萬葉集精考 菊池壽人、678頁、4圓80錢、中興館、1935.7.18、発行
           (入力者注、歌の番号はもと漢数字、巻頭歌はもともとなし。)
  序言
 
我が萬葉集の註釋に志したのは實に明治二十五六年まだ大學在學中の事であつた。然るに卒業後、子弟の教養に急にしして、研究に專らなる事が出來ず、果ては過勞の極、神經衰弱に罹り、不眠症にさへ陷るに至つた。で、保健のため、暇あれば山水の間に放浪するここと前後約十年、心には忘れずながら研究はとかく疎そかであつた。(尤も明治三十七八年の頃、健康はほゞ回復したが、習癖、性となつて明治四十一二年の頃まで放浪を續けたのは我が怠りであつた。)明治四十二年九月恩人晩節叔を喪ひ、越えて二年あまり、明治四十五年二月には慈母をさへ失つて、風樹の感を新にした。これよりつとめて收束して研究に没頭したが、生(2)來の病弱、自から我が世の長かるまじきを思うて、大正六七年の頃から、試に稿を起して見た。それも一語一句の解は、古來の註釋をくりかへすに似て、無用の事と思つたから、玉の小琴などのやうに、特に我が意見のある所だけを抽出して、比較的委しい解説を試みたが、意に充たなかつた。友人の意見などを參照し、更に稿を改めて一語一句の解説を試みたが、これまた意に充たなかつたので、更に多少の改廢を加へて、とにかくに卷一の半(役民の歌のあたり)まで書き進んだ頃、突然一高校長に任命された(大正八年の夏)。一旦は固辭したけれど、事情許されなかつたので、已を得ず駑鈍に鞭つて事に當つたが(勿論萬葉の研究は一時中止した)、時恰も一高の非常時に際して、事務多端を極め、無能病弱の身、事に堪へかねて、翌年八月遂に脳溢血に罹つた。幸にそれ(3)は比較的輕微であつたが、一年後更に惡性の大腸加答兒を煩つていたく憔悴した。然るに生憎にも一高多年の懸案なる駒場移轉問題や、大震災等相尋事いで起り、隱退の期を得かねてゐたが、震災後一年、その跡始末もほゞ片づき、移轉問題も幸に事なく成立したので、大正十三年九月(就任後正に滿五年)漸く閑地に就く事を許された。そこで休養一年の後、また舊稿を取り出して見たが、中絶六七年、あらぬ事に没頭してゐたので、恰も夢ごゝちで、一向氣がのらない。それに我が見解の多少變つた所もあるから、大體に亙つて三たび稿を改めて、辛く腹稿を繼續する事が出來た。然るに大正十五年九月一日我が一大打撃ともいふべき事件突發して、痛心のあまり何事も手につかなかつたが、強ひて筆を呵して、その年の暮に辛く卷一を書き了へた。卷二までは(4)筆執る氣分もしなかつたが、吾が萬葉の註釋も目的はむねと人麿の歌にあつたので、卷二に筆を着け得ないのを遺憾とし、昭和三年の秋の頃から、また振ひ立つて筆を執りそめたが、中途で倒れむことを慮つて、まづ人麿の歌よりはじめ、次に他の挽歌、最後に相聞歌の順序で、昭和八年の春辛く書き了へた(本文の訓だけはまだ未完成であつた)。此く長時に亙り、折々中絶もしたので、おのづから氣分も一貫せず、我ながら意に充たぬことが多い。たゞ萬葉といふもの謎を解くやうなもので有能の學者必ずしも卓説に富まず、然らざる者も時に一種の奇説を吐く事もあるので、古來の衆説相倚り相合して、ともかくも今日の觀を呈するに至つたのであるから、もし我が幼愚なる一説幸に採られて、萬葉研究史上、多少の參考ともなる事が出來たなら、當初の志の一(5)端を遂げ得たといふべく、我が願ひ即ち足るのである。今日は時世も進展して、最早註釋などを云々すべき時期ではないかも知れねど、當初吾輩の志したのは四十年の昔で、その研究の一部を筆にしたのも十五六年の昔で、まださる註釋を必要とする時代であつたから、折角書いたものを徒らにせざらんがため、當初の志を立てんがために、そのまゝ書き繼いだのである。で、卷一を草する折の參考書としては、主に明治以前の書(近代では美夫君志だけ)であつたが、最近五六年間、萬葉集の研究著しく發展して、井上博士の新考、山田博士の講義、次田氏の新講、鴻巣氏の全釋等の好著續々と現はれ出たので、卷二の註釋には多少此等をも參考する事となつた。講義は殊に考證精覈で創見に富める好著だが、生憎に我が卷一を草する頃は未だ世に出でず、卷(16)二を發表せられた時は拙稿の終に近い頃であつたので、十分に參考する事を得なかつたのは遺憾である。(發表せられた後、遡つて參照した所もないではない。)其他著書に論文に盛に發表せられてゐるものが多々あるであらうが、吾輩寡聞一々は見てをらぬ。(見たのは全釋的な書のみである。)若し萬一、我が言ふ所にして他人の言に近いものがあつたなら、そはいふまでもなく其人の説である。吾輩はたゞ萬葉の謎が明になれば滿足するので、自説の如何を主張する心はない。
此稿成るに垂んとしてたま/\病に沈み、爲めに業を廢すること年餘、淨寫に、校正に人を煩らはす事多く、出版に際しては、畏友石川八十井、松井簡治、杉敏介、藤村作、沼澤龍雄.久松潜一諸氏の斡旋と、書肆中興館主人、矢島一三氏の好意とによることが多い。(7)また菅虎雄氏は表装の題簽に健筆を揮はれて、此書のために光彩を添へられた。こゝに附記して感謝の意を表す。
                   著者識
 昭和九年十一月
 
(1)  凡例
一、 本書は寛永版本を底本としたが、その誤の明かなものは他の諸本によつて訂正し、その字の左旁に「○」を附して識別し易からしめた。
一、 誤字とおぼしいけれど明かに斷ずべき證左なきものは、解説中にその見を述べ、なほ念のため其字の左旁に「◎」を附してその意を知らしめた。
一、 上欄に記した數字は國歌大觀によつて施した歌の番號である。初め卷一を草した時は從來の方法に從つて卷數を示しただけであつたが、近來校本萬葉集をはじめ國歌大觀を利用するものが多いから、遡つて記しつけた。
一、 枕詞は古代に於ける一種の修辭法で、昔は意義もよく解つてゐたであらうし、萬葉集の頃までは、作者自から新に創製して活用もしたであらうけれど、後、意義が漸く失はれて、後人の釋義を見ても、成程と思はれる説もまだ少いやうであるから、今は多く世に唱へられる一二説にとゞめて、大方は後の研究を待つ事にした。
 
 〔目次省略〕
 
(1)  萬葉集總論
 
    一、題號
 
萬葉集はまんえふしふ〔六字右○〕(マンヨウシウ)と訓む。まんにょふしふ〔七字右○〕と訓む人もあるが、そは連聲の關係から起る中世以後の讀みくせ〔四字傍点〕で、本來の音ではない。その時代の正しい發聲は知る由もないが、當時は撥音がなかつたといふから、或はまにえふしふ〔六字右○〕とでも呼んだかも知れぬ。萬葉といふ字義については、昔から主なる説が二つある。
(一) 萬の言の葉(萬の歌)と解し、仙覺まづ之を唱へ、代匠記、僻案抄、萬葉考、美夫君志等皆之に同じてゐる。後世の金葉集、玉葉集、新葉集等は此類の命名で至極簡明に聞えるが、昔は言辭、歌詞の事は、たゞ「こと」といつたので、そを葉(ノ)字にいひかけて、ことば〔三字右○〕といひ、ことのは〔四字右○〕といひ、更にことのはの道〔六字右○〕といふのは主に平安時代以後日本化した遣ひ方なので、漢字本來の義ではあるまい。代匠記は釋名に「人聲曰v歌、歌柯也、如3草木有2柯葉1也」とあるのを引いてゐるが、彼の土でも廣く行はれた説ではない。恐くは譬喩に過ぎないであらう。
(2)(二) これも代匠記に見える一説で、萬代、萬世の義とするのである。(古義專ら之を唱ふ。)これは漢字本來の義で、累葉、中葉、後葉など用例が多い。彼土の用例は姑く措き、本邦人の書いた漢文でも、績紀、天平八年十一月葛城王、佐爲王の上表に「萬歳無v窮、千葉相傳」古語拾遺に「隨v時垂v訓、流2萬葉之英風1、興v廢繼v絶、補2千歳之闕典1」延暦十六年續紀撰進の上表に「傳2萬葉1而爲v鑒」仁明天皇が令義解を施行し給ふ時の詔には「宜【丁】頒2天下1普使【丙】遵2用畫一之訓1垂【乙】於萬葉【甲】」など見えてゐる。萬葉集は此等の文のかゝれた當時の命名である事を思へば、やはり萬世に傳へんとの抱負から出た名と見るのが穩當であらう。さすれば後の歌集でいへば、千載集、萬代集、後葉集などに凝らへて見るべきものであらう。古今集序文の未に「今も見そなはし、後の世にも傳はれとて云々」とある心ばへであらう。
 
    二、撰者
 
萬葉集の撰者については確かな事が判つてゐない。昔からさま/”\な推測説はあるが、雜然と諸説を並べ立てゝも徒らに混亂するばかりであるから、手つとり早く、今の人はどう見てゐるかといふことを一言すると、もと橘(ノ)諸兄が撰んだらしい〔三字傍点〕が、それが十分まとまらずに了つたらしい〔三字傍点〕ので、後に大伴(3)家持などが、手をかけたらしい〔三字傍点〕といふのが大體の通説となつてゐる。これとて確證があるのではないから、人によつて多少見を異にするのは勿論である。一體萬葉集は今でこそ世にもてはやされてゐるが、撰述後、間もなくすたれて、あまり讀まれなかつたらしいので、古い文獻に何も見えて居らぬ。今に傳はる最古の文獻としでは古今和歌集卷十八に見える清和天皇に關する御逸事である。
 貞觀の御時、萬葉集はいつばかり作れるぞと問はせ給ひければ、よみて奉りける   文屋有季
  神無月時雨ふりおけるならの葉の名におふ宮のふる事ぞこれ
撰述後百年ばかりで、製作の年代も判らなくなつて御下問があつたほどなのである。まして撰者に關する事は遙か後の榮華物語、月の宴の卷に、ちらと見えてゐるだけである。即ち
  「昔、高野の女帝の御代、天平勝寶五年には、左大臣橘卿諸兄諸卿大夫等集りて萬葉集を撰ばせたまふ」。(元暦枚本卷一の目録の首書にも、裏書を引いて「高野姫天皇天平勝寶五年、左大臣橘諸兄撰2萬葉集1」とあるが、思ふにさる傳説があつたので、それが萬葉集の裏書ともなり、榮華物語の記事ともなつたので、もとは一つであらう。)これだけでは確かな證據とは言へないが、何分唯一の古い傳説でもあり、年號なども定かに書いてあるから、むざと否定するわけにも行かない。これが、もと諸兄が撰んだらしい〔三字傍点〕と言はれる所以である。けれど今に傳はる二十卷の萬葉集を見ると、一人の人が一貫(4)した主義の下に撰び上げたものとは到底見られない。なるほど然るべき歌を精撰したらしい卷もあるが、玉石混淆で雜然と材料を集めたらしい卷もある。歌の載録についても、年代を逐うて次第した卷もあれば、歌體によつて類別した卷もある。書式もまち/\で、記紀の歌のやうに、所謂萬葉假名を用ひてのまゝに記した卷もあれば、義訓、借訓、戯書とり/”\で訓み解き難き卷もある。殊には諸兄薨去(天平寶字元年)の後の歌さへあるので、諸兄一人の撰とは到底認められない。そこでいろ/\穿鑿の結果、その後繼者の一人として大伴家持が名ざされる事となるのであるが、これも確かな證據があるのではないが、相應な理由はある。
 一、家持の父、旅人の事は微官の時から敬意を表してあらはに名を著せぬ事、
一般の例によると、「卿」は參議以上に對する敬稱なのであるが、旅人だけは特別で、微官の時から「大伴卿」とかいてある(卷三「暮春之月幸2吉野離宮1之時、中納言大伴卿〔六字傍点〕奉v勅作歌云々」とある類)。これは家持ならずとも、大伴家の誰かゞ、手をかけた爲であらうとの暗示を與へるものである。
 二、集中大伴一家に關する事が頗る詳密で、就中個人として家持の歌が最も多い事、
 三、卷五には旅人の名を書せずに掲げられた歌が多い事、
   此と同樣に卷十九には家持の歌に限つて作者の名を書してない事、
(5) 四、家持の歌の端詞に尊母、家婦、拙懷等の語が見える事、
   卷十九に「爲3家婦贈2在京尊母1所v誂作歌」といふのがある。尊母といふのは家持の叔母であり姑である坂上郎女の事、家婦といふは其女坂上大孃即ち家持の妻の事である。
しかし、それ故萬葉集は家持の續撰したものとはまだ言へない。初めに述べた如く、萬葉集といふもの、整理されたものではなく、種々樣々なものが雜然と集められて、それが草稿のまゝ傳はつたものらしいので、その材料の中には家持の手記したものも勿論あらうが、他人の録したものも加はつてをるかも知れぬから、上の如き例があるからとて、これで全般を律するわけには行かないのである。けれど何分かゝる例が比較的多いから、歌には熱心な人であつただけ、家持に對する感じが濃厚になるのである。これが家持などの續撰かも知れぬといはれる所以なのである。
然らば最初諸兄の撰んだ部分はどれだけかといふに、それは勿論わからない。賀茂眞淵翁は一種の見を立てゝ、今の卷一、二、十三、十一、十二、十四、の六卷を古い撰集とし(多分諸兄の撰としたのであらう)、他の十四卷を續撰としてゐる。多少見る所あつての事ではあるが、さう明かに指定し得るものではあるまい。しかし年代、部立、書式、其他の點から推して、少くとも卷一、二は最初に撰ばれた部分であらうと大方の人は認めてゐる。其他は數次に亙つて續ぎ足されたものらしく、假りに家(6)持が萬葉に手をかけたとしても、恐くは數次の中の一つに過ぎまいと見る人もある。のみならず最も精撰されたらしい卷一、二の中でも、亦後の補修に係る部分があるらしく思はれるから、今日に於て原撰のまゝの姿を見る事は到底望まれないであらう。次に萬葉集は勅撰か私撰かといふ事がよく論議されるが、之に就いて代匠記は私撰である事を細かに辨じてゐる。上掲の諸例から推しても、萬葉集全體としては私撰といふ外はあるまいが、その中の一部分例へば卷一、二の如きは勅撰でないとは限らぬ。種々の點に於て最もよくまとまつた注意すべき卷であるが、勅撰といふ事は何にも見えてゐないから、假りにさうとしても十分まとまらないで、奏するに及ばずして了つたものと見る外はあるまい。
 
    三、歌の年代
 
こゝに歌の年代といふのは萬葉集撰述の時代をいふのではなく、集中に載録せられた歌の年代の範圍をいふのである。それは隨分廣い範圍に亙つてゐるが、その最も古いものは卷二の初にある歌で、難波高津宮御宇天皇代といふ標記(仁徳天皇)の下に「磐姫皇后(仁徳天皇の皇后)思2天皇1御作歌」と題せる四首の歌であるが(右の外、卷四の初にも「難波天皇妹奉d上在2山跡1皇兄u御歌」と題せるもの一(7)首あつて、これも仁徳天皇時代のものとせられてゐる)、最も新しいのは淳仁天皇の天平寶字三年の歌であるから、仁徳天皇の御代から淳仁天皇まで約四百五十年間に亙る事となる。けれどかゝる上代の歌は傳説として見るべきもので、しかも其數極めて少く、外には卷一、二、三等に允恭、雄略、推古天皇時代の歌と稱せられるものが各一首あるだけであるから、取り立てゝいふべきほどの事ではない。歌數がやゝ多く、その姿もやゝ調うて、萬葉時代の前驅ともいふべき形をなしたのは、大陸文化の影響やゝ濃厚となつて來た大化の改新頃、天皇の御代でいへば舒明天皇からである。かく見れば年代がずつと狹まつて、約百二三十年間の歌集といふことが出來る。其の間飛鳥(六十餘年間)藤原(十五六年間)寧樂(約五十年間)の三時代に亘つてゐるが、飛鳥時代は年數は最も長いけれど、何といつても歌の數はまだ少い。最も盛んなのは寧樂時代で、有名な歌人が頭を揃へて輩出してゐるし、數に於ても全集の七分を占めてゐるほどだが、實質上最もすぐれて萬葉集の花ともいふべきは、最も短期間な藤原宮時代である。所でこゝに少し注意せねばならぬ事がある。奈良時代は諸般の文化が最も進歩して後世を壓した時代であるから、一般世人は歌に於ても萬葉集と寧樂時代とを漫然と聯想する事である。それは無理もない事であるが、よく心を用ひないと飛んだ誤謬に陷る事がある。萬葉集の作者中誰が最も優れてゐるかといふに、何といつても柿本人麿に及ぶものはない、獨り群を拔いてゐる。(8)若し集中から人麿の歌を拔き去つたなら、半以上光を失つて、極めて落莫たるものになる。然るに人麿は寧樂時代の人ではなく、實に藤原宮時代の人なのである。(人麿の死は和銅の初、同三年寧樂遷都前なるべき事は卷二の記事によつて推される。)此點を明にしておかないと、萬葉集と寧樂時代とを聯想する結果、うつかり人麿を寧樂時代の人にする恐がある。早く紀貫之の古今集の序文が既に誤つてゐる。序文の中に「古よりかく傳はるうちにも奈良の御時よりぞ廣まりにける。かのおほむ世や歌の心をしろしめしたりけむ、かの御時におほき三つの位柿本の人麿なむ歌の聖なりける。」と見えて、明かに人麿を寧樂時代の人にしてゐる。多分うつかり書き下したのであらう。あまりに近い年代であるから便宜上攝したのだとの辨解もあらうけれど、その便宜説が畢竟誤解を來す本になるのである。又大和物語にも、昔奈良の御時帝を慕うて猿澤(ノ)池に身を投げた采女を人麿が歌を詠んで弔うたといふ記事が見えてゐるが、これはまさか便宜とは言はれまい。人麿を奈良時代の人と思ひこんで組み立てた説話であらう。平安時代に於ける一般の智識はこんなものであつたらうが、近頃になつても折々同樣の誤がくりかへされてゐる。これは萬葉集時代に於ける歌の大勢を觀察するに肝要な事であるから、特に注意しておくのである。
 
(9)    四、歌體
 
萬葉集なる歌の體は長歌、短歌、旋頭歌の三體である。長歌は五音七音の二句を一單位として之を幾つかくりかへし、最後に五、七、七ととぢめるのをいふのであるが、それは長歌といふ形式がほゞ定まつてからで、記紀等に見えてゐる上代の歌謡は、句の數も、一句の音數も定まらず、長短まち/\で、型といふべきものもきめられないが、萬葉集となつてからでも、その名殘で、卷十三の歌謡などにはなほその類ひが多い。
 三諸は、人の守る山、本邊は、馬醉木花咲き、末邊は、椿花咲く、うらぐはし山ぞ、泣く兄守る山。
古い歌は訓みやうによつて句の數がちがふから、これが第一問題だが、この歌、考、古義等に從つて末を「うらぐはし山ぞ」と八言一句と見れば(略解は「うらぐはし、山ぞ」と二句に見てゐる)、結末は八、七の二句となつて後の形式とはちがふ事になる(古い歌には此類の形が多い)。又卷一額田王の歌に
 味酒、三輪の山、青丹よし、奈良の山の、山の際《マ》に、い隱るまで、道の隈、い積るまでに、つばらにも、見つゝ行かむを、しば/\も、見放けむ山を、情なく、雲の、かくさふべしや。
(10)といふのがあるが、これも「情なく雲の」を一句とする説もあるが、調から推して、玉(ノ)小琴以來「情なく、雲の」と二句に見る説が多い。それによれば結末は五、三、七の三句となるので、後世の形式に近くなる。一句一句の音數も、前の歌は四、七が基調をなしてゐるが、後の歌は五、七の對が多く、やはり後の形式に近い。この二歌どちらが先かは知らないが、とにかく何とも名づけやうのない雜然たる時代を經て、追々に五音七音が勢力を得るやうになり、しばしの名殘を留めた三音四音の句も、やがては跡を絶ち、形式が一定して、うるはしく調ふやうになつたのである。それは進歩には相違ないけれど、どの歌も同じ調子をくりかへす事になり、飛び離れた變化が見られなくなつたのが、長歌の衰へて行く一因と見るべきではなからうか。予はその形式のまだ定まらない卷十三の長歌に多くの興を感ずるのである。(雜然たる長歌形式の變遷を説くのは容易でないが、こゝにはこれだけに止めておく。)
長歌には反歌といふものが附屬してゐる。これは一旦長歌に述べた事を、更に要約してくりかへし、又長歌で言ひもらした事を補ふもので、性質上、反歌に用ひられるのは短歌のみである(旋頭歌を反歌としたものは唯一首ある)。もと荀子の反辭、離騷の亂、佛典の偈などから出たものらしく記紀の歌の中には一つもない。これの見えるのは大陸の影響が漸く濃厚になつて來た舒明天皇頃の歌からであ(11)る。それも初のほどは少なく、女流の作には殆ど見えないが、漢土の摸倣とはいひながら、長歌の眼先を更へて精彩あらしめる形なので、後には無くてはならぬものとなつてしまつた。反歌はまた短歌ともいつた。これも荀子に小歌といふ事があつて、その注に「此下一章即其反辭、故謂2之小歌〔二字右○〕1※[手偏+總の旁]2論前意1也」とある義で、短小なる詩形をいふのである。元來こゝに歌體を分けて長歌、短歌〔四字右○〕、旋頭歌としたが、これは便宜上姑く今の人の唱ふる名稱を借り用ひたので、萬葉集の當時から長歌短歌といふ名稱のあつたわけではない。長短如何に拘はらず、當時はたゞ歌といふだけで、特に短歌とあるのは、其が反歌として用ひられた場合に限るのである。長に對する短の義ではない。(卷五なる憶良の歌の端書に「老身重病經v年辛苦及思2兒等1歌七首」とあつて、其下に【長一首短六首】といふ割り注があり、次の歌にも「戀2男子名古日1歌三首」とあつて下に【長一首短二首】といふ分注があるが、これがもし憶良の自注なら、この頃から、今日唱ふるが如き意で長歌短歌と唱へ初めたものかも知れぬが、恐くは後人の分注であらう。とにかくに萬葉集に於ける長短歌の憑據とすべきものではない。)古今集以後長歌が廢れて、ただ歌といへば所謂短歌の事となり、長歌の事は特にながうた〔四字右○〕といふやうになつた。
次に短歌はいふまでもなく五、七、五、七、七の五句三十一音から成る歌をいふので、これが廣く行はれて集中の大部分を占めてゐる。その中に佛足石の歌の體といはれて、五ノ句を少し語をかへて六(12)句にくりかへす一つの體があるが、これは全く諷誦のためらしいので、初から異なる一體ではなからうと思はれる。例へば、
 家にありて母がとり見ばなぐさむる心はあらまし死なば死ぬとも、後は死ぬとも。
旋頭歌は一に雙本歌ともいふ。これは五、七、七、五、七、七の六句から成る歌であるが、一旦五、七、七で切れて、更にまた五、七、七とくりかへす形は、頭を旋らして後をふりかへる形だから、名となつたのであらう。雙本歌といふも二本對立の形からついた名であらう。例へば、
 白珠は、人に知らえず、知らずともよし。知らずとも、我し知れらば、知らずともよし。
第一段の尾句を承けて第二段の首句を起し、第一段の尾句と第二段の尾句とは、同句をくりかへしてとぢめるといふのが、理想的な標準で、場合によつてはおもしろいものだが、あまりに型がきまり過ぎて、變化が得られない爲であらうか、あまり行はれなかつた。
さて以上三體の歌の總數は計算する人によつて多少の差がある。それは萬葉集には異本が多いから、底本に用ひた本の異同によつても違ふが、又學者おの/\見る所を異にして、或は衍文として抹殺する事もあり、中には一首の歌か、二首と見るべきか、見解の定まらぬのもあるからで、正確な數は容易く斷ぜられないが、姑く古義の計算によれば、次の如くである。
(13)長歌   二六二首
短歌    四一七三首
頭旋歌   六一首
總數    四四九六首
 
    五、部立
 
萬葉集は一人一時の撰述ではなく、數次に亙り、或は數人の手を經て今の形になつたらしいので、歌の部類も卷々によつて異なつてゐる。その一々の概觀を述べておくのは、卷々の性質を明にする所以であるが、それはあまりに煩瑣で又無味でもあるから、そは後々必要な箇處で述べるとして、こゝにはその部立の名目だけを列記しておく。
 卷一  雜歌
 卷二  相聞、挽歌
 卷三  雜歌、譬喩歌、挽歌
 卷四  相聞
(14) 卷五 雜歌
 卷六 雜歌
 卷七 雜歌、譬喩歌、挽歌
 卷八 春雜歌、春相聞、夏雜歌、夏相聞、秋雜歌、秋相聞、冬雜歌、冬相聞
 卷九 雜歌、相聞、挽歌
 卷十 春雜歌、春相聞、夏雜歌、夏相聞、秋雜歌、秋相聞、冬雜歌、冬相聞
 卷十一 古今相聞往來歌類上、旋頭歌、正述心緒歌、寄物陳思歌、問答歌、譬喩歌
 卷十二 古今相聞往來歌類下、正述心緒歌、寄物陳思歌、問答歌、羈旅發思歌、悲別歌
 卷十三 雜歌、相聞、問答歌、譬喩歌、挽歌
 卷十四 東歌
 卷十五 大體前半は天平八年六月遣新羅使人の作、後半は中臣朝臣宅守と狹野茅上娘子との相聞歌
 卷十六 有由縁竝雜歌
 卷十七 
 卷十八 
        この四番は大體天平二年以後、天平寶字三年まで日記體にかゝれた家持の手記らしく、おもに越中守時代の記録と見るべきもの、主として家持の自作竝にその周圍の人々の作。
(15) 卷十九 
 卷二十 
なほ言はゞ卷一、二は同じ主旨の下に撰ばれたもの、卷三、四はそれに傚つて續撰せられたものらしく、又卷八と卷十及び卷十二十二の兩卷は、それ/”\異なる規模の下に撰ばれたものといふ事を得べく、卷十七以下の四卷は家持の手記か、又は之を本として補修されたものといふ事が出來よう。其の間に五、十四、十六の如き特異な卷々もまじつてゐるが、これは他の集と同時に成つたものであるか、又は全く異なる方面から補はれたものであるか、それは判らぬ。さて大體の上から此等の部類を見渡すと、雜歌、相聞.挽歌、譬喩、四季の五部に攝することを得べく、なほ推しもて行かば、雜歌、相聞、挽歌の三部門に攝する事が出來よう。それが實に卷一、二の部立である。畢竟卷一、二の氣分が萬葉集全般にも行き亙る事にもなるので、これも卷一、二が格段に注意を引く所以なのである。
 
