日比野道男著 【萬葉地理研究叢書第三編】
【萬葉地理研究】紀伊篇
  東都 白帝書房梓
 
(1)     紀伊篇目次
 概説…………………………………………………………………三
 背山妹山……………………………………………………………八
   勢能山…………………………………………………………八
   妹山…………………………………………………………一一
   妹背乃山……………………………………………………一九
 大我野及大家野…………………………………………………二一
   大我野………………………………………………………二一
   大家野………………………………………………………二三
 妻の杜と紀の關…………………………………………………二八
(2)   妻社………………………………………………………二八
   木乃關………………………………………………………三二
 形見の浦その他…………………………………………………三四
   形見之浦……………………………………………………三四
   妹之島、淡島………………………………………………三七
   志都乃石室…………………………………………………三九
   飽等、飽浦…………………………………………………四〇
 磯の浦と吹飯の濱………………………………………………四二
   磯乃浦………………………………………………………四二
   吹飯乃濱……………………………………………………四五
 和歌の浦及その附近……………………………………………四八
(3)   左日鹿野、狹日鹿乃浦…………………………………四八
   若浦…………………………………………………………五〇
   玉津島………………………………………………………五三
   名草山………………………………………………………五六
 黒牛、名高、藤白………………………………………………五七
   黒牛乃海……………………………………………………五七
   名高之浦……………………………………………………六〇
   藤白…………………………………………………………六一
 恐の坂、その他…………………………………………………六五
   恐乃坂………………………………………………………六五
   大埼、神之小濱……………………………………………六六
   須沙乃入江…………………………………………………六九
(4) 小爲手山と絲鹿山……………………………………………七一
   小爲手乃山、安太…………………………………………七一
   絲鹿乃山、足代……………………………………………七三
   蕪坂、鹿打坂………………………………………………七五
 白神より三穗へ…………………………………………………七七
   白神之磯……………………………………………………七七
   湯羅乃前……………………‥……………………………七九
   白崎…………………………………………………………七九
   風早、三穗…………………………………………………八〇
 磐代、その他……………………………………………………八七
   野島、阿胡根能浦…………………………………………八七
(5)   殺自山…………………………………………………八九
   磐代…………………………………………………………九〇
   三名部乃浦、鹿島…………………………………………九二
 室の江をめぐりて………………………………………………九四
   室之江………………………………………………………九四
   出立、松原…………………………………………………九五
   紀温泉………………………………………………………九六
   神島、伊素末………………………………………………九八
   秋津野、人國山、石倉……………………………………九九
 熊野と熊野船…………………………………………………一〇一
   熊野………………………………………………………一〇一
   熊野船……………………………………………………一〇五
(6) 神の崎と狹野………………………………………………一一〇
 玉之浦と離小島………………………………………………一一五
 所在不詳のもの………………………………………………一一七
   今木、今城………………………………………………一一七
   八十隅坂……………………………………………………一一八
   哭澤…………………………………………………………一一八
   遠津…………………………………………………………一一九
   大葉山………………………………………………………一二〇
   曾許比能宇良………………………………………………一二〇
   那賀…………………………………………………………一二一
   手綱濱………………………………………………………一二二
   茂崗…………………………………………………………一二二
(7)   荒津、安良都…………………………………………一二三
   莫越山………………………………………………………一二三
   巨勢…………………………………………………………一二四
   神岳…………………………………………………………一二五
   倉無之濱……………………………………………………一二五
   圓方、嗚呼兒、五十等兒乃島……………………………一二六
   去來見乃山…………………………………………………一二七
   酢蛾島、夏身乃浦…………………………………………一二七
   繩乃浦………………………………………………………一二八
   行相乃坂……………………………………………………一二八
   子島…………………………………………………………一二九
 
 莫囂圓隣……………………………………………………………一三〇
   きのくに………………………………………………………一三〇
(8)   かまやま…………………………………………………一三一
   まつち、みす…………………………………………………一三一
   かくやま、みもろ……………………………………………一三三
眞土山を越えて………………………………………………………一三四
   眞土山、信士之山川…………………………………………一三四
   廬前、角太河原………………………………………………一三七
國號と枕詞二つ………………………………………………………一四〇
   國號……………………………………………………………一四〇
   あさもよし……………………………………………………一四一
   むらさきの……………………………………………………一四二
 
後記
 
(9)   挿畫目次
 
孔島に於ける濱木綿の群生
大崎港
藤白山麓有馬皇子墓碑
紀の川を距でゝ對峙する背山と妹山、及び舟岡山
大我野の一部
妻の森の一部
雜賀の浦
雜賀野より玉津島山を望む
片男波より玉津島を見る
和歌浦片男浪海岸
蘆邊の浦より名草山を望む
黒牛の海を越えて藤白名高の遠望
須佐の入江
(10)有田川を距てゝ糸鹿山を望む
白神の磯
由良の崎
白崎遠望
三名部の浦より鹿島を望む
磯間の浦より神島を望む
紀温泉(牟婁温泉)
秩津野の一部と人國山
室の江
松原より入江(狹野渡)を距てゝ佐野岡を望む
三輪ケ崎
室の浦と離小島
紀の川に注ぐ信士の山川
著者小照
 
大崎港の写真
藤白山麓有馬皇子墓碑の写真
 
【萬葉地理研究】紀伊篇
 
(3)     概説
 
 凡そ、古典に現れた土地の研究は、その文化史的研究の一方面であると共に、註釋に於ける事實的解釋として相當注意されていいものである。乍併、それら古典の註釋書を見るに、從來この土地の研究といふものは殆ど手が着けられてゐないと云っていいのである。
 わが古典中最も多くの註釋を出してゐる萬葉集に於いても、この方面の研究は全く忘れられてゐる有樣である。註釋書の説明を見ても大部分は文獻的研究にとどまり、僅に歌に詠まれた土地の屬する郡名を記す程度である。これでは、勿論一般散文でもさうではあるが、その解釋鑑賞にデリカシイを要する詩歌に於いては特に不都合である。其麼點から自分は萬葉集に於けるこの方面の研究を進めたいと思ふのであるが、それには一々實地踏査に據らねばならぬ。ところが、これは又中々面倒な仕事である。一時に全國に亘つて片付けるといふことは難かしい。そこで先づ、現に自分の(4)住んでゐる手近な紀伊の地から調べ始めることにした。
 紀伊には萬葉集に詠まれた土地が可也ある。現今は所在不明であり乍ら諸書に紀伊と記されたものまで合せると、その數は隨分多くになる。當時の紀伊は、都であつた奈良にも近く相當榮えてゐたものらしい。
 では、それ以前はどうであつたらうか。これを調べて來ると文化史的にも興味深いのであるが、詳しいことは到底わかりさうにもない。
 ただ、この地は本州の南端をなしてゐて黒潮の關係もあり、熱帶植物の分布してゐる所もあつて南洋方面と何か關係がありさうに思はれるが、記紀の記載を信ずると、矢張り出雲民族が早くから來て可也に榮えてゐたことは否定し難いのである。
 
 紀記その他の記載から少し抄記して見よう。
 先づ諾册二神の神話に見える國土生成の條を見ると、二神が天の浮橋に立ち天瓊矛を以て探り滄溟を得られた時、其矛の先から滴瀝り落ちた潮の凝つて出來たといふ※[石+殷]馭廬嶋に就ては、いろんな(5)説があるが新撰龜相記などは今加太浦の西に在る友ケ島の中の沖の島だと記してゐる。その他|沼島《ぬしま》繪島などとも説くものがあるが、要するに紀淡海峽邊のことである。ここの島を最初にお造りになつたといふ神話は、今もこの他に要塞がある通り、ここは近畿中國四國にとり圍まれてゐる播磨灘大阪灣の咽喉を扼してゐて、勢力發展上重要な位置を占めるところから、國土經營の策源地とされたのではなからうかと思はれる。
 なほ伊弉册尊の御遺骸を熊野の有馬村に葬つたといふ説もある。これは今三重縣南牟婁郡有井村有馬に在る花の窟といふものださうである。いづれにしても紀伊が日本民族發展上重要な地であつたことは想像するに難くない。
 次に素戔嗚尊は朝鮮から出雲紀伊の間を屡々往來されて樹木の種子を紀伊へ分布されたといふことであるし、東牟婁郡本宮に在る熊野坐神社は尊を祀つてゐる。
 つづいて五十猛命は海草郡の伊太祈曾神社に、少彦名命は日高郡の御埼神社と海草郡大崎村の粟島神社加太の淡島神社に、大國主命は同じく加太神社と那賀郡の國主神社に各々お祀りしてある。いづれも紀伊とは縁深い神々である。當時の紀伊は出雲民族の植民地であつたと見てよいのである。
 更に神武天皇の御東征があるが、これに就ては改めて呶々する必要もなからう。唯この御東征に(6)依つて紀伊一帶の地が早く皇化に浴したといふことは明かである。
 一層降つて大化改新の頃には大寶令の制度が定り、紀伊にも國司が置かれて、國府は現在の海草郡府中村に在つた。この時は既に管郡も七郡となつてゐた。即ち伊都、那賀、海部、名草(【海部名草二郡今は合して海草郡となる】)在田・日高(以上紀の國)牟婁(熊野の國)(今は東西南北の四郡に分れて南北牟婁郡は三重縣に屬す】)の諸郡である。なほ、紀伊にも國分寺があつて今の那賀部岩出町字國分に位置してゐたやうである。
 
 次に少し萬葉集の詠まれた頃の紀州の交通を考へてみよう。
 どこの國でも大抵さうであるが、紀伊に於ても海岸傳ひの道、それに河川に沿ふ平野を利用する道が早くから發達してゐた。殊に紀の川の縱谷平野による奈良への交通は當時最も榮えてゐて、後の大和街道と大體同じ道筋であつたらしい。その他大阪平野との交通は孝子越《けうしごえ》と雄山越《をのやまごゑ》の二筋であつたらしい。それから南紀への往來は、多くは陸路海岸に沿ふ後の所謂熊野街道と畧ぼ同じ道を通つたらしいが、海路をとるものも無いことはなかつた。加太大崎由良田邊等は當時から明かに相當な港とされてゐたらしい。殊に加太大崎は今こそ衰微してゐるが當時は四國へ渡る爲の樞要な港だつたやうである。海路の交通は後にも云ふが海部族の貢獻するところが多かつたやうである。大體(7)において今の田邊あたりまでが比較的に開けてゐて、熊野地方は未だ交通上では孤立の状態であつたらしい。
 今日まだ田邊にさへ汽車の通じない紀伊の國が當時既に右に述べる如く開けてゐたといふのは、何よりも先づ奈良の都に近く位置してゐて、天皇上皇の行幸が頻繁にあつたことに基因してゐる。これら行幸の御目的は大抵海の風光を賞し乍ら牟婁の湯へ湯治に來られたのであるが、聖武帝のやうに政治的目的でおいでになつて、風光がお氣に入つて行宮にお駐りになつたやうなこともある。いづれにしても四方山をめぐらした大和の地から、廣々とした海の眺めある此國に出て來ることは當時の人々にとつて隨分樂しいことだつたらうと想像される。なほ熊野御幸の盛になつたのは宇多法皇以後のことで、それ以前のことはいろいろ傳へられてはゐるが、正史には見えてゐないやうである。
 兎に角、かうした行幸には隨分從駕の人も澤山あつたらしい。そして天皇上皇には御製があつたらうし、隨伴の人々の中にも幾許の詩人がゐて多くの吟詠を殘して行つた。人麿赤人憶良の如きもこの地に足跡を印して行つたと思ふと、我々には實に懷しい氣持がするのである。
 
(8)   背山妹山
 
     勢能山
 
  これやこの大和にしてはわが戀ふる紀路にありちふ名に負ふ勢能山  (阿閉皇女 卷一)
 勢能山はまた背乃山、背之山などと記されてゐる。今は和歌山縣伊都郡|笠田《かせだ》町に屬してゐて、背山、高田の兩字に跨がる山である。紀の川の北岸にあつて、關西線笠田驛及名手驛から共に約十五町、兩驛の中間に當つてゐる。此處へ行くには、どちらの驛で降りてもいいわけであるが、萬葉の歌枕としての背山をたづねようといふ人には笠田驛で下車されることをすすめたい。大和から來た萬葉人がこの山を見て喜んだ時の心持は、さうした道順によらないと味へないからである。
 
〔写真、背山が二上山型になっている。ただし高低はない。〕
 
(9) 山は海拔一六七、八米、さう高いものでないが、峰は二つに分れ、東の方字背山に屬するのを鉢伏山といふ。これはその形から名づけたものらしい。頂には可也年數を經た松が生えてゐて、中央のやまももの木のもとに小祠の趾がある。西の方字高田にある峰は、今、城の趾と呼ばれてゐる。頂は畧ぼ平であつて、砦でも築いたらしい趾が殘つてゐる。この兩蜂を併せて、せのやまといふのである。
 せのやまは、もとは狹山の義で、ここの地形から起つた名前であるらしい。即ち紀の川に平行して、北には和泉山脈、南側には龍門山脈が連亙してゐるのであるが、此山が和泉山脈から延びて川岸に立つてゐる爲に恰度この所に來て南北の兩峰が相迫つて東西を斷つた地形になつてゐる。孝徳紀に、南自2紀伊兄山1以來爲2畿内國1とあるのも、現在、伊都那賀兩郡の界(山の西の裾を流れる穴伏川を界とす)となつてゐるのも、その地形に因つたものである。併し、この狹山の狹は、その後、兄の假字を用ゐられるやうになり、※[女+夫]の意に解せられ又背の字をも使ふやうになつて行つた。妹山と呼ばれる山の出來たのも、それから後の事であらう。
  眞木の葉の萎ふ勢能山忍はずて吾越えゆけば木の葉知りけむ(卷三)
 今の街道は背の山のところで紀の川の北岸に出て、山の裾をめぐつてゐる。そして、その直ぐ上(10)手を平行して汽車が通つてゐる。併し、昔の街道は、この山の北方を越えてゐたのである。那賀郡誌南海驛路の條に左の文がある。
  弘仁二年の紀に「舊は萩原名草賀太の三驛あり。奈良の朝までは眞土山を越えて萩原驛に至り名草驛に至り賀太驛に至り、其より海上淡路の國由良の驛に至るを南海道の路次とす」とありて、古の官道即ち南海驛路なるものは此路線を指したるものなり、荻原驛は伊都郡兄山の東にありたる一驛にして其時の官道は今の街道より少しく北に位し寶來山明神の社前を過ぎて兄山の北の方を越えて四十八瀬川(穴伏川)の岸に通ぜしといふ。
 この紀の川の縱谷に生じた細長い小平野を利用する南海驛路は、紀伊で最も早く開けた交通路で當時、帝都への最近路として、平安遷都までは可也賑はつたものと想像される。川に沿うたこの路は、至極平坦で變化がなく、僅に眞土と背山の山越えがあるのみであつた。そして、これ等の山は當時の旅人の心を惹くのに充分なものであつたらう。眞土山や妹山背山の歌の殘つてゐるのも、矢張りその爲と見てよい。
  勢能山に黄葉ちりしく神岳之山の黄葉も今か散るらむ(卷九)
 背山は今、山腹に桑畑や蜜柑畑が出來て、木といふ程の木は頂に少しあるばかりであるが、昔は相當繁つてゐたのであらう。後述するが、今保安林となつてゐる船岡山の鬱蒼とした森を見ても、(11)昔の背山の状が略ぼ想像出來る。落葉樹も、今は櫟ばかりであるが、昔は種類も隨分多かつたのであらう。
 
     妹山
 
 妹山は、妹之山、妹乃山などとも記されてゐる。せのやまに就ては、異説は無いやうであるが、いもやまに關しては、古來種々の説がある。ひと通り、諸説を檢討した上で、卑見を添へてみようと思ふ。
 
 先づ第一は、妹山といふ定つた山は無いとする説である。これは宣長が玉勝間九の卷で主張した説で、古義もこれに從つてゐる。
  妹山といふは兄山あるにつきで、ただまうけていへる名にて、實に然いふ山あるにはあらじとぞ思ふ。そは萬葉三の卷に、「かけまくほしき妹の名をこの背の山にかけばいかにあらむ」、又、「このせの山を妹とはよばじ」など、兄の山といふ名につきて妹といふことをもよめれば又妹山といふことも、もうけて歌のふしとせるなるべし。されば背山の事は、たしかによめれど妹山の事とてはさしてよめる歌みえず(中略)なほ(12)妹山といふ山はまことなきことと思はるるは、兄山はたしかにて背山村といふさへあるを、妹山はまぎらはしくしてさだかならず。
 玉勝間の説であるが、實際、
  たくひれのかけまくほしき妹の名をこの勢能山にかけば如何にあらむ(丹比眞人笠麿卷三)
  よろしなべ吾夫の君が負ひ來にし此勢能山を妹とはよばじ(春日藏首老卷三)
の二首を見ると、さうした説も肯けないことはないのである。併し我々は又、
  勢能山にただに向へる妹之山ことゆるせやも打橋わたす(卷七)
  吾妹子にわが戀ひゆけばともしくも並びをるかも妹與勢能山(卷七)
の如き實在感の表れてゐる作を「もうけて歌のふしとせるなるべし」などと輕く見遁したくはない。そして、ここに此説の不備がある。
 この説を支持するものに、本居内遠の「妹山背山辨」がある。彼によると、妹山は背山の兩峰即ち鉢伏と城の跡のいづれかを呼んだもので、「何の方の峰を妹の山とも背の山とも定めて喚分たるには非ず」としてゐる。
  猶此説をいかにぞやと思はむ人もありなむ、今委く説ふべし。前に拔きたる萬葉七、勢能山爾直向妹之山(13)事聽屋毛打橋渡、是即ち背の山の兩峰の間に細流ありて、かりそめなる獨渠などのあるを見て詠るさまなり。直向と云るも、紀の川を隔て相對したらむよりは、此説によらば親しく聞ゆべし。又並居鴨妹與勢能山とあるも、的當して聞ゆ。妹爾戀余越去者勢能山之妹爾不戀而有之乏左、と詠るも親しく押並て兩峰ある状を詠るなり、木道爾社妹山在云櫛上二上山母妹許曾在來と詠るなどは、大和國の二上山は又二上嶽と云て、峰二つ並て正しく二上の名の如し。是と此いもせ山も、同じ形容なるを紀路なるは、名高く背山に副て妹山の名も有ときくを、此大和なる二上山も同じ山の形容にて峰二つありて、正しく妹と呼ぶべき状は有ける物をと詠るにて殊に的證とすべきなり。
 これは面白い説ではあるが、續風土記の編者が「今背山の形東西にいささか分れて兩峰をなせども妹山といふばかりのさまにもあらず」と危んでゐるやうに、鉢伏と城の跡とが、たとへ永年の間に浸蝕や削剥の作用を受け、又は砦を築く時、平らにしたりなどして、變形したとしても、これを妹背と分けるのは鳥渡無理である。殊に兩峯の間に流れがあつたとも想像しかねる。大雨か何かで一時的の流れは出來たかも知れないが、兩峯の高さから見て、雨が止めば直ぐ絶える程度の流れしか出來まいと思ふ。橋などを要する處では勿論ない。「直向と云るも紀の川を隔て相對したらむよりは此説によらば親しく聞ゆべし」といふが、さうなると「事ゆるせやも」をどうするかと云ひたい。又「妹に戀ひずて」に就ては、「妹に戀ひ我が越えゆけば」の句をよく味つたならば、川を隔てる位の(14)事は問題とはならない。なほ二上山の歌であるが、この作者は大和にゐてこの歌を詠んだもので、「紀路にこそ妹山はあれ」と云つても、實際紀伊の妹山を見たことがあるのか、單に名前だけを聞いて歌つたのかはわからない。「ならびをるかも」位からいい加減に想像したものだらうと思はれる。從つて「是と此いもせ山も同じ形容なるを」といふのは危險である。
 
 次の説は背山の裾のところで紀の川に中島があつて、今、船岡山と呼んでゐるが、之を妹山だといふのである。これは重く見られてぬるものではないが、一時私はこの説の起りを、島の兩側を左右に張つて水の分流してゐる状から vagina に擬して出た名ではないかと思つて、多生興味を持つた事がある。乍併、これは無論穿ちに過ぎる。それに、此島は今日でこそ街道が直ぐ川に沿つたし、この島のみが保安林となつて附近の山のやうに斧鉞を加へられない爲に、その美景も賞されるやうになつてゐるが、街道が背山の北側を通つてゐた頃には、單なる川中の小島として行人から黙殺されてゐたらうと思はれる。なほ、後に引用するが、この島はもと背山のつづきであつたといふ説さへある。いづれにしても、背山に對すべきものとは考へられない。この説は古來一部土人の間に傳つて來たものらしいが、先づ採るに足るまい。
 
