中村憲吉全集第二巻、岩波書店、717頁、1937.10.30
 
萬葉集短歌輪講
 
(3) 萬葉集卷二より
 
          ○
       皇后(磐之媛)の天皇を思ばして御作歌四首
    君が行《ゆき》けながくなりぬ山尋ね迎へか行かむ待ちにか待たむ
 皇后の半面には理義正しく嚴格なる思想が横はつて居た樣に思ふ。八田皇女のことにしても之を納れることを拒まれたのは單なる嫉妬からでもない樣である。天皇の同意を乞はれたに對する御答歌の「衣こそ二重もよき小夜床を並べむ君はかしこきろかも」に現れた情操の締つて居る所を見ても、又一方では、速總別王討伐の將山部大楯連が王の妃女鳥王の死骸の手に纏かれたる玉釧を取つてその妻に與へた事件に現れたる皇后のヒユマニチーに對する敏感なるを見ても、殊に八田皇女入内後、筒城の宮に籠られたる樣子にしても、この感を深くする。それで居ながら他半面にはこの四首のやうな女性の優しさの現れた哀音切なる歌を詠んで居られる。かう思ふと皇后の思想生活は天皇に對する熱情(4)を屡々悲しい矛盾に陷れたとも思へる。但背の天皇の多感多情はその尊い詩人的性質の一面の現れであつた。
 
          ○
    かくばかり戀ひつつあらずは高山の磐根し枕《ま》きて死なましものを
 僕にはこの歌は、「夜の思想感情」が何處かにしのび入つて居る歌だと感じられたのである。それは一首全體が割合に誇張された感じを歌つたやうで居ながらしんみりとする所があり、同時にほろりとなり相な作者の感情も見える故である。で、この一首は夜に作られた歌のやうにも思はれ、吾々も夜燈の下に誦したならばその歌の思想感情をよく感得される樣である。其處に白日の堅實な理知に受入れられぬ所と、又それには到底解し得られぬ所がある。「高山の磐根し枕《ま》きて」などと言ふ句なども左樣にして解すると作者の心根がわかると思ふ。實は僕はこの句に不審を抱いたから、作歌當時の心理について考へて見て斯樣に解したのである。而して、これも漫然と「高山」と詠まれたのでなく、之を筒城の宮にこもられた後の夜歌と見て、その宮居地の山城の黒い夜の山脈のことを思ひ浮べたい。夫れから「死なましものを」と言つたこの「ものを」に注意したい。
 
          ○
    在りつつも君をば待たむうち靡くわが黒髪に霜のおくまでに
(5) 別に言ふことなし。ただ黒髪の枕詞に「ぬばたまの」と言ふを用ひず「うち靡く」と用ひてあるのは注目される。而して第四第五句は現代の僕等ならば如何なる表現を用ひるであらうかと思つた。
 
          ○
    秋の田の穗の上《へ》に霧《き》らふ朝がすみいづべの方に吾が戀ひやまむ
 今は博文館の日本歌學全書本の萬葉集と、略解によりてこの歌を解する外の便宜もない故、詳しい考證は諸君に依頼して、僕だけの見解を記して置かう。
 (一) 第四句の「何時邊」の訓み方には説があるやうであるが、略解には「いづべ」と訓ませ、古義には「いづへ」と訓ましてある相である。「いづへ」と訓むか「いづべ」とするかが一寸問題であるが、今は現代の僕等に親みのある「いづべ」と訓んで置きたいと思ふ。字意は「何れの方に」と言ふ意味。
 (二) 「我戀將息《ワガコヒヤマム》」の戀は略解では名詞として解せられて居るが僕は動詞として解したい。何となれば、之を名詞と解するは動詞として解するよりも四句「いづべの方」と言ふ句に如何にもより多く方角を指示される樣な饗を與へられ、從て、一種の視覺的聯想を誘起し易く、而も戀は無形な精神的事實であるだけにこの聯想が不自然になり易いと感ずるが故である。乃ち又、動詞と解するが第四句に感情の饗を切實に誘入彈響せしむる所以であると思ふのである。
(6) (三) 「きらふ」は「きる」の延べである。この場合、朝の水蒸氣が立ち滿ちて動搖して居る態を言つたのである。略解には「くもりを言ひて用の語也」とある。
 (四) この歌も矢張り、天皇に別れて皇后が筒城の宮に獨りこもられた時の歌であるやうに思ふ。それは一首の中に儚い皇后の嘆聲が籠つて居るが故に然思ふのである。而してその嘆聲は非常に切實に僕等の胸に響く。それは上三句がしつくりと官能的に觸れて來るのと、又その官能性質は、何處かに寂しみもあるが主としてほんのりと温いものであるのが、下句の惨い(いづべの方等と言ふ)主觀の而して遣瀬ない(吾が戀ひやまむと言ふ)情緒の動亂を一層痛切なるものに浮き出さしめたからであると思ふ。
 朝の目醒――苦悩に疲れた精神が眠によつて癒され心の表面が掃き清められて爽かな時には吾々の心には生活の本能よりしても、事物の明るい快い方面とか記憶では愉快なるものとかが起り易く、又それは新鮮なる面目で現れて來る。或は又外物の刺戟に對しても感じ易いやうである。この吾人の經驗は此一首の官能に託しての皇后のほのぼのと明るい温い方面の戀情によく同感し得られるのである。秋の黄ばんだやや寂しい稻田のいろ、其の上に朧に蠢いて居る一面の霧、そこにぽうと日の匂ひが漂つて居る。明るい温い氣持ではあるが、悩しい捉へがたい心。それを自分の戀情と融合せしめて而して「いづべの方に吾が戀ひやまむ」と無限に嘆いて居るから堪へられなく切實なのである。下二句の(7)悲しい矛盾の事實よりの咏嘆が如何に生きて居るかを味ひたい。「いづべ」と續けた所の味も深く味ひたい。この歌は四首中一ばん現代の人に廣く解せられるかと思ふ。(大正三年六月「アララギ」第七卷弟五號)
 
          ○
       大津皇子《おほつのみこ》の伊勢神宮に竊び下りて上ります時、大伯皇女《おほくのひめみこ》の詠みませる御歌二首
    わが背子を大和へやるとさ夜更けて曉露《あかときつゆ》に吾が立ち霑《ぬ》れし
 一首の大意及び單語には特別に難解な所はないと思ふが、念の爲に略解をすると「背子」と言ふのは爰では、御弟大津皇子を指された語である。仁賢紀に「古者不v言2兄弟長幼1、女以v男稱v兄《セ》、男以v女稱v妹《イモ》」とある。「大和」は天武帝の宮都明日香清御原を指されたのであらうけれど夫れはどうでも好い。
 ただ、疑問は第三四句の解釋にある。それは此の二句の「さ夜更け」と「曉露」との句を繼續せる時間の觀念を以て解するか否かである。結局《つまり》、この當夜、時間の經過に伴うて皇女の感情の移變の工合を思ひ見たり、又は二人の御姉弟の別離の状況を想起したりする類の聯憩の手懸りとなる樣に此の二句を解するか否かである。從て又、この二句に深妙複雜の味を感ずるか、と言ふことにも通ふ。所でこの二句の意味では明に時間上の差異があるが日常の用語上よく漠然として取り扱はれ又左樣に受(8)入れられ易いし、時には二者を單純に重言葉の如く混用もされる樣でもある故一寸問題にして考へて見たのである。併し失張此の場合僕は時間の經過を心に印しつつこの歌を味ひたい。次に「霑れし」は或本には「霑れぬ」とあるが、之は前者を採りたいと思ふ。理由はこの方が連體言で止めてあつて後に何かの文句の續くべきことを要求して居るのが殊にこの場合――即ち感情を露に直接に表現して居ない場合に――適切であると感ずる故である。
 次にこの歌は「二人行けど行きすぎ難き秋山を云々」の歌と連作體になつて居る歌であつて、古義も略解も其の他の多くの本デも、大津皇子が御謀反の志を抱いて伊勢神宮に祈念に下られ、一方御同母姉大伯皇女にも面會してその志を竊に告げられた折の御歌であらうと言つて居る。蓋しこの推度は當つて居る樣に思ふし、かう言ふことを心に貯へて居て一首を自由に味ふと謂ひ難き感慨に耽ることが出來る故作歌にその背景を與へる爲に、簡略なる兩皇子女の事蹟を附記して置かう。
 大伯皇女も大津皇子も共に大田皇女(天武帝の妃であつて帝の皇后には姉に當らせられる)の御生子である。大伯皇女は齊明帝の七年正月百濟を援助に御征西の時備前國邑久郡|於保久《おほく》の郷の海で船中に御出生あつて乃ち其の海の名を以て名とされたと言ふ。また大津皇子の御出生は天智の二年で皇女との年齡の差は三歳になる。御兩人は唯一の御同母姉弟で、天武帝には他に大田皇女の御二人の妹皇女に當る廣野姫(持統)大江皇女の御腹に出られた多くの皇子女が居られる。而して懷風藻には天武帝が(9)その死後に皇子達の相反噛せむを慮られて六皇子に友愛を盟はさしめられた記事が載つて居る。大津皇子が新羅僧行心の「皇子は人臣の相で無い。人臣として居らるる以上は身命危し」と言ふ觀相に動かされて御叛謀を企て事の發覺したのは持統帝の朱鳥元年十月御年二十四歳の時である。又この時は大伯皇女は伊勢神宮の齋宮に居られて二十七歳の未通女《をとめ》で居られた。この事柄は、即ち皇女が其の頃の男女の情の早熟なる時代に於て、十四歳と云ふに齋宮にたちて女盛《めざかり》を過されたと言ふ事は、大津皇子と唯一の御同母姉弟で居られたことに關聯して甚だ興味を引く。蓋し皇女の歌は萬葉集中他に四首あるが、何れも大津皇子に對する切實なる友愛の情を詠まれたもので皆秀歌である。一生異性を禁斷して身を潔く神仕へせねばならぬ處女の生活には、その物戀しく若やぐ胸を寄するを許された唯一の男子はこの弟皇子であつたことを思ひたい。因に皇女は大津皇子御賜死の翌年齋宮から召還されて文武帝大寶元年十二月薨去された。而して次手だから今に殘れる限りの皇女の短歌を記して置かう。
    神風の伊勢の國にも有らましを何しか來けむ君もまさなくに
    見まく欲り吾がする君もあらなくに何しか來けむ馬疲るるに (大津皇子薨後伊勢より御上京の時)
    現身《うつそみ》の人なる我や明日よりは二上山を吾が背と吾が見む
    磯の上に生ふる馬醉木を手折らめど見すべき君が在すと言はなくに (大津皇子をこ上山に移葬せる時〕
(10) 尚曰ふ。今解釋した歌と次の一首と相俟ちて考ふるに皇女は曉も露しつとりと降り切つた道を程遠く一所に皇子を送つて行かれたやうな氣がする。
          ○
    二人ゆけど行き過ぎがたき秋山をいかでか君がひとり越えなむ
 千樫の「いかにか君が獨越ゆらむ」といふ同君の考證を聞いて居ると尤もの樣にも思へる。明治十九年出版の和本橋本直香と云ふ人の萬葉私抄には同樣に訓んで居る。然し僕はこの句を反語の樣に解して味つてはと思つた。即ち訓方に於ては眞淵、雅澄等に從ふのであるが、意味は反語の意に解して「越えなむや」の「や」が略されて居ると見るのである。かうすると千樫の解意に尚別な意味をも含ませることになるであらう。此の場合この歌に餘計な意味を含ませる樣な訓方に從ふが厭味か否かであるが、「二人ゆけど行き過ぎがたき秋山を」といふ上句の工合から、又この歌の前書からして、この歌には普通の別離の情以外の何か重大な感情の潜めるやうな解し方に從つても無理がない樣にも思はれる。而して之をただの別離の情を詠まれたものとすると、僕には上句の言ひ表し方が少し大袈裟に響く。僕はこの上句が非常に面白いと思ふ。一面には殆ど戀に似たる色合の感情が含まれて居る。又一面には危殆から人を愛護するやうな一種の感情がしみじみと窺はれる樣に思へる。但し僕に斯樣に取れたのは兩皇子女の史實が先入主になつて居る所があるかも知れぬ。尚よく考へて見たい。
 
(11)        ○
       大津皇子の石川郎女に贈り給へる御歌一首
    あしびきの山のしづくに妹まつと吾《あ》がたちぬれぬ山のしつくに
 「わが」の訓み方に就いては僕には別に意見はないが「ぬ」を「し」と訓むには賛成出來ぬ。音調に對する感じから云ふのである。此贈答歌に現れた二人の情交の樣子と云ひ、又、二人の情事が津守の占によりて發覺された時、皇子が氣張つた稚い態度で詠まれた歌などで見ると、皇子程の人も石川郎女には戀の指南をされて居られる樣な感がする。蓋し、皇子の性行に就いては懷風藻に「状貌魁梧、器宇峻遠、幼年好v學、博覽而能屬v文、及v壯愛v武、多力而能撃v劔、性頗放蕩、不v拘2法度1、降v節禮v士、由v是人多附託」と云つて居る程である。尚餘言ながら其の辭世の歌を擧げて置く。
    もも傳ふ磐余《いはれ》の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲がくりなむ
悲痛な音聲中に何處となく王者の、自負と意氣をきく樣ではないか。
          ○
       石川郎女が和へ奉れる歌一首
    吾《あ》を待つと君が沾《ぬ》れけむ足引の山の雫にならましものを
 萬葉集中に散見して居る石川郎女が同名異人であるか、同名同人であるかは不明の問題であるとし(12)ても、之が同じ卷二の大伴宿禰|宿奈麻呂《すくなまろ》に戀歌を贈つた石川郎女であつて大津皇子の侍女であつた事は明記の事實であり、又同じく卷二で大津皇子の異腹豈草壁皇子から婚《よばは》れた石川郎女で、同時に大伴田主に自媒して撥ね付けられた同名同人であると云ふことを想像するは、時代及びその歌ぶりよりして左樣に無謀な推測でもあるまいと思ふ。然しこれも別に詮議の用がないとして、石川郎女別に大名兒又は山田郎女と註した歌もあるが、二人別人か二人同人かの問題は大抵の書物は異人としてある。中には石川郎女は遊行婦女《うかれめ》だと云つて、次に大津皇子「大船の津守が占にのらむとはまさしに知りて我がふたり寢し」の歌を「遊行婦女などの卑しき者に通はんは人聞もよからねば竊かにし玉へど云々」と解して居るものさへある(萬葉私抄)。兎に角何れにしても其の歌から推して考へると、一寸男を翻弄して見さうな女で、萬葉集中の女性では類の變つた女である。大津皇子との贈答の戀歌振を見ても、戀の道では皇子よりも遙かに上手《うはて》に出てゐる。そんな意味でもこの歌は面白い。(大正三年七月「アララギ」第七卷節六號)
 