    六、書式
 
萬葉集は我國の歌ではあるが、之を撰述する時代には、まだ片假名も平假名も成立してゐなかつた。隨つてすべて漢字を借りて書く外はない。漢字を借りても記紀の歌謡の如く、一音々々ありのまゝに(16)借りれば寫せぬ事もないけれど(集中卷五を初め、數卷は大體これである)、あの畫のむづかしい漢字を一つ一つ丹念に當てる事が煩雜にたへない。そこで古事記などのやうに音と訓とを交へ用ひたが、果ては萬葉人の才氣が之に伴うて、奇智百出、縦横無碍に漢字を驅使したので、後になつて正確に明瞭に分類する事がむづかしい。代匠記、古義等はその註釋の總論に於て多少此點に觸れてゐるし、天野信景の隨筆鹽尻では四種類に分類してゐるが(早く仙覺は眞名假名、正字、假字、義讀、四種の書樣ある由をその奏覽状で述べてゐるが、信景の分類は之を敷衍したものらしい)、特に此點に關して一書を著はしたのは春登上人の萬葉用字格だけといつてもよからう(文化十五年刊行)。これとて十分精確なものとはいへないし、近來新たに分類を試みる人もあるが、用字格が廣く世に行はれて、その分類の名稱等は、今なほ世間に行はれてもゐるから、參考かた/”\此書によつて大體を説明して見よう。用字格は八種類に分類してゐる。
 一、正音  阿《ア》、伊《イ》、宇《ウ》、鶯を宇具比須〔四字傍点〕とかく類
  漢字を音符として用ひるので、字義には關係はない。
 二、略言  甲《カ》、吉《キ》、君《ク》、計《ケ》、處女を遠等〔二字右○〕※[口+羊]とかく類
  以上は音を用ひたもの(但、これは略韻といふべきであらう)、歌に用ひられた集中の文字は大抵(17)音符として用ひられたもので(所謂萬葉假名)字義には關らないが、卷十六の戯歌などの中には、法師、檀越、力士、五位、無何有《ムカウ》など字義通りに用ひられたものもある。用字格はこれにはあまり心しなかつたらしいけれど、萬葉集としては、さる類ひも稀にはある事を知らねばなるまい。
 三、正訓  天《アメ》 地《ツチ》
  訓は一通りに限らないから、推しもて行けば、正訓といつても隨分煩らはしくなる。例へば、天地をアメツチ〔四字傍点〕と訓むは正訓だけれど、天をソラ〔二字傍点〕、地をトコロ〔三字傍点〕と訓むも正訓でないとはいへぬ。アマ〔二字傍点〕に海人の二字をあてるのが常だけれど、海士、海夫、海子、海部などあてた所もあるし、泉郎、白水郎などあてた所もある。又|海處女《アマヲトメ》などいふ所は海一字でもアマ〔二字傍点〕と訓じ、中には漁童女《アマヲトメ》とあてた所もあつて、用字格ではいづれも正訓としてゐる。其の他、古文といはれる建《タケ》(健)己《オキ》(起)古語古訓といふべき服《ハタ》、不知《イサ》の如きもあつて、單純にはゆかない。
 四、略訓  足〔左○〕掻《アガキ》、隱國〔左○〕《コモリク》、戀目八面〔左○〕《》、起《コス》(聞起名湯目《キヽコスナユメ》)、
、 足《アシ》をア〔傍点〕と用ひ、國《クニ》をク〔傍点〕、面《オモ》をモ〔傍点〕とだけ用ひたから略訓だといふのである。
 五、約訓  指擧《サヽゲ》、荒磯《アリソ》、淡海《アフミ》、言痛《コチタ》、
  指擧〔二字傍点〕サシアゲ〔四字傍点〕と訓めば正訓だけれど、國語の性質上、サシアゲ〔四字傍点〕がやがてサヽゲ〔三字傍点〕と約まるから、(18)サヽゲ〔三字傍点〕とよまねばならぬ所にも指擧の二字をあてたから、約訓だといふのである。
 この略訓、約訓の中には、どうかと思はれるものもあるが、姑く用字格のまゝにしておく。
 六、借訓 蟻〔左○〕通《アリガヨヒ》(有り通ひ) 去家〔二字左○〕《イニシヘ》(古) 妹之|田本〔二字左○〕《タモト》(妹が袂) 今還金〔左○〕《イマカヘリコム》(今還り來む) 家之小篠〔二字左○〕生《イヘシシヌバユ》(家し偲ばゆ)
 果ては相見鶴鴨〔二字左○〕《アヒミツルカモ》 消鴨〔左○〕死猿〔左○〕《ケカモシナマシ》などいふ起ある用方を案出するに至つた。これは訓とはいひながら借りて音符の如く用ひたもので、全然文字の意義には關係はない。下の二項も同樣である。
 七、義訓  玄黄《アメツチ》、飛鳥《アスカ》、丸雪《アラレ》、白氣《キリ》、(月)西渡《カタブキヌ》、
 これは一種の理窟、義理あひから推してしか訓ませるので、天地玄黄といふから、やがて玄黄をアメツチ〔四字傍点〕にあて、飛鳥《トブトリ》はもと明日香の枕詞であるが、やがてそをアスカ〔三字傍点〕と訓む事になつたのである。
 八、戯書
 これは性質上義訓と同じだが、用字格ではその理由簡短で、誰にも納得され易いものを義訓とし、戯謔度に過ぎて、容易に訓み解き難い謎の如きものを特に戯書としたらしい。萬葉人縱横の才氣は遺憾なくこゝに發揮せられてゐる。
 重二《シ》、並二《シ》、十六《シヽ》(猪鹿(ノ)義「十六履起」)八十一《クヽ》(「二八十一不在國《ニクヽアラナクニ》」、憎く〔二字傍点〕(ノ)義)喚犬追馬《マソ》鏡 喚鷄《ツヽ》(所見喚鷄本(19)名《ミエツヽモトナ》) 馬聲蜂音石花蜘蛛荒鹿《イブセクモアルカ》、樂浪《サヾナミ》 左右手《マテ》 山下《アラシ》 山上復有山《イデ》
まづ數字に關する戯書が多い、重二、並二、十六、八十一は皆その類ひである。(但二二〔二字傍点〕は一字と見て、用字格は正音の中に入れてをる。)次にともすれば動物を並べ立てる癖がある。是は前の借訓の中なる相見鶴鴨〔二字傍点〕、消鴨〔傍点〕死猿〔傍点〕などでも既に見えるが、喚犬追馬鏡をマソカヾミ〔五字傍点〕と訓ませたのは、古、犬を喚ぶにマ〔右○〕といひ、馬を追ふにソ〔右○〕といつたのであらう。今も馬を追ふにシ〔右○〕といふのは、通音で轉じたのであらう。單に略して犬馬鏡〔三字傍点〕をマソカヾミ〔五字傍点〕とも訓ませてゐる。又喚鷄をツヽ〔二字傍点〕と訓ませたのは、昔は鷄を喚ぶにツヽ〔二字傍点〕といつたのであらうが、恐くは昔の發音は今の「tO」に近かつたであらう。馬聲蜂音云々は最も多く動物を集めた例だが、イ、ブ〔二字傍点〕、はその物の鳴き聲から出たもの、石花をセ〔傍点〕といふは、俗に龜の手と稱し、石に附著して産する海中の微生物である。又樂浪をさゝ浪〔三字傍点〕と訓ませたのは、もと神樂聲浪〔四字傍点〕とかいたので、神樂の終にさゝ〔二字傍点〕とかけ聲したといふ所から、神樂聲の三字をさゝ〔二字傍点〕にあてたのを、後には略して、神樂浪とし、更に略して樂浪としたのである。この樂浪後々廣く行はれて、詩人にも用ひられるやうになつた。これと同樣に左右手、二手、諸手〔七字傍点〕など書いて、マテ〔二字傍点〕と訓ませたのを(眞手(ノ)義)後には左右だけでマテ〔二字傍点〕と訓ずる事になる。又和名抄に「嵐(ハ)山下出風也」とある所から山下風〔三字傍点〕をアラシ〔三字傍点〕にあてたらしいのを、後には山下〔二字傍点〕又は下風〔二字傍点〕だ(20)けでアラシと訓ませる事になつた。又卷九の長歌に「色二山上復有山者」といふ一句があつて、古來よく訓めなかつたのを、契沖の代匠記に至り、山の上にまた山のあるのは、出〔右○〕といふ文字の謎だといふ事がわかつて「イロニイデバ」と訓んで、初めて正しく解する事が出來た。(山上復有山は漢時代の有名な古詩中の一句である。)萬葉集は此の如き書式の下に書かれてゐるので、書いた人自身は得意であつたかも知れねど、言はゞ獨りよがりの樂屋落ちで、他人には訓めない。これが撰述後幾ほどもなく廢たれてしまつた原因の一つである。しかもこゝに出した例は、多くは單語又は一句だけであるが、これが錯綜して一首の歌となると、どれだけが音であるかもどれだけが訓でよまねばならぬか、どこに借訓があるか、どこに謎があるか、容易に判斷がつかない。その上句讀すら切つてないから、長歌などになると、無意義な文字の羅列を見るが如く殆ど見當がつかない。開卷第一、雄略天皇の御製に對して仙覺律師が「朦朧綿々如v對2夕霧1」と嘆じたのも無理はない。試みに一首の短歌についてその研究の徑路を見ると、
 東野炎立所見而反見爲者月西渡
これは卷一なる輕皇子が阿騎野に宿られた時、供奉した人麿の詠んだ反歌の一つで、有名なものだが、昔の人には、これがよく訓めなかつた。舊訓も仙覺抄も皆初三句を東野、炎立、所見而、と句を切り(21)「あづまのゝ、けぶりのたてる、ところみて」と訓んでゐたが、それでは何の事かわからない。しかも玉葉集は何と解釋したやら、やはりそのまゝの訓で、人麿の名で撰集中に收めてゐる。徳川時代になつて、代匠記、僻案抄等とり/”\の説を立てたが、やはりその範圍を出なかつた。眞淵に至り、句讀の點に氣づいて「東、野炎、立所見而云々」と句を切り、「ひむがしの、ぬにかぎろひの、たつみえて、かへりみすれば、つきかたぶきぬ。」と訓み改めたので、野宿した明方の實況見るが如く、これは名歌だといふ事になつた。(月西渡〔三字傍点〕を月傾きぬとよむ義訓などは早く訓めてゐた。)つまり萬菓集編纂せられてから約千年、かゝる名歌も世に埋もれて人には理解されなかつたのが、此時やう/\世に紹介されたのである。これはたゞ一例だが、かうしたためしが決して少くない。これが漢字使用法の不備な爲である事を思へば、後の學者たるもの深く思を致すべきではないか。考へて見ると、萬葉集の撰述せられた寧樂時代は、不思議な片輪な時代であつた。一方から見ればあらゆる文化は長足の進歩をなして隆々と興つて來た。我が國歌も後世及び易からざる程度まで進んだ。懷風藻といふ立派な漢詩集も成立した。堂々たる佛刹伽藍も續々と建立された。希臘の古代彫刻と比肩される天平彫刻もその精粹を極めた。大佛の如き巨像も事なく鑄造された。正倉院の御物を拜觀する者、誰一人として目を駭かさぬ者はない。千數百年後の今日、之を凌駕し得るものどれほどあらう(22)か。然るに他方を顧みると、まだ國民の思想を表現すべき文字がないのである。これは非常な缺陷、非常な片輪といふべきではあるまいか。まだ文字がないから散文の起りようはない(原因はそれだけではなからうが)。幸に歌は比較的簡單ですむから、面倒な漢字を驅使して書き綴つたものゝ、頭脳がそれほどまで進んでをる國民が、あの字畫のむづかしい漢字を、一音一音几帳面にあてゝ、眞面目におとなしくしてゐるに堪へようか。言はゞ一種の逸氣が殻を破つて迸り出で、知らず/\こゝに活路を求めたものとも見得るので、當時の人としてはまんざら〔四字傍点〕無理もない事と思ふ。或人は滑稽諧謔を理會しない國民は大國民にはなれないと言つたが、吾輩も同感である。萬葉集の書式を見ると、あらゆる知識を活用して、滑稽縦横、奇智百出、人をして唖然たらしめるものが多いので、これでこそ天平の藝術も萬葉の歌も出來たのだと心強く感ずる。我が國民は昔から平凡ではなかつた。たゞ變に應ずる奇智あると與に、亦常に處する眞面目さがなくてはならぬ。萬葉の書式の如きは一時のすさびとしては面白くもあらうが、所謂萬世に傳へようといふ目的にはふさはぬ。まして此書式傭をなして後世の模倣ます/\甚しく、今なほ已まぬ。天下後世に傳へねばならぬ地名人名などに殊に多く、假名と並べ書かないでは讀めないやうな奇觀を皇してゐる。かくいつまでも惰力のまゝ漫然と舊慣をくりかへして、徒らに空中の樓閣を築き上げるのも、亦大國民たるべき所以ではなからうと思ふ。
 
(23)    七、訓點 并 註釋
 
萬葉集は右の如き書式でかゝれたものであるから、編纂後幾ほどもなくして讀めなくなつたらしい。清和天皇の御下問に徴しても、文屋有季の御答を見ても、大凡は推せられる。然るに萬葉集と同時に存在してゐたらしい山上憶良の類聚歌林を初め、柿本朝臣人麿歌集、高橋連蟲麿歌集、笠朝臣金村歌集、田邊史福麿歌集等が皆失せてしまつた中に、萬葉集のみが獨り世に傳はつて、今日天下の至寶として珍重せられるのは全く奇蹟といふべきである。で、六歌仙時代を經、古今集時代を經て、歌が再び盛となるにつれて、昔にのみ轟いてゐた人麿赤人等の歌を、何とかして訓み解きたいものとの希望が人々の間にきざして來たらしい。こゝに訓點といふ事が起つたのである。
訓點の起りは、村上天皇の天暦五年、大中臣能宣、清原元輔、源順、紀時文、坂上望城等五人に命ぜさせられたに始まる。(十訓抄には廣幡御息所の希望によつたものと傳へてゐる。)此五人昭陽舍(梨坪)に籠つて事に從つたので、梨壺の五人と稱へられる。同時に後撰和歌集をも撰んだが、そは副事業で、萬葉の訓點をつけるのが主であつたらしい。此時つけた訓を古點といふのである。五人中の大立物で、和名類聚抄の著者たる源順の名で、一種の説話が傳へられてゐるが、これから推すと、まだ(24)よくは訓めなかつたらしい。
其後は一つの事業としては企てられないが、後々の學者が、隨時に思ひ/\に考へ得るにつれて訓を補つていつた。後に之をまとめて次點といふ。隨つて次點者は人も多人數に亙り、時代も不同で、藤原道長、大江佐國、大江匡房、惟宗孝言、源國信、源師頼、藤原基俊、藤原敦隆、僧道因等が、その中に數へられてゐる。次點者時代にもよくは訓めなかつたらしいので、平安朝の末期に編纂された藤原敦隆の類聚古集を見ても、長歌は殆ど全部訓點を施してない。
然るに鎌倉時代に入り、後嵯峨天皇、後深草天皇の頃、關東地方に權律師仙覺といふ者が出た。これが實に徳川時代古學復興までの間では唯一の萬葉學者である。曾て鎌倉の比企谷、新釋迦堂に居たが、後には武藏國比企郡北方麻師宇郷の政所に居た事もある。(郷貫はよくわからないが、ある書に「東路の道の果に生れ」たとあるので、或人は之を常陸國と見てゐる。)年十三の時から萬葉集に志し、拮掘三十年、諸本を集めて校合し、遂に寛元四年四十四歳の時、從來無點のまゝ傳はつて來た萬葉の歌百五十二首(長歌、短歌、旋頭歌を合はせて)を抄出して推點を加へた。是に於て萬葉集全部が、ともかくも初めて訓み解かれたばかりではなく、その校合した二十卷の校定本は今日に傳はつて、我々研究の土臺となつてゐるので、仙覺の事業は確かに一時期を劃するものといふべきである。さてこの(25)仙覺が新に施した訓を新點といふのである。
仙覺がかく熱心に研究したから、繼いで起つ者があれば、萬葉集も存外早く開けたかも知れねど、あやにく仙覺後はまただめであつた。一二志ある人もないではなかつたが、さしたる事もなく、殆どそのまゝで徳川時代に及んだ。徳川時代の初め、文運の開くるにつれて、樣々な書が印行されだが、萬葉集も木の活字で印行され、之が本になつて、寛永二十年には木版に印刷されて、廣く世上に流布するに至つた。時恰も貞享元禄頃の文藝復興期に際して、難波に契沖阿闍梨といふが出て、萬葉の研究に心を潜め、遂に代匠記三十一卷を著はした。これが實にまとまつた萬葉註釋書の初めである。仙覺にも俗に仙覺抄と稱する註釋書のないではなかつたが、そは拔き/\書いたものでまとまつたものではなかつた。契沖に至り、該博な知識と絶倫な精力とを以て、初稿本、精撰本と前後二回に亙つて、全部の註釋を施したので、これが將來の指針となつて、大いに開發の氣運を促したのである。
しかし契沖が代匠記を書くに至つた動機に就いては、水戸義公の志を忘れてはならぬ。初め義公はまづ儒學を起して大日本史の編纂を企て、尋で我國の古學を起さんとして、當時其道に深いといはれる難波の下河邊長流といふに萬葉集の註釋を委嘱した。然るに長流は生來多病であつたらしく、幾ほどの事も成らないで、貞享三年病んで歿した。義公之を遺憾として、更に其の方外の友たる契沖に頼ん(26)だのであるが、契沖は篤學の人でもあり、義公の志の厚きに感じて、敢然として亡友の志を繼ぎ、稿を重ねる事二回、遂に之を成し遂げたのである。
このついでに重なる註釋書の概要を述べておかう。
 萬葉集抄 二卷  未詳
著者は詳でないが、佐々木博士は藤原盛方かといつてゐる。こは今に傳はる萬葉誌釋書中最古のもので、袖中抄などにも引用されてゐる。集中の短歌百六十九首、長歌三首、旋頭歌一首を拔萃して簡單に註したもの、古いといふ點で、その時代に於ける智識の程度を窺ふべく、註は特に注意すべきほどのものではない。
 萬葉集註釋 十卷  釋 仙覺
世に仙覺抄といふ名で知られてゐる。これも萬葉集抄などの如く、難解の歌だけを拔き/\註釋したものだが、その抄出した歌の數は六百九十餘首の多きに及び、冐頭の概論には萬葉といふ名義について論じ、撰者及び時代の事に觸れてゐるなど(不徹底ながら)、七百年前の書としては、その用意の到れるを見るべきである。又註釋中に今日現存してゐない古風土記の類を多く引用してゐるので、參考にはよい。又今日は問題となつてゐるが、當時では知れ切つた事で、問題ではなかつたではないかと(27)思はれる事も往々ある。要するに仙覺時代の事を見るには必要な書である。
 萬葉集管見 二十卷  下河邊長流
これは歌の解釋ではない。後の玉の小琴などの如く、解しにくい語句だけを拾ひあげて説明したもので、多少創見もある。ある程度まで代匠記の參考になつたものらしい。
 萬葉拾穗抄 三十卷  北村季吟
萬葉集の歌全部に亙る最初の註釋である。普遍の目的で書いたものらしく、本文を平假名に改め、傍に萬葉假名を添へて簡短な註を施したものだが、註に格段な創見もなく、本文も往々普通とはちがふので、同じ目的で著した湖月抄、春曙抄などのやうには行はれなかつた。
 萬葉集代匠記 三十一卷  僧 契沖
既に逓べた如く歴史的には忘るべからざる名著だが、その關係を離れて見ても、學殖富贍今なほ參考とすべき名説が多い。卷一「蘆邊行く鴨の羽がひに霜ふりて云々」の説明に「埼玉の小崎の沼の云々」を引いて鴨の羽ばたきと見たらしい事や、卷二、吉備津采女の死を入水と解したなどは、今に至るまで唯代匠記だけのやうで、説の當否はおいても、その識見を見るべきものである。漢語の説明は殊に詳しい。
(28) 釋萬葉集 五十卷  徳川光圀
光圀の名で出てはゐるが、實は水戸家の學者の手に成つたもので、大體は代匠記に據つたものらしい。まだ刊行されてゐないので我が未見の事である。
 萬葉集僻案抄 三卷  荷田春滿
卷一だけの註釋であるが、古來の訓を訓み改めた事少なくはない。綜麻形を「みわやま」と訓じたなどは、一時名説として評判された。今日では多少疑問とされてゐるが、なほ研究すべき價値はあらう。とにかく參考書として缺くべからざるものである。
 萬葉考 二十卷  賀茂眞淵
眞淵翁は一種の見を立て、萬葉集の卷の順序を改めて、一、二、十三、十一、十二、十四、十、七、五、九、十五、八、四、三、六、十六、十七、十八、十九、二十としてゐる。その中、眞淵手づから筆を執つたのは初の六卷(即ち流布本の一、二、十三、十一、十二、十四)だけで、他の十四卷は講義筆記などを本として、門人狛諸成等が録したものである。從來正鵠を得なかつた萬葉の訓が、考の研究で大體闡明せられたので、かの「東野炎立所見而」の名篇が、千年を經て初めて世にあらはれたなど、特筆すべき功績が少くない。殊に萬葉の歌の精神に觸れた點に於て最も多とすべきである。
(29) 萬葉集槻落葉 三卷  荒木田久老
卷三だけの註釋である。卷一、二は萬葉考があるから、それに譲つて書かないといつてある。總じて一種の見識があつて發明する所が多く、浦回、島回を從來「うらわ〔右○〕」「しまわ〔右○〕」と訓んでゐたのを「うらみ〔右○〕」「しまみ〔右○〕」と訓むべきものと論じても今は殆ど定説の如くなつたのも、久老から始まつたのである。それはまだ攷究すべき餘地が十分にあると吾輩は思ふが、卷二、泊瀬部皇女に獻る長歌中の「名具鮫魚〔右○〕天氣留〔右○〕敷藻相屋常念而」の魚〔右○〕と留〔右○〕とを兼〔右○〕と田〔右○〕との誤として、「なぐさめかねて、けだしくも、あふやとおもひて」と訓んだ等は確に見識といふべきである。(槻落葉は卷三だけの註釋だが、別に信濃漫録「病床漫筆ともいふ」といふ隨筆があつて、萬葉に關する事が多く、卷一、二にも往々觸れてゐる。)
 萬葉集略解 三十卷  橘千蔭
全部に亙る註釋で、名の如く、師の萬葉考と、友人本居宣長、村田春海、清水濱臣等の説を簡易平明に略述したものである。今日では誤謬も多く見えるけれど、初學者には便利なので、なほ廣く世に行はれてゐる。
 萬葉集玉の小琴 四卷  本居宣長
(30)本居翁は古事記傳に一生を捧げたので、他の萬葉集、源氏物語の如き大部の書には十分に手を伸ばす事が出來なかつたから、まづ異本を集めて枚合し、本文は意見のある所だけを拔き出して説明を加へたに過ぎなかつた。それでも源氏物語玉の小櫛の方は、ともかくもその形で完結したが、萬葉の方は僅かにこの四卷で終つた。然しその意見には聞くべき點が多く、後世を稗益する事少くはない。卷頭の雄賂天皇の御歌「吾許曾居師告名倍手云々」を訓み解いたのも玉の小琴、藤原宮御井歌なる反歌の結句、「之吉召賀聞」を正しく訓み得たのも玉の小琴である。其の他「隱乃山」を伊賀の名張の山と解したのも、「かけのよろしく」といふ句(卷二軍王の歌)の關係を正しく説き得たのも皆小琴で、確かに註釋書中出色のものといふべきである。
 萬葉集燈 五卷  富士谷御杖
御杖は言辭の表面と言靈の妙用との兩方面から、あらゆる萬葉の歌を説明せんとしてゐる。言靈の妙用、之を倒語といふ。(これは御杖の神道觀から來るのであらう。)例へば額田王が春秋の優劣を理わる歌を評して、
 「〔靈〕この御歌、春山の方もをかしくはあれど、秋山にはうらめしきふしこそあれ、よろづのあはれは秋に深ければ、吾は秋山に心ひくぞとよませたまへるなり。されど春山秋山いづれあはれとい(31)ふばかりの事は、事々しく歌もてことわる事がらならねば、これ必ず故あるべし。されば思ふに、もと天皇人々をして春山秋山を競憐ましめ給ひしは、實は額田王の御みづからと天武天皇と、いづれにか心ひくぞと試み給はまほしけれど、額田王一人におほせ給はゞ御心見えなるべく、もとよりあらはにも答へ給ふまじき事なるが故に、人々に競憐ましめ給ひしなるべし。額田王もその御心は得給ひながら、表を立てゝ歌もてことわり給ひしなるべし。云々、かく定かに知られぬぞ倒語の妙用なる云々」
といつてゐる。以て此書の大體を推すべきである。歌は表裡兩面から見るべき場合もあらうけれど、すべてをこれで律せんとしたならば、遂に強解に陷る事を免れぬであらう。しかし元來語學に委しい人であるから、助辭其他の説明は微細に亙つて他人の企て及ばぬ點がある。特色ある評釋書といふべきである。
 萬菓集檜嬬手(檜※[木+爪]ともかく) 六卷  橘 守部
卷一二三の解で卷三は未完である。解釋は比較的簡單であるが、守部一流の奇拔な説が多い。卷一、綜麻形の歌を、次の蒲生野の縱獵に額田王の詠まれた歌が、錯簡によつて、こゝに入つたものとしたなどは、説の當否は姑く措いて、おもしろい見解といふべきである。卷二、丹比眞人が人麿の意に擬(32)して和した歌を、一つ前なる狹岑島の石中死人の意に擬して、眞人が人麿に報へた意としたなどはあまり賛成も出來ないが、同卷「山振之立儀足山清水」を、黄泉と解したなどは、守部の創見か否かは知らねど、卓見といふべきである。
 萬葉集墨繩 八卷  橘 守部
大體檜嬬手を敷衍したやうなもので、勞證博引、八卷で本集卷一の半にも及んでゐない。けれど大要は檜嬬手に盡きてゐるといつてよい。
 萬葉集古義 百四十一卷  鹿持雅澄
萬葉集註釋書中の巨擘ともいふべきは古義である。この書は明治十二年に宮内省の出資で板行されたもので、全部百四十一冊と聞いただけでも、その該博な事が想像されよう。その中、本文の解釋九十五冊、外に枕詞解、人物傳、品物解、名所考を初め、語格に關する諸問題まで皆網羅してゐるので、宣長翁の古事記傳と並べ稱せられる大著である。その精力の絶倫なるには敬服の外ないが、難をいへば、歌といふものゝ情趣を無視して、一種の理窟で歌を見る傾があるので、詳密な割合には存外賛成し難い點がある。(目的は風流な古語を通じて古道を探らうといふにあつたらしい。隨つて燈の言靈説に近い見解も往々見える。)併し何といつても全部に亙る註釋の最もまとまつたものであるから今な(33)ほ權威を矢はない。
 萬葉集攷證 十五卷  岸本由豆流
本集卷六までの註釋である。由豆流が此の書を成すに當り、約一ヶ年を費して萬葉集類字樣のものを作つたと言ひ傳へられてゐる。それがためか、萬葉註釋書中最も引例に富み、後生を益する事一通りでない。解説はあまり奇拔な名説もないが、まづ穩健といふべく、名の如く攷證には殊に秀でゝゐる。考が一種の見識を立てゝ頻りに本文の改竄を試みるに反對し、なるべく本のまゝにて説を成すべき事を主張したなどは、よく此書の特徴をあらはしてゐる。
 萬葉集美夫君志 八卷(二帙)  木村正辭
本集卷一二の註釋である。美夫君志の特色は主に字音の研究にあるらしい。元來木村博士の師、岡本保孝は音韻の研究に造詣深き人であつたが、不幸にして萬葉集は略解札記(略解に書き入れた書入文を集めたもの)を殘しただけであるが、博士はその學風を受けて、萬葉文字辨證、萬葉訓義辨證、萬葉字音辨證等の著がある。美夫君志も主として、この方面から手をつけられたので、卷頭の「吉閑」を初め、此類の新説が少くない。反歌は荀子の反辭から出たものとの説もまた美夫君志によつて明かにされた。但、此書は晩年の著なので、卷二となつてからは餘程健康を損ねられたらしく、末の方は(34)多く攷證を本として早く書き繼がれたらしく見えるのは惜しい事である。
 右の外、近藤芳樹の註疏、香川景樹の※[手偏+君]解、正木長秀の楢落葉等數種あるけれども、わがまだ精讀するに及ばぬものが多いから、今はこれだけに止めておく。
絶じて昔の註釋には一つの通弊がある。そは萬葉集には誤謬が多いから、おのが見識を以てその誤謬を正して行くのが萬葉學びの要訣だと心得てゐる事である。江戸時代の學者は大方それだが、就中最も甚しいのは考、檜嬬手、古義で、此點は本居翁といへども免れなかつた。玉の小琴の首に次の如き一文がある。
 萬葉集は師の常にいはれける如く、草の文字して書き傳へてければ、後見る人の見まがへつゝ、早くよりあらぬ文字に寫しひがめつる事のみ多かる本の後の世には殘りにたるを、ひがよみは更にもいはず、さるひが文字のまゝにしも、強ひて訓み來つるが故に、いかなる心とも、更に明らめしられぬ歌なも多かりける。かれこゝをもて聊も疑はしと所念る歌は、必ず僻寫しの文字あらむ事をし思ひめぐらすぞ萬葉學びの旨なると師はいはれにき云々。
これで眞淵翁の態度も宣長翁の信念もわかるであらう。宣長翁は識見があるから、まだあまり苟もしないが、その末輩には之を以て能事とする者もあるやうになつた。實際當時の學者に誤字又は衍字と(35)せられたものも、其後の研究によつて誤字でも衍字でもなく、本文のまゝが正しいので、つまり研究が足らなかつたのだといふ事の分つたのが多々ある。なるほど昔の人は萬葉葉はよく訓めなかつたが、之を是非すべき見も立たなかつた。で、たゞわからぬものとして、ありのまゝに寫し傳へて來たので、後世から見るほど誤謬が多くない。然るに萬葉考以後やゝその面影が見えて來たので、こゝに我見を生じて、誤字説をふりまはすやうになつたのである。この點に氣づいて本文の尊重すべきを叫び出したのは攷證と美夫君志とで、殊に攷證は卷頭の歌に於て次の如く述べてゐる。
 今按ずるにすべて古典に註釋加へんには、おもふべきほどは、もとのまゝにて解すべき事なり。されどいかにかたぶきても解し難き所をば、おのが意もて考へ直さんも學者の常なれば、そのよしそこにしるしたる上に直すべきを、考の如く其の故よしをもしるさずして、みだりに本文をさへ改められしはあまりなる事ならずや。
古典に對する態度かくあるべきである。しかし萬葉集には誤謬が多いといふ事もまた確かな事で、この見地から訓み明らめられた事も少くはないので、あくまで本文に執してさらに誤字説を認めないのも亦進歩の道ではあるまい。それは其人々々の見識技倆の如何による事で、言ふべくして行ひ難き事である。たゞさる場合には、本文は本文として別に意見を立てるべきで、考、古義、檜嬬手などの如(36)く、我見に執して勝手に本文を改むべきものではない。
以上は明治大正頃までに成つた註釋書の大體である。然るに最近數年間萬葉集の研究著しく進み、好著續々と世に現はれた。その重なるものは 萬葉集新考         井上通泰
 萬葉集講義  卷一、二   山田孝雄
 萬葉集全釋  刊行中    鴻巣盛廣
 萬葉集新講  抄釋     次田 潤
他にもさま/”\あるけれど、多くは抄釋にかゝり我がまだ見るに及ばぬものが多いから、こゝには擧げない。
 