(15) 今一つの説は、妹山は紀の川の南岸、現在伊都郡見好村西澁田に屬してゐる長者屋敷といふ丘だといふのである。この丘は海拔一二四米、東西打越八町許、南北五町許、恰度、川を距てて背山と相對する位置に在る。頂上は平らで今は蜜柑畑となつてゐる。この丘を妹山とする説は數から見ると最も優勢であつた。代匠紀、紀伊名所圖會、紀伊續風土記、帝國地名辭典、大日本地名辭書、南ゆかり氏(潮音二卷五號)澤瀉久孝氏(黒潮創刊號)、現在行はれてゐる地圖など皆これに從つてゐる。そして、土人も大方さう傳へてゐる。乍併、之等の説といふのも、唯單に、妹山は長者屋敷だ妹山は長者屋敷らしいといふだけで、確かな考證が伴つてゐないやうである。土人の傳へをその儘受入れたのかも知れないが、それにしても、内遠が、
 
  背山村の川の南なる今長者屋敷と云る山を、妹山と云るならむかと思へど、玉勝間に云る如く、せ山よりは此山は雄々しく見えて妹の山といふべくも思はれざる上に、萬葉十三の長歌に妹の山勢の山越而とあるに合はず、又勢能山爾直向妹之山事聽屋毛打橋渡と詠るは、正しくそのさまを見て詠りと見ゆるに背山より川向の山まで打橋を渡すべくもあらず。古來橋ありとだに聞たる事もなし。
 
と堂々反對説を述べてゐるのに對して、今日まで、これといふ反證、解釋の表はれなかつたことは稍寂しい感がしないでもない。
(16) 私も近頃、この妹山長者屋敷説を信ずるやうになつた一人である。これは可也迷つた揚句であつて、未だに充分な自信は持てないのであるが、一應ここに卑見を記してみよう。
 
 さて、妹山を長者屋敷とみる人に疑問となるのは、内遠の列擧してゐる「妹の山背の山越えて」、「打橋渡たす」の二句及び、背山より此山の雄々しく見えることである。
 先づ、「妹の山背の山こえて」の句であるが、之は妹山は兄山と紀の川の同岸に在るといふ説を起したもとと考へられてゐる。
  紀の國の濱に寄るちふ、鰒珠拾りはむと云ひて、妹の山背の山こえて、行きし君いつ來まさむと、玉鉾の道に出で立ち、夕卜を吾問ひしかば、夕卜の吾に告らく、吾妹子や汝が待つ君は、奧つ波來寄す白珠、邊つ波の依する白珠、求むとぞ君が來まさず、拾ふとぞ君は來まさず、久ならば今七日許、早からば今二日許、あらむとぞ君は聞こししな戀ひそ我妹(卷十三)
乍併、此歌は明かに、大和あたりで作られたもので、紀伊での作ではない。そして、此作に於ける妹山こそ全く詞のあやとして用ゐられたに過ぎない。從つて此句は地理的考察をなす際に、價値あるものと見なくてもよいのである。
(17) 次に「打橋渡たす」の句に就てであるが、内遠は「古來橋ありとだに聞たる事もなし」といつてゐる。併し、此邊の古い文獻は秀吉の兵が攻込んで來た當時、到る所で、寶物と共に燒棄てられて、殆ど殘らなかつたと云つてよいのである。從つて内遠もおそらく口傳を頼りとしたもので、直ちに古來橋なしと斷定は出來ない筈である。現に、この一月私が行つた時には背山の方から船岡山に渡る橋が掛つてゐた。それは船岡山の下手に比較的瀬の淺くなつてゐる場所を利用したもので、瀬の中に可也重い石ころを据ゑた架場が三つ出來て、それを介して、丸太の一面を扁平にしたやうな四組の橋が掛けられてあつた。そして、それは水量の増す時には直ぐにはづせるやうな至極簡單なものであつた。私は昔も、かうした橋が、水量の多くない時に向岸まで掛けてあつたと想像しても、さう不自然ではないと思ふ。なほ打橋は家屋雜考によると、ウツシ橋(移し橋)のツシがチに約つたもので「ここへもかしこへも移すべき」橋とある。又集中「打橋わたす汝が來と思へば」の句から推しても、これは、取りはづしの出來る極く簡單な橋だと考へられるから斯うした想像もしてみたのである。
 それから、内遠は「背山より川の向の山まで打橋を渡すべくもあらず」といつてゐるが、これは詞に捉はれすぎた疑問である。兩山の隔てをなす流れにさへ橋をかければ充分交通は出來る。「こ(18)とゆるせやも」といふのも交通を認めるといふ意味であらうから、わざ/\山から山へ橋を掛けたと考へる必要はない。
 なほまた、袖中抄に左の文がある。
 
  顯昭云、いもせの山とは紀伊國にありて吉野川をへだてて妹の山背の山とて、ふたつの山あるなり。昔いもとせうとと河をへだてて中の界を論じけり。つひに妹かちて、せの山の方近く堀りて吉野川をば流したりといへり。
 
信じ難い説だとは思つたが、踏査の際に、船岡山と鉢伏山との土質を檢べてみたが同一であつた。船岡山が、冲積土から出來てゐないとすれば、或は以前鉢伏山と連絡してゐたかも知れない。若しこれが事實とすれば、船岡山と長者屋敷との間の距離は、現在でも僅かに十五六間しか無いから紀の川の極度に狹くなつた所であつて、橋をかけるには、最も便利な個所であつたらうと思はれる。
 斯う考へて來ると、いづれにしても、背山のところで紀の川に橋があつたと見る事が決して無理ではなくなるのである。
 今一つは、長者屋敷の方が背山より雄々しく見えて妹の山といふやうに思はれない、といふのであるが、これは地形を辨へない爲に起る疑問である。實際、長者屋敷は川の眞北から見ると、その(19)背後にある飯盛山(海拔七四五、九米)の山裾になつてゐて、別に峯をなしてゐるやうに見えない。この丘が眞北から、獨立した山に見えない事は、やがて、妹山は無いとか、飯盛山と取違へて背山より雄々しい、などと云はれるやうになつた因である。乍併、ひと度、街道に沿うて少し東か西に離れてみると、川中の船岡山が漸次低くなり、遂に見えなくなると共に、この丘は鉢伏山と相射して浮上つて來る。勿論稍扁平ではあるが、背後の飯盛山と別に確に一つの峯を持つて居ることがわかる。そして鉢伏山の均整のとれた男性的な容に對して、これは又、なだらかで如何にも女性的な姿に見える。私がこの丘を妹山だらうと考へるやうになつた動機はここにもある。
  妹に戀ひ吾が越えゆけば勢能山の妹に戀ひずてあるが羨しさ(卷七)
  人ならば母のまな子ぞあさもよし木の川のべの妹與背之山(卷七)
 
     妹背乃山
 
 いもせの山として出てゐるのは集中三首である。
  おくれゐて戀ひつつあらずは紀の國の妹背乃山にあらましものを(笠金村 卷四)
(20)  麻衣著ればなつかし紀の國の妹背之山に麻蒔く吾妹(卷七)
  大穴牟遲少御神のつくらしし妹勢能山は見らくし好しも(卷七)
 いもせの山といふのは、兩山を併稱する場合と、一山に他を縁語として添へる場合とがあつたらしい。麻衣の一首の如きは、何だか後者のやうな感がする。又この邊に、昔麻を作つてゐたといふことは、長者屋敷のすぐ西南に麻生津といふ地名のあることや、延喜式諸國貢物中に紀伊國麻子十八升と出てゐることから想像が出來よう。
 なほ、袖中抄に「かのいもとせうとこの二つの山の中に小島あり、それを妹背山といふとぞ」とあつて、川中の小島船岡山を妹背山と呼ぶやうに云つてゐる。或は後に、さう呼ぶやうになつたかも知れない。併し、少くとも萬葉にうたはれてゐる妹背山を、妹山、背山と離して、船岡山を指すのだとは信じたくないのである。
 それから、今大和に妹背山なるものがあり、古今集以下の歌集には、それを詠んだ歌も見えるが萬葉に詠まれたものは紀伊のそれであつて大和のものではない。之に就ては宣長も玉勝間で詳しく述べてゐるから改めて論じる程でもなからう。
 
(21)     大我野及大家野
 
       大我野
 
    大寶元年辛丑冬十月太上天皇大行天皇紀伊國に幸せる時の歌
  大和には聞えもゆくか大我野の竹葉苅敷き廬せりとは(卷九)
 代匠記に「仙覺抄に大我野を大和國と注せるは誤なり、歌の趣紛なく紀伊國なり」とあり、略解に「續紀大寶元年九月丁亥天皇幸紀伊國冬十見丁未車駕至武漏温泉と見ゆ、此集卷一、大寶元年辛巳秋九月幸于紀伊國歌とのせたるは御幸の道にての歌にて、今こゝ(卷九)に載せたるは既に紀伊に至り給ひての歌なるべし」とある。また紀伊續風土記にも「宗祇の國分に大我野は美濃にありとするは(22)誤云々」とあつて、この歌の大我野が紀伊の地であることには最早疑ひを挾む餘地がない。
 この大我野に就いて、紀伊名所圖會には、「相賀莊二十六箇村の内、市脇、東家、寺脇、三ケ村の田地の字に相賀臺といふ曠野あり、これ古の大我野たるべし。相賀と記せるは音近きを以て誤れるなるべし。」と記してゐる。なほ續風土記にも、「東家村の坤、陀羅尼寺の前の曠野にて、東家寺脇市脇邊の惣名なり。今、相賀臺といふ是其地なり。」と書かれてゐる。
 これらは共に、現在和歌山縣伊都郡橋本町大字東家(寺脇は今、東家の一部となる)及大字市脇にかけて、約七十町歩を占めてゐる相賀臺の地を指すのである。この地は橋本の停車場から直ぐ前の街道を三四町西へ行つて、橋本川といふ紀の川の支流を渡つた所から西へかけて廣がつてゐる。なほ陀羅尼寺は橋本川を渡つて西へ約一町、街道から二十間ばかり南へ入込んだ場所にあつたが、一昨年附近の觀音寺といふのに合併されて今は廢寺となつてゐる。
 此邊は、山地と紀の川との間が僅に四五町であつて、北も曠野などと記載されるべきところではない。それに東家に屬する方は、土地に高低が多く、その上現在では人家が建ちふさがつてゐて、野といふ感じさへ與へられない位である。併し市脇の方になると、狹いことは狹いが、それでも※[しんにょう+貞]がに平野らしい地形をなしてゐる。それに此邊は笹や竹が多い。市脇には可也大きな藪があり、東(23)家でも人家と人家との間の鳥渡した空地にさへ笹の生えてゐるのを見ることが出來る。殊に紀の川の南岸には、一面に深い藪がつづいてゐる。昔も屹度、笹や竹が多かつたに違ひない。其點、「竹葉苅敷き」といふ句に對して安心が出來る。それから今一つ、「宿りせりとは」の句であるが、わざ/\街道から遠く離れた地へ行つて宿る道理はない、いづれ宿るなら街道に沿うた場所であらう。恰度昔からの街道によつて貫かれてゐる相賀臺は、この點でも萬葉にうたはれた大我野として適はしいのである。
 
     大家野
 
 校本萬葉集は勿論、代匠記も大我野は、そのまま載せてゐる。ところが、路解には「宣長は我は家の誤也といへり。されば、おほやとよむべし」として、大我野を大家野として扱つてゐる。これに從ふものに古義、新考等がある。私は略解古義をもととして調べ始めた爲に大家野に就いても相當探つてみた。以下、調査當時のノートの要點を書付けて見よう。
(24) 大家野の地に就いて古義には、「和名抄に、紀伊國名草郡大屋、神名帳に紀伊國名草郡大屋都比賣社と見えたり」とある。大屋をしらべてみると地名辭典、大屋郷の條に、「和名抄名草郡大屋郷又大屋神戸郷、今、川永村是なり、大屋都比賣神社あり、宇田森といふ山口村の南紀の川の北岸なり、東は那賀郡に至る」とある。これで古義に引用した和名抄、神名帳は共に同じ地を指してゐることが明かである。今、大屋都姫神社は海草郡川永村大字宇田森字神の木にあるが、以前は現在の位置より北方約六町の所に在つたもので、續風土記、北野村大屋大明神古宮跡の條に、左の記事がある。
  村の艮大和御前の東少し高き所にあり。山上に方一間の祠あり、今村中の古き御秡を納むる所とす。即ち大寶中の遷座の地にして、後今の宇田森村へ遷し奉れるなり。
この古宮跡は、いま紀伊村北野に屬してゐる。北野の人家の外れから淡路街道を約四町東に進むと街道から一町ばかり北へ寄つた所に低い丘がある。今、土人はこれをおはらひ山と呼んでぬるが、古宮はここに在つたのである。この丘は和泉山脈の出崎の裾になつてゐて、丘の上には松が五六本祠の址の土塀を圍んで立つてゐる。丘に登ると、紀の川に至る十數町の平地を見下して却々眺望がいい。直ぐ下には淡路街道が白い線を東西に横へてゐる。少し向うには大屋都姫の杜が蓊鬱として(25)見える。そして丘の裾には藪があり、その邊の拓きのこされた畑なかの司《つかさ》には笹が生えてゐる。私はかねて、大家野を調べるに就いては、「竹葉苅敷き宿りせりとは」の句から推して、今も笹や竹が殘つてゐること、古の街道から餘り遠くない地であること、この二つをつきとめ度いと思つてゐた。今この御秡山から宇田森へかけて一體の平地を大家野と考へることに依つて、この二條件は完全に充されるのである。そして私は今のところ、この一體の平地を大家野と考へて差支ないと思つてゐる。
 この地を踏査される人は、和歌山線田井の瀬驛で下車されるといい。それから紀の川の橋を渡つて、その北岸の堤防を十町ばかり東に向ふと川永村に入る。そこから北の方に直ぐ大屋都姫の、杜が見える。御秡山まで行くとしても驛から二十町とはあるまい。
 
 これだけ書きつけておいたが、私はどうも安心が出來なかつた。それは、大屋なる地名が神名から出たものではないかと考へたからである。若し、さうとすると續日本紀、文武天皇大寶二年巳未の日の條に、是日分遷伊太祈曾、大屋都姫、都麻津姫三神社とあつて、この歌の詠まれた大寶元年冬十月には、未だ今の地にも亦御秡山へも祀られてゐなかつた事になるから鳥渡困るのである。そ(26)れでは、分遷される以前に三神を鎭座してゐたのは何處だらうか。
 本居内遠は伊太祈曾三神考の中で、次のやうに記してゐる。
  扨其初の宮地はいまの地にはあらず。當社の古傳に云『此御押そのむかしは、かうの宮と申所に御草創ありしが、是より山東の東に伊太祈曾といへる丸が名に似たる所有りと宣ひて、御跡をば日前宮へ御讓りありて、和銅六年十月初亥に、當所へ移り給へり』とあり。伊太祈曾の地名は、則和名抄に見たる伊太祈曾神戸にて則神號より出たる名なるを、まろが名に似たる所ありなど書たるは、後世事の意をも知らぬものの書加へたるなれども、すべての事のさまは、後世に思ひよるまじき事なれば、古き傳ありてかくしるせりと見えたり。かうの宮は、則神宮郷の事にて今の日前宮の社地に座しなり。かうの宮は案ずるに、こふの宮にて國府宮園部伊達神社の事か。
これによると分遷に就いては、續紀に大寶二年とあつて、伊太祈曾神社の古傳には和銅六年となつて、十一ケ年の差がある。併し、これは三神考に「大寶二年に勅ありて、夫より宮地修造の功をへて和銅六年に遷座の儀整ひたるにて、國史には勅定の日をもて記され、社傳は遷座の日をもて傳へたるべし」とあるやうに考へれば矛盾は無からう。要するに、分遷以前は現在の日前宮の位置即ち和歌山市宮部秋月又は伊達神社の位置即ち海草郡有功村太字園部にあつたことになるが、双方とも大屋と呼ばれた證據がない。從つて萬葉に詠まれた大家野とは考へ難い。してみると、どうしても
 
写真 大我野の一部、妻の森(橋本町字妻)の一部
 
(27)伊太祈曾神社古傳の「丸が名に似たる所ありと宣ひて」の句を尊重したくなる。實際、分遷の際三神即ち五十猛命、大屋都姫命、都麻津姫命を夫々その御名に似た名を持つ伊太祈曾、大屋、妻の三地に分祀されたとも考へられないことはない。勿論、古事記大國主神子親神の申給ふ所に、汝有2此問1者、遂爲2八十神1所v滅、乃速遣2於木國之大屋毘古神之御所1とあつて、五十猛命を大屋毘古神とも云つたのだから、三神を併祀してゐた所に大屋といふ地名が出たとも考へられないことはない。併し、踏査の上から考へてみると、秋月や園部の地は、怎うも昔の大家野とは考へ難い。先づ分遷以前から、大屋の地があつたものと考へて、前記、今の紀伊村北野から川永字田森へかけて淡路街道を挾む一體の平地を、大家野とみるのが最も穩當なやうに思はれる。
 
 以上によつて、大我野及大家野の地は夫々指定し得たと思ふ。併し、大我野は大家野の誤だとする宣長の説には一體如何なる根據があるのであらうか。私は、宣長の著書をひと通り調べたつもりだが、この文獻は見當らなつた。兎に角略解の「宣長は我は家の誤なりといへり」だけでは訂正の理由がわからない。假りに宣長が相賀の地を知らずして、大我野なる地なしとしたものとすれば、それは彼の大きな粗漏でなければならぬ。
 
(28)   妻の杜と紀の關
 
     妻社
 
    大寶元年辛丑冬十月太上天皇大行天皇紀伊國に幸せる時の歌
  紀の國に止まず道はむ妻社《つまのもり》妻よしこせね妻と言ひながら(右一首或云坂上忌寸人長の作卷九)
 この妻の杜に就いて古義には、「和名抄に紀伊國名草郡津麻とあり此は妻社ましますによりて負る地の名なるべし此神社は神名張に紀伊國名草郡都麻都比賣神社とある之なり」と記してゐる。此神社といふのは、今、海草郡西山東村大字平尾字若林に、土人が「妻宮さん」と呼ぶ小祠があるが、その位置に在つたのである。尤も此歌から見ると、杜は街道に沿うた地、或は少くとも街道から遠(29)くない所になければならぬやうに思はれる。その點からいふと、この平尾は昔の熊野街道に沿つては居る。併し、私はこの地を妻の杜の跡とは、どうしても考へられない。ここは山と山との間の小さな丘陵の出崎であつて、とても狭苦しくその上周圍は一體に傾斜地で凹凸も甚しい。此麼地形の所には杜と名のつく程のものは出來まいと思ふ。
 此他にも、もとの名草郡即ち今の海草郡には都麻都姫命を祀るといはれる社はある。前記平尾と同村の字|吉禮《きれ》には吉禮津姫神社といふのがある。ここには鳥渡立派な杜があづて、今土人は都麻都姫命を祀るといつてゐる。併し、ここも天正の亂以來神名さへ忘れられる程衰へたといふことである上に神名帳に吉禮津姫神と明に出てゐる以上、都麻都姫社とは見ない方がいい。從つて、ここの森を妻の杜とすることは出來ない。
 又同村大字|伊太祈曾《いたきそ》、伊太祈曾神社の東南三町許りの田圃の中に、亥の森といふ方二十間許りのこんもりとした森がある。今はその中に小祠があるのみだが、ここが大寶元年に五十猛命を分遷して來た地であるといはれてゐる。これを指して、妻の杜といふ説もあるが、これも妻の杜がよくわからない爲に森でさへあれば妻の杜にしたがる好事家の附會に過ぎない。
 妻の杜が海草郡に在つたものとして、これらよりも私の有力に考へるのは、前記平尾から峠一つ(30)北に越した和佐村字關戸の人家中に在る濟御前社の跡である。ここは今でこそその南隣|禰宜《ねぎ》の山手にある高積神社に合祠されてしまつて、それらしい跡も無くなつてゐるが、つい近頃までは小さい乍ら杜が殘つてゐたさうである。そして、ここのことを土人は「もりさん」と呼ぶさうである。勿論、村の古老の記憶にある頃になつては、もう社といふ程のものもなく只大きな杉の木が立つてゐただけださうであるが、杜さんと呼ばれる以上、いづれ以前は相當の杜があつたものと考へてよからう。そして、ここも熊野街道から遠くはなし、且つ平地であるから杜があつたとすれば眺も可也佳く、行人の目にも留つたと想像することが出來る。
 
