔叡覽ありしより年を經て彌忘られず思食となり、
 
初、よそのみに見れはありしを 左大臣の家を、よそなから御覽してはさもおほしめさゝりしか、けふ御覽しては年へてもわすれしとおほしめさるゝよしなり。年にわすれすとあるはすこしかなはぬやうなれと、古哥のならひは、さることおほし
 
右一首太上天皇御歌
 
4270 牟具良波布伊也之伎屋戸母大皇之座牟等知者玉之可麻思乎《ムクラハフイヤシキヤトモオホキミノマサムトシラハタマシカマシヲ》
 
(51)六帖みゆきの歌とせるには第四句みゆきとしらばと改ため、むぐらの歌とせるにはこむと知せばと改めたり、
 
初、むくらはふいやしきやとも これは上の御製にかへしに奉る心なり。第十一に
  おもふ人こむと知せはやへむくらはひたる庭に玉しかましを
第六に
  かねてよりきみきまさんとしらませは門に宿にも玉しかましを
第十八に此左大臣
  掘江には玉しかましを大君のみふねこかむとかねて知せは
 
右一首左大臣橘卿
 
4271 松影乃清濱邊爾玉敷者君伎麻佐牟可清濱邊爾《マツカケノキヨキハマヘニタマシカハキミキマサムカキヨキハマヘニ》
 
是は左大臣の落句を承てよまれたる歟、松陰ノ清キ濱ベとは庭の景趣なり、六帖に此もみゆきの歌に入れたり、
 
右一首右大弁藤原八束朝臣
 
第六に左少辨、今右大辨共に紀に漏れて記さず、
 
4272 天地爾足之照而吾大皇之伎座婆可母樂伎小里《アメツチニタラシテラシテワカキミノキイマサハカモウレシキヲリ》
 
第十三に天地二念足橋《アメツチニオモヒタラハシ》と讀たれば今の第二句もタラハシテリテとも讀べき歟、下句の點誤れり、キイマセバカモ、タノシキヲサトと讀べし、第十四に乎佐刀奈流波奈多知波奈乎《ヲサトナルハナタチバナヲ》とよめり、京の字を日本紀にミサトと讀たれば大臣の宅などあるあた(52)りをば小里と云べきなり、
 
初、天地にたらしてらして 太上天皇をも日に喩たてまつりて、左大臣の亭へ照臨せさせたまへるを、御徳によせていへり。たのしみきをりとは、天てる御神の天磐戸をあけさせたまひけん時なとのやうにみな/\たのしみ居るとなり
 
右一首少納言大伴宿禰家持 未v奏
 
二十五日新甞會|肆宴《トヨノアカリニ》應 v詔歌六首
 
二十三月二十四日兩日は寅卯はて神祇を祭らせ給ひ、二十五日は辰にて諸臣に宴を賜はるなり、信義令(ノ)義解云、凡(ソ)大甞者毎v世一年、國司行v事、以外(ハ)毎v年所司行v事、【謂所司者、在v京諸司預2祭事1者也、】江次第弟十新甞會節會次第(ニ)云、内膳入v自2月華門1供2御膳1云々、次供2御飯1、【便撤2饂飩1、】給2臣下(ニ)飯1云々、御箸鳴臣下應(ス)v之(ニ)、供(ス)2白黒御酒1、【供八度各四度、】次給2同酒(ヲ)臣下1、【各一度、稱v名給v之、拍手飲v之、】和名集云、本朝式云、十一月辰日宴會其飲器云々朱漆、
 
初、新嘗會 令義解職員令云。大甞【謂嘗2新穀1以祭2神祇1也。朝諸神夕者供2新穀於至尊1也。】神祇令云。凡大嘗者、毎v世一年國司行v事。以外毎v年所司行v事。【謂所司者在v京諸司預2祭事1者也。】およそ大甞會のことは、第一卷に和銅元年の元明天皇の御製に延喜式等を引てあら/\注せり。御一世に一度行るゝをは、大甞會といひ、毎年行るゝをは新甞會といへり。十一月中の寅日より事はしまりて、卯辰兩日まさしく諸神を祭らせたまひて、巳の日五位以上に宴を賜はり、午の日は職事六位以下に宴を賜はる歟
 
4273 天地與相左可延牟等大宮乎都可倍麻都體婆貴久宇禮之伎《アメツチトアヒサカエムトオホミヤヲツカヘマツレハタウトクウレシキ》
 
右一首大納言巨勢朝臣
 
奈?麻呂なり、勝寶元年四月朔大納言に任ず、
 
初、大納言巨勢朝臣 奈※[氏/一]麻呂なり。勝寶五年三月辛未大納言從二位兼神祇伯造宮卿巨勢朝臣奈※[氏/一]麻呂薨。小治田朝小徳大海之孫、淡海朝中納言大雲比登之子也
 
(53)4274 天爾波母五百都綱波布萬代爾國所知牟等五百都々奈波布《アメニハモイホツツナハフヨロツヨニクニシラレムトイホツヽナハフ》 似2古歌1而未v詳
 
發句の母は助語なり、五百都綱波布は今按、神代紀下(ニ)云、時(ニ)高皇産靈《タカミムスビノ》尊乃還2遣《ツカハシテ》二神(ヲ)1勅《ミコトノリシテ》2大己貴神(ニ)1云、又(タ)汝(ハ)應(シ)v住(ム)2天日隅宮《アマノヒスミノミヤニ》1者、今(ニ)當供造《ツクリマツラムト》、即(チ)以2千尋繩《チヒロノタクナハ》1結爲百八十紐《ユヒテモヽムスビヤマリヤソムスビニ》、文選蜀都賦云、蓋(シ)聞(ク)、天以2日月1爲v綱(ト)、地(ハ)以2四海1爲v紀(ト)1、李善注曰、越絶書范蠡曰、天貴2持盈(ヲ)1不v失2日月星辰之綱紀1、此等の意にや、第四句は上に云如くクニシラサムトと讀べきにや、
 
初、天にはもいほつ綱はふ 文選左太沖蜀都賦曰。蓋聞天以2日月1爲(シ)v綱(ト)、地(ハ)以2四海(ヲ)1爲v紀。大甞宮造らるゝに綱を張て定らるゝ心を、此日月をもて綱とすといふ心をよせてよまれたる歟
 
右一首式部卿石川年足(リ)朝臣
 
聖武紀云、天平十一年六月甲申賜2出雲守從五位下石川朝臣年足※[糸+施の旁]三十疋布六十端正税三萬束1賞(スルナリ)2善政1也、孝謙紀云、勝寶元年七月從四位上、五年九月授2從三位1爲2太宰帥1、寶字元年八月任2中納言1、兵部卿神祇伯如v故、二年八月朔正三位、廢帝紀云、四年正月御史大夫、六年九月乙巳御史大夫兼文部卿神祇伯勲十二等石川朝臣年足薨、時年七十五、詔遣2攝津大夫從四位下佐伯宿禰|今毛人《イマエミシ》信部太輔從五位上大伴宿禰家持1弔2賻之1、年足者後(ノ)岡本朝大紫蘇我臣牟羅志曾孫、平城朝(ノ)左大辨從三位百足之(54)|長子也《エコナリ》、率《シタガフコト》v性(ニ)廉謹、習(ヘリ)2於治體1云々、公務之|閑《イトマ》唯書是悦(ブ)、寶字二年授2正三位(ヲ)1轉2御史大夫1、時勅2公卿(ニ)1各言(ハシム)2意見1、仍上2便宜1作2別式二十卷1、各々以2其政1繋2於本司(ニ)1雖v未2施行1頗有2據(リ)用(ル)1焉、
 
初、石川年足 天平十一年六月甲申賜2出雲守從五位下石川朝臣年足(ニ)※[糸+施の旁]三十疋、布六十端、正税三萬束1。賞2善政1也。十二年正月從五位上。十六年九月甲戌正五位下石川朝臣年足爲2束海道巡察使。十八年四月陸奥守。同月癸卯正五位上。同九月春宮員外亮。同十月兼左中辨。十九年正月丁丑朔從四位下。同三月春宮大夫。勝寶元年七月從四位上。八月兼大弼紫微。五年九月授2從三位1爲2太宰帥1。寶字元年六月神祇伯。同月兵部卿。神祇伯如v故。八月中納言。兵部卿、神祇伯如v故。二年八月朔正三位。四年正月御史大夫。六年九月乙巳、御史大夫正三位兼文部卿神祇伯勲十二等石川朝臣年足薨。時年七十五。詔遣2攝津大夫從四位下佐伯宿禰今|毛人《エミシ》、信部大輔從五位上大伴宿禰家持1弔2賻之1。年足者、後岡本朝大臣大紫牟羅志曾孫、平城朝左大辨從三位石足之長子也。率v性廉勤習2於治體1。〇公務之|閑《イトニ》唯書是悦。寶字二年授2正三位1轉2御史大夫1。時勅2公卿1各言2意見1。仍上2便宜1作2別式二十卷1。各以2其政1繋2於本司1。雖v未2施行1頗有2據用1焉
 
4275 天地與久萬?爾萬代爾都可倍麻都良牟黒酒白酒乎《アメツチトヒサシキマテニヨロツヨニツカヘマツラムクロキシロキヲ》
 
稱コ紀云、天平神護元年十一月戊午朔庚辰詔曰、今勅今日大|新甞《ニハナヒ》猶《ナホ》【良比能】豊明聞行日《アカリキカシメスヒ》在云々、由紀須伎二國獻【禮留】黒紀白紀御酒赤丹【乃保仁】多末倍惠良賜酒幣方利退爲【天奈毛】御物賜【方久止】宣、延喜式第七大甞式云、凡舂(カバ)2黒白酒(ノ)料米1者|造酒兒《サカツコ》先下v手、次諸女共舂、訖祭2井神(ヲ)1、次祭(レ)2竈神1、始|釀《ツヅル》v酒(ヲ)日、亦祭2酒神(ヲ)1、國別所v須甕《モタヒ》四口、〓《サラケ》四口云々、同第四十造酒式云、神甞會白黒二酒料、官田稻二十束【畿内所v進、】云々、又云、其造酒者米一石【令3女丁舂2官田稻1、】以2二斗八升六合1爲v蘖《カムダチ・ヨネノモヤシ》、七斗一升四合爲v飯、合2水五斗1、各等分(ニシテ)爲2二甕1、甕得2酒一斗七升八合五勺1、〓後以2久佐木(ノ)灰三升1【採2御生氣方木1、】和2合(スルヲ)一甕口(ニ)1方(ニ)稱2黒貴1、其一甕(ハ)不v和、是(ヲ)稱2白貴1、宮内式云、凡(ソ)釀(ラバ)2新甞(ノ)黒白二(ツノ)酒1者、毎年九月二日省與2神祇官1共赴2造酒司(ニ)1、卜d應v進2酒稻1國郡c訖省丞以2奏状1進(サレ)2内侍1、内侍奏(シ)了(ヲ)下v官、官即仰下(ス)、【其料(ハ)用2官田稻1、】
 
初、くろきしろきを 大甞會の神酒に黒酒と白酒とあり。世に黒作白作といふに似たり。延喜式第七云。凡舂2黒白酒1料米者|造酒兒《サカツコ》先下v手、次諸女共舂訖(テ)、祭2井神1次祭2竈《ヘツヰノ》神1。始|釀《ツクル・カモス》v酒日亦祭2酒神1。國別所v須|甕《モタヒ》四口、〓《サラケ》四口。云々。第四十造酒式云。神甞會白黒二酒料、官田稻二十束。【畿内所進】〇云々。又云。其造v酒者米一石【合女丁舂2官田稻1】以2二斗八升六合1爲(シ)v※[蘖の木が米《カウシト》、七斗一升四合爲(シ)v飯、合2水五斗1各等分爲2二甕1、々【別歟】得2酒一斗七升八合五勺1、熟後以2久佐木灰三升1【採御生氣方木】和2合(スルヲ)一甕(ノ)口(ニ)1方《マサニ》稱(シ)2黒貴《クロキト》1、其一甕不(ル)v和(セ)是(ヲ)稱(ス)2白貴《シロキト》1。宮内式云。凡釀2新甞黒白二酒1者毎年九月二日省與2神祇官1共赴2造酒司1卜d應(キ)v進(ツル)2酒稻(ヲ)1國郡(ヲ)u訖、省丞以2奏状1進2内侍1。内侍奏了下v官。官即仰下。【其料用2官田稻1。】江次第第十、新甞會節會次第云。内膳入v自2月華門1供2御膳1。〇次供2御飯1。【便撤2饂飩1】給2臣下(ニ)飯1。〇御箸鳴。臣下應v之。供2白黒御酒1。【供八度。各四度。】次給2同酒(ヲ)臣下1。【各一度。稱v名給v之。拍v手飲v之。】三獻(ノ)式詳2于次第1
 
(55)右一首從三位文屋智奴麻呂眞人
 
孝謙紀云、勝寶四年八月從三位智努王等賜2文室眞人姓(ヲ)1、
 
初、文屋智奴麻呂 勝寶六年四月從三位文室眞人珍努爲2攝津大夫1
 
4276 島山爾照在橘宇受爾左之仕奉者卿大夫等《シマヤマニテレルタチハナウスニサシツカヘマツルハマウチキミタチ》
 
上の家持の長歌の中に今の上句あり、但てれるとあかると替れり、
 
初、嶋山にてれる橘 嶋山上にも見えたり。蓬莱によせたるへし
 
右一首右大弁藤原八束朝臣
 
4277 袖垂而伊射吾苑爾※[(貝+貝)/鳥]乃木傳令落梅花見爾《ソテタレテイサワカソノニウクヒスノコツタヒチラスウメノハナミニ》
 
發句は垂衣の意こもるべし、垂拱は垂衣拱手に事もなくて世の安らかに治まる時を云詞なり、第十に何時鴨此夜之將明《イツシカモコノヨノアケム》と讀出せる歌と下の三句同じ、落句の終彼は將見《ミム》とあるを今は伊射見爾《イサミニ》出むと云意なると替れり、此歌新嘗會には時にかなはぬやうなれど次の家持の歌にも梅をしのばむとよめるは此日Iの興に梅柳を假りに植らるゝ事のあればなり、江次第第十新甞會装束次第(ニ)云、尋常|版《ヘム》位南去2三許丈1構2立舞臺1、【不v作2音樂1之時不v立、】其上(ニ)鋪v薦如2兩面1置2鎭子《オモシ》1、其四角三面|樹《ウヽ》2梅柳(ヲ)1、其(ノ)東西北面懸2亘|帽額《モカウヲ》1、【不v隱2鞆繪1、】木工寮作(リ)2舞臺1、左右(ノ)衛門進2梅柳1、
 
初、袖たれていさわかそのに 袖たれては垂拱の心をこめたるか。此哥、新甞會には時にかなはぬやうに聞ゆれと、次下の家持の哥にも梅をしのはんとよめるは、此日の興に梅柳を植らるれはなり。江次第々十云。新甞會装束次第云。尋常(ノ)版《ヘン》位南去2三許丈1構2立舞臺1。【不v作2音樂1之時不v立。】其上鋪v薦加2兩面1置2鎭子《ヲモシ》1。其四角三面|樹《ウフ》2梅柳1。其東西北面懸(ケ)2亘(ス)|帽額《モカウヲ》1。【不v隱2鞆繪1。】木工寮作舞臺、左右衛門進梅柳。第十に
  いつしかも此夜のあけむうくひすの木つたひちらす梅の花みん
 
(56)右一首大和國守藤原|永平《ナカテノ》朝臣
 
手を誤て平に作れり、改たむべし、聖武紀云、天平九年九月己亥從六位上藤原朝臣永手授2從五位下1、孝謙紀云、勝寶二年正月從四位上、四年十一月大倭守、六年正月從三位、寶字元年五月中納言、廢帝紀云、寶字八年九月正三位、稱徳紀云、神護元年正月授2勲舶等1、二年正月以2大納言從二位藤原朝臣永手1爲2右大臣1、同月幸2右大臣第1授2正二位1、其室正五位上大野朝臣仲智從四位下、十月癸未朔壬寅左大臣、景雲三年二月壬寅從一位、光仁紀云、寶龜元年十月己丑朔正一位、二年二月庚子|車駕《キミ》幸2交野(ニ)1、辛丑進到2難波宮(ニ)1、癸卯左大臣暴(カニ)病、戊申車駕取2龍田道1還2到竹原井(ノ)行宮1、節幡之竿無v故自《オ》折(ル)、時(ノ)人皆謂、執政亡没之|徴也《シルシナリト》、己酉左大臣正一位藤原(ノ)朝臣永乎薨、時年五十八、奈良朝贈太政大臣房前之第二子也、元亨釋書第二十九拾異志云、寶龜元年大傅藤永手薨、其子大中大夫病、醫治不v效、乞(フ)2法救(ヲ)一(リノ)比丘(ニ)1、比丘燒(テ)v香(ヲ)持誦(ス)、于v時大中託曰、我永手|也《ナリ》、我生平仆2法華寺幢1、又或營2八角七層塔1、我(レ)令《・シム》3其減2造四角五級1、由申v此墮2地獄1、身抱2火柱1、手釘(ツ)2火釘(ヲ)1、忽閻王宮(ニ)大烟充塞、王驚(テ)問2傍人(ニ)1、曰、日本國藤永手子病、咒師焚v香(ヲ)誦其烟及v此也、王乃勅d我歸2本土1、而我屍已燒無v所v寄、屡來告耳、言已病愈(ユ)、光仁天皇の痛み惜(57)ませたまへる詔を思ふに釋書に記せる如き罪業あるべき人とはおぼえねぢ河原左大臣の靈の人に託して宇※[こざと+施の旁]法皇に七大寺の諷誦を願ひたまひし例もあればさる事こそ侍りけめ、
 
初、藤原永手【手誤作v平。】天平九年九月己亥從六位上藤原朝臣永手授2從五位下1。勝寶元年四月從四位下。二年正月從四位上。四年十一月大倭守。六年正月從三位。寶字元年五月中納言。七年正月兵部卿。八年九月正三位。神護元年正月授2勲二等1。二年正月以大納言從二位藤原朝臣永手爲2右大臣1。同月幸2右大臣第1授2正二位1。其室正五位上大野朝臣仲智(ニハ)從四位下(ヲサヘニ)。十月癸未朔壬寅左大臣。神護景雲三年二月壬寅從一位。寶龜元年十月己丑朔正一位。十二月賜2山背國相樂郡出水郷山二百町1。二年二月庚子車駕幸2交野1。辛丑進到2難波宮1。癸卯左大臣暴病。戊申車駕取2龍田道1還2到竹原井(ノ)行宮《カリミヤニ》1。節幡之竿無v故(ヲ)自折。時人皆謂執政亡没之|徴《シルシナリト》也。己酉左大臣正一位藤原朝臣永手薨。時年五十八。奈良朝贈太政大臣房前之第二子也。元亨釋書第二十九拾|異《イ》志云。寶龜元年大傅藤永手薨。其子大中大夫病。醫治不v効、乞2法救(ヲ)一比丘1。々々燒v香持誦。于v時大中託曰。我永手也。我生平仆2法華寺幢1。又或(ヒト)營2八角七層塔1我令3其(ヲシテ)減(シテ)造2四角五級1。由v此墮2地獄1身抱2火柱1手釘2火釘1。忽閻王宮大煙充塞。王驚問(フニ)2傍人1曰。日本國藤永手子病。呪師焚v香持誦。其烟及v此也。王乃赦v我歸(ラシム)2本土1。而我屍已燒無v所v寄。屡來(テ)告耳。言已病愈(ユ)。光仁天皇のいたみおしませたまふ詔をみるに、釋書にしるせることき罪業なと作るへき人とは見え給はねと、河原左大臣の靈宇※[こざと+施の旁]天皇にま見え奉りて、七大寺の諷誦を願ひ申されける例もあれは、さる事こそ侍けめ
 
4278 足日木乃夜麻之多日影可豆良家流宇倍爾也左良爾梅乎之努波牟《アシヒキノヤマシタヒカケカツラケルウヘニヤサラニウメヲシノハム》
 
日影は苦の名なり、神代紀上云、亦以2天香山之眞坂樹1爲v鬘、以v〓《ヒカゲヲ》【〓、此云2比※[舟+可]〓1、】爲2手繦《タスキト》1、【手繦、此云2多氣枳1、】云々、和名集云、唐韻云、蘿【魯何反、】女蘿也、日本紀私記云、蘿、【比加介、】私云、一名兔絲、六帖にひかげの歌に入れたり、
 
初、あしひきの山下ひかけ 新甞會に預る人々、小忌衣を著し日陰をかさすなり。日蔭の糸とてくみたる糸にて此鬘を結つくることなり。神代紀上云。
亦以2天香山之眞坂樹1爲v鬘、以v蘿【蘿此(ヲハ)云2比※[舟+可]礙1】爲2手繦1。【手繦此云2多須枳1】云々。和名集云。日本紀私記云。蘿爲v鬘以v蘿【和語云。比加介都良。】唐韻云。蘿【魯何反】女蘿也。私云一名兔絲
 
右一首少納言大伴宿禰家持
 
二十七日林王宅餞2之但馬|案察使《アンサツシ》橘奈良麿朝臣1宴歌三首
 
林王は第十七に見えたり、元正紀云、養老三年秋七月庚子始置2按察使1云々、其所(ノ)v管(58)國司、若有2非違1及侵2※[さんずい+謡の旁]百姓1則按察使親自巡省、量v状黜渉、其徒罪以下(ハ)斷决、流罪以上録v状奏上、若有2聲教|條《ヲチ/\》修(マリ)部内肅清(ナルコト)1具記1善最1言上(セヨ)、丙午補2案察使典1、四年三月己巳改2案察使典1號2記事1、乙亥案察使向(ヒ)v京及巡2行屬國1之日、乘v傳給v食、五年六月乙酉太政官奏言、國郡官人、漁2獵黎元1擾2亂朝憲1、故置2案察使1糺2彈非違1肅2清※[(女/女)+干]詐1、既定2官位1宜(シク)v有2料禄1、請以2案察使(ヲ)1准2正五位官1賜2禄并公廨田六町仕丁五人1、記事准2正七位官1賜2禄并公廨田二町仕丁二人1、並|折2留《ヘキトヾメテ》調物1便給v之、詔曰、朕(ガ)之肱股、民之父母、獨在2按察1、寄重務繁與2群臣1異、加(ヘヨ)2禄一倍(ヲ)1便以2當土物1准|度《タクシテ》給(ヘ)v之、
 
初、案察使 養老三年秋七月庚子始置2按察使1。〇其所v管國司若有2非違1及侵2淫百姓1則按察使親自巡省量v状黜渉。其徒罪以下斷决、流罪以上録v状奏上。若有2聲教條修郡内肅清1具記善良言上。丙午補2案察使典1。四年三月己巳改2案察使典1號2記事1。乙亥按察使向v京及巡2行屬國1之日乘v傳給v食。五年六月乙酉太政官奏言。國郡官人漁2獵黎元1擾2亂朝憲1。故置2案察使1糺2彈非違1、肅2清※[(女/女)+干]詐1。既定2官位1宜v有2料禄1。請以2按察使1准2正五位官1賜2禄并公廨田六町、仕丁五人1。記事准2正七位官1賜2禄并公廨田二町、仕丁二人1、並|折《ヘキ》2留調物1便給v之。詔曰。朕之肱股民之父母、獨在2按察1。寄重務繁。與2群臣1異加2禄一倍1。便以2當土物1准|度《タクシテ》給v之
 
4279 能登河乃後者相牟之麻之久母別等伊倍婆可奈之久母在香《ノトカハノノニチハアハムシマシクモワカレトイヘハカナシクモアルカ》
 
能登河は第十に三笠山と讀合せたり、登と知と同音なる故に後者と承たり、落句の在香は有哉なり、
 
初、能登河の後にはあはん 登と知と通すれは、能登といふをうけて、後とつゝけたり。能登河は奈良の邊に有歟。第十に
  能登川の水底さへにてるまてにみかさの山は咲にけるかも
第四に後瀬の山の後もあはむ君とよめるに似たり。しましくもは、しはしもなり。後にはあはんをと、をの字をそへて心得へし
 
右一首治部卿舩王
 
4280 立別君我伊麻左婆之奇島能人者和禮自久伊波比?麻多(59)牟《タチワカレキミカイマサハシキシマノヒトハワレシクイハヒテマタム》
 
之奇島能とは和州を指て云へり、人者和禮自久とは我も/\の意なるべし、
 
初、立別君かいまさは しき嶋とは此秋つ國の惣名にもいへとも、こゝにいへるは大和の國なり。大和に磯城郡あり。欽明天皇の皇居に磯城嶋金刺宮とて有し所なり。後々の哥に、しき嶋や高まと山なとよめるも、やまとの高まと山といふ心なり。大和國は豐葦原の國のもなかなれは、わか國の惣名をあらはすなり。われしくは、面々にわれは/\とおもひて、われめきていはひて、歸りたまふをまたんとなり
 
右一首京少進大伴宿禰黒麻呂
 
官本に右京少進とあり、今は右の字を落せり、黒麻呂が系圖は未v詳、
 
初、京少進 左京歟。右京歟。兩字のうち脱たるなるへし
 
4281 白雪能布里之久山乎越由可牟君乎曾母等奈伊吉能乎爾念《シラユキノフリシクヤマヲコエユカムキミヲソモトナイキノヲニオモフ》
 
左大臣|換《カヘテ》v尾云、伊伎能乎爾須流《イキノヲニスル》、然猶|愉《サトシテ》曰、如v前誦v之也、
 
詠じ出て先左大臣に見せられたるに落句を息の緒にすると改ためられよと宣ひて、さて後には息の緒に念ふも然るべければ其まゝに誦せられよと宣ひなほさるゝなり、
 
右一首少納言大伴宿禰家持
 
(60)五年正月四日於2治部少輔石上朝臣|宅嗣《イヘツキノ》家(ニ)1宴歌三首
 
光亡紀云、天應元年六月戊子朔辛亥大納言正三位兼式部卿石上朝臣宅嗣薨、詔贈2正二位1、宅嗣(ハ)左大臣從一位麻呂之孫、中納言從三位弟麻呂之子也、性朗悟有2姿儀1愛2尚經志多v所2渉覽1、好屬v文、工2草隷1、勝寶三年授2從五位下1任2治部少輔1、稍遷2文部大輔(ニ)1、歴2居内外1、景雲二年至2參議從三位1、寶龜初出爲2太宰帥1、居(ルコト)無v幾遷2式部卿(ニ)1、拜2中納言1、賜2姓物部朝臣1、以2其情願1也尋兼2皇太子(ノ)傅1、改賜2姓石上朝臣1、十一年轉2大納言1、俄加2正三位1、宅嗣辭容閑雅有v名2於時1、値(ヘハ)2風景山水1、時(ニ)把v筆而題v之、自2寶字1後、宅嗣及淡海眞人三船爲2文人之首1、所v著詩賦數十首、世多傳2誦之1、捨2其舊宅1以2阿闌寺1、寺内一隅(ニ)特置2外典之院(ヲ)1、名(ケテ)曰2芸亭1、如有2好學之徒1欲2就閲(ムト)1者恣聽v之(ヲ)、仍記2條式1以貽2於後1、其略(ニ)曰、云々、其院今(マ)見存(ス)焉、臨v終遺教薄v葬、薨(ズル)時年五十三、時(ノ)人悼(ム)v之、歴任の次第等孝謙紀より光仁紀に至るま詳なり、
 
初、石上宅嗣 勝寶三年正月正六位下石上朝臣宅嗣授2從五位下1。寶字元年五月從五位上。六月相模守。三年五月參河守。五年正月上総守。同年十月遣唐副使。六年三月庚辰朔遣唐副使從五位上石上朝臣宅嗣罷以2左虎賁督從五位上藤原朝臣田麻呂1爲2副使1。七年正月文部【式部也。】大輔侍從如v故。八年正月太宰少式。十月正五位上。以2正五位上石上朝臣宅嗣1爲2常陸守1。神護元年正月從四位下。二月己巳中衛中將。常陸守如v故。二年正月左大辨從四位下石上朝臣宅嗣爲2參議1。神護景雲二年正月丙午朔乙卯正四位下石上朝臣宅嗣授2從三位1。寶亀元年九月太宰帥。二年三月式部卿。十一月癸未朔乙巳中納言。六年十二月甲申賜2姓物部朝臣1。以2其情願1也。八年十月爲2兼中務卿1。十年十一月甲申勅2中納言從三位物部朝臣宅嗣1。宜v改2物部石上朝臣1。十一年《天應元年也》二月丙申朔爲2大納言1。本官如v故。天應元年四月十五日正三位。六月戊子朔辛亥大納言正三位兼式部卿石上朝臣宅嗣薨。詔贈2正二位1。宅嗣左大臣從一位麻呂之孫、中納言從三位弟麻呂之子也。性朗悟有2姿儀1。愛2尚經史1多v所2渉覽1。好屬v文工2章隷1。勝寶三年授2從五位下1任2治部少輔1。稍遷2文部大輔1歴2居内外1。景雲二年至2參議從三位1。寶龜初出爲2大宰帥1。居無v幾遷2式部卿1拜2中納言1。賜2姓物部朝臣1。以2其情願1也。尋兼2皇太子傅1改賜2姓石上朝臣1。十一年轉2大納言1。俄加2正三位1。宅嗣辭容閑雅有v名2於時1。値2風景山水1時把v筆而題之。自2寶字1後宅嗣及淡海眞人三船爲2文人之首1。所v著詩賦數十首世多傳2誦之1。捨2其舊宅1以爲2阿〓寺1。々内1隅特置2外典之院l名曰2芸亭1。如《モシ》有2好學之徒1欲2就閲1者恣聴v之。仍記2條式1以貽2於後1。其略曰。内外兩門、本爲2一體1。漸極似v異、善誘不v殊。僕捨v家爲v寺、歸v心久矣。爲v助2内典1、加2置外書1。地是伽藍、事須2禁戒1。庶以2同志1入者無v滯2空有1、兼忘2物我1。異代來者超2出※[草がんむり/塵]身1歸2於覺地1。其院今見存焉。監終遺教薄v葬。薨時年五十三。時人悼v之
 
4282 辭繁不相問爾梅花雪爾之乎禮?宇都呂波牟可母《コトシケシアヒトハサルニウメノハナユキニシヲレテウツロハムカモ》
 
發句はコトシゲミと點じけむを書生のシゲシとは誤れる歟、第二句はアヒトハナ(61)クニとも讀べし、雪爾之乎禮?は今の世は之保禮?と書を今のかきやうに依て思へば、之は、しまく、しなえ、しゝらぬ、など云時のし〔右○〕と同じくそへたる詞にて乎禮?は折而にや、花の榮たるが雪に痛めるは物の祈られたるに似たり、菅家萬葉集に打吹丹秋之草木之芝折禮者《ウチフクニアキノクサキノシヲルレバ》云々、文屋康秀が歌の古今集に載たるなり、此かゝせたまへるやう此集と同じ、今やうは誤なり、
 
初、ことしけみあひとはさるに 辭繁とかきたれと事繁なり
 
右一首|主人《アルジ》石上朝臣宅嗣
 
4283 梅花開有之中爾布敷賣流波戀哉許爾禮留雪乎待等可《ウメノハナサケルカナカニフヽメルハコヒヤコモレルユキヲマツトカ》
 
許爾禮留、【或本爾作v母、】
 
第二句はサケリシナカニとも讀まるべし、第四句の爾は母に作るべし、
 
初、梅の花さけるか中に 咲たる中に猶つほめる花のあるを思ふに、その中にこふる心のこもるへし。雪をまつとてかつほめるらんといふ心なり。梅と雪とは友に似たれは、あるしのまらうとをまたれたる心にたとへたり。許爾、爾疑母邪
 
右一首中務大輔|茨田王《マイタノホキミ》
 
聖武紀云、天平十一年正月甲午朔丙午無位茨田王(ニ)授2從五位下1、十二年十一月從五位上、十九年十一月越中守、今按十九年には家持越中守なれば不審なり、
 
初、茨田王 天平十一年正月甲午朔丙午無位茨田王授2從五位下1。十二年十一月從五位上。十九年十一月越中守
 
(62)4284 新年始爾思共伊牟禮?乎禮婆宇禮之久母安流可《アタラシキトシノハシメニオモフトチイムレテヲレハウレシクモアルカ》
 
伊牟禮?は伊は發語詞在り、落句の可は哉なり、
 
右一首大膳大夫道祖王
 
和名集云、道祖【佐倍乃加美、】かゝればサヘノオホキミなり、聖武紀云、天平九年九月己亥無位道祖王授2從四位下1、十年閏七月爲2散位頭1、十二年十一月從四位上、十八年九月宮内大輔、孝謙紀云、勝寶八歳五月乙卯太上天皇崩(ジタマフ)2於寢殿1、遺詔(アテ)以2中務卿從四位上道祖王1爲2皇太子1、寶字元年三月丁丑皇太子道祖王身居2諒闇(ニ)1志在2※[さんずい+徭の旁]縱1雖v加2教勅1曾(テ)無2改悔1、於v是勅召2群臣1以示2先帝遺詔1、因間2廢不之事(ヲ)1、右大臣已下同奏(シテ)云、不3敢乖2違顧命之旨1、是(ノ)日廢2皇太子1以v王(トイフヲ)歸v第、七月癸酉詔曰、道祖王者(ハ)應v配2遠流(ノ)罪1、然其父新田部親王(ハ)以2清(ク)明(ナル)心(ヲ)1仕(ヘ)奉(リシ)親王也、可v絶2其家門1【夜止】爲【奈母】此|般《タビノ》罪(ハ)免給(フ)、自v今|徃前《ユクサキハ》者以2明直(ノ)心1仕(ヘ)2奉朝廷1 止 詔、今年の亂に名を麻度比と賜へる人なり、
 
初、道祖《サヘノ》王和名集云。道祖【佐倍乃加美。】天平九年九月己亥從四位上無位道祖王授2從四位下1。十年閏七月爲2散位頭1。十二年十一月從四位上。十八年九月宮内大輔。勝寶八歳五月乙卯太上天皇崩2於寢殿1。遺詔以2中務卿從四位上道祖王1爲2皇太子1。寶字元年三月丁丑皇太子道祖王身居2諒闇1志在2淫縱1。雖v加2教勅1曾無2改悔1。於v是召2群臣1以示2先帝遺詔1。因問2廢不之事1。右《左歟》大臣已下同奏云。不2敢乖2違顧命之旨1。是日廢2皇太子1以v王歸(ラシム)v第。寶字元年四月勅云。宗室中舍人新田部兩親王是尤長也。因v茲前者立2道祖王1。而不v順2勅教1、遂縱2淫志1。然則可v擇2舍人親王子中1。かゝれは道祖王は新田部親王の子なり。六月癸酉詔曰。道祖王者、應v配2遠流罪1。然其父新田部親王以2清明心1仕奉親王也。可(ンヤ)v絶2其家門1【夜止】爲(テ)【奈母】此|般《タヒノ》罪免給。自v今往前者、以2明直心1仕2奉朝廷1止詔
 
十一日大雪落積尺有二寸因述2拙《セツ》懷1歌三首
 
4285 大宮能内爾毛外爾母米都良之久布禮留大雪莫蹈禰乎之《オホミヤノウチニモトモモメツラシクフレルオホユキナフミソネヲシ》
 
(62)外爾母はトニモなるをトモヽと點ぜるは例の書生の誤なり、
 
4286 御苑布能竹林爾※[(貝+貝)/鳥]波之波奈吉爾之乎雪波布利都都《ミソノフノタケノハヤシニウクヒスハシハナキニシヲユキハフリツヽ》
 
4287 ※[(貝+貝)/鳥]能鳴之可伎都爾爾保敝理之梅此雪爾宇都呂布良牟可《ウクヒスノナキシカキツニニホヘリシウメコノユキニウツロフラムカ》
 
初、うくひすはしはなきにしを しは/\なきしをなり
 
十二日侍2於内裏(ニ)1聞2千鳥喧1作歌一首
 
4288 河渚爾母雪波布禮例之宮乃裏智杼利鳴良之爲牟等已呂奈美《カハスニモユキハフレレシミヤノウチニチトリナクラシスムトコロナミ》
 
第二句は雪はふるらしの意の古語歟、今按ユキハフレヽカと讀てふれゝばかと意得べき歟、止の端作の十一日大雪落と云を承て見るべし、
 
初、かはすにも雪はふれゝか ふりあれはかといふへきを里阿をつゝめて禮となしてふれゝかといへり。ふれゝはかといはぬは古言の例なり。ふれゝしとよめるは誤なり。宮の内に聲の聞ゆるを來てなくやうによみなせり。第三に長屋王
  わかせこかいにしへの里のあすかには千鳥なくなり嶋まちかねて
又第三に長忌寸意吉麻呂應詔歌に
  大宮の内まて聞ゆあひきすとあことゝのふるあまのよひこゑ
 
十二月十九日於2左大臣橘家宴1見2攀折柳條1歌一首
 
十二月の十は衍文なり、目録になきをよしとす、定家卿云第十九、自2同年【私云、承2第十八勝寶二年1也、】三月一日1至(ル)2同五年正月廿五日(ニ)1今案是は傳寫の誤にて二月を正月となせる歟、若は彼卿所覽の本は正月と有ける歟、正月は誤なり、其故は今目録と共に二月な(64)り、是一つ、正月四日と云より十一日云々、十二日云々、かゝれば今若正月ならばたゞ十九日とのみ云べし、是二つ、終の二十五日の歌にうら/\にてれる春日にひばりあがりと云も正月にはいと早し、二月は相應なり、是三つ、此ことわりを見て案ずべし、
 
4289 青柳乃保都枝與治等理可豆良久波君之屋戸爾之千年保久等曾《アヲヤキノホツエヨチトリカツラクハキミカヤトニシチトセホクトソ》
 
第四句の之は助語なり、落句の保久は祝の字なり、
 
二十三日依v興作歌二首
 
4290 春野爾霞多奈妣伎宇良悲許能暮影爾※[(貝+貝)/鳥]奈久母《ハルノノニカスミタナヒキウラカナシコノユフカケニウクヒスナクモ》
 
多奈妣伎、【幽齋本、妣作v※[田+比]、】
 
六帖に※[(貝+貝)/鳥]の歌としてはるのひにかすみたなびくとあり、
 
4291 和我屋度能伊佐左村竹布久風能於等能可蘇氣伎許能由(65)布敝可母《ワカヤトノイサヽムラタケフクカセノオトノカソケキコノユフヘカモ》
 
イサヽ村の村竹はいさゝかなる村竹なり、日本紀に小方をイサヽカナルカタとよめり、カソケキは此卷上に有て注しき、宋玉風(ノ)賦云、廻《メグリ》v穴|衝《ツキヲカシテ》v陵|蕭稱《カスカナル》衆芳(アリ)、六帖にはさやけきと改て竹の歌とせり、
 
初、音のかそけき 上にもゆふ月夜かそけき野邊とよめり。文選宋玉風賦云。廻《メクリ》v穴(ト)衝v陵《ツキヲカシテ》(ト)蕭條《カスカナル》(ト)衆芳(アリ)。鮑明遠舞鶴賦曰。臨2驚風之|蕭條《カスカナルニ》(ト)對2流光之|照灼《テレルニ》(ト)1。いさゝむら竹はいさゝかなる村竹ともいふへし。又伊と由と通すれはゆさゝ村竹にて、しけきさゝのことくなるちひさき村竹といへるにも有へし
 
二十五日作歌一首
 
4292 宇良宇良爾照流春日爾比婆理安我里情悲毛比登里志於母倍婆《ウラウラニテレルハルヒニヒハリアカリコヽロカナシモヒトリシオモヘハ》
 
ウラ/\はウラヽともよめり、なこやかなるを云なり、落句の志はやすめ字なり、
 
初、うら/\にてれるはるひに うら/\、うらゝ、おなし詞なり。遲々とかけり。日の空をわたる影の遲き心なり
 
春(ノ)日|遲々《ウラ/\トシテ》、※[倉+鳥]※[庚+鳥]《ヒハリ》正(ニ)啼《ナク》、悽惆之意、非v歌難(シ)v撥《ハラヒ》耳、仍作2此歌1、式《モテ》展《ノフ》2締緒(ヲ)1、但此卷中、不v※[人偏+稱の旁]2作者名字1、徒《タヽ》録2年月所處縁起1者、皆大伴宿禰家持裁作(セル)歌(ノ)詞也、 異本左注也、
 
(66)毛詩云、春日遲々、卉木萋々(タリ)、倉庚※[口+皆]々《ヤハラギナグ》(タリ)、采繁祁々(タリ)、禮記月令云、仲春之月倉庚鳴、和名集云、崔禹錫食經云、雲雀雲雀似v雀而大、【和名比波利、】楊氏漢語抄(ニ)云、※[倉+鳥]※[庚+鳥]【倉康二音、和名上同、】今按毛詩禮記の倉庚と此集と和名との※[倉+鳥]※[庚+鳥]と鳥の體に異あり、是故は爾雅云、皇黄鳥註俗呼2黄離留(ト)1亦名2搏黍(ト)1、疏舍人曰皇名2黄鳥1、郭云、俗呼2黄離留(ト)1、又名2搏黍(ト)1、詩周南云、黄鳥于飛、陸機疏云、黄鳥黄※[麗+鳥]留也、或謂2之黄栗留1、幽州人(ハ)謂2之黄※[(貝+貝)/鳥]1、一名倉庚、一名商庚、一名※[黎の下半が鳥]黄、一名楚雀、齊人謂2之搏黍1、常(ニ)〓(ノ)熟(スル)時來(テ)在(リ)2桑間1、故里語曰、黄栗留看(ルト)2我(ガ)麥黄甚熟(スルヲ)1亦是應v節|趨《ムク》v時之鳥也、自v此以下(ノ)諸言2倉庚、商庚、※[黎の下半が鳥]黄、楚雀、倉庚、※[黎の下半が鳥]黄1之文與v此一|也(ナリ)、此等に依れば倉庚はひばりにあらず、又※[(貝+貝)/鳥]なりとも云へど※[(貝+貝)/鳥]にもあらず、別に一つの鳥の名なり、月令の意も亦鶯にあらず、今は唯和名集に叶へるを以てさて有べし、締は玉篇云、徒計(ノ)切結(テ)不(ルナリ)v解、
 
初、※[倉+鳥]※[庚+鳥] 和名集云。崔禹錫食經云。雲雀雲雀似v雀而大。【和名比波里。】楊氏漢語抄云。※[倉+鳥]※[庚+鳥]【倉康二音和名上同。】毛詩云。春日遲々。卉木萋々。倉庚※[口+皆]々《ヤハラキナク》。采繁祁々。禮記月令云。仲春之月倉庚鳴。文選登徒子好色賦云。向2春之末1迎2夏之陽1、※[倉+鳥]※[庚+鳥]※[口+皆]|々《ヤハラキナク》(ト)群女出(テヽ)桑(トル)。王正長雜詩云。昔往※[倉+鳥]※[庚+鳥]鳴、今來蟋蟀吟。月令に仲春に倉庚鳴といふによれは、毛詩もおなしくひはりとよむへきを、うくひすといふは誤にや。仲春に至て鶯なくといはんやうあらんやは。締緒、締【徒計切。結不v解】
 
萬葉集代匠記卷之十九下
〔2021年12月18日(土)午後4時20分、初稿本巻19入力終了〕
 
 
   萬葉集代匠記卷之二十上
                    僧 契沖 撰
                    木村正辭 校
 
初、幸行於山村之時先太上天皇詔陪從王卿 脱卿
 
初、別列擧武藏國防人辯、見于仙覺律師後批
 
初、妻椋椅部刀自賣一首 部誤作郡
 
初、荏原郡上丁 荏誤作※[草がんむり/住]
 
初、妻椋椅部弟女1首 一誤作二
 
初、二月二十日【上云。同二十三日、上野國防人部領使云々。二十下恐有脱字、然至下亦如今。不可考。】武藏國部領防人使云々。今案、刪別等繁重、當准上云同日武藏國部領防人使椽正六位上安曇宿祢三國進歌十二首
 
初、十八日左大臣宴於兵部卿【脱姓】三首 三誤爲一
 
初、天平勝寶八歳 大上天皇皇太后【脱一皇字、后誤作右。後云大皇太后、却剰一太字。亦考孝謙紀、當云天皇太上天皇太后】馬國人 至下同。然恐馬下脱史字、見于歌左注
 
初、二十三日集於式部少丞二首 二誤作三
 
初、勝宝九歳六月二十三日云々 大伴宿祢家持悲怜物色變化作歌一首脱
 
初、天平寶字元年 肆宴歌二首 脱歌字
 
初、年月未詳歌一首 當標題云藤原宿奈麻呂之妻石川女郎薄愛離別悲恨作歌一首
 
初、二年春正月三日云々 此目誤矣。當分標目云二年春正月三日王臣等應詔旨各陳心緒、大伴宿祢家持作歌一首。爲七日侍宴右中辨大伴宿祢家持預作歌一首
 
初、六日内庭假植樹木以作林帷而爲肆宴歌一首 脱作字。帷誤作惟
 
幸2行於山村1之時歌二首
 
欽明紀云、元年二月百濟人|己知部《・コチフ》投化《オノヅカラマウケリ》、置《・ハベラシム》2倭(ノ)國添上郡山(ノ)村(ニ)1、今(ノ)山村(ノ)己知部之|先也《オヤナリ》、和名集云、添上(ノ)郡山村【也末無良、】或者の云和爾村の北に山村あり、
 
初、幸行於山村之時歌 欽明紀云。元年二月、百濟人己知部投化。置倭國添上郡山村。今山村己知部之先也
 
先太上天皇詔2陪従王臣1曰、夫諸王卿等宜d賦2和歌1而奏u、即御口號曰、
 
先太上天皇は元正天皇なり、是は御在位(ノ)時の事なれども今より云故にかくは云歟、然らば其由をことわるべきにさもなければ又御讓位の後太上天皇にて天平七年まさに御幸ありけるなるべし、舍人親王天平七年に薨じ給へば天平其年までとは云なり、
 
初、先太上天皇 哥の後の注に、勝寶五年に山田史土麿に、家持の聞て載られたるよしなれは、元正天皇なり。聖武天皇をは、只太上天皇とのみ載らる。口號雄畧紀
 
(2)4293 安之此奇能山行之可婆山人乃和禮爾依志米之夜麻都刀曾許禮《アシヒキノヤマヤマユキシカハヤマヒトノワレニエシメシヤマツトソコレ》
 
山行シカバとは山村の名に依らせ給ふなるべし、山人は仙人なり、山ツトは山より家にもてくる物なり、此みゆきは花の時か紅葉の節《ヲリ》かにて有べければそれを折て歸らせ給ふを此は仙人の得させたる山※[果/衣]ぞと續なさせ給へるなるべし、六帖にはつとの歌とせり、第一卷は雄略天皇の御歌より初まり此卷にて終るに此御製を初におかれたるは撰者微意を含める歟、
 
初、あしひきの山ゆきしかは 山村なるにより、山ゆきしかはとよませたまへり。山つとは、花紅葉あるひは蕨を折、ところをほりなとして、家にもて歸るをいふなり。第三には濱裹とよみ、第八には道ゆきつとゝよみ、第十五には家つとゝよめり。さて此山人とのたまへるは、仙人の事なるへし。われにえしめし山つとゝは、花もみちを折てかへらせたまふを、仙人のたてまつれるやうによみなさせたまふなるへし
 
舎人親王應v 詔奉和歌一首
 
4294 安之比奇能山爾由伎家牟夜麻妣批等能情母之良受山人夜多禮《アシヒキノヤマニユキケムヤマヒトノコヽロモシラスヤマヒトヤタレ》
 
山ニ行ケム山人とはすなはち太上天皇なり、おりゐの卸門をば藐姑射の山に准らへて仙洞など申奉る故なり、玉體やがて仙人にして山に御幸したまふ御心もはか(3)りがたくて知られぬに猶山※[果/衣]を奉りし仙人は如何なる仙人かと疑ふやうにて奉り給ふ御返しは太上天皇を祝ひ奉りほめ奉り給ふ御意なるべし、
 
初、あしひきの山にゆきけん 山人の心もしらすとは、仙人の君に奉けん心は、いかにおもひて奉けんもしらす。たゝしその奉けん山人は、誰にてかさふらひけんとなり。かくうたかひて、さためぬやうに御かへしを申たまへるか、かへりていはひ奉る心なるへし
 
右天平勝寶五年五月在2於大納言藤原朝臣之家1時、依2奏事1而請2問之1問、少主鈴山田史土麿語2少納言大伴宿禰家持1曰、昔聞2此言1、即誦2此歌1也、
 
請問之問、【官本下問作v間今本誤、】
 
少主鈴は職員令云、主鈴【大少】大主鈴二人掌(トル)d出2納鈴印傳符飛驛凾鈴(ヲ)1事(ヲ)u、少主鈴二人同2大主鈴1、延喜式第十二の末に至て主鈴式一紙許あり、土麿は世系未v詳、少納言は令義解第一(ノ)末云、少納言三人掌d宣2奏小事(ヲ)1【謂公式令所v謂請2進鈴印1及賜2衣服1。如v此少事之類是也、】請2進鈴印傳符1進2付飛驛凾鈴1兼監2官印u、【謂唯得v監視諸印1、其印者、依v律長官執掌也、】其少納言在2侍從員内1、少納言は鈴の事にも預る官なる故に土麿と寄合れたるなり、
 
初、請問之問少主鈴 後の問は閧ネるへし。主鈴は、職員令云。主鈴【大少】大主鈴二人、掌出納鈴印傳符飛驛函鈴事。少主鈴二人、掌同2大主鈴1。少納言、令義解第一末云。少納言三人、掌奏宣小事【謂公式令所謂請進鈴印傳符進付飛驛及賜衣服、如此少事之羸是也。】請進鈴卯傳符飛驛函鈴兼監官印。【謂唯得監視踏印、其印者依律長官執掌也。】其少納言在侍從員内。延喜式第十二に、末に至りて主鈴式紙許あり
 
八月十二日二三大夫等各提2壺酒1登2高圓野1、聊述2所心1(4)作哥三首
 
4295 多可麻刀能乎婆奈布伎故酒秋風爾比毛等伎安氣奈多太奈良受等母《タカマトノヲハナフキコスアキカセニヒモトキアケナタヽナラストモ》
 
秋凰の涼しさに紐解|開《アケ》て心をゆるべて遊ばむは徒に友だちにも交はらぬ時の如くにあらずともなり、六帖にはをばな吹しくとあり、
 
初、ひもときあけなたゝならすとも 秋風の涼しきに、ひもときあけて心をゆるへてあそはんな、いたつらに友にもましはらぬ時のことくにあらすともなり
 
右一首左京少進大伴宿禰池主
 
4296 安麻久母爾可里曾奈久奈流多加麻刀能波疑乃之多婆波毛美知安倍牟可聞《アマクモニカリソナクナルタカマトノハキノシタハヽモミチアヘムカモ》
 
右一首左中弁中臣清麿朝臣
 
4297 乎美奈弊之安伎波疑之努藝左乎之可能都由和氣奈加牟(5)多加麻刀能野曾《ヲミナヘシアキハキシノキサヲシカノツユワケナカムタカマトノノソ》
 
右一首少納言大伴宿禰家持
 
六年正月四日氏族人等賀集2于少納言大伴宿祢家持之宅1宴飲歌三首
 
4298 霜上爾安良禮多婆之里伊夜麻之爾安禮波麻爲許牟年緒奈我久《シモノウヘニアラレタハシリイヤマシニアレハマヰコムトシノヲナカク》 古今未v詳
 
多婆之里、【官本或里作v理、】
 
禮記正義云、露結爲(リ)v霜、霜凝爲2雹雪1、霜の凝て雹となれば彌増にとは云へり、マヰコムはまゐり來むなり、六帖に霰の歌に入れたるには第二句あられちりしきとあり、
 
初、霜のうへにあられたはしり さら/\とふりて、とひゆくをたはしるといへり。霜のさむきにあられさへふりそふは、いやましなることなれは、かくはつゝくるなり
 
右一首左兵衛督大伴宿禰千里
 
千里、【官本、里或作v室、】
 
(6)第四に大伴千室あれば今も千室に作れる本然るべし、
 
4299 年月波安多良安多良爾安比美禮騰安我毛布伎美波安伎太良奴可母《トシツキハアタラアタラニアヒミレトアカモフキミハアキタラヌカモ》 古今未v詳
 
安多良安多良爾、【六帖云、アラタ/\ニ、官本作2安良多安良多爾1、点與2六帖1同、】
 
第二句官本に依べし、六帖にふたりをりと云に入れたるは意をかへて用たる歟、
 
初、年月はあたら/\に 正月なれは、年月ともあらたまれは、あたらしくめつらしうあへとも、猶あきたることなく、めつらしきはあるしなり
 
右一首民部少丞大伴宿禰村上
 
4300 可須美多都春初乎家布能其等見牟登於毛倍波多努之等曾毛布《カスミタツハルノハシメヲケフノコトミムトモハヽタノシトトソモフ》
 
於毛倍波、【官本云、オモヘハ、今本點誤、】
 
初、けふのこと見むとおもへは いつまてもかはらす、けふのことくにて見んとおもへはなり
 
右一首左京少進大伴宿禰池主
 
(7)七日天皇太上天皇皇太后於2東常宮南大殿1肆宴歌一首
 
皇太后、漢書云、漢興因2秦之稱號(ニ)1帝母稱2皇太后1、孝謙紀云、勝寶六年春正月丁酉朔癸卯天皇御2東院1宴2五位已上1、有v勅召2正五位下多治比眞人家主、從五位下大伴宿禰古麻呂二人於御前1特賜2四位當色1令v在2四位之列(ニ)1、即授2從四位下1、思ふに此日の事なり、
 
初、七日天皇太上天皇 孝謙紀云。六年春正月丁酉朔癸卯、天皇御東院宴五位已上。有勅召正五位下多治比眞人家主、從五位下大伴宿祢古麻呂二人於御前、特賜四位當色、令在四位之列。即授從四位下。おもふに此日なり
 
4301 伊奈美野乃安可良我之波波等伎波安禮騰伎美乎安我毛布登伎波佐禰奈之《イナミノヽアカラカシハヽトキハアレトキミヲアカモフトキハサネナシ》
 
播磨守にての歌なれば印南野ノとは云へり、アカラカシハはあから橘とよめる如く葉のあからめる柏なり、此卷下にもよめり、あから柏は青き時とあからむ時との替りあれど君を思ふ事は時わかずとなり、六帖かしはの歌に入たるには君にこひせずと改たり、源重之集に印南野に村々見えし柏木の葉廣になれる夏は來にけり、今の歌に依れる歟、
 
初、いなみ野のあからかしはゝ 色つきたる柏をいへり。熟の字を稻なとのあからむといふに用たり。あから橘といへるも、熟して色つけるをいへり。木のはの色つくも熟する心あり。あからかしをめつるも一さかり時あるを、君かために忠をおもふ心はいつともわかぬとなり。播磨守なれは、いなみのゝといへり
 
右一首播磨國守安宿王奏 古今未v詳
 
(8)安宿はアスカベと讀べし、和名集云、河内國安宿【安須加倍、】郡、雄略紀には飛鳥戸《アスカベノ》郡とかけり、聖武紀云、天平九年九月己亥無位安宿王授2從五位下1、十月庚申授2從四位下1、十二年十一月甲申朔甲辰從四位上十八年四月治部卿、孝謙紀勝寶元年八月辛未中務大輔、三年正月己酉正四位下、五年四月播磨守、六年九月爲2兼内匠頭1、寶字元年六月安宿王及妻子配2流佐渡1、光仁紀云、寶龜四年十月癸卯朔戊申安宿王(ニ)賜2姓高階眞人1、長屋王の子なり、下に至て山背の所に廢帝紀を引に見ゆべし、
 
初、安宿 河内に安宿郡あり。雄畧紀には、飛鳥戸郡とかけり。天平九年九月己亥、無位安宿王授從五位下。同十月庚申、授從五位下安宿王從四位下。十年閏七月、從四位下安宿王爲玄番頭。十二年十一月甲申朔甲辰、從四位上。十八年四月、從四位上安宿王爲治部卿。勝寶元年八月辛未、從四位上安宿王爲中務大輔。三年正月己酉、正四位下。五年四月、播磨守。六年九月、爲兼内匠頭。寶字元年六月、安宿王及妻子配流佐渡。寶龜四年十月癸卯朔戊申、安宿王賜姓高階眞人
 
三月十九日家持之庄門槻樹下宴飲歌二首
 
4302 夜麻夫伎波奈?都都於保佐牟安里都都母伎美伎麻之都都可※[身+矢]之多里家利《ヤマフキハナテツヽオホサムアリツヽモキミキマシツヽカサシタリケリ》
 
右一首置始連長谷
 
4303 和我勢故我夜度乃也麻夫伎佐吉弖安良婆也麻受可欲波(9)牟伊夜登之能波爾《ワカセコカヤトノヤマフキサキテアラハヤマスカヨハムイヤトシノハニ》
 
右一首長谷攀v花提v壺到来、因v是大伴宿禰家持作2此歌1和v之、
 
攀花とは山吹なり、唱和の意注に依て明なり、
 
同月二十五日左大臣橘卿宴2于山田御母之宅1歌一首
 
孝謙紀云勝寶元年七日乙未正六位上山田史日女嶋授2從五位下1、天皇之乳母也、勝寶七歳正月辛酉朔甲子從七位上山田史廣人、從五位下比賣嶋女等七人(ニ)賜2山田御井宿禰姓1、寶字元年八月戊寅勅、故從五位下山田三井宿禰比賣嶋縁v有(ニ)2阿※[女+爾]之勞1、〓2賜宿禰之姓1、恩波枉激、餘及2傍親1、而聽2人悖語1不v奏(セ)2丹誠1、同惡相招、故爲2蔽匿1、今聞2此事1爲竪2寒毛1、凶※[病垂/有]已深、理宜(シク)追責1、可d除2御母之名(ヲ)1奪2宿禰之姓(ヲ)1依v舊(キニ)從c山田(ノ)史(ニ)u、
 
初、山田御母 天平勝寶元年七月甲午、受禅。乙未、正六位上山田史日女嶋授從五位下。天皇之乳母也。勝寶七歳正月辛酉朔甲子、從七位上山田史廣人、從五位上比賣嶋女等七人賜山田御井宿祢姓。寶字元年八月戊寅、勅。故從五位下山田三井宿祢比賣嶋、縁有阿※[女+尓]之勞、〓賜宿祢之姓。恩波枉激、餘及傍親。而聽人悖語、不奏丹誠、同志相招、故爲蔽匿。今聞此事、爲竪寒毛、凶※[病垂/有]已深。理宜追責。可除御母之名奪宿祢之姓依舊從山田史
 
4304 夜麻夫伎乃花能左香利爾可久乃其等伎美乎見麻久波知(10)登世爾母我母《ヤマフキノハナノサカリニカクノコトキミヲミマクハチトセニモカモ》
 
右一首少納言大伴宿禰家持矚2時花1作、但未v出之間、大臣罷v宴而不2攀誦1耳、
 
攀誦は攀は擧歟、
 
初、而不攀誦 攀は擧なるへし
 
詠2霍公鳥1歌一首
 
4305 許乃久禮能之氣伎乎乃倍乎保等登藝須奈伎弖故由奈里伊麻之久良之母《コノクレノシケキヲノヘヲホトヽキスナキテコユナリイマシクラシモ》
 
故由奈里、【幽齋本、里作v理、】
 
落句は今來らしにて初の之は助語なり、
 
初、このくれのしけき このくれは、上におほかりしこのくれ闇なり。今しくらしもは、今しのしもしは助語にて、今來らしなり
 
右一首四月大伴宿禰家持作
 
(11)七夕歌八首
 
4306 波都秋風須受之伎由布弊等香武等曾比毛波牟須妣之伊母爾安波牟多米《ハツアキカセスヽシキユフヘトカムトソヒモハムスヒシイモニアハムタメ》
 
4307 秋等伊弊婆許巳呂曾伊多伎宇多弖家爾花爾奈蘇倍弖見麻久保里香聞《アキトイヘハコヽロソイタキウタテケニハナニナソヘテミマクホリカモ》
 
ウタテケニは轉《ウタヽ》異《ケ》になり、花ニナソヘテは萩薄等の花になずらへてなり、
 
初、うたてけに花になそへて うたてはいよ/\の心なり。けには異の字、勝の字なり。なそへてはなそらへてなり
 
4308 波都乎婆奈波名爾見牟登之安麻乃可波弊奈里爾家良之年緒奈我久《ハツヲハナハナニミムトシアマノカハヘナリニケラシトシノヲナカク》
 
めづらしく見むとての意に初尾花とは云出せり、第二句の之は助語なり、第十に石走のまゝに生たる容花の花にし有けり有つゝ見れば、此に合せて見るべし、
 
初、初をはな花にみんとし 花にみんとしは、花やかにみんとなり。俗のことわさにとほきは花の香といふかことく、たま/\逢はことにめつらしけれは、花やかにあひみんとて、天の川をはわさと隔にけらしといひなせり
 
(12)4309 秋風爾奈妣久可波備能爾故具左能爾古餘可爾之母於毛保由流香母《アキカセニナヒクカハヘノニコクサノニコヨカニシモオモホユルカモ》
 
カハベは天河邊なり、ニコヨカはにこやかなり、之は助語なり、六帖にはにこくさの歌とせり、
 
初、秋風になひく川へのにこ草の 第十一にも
  蘆短の中のにこ草にこよかに我とゑみして人にしられな
第十六に、いるしゝをとむる川へのにこ草とよみ、第十四に、にこ草の花妻なれやとよめり。今秋風になひくとよめると、にこ草の花妻とよめるを引合て案するに、萩の異名にやとおほしきなり。第十に、秋はきのしなひにあらん妹かすかたともよそへて、萩はさま/\の草の中に、ことにやはらかにて、にこ草ともいふへきものなり
 
4310 安吉佐禮婆奇里多知和多流安麻能河波伊之奈彌於可婆都藝弖見牟可母《アキサレハキリタチワタルアマノカハイシナミオカハツキテミムカモ》
 
イシナミオカバは石並をおかばなり、石並とは石橋なり、第二に注せしが如し、石を並置《ナミオカ》ばとは意得べからず、
 
初、秋されは霧立わたる 霧わたるといふに、ひこほしの渡るをかねたり。いしなみおかはゝ、石並おかはなり。上にあまたよみし石橋なり
 
4311 秋風爾伊麻香伊麻可等比母等伎弖宇良麻知乎流爾月可多夫伎奴《アキカセニイマカイマカトヒモトキテウラマチヲルニツキカタフキヌ》
 
うらまつは下待なり、
 
初、うらまちをるに うらは下なり。下まちをるなり
 
(13)4312 秋草爾於久之良都由能安可受能未安比見流毛乃乎月乎之麻多牟《アキクサニオクシラツユノアカスノミアヒミルモノヲツキヲシマタム》
 
落句は又來年の七月《フムツキ》をやまたむの意なり、來年のふむ月なり、之は助語なり、云ひ足らぬやうなるは古歌の習なり、
 
初、おく白露のあかすのみ 末に月をしまたんといへり。露に月のやとるは、ひこほしとたなはたつめとのあひあふに似たれは、草の上の露に月を待ことく、我もひこほしをまたんと、たなはたつめになりてよめる心なり
 
4313 安乎奈美爾蘇弖佐閉奴禮弖許具布禰乃可之布流保刀爾左欲布氣奈武可《アヲナミニソテサヘヌレテコクフネノカシフルホトニサヨフケナムカ》
 
可之布流は第七に注せり、
 
初、かしふるほとに かしは舟をつなく木なり。第七に、舟はてゝかしふりたてゝといふ哥に尺せり。第十五にもよめり
 
右大伴宿禰家持獨仰2天漢1作v之
 
4314 八千種爾久佐奇乎宇惠弖等伎其等爾佐加牟波奈乎之見都追思努波奈《ヤチクサニクサキヲウヱテトキコトニサカムハナヲシミツヽシノハナ》
 
(14)第四句の之は助語なり、趙宋の歐陽永淑が種花詩云、淺深紅白宜2相間1、先後仍須(ラク)《・ヘシ》次第(ニ)栽1、我欲2四時※[手偏+雋]v酒去1、莫v教3一日(ヲシテ)不2花開1、國和漢を分ち人は先後を隔たれど心の能似たる歌なり、
 
初、やちくさに草木をうゑて 趙宋の歐陽永叔か花を種詩云。淺深紅白宜相間、先後仍須次第栽、我欲四時携酒去、莫教一日不花開。國に和漢あり、時先後ありといへとも、心のよく似たる哥なり
 
右一首同月二十八日大伴宿禰家持作v之
 
4315 宮人乃蘇泥都氣其呂母安伎波疑爾仁保比與呂之伎多加麻刀能美夜《ミヤヒトノソテツケコロモアキハキニニホヒヨロシキタカマトノミヤ》
 
第二句はソデツケゴロモと讀べし、氣は例呉音を用たり、和名集云、襴衫《スソツケノコロモ》【須曾豆介乃古路毛、】此にも准らふべし、ニホヒヨロシキとは衣と萩と相共ににほふなり、
 
初、宮人の袖つけころも 蘓泥都氣とかきたれは、そてつきころもとよめるは誤なり。第十六竹取翁か哥にも、ゆふはたの袖つけ衣とよめり。すそつけの衣といへる類なり
 
4316 多可麻刀能宮乃須蘇未乃努都可佐爾伊麻左家流良武乎美奈弊之波母《タカマトノミヤノスソミノヽツカサニイマサケルラムヲミナヘシハモ》
 
初、野つかさ 第十七に赤人の哥にも、野つかさに今やなくらんうくひすのこゑとよめり。野の高き所をいへり。猶山のつかさ岸のつかさともよめり。をみなへしはもといへるは、をみなへしのにほひはいかにととひたつぬる心なり。第八に、さくらの花のにほひはもいかにとよめるかことし
 
4317 秋野爾波伊麻巳曾由可米母能乃布能乎等古乎美奈能波(15)奈爾保比見爾《アキノニハイマコソユカメモノヽフノヲトコヲミナノハナニホヒミニ》
 
袖中抄云、おほとちは女郎花に似て花の白きなり、さればをとこべしとも云、萬葉にをとこをみなの花と讀たるは是歟、落句は花のにほひを見になり、
 
初、ものゝふのをとこおみな ものゝふは、をとこといはんためなり。をとこをみなへしといふへきを、あまりに名の長けれは、をみなとのみいひても、をみなへしとはきこゆる故に、略してなつけたり。大とちといふ草の、女郎花のことくに、花の白く咲といへは、山里に有し時、おほくみしものなり。これをこのてかしはともいふといへるは、西行の山家集にやらん。このてかしはの花とよまれたりとおほゆるは、ひかことにやこれをよまれけるにや。花にほひ見には、花のにほひ見になり
 
4318 安伎能野爾都由於弊流波疑乎多乎良受弖安多良佐可里乎須具之弖牟登香《アキノヽニツユオヘルハキヲタヲラステアタラサカリヲスクシテムトカ》
 
須具之、【幽齋本、具作v其、點云、スコシ、】
 
4319 多可麻刀能秋野乃宇倍能安佐疑里爾都麻欲夫乎之可伊泥多都良牟可《タカマトノアキノヽウヘノアサキリニツマヨフヲシカイテタツラムカ》
 
4320 麻須良男乃欲妣多天思加婆左乎之加能牟奈和氣由加牟安伎野波疑波良《マスラヲノヨヒタテシカハサヲシカノムナワケユカムアキノハキハラ》
 
(16)呼立シカバとは鹿笛《シヽフエ》を吹ていざなふと云へる歟、せこの聲を云へる歟、ムナワケユカムは第八に注せり、六帖狩に入れたるにはむなわけゆくぞと改たり、
 
初、むなわけゆかん 第八に、さをしかのむなわけにかも秋はきの散過にける盛かもいぬる。よひたつるはかりこゑをたてゝ、鹿を追出すなり
 
右歌六首兵部少輔大伴宿禰家持獨憶2秋野1聊述2拙懷1作v之
 
初、聊述拙懷作之 家持の此集撰はれたる事、これらのことはに見えたり
 
天平勝寶七歳乙未二月相替遣2筑紫1諸國防人等歌
 
孝謙紀云、天平勝寶七年春正月辛酉朔甲子勅、爲v有v所v思宜d改2天平勝寶七年1爲c天平勝寶七歳u、唐の玄宗皇帝天寶三年に年を改て載と云へり、肅宗の乾元元年に又年と改らる、玄宗に習ひ給へるにや、爾雅云、載歳也、夏曰v歳、註取(ル)2歳星行一次1、防人は天智紀云、三年、是歳於2對馬島壹岐島筑紫國等1置2防人《サキモリト》與1v烽《スヽミ》、持統天皇三年二月甲申朔丙申詔、筑紫防人滿2年限(ヲ)1者(ノハ)替(ヘヨ)天平寶字元年閏八月壬申勅曰、太宰府防人、頃年差2坂東諸國兵士1發遣、由v是路次之國、皆苦2供給1、防人産業亦難2辨濟1、自v今已後、宜d差2西海道七國兵士合一千人1充(ツ)u、防人司依v式鎭戍、集v府之日、便習2五教1、事具2別式(ニ)1、三年三月丁卯朔庚寅太宰府言、太宰府(ハ)者三面帶v海、諸蕃是待、而自v罷2東國防人1、邊戍日以荒散、如《モシ》不慮(ノ)(17)之表、萬一有v變、何以應v卒何以示v威(ヲ)云々、勅(ス)、云々、東國防人者衆議不v允、仍不v依v請、稱コ紀云、神護二年夏四月壬辰太宰府言云々、勅云々、軍防令云、凡兵士向(ハ)v京者名2衛士1、守v邊者名2防人(ト)1、
 
初、天平勝寶歳乙未 孝謙紀云。天平勝寶七年春正月辛酉朔甲子、勅。爲有所思、宜改天平勝寶七年爲天平勝寶七歳。唐の玄宗皇帝天寶三年に、年を改て載といへり。帝宗皇帝乾元々年に、また年と改らる。玄宗にならひ給へるにや
防人 日本紀第二十七云。是歳【天智天皇三年】於對馬島壹岐島筑紫國等置防人【サキモリナリ。サキモリヲ不知人、サトセト似タレハ、セキモリトナセリ。此集ヲ證トス。】与v烽。持統天皇三年二月甲申朔丙申、詔。筑紫防人滿年限者替。天平寶字元年閏八月壬申、勅曰。太宰府防人、頃年差坂東諸國兵士發遣。由是路次之國、皆苦供給、防人産業亦難辨濟。自今已後、宜差西海道七國兵士合一千人充。防人司依式鎭戊。參府之日、便習五教。事具別式。同三年三月丁卯朔庚寅、太宰府言。〇太宰府者三面帶海、諸蕃是待。而自罷東國防人、邊戊荒散。如不慮之表、萬一有變、何以應卒、何以示威。勅。東國防人者衆議不免。仍不依請。神護二年夏四月壬辰、太宰府言。防賊戌邊、本資東國之軍。持衆宜威、非是筑紫之兵。今割筑前等六國兵士以爲防人、以其所遣分番上下。人非勇健、防守難濟。望請、東國防人依舊配戌。勅。修理陸奥城柵、多興東國力役。事須彼此通融各得其宜。今聞、東國防人多留筑紫。宜加檢括、且以配戌。即隨其數簡却六國所點防人、具状奏來。計其所欠、差點東人、以填三千。斯則東國勞輕、西邊兵足。令義解第三、軍防令云。几兵士向京者名衛士、火別取白丁五人充火頭【謂※[益+蜀]免之法一同仕丁、其防人者不充火頭也。】守邊者防人
 
4321 可之古伎夜美許等加我布理阿須由利也加曳我伊牟多禰乎伊牟奈之爾志弖《カシコキヤミコトカヽフリアスユリヤカエカイムタネヲイムナシニシテ》
 
加我布理は蒙なり、第五貧窮問答歌にも麻被引可賀布利《アサノフスマヒキカカフリ》とよめり、アスユリヤは、明日よりやなり、加曳我は加曳は此作者秋持が家ある地の名にて長下郡に有にや、イムタネは妹なねなり、第十四上野歌に伊加保にある夫を伊加保世欲《イカホセヨ》と云ひ此下に常陸國久慈郡にある母を防人が久自我波波《クジガハハ》とよめる如く加曳にある妹名姉《イモナネ》と云なるべし、落句は妹なしにしてなり、加曳に妹を留め置て明日よりや妹なしにしてゆかむとなり、
 
初、かしこきやきみことかゝふり かしこきは、おそるゝなり。かしこきみことは勅命なり。かゝふりは、かうふるなり。加我布理とかけり。東人の哥なれは、字のまゝによんへし。あすゆりやは、あすよりやなり。かえかいむたねを、加曳は所の名歟。下の常陸の防人か哥に、久自我波々とよめり。久慈郡丸子部佐壮といふものゝ哥なれは、久慈郡にある母といふことを、くしかはゝといへり、又第十四上野の哥に、伊加保母欲とよめるも、いかほにある夫君をいへり。いむたねは、いもなねなり。これより下防人の哥は、音の清濁、五音相通、同韵相通に心を著へし。いむなしにしては、妹なしにしてなり。加曳の里にいもなねはあれとも、あすよりやいもなしにしてわかれゆかんの心を、いもなしにしてとはいひすてたるなり
 
右一首国造丁長下郡物部秋持
 
初、國造丁 白虎通曰。丁(ハ)壯也
 
(18)4322 和我都麻波伊多久古比良之乃牟美豆爾加其佐倍美曳弖余爾和須良禮受《ワカツマハイタクコヒラシノムミツニカコサヘミエテヨニワスラレス》
 
コヒラシは戀らしなり、加其佐倍は影さへなり、飲《ノム》水に我影のうつるによそへて云へり、
 
初、わかつまはいたくこひらし こふらしなり。のむみつにかこさへ見へて、影さへ見へてなり。のむ水にみゆる影は我影なれとも、それによせて妻かおもかけをいふなり。第十三には、天雲の影さへみゆる泊瀬川とよみ、第十六には、浅香山かけさへみゆる山の井ともよめり
 
右一首主張丁麁玉郡若倭部身麿
 
張は帳に作るよし、但國にある主帳にはあらで防人の中に主張する者にや、然らば下に帳に作れるをも張に改たむべし、和名集職名部に佐官の下に郡曰2主帳1とあれば彼も主帳とかけるは却て誤まれる歟、
 
初、主張丁 第十八云。礪波郡主張云々。此外猶見えたり。職員令云。大郡主帳三人云々。帳と張と通する歟。今もこれにや。又主帳にはあらて、詩文に主張といへるにや
麁玉郡。和名集云。麁玉【阿良多末。今称有玉。】靈龜元年四月、速江地震山崩壅麁玉河。水爲之不流。經數十日潰、没敷智長下石田三郡民家百七十餘區、并損苗元明紀。寶字五年七月癸未朔辛丑、遠江國荒玉河堤決三百餘丈、役單功三十万三千七百餘人、充粮修築。廢帝紀
 
4323 等伎騰吉乃波奈波佐家登母奈爾須禮曾波波登布波奈乃佐吉低巳受祁牟《トキトキノハナハサケトモナニスレソハハトフハナノサキテコスケム》
 
ハヽトフハナとは母と云花なり、旅にて野山を見れば其時々の花は咲て故郷にて(19)見しに替らぬを唯なつかしく思ふ母にのみ相見ぬを花によすれば母と云花の咲て來ぬとは云なり、孝徳紀云、皇太子聞(テ)2造媛徂逝《ミヤツコヒメシス》1愴然傷怛《イタミタマフ》、哀(シミ)泣(タマフコト)極甚、於v是野中(ノ)川原|史《フムヒト》滿《ミツ》進而奉v歌、歌曰、模騰渠等爾《モトゴトニ》、婆那播左該騰模《ハナハサケドモ》、那爾騰柯母《ナニトカモ》、于都倶之伊母我《ウツクシイモガ》、磨陀左枳涅渠農《マタサキテコヌ》、今の歌是に似たり、
 
初、とき/\の花はさけとも 時/\にさま/\の花はさけともなり。何すれそは、何とすれはそといふなり。はゝとふ花とは、母といふ花なり。旅に出て野山をみれは、さま/\の花は時につけてさけとも、花の(カ)ことくなる母に離てあわぬこゝろをかくはいへり。孝徳紀云。皇太子【天智天皇】聞造媛徂逝、愴然傷怛。哀泣極甚。於是野中川原史滿進而奉歌。々曰。模騰渠等尓、婆那播左該騰母、那尓騰柯母、于都倶之伊母我、磨陀左枳涅渠農。此哥を知てよみかへたるにや
 
右一首防人山名郡丈部眞麿
 
初、はせつかへのまゝろ
 
4324 等倍多保美志留波乃伊宗等爾閉乃宇良等安比弖之阿良婆巳等母加由波牟《トヘタホミシルハノイソトニヘノウラトアヒテシアラハコトモカユハム》
 
發句は遠江なり、和名集には遠江【止保太阿不三、】と仮名書とつきたれど止保津阿不三《トホツアフミ》を津阿反太なれば、止保太不三《トホタフミ》と云べき理なれば阿は衍文なるぺし、今はそれを訛《ヨコナマ》れるなり、倍の字は第十七に高市連黒人が歌に注せし如く神功皇后紀に保の音に用られたれば今もとほとほみと讀て下の保の字をのみ不に通して意得べき歟、シルハノイソ、ニヘノ浦何の郡に有と云事を知らず、山名郡の人のよめば彼郡にや、和名集に濱名郡に贄代郷あり、爾閉の浦は若此處にや、アヒテシアラバは之は助語なり、加由(20)波牟はかよはむなり、シルハノ磯とニヘノ浦とは其あはひに海を隔て遠ければ其あはひの海だになくば此より物をも云ひかはさまし物をとよめる歟、シルハノ磯は山名郡にて爾閉の浦に渡り來たる時よめるにや、
 
初、とへたほみ 遠江なり。和名集に云。速江【止保太阿不三。】しるはのいそとにへのうらといふ所は、あるひはさしむかひあるひはならひてあるなるへし。されはのこしおく妻と、わか心たにそのことくもろともにあひてあらは、遠くへたゝるとも、ことははかよひてなくさまんとなり。かゆはんは、かよはんなり
 
右一首同郡丈部川相
 
4325 知知波々母波奈爾母我毛夜久佐麻久良多妣波由久等母佐佐已弖由加牟《チチハヽモハナニモカモヤクサマクラタヒハユクトモサヽコテユカム》
 
サヽゴテは捧てなり、
 
初、さゝこてゆかん 捧てゆかんなり。さゝくるはさしあくるなり。志阿反佐なれは、指上るをさゝくとはいへり
 
右一首佐野郡丈部黒當
 
4326 父母我等能々志利弊乃母母余具佐母母與伊弖麻勢和我伎多流麻弖《チチハヽカトノヽシリヘノモヽヨクサモヽヨイテマセワカキタルマテ》 
 
モヽヨ草はいかなる草とも知らず、六帖にも雜草の中にもゝよ草とて此歌を出せ(21)り、イデマセはいませなり、
 
初、ちゝはゝかとのゝしりへ 殿後にて、すむところのうしろなり。もゝよ草は、ある説につき草なり。久しく咲ものなれはもゝよ草といふといへとも、おしあてにいへるなり。此哥六帖にもさうの草にのせたり。春よめる哥なれは、春の野なとにある草にや。秋なとの草ならは、時ならぬ物をはよましとおほゆ。もゝよいてませは、もゝよいませなり。およそもゝよちよなといふは、百とせ千とせなり。日本紀に、万歳をよろつよとよめり。わかきたるまては、歸り來まてなり。六帖には、いたるまてと有
 
右一首同郡生玉部足國
 
4327 和我都麻母畫爾可伎等良無伊豆麻母加多比由久阿禮波美都都志努波牟《ワカツマモヱニカキトラムイツマモカタヒユクアレハミツヽシノハム》
 
イツマモカは暇もかなゝり、
 
初、いつまもか いとまもかななり
 
右一首長下郡物部古麿
 
二月六日防人部領使遠江國史生坂本朝臣人上進歌數十八首、但有2拙劣歌十一首1不v取2載之1、
 
坂本朝臣人上系譜等未v詳、
 
初、防人部領使【佐木毛利乃古止利豆加比】推古紀云。十九年夏五月五日、藥猟於菟田野。取鶴鳴時、集于藤原池上、以會明乃往之。粟田細目臣爲前部領、額田部比羅夫連爲後部領。相撲にも部領使ある故に、ことりつかひはすまひにかきる詞とおほへるは、誤なり
 
4328 於保吉美能美許等可之古美伊蘇爾布理宇乃波良和多流(22)知知波波乎於伎弖《オホキミノミコトカシコミイソニフリウノハラワタルチヽハヽヲオキテ》
 
イソニフリは落句を思ふに磯に袖を振てと云へるにや、ウノハラはうなばらなり、
 
初、いそにふりうのはらわたる あら浪の礒をふるうなはらを渡るなり。波をいそふりといふ事は、第十四卷、かまくらのみこしのさきの岩くへのとよめる哥に、相模國風土記を引かことし
 
右一首助丁丈部造人麿
 
4329 夜蘇久爾波那爾波爾都度比布奈可射里安我世武比呂乎美毛比等母我母《ヤソクニハナニハニツトヒフナカサリアカセムヒロヲミモヒトモカモ》
 
ヤソクニは八十國なり、防人の出る國多ければ八十國とは云へり、フナカザリは筑紫へ舟立《フナタチ》する日舟を粧《ヨソフ》を云なり、舒明紀云、唐國使人高表仁等到2于難波津1、則遣2大伴連馬養1迎2於江口1、船卅二艘及鼓吹旗幟皆具(ニ)整餝《ヨソヘリ》、比呂は日にてろ〔右○〕は助語なり、見毛は見むなり、舟かざりして我出立日見送らむ人もがなの意なり、
 
初、やそくにはなにはにつとひ おほくの國/\の人のあつまるといふ心なり。舟かさりは、舟たちする日、舟よそひするなり。ひろは、ろは助語にて、只日なり。みもひともかなは、みむ人もかなゝり。これは、舟かさりして出たつよそほひをみせてほこらんとにはあらす。心ほそくうちしほれて出てたつを、妻なとにみせはやなり
 
右一首足下郡上丁丹比部國人
 
和名集云、足柄上《アシカラノカミ》【足辛乃加美、】足柄下《アシカラノシモ》【准上、】今柄の字なきは凡そ郡郷等の名二字に限る故(23)に上中下等に分つ時は皆一字をば讀附るなり、假令大和の城上《シキノカミ》【之岐乃加美、】城下《シキノシモ》【之岐乃之毛、】此は磯城を上下に分つ故に磯を讀附、葛上《カツラギノカミ》【加豆良岐乃加美、】葛下【加豆良木乃之毛、】此は葛城の城を讀附たるが如し、
 
初、足下郡 和名集云。足柄上【足辛乃加美。】足柄下【准上。】かうあれは、柄の字の脱たる歟。但二字に限るへきよし見えたれは、足下をあしからのしもとよむ歟。大和の城上郡は磯城上郡なるを、二字にかきりて城上となしたれと、猶磯の字をよみつくるかことし
 
4330 奈爾波都爾余曾比余曾比弖氣布能比夜伊田弖麻可良武美流波波奈之爾《ナニハツニヨソヒヨソヒテケフノヒヤイタテマカラムミルハヽナシニ》
 
氣布能日夜、【官本云、古本、六條本、並日作v比、】  伊田弖、【官本點云、イテヽ、】
 
ヨソヒ/\テナは舟を粧ひ/\てなり、伊田弖の點は官本に依べし、
 
初、よそひ/\て 舟よそひなり。いてゝまからん、伊田※[氏/一]麻可良武とかける中に、田の字和訓を取てよめる故に、いは助語、たては立といへり。音を取てよむへし。此字音訓兩方用たり。やかて下の長哥に、鳥かなくあつまをのこはいてんかひといふに、今のことくかけり
 
右一首鎌倉郡上丁丸子連多麿
 
二月七日相撲國防人部領使守從五位下藤原朝臣宿奈麻呂進歌數八首、但拙劣歌五首者不2取載1之、
 
聖武紀云、天平十八年四月正六位下藤原朝臣宿奈麻呂授2從五位下1、六月越前守、九(24)月上總守、稱コ紀云、神護二年十一月從三位、景雲二年十一月兵部卿從三位藤原朝臣宿奈麻呂爲2兼造法華寺長官1、光仁紀云、寶龜元年七月參議八月太宰帥、九月式部卿造法華寺長官如v故《モトノ》、
 
初、藤原宿奈麿 天平十八年、正六位下藤原朝臣宿奈麻呂授從五位下。同六月、越前守。同九月庚戌朔癸亥、爲上總守。寶字元年五月、從五位上、六月、民部少輔。三年十一月、右中弁。五年正月、上野守。七年正月、造宮大輔、上野守如故。八年九月、從四位下。十月、太宰帥。神護二年十一月、正四位上轉從三位。景雲二年十一月、兵部卿從三位藤原朝臣宿奈麻呂爲兼造法華寺長官。寶龜元年七月、參議。八月、太宰帥。九月、式部卿、造法華寺長官如故。
 
追2痛防人悲v別之心1作歌一首并2短哥1
 
4331 天皇乃等保能朝廷等之良奴日筑紫國波安多麻毛流於佐倍乃城曾等聞食四方國爾波比等佐波爾美知弖波安禮杼登利我奈久安豆麻乎能故波伊田牟可比加弊里見世受弖伊佐美多流多家吉軍卒等禰疑多麻比麻氣乃麻爾麻爾多良知禰乃波波我目可禮弖若草能都麻乎母麻可受安良多麻能月日餘美都都安之我知流難波能美津爾大舩爾末加伊之自奴伎安佐奈藝爾可故等登能倍由布思保爾可知比(25)伎乎里安騰母比弖許藝由久伎美波奈美乃間乎伊由伎佐具久美麻佐吉久母波夜久伊多里弖大王乃美許等能麻爾末麻須良男乃許己呂乎母知弖安里米具理事之乎波良波都都麻波受可敝理伎麻勢登伊波比倍乎等許敞爾須惠弖之路多倍能蘇田遠利加敝之奴婆多麻乃久路加美之伎弖奈我伎氣遠麻知可母戀牟波之伎都麻良波《スメロキノトホノミカトヽシラヌヒツクシノクニハアタマモルオサヘノキソトキコシメスヨモノクニニハヒトサハニミチテハアレトトリカナクアツマヲノコハイテムカヒカヘリミセステイサミタルタケキイクサトネキタマヒマケノマニマニタラチネノハヽカメカレテワカクサノツマヲモマカスアラタマノツキヒヨミツヽアシカチルナニハノミツニオホフネニマカイシヽヌキアサナキニカコトヽノヘユフシホニカチヒキヲリアトモヒテコキユクキミハナミノマヲイユキサクヽミマサキクモハヤクイタリテオホキミノミコトノマニママスラヲノコヽロヲモチテアリメクリコトシヲハラハツヽマハウカヘリキマセトイハヒヘヲトコヘニスヱテシロタヘノソテヲリカヘシヌハタマノクロカミシキテナカキケヲマチカモコヒムハシキツマラハ》
 
之良奴日、【幽齋本、或日下有v之、】  聞食、【同本云、キコシメス、】  事之乎波良波、【官本或下波作v婆、】
 
之良奴日は之の字を加へずともシラヌヒノと讀べし、トリガナクより下の六句は莊子云、白刃交(ハレドモ)2於前(ニ)1視(ルコト)v死(ヲ)若(クスル)v生(ノ)者烈士之勇也、稱コ紀云、景雲三年冬十月乙末朔詔曰、復勅【之久】朕東人授刀侍【之牟留】事近護【止之天】護近【與止】念【天奈毛】在、是東人額【爾波】箭立【止毛】背不立一心護物曾、此心知汝都可(26)弊勅【比之】御命不忘、此状悟諸東國人等謹【之末利】奉侍、ネギタマヒは第六に注せり、アシガチルは蘆花の散なり、古事記曰、爾與v軍待v戰、射出之矢如v蘆來散、さて此は難波と云はむためにおけり、此卷下にもかく置ける事二首あり、コギユクキミハとは下に防人の妻どもの祝ふ心を云へばそれがために君と云なり、事之ヲハラバの之は助語なり、かちひきをりなどの詞皆上は出て注しつれば今煩らはしうせず、
 
初、すめろきの遠のみかと しらぬひつくし、第三卷に見えたり。あたまもるおさへのきそと、第六に、あたまもるつくしにいたりとよめり。宜化天皇三年夏五月辛丑朔、詔曰。夫筑紫國者遐迩之所朝屆、去來之所關門。是以海表之國候海水以來賓、望天雲而奉貢。自胎中之帝泊于朕身、收藏穀稼、蓄積諸粮、遙設凶年、厚饗良客、安國之方、更無過此。天智紀云。又於筑紫築大堤、貯水名曰水城。天武紀上云。男【人名。佐伯連】到筑紫、時栗隈王承符對曰。筑紫國者元戌邊賊之難也。其峻城深隍臨海守者、豈爲内賊耶。今※[立心偏+畏]命而發軍、則國空矣。若不意之外、有倉卒之事、頓社稷傾之。とりか鳴あつま、上に見えたり。出むかひかへりみせすて、第十八に、かへりみはせしとことたてとよみ、此下にも、けふよりやかへりみなくてとよめり。景雲三年冬十月乙未朔、詔曰。復勅【之久、】朕我東人尓授刀天、侍【之牟留】事波、汝乃近護【止之天】護近【与止】念【天奈毛】在。是東人波常尓云久、額【尓方】箭波立【止毛】背波箭方不立止云天、君乎一心乎以天護物曾。此心知天汝都可弊止勅【比之】御命乎不忘、此状悟天諸東國乃人等、謹【之末利】奉侍礼、莊子秋水云。白刃交於前、視死如水生者、烈士之勇也。戰國策云云。於是荊軻遂就車而去、終已不顧。あしかちるなにはのみつに、蘆花のちるなにはなり。下にも、蘆かちるなにはに年はへぬへくおもほゆとよめり。かちひきをり、第二、讃岐狹岑嶋にて死人を見て人丸のよまれたる哥にも、行舟の、かち引折てといへり。第七にも、わかふねのかちはなひきそとよめり。あともひて、第二よりはしめてあまたよめり。いさなひ、さそふなり。日本紀に、誘の字をあとふとよみ、誂の字をあとらふとよめり。戰國策注に、誂誘也とあれは、和語も通せり。浪のまをいゆきさくゝみ、第四に、浪の上を、いゆきさくゝみ、いはのまを、いゆきもとほりとよめり。いは發語のことは、ゆきさくゝみ、ゆきめくる心なるへし。まさきくは眞幸なり。つゝまはすは、上につゝむ事なくとよめりしにおなし。いはひへをとこへにすへて、齋瓮床邊居而なり。第三に、まくらへに、いはひへをすへ、竹玉を、しゝにぬきたれとよめるよりはしめてあまたよめり。神を祭る具なり。袖をりかへしは、夢にみんとてするなり これらも上にあまたよみしことなり。なかきけをまちかもこひん、なかき氣に待かこふらんなり。はしきは愛の字なり
 
反歌
 
4332 麻須良男能由伎等里於比弖伊田弖伊氣婆和可禮乎乎之美奈氣伎家牟都麻《マスラヲノユキトリオヒテイテヽイケハワカレヲヽシミナケキケムツマ》
 
4333 等里我奈久安豆麻平等故能都麻和可禮可奈之久安里家牟等之能乎奈我美《トリカナクアツマヲトコノツマワカレカナシクアリケムトシノヲナカミ》
 
初の歌は妻がため後の歌は夫がために悲を述らる、
 
右二月八日兵部少輔大伴宿禰家持
 
(27)4334 海原乎等保久和多里弖等之布等母兒良我牟須敝流比毛等久奈由米《ウナハラヲトホクワタリテトシフトモコラカムスヘルヒモトクナユメ》
 
4335 今替爾比佐伎母利我布奈弖須流宇奈波良乃宇倍爾奈美那佐伎曾禰《イマカハルニヒサキモリカフナテスルウナハラノウヘニナミナサキソネ》
 
落句は第六に白浪のいさきめぐれる住吉《スミノエ》の濱とよめるに附て注せり、
 
初、今かはるにひさきもりか 第七にも、ことしゆくにひさきもりかあさころもとよめり。なみなさきそねは、浪の花なさきそとなり。第六に、白波のいさきめくれるすみのえの濱とよみ、第十四にも、あちかまのかたにさくなみとよめり。日本紀第二云。其於秀起浪穗之上云々。第三云。方到難波之碕、會有奔潮太急。因以名爲浪速國、亦曰浪華。今謂難波訛
 
4336 佐吉母利能保理江巳藝豆流伊豆手夫禰可治登流間奈久戀波思氣家牟《サキモリノホリエコキツルイツテフネカチトルマナクコヒハシケヽム》
 
仙覺云さきもりのほり江とて名所の中に書たる事あり、おぼつかなき事なり、是はたゞ防人が堀江を漕出たるにや、今云仙覺の説を正義とすべし、伊豆手夫禰は奥義抄云、船こぐ者をばいくてと云なり、片方に一人づゝ合せて二人をひとてと云なりいつて舟は十人して漕舟なり、今按下にも保利江己具伊豆手乃船乃《ホリエコグイツテノフネノ》とよみて今と(28)同じくかけり、伊豆は五《イツヽ》にて五手《イツテ》なれば奥義抄を正義とす、應神紀云、五年冬十月|科《フレオホセテ》2伊豆國(ニ)1令v造v船(ヲ)、長十丈《タケトツヱ》、船既成(テ)之、試浮2于海1、便輕(ク)泛疾行如v馳(ルカ)、故名2其船1曰2枯野《カラノト》1、【由2船輕疾1名2枯野1、是|義《コトハリ》違焉、若謂2輕野2後人訛歟、】延喜式第九云、伊豆國田方郡輕野神社、上の自注の意ならば此輕野神社のおはします處にて作りて、舟に依て處をも輕野と名附けるにや、さて此應神紀に依て袖中抄にいつてふねとは萬葉集に伊豆手船とかけり、船は伊豆國より作り出したればしかよめるにやとて應神紀をひかれたれど以郡手夫禰《イツテフネ》とも書べきをたま/\假名の伊豆の國に通へれば伊豆の國より作り出したれば伊豆出《イヅテ》船を手の字を出に假てかけると意得られたるか、松浦船筑紫船などやうにこそ讀べけれ伊豆出船とやは云べき、熊野諸手《クマノヽモロタ》船と云あり、もろての船と云なり、されば五手の船もあしからずと奧義抄の説を助けられたり、又顯昭は舟は應神天皇の時初て作たる由存ぜられたる歟、崇神紀云、十七年秋七月丙午朔詔曰、船者天下之要用也、今|海邊《ワダノホトリ》之民由(テ)v無(ニ)v船以甚苦2歩運1、其|令《ノリコチツ》2諸國(ニ)1俾v造2船舶1、冬十月始造(ル)2船舶(ヲ)1、此舟を作る初なり、神武紀云、是年也|太歳《オホトシ》甲寅其年冬十月|舟師《フナイクサ》東(ヲ)征《ウツタモフ》、又云、時有2一(ノ)漁《アマ》人1、乘(テ)v艇《フネニ》而|至《マヰル》、又云、積《フル》2三年《ミトセ》1間(ニ)、備《ソナヘ》2舟※[楫+戈]《フネヲ》蓄《ソナフ》2兵食《カテヲ》1、又云、戊午年春|二月《キサラギ》、皇師《ミイクサ》遂東(ニユク)、舳艫《トモヘ》相|接《ツゲリ》、これらに舟の事多く見(29)えたるを崇神天皇に至て始造2舟舶1とあるは其故を知らず、若此御代に限て其初と云にや、
 
初、さきもりのほりへこき出る ほりへをこき出るさきもりのいつてふねなり。いつてふねは、五手舟なり。櫓二丁立るを一手といふなれは、十丁立るを五手舟といふなり。神代紀に熊野諸手舟といへるは、櫓二丁立たる早舟風情の物と見えたり。應神天皇の伊豆の國におほせてつくらさせたまへる枯野といふ舟あるによりて、伊豆出舟といふ説あれとうけられす。伊豆手夫祢とかけるも、伊豆出舟の心にあらす。此下にいたりて、ほりへこくいつての舟とよめるにもまた今のことくかけり
 