    八、調
 
吾が國の歌の調は二句を一單位とする事は既に述べた。(上代の歌謡は姑く措く。)是に今【萬葉集以後】古【萬葉集時代】の差別があつて、萬葉集時代は五七を一單位としたが、それがいつとはなく變つて、古今集以後は七五が單位となつたので、五七調、七五調といつて歌人論議の的となつた。例へば
(37)  八隅しゝ吾が大王の、あしたには取リ撫でたまひ、夕にはい寄せ立てし、みとらしの梓の弓の、奈加弭の音すな〔全部傍線〕。
どうしても五七、五七と訓みつゞけて調子を取る外はないので、もし後世の如く七五、七五と訓みつづけたなら
 八隅しゝ吾が大王のあしたには、取り撫でたまひ夕には、い寄せ立てしみとらしの、梓の弓の奈加弭の〔吾が〜傍線〕、音すなり。
となつて、初句と末句とは離れた單獨の句となり、歌の意義も聞えなくなり、枕詞としての意義も、對句の意義も成り立だなくなる。然るに古今集以後は、これが逆になつて、七五、七五と訓み連ねなければ意義を成さなくなる。
  くれ竹の代々のふるごとなかりせば、伊香保の沼のいかにして、思ふ心を述ばへまし、あはれ古ありきてふ、人麿こそはうれしけれ〔代々〜傍線〕。
 (古今集、「ふる歌に加へて奉れるながうた」中の一節、忠岑)
どうしても七五、七五と讀みつらねなければ意義を成さないので、萬葉流に五七、五七と訓んでは何の事やら判らなくなる。これは今更いふまでもない事だが、初めて萬葉に接する者は、まづその差別を(38)明かにし、その調に親しむべきである。なぜさう變つて來たかといふ事は歌學者のよく論議する所で、單純には言はれまいが、枕詞がすたれて來たといふ事は、その原因の一つに數へ得るであらう。枕詞の起原はかなり古いものと見ねばならぬが、大抵の枕詞は五言一句で、次の句の修飾に用ひられる。これが既に五七調の本を成すもので、枕詞の使用盛なれば、歌は勢ひ五七の調たらざるを得ないが、然らざる場合は、ともすれば七五調に流れんとする傾向は、人麿の歌などにも既に多少見えてゐる(明日香皇女殯宮の末節など)。人麿は盛んに枕詞を驅使して、やつきとなつて五七の調を維持したが、漸く意義を失つた枕詞が、惰力によつて僅かに用ひられるやうになれば、隨つて調も變つて行くべきものと見ねばなるまい。上に引いた古今集の長歌でいへば、「伊香保の沼の」といふ七言の句が、「いかにして」といふ五言句の修飾に用ひられてゐるが、これが萬葉集時代ならば「伊香保山、いかにあればか、【又は、いかにしてかは、】」などいつたのであらうが、調子が七五と變つたから「伊香保の沼の」と七言の枕詞の如く用ひたのである。隨つて七言の枕詞といふものもあるべきだが、長歌が早く廢れて、さうした機會がめつた〔三字傍点〕に起らなかつたから、問題とはならなかつたのであらう。此等の樣子で調子の變化を會得すべきである。
調子の變化は、長歌に於て殊に著しいが、東歌に於ても同樣な事が言へる。萬葉集の東歌は二の句又(39)四の句で切れるので、三句切といふ事が殆どない。(二の句でも切れずに下に續く場合は多いが、切れる場合は二(ノ)句又は四(ノ)句である。三句で切れる例は卷一、二の中では「三吉野の玉松が枝ははしきかも、君が御言を持ちて通はく」の外に疑問のもの一二首あるのみである。)卷八に或る尼と家持との合作の歌があつて、尼の作つた上三句(佐保川之水乎塞上而殖之田乎)を頭句といひ、家持の續いだ下の二句を末句といつてゐるから、奈良の未には既に上三句を頭、下二句を末と唱へるやうになつてゐたのではあるまいか。卷一、中皇命の歌の註で見ると、昔は頭句といふのは上の二句をいふらしく見えるが。
古今集以後は三の句切の歌が漸く多くなつて來たが、殊に新古今頃になると、三の句で切れるばかりではなく、一の句でも切れる歌が多くなつた。いふまでもなく調が全く七五に變つて來たからである。
 三吉野の高嶺の櫻さきにけり。嵐も白き春の曙。
 駒とめて袖うち拂ふかげもなし。佐野の渡りの雪の夕暮。
 ふりつみし高嶺の深雪とけにけり。清瀧川の水の白波。
 見渡せば花も紅葉もなかりけり。浦の苫屋の秋の夕暮。
 とめ來かし。梅さかりなる我がやどを、うときも人は折にこそよれ。
(40) 聞くやいかに。うはの空なる風だにも、松も音する習ひありとは。
 又や見む。交野の御野の櫻狩、花の雪ちる春の曙。
是に於て從來の調と並び行はれて、歌の天地は狹い範圍ながら一段と擴大せられて、當時の才人をして歌才を伸ばす事を得させたのである。たゞ三句切は上三句、下二句であるから、餘程心を用ひないと頭がちになり易い。之を所謂腰折といふのである。そこで又此弊を救はんが爲に、體言止といふ一種の技巧が、いつとはなく案出せられて、當時評判を得た歌は多くその中から出たのである。短歌の方は、かく歌調の變遷を利して、ともかくも一歩進出する事が出來たか、長歌の方は調子の變遷につれて、枕詞と共に全くすたれてしまつて、今樣といふものが新に起つたのである。
 
    九、萬葉時代に於ける歌界の大勢
 
我が國の歌は、大化の改新頃、委しく言へば舒明天皇の頃からやゝ物になりかけたといふ事は既に述べた。從來の名もない男女の間によみかはされてゐた戀の歌も一段と洗練せられ、反歌といふものも起り、格調も形式も略々とゝのうて、堂々たる歌がよまれるやうになつた。これは漢土詩賦の影響といふことは到底否む事は出來ない。かくて五六十年ばかりの後、歌聖といはれる柿本人麿が出て、歌の(41)黄金時代を現出したのである。
人麿の歌は形式上、修辭上から見れば、やはり漢土の影響を免れない。對句を用ひ景物を設けて格調を整へる手際は、どうしても詩賦から得來つたものといはねはならぬ。(但、人麿自身詩賦を研究したのか、時代がある程度まで進んでゐたのを、人麿の天才で一段と向上させたのかは考へものである。)けれど、その内容は昔ながらの神に對する思想で、外來の影響はあまり見えて居らぬ。それに行幸の供奉をして歌を上るとか(これも形式上漢土の影響であらうが)、皇子皇女の薨去を弔ふとか、皇室に關する事が多いので(宮廷歌人の類であつたかも知れぬ)、それが神に對する思想と結びついて、我國の歌を一段と嚴かなものにした。人麿は長歌短歌いづれにも優れてゐるが、中にも長歌は人磨の獨壇で、集中から人麿の長歌を拔き去つたなら、半以上萬葉集の價値を減ずるであらう。人麿はまた情に深く、殊に人生の最も嚴肅なる死といふ事には深き同情を寄せたらしく、長歌の過半は人の死を弔ふ歌で、有名な作品も其中に多い。人麿時代(持統文武の兩朝)は人麿の獨壇で、これと拮抗すべき人も見えないが、強ひて言はゞ高市連黒人といふがある。これが人麿に續くべき上手で、殊に自然の景物をありのまゝに詠ずる事に長じてゐる。赤人に先ちて敍景詩に堪能なのは此人であらう。但、この人は短歌だけで長歌はない。
(42)人麿は藤原宮時代の末年に死んだらしい。人麿なきあとの歌界は、これといふ後繼者がなくて、當分ものさびしいが、二十年許りを經て、聖武天皇の神龜、天平の頃、有名な人々が頭をそろへて出て來た。山部赤人、笠金村、山上憶良、大伴旅人、高橋蟲麿、大伴坂上郎女、少しおくれて田邊福麿等がそれである。人麿の時は實質上の黄金時代だが、此の時期は實質は少し及ばないが、所謂多士濟々で、あらゆる方面に發展したので、實際上の黄金時代といふべきである。その中赤人、金村の兩人は都にあつて歌人としての評判が高かつたらしく、兩人とも行幸の供奉をして隨處で歌を詠じてもゐるし、金村などは人に誂へられて、代作した事もある。詠み口は大體人麿に似て遙かに規模が小さく、所謂樣に依つて胡盧を畫くの譏を免れないが、たゞ赤人の短歌は客觀的敍景詩ともいふべく、あつさりして品がよいので、これが平安時代の人々の好に投じて、人麿赤人と並べ稱せられるに至つた。しかし全體の技倆を較べたなら到底人麿の敵ではあるまい。
然るに神龜の末、天平の初頃、太宰府方面に二人の變つた歌人が居た。それが即ち憶良と旅人である。此の二人は若い時は專ら漢學を修めて詩賦の嗜もあつたが、晩年歌に志し、互に唱和して羈愁を慰めたらしい。(憶良が筑前守で先に下つてゐた所へ、旅人が太宰帥となつて下つたのである。學殖は憶良の方が深かつたかも知れねが、詩賦を操つる才は旅人の方が上であつたやうだ。)性格は少し違つて(43)ゐたらしいが、素養が似てゐるので、詠み口も多少似通うてある。赤人、金村を舊派とすれば、憶良、旅人は新派ともいふべき形で、都と太宰府と地を異にして相對してゐたといふは面白い事である。しかし當時は太宰府方面の歌は、さばかり重きをなさなかつたかも知れぬが、今日から見れば寧ろその方が有力で、殊に憶良の長歌は、人麿以外別に一生面を開いたものとして、注意をひくものである。總じて個人としての特色が著しくなつて來た事も亦注意すべきである。たゞ憶良はともすれば異を好む癖があつて、俗語鄙語勝手に裁ち入れ、人の用ひぬ枕詞などを用ひ、格調も十分に整はぬ憾がある。旅人の酒歌の如きも亦此類である。(旅人は長歌ともいへない九句の長歌が一首あるだけで、他はすべて短歌のみである。)
こゝに高橋連蟲麿といふがある。集中明かに蟲麿作として載つてゐるのは卷六「藤原宇合卿遣2西海道節度使1之時高橋連蟲麻呂作歌」【天平四年】といふが一首見えてゐるだけで、他は「高橋連蟲麻呂之歌中出焉」といふ形で載つてゐる。昔の歌集といふは一種の手控で、必ずしも其人の歌とは限らなかつたらしいので、蟲麻呂も從來餘り注意を惹かなかつたが、近頃の學者は宇合卿を送る歌に照らし、又一種の特色を有つてゐる點から推して、それが總て蟲麻呂の歌であらうと見るやうになつた。(大正四年發行.佐々木信綱博士の「和歌史の研究」に委しい。)蓋し穩當の説かと思はれる。假にそれらをすべ(44)て蟲麻呂の作とすれば、蟲麻呂も赤人以上に注意すべき人となる。殊に眞間(ノ)手兒奈、水江浦島子を初め、傳説に關する歌が多いので、萬葉集中唯一の敍事詩人といふ事が出來よう。其他は坂上邸女は長歌も東歌も侮るべからざる技倆を有し、女流歌人の第一に推すべく、田邊福麻呂は「讃2久邇新京1歌」等、多く都遷しに關する歌を詠じて、また特色ある歌人である。要するに天平時代は此等の特色ある歌人が、頭をそろへて出て來て、各方面に發展したので、歌の上から見ても所謂咲く花の匂ふが如き觀があつた。
然るに天平の末には、此等の人々がおひ/\に凋落して、再び後繼者がなくなり、家持ひとり踏み留まつて、僅に權威を維持してゐる姿となつた。一時多士濟々の觀があつた歌が、二十年ならずして、かくもすたれたのは、どういふわけであらうか。これには理由がなくてはなるまい。吾輩をして言はしむれば、詩賦熱があまりに盛であつたが爲といひたいので、春風春雨既開花、春雨春風複散花の嘆なきを得ない。雨風に罪はない、罪は心ない人間にあるのである。
試に今一度初からの状勢を繰りかへして見よう。大化改新の頃、我が國の歌が長足の進歩をしたのは、詩賦研究の賜である事はいふまでもないが、今一歩を進むれば、詩賦を操つる技倆はまだ不十分であつたが爲といへる。後の趣から推して見ると、當時の人も詩賦を作りたかつたであらうが、何分韻脚(45)のむづかしいよその園の詩であるから、容易のわざでないといふ事は、今日の英語界の状態からも推されよう。書はあまた讀んで知識は豐富になつたが、詩賦其物を操つる力はまだない。是に於て欝結せる胸中の知識は、昔ながらの國歌に向つて注がれたのである。注ぐともなく否應なしに注がれたのである。これが大化前後長足の進歩をした所以で、その極遂に人麿を出すに至つた。人麿は一時評判であつたには相違ないので、その風を聞いて志を立てたものも少なからずあつたであらう。隨つてそれ等は一期おくれて、二十年後に光を出したのである。果ては憶良旅人の如き少壯儒佛の學を修めた人々までも之に向ふやうになつた。皆人麿の感化といつてもよからう。(但、晩年筑紫に遣られて、望郷の念堪へがたく、韻脚を踏んで閑文字を弄してゐるに堪へなかつた爲であらうとも見られるが、其とても人麿の影響がなかつたとはいへぬ。)歌は隆々の勢で榮えて來たが、同時に從來食ひつけなかつた詩賦が、どうやら作れるやうになつたといふ事を忘れてはならぬ。(此間の消息は懷風藻を見ればよく判る。)詩賦が自ら操つれるやうになれば、久しく夢想してゐた事とて、世上の評判、當人の得意思ふべしで、勢を見るに敏なる青年子弟が、翕然として之に趨くは昔も今も變りはない。此の如くにして狹い平城々内の限りある縉紳子弟の間に詩賦熱が漲つたので、上掲の人々が凋落したあとは後繼者がなくなり、せめてその思想を反映させる人すらなくなつて、歌は再び名もなき下流の人々の手(46)に委せられる事になつたのである。であるから、萬葉集の歌は詩賦によつて培はれたが、果ては詩賦に呑まれてしまつたといふ事がいへようと思ふ。
其間家持獨り蹈み留つて孤壘を守つてゐたにはまた然るべき理由がある。家持は旅人晩年の子で、天平三年父を喪つた時はまだ歌もよく詠めないほどの少年であつたらしい。(家持の年がよく判らない、延暦四年八月に死なれた由は續紀に見えてゐるが、年は記してない。萬葉集には天平八年に四首の歌が初めて見えてゐるが、まだ幼稚である。天平十二年には内舍人であつた由が卷六の歌に見えてゐるが、内舍人は二十一歳以上の子弟から採る定めで、軍防令に「三位以上子不在簡限」とあるから、その頃二十一二歳以上であつたらうと推測される。)母は父に先だつて歿したので、若くて孤となつた家持は叔母の坂上郎女に育てられた。その郎女は集中有數の歌人であるから、早くその感化を受けたに相違あるまい。稍長じて郎女の女、坂上大孃と婚し、その前後よく唱和した事が集中に見えてゐる。のみならず、父なき名門の貴公子が、世間の若い女性から頻りに歌を寄せられるので、これと贈答して翩々と戯れてゐた樣子も集中に見えてゐる。それは餘りほめた事ではないが、歌に親しむよすがとはなつたであらう。さて天平十八年【六月】(年二十八九か)越中守となり、五年あまりこゝにゐて、天平勝寶三年七月少納言に遷つて都へ還つた。この時代詩賦を弄ぶのも都に在つての事で、地方へ下つて(47)は唱和の相手はない。そこへゆくと歌は我が國風であるから、どこへ行つても相應な相手がある。是に於て家持は叔母から吹きこまれた好きな道に没頭して、狩と歌とに旅の無聊を慰めたらしいく思はれる。萬葉集の或る部分が家持の手に成つたものなら、此間のすさびであるかも知れない。家持は歌に没頭すべく初から運命づけられてゐるのである。だが上京の曉、其志が果して報いられたであらうか。多大の望を抱いて上京したであらうが、來て見ると、先輩の歌人は大方世を去り、新進の同僚子弟は多く詩賦に走つてゐる。たまに歌を作つても、心から唱和してくれるものもない。宴に召されて詔に應ずる歌を豫め作つておくほどの熱心家であつたが、豫望が裏切られて、心さびしさに堪へなかつたであらう。兵部少有輔となつて其事に與つた爲もあらうが、防人の歌などを集めて、僅かに懷を遣つてゐる形が見える。やがてはおのれ自身も此道には漸く疎くなつたのであらう、天平實字三年正月以後の作は一首も見る事が出來ない。
この際大伴一家の政治的問題が餘程複雜になつて來たらしい事も亦見逃してはならぬ。元來大伴家は道臣命以來の名族で、後世でも室屋、金村などいふ大人物を輩出してゐるが、奈良時代になると、藤原氏の勢力に壓せられて、以前ほどはゞがきかなくなつたらしい。が、大將軍の家がらであるから、なほ隱然として一かどの勢力があつたであらう。然るに、その頃は惠美押勝、僧道鏡を初め、野心家(48)の續出した時代で、野心家が出れば、まづ比較的志を得かねてゐる大伴家に目をつけたであらうし、大伴家は一族が廣いから、中には心の動いたものがなかつたとはいへまい。家持年若くして宗家を繼ぎ、此等を十分統御するだけの技倆がなく、左顧右眄して徒らに氣を揉んだらしい形迹が見える。賀2陸奥國出黄金詔書1歌や、喩v族歌等に祖先以來の志を長々と述べて、同族を戒めると共に、己が家柄をほのめかしたなどを思ふと、何か心を悩ます事があつたであらうと考へられる。氷上川繼の事に坐して京外に移された事や、死後未だ葬らざるに、藤原種繼暗殺の主謀者に擬せられて、一旦官位を剥奪された事などを見ると、たゞではなかつたらしくも思はれる。思ふに家持はさしたる才人でもなく、又さしたる野心家でもなつたらうが、かゝる時代、かゝる情勢の下には我に野心がなくても、側がただでは置かないので、家持も知らず/\ある渦中に投ぜさせられたのではなからうかと考へられる。これは全くの推測だが、假りにさうだとすれば、さなきだに世間の大勢詩賦に傾いた折から、家の問題に没頭せねばならぬやうにもなつたので、歌は自然と閑却されるに至つたものであらう。集中の歌の最後なる天平寶字三年から家持の没年延暦四年まで、まだ二十六年間あるが、この二十六年間の歌は全く見る事が出來ぬ。あれほど熱心であつた家持が一首も詠まなくなつたとも考へられないから、そこぱく詠んだのも傳はらないのであらうが、此の如くにして萬葉の歌は全く種切れとなつたのであ(49)る。さて歌人としての家持は寧ろ凡骨で、徒らに冗漫で、真淵翁の所謂「行幸の行列を見るが如く」であるが、志だけはあつたのであるから、晩年まで精進したなら、今少し見るべきものも有つたであらうのに惜しい事である。
萬葉時代に於ける歌界の大勢は大體右の如くであるが、家持の歿後、即ち平安時代の初の樣を見ればなほよく會得せられる。大學寮は天智天皇の御代に初めて開かれ、文武天皇の御代に、その職制も定められたが、孝謙天皇の御世には學生増加して費用不足を告げたので、天平寶字元年(萬葉集の最後に先だつ事二年)には學田|三《二イ》十町を寄せて諸生を養はれた。それもやがて不足を告げたので、桓武天皇の延暦十三年新に水田百二町を加へられた(所謂勘學田である)。されば漢學隆々として興り、官學の外に橘氏の學館院、藤原氏の勸學院、恒貞親王の淳和院、在原氏の奨學院、菅原大江二氏の文章院、僧空海の綜藝種智院等競ひ興つて、各その子弟を養成した。されば漢文の著書も續々と世に現はれ、六國史、令義解の如き史書・律令は姑く措き、純粹の詩文集だけでも、奈良朝の末に出た懷風藻を初めとして、凌雲集、文華秀麗集、經國集、性靈集、都氏文集等相尋いで出で、隨つて小野岑守、滋野貞主、良岑安世、大江音人、小野篁、清原夏野、僧空海、菅原清公などいふ名高い詩人も輩出し、果ては十七歳の皇女が詩を賦して名聲を博するに至つた。然るに本邦固有の歌の集は古今集の編纂せられるま(50)で百五十年の間、これといふもの一卷もなく、所謂六歌仙の世に出づるまで百年の間、然るべき歌人一人の名を擧げる事すら出來ない。古今集中讀人不知として載せられた歌は、大方この間のもので、殆ど滅びんとして僅かに坊間に傳はつたものであらう。これは奈良の盛時から既に兆してゐる世の趨勢を露骨に物語るものではあるまいか。漢學の流行、勿論わるくはない。文化のおくれてゐる我が國では鋭意修めねばならぬ。だが本を忘れてはならぬ。彼の長を採つて我が短を補ふ心がけがなくてはならぬ。少なくとも學んだ所を我に反映させる覺悟がなくてはならぬ。然るに一家總出でゞ出稼ぎする事百年、還つて見れば故園は荒れはて、舊居は柱傾き軒朽ち、子孫總がゝりで修繕に從ふ事千有除年、今なほ舊觀に復しないなどは、あまり念が入りすぎてゐるではあるまいか。何も多くは望まぬ。外に在る事四五十年、晩年五六年の間、故園で働いた憶良になればよいのである。憶良は齡の末に太宰府にやられて、郷思抑へがたく、貧苦と闘ひながら、あれだけの成績を擧げ得たとすれば、平素飽食暖衣して閑文學を弄してゐる者の無用さをつく/”\感ぜざるを得ぬのである。しかし我國にはかうした類例が少なくはない。よその文化を學んで、まだ習熟しない中は、ともかくも内を顧みるが、追々習熟すると、いつしか本を忘れ、只管彼にあこがれて、たゞ及ばざらん事を恐れる。つまり呑まれてしまふのである。近く江戸時代に於いても、儒學復興の初期には、學者なほ我(51)國の古書を繙くことを忘れなかつた。儒書の中から生れ出でたる如き觀ある伊藤仁齋すら、なほ歌集一卷を殘してゐる。中にも貝原益軒、新井白石の如きは、一生著はす所の數十部の著書、殆ど皆假名文を以て綴られてゐるが、文化文政頃になると、詩文を操つる技倆は、一段と圓熟して來たらうが、同時に我國の古書を繙く事が漸く廢れ、中には國書を讀まぬを以て誇とするが如き人も出て來るやうになつた。これも奈良時代の人と同じ氣分の再現と見るべきではなからうか。數へ立てれば際限はない。畢竟文化の遲く開けた悲しさ、學べば學ぶほど彼の長所がわかる。長所がわかるに隨つて、せめて彼と同等の程度にとの希望から模倣心が起る。けれど學問に國境なしといはれる科學のやうなものなら兎に角、その國々の言語が土臺とならねばならぬ文藝では、彼と同等の域に達し得べき事はまづ望まれない。そこで模倣又模倣、遂にそれが一種の國民性となつて、本來の特色を發揮すべき機會を失つて行くといふは悲むべき事ではあるまいか。なぜ初から彼と異なる固有の國語を驅使し、發達させて、彼を凌駕するほどの作品を得る事に精進し得なかつたであらう。我が國民は遂にそこまでは行けぬ小國民であらうか。――これは文藝ばかりではない。よく猛省しなければ、他の道に於ても皆同樣である。書道でも、畫道でも、陶磁器でも。
   これは東洋大學に於ける講義の草稿を少し訂正したものである。もと此書の爲に別に筆を起さうと思うてゐた(52)が、たま/\病氣をしてその暇なく、舊稿を以て代へる事にした。
 