 以上は、すべて古義によつて海草郡の方を調べて來たのであるが、なほ今一つ有力に考へるのは伊都郡橋本町字妻の地である。
 橋本の町から街道を東に向ふと、すぐ街道に沿つて南側に土地が三尺許り高くなつた所がある。その上に小祠があるが、これは八幡さんと呼ぶさうで、都麻都姫命とは無關係のものらしい。小祠を中心にして、榎杉椿などが疎に生えてゐる。ここも今では杜といふ程の感じを與へるものではないが、これは周圍を掘崩され、切拓かれた爲ださうである。土人の話によると、ここの杜は街道を(31)挾んでゐたものだが、道の北側は高野行電車の軌道を敷いた爲に全部切拓かれたといふことである。成程街道の北側にはあとかたも無いが、南の方には處々畑や宅地の間に同じ位の高みになつた土地が殘つてゐて樹木も立つてをり、以前一體に森であつたといふことも想像され得る。なほ、紀伊名所圖會、妻の森の條に「妻村にありし森なるべし、妻村は大和街道にて上古御幸道なり」とあるが、この妻村は今いふ橋本町字妻の地を指してゐるのである。
 これで、私は現在妻の杜ではないかといはれる地は盡く擧げて來たつもりである。偖、この中、いづれを萬葉に詠まれた妻の杜とするかの問題である。確實な證據のあがらない今のところ、私は斷定を下す勇氣はないが、最後に記した橋本町字妻の地ではないかと、ひそかに考へてゐるのである。
 一體、古義のやうに妻の名が社名から來たものと見る説には不備がある。即ち此歌の作られた御幸は大寶元年であつて五十猛、大屋津姫、都麻都姫の三神を分遷したのは翌大寶二年となつてゐる。ところがここに列擧した海草郡の地は社名から來たもので、分遷以後の名と見るのが穩かである。尤も平尾に關しては、續風土記に「按するに和名抄郷名に載する所妻神戸の地なる故妻都比※[口+羊]一坐を齋き祀れり」と記してゐるが、これはあまり信じられた説ではない。
(32) それより、單に村名(今は字)から來た橋本の方は、さうした不安がない。それに、これは私の病的敏感かも知れないが、「紀の國に止まず通はむ」の句は何だか紀伊と別れて去つて行く時の感のやうに思はれる。從つて此歌は歸途の作であり、且つ紀伊のはづれに近い所――橋本の方は恰度さうである――まで來て詠まれたもののやうに思はれてならないのである。
 
     木乃關
 
  吾背子が跡《あと》ふみ求め追ひゆかば木乃關守い留めなむかも(卷四)
 この歌は、神龜元年甲子冬十月幸2紀伊國1時爲v贈2從駕人1所v誂2娘子1笠朝臣金村作歌とある長歌の反歌である。
 今、大阪和歌山間の最短距離を走る阪和電鐵は、和泉山脈をよぎるに雄の山の隧道を以てしてゐる。この雄山越えは昔の大阪紀州街道に當るところで、山の南麓に近く、山口村字中筋から六七町北に寄つたところに關が在つたとされてゐる。袖中抄には雄の關守とあり、白鳥の關と呼ばれたのも此處のことである。國府のあつたといふ紀伊村府中からも近く、恰度街道にも當つてゐるし、他(33)に關所のあつたといふことも知られてゐないから、先づ此處と見るより仕方あるまい。尤も此歌を反歌とする長歌には「天飛ぶや輕の路より玉だすき畝火を見つつ麻裳吉木道に入立ち眞土山越ゆらむ君は」なる句があつて、關は大和からの道にないと具合がわるいやうにも聞えるが、もともと此作は大和で金村が代作したものだから、さういふことは大して問題にはなるまい。
 
(34)   形見之浦その他
 
     形見之浦
 
    覊旅作
  藻刈舟沖こぎくらし妹之島《いもがしま》形見之浦《かたみのうら》に鶴《たづ》翔る見ゆ(卷七)
 この歌の形見之浦は現在の海草郡加太町の地を指すのである。ここは和歌山縣の西北隅に當り、和泉山脈が東から來て海に没する所である。元來この山脈は低山性であるから、この邊では殊に山峯が低くなだらかになつてゐる。そして谷筋が三つに分れて海に入つてゐる。その北に在るのが東川、中央が砲兵隊のある深山、南の最も廣い平地を持つたのが今いふ加太である。
(35) 和歌山市を起點とする加太輕便鐵道を用ひて、その終點加太驛で降りると、すぐ前に狹苦しい練兵場がある。その南部に川が流れてゐるが、その川が以前は今の練兵場の中を通つてゐて、其處に鹽入橋《しほいりばし》といふのがあつたさうである。今は町の東端になつてゐるが、橋の名から推して以前はその邊までも、潮が來たのであらう。兎に角、この邊は昔から大分地形の變動があつたらしく、續風土記、加太浦の條に左の記事がある。
  古は村居は今の村より五六町東にありて、今の村地は海中にして曲灣長汀にして鹽を燒き潜女も多かりしこと延喜式に載る所顯然たり。向井氏の藏正和中の文書に鹽濱舊跡を寄進伽陀寺の文あり。今猶又村の東土橋に鹽入橋の名あり。古の地形相見るべし。後世沙土海を填め遠干潟となりしより今の地に移ししなり。
 これによると、冲積作用だけのやうであるが、これは勿論科學的な記載ではない。事實それと共に、この土地が可也上昇して來たことをも見遁してはならない。
 なほ、歌には形見之浦となつてゐるが、今ではこの邊を加太浦とのみ云つて、形見之浦とは呼ばない。これに就いても續風土記に説を列べてゐる。
  加太、形見唱へは異れども同義にして形見は本名ならん。潟海の義にして遠干潟の地をいふなり。然るに下の見を略し音便に從ひて濁音に呼て加太と唱ふるか。或はいふ、加太形見、皆偏海の義にして今俗にいふ片濱のことなり。或はいふ加太は應神天皇頓宮の地なれば筑前蚊田の地名を移せるなりと。
(36)名所圖會の方は、この第一説と合致して、「此地はもと海中にて潮干には遠干潟となれるところなり。是を以て潟海又は潟海浦ともいひて日本三箇の退潮の名所とす」と記してゐる。同じ郡の内には潟に關した地名が他にもある。片男波(潟を無み)、日方(干潟)等であるが、これ等の地名の起りとよく似た點から見て、矢張り第一説が信じらるべきものではないかと思ふ。
 また、この加太は、昔大變榮えたといふことだが、それは古くから四國への通路に當つてゐた爲であらう。この南方にある大崎も同じく四國へ渡る爲の港として記載されてゐたが、どちらかと云へば、この加太の方が一層古いのではあるまいか。一體に太古の人類が海を渡る際には、出來るだけ徒歩で陸續きを進み、愈々舟を用ふるにしても、なるべく島傳ひに行く癖があつた。これは危險の多い當時の航海としては尤もなことである。さういふ點から見て、四國への渡海は、友ケ島や沼島や淡路島を傳ひ得る加太よりの通路が最も早く開けたに相違ないのである。そして可也永くこの交通路は榮えたらうと思はれる。從つて今は人のあまり行かないこの邊が、反つて萬葉人には親み多く、歌にも詠まれるやうになつたのであらう。それから、この歌には藻刈舟と鶴とが出て來てゐるが、この邊は今でも海草は非常に多いさうである。鳥渡海岸を歩いても、渚に打上げられてゐる數種の藻類を見ることが出來る。併し商賣になるのは若布と鹿尾菜位ださうである。鶴の方は今で(37)は全く見られない。昔は和歌の浦から此邊かけて住んでゐたものらしい。一茶の句に「塵溜に鶴の下りけり和歌の浦」といふのがあるのだから、可也近い頃までは居つたのであらう。
 
     妹之島、淡島
 
 前の歌にある妹が島は、加太浦から西北に見える友ケ畠のことである。この島は一見、海中の離れ島の感があるが、實は和泉山脈が海に没して再びその背を現したものである。これは二つの縱列した島から成つてゐて、東北に在るのを地の島、西南のを沖の島といふ。地の島は和泉山脈の先端城崎から八九町、加太から一里位距つてゐる。島の長さ一里、高い所で打越九町といふことである。沖の島は地の島から約五町離れてゐて島の長さ一里半、高い所の打越十三町といつてゐる。この兩島は今では要塞地として上陸を許されないやうになつてゐる。
 偖て、この友ケ島を何故妹が島とも云つたか。これに就いて友島記に「其曰2妹島1者。亦以2神后1謂之乎。或曰以2二島1以2妹兄1也」の文がある。前説は神功皇后が危く難船されるところを苫を流され、それに從つて進まれたので難を逃れられた、その苫が着いた島がこの友ケ島(苫島とも(38)記されてゐる)であつたから、そこから名づけられたといふのである。併し、どうも想像が過ぎるやうである。私は、どちらかと云へば後説を採り度く思つてゐる。
 
 また、この友ケ島は淡島とも云はれてゐたものらしい。現在、加太浦に在つて人のよく詣る淡島神杜は、もと友ケ島に在つたのを遷して來たものである。書紀神代卷に「次生2淡州1、此亦不2以充兒數1」とあり、古事記、仁徳天皇の御製に「おし照るや難波の埼よ出立ちて我が國みれば阿波志摩《アハシマ》おのころ島榔の島も見ゆ幸つ島見ゆ」とあるが、この淡州、阿波志摩は共に友ケ島を指すものとされてゐる。從つて萬葉にある淡島も、この友ケ島だとする説がある。併し、アハシマと呼ばれる島は澤山ある。萬葉に歌はれたものが全部友ケ島とするのは怎うかと思ふ。現に
  武庫の浦を漕きたむ小舟粟島をそがひにみつゝともしき小舟(山部赤人卷七)
は友ケ島とみることが出來るが、
  粟島に漕き渡らむと思へども明石の門浪いまだ騷げり(卷七)
は明に、淡路岩屋にある島を指してゐるのである。
 
(39)     志都乃石室
 
  大汝小彦名のいましけむ志都乃石室《しつのいはや》は幾代へにけむ(生石村主眞人卷三)
 志都乃石室に就いては、大抵の書に所在不明と記されてゐるが、勅撰名所集には紀伊國とある。そこで例の續風土記の編者は、友ケ島の中、沖の島觀念窟の條に説を立てゝ居る。
  按ずるに此窟は志津の石室なるべし。萬葉集載するところの生石村主眞人の歌に、大汝少彦名の將坐志都乃石室者幾代將經とあり、生石は淡路島の地名(著者註、和歌山縣那賀郡にもあり)にして友島の西海上を隔つること二里許にあり。されば村主眞人その地に住て常に舟にて此所を通りて視し所を詠し歌なるべし。淡島大神の鎭り座せしは友島の内の神島(沖の島の側にある小島〕なれども此窟は神島の巽十餘町にあり。徃古大己貴命少彦名命二柱の神此窟にも在せしことありて、眞人かくは詠しなり(中略)生石村主の歌いく代へにけむを、一本には、見れどあかぬかもに作る。今觀念窟の奇絶誠に世にすぐれたれば歌の意にもかつかなひて古の志津の石室は此窟なる事益々明なり。
この觀念窟といふのは沖の島の東北端、地の島に對する所にある。其所は高い巖が斜に立つてゐてその面上の小穴から入れるやうになつてゐる。今は陸軍省から此島への上陸を禁じられてゐるので内部を見ることの出來ぬのは遺憾である。
(40) さて、この説であるが、これは勅撰名所集に紀伊國とあるのみ頼みとして、他は想像に據つたものである。志都といふのが三穗の石室の場合のやうに地名にでもなつてゐれば心配はいらないのであるが、さうではないのだから大膽な説と云はなければならぬ。先づ、此麼説もあるといふことを紹介しておくに止め度い。今のところ、私としては觀念窟を直に志都の石室だと斷定するだけの勇氣は持つてゐない。
 なほ、石見國邑智郡にも、志都の石室と呼ばれるものがあるが、踏査をしてゐないから何ともいへない。
 
     飽等、飽浦
 
    寄物陳思
  紀の國の飽等濱《あくらのはま》の忘貝我は忘れじ年はへぬとも(卷十一)
 宣長は例の玉勝間九の卷で「飽等濱は海士郡賀田浦(今、海草郡加太浦となる)の南の方に田倉崎といふ所ある是なりと里人の云ひ傳へたるとぞ」と記してゐる。今、加太町の西南に、前にも鳥渡(41)引いた淡島神社といふのがあるが、その境内から濱に出て、南方を眺めると、奇石磊々とした磯が續いてゐる。その先に小さな崎があつて、それから南に廻ると田や畑を後に持つた濱になる。この邊一帶を田倉濱と呼んでゐる。そしてその南端の出崎が田倉崎である。この邊の海は加太海峽を出たところで、二十尋三十尋といふ深さであり、潮流も甚しく速い。その爲か、ここで捕れる魚の味は特によいと云はれてゐる。今でも漁人が澤山集る所である。その上、海を距てて遠く阿波、淡路に對し、眺望も却々よい。今でこそ附近に人家もなく、さびれ切つてゐるが、その昔、加太の榮えてゐた頃には大宮人もこの邊まで、海を眺めに出かけたものであらう。
    覊旅作
  網引する海人とや見らむ飽浦の清き荒磯を見に來し吾を(卷七)
 
(42)   磯の浦と吹飯の濱
 
     礒乃浦
 
 帝國地名辭典イソノウラの條を見ると「磯浦(和歌山)紀伊國海草郡西脇村磯脇の古名」として、左の一首が載せられてゐる。
    寄海
  礒之浦に來よる白浪かへりつつ過ぎがてぬれば岸にたゆたふ(卷七)
 續風土記にも「萬葉集に磯の浦に來よる白浪云々とある礒の浦は、この磯脇の地をいふならん」と記してゐる。多分地名辭典の方は續風土記に由つてなされた記載だらうと思ふ。俳しいづれにし(43)ても紀伊の磯の浦を萬葉に詠まれたそれであるとする説のあつたことは明かである。
 この地は、今大字で礒脇となつてゐるが、普通には磯の浦で通つてゐる。これは近年、和歌山市の某新聞社が、この地に海水浴場を開設して、その宣傳に、磯の浦の古名を以てしたからで、今はこの俗稱でしかも古名である磯の浦が一般に知られてゐる。
 ここへ行くには、和歌山市から加太輕便鐵道に乘れば譯はない。磯の浦といふ驛があつて、その前はすぐ海水浴場となつてゐる。
 この古名磯の浦が磯脇となつたことに就ては、續風土記磯浦の條に「南は海に瀕す此地より雜賀莊港川口に至る迄砂濱なり二里濱といふ此地より西は盡く荒磯加太浦田倉濱につづけり此故に當村を磯脇といふ」と記してゐる。
 
  伊蘇能宇良につねよぴきすむをし鳥のをしき吾身は君がまにまに(卷二)
 踏査の際、聞いたところによると、この歌にあるをし鳥は今もなほ、磯脇の背後にある山の陰の池などに、時々姿を見せることがあるさうである。さうした事實から考へると、此歌は、紀伊國の磯の浦で詠まれたもののやうな氣がするのである。
(44) 一體、磯の浦といふと、何處にでもありさうな感じのする地名であるが、事實他には無いらしく思はれる。少くとも私の調べた範圍内では見當らなかつた。
 他にさうした地名の無くして、紀伊にのみあるところから、續風土記や帝國地名辭典の編者が、萬葉集の歌は、紀伊の磯の浦を詠んだものと考へたのではあるまいか。
 それに前抄の二首に現れた磯の浦は地名らしく感じられるが左の如き用例もある。
  水傳ふ磯乃浦回の磯つつじ茂く咲く道を復見なむかも(皇子尊舍人等慟傷作歌卷二)
  奈呉の海の朝けのなごり今日もかも磯之浦回に亂れてあらむ(攝津作卷七)
  玉津島磯之裏末の眞砂にも匂ひて行かな妹が觸りけむ(挽歌卷九)
  湯羅の崎潮干にけらし白神之磯浦箕《しらかみのいそのうらみ》をあへて漕ぎとよむ(卷九)
  わがたたみ三重の河原の磯裏にかばかりかもと鳴く蛙かも(保麿歌一首卷九)
これらは、明かに普通名詞と見るべきものである。
 要するに磯の浦に就ては、前抄二首に現れたそれが、固有の地名であるか、皆普通名詞であるかさへ決定し難いのである。私は、こゝに續風土記、帝國地名辭典の記載と共に、ただ紀伊に磯の浦なる地名のあることを紹介し得るに過ぎないことを甚だ遺憾に思ふのである。
 
(45)     吹飯乃濱
 
  時つ風吹飯乃濱に出でゐつつ贖ふ命は妹が爲こそ(卷十二)
 この歌の吹飯の乃濱に就て考へて見るに、大體二説がある。
 帝國地名辭典、深日《フケ》の條には、
  (大阪府)和泉國泉南郡の村谷川港の北に接し南海鐵道の停車場あり。東に飯盛山峙つ。其海岸を深日の浦といふ。(中略)「月清み千鳥なくなり沖つ風ふけひの浦の明かたの空」(俊成)(他の引歌略す)此地古は吹飯に作れり。
とある。
 同書吹上濱の條のうち紀伊のそれを見ると
  紀伊國和歌山市の西南部より海草郡雜賀村(今は市内)に至る古名。枕の草紙にも「濱は吹上の濱」と記し古來歌の名所なるが今は海邊遙に隔れり。一に吹《フケ》井の浦ともいひ、是も古歌に詠じたり。
とある。
 また古義には次のやうにある。
(46)  紀伊國海草郡(今は市内)にあり。大和物語に、故右京のかみ宗千の君云々亭子のみかどに、紀伊國より石つきたる海松をなむ奉りたりけるを題にて、人々よみけるに、右京のかみ沖つ風吹飯の浦に立浪のなごりにさへやわれはしづまむ、清正(註藤原)家集に紀守となりて、まだ殿上もせざりしに、天津風吹飯の浦に住むたづのなどか雲居にかへらざるべき
   頭註(前略)類字抄に炊飯和泉國日根郡とす。續紀に天平神護元年十甲申到和泉國日根深日郡行宮、夫木集寛平の菊合の歌詞書に、和泉國吹飯の浦云々。(中略)是は紀伊國の任などにて下れる人のよめるなるべし。
 これは紀伊説である。
 更に玉かつま九の卷にも詳しい考證がある。
  (引例歌前出)是等のふけゐの浦は紀の國にて吹上の濱の一名なり。ふけゐといふ名は風の砂を吹きあつむる由にて、ゐは集《ヰ》の意なり。風の砂を吹き集むとは此吹上の濱は西南の風はげしき時は、白砂を高く吹上げて一夜のほどに吹あつめて山をなし、又しばしが程に吹きちらしてもとの平地となり。或は時のまにその所をかふる事あり。これによりて吹上の濱といふなり。(中略)はじめに出せる清正の歌(前出)のふけゐを昔より和泉の國と心得たるは誤なり(後略)
 
 大體紀伊といふ説が有力である。併し、右の諸記載は、遺憾乍ら、私が、こゝで問題にしようとする萬葉集の地名に對して、獨立的な考證とはなり得ない。いづれも、萬葉以後の文獻に據るもの(47)だからである。
 實地に就てみると、和泉の深日の浦は淡路島が此邊では近く前に横つてゐて、海が狹い。從つて「時つ風」といふ感じのする風は吹かない樣に思ふ。その點和歌山の方は、今こそ地形變動のために、海岸から可成り隔つた町の一部になつてはゐるが、兎に角前面の海が廣々としてゐて「時つ風」とか沖つ風とかが吹くといふ感じはしたに違ない。無論この場合「時つ風」は枕詞であるが、「吹飯の濱に出でゐつつ」と實地に歌つてゐるのだから、矢張、單なる枕詞と見ない方がいゝ。その時の情景を取入れたものと考へるべきである。さうすると、どうも、こゝの吹飯の浦は和歌山の吹上濱の方にしたくなつて來る。
 それに和泉の方は海岸が一帶に礫になつてゐるが、紀伊の方は、今でも、宅地や道路になつてゐない所は、風に吹上げられる程度の細砂の地を到る所に見る事が出來る。砂山といふ町名さへあり現在、師範學校や中學校の運動場の背後には砂のまゝの丘がある。
 吹飯の地名が若し砂の吹集るといふことであるならば、かうした事も考に入れて置いてもよいと思ふ。
 
(48)   和歌の浦及その附近
 
     左日鹿野、狹日鹿乃浦
 
 いま和歌山市の南部、和歌浦町雜賀崎村に接する一帶の地を雜賀《さひか》といふ。その中には宇須打越、鹽屋、關戸、西濱等の字があり、打越鹽屋の一部を除いては大體に平地である。この小平野が萬葉に詠まれた左日鹿野で、その西部に在る今の西濱の邊が狹日鹿乃浦であつたらうと思はれる。
  安みしし我ご大君の常宮と仕へ奉れる左日鹿野ゆ(後略玉津島の條に引く)
    覊旅作 藤原卿作未審年月
  紀の國の狹日鹿乃浦に出で見れば海人の燈火浪の間ゆ見ゆ(卷七)
 
〔写真〕雜賀の浦(由良要塞司令部許可濟)
 
(49) なほ、この邊の地貌は、地質時代から隨分猛烈な變動があつたらしい。即ち和泉、紀伊の兩山脈は、淡路、四國の山脈と一連のものであつたのが、第三紀の始め頃になつて、その間が強く陷没して了つた。この時、和(50)歌浦邊から和歌山城附近まで連續する丘陵は島となつて殘つたのでる。その後、紀の川の推積作用と、潮流や風の關係で漸次埋没して、現在の和歌山市雜賀附近の平地を作つたのである。有史時代になつてからの地形變化の原動力は主として紀の川だと云へる。その河道は度々變遷したらしい。そして吹上、雜賀野、和歌等は島の上の聚落であつたらしい。この島は現在の和歌浦から和歌山城附近までの地域に當つてゐる。附圖は續風土記に收められた想像圖で、古事記、國造舊記、續日本書紀等の記事から、奈良朝時代以前の地形を想定したものらしい。どの程度に信の措けるものかはわからぬし、且つ萬葉の頃までには尚ほ多少訂正の必要もある筈だが、參考にもならうと寫してみた。
 