          ○
       三方沙彌《みかたのさみ》が園臣生羽《そののおみいくは》の女に娶《あ》ひて幾時《いくだ》もあらねば、病に臥せる時の歌
    たけばぬれたかねばながき妹が髪この頃見ぬに掻入《かき》れつらむか
 「たけばぬれ」は「綰ねて結べば髪自らぬるぬると解け」と云ふ意。「掻入れ」は「掻き入れる」(13)にて「髪上げして結ぶ」こと。この歌は詞書にもある通り三方沙彌が園臣生羽の女を娶り間もなく病臥してから後、女に贈つた歌であるが、表面は「その頃はまだ髪も短くてよく結ばれない程の童女であつたが、かう自分が病んで久しく見ないで居る内には、さぞ大きくなつて今は立派に髪も結んで居るであらう」と云つて居るが、實は女の其の後の消息に不安を感じて作つた歌である。
 然しその不安も強い程度のものでもない樣である。それは生ひ整はぬ髪のさまなどを云つてまだ乳臭いほどの女のいはけなさを思ひ遣つて居るからである。作者が生羽の女を娶つたと云ふのも、實際新膚に觸れたほどの完全の結婚であつたか、或は單純なる婚姻の豫約に過ぎなかつたかは疑問である。
 若し前者としたら今少しこの髪の歌にも官能の匂ひが現れて出さうなものである。卷十六に
    橘の寺の長屋にわが率宿《ゐね》し垂髫放《うなゐはな》りは髪上げつらむか
と云ふのがある。一寸類似した歌であるが事柄は反對の歌である。事實上の興味も引くし、又歌としても、男女情事に可成なれた男が、やや年經た昔の、しかも生々しい女のことを思ひ出して、追憶の懷しさとその哀愁に胸の溢るる心根がよく現れて好い歌である。「髪上げつらむか」がここでは、「あが女も大きくなつたであらう」と云ふ程であるが、三方沙彌の歌のそれは「他の男にゆきはすまいか」と云ふ意になつて居る。比較のためにこの歌を擧げで置く。(大正三年八月「アララギ」弟七卷第七號)
 
(14) 萬葉集卷三より
 
          ○
       柿本朝臣人麻呂が※[羈の馬が奇]旅の歌(八首中三首)
    あはぢの野島の埼の濱かぜに妹が結べる紐ふきかへす
 家郷の戀しさを詠んだ歌である。「はげしき濱風に吹かれてもの心ぼそく愈々家の妹が戀しく思ひ出らるるに云々」と如何にも濱風は寒くて曇つた日の風であるかのやうに古義では解して居るが、自分には朗らかな暖い日の岬を廻る輕い濱かぜに舟行してゐる時の心持のやうに思へる。「妹が結べる紐ふきかへす」とは官能的に心をそそるやうな言葉である。「結べる」と現實的に「紐」と官能上の聯想を誘はする物を指呼したる點。「濱かぜに」と云ふ「に」の破格はこの場合、濱風に和み親しむ感を起させること。風に吹かれて居るは單に紐ばかりでなくて身體全體のやうな氣がすること。「古は凡て夫の紐はその妻の結《ゆ》ひもし解きもせし習慣なること知られたり」(古義)とある。この歌は調子(15)も好いし、それに材料の取扱ひ方が絶妙で、大變に勝れた歌になつて居る。
 
          ○
    あらたへの藤江の浦にすずき釣る白水郎《あま》とか見らむ旅行くわれを
 この人麿の※[羈の馬が奇]旅歌八首は旅情と云ふ情調を基底とせる一の連作として味ふべきであらうが、その間にも船路で西下する途次の歌と更に上洛する途次の歌とは自ら區別して理解せられねばならぬ。而して歌の配列の順序から、歌意夫自身から、歌中の地名の地理上の關係から云ふと、最初の六首は西下の途次の歌、最後の二首は更に歸洛する途次の歌と、かう見るべきであらう。尚眞淵はこの八首に就て「京へのぼる時を後にして、其の下るを前にあるは、かの筑紫へ下府にて、やがてまたのぼる時の同じ度なればなるべし、石見國の任の時ならば、上るを先に有べきなり、」と云つて人麿が石見國在任の時の上下の途次の歌でないとして居る。それにしても當時の西國航路は何う云ふ順路に依つたものであらうか。この連作で見ると人麿の船は難波攝津の浦々崎々を過ぎて淡路の奴島に立寄り、それから播州明石郡葛江郷(布知江《ふぢえ》)の浦に漕ぎ出た時にこの歌情に接したのであらう。布知江は當時盛なる漁業場であつたと見えて、山部赤人の長歌及其の反歌(卷六)にも「稻見野の大海のはらの、あらたへの、藤江の浦に、しび釣ると海人《あま》船さわぎ、云々」又は「沖つなみ邊なみしづけみ漁りすと藤江の浦に船ぞ騷げる」等とある。而して云ふ迄もなく此處は都に遠からぬ淡路を控へた靜な美しい内海であるし、(16)又後出の歌に現れて明らかなる如く、當時ここらの海が畿内と別るる關門であると云ふ強い感を與へる所であつたとすれば、これを會得してこの一首の情を味ふと吏に渾然と吾等の心に自ら融け入り來るある物のあるを覺ゆるのである。
 それはともあれ、この歌の一見上の特長は勿論行く旅の心細さは歌の底深くから反省的に切實なる聲を發して居るが、寧ろ直接には悠揚として然も強く眼前の光景に戀著してゐる感情が主調となつて居ると思へることである。第一二三四句が一見如何にこの浦江の光景を如實に描寫せむとする外他意なきが如く、然も調子に於てゆつくりとたるみなく押して來る一本調子なることが然らしめて居る。更に細かく分解して考察すれば、第一何故に人麿は漁獵の魚類を特に指示したのであらう。この歌の左註に一本云として「しろたへの藤江の浦にいさりする」とあるが、この場合いさりすると云ふ語が音調と意味とに於て「すずき釣る」としたに比して如何になまぬるいかは注意すべきである。前に引用した赤人の長歌には「藤江の浦に鮪つると」としてあるに、人麿はここで鱸の名を選んでゐる譯は兩者ともこの地の代表的産魚として選んだのであらうか。或はその折の實際を記して季を示したのであらうか。鱸は冬期は河より海に、夏は海より河に移住する魚で、古事記には「たく繩の千尋なは打ち延べて釣する海人が大口の尾ひれすずき」等とある程で、我國には古代から知られて居たものである。又人麿の任國、生國とも稱せらるる石見國が有名なる鱸の産地松江に隣するが故に人麿に親しい(17)聯想を起さしたからだとも想像出來るが餘りに詮索にすぎるかも知れない。第二に注意すべきは「荒栲」と云ふ枕詞の價値である。「荒栲」は「和布《にぎたへ》」とならべて麁なる布類を稱し、藤の皮で布を織るゆゑに「ふぢ」の枕詞に用ひられて居る。從てこの場合甚だ無意味なる詞であるが、それが却つて地名の唐突に又は重く響くことを防いで一首の落著を助けて居る。この歌では一首の上に於て主格が略されて居るゆゑ、之に應じて、この歌の中心なる第四第五句に十分の重味を持たせるためには、地名は唐突であり重くあつては不可である。次に第四句「か」の疑問助辭の位置も注意を引く。「海人と見らむか」と明瞭に且詠み下しよく云ひ去らずに「鱸釣る」と言ひ縮めたる第三句をば承け易くかく「白水郎とか」「見らむ」と二語に分けてある。又「白水郎跡か見らむ」は勿論「白水郎香と見らむ」とは自ら語意に少差がある。かう思つてこの歌を誦すると第四第五句に言ひ知れぬ趣を感ずる。又第五句と第四句の位置を轉換さした點の味深きはこの歌の生命となつて居る。
 要するにこの歌は「鱸釣る」で一寸吾々の理解を驚かす外總じては人麿の他の歌と同じく調子に於て勝れた佳い歌と見るべきである。人麿は勿論、布知江の浦に亂れ浮ぶ漁舟の中を通りつつ強く感じた旅情を「旅行く吾を海人と見るらむか」と云ふ風に表はしたが、かう云ふ感じ方は漢文學の影響から來たものであらうか。
 
          ○
(18)    飼飯《けひ》のうみの庭よくあらし刈薦のみだれ出づみゆ海人《あま》のつり舟
 「飼飯」は「笥飯」の誤で之を越前國敦賀郡にある笥飯に當るべきやうに契沖が疑説を挿んでゐる。尤も左註に一本曰として「武庫の海の船にはあらし漁りする海人の釣船なみの上ゆ見ゆ」と云ふ歌が別に記載されて居るにも留意しなければならぬ。自分は古義に從つてこれを淡路の飼飯野の海と見るべきであると思ふ。(古義には誤字でない實證と用例とを擧げて居る。)「庭よくあらし」は「波濤の和ぎて海上平かなるを庭とも庭好しとも云ふ」とある。「あらし」はあるらしの略。「刈薦の」は「亂る」の枕詞。
 却説、この歌は人麿が務を了へて京に歸還する途次の歌なのであらうが、其の自ら湧き出づる思想の悠久にして快調を帶びたる、飼飯の光景の活躍して而も重厚なる感情を歌詞の底に持つて居る點は尊いとせねばならぬ。勿論「庭よくあらし」と云ふ言葉などは現代の吾等には最も直接な言葉ではないけれども、第一句「飼飯の海の」と云ふ、ゆつたりとした字餘の句を受けて下第四五の主要句に相應すべく、音調に於て輕快に、言語の構成に於ては言ひ縮め、意味に於ては漠然たれども而も主觀の閃を見する想像の句(あらしと云ふ)を用ひて居る點、また直ちに海靜かにして波和ぎたる樣を云はずに、間接に之を現すに「庭」と云ふを用ひて居るが、この場合何れほど穩當にして有效なるかと云ふ點、之等に深く考へを潜むる時は、この語句を直に死語なり古典的なりなどと貶し去ることは出來ま(19)い。よく現代語のみが直ちに吾等の感情に溌刺と藝術的に響くものと斷定する人々があるやうであるが、それは云ふ迄もなく愚である。我國語の獨特の性質に根ざして古い歴史的の形式を保つて居る短歌に於ては尚更言語に古今の差別を容易に付くべからざるべきである。極論すれば自分は又今の歌壇は萬葉集時代の所謂古語の影響をまだ十分に受けて好いと思つて居る。同じ意味に於て枕詞に就いても吾々は深い考究を遂げて見たいものである。ここの「刈薦の」と云ふ枕詞にしても前後の句に照應してよくその語息を調へて居るし、從て又第四句「みだれ出づみゆ」と云ふを如何にも自然に鮮かに流出せしめて居る。歌全體に對しては無意味にして、ただ被枕詞に對して僅か許り有意味なるこの不即不離にして曖昧なる詞の位置が、歌全體に隱微にして重要なる働をなして居る妙諦を味ふべきである。
 次に云ふ迄もなく一首の主眼は第四第五句であるが、以上解説せる如く上三句の自然にして周到なる用意と其の潜在的勢力の下句に於ける發露とを注目すべきである。「みだれ出づみゆ」如何にその光景の活躍すると共に作者の喜が強く震ひ出て居るかを見よ。而して「海人のつり舟」でその感情が如何に悠久にして荘重に押へられて居るかをも見よ。名詞止めの手法もこれ程豐かな感情を含蓄して居らねば嘘である。その他地名と一首との關係。その地に關する豫備知識なくとも一首は十分に味はれること。淡路の平靜にして日光の明るき海を思ひ浮べて見ること。固有名詞の短歌に於ける效果。(20)一本曰「武庫の海云々」の歌よりはこの歌面白きこと。其他。(十月十四日)(大正三年十一月「アララギ」第七卷弟十號)
 
          ○
       鴨君足人《かものきみたりひと》が香具山の歌の反歌
    人|榜《こ》がずあらくも著《しる》し潜《かづき》す鴛鴦《をし》と※[爾+鳥]《たかべ》と船の上《へ》に住む
 長歌では先づ春風駘蕩たる埴安の池の光景を歌ひ次にその中に昔宮人が出遊して居た舟のみがしよんぼりと梶棹も無く殘つて居ると悲しんでゐる。而して更にその嘆きを折り返してこの短歌で詠んでゐるのである。何處かに漢詩の趣がある。「鴛鴦と※[爾+鳥]と」かう特に二つ並べて云つたのは、如何なる氣持からであらう。尤も高市皇子薨去と云ふ事實が背後にあることはある。作者鴨君足人は傳未詳の人である。
 
          ○
       柿本朝臣人麿が近江國より上來《まゐのぼ》る時、宇治河の邊《ほとり》に至りて詠める歌一首
    もののふの八十氏河《やそうぢかは》の網代木《あじろき》にいさよふ波の行くへ知らずも
 別歌に於ても云つてあるがこの歌は人麿が近江朝の興廢に就いて深く感動しながら大津からの歸路に出來たものである。この歌にこれだけの背景あることを胸に置いて味ひたい。
 
(21)        ○
       柿本朝臣人麿が歌一首
    淡海《あふみ》の海《み》夕浪千鳥|汝《な》が鳴けば情《こころ》もしぬに古《いにしへ》思ほゆ
 人麿の近江廢都を悲しむ歌にはこの他卷一にかの有名なる長歌と短歌二首とがある。尚前出の「もののふの八十宇治河のあじろ木に」の歌も近江より歸洛の途次の宇治河邊の歌であるのを見ても、人麿が如何に近江朝の興廢に就いて深く感慨に堪へずに居たかが解る。云ふ迄もなく近江朝は當時は有史來の大改新の洪謨が行はれたる宮廷であつたが、今日其の遷都の眞因に就いて史上の疑問もある。而して其れは間もなく壬申の亂大海人皇子の奪位によつて永く荒廢に歸することになつて了つたのである。この事に就いて故左翁は額田女王に對する天智帝と大海人皇子との戀愛の競爭關係を敍説した條に左の如く書いて居る。(「アララギ」第三卷第一號)
 「柿本の人麿は近江の朝廷を去ること僅かに數十年であるのに猶人麿が大津の宮趾を悲むの歌には、『如何さまにおもほしけめか』云々とあるのであつて、天智帝が中年にして俄かに近江に遷都せられたるは、當時に於て既に其理由を疑はれたることは其人麿の歌に見ても知ることが出來る。予は早くより大津遷都の深因は詩聖女王の一身に關係あるにあらずやと思へり。云々」
 翁の深因と云へる點の正否は別として兎に角近江朝の運命と、それを中心としての時勢の推移とに(22)對してこの當代の歌聖が深く心を引かれたと云ふことは又興味ある事柄である。其の卷一の長歌並に短歌で人麿は如何にも堂々たる態度で近江廢都を傷んで居るが故に何處となく時代批評家の嚴正な面影が偲ばれるに比して、この短歌では批判の混らない人磨個人の懷舊の感情が沈痛に現れてゐるが故に所謂純詩人的な所がある。
 尚分解的に考へて注目すべき點は(1)同音の疊用が作る語調。(2)第一句の名詞切れ、大きく歌の全舞臺を點出してゐること。第二句は之を承けて細景を敍し、更に第三句が之を受けて、より細かにより特定的に「汝が鳴けば」と深く強く叫んでゐて、其の間休止をゆるさざる句法。(3)上二句の急迫して而も窮絶せむとする感情を、第四句及び第三句、「鳴けば」の助詞とによりて展開の道を與へ、以下沈痛を保ちながら染々と正述心緒の手法を取り居れること。(4)「夕浪千鳥」と言ひ略したるは何でもない樣な事ながら、景物に對する敏感を思はしむること等である。
 