(53)萬葉集卷第一
 
 雜歌
泊瀕朝倉宮御宇天皇代
 天皇御製歌
高市崗本宮御宇天皇代
 天皇登2香具山1望v國之時御製歌
 天皇遊2獵内野1之時中皇命使2問人連老1獻歌并短歌
 幸2讃岐國安益郡1之時軍王見v山作歌并短歌
明日香川原宮御宇天皇代
 額田王歌 未詳
後崗本宮御宇天皇代
 額田王歌
〔以下目次略〕
(58)   志貴皇子御歌〔六字右○〕
此ノ一行、諸本ニナシ、元暦校本、冷泉本、神田本等ニヨリテ假ニ補フ。
 
 
(59) 萬葉集精考 卷第一
                 菊池壽人撰
 
  雜歌
 
萬葉集二十卷は一貫して撰ばれたものではなく、種々の編纂物の集合であることは既に述べた。そのうち卷一と卷二とはおのづから一つの體裁をなし、二十卷中最もまとまつた卷で、假に橘諸兄が最初に撰んだとすれば、少くとも此の卷一、二はそれであらうといはれてゐる。此の二卷は歌の種類を雜歌、相聞、挽歌の三部に分ち、歌の記載は御代の順、年代の順に次第せられてゐる。大方は寧樂宮以前のもので寧樂宮となつてからのものは數首に過ぎぬ。相聞は贈答徃來などの義で、大要後世の戀の部に相當し.挽歌は柩を挽《ヒ》く時の歌の義で、後世の哀傷の歌に相當する。その相聞にも挽歌にも入らぬすべての歌を廣く雜歌といふのである。訓はザフカ、ザフノウタ、クサ/”\ノウタなどさま/”\に訓まれてゐるが、相聞も挽歌も音讀されたらしいから.これも音讀するがよからう。
 
泊瀬朝倉宮御宇天皇代《ハツセアサクラノミヤニアメノシタシロシメシヽスメラミコトノミヨ》 大泊瀬稚武天皇《オホハツセワカタケノスメラミコト》
 
(60)普通には「ハツセ、アサクラノミヤニ、アメノシタシロシメシヽ、スメラミコトノミヨ」と訓んでゐる。續日本紀の宣命には「掛久毛畏支新城之大宮爾天下治給比志〔四字傍点〕中都天皇」といふ例もあるから「アメノシタヲサメタマヒシ」と訓むもよからう。(日本靈異記にも御〔右○〕字の御(ノ)字を「乎左女多比之」と訓じてゐる。)朝倉宮は泊瀬峽谷の入口で、今の磯城郡朝倉村黒崎の邊りだといはれてゐる。時代をしるすに皇居の名を以てしたのは、上代の皇居は御一代限りで、御代が改まれば皇居も必ず改まるのが例であつたから、何宮御宇といへばおのづから時代が明かになるからである。(藤原宮以後唐制に倣つて皇居の規模が大きくなり、漸次固定するやうになつたのである。)大泊瀬稚武《オホハツセワカタケ》天皇は雄略天皇の御諱である。雄略と申す御謚號のまだ無い時代であるから、御諱を記し奉つたのである。
此の御歌を解釋するに先だちて、まづ其の場合その事柄につきて一言しておかう。或る時.天皇が野邊に御出ましになると(御狩などの御歸途であつたらうか)、そこに若葉を摘んでゐる少女がゐた。それに御眼がとまつて「御まへはどこの子ぞ」と御尋ねになつたが、少女が御答をしなかつた。知らぬ男に名をのらぬのは上代の風俗でもあるし、この場合、天皇といふ事も知らなかつたのであらう。そこで天皇御氣がつかれて、まづ御身分を明かされ、改めて少女の名を問はせられるといふすぢで、筋そのまゝが歌になつてゐるのである。天皇の御歌、書紀、古事記には數首載つてゐるが、最もめでたい此の御歌は見えない。僅に萬葉集によつて傳へられたのは、まことに珍重すべき事である。
 
 天皇御製歌
 
(61)籠毛與《コモヨ》 美籠母乳《ミコモチ》 布久思毛與《フグシモヨ》 美夫君志持《ミフグシモチ》 此岳爾《コノヲカニ》 菜採須兒《ナツマスコ》 家《イヘ》吉閑《キカナ・ノラヘ》 名告沙根《ナノラサネ》」 虚見津《ソラミツ》 山跡乃國者《ヤマトノクニハ》 押奈戸手《オシナベテ》 吾許曾居《ワレコソヲレ》 師告〔左◎〕名倍手《シキナベテ》 吾己曾《ワレコソ》座《マセ・ヲレ》 我許《ワレコ》(者)背齒告目《ソハノラメ》 家乎毛名雄母《イヘヲモナヲモ》
 
此歌は難解の歌とて、古來さま/”\に扱はれて來たが、その變遷の大樣は後に述べるとして、こゝには現時の釋義に從つて解説を施す事とする。
 
○籠毛與《コモヨ》――三音一句、「こもよ」と訓む。「こ」は「かご」若菜を摘んで容れる器である。「も」も「よ」も感動詞。書紀顯宗天皇の御歌に「於岐毎慕與〔二字傍点〕」「ぬでゆらく慕與〔二字傍点〕」又本集卷五に「もちどりの、かゝらはし母與〔二字傍点〕」(八〇〇)などあるに同じい。こゝは「あはれこよ」といふほどの意であらう。三音一句といふ事、後世はあまりないが、上代には崇神紀の「古波夜〔三字傍点〕、みまき入彦はや」應神紀の「知婆能〔三字傍点〕、かづぬをみれば」仁徳紀の「夜多能〔三字傍点〕、一本すげは」など例は多い。
○美籠母乳《ミコモチ》――「み籠持ち」で「み」は美稱。
○布久思毛與《フグシモヨ》――「ふぐし」は掘串で、若菜を掘りとる具、竹木などで造つたヘラ〔二字傍点〕の如きものをいふ。(金屬製のものは「かなふぐし」といつたが、通じてたゞ「ふぐし」といつたのかも知れぬ。)
(62)○美夫君志持《ミフグシモチ》――「夫」は一般に濁音の文字であるからとて「みぶぐし」「みぶくし」など訓む説がある。しかし「み」といふ接頭辭を承けるのは必ず清音のやうであるし、「夫」も濁音とは限らないから、やはり舊訓のまゝ「みふぐしもち」と訓んでおく。この四句は音數不同の對句である。必ずしも同一音數でなくとも、長短不同な所におのづから古風な調節があるのである。
○菜採須兒《ナツマスコ》――「なつますこ」と訓む。「つます」は「つむ」の敬語法で、「つむ」の未然形から佐行四段に轉じたものである。(敬語といふほどのものでもないが、語づかひがやさしくなるのである。)昔は之を延語といつた。延語は一音が二音になるから、語勢が緩やかになつて、そこにおのづからやさしい氣分が添はるのだと言はれてゐる。それもさる事ではあるが、「變る」を「かはらふ」といひ、「かへる」を「かへらふ」といふなど延語がすべて敬意を含むとは限らない。敬意を含むのは佐行四段に限るやうであるから.この佐行の「す」におのづから、さる氣分があるのではないかと思ふ。この「す」を便宜上、古代に行はれた一種の助動詞と見てもよからうと思ふが、今は姑く近頃の文法家の言に從つて.佐行四段に轉じた敬語法としておく。さてこの「す」は四段活用及び佐行變格動詞の未然形に接續し、「す」自身が、また四段に活用するのである。本集卷一「朝獵に今立たすらし」(三)卷十「山田守らす兒」(二一五六)など上代には多く用ひられたが、萬葉以後は殆ど用ひられなくなつた。(延語として説明する場合には、その延ばさんとする動詞「四段又は佐變」の未然形と佐行の同列音とに延ばされたものといふ事になる。)
○家《イヘ》吉閑《キカナ・ノラヘ》――考以來「吉閑」を「告閇」の誤として「のらへ」と訓んで來たが、美夫君志はこのまゝで「きかな」(63)と訓んだ。「閑」を「かな」と訓むは、この字、韻鏡第二十一轉山攝の字で、音「かぬ」であるから、奈行の通音で「かな」となるのであるとて、信濃の「信《シナ》」、因幡の「因《イナ》」等いろ/\例證を擧げてゐるから姑く之に從つておく。但「のらへ」と訓んでも「告《ノ》る」といふ語の重複するのが、少し落ちつかないやうに思はれるし、「閑《カナ》」も他に用例がなく、十分しつくりしたとは言へないから、今一段の研究がありたいやうに思ふ。さて「きかな」の「な」は動詞の未然形を承けて希望の意をあらはす古代の助詞で、意は「聞かむ」といふに似てゐる。卷五「阿素※[田+比]久良佐奈〔左○〕《アソビクラサナ》」(八二五)、卷二十「黄葉手折奈〔左○〕《モミヂタヲラナ》」(一七五八)など集中に例が多い。けれど「きかな」が「きかむ」となつたものと思ふは誤りである。「きかむ」の「む」はむ、む、め、と變化する助動詞だが、「な」は變化なく、古格の助詞である。且つこの「な」は、自己の希望をあらはすばかりではなく、稀には他に向つて希望する事もある。佛足石の歌に「もろ/\すくひ、わたしたまはな〔右○〕」とある類ひがそれである。平安時代の「なむ」は此の他に向つて希望する意の「な」から出たものではあるまいか。
○名告沙根《ナノラサネ》――「名」は名詞で、「名を告らさね」である。「のらさね」は「のる」の敬語法「のらす」(「のる」といふ動詞の未然形から佐行四段に轉じたもの)の未然形に「ね」といふ希望の助詞の添はつたもので、卷一「草乎|苅核《カラサネ》」(一一)卷二十「おやに申さ禰〔右○〕」(四四〇九)など用例が多い。(佐行四段の未然形から「ね」に續くから、「さね」となる場合が多いので、辭書などには便宜上「さね」を一個の助詞として扱つてゐるのもあるけれど、正しくは「さ」は「す」といふ敬語法の變化であるから、「さ」と「ね」とは、別々に取扱ふべきものであらう。)
○虚見津《ソラミツ》――山跡即ち大和の枕詞。日本書紀にその起源傳説が見えてゐるが、饒速日命が天磐船に乘つて、天から(64)見下して、大和へ下つて來たからといふが一般の説である(冠辭考等に委しい)。枕詞は上代に於ける一種の修飾語で.我國特有のものとも思はれるし、上代は作者自から製造して自由に活用したらしくも思はれるから、よくその意義を明らめて、上代人の修飾法を會得すべきだが、何分後世多くその意義を失つて、近代の釋義を見ても(冠辭考、古義枕詞解等)、なるほどと思はれる説がまだ少ないから、姑らくその大要にとどめておく。さて倭はもと大和國一部分の名であるが、後には大和一國の名ともなり、日本全國の意にも用ひられる。こゝは當時天皇の親しくしろしめされる所を、漠然と指したものと見てよからう。
○押奈戸手《オシナベテ》、吾許曾居《ワレコソヲレ》、師告名倍手《シキナベテ》、吾己曾《ワレコソ》座《マセ・ヲレ》――この四句は對句で、同じ事を繰りかへしたに過ぎない。「しき」は一面に敷き連ねて、廣く行き亙る意であるから「おしなべて」といふに等しい。之を承ける下の對句は、一般には「吾こそ居《ヲレ》」「吾こそ座《マセ》」と訓をかへて相對させて居るが、萬葉燈は兩者とも「吾こそをれ」と訓むべき事を主張してゐる。これは各自の判斷による事で用例はどちらにもある。「座」(ノ)字を「をれ」と訓んだ例は、燈みづからいふ如く、下の軍王の歌に「獨|座《ヲル》吾衣手爾云々」(五)とあるし、天皇自から敬語を御用ひなさる事は後世も例の多い事で、上代でも同じ雄略天皇の御製に「鹿待つと、我が伊麻西麼《イマセバ》」とある。(總じて自から敬語を用ひるといへば少し異樣に聞えるけれど、高貴の人自から言ふ場合でも、高貴の人に對する場合でも、成るべく品のよい語を用ひるから、それが後世からいへば敬語の趣になるのではなからうか。敬語と卑下の語とは上代に遡れば遡るほど混同するし、降れば降るほど區別がやかましくなるやうに思ふ。)さて全體の文意は、「この大和國は、どこから、どこまで、我こそ其國に臨んでおはしますのぢや」といふので、吾は天皇であるといふ事を、それと(65)なくほのめかされたのである。
○我許背齒告目《ワレコソハノラメ》、家乎毛名雄母《イヘヲモナヲモ》――我こそまづ家をも名をもあかさうといふので、倒置句である。
◎一篇の大意――あはれ籠《コ》よ、あはれふぐしよ。その籠を持ち、ふぐしを持つて、此の岡に菜を摘んで居られる子よ。家はいづくぞ、名は何といふぞ。(是までが一段で最初の御尋ねである。少女が御答をしないので、天皇改めて仰せられた。)――さらば我まづ名のらう。この大和の國は、どこからどこまで、一樣に我がしろしめしてゐるのぢや。即ち我はこの大倭の天皇であるぞよ。かやうに我まづ家をも名をも告げよう。おまへも心おきなく名のれ。
史に勇猛果敢であらせられたと傳ふる天皇の御一面に、この優雅な御振舞のあつたのは、その御性格を見るべき好材料であると共に、眞率素撲であつた上代の風もしのばれて、ゆかしくもめでたき御製ではないか。
 此の御歌、御製とあるから、初めから歌詞を以て仰せられたものと見ねばなるまい。上代にはさうした事もよくあつたらしいが、又或はさる事實のあつたのを興ありとおぼしめして、後に歌によませられたのであるかも知れぬ。又或はさる御逸話の傳はつて居たのを、後人が歌にしたのではあるまいかと疑はれんでもない。これもよくある例である。橘守部は古事記なる赤猪子の物語の之に似通うたふしあるを擧げて、これはその物語の一部ではあるまいかといつてゐるが(稜威言別及萬葉集墨繩)、そればかりではなく、今一つの春日(ノ)少女の物語もまた似通うた所がある(いづれにも御製がある)。類似の物語が數多あつたのやら、同一物語の分派したのやら、それはわからないが、中に最もめでたいと感ぜられる此の御歌が記、紀に見えない所を思ふと、後人の擬(66)作ではあるまいかとの疑念も起るのである。しるして後の判斷を待つ。
◎此の歌、古來難訓の歌とせられて、代々の學者苦心に苦心を重ねて來た。その訓點や解釋の沿革を一々この書で述べようといふではないが、これは開卷第一の歌でもあり、種々の意味に於て有名で、古來の學者の苦心を知るに好適な例でもあるから、こゝにその沿革の大要を述べて見よう。古點、次點の頃は殆ど手がつかなかつた。平安末期の類聚古集にも訓點はなく、たゞ「不v被v讀」と書いてある。元暦校本になつて「籠毛與籠母《コケコロモ》」などいふ怪しい訓がついてゐるが、一時期を劃したといはれる仙覺抄には
 籠毛與美《コモヨミ》 籠母乳《コモチ》 布久思毛與美《フクシモヨミ》 夫君志持《フクシモチ》 此岳尓《コノヲカニ》 菜摘須兒《ナツムスコ》 家吉閑《イヘキカ》 名告沙根《ナツゲサネ》 虚見津《ソラミツ》 山跡乃國者《ヤマトノクニハ》 押奈戸手《ヲシナベテ》 吾許曾居師《ワレコソヲラシ》 告名倍手《ツゲナベテ》 吾己曾座《ワレコソヲラシ》 我許者《ワレコソハ》 背齒告目《セナニハツゲメ》 家呼毛名雄毛《イヘヲモナヲモ》
と訓んで「句不v得2其意1朦朧綿々、如v對2夕霧1」といつてゐる。代匠記になつても、「籠毛《コモ》。與美籠母乳《ヨミコモチ》。」など點してゐるが、訓點のやゝ物になりかけたのは眞洞翁の萬葉考以後である。更に一句々々について見ると、初句「籠毛與」の「籠」を古訓はともかくも皆「こ」と訓んでゐるが、代匠記の一説に、神代紀の「無目籠《マナシカタマ》」を引いて「かたま」は「かたみ」に同じいからとて、冒頭の二句を「かたみも、よみかたみもち」と訓まれたのがもとで、考は「かたまもよ、みかたまもち」と訓み改め、爾來略解、檜嬬手.燈等皆之に從つた。五言六言の對句にと思うたのであらう。然るに、古義、美夫君志に至つて「無目籠《マナシカタマ》」などいふは、水も漏らぬやうに密に編んだ籠の事で、うちまかせては「こ」とのみいふが常で(烏籠〔左傍点〕《トコ》之山、四八七)、射等籠〔左傍点〕荷四間《イラゴガシマ》(二三)など)、こゝは若菜を容れるだけの器で、寧ろ目が荒かつたであらうから「かたま」といふべき所ではない。且つ歌の調からいつても、三音(67)四音の「こもよ、みこもち」の方が、寧ろその時代の調にふさはしいと思はれるといふので、再び「こ」といふ舊訓に還つたのである。次に菜採兒はもと「なつむすこ」と訓じ、「すこ」を名詞として賤兒《シヅコ》の約と見てゐたが、それは全く誤解で、之を正したのは玉の小琴である。吉閑は古くは「吉閑《キケ》」又は次の「名」(ノ)字までつゞけて「吉閑名《キカナ》」など訓んでゐたが、考になつて「告閇」の誤とし「のらへ」と訓んだ。それで意義も通ずるし、極めて少許の誤りで、さもありさうな事でもあるから、此説長く行はれてゐたが(古義は告勢《ノラセ》の誤としたが、これはあまり行はれなかつた)、明治になつて、木村博士が、そのまゝで「吉閑《キカナ》」と訓んでから(その説は既に述べた)一般に之に從ふ事となつた。又「押奈戸手吾許曾居師告名倍手吾已曾座」の對句は、舊訓はすべて「師」(ノ)字にて句を切り「おしなべて、吾こそをらし(又はをらじ)、告《ノリ》なべて(又は告《ツゲ》なべて)、吾こそをらし」と訓んでゐたが、玉の小琴に至り、かくては語とゝのはずとて「居」(ノ)字にて句を切り、又「告」を「吉」の誤として「おしなべて、吾こそをれ、しきなべて、吾こそませ」と訓んでから最も然るべしとて、一般に之に從ふ事になつた。但「座」(ノ)字「ませ」とも「をれ」とも訓める字なので、兩者とも「われこそをれ」と訓んで、同語で相對させる人もある。訓點上最も曲折の多かつたのは「我許者背齒告目」の句で、舊訓は二句と見て、「吾こそはせなにはつげめ」と訓んでゐたが、代匠記は上の「吾許曾居」の例によつて「許」の下に「曾」(ノ)字を補ひ、考は更に「齒」を「とし」と訓んで、「吾こそはせとしのらめ」と改め、「吾こそ汝の夫《セ》とも名のつて行末をはぐゝんでやらう」の意に解した。(この場合「し」は強める助辭である。――なほ之にからんで「我許者」の一句につき、玉の小琴は「者」を「曾」の誤として「わをこそ」と訓み、古義は「者」を衍字とし「我」の下に「乎」(ノ)字を補つて、同じく「あ〔右○〕をこそ」(68)と訓んだ。)これで歌意一とわたり聞えるやうではあるが、「し」といふ助詞の用法稍穩やかでないので、考は早く「背」の下、「登」(ノ)字脱ちたるかと疑ひ(さすれば「齒」を「は」の借字として「背登齒《セトハ》」と訓むのである)、古義は紀洲本に「背爾齒」とある「爾」は「跡」の誤であらうとて、同じく「背跡齒《セトハ》」と訓んだが、更に美夫君志は元來「背止齒」とあつたものが「齒」(ノ)字の上畫「止」に從へるゆゑ、紛れて上の「止」(ノ)字を脱したものであらうとて、これも「背止齒《セトハ》」と訓んだ。この説最もおもしろく聞えるので、一般に之に從ひ、近頃まで行はれてゐたが、最近に至つてまた一變した。それは名のみ傳はつて本書は湮滅したものと思はれてゐた平安末期の藤原敦隆編纂の顆聚古集が明治の末年、中山侯爵家から偶然發見せられ、研究の結果、敦隆の世を距ること遠からぬ時代の寫本である事が判明した。萬葉集研究上、非常に珍重すべきものといふので、帝國學士院で出資し、全部十六卷をコロタイプに印行して世に出したが、その本文に照すと、昔から論議せられて疑もなく脱字とせられた「曾」も「止」もない。「登」「爾」等もやはりない。のみならず流布本にある「者」(ノ)字もない。(元麿校本には「者」(ノ)字がないと美夫君志はいつてゐるが、これはないのではない。傍に小さく書き添へてある。)たゞ「我許背齒告目」の六字となるので、學者之に向つて更に思を凝らして「われこそはのらめ」と訓み、これが最もよからうといふ事になつた。從來二句としたものが、たゞ一句となるのである。元來古葉略類聚鈔の一訓に「われこそはつげめ」とあつて、早くから一句に訓む説もあつたのであるが、「背《セ》」といふ語に心ひかれて、深く意を注がれなかつたのを、類聚古集の發見から又感を新にしたのである。一體今から思ふと、天皇の仰せとはいひながら、だしぬけに「我こそは夫《セ》とは告らめ」といふ事は、穩やかな言とはいへない。その上、結句の「家をも名をも」も、天皇に(69)つけて見るべきか、少女につけて見るべきかゞやゝ不明瞭である。(隨つて人によつて説を異にする。)「我こそは告らめ、家をも名をも」と訓んで、初めてすべてがしつくりする。この後いかなる説の出て來るかは知らないが、今日に於ては上述の訓に據るべきであらう。以上この御歌の訓點と釋義とに關する沿革の大要を述べた。かゝる努力が萬葉集全部に向つて注がれた事を思ふと、先哲苦心のほどが察せられると與に、萬葉集がいかに重きを措かれたかといふ事も窺はれるのである。
 「我許背齒告目〔右○〕」の「目」が、類聚古集には「自」とあるので、近頃それに據つて「告らじ」と訓む説があるさうだ。まだ委しくその説明を聞く事は出來ないが、今の所では賛成しかねる。既に我は天皇だといへば、おのづから家をも名をも明した事になるし、又率直にさういふ方が古代の簡素な趣が見えておもしろいと思ふ。且つ「自」とあるのは古集だけで諸他の古寫本皆「目」とあるし、古葉は「目」を「自」に誤つてゐる事が多く、次の香具山の歌の「加萬目〔右○〕」も「加萬自〔右○〕」と誤り、「綜麻形」の歌の「目〔右○〕爾都久和我勢」(一九)の「目」も、卷五、三島王後追2和松浦佐用媛歌1の「目〔右○〕爾波伊麻太見受」(八八三)の「目」も皆「自」に誤つてゐるから、當てにはならない。(是はふと目についただけだが、よく調べたならなほあらうと思ふ。)「目」の傍畫が少しつき出て「自」のやうに見えるのは古寫本によくある事だが、古集も、この類ひの形から寫し誤つたものではあるまいか。
 さて此歌だけについて見ても、長い間の研究で誤字とせられた「吉閑」二字も、脱字とせられた「曾」も「止」も、はた「登」又は「爾」も、誤字でも脱字でもなく、すべて本のまゝである事がわかつた。同時に「告」は(70)「吉」の誤であるらしい事も、「者」は衍字であるらしい事も、ほゞ明らかになつたやうに思はれる。そこに古典に對する用意が感ぜらるべきである。
 