     若浦
 
 現在和歌の浦といへは雜賀崎から毛見崎までの間、和歌浦町及紀三井寺村に屬する江灣を指してゐる。併し、前に述べたやうに此邊も地形の變勤が激しかつたもので、昔は和歌浦と紀三井寺との間に廣い入江があつて、今紀三井寺と呼ばれてゐる一帝の海岸は名草濱といはれてゐたのである。(51)從つて今俗に舊和歌の浦と呼ばれてゐる所だけを和歌の浦といつたらしい。
 
  若浦《わかのうら》に鹽みち來れば潟を無み葦べをさして鶴鳴きわたる(卷六)
 
 この歌の「潟を無み」に片男浪の文字をあてて、今は舊和歌の浦一部の地名としてゐる。この邊に今は大きな堤防が築かれて、すつかり昔の面影がなくなつてゐる。が以前には此邊から(52)北の方玉津島に到る間は廣い潟をなしてゐたのである。そして、この玉津島から北へかけて、五百羅漢附近即ち鶴立島のあつたといふ近くまでを、今も蘆邊浦と呼んでぬる。この邊は以前、入江の岸になつてゐた所で蘆などが生えてゐたのであらう。今も、なほ所々それを見ることが出來る。赤人の歌では、今の片男浪邊から、蘆邊浦の方へ飛んでゆく鶴を詠んだものらしく思はれる。この間四五町の距離があるが、「鳴きわたる」といふ感じも、その位の間を飛んでゆく時に恰度ふさしいではなからうか。
 南遊紀行の筆者は「蘆邊の田鶴など詠ぜし處は東照宮の鳥居の有ところなるべし」と記してゐる。これは何に據つたものかは知らぬが、東照宮下や天神の方は、山がすぐ背後に迫つてゐて、狹い所だし、地質も硬く葦などの生えてゐたところとは鳥渡考へられない。赤人の作の大きい感じは、矢張り廣々とした蘆邊浦の方でなければ出ないと思ふ。
    覊旅作
  若浦《わかのうら》に白浪立ちて沖つ風寒き夕は大和し思ほゆ
    覊旅に思を發ぶ(卷七)
  衣袖《ころもで》の眞若之浦《まわかのうら》のまなごつち間なく時なし吾戀ふらくは(卷十二)
 
〔写真、雜賀野より玉津島山を望む(中央に低く見ゆる山の左端が玉津島山)片男波より玉津島山を見る〕
 
〔写真、和歌浦片男浪海岸(由良要塞司令部許可済) 蘆邊の浦より名草山を望む〕
 
(53)  若乃浦に袖さへ沾れて忘貝拾へど妹は忘らえなくに(同)
追記、和歌浦には久しく鶴の姿を見ることが出來なくなつてゐたが、數年前から禁獵區域に入つた爲か、本年は夏以來毎日干潮時に二十羽に近い「なべづる」が來るやうになつて、電車などが大袈裟に宣傳してゐる。
 
     玉津島
 
    神龜元年甲子冬十月紀伊國に幸せる時山部宿禰赤人が作歌
  安みしし我ご天王《おほきみ》の、常宮と仕へ奉れる、左目鹿野ゆそがひに見ゆる、奧つ島清き渚に、風吹けば白浪騷ぎ、潮干れば玉藻苅りつつ、神代より然かぞ尊き、玉津島夜麻
    反歌
  奥つ島荒磯の玉藻潮みちてい隱ひなば思ほえむかも
  若浦に潮みち來れば潟をなみ葦べをさして鶴鳴きわたる(卷六)
 反歌二首の中前者は地理的に考察の要もないしも後者に就いては既に述べた。長歌の方の左日鹿(54)野も先に述べたが、奧つ島、玉津島及びそれらと左日鹿野との關係がまだ殘つてゐる。
 先づ、「奧つ島」は玉津島そのものを云つたのだと見るべきである。そして玉津島山といふのはいま玉津島神社の背後にある奠供山を指したものらしい。地名辭書には「玉津島は和歌村の南なる妹背山の舊名なるべし。山部赤人の歌に奥つ島とも玉津島ともいふ是なり」とあるが、これは豐田八千代氏が「よく/\實地を調べてみると雜賀のあたりからは妹背山は低くて見えないのである」(【早稻田文學二百五十三號「萬葉集の地理的考察」】)と云つてゐられる通り、明に間違ひである。左日鹿野から、最も目につき易く且つ南方海に向ふ爲恰度そがひに見えるのもこの奠供山である。奠供山は前述した地形變動の關係上、當時は孤島であつたと見られないこともない。從つて、奧つ島と詠まれても不自然ではないのである。この邊は西南風がよく吹くところであるから、さうした時、島に寄せる白浪のさまも面白かつたらうと思はれる。なほ奠供山の名稱に就いて、和歌山縣海草郡誌には「和歌浦の胱望には最も優れてゐる。聖武天皇の『山に登りて海を望む此の間最も好し』と激賞し給ひ、春秋二季に祭饌を奠供せられたによつて此名稱が出たのである」と記してゐる。續紀に、「神龜元年十月天皇幸紀伊國。甲午至海部郡玉津島頓宮。留十餘日。戊戌造雜宮於岡東。詔曰登山望。此間最好。不勞遠行。足以遊覽。故改弱浦。爲明光浦。宜置守戸。勿令荒廢。春秋二時差遣官人奠祭云々。又天平神(55)護元年天皇行幸紀伊。遂至玉津島。の文のあることは周知と思ふが、これ等に依つても玉津島山が奠供山であることは、明白であらう。
 なほ、歌にある「常宮」は、玉津島離宮を指したもので、其位置は左に引く郡誌の記事によつてもよくわかる。
  望海樓遺趾。和歌浦玉津島神社の後方、奠供山の南麓流れに沿うて人家がある。市町と云つてゐる。これ蓋天平神護元年稱徳帝南濱望海樓に御し權りに市〓を置かせられたのに始る。南濱とは此地であつて望海樓は市町の東端旅舍望海樓の邊にあつたものであらう。
    覊旅作
  玉津島よく見ていませ青丹よし奈良なる人の待ち問はば如何に(卷七)
  玉津島見てしよけくも吾はなし京に行きて戀ひまく思へば(同)
  玉津島見れども飽かず如何にしてつつみ持ち行かむ見ぬ人のため(同)
    挽歌
  玉津島磯の浦回の眞砂にも匂ひて行かな妹が觸りけむ(同)
 
(56)     名草山
 
 和歌の浦から眞東を望むと、廣い入江を距てて、京の東山ではないが蒲團着て寝たやうなやはらかな姿の山が見える。これが、その中腹に名刹紀三井寺を持つ名草山である。
  名草山|言《こと》にしありけり吾が戀ふる千重の一重も慰めなくに(卷七)
 
〔写真、黒牛の海を越えて藤白名高の遠望(×印は藤白峠・對岸中央が名高)〕
 
(57)   黒牛、名高、藤白
 
     黒牛乃海
 
  黒牛乃海《くろうしのうみ》紅匂ふ百磯城の大宮人し捜りすらしも(覊旅作)(卷七)
    大寶元辛丑冬十月太上天皇大行天皇紀伊國に幸せる時の歌
  黒牛潟《くろうしがた》潮干の浦を紅の玉裳裾ひき行くは誰が妻(卷九)
  古に妹と我が見しぬば玉の久漏牛方《くろうしがた》を見ればさぶしも(挽歌)(同)
 これらの歌にある黒牛といふのは、漆器の産で有名な今の海草部黒江町の地を指したのである。續風土記黒江の條に「此地古は海の入江にて其干潟の中に牛に似たる黒き石あり、滿潮には隱れ干(58)潮には顯る因りて黒牛潟と呼ぶ黒江は黒牛江の略語なり」と記してゐる。なほ同書に「其後潮水退き人家建並びて黒牛の石も地に没す(村老の傳へに其石埋れて村中道の中央にありといふ)」とあり、名所圖會にも此石の事を、「いつの頃よりか砂に埋れけるが、ひととせ里人のあまた集合して、ほりあらはさんとせしかど、大きにして終に得ほり出さでやみぬるを今はそのあたりまで家居たちつづきて四辻といふ所の石垣の下にありといふ」と書いてゐる。これらの説(59)の通り黒牛の名は石から起つたものらしい。
 なほ、この黒牛の石について最近黒江町大字黒江にある中言神社の社掌山田原氏から聞いたのであるが、それによると、同神社石段の中途踊場の片隅に、深さ五間許りの井戸があるが、その底の方は黒牛の石の一部を穿つてあるさうである。そして、そこから東南へ約一町、入川辰楠といふ魚屋のある所の地下まで埋まつてゐるといふことである。近年その間で、風呂屋を始めるため井戸を掘らうとした人があつたが、その石の爲か、どうしても深く掘ることが出來なかつたといふ話も聞いた。
 この邊は一帶に土地が隆起してゐるし、すぐ背後に山があり、それから土砂の流れて來ることもあり得るから、昔潮の滿干に隱見してゐた石が今のやうな状態になつたといふことも諾くことは出來る。
 たゞ、この石が萬葉集の歌の詠まれた頃にまだ現れてゐたか、どうかは不明である。歌には黒牛の海とか黒牛潟とかあつて、石そのものの詠れてゐないところからみると、當時既に地下に埋もれてゐたやうな氣もするのである。
 
(60)     名高之浦
 
    譬喩歌
  紫の名高浦《なたかのうら》の愛子地《まなごつち》袖のみ觸りて寢ずかなりなむ(寄2浦沙1卷七)
  紫の名高浦の名告藻《なのりそ》の磯に靡かむ時持つ吾を(寄v藻 同)
    寄物陳思
  紫の名高乃浦の靡藻の心は妹に依りにしものを(卷十一)
 名高は現在海草部|内海《うつみ》町の大字名になつてゐる。内海町は、今、北方の日方町と全く家つゞきになつてゐて一寸土地の人でも、その境界を知らない位になつてゐるが、その日方に近接した部分が名高である。この地に、人家が起つたのは天平年中で、熊野街道に沿うてゐた爲、漸次榮えて行つたらしい。併し現在町の中央部の地下は、十五六尺掘ると緑色の土が出で、その上層の土には貝殻を含んでゐるさうだし、又町の東部を横切る紀勢西線の軌道附近では、土を掘るとすぐ蘆の根や、海岸に打あげられたらしい棒切や丸太が出て來るさうである。此等の事實からみると、今の町のあ(61)る邊は海中だつたので、昔の道路なり人家なりは、現在の位置よりは、海に遠く、可也東に寄つてゐたのではないかと思はれる。内海村誌にも、左の記載がある。
  字赤倉里中(大字名高の中の字名)ノ海岸ニ接スルトコロ文政年中里民ノ埋立テシモノニテ寛永以前ハ日方大橋以南船津ニ至ル間一條ノ小徑海ニ沿フニ過ギズ、當時人丸爲家ノ名高浦ヲ詠スル何レモ鳥居村ヨリ望ミシガ如シ
 鳥居村といふのは、今、内海町の大字となつて、名高の東南に隣つてゐる地である。果して鳥居で詠んだか、どうかはわからぬが、これも一つの考へ方であらう。
    寄物陳思
  紀の海の名高之浦に寄する浪音高きかも逢はぬ子故に(卷十一)
何しろこの邊は入江であるから反響がこもり、又遠淺であるから波の背が伸びる。その上濱が西に向つてゐて、紀州に最もよく吹く西風を受けるから、波の音が非常に高く響く。この歌もそこから來たものであらう。名高の名稱さへ浪高の轉化ではないかといふ説のある位である。
 
     藤白
 
(62) 内海町の南部は今、大字|藤白《ふぢしろ》といふが、その南縁は恰度、屏風のやうな形をした山脈があつて東西に走つてゐる。前記名高の地から舊熊野街道を西南に約五町程行くと、山手に藤白神社があるがそこから、すぐ西南に向つて坂道になつてゐる。神社から峠まで約十七町、峠を南へ越えると加茂村|橘本《きつもと》になる。この坂を今でも藤白坂といてゐる。
    大寶元年辛丑冬十月太上天皇、大行天皇紀伊國に幸せるときの歌
  藤白之三坂を越ゆと白栲のわが衣手は沾《ぬ》れにけるかも(卷九)
 舊熊野街道に當つてゐる點から考へても、この歌が、こゝの藤白坂を詠んだものであるといふことに疑ひはない。熊野獨參記に「藤白峠御所芝ヨリ西ヲ見レハ播州攝州泉州及ヒ國國西國目下ニ見ユ餘類ナキ萬境一瞬ノ地ナリ」とも記してゐる通り、峠の眺望は全く素晴らしいものである。
 それから、こゝに引いた歌は、契沖が「二の意あるべし先は此御阪をこゆれば、故郷ことにはるかになればなり、又は有馬皇子の御謀叛のことあらはれて、こゝにしてうしなひまぬらせしことも大寶の頃までは、まだ近ければ、それを感じて涙のこぼるゝにもあるべし」といつてゐるやうに、矢張り「庚寅四年十一月遣2丹比小澤連國襲1絞2有間皇子於藤白坂1」の旬を挾む齋明紀の悲痛な物語を思起しての作と見るべきであらう。
(63) なほ藤白については異説もある。書紀通證では、藤白は熊野に在りとしてゐるが、あの方向へ行かれる筈がない。又大日本地名辭書にも「藤白坂は日高郡岩代濱にありて熊野に接近する地にも藤白といふ名ありしに似たり」と記してゐるが、今のところ、彼の地に藤白と名のつくところも無けば、それらしい坂もあるやうに思はれない。
 以上述べた通り、私は前抄の歌の、藤白のみ坂は勿論、有間皇子が難に逢はれた藤白坂と共に海草郡内海町から加茂村に通じてゐる藤白坂と見るべきものと信じてゐる。併し、それなら皇子は、どの邊で難に逢はれたらうか、その遺骸はどこに葬つたらうか、といふ問題だが、これに對しては然く想像の下しやうもない。
 たゞ現在坂の北麓、藤白神社から西南へ約二町行つたところの道の右傍に、椿の大木があつて、その下に石地藏がある。土地の人は之を「椿の地藏さん」と呼んでゐるが、その傍に「有間皇子之墓」といふ石碑が立つてゐる。これは明治四十三年に内海村保光會といふのから立てたものださうである。
 この企は文明舊紀に「阪下藤松祠有有馬皇子御塚所此所縊死依之至于今松藤生懸」とある傳へから來たものらしい。
(64) この場所には、以前大きな松の木があつたといふことで、今でも、八十歳位の人は、その木の枯れたまゝ立つてゐたのを記憶してゐるさうである。なほ續風土記にも、藤白社といふ條に「天文年中此松の下を掘て金の小佛二體を得たり。一ツは觀音、今町中西法寺にあり。一ツは阿彌陀、今村民の家にあり、ともに面貌古質なり。さて其時松下を穿しに大石にて蓋をしたる石の形あり舊の如く土を覆ひたりとぞ是もしは皇子葬埋の跡ならむ歟」と記してゐる。
 併し、これだけの材料で直に有間皇子のお墓として了ふのは、ちと早すぎる。内務省の神社局からも、近年二回許り調査に來てゐるが、大した收獲はなかつたらしい。
 
(65)   恐乃坂、その他
 
     恐乃坂
 
  父君に吾はまな子ぞ、母刀自に吾はまな子ぞ、參上り八十氏人の、手向する恐の坂に、幣奉り吾はぞまかる、遠き土佐道を(卷六)
 これは「石上乙麿卿土佐國に配えし時の歌」と前書のあるもので、他に二首の長歌と後抄の反歌一首と共に載つてゐる。この歌の恐の坂に就て、雅澄は、天武紀に在る「坂本臣財等、自2高安城1降以渡2衛我河1、與2韓國1戰2于河西1、財等衆少不v能v距、先是遺2紀臣大音1令v守2懼坂道《カシコノサカ》於1、是財等退2懼坂1居2大音之營1、」の文を引いて恐乃坂は「大和國にて河内へ越る所の坂なり」と斷定(66)してゐる。そしてすぐ次に出てゐる後抄反歌の大埼に對しては「紀伊國海部郡にありて」などと平氣で云つてゐる。略解なども同じであるが、これでは困る。如何に寧樂人が暢氣であつても、大和から態々河内に廻つて紀伊の大崎に來たりはすまい。殊にこの歌の前に載つてゐて「石上卿妻作」と註のある反歌には「眞土の山ゆ還り來ぬかも」の句がある。これは明かに夫が紀伊に出立した事を知つての作と見るべきである。怎うしても恐の坂は紀路になければならぬ筈だ。だが幸にして、それはある。而も都合のいいことには大埼に近い位置に在る。これは、筆者最近の發見で從來誰人にも指摘されてゐないやうである。それは、海草郡仁義村百垣内から、有田郡田殿村田角に向つて長峯山脈を越える小徑である。土人はこの坂を賢越《かしこごえ》と呼んでゐる。この坂を萬葉に詠まれた恐の坂と見て惡いであらうか。大和から來て大埼へ出るのにここへ來るのが多少の迂回にはならう。だが河内へ出るやうな不自然さはなく、「まゐのぼり」といふ句もあり「八十氏人の手向する」坂にして見れば少々迂回して幣を奉つたといふのも、却つてぴつたり來るではないか。
 
     大埼、神之小濱
 
(67)  大埼乃神之小濱は狹けども百船人も過ぐと云はなくに(卷六)
 前抄長歌の反歌である。この大埼に就て、古義名處考には「紀伊國海部郡にありて、よき港なり濱に人家ありて遊女なども居り、往來の船、大方この港に着く今も土佐の船の往來に常に泊る所なり、古も土佐にかよふには、かならず此大埼を通りしならむ」と記してゐる。これは名所圖會に「長峯の西の端に在りて海面に突出て其内灣曲をなしてよきみなとなり因りて村中船宿を業とす」とあるのと同地で、今は海草郡に屬してゐる、ここを訪ねようとすれば、紀勢西線加茂郷驛で降りて、すぐ西に見える低い山を越えればよい。又下津驛から船で廻るのも面白い。この邊は名所圖會記載のやうに、長峰山脈が海に没する所で、西方海に突出して、その中に楕圓形の湊を抱いてゐる。「狹けども」と詠まれた通り、その湊は極めて狹く南北六町、東西二丁ばかりで、三方に山があり、南の方の口も直接紀伊水道には向はず下津灣の方へ開いてゐる。從つて感じの上からも極めて狹い。乍併この邊は、地質時代に激しい沈降をなしたもので、所謂リアス式海岸を形成してゐる。それで大埼の湊は狹い割に水は深い。土人の語るところによると七尋乃至十一尋、大船でも人家に纜をつなぐことが出來るさうである。
 昔から、ここが四國へ渡る湊とされてゐた原因として一つは瀬戸内海に跋扈する海賊を避ける爲(68)に恰好な位置にあつたこと、今一つは、紀伊でもここや雜賀崎は早くから、朝鮮民族が居住してゐて、彼等は渡海に熟達してゐたことなどが擧げられるであらう。
 なほ紀伊のこの大埼に對して、異説があるから、鳥渡記しておかう。
 それは此歌の前書によつて、大埼を土佐の地名とする説、今一つは恐の坂を大和から河内へこえる坂として考へる爲に、さうすれば大埼は紀伊のものではあるまいといふ説である。
 以上二説の中比較的有力であつたのは後説だが前述通り恐の坂を紀伊の賢越と見れば問題にもならない。
 それに神の小濱の神も、カムと訓むものとみて、この邊一帶を今、加茂谷《かもだに》ともいふから、之をカムの訛つたものと考へては、どうであらう。これに就て、古義では、伊太岐曾大權現が「まもりうしはきますが故に」としてゐるが伊太岐曾は古義の記述のやうに近くないから、鳥渡此説は不自然である。何分前述通り「狹けども」の地形もその儘この地にあて嵌るのだから、この大埼を萬葉のそれと見るのに、何等支障は無いと思ふ。
    寄物陳思
  大埼の荒磯の渡はふ葛の行方もなくや戀ひ渡りなむ(卷十二)
 
〔写真、須佐の入江、有田川を距てて糸鹿山を望む(×印が峠)〕
 
(69)     須沙乃入江
 
  味鳧の住む須沙乃入江《すさのいりえ》の荒磯松我を待つ兒等は唯一人のみ(卷十一)
 略解に「すさは神名帳、紀伊國在田郡須佐神社とあり、こゝならむ」とある。この須佐神社は今有田郡保田村字高田に在る。紀勢西線の箕島驛で下車して有田川を南に渡れば左程遠くはない。この社は素盞嗚尊を祀るもので縣社となつてゐるが、劔難除の神として參拜者も可也多く隨分遠い所からもやつて來る。
 今此邊を地名として、須佐と呼ばないやうになつてゐるが續風土記に「此地古須佐郷といひ」とあり、社家の傳に「和銅六年十月初亥日此地に勸請す」とあるところから見ると、隨分古く萬葉の頃からも、この邊を須佐と云つたらうと思はれる。
 偖、須佐の入江だが、それは社の境内から一町ばかり、南に出ると、高田浦といつて、入海になつたところが、そこである。前面には鷹島とか黒島とかいふ小島が散在してをり、入海の兩翼には山が迫つて、海岸は大部分磯となつてゐる。そして形のいい松が澤山にある。歌に詠まれた荒磯松(70)である。それに土地の漁夫の話によると、今でも、あじ鴨が居て、晝はこの入海に泛んでをり、夜は山を越えた背後の田で眠るのださうである。これらの點からみて、この地は抄歌の「味鳧のすむ須佐の入江の荒磯松」といふ序に、いかにもふさはしいではないか。
 尤も略解にも「卷十四に未勘國と註せし中にこの歌下句かはりて入りしは東國にも同名の地有か」とある。
  味鳧の住む須佐の入江の隱沼のあないきづかし見ず久にして(卷十四)
 地名辭典須佐の條には、「尾張國知多郡豐濱村の字、」といふのがある。十四卷のは、その地の詠だらうか。なほ同辭典には、出雲國飯石郡や長門阿武郡の村名にも須佐といふのが出てゐる。今、それらの地と比較して物が云へないことは何より遺憾である。
 