          ○
       長屋王の故郷の歌一首
    吾が背子が古家《ふるへ》の里の飛鳥《あすか》には千鳥啼くなり君待ちかねて
 長屋王は天武帝の御孫、高市皇子の御子である。佐保大臣と號せられて重用された人であるが、紀には左道を學んで陰謀を企てたために遂に誅殺されたと書いてある。然し懷風藻では讒言により此の(23)運命に陷つたやうに云つてある。何れにしても當時の權力爭ひに捲きこまれて平穩な死は遂げられなかつた人であらう。この歌は天武帝の明日香朝が持統帝の藤原遷都となつた後に、長屋王ひとりが故郷に歸られた時、新都の近親朋輩にあてて贈られた歌である。「吾が背子」と「君待ちかねて」の君とは同一人格で、かう第一句と第五句で對話者を特に親しく呼び重ねた所に何かの嗾唆約口吻が見えぬのではないが、それよりも強く深く沁みる情緒は、長屋王が故郷と朋輩とに對する愛著と同情との心である。「古家の里」とは其の對話者の舊邸のあつた里である。千鳥もなくと云ふのであるから寂しい川瀬の音も聞えるのであらう。長屋王は深く弧獨の心に堪へられなく昔と友とがこほしくなつたことであらう。一首の上にそれが染々と同感される。或は長屋王は一面非常に深く優しい方であつたのではないかとも思へる。この歌にしても内容はただ「故郷の夜に千鳥が啼く、君達は再びこの地に歸らないだらうが千鳥は昔の通りに悲しく戀し相な聲で啼いてゐる」と云ふ感傷的な陳腐な言種に過ぎないのであるが、僕には何處となく心の底まで動かされる。尤も、それは今この解を書きながら、あの靜かな故里の峽の夜を思つてゐる故かも知れない。日が暮れると峽は全く暗くなつて霜夜の空氣も凍る音が聞える程靜かになる。僕の故家には温くなつかしく灯が點る。そこに一家のもの、親族のものが集つて古臭い日常の些事を話してゐることであらう。近頃の寒夜だから定めし裏の小川は水も乏しく瀬音も落ちて、千鳥の聲も冴えて來てゐることであらう。さう思ふと僕にはこの歌は堪へがたく(24)なつかしい一面を持つてゐるのが解る。殊にこんな夜などは故里からこの歌のやうな氣持の音信があつても好さ相なものだと思ふ。次に國語では單數と複數の區別が嚴重に使用されて居ないからこの歌も明かには云へぬが、僕には「吾が背子」と云ひ「君」と云ひ、長屋王が直接に呼びかけた對話者は特定の一人であるにしても、其の心の中での對話者は決して單數ではなかつた樣に思ふのである。長屋王もこの歌をある多數に云ひかける氣であつたに相違ない。兎に角、斯う考へるのがこの場合の情感には漆合する解釋であらう。
 又、この一首は前の人麿の「淡海の海ゆふ浪千鳥汝が鳴けば云々」の歌と似て、同じく廢都の懷古の歌であり、千鳥と云ふ景物が點出されてはゐるが、其の内容の感情の質に至つては大に異つてゐることがわかる。對話者の現存して居ること、土地と作者との最も密接なる關係あることに依つて、この歌の方が遙かに現實人の温い情が流れてゐる。(二十二日夜)(大正三年十二月「アララギ」第七卷第十一號)
 
          ○
       高市連黒人《たけちのむらじくろひと》が※[覊の馬が奇]旅の歌(八首中三首)
    旅にして物|戀《こほ》しきに山下の赤《あけ》のそほ船沖に榜《こ》ぐ見ゆ                  
 「赤《あけ》のそほ船」は赭土舟《そほに》で赤く塗つた船の事で、當時すでにこの彩色で官船は私船と分別されて居
(25)たと云ふ。併しこの事は知らなくとも好い。この歌では船の色を點出されただけで十分吾々には面白い。悦ばしい赤色の感覺は如何に永い寂しい旅の物戀しい情《こころ》を、滿足せしめるかが解り得るからである。
 一寸した事だが此處で黒人は「旅にして物寂しきに」とは云はなかつた。朱船が官船であることを知れば當時の交通状態などに關する一種の聯想を呼び起す便宜がある。又ここでもこの朱塗船が都の方へでも歸る船であらう位な想像はつく。從て、作家の中心深く入り得られ、又新なる背景をこの歌に展いて味ひ得られる所がある。兎に角この歌は旅情と船の色彩の點出配合の工合が成功して佳い歌となつて居るのである。併し仔細に寫實に明瞭を欲して檢察して見ると何處かに變な所がある。宣長は「山下」を「赤」の枕詞と引證論斷して居る。すると「奧にこぐ」の「に」は素直に普通の用例通り動作の移り渡る位置に解した方が穩當であらう。宣長は左樣にして居ない。加之「山下」を枕詞に解すれば、前後の句に對して餘りに有意味語らしく響き過ぎて一首を味ふ心持が惑亂される。されば眞淵に從つて之を其の儘通りの意に解し(眞淵はやまもとのと訓んで居る。)「奧にこぐ」を「磯山もとよりさる船を漕ぎ出で沖へ行くは都方の船ならむ」と「に」を其の稀用例の方向を示す語と解した方が穩當である上に敍景の印象も明かになつて好いであらう。ただ山海の青と船の赤と旅情と三つの感覺感情が一つの調和を作れば好いのである。作者の黒人の傳は萬葉集に散見する歌で判ずる他正傳が殘つて居ない。
 
(26)        ○
    櫻田へ鶴《たづ》鳴きわた−る年魚市潟《あゆちがた》潮干にけらし鶴《たづ》鳴き渡る
 「桜田」は尾張國愛智郡|作良《さくら》の一帶に連る田野のことで「年魚市瀉《あゆちがた》」は同所の愛智の海潟である。「ここから海は見えない。併し平野の向うに遠く作良一帶の郷が見えて居る。今その田の方へ空高く鶴が鳴きながら渡つて居る。愛智潟に潮が干たらしい。今その潟の方から鶴の一群が聲高く作良田へ飛んで行つてゐる。」歌はただかう云つただけである。それに關らず調子が甚だ高い。何だか自分も鳴き渡る鶴の聲を追うて作良の方向へ足を急がねはならぬ氣がする歌である。而して作良の空へ飛んでゐる白い鶴の群からは目を離し得られない。若しその作良の郷に行き著いたならばそこから沖に愛智の干潟が遠く佗しく續いて見えることであらう。萬葉集卷七には「あゆち潟潮干にけらし知多の浦に朝こぐ舟も沖による見ゆ」と云ふ歌がある。
 云ふ迄もなくこの歌では「鶴鳴きわたる」の句の反復が一首の風調を作つて居る。古義では結句を「鳴き鶴わたる」と一寸變じて繰返して居る。何れが佳いかは勘考して見たい。眞淵などの訓に從へば、一首の訓が朗々とする。又手法としても素直である。單純にして妙味あるを欲する心ではこれを取りたい。併し、古義の方に從へば、第四句と第五句との間に、調子は窮屈になるが稍々複雜な氣持が出て來る。「鳴き」の響が強くなるために鶴の聲が少し前より多く心を引くやうになる。又この歌(27)にしても、嚴密に調べれば、鶴の渡る方向と作良と愛智潟と作者の地位との關係に十分判然としない所がないでもない。併し短歌は散文よりも寫實的明確を要求さるるに寛大なるべきである。殊にかう格調を以て一首の生命を傳へて居る歌に於ては尚更であるべきである。佳い歌である。
   編者註。「鳴き鶴わたる」とせるは活字本古義の誤植なり。
 
          ○
    妹も我れも一つなれかも三河なる二見の道ゆ別れかねつる
 黒人が三河の任をはたして歸る途中に妻と離れて別な道を取る時に與へた歌である。ここの八首で見ると黒人は近江路へ廻り山城攝津を經て大和の都に歸つて居るやうである。さすれば其の妻は三河から直路を大和に歸つたのであらう。歌は第四第五句が主眼である。「ここまでは一所に來たのに此の先道を別々にして歸るのは心寂しい。」と云ふのを第一第二句で少しく變にもぢつたのである。「妹も我れも一つなれかも」は異身同心なぞと云ふ相愛者間のみに通ずる惚《のろ》けた思想である。「なれかも」は「なればかも」である。「一つ」「三河」「二見」などと一首の中に數字をあやなして掛け合して居る。かう一見戯けた厭味つぽい幼稚なことを云つて居ながら尚且何處かに眞情が嚴然と迫つて來る所がある。のみならず普通なら面癢いと感ずべき「妹も我れも云々」と云ふ感想をまでも却つて肯定せしめむとする所がある。理由はその句自身中にもある。「妹も我れも」と感情の副つた言葉を使ひ、たと(28)へば「妹と我と」と云ふが如き單に説明に過ぎぬ言葉を用ひなかつたこと。第二句を響強く結句に相應さして感嘆詞「も」で切つて居ること。之等のために「一つなれかも」と云ふ語の裏からは妹と一所にゐたいと云ふ強い願望が感得される。然し主なる理由は下三句の効果である。而して又この懸詞はこれが歌全體の感情をただ音調上より補足して居るに過ぎないで、巧を作して作者自身が自惚れて居ない所がある。これは平安朝後の歌人と其の態度に於て大分の差異のある點である。兎に角歌詞の彈力に富んでゐることはよくこの一首を理窟的厭味から救つて居る。黒人のこの歌に答へた妻の歌がある。女性の才能と感情とが渾然と胸に沁みるやうに現はれて佳い歌である。黒人のこの歌よりは好いかも知れない。
    三河なる二見の道ゆ別れなば吾が背もあれもひとりかも行かむ(大正四年一月「アララギ」第八卷第一號)
 
          ○
       春日藏首老《かすがのくらびとおゆ》が歌一首
    つぬさはふ磐余《いはれ》も過ぎず泊瀬山《はつせやま》いつかも越えむ夜は更《ふ》けにつつ
 一首が多數の獨立句で成立つて居る所が特徴である。第二句で切れ、第三句が名詞切れ、第四句は又一首の構成上普通ならば結びの句であるべきである。それに第五句が元來ならば非獨立の句である(29)のを獨立さして結句としてある。ここに一首の上に餘韻を生ぜしめて居る。平凡な歌材で居ながら捨難く思はるるのも句法歌詞の成功した故である。
 
          ○
       春日藏首老が歌一首
    燒津邊《やきづへ》に吾が行きしかば駿河なる阿倍《あべ》の市道《いちぢ》に逢ひし兒らはも
 僕には古くからこの歌が何か哀れな懷しい而して悠閑な物語めいた空想をそそるやうな歌として好きな歌であつた。鴎外博士の「山椒太夫」の初めを讀む氣持と一寸似て居る。
 
          ○
       志賀に幸せる時、石上《いそのかみの》卿の詠みたまへる歌一首
    此處《ここ》にして家やもいづく白雲のたなびく山を越えて來にけり
 一首に初秋の旅の朗かなしかし何處か淋しく心の引き締るやうな氣持が出て來る。「白雲のたなびく山」と云つても此處では單に遠いとのみ云ふ意でなく作者が十分季節を顧慮して居る言葉である。
 
          ○
       穗積朝臣老《ほづみのあそみおゆ》が歌一首
    吾が命の眞幸くあらばまたも見む志賀の大津に寄する白波
 
(30) 讀み下して下句が直ちに現に大津の濱に寄せて居る白波の實景を點出しさうな所がある。それが「またも見む」と云ふ願望の非現在的の言葉と調子を合して何だか悲痛になつて居るのではあるまいか。(大正四年二月「アララギ」第八卷第二號)
 
          ○
       間人宿禰大浦《はしひとのすくねおほうら》が初月《みかつき》の歌二首
    天の原ふりさけ見れば白眞弓《しらまゆみ》張りて懸けたり夜路《よみち》は行かむ
 「賊徒妖物などの恐れがない」と云ふ古義の解釋を特に採録して居るのが茂吉らしくて面白い。併しこの歌はさうまで具體的に立ち入つて解釋しないがいい。月が出て居るから心が緊張したのである。「夜路は行かむ」の句にも興がつた所はあるが、この句を殊に左樣に感じさすのは第三第四の句の爲である。月の比喩として此句が吾等に官能的の同感を起さす點が乏しいからである。「初三夜(ノ)月似(タリ)2一張弓(ニ)1」などと云ふ漢文學の影響を不徹底に受けたのであらう、ここに興がつた所がある。句調が緊つて居るのはよい。又「懸れり」と云はず「懸けたり」と積極的に云つて居る所に何等かの暗示がないでもない。
 
          ○
    椋橋《くらはし》の山を高みか夜隱《よこもり》に出《い》で來《く》る月のひかり乏しき
(31) 「ひかり乏しき」は卷九に沙彌女王の歌で「片待ち難き」と變つて他は同じの歌がある。「山を高みか」の意味にはこの方がよく適合すると云ふ同じ態度から(古義)「ひかり乏しき」をも「月遲くいでて見る間すくなく物足らず」と云ふやうに解してゐる。勿論この方が「山を高みか」に對應して解説上理義一貫して居る。雅澄の解釋家的態度も窺はれて面白い。併しこれでは直接に月光の感覺美を通じてこの歌の眞を會得さするには上々の解でない。從て茂吉の「朗光ではない」はこの點でいい。夜隱の暗い山かげ迄を暗示するからである。ただ「乏しき」を「少し」の意に解して居るのはどうか。「光乏しき」を「光|羨《とも》しき」の意に解しては如何。この方が「山を高みか」の句にもよりよく適合しないか。
 
          ○
       小田事《をだのつかふ》が勢の山の歌一首
    眞木の葉の萎《しな》ふ勢の山忍ばずて吾が越え行けば木の葉知りけむ
 措辭の複雜にして而も巧妙なるために幼稚な主觀の「木の葉知りけむ」が厭味でなく且一種のユウモアを添へて居るのであるまいか。木深き山路を一心に時折何か獨語《ひとりご》ちながら急いで居る人の姿が見えるやうである。勿論作者は身邊に葉裏を白く吹き返しながら萎へて居る木々の姿に自ら甘えて居る。
 
          ○
(32)     ※[角の二画目なし]麻呂《ろくのえまろ》が歌 〔四首中二首)
    ひさかたの天《あま》の探女《さぐめ》が石船《いはふね》の泊《は》てし高津《たかつ》は淺《あ》せにけるかも
 一體に〓見麻呂の歌は舌短くして意を達して居る歌がある。而して如何にも吃々として愚鈍に一本調子で自分の感情を押して居る所がある。そこにともすれば固太い面憎さを感じさせ相でないでもない。また一本調子で一生懸命に自分の感情を押して行く結果、行き詰つて途方もなき表現手法を見出して居る。彼の歌には何處か意表に出て人を小馬鹿にして居るやうな點があるのもこの故である。併しよく一旦心を靜めて味へば怒ることも出來なければまたどうする事も出來ぬ強い力を感じる。この歌でも上句の押した出方と下句の受留め方とを對比して見て解ると思ふ。
 