 高市《タケチ》崗本宮御宇天皇代 息長足日廣額《オキナガタラシヒヒロヌカ》天皇
 
高市崗本宮の舊址は明瞭でない。古くは今の高市郡高市村大字岡の地で、今の岡寺のあたりであらうと言はれて居たが、近頃喜田貞吉氏は同郡飛鳥村雷岡の近くであらうといつてゐる。息長足日廣額天皇は舒明天皇の御諱である。
 
 天皇登2香具山1望v國之時御製歌
 
香具山は大和國磯城郡(今は十市郡)香具山村にある。所謂大和三山の一で、後々の歌に委しい。上代はこの香具山の近くに多く都せられたので、殊に名高く、折々國見せられた所である。望國は即ち國見の事で、高きに登つて、國の形勢を見そなはす事である。
 
2 山常庭《ヤマトニハ》 村山有等《ムラヤマアレド》 取與呂布《トリヨロフ》 天乃香具山《アメノカグヤマ》 騰立《ノボリタチ》 國見乎爲者《クニミヲスレバ》 國原波《クニバラハ》 煙立龍〔左○〕《ケブリタチタツ》
海原波《ウナバラハ》 加萬目立多都《カマメタチタツ》 怜※[立心偏+可]〔二字左◎〕國曾《ウマシクニゾ》 蜻島《アキツシマ》 八開跡能(71)國者《ヤマトノクニハ》
 
○山常庭《ヤマトニハ》――「山常」は借字で、大和國の事、「庭」も助詞「には」の借字、次の歌にも「朝庭」、「夕庭」とある。
○村山《ムラヤマ》――群山の事。
○取與呂布《トリヨロフ》――「とり」は接頭辭、「よろふ」は物の足り具はれる意で、甲冑を「よろひ」といひ、又「具足」といふも、物の具の完備せる義である。こゝは山の趣の足り整へるを譽めて宣うたのである。
○天乃香具山《アメノカグヤマ》――「アメノカグヤマ」と訓む。古事記中卷、倭建命の歌に「比佐迦多能、阿米能迦具夜麻《アメノカグヤマ》」とある。天乃〔二字傍点〕といふは、此山、天から天降る時、二分して其一片が大和に落ちて香具山となつたといふ傳説(釋日本紀引用伊豫風土記)があるので、特に「天乃」といふと言はれてゐる。
○國原波《クニバラハ》――原は廣く平らかな所をいふ。こゝは下の海原と相對して用ひられ、見渡す大和の平原をさしてのたまうたので、國中といはんが如き心ばへである。
○煙立龍《ケブリタチタツ》――「龍」の字、流布本には「籠」とあるけれど、元暦校本其他の古寫本に「龍」とあるがよからう。歌の調子からいへば、次の「かまめたちたつ」と相對して、こゝも「煙たちたつ」といふべきで、「煙たちこめ」ではふさはない。流布本も、文字は「籠」であるけれど、訓はなほ「たつ」となつてゐるから、煙といふにひかされて書寫の際、誤まつたものであらう。さて「煙」は和名抄に「介布利」とあるから、「けぶり」と訓むが古訓である。この煙を霞の事と解く説もあるが、炊煙と見る説の方がよからう。「たちたつ」といふ語勢は、そこにもこゝ(72)にも數多立ち昇る趣で、一面に霞み渡つた意とは聞えぬからである。萬葉考が「籠」の字の方を取つたのも、煙といふにひかされたので、「たちこめ」と訓んだから.煙霞の趣に解く事となつたのであらう。
○海原波《ウナバラハ》、加萬目立多都《カマメタチタツ》――海原は昔、香具山の北麓に廣く湛へてゐたといふ埴安(ノ)池の事である。湖沼の事を通じて海といふが古の常で、「近江の海」を初め集中に例が多い。「加萬目」は鴎であらうといはれてゐる。
○怜※[立心偏+可]國曾《ウマシクニゾ》――「うましくにぞ」と訓むがよい。此句、舊訓及元暦校本には「おもしろきくにぞ」と訓んでゐるが、萬葉考が神代紀の「可怜小汀《ウマシヲバマ》【可怜此云2于麻師1】」を引いて「うましくにぞ」と訓んでから、學者大方それに從つてゐる。但集中の用例を見ると、いづれも「※[立心偏+可]怜」とあるから、こゝの「怜※[立心偏+可]」は顛倒したものであらうといはれてゐる。それに宝の小琴にいふ如く「※[立心偏+可]」は辭書に無い文字なので元來は神代紀の如く「可怜」とあるべきだが「怜」(ノ)字に准へて扁を添へたものであらう。これもよくある例である(鳳皇〔右○〕を鳳凰〔右○〕と書く類)。さて形容詞の終止形「うまし」から名詞につゞけて熟語とするのは古語の一格で、「目無籠」「空し煙」「堅し磐」(約まつて「かたしは」となる)などの類である。
○蜻島《アキツシマ》――「あきつしま」と訓み、大和の一名である。神武天皇が腋上※[口+兼]間丘《ワキノカミノホヽマノヲカ》で國見をせさせ給うた時「如2蜻蛉之臀※[口+占]《アキツノトナメセルガ》1」と仰せられた所から秋津洲の號が起つたと書紀に出てゐるので、一般にはそれに據つてゐるが、此の傳説から起つて.もとは葛上郡(今の南葛城郡の一部)なる一郷の名であつたのを、孝安天皇がこゝに久しく都せられてから大和の總名となつたともいふ(欽明天皇都せられた磯城島が大和の枕詞になつた如く)。併し早く古事記神代卷に我國の總稱を「大倭豐秋津島」といつてゐるのを思へば、秋の收獲の豐かなるを祝うた稱で瑞穗國と(73)いふに等しいといふ説が穩當かと思ふ。島といふは必ずしも水に圍まれた處のみには限らず、うるはしい地點をいふのである。庭園の事を島といふも、この心ばへであらう。とにかく「あきつしま、やまと」は同義の語を重ねて唱へたので、枕詞といつてもよからう。
◎一篇の大意――我が大和の國には群山あまたあるが、中にも姿とゝのうて見事なこの天の香具山、その山に上り立つて國見をすると、麓の平野村落には、民の炊ぎの煙がそこにもこゝにも盛に立ち昇り、埴安の大池には、水鳥がそここゝに群れ遊んでゐる。結構な國であるぞ、我が大和の國は。
我が國の歌も此の頃より格調が餘程とよのうて來たものと見える。記紀に見える比より以前の歌は長短句まち/\で定まりがないが、この御歌は全篇殆ど五七の調で、巧に對句をさへ用ひて調子を助け、殆ど後々の歌と變りがない。たゞ結句は五、七、七ではなく倒置法を用ひて六、五、七と結んだ所、古雅で却つておもしろい。句句簡潔にして荘重、帝王の御詠としてふさはしい御製といふべきである。
 
 天皇遊2獵内野1之時中皇命使2間人連老1獻歌
 
天皇は舒明天皇、内野は大和國宇智部の野、今同郡五條町の南、坂合部村に殘つてゐる大字大野といふあたりであらうと言はれてゐる。「中皇命」は定かではない。古義等は舒明天皇の皇女で、後に孝徳天皇の后に立たせられ、間人《ハシヒトノ》皇后と申された御方だといつてゐるが、これも間人連老を使に立てたといふ點から出た推量説らしいので、十分確かではない。訓は「ナカノウシノミコト」(舊訓)「ナカノミコノミコト」(略解)「ナカヂヒメミコ」(古義)「ナカツミコノミコト」(美夫君志)などさま/”\に訓まれてゐるが、これも確かでは(74)ない。考は「皇」の下に「女」(ノ)字を補ひ、古義は「命」を「女」の誤としてゐるけれど、古本いづれも此のまゝで、下の歌(一〇)にも「中皇命」と見えてゐるから.これも美夫君志の「上古はすべて女王などをもたゞ某王とのみ書して女(ノ)字をば書かざる例なれば」といへるに從つておく(元來は本居翁の説である)。「間人連老」は孝徳紀、白雉五年二月の條に遣唐使判官として「小乙下、中臣(ノ)間人(ノ)連老【老此云2於喩1】」と見えてゐると同じ人であらう。皇女の御乳母方の人であらうといはれてゐるが、或はさうかも知れぬけれど是も確かではない。さて此の歌.代匠記以來、皇女が老に仰せて代作せしめたものと見る説が多い。その論據は、もし皇女御自身の作ならば「使2間人連老1獻御歌〔二字右○〕」とあるべきだといふにある。げに皇子皇女の作には「御歌」と書く例であるから(諸王はたゞ歌とのみ書く)、書式からいへば老の代作と見ねばならぬけれど、「御」字の脱落といふ事も彼此見えるから、その有無だけで此の文意を推定するのはどうかと思ふ。假りに卷一・二について見ると、後の三山歌も目録には「中大兄三山御〔右○〕歌一首」とあるが、本文の端書には「御」(ノ)字がない。卷一の終に「長皇子與2志貴皇子1於2佐紀宮1倶宴歌」とあつて、是も「御」(ノ)字がない。(目録にも「御」字はないが、歌の後には「長皇子御〔右○〕歌」とある」卷二には「幸2于吉野宮1時、弓削皇子贈2與額田王1歌一首」(一一一)「有間皇子自傷結2松枝1歌二首」(一四一)などあつて、いづれも「御」(ノ)字がない。隨つてたゞ「御」字の有無だけでこの問題を決するわけには行かない。端書の文意から推すと、婦人の御身獵場の御伴がかなはないから、羨ましさの餘り、自から此歌を作られて、老を便に獻られたものと見たいやうにも思ふ。が又ただ使に立つだけならば端書にわざ/”\名を掲げるほどの事はあるまいとも言へる。何分まだ漢文の語法に十(75)分習熟したはいへない我が邦人の筆であるから、疑問がそれからそれと涌くのである。歌は婦人の作としてはやゝ強調を帶びてゐるが.これとても判斷の標準とはならない。たどこゝに老の代作と見たいといふ一つの理由(はかなき理由ながら)は、此歌今に傳はる反歌(反歌を有せる長歌)の最初で、反歌といふものは漢土の反辭から出て來たものらしく(後にいふ)人麿以前はあまり盛んではないし、殊に婦人の長歌には殆ど反歌の見えない所を思ふと(此事は後の三輪山の歌の所で述べよう)流石に婦人の身、漢土から得た新しい形式にはまだ馴れない爲ではないかと思はれるから、此歌を老の作とする説も否定しがたく感ずる。たゞ「御」字の有無だけでしか推定するのは、少しいかゞと思ふのである。中に美夫君志は皇女の歌と見てゐるが、天皇に對して、わざと「御」(ノ)字を省いたものとせられたのは、これも少しいかゞと思ふ。
 
3 八隅知之《ヤスミシシ》 我大王乃《ワガオホキミノ》 朝庭《アシタニハ》 取撫賜《トリナデタマヒ》 夕庭《ユフベニハ》 伊縁立之《イヨセタテシ》 御執乃《ミトラシノ》 梓弓之《アヅサノユミノ》 奈加弭乃《ナガハズノ》 音爲奈利《オトスナリ》」 朝獵爾《アサガリニ》 今立須良思《イマタヽスラシ》 暮獵爾《ユフガリニ》 今他田渚良之《イマタヽスラシ》 御執《ミトラシノ》 梓能弓乃《アヅサノユミノ》 奈加弭乃《ナガハズノ》 音爲奈里《オトスナリ》
 
○八隅知之《ヤスミシシ》――「おほきみ」の枕詞。古事記中卷の歌に「夜須美斯志《ヤスミンシ》、和賀意富岐美《ワガオホキミ》」とあるから「やすみしゝ」と訓むべき事は明かである。その解説については古來まち/\で、「やすみ」は八方の義といひ、八洲《ヤシマ》の意ともい(76)ひ、又集中に多く「安見」と書けるが正字で、安らけく見そなはす意であるともいふ。(今は此説が廣く行はれてゐるらしい。)又「しゝ」といふについては、古事記傳、冠辭考、古義、美夫君志等とり/”\の説はあるが「知らす」の「ら」を省略したものといふが、ほゞ定説となつてゐる(「足らす」を「たす」、「減《へ》らす」を「減《へ》す」といふが如く)。然らば「やすみしす」といふべきを「しゝ」と中止法にいふは枕詞の一格で「いさなとる〔右○〕海」とは言はず、「いさなとり〔右○〕海」といふと同例である。此の枕詞は天皇にかけたのがもとであらうが、既に枕詞となつては、本來の義を離れて、皇子でも皇女でも「おほきみ」といふ所にはすべて冠らせるので、「やすみしす大君」と連體形から續けると、「四方の國をしろしめす大君」などいふ義を以てかけた形容句の如くにも聞えるから、本義を離れた單なる枕詞であるといふ事を明確にするため、わざと中止形を取らせる事になつたのであらう。「いさなとり海」「あられふり鹿嶋、など皆同樣で、實際の形容句と紛れ易い場合は多くこの形を取つたものと見える。
○朝座取撫賜《アシタニハトリナデタマヒ》――朝に御眼ざめになると、まづ手に取りあげて撫でさすり給ふのである。
○伊緑立之《イヨセタテシ》――舊訓は「いよせたてゝし」と訓み、代匠記もそれに從つてゐるが、燈は「て」文字あるにも及ばぬ所とて。「いよせたてし」と六言に訓んだ、それがよからう。「い」は接頭辭、「いはひふし」「いはひ廻《モトホ》り」など集中に多い。然るに古義は「いよりたゝしゝ」と訓み、天皇の立ち倚り給ふ意としてゐるが、げに古事記下卷にも「阿佐斗爾波、伊余理陀多志〔六字傍点〕」といふ例もあるから、しか訓むべきかとも思はれるけれど、なほ就寢の際、枕邊近く立ておかれて御側去らず珍重せられるといふ方が切實に聞えると思ふから、姑く舊訓に從つておく。「縁」は「より」とも「よす」とも訓む文字で、「より」の場合ほいふまでもないが、「よす」の例は、卷三「志賀乃大津爾|緑流《ヨスル》(44)白浪(二八八)、同「打|縁流《ヨスル》駿河能國」(三一九)など例は多い。卷九、舒明天皇と稱する御歌にも「妹がため吾珠拾ふ、奥べなる玉|縁《ヨセ》持來、奥津白浪」(一六六五)とある。但、考が「いませたゝしゝ」と訓んだのはわるい。「よせ」は他動詞、「たゝしゝ」は自動詞の敬語法で打ち合はない。
○御執乃《ミトラシノ》――「とらし」は「とり」を佐行四段の「す」に轉じた敬語法(所謂延音)弓は手に執るものであるから「みとらしの弓」とつゞけるので、「みはかしの太刀」といふと同例である。
○奈加弭乃《ナガハズノ》――奈加弭、明かでない。考は「加」を「留」の誤として「鳴弭《ナルハズ》」と訓み、玉の小琴は「利」の誤として「鳴弭《ナリハズ》」と説き、古義も之に從つてゐるが、此の歌、前後二ヶ所とも「奈加〔右○〕弭」とある上、古寫本も皆同樣であるから、妄りに改むべきではない。代匠記は「なが弭」(長弭)と訓んでゐるが、美夫君志更に修正敷衍して、御獵場で猛獣などの俄に襲ひ來たらん折、取りあへず弓もて突きとめ給はん料にとて、故らに弭を長く鋭く作らせられたのであらうと、雄略天皇の御實例まで引いて説明してゐるのが、臆測ながら故ありげに聞えるから、姑く此論に從つておく。清音の「加」を濁音に用ひた點について云々する人もあるが、これも美夫君志に二三の例證を擧げて(卷二十「和加加都乃《ワガカドノ》いつもと柳、いつも/\於母加《ガ》古比須奈云々」(四三八六))たまには濁音に用ひた事のある由を辨じてゐるし、佛足跡歌碑にも「さきはひの、阿都伎止毛加〔右○〕羅」、「のりのたの、與須加〔右○〕止奈禮利」など清濁通用の例はいくらもある事であるから、姑く長弭《ナガハズ》と訓んで後考を待つ事とする。
○朝獵爾《アサガリニ》云々|暮獵爾《ユフガリニ》云々――これは「御獵に今立たすらし」といふ事を對句に文《アヤ》なしただけで、朝夕の時刻には關係はない。實際朝狩であつたか、夕狩であつたかは此歌だけでは不明であるが、上代の對句にはかゝる類が多い。(78)玉の小琴は朝|饌《ゲ》の料、夕|饌《ゲ》の料と説いてゐるが、それは朝夕といふ語に泥んだものである。燈の説などは殊にむづかしい。卷六、赤人の歌に「朝獵爾|十六履起《シヽフミオコシ》、夕狩爾十里※[足+榻の旁]立《トリフミタテ》」(九二六)とあつて、これは朝夕に意味があるとも見られんでもないが、朝獵には必ず猪、夕狩には必ず鳥と定むべきでは勿論ないから、たゞ隨時の御獵に鳥獣をあさらせられる意で、時はいつでもよいのである。さて「たゝす」は「たつ」の敬語法で、御獵に出で立つ義である。諸註この所曖昧で.中には「立たすらし」を獵場に立つて鳥獣をあさる意に解し、隨つて御獵し給ふ弓弭の音を聞しめして、羨しさのあまり宮中から獵場に獻つたものとする説(美夫君志)もあるけれど、崗本宮は高市郡.内野は宇智郡で、郡をさへ異にし、相距る事四里強、弓弦などの宮中に聞ゆべきやうはない。これは今正に御獵に出で立たんとて、朝早く弓弦などうち鳴らして、小手調べなどし給ふを聞しめして獻つたものと見ねばなるまい。古義の説が穩當であらう。
○御執《ミトラシノ》、梓能弓之《アヅサノユミノ》――元暦校本には「梓能」の二字が顛倒して「能」は「御執」についてゐる。上例に照らすに、それがよいかも知れぬ。
◎一篇の大意――我が大君の日頃珍重していらせられる弓、――朝に御眼ざめになると手に取りあげて撫でいつくしみ給ひ、夕に御休みになる折は枕邊近く立ておきて、御側去らず珍重していらせられる、あの名譽の長弭の弓の音が響いて聞えまするわい。」これから推すと、我が父帝は今正に御獵に出で立たんとしていらせられるらしい。さうと見えてあの長弭の弓の音が響いて聞えまするわい。
「梓弓の長弭の音すなり」といふ句を二段にくりかへして、美しさの情を表はしたので、句法章法よく整ひ、辭(79)辭緊縮してめでたき御歌である。
 
反歌
 
反歌は長歌の終に添へた短歌をいふので、古來「かへしうた」「みじかうた」「たんか」などさま/”\に唱へられてゐたが、美夫君志が荀子賦篇【卷十八】の末にある反辭に擬したものとして「はんか」と訓んだのが穩當であらう。荀子楊※[人偏+京]の注に、この反辭を説明して「反辭(ハ)反覆叙説之辭、猶2楚詞亂曰1」といひ、又楚辭王逸の注に「亂」を説明して「亂(ハ)理也、所d以發2理詞指1、總c撮其要u也」といつてゐるが、反覆叙説といひ、總2撮其要1といふが、正に我が反歌の趣に相當するから、彼に擬したものには相違あるまい。此の反歌といふもの、いつの頃から起つたか知らないが、今に存するものでは此歌が初めである。思ふに推古天皇以後、詩賦の研究漸く盛となつて、此の頃では彼に傚つて反歌といふものも起り、對句の手際も一段と鮮やかになり、はては前掲の御製や此歌の如き立派なものも出で來るやうになつたのであらう。我國の歌が漢土の影響をうけて此頃一段の進歩を來した事は否む事は出來ない。さて反歌といふ名稱は反辭から出たものであらうが、摸倣ながら、歌の姿に變化あらしめて興ある形といふべきである。(早く代匠記に「反歌といふは反覆の義なり。經の長行に偈頌の副ひたる類なり云々」といつてゐるが、美夫君志はこれからヒント〔三字傍点〕を得て推論したのである。)
 
4 玉刻春《タマキハル》 内乃大野爾《ウチノオホヌニ》 馬數而《ウマナメテ》 朝布麻須等武《アサフマスラム》 其草深野《ソノクサフカヌ》
 
○玉刻春《タマキハル》――「たまきはる」と訓む。「うち」の枕詞、冠辭考、古義、稜威言別等にさま/”\の説はあるが定まつた説(80)はない。
○円乃大野爾《ウチノオホヌニ》――端書なると同じく宇智野の事である。「野」は「ぬ」と訓む。奈良朝の末頃には「の」とも唱へたらしいが、古くは「ぬ」といつた。
○馬數而《ウマナメテ》――「うまなめて」と訓み、馬を並べる義である。並べ數へる意で「數」(ノ)字をあてたのであらう。古事記中卷、倭建命の御歌「迦賀那倍弖《カヾナベテ》」も「日々並べて」で、日數を並べ數へる義であらう。
○朝布麻須等武《アサフマスラム》――「ふます」は「ふむ」の敬語法。「ふむ」は叢にかくれてゐる鳥獣を馬の足もて踏み立てゝあさるので、所謂「十六履起、十里※[足+榻の旁]立」である。「らむ」は推量の助動詞、皇女が親しく獵場のさまを見そなはしたのではなく、弓弦の音を聞いて、御獵のさまを豫め思ひやるのである。
○其草深野《ソノクサフカヌ》――その草深き野といふ事で「そのくさふかぬ」と訓むがよい。舊訓は「ふけぬ」と訓み、考も之を可として、泥深き田を「ふけた」といふと言はれたが、「ふけた」は老け田で、地味老いて荒れた田の事、泥深き田の事ではない。天武紀に「※[泥/土]田《フカタ》」とあり、本集卷七にも「草深由利《クサフカユリ》」(一二五七)といふ語もある。その物の深きを「深《フカ》何」といふが常であるから、こゝも「ふかぬ」と訓むべきである。
◎一首の意――弓弭の音が響いて聞えるが、我が父帝が今正に宇智野の御獵に御出ましになるらしい。あの廣々とした宇智野の原にあまたの馬を立て並べて、この早朝から鳥獣を踏み立てふみ起してあさらせられる事であらう。あはれその草深き宇智の大野に於て。
長歌は対句に文《アヤ》なしただけであるから、朝獵とも夕獵とも判斷がつかないが、反歌から見れば朝獵であつたらし(81)い。
 
幸2讃岐國安益郡1之時軍王見v山作歌
 
「安益郡」は和名抄に「讃岐國安野綾」とあつて、今の綾歌郡(舊の鵜足部と併合の稱)の一部である。「軍王」は此歌によつて名が傳つただけで、傳は詳かでない。端書には「見v山作」とあるけれど、山を詠じたのではない。山から吹き來る風が身にしみて寒いので、望郷の念に堪へずして詠んだ歌である。
 
5 霞立《カスミタツ》 長春日乃《ナガキハルビノ》 晩家流《クレニケル》 和豆肝之良受《ワヅキモシラズ》 村肝乃《ムラギモノ》 心乎痛見《コヽロヲイタミ》 奴要子鳥《ヌエコドリ》 卜歎居者《ウラナケヲレバ》 珠手次《タマダスキ》 懸乃宜久《カケノヨロシク》 遠神《トホツカミ》 吾大王乃《ワガオホキミノ》 行幸能《イデマシノ》 山越風乃《ヤマコスカゼノ》 獨座《ヒトリヲル》 吾衣手爾《ワガコロモデニ》 朝夕爾《アサヨヒニ》 還比奴禮婆《カヘラヒヌレバ》 大夫登《マスラヲト》 念有我母《オモヘルワレモ》 草枕《クサマクラ》 客爾之有者《タビニシアレバ》 思遣《オモヒヤル》 鶴寸乎白土《タヅキヲシラニ》 網能浦之《アミノウラノ》 海處女等之《アマヲトメラガ》 燒鹽乃《ヤクシホノ》 念曾《オモヒゾ》所燒《ヤクル・モユル》 吾下情《ワガシタゴヽロ》
 