右九日大伴宿禰家持作v之
 
4337 美豆等利乃多知能巳蘇岐爾父母爾毛能波須價爾弖已麻叙久夜志伎《ミツトリノタチノイソキニチヽハヽニモノハスキニテイマソクラシキ》
 
已蘇岐爾、【幽齋本、伎作v岐、】  價爾弖、【官本又云、ケニテ、】  久夜志伎、【官本云、クヤシキ、】
 
モノハスは物云はずなり、價爾弖は今の點誤れり、ケニテと讀て來《キ》にてと通はして意得べし、に〔右○〕は助語なり、落句の夜をら〔右○〕と點ぜるは書生の誤なり、第十四に水鳥のたゝむよそひに妹のらに物いはず來にて思ひかねつもとよめると大形似たる歌なり、
 
初、みつとりのたちのいそきに水鳥はにはかにたつものなれは、たとへて取あへすさきもりに出たつをいへり。ちゝにものはすけにては、ものいはす來てなり。けにてのには助語なり。旅に出立はかねてよりおもひまうけ時にものそみてみなかくある習なり。すへておよそ此防人ともの哥、ことはゝたみたれと、心まことありてちゝはゝにけうあり。妻をいつくしみ子をおもへる、とり/\にあはれなり。都の哥はふるくもすこしかされることもやといふへきを、これらを見ていにしへの人のまことはしられ侍り。第十四に
  みつとりのたゝむよそひにいものらにものいはすきにておもひかねつも
 
右一首上丁有度郡牛麿
 
 戸令(ニ)云、凡男女三歳以下爲v黄、十六以下爲v小、廿以下(ヲ)爲v中、其男廿一(ヲ)爲(シ)v丁、六十一(ヲ)爲(シ)v老、六十六(ヲ)爲(ス)v耆、孝謙紀寶字元年詔曰、自v今已後宜(シク)d以(テ)2十八(ヲ)1爲(シ)2中男1二十二已上(ヲ)成c正丁u、有(30)度郡は駿河の郡なれども官本に郡を部に作れり、げにも次下の生部刑部などの如く氏なるべし、
 
初、有度部牛麿 部誤作郡
 
4338 多多美氣米牟良自加巳蘇乃波奈利蘇乃波波乎波奈例弖由久我加奈之佐《タヽミケメムラシカイソノハナリソノハハヲハナレテユクカヽナシサ》
 
古と氣と毛と米と共に五音にて通ずれば疊薦《タヽミコモ》なり、疊を敷ならぶれば縁《ヘリ》の有て村々に見ゆればムラジガ磯とつゞけたり、ハナリソは離礒《ハナレソ》なり、はなれ〔三字右○〕をはなり〔三字右○〕と云は東に限らず、
 
初、たゝみけめむらしかいそ たゝみけめは疊薦なり。こも草かり集たるをむらといふ心にていへり。今案、延喜式に榑一村ともいへり。又日本紀、絹一疋をもひとむらといひ、布一端をもひとむらといひたれは、薦一枚をもひとむらふたむらといふ心にかくはつゝけたる歟。はなりそは、はなれそにて、さしはなれたる磯なり
 
右一首助丁生部道麿
 
4339 久爾米具留阿等利加麻氣利由伎米具利加比利久麻弖爾巳波比弖麻多禰《クニメクルアトリカマケリユキメクリカヒリクマテニイハヒテマタネ》
 
仙覺云、アトリはわれひとり也、打舍人の常に云詞也、マケリはまかり也、カヒリクマデニとは還來るまでになり、今按アトリは※[獣偏+葛]子鳥歟、和名集云、辨色立成云、獵觜鳥【阿止(31)里、一云胡雀、楊氏漢語抄云、※[獣偏+葛]子鳥【和名上同、今按兩説所v出未v詳、但本朝國史用2※[獣偏+葛]子鳥1、又或説云、此鳥郡飛、如3列卒之※[獣偏+葛]2山林1、故名2※[獣偏+葛]子鳥1也、】カマケリは第十六に竹取《タカトリ》翁があへる仙女が歌にこゝのゝこらやかまけてをらむとよめるを孝徳紀を引て注しつる如く今も感の字なるべし、諸國の防人の番を折て筑紫壹岐對馬等を守るを國めぐると云ひ、其防人等が勅命に依て急ぎ立を※[獣偏+葛]子鳥《アトリ》の物に感て群立如くにて獨漏て留る事を得ぬなるに喩ふる歟、三千の防人なれば我一人罷免《ワレヒトリマカリ》とは云まじくや、仙覺注に加の字を云はれず、彼意ならばかよわきかよれるなど云類のか〔右○〕にてそへたる詞なり、
 
初、くにめくるあとりかまけり 管見抄にいはく。あとりは我ひとりなり。かまけりのかもしは助詞なり。われひとりまかりといふ詞なりといへり。今案、三千の防人なれは我ひとりとはいふまし。此あとりは※[月+鼠]子鳥にて、その鳥の打むれて行ことく、さはきてまかるといへるにや。日本紀云。此集第四に、岳本天皇の御哥に、人さはに、國にはみちて、あち村の、いさとはゆけととよませたまひ、おなし反哥に、山のはに味村さはきゆくなれとゝよませたまへるを思ふへし。又かまけりは、第十六に竹取翁にあへる仙女か哥に、こゝのゝこらやかまけてをらんといふに、日本紀を引ることく、感の字をかまけりとよめは、防人に出立ことあとりのむらたつことくさはくものとも、皆別にのそみて感慨をおこす心にもや侍らん。人をさしてあとりとのみいはん事、うつせみの世といふへきを、うつせみとのみいふに准すへし。かひりくまてにいはひてまたねは歸りくるまて祝てまてなり
 
右一首刑部虫麿
 
4340 知知波々江巳波比弖麻多禰豆久志奈流美豆久白玉等里弖久麻弖爾《チヽハヽカイハヒテマタネツクシナルミツクシラタマトリテクマテニ》
 
知知波波江、【古本云、チチハハエ、】
 
發句は古點に依てナチハハエと讀て江と余と同音なれば父母よと意得べし、ミヅク白玉は美と之と同韻にて通ずれば沈くに同じかるべし、第十八に海行者美都久(32)屍山行者草牟須屍《ウミユカバミヅクカバネヤマユカバクサムスカバネ》云々、落句は取て家※[果/衣]《イヘヅト》に持て還り來るまでなり、
 
初、ちゝはゝえいはひてまたね ちゝはゝかとあるは誤なり。江と与と通すれは、ちゝはゝよなり。みつくしら玉は、しつく白玉なり。第十八に、海ゆくはみつくかはねとよめり。美と志とは同韵にて通するなり。第七に、わたのそこしつく白玉とも、水底にしつく白玉ともよみ、第十一には、あふみの海しつく白玉ともよめり。つくしより家つとに眞珠をとりてくるまてに、いはひて待たまへとなり
 
右一首川原虫麿
 
4341 多知波奈能美衣利乃佐刀爾父乎於伎弖道乃長道波由伎加弖努加毛《タチハナノミヲリノサトニチヽヲオキテミチノナカチハユキカテヌカモ》
 
美衣利乃佐刀、【官本云、衣作v遠、點云ヲ、幽齋本、作v袁、】
 
ミエリノ里を云はむとて橘の實の中に好を撰取と云意につゞけたらし、
 
初、橘のみえりのさと 橘の實をえらふといふ心につゝけたり。ゆきかてぬは行あへぬなり
 
右一首丈部足麿
 
4342 麻氣波之良寶米弖豆久禮留等乃能其等巳麻勢波波刀自於米加波利勢受《マケハシラホメテツクレルトノヽコトイマセハヽトシオメカハリセス》
 
發句はマケハシラと讀て氣と吉と五音通ずれば眞木柱と意得べし、初よりマキハシラと點ぜるは誤なり、ホメテ作レル殿とは顯宗紀に天皇いまだ弘計《ヲケノ》王にてまし(33)/\ける時の室壽《ムロホギ》の御詞云、築立《ツイタツル》柱|者《ハ》此|家長之《イヘギミノ》御心之|鎭《シヅマリ》也云々、此集第二云、眞木柱太心者有之香杼《マキハシラフトキコヽロハアリシカド》云々、ほめ祝ひて作れる殿の久しきが如く久しく面かはりせずいませとなり、於米は米と毛と同じ五音にて面なり、
 
初、まけはしらほめてつくれる まけはしらは眞木柱なり。景行紀云。御木【木此云開。】ほめてつくれる殿とは、さま/\にいはひてほむるなり。顯宗紀云。億計王起※[人偏+舞]既了。天皇次起自整衣帶爲室壽曰。築立稚室葛根、築立柱者此家長御心之鎭也云々。此集第二に
  まきはしらふとき心は有しかと此わか心しつめかねつも
第七に
  眞木柱つくるそま人いさゝめにかりほのためとつくりけめやも
ほめてつくれる殿の、幾ひさしさあることく、母のよはひもおもかはりせすしてましませとなり。おめかはりは、おもかはりなり。第十二第十八にもよめり
 
右一首坂田部首麿
 
初、首麿 おふとまろ
 
4343 和呂多比波多比等於米保等巳比爾志弖古米知夜須良牟和加美可奈志母《ワロタヒハタヒトオメホトコヒニシテコメチヤスラムワカミカナシモ》
 
和可美、【幽齋本、可作v加、】
 
發句は我旅はにて呂は例の東の俗語なり、オメホトは思へどなり、音を通して意得べし、第四句は知と?と同じ五音にて籠て痩らむなり、我旅は唯旅なりと思へども旅のみにはあらで戀にて心の中に戀しさの籠てしのべば戀痩にやする身の悲しきとなり、
 
初、わろたひはたひとおめほと わかたひはたひとおもへとなり。戀にしてこめちやすらんは、旅とおもへとも、まことは戀にして、心にこめて物をおもふ故に、我身も思ひにやすらんとなり
 
右一首玉作部廣目
 
(34)4344 和須良牟砥努由伎夜麻由伎和例久禮等和我知知波波波和須例勢努加毛《ワスラムトノユキヤマユキワレクレトワカチヽハヽハワスレセヌカモ》
 
發句は良と禮と同じ五音なれば忘れむとなり、野山の面白きを見て心を慰さめむとするなり、第十四云、相模禰乃乎美禰見所久思和須禮久流《サガミネノヲミネミソグシワスレク》云々、
 
初、わすらんと わすれんとてなり。第十四に
  さかみねのをみね見そくしわすれくる妹か名よひてわをねしなくな
 
右一首商長首麿
 
4345 和伎米故等不多利和我見之宇知江須流須流河乃禰良波苦不志久米阿流可《ワキメコトフタリワカミシウチエスルスルカノネラハクフシクメアルカ》
 
ワキメコト、我妹子《ワキモコ》となり、ウチエスルは打依《ウチヨス》るなり、クフシクメアルカはこひしくもあるかなり、皆五音にて通ぜり、可は哉なり、
 
初、わきめこと わきもことなり。うちえするは、打よするなり。うちよするするかの國とは、第三の長哥につゝけてそこに尺せり。くふしくめあるかは、こひしくもあるかなり
 
右一首春日部麿
 
某麿なりけむが字の落たる歟、石上麿藤原麿の類にて此まゝなる名歟、
 
初、春日部麿 麿の上に字の落たる歟。石上、藤原麿のたくひにて、此まゝなる名歟
 
(35)4346 知知波波我可之良加伎奈弖佐久安禮天伊比之古度婆曾和須禮加禰豆流《チヽハヽカカシラカキナテサクアレテイヒシケトハセワスレカネツル》
 
古度婆曾、【校本點云、ケトハセス、點與v今不v同、官本作2氣等婆1、點云、ケトハセ、幽齋本作2氣等波是1、】
 
腰句は幸有《サキアレ》となり、五音を通して意得べし、
 
初、ちゝはゝかかしらかきなて 下に防人の心を家持のよまれたる長哥に、はゝそ葉の、はゝのみことは、みものすそ、つみあけかきなてといへり。史記云。【姉ノ弟ニ別ルヽ時、飯クハセ髪掻撫シ事アリ。弟炭燒ヨリ皈、某皇后弟歟。】さくあれては、さきあれとなり。さきは幸なり。今見るやうなる哥な
 
右一首丈部稻麿
 
二月七日駿河國防人部領使守從五位下布勢朝臣人主、實進九日、歌數二十首、但拙劣歌者不v取2載之1、
 
孝謙紀云、勝寶六年四月、太宰府言、入唐第四船判官正六位上布勢朝臣人主等、來2泊薩摩(ノ)國石籬(ノ)浦1、六月授2從五位下1、同月爲2駿河守1、廢帝紀云、寶字六年正月甲辰朔壬子従五位上、七年正月文部【式部也、】大輔、猶稱コ紀まで見えたる人なり、駿國の防人が歌を此に置事は九日實進の故なり、
 
初、布勢朝臣人主 勝寶六年四月、太宰府言入唐第四船判官正六位上布勢朝臣人主等、來泊薩摩國石籬浦。同年|六《七イ》月、授從五位下。同月、爲駿河守。寶字三年五月壬午、右少弁。四年正月、爲山陽道使。六年正月甲辰朔壬子、從五位上。七年正月、右京亮。同月、文部【式部】大輔。八年四月、上總守。神護景雲三年六月丁酉朔乙巳、出雲守
 
(36)4347 伊閉爾之弖古非都々安良受波奈我波氣流多知爾奈里弖母伊波非弖之加母《イヘニシテコヒツヽアラスハナカハケルタチニナリテモイハヒテシカモ》
 
伊波非、【官本或非作v悲、】
 
腰句は汝之所佩《ナガハケル》なり、
 
初、なかはけるたちになりても 汝かはける太刀なり
右一首國造丁早部使主三中之文歌
 
早部使主、【官本點云、クサカヘノオミ、】
 
官本に早部をくさかべと點ずるが如くならば早は日下の兩字を書生誤て早に作たるか、古事記序に云、亦於2姓(ノ)日下《クサカニ》1謂(ヒ)2※[さんずい+久]沙訶《クサカト》1於2名(ノ)帶(ノ)字(ニ)1謂2多羅斯(ト)1云々、使主は顯宗紀云、使主此(ヲバ)云2淤彌《オミト》1三中之文は官本に文を父に作れるも共に誤なり母に作るべし、其故は次下の三中が歌は此|答《カヘシ》の意なるにはゝをわかれてとよめり、父が別を悲しむ歌に答すとて父を除て母を別れてと云べき理なきを思ふべし、
 
初、早部使主【顯宗紀云。使主、此云淤彌。】三中之母歌 母誤作文
 
4348 多良知禰乃波々乎和加例弖麻許等和例多非乃加里保爾(37)夜須久禰牟加母《タラチネノハヽコワカレテマコトワレタヒノカリホニヤスクネムカモ》
 
汝波乎、【官本點云、ハハノ、】  多非、【官本或非作v悲、】
 
波波乎をハハコと點ぜるは誤なり、
 
初、たらちねのはゝをわかれて これは三中かかへしなり
 
右一首國造丁早部使主三中
 
4349 毛母久麻能美知波紀爾志乎麻多佐良爾夜蘇志麻須義弖和加例加由可牟《モヽクマノミチハキニシヲマタサラニヤソシマスキテワカレカユカム》
 
和加例、【幽齋本、加作v迦、】
 
第二句の爾は助語なり、遙々とある陸路を來て又限りなき海上を經べき事を思ひ煩らへる意なり、
 
初、もゝくまの道はきにしを もゝくまのくかちをきて、また八十嶋の海路をゆかんと、海陸の勞をいへり。もゝくまにやそしま對するやうなり
 
右一首助丁刑部直三野
 
(38)4350 爾波奈加能阿須波乃可美爾古志波佐之阿例波伊波波牟加倍理久麻※[人偏+弖]爾《ニハナカノアスハノカミニコシハサシアレハイハヽムカヘリクマテニ》
 
袖中抄に此歌を釋して云、顯昭云、アスハノ神ニ小柴サシとは上總國にあすはと申神おはす、其神のちかひにてちひさき柴をたてゝ祈る事ありと云へり、上總防人歌也、俊頼朝臣悔離別と云事をよめる、今更に妹歸さめやいちしるきあすはの神にこしばさすとも、此歌は萬葉の歌にアレハイハヽムカヘリクマデニとよみたる心を取て、別にし妹は今更にいかゞかへらむとよめるなり、さきに別たる事を悔るなり、今按ニハナカと云も地の名にて、そこにあすはの神のおはするにや、延喜式に越前國|足羽《アスハノ》郡に足羽《アスハノ》神社あり、上總阿房にはさ云神を載られず、越前の神と同體にておはするにや、
 
初、にはなかのあすはの神に 上總國に阿陬方の明神と申神のましますに、其神にいのりせんとては、庭に小柴をさして祈ることのあるなりと、俊頼朝臣いへるなり。異説あれとも不可用。以上長流か抄にいへり。今案、あすはの神は延喜式にも載られず。續日本紀を考ふるに、元正紀云。養老二年五月甲午朔乙未、割上總國之平群安房朝夷長狹四郡、置安房國。聖武紀云。天平十三年十二月丙戌、安房國并上總國。孝謙紀云。天平寶字元年五月、能登安房和泉等國依舊分立。今は勝寶七歳にて、安房を上總にあはせられたる時なれは、兩國の間知かたしとも申へし。又にはなかのあすはの神といへるにはなかを、俊頼は神のやしろの庭と心得られけりとみゆ。さらはあすはの神の庭とこそいふへけれ。庭中のあすはの神とやは申へき。にはなかも所の名にこそ聞え侍れ。こしはさしは、かならすあすはの神ならすとも、花紅葉を萬の神にたむくる例に、小柴をもいつくにも奉るへきにや。皇極紀云。二年春正月、是月、國内巫覡等折取枝葉懸挂木綿、伺候大臣渡橋之時、爭陳神語入微之説。其巫甚多、不可悉聽。
枝葉をしはとよめるは、音訓をましふるにあらす。義をもて柴の心によめる。これ坂木に木綿をかくるに似たり。今小柴さしといへるも、これになすらへて心得へし
 
右一首帳丁若麻續部諸人
 
今按上の遠江國防人が中に主張丁麁玉郡若倭部身麿、下の武藏國防人が中に主張荏原郡物部歳コ、此等を引て互に考るに今は主の字を落して帳の字たゞしく(39)下は丁の字を落し上下共に張は帳を誤れる事なり、
 
4351 多比己呂母夜豆伎可佐禰弖伊努禮等母奈保波太佐牟志伊母爾志阿良禰婆《タヒコロモヤツヘカサネテイヌレトモナホハタサムシイモニシアラネハ》
 
夜豆伎可佐禰弖、【官本、豆作v倍、點應v之、】
 
第二句は今按夜豆伎をヤツヘと點ぜるを思ふに官本には豆を倍に作たれども古本は伎を倍に作けるにや、今の字にては八著重《ヤツキカサネ》てなり、落句の志は助語なり、此歌は第四に藤原麻呂朝臣の蒸被奈胡也我下丹雖臥《ムシフスマナコヤガシタニフセレドモ》、與妹不宿者肌之寒霜《イモトシネネバハダシサムシモ》と云に意同じ、
 
初、たひころもやつきかさねて やつへかさねてとあるは誤なり。なほはたさむしは、猶膚寒しなり
 
 
 
右一首望陀郡上丁玉作部國忍
 
望陀は、【末宇多、】上總なり、
 
4352 美知乃倍乃宇萬良能宇禮爾波保麻米乃可良麻流伎美乎(40)波可禮加由加牟《ミチノヘノウマラノウレニハホマメノカラマルキミヲハカレカユカム》
 
ウマラノウレは荊《ムバラ》の末なり、ハホは蔓《ハフ》なり、和名集云、辨色立成云、※[草がんむり/偏]豆、【※[草がんむり/偏]音邊、又比顯反、和名阿知萬女、】籬上豆也、今蔓と云へるは是なるべし、波可禮は波和同韻なれば別なり、荊の末に※[草がんむり/偏]豆の蔓てからまりたるやうに相思ふ中も勅命なればせむ方なく別かゆかむと嘆なり、
 
初、みちのへのうまらのうれに うはらの末なり。はほまめのは、はふまめのなり。これは扁豆の事なるへし。和名集云。辨色立成云。※[草がんむり/偏]豆【※[草がんむり/偏]音邊、又比顯反。和名阿知萬女。】籬上豆也。まめの、うはらにははひかゝりてからめることく、思ひまつはれたる君に別てやゆかんとなり。からまる君とは、第十三に、藤浪の、おもひまとはしとよめる心なり
 
右一首天羽郡上丁丈都鳥
 
天羽【阿末波、】は上總なり、
 
初、天羽郡上總 和名集云。天羽【阿末波】
 
4353 伊倍加是波比爾比爾布氣等和伎母古賀伊倍其登母遲弖久流比等母奈之《イヘカセハヒニヒニフケトワキモコカイヘコトモチテクルヒトモナシ》
 
家風とは故郷の方より吹風にて防人が歌にては東風なり、家の風をも吹かせてしがなと云には殊なり、
 
初、いへかせはひに/\ふけと わか故郷のかたより吹來風の心にて、家風とはよめり。つねに家の風とよめる義にはたかへり。風をは使にたとふるゆへに、かくはいへり。ことは家言なり。わか家の親妻なとの文をもてくる人はなしとなり
 
右一首朝夷郡上丁丸子連大歳
 
(41)朝夷【阿左比奈、】は安房なり、元正紀云、養老二年五月甲午朔乙未割2上總國之|平群《ヘグリ》安房朝夷長狹四郡1置2安房國1、聖武紀云、天平十三年二月丙戌安房國并2上總國(ニ)1、孝謙紀云、寶字元年五月能登安房和泉等國依v舊分立(ツ)、今は上總國に并せたる時なるを以て意得べし、下効(ヘ)v之、
 
初、朝夷郡安房 和名集云。朝夷、阿左比奈
 
4354 多知許毛乃多知乃佐和伎爾阿比美弖之伊母加巳已呂波和須禮世奴可母《タチコモノタチノサワキニアヒミテシイモカコヽロハワスレセヌカモ》
 
タチコモは知と豆と許と加と共に五音通ずれば立《タツ》鳧なり、上に水鳥の立の急ぎにとよめるに同じ、アヒミテシのて〔右○〕は助語なり、
 
初、たちこものたちのさわきに たちこもは立つ鴨なり。上に、水鳥のたちのいそきとよめるにおなし
 
右一首長狹郡上丁丈部與呂麿
 
長狹、【奈加佐、】
 
初、長狹郡安房 和名集云。長狭【奈加佐】
 
4355 余曾爾能美美弖夜和多良毛奈爾波我多久毛爲爾美由流(41)志麻奈良奈久爾《ヨソニノミミテヤワタクモナニハカタクモヰニミユルシマナラナクニ》
 
和多良毛、【官本或毛作v牟、點云、ワタラム、】
 
和多良毛はワタクモと點ぜるは書生の失錯なり、毛と牟と通ずればわたらむなり、此は故郷を云なり、
 
初、よそにのみ見てやわたらも わたらもはわたらんなり。これはなにはより西にある嶋なとの、遠くみゆるによせて、ふるさとをかくよそにのみみてやわたらんとよめるなり
 
右一首武※[身+矢]郡上丁丈部山代
 
武射《ムサ》は上總なり、
 
4356 和我波波能蘇弖母知奈弖?和我可良爾奈伎之許己呂乎和須良廷努可毛《ワカハヽノソテモチナテヽワカカラニナキシコヽロヲワスラエヌカモ》
 
和須良延努、【官本、廷作v延、】
 
ワガヽラニは我故になり、落句はわすられぬなり、廷は延を誤れり、
 
初、わかはゝの袖もちなてゝ これは、母かみつからの袖をもちなつるともきこゆ。なく時のさまなり。又出たつ我袖を打なつるともきこゆ。おやの子をいたしたつる時のさまなり。下に家持のよまれたる長哥に、よそひ、かとてをすれは、たらちねの、はゝかきなてゝとも、又、はゝそはの、はゝのみことは、みものすそ、つみあけかきなてともよめり。わかからには、われ故にの心なり。わ□らえぬは、わすられぬを、延を廷に作は誤なり
 
右一首山邊郡上丁物部手刀良
 
(43)山邊【也末乃倍、】上總なり、
 
手刀良、異本手を乎に作て點云をとら、
 
4357 阿之可伎能久麻刀爾多知弖和藝毛古我蘇弖母志保々爾奈伎志曾母波由《アシカキノクマノニタチテワキモコカソテモシホヽニナキシソモハユ》
 
久麻刀爾、【官本點云、クマトニ、】
 
第二句今の點誤れり、官本に依べし、クマトは隈處《クマト》なり、女ればあらはにも得立出ず垣の隈に立て見送るなり、袖モシホヽニはしほ/\になり、落句は泣しぞおもはるゝなり、
 
初、あしかきのくまとにたちて くまとを、長流はくみ戸といふ心なりとかけり。くみたる戸口に立出てわかるゝ時のさまなり。今案、隈所なるへし。女は人にしのふものなれは、垣のまかれるくまなとに立なり。袖もしほゝは、しほ/\なり。なきしそもはゆは、なきしそおもはるなり。るとゆ、同韵なり
 
右一首市原郡上丁刑部直千國
 
市原、【伊知波良、國府、】上總なり、
 
4358 於保伎美乃美許等加志古美伊弖久禮婆和努等里都伎弖伊比之古奈波毛《オホキミノミコトカシコミイテクレハワノトリツキテイヒシコナハモ》
 
(44)ワヌトリツキテはわぬに収著てなり、イヒシとは別の悲しきことを云なり、
 
初、わぬとりつきていひしこなはも われに取つきなり。第十四にも、うへこなはわぬにこふなもとよめり。いひしは、わかれかたきことをいひしなり。下に家持の哥に、わか草の、妻はとりつきとよめるにおなし。こなはもは、こなは妻なれは、妻はいつらと尋心なり
 
右一首種※[さんずい+此]郡上丁物部龍
 
此種※[さんずい+此]と云郡兩國の間になし、今按和名集を以て考るに上總に周准《スヱノ》郡あり季の字を以て注せり、今種を以て周に換て※[さんずい+此]は准の字を寫し誤れるなるべし、
 
初、種※[さんずい+此]郡 此郡の名、上總十一郡、安房四郡の中に見ねは、いかによむへしともしらす。昔の名にて後に改られけるか。もしはかきあやまてる歟
 
4359 都久之閉爾敝牟加流布禰乃伊都之加毛都加敝麻都里弖久爾爾閉牟可毛《ツクシヘニヘムカルフネノイツシカモツカヘマツリテクニヽヘムカモ》
 
發句は筑紫邊になり、ヘムカルは舳向《ヘムケ》るなり、下る時は筑紫の方へ舳先《ヘサキ》の向《ム》くなり、イツシカモの[〔右○〕は助語なり、落句は國に舳將向《ヘムカム》なり、
 
初、つくしへにへむかるふねの、つくしへは筑紫邊にて、都邊國邊といふかことし。へむかる舟は、へむける舟にて、へさきのつくしのかたへむけるなり。下の家持の長哥にも、朝なきに、へむけこかんとゝいへり。くにゝへむかもは、いつか故郷のかたへ舳前のむかんとなり
 
右一首長柄郡上丁若麻續部羊
 
長柄【奈加良、】上總なり、
 
二月九日上總國防人部領使少目從七位下茨田連沙彌(45)麿進歌數十九首、但拙劣歌者不v取2載之1、
 
古語拾遺云、天富命更求2沃壤《ヨキトコロヲ》1分2阿波齋部(ヲ)1、率(テ)征2東|土《クニヽ》1、播2殖《ホトコシ》2麻穀1好麻所v生故謂2之總國(ト)1、【古語麻謂2之總1也、今爲2上總下總二國1是也、】茨田連は古事記中云、其日子八井命者【茨田連手島連之祖、】日子八井命は神武天皇の御子なり和名集云、河内國茨田【萬牟多、】郡、沙彌麿は未v詳、
 
初、上總國 古語拾遺云。天富命更求沃壤、分阿波齋部、率征東土、播殖麻穀。好麻所生故謂之總國【古語、麻謂之總也。今爲上總下總二國是也。】茨田連、文武紀云。二年八月戊子朔、茨田足嶋賜姓連。和名集云。河内國茨田【万牟多】郡
 
陳2私(ノ)拙懷(ヲ)1一首并短歌
 
初、陳私拙懷一首并短歌 懷下、疑脱歌字
 
4360 天皇乃等保伎美與爾毛於之弖流難波乃久爾爾阿米能之多之良志賣之伎等伊麻能乎爾多要受伊比都都可氣麻久毛安夜爾可之古志可武奈我良和其大王乃宇知奈妣久春初波夜知久佐爾波奈佐伎爾保比夜麻美禮婆見能等母之久可波美禮婆見乃佐夜氣久母能其等爾佐可由流等伎登賣之多麻比安伎良米多麻比之伎麻世流難波宮者伎已之(46)米須四方乃久爾欲里多弖麻都流美都奇能舩者保理江欲里美乎妣伎之都都安佐奈藝爾可治比伎能保里由布之保爾佐乎佐之久太理安治牟良能佐和伎伎保比弖波麻爾伊泥弖海原見禮婆之良奈美乃夜敞乎流我宇倍爾安麻乎夫禰波良良爾宇伎弖於保美氣爾都加倍麻都流等乎知許知爾伊※[身+矢]里都利家理曾伎太久毛於藝呂奈伎可毛已伎婆久母由多氣伎可母許巳見禮婆宇倍之神代由波自米家良思母《スメロキノトホキミヨニモオシテルナニハノクニヽアメノシタシラシメシキトイマノヲニタエスイヒツヽカケマクモアヤニカシコシカムナカラワカオホキミノウチナヒクハルノハシメハヤチクサニハナサキニホヒヤマミレハミノトモシクカハミレハミノサヤケクモノコトニサカユルトキトメシタマヒアキラメタマヒシキマセルナニハノミヤハキコシメスヨモノクニヨリタテマツルミツキノフネハホリエヨリミヲヒキシツヽアサナキニカチヒキノホリユフシホニサヲサシクタリアチムラノサワキヽホヒテハマニイテヽウナハラミレハシラナミノヤヘヲルカウヘニアマヲフネハラヽニウキテオホミケニツカヘマツルトヲチコチニイサリツリケリソキタクモオキロナキカモコキハクモユタケキカモコヽミレハウヘシカミヨユハシメケラシモ》
 
可氣麻久母、【幽齋本、母作v毛、】  伎己之米須、【官本、米作v乎、點云、キコシヲス、】  可治比伎能保里、【幽齋本、里作v理、】
 
初の六句は仁徳天皇の御事なり、イマノヲニはを〔右○〕とよ〔右○〕と同韻の字なれば通して今(47)の世なり、又年の緒長くとよめるは長くつゞける意なれば准らへて思ふに昔より今の緒に絶ずと云へるにもや有らむ、アヂムラノサワギヽホヒテと假に讀切てハマニイデヽと云をば別に見るべし、アマヲブネハラヽニウキテは神代紀上云、若2沫雪《アハユキノ》1以|蹴散《クエハラヽカス》【※[就/足]散、此云2倶穢簸邏々箇須1、】ちり/”\に浮意なり、はら/\とゝ云詞も同じかるべし、史記夏本紀云、其土(ハ)白|壤《ハラヽケリ》、【孔安國曰、土無v塊曰v壤、】此は今の意にはあらねど注に無塊と云へるに依れば和語は通ずべし、イサリツリケリは求食し釣しけりなり、いさりを釣けりと云にははあらず、ソキタクモは下のコキバクモと同じくそこばくの意なり、オキロナキカモは※[〓+責]の字をおきろとよめり、玉篇云、※[〓+責]【仕革切、幽深難v見也、易 聖人有3以見2天地之※[〓+責]1、】注に引易の意天地の至※[〓+責]は常の人は見ることを得ざれども聖人は能そこをも見る心なり、今云心は海の底は至りて深き物と思へど者が大御食に奉らむとて海人どもの磯廻し釣してよき魚取て奉るを見ればそこばくも深くはなきにやの意なるべし、コヽミレバは此を以て見ればなり、ウベシのし〔右○〕は助語なり、神代由は神代よりなり、神代とは仁コ天皇を指せり、
 
初、今のをにたえすいひつヽ 長流かいはく。今のをは、緒といふ心なり。年のつゝくを年の緒といふ心にて、たへすとはつゝけたりときこへたりといへり。今案、第五第十七第十八に、いまのをつゝとよめり。若此をつゝの畧にて、今のうつゝの心にや。かんなからわか大きみのうちなひく春のはしめは、わか大君のうちなひくとつゝくには、わか大君のとかりによみきりて、後のめしたまひあきらめたまひといふにつゝくなり。山みれは見のともしくは、めつらしくなり。みをひきしつゝかち引のほり、−あちむらのさはきゝほひて、−白波の八重をるかうへに、以上皆上に見えたり。あまをふねはらゝにうきて、ちり/\にうかふなり。神代紀上云。若沫雪以※[就/足]散【※[就/足]散、此云倶穢簸邏々箇須】このはのはら/\とちるなといふもこれなるへし。第三に、かりこものみたれいつみゆあまのつりふねといへる心なり。史記、夏本紀云。其土白壤【孔安國曰。土無塊曰壤。】孔安國か禹貢の注の心にて、はらゝけりといふ和語を見るに、これも今の土民なとつちのほろ/\とする、はら/\とするなといへるにおなしけれは、散の字の心におなし。只此字を散の字にかへて用ましきを異とす。そきたくもは、そこはくと同しことなり。おきろなきかもは、於藝呂とかけるをおもふに、※[頤の左+責]の字なるへし。幽深難見也と注したれは、今いふ心は、わたのそこはいたりてふかき物とおもへと、君か大みけにとて、あまとものいさりしつりして、よきさかなともたてまつるをみれは、そこはく深くはなきかとなり。こきはくもゆたけきかも、こきはくは、こゝはくなり。あま小舟のちりみたれ魚とりて奉れと、つきせぬをみれは、海はそこはくゆたかなる物なりとなり。こゝみれはとは、上をふみて、こゝをもてみれはなり。ぅへし神代ゆはしめけらしもは、けにこそ神代より難波宮をは草創し給ひけれなり。此神代といふは、仁徳天皇をさせりと聞ゆ
 
4361 櫻花伊麻佐可里奈里難波乃海於之弖流宮爾伎許之賣須(48)奈倍《サクラハナイマサカリナリナニハノウミオシテルミヤニキコシメスナヘ》
 
第三に太宰少貳小野老が青丹吉ならの都は咲花の句ふが如く今盛なりと云に似たり、オシテル宮は第六に神社忌寸老麿が歌に注せしが如し、
 
初、櫻花今さかりなり 折ふしも櫻の比なれは、今さかりなりと御代をほめたり。第六第十一に、おしてるやなにはといふに、臨照とかけるにつきても、みかとの照臨し給ふより枕言とはせるよしを申つるは、此おしてる宮とよめるに、いよ/\其義たち侍るへし。第三に
  青によしならの都はさく花のにほふかことく今さかりなり
此躰なるは、第八第十に
  つはなぬく淺茅か原のつほすみれ今さかりなりわかこふらくは
  わかせこにわかこふらくはおく山のつゝしの花の今盛なり
 
4362 海原乃由多氣伎見都々安之我知流奈爾波爾等之波倍奴倍久於毛保由《ウナハラノユタケキミツヽアシカチルナニハニトシハヘヌヘクオモホユ》
 
下句は住とも飽じの意なり、第六にならの都に年の經ぬべきとよめるに同じ、
 
初、うなはらのゆたけきみつゝ 海上のひろ/\とあるを、世のまつりことのゆるやかなるに下の心はよせたるへし
第三に
  いほ原の清見か崎のみほの浦のゆたに見えつゝものおもひもなし
あしかちるは、上に見えたり。年はへぬへくとは、第六にも
  紅にふかくそみにし心かもならの都に年のへぬへき
 
右二月十三日兵部少輔大伴宿彌家持
 
4363 奈爾波都爾美布禰於呂須惠夜蘇加奴伎伊麻波許伎奴等伊母爾都氣許曾《ナニハツミフネオロスヱヤソカヌキイマハコキヌトイモニツケコソ》
 
オロスヱは下居なり、第九に船浮居《フネウケスヱ》とよみ、此下にも然よめるに同じ、ヤソカヌキは第十二に八十梶懸《ヤソカカケ》とよめるに同じ、今ハコギヌトとは今は漕いぬとなり、
 
初、みふねおろすゑ おろしすゑなり。下に、夕潮に舟をうけすゑとよめり。やそかぬきは、やそかちぬきなり。第十二に、八十梶懸といへるにおなし。櫓をは十丁立る心なり。只おほかる數としるへし。今はこきぬとゝは、今は漕出ていぬるとなり。奴といふかなに去の字をかける事おほきはこれなり
 
(49)4364 佐伎牟理爾多多牟佐和伎爾伊敝能伊毛何奈流弊伎己等乎伊波須伎奴可母《サキモリニタヽムサワキニイヘノイモカナルヘキコトヲイハスキヌカモ》
 
伊敝能伊毛何、【幽齋本、毛作v牟、】
 
發句の點誤れり、サキムリニと讀て牟を毛に通はして意得べし、初より通はして點ぜば東の俗語も稀なるべし、ナルベキ事ヲイハズキヌカモは後れて居るほどのわたらはむやうを云ひおかずしてきぬるかもと悔るなり、寶字元年詔曰、太宰府防人頃年差2坂東諸國兵士1發遣、防人(ノ)産業亦難2辨濟1、此集第五云、家爾歸而業乎之末左爾《イヘニカヘリテナリヲシマサニ》、第十五狹野茅上娘子歌云、人のうゝる田は植まさず今更に國別してあれば如何にせむ、毛詩云、王事|靡《ナシ》v監、不能v※[草がんむり/〓]《ウヽルコト》2黍稷1、
 
初、さきむりにたゝむさはき さきむりはさきもりなり。家の妹かなるへきことをいはすきぬかも。なるへきは、産業にてわたらひなり。毛詩云。王事靡監、不能〓稷黍。寶字元年八月、詔云。太宰府防人頃年差坂東諸國兵士發遣。〇防人産業亦難辨濟。史記高祖本紀云。不事家人生産作業。孟子曰。民之爲道也、有恒産者有恒心、無恒産者無恒心。此集第五に
  久かたの天路はとほしなほ/\に家に歸てなりをしまさに
十五に
  人のうゝる田は植まさす今さらに國わかれしてあれはいかにせん
十六に、筑前國志加白水郎か哥に
  あらをらはめこの産業をはおもはすろとしのやとせをまてときまさす
此卷下にも、おもかこひすななりましつしもとよめり。いそきて立とて、わか歸るまてのわたらひのやうをもいひおかてきぬると、心もとなくおもふ心によめり
 
右二首茨城郡若舍人部廣足
 
和名云、茨城、【牟波良岐、國府、】
 
4365 於之弖流夜奈爾波能都與利布奈與曾比阿例波許藝奴等(50)伊母爾都岐許曾《オシテルヤナニハノツヨリフナヨソヒアレハコキヌトイモニツキコソ》
 
布奈與曾比、【別校本、奈作v禰、點應v之、】
 
落句は岐と氣と同音なれば妹に告こそなり、
 
初、いもにつきこそ いもにつけこそなり
 
4366 比多知散思由可牟加里母我阿我古比乎志留志弖都祁弖伊母爾志良世牟《ヒタチサシユカムカリモカアカコヒヲシルシテツケテイモニシラセム》
 
文選范彦龍贈2張徐州謖1詩云、寄2書雲間(ノ)雁1爲v我西北(ニ)飛(ベ)、シルシテツケテは記《シル》して附てなり、
 
初、ひたちさしゆかむ鴈もか 鴈の使の事よりよめり。しるしてつけては、記して附てなり。文選、范彦龍贈張徐州謖詩云。寄書雲間雁、爲我西北飛
 
右二首信太郡物部道足
 
4367 阿我母弖能和須例母之太波都久波尼乎布利佐氣美都都伊母波之奴波弖《アカモテノワスレモシタハツクハネヲフリサケミツヽイモハシヌハネ》
 
之奴波弖、【官本云、シノハネ、】
 
(51)初の兩句壷第十四にもかくよめり、我面の忘れもしたらばなり、落句の弖は尼の字を寫誤れり、
 
初、あかもてのわすれもしたは わかおもてのわすれもしてはなり。第十四にも、あかおものわすれむしたはとも、おもかたのわすれんしたはともよめり。わすれもしたはゝ、わすれもしたらはにても有へし。久しくなりてわかおもかけをわすれもせは、つくは山をあふきみて、我なりとおもひてしのへとなり。をとこをは 女は山ともあふくへけれはなり。弖は尼の誤なり
 
右一首茨城郡占部小龍
 
4368 久自我波波佐氣久阿利麻弖志富夫禰爾麻可知之自奴伎和波可敝里許牟《クシカハヽサキクアリマテシホフネニマカチシヽヌキワハカヘリコム》
 
佐氣久、【官本云、サケク、】
 
發句は久慈郡の母なり、第十四の伊加保世欲《イカホセヨ》の類なり、佐氣久はサケクと讀てさきくに通はすべし、日本紀第一云、可平安《サキクシマサム》、私記曰、問、今代謂2行矣1爲2左介久《サケクト》1、今此之平安(ハ)共是臨v別相祝之辭也、然(レバ)即此文亦當v讀2左介久1、何其相變哉、答、古書或(ハ)謂(テ)v此爲v前矣、既與2前(ノ)字1相渉也、故(ニ)知是爲(コトヲ)2沙氣久《サキク》1、若沙介久(ナラバ)者何得(ム)2與v前相渉(コトヲ)1、而(シテ)今世謂2沙介久1者是|訛也《ヨコナマレルナリ》、今按私記には氣の字漢音によめり、此集の例と替れり、されどさきく〔三字右○〕は正音さけく〔三字右○〕は訛音なること明なり、シホフネは第十四によめり、
 
初、くしかはゝさけくありまて くしかはゝ、久慈郡にある母なり。第十四に、いかほにある夫君をさして、いかほせよといへるかことし。さけくありまては、さきくてありてまてなり。しほふねは、河舟に對して、海の舟をいふへし。此卷の下にもよめり
 
(52)右一首久慈郡丸子部佐壯
 
4369 都久波禰乃佐由流能波奈能由等許爾母可奈之家伊母曾比留毛可奈之祁《ツクハネノサユルノハナノユトコニモカナシケイモソヒルモカナシケ》
 
流と里と通ずればサユルはさゆりなり、由の字を承てユトコと云へり、由と余と同音なればユトコは夜床なり、落句の祁と吉と通ずればカナシケはかなしきなり、二首にて心を述るに最は先《マヅ》妻をうつくしむ常の情を云なり、
 
初、つくはねのさゆるの花の さゆるはさゆりなり。ゆもしをうけて、ゆとこといへり。ゆとこはよとこなり。ふたつのかなしけは、ともにかなしきなり。夜たまくらをかはしてあはれなりとおもふ人は、ひるもあはれなるを置て、おそろしき海上を渡てゆくのみならす、年月あはてあらんことなとおもひつゝくへきを、只ひるもかなしきといひてこめたるなり
 
4370 阿良例布理可志麻能可美乎伊能利都都須米良美久佐爾和例波伎爾之乎《アラレフリカシマノカミヲイノリツヽスメラミクサニワレハキニシヲ》
 
鹿島は名高き大神なり、スメラミクサは皇御軍《スメラミクサ》なり、落句の爾は助語にて皇御軍のために我は來しますらをなるを、夜晝ともに悲しと思ひし妻を留めて置つれば心弱く顧せらるゝ事を云ひ殘して含めるなるべし、
 
初、あられふりかしまの神を あられの音のかしましきといふ心につゝけたり。第七にもかくつゝけたり。第三に、あられふりきしみかたけとつゝけよめるも、幾とかと通すれは、かしましきといふ心につゝけたるは今におなし。すめらみくさは、すめらみいくさにて、皇御軍なり
 
(53)右二首那賀郡上丁大舍人部千文
 
那賀郡は和名に那珂とかけり、中の假名なり長にあらず、
 
初、那賀郡 和名集には、賀を珂に作れり
 
4371 多知波奈乃之多布久可是乃可具波志伎都久波能夜麻乎古比須安良米可毛《タチハナノシタフクカセノカクハシキツクハノヤマヲコヒスアラメカモ》
 
筑波山の橘によせて妻のかうばしき心を戀ざらめやと云へるなるべし、
 
初、橘の下ふく風の これは筑波山の橘によせて、妻のかうはしき心をこひさらめやといふ心なり
 
右一首助丁占部廣方
 
4372 阿志加良能美佐可多麻波理可閉理美須阿例波久江由久阿良志乎母多志夜波婆可流不破乃世伎久江弖和波由久牟麻能都米都久志能佐伎爾知麻利爲弖阿例波伊波波牟母呂母呂波佐祁久等麻乎須可閉利久麻弖爾《アシカラノミサカタマハリカヘリミスアレハクエユクアラシヲモタシヤハヽカルフハノセキクエテワハユクムマノツメツクシノサキニチマリヰテアレハイハヽムモロモロハサケクトマヲスカヘリクマテニ》
 
(54)久江弖、【官本云、クエテ、】
 
御坂賜ハリとは此道より參れとて傳馬などを賜はるなり、クエユクは久と古と同音なれば越行なり、アラシヲモタシヤハヾカルは嵐をも立や憚るにて嵐の烈しきをも憚からずして旅立なり、久江弖はクエテと讀てこえてと通はすべし、牟麻能都米は馬の爪なり、集中の例|宇《ウ》麻とのみこそかけるを是は東歌なれば牟麻とはかけり、馬の爪筑紫とつゞけたるに二つの意あるべし、一つには馬の躓《ツマヅク》と云意につゞくる歟、二つには第十八云、安米能之多《アメノシタ》、四方能美知爾波《ヨモノミチニハ》、宇麻乃都米《ウマノツメ》、伊都久須伎波美《イツクスキハミ》云々、延喜式祈年祭祝詞云、馬爪至限云々、此意にて馬の爪の行盡すとつゞくる歟、第十三に我心盡之山《ワガコヽロツクシノヤマ》ともよめり、又日本紀私記云、筑紫洲、問、此號若有v意歟、答、先儒之説有2四義1云々、公望案筑後國風土記云、筑後國者本、與2筑前國1合爲2一國1、昔此兩國之間有2山有2峻狹坂1、徃來之人所v駕鞍※[革+薦]破摩盡、土人曰2鞍※[革+薦]盡之坂1云々、此第二の義に准へば彼峻狹の坂にては馬の瓜も損ずべければ馬の爪盡之坂崎とつゞけたる歟、チマリヰテは知と登と通ずれば止り居てなり、モロ/\とは衆人なり、父母兄弟妻子朋友に亙るべしサケクトマヲスはさきくませと申すなり、
 
初、あしからのみさかたまはり 第九に足柄坂を、鳥かなく、あつまのくにの、かしこみや、神のみさかになとよめり。たまはりは、長流か抄に、たは助ことはなり。只まはる心なりといへり。今案、足柄坂よりこえこよと、みかとより道を給はるといへるにや。されはこそかへりみすとはつゝけたらめ。くえゆくは越行なり。あらしをもたしやはゝかるは、たしはたちなり。旅たつに嵐の吹をもはゝからすしひてたつなり。ふはのせきくへてわはゆく不破の關をこへて我はゆくなり。馬のつめつくしのさきに、馬のつまつくといふ心につゝけたり。第十八に、うまのつめいつくすきはみといひたるには心かはれり。此集に馬を宇末とのみかきたるに、こゝに牟の字をかけるは東哥故なるへし。今の世はかへりてこゝにかけるやうを用ゆ。梅もおなし。ちまりゐては、とまり居てなり。もろ/\は衆諸にて、あまたの人々なり。さけくとまうすは、さきくませと申なり
 
(55)右一首倭父部可良麿
 
倭父部は父は文に作るべし、
 
二月十四日常陸國部領防人使大目正七位上息長眞人國島進歌數十七首但拙劣歌者不v取2載之1、
 
國島は廢帝紀云、寶字六年正月正六位上息長丹生眞人國島授2從五位下(ヲ)1、
 
初、息長眞人國島 寶字六年正月、正六位上息長丹生眞人國島授從五位下
 
4373 祁布與利波可敝里見奈久弖意富伎美乃之許乃美多弖等伊?多都和例波《ケフヨリハカヘリミナクテオホキミノシコノミタテトイテタツワレハ》
 
シコノミタテは醜御楯《シコノミタテ》なり、醜は謙下してみづから身を罵《ノル》詞なり、御楯は帝の御爲に寇を防ぐべき身なれば楯に喩ふるなり、毛詩周南云、赳《キウ》々(タル)武夫公侯(ノ)干《タテ》城(ナリ)、崇峻紀云、捕鳥部(ノ)萬(ガ)曰、萬(ハ)爲2天皇(ノ)楯《ミタテト》1將《スレドモ》v効(ハサムト)2其勇1而不2推問《トヒタマハ》1、翻(テ)致《イタシツ》v逼2迫(ルコトヲ)於此|窮《タシナミニ》1、
 
初、しこのみたてと出たつわれは しこは上に、しこほとゝきす、しこつおきななと有し詞にて、きたなきといふ心なり。卑下してみつから身を罵辞なり。みたては御楯なり。毛詩周南云。赳々武夫、公侯干城。崇唆紀云。捕鳥部萬曰。萬爲天皇楯、將效其勇而不推問、翻致逼迫於此窮。異國のあたふせかんとて向ふは、敵軍の矢先の楯となる心なり
 
右一首火長今奉部與曾布
 
(56)火長は延喜式左右衛門式云、凡檢2校在京非違1者、佐一人、尉一人、志一人、府生一人、火長九人【二人(ハ)看督、一人(ハ)案主、四人(ハ)佐尉(ノ)從各二人、志(ノ)從一人、府生(ノ)從一人、】凡檢非違使別當(ニハ)充2隨身火長二人1、凡捉人防授火長七人【三人(ハ)守2獄所(ノ)未彈(ノ)人1、四人(ハ)領2著(ル)v※[金+太]《カナキヲ》囚1、】凡諸門厩亭、便令d2守v門火長1衛護u、若致(サバ)2非理損1者、奪2其料1充2修理料1、凡毎月晦日掃2除宮中1者、差(テ)2將領府生一人、火長四人1送2民部省1、令義解云、凡役2丁匠1皆十人(ノ)外(ニ)給2一人(ヲ)1充2火頭1、【謂、火頭者弱丁也、執2炊〓之事故曰2火頭1、即給2功直1與2見役者1同也、】此令に見えたる火頭は名は火長に似たれど別なり、紛らはしければ共に出して簡へり、
 
初、火長 令義解云。凡役丁匠皆十人外給一人充火頭。【謂、火頭者※[まだれ/斯]丁也。執炊〓之事、故曰火頭。即給功直与見役者同也。】又云。厮猶使也。延喜式左右衛門式云。凡※[手偏+僉]※[手偏+交]在京非違者、佐一人、尉一人、志一人、府生一人、火長九人、【二人看督、二人案主、四人佐尉從各二人、志從一人、府生從一人。】凡※[手偏+僉]非違使別當充隨身火長二人。凡捉人防授火長七人【三人守獄所未彈人、四人領著※[金+太]囚。】凡諸門厩亭、便令守門火長衛護。若致非理損者、奪其料充修理料。凡毎月晦日、掃除宮中者、差將領府生一人、火長四人、送民部省
 
4374 阿米都知乃可美乎伊乃里弖佐都夜奴伎都久之乃之麻乎佐之弖伊久和例波《アメツチノカミヲイノリテサツヤヌキツクシノシマヲサシテイクワレハ》
 
サツヤヌキは薩矢拔なり、薩人の持弓を薩弓と云へばそれに副たる薩矢なり、日本紀に射の字的の字をサシテとよみ又弓射るをイクフと云、的臣と云氏も鐡を射|徹《トホ》しけるをほめて賜はれる氏なり、然れば筑紫を指て行と云事を薩矢を拔出して筑紫を射ていくふと云意につゞけたるにや、
 
初、さつやぬきつくしの嶋をさしていく さつやぬきは、薩矢拔なり。薩人のもつ弓なりとて、弓をさつ弓といへは、その心にてさつやとはいふなり。射の字、的の字を、日本紀に共にさすとよめり。此集第十六にも、射の字をさしてとよめり。又弓いるを、日本紀にくふといふ。的臣といふ氏姓も、鉄を射とほしけるゆへに賜れる氏なり。しかれはつくしをさして行ことを、さつやをぬき出して、筑紫をまとにしていくふといふ心につ1けたるなり
 
右一首火長大田部荒耳
 
(57)4375 麻都能氣乃奈美多流美禮婆伊波妣等乃和例乎美於久流等多多理之母已呂《マツノキノナミタルミレハイハヒトノワレヲミオクルトタヽリシモコロ》
 
發句をマツノキノと點ぜるは誤なり、マツノケノと讀て氣を吉に通はすべし、ナミタルは並てあるなり、イハビトは波と倍と通ずれば家人なり、タヽリシモコロはたてりし如くなり、道を來るに松の木の並木にあるを見れば我家に有としある人の我を見送るとて立並しにおぼゆるとなり、集中に松を待によせたる事多ければ面々に歸るを待と云ひけむ心をもそへてよめるにや、
 
初、まつのけのなみたるみれは 松の木の並て有を見れはなり。いは人のは、家人なり。たゝりしもころは、たてりしかことしなり。第九第十四に、もころとよめり。神代紀には、若の字をよめり。若と如とおなし心なり。哥の心は、道をくるに松の木のならひてたてるをみれは、わか家に有としある人の送るとて、ならひてたてりしかことくなりと、見る物につけておもひ出るなり。又此集に、松をおほく待にかよはしてよめれは、送る人くの、くち/\に歸るをまつといひけん心をもそへて、よめるにや侍らん
 
右一首火長物部眞島
 
4376 多妣由伎爾由久等之良受弖阿母志志爾巳等麻乎佐受弖伊麻叙久夜之氣《タヒユキニユクトシラステアモシヽニコトマヲサステイマソクヤシケ》
 
アモは阿と於と通して於母なり、於母は母なり、志志は志と知と同韻なれば父なり、コトマヲサズテは物申さずしてなり、物云はぬ木と云心をことゝはぬ木とよめり、
 
(58)クヤシケは悔しきなり、
 
初、あもしゝに あもはおもにて、母なり。母をおもとよめり。しゝはちゝにて、父なり。ことまをさすては、物申さすしてなり。ものいはぬ草木といふ心を、ことゝはぬ草木といへり。事物ともつゝけ、物の字を古止とよむ心なり。くやしけは、くやしきなり。これは立時の心にはあらて、かくさきもりにさゝれてゆかんともしらて、日ころ心のゆくはかり物をも申さゝりしか、くやしきとなり
 
右一首寒川郡上丁川上巨老
 
和名云、寒川、【佐無加波、】
 
4377 阿母刀自母多麻爾母賀母夜伊多太伎弖美都良乃奈可爾阿敝麻可麻久母《アモトシモタマニモカモヤイタヽキテミツラノナカニアヘマカマクモ》
 
發句は次上に云如く於毛刀自なり、玉ニモガモヤは第三市原王の歌にいなたきにすめる玉とよまれたるに注せしが如し、ミヅラは和名集云、四聲字苑云、〓【音還、和名、美豆良、】屈髪也、アヘマカマクモは相|纒《マカ》まし物をなり、相をあへと云へること上にも多く此下にもあり、髻中の明玉の如く頂きてゆかまし物をとなり、源氏物語玉鬘に此おはしますらむ女君すぢことに承はればいとかたじけなし、たゞなにがしらが私の君と思ひ申て頂になむ捧げ奉るべき、
 
初、あもとしも玉にもかもや あもとしは、おもとしにて母刀自なり。みつらは、たふさなり。和名集云。四聲字苑云。〓【音還。和名美豆良。】屈髪也。あへまかまくもは、あひまかましをなり。第三市原王歌に
  いなたきにきすめる玉はふたつなしこなたかなたも君かまに/\
法花經第五安樂行品の文はそこに引つ。神代紀上云。便以八坂瓊之五百箇御統【御統、此云美須磨屡】纏其髻鬘及腕云々。上に天之瓊矛といへる瓊の字の下の自注に、瓊玉也、此曰努。かゝれは、これも五百の玉をもて、みつらとたふさにまつはせたまふなり。源氏物語玉鬘に、このおはしますらん女君、すちことにうけたまはれは、いとかたしけなし。たゝなにかしらか、わたくしの君とおもひ申て、いたゝきになんさゝけ奉るへき
 
右一首津守宿小黒栖
 
(59)官本宿の下に禰の字あり、宿禰は八姓の第三なれば防人にさゝるゝ中にあらむ事おぼつかなし、
 
4378 都久比夜波須具波由氣等毛阿母志志可多麻乃須我多波和須例西奈布母《ツクヒヨハスクハユケトモアモシヽカタマノスカタハワスレセナフモ》
 
發句は月日夜者《ツキヒヨハ》なり、須具は具と吉と通ずればすぎは〔三字右○〕なり、落句は第十四にもよめり、忘せなくもなり、
 
初、つくひよは 月日夜はなり。月は月次、日は晝なり。すくはゆけともは、過はゆけともなり。あもしゝは、上のことくおもちゝなり。わすれせなふもは、忘せなくもにて、わすれぬなり
 
右一首都賀郡上丁中臣部足國
 
都賀《トカ》、【國府、】
 
4379 之良奈美乃與曾流波麻倍爾和可例奈波伊刀毛須倍奈美夜多妣蘇弖布流《シラナミノヨスルハマヘニワカレナハイトモスヘナミヤタヒソテフル》
 
與曾流をヨスルと點ぜるは誤なり、ヨソルと讀てよすると通はして意得べし、
 
初、やたひそてふる 八度は、袖ふることのおほきをいへり
 
(60)右一首足利郡上丁大舍人部禰麿
 
足利、【阿志加々、】
 
4380 奈爾波刀乎巳岐?弖美例婆可美佐夫流伊古麻多可禰爾久毛曾多奈妣久《ナニハトヲコキテヽミレハカミサフルイコマタカネニクモソタナビク》
 
己岐?弖、【別校本、己或作v古、】
 
續後撰集には發句難波津をとあり、刀は津に通はしてよめる意歟、又作者は難波門をよめるか知がたし、イコマタカネニもいこまのたけにと改らる、故郷をば更にも云はず都の方だに雲になりゆく意なるべし、
 
初、なにはとを難波津とも、また難波門ともきこゆ。いこま高根に雲そたなひくとは、故郷の遠たにあるに、都さへ雲になりゆく心なり
 
右一首梁田郡上丁大田部三成
 
和名云、梁田、【夜奈多、】
 
4381 具爾具爾乃佐伎毛利都度比布奈能里弖和可流乎美禮婆(61)伊刀母須弊奈之《クニクニノサキモリツトヒフナノリテワカルヲミレハイトモスヘナシ》
 
佐伎毛利、【幽齋本、伎作v岐、】
 
右一首河内郡上丁神麻續部島麿
 
初、神麻續部 かむをみへ
 
4382 布多富我美阿志氣比等奈里阿多由麻比和我須流等伎爾佐伎母里爾佐酒《フタホカミアシケヒトナリアタユマヒワカスルトキニサキモリニサス》
 
佐酒、【幽齋本、酒作v須、】
 
此發句はいとも意得がたし、推量して強て釋せば二小腹《フタホカミ》と云にや、和名集(ニ)云、釋名云、自v臍以下謂v之水腹(ト)1或(ハ)云2小腹1、【和名古乃加美、】かくはあれども世の人なべてほかみと云なるは和名集に漏たる和名もあればこのかみの別名にて陰上《ホトカミ》と云心にや、アシケヒトナリは氣は吉に通ずればあしき人なりと云なり、さればホカミは腹なり腹は心と云に近ければ二心にて惡き人なりと防人をさす人を譏るにや、漢書云、上既造2白鹿皮幣1、令下、顔異不v應反v唇、張湯奏2異腹非1論1v死、史記平準書には非を誹に作れり、雄略紀(62)云、一本云星川王腹惡心麁、アタユマヒは由は也に通ひて異病《アダヤマヒ》にや、病は輕重ともに常に異なればあだしやまひと云べし、我異例なるをしる/\知らぬ由して防人に差は心に表裏有て惡き人なりとよめる歟、
 
初、ふたほかみあしけひとなり 此ふたほかみといへる詞、未決。あしけひとなりは、あしき人なりといふことなれは、ふたほかみは、此たひさきもりをもよほし立る下野守をそしれる詞と聞ゆ。あたゆまひは厚病、あるひは異例にて、あたやまひといへる歟。やまひある身をおしてさきもりにさせは、あしき人なりといへり
 
右一首那須郡上丁大伴部廣成
 
4383 都乃久爾乃宇美能奈伎佐爾布奈餘曾比多志?毛等伎爾阿母我米母我母《ツノクニノウミノナキサニフナヨソヒタシテモトキニアモカメモカモ》
 
タシデモは志は知に通じ毛は牟に通じて立出むなり、落句はおもが目もがななり、
 
初、たしてもときに 立出ん時になり。※[泥/土]は濁音なれは、立てん時と、てにをはにいへるにあらす。あもかめもかもは、おもかめもかなにて、母にみせはやといふ心なり
 
右一首塩屋郡上丁丈部足人
 
鹽屋、【之保之夜、】
 
二月十四日下野國防人部領使正六位上田口朝臣大戸進歌數十八首但拙劣歌者不v取2載之1
 
(63)田口朝臣大戸、廢帝紀云、寶字四年正月正六位上田口朝臣大戸授2從五位下1、六年正月日向守、七年正月兵馬正、八年正月上野介、光仁紀云、寶龜八年正月從五位上、
 
初、田口朝臣大戸 寶字四年正月、正六位上田口朝臣大戸授從五位下。六年正月、日向守、七年正月、兵馬正。八年正月、上野介。寶龜八年正月、從五位上
 
4384 阿加等伎乃加波多例等枳爾之麻加枳乎己枳爾之布禰乃他都枳之良受母《アカトキノカハタレトキニシマカキヲコキニシフネノタツキシラスモ》
 
之良受母、【幽齋本、受作v須、】
 
アカトキは上にもよめり東言にあらず、本より曉は明時《アカトキ》の意なるを豆と刀と同じ五音なればあかつきとも云なり、たつきたときの如し上に旭時とかきてあかつきと點ぜる此故なり、明月《アカツキ》の意に名附るにあらず、望月《モチ》より此方は夜をこめて入る故なり、カハタレトキは彼|者《ハ》誰時《タレトキ》なり、たそがれ時と云に同じ、凡夕も曉もほのかなれば人の顔もそれと見わきがたく、名乘《ナノリ》を聞けば夕をもかはたれ時と云ひ曉をもたそかれ時と云べきを、たそかれはいつとなく夕に云ひ習ひて曉に云はゞ耳を驚かしぬべし、源氏物語初音卷に花の香誘ふ夕風|和《ノドカ》に打|吹《フキ》くるに御前の梅やう/\紐とけてあればたれときなるにとかければ、カハタレ時は夕にも云べし、シマカキは(64)枳と氣と通ずれば島陰なり、コギニシフネはこぎいにし舟なり、此は難波より船に乘てふなだちしたる意を豫《カネ》てよめるなり、古今集にほの/”\と明石の浦の朝霧にとあるは處こそ替りたれど此初の二句に同じ、島離れ行はシマカカキヲコギニシと云に同じ、舟をしぞ思ふと云一句は今|布彌乃《フネノ》と云より下に同じ.みづから舟に乘て海路の行末を思ひ故郷に思ふ人なきにしもあらぬを舟をしぞ思ふとよめる意を得て※[覊の馬が奇]旅部に入れたり、袖中抄云、今按に明石の奧《オキ》にはくらかけ島ふたこ島みなをし島此三つの島は近く相並びて奥より漕行帆挂たる舟の此小島どもにかくれあらはれ行が朝霧の絶間にあはれに心細きを思ふとは詠歟、今云明石の奥には淡路島のみありて其あはひいと程なし、三島は處の替りてあるにやおぼつかなし、假令三の島ありとも今の歌難波を發船《フナダチ》する處に島はなけれど島陰にと讀たれば彼歌の島隱も其島にかくるゝにはあらじ、我は明石の岡などに居て島隱行舟をあはれに見やる意ならば旅には入られ侍らじ、
 
初、あかときのかはたれ時に あかときは曉なり。かはたれときは、かれはたれ時といふ心なり。たそかれ時といふ、おなし。およそゆふへもあかつきもほのかなれは、人のかほもそれと見わきかたくて、名のりをきけは、ゆふへをもかはたれ時といひ、曉をもたそかれ時といふへきを、いつとなくたそかれは夕にいひならひて、曉にいはゝことあたらしくなりぬへし。源氏物語初音に、花のかさそふゆふかせ、のとかにうちふきたるに、御前のむめやう/\ひもとけて、あれはたれときなるにとかけり。かはたれ時といふにおなし。しまかきをは、しまかけをなり。こきにし舟は、こきいにしふねなり。此哥にて、明石浦の朝霧とよめる哥を見は、うたかひもはれぬへし
 
右一首助丁海上郡海上國造他田日奉直得大理
 
和名集云、海上【宇奈加美、】舊事紀云、下|海上《ウナカミノ》國造云々、日奉は筑後國三毛郡の郷の名にも(65)あり、
 
初、他田【乎左田】日奉【未得讀。】得【止古。】太理【足也。】日本紀にも、此集も、同名有
 
4385 由古作枳爾奈美奈等惠良比志流敝爾波古乎等都麻乎等於枳弖等母枳奴《ユコサキニナミナトヱラヒシルヘニハコヲトツマヲトオキテトモキヌ》
 
古と久と通ずればエコサキはゆくさきなり、ナミナトはなみのとにて浪《ナミ》の音《ト》なり、ヱラヒはゆらひにて淘《ユル》なり、シルヘは後《シリヘ》なり、下句の三つの等《ラ》は皆助語なり、東人にて乘も習はぬ舟に乘たるに行さきには浪の音の恐ろしく淘《ユ》り、跡には妻子《メコ》を留め置て來たれば進退|惟《コレ》谷《キハマル》と云が如く、一方ならぬ心の中思ひやるべし、人麿の舟をしぞ思ふと云一句を是は具に云|述《ノブ》とも云べし、
 
初、ゆこさきになみなとゑらひ ゆくさきに浪の音ゆらひなり。ゆらひは淘なり。又は行さきにはあらき浪なかれと、にはをえらひとも聞ゆ。しるへにはゝ、しりへにはなり。こをらつまをらおきてらもきぬ。みつの良もしは、皆助語にて、子を妻をすて置て來ぬるとなり。下の句よりこゝろうれは、ゆくさきに浪の音ゆらひなるへし。進退惟谷といふかことし
 
右一首葛餝郡和部石島
 
和名云、葛餝【加止志加、】官本に和部を私部に作てきさいちべと點ぜり然るべし、
 
初、葛餝和名集云。葛餝【加止志加】郡
 
4386 和加々都乃以都母等夜奈枳以都母以都母於母加古比須奈奈理麻之都之母《ワカヽカトノイツモトヤナキイツモイツモオモカコヒスヽナリマシツシモ》
 
(66)古比須奈、【仙覺抄云、コヒスヽ、官本奈作v須、點與2仙覺抄1同、校本點云、コヒスナ】
 
發句の點誤れり、ワガヽツノと讀て都と登と通はして我門之《ワガカドノ》と意得べし、イツモトヤナギは五本柳なり、淘淵明(ガ)五柳先生傳云、宅邊有2五柳樹1、因爲v號(ト)焉、此傳に依てよめる歟、おのづから、五本の柳ありければよめる歟知べからず、五本柳を承てイツモ/\と云へり、下句の字點の異を推量するに古本須々と有けむ重點を下の奈の字の重點なりと見誤て奈に作けるにや、コヒスヽと云につかば須と豆と通して戀|乍《ツヽ》なり、コヒスナと云につかば須《ス》と之《シ》と通して戀しなゝり、初は母の情を云ひ後は我情を云なり、落句に二つの意あるべし、一つには、すかるなる野と云ひ、かなるましつみと云、なく〔二字右○〕をなる〔二字右○〕と云ひたれば、なきましつつもにて泣て坐すらむの意にて之母の二字は助語なり、二つには業坐《ナリマシ》つるかの意なり、家の貧しければ、我旅に出ぬ程は産業に勞して母を養なひつるが、知らず今は獨|業《ナリ》はひをして、恙なくますや、如何あるらむと、心もとなく思ふ意なり、
 
初、わかかつのいつもとやなき わかかつは、わかゝとなり。いつもと柳は、文選陶淵明五柳先生傳云。宅邊有五柳樹、因以爲号焉。いつもと柳をうけて、いつも/\といへり。第四には、川上のいつもの花のいつも/\とよみ、第十一には、道のへのいつしは原のいつも/\とつゝけ、六帖には、八雲たついつものうらのいつも/\とつゝけたる、みなこゝのつゝけやうにおなし。おもかこひすなは、母か戀しきなり。なりましつしもは、さきに、家の妹かなるへきことをいはすきぬかもとよめる、なるにおなし。なりはひ有てまし/\つらんかの心なり。又古今集には、すかるなくとよめるを、此集第十には、すかるなるとよめり。振の字をふるともふくともよめるかことく、鳴の字をもなくともなりともよめる心に、こゝになりましつしもといへるは、なきましつしもといへるにや。なきてまし/\つらんの心なり。又今案、之母といへる助語、こゝにてはたしかならす。同字のかさなる時、此國にはやかて此哥の初に、和加々都乃とかけることく、々、かくのことくすれは、これも都の字をかさねたる下句を、母か我をこひせんな、なきましつゝもといふ心にこゝろうへくや
 
右一首結城郡矢作部眞長
 
和名云、結城、【由不岐、】
 
(67)古語拾遺に天富《アマトミノ》命|麻《アサ》と穀《カヂ》とを東國に種殖《ウヱオフ》したまふに好穀の生る處を結城と云とあれば本は木綿木《ユフキ》の意に名附たるを後に結城とは書なせるなり、
 
4387 知波乃奴乃古乃弖加之波能保々麻例等阿夜爾加奈之美於枳弖他加枳奴《チハノヌノコノテカシハノホヽマレトアヤニカナシミオキテタカキヌ》
 
知波乃奴乃、【官本又云、チハノノノ、】
 
和名集に千葉郡に千葉郷あれば千葉野|彼處《ソコ》に有べし、コノテガシハは第十六に有て既に注せり、ホヽマレドはふゝまれどなり、兒手と云兒を女になしてまた童女に期《チギ》りてこのてがしはのひらけぬほどのやうなれどいと悲しき物に思ひしを勅命を被ぶる身なればせむかたなく留め置て遠く來ぬとなり、
 
初、知波のぬの 奴を、此集にやかてのともよみたれは、今ちはの野のともよむへし。字のまゝによまは、五音相通にて心得へし。このてかしはゝ、第十六にもよめり。ほゝまれとは、ふゝまれとにて、いまた葉のひらきはてぬなり。これはまた童女なるにちきれるか、このてかしはのひらけぬほとに似たるものから、わかかなしきものにおもふを、さきもりにあたりたれは、のこしおきてはるかに來ぬとなり。第二に人丸の哥に、ます高に山もこえきぬとよめる心なり
 
右一首千葉郡大田部足人
 
和名云、千葉、【知波、】
 
4388 多妣等弊等麻多妣爾奈理奴以弊乃母加枳世之巳呂母爾(68)阿加都枳爾迦理《タヒトヘトマタヒニナリヌイヘノモカキセシコロモニアカツキニカリ》
 
發句は旅と云へどもなり、マタビは眞旅なり、かりそめに物へ行をも旅と云へど是は眞實の旅に成ぬとなり、イヘノモは家の妹なり、迦理はカリと讀て通してけり〔二字右○〕と意得べきか、
 
初、たひとへとまたひになりぬ たひとへとは、旅といへとなり。旅といへとも、しはしのたひは旅ともなし。わか旅こそは、まことのたひにはなりたれといふ心なり。いへのもかは、家の妹かなり。きせし衣にあかつきにけりといへるにて、日數ふる心は見えたり。さてこそまたひになりぬとはいひたれ。第十五に
  我旅ほ久しくあらし此あかける妹かころものあかつくみれは
 
右一首占部虫麿
 
4389 志保不尼乃弊古祖志良奈美爾波志久母於不世他麻保加於母波弊奈久爾《シホフネノヘコソシラナミニハシクモオフセタマホカオモハヘナクニ》
 
ヘコソは祖と須と通じて舳越《ヘコス》なり、ニハシクモは俄《ニハカ》しくにて俄にもなり、舟の舳を打越ほどの浪は俄なる物なればかくはつゞけたり、第四句は不と保と通じ保と布と通ずれば仰給ふかなゝり、結句は於母比阿弊奈久爾の比阿を切して約《ツヾ》むれば波となる故にかくは云へり、
 
初、塩舟の 上にも第十四にも見えたり。へこそしらなみは、舳越しらなみなり。にはしくもは、にわかになり。しくもは助語なり。舳をこす浪の、いかにすへきまもなきことく、にはかになり。おふせたまほかは、仰給ふ事かなゝり。おもはへなくには、おもひあへなくになり。比阿反波なり。何事をもおもひあへす、いそきたつ心なり
 
右一首印波郡丈部直大歳
 
(69)和名云、印幡《イムバ》、
 
初、印波郡 和名集には印幡に作れり
 
4390 牟浪他麻乃久留爾久枳作之加多米等之以母加去去里波阿用久奈米加母《ムラタマノクルニクキサシカタメトシイモカコヽリハアヨクナメカモ》
 
ムラタマは群玉にて多くの玉なり、クルニはくるめくなり、クキサシは莖刺《クキサシ》にて緒を以て貫くなり、カタメトシは等と弖と通ずれば堅めてしにて等は助語なり、イモガコヽリハは里と呂と通ずれば妹が心はなり、結句の用はユと讀べし、第二になゆたけを奈用竹とかけり、也宇を反して約むれば由となる、米と美と通ずる故にアヨクナメカモはあやうくなみかもなり、歌の意は妹が心の定めなき事は多かる玉のくるめきてまろぶやうなるをやう/\緒をぬきてまろばさぬ如く、期りて堅め置しを防人と成てゆけば其程に心の替りやせむと危くなからめや危うく思ひ置とよめるにや、妹が心は危くもなしと云はゞ防人の歌には詮なき歟、後の人按ずべし、
 
初、むらたまのくるにくきさし むら玉は群玉なり。第十五に、しら玉のいほつゝとひといへるかことし。くるは、くるめくなり。くきは、くみ歟。岐と美と同韵にて通せり。和名集云。禮記注云。綬【音受。和名久美。】所以貫珮玉相受承也。長流はくきさしとは、緒をさしとほすなり。玉をぬけは、莖とはいふなりとかけり。かためとしは、かためとしてとも聞え、かためてしともきこゆ。第十四には、大舟をへゆもともゆもかためてしとよめり。妹かこゝりはゝ、いもか心はなり。あよくなめかもは、あやうくなみかもなり。也宇反由なるを、又三五相通すれは、用《ヨ》なり。なめは米と美は五音通すれは、あよくなめかもとはいへり。さて哥の心は、いもか心はむら玉のくるめくことくにて、いかなる人によらんともしらさりつるを、くるめく玉に緒をぬきたることく、ちきりてかためつれは、はるかにわかれくれとも、今は妹か心はいかならんと、あやうくおもふ心はなしとなり
 
右一首※[獣偏+爰]島郡刑部志加麿
 
初、※[獣偏+爰]島郡和名集云。※[獣偏+爰]島【佐之萬】
 
和名云、※[獣偏+爰]島、【佐之萬、】
 
(70)4391 久爾具爾乃夜之呂乃加美爾奴佐麻都理阿加古血須奈牟伊母賀加奈志作《クニクニノヤシロノカミニヌサマツリアカコヒスナムイモカヽナシサ》
 
加奈志作、【官本或作作v佐、】
 
クニ/”\は諸國をも云べし、又土の字郷の字などをもくに〔二字右○〕とよめば下總國の中にての處々の神をも云べし、アカコヒスナムは須は之に通へば我らが戀に爲《シ》なむにて戀にせむなり、加の字濁るべからず、須奈牟を死なむと意得べからず、
 
初、あかこひすなん 我をか戀しなんなり。戀死なんといふにはあらす。戀爲なんなり
 
右一首結城郡忍海部五百麿
 
4392 阿米都之乃以都例乃可美乎以乃良波加有都久之波波爾麻多巳等刀波牟《アメツシノイツレノカミカイノラハカウツクシハヽニマタコトヽハム》
 
可美乎、【別校本、幽齋本、並點云、カミヲ、】
 
之と知と同韻にて通ずればアメツシは天地《アメツチ》なり、何れの神をなり、ウツクシハヽニは我を愛《ウツク》しめる母になり、
 
初、あめつしのいつれの神を 天神地祇の中に、いつれの神にいのりてあらはかなり。うつくしはゝは、いつくしみある母なり
 
(71)右一首埴生郡大伴部麻與佐
 
和名云、埴生、【波牟布、】
 
初、埴生郡 和名集云。波牟布
 
4393 於保伎美能美許等爾作例波知知波波乎以波比弊等於枳弖麻爲弖枳麻之乎《オホキミノミコトニサレハチヽハヽヲイハヒヘトオキテマヰテキマシヲ》
 
枳麻之乎、【幽齋本、麻作v爾、點云、キニシヲ、】
 
ミコトニサレバ、此サレバを意得るに二つの樣あり、一つには阿と佐と同韻にて通ず、春雨《ハルサメ》村雨《ムラサメ》或は眞青《マアヲ》をまさをと云類是なり、然ればみことにあればなり、二つにはみことにしあればと云ことを之阿(ノ)反佐なれば約めて云へるなり、イハヒベトオキテとは齋瓮《イハヒベ》を居《スヱ》て神を祭て我還り來るまで父母を共に恙なからしめ給へと祈り置て詣《マウデ》來なまし物を、立の急ぎにさもせざりし事の悔しき由なり、キマシヲはこましをなり、公羊傳云不d以2家事1辭c王事u、以2王事1辭2家事1、幽齋本に枳麻之乎の麻を爾に作れるは悔べき事なくて乎の字に含める意なければ然るべからずや、
 
初、おほきみのみことにされは みことにしあれはなり。之阿反佐なり。公羊傳云。不以家事辭王事、以王事辭家事。いはひへとおきてまゐてきましをとは、心は大君のみことなれは、家をかへりみることを得すして行は民の道なり。さりともちゝはゝをは、ちゝの秋よろつよとよくいはひ置て、出てこましものをとなり。齋瓮は、上にあまたよめり
 
右一首結城郡雀部廣島
 
(71)4394 於保伎美能美巳等加之古美由美乃美仁佐尼加和多良牟奈賀氣已乃用乎《オホキミノミコトカシコミユミノミニサネカワタラムナカキコノヨヲ》
 
三四句はユミは美と米と通ずれば夢なり、夢にのみ故郷の事を見て寢や明さむなり、奈賀氣をナガキと點ぜるは誤なりナガケと讀て通して見るべし、
 
初、ゆみのみに 夢のみにふるさとの事をみてなり。なかきこのよをは、長き此夜をなり
 
右一首相馬郡大伴部子羊
 
和名云、相馬、【佐宇萬、】
 
二月十六日下總國防人部都領使少目從七位下縣犬養宿禰淨人進歌數二十二首、但拙劣歌者不v取2載之1、
 
淨人は未v詳、
 
獨惜2龍田山櫻花1歌一首
 
4395 多都多夜麻見都都古要許之佐久良波奈知利加須疑奈牟(72)和我可敝流刀禰《タツタヤマミツヽコエコシサクラハナチリカスキナムワカカヘルトネ》
 
落句は我歸る時になり、時を上にもと〔右○〕ゝのみよめり、ね〔右○〕はに〔右○〕と通ず、
 
初、わかかへるとね とは時なり。第十第十五第十九にも、時をとゝのみよめる哥あり。祢ほになり。祢と尓と通せり
 
獨見2江水浮漂糞1※[死/心]2恨貝玉不1v依作歌一首
 
糞はあくたと讀べけれど歌にこつみ〔三字右○〕とよめるは集中多く木積とかきて木のきれこけらやうの物の集まるを云と見ゆれば、木糞なりけむを木の字の落たる歟、然らずば題は※[手偏+總の旁]じて擧て歌は別れてよめるにや、詞書なれば※[手偏+總の旁]別たがへりとも苦しかるべからず、
 
初、獨見江水浮漂糞 哥に許都実とよめり。第七第十一第十九に、こつみとよめるは、皆木積とかけり。木の屑と見えたれは、もし木糞なりけるを、木の字をおとせるにや。さらすは上の卷々に、木積とはかきたれとも、こつみはたゝ何となくあくたをいふにや。糞の字のみならは、あくたなり
 
4396 保理江欲利安佐之保美知爾與流許都美可比爾安里世波都刀爾勢麻之乎《ホリエヨリアサシホミチニヨルコツミカヒニアリセハツトニセマシヲ》
 
在2舘門1見2江南美女1作歌一首
 
4397 見和多世婆牟加都乎能倍乃波奈爾保比弖里?多弖流波(73)波之伎多我都麻《ミワタセハムカツヲノヘノハナニホヒテリテタテルハハシキタカツマ》
 
向峰《ムカツヲ》の花は相向ひて見ゆる美人を喩ふるなり、
 
初、みわたせはむかつをのへの なにはには、むかつをのへといふへきほとのちかき山はなけれと、さしむかひてみる美女をいはんとてつゝけたり。花にほひてりてたてるは、第九に上總末珠名娘子をよめる哥にも、そのかほの、うつくしけさに、はなのこと、ゑみてたてれはといへり。はしきたかつまとは、愛誰妻そとなり
 
右三首二月十七日兵部少輔大伴家持作v之
 
萬葉集代匠記卷之二十上
 
(1)萬葉集代匠記卷之二十下
 
爲2防人情1陳v思作歌一首并短歌
 
4398 大王乃美己等可之古美都麻和可禮可奈之久波安禮特大夫情布里於許之等里與曾比門出乎須禮婆多良知禰乃波波可伎奈?泥若草乃都麻波等里都吉平久和禮波伊波波牟好去而早還來等麻蘇?毛知奈美太乎能其比牟世比都都言語須禮婆群鳥乃伊?多知加弖爾等騰已保里可弊里美之都々伊也等保爾國乎伎波奈例伊夜多可爾山乎故要須疑安之我知流難波爾伎爲弖由布之保爾舩乎宇氣須惠(2)安佐奈藝爾倍牟氣許我牟等佐毛良布等和我乎流等伎爾春霞之麻米爾多知弖多頭我禰乃悲鳴婆波呂波呂爾伊弊乎於毛比?於比曾箭乃曾與等奈流麻?奈氣吉都流香母《オホキミノミコトカシコミツマワカレカナシクハアレトマスラヲノコヽロフリオコシトリヨソヒカトテヲスレハタラチネノハヽカキナテヽワカクサノツマハトリツキタヒラケクワレハイハヽムヨシユキテハヤカヘリコトマソテモチナミタヲノコヒムセヒツヽカタラヒスレハムラトリノイテタチカテニトヽコホリカヘリミシツヽイヤトホニクニヲキハナレイヤタカニヤマヲコエスキアシカチルナニハニキヰテユフシホニフネヲウケスヱアサナキニヘムケコカムトサモラフトワカヲルトキニハルカスミシマヘニタチテタツカネノカナシミナケハハロハロニイヘヲオモヒテオヒソヤノソヨトナルマテナケキツルカモ》
 
之麻米爾、【別校本云、シマメニ、】  悲鳴婆、【幽齋本点云、カナシミナケハ、】  波呂波呂、【官本、或下波作v婆、】
 
難波爾伎爲弖は來居てなり、キステと點ぜるは誤れり、サモラフは上にもよめり、にはのよきを待なり、之麻米は今按米は末の誤れるにてしまま〔三字右○〕にや.上に島際《シママ》などかけり、或るは未《ミ》にてしまみ〔三字右○〕にや、うらみ、すそみ、の如く島回《シマワ》の意なり、悲鳴婆はカナシミナケバと讀べし、伊弊乎於毛比?、家を思出なり、於比曾箭は負征箭《オヒソヤ》なり、和名集云.唐式諸府衛士人別弓一張征箭卅隻、【征箭和名曾夜、】也と與と通ずれば會箭を承て曾與と云へり、第十二に枕毛衣世《マクラモソヨ》に嘆鶴鴨《ナゲキツルカモ》とよめる意なり、彼處《カシコ》に注せるが如し、さくり上て泣に依て背に負たる箭の羽も戰きて鳴《ナル》なり、
 
初、ますらをの心ふりおこし みつから心をはけますなり。十七卷にも、大君の、まけのまに/\、ますらをの、心ふりおこしと、おなし家持の哥によまる。むら鳥の出たちかてにとは、第九第十三にも、むら鳥の朝たちゆけはなとよめるに、むら鳥のことく打つれて立出へきにとゝこほれはいへり。群鳥の出立かたくするにはあらす。いやとほに國をきはなれ、以下は第二卷、人丸の石見よりのほらるゝ時の長哥の心なり。あしかちるなにはにきゐて、上に見えたり。朝なきにへむけこかんと、上に防人か哥に、つくしへに舳むかる船とよめり。さもらふとわかをる時に、さむらふは潮をうかゝひ風をはかるなり。日本紀に候風とも、候海水ともあり。第七に、大みふねはてゝさもらふともよめり。春かすみしまめにたちて、しまめはしまゝなり。はろ/\は、はる/\なり。第五にも此下にも、はろ/\とよめり。おひそやのそよとなるまて、和名集云。唐式、諸府衛士、人別弓一張、征箭卅隻。【征箭、和名曾夜。】そやといふをうけて、そよとゝはいへり。泣聲のたかくひゝくにつけて、背に負たる征矢もそよきてなるといへり。又さくりあけてなけは、聲によらねと背に響てなりぬへし。第十二に
  さよふけて妹を思出て布妙の枕もそよになけきつるかも
第十三の長哥には、此床の、ひしとなるまて、なけきつるかもともよめり。そよは戰くなり
 
反歌
 
(3)4399 宇奈波良爾霞多奈妣伎多頭我禰乃可奈之伎與比波久爾弊之於毛保由《ウナハラニカスミタナヒキタツカネノカナシキヨヒハクニヘシオモホユ》
 
クニベは國邊なり、之は助語なり、
 
4400 伊弊於毛負等伊乎禰受乎禮婆多頭我奈久安之弊毛美要受波流乃可須美爾《イヘオモフトイヲネスヲレハタツカナクアシヘモミエスハルノカスミニ》
 
アシベモ見エズなど防人の情を龍寫されたり、宗祇抄云、かくれたる所なく面白き歌なり、
 
初、あしへも見えす春の霞に あしへたに見えねは、まして國のかたは、見やらんやうもなき心なり
 
右十九日兵部少輔大伴宿禰家持作v之
 
4401 可良己呂茂須曾爾等里都伎奈苦古良乎意伎弖曾伎怒也意母奈之爾志弖《カラコロモスソニトリツキナクコラヲオキテソキノヤオモナシニシテ》
 
(4)ナクコラは小兒なり、第四に田部櫟子が妻の歌に衣手に取りとどこほり泣兒とよめり、オキテゾキヌヤは置てぞ來ぬるやなり、オモナシニシテは母なしにしてなり、此意母は小兒の母にて大島が妻なり、妻は死して鰥《ヤモメ》にて有けるなるべし、
 
初、から衣すそにとりつき 第四に
  衣手に取とゝこほりなくこにもまされる吾を置ていかにせん
此こらといへるは、わか子なり。おきてそきぬや、これにふたつのやうあり。置てそ來ぬるやともみゆ。又置て遠そきぬやとも聞ゆ。おもなしにしては、面目なしといふ心を、伊勢物語におもなしといへるにはあらす。これは母なしにしてなり。母は子かはゝなり。第三に憶良の、子なくらんそのかの母もとよめるかことし。此哥よめる大嶋は、やもめ【通男女】にてありけるなるへし。よりてちひさき子をとゝめてわかるゝ心、おもひやるへし
 
右一首國造少縣郡他田舍人大島
 
和名云、少縣、【知比佐加多、】
 
4402 知波夜布留賀美乃美佐賀爾怒佐麻都里伊波布伊能知波意毛知々我多米《チハヤフルカミノミサカニヌサマツリイハフイノチハオモチヽカタメ》
 
怒佐、【幽齋本、怒作v奴、】
 
初、ちはやふる神のみさかに 第九に、かしこみや神のみさかとよめるは、足柄坂なり。今神のみさかといへるは、岐※[蘇の魚木が左右逆]の御坂なり
 
右一首主張埴科郡神人部子忍男
 
主張は帳に作るべし、上に准らふるるに丁の字の落たる歟、埴科は和名云、埴科【波爾志奈、】子忍男は三字共に名歟、下に上野防人に池田部子磐前あるに准らふべし、子忍が男にて子息にや、但それならば子忍男と云はずとも直に某にて有ぬべし、上に(5)三中之母.下に石前之妻など云には替れり、假令子忍之男と云とも某と名を擧べきを然らぬにてこおしを〔四字右○〕と云名なりと云事を知べし、
 
4403 意保伎美能美巳等可之古美阿乎久牟乃多奈妣久夜麻乎古江弖伎恕加牟《オホキミノミコトカシコミアヲクモノタナヒクヤマヲコヨテキノカモ》
 
意保伎美能、【幽齋本、伎作v枳、】  阿乎久牟乃、【官本又云、アヲクムノ、幽齋本、牟作v毛、】  多奈妣久、【古本、六條本、並多奈作2等能1、点云、トノ、】  古江弖、【仙覺抄云、コヨテ、校本同v之、又点如v今、官本、江作v與、点如2仙覺1、】  伎恕加牟、【官本恕作v怒、又点云、キヌカム、】
 
阿乎久牟はアヲクムと讀て牟を毛に通はすべし、多奈妣久を等能妣久《トノビク》、古江弖《コエテ》を古與弖《コヨテ》とあるは何れも優劣なかるべし、和名集を見るに信濃國の郷の名は他國よりも奇怪によめる事あるは東國の中にも此國の詞殊に訛れるに随ひて假名を付たるにや、然らば等能妣久《トノビク》、古與弖《コヨテ》にても侍りけむ、伎恕加牟はキヌカムと讀て又牟を毛に通はすべし、
 
初、あをくむの 青雲のなり。こえてきぬかむ、きぬるかもなり。恕は怒の誤なり
 
右一首少長谷部笠麿
 
(6)二月廿二日信濃國防人部領使上道得v病不v來進歌數十二首但拙劣歌者不v取2載之1
 
此防人部領使も官位姓名を書べきを道にて煩らひて上り來ぬ故にかかれざる歟、
 
4404 奈爾波治乎由伎弖久麻弖等和藝毛古賀都氣之非毛我乎多延爾氣流可母《ナニハチヲユキテクマテトワキモコカツケノヒモカヲタエニケルカモ》
 
ナニハヂは難波路なり、都氣之をツケノと點ぜるは誤なりツケシと讀べし、
 
初、つけしひもかを ひものをなり
 
右一首助丁上毛野牛※[甘の異体字]
 
紀に廿、養、飼、同訓なり、
 
初、牛甘【宇之加比】仁徳紀、猪甘津【今猪飼野村】鷹甘邑
 
4405 和我伊母古我志濃比爾西餘等都氣志比毛伊刀爾奈流等(7)母和波等可自等余《ワカイモコカシノヒニセヨトツケシヒモイトニナルトモワハトカシトヨ》
 
糸ニ成トモは、第十一に綾席緒爾成及君乎之將待《アヤムシロヲニナルマデキミヲシマタム》とよめる類なり、
 
初、いとになるともわはとかしとよ 第十一に
  獨ぬとこも朽めやもあやむしろをになるまてに君をしまたん
 
右一首朝倉益人
 
4406 和我伊波呂爾由加毛比等母我久佐麻久良多妣波久流之等都氣夜良麻久母《ワカイハロニユカモヒトモカクサマクラタヒハクルシトツケヤラマクモ》
 
伊波は波と倍と通して家なり、呂は例の詞なり、由加毛は毛と牟と通して將行《ユカム》なり、
 
初、わかいはろに ろは助語にて、我家になり。ゆかも人もかは、ゆかん人もかなゝり
 
右一首大伴部節麿
 
4407 比奈久母理宇須比乃佐可乎古延志太爾伊毛賀古比之久和須良延奴加母《ヒナクモリウスヒノサカヲコエシタニイモカコヒシクワスラエヌカモ》
 
發句は日の曇にてうすひの薄日とつづけたる事第十四に比能具禮爾《ヒノクレニ》とおけるに(8)付て注せしが如し、越シダニは纔に同じ國の碓氷の坂を越たるにさへかゝれば况や遠く隔てむ後をやの意なり、
 
初、ひなくもりうすひのさかを うすひを、日本紀には碓日とかけり。日のくもりて、影のうすき日といふ心につゝけたり。第十四には、ひのくれにうすひの山をとつゝけよめり。夕日も光のうすき心はおなし。又かきくもるをも日のくれとはいふへけれは、その心ならは、いよ/\今とおなし
 
右一首池田部子磐前
 
二月二十三日下野國防人部領使大目正六位下上毛野君駿河進歌數十二首、但拙劣歌者不v取2載之1、
 
下野、【官本、下作v上、】
 
下野國とあるは誤れり官本に從ふべし、上毛野君は崇神紀云、四十八年四月、戊申朔丙寅、立(テヽ)2活目(ノ)尊(ヲ)1爲2皇太子1、以2豐城命1令v治v東《アヅマノクニヲ》、是上毛野君下毛野君始祖也、古事紀此に同じ、垣武紀云、延暦十年四月乙未、近衛將監從五位下兼常陸大掾池原公綱主等言、池原上毛野二氏之先、出v自2豐城入彦(ノ)命1云々、駿河は世系等未v詳、
 
初、上野國 上を誤て下とす。上毛野君駿河、勝寶二年三月戊戌、賜中衛員外少將從五位下田邊史難波等上毛野君姓。延暦十年四月乙未、近衛將監從五位下兼常陸大橡池原公綱主等言。池原上毛野二氏之先、出自豊城入彦命、其入彦命子孫、東國六腹朝臣各因居地賜姓命氏。斯乃古今所同、百王不易也。伏望因居地名、蒙賜住吉朝臣。勅綱主兄弟二人、依請賜之以上續日本紀
 
陳2防人悲v別之情1歌一首并短歌
 
4408 大王乃麻氣乃麻爾麻爾島守爾我我多知久禮婆波波蘇婆(9)能波波能美許等波美母乃須蘇都美安氣可伎奈?知地能未乃知地能美許等波多久頭努能之良比氣乃宇倍由奈美太多利奈氣伎乃多婆久可胡自母乃多太比等里之?安佐刀?乃可奈之伎吾子安良多麻乃等之能乎奈我久安比美受波古非之久安流倍之今日太仁母許等騰比勢武等乎之美都都可奈之備麻世若草之都麻母古騰母毛乎知巳知爾左波爾可久美爲春鳥乃巳惠乃佐麻欲比之路多倍乃蘇?奈伎奴良之多豆佐波里和可禮加弖爾等比伎等騰米之多比之毛能乎天皇乃美許等可之古美多麻保巳乃美知爾出立乎可乃佐伎伊多牟流其等爾與呂頭多比可弊里見之(10)都追波呂波呂爾和可禮之久禮婆於毛布蘇良夜須久母安良受古布流蘇良久流之伎毛乃乎宇都世美乃與能比等奈禮婆多麻伎波流伊能知母之良受海原乃可之古伎美知乎之麻豆多比伊巳藝和多利弖安里米具利和我久流麻泥爾多比良氣久於夜波伊麻佐禰都都美奈久都麻波麻多世等須美乃延能安我須賣可未爾奴佐麻都利伊能里麻宇之弖奈爾波都爾舩乎宇氣須惠夜蘇加奴伎可古登登能倍弖安佐婢良伎和波巳藝?奴等伊弊爾都巳己曾《オホキミノマケノマニマニサキモリニワカタチクレハハヽソハノハヽノミコトハミモノスソツミアケカキナテチヽノミノチヽノミコトハタクツノヽシラヒケノウヘユナミタヽリナケキノタハクカコシモノタヽヒトリシテアサトテノカナシキワカコアラタマノトシノヲナカクアヒミスハコヒシクアルヘシケフタニモコトヽヒセムトオシミツヽカナシヒイマセワカクサノツマモコトモモヲチコチニサハニカクミヰウクヒスノコヱノサマヨヒシロタヘノソテナキヌラシタツサハリワカレカテニトヒキトヽメシタヒシモノヲスメロキノミコトカシコミタマホコノミチニイテタチヲカシサキイタムルコトニヨロツタビカヘリミシツヽハロハハロニワカレシクレハオモフソラヤスクモアラスコフルソラクルシキモノヲウツセミノヨノヒトナレハタマキハルイノチモシラスウナハラノカシコキミチヲシマツタヒイコキワタリテアリメクリワカクルマテニタヒラケクオヤハイマサネツヽミナクツマハマタセトスミノエノアカスメカミニヌサマツリイノリマヲシテナニハツニフネヲウケスヱヤソカヌキカコトヽノヘテアサヒラキワハコキテヌトイヘニツケコソ》
 