          ○
    風を疾《いた》み沖つ白波高からし海人《あま》の釣船濱に歸りぬ
 よく見る事である。驚いて飛び立つた鳥が飛び去つて了ふかと思ふと急に中途から又ひゆうと元の所に舞ひ歸つて止ることは。初めの合點が後の事實で急に顛覆される、然も吾等はこの事實の前にただ敬恭低頭しなければならない。この歌が恰も僕にはそれであつた。今でも「濱に歸りぬ」の句には驚いて居る。兄麻呂は陰陽師であつた。惠耀と云ふは其の僧名であつた。流刑になつたこともある。兎に角風變りの人であつたやうに思はれる。何時か詳しく書いて見たいと思ふが萬葉集中殘つて居る(33)歌はこの四首しかない。萬葉集歌中の珍品である。
 
          ○
       田口益人《たくちのますひと》大夫が上野國司に任《ま》けらるる時、駿河國淨見埼に至りて詠める歌
    廬原《いほはら》の清見が埼の三保の浦の寛《ゆた》けき見つつもの思ひもなし
 讀下し的に云つてあつて格調を保つていかにも悠閑であるのがいい(大正四年三月「アララギ」第八卷第三號)
 
          ○
       柿本朝臣人麿が筑紫國に下れる時、海路にて詠める歌二首
    なぐはしき稻見の海の沖つ浪千重に隱りぬ大和島根は
 「なぐはしき」と大仰に珍らかに呼びかけて居るのも此の歌では一首の氣持に適うて少しも變でない。眼立たねど又微妙なる味を添へて居る。一首の結構格調の然らしむる所ではあるが、第三句の名詞切れと第四句の照應とで生きて來て居る。
 
          ○
    大君の遠《とほ》のみかどと在《あ》り通《かよ》ふ島門《しまと》を見れば神代し思ほゆ
 「島門」は一々大君の御門として侍座すると云ふのは面白い解である。と同時に吾等ははつきりと(34)之等島門の兩端に東に大和の本朝廷と西に遠く離れて太宰府の支朝のあることを心に浮べてこの歌を味ひたい。この兩都を通ふ途の島々、それを即ち大君の御門と見立て、ここに雄大なる構想と強い領土觀念とが窺はれる。祖先崇拜の莊重なる古代人の感情が十分に現れて居る。
 
          ○
       長忌寸|奧麻呂《おきまろ》が歌一首
    苦しくもふりくる雨か神の埼|狹野《さぬ》のわたりに家もあらなくに
 副詞法の形容詞を冒頭に用ひた歌で、この「苦しくも」など非常に利いて居る例である。「神の埼狹野のわたり」とかう接續地名を二つ並べた所がよく「苦しくも」に相應じて雨に困つて居るやうである。(大正四年四月「アララギ」第八卷第四號)
 
          ○
       門部王《かどべのおほきみ》の東《ひむがし》の市の樹を詠み給へる歌一首
    ひむがしの市《いち》の植木《うゑき》の木垂《こだ》るまで逢はず久しみうべ戀ひにけり
 「木垂るまで」を結實するまでと解するを最初尤もと思つた。「木垂る」の垂るが何となく枝端のある重味を思はせるからである。併し集中の用例に從へばかかる場合を多くは果になるまで等の如く(35)直接に云つて居るやうである。而して卷十四東歌にも「薪こる鎌倉山の木垂木を待つと汝が言はば戀ひつつやあらむ」と云ふに見ても赤彦の説は考究の餘地があると思ふ。尚「逢はず久しみ云云」を比較的短き時間とすれば」ひむがしの市の植木の」等と遙かなる而して概略(植木などと)なる言ひ振りはしないのではあるまいか。この歌第四句で切れ第五句獨立して居る所に注意を拂ひたい。さすれば「宜《う》べ」といふを單なる間投詞と見るは味ひ淺きことに思はれる。つくづくと追懷感嘆しつつ現時を戀ひて居る形である。
 
          ○
       波多朝臣少足《はたのあそみをたり》が歌一首
    さざれ波磯|巨勢道《こせぢ》なる能登湍河《のとせがは》音のさやけさたぎつ瀬ごとに
 かう二息に音調よく吹き出して而もその二息が類音類想の反復の形になつて居る所、如何にも作者は歌ひ終つて心ゆくほどの滿足を覺えて居る形が見える。そして矢張僕も愉快になる。
 
          ○
       暮春の月、芳野離宮に幸せる時、中納言大伴卿(旅人)の勅をうけたまはりて詠み給へる歌の反歌
    昔見し象《きさ》の小河を今見ればいよよ清《さや》けくなりにけるかも
(36)「いよよ」といふに深き感慨が籠つて而して一本調子に云つて居るのがいい。
 
          ○
       山部宿禰赤人が不盡山を望める歌の反歌
    田兒《たご》の浦ゆうち出《い》でて見れば眞白くぞ不盡の高嶺に雪は降りける
 「田兒の浦ゆうち出でて見れば」と端的に莊重に押し出して居るが故に富士の嶺が大きく嚴に眼に浮んで來るのである。「ゆ」が句法の轉換によつて「ゆ」と云ふ意味の色合がぼうつとして居る所、又「田兒の浦に」と明確にしない所、ここに自然に旨味が備つて來て居る。
 
          ○
       不盡山を詠める歌の反歌
    不盡の嶺《ね》に降り置ける雪は六月《みなつき》の十五日《もち》に消《け》ぬればその夜ふりけり
 この歌の價値は勿論この想像がどれ程の創作性を帶びて現れて居るかにある。よし構想は傳説から暗示されて件つたにしろこの歌では作者は傳説そのものに主たる感興を持つて居ない。「十五日に消ぬればその夜ふりけり」と常時不斷の積雪を感嘆するために斯の如くいかにも時短かにあはれ深く言つて居るのである。
 
          ○
(37)     神岳《かみをか》に登りて、山部宿禰赤人が詠める歌の反歌
    明日香川かは流さらず立つ霧のおもひ過ぐべき戀にあらなくに
       門部王の難波に在《いま》して、漁父《あま》の燭光《いさりび》を見て詠み給へる歌一首
    見わたせば明石の浦にともす火の秀《ほ》にぞ出でぬる妹に戀ふらく
 「かは淀さらず立つ霧の」とは悩しく苦しき振り拂ひ得ぬこころの籠つた句である。霧の景状をよく感じ得て而も一首の主情に通はして居る。「川淀」を捉へたのは旨い。淀のあるは多く川の曲である。而してさう云ふ場合の淀は又瀬に續くことが多い。霧は最も濃くここから立つて居るやうである。或は「川淀」といふを「川曲」としたらばとも考へて見た。
 第二の門部王の歌は赤人の歌に比してより序歌の性質を薄くして居る。「見わたせば」と現實に云ひ出して「秀にぞ出でぬる」と徹頭徹尾現實に結んで居る。而して景物と云ひ歌ひ振りと云ひ如何にも官能的で暗指性に富んで居る。
 
          ○
       太宰少貳小野|老《おゆ》朝臣が歌一首
    青丹よし寧樂《なら》のみやこは咲く花のにはふが如く今さかりなり
 「青丹よし」は單純なる枕詞の効用以外の用をなしてゐる。切字體になつて居る點、意味の活きて(38)ゐる點である。而して結句「今さかりなり」と反響して壯なる調子を作つて居るからである。固く盛大の世に自負して居る歡喜の歌である。(大正四年八月「アララギ」第八卷第八號)
 
          ○
       防人司佑大伴四繩が歌二首
    やすみしし我が大君の敷きませる國の中なる京《みやこ》し思ほゆ
 この歌の生命は勿論「國の中なる」「京し」にかかつてゐる。「なる」は甚だ直截で強い言葉である。上三句が下句に對して殆ど装飾的な一種の枕詞的な効用と力としか持つて居ない。此の種の歌では、下二句にはより簡潔有效なる語句の存在する事が必要である。「京し」と意味を強め且重く字餘りにしたのも成功である。讀み下しにして第四第五句と讀んで了つて、その下二句のみが殊に印象に殘つて他の上三句は殆ど不必要なものになつて來る。そして煩しくない氣がする。ここにこの歌の味があるのである。
 
          ○
    藤波の花は盛になりにけり平城《なら》の京《みやこ》を思ほすや君
 事實も固より左樣であるが、歌としても旅に居る人が同じ旅に居る人に送つた歌として見るが味深(39)い。現に平城に居る人から旅に居る人に送つた歌とすれば「平城の京を思ほすや君」も餘り推量の利いた上調子な厭味な句になつてしまふ。この歌では作者は相手の同感を請うて居るのである。作者は「藤波の花は盛になりにけり」と天地事象の明るい更新に驚嘆して一氣に歌ひ終つて居る。而して下句で反省的になつて「平城の京を思ほすや君」と落著いて物を言つて居るのである。この二つの言ひ樣が暗指するものは作者の寂しい姿である。染々と物懷しがつて居る心である。虔しく相手の同感を期待して居る心である。
 
          ○
       帥大伴卿(旅人)の歌五首
    吾が盛《さかり》また變若《をち》めやもほとほとに寧樂《なら》の京《みやこ》を見ずかなりなむ
 句法にむつかしい所があるがよく見ると寂しくなつて來る歌である。吃々としてゐて眞實老人の悲しい獨語を聞くやうな所がある。「見ずかなりなむ」に直接主格が省略されて遙か冒頭の「吾」に應じて居るのもあはれを増してゐる。
 
          ○
    吾が命も常にあらぬか昔見し象《きさ》の小河を行きて見むため
 「吾が命も常にあらぬか」と云ふ願望が「象の小河を行きて見むため」と云ふに響いて一入に哀れ(40)である。せめて故郷にかへれる時まで生命を永らへて居たいと云ふのである。
 
          ○
    淺茅原《あさぢはら》つぱらつばらに物思《ものも》へば古りにし郷《さと》し思ほゆるかも
 「物思へば」「思ほゆるかも」と疊んで居て其の間に「郷し」等の如く強めた言ひ方をして一首の調子を緊めながら且波動さして居る。「つばらつばら」と第二句で繰り返して居るのもこの波動を助けて居る。「古りにし郷」と云つて「吾が古郷」とは言はない。冗漫であると共に音調がたるむからである。「淺茅原」は枕詞でありながら何かの響を與へて居る。
 
          ○
    萱草《わすれぐさ》わが紐につく香具山の古りにし里を忘れぬがため
 勿論「萱草」の比喩が吾々の心を惹くとは思つて居ない。併しこの比喩に依つて感情を表さうとした作者の心根がこの歌にはあはれに沁み出て居る。「萱草」の比喩そのものを左程大切にして居ないからである。また一首の調子が如何にも快い。
 
          ○
    吾が行《ゆき》は久にはあらじ夢《いめ》のわだ瀬とは成らずて淵にありこそ
 古義の解に從へば、この歌は旅人が故郷を出發する時の歌となる。「吾が行」は吾が旅行だと云(41)ふ。吾が旅の長年に亙るべきを嘆き強ひて慰めるために斯樣に大仰な願望を言つたものかまだ考へたい。(大正四年九月「アララギ」第八卷第九號)
 
          ○
       勝鹿の眞間娘子が墓を過《とほ》れる時、山部宿禰赤人が詠める歌の反歌(二首)
    我《われ》も見つ人にも告げむ勝鹿の眞間《まま》の手兒奈《てこな》が奧津城處《おくつきどころ》
    勝鹿の眞間の入江に打ち靡く玉藻刈りけむ手兒奈し思ほゆ
 第一の歌を讀むと作者が、手兒奈の事實に就いて染々と感慨に打たれながらも如何にも又奇怪に堪へずして居る心の姿が明々と見えるやうである。手兒奈の稀有の美貌と四圍の煩累及びそれに對する彼女の身自らの處置が世の尋常に背ける事、斯の如きは優に人の空想と懸念とを惹くに足る事柄である。而して目前に※[門/臭]然たるその人の奧津城處を見る。感慨愈深くして思惟するに愈不思議に覺ゆべきであらう。されば冒頭の「我も見つ人にも告げむ」と高唱せるも一見聳的の句であるけれども決して左樣は響かないのである。下句に最も單純に「勝鹿の眞間(地名)の手兒奈(人名)が奧津城處(物名)」として全く一言も他を云はざるが爲にちやんと落著を傳てゐるが故である。
 加ふるにこの歌は調子に於て大まかにして十分緊張して居る所がある。又、反歌であるが故に長歌(42)と併せて讀んで、かくの如く單純に大まかにのみ云つて居るのが更に一段の妙味を添へて居るのである。
 第二の歌「打ち靡く」の一句が這入つたために歌全體に感情の波動が出て來た所注意に價する。
 
          ○
       和銅四年辛亥、河邊宮人、姫島の松原に美人の屍を見て哀慟みて詠める歌(四首中一首)
    風速《かざはや》の美保《みほ》の浦廻《うらみ》の白躑躅《しらつつじ》見れどもさぶし亡き人おもへば
 海岸の山の白躑躅濁、海水にほのかに影を落して居る。陽光の中の寂しき姿である。「風速」が地名であるか否かに就ては契沖、眞淵、雅澄等各々考證の説をたてて居る。今俄にその何れを是としようとするのではない。併し清颯風靡の緑樹中白花自ら悩むの姿を明瞭に聯想する方がこの場合に適はしい事である。「風速」は之を地名とするも單純に地名の用に役するためにのみ作者が點出した句であると見るは聊か淺い。況や「風速き」の解し方もあるに於てをや。思ふに序詞、枕詞の類の心算にてそれよりも語意を稍重く用ひたるものと見るべきであらうか。
 
          ○
       神龜五年戊辰太宰帥大伴卿(旅人)の故人を思戀《しぬ》び給ふ歌三首
    愛《うつく》しき人の纏《ま》きてししきたへの吾《あ》が手枕《たまくら》を纏く人あらめや
(43) 急に第五句でまとまりが旨くついて居る。而してこの第五句が一首に響き渡る哀音の源泉ともなつて居る。
 第一句より第四句までで如何にもしみじみと亡妻の甘い思出に愛著して居て、第五句で感情が急轉して居る點が趣があるのである。「しきたへの」と云ふ枕詞も優しく甘えて響くのが後句に應じて却つて一層の哀音をそへて居る。
 
          ○
    還《かへ》るべき時は來にけり京師《みやこ》にて誰《た》が袂をか吾《わ》が枕《まくら》かむ
 歸期めぐり來りて亡妻を懷ひ、舊傷新に動いて更に痛恨に堪へざる情が素直によく表れてゐる。第四句に「か」と強めたる所、第五句「枕かむ」と枕の名詞をはたらかしたる二五調の締りて饗の切なる共に第一第二句に應酬してよく利いてゐる。「京師にて」と場所の指定あるも此場合また一種の哀寂を添へてゐる。
 