(71)   小爲手山と絲鹿山
 
       小爲手乃山、安太
 
    覊旅作
  安太へ行く小爲手乃山の眞木の葉も久しく見ねば蘿《こけ》むしにけり(卷七)
 この作の小爲手乃山の所在に就いては三つの説がある。
 先づ、玉かつまを見ると「在田ノ郡山保田ノ庄に推手村と云ふ有りこれか」と記してゐる。ここは今、有田郡安諦村字押手に當つてゐて、郡の東北端、伊都那賀兩郡に堺する偏僻の地である。
 若し、この地に在る山を小爲手乃山だとすると、安太は後に云ふ安諦と同じく、英多郷即ち山保(72)田莊を指すものと見なければならぬ。成程推手村の位置は山保田莊だけに就いて云つても東北端に當つてゐるから、「安太へ行く小爲手乃山」とも歌へないことはあるまい。今でも山の背傳ひの道による高野方面との往來もあるから、昔時ここを通過したと考へられないことはない。殊に近年この有田郡の奥から天平時代の佛像が出てをり、吉野朝時代にこの通路が利用されてゐる事實などを併せ考へると相當この説は有力だと思はれる。
 次は名所圖會の説である。同書に「才阪。小畑村の領にて峠を在田郡の堺とす、萬葉集(抄歌略す)の小爲手山をサヰデノヤマと訓み其さゐで阪を訛りて才阪といへるなるべし」と記してゐる。
 この阪は海草郡濱中村字小畑から有田郡へ通じるものである。山の向側には、有田郡の宮原村字畑や保田村などの名を持つ地があるが、若しこの才阪を小爲手乃山とすれば、安太が訛つて畑《はた》になつたか、安太をヤスダと訓んで保田といふ字を當てるやうになつたか、いづれかに解してゆかねばならぬ。
 なほ、略解には、「紀伊牟婁郡緒捨山今も有り」と記してゐるが、所在不明である。略解の今も有りはどうも當にならぬものだ。
(73) 以上三説を列べたが、今の私には何處と斷定する勇氣はない。ただ第一説が比較的無理がないやうな氣がする。
 能因歌枕には此歌の小爲手山を備中に在りとしてゐるが、これも頼みにならぬ説である。
 
     絲鹿乃山、足代
 
    覊旅作
  足代すぎて絲鹿乃山の櫻花散らずあらなむ還り來むまで(卷七)
 この歌の絲鹿乃山といふのは今、有田郡|糸我《いとが》村に在る。紀勢線宮原驛で下りて、有田川の橋を南に渡ると此村に入る。山は今、絲我峠といつて湯淺町に越える道に當つてゐる。坂道十四五町、宣長が、玉勝間で「絲鹿の山は熊野の道の坂にて、これも有田郡なり。北の麓に糸我の里又糸我王子ノ社と云ふも有とぞ」と記してゐるのが此山である。私が山を越したのは一昨々年の確か四月二日であつたと思ふ。坂の兩側のなぞへには可也澤山の山櫻があつて、恰度咲き盛つてゐた。氣候の暖いためでもあらうが此邊は山櫻の開くのが早い。「散らずあらなむ還り來むまで」と歌つて通つた(74)萬葉人も、開きの早い花に一層興味を持つたものであらう。一體に紀州の山には櫻は少いのであるがここには昔からあつたものとみえる。
 次に足代である。これは書紀持統天皇の卷に、三年八月云々紀伊國阿提郡云々とあり、續紀大寶三年ノ條に阿提、天平三年の條に阿※[氏/一]、と記されてゐるものと同一であらう。類聚國史に、大同元年、改2紀伊國|安諦《アテ》郡1爲2在田《アリタ》郡1以2詞渉2天皇諱1也とあるのも、亦この足代のことと考へられるのである。
 前述通り絲鹿山の所在は今も、その名が殘つてゐて、確實であるが、この足代の方は、もう一つ確かでない。併し、絲鹿が碓定してゐるから、いづれ其附近であらうことは想像される。古義には、「和名抄に紀伊國在田(阿利太)郡とある是なり、かくて此も元は一郷一邑の名なりけむが後に廣く郡名とはなれるなるべし、さらずば絲鹿山も、今は在田郡なれば、足代過而とは云べきにあらざればなり」と記してゐる。阿提が一郷の名であつた當時は、どの邊の地を指したのであらうか。それに就て續風土記に次の記載がある。
  阿提は即英多にして原一郷の名なり。當郡古五郷英多郷温笠郷吉備郷奈郷須佐郷といふ。中世郷名廢して九莊の名起れり、英多の地は山保田莊となり(下略)
(75)この山保田莊は前項小爲手乃山のところで述べた通り深山僻地である上に、位置から云つても、此の地を過ぎて來て、絲鹿山を越すのは不自然である。
 だが、天野丹生家譜に當川とあり、東鑑元暦元年阿※[氏/一]河莊とあり、高野建久八年文書にも安世川莊と見えてゐる。これは此地を流れてゐる有田川上流の部分名であつたのだらうと考へられる。そこで、私は、阿提が一郷一莊の名から郡全體の名となつたやうに、初め上流一部を當川と呼んでゐたのが、下流まで全體をもアテ川といふやうになつたのであるまいかと思ふ。かう解釋して來て、絲鹿山附近の有田川を渡て行つた時と見てはどうであらう。さうすれば地理的に見ても少しの無理もない。今のところ、私は以上のやうに考へてひとり安心してゐる。
 
     蕪坂、鹿打坂
 
 蕪阪は海草郡濱中村沓掛から、登り約八町で峠に達し、南方有田郡道村に降る阪であるが、この阪を
  木ノ國の昔弓雄の響矢もち鹿取り靡けし坂上にぞある(卷九)
(76)なる歌の典故なるべし、といふ説がある。所は違ふが神武記に、兄宇迦斯以2鳴鏑1待2射返其使、故其鏑所落之地、謂2※[言+可]夫良前1也とある例や、此邊に近年まで鹿の出たといふ話もあるから、典故なるべしなどといはれると、其麼氣もするのである。
 なほ、この坂から有田川を距てた南方、絲我山の西に鹿打坂といふのがあるが、そちらの方ともいはれないことはない。
 更に、坂上を地名として紀州舊跡志に「山口庄西村の中にあり」と記してゐる。國府趾、紀の關趾もその附近ではあり、坂上といふ姓も殘つてゐるから或は此地であつたかもわからぬ。
 
〔写真、白神の磯 由良の崎(神谷崎)〕
〔写真、白崎遠望 三名部の浦より鹿島を望む〕
 
(77)   白神より三穗へ
 
     白神之磯
 
 名所圖會、白神之磯の條に、「白上山の山脚海に入りて灣をなすを以て白上磯といふ」と記してゐる。この白上山は、普通に栖原山《すはらやま》と呼んでゐるが、この山は今、有田郡栖川村字栖原の地に入つてゐて、明惠上人の開基になる施無畏《せむい》寺が、その中腹に在る。この山の裾が磯になつてゐるが、それが白神之磯である。ここへ行くには紀勢西線湯淺驛で下車して、その町端から北へ低い丘を一つ越せばよい。なほ別に紀伊宮原驛で降りて絲我山を越えて來る道もある。
    大寶元年辛丑冬十月太上天皇大行天皇紀伊國に幸せる時の歌
(78)  湯羅乃前《ゆらのさき》潮干にけらし白神之磯《しらかみのいそ》の浦みをあへて榜《こ》き動《とよ》む(卷九)
白神之磯と湯羅との關係に就ては、澤瀉久孝氏の周到な考證があつて、私も全然同意見であるからその儘ここに引用さして貰はう。
  由良はここから見る事は出來ないが名所圖會にも『此浦より由良へ渡りたまへるならん』と云つてある通り、こゝから由良へは古の航路と思はれこの浦から東南(筆者註西南の誤植ならむ)にあたる白崎へ廻つた南にあるのだから『潮干にけらし』と思ひやつて詠まれたものとしてふさはしい。
  愛知潟潮干にけらし知多の浦朝こぐ舟も沖に寄る見ゆ(卷七)
  櫻田へ鶴鳴き渡る愛知潟潮干にけらし鶴鳴き渡る
などの歌を參考として見る事が出來る。(黒潮第二號)
 なほ、この白神之磯に就ては異説が二つある。一つは、前述大崎の西に在るといふので、山中藤九郎撰「紀州名所和歌集」に「白神磯、大崎浦之西に有」とあり、「紀州歌枕抄」にも「大崎浦に有之」と記してゐるものである。他は大日本地名辭書に水路志を引用して、「按に萬葉集湯羅の前なる白神磯とあるは即白埼なり」とあるものである。
 乍併、前者は位置の上から由良と離れ過ぎてゐて不自然であり、後者に就ては、白埼といふのは集中別に白埼として詠まれてゐるし、白埼を白神磯と云つた例は見えないのだから、取るべき説で(79)はない。
 
     湯羅乃前
 
 湯羅乃前は、また湯等乃三崎ともなつてゐる。
    羈旅作
  妹が爲め玉を拾ふと木國之湯等乃三埼に此日暮しつ(卷三)
 今、紀勢西線に、由良といふ驛がある。其邊一帶に日高郡由良村であるが、その驛から十町許り西に出ると、由良横濱町といふ港町がある。由良港ともいつてゐる。萬葉に詠まれた由等乃三崎はそこの入海を北方から抱きつつ、西に突出してゐる岬を指したもであらう。これは今、神谷崎《かんやさき》と呼ばれてゐる。
  あさびらき榜き出で我は湯羅前《ゆらのさき》釣する海人を見て歸り來む(卷九)
 
     白崎
 
(80)  白崎は幸く在り待て大船に眞楫繁貫きまた歸り見む(卷九)
 白崎は、由良の西北方に突出した岬で、この邊は日高郡白崎村になつてゐる。この岬は、その南方に在る小浦崎、日の御崎等と共に、前述長峰山脈の南に併走する白馬山脈が海に没するところに當つてゐる。風浪の險所の一つである。
 ここに抄した歌は、勿論船の上からの作であるが、「幸く在り待て」の句は、意味の上では單に白崎に幸くあり待て、と呼びかけてゐるのではあるが、どことなく危險な當時の舟旅をする作者の不安な心持も調べの上に滲み出てゐるやうに思はれて、惹付けられる一首である。
 なほ、白崎の名の起りは、大日本地名辭書に水路誌を引いて「石灰石より成り雪白色を呈す、故に此名あり」と記してゐるが、これは事實だらうと思はれる。實際汽船の上から見ると、何も知らぬ一般乘客でも、純白に近い岬の岩の色に目を瞠る位である。近頃は、セメントの原料として此邊で石灰石を削取してゐるから、一層白く見えるのである。白崎へ陸から行くには、由良横濱から約二里の山路を歩まぬばならぬ。舟に乘る方が便利である。
 
     風早、三穗
 
(81)    和銅四年辛亥三穗の浦を過ぐる時詠める歌二首
  加座※[白+番]夜能美保乃浦廻《かざはやのみほのうらみ》の白躑躅見れども不怜《さぶし》し亡き人思へば(卷三)
  みづみづし久米能若子がい觸りけむ磯の草根の枯れまく惜しも(卷三〕
    羈旅作
  風早之三穂乃浦廻を榜ぐ舟の船人騷ぐ浪立つらしも(卷七)
 これ等の歌にある三穂乃浦廻といふのは、紀州航路の難所とされてゐる日の御崎を東に廻つた海濱一帶を指すのであらう。今の日高郡三尾村から和田村へかけての地を呼んだものであらう。
 この地を訪ねようとする人のためには、紀勢西線御坊からする海沿ひの道と、由良から比井産湯を經て來る山越えの道とがある。前者は平坦な道路を自動車が走つてゐるから樂ではあるが、後者を辿る味ひには較ぶべくもない。
 此邊は、今でも海岸近く迫つてゐる山の傾斜に躑躅が密生してゐる。私は花時に行合はなかつたが、その跳めは見事だといふ話である。「白躑躅」の語もしのばれて懷しい。
 また、この和歌山縣は土地が洋上に突出した半島から成つてゐる爲に、風力は常に強く、暴風の多いのも氣象上の一特徴とされてゐる位である。これは南支那海方面に發生する低氣壓の進路が紀(82)伊半島を目ざして來る場合が多いからである。その普通の進路は大隅の南端を掠め、田邊灣に來て斜に半島を横切るのであるが、風速からいふと日の御崎が縣下第一で、三尾はこの日の御崎のすぐ傍てあつて、「風早の」と詠まれたのも尤である。
 
    大寶元年辛丑冬十月太上天皇紀伊國に幸せる時の歌
  風莫乃濱の白浪いたづらにここにより來も見る人なしに
 風莫を風早の誤りといふ説に從へば、前書の關係上疑もなく、この地を詠んだ作である。そして三穗といはず、單に風早乃濱とも呼んだといふ事も知られるわけである。併しこの用例はこれ一つであるし、風莫をそのままカザナギと讀まれてもゐるから、風莫乃濱そのままとしても考へておかねばならぬ。紀路歌枕抄に、今の西牟婁郡瀬戸鉛山村にある綱不知を指して「山陰の入江にて難風の時も此浦へ漕入ぬれば船の碇もおろさず綱にも及ばず此故に名付ともいふ海深き故の名ともいふとて此所風なぎたる浦なれば風莫濱とも云々」と記してゐる。穿ちすぎたやうな説だが、或はさうかも知れない。綱不知は、現在でも少し浪があると湯崎通ひの船は皆此所に着いてゐる。この春、聖上行幸の際もこの地から御上陸になつてゐる。大寶元年の御幸にも、この綱不知を通過されたや(83)うな氣もする。
 
 次は、三穗乃石室である。
    博通法師が紀伊國に往き三穗乃石室を見て詠める歌
  はたすすき久米能若子がいましける三穗乃石室は見れどあかぬかも(卷三)
  常磐なす石室は今も有けれど住みける人ぞ常なかりける(卷三)
 この石室に就て大體三つの説がある。第一は、三尾村の東、和田村に在る御崎大明神社の西北十七町餘の山中であるとしてゐる。第二は、三尾村の後磯《うしろいそ》といふ所にあつて、今、久米の穴と呼んでゐるものを指してゐる。昔は之をウツクシナと云つてゐたらしい。今一つは、遺趾不明とする説である。
 先づ、續風土記の記載を見よう。
  御崎神祠の西北山間幽奥の地に土人|古邸《フルヤシキ》といひ又淨明寺趾と云る所ありて、その地南向にして上下二壇ありて石垣を築きて平坦の地となす。二壇に通じて廣さ一畝半許今猶礎石も遺りまた割石眞砂の類などもありて舊く屋宇を構へし址と見ゆる形あり。意ふに若子潜匿してこの山谷の中に隱れ住たまひ此所にて薨したまひしなるべし。其上の壇は即ち若子を葬り奉りし地にして下の壇は若子の住みたまへる石室の址なる(84)べし。若子薨するの後猶ゆかりのものの此所に住て御墓を守りしものありて稍のちになりてその廬のこれるならん。博通法師が「常盤なす石室は今もありけれど」とよみ「久米の若子がいましける三穗の石室は見れど飽かぬかもなど詠しをみれば後までもその巖居の形はありしなるべし。
 この説に對し、日高郡誌は左の如く否定してゐる。
  古屋敷の地幽奥の境にはあれど石室などあることなくその石垣竝に遺物土器の破片など斷じて上世のものにあらず。又若子の墓所なるべしといふ上壇の地も平平坦にして古墳または其痕跡すら認むる能はず。此邊もとより往古の三穗の内なるべけれどこれを以て三穗石室の遺址なりとするは甚しき謬斷なりと云はざるべからず。
 第一説に對する郡誌のこの否定は正しいものだと私も信じてゐる。
 次に第二説として、名所圖會の記載を引かう。
  三尾浦の後磯といふ處に大巖窟あり。海上に南面して磯邊に大小の巖むら重れり。此窟海面に臨み迫ると雖も敢へて風濤衝突の患なし。上古は如何ありけん今考へがたけれど現に三尾の名を存しかかる巖あれば萬葉集に見えたるは此地なるべし。かの歌どもは船中より見て讀めりと覺し風早の濱の白浪なども合考べし。
 この説に對しても、本居内遠は疾く三穗窟考の中で「浪高き時は窟中へ潮入るさま人の住居すべき體とも見えず」と記してゐる。郡誌の編者も内遠と同じ理由で否定し、「要するに三穗石室は今の三尾村附近にありしなるべけれど今その遺址明かならずといふの外なし」と悲觀説をとなへてゐる。
(85) だが、私は踏査の結果、名所圖會の指摘する所謂「久米の穴」が萬葉に詠まれた石室ではあるまいかと思ふやうになつたのである。尤も、この附近には巖窟の數も大小合して隨分に有る。著しいものだけでも、お六穴、鳩穴、うそ穴、それから少し離れてはゐるが日の御崎の下に在る上人穴などの名を擧げることが出來る。これ等は皆海水の浸触によつて生じた所謂海蝕洞だから、いづれ、もとは波浪が打込んでゐたのであらう。だが、現在の位置から云ふと、久米の窟の地面は別圖に示す通り、干潮時には水面から二丈二尺、滿潮時には一丈九尺、大浪の時でさへ波頂から一丈三尺の高さにあるといふことである。
 昇降常ない此邊の土地に就ては、容易に推測を許さぬものであるから、萬葉の頃、この穴に波が打込まなかつたらうなどと大膽なことは云はれないが、少くとも現在三尾及其附近に在る穴の中で最も有力視されていいものは、この久米の穴である。
 また、この穴には、以前乞食が住んでゐたから、それを追出し、土人が清めて志米繩を懸けたものださうである。なほ、この穴の入口の傍には、今も松の木が立つてゐるが、この附近に松の木の多いところを見ると、萬葉の頃にも、それが石室戸に立つてゐたと見ても不自然ではないと思ふ。
(86)  石室戸に立てる松の木汝を見れば昔の人を相見る如し(卷三)
〔久米の穴の図有り〕
 
(87)   磐代、その他
 
     野島、阿胡根能浦
 
    中皇命の紀伊温泉に往ませる時の御歌
  吾が欲りし野島は見せつ底深き阿胡根能浦の珠ぞ拾はぬ(卷三)
 この御歌の野島阿胡根能浦を淡路と記してゐる書もあるが、前書に紀伊温泉とある以上、それは明に誤りでなければならぬ。宣長は玉勝間九の卷に「野島阿胡根能浦は日高郡鹽屋浦の南に野島の里ありその海べをあこねの浦といひて貝の多くより集るところなり」と記してゐる。ここで宣長の指してゐる野島は現在、日高郡田村に屬してゐる。此野島の名は西部壁崎が昔、海上に突出してゐ(88)て恰も島のやうな形をしてゐたところから起つたものらしい。今は御坊から田邊行の自働車が、ここの聚落の中を走つてゐる。「吾が欲りし野島」といはれる程の景勝地ではないが、以前壁崎が島のやうに見えた時分には相當眺望も佳かつたらうと思はれる。
 それから、阿胡根能浦だが、此邊の海の深いことは御歌にある通りであるが、今阿胡根の名は殘つてゐないらしい。土人にも尋ね、文獻も漁つてみたが手がかりがない。宣長の頃には、あこねの浦と云つてゐたらしく書いてゐるが、どうも玉勝間のあの記載だけでは安心し難い。ここから、ずつと南へ行つて湯崎温泉のすぐ西南に在る千疊敷の附近に阿胡が島といふのがあるが、あの邊の海を云つたものではなからうか。さうすれば中皇命の行かれた紀伊温泉といふのは、恐らく湯崎のことだらうから、位置の上からも不自然ではないと思ふ。
 なほ、續風土記に左の記事がある。
  野島、紀三井寺村の西毛見浦の界にあり、周回四町餘高二町餘箆竹の生たるより箆島と名つく。今は紫草小松の山なり。村の四至を記したる古文書に見るに古は此島と地方との間海濶くして深かりしと見ゆ。後海面埋りて干潮には徒渉すべきほどなりしに近年其島を楯にとりて堤を築き内を鹽田となし側に家を作りて野島は庭内の假山《つきやま》の如くなれり。日高郡海畔に野島村あり萬葉集によめるは何れならむ。
 ここにある島といふのは今鳥渡わかり難い位になつてゐるが、和歌浦の堤防の東端砂丘になつて(89)ゐる位置にあつたものらしい。
 一體、野島といふ地名は處々に在つたらしいのであるが、阿胡根能浦といふのが附近にない爲に何處の野島とも定め難い形となつてゐる。
 だが前書により紀伊温泉への途中とすれば、野島は宣長の指摘した日高郡のものと見るのが一番無理がない。殊に、阿胡根浦と呼ばれた形跡も、そこから遠くないととろに在るのだから。
 