○和豆肝之良受《ワヅキモシラズ》――事舊訓を始め、諸註皆「わづきもしらず」と訓んでゐるが、義は明かでない。考は「分ち着きも(82)不v知也」といつてゐるが、その分ち着きとは何の事か、要領を得ない。玉の小琴は「和」を「多」の誤として「たづき」と説いてゐるが、「たづき」といふ事.こゝにふさはぬばかりではなく、同じ句が「思遣、鶴寸〔二字傍点〕を知らに」と下に重出するから、それもおぼつかない。古義は「豆」を衍字として刪つてゐるが、諸本皆「豆」があるから輕々しく削り去るべきではない。代匠記は「わきもしらす」と説き、「わ、き」二音の中に「づ」文字の添はれるものとし、卷十一「玉簾《タマダレノ》、小簾之寸鶏吉《ヲスノスケキ》云々」(二三六四)(「すけき」は「すき」(隙)で、「す」と「き」との間に「け」の添はれるものといはれてゐる)の歌を添字の例として擧げてゐるが.これはあまりの特例で.これと同樣に見るべきものか否かは疑問だけれど.文意を按ずるに、「分きも知らず」といふほどの義ではあらう。「分きも知らず」は分別もつかぬ意で、こゝは故郷の戀しさに、日の暮れたも知らずに物思ひ居る意である。なほこの「豆」は「ひぢて」といふべきを「ひづちて」といへると同例だといふ人もあるが(卷二の末なる長歌に「白妙之衣|※[泥/土]漬清《ヒヅチ》〔二字左傍点〕而」(二三〇)、又卷十七「波流佐米爾、爾保比比豆知底〔四字傍点〕云々」(三九六九))「つ」も「ち」も多行の通音で、しかも「ぢ」の濁りを去つて「つ」の方へ移したから、音調上無理なく聞えるが、何のゆかりもない「わ」と「き」との中へ、最も重くるしい濁音の「づ」を挿入せん事は音調上いかゞと思はれるから、それも同例とは見難からう。
○村肝乃《ムラギモノ》――心の枕詞。昔は臓腑の事を廣く肝《キモ》といつたとの事、心といふも漠然と腹の内部をいつたもの、腹の中にはあらゆる臓腑が群がつてゐるから、村肝の心とかけたといはれてゐる。
○心乎痛見《ココロヲイタミ》――「み」は形容詞の語幹につく接尾辭で、やがて副詞となるのである。「を」は詠歎の意を含める一種の助詞で、名詞格の弖爾乎波ではない。隨つてその名詞を處分する意はなく、主格に添ふが常で、「心を痛み」は「心(83)
れる句法は古格の歌に多く「瀬を〔右○〕早み〔右○〕」「風を〔右○〕いたみ〔右○〕」「※[竹冠/占]を〔右○〕荒み〔右○〕」等皆同じ形式である。この「を」は助詞であるから、有つても無くても義は變らない。「風いたみ」「※[竹冠/占]あらみ」といつてもよいが、習慣上「を」を添へる事が多いのである。「山高み」「月清み」などは「を」なしに用ひる場合が多い。要するに習慣的語法なので、一つは歌の調による事であらう。
○奴要子鳥《ヌエコドリ》――「うらなけ」(心に歎く意)の枕詞、此鳥の鳴聲が恨むが如く聞えるのであらう。集中に多く用ひられてゐる。但「春鳥の、さまよひぬれば」ともあるから、憂ある身には鳥の啼く音も歎くやうに聞きなされるのであらう。所謂「ものうかる音に鶯のなく」(古今、春上)である。
○卜歎居者《ウラナケヲレバ》――「うらなけをれば」「うらなきをれば」「うらなげをれば」「うらなげきをれば」など、さま/”\に訓まれてゐるが、「卜」は借字で、心(裏)の事、「うら歎」は心の底に歎く意であらうかち「うらなげきをれば」といふが正しい訓であらうが、歌として音調がおもしろくないから.自然に縮約又は省略せられたのかも知れない。音調のための縮約とすれば「うらなけ」又は「うらなき」など唱へたかも知れぬ。(「なげく」といふ動詞の語幹から「居る」につゞけたと見ては少し義を成さぬかに思ふ。)何分適當な例が見當らないから判斷がつかぬが、強ひていへば、卷十七の歌に「奴要鳥乃、宇良奈氣之都追《ウラナケシツツ》」(三九七八)とあるが、やゝ手掛りと思ふから、姑く「うらなけをれば」と訓んでおく。
○珠手次《タマダスキ》――「かけ」の枕詞、襷は肩からかけるからである。
(84)○懸乃宜久《カケノヨロシク》――これは玉の小琴の説がよい。六句を隔てゝ「朝夕爾還比奴禮婆」へかゝるので、小琴のいふが如く一首の眼目である。その義は言にかけていはんも宜しくといふ事で「さもふさはしく」「ちようどよく」などいふほどの意であるが、「かへる」といふがふまへ所となるので、長らく他郷に在つて、早く故郷にかへりたいと思ふ我が心に相應して、風がかへる/\(かへらひ)吹くものであるからといふのである。風のかへる(かへらふ)といふは繰りかへし/\吹く事で、故郷へ吹きかへる意ではないが、歸還の意の「かへる」と同聲であるから、兩意に通はして掛言葉の如く用ひたのである。卷十に「子らが名にかけのよろしき朝妻の片山ぎしに霞たなびく」(一八一八)といふ歌がある。初二句は序詞で、その「かけのよろしき」は朝妻山の「妻」といふ語がふまへ所なので、「我が妻にとかねて思ふ子らが名にかけてよばんも、さもふさはしき朝妻山云々」といふのであるが、こゝは「かへる」といふ語がふまへ所なのである。玉の小琴に「よろしきと言はずして久〔右○〕といへるに心をつくべし」と注意してゐるにも拘らず、今なほ思ひまどうて「遠神吾大王」にかけて見る人のあるのは遺憾である。
○遠神《トホツカミ》――天皇を神として崇めいふ語で、神としての境界は世の常の人とは遠く隔つてゐる心ばへである.
○行幸能《イデマシノ》――舊訓は「みゆきの」と訓んでゐるが、考が「いでましの」と改めたのがよい。天智紀にも「伊提麻志之〔五字傍点〕くいはあらにぞ」とある。
○山越風乃《ヤマコスカゼノ》――舊訓を初め諸註大方「山ごしのかぜの」と訓んでゐるのは反歌の訓に準じたのであらうが「行幸《イデマシ》の山|越《ゴシ》」といふ事は語を成さぬ。いでましの山を吹き越す義であるから、燈の訓に從つて「山こすかぜの」と訓むべきである。但、燈に.この山越す風にこれまでの慎みを破らすべきが恨めしき云々」といつてるのは理窟であ(85)る。たゞ風の寒さに望郷の念を起しただけである。
○獨座《ヒトリヲル》――妻と與に在らぬ心である。
○朝夕爾《アサヨヒニ》――舊訓も代匠記も「あさゆふに」と訓んでゐるが、集中の假名書には「阿佐欲比爾」「安沙余比爾」など十七、十八の卷に數ケ所見え、「あさゆふ」と訓むべき所は見當らぬ。よつてこゝも「あさよひに」と訓む事にした。古言の格であつたのであらう。又「朝夕」「朝暮」など漢字で書いた所は三、四、十、十三、十七、十八等の卷々に六七ケ所見えてゐるが、それも此に準じて「あさよひ」と訓むがよからう。
○還比奴禮婆《カヘラヒヌレバ》――「かへらふ」は「かへる」を佐行四段に轉じて活用せしめたので、繰り返し/\吹く意である。(所謂延語で、延語といふ中に佐行に延ばしたのは敬語の趣となり、波行に延ばしたのは繼續性を帶びるらしい。)
○大夫登《マスラヲト》――舊訓以來すべて「ますらをと」と訓んでゐる。これは卷五「麻周羅遠〔四字傍点〕乃、遠刀古佐備周等」(八〇四)などゝ相照して、一般に認められてゐる訓だが、たゞ漢字の上では、考は何となく「丈夫」二字の訓として解いてゐる。略解、檜嬬手、燈等も之に倣ひ、字書類も多くさうなつてゐるが、萬葉の古寫本には大方「大〔右○〕夫」とある。(美夫君志は細かに調べて、大夫とある所、すべて四十二ケ所、丈夫とあるは四卷に三ケ所だけといつてゐる」字體酷似してゐるとはいへ、多數の例語悉く丈夫の誤とはし難いであらうから、やはり此のまゝで「ますらを」と訓むべきであらう。元來「ますらを」は「益荒男」で、強く猛き男の義であらうが、多くの用例を見ると、たゞ男といふだけの事で、必ずしも猛く強いといふ意はない。(紀には男の一字を「ますらを」と訓じた所すらある。)男といふものは、女々しかるまじきものであるから、強調するだけなので、字義に泥んではならない。で、昔は(86)士大夫.卿大夫などに擬らへて、あてたものと見てよからう。美夫君志は大夫は大丈夫の「丈」を略したもの、丈夫と書いた場合は「大」を略したものといつてゐるが、どうであらうか。これも少し泥んでゐるではあるまいか。
○草枕《クサマクラ》――旅の枕詞。
○思遣《オモヒヤル》、鶴寸乎白土《タヅキヲシラニ》――こゝの「思遣」は熟語動詞ではない。「思」は名詞で、「遣」は胸の思を放ち遣る意である。「たづき」は「手着」方法である。「しらに」の「に」は否定の助動詞「ぬ」の變化であらう。「知らず」といふ事であるが、此語常に「知らずに」といふほどの語勢に用ひられてゐるから「ずに」の連熟して出來たものではあるまいか。諸註に「しらぬので」と譯してゐるのが、その意である。
○網能浦之《アミノウラノ》――明かでない。「網」或本には「綱」とあるので「つぬのうら」と訓み、又「綾」(ノ)字の誤として「あやのうら」と訓む説もあるが、いづれも定かではない。
○燒鹽乃念曾《ヤクシホノオモヒゾ》所燒《ヤクル・モユル》――舊訓「やくしほの、おもひぞやくる」を、考は「おもひぞもゆる〔三字傍点〕」と改めた。然るに略解は又「やくる」と改めて「こゝはやく鹽のよりつゞけば、やくるといふべし」といつてゐる。爾來諸註大方之に據つてゐるが、ひとり攷證は本集卷十一「ふじの高嶺の燒乍渡」《モエツヽワタレ》(二六九七)、卷五「見つゝあれば心は母延農《モエヌ》」(八九七)などを引いて又「もゆる」説を主張してゐる。なるほど略解の説も尤であるが、こゝは「念」といひ、「下情」といふに對して、やはり「もゆる」といふがよいではあるまいか。燒く鹽のもゆるが如く念ひもゆるのである。燃ゆるが如くといふ句を省いて、直ちに、やくしほの念ひもゆると言ひつゞけ、その間の關係を密接ならしめるのは古文の一法で、者の改訓も捨てられないやうに思ふ。さて「おもひぞもゆる」は燈のいふが如く「おもひやく(87)る」【燈は「やくる」と訓んでゐる。】といふ熟語動詞の間に係辭の「ぞ」が入つたので「念」は主語ではない。
○吾下情《ワガシタゴコロ》――「わがしたごゝろ」と訓み、心の底、表べには見えぬ心裡の情である。舊訓「したごゝろ」を考は「しづごゝろ」と改めたけれど、これは從へない。
◎一篇の大意――霞うら/\と立ちこめて長き春の日のいつ暮れたといふ分別もつかず、故里思ふ心痛さに人知れず歎いてゐると、かへりたい/\と思ふ我が情に應じて、さもふさはしく風がかへるものであるから――風といへば、此の度我が大君が御出ましになつた御旅先の山を吹き越して來る風が、妻に別れて獨り旅路に來てゐる我が衣の袖にかへる/\(くりかへし/\)吹くものであるから、いとゞ故郷戀しく、ますらを以て任じてゐる我ではあるけれども、何といつても、まゝならぬ旅路の事であるから、心の思を放ち遣るべきすべなさに、我が心の底は、故郷戀しさの情に燃えこがれてゐる。それそこに見える網の浦の蜑をとめ等が日毎に出て燒く鹽のやうに。
大化の改新前後になつて我が國の歌は長足の進歩をしたけれど、人麿の出るまではまだ單純で複雜なものは少ないが、中に最も長いのは此歌である。此歌すべて二十九句、うら/\として暮れ難き春の日に遣る瀬なき情を寄せ、風の吹きかへるといふに矢の如き歸心を托し、蜑の鹽やくに燃ゆる思をたぐへるなど比較的複雜な材料を巧にこなして通篇よどみなく、その間に行幸の供奉といふ事と、ますらを心とをほのめかしたなど並々ならぬ手際といふべきである。
 
  反歌
 
(88)6 山越乃《ヤマゴシノ》 風乎時自身《カゼヲトキジミ》 寢夜不落《ヌルヨオチズ》 家在妹乎《イヘナルイモヲ》 懸而小竹櫃《カケテシヌビツ》
 
○風乎時自身《カゼヲトキジミ》――「時じみ」は「時じく、時じき」と活く形容詞の語幹に「み」といふ接尾辭の添はつたもので、前に述べた「心を痛み」と同じく「を」と「み」と相待つて用ひられる習慣的語法である。「時じく」は集中「非時」「不時」などあつて、時ならぬ意。「風を時じみ」は「風が時ならず吹くから」と、いふ意で、おのづから「たえず吹くから」の意ともなるのである。
○寢夜不落《ヌルヨオチズ》――「不落」は「おちず」と訓む。「落さず」「もらさず」などの意で「ぬる夜おちず」は一夜もかゝさす、夜な/\の意である。卷十五にも「吾妹子がいかに思へか、ぬば玉の比登欲毛於知受〔七字傍点〕夢にし見ゆる」(三六四七)といふ歌がある。
○家在妹《イヘナルイモヲ》――舊訓「いへあるいもを」は拙ない。元暦校本には「いへにあるいもを」とあるが、考がそれを約めて「いへなるいもを」と訓んだのがよい。「いも」は昔、男から女を親しんでいふ廣き稱へであるが(後には女どちの間でもいふ)、こゝに「家なるいも」とあるは妻の事であらう。
○懸而小竹櫃《カケテシヌビツ》――舊訓は「かけてしの〔右○〕びつ」と訓んでゐるが、「偲ぶ」といふ語は古くは「しぬ〔右○〕ぶ」と稱へ(卷二「志努布〔三字傍点〕らむ妹が門見む」(一三一)とある)、又借字の「小竹(篠)」も昔は「しぬ」といつたから、こゝも「かけてしぬびつ」と訓むがよからう。「かけて」は心にかける意であらうが、旅の歌であるから「故里遠くかけて」と見るもよからう。代匠記、考、略解等はその説を取つてゐる。さて「しぬぶ」は慕ふ意である。
(89)◎一首の意――山越の風が時ならず斷えず吹くので、この頃は毎夜々々故郷なる妻の事をかけて偲ばぬ時はない。
 
右檢2日本書紀1無v幸2於讃岐國1。亦軍王未v詳也。但山上憶良大夫類聚歌林曰、記曰天皇十一年己亥冬十二月己巳朔壬午幸2于伊豫温湯宮1云々。一書云是時宮前在2二樹木1、此之二樹|班鳩《イカルガ》此米《シメ》二鳥大集、時勅多掛2稻穗1養v之、乃作v歌云々。若疑從2此便1幸v之歟。
 
此の左注は何人の筆であるかは明かでないが、多くは原撰者の筆であらうと美夫君志が見てゐる。梨壺(ノ)五人を初め、次點者又は仙覺などの考勘も雜つてゐるかも知れねど紛らはしくて判別し難い。先哲多くは此の左注を等閑にしてゐるが、美夫君志はその然るべからぬ事を力説してゐる。但、歌の意義にはあまり關係はなく、多くは端書についての考勘である。こゝも讃岐行幸の事は書紀には見えてゐないが、伊豫の温湯(ノ)宮に行幸あらせられた事は彼此見えてゐるから、そのついでに讃岐へも御廻りになつたのであらうかとの考證である。
山上憶良に類聚歌林といふ著書があつて、平安朝の末頃までは傳はつてゐたらしく、袋册子、八雲御抄などには見えて見るが、今はつたはらない。さてこゝにあげた引用書に「記〔右○〕曰」とあるは「紀〔右○〕曰」の誤であらうと一般に言はれてゐるが、これは少し研究を要する。昔は「書記」ともいつたであらうとの説も、どうであらうか。もしこの「記曰」が書紀の事ならば、最初に「檢2日本書紀1無v幸2於讃岐國1」と書き出した筆法から(90)推せば.わざ/\類聚歌林を引くまでもなく、直ちに温湯宮行幸の紀の文を引いて然るべきではあるまいか。これが第一に訝かしい。一體憶良の歌林を著はしたのは、いつ頃の事か知る由はないが、年代から推すと編纂當時に書紀が既に世に行はれてゐたか否かは疑問だと思ふ。歌林の引用文に明かに「紀」と斷ぜねばならぬ所は一つもない。今こゝの引用文を舒明紀十一年の文に照して見ると「十二月己巳朔壬午幸2于伊豫温湯宮1」の十五字は全く同一だが、其上の「己亥冬」の三字は紀の本文ではない。十一年は己亥であるから念のため書き添へたものかも知れねど、わざ/\紀にない文句まで書き添へて引用せねばならぬ所でないではあるまいか。元來は年代と干支とを連ねる記事の事であるから、どの記録でも大體は似てゐるので、その頃他に憑據すべき記録があつて、憶良がそれに依つたものでないとも限らぬ。さすれば最初の一句は萬葉集の撰者が書紀によつて考證したもの、次の一文は紀がまだ世に出でざる前(?)歌林に引用された古記録を擧げたものと見るべきものかも知れぬ。次の一文(一書曰 云々)は代匠記の推測によれば更に伊豫風土記を引いて温湯宮行幸の證としたもの、最後の一文(若疑 云々)は左注を書いた人の案文で、温湯宮行幸の證に歌林と一書とを擧げ、之に據つて推測の斷案を下したものである。
 
明日香川原《アスカガハラ》宮御宇天皇代 天豐財重日足姫《アメトヨタカライカシヒタラシヒメノ》天皇
 
次下に「後崗本宮御宇天皇代」とあるのが、齊明天皇を申すのであるから、こゝはその重祚前の皇極天皇の御代をいふのであらうと思はれるが、紀には皇極天皇の川原宮におはした事が見えないで(古義は脱漏としてゐ(91)る。)反つて齊明天皇の一時おはした事が見えてゐるので、考は齊明天皇の川原(ノ)宮時代の歌をかく標出したものと説いてゐる。(治處を主にしたので、同じ天皇の御代でも前後宮居が異なれば、それ/”\別々に標出したものと見たのである。)しかし川原(ノ)宮におはしたのは僅か一年ばかりで、やがては崗本宮に遷られたのであるから、特別に時代を標榜するほどの事とも思はれないし、此歌の製作年代が、さほど細かに判つてゐるといふも訝かしい事であるが、たゞ此歌の作者額田王と天智天皇御兄弟との關係や、十市皇女の御年輩などを考へ合せると、皇極天皇の御代としては、美夫君志のいふ如く、少し年代が隔たり過ぎるやうにも思はれるから、一考すべき問題であらう。
しかし齊明天皇の御代の御歌として、下に額田王の熟由津の歌、莫囂圓隣の歌、中皇命徃2于紀温泉1時歌、中大兄三山歌などが載つてゐるが、熟田津の歌の後、間もなく天皇は御旅先で崩御あらせられるから、同天皇の御代の歌としては恐くはそれが最後であらう。然るにそれが他の歌の前に掲げられてゐるのは聊か訝かしい。年代干支の明かでないのは後にまはしたかも知れねど、どの點から見ても、莫囂圓隣の歌や中皇命の御歌などは熟田津の歌の前に入るべきではないかと思ふ。かく歌の次序なども大樣で、十分しつくりしたとはいへない點から推すと、同じ齊明天皇の御代で川原宮時代と後崗本宮時代とを特に別々に標榜したといふ事は、うけられなくなる。
齊明天皇元年の紀に「此冬災2飛鳥板蓋宮1、故遷2居飛鳥川原宮1」とあるから、板蓋宮と川原宮とは別でなければならぬが、扶桑略記には「皇極天皇元年九月都2大和國飛鳥宮1、一云2川原板蓋〔五字傍点〕宮1」とあつて、この兩宮とも(92)近く飛鳥川原にあつたらしく、稱呼甚だ紛らはしい。靈異記上には「飛鳥川原板蓋宮〔七字傍点〕御宇天皇之代、癸卯年春三月云々」(癸卯は皇極天皇の二年にあたる)といふ記事も見えてゐるから、こゝに「明日香川原宮」とあるのもやはり板蓋宮の事で、つまりは皇極天皇の御代を標榜した意ではあるまいか。後の研究を待つ。(なほ代匠記には別に一種の推測説を掲げてゐる。)
 
額田王歌 未詳
 
額田王の事は明かではないが、後々の歌に關係があるから、古義、美夫君志等に據つて大樣を記しておかう。それによると、天武紀に「鏡王(ノ)女、額田姫王」とあるが此人で、藤原鎌足の室、鏡女王の妹である。(考には紀によつて「額田姫王」としてあるが、本居易の説【玉勝間】によると、古は男王も女王もたゞ某(ノ)王とのみいつたので、萬葉集のころから區別するやうにはなつたが、これは古記に據つたのであらう。鏡女王だけは父王と紛れるゆゑ、初から特に女王としるしたのであらうといつてゐる。) さて此王は初め大海人皇子に召されて(窃かに召されたのであらう)十市皇女を生まれたが、後、天智天皇に召されて妃となられたらしく、卷四に「思2近江天皇1歌(四八八)といふがあり、崩御後「從2山科御陵1退散之時作歌」(一五五)といふもある。しかも此下にある「遊2獵蒲生野1時作歌」(二〇)を見ると、大海人皇子との問も無異ではなかつたらしく見えるので、後の註釋家は壬申(ノ)亂の一原因としてこの女王に注目する。それは輕々しく斷ずべきではないが、遺憾な點がないとはいへぬ。歌には頗る堪能であつたらしく、優秀な佳什を多く殘してゐるし、紀温泉を初め、宇治、筑紫等の行幸にも常に供奉した所を見ると、齊明天皇の御眷顧も厚かつたらしく思はれる。なほ(93)後にいはう。
 
7 金野乃《アキノヌノ》 美草苅葺《ミクサカリフキ》 屋杼禮里之《ヤドレリシ》 兎道乃宮子能《ウヂノミヤコノ》 借五百磯所思《カリイホシオモホユ》
 
○金野《アキノヌ》――秋の野の意、五行説を四時に配して、金を秋にあてたので、秋風を金風、秋山を金山とかく類である。
○美草苅茸《ミクサカリフキ》――舊訓は「みくさかりふき」であるが、元暦校本は「をばなかりふき」と訓んでゐる。事實尾花かも知れねど、貞觀儀式大嘗祭の條文に「黒酒十缶云々以2美草1飾v之」とあり、延喜式にも同樣の文が見えて、美草は一種の草の名の如くにも聞えるから、姑く舊訓のまゝ「みくさ」と訓んでおく。「かりふき」は苅り取つて屋根を葺くので假屋の體である。
○屋杼禮里之《ヤドレリシ》――「やどれり」は「やどりてあり」の意で」やどり」と「あり」と熟合して出來た語であるが、文法家は便宜上、現在完了の助動詞として説いてゐる(良行變格の如く活用し、四段活用動詞の已然形につく)、「し」は過去の助動詞。
○兎道の宮子《ウヂノミヤコ》――兎道は山城の宇治、「みやこ」は宮處《ミヤコ》の義で、「都」の事、假りの宿りでも天皇のおはします處、則ち「みやこ」である。卷六に「荒野らに里はあれども、大王のしきます時は京師《ミヤコ》となりぬ」(九二九)といふ歌もある。此頃近江への行幸がしば/\あつたらしく見えるから、さる折の御中宿りであつたのでもあらう。
○借五百磯〔左○〕所念《カリイホシオモホユ》――「借五百」は借字で假廬の事、「磯」も磯城などの「磯」を借りたので、こゝは物を強く指定する意の助詞である。「磯」今本「※[王+幾]」とあるのは誤であらう。元暦校本等によつて改めた。さて舊訓「かりほしぞお(94)もふ」と訓んだのは、その頃人麿の名歌として誤まり傳へられた古今集の「ほの/”\と」の歌に擬らへて訓んだらしいので、無理もない事であるが、實は萬葉の調子とはいへない。「所念」の二字、萬葉に例が多いので、考は彼此參照し、假名書の例(卷五、「瓜はめば兒ども意母保由〔四字右○〕」(八〇二)の類)をも照し合せて「おもほゆ」と訓んだのは、然るべき改訓といふべきである。「おもほゆ」は「おもはる」で(「る」と「ゆ」とは音通で「しぬばる」を「しぬばゆ」ともいふ)、おのづから思ひ出でられる意である。
◎一首の意――いつぞや行幸の御供して、あの宇治の野中に草葺の假屋を営んで一夜やどつた事があつたが、處がらといひ、假屋の樣子といひ、今なほ身にしみて忘れがたく思はれるよ。
日頃大厦高樓に起臥する人が、たまに味うた簡素な住居の長く思ひ出の種となる事、昔も今も變りのない事であらう。
 
右檢2山上憶良大夫類聚歌林1曰、一書曰〔左○〕、戊申年幸ニ2比良宮1大御歌。但紀曰、五年春正月己卯朔辛巳天皇至v自2紀温湯1、三月戊寅朔天皇幸2吉野宮1而肆宴焉、庚辰日〔左○〕天皇幸2近江之平浦1。
 