          ○
    京師《みやこ》なる荒れたる家にひとり寢《ね》ば旅にまさりて苦しかるべし
 斯の如きは實際にふかき孤獨と痛恨に堪へざる人の誠に自然なる嘆聲である。直ちに旅人の肺腑に入つてその寂しい聲をきくやうである。この歌は苦吟推敲を經たる歌でなくて、立所に出來た歌では(44)ないかといふ氣もする。言々句々皆自然で眞實で痛切である。「京師なる荒れたる家に」「旅にまさりて苦し」この兩者感情の聯關の如何に強くして自然なるかを見るべきである。
 
          ○
       神龜六年己巳左大臣長屋王の賜死《つみなは》え給へるの後、倉橋部女王の詠み給へる歌一首
    大君のみことかしこみ大殯《おほあらき》の時にはあらねど雲がくります
 追惜の情の中に自らなる怨嗟の聲が言外に現れてゐる歌である。「みことかしこみ」と誠に恐懼して控目に言つて居るのが殊に第三句「大殯の時にはあらねど」と偏にその天命を惜しんでゐるに對して一種の深い悲しい反語を語るものである。底に力強い感情が漲つてゐる。云ひ方がすべて莊重である。(大正五年四月「アララギ」第九卷第四號)
 
          ○
       天平二年庚午冬十二月、太宰帥大伴卿(旅人)の京に向きて上道する時に詠み給へる歌(五首中二首)
    吾妹子が見し鞘《とも》の浦の室《むろ》の木は常世《とこ上》にあれど見し人ぞ亡《な》き
 鞆地方で今日も「室の木」と云ふ樹がある。言海の由すが如く高さ三四丈に及ぶ樹ではない。寧ろ(45)四五尺、稀に丈に及ぶ一見灌木性のものである。同地方の山や島嶼の赭土性の土地に松と交茂して生じてゐる。併し或は往時この種の大樹があつたとすれば夫は旅行者の噂話に上つて著名に成つて居たであらう。「常世」と云ふから今日存在してゐる室の木の如き群生の矮樹ではこの歌に適當しまい。尚考へて見たい。
 
          ○
    磯の上《へ》に根蔓《ねは》ふ室の木見し人を如何《いか》なりと問はば語り告げむか
 「室の木」が今日も云ふ「むろ木」と同種であるとすれば、その樹は乾燥地の赭士や岩石の上に生じてゐる。勿論盤根で錯節の樹である。「根蔓ふ」は執拗なる悲情に即して其の樹の特性の主要部を抽出して居て甚だ佳い。又第二句名詞切にして下三句で徐に懷舊の嘆聲を發してゐるは甚だ巧な哀れ深い歌である。尚第三句は獨立の呼懸の詞の如くにして、而も第二句の客語なるが如く斯く兩樣の働をなしてゐる。單純化の一例である。
 
          ○
       太宰帥大伴卿(旅人)故郷家《もとのいへ》に還り入りて即ち詠み給へる歌(三首中一首)
    妹として二人作りし我が作庭《しま》は木《こ》高く繁く成りにけるかも
 上三句は亡妻を思慕して愛憐の情密なるものがあるが何處となく稚氣を帶びてもゐる。思ひ切つて(46)惚けた言ひ方でもある。惡くすると粗雜な感傷的にすぐる厭味な句となり易い言ひ方である。併し此時代の人は平氣でかうした言ひ方をし乍ら成功してゐるのが多い。今この歌に於てこの弊を救つてゐるのは下二句の如何にも無關心な淡泊なる言ひ方である。
 
          ○
       天平三年辛未秋七月、大納言大伴卿(旅人)の薨せたまへる時、資人《つかひびと》金明軍が、犬馬の慕心に勝《た》へず、感緒《かなしみ》を申《の》べて詠める歌(五首中一首)
    斯くのみにありけるものを芽子《はぎ》が花咲きてありやと問ひし君はも
 一些事につけて全心の涙をこぼして泣いて居るのが好いのである。一從卒|金明軍《こむのみやうぐん》はむつかしい哲學や神學佛學の講義をしながら泣いて居るのではない。また生活問題をかき口説いて泣いて居るのでもない。「萩の花は咲いてゐるかと仰言いました。」と繰言しながら大聲で泣いてゐるのみである。而もこの歌は吾等の爲に最も直接にして切實なる一世界を渾然と作つてゐる。吾等は決してこの世界に對して他を求めたいと云ふ不滿足の感情を起さないのである。それが有難い。
 
          ○
       天平七年乙亥、大伴坂上郎女が尼理願の死去《みまか》れるを悲嘆《かなし》み詠める歌の反歌
    留め得ぬ命にしあれば敷妙《しきたへ》の家ゆは出でて雲隱りにき
(47) 温和しく靜かで女らしい物の言ひ振りである。上句積極的に事を述べてゐるが慟哭的ではない。一體にしみじみと内省的に嘆惜してゐる歌である。
 
          ○
       また家持が砌上《みぎり》の瞿麥《なでしこ》の花を見て詠める歌一首
    秋さらば見つつ思《しぬ》べと妹が植ゑし屋前《やど》の石竹《なでしこ》咲きにけるかも
 記念に見よと前から定めて植ゑたものの如く解するは餘りに確實にすぎて本意ない事である。併し記念に見よ顔に咲き出て居ると云ふこころは十分現れてゐる。石竹の色彩に示唆されて亡妻の優しい心根を追懷する歌とすれば古義の解に從ふが宜しい。(大正五年五月「アララギ」第九卷第五號)
 
          ○
       天平十六年甲申春二月、安積皇子の薨《す》ぎたまへる時、内舍人大伴宿禰家持が詠める歌の反歌
    足引の山さへ光り咲く花の散りぬる如き我が大君かも
 構想と聲調と相通ひて莊重なる歌である。乍併、この歌の莊重は人麿のこの種の歌に比して自らその莊重の趣を異にして居る。年少の皇子の死を傷むと云ふ内容その物の性質の然らしむる處もあるが、(48)此の歌には明るい感覺上の示唆が重要なる一生命を成して居るからである。概して云へば明るい感觸、即ち家持の趣味なのである。(大正五年六月「アララギ」第九卷第六號)
 
(49)萬葉集卷四より
 
          ○
       岳本天皇御製歌の反歌(二首)
    山の端にあぢ群《むら》騷ぎ行くなれど吾は不樂《さぷ》しゑ君にしあらねば
 「あぢ群騷ぎ」の意味は矢張長歌に於て意味すると同樣に人と解するが宜しいと思ふ。「君にしあらねば」の「に」の語に對して變であるからである。赤彦の引いた人麿の例歌とこの歌とは其の意味の連續する工合が違つて居る。人麿の「小竹の葉は」の歌は一方小竹の葉の状態を描寫すると共に其時その場所に於ける自己の心緒を別に獨立して正に述説せるに過ぎない。單純なる表現方式を取つて居るのである。併しこの歌になるとその表現方式が爾かく單純ではない。第五句の「君」は第二句に溯及して「あぢ群騷ぎ」を指して居るからである。ただ言語の末と内容とが似て居るのみで、形式は丸で性質の違つたものである。故に人麿の例歌はこの場合、歌の表現方式論に於ける例歌とは決して(50)ならないと思ふ。而して、人麿の例歌の事は別とするも赤彦の異説に從へば「君」は「味鴨の群」を指して「騷ぎ行く人」を指さない事になる。鴨禽類を以て直ちに「君」なる人に擬せむとする一種の擬人法的の解釋である。この場合不自然にして窮屈なる解釋である。若し強ひて「あぢ群騷ぎ」を鴨と解すれば「君にしあらねば」は寧ろ「君としあらねば」でなくては意味が通じなくなる。原文「君二四」は左樣は訓めないのである。
 故に「あぢ群騷ぎ」は依然として普通の解釋に從ふ外はあるまい。又一首の價値の上から云つてもそれで面白いと思ふ。而して此處に注意すべきは「あぢ群」が「騷ぎ」の枕詞の如く、若し枕詞と解すれば枕詞と被枕詞とが同一句中に存立せる點、或は「あぢ群」はあぢ群の如くの意とすれば一種變則なる形容語とする外なき點、之等の事項である。蓋し斯の如き語法は萬葉集中に於ても異例の語法である。其處に作者の創意の大膽がある。この長歌中の語法、(併し長歌に於てはこの反歌に於けるが如く語意が曖昧でなく明確に人を指してゐる。)をその儘取つて直ちに反歌に用ひてゐる故である。然も一首の意味に於て無理を感ぜさせないで、却つて他の複雜なる氣雰を傳へて居るのは、例の萬葉歌人の大まかより來る無技巧の成功である。吾等の注意すべき點である。複雜なる他の氣雰を傳へて居るといふ、これは赤彦の説くが如く、此の一場合の實景、味鴨が山邊に群れて騷いで居ると云ふ事が自然に想像し得らるる事を意味するのである。
 
(51)          ○
    近江路《あふみぢ》の鳥籠《とこ》の山なる不知哉川《いさやがは》來經《け》のこの頃は戀ひつつもあらむ
 縁語上の種々の考證がある歌である。代匠記などでも「犬上の鳥籠山とはなくて淡海路の不知哉川とあるは逢給はむ事はいつと知しめさねどもの意をそへさせ給へるか、古歌なればそれまでは有まじき歟、後人靜に案ずべし」と書いてある。併し之等の縁語上の考鐙を離れて僕は寧ろ簡單に上三句は「不知哉川」で一旦意味が切れて獨立して居り、その上句と下句との間にその川邊にてとかその河氣の如くにとかの如き語が略されて居るものと取りたいのである。而しても尚「いさや川」は決して下二句の主格の如く成らないのは茲に「川」と「け」との縁語上の關係が存在するが爲に語意をもその上に幾分か導いて行くからである。縁語などが實際に活きるのはかうした技巧上の省略に應用される場合が多い。歌の意味そのものの上に縁語がはびこり過ぎると彼の平安朝以後の歌風の弊に陷入るのである。
 
          ○
       額田王の近江天皇(天智)を思びまつりて詠み給へる歌一首
    君待つと吾が戀ひ居れば我が宿の簾動かし秋の風吹く
 簾の細い隙間からは款の澄んだ空氣が見える。軒端に鳴るその音もまた獨特な物の訪れを思はせる(52)音である。今その簾の動搖が額田女王を甚だ怡ばしたのである。取つて以て自分の天皇の御幸を待ち慕ふ心の動搖としたのである。何處か嬉しくて落著いて居られない所のある歌である。而して初秋のやや嬉しい空氣が十分に出てゐる。第二句と第三句で「吾が」を繰返してゐる所は深い感慨が籠つて居る。而して今人の重語法の如く重語の所のみが特に目に立つ不自然がない。けれんの無いが故である。(大正五年六月「アララギ」第九卷第六號)
 
          ○
       鏡女王の詠み給へる歌一首
    風をだに戀ふるはともし風をだに來《こ》むとし待たば何か嘆かむ
 第三句は勿論第四句に續くやうに解したい。一人の男性を中心として二人の姉妹の情交を背景とする歌である。この事がやがて自ら此の歌意の大半を説明する事になつて居る。二人の相親しき女性の對話を座に居て聞くやうである。いろいろと想像しながら微笑しつつ可憐に味へる歌であると云ふのは露骨な我執の強い所がない故である。鏡女王と雖も姉君額田女王に對してであるから爾かく柔順でやや甘え氣味の歌が作れたのであらう。
   編者註。右の解に就てはアララギ第九卷第八號に次の如き訂正文あり。「前月號、鏡女王を額田王の妹の如く解したが通説(53)に從つて姉と訂正する。從てあの解は修正する要がある故一先づ抹殺する。」
 
          ○
       吹黄刀自が歌〔二首中一首)
    河上《かはかみ》のいつ藻《も》の花のいつもいつも來ませ吾が背子《せこ》時じけめやも
 二句三句の音調を怡ぶべきである。女の方からませた口を利いてゐる所がある。と云つても「河上のいつ藻の花のいつもいつも」などと稍甘つ垂れたる可憐の所がある。そこに艶氣がある。
 
          ○
       田部忌寸櫟子が太宰に任らるる時の歌(四首中一首)
    衣手《ころもで》にとりとどこほり哭《な》く兒にもまされる吾《あれ》を置きていかにせむ
 結句がよく利いて居る。
 
          ○
       柿本朝臣人麿が歌四首
    み熊野《くまぬ》の浦の濱木綿|百重《ももへ》なす心は思《も》へど直《ただ》に逢はぬかも
 第三句迄は勿論「百重なす」の序であるがそれとしても「み熊野」と固有名詞を用ひたのは作歌心理上如何なるものであらうか。何時も乍らの例である。ただ音調の點で以て「み熊野」としたか。或(54)は例へばみ熊野の濱木綿が甚だ著名なりしが故か、又は現に作者がみ熊野に居て作つたのか。然らざれば戀人が其處にゐるが故か。又は單に隔たつてゐると云ふ心地を通はせる爲にみ熊野としたのか。かう微細な點が判り難いのである。固より序である故に讀者としてかかる點は判明しなくとも好い樣であるが考へれば氣にもなるのである。況して短歌作者の側からしては尚更氣になるのである。
 
          ○
    いにしへにありけむ人も我が如《ごと》か妹《いも》に戀ひつつ寢《い》ねかてにけむ
 此の歌の勝れてゐる點は茂吉の云ふが如く甚だ自然に響く點である。眠れないと云ふのであるから幾度か自らなる嘆息を洩したであらう。何度も寢返りをして見た事であらう。而して時にはうつらうつらと女に逢つて嬉しかつた夢に驚いた事もあるであらう。其の間甚だ永い氣のする時間の經過である。今の現もいにしへの如くに感じられ相である。彼此關聯して古人もと想像するの甚だ由來あり根抵ある事が首肯される。徒らなる感傷でない點も此處にある。
 
          ○
    今のみの行《わざ》にはあらず古《いにしへ》の人ぞまさりて哭《ね》にさへ哭《な》きし
 古義に「上には宿難にけむとおぼめかしていひ、今は哭にさへ啼きしとさだめ云て、いよ/\自慰むるなり。」とある。前二首後の一首と合して同時若くは同じ心境に住しての作であらう。古義の「お(55)ぼめかして」「さだめて」と明かに言分けて居る點は簡潔に二首の詩趣を批判して居る。
 
          ○
    百重《ももへ》にも來及《きし》かぬかもと思へかも君が使《つかひ》の見れど飽かざらむ
 上三句には同音が繁く重つて居る。殊に第一句と第三句は「も」と「お」、「に」と「か」の四音が異つて居るのみで他の六音は配列の順序を同くして同音である。第二句と雖も殆ど之と同音調と云つて宜しい。其處に急迫にして執拗なる或る感を與へる。第四句「の」とあつて「を」となつて居ない點を注意したい。
 