可胡自母乃、【官本、或胡作v故、】  伊麻世、【幽齋本、作2麻世波1、点云マセハ、】  與呂頭多比、【幽齋本、比v妣、作】  和我久流麻泥爾、【官本、泥作v?、】  麻宇之弖、【官本、或宇作v乎、】
 
(11)我我多知久禮婆は上の我は和訓.下の我は漢音なり、ミモノスソは御裳の裙なり、カキナデは我を掻撫るなり、神代紀上云、有2一|老公《オキナ》與《ト》2老婆《ヲムナ》1、中間《ナカニ》置《スヱテ》2一(リノ)少女《ヲトメ》1、撫而哭《カキナデヽナク》之、タクツノは第三に栲角力新羅國《タクツノノシラギノクニ》とつづけたる如く白鬚とつづけむためなり、ナミダタリは涙|垂《タリ》なり、和名集云、黄帝内經云、目下謂2之承泣1、【急反、和名奈美太太利、】是も涙垂を用を以て體に名付たり、ノタバクはのたまはくなり、カゴジモノ、タヾヒトリシテは第九に秋芽子乎《アキハギヲ》、妻問鹿許曾《ツマトフカコソ》、一子二子持有跡《ヒトツコフタツコモタリト》、五十戸鹿兒自物吾獨子之《イヘカゴジモノワガヒトリゴノ》、草枕客二師徃者《クサマクラタビニシユケバ》云云.此に注せるが如し、タヾヒトリシテはただ一人のみしてなり、アサトデは朝戸出にて門出《カドデ》なり.可奈之備伊麻世は悲坐せばなり、カタミヰは圍居なり、此つづきは憶良の貧窮問答の歌を寫されたり、乎可之佐伎をヲカシサキと點ぜるは誤なりヲカノサキと讀べし、伊多牟流其等爾は伊は發語の辭、タムルは囘の字なり、第十一に崗前多未足未知乎《ヲカノサキタミタルミチヲ》とよめるが如し.和可禮之久禮婆の之は助語なり、伊己藝和多利弖、伊は發語詞なりツマハマタセドとは妻はまてどなり、
 
初、わかたちくれは 我我とかけるは、上はわにて和訓、下は音をかれり。みものすそは、御裳の裙なり。つみあけは、ものすそをかゝくるなり。かきなては、子のかしらをかきなて、衣裳をつくろふなり。ちゝのみのちゝのみことは、第十九卷に慕振勇士之名歌に、ちゝのみの、ちゝのみこと、はゝそ葉の、はゝのみことゝよみ出されたる所に尺せり。たくつのゝしらひけのうへゆ、第三に坂上郎女の哥に、たくつのゝしらきのくにとつゝけられたり。たくつのは白き角なり。鹿の角なと白けれは、それなるへし。さてしらきとつゝくるも、白きといふ心、今はいふにをよはす。またものゝふの白ひけなれは、角のことしといふ心をもふくめる歟。なみたゝりは、たゝ涙のたるなり。和名集云。黄帝内經云。目下謂之承泣。【急反。和名奈美太太利。】これは今の義にあらす。なけきのたはく、なけきてのたまはくなり。かこしものたゝひとりしては、かこは鹿兒なり。和名集云。麑【音迷。字亦作※[鹿/弭]。和名加呉。】第九にも、秋はきを、つまとふ鹿こそ、ひとつこふたつこ、もたりといへ、かこしもの、わかひとりこの、草まくら、たひにしゆけはなとよめり。朝戸出のかなしきわかこ、かとてのかなしきなり。かなしひいませ、いませはなり。さはにかくみゐ、おほくかこみ居るなり。第五卷貧窮問答哥に、ちゝはゝは、枕のかたに、めこともは、あとのかたに、かこみ居て、うれへさまよひと山上憶良のよまれたるにならへりとみゆ。うくひすのこゑのさまよひ、第二、人丸の高市皇子の薨し給へるをいためる哥にも、うくひすのさまよひぬれはとよめり。第九にも、あしかきの、おもひみたれて、うくひすの、ねのみなきつゝとよめり。共に今とおなし春鳥とかけるをは、第二に、和名を引て尺せり。をかのさきいたむることに、岡のさきをまはることになり。いは發語の詞、をかしさきとあるかんなは誤れり。第十一の旋頭哥にも、おかさきのたみたる道を人なかよひそとよめり
 
反歌
 
4409 伊弊妣等乃伊波倍爾可安良牟多比良氣久布奈?波之奴(12)等於夜爾麻宇佐禰《イヘヒトノイハヘニカアラムタヒラケクフナテハシヌトオヤニマヲサネ》
 
伊弊妣等、【幽齋本、妣作v婢、】  麻宇佐禰、【別校本点云、マウサネ、幽齋本、宇作v乎、】
 
イハヘニカはいはへばにかあらむなり、
 
初、いへ人のいはへにかあらん いはへはにかあらんなり。神を祭ていはへは、そのしるしにやあらん、たひらかに舟出したりと、おやに告申せとなり
 
4410 美蘇良由久々母母都可比等比等波伊倍等伊弊頭刀夜良武多豆伎之良受母《ミソラユクヽモヽツカヒトヒトハイヘトイヘツトヤラムタツキシラスモ》
 
4411 伊弊都刀爾可比曾比里弊流波麻奈美波伊也之久之久二多可久與須禮騰《イヘツトニカヒソヒリヘルハマナミハイヤシクシクニタカクヨスレト》
 
4412 之麻可氣爾和我布祢波弖?都氣也良牟都可比乎奈美也古非都々由加牟《シマカケニワカフネハテテツケヤラムツカヒヲナミヤコヒツヽユカム》
 
二月二十三日兵部少輔大伴宿禰家持
 
(13)4413 麻久良多知巳志爾等里波伎麻可奈之伎西呂我馬伎巳無都久乃之良奈久《マクラタチコシニトリハキマカナシキセロカマキコムツクノシラナク》
 
枕太刀とは物部は寢る時も太刀を枕|上《カミ》に立おく故に云なり、セロは背に例の東詞をそへたるなり、マキコムは罷《マキ》來むなり、ツクノシラナクは月のしらぬなり、
 
初、まくらたちこしに取はき ものゝふはぬる時も、太刀をまくらかみにたてゝぬれは、まくらたちとはいへり。せろかめきこんは、せろは只兄なり。めきこんは、まきこんなり。まきは罷の字にて、まかり歸こんの心なり。つくのしらなくは、月のしられぬなり
 
右一首上丁那珂郡檜前舍人石前之妻大伴眞足母
 
眞足母、【官本、母作v女、】
 
初、檜前【比乃久麻】
 
母は女を誤れるにてむすめなるべし、
 
4414 於保伎美乃美已等可之古美宇都久之氣麻古我弖波奈禮之末豆多比由久《オホキミノミコトカシコミウツクシケマコカテハナリシマツタヒユク》
 
波奈禮、【官本、禮作v利、点(ニ)云、ハナリ、傍注云、古本異本同、左京兆本同、六條本同、仙覺抄如2今点1、別校本與v今同、校本字同2今本1、点云、ハナリ、】
 
宇都久之氣は氣と吉と通してうつくしきなり、麻古は眞子なり、子の子を云孫には(14)あらず、第十九に霍公鳥をよめる歌云、※[(貝+貝)/鳥]之宇都之眞子可母《ウグヒスノウツシマコカモ》云云、此と同じ、
 
初、うつくしけまこかてはなれ うつくしき眞子か手はなれなり。第十九に、鶯のうつしまこかもと、郭公のことをよめるかことし。孫にはあらす
 
右一首助丁秩父郡大伴部少歳
 
和名云、秩父、【知々夫、】
 
4415 志良多麻乎弖爾刀里母之弖美流乃須母伊弊奈流伊母乎麻多美弖毛母也《シラタマヲテニトリモシテミルノスモイヘナルイモヲマタミテモヽヤ》
 
母之弖は之と知と同韻にて通ずれば持てなり、ミルノスモは乃と奈と同じ五音なれば見るなすもにて見る如くなり、結句の毛は牟に通して又見てむもやにても〔右○〕は助語なり、或は母也は也母の寫し誤たるにて又見てむやにも有べし、
 
初、しらたまをてにとりもしてみるのす 手に取持て見成もなり。見るなすは、みることくなり。家なる妹を又みても母や、終の母也は也母をさかさまにうつしあやまれるにて、またみてむやもなるへし
 
右一首主張荏原郡物部歳徳
 
和名云、荏原、【江波良、】
 
初、主張 上にいへるかことし
 
4416 久佐麻久良多比由久世奈我麻流禰世婆伊波奈流和禮波(15)比毛等加受禰牟《クサマクラタヒユクセナカマルネセハイハナルワレハヒモトカスネム》
 
多比由久、【幽齋本、久作v苦、】
 
マルネは流と呂と通ずればまるねなり、伊波奈流は家在《イヘナル》なり、此は右の歌のかへしなり、
 
初、まるねせはいはなるわれは まろねせは、いへにあるわれはなり
 
右一首妻掠椅部刀自賣
 
初、椋椅部【久良波之】 これは歳徳にかへすなり
 
4417 阿加胡麻乎夜麻努爾波賀志刀里加爾弖多病能乃余許夜麻加志由加也良牟《アカコマヲヤマノニハカシトリカニテタマノヨコヤマカシユカヤラム》
 
ハカシは賀と奈と志と知と共に同韻にて通ずれば放《ハナチ》なり、トリカニテは爾と禰と通ずれば取かねてなり、落句は志と知と通じ、由はより〔二字右○〕の古語なればかちよりかやらむなり、
 
初、やまのにはかしとりかにて 長流かいはく、はかしははさしといふことなり。馬をにかしたるなりとは、はさしは令馳の心にいへり。加と佐と同韵相通の心なり。今案、はなちにてもあるへき歟。加と奈とは同韵相通、志と知とも又同韵なり。とりかにては捕兼てなり。かしゆかやらんは、かちよりかやらんなり。多麻のよこ山は、もし多麻郡にある山にや。第十四に、まよひきのよこ山へろとよめる哥もこれにやとおもへと、これは國をしらぬ哥に入たれは、同名にして異所なるにや
 
右一首豐島郡上丁椋椅武荒虫之妻宇遲部黒女
 
(16)和名云、豐島、【止志末、】
 
4418 和我可度乃可多夜麻都婆伎麻巳等奈禮和我弖布禮奈奈都知爾於知母加毛《ワカヽトノカタヤマツハキマコトナレワカテフレナヽツチニオチモカモ》
 
初の二句は片山かけて住家にて云へる歟、傍山より椿をうつし來て植たれば云へる歟、椿は色よき花なれば女によそへてマコトナレと云へり、奈禮は汝にて實に汝なり、和我弖布禮奈奈は初の奈は奴に通じ後の奈は爾に通じて我手觸ぬになり、落句の母は牟に通じて地《ツチ》に落むかもなり、我門の傍《カタ》山椿よ誠に汝我筑紫より歸り來て手觸ぬ間に地《ツチ》に落むやは、今歸り來て折てかざさむずるをまてとなり、よそふる意知ぬべし、
 
初、わかゝとのかた山つはき かた山よりほりうへし、わかゝとの椿なり。かた山は、日本紀にも脚日來、此傍山といひ、第十二卷に、あしひきのかた山きゝすといへるかた山なり。まことなれは、誠に汝なり。わかてふれなゝは、我手觸なくになり。つちにおちもかもは、おちんかもなり。妻の色よきを椿にたとへて、まことに汝、わかてふれぬ間に地におちんや、今やかて歸りきて手をらんをまてとなり
 
右一首荏原郡上丁物部廣足
 
初、荏原郡 荏誤作※[草がんむり/住]
 
4419 伊波呂爾波安之布多氣騰母須美與氣乎都久之爾伊多里?古布志氣毛波母《イハロニハアシフタケトモスミヨケヲツクシニイタリテコフシケモハモ》
 
(17)イハは家なり、呂は助語なり、アシフは布と比と通じて葦火なり、腰句の氣を枳《キ》に通してすみよきをと意得べし、第十一になには人あし火燒屋とよめる歌引合すべし、落句は布は比と通じ、枳は久と通じ、母は牟に通じて、戀しくは思はむなり、
 
初、いはろにはあしふたけとも いはろは、ろは例の助語にて家にはなり。あしふは蘆火なり。すみよけをは、すみよきをなり。第十一に
  なには人あしひたくやのすしてあれとおのかつまこそとこめつらしき
此心なり。こふしけもはもは、こひしくもはんなり。もはんは、おもはんを上畧したるなり。東哥ならても、集中にいくらも有詞なり
 
右一首橘樹郡上丁物部眞根
 
和名云、橘樹、【太知波奈、】
 
4420 久佐麻久良多妣乃麻流禰乃比毛多要婆安我弖等都氣呂許禮乃波流母志《クサマクラタヒノマルネノヒモタエハアカテトツケロコレノハルモシ》
 
第四句の安我は妻の我なり.ツケロはつけよの意にてろ〔右○〕は助語なり、許禮乃は此《コノ》なり、第三にも此水島《コレノミヅシマ》とよめり、波流母志は流と里と同音にて通じ.志と知と同韻にて通ずれば針持なり、丸寢の紐の絶たらば我形見に贈る此針を持て、我手にて縫著ると思ひて著よとなり、
 
初、あか手とつけろこれのはるもし この針持てわか手とおもひてつけよとなり。このといふへきをこれのといへるは、第三にも、神さひをるかこれの水嶋とよめり。此哥ことはゝ今にかなはねと、心のあはれなる哥なり。第十二に、第十八に
  針はあれと妹しなけれはつけむやと我をなやましたゆるひものを
  草枕旅のおきなとおもほして針そたまへるぬはんものもか
これは眞根か右の哥に妻か返しなり
 
右一首妻椋椅部弟女
 
(18)4421 和我由伎乃伊伎都久之可婆安之我良乃美禰波保久毛乎美等登志努波禰《ワカユキノイキツクシカハアシカラノミネハホクモヲミトヽシノハネ》
 
第二句久は吉に通ずれば息衝《イキツキ》しかばなり、第四句保は布に通ずれば嶺匐《ミネハフ》雲をなり、美等登は等登《トヽ》と豆都《ツヽ》と通ずれば見乍《ミツヽ》なり、足柄坂を越とて故郷のなごりを思ひて我衝息は、其氣雲の如くなれば今よりは足柄の峰はふ雲を見て我をしのべとなり、
 
初、わかゆきのいきつくしかは 我たひゆきの故に、汝かいきをつきてなけきしかはなり。みねはほ雲をは、嶺はふ雲をなり。みねつたいに行雲は、人のはふに似たれは、嶺はふ雲とはいへり。みとゝは、みつゝなり
 
右一首都筑郡上丁服部於田
 
和名云、都築、【豆々岐、】
 
4422 和我世奈乎都久之倍夜里弖宇都久之美於妣波等可奈奈阿也爾加母禰毛《ワカセナヲツクシヘヤリテウツクシミオヒハトカナヽアヤニカモネモ》
 
オビハトカナヽは帶はとかなくににて帶はとかぬになり、アヤニカモネモは毛は牟に通じて寢むなり、皇極紀に吐嗟をアヤと點じたれば、吐嗟《アヤ》と打嘆てかも寢むと(19)我上をよめるは答の意なるべし、
 
初、おひはとかなゝ おひはとかにゝなり。とかすといふをとかにといふは、しらすといふをしらにといへるかことし。これは上の哥のかへしなり。下に昔年防人歌八首の中の、第四の哥、またくこれにおなし。但つくしへを、つくしはといひ、おひをえひといひ、あやにかもねもを、あやにかもねんといへる、音の轉せるのみを異とす
 
右一首妻服部呰女
 
和名集を見るに參河|碧海《アヲミノ》郡に呰見《アタミノ》郷あり、備中|英賀《アガノ》郡に呰部《アタ》【安多、】郡あり、此に准らへば呰女をばアタメと讀べきにや、
 
初、服部【波止利】呰女【安太米。】和名集云。呰見【參河碧海郡。】呰部【安多】備中英賀郡。附はとりは機織なり。多於反登なるゆへに、はとりとはなれり。くれはとりのともしは、あやまりて濁きたれり
 
4423 安之我良乃美佐可爾多志弖蘇?布良波伊波奈流伊毛波佐夜爾美毛可母《アシカラノミサカニタシテソテフラハイハナルイモハサヤニミモカモ》
 
ラシテは立てなり、イハナルは家なるなり、ミモカモは見むかもなり、
 
初、あしからのみ坂にたして 立てなり。いはなるいもは、家にある妹はなり。さやにみもかも、さやかにみんかもなり これまた妻におくる哥なり
 
右一首埼玉郡上丁藤原部等母麿
 
和名、埼玉、【佐伊太末、】
 
初、和名集云。埼玉【佐伊太末】
 
4424 伊呂夫可久世奈我許呂母波曾米麻之乎美佐可多婆良婆麻佐夜可爾美無《イロフカクセナカコロモハソメマシヲミサカタハラハマサヤカニミム》
 
(20)第四句は上に美佐可多麻波理《ミサカタマハリ》とよめるに同じ、足柄の御坂の道を賜はりて越るとて袖振らば眞さやかに見むために豫《カネ》てこころして背奈《セナ》が衣をば色深く染べかりし物をとなり、右の歌の報《カヘシ》なり、
 
初、みさかたはらは みさかたをらはなり。ふたつのはもし、皆濁音なり
 
右一首妻物部刀自賣
 
二月二十日武藏國部領防人使〓正六位上安曇宿爾三國進歌數二十首、但拙劣歌者不v取2載之1、
 
二十の下に字落たり、其故は上に二十三日の歌あり、それより前皆次第あれば二十四日已後なるべし、三國は廢帝紀云、寶字八年十月正六位上安曇宿禰三國授2從五位下(ヲ)1、
 
4425 佐伎母利爾由久波多我世登刀布比登乎美流我登毛之佐毛乃母比毛世受《サキモリニユクハタカセトヽフヒトヲミルカトモシサモノモヒモセス》
 
佐伎母利、【幽齋本、母作v毛、】
 
(21)防人に行は誰爲のせなぞとも人はかかる物思ひをもせねば問事だに少なきとなり、問はば答へてせめて思ひをも遣て慰さむ事もあらむずるをの意なり、
 
初、さきもりにゆくはたかせと たかための夫君そ。かなしく思ふ妻をおきてきぬるやなと、情ありてとふ人のなきなり。ともしさはすくなきなり。ものもひもせすは、ものおもひせすなり。わかことくなるものおもひもせぬ人なれは、身をつみておもひやる心もなきなり
 
4426 阿米都之乃可未爾奴佐於伎伊波比都々伊麻世和我世奈阿禮乎之毛波婆《アメツシノカミニヌサオキイハヒツヽイマセワカセナアレヲシモハヽ》
 
此は防人の妻の歌なり、アメツシは上にもよめり、天地なり、ヌサオキは第三に長屋王の歌にもならの手向に置幣はと讀たまへり、アレヲシモハヾは之は助語にて我を思はばなり、
 
初、あめつしの神にぬさおき あめつしはあめつちなり。上にも、あめつしのいつれの神といへり。ぬさおきは、ぬさを置て神に奉るなり。第三に長屋王の哥にも、さほ過てならの手向におくぬさはとよみたまへり。あれおしもはゝ、われをしおもはゝなり。これは防人か妻の哥なり
 
4427 伊波乃伊毛呂和乎之乃布良之麻由須比爾由須比之比毛乃登久良久毛倍婆《イハノイモロワヲシノフラシマユスヒニユスヒシヒモノトクヲクモヘハ》
 
イハは家なり、呂は助語なり、マユスビは由と牟と同韻にて通ずれば眞結《マムス》びなり、ユスビシも結びしなり、片結《カタムス》びと眞結《マムスビ》とある其眞結なり、此は東詞にあらず古語なり、古事記に八千矛《ヤチホコノ》神御歌に多知賀遠母《タチガヲモ》、伊麻陀登加受弖《イマダトカズテ》、游須比遠母《ユスビヲモ》、伊麻陀登加泥婆《イマダトカネバ》(22)云云、
 
初、いはのいもろ 家の妹らなり。わをしのふらし、我をしのふらしなり。まゆすひにゆすひしひものとくらくもへはとは、まむすひにむすひし※[糸+刃]の解るおもへはなり
 
4428 和我世奈乎都久志波夜利弖宇都久之美叡比波登加奈奈阿夜爾可毛禰牟《ワカセナヲツクシハヤリテウツクシミエヒハトカナヽアヤニカモネム》
 
ツクシハは波と倍と通ずれば筑紫へなり、叡《エ》は於と通ずれば帶《オビ》なり、此歌は上の呰女が歌と同じ、
 
4429 宇麻夜奈流奈波多都古麻乃於久流我弁伊毛我伊比之乎於伎弖可奈之毛《ウマヤナルナハタツコマノオクルカヘイモカイヒシヲオキテカナシモ》
 
於伎弖、【幽齋本、伎作v岐、】
 
ナハタツコマは繩斷《ナハタツ》駒なり、平貞文が歌に引寄ばただにはよらで春駒の綱引するになはたつときく、此は繩絶《ナハタツ》に名は立を寄せたり、今は其心なし、オクルカヘは東歌にて慥ならねど後れむや君がゆかば我も追てゆかむと別るる事の悲しさに妻の云へるなるべし、
 
初、うまやなるなはたつこまのおくるかへいもかいひしを 既につなける駒の、縄斷て馳るは早きものなり。おくるかへは、おくるゝかはなり。旅に夫の出行時、その妻のしたひて、我もおくれんものかは、たちてはせゆく駒のことくをひゆかんなと、なく/\いひつるを、おきてきぬるかかなしきとなり。尚書云。若朽索之馭六馬。集注云。朽腐也。朽索易絶。六馬易驚。拾遺平貞文か哥に
  引よせはたゝにはよらて春駒のつな引するそなはたつときく
 
(23)4430 阿良之乎乃伊乎佐太波佐美牟可比多知可奈流麻之都美伊?弖登阿我久流《アラシヲノイヲサタハサミムカヒタチカナルマシツミイテヽトアカクル》
 
アラシヲは第十七にもよめり、あらちをなり、今は獵師などを云へり、伊乎佐《イヲサ》は五百箭《イホヤ》なり、都の歌ならば伊保佐《イホサ》とかゝるべきを東歌なる故に今の如くかゝれたる歟、箭を佐と云事第十三に投佐乃遠離居而《ナグルサノトホザカリヰテ》とよめるに付て注せしが如し、五百箭は矢の多き意なり、カナルマシヅミは第十四相模國相聞歌にかなるましづみころあれ紐解とよめるに付て注せし如く鹿鳴間沈《カナルマシヅミ》なり、イデヽトは登と曾と通ずれば出てぞなり、獵師の鹿を待に彼が鳴てありかの知られてねらひよる程は静まり返る如く、別の悲しさに涙に沈をたとへて云へり、第四に玉衣のさゑ/\沈みとよめる歌も亦引合すべし、
 
初、あらしをのいをさ手はさみ あらしをは、あらちをなり。獵師なとをいへり。いをさたはさみは、五百矢手挾なり。也と佐と同韵にて通せり。第十三に、なくるさの、とほさかりゐてといふ所に、日本紀にも矢をさといへる事あるを引て證せり。かなるましつみは、鹿鳴間沈なり。これも第十四に
  あしからのをてもこのもにさすわなのかなるましつみころあれひもとく
此哥に尺せり。いてゝとあかくるは、出てそわかくるなり。哥の心は、獵師かおほくの矢手挾て、野山に出て鹿をねらふ時、鹿のなくほとしつまりてをることく、さきもりに出てこんとては、涙にふししつみてそわかくるといふなり。第四に人まろの哥に
  玉きぬのさゐ/\しつみ家の妹に物いはすきておもひかねつも
此哥第十四にも有。此しつむといふ詞、おもひあはすへし
 
4431 佐左賀波乃佐也久志毛用爾奈奈弁加流去呂毛爾麻世流古侶賀波太波毛《サヽカハノサヤクシモヨニナヽヘカルコロモニマセルコロカハタハモ》
 
(24)ナヽヘカルは加と吉と通ずれば七重著るなり、
 
初、さゝかはのさやくしもよに 第二に人まろの哥に、さゝのははみ山もさやにみたれともとよめるにおなし。さやくはさわくなり。なゝへかるは、七重著るなり。上に
  旅衣やつ著かさねていぬれとも猶膚さむし妹にしあらねは
第四に
 あつふすまなこやか下にふせれとも妹としねゝははたし寒しも
ころかはたはもは、いつらやと尋ぬる心なり。これらは日本武尊の、あかつまはやとのたまひし御詞に、あはせてみるへし
 
4432 佐弁奈弁奴美許登爾阿禮婆可奈之伊毛我多麻久良波奈禮阿夜爾可奈之毛《サヘナヘヌミコトニアレハカナシイモカタマクラハナレアヤニカナシモ》
 
サヘナヘヌは奈と阿と同韻にて通ずれば障あへぬなり、勅命は違背して敢て障る事を得ぬなり、
 
初、さへなへぬみことにあれは さはりなきみことのりなれはなり
 
右八首昔年防人歌矣、主典刑部少録正七位上磐余伊美吉諸君抄寫贈2兵部少輔大伴宿禰家持1、
 
主典《ステム》は日本紀にフムヒトと點ぜり、諸君は未v詳、
 
三月三日※[手偏+僉]2※[手偏+交]防人1 勅使并兵部使人等、同集飲宴作哥三首
 
4433 阿佐奈佐奈安我流比婆理爾奈里弖之可美也古爾由伎弖(25)波夜加弊里許牟《アサナサナアカルヒハリニナリテシカミヤコニユキテハヤカヘリコム》
 
右一首勅使紫微大弼安倍沙美麿朝臣
 
孝謙紀云、勝寶元年九月戊戌制(ス)2紫微中臺(ノ)官位1、令一人正三位(ノ)官、大弼二人正四位下(ノ)官云云、聖武紀云、天平九年九月己亥正六位上阿倍朝臣佐美麻呂授2從五位下(ヲ)1、十年閏七月癸卯爲2少納言1、十五年五月從五位上、孝謙紀云、勝寶元年四月從四位上、寶字元年八月參議、二年三月辛酉中務卿正四位下阿部朝臣佐美麻呂卒(ス)、
 
初、紫微大弼安倍沙美麿朝臣 孝謙紀云。勝寶元年九月戊戌、制紫微中臺官位。令一人、正三位官。大弼二人、正四位下官。少弼三人、從四位下官。大忠四人、正四位下官。少忠四人、從五位下官。大疏四人、從六位上官。少疏四人、正七位上官。寶字二年八月庚子朔、大炊王受禅。癸亥、諸臣奉勅、改易官号。紫微中臺、居中奉勅、頒行諸司、如地承天亭毒庶物。故改爲神宮官。沙美麻呂天平九年九月己亥、正六位上阿倍朝臣佐美麻呂授從五位下。十年閏七月葵卯、爲少納言。十五年五月、從五位上。〇正五位下。十七年正月、正五位上。十八年四月、從四位下。勝寶元年四月、從四位上。寶字元年五月、正四位下。同八月、参議。二年三月辛酉、中務卿正四位下阿倍朝臣佐美麻呂卒
 
4434 比婆里安我流波流弊等佐夜爾奈理奴禮波美夜古母美要受可須美多奈妣久《ヒハリアカルハルヘトサヤニナリヌレハミヤコモミエスカスミタナヒク》
 
4435 布敷賣里之波奈乃波自米爾許之和禮夜知里奈牟能知爾美夜古敝由可無《フヽメリシハナノハシメニコシワレヤチリナムノチニミヤコヘユカム》
 
右二首兵部少輔大伴宿禰家持
 
(26)昔年相替防人歌一首
 
初、昔年相替防人歌一首 令義解第五、軍防令云。凡防人欲至所在、官司預爲部口。【謂官司者、防人司也。預爲部口者、防人未至之前、依舊差配預爲分目送於太宰防人至即相替也。】防人至後一日、即共舊人分付交替使訖。【謂主當之處有器仗等類故云分付也】
 
4436 夜未乃欲能由久左伎之良受由久和禮乎伊都伎麻佐牟等登比之古良波母《ヤミノヨノユクサキシラスユクワレヤイツキマサムトトヒシコラハモ》
 
和禮乎、【幽齋本点云、ワレヲ、】
 
發句は行サキシラズと云はむ料なり、腰句ユクワレヤと點ぜるは誤なり、ユクワレヲと讀べし、
 
初、やみのよのゆくさきしらす 第十二にも、くもり夜のたときもしらす山こえています君をはいつとかまたんとよめり。第九には、やみ夜なす、おもひまとはすとよみ、第十三には、くもりよの、まとへるほとにともよめり
 
先太上天皇御製霍公鳥歌一首
 
初、先太上天皇 此卷のはしめにいへることく、元正天皇なり
 
4437 富等登藝須奈保毛奈賀那牟母等都比等可氣都都母等奈安乎禰之奈久母《ホトヽキスナホモナカナムモトツヒトカケツヽモトナアヲネシナクモ》
 
本ツ人カケツヽとは郭公は冥途より來ると云ひ習はし第十に郭公をやがて本つ人ともよめり、されば養老五年十月に元明天皇崩御し給て明る年の夏に至て郭公(27)の鳴を聞食てしのび參らさせ給ひてよませたまへるにや、アヲはあれはにて我はなり、之は助語なり、本つ人を懸て由なく音を泣せたまふ折しも冥途より來て鳴と云郭公なればなつかしく思召て猶もなかなむとは強させ給へり、
 
初、ほとゝきす猶もなかなん これは元明天皇崩御の後なとによませたまへる御哥にや。あをは、われはなり。御哥の心は、あかぬほとゝきすは猶もなかなんとおもふに、それは聲まれにてわれのみよしなく、もとつ人をかけつゝねをなくことよとよませたまへるなり。此もとつ人とは、元明天皇をさゝせたまへるにやとそうけたまはる。第十には、ほとゝきすをもとつ人とよめり。いにしへより蜀魂なといひつたへけるか、さらてもきけはかなしき聲にて、昔のしのはるゝほとゝきすなれは、もとつ人をはかけさせたまへるなるへし
 
※[こざと+徑の旁]妙觀應 v詔奉v和歌一首
 
※[こざと+徑の旁]は字書に下丁(ノ)切限也、山絶也、又縣名、今按是は誤にて薩《サチ》と云氏なり、元正紀云、養老七年春正月丙子太宅朝臣諸姉薩炒觀並授2從五位上1、聖武紀云、神龜元年五月辛未從五位上薩(ノ)妙觀賜2姓河上忌寸1、天平九年二月戊午天皇臨(テ)v朝授2從五位上河上忌寸妙觀太宅朝臣諸姉並正五位下(ヲ)1、河上忌寸の姓を賜て後なれど本の薩の氏をかける事は右の御歌神龜より以前の御製にて元朋天皇を慕はせ絵ふ御心を顯はさむ爲にやとなり、
 
初、※[こざと+徑の旁]妙觀應 元正紀云。養老七年春正月丙子、大宅朝臣諸姉、薩炒觀並從五位上。聖武紀云。神龜元年五月辛未、從五位上薩妙觀賜2姓河上忌寸。天平九年二月戊午、天皇臨朝授〇從五位上河上忌寸妙觀、大宅朝臣諸姉、並正五位下。※[こざと+徑の旁]、玉篇云。下丁切。限也。山絶也。又縣名。氏にてはいかによむへしともわきまへす。續日本紀に、薩妙觀とふた所まてあれは、此集かきあやまてるなるへし。薩は、音にても薩人なといふ事あれは、さる事によれる氏なるへし。妙觀は、兩字ともに音なるへし。下四十八葉、※[こざと+徑の旁]妙觀命婦とあり
 
4438 保等登藝須許許爾知可久乎伎奈伎弖余須疑奈無能知爾之流志安良米夜母《ホトヽキスコヽニチカクヲキナキテヨスキナムノチニシルシアラメヤモ》
 
(28)第二句の乎は助語なり、下句は猶もなかなむと勅ある時になかずして時の過なむ後には鳴ともかひあらじとなり、
 
初、ほとゝきすこゝにちかくを ちかくをのをもしは助語なり。猶もなかんとある御かへしなれは、今こゝにちかくきなけ、此時過て後にはいかはかりなくとも、かひあらしといふ心なり。御製のはしめの二句に、かへしたてまつれるなり。勅命をほとゝきすにつたふるやうによめり。哥のさまいとやさしく聞ゆ
 
冬日幸2于靱負御井1之時、内命婦石川朝臣應 v詔賦v雪歌一首 諱曰3色婆1
 
光仁紀云、寶龜三年三月甲申|置2酒《オホミキメシテ》靱負(ノ)御井(ニ)1賜(フコト)d陪従(ノ)五位已上及文士賦2曲水1者禄u有v差《シナ》、内命婦石川朝臣は坂上郎女の母なり、第三第四にも見えたり、諱曰2色婆1は日本紀に孝元天皇の后|欝色謎《ウチシコメノ》命、開化天皇の后|伊香色謎《イカシコメ》命とあるに准らへばシコメと讀べきか、異本に色を邑に作れり、然らばオホバと讀べきか、
 
初、靫負御井 光仁紀云。寶亀三年三月甲申、置酒靫負御井、賜陪從五位已上及文士賦曲水者禄有差
 
4439 麻都我延乃都知爾都久麻?布流由伎乎美受弖也伊毛我許母里乎流良牟《マツカエノツチニツクマテフルユキヲミステヤイモカコモリヲルラム》
 
松が枝の地に著かと見ゆる許多く降雪は興ありて面白き意なり、
 
初、まつかへのつちにつくまて 雪のをもくつもりて、えたのさかるなり
 
(29)于v時水主内親王寢膳不v安、累v日不v參、因以2此日1、太上天皇勅2侍嬬等1曰、爲v遣2水主内親王1賦v雪作v歌奉獻者、於v是諸命婦等不v堪v作v歌而此石川命婦獨作2此歌1奏v之、
 
天智紀云、又有2隈(ノ)首《オフト》徳萬女1、曰2黒媛(ノ)娘《イラツト》1、生2水主《モヒトリ》皇女1、聖武紀云、天平九年二月四品水主(ノ)内親王授2三品1、八月辛酉三品水主内親王薨、天智天皇之皇女也、
 
初、水主内親王 日本紀第二十七、天智紀云。又有栗隈首徳萬女。曰黒媛。生水主皇女。聖武紀云。天平九年二月、四品水主内親王授三品。同八月辛酉、三品水主内親王薨。天智天皇之皇女也
 
右件四首、上總國大〓正六位上大原眞人今城傳誦云爾、 年月未v詳、
 
上總國朝集使大〓大原眞人今城向v京之時郡司妻女等餞之歌二首
 
4440 安之我良乃夜敝也麻故要?伊麻之奈波多禮乎可伎美等(30)彌都都志努波牟《アシカラノヤヘヤマコエテイマシナハタレヲカキミトミツヽシノハム》
 
4441 多知之奈布伎美我須我多乎和須禮受波與能可藝里爾夜故非和多里奈無《タチシナフキミカスカタヲワスレスハヨノカキリニヤコヒワタリナム》
 
第十に秋はぎのしなひにあらむ妹がすがたとも第十二に誰葉野《タガバヌ》に立しなひたる菅の根ともよめり、
 
初、立しなふ君かすかたを しなふは、しなやかなるなり。第十二に、あさは野にたつみわ小菅とあるを、一本には、たかは野にたちしなひたるとあるよし、注せり
 
五月九日兵部少輔大伴宿禰家持之宅集飲歌四首
 
4442 和我勢故我夜度乃奈弖之故比奈良倍弖安米波布禮杼母伊呂毛可波良受《ワカセコカヤトノナテシコヒナラヘテアメハフレトモイロモカハラス》
 
右一首大原眞人今城
 
4443 比佐可多能安米波布里之久奈弖之故我伊夜波都波奈爾(31)故非之伎和我勢《ヒサカタノアメハフリシクナテシコカイヤハツハナニコヒシキワカセ》
 
右一首大伴宿禰家持
 
4444 和我世故我夜度奈流波疑乃波奈佐可牟安伎能由布弊波和禮乎之努波世《ワカセコカヤトナルハキノハナサカムアキノユフヘハワレヲシノハセ》
 
右一首大原眞人今城
 
即聞2※[(貝+貝)/鳥]哢1作歌一首
 
4445 宇具比須乃許惠波須疑奴等於毛倍杼母之美爾之許已呂奈保古非爾家里《ウクヒスノコヱハスキヌトオモヘトモシミニシコヽロナホコヒニケリ》
 
須疑奴等、【官本、或等作v登、】
 
聲ハ過ヌとは五月九日なれば時の過るなり、
 
初、うくひすの聲は過ぬとおもへとも 過ぬとは、時分の過るなり。五月九日なればなり。しみにし心は、そみにしこゝろなり。鶯をおもしろくおもひそみたる心なり。第六に
  紅にふかくそみにし心かもならの都にとしのへぬへく
 
(32)右一首大伴宿爾家持
 
同月十一日左大臣橘卿宴2右大弁丹比國人眞人之宅1歌三首
 
4446 和我夜度爾佐家流奈弖之故麻比波勢牟由米波奈知流奈伊也乎知爾左家《ワカヤトニサケルナテシコマヒハセムユメハナチルナイヤヲチニサケ》
 
伊也乎知爾左家、【官本、或家作v氣、】
 
伊也乎知は彌彼《イヤヲチ》なり、第十五に多麻久之氣安氣?乎知欲利《タマクシゲアケテヲチヨリ》とよめる乎知なり、彌行末久しくさけとは左大臣によそへて祝ふなり、
 
初、わかやとにさけるなてしこ まひはせんとは、まひなひはせんなり。上にあまた有し詞なり。いやをちにさけは、あすより末いよ/\久しくさけといふ心なり。をちは彼の字なり。貫之の哥に、きのふよりをちをはしらすとよまれたるはさきをいへり。此集に、玉くしけあけてをちよりといへるは、あす未をいへり。此哥は、橘左大臣の見たまへるを質して、かくはいへり
 
右一首丹比國人眞人壽2左大臣1歌
 
4447 麻比之都都伎美我於保世流奈弖之故我波奈乃未等波無(33)伎美奈良奈久爾《マヒシツヽキミカオホセルナテシコカハナノミトハムキミナラナクニ》
 
花ノミトハムは花をのみいやをちにさけとは云はむ君にあらず、君も彌彼《イヤヲチ》に榮ゆべき君ぞとなり、
 
初、なてしこか花のみとはん君ならなくに 撫子の花のみならす、君をとはんとなり
 
右一首左大臣歌
 
初、右一首左大臣歌 疑歌上脱和
 
官本臣下有v和、今本脱矣、
 
4448 安治佐爲能夜敝佐久其等久夜都與爾乎伊麻世和我勢故美都都思努波牟《アチサヰノヤヘサクコトクヤツヨニヲイマセワカセコミツヽシノハム》
 
味狭藍は六帖にもあぢさゐの花のよひらにと讀て、げにも葩《ハナヒラ》の四瓣にして一重咲花なるを歌の習なれば八重咲如くとは讀まれたり、夜都與爾乎は、八代になり、乎は助語なり、六帖あぢさゐに入れたるにはやつよにもとあり、
 
初、あちさゐのやへさくことく 和名集云。白氏文集律詩云。紫陽花【和名阿豆佐爲】よひらの花と後によみて、四出にさくものなれと、哥のならひなれは、八重とはよみたまへり。やつよにをは、たとひ七八十もいくる人ならは、それを八はかりもかさねていませといふ心なり
 
右一首左大臣寄2味狭藍花1詠也
 
(34)十八日左大臣宴2於兵部卿橘奈良麻呂朝臣之宅1歌三首
 
4449 奈弖之故我波奈等里母知弖宇都良宇都良美麻久能富之伎吉美爾母安流加母《ナテシコカハナトリモチテウツラウツラミマクノホシキヽミニモアルカモ》
 
ウツラ/\はつら/\に同じ、土佐月記にも、めもうつら/\鏡に神の心をこそは見つれとかけり、俗にも物に心を入れて見るをば、うつら/\と見ばなど云へり、下句は第四に坂上大娘が歌に同じきが有つるなり、
 
初、うつら/\ つら/\にて、熟の字なり。第一に、つら/\椿つら/\にとよめるにおなし。土佐日記にも、めもうつら/\かゝみに神の心をこそはみつれとかけり。俗にも、花なと心をいれてみるをは、うつら/\と見るとそ申める
 
右一首治部卿舩王
 
4450 和我勢故我夜度能奈弖之故知良米也母伊夜波都波奈爾佐伎波麻須等母《ワカセコカヤトノナテシコチラメヤモイヤハツハナニサキハマストモ》
 
4451 宇流波之美安我毛布伎美波奈弖之故我波奈爾奈蘇倍弖(35)美禮杼安可奴香母《ウルハシミアカモフキミハナテシコカハナニナソヘテミレトアカヌカモ》
 
右二首兵部少輔大伴宿禰家持追作
 
八月十三日在2内南安事1肆宴歌二首
 
天武紀云、十年春正月辛未朔丁丑、天皇御2向(ノ)小殿1而宴之、是日、親王諸王(ヲ)引《メシ》2入内安|殿《・トコロ》1諸臣皆侍(テ)2于外(ノ)安殿1、共|置《メシテ》v酒以|賜樂《ウタマヒ》、
 
初、在内南安殿 天武紀云。十年春正月辛未朔丁丑、天皇御向小殿而宴之。是日、親王諸王引入内安殿。諸臣皆侍于外安殿、共置酒以賜樂
 
4452 乎等賣良我多麻毛須蘇婢久許能爾波爾安伎可是不吉弖波奈波知里都々《ヲトメラカタマモスソヒクコノニハニアキカセフキテハナハチリツヽ》
 
六帖には庭の歌に入れて發句をとめこがとあり、
 
初、をとめらか玉裳すそひく 玉もは、裳をほむる詞なり。第一に、人丸の哥に
  あみの浦にふなのりすらんをとめらか玉ものすそに塩みつらんか
第二には、朝霧に、玉もはひつちとよみ、第十一には、この川のせに玉もぬらしつとよめり
 
右一首内匠頭兼播磨守正四位下安宿王奏之
 
孝謙紀云、勝寶三年正月正四位下、五年四月播磨守、六年九月爲2兼内匠頭1、
 
(36)4453 安吉加是能布伎古吉之家流波奈能爾波伎欲伎都久欲仁美禮杼安賀奴香母《アキカセノフキコキシケルハナノニハキヨキツクヨニミレトアカヌカモ》
 
第三句は花ノ庭なり、花野ニハにあらず、
 
初、秋風のふきこきしける花の庭 秋風の吹てこきしけるなり。秋の花ともをこきおろすことく、ちらせるによりて、かくいふなり。俊頼朝臣の哥に
  はけしさのみ山おろしは手もなくていかてこのはをこきおろすらん
 
右一首兵部少輔從五位上大伴宿禰家持 未v奏
 
十一月二十八日左大臣集2於兵部卿橘奈良麿朝臣宅1宴歌一首
 
4454 高山乃伊波保爾於布流須我乃根能禰母許呂其呂爾布里於久白雪《タカヤマノイハホニオフルスカノネノネモコロコロニフリオクシラユキ》
 
六帖にも續後撰集にも下句を根も白妙に降れる白雪と改て入られたり、
 
右一首左大臣作
 
(37)天平元年班田之時使葛城王從2山背國1贈2※[こざと+徑の旁]妙觀命婦等所1贈歌一首 副2芹子※[果/衣]1
 
天平元年の班田は第三大伴宿禰三中が歌に聖武紀を引が如し、※[こざと+徑の旁]の字は上に云が如し、
 
初、天平元年班田之時 令義解云。班頒也。又云田所以殖五穀之地也。聖武紀云。天平元年十一月癸巳、任京及畿内班田使。〇又阿波國山背國陸田者、不問高下、皆悉還公。即給當土百姓。但在山背三位已上陸田者、具録町段附使上奏。以外盡收開荒爲熟、兩國並聽。令義解の班田のやうは、具第三卷引之
 
4455 安可禰左須比流波多多婢弖奴婆多麻乃欲流乃伊刀末仁都賣流芹子許禮《アカネサスヒルハタヽヒテヌハタマノヨルノイトマニツメルセリコレ》
 
多多婢弖とは第十五に多太末可母安夜麻知之家牟《タダマカモアヤマチシケム》とよめるに付て欽明紀を引しが如く策の字をたたまと讀つれば班田の策《ハカリゴト》を廻らすをタヽヒテと云なるべし、
 
初、あかねさすひるはたゝひて 長流かいはく。たゝひては立てといふ心なりと。しかれは、班田にいとまなくて居る間なくて、立てのみをる心なり。第七に、春日すら田に立つかるとよめるかことし。ひるはいとまなきによりて、夜のいとまに、此芹をはつみてまいらすれは、心さしのほとをはしられよとなり
 
※[こざと+徑の旁]妙觀命婦報贈歌一首
 
※[こざと+徑の旁]は上に云が如し、
 
4456 麻須良乎等於毛敝流母能乎多知波吉?可爾波乃多爲爾(38)世理曾都美家流《マスラヲトオモヘルモノヲタチハキテカニハノタヰニセリソツミケル》
 
夜の暇につめる芹とておこせたる志をほめむとて武勇の才のみにてかゝる風流の心はあるべくも思へらざりしにと云意なり、カニハノ田井は相樂郡なり、延喜式第五十雜式云、山城國泉河|樺《カバ》井《・カニハヰ》渡瀬者云云、垂仁紀云、三十四年春三月乙丑朔丙寅天皇幸(マス)2山背(ニ)1時左右奏言之、此國|有《ハベリ》2佳人《カホヨキヒト》1曰2綺戸邊《カニハトベ》1、古事記垂仁天皇段云、又|娶《メシテ》2山代大國之淵(ガ)之女苅羽田刀弁1生2御子1云云、又、安康天皇段云、意祁《オホケノ》王|袁祁《ヲケノ》王【二柱】聞2此亂(ヲ)1而逃去、故到2山代(ノ)苅羽井《カリハヰニ》1食《メス》御粮《カテヲ》1之時云云、和名集云、相樂郡蟹幡【加無波多、】日本紀の綺《カムハタ》、古事記の苅羽井、延喜式の樺井、和名集の蟹幡、文字は替りたれど同處なり、元亨釋書寺像志の蟹幡寺の縁起は蟹幡の字に付て云へる妄傳なるべし、六帖芹の歌に入れたるに右の歌は左大臣橘諸兄此歌は同かへし命婦と云へり、
 
初、ますらをとおもへるものを 返しの心は、君をは只たけきますらをとのみおもひつるに、なさけ有て、太刀をはきなから、かにはの田井にこのせりをつみて給へるか、うれしさといふ心なり。かにはのたゐは、樺田井なり。延喜式第五十、雜式云。凡山城國泉河樺井渡瀬者、官長率東大寺工等、毎年九月上旬造假橋、來年三月下旬壞收云々。此泉河樺井渡とある所の事なるへし。
 
右二首左大臣讀v之云爾 【左大臣是葛城王後賜2橘姓1也】
 
天平勝寶八歳丙申二月朔乙酉二十四日戊申、太上天皇(39)太皇太后幸2行於河内離宮1、經v信以2壬子1傳2幸於難波宮1也、
 
孝謙紀には初に行幸を記して御幸を漏し今は御幸を記して行幸を漏せり、經信は文選天台賦の注に再宿爲v信とあり、傳幸は古事記仁コ天皇段云、乃自2真嶋1傳而幸2行吉備國1とあり、さて此題辭は下六首の※[手偏+總の旁]題なり、
 
初、天平勝寶八歳〇戊申 此下に天皇の二字落たる歟。續日本紀第十九云。勝寶八歳春二月戊申、行幸難波。是日、至河内國、御智識寺南行宮。己酉、天皇幸智識山下大里三宅家原鳥坂等七寺、礼佛。庚戌、遣内舍人於六寺誦經。襯施有差。壬子、大雨。賜河内國諸社祝祢宜等一百八十人正税、各有差。是日、行至難波宮、御東南新宮。三月甲寅朔太上天皇幸堀江上。乙卯、詔免河内攝津二國田租。戊午、遣使攝津國諸寺誦經。襯施有差。此孝謙紀を引て見るに、天皇の二字をとせり。紀はまた、太上天皇皇太后も諸友に御幸ありけることを失ひて載せす。三月甲寅朔に太上天皇のみ堀江上に御幸ありけるやうに記せるは、さきの記録のつふさならさりけるにや。されはこそ行幸にはみな還御の日まてをしるすを、此度の行幸は還御をしるさす。今年五月、太上天皇は崩御したまへり。太皇太后、初の太の字は、衍文なるへし。經信は、莊三年左傳云。凡師一宿爲舍、再宿爲信、過信爲次。今二十四日より二十八日にいたるを經信といへるは、信といへとも通局ある歟。若これも再信兩信なといへるを、字のおちけるにや【左大臣云々。此注は、上に橋の姓なきゆへに、まきらはしけれは、くはへたるなり】
 
三月七日於2河内國伎人郷馬國人之家1宴歌三首
 
日本紀に伎人《ワザト》と點ぜり、然れば今もさ讀べきか、又伎樂をクレガクと點ぜればクレヒトと讀べきにや、孝謙紀云、勝寶二年五月、京中驟雨、水潦汎溢、又伎人茨田等堤徃徃決壞、和名集には此郷の名見えねば何れの郡に在と云事を知らず、馬の下に史の字を落せり、
 
初、伎人郷 日本紀に、伎人をわさとゝよめり。伎人を置れける郷にて、此名を得たるなるへし。孝謙紀云。勝寶二年五月、京中驟雨、水源汎溢。又伎人茨田等堤往往決壞。馬國人、下に馬史國人とあれは、こゝにも馬史と有けんかおちたるにや
 
4457 須美乃江能波麻末都我根乃之多婆倍弖和我見流乎努能久佐奈加利曾禰《スミノエノハママツカネノシタハヘテワカミルヲノヽクサナカリソネ》
 
シタハヘテは第九以下に有て注せり、六帖雜思しめの歌として濱松が根をしのは(40)へて我見し小野のとあるはおぼつかなし、
 
初、すみのえの濱松か根のしたはへて 松の根のはふといふ心につゝけたり。したはへては、下心におもひ置をいへり。第九第十四第十八にもよめる詞なり。今は下の心にあかぬ心の打はへて有て、おもしろく見る小野の若草を、心なくなかりそとなり。すみのえのといへるは、難波より住吉へも、みゆきせさせたまへる、御供なとせられける時より、國人かもとへゆかんと、下心におもはれけれはなり
 
右一首兵部少輔大伴宿彌家持
 
4458 爾保杼里乃於吉奈我河波半多延奴等母伎美爾可多良武巳等都奇米也母《ニホトリノオキナカカハヽタエヌトモキミニカタラムコトツキメヤモ》 【古新未v詳】
 
ニホ鳥は水に入て久しく潜ぎ水を出ても息を長く衝べければ何れに付ても息長河と云名につゞけたり、天武紀上云、男依《ヲヨリ》等與2近江軍1、戰(テ)2息長横河《オキナガノヨコカハ》1破v之云云、近江の坂田郡にあり、息長河を知らで奧《オキ》中河と云説あり、沙汰にも及ぶべからぬ事なり、假名も於吉奈我と我の字をかけるを思ふべし、此歌は第十五に海に出たる餝摩河絶む日にこそとよめる類なり、六帖にはにほの歌として君にかたらふ事つきめやはと云へり、古新未詳とは歌の姿も當時よりは古たるか、息長河も處の似付かねば疑がへるにや、
 
初、にほ鳥のおきなかかはゝ 息長河は、近江國坂田郡に有。第十三に、しなたてる、つくまさのかた、息長の、とをちの小菅とつゝけよめる哥に、日本紀等を引り。にほ鳥は息のなかくて、水の中に久しく堪てかつけは、かくはつゝけたり。又第十四東哥に、をかものもころやさか鳥いくつく鳥とたとへよめるに准すれは、にほの水を出てためたる息を衝か、長き心にて息長河ともつゝけたりとも聞ゆ。又第十四に、にほ鳥のかつしかわせとつゝけたるは、かつくといへる心なり。此於吉奈我河波を奥中河と心得るは大にあやまれり。にほ鳥のといへる心をも得す。濁音の我もしをかけるに、心をもつけぬなり。君にかたらん事つきめやもは、上の家持の哥に、したはへてわかみる草といへるには、あるしをよそへていへれは、それにかへす心なり。第十五に
  わたつみの海に出たるしかま川たへむ日にこそわかこひやまめ.
古新未詳と注せるは、息長川を取出たるは、時にかなはねと、哥の心はよくかなへは、古哥の心を得て、あるしのすしたる歟。又今よみ出たる歟。おほつかなき故なり
 
右一首主人散位寮散位馬史國人
 
(41)國人未v詳、
 
4459 蘆苅爾保里江許具奈流可治能於等波於保美也比等能未奈伎久麻泥爾《アシカリニホリエコクナルカチノオトハオホミヤヒトノミナキクマテニ》
 
麻泥爾、【官本、或泥作v?、】
 
發句は蘆苅に出とてなり、下句は第三に長忌寸奧麿が網子|調《トヽノフ》るあまの呼聲とよめる歌の類なり、
 
初、あしかりにほりえこくなる あしかりに行とて、ほりえにこく舟なり。第三に
  大宮の内まて聞ゆあひきすとあことゝのふるあまのよひこへ
 
右一首式部少丞大伴宿爾池王讀v之即云兵部大丞大原眞人今城先日他所讀歌者也、
 
先日他所讀歌と云は今城も古歌或は他人の歌を誦したるか、
 
4460 保利江巳具伊豆手乃船乃可治都久米於等之婆多知奴美乎波也美加母《ホリエコクイツテノフネノカチツクメオトシハタチヌミヲハヤミカモ》
 
(42)波也美加母、【別校本、母作v毛、】
 
カヂツクメは第八に市原王七夕歌に附目緘結《ヒトメツヽムト》と云句を今の歌を引て附目はつくめ〔三字右○〕と點ずべき歟と注せしが如し、
 
初、ほりえこくいつての舟の いつて舟は、上に、さきもりのほりえこき出るいつて舟とよめり。かちつくめは、長流か抄に、束ぬる心なりといへり。今案、豆と須と同韻にて通すれは、かちすくめといへるにや。みをのいとはやきを、舟に櫓をおほくたてゝ、おしてさかのほる心なり。たとへは物よくいふ人のことはりもあきらかならぬことをもて、よくもえいはぬ人のことはりあるを、口よくいひふするを、俗にいひすくむるといふ躰なるへし。音しは立ぬは、しは/\音の立ぬなり
  さよふけてほりえこくなるまつら舟かち音高しみをはやみかも
 
4461 保里江欲利美乎左香能保流梶音乃麻奈久曾奈良波古非之可利家留《ホリエヨリミヲサカノホルカチノオトノマナクソナラハコヒシカリケル》
 
4462 布奈藝保布保利江乃可波乃美奈伎波爾伎爲都都奈久波美夜故抒里香蒙《フナキホフホリエノカハノミナキハニキヰツヽナクハミヤコトリカモ》
 
フナキホフは第一に舟競夕河渡《フナキホヒユフカハワタリ》とよめるに同じ、ミナキハはみぎはなり、都鳥は伊勢物語に白き鳥の嘴《ハシ》と脚と赤き鴫《シギ》の大きさなる水の上に遊びつゝいをゝ食《く》ふ、是なむ都鳥とかければ異義あるべからず、大方|鴎《カモメ》の類にて打交りて遊ぶとぞ、魚鳥など能知たる者の語侍りし、隙なく舟の競ひて出入り來居て鳴鳥さへ都鳥かもと難波をほめてよめる意なり、六帖都鳥歌として作者を弟丸とせるは誤なり、
 
初、ふなきほふ堀江の川の ふなきほふとは、舟競なり。我さきにと漕出、漕入るなり。第一に人丸の哥に、ふねなめて、朝川わたり、ふなきほひ、夕河わたりとよめり。第九には、みなと入に、舟こくことくとよみ、此卷上には、朝なきに、かち引のほり、夕しほに、さをさしくたり、あちむらの、さわきゝほひてとよめり。またふなくらへといふ事をするは、くらへ馬の心に似たり。今の心にあらす。都鳥は、伊勢物語に、しろき鳥のはしとあしとあかき、しきのおほきさなる、水の上にあそひつゝいをゝくふ。これなん都鳥とかけれは、異義なし。大かた鴎の類にて、打ましりてあそふとそ長流は申侍し。ひまなく舟のきほひて出入、ほりえに來居てなくは、鳥さへ都鳥かもとも、ほめてよめる心なり
 
(43)右三首江邊作v之
 
是家持の詞なり、第十九の終の注に准らへて見るべし、
 
初、右三首江邊作之 ともに家持の哥なり。第十九云。但此卷中不※[人偏+稱の旁]作者名字、徒録年月所處縁起者、皆大伴宿祢家持裁作歌詞也。これは十九卷にかきりていひたれと、准して知へし
 
4463 保等登藝須麻豆奈久安佐氣伊可爾世婆和我加度須疑自可多利都具麻?《ホトヽキスマツナクアサケイカニセハワカヽトスキシカタリツクマテ》
 
4464 保等登藝須可氣都都伎美我麻都可氣爾比毛等伎佐久流都奇知可都伎奴《ホトヽキスカケツヽキミカマツカケニヒモトキサクルツキチカツキヌ》
 
カケツヽとは郭公と我となり、君とは妻なり、松陰は待に寄たり、第十一に馬の音のとゞともすれば松陰にとつゞけたるに同じ、紐解サクルは心をゆるべるなり、郭公は立夏より鳴に三月廿日かねてよめば月近付ヌとは云へり、
 
初、ほとゝきすかけつゝ君か 君と指は妻なり。ほとゝきすと旅にある我とを、かけて待といふ心につゝけたり。ひもときさくるは、第九に、※[糸+刃]の緒ときて家のこととけてそあそふといひたることく、心のとくると、又夜の※[糸+刃]とくと、いつれにもあるへし
 
右二首二十日大伴宿禰家持依v興作v之
 
喩族歌一首并短歌
 
初、喩族歌一首并短歌 喩は示喩なり。并誤作弁
 
(44)4465 比左加多能安麻能刀比良伎多可知保乃多氣爾阿毛理之須賣呂伎能可未能御代欲利波自由美乎多爾藝利母多之麻可胡也乎多波左美蘇倍弖於保久米能麻須良多祁乎乎佐吉爾多弖由伎登利於保世山河乎伊波禰左久美弖布美等保利久爾麻藝之都都知波夜夫流神乎許等牟氣麻都呂倍奴比等乎母夜波之波吉伎欲米都可倍麻都里弖安吉豆之萬夜萬登能久爾乃可之婆良能宇禰備乃宮爾美也婆之良布刀之利多弖?安米能之多之良志賣之祁流須賣呂伎能安麻能日繼等都藝弖久流伎美能御代御代加久佐波奴安加吉許巳呂乎須賣良弊爾伎波米都久之弖都加倍久流(45)於夜能都可佐等許等太弖?佐豆氣多麻敝流宇美乃古能伊也都藝都岐爾美流比等乃可多里都藝弖?伎久比等能可我見爾世武乎安多良之伎吉用伎曾乃名曾於煩呂加爾巳許呂於母比弖牟奈許等母於夜乃名多都奈大伴乃宇治等名爾於敝流麻須良乎能等母
《ヒサカタノアマノトヒラキタカチホノタケニアモリシスメロキノカミノミヨヽリハシユミヲタニキリモタシマカコヤヲタハサミソヘテオホクメノマスラタケヲヽサキニタテユキトリオホセヤマカハヲイハネサクミテフミトホリクニマキシツヽチハヤフルカミヲコトムケマツラヘヌヒトヲモヨハシハキヽヨメツカヘマツリテアキツシマヤマトノクニノカシハラノウネヒノミヤニミヤハシラフトシリタテヽアメノシタシラシメシケルスメロキノアマノヒツキトツキテクルキミノミヨミヨカクサハヌアカキコヽロヲスメラヘニキハメツクシテツカヘクルオヤノツカサトコトタテヽサツケタマヘルウミノコノイヤツキツキニミルヒトノカタリツキテヽキクヒトノカヽミニセムヲアタラシキキヨキソノナソオホロカニコヽロオモヒテムナコトモオヤノナタツナオホトモノウチトナニオヘルマスラヲノトモ》
 
多波左美、【幽齋本、波作v婆、】  麻都呂倍奴、【幽齋本点云、マツロヘヌ】、  夜波之、【官本点云、ヤハシ、】  加久佐波奴、【幽齋本、佐作v左、】
 
右字點の異、加久佐波奴の佐を左に作れるは唯異を注するのみにて其外は皆他本に依るべし、比左加多能と云より都可倍麻都里弖と云までは神代紀下云、高皇産靈《タカミムスビ》尊以2眞床覆衾《マトコオホフフスマヲ》1、※[果/衣]《キセマツリ》2天津彦國|光彦火瓊々杵《テルヒコホノニニギノ》尊(ニ)1則引2開《アケ》天磐戸1排2分《ワケ》天八重雲1以|奉隆《アマクダシマス》之、于v時大伴(ノ)連遠(ツ)祖天(ノ)忍日《オシヒノ》命、帥(テ)2來目《クメ》部遠祖|天※[木+患]《アメクシ》津大來目1、背《ソビラニハ》負(ヒ)2天(ノ)磐靱《イハユキ》1、臂《タヽムキニハ》著《ハキ》2稜威高鞆《イツノタカトモヲ》1、手(ニハ)提《トリ》2天|梔《ハシ》弓天(ノ)羽羽矢1、【古事記云、手2挾天之眞鹿兒矢1、綏靖記云、乃使d弓部稚彦遣v弓、倭鍛部天津眞浦造2眞〓〓1、矢部作uv箭、】及|副2持《トリソヘ》八目|鳴鏑《カブラヲ》1、又|帶《ハキ》2頭槌劔《カブツチツルギヲ》1、而立(チ)2天孫之前1遊行降來、到2於日向(ノ)襲《ソ》之|高千穗※[木+患]日二上(46)峰《タカチホノクシヒノフタアゲタケ》天浮橋1、而|立《タヽシテ》2於浮渚在《ウキジマリ》之|平地《タヒラニ》、膂宍空國《ソシヾノムナクニヲ》自2頓丘《ヒタヲ》1覓v國行去《クニマギトホリテ》、到2於吾田長屋笠狹之御碕1、タカチホは日向國風土記云、天津彦彦火|瓊瓊杵《ニニギノ》尊離(レテ)2天|磐座《イハクラ》1排2天八重雲《アマノヤヘグモヲ》1、稜威道別道別而《イツノチワキチワキテ》天《アマ》2降(マス)於日向之高千穗二上之峰1時、天《アメ》暗冥晝夜不v別、人《ヒト》物失道、物色難v別、於茲有2土蜘蛛1、名曰2大※[金+耳]小※[金+耳]1、二人奏2言皇孫尊1、以2尊御手1拔2稻千|穗(ヲ)1、爲《ナシ》v籾(ト)、投散2四方1、得2開晴1、于v時如2大※[金+耳]等所1v奏拔2千穗稻1爲v籾投散即天開晴、日月照光、因曰2高千穗二上峰1、後人改號知鋪1、和名集云、臼杵(ノ)郡智保、マカゴヤは古事記云、手2挾天眞鹿兒矢1云云、此外は皆上に出て注せし詞どもなり、アキツシマより下は神武天皇より此方大伴氏世々忠貞を盡せるを述られたり、カクサハヌは第一第十一に隱障をかくさふと讀たれば不隱障なり、二心あるを蘊《ツツ》むは隠障《カクサフ》なり、然らば心に表裏なく專《モハラ》忠貞なるをカクサハヌと云なり、アカキコヽロ赤心丹心若は明《アカ》き心にてあきらけき心と云にや、スメラベは皇《スメラ》邊にて君邊と云が如し、第十八に大皇乃敝爾許曾死米とよめるに同じ、ウミノコは日本紀に子孫と書てよめり、可多里都藝弖?は?と豆と通ずれば語り繼つゝなり、今按豆と弖と少相似たれば豆豆とありけむを弖弖に誤りて寫せるにや、カヾミニセムヲは貞觀政要にも云、以v子爲(テハ)v鏡可v知2興替1、以v人爲v鏡可v知2得失1、といへり、ムナコトモは奈《ナ》と萬《マ》と同韻にて通ずれば孫等《ウマゴドモ》と云にや、若は空言もにや、戯言などは實な(47)ければ空言とも云べし、於夜乃名多都奈は立勿《タツナ》か或は絶勿《タツナ》か、
 
初、久方の天の戸ひらきたかちほのたけにあもりしすめろきの神のみよゝり 日本紀第二云。高皇産靈尊以眞床覆衾裹天津彦國光彦火瓊々杵尊則引開天磐戸排分天八重雲以奉降之。于時大伴連遠祖天忍日命、帥來目部遠祖天※[木+患]津大來目、背負天磐靫、臂著稜威高鞆、手捉天梔弓天羽々矢、及副持八目鳴鏑、又帶頭槌劔、而立天孫之前遊行降來、至於日向襲之高千穗※[木+患]日二上峰天浮橋、而立於浮渚在平地、※[旅/肉]宍空國自頓丘覓國行去、到於吾田長屋笠狹之御碕。日向國風土記云。天津彦彦火瓊瓊杵尊、離天磐座排天八重雲、稜威道別道別而天降於日向之高千穗二上之峰。時天暗冥晝夜不別、人物失道、物色難別、於茲有土蜘蛛、名曰大※[金+耳]小※[金+耳]。二人奏言皇孫尊、以尊御手拔稻千|穗爲籾、投散四方、得開晴。于時如大※[金+耳]等所奏、拔稻千穗爲籾投散四方、即天開晴日月照光。因曰高千穗二上峯。後人改號知鋪。和名集云。臼杵郡智保。あもりしは、第三に天降とかけり。十三十九にもよめり。いはねさくみて、第二以下に見えたり。人をもやはし、催なり。はきゝよめつかへまつりて、以上、忍日命の神代の功勲なり。以下神武天皇の時の事をいへり。あきつしまやまとのくにのかしはらのうねひの宮に。神武紀云。戊午年春二月丁酉朔丁未、皇師遂東云々。己未年春三月辛酉朔丁卯、下令曰。〇觀夫畝傍山東南橿原地者、蓋國之墺區乎。可治之。是月、即命有司經始帝宅。〇辛酉年春正月庚辰朔、天皇即帝位於橿原宮。是歳爲天皇元年。故古語称之曰。於畝傍之橿原也、太立宮柱於底磐之根、峻峙榑風於高天之原、而始馭天下天皇、号曰神日本磐余彦火々出見天皇焉。初天皇草創天基之日也、大伴氏之遠祖道臣命、帥大來目部奉承密策、能以諷歌倒語、掃蕩妖氛。倒語用始起于茲。二年春二月甲辰朔乙巳、天皇定功行賞。賜道臣命宅地居于築坂邑、以寵異之。又上云。是時大伴氏之遠祖日臣命、帥大來目督將元戎、踏山啓行、乃尋烏所向、仰視而追之、遂達于菟田下縣、因号其所至之處曰菟田穿邑。【穿邑、此云于介知能務羅。】于時勅、譽日臣命日。汝忠而且勇、加能有導之功、是以改汝名爲道臣。つきてくる君のみよ/\、景行紀云。天皇則命吉備武彦与大伴武日連、令從日本武尊。又云。至甲斐國、居于酒折宮。則居是宮以靫部、賜大伴連之遠祖式日也。そのゝち大伴室屋大連、大伴金村連をはしめて、代々忠功の人相つゝけり。かくさはぬあかき心を、かくさふは、かくしさゝふるなり。第一に、心なき、雲の、かくさふへしやとよみ、第十一に、奥津藻をかくさふ浪とよめるに、ともに隱障とかけり。しかれはかくさはぬは、かくしさへぬなり。たゝしかくさぬといふを、古語の習にて、かくさはぬといへるにもあるへしときこゆ。あかき心は、長流かいはく、明なる心なり。ものゝふの野心なき心なりといへり。日本紀に朱心丹心とかきてきよきとよみ、又丹心をまことの心とよめり。黒心をきたなきこゝろとよめるに對しておもへは、赤心にや。あかき物はきよく見え、くろきものはきたなくみゆる事のおほけれは、黒心赤心なとはかけるなるへし。文選元瑜爲曹公作書与孫權曰。若能内取子布、外撃劉備、以效赤心、用復前好、則江表之任長以相付。又丘希範与陳伯之書曰。推赤心於天下、安反側於万物。すめらへは、すめろきのほとりになり。第十八に、おほきみの、へにこそしなめとよめるにおなし。うみのこの、子孫とかきて日本紀によめり。子々孫々は、うみのこのやそつゝきなり。かたりつきてゝは、かたりつきつゝなり。豆と※[氏/一]と五音通せり。聞人の鏡にせんを、貞觀政要云。以古爲鏡、可知興替。以人爲鏡、可知得失。おほろかは、上にあまたみえたり。おほかたにといはんかことし。むなこともは、むまこともにて孫共なり。麻と奈と同韵にて通せり。又空言もといへるにや。心は、空言はたはふれのまことなき言なれは、たはふれのことはにて、先祖の名を立るなといふ心なり。またたつなは、斷絶せしむるなともきこゆ。ますらをのともは、ともからなり
 
4466 之奇志麻乃夜末等能久爾々安伎良氣伎名爾於布等毛能乎巳許呂都刀米與《シキシマノヤマトノクニヽアキラケキナニオフトモノヲコヽロツトメヨ》
 
初、なにおふとものをこゝろつとめよ をこゝろ、雄心にてをのこ心なり
 
4467 都流藝多知伊與餘刀具倍之伊爾之敝由佐夜氣久於比弖伎爾之曾乃名曾《ツルキタトイヨヽトクヘシイニシヘユサヤケクオヒテキニシソノナソ》
 
彌|磨《トグ》ベシとは志をはげますべしといふなり、
 
初、つるきたちいよゝとくへし 第十三にも、つるきたち、ときし心を、天雲に、おもひちらしてとよめり。はけむをいへり。さやけくおひてきにしそのなそは、きよくおひきつるなり
 
右縁2淡海眞人三船讒言1、出雲守大伴古志悲宿禰解v任、是以家持作2此歌1也、
 
孝謙紀云、勝寶八歳五月癸亥、出雲國守從四位上大伴宿禰古慈斐、内竪淡海眞人三船、坐(セラレテ)d誹2謗朝廷1無c人臣之禮u、禁2於左右衛士府1、光仁紀云、寶龜八年八月丁酉、大和守從三位大伴宿禰古慈斐薨云云、俄遷2出雲守1、自v見2疎外1、意常欝々、紫微内相藤原仲満、(48)誣以v誹2謗朝廷1、左2降(ス)土佐守(ニ)1、此等は紀と今の注と相違せる事不審なり、三船の行状は桓武紀に詳なり、
 
初、淡海眞人三船 勝寶三年正月、賜無位御船王淡海眞人姓。勝寶八歳五月葵亥、出雲國守從四位上大伴宿祢古慈斐、内竪淡海眞人三船、坐誹謗朝廷無人臣之禮、禁於左右衛士府。丙寅、詔並放免 寶字四年正月癸亥朔癸未、尾張介正六位上淡海眞人三船爲山陰道使。五年正月、從五位下。同月、參河守。六年正月、文部大輔【式部。】八年八月、美作守。同九月、正五位上。神護二年二月、賜功田二十町。同九月丙子、爲東山道巡察使。神護景雲元年三月庚戌朔己巳、兵部大輔。六月癸未、勅。東山道巡察使正五位上行兵部大輔兼侍從勲三等淡海眞人三船、稟性總慧、兼明文史。應選標擧、※[行の中に含]命巡察。諸使向道之時、受事維一、有省還報之日、政路漸異、存心名達、※[手偏+僉]括酷苛。以下野國々司等正税未納并雜官物中有犯、然獨禁前介外從五位下弓削宿祢薩摩、不預釐務。亦赦後斷罪、此陳巧辯。其理不安、既乖公平。宜解見任、用懲將來。八月、太宰少貳。寶龜二年七月、刑部大輔。三年四月、大學頭正五位上淡海眞人三船爲兼文章博士。八年正月、大判事。九年二月、大學頭、文章博士如故、十一年二月、從四位下。天應元年十月、爲大學頭。延暦元年八月、兼因幡守。三年四月、刑部大輔、大學頭因幡守如故。四年七月庚戌、刑部卿從四位下兼因幡守淡海眞人三船卒。三船大友親王之曾孫也。祖葛野王正四位上式部卿、父池邊王從五位上内匠頭。三船性識總敏、渉覽群書、尤好華札。寶字元年、賜姓淡海眞人、起家拜式部少丞。累遷、寶字中、授從五位下。歴式部少輔參河美作守。八年、被充造池使、往近江國修造陂池。時惠美仲麻呂適自宇治走據近江、先遣使者調發兵馬。三船在勢田、与使列官佐伯宿祢三野、共捉縛賊使及同惡之徒。尋將軍日下部宿祢子麻呂、佐伯宿祢伊連治等、率數百騎而至、燒斷勢多橋。以故賊不得渡江、奔高鳴郡。以功授正五位上勲三等、除近江介。遷中務大輔兼侍從、尋補東山道巡察使。出而採訪、事畢復奏、昇降不慥、頗乖朝旨。有勅譴責之、出爲太宰少式、遷刑部大輔、歴大判事大學頭兼文章博士。寶龜末、授從四位下、拜刑部卿兼因幡守。卒時年六十四
孝謙紀によれは、勝寶八歳五月に、古慈悲も三船も、共に罪有て、左右衛士府に禁せらると見えたるを、こゝにはいかて三船の讒言にて古慈悲は任を解るとかゝれけん、知かたし
 
臥v病悲2無常1欲v修v道作歌二首
 
4468 宇都世美波加受奈吉身奈利夜麻加波乃佐夜氣吉見都都美知乎多豆禰奈《ウツセミハカスナキミナリヤマカハノサヤケキミツヽミチヲタツネナ》
 
初、うつせみは數なき身なり 第十七にも、此二句有。山川のさやけきみつゝとは、本性清淨の理にたとへたり
 
4469 和多流日能加氣爾伎保比弖多豆禰弖奈伎欲吉曾能美知末多母安波無多米《ワタルヒノカケニキホヒテタツネテナキヨキソノミチマタモアハムタメ》
 
南史云、陶侃云、大禹之聖人而惜2寸陰2、至(テ)2於凡人1可v惜2分陰1、落句は生々の値遇を願ふなり、
 
初、わたる日の影にきほひて 南史云。陶侃云。大禹之聖人而惜寸陰。至於凡人、可惜分陰。又もあはんためは、生々世々値遇せんことを願へり。人身難得、佛法難遭
 
願v壽作歌一首
 
4470 美都煩奈須可禮流身曾等波之禮禮抒母奈保之禰可比都(49)知等世能伊乃知乎《ミツホナスカレルミソトハシレヽトモナホシネカヒツチトセノイノチヲ》
 
禰可比都、【幽齋本、可作v我、】
 
ミツボナスは水壺成《ミツボナス》にてうたかたの如き身と云なり、和名集云、淮南子註云、沫雨雨2潦上沫起若2覆盆1、【和名宇太加太、】古事記云、其|海水之都夫多都《ウシホノツフタツ》時、謂2都夫多都《ツフタツ》御魂1、第四句の之は助語なり、
 
初、みつほなすかれる身そとは みつほは、うたかたなり。十喩の中の浮泡もこれなり。うたかたの水のうへにうけるか、壺のことくなれは、みつほとはいへり。かれる身は、借有身にて、四大假和合をいへり。第三に、うつせみのかれる命とよめり。第五に、山上憶良
  みなはなすもろきいのちもたくなはのちひろにもかとねかひくらしつ
今は此哥のおなし心をよまれたるなり
 
以前歌六首六月十七日大伴宿爾家持作
 
冬十一月五日夜、少雷起鳴、雪落覆v庭、忽懷2感憐1聊作短歌一首
 
4471 氣能已里能由伎爾安倍弖流安之比奇乃夜麻多知婆奈乎都刀爾通彌許奈《ケノコリノユキニアヘテルアシヒキノヤマタチハナヲツトニツミコナ》
 
初句は消遺《ケノコリ》ノなり、アヘテルは相映《アヒテル》なり、落句は家裹に摘來むなと云なり、六帖に山(50)橘の歌に入れて雪にあひたるあしびきの山橘をつとにつめらなと改たり、
 
初、けのこりの雪にあへてる けのこりは、消のこりなり。あへてるは、雪に和しててるなり。又あひてるともきこゆ。第十九にも
  此雪のけのこる時にいさかへな山たちはなの實のてるもみん
 
右一首兵部少輔大伴宿禰家持
 
八日讃岐守安宿王等集2於出雪〓安宿奈杼麿之家1宴歌二首
 
稱徳紀云、天平神護元年正月百濟(ノ)安宿(ノ)公奈登麻呂授2外從五位下(ヲ)1、
 
初、出雲橡安宿奈抒麿 雲誤作雪。称徳紀云。天平神護元年正月、百濟安宿公奈登麻呂授外從五位下
 
4472 於保吉美乃美許登加之古美於保乃宇良乎曾我比爾美都々美也古敝能保流《オホキミノミコトカシコミオホノウラヲソカヒニミツヽミヤコヘノホル》
 
初、おほのうらを 出雲にあり。和名集云。意宇【於宇】郡。意宇郡は府なり。第三に、おうの海のかはらのちとりといふには、飫海とかき、第四に、おうのうみの塩干のかたといふには、飫宇能海とかきて、いつれもみな於宇なるを、今於保の宇良とかけるは、此類みな通する故なり
 
右〓古宿奈杼麿
 
右の下に一首の二字落たる歟、古は誤れり安に作るべし、
 
初、右橡安宿 右の下に、一首をおとせり。安誤作古
 
4473 宇知比左須美也古乃比等爾都氣麻久波美之比乃其等久(51)安里等都氣巳曾《ウチヒサスミヤコノヒトニツケマクハミシヒノコトクアリトツケコソ》
 
岑參詩云、憑v君傳語報2平安1、
 
初、見しひのことく有と 岑參詩云。馬上相逢無紙筆、馮君傳語報平安
 
右一首守山背王歌也、主人安宿奈杼麿語云、奈抒麿被v差2朝集使1、擬v入2京師1、因v此餞之日、各作2此歌1聊陳2所心1也、
 
聖武紀云、天平十八年九月從四位下山背王爲2右大舍人頭1、今按出雲守山背王と有けむ出雲の二字落たるか、寶字元年七月辛亥從三位、
 
初、山背王 天平十八年九月、從四位下山背王爲右舍人頭。寶字元年五月、從四位上。同六月、但馬守。同月辛亥、從三位。六年十二月乙巳朔、從三位藤原弟貞爲參議。七年十月丙戌、參議禮部卿從三位藤原朝臣弟貞薨。弟貞者平城朝左大臣正二位長屋王子也。天平元年、長屋王有罪自盡。其男從四位下膳夫王、無位桑田王、葛木王、鉤取王皆※[糸+至]。時安宿王、黄文王、山背王、并女教勝復合從坐、以藤原太政大臣之女所生、特賜不死。勝寶八歳、安宿、黄文謀反。山背王陰上其變。高野天皇嘉之、賜姓藤原、名曰弟貞
 
 
4474 武良等里乃安佐太知伊爾之伎美我宇倍波左夜加爾伎吉都於毛比之其等久《ムラトリノアサタチイニシキミカウヘハサヤカニキヽツオモヒシコトク》 一云|於毛比之母乃乎《オモヒシモノヲ》
 
初、むら鳥の朝立いにし むら鳥の朝立、上にあまたよめり。さやかにきゝつとは、むら鳥のたつには、羽音あれは、それによせていへるなり
 
右一首兵部少輔大伴宿禰家持後日追2和出雲守山背王歌1作v之、
 
(52)二十三日集2於式部少〓大伴宿禰池主之宅1飲宴1歌二首
 
〓は丞に作るべし、
 
初、式部少丞池主 丞誤作椽
 
4475 波都由伎波知敝爾布里之家故非之久能於保加流和禮波美都都之努波牟《ハツユキハチヘニフリシケコヒシクノオホカルワレハミツヽシノハム》
 
第十云、沫雪千里零敷《アワユキハチサトフリシケ》、戀爲來食永我見偲《コヒシクノケナガキワレハミツヽシノバム》、今の歌此に似たり、
 
4476 於久夜麻能之伎美我波奈能其等也之久之久伎美爾故非和多利奈無《オクヤマノシキミカハナノナノコトヤシクシクキミニハコヒワタリナム》
 
其等也、【官本、其上有2奈能二字1、點云、ナノコトヤ、六帖亦同v此、】
 
今の本第三句奈能の二字を落せり、シキミガハナは和名集云、唐韻云、樒、【音蜜、漢語抄云、之岐美、】
 
香木也、花とはやがて樒を云へり、其故は春に至りては白き花の咲なれど此歌十一月二十三日によまるれば花を讀べきにあらず、しきみの名を承てシク/\とつゞけたるも常葉《トコハ》なる意をこめたり、六帖にはしきみの歌とす、
 
初、おくやまのしきみか花のことや 花のといふ下に、字おちたり。其字ふたつありて、上は訓下は音にて、そのことやなとにて侍りけん。樒も春にいたりて白ろくてちひさき花は咲侍れと、これは十一月二十三日の哥にて、しく/\君にこひわたりなんといへるは、つねにやこひわたらんといふ心なれは、しきみの葉のときはなるを、花とはよめりときこゆ
 
(53)右二首兵部大丞大原眞人今城
 
智努女王卒後、圓方女王悲傷作歌一首
 
元正紀云、養老七年正月|智努《チノ》女王授2從四位下1、聖武紀云、神龜元年二月從三位、此は智努王の姉などにや、智努王は茅野王とも書たれば今も此に准らふべし、今按既に三位に叙せられたるを卒とかけるは誤なる歟、又按ずるに從四位上の階を經ずして次の年從三位に叙せられむ事は有がたかるべければ却て紀の誤れる歟、或は紀の傳寫の誤なるべし、圓方女王は聖武紀云、天平九年十月庚申從五位下圓方女王授2從四位下1、廢帝紀云、寶字七年正月甲辰朔壬子正四位上、八年十月從三位、稱コ紀云、神護景雲二年正月丙午朔壬子正三位、光仁紀云、寶龜五年十二月丁亥正三位圓方女王薨、平城朝左大臣從一位長屋王之女也、
 
初、智努女王 養老七年正月、從四位下。神龜元年二月、從三位
圓方女王 天平九年十月庚申、從五位下圓方女王授從四位下。寶字七年正月甲辰朔壬子、正四位上。八年十月、從三位。神護景雲二年正月丙午朔壬子、正三位。寶龜五年十二月丁亥、正三位圓方女王薨。平城朝左大臣從一位長屋王之女也
 
4477 由布義理爾知杼里乃奈吉志佐保治乎婆安良之也之弖牟美流與之乎奈美《ユフキリニチトリノナキシサホチヲハアラシヤシテムミルヨシヲナミ》
 
(54)大原櫻井眞人行2佐保川邊1之時作歌一首
 
聖武紀云、天平十六年二月丙申大藏卿從四位下大原(ノ)眞人櫻井(ノ)大輔云云、第八に遠江守櫻井王とありし人なり、
 
初、大原櫻井眞人 續日本紀第十五云。大藏卿從四位下大原眞人櫻井太輔。第八に、遠江守櫻井王奉 天皇哥一首とて、御かへしもありし、その王なり
 
4478 佐保河波爾許保里和多禮流宇須良婢乃宇須伎許巳呂乎和我於毛波奈久爾《サホカハニコホリワタレルウスラヒノウスキコヽロヲワカオモハナクニ》
 
ウスラヒは薄氷《ウスラヒ》なり、和名集云、氷、四聲字苑云、水寒凍結也、筆凌反【和名比、又、古保利、】齋宮女御集にもうすらひに閉たる冬の鶯は音なふ春の風をこそまて、曾丹が集にうすくなるをうすれてともよめり、薄きをうすらとは俗にも云詞なり、抽中抄に此歌を出して顯昭云、うすらひとは薄氷と云か、但上の詞に氷わたれると讀たれば別物と聞ゆ、唯薄しと云詞にうすらひと云也、はだれと云詞はまだらと云事なればはだれ雪とこそ申を、はだれとのみも讀たればうすき氷をうすらひと云歟とも思ひぬべし、古き物にはうすらひとは氷を云と侍り、今云うすき氷あしからぬにや、又云うすらひのひ〔右○〕の字は氷とも云ひつべし、されど氷とはかかで婢とかけり、あやし、以上顯昭の(55)説あまりの事なり、風と嵐とは同じ物なるを嵐の風ともよみ松風の今はあらしとなるぞ侘しきともよみたれば假令凍る氷《コホリ》と讀とも苦しからじ、况や凍渡れると云こほりは用の詞にてうすらひは體にして詞も替りたれば何の憚る事あらむ、又此つゞきは皆假名に書たれば氷を婢とかけるりう事怪しからず、今少心を著られざる事惜むべし、此歌を六帖に橋の歌に入れ又樋の歌とせる事尤不審なり、
 
藤原夫人歌一首 【淨御原宮御宇天皇之夫人也、字曰2氷上大刀自1也、】
 
天武紀下云、又夫人藤原大臣女氷上娘、生2但馬皇女1、十一年春正月乙未朔壬子氷上夫人|薨《ミウセヌ》2于宮中(ニ)1、辛酉葬2氷上夫人(ヲ)於赤穗(ニ)1、
 
初、藤原夫人歌 注云。氷上大刀自。天武紀下云。又夫人藤原大臣女氷上娘生但馬皇女。十一年春正月乙未朔壬子、氷上夫人薨于宮中
 
4479 安佐欲比爾禰能未之奈氣婆夜伎多知能刀其巳呂毛安禮波於母比加禰都毛《アサヨヒニネノミシナケハヤキタチノトコヽロモアレハオモヒカネツモ》
 
第二句のし〔右○〕は助語なり、燒太刀は利情《トゴコロ》と云はむためなり、此歌相聞哀傷の間知がたし、
 
4480 可之故伎也安米乃美加度乎可氣都禮婆禰能未之奈加由(55)安左欲比爾之弖《カシコキヤアメノミカトヲカケツレハネノミシナカユアサヨニシテ》 作者未v詳
 
安左欲比、【官本、左或作v佐、】
 
天の帝と申す事古今集に犬上のとこの山なるとよませ給へるを天智天皇と云ひ六帖には此集の聖武天皇の御歌を二首まであめのみかどとかけり、天智天皇ならば申に及ばず聖武天皇も今年五月に隱れさせ給ひつれば、かけつればと申し奉るまじきにあらず、當時の事ながら作者を尋究めずば詳ならぬ事もあるべければ彌何れとわきがたし、今按此歌におきては聖武天皇なるべき歟、天智天皇ならば近江天皇崩御之時歌一首と端作をして歌の後に今の如く注すべし、然らざれば當時の歌かとおぼえたり、又思ふに天の帝とは天智天皇を別て申さむは天命開《アメミコトヒラカスワケ》天皇と申に付ても、天智天皇と申し奉る謚《オクリナ》に付ても然るべし、六帖に聖武天皇を申奉れるは此集に天皇とのみあるを意得損じてかけりと見ゆれば證とすべからず、然らば今の歌に申奉るを聖武天皇の御事ならむと云をば自語相違せりと難ずべき歟、然はあらず、六帖は本より別名とし今は何れの帝をも申べき中に當時の事なれば聖武天皇を申し奉るべしと云にて其意替れり、第四句のし〔右○〕は助語なり、
 
初、かしこきやあめのみかとを あめのみかとは、天智天皇なり。天命開別天皇といひ、御謚は天智にてましませはなり。古今集にもあめのみかとゝはいへり。朝夕といふ事も天につけることなれは、天のみかとをこひたてまつるゆへに、朝夕ねをなかぬ時なしとなり。崩御の後の哥なり
 
(57)右件四首傳讀兵部大丞大原今城
 
是も池主にての宴の時なるべし、
 
三月四日於2兵部大丞大原眞人今城之宅1宴歌一首
 
今按、下に勝寶九歳と云へる四字は傳寫の時誤て此處より彼處へ移せるなるべし、
 
4481 安之比奇能夜都乎乃都婆吉都良都良爾美等母安可米也宇惠弖家流伎美《アシヒキノヤツヲノツハキツラツラニミトモアカメヤウヱテケルキミ》
 
腰句は第一に巨勢山のつら/\椿つら/\にと云を取用られたり、ミトモは見るともなり、落句は植たる君と共に見るとも飽時あらじとなり、六帖に椿の歌とせり、
 
初、あしひきのやつをのつはき 第十九にも、あしひきのやつをの椿つはらかにと、おなし家持の哥に有。つら/\にとつゝけたるは、つはきのつらなりおひたるを、第一卷に、つら/\つはきつら/\にとよめる心なり。椿によそへて、うゆる人をつら/\みるともあかしとなり
 
右兵部少輔大伴家持屬2植椿1作
 
4482 保里延故要等保伎佐刀麻弖於久利家流伎美我許巳呂波(58)和須良由麻之目《ホリエコエトホキサトマテオクリケルキミカコヽロハワスラユマシメ》
 
和須良由麻之目、【幽齋本點云、ワスラユマシモ、】
 
堀江を越て遠き里までとは今の尼崎あたりまでも送けるなるべし、落句の點誤れり、ワスラユマジモと讀べし忘らるまじなり、
 
初、ほりえこえとほきさとまて 播磨介にて下るを、尼崎兵庫なとまてもおくりけるにや。わすらゆましもは、わすらるましなり
 
右一首播磨介藤原朝臣執弓赴v任悲v別也、主人大原今城傳讀云爾、
 
孝謙紀云、寶字元年五月正六位上藤原朝臣執弓授2從五位下1、別の下に歌の字落たるべし、
 
初、藤原執弓 寶字元年五月、正六位上藤原朝臣執弓授從五位下
 悲別也 別の下に、歌の字脱たるなるへし
 
勝寶九歳六月二十三日於2大監物三形王之宅1宴歌一首
 
孝謙紀云、勝寶元年四月庚午朔丁未授2無暗い三形王(ニ)從五位下1、光仁紀云、寶龜五年正月辛丑朔丁未從五位下三方王授2從五位上1、桓武紀云、延暦元年閏正月從四位下三方王爲2日向介1、以v黨2川繼1也、三月戊申從四位下三方王、正五位下山上朝臣船主、正五(59)位上弓削女王等三人、坐(セラル)2同(シク)謀魘未2魅(スルニ)乘輿1、詔|減《オトシテ》2死一等1、三方弓削並(ニ)配(ス)2日向國1、【弓削(ハ)三方之妻也、】船主配2隱岐國1、自餘《コレヨリ》與黨亦據v法(ニ)處v之(ヲ)、
 
初、三形王 勝寶元年四月庚午朔丁未、授無位三形王從五位下。寶字三年六月、從四位下。七月、木工頭。寶亀五年正月辛丑朔丁未、從五位下三方王授從五位上。延暦三年閏正月、從四位下三方王爲日向介。以黨川繼也。三月戊申、從四位下三方王、正五位下山上朝臣船主、正五位上弓削女王等三人、坐同謀魘魅乘輿、詔減死一等、三方弓削並配日向國。【弓削、三方之妻也。】船主配隱岐國。自餘与黨亦據法處之
 
4483 宇都里由久時見其登爾許巳呂伊多久牟可之能比等之於毛保由流加母《ウツリユクトキミルコトニコヽロイタクムカシノヒトシオモホユルカモ》
 
比等之、【官本云、ヒトノ、】
 
昔ノ人は指ところ有べし、之は助語なり、
 
初、うつりゆく時みることに これは三形王の父のおほきみ、たれとはしられねと、家持の得意にてかくはよまれたるなるへし
 
右兵部大輔大伴宿禰家持作
 
考課紀云、勝寶九歳六月壬辰爲2兵部大輔(ト)1、
 
4484 佐久波奈波宇都呂布等伎安里安之比奇乃夜麻須我乃禰之奈我久波安利家里《サクハナハウツロフトキアリアシヒキノヤマスカノネシナカクハアリケリ》
 
等伎安里、【官本、或、里作v利】
 
(60)初の二句は今年六月事ありて繁華の人々多く死刑流罪にあはれければ、それによそへて悲しみて下句は事もなき身を樂しまるる意なるべし、第四句の之は助語なり、
 
右一首大伴宿禰家持悲2怜物色變化1作之也、
 
4485 時花伊夜米豆良之母加久之許曾賣之安伎良米晩阿伎多都其等爾《トキノハナイヤメツラシモカクシコソメシアキラメヽアキタツコトニ》
 
賣之安伎良米晩、【官本、或、晩作v免】
 
カクシコソのし〔右○〕は助語なり、秋は司召あれば才徳ある者秋草の花の如くさま/”\なるを能の堪たるに任せて用させ給はむ事を願ひてよそへて讀れたるにや、晩は免に作るべし、
 
初、めしあきらめる これは君の、臣の才をえらひわけたまはんこと、花のいろ/\を、それ/\に愛することくならんことをねかひてよめるにや。晩は免の字にや
 
右一首大伴宿禰家持作v之
 
天平寶字元年十一月十八日於2内裏1肆宴哥二首
 
(61)孝謙紀云、勝寶九歳八月己丑駿河國|益頭《マシツ》郡(ノ)人金刺舍人麻自獻(レリ)2蚕産(テ)成(スヲ)1v字(ヲ)、其文云、五月八日開下帝釋標知天皇命百年、八月十八日改爲2天平寶字元年1、
 
初、天平寶字元年 勝寶九歳八月己丑、駿河國益頭郡人金刺舎人麻自献蚕産成字。其文云。五月八日開下帝釈標知天皇命百年。八月十八日、改天平寶字元年。紀には此宴をしるさす
 
4486 天地乎弖良須日月乃極奈久阿流倍伎母能乎奈爾加於毛波牟《アメツチヲテラスヒツキノキハミナクアルヘキモノヲナニカオモハム》
 
日月能、【幽齋本、能作v乃、】  奈爾加、【幽齋本、爾下有v乎、點云、ナニヲカ、】
 
極はキハミと讀べし、集中の例なり、古語なるべし、落句は第一に御名部皇女の吾大王物莫御念《ワガオホキミモノナオモホシ》とよませたまへる意なり、是今年騷勤の事有し故なるべし、
 
初、あめつちをてらす日月の なにかおもはんとは、何をかおほつかなくおもはんとなり。第一に三名部皇女、元明天皇の大甞會の御哥のかへしによませたまへる哥
 
右一首皇太子御歌
 
孝謙紀云、寶字元年夏四月辛巳立2大炊王1爲2皇太子1、二年八月庚子朔高野天皇禅(リタマフ)位於皇太子1、太子諱(ハ)大炊(ノ)王、一品舍人親王之第七子也、母|當麻《タイマ》氏、名曰2山背1、上總守從五位上老(ガ)之女也、淡路公と成たまひし廢帝の御事也、
 
初、皇太子 廢帝なり。天平寶字元年夏四月辛巳、立大炊王爲皇太子。二年八月庚子朔、高野天皇禅位於皇太子。太子諱大炊王、一品舎人親王之第七子也。母當麻氏、名曰山背。上總守從五位上老之女也
 
4487 伊射子等毛多波和射奈世曾天地能加多米之久爾曾夜麻(62)登之麻禰波《イサコトモタハワサナセソアメツチノカタメシクニソヤマトシマネハ》
 
タハワザは戯行なり、イザコドモとは騒動の衆を指てなるべし、
 
初、いさこともたはわさなせそ たはふれわさなせそなり。これは惠美押勝の哥なれは、勝寶八年に橘奈良麿謀反の張本にて、事をなさんとせられけるに、あらはれておほくの人配流死刑等にあへるを、おもひてよまれけるなり。押勝は此比のきり人にて、手をあふれはあつき威勢あるのみならす、奈良丸をはしめて、皆此人の妬ふかく人をおとし入らるゝを、目にたてゝ事をもくはたてられけれは、やまとしまねはうはへにて、下はみつからの事をこめられけるなるへし
 