「一書」の下の「曰」の字、流布本にはないが、恐らくは脱ちたものであらう。一本によつて補つた。又庚辰日の「日」(ノ)字は恐くは衍文であらう。
○戊申年は孝徳天皇の大化四年に當るから、歌林に引いた一書では、孝徳天皇が比良宮行幸の御中宿りに宇治(95)で詠ませられたものと言ひ傳へられたのであらう。次の紀曰云々の文は齊明紀五年の記事で、これは平浦行幸の史實を、參考のため紀に求めたたけであらう。此時の行幸は春三月であるのに 歌は秋野を詠んでゐるから此折の事ではあるまい。
 
後崗本宮御宇天皇代 天豐財重日足姫《アメトヨタカライカシヒタラシヒメノ》天皇、位後即位後崗本宮
 
齊明天皇の御事である。「位後即位」は要領を得ないが、美夫君志は卷二、同天皇條下の古寫本を參照して、「位」の上「讓」(ノ)字が脱ちたのであらうと言つてゐるゞ
 
額田王歌
 
8 ※[就/火]田津爾《ニギタヅニ》 船乘世武登《フナノリセムト》 月待者《ツキマテバ》 潮毛可奈比沼《シホモカナヒヌ》 今者許藝乞菜《イマハコギイデナ》
 
○※[就/火]田津《ニギタヅニ》爾云々――齊明紀七年に「御船泊2于伊豫熟田津石湯行宮1云々、熟田津此云2※[人偏+爾]枳多豆〔四字傍点〕《・ニギタヅ》1」とあるによつて「にぎたづ」と訓むべき事が知られる。(「※[就/火]」は熟の俗字だといぶ事である。)「にぎたづ」は今の三津ヶ濱の事と言はれてゐるが、このあたり古今地勢の變遷もあつたらしいけれど、要するに當時の要港で、道後温泉への上陸地點であつたのであらう、(なほ此の「にぎたづ」といふ事については卷二、人麿が從2石見國1別v妻上來時の歌(一三一)でのべよう。)「爾」は「にて」の意で、熟田津で乘船する事、熟田津へ向けて漕ぎ出るのではない。「へ」といはず「に」といへるに注意を要する。然るに檜嬬手は備前の大伯から熟田津へ向けて船出したまふ時(96)の作であらうといつてゐるのは誤である。
○溯毛可奈比沼《シホモカナヒヌ》――「かなふ」は相應した意で、月も出たが潮もころあひとなつたといふのである。「も」(ノ)字よく活いてゐる。
○許藝乞菜《ゴギイデナ》――舊訓は「こぎこな」、玉の小琴は田中道麿の説とて、「乞」を「弖」の誤とし、「こぎてな」と訓んだが、燈が「乞」を「いで」と訓んだのがよい。それは允恭紀に「壓乞戸母《イデトジ》云々」注に「壓乞此云2異提《イデ》1」とあるを證とすべく、集中にも「乞吾君《イデアガキミ》」(六六〇)「乞如何《イデイカニ》」(二八八九)等感動詞としてよく用ひられてゐるが、こゝは「出《イデ》」の意に借り用ひたのである。「な」は「家|吉閑《キカナ》」の「な」に同じく、漕ぎ出でむと希ふ意の助詞である。
◎一首の意―― 熟田津から船出しようと思うて月の出るのを待つてゐると、やがて月が出たが、同時に潮もほどよくなつた。さア今は漕ぎ出でようではないか。
汐の滿干は月に關係があるから「月待者」といふのは、一面潮の滿つるのを待つてゐたのかも知れぬ。紀によると、石湯行宮に着かれたのは十四日であるから、御船出は十六七日頃であつたかも知れぬ。――−此時天皇は百濟復興の援軍を督し給はんとて、筑紫に出でます途次、この湯宮に立ち寄らせられたのであるが、こゝを發して筑紫に向はせられんとする折、供奉の額田王が此の歌を詠んだのである。「月まてば潮もかなひぬ」といふあたり、調もまたかなうて、漫々たる海上、月潮に湧く光景眼に見るが如き佳什といふべきである。
 
右檢2山上憶良大夫類聚歌林1曰、飛鳥岡本宮御宇天皇元年己丑九年丁酉十二月己巳(97)朔、壬午天皇大后幸2于豫湯宮1。後崗本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔壬寅御船西〔左○〕征始就2于海路1。庚戌御船泊2于伊豫熟田津石湯行宮1。天皇御2覽昔日猶存之物1、當時忽起2感愛之情1、所d以因製2歌詠1爲c之哀傷u也。即此歌者天皇御製焉。但額田王歌者別有2四首1。
 
 「幸2于伊豫湯宮1」までは舒明天皇の時の行幸をいつたもの(その中「元年己丑」の四字は同天皇の即位元年の干支を示しただけで、今ならば括弧の中に入るべきもの)、「九年丁酉」はおぼつかない。舒明天皇の九年は丁酉には相違ないが、その十二月朔は辛亥で、こゝとは合はない。此時の行幸は紀によると、十一年十二月壬午の事で、それは歌林に引いた一書とも合致するし、九年の行幸は物に見えてゐないから、九年は恐くは十一年の誤であらう。「後岡本宮馭宇」から「泊2于伊豫熟田津石湯行宮1」までは、全く書紀の記事と一致する。「天皇御覽云々爲2之哀傷1也」といふは、昔舒明天皇と御同列でいらせられた時、見そなはした物がなほ存してゐるので、昔を偲んで歌を詠ませられたといふので、遙か後の赤人が「臣木毛《オミノキモ》、生繼爾家里《オヒツギニケリ》、鳴鳥|之《ノ》、音毛不吏《コエモカハラズ》」(三二二)と詠じた以上の物が殘つてゐたであらう。こゝまでは歌林の文である、以下が左注を書いた人の案文で、この類聚歌林の記事によつて熟由津の歌を齊明天皇の御製としたのであるが、歌には感傷の意ありとも思はれぬのが怪かしい。燈、美夫君志等は強ひて説明を試みてゐるけれど、あてにはならない。何か誤があるであらう。「別有2四首1」といふは此歌萬葉集には額田王の作となつてゐるに就ての言で、「これ(98)は齊明天皇の御製で額田王の作ではないが、額田王のは別に四首ある」といふのである。それは歌林か何かに載つてゐたであらうが、今傳はらないから考ふべきよしがない。
この左注「西征」の「西」を「而」(ノ)字に誤つてゐる。元暦校本等によつて改めた。
 
幸2于紀温泉1之時額田王作歌
 
紀(ノ)温泉は古の牟婁の湯で、今の湯崎温泉(鉛《カナ》山温泉ともいふ)の事である。齊明天皇四年十月に行幸あらせられた事が紀に見えてゐる。今も丘上にその行宮址と稱する所がある。この歌は年代順からいへば熟田津の歌の前にあるべきものと思ふ。
 
9 莫囂圓隣之 大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立爲兼 五可新何本
 
これは所謂仙覺新點百五十二首中の第一で、古來萬葉集中第一の難解の歌とせられ、代々の學者、思ひ/\に訓み試みたけれど、げにと思はれるものもない。訓み試みた先哲も.古學者の常として、捨ておくのが遺憾であるから.強ひて説を成しただけの事で、恐くは自から得たりとするのではあるまいと思ふ。こゝにはその重なる訓五六種を列記しておくから、委しく其説を知らうと思ふ人は、それ/”\その書について見られるがよい。
 ゆふづきの、あふぎてとひし、わがせこが、いたゝせるがね、いつかあはなむ。 仙覺律師(仙覺抄)
 ゆふづきし、おほひなせそくも、わがせこが、いたゝせりけむ、いつかしがもと。 契沖阿閣梨(代匠記)
(99) きのくにの、やまこえてゆけ、わがせこが、いたゝせりけむ、いつかしがもと。 賀茂眞淵(萬葉考)
 かまやまの、しもきえてゆけ、わがせこが、いたゝすがね、いつかしがもと。 本居宣長(玉勝間卷七)
 かぐやまの、くにみさやけみ、わがせこが、いたゝすがね、いつかあはなも。 荒木田久老(信濃漫録)
 まつちやま、みつゝあかにと、わがせこが、いたゝしまさば、わはこゝになも。 橘守部(萬葉集檜嬬手)
 みもろの、やまみつゝゆけ、わがせこが、いたゝしけむ、いつかしがもと。 鹿持雅澄(萬葉集古壷)
右の中、仙覺の説は、その著仙覺抄(萬葉集註釋)には委しく出てゐない。別に新釋樣のものがあつたらしく、仙覺抄の中に「くはしき旨を知らんと思はん人は可v有v披2見彼釋1也」といつてゐる。たゞし近年發見せられたといふ仙覺奏覽状といふものが疑ないものなら、その附屬文書の文面で大意を知る事が出來よう。それによると、初句の解説が代匠記に似てゐるが、暗合であらうか。又契沖、眞淵、宣長、久老四家の説は美夫君志にまとめて、大要を掲げてゐる。
 
中皇命徃2于紀伊温泉1之時御歌
 
中皇命、上に出づ。假りに衆説に從つて間人皇后の事とすれば、齊明天皇の御代には孝徳天皇既に崩れまして皇太后の資格である。さる御方まで歌にいふが如く假庵を結んで野宿せられたであらうか、疑なきを得ない。且つ又こゝに中皇命といふ名で歌を掲げたのも不審といふべきである。喜田貞吉氏の「中天皇考」の説に從つて、齊明天皇の事とすれば、猶更である。元暦校本、金澤本、西本願寺本其他の古寫本には紀伊の「伊」がない。ないのが和銅以前の状態であるから、こゝは無い方がよいではあるまいか。
 
(100)10 君之齒母《キミガヨモ》 吾代毛所知哉《ワガヨモシラム》 磐代乃《イハシロノ》 岡之草根乎《ヲカノクサネヲ》 去來結手名《イザムスビテナ》
 
○君之齒母《キミガヨモ》、吾代毛所知哉《ワガヨモシヲム》――「齒」も「代」も共に「よ」と訓む。齒は齡の義で「いのち」の事である。「所知哉」を舊訓は「しれや」と訓んでゐるが、宣長翁は「哉」を「武」の誤として「しらむ」と訓まれた(略解に出づ)。美夫君志これを修正して「知らむ」と訓むはよけれど「武」をかける本は一つもない。その上、卷一「安禮衝哉」(五三)卷四「雖見不能飽有哉《アカザラム》」(四九九)卷十「雲隱良哉」(二一三八)同卷「鳴渡良哉」(一九四八)など集中數多き例を悉く「武」の誤とせんもいかゞである。元來「哉」は疑辭であるから、このまゝで「しらむ」と訓むがよいといはれたのが穩當であらう。さてこゝの「しらむ」は連體形で下につゞくのである。
○磐代乃岡之草根乎《イハシロノヲカノクサネヲ》――磐代は紀伊國日高郡の地名、草根の「ね」は岩根〔右○〕などゝ同じく添へていふ語で、たゞ草の事である。「草根」を舊訓も元暦校本も「くさね」と訓んでゐるが、中には「かやね」と訓む説もある(檜嬬手等)。けれど「かや」と訓むは屋根葺く料としての時なので、こゝは下に結ぶともあつて、普通の草としていふのであるから、舊訓のまゝでよからう。新古今集式子内親王の歌「行末は今幾よとか岩代の岡のかやね〔三字傍点〕に枕結ばむ」は此の歌から出た事はいふまでもないが、他方では「かやね」と訓む説も早くあつたものと見える。
○去來結手名《イザムスビテナ》――「去來」は「いざ」と訓む。神代紀の注にも「去來此云2伊弉《イザ》1」と見えてゐる。誘ふ義の感動詞である。「な」は上の「家|吉閑《キカナ》」「こぎいでな」の「な」に同じく、動詞助動詞の未然形につきて希望の意をあらはす助詞である。昔は木の枝や草などを結んで、行末を祝ひ後を契るといふ習慣があつたのである。松は常磐で變ら(101)ぬものであるから、殊によく結ばれたらしい。(卷二に有間皇子の有名な結松の歌(一四一)がある。)こゝは草を結んだのであるが處の名の磐といふに因んだものであらう。
◎一首の意――磐はとこしへに變らぬものであるから、我々の行末も知つてゐる事であらうが、その名に負へる此の磐代の岡の草を結んで、後々を契つて行かうではありませんか。
 
11 吾勢子波《ワガセコハ》 借廬作良須《カリホツクラス》 草無者《カヤナクバ》 小松下乃《コマツガシタノ》 草《クサ・カヤ》乎苅核《ヲカラサネ》
 
○吾勢子波《ワガセコハ》――こゝに勢子といふは前の歌に君といつたと同じ人をいふのであらうが、誰ともわからない。一般には女から男を親んで「せ」といふが、こゝは夫の君.又は御兄弟の事かも知れぬ。要するに御同行の保護者であらう。
○作良須《ツクラス》――「つくる」の敬語法。
○小松下乃《コマツガシタノ》――「こ」は美稱、小さい意ではない。下草があまた生へてゐる樣子であるから、相應に大きい松であつたらう。此句、元暦校本は「こまつのもとの」と訓み、古義、攷證之によつて更に「こまつがもとの」と訓んでゐるが.これは舊訓「したの」の方がよからう。森のした草などいふは常の事である。
○草無者《カヤナクバ》云々|草乎苅核《クサヲカラサネ》――二つの「草」の字、舊訓は共に「かや」と訓んでゐるが、上の草は屋根葺く料をいひ、下の草は廣くいふのであるから、本居翁の説(古事記傳)に從つて、上をば「かや」、下をば「くさ」と訓んでおく。但、強ひていはゞ、下の草も「屋根葺の料とすべき草」の意に見られぬ事もないから、舊訓のまゝでもわる(102)くはあるまい。「からさね」は「かる」の敬語法「からす」の未然形に「ね」の添はつたもの、「ね」は希望の助詞で、同じく未然形を承ける古格の助詞である事は、上の「名のらさね」(一)の所で述べた。舊訓「かりさね」は語を成さない。
◎一首の意――わがせの君が旅の假庵を營んでいらせられるが、もし葺くべき萱が不足なら、あれあそこの松の根もとにどつさり〔四字傍線〕草が見えるから、あれを御苅りなさい。
せこが假屋を營む間、そここゝ探しまはつて適當な松の下草を見つけられたのであらう。
 
12 吾欲之《ワガホリシ》 野島波《ヌジマハ》見世追《ミシヲ・ミセツ》 底深伎《ソコフカキ》 阿胡根浦乃《アコネノウラノ》 珠曾《タマゾ》不拾《ヒリハヌ・ヒロハヌ》
 或頭云 吾欲《ワガホリシ》 子島羽見遠《コジマハミシヲ》
 
此歌本文の第二句「見せ追」とあるのはいかにも怪かしい。端書によれば三首とも中皇命の歌であるべきだが、この一首だけは、さうは取りにくい。同行のせの君などの歌らしく聞えるが、それにしても結句との打合ひがしつくりせぬ。強ひて説を成して「見たいと思ふ野島をば見せてくれた〔六字傍点〕」と説く人もあるが(攷證)、穩やかな解説とも思はれない。さう見ても結句との打合ひはやはりふつゝかで、歌としては拙ないと言はねばならぬ。よつてこゝは萬葉考、美夫君志などの如く「見遠」とある或本の方を取りたいと思ふ。攷證は之を難じて「いかにしても心得がたき所をば、意を以て改むるも學者の常なれど、本のまゝにて心得らるゝだけは、そのまゝにありたき(103)わざなるを云々」といつてゐるが、こは意を以て改めるのではない。元暦校本の昔からある異本で、たゞその時の底本とは異なつてゐるだけである。どちらが正しいかといふ事は未決の問題である。今底本のまゝではしつくり解けないから、それはそれとしておいて、或本によつて説を立てるに何の不都合があらうか。それでこそ參考たる効があるのである。攷證が本文に忠実なるは多とすべきだが、あまりに本文に拘泥して、しつくりせぬ強説を主張する嫌あるのも考へものである。要するに歌の解としては、しつくりした説が望ましいので、もし本文のまゝでよき説が出て來たなら其時取消すまでゞある、且つ本文の「世追」は、「世」は漢の次音「し」で(※[魚+良]即ち鮪の事を新撰宇鏡に「世比」とあり、觀世音も「くわんし〔右○〕いん」と唱へる宗旨もある)、「追」と「遠」とは草體極めてよく似通うてゐるから、或は「追」は「遠」の誤で、本文も本は「見世遠《ミシヲ》」であつたかも知れぬと美夫君志はいつてゐる。これも亦研究すべき問題であらう。かた/”\よき解説の出で來ぬ限り、姑く或本に從つておきたいと思ふ。但し舊訓は二の句を「子」(ノ)字にて切つて「吾|欲子《ホリシ》、島羽見遠《シマハミツルヲ》」と訓んだのは拙ない。代匠記初稿本に從つて「吾がほりし、子島《コジマ》は見しを」と訓むべきである。(又「或」(ノ)字の下に「本」字が脱ちたのであらうと言はれてゐる。)
○野島《ヌジマ》云々――本居翁の玉勝間に「日高郡鹽屋浦(日高川の末)に野島(ノ)里あり。その海邊をあこねの浦といふ。貝の多く寄り集まる所なり」と見えてゐる(檜嬬手に引いた熊野順路記といふものにも同樣の記事がある)。又「子島」は和歌山の北三里ばかりにあつて、往來の船の泊る處なる由が古義に見えてゐる。
○底深伎《ソコフカキ》――略解は「そこきよき」と訓んであるが、「深」の字を「きよき」と訓むべき理由はない。これはやはり(104)底が深くて海底の貝、石などをあさる事が出來ないのであらう。
○珠曾不拾《タマゾヒリハヌ》――珠は貝や石などの美はしいのを廣く稱へたのであらう。「ひろはぬ」を古義が「ひりはぬ」と訓んだのもよい。「拾」(ノ)字、流布本には「捨」とあるが、元暦校本、金澤本を初め、諸他の古寫本によつて改めた。
◎一首の意――かねて見たいと思うてゐた野島(子島)をば見る事が出來てうれしいが、まだあのあこねの浦の玉拾ひをせぬのが心殘りぢや。(何分底が深く、おり立ちてあさりにくいものだから。)
 
右檢2山上憶良大夫類聚歌林1曰、天皇御製歌云々
 
この左注は三首すべてに亙る意か、最後の一首だけか不明であるが、前二首は天皇の御製とも思はれぬ趣であるから多分最後の一首だけをいふのであらう。
 
中大兄近江宮御宇天皇三山歌一首
 
中大兄は天智天皇が皇子でおはしました時の御名、こゝに皇子とも命ともない事につき、古義は古人大兄などの例を引いて、大兄といふが、皇子といふほどの尊稱だといつてゐる。姓の宿禰は少兄〔二字傍点〕の約、直は直兄〔二字傍点〕の約だといふから、げに「兄《エ》」といふが尊稱であつたかも知れぬ。
○三山は歌によまれてゐる如く香具山、畝火山及耳梨山をいふので、大和平原の南部に鼎の足の如く峙つてしるく見える。三山の距離各的一里、高さは五百尺乃至六百餘尺その中間には埴安の大池もあり、附近は上代の帝都であつたので殊に名高い。然るに此の三山に就いて一種の傳説がある。それは香具山と耳梨山とは男(105)山で、畝火は女山なので、二つの男山が、一つの女山を爭うて戰をしたといふのであるが、此の御歌は其事に關して詠まれてゐる。こは播磨風土記が本らしく、次の如く出てゐる。
 出雲國阿菩大神聞2大倭國畝火香山耳梨三山相闘1。此欲2諫止1、上來之時、到2於此處1乃聞2闘止1、覆2其所v乘之船1而坐v之。故號2神阜1、阜形似v覆。
長歌は三山争闘の事だけであるが、反歌には阿菩大神仲裁の事まで詠みこんでゐる。又風土記の文に「此處」とあるのは、反歌の伊奈美國原、即ち大神の鎭まりました處をいふのである。
 此の風土記の本文は仙覺の抄にも引かれてゐるが、傳寫に誤を重ねたのを、代々の學者そのまゝ蹈襲し來つて殆ど意義を成さなくなつた。殊に末段の一句を「神集之覆形」に誤り、代匠記は「カミツドヒノカタオホヒ」と訓み、考は「カヅメノフセガタ」、考以後は一般に「カムヅメノフセガタ」と訓んで、遂に「神集《カムヅメ》」といふ地名さへ稱へられるに至つたが、近年に至り、原文に照合して初めて本に復す事が出來た。
 
13 高山波《カグヤマハ》 雲根火雄男志等《ウネビヲヲシト》 耳梨與《ミヽナシト》 相諍競伎《アヒアラソヒキ》 神代從《カミヨヨリ》 如此爾有良之《カクナルラシ》 古昔母《イニシヘモ》 然爾有許曾《シカナレコソ》 虚蝉毛《ウツセミモ》 嬬乎《ツマヲ》 相格良思吉《アラソフラシキ》
 
○高山波《カグヤマハ》――古訓「たか山」とあるを仙覺は「かぐやま」と改めた。「かぐやま」でなければならぬ事はいふまでもないが、「高」(ノ)字を「かぐ」と訓ずる事、韻學に暗き身には聊か訝かしく思はれる。(「高」は六豪の韻で、香・相(106)などと同轉の文字ではないので「ぐ」(ng)といふ尾音あるべくは思はれぬから)。けれど代匠記、考等の説も承けられない上、「高麗」を「かくり」と訓むもいはれある事なるべく思はれるから、姑く美夫君志の説を尊重して、それに從つておく。
○雲根火雄男志等《ウネビヲヲシト》――上の「を」(雄)は名詞格の弖爾乎波。「をし」は愛惜の義で俗に「いとしい」といふ事、「と」は「とて」の意である。香具山は畝火の女山をいとしいと思うて、相手の耳梨山と爭うたといふのである。從來は香具山を女山、畝火と耳梨とを男山とし、「雄男志」とつゞけて「男々しき畝火山」の意に解し、隨つて初句を「香具山を〔右○〕ば」の義と見て、香具山の女山をば、をゝしき畝火山と耳梨山とが爭うた意に見てゐたが、それでは語法ふつゝかで。よく通らないので。之を改めたのは木下幸文(亮々《サヤ/\》草紙に出づ)と、土佐の學者、大神眞潮(古義所載)と檜嬬手とで、暗合か否かは知らねど、とにかく卓説といふべきである。但。山の形からいへば、三山の中、畝火最も雄拔で。耳梨山が最も女性的であるから、この傳説もなほ考究の餘地があるかも知れない。(又古義は眞潮の説を一歩進めて、「男」を「曳」の誤とし「畝火を曳志《エシ》」と訓んで「吉し」の義に説いたのは賛成しかねる。)
○如此爾有良之《カクナルラシ》――約めて「かくなるらし」と訓む。舊訓「かゝるにあらし」は拙ない。
○然爾有許曾《シカナレコソ》――これも約めて「しかなれこそ」と訓む。前の句の「かく」も。こゝの「しか」も、一人の女を二人の男して爭うたといふ事を指す。さて「しかなれこそ」は「しかなれば〔右○〕こそ」の意であるが、必ずしも「ば」を省いたのではない。古言の一格で、これだけで通じてゐたのである。下に「天地もよりてあれ〔右△〕こそ」(五〇)。卷三「語れ/\とのらせ〔右△〕こそ」(二三七)など例が多い。
(107)○虚蝉毛《ウツセミモ》――「うつし身」で、現實の此の身、人の世をいふ。音通で「うつせみ」とも「うつそみ」ともいふ。形容詞の語幹から名詞につゞいて、合名詞となる事は、「うまし國」「むなし煙」などの例に同じい。
○嬬乎《ツマヲ》――三音一句。
○相格良思吉《アラソフラシキ》――舊訓は「あひうつらしき」で、考も同訓であるが、玉の小琴が「あらそふらしき」と改め「嬬をあひうつと言つては理わり聞えがたし」といつてから、一般にそれに從ふ事となつた。(元來は管見の訓で代匠記も多少それにふれてゐるが、管見はあまり世に行はれなかつたらしいので、玉の小琴から世に廣まつたといつてもよからう。)「※[手偏+各]」(ノ)字、元暦校本には「格」とあるが、古寫本まち/\で、代匠記は殊に「※[手偏+各]」に執してゐるが、元來※[手偏+各]、格、通用の文字で、「※[手偏+各]」は字書に撃也、闘也とあるが。史記張儀傳には「驅2群羊1攻2猛虎1、不v格〔右○〕明矣」ともあるから、強ちに執せずともよからう。「らし」といふ助動詞、今は「らし」といふのみで、變化はなくなつたが、昔はらし、らしき。と活き、「こそ」の係を承けて、「らしき」と結んだ事は此歌で知られる。卷六「うべしこそ〔二字傍点〕見る人ごとに。語りつぎしぬびけらしき〔四字傍点〕。」(一〇六五)といふ例もある。
◎一篇の大意――昔、香具山は畝火の女山をいとしいと思うて、之を得んがために相手の耳梨山と爭うたといふ事である。して見れば神代の昔からさういふ事があつたものと見える。神代此の方の習はしであればこそ、今の世の中でも妻爭ひといふ事は免れぬらしいわい。
諸註にいふが如く、天智天皇が皇弟大海人皇子と額田女王を爭はれたらしい形跡があるので。此歌はそれをほのめかされたものとすれば、神代此の方の習はしといふ點で僅かに自から慰めたらしい御歌と申すべきである。山(108)と山とが爭をしたといふ傳説はよくあるが、中でも下野の黒髪山が上州の赤城山と中禅寺の湖を爭うて戰場ケ原で合戰をしたといふ傳説などが續いて名高い。
 