          ○
       碁檀越が伊勢國に往く時、留れる妻が詠める歌一首
    神風《かむかぜ》の伊勢の濱荻《はまをぎ》折り伏せて旅寢やすらむ荒き濱邊に
 勿論下句がこの歌の生命である。其の轉句法も利いて一入の哀音を添へて居る。「濱荻折り伏せて」などと云ふは所謂歌の上の常なる言ひ慣はしで事實の誇張であるけれども、結句と相響き却つて一種の眞實なる哀音に化してゐる。主觀を取扱ふ一方法。
 
          ○
       柿本朝臣人麿が歌三首
(56)少女《をとめ》らが袖布留山《そでふるやま》の瑞垣《みづかき》の久しき時ゆ思ひきわれは
 人に戀初めて既に甚だ久遠なることが人麿の深い感慨となつて居るのである。戀に附隨する種々の他の感情よりもこの感慨が今は最も重要なのである。其の心を切に表現する爲に斯樣に由來深き言ひ方をしたのである。序歌三句は茂吉の云ふ如く大どかで豐かに出來て居り、又由來の久しい心と熱情とを傳へて居る。之を相手に直接に物言ふ歌とするも、僕はこの歌にその訴の切實性を左程要求しないでも濟む。何者、此處に雌に挑む雄孔雀の大きく擴げる羽根と同じ美を見るからである。孔雀の情慾に堪へざる眼光よりも、換言すれば人麿には自己の此の深い感慨が十分に自覺、自信されて居り、此の自覺が力となつて此の歌に現れてゐる所を可とするのである。
 
          ○
    夏野《なつぬ》ゆく牡鹿《をしか》の角《つぬ》の束《つか》のまも妹《いも》が心を忘れてもへや
 「夏野ゆく牡鹿の角」と云つて居る所が既に情景と共に一種の氣分を暗示して居る。赤彦の記憶の混亂から來た問題の歌の漫然と「春されば生ふる」と云へるに比し歌作者の注意を要する所である。
   編者註。「問題の歌」とあるは「春されば生ふる仔鹿の若角の束のあひだもわれ忘れめや」赤彦作
 
          ○
    ありきぬのさゐさゐ沈《しづ》み家《いへ》の妹に物言《ものい》はず來《き》にて思ひかねつも
(57)「さゐさゐ」は衣ずれの音でなければならないと思ふ。第二句まで序歌となつてゐるが併し此處では一首の景情の上にも重な意味を持つて居る句である。悲しい氣特と衣擦の音との間に重要な氣分の關係がある。「沈み」をたとひ心が沈むの意に解するとしても、音の靜む事を分離しては通じ難いであらう。旅の途中歩行の衣擦の音に誘致されて悲しい氣に成つて詠んだ歌であらうが、それが端的にこの歌の意味を成すとするは稍落著かない。何れにしても如上の關係の交錯して稍模糊たる所に不即不離の味があるのかも知れない。
 
          ○
       柿本朝臣人麿が妻の歌一首
    君が家《へ》に我が住坂《すみさか》の家路《いへぢ》をも我《あれ》は忘《わす》らじいのち死なずは
 前の人麿の歌に何處かゆとりのあるに比して人麿の妻のこの歌は情思が切實で一心である。心ばえ甚だ哀れなる所がある。(大正五年八月「アララギ」第九卷第八號)
 
          ○
       阿倍女郎が歌二首
   今更《いまさら》に何をか思はむ打靡《うちなび》き心は君に寄《よ》りにしものを
(58) 「打靡き」といふ詞はこの歌の場合、正面的に純主觀のみを押し進めて居る中にあつて唯一の客觀描寫の句である。作者は自己の實情を一寸不即の態度であしらつたのである。それだけ反省的の所が歌に現れて沈痛味を増して居るとも云へる。また同時に對者に一種の姿態《しな》を作つて居るとも云へる。姿態と云ふも徒に輕浮の意味で云ふのではない。其の姿態の柄によつて大に歌の品質の上下を定めるものである。つまり其處に一種言語以外の味ひを生じて來る。況やこの場合の如く純主觀直寫の表現法中にあつて唯一の客觀描寫の句なるに於てをや。一語は以て千鈞の重きを致す所以である。千樫の「除裕が出來て云々」といふもこの意に通ふのてある。
 
          ○
    あが背子《せこ》は物《もの》な思ひそ事しあらば火にも水にも吾《あれ》無《な》けなくに
 一體にかかる言ひ種は今も昔も戀する男女間に屡々言ひ交され相な大仰な言葉である。言葉の意味だけ聞けば華美にすぐる一寸面癢い感じもするが、それで居ながらこの歌の如く自信を以て斷言して情操の堅固なる聲調が自ら溢れて居る歌になると有難い。而してこの歌が決して辯解の如く又は自己誇張の如く厭味に聞えないのは、「あが背子は物な思ひそ」とか、「吾無けなくに」とか云ふ優しい情の溢れた言葉の内に自己の信念を斷言して居るからである。「あが背子は」の「は」の如きもこの場合殊に情の籠つた助辭である。
 
(59)          ○
       三方沙彌が歌一首
    衣手《ころもて》の別る今夜《こよひ》ゆ妹《いも》も吾《あ九》も痛《いた》く戀ひむな逢ふよしをなみ
 直ちに「衣手の別る今夜ゆ」と冒頭に置いた所、舌短い感はあるが素朴の趣をなして居る。「戀ひむな」も聲調が痛切である。「妹も吾も」と云ふも落著いて一首中の焦點をなして居るのは、前後への續き工合が甚だいいからである。感情の質はやや繊い。
 
          ○
       伊勢國に幸せる時、當麻麿大夫が妻の詠める歌一首
    わが背子《せこ》は何處《いづく》ゆくらむ沖《おき》つ藻《も》の隱《なばり》の山《やま》を今日《けふ》か越ゆらむ
 調子がよく、作爲なく、讀めば讀むほど味ふかくなる歌である事に異論はない。初二句でおほよそに云ひ、終三句で殊に終になればなるほど、「隱の山」「越ゆ」と具體的に云つて居る。而して讀者の眼に一の景状を映し出す迄になつて居る。作者に名張山と云ふ固有名詞は如何なる親しみを持つて居たかは知らないが、讀者たる吾々にこの固有名詞が一種の聯想を伴はして不可離のものとなつて居るのは、一にこの大より細に入る表現の效果であらうと思ふ。斯樣に視覺の幻覺を起さしめる事によつて作者の感情を緊密にして讀者に傳へて居る。一見無作爲の中にも分解すれば斯程の自然の用意が籠つ(60)て居るのである。
 
          ○
       志意皇子の御歌一首
    大原の此の市柴《いつしば》の何時《いつ》しかと吾《あ》が念《も》ふ妹に今夜《こよひ》逢へるかも
 一面に志貴皇子の歌には一本調子の太く強く迫るものがある。「※[鼠+吾]鼠は」「石激る垂水の上の」又この歌の如き之である。この歌の如きは委細をつくす事を嫌つて直ちに言ひたい事のみを唯一言して居ると云つた歌である。
 
          ○
       阿倍女郎が歌一首
    わが背子《せこ》が著《け》せる衣《ころも》の針目《はりめ》おちず入りにけらしな我が心さへ
 記憶に確でなくて困るけれども何かの漢詩で同想同趣のものを讀んだことがある。遠く居る良人に送る衣を縫ひながら作つた詩で、針目毎に(或は綿と共に)己の一心も籠れよとばかりに思ふと言つた樣な詩であつたと思ふ。作は唐代の人だと思ふが或は更にずつと後代の人の詩であつたかも知れない。何れにしても更に調べて實否を記したいが、先づさう云ふ漢詩もあつたことを附記しておく。(八月二十日〕(61)(大正五年九月「アララギ」第九巻第九號)
 
          ○
       高田女王の今城王に贈り給へる歌(六首中三首)
    人言《ひとごと》を繁《しげ》みこちたみ逢はざりきこころある如《ごと》な思ひ吾が夫《せ》
    (茂吉曰)(前略)結句を、「思ふな吾が夫」とも訓んでゐるが、いづれでもよい。
 温順しくはつきりと事柄をわけて言つてゐるのが快い。而して後徐ろに自らの思を訴へてゐる。強くはないが眞實の情味が溢れてゐる。調子から云へば第三句切れに對して第四第五句の歌ひざまの迫らない所が歌品を高めてゐる。「な思ひ吾が夫」と訓みたい。平明なる調を破らない程に微に複雜なる心理を傳へるからである。
 
          ○
    わが背子《せこ》し遂《と》げむと云はば人言《ひとごと》は繁《しげ》くありとも出でて逢はましを
 前の歌から見ると餘程積極的に心緒を述べてゐるが、沈痛といふ部類に入るほどの歌ではない。濕んで柔和に光る眼のやうな歌である。理性と感情とがよく歩調を合して靜に戀人に向つて傾注してゐる。控目な手弱女振の歌である。
 
          ○
(62) わが背子に復《また》は逢はじかと思へばか今朝《けさ》の別《わかれ》のすべなかりつる
    (茂吉曰)(前略)女のいふ事だから少し誇張してゐる。
 誇張はあるがそれ程癪にひびかない。男の前で一寸溜息を吐いて見ると云ふ恰好の甘え方である。前二首の歌から見ると少しく落著いては居られなくなつたほどの境地に進んでゐる。
 
          ○
       神龜元年甲子冬十月、紀伊國に幸せる時、從駕の人に贈らむ爲め娘子に誂へらえて、笠朝臣金村が詠める歌の反歌(二首中一首〕
    わが背子が跡ふみ求《もと》め追ひゆかば紀《き》の關守《せきもり》い留《とど》めてむかも
 長歌の結末は「道守《みちもり》の 問はむ答《こたへ》を 言ひやらむ すべを知らにと 立ちて躓《つまづ》く」といふ句で結んである。彼此合せて味ふもいい。「留めなむかも」とあるが「留めてむかも」と訓む方が面白い。註に「所v誂2娘子1」詠むとあるは些末ながらその當時を考へるによろしい。
 
          ○
       二年乙丑春三月、三香原離宮に幸せる時、娘子を得て笠朝旺金村が詠める歌の反歌二首
    天雲《あまくも》のよそに見しより我妹子《わぎもこ》に心も身さへ寄りにしものを
(63) 「よそに見しより」などと間接的な言葉も「心も身さへ」の用例も面白い。二人差向ひで密語してゐる所である。染々としてはゐるが何處かにのんびりとした現實を離れた氣持がある。
 
          ○
    この夜《よ》らの早く明けなば術《すべ》をなみ秋の百夜《ももよ》を願《ねが》ひつるかも
 「天雲の」の歌にくらべると、より現實的に響く。寧ろ端的に心裡を表白してゐるからであらう。「秋の百夜を願ひつるかも」獨特の味を出して利いてゐる。思ひきり伸びでもしようといふ形である。
 
          ○
       大伴宿禰三依が歌一首
    我が君は我奴《わけ》をば死ねと思へかも逢ふ夜逢はぬ夜|二《ふた》ゆきぬらむ
 戯れながら巧に怨を言つてゐる。この場合の誇張は自然である。二人の間は十分に太平なのである。(大正六年四月「アララギ」第十卷第四號)
 
          ○
       丹生女王の太宰帥大伴卿(旅人)に贈り給へる歌二首
    天雲の遠隔《そくへ》のきはみ遠けども情《こころ》し行けば戀ふるものかも
 「情し行けば」作者の力をこめた所である。「此方より戀しく思ふ情の行き至れば」と云ふ古義の(64)解はやや詳しいが、併し單に到達の意味にのみ取るべきでない。「思細かく行き渡る」と云ふ意味が十分に含まれてゐる。「あなたの事をいろいろ細かく想ひますのでつひ戀しくなつて參ります」といふ意味である。
 
          ○
    古りにし人の賜《た》ばせる吉備《きぴ》の酒病めば術なし貫簀《ぬきす》賜《たば》らむ
 「吉備酒」は古義の「庭訓往來にも備後酒見えたり」に從ふ。今も鞆の保命酒と云ふ甘い酒がある。ベルモツト酒の格である。奈良朝時代はかなりハイカラな所もある時代であつたらしい。女性のうちでも少しは酒を嗜むものもあつたであらう。
 この歌は兩人の間の一種の内密語である。旅人のやうな酒のみは時に消魂大悦《エクスターシー》の状態になつて戀人に酒を送つたこともあらう。この歌のこころは妾醉つたら困りますわと云ふ程の意である。旅人のこの仕種に對する一般女性の應答としては割に普通自然のものであらう。
 「何か云ひたくて溜らない云々」(茂吉)の所があるから單に戯言に終つてゐないのであらう。
 
          ○
       賀茂女王の大伴宿禰三依に贈り給へる歌一首
    筑紫船未だも來ねば豫め荒ぶる君を見むが悲しさ
(65) 言々句々沈痛である。戀人に對して少しも高をくくつてゐないのが好い。可憐を催す歌である。「未だも來ねば」はことにいい。「悲しさ」も弱くない。餘情がこもつてゐる。
 
          ○
       土師宿禰水通が筑紫より京に上る海路にて詠める歌(二首中一首)
    大船を榜《こ》ぎの進みに岩に觸《ふ》り覆《かへ》らばかへれ妹に依りてば
 この歌は序の所で十分實相と眞情を盡してゐるのが目立つ。而して一首の感情も強い。(大正六年六月「アララギ」第十卷第六號)
 
 
(66)萬葉集卷八より
 
          ○
       山部宿禰赤人が歌一首
    百済野《くだらぬ》の萩の古枝《ふるえ》に春待つと(來《き》)居《ゐ》し鶯鳴きにけむかも
 この卷首の志貴皇子の「早蕨」の御歌が、現在矚目の實景を借りて、「春になりにけるかも」と春來と心中の御懽《みよろこび》とを高調してゐるに對して、これは記憶と印象とに殘つた百濟野の實景から出發して、想像的の句「けむかも」を以て、現在の春來のよろこびを歌つてゐる。何等現在矚目の景は點出されてゐない。同じ春來に對する懽びと云ひながら、前者に我知らず歡聲を擧げると云ふ率直な強い響がこもつてゐるに對して、後者に契沖をして「道有て隱れゐたる人の明君に逢て出る意などを兼てよめる歟」とも疑はしむるほど、その懽びの感情に或る由來深さを感ぜしむる所以であらう。何れにしても、結句「鳴きにけむかも」は曲者《くせもの》で、おのづから百濟野の鶯を思ひ起さでは止みがたい痛切な心(67)の響をこめてゐる。「萩の古枝」この具體的實景に寫生の妙味のあるは勿論、「百濟野」の固有名詞も頗る生きてゐる。「來居し」は古義の補脱訂正説であるが、「すみし」「をりし」の舊訓と、果して何れがよいかは疑問であらう。
 