右一首内相藤原朝臣奏v之
 
孝謙紀云、寶字元年五月丁卯以2大納言從二位藤原朝臣仲麻呂爲2紫微内相(ト)1云云、詔曰、朕覽2周禮1將相殊v道、政有2文武1、理宜(ク)v然、是以、新令之外、則亦置2紫微内相一人1令v掌2内外諸(ノ)兵事1、其官位禄賜職分雜物者皆准2大臣(ニ)1、
 
初、内相藤原朝臣 孝謙紀云。寶字元年五月丁卯、以大納言從二位藤原朝臣仲麻呂爲紫微内相。〇詔曰。朕覽周禮、將相殊道、政有文武。理宜然。是以新令之外、則亦置紫微内相一人、令掌内外諸兵事。其官位禄賜職分雜物者皆准大臣
 
十二月十八日於2大監物三形王之宅1宴歌三首
 
4488 三雪布流布由波祁布能未※[(貝+貝)/鳥]之奈加牟春敞波安須爾之安流良之《ミユキフルフユハケフノミウクヒスノナカムハルヘハアスニシアルラシ》
 
アスニシのし〔右○〕は助語なり、十九日立春にて有けるなるべし、下の二十三日の歌を合せて見るべし、
 
初、みゆきふる冬はけふのみ 十二月十八日に、冬はけふのみといへるは、十九日、立春なりけるなるへし。下に同廿三日に、家持のよまれたる哥に、いよ/\あきらかなり
 
(63)右一首主人三形王
 
4489 宇知奈婢久波流乎知可美加奴婆玉乃已與比能都久欲可須美多流良牟《ウチナヒクハルヲチカミカヌハタマノコヨヒノツクヨカスミタルラム》
 
此歌の春ヲ近ミカとあるは明日の立春の節なり、さるに今夜ノ月夜カスミタルラムとよまのたればまして元日の近からむには霞む由、意を得ては今も讀ぬべし、
 
初、うちなひく春をちかみか 第十に
  鶯の春になるらしかすか山かすみたなひくよめにみれとも
 
右一首大藏大輔甘南傭伊香眞人
 
聖武紀云、天平十八年四月癸卯授2無位伊香王從五位下1、孝謙紀云、勝寶元年七月申午從五位上、三年十月丙辰從五位上伊香王(ト)男高城王(トニ)賜2甘南備眞人姓1、今按此紀の文に據に今は倒なる歟、光仁紀云、寶龜三年正月正五位下、八年正月正五位上、中問處々に見えたり、此外甘南備眞人の姓を賜へる人は聖武紀云、天平十二年九月己丑從五位下神前(ノ)王賜2姓廿南備眞人1、補2攝津亮(ニ)1、孝謙紀云、勝寶三年正月賜2文成王(ニ)廿南備眞人姓(ヲ)1、
 
初、甘南備伊香眞人 天平十八年四月癸卯、授無位伊香王從五位下。同八月、雅樂頭。勝寶元年七月甲午、從五位上。五年十月、從五位上甘南備眞人伊香爲美作介。七年正月、備前守。八年正月、主税頭。神護景雲二年閏六月乙巳、越中守。寶亀三年正月壬午朔甲申、正五位下。八年正月、正五位上。孝謙紀云。勝寶三年十月、從五位上伊香王男高城王賜甘南備眞人姓。これは孝諌紀のあやまりにや。此集は當時の事を家持のしるされたるに、甘南備伊香眞人とあれは、其男高城王はおのつから甘南備なるへきことはりなり。高城王に賜はりたらんをは、いかてか伊香王には甘南備眞人とかゝるへき。聖武紀云。天平十二年九月己丑、從五位下神前王賜姓廿南備眞人、補攝津亮。これは別人なり。孝謙紀云。勝寶三年正月、賜文成王廿南備眞人姓。これは此集第六卷に歌一首ある人なり。橘奈良麻呂男なり
 
(64)4490 安良多末能等之由伎我敝理波流多多婆末豆和我夜度爾宇具比須波奈家《アラタマノトシユキカヘリハルタヽハマツワカヤトニウクヒスハナケ》
 
六帖にしはすの歌とす、又鶯の歌に入れたるにはまづうぐひすは我宿になけとあり、
 
右一首右中弁大伴宿禰家持
 
右中辨と成られたる事、紀に漏たれば年月を知らずと云へども今年夏までの歌には兵部少輔同大輔と云ひ、秋の歌には氏姓をのみ記されたれば冬に成て轉任せられけるなるべし、
 
4491 於保吉宇美能美奈曾已布可久於毛比都々毛婢伎奈良之思須我波良能佐刀《オホキウミノミナソコフカクオモヒツヽモヒキナラシヽスカハラノサト》
 
和名集云、溟渤、【冥勃二音、和名、於保岐宇三、】見(タリ)2日本紀1也、初の一句半は深ク思ヒツヽと云はむためなり、モヒキナラシヽは裳引穢《モヒキナラ》しなり、スガハラノサトは延喜式神名帳云大和國添(65)下郡菅原神社、同諸陵式に菅原伏見東西陵あり、菅家の先祖は本は土師氏なりけるを居地に因て菅原姓を請て賜はりしも此里なり、宿奈麿の宅此處に有けるなるべし、歌の意はかくばかりあだなる人の心と知らずして大海の底の如く人を深く憑て菅原の里に裳引ならして通ひし事の悔しきとなり、清少納言に裳はおほうみしひらと云ひたれば古も此名ありておほきうみと云へるは裳によせても云へるにや、
 
初、おほきうみのみなそこ 和名集云。溟渤、冥勃二普。【和名於保岐宇三。】見日本紀也。もひきならしゝは、第十一に、あかもすそひきとも、くれなひのすそひく道ともよみ、此卷の上にも、をとめらか玉裳すそ引此庭にともよめり。菅原の里は、大和國なり。縁起式第九、神名帳下云。添下郡菅原神社。同諸陵式云。菅原伏見西陵【安康天皇。在添下郡。】哥の心は、かくはかりあたなる人の心をしらすして、おほうみのそこのことく、我もふかく人をおもひ、人の心をもふかくたのみて、菅原の里にもひきならして、ありかよひしことのくやしきとなり。清少約言に、もはおほうみ、しひらといひたれは、裳の処におほうみといふか有と見えたり。しかれはいにしへもその名ありて、おほきうみといへるは、裳によせてもいへる歟
 
右一首藤京宿奈麿朝臣之妻石川女郎、薄愛離別、悲恨作歌也、 年月未v詳、
 
第四に坂上郎女(ガ)怨恨歌、紀女郎怨悔(ノ)歌あり、
 
二十三日於2治部少輔大原今城眞人之宅1宴歌一首
 
4492 都奇餘米婆伊麻太冬奈里之可須我爾霞多奈婢久波流多知奴等可《ツキヨメハイマタフユナリシカスカニカスミタナヒクハルタチヌトカ》
 
(66)都奇、【官本、或奇作v棄、】
 
第十に雪みればいまだ冬なりともよめり、
 
右一首右中弁大伴宿禰家持作
 
二年春正月三日、召2侍從竪子王臣等1令v侍2於内裏之東屋垣下1、即賜2玉箒1肆宴、于v時内相藤原朝臣奉v勅、宣2諸王卿等1、隨v堪任v意作v歌并賦v詩、仍應2 詔旨1各陳2心緒1作v歌賦v詩、【未v得2諸人之賦詩并作歌1也、】
 
東屋は和名集云、唐令云、宮殿皆四阿、【和名、阿豆萬夜、】玉箒は第十六に注せしが如し、又抽中抄云、常の髓脳には玉帚とは※[草がんむり/耆]と云草也、田舍には其草を小松に取加へて正月初子の日こがひする屋をはけばほめて玉箒とは云なりと申たれは此萬葉集の歌も其心に叶へり、禁中まで翫たまへるもさる事にて正月三日の宴とあれば初子日にては有もしけむ云云、
 
初、内裏之東屋垣下 和名集云。唐令云。宮殿皆四阿【和名阿豆万夜】
 
(67)4493 始春乃波都禰乃家布能多麻婆波伎手爾等流可良爾由良久多麻能乎《ハツハルノハツネノケフノタマハヽキテニトルカラニユラクタマノヲ》
 
玉箒は第十六にわきまへ申つる如く玉は新に褒《ホメ》て添へたる詞にあらず本より褒《ホメ》て付たる草の名なり、帚は不淨塵を掃ふ具なれば外清ければ心も隨てきよまりて災を除く祝とも成ぬべし、落句は古事記云、其|御頸珠之玉緒母由良邇《ミクビタマノタマノヲモユラニ》【此四字以v音、下效v此、】取由良迦志而《トリユラカシテ》賜2天照大御神1而詔之云々、又古事記豊玉姫歌云、阿加陀麻波《アカダマハ》、袁佐閉比迦禮杼《アカタマハヲサヘヒカレド》云々、かかれば此詞上にも注しぬれど緒の字の添へる故に又注するなり、玉の透徹《スキトホリ》て緒もゆら/\とゆるぐやうなるを云べし、此歌新古今集に讀人不知とて入られたる心おぼつかなし、六帖には子日の歌に大伴家持とて載たり、
右一首右中弁大伴宿禰家持作、但依2大藏政1不v堪v奏v之也、
 
初、はつはるのはつねのけふの玉はゝき 詞書に即賜玉箒肆宴といへり。此玉はゝきにつきて、或説に、田舍にてこかひするものは、正月初子の日、蓍といふ草を箒にして、子の年のをんなこをして、蠶かふ屋をはかするなり。いはひてすることなれは、これをほめて玉はゝきとはいふなり。さてこれをはいはひのものにして、年のはしめに人も先とるものなれは、手にとるからに命のふるよしにはよめるなりといへり。俊頼朝臣ははゝきと申木に、子日の松を引具してはゝきに作りて、む月の初子の日飼屋をはくといへり。大かた同し義なり。又松を玉はゝきといふといへる説は、此哥によりて、おしあてに尺せり。題にも玉箒を賜りてよめりと有れは、松といふへからす。第十六に長忌寸意吉麻呂詠玉掃鎌天木香棗歌云
  玉はゝきかりこかまゝろむろの木となつめかもとをかきはかんため
此哥をみるに、題に玉掃とあれは、玉は後にほめてつけたる詞にあらす。はしめより玉はゝきといふ物なり。しかるをかりこ鎌まろといひたれは、玉箒といふ草の名としられたり。庭草といふ草を、俗にはゝき木となつけて、やかてはゝきにゆひてかきはくめれは、これにや、むろとなつめかもとをはかんといひつれは、子日にかきるにも、また飼屋をのみはく物にもあらす。只玉はゝきといふ草にてゆひたるはゝきなり。箒は塵をきよむるものなれは、忠貞をもて心をきよむべきことを表して賜へるか。おりもはつねなれは、初子のけふのとはよめるなるへし。かならす初子に用る具ならは、後に子日會をこなはるゝ時、もはら沙汰あるへきを、説々をいふにてしりぬ。只時にあたりて、興にたまへるなるへし。ゆらく玉の緒は、命のふることゝおしなへて申めれとも、手玉もゆらとよめる心に、箒をもてかきはくとて、手にかけたる玉のゆらめく故なるへし。玉といひてもしのたらねは、玉の緒とはそへたるなり。人には告よあまのつりふねといへるたくひなり。又もとより玉箒といふうへに、うるはしきさかりも有へけれは、手玉をからすとも、ゆらく玉のをとはいふへし
 
4494 水鳥乃可毛羽能伊呂乃青馬乎家布美流比等波可藝利奈之等伊布《ミツトリノカモノハイロノアヲウマヲケフミルヒトハカキリナシトイフ》
 
(68)可毛能羽能伊呂乃、【六帖云、カモノハイロノ、】  等伊布、【六帖云、テフ、】
 
初の二句は第八に紀女郎が春山のとつゞけたる如く青馬と云はむためなり、此白馬節會は天武天皇十年に始まれる由なり天武紀上云、廬井|鯨《クヂラ》乘2白《アヲ・アヲキ》馬1而以逃之、今の歌と此紀の文とに依れば白馬節會と云へど馬は青なり、此故に延喜式左右馬寮式云、凡正月七日青馬|籠頭※[金+庶]《オモハラケツハ》云々・凡青馬二十一疋自2十一月一日1至2正月七日1二寮半分飼v之、【一疋互飼、】云々、近衛式云、凡正月七日青馬〓近衛(ハ)云々、青きは春の色、馬(ハ)南方火畜にて陽獣なれば御覽ぜらるゝなるべし、江次第裏書云、御馬本數二十一匹者三七之義也、三陽之義(ノ)七日之義(ノ)由見(タリ)2寛平御記1、又禮誼を引て云迎2春東郊1以2青馬七匹1、今禮記を見るに此文なし、月令云、立春之日天子親|帥《ヒキヰテ》2三公九卿諸侯大夫1以迎(フ)2春(ヲ)於東郊1還反|賞《タマモノス》2公卿大夫於朝(ニ)1、此文を誤て暗記せるにや、土佐日記云、七日に成ぬ、同じ湊にあり.今日は白馬を思へどかひなし、唯浪の白きぞ見ゆる、平兼盛家集に降雪に色も替らで引物を誰青馬と名付始けむ、かかれば延喜天暦の比も白き馬を御覽ぜられたれば相違の故知がたし、往古は青馬なりけるを白馬とかけるに紛れて後には白き馬を用られければ土佐日記には當時あるやうを云ひ、式には猶古に准らへて青馬とかける歟、此日儀式江次第第二に詳なり、落句は壽考無疆なり、
 
初、水鳥の鴨の羽の色の 史記楚世家曰。秦魏燕趙者※[鳥+其]【小雁也。音其】雁也。魯韓衛者青也。【索隱曰。小鳧有青首者。】此集青頭※[奚+隹]とかきてかもとよめり。第八卷には、水鳥のかもの羽色の春山とも、水鳥の青羽の山ともつゝけよめり。鴨の頭の青けれは、つき草をも鴨頭草とかけり。青馬といはんとてかくはつゝけたり。さて白馬の節會は、天武天皇十年に始れりといへり。日本紀には載られす。白馬といふ名に誤て、後は白きを用らるゝ歟。此哥も鴨の羽色のといひたる、たしかに青と見えたる上、延喜式、左右馬寮式云。凡正月七日、青馬籠頭※[金+庶]云々。凡青馬二十疋、自十一月一日至正月七日、二寮半分飼之【一疋互飼】云々。近衛式云。凡正月七日、青馬〓近衛著云々。天武紀上云。是日三輪君高市麻呂、置始連兔、當上道戰于箸陵。大破近江軍、而乘勝、兼斷鯨軍之後。鯨軍悉解走、多殺士卒。鯨乘白馬而以逃之。和名集云。説文云。〓【音聰。漢語抄云、〓青馬也。】此中に白馬とかきてあをうまとはよみたれと、青馬とかきてしろうまとよむことなし。青きは春の色、馬は南方火畜にて陽獣なれは、青馬をは御覽せられるなるへし。節會の樣は、延喜式ならひに江次第々二、正月七日節會式につふさなり。かきりなしといふとは、よはひの無疆なり。白馬の事、土左日記云。七日になりぬ。同し湊にあり。けふは白馬をおもへとかひなし。たゝ波のしろきそみゆる。平兼盛家集に
  ふる雪に色もかはらて引ものをたれあをうまと名付そめけん
かゝれは延喜天暦の御時も、白き馬を用られたりと見ゆ。延喜式に青馬とのみある、相違心得かたし。長流かいはく。かものはの色はもとより青けれは、只青といふ詞とらんとていひかけたるなり。さて白きを青といふは別の心にあらす。白きものをかさぬれは、必青くなるなり。大空も白きかかさなりて翠と見え、水の白きかふかくたゝへて、青淵青海原とはいはるゝなり。人の色もあまり白きは、さをなるといへり。しかれは青馬とは申なり。寛平御記に、馬數三七廿一疋なり。是則三才にかたとるなり云々。今いはく。廬井鯨か馬は一疋にても白馬といひたれは、廿二疋引つゝくる故にといふもかなはす。しはらくこれをさしおくへし
 
(69)右一首爲2七日侍1v宴、右中弁大伴宿禰家持預作2此歌1、但依2仁王會事1、却以2六日1於2内裏1召2諸王卿等1、賜v酒肆宴給v禄、因v斯不v奏也、
 
六日内庭假植2樹木1以作2林惟1而爲2肆宴1歌一首
 
惟は帷に作るべし、江次第第二云、七日節會装束次第尋常(ノ)版《ヘム》位(ノ)南去(コト)三許丈構2立舞臺1、【不v作2音樂1之時不v立、】其上舗v薦加2兩面1置2鎭子《オモシヲ》1、其四角三面樹2梅柳(ヲ)1、其東西北面(ニハ)懸2亘|帽額《モカウヲ》1、【不v隱2鞆繪1】陸士衡招隱詩云、輕條象雲構、密葉成2翠幄1、梁簡文帝神山(ノ)碑銘云、引v葉成(シ)v帷|即《ツイテ》v樹爲v柱、秘府論云、唐崔氏十體第十|菁《セイ》華體例曲沼疎2秋葢1、長林卷(ク)2夏帷1、嵯峨天皇賜2玄賓法師1勅書云、春華織v錦對(ヲテ)v之陶v情、秋葉散v帷見v之忘(ル)v歸、本朝文粹第十二前中書王池亭記云、夏條爲v帷冬(ノ)冰(ヲ)爲v鏡、
 
初、六日内庭假植樹木以作林帷【帷誤作惟】江次第々二云。七日節會裝束次第云尋常版位南去三許丈、構立舞臺。【不作音樂之時不立。】其上舗薦加兩面置鎭子。其四角三面樹梅柳。其東西北面懸亘帽額。【不隱鞆繪。】文選、陸士衡招隱詩云。輕條象雲構、密葉成翠幄。梁簡文帝神山碑銘云。引葉成帷、即樹爲柱。文鏡秘府論云。唐崔氏十躰第十、菁華體例。曲沼疎秋葢、長林卷夏帷
 
4495 打奈婢久波流等毛之流久宇具比須波宇惠木之樹間乎奈(70)伎和多良奈牟《ウチナヒクハルトモシルクウクヒスハウヱキノコマヲナキワタラナム》
 
右一首右中辨大伴宿禰家持 不v秦
 
二月於2式部大輔中臣清麿朝臣之宅1宴歌十首
 
二月の下に某日と云事を落せるか、下に十日あれば其より此方なり、清麿朝臣の式部大輔と成給へる事紀には漏たり、
 
4496 宇良賣之久伎美波母安流加夜度乃烏梅能知利須具流麻?美之米受安利家流《ウラメシクキミハモアルカヤトノウメノチリスクルマテミシメスアリケル》
 
夜度乃烏梅能、【幽齋本能作v乃、】
 
第二句の母は助語にて加は哉なり、
 
右一首治部少輔大原今城眞人
 
(71)4497 美牟等伊波婆伊奈等伊波米也宇梅乃波奈知利須具流麻弖伎美我伎麻世波《ミムトイハヽイナトイハメヤウメノハナチリスクルマテキミカキマサヌ》
 
伎麻世波、【校本點云、キマサヌ、幽齋本、世波作2左奴1、點與2校本1同、】
 
落句今の本は發句に叶ひても聞えねば幽齋本然るべきか、是は右の歌の答《カヘシ》なり、
 
右一首主人中臣清麿朝臣
 
4498 波之伎余之家布能安路自波伊蘇麻都能都禰爾伊麻佐禰伊麻母美流其等《ハシキヨシケフノアロシハイソマツノツネニイマサネイマモミルコト》
 
アロジは路と流と同じ五音なればあるじなり、イソマツは下に池の白浪磯に寄せとよまれたれば池の磯松なり、
 
初、けふのあろし あろしはあるしなり。路と留と通す。いそまつは礒松なり。下の家持の哥に、池のしらなみいそによせとよめり。庭にほられたる池のみきはをいへり。海にも河にも池にも、いそとはよむなり。今もみることは、今みることくおもかはりせていませなり
 
右一首右中弁大伴宿禰家持
 
(72)4499 和我勢故之可久志伎許散婆安米都知乃可未乎許比能美奈我久等曾於毛布《ワカセコカヽクシキコサハアメツチノカミヲコヒノミナカクトソオモフ》
 
發句の之は音に讀べし、次句の志と共に助語なり、キコサバは許と加と通し散と世と通してきかせばなり、是も亦返しなり、
 
初、かくしきこさは かくきかせはなり。こひのみは、乞祷なり。上にもあまたよめる詞なり
 
右一首主人中臣清麿朝臣
 
4500 宇梅能波奈香乎加具波之美等保家抒母巳許呂母之努爾伎美乎之曾於毛布《ウメノハナカヲカクハシミトホケトモココロモシノニキミヲシソオモフ》
 
トホケドモは雖遠なり、主人のコの馨《カウバシキ》を梅を思ふによそへたり、結句の之は助語なり、
 
初、梅の花香をかくはしみとほけとも 遠けれともなり。此哥は、あるしの徳を梅になすらへてよめり。論語云。有朋自遠方來、不亦樂乎
 
右一首治部大輔市原王
 
(73)4501 夜知久佐能波奈波宇都呂布等伎波奈流麻都能左要太乎和禮波牟須婆奈《ヤチクサノハナハウツロフトキハナルマツノサエタヲワレハムスハナ》
 
初、やちくさの花は移ふ 第六に
  春草は後はかれやすしいはをなすときはにいませたふときわかきみ
此卷の上に、おなし家持
  さく花は移ろふ時ありあしひきの山すかのねし長くは有けり
松の枝を結ひていはふことは、第二に有間皇子の御哥あり。第六には家持の哥によまる。およそ玉むすひなとすることく、むすふは物をとゝむる心なり。今の世も社のあたりにある、むすはるへき草木なとをは、何となくむすひなれたるは、むかしのならはしの遺れるなるへし
 
右一首右中井大伴宿禰家持
 
4502 烏梅能波奈左伎知流波流能奈我伎比乎美禮杼母安加奴伊蘇爾母安流香母《ウメノハナサキチルハルノナカキヒヲミレトモアカヌイソニモアルカモ》
 
右一首大藏大輔甘南備伊香眞人
 
4503 伎美我伊敝能伊氣乃之良奈美伊蘇爾與世之婆之婆美等母安如無伎彌加毛《キミカイヘノイケノシラナミイソニヨセシハシハミトモアカムキミカモ》
 
浪を承てシバ/\と云へり、
 
初、君か家の池のしらなみ たへすよする浪をうけて、しは/\といへり。みともは、見るともなり
 
右一首右中弁大伴宿禰家持
 
(74)4504 宇流波之等阿我毛布伎美波伊也比家爾伎末勢和我世古多由流日奈之爾《ウルハシトアカモフキミハイヤヒケニキマセワカセコタユルヒナシニ》
 
腰句は彌日異《イヤヒケ》になり是も亦返しなり、
 
初、あかもふ君 わか思ふ君なり。いやひけには、弥日異にて、いよ/\日々にことになり
 
右一首主人中臣清麿朝臣
 
4505 伊蘇能宇良爾都禰欲比伎須牟乎之杼里能乎之伎安我未波伎美我末仁麻爾《イソノウラニツネヨヒキスムヲシトリノヲシキアカミハキミカマニマニ》
 
發句は磯の裏になり、第二句は常に妻や友を呼つれて來てすむなり、鴛を承て惜キとたゝめり、下句は第九にわくらはに成れる我身は死も生も君がまゝにと思ひつゝとよめる意なり、安我未波と云は我身なれどもの意なり、
 
初、いそのうらにつねよひきすむ 此いそのうらを、八雲御抄に、紀國の名所と載させたまへるは、よく考させ給はさりけるなり。礒の浦にて礒ある浦なり。池を海にいひなせるなり。つねよひきすむは、常に友をよひきて棲なり。友をさそひて、此清丸朝臣のもとへ常にきてあそふにたとへたり。をし鳥をうけて、をしきあかみといへり。をしと思ふ身を君かまに/\といふは、身をもてあるしに許すなり。第十六、仙女か哥に
  しにもいきもおなし心とむすひてし友やたかはん我もよりなん
第九の長哥に、ひとゝなる、ことはかたきを、わくらはに、なれるわか身は、しにもいきも、君かまゝにと、おもひつゝ、ありしあひたに云々。これらの心とおなし
 
右一首治部少輔大原今城眞人
 
(75)依v興各思2高圓離宮處1作歌五首
 
此離宮は聖武天皇の初て建させ給へる歟、各慕ひ奉る意なり、同日の歌なり、
 
初、各思高圓離宮處 これは同し日、聖武天皇の高円離宮を造りて、行幸せさせたまひしことをいひ出て、おの/\よまるゝなり。離宮處といへるは、離宮はこほたれての跡なるへし
 
4506 多加麻刀能努乃字倍能美也波安禮爾家里多多志伎々美能美與等保曾氣婆《タカマトノヽノウヘノミヤハアレニケリタヽシキキミノミヨトホソケハ》
 
多多志伎々美能、【官本作2多多志々伎美能1點云、タタシヽキミノ、】
 
第四句今の本は重點の倒に寫されて誤なり、タヽシヽキミノと讀べし、宮を立たまひし君のなり、又は第一に有たたし見したまへればとよめる如く此離宮に立たまひて遊覽したまふをも云べし、落句は神代遠退者《ミヨトホソケバ》にて御代の遠ざかりゆけばなり、次の今城の歌の意は此を和せられたるにて今の第四句官本に依べき事を知べし、政道の正《タヾ》しき君などとは意得べからず、
 
初、たゝしききみの 御立したまひし君なり。又離宮をたてたまひし君ともきこゆ。次の今城の哥は、これにかへしてよまれたりしと聞ゆるに、多々志々伎美とあるをおもふに、此哥も多々志々伎美にて有けるを、うつしあやまりて、志の字の下の重點を、伎の字の下につけたるにやとおほゆ。みよとほそきぬは、とほのきぬなり
 
右一首右中弁大伴宿爾家持
 
4507 多加麻刀能乎能宇倍乃美也波安禮奴等母多多志志伎美(76)能美奈和須禮米也《タカマトノヲノウヘノミヤハアレヌトモタヽシヽキミノミナワスレメヤ》
 
美也波、【幽齋本、波作v婆、】
 
初、たゝしゝ君のみなわすれめや 第二に人丸
  明日香川あすたにみんとおもへやも我大きみの御なわすれせぬ
 
右一首治部少輔今城眞人
 
輔の下に大原の二字を落せり、
 
初、右一首治部少輔 此下に、大原の二字をおとせり
 
4508 多可麻刀能努敝波布久受乃須惠都比爾知與爾和須禮牟和我於侠伎美加母《タカマトノヽヘハフクスノスエツヒニチヨニワスレムワカオホキミカモ》
 
葛は末遠く蔓《ハフ》物なればそれによせて末遂に忘れ奉らじとなり、
 
初、野へはふ葛の末つひに 葛は遠くはひゆく物なれは、未つひにとつゝけて、千代にわすれしとよまれたり
 
右一首主人中臣清麿朝臣
 
4509 波布久受能多要受之努波牟於保吉美乃賣之思野邊爾波之米由布倍之母《ハフクスノタエスシノハムオホキミノメシヽノヘニハシメユフヘシモ》
 
(77)第二句は句絶としてもつゞけても共に違ふべからず、落句は第十八に同じ、作者大伴の遠つ神祖《カムオヤ》のおくつきはしるくしめたて人の知べくとよまれたる下句の意なり、此歌も亦主人の歌の返しなり、
 
初、はふくすのたえすしのはん これまたかへしなり。しめゆふへしもは、しめゆひおきて、後のよまてつたへんとなり。第二に、天智天皇崩御のゝち、大殯の時の哥に
  かゝらんとかねて知せはおほみふねはてしとまりにしめゆはましを
第十九に、家持
  大件の遠つかむおやのおくつきはしるくしめたて人のしるへく
 
右一首右中弁大伴宿爾家持
 
4510 於保吉美乃都藝弖賣須良之多加麻刀能努敝美流其等爾禰能未之奈加由《オホキミノツキテメスラシタカマトノノヘミルコトニネノミシナカユ》
 
此宮にして仕へ奉りし事の有しが今も御靈《ミタマ》の召たまふにや野邊見る度毎に哭《ネ》の泣《ナカ》るゝはとなり、我心の先帝の御靈に通ふやうなるを相繼て召たまふらしとはよまれたるなり、
 
初、大きみのつきてめすらし 離宮の有し時、こゝにしてつかへたてまつりしことのありしか、今も御たまのめしたまふにや、野邊みることにねのなかるゝとなり。わか心の、天皇の御靈にかよふやうなるを、つゝきてめしたまふらしとはいへり
 
右一首大藏大輔甘南備伊香眞人
 
屬2目山齋1作歌三首
 
是も同日の事なり、山齋は築山の中の書齋なり、第三に帥大伴卿の故郷に歸(78)て亡妻を慕はるゝ歌にも與妹爲而二作之吾山齋者《イモトシテフタリツクリシワガシマハ》云云、此山齋を六帖にはやどとあり、官本にあしびと點ぜるは仙覺又誤を承たり、題は※[手偏+總の旁]を云ひ歌は山齋の中の別をよめりと意得べし、山齋といへども池をよみ第一の歌の第四句もあしびをのみ賞してはよまぬ意なり、
 
初、屬目山齋 これもおなし清麿朝臣の庭に、築山のありて、書斎をそのあひたにつくられたるを、見るにつけての哥ともなり。第三に、大納言旅人筑紫より歸りて、故郷の家に入て、つくしにてうしなはれし妻の、大伴郎女をおもひ出てよまれたる三首の哥の中に
  妹としてふたりつくりしわか山は木高くしけくなりにけるかも
此山といふに、今のことく山齋とかけり
 
4511 乎之能須牟伎美我許乃之麻家布美禮婆安之婢乃波奈毛左伎爾家流可母《ヲシノスムキミカコノシマケミレハアシヒノハナモサキニケルカモ》
 
アシビの花第七に既に見えたり、
 
初、あしひの花もさきにけるかも あしひはあせみなりといへと、此會の日題に脱たれとも、下の詞書に二月十日とあれは、十日よりさきなる比、あせみのさくへきにあらす。おほつかなし。勢と志とは五音通し、美と婢とは同韵なれは、あせみとは聞へやすし。さて此下の句の心は、第七卷に、あしひなすさかへし君とよめる心に、あしひの花も咲そひたれは、その花のことく、さかへまさんといはふ心なり
 
右一首大監物御方王
 
4512 伊氣美豆爾可氣左倍見要底佐伎爾保布安之婢乃波奈乎蘇弖爾古伎禮奈《イケミツニカケサヘミエテサキニホフアシヒノハナヲソテニコキレナ》
 
初、袖にこきれな 袖にこきいれんなゝり。上にあまたよめり
 
右一首右中辨大伴宿禰家持
 
(79)4513 伊蘇可氣乃美由流伊氣美豆?流麻?爾左家流安之婢乃知良麻久乎思母《イソカケノミユルイケミツテルマテニサケルアシヒノチラマクヲシモ》
 
イソカゲは磯影《イソカゲ》にて磯邊の影に見ゆるをも又|石影《イソカゲ》にて立石の影のうつるをも云べし、
 
右一首大藏大輔甘南備伊香眞人
 
二月十日於2内相宅1餞2渤海大使少野田守朝臣等1宴歌一首
 
渤海は戰國策云、北(ニ)有2渤海1、【幽州郡、補云、正義云、今滄州、】舊唐書列傳一百四十九(ノ)下云、渤海靺鞨大祚榮者本高麗別種也云云、其地在2營州之東二千里(ニ)1、南與2新羅1相接、越〓靺鞨東北至2黒水1、靺鞨地方二千里編戸十餘萬勝兵數萬人、風俗與2高麗及(ヒ)契丹1同、頗有2文字及書記1、新唐書列傳一百四十四云、渤海(ハ)本粟未靺鞨附2高麗1者姓(ハ)大氏、高麗滅、率v衆保2※[手偏+邑]婁(80)之東牟山地1亘(レリ)2營州(ノ)東二千里1、南比2新羅(ニ)1以2泥河1爲v境、東窮v海、西契丹云云、聖武紀云、神龜四年十二月丁亥、渤海郡王使高齊コ等八人入v京、丙申遣v使賜2高齊コ等衣服冠履1、渤海郡者舊高麗國也、淡海朝廷七年冬十月唐將李勣伐2滅高麗1、其(ノ)後朝貢久(ク)絶矣、至v是渤海郡王遣d2寧遠將軍高仁義等廿四人1朝聘u、而著2蝦夷境1、仁義以下十六人並被2殺害1、首領齊徳等八人僅免v死而來、光仁紀云、寶龜二年六月壬午渤海國(ノ)使青綬大夫壹萬福等三百廿五人、駕2船十七隻1、著2出羽國賊地野代湊1、【來年入朝、庁】四年六月能登國言、渤海國使烏須弗等、乘2船一艘1來2著部下1、性靈集第五爲2藤大使(ガ)與2渤海王子1書【在v唐作、】云、渤海日本地分2南北1人阻2天池1、然而善v隣結v義、相貴通v聘、往古來今、斯道豈息、本朝文粹第七寛平法皇賜2渤海裴遡1書云、徒想2風姿1北望増(ス)v戀(ヲ)、孝謙紀に寶字二年に使を渤海に遣はさるる事漏たり、然も云、九月丁亥小野朝臣田守等至v自2渤海1、大使輔國大將軍兼將軍行木底州刺史兼兵署少正開國公楊承度已下二十三人隨2田守1來朝、便於2越前國1安置、十月丁卯授2遣渤海大使從五位下小野朝臣田守(ニ)從五位上1、十二月戊申遣渤海使小野朝臣田守等奏2唐國消息1曰云云、勝寶五年二月辛巳以2從五位下小野朝臣田守1爲2新羅大使1、兩度までかかる大使を承て皇華の美を果されたれば、其人知ぬべし、六年四月太宰少貳、寶字元年六月刑部少輔、
 
初、渤海大使 舊唐書、列傳一百四十九下曰。渤海靺鞨大祚榮者、本高麗別種也。〇其地在營州之東二千里、南与新羅相接。越〓靺鞨東北至黒水。靺鞨地方二千里、編戸十餘萬、勝兵數萬人、風俗与高麗及契丹同。頗有文字及書記。新唐書、列傳一百四十四曰。渤海本粟未靺鞨附高麗者姓大氏。高麗滅、率衆※[人偏+禄の旁]※[手偏+邑]婁之東牟山地、直營州東二千里。南北新羅以泥河爲境。東窮海、西契丹云云。續日本紀第十曰。神龜四年十二月丁亥、渤海郡王使高齊コ等八人入京。丙申、遣使賜高齊コ等衣服冠履。渤海郡者舊高麗國也。淡海朝廷七年冬十月、唐將李勣伐滅高麗。其後朝貢久絶矣。至是渤海郡王遣寧遠將軍高仁義等廿四人朝聘。而著蝦夷境、仁義以下十六人並被殺害。首領齊徳等八人僅免死而來。性靈集第五、爲藤大使與渤海王子書【在唐作。】渤海日本、地分南北、人阻天池。然而善隣結義、相貴通聘。往古來今、斯道豈息。本朝文粹第七、寛平法皇賜渤海裴遡書曰。徒想風姿、北望増戀。寶字二年、遣渤海使、紀不載之。然謂、九月丁亥、小野朝臣田守等至自渤海。大使輔國大將軍兼將軍行木底州刺史兼兵署少正開國公楊承度已下廿三人、隨田守來朝。便於越前國安置。十二月戊申、遣渤海使小野朝臣田守等奏唐國消息曰云云。勝寶五年二月辛巳、以從五位下小野朝臣田守爲遣新羅大使。六年四月、太宰少貳。
寶字元年六月戊午刑部少輔。二年九月丁卯、授遣渤海大使從五位下小野朝臣田守從五位上
 
(81)4514 阿乎宇奈波良加是奈美奈妣伎由久左久佐都都牟許等奈久布禰波波夜家無《アヲウナハラカセナミナヒキユクサクサツヽムコトナクフネハヽヤケム》
 
發句は神代紀に滄海《アヲウナ》之|原《ハラ》とかけり、和名集云滄溟、【阿乎宇三波良、】
 
初、あをうなはら 和名集云。滄溟【阿乎宇三波良。】ゆくさくさは、ゆきさま歸さまなり。第九に
  わたつみのいつれの神をたむけはかゆくさもくさも舟のはやけん
第十九に
  すみのえにいつくはふりか神ことゝ行ともくとも舟は早けん
つゝむことなくは、上にもあまた有。わつらひなきなり。第六に、草つゝみやまひあらせすとよめり
 
右一首右中弁大伴宿禰家持 未v誦v之
 
七月五日於2治部少輔大原今城眞人宅1餞2因幡守大伴宿禰家持1宴歌一首
 
孝謙紀云、寶字二年六月丙辰從五位上大伴宿禰家持爲2因幡(ノ)守1、
 
初、七月五日於治部少輔大原今城眞人宅餞因幡守大伴宿祢家持宴歌一首
孝謙紀云。六月丙辰、從五位上大伴宿祢家持爲因幡守
 
4515 秋風乃須惠布伎奈婢久波疑能花登毛爾加※[身+矢]左受安比加和可禮牟《アキカセノスヱフキナヒクハキノハナトモニカサヽスアヒカワカレム》
 
アヒカワカレムは相哉別れむかなり、
 
初、秋風のすゑふきなひくはきのはなともにかさゝすあひかわかれむ
あひかわかれんは、あひわかれんなり
 
(82)右一首大伴宿禰家持作v之
 
三年春正月一日於2因幡國廳1賜2饗國郡司等1之宴歌一首
 
令義解第六儀制令云、凡(ソ)元日、國司皆率2僚屬郡司等1、【謂v僚者同官也、】向v廳朝拜、訖、長官受v賀(ヲ)、【謂v受2致v敬之禮1也、若無2長官1者、次官受v賀、其六位長官者、止《タヾ》受2郡司賀1、上條云、若應v致v敬者准2下馬禮1故也、】設(ケ)v宴(ヲ)者|聽《ユルス》d其食(ハ)以2當處(ノ)官物及(ビ)正倉1充(ルコトヲ)、【謂官物者郡稻也、正倉者正税也、】所v須多少從2別式(ニ)1、
 
初、三年春正月一日於因幡國廳賜饗國郡司等之宴歌一首
字彙曰。廳屋也。古治官處、謂聽事。毛氏曰。聽事、言受事察訟。於是漢晉皆作聽、六朝之後始加※[まだれ]。令義解第六、儀制令云。凡元日、國司皆率僚屬郡司等【謂僚者同官也。屬者統屬也。】向廳朝拜、訖、長官受賀。【謂受致敬之禮也。若無長官次官受賀。其六位長官者止受郡司賀上條云。若應致敬者、准下馬禮故也。】設宴者聽其食以當處官物及正倉充。【謂官物者郡稻也。正倉者正税也。】所須多少從別式
 
4516 新年乃始乃波都波流能家布敷流由伎能伊夜之家餘其騰《アタラシキトシノハシメノハツハルノケフフルユキノイヤシケヨコト》
 
伊夜之家は雪のいよ/\降敷けと云にいよ/\餘其騰をしげくせよと云ことをかけたり、ヨコトとは孝コ紀云、奉v賀《ヨコト》訖(テ)再拜、天智紀云、十年春正月己亥朔庚子大錦上蘇我赤兄臣與2大錦下巨勢人臣1進2於殿前1奏(ス)2賀正事《ヨゴトヲ》1、持統紀云、四年春正月戊寅朔物部麿朝臣|樹《タテ》2大盾(ヲ)1、神祇伯《カムツカサノカミ》中臣大島朝臣讀2天神|壽詞《ヨゴトコトブキ・コトボキゴト》1畢云云、續日本紀第三十九云、延暦五年二月己巳出雲國(ノ)國造出雲(ノ)臣國成奏(ス)2神吉事1、其儀如v常、延喜式第一云、中臣進(テ)就v座宣2祝詞《ヨゴト》已上何れも同じけれどもよごとと云は續日本紀に吉事とかける意なり、天智紀の賀正事は正月に限て他時に亘らず餘は皆通ぜり、元日の雪の事史記天宮書(83)云、四始者候之日(ナリ)、【正義(ニ)曰、謂(ク)正月旦(ハ)歳之始、時之始、日之始、月之始(ナリ)故云2四始1、言(ハ)以2四始之日1候2歳(ノ)吉凶1也、】其雨雪若寒(ケレバ)歳惡(シ)、かくはあれども亦多くは雪の降を好事とするなり、第十七|葛井連諸會《フヂヰノムラヂモロアヒ》が詔に應ずる歌に注せしが如し、抑此集の初に雄略舒明兩帝の民を惠《メグ》ませ給ひ世の治まれる事を悦び思召す御歌より次第に載て今の歌を以て一部を祝ひて終《ヲ》へたれば玉匣ふたみ相稱へる驗ありて藏所世を經て失ざるかな、
 
初、あたらしき年のはしめのはつはるのけふふる雪のいやしけよこと
いやしけとは、いやしく/\といふかことし。弥しきかさねよといふことなり。よことは祝ふ詞なり。孝徳紀云。白雉元年二月庚午朔戊寅日、穴戸國司草壁連醜經献白雉曰〇是以白雉使放于園。甲申、朝庭隊仗如元會儀。〇天皇即召皇太子共執而觀。皇太子退而再拜。使巨勢大臣奉賀曰。公卿百官人等奉賀。〇奉賀訖再拜。天智紀云。十年春正月己亥朔庚子、大錦上蘇我赤兄臣、與大錦下巨勢人臣、進於殿前奏賀正事。持統紀云。四年春正月戊寅朔、物部麿朝臣樹大盾、神祇伯中臣大嶋朝臣讀天神壽詞畢。忌部宿祢色未知、奉上神璽劔鏡於皇后。皇后即天皇位。五年十一月戊辰、大甞。神祇伯中臣朝臣大嶋讀天神壽詞。續日本紀第三十九云。延暦五年二月己巳、出雲國々造出雲臣國成奏神吉事。其儀如常。延喜式第一云。中臣進就座宣祝詞。右いつれもよことゝいふはおなしけれとも、よことゝなつくる心は、續日本紀に吉事とかける、これなり。今む月ついたちの哥なれは、天智紀に賀正事とかける、ことによくかなへり。けふふる雪のことく、賀正事をしきかさねよとなり。元日の雪のこと、史記天官書曰。四始者候之日。四始者候之日【正義曰。謂正月旦歳之始、時之始日之始、月之始。故云四始。言以四始之日候歳吉凶也。】〇其雨雪寒歳惡。かくあれとも、おほくは雪のふるをよきことにするなり。孝武帝大明五年正月朔日、雪降。義泰以衣受雪爲佳瑞。此集第十七に葛井連諸會
  あたらしき年のはしめにとよのとししるすとならし雪のふれるは
文選※[言+身+矢]惠連雪賦曰。盈尺則呈瑞於豊年、袤丈則表※[さんずい+珍の旁]陰徳。そも/\此集、はしめに雄略舒明兩帝の、民をめくませたまひ、世のをさまれることを、よろこひおほしめす哥より次第に載て、今此哥をもて一部をとゝのへたることは、此集をすへていはひて、いくひさしくつたはりて、よをゝさめ民をみちひく、たすけとなれとなるへし
右一首守大伴宿禰家持作v之
 
萬葉集代匠記卷之二十下
            〔2022年1月26日(水)午後3時43分、初稿本入力終了〕
 
(1)萬葉第一奥書
本云
文永十年八月八日於鎌倉書寫畢、
〔以下省略〕
 
(8)
 
文和二年癸巳中秋八月二十五日 權少僧都成俊記之
 
大正十四年八月二十日印刷
大正十四年八月廿三日發行
              萬葉集代匠紀【附録とも】全六册
                正價金參拾圓
不 許
複 製
           東京市牛込區辨天町一五七番地
 編輯兼發行者     種村宗八
           東京市牛込區榎町七番地
 印刷者        本間十三郎
       東京市牛込區早稻田
發行所  早稻田大學出版部
 振替口座 東京一一二三
      大阪六八九〇〇
      名古屋二三四五
 
(1)萬葉集目録代匠記
     凡例
一、目録は本書各卷の初にありしを今集めて一卷とす、
一、第一卷の首に云し如く、本書は、すべて本文を略したれば、目録もまた其説を要するものゝみ掲出し、或は前後の文を摘出し之を總括して説けるもあり、此類は本文各行の頭に●印を附して標示す、
一、本書目録毎行の高低畫一ならす、今總標たるべくおぼゆるものを抄出して讀者に便す歌の部類もまた同じ、
一、此に抄出せる文中説あるものは其説に從つて之を改たり、
   明治三十三年十一月
                      編者識
(1) 目次
○萬葉集卷一    頁一
   雜歌……………一
〔以下省略〕
 
(1)萬葉集目録代匠記
            僧 契冲 撰
            木村正辭 校
萬葉集卷第一
   雜歌
〔以下省略〕
(183)
 
(1)萬葉集代匠記惣釋枕詞目録
 
本卷亦原本には目録なし今首卷に傚ひて假に掲ぐ
 
上卷
 緒言…………………………………………………一
   以
石走《イハバシル》…………………………………二
〔略〕
(12)
 
(1)萬葉集代匠記惣釋枕詞上
                     僧 契 冲 撰
                     木村 正辭 校
 
歌に枕詞ある事は.人の氏姓あるに同じ、氏を置て、呼名の長きが如く、古き歌のたけ高く聞ゆるは、多くは枕詞を置、多くは序よりつゞけたるが故なり、たゞ人の世となりて云のみにあらず、神も亦、此を置てのたまへり、所謂、夜句茂多菟伊都毛《ヤクモタツイヅモ》、阿磨佐箇屡避奈菟謎《アマサカルヒナツメ》、飫企都※[登+おおざと]利軻茂豆句志磨《オキツトリカモツクシマ》、神功皇后紀の神託の詞にも、神風伊勢之、百傳度會縣之《モヽツタフワタラヒノアガタノ》、拆鈴五十鈴《サクスヾノイスヾノ》宮所v居神名、撞賢木嚴之御魂《ツキサカキイツノミタマ》、天疎向津媛《アマサカルムカヒツヒメノ》命焉、又云、幡荻穗出吾也《ハタスヽキホニイヅルワレヤ》、履中紀云、有2如v風之聲1、呼2於大虚1曰、劔刀太子王也、亦呼之曰、鳥往羽田之汝妹者《トリカヨフハタノナニモハ》、羽狹丹葬立往《ハサニハフリイヌ》、此等の類の神語あるを以て、由あることゝ知べし、今、集中の枕詞を擧て、一部に亘るをば、此に注し、一處二處にありて彼處に注するをば、唯、其處を指示す、又、序〔右○〕と云も枕詞の長きを云へり、事の便に、此集に出ぬをも思ひ出るに隨て注し加ふ、知らざるをば知れりとせず、次第を作る事は以呂波に依れり、其中に、假令、石走淡海、石激垂水、此等、初の二字同しければ第三字を以(2)て又次第す、波は先にある故に石走を先とし、曾は後にある故に右激を後とす、三字四字より及2一句1同じくば下の次第又是に依て尋ぬべし、四十七字皆是に效ふよ、良利留禮呂《ラリルレロ》、此五つの言は、和語皆下にのみ連なりて發語と成て初に有ことなし、
 
  以
 
石走《イハバシル》、【一之十七云、淡海國、第七之二十八云、淡海縣、十二之二十云、垂水之水《タルミノミヅ》、十三之四云、甘南備山、十五之十云、瀧モトヾロニ、】
淡海國とつゞけたるを思ふに、石を走る水は沫となれば、其意にて淡海ともつゞくるなるべし、阿波宇三《アハウミ》と云べきを、波宇切布なれば、約めて阿布三と云故なり、彼水海の水終に勢多より出て田上を過て宇治に流れ下るに、石を走て流れ行けばかくはよめるにこそと云説もあれど、第七に石走淡海縣と云へるは近江にはあらざれば此義は應ぜず、彼のつゞきも、此に准らへて知べし、淡海縣と云事は彼處に注す、神南備山とつゞけたるは彼處に仙覺抄を引けり、
 
石激《イハソヽグ》、【第七之十二云、垂水水、第八之十四云、垂見之上、】
第七に注せり、石走も同じ意なり、
 
(3)以播區※[女+耶]輸《イハクヤス》、 伽之古倶等望《カシコクトモ》、【日本紀第十一仁徳紀、】
岩のくえかゝるは恐ろしき物なれば、かくは接けたり、
 
石上《イソノカミ》、 布留《フル》【四之四十一云、零十方雨二將〓哉、古今集は、故郷、舊にし里、舊にし戀、】
大和國山邊郡石上に布留と云處あればかくは連ぬるなり、今按、是は片岡の朝原、葛城の高天山の類にて、必らすじも枕詞とはなけれど、昔より枕詞とせり、ふるとも雨に、舊き都の、など巧につゞけたるは實に枕詞なり、留と禮と通ずる故に轉じてふりにし〔四字右○〕ともつゞけたり、此集にも、第九之三十紙に、振里爾ともつゞけたるを、フリニシサトニ〔七字右○〕とも點ぜるを、此はフルノサトニ〔六字右○〕と讀べき由、彼處に注せり、布留と名付る由は、舊事本紀第三云、天推穗耳尊奏曰、僕欲2將降1装束之間、所v生之兒、以v此(ヲ)可v降矣、天照大神詔而許v之、天紙御祖詔授2天璽瑞寶十種1、謂、瀛都《オキツ》鏡一(ツ)、邊都《ヘツ髄》鏡一(ツ)、八握《ヤツカノ》劔一(ツ)、生玉一(ツ)、死反玉一(ツ)、足玉一(ツ)、道反玉一(ツ)、蛇(ノ)比禮一(ツ)、蜂此禮一(ツ)、品物比禮一(ツ)、是也、天神御祖教詔曰、若有2痛處1者、令2茲(ノ)十寶1謂2一(ツ)二(ツ)三(ツ)四(ツ)五(ツ)六(ツ)七(ツ)八(ツ)九(ツ)十1而|布留部《フルヘ》、由良由良止布瑠部《ユラユラトフルヘ》、如此爲《カクスレ》之者、死人反生矣、是則所謂布瑠之言本(ナリ)矣、古事記の説此に同じ※[音+師の旁]靈《フツ》の劔を社に藏むる故に、布都と布留と同韻にて通ずれば布留と云と説者あり、胸臆の推説なり、
 
(4)伊奈宇之呂《イナウシロ》、 河《カハ》、【八之三十二、顯宗紀云、伊儺武斯廬※[加/可]簸泝比野儺擬云々、】
釋日本紀云、私記云、師説、稻之被v推2于水1折臥之形、似v席、故云稻席、又曰2飯爾飢乎1云、又曰、俗編v柳作v席、乾v稻之備、故云、【已上私記説、】此中の第二の義難2意得1、若是は聖徳太子の御歌を注せる詞の此に錯はれば歟、今按此私記の説は袖中抄に顯昭の嫌はれたる義なり、げにも此集には河とのみつゞけて柳なければ、河傍柳とつゞきたるに付ての僻案なる事明らかなり、延喜式第八、出雲國造神賀詞云、彼方古川《カナタノフルカハ》席|此彼《コナタノ》古川席 爾 生立若水沼間 能 彌|若叡《ワカエ》 爾 御|若叡《ワカエ》坐云々、和名集云、辨色立成云、水苔、一名河苔、【和名加波奈、】此水苔の生ひなびきたるが、稻莚を敷たるやうなれば、河とつゞくるなり、式に、古川席と云へるは此なる故に、下に別に、藻とも草とも云はずして生立とは云へり、此水苔、久しく年經て生れば、古川席とは云なり、此川菜は式の鎭火祭祝詞に依に、伊弉册尊、泉津平坂より立返て、火結神を鎭むべき料に、水神、※[誇の旁+包]、川菜、埴山姫の四種物を生おかせたまへる中の一つなり、古今集物名に、かはなぐさとあるも、是なるべし、字書に、苔、水衣也と注して、水生る苔と云なり、
 
鯨魚取《イサナドリ》、 海、【二之十八、二十四、四十一、六之十五、十六之二十三、並書2鯨魚取1、二之二十、書2勇魚取1、六之四十六、十三之三十一、三十二、共書2不知魚取1、十三之三十三、書2鯨名取1、十(5)七之七、伊佐魚取《イサナドリ》、】
附、日本紀第三、神武紀御製云、伊殊區波辭區旋羅《イスクハシクヂラ》、同第十三、允恭紀衣通郎姫歌云、異舍儺等利宇彌能波摩毛能云々、
此鯨魚取を古點にクヂラトル〔五字右○〕と讀けるを、仙覺イサナドリ〔五字右○〕と和すべき由を申立らる、實に其理分明なり、勇の字をいさ〔二字右○〕とのみよむには、勇山《イサヤマ》と云姓を以て證し、魚の字をな〔右○〕とよむには、仲哀紀の魚鹽地《ナシホノトコロ》と云を引かる、此集第五、奈都良須等とよめる所に、今持統紀を引たるをも引合すべし、仙覺、點をばかくの如く能改ためられけるを、捕魚の詞也、いさり〔三字右○〕と云が如しと注せられたるは誤なり、さる意ならば先いさなとる〔五字右○〕と點ぜらるべし、されども、衣通《ソトホリ》姫の歌に、いさなとり〔五字右○〕とあれば、彼を思ひて、さは得點ぜられざりけるなり、淮南子云、鯨、鯢魚之王也、是に依るに海を領するを取〔右○〕と云、天下を取、國を取と云取の如し、然れば鯨を取と云にはあらで、内典の依主釋の如く、鯨(カ)之取なり、周處風土記云、海神上朝2於天1、鰌鯨迎2送海神(ヲ)1出2入於穴1、令2水進退爲1v潮、爾雅翼云、鯨从v京、大也、常以2五月1生2子於岸1、八月導而北還、鼓v浪成v雷、噴《ハイテ》v沫(ヲ)成v雨(ヲ)、水族畏v之、木玄虚、海賦云、魚則横v海之鯨、突※[木+兀]孤遊、戞2巖※[山/放]1偃2高濤1、茹2鱗甲1呑2龍舟1、※[口+翕]v波則洪連※[足+叔]※[足+宿]、吹v※[さんずい+勞]則百(6)川倒流、かゝる魚なれば勇なる魚なりとて、一名をいさな〔三字右○〕とも云なり、和名集には久知良とのみありて、此和名を出されず、すべて漏たる名ども例あり、壹岐國風土記云、鯨伏在2郡西1、昔者、鮨鰐《ワニ》追v鯨(ヲ)、走來(テ)隱伏、故云2鯨伏《イサフシ》1、鰐並鯨、並(ニ)化爲v石、相去一里、【俗云v鯨爲2伊佐1、】和名集に、壹岐郡に鯨伏郷あり是なめり、第二に天智天皇崩御の時、太后のよませ給へる御歌に、淡海乃海とつゞけさせ給へるには、二つの意侍るべし、一つには、たゞ海と云につゞけて、淡海と云にはつゞけさせ給はずとも云べし、二つには、海に居て、湖をも領すべければ、淡海云々ともつゞけさせ給ふべし、譬ば天子の都にのみましませども、四海を領し給ふが如し、第十七に、比治歌乃奈太《ヒチカノナタ》と承たるは、ちはやぶる神とつゞくる意に、古今集に賀茂の社と連ねたる類なり、
 
射目立而《イメタテゝ》、 跡見乃岳《トミノヲカ》、【八之三十七、】
跡見と承る事は、第六之十四葉、赤人の歌に注せり、
 
射目人乃《イメヒトノ》、 伏見《フシミ》、【九之十一、】
 
石走《イハバシノ》、 間近君《マヂカキキミ》、【四之三十一、】
 
(7)妹爾戀《イモニコヒ》、 吾乃松原《ワカノマツハラ》、【第六之三十八、】
 
伊毛我伊弊爾《イモカイヘニ》. 伊久理能母里《イクリノモリ》、【十七之十九、】
 
妹許跡馬鞍置而《イモガリトウマニクラオキテ》、 射駒山《イコマヤマ》、【十之四十六、】
 
妹門《イモガカド》、【第九之十一云八、入出見河《イリイヅミガハ》、第七之十七云、出入乃河《イデイリノカハ》、】
 
妹之髪《イモガカミ》、 上小竹葉野《アゲサヽバノ》、【十一之二十八、】
 
妹手乎《イモガテヲ》、 取石池《トロシノイケ》、【十之四十二、】
 
妹目乎《イモガメヲ》、 始見之埼《ミソメノサキ》、【八之三十九、今按、ホツミカサキ、】 見卷欲江《ミマクホリエ》、【十二之二十、】
 
  波
 
波播蘇葉乃《ハハソハノ》、 母能美己等《ハヽノミコト》、【十九之十四、二十之三十六、】
 
春霞《ハルガスミ》、 春日里《カスガノサト》、【三之四十三、十之八、】 井上《ヰノウヘ》、【七之二十四、】
 
(8)春草《ハルクサヲ》、 馬咋山《ウマクヒヤマ》、【九之十二、】
 
春楊《ハルヤナギ》、 葛山《カツラギヤマ》、【十一之九、】
 
春山之《ハルヤマノ》、 開乃《サキノ》、【八之十四、】
 
播屡比能《ハルビノ》、 賀須我能倶※[人偏+爾]《カスガノクニ》。【繼體紀、】
開化紀云、遷2都于春日之地1、【春日、此云2箇須鵝1、】今按、開化天皇の御代は文字もなければ、春日とかきてカスガ〔三字右○〕と讀ことは後代の事なるを知らぬ人は誤て波留比と讀べければ、あらかじめ慮て注しおかせ給ふなり、春日とかけるやう意得がたし、熟此集を以て按ずるに、多分古歌に謎のやうなる難義の書やう多ければ、春の日は霞て幽なれば、此義を以かけるにや、然らば今のつゞき、准らへて知べし、下のカ〔右○〕、清、濁、替れども、白川の、みづわくむまでとも、玉だれの、見ずば戀しと思はましやは、ともつゞけたる類と知べし、
 
波太須酒伎《ハタススキ》、 宇良野乃夜麻《ウラノヽヤマ》、【十四之三十四、】
 
(9)花細《ハナグハシ》、 葦垣《アシガキ》、【十一之十九、リ】 附、佐區羅《サクラ》、【允恭紀、】
 
橋立《ハシダテノ》、 倉椅山《クラハシヤマ》、【七之二十七、】 附、佐餓始枳椰摩《サカシキヤマ》、【仁徳紀、】
 
  仁
庭立《ニハニタツ》、 麻手《アサテ》、【四之十八、十四之十九、】
 
庭多泉、 流涙《ナガルヽナミダ》、【二之二十九、】
 
庭津鳥《ニハツドリ》、 可鷄《カゲ》、【七之四十一、古事記上、八千矛神詠、】
 
爾波奈加能《ニハナカノ》、 阿須波乃可美《アスハノカミ》、【二之二十二、但非2枕詞1歟未v詳、】
 
爾波須受米《ニハスヾメ》、 宇受須麻理韋弖《ウズスマリヰテ》、【古事記下、雄略天皇段、御製、】
初の句は庭雀なり、後の句は須と久と同韻にて通ずれば跪居《ウズクマリヰ》てなり、庭に雀の下り居たるは人の蹲て禮儀をなせるに似たるを、かくは譬へさせ給へり、
 
(10)爾保杼里能《ニホドリノ》、【可豆思加、十四之九、於吉奈我河波、二十之四十九、】 附、阿布美能宇美《アフミノウミ》、【古事記中、仲哀天皇段、】
記云、此時|忍熊《オシクマノ》王以(テ)2難波(ノ)吉師部(ノ)之祖伊佐比(ノ)宿禰1爲2將軍1太子御方者以2丸邇《ワニ》臣之祖難波根子建振熊命1爲2將軍(ト)1云々、爾追迫敗、出2於沙々那美1、悉斬2其軍(ヲ)1、其忍熊王與2伊佐比宿禰1、共被2追迫1、乘v船浮v海(ニ)歌(テ)曰、伊奢阿藝《イサアギ》、布流玖麻賀《フルクマガ》、伊多?淤波受波《イタテオハズハ》、邇本杼理能《ニホドリノ》、阿布美能宇美邇《アフミノウミニ》、迦豆岐勢那和《カヅキセナワ》、即入v海(ニ)共死也、此歌を言得るに兩義あるべし、一つには、近江の海ににほ鳥のかづきせなわと意得ば、枕詞にはあらざるべし、今の記の詞も歌も日本紀とは違ひながら意は同じきに、日本紀には歌の末の二句(ニ)、珥倍廼利能《ニホドリノ》、介豆岐齊奈《カツキセナ》とあれば、今も一義、此に叶へり、二つには※[辟+鳥]※[盧+鳥]がためには大きにして海の如くなりと云心なる枕詞にて、日本紀とは心替れば歟、後の歌ににほのうみ〔五字右○〕とも、にほてる〔四字右○〕ともよむ、此意にや、にほてる〔四字右○〕》とは湖を云と云へど、近江ならぬ湖にはよめる例なし、和名集に野洲郡の下に邇保、【在2上下1】、とあればにほ〔二字右○〕は、やがて地の名にてもあるなり、若は忍熊王の御歌より、此等の地の名も詞も始まりけるにや、
 
  保
(11)霍公鳥《ホトヽギス》、 飛幡之浦《トバタノウラ》、【十二之三十六、】
 
螢成《ホタルナス》、 髣髴《ホノカ》、【十三之三十四、】
 
螢火《ホタルヒノ》、 光《カヾヤク》神、【神代紀下、】
 
細比禮乃《ホソヒレノ》、 鷺坂山《サギサカヤマ》、【九之十一、】
 
  敝
弊都那美《ヘツナミ》、 曾邇奴岐宇弖《ソニヌキウテ》、【古事記上、八千矛神詠詞、】
此神語、其意得がたし、此つゞきに云、蘇邇杼理能《ソニドリノ》、阿遠岐美祁斯遠《アヲキミケシヲ》、麻都夫佐邇《マツブサニ》、登理與曾比《トリヨソヒ》、淤岐都《オキツ》、云々、ソニドリ〔四字右○〕は邇と比《ヒ》と同韻にて通ずればそひ鳥〔三字右○〕なり、神代紀、下云、以v※[立+鳥]爲2尸者1、古事記云、翠《ソヒ》鳥(ヲ)爲2御食人1、和名集云、爾雅集注云、※[立+鳥]、【音立、和名、曾比、日本紀私記用2此字1、文徳天皇録、用2魚虎二字1、今按魚虎見2兼名苑等1、】小鳥也、色青翠而食v魚、江東呼爲2水※[にすい+苟]1、俗にかはせみ〔四字右○〕と云は河蝉の意にて、河に有て蝉ばかりに少さき鳥とて名付たる歟、※[羽/比]翠と云も此なりとかや、色の翠《ミドリ》にてうるはしく光れば、※[立+鳥]緯打《ソニヌキウチ》とよませ給へる歟、某色を緯に打とは常にも申詞なり、然(12)らば、邊津浪は打てとのたまはむため歟、そに〔二字右○〕と云ひて又そに鳥〔三字右○〕と云は古歌の習なり、へなみ〔三字右○〕のしば/\よするは、機おる者の筬《ヲサ》をもて緯を度々に打寄る意も籠り侍るべし、
 
  登
登富登富斯《トホトホシ》、 故志能久邇《コシノクニ》、【古事記、八千矛神詠、】
記云、八千矛《ヤチホコノ》神將v婚2高志國之沼河比賣1幸行之時、到2其沼河比賣之家1、歌曰、云々、此御歌の中にあり、たゞ遠々しき越の國とのたまへる歟、越は彼方なれば枕詞とおかせ給へるか、神慮測がたし、
 
遠津人《トホツヒト》、【松浦《マツラ》、五之二十一、獵道之池、十二之二十八、松之下道《マツノシタミチ》、十三之二十八、鴈、十七之十八、各注2于當處1、】
 
取與呂布《トリヨロフ》、 天乃香具山《アマノカグヤマ》、【一之七、】
 
鷄之鳴《トリガナク》、 吾妻《アヅマ》、【二之三十四、三之三十八、九之三十二、三十四、十二之三十九、十八之二十、二十之十八、十九、】
(13)先、東國をあづま〔三字右○〕と云事の本は、景行紀云、日本武尊亦進2相摸1、欲v往2上總、望v海(ヲ)高言曰、是小海耳、可2立跳渡1、乃至2于海中1、暴風忽起、王船漂蕩而不v可v渡、時有2從v王之妾1、曰2弟橘媛1、穗積氏忍山宿禰之女也、啓v王曰、今風起浪泌、王船欲v沒、是必海神心也、願以2妾《ヤツコ》之身(ヲ)1贖2王之命1而入v海、言訖乃披v瀾入v之、暴風即止、船得v著v岸(ニ)、故時人號2其海(ヲ)1曰2馳水1也、云々、於v是日本武尊曰、蝦夷凶首、咸伏2其辜1、唯信濃國越國、頗未v從v化、則自2甲斐1北、轉歴2武藏上野1、西逮2于碓日(ノ)坂1時、日本武尊、毎有d顧2弟橘媛(ヲ)1之情u、故登2碓日嶺1而東南望之、三歎曰、吾嬬者|耶《ヤ》、【嬬、此云2菟摩1、】故因號2山(ノ)東(ノ)諸(ノ)國1、曰2吾嬬《アヅアノ》國(ト)1也、和名集、上野國碓氷、【宇須比、】吾妻【阿加豆末、】此吾妻郡の名も、此に依なるべし、古事記云、渡2走水(ノ)海(ヲ)1之時、其渡(ノ)神興v浪(ヲ)廻v船(ヲ)不v得2進渡1、爾其后名(ハ)弟橘比賣命白v之、妾易2御子1而入2海中(ニ)1、御子者所v遣之政遂應2覆奏1、將v入v海時、以2菅疊八重、皮疊八重、絹疊八重1敷2于波上1而下2坐其上(ニ)1於v是、其暴浪自伏、御船得v進、爾其后歌曰、云々、故七日之後、其后御櫛依2于海邊(ニ)1、乃取2其櫛(ヲ)1、作2御陵1而治置也、自v其入幸、悉言2向|荒夫琉蝦夷《アラブルエミシ》等1、亦平2和山河荒~等1、而還上幸時、到2足柄之坂本1、於2食御粮處1、其坂~化2白鹿1而來立、爾即以2其咋遺之蒜片端1待打者、中2其目1乃打殺也、故登2立其坂1、三歎詔云、阿豆麻波夜、【自v阿下五字以v音也、】故號2其國1謂阿豆麻1也、即自2其國1越出2甲斐1、坐2酒折宮1之時、歌曰、云々、此は日本紀の説と殊なれどおほむねは同じ、さて鷄之鳴と置ことは、玄中記云、東南有2桃都1、山上有2大樹1、名(14)曰2桃都1、枝相去三千里、上有2天?1、日初(テ)出照2此樹1、?即鳴、天下(ノ)?、皆隨v之鳴、今按に東南の天(ノ)鷄初て鳴に、天下の鳥皆鳴と云へば、東國をトリノナクアヅマ〔八字右○〕と云か、神代紀上云、天照大神、乃入2于天石窟1閉2磐石1而幽居焉、故思兼(ノ)神、深(ク)謀遠慮、遂聚2常世之長鳴鳥1、使2互長鳴1、此意は、鷄鳴て後、日神出たまふと見えたり、是は常のやうにも叶へり、曉に鳥鳴てこそは日出る事なれば、いかさまにも、東に鳥なく事あれば、カケノナクアヅマ〔八字右○〕とも、又鳴鳥ノアヅマ〔六字右○〕ともつゞければたがはぬ事にや、以上、袖中抄の意なり、唐の方于が、龍泉寺絶頂に題する詩云、未v明先見2海底日(ヲ)1、良久遠鷄方報v晨、天隱注云、泰山記、東岩名2日觀1、鷄一鳴見2日出高數丈1、
 
鳥網張《トナミハル》、 坂手《サカト》、【十三之四、】
 
飛鳥《トブトリノ》、 明日香《アスカ》、【一之二十九、十六之八、】
天武紀下云、十五年年秋七月乙亥朔戊午、改v元曰2朱鳥元年1、【朱鳥、此云2阿訶美苫利1、】仍名v宮曰2飛鳥淨御原宮1、此飛鳥〔二字右○〕をばトブトリノ〔五字右○〕と讀べきか、其故は、同紀上云、是歳【元年】營2宮室於崗本宮南1、即冬遷以居焉、是謂2飛鳥淨御原宮1、是をばアスカノ〔四字右○〕と讀べきか、共にアスカ〔三字右○〕とよ(15)まば下卷の文何の替るる事ありてか再たび出べきや飛鳥をアスカ〔三字右○〕とよむは此御代の義訓にて人皆知故に、春日などはカスガ〔三字右○〕と讀べき由注せさせ給へども、此をば注したまはぬにや、若又、下卷の飛鳥も、一樣にアスカ〔三字右○〕とよまば其時までは明日香〔三字右○〕とのみ書けるを、思召す所ありて、朱鳥と改元せさせ給ふに付て、飛鳥を新にアスカ〔三字右○〕と名付させ給ふに依て下卷の文あるか、然らば上卷の飛鳥は後を初に廻らしてかゝれたりと意得べき歟、假令橘は垂仁天皇の御代よりあれど、日向の名は景行天皇の御代より始まれど、神代紀に筑紫《ツクシノ》日向|小戸《ヲトノ》橘之|※[木+意]原《アハキガハラ》と云事有が如し、此義ならばトブトリノキヨミノ〔九字右○〕宮とは名付させ給はねど、飛鳥の字に付て、それよりトブトリノアスカ〔八字右○〕とは云なるべし、アスカ〔三字右○〕は昔よりの名、トブトリ〔四字右○〕は此時よりの詞にて、あすかの名に相叶へる事ありて、かく置にはあらず、明日香と名付る故は、古事記云、履中天皇大|甞《メノ》豐明したまひて大御酒に醉て御寢《ミネ》ます時、御弟墨江仲王、天下を取むとおぼして、御殿に火を懸給へる時、倭(ノ)漢直之祖阿知直と云人、帝を御馬に乘奉て丹比に到り埴生坂を越て大坂よりの山口に到り、當麻賂を經て石上神宮に入れ奉る、御弟反正天皇、水齒別命と申ける時、帝の御許へ參赴たまひけるを、帝、墨江中王と同心なるかと疑かひ給ひて、墨江中王を殺し參出たまはゞ御對面あるべしと詔ありける故難(16)波へ還り下り、墨江中王に近く仕まつる隼人、名は曾婆加里と云者を欺て、多禄をたびてのたまはく、汝中王を殺せ、吾は天皇と成り汝を大臣となして天下を治めむと曾婆加里竊に伺ひて、中王を刺殺しつ、水齒別命曾婆加里を率て、倭に上幸たせふ時、到大坂山口、以爲、曾婆加理、爲v吾雖v有2大功1、既殺2己(カ)君(ヲ)1是不v義、然不v賽2其功1、可v謂v無v信、既行(ハヽ)2其信1還(テ)惶2其情1、故雖v報2其功1滅2其正身1、是以詔2曾婆訶理爾1、今日留2此間(ニ)1而先給2大臣(ノ)位(ヲ)1明日《アス》上幸留2其山口(ニ)1、即造2假宮1、忽爲2豐樂1、乃|於《ニ》其隼人1賜2大臣位1、百(ノ)官(ニ)令v拜、隼人歡喜、以爲遂v志、爾詔2其隼人1、今日與2大臣1飮2同盞酒1、共飮之時、隱面(ノ)大鋺(ニ)盛2其進酒1、於v是王子先(ツ)飮、隼人後飮、故其隼人飮時、大鋺覆v面、爾取d出置2席下1之劒u、斬2其隼人之頸1、乃明日上幸、故號2其地(ヲ)1謂2近飛鳥1也、上到2于倭1詔之、今日留2此間1爲2祓禊1、而明日參出、將v拜2~宮1、故號2其地1、謂2遠飛鳥1也、故參2出石上~宮1、令v奏2天皇1、政既平訖、參上侍之、爾召入而相語也、
 
鳥總立《トブサタテ》、 船木伐《フナキキリ》、【三之四十、十七之四十九、】
袖中抄に歌にとふさ〔三字右○〕と讀は木の末也とて、後拾遺集に我思ふ都の花のとふさ故、君も下枝のしづ心あらし、と云歌を引かれたり、是は戀部第三に詞書云、源遠古が娘に物云ひ渡り侍りけるに、彼が許に有けるをうな〔三字右○〕を又つかへ人相住侍りけり、伊勢の(17)國に下りて、都戀しうおぼえけるに、つかへ人も同じ心にや思ふらむとおしはかりてよめるとあり、今按、延喜式第八大殿祭祝詞云、天津日嗣|所知食《シロシメ》|皇《スメ》御孫(ノ)之命御殿、今奥山大峽小峽立《タテ》、齋部《イムヘノ》齋|斧《ヲノ》以伐操?、本末《モトスヱ》【乎波】山|神《カミ》祭|?《テ》、中《ナカ》間持出來?、云々、同式、造2遣唐使舶(ヲ)1木靈并山神祭注文云、五色玉二百八十九、丸金作鈴四口、鏡四面、云々、かヽれば、船木を伐る時は、さま/”\に木靈山神を祭て、木の末を伐たる跡に刺立て、是をも手向るをトフサタテ〔五字右○〕とは云なり、和名集云、※[革+秋]、文選射雉賦云、青※[革+秋](ハ)【音秋、師説乎不佐、】李善(カ)曰、※[革+秋]夾2尾之間1也、今考ふれば、徐爰が注にして之〔右○〕の字なし、青※[革+秋]※[草がんむり/沙]靡、徐爰今の注のつゞきに云、※[草がんむり/沙]、草名、楚辭曰、青※[草がんむり/沙](ハ)雑樹、則※[草がんむり/沙](ノ)色青也、言、雉尾間、青毛如2※[草がんむり/沙]草之靡1也、かゝれば何れの鳥の※[革+秋]も是に准らへて梢を鳥總に譬へて名付たる意知ぬべし、さて是は船木ならでも、かうして祭るべければ、必らず枕詞にはあるべからず、されど此集には二首同じやうに舟木切とつゞけたれば、此には出すなり、第三のに中に足輕山爾と云句のあれば顯昭は鳥はなかむとても、たゝむとても、羽をも尾をも刷ひはぬらかす物なればとふさたて足かるき山と云歟、良と呂と同音故也、いかにもとふさたて〔五字右○〕は足柄山につきたる心なるべしと註せられたるは誤なり、第十七の歌に、隔つる句なくつゞけたるを思ふべし、
          
(18)  知
知婆能《チバノ》、 伽豆怒《カヅヌ》、【日本紀第十、應神天皇御歌古事記中、應神天皇段、】
古事記云、一時、天皇越2幸近淡海國1之時、御2立宇遲野(ノ)上1、望2葛野1、歌曰、云々、和名集云、山城國葛野【加止乃、】郡チハノ〔三字右○〕は、一句三字なり、今按葛野は、カツラノ〔四字右○〕の略なれば、千集之葛野と繁き意におかせたまへる歟、
 
知波夜夫流《チハヤブル》、 神《カミ》、【集中散在、日本紀、古事記、】 人、【二之三十四、】 宇治《ウヂ》、【十三之五、同七、古事記、古今集、】
 附、千早人《チハヤビト》、 宇治《ウヂ》、【七之十一、十一之八、仁徳紀、古事記、】
此チハヤフルと云詞を此集に千劔破、又千磐破など亂れ書たるに付て、古來説ことまち/\なり、又日本紀に、殘賊強暴、横惡之神と書てチハヤブルアシキカミ〔チハ〜右○〕と點じ、舊事紀古事記に道速振荒振《チハヤフルアラフル》國神とかけるも邪神の事を云へるに依て、惡き神を指てのみこそ云べけれども、歌の習は何となく神とつゞけむ枕詞に用て、すべてよき神あしき神.押並てつゞくと意得たるもあり、今按、先初に出す如く知波夜夫流とかけるは、此集第十七なり、古事記の歌にかゝれたるも、是に同じ、集中の例、夫〔右○〕は濁る所に(19)多く書たれば、昔は濁りて云にける歟、千劔破とも千磐破とも書たれば尤然るべし、さてチハヤブル〔五字右○〕と云意はイチハヤブル〔六字右○〕と云を、イ〔右○〕を上略せる詞なり、ウチハヤ〔四字右○〕と云も同じ詞なり、何を以てか然云とならば、欽明紀云、五年十二月、越國言、於2佐渡島北|御名部《ミナベ》之碕岸1、有2肅慎人1、乘2一船舶1而淹留、春夏捕v魚充v食、彼島之人言(フ)非v人也、亦言鬼魅(ナリト)、不2敢近1v之、云々、於是《コヽニ》肅慎人、移2就瀬河浦1、浦(ノ)神|嚴忌《イチハヤシ》、人不2敢近1、渇飲2其水1、死者且半、骨積2於巖岫1、俗呼2肅慎隈1也、是は、神靈の灼《イチシルク》おはして尤《ケヤ》けきをイチハヤシ〔五字右○〕と云へば、何れの神も、さこそおはすなれば、善惡に通ずべし、延喜式第八、鎭火祭祝詞云、伊佐奈美能命、與美|津《ツ》枚坂至(リ)坐所思食、吾名※[女+夫]命、所知食上都國、心惡子生置來【奴止】宣、返坐更生v子、水神、※[夸+包]川菜、埴山姫四種物生給心惡子心荒【比留波、】水神、※[夸+包]、埴山姫、川菜鎭奉【禮止】事教悟給依v此稱辭竟奉者、皇御神朝廷御心一速給【波志止爲天】進物、云々、此一速比とチハヤブル〔五字右○〕と同じ、神サビ〔三字右○〕とも、神サブル〔四字右○〕とも云が如し、第九に女神毛、千羽日《チハヒ》給而、時登無、雲|居《ヰ》雨零、筑波《ツクハ》嶺乎、清照云々、是も、筑波神の驗の速なるを云へり、第十一云、靈治波布神と云も同じ意なり、舊事紀第三云|乳速日命《チハヤヒノミコト》、廣湍《ヒロセノ》神|麻《ヲ》續連等祖、延喜式神名下云、備後國三谿郡、知波夜比古神社、三次郡知波夜比賣神社、かやうに神の御名にも負給へる善神邪神に通ずる詞なり、但善神は多分温和(20)にまし/\邪神は多分暴戻にてたゝはしければ、通ずる中に多分に隨がふ一邊を以て邪神の方に付て云へる事の多きなり、邪神に付て云詞なるを、善神にも通して云と意得るは別を以て總に被らしむるなり、さる例もなきにはあらねど今は然らず、通ずる中に、強きに隨がへて多く邪神に云と意得べし、次に人〔右○〕とつゞけたるは、荒神とも云ひ荒俗とも云が如く惡しき人なり、次に宇治とつゞくるは、右云如く善惡に通ずる故に、是は物部の武きを云、やがてチハヤブル〔五字右○〕と云ひて、物部は氏々のあれば物部の八十氏川とも、唯物部の氏川ともつゞけたるに同じ、然らば、ちはやふる人の氏川とこそ云べけれど、古事記の輕太子の歌にウルハシト、サネシサネテハ、と讀たまへるは、うるはしき人も、と云意なり、此集第十四に、カナシキガ駒ハタクトモ、とよめるは悲しき人をカナシ〔三字右○〕とのみ云ひたれば是等に准らへて知べし、千早人、氏川とつゞけたるも亦是に同じ、古今集に、ちはやふる宇治の橋守とよめるを、橋を守る神なり、依てちはやぶる〔五字右○〕とおけるなりといへるは、日本紀等并に此集を能考へざる故なり、紀に大山守皇子の御歌に、知破揶臂苫《チハヤヒト》、于〓能和多利弭《ウヂノワタリニ》とある發句を、古事記中應神天皇段には知波夜夫流《チハヤフル》とあり、此集第十三も古事記の二句と同しく讀て、始め終り橋守の事、神の事すべてよまず、宇治橋は道昭和尚の始て懸られたれば、仁コ天皇の(21)比、橋姫の事に付てチハヤブル〔五字右○〕と云べき理なし、又、橋守は關守、道守、野守、山守の類なり、天武紀上云、或有v人、奏曰、自2近江京1至2于倭京1、處々置v候、亦命2菟道守橋者1、遮d皇太弟宮(ノ)舍人運2私粮1事u、是を以て、神の事にあらざる事を知べし、 
 
千鳥鳴《チドリナク》、 佐保川《サホガハ》、【四之十九、二首、四十八、六之十九、古今集、】
佐保河には總じて枕詞に置のみならず、千鳥をあまたよめり、
 
知智乃實乃《チチノミノ》、 父能美許等《チヽノミコト》、【十九之十四、二十之三十六、】
 
  奴
奴波多麻能《ヌバタマノ》、 黒《クロ》、 夕《ユフ》、 夜《ヨ》、 髪《カミ》、等、【集中處々散在、雄略紀、】 夢、【十二之十三、十七之三十三、】 妹《イモ》、【第十五之二十九、】
此枕詞、後世にはムバタマ〔四字右○〕とも、ウバタマ〔四字右○〕とも通はしてよめども古事記に奴婆多麻能《ヌバタマノ》とかゝれ、此集にも、假名にかける處は皆ヌバタマノ〔五字右○〕とあれば古風に依て讀べし、通はすを捨るにはあらず、さて此ヌバタマ〔四字右○〕とは如何なる物を云歟と、體を定めて、次(22)に樣々につゞくる意を辨ふべし、第十一に、人麿集の中の寄v物陳v思(ヲ)歌に、玉に寄てよめる歌四首あり、其第四云、烏玉《ヌバタマノ》、間開乍《ヒマシラミツヽ》、貫緒《ヒモノヲノ》、縛依《ムスビテシヨリ》、後相物《ノチアフモノカ》、是は、仙覺の誤《アヤ》まられたる點なる故、今按を加ふ、彼處をみるべし、此烏玉とかけると、黒玉とかけるとを以て思ふに、烏《カラス》は黒き物なれば、唐の文にも、黒き事には此字をつけて、黒き雲をば烏雲、黒き※[虫+也]をは烏※[虫+也]など云へば、黒き玉有て、それが名をヌバタマ〔四字右○〕と云に依て、黒しと云枕詞に置に付て、夜とも夕とも闇とも髪ともつゞくるなるべし、くらき〔三字右○〕とくろき〔三字右○〕と本は通へる詞なるに依て、夜などとはつゞくるなり、第四第十三に黒馬とつゞけたれど是は點の誤なり、十三に又、黒馬|爾乘而《ニノリテ》とつゞけたるをよしとす、雄略紀に、柯彼能矩慮古摩《カヒノクロコマ》とつゞけたるに同じ、妹とつゞけたるは、女は髪のよきをめでたき物にして、唐にも玄妻と名付たる例などもあれば、其意を含みてつゞくる歟、又は黒き玉白き玉の分別なく、玉によそへて云意歟、雄略紀のヌバタマ〔四字右○〕を私記注して云、師説、烏扇(ノ)之實也、其色黒、人喩v之、或説鵜羽也、或説、夜之異名也、言、只欲v讀v黒之發語也、此集に、野干玉、夜干玉、とかけるを思ふに、烏扇之實也と云へるは相叶へる歟、延喜式に、遣唐使の舶を作る時、山神を祭る具に、五色玉二百八十九とあれば、猶玉を用らるゝ事多かるべきに、誠の玉は、さばかり多くは得がたかるべし、又、黒色の玉と云事、大形聞及ばぬ事(23)なれば、烏扇の實を以て、黒色の玉に宛てる用らるゝにや、然らば、第十一の人麿集歌は、玉の類なる故、一處に置と知べし、鵜羽の義、夜の異名の義、野干玉などかけるに叶はねば用べからず、鵜羽の説は、後世|宇婆多麻《ウハタマ》と書たるに付て推説を構たる歟、夜の異名と云は夜とつゞけたるに付ての僻案なるべし、袖中抄云、又うは〔二字右○〕とは烏《ウ》の羽《ハ》と云歟、云々是又僻案なり、鵜羽と云説は、和訓なれば猶云べし、音訓をまじへて、いかでか烏羽《ウハ》と云義あらむ、假令|烏羽《ウハ》玉とかけりとも、假てかけるとぞ云べき、喜撰式等、用べからざる義は、顯昭に依べし、
 
怒延久佐能《ヌエグサノ》、 賣《メ》、【古事記上、沼河比賣歌中、】
賣爾志阿禮婆《メニシアレバ》とは、賣〔右○〕は女〔右○〕なり、ヌエグサ〔四字右○〕は、草の名なり、いまだ詳ならず、若草の妻と云類なるべし、
 
  乎
未通女等爾《ヲトメラニ》、【行相乃速稻《ユキアヒノワセ》、十之三十六、相坂山《アフサカヤマ》、十三之六、】
 
  和
(24)若草乃《ワカクサノ》、 新手枕《ニヒタマクラ》、【十一之十七、】 妻、【二之廿四、九之十九、十之三十二、仁賢紀、古事記、古今集、】
仁賢紀云、有2女人1、居2于難波御津1、哭之曰、弱草吾夫※[立心偏+可]怜矣、【言2吾夫[立心偏+可]怜矣1、此云2阿我圖摩播耶1、言2弱草1謂、古者、以2弱草1喩2夫婦1、故以2弱草1爲v夫、】古事記上云、八千矛神歌云、和加久佐能、都麻能美許登、是は、嫡妻須勢理此賣命を指てよませ給へり、須勢理比賣の答御歌云、夜知富み許能《ヤチホコノ》、加微能美許登夜《ヤチホコノカミノミコトヤ》、阿賀淤富久邇奴斯許曾波《アガオホクニヌシコソハ》、遠邇伊麻世婆《ヲニイマセバ》、宇知微流《ウチミル》、【打見也、】斯麻能佐岐邪岐《シマノサキザキ》、【島崎前也、】加岐微流《カキミル》、【掻見也、猶v云2打見1、】伊蘇能佐岐淤知受《イソノサキオチズ》、【礒前不v落、】和加久佐能《ワカクサノ》、都麻母多勢良米《ツマモタセラメ》、阿波母與《アハモヨ》、【吾者也、母與二字、助語也、】賣邇斯阿禮婆《メニシアレバ》、那《ナ》【汝也、】遠岐弖《ヲキテ》、【除v汝也、岐(ハ)於岐(ノ)上(ノ)岐(ノ)上略也、下效v之、】遠波那志《ヲハナシ》、【男者無也、】那遠岐弖都麻波那斯《ナヲキテツマハナシ》、云々、此初の妻は女なり、後の妻は男なり、同じき中卷仁コ天皇段、吉備黒日賣が帝の還幸の時奉れる歌云、夜麻登弊邇《ヤマトヘニ》、【大和邊也、】由玖婆多賀都麻《ユクハタガツマ》、許母理豆能《コモリヅノ》、【隱津、】志多用波閉都々《シタヨハヘツヽ》、【下從延乍也《シタヨハヘツヽナリ》、】由久婆多賀都麻《ユクハタガツマ》、是も亦帝を指奉りて誰妻と云へり、此集にも唯、妻とよめる歌の男女に通ぜるはいくらも有べし、若草の妻とつゞきたるに付き云はゞ、右に出す所、初三首は男、後五首は女なり、袖中抄に、經信、通俊、兩卿の問答見えたり、兩卿、共に未に付てのみ證を爭そひて、仁賢紀の如く明らかなる證の、私の言を加ふるまでもなきを引かれざる事おぼつかなし、延喜式第二十四、主計上云、若狹國(ノ)調、保夜交鮨、妻と云は(25)此交の字の意にて相交はるを云にや、
 
我心《ワガコヽロ》、 盡之山《ツクシノヤマ》、【十三之三十一、】 清隅之池《キヨズミノイケ》、【十三之十九、】 安可志能宇良《アカシノウラ》、【十五之十二、】
 
若薦乎《ワカクサヲ、》 獵路乃小町《カリヂノヲノ》、【三之十三、】
 
鷲住《ワシノスム》、 筑波乃山《ツクバノヤマ》、【九之二十三、】
 
  加
蛙鳴《カハヅナク》、 泉之里《イヅミノサト》、【四之四十五、】 廿南備河《カミナビガハ》、【八之十七、】 六田乃河《ムツダノカハ》、【九之十五、】
 
刈薦《カリゴモノ》、 亂《ミダレ》、【集中處々散在、古事記允恭天皇段、】
 
神風《カムカゼノ》、 伊勢《イセ》、【集中散在、古事記、神武紀、雄略紀、】
神武紀云、伽牟伽筮能《カムカゼノ》、伊齊能于瀰能《イセノウミノ》、云々、此御製を、古事記にも、加牟加是能伊勢能宇美能《カムカゼノイセノウミノ》とあり、雄略紀云、柯武柯筮能《カムカゼノ》、伊勢能《イセノ》、伊勢能奴能《イセノヌノ》、云々、今の集も、此古風に隨て讀べし、依て此に出す、かくつゞくる意は、伊勢國風土記云、夫伊勢國者、天御中主(ノ)尊(ノ)之十(26)二世(ノ)孫、天日別命之所2平治1、天日別命、神倭磐余彦天皇、自2彼西征1征2此東州1之時、隨2天皇到2紀伊國熊野村1、于v時隨2金烏之導1、入2中州1而到2於菟田下縣1、天皇勅2大部日臣命1曰、逆黨|膽駒長髓《イコマノナガスネ》、宜2早征罰1、廼2天日別命1曰、國有2天津之方1、宜v平2其國1、早賜2標釼1、天日別命、奉v勅東入數百里、其邑有v神、名2伊勢津彦1、天日別命、問曰、汝國獻2於天孫1哉、答曰、吾覓2此國1、居住日久、不2敢聞1v命矣、天日別命、發v兵欲v戮2其神1、宇v時畏伏啓云、吾國悉獻2於天孫1、吾敢不v居矣、天日別命令v問云、汝之去時、何以爲v驗、啓曰、吾以2今夜1起2八風1吹2海水1、乘2波浪1將2東入1、此則吾之却由也、天日別命、整v兵窺v之、比v及2中夜1、大風四起、扇2擧波瀾1、光耀如v日、陸國海共朗、遂乘v波而東焉、古語慍、神風(ノ)伊勢(ノ)国、常世浪寄《トコヨノナミヨル》國者、盖此謂v之也、【伊勢津彦神、近令v住2信濃國1、】天日別命、壤2築此國1、復2命天皇1、天皇大歡、詔曰、國宜d取2國神之名1號2伊勢u、此風土記に依らば伊勢津彦の起す風なる故に神風と云へり、然れども、日本紀を考ふるに、六月乙未朔丁巳の日御軍紀伊國名草邑に到り、其後漸に進て菟田下縣に到り、八月甲午朔乙未の日、菟田縣|魁帥兄猾《コノカミエウカシ》を誅したまひ、冬十月癸巳朔、八十梟帥を國見丘に撃たまふ時の天皇の御歌に讀たまへる事なれは、風土記の文、不審なきにあらず、又垂仁紀云、東廻2美濃1、到2伊勢國1時、天照大~誨2倭姫命1曰、是~風伊勢國、則常世之浪重浪歸國也、傍國可怜國也、欲v居2此國1、故隨2大~教1、其祠(ヲ)立2於伊勢國1、因興2齋宮于五十鈴川上1、是謂2磯宮1、則天照大~始自v(27)天降之處也、又神功皇后紀の神託にも、神風伊勢國之、百傳度會縣之拆鈴五十鈴宮とのたまへり神代紀下云、有一~、居2天八達之衢1、其鼻長七咫、背長七尺餘、當v言2七尋1、且口尻明耀、眼如2八咫鏡1、而※[赤+施の旁]然似2赤|酸醤《カヽチ》1也、則遣2從~2往問、時有2八十萬~1、皆不v得2目《マ》勝相問1、云々、其猿田彦神者、即到2伊勢之狹長田五十鈴川上1、即天|鈿《ウス》女命、隨2猿田彦神(ノ)所1v乞、遂以侍送焉、此猿田彦大神は天照大神の所現にて、身體悉※[赤+施の旁]然ことも、日のコを、かつ顯はしたまふ歟、既に神代より此處に天降らせ給ひて、鎭坐あるべき事の本を開かせたまへり、若風土記を和會せば伊勢津彦も、亦日神の化現にて、海陸を照し八風を吹せける歟、此集第二、高市皇子尊城上殯宮之時、柿本朝臣人麿作歌に、渡會乃齊宮從《ワタラヒノイツキノミヤユ》、神風爾《カムカゼニ》、伊吹惑之《イフキマドハシ》、天雲乎《アマグモヲ》、日之目毛不令見《ヒノメモミセズ》、常闇爾《トコヤミニ》、覆賜而《オホヒタマヒテ》、定之《サダメテシ》、水穗之國乎《ミヅホノクニヲ》、云々、是は壬申の亂の時、天照大神、天武天皇の官軍を助させ給へる事なり、日本紀には此由見えざれども、持統天皇の御世に、人麿のかくよまれたる事あれば疑なき實録なり、是に依て云へば、彌天照大神の吹せたまふを神風と云なり、日は火の精、火の上にはおのづから風あれば、其意にや、伊勢と云は如何なる意の名ぞや、若神風と云事の伊勢の名に叶へる歟、若は伊勢と云名の意にはつゞかねど、神風を吹させ給ふ日神のおはします國なればつゞけるにや、袖中抄云、顯昭云、神風とは神の御惠を云とぞあまたの文(28)に申たれど、いかなればめぐみをば風とは云ぞと云釋ねばおぼつかなし、玉の巵の底なきが如し、誠に是を思ふに神の御恩は廣く限なし、大虚を吠風のあまねくして極なきが如し、帝徳の限なきをも風に喩へて風化と云へり、此も同じ事也、又慍、威風、コ風など云ひて、廣き事をば風に喩ふるなり、今按今の神風は威風コ風等の譬喩にはあらず、人麿の歌を思ふべし、又垂仁紀の神風も常世の浪を歸《ヨス》る縁有にや、經信卿の歌に、神風やみもすそ川、とつゞけられたるは、やがて大神のまします所なればなり、さゞ浪のあふみと云例には准らふべからず、末の説々は袖中抄に委し、五十鈴をば、或はいほすゞ〔四字右○〕或はいそすゞ〔四字右○〕或はいすゝ〔三字右○〕とよめりと有は誤なりいそすゞ〔四字右○〕とはよむべけれど、然よめる例なし、五百鈴と書たらばこそいほすゞ〔四字右○〕とは讀べけれ、先達の説々だに、かゝる事の交はれるは不審なり、
 
玉蜻《カゲロフノ》、 石垣淵《イハガキブチ》、【十一之三十二、】 夕《ユフ》、【十之五、】
 附、玉限《カゲロフノ》、 石垣淵《イハガキブチ》、【十一之十三、】 夕《ユフ》、【一之二十一、】
 
蜻火之《カゲロフノ》、 燎流荒野《モユルアラノ》、【二之三十八、同四十、】 燎留春部《モユルハルベ、》【十之七、】 春《ハル、》【六之四十二、炎之春、】
(29) 附、玉限《カゲロフノ》、 日《ヒ》、【十三之九、】
 