     殺目山
 
    寄物述思
  殺目山行きかふ道の朝霞ほのかにだにや妹にあはざらむ(卷十二)
 この歌に就て契沖は「此は切目山をこえて妹がり行てひかかづらふ人のいたづらに行きては歸りておもひわづらひてよめりときこゆ」と云つてゐるが、行届いた考へ方である。殺目山は日高郡切目村大字島山に在つて、大日本地名辭典に「島田より東に一嶺あり、南方に突出の海角をなす切目崎、山路を中山と呼びて岩代に通ず、熊野街道の一名所也」とあるもので切目王子社がその山越の(90)道に在る。ここは御坊から東南へ約三里、田邊通ひの自働車がとほつてゐる。
 
     磐代
 
 磐代はまた磐白、石代とも書かれてゐる。
    中皇命の紀伊の温泉に往ませる時の御歌
  君が代も我が世も知らむ磐代乃岡の草根をいざ結びてな(卷一)
    有馬皇子の自傷みまして松枝を結びたまへる御歌二首
  磐白之濱松が枝を引き結び眞幸くあらば又かへり見む(卷二)
  家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る(同)
    譬喩歌
  言痛くばかもかもせむを石代の野べの下草吾し苅りてば(卷七)
 切目山を越えてから海近い平坦な街道を一里ばかり歩くと結松のあつたといふ所に行く。和歌山(91)縣の史蹟名勝天然紀念物調査報告磐代結松ノ舊蹟の條には左の如く記してゐる。
  一、所在地 日高郡岩代村大字西岩代字|結《ムスビ》二七八番地
  一、現状 小字名結トイフ處ニ結松ト稱スル老松アリシガ(後人の植栽セルモノナルベシ)今ヨリ約三十年以前類火ニ逢ヒテ枯死、大正元年三月頃茲ニ松ノ苗ヲ植ヱ繼グ、今根之周圍一尺九寸程トナレリ。
 乍併、この地を結松の舊蹟と定めるのにどれだけの根據があつたであらうか。小字名の結と所謂結松とに因つたものとすれば、この報告も可也危いものである。續風土記のやうに、「此邊熊野街道は古と大いに變りしことなれば慥にはさしていひ難し廣く莊中の事と心得るを善しとす」位に云つて置いた方が安全であらうと思ふ。
 兎に角、今結松の邊は自働車の爲、新道路を開いて、隨分昔の情趣を破壞してゐるが、今ある結松も、ひよろ/\した若松である上に、すぐ根元まで掘返されて、ひどいものになつてゐる。
 それから結松について名所圖會に面白い事を記してゐる。
  此地今は、さしたる巖もなけれど古は海濱すべて巖なりしが漸く缺けて海底に殘れるなるべし。さて巖多き地なれば磐代と名づけたるに、その巖の堅きに肖んとて、松を結び給へるなるべし。
 なほ、この松の枝を結ぶことや草を結ぶことに就て、在來の國學者と違つた解釋をする人に西村眞次氏がある。氏はこれらを一種の模倣マジツクとして、「草或は枝を結ぶことによつて相離れて(92)ゐる兩性を結合し、遠ざかつてゆく人を近づかしめ、短くなつてゆく生命を伸ばさうといふのであつて、記念の爲に結ぶとかいふのは第二義的の考へ方である」(「萬葉集の文化的研究」)といつてゐる。面白い見方と思ふから序に記しておく。
    長忌寸意吉麻呂か結松を見てかなしみ詠める歌二首
  磐代乃岸の松が枝結びけむ人は歸りて復見けむかも(卷二)
  磐代乃野中に立てる結び松情も解けず古思ほゆ(同)
    山上憶良が追ひて和ふる歌一首
  翼なす有通ひつゝ見らめども人こそ知らぬ松は知るらむ(同)
  後見むと君が結べる磐代乃子松がうれを又見けむかも
 
     三名部乃浦、鹿島
 
 三名部乃浦は日高郡|南部《みなべ》町の海濱一帶を指したもので、岩代から東南一里半ここにも自動車が通つてゐる。鹿島は南部町大字|埴田《はねた》に屬する島で、地積二町五段七畝餘陸地から八町ばかりの所に在(93)る。この島は南北二つの岩島に分れてその間を砂濱で連絡してゐる。俗謠にも「往たら見てこら南部の鹿島、地から生えたか浮島ぁ」とうたはれてゐる。郡中の勝地である。
  三名部乃浦潮な滿ちそね鹿島なる釣する海人を見て歸り來む(卷九)
 ここは今でも釣りに大變いいさうだ。カニ、エビ、アマなどを餌にして釣るのだが、釣れる魚の種類も可也ある。鳥渡數へても、イガミ、アイ、グレ、ガシラ、ベロ、ウツボ等の名をあげることが出來る。抄歌にある通り昔から海人が、ここへ釣りに出たものであらう。
 それから「潮な滿ちそね」の句であるが、これからみると島まで徒渉することが出來るやうに聞える。だが今は、深い所で拾尋もあるやうな海を距ててゐて迚もそれは想像もつかぬ位である。昔はこの間が淺かつたのでもあらうか,其邊のことはよくわからない。
 
(94)   室の江をめぐりて
 
     室之江
 
  紀の國の室之江の邊に千年に障む事なく萬世にかくしもあらむと大船の思ひ恃みて、出立の清き渚に朝和に來よる深海松夕和に來よる繩海苔深海松の深めし子等を繩海苔の引かば絶ゆとや里人の行きの集に鳴く兒なす行き取り探り梓弓弓腹振起し志之岐羽を二つ手挾み放ちけむ人し悔しも戀ふらく思へば(卷十三)
 この歌に在る室之江は西牟婁郡田邊町を中に抱いてゐる田邊灣全體の稱である。即ち西は西之谷村の西端から、東は湊村磯間浦新庄、南は瀬戸鉛山村に至る間を指したものと思はれる。ムロとい
 
〔写真、秋津野の一部と人國山、室の江〕
〔写真、紀温泉(牟婁温泉)〕
 
(95)ふ名の起りは館(ムロツミ)の義で海津官舍のあつたところから始るといふ説と、ムロを温暖の義にとつて、其地の暖いといふところから出たとする説とがある。それはいづれにしても、今牟婁郡といつてゐる地域と上古のそれとは大分變つてゐる。もともと、この紀州は、紀伊と熊野との二國から成つてゐたのだが、古の牟婁は紀伊の方に在つたのである。その地域も狹く、今の西牟婁郡の西北邊附近のみを指してゐたものらしい。後に牟婁郷と呼ばれた地である。從つて、この歌の室之江も前述の範圍と見るべきである。
 
     出立、松原
 
 契沖は、「出立の清き渚に、とは海邊のなり出たる地形をほめたるなり」といつてゐる。だが、果して、走出などと同じく地形だけと見ていいものだらうか。別に左の歌もある。
    大寶元年辛丑冬十月太上天皇大行天皇紀伊國に幸せる時の歌
  我背子が使來むかと出立之此松原を今日か過ぎなむ(卷九)
 前書に依つて紀伊での作なることは明かである。續風土記田邊莊西谷村の中に、出立松原といふ條(96)があり、次のやうに記してゐる。
  今按ずるに出立王子あり又慶長檢地に田邊莊の諸村を出立莊とす、是等に因るに出立は此邊の地名なる事明なり。此莊を芳養莊の堺の海濱に松の列木あるを芳養の松原といふ即ち萬葉集に出立松原出立之清渚とよめるに合へり然れども上古牟婁温泉 幸の道今と異なれば必其地とも定めがたし廣く田邊の海濱の地名とすべし。
 芳養の松原は前述南部から東南約一里の海岸に在る。そこから天神原の低い丘を越すと二十町計りで田邊町に入るやうになつてゐる。
 なほ出立を地名とせず松原を地名ではないかといふ説もある。
 古義には「紀伊國に、今も松原と云ところありときけりそれをいふか、但しいづれの郡ならむ」と記してゐる。この松原といふのが、今いふ出立松原の位置に當つてゐる。この方は古義の記載通り、今でも字名として殘つてゐる。
 
     紀温泉
 
 卷一に、幸2紀温泉1之時云々、又往2紀伊温泉1之時云々の前書が見えてゐる。この紀温泉、紀伊(97)温泉は共に齋明紀にある牟婁温湯紀温湯と同一所であつて、今の湯崎温泉を指すものである。古義翁は「今も紀伊國牟婁郡に熊野温泉ありて、湯ノ川など云とぞ」と云つてゐるが、之は明に間違ひである。詳しくは大八洲雜誌百四十八號、「牟婁温泉考」に記されてゐるが、要するに前述通り往昔は紀伊と熊野とに分れてゐて、牟婁温泉は紀伊に、湯峰湯川温泉は熊野にあつたのだから、牟婁温泉は又紀伊温泉とも記されてゐる以上紀伊の方にあつたに相違なく、それは今の湯崎温泉だといふのである。湯崎の地は、實は紀伊といふより口熊野に屬してゐたのであるが、先づ紀伊に近接してゐたから、大和から來る人々に紀伊温泉とも記されたのであらうと思ふ。なほ今も湯崎附近には御幸の芝、御腰石、御船谷などの名がある。これらの由來に對して、どれだけ信の措けるものかは知らぬが、土人も行幸の古跡として深く信じてぬるやうである。
 なほ湯崎の北方、瀬戸崎の西北端から約半町離れて今、土人の塔島と呼ぶ宛然塔の形をした島がある。高サ五丈計りもあるが、それを萬葉に歌はれたものだといふ説がある。
  室之浦之|湍門《せと》之崎なる鳴島の磯こす浪にぬれにけるかも(卷十三)
 それは、この歌の鳴島は、鳥島の寫し誤りであつて、もとは鳥鳥と云つてゐたので、土人がそれをトウジマと訛つて了つたのであらうといふのである。實際、この島と瀬戸崎との間は滿潮には船も(98)通過し得るし、磯こす浪の袖にかゝることはあるやうに思はれる。たゞ一般に信じられてゐる淡路の迫門、播磨の室との比較が出來ぬことは殘念だ。鳥島の寫認りや訛りなどの辨を要するのは、如何にも苦しい。其麼説もあるといふことだけ紹介しておかう。
 
     神島、伊素末
 
 田邊町の扇ケ濱から東南につゞいて漁村がある。ここは湊村字磯間といつてゐる。それから近く田邊灣内の巨島、神島が横つてゐる。
  月讀の光を清み神島乃伊素末之宇良ゆ船出すわれは(卷十五)
 この神島に就て,宣長は、「今備中に高島《かうのしま》といふは神島なるべし」といつてゐる。古義もそれに從つて、伊素末の末は未の誤りて磯回之裏《いそみのうら》とでもいふので、神島の磯のめぐりの意味だらうとしてゐる。之では伊素未を地名とせぬのである。
 だが、鳥渡、都合の惡いところは直ぐ、誤としてしまひたがるのは、どうもこれ迄の國學者達のよくない趣味だ。それより契沖は正直に「伊素末乃浦は、神島のある所の名なり、いそまの浦の神
 
〔写真、磯間の浦より神島(中央)を望む〕
 
(99)島なるべけれども神をたふとびて、神島のいそまの浦とは云なるべし」と云つてゐるが、私はこの方に組し度い。そして、類字集にも紀伊と記してゐるが、前記田邊灣に在る磯間、神島を詠んだものと見ても別段差支へないと思ふ。
 
     秋津野、人國山、石倉
 
    寄草
  常知らぬ人國山乃秋津野の杜若をし夢に見しかも(卷七)
    寄雲
  石倉之小野よ秋津に立ちわたる雲にしあれや時をし待たむ(卷七)
 これ等の歌に出てゐる地名、秋津野、石倉等は、從來大和吉野郡のものだとされてゐる。しかしこれ等の中に、紀伊のそれも混じてはゐまいかといふ説もある。
 今、田邊町の北部會津川の平野が、上秋津村、下秋津村となつてゐる。三十三所圖會に「人國山は秋津村の西萬呂村に在り、岩倉山の號は下秋津村寶滿寺に遺る」とあるが、この人國山や岩倉の地(100)の名も確にある。たゞ、彼地此地尋ねて見たが、今の秋津村には杜若の生えてゐる所は見當らなかつた。だが、杜若は今、東北地方に野生してゐる如く、昔はこの邊にも野生してゐたのではあるまいか。何分八雲御抄にも紀伊國とあるから、萬葉に詠まれた地名には、こちらのも混つてゐるやうにも思はれる。併し續風土記に前抄の歌を引いて「此等の歌を當地とするによりて、上秋津村の小字に一目といふ山あるを人國山とし、寶滿寺の山號を岩倉山と號したるは好事の附會なり」と記してゐるのは、聊か心細い。
 
(101)   熊野と熊野船
 
     熊野
 
 今の紀伊の地は、ずつと昔は木の國と熊野の國との二つに分れてゐた。そして熊野は今の牟婁郡の地に當つてゐる。
  三熊野乃浦の濱木綿百重なす心は思へど直に逢はぬかも(卷四)
 三熊野の三は御吉野の御と同じく美てつけたもの。熊野乃浦といふと熊野の海面の總號であるから今の牟婁郡の沿岸を指すことは明かである。即ち本州の南端潮岬を中心として海岸は其東北と西北に向つて伸びてゐる。その東北は伊勢の志摩郡麥崎に至る直徑七十餘海里、その西北は日高郡日(102)御崎に至る直徑五十海里の海をいふ。西は紀伊水道に至り、東は遠州灘伊勢海の交界に接してゐる。併し今、俗にいふ熊野浦は、潮岬より東北方楯崎に至る海岸を指してゐる。昔は無論廣く牟婁郡の海岸を指したのであらう。
 この熊野の名の由來については、古事記に神武帝が熊野村に到給うた時に大熊の出たことを記してゐるところから、この名が出たといふ説と、熊は隈に通じ古茂累《こもる》の義で、山川幽深樹木蓊欝たるところから來た名といふ説と、二つある。併し出雲にも同名の地があり、神代には兩國の縁が深かつたから同じ起原で後の説の方ではなからうかと思はれる。なほ、アイヌ語でKuma《クマ》は物乾竿の義でnu《ヌ》は名詞の後に付く時は、多くの意味を有するからKumanu《クマヌ》は物乾竿多きといふ意になる。これは、をかしいが、Kumane《クマネ》は連山の嶺のことである。山嶽重疊する熊野の地形から推して、その名義がアイヌ語のクマネから起つたものと考へてはどうであらう。
 
 次に濱木綿のことを少し書いておかう。
この植物は別に熊野の特産といふわけではなく、土佐、安房、琉球などにもあるさうである。私はこの植物をよく知つてをり、かつて寓居の庭に植ゑたこともある位で、あまり問題にしてゐなかつ(103)たが、事實これに就ての記載はまちまちになつてゐたやうである。それらに關しては畏友阪口保君が雜誌『自然』(【第六卷第一號】)に寄せた「濱ゆふ考」に詳しく記されてゐる。なほ佐藤春夫氏は「濱木綿」といふ一文を『隨筆』創刊號(【退屈讀本及紀州文化讀本にも採録】)に發表して、その實物を説朋し古義品物解の誤を指摘されてゐた。氏の文を少し借りよう。
 
  (前略)七八月に白花をひらく。莖が高くのぴて只梢に數花あつまつてひらく。(中略)我々に親しい花で言へばアマリリスの花を白くし、またそれを徑七八分ぐらゐに縮めたものが高く秀でた莖の尖端の周圍に簇つて咲くのである。夕方に咲きごくかすかな香を持つて居る。寒さには弱いもので霜に打たれるとすぐに葉は枯れてしまふ。新しい葉は春になつて別に生ずるから根はかれないのだけれども。さうして自然に生えてゐるものは、松の木蔭などの、しかも南に面した温かな場所の砂の上にある。大きなものは七八尺に達し、その中に足を踏み入れると人影を没する程である。さういふ大きなものが篁のやうに廣く群生してゐる。
 
 更に氏は百重成すといふことばの出來た動機について仙覺抄や古義の著者は莖の皮がかさなつてゐるところから出てゐると記してゐるのに對し、氏は「莖ではなく寧ろその葉の茂り方だらうと思つてゐる。さうして濱ゆふそのものを知つてゐる僕は前述の歌を讀過する際に、第一にその葉を思ひ浮べながらその歌を味つたものである。」といつて古義品物解の釋義を疑つてゐる。さうして更に(104)氏は小説家らしい筆を以つて次の如くつづけてゐる。
  それに就てはもう一度濱ゆふの形状を記述する必要があるが、この植物の平行葉脈をした水を含んで厚ぼつたい葉は他にちよつと類似のないやうな有樣で繁茂してゐるのである。それが一つの葉から出てゐるのであるか、それとも幾つもの葉があまりに密着して生育してゐるためにさう見えるのであるか、ともかくも大小のものが或は低く或は高く、しかも思ひ思ひの方向に嚮いて、譬へば一つの鉢のなかへ大小數十百のアマリリスをそれぞれの方向に嚮けて、一ぱいに植ゑたかのやうに幾十の葉を持つた第一の莖の上から同じく幾十の葉をもつた第二の莖が重なり、その第一のものと第二のものとの間から、更に第三の幾十の葉をもつた莖が右斜に突出し、第四の莖は別に左斜に、また別に第五の莖が後方の斜に、その他あらゆる方向と高さとで、それが一つ一つ思ひ思ひにあるかぎりの隙間から覗き出して、それらの葉が實に十重二十重に混錯してゐる状態は、ちよつと文字では描きにくい。また形に描くのも容易ではない。纔に何かで立體的に形作つてみせたら人々はうなづくだらうと思へる。僕はこの群生した濱ゆふの錯落混亂した状態に先づ注目せずして、その莖のあたりにある一種の重なりに驚異を感ずる筈はないと信ずる。さうして葉の重複した状態は無類であるが、その莖のあたりのやうなものの例は決して乏しくない。(中略)僕が今按ずるのに百重なすものはその葉である。その莖を百重なすと言ふとすれば、それは餘りに極端な誇張であるに對して、その葉をさう呼ぶならば、これは些も誇張ではなく、孔島などに行くならば恐らく數字的寫生に於て百重以上の叢があるのである。
佐藤氏のこの一文は、これ迄の濱木綿に關する疑問を一掃するに充分であるが、更に口繪に孔島に於けるその群生してゐる寫眞を入れておいたから參照されたい。
 
(105)     熊野船
 
 辛荷島を過ぎた時に、赤人の作つた長歌の反歌として
  島かくり吾が榜ぎくればともしかも倭《やまと》へ上る眞熊野之船(卷六)
の一首がある。播磨の方へ遙々漕ぎくだつて來て都の家が戀しくなつてゐる時に、恰度行違ひに大和の方へ行く舟を見てうらやましく思つて詠んだものであらう。この眞熊野之船といふのは恐らく神代紀に故以2熊野諸手船1載2稻背脛1遣v之とある熊野諸手船の事であらうと思はれる。この船の熊野の名は勿論出雲國の熊野の地の關係から起つたものであらうが、その後出雲から紀伊へ移住して來た人々と共に紀伊の熊野地方へ入つて來たことは明かである。大伴家持が、伊勢行幸の際獨り行宮におくれゐて詠んだといふ
  みけつ國志摩乃海部ならし眞熊野之小船に乘りて沖へ榜ぐ見ゆ(卷六)
などはその詠まれた所から考へて、既に紀伊にこの船が入つてからの作とみられる。尤も信濃の諏訪にも同系統の船が殘つてゐるさうであるから、其方へも移つて行つたものと見える。
(106) 今出雲美保神社では毎年十一月三日に諸手船祭を施行するが、紀伊新宮町の速玉神社でも御船祭《みふねまつり》といふのがある。速玉神社の祭禮は十月十五、十六兩日(舊くは九月同日)に亘つて行はれるが、十五日のは本社|中御前《なかのごぜん》速玉大神の御祭で俗に御馬祭《おむままつり》と呼び、十六日のが西御前《にしのごぜん》結宮伊弉冉大神の御祭で御船祭である。當日は神輿が熊野川の岸に渡御するのを待つて※[髭の此が休]漆金銅裝龍頭朱塗の神幸船(國寶)に遷し、諸手船が先導して河を泝り御船嶋を周つて歸還することになつてゐる。この時、白い裝束をした水夫《かこ》が兩側で櫂を揃へて漕ぐ有樣は中々クラシツクなものである。
 
 これらの神社にある諸手船が古のそれと全然同形かどうかはわからぬが、少くとも古のものに據つて造られてゐるのであらうとは思はれる。
 
 先づ、出雲美保神社の諸手船の方の構造は刳舟の兩側に舷板を補足したもので、舳艫共に平岡圖は方形をなし、底板が舳頭に於いて突出した形を持つてゐる。この船の特徴は、多くの他の船では曲線を描くやうに造られてゐる部分が大低直線となつてゐることである。なほ、この船の取付物も現時行はれてゐる船のそれとは違つて舵が無い。櫂の大きなのが一本と、小さいのが十本そなへら(107)れてゐて、小さい一本は推進の目的に、大きい一本は舵の代用とされるのである。
 