          ○
       厚見王の歌一骨
    蝦《かはづ》鳴く甘南備河《かむなびがは》に陰見えて今や咲くらむ山振《やまぶき》の花
 かつて見知る甘南備河の晩春の景を想起、憧憬を遣つてゐる歌である。この歌の想像的表現、材料の勝ちすぎたる點、美しい言ひざま、さう云ふものが非難の種になり相な歌である。勿論萬葉集の世を降つた時代の歌であらうが、これ等の反感も實は斯境が一般的にみる所謂美しい境地であることから來てゐる。例へば美しい櫻花の歌に佳什の尠い如きである。そこに同情してこの歌からも教を受けてよい。第四句が「今や咲くらむ」と想像的になつてゐるために「陰見えて」が却つて作爲の弊に陷る感を與へないのてある。例へば「今や咲きたり」と現實的になつてゐるのと對比すべきである。尚この歌が「逢坂の關の清水にかげ見えて今やひくらむ望月の駒」の本歌の如き形をなし、しかも「望月の駒」の歌から後世種々の歌が胚胎してゐる點、つまりこの歌體の普遍化模倣化し易い點についてこの種の歌に本質的考察を加へて見るもよい。
 
(68)         ○
       中臣朝臣武良自が歌一首
    時は今は春になりぬとみ雪|零《ふ》る遠き山邊に霞棚引く
 久老の「時はいま」よりも「時は今は」と訓んだ方がよい。「時は春になりぬと……霞棚引く」から作者みづからが春その物に成り代つて物言ふ樣な、積極的な説破的言ひ方が、この歌の聲調を愉快にして、春來の懽びを十分に傳へてゐる。尤もかう云ふ手法は萬葉集の歌によく見られ、漢文脈をひいてゐる手法である。第三句「み雪零る」は雪が積つてゐる遠山の如くに普通解されてゐるが、しかし「雪ふる」の意味をかろくただ遠山の修飾語的に解されぬでもない。尚それよりもこの句を「現に遠山の邊には雪が降りつつありながらも霞が棚引いて春が來た」と解してもよい。この場合、遠山にかかる日照雨は氣温の急激低落で薄雪に變じ、それが霞の奥に見えると云ふ譯であつて、勿論近い野山には霞が棚引いて萬遍なく春が來てゐるのである。かう解した方が第三句の解釋上にも妥當で、また吾々の經驗に照しても早春の景に適ひ、複雜微妙味が増すと思ふが、その邊の高見をききたい。
 
          ○
       丹比眞人乙麻呂が歌一首
    霞立つ野《ぬ》の上《へ》の方《かた》に行きしかば※[(貝+貝)/鳥]《うぐひす》鳴きつ春になるらし
 
(69) 「野の上の方」と場所を大どかに漠然と云つてゐるのが※[(貝+貝)/鳥]の啼音の在處を不思議がらしめ、從てそれに對する作者の驚き、春來の自覺を一層明瞭に切實ならしめてゐる。「霞立つ」も必要であり、とにかく萬葉初期の歌に比すると、前掲諸歌は、時代人の意識が分化し、心理活動が詳しくなつて來てゐることを示す。「野上」を地名に解する説は、霞立つに對し、※[(貝+貝)/鳥]鳴の驚きに對して餘り賛成でない。但し地名にするとそこにある稚拙の味は幾分出ても來る。
 
          ○
       高田女王の歌一首
    山振《やまぶき》の咲きたる野邊《ぬへ》の壺菫この春の雨に盛りなりけり
 「盛りなりけり」の句は後世流の語感からすると櫻花藤波の如く目立つた威勢のよいものの聯憩を伴ひ易いが、この歌ではこの句を、さうした因襲的の感じから脱却して味はぬと、誇張の響をもつて來る。さうすると「この春の雨に」も温和しく澁く落ついて來る。「つぼすみれ」と云ふも一の成句で何でもないやうであるが、この場合概念の殻を破つて、特殊の生活となり、歌に或る可憐味を與へてゐる。この歌女性の歌として誠に尤もな響きをもつてゐる。(大正十五年七月「アララギ」第十九卷第七號)
 
          ○
(70)      阿倍朝臣蟲麻呂が作一首
    秋の野《ぬ》の草花《をばな》が未《うれ》をおし靡《な》べて來《こ》しくも驗《しる》く逢へる君かも
 今次の輪講はただ匆々簡略責を塞ぐのみ。後に訂正補遺する所ありたし。
 この歌「おし靡べて來しくも驗く」の所に問題があるであらう。契沖は「尾花が露を分て來し志の程もいちじるく」と解き、雅澄は「尾花が末を押靡かせ辛苦《から》く艱難《なづみ》て來し事のかひありて」としてゐる。僕思ふに、この一首の與ふる印象は古義の「辛苦く艱難む」よりも「露分けて來し志の程も」と云ふ契沖の解がよく、併し「來しくも驗く」については、契沖の「志の程も著るく」よりも今一歩つき進んで露にぬれたことの尋常ならぬさま、著しさを端的に言つたものと見る方が面白い。それが偶偶古義の云ふ、「かひありて」の意の「驗《しる》く」に語音通じて用ひられたとしてもかまはない。ただ「末をおし靡べて」に作者が或る情意を籠らしてゐるかも知れねが、兎に角如上に解する方が上四句がより生々と直接に吾々の感覺に觸れてくる。讀み下して殊に三四五句のあたり、悦んでいそ/\してゐる所のあるのがよいのであらう。
 
          ○
       橘朝臣奈良麻呂が結集宴の歌(十一首中一首)
    手折《たを》らずて散らば惜しみと我《あ》が思《も》ひし秋の黄葉《もみぢ》を挿頭《かざ》しつるかも
(71) 「散りなば惜し」とする契沖等の訓方が素直でよい。古義の訓少し理窟ぽい。この歌は前歌より内容意味的には單純のやうであるが、僕には歌としてこの方が面白い。宴席の歌など形式的に御座なり御追從歌など多いが、これは主人公自らも滿悦で、客にもその悦びを頒ちたい心がかなり純に歌ひ出されてゐるからである。黄葉を眞に愛しんでゐる所があるのがよく、それが寛闊な心持で表白されてゐるのが品を添へてゐる。
 
          ○
       大伴宿禰家持が秋の歌(三首中一首)
    秋の野《ぬ》に咲ける秋萩秋風に靡《なび》ける上に秋の露置けり
 「秋」の字が一首中四つも重つてゐるは、誰しも氣付くことであり、而して作者自身も意識的に使用してゐることは想像するまでもない。そのうち第一句の「秋の野」は冒頭無難を欲する點よりよいとして、結句の「秋の露置く」は特異であるだけに、反感も起るかも知れぬが、僕はそれがよいのだと思ふ。尤もこれは「靡ける上に……置けり」と景物の機微を捉へてゐるために甚しく生きてゐるのは勿論である。「秋」を四つ重ねた點は、音聲の整調、同語疊出による強調法などの技方巧なるものがある。技巧とのみ貶す勿れ。
 
          ○
(72)      天皇(聖武)の賜報和《みこた》へませる御歌一首
    大《おほ》の浦のその長濱に寄する浪|寛《ゆた》けく君を念《おも》ふこの頃
 「寛けく」がこの歌で問題であらう。古義は「御心の動搖《ゆたゆた》として安からず」と解してゐるが、寧ろ契沖流に「一旦に思ふにはあらで、ゆるゆると思ふ心なり」の方が上句の情調に自然に適つた解釋ではないかと思ふ。長濱に寄する波、それは豐かな潮であつて、暢やかな波である。せせこましい磯岩潮でもなければ、激浪でもない。天皇は櫻井王が戀人からの如き怨み言を寄せた歌に對し、この親しみある歌を以て答へられてゐる。「その許のやうに切迫詰つた物言ひをするものではない。乃公の方はゆるゆるとだが、しかし豐かに澤山その許の身を思ひやつてゐるのだ」とでも云ふ口吻である。「その長濱」と櫻井王の「九月のその初雁の伎」の口眞似をしたあたり、態とゆつくり物言つてゐる所など、其處に思ひの外の情味が溢れてゐる。(昭和二年二月「アララギ」第二十卷第二號)
 
          ○
       舍人娘子が雪の歌一首
    大口《おほくち》の眞神《まかみ》の原に零《ふ》る雪は甚《いた》くな零りそ家もあらなくに
 古義などでは、娘子自身眞神原の雪に降られてゐる如く解してゐる。しかし一方では、娘子が自ら(73)に通ふ戀人の途の難儀を想ひやつて詠んだ歌のやうにも響く。卷三の「苦しくも零りくる雨か神の埼狹野のあたりに家もあらなくに」はこの歌と同案の歌であるが、地名そのものが作者の位置と密接に關係してゐる。然るにこの歌では地名が作者と相當隔つた關係に立つてゐる如く感じられる。「大口の眞神の原に零る雪は甚くな零りそ」の言ひ方が、作者自身行つてゐる原でのこととすれば、大仰で言ひ過ぎる感がある。これは往路又は歸途の戀人を案じて、斯く「は」「な零りそ」と強めたと見るべきが自然であるまいか。「大口の眞神の原に」は矢張狼の出没を聯想して味ふが意深くなる。
 
          ○
       太上天皇(元正)御製歌一首
    幡芒《はたすすき》尾花|逆葺《さかふ》き黒木|用《も》ち造れる室《や》(戸《ど》)は萬代までに
 中山嚴水の云へる如く「天皇行幸のとき常の家の外に、黒木もて御座を作る也」と解したい。素直に造屋の材料次第室を言つたのみの所と、一首の音調句法の妙味によつて莊重に生きてゐる所とが特徴である。(昭和二年四月「アララギ」第二十卷節四號)
 
(74)萬葉集卷九より
 
          ○
       大寶元年辛丑冬十月太上天皇(持統)大行天皇(文武)紀伊國に幸せる時の歌(十三首中三首〕
    朝|開《びら》き榜《こ》ぎ出て我《あれ》は湯羅《ゆら》の崎釣する海人《あま》を見て歸り來《こ》む
 爽かな朝の海上へ舟出するに心躍れる歌である。湯羅崎あたりには既に點々と許多の漁舟が出在してゐる。作者のいそいそとした悦びが自ら「榜ぎ出て我は」と強く、また「見て歸り來む」と誇りやかな聲調のうちに溢れて一首を成してゐる。同時の「三名部の浦云々」の歌でも、この歌でもであるが、注意すべきは又「釣する海人を」の句である。これは海人の釣する近くまでも行つて、海に親しむと云ふ心持をおほらかに表して居るのである。
 
          ○
    藤白《ふぢしろ》のみ坂を越ゆと白妙《しろたへ》の我が衣手は沾《ぬ》れにけるかも
(75) 歌の響にも、内部に事柄の潜むものを含んでゐる。これは有間皇子の悲惨な末路を偲んだ歌である。藤白の御坂は紀伊の有田、海部兩郡の境と云ふ。有間皇子はここで殺され給うた。この一聯十三首の歌は紀伊の湯(今の湯崎温泉)御幸の時の人々の作である。而してこの温泉は齊明帝の時有間皇子の發見されたもの。女帝の入湯御不在中、皇子の謀反の事露れたと云ふが、萬葉集中有間皇子結び松を傷む歌が多い。複雜した事情があつたのであらう。この故事を頭にもつてこの歌を讀むと、この歌の單純な形が却つて心をひいて哀愁を催さしめる。有間皇子と作者とは時代も左程古く隔つて屠らぬ。
 
          ○
    紀《き》の國の昔|弓雄《さつを》の響矢《かぶら》用《も》ち鹿獲《かと》り靡《なび》けし坂の上《へ》にぞある
 「弓雄」は個人的の意味でなく、この歌は紀國人の古獵場の山を歌つたのである。旅路をして嚴しい山にかかつた。今は旅人の路になつて居るが、坂を上りやつと頂上に著いて見ると、流石に昔の猪鹿の棲處であつた嶮山のほどが思はれる。そこで自らこの山を讃嘆する聲が湧いたのである。下二句まことに自然であつて「坂の上にぞある」と大きく嘆じ上げたあたり「鹿獲り靡けし」の強い響をもつ造語を受けて、十分の重味を以て据つてゐる。下句の心憎きまでの据り方に對して、上三句は幾分ごたついて居り、ことに「響矢用ち」あたりくどく疊みかけた強い句が稍目立つのが惜しい。
 
          ○
(76)      鷺坂にて詠める歌一首
    白鳥《しらとり》の鷺坂山の松蔭に宿りて行かな夜も深《ふ》け行くを
 鷺坂は當時相當の名所であつたであらう。「山城の久世の鷺坂神代より春は張りつつ秋は散りけり」などとある。この歌前評者等の云ふ夜旅の哀愁の漂ふを特徴とする勿論であるが、上句あたりの響きでは、幾分鷺坂の地の名所的觀念からも一首の情調が釀されて居るやうである。尚これは宿舍に泊るのではなくて、當時の旅行から考へて字義通りに松蔭に野宿すると見るが至當であらう。(昭和二年六月「アララギ」第二十卷弟六號)
 
          ○
       舍人皇子に獻れる歌(二首中一首)
    うちたをり多武《たむ》の山霧しげみかも細川の瀬に波の騷《さわ》げる
 「獻舍人皇子歌二首」とある詞書と、次の「冬こもり春邊を戀ひて植ゑし木の實になる時を片待つ吾ぞ」の歌とで、この歌を寓意のある歌として解釋するに至つたのであらう。しかもその寓意について代匠記は、此歌は「佞人などの官に在て君の明をくらまし云々、下句はそれに依て細民の所を得ざるを喩ふる歟。」と解せるに對して、古義は「皇子の御恩澤の普くしげき故に、細微身の上にまで及びて、ほどほどになり出さわげるならむ、吾ひとりのこさるべき由なければ、いかで御心したまへか(77)し」と反對な寓意に解してゐる。多武峯と藤原氏の關係、奈良朝時代に於ける藤原氏の潜勢力、これに對して當時に於ける舍人皇子の上下の重望、皇子は知太政官事として又薨去後は崇道盡敬皇帝の稱號を贈られたほどであるが、藤原氏の勢力とは提携して居られたやうである。長屋王の謀反嫌疑、光明子の立后事件、藤原仲麻呂の淳仁帝(舍人親王の御子大炊王)擁立等の如きである。是等の史實からも、又第二の歌意からも推測して、この歌を寓意歌と見られぬことも無い。もし寓意歌とすれば古義の解よりも契沖の解が自然であり、而してその寓意は藤原氏專横の制御を皇子によつて期待する意であらうか。藤氏の勢力と提携せる形ある皇子に向つて、藤氏抑壓を期待するは一見矛盾せる如きであるが、當時藤氏の勢力の伸張は、これと親善なる者も反疎なる者も、擧げて以て問題として居たのである。舍人皇子の本意にしても複雜なものがあつたに違ひない。故にこの歌が寓意歌ならば這般の複雜な關係から出發したものであらう。所が眞淵の考は別種の意見をたてて、この歌を非寓意歌の如く取扱つてゐる。即ち第二首目の「冬ごもり」云々の歌はこの卷が私の家の集であるから筆にまかせて混入したものであらうと見做して居る。これはきつぱりとした解であつて、或はこの方が耕平、忠吉君説の如くこの歌を自由に味ひ歌としての生氣溌剌たる所に觸れ得てよいかも知れぬ。兎に角、寓意歌としても解され、又全く單純に自然現象を詠んだ歌としても取られることを、彼の神武皇后が手研耳命の陰謀を諷して御子に知らしめられた「狹井川よ雲たちわたり畝火山木の葉さやぎぬ風吹かむと(78)す」等の歌に似てゐる。何れにしてもこの作者の自然現象の直觀は頗る鋭徹せるものがある。たとひ寓意歌としても其處にこの歌に直截の生命が宿つてゐる。「山霧」は寧ろ細雨の交つた霧であらう。考の「山霧は霧雨ならん」と云へるは代匠記、古義の單に霧と解するよりも徹してゐる。「瀬に波の騷げる」と云ふあたり簡にして要を得、山雨至るの光景躍如としてゐる。人麿の傑作「足引の山河の瀬の鳴るなべに」の歌と情趣相似た歌であつて、それほど氣魄雄渾ではないが、その代りしんみりとして靜寂の境裡に鋭い神經の張つてゐる歌である。「茂鴨」は古來普通の訓方に從ひ「しげきかも」としたい。私の好尚から云へば寓意歌としない方がよい。
 