同じ枕詞を二つに分ちてひとつに釋する事は同物異物ある故なり、先、初の玉蜻は秋津なり、秋津は俗にとむばう〔四字右○〕と云、和名集に、蜻蛉を出して加介呂布とのみ注して秋津の和名を漏さる、此集に、玉蜻、珠蜻などかけるは、蜻蛉の中に大きにして青きを、今の俗やむま〔三字右○〕と云は、えむば〔三字右○〕の訛れるにや、それが首は、殊に透て珠玉に似たれば、さてかくはかける歟、玉蜻とは書たれども、石とつゞくるは、石の中には火を含める故に、焔をもかげろふ〔四字右○〕と云へば、其方にてつゞけたる歟、但兩處ともに玉蜻と書、又附て出せる玉限を、今の本には三處ともにタマキハル〔五字右○〕と點ぜり、げにも字に當りては然るべくみゆれど、三つながらつゞけるやうのおぼつかなければ、今按、是をも皆カゲロフノ〔五字右○〕と讀べしとおぼゆ、其故は、玉の字はさきの如し、限はかぎり〔三字右○〕をかげろふ〔四字右○〕とも讀べければ、借て玉の字を加へて蟲の名とする歟。第二に香切火《カゲロフ》とかき、第十一にアヂキナク〔五字右○〕を小豆奈九ともかけるが如し、然らばそれが中に石垣淵とつゞけたるは、石とつゞくるにはあらで、石垣隱れる淵は青ければ青き淵の意につゞけたる歟、たゞ石とのみはつゞけずして、石垣淵とのみつゞけたればかくは云なり、第八第十二(30)に、玉蜻※[虫+廷]之、髣髴所見而《ホノカニミエテ》と云ひ、第十に、玉蜻直一目耳|視之《ミシ》人とよめるも、彼が飛飜ほどのそれかあらぬかと思ふばかりほのめけばなり、火の燃る焔も、それが如くかげろへば蜻火とは譬へて云なるべし、古事記に、墨江中王、難波宮に火を懸たまふ時、履中天皇、丹比へ逃出させたまひ、倭へ行幸せさせ給はむとて、波邇|賦《フ》坂より難波の方を叡覽あるに猶火の盛なれば、歌讀してのたまはく、波邇布邪迦《ハニフザカ》、和賀多知美禮婆《ワガタチミレバ》、迦藝漏肥能《カギロヒノ》、毛由流伊弊牟良《モユルイヘムラ》、都麻賀伊弊能阿多理《ツマガイヘノアタリ》、集中には、蜻火、香切火などかきたれば、此御歌を證としてカゲロヒ〔四字右○〕と讀べきか、火を保とは讀《ヨミ》たれども、布《フ》と通はしてよめる例なし、第二十に、防人が歌に、葦火を安之布《アシフ》と讀たれど是は東歌なれば別義にて例とすべきに非ず、蜻火之燎留春部と讀たるは、陽※[陷の旁+炎]と云物なり、春に至りて、陽氣動て、空に火の氣の如くほのめく義を以ては、何れをもかげろふと云べし、古き歌に、夕暮に命懸たるかげろふの有やあらぬや問もはかなし、是は※[虫+秀]などの如く、朝に生れて夕に死ぬらむやうによめり、おぼつかなし、源氏物語かげろふの卷に、有と見て手には取られず見ればまた行方も知らず消しかげろふ、是も右の歌と同じきか、但蜻蛉のほのめくをよめる歟、陽※[陷の旁+炎]是をば、野馬とも名付、遊絲とも云なり、菅家萬葉集には、遊絲をやがてカゲロフ〔四字右○〕とよませたまへり、是になずらへば、野馬と書ても讀ぬ(31)べし、古き歌に、梅の花雪に見ゆれど春の氣は、煙をこめて寒からなくに、とよめるも、陽炎の燃るに付て、春の景はけふるなり、詩にも煙景と作れり、第六に炎乃春爾之成者とよめるも、蜻火の燎る春に成なり、炎の字をかけるも、火の燃擧る氣をかげろひと云より起て、陽氣をもかげろふの燃ると云なり、火と日は同體の物なれば、相違なかるべし、第十三に、玉限日毛累とある玉限をもカゲロフノ〔五字右○〕と點じかへば、日の光もかげろへば、火に通はして意得べし、
 
風早之《カザハヤノ》、 三穗乃浦《ミホノウラ》、【三之四十九、七之二十一、】
 
笠乃借手乃《カサノカリテノ》、 和射見野《ワザミノ》、【十一之三十五、】
 
可伎加蘇布《カキカゾフ》、 敷多我美夜麻《フタガミヤマ》、【十七之四十二、】
 
垣津籏《カキツハタ》、 開沼《サクヌ》、【十一之四十五、】
 
橿實之《カシノミノ》、 獨《ヒトリ》、【九之十九、】
 
  與
(32)吉隱之《ヨゴモリノ》、 猪養乃岡《ヰカヒノヲカ》、【二之三十六、】
但、此吉隱はよなはり〔四字右○〕と讀て地の名なれば、枕詞にあらず、委は歌に付て注するが如し、誤れる古點に依て、此に出す、
 
  太
橘乎《タチバナヲ》、 守部乃五十戸《モリベノイヘ》、【十之五十一、】
 
多智波奈能《タチバナノ》、 美衣利乃佐刀《ミエリノサト》、【二十之二十、】
 
高※[木+安]之《タカクラノ》、 三笠乃山《ミカサノヤマ》、【三之三十六、】
 
高御座《タカミクラ》、 安麻能日繼《アマノヒツギ》、【十八之十八、同二十二、】
高座は、高御座《タカミクラ》なり、日本紀には、壇、壇場、尊位、寶位など書て、同じくタカミク〔五字右○〕とよめり、御即位の時と、蕃客朝參の時と、正月元日とに、大極殿に此高御座を装て其上に華蓋を掛て、諸臣の拜謁を承て仰がれさせ給ふ故に此つゞきどもは有なり、聖武紀云、天平十六年二月甲寅、運2恭仁宮高御座并(ニ)大楯於難波宮1、延喜式第十五、内藏寮式云、元正預前装2飾大極殿1、凰形九雙、順鏡二十五面、玉幡八流、玉冑甲十六條、※[章+おおざと]子十二枚、【韓紅花綾表、白綾裏、】帳二條、【淺紫綾表、緋(ノ)綾裏、】上敷兩面二條、下敷布帳一條、【已上、高御座料、】大極殿高御座【巾+巴】、一條、【黄表、帛裏、長一丈五尺、六幅、】若有(ラハ)22破損1、隨即申v省(ニ)、同第十七、内匠寮式云、凡毎年元正前一日、官人率2木工長上雜工等(ヲ)1、装2飾大極殿高御座1、【蓋作2八角1、角別上立2小鳳像1、懸以2玉幡1、毎v面懸2鏡三面1、當v頂著2大鏡一面1、蓋上立2大鳳像1、※[王+總の旁]鳳像九隻、鏡廿五面、幔臺一十二基、立2高御座東西各四間1、】内匠式云、其蕃客朝參之時亦同、元日(ノ)高御座飾物、收2内藏寮1、當v時出用同第三十八、掃部式云、天皇即v位、設2高御座於大極殿1同2元日儀1、
 
多迦由久夜《タカユクヤ》、 波夜夫佐《ハヤブサ》、【古事記下、仁徳天皇段、】
タカユクヤ〔五字右○〕は.高行哉なり、隼は高く飛行けばなり、鷹を、和語にたか〔二字右○〕と云は、高く揚る故なるべし、鷹の字は、應の意にて、飼ふ人の心に應じ、放ば鳥に應ずる故に作れる字歟、
 
高光《タカヒカル》、 日之皇子《ヒノミコ》、【二之三十六、所々散在、古事記中、景行天皇段、】
 
田立名付《タタナヅク》、 青垣山《アヲガキヤマ》、【六之十三、十二之三十八、古事記中、景行天皇段、】
(34) 附、【疊有《タヽナハル》、青垣山《アヲガキヤマ》、一之十九、多田名附《タヽナヅク》柔膚《ヤハハダ》、二之三十一、】
柔|膚《ハダ》とつゞけたるは常の詞なれど、次に此に出せり、
 
楯並而《タヾナメテ》、 伊豆美乃河波《イヅミノカハ》、【十七之十、】 伊那※[さんずい+差]能椰摩《イナサノヤマ》、【神武紀、】
崇神紀云、彦國葺進到2輪韓河1、埴安彦挾v河屯v之、各相挑焉、故時人改号2其河1曰2挑河1、今謂2泉河1、訛也、此によれば、楯を衝並べて相挑む意にて今は泉河と云へど昔の挑河に付てよめる歟とおぼしきに、神武天皇のつゞけさせ給へるやうを思へば、楯衝並て弓を射る意にや、然らば、泉河とつゞけるも、上のい〔右○〕の一文字を射〔右○〕になしてつゞくる歟、但神武天皇の御歌は伊那瑳能椰摩能虚能莽由毛《イナサノヤマノコノマユモ》、易喩耆摩毛羅※[田+比]《イユキマモラヒ》、多多介陪磨《タタカヘバ》と云までつゞけて意得ば、いなさの山の木の間より、楯並て行守て戰かへばとよませ給ひて、枕詞にはあらざる歟、いなさの山は大和なり、紀の意、宇陀郡なるべし、
 
多々美氣米《タダミケメ》、 牟良自加已蘇《ムラジガイソ》、【二十之二十、】
 
多多瀰許莽《タダミコモ》、 弊遇利能夜摩《ヘグリノヤマ》、【景行紀、古事記、景行段、并、雄略段、】
(35) 附、薦疊《コモタヽミ》、 平群《ヘグリ》、【十六之二十一、】 八重疊、 平群乃山、【同三十、】
一重《ヒトヘ》、二重と云に、此集に、隔の字をも書たれば、三つの枕詞皆弊〔右○〕の一もじにつゞけたり、疊を敷て、板敷、簀子などを隔っる意なり、第十四に、蘆《アシ》ガ中ナル玉小菅、刈來我背子、床ノヘダシニ、此ヘダシ〔三字右○〕はし〔右○〕とち〔右○〕と同韻なれば、へだち〔三字右○〕なり、ち〔右○〕とて〔右○〕と同音なれば、へだち〔三字右○〕はへだて〔三字右○〕なり、今此意なり、第十一に、疊薦ヘダテ編數とよめる意にはあらず、
 
垂乳根乃、
第三之五十一云、帶乳根乃《タラチネノ》、母命者《ハヽノミコトハ》、第五之二十七云、多羅知斯夜波波何手波奈例《タラチシヤハハガテハナレ》、同二十八云、多良知遲能《タラチシノ》、波波何目美受提《ハハガメミズテ》、第九之二十七云、垂乳根乃、母之命乃《ハヽノミコトノ》、第十一之四云、垂乳根乃、母之手放、是、第五之廿七と同じ、同十二云、足常母養子、第十四云、足千根乃母爾障良婆、十五云、足千根母爾|所嘖《イサハレ》、足千根乃母爾不所知、十八云、垂乳根乃母白者、足乳根之母|毛《モ》告都、第十二之十六云、垂乳根之母我養蚕乃、二十九云、足千根乃母之召名乎、第十三之十一云、帶乳根笶母之養蚕之、同二十五云、垂乳根乃母之形見跡、第十六之七云、垂|乳《チ》爲母所懷、同十三云、足千根乃母之御事歟、第十七之二十三云、多良知禰乃波々能美許等乃、十九之二十八云、足千禰之御母之命、第二十之十八云、多良知禰乃波波(36)我目可禮?、同二十二云、多良知禰乃波々乎和加例弖、同三十三云、多良知禰乃波波可伎|奈?泥《ナデヽ》、凡此等なり、其中に、假名かけるは、爭そひなし、假名にかける所も、讀やう皆母なり、
 
栲角乃《タクツノノ》、 新羅國《シラギノクニ》、【三之五十四、】 白鬚《シラヒゲ》、【二十之三十六、】 斯路岐多陀牟岐《シロキタダムキ》、【古事記上、】
 
栲衾《タクブスマ》、 新羅《シラギ》、【十五之五、仲哀紀、】 白山《シラヤマ、》【十四之廿七、】
仲哀紀云、八年秋九月乙亥朔己卯、詔2群臣1以議v討2熊襲1、時有v神託2皇后1誨曰、有2寶國1、是謂2栲衾新羅國1焉、私記曰、師説、白栲也、栲木色白、故喩而言v之、但稱2栲衾1者、欲v※[道/口]2新羅1之發語也、古事記に、須勢理比賣の八千才神に答したまふ御歌にも、多久夫須麻《タクブスマ》、佐夜具賀斯多爾《サヤグガシタニ》と讀たまへり、栲は、苫浩切、説文云、山樗也、詩(ニ)山有v栲、注似v樗色小白、葉差狹、亦類v漆、語曰、※[木+薫]、樗、栲、漆、相似如v一、注踈云、栲、如v櫟、皮厚可v爲2車輻1、此中に、詩注、色小白とあるを以て、白き事の例に云ひ、たへ〔二字右○〕と云詞も、本は白きを云故に、たへのほ〔四字右○〕を此集に雪穗《タヘノホ》とかきしきたへ〔四字右○〕を敷白とかけるに、白栲ともかけり、然れば、たくの木と云が此國にも有なるべし、和名集に漏らされたる事おぼつかなし、凡そ、たく〔二字右○〕と云詞、皆是に准らへて知べし、新羅とつゞくるは、私記の説の如く、白きに通はしてなり、白山風とつゞけ、栲(37)角と云ひて、何くれとつゞけたるも皆同じ意なり、
 
多麻波夜須《タマハヤス》、 武庫能和多里《ムコノワタリ》、【十七之七、】
 
玉桙之《タマボコノ》、 道《ミチ》、【集中散在、】 里《サト》、【十一之二十二、】
此詞を釋するに三つの意侍るべし、先玉と云は例のほむる詞、是は三義に通ず、一つには神代紀下云、大己貴神《ヲホアナムチノカミ》、白2於經津主武甕槌二神1曰、吾以2此矛1、卒有v治v功、天孫若用2此矛1治v國者、必當2平安1、云々、大己貴神は國作りの神にてましませば、此廣矛を杖《ツキ》て國々を廻らせたまへば、七の御名ある中に八千戈神とも申す歟、史記陳平傳(ニ)、平身間行杖v劔亡、聶政傳、聶政乃辭、獨行杖v劔至v韓、かゝれば、物部は、矛をも杖て行べき故に、此御神の矛ならずとも云べき歟、左傳(ニ)云、成子衣v製杖(テ)v矛【製、雨衣也、】立2於阪上1、史記|※[麗+おおざと]食基《レキイキ》傳云、沛公遽雪v足杖v矛曰、延v客入、三つには、道の直きを鉾に譬へて云歟、唐にも、道を多く直き物に譬へて云へり、毛詩小雅云、周道如v底、其直如v矢、君子所v履、小人所v視(ル)、左傳云、詩云、周道挺々、【杜預曰、挺挺正直也、】文運魴明遠詩云、馳道直如v髪、此集に、鉾※[木+温の旁]とよめるも、※[木+温の旁]の性の直くて立てるをよそへてよめりと見ゆれば、如v矢如v髪など譬へたるに同じかるべきにや、舒明紀云、山背大兄王云、亦大臣所v遣群卿者、從來如2嚴矛1、【嚴矛此云2伊箇之保虚1、】取2中事1而奏請人(38)等也、是は推古天皇崩じ給はむとしたまふ先に、騰極の事を、山背(ノ)大兄王に宜ひ置せたまへるを、蘇我蝦夷大臣、遺詔を引替て、田村皇子を御位に即け奉らむと議せられけるを、山背大兄王是を聞給ひて、使を以て、此條不審に思召す由、大臣の許へ仰遣はされける時、大臣、阿倍臣、中臣連等を使として、御返事を申されし時、使に向て宣ひける御言なり、此にも二つの意あるべし、一つには、矛は中の程を取て持つなれば、其に喩へて、使の彼方、此方、偏黨なく、有のまゝに物申さるゝ事を宣ふ歟、父鉾の直き如く、有のまゝに物申さるゝとの御詞歟、後の意ならば此をも證とすべし、道の長手と云も、手は身に取て直く長ければ云なり、道の横折所を手折《タヲリ》と云も、肱折《ヒヂヲル》に喩へて云なり、繩手と云も、長くて直き故に喩へたる名なり、文選藉田賦云、遐阡繩直、邇陌如v矢、阡陌は田に付て云へども、田ならぬ所にも云へり、風俗通云、南北(ヲ)曰v阡(ト)、東西曰v陌、縱横に付て、なはて〔三字右○〕と云にはあらず、直きに付て云詞なり、足引とのみ云ひて山とする如く、玉鉾とのみ云ひて、道ともするなり、うつぼ物語樓上の卷に、からもりが宿を見むとて、玉矛に目をつけむこそかたつ人なれ、次に、里とつゞくるは、先達の説に、道の程をば一里、二里など云へば、玉鉾の里とつゞけたるも其意歟と侍り、今按、政務紀云、五年秋九月、令2諸國1、以d國郡立2造(ノ)長(ヲ)1縣邑置2稻置u、並賜2楯矛1以爲v表、邑の字をばむら〔二字右○〕ともさと〔二字右○〕(39)ともよめば、里の稻置《イナギ》に楯矛を賜て表とするに依て、玉矛の里と云歟、和名集に加賀國加賀郡に、玉戈【多萬保古】の郷あるも、かゝる事に名付たる歟、稻置と云は、今の名|主《ぬし》やうの者なるべし、此集に、鉾を木に從《シタ》がへて、多く玉桙とかけり、たまづさ〔四字右○〕をば、玉梓とのみかけるを、桙〔右○〕と梓〔右○〕と字の相似たれば、玉梓妹、玉梓使とよめるを、書生の寫たがへたるなり、玉桙妹、玉桙使と云事を、袖中抄に釋せられたり、
 
玉鬘《タマカツラ》、 影《カゲ》、【 之二十三、】
 
玉葛《タマカツラ》、 絶事無《タユルコトナク》、【六之十三、】 不絶《タエヌ》、【十之三十一、】 無怠《タエズ》、【十二之四十、】
 
玉勝間《タマカツマ》、 相《アハム》、【十二之九、】 安倍島山《アベシマヤマ》、【同三十四、】 島熊山《シマクマヤマ》、【同三十九、】
 
玉垂乃《タマダレノ》、 越乃大野《コスノオホノ》、【二之三十一、】
 
玉手次《タマダスキ》、 畝火之山《ウネビノヤマ》、【一之十六、集中散在、】 懸《カケ》、【一之八、】
玉手次は、玉はほむる詞、玉|手襁《ダスキ》なり、采女《ウネメ》は青衣を著て、領巾《ヒレ》、手襁《タスキ》など懸て御膳に供奉すれば、采女と云意につゞくるなり、采女と畝火と殊なるに、かく取成てつゞくる(40)は事の本《モト》あり、允恭紀云、四十二年春正月乙亥朔戊子、天皇崩、冬十一月、新羅弔使等、喪禮既〓而還之、爰新羅人、恒愛2京城傍耳成山、畝傍山1、則到2琴引坂1顧v之曰、宇泥※[口+羊]巴椰《ウネメハヤ》、彌彌巴椰《ミミハヤ》、是未v習2風俗之言語(ヲ)1故訛2畝傍山1謂(ヒ)2宇泥※[口+羊]1、訛(テ)2耳成山(ヲ)1謂2彌彌1耳、時倭飼部從2新羅人1聞2是辭(ヲ)1而疑v之、以爲新羅人通2采女1耳、乃返之啓2于大泊瀬皇子1、皇子則悉禁2固新羅使者1而推問、時新羅使者啓(テ)之曰、無v犯2采女1、唯2京傍之兩山1而言耳、則知2虚言1皆原、此故事に依て、かくはつゞくるなり、是は三條内大臣實隆公の、初て御覽じ出させ給へる御説の申、或人に承侍りき、天武紀下云、十一年春三月甲午朔辛酉、詔曰、親王以下百寮諸人、自今已後、位冠及|襷褶脛《マヘモヒラオビ》裳莫v著、亦膳夫、采女等之手繦|肩巾《ヒレ》、【肩巾、此云2比例1、】並莫v服、神代紀上云、手繦此云2多須枳《タスキト》1、此自注ある故に、今は肩巾をのみ注せられたり、文武紀云、慶雲二年夏四月丙寅、先v是諸國采女|肩巾《ヒレノ》田、依v令(ニ)停(ム)v之、至(テ)v是(ニ)復v舊焉肩巾田とは、肩巾の料の田なるべければ、此時又肩巾を掛る事を赦させ姶ふ歟、然らば手襁も同じく赦さるべし、延喜式采女司式云、凡諸節會(ノ)日、正及令史、供2奉御膳1、凡神今食、新甞會、官人二人、各給2細布※[衣+畢]一條1、采女八人【新甞會、十人、】各望陀布|※[衣+畢]《チハヤ》一條、【六尺、】凡(ソ)釆女四十七人、賜d近2宮城1地(ヲ)、【令史用2采女朝臣氏1、】清少納言云、釆女八人、馬にのせて引出たり、青すそごの裳《モ》、裙帶《クンタイ》、領巾《ヒレ》などの、風に吹やられたるいとおかし、
 
(41)玉劔《タマツルギ》、 卷宿妹《マキヌルイモ》、【十二之四、】 卷寢志妹《マキネシイモ》、【十二之三十四、】
 附、劔刀《ツルギタチ》、 於身副不寐者《ミニソヘネネバ》、【二之三十一、】 身副妹《ミニソフイモ》、【十一之二十六、十四之二十三、】
 
玉緒之《タマノヲノ》、 長《ナガ》、 短《ミジカ》、 絶《タエ》、【以上集中散在、】 島意《シマゴヽロ》、【十一之四十二、】
 
玉匣《タマクシゲ》、 敷多我美也麻《フタガミヤマ》、【十七之三十四、】 蘆城乃河《アシキノカハ》、【八之三十四、】 將見圓山《ミムマトヤマ》、【二之十一、】 三室戸山《ミモロトヤマ》、【七之二十二、】 奥《オク》、【三之三十七、】 安氣弖乎知欲利《アケテヲチヨリ》、【十五之三十一、】
 
靈剋《タマキハル》、 内《ウチ》、【一之八、五之三十七、神功皇后紀、仁徳紀、古事記下仁徳天皇段、】 玉切《タマキハル》、 命《イノチ》、【八之二十、十一之十六、集中散在、凡九箇處、】 吾山之於《ワガヤマノウヘ》、【十之十五、】 幾代《イクヨ》、【十七之四十一、】
第五の山上憶良の老身重病経v年(ヲ)辛苦及思2兒等(ヲ)1歌の發端に云、靈剋内限者、【謂、瞻浮州(ノ)人、壽一百二十年也、】此に依て命とつゞけたるを思ふにたましひ〔四字右○〕のきはまる内と云意にて、内と云詞はおけるなるべし、キハル〔三字右○〕はきはまる〔四字右○〕のま〔右○〕を略したる詞なり、靈刻とかける事、集中四箇處あり、然れば是正字なるべし、年切|世《ヨ》とも讀たれば、限ある者とて、伊久代經(42)爾家牟《イクヨヘニケム》とも繼《ツヽ》けたる歟、袖中抄に、第一卷に、内乃大野と云上のタマキハル〔五字右○〕を、玉|刻春《キハル》とかけるに付て、今の歌は、命に寄たる事ともなければ、思ひやるに、是は別事にや、若たまき射る春と云事を、射る〔二字右○〕の詞を略せる歟、十節録、黄帝與2〓尤1合2戰于※[さんずい+豕]鹿之野1、〓尤有2鐡身1、黄帝(ノ)之箭不v中、黄帝仰v天祈v之(ヲ)、時玉女降v自v天、反2閉〓尤1、身如v湯解(テ)被v殺畢、仍(テ)取(テ)2〓尤頭1毬v之、取v眼射v之(ヲ)、云々、又云、毬杖是也、以2彼例(ヲ)1漢土年始用2件事1、國中無2凶事1、云々、仍日本國學2其例(ヲ)1年始打2毬杖1、然則毬杖玉尅春云也、云々、今云、此義、あしからざる歟、以上、顯昭義なり、此十節録と云は、誰人の作にか、文章甚拙し、はか/”\しからぬ人の聞書なるべし、先打毬并に毬杖の事は第六に和名を引て注す、和名に、玉尅春と云名見えざれば、纔に此第二の歌を見て、胸臆の推説を作れるなり、若内を打によすと意得て此説をなさば、集中には、唯此一首こそ、さはづゞけたれ、第五の歌は、同じくつゞくと云へど、自義有て別義なり、其外、命と接け、吾山とつゞけ、世とつゞけたるをば如何意得べきや、應神紀を考るに、十五年秋八月、百濟王、阿直岐《アチキ》を遣はして良馬二匹を朝廷に奉る、此阿直岐、經典を能讀ける故に、菟道稚《ウヂワカ》郎子、師としたまふ、帝阿直岐に問給はく、汝に勝れる博士ありやと、阿直岐、王仁と申す者あり、是秀たりと申す、帝、荒田別等を百濟に遣はして王仁を徴たまふ、十六年二月、王仁來り、則菟道皇子、師として諸の(43)典籍を習ひて、通達たまはずと云事なし、是より漢土の文をば、百濟より傳へ聞て、正しくは隋の代に當りてこそ、往來は始まりたれ、さるを神功皇后元年に、忍熊王の軍の先鋒をせし熊之|凝《コリ》が歌に、多摩岐波屡、于池能阿層餓とよみ、忍熊王も同じく讀給へるは如何和會すべき、又武内宿禰を内朝臣と云ひて、此集の第二、第五のつゞきに同じ、此義定て僻説なり、又十節録には毬杖の名を、玉尅春と云と云へるを、顯昭たまき〔三字右○〕を名として、それを射る春と意得られたるは、重て誤を添るなり、若然らば、たまき〔三字右○〕を春打と云意なりと云ひて事足れり、たまきを射る春と云意ならば、内とつゞけたるは、打とは取なさるまじければ、如此難ずる人あらば遁がたかるよし、假令又玉尅を春打とつゞくと豆云はゞ、先に云如く、内とつゞけざるをば如何せむ、是等は春と云字に迷へるなり、玉限をタマキハル〔五字右○〕と點ぜるは、カゲロフノ〔五字右○〕と點じ改て、上の玉蜻に附て、其由既に注せり、
 
玉藻刈《タマモカル》、 敏馬《ミヌメ》、【三之十五、】 井提《ヰデ》、【十一之三十五、】
 
玉藻吉《タマモヨキ》、 讃岐《サヌキ》、【二之四十一、】
 
瀧上乃《タキノウヘノ》、未詳、 淺野《アサノ》、【三之四十、】
 
多伎木詐流《タキギコル》、 可麻久良多麻《カマクラヤマ》、【十四之十六、】
 
  曾
蘇邇杼理能《ソニドリノ》、 阿遠岐美祁斯《アヲキミケシ》、【古事記上、】
上の弊都那美の下に注せしが如し、
 
虚見津《ソラミツ》、 倭國《ヤマトノクニ》、【集中散在、神武紀、雄略紀、舊事紀、古事記、】
 附、天爾滿《ソラニミツ》、【一之十六、】
神武紀云、及v至d饒速日命、乘2天磐船1、而|翔2行《メグリテ》太虚《オホソラヲ》1也、睨2是郷u而降之、故因目(テ)之曰2虚空見日本國1矣、舊事紀、古事記等の説、是に同じ、第一に人麿の近江荒都を過る時よまれたる歌に、天爾滿|倭乎《ヤマトヲ》置而と爾の字を加へられたるにて、猶能聞えたり、滿は見に借てかけり、常の如く去聲に讀て、盈滿の意あるにあらず、共に上の虚に引かれて、上聲に呼(45)べし、又共に三の字の和訓の如く、平聲にも呼べし、日本紀等より此集の歌に至るまで、和州の別名に付たる枕詞なるを、唯、第一の雄略天皇の和歌と、第十九の孝謙天皇の御歌によませ給へるは、此國の總名にかかせたまふと見えたり、やまと〔三字右○〕既に別名なるを、總名とすれば、別を以て總に被らしめむ事、然るべき事なり、但、總別の分ちをば意得置べき事なり、
 
袖《ソデ》、 振河《フルカハ》、【十二之十九、】 振山《フルヤマ》、【四之十四、十一之七、】
石上袖振河とよめるに依れば、未通女等之袖振《ヲトメラガソデフル》山とよめるも、袖までは枕詞なるを此集の始終をよく心を付て見ぬ人、未通女等之と云まで枕詞と意得て、袖振山と云山の、別にあるやうになれる故に、此には擧るなり、下の雨零河《アメフルカハ》とつゞきたるをも見合すべし、水垣之久時從と云も、布留の社とこそ聞ゆなれ、
 
  豆
常不《ツネナラヌ》、 人國山《ヒトグニヤマ》、【七之三十三、】
 
(46)繩手引《ツナデヒク》、 海《ウミ》、【十一之八、】
 
角障經《ツヌサハフ》、 石《イハ》、【二之十九、三之二十一、十三之二十八、二十九、仁徳紀、繼體紀、】
仁コ紀御製云、菟怒瑳破赴《ツヌサハフ》、以破能臂謎※[言+我]《イハノヒメガ》、云々、此發句を、私記に注して云、師説、昔孝靈天皇御世、有2邇牛1、欲2以v角(ヲ)破1v堤、堤中忽有2磐石1、觸v角相防(グ)、仍遂不v能v壞、故欲v言2巖石1、先引2此語(ヲ)1乎、袖中抄云、角の字につきてスミ〔二字右○〕とよめるは僻《ヒガ》事にや、石見國に角《ツノ》と云所有と見えたり、されば角と云所を、立さへて見せぬ石とよめるなり、今云、スミサフル〔五字右○〕とよめる古點は云に及ばず、袖中抄につのさふる〔五字右○〕と有も古風ならず、今など讀べくは然るべきか、仁徳紀の歌は右の如し、繼體紀に、春日皇女の御歌にも、都奴娑播府《ツヌサハフ》、以簸例能伊開能《イハレノイケノ》とあれば、今の本の點叶へり、角と云所を立障て見せぬ石とよめるとは、此集、第二の人麿の歌を見て、強て意得て、日本紀の歌を考がへず、私記の説を見られざるなり、假令此集を出ずして云とも、既に第三、第十三の歌をもひかれたるに、共に人麿と同時の作者の歌なるに、人麿の、角の里に限て云はれたる詞を、石村につゞくべしやはと、などか意を著られざりけむ、又角の里を障て見すまじきは、山を初て何くれ(47)と有べし、岩をのみやは取分て云べき、角|※[章+おおざと]經石見之《サハフイハミノ》海乃とつゞけられたれば、然は聞えぬを意得かねて、強て申されたるなめり、
 
妻隱《ツマゴモル》、【屋上乃山《ヤガミノヤマ》、二之二十、矢野神山《ヤノヽカミヤマ》、十之四十三、】
 
次嶺經《ツギネフ》、 山背《ヤマシロ》、【十三之三十五、】
 附、都藝泥布夜《ツギネフヤ》【古事記、磐之媛御歌、二首、】
仁徳紀、私記云、菟藝泥赴《ツギネフ》、師説欲v讀2山城1之發語也、泥者山也、菟藝者繼也、言、山相建繼也、此注明なり、又此集第六、讃2久邇新京1歌云、天下《アメノシタ》、八島之中爾《ヤシマノナカニ》、國者霜《クニハシモ》、多雖有《サハニアレドモ》、里者霜《サトハシモ》、澤爾雖有《サハニアレドモ》、山並之宜國跡《ヤマナミノヨロシキクニト》、川次之《カハナミノ》、立合卿跡《タチアフサトト》、山代乃《ヤマシロノ》、鹿脊山際爾《カセヤマノマニ》、宮柱《ミヤバシラ》、太敷奉《フトシキタテヽ》、云々、仁徳紀云、阿烏珥豫辭《アヲニヨシ》、儺羅烏輸疑《ナラヲスギ》、烏陀弖夜莽苫烏輸疑《ヲダテヤマトヲスギ》、云々、此集第十三云、空見津倭國《ソラミツヤマトノクニ》、青丹吉《アヲニヨシ》、寧樂山《ナラヤマ》越而、山代之、筒木之原、云々、昔|山背《ヤマシロ》とかけるは、奈良山の北に當る國なれば名付る歟、成務紀に山(ノ)陰《キタヲ》曰2背面《ソトモト》1とあるに叶へり、昔は和州に都ありて、彼國を本とすれば然れば大和より山城に越れば、次嶺經とは云なるべし、古事記に、次嶺經《ツギネフ》哉とや〔右○〕の字(48)の添ひたるは、おしてる〔四字右○〕とも、おしてるや〔五字右○〕とも云に准らふべし、かゝれば、一國の内にても、次嶺經とは云べき歟、
 
次來《ツギテクル》、未詳、 中乃水門《ナカノミナト》、【二之四十一、】
 
鴨頭草乃《ツキクサノ》、 移情《ウツシコヽロ》、【十二之二十四、】
 
  禰
 
  奈
※[手偏+求]手折《ナリタヲル》、今按、 多武山《タムノヤマ》、【九之十二、】
 
夏草之《ナツクサノ》、 野島之埼《ノジマガサキ》、【三之十五、】 念之奈要而《オモヒシナエテ》、【二之十九、同三十三、】 阿比泥能波麻《アヒネノハマ》、【古事記、允恭天皇段、】
夏草の打靡くによせて、相寢濱《アヒネノハマ》とつゞけたり、また宵に寢たる萩かななどよめるは靡き伏すを云、常も草木の上に云詞なり、伊勢物語に、」ねよげに見ゆる若草と云も此(49)意なり、木梨輕太子の伊豫へ、流されておはす時、衣通皇女の讀て奉れる歌にあれば伊豫なるべし、
 
夏麻引《ナツソヒク》、 海上滷《ウナカミガタ》、【七之十五、十四之三、】 宇奈比《ウナビ》、【十四之八、】 命《イノチ》、【十三之十、】
奥義抄云、苧《ヲ》をば春、夏、秋など刈る、春のをば春麻《ハルソ》と云、夏のをば夏麻《ナツソ》と云、夏麻引と讀ては、必らずう〔右○〕とつゞけたり、それは、麻の生ひたる處をばう〔右○〕と云なり、あさう〔三字右○〕など云う〔右○〕もじを取らむとて夏麻引とは云なり、苧をば、刈て後に表皮《ウハカハ》を取て捨る物にてあるを引と云なり、又麻をば根ながら引べし、今按、此釋の中に、おぼつかなき事あり先麻は、春の中比に蒔て、六月、若は七月に刈なり、何の間に生立て、春麻と云物の侍るべき、若是は蚕に春夏ある中に思ひわたられたる歟、う〔右○〕とつゞくるは、乎と宇と同音なれば、う〔右○〕もじをを〔右○〕になしてつゞけたりとおぼし、然るを、麻の生ひたる處をばう〔右○〕と云なりとは、推量するに第十一に、櫻麻《サクラアサ》乃|苧《ヲ》原之|下草《シタクサ》、云々、是を今の本に、ヲウ〔二字右○〕と點ぜれば古本も然ありて、それを誤れりとも心のつかずして、かくは注せられたる歟、淺茅生《アサヂフ》、蓬生などの類なり、などか麻の生る處に限りてう〔右○〕と云事のあらむ、引とは績を云べし、されば、夏麻を引て苧になすと云意に、夏麻とは、まだはがぬ程を云ひて、苧と云意(50)につゞけたりと意得べし、上總は、麻の好き國なり、昔は、麻を總と云ひける故に、總國と云ひけるを、今兩國に分てりと云へり、海上滷は上總なれば、枕詞ながら其よせ有にやと思ふを、宇奈比とつゞけたる武藏の歌なれば、彼國の地名なるべきに、是もう〔右○〕もじに付て接けたれば、よせたる意あるにあらず、命とつゞけたるは、麻を引て長き意なれば、長き命とつゞくる意なり、
 
名細寸《ナグハシキ》、 稻見乃海《イナミノウミ》、【三之二十四、】 吉野乃山《ヨシノノヤマ》、【一之二十三、】 狹岑之島《サミネノシマ》、【二之四十二、】
 
奈麻余美乃《ナマヨミノ》、 甲斐乃國《カヒノクニ》、【三之二十七、】
 
  良
 
  武
武路我夜乃《ムロガヤノ》、 都留能都追美《ツルノツヽミ》、【十四之三十一、】
 
紫之《ムラサキノ》、【名高浦《ナダカノウラ》、七之三十九、同四十、十一之四十一、粉滷乃海《コガタノウミ》、十六之二十六、】
 
(51)紫之根延《ムラサキノネハフ》、 横野《ヨコノ》、【十之六、】
 
村肝乃《ムラキモノ》、 心《コヽロノ》、【一之八、四之四十九、十之三十三、十六之十三、】
 附、肝向《キモムカフ》、 心《コヽロ》、【二之十九、九之三十一、古事記仁徳天皇段、】
 
  宇
打靡《ウチナビク、》 【春、第三之五十八紙以下、集中散在。草香乃山《クサカノヤマ》、八之十五、】
 
打上《ウチノボル》、 佐保能河原《サホノカハラ》、【八之十六、】
 
打麻乎《ウチソヲ》、 麻續王《ヲミノオホキミ》、【一之十五、】
 
内日刺《ウチヒサス》、 宮《ミヤ》、【四之二十、五之二十七、七之二十七、十一之三、同五、十二之二十四、十四之十九、同二十六、十六之八、】
 附、内日刺《ウチヒサス》、 都《ミヤコ》、【三之五十四、二十之五十三、】
宮殿の構は高ければ、内に日のさす宮とつゞけたるなり、都とつゞくるも、宮ある處(52)を都と云ひて、本は宮より出る名なる故に、第一には、都宮と二字をつゞけてミヤコ〔三字右○〕とよみ、第五には、都へ上ると云事を、宇知比佐受《ウチヒサス》、宮弊能保留等《ミヤヘノボルト》とよめり、班固西都賦曰、上2反宇1以蓋戴、激《ソヽイテ》2日景1以納v光、張衡西京賦、何晏景福殿賦などにも同じ心に云へり此等の意なり、打日指なども書たれど、内を正字とすべし、
 
打久津《ウツクツノ》、 三宅乃原《ミヤケノハラ》、【十三之二十、】
 
空蝉乃《ウツセミノ》、 世《ヨ》、【集中散在、】 人《ヒト》、【二之廿六、八之五十二、】 妹、【十一之二十六、】 名《ナ》、【十九之二十六、】 八十伴男《ヤソトモノヲ》、【同二十七、】
 附、宇都曾臣《ウツソミ》、
蝉のもぬけをうつせみ〔四字右○〕と云へば世のはかなきことを此によそへて、空蝉の世とは云へり、集中に、空蝉とのみ云ひて、世とする歌多きは、山を足引とのみもよめる類なり、人とつゞけ、八十伴男とつゞけたるも、皆空蝉を世間の意とせるなり、妹とつゞけたるのみ蝉鬢の意にて、艶麗なるをほむる詞なれば、自餘に異なり、第二に人麿の歌(53)に、宇都曾《ウツソ》臣等、念之時、又、宇都曾《ウツソ》臣|念之《オモヒシ》妹とよまれたるも此に同じ、後に、空蝉の鳴とよめる歌あるに付て説々あれど、それ皆無用の事なり、内典に、因中説v果の例と云事に准らへて意得ば、此等の事疑がひなかるべし、末|遂《ツヒ》に蝉はもぬくる物とて、もぬけぬ程にも此名を呼なり、千金を食むと云を意得たらむ人、此にうなづくべし、
 
馬並而《ウマナメテ》、 高山部《タカヤマノヘ》、【十之九、】
 
宇麻能都米《ウマノツメ》、 都久志能佐伎《ツクシノサキ》、【二十之二十七、】
牟麻《ムマ》とあれども、防人が歌にて、東詞なるゆゑに、集中の例を替てかゝれたり、今例に依て、改て此に載す、
 
味酒《ウマザケノ》、 三輪《ミワ》、【一之十三、八之三十二、崇神紀、】 三室山《ミムロノヤマ》、【七之六、】
 附、味酒乎《ウマザケヲ》、 神名火山《カミナビヤマ》、【十三之十三、】
味酒は、日本紀に依らば、唯ウマザケ〔四字右○〕と四文字に讀べし、の〔右○〕もじを加へてよめるもさもあるべし、仙覺ウマサカノ〔五字右○〕と點ぜられたるは僻案なり、必らず用べからず、凡酒を(54)さか〔二字右○〕と云事は、盃、酒壺、など上に置て云時の事なり、下に付て云時、何さか〔三字右○〕と云事は、全くなき事なり、崇神紀云、八年夏四月庚子朔乙卯、以2高橋邑人|活日《イクヒヲ》1爲2大神之掌酒1、【掌酒此云2佐介弭苔1、】冬十二月丙申朔乙卯、天皇以2大田田根子1令v祭2大神1、是日、活日自擧2神酒1獻2天皇1、仍歌之曰、許能瀰枳波《コノミキハ》、和餓瀰枳那羅孺《ワガミキナラズ》、椰磨等那殊《ヤマトナス》、於明望能農之能《オホモノヌシノ》、介瀰之瀰枳《カミノミキ》、伊句臂佐《イクヒサ》、伊久臂佐《イクヒサ》、如此歌之、宴2于神宮1、即宴竟之、諸大夫等歌之曰、宇磨佐開瀰和能等能能阿佐妬珥毛《ウマサケミワノトノノアサトニモ》、伊弟?由介那《イテテユカナ》、瀰和能等能渡塢《ミワノトノトヲ》、於v茲天皇歌之曰、宇磨佐階瀰和能等能能阿佐妬珥毛《ウマサケミワノトノノアサトニモ》、於辭寐羅箇禰《オシヒラカネ》、瀰和能等能渡烏《ミワノトノトヲ》、即開2神宮門1、而幸行之、所謂、大田田根子、今三輪君等之始祖也、和名集云、日本紀私記(ニ)云、神酒、【和語云、美和、】ウマサケ〔四字右○〕は、甘の字をうまし〔三字右○〕ともあまし〔三字右○〕ともよめば、阿と宇と通じて同じ詞なり、味はひのみならす、惣じてよき事をうまし〔三字右○〕と云故に、君子を、日本紀にウマ人〔三字右○〕とよめり、三輪と云名の神に奉る酒の名に通へば、崇神天皇の御時、折節に叶へる枕詞となれり、又土佐國風土記云、神川、訓2三輪川1、源出2此山之中1、屆2伊豫國1、水清故爲2大神1釀v酒也用2此河水1、故爲2河名1也、然れば土佐にある三輪川も、水清ければ、大神のために酒を造て、酒の名に依て三輪川と名付と見えたり、大神とは、大己貴神即三輪明神の御名なり、和名集を考るに伊豫國温泉郡に、味酒【萬佐介、】郷あり、彼河、此に出るにや、三輪山の名の由は、舊事紀第四云、大己貴神、(55)乘2天羽車大鷲1而覓2妻妾1、※[人偏+爾]下下行2於茅渟懸1、娶2大陶祇女子活玉依姫1爲v妻(ト)、往來《カヨフ》之、時(ノ)人非v所v知、而密往來之間、女爲2妊身1之時、父母疑恠問(テ)曰、誰人來(ル)耶、女子答曰、神《カミ》人状來、自屋上1零入來坐、共覆臥耳、爾時父母忽欲2察顯1續v麻作v綜、以2針鈎1係2神人短裳1、而明旦隨v絲尋覓、越v自2鑰穴1、經2茅渟山1、入2吉野山1、留2三諸(ノ)山1、當知2大神1、則見2其綜(ヲ)1遺只有2三※[螢の虫が糸]1、因号2三輪山1、謂2大三輪神社1矣、三室山とつゞけたるは、三輪とつゞくる如く、ことわりのつゞけるにはあらねど、三輪山を、又は三室山とも云故に移し來ておけるなり、甘酒には、また實の浮てあれば、甘酒の實と云意なりと云説は、用べからず、此三輪山は、城上郡|神南備《カミナビノ》三|諸《モロノ》山と云は、高市郡にて、同名異處なり、能わきまふべし、高市郡の三諸山には、味酒とはおかぬなり、神名火山とつゞけたるは、酒を作るをかむと云故なり、依てうまざけの〔五字右○〕とは云はずして、味酒乎とはおけり、
 
于瑳由豆流《ウサユヅル》、 多曳磨免餓務珥《タエバツガムニ》、【仁徳紀、】
ウサユヅルは、于《ウ》と乎と通ずれば、をさゆづる〔五字右○〕なり、をさ〔二字右○〕は藏むるなり、弦の絶たる時、著替べきために、懸替の弦を儲け置なり、依てタエバツガムニ〔七字右○〕とつゞけさせ給へり、神功皇后紀云、時武内宿禰、令2三軍1、悉令2椎結1、因以号令曰、各儲v弦藏2于髪中1、且佩2木刀1、古(56)事記云、爾自2頂髪中1採2出設弦1、【一名、云2宇佐由豆留1、】
 
  井
座待月《ヰマチヅキ》、 開乃門《アカシノト》、【三之三十九、】
 
  乃
野鳥《ノツトリ》、 雉《キヽシ》、【十三之二十五、繼體記、】
 附、佐怒都登理《サヌツドリ》、 岐藝斯《キギシ》、【古事記、八千矛神詠、】
 
  於
大伴乃《オホトモノ》、 【高師能濱《タカシノハマ》、一之二十六、三津、一之二十七、以下集中散在、】
此つゞけやう、いまだ其意を得ず、但、下の見津見津四久米《ミツミツシクメ》とつゞける所に至て、推量の趣を述べし、第四、賀茂女王歌には、大伴乃《オホトモノ》、見津跡者不云《ミツトハイハジ》、とよまれたり、
 
大鳥《オホトリノ》、 羽易乃山《ハガヘノヤマ》、【二之三十九、同四十、】
 
(57)大船之《オホフネノ》、 【香取海《カトリノウミ》、十一之八、津守《ツモリ》、二之十三、】 渡乃山《ワタリノヤマ》、【二之二十、】 思憑而《オモヒタノミテ》、【集中散在、】
 
意布袁余志《オフヲヨシ》、 斯※[田+比]都久阿麻《シビツクアマ》、【古事記下、清寧天皇段、】
是は、顯宗天皇いまだ弘計《ヲケ》王にておはしましける時、召たまはむとする美人、名は大魚を、平|群《グリ》眞鳥大臣の子鮪臣、取むとする時、讀かはし給ふ御歌にあり、鮪は大きなる魚なれば、大魚|吉《ヨシ》、鮪《シヒ》衝海人と、彼が名によせてよませたまへり、
 
大王《オホキミ》之、 天之河原《アマノガハラ》、【十之三十三、】 卸笠山《ミカサノヤマ》、【七之七、八之三十八、】
 附、君之服《キミガキル》、 三笠之山《ミカサノヤマ》、【十一之三十、】 君がきる御笠(ノ)山、【古今集、貫之、】
 
於布之毛等《オフシモト》、 許乃母登夜麻《コノモトヤマ》、【十四之二十四、】
 
奥鳥《オキツドリ》、 【鴨、十六之二十五、神代紀下、味經乃原《アヂフノハラ》、六之十四、】
味經乃原とつゞけたるは、實には、味と云鳥につゞけたるなり、
 
(58)臨照《オシテル》、【臨照哉、同、】 難波《ナニハ》、【集中散在、仁徳紀、古事記下、仁徳天皇段、】
 
  久
呉織《クレハトリ》、 綾《アヤ》、【後撰集、】
後撰集、戀三云、おほやけ使にて東の方へ罷りけるほどに、初て相知て侍る女に、かくやむ事なき道なれば、心にもあらず罷ぬるなど申て下り侍りけらを、後に改め定めらるゝ事有て召返されければ、此の女聞て、悦びながら問につかはしたりければ、道にて人の心ざし送て侍りけるくれはとりと云綾を、ふたむらつゝみて遣はしける、清原諸實、くれはとりあやに戀しく有しかば兩村山も越ず成にき、くれはとり〔五字右○〕は、應神紀云、三十七年春二月戊午朔、遣2阿知使主、都賀使主於呉1令v求2縫工女1、爰阿知使主等、渡2高麗國1、欲v達2于呉1、則至2高麗1、更不v知2道路(ヲ)1乞2知v道者於高麗1、高麗王乃副2久禮波、久禮志二人1爲2導者1、由v是得v通v呉、呉王於v是與2工女兄媛、弟媛、呉織、穴織四婦女1、此中に、呉織も、工女の名なり、はとり〔三字右○〕は機織なり、多於を反せば登となる故に、はとり〔三字右○〕と云なり、今登の字を濁て云は誤なり、氏の服部の如く讀べし、さて此工女が名を以て名とせる綾あ(59)りて、日本紀に、端の字、匹の字、並にむら〔二字右○〕と讀たれば、二匹なるべき歟、ふたむら山〔五字右○〕は、和名集云、尾張國山田郡兩|村《ムラ》、【布多無良、】此地なり、委は袖中抄を見るべし、
 
紅之《クレナヰノ》、 淺葉乃野良《アサハノノラ》、【十一之三十九、】
 
草枕《クサマクラ》、 多胡能伊利野《タゴノイリノ》、【十四之十二、】 旅《タビ》、【集中處處散在、】
欽明紀云、藉v草班v荊、野に伏、山に寢て、枕だになくて草を結ぶ由なるが、旅寢のあはれなるなり、枕詞ならねど、草枕ゆふなど常の事なり、重之歌に、舟路には草の枕も結ばねば、おきながらこそ夢も見えけれ、げにも舟路の旅に、草枕ゆふなどはよむべきやうなけれど、此集第十五に、久佐麻久良《クサマクラ》、多妣由久布禰《タヒユクフネ》とよみたれば、枕詞は沙汰の外なり、
 
萬葉集代匠記惣釋枕詞上
 
(1)萬葉集代匠記惣釋枕詞下
 
  也
八補蓼乎《ヤホタデヲ》、附、水蓼《ミヅタデヲ》、 穗積《ホヅミ》、【一六之二十一、十三之四、水蓼、】
 
八雲立《ヤクモタツ》、 出雲《イヅモ》、【神代紀上、景行紀、古事記上、】
 附、八雲刺、出雲、三之四十八、
古事記上云、茲大~初作2須賀宮1之時、自2其地1雲立騰、爾作2御歌1、其歌曰、夜久毛多都《ヤクモタツ》、伊豆毛夜弊賀岐《イヅモヤヘガキ》、都麻碁微爾《ツマゴメニ》、夜弊賀岐都久流《ヤヘガキツクル》、曾能夜弊賀岐袁《ソノヤヘガキヲ》、舊事紀は、此意に同じけれども歌なし、日本紀には、歌のみ注にありて、雲立騰れる由なし、八雲とは八〔右○〕は物の多きに云へば、多く雲《クモ》の立を云べし、古今集序の古注に、八色の雲の立を見てとあるはさもこそ侍らめど、本文共に見えねばおぼつかなし、釋日本紀に、出雲國風土記を引(2)て云、號2出雲1者、八束水臣津野《ヤツカミヅオミツヌノ》命、詔2八雲立詔1之故、云2八雲立出雲1、此外は、第三、八雲刺とよめる所に注す、
 
山多豆乃《ヤマタツノ》、 迎、【二之八、九、六之四十一、古事記下、允恭天皇段、】
 附、山多都禰、 迎、【二之八、】
 
山際從《ヤマノハニ》、 出雲、【三之四十八、】 遠津之濱、【七之十七、】
 
夜岐多知乎《ヤキタチヲ》、 刀奈美能勢伎《トナミノセキ》、【十八之十七、】
 附、夜伎多知能《ヤキタチノ》、 刀其己呂《トココロ》、【二十之五十四、】
 
八隅知之《ヤスミシシ》、 我大王《ワガオホキミ》、【集中處々散在、古事記下、雄略天皇段二首、仁徳紀、雄略紀、繼體紀、推古紀、聖武紀、】
此枕詞、集中に二十餘もある中に、多分、今の如く書たれば、此を正字とすべし、八方を知しめす君と云意に.やすみしらし〔六字右○〕と云良〔右○〕を略せるなり、草壁太子を日並知皇子とも申す時の知〔右○〕の字に同じ、仙覺抄に、知字の一音は師なり、假令如d寺官中之知客、謂c之師可u、是は僻案なり、宋朝の禅宗を傳へ來て後、彼宗に、其比の音を以て云名目なるを、(3)何ぞ往古にめぐらすや、唯上に云如く和語なり、之〔右○〕は立をたゝし〔三字右○〕と云が如し、古語なり、過にし方を云詞にあらず、又仙覺、すみ〔二字右○〕としま〔二字右○〕とを通はして、八洲《ヤシマ》なりと云ひて、無窮の料簡をなし、八隅と云説を嫌へり、詞林採葉抄、此に依れり、此等の事、智ある人は信ずべき程の事にあらねど、將來の童蒙のために、今彼難をときて、却て彼説を破すべし、彼難に云、天子は一國の上天をも領したまへば、八方を知しめすとのみ云べからず、云々、是いはれなき事なり、四海を治むと云は、常の事なり、四海は四夷なり、是も亦上下を漏せりと云べしや、然らば汝が云處の八洲知之を許すとも、上下は漏べし、天子の事を申すに、十方を知しめすと云へる事、いまだ聞及ばず、上天下地は唯|八隅《ヤスミ》とも八洲《ヤシマ》とも云に兼るなり、又云、又方角、もとより各別なり、されば或は四方四角とも、或は四方四維とも、或は四方四隅とも、方角既に各別也、何を混亂してやすみ〔三字右○〕と云はむや、云々、今云、俗に、器の四方なるを四角と云、八方なるを八角と云に准らへば、やすみ〔三字右○〕とも云べくや、淮南子墜形訓云、九州之外、乃有2八〓1、寅、亦方千里、【高誘注曰、〓猶v遠也、】八〓(ノ)之外、而有2八紘1、【紘、維也、維落2天地1而爲2之表1、故曰v紘、】四維は四角を云に、此八紘は八維の意なれば、又やすみ〔三字右○〕とも云へりや、猶是等は今按なり、慥なる證を出すべし、文選東京賦云、八靈爲v之震※[立心偏+習]、注(ニ)李善曰、楚辭曰、合3五岳與2八靈1、王逸曰、八靈八方之神也、呂延濟曰、八方之神、尚猶驚※[立心偏+習]、(4)此八靈の義は注の如し、古賢、是をやすみのかみ〔六字右○〕と點ぜるときは、八方〔二字右○〕とやすみ〔三字右○〕と云にあらずや、若やしま〔三字右○〕をやすみ〔三字右○〕と云はゞ、やしま〔三字右○〕は此國の事なれば、やものかみ〔五字右○〕とも點ずべし、然るをかく點ぜしは、紛なく八隅なり、若方角殊なりと堅く執せば、八方とも云べからぬを、八方とも云へば、八隅ともなどか云はざらむ、又|八洲《ヤシマ》國とも大八洲《オホヤシマ》ともよめば、八洲知之とよまむに何の嫌はしき事有てかやすみ〔三字右○〕と云べき、仙覺の説は、極めて僻事なり、
 
  末
眞鳥住《マトリスム》、 卯名手之神社《ウナテノモリ》、【七之三十三、十二之二十八、】
 
麻欲婢吉能《マヨヒキノ》、 與許夜麻《ヨコヤマ》、【十四之二十九、】
 
眞十鏡《マソカヾミ》、 見宿女乃浦《ミヌメノウラ》、【六之四十七、】 見名淵山《ミナフチヤマ》、【十之四十六、】 盖上山《フタカミヤマ》、【十九之二十二、】
 
眞葛延《マクズハフ》、 春日之山《カスガノヤマ》、【六之十九、】
 
摩左棄逗羅《マサキツラ》、 多多企阿藏播梨《タタキアザハリ》、【繼體紀勾大兄皇子御歌中、】
(5)マサキヅラは眞辟葛なり、葛《カツラ》をつら〔二字右○〕とのみも元へり、古事記の歌に、波比母登富呂市《ハヒモトホロフ》、登許呂豆良《トコロツラ》とあるも、野老葛なり、俗につる〔二字右○〕と云と同じ、此つゞけさせ給へるやう、其意を知らずと云へども、枕詞と見ゆれば此に出せり、
 
鼻木柱《マキハシラ》、 太心《フトキコヽロ》、【二之三十、】 爾布乃河、【七之十五】 泉河《イヅミノカハ》、【十三之七、】
 
眞木葉乃之奈布《マキノハノシナフ》、 勢能山《セノヤマ》、【三之二、】
 
眞木立《マキタテル》、 不破山、【二之三十四、】 荒山、【一之二十一、三之十三、】
 
眞木割《マキサク》、 檜【一之二十二、古事記下雄略天皇段、繼體記、】
 
眞菅吉《マスゲヨキ》、 宗我乃河原《ソガノカガラ》、【十二之二十七、】
 
  計
 
  不
(6)古衣《フルゴロモ》、 【打棄人《ウチステヒト》、十一之二十五、又打山《マツチヤマ》、六之三十六、】
 
二鞘之《フタサヤノ》、 家乎隔而《イヘヲヘダテヽ》、【四之四十四、】
是は家ヲ隔テヽと云はむためにて、家の枕詞には有べからざる歟、先此に載す、彼處《カレ》に注するが如し、
 
布奈藝保布《フナキホフ》、 保利江乃可波《ホリエノカハ》、
 
冬隱《フユゴモリ》、 春《ハル》、【七之三十二、十之六、同十三、】
 
笛竹《フエタケノ》、 夜聲《ヨゴエ》、【六帖、】
 
冬木成《フユコナリ》、 ハル《ハル》、【第一之十二以下、集中散在、】
此發語、集中に、皆如此三字にのみかけり、今按、フユキナス〔五字右○〕と讀べきか、五日蠅成《サバヘナス》、鶉《ウヅラ》成、水鴨成《ミカモナス》など、此類數しらず、皆ナス〔二字右○〕とよめり、冬木は、春に成て芽《メ》の張ば、春を張と云ひなさむとて云へる詞なり、第八に、冬木乃上とも、冬木(ノ)梅《ウメ》ともよめり、
 
(7)  古
衣袖乎《コロモノソデヲ》、 枕香《マクラカ》、【地名也、十四之十八、】
 
衣手之《コロモテノ》、 高屋《タカヤ》、【九之十二、】 田上山《タナカミヤマ》、【一之二十二、】 名木乃河《ナキノカハ》、【九之十一、】 眞若乃浦《マワカノウラ》、【十二之三十六、】 常陸國、【九之二十二、】
常陸國風土紀云、倭武尊、巡2狩東夷之國1、幸過2新治之縣1、所v遣2國造昆那良珠命1、新(ニ)令v掘v井(ヲ)、流泉淨澄、尤有2好愛1、時停(テ)乘v興、翫v水洗v手(ヲ)、御衣之袖、垂v泉而沾、依2漬v袖(ヲ)之義1、以爲2此國(ノ)之名1、風俗諺(ニ)云、筑波山黒雲掛衣袖漬國是也、此に依れば、ヒタシ〔三字右○〕の國と云べきを、之と知と同韻なれば、ヒタチ〔三字右○〕と云歟、又同風土記云、往來道路、不v隔2江海(ノ)之津濟1、郡郷(ノ)之境堺相2續山川之峰谷1、取2近通之義1、以爲2名稱1焉、常に常陸とかき續日本紀に常道とかきたる、同じく後の意なり、然れば、恆陸には衣手の詞、相叶はねども、味酒三輪と云を移して、三室ともつゞくる如く漬《ヒタシ》國とつゞけたるを、常陸に移したる歟、
 
擧騰我瀰※[人偏+爾]枳謂屡《コトガミニキヰル》、 箇皚比謎《カゲヒメ》、【武烈紀、】
(8)神功皇后紀云、三月壬申朔、皇居選2吉日(ヲ)1入2齋宮1、親爲2神主1、則命2武内宿禰1令v撫v琴、喚2中臣烏賊津(ノ)使主1、爲2審神者(ト)1因(テ)以2千|※[糸+曾]《ハタ》高※[糸+曾]1、置2琴|頭《カミ》尾1、而請曰、先日教2天皇1者|誰《イツレノ》神(ソ)也、願(ハ)欲v知2其名1、逮2于七日七夜1乃答(テ)曰、云々、此に依れば、琴頭來居影《コトカミキヰルカケ》とつゞけさせ給へる歟、琴の音に催ほされ給て、神の影向ある意に、物部影媛と云女の名をそへさせ給へるなり、
 
琴酒乎《コトサケヲ》、 押垂小野《オシタレヲノ》、【十六之二十七、】
 
牝牛乃《コトヒウシノ》、未詳、 三宅《ミヤケ》、【九之二十八、】
 
兒等手乎《コラガテヲ》、 卷向山《マキムクヤマ》、【七之五、同二十五、十之五、】
 
狛劔《コマツルギ》、 和射見我原《ワザミガハラ》、【二之三十四、】
 
戀衣《コヒゴロモ》、 著楢乃山《キナラノヤマ》、【十二之二十七、】
 
隱口《コモリクノ》、泊瀬《ハツセ》、【一之二十九、以下集中散在、古事記允恭天皇段、雄略紀、繼體紀、】
此發語に、二つの意あるべし、一つには、第一の二十九葉に、隱國乃泊瀬乃川とかき、第(9)十三の二十五葉に、長谷小國《ハセヲグニ》とよめるを引合せて按ずれば、古事記に、三輪の大神の倭之|青垣《アヲカキ》東山とのたまへる御室山よりも、猶奥に籠れる泊瀬の郷なれば隱國と云歟、二つには、隱國とかける處は、唯一處なり、隱口とかける處はあまたあり、山口のこもりて、奥深き山とて名付たる歟、長谷をはつせ〔三字右○〕とよめるは義訓なり、此かきやうを以て思ふに、後の義なるべし、此隱口〔二字右○〕をかくらく〔四字右○〕とよめるは、古事記の輕太子の歌、日本紀の雄略天皇の御歌、並春日皇女の御歌より、此集中に、假名にもかきたるを考がへずして、打見たるまゝによめるなり、こもりえ〔四字右○〕とよめるは、口〔右○〕の字の草を、江〔右○〕の字の草と見まがへてよめるなり、又六帖の歌に、かくらくの、とませの山に〔かく〜右○〕とあるは隱口|泊瀬《ハツセ》山、とかけるを、ともに讀あやまれるなり、
 
薦枕《コモマクラ》、 高、【武烈紀、三代實録、六帖、神樂歌、常陸風土記、】
薦枕は、常の枕よりは高き意に高し〔二字右○〕とつゞく、武烈紀に物部影媛が歌に、擧慕摩矩羅《コモマクラ》、※[手偏+施の旁]箇播志須擬《タカハシスギ》云々、高橋は、大和國添上郡にあり、三代實録には、法華寺に坐ます薦枕高御産栖日神社に贈依したまふ由あり、六帖云、薦枕高瀬の淀に、刈薦のかるとも我は知らで頼まむ、神樂の薦枕のつゞき、是に同じ、仙覺抄に、常陸風土記の歌とて(10)薦|枕多珂《マクラタカノ》郡と云へり、かゝれば、高き〔二字右○〕と云には、何事にも置べき枕詞なり、此集第七に、薦枕|相卷之兒《アヒマキシコ》とよめり、
 
  江
 
  天
 
  安
味乃住《アヂノスム》、 渚沙乃入江《スサノイリエ》、【十一之三十八、十四之三十二、】
 
味凍《アヂコリノ》、 綾《アヤ》、【二之二十六、六之十一、】
第六には、如此かけり、是に依れば、若味凍は、昔の綾の名歟、假令|呉織綾《クレハトリアヤ》の類なり、第二に、味凝文とかけり、上は共に同じ義なり、文とつゞく意、綾ならずば、色の聚まる文《アヤ》と云義にや、色を味と云ひたる事、外にはいまだ見及び侍らず、※[田+比]盧遮那經云、染(ル)2彼(ノ)衆生界1、以2法界味(ヲ)1、疏に釋して云、味者色、如2袈裟味等1云々、かゝれば、内外典に猶此意あるべし、畫をかく人の、五色を調和して、種々の色を成し、人畜、山川等を畫く如くなるを云(11)にや、
 
在根良《アリネヨシ》、 對馬、【一之二十六、】
 
蟻衣乃《アリギヌノ》、 寶之子、【十六之八、】
古事記に、伊勢國の三重娘が歌云、阿理岐奴能美弊能古賀《アリキヌノミヘノコカ》、云々、ありぎぬ〔四字右○〕の事は、此集に、猶、第十四、十五にもよめれば、彼處に注す、三つがさね著る意につゞくるなるべし、三重は、伊勢の郡の名にて、氏にもせるなるべし、
 
青旗乃《アヲハタノ》、 葛木山《カツラギヤマ》、【四之十六、】 忍坂山、【十三之三十一、】 木旗《コハタ》、【二之二十三、】
 
青丹吉《アヲニヨシ》、 寧樂《ナラ》、【集中散在、仁徳紀、武烈紀、古事記仁徳天皇段、】
 附、阿乎爾與斯《アヲニヨシ》、 久奴知《クヌチ》、【五之六、】
袖中抄云、喜撰式云、平城京を青丹吉と云、今按、此説誤なり、仁徳天皇の后、磐之媛の御歌に、既に讀給へり、何ぞ平城京を云と云はむ、奥儀抄に、物の色を云には、丹青をむねとするなり、されば畫圖をも、いろ/\あれど丹青と云也、黄色は、丹が色の薄也、黒紫(12)は、青が色のこきなり、而平城の新都のめでたきをほむとて、青丹青ナラ、とは云なり、是、さきの喜撰式につれて破れぬ、其上、丹を丹砂とせられたるは更に誤なり、顯昭は崇神紀を引て和珥の武※[金+操の旁]《タケスキ》坂の上に鎭座し忌瓮《イムヘ》は青瓷なり、仍青瓷よきなら、とは可v號也、アヲニヨシ〔五字右○〕とは訛也、委見2日本紀第五(ニ)1、今云此青瓷又出2于日本紀(ニ)1者、尤可v用v之(ヲ)、私詞ならば不v可v用、慥可v考2本文1也、【以上、袖中抄、】今按、此青瓷の説は顯昭私に推量してかくやと思ひて義を立らるれども、青瓷と云器、崇神天皇の御時有べしや否のおぼつかなさに後難を憚て注を加へられたる歟、和名集云、唐韻云、瓷、【疾〓反、俗云2〓器1、之乃宇豆波毛乃、】瓦器也、瓷は、和名なきに依て、音を以て和名とせり、崇神天皇の御時は、三韓だにいまだ通ぜざりしかば、まして、中華の音を以て、器の名を呼べからず、崇神紀にも、唯忌瓮とこそ云ひたるを、いかで青瓷とは定むべき、假令青瓷にて、それをあをに〔三字右○〕と訛れりとも、さらばアヲニヨシ〔五字右○〕和珥《ワニ》とこそつゞくべけれ、それより進て那羅山に登て、草木を※[足+滴の旁]※[足+且]《フミナラ》すに依て、其山を那羅山と云とあれば、奈良には置べからず、以上の義ども皆叶はず、又抽中抄云、萬葉抄云、あをによしならとは奈良坂に昔は青き土の有けるなり、それを取て繪かく丹につかひけるに、よかりけるなり、されば、かくよめると云々、今按、此説近し、但、奈良坂と限り、往古の事にて物にもみえぬをみづから見たらむやうに云へるぞ(13)意得られぬ、集中に、多く青丹吉とかき、第十三の六葉に、緑青|吉《ヨシ》平山《ナラヤマ》過而とあれば、青丹とは、緑青《ロクシヤウ》を云と知られたり、山海經云、丹、以v赤爲v主、黒白、皆丹之類也、かゝれば緑青をアヲニ〔三字右○〕と云べき理なり、玉藻|吉《ヨシ》讃岐、眞菅吉《マスケヨシ》宗我《ソカ》の河原など云如く、古しへ、奈良よりよき緑青を出したる歟、さてかくはつゞけ來れるなるべ、うつぼ物語春日祭云、しもつかへは、あをにに楊かさねきたり、源氏物語若菜下に、宮の御方にも、かくつどひ給ふべく聞たまひて、わらはべのすがたばかりはつくろはせたまへり、あをにに柳のかざみ、云々、袈裟の色を、佛の説せたまふに、青、黒、木蘭の三色あり、藍にて染る青色は、東色の正色にて許されず、此青と云は銅青なれば、俗に木賊色と云に當れば、うつぼの青丹も是なるべし、
 
安大部去《アタベユク》、 小爲手乃山《ヲテノヤマ》、【七之十九、】
 
賊守《アタマモル》、 筑紫國、【六之二十五、二十之十八、】
 
梓弓、 欲良能夜麻《ヨラノヤマ》、【十四之二十四、】 引豐國、【三之二十六、】 末之|腹野《ハラノ》、【十一之二十六、】
 
荒妙乃《アラタヘノ》、 藤原、【一之二十二、】 藤井我原、【一之二十三、】 藤井乃浦、【六之十七、】
 
(14)霰打《アラレウツ》、 霰《アラレ》松|原《ハラ》、【一之二十六、】
 
霰零《アラレフル》、 遠津大浦、【十一之三十五、】 遠江、【七之二十八、】
 
霰零《アラレフリ》、 鹿島、【七之十五、二十之二十七、】 吉志美我高嶺、【三之二十九、】
 
浣衣《アラヒキヌ》、 取替河《トリカヘカハ》、【十二之十九、】
 
天飛也《アマトブヤ》、 鴈《カリ》、【十之五十、十五之二十一、】
 附、輕《カル》、【地名也、三之三十七、四之二十三、十一之二十八、允恭紀云、阿摩〓霧箇留〓等賣《アマトフカルヲトメ》、】
 
海小船《アマヲフネ》、  泊瀬乃山《ハツセノヤマ》、【十之六十三、】
 
天傳《アマツタフ》、日《ヒ》、【二之二十七、七之十六、日箕浦、十三之十一、十七之七、】
 
阿麻陀牟《アマダム》、 加流乃袁登賣《カルノヲトメ》、【古事記下允恭天皇段、】
(15)アマタ〔三字右○〕は天田歟、神代紀云、日神之田、有2三處1焉、號曰2天安田、天平田、天邑并田1、此皆良田、雖v經2霖旱1、無v所2損傷1、此意歟、又、文選東京賦云、躬三推2於天田1、脩2帝籍(ヲ)之千畝1、注、呂延濟曰、天田(ハ)天子之籍田、我朝にも此天田あるべれば是にや、輕大娘を輕|處女《ヲトメ》と云ひて田を刈によせたり、
 
雨隱《アマゴモリ》、 三笠乃山《ミカサノヤマ》、【六之二十七、】
 
天離《アマザカル》、 夷《ヒナ》、【集中處々散在、神代紀下、】
天サカルは、此集に、猶天放、天疎ともかき、神勲皇后紀にも.天疎とかゝれたり.神代紀下云、阿磨佐箇屡避奈兔謎廼《アマサカルヒナツメノ》、云々、是よりさきの歌云、阿妹奈屡夜《アメナルヤ》、乙登多奈婆多廼《ヲトタナハタノ》、云々、初に出す歌、一篇の意を得ずと云へども、後に出す歌の二句に依て、初の二句を意得るに、天疎夷津女之《アマサカルヒナツメノ》と云は、天に遠ざかりたる下界の女云意なるべし、古事記下、雄略天皇段に、伊勢三重妹が歌云、麻紀佐久比能美加度《マキサクヒノミカド》、爾比那閉夜爾《ニヒナヘヤニ》、淤斐陀弖流《オヒダテル》、毛毛陀流《モモタル》、都紀賀延波《ツキガエハ》、本都延波《ホツエハ》、阿米袁淤弊理《アメヲオヘリ》、那加都延波《ナカツエハ》、阿豆麻袁淤弊理《アヅマヲオヘリ》、志豆延波《シヅエハ》、比那袁淤弊理《ヒナヲオヘリ》、云々、此歌、最末枝は天を負ひ、中枝は東《アヅマ》を負ひ、下枝《シツエ》は鄙《ヒナ》を負ふとあれば、下界をひな〔二字右○〕と云ひて、東方の外の三方の遠國を以て、下界に配する歟、和名に、文選西京(16)賦を引て、邊鄙を阿豆萬豆と訓ずる時は、あづまの詞、四方の田舍に通ずと云へども、詞の起れる由も、是は關東に限れり、本朝は陽國にて、東を云事、餘方に異なり、崇神紀云、四十八年春正月己卯朔戊子、天皇勅2豐《トヨ》城命、活目尊《イクメノミコト》1曰《ノ》、汝等《イマシ》二(ノ)子《ミコ》、慈愛《ウツクシヒ》共(ニ)齊、不v知2曷《イツレカ》爲1v嗣、各|宜《・ベシ》v夢、朕以v夢(ヲ)占v之、二(ノ)皇子、於v是被v命、淨沐而祈寐得(ツ)v夢(ヲ)也、會明、兄豐城命以2夢(ノ)辭(ヲ)1奏2于天皇1曰、自登2御諸山1、向東而八廻弄v槍、八廻撃v刀、弟活目尊、以2夢(ノ)辭(ヲ)1奏言、自登御諸山之嶺1繩(ヲ)※[糸+亘]2四方1、逐2食v粟雀(ヲ)1、則天皇相v夢、謂(テ)2二子1曰、兄則一片向v東、當v治2東國1、弟是悉臨2四方1、宜v繼2朕位(ニ)1、四月戊申朔丙寅、立2活目尊(ヲ)1爲2皇太子1以2豐城命(ヲ)1令v治v東、是上毛野君、下毛野君之始祖也、是四方の中に、東をば殊にせり、此等の意にて中津枝ハアヅマヲ負と云歟、此集第三に、人麿の歌に、天離夷之|長道《ナカチ》從戀|來者《クレハ》、云々、是は筑紫より上らるゝ時の歌なるべし、其ゆえ、第六に石上乙麿卿配2土左國1時歌に、天離夷部爾罷、云々、第十七、八、九の三卷に、家持北國にてよまれたる歌に此詞多し、然れば西海道、南海道等に亘る詞なり、但第一卷に、人麿歌云、天|離《サカル》夷者雖有|石走淡海《イハハシルアフミノ》國乃、云々、近江は、東山道の初なるを、かくよまれたれば、准らへて云はゞ東海道をも云べき歟、但是は邊鄙をあづまづ〔四字右○〕とよめる如く、別を以て惣に被らしめて云とも意得べし、又歌にはあづまの詞を、筑紫などには通はして云はねば、ひなの詞をも、吾妻には通はすまじくや、或説に、天さかると(17)は、天のひきくさがれる意と云は、天疎等とかけるを考がへ見ぬ臆説なり、又王子淵聖主得2賢臣1頌云、今臣僻在2西蜀(ニ)1、此僻と云へる心を以て見るべし、
 
朝霞《アサカスミ》、 鹿火屋《カビヤ》、【十之五十三、十六之十五、】
 
阿佐志毛能《アサシモノ》、 瀰概能佐烏磨志《ミケノサヲハシ》、【景行紀、】
是は景行天皇十八年秋七月、筑後國御木に到らせ給ひて、高田(ノ)行宮にまします時に、彼處に僵れたる樹あり、長さ九百七十丈なり、百寮其樹を踏て往來を見て、時の人のよめる歌の詞なり、私記云、朝霜易v消也、欲v讀2瀰概1之發語也、今按、温庭※[竹/均]が詩にも、人迹板橋霜と作りて、朝霜は、物より殊に橋の上に見ゆる物なれば、次の一句にかゝる詞歟、サヲハシ〔四字右○〕は竿橋《サヲハシ》なるべし、獨樂の如くなれば、此木は歴木《クヌキ》なり、委は紀に見えたり、今の三毛郡の名、是に依てつけたり、
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麻裳吉《アサモヨイ》、 紀《キ》、【集中處處散在、】
 附、木上宮《キノウヘノミヤ》、【二之三十五、】 城於道《キノウヘヂ》、【十三之二十八、】
(18)此枕詞は、此集中を、能見て意得て、更に他の妄談に迷ふべからず、今出す書やうは、第四之二十三紙、笠金村歌によれり、是正字なり、麻裳は麻衣なり、爾雅(ノ)※[刑の立刀がおおざと]〓(カ)疎(ニ)云、案、詩※[北+おおざと]風、〓邑苦葉篇(ニ)云、〓(ニ)有2苦葉1、濟有2深淺1深則※[礪の旁]、淺則掲、故此先引2詩(ノ)文1然後釋v之、云v刑(ト)者掲v衣也、對v文言之則在(ヲ)v上曰v衣(ト)在(ヲ)v下曰v裳、散而言v之則通、是以此經、言v掲v衣(ヲ)、註(ニハ)言(ヘリ)v※[塞の土が糸]v裳、曲禮云兩手枢v衣、去v齊尺衣亦謂2之裳1也、云々、和語の通局も、此に准らへて知べし、集中に、麻裳は、さま/”\に書たれども、吉の字は、一様に此を書て、一度も他字をかけることなければ、奈良の枕詞の青《アヲ》丹吉を、阿乎爾與斯《アヲニヨシ》、阿遠爾與志《アヲニヨシ》など假名にかけるに准らへて此をもアサモヨシ〔五字右○〕と點ずべきを、五卷抄序と云物に、安佐母與比《アサモヨヒ》とかけるを、貫之作と云に所を置けるにやあらむ、集中アサモヨイ〔五字右○〕と點ぜるは、吉〔右○〕の字の、さすがにヨヒ〔二字右○〕と點ぜられねば、ヨイ〔二字右○〕とは點ぜるなり、凡そ吉〔右○〕の字に付て云はゞ、よく〔二字右○〕と云べきをよう〔二字右○〕と云ひ、よき〔二字右○〕と云べきをよい〔二字右○〕と云如きの詞は、物語などにはかくべし、歌にはさきはひ〔四字右○〕をさいはひ〔四字右○〕と云へる類、ひとつふたつに過べからず、それもさいはひ〔四字右○〕などの如く、上にある時こそはたらかさめ、下にある時は通はすべからず、今、アサモヨイ〔五字右○〕と點ぜるは、仙覺の、味酒をウマザカ〔四字右○〕と點ぜられたる類にて、すわらぬ物なり、さま/”\にかける中に、麻裳吉を正字とすべしと云は、第七之十八紙云、麻衣著者夏樫木國之妹(19)背之山二麻蒔吾妹《アサゴロモキレバナツカシキノクニノイモセノヤマニアサマクワギモ》、歌の心は彼處に注せり、此歌のも思ひて云なり、昔は、紀の國よりよき麻衣を出せるなるべし、然れば、玉藻吉《タマモヨシ》讃岐とつゞくる如く、名物を以て呼て、木《キ》と云字に付ておける詞にはあらぬなり、城上宮におけるは、大伴の、みつとは云はじ、石上ふるとも雨に、などつゞけたる如く、木と、城と、詞の通へば、移し來て借ておけるなり、問、五卷抄序は、先達引て此を證とせり、今何ぞ是を用ざるや、答て云、其説、既に此集に背ける事先の如くなる上、貫之の文は、本朝文粹尾に、新撰和歌集序一篇を載たり、今の序と云物と、玉石遙に殊なり、後人貫之の高名を借て、僞はり作れる歟、
 
秋柏《アキカシハ》、 潤和川《ヌルヤカハ》、【十一之十一、】
 附、朝柏、【十一之三十八、】
 
秋風之《アキカゼノ》、 千江之浦《チエノウラ》、【十一之三十五、】 山吹瀬、【九之十一、】
 
蜻島《アキツシマ》、 大和、【十三之九、同三十一、十九之三十九、二十之五十、有略紀、】
神武紀に三十有一年夏四月乙酉朔、皇輿巡幸、因登2腋上〓間丘1而廻2望國状1曰、妍哉乎國之獲矣、【妍哉、此云2〓奈珥夜1、】雖2内木綿之眞〓國1、猶2如|蜻蛉臀〓《アキツノトナメセル》1焉、由v是(ニ)始有2秋津《アキツ》洲之號1也、神代(20)紀に、豐秋津洲とあるは、後の記なるに依て、初に廻らしてかけるなり、神代に此名ありしにはあらず、雄略天皇、蜻野に御獵したまへる時、御臂に虻のくひつきけるを、蜻蛉《アキツ》の飛來て、彼虻をくひて、將ていにける時、帝彼蜻蛉の心ある事をよろこびてよませ給へる御歌にも、舸矩能御等《カクノゴト》、儺※[人偏+爾]於婆武登《ナニオハムト》、蘇羅瀰豆《ソラミツ》、野摩等能矩※[人偏+爾]嗚《ヤマトノクニヲ》、婀岐豆斯麻登以符《アキヅシマトイフ》とよませたまへり、此集の歌どもゝ、此枕詞を置て、やまとゝよめるは和州なるを、後には本朝の總名とせり、凡そ神代紀に、大日本豐秋津洲とあるは、八洲《ヤシマ》の中の別名にて、和州なり、但、四國、九州等を除て、四十餘國を攝したる歟、やまと〔三字右○〕を以て本朝の惣名とせるは、譬へば、仁は五常の稱首なるに依て、道ある人を呼て仁者と云が如くなるべし、大日本豐秋津洲と云を、私記に注して云、可v爲2我國(ノ)之總名1歟、而大八洲之専一也、是爲2何國1哉、答、代々講書之時、不v見2此間答1、但先師相傳云、此今(ノ)大倭(ノ)國、陰陽二神、最初(ニ)依v生2此國(ヲ)1、以2我國之總名(ヲ)1號v之、又云、先師説云、總而謂v之者、日本國之號也、別而謂v之者、大和國也、且當紀一書(ノ)文、大己貴幸魂奇魂欲v住2於日本國之三諸山1云々、以2大知國1稱2日本國1是也、今按此先師説と云義、甘心せられず、指南としたし、又私記に日本書紀の題號の初の二字を釋して云、天地剖判、泥濕未v乾、是(ヲ)以栖v山往來、因多2蹤跡1、故曰2山跡1、山謂2之(ヲ)耶麻1、跡謂2之止1、又古語、謂2居住1爲v止、言止2住於山1也、此釋、又甘心せられず、依て合せ(21)て云なり、先やまと〔三字右○〕と云は、本一國の別名なり、神武紀に東有2美地1青山四周と鹽土老翁と云神の宣まひしは是なりとぞ、是別名を以て惣名とするなり、此國の※[手偏+總の旁]名は.豐葦原國、大八洲國などなり、いまだ此國の惣名をもて別名とすと云事、紀にみえざる事なり、既に淡路洲、伊豫二名洲、筑紫洲などに簡て、大日本豐秋津洲と云を、此國の※[手偏+總の旁]名なりと云へるは僻事なり、又大己貴奇魂欲v住2於日本國之三諸山1とのたまへるは、日本國とかゝれたるに目を付て云なり、神代に此文字有てのたまふにあらず、惣、別互に通じて云時、別名にも、かくかゝれたり、此を引までもなく、其義は、八洲を云時、大日本豐秋津洲とあるにて知られたり、是彌別名と云義の潤色なり、
 
天在《アメニアル》、 左佐羅能小野、【三之四十六、十六之三十一、】 日賣菅原《ヒメスガハラ》、【七之二十七、】
 
葦原《アシハラノ》、 水穗之國、【二之二十七、九之三十三、十三之三、同十八之二十、古事記、神代紀、】
神代紀上云、豐葦原千五百秋瑞|穗《ホ》之地、云々、私記云、問、此地之號、若有v意哉、答、此國者是肥饒豐富(ノ)之國也、凡肥美(ノ)之地、葦草多生、故取喩v之、殊云2千五百秋1者、是遠指3長久之秋、必得2珍之稻穗(ヲ)1也、指云2千五百蓋古人以爲2極多之數1歟、今按、瑞穗と云を、私記に稻穗と注(22)せるは、千五百秋と云へるに目を付たるか、葦原瑞穗(ノ)國と云ひ、又此集第二には、葦原とも云はずして、水穗國とのみもよまれたれば、稻穗にはあらず、千五百秋葦原瑞|穗《ホノ》國と云心にて、秋は年の意なり、千秋萬歳の秋の如し、天地開闢の初め、物しも多かる中に、真状葦|牙《カヒ》の如くなる物の生て、すなはち國常立尊と云神となれるは、我朝の濫觴なれば、葦原の名は、是を根とする歟、稻麻、竹葦は、繁き事のためしとなる物なれば、行末かけて繁茂すべき意は、私記の説の如くなるべし、瑞穗とは、瑞は祥瑞にて、ほめたる詞なり、穗は、物の拔出て高く顯はれて見ゆるを云、稻《イネ》薄《スヽキ》などの穗より、人の思ひの穗に出ると云ひ、火勢の上るを火の穗と云ひ、似つかぬやうなれど、船の帆に至るまで、皆下の心は同じかるべし、然れば葦の穗によそへて、天孫の天降らせたまひて、かゝるめでたき國となるを、かくはつゞくるなるべし、又、舊事紀、古事記に、豐葦原之千秋長五百秋之水穗國《トヨアシハラノチアキノナガイホアキノミヅホノクニ》とあるに依れば、神代紀の千五百《チイホ》秋も、千五百年と云にはあらず、多き事を千秋|五百《イホ》秋と云へるなり、此集第十八に、家持の、眞珠を願はるゝ歌に、五百千《イホチ》モハモ、とよめるが如し、神代紀上云、時|伊弉册尊《イサナミノミコトノ》曰、愛也吾夫君、言2如此1者、吾當v縊2殺汝所v治國民日將|千頭《チカウヘ》1、伊弉諾(ノ)尊乃報曰、愛也吾妹、言2如此1者、吾《アレハ》則當v産2日將千五百頭(ヲ)1、是は千人を殺さむとのたまへば、然らば我は千五百人を生しめむと宣まふなれ(23)ば、此千五百には殊なり、依てチイホアキ〔五字右○〕と點じて、チヽノアキアマリイホアキとは點ぜざるなり、又神代紀等に、葦原中國と云へるは、大和の國なり、神武紀の始終を能見て、其意を得べし、
 
安之我知流《アシガチル》、 難波、【二十之十八、同二十六、同三十四、】
 
足引《アシヒキノ》、 山、【集中散在、古事記允恭天皇段、允恭紀、顯宗紀、】
日本紀第十三、允恭紀に、輕太子の歌云、阿資臂紀能《アシヒキノ》、椰摩娜烏菟※[糸+句]利《ヤマタヲツクリ》、云々、私記に、此發句を注して云、言(ハ)山行之時、引v足而歩(ムナリ)也、今按、此集第四之四十二葉湯原王の歌に、足疾《アシヒキ》とかき、第七之二十五葉に、足病とかけるを、私記の説に合せて按ずるに、山は病の略語にて、足、山を行には、木の株、石の尖《トガリ》にて、足など蹈損じてなへぐ〔三字右○〕ことあれば、其意に名付たる歟、後撰集第十戀二(ニ)云、物のたうびける女の許に文つかはしたりおけるに、こゝちあしとて返事もせざりければ又つかはしける、足引のやまひはすともふみ通ふ跡をも見ぬは苦しき物を、大江朝綱の歌なり、此女の煩は、足の氣なりけるにや、此人は累代の名儒なる上、其身拔羣の人にて、和漢兼備せられければ、足引の本説を存(24)知してこそよまれ侍りけめ、以上の義を正説とすべし、顯宗紀に、脚日來此傍山《アシヒキノコノカタヤマ》とあるは、日來の二字は、假字なるべし、此集に、葦引ともかける故に、又一説あり、其外一角仙人の説、或は此國にても、後の帝の時に付て説々あれど、允恭紀の歌に見えたるにて、諸説の非を知べし、私記の説、朝綱の歌、并に此集の書やう、符合せるものなり、足引とのみ云ひて、山とせるは、玉桙と云ひて、道とする壘なり、三之四十四、八之二十八、十一之三十、十六之七、十七之四十六、此等の處にあり、菅家も、足引のこなたかなたに道はあれど、とよませ給へり、又第十三に、野行山行とつゞけたるは野のために云にあらず、山行と云につゞくるなり、
 
天降付《アモリツク》、 天之芳來山《アマノカグヤマ》、【三之十六、】 附、神之香《カミノカク》山、【同十九、】
 
  左
坂鳥乃《サカトリノ》、 朝越座而《アサコエマシテ》、【一之二十一、】
 
佐豆人之《サツヒトノ》、 弓舟我高《ユツキカタケ》、【十之五、】
 
(25)佐泥佐斯《サネサシ》、 佐賀牟能袁怒《サガムノヲヌ》、【古事記中、景行天皇段、見2于日本武尊妾弟橘媛之歌1、】
サガムノヲヌ〔六字右○〕は、相模|小野《ヲノ》なり、舊事本紀第十にも.相武國造とあり、上の句、いまだ其意を得ざれども、枕詞と見ゆいれば、此に出せり、
 
左其呂毛能《サコロモノ》、 乎豆久波禰《ヲツクハネ》、【十四之十、】
 
佐左浪乃《ササナミノ》、 淡海、 志賀等、【集中散在、】
サヾは小波なり、さゞら浪とも、さゞれ浪とも云へり、近江は、本は淡海なり、鹽海に對して云へば、浪も大浪などは、たゝぬ意に云へる發語なり、又さゞ浪とのみ云ひて、やがて近江の名ともせり、古事記の仲哀天皇段(ニ)云、故逃2退逢坂(ニ)1對立亦戰、爾追迫敗、出2沙々那美(ニ)1、悉斬2其軍(ヲ)1、同應神天皇段に、佐佐那|美遲袁須久酒久登《ミヂヲスクスクト》、和賀伊麻勢婆夜《ワカイマセハヤ》と遊ばされたるも、淡海より還幸の時、よませ給へる御歌にて、サヾナミヂ〔五字右○〕は、近江路なり、神功皇后紀云、忍熊王、曳v兵稍退、武内宿禰、出2精兵1而追v之、適遇2于逢坂1以破、故號2其處1曰2逢坂1也、軍衆走之及2于狹狹浪(ノ)栗林《クルス》1而多斬、孝徳紀に、畿内を定めさせ給ふにも、北(ハ)自2近江狹々波(ノ)合坂山1以來とあれば、只さゞなみと云も、枕詞に置も、往昔よりの事なり、天(26)智天皇の御時より云と云説は、いはれぬ事なり、又さゞ浪、さゞら浪は同じ事なる故に、第二には,神樂波之志賀左禮浪《サヾナミノシガサヾレナミ》とよみ、第三には、小波をサヾレナミと點し、第十三には、サヾラナミ〔五字右○〕と點ぜり、然るを先達の中に、サゞナミ〔四字右○〕は近江に限るべきやうに思はれたるは僻事なり、又此サヾナミを、神樂歌には篠浪とかゝれたれば、後のさ〔右○〕もじ、清ても云ける歟、小の字をいさゝか〔四字右○〕とよめり、いさゝか〔四字右○〕はちひさき意なり、此いさゝか〔四字右○〕を上略する詞に、少許をさゝやか〔四字右○〕などよめる事あり、さゝくり、さゝがに〔八字右○〕など、皆ちひさきを云詞なれば清濁、事に隨がふべし、又此集に、神樂聲浪とかき、神樂浪とかき、略して樂浪とかける所も多きは、義訓をかれるなり、公望日本紀私記、神功皇后紀注云、爲2審神者1、佐爾羽、案2古事記1、天皇控2御琴(ヲ)1而建内宿禰居2於沙庭1、請2神(ノ)之命(ヲ)1於v是大后歸神、言教、云々、師説、沙(ハ)者唱進之義也、言、出居神樂稱2抄佐之庭1也、今代號2撫v琴人1爲2沙庭1者、少有v意、依v相2兼號1耳、又同紀に、譽田皇子、角鹿より歸らせ給ふ時、皇太后、觴を擧て、太子に壽したまふ御歌の終の句にも阿佐孺塢齊《アサスヲセ》佐々とよませ給へり、武内宿禰、太子に替りて奉らるゝ答歌の尾句も、許能彌企能阿椰珥于多娜濃芝枳沙《コノミキノアヤニウタタヌシキサ》、此をも古事記には佐々とあり、かゝればさ〔右○〕と云も、さゝ〔二字右○〕と云も、同じ詞なり、舊事紀云復|天鈿賣《アメノウズメ》命、以2天香山之|小竹《サヽノ》葉1爲2手草(ト)1、云々、阿那佐夜〓竹葉《アナサヤゲハノ》聲也、云々、此に依れば、天照大神を天磐(27)窟《アマノイハヤ》より出し奉らむために、鈿女《ウヅメノ》命の手草に、小竹葉をして打振はれしに依て、日神の再たび出させ始へば、小竹を振ふ聲と云意に、神樂聲とかける歟、若は往古の神樂の詞に、佐々と云事の有ける歟、第十六に天爾|有哉《アルヤ》、神樂|良能小野《ラノヲノ》とも借て書たれば、いかさまにもさゝ〔二字右○〕と云詞は神樂に付たるなり、又楚辭、宋玉招魂云、乃下招(シテ)曰、魂兮歸來去2君(ノ)之恒幹1、何爲兮四方些、舍2君之樂處1、而離2彼不祥1些朱紫陽注云、些(ハ)説文云、語詞也、沈存中(カ)云、今〓峽湖湘及南北江※[獣偏+瞭の旁]人、凡禁咒句尾、皆稱v些、乃楚人舊俗、西域咒語末、皆云2娑婆訶1、亦三合而爲v些也、此筆談の説に依れば、唐にも亦些を以て祝語とする事、此國と通ぜり、
 
三枝之《サキグサノ》、 中、【五之三十九、】
 
指進乃《サシスキノ》、 栗栖乃小野、【六之二十四、】
 
刺竹之《サスタケノ》、 君、【推古紀、】 皇子《ミコ》【二之二十六、同三十五、】 大宮人、【六之二十一、四十三、四十四、十五之三十五、】 舍人壯《トネリヲトコ》、【十六之八、】
(28)推古紀に、上宮太子の御歌云、佐須※[こざと+施の旁]氣能枳彌波夜那祇《サスタケノキミハヤナキ》云々、此上句を、私(ノ)記に注して云、師説謂v矢(ヲ)也、言、以v矢(ヲ)刺v身之事(ハ)甚可2恐懼1、故欲v言v君之發語、有2此(ノ)辭1也、或説、古謂d刺2胡※[竹/録]1之矢u爲2刺矢1也、※[こざと+施の旁]氣(ハ)謂2v矢也、今按、刺竹と云は、本竹の名歟、此集第十一云、刺竹齒隱有吾背子之、云々、第十三云、刺將燒《サスタカム》小屋之四忌屋爾、云々、又同卷云、日本之黄楊乃|小櫛乎抑刺刺細子彼曾吾※[女+麗]《ヲクシヲオサヘサスサスタヘノコハソレゾワガツマ》、此サスタカム〔五字右○〕とよめるも、彼刺竹をたかむする小屋とよめる歟、刺細ノ子とよめるも、彼刺竹のしなひたる如くなるを云へる歟、舍人|壯《ヲトコ》とつゞけたるは、上に打氷刺《ウチヒサス》宮尾見名と云る、隔句對の如く讀たれば、足引を以て山とする如く、刺竹に君、或は皇子を籠たるべし、後の歌に、さゝ竹の大宮人とよめるは、今の耳には聞よけれど、古の人の、頭を掉《フラ》むや、うなづかむや、料りがたし、
 
  幾
肝向《キモムカフ》、 心、【二之十九、九之三十一、、古事記、仁徳天皇段、】
古事記云、又續遣2丸邇臣口子(ヲ)1而歌曰、美母呂能《ミモロノ》、曾能多迦紀那流《ソノタカキナル》、意富韋古賀波良《オホヰコガハラ》、意富韋古賀波良邇阿流《オホヰコガハラニアル》、岐毛牟加布《キモムカフ》、許々呂袁※[こざと+施の旁]邇《ココロヲタニカ》、阿比淤母波受阿良牟《アヒオモハスアラム》、是は磐之媛皇(29)后の帝を恨奉り給ふ事ありて、難波の宮へは入らせ給はで、山城の筒城《ツヽキノ》宮へ入らせたまひける時、初に舍人鳥山を以て御歌を遣はされ、次に此御歌を遣はさるゝなり、此オホヰコガ原ニアルキモムカフ心、ちゞけさせ給へるやうはかりがたし、若きも〔二字右○〕のき〔右○〕の一文字を木〔右○〕となしてよませたまへる歟、
 
  由
往影乃《ユクカゲノ》、 月《ツキ》、【年月之月也、十三之九、】
 
木綿疊《ユフタヽミ》、 手向山《タムケヤマ》、【六之三十五、十二之三十四、】 田上山、【十二之二十五、】 白月山、【十二之二十五、】
 
暮去者《ユフサレハ》、 小倉《ヲクラ》乃山、【八之三十一、九之七、】
 附、夕月夜、 小倉山、【山城、古今集、大井河序、】
古今集貫之歌云、夕月夜小倉の山に鳴鹿の聲のうちにや秋は暮らむ、大堰河序云、月の桂の此方《コナタ》、春の梅津より御舟よそひて、渡守を召て、夕月夜小倉山のほとり、行水の大井の川邊に行幸したまへば、云々、夕月夜とおけるも、夕去者と云に同じ、
 
(30)  女
 
  美
御佩乎《ミハカシヲ》、 劔池《ツルギノイケ》、【十三之十九、】
 
瀰箇始報《ミカシホ》、 破利摩破椰摩智《ハリマハヤマチ》、【仁徳紀、】
ミカシホは三日潮なり、ハリマハヤマチは、播摩速待《ハリマハヤマチ》なり、人の名なり、私記云、師説、三日之潮、其沈急速、故欲v讀2早待1之發語、置v此(ヲ)言乎、
 