〔図、出雲美保神社之諸手舩〕
 
(108) 新宮速玉神社の諸手船に就いては同地商業學校の佐藤謙太郎氏が略圖を作つて下さつたので此處に掲げることにしたが、これは出雲のそれとは大分構造を異にしてゐる。平面圖を一見してもわかるが、出雲のもの程の特徴もなく、形式も後代のものであつて刳舟の俤はどこにも留めてゐない。ただ船首船尾の高いところが共通してゐる。どちらかといふとこの諸手船よりも、三輪崎浦の捕鯨船に反つて古い形式のものがあつて速力も非常に大きくて昔の熊野船の形を殘してゐるのではないかと思はれるものがある。
 これらの船はまた天鳩船とも(109)記されてゐるが、鳩は水に闘係のないものだから速さの譬でもあらう。若し強いて形の譬と解釋すれば、その船首船尾が高く水上に出てゐて中央の低いことでもあらうか。松村博士はハトは支那の※[舟+發](大船)の意味で鳩ではないといつてゐる。又天鳥船神ともあるが米田庄太郎氏は天鳥船は天鳩船と同じだといつてゐる。
 兎に角、この諸手船については遠い時代のことであり、文獻も發掘物も無いので、先づこれらの祭に用ゐる船などを憑據として想像しておくより仕方がないやうである。
 
〔一〇八、一〇九頁の図略〕
 
(110)     神之崎と狹野
 
    長忌寸奥麻呂が歌一首
  苦しくも降り來る雨か神之埼狹野乃渡に家もあらなくに(卷三)
 神之埼は、又神前とも書かれてゐる。これに就て古義は「紀伊國牟婁郡熊野に在て書紀神武天皇卷に、遂越2狹野1到2熊野神邑1と見えたる、神邑の埼をいふなるべし」と記してゐるが、この地はその位置から考へて、略解に、「今みわが崎といふは紀伊國牟漏郡にて、新宮より那智へ行道也。新宮より今の道一里半ばかりあり。其續きに佐野村も有と宣長いへり」と書いてゐる三輪崎に當つてゐるのである。
 ところが雅澄は「神之埼はカミノサキと訓べしミワガサキとよみたるはわろし、凡そ神字をミワとよむは大神にかぎりたることゝこそ思ほゆれ」と記してゐる關係上、「今ミワと唱るは後人の神
 
〔写真、松原より入江(狹野の渡)を距てて佐野の崗を望む〕
〔写真、三輪ケ崎(前方に見ゆるは孔嶋鈴嶋〕
 
(111)之埼をミワガサキと訓みひがめたるを、その謬訓に依て後に設けたる地名なるべし、後世かゝる類甚多きことなり」と苦しく辨じ乍ら、なほ「後人のいふところに打まかせてはたのみがたきことなり唯古は古によりて證すべきことにこそあれ」などと味な事を云つてゐる。
 私は今こゝで、ミワガサキと訓むべきか、或はカミノサキといふべきか、それに就ての自信ある意見は遺憾ながら持合せない。ただ音調上、カミノサキはどうも不快だ。二句からの續きにカ音の重積するのは特にいやだ。それにミ音からノ音に移る窮屈さ、これでは狹野なる地名がある上に態々重ねねばならぬやうな地名ではないと思ふ。集中、固有名詞殊に地名の重積してゐるものは、殆ど皆快い音調を持つてゐる。其麼點から考へても、私には何だかミワガサキと訓んで置き度いやうに思はれてならない。
 この地は今東牟婁郡三輪崎町太字三輪崎といつてゐる。恰度佐野灣の東北に在つて、西南の宇久井村目覺崎と相對してゐる。それに海上數町のところには、濱木綿の叢生するといふ孔島鈴島があり佐野の松原も眺められて却々景勝の地である。併し此邊は、神武紀にも、海中卒遇2暴風1。皇舟漂蕩とある位で、太平洋に直面してゐるから風も激しく吹くし、雨も黒潮と紀伊山脈との關係上非常に多い地である。
(112)    覊旅作
  神前荒磯も見えず浪立ちぬ何處ゆゆかむ避路は無しに(卷七)
 「荒磯も見えず浪立ちぬ」や「苦しくも降り來る雨か」も此地にして味へる句だと思ふ。なほ略解には「大和の三輪也といふ人もあれど崎といへることもなく、そこにさ野といふ所もきかす、且此よみ人は藤原の朝の人なれは時の都近き三輪のあたりにて、家もあらなくになど、わびしき旅の心を詠むべきにあらず」と記してゐるが、其通りである。
 次に狭野であるが、これはまた佐農とも記されてゐる。
    山部宿禰赤人歌
  秋風の寒き朝けを佐農能崗越ゆらむ君に衣貸さましを(卷三)
 これは三輪崎の西南、今の三輪崎町大字佐野の地である。こゝは三輪崎と共に大邊路街道の往還に在るが、今は兩方とも、勝浦から新宮に通じる新宮鐵道の沿線に當つてゐて、佐野には佐野村といふ驛がある。この驛に降り立つて、先づ感じるのは、丘陵が直ぐ背後に逼つてゐて、何となく狭苦しく、まるで猫の額のやうな所だといふことである。狹野の名もこの地形から起つたのではなからうかと思はれる。こゝは前述三輪崎と目覺崎とに抱かれた佐野灣に臨んでゐて、海岸には松原が(113)ある。今の街道は目覺崎の裾を切開いて、そこをめぐり、海岸を通つてゐるが、こゝの地形は可也變動したものらしい。此邊は洪積期に發達した砂洲であつて、今でも田地宅地の別なく一面に、黒い碁石大の礫所謂那智の黒石が砂土に混つて散在してゐる。この石は水蝕の影響をうけて稜角を失ふに至つたものであるが、この點から見て昔海水が相當深く灣入してゐたものと推想することが出來る。
 
 そこで歌に詠まれた佐農能崗と狹野乃渡であるが、先づ佐農能崗は、續風土記其條に「村の未の方五町許街道より上の方にあり土人岡とのみいふ」と記してゐる。多分その邊の丘であつたらうと思ふ。目覺崎に、今のやうな工事が出來てゐなかつたとすれば、到底、荒磯になつてゐるあの崎端をめぐることは出來なかつたであらう。さうすれば續風土記の指してゐる岡は、今汽車の隧道のある邊で距離から云っても近路だし、あまり高い岡でもないから、あの邊を越えたものと考へるのが一番自然であらう。
 
 次は狹野乃渡であるが、この渡に就ては古義にも、「すべて渡は海河についていふことにて、邊(114)を和多利と云ことは此集の頃にはなかりしなり」とある通り渡津を指すといふことは斷るまでもあるまい。
 ここの渡津は深く灣入してゐた岸に沿うて迂廻する不便を避ける爲にあつたもので、今の松原の手前二三町の砂洲から成つてゐる畑地だらうと言傳へてゐる。この處だとしてみると、前述佐農の岡と三輪崎とをつなぐ直線上に當つてゐるから、捷徑としての渡津であつたとすれば、正にこの位置に在つたであらうと思はれるのである。
 
〔写真、玉の浦と離小嶋〕
 
(115)     玉之浦と離小島
 
 萬葉集にタマノウラとして詠まれたものには、備中の多麻能宇良と紀州の玉之浦とがある。私がここに述べようとするのは勿論紀伊のそれである。
 玉之浦は又玉浦とも書かれてゐる。
    覊旅作
  荒磯ゆもまして思へや玉之浦離小島の夢にし見ゆる(卷七)
    紀伊國にて詠める古歌
  吾が戀ふる妹は逢はさず玉浦に衣片敷き一人かも寢む(卷九)
玉勝間九の卷に「玉の浦は那智山の下なる紛白浦といふ所より十町ばかり西南にあり、離小島と云へるは玉の浦の南の海中にちりぢりに岩あれば、それを云へるなるべし。其外は島無し。」と記して(116)ゐる。これは今、東牟婁郡下里町大字粉白に屬し、その東部海岸を指すものである。
 南紀に旅する心ある人は、那智や瀞よりも、串本勝浦間の海沿ひ道を歩む事を喜ぶが、玉之浦はその途中、勝浦から三里ばかりの所に在る。
 この玉之浦に就て續風土記に左の記事がある。
  此所の磯大巖にして蒼白色粗質なり。其石中より玉石出るを以て玉の浦の名あり。玉石圓形黒質にして滑澤あり。大なるものは鷄卵の如く又やゝ小なるものあり。石中玉石を※[草がんむり/温]むを以て往々形を外に迸出す。玉の自迸出する多は風雨の時にあり。故に土人これを候ふて爭ひ拾ふといふ。
 玉之浦の玉石といふのは、黝色頁岩の母岩中に、それと同色同質で硬度の高い硫化鐵粉の同心状配列をなす球塊が入つてゐるのであるが、それが母岩の風化された時に拔き取ることが出來るやうになるのである。
 なほ離小島といふのは、以前は海中に小岩が散在してゐたのであるが、今では砂洲で陸地とつらなるやうになつてゐる。
 
(117)   所在不詳のもの
 
     今木、今城
 
    宇治若郎子宮所一首
  妹がりと今木乃嶺《いまきのみね》にしみ立てる妻待木《つままつのき》はよき人見けむ(卷九)
    詠鳥
  藤浪の散らまく惜しみ霍公鳥《ほととぎす》今城岳《いまきのをか》を鳴きて越ゆなり(卷十〕
 これらの今木、今城に就いて類字集には紀伊としてゐる。又、在田郡藤並庄天滿村青蓮寺の縁起に、建王陵墓の地に寺を建て天王山青蓮寺又は今城寺と號す弘法中興してより眞言宗となるといふとあり、また今、寺邊に城山といふのがあるが、それが今城山であるとも云はれてぬる。抄歌に藤(118)浪とあるのも庄名藤並の縁によるのではないかとも云はれてゐるが、あまり信じられさうな説でもない。矢張大和の高市郡の方が有力である。
 
     八十隅坂
 
    田口廣麿死之時刑部垂麻呂作歌一首
  百たらず八十隅《やそのくま》坂にたむけせば過ぎにし人に蓋しあはむかも(卷三)
 諸書に紀伊國名所とあるが、現在不明である。紀州舊蹟志には、此歌の哀傷の意であるところから、「按するに熊野を冥途黄泉の神なる由をいへば熊野の阪をすべて八十隅坂といへるにや、また熊野新宮に宮戸《みやと》とて泉守道神《よもつみちもり》の社あり、此所|泉津平坂《よもつひらさか》の標示なるよし然は此所をさしていへるか」と記してゐる。略解には隅路の誤にてヤソノクマヂと訓べしといつてゐるが、さうすれば地名ではなくなる。多分さうであらう。まだよくわからない。
 
     哭澤
(119)  哭澤の神社《もり》に神酒《みわ》すゑのまめども我大君は高日しらしぬ(卷二)
 この歌は或書反歌一首として、柿本人麿の高市皇子尊城上殯宮之時の作歌のあとに出てゐるものである。この哭澤は諸書に紀伊國とあり、井蛙抄には、哭澤森、渚の森共に紀伊國也若し同所か、
とある。また藻鹽草には、哭澤の森は紀伊國、渚の森は河内國とある。今、海草郡紀三井寺村字毛見にある濱の宮を渚の森といつたのであるが、哭澤との關係は不明である。これも古事記に、伊邪那帰命云々、哭時於2御涙1所成神、坐2香山之畝尾木本1名泣澤女神と見えてゐるところから、大和の香山に在るとした方が正しくはあるまいか。
 
     遠津
 
    覊旅作
  山越えて遠津之濱《とほつのはま》の磯つつじ歸來むまでふふみてあり待て(卷七)
 この歌の遠津の濱、勅撰名所集には紀伊國とあるが、今よくわからない。古義には「土佐國長岡郡東孕といふ處より種崎といふ處へ越る山坂を遠津越と呼り、さて種崎へ下れば海濱なり、その海(120)濱を古は遠津の濱ともいへりしなるべければ、若しは其地ならむか、山越而といへるにもよく叶へり」といつてゐる。この方かも知れない。
 
     大葉山
 
    覊旅作
  大葉山《おほはやま》霞たなびき小夜ふけて吾船|泊《は》てむとまりしらずも(卷七)
 卷九、碁師の歌に母山とあつて此歌と全く同じいものがあるが、宣長の云つたやうに、祖ノ字を脱したので矢張りオホハヤマであらう。この山に就いて多くの書には紀伊とあり、八雲御抄には紀伊、丹後にも在りと書いて紀伊の方に入れてある。併し、これも今では全く不明である。
 
     曾許比能宇良
 
  天地の曾許比能宇良に吾が如く君に戀ふらむ人はさねあらじ(卷十五)
(121) このソコヒノウラに就いて、能因歌枕松葉集には紀伊國とあり、澄月歌枕には國未勘とある。併し、この歌は左註に、娘子留v京、悲傷作歌とあるから、底方之裏爾《そこへのうらに》の意味で、これを地名とみるのが既に誤であらう。紀伊には勿論、其麼地名のあつた形跡はない。
 
     那賀
 
    那賀郡曝井歌一首
  三栗乃中《みつくりのなか》にめぐれる曝井《さらしゐ》の絶えず通はむそこに妻もが(卷九)
 前書の那賀を紀伊の那賀郡とする説がある。これは八雲御抄に紀伊國と註されてゐるところから出たものであらう。併し、ナカの郡といふのは諸國に在る。鳥渡擧げても阿波伊豆石見武藏常陸等のそれを數へることが出來る。それで曝井があれば、兎も角、それがわからなければ紀伊と斷定することは危い。なほ名所圖會には、この曝井を名草郡|栗栖《くるす》村高倉寺の門前に在りとしてゐる。併しこれは三栗乃を三栗栖《みくるす》と訓んでの上であるから附會の説とされても仕方あるまい。常陸風土記那賀郡の條に、自v郡東方挾2栗河1而置2驛家1當2其以南1泉出2坂中1水多流尤清。謂2之曝井1縁v泉所v(122)居村落婦女夏月會集浣v布曝乾とあつて、明に曝井のことが出てゐるのだからこの那賀は常陸とすべきである。
 
     手綱濱
 
    手綱濱歌一首
  遠妻しそこにありせば知らずとも手綱乃濱のたづね來なまし(卷七)
 手綱濱も八雲御抄に紀伊と註せられてゐるが、今よくわからない。いま田邊から湯崎温泉に行く途中に綱不知《つなしらず》といふところがあるが、共所を指したのではあるまいかとも思ふ。これは風莫濱のところで前に述べた地である。無論確証はない。
 
     茂崗
 
    紀朝臣鹿人跡見茂崗之松樹歌一首
(123)  茂岡《しげをか》に神さび立ちて榮えたる千代松樹《ちよまつのき》の歳の知らなく(卷六)
 茂岡は萬葉集名寄八雲御抄に紀伊國とあるが、現在それらしい所はない。跡見茂岡とある前書から見て、多分大和城上郡|外山《とび》村にでも在つたものと思ふ。
 
     荒津、安良都
 
  かむさぶる安良都能左伎《あらつのさき》に寄する浪まなくや妹に戀ひわたりなむ(卷十五)
  荒津乃海潮干潮滿ち時はあれどいづれの時か吾戀ひざらむ(卷十七)
 この他荒津の地名は多く出てゐるが、勅撰名所集には之を紀伊國としてゐる。
 
     莫越山
 
    歌鳥
  吾背子を莫越山《なこせのやま》の喚子鳥君|喚《よ》びかへせ夜のふけぬとに(卷十)
(124) この莫越山に就いて、萬葉集名寄には紀伊國或は士佐國とあるが、紀伊の方は今よくわからない。なほ八雲御抄には大和とあり、松葉集藻鹽草には土佐國とある。古義には「大和の巨勢山に、吾夫子を越すこと莫らしめよ此方へよびかへせと云意にいひつづけたり」と記してゐる。土佐の人の雅澄が大和の古勢山だといふのだから土佐説も薄弱である。
 
     巨勢
 
 巨勢が出た序だから言はう。この巨勢は、和名抄能因歌枕類字集松葉集には大和となつてゐるが澄月歌枕萬葉集名寄には紀伊に入れてゐる。名所方角にも「京より高野へ參るは大和路を通り紀伊の巨勢と云所まで二十一里餘也」と書いてゐる。巨勢が紀伊に在つたとすれば、いま粉河《こかは》から高野に至る街道に沿うて、見好村に御所《ごせ》といふ所があるが、其所を昔清んでコセと呼んでゐたのではなからうか。だが勿論これは確信を持つて言へることではない。辰已利文君も既に考證して、大和の葛城郡葛村古瀬附近一帶の稱だと言つて居られる。なほ
    詠山
(125)  吾勢子を乞許世山《いでこせやま》と人はいへど君も来まさず山の名にあらし(卷七)
の乞許世山に就いても、諸書に大和或は紀伊となつてゐるが、これも紀伊にはそれらしいものが無い。古義翁のいふやうに、巨勢山に乞《いで》の言をそへて、いで/\來よと云ふ意に云ひかけたものであらう。
 
     神島
 
 勢能山に黄葉《もみぢ》散りしく神岳之山の黄葉はけふか散るらむ(卷九)
 勢能山の條で一度抄したものだが、この歌の神岳の位置に就いて、藻鹽草には紀伊とあり、松葉集もそれに從つてゐる。併し、これも紀伊には今それらしい山が無い。大和の高市郡にある神名火山のことであらう。
 
     倉無之濱
 
(126)    題闕
  吾妹子が赤裳ひづちて植ゑし田を苅りてをさめむ倉無之濱(卷九)
 澄月歌枕に紀伊國とあるが、いま不明。類字集には豐前としてゐるし、契沖も豐前にありとかやと云つてゐる。
 
     圓方、嗚呼兒、五十等兒乃島
 
  丈夫が得矢手挾み立向ひ射る圓方は見るにさやけし(卷一)
 圓方、諸書に紀伊とあるが、いま不明である。伊勢國風土記に的形浦の記事があるが、仙覺抄はそれに據つて伊勢に入れてゐる。嗚呼兒は舊本に兒が見になつてゐるが、澄月歌枕は、紀伊に入れて、此浦就2萬葉集異點1入2處々1訖或伊勢紀伊御幸之事亦不2一途1可2詳審1而已とある。なほ、「潮騷に五十等兒《いらご》乃島べ榜く船に妹乘るらむか荒き島回《しまみ》を」(卷一)の歌、一本に幸2于紀伊國1時歌とある。國の境界は時代によつて變ることがあるが、今參河に屬してゐるこの島も一時は紀伊に入つてゐたのである。
 
(127)     去來見乃山
 
  吾妹子を去來見乃山《いざみのやま》を高みかも大和の見えぬ國遠みかも 石上大臣從駕作(卷一)
 この去來見乃山に就いて諸書に紀伊或は伊勢とあるが、紀伊には今それらしい山は無い。谷川士清は、いざみの山伊勢國飯高郡にありと云ひ、荒木田久老は、さみの山に伊の發語を添へたものでさみの山は仲勢國二見の浦なる大夫の松と云る大樹の生たる山なるべしと云つてゐる。いづれにしても紀伊ではなくて、幸2于伊勢國1時歌の前書の通り伊勢の方に在るのであらう。
 
     酢蛾島、夏身乃浦
 
  酢蛾島之夏身乃浦《すがしまのなつみのうら》に寄する浪|間《あひだ》もおきて吾思はなくに(卷十一)
 酢蛾島夏身浦、諸書に紀伊とあるが、今不明。近江といふ説もあるが、これも決定的なものではあるまい。
 
(128)     繩乃浦
 
  繩乃浦に鹽燒く煙ゆふされば行過ぎかねて山に棚引く 日置少老(卷三)
  繩浦ゆそがひに見ゆる奧つ島榜ぎたむ舟は釣しすらしも 山部赤人(卷三)
 この繩浦に就いて夫木抄に攝津又紀伊とあるが、今これも紀伊ではわからぬ。土佐日記にある那波の泊だといふ説もある。それなら和名抄に在る土佐國安藝郡奈半の地であらう。
 
     行相乃坂
 
  い行相乃坂の麓に咲きををる櫻の花を見せむ子もがも(卷九)
 この行相乃坂を伊都郡山田村大字|神野々《このの》に在る出會坂又は行合坂といふ坂だといふ説もあつて、紀州舊跡志や紀路歌枕抄にも載せてゐるが、これは信じ難い。この歌の前の長歌には、難波經宿《なにはにやどりて》、明日還來之時歌《あくるひかへるときのうた》と詞書があり、前にある歌の關係から、大和の龍田に歸る時の作と見られる。古義(129)に「此は坂の名にはあらず、こなたかなたより※[足+齊]《のぼ》る人行逢故に行(キ)相(ヒ)の坂と云るなり」と記してゐるやうに固有名詞ではあるまい。神武紀に、皇帥勒兵歩趣2龍田1、而其路狹峽、人不2得並行1とあるやうな坂道を指したのではあるまいか。
 