          ○
       舍人皇子の御歌一首
    ぬばたまの夜霧ぞ立てる衣手《ころもて》の高屋《たかや》の上に棚引くまでに
 「衣手の」の枕詞のかかる所、加納君の説には從ひ難い。「二つの意あるべし、一つには何の故もなくたもじを手になして、衣手の手と云意につらぬる歟、二つには袖は手の上に高く懸る意歟」(代匠記)「袖をたぐるが、たぎに約され、更にたかに轉じたので、衣手をと訓むべし」(考)と云つてゐる。代匠記第二説、考の解ともに枕詞に微かな意味の匂を持たしめ「高屋」の「高」を強めむとする心から發してゐる。矢張其處の氣持を受入れてこの枕詞を味ふもよからう。又この枕詞は夜霧にしつとり(79)とした衣手をも因習的に聯想せしめる。しかしこの枕詞は、さうした細かい語感上の注意を一旦忘却して了つて、更に虚心平坦に味ひ直すと、そこに一首の調子に織り込まれて、微妙なる音調上の味を保つてゐるを感じるであらう。一體にこの歌、語法の一明快にして調子の張つて朗かなる所に特徴があり、「棚引くまでに」のあたり、實に作者の感嘆の何物かの深きものを藏し、自然現象の最も眞をつかんでゐて秀歌たるを失はぬ。形意ともに簡明なりとて疎かに出來ぬ。
    編者註琵。(曉曰〕「衣手の」は枕詞として此場合難解なりと古義にも謂へる如く、萬葉人の枕詞の使ざまを考へる時、諸説、首肯し難し。余考ふるに、タナビクに係るに非ずや。例證せざれば意義なけれど今は只斯記し置くのみ、後考を恃む。
 
          ○
       弓削皇子に獻れる歌一首
    御食向《みけむか》ふ南淵山《みなぶちやま》の巖には降れる雪《はだれ》か消え殘りたる
        〔右柿本朝由人麻呂之歌集所出〕
 矢張一首の大眼目は「巖には降れる雪《はだれ》か」にある。「巖」と捉へ來つたのは、これは實見そのものから發しでゐるので巧み又は空で作つてこの品物が作者の頭に湧き來つたのではない。事實や寫生の自らなる威力生命の現れである。尊しとせねばならぬ。「降れる雪か」と嘆じ且疑へるは、少くとも雪が何時降つたのかと疑ひ驚く程の時の降雪たるを示し、例へば初冬に初雪の置いた時か或は晩冬に斑雪(80)の降りたる時かであらうか。この疑嘆と巖の點出に對して結句の「消え殘りたる」はよく、斑雪の長く保ち難き相を寫し得てゐる。古義の「去冬ふれる雪のはだれの、春まで消遺りたる」と解し寓意を附會せるは賛成出來ぬ。殊に略解の「南淵山の花を見て詠めるなるべし」に至つては言語道斷で世間最も愚俗な歌の見解の標本として掲げたが我が赤彦君の卓説と好箇の對照となる。
 
          ○
    百傳《ももづた》ふ八十《やそ》の島廻《しまみ》を榜《こ》ぎ來《き》けど粟の小島は見れど飽かぬかも
           〔右或云、柿本朝臣人麻呂作〕
 全體に一押に大きく押してゐる所がよい。類型歌に墮するが如くして、然らざる所がある。人麿歌風と見ても差支へあるまい。「來《く》れど」よりも「來《き》けど」の方が語調上に常套を破つて居るうへに、「榜ぎ來し八十島」を一々點檢し來つたかの如く、明瞭に過去に言ひ据ゑてゐる。この歌「見れど飽かぬかも」が常用語法としても、作者はひたすら「粟の小島」を嘆美してゐるのであつて、その嘆美感を具體的實際的又は自然有效ならしめるために「百傳ふ」の枕詞、乃至「來けど」の如く特殊に過去を強めて云ふ言葉を用ひてゐるのである。讀者は其處のあたりの作者の苦心を洞察せねばならぬ。これは作者又は解者古義の文法的欲求よりも、寧ろ音聲上の要求から來た語であらう。其處に不可侵なる作者の内生命との交渉がある。(昭和二年八月「アララギ」第二十卷第八號)
 
(81)萬葉集卷十より
 
          ○
        春雜歌
    かぎろひの夕《ゆふ》さり來《く》れば獵人《さづひと》の弓月《ゆつき》が嶽に霞棚びく
 枕詞の用法のうちに一種の氣分感傷を籠めてゐるのは見のがせぬ。そして調を張らせてゐるところこの時代作者の一特徴であらう。
 
          ○
    今朝行きて明日《あす》は來むちふ愛《はし》きやし朝妻山に霞たなびく
 古義の解のうちでは、この訓方よりも寧ろ「又按に云々」とある如く、第三句を「さにづらふ」とした方がよいかも知れぬ。春山模糊、羞恥して朝日にかすむ情景と、作者が前宵の戀愛の滿足のほほ笑ましい感情のゆらぎが、自ら相通ずるものあるが故である。(82)戀情と自然と、何れが主であり從であるか。さう云ふ詮索よりも兩者を結合せしめて一首の情調を作らむとする所に、この時代の歌風の一特徴がある。
 
          ○
    子等《こら》が名に懸《か》けの宜《よろ》しき朝妻《あさづま》の片山岸《かたやまきし》に霞たなびく
            〔以上三首、柿本朝臣人麻呂歌集出〕
 「片山岸に」利いた句で、この歌は上句の形式的序歌的の弊を十分救濟してゐる。或は上句が下句に過ぎて情調的なるよりも、寧ろこの歌の序が意味的、形式的に勝つてゐるのが却つてあつさりとしてこの第四句を生かしてゐるのかも知れぬ。前の歌がねちねちしてゐるに對して、此歌の方があつさりとしてゐる所がある。それは僕には好ましい氣がする。(昭和四年一月「アララギ」第二十二卷第一號)
 
(83)萬葉集卷十一より
 
          ○
    新室《にひむろ》の壁草《かべくさ》刈りに御座《いま》し給はね草の如|依《よ》り合ふ未通女《をとめ》は君がまにまに
 娘を持つた親が、それに通ふ男を聟として許す意を、その男に託して告げた歌と解して居る人もあるが、僕にはこの歌を左樣に限定的な意味を含んだ歌とは解しられない。矢張新室祝ぎに歌はれた歌の種類であつて、「依り合ふ未通女」も多くで、「君」も一般的で特定人を指しては居ないと思ふ。一脈の輕いユウモアを漂はしながら、暢やかに歡んでゐる歌である。
 
          ○
    新室を踏み鎭《しづ》む子が手玉《たたま》鳴らすも玉の如照せる君を内へと白《まを》せ
 これも「照せる君」は特定人ではない。來客の一々を讃めて主人が申すのである。主人を讃める詞客を讀める詞、その何れにしても主客ともに相唱ふる所に祝宴の歡を共にする心が存在する。民謡の(84)發生する一源泉である。この歌などもさう云ふ所から發した匂ひがある。現在的に「手玉鳴らすも」と云つて「玉の如」とすぐ詞を引き取つて使つてゐる點。一首の調子を締めるとともに、一首の感情を流動せしめてゐる。
 
          ○
    長谷《はつせ》の五百槻《ゆつき》が下《もと》に吾《あ》が隱せる妻|茜《あかね》さし照れる月夜《つくよ》に人見てむかも
 これも次の一首と連作として見るべきであらう。さうするとこの歌は現在に密會せる場合の歌ではなくて、隱妻をもつて居る男の氣咎めや世間を憚る情の歌である。「五百槻が下に隱せる」と云ふあたり、稚朴の愛すべきものがある。
 
          ○
    健男《ますらを》の念《おも》ひ亂《たけ》びて隱せるその妻天地《あめつち》に徹り照るとも顯れめやも
           〔以上四首、柿本朝臣人麻呂之歌集出〕
 「健男の」「天地に」云々と一心に大仰に云つて隱妻を世間の目から守つて居る。その口吻や意氣込みが、却つて輕い可笑さを感じさせるのは、作者自身でも左程でもないことを態と多少戯れ氣味で云つて居るからだ。この歌をよむと半面に「何、乃公の隱妻は顯れることはないよ」と云ふほどの作者の安心さが窺はれる。(85)(昭利四年六月「アララギ」第二十二卷第六號)
 
          ○
    行けど行けど逢はぬ妹《いも》ゆゑ久方《ひさかた》の天《あめ》の露霜に沾《ぬ》れにけるかも
 抑へ難き戀欲の情に悩み、秋天月明にひとり彷徨して露霜にぬれるまで夜を更かした、その感傷をそのまま歌つたのであらう。或は女と會ふ諜合があつたかも知れないが、この歌はそれをもつて女に怨を言つて居るのでも無ければ、またこの夜の不首尾を嘆いて居るのでもない。「行けど行けど」と繰返し「逢はぬ妹ゆゑ」と言葉を省略してしかも意味を重くこもらせてゐる上二句の結構。それを下句で簡潔に一押しに力強く歌ひ結んでゐる點注意すべきである。「久方の天」と閑辭の入つてゐるのも、宏く洽く降る露霜を想はしめ、歌が戀愛の要素のほかに、自然に對する感傷の要素を多大に含んでゐるかの感を與へる一助をなしてゐる。
 
          ○
    朱《あか》らびく膚《はだ》も觸れずて寢《ね》たれども異《け》しき心を我《あ》が念《も》はなくに
 この歌に含む感情を眞正面から男が女に對して異心のないことを辯じてゐると解するとすれば、恰もにきび青年の愛の誓立てでも聞くやうで、歌の柄があまく下つてくる。これは男から相許した女に皮肉を言つてやつた歌であらう。「朱らびく膚も觸れず」など古人の肉感的な表現も面白いが、其處(86)にこの歌の作者の愛著も小腹立ちもある。歌がおのづから反語的に聞える譯である。
 
          ○
    いで如何《いか》に極太甚《ねもころごろ》に利心《とごころ》の失《う》するまで念《も》ふ戀ふらくの故《ゆゑ》
 全體の句法がどこか武骨で複錯してゐながら、それを一本の粘り強い調子で押し通してゐるのがこの歌の特徴である。一見言葉の方が勝つてゐるやうに見えて、必ずしもさうでないのも、このためである。鈍重であるが底から一種呻くやうな力を感じる。第四句の「念ふ」は「おもふ」説もあるが矢張短く「もふ」と訓みたい。その方が獨立的な結句「戀ふらくの故」が一首全體に對して通じがよく響くからであつて、「おもふ」と長く重く訓み切るとこの結句がどうも理由説明的になるからである。元來この歌は第四句までの意味を押しつめて行つて足りてゐる歌である。そこに稍くどい所がある。
 
          ○
    戀ふること意《こころ》遣《や》りかね出で行けば山も川をも知らず來にけり
           〔以上四首、柿本朝臣人麻呂之歌集出〕
 「行けど行けど」の歌と似た場合の歌であるが、この歌の方は戀ごころの動きがより主となつてゐる。「戀ふること意遣りかね」も一種の句法で「、山も川をも知らず來にけり」も哀嘆の感情のよく籠つた句であるが、全體の饗に何處か心理的説明の固い滓粕が交つてゐるやうな所がある。前の歌に比(87)し、言ひ足りて餘韻に乏しく、歌が狹こくなつてゐる。(昭利四年十月「アララギ」第二十二卷第十號)
 
          ○
    朝寢髪《あさねかみ》吾《あれ》は梳《けづ》らじ愛《うつく》しき君が手枕《たまくら》觸《ふ》りてしものを
 當世流に云はば、後朝の化粧の鏡に向ひひとり思出して微笑んでゐる所である。或はさきに男にして見せた姿態《しな》を、自分で鏡へ作つて自分で眺めてゐるかも知れない。その意味にてこの歌嬌態痴情の目立つものあれど、必ずしも深く咎むる勿れ。戀の半面には痴があり、殊に女人には、たわいない媚がある。この歌はその位の氣持で味ふべきであらうが、それにしても言ひ種があまり一般的である。
 
          ○
    早《は》や行きて何時《いつ》しか君を相見むと念《おも》ひし情《こころ》今ぞ和《な》ぎぬる
 「早や行きて」「何時しか君を」「情和ぎぬる」など、細かく複雜に、情の自然の動きを捉へてゐる。一體に句法に曲折のある歌であるが、それにしても聲調の張り方が上代歌などに比して幾分乏しいのは、第一二句の調子が急迫してゐるに比して下句がたるんでゐるためか、或はこの一首心緒の説明に過ぎた傾があるためかも知れぬ。
 併し翻つて味ふと、この一首では女性らしい取越苦勞の現れた第二句「何時しか」と云ふ句が強く(88)ひびいて、「早や行きて」と云ふは、寧ろこの第二句を強めてゐるやうにも味はれる。さうすると下句の調子のたるみも時間的に多少その不滿がのぞかれる。要するに下句あたり緊密でない點があるのではないか。
 
          ○
    言《こと》に云へば耳に容易《たやす》し少くも心のうちに我《あ》が念《も》はなくに
 第一句第二句の言ひざまは漢語めいてゐるが時代の一面として注意してよい。併し歌全體は鹿爪らしく議論を吹きかけられてゐるやうだ。
 
          ○
    あぢき無く何《なに》の狂言《たはこと》いま更《さら》に小童言《わらはこと》する老人《おいひと》にして
 男女の仲らひは、それに關心する以上、老若痴情の隔りは少いものである。それを作者が氣恥しく思つたのか。(古義はさう解してゐる。)さうすると下句には一種悲痛な叫びがあるが、上句が生硬で言ひ過ぎの感がある。しかし反對にこの歌を、女から戯れに言ひかけた歌とすると、その言あまりにも皮肉で辛辣露骨である。
         (昭和五年三月「アララギ」第二十三卷第三號)
   2010年5月27日(木)午前11時35分、入力終了。