水渟《ミヅタマル》、 池、【十六之二十一、應神紀、古事記中、應神天皇段、】
第十六云、水渟池田乃|阿曾《アソ》、古事記云、美豆多麻流《ミヅタマル》、余佐美能伊氣能《ヨサミノイケノ》、云々、日本氣、是に同じ、皆池と云につゞけり、
 
三栗乃《ミツグリノ》、 中、【九之二十、同二十八、應神紀、古事記中、應神天皇段、二首、】
 
見津見津四《ミツミツシ》、 久米《クメ》、【三之四十九、神武紀、三首、】
(31)神武紀、道(ノ)臣命(ノ)歌云、瀰都瀰都志《ミツミツシ》、倶梅能固邏餓《クメノコラガ》、云々、又天皇の御歌にも、此二句を初に置てよませたまへる事二首なり、古事記(ニ)云、爾大久米命、以2天皇之詔1詔2其伊須氣余理比賣1之時、見2其太久米命黥利目1、而思v奇歌曰、阿米都々《アメツツ》、知杼理麻斯登々《チドリマシトト》、那杼佐祁流斗米《ナドサケルトメ》、爾大久米命答歌曰、袁登賣爾《ヲトメニ》、多陀爾阿波牟登《タダニアハムト》、和加佐祁流斗米《ワガサケルトメ》、此に依れば、久米命の、目を黥《サキ》て、睨まへたる如くなるに依て、見津見津之《ミツミツシ》とは云なるべし、上に出せる大伴ノミツ、とつゞくるも、第四に、賀茂女王の歌に、大伴乃|見津跡者不云《ミツトハイハジ》とあるを思ふに.神武紀に、大伴氏之遠祖道臣命、帥2大來目部1、とあれば、伴を主に攝して、大伴氏をも見津見津之と云意につゞけたる歟、高師能《タカシノ》濱とつゞけたるは、三津につける所なれば、三津とつゞくる心を移してつゞけたるにや、
 
蜷腸《ミナノワタ》、 香黒髪、【五之九、七之二十七、十三之二十、十五之十七、十六之八、】
或説に、蜷と云貝の腸は黒き物なれば、黒しと云はむとては、蜷腸と置と云へり、和名集云、崔禹錫(カ)食經云、河貝子、【和名、美奈、俗用2蜷字1非也、音拳、連蜷虫屈貌也、殻上黒狹長似2人身1者也、】今按、ミナ〔二字右○〕は、いと少さき貝にて、腸など、黒しとも、白しとも、取出て云ばかりの物にあらず、蜷腸とは、假て書て、※[魚+生]の背腸《ミナワタ》なり、黒き物なれば、かくはつゞくるなり、和名集云、本朝式云、年魚、氷頭《ヒツ》、背腸《ミナワタ》、【年魚】(32)者|鮭魚《サケ》也、氷頭者比豆也、背腸者、美奈和太也、或説云、謂v背爲v皆、訛也、】延喜式云、信濃國調、鮭、楚割、氷頭、背腸《ミナワタ》、鮭(ノ)子、越中國、鮭(ノ)氷頭、鮭|背腸《ミナワタ》、鮭子、魚の腸は背の方に附てありといへば、背腸と書歟、和名集に三※[月+焦]、【美乃和太、】とあれば、是と意通る歟、考がふべし、
瀰儺曾曾矩《ミナソソグ》、 思寐能和倶吾《シヒノワクゴ》、【武烈紀、】
 
ミナソヽグ〔五字右○〕は、水灑なり、シビノワクゴ〔6字右○〕は、鮪若子《シヒノワカコ》なり、是は眞鳥の大臣の男、鮪《シヒノ》臣を、武烈天皇、いまだ太子にてまし/\ける時、物部影媛がよめる詞なり、
 
瀰儺曾虚赴《ミナソコフ》、 於瀰能烏苫※[口+羊]《オミノヲトメ》、【仁徳紀、古事記、雄略天皇段、】
 附、美儺矢駄府《ミナシタフ》、 ※[糸+于]嗚《ウヲ》、【繼體紀、】
ミナソコフ〔五字右○〕は水底經《ミナソコフ》なり、オミノヲトメ〔六字右○〕は臣處女《オミノヲトメ》なり、かくつゞけさせ給へるやう、叡慮測りがたし、後の歌に、みなくゞるあみのはがひとよめり、あみ〔二字右○〕は水鳥なり.河と於と通して、水に潜て底を經るあみとつゞけさせ給へる歟、又|於《オ》のひともじを乎《ヲ》に通して水底を經る魚と云意につゞけさせ給へるか、繼體紀に、春日皇女のよませ給へるは、水下經魚なり、
 
(33)水薦苅《ミクサカル》、 信濃、【二之十一、】
 
宮材引《ミヤキヒク》、 泉之追午喚犬《イヅミノソマ》、【十一之二十七、】
 
御食向《ミケムカフ》、 木※[瓦+缶]宮《キノベノミヤ》、【二之三十二、】 味原宮《アヂフノミヤ》、【六之四十六、】 淡路乃島、【六之十八、】 南淵山《ミナフチヤマ》、【九之十二、】
 
三雪零《ミユキフル》、 越《コシ》、【十二之三十五、十七の四十四、十八の二十九、】 吉野、【十三之二十、】
 
耳高之《ミヽタカノ》、 青菅山《アヲスゲヤマ》、【一之二十三、】
 
  之
白妙乃《シロタヘノ》、 袖《ソデ》等、【集中處處散在、】 君之手枕、【十一之四十三、】
 
芝付乃《シハツキノ》、 御宇良佐伎《ミウラサキ》、【十四之二十六、】
 
(34)斯乎布禰乃《シヲフネノ》、 那良敝?《ナラヘテ》、【十四之十八、】
シヲフネ〔四字右○〕は鹽|船《フネ》なり、東歌なる故に、斯保を斯乎《シヲ》とかけり、ナラベテ〔四字右○〕は、もやふ〔三字右○〕を云、それをくらぶる心にそへたり、方舟と書て、舟をナラブ〔三字右○〕とも、モヤフ〔三字右○〕とも點ぜり、
 
四長鳥《シナガトリ》、 居名、【集中散在、七之十二、同十七、十一之三十三、】 安房、【九之十七、】
此枕詞に付て先達の説々ある事、委袖中抄に擧て、自義をも加へられたり、今按、此詞集中に四箇處見えたり、志長鳥居名野《シナガドリヰナノ》、四長鳥居名之《シナガドリヰナノ》湖、水長鳥安房《シナガドリアハ》、四長鳥居名山《シナガドリヰナヤマ》、是なり、初に注する次の如し、第三に、吾妹兒二《ワキモコニ》、猪名野者《ヰナノハ》令見|都《ツ》、第七に.猪名乃浦|廻乎榜來者《ワヲコギクレハ》、第十六に、猪名川之奧乎深目而《ヰナカハノオキヲフカメテ》、此等は猪名と書たれども、初の三首は皆居〔右○〕の字をかけり、是撰者の心あるなり、先、安房とつゞくるより、注すべし、景行紀云、五十三年秋八月丁卯朔、天皇詔2羣卿1曰、朕顧愛子、何日止乎、冀欲v巡2狩小碓王之所v平之國1、是月乘輿幸2伊勢1、轉(テ)入2東海1、冬十月至2上總國1、從2海路1渡2淡水門1、是(ノ)時聞2覺賀|鳥之《トリノ》聲1、欲v見2其鳥形(ヲ)1、尋(デ)而出2海中1、仍得2白蛤1、云々、古事記、景行天皇段云、此之御世定2田部1、又定2東之《アヅマノ》淡水門1、又定2膳之大伴部(ヲ)1、和名集云、爾雅集注云、※[且+鳥]鳩、【※[且+鳥]音七余反、和名、美佐古、今按、古語用2覺賀鳥三字1、云2加久加乃止利1、見2日本紀私記1、公望案、高橋氏文云、水(35)佐古、】G屬也、好在2江邊山中1、亦食v魚(ヲ)者也、釋日本紀云、私記曰、師説瑞鳥不v見2其名1也、安大夫説、美左古《ミサコ》、公望案(ニ)、高橋氏文、云2水佐古1、此に依れば、水長鳥は、雎鳩《ミサゴ》の一名歟、舊事紀第十に、相武《サカムノ》國造の次に、師長國造あり、和名集に、相模國|餘《ヨ》綾郡に、礒|長《ナガノ》郷あり、是なるべし、又推古紀云、二十九年春二月、厩戸《ウマヤトノ》皇子尊、薨2于斑鳩宮1、是月葬2上宮太字(ヲ)於|磯《シ》長陵1、しなが〔三字右○〕と云物あればこそ此等の地の名にも付けめ、磯長とは、磯邊《イソベ》に長く集《ヰ》る鳥と云意なるべし、假令みながどり〔五字右○〕と讀とも、とこしなへに水になづさふ鳥と云心、磯長に同じ、此鳥を、又は魚鷹と云、魚を捕こと、鷹の鳥を捕如くなればなり、五雜爼云、有2魚鷹(ト云)者1、終日巡2行(シテ)水濱1、遇(ヘハ)2游泳(スル)水族1、悉啄v之(ヲ)、又有2信天翁者1、不v能v捕v魚(ヲ)立2沙灘上1、俟2魚鷹(ノ)所v得偶墜1則拾食v之、云々、されば磯長の名、相叶へり、安房の水門を渡らせ給ふ鴇、此の鳥の鳴をめづらしく聞召付させたまへば發語とせる歟、第十三に、鳥《トリノ》音之所聞海爾、云々、是は東海にてはよまねど、海は何處も同じければ、彼覺賀鳥より起りて、かくはよめる歟第十一之四十三葉云、大海之荒磯渚鳥、朝名旦名、見卷欲乎、不所見公可聞、是も見まくほしからむずる物いくらもあらむを、中に就て取出てかくしもよめるは、渚鳥と云も、磯長の如く、常に渚に居る鳥とて、雎鳩の一名に付て、景行紀の意を思ひてよめる歟、美沙居石轉《ミサゴヰルイソワ》、三佐呉集荒磯《ミサゴヰルアライソ》、水沙兒居渚座船《ミサゴヰルスニヰルフネ》など、あまたよめると、渚鳥とあまたよ(36)めると通ひて聞ゆ、猪名野などにつゞくるも磯長鳥の下居《オリヰ》る意にて、ゐ〔右○〕の字にかゝる故、其意を顯はさむために、皆居〔右○〕の字はかけるなるべし、鳥の字は、もとより鳥の名なればなり、しながどり〔五字右○〕をしなが取〔四字右○〕ともかゝず、ゐな〔二字右○〕を猪無〔二字右○〕ともかける所なければ鹿のかぎり取て猪のなかりければ云、狩衣の裾を取て居れば云、などは、推量の妄談と申すべし、
 
師名立《シナタテシ》、 都久麻左野方《ツクマサヌカタ》、【十三之二十七、】
 附、志那※[こざと+施の旁]由布《シナタユフ》、 佐々那美遲《サヽナミチ》、【古事記中、應神天皇御製歌中、】
河海抄に、萬葉集の人麿歌とてしなてるやにほの湖に漕舟のまほにも妹に相見てしかなと云を引て證せられたれど、此集に、さる歌なし、
 
級照《シナテルヤ》、 片足羽河《カタアスハガハ》、【九之十九、】
日本紀私記に、聖徳太子の箇多烏箇夜摩爾《カタヲカヤマニ》とつゞけさせ給へる斯那提流《シナテル》を注して云、山|乃之奈倍留《ノシナヘル》也、今按、此注更に叶はず、級は階の級なり、照はほめたる詞なり、宮殿の階の級は、晃|耀《カヽヤク》意なり、さて其級は參差《カタヽガヒ》なれば、片岡山とはつゞけさせ絵へり、遊仙(37)窟云、碧玉縁v陛、參2差於雁齒1、注曰、雁齒者、刻v木亦刻v石爲v之、其形一前一却、如2雁之行列、人鳥(ノ)牙齒形1、今人作2牀脚1、又作2階砌(ヲ)1、皆累縛作(シ)v之、此集、片足羽河とつゞけたる階は、足もかたゞかひに上る物なれば、足と云字までにつゞきたるやうなれど、それはたま/\の事にて、片の一字にかヽれる事、太子の御歌に同じ、
 
相坂在《シナサカル》、 越《コシニ》、【十七之二十六、十八之十四、十九之十一、同三十四、同三十八、】
今出せるかきやうは、第十九の十一紙にあり、假てかける歟、若はしなさかある〔六字右○〕と云意歟、此わたりは、やすちかにかける中にあれば、此字の意にやと思ひて出すなり、日本紀纂疏に、行人、敦賀山坂を越て入る國なれば、越と云とあれば、しな/”\の坂ある意にや、若科坂在とも假てかけるならば、正字は級放にや、舒明紀に、塔の九重塔を、コヽノコシ〔五字傍線〕と點ぜるを以て准らへて思ふに、階の級をもこし〔二字右○〕と云べし、されば、階を下るには、一重と放《サカリ》行意歟、又|夷離《ヒナサカル》國と云意にや、夷離は、上の天放に付たり、
 
志良登保布《シラトホフ》、 手爾比多夜麻《タニヒタヤマ》、【十四之十六、】
 
白鳥《シラトリノ》、 鷺坂山《サギサカヤマ》、【九之十、】
 
(38)白雲乃《シラクモノ》、 龍田山《タツタヤマ》、【六之二十五、】
 
白細砂《シラマナコ》、 三津《ミツ》、【十一之三十五、九之十三、】
 
白檀《シラマユミ》、 石邊山《イソベヤマ》、【十一之九】 春山《ハルヤマ》、【十之十六、】 斐太之細江《ヒタノホソエ》、【十二之二十七、】
 
白縫《シラヌヒ》、 筑紫《ツクシ》、【五之五、二十之十八、】
景行紀云十八年五月壬辰朔、從2葦北1發v船到2火國1、於v是、日沒也、夜冥不v知2著岸1、遙視2火光、天皇詔2挾杪者1曰、直指2火處1、因指v火往之、即得v著v岸(ニ)、天皇問(テ)2其火光之處(ヲ)1曰、何謂邑也、國人對曰、是八代縣豐村、亦尋2其火是誰人之火也1、然不v得v主、茲知v非2人火1、故名2其國1曰2火國1也、同紀云、仍以2弟市鹿文(ヲ)賜2於火國造1、私記、公望云、案肥後國風土記(ニ)云、肥後國者、本(ト)與2肥前國1合(テ)爲2一國1、昔磯城瑞籬宮天皇之世、益城郡|朝來名《アサクナ》峯、有2土蜘蛛1、名曰2打※[獣偏+爰]、頸※[獣偏+爰]、二人率2徒衆百八十餘人1、蔭2於峯頂1、常逆2皇命1、不2肯(テ)降服1、天皇、勅2肥君等祖健緒組1、遣v誅2彼賊衆1、健緒組奉v勅到來、皆悉誅夷、便巡2國裏(ヲ)1、兼(テ)察(ス)2消息(ヲ)1、乃到2八代郡白髪山1、日晩止宿、其夜虚空有v火、自然而燎、稍稍下(テ)著2燒此山1、健緒組見v之、大懷2驚恠1、行事既(ニ)畢(テ)參2上朝庭1、陳2行|壯〔左○〕状1奏言、云々、天皇下v詔曰、剪2拂賊徒(ヲ)1、頗無2西眷1、海上之勲、誰人比v之、又火從v空下燒v山、亦恠、火下之國、(39)可v名2火國1、又纒向日代宮天皇、誅2球磨贈於(ヲ)1、兼(テ)巡2狩諸國(ヲ)1、云々、幸2於火國1、渡v海(ヲ)之間、日没夜暗、不v知所v著、忽有2火光1、遙視(ル)2行前1、天皇勅2掉人1曰、行前火(ヲ)見(ル)、直指(テ)而往、隨v勅往之、果(シテ)得v著v崖、即勅曰、火燎(ノ)之處、此號何邑1、燎之火(モ)亦爲2何(ノ)火1、土人奏言、此(ハ)是火國八代郡(ノ)火(ノ)邑、但未v審2火(ノ)由(ヲ)1、于v時詔2群臣1曰、燎之火(ハ)非2俗火1也、火國之由、知v所2以然1、因2此等文(ニ)1、可v謂v有2二義1、
古今集に、梓弓いそべの小松誰世にか萬代かねて種を蒔けむ、今の石邊山のつゞきに同じ、かやうの事は、唐にもあるなり、遊仙窟云、于v時五嫂、遂(ニ)向2菓子上1、作2機警《ソヘコトヲ》1曰、【又機驚、機者關、驚者急、今人發v言出、更相酬答、應v時即報身者、號2機驚1、機、弩牙、驚、猶v急、弩牙一發、無v所2滯凝1者是也、】但問意如何、相知不v在v棗、【棗(ハ)、借聲、爲v早(ト)也、】十娘曰、兒今正意、密《ムツマシ・キヒシ》不(ラシメテ・スシテ)忍《タヘ》、即分|梨《。マシハル》、【梨、借聲、爲v離也、】下官(カ)曰、忽遇2深恩1、一生有v杏《サイハヒ》、【杏、借聲、爲v幸也、】五嫂曰、當2此之時誰(カ)能(ク)忍※[木+奈]、【※[木+奈]與v耐音粗近、】此類、此國のそへごとに似たり、
 
白菅乃《シラスゲノ》、 眞野、【三之二十、】
 
皮爲酢寸《シノスヽキ》、 久光能若子《クメノワカコ》、【三之二十五、】
此枕詞は、ハタスヽキ〔五字右○〕と讀べきかの事、歌の所に注するが如し、何れにても久米とつゞくるやう、いまだ其意を得ず、若下句の初に、三穗と云はむために遠く此言を置歟(40)十三の長歌に、足引の野行山行とつゞけたるも、少遠近はあれど、詞を隔つる事は同じきにや、
 
嶋津鳥《シマツトリ》、 鵜《ウ》、【十七之四十五、十九之十二、神武紀御製、】
 
磯城島之《シキシマノ》、 大倭《ヤマト》、【十三之九、同十、同二十九、二十之五十一、】
此詞は、和州に、磯城郡磯城島あり、欽明天皇元年秋七月、都を此地に遷させ給ふ、其宮を磯城島金刺《シキシマカナサシノ》宮と申す、若此御代に、磯城島を本として、かく云ひそめて、終に※[手偏+總の旁]名のためにも、枕詞とし、磯城島とのみ云ひても此國の名とするか、常に云ひ馴て易き詞なれど.本據を尋ぬれば難き事なり、集中によめるも、第十三の初の二處は、※[手偏+總の旁]、別、何れと分ちがたし、後の一處は別名なり、第二十にあるは※[手偏+總の旁]名なり、又第十九に勝寶四年十一月二十七日、橘朝臣奈良麿を但馬(ノ)案察使に遣はさるゝ時、林王の餞席にて、大伴黒麻呂が歌云、立別れ君がいまさばしき島の人は我じく祝ひてまたむ、とよめるは、和州をしき島と云へるなり、後に、しき島のみむろの山、しき島の高まど山、などある、是なり、
 
(41)宍串呂《シヽクシロ》、 黄泉、【九之三十六、】
 
  惠
 
  比
比奈久母理《ヒナクモリ》、 宇須比乃佐可《ウスヒノサカ》、【二十之三十六、】
 附、比能具禮爾《ヒノクレニ》、 宇須比乃夜麻《ウスヒノヤマ》、【十四之十一、】
 
日本之《ヒノモトノ》、 山跡國《ヤマトノクニ》、【三之二十八、】
 
久堅之《ヒサカタノ》、 天《アメ》、 空《ソラ》、 【廣通2天象1、集中散在、仁徳紀、】
 附、久堅之、 都、【十三之十、】
此發語、集中に、久方ともかけり、初の意は、久しく堅しと云へるなり、日本紀に、我國開闢の初を説て云、天《アメ》先(ツ)成、而地後定、然後神聖生2其中1焉、云々、其清陽なるものはたなび(42)き上りて天と成て久しく、重濁れるものはとゞこほりて地となる事の遲きなり、天成て久しければ久堅と云べし、又地に對すれば、成る事のさきなれば、久方とも云べし、二つの間、何れ正字と知がたければ、共に並べて用べし、天とも空ともつゞくるは同じ事にて、月、日、雨、雲、などに至るまで、天象には、皆亘して云習へり、又伊勢が、七條后の、月の中の桂の人を思ふとて雨に涙のそひて降らむ、と讀て賜はせたる御かへしに、久かたの中に生たる里なれば光をのみぞ憑むべらなる、と讀て奉りしは、月の名をひさかたと云と聞えたり、此に付て、昔、有ける后のめしたる袴の綻《ホコロ》びて、御膝の白く出たるが月に似たりければ、帝御覽じて、膝形の月はや、と仰られし由云へる古き説は、好事の者の作り出せるなるべし、必らず用べからず、膝の月と見ゆるまで綻びたる袴著たまはむ后何れの世にかおはすべき、申すも畏《カシコ》き事なり、但后の御歌に、月の中の桂の人とよませ給へるにそひて、久カタ〔三字右○〕とは、空を云中に、月を含みたる歟、
 
紐鏡《ヒモカヾミ》、 能登香山《ノトカノヤマ》、【十一之七、】
 
※[糸+刃]緒之《ヒモノヲノ》、 心爾入而、【十二之十五、】
 
(43)  毛
本人《モトツヒト》、 霍公鳥、【十之二十一、】
 
母智騰利乃《モチトリノ》、 可可良波志《カカラハシ》、【五之七、】
 
物部乃《モノヽフノ》、 石瀬之杜《イハセノモリ》、【八之二十三、】 氏川、【十三之六、】 八十氏河《ヤソウイチカハ》、【三之十八、十一之三十四、】 八十乃※[女+感]嬬等、【十九之九、】 八十乃心、【三之十六、】
八十氏河とつゞくるは、舊事本紀第三にも、天神|饒速日《ニギハヤビノ》命を天降し給ふ時も、天物部《アメノモノヽベ》等二十五部人、同帶2兵仗(ヲ)1、天降供奉、とて、二田(ノ)物部富麻物部等、名を擧たり、されば、其子孫ひろごりて限なければ、多き事の限りを八十と云ひて、八十氏川とはつゞけたり、第十八に、物能乃布能《モノヽフノ》、夜蘇氏人毛《ヤソウヂビモ》、與之努河波《ヨシヌガハ》、多由流許等奈久《タユルコトナク》、都可倍追通見牟《ツカヘツヽミム》、此歌をあしく意得てや、或説に、應神天皇の御時吉野より物部參りて、其名をやそうぢと申す者なりと奏す、帝、彼に宅地を山背の國宇治に賜て住しめ給ふ、此に因て、物部の八十氏河と云と云へるは、あさましき事なり、氏河ならで、八十の心、八十の妹とつゞ(44)けたるも、物部の種類の多かる意なり、
 
百不足《モヽタラズ》、 八十隈、【神代紀下、】 椰素磨能紀《ヤソハノキ》、【仁徳紀皇后御歌中、】 八十隅坂、【三之四十七、】 五十日太、【一之二十二、】 山田道、【十三之十五、】 三十槻枝《ミソノツキエ》、【十三之二、】
似上、皆百にたらねばつゞくるなり、仁コ紀に、毛毛多羅儒《モモタラズ》椰素磨能紀破とあるは、八※[木+爪]梭にて、そばのき〔四字右○〕に繁きを宣まふ歟、和名集云、唐韻云、※[木+爪]梭、【孤梭二音、和名、曾波之木、】木也、又四方木也、八は、あまりの百には數の足らぬやうなれど、此集に、山田|道《ミチ》とつゞけたるに同じ、
 
百傳《モヽツタフ》、磐余池《イハレイケ》、【三之四十五、】 八十之島廻《ヤソノシマワ》、【七之四十九、九之十三、同、發句、百傳之、】 都奴賀《ツノガ》、【古事記、應神天皇段、】 度會|縣《アガタ》、【神功皇后紀、】 奴底《ヌテ》、【顯宗紀、】
此集につゞけたるは五十《イ》も八十《ヤソ》も、皆百より内の數なれば、是より傳ひて百とはなれば、さはつゞくるなり、角鹿、度會などは驛を傳ひて行事の遠くて、數の多き意歟、若は角鹿は、津とつゞけさせたまひ、度會は渡《ワタリ》とつゞけさせ給へる歟、津も、渡も、旅行人(45)は、多く道を傳ひ行意歟、顯宗紀の御製は、老嫗置目と云者の、御父押磐皇子の御骸を埋めし所を知て、教へ奉りしに依て、※[血+おおざと]て宮の傍に置たまふに、老嫗、ありく事の安からねば、詔して曰はく、繩を張て引|※[糸+亘]《ワタ》し、それにかゝりて、まゐりまかりいでよ、繩端懸v鐸、無v勞2謁者1、入則鳴之、朕知2汝(カ)到1、云々、奴底は奴里底《ヌリテ》なり、是は、置目が繩を傳ひて、おほくの足を運びて參るを、謨謀逗柁甫《モモツタフ》、奴底喩羅倶慕與於岐毎倶羅之慕《ヌテユラクモヨオキメクラシモ》、とはよませたまへり、
 
母毛豆思麻《モモツシマ》、 安之我良乎夫禰、【十四之六、】
 附、島傳《シマツタフ》、 足速《アシハセ》乃小舟、【七之四十、】
 
百岐年《モヽクキネ》、 三野之《ミヌノ》國、【十三之七、】
 
百小竹之《モヽシヌノ》、 三野《ミヌノ》王、【十三之二十九、】
 
百磯城之《モヽシキノ》、 大宮、【手中處々散在、古事記、雄略天皇段、御製、】
此つゞき、常の説は、第一に、人麿、近江の荒都を過とてよまれたる歌に注せり、今按、百(46)官の座席ある故に、百敷と云といへるは、推量の説なるべし、其故は、此集中を考ふるに、此詞のつゞき、凡そ二十首に近し、其中に、今出せる如くかける處、十餘首、殘る數首も、百式乃、【三之十七、】百石木能、【六之十三、】百師紀能、【六之十二、】百石城乃、【同四十六、】百師木之、【七之三、同二十五、】かやうにかけるは、皆今出せるやうを、少轉じしてかけるなり、此集に、磯城島を志貴島とも、式島ともかき、古事記には、師木島とかける類なり、一處も敷などかける事なし、然れば、崇神天皇、磯城瑞籬《シキノミヅガキノ》宮にして世を知らせ給へる時、疫癘など起りしかども、能神を崇め祭りて治めたまひ、終に泰平に成て、めでたき御代なりければ、其御代を、猶百かさねばかりも、此宮にて知しめせと祝て、大内を百磯城とは名付そめたる歟、此義考る所なしと云へども書やうの然おぼしきなり、其上、衣冠官位等の事も、推古天皇の御代より漸々に委しく成たれ、往古はおろそかなりけるを、雄略天皇の御歌に、毛毛志紀能《モヽシキノ》、淤富美夜比登波《オホミヤビトハ》とよませたまへな、彌百官の座席の義にはあるべからずやと存ず、
 
  世
 
  寸
(47)菅根《スカノネノ》、 惻隱《ネモゴロ》、【六之十九、十一之十、同十一、十二之三、凡六首、】
 
雙六乃《スグロクノ》、 市場《イチバ》、【拾遺集、】
拾遺集云、すぐ六の市場にたてる人妻のあはでやみなむ物にやはあらぬ、是は雙六に、一は十、と云詞あれば、それを市の場に云ひかけたり、市場にたてる人妻は、第十一に、椿市の、八十の衢とよめる歌の處に、武烈紀、大和物語などを引て注せるを見るべし、
墨染乃《スミゾメノ》、 誰彼時《タソガレドキ》、【六帖、】 鞍馬山、【後撰集、】 夕、【古今集、】
後撰集云、墨染のくらまの山に入人は、たどる/\も歸きなゝむ、六帖云、墨染のたそがれ時のおぼろ夜にありこし君にさやに逢見つ、又、只こゝに君きまさぬか墨染のたそがれ時にそのすがた見む、古今集云、墨染の夕になれば、獨居て、あはれ/\と歎あまり、云々、右何れも、暗きを黒き意にづゞけたり、
 
  序歌、
(48)去家之倭文旗帶乎結垂《イニシヘノシヅハタオビヲムスビタレ》、 孰《タレ》、【十一之二十五、】
〔下略〕
(49)〔略〕
(50)〔上略〕
人祖未通女兒居《ヒトノオヤノヲトメコスヱテ》、守《モル》山、【十一之三、】
右枕詞序歌の大※[既/木]なり、猶集中にも、漏たる事多かるべし、常に枕詞と云は、初の五文字、腰の五文字に置を、此集には、一句に餘れば、猶次の句までも云ひかけたり、未通女等之《ヲトメラカ》袖振山、石上袖振河の類、吾瀬子乎莫越山、韓衣|著楢《キナラ》の山《ヤマ》などは、布留《フルノ》山、巨勢《コセ》山、奈良《ナラ》山なるを、かやうにつゞけるによりて、心を著て、集中を龍見ねば、迷はるゝなり、又今出す枕詞は、體ならで、用の詞につゞけたるをも、少々は出せり、又序歌は、今出す外に多けれど、常の事なれば、唯枕詞の長きを、別に名付てそへたり、長歌に、序の長きは(51)第十六に、乞食者、爲v鹿述v痛敬に、平羣乃山爾《ヘグリノヤマニ》と云はむ科に、十一句を置き、第十九に、大伴宿禰家持、詠2霍公鳥并藤花1歌に、葢上山爾と云はむとて、是も十一句を置かれたり、
 
萬葉集代匠記惣釋枕詞下
 
(1) 萬葉集代匠記惣釋第一
 
目録は原書になし、今補ひてこゝに掲ぐ、以下之に倣ふ、
  目録                 頁   行
集中歌數……………………………………………一………四
集中作者……………………………………………二………二
 天子………………………………………………二………三
〔下略〕
(2)(3)〔略〕
(10)〔上略〕
 右の外に
第五卷梅花歌作者、【三十二人、内上出者は九人、】 第二十諸國防人歌作者、
   集中年代
(11)第二云、難波高津宮御宇天皇代磐姫皇后思2天皇1御作歌四首、第四之難波天皇妹奉d上在2山跡1皇兄u御歌一首、第二十終云、寶字三年春正月一日云云、自2仁コ天皇元年1至2寶字三年1凡四百四十六年也、自2寶字三年1至2元禄三年1凡九百三十二年也、
   集中作者の尸の日本紀續日本紀に見えたるもの
集中の作者の日本紀續日本紀に見えたるをば官位行迹等略して是を引けり、天武紀〔以下略〕
(12)〔上略〕
作者の尸をば此を似て其初を知べし、此後賜れる氏姓あれば見及ぶに隨て此を出す、中にも柿本朝臣人麿、山部宿禰赤人は古より世に隱れなき歌仙なるに依て、第十七に大伴宿禰家持同じき池主に贈られし書云、但以2稚時不v渉2遊藝之庭1横翰之藻自乏2乎彫蟲1焉、幼年未v逕2山柿之門1、裁歌之趣詞失2乎※[草がんむり/聚]林1矣と云へり、此に依て系圖時代等見及び考がへ得るに隨て此に別に出す、
   人麿の事
古事記中云、御眞津日子訶恵志泥《ミマツヒコカヱシネノ》命、【孝昭天皇也、日本紀云、觀松彦香殖稻天皇、】坐2葛城掖上宮1治2天下1也、此天皇娶2尾張連之祖奧津余曾之妹名余曾多本※[田+比]賣命1生2御子天押帶日子命1、次大倭帶日子國押人命、【二柱、】故弟帶日子國忍人命者治2天下1也、兄天押帶日子命者【春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、壹比韋臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟岐邪臣、都怒山臣、伊勢飯高臣、壹師君、近淡海國造之祖也、】是に依れば天足彦國押人命の裔なり、父祖官位等は未v詳、※[手偏+總の旁]て人麿の事國史に見えた(13)る事なし、天武紀云、十年十二月乙丑朔癸巳、柿本臣※[獣偏+爰]等并壹拾人授2小錦下位1、日本紀には柿本氏には此人のみ見えたれば人麿も此ために近く親族なるべし、朝臣姓を賜へるは上の如く天武十三年十一月なり、續日本紀に柿本氏の見えたるは元明紀云、和銅元年四月壬午、從四位下柿本朝臣佐留卒、是は天武紀に※[獣偏+爰]とありし人なり、聖武紀云、神龜四年正月甲戌朔庚子、授2正六位上柿本朝臣建石(ニ)從五位下1、天平九年九月己亥正六位上柿本朝臣濱名(ニ)授2外從五位下(ヲ)1、二十年二月授2外從五位下柿本朝臣市守(ニ)從五位下1、孝謙紀云、勝寶元年正六位上柿本朝臣小玉授2外從五位下1、是等なり、人麿の事此集中にて考ふるに.第二卷に藤原宮御宇天皇代と表する下に從2石見國1別v妻上來時歌二首并短歌あり、第二卷の初歌云、玉藻成依宿之妹乎露霜乃置而之來者《タマモナスヨリネシイモヲツユシモノオキテシクレバ》、後歌云、大舟之渡乃山之黄葉乃散之亂爾《オホフネノワタリノヤマノモミヂバノチリノミダレニ》云々、同卷挽歌に日並皇子尊挽歌あり、朱鳥三年四月に薨たまひたれば右の二首を合せて按ずるに朱鳥元年或は二年の秋石見よりは上られたりと知られたり、又人麿在2石見國1臨v死時自傷作歌、又妻依羅娘子作歌あり、元明天皇和銅三年に奈良へ都を遷させ給へり、それまでを藤原宮と云事、和銅元年に但馬皇女の薨じ給ふを藤原宮に繋たるにて知られたり、然れば人麿石見より上て二十年はかりの間なり、第十に七夕歌三十八首終て此歌一首庚辰年作v之、右柿本朝臣人麿歌集出と云へり、庚辰は(14)天武天皇九年に當れり、人麿歌集は他人の歌どもをも載られたれば此歌の作者自他の間知がたし、若人麿の作にて都にてよまれたらば其後石見守の屬官と成て彼國に居住の間或人の娘と語らはれけるを妻と云へる歟、第三に近江へ下り筑紫へも下られたる歌あり、此も亦屬官歟、又第三に、笥飯の海のにはよくあらしと云を揚て思ふに越前國へも下られたりと見えたり、後に石見國へ下りて死せられたるも、亦再たび彼國の屬官に下られける時なるべし、依羅娘子が、けふ/\と吾待君はとよめるにて知るべし、臨v死時と云へるにて六位以下にて官位は云に足らざる程なること知られたり、延喜式神名帳云、山城國紀伊郡飛鳥田神社、【一名柿本社、】此注如何なる故にかとゆかしくおぼゆ、同名異人は元正紀云、從五位下御炊朝臣人麿爲2兵部少輔1、聖武紀云、天平九年二月正六位上三使連人麿授2外從五位1、孝謙紀云、勝寶元年五月戊辰從八位下陽胡史人麻呂授2從五位下1、同四年正月以2正七位下山口忌寸人麻呂1爲2遣新羅使1、稱徳紀云、神護景雲元年正月癸酉授2正六位上阿倍小殿朝臣人麻呂從五位下1、同正月授2正六位上石川朝臣人麻呂從五位下1、光仁紀云、賀茂朝臣人麻呂、此集第二十卷防人丈部造人麿、以上見及ぶに隨がへり、袋草子に引、遣唐使大伴宿禰佐手麿記の中に上道人麻呂玉手人麻呂あり、
   赤人の事
(15)山部氏は清寧記云、二年冬十一月依2大甞供奉之料1遣2於播磨國司山部連先祖伊與來目部小楯1、於2赤石郡縮見屯倉首忍海部造細目新室1見2市邊押皇子子億計|弘許《ヲケヲ》1云云、顯宗紀云、夫前播磨國司來目部小楯【更名磐楯】求迎擧v朕、厥功茂焉、所2志願1勿v難v言、小楯謝曰、山官宿所v願、乃拜2山官1改賜2姓山部連氏1以2吉備臣1爲v副、以2山守部1爲v民、褒v善顯v功、酬v恩答v厚、寵愛殊絶、富莫2能儔1、是山部氏の始なり、宿禰の姓を賜はる事は上に天武紀を引が如く、十三年十二月なり、赤人も亦元正紀聖武紀等にみえず、父祖も子孫も聞えず、第六卷に神龜元年より天平八年までの歌見えたり、第三に伊豫の温泉に至てよまれたる歌あり、又不盡山を望む歌あり、又過2勝鹿眞間娘墓1時の歌あり、是等の國の屬官にて下られけるにや、續日本紀云、延暦四年五月乙未朔丁酉詔曰云云、又臣子之禮、必避2君父諱1、比者先帝御名及朕之諱、公私觸犯、猶不v忍v聞、自今以後、宜2並改避1、於v是改2姓白髪部1爲2眞髪部1、山部爲v山、光仁天皇を初白壁王と申し、桓武天皇を山部王と由しける故なり、顯昭古今抄云、柿本者姓氏録云、敏達天皇之後也、家門前有2柿樹1、仍云2柿下1云云、先に古事記を引が如し、姓氏録信を取がたし、柿本と云由はさも侍るべし、※[獣偏+爰]朝臣も氏を思ひて付かれたる名にや、又顯昭抄云、山邊宿禰赤人、姓氏録云、垂仁天皇之後也、裔孫正六位上山邊大老人云々、已上敦隆作萬葉の目録に有り、以上顯昭抄なり、
(16)   集中地儀
巖《イハ》、【〔以下略〕
(17)(18)(19)(20 〔略〕
(21)   集中天象詞類
雷、【〔略〕
十月、【八之四十四、十二之四十一、十九之四十、】
(22)十月を神無月と名付るに付て、奥義抄には此月諸神出雲の大社に集りたまふ故に名付る由なり、兼好法師は神道を知るべき家より出たるを、此月太神宮の御許へ諸神集りたまふ故に神無月といへど、おぼつかなき由かけり、今按、此集第十三歌云、霹靂之日香天之九月乃鍾禮乃落者《ナルカミノヒカヲルソラノナガツキノシグレノフレバ》云々、同月令には仲秋之月雷始收v聲とあれど、それは大方の事にて、今の歌には九月に猶かみとけさへする由によめるに、十月は純陰の月なれば雷の聲收まりはつる故に、雷の聲のなき意に神無月とは云なるべし、第十二に神のこと聞ゆる瀧とよめる神も鳴神なり、後撰集にちはやふる神にもあらず我中のとよめるも同じ、
   集中詠人名歌類
石上旅乃尊、【六之三十六、】〔以下略〕
(23)〔略〕
(24)〔上略〕
   佛塔類詞
(25)〔上略〕
   集中屬禁裏類詞、【〔以下略〕
(26)〔上略〕
   集中人倫【附2肢體1不v論2體用1、】
色妙子、【〔以下略〕
(27)〔略〕
(28)〔上略〕
一夜妻、【十六之二十七、】
 
萬葉集代匠記惣釋第一
  元禄三年【庚午】四月八日抄之畢、
 
(29惣釋は、もと未定のものと見えて、いとあら/\しく、且體裁もとゝのはず、按ふに、師の腹案を豫じめしるしたるものにて、後によく考て加へもし削りもせんとてのしわざとこそおぼゆれ、さればその出所などもおもひ出るにまかせてしるせるものにて、これにてつくせるにはあらず、又たゞ其物其言語のみを出して出所をしるさゞるものあり、これらは後にしるしつくべき覺悟なりけんを、いとまなくて其まゝにて傳へたるものと見えたり、されどこれらこと/\く増補せんはいと暇いるわざなるに、今は本集の索引などもこれかれ出來つれば、事かくべくもあらじとおもひ、今はたゞ數字の誤れるもの、又は文字の寫誤れるものなどをのみ正し、すべては原本のまゝならん事をつとめたり、其は師の原本の面目を失はず傳へんとての心しらびになん、
               校訂者識
 
(1)萬葉集代匠記惣釋第二
 
   目録
集中地名
                      頁   行
  以…………………………………………………一………三
〔以下略〕
(2)(3)〔略〕
(4)〔上略〕
附地名兼天象人物等類甲…………………………二三………七
似地名非地名類……………………………………二五………三
 
(1)萬葉集代匠記惣釋第二
 
 ※[手偏+總の旁]釋  集中地名【本朝※[手偏+總の旁]名并諸華國別名除之】
   以
石田小野《イハタノヲノ》、【山城宇治郡、九之十六、】〔以下略〕
(2)〜(24)〔略〕
(25)〔上略〕
 
萬葉集代匠記惣釋第二
 
(1)萬葉集代匠記惣釋第三
 
   目録
                     頁   行
集中鳥獣蟲魚………………………………………一………二
〔下略〕
 
(1)萬葉集代匠記惣釋第三
 
   集中鳥獣蟲魚
犬〔略〕
稻負烏《イナオホセドリ》、【和名集云、萬葉集云、稻負烏、其讀以奈於保世度里、】
此は順の暗記の誤歟、此集によめる事なし、若は新撰萬葉集云と有けむ新撰の二字落たる歟、彼集にはあり、されども奥義抄の稻負鳥の注に引かれたるも今の本の如くなれば暗記の誤なるべし、
〔略〕霍公鳥《ホトヽギス》、【集中散在、】
和名云、唐韻云、〓〓【藍縷二音、和名保度々木須、】今之郭公也、此集には假名にかける外には定て今の三字を用たり、今按異朝に〓〓が鳴聲の郭公と聞ゆる故に此名を負せたる歟、さて霍郭音通ずる故に何れをもかける歟、歌によめる様は杜鵑に通ひてぞ聞ゆる、先鳴比も大方同じ、蜀望帝の魂なりと云へば此方にも冥途より來ると云、共に夜鳴と云ひ、共に農を催ほすと云ひ、共に血に鳴と云ひ、共に聞けば悲しと云ひ、商陸の實の熟する時鳴止む由なるに、此集に芽子咲ぬれや聲の乏しきとよめ(2)り、夏の初、俗にかつこうと云鳥の鳴なるは彼が聲のさ聞ゆるに付て云なり、然れば郭公は若是にてや侍らむ、唐に鶯と云文字はこゝの春の物なりとばかり云ひて、いかなる鳥ともさだかにしるせる物なしとかけるを、林氏が野槌云、長谷川式部少輔守尚が家にて、常縁宗祇基綱の相傳の書を見侍りしに、喚子鳥は人をも云、猿をも云とあれど、猿と云がよきなりと記せりとかけり、世の儒宗とする人、所持の家をさへ顯はしたれば、慥なる事なり、是相傳の至極と知べし、心敬法印の櫻井基佐に語られたるも此定なり、今此集に依り、傍に他の歌を引て思ふに不審殘ること侍り、第八春雜歌に世の常に聞は苦しき喚子鳥聲雄なつかしき時には成ぬとよめるは、いつとなく鳴鳥の聞よからぬがさすがに春に成て鳴はなつかしく聞ゆとよめるなり、後撰集に呼子鳥を聞て隣の家に贈り侍ける、我宿の花にな鳴そ呼子鳥よぶかひ有て君もこなくに、さきの歌と共に山中ならで常の處にも鳴證なり、第十には夏の部にも霍公鳥の間に交はりて一首入たり、但彼歌は春の歌のさまなれば若春の歌の錯亂せるにも有べし、同卷に我せこをなこせの山の喚子鳥君呼びかへせ夜の更ぬとにとよめるは、夜も鳴鳥なり、後撰集にをがめつゝ人待宵の呼子鳥何方にとか鳴渡るらむとよめるも同じ、惠慶法師は紅葉見て歸らむ(3)方もおぼえぬを呼子鳥さへ鳴山路かなとよめり、今按曾丹が集に
 我身をば皆人すべてすさめぬを、あはれにもはた喚子鳥かな、
是は身を木の實に寄たりとおぼし、源仲正歌に
 足引の山鳩のみぞすさめける、散にし花のしべになるみを、
是も亦身を實に寄たり、世に年より來よと鳴と云鳩はげにも然聞ゆれば昔よりかくはよめる歟、雨鳩呼v婦と云事もあれば仲正か歌をもて曾丹が歌を證するに彼年より來よの名を負へる鳩を云にや、若和名に鳩、【夜萬八止、】※[合+鳥]【以倍八止、】此外に出したれば然るべからずと云はゞ野王按鳩此鳥種類甚多鳩其※[手偏+總の旁]名也と云を引たればやがて是を證として喚子鳥は其中の一種の別名なりと救はむにかたかるべからず、但かく云へばとて必らず是なむ喚子鳥と定めて申すにはからず、奥義抄の稻負鳥の注の終に云、順がわきまへざらむ事を今の世に定がたし、顯昭の古今集抄同鳥の注の終に定家卿密勘云、稻負鳥先人説これに同し、愚意今按には猶庭たゝきにや思ひ侍れど無2差證1同2清輔朝臣1、是は上の奥義抄に同心し給へり、八雲御抄に古今の稻負鳥の鳴なべにと云を引せたまひて是も何れの鳥と心得がたし、但定家卿説(ヲ)可2正説1、彼鳥のなくとき人の家々に稻と云物を負て入也、仍號v之、是は定(4)家卿も何れの鳥とは定めずながら、いなおほせと名付る由をのみ釋したまへるなり、是はさも有べき事なり、呼子鳥まことは是に准らふるを正説とすべし、又兼好此集第一の軍王歌に霞立長春日乃《カスミタツナガキハルビノ》、晩家流和豆肝之良受《クレニケルワヅキモシラズ》、村肝乃心乎痛見奴要子鳥卜歎居者《ムラキモノコヽロヲイタミヌエコトリウラナケヲレバ》とよめる意を引て鵺島も呼子鳥のことざまに通ひて聞ゆとかけるは此集を能見渡さぬ故なり、いかにとならば、喚子鳥は春の物なるに今の歌の奴要も當時になけばと意得たるは然らず、是は裏嘆|居《ヲ》ればと云はむ料にて上よりつらぬけるには非ず、第十に七夕歌に二首まで同じさまによめるにて知べし、
〔下略〕
(5)〔上略〕
   集中草木、附海菜
〔略〕
萩、【集中芽の字を用ゐ或は芽子とかけり、】
(6)和名集云、〔略〕〓は莖の俗字なり、此集に〓を芽に作れるは傳寫の誤歟、芽は萌芽にて別義なり、亦和名に此集に用たる字を此集を置て新撰萬葉集等の後の書を引かれたる事多し、今の〓の字※[金+色]の字等なり、又芳宜草とかゝれたるは芳宜は音を借る上に、やがて萩をほむる意なる字を以て草の字を加へて作られたる事にて、郡郷等に好字を付たる類なるべし、鹿名草も只此國の俗に隨てかけるなるべし、
榛《ハギ》、
さきのはり〔二字右○〕と同じ萩にまがふ事あり歌に至て知べし、
〔略〕
蓴、【七之三十四云、浮蓴、】
和名〔下略〕
(7)〔上略〕ぬなは〔三字右○〕【ゝ⊃「)】と名付る意は沼繩なり、沼に在て繩の如く長く生る物なればなり、應神紀に仁徳天皇まだ大鷦鷯皇子と申ける時の御歌に豫佐瀰能伊戒珥奴那波區利《ヨサミノイケニヌナハクリ》とよませたまへり、葉はまろにて少さけたるが節の程につきて其莖に雲母の如くなる物の著て滑らかにぬる/\とある物なり、
〔略〕
垣津|旗《ハタ》、【〔略〕】
此一首は夏の歌によめり、其外は物によせてよめり、枕詞の中の如し、和名集云、〔略〕かくあれども此集に假名と借字とにて書て正字なし、今は杜若とかけども此は香草と注したればおぼつかなし、
(8)〔上略〕
土針《ツチハリ》、【七之三十三、】
歌に至て和名を引て注す、其根細くて長き草と云へば此和名ある歟、
〔略〕
莫告藻、【〔略〕】
和名集云、〔下略〕
(9)は不審あり、允恭紀云、十一年春三月癸卯朔丙午、幸《イデマス》2於|茅渟《チヌノ》宮(ニ)1、衣通郎姫歌〔略〕謂う2奈能利曾毛1也、此紀に依に、もとは濱藻と云ひけるを、此集に莫告藻《ナノリソ》とかける意に名付たるなればなのりそと云に付て後の人神馬藻とは轉じてかけるにや、順朝臣も允恭紀は暗記せられざりけるなるべし、重之集に曾禰(ノ)好忠が但馬にて出石《イヅシ》の宮にてなのりそと云物よめと云へば、
 千早振出石の宮の神の駒ゆめなのりそ祟《タヽ》りもぞする、
 曉の※[竹/巴]に見ゆる朝貌はなのりそせまし我に代《カハ》りて、
此初の歌は漢語抄をみずしてよまれたる歟、
〔下略〕
(10)〔上略〕
山振、【〔略〕】
和名集草類云、【〔略〕】、今按此注には和漢共に不審あり、先漢に付て不審ありと云は、三體詩に張籍逢2賈島1詩起句云、僧逢著※[疑の旁が欠]冬花、天隱註云、本草※[疑の旁が欠]冬華註出2雍州南山及華州1、十一十二月采2其(11)華1、季昌増註云、※[疑の旁が欠]冬華古今方用爲2修v嗽之最1、今の詩の第三句云、十二街中春雪遍と云へり、旁山振とは見えず、朗詠集に※[疑の旁が欠]冬誤綻2暮春風1と云句も和名と同じ、是も古來不審を殘せる事なり、又世俗に蕗《フキ》の花と云物※[疑の旁が欠]冬なりとて咳嗽に用うれど、能は等しくもこそ侍らめど物は殊なり、次和に付て不審ありと云は、一名は夜末布木とあれども先は夜末不々木なり、或人の語侍りしは山里に住馴たる者を供に具して山道を罷りしに、都和【本名を知らず俗に然云、莖長く葉のまろにて蕗に似たるが、表は青磁の色の如く裏には毛の生て、夏冬となく有て十月の比に花の咲が、黄なる一重の菊の花びらのまばらなる如くなる物、世のつね庭の石根などに殖る草なり、】多く生ひたるを見て山蕗の多く生てさふらふ處かなと云を恠しさに尋しかば彼|都和《ツワ》を指て己が住さふらふ處には是をなむ山蕗《ヤマフキ》と名付て茹物《ユテモノ》にしてたべ侍ると申しつと聞に合せて、和名集を考かへ見るに蕗《ロ》は布々木《フヽキ》、牛蒡《ゴバウ》は宇末《ウマ》不々岐、是は美蕗の意なるべし、※[草がんむり/欠]《ケム》は三豆布《ミツフ》布木、是も水に在て葉の樣の蕗に似たれば水蕗《ミヅフキ》の意に名付たるなるべし、然れば※[疑の旁が欠]冬も山に生ひて蕗に似たれば山蕗の意に名付たる歟、蕗を布木と云は尋常の事なれど山吹の夜末不々木《ヤマフヽキ》と云へる事なければ彼山里の者の申しつる樣にや、都和の花萼《ハナフサ》は續斷の萼のやうして花の散たる後毛の如くなる物のみゆるを采て藥とはするにや、又園菜ならねど山におのすから生たる蕗あり、又和州(12)金剛山の僧の申しゝは山に多加良古【是も亦本名を知らず、】と云草あり、おほやう、蕗に似たり、食の物なりと云へり、冬も有や花はいかにぞとも問はず侍りつれば其樣は知らねど、いかさまにも此等の類を云にや、此集に山振と多く書たれど又山吹とも書たれば是は假字にて證とすべきにあらず、此集には一處も正字をかける事なし、※[酉+〓]※[酉+應]《ナセ》花と云物こそ山吹と聞ゆれど古來の名にや後代に付たるにやいまだ考知侍らず、
〔略〕
賢木《サカキ》、【三之三十七、四之十八、】
和名云、楊氏漢語鈔龍眼木【佐加岐、】今按龍眼者其子の名也、見2本草1、二本紀私記(ニ)云、坂樹(13)刺立爲2祭神之木1、今按本朝式用2賢木二字1、漢語鈔榊(ノ)字並未v詳、今云龍眼はひとの國より渡り來れば同じ木ながら此國のは實を結ばぬなるべし、又賢木とかゝれたるは、郡郷の好字の例の假字歟、榊は此集第四に神樹《サカキ》と云けるも義訓なれば其意にて一字に合せたる歟、麿《マロ》鴫《シギ》などの類なるべし、
狹根葛《サネカツラ》、【〔略〕】
和名云、〔略〕此集中には正字をかける事なし、
〔下略〕
(14)〔上略〕
薄《スヽキ》、【〔略〕】
此集にはさま/”\に假名に書て正字なし和名云、〔略〕今日本紀を考るに神功皇后紀の神託には幡荻をハトスヽキとよみ、孝徳紀には三河人の氏にスヽキと云に蘆の字をかゝれたり、股新撰萬葉集に花薄《ハナスヽキ》曾與鞆爲禮者とよめる歌の左の詩の起句に蘆花日日得v風鳴(ル)と作らせ給へば是も孝徳紀と同じく蘆はすゝきなり、然ればすゝき〔三字右○〕とをぎ〔二字右○〕とあし〔二字右○〕とは本より同類と見えたり、
  集中器財食服等類
(15)(16)(17)〔略〕
(18)〔上略〕
  漁獵詞類
〔下略〕
(19) 舍宅類
〔略〕
 田家詞類
〔下略〕
(20)〔上略〕
 器材類
〔略〕鞆、【一之二十八、】
和名集云、【〔略〕】今按此點は後人鞆を柄にまがへて點じ改たる歟、八雲御抄のにもたかともとかゝせ給ひたればおぼつかなし、此鞆を或神酬代紀の抄に弓小手なりと云へども然らずして別てる歟、倭名射藝具又云、【〔略〕】同じ物ならば並べては出すべからず、仁徳紀云、五十五年蝦夷叛之、遣2田道1令v撃、則爲2蝦夷1所v敗以死2于伊寺水門1、時有2從者1取2得田道之手纒1與2其妻1、乃抱2手纒1而縊死、時人聞v之流涕矣、此手纒並に此集第三に大夫乃手結我浦と(21)つゞけたる物は彼射〓なるべし、應神紀云、初天皇在孕而、天神地祇授2三韓1、既産之、宍生2腕上1其形如v鞆、是肖d皇太后爲2雄装1之負uv鞆、故稱2其名1謂2譽田(ノ)天皇1、【上古時俗、號v鞆謂2褒武多1焉、】古事記仲哀天皇段云、又娶2息長帶比賣命1、是大后生2御子品夜和氣命1、次(ニ)大鞆和氣命亦(ノ)名(ハ)品陀和氣命1、【二柱、】此太子之御名所3以負2大鞆和氣命1者、初所v生時、如2鞆宍生御腕1故、著2其御名1、此古事記の意は品陀と云は鞆にはあらずして御腕の宍に依て品陀和氣の外に直に大鞆和氣とも申奉るとにや、先日本紀に依らば鞆の古語褒武多なり、
〔略〕玉匣、【二之十、十一、三之三十七、】
今按櫛入るゝ筥をば崇神紀に櫛笥とかゝる、此櫛笥より事起りて萬の小さき匣をばくしけと云なるべし、從v本立v名とてかゝる事例多し、
(22)〔上略〕
鉾、【〔略〕】
集中木に从がへて桙に作れる故に玉梓《タマツサ》と玉鉾とを或は写したがへ、或は讀損じて誤まれる事多し、只第三に鴨君足人が香具山歌に、何時間モ神サビケルカ香《カグ》山ノ鉾※[木+温の旁]《ホコスキ》ガ本ニ薛《コケ》生《ムス》マデニ、是のみ金に从がへてかけり、
〔下略〕
(23)〔上略〕
太刀、【〔略〕】
天智紀に大刀をタチ、小刀をカタナとよめり、
〔略〕
 舟類
〔下略〕
(24)〔上略〕
赤乃曾保船、【三之十九、十三之廿二、】 赤羅|小《ヲ》船、【十六之廿五、】 佐丹塗之小船、【八之三十三、九之二十八、】
三つは同じ事なり、赤羅は赤羅引、アカラカシハ、アカラ橘などよめる如く唯赤きなり、赤乃曾保船は十三には赤曾朋舟曾朋舟爾と反して讀めれば唯そほ舟とも云なり、第十四に、爾布能麻曾保乃伊呂爾低?とよめるに神代紀下を引て注する如く赭をソホニとよみたれば舟を塗て彩たる舟にて、やがて狹丹塗と雲に同じ、
〔略〕
 車類
(25)〔上略〕
 馬類
〔下略〕
(26) 牛類
〔略〕
 有罵詈詞類、【故戯謔者除v之、】
〔略〕
 名與物歌類
〔略〕
 
萬葉集代匠記惣釋第三
 
(1)萬葉集代匠記拾遺上
                僧契沖撰
                木村正辭校
 
磐姫皇后、【寛永本卷之二、一丁右、代匠記卷之二上、二頁、】
○磐姫皇后、 仁徳紀雲、二年春三月辛未朔戊寅立2磐之媛命(ヲ)1爲2皇后1、第十二履中紀云、葛城襲津彦(ノ)女也、履中天皇の御母也、續日本紀の聖武紀に光明皇后を立たまふときの言にも、仁徳天皇の磐姫とともに世ををさめたまへるを例に引せたまへり、されども此后あまりにねたみふかうまし/\て、天皇の御心にまかせたまはぬ事おほし、八田の皇女の事によりて、つひに山城(ノ)國筒城宮にこもりおはしませるを、天皇みゆきせさせたまひて、さま/”\になだめさせたまへれど、たいめんもしたまはで、帝《ミカド》すご/\と難波へかへりおはしましぬ、筒城宮にして薨じたまひし也、なら山にをさめ奉らる、口持臣といふ人難波へ歸らせたまふべきよし、勅使にまゐりて、雪のふるにぬれて后の宮の御庭にまかりさらず侍りけるとき、口持臣が妹國依媛、后の宮(2)につかへてありけるが、かなしびて歌をよみ、御門筒城宮へみゆきしたまひける道すがらの御製あはれなる事おほききさき也、
 
古事記曰、【寛永本卷之二、二丁右、代匠記卷之二上、七頁、】
○四十二年春正月、天皇【允恭】崩、冬十月、〓禮畢之、是時、太子行2暴虐(ヲ)1淫2于婦女1、國人謗之、群臣不v從、悉隸2穴穗皇子1、爰太子欲v襲2穴穗皇子(ヲ)1而密設v兵(ヲ)、穴穗皇子(モ)復興v兵將v戰、故穴穗(ノ)括箭《ヤハズ》、輕(ノ)括箭、始起2于此時1也、時太子知2群臣不v從百姓乖違1、乃出之匿(ル)2物部大前宿禰之家(ニ)1、穴穗皇子聞則圍(ム)v之、大前(ノ)宿禰出v門而迎v之、穴穗皇子歌之曰、於朋摩弊《オホマヘ》、烏摩弊輸區?餓《オマヘスクネガ》、訶那杜加礙《カナトカゲ》、訶區多智豫羅?《カクタチヨラネ》、阿梅多知夜梅牟《アメタチヤメム》、
 
玉匣將見、【寛永本卷之二、十一丁右、代匠記卷之二、十五頁、】
○狹名葛はさねかづらなり、サネズのさ〔右○〕は、わたる〔三字右○〕をさわたる〔四字右○〕と云がごとくそへたる字也、すこしぬると心うるはわろし、アリガテマシモは、ありかねましにて、も〔右○〕は助語なり、ね〔右○〕とて〔右○〕と同韻なれば通してかね〔二字右○〕をがて〔二字右○〕といへり、有がてぬと云は有てえたへぬる事にて心かはれり、サネズとは此後の事也、まことに別れの惜さに、明はてな(3)ばたがひに名のたちて、これにこり、又あふことのなくば有かぬべし、いさめにまかせて、あけはてぬほどに出て行むの心也、或本玉クシゲミムロト山とは筥にはふた〔二字右○〕とみ〔右○〕とあればつゞくる也、三室戸山は山城國宇治郡にあり、第七にも、玉クシゲ、ミムロト山ヲユキシカバ、オモシロクシテ、ムカシオモホユとよめり、續古今集には、いまの歌或本のやうにのせらる、されども末の句をありとみましや〔七字右○〕と改められたり、大臣の本意にはおほきにたがふべし、
 
水薦苅信濃之、【寛永本卷之二、十一丁左、代匠記卷之二上、十七頁、】
○齊明紀曰、科野《シナノヽ》國言、蠅群向v西飛踰2巨坂1、大十圍許、高至2蒼天1、しなのゝ國とは武さしの國と武さし野との名を同じうせるやうに、彼國に埴科郡の事もそこに大きなる野のあるより科野國とはなづけたるを、今は信濃とかくにや、眞弓〔二字右○〕はほむる詞、眞砂眞菅などのごとし、まゆみの木も弓につくりてよければなづけたるなるべし、我ヒカバとは弓に惣じて男の手にとるものなるゆゑに女をたとへてよめること多し、伊世物語にはあづさ弓まゆみ月弓と女をよめり、又弓は國敬に〔二字左○〕治に具するものなる故愛染王三十七尊の中の金剛愛染菩薩などこれをとりて大悲慈愛の三昧を表(4)にしたまへり、ウマ人は人をほむる詞也、酒のよきをうまさけといひ、國のよきをうまし國といふが如し、日本紀には君子※[手偏+晉]紳良家などかきてウマ人ともウマ人ノ子ともよめり、サビテはさ〔右○〕はそへたる字にてうま人びて也、都めき〔三字右○〕たるをみやび〔三字右○〕といひ、ゐなかめき〔五字右○〕たるをひなび〔三字右○〕たると云心に同じ、翁さび男さび乙女さびみな同じ心也、俗語に何だち何になり何めくと云たぐひ也、上《ジヤウ》びたる下《ゲ》びたるなどいふはやがてこれ也、日本紀に仁徳天皇の御歌にもウマ人ノタツルコトタテとよませたまひ、又神功皇后紀に押熊《オシクマ》の王《オホキミ》の方にて軍の先鋒をせし熊之凝《クマノコリ》が歌にもウマ人ハ、ウマヒトドチヤ、イツコハモ、イツコドチ、イザアハナ、ワレハとよめるも、うま人はよき人どち、やつこはやつこどち、あひたゝかはむと也、惣じての心は弓は手にとりてひけばわがかたによるものなるが、人をそのごとくわが手にいれんとするも良家の子なればよき人びていなひかれじといはむとなり、不言《イナ》は不許のあやまれるなるべし、○續日本紀云、大寶二年三月甲午信濃國(ヨリ)獻2梓弓一千二十張(ヲ)1以充2太宰府1、又云、景雲元年夏四月庚午以3信濃國(ヨリ)獻(ルヲ)2弓一千四百張(ヲ)1充2太宰府1、延喜式云、凡甲斐信濃兩國(ヨリ)所v進祈年祭科雜弓百八十張【甲斐國槻弓八十張、信濃國梓弓百張、】、並十二月以前差(シテ)v使進上(セヨ)、かゝれば梓弓はことに信濃の名物也、○陸士衡爲2顧彦先(ガ)1贈v婦詩(ニ)離合非v有v常、譬彼弦(ト)與v筈、これは離前と(5)會人との常ならぬことにたとへたれど轉用すれば今の心なり、
 
東人之荷向、【寛永本卷之二、十一丁左、代匠記卷之二上、二十頁、】
○延喜式第八祈年|祝詞《ノツト》曰、荷前《ハツホサキ》者|皇大《スメオホ》御神 |太前《フトサキ》如2横山1打積置?、同陰陽式曰、凡獻(ル)2荷前(ヲ)1日者|預《カネテ》擇2定大神祭後立春以前1、十二月五日申(セ)v省(ニ)、荷(ノ)緒ニモとは箱は下に緒をつけ、あるひは下に緒を敷て、かれに箱をのせて馬にもおほせ人もになへばそれにたとへてわが心も常に妹がうへにありと云心をよめる也、又わが心につねに妹はのりゐるとたとへたりともいふべし、後撰集にかくれずぞ心にのりてこがるべき、浪にもとめよ舟みえずとも、舟なくば天の川迄求めてむ、こぎつゝしほのなかにきえずば、延喜式第八祈年祭祝詞云、自v陸往道者|荷緒縛竪《ニノヲユヒカタメ》?云々、
 
玉葛實不成、【寛永本卷之二、十二丁右、代匠記卷之二上、二十二頁、】
○毛詩南有2樛木1葛〓|〓《マツヘリ》v之などつくり、此國の歌にも多く女をかつらにたとふることは、かつらは木によらざればはひのぼることあたはず、女も家なくして里によるものなればたとふる也、男あるべきよはひまでもたざれば鬼神のわが物に欲〔左○〕して男もなきといひ傳ふれば、われはやくぬしとならむといふ心なり、
 
(6)吾崗之於可美爾、【寛永本卷之二、十二丁左、代匠記卷之二上、二十五頁、】
○延喜式神名帳(ニ)河内和泉等をはじめて諸國に多く意加美《オカミ》の神社あり、又豐後國風土記球珠郡|球覃《クサミ》郷此村有v和泉、昔景行天皇行幸之時|奉膳《カシハデ》之人擬2於御食(ニ)1令(ルニ)v汲2泉水1即有2地※[靈の下半が龍]1謂2於箇美《オカミト》1、於茲天皇勅(シテ)曰、必將v有v※[自/死]《クサミ》、莫v令2汲用1、因v斯名曰2※[自/死]泉(ト)1因爲v名(ト)、今謂2球覃《クサミノ》郷(ト)1者也、
 
大津皇子、【寛永本卷之二、十三丁左、代匠記卷之二上、二十八頁、】
○續日本和銅七年正月正七位上津守(ノ)連授2從五位下(ヲ)1、十月美作守、養老五年春正月戊申朔甲戌詔(シテ)曰、文人武士(ハ)國家所v重、醫卜方術古今斯(レ)崇(トブ)、宜2擇(テ)d於百僚之内優2遊(シ)學業(ニ)1堪v爲(ルニ)2師範1者(ヲ)u特(ニ)加2賞賜(ヲ)勸2勵後生1因賜(フ)2陰陽從五位下津守連通(ニ)各※[糸+施の旁]十匹絲十※[糸+句]布二十端鍬二十口(ヲ)1云々、七年正月從五位上、
 
秋田之穗向之、【寛永本卷之二、十四丁左、代匠記卷之二上、三十二頁、】
○君ニヨリナヽはよりなむ也、上は此句をいはむ爲の序也、コチタカリトモは此集に言痛とかきてこちたみ〔四字右○〕とよめるをおもへば、こといたみといふをとい〔二字右○〕の反はち〔右○〕(7)なる故につゞめてこちたみ〔四字右○〕とはいへると思ふに、清少納言源氏物語などにはたゞこと多くらうがはしきことにいへれば言痛の心にはあらざるか、第四に他辭乎繁言痛《ヒトコトヲシケミコチタミ》アハザリキ、心アルゴトオモフナワガセとよめるは、まさしく人の物いひのおほければその詞をいたみてあはぬほどをわがことなる心あるごとくなおもひそと云ことなれば、中ごろよりすこし用あやまれるにや、此下におなじ皇女、人ゴトヲシゲミコチタミとよませたまへるも、初の詞に同じ、おなじことをかさねていふならひもあれど、しげみ〔三字右○〕といへるが人の物いひのおほきなればこちたみ〔四字右○〕はそのことばをきゝてわが心のいたむとぞ聞えたる、こゝは事の字をかきたれども實は言の字なるべし、第十に此歌と上の句は同くて、ワレハモノオモフツレナキモノヲ、
 
太夫哉、【寛永本卷之二、十五丁左、代匠記卷之二上、三十六頁、】
○シコは字のまゝにかおに〔二字右○〕ともよめり、共にみづからのることばなり、和名集云、日本紀に醜女【和名志古女、】みにくしとよむ字のごとくしこ〔二字右○〕もきたなきを云、神代紀に云、伊弉諾尊既還(テ)乃追(テ)悔(テ)曰、吾|前《サキニハ》到(ル)2於|不須也凶目※[さんずい+于]穢《イナシコメキキタナキ》之處(ニ)1おに〔二字右○〕と云も遊仙窟たはふれに他人を罵て窮鬼故調v人といへるがごとし、此集におにのしこ草、しこほとゝぎすな(8)どゝよめる皆此こヽろ也、我がこひは、大夫なりと思ひて大夫といふものは人ももろこゝろにおもはぬかたこひすべきと、みづからなげきていさむれぢ、思ひしに似ずきたなきますらをにて心よわくこひらるゝとなり、
 
遊士跡、【寛永本卷之二、十六丁左、代匠記卷之二上、四十四頁、】
○於曾、 日本紀に似烏食糞とあるをもて見、奥義抄の説によるに此第十四末歌にカラストフ大オソ鳥とよめるも大きにきたなき鳥なり、又高野山にてもろ/\のけがらしき物ながすみぞ川をおそ川といひならはせるもこれにかなへり、これは聞およべるたはれをにはあらですく/\とわれをかへせるはきたなきたはれ物也とたはぶれてよめり、又かはをそのことにいへる説あり、俊成朝臣これによられたれど、よくかなへりともみえず、今案おそ〔二字右○〕のそ〔右○〕の字をすみて讀べき歟、第十二に山シロノイハタノモリニ心オソクタムケシタレバ妹ニ逢ガタキ、此歌おそく〔三字右○〕に鈍の字を用たり、今もこれにや、第九に浦島が子をよめる歌も住ベキモノヲツルギタチサガ心カラオソヤコノキミとよめるも利鈍、刃のときとにぶきとより人さかしきとおろかなるにもたとへてにぶきをおそしともいへばよせたるべし○毛詩南山云、(9)折v薪(ヲ)如v之何、匪v斧不v剋、取v妻如v之何、匪v媒不v得、禮記曰、故男女無v媒不v交、無v幣不2相見1、曹植求2自試1表臼、夫自衒自媒者士女之醜行也、
 
吾聞之、【寛永本卷之二、十七丁左、代匠記卷之二上、四十七頁、】
○葦若末《アシカヒ》、 葦之初生也、あしのわかきはをれやすくて物にいためばアシナヘクにつゞけていへり、荀卿子曰、南方鳥名2蒙鳩1、爲v巣編v之以v髪、繋2之葦※[草がんむり/召]1、葦※[草がんむり/召]折卵破、巣非v不v牢、所v繋之弱也、アナヘクはあしなへくにて脚のいたむ也、アシカヒはしろううつくしきがやはらかなるものなればその心もこもりてこゝにはよき枕詞なり、和名集云、説文云、蹇【〔略〕】〔略〕、うつぼ物語第十五源中納言嵯峨院にまゐりたまひてみたりかくびやういたはりについて云々、清少納言にやまひはむねものゝけあしのけ云々、源氏苦菜の下にかくびやうと云ものおこりわづらひ侍りてはか/”\しくふみたつることも侍らず云々、ツトメは日本紀自愛とかきてよめり、タフはたまふ也、平家物語に木曾が皷判官にあひて皷といふよしを問ふ詞(10)にもうたれたふたか、はられたふたかとぞかける、ツトメタブベシとは保養を加へて早く平復したまへと也、
 
古之嫗爾爲而也、【寛永本卷之二、十八丁右、代匠記卷之二上、五十頁、】
○かうなになりて戀もさむけきほどのわが身にて、たゞわらはのおやなどをこふるごとくこひになきしづまむものかとみづからいさむれど、ひとへにわらはのごとしと也、タ銅ワラハゴトとあるはわろし、クワラハノゴトとよむべし、六帖にもたわらは也、たわらはとは母めのとなどの手をはなれぬをいふべし、第十一にアヂキナクナニノタハゴト今サラニワラハゴトスルオイビトニシテ、
 
丹生之河瀬者、【寛永本卷之二、十八丁右、代匠記卷之二上、五十二頁、】
○川をわたらぬはあはやと思ふ心のみありて事のならぬにたとへていへり、ユク/\トは第十二十三十七などに大舟ノユクラ/\とよめるに同じ、俗語にゆくりとしてといふもこれ也、ゆる/\とゝつねにいふ心也、こふる心のたゆむにはあらず、こふるあひだのさすがにこともきれず、なるともなく、ほどをふるをいへり、後のユの字は遊を誤て〓に作れるなるべし、コチはこなたへなり、乞の字はいで〔二字右○〕ともよ(11)めり、二本紀にも物を乞ふ詞にいへり、いでそのもの一つえさせよと云がごとし、よりてこゝにもさもよむべし、
 
石見乃海、【寛永本卷之二、十八丁左、代匠記卷之二上、五十三頁、】
○石見ノ海は後の歌にも恨のふかきとそへてよめる所なり、角ノ浦は和名集云、那賀郡都農、【都乃、】浦ナミト、浦は和名集云、四聲字苑云、浦大川旁(ノ)曲渚、船隱v風所也、傍古反【和名宇良、】滷ナミト、玉篇云滷音魯、鹹水也、潟の字の注にいはく齒亦切、或滷字和名集云【加太】ふたつのミラメはともに見るらめ也、能嘆八師よしやよし也、や〔右○〕とゑ〔右○〕とかよひ、よ〔右○〕とや〔右○〕とかよへなヨシヱヤシとはいへり、此集に尤多し、嘆は咲の字をあやまれる也、後々に咲の字をかけり、咲はゑむ〔二字右○〕と云方を用る也、俗にわらふかほのうるはしきをゑがほよしと云これなり、カタハナクトモと云までの心は角のうらにはよする浦もなく潟もなしともよそ人はみるらめ、よしよき浦はなくとも、よしよきひがたはなくとも也、第十三にハツセノ川ハ、浦ナミカ船ノヨリコヌ、イソナミカアマノツリセヌ、ヨシヱヤシ浦ハナクトモ、ヨシヱヤシ礒ハナクトモとよめる此作ににたり、イサナドリ、ウナビヲサシテ、これより別れきての海路にみるものによせて別れをなげく也、(12)ニギタヅは伊豫國温湯郡也、第一卷にみえたり、カヲナルは此集にかくろき、かよりあふなどいへるみな發語の詞也、同韻してすこし音にかよひてもきこえ源氏物語にもよわき〔三字右○〕をかよわき、やすき〔七字右○〕をかやすき〔四字右○〕、などいへり、これは下に玉モナスヨリネシ妹といふことをいはむため也、朝ハフル、夕ハフルは鳥の羽を打ふる事にたとへて朝風夕浪のたちさはぐことを云へり、羽ふるは※羽/者]の字也、紀納言の春雪賦にも或逐v風不v近、如v振2群鶴之毛1といへり、浪ノムタは浪とともにと云也、ムタは今の俗語にめた〔二字右○〕と云にもかよひてきこゆることあり、ともに〔三字右○〕と云詞の古語なるべし、カヨリカクヨリはとよりかくより也、此集にとにかくにと云をかにかくに〔五字右○〕と云へり、玉モナスは玉もの如く也、如の字を神代紀にナスとよめり、藻の浪風になびくごとくしなやかなるをもいひ、かなたこなたの藻のなびきあふごとくわひふすにもよせたり、露霜は露と霜と也、ともにおくものなればオキテシクレバと云はむ料なり、此道ノヤソクマより下は難波につきてそれより藤原の都へのぼる陸路也、八十隈は第一卷に神代紀を引がごとし、イヤトホニ以下の四句十三卷にもあり、夏艸ノオモヒシナエテは夏草はしげきものなれば、その思ひをよせ、西行法師のよられつる野もせの草とよまれたるごとく、みな月のてる日になよ/\となる草によせて、われを(13)こふとてうちしをるらむと云へり、ナビケコノ山はうごきなきものなるを故郷のみえぬをわびてせめてのことにいへる歌のならひおもしろきこと也、第十二にアシキ山木末コト/”\アスヨリハ、ナビキタリコソ、イモガアタリミム、第十三長歌の中にワガカヲヒヂノオキソ山、ミヌノ山ナビケト、人ハフメドモカクヨレト人ハツケドモなどよめり、項羽歌云、力拔v山兮氣葢v世(ヲ)、文選呉都賦曰、雖v有2石林之崔※[山+咢]1請攘v臂(ヲ)而靡v之、そもそも此ヨシヱヤシカタハナクトモといひて、ことわりをいひはてずして、海路のみるものによせて妻をこふることをいへるは、胸中に山海をこめてのどかなる、よみやう也、カタハナクトモといひてはやがてわれは住なれたるいへ妻をさへおきてくればなどことわりはてたり、海路にはかゝるべきまことに獨2歩(スト)古今(ニ)1いひつべし、
 
石見乃也、【寛永本卷之二十九丁右、代匠記卷之二上、五十七頁、】
○石見ノヤ、 此歌人の心得あやまる歌也、その故はコノマヨリ妹ミツラムカ我フルソデヲと云心なれどさいへばてづゝなればワガフル袖ヲと云句を第四におかれたるゆゑに第三のコノマヨリと云に引つゞけて心得る故にかへさまになる也、(14)むかしもさりけるにや、後鳥羽院の御製に石見がた高角山に雲はれてひれふる峯を出る月かげ、今の人丸の歌は別れきてこなたよりわがふる袖を故郷の高角山にのぼりて見おろす妹の木のまよりみつらんかとよまれたるを、さよひめならぬ妻のひれかと高角山にふらさせたまへるは袖とひれと物たがひて男女たがひ所たがへり、いかめしき御製なるにおどろきて新後拾遺集にのせられたれば撰者もさこそ心得られけめ、又此うたを拾遺集には石みなるたかまの山とのせらる、この集に異本などもありけるにや、たゝかく所の名さへあらためらるゝは心得がたきこと也、ソデフルは文選劉休玄撰古詩(ニ)云、渺々(トシテ)陵2長道(ヲ)1遙々(トシテ)斯(ニ)遠(ク)之(ク)、回v車背2京里(ニ)1、
 
小竹之葉者、【寛永本卷之二、十九丁右、代匠記卷之二上、五十八頁、】
○小竹ノ葉ハ、 此歌は陸にあがりて山ぢをふるときの歌なるべし、さ〔右○〕と云にまがふことおほし、一つにはなま一〔三字左○〕《さはくカ》也、二つにはさゆるなり、霜さゆると云これ也、三つにはかたなのさやによせて、さやつかのまになど、さやはちきらじなどいふはさしもやはなり、こゝにさや〔二字右○〕とよめるはさはぐ也、古語拾遺曰、阿那佐夜憩【竹葉之聲也、さゝも竹とかきて竹の類也、日本紀(ニ)聞喧擾之響焉【是云|左耶霓利奈離《サヤケリナリ》、】又問紀に未平とかきてもサヤケ(15)リとよめり、古今集にもとぶ鳥の聲もきこえぬおく山とよみて、み山は物聲もなくしづかなる物なるを、さゝ原に風吹わたればそのみ山をもさはがしてみだれども、わがわかれきて妹を思ふ心はやまずと也、亂友とかきたるをマカヘドモともよむべし、此下の長歌よりはじめて亂の字をおほくまがふ〔三字右○〕とよめり、
 
石見爾有、【寛永本卷之二、十九丁左、代匠記卷之二上、五十九頁、】
○イハミナル、 從の字はを〔右○〕ともに〔右○〕ともゆ〔右○〕ともよめり、今もゆ〔右○〕とよむべし、
 
角※[章+おおざと]經、【寛永本卷之二、十九丁左、代匠記卷之二上、五十九頁、】
○角サハフ、 此ツノサハフをヌミサハフとよめるはあやまりなり、仁徳紀に天皇の兎怒瑳破赴以破能臂謎餓《ツヌサハフイハノヒメガ》とよませたまひ繼躰紀に春日皇女勾大兄皇子【安閑天皇】にこたへたまふ御歌にも、ツヌサハフ、イハレノ池ノとよみたまへり、つの〔二字右○〕はかど〔二字右○〕也、石にはかどかどのありてものにさはればかくはつゞくる也、顯昭眼法師の説に、つの〔二字右○〕とは石見國に角と云ところあり、その處をたちさへて見せぬ石といふ心と云説など用るにたらず、コトサヘグカラノ崎とつゞくる事はことさへ〔四字右○〕とはことばのさへぐ(16)也、日本紀に韓婦用2韓語1言といへるがごとく、からの人はもとよりものいひよからぬは、からさへづりともいひ、また國のかはりてことばもかはれば、此國の人のみゝにはさはりて聞ゆる故にかくはつゞくる也、下にいたりてコトサヘグ百濟(ノ)原とつゞけたるもこれ也、イクリニはいくり〔三字右○〕は石也、第六にもワタノソコオキツイクリニともよめり、二本紀第十應神天皇御歌にも、ユラノトノトナカノイクリニとよませたまへり、フカミルはみるの中の一種にや、延喜式三十一宮内式諸國例貢御贄のうちに志摩【深海松、】又同式に長海松と云もあり、アライソニ玉モハオフル、これは玉モナスナビキネシコヲといひ、フカメテオモフともいはんために、處がらのにつかはしきものよりいへり、六義の中の興の心に作たり、第十三に朝ナギニ、キヨルフカミル夕ナギニキヨルナハノリ、フカミルノフカメシコラヲ、ナハノリノヒケバタユトヤと云へるつゞきこゝに似たり、サヌルはさ〔右○〕はよく物につけていふ詞にてたゞぬる也、すこしぬると云へるはあやまり也、イクバクモアラズとはあかぬ心からいく夜もねぬやうなるをいへり、ハフツタノワカレシクレバとは、つたかつらの類ひは末にはひわかるればワカルといはむとて也、第九に哀2弟死去1作歌にも、トホツクニ、ヨミノサカヒニハフツタノ、オノガムキ/\、天雲ノワカレシユケバとよめり、肝ム(17)カフ心ヲイタミとは物をおもひなげくとき肝と心との二つの臓をいたましむるといふ心也、肝は木心は火なる故に肝まづいたみて心におよぷ也、文選歐陽建(ガ)臨終詩にも痛哭摧2心肝1といへり、ムカフは對する心なり、今案これも第一卷にムラキモノ心ヲイタミと云に同じ心にて、むかふは群臣の王にむかふ心にてみな心に歸して心の命をうくるをいふにや、大舟ノワタリノ山、いづれに國ともしらず、ありあひたるよき枕詞也、ツマコモルヤカミノ山とは人のつまはおくふかきやにかくれゐて外の人にまみえぬものなればかくはつゞくる也、つまこもるやのゝ神山ともよめり、やかみと云處の備前にあり上云へばそこにや、雲間ヨリワタラフ月ノヲシメドモとは雲間の月のたま/\あらはれたるが又むら雲に入ゆくををしと思ふに故郷のみえずなりゆくををしむによせたり、天津タフ入日サシヌレとは天路を日の傳ひ行を天傳ふと云へり、あまつたふひかさのうらともよめり、さしぬればと云べきにば〔右○〕の字なきは古風なり、夕になれば陰氣に感じていよ/\心ぼそくなる也、
 
青駒之、【寛永本卷之二、二十丁右、代匠記卷之二上、六十三頁、】
○青駒ノ、 和名集云、説文云、驪【〔畧〕】アガキは※[足+宛]の字なり、第十一に赤駒ノア(18)ガキハヤクハ雲居ニモ、カクレユカムゾ、ソデマケワギモ、此歌は船にのるところまで馬にて出立れけるなるべし、
 
石見之海、【寛永本卷之二、二十丁左、代匠記卷之二上、六十四頁、】
○石見ノウミ、 長門の國の僧のかたりしは長門より濱つたひに行道に長門のうちにかく云處あるよし申き、そこなどにもや侍らん、
 
有馬皇子、【寛永本卷之二、二十一丁左、代匠記卷之二中、一頁、】
○往2牟屡温湯1齊明紀三年下 僞v療v病來、讚2國|體勢《ナリヲ》1曰、纔觀2彼地1、病自〓消云々。天皇聞ス、思2欲往觀1、四年冬十月庚戌朔甲子、幸2紀温湯1、十一月庚辰朔壬午、留守官蘇我赤兄臣語2有馬皇子1曰、天皇所治政事有2三失1矣云々、有馬皇子乃知2赤兄之善1v己、而欣然報2答之1曰、吾年始可v用v兵v時矣、〔略〕(19)遣2丹比小澤連國襲1絞《クビル》2有間皇子於藤白坂1、
 
家有者、【寛永本卷之二、二十二丁右、代匠記卷之二中、二頁、】
○孝徳天皇の御子にて御位につかせたまふにはなくとも、さておはしまさば世におもらせられておはしますべきに、よしなき事おもひたゝせたまひて刑戮のはづかしめにさへあはせたまふは、不思議のことなれど、此御歌ののこりて、他の皇子たちの身をたもちて世を過させたまひながら、何のしるされたることおはしまさぬよりも、末世まで人の知まゐらすることはひとへに和歌のコ也、此うたは結松枝といふにはかなはねど、はじめの歌につけて同時の歌にもあれば桔松枝歌二首とはいへり、聖教に文證などを引とき、そこにかなはぬこともまじれど同文故述の例とするがごとし、
 
青旗乃、【寛永本卷之二、二十三丁右、代匠記卷之二中、七頁、】
○第十九に、ワガセコガサヽゲテモタルホホカシハアタカモニルカアヲキキヌガサともよめるごとく木のあまた青やかにてたてるが青き旗をさしならべたるやうなればつゞくるなるべし、雖視をミレドモとよみ不相をアハヌとよめるはあや(20)まれるか、ミルトモとよみアハジとよむべし、その故は日本紀には十二月に崩御したまふよしはしるされたれども、世には御馬にめしながら天へのぼらせたまひて、その御沓のおちたる處に陵はつくれるよし傳ぬるが、后のこの御歌をみればいかさまにもたゞならぬ御詞なり、天へのぼらせたまふことは日本靈異記と云書にものせたりとかや、崩御の後こそ陵の所も選せらるべきに、かねて木幡の上をなどよませたまへるは尤はかりがたきこと也、よりてこれは後のことをかねてよませたまふと見ゆれば、ミルトモとよみアハジとよむべしとは申也、崩じたまはむ後こそ目には見奉るとも今のごとくまのあたりにはあひ奉ることあたはざらむ歟と也、淮南王劉安は謀反して自殺せられたるよし史記にたしかにのせたれども、彼淮南子をみれば謀反などすべき人がらともみえず、劉向が列仙傳に登仙のよしをのせ、八公山に後までそのあとありといへば和漢ともにはかりがたきことおほし、ことに本朝は神國にて人の世となりても國史に記する處神靈かぞへがたし、たゞ仰てこれを信ずべし、○天智紀云、十年冬十月甲子朔庚辰、天皇疾病彌留、〔略〕、東宮即入2於吉野1、
 
(21)空蝉師、【寛永本卷之二、二十三丁左、代匠記卷之二中、十頁、】
○放居而はサカリヰテとよむべし、玉は緒をぬき手にまとひもつにあかず、きぬの身になつきてぬく時もなければ、玉ナラバ、キヌナラバとはいへり、神樂に大宮のちひさご舍人玉ならばひるは手にとりよるはさねてん、キソノ夜は日本紀に昨日とも昨夜ともかきてキスとよめり、そ〔右○〕とす〔右○〕とは五音通ずれば同じこと也、夢ニミエツルは玉ならば、手にまき、きぬならばぬがじものをとこふるおもひにみる也、古今集みつね、君をのみ思ひねにねし夢なればわが心からみつるなりけり、
 
鯨魚取、【寛永本卷之二、二十四丁右、代匠記卷之二中、十三頁、】
○イサナはくぢら也、トリほは領する也、鯨は大魚なれば海を領する心にていへば、今は水海なればかなはぬやうなれど、歌はかくのみいふことつねのならひ也、鳥といへばとて雲までかけらぬもあり、木にねぬもおほけれども、おしなべて雲をかけり木をすみかとするやうによみなす也、川にはいはるまじ海といはむにはなどかあしからむ、鯨取とかきたれば字のまゝにくじらとるともよめり、オキサケテはおきから遠くさかりて也、ヘニツキテはなぎさにつきて也オキツカイはおきよりくる(22)舟のかい也、ハネソはつよくはねて浪をなたてそなり、ヘツカイはへにつきてこぐ舟のかい也、ワカ草ノツマは仁賢紀(ニ)云、弱草|吾夫※[立心偏+可]怜《アガツマハヤ》矣は注(ニ)云、古者以2弱草1、喩2夫婦1、故以2弱草1爲v夫(ト)、つまを嬬の字をかけるはたゞつま〔二字右○〕とよまるればかける也、男女につきてきびしくはみるべからず、オモフ烏タツは世におはしましけるほどはながめやらせたまひて、水鳥の心よくあそぶを愛せさせたまへるが、崩御したまふともしらず、その折のごとくにてあるをこれをだに今はかたみとおぼしめす心にておどろ かしたつなとよみたまへり、
 
十市皇女、【寛永本卷之二、二十四丁左、代匠記卷之二中、十六頁、】○竪2齋宮(ヲ)於倉梯河上(ニ)1天武紀七年下、夏四月丁亥〔中略者薨(ス)2於宮中(ニ)1、
 
     以上二之上
 
八隅知之、【寛永本卷之二、二十五丁右、代匠記卷之二中、二十頁、】○神岳ノ山ノモミヂヲ、 此神岳はみむろ山也、八雲御抄にはかみをかとよませた(23)まひて有怪と注したまへど、此大后の御歌のみならず此集中に猶みえたり、第三卷に登2神岳1山部宿禰赤人作歌といへり、又第九にもよめり、神岳をミワヤマとよめるはあやまれるなるべし、およそみわ山をみむろ山ともよめどもみむろ山をみわ山とよむ例いまだ考へず、此かみをかは高市郡、彼三輪山は城上郡也、神岳は第三卷の天皇御2遊雷岳1之時柿本朝臣人麿作歌と云處に注すべし、毎年秋になりてみむろ山のもみぢするころ朝夕にめしよせても御覽じ、いかに今はさかりになりつやなどとはせたまひし也、ケフモカモ、トヒタマハマシ、アスモカモ、メシタマハマシとは、けふもやとひたまはまし、あすもやめしよせたまはましとおもほせど、すでに神去たまへば、とはせたまふこともあらじ、めしよせたまふこともあらじ也、アヤニカナシビ、此アヤニと云詞此集におほし、長流が昔の抄にきぬなどのあやによせていかゞにと云心也といへり、ねむごろにと云にもかよひてきこゆる詞也、アラタヘノ衣は服衣也、古語拾遺云、織布【古語阿良多倍、】布の惣名なれども今は※[糸+衰]《フヂゴロモ》をのたまへり、
 
一書曰、【寛永本卷之二、二十五丁左、代匠記卷之二、二十二頁、】
○一書曰云々、 此太上天皇〔四字右○〕おぼつかなし、天武御時太上天皇なし、もし、文武の朝の(24)人のしるしおけるに持統天皇の御ことを申けるか、それに打まかせてのせたるにや、天皇に對する太上天皇なればあやまれりと聞ゆ、たとひ持統の御ことならばさきのごととく太后とこそ申べけれ、
 
燃火物、【寛永本卷之二、二十五丁左、代匠記卷之二中、二十二頁、】
○燃火物トリテツヽミテ、 此初の五文字今の本にはトモシ火モとあるを長流が抄にはもゆる火もとよみて、これは火うちを物につゝみて袋に入れてもつ心也といへり、しかれば佛法の因中説果の例のごとく、火うちすなはちもゆる火にあらざれど、もゆべき火の性こもれるゆゑにかく云にや、言の語勢を案ずるに只そのまゝもゆる火にてあるべくも聞ゆるか、面智男雲をモチヲノコクモと和點をくはへたるは後人のしわざなるべし、オモシルナクモとよむべし、智は知の字なるべし、オモシルはつねにあひしる顔を云こと也、第十二にオモシル君ガ見エヌ此ゴロとも、オモ知コラガミエヌコロカモともよめり、○もゆる火だにも方便をよくし、それは袋にとりいれてもかくすを寶壽かぎりまし/\てとゞめ奉るべきよしなくて、みかくれたてまつりたる御まへおもわの見えたまはぬをこひたてまつりたまへる也、
(25)向南山、【寛永本卷之二、二十五丁左、代匠記卷之二中、二十三頁、】
○キタ山ノタナビク、 此御歌故ありげに聞ゆ、しばらくひとすぢをみせば、きた山よりたな引出す雲まにみゆる星も、雲につらなりてみゆるが、雲のきえゆくまゝに星も月も雲にとほざかるがごとく、萬の御なごりも月日をふるまゝにかはりゆく心にや、
 
天皇崩之後、【寛永本卷之二、二十五丁左、代匠記卷之二中、二十三頁、】
○天皇崩云々、 習賜の二字は心得がたし、目録になし、たまふとかんなをつけたれど、いかにいふこともしらず、仁徳妃に近習とかきてチカクツカムマツルとよめり、史記范〓列傳に、須賈曰、孺子豈有(ンヤ)d客習2於相君1者u哉、仁徳紀によりて夢のうちにつかうまつる人にたまへる御歌とよむべきか、
 
明日香能、【寛永本卷之二、二十六丁右、代匠記卷之二中、二十四頁、】
○明日香ノキヨミ原ノ、 此一首は故ありげなる御歌なり、按ずるに壬申の亂あるべきよしつげむとて、大神宮の御はからひにて末社の神靈などを降させたまひて(26)天武天皇となしたまへるが、事なりて後まことに崩じたまふにはあらで神靈の伊勢へ歸らせたまふにや、かくおもひよれる故はこゝに神風ノイセノクニニハといひて、アヂコリノアヤニトモシキ高照《タカテラス》日ノ御子とよみ、又下にめぐりて高市皇子の薨じたまへるをいためる人麿の歌の中に、さおぼしきことあり、くはしくはかの歌にいたりて釋すべし、○鹽氣能味の味の字をば八雲御抄にはむまきと義をつけさせたまへど、只音をかりて用るのみ也、○カヲレル國とは二本紀第一云、伊弉諾尊曰、我所生之國唯有2朝霧1而薫滿之哉、神樂歌弓立(ニ)いせしまやあまのとねらが、たくほのけをけ/\本、たくほのけいそらがさきにかほりあふをけ/\末、此集第九に、シホゲタツアリソニハアレドともよめり、荊溪の弘决に成論を引て兎角龜毛鹽香蛇足風色等是名爲v無と釋せらる、霧にも香のあれば日本紀纂疏にもにほふよしに注したまへり、今案鹽くもりとて海のくもるがけぶりにふすぶるに似たるを、かをれるとはいふにや、日本紀の薫の字も香にあらでふすぶるやうなるをもいへるべし、○アヂコリノアヤ、 此集に多き詞也、よきものあつまりよれるを味凝と云、禮記(ノ)中庸云、苟(モ)不2至徳(ニ)1至道不v凝(ラ)焉、朱子章句云、凝者聚也、又凝と云は水のこほると云と同じ詞にてかたまるともいへり、アヤは錦などにおり附たる紋をいふ也、うつくしく目につく(27)紋はみたらぬ心にてトモシキとはいふ也、見のともしき聞のともしきとよめるも見たらず聞たらず也、又味凝は今按にいろ/\のあつまれると云心もあるか、色をあけと云こと、※[田+比]盧遮那経(ニ)云、染(ルニ)2彼衆生界(ヲ)1以2法界味(ヲ)1、疏釋云、味則色義如2加沙味1、これは律の中に加沙色につきて加妙味と云ことあるに准ぜり、此集末にいたりてあや〔三字右○〕とつゞけざれども味より云へることあれば初の説しかるべし、實聞にそなへむと今案をもかけるなり、
 
藤原宮御宇天皇代、【寛永本卷之二、二十六丁右、代匠記卷之二中、二十六頁、】
○藤原宮云々、 此總標につきて下に高天原廣野姫〔六字右○〕と注するはあやまり也、此は持統天皇也、下に至りて明日香皇女弓削皇子のかくれたまへるは文武天皇の御時也但馬皇女は元明天皇和銅元年にかくれたまへり、そのほか文武元明のあひだしりがたきことをものせたるに、いかでか廣野姫天皇と注すべき、後の人の加へたるか、さらずば草按のあやまれるをそのまゝ流布せるにや、
 
大津皇子薨之後、【寛永本卷之二、二十六丁右、代匠記卷之二中、二十六頁、】
○大津皇子云々、 大津は天武天皇第三の皇子、天武十五年崩後のあやまちより謀(28)反の御心つきて持統天皇朱雀元年十月二日事あらはれて三日に賜v死、委は第三卷に注すべし、○大來皇女齋宮に立たまへることは天武紀云、二年夏四月丙辰朔已己、欲(シ)〔略〕曰2大伯皇女(ト)1、大伯は備前なり、和名集云、備前國邑久【於保久】郡、しかれば日本紀并此集は大來とも大伯ともかき、和名集に邑久とかけるみなおなじ、此皇女十四歳にして齋宮に立たまひ、二十七歳にして京に歸りたまひ、四十一歳にして薨したまへり、續日本妃云、大寶元年十二月乙丑大伯内親王薨、天武紀云、先納(レ)2皇后※[女+弟]大田(ノ)皇女(ヲ)1爲v妃、生3大來皇女與(ヲ)2大津皇子1、同腹の御はらからなる故にさきにもげにむつましき御歌あり、今の御歌あはせてみるべし、
 