     子島
 
  吾が欲りし子島は見しを底深き阿胡根能浦の珠ぞ拾りはぬ(卷一或本)
 この子島について古義に「紀伊國名草郡和歌山城府より今道三里ばかり北に兒島といふあり、今人家千五六百戸許ありて往來の船の泊る處なり、と其國人云り、是なるべし」と記してある。併しこれは和泉國泉南郡に屬する小島といふのであつて紀伊ではない。なほ阿胡根能浦らしいものも附近には無い。やはり野島の方が正しいのではなからうか。
 
(130)   莫囂圓隣
 
 題詞に「幸2于紀温泉1之時額田王作歌」とある莫囂圓隣の歌は、人も知る萬葉集中最難解の一首である。從つて、仙覺抄以來訓義のくだし方も種々雜多である。先づ、管見、拾穗抄は異論ともいへまいが、代匠記、萬葉緯、神田本、僻案抄、考、選要鈔、玉勝間、冠辭續貂の説、信濃漫録、織錦舍隨筆、書入本の諸説、檜嬬手、古義、萬葉私抄、新考、口譯萬葉集などの異説がある。私は今それらの中から訓義に地名を含ませたものを拾つてゆかうと思ふ。
 
     きのくに
 
 考は、神田本の朱字書入に、圓隣が國隣とあるに從ひ、且つ七を古と改めて、(131)
  莫囂國隣之大相古兄※[氏/一]湯氣吾瀬子之射立爲兼五可新可本《キノクニノヤマコエテユケワガセコガイタヽセリケムイツカシガモト》
と訓んでゐる。併し、秋成が「紀の大みゆきなるを其國の山越えていづこにゆけと令v言するや」と皮肉つてゐるやうに之では少し間が拔けてゐる。
 なほ橋本直香もその著萬葉私抄の中に、
  莫囂國隣之大相土覽竭意吾瀬子之射立爲座五可期何本《キノクニノクニミアカニトワガセコガウタタシマサバイツカハナモ》
と訓んでゐる。これは考の説と、直香の師守部の説を折衷したやうなものである。
 
     かまやま
 
 次に宣長は例の玉勝間の中で
  莫囂國隣霜木兄※[氏/一]湯氣吾瀬子之射立爲兼五可新可本《カマヤマノシモキエテユケワガセコガイタタセスカネイツカシガモト》 と訓ませて「かまといひて莫v囂《カマビスシキコトナカレ》と云意なり、かま山は紀伊ノ國の竈山なり、國隣はやまとと訓べし」といつてゐる。訓方に就ては、大相を霜、七を木、爪を※[氏/一]の誤りなどと可也獨斷を敢てしてゐる。が、兎に角、竈山の地は、海草郡三田村大字和田で、五瀬命を奉祀する竈山神社のある(132)ところである。
 
     まつち、みす
 
 檜嬬手の中で、守部は、
  莫囂國隣之大相土見乍竭意吾瀬子之射立爲座吾斯何本《マツチヤマミツヽアカニトワガセコガイタタシマサバワハココニナモ》
と訓んだ。これは眞淵の説、即ち神武紀の中洲之地無風塵から莫囂國を大和と見て、その隣を紀の國としたところから、暗示された考らしい。中洲に隣る山だから眞土山と訓んだのであらう。
 井上通泰氏も新考に
   莫囂圓隣之大相七兄爪△△謁氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《マツチヤマミツツコソユケワガセコガイタタシケムイツカシガモト》
と訓ませてゐる。
 また折口信夫氏は、その國文口譯叢書萬葉葉の中で
  三栖山《みすやま》の檀《まゆみ》弦《つら》はけ、わが夫子が射部《いめ》立たすもな。吾か偲ばむ
と訓んで、紀伊の國の三栖山の檀でこさへた弓に弦をかけ云々と解してをられる。なほ氏の萬葉(133)集辭典三世山の條に「豊後風土記大野郡|網磯《アミシ》野の地名傳説に其※[獣偏+葛]人聲甚〓《そのかりびとのこゑいとかまびすし》。天皇|勅2曰《のりたまふ》大囂《あたみす》。【謂2阿那美須】因v斯曰2大囂斯《あなみすぬと》1。今謂2網磯野《あみしぬ》1者訛也とあるところから「莫囂は喧しいのを却ける樣だから大囂と同樣みす〔二字右●〕と訓じたのである」と記してある。三栖は西牟婁都田邊町から東北三里ばかり、田邊から本宮に向ふ通路即ち中邊路にある小驛である。ここにある山を三栖山といふ。
 以上は皆、紀伊の地及びその境界とするものであるが、大和の方にしてあるものもある。
 
     かくやま、みもろ
 
 信濃漫録には
  莫囂圓隣之大相土旡靄氣吾瀬子之射立爲兼五可斯何本《カクヤマノクニミサヤケミワガセコガイタタスカネイツカアハナモ》
と訓ませてをり、古義には
  奠器圓隣之大相土見乍湯氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《ミモロノヤマミツヽユケワガセコガイタタシケムイツカシガモト》
と訓んでゐる。
 カクヤマは香具山、ミモロは三輪山のことである。
 
(134)   眞土山を越えて
 
     眞土山、信士之山川
 
 眞土山、今では紀伊の國に屬してゐないとされる眞土山ではあるが、こゝに私が紀伊萬葉地理研究の筆を擱くに際して、どうしても割愛して了ふことの出來ないのは此山である。まこと、紀伊の國に幾多の秀歌を殘した萬葉の詩人たちは如何に美しい憧れを抱いて、此山を超えて來たことであらう。さう思ふ時、何といつても此山は紀伊のものである。多くの先人に眞土山だと認められた待乳峠は今こそ大和の宇智郡阪合部村に屬して、紀伊にはかかつてもゐないが、その昔萬葉人の越えた頃には、この山の背が恰度紀和の界となつてゐたのである。今のやうに國界に川を以てしなかつ
〔写真、著者小照、紀の川に注ぐ信士の山川〕
(135)た當時に於いては、主として山峯が界とされてゐて、待乳山もその一つであつたのだ。
 この山を越えるには和歌山線大和二見驛で下車するがいい。その西の隅田《すだ》驛からは距離は近いが逆路になつて面白くない。二見驛から線路に沿つた街道を西へ約半里ばかり行くと爪先上りの坂になる。それからが待乳峠である。峠といつても海抜百二米といふ低いものだし、それを越すに約二十町の坂道が延びてゐるのだから傾斜は知れたものである。ここも今では自轉車や自動車が盛に走るやうになつて、昔の氣分を壞してゐること夥しい。
    神龜元年申子冬十月紀伊國に幸ませる時從駕の人に贈らむ爲娘子に誂へられて
    笠朝臣金村が詠める歌
  大君の行幸《いでまし》のまに武士の八十伴緒と出で行きし愛し夫は天飛ぶや輕の路より王襷畝火を見つゝ麻裳よし紀路に入りたち眞土山越ゆらむ君は(後略)(卷四)
  朝裳吉し紀伊《き》へ行く君が信士山越ゆらむ今日ぞ雨な降りそね(卷九)
 この坂を西に降りつめた所に一帶の清流が深く巖を削つて南走してゐる。これが昔の信土之山川今の堺川一名落合川である。
    藤原卿作未審年月
(136)  白妙に匂ふ信土之山川に吾が馬滯む家戀ふらしも(卷七)
 この川が南方、紀の川に合流するところに古道がある。これは今の往還よりは數町南に當つて紀の川に沿うてゐる。この方を萬葉時代の道として、名所圖會などは眞土山も今の侍乳峠ではなくても少し南方に在つたものだと記してゐる。すると、現在汽車の隧道のある山かも知れぬ。
 落合川の橋を渡ると、すぐ今の紀伊に入る。伊都郡|隅田《すだ》村|眞土《まつち》の地である。そこに又低い丘があつて切通しが出來てゐる。ここは約二十年前に切開いたのださうであるがその西に連つて、形のいい山がある。これを指して昔の眞土山だといふ説もある。成程
    太上天皇紀伊國に幸ませる時調首淡海作歌
  朝毛吉木人ともしも亦土山ゆき來と見らむ樹人ともしも(卷一)
と歌はれた山だから、その姿も相當立派でなければならぬ。その點からいふとこの山らしくも思はれる。だが切通しの出來てゐる丘より、此山は大分嶮しく高い。わざわざこちらを越えたといふのも、をかしく考へられる。私は、今でも、あちこちに待乳だとか眞土だとか云ふ名があるやうに、昔も此邊一帶の地を廣くマツチと呼んでゐたのではあるまいかと思ふ。そして、いくつかの山を總稱してマツチの山といつたのではなからうか。私には、どうもさう思はれてならぬ。
 
(137)     廬前、角太河原
 
    辨基が歌一首
  亦土山ゆふ越えゆきて廬前乃角太河原に獨りかもねむ(卷三)
 廬前は、よくわからぬが、續風土記には「當村の芋生は伊保の音便に轉ぜしならん、然らば庵崎は庵村の出埼の義にて今村領に紀の川へ突出たる埼あるをいへるならん」と記してゐる。この芋生は今隅田驛の在る邊を指すのである。なほ、驛の西北、八幡社の鳥居のある邊をイホザキといふさうであるから、そこの方を指したものかも知れない。
 角太は、落合川を渡つて紀伊に入つたところの地、今の隅田村の事だらうが、角太河原を磧とみれば角太川は紀の川の部分名で、續風土記にも「角田川は堺川合流の所より相賀莊妻村領烏帽子岩までの間隅田莊中紀の川の流をいひ」と記してゐるから、その邊の紀の川の磧とみるべきである。先年、此地を踏査された澤瀉久孝辰巳利文兩氏は、この邊の磧は廣々としてゐるといふことを擧げて、古義や新考の角太ケ原説を排して居られたやうに思ふ。だが、私には兩氏が磧の廣々としてゐ(138)るといはれるのは何邊を指しての事かよくわからない。私は紀の川として、此邊は寧ろ餘程狹い所と信じる。それに此邊は南北から山が迫つてゐる爲か岸が非常に高く、磧へ出るには餘程降りてゆかなければならぬ。今の街道からみれば磧は二十間許りも低くなつてゐる。尤もこの邊の紀の川の沿岸は洪積平地の一種所謂河段 Flussterassen をなしてゐるから、以前川がもつと廣かつたといふことは明らかである。併し今の兩岸の高さから考へると、如何に削磨作用が激烈であつたとしても、川床が淺く磧の廣かつたのは、恐らく地質時代に屬することであらう。歴史時代に入り、殊に萬葉の頃になつては、もう其麼地形ではなかつたに違ひない。從つて當時磧へ出るとすれば矢張相當道路より降らなければならなかつたらうと思はれる。ところが人間はこれから眠らうといふやうな際に、高みに登つて横になることはあつても、現在の位置より下へ降りてゆくことは先づ無い。即ち道路より高い所で眠ることはあつても、わざ/\低い磧へ降りてはゆくまいと思ふ。これは恐らく、古代人にも現代人にも通じた一種人間の慣性だらうと考へられる。斯うした考から、私は磧説には怎うも賛し難いのである。尤も、京都の賀茂川などには河原乞食といふ奴があつたが、あれは例外である。
 但し、以上は作者が既に信土山を越えて角太へ行つた經驗があり、その地形を知つた上で詠んだ(139)ものとして論じたのである。兎に角、この歌は作者が未だ信土山を越えて了つてはゐない時の作だから、豫め角太の地形を知らなかつたものとすれば、今更青筋を立てて論じ合ふ程のものでもあるまい。
 
  朝裳吉し木へゆく君が信士山越ゆらむ今日ぞ雨な降りそね(卷九)
  橡の衣解き洗ひ又打山古人には猶ほ如かずけり(卷十二)
  いで吾駒早くゆきこそ亦打山待つらむ妹を行きて早見む(同)
 
(140)   國號と枕詞二つ
 
     國號
 
 紀伊は、もと木國《きのくに》の意味から來てゐる。書紀神代卷に、素戔嗚尊之子、批曰五十猛命、妹大屋津姫命、次抓津姫命、几此三神、亦能分布木種、〓奉渡於紀伊國也とある。素戔嗚尊の御子である三神は木種をよく分布されたのであるが、この半島に渡つて來られて、ここは木を植ゑるのに適した地だとして、遂にお鎭まりになつたのである。即ち既に記したやうに、五十猛命はいま海草郡山東村の伊太祈曾神社に、大屋津姫命は同郡川永村の大屋津姫神社に、抓津姫命は同郡山東村其他の都麻津姫神社に各祀られてゐる。
(141) 今この三神の御名について考へてみるに、五十猛命は又大屋比古ともいひ、大屋津姫、抓津姫の御名と同樣その起りは多分續風土記に「材《き》の用は是|屋舍《イヘ》を造ることを主なれば、大屋てふ御名は負ひたまへり。また抓といふも材はかならず截り斷ちて端のあるものなれば、それによれる御名にして津はみな助字なり」と記してゐる通りであらうと思はれる。即ち木のことを掌る神々と見るべきである。そんな風で、この半島は木には關係深いから、木國と名づけられたのであらう。木國は又紀國とも書かれ、その後、元明天皇の時に紀《き》の音の韻《ヒヾキ》の伊を添へて、紀伊といふやうになつたのである。
 
     あさもよし
 
 この枕詞は、木《き》ひと、きぢ、木《キ》の川、城のへの宮等に冠してゐて、朝毛吉木人乏母《アサモヨシキヒトトモシモ》(卷一)、麻裳吉木道爾入立《アサモヨシキヂニイリタチ》(卷四)、朝毛吉木川邊之《アサモヨシキノカハノベノ》(卷七)、麻裳吉木方往君我《アサモヨシキヘユクキミガ》(卷九)等の如く紀伊なる地名にかかるものと朝毛吉木上宮乎《アサモヨシキノベノミヤヲ》(卷二)、朝裳吉城於道從《アサモヨシキノベノミチユ》(卷十三)の如く然らざるものとがある。
 これに就ては矢張り古義に「宮地春樹と云し翁の説に朝毛《アサモ》は麻裳、吉は助辭にて、麻裳《アサモ》を著《キ》とつ(142)ゞけたる枕詞なるべし、と云るぞよき」といつてゐるのが穩當であらう。紀伊から麻の出たことは既に述べた通りであり、谷川土清の引いた麻衣きればなつかしの歌からも畧ぼ想像がつくと思ふ。冠辭考にある「淺《アサ》葱てふ色の事なるを、上に淺よといひて葱とつゝけしならんか」も、をかしいし、「又或人、集中に、麻衣きればなつかし木の國のいもせの山にあさまけわぎも、とよめると、又眞間の娘子をよめる歌に、ひたさ麻《ヲ》を裳には織きてなど有を以て、紀の國よりよき麻裳を出せし故によめるかといへと、惣て國つものを以て冠辭とせしはなきよしは、上下にいふが如し、その上この冠辭は紀伊のみにもあらず山との城戸にもつゞけたれば此説は違へり」などといつてゐるが國つものを枕詞とした例はなくても、前記の通り、麻裳を著《キ》をつゞけ、一般にキ音にかかるものとすれば一番無難のやうに思はれる。
 
     むらさきの
 
 萬葉集には、むらさきのの五音を枕詞として用ゐた歌が數首ある。例の額田王に、皇太子が應じられた「紫草能《ムラサキノ》にほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに吾戀ひめやも」(卷一)の一首は、あまりにも人(143)口に膾炙されてゐる。そして枕詞としても雅澄が「古に爾保布と云は、多くは※[香+多]香のことにあらず、何にまれ色のてら/\としたるをいへば、このつゞけはあるなり」といつてゐるやうに、何の疑ふところもない。
 又、十六卷にある「紫《ムラサキ》乃粉滷の海にかづく鳥珠かづき出ばわが珠にせむ」の歌も古義に「紫の色の濃きといふ意にかゝれり」と記してゐる通り、明かなものである。
 
 ところが、前述した紀伊内海町の名高を詠んだ作の場合のつづきは、怎うも、はつきりしない。
  紫之名高浦の愛子地袖のみ觸れて寢ずかなりなむ(卷七)
  紫之名高浦の名告藻の磯に靡かむ時待つ我を(同)
  紫之名高乃浦の靡藻の情は妹によりにしものを(卷十一)
これに闘し、先づ眞淵の冠辭考には「むらさきは、ことに尊き色として色細《なぐは》しければ、名高しといひかけたり」と記してゐる。だが、この解釋は怎うも穿ちに過ぎるやうで、自分にはぴつたりと來ない。
 宜長の玉かつまにも記載がある。
(144)  ある時若山にて、人々物語しけるついでに、一人が云ふやう。名高の里中に、紫川といふちひさき川の有る也といふ。そはいとおかしき事なるを、もし萬葉の歌によりて、筆好む者のつけたる名にはあらじか、猶たしかに問ひきかまほしきことなりと、おのれいひければ、又一人、おのれかのあたりは、しばしば行き通ふ所なれば、今よくあない問ひ聞きてんと云へるが、後に又來りしをり、語りけるは、一日名高のわたり物せしに、かの川の事、里わらべの遊びゐたりしに、此里に紫川といふ川や有ると問ひしかば、よく知りゐて、ちひさき流れに、橋かけたるところを、これなんそれと、教へつ、とぞ語りける。然かわらはべまでよく知れるは、つくり言にはあらざらんめるを、もしこれ古き名ならば、かの萬葉に、紫の名高とつゞけたるは、古へ此わたりを、村崎など云ひて、そこなる名高の浦といへるにはあらじか。されどかの川の事猶人づてなれば、たしかには云ひがたきを、かしこに物せむ人、猶よくたづね給へ。
この紫川といふのは、今、藤白神社のすぐ西、有間皇子の碑へ行く途中を、北へ流れてゐる小川である。併し、その名の起りは勿論不明である。從つて、川の名から枕詞が生じたか、歌から川の名がつけられたか、或は双方とも他に據るところがあるのか、こんなことは鳥渡見當がつかない。
 なほ續風土記にも
  古歌に紫をもて名高の發語とせり、其意詳ならず、紫の根と(なとねと通音也)受けたるといへるも普通語宛轉の解にてとるに足らず。或は藤白王子權現の南に(著者註、南といふより西)紫川といふあり、紫は、この川の名を冠せたるといふことに從ひがたし。此川源より三十町許の水流なれど小川にして名高の名を冠らすはかりの川にあらず。
(145)と記してゐるが、前説は編者もいふ如く取るに足らぬ。後説は前述の通りである。
 最後に、内海村誌を見る。これには可也詳しい考がある。
  社ノ西方一小溪アリ、紫川ト云フ、其名、阿レニ出ヅルヤ詳ナラズ、或ハ上流溪谷ノ石其色紫ヲ帶フ故ニ名ヅクト、或ハ昔高貴ノ創ヲ負ヒ溪水ニ洗滌ス、其血流レテ紫ノ如クナリシト、或ハ村ノ前端ニ方ルヲ以テ村先ノ轉化ナリト
 こんな問題は、四角四面に考へて行つても結局わからないのである。だが、實際は極めて單純な關係に在つたに違ひない。
 かうした事を考へる際には、直感が可也大事な役割を演じることがある。自分には何故かしら、川にある石の色から紫川と呼ばれ、それが、たまたま枕詞として使はれるやうになつたと見るのが一番自然のやうに思はれてならない。
(追記)アイヌ語でki《キ》は蘆の事である。和歌の浦の蘆は例の赤人の歌にも詠まれてゐるが、一般に紀北には今でも川の岸や海近いところには蘆が多い。國號も或はこのアイヌ語から出たのではあるまいか。
 
         後記
 
 ここに載せた地理研究の稿は、自分が當和歌山へ赴任して間も無い頃から、ぽつぽつ書きつけたものであつて「短歌雜誌」の求めにより同誌に連載して來たものを中心とし、「紀伊教育」「紀州公論」「渡津海」「自然」等の諸誌に寄せた稿をも集録したものである。もともと、雜誌に載せるつもりで筆を取つて來たので、斯うして一册にしてみると、體裁上、いろいろ改めたいところもあるが、今はその暇もない。で大體發表當時のままにしておいた。たゞ、不審を抱かれる方もあるかと思ふので、ことわつておくが、各項の題の地名は假名まじりにし、小見出し及抄歌の地名は、わざと萬葉假名そのまゝにしておいた。
 何分、自分の寡聞の上に、田舍にゐて充分の參考書もないため不備の點も多々あらうと思ふ。大方の教示を仰ぐことも出來れば幸甚である、
 なほ、赴任早々の僕にこの仕事を勸めて下さつた「短歌雜誌」の松村英一氏にはいろいろの意味で謝すべきことが多い。それから、出版を急がれたために口繪の寫眞は、一々自分で撮影して歩くことが出來ず、遠い所は全部友人の手を煩はした。新宮の佐藤謙太郎氏、田邊の濱棹歌氏、湯淺の田邊善一氏には特に御無理を願つた。ここに記して厚く感謝したい。
   昭和六年五月十五日   女子師範學校圖書室にて
                  著者記す
 
昭和六年六月十日印刷
昭和六年六月十五日發行
     紀伊篇
       定價金壹圓
著者   日比野道男
發行者  中西慶治
        東京市牛込區藥王寺町五四
印刷者道 道又好三
        東京市小石川區關口水道町四一
發行所     東京市牛込區藥王寺町五四 白帝書房
〔2018年9月8日(土)午前11時55分、入力終了、2021年11月9日(火)午後8時10分、校正終了〕