欲見吾爲君毛、【寛永本卷之二、二十六丁左、代匠記卷之二中、二十七頁、】
○ミマクホリワガセシ、 詩曰、陟2彼(ノ)高岡(ニ)1我馬玄黄、遊仙窟曰、日晩途遙馬|疲《ツカレ》人乏、
 
移葬大津皇子屍、【寛永本卷之二、二十六丁左、代匠記卷之二中、二十七頁、】
(29)○移葬大津皇子屍云々、 日本紀には初いづれのところ葬ともみえず、うつしはうぶるよしものせられず、葛城〔二字右○〕の名は神武紀云、又高尾張邑〔略〕曰2葛城(ト)1、
 
宇都曾見乃、【寛永本卷之二、二十六丁左、代匠記卷之二中、二十七頁、】
○ウツソミノ人ニアル、 ウツソミはうつせみにて、世の枕詞なるを、やがて世に用る也、我いまだながらへて世上の人にてあるを、けふ大津皇子をかつらぎにうつしはうぶらば、あすよりは思ひよらずふたかみ山をいもせとみむことよ、となげかれたまふ也、イモセははらから也、此集に人ナラバ親ノマナコソアサモヨヒキノ川ツラノイモトセノ山とよめるも、いも山とせの山とが人にてあらば、おやの愛する子のあにといもとのやうなるとよめる也、又はこ上は山ふたつなちび立ゆゑに此集に紀路ニコソ妹山アリトイヘ、カツラギノフタカミ山モ妹コソ有ケレとよめれば、此御歌そのよせあるものなり、
 
磯之於爾、【寛永本卷之二、二十六丁左、代匠記卷之二中、二十八頁、】
 
(30)○イソノウヘニ生流、 イソノウヘは石の上《ウヘ》也、神功皇后紀云、登2河中石上(ニ)1而投v鈎祈之曰と云へり、布留につゞくいそのかみも同じ於の字をうへ〔二字右○〕とよむことおほし、文武紀には憶良(ノ)氏をも山|於《ウヘ》とかけり、南京法相宗の學者聖教をよむとき、何においてとはよまで何のうへにとよみならはせるは、彼宗いにしへよりありたる宗なれば古風ののこれるなるべし、此御歌は朱鳥二年の春になりて二上に移しはうぶりたまふなるべければ、皇女の御なげき更にまして、しらつゝじのさかりなるを御覽ずるにつけても、いとゞ皇子の御ことをなげきてかくはよみたまふ也、この皇女の御歌此卷以上六首をのせたり、ともに恩愛ふかくかあれなる御歌なり、
 
右一首今案、【寛永本卷之二、二十七丁右、代匠記卷之二中、二十八頁、】
○右一首、 今按移葬の下に時の字をおとせる歟、此注は帥爾にくふるとてあやまれり、十一月十六日に京へ歸さたまへば也、うつしはうぶるとよめるひはそののちによみたまふべし、さきにいへるがごとく朱鳥二年の春なるべし、○日並皇子云々、柿本の下朝臣の字を脱す、目録にこれあり、持統紀云、天命開天皇(ノ)元年生2草壁皇子尊(ヲ)於大津宮(ニ)1、天武紀云十年春二月天皇皇后共居2于|太極殿《オホアムトノニ》1以呼2親王及諸臣1詔之曰(31)云々、是日立2草壁皇子尊(ヲ)1爲2皇太子(ト)1、因以令v攝2萬機(ヲ)1、十四年春正月授2淨廣壹位1、天智天皇元年に生れたまひて持統天皇三年に二十八歳にして薨じたまへり、續日本紀第一文武紀云、日並知皇子尊者寶字三年有v勅〔略〕○延喜式二十一諸陵式云、〔略〕續日本紀第二十六(ニ)云、〔略〕、今按景雲四年とは此年光亡天皇位につかせたまひて寶龜と改元したまへども十月なれば四月は猶景雲也、
 
天地之、【寛永本卷之二、二十七丁右、代匠記卷之二中、二十九頁、】
○アメツトノノジメノ時、 此歌のよみやうは日なめの皇子と云御名につきて天照大神になぞらへて申奉也、神代紀(ニ)云、乃入〔略〕、神集はカムツトヘとよみて下もツトヘイマシテとよむべし、○アシハラノミヅホノクニヲ、 神代紀(ニ)云、〔略〕、ミヅホノクニは此國をほむる名也、○アメツチノヨリアヒノ極ははて也、地のはては天とひとへにより(32)あふ心也、○天雲ノヤヘカキワケテ、 やへをかきわけて也、神代紀(ニ)云、皇孫乃離(レテ)2天(ノ)盤座(ヲ)1且排2分天(ノ)八重雲(ヲ)1稜威之道別道別而《イツノチワキニチワキテ》天2降《アマクダリマス》於日向(ノ)襲之高|千穗《チホノ》峰(ニ)1矣、○カミクダリイマシツカヘシとは太子と云へども臣に屬すればいへり、○淨之宮爾、これをばキヨミノミヤにとよむべし、○シキマスクニと云までは持統天皇の御事也、○春花ノカシコカラムトは榮花にたとふ、かしこきはおそろしき也、尊貴の人は威勢ある故におのづからしかり、又タノシカラムともよむべ、日本紀に貴盛とかきてタノシミとよめり、○望月乃滿波之計武、 これをばモチ月ノタヾハシケムとよむべし、第十三に十五月《モチヅキ》ノタヽハシケムとよめり、湛の字の心也、湖などのみちたゝへたることを十五夜の月の圓滿なるによせて、のぞみたりてかけることあらむとみな人の思ふ也、○大舟ノ思ヒタノミテとは大船はのれる心のたのもしげなる物なれば也、此集に多き詞也、和名集云、唐韻云舶、【都具能布禰、】海中の大船也、○アマツ水アフギテ持ニとはあまつ水は雨也、日でりにあめのくだるを待心也、景行紀云、山神之興v雲零v水、文選司馬長卿(カ)難(ズル)2蜀(ノ)父老(ヲ)1檄云、擧(テ)v踵思慕若2枯草之望1v雨、○由縁母無、 これをばヨシモナシとよむべし、下のとねりが歌にも、ヨシモナクサタノヲカベニカヘリ居バ、とよめり、○ミアリカはみあらか也、古語拾遺云正殿謂v之|麁香《アラカト》1、○明言爾とは朝毎日也、物のたま(33)はすは朝にかぎらざれども、伺候する人はことに朝とくより御あたりちかくはべりて物おほせらるればなり、○ミコノ宮人行方シヲズモとは身のなりゆくべきやうをしらぬなり、又ちり/”\になりて宮の内に又もなくなるをいへるにもあるべし、歌の下に一云を注する中に爾爲〔二字右○〕の二字よむにときがたし、もじのあやまれるにや、
 
島宮勾乃池、【寛永本卷之二、二十八丁左、代匠記卷之二中、三十五頁、】
○島ノ宮勾ノ池、 嶋ノ宮は下のとねりが歌に橘ノ島ノ宮とよめれば橘のあるあたりなるべし、又此集に橘ノ嶋ニシヲレバ川遠ミサラサズヌヒシワガ下衣などもよめり、天武紀云、十年秋九月周芳國|貢《タテマツル》2赤龜1、乃放2島宮池1、これこの歌のまがりの池也、ハナチ鳥とは池に水とり翅などきりて放かふを云也、○人メニコヒテは人めをこひて也、いもをこふるを妹にこひなどよめる同じ心也、惣じて鳥は人を恐るゝものなるにより、水鳥などは水にかづきいりて人にかくるゝもの也、しかるを此池の放鳥はよくなつきたるゆゑに人をこひしたひて池にもかづかずとよめる也、皇子かくれさせたまひて後も此鳥の猶この池をはなれずして人なつかしくするをふび(34)むとみてよめる心也、放鳥のこと、或は主人の死したるとき、其飼置たる鳥を放つを云とも申、又さなくても籠にかふ鳥を用なしとてにがしやるをも申也、此歌も皇子薨じたまへばはなちたるよしに云説もあれども、もとよりはなちおかせたまふ鳥とぞ歌の心は聞えたる、此下の舍人等がよめる歌の中にも、島ノ宮上ノ池ナル放鳥アラビナ行ソ君マサズトモとよみたればもとより放ちかはせたまひたる鳥と云に疑もなし、○マガリノ池をまなの池ともよめり、安閑天皇を繼體天皇の御時は勾大兄と申也、御位につかせたまひて後都をうつしたまふ處を勾金橋といふにとり爾勾の字をまがり〔三字右○〕とよみたれば只まがりの池なるべし、
 
皇子尊宮舎人等、【寛永本卷之二、二十八丁左、代匠記卷之二中、三十六頁、】
○皇子尊宮舎人等云々、 目録には傷の字を※[立心偏+易]に作れり、字の似たる上にともに義もあるゆゑにかきたがへたるべし、思ふに傷の字にてや侍りなむ、
 
御立爲之、【寛永本卷之二、二十九丁右、代匠記卷之二中、三十九頁、】
○ニハタツミ、 雨ふりて庭にながるゝ水也、和名集云、〔下略〕
 
(35)橘之島宮爾者、【寛永本卷之二、二十九丁右、代匠記卷之二中、四十頁、】
○橘ノ島ノ、 嶋の宮にて恩顧をかうぶりて宮づかへしなごりのあきたらぬ心にやめして物のたまふこともなきに、佐田の岳にはとのゐしにゆくらむと身を人の上のやうによめり、
 
鳥〓立、【寛永本卷之二、二十九丁左、代匠記卷之二中、四十二頁、】
○鳥〓立飼之、 〓は栖の字のあやまれるなるべし、和名集(ニ)云、〔略〕○雁ノ兒はかもの子を云、雁のことも云と源氏物語の抄にみえたり、されどもいかにしてかものこと云よしはみえず、細流は逍遥院殿の御作なれば、只かものことのみのたまへり、源氏眞木柱にかりのこのいとおほかるを御覽じて、かむしたちばななどやうにまぎらはしてわざとならず奉れたまふ、同橋姫に春のうらゝかなる日影に水鳥どものはね打かはしつゝ、おのがじゝさへづるこゑなどを、つねはさがなきことゝみたまひしかども、つがひはなれぬをうらやましくながめたまひて、君だちに御琴どもをしへ聞えたまふ、いとをかしげに(36)ちひさき御ほどにとり/”\かきならしたまふ、ものゝねどもあはれにをかしく聞ゆれば、ななだをうけたまひて、
 打すてゝつがひさりにし水鳥のかりのこのよにたちおくれけむ、
うつぼ物語第二ふぢはらのきみにいはく、宰相めづらしくいできたるかりのこにかきつく、かひの内にいのちこめたるかりのこは君がやどにてかへらざらなむ云々、兵衛たまはりて、あて宮に、すもりになりはじむるかりのこ御覽ぜよ、とてたてまつれば、あて宮、くるしげなる御物ねがひかなとのたまふ、枕草子にうつくしき物、かりのこ、さりのつほ、なでしこの花、同草子云、あてなるもの、かりのこもたりたるも水のす、これらみなかもの子をいへり、此かもは家にかふ鴨のたぐひの鳥にて、俗語にあひると云なるべし、かも〔二字右○〕をかる〔二字右○〕と云は水にうくことのかろき故なるべし、文選屈原卜居云、將氾々(トシテ)若2水中之鳧1乎、與v波上下(シテ)偸以《イヤシクモ》全(セン)2我躯1乎、木玄虚(ガ)海賦云、鷸(タルコト)如2驚鳬(ノ)之失1v侶、これらみなかろき心也、鴈をかりとなづけたるもかろしといふ心にていへるにや、日本紀に木梨輕太子御歌にも、アマトブカルヲトメとも續たまひ、此集にも天トブヤカルノ社とも、此卷の下に天トブヤカルノミチともつゞけよめるは、輕の字につゞけたれば也、鳬は類おほき物にて鴛をもおしかもと云ふ、おほかた水鳥の惣名な(37)れば鴈も水鳥にて名さへ通ずるにや、後撰第七秋下、これのかたに思ふ人侍けるときに貫之、
 秋のよにかりかもなきてわたるなり、我思ふ人のことづてやせし、
この歌かりがねにやと思へど昔よりかりかもとのみあれば惣名をくはへてよめるなるべし、又鴨の中にゐなかに一種かるとなづけるあり、ひなよりよくなつきて道をゆけばしりへにたちてくると云へり、都あたりには昔よりすくなくて、昔の人もしらざりけるにや、今按又一説あり、これは鷹の兒を雁の兒とかきあやまれるにや、をの故はトクラタチと云へるも鷹と聞ゆ、第十九に家持の鷹をよまれたる長歌に、枕ヅクツマヤノウチニ、トグラユヒヌヱテゾワガフ、マシラフノタカとよめり、これ鳥やのこと也、かもならばすなはちまがりの池にかはせたまふべし、又マユミノヲカニトカヘリコネにもにづかはしからず、下にケゴロモヲ、春冬カタマケテミユキセシ、ウダノ大野ハオモホエムカモとよめるは、鷹狩のみゆきと聞ゆ、第一にヒナメシミコノミコトノ馬ナメテ、ミカリタヽシヽ時ハキムカフともよめれば、御狩のために鷹の子をかひおかせたまふ間に薨じたまへば、日へてはねもつよくなりなば心有ばこのまゆみの岳に飛きよとよめるか、催馬樂に、たかのこはまろにたう(38)はらむ、手にすゑてあはつのはらのみくるすのめぐりの鶉とらせむ、玉篇云、〓《イヤジ》〔略〕、〓を今鷹とかけども猶やゝ似たればわやまれる歟とおぼしき也、仁徳紀云、五十年春三月河内人|奏言《マフサク》、於2茨田堤1〔略〕枳箇儒《キカズ》、ナコソは汝こそは也、カリコムはかりこうむ也、ウベナ/\はむべな/\にてけふも/\と云がごとし、ワレヲトハスナとはわれにとひたまふななり、長命のわれなればとはせたまふは尤ことわりなれど、此國にてかりのこうみたることはいまだうけたまはらずと勅答を申るゝなり、此一段初には於2茨田堤1鷹産之とありて、歌にはともにカリコムとあれば、今按の良證なれども、ふかく考るにこれはかへりて雁産之を鷹に誤れり、その故は仁徳紀云、四十三年秋九月、依佐網屯倉《ヨサミミヤケノ》阿珥古〔略〕(39)曰2鷹甘邑(ト)1也、今この一段をみるに諸臣にとはせたまふとはみえねど、諸臣にとはせたまへども知人なきによりて酒君に尋させたまへる也、酒君は百濟王の孫也、初て鷹と云ことをしらせたまへるを五十年にいたりて武内宿禰に問はせたまふべきことわりなし、雁は神代よりあれども仲秋にはじめて渡りきて春になればかへりて、終にもとりゐてすをくふことをきかせたまはねばさぞ長壽の宿禰に昔よりさることありきやととはせたまへる也、しかれば鷹鴈の二字相似てまがふ證とすべし、和名集に廣雅を引ていはく、一歳名2之(ヲ)黄鷹1、【俗云和賀太加、】皇子薨したまふ後黄鷹をはたるべければまゆみの岳にとびかへりこねと云らむこと相應せるにや、大鏡云延喜九月にうたせたまひて昔の節はこれよりとゞまりける也、その日左衛門陣の外にて御鷹どもはなたれける血云々、これははるかに後のことなれどかゝるときはなちやる例なり、仁徳紀云、依網屯倉阿弭古とあるには弭を漢音によみて阿弭古と云べし、住吉郡に我孫子村と云村あり、住吉の神社の東南にて依羅神社ならびに依羅池より西北にあたれり、これかの阿弭古が住たるところにて名におひけるなるべし、續日本紀の孝謙紀にも外從五位下|依羅(40)我孫《ヨサミノアヒコ》忍麿等五人賜2依羅宿禰姓1とあり、彼阿弭古は長壽の人也、神功皇后紀に皇后三韓をたいぢしたまふとき筑紫にて阿弭古が子を神主として住吉明神をまつらせたまへることあり、忍麿はその裔なるべし、今我孫子とかくことはひこ〔二字右○〕と云はすなはちまご〔二字右○〕なれば下の字一字をあませり、世俗に曾孫《まご》をあやまりてひこ〔二字右○〕と云故にこさかしきものの後にそへけるなるべし、鷹井邑はかの我孫子より東北にあたりて鷹分村と云村ありこれなるべし、日本紀の中にも人の名、所の名と文字をかへてかけることとあり、いはむや世をへて後をや、又依羅をも日本紀には河内依網本倉といへり、此阿弭古鷹井邑のことなどは、こゝに用なくて事ながくわづらはしけれど第十七第十九にも鷹をよめる歌侍れば、かの我孫子わたりにはすこしのほどすみて、所をもしれる故に、事の序に末をかねて事のおこりを注しおき侍るなり、
 
東乃多藝能、【寛永本卷之二、三十丁右、代匠記卷之二中、四十三頁、】
○東ノタキノ、 これは島の宮のうちに東をかく名づけたるにや、又別にかく云宮をつくらせたまへる歟、
 
飛鳥明日香乃河之、【寛永本卷之二、三十一丁左、代匠記卷之二中、四十九頁、】
(41)○敷藻相ヤドヽ念而《オモヒテ》、 此二句心得がたし、第十六竹取翁が歌に信巾裳成者之寸丹取爲支《シキモナセハシキニトリシキ》と云二句あれど、かれもいかなることともえしり侍らず、今按ずるに敷の字の上に落字ありて、何しくもあふやとおもひて、相の字を下の句につくべしとおぼゆ、その故は屋の字を此集にやど〔二字右○〕とよめる例なし、屋戸とかきてよめることはあり、又自注に一云、公毛相哉登《キミモアフヤト》、これ下の一句の字を注するにあふや〔三字右○〕とあれば、うたがひなく上の句に落字ありとみえたるにつきて敷の字の上ならむとは云なり、但敷藻成など云成の字のおちて侍るか、心はおひなびきたる藻のなびきあふごとくあふこともやあらむとおぼしめしきと也、○玉ダレノ越ノ大野、 此越の字をこす〔二字右○〕と云訓をかりて用とみて玉たれの小簀とつゞけたるとおもひて、こすの大野とよみ來れり、これは字音を用て、をちの大野也、すなはち左の注に葬2河島皇女(ヲ)越智野1之時といへばうたがひなし、延喜式廿一諸陵式(ニ)云、越智(ノ)崗上陵、【皇極天皇、在2大和國高市郡1、】此第七には眞珠付越能菅原《マタマツクヲチノスガハラ》と云、第十二には眞玉就越乞兼而《マタマツクヲチコチカネテ》などよめるに越の字呉音の入聲をかり用ひたれば今もこれらに準じて心得べし、玉の緒をぬきてあるを玉たれと云故に玉だれのをち野とはつゞくる也、拾遺集に玉すだれいとのたえまに人をみてぬける心はおもひかけてき、又上下に緒をつけてかみは鈎をむすび下には總をたる(42)れば、これをかよはして心得べし、タマモは玉藻とかきたれども玉裳也、皇女のめす裳をほめていへり、ヒヅチはひぢ也、曲禮(ニ)云、送v葬不v避《サラ》2塗潦《・ニチリコニハタツミ》(ヲ)1、
 
右或本曰、【寛永本卷之二、三十二丁右、代匠記卷之二中、五十二頁、】
○天武紀、十四年春正月丁未朔丁卯、更改2爵位之號1、〔略〕著2朱華1、懷風藻云、河嶋皇子一首、〔略〕年三十五、天武紀、元年六月辛酉朔丁亥高市皇子遣〔略〕入2不破1云々、到2于野上1高市皇子〔略〕(43)爵位之號1、云々、是日高市皇子(ニ)授2淨廣貳位1、持統紀(ニ)云、四年秋七月以2〔略〕五千戸、】
 
挂文忌之伎鴨、【寛永本卷之二、三十三丁左、代匠記卷之二下、一頁、】
○狛劔和射見我原、 戰國策云、軍之所v出矛戟折v鐶鉉絶、【〔略〕】古樂府云、稾砧今何在【〔略〕】山上更有v山【山上山言、出也、】何日大刀頭【〔略〕】破鏡飛上v天【破鏡月也、】第十一に笠ノカリテノワザミノニとよめるも笠のうらにちひさきわをつけて、それよりををぬくをかりて云故にこれもわ〔右○〕とつゞくなるらめば今と同じ心なり、〇小角乃音母、
 晋書(ニ)云〓尤帥2魑魅(ヲ)1〔略〕(44)〔上略〕免2※[人偏+搖の旁]役1、○皷之音者、 不v見2其後(ヲ)1〔略〕守護之、○幡之靡者、 文選(ニ)陸士龍大將軍宴會(ニ)被v命作詩、〔略〕皇輿凱歸、○神風爾伊吹惑之、 (45)江文通擬古詩、神屡自v遠至、又軍に神あることは、史記項羽本紀曰、楚追撃〔略〕遁去(ルコトヲ)u、韓王信傳(ニ)曰、居七日、胡騎稍引去(ル)、時天大(ニ)霧、漢(ノ)使人往來(トモ)胡不v覺、およそ上は王者の天下を知ると知らざるとにより、下は士庶人の時にあふとあはざるとにいたるまで、そのしかありてしかある故をしらぬことあり、班叔皮が王命論、李蕭遠が運命論、劉孝標が辨命論等のごとし、大友の皇子に眉〔左○〕をぬかむとして天武天王を簒逆のやうにいひなせるものあり、日本紀は婉微にして決しがたし.いかさまにも漸々故ありげなるうへ、蘇我赤兄は有間皇子にも不臣の心をつけてかへりて捕へ奉りて紀の温湯へおくりしほどの人なるが、ともに佛前にしてちかはれしこともおぼつかなし、赤兄の後蘇我氏は絶たるか微になりたるか、日本紀續日本紀等にもみえぬやうには覺ゆ、懷風藻の大友皇子の傳には、すこし皇子に心あるやうにかゝれたれど、天武紀さきの御齋會の夜の夢の歌此歌などをよく/\みば疑ひおのづからのぞかるべし、秦始皇は阿房宮に安座せられしを、そののち趙高印璽を佩てのぼりければ宮殿ふるひうごきてゆるさゞりき、いはむやコあり功ある人を誰かたやす(46)く論ぜむ、稱コ天皇崩御の後、不慮に天智天皇の御孫光仁天皇たかみくらにのぼらせたまひて今に至るまでその御子孫のみ御位におはしますもその故又たれか知らむ、日本紀をみるに瀬田の戰は村國男依等が功にして、天皇は猶野上におはしましけれども、元來皇子の御威勢によりける故亂のをさまりたることをつぶさにのべらるゝなり、○垣安之御門之原、 神武紀云、天皇以2前年(ノ)秋九月1潜(ニ)取2天|香《カ》山之埴土(ヲ)1〔略〕號2埴安神(ト)1、
 
零雪者、【寛永本卷之二、三十六丁左、代匠記卷之二下、十六頁、】
○ヨコモリノ、 是はよくいひとかれて侍るを夢のうちの是非は是非ともに非也といへる風情にて、みこもり、よこもり、みなあらぬことに侍る也、げにも吉隱とかけるはうちまかせてはたれもよこもり〔四字右○〕とのみよむべきことにはべば、これは此集にかむなのつきそめけるよりのことに侍らむを、末代の今に至りて、ことにおろかなるおのれしもはじめて見出たるは物の隱顯もまたはかられぬことにはべるかな、これは枕詞にはあらず、第八、フナバリノヰカヒノ山とよみ侍る也、フナバリは宇(47)陀郡にありてそのふなばりにある猪養の山にふすしかのつまよぶ聲を聞がともしさ、第十には吉魚張《フナバリ》ノ浪柴《バミシバ》ノ野とも吉魚張《フナバリ》ノ夏身《ナツミ》ノウヘとも、吉隱をフナバリとよむ證は日本紀第三十持統紀に云、幸《イデマス》2菟田吉隱《ウタノヨナハリ》1、日本紀のヨナハリの點を推量するに、もとはフナハリにありけむを吉〔右○〕の字をフ〔右○〕とよむべきこと心得がたければ、かたかむなのヨ〔右○〕の字の横の二點のうせたるかと思ひて、こさかしき人の片かむなのフ〔右○〕の字の中に横さまに二點を加へてヨ〔右○〕の字になしけるなるべし、隱の字をナハリと讀ほどの人、吉の字をフ〔右○〕とよまずして初よああやまらむやは、吉の字フ〔右○〕とよむこと今引る此集第八第十の四首みなその證也、俗にふのよきといへるも此字なるべし、ナハリといふはかくるゝこもるなどいふにかよへる古語にもあるにや、天武元年紀云、及曰2夜半1到(テ)2隱《ナハリ》郡1焚2隱驛家1、これ天武天皇伊勢へおはしますとき、今の伊賀國名張【奈波利、】郡にいたらせたまふことをいへり、ともに隱の字をナハリとよみたればかくはいふ也、又延喜式二十一諸陵式云、吉隱陵【〔略〕】これは志貴皇子(ノ)妃光仁帝御母贈太政大臣正一位諸人の女紀朝臣|橡《ウマ》姫の御墓を光仁天皇御位につかせたまひて後陵には准らへらるゝ也、城上郡とあるは日本紀と相違すれどもかゝること例おほし、いづれもあやまりにはあるべからず、その故は宇陀と城上と隣近にて養(48)老のころは宇陀に屬したるが、いつとなくかはりて延喜のころは城上に屬せしなるべし、延喜式には吉隱にかななし、八雲御抄にはみこもりのゐかひの岳とのせたまへり、奥義抄には只ゐかひの岳とのみあり、此御歌は和銅元年六月に但馬皇子かくれさせたまへるその年の冬よませたまへるなるべければ、古今集は篁朝臣のいもうとの身まかりけるとき、なくなみだ雨とふらなむわたり河水まさりなばかへりくるがにと時にあたりたるわかれにとどめまほしとしてよめるやうはは心得べからず、たましひだにそこにおはしますとおもはゞ、又もながめやりて、せめてのなぐさめにせむに、雪だに泡にはあらず、いやかたまりて闇となりてたましひをよそにうからしめ奉らで、そこにとめまゐらせよとよませたまへる也、あは雪は和名集云、日本紀云沫雪【阿和由岐、】其弱(キコト)如2水沫1、安幡阿和同韻にて通ずるなるべし、別腹の御はらからにて、かねて、密通の御歌さきにみえたり、よりてことさらに別をかなしみてしたはせたまふなるべし、
 
弓削皇子、【寛永本卷之二、三十六丁左、代匠記卷之二下、十八頁、】
○弓削皇子云々、 續日本紀云、文武天皇三年秋七月癸酉淨廣貳弓削(ノ)皇子|薨《ミウセヌ》、〔略〕(49)〔略〕第六皇子名、御母は天智天皇(ノ)御女大江皇女也、長皇子の御ためには同腹の御弟なり、
 
王者神西座者、【寛永本卷之二、三十七丁右、代匠記卷之二下、十九頁、】
○オホキミハ神ニシマセバ、 第三十九にも此歌に似たる歌あり、天子の崩御をも皇子の薨じたまふをも神あかりと云へばかくよめり、
 
柿本朝臣人麿、【寛永本卷之二、三十七丁右、代匠記卷之二下、二十頁、】
○泣血哀慟、 禮記(ニ)曰、高子〔略〕繼v之以v血、又經にも佛も血になきたまへることみえたり、寶篋師陀羅尼經云、爾時世尊〔略〕三匝云々、※[さんずい+玄]然垂v涙、涕(ト)血(ト)交(リ)流(ル)、云々、
 
天飛也、【寛永本卷之二、三十七丁左、代匠記卷之二下、二十一、】
○天トブヤ、カルノミチヲバ、 天飛雁とつゞけり、木製輕太子の御歌にも、天とぶかるをとめともよみたまへり、此集にもまた天飛ヤカリノヤシロとつゞけたる、第十に天トフヤ雁ノツバサノオホヒ羽ノイヅコモリテカ霜ヤオクラムとよめるに(50)同じ、五音通ずればいそのかみふるとつゞく心にて、いそのかみふりにしさとともかり用ひ、栗はうごくまじき物なれど、くるすのをのと云とき、くるともいはるゝ類ひ也、○マネクユカバはまなくゆかば也、さだまれるつまなれども、まなくかよふと人思はむことを遠慮する也、○サネカツラ後モアハムトは、かづらははひわかれて又末にあへば、あふにつきていへり、○カゲロフノイハガキブチノ、 カゲロフは火也、石の中には火を具するゆゑにかげろふの石ともいはともつゞくる也、イハガキ淵は山川の岸に岩の垣のやうに立めぐる所にある淵をいへり、山のめぐる青垣山と云がごとし、又楚辭に壁の字をかき〔二字右○〕とよめり、壁立千仞と云ごとくなるをも云べし、○隱耳、 この集末にかくかきて下ニノミ〔四字右○〕とよみたればいづれにつきてもよむべし。黄葉乃過テイユクト、 第一に注するごとく此集に多きことば也、錦にもまがひてみゆるを愛するに、ほどなくちりつくるやうなればたとへて云り、い〔右○〕は發語の詞也、○梓弓オトニ聞は、これも此集にあまたある詞也、つねに射るにも音あり、又鳴弦をもするものなればいづれにもわたるべし、梓弓つま引|夜音《ヨト》の遠音《トホト》にもとよめる鳴弦するによせたりと聞ゆ、○セムスベシラニ、 しらずと云べきをしらにとよめるは古語也、この集にも多し、日本紀に不知所如とも不解所由とも※[がんだれ/昔]身無所(51)とも不知所圖ともかけるをみなセムスベシラズとよめり、○哉戀ノ千重ノ一重モとは千中無一と云はむがごとし、思ひの胸にみちて雲霧のあまねく立へたてたるやうなるをチヘとは云り、名草山、ことにしありけりわが戀のちへのひとへもなぐさまなくになどあまたよめり、○オモヒヤル心モアレヤとは思ひをはらしやる心もあるやとて也、○ワギモコガヤマズ出見シとは我かよひくるやと待て立出てみしなり、○ウネビノ山ニ鳴ク烏ノ聲モキコエズとはうねび山に鳥のなかぬと云にはあらず、聲あるものをかりて聲をだにきかぬ別をなげく也、○玉ボコノ道ユキ人モヒトリダニ似テシユカネバとは、おもかげの似たる人の、みてだになぐさむべきに、似たる人さへゆかぬ也、市は四方より人のあつまる所なればはじめよりにたる人だにあらばみてなぐさまむ、似たる聲だにきかむと立まじるなり、第三にも河風ノサムキハツセヲナゲキツヽ君ガアルクニ、ニル人モアヘヤとよめり、日本紀第二云、此神〔略〕且慟云々、莊子徐無鬼曰、〔略〕思v人滋深1乎、○袖ゾフリツルとはさはあるまじけれど、かなしひをきはめていはむとなるべし、○注(52)或本、オトノミヲ聞テ有エネバを、名ヲノミキヽテ有エネバとある本の有けるを注せるなるべし、今長歌の體かれこれをはせてみるにさもあるべし、
 
打蝉等、【寛永本二之卷、三十八丁左、代匠記卷之二下、二十四頁、】
○鳥穗自物腋狭持、 潘岳(ガ)傳、岳美2姿儀1〔略〕歸(ル)、これらも弾挾てとあればそのよしなきにあらねど、さい〔左○〕とりなどを鳥ホシ物といはむもいかにぞやあるうへに或本の歌并に第三の高橋朝臣が歌をもて證するにをゝし物〔四字右○〕と云なるべし、をゝしは第一に注せるごとく日本妃に雄略雌拔雄壯などかきてよめり、
 
妻毛有者、【寛永本卷之二、四十二丁右、代匠記卷之二下、四十頁、】
○宇波疑、 和名集曰、薺蒿七卷食經云、〔略〕食v之、
 
和銅四年、【寛永本卷之二、四十三丁左、代匠記卷之二下、四十四頁、】
(53)○姫島、 同第二十敏達紀云、乃〔略〕元正紀(ニ)云、靈龜二年二月、〔略〕佃c食v之u、
 
靈龜元年、【寛永本卷之二、四十四丁右、代匠記卷之二下、四十五頁、】
○志貴親王、 元正紀云靈龜二年八月、二品志貴親王薨(ス)、〔略〕諸陵式田原西陵、〔略〕
 
梓弓手取持而、【寛永本卷之二、四十四丁右、代匠記卷之二下、四十六頁、】
○手火之光、 吾夫君【日本紀第一、】尊〔略〕此其縁也、仲哀紀云、殯2于豐浦宮(ニ)1爲〔略〕かど火〔三字右○〕(54)はたび〔二字右○〕の外なるべき歟、和名集曰、周禮云、喪設2阿燎1、俗云2門火1、
 
萬葉集代匠記拾遺上
 
(1)萬葉集代匠記拾遺中
 
皇者神二四座者、【寛永本卷之三、十二丁右、代匠記卷之三上、一頁、】
○雷之上爾、 王充論衡曰、圖畫之工圖2雷之状1〔略〕椎v之、○五雜爼曰、然雷之形人常有〔略〕誠可v笑、○山海經曰、雷澤中有2雷神1、〔略〕則雷、○金光明最勝王經卷第七如意寶珠品第十四云、爾時世尊於2大衆中1告2阿難陀1曰、汝等當v知、有2陀羅尼1名2如意寶珠1、〔略〕四方方電王名1者、於2所(2)〔略〕世尊説v咒曰云々、○推古紀曰、爰新羅|任那《ミマナ》王二國遣v使〔略〕隨在天神《カミナガラモ》、云々、天武紀云、十二年春詔(シテ)曰、明神御2大八洲1〔略〕諸可v聽矣、
 
八隅知之、【寛永本卷之三、十三丁右、代匠記卷之三、四頁、】
○伊波比拜目、 天武紀云、十一年九月勅曰、自v今以後〔略〕之立(ツ)禮1、
 
久堅乃、【寛永本卷之三、十三丁左、代匠記卷之三上、六頁、】
○盖、 令義解云、凡葢(ハ)、皇太子(ハ)紫〔略〕
 
(3)隼人乃、【寛永本卷之三、十五丁右、代匠記卷之三上、十頁、】
隼人乃薩摩、 彼天孫もと日向に降りたまひておはしましけるゆゑに、日向大隅薩に火酢芹命の子孫ひろまりけるによりて猛烈なること隼の如し、隼人の名を薩男とも薩人ともいふは、さつま男さつま人と云略也、よりて隼人のさつまとはつつけたり、弓をさつまゆみ、矢をさつまやと云も其さつま人が具なればなり、○欽明紀云、元年三月、蝦夷《エミシ》隼人《ジャイト》並率v衆歸附(ス)、天武紀曰、十一年秋七月隼人多來貢2方物1、是日大隅隼人〔略〕勝v之、文武紀曰大寶二年冬十月先v是〔略〕守v之、許焉、○延喜式の中に隼人式あり、節會の日今來(ノ)隼人狗の吠るまねすることども委くみえたり、隼人正はかれらをあつかりてつかさどるなり、今の歌は題に又長田王作歌とある心は少きに、つくしへつかはされて水嶋をわたる中とあるをふまへてなり、それによりて音に聞さつまのせとをも役をつつしみて只空虚のごとく遠くにみゆれと也、○雲居は空の名なり、そらは雲の居るところなるゆゑにいへり、第六に隼人ノセトノイハホモアユハシル、ヨシ(4)ノヽ瀧ニナホシカズケリ、これと同じさつまのせと也、おもしろくみゆる處にこそ、
 
粟路之、【寛永本卷之三、十五丁左、代匠記卷之三上、十三頁、】
○粟路之野島之前、 本來和國に文字なくして、もろこしの文字をかりて文字にかかはらず音訓うちまじへ申のよろしきに隨ひてあてかければ魚を得て筌《ウケ》をすて兎を得て蹄《ワナ》をすつべきこと、ことに此國のわざ也、吾耻の心なればいよ/\み〔右○〕の字あるべからず、千歳集雜下顯輔卿の旋頭歌にあづまぢの野島のさきの濱風に、わがひもゆひし妹が顔のみかもかげにみゆ、とあるを推量するに、アハミチと云かんなにつき、又人丸のあふみにいたられけることもあれば、その中の歌にやとおもひてかくはよまれけるにや、近來の類字名所揃と云ものに安房近江淡路有2同名1と云へるは、三ケ國の名あひにたれば根本の歌に目をよくつけずして後の人にまどはさるゝ也、歌の心は濱風の人を吹かへすにつきて、そのひもをむすびし妹をこひしく、おもひける心なるべし、
 
荒栲藤江之浦爾、【寛永本卷之三、十五丁左、代匠記卷之三上、十四頁、】
○白水郎は此集に白水をひともじにして泉郎にもつくれり、もろこしにもいふ事(5)歟、此國にて義をもてかけるにやしらず、そのふかく入こと黄泉にもいたるばかりなる故に、もとは泉郎にて泉は白水の字を引つけたるなるべし、此歌によく似たる歌此集に多し、一本の白タヘは白たへの藤衣也、
 
留火之、【寛永本卷之三、十六丁右、代匠記卷之三上、十六頁、】
○明大門《アカシノナタ》、 これはかの國になだのうらと云ふ處ありて、その名の故をいへるなるべし、ここにナタと云に大門とかける心得がたし、もしこれは水門とかきてみなと〔三字右○〕にや、家ノアタリミユとあるは、かんなをつけあやまれる也、これまでの六首は石見の國へ下らるゝ中の歌なるべし、その故はつくしへ下らるるときの歌は下に別に二首ある故なり、
 
天離夷之長道、【寛永本卷之三、十六丁右、代匠記卷之三上、十七頁、】
○天サカルヒナノ、 アマサカルはここに天離とかけり、又天放天疎などもかけりヒナは田舍をいふ、故に都の方より遠くさかりたればアマサカルと云へり、天の字はいつかたもともに之をいたゞきて居るゆゑにいへり、此集にひなさかる〔五字右○〕ともよみたり、文選王子淵聖主得2賢臣1頌曰、今(ヤ)臣|僻《サカリテ》在2西蜀1、史記張儀列傳曰、今夫蜀西僻之國(6)而戎※[擢の旁]之偏也、陶淵明雜詩曰、心遠地自|偏《サカレリ》、神代紀下に下照姫の歌にも、アマサカルヒナツメノ云々、仲哀紀に神託の詞にも天疎向津媛《アマサカルムカツヒメノ》命云々、和漢共にさかる〔三字右○〕は遠ざかる也、天原ふりさけみればなど云さくる〔三字右○〕と云ことばも同じ、か〔右○〕の字をにごりて天のひきくさがれると云説は用べからず、古詩に相去ること萬餘里、各在2天一涯1、今のあま〔二字右○〕と云へるこの心也、○コヒクレバを後にはこきくれば〔五字右○〕とあらためられて皆人もさこそおぼえたれど、下の句をみる中、コヒクレバこそ心はふかく侍れ、石見よりはじめて都へののらるゝ中の歌は第二にのせてすでに注しぬ、これは筑紫へ下りてのぼらるゝとき、前妻後妻はいづれにか侍らむ、妻にわかれ、なれし都をおきてのことなれば、いつかやまとしまへ歸りつかむとこひこひてくるに、あかしのとよりやまとのかたのみゆるをよろこぶ心、コヒクレバと云ことばにて、めづらしさも、うれしさも、いはずしてきこえ侍り、○此ヤマトシマと云へるを、昔よりはりまにさいふ名處のあるかとおもひ、類字抄に淡路にのせたる、ともにあやまり也、つくしへ下らるゝ中の歌にもやまとしまねは〔七字右○〕とあれば明石の門といひ稻見の海とよみあはせたるによりてまどへる也、やまとの國なる證は此卷下に至りて笠朝臣金村角鹿津にてよまれたる長歌に、玉たすきかけてしのびつやまとしまねをと云へり、いは(7)むや反歌に、コシノウミノタユヒノウラヲタビニシテミレバトモシミヤマトオモヒツ、此歌はやまと〔三字右○〕とのみいひて島と云はず、第十五に豐前國下毛郡分間浦にしてよめる歌にも、ウナバラノオキベニトモシイサル火ハ、アカシテトモセヤマトシマミムとよめるは、みなやまとの國なり、やまとはいこまの峯いいき前北にわたりてみえねど野をへたちてみゆるを歌のならひまのにみゆるやうによむとも難ずべきにあらず、そのうへ神代紀云、及v至2産時1先以2淡路洲1云々、故名之曰2淡路洲1、廼生2大日本豐秋津洲1云々、疏云、秋津洲割分爲2四十三國1、今五畿内東山之八國、東海之十五國、山陽之八國、山陰之七國、南海之紀伊、北陸之若狹等也、かかればやまと嶋と云にはつのくにかはちもこもれば昔になずらへてみゆとも云べし、一本にヤトアタリミユと云へる、初に釋するごととし、第十五には家ノアタリミユとあり、門の字は乃の字のあやまれるなるべし、
 
飼飯海乃、【寛永本卷之三、十六丁右、代匠記卷之三上、十八頁、】
○ケヒノウミノニハヨクアラシ、 飼は笥のあやまれるなるべし、日本紀にも笥の字也、由緒はしらねど文字のつづき笥にもる飯の心にてつけたるなるべし、越前の(8)國敦賀郡也、○ニハは海上にて日よりのよきをいへり、○刈コモはみだるるものなればみだる〔三字右○〕と云につづけんため也、第十二にも草枕旅ニシヲレバカリゴモノミダレテ妹ニコヒヌヒハナシ、古今集にも、かりごものおもひみだれて吾こふと妹しるらめや人しつげずば、○釣をあやまりて鉤につくれり、和名集云、唐韻云、〓〓【豆利布禰】小漁舟也、今此歌によりてみるに人丸は越前へもおもむかれけるにや、後の人この二首三首より五十首百首も、あるひは一字題或は結題などにてよめば、みぬさかひしらぬところも、おもひめぐらさぬことなくはよむなれ、昔の人は多くはその處にのぞみてよみ、物によすれどもいとはるかなる處おほかたよまず、いはむや此歌は眼前にみてよめる歌なれば、外に考ふることなしと云へども越前におもむかれたりとしらる、ここに一本と注するも第十五にむこの海とあれば前の歌にアカシノトヨリヤマロシマミユと、下られて漕つつくればむこの浦のあまども、にはよしとにや、まきちらしたるやうにつりふねの出ると次第もよくつゞけど、第十五に注して柿本朝臣人麿歌曰、けひのうみのとあれば二首ははなれたるなり、
 
天降付天之芳來山、【寛永本卷之三、十六丁左、代匠記卷之三上、二十頁、】
(9)○アモリツク天ノカク山、 アモリツク、あわめふりつくと云心なり、米布切牟なればあめふりつくと云べきを、ききのよろしからねば三五を通してあもり〔三字右○〕と云へり、此集下にいたりて第十九に家持のよめる長歌にも安母里麻之と云へり、前後つづきながければここにひかず、○カク山は神代より名高き山なり、神代紀上云、以2天香山之眞坂樹1爲v鬘云々、風土記曰、天上有v山分而隨v地、一片爲2伊與國之天山1一片爲2大和國之香山1、もろこしにもかかることあり、博物志曰、泰山一曰2天孫1、言爲2天帝孫1也、主v召2人魂魄1、東方萬物始成、知2人生命之長短1、アモリツクと云へば天山にありける山のあまくだりけるなるべし、○木ノクレシゲニとはわかばのしげりて木くらくなるをいへり、季嘉祐詩曰、江華鋪2淺水1、山木暗2殘春1、○鴨妻喚、かものつまをよぶ也、○アヂムラサワギ、 あぢと云鳥はおほくうちむるるものなれば、あぢむらさわぎとおほくよめり、○タチイデテアソブ舟とは韋應物詩云、野渡無v人自横、鄭巣詩云、秋萍滿2敗船1、
 
人不榜、【寛永本卷之三、十六丁左、代匠記卷之三上、二十一頁、】
○潜爲はカヅキスルとよむべし、○高部は和名集云、爾雅集注云、※[爾+鳥]、【〔略〕】、一名沈鳧、貌似v鴨而小、背上有v文、
 
(10)何時間毛、【寛永本卷之三、十六丁左、代匠記卷之三上、二十一頁、】
○鉾椙はホコスギとよむべしムスギとよみたれそも音によみて心は和訓を用ることわりたがへり、杉のたてるがなほくてほこのやうなれば、ほこすぎ〔四字右○〕と云なるべし、※[木+温の旁]の字を椙とつくれるはあやまり也、椙の字すぎ〔二字右○〕とよむこと和名集にもいまだ詳ならずとあれども、そのかみ考る處ありけるにや、日本紀にも此集にも同じく用られたり、
 
柿本朝臣人寐呂、【寛永本卷之三、十七丁右、代匠記卷之三上、二十三頁、】
○新田部皇子、天武紀云藤原大臣女氷上娘弟五百重娘、生2新田部皇子1、聖武紀云、神龜元年二月二品新田部親王授2一品1、五年秋云々、天平三年云々、天平七年九月新田部親王薨云々、冬十月丁亥云々、
 
八隅知之、【寛永本卷之三、十七丁左、代匠記卷之三上、二十三頁、】
○茂座、 シゲクマスはあやまれり、シキマセルとよむべし、○雪シモノは雪と云もの也、○マセはましませ也、遊仙窟安穩をマセとよめり、
 
(11)苦毛零來雨可、【寛永本卷之三、十八丁右、代匠記卷之三上、二十七頁、】
○神《ミワ》之埼、狹野《サノ》乃渡、 今按にこれはふたつながら紀洲の名處なり、ある僧の紀洲に縁ありてたびたびまかりけるがかたるるは、熊野に近き海邊にみわざき〔四字右○〕と云處ありて、やがてとなりてさの〔二字右○〕と云處あり、ともに家もあまたかる處也と申き、これによりて思ふに第七に神前《ミワノサキ》アライソモミエズ浪タチヌイヅコヨリユカムヨ道ハナシニ、此歌のまへにあまた紀の國の名處をつゞけてよみて、さてこそ歌につゞきたればかの或僧のかたりしみわさき〔四字右○〕なるべし、此卷下に至りて赤人のうたに秋風ノ寒キアサケヲサノノ岡コユラム君ニキヌカサマシヲとよめるは牟漏郡也とさだむ、そのうへ日本紀第三云、遂越2狹野1到2熊野神邑1、然ればおきまろ熊野などにまうづる道に雨にあひてよまれけるなるべし、
 
牟佐佐婢波、【寛永本卷之三、十八丁左、代匠記卷之三上、二十八頁、】
○牟佐佐婢《ムサヽビ》 和名集云、〔略〕也、馬融長笛賦云、※[獣偏+爰]〔略〕※[口+斗]など(12)もいふ、五|技《キ》あれどもいづれも長ぜぬゆゑに常にうゆれば朗詠集にも飢※[鼠+吾]と作り、山谷の詩にも五技※[鼠+吾]鼠笑2鳩拙1と云わたれり、この集第六七にまたよめり、よきこずゑもとむとて、さつをにみつけられてとらるゝ也、サツヲはさきにハヤ人ノサツマノセトと云歌に注せり、かり人をも云、今はそれなり、
 
櫻田部鶴鳴渡、【寛永本卷之三、十九丁 、代匠記卷之三上、三十一頁、】
○年魚市《アユチ》、 神代紀云、其※[虫+也]飲v酒而〔略〕神是也、景行紀云、初日本武尊〔略〕熱田社1也、和名集云、尾張國愛智【阿伊知、】郡、ふたたびタヅナキワタルと云へるは古歌例多丁寧なる故也、
 
礒前榜手回行者、【寛永本卷之三、十九丁右、代匠記卷之三上、三十二頁、】
○鵠、 史記陳渉世家曰、嗟乎燕雀安知2鴻鵠之志1哉、【〔略〕】此索隱に鴻鵠是一鳥と云へるはあやまりなるべし、鴻雁を鴻鵠と云へることを聞ず、陳渉が詞も燕と雀とのちひさきものふたつをあげて鴻鵠との大(13)きなる鳥ふたつに對して、およそ小人は大人の志をしらぬにたとふと聞ゆ、五雜俎云、鵠即是鶴、〔略〕是已、○遊仙窟注引2琴操1曰云々。援v琴而歌、〔略〕作v鵠、文選辨命論云、朝秀〔略〕年之殊也、
 
速來而母、【寛永本卷之三、二十丁右、代匠記卷之三上、三十四頁、】
○山背ノ高槻村、 山シロは山うしろ也、あふみの國を山のおもてにして山のうしろの國ともいひけるを、延暦十三年七月に山城とあらためて出されける也、○高槻村、 いづれの郡と云ことをしらず、今の高槻と云は津の國也、○チリニケルカモはもみぢを惜むなり、
 
然之海人者、【寛永本卷之三、二十丁右、代匠記卷之三上、三十五頁、】
○髪梳乃少櫛はクシゲノヲグシとよむべし、ツゲは黄楊とかきて櫛つくる材なれば髪梳とあるを黄楊とよみしは義あらずして無理也、伊世物語に、なたのしほやきいとまなみとある歌はこれをとれり、
 
右今案、【寛永本卷之三、二十丁右、代匠記卷之三上、三十六頁、】
(14)○注、右今云々、曰少郎子也、 續日本紀にも君子、若子ならべてかけり、和銅六年正七位上石川朝臣君子(ニ)授2從五位下1、養老四年云々、石川朝臣|若子《ワカコヲ》爲2兵部大輔1云々、此集をみぬ人續日本紀をは君子若子は字の似たれば今の板本誤字おほきゆゑにいづれぞあやまれるならむとうたがひぬべし、
 
去來兒等、【寛永本卷之三、二十丁左、代匠記卷之三上、三十七頁、】
○イサヤコラヤマトヘ、 菅はほすまゝに白くなるゆゑに白菅と云、眞野とつゞくる心は眞菅と云ゆゑに眞の字につゞくる也、ハギハラははりの木原也、第七寄木歌に白菅ノマノノ榛原心ニモ思ハヌ君ガ衣ニゾスル、きぬをそむる物なればその料にや、妻のかへしに君こそみらめといへるをおもへばもみちなるべし、此眞野は津の國也、やまととあるはあやまり也、又菅は此處の名物か、此集にワギモ子が神ニタノミテマノノ浦ノ小菅ノ笠ヲキズテキニケリ、眞野の池の小菅を笠にぬはずして人のとふ名を立べきものか、長流が枕詞燭明抄に此所菅のある所にてしら菅のまのとつゞくるかとも聞えたりと今案をくはふ、ますけなきはかの川原の例なればめづらしく思ひよれり、されど衣手のまわかのうらとよめるも眞の字にかゝれば(15)初を正説とすべし、○兒等はコドモとよむべし、第一卷に憶良のイザコドモハヤ日ノモトヘとよまれたるに同じ句也、
 
白菅乃、【寛永本卷之三、二十丁左、代匠記卷之三上、三十八頁、】
○ユクサクサはゆくさまくるさま也、くるはかへなくるなり、
 
角障經、【寛永本卷之三、二十一左右、代匠記卷之三上、三十九頁、】
○角サハフ石村、 此石村大和にありて、此集にあまたよめるにみなイハムラとかんなつきたり、字にあたりたれば心もつかで過侍りしに續日本紀をみてあやまりたることをしれり、續日本紀第六云、從五位下狛朝臣秋麿言、本姓是阿倍也、但當2石村池邊宮御宇聖朝1云々、これに石村池邊宮と元へるは日本紀に出したる磐余池邊|雙槻《ナミツキ》宮にて用明天皇の御ことをいへり、景行紀に荷持田村【荷持此云能登利、】と云處也、筑紫の地の名也、村をフレと點じたり、又村をむら〔二字右○〕と云は群の字の心にて衆人むれてをる故なればむらむれ同じこと也、かなを上略して上の石にあはせてイハレとよまんこと、そのことわりあり、いはれは磐余とつねにはかけども、それも文字に心あるにはあらねば、かゝはるべからず、延喜式二十二民部上云、凡勘籍之徒、或轉2蝮部《ヘヒヘノ》姓、1注2丹(16)比部1、或變2永吉名1爲2長善1、如v此之類莫v爲2不合1、○夜ハフケニツヽは、ふけいにつゝにて、ふけゆきつゝなり、
 
墨吉乃、【寛永本卷之三、二十一丁右、代匠記卷之三上、四十頁、】
○スミノ江ノエナツ、 和名集云、住吉郡榎津【以奈豆、】
 
燒津邊、【寛永本卷之三、二十一丁右、代匠記卷之三上、四十頁、】
○燒津ベニ吾ユキシカバ、 日本紀第七曰、是歳【景行天皇四十年、】日本武損初至2駿河1云々、入2野中1而〔略〕其野1云々、號2其處1曰2燒津1、延喜式神名帳云、駿河國益頭郡燒津神社、○コラハモ、 はも〔二字右○〕は助語にてこらはと心をとめてたづねしたふ心也、古今集忠岑が、春日野の雪まをわけてをひ出くる草のはつかにみえし君はもと云へるに同じ、
 
椋橋乃、【寛永本卷之三、二十二丁左、代匠記卷之三上、四十四頁、】
○夜コモリはみか月なればくれに見えて夜にいれば山ちかき處はやがて山にかくるるを夜こもりとはいへり、文選謝靈運遊2南亭1詩、遠峰隱2半規1、第九に沙彌女王歌(17)とて又此歌をのせ、ヒカリトモシキをカタ待ガタキとあり、歌後有v注、
 
角麻呂、【寛永本卷之三、二十二丁左、代匠記卷之三上、四十六頁、】
○角麻呂、 辛未從五位下都能兄麻呂賜2姓羽林連1、【聖武紀神龜元年五月下、】四年十二月云々、羽林連兄麻呂處v流、
 
幸伊勢國之時、【寛永本卷之三、二十五丁右、代匠記卷之三上、五十三頁、】
○安貴王、 聖武紀云、天平元年三月、無位阿紀王授2從五位下1、十七年正月從五位上、市原王之父也、第六にみえたり、
 
伊勢海之、【寛永本卷之三、二十五丁右、代匠記卷之三上、五十四頁、】
○花爾欲得、 花ニモカとよめるもあしからねど、花ニカナとよむべし、欲得とも願とも冀ともかきてネガヒ〔三字右○〕假名によめるは義訓也、
 
皮爲酢寸、【寛永本卷之三、二十五丁右、代匠記卷之三上、五十四頁、】
皮スヽキクメノワカコカ、 第十にも五十五葉五十九葉に皮爲酢寸とかきて今と同じくシノスヽキとよめり、皮の字いかにしてかくはよめるにか、おろかなる心(18)にておもひめぐらすにすべて心ゆきがたし、今案これをばハタスヽキとよむべきにや、その故は檜皮とかきてヒハタとよめり、皮膚は義相通ずるゆゑに和語も大かた通して肌膚の字をかはべ〔三字右○〕とよめるは皮邊と云心ときこゆ、又和名抄云、唐韻云、〓〔〕木皮也、これらの例にもよせて思ふに、膚と同じやうによむこと格なり、しかれば此集に雉をかりて岸に用る例にて旗にかりよまんこと妨なし、○クメノワカゴとつゞくること長流が老後に申けるは、クメノワカゴはめのほそき神なれば、シノスヽキクメノワカゴとつゞく、俗にも目の細きをば薄にてきれるばかりと云はこの故也、されば夜のりあくる時山のはほそくしらむをしののめ〔四字右○〕ともいなのめ〔四字右○〕ともいふはこの故也、古今集夏部の貫之、夏の夜のふすかとすれば時鳥鳴一聲にあくるしののめ、此歌の口傳なるよし申き、此クメノワカゴと云神日本紀等にもみえず、紀伊國の風土記などには侍りけることにや、顯宗紀云、弘計天皇【更名來目稚子、】とあれども、御父市邊|押磐《オシハノ》皇子の雄略天皇にころされたまへる後もひそかにかくれて播磨へこそおはしましければかなはず、久米仙人それも三穗石室におこなへりともきかず、まづさる神のむかしよりありけるにてさておくべし、○イハヤは和名集に云、説文曰、窟、〔略〕爲v之、
 
(19)石室戸爾、【寛永本卷之三、二十五丁左、代匠記卷之三上、五十六頁、】
○イハヤトニタテル、 ナヲミレノバなむぢをみれば也、紀氏六帖には、いはやどにねはふ松の木なれをみれば昔の人にあひみるがごと、
 
東市之、【寛永本卷之三、二十五丁左、代匠記卷之三上、五十七頁、】
○東ノ市ノ、 市に東西ある故に市正も東西あり、第七には西ノ市ニタヾ獨出、などよめり、コタルは木の年ふりて枝のまがる也、第十四東歌にも薪コルカマクラ山ニコタル木ヲなどよめり、○久美宇倍をキミウヘよめる義理はありながら久の字き〔右○〕とよむべきやうなし、そのうへ泳樹といふ雜歌なれば相聞にはあるべからず、もし久美は茱※[草がんむり/臾]、宇倍は植にや、實のなるものにあらざる木もあるを、みのならぬ木をしらずしてうゑおきて、ことしもやと池にこたるまで實のならんことを待こひけるにや、アハヌと云は實のなることにあはぬ也、植は此集に宇惠と大かたかきたれど第五に春ヤナギカヅラニ折シ梅ノ花誰カウヘシ云々、此歌|有倍志《ウヘシ》とかきたればなつむべからず、此説たしかにまれならんとにはあらず、
 
(20)式部卿藤原宇合卿、【寛永本卷之三、二十六丁右、代匠記卷之三上、五十九頁、】
○宇合卿、 聖武紀云、神龜三年冬十月云々、以2式部卿從三位藤原宇合1爲2知造難波宮事1云々、
 
見吉野之芳野乃宮者、【寛永本卷之三、二十六丁左、代匠記卷之三上、六十一頁、】
○永可良思、 これは水カラシなるを水を永とあやまれるを字のまゝにかむなをつけたるは後のしわざなるべし、山カラシ、水カラシのふたつのし〔右○〕はやすめ詞也、結句の行幸之宮はミユキセシミヤとよむべし、
 
奈麻余美乃、【寛永本卷之三、二十七丁左、代匠記卷之三上、六十四頁、】
○奈麻ヨミノカヒノ國、 燭明妙になまよみ〔四字右○〕はなましきがよしと云詞なり、甲斐は香火によせたり、香はなましきがよしと云心也云々、此云々とかけるは古人の説を略してとれるなるべし、今案なまよみ〔四字右○〕はえたり、香火〔二字右○〕は心得がたし、その故はたゞ沈檀等の香はなましき物ならずはかぞふべからず、これはまかせたるたきものをいへるなるべし、しかれば薫は諸家の名方も蜜などの氣を化せしめんがために久し(21)くつちにもうづみおきて、後たくことなれば、ナマヨミノ香火とはいふべからず、おもふに貝によせて云なるべし、あはび、さゝえまで、貝いづれもなましきをよしとすれば也、○ウチヨスルスルガノ國、 第二十防人が歌にも、ウチエスルスルガノネラ、とよめるは、あづま人なればうちよする〔五字右○〕をよこなまりてうちえする〔五字右○〕と云へり、燭明抄に風土記に云、國に富士河あり、其水きはめてたけく疾し、よりて駿河の國と名くと云々、しかればその川の早くして波うちよするするがと云心にや、又此國の古老傳ていはく、昔はするがの國ふじの山とあしたか山の間を東海道は驛路として横走の關とて侍りしも、此ふたつの山の間にありける關の名也、驛路なれば朝夕に重服觸穢のものの行かよひけるを淺間大明神のいとはせたまひて、今のうき島が原と云は、はるかの南海にうかびありけるをこゝに打よせさせたまひてより、今の道は出來にけりと申傳へて侍る也と云々、此ふたつの古説の中に、さきの浪打よすると云心にやといへるはさも侍るべし、後の古老の傳は虚實はしらざれどもこゝにはかなへらず延喜式第二十八云、駿河國驛馬横走二十匹、傳馬横走驛五匹、和名集曰、駿河横走、【與古波之里、】八雲御妙云、横走關、【清少納言草紙、又在天暦御記駿河也、】延喜延長のころまで驛馬を横走におかれたれば今の浮島が原をゆく道は延喜より以後の事なるべし、淺間の(22)明神の觸穢のものをいとはせたまひて浮島が原を南海より打よせたまふにより、打よする駿河といはゞ、此歌などいまだよまぬさきのことなれば、往來のものもはやくうき島が原よりかよひて驛馬もそこにこそはおかれめ、○コチコチノ國はをちこちの國也、このかひ、するが〔五字右○〕也、○三中從、サカヒとはよむべからず、もじのまゝにミナカユとよむべし、眞中也、○出テシアルは出てある也、○天雲モイユキハヾカリ、 上の赤人の歌下の釋道觀が歌にもよめり、韓〓宿2石邑山中1詩云、浮雲不2其此山齊1、○飛鳥モトビモノボラズ、 説文曰、※[代/山]山高峻、鳥飛不v越、惟有2一缺門1雁往來、向2此缺中1過人號曰2雁門1、○モユル火モ雪モテキヤシ、 神異經曰、南方有2火山1、長四十里、廣四十五里、生2不v燼之木1、晝夜火燃、得2烈風1不v猛、暴雨不v滅、○言不得名不知、 これをイヒカネテナヲモシラセズとよめるはあやまりなるべし、こゝの心は言語道斷心行蔵減と云がごとくかゝるあやしきことはいふことあたはず、何となづくべき名をばしらずと稱美する詞なれば、イヒモカネナヅケモシラズとよむべし、上はイヒカネテにても聞ゆるなり、○アヤシクモイマス神カモ、 これは山をさしていへり、紀云、山有v神名2淺間大神1、縁起式神名帳云、駿河國富士郡淺間神社【名大神】此|淺間《センゲン》と申神もすなはち山の精靈にておはしますなるべし、孔雀經に佛諸の大山の名誥て此名を知て唱る(23)ものは利益あらむと誥たまへるをもておもふべし、○セノウミトナヅケテアルモ 右抄にそれのいぬゐの角にある水海、すべてふじの山のふもとには山をめぐりて八の海有となむ申す、せのうみと申はかの八の海のその一と云へり、今案此集にいへるは世に富士蓮肉とてつねのよりはまろきおほきなるを數珠などにするを云也、沼をいへる歟、蓮肉と云へるは黄實とぞみゆる、さて今こゝにその山をつゝめる海ぞといへるは鳴澤の異名なるべきにや、さらではつゝめる海と云詞かなはず、海とはいかでいはむと難ぜば澤をもいふべからず、さきにアラ山中ニ海ヲナスカモとよみしも池のひろく深きをいへるにも准じてしるべし、記曰、此山高極雲表不v知2幾丈1、頂上有2平地1廣一許里、其頂中央窪下、體如2炊甑1甑底有2神池1池中有2大石1云々、亦其頂上匝v池生v竹云々、第十四東歌に、サヌラクハ玉ノヲバカリコフラクハフジノタカネノナルサハノゴトとよめるこれ也、此記の心をおぼして池ありや竹ありやとのぼれりと云人ごとにとふに竹はなし、石は池の中氷とぢ雪ありてみえずとのみ云へり、せのうみ〔四字右○〕をば八雲御抄に神の名とし玉へり、心得がたし、石花とかきてせ〔右○〕とよむは石花と云者和名せ〔右○〕と云へばかけり、和名集云、兼名苑云、石花〔略〕【和名勢、】○フジ河ト人ノ、 記云、有2大泉2出v自2腰下1遂成2大河1、其(24)流寒暑水旱無v有2盈縮1、六帖にふじ川の世にすむべくも思ほえず戀しき人の影しみえねば、躬恒家集にあはんとは思ひわたれどふじ河のつひにすまずば影もみえじを、此二首世にすむべくも思ほえずと云ひ、つひにすまずばと云てすまぬことによせたるは、あるひは雪或は雨などに山水のにごりたる故にすむことまれなるによせたり、今もあづまにかよふ人人は大河あれど大かたかちわたりし侍るを此河のみ春夏冬となく舟にてこえ侍る、○鳥をぞ〔右○〕とにごるかむなにつかふはをぞ〔二字右○〕と云からすのことなれば上略して用侍る也、第十四にカラステフ大ヲゾ鳥とよめり、をぞ〔二字右○〕は、きたなきこと也、はみきたなき鳥なるゆゑになづくるなるべし、○ヤマトノ國ノシツメトモ、 文選東京賦云、太室作v鎭〔略〕國之鎭1、又呉都賦曰、指2衡嶽1以鎭v野、この心にてよまれけるとみえたり、
 
山部宿禰赤人、【寛永本卷之三、二十八丁左、代匠記卷之三上、六十九頁、】
○山部宿禰赤人、 續日本紀云、延暦四年五月詔曰云々、臣子之禮必避2君諱1、〔略〕爲v山、これ光仁天皇を白壁王子と申ける故に白髪部をいみ、桓武天皇を山部王と申(25)ける故に山部をいみける也、しかれば赤人の氏をも山の赤人とよむべきことなり、すでに詔あるをばいまで、さもなきをいむゆゑにかくは申なり、後宇多院御諱世仁にてましましける故、よひと〔三字右○〕とあるをば人〔右○〕とのみよむよしは、そのころよりもさも侍なむ、白髪部は清寧天皇の御子おはしまさでサクシノ皇〔五字左○〕ましましければ御名の後までのこるべきことをおぼしめして白髪部をおかせたまへる也、
 
太宰少貳、【寛永本卷之三、三十丁右、代匠記卷之三中、二頁、】
○職員令云太宰府、【帶2筑前國1、】○防人正一人掌2防人名帳戎具及食料田事1、佑一人掌同v正、
 
吾盛復將變八方、【寛永本卷之三、三十丁左、代匠記卷之三中、四頁、】
○將變八方、カヘラメヤトモと讀べし、○ホト/\は危殆の心にていかゞあらんとあやぶみおもふ心なり、
 
吾行者、【寛永本卷之三、三十一丁右、代匠記卷之三中、五頁、】
○夢乃和太、 今案これは大和にある處の名と聞えたり、第七に芳野作とて五首ある中にも、ユメノワタコトニシアリケリウツヽニモ、ミテコシモノヲオモヒシオモ(26)ヘバ、これゆめのわたと名づけたるはたゞことばのみにてありけり、みむとだにおもひ立めればうつゝにもみてこむものをと云心也、こゝにも、きさのを川をゆきてみむためともあれば、よしのにある川の水のいりこみてたゆたふ處をなづけたる名なるべし、今やがて歸てみにゆくべければそれをまちつくるまでせとならで昔みしまゝのきよきふちにてあれとなり、
 
白縫筑紫乃綿者、【寛永本卷之三、三十一丁右、代匠記卷之三中、六頁、】
○ツクシノワタハ、 續日本紀第二十九云、神護景雲三年、始毎v年〔略〕【〔略〕匹端名、】延喜式第五十雜式云、凡太宰府貢2綿穀1云々、江次第十一云、上古〔略〕禄綿1也云々、
 
太宰師大伴卿讃酒歌、【寛永本卷之三、三十一丁右、代匠記卷之三中、八頁、】
○若佛子故(ラニ)飲v酒、〔略〕罪1、【以上梵網經】○禮樂記云、賓主〔略〕(27)【〔略〕喩v多也、】論語曰、不2爲v酒困1、何有v於v我哉、○李太白獨酌詩云、天〔略〕醒者傳1、
 
夜光玉跡言十方、【寛永本卷之三、三十二丁右、代匠記卷之三中、十二頁、】
○夜光玉、 史記云、隨公云々、廼見2〔略〕夜光1、李斯上書曰、必秦國取v生然後可則夜光璧不v飾2朝廷1、
 
世間之、【寛永本卷之三、三十二丁右、代匠記卷之三中、十二頁、】
○世ノ中ノ、 冷者〔二字右○〕をマシラハヾとよめるその心得がたし、オカシキハとよむべきか、崔魯詩云、獨立2空山1冷2笑春1、これは僞にしてわらひ云心にかよふべし、冷眼といへる冷の字も似たる心にや、さきにもカシコシト物云ヨリハ酒ノミテヱヒナキスルニマサリタルラシと云ごとくまではゑひなきをおかしむにはあらねど、他のまじはりの理窟などにわたらむよりは、ゑひなきも猶おかしきかたありぬべしと也、兼好が、上戸はおかしくつみゆるさるなどかける心なるべし、日本紀に欣感とかきてオムカシミスとよめるはおかしみす〔五字右○〕と云詞にてまことにおかしきなり、
 
(28)繩乃浦爾、【寛永本卷之三、三十三丁右、代匠記卷之三中、十七頁、】
○棚引、 輕引とかきてたなびく〔四字右○〕とよむをおもふにうすくもる也、
 
大汝小彦名乃、【寛永本卷之三、三十三丁右、代匠記卷之三中、十七頁、】
○大汝スクナヒコナノ、 大汝は大己貴命にてみわの明神也、あな〔二字右○〕のあ〔右○〕を上略してむち〔右○〕のち〔右○〕を濁て大汝になせり、和語は此例あげてかぞへがたし、○スクナヒコナに高皇産靈尊の御子にておほなむちとともに此國をよく作りたまへる神也、神代紀上云、夫大己貴命與2少彦名命1戮v力一v心經2營天下1、又云、初云々、于v時高皇産靈尊聞v之曰、吾所v産兒、凡有2l一千五百座1云々、此即少彦名命是也、○シツノイハヤ、 いづくともしれず、此二神このいはやにましけると云ことしるせることなし、風土記などにはみえたることにや、此歌さきの博通法師の歌の類なり、
 
雨不零、【寛永本卷之三、三十五丁左、代匠記卷之三中、二十六頁、】
○君マチガテラとは相聞にあらざれば朋友などのいりこんと云をまつなるべし、
 
(29)春日乎春日山乃、【寛永本卷之三、三十六丁右、代匠記卷之三中、二十七頁、】
○高クラノミカサノ山とは天子高御座の上に蓋をかけらるゝ故にミカサノ山と云はんとて高クラノとはいへり、たかみくらは御即位のとき、毎年正月元日と蕃客朝參のときこれを大極殿にかざらるゝを申なり、延喜式第十五内藏寮式云、元正預前装2飾大極殿1云々、【以上高御座料、】云々、同十七内匠寮式云、凡毎年装2飾大極殿1高御座云々、又云、其蕃客朝參之時亦同、元日云々、同三十八掃部式云、天皇即位設御座於大極殿1同2元日儀1、
 
秋津羽之、【寛永本卷之三、三十七丁右、代匠記卷之三中、三十頁、】
○秋ツハノ袖フル、 アキツハは蜻蛉也、この羽のうつくしきに妹が袖をよせていふ也、仁徳紀に磐之媛御歌に夏虫ノ火ムシノ衣とよませたまふ類也、毛詩に蜉蝣之羽、衣裳楚々、第十には秋ツ葉ニニホヘル衣とよめるは秋相聞の歌にて、秋つ葉と云へる外一首の内に秋の心なければ正しく秋の木の葉の、紅なる衣と云心也、女の衣にはくれなゐを賞翫すれば也、そこには秋津葉とかき、こゝには秋津羽とかきてあれば、ことばはかよひて心は別なり、○玉クシゲオクニ思フとは箱の中をおくと云(30)へり、家のいぬゐのかたを奥といひてふかきを奥と云、古集に此詞多し、宴席の歌なれば客をもてなさむがために秘藏の妓女あるひは妾などを出してまはしめて、君がため何をがな御なぐさみにと、此妹が袖をふらしむれば、よく御覽ぜよと也、※[しんにょう+更]は匣をあやまれり、
 
久堅之天原從、【寛永本卷之三、三十七丁左、代匠記卷之三中、三十四頁、】
○賢木ノ枝、 和名集曰、〔略〕並未v詳、神代紀云、亦以2天〔略〕又坂樹1云々、下枝懸青和幣白和幣1、相〔略〕由v是而起、○白香ツケとは又此集にしらか付、ゆふつけ〔八字右○〕などよめり、木綿しでのしろきをほめて云也、香は鼻に入をいふにあらず、ゆふをほめて云詞也、○イハヒベヲ、 日本紀に忌※[分/瓦]とかけるこれ正字也、此集も末にいたりてしかかけり、神武妃云、潜〔略〕區宇1、崇神紀に十年秋七月大(31)彦と彦國葺とをつかはして山背に向て武垣安彦をうたしめたまふとき、忌※[分/瓦]《イムヘ》を以て和珥の武※[金+噪の旁]坂の上に鎭座すなどいへり、神供を清淨なる器物にもるとてその科にうるはしき埴をもて盆海の物をつくるをいはひべと云べし、神殿などつくるときの具をば忌斧忌鍬などいへる類なり、酒瓶と長流が若年のときの抄に書たれど※[分/瓦]と瓶とはことの外にたがへるもの也、○竹玉ヲシヽニヌキタレとは竹をつふつふと切て糸につらぬきて神に奉るもの也、しちくだけ也、今案このこと神道家に今もあることにや、鬼道〔二字左○〕に紙錢など供する躰のことにこそ、もし竹玉は眞珠のことにもやあらん、智度論第十云、眞珠出2魚腹中竹中※[虫+也]脳中1、竹の中よりも出れば眞珠を竹玉とも云べし、されば眞珠をぬきたれてたむけば神もかけたまふべきもの也、允恭天皇の時淡路島の神あかしの海の底なるしら玉を取て奉りたまはゞ御狩にえもの多かりなむと託宣したまひしことなど思ひあはすべし、○タヲヤメガアフヒトリカケとは葵をかつらにしてかしらにかくる故に、それを女の鬘によせて、たをやめがけかと云たりと云へり、今おもはくタヲヤメノとよみて郎女がみづからのことをいふと心得べし、アヲヒは今は加茂の祭のみにてもちゆ、昔はなべて神を祭にかつらにかけけるなるべし、○カクダニモはかくさへも也、これほどにさへまこと(32)をつくしての心なり、○ワレハコヒナム、 祈の字を折にあやまりてあまさへヲラナムとよめるは一盲の衆盲を導也、すなはち反歌に乞甞といへるに同じ、ナムはのむ〔二字右○〕也、日本紀にも此集にも祈の字などをノムとよめり、その心字のごとしな〔右○〕との〔右○〕と通ずればのむ〔二字右○〕をなむ〔二字右○〕といへり、日本紀には叩頭とも諸罪ともかきてノムとよみたれば罪過を謝する心もある也、又神武紀に甞2嚴※[分/瓦]之粮1とあるは神供のひもろぎなどにや、勸喜天儀軌に本尊を供養し奉る飯食を行者うけて食すれば本尊行者をしたしみたまふよしみえたれば、こゝにも所願をはたさしめたまへと祈て、ひもろぎをなむとにや、さきの義まさり侍るべし、
 
木綿疊、【寛永本卷之三、三十七丁左、代匠記卷之三中、三十七頁、】
○ユフタヽミ、 木綿をきりかさねたる心なり、○君ニアハジカモとは夫の旅にあるをさすなるべし、
 
鷄之鳴、【寛永本卷之三、三十八丁右、代匠記卷之三中、三十八頁、】
○明神ノカシコキ山ノ、 日本史には明神とかきてアラヒトカミとよめり、○カシコキ山はたふとき山也、○トモタチとは此山ふたつの嶺相ならべる故に第九には(33)フタナミノツクバノ山ともよめり、たかきを男の神と云ひ、ひくきを女の神となづく、第九にヲノ神モユルシタマヒ、メノカミモチハヒタマヒテ時トナク、雲居雨フリなどあり、すなはちかくはしをの神いますむこ神ひめ神なるべし、延喜式云、筑波山神社二座【一名神大一小、】○儕は左傳云、晋鄭同儕、杜預注云、儕等也、吾儕とかきてわなみ〔三字右○〕とよむもわれなみ〔四字右○〕にてわが輩といふことにや、○見果石山、これは見之欲山と云ことにてあかずみまほしき山にて此集に多き詞也、八雲御抄には山の名としたまへるは御誤なり、杲の字を果に作れるは誤也、此集にあさかほの花にも朝杲とかけり、此字頬と和訓を同じうするにはあらず、音をかりて轉して通せり、芭蕉を古今集物名にばせを〔三字右○〕とよみ、拾遺集の物の名に紅梅をこをぽい〔四字右○〕とよめるに准ずべし、みかほしなれともみるとしと云やうによむべくや、○冬コナリの下には二句おちたるべし、その故はトキジクトキと云は下に雪消スルと云をもてみれば、雪のふりしきてあるをいへる也、それにつきて字のまゝに時ジクトキトとよめば時ジクは非時とかきていつともなき心也、トコシクトキトとあるかむなにてよまば第九卷にセノ山ニモミヂトコシクとよめるもつねにしくと云心なれば、こゝもつねに雪のふりしくときとてと云也、今こゝろみに二句をおぎなはゞ春ハクレドモシラ雪ノと云べし、○(34)ミズテイナバマシテ戀シミ、 此二句合意ならばいひたらず、みずして都へ歸りいましてこひしからむと思ひてと云心なれば也、○山ミチスラヲ、 此集に此スラと云詞多し、今の世につかふにはたがひて心得がたきやうなれど、よく/\おもへばたがはず、つねにも尚の字をすなはちなほと云心あり、つねにいふはそれさへこれさへと云にかよはして、それすらこれすらと云へり、だに〔二字右○〕とさへ〔二字右○〕とすら〔二字右○〕との三つは同じやう也、雪催して行がたき山ぢをさへ、なづみながらくると也、消の字をけ〔右○〕とよむはきえ〔二字右○〕の切の心也、法花經をほくゑきやうとかくがごとし、音と和訓とことなれどかへすは同じ心なり、○前二〔二字右○〕の二字不審也、推量するに並二〔二字右○〕のあやまりなるべし、此集にし〔右○〕と云かむなに重二とも二二ともかけるは四の心にて、それが音をとるなれば並二も四なる故に上をワガクルとよまでワガコシとよめるなるべし、
 
筑羽根矣、【寛永本卷之三、三十八丁左、代匠記卷之三中、三十九頁、】
○四十耳見乍、 ヨソニ見ナガラとよむも心はたがはねど乍の字此集には唯つゝ〔二字右○〕とのみよみてながら〔三字右○〕とよめる處なし、ヨソノミミツヽとよむが此集の心也、よそにのみといはぬは古歌の例也、
 
(35)吾屋戸爾、【寛永本卷之三、三十八丁左、代匠記卷之三中、四十頁、】
○幹藍種生之、 これをカラアヰツミハヤシとよめるは誤也、カラアヰウヱオフシとよむべし、カラアヰは?頭花なるべし、第十一にシノビニハコヒテシヌトモミソノフノカラアヰノ花ノ色ニ出メヤモ、此うたに鷄冠草花とかきて歌のをはりに注して曰、類聚古集云、鴨頭草、又作2鷄冠草1云々、依2此義1者可v和2月草1歟、しか注したるは順などの初て和點を加へられけるときまづ鷄頭草と心得てからあゐと訓せられたれども、又類聚古集に一説あるによつてこれを注せられたるか、又後の人の類聚古集をみて注しかへたるか、類聚古集と云書和漢いづれとも時代いづれのころできたりともこゝに引る外は聞えぬ書にや、からあゐの花の色に出めやもと云へるも鷄頭花の火よりもあかきによせてはよく聞え侍り、月草にても色に出といはれぬにはあらねど、あゐよりもあかきはすこしかなひがたき歟、第七に秋サラバ陰ニモセムトワガマキシカヲアヰノ花ヲタレカツミケム、第十にコフル日ノケナガクアレバミソノフノカラアヰノ花ノ色ニ出ケリ、いづれも同じ心に聞ゆれば鷄冠草とかけるにて鷄頭花ならむとはおもへり、鷄頭花はことにいろ/\多き花なればあ(36)かき花の鷄冠のなりしたれば鷄頭となづく、清少納言にいへる雁來紅とかきてかまつか〔四字右○〕といふ花も鷄頭の中の一種とみえたり、これもかゞやくばかりなる色なり、和名集云、辨色立成云、紅藍【久禮乃阿井、】呉藍【同上、】本朝式云、紅花【俗用v之、】くれなゐと云はくれのあゐを乃阿をかへして奈になしてよべば、呉藍也、紅のものをよくそむるごとあゐにして呉國より出來れば青色赤色ことなれどさはなすけたり、此花の色も紅にして三韓のうちより傳來ればからあゐと云なるべし、此赤人の歌はたとふる處ありてよめるか、しからば下の譬喩に入べし、からあゐのうへをのみよまば第八卷秋の歌に人るべきや、
 
仙柘枝、【寛永本卷之三、三十九丁右、代匠記卷之三中、四十頁、】
○仙柘枝は仙女の名也、下に注すべし、
 
霰零吉志美我高嶺乎、【寛永本卷之三、三十九丁右、代匠記卷之三中、四十一頁、】
○アラレフルキシミ、 アラレフルキシミとつゞくることはあられふる音のかしましきと云心也、か〔右○〕とき〔右○〕と通じま〔右○〕とみ〔右○〕と通ずるなり、第七第二十にアラレフルカシマ(37)とつゞけたるは、やがてかしましと云心につゞけたり、○和の字をや〔右○〕とよめるは同韻の横通也、此歌の心こゝにありても心得がたし、きしみがたけ〔六字右○〕、肥前の國なれば吉野に相應せず、肥前國風土記云、杵島《キシマノ》郡南二里有2一孤山1云々、士女提v酒登望、楽飲歌舞、曲盡而歸、歌詞曰、阿羅禮符縷耆資《アラレフルキシ》まがたけをさかしみと區縒刀利我泥手《クサトリカネテ》いもがてをとる、【是杵島曲、】和名集曰、杵島郡杵島【木之万、】同郡に嶋見【志万美、】と云處も出せり、杵島をみる所といふ心にてなづけたる也、景行紀に天皇筑後の御木郡にいたりりましてなづけたる也、高田行宮におはしましけるとき、橿樹の長さ九百七十丈計りある所の者かけるは此木いまだたふれざるとき朝日の暉にあたりては杵島をかくしきと、すなはち此島也、古事記に隼別皇子雌鳥皇女と倉梯山をこえたまふとての御歌に、ハシダテノクラハシ山ヲサカシミト、イモハキカネテ我手トラスモ、文選幽通賦曰、攬2葛〓【カツラ】1而v余兮、省2峻谷1曰勿v墜、天台山賦曰、攬《トリ》2〓木之長蘿1、援2葛〓之飛莖1、
 
以上三之上
 
造筑紫観世音寺別當、【寛永本卷之三、四十丁左、代匠記卷之三中、四十九頁、】
○沙彌滿誓、 文武紀曰、慶雲元年春正月丁亥朔正六位下笠朝臣麿授2從五位下1、三年(38)秋七月云々、元明紀曰、和銅三年云々、元正紀云、靈龜元年六月云々、養老元年十一月云々、五年五月太上天皇不豫大2赦天下1、戊午右大辨從四位上笠朝臣麻呂請d奉2爲太上天皇1出家入道u、勅許v之、
 
鳥總立、【寛永本卷之三、四十丁左、代匠記卷之三中、四十九頁、】
○鳥フサタテ、 此トフサは木をきるものが伐終て木の末をかのもとに立て山の神木の神などに祭るを云ともいひ、又梯たつをもいふとも云へり、第十七にもトフサタテフナキキルト云ノ登ノ島山などより、先山神などを祭ると云は延喜式第八大殿祭祝詞云、天津日嗣所知食〔略〕持出來  ?云々、同式云、造遣唐使船木靈〔略〕八十九云々、推古紀云、是年【二十六年】遣2河邊臣於安藝國1〔略〕修2理其舶1、これ舟木を伐るにも宮木をきるにも山神|祷《イノル》神をまつるよし也、木末を山神に祭り(39)てとあるはことわりなきにあらず、されどもその木をとふさ〔三字右○〕と云ことをいまだみず、次にこけら〔三字右○〕をとふさと云こともたしかならぬにや、後拾遺集第十三戀に、祭主輔親、我思ふ都の花のとふさゆゑ君もしづゑのしづ心あらじ、ふるきものにはこれならでみおよび侍らず、此歌木をきることばはなけれど君もしづえのしづ心あらじと云へば花のちるをこけらのやうにいひなして人の心の外にうつりやすらむとおぼつかなく思ふ心なるべし、ふるき連歌師の發句に、木をきれは花こそとふさ春の風としたるは、朗詠集に春風暗剪庭前樹と云句と右の歌并に此集の歌どもをとり合せてなるべし、輔親は太神宮の託宣にて神詠をたまはり、おや、おほぢ、むまご、すぢちかみまでにいたゞきまるすべて御神と云ふなかしたる人なればとふさ〔三字右○〕も相傳してよまれたるべきなればこけらをたつるかたにつくべし、○足柄は相模也、かの國の風土記に足柄山の杉を伐りて舟につくりけるに、そのあしのいとかろかりければ山の名とせるとかや、第十四東歌にも、百ツシマ足ガラヲフネアルキオホミ、などよめり、造觀世音寺別當と題にあるにつけて、此あしがらつくしにあるかなど云説あれど、彼土の別當になられける後の歌なればかくはかちた〔三字左○〕とみて歌は譬喩の言なれば別にみるべし、彼寺は天智天皇の御願にて始められけれど久しく事な(40)らで和銅二年にまた成就せしむべきよし宣下せられけれど、猶養老七年までとゝのはざりければ、此滿誓を別當になさせたまひけるに、多の良材などを打つみたるが徒になるをみて、足柄山の舟木は伐よせながら舟にも造るとてくたすによせてよまれけるにや、ちかくいへば、勅をうけたまへるさき/\の人のためにもあしければ、あらぬやうにいひなされけるにや、たとへによせてそしるは尤さるべきことなり、
 
太宰大監、【寛永本卷之三四十丁左、代匠記卷之三中、五十頁、】
○太宰大監、 令義解職員令に云、大監二人、掌〔略〕同2大監1、
 
藤原朝臣八束、【寛永本卷之三四十一丁左、代匠記卷之三中、五十四頁、】
○藤原朝臣八束、 起家春大進、稍遷至2正五位下1云々、寶字四年授2從三位1更賜2名眞楯1、本名八束云々、
 
大伴宿禰、【寛永本卷之三四十二丁右、代匠記卷之三中、五十五頁、】
(41)○大伴宿禰駿河麻呂、 光仁紀云、寶龜元年正月從五位上大伴宿禰駿河麿爲2出雲守1云々、六年十一月正四位上勲三等、
 
上宮聖徳皇子、【寛永本卷之三四十四丁右、代匠記卷之三下、一頁、】
○聖徳皇子、 元享釋書云、太子有〔略〕聖也、○令義解第九捕亡令云、有2死人1〔略〕家屬1也、】○元享釋書達磨傳云、於時達磨作飢人貌1云々〔略〕云在2國史之推古紀1也、
 
大津皇子、【寛永本卷之三四十五丁右、代匠記卷之三下、二頁、】
○大津皇子、 天武紀云、十五年九月天王崩、此時大津皇子謀2反於於皇太子1、持統紀云、朱鳥元年冬十月庚午賜2死皇子大津1云々、妃皇女山邊、【〔略〕】被v髪徒跣奔赴(42)〔略〕第三子也云々、尤愛2文筆1、〔略〕始也、懷風藻序云、龍潜〔略〕泛2霞濱1、】亦大津皇子傳云、皇子者淨御原帝之長子也、【案謂長子者誤、天皇第二皇子也、】云々、
 
百傳磐余池爾、【寛永本卷之三、四十五丁右、代匠記卷之三下、四頁、】
○百傳 神功皇后紀云、神風伊勢國之、百傳度會縣之、拆鈴五十鈴宮云々、ふしておもんみるに百つたふ百たらずともに神語也、神功紀の百傳フはわたらひ〔四字右○〕につゞけるかと云、顯宗紀云、詔曰、老嫗〔略〕倶《ク》ラ之慕《シモ》、この老嫗は御父市邊押磐皇子の御|骸《カバネ》ををさめたる處を知てをしへまゐらせけるが故、かくまでめぐませたまへる也、モヽツタフヌデユラクモは彼おきめがなはにすがりてつたひくるに、やすからでゆらぐ音の聞ゆるとよませ玉ふ也、これ五十六十とはいはで百つたふとよませ玉へば道をも水をも百つたひてわたると云心にもつゞくべし、三十四十より(43)八十九十もよそ〔二字右○〕などとぞいふを、いかで五十にかぎりていそ〔二字右○〕といはず只い〔右○〕とのみおほくはよむらむ、その故をしらず、○鳴カモヲ今日ノミミテヤとはさきの持統紀に庚午賜2死皇子大津於譯語田舍1とあれば、まちかくつねに御覽じなれたる池のおもしろきに、鴨などの水鳥おほくむれゐてあそぶをも、たゞけふのみ見てやよみぢにおもむかんとよませたまへるなり、
 
名湯竹乃、【寛永本卷之三、四十五丁左、代匠記卷之三下、六頁、】
○神サビニイツキイマスト、イツキはいはふと同じ言也、齋宮をいはひの宮ともよめり、たふとき人の死を神あがりともいへばかくは云なり、○玉ヅサノ人ハイヒツル、第二にも玉ツサノツカヒノイヘハとよめり、玉づさをつたふる人をおして、かく云也、○オヨツレカ、妖怪の詞也、天智紀云、九年禁2斷誣妄妖僞《タハゴトオヨヅレゴト》1、天武紀云、四年有v人〔略〕死之、光仁紀云、詔詞中曰、〔略〕加母《カモ》云々、○マガコトカワガ聞ツルモ、延喜式第八御門祭祝詞云、惡事《マガコト》【古語、麻我許登、】云々、およつれ、まがこと、さかさまことなど此集末にあまたある詞也、○アメツチニクヤシキコトノ、 天地のうちにこれほどくやしきことなく、世の中にかくばかり悔しきことなしと也、(44)至りてくやしき也、○天雲ノソクヘノキハミ、 是もこの集に猶ある詞也、ソクヘはしりへと云心也、天雲のしりぞき至りてはつる處を云り、キハミはきはまりにて畢竟天のはて地の終までも也、○杖ツキモツカズモ、 第十三に杖ツキモツカズモワレハユカメドモ君ガキマサム道ノシラナク、○ユフケトヒ、 つじうらを問ふ也、占をきかんとあるものはゆふさりいつかた、ちまたに出て聞也、よりてゆふけとふ〔五字右○〕とも又ゆふうら〔四字右○〕ともよめり、又此集にみちゆき占ともよめり、ゆふけは此集末に多し、○石ウラモチテ、 石を踏みてうらなふ也、景行紀云、十二年、天皇初將v討v賊次2于柏〔略〕曰2踏石1也、これや石うらのはじめなるべき、又あしうらしてなどよめるは何にても踏こゝろみて占をいふ也、神代記下云、於是兄乃擧v足踏行〔略〕爲2足占1、疏曰足占(ハ)謂v不v安2足於一處1、以v占名之者不v定故也、この神代紀のあしうらは心かはれり、疏に釋したまふごとし、中納言定頼歌にゆきゆかず、きかまほしきをいづかたに踏さだむらん足のうら山、○ワガヤトニ御モロヲタテヽ、 ミモロはみむろ也、神社をもむろと云、みむろ山も神のいます山の名也、○ユフタスキカヒナニカケテ、 神代 云、乃使2太玉命1〔略〕(45)〔略〕御手云々、 ゆふをつけたるたすきなればゆふたすきと云、次〔右○〕の字をすき〔二字右○〕とよむは此集にめづらしからず、つ〔右○〕とす〔右○〕とは同韻相通也、源氏柏木にすぎすぎみゆるにび色どものきがちなる今やう色などきたまひてといへり、此すぎ/\も次々也、○サヽラノヲノヽナナニスゲ、 第十六にも天爾有哉《アマナルヤ》サヽラノ小野爾《ヲノニ》チカヤカリとよめり、是をば八雲御妙にかぐらの小野とよませたまひて、山城と注せさせたまへり、今の本にはそれもさゝらのをのと和點を加へたり、此歌をあはせてみるに尤も正とすべし、神楽はかぐら〔三字右○〕とよむこと勿輪、ことに良の字のそひたればさゝ波と云を神楽波とかけるやうにさゝら〔三字右○〕とよまんことあたれることわり也、さてアメニ有と云へるはさゝらの小野の天上にあるにあらず、第六に大津坂上郎女の歌に山ノハノサヽラエヲトコとよみて歌後注に或(ハ)云、月(ノ)別名(ヲ)曰2佐散良衣壯士(ト)1也と云へり、さればこれも天にある月と云心にてさゝらの小野を月の別名になしていひかけたるなり、ナナニスゲは心得がたし、延喜式第八六月晦大祓祝詞云、天津菅《アマツスゲ》【曾乎】本(ト)刈斷末刈切《カリタチスヱカリキリ》?|八針《ヤハリ》爾|取辟《トリサキ》?云々、これにつきていふなるべし、サヽラノ小野は大和國なるべし、第十四の東歌におのが國々の名所をのみよめること多し、都の歌人も昔しは物によせてひろくよむなり、いにしへは名所もたゞそこ/\をよめる故也、○久堅(46)ノ天川原ニ出立テ、 おほよそはらへは水邊に出てはするならひなるを、こゝに天川と云へるはさきに天雲ノソクヘノキハミアメツチノイタレルマデニツヱツキモツカズモユキテといへる首尾をあはせる也、所詮張騫か河源をきはめしごとくして天川までもいたりてはらへをして此君の罪をきよめて、壽命延長ならしめんものをと云ことを切にいへる也、水邊にはらへすることは延喜式六月大祓祝詞云、高山《タカヤマ》〔略〕【奈武】云々、もろこしにも祓は水邊にてすることみえたり、○高山ノイハホノ上ニイマシツルカモ、 上に注するごとく、岩を下にしき、めぐりにもたてゝ、中に其棺槨をおきてはらふる心なり、○慈教の説の餓執経に神縁神索〔左○〕咒縁咒素〔左○〕と云ひて或は一色或は五色の絲を結て加持して臂にかくる事あり、功用各別なれどもにたることなり、
 
百不足、【寛永本卷之三、四十七丁左、代匠記卷之三下、十六頁、】
○百タラスヤソスミ坂ニ、 これに二つの心あるべし、一つにはヤソは數の限にて多きを云ときの詞也、坂はくま/\おほくてのぼりゆくものなり、そのくまは隅な(47)れば八十隅など云心にて八十のすみある坂と云心にづゞくともいふべし、二つには是は由緒あること也、神武紀云、戊午年九月、天皇陟2彼菟田高倉山之〔略〕起也、これをもておもふに、八十たけるがおこし炭をおける故に墨坂となづけ、又八十梟帥によりて八十すみ坂と云なるべし、此卷の初に雷岳どもにつけて引る雄略記にも、兎田墨坂神とあれば社もあるなるべし、第四に君ガ家ニ我住坂と人丸の妻もよまれたる處なり、○手向セバといへるは彼の墨坂の神を云なるべし、旅に出る人の爲にする手向を神うけ玉へば行つきてかへるまでつゝがなきを、此よみぢをはてと行人の爲に手向すとも、そのしるしありて又歸來てあはむやあふべからずとなげくなり、○問、※[火+赤]炭をおける故にすみ坂とはいかに、炭坂とこそ書べきに墨坂とあらぬ字はかける歟、答曰、和語のならひ聞だにかよへば文字にかゝはらでかける習也、日本紀には墨坂とあれども此集には隅坂とも住坂ともかけり墨坂炭坂ともかぎるぺからず、いはんや炭も墨も共に色も同じやうにて名はかよへるは、今もふるき墨は炭にてつくると云へば、かよはしてつけたるか、としのぶの集に、人なしゝむねのちぶさをほむらにてやくすみぞめの衣きよ君、とあり、法師の(48)ながされけるとき、母の衣をみるとてよめる歌なり、またすみそめの衣と云へる炭と墨とかよはせるにあらずや、
 
八雲刺、【寛永本卷之三、四十八丁右、代匠記卷之三下、十九頁、】
○八雲刺、 古事記にエツメサスイヅモとよめる歌はえ〔右○〕とや〔右○〕とめ〔右○〕とも〔右○〕とは五音にて通じつ〔右○〕とく〔右○〕とは同韻にて通ずれば、えつめ〔三字右○〕は八雲なる故にえつめさすは則八雲さす也、又聖武紀云、爲2難波曲〔略〕之音1、これまた今に同じ、古事記云、茲狼初作2須賀宮〔略〕岐袁、日本紀云、或云、時武素〔略〕八重垣上下ともに濁りてよむべし、餓の字を用る心これなり、上なるは清、下句には濁と云、後人しひて陰陽の理に合せんとする也、もししからばいつも〔三字右○〕もつまこめ〔四字右○〕もすみてよむべきことわり也、
 
見津見津四、【寛永本卷之三、四十九丁右、代匠記卷之三下、二十四頁、】
○見津見津四、 日本紀第三道臣命歌云、瀰都《ミヅ》〔略〕都都伊云々(49)同卷神武天皇の來目歌二首にもまた瀰都々々シクメノコラガとよませたまへり、此くめのこら〔五字右○〕とは道臣命、道臣命は大伴氏の遠祖にて來目部をつかさどられけるなり、これをみづ/\し〔五字右○〕とは、此道臣命、神武天皇の御心を得ておぼしめすまゝに大功を立られければ、此人のあることは世をしろしめすべき天瑞也と云心か、さりながら道臣命みづからもさよまれたれば、かなはぬにやとも云べけれど、聖賢はかへりて私なきゆゑに、理にあたるとき、をろかなるものは自讃のやうに聞ほどのことをも、はゞからずいふ也、○イフレケムのい〔右○〕は發語のことば也、○情〔右○〕は惜の字のあやまれる也、此二首は紀州に行て久米の稚子と云優婆塞の三穗のいはやに入ておこなひて、そこにて身まかりける跡をみてよめるなるべし、久米若子は神と云より兩説なるべきか、問ふ、しからば傅通法師、はたすゝきくめとよまれ、神代紀にも乃以2御手1細開2磐戸1窺てとあれば、しののめ、いなのめの心によせてくめと云目の字につゞくと心得べし、一説に三穗のいはやと云につゞくと云へど、枕詞を上の句の初に置て、下句に穗のいはやと云にて、つゞくべきやうなし、
 
神龜六年、【寛永本卷之三、五十丁右、代匠記卷之三下、二十七頁、】
(50)○神龜六年、 聖武紀云、神龜六年六月云、左京職献v龜云々、其背有v文云、天〔略天平元年〕、同紀云、二月云々、人等告v密〔略〕三關云々、就2長屋王宅1〔略〕内親王云々、亦自縊云々、長屋王〔略〕皇女也、元亨釋書二十二資治表云、天平元年二月、〔略〕僕射死1、これは傳説の誤なるべし、同第一卷鑑真和尚傳云、眞曰、我〔略〕淨信人1云々、
太皇之命恐、【寛永本卷之三、五十丁左、代匠記卷之三下、二十九頁、】
○大荒城、 延喜式宇智郡荒木神社とのせたり、續日本配に大荒木氏を大の字を除たることあれば、かぐ山をあまのかぐ山とも云ごとく、あらきとも大あらきともいふなるべし、山城と云は誤也、延喜式和名集等にも見えず、そのうへさきに辨ぜしご(51)とく東人の我國の名所をのみよめるがごとく、昔の人は物などによせて遠くいふをばきかず、大かたはまちかき所のみ都人もよみければ、何故ににつかふ山城の名所をばよむべき、
 
悲傷膳部王歌、【寛永本卷之三、五十丁左、代匠記卷之三下、三十頁、】
○悲傷膳部王云々、 膳部王は長屋王の長子也、さきに引續日本紀の長屋王の下に見えたり、又聖武紀云、神龜元年二月無位膳夫王授2從四位下1、膳とも膳部ともかきてともにかしはて〔四字右○〕とよむことは、いにしへは神供をも帝にたてまっる供御をも、かしはを打しきてそれにもりてそなへければ、その心にてかしはでとは書也、和名集云、本朝式云、十一月〔略〕【比良手、】日本紀云、葉盤八枚【葉盤此云2比羅手1】延喜式供奉料の注文に青※[木+解]干※[木+解]と云ことあまたみえたり、曾丹が歌に榊とる卯月になればかみ山のならのはかしはもとつはもなしとよめるも、神供もるとて下葉までとりつくす心也、今の世下ざまのものまでたふ物すゆるを、をしき〔三字右○〕と云も、かしは打敷しよりいひつたへたるなり、
 
天雲之向伏國、【寛永本卷之三、五十一丁右、代匠記卷之三下、三十二頁、】
(52)○和細布、 これをヤマトホソヌノとよめるは古語にかなはじ、長流が本にはにぎたへの布とよめり、にぎたへ〔四字右○〕はきぬの總名、あらたへ〔四字右○〕は布の總名なることは治定なれども、きぬのやはらかなるにたくらぶれば、布は身にふるゝところもあらければこそ、まづはあらたへとはいへ、布の中にもほそくこまかにおれるを、にぎたへといはんことたがふべからず、又和布とかきてしづ〔二字右○〕とよめり、しづぬさ〔四字右○〕などいひて神にたてまつるものなればしづのほそぬのなどもよむべきなれど、つねにはにぎたへの布と云ことをば、上にゆふ取持てと云へるがごとく、にぎたへの布取持てと云やうに心得て、まづかりによみきるべし、○茵花、 和名集云、茵花【〔略〕】第六に龍田路ノヲカヘノミチニニツヽジノニホハムトキノなどよめり、これ也、延喜式にニハツヽジと點をくはへたるは、もとニツヽジにてありけんを、此集などもみず、和名集をも考へざる人は〔右○〕の字の落たるかとてそへたるべし、和名集を見るに羊躑躅はいはつゝじ、もちつゝじ、山榴はあいつゝじとあるは、いはつゝじはもちつゝじのことにて、をかつゝじは山榴とかける尤俗にいふさつきか、につゝじをかつゝじおなじ名なるは野山にあかくておほくさくを云なるべし、羊躑躅は大かた惣名にいへり、○牛留鳥ノナツサヒコムト、 此牛留鳥とかけるを今の本にはヒクアミノと(53)よみ、長流が春の抄にくろあみ〔四字右○〕ともよめり、先牛の字を引とよめるは、牛は人のひくもの也、又車をも引、田をすくにからすきをもひけば義をもてよめり、網は鳥をとゞむるものなれば、これも義をもてかけり、あみ引ときはその綱を手にかけてひけば、いづくまでもしたがひ來る物なればかくはよめり、くろあみ〔四字右○〕とよむ心は、牛にもくろきにあらぬもあれど、おしなべてくろうしと云へば牛と云字をくろ〔二字右○〕ともよむべし、くろきものに烏の字をつけて烏麻、烏梅、烏帽、烏※[虫+也]と云がごとし、あみ〔二字右○〕と云は海に住鳥也、水くゞるあみのはがひなどよめる鳥也、その鳥はせなかくろきもの也、夫婦よくさそはれありくゆゑに、くろあみのなつさひこむとはよめりと云へり、にほ鳥あしがもなどをなつさびゆくとおほくよみたれば、げにもあみと云鳥のこととも云べし、
 
掛卷母綾爾恐、【寛永本卷之三、五十七丁左、代匠記卷之三下、五十二頁、】
○春サリヌレバ、 これは春きぬれば也、第十二、ハルサレバツマヲモトムト鶯ノコヌレヲツタヒナキツヽモトナと云歌にも春之去者とかき、ウチナビキハルサリクレバと云歌、春去來者とかき、風マジリ雪ハフリツヽシカスガニ霞タナビキ春サリ(54)ニケリともよめり、月令孟春之月鴻雁|來《カヘル》と云を思ふべし、ウチナビキは春と云はん枕詞也、なびく〔三字右○〕はなびきしたがふ心也、おしなべてなびき來たる春と云心也、四季いづれも同じことといへども古としあらたまりてあたらしき春になればとり分てかくはいへるなり、
 
右三首、【寛永本卷之三、六十丁左、代匠記卷之三下、六十一頁、】
○高橋朝臣、 稱徳紀云、神護景雲二年二月、勅准(シテ)v令〔略〕爲v正《カミト》、職員令云、内膳司奉膳〔略〕寒温之節1、延喜式第七
踐祚大甞會式云云々、高橋朝臣一人、安曇〔略〕升v殿云々、
 
(55)大納言從二位大伴宿解旅人、【寛永本卷之三、六十一丁右、】
○大納言從二位云々、 懷風藻曰、從二位大納言大伴宿禰旅人一首、【年六十一】初春〔略〕壤仁、○元明紀云、和銅四年夏四月正五位上大伴宿禰旅人授2從四位下1、七年爲2左將軍1、○元正紀云、靈龜元年正月從四位上、四月中務卿、
○養老二年三月三日、 紀云、養老二年二月行2幸美濃國醴泉1、○三月戊戌車駕自2美濃1至、乙巳大伴旅人爲2中納言1、しかれば三月朔日の支干を記せざるゆゑに、乙巳が幾日にあたると知かたけれども戊戌より八日にあたれば三日と云へるはたがへり、
○三年正月七日、 紀曰、正月庚寅朔壬寅、七日は非也十三日也、紀曰、四年二月云々、三月中納言云々、爲2征隼人持節大將軍1、○六月詔曰蠻夷爲v害云々、遣2持節將軍1云々、旅人誅2罸其罪1云々、
○五年正月七日、 紀云戊申朔壬于、これ五日也、七日にはあらず、又紀云、三月辛未賜2帶刀資人四人1、
○神龜元年云々、
(56)○天平二年、 紀朗脱、
○三年正月七日、 紀云三年正月庚戌朔丙子、授2正三位大伴宿禰旅人1、叙2二位1、紀によるに廿七日也、二十をおとせるか、叙の下に從の字を脱せり、○紀云、三年秋七月云々、旅人薨、難波朝右大臣大紫長コ之孫、大納言贈從二位安麻呂の第一子也、
 
中納言從三位大伴宿彌家持、【寛永本卷之三、六十一丁右、】
○中納言從三位大伴宿禰家持、
○天平七年、 十七年也十の字脱せり、聖武紀をみるに正六位上より轉任す、
○十八年三月、 紀云、三月從五位下云々、家持爲2少輔1、しかれば大輔と云へるはあやまれり、紀云六月家持爲2越中守1、○本集第十九に勝寶三年少納言に任ぜらるゝとみえたり紀にもらせり、○紀云、勝寶元年四月從五位上、六年四月爲2兵部少輔1、十一月爲2山陰道巡察使1、寶字元年兵部大輔、
○天平寶字、 紀云七月赴任、【續日本紀第十七、】○紀云、六年正月家持爲2信部太輔1、【紀二十一云、中務省宣2博勅語1、必可v有v信、故改爲3信部省1、】
○六年三月日任2民部大輔1と云へるはあやまりなり、
(57)○八年正月任2薩摩守1、
○神護景雲【依2瑞雲1改元、】
○四月六日、【日月并宮の宮の字誤か、官公卿補任なとにあるか、】紀不v載、【光仁紀云、寶龜元年八月正四位下田中朝臣多麻呂爲2民部大輔1從五位上大伴家持爲2少輔1、】
○九日日、 紀、寶龜元年也、景雲にあらず、左中辨は右中辨なるべし、十月已丑朔即位改元、肥後國獻2白龜1云々、
○三年二月日、 紀云、三月丁卯左中辨云々、爲2兼式部員外大輔1、
○五年三月、 紀云九月庚子云々、爲2兼上總守1、
○十一年二月、 紀云、丙申朔甲辰、
○天應元年、 紀云、八月丁亥朔甲午正四位云々、春宮太夫云々、
○延暦元年閏正月、 紀を見るに以v黨2氷上眞人川繼【鹽燒王之子、】謀反1也、
○四年八月日薨、 實に八月二十八日也、延暦紀云、八月癸亥朔庚寅云々、家持死、〔略〕(58)〔略〕獨善珠納焉云々、正月爲2僧正1、今釋書によりてみるに、大伴繼人竹良等が藤原種繼【宇合男、】を射殺れけるは早良太寸のによりて也、紀に事|連《カヽル》家持等1とあるはこれ又武勇の長なればたのまれたまひけるにや、令の文に、年二十一歳なるを内舍人に補すとみえたり、家持天平十二年より内舍人に補せらるゝとみえたれば延暦四年は六十五六歳たるべきに、死體いまだ葬らざるに、罪にうつりて除名せられ、紀にも庶人に例して家持死とかき、本朝文粹三善清行延喜の帝に奉られける意見封事にも罪人家持とかかれたるは、まことに惜むべきこと也、集中の歌にて考ふるに、遠祖道臣命より勲功ならびなくして武名累代に重かりければ、家持も父祖の名をおとさじと心かけられける中に、少名を好まれけるにやとみゆる處もあれば、かへりてつみにおちいられけるにこそ、されども文武の道をあはせ、和漢の才をかねて此集をゑらび、將來にたまものせしは此人なるは、小疵をもちて尺璧をすつべからず、後の勅撰に此人り歌をのせらるゝには中納言とぞ侍る、
 
右大臣正二位藤原朝臣不比等、【寛永本卷之三、六十三丁右、】
(59)○内大臣大藏冠、 織を誤て藏とせり、織の字日本紀には呉音に點じたるに、世上には漢音によみならへり、位階によりて冠の製かはれるを、此人ひとりに大織冠の名を殘たまへること凡人にこと也、第二男とは第一は多武岑定慧和尚なり、元亨釋書に傳あり、日本紀にもみえたり、○年六十二、 懷風藻には六十三と注せり、委は此卷の初に注せり、
   以上三之下
 
萬葉集代匠記拾遺中
 
(1)萬葉集代匠記拾遺卷之下
 
右今案、【寛永本卷之四、十二丁左、代匠記卷之四上、六頁、】
○後注に右今案云々、 高市岳本宮は人皇三十五代舒明天皇、後岡本宮は三十八代齊明天皇也、齊明は女帝也、かゝる御歌あるべくもなし、かれかならず舒明天皇の御歌也、などか此料簡をくはへざりけむ、
 
吹黄刀自、【寛永本卷之四、十三丁右、代匠記卷之四上、八頁、】
○吹黄刀自《フキノトジ》歌、 此吹黄刀自は女也、第一卷十市皇女の大神宮へまうでたまひけるとき、波多横山の巖をみて、ツネニモガモナ、トコヲトメニテとよみし人也、其歌の後の注に吹黄刀自未v詳也、これに不審あり、歌の下に注すべし、刀自は老女の名也、和名集云、劉〔略〕【今案和名度之、】順の此今案あたらず、惣じて和名集の案にはかゝることあり、(2)字從v目也はもし脱字などあるか心得がたし、史記にも老女を負と云とあり、まづこれより引べし、陳丞相世家曰、久v之〔略〕之類也、】周勃世家曰、時許負〔略〕有2封邑1、】昔は刀自を麿の例に合してもかけりとみゆ、それが負の字に似たれば順は貝をあやまりて自となせるかと推量せられたれど、それはたま/\似たることにて、昔より刀自と云ことの日本紀にあるをかむがへられざりける也、允恭紀云、二年春二月立2忍坂大中姫1爲2皇后1云々、曰〔略〕云2覩自1、】云々、時皇后〔略〕不v忘矣云々、此中に戸母を覩自と注し玉へるが刀自におな自、民の一家の老母と云ことにて和語に刀自と云也、されば大中姫のまだをとめこにておはしましけるにかける詞のみな無禮なるに俗にうばともいふごとく、おうなになして刀自と申ければ、われわすれじとは、いきどほらせ玉へるなり、允恭天皇も大中姫もともに八幡宮といはれたまへる應神天皇の御孫にてはるけき世なれば武負類と云へるはあやまり也、刀自と云ことばも、後かならず老女にもかぎらずいへるにや、此卷に坂上郎女むすめの大孃におくる歌にワガコノ刀自とよめり、平家物語に妓王が母の名も刀自とあればそのころまではのこれる詞なるべし、
 
(3)眞野之浦乃、【寛永本卷之四、十三丁右、代匠記卷之四上、八頁、】○マノノウラノ、 此眞野ノウラは津國也、○ヨドノツギハシと云へるは心からつぎておもへばにや、妹がゆめにはみゆらむといはむため也、○心ユモは此集によりと云ことをゆ〔右○〕といへることすくなからず、○イメは夢也、い〔右○〕とゆ〔右○〕と相通ずるうへにねてみるものなれば寢見ともいふをみ〔右○〕とめ〔右○〕又相通なればいめ〔二字右○〕とは名付るなるべし、此うたは古今集躬つね歌に君をのみ思ひねにねしゆめなればわが心からみつるなりけり、これと同じ心也、思哉はオモヘヤとよむべきか、今の詞にておもへばやの心也、○さては前これに不審なると云ひつるは、吹黄刀自未詳也とは、うたがふらくは撰者男子也とおもひていへるか、その故は此うたに妹がと云へる女にかなはざれどさも注せねば也、吹黄刀自が歌ならば妹が〔二字右○〕にてはなくて君が〔二字右○〕にてあるべし、もしもとより妹がならば別人のうたなるべし、刀自と名におひて第一卷の歌は、ツネニモガモナトコヲトメニテとよみたれば、まぎれなく女也、此次の歌にキマセワガセコと云へるもせこ〔二字右○〕は女にも通ずれどかよふは男のならひ、待は女のならひなれば、このいも〔二字右○〕と云ことはかならずかなはぬなり、
 
(4)河上乃、【寛永本卷之四、十三丁左、代匠記卷之四、九頁、】
○川上ノイツモノ花ノ、 第十に此歌ふたゝびのせたり、作者なきもかはれりとす、○イツモノ花はいつくしき藻の花也と云へど心得ず、イツモ/\と云はむとてかくいひ出たれば藻の中の一種の名なるべし、イツモと云はむために、いつもと云名もなきに、いつくしきもと云ことはつくり出すべからず、○時自異目八方をトキワカメヤモと點じたるは非也、時ジケメヤモとは、いつもきますも常のことにしてめづらしからぬやうにはおもはじと云心也、落著はつねにはますとも、いつもめづらしくおもはむと也、○時ジク〔三字右○〕は日本紀に非時とかきて、ときはの心也、イツモノ花ノイツモ/\、此つゞきのうたあまたあり、第十一に、ミチノベノイチシハナノイツモ/\、第二十防人がうたに、我門ノイツモトヤナギイツモ/\、六帖に、鹽のみついづものうらのいつも/\君をばふかくおもふ我はや、
 
衣手爾、【寛永本卷之四、十三丁左、代匠記卷之四上、十頁、】
○衣手ニ取トヽコホリ、 母などの立てゆくとき、袖にすがりてなく兒よりも別を(5)しく思ふ心はまさるを、いかにせよと置てはゆくらむ也、第二十防人が歌に、カラ衣スソニ取ツキナクコラヲ置テゾキヌヤオモナシニシテ、源氏物語薄雲にはゝ君みづからいたき出玉へり、かたことの聲はいとうつくしうて、袖をとらへてのりたまへと、ひくもいみじうおぼえて云々、又云、はゝ君の見えぬをもとめて、らうたげに打ひそみたまへば、めのとめし出てなぐさめまきらはし聞え玉ふ、同早蕨に、いよゝわらはべのこひてなくやうに、心をさめんかたなくおほぼれゐたり、今の歌は櫟子太宰に任ぜられてゆくとき妻のよめる歌、次は櫟子が返し、後の二首は櫟子が妻にわかれて行なげきをみづからのぶる歌なれば歌の下に各注あるべきがおちたるにや、
 
吾妹兒矣、【寛永本卷之四、十三丁左、代匠記卷之四上、十一頁、】
○吾妹兒矣、 あふと云ことなくばわかるゝことあらじ、わかれてこひしきあまりに、たがひにあひしらせそめし人さへうらめしき也、されどなかだちびとをうらむるにはあらず、然して夫婦と云ことをはじめし人をさすなり、伊弉諾伊弉册こそそれにあたりたまへど、唯大體にいひてそれまでの沙汰に及ぶべからす、ワギモコヲ(6)アヒシラセケムと云にまどふべければ注する也、これは古今集に、あしびきの山ほとゝぎすわがごとや君にこひつゝいねがてにするとよみたる同じ、おのがつまよびつゝなくやなどよめるこそほとゝぎすにはかなふを、わが君をこひていねがてにすることをいはむとて郭公をかりていへば、おして君にこしひつゝとよめるが上手のしわざにておもしろし、今も惣じて逢ことをしらせそめし人のうらめしきと云ことをわきもこをと云へり、明ぬらむ空さへけさはつらきかな天のいはとを今はさせかし、これもきぬ/”\のかなしきより、あまりいはとをかけて恨る今の心に似たり、
 
朝日影、【寛永本卷之四、十四丁右、代匠記卷之四上、十二頁、】
○朝日彰ニホヘル、 不厭をアカスカと點じたるは、こゝを句にして、君を山こしにおきてあかすかとかへりて心得けるにや、か〔右○〕とよむべき字もなし、用べからず、あかざる、あかれう、此ふたつのうちいかにもよむべし、いづれも同じ心也、朝日影ニホヘルとはうす霞うす霧などの中よりはなやかにさし出るなどをいへり、艶の字を此集にかけり、朗詠集に菅三品の文句には匂の字をよめり、鼻にいるかほりをにほひ
(7)と云も花の上香の上の艶なればわたしていへるなり、かほのにほひなどいふは俗語にしほらしきと云にかよはしてきけばおほかたたがはぬ也、源氏に曉かけて月出るころなればとかけるやうに、二十五六夜の後の月の、みるほどもなく明るが名ごりをしきによそへてアカレヌ君とはいへり、序歌のてい也、山コシニ置テ、おもひもはてぬやうなるに、かぎりなき心こもりていはぬはいふにまさる也、第五にも、ユキテミテキテゾコヒシキアサカガタ山コシニオキテイネガテヌカモ、
 
三熊野之、【寛永本卷之四、十四丁右、代匠記卷之四上、十二頁、】
○濱ユフは草の名也、其葉芭蕉に似たるとなり、其皮は紙のやうにて白く、いく重ともなくかさなれるものなれば、モヽ重ナルとはよめり、波の白くかさなれるがゆふをたゝめるに似たれば濱ゆふとも名附たり、榮花物語第二十云、袖たちきぬのかさなりたるはど浦のはまゆふにやあらむ、いくへと知がたし、源氏物語乙女に、濱ゆふばかりのへだてさしかくしつゝ何くれともてなしまぎらはしたまふめるもむべなりけりとおもふこゝろのうちぞはづかしかりける、これらみな此歌にてかけり、今按濱ユフは浪をいへる歟、此集に濱浪ともよめり、波をゆふにたとへてよめること(8)此集にあまたあり、アフ坂ヲ打コエミレバアフミノ海シラユフ花ニ波立ワタル、泊瀬女ノツクルユフ花ミヨシノノ瀧ノミナワニサキニケラズヤ、泊瀬川白ユフ花ニ落タキツセヲサヤケミトミニコシワレヲ、此たぐひ也、第二卷に白妙ノアマヒレガクリとよめるは白雲がくれなり、第九に空ユフノカクレテマセハとよめるは遊絲のことときこゆ、いとゆふ〔四字右○〕と名づくるも糸のごとくして木棉に似たればなづけたるべし、さればかれこれを合せて案ずるに、かの熊野はあら海にて、波のひまなくよせくるに、おもひのいやましなるをたとへて、されども思ふかひなくまほにあふことのなきをなげく也、○百重成はモヽヘナスともよむべし、モヽヘナルとよむときは、もゝへにあるを爾阿切奈なれば成といふ字をかりてかける也、モヽヘナスとよむときは、ナスは日本紀に如の字をナスとよみたれば、はまゆふのもゝへあるごとく重々に思ふと也、○タヾニと云にふたつあり、此集にたゞにゐてとよみ、文章に徒の字をたゞにとよめるは、すなはちいたづらにと云に同じ、いま直の字をかけるは又此の字のごとし、すぐにちかきかたを徑《タヾニ》といふがごとく也、此集にそれを直道とかけるにて心得べし、又唯但只等をたゞとよむは常の詞のごとし、それをばたゞにとてに〔右○〕字はつけたるなり、
 
(9)古爾有兼人毛、【寛永本卷之四、十四丁右、代匠記卷之四上、十四頁、】
○イニシヘニ有ケム、 第七人麿集に出すといふ歌にも上句にこれと同じ歌あり、○イネカテニケム、 か〔右○〕もじすむべし、かてに〔三字右○〕はかたずと云こと也、不知をしらにと云がごとし、かたずはそへずたへずと云に同じ心也、すなはち不勝とかきてたへずともよめり、不堪不耐ともに同じ、カテズケムともよむべし、難の字をかきていねがてと云にはかはれり、それはか〔右○〕もじにごるなり、
 
今耳之、【寛永本卷之四、十四丁右、代匠記卷之四上、十四頁、】
○今ノミノワザニハ、 これはさきのうたにみづからこたへて、しひて心をひくめて芯ぐさむる也、文選※[禾+(尤/山)]叔夜(ガ)養生論云、以v多自證、以v同自慰、此後の句よくかなへり、又古今集に何かその名のたつことのをしからむしりてまとふはわれひとりかは、
 
百重二物、【寛永本卷之四、十四丁右、代匠記卷之四上、十四頁、】
○不飽有哉をアカザラムと點じしたるは誤也、【アカザレヤ也、】○オモヘカモはおもへばかも(10)也、○モヽヘは使のしげく百度もかさなりてくる也、キオヨベカモはたとへば人を追ておひつくなどをいふ也、さきの使のまだ歸らぬに又使のくるをいへり、きみが使のたえずくれともきたれりともおもはぬは百度も來かさなれと思ふ心かと、われながらいぶかりてとふ心なり、結句の心得がたきやうなるは例の古歌のならひ也、又アカレズヤともよむべし、○毳《カモ》は毛氈の類の惣名也、欽明記好錦二|疋《ムラ》※[榻の旁+毛]〓《アサカモ》一領、
 
碁檀越、【寛永本卷之四、十四丁左、代匠記卷之四上、十五頁、】
○碁檀越、 めづらしき姓名也、姓も音によむにや、檀越は梵語布施と翻す、舊譯の音也、新譯には檀那と云翻名かはらず、此集に三方沙彌久米禅師みな一類の名なり、もろこしに羅漢維摩などつき、主右丞が名は羅字は摩誥とさへつけるがごとし、孝謙紀みだりに佛の名などつくことを禁ぜらるゝよしみえたり、
 
神風之、【寛永本卷之四、十四丁左、代匠記卷之四上、十五頁、】
○神風之伊セノハマヲギ、 和名集云、荻、〔略〕豆乃、かくはあれども詩には蘆花荻花通じていへるやうに聞ゆ、南波の蘆はい(11)せの濱荻とはいにしへよりさだまれる名目か、もし此歌などにていへるか、又或人荻はうみかやと云もの也といへり、此集第十四の歌に妹ナロガツカフカハヅノサヽラヲギアシトヒトゴトカタリヨラシモ、此うたにては和名集のごとくきこゆ、神功皇后紀に幡荻とかきてハタスヽキとよみ、孝徳紀にスヽキと云人の名に蘆の字をかきてにスヽキとよむよし注せられたるは、あし〔二字右○〕とをぎ〔二字右○〕とすゝき〔三字右○〕とは、もとはひとつにこそ、此歌は人のよくおぼえて後々の體にもかなひ感情かぎりなき歌なり、
 
未通女等之、【寛永本卷之四、十四丁左、代匠記卷之四上、十五六、】
○ヲトメラガ袖フル、 第十三に云、ミヅガキノヒサシキ時ユコヒスレバワガ帶ユルブアサ夕ゴトニ、長流が撰せる燭明抄に此二首を引ていはく、袖ふる山のみづがきとよめるは大和國山邊郡石上と云所に布留のやしろの立たる山をふるの山と云、布留山といはむとてをとめ子が袖とはおける、女の舞をまふにも人をまねくにも袖をふるによりてなり、布留の川をば袖ふる川ともよめり、同集云、【第十二】ワキモコヤアヲワスラスナイソノカミ袖フル川ノタエムトオモヘヤ、同國吉野に袖ふる山と云山は天女の下りて舞をまひし山なり、人丸の歌は其山にはあらず、○ミヅカキノ(12)久シキ世と云ことは舊事本紀云、磯城瑞籬《シキノミヅカキノ》宮天皇御世、布都大神社、大倭國山邊郡石上邑(ニ)移建、天|璽《シルシ》瑞《ミツノ》寶同共(ニ)藏、號2石上大神1、以爲2國家1爲2氏神1、云々、しかれば布るの社は瑞籬の宮の御宇にたてられて、わが國にては神社のはじめとす、よりて布留の社はふるきことに別してよめり、この故に久しきことをみづがきの御代と申也、ふるの社の神垣をもて皇居の瑞籬の宮に相兼てミヅガキノ久シキ世とはよめる也、瑞籬宮は、人王第十代崇神天皇の皇居の名也、伊勢物語住吉のおほむかみげきやうしたまひて、むつましと君はしらなみみづがきの久しき世よりいはひそめてきとありけるも人丸の歌によりて、かの神も仰られしなり、以上燭明抄なり、拾遺集には此歌の結句おもひそめてきとあらためてのせられたり、まことに此歌によりて袖ふる山といふ山也とおもへるはいまだかむがへざる也、第十二の袖フル川といふさきに燭明抄にひける歌の次下にとのくもり雨ふる川のさゝれなみまなくも君はおもほゆるかもとよめる、すなはち布留川なれば袖は舞とてもまねくとてもふるゆゑに、ふると云詞まふけむとてをとめらが袖と云へる正説也、瑞籬はイガキともよめり、○久時從はヒサシキトキユともよむべし、今一首の歌にあるも同じ、此うたは思ひそめたることの久しきことを、物によせてつよくいひなしておのがよりぬ心を(13)人にもしらせ人のつれなきをも恨る也、今のみのことにはあらず、おく山の岩にこけおひて久しきものを、此うたに同じ、
 
夏野去、【寛永本卷之四、十四丁左、代匠記卷之四上、十六頁、】
○夏野ユクヲシカノツノヽ、 六帖には下の句をみねさびしき君にもあるかな、新古今にはわすれずおもへいもが心を、禮記月令には仲夏之月鹿角解とみえたれど、夏のはじめにおとしてさておひかはるがいまだみじかくて手一束ばかりなれば、ツカノマといひてすこしのほどもわするゝまなしと云也、ワスレテオモヘヤはわすれておもはむや也、落著はつかのまもわすれぬ也、第二に日置王子尊石川女郎大名兒にたまへる御うたに、大ナゴヲヲチカタノベニカルカヤノツカノアヒダモワレワスレメヤ、これに同じ心なり、
 
珠衣乃、【寛永本卷之四、十五丁右、代匠記卷之四上、十七頁、】
○玉ギヌノサヰ/\シヅミ、 第十四東歌の中に此歌重出、そこにはアリキヌノサヱ/\シヅミイヘノイモニモノイハズキテオモヒクルシモ云々、されど歌の心に難(14)叶にや、此歌サヰ/\はさあゐ/\と云心也、さ〔右○〕は例の助字にして、ゐ〔右○〕は藍也、衣をあゐにてそむるを、たび/\その藍の入たる器におし入しづめてそむれば色のこくなる也、しかれば藍と云を相みると云心によせて、家のいもに相みるたびに思ふ色の増ると云義也、玉キヌはほむる詞、これも下心にわが妹をうつくしと云心をこめたり、歌妙の詞凡慮不可及以上【管見抄、】なり、今按玉きぬをほむる詞、さゐ/\はさあゐ/\と云へる、正説とすべし、すべての心はしからず、思ふにこれは旅に出立とて別をかなしぶ涙にしづむを藍をこくそむるきぬをたび/\藍におしひたしてしづむるにたとへて、その涙にむせびてものもいはれず又ますらをのたをやめのやうになきて見えむも、さすがにはづかしくて、いとまごひもよくせでわかれて、得思ひ沈めぬをよめる歌にこそと承はり侍り、
 
臣女乃、【寛永本卷之四、十六丁右、代匠記卷之四上、二十頁、】
○臣女ノ、 今案臣女とはかきたれどもまをとめ〔四字右○〕なるべき歟、拾遺集物名に紅梅をるべからず鶯のすつくる枝を折つればこうばいかでかうまむとすらむ、これ子をばいかでかと云ことをこうばいかでかといへり、う〔右○〕とを〔右○〕と通ずれば今も眞處女《マヲトメ》を(15)臣女《マウトメ》と云なるべし、○莫告《ナノリソ》、 日本紀第十三允輩紀云、十一年春幸2於茅渟《チヌノ》宮1、衣通〔略〕利曾毛(ト)1也、これよりナノリソとは云也、莫告藻とおほくかけるゆゑになつけも〔四字右○〕とよめることあるは誤也、なつげそと云ことなれど、も〔右○〕は詞の字なれば日本紀のごとく奈能利曾毛と云べきことなるをも〔右○〕の字を付ずしてのみよみならへり、
 
久堅乃、【寛永本卷之四、十八丁左、代匠記卷之四上、二十九頁、】
○久堅ノ雨モフラヌカ、 此集に此アメモフラヌカとやうにいへるは願ふ心也、雨ツヽミは雨かくれ也、亦云雨をつゝしむ也、クラサムはくれしめむの心也、令晩とかけり、
 
藤原宇合大夫、【寛永本卷之四、十八丁左、代匠記卷之四上、三十頁、】
○大夫、 令義解職員令云、大夫一人掌d左京戸口名籍字2養百姓1云々u、
 
爲君釀之待酒、【寛永本卷之四、十六丁右、代匠記卷之四上、二十頁、】
(16)君ガ爲カミシ待酒、 待酒は君が來る時のませむとて其まちまうけにかみする酒也、又いはく、かみ酒はむかし酒つくるすべをよくしらざる時は、人おほくあつまりて面々に米をかみて水にかきいれて作りしと也、此事大隅の國の風土記に見えたり、今按酒は神代よりあれば神つくるすべ傳はるべし、又神にも奉るを本とする物なるに面々にくちに入てかめるはいかに風土記の説にもあれまさなし、いかで神には奉らむ、かもするは釀の字也、玉篇云、釀、【汝帳切、作酒、】第十六にいはく、ウマイヒヲ水ニカミナシワガマチシ代ハカツテナシタヾニシアラネバ、○ヤスノは筑前夜須郡にあり、日本紀第九神功皇后元年、至2層〔略〕曰v安《ヤス》也、はじめはそそき野と云けるを、これより安野と云へり、しかれば郡名もそのゆゑ也、此やす野を八雲御抄に近江とのせさせたまへるは此歌太宰帥にてよみ、又神功皇后紀をよく考させたまはぬなり、
 
賀茂女王、【寛永本卷之四、二十五丁右、代匠記卷之四中、六頁、】
○加茂女王、 第八云、長屋王之女、母曰2阿倍朝臣1也、
 
筑紫船、【寛永本卷之四、二十五丁左、代匠記卷之四中、七頁、】
(17)○豫〔右○〕の字カネテヨリとも讀べし、
 
大船乎、【寛永本卷之四、二十五丁左、代匠記卷之四中、八頁、】
○大船乎コギノ、 都にかへりてはやく妹にあはゞやと思ふがゆゑにいはかどにもこぎ行心也、第三に家思ふと心すゝむな風まちてよくしていませあらきそのみち、これと表裏なる歌也、第十一にツルギタチモロハノトキニ足フミテ死シヽモシナムキミニヨリテバ、此心に同じ、
 
千磐破、【寛永本卷之四、二十五丁左、代匠記卷之四中、八頁、】
○チハヤブル神之社ニ、 これは渡海のやすくて日をへず都にいたらむ祈して出立はべるに、まのあしくて海路に日をふれば、妻にあふことのおそきに心いられして、さらばかの幣をかへしたまはらむと神をすこし恨み奉るやうによめり、たまはる〔四字右○〕をたばる〔三字右○〕とは催馬樂鷹に鷹の子はまろにたばらむといへり、
 
事毛無、【寛永本卷之四、二十五丁左、代匠記卷之四中、八頁、】
○事モナクアリコシ、 生來をアリコシと點じたるはあやまれり、アレコシはうま(18)れこし也、○老ナミは管見抄に老の身といへり、乃と奈と音通すれば也、今按年なみ月なみと云ごとく老次なるべし、○于〔右○〕は于v時などいふときの和訓を用たり、
 
孤悲死牟、【寛永本卷之四、二十六丁右、代匠記卷之四中、九頁、】
○コヒシナム後ハ、 第十一に戀シナム後ハナニセム我命生ル日ニコソ見マクホリスレ、大同小異也、遊仙窟云、生前有v日、2但爲1v樂、死後無v春《トキ》2更著1v人、祗(ニ)可v倡2佯一生意1、何(ヲ)須(テ)負2持百年身1、
 
不念乎、【寛永本卷之四、二十六丁右、代匠記卷之四中、九頁、】
○思ハヌヲ思フト、 第十二に思ハヌヲ思フトイハヾマトリスムウナデノモリノ神シシルラム、此卷四十葉にも似たる歌あり、○ミカサノモリ、 和名集云、筑前國御笠郡御笠大野、神功皇后紀云、皇后欲v撃2熊鷲1云々、飄風忽起御宝墮風、故時人號2其處1曰2御笠1也、○神シ知ラムは神を引て證とする也、齊明紀云、處2官軍1以儲2弓矢1齶田浦神知矣、つくしにての歌なればみかさの杜と云へり、
 
無暇人之、【寛永本卷之四、二十六丁右、代匠記卷之四中、十頁、】
(19)○イトマナキ人ノ、 第十二にイトノキテウスキユネヲイタヅラニカヽシメツヽモアハヌ人カモ、大かた似たる歌也、猶、弓もつかたのまゆねかき、あるひはまゆみなどあまたよめり、遊仙窟云、昨夜|眼皮《メノフチ》〔略〕得2美食1、およそ醫書に肉〓と云へるはまたゝくやうに、いづくにもあれ肉のうごくをいへば、ばたらくと云こそかなふを、カユガリテとも訓したるは、眉も近ければ同じさとしなるべし、
 
黒髪二、【寛永本卷之四、二十六丁右、代匠記卷之四中、十一頁、】
○黒髪ニシラカミ、 下の二十八葉滿誓の歌これに似たり、至耆をオヒタレトとよめるは叶はず、
 
山菅乃、【寛永本卷之四、二十六丁右、代匠記卷之四中、十二頁、】
○山菅ノミナラス、 山菅は麥門冬也、山橘の大きさして瑠璃の色なる實のなる也、をとこ女の中をいまだまことに相見ぬをも、人はなき名をいひさわぐ習也、君が虚名はわれにたちていかなる人とは實にはあひみるらむとよめり、人まろの歌に、妹(20)がためすがのみ取に行われや山ぢまどひて此日くらしつとよめるも山菅か、常の菅にも春の末穗のやうになれど何の用ある物にも、みるべきものにもあらず、又山菅は實〔右○〕といはむためのみにてならぬ〔三字右○〕と云までにはかゝらずともいふべし、そのゆゑは、いそのかみふるのわさ田のほには出ず心のうちに戀やわたらむ、此歌を思べし、
 
大伴乃、【寛永本卷之四、二十六丁左、代匠記卷之四中、十二頁、】
○大伴ノミットハ、 大伴のみつの浦とつゞくことは前に見たり、いそのかみふるとも雨にさはらめやとつゞけたるに同じ例也、古今集にも君が名もわがなもたてじなにはなるみつとないひそあひきともいはじとよめり、
 
周防在、【寛永本卷之四、二十六丁左、代匠記卷之四中、十三頁、】
○周防ナルイハクニ山、 和名集云、周防國玖阿、【音如v意、】郡石國、第三卷に家思フト心ススムナ風マチテヨクシテイマセアラキソノ道、海陸みちことなれど心同じ、石國をこして欽明寺と云寺にいたるほど險難なりとある人申き、
 
(21)右二首大典麻田連陽春、【寛永本卷之四、二十八丁右、代匠記卷之四中、十七頁、】
○大典、 太宰府職員令云、大典二人、〔略〕公文u、聖武紀云、神龜元年正八位上答本陽春〔略〕五位下1、懷風藻云、麻田連陽春一首〔略〕作(ヲ)1云々の作をみれば藤江守并先考いまだ誰ともかむがへしらざれども初てひえの山をひらけるとみえたり、しかれば傳教大師は中興したまへる也、懷風藻は昔もまれにて、みたる人のなかりければにや、ひ〔左○〕なることなし世の重寶とすべき書なり、
 
眞十鏡、【寛永本卷之四、二十八丁右、代匠記卷之四中、十八頁、】
○アシタ夕ニサビツヽ、 俊成卿のさびたると云ことを歌の判の詞にかきたまへるを、定家卿かたななどをこそさぶるとはいへともどきたまへるは此歌をかむがへられざりける也、さびしきをさぶしきとは今はわらはべのかたこと、或はしづなどこそいふを、此集にはさぶしともよめり、されどさぶしといはむはわろし、さびてとは貴賤通じて今も申めり、
 
(22)野干玉乃、【寛永本卷之四、二十八丁左、代匠記卷之四中、十九頁、】
○ヌバタマノクロカミ、 さきに坂上郎女の歌に似たる事を云りとは此なり、
 
此間在而、【寛永本卷之四、二十八丁左、代匠記卷之四中、十九頁、】
○コヽニアリテツクシ、 はる/\なることをいはむとて也、第三卷石上卿の歌これに似たり、
 
草香江之、【寛永本卷之四、二十八丁左、代匠記卷之四中、十九頁、】
○草香江之入江二、 草香は河州なるを、ある人筑前と云へるは大伴卿太宰帥にて有けることを思ひて、おしあてにいへる也、これは大納言に任ぜられてのぼりての返歌なるゆゑ、こなたにちかき處をかりてよめる也、○アシタヅはアナタヅ/\しと云はむ料の序なる中に友鶴つるむらなどいひて打むれてあそぶもの也、又さびしげにひとりもたてればそれによせてよまれたり、滿誓の二首の大道を得てよめる返しなり、タヅタヅシはたどたどしきにておちつかぬやうの心也、天平二年十月大納言に任ぜらる、そののちの歌なり、
 
(23)太宰帥大作卿、【寛永本卷之四、二十八丁左、代匠記卷之四中、二十頁、】
○葛井連大成、 聖武紀云、神龜五年正六位上葛井連大成等授2外從五位1云々、孝謙紀云、寶字二年八月云々、元正紀養老四年五月云々、桓武紀云、延暦十年正月云々、
 
從今者、【寛永本卷之四、二十九丁右、代匠記卷之四中、二十一頁、】
○イマヨリハ城山ノ、 和名集云、筑前國下座郡城邊【木乃倍、】此集第五に大伴百代が、梅ノ花チラクハイヅクシカスガニ此城山ニ雪ハフリツヽとよみ、第八に大伴坂上郎女が、今モカモ大城ノ山ニホトヽギス鳴トヨムラム我ナケレドモ、今按天智天皇三年に筑紫におほきなる堤をつき水をたゝへて水城をきづかせたまへる、第六に注すべし、此水城によりて城山城邊などいふ名も出來けるにや、○ワガカヨハムト思ヒシとは大伴卿帥にておはするゆゑ也、日本紀に往還をカヨフとよめり、
 
大納言大伴卿、【寛永本卷之四、二十九丁右、代匠記卷之四中、二十一頁、】
○新袍、 【史記范雎列傳云、〔糸+弟〕袍戀々、】和名集云、袍〔略〕衣也、○攝津大夫、 令義解云、攝津職、【帶2津國1、】大夫一人云々、
 
(24)吾衣人莫著曾、【寛永本卷之四、二十九丁右、代匠記卷之四中、二十二頁、】
○ワガキヌヲ人ニナキセソ、 わが心ざせるきぬなれば心にかなはずとも外の人などにみせたまひそ、たとひ心にかなはずばそのわたりのいやしきなにはをとこにたびて、それが手にふれならすともといへり、人をしたしみて謙退せる歌也、古今集に藤原國經卿宰相より中納言に昇進せられけるとき、近院右大臣、そめぬうへのきぬをおくられけるときの歌、色なしと人やみるらむむかしよりふかき心にそめてしものを、此うたは難波につきておくられけるなるべし、
 
天地與、【寛永本卷之四、二十九丁右、代匠記卷之四中、二十二頁、】
○アメツチトトモニ、 第二卷日並皇子尊薨じたまひけるとき舍人らがよめる歌の中に、アメツチトトモニヲヘムトオモヒツヽツカヘマツリシ心タガヒヌ、生別死別ことなれどもをしむは同じ心也、此歌は大伴卿大納言になりてのぼらるゝときの歌也、したふ人のおほきに人がらおもひやられぬ、家ノ庭ハモ、此やうにはも〔二字右○〕と云へることばにて、いへのその庭はとたづねしたふ心なり、おほよそはも〔二字右○〕と云ひはや〔二字右○〕(25)と云へる歌これに准ずべし、
 
奉見而、【寛永本卷之四、二十九丁左、代匠記卷之四中、二十三頁、】
○ミマツリテイマダ、 見マツリテは見たてまつりて也、○時ダニカハヲネバ、此詞今の歌によまば心たがへるやうなるを、此體此集にはあまたなりけり、かつ/\その類をいださば、
 秋立ていくかもあらねば此ねぬる朝けの風は袂凉しも、
 秋田かるかりほもいまだこぼたねば雁がねさむし霜もおきぬがに、
 さねそめていくかもあらねば白たへの帶たふべしや戀もつきねば、
 秋山の木のはもいまだもみじねばけさ吹風は霜もおくべし、
 卷向のひはらもいまだ雲ゐねば小松が原にあは雪ぞふる、
 うの花もいまだ咲ねば時烏さほの山べをきなきとよます、
此たぐひ猶有べし、いまだ時だにかはらぬをとも、かはらぬにともいへば、のちの歌也、右の歌皆同い、末の世のあさましきは此ことばなどのかなへらむとはいかにあむずれども得わきまへ侍らぬなり、
 
(26)大伴宿禰、【寛永本卷之四、三十丁右、代匠記卷之四中、二十六頁、】
○大伴宿禰稻公、 上二十七葉云、以前天平二年云々、欲v語2遺言1者、○此歌後注云、姉坂上郎女作、聖武紀天平十三年從五位下大伴宿禰稻公爲2因幡守1、孝謙紀勝寶元年正五位下、八月兵部大輔、寶字元年八月從四位下、二年正月己巳勅曰云々、
 
不相見者、【寛永本卷之四、三十丁左、代匠記卷之四中、二十六頁、】
○モトナはよしな也、由といふももとなれば同じこと也、
 
吾形見、【寛永本卷之四、三十丁左、代匠記卷之四中、二十七頁、】
○ミツヽシノバセはみつゝしたへ也、此集に慕の字をしのぶ〔三字右○〕とよめるはしたふ也、偲も同じ、忍は堪忍にておさへしのぶ也、隱をしのぶ〔三字右○〕とよめるはかくすなり、
 
伊勢海之、【寛永本卷之四、三十二丁右、代匠記卷之四中、三十二頁、】
○伊世ノウミノ磯モ、 いそもゆるぐばかりよせくる波はおそろしきもの也、カシコキはおそろしきなればかくはつゞくる也、かしこき〔四字右○〕とよめば人のうへ、かしこく〔四字右○〕(27)とよめばわが上也、人の物いひなどをさしてかしこしとはいへり、
 
從情毛、【寛永本卷之四、三十二丁右、代匠記卷之四中、三十三頁、】
○吾者不念寸、 これをワレハオモハズとよみては寸の字あまれり、また寸の字此集にはたゞき〔右○〕のかなに用たり、次下にコヽロニモ我者不念寸《ワレハオモハス》とあるもオモハザリキとよむべき歟、○山川モ、 此川はすみてよむべし、山と河と也、
 
暮去者、【寛永本卷之四、三十二丁右、代匠記卷之四中、三十三頁、】
○言問爲形《コトトヒシサマ・コトトフスガタ》、 物いひしさま也、コトトフスガタともよむべし、
 
剣太刀、【寛永本卷之四、三十二丁右、代匠記卷之四中、三十三頁、】
○ツルギタチ身エ、 此ツルギは兩刃にはあらず、太刀をやがていふ也、さきに玉くしげひらきあけつと云へるはくしげは男女に通ずれども、まづは女の其なればわがおもひを人にしらするをくしげを明るとゆめみつと云へり、太刀は男の具なればそれを身にそふとみるはまことにあふべきさとしなるべし、○神代紀に天照大(28)神の帶たまへる劔と素盞嗚尊の持たまへる八坂|瓊《ニ》の曲玉《マガタマ》とを相換て天照皇大神瓊のはしをくひとりて吹出させたまふ氣の中よりは三はしらのひめ神なり出たまひ、素盞嗚尊劔の末を噛斷て吹出させたまふ氣の中よりはいつはしらのひこ神なり出たまへり、これ玉は温柔にして女のコに通じ、劔は精剛にして男のコを具するゆゑ也、今もこれに准ずべし、六夢の中には、思夢とやせむ正夢とやせむ、密赦教軌の中にも悉地の成不をも夢の吉凶にて知こと處々に委説あり、○サトシゾモ、 源氏物語明石に、さとしのやうなる事どもを、きしかた行末をおぼしあはせて云々、日本紀には怪の字をシルマジとよめり、
 
天地之、【寛永本卷之四、三十二丁右、代匠記卷之四中、三十四頁、】
○天地ノ神モ理リ、 天神地祇を證據とするを神のことわる中などよめり、日本紀第二十三、山背大兄|王《オホキミ》曰、我豈餐2天下1、唯顯2聆事1耳、則天神地祇、共神之《コトワリタマヘ》云々、源氏物語明石に、いま何のむくいにかこゝら横さまなる波風にはおぼれたまはむ、あめつちことわりたまへ、
 
語毛念、【寛永本卷之四、三十二丁左、代匠記卷之四中、三十四頁、】
(29)○オホナワ丹、 管見抄にねむごろなる心也、あふな/\とよめると同じ詞なりといへり、今按第十一にヤマシロノクゼノワクゴガホシトイフワヲアフサワニワヲホシトイフヤマシロノクゼ、此歌のあふさわ〔四字右○〕と今のおほなわ〔四字右○〕とおなじ詞にや、あふ〔二字右○〕とおほ〔二字右○〕とかなかはれどもあ〔右○〕とお〔右○〕と通じふ〔右○〕とほ〔右○〕と通じさ〔右○〕とな〔右○〕と同韻にて通ず、そのうへ源氏の抄に彼物語におほな/\とあると伊世物語にあふな/\おもひはすべしと云と同じ詞といへば、いよ/\方人をさへ得たり、おほなわは大繩と云心なるべし、たとへば俗語にこゝよりかしこまでその道のほどいかばかりあらむといふとき、丈尺をもてさだめず、おほよそいくらあらむといふやうなるをおほなわといへり、おほよそといふもちかし、浦風はことところよりもつねにふけばそのごとくおもひやむことなかれとなり、
 
皆人乎、【寛永本卷之四、三十二丁左、代匠記卷之四中、三十五頁、】
○皆人ヲメヨトノカネハ、 ネヨトノカネは亥の時也、天武紀十三年冬逮2于|人定《ヰノトキ》2大地震、これ同じ日本紀に日没を酉の時〔三字右○〕とよみ、昏時をいぬのとき〔五字右○〕とよめるがごとし、亥のときに人いねてしづまれば意を得て人定をゐのときとはよめる也、延喜式第(30)十六陰陽式云、諸時撃v鼓、子午各九下、丑未八下、寅申七下、卯酉六下、辰戌五下、巳亥四下並(ニ)鐘依2刻數1、○イネカテヌカモ、 いねあへぬ也、カテヌのか〔右○〕すみてよむべし、
 
不相念、【寛永本卷之四、三十二丁左、代匠記卷之四中、三十五頁、】
○ガキノシリヘニ、 第十六にも寺々ノメガキカザシとよめり、昔は伽藍のあるところには慳貪の惡報をしめさむために餓鬼をつくりおけるなるべし、○ヌカツクはひたひをもて地につく也、禮拜のこと也、されば寺にまうでては佛を禮拜して恭敬せんこそ滅罪生苦の益はあるべけれ、よしなく餓鬼のもとにいたりて猶しりへに拜せむは何の益かあらむ、思ふ人をおもふは佛にむかひたてまつりて禮拜するがごとく、おもはぬ人をおもふは餓きを拜するがごとく、そのかひなしとうらみてよめる也、此歌はこゝろを得て詞をみるべからず、孟子曰、説v時者不2以v文害1辭、不2以v辭害1志云々、雲漢之詩曰、周餘黎民靡v有2子遺1、信2斯言1也、周無2遺民1也、歌をみるにもこれ肝要なり、
 
從情毛、【寛永本卷之四、三十二丁左、代匠記卷之四中、三十六頁、】
(31)○コヽロニモ、我者不念寸、 此二句さきにいへるがごとし、さきの歌にナラ山ノコマツガ下ニ立ナゲクとよめるを思ふに、そこにこひもしなずしてつれなく打廻のさとに戀つゝまてどかへりこむとは思はざりきと云ふなるべし、
 
近有者、【寛永本卷之四、三十二丁左、代匠記卷之四中、三十六頁、】
○ミネドモアルヲとはあひみねどもちかしと思ふをたのみにてさてもあるを云也、○有不勝自、 これをアリテモタヘジとよめるはいかにぞや、不勝をタヘジとよめば自の字あまれり、今按此自は目の字なるべし、目の字は音訓ともに用たり、今は音を取て有ガテマシモとよむべきにや、ガテはかぬる也、第二卷太織冠の御歌に有カテマシモを有勝麻自目《アリガテマシモ》とかきて今の不勝とかけるにたがへるは、そは勝の字かつ〔二字右○〕云和訓のみをかりてつ〔右○〕とて〔右○〕と通して用たり、今は不勝をかねと同じきがて〔二字右○〕とよみて、まし〔二字右○〕をばよみつけてめ〔右○〕は助字なり、
 
今更妹爾將相八、【寛永本卷之四、三十三丁右、代匠記卷之四中、三十七頁、】
○オモヘカモはおもへばかも也、イブカシは欝悒の字のごとし、
 
(32)中々者、【寛永本卷之四、三十三丁右、代匠記卷之四中、三十七頁、】
○不遂等、 これをトゲザラナクニとはいかでよみけむ、しかよむことわりあらば上の第十五葉に火ニモ水ニモ我ナラナクニと云歌を譯せるごとくなるべし、今按トゲヌモオナジとかトゲヌモヒトシとか讀べきにや、こゝろは中/\にかゝらむとかねてしらましかば、もたしてもやみなまし物を、何とてあひみそめけむ、さはることどもありてほいとげず、なげきもあはざりしときにひとしきものをと云心なり、
 
劔太刀、【寛永本卷之四、三十三丁左、代匠記卷之四中、三十九頁、】
○ツルギタチ名ノ、 かたなには其鍛冶の名ほりつくる故に名と云はむとてツルギタチと云へり、禮紀月令、孟冬、物|勒《キザンデ》2工名1以考2其識1、令義解第六營造式、凡營2造軍器1皆須d依2樣令1雋c題年月及工匠姓名u云々、延喜式云、凡市人集時、入v市召2市司1云々、第十一にワギモコニコヒシワタレバツルギタチ名ノヲシケクモ思ヒカネツヽ、第十二に劔太刀名ノラシケクモワレハナシコノゴロノマノコヒノシゲキニ、ミソラユタ名ノヲシケクモワレハナシアハヌ日アマタ年ノヘヌレバ、
(33)從蘆邊、【寛永本卷之四、三十三丁左、代匠記卷之四中、三十九頁、】
○アシネヨリミチクル、 上はイヤマシといはむ序なり、第十二、ミナトワニミチクルシホノイヤマシニコヒハマサレドワスラエヌカモ、第十三長歌に、ウミヲナス長門ノウラニ朝ナギニミチクルシホノ夕ナギニヨリクル波ノソノシホノイヤマス/\ニソノ浪ノイヤシク/\ニ云々、伊世物語に上の句今と同じくて、君に心を思ひますかなと改て用たり、菅家萬葉集に蘆まよりみちくる鹽のいやましに思ひませどもあかぬ君哉、
 
狭夜中爾、【寛永本卷之四、三十四丁右、代匠記卷之四中、四十頁、】
○和備居、 ワビヲルとよむべし、ワビタルは誤れり、わが人をこひてわびヲル夜しも千鳥の友よぶ聲さへ物思ひをもよほすなり、
 
押照難波乃菅之、【寛永本卷之四、三十四丁右、代匠記卷之四中、四十一頁、】
○君ガキヽシヲ、 ねむごろに思ふよしをわれにいひきかましをなり、此點にては(34)さは聞えず、キキテヲと歟、キカシヨと歟讀べし、○マソカヾミトギシ心ヲ、 マソカヾミはますかゞみにてますみの略也、日本紀にも此集にも白銅鏡とかけり、トギシ心はくもりなき鏡のごとく心きよく思ひはなれて有し也、○ユルシテシ、 下に至りても同じ郎女の歌にマソカヾミトギシ心ヲユルシテバ後ニイフトモシルシアラメヤ、又此集にアヅサ弓引テユルサズアラマセバカヽル戀ニハアハザラマシヲ、所詮この心也、○浪ノムタ、 浪ととも也、第二人丸歌にもあり、○ナビク玉モノトニカクニ心ハモタズ、 浪にしたがふ玉ものかなたこなたになびくやうなる心はもたぬ也、○神ヤカレナム、 神ヤカルラムとよむべし、いもせの中をまもる神やかれぬらむ也、かるゝは捨てはなるゝなり、○人カイムラム、 禁の字なればサクラムとよべき歟、イムともよめばわがかたへかよふことをいたくきらひやしぬらむとも心得べし、○アカラヒク、 アカラヒクはたゞあかき也、あかねさす日とつゞくるが如し、第十一にアカラヒクハダモフレズテと云へるも紅顔なる人ははだへもにほひある故なり、○タヲヤメト、 たよわき故にたをやめ〔四字右○〕と名附たる心もしらるゝなり、○立止り、 ゆかむとする時も得ゆきやらでとゞまるなり、徘徊はいざよふ〔四字右○〕ともやすらふ〔四字右○〕ともたちもとほる〔六字右○〕ともよめばイザヨヒテともヤスラヒテともよまば(35)タチトマリよりもまさるべきにや、
 
從元長謂管、【寛永本卷之四、三十四丁左、代匠記卷之四中、四十三頁、】
○不念恃者、 念の字は令をあやまれり、タノメズハとは、たのましめずはと云なる故也、念の字にてはことわりなし、
 
西海道節度使、【寛永本卷之四、三十四丁左、代匠記卷之四中、四十四頁、】
○西海道云々、 聖武紀天平四年八月、西海道節度使判官佐伯宿禰東人授2外從五位下1、
 
池邊王、【寛永本卷之四、三十五丁右、代匠記卷之四中、四十四頁、】○池邊王宴、 聖武紀云、神龜四年正月、無位池邊王授2從五位下1、天平九年爲2内匠頭1、大友皇子之孫、葛野王之子、沫海眞人三船之父也、
 
松之葉爾、【寛永本卷之四、三十五丁右、代匠記卷之四中、四十五頁、】
○ユツルはうつる也、同韻相通也、○紅葉ノスギヌヤとは此集にもみぢ葉のちりて(36)過ぬと讀る歌おほし、もみぢにうつりし月影の松の葉にのみうつるをみれば君にあはぬ夜もおほくもみぢ葉の散過がごとく過ぬとなり、○此君〔右○〕とさしたまふは中よくてよるひるまじはりたまふ人たち也、○鳥は烏のあやまれるなるべし、和名集に唐韻を引て烏と焉と通ずるよしいへり、あるひはやがて焉の字をみあやまりて烏につくる歟、烏にても焉にても文法のごとく助語にそへたるなり、
 
以上卷四之上
 
父母乎、【寛永本卷之五、七丁右、代匠記卷之五上、十三頁、】
○タニクヽノサワタルキハミ、 祈年祭祝詞云、皇神〔略〕留限云々、此詞の中に谷蟆とあるは下のサワタルキハミと云詞も今と同じければタニグヽなるべきを流布の本にタニカマと和點をくはへたるは推量するに古本に和訓なく、又たしかによみつたへたる事もなければ、蝦蟆の二字の音を取て後人のしひてよみなせるなるべし、祝詞ならびに神名帳にはことにおぼつかなき和點多し、此集末に至りて、このま立くゝなどいへるみな潜といふこと也、神代紀に漏の字をクキとよめるもこれ也、しかれば※[晏+鳥]は和名かやぐきなり、あづまの(37)俗語にはかやくゞりと云よし長流もかたりき、ちさき鳥にて草の中をくゞりありくゆゑの名なるべければ、谷クヽも其類にて谷の草木の中をもやすく潜るゆゑに名附たるべし谷蟆ノサワタルキハミは山のはてをいひ、鹽ノアワノトヾマルカギリとは海のはてをいへば、谷クヽは山のおくまでも至らぬ所なき小鳥なるべし、サワタルのさ〔右○〕の字は助語也、此集に月をも木のまよりさわたるとよめり、○キコシヲスはきこしめす也、食の字をめす〔二字右○〕ともをす〔二字右○〕ともよめり、領せさせたまふとなり、○國ノマホラヲ、 眞原也、國の廣きを國原と云心也、眞の字こゝはほめたる詞也、日本紀景行天皇の御歌にも、ヤマトハ國ノマホラとよませたまへり、古き詞也、波と保と五音通ぜり、原は高平曰v原とありて、もろこしにも中原などいひ、此國にも天の原わたの原などひろ/”\とあるところをばいへり、
 
世間能、【寛永本卷之五、八丁右、代匠記卷之五上、二十二頁、】
○ミナノワタ、 和名集云、本朝式云、年魚水頭背腸、【〔略〕】さけのわたはせのかたにありて黒きもの也ときけば、今ミナノワタのの〔右○〕もじはそへりけれどこれにやとおもひより侍り、かのみな〔二字右○〕と云貝はそれか、わた〔二字右○〕などいふほ(38)どもなき小貝也、和名集云、崔〔略〕似2人身1者也、】名につきておしていへるなるべし、年魚と云はあゆ〔二字右○〕とおなじく年を過す魚なれば也、背腸とかけるは背の方にあるゆゑ也、また人の腸をもみなわたと云はおなじ名にや、或説云、謂v背爲v皆訛也、これに二つの心あり、或人皆腸は皆腸なるを背皆字相似たるゆゑに背腸に誤て作ると云を非也とは順のいへる詞にや、背のかたにあるわたなれば背腸とかくと云心也、又は訛也まで或説なる歟、そのもじの背腸とかきたれば、せなわた〔四字右○〕などこそいふべきに、世にみなわた〔四字右○〕と云は、背の字を誤て皆としては誤ていひ來れりと推量して訛也といへるを、順も同心にてそのまゝのせ置る歟、鮭とかくも※[魚+至]の字の誤なるよしみえたり、延喜式云、信濃國調、鮭(ノ)楚割、水頭、背腸、鮭(ノ)子、越中國、鮭(ノ)氷頭、鮭(ノ)背腸、鮭(ノ)子、○カクロキのか〔右○〕は助語也、第二卷人まろの歌にカアヲナルといふ詞に注せしが如し、此ミナノワタカクロキといふことばはこれを初にて第七第十六にもあり、
 
梅花歌三十二首并序、【寛永本卷之五、十四丁右、代匠記卷之五上、四十六頁、】
○梅花三十二首并序、 并は兼并也、後の歌の題をこゝにかねあはするゆゑに并と(39)注す、ならびに序と讀は江家、序あはせたりとよむは菅家也とかや、歌は下に面々名あり、この序は憶良の作なるべし、
 
波流佐禮婆、【寛永本卷之五、十五丁右、代匠記卷之五、五十頁、】
○春サレバ、 この春サレバと云詞春くればと云こと也、第十に初のもじにおほくよめる歌あるには春去者、春之去者とかけり、又風マゼニ雪ハフリツヽシカスガニ霞棚ビキ春去ニケリ、これも第十にあるを新古今集に春はきにけりとあらためてのせらる、春さりにけりはすなはち春はきにけりと云こと也、春さればもずの草ぐきみえずともと云歌に春之在者とかけり、これも春之去者にてありけるが去と在と字の似たるにあやまられて在にはなされたるも知べからず、その外はみな春去者春之去者とかければおほきにつきて春くればと心得べし、さきの憶良の歌にも此歌にも、ともに波流佐禮婆とかけり、本性によりよむ字なればさ〔右○〕もじをすみては〔右○〕の字をば濁りてよむことしるべし、秋されば、夕されば、みな此定なりけるを今は顛倒してよめり、されども心を得ながら時にしたがふべし、顯注密勘に定家卿ゆふされば螢よりけにもゆれどもと云うたにつきて此春さればをも春之在者とかきた(40)るに附べし、春にしあれば也、去とよまば、夏こそ春さればとよみ侍らめ、かくれなきこと也、ゆふさえばこれに同じと、密勘をくはへたまへり、まことに去來は相違の詞なれども恒他楊多といふ梵語を如來とも如去とも釋し、禮記の月令に孟春之月鴻雁來とあるをかへる〔三字右○〕とよめば、并に往と云心あるべし、春さればは春にしあれどもかへし風まぜに雪はふりつゝと云歌の春さりにけりはいかゞ心得べき、先達をばうやまひて大かたそむくまじきことなれど、又考へ殘し思ひのこされたることも、などかなくて侍らむ、建保年中の歌合にみかくれてと云詞は水によせずばよむまじきよしの沙汰有ける時、定家家隆の兩卿俊頼朝臣の玉くしの葉にみかくれてとよまれたる歌を引て證かされけれども八雲御抄には猶うけぬことにのたまへり、顯注密勘にもしかり、俊頼はまことに天性器量あるにまかせておしてもよまれけるを、六帖に月影にみかくれにけりあかほしのあかぬあまりに出てくやしき、此うたをば後まで考へたまへる人なかりけるぞあやしき、
 
波流佐禮婆、【寛永本卷之五、十六丁右、代匠記卷之五上、五十四頁、】
○コヌレカクリテはこのうれかくれ也、うれは末の字を此集によめり、萩のうらは(41)などよむうらも同じ、木のうれ〔四字右○〕を能宇切奴なればつゝめてコヌレといひ、カクリはかくれのれ〔右○〕とり〔右○〕と音通ずればコヌレカクリテといへり、○シヅヱは下えだ也、神代紀にすなはち下枝とかきてシツヱとよめり、○作者山氏若麻呂〔五字右○〕、第四、二十七葉山口忌寸若麻呂とて歌ありし人なり、
 
    以上五之上
 
宇知比佐受、【寛永本卷之五、二十七丁左、代匠記卷之五下、三十一頁、】
○ウチヒサス宮ヘノボルト、 宮殿のかまへは高ければ内に日のさしつる宮と云こゝろ也、西都賦曰、上2反宇1以蓋載、激2日景1而納v光り、景福殿賦云、晃光内照、流景外※[火+延]、魏都賦云、※[白+激]日籠2光於綺寮1、おかのづからこれらの心也、こゝに宮といへるは都をみやこと云名も宮より出たるにて、みやと云に同じき歟、○タラチシヤハヽガ手ハナレ、 タラチシは常にたらちね〔四字右○〕といふ詞也、又たらちめ〔四字右○〕ともいへり、母の乳汁をたれてやしなひ立らるゝによりての名也、此集これならで猶たらちしと云へるに爲の字をし〔右○〕とよめり、乳味をたるゝことをする母と云心なれば助語にはあらずとみえたり、俗おかやの手をはなるゝ、おやのふところをはなるゝなどいへり、熊凝十八歳なれば(42)似合たる詞也、第十一に、タラチネノハヽガ手ハナレカクバカリ、スベナキコトハイマダセナクニとよめり、○常シラヌ國ノオクカヲ、 ツネシラヌはまだ若ければ、常にも遠き他國をばしらぬ也、國ノオクカは國のおくの心也、かの奥州をば道の奥と云がごとし、上にいふごとくオクカは行末の心也、○カタラヒヲレド、 傍輩とかたりてなぐさみゐれども也、○ヲノガミシイタハシケレバ、 し〔右○〕は助語也、イタハシはわづらひいたむ心也、○道ノ麻尾爾、 管見抄に道のまに/\とあるを正とすべし、今の本にてはミチノマビニなれば心得がたし、尾は尼のあやまれるにて、麻の字の今ひとつ落たるなり、○草タヲリシバトリシキテ、 旅寢のあはれなるなり、日本紀云、藉v草班v荊、○トケシモノ打コイフシテ、 管見抄にとけしも〔四字右○〕は霜の解るやうにうちふして命しぬるよしなりと云へりとかきて、又の料簡に床しものと云心歟、床にふすと云ごとくと聞えたり、今按初の説心得がたし、第三に家持の妾みまかりける後よまれたる歌に、ウツセミノカリノ身ナレバトケシモノキエユクガゴトクアシ引ノ山ヂヲサシテ入日ナスカクレニシカバなどよまれたるこそよくきこゆれ、トケシモノウチコイフスとつゞきたるを霜のとくるやうにうちふして命しぬるよしとは心はさることにて句のさまつゞかず、後の床しものといふ心歟といへるは、(43)計と五音相通の心にいへり、されども床をとけ〔二字右○〕と云こと例なし、等計は許の字を誤て計に件れるなるべし、さてやがて後の心也、草をまくらとし柴をとりしきてそれをたびねの床としてうちふす也、コイはさきにも有しごとく反の字輾の字をよめり、なげきふせらる也、景行紀云、日本武尊云々、是以獨臥2曠野1、○クニヽアラバ父トリミマシ、 毛詩曰父兮生v我、母兮〓v我、撫v我育v我、○世ノ中ハカクノミナラシ、 生者必滅、愛別離苦、會者常離、これらのことわり世の習としてかくのみにあらし也、○イヌジモノ、 犬じもの也、犬の道にもうちふせば道ニフシテヤと云はむため也、
 
風離雨布流欲乃、【寛永本卷之五、二十九丁右、代匠記卷之五下、三十五頁、】
○堅鹽乎、 日本紀第二十五云、皇太子〔略〕曰2堅鹽《キタシ》1、これは造媛の父山田大臣、弟の日向がために諧られてみづから縊死たまひぬ、日向物部造鹽をよびて大臣の頭をきらしめたるゆゑに、造媛鹽の名を聞ことをきらひたまへるゆゑに、造媛にちかくつかふる女房など常の鹽をも鹽とはいはできたし〔三字右○〕と云へると也、しからば延喜式のごとく石鹽を昔はきたし〔三字右○〕といひけるを、此事のもとより黒鹽をもきたし〔三字右○〕といひける、つ(44)たはりて天暦の比もきたし〔三字右○〕といひけるにや、今の世に鹽をやきて出す處によりてすこし白きと黒きとはあれども名を黒白とわかつべしとはみえず、かの壺鹽を白鹽とも石鹽ともいひ、常の鹽をそれに對して黒鹽と云歟、大和物語にもかたいしほさかなにして酒をのませてとおちぶれたる人の事をかけり、きたし〔三字右○〕はかたしほ〔四字右○〕のほ〔右○〕を略してか〔右○〕とき〔右○〕と五音相通していへるにや、日本紀をみるに、用明天皇の御母の名をキタシヒメと申けるにも堅鹽姫とかけり、此國にも奥州の會津のあたりには鹽のわき出る井ありとうけたまはる、大唐にはおほきよし也、史記貨殖傳云、倚頓用監鹽1起、○トリツヽシロヒはつきしろふ也、面々箸取てつゝきあふこと也、江次第(ニ)第七、六月晦日節折装束次第云、縫殿寮官人舁2豆々志畠比御服1、このつゝしろひ〔五字右○〕の御服とはいかなるをいふか、み及ぶまゝにつゝしろふと云詞につきておもひ出たり、○カスユサケウチスヽロヒテ、 酒の糟を水に漬て※[者/火]て打すゝる也、貧しきことのありさま也、越後の國に冬鮭をとる漁翁ども酒をのめばこゞえてたへず、さむくなれば、いくたびとなく此かすゆさけ打すゝりてわざをなすにこゞえずとかや、○シカフカヒ、 しはぶきする也、は〔右○〕とか〔右○〕と同韻なればしはぶかひ〔五字右○〕と云べきをしかぶかひ〔五字右○〕とはいへり、遊仙窟云、十娘曰兒近來患v※[病垂+漱]○鼻ヒシヒシニ、 管見抄には鼻ひるなり(45)ひし/\はかさね言也、糟酒にむせびたる有さま也とと云へり、ひし/\をば鼻ひをし/\と心得たるなるべし、今按これは糟の氣の鼻に入て鼻梁のいたむやうにおぼゆることあるをいふにや、又此集第十三に、此床ノヒシトナルマデとよめり、源氏物語夕顔に、もやのきはにたてたる屏風のかみ、こゝかしこのくま/\しくhおぼえたまふにも、ものゝあしおとひし/\とふみならしつゝ、うしろよりくるこゝろす、同總角に、よひすこし過るほどに、風の音あらゝかにうちふくに、はかなきさまなるしとみなどは、ひし/\とまきるゝ音に、人のしのびたまへるふるまひは、えきゝつけたまはじとおもひて云々、これらにつきておもへばむせてしはぶきて鼻のなる也、○シカトアラヌ、 俗にしかともなきと云詞也、第八にも、シカトアラヌイホシロヲ田ヲカリミタシとよめり、文選酒コ頌云、奮v髯※[足+基]踞、傲慢の體也、○アレヲオキテ人ハアラジト、 垂仁紀云、都怒我阿羅斯等曰云々、吾則是國王也、除v吾復無2二王1云々、孟子曰、如欲v平2治天下1當2今之世1舍v我其誰也、枕草子にいはく、又酒のみてあかきくちをさぐり、ひげあるものはそれをなでゝ云々、○ホコロヘド、 ほこれども也、○アサフスマヒキカヽブリ、 引かぶり也、○ヌノカタギヌアリノコトゴト、 肩衣は徒然草にかたぎぬなどのさぶらはぬにやとかけるかたぎぬにて、昔もありける衣裳の名に(46)や、管見抄にぬのきぬのみじかくて肩ばかりにきるやうなる也、これにて侍るべし、かばかりまづしき人の肩衣もし衣裳の名ならばアリノコトコトかなはず、アリノコトゴトはあるをこと/”\く也、○キソヘドモ、 きよそへども也、○チヽ母ハウヘサムカラム、 孟子曰、今也制2民之産1、仰不v足3以事2父母1、俯不v足2以畜2妻子1云々、韓退之進學解云、冬暖而兒號v寒、年登而妻啼v飢、○乞乞は乞弖なるべし、○アメツチハヒロシトイヘド、 文選王陽堅石臨終詩云、恢々六合間、〔略〕不v獲v寛、應休※[王+連]與2廣川1書云、宇宙〔略〕無2陰以憩1、○日月ハアカシトイヘド、 詩※[北+こざと]風云、日居月諸、照2臨下土1、公幹贈2徐幹1詩云、仰視2白日光1、〔略〕不v得2與比1焉、○人ミナカワレノミヤシカル、 古今集によのなかは昔よりやはうかりけむ我みひとつのためになれるか、○ワクラハニ人トハアルヲ、 ワクラハはまれなること也、第九にも、人トナルコトハカタキヲワクラハニナレルワガミハなどよめり、二所ともに和久良婆爾とかきたれば婆の字昔は濁りてよみけるなるべし、古今集にも行平の歌にわくらはにとふ人あらばとよめり、人身の得がたきことは四十二章經云、佛言、人雜2惡道1得v爲v人難、あるひは爪上の土よりもすくなしと説、あるひは天より絲をおろして海底の針孔をつらぬくよりもかたしと説り、○(47)人ナミニアレモツクルヲ、 人なみに我も田などをつくれどもなり、○ヌノカタギヌノミルノゴトワヽケサガレル、 ぬのきぬのやれほつれて、そのはし/\の海松のごとくさがれる也、第十六無2心所1v著歌に懸有、【懸有反云2佐家禮流1、】○カヽフとはつゞりの名也、○フセイホノ、 ふせや也、第十六河村王歌注廬者多夫世反といへり、戰國策云、廬田※[まだれ/無]舍、○マキイホ、 麻宜とかきたればき〔右○〕の字濁るべし、まぎいほにてよろぼひゆるめる也、又さきに憶良のならのみやこにめさけたまはねと云歌にめさけ〔三字右○〕を、※[口+羊]佐宜とかきたればこゝをもすなはちマゲイホとよむべし、○ ヒタツチニワラトキシキテ、 ひたすぐの土邊也、すがきもなき家也、三輔决録云、孫農字元公、家貧織v席爲v業、○メコドモハアトノカタニ、 禮記檀弓曰、曾子寢2疾病1樂生〔略〕執v燭、○コシキニハ蜘ノスカキテ、 蒙求云、後漢范冉字史雲、家貧云々、閭里歌v之曰、甑中生v塵范史雲、○イヒカシクコトモワスレテ、 史記蘇秦傳、妻不v下v機、嫂不2爲炊1、文選應休※[王+連]書云、樵蘇不v〓清談而已、○ヌエトリノノトヨヒヲルニ、 第一軍王の歌に注せしごとし、かの鳥ののど聲に鳴ごとくさまよひなげく也、さまよふはなげきてうめくごとくなれば、ぬえ鳥ののど聲よくかなへり、第十一の歌にも二首あり、○イトノキテはいとと云詞ときこゆ、下の三十七葉第十四三十二にもあ(48)り、いとゝになしてさらに皆かなへり、○ミシカキモノヲハシキル、 下の沈v痾自哀文云、諺曰、短材截v端、いまもこの心也、○楚取、 八雲御抄には此楚の字をすえくとよませたまひて、これは木末也と注せさせたまへり、管見抄にはたかのとるとよめり、今按ズハエとよむべし、俗にす〔右○〕もじを濁ていへり、毛詩漢廣云、翹々錯薪、言苅2其楚1、箋曰楚新薪之中尤長翹々然者、史記廉頗云々、肉袒負v荊、【注荊者楚也、以爲v鞭也、】○イトラガ聲ハ、 これはいづれの鳥とも心得がたし、管見妙には五音相通の心にてうづらといへどもズハエトルとつゞけたればそれともきこえず、もしいひとよ〔四字右○〕のことにや、和名集云、博物志云、〔略〕拾2取之1、皇極紀云、休留【休留茅〓也、】事文類聚曰、疑元忠公云々、夜有2〓〓1云々、彼晝不v見v物、故夜飛云々。事文類聚にのせたるは趙宋の代にて後のことなれど引合ておもふに、まづしきもののなげきのみあるに、うれはしきねなきするいひとよまでねなきくるを、みじかき木の猶はしきるにたとへたるなるべし、
 
神代欲理、【寛永本卷之五、三十一丁右、代匠記卷之五下、四十三頁、】
○宇志播吉伊麻須、 第九に登2筑波嶺1爲2※[女+燿の旁]歌會1日作歌にも此山乎牛掃神之從來不(49)禁行事叙《コノヤマヲウシハクカミノハジメヨリイサメズワザゾ》とよめり、延喜式第八、遷2却祟神1祝詞云、高天之原〔略〕備奉?、云々、此中にウスハキイマセト云とウシハキイマスト云とは須と志と五音通ずすれば同じこと也、吾トコロトウスハキイマセトと云心は,わが物と領して鎭座したまへといへるやうに聞ゆれば、こゝも其定なるべし、牛掃とかけるによりて好事の者由緒をつくれるなるべし、
 
世人之貴慕、【寛永本卷之五、三十九丁右、代匠記卷之五下、六十四頁、】
○サキクサはあまたのやうあり、一には瑞草也、和名集文字集略云、〓〔略〕相當也、延喜式治部省式云、福草〔略〕廟中1、顯宗紀云、三年春二月置2福草部1、又日本紀の中に葛城(ノ)福草《サキクサ》神社福草《カミコソノサキクサ》といへる人の名もあり、以上は瑞草に付たること也、二には瑞草ならねども六枝を三つならべたるをさきくさ〔四字右○〕と云、令義解神祇令云、三枝祭、〔略〕曰2三枝1也、】延喜式第一云、三枝祭三座、【率川社、】二月十一月並上酉祭v之、同第九神名帳云、大和國添上郡率川坐大神御子神社三座、これは奈良とちかくまします神也、二日十一月上申に春日祭に勅使ありて(50)其次に次の日さいくさ祭あり、三枝の花をもて神酒の瓶をかざる故に三枝といふ理は聞えたれどもさいくさ〔四字右○〕と云和語のこゝろはいまだあらはれず、今こゝろみに是を釋せば彼※[草がんむり/易]は枝々相値とあれば三枝也、それを福草とす、福の字を此集にさいはひ〔四字右○〕とよめり、前にも釋せるごとくさきはふと云ことなればさきはひ〔四字右○〕と云べけれど耳にもさはり、又はいひにくければ、音をかよはしてさいはひ〔四字右○〕と云なるべし、さきはひ草と云心にてさき草〔三字右○〕ともさいくさ〔四字右○〕ともいへり、第二卷に人まろのシガノカラサキサキクアレトといふさき〔二字右○〕也、三座の神にたてまつる神酒の瓶なれば三枝をもてかざれるが福草に似たればやがてさいくさ祭とはいふにこそ、和名鉱を見るに加賀國江沼郡飛騨由大野郡にともに三枝郷あり、今の世ものゝふの氏にも三枝と聞ゆるは、郷の名もそのゆゑはしらねど率川祭を注せる心なるべし、三に檜の木の異名といへり、これは古今集序に、むつにはいはひうた、此殿はむべもとみけりさきくさのみつはよつはにとのつくりせり、此歌につきていへり、この歌を心得るにもふたつのやうあるべし、一には三枝の心につきてのきばのおほくみつばよつばにありといはむとて、みつといはむ科にさき草とはいへりと云と心得べし、拾遺集に、平公誠、山ざくらを見侍りて、み山木のふたばみつばにもゆるまで消せぬ雪と見え(51)もするかな、これは只櫻のうへにて、ふたばみつばとよめり、二にひの木と云はつかば、神代紀上云、素盞烏尊命曰云々、檜可d以爲2瑞宮1之材u、枕草子に、ひの木ひとちかゝらぬものなれどみつばよつばの殿作もおかし、すでにすさのをのみこと宮木のためとてさためおかせたまへるめでたき良材なる上に、清少納言もしかつたへたれば異名と云べし、その上小枝も葉もいとしげき物にて、今の俗おもひ葉とて葉々相當を求るに得ることあれば、さき草ともいひつべし、又薺〓と云藥に用る草をも延喜式の典藥寮の式、ならびに和名集に、さきくさな〔五字右○〕といへり、これは外にてさきの三の中に此さきくさの中におかむといへるは三つあるものは、かならず中あるゆゑに、中といはむためにさきくさ〔四字右○〕とはいへり、應神紀に.天皇日向の髪長姫を仁徳天皇いまだ大鷦鷯皇子にておはしましけるに給はる時の御歌に、カグハシ花橘シツ枝ラハ人皆採リ、ホツ枝ハ鳥ヰカラシ、三ツクリノ中ツ枝ノ、フホコモリ、アカレルヲトメ、イザヽカハエナ、此集第九那賀郡曝井をよめる歌に、ミツクリノ中ニムカヘルサラシ井ノ絶ズカヨハムソコニ妻モガ、これらおほよそ栗はひとつのいがの中にみつあるものなれば中といはむためにみつくりとつゞくる物こそかはれ心は今に同じ、第十卷に、春クレバマヅ三枝ノサキクアラバとよめるさき草もこゝによめるにお(52)なじ、
   以上五の下
 
萬葉集代匠記拾遺下
 
(1)附言
拾遺は代匠紀の考證を補はむが爲に、後におもひ出るまゝに、倭漢の書より鈔出して、ものしたるものなめり、これも艸本のまゝにて傳へたりとみえて、卷一より卷五までにて、其他はなし、所用書中にいかにぞやおぼゆるふし/\をば、原書に引合て訂正すべくおもひしかども、いかにせん例の其書名のみを出して、卷づけ及び篇名等を記さゝれば、其捜索にいと暇いるわざなるを以て、大かたにしてやみぬ、たゞ種村ぬしの心付にて、毎章の首に寛永刊本及び代匠記の卷づけ紙數をしるしたり、こはきわめて其益多かるべし、
 明治三十七年六月
                      校訂者識
 
(2)附言
惣釋、枕詞、拾遺の三部は、未定の稿本のまゝ傳はりたるものと見えて、體歳もとゝのはず、誤字脱字はもとより、錯亂さへ多くあり、且其引用書の如きも、たゞ書名のみを出して、卷づけ又は篇名などもなし、これが爲に訂正いと難澁なりしを、からうじてかくはなしたるものから、猶あかぬ事のみ多かれど本書の印刷もおもひの外におくれたるを以て、今は大かたにして印刷に附しぬ、但し近き頃は枕詞につきての著書もおほく出來て、事かくべくもあらずとおもへば、たゞ師の原書を其まゝ世に傳へむとの心にて、いさゝか訂正を加へ、又旁訓の必要にて其の訓を記さゞるものは、かれこれ補ひたるもあり、又原書には目録はなきを、種村ぬし讀者の便をはかりて、これを加へたり、抑枕詞の解は、縣居先生の冠辭考の以前にありては、かうしも考へ出られたるは、實に契冲師の功、偉なりとす、かの冠辭考中にも、師の説によりたるもの少なからず、さるをかの書には、師の事をば一言もいはれざりしは、をしむべき事なりけり、
 明治三十七年六月
                      校訂者識
 
(1)萬葉集代匠記を再閲して
 
    寛永版の假名遣の誤
萬葉集の木版本では、寛永二十年の刊本が最も正確のものであつて、古典の研究には必須のものとなつてゐる。けれども、假名の研究の屆かなかつた時代の寫本から木活本となり、木活本から木版本となつたのであるから、假名遣には遺憾の點が尠くない。その二三の例を示せば、
  平《タイラ》(タヒ〔右○〕ラの誤)
  治《オサム》(ヲ〔右○〕サムノ誤)
  押奈戸《ヲシナヘ》(オ〔右○〕シナヘの誤)
  老《オヒ》(オイ〔右○〕ノ誤)
  故《ユヘ》(ユヱ〔右○〕ノ誤)
  末《スエ》(スヱ〔右○〕ノ誤)
  机《ツクエ》(ツクヱ〔右○〕ノ誤)
  參《マイリ》(マヰ〔右○〕リの誤)
などは多數に散見する誤である。これ等は、萬葉集を讀む程の者には、一見して分る明瞭の誤であるから、契冲阿闍梨も、この事には筆を觸れてゐない。木村博士校訂代匠紀の本文は、寛永二十年の刊本を其儘に傳へるのを以て本旨としてゐるので、一切原本の通りに校正しておいた。こんな明瞭の誤は、活版職工が、無言の間に先づ訂正(2)してくるので、一字一句も原本を離れては續過することが出來なかつたのである。
 
    寛永版の傍訓の誤字
 
本文の文字は正しいが、傍訓の文字が誤つてゐて、しかも其誤の一見明瞭なるものが少くない。一二の例を示すと、
  今年經而《ヨトシヘテ》(【卷十九上の二八】) コ〔右○〕トシヘテの誤
  已麻叙久夜支伎《イマソクラシキ》(【卷二十上の二九】) イマソクヤ〔右○〕シキの誤
  波々乎和加例《ハヽヨワカレ》(【卷二十上の三九】) ハヽヲ〔右○〕ワカレの誤
  和多良毛《ワタヲモ》(【卷二十上の四一】) ワタラ〔右○〕モの誤
この類の誤は少からず散見してゐる。これ等の中には「書生の誤」と阿闍梨が指摘してゐる個處も少くないが、指摘してゐない個處も亦少くない。これは一見して分る事であるが、阿闍梨の指摘の有無に拘らず、原本の通りに校正しておいた。
 
    寛永版の本文の誤字
 
傍訓は正しいが、本文の文字が誤つてゐて、しかも一見明瞭のものも少くない。即ち
(3)  吾等看〔左○〕牟《ワレカヘリミム》(【卷十九上の一三】) 吾等省〔右○〕牟の誤
  知智乃寶〔左○〕乃《チヽノミノ》(【卷十九上の一七】) 知智乃實〔右○〕乃の誤
  守〔左○〕都勢美毛《ウツセミモ》(【卷十九下の六】) 宇〔右○〕都勢美毛の誤
  永平〔左○〕《ナカテ》(【卷十九下の五六】) 永手〔右○〕の誤  予〔左○〕《トフラフ》(【卷十九下の八】) 弔〔右○〕の誤
この類のの誤字は可なりに多い。何れも、阿闍梨の指摘の有無に拘らず原本の通りに校正しておいた。その他に、飛鳥《アスカ》を飛烏〔右○〕に誤り、于〔右○〕と干〔右○〕、治〔右○〕冶〔右○〕、卿〔右○〕と郷〔右○〕を通用した類は少くないが、萬葉集を讀む程の人には指摘の必要も無い事であるから、阿闍梨も、何とも言つてをらぬ個處が甚だ多い。本書の本文は、寛永版を其儘に傳へるのが本旨であるから、如何に明瞭の誤も訂正を加へなかつたのである。
 
    誤訓によつて本文を妄改したる版本
 
實永版の本文の文字は正しいが、傍訓が誤つてゐた爲に、不用意の淺學者に本文を妄改された版本がある。即ち
  玉釼〔左○〕卷宿妹母《タマツルキマキヌルイモモ》(【卷十二の四】)を玉劔〔右○〕卷宿妹母に誤刻
  玉釼〔左○〕卷寢志妹乎《タマツルキマキネシイモヲ》(【卷十二の三四】)を玉劔〔右○〕卷寢志妹乎に誤刻
(4)玉釼《タマクシロ》は卷《マキ》に係る枕詞である。木村博士の研究によれば、金〔右○〕に丑〔右○〕(紐《ヒモ》)を加へた會意の和字でクシロと讀むべき文字である。字形が漢字の劔〔右○〕に似てゐる爲に玉劔《タマツルキ》と誤訓されたのであるが、寛永版には、正確に釼〔右○〕の字になつてゐるので、研究の便となるのである。誤訓に基いで本文まで妄改した書物の多いのは嘆かはしい事である。尤も寛永版には、正しくは劔〔右○〕の字を書くべきところに、釼〔右○〕を書いたのが一つ見えてゐるが、それらは指摘するまでもなく、萬葉學者には明瞭の事であらう。此類の文字も凡て原本の通り校正しておいた。
 
    寛永版には漢文の反點なき事
 
寛永版萬葉集の漢文には反圧點はない。これは反點の發明されない時代の寫本に基いた爲であらうと思ふ。此漢文には、傍訓は散點してゐて、送假名のある處とない處とあるが、句點反點は絶對にないのである。木村博士は凡て寛永版の通りに印刷する豫定であつた。然るに第五卷以下には長文の漢文があつて、しかも誤字が多いので、句點反點なしには讀み難い爲に、句點反點だけ加へることにされた個處が少くないが、本文、傍訓、送假名等には一切手を觸れないで、凡て原本の通りにされたのである。(5)寛永版の儘を示すと左の通りである。
  遂(ニ)乃|※[人偏+方]※[人偏+皇]《ハウクワウ》池上(ニ)沈没(ス)水底(ニ)(【卷十六上の二】)
  無(シ)敢(テ)所(ロ)禁(スル)(【卷十六上の四】)
句點反點を加へた事は、第二輯の卷頭に木村博士のことわり書があるから、改めて言ふまでもないが、送假名などの有る個處と無い個處とある爲に、萬一にも校訂者が勝手に取捨したものと思はれてはならぬので、一言しておく。
 
    寛永版の異體の文字
 
寛永版萬葉集には、古字、通用字、誤字、俗字、省畫字、増畫字などの多い事は、既に第一輯の卷頭に述べておいた。肉《シヽ》を完〔右○〕、管《ツヽ》を菅〔右○〕、丘《ヲカ》を岳〔右○〕、璧《タマ》を壁〔右○〕、羲之《テシ》を義〔右○〕之、勝牡鹿《カツシカ》を勝壯〔右○〕鹿と書いた類は、直に他の活字を代用する事が出來るけれども、戀《コヒ》を※[戀ノ二つの糸が玄]〔右○〕と書き、紐《ヒモ》を※[糸+刃]〔右○〕ト書いた類の異體の文字に至つては、他の文字では代用させる事が出來ぬ。しかも萬葉集には此類の異體の文字が甚だ多いのであるから、寛永版の眞面目を傳へる爲には、これ等の文字を悉く木版に彫劃せねばならぬ。傍訓に基いて玉釼〔右○〕を玉劔〔右○〕と印刷したならば、後世の研究者をして研究の便を失はしむるのみならず、古事記、古風土記等の(6)古典を讀むことの出來ぬやうにしてしまふのである。
其他、原本の傍訓によつて本文の誤を正すべきもの、原本の本文によつで傍訓の誤を正すべきものが少くない。その中には、一見明瞭どころでは無く、幾多の研究を重ねても、尚ほ決しかねるものすらもある。
 
    古典の改竄は避けねばならぬ
 
また、本文も傍訓も、見方次第では誤つてもゐないのに、本文も傍訓も、共に誤つてゐるとして、宣長、千蔭などの諸先達に改竄されたものも尠からずある。即ち第七卷の初めの方にある獻2舍人皇子1歌の
  吾〔左○〕刺可花開鴨《ワカカサスヘキハナサケルカモ》
の吾〔右○〕などが、それである。この歌の、吾〔右○〕の字は舍人皇子を指し奉つたのであるから、吾〔右○〕は君〔右○〕の誤字で、君刺可《キミカサスヘキ》と讀まねばならぬと稱へられてゐる。木村博士は吾〔右○〕の字をキミ〔二字傍点〕と讀むべき幾多の典據を擧げて、本文は誤つてゐない、たゞ傍訓だけキミガサスベキと直せば善いとされてゐる、けれども、己《オノレ》、吾《ワレ》などの第一人稱を、第二人稱にも使ふ例は、今の生きた言語の中にも存在してゐる。木村博士が吾〔右○〕をキミと讀んだのも、萬(7)葉の筆者が吾〔右○〕の字を第二人稱に使つたのも、古代の萬葉學者が、何れもワガカザスベキと讀んで怪まなかつたのも、要するに、吾〔右○〕といふ語が、古代に於て、既に第二人稱に使はれてゐた爲であつたらうと思ふ。古代の萬葉學者と雖も、この歌の吾〔右○〕の字が、舍人皇子を指し奉つた第二人稱である位の事に氣付かぬ筈はあるまい。されば見方によつては、この歌は、寛永版の本文も傍訓も、共に誤つてはゐないと云ふ別説も成立つわけである。
前例に擧げた明瞭の傍訓の誤、假合へば老《オヒ》の傍訓をオイ〔右○〕に、今年《ヨトシ》の傍訓をコ〔右○〕トシに改めること、明瞭の本文の誤、假合へば看牟《カヘリミム》を省〔右○〕牟に、永平《ナカテ》を永手〔右○〕に改めることなどは、極て容易な事であるのみならず、之を改めずに置く事が却て困難を増すのである。然るに或個處は一見明瞭の誤となして改訂し、或個處は不明なりとして原本のまゝに印刷したならば、古典としての信用は破壞されてしまふ。その結果としては、代匠記の外に寛永二十年の木版本を見なければ、安心して研究する事が出來なくなるであらうと思ふ。されば古典の複製者は、宣長、千蔭等の碩學が、一見明瞭の誤として訂正したものにすら、その後の研究によれば、一見明瞭の失考が少からず存在してゐる事實を忘れてはならぬ。
(8)然るに、私見に任せて、古典を改竄することは、通俗圖書ならば兎も角の事であるが、專門の研究書として採るべき道ではなからう。阿闍梨が古典を尊重して、單に私見を附するに留めたのも、木村博士が、本文は凡て寛永版の通りに印刷させたのも、後世の研究者に研究資料を提供する爲であつたらうと思ふ。校正者が一切の私見を去つて、正否ともに原本に從つたのも、要するに之が爲に外ならぬ.
 
大正十四年八月     種村宗八しるす
 
六五十四年八月二十日印刷
大正十四年八月廿三日發行  萬葉集代匠記【附録とも】全六册
                  正價金參拾圓
不許
複製
            東京市牛込區辨天町一五七番地
 【編集兼發行者】      種村宗八
            東京市牛込區榎町七番地
 印刷者           本間十三郎
         東京市牛込區早稻田
發行所        早稻田大學出版部
 
       〔2014年1月18日(土)夜9時5分、入力終了〕
        〔この次の附録の卷には、所謂、木村正辭の三辨證が載っている、関心のある方は、近代デジタルライブラリーで御覧頂きたい。〕
        〔誤植及び不明のところが大変多いと思われるので、疑問のところは近代デジタルライブラリーでご確認頂きたい。〕