反歌
 
14 高山與《カグヤマト》 耳梨山與《ミヽナシヤマト》 相之時《アヒシトキ》 立見爾來之《タチテミニコシ》 伊奈美國波良《イナミクニハラ》
 
○相之時《アヒシトキ》――この「あひ」は男女會合する意ではない。「うちあひ」などの「あひ」で.相闘ふ事、神功紀の歌に「うま人はうま人どち云々いざ阿波奈〔三字傍点〕われは」とある「あはな」と同義である。(今の俗に「であひ」をするといふに同じい。)舊説では男女會合の義に見てゐるが、長歌の誤解も畢竟それがもとであらう。「あふ」を男女遇會の意にとるが大方の例であるから、香具山と耳梨山とがうち解けて相逢うたものと思ひこみ、さて「香具山を〔右○〕ば」「畝火男々し」などの説も出て來たのであらう。けれどこの歌をさう見ては、此等の語法が穩やかでないばかりではなく、阿菩大神の見に來られた意義も要領を得ぬ事とならう。
下句は此歌だけでは解釋が出來ない。初めから阿菩大神の傳説を頭において見ねばならぬ。「たちて」は出雲國を出で立つ意で、主語は省略された阿菩大神である。「見にこし」は樣子を見んが爲に來られた意で、わざ/\出雲から上つて來られるからには仲裁の爲である事は勿論であらう。それは風土記の本文でも推知される。さてその下に「爭が已んだと聞いて、やがてそこに鎭まりました」といふ句を補つて見ねばならぬ。語あまり省略に過ぎ(109)て、大方は傳説にもたれねばならぬので、あまり穩やかな言ひまはしとは言へない。
◎一首の意――昔、畝火山の女山を手に入れようとて香具山と耳梨山とが闘をした時、出雲の阿菩大神が本國を出立して仲裁に來られたが、途中で爭が終つたと聞いてそのまゝ鎭まりましたといふ印南野の原はこゝぞ。
此の傳説播磨風土記には揖保郡の條下に出てゐるが、歌には伊奈美國原とあるのが訝かしい。さる傳へもあつたのであらうか。當時印南といふ名が廣く稱へられて、東は加古郡に亙つたらしいから、西は揖保郡にも及んで、おほらかに稱へられたのであらうか、おぼつかない。さてこの三山の歌、長歌だけを見れば、大和で詠ませられた如くにも聞えるが、反歌から推せば、播磨に赴かせられた折、ふと阿菩大神の傳説を聞しめして、そこで詠ませられたものである事は明かである。いつの事かは知らねど、假りに額田女王との關係があつた後とすれば、歌がらから推して、その事を底におぼしての御詠と見ねばなるまい。恐くは三山爭闘の故事も、その時初めて聞しめし、遙かに故郷の空を懷うて我知らず感を洩されたのでもあらう。
 
15 渡津海乃《ワタツミノ》 豐旗雲爾《トヨハタグモニ》 伊理比沙之《イリヒサシ》 今夜乃月夜《コヨヒノツクヨ》 清明己曾《アキラケクコソ》
 
○渡津海乃《ワタツミノ》、豐旗雲爾《トヨハタグモニ》――「わたつみ」はもと海の神(海の主)の事であるが、後には轉じて、たゞ海の事をいふやうになつた。こゝもその意である。「豐旗雲」は旗の如く大きく靡く雲の事で(豐は美稱、大きな意)海邊ではよく見られるといふ。この雲に入日がさして赤く輝けば其夜は月が良いといはれてゐる。古本の旁注に、「古語海雲也、當2夕日1雲赤色也、似v幡也、入日能時者月光清也」とあり。八雲御抄にも同樣の事が見えてゐる。
(110)○今夜乃月夜《コヨヒノツクヨ》――月夜は「つくよ」と訓み、たゞ月の事である。舊訓は「つきよ」と訓んでゐるが.卷廿「ぬば玉の己與比能都久與〔三字傍点〕かすみたるらむ(四四八九)などに擬らへて「つくよ」と訓むべきである。他にも例は多い。
○清明己曾《アキラケクコソ――舊訓は「すみあかくこそ」と訓んでゐるが、げに文字の上からいへば、しか訓むが穩當かも知れねど、歌詞としては面白くない。考は書紀に「清明心」を「あきらけきこゝろ」と訓ぜられたに據つて、「あきらけくこそ」と訓んでゐるが、姑くそれに從つておく。「こそ」は係辭で、下に「あらめ」といふ語が省かれたものと見るのである。然るに燈がこの「己曾」を希望の意をあらはす辭としてから、古義、美夫君志等皆之に從つてゐるが、その説に、入日の現に輝くを見て.其夜の月の明かなるべきを知る意ならば、三(ノ)句「伊理比佐須〔右○〕」とあるべきである。「さし」といふ中止形では結句とうち合はないから、さうは見られないといふので、「入日さし」も「明らけくこそ」も、共に豫め願ふ意とするのである。文法上一應尤には聞えるが、願ひの「こそ」は動詞の連用形を承けるので(卷五「酒に于可倍許曾〔五字傍点〕」(八五二)、同卷「ちらず阿利許曾〔四字傍点〕おもふ子がため」(八四五)、卷廿「今は漕ぎぬと妹に都氣許曾〔四字傍点〕」(四三六三)、卷十「思ふ子が衣摺らむに爾保比|與《・コソ》〔四字傍点〕、島の榛原秋立たずとも」(一九六五)等例證は多い)、形容詞をも承けるといふ事はまだ聞かないから、燈の説はいかゞである。そこで古義は明〔右○〕を照〔右○〕の誤寫とし、「よくてりこそ」と訓んで、動詞の連用を承ける事にしてゐるが、それは文法上はともかくも、歌としては通篇はかなき豫望だけを並べる事になるので、構造も拙なく、感興も起らない。思ふに、こゝの「伊理比沙之」は「入日さして、いかにもうるはしい」といふほどの餘韻を含めて言ひさしたものではあるまいか。書册を離れて口づから謠ふ時代には、聲調の緩急抑揚でおのづからさう聞えるのであらう。「入日さす」と言ひ切つては餘韻は(111)あまり起らない。とにかく歌として味ふ上から姑く上説を取つておく。後のものながら夫木抄に「入日さす豐旗雲のけしきにて、こよひの月|を《はイ》空にし|るかな《りにきイ》」といふのがある。これも此歌が本である事は明かだが、平安時代の人も此歌をさう見たのである。
◎一首の意――あの海上の大きな旗雲に夕日が赤くかゞやいてゐる見事さよ。これで見ると、夕日ばかりか、こよひの月もさぞ見事であらうぞ。
海邊の夕映見るが如く壯快な歌ではないか。燈や、古魏の如く見ては、この景氣は出て來ない。
 
右二首歌今案不v似2反歌1也。但舊本以2此歌1載2於反歌1。故今直載v此歟〔左○〕。亦紀曰、天豐財重日足姫《アメトヨタカライカシヒタラシヒメ》天皇先四年乙巳立2(爲〔左◎〕)天皇1爲2皇太子1。
 
此の歌、左注にいふ如く、三山歌の反歌でない事は明かである。考や古義は同じ折、印南の海濱で詠ませられたのであらうといつてゐる。多分さうであらうが、又別に端書のあつたのが脱ちたのであらうといふ人もある。何れとも斷じがたい。「載v此歟」の「歟」(ノ)字、古寫本多く「次」とあるのがよからう。「先四年云々」は重祚前の御代をいふ、即ち皇極天皇の御代の事である。その四年は乙巳に當る。「立爲天皇」の「爲」(ノ)字、元暦校本を始め多くの古寫本に無いのがよからう、「立2天皇1爲2皇太子1」は一見奇異な文であるが、紀には「立2中大兄1爲2皇太子1」とあるのを、左注を書いた人の言として、かくいふのである。隨つて「紀曰」とあるけれども紀の文そのまゝではない。
 
(112)近江大津宮御宇天皇代 天命開別《アメミコトヒラカスワケノ》天皇
 
大津宮は天智天皇の皇都で、今の大津市の北方、唐崎に近い滋賀里にあつた。天命開別天皇はその御諱である。
 
天皇詔2内大臣藤原朝臣1、競2憐春山萬花之艶、秋山千葉之彩1時、額田王以v歌判v之歌
 
天皇は天智天皇、藤原朝臣は鎌足、朝臣は天武天皇十三年に賜はつたので、鎌足存生中は中臣(ノ)連であつたし、又藤原氏を賜はり内大臣に叙したのは薨去の際(前日)であるが、すべて後の稱呼を前にめぐらして書いたのである。事は春秋の優劣を批判させた意で、端書の文は詞を飾つただけである。
   
16 冬木成《フユゴモリ》 春去來者《ハルサリクレバ》 不喧有之《ナカザリシ》 鳥毛來鳴奴《トリモキナキヌ》 不開有之《サカザリシ》 花毛佐家禮杼《ハナモサケレド》 山乎茂《ヤマヲシゲミ》 入而毛不取《イリテモトラズ》 草深《クサフカミ》 執手母不見《トリテモミズ》 秋山乃《アキヤマノ》 木葉乎見而者《コノハヲミテハ》 黄葉乎婆《モミヂヲバ》 取而曾思奴布《トリテゾシヌブ》 青乎者《アヲキヲバ》 置而曾歎久《オキテゾナゲク》 曾許之恨之《ソコシウラメシ》 秋山吾者《アキヤマワレハ》
 
○冬木成《フユゴモリ》――「ふゆごもり」と訓み、春の枕詞。氣節の順序でかゝつたものと言はれてゐる。舊訓「ふゆこなり」は意を成さないが、僻案抄初めて「冬ごもり」と訓み、「成」を「戍」の誤としてゐる。卷十に「冬隱」と書いた所もあるから、訓はそれには相違なからうが、考は「成」を「盛」の誤としてゐる。(現に類聚古集には此歌「盛」(113)とある。)然るに美夫君志は釋名に「成(ハ)盛也」とあるを引いて、このまゝで「ふゆごもり」と訓むべしといつてゐるので、爾來其説が行はれてゐる。僻案抄、考等の説もおもしろいけれど、あまたの「成」(ノ)字をすべて「戍」又は「盛」の誤寫とせんもいかゞであるから、やはり美夫君志の説がいゝであらう。
○春去來者《ハルサリクレバ》――春になればといふほどの意であらうが、語の成立が明かでない。五言の「春されば」といふに、「來る」といふ語を添へて、七言にしたので、意は同じであるから、まづ「春されば」について考へて見たい。考は春にな〔二字傍点〕ればの「にな」の約「な」を「さ」に轉じたものといひ、古義は集中に「春之在者」とあるが正字で「春しあれば」の約まつたものといひ、守部の山彦册子には「去」(ノ)字を本義として「來る」ことを「去る」ともいつたもの、「春去り來れば」は同義の語をくりかへしたので、つまり「春くれば」といふ事になるといつてゐる。いづれも一應聞えた説ではあるが、しつくりしたとは言へない。考の反切による説は例によつて無理が多い。古義の説は根據あるらしくは聞えるが、「春しあれば」といふ語法が不自然で、「し」といふ助辭もしつくりしない。隨つて「春之在者」が正字であるか否かも疑はしい。守部の「去」と「來」とを同意義に用ひたといふ説もなぜ然用ひるかといふ事はまだよく徹底しないが、實際萬葉集には「春くれば」といふ句は一つも見えないし(「春くれば」といふべき所はすべて「春されば」といつてゐる。)古今集以後は反對に「春されば」とは殆どいはない。すべて「春くれば」であるから、時代によつて用方が變つたやうに思はれるので「さる」と「くる」とを同義に用ひたらしい事がほゞ推される。卷二には「暮去者《ユフサレバ》、召賜良之、明來者《アケクレバ》、問賜良志」(一五九)と對句にさへ用ひてゐる。その上、卷六には「打靡く春|去徃〔二字左○〕跡《サリユクト》、山のへに霞たなびき云々」(九四八)又「春|去行〔二字左○〕者《サリユカバ》、飛ぶ鳥の、早く(114)來まさね」(九七一)などあつて、「行く」といふ語も同意義に用ひてもゐる。これから考へると去る〔二字右○〕も來る〔二字右○〕も往く〔二字右○〕も廣くいへば時節の移り行く意であるから、時には互に流用したものではあるまいか。(萬葉では「去」字を、いぬ、ゆく、等訓ずるのは常の事であるし、漢文でも老去老來、暮去朝來など去と來とを同意蓑に用ひてゐる。)なほ試に言はゞ「去る」は過ぎ行く意ではあるが、「春されば」は春その物が過ぎ去るのではなく「時過ぎ徃きて春になる」意なので、さる曲折した氣分を約めて、春と來るとを直接に連ねたものではあるまいか。さすれば、これは一種の歌詞《ウタコトバ》ともいふべきもので、歌が專らであつた萬葉時代には、さる類の詞遣ひが徃々見えるやうに思ふ。卷六「※[女+感]嬬《ヲトメ》らが績麻かくとふ鹿脊の山、時の徃ければ〔六字傍点〕都となりぬ」(一〇五六)の「時のゆければ」など味うて見るべきである。時の推移の意は自《オノヅカ》ら知られるであらう。(此事は下の「人嬬故爾」(二一)の條を參照されたい。)
 山田博士ノ講義ニ「さるに進行移動の意ある動詞で、その主要たる意に去〔右○〕字を當てたもの」トアツテ、コハ徳田淨ト云フ人ノ「夕されば考」、國學院雜誌所載)ノ要旨ナル由ガ見エテヰルガ尊重スベキ説ト云フベキデフル。(追記)
○不鳴有之《ナカザリシ》――舊訓以來一般に「なかざりし」と訓んでゐる。「喧」(ノ)字を「なく」と訓む例は集中に多い。卷二「畝火乃山爾|喧《ナク》鳥之(二〇七)卷八「霍公鳥雖待|不來喧《キナカズ》」(一四九〇)など。
○花毛佐家禮杼《ハナモサケレド》――「さきあり」を約めて「さけり」といふ、その「り」が良行變格の如く活用する、その已然形から「ど」につゞいたもので、今の文法家はこの「り」を便宜上現在完了の助動詞と名づける。(上なる「七」の歌「やどれりし」參照」
○山手茂《ヤマヲシゲミ》――舊訓「やまをしげみ」と訓んでゐるのがよい。山が茂さにの意である。然るに考が「山をしみ」と訓(115)み改めてから、世上大方之に從つて來たが、「しみ」は繁き事をいふ古言ではあらうけれど、それは副詞であらう。こゝの「み」は形容詞の語幹に附く接尾辭(例の「を」と「み」と相待つて用ひられる語法で)あるから、それと一樣にはならない。考は「しみ」は「しげまり」の意で「まり」の約「み」であるといつてゐるから、初めから此の接尾辭とは見てゐないらしいので、根本的に誤つてゐる。
○入而毛不取《イリテモトラズ》――玉の小琴は三井高蔭の説とて「不取」を「不見」の誤とし、「入りても見ず、執りても見ず」と相對させてゐるが、「入りても取らず、執りても見ず」でも立派な對をなすのに、強ひて誤字とする必要はどこにあらうか。
○草深《クサフカミ》――「山乎茂」の對で、「くさふかみ」と訓む。これは「を」といふ助詞を伴はざる例である。此く「草深み」とも「草を〔右○〕深み」ともいふので、「を」の有無には關係がないのである。
○執手母不見《トリテモミズ》――舊訓は「とりてもみえず」と訓んでゐるが、「みえず」と訓むべき書式ではない。僻案抄は「たをりてもみず」と訓み改め、考、略解、檜嬬手等之に倣つてゐるが、「執」(ノ)字、わざ/\「た」を補つて訓まねばならぬ文字ではない。これは強ひて七言に訓まうとしたためであらうが、上代の歌でもあるから、このまゝ「とりてもみず」と六言に訓むべきで、燈の訓がよからう。
○黄葉乎婆《モミヂヲバ》――これも舊訓に黄葉を名詞として「もみぢをば」と訓んでゐるが、考が動詞として、「もみづをば」と訓み改めてから、大方之に從つてゐる。それは次の「青乎者」と對にせん爲であらうが、元來この語、動詞としては上二段の活用で、連體形は「もみづる」とならぬばならぬが、卷十四の東歌に「若かへるでの毛美都〔三字傍点〕まで」(116)(三四九四)とあるから、古くは四段に活用したものとして(總じて古言は多く四段に活用してゐるから)「もみづをば」と訓まれたのであらう。東歌は絶對の證據にはし難いけれど、又かうした場合の參考にせぬわけにも行かぬから、考の訓によつても強ちにわるいとも言はれまいけれど、名詞と見ても對を成さぬ事もないと思ふから(「色赤く染め出たのをば」の意)、これも姑く舊訓のまゝにしておく。なほ後段にいふ所を參照されたい。
○取而曾思奴布《トリテゾシヌブ》――しぬぶ」は賞玩する意である。
○置而曾歎久《オキテゾナゲク》――そのまゝにしておいて、早く色づけかしと歎いてをる意。
○曾許之恨之《ソコシウラメシ》――舊訓は「そこしうらみし」と訓んでゐるが、うらみしでは意が通じない。管見、代匠記、考等皆「うらめし」と訓んでゐるのがよい。「そこ」は「青乎者、置而曾歎久」を指したので「し」は強むる助詞、まだ色づかぬ木の葉をば、そのまゝにおいて歎いてゐねばならぬだけは遺憾だがといふのである。然るに玉の小琴は「恨」を「怜」の誤として「おもしろし」と訓み(檜嬬手之に從ふ)古義之によつて更に「たぬし」と訓んでから之に從ふものが多い。そは此歌專ら秋を賞美した意であるのに、恨めしといふはふさはぬといふ點もあらうが、多くの人の言ふ所を聞くに、對句法の不備、「そこ」といふ語の承け所に難を感ずるらしい。前に「黄葉乎婆」「青乎者」と對句で擧げてあるのに、「そこし恨めし」と承けては「青乎者」だけをうけて、他の半面は閑却された事となるので、こゝに不備を感するから、「恨」を「怜」と改めて、對句全體を承けさせようとするものらしい。意は「もみぢしたのをば折取つて賞玩するし、まだ青いのをば其まゝにおいて後を樂しんでゐる。そこにも、こゝにも、面白味がある」と見るのであらう。しかし我が國上代の對句法は漢土の如く嚴重にして緊密な規定で律す(117)べきものではあるまい。昔から我が獨特の對句といふものもないではなかつたが、大化の改新前後になると、詩賦の研究から得た智識が多分に見えて來た。だが、まだ十分に習熟しない點もあるので、對句の半面だけを承けて下につゞけるといふ事も往々あつたらしいのである。未熟といへば未熟ともいへようが、まだ型にはまらない自由な趣があるともいへる。こゝも黄葉〔二字傍点〕と青〔傍点〕とを對に擧げたが、黄葉の賞すべきは、いふまでもないから、それにはふれないで、青き枝を眺めて氣をもんでゐる點に多少の遺憾を感ずるから、そこだけを特に強調したものと見て別に不都合もなからう。とにかく諸本皆「恨」とあるから、私意を以て改むべきではない。一體此歌には對句に關する問題が多い。冒頭にも鳥の來鳴くと、花の咲くとを對へてゐるが、忽ち鳥の方をば除却して花だけを承けて「入而毛不取」「執手母不見」と更に對させてゐる。そこで、これも不備だといふので、古義、檜嬬手などは「取」を「聽」の誤とし(「聆」(ノ)字の誤とする人もある)、鳥と花とを強ひて別々に承けさせようとしてゐるが、これも同じ筆法で、作者の考が專ら花の事を言はうとするにあつたから、やはり對句の半面だけを承けて下に續けたのであらう。いはゞ型を破つた鈞衡、後世の生花式で、これも日本式といはゞ言へよう。あまりに對に執して飽くまで鈎衡を云々するは終に作り事になる所以で、本來の日本式ではないと思ふ。なほいふと、冒頭の對句も、嚴密に言はゞ「鳴かざりし島も來嶋きぬ〔右○〕。咲かざりし花も咲きぬ〔右○〕れど」とか、「嶋かざりし鳥も來鳴き、咲かざりし花も咲けれど」とかいふべきを、調子のため、「ぬ」を一方にだけつけて、切るゝが如く續くが如き句法を取つたのも、同じ氣分で説明が出來ようかと思ふ。言語の性質上、我國では漢土の如きせゝこましい對句法の規定などは起り得ぬのである。可否はともあれ、古代の對句法には考ふべき事が多い、そを強ひて一種のやかまし(118)い規定にはめようとして、彼方こなた頻りに改竄を試みるのは心すべき事である。(この事については後々その處處で重ねて述べよう。)
◎一篇の大意――春の花、秋の黄葉、何れをいづれとも言ひ難いが、春は山の草木も茂つてゐるので、婦人の身としては、分け入つて折り取る事も容易でないから、そこに恨が多い。そこへ行ぐと秋山の方はさして困難もないから、色のよいのは、遠慮なく折り取つて賞玩する事が出來る。たゞ色づくに遲速があるから、同時に賞する事が出來ず、一時青い枝を眺めて氣を揉んでゐねばならぬ恨はあるが、春の恨には比べられない。要するに我は秋山を取らう。
その言ふ所まだ幼稚ではあるが、婦人の觀察としてはさもありさうな事である。辭句も註釋に述べた如く人によつて説を異にし、しつくりしない點がないとも言へないが、大體よくまとまつた作といふべきである。とにかく此の種の歌では、これが初めてゞあるから、昔からよくとりはやされてゐる。最後の一句は殊に力がある。
 
額田王下2近江國1時作歌、井戸王即和歌
 
この端書には議論が多い。少しく思ふふしは後で述べよう。
 
17 味酒《ウマザケ》 三輪乃山《ミワノヤマ》 青丹吉《アヲニヨシ》 奈良能山乃《ナラノヤマノ》 山際《ヤマノマニ》 伊隱萬代《イカクルマデ》 道隈《ミチノクマ》 伊積流萬代爾《イツモルマデニ》 委曲毛《ツバラニモ》 見管行武雄《ミツヽユカムヲ》 數數毛《シバシバモ》 見放武八萬雄《ミサケムヤマヲ》 情無《ココロナク》 (119)雲之《クモノ》 隱障《カクサフ》 倍之也《ベシヤ》
 
○味酒《ウマザケ》――「うまざけ」はうまき酒の義で、酒をほめていふ三輪の枕詞である、神酒を「みわ」といふから起つたのであらう。三輪は崇神天皇の時に掌酒《サカヅカサ》を置かれた處で、酒には縁故が深い。舊訓「うまさかの」は辨ずするまでもなからう。
○三輪乃山《ミワノヤマ》――この一句呼掛の句で「三輪の山はよ」といふ意である。なつかしき名殘惜まるゝ故郷の山を、一句まづ呼び起して印象を明かにしたので、此歌には最も肝要な句である。「三輪の山は」と「は」を添へて訓んでもよからう。然るに代匠記、略解、燈などに「三輪の山を」と「を」(ノ)字を添へて見るべしといつてるのは大いな誤で、早く古義之を難じて「乎〔右○〕の語をそへては首尾調はず」といつてるのが正しい。然るに今なほさる説をとる人のあるのは遺憾である。此句の語勢、下の「つばらにも見つゝ行かむを、しば/\も見放けむ山を」といふにかゝる事はいふまでもない。隨つて此の對句の意は「三輪の山はよ……見つゝ行くべき山〔右○〕なるものを〔五字傍点〕……見放けむ山〔右○〕なるものを〔五字傍点〕」の意でなければならぬ。「三輪の山を〔右○〕……しば/\も見放けむ山を」では調を成さない。古義の所謂「首尾調はず」とは之をいふのである。なほ後段にも述べよう。
○青丹吉《アヲニヨシ》――「あをによし」と訓み、奈良の枕詞、いろ/\説はあるが定かではない。「よし」は一種の助詞であらう。「麻もよし」「玉藻よし」など枕詞にそへてよく用ひられる。
○奈良能山乃《ナラノヤマノ》――大和、山城の國境の山で、春日山の西北に連なる低い山脈をいふ。奈良から之を越えて木津に出(120)るのである。
○山際《ヤマノマニ》――舊訓は「やまのはに」と訓んでゐるが、こゝは「山のは」といふべき所ではないから、代匠記以來「やまのまに」と訓んでゐるのがよい。「際」は間の義で、卷二「木際從《コノマヨリ》」(一三二)ともある。考は際の下に「從」を補つて、「山のまゆ」と訓んだが「ゆ」といふべき所でもないから、やはり「に」を訓み添へて「山のまに」と訓むがよからう。奈良山の連山の間に三輪山が隱れるのである。
○伊隱萬代《イカクルマデ》――舊訓「いかくるゝまで」とあるが、「かくる」は昔、四段に活用したので、推古紀「わが大君の※[言+可]句理〔三字傍点〕ます天の八十かげ」、卷十四「うまぐたの、ねろに可久里〔三字傍点〕爲」(三三八三)などあるから「いかくるまで」と訓むべきである。「い」は接頭辭、「萬代」は助詞「まで」に借りた字音である。
○道隈《ミチノクマ》、伊積流萬代爾《イツモルマデニ》――舊訓「みちのくま、いつもるまでに」がよい。僻案抄が「伊積流」を「いさかる」と訓み改めたのは「積」の字音によつたのであらうけれど、隈が遠ざかるといふ事、義を成さぬと思ふから、舊訓のまゝがよからう。さて隈は籠る〔二字傍点〕と同じ心ばへらしく、道の屈曲して入り込んだ處、所謂山曲をいふのである。「い」はこれも接頭辭。
○委曲毛《ツバラニモ》云々――舊訓は「まぐはしも」と訓んでゐるけれど、「くはし」は微妙の意で、委曲の意にはふさはない。それ故僻案抄は意を以て「いくたびも」と訓み、考は多少文字に即して「つばらにも」又「つぶさにも」など訓み試みたが、卷三「淺茅原曲曲二物念者」(三三三)の「曲」(ノ)字は淺茅原からの連聲上「つばら/\に」と訓むべきものと思はれるから、今はその訓に從つておく。然るに古義は「毛」を「爾」の誤とし「つばらかに」と訓ん(121)で「この句、爾ならでは、下に數々毛《シバ/\モ》とある毛の字詮なし」といつてるのは、どういふ考であらう。訝しい説である。
○數數毛《シバシバモ》、見放武八萬雄《ミサケムヤマヲ》――「見放武」は古來「みさけむ」と訓み、それには「ふりさけみる」を初め、卷十九なる「語左氣見左久流〔四字傍点〕人眼」(四一五四)、續紀宣命の「問佐氣 牟〔三字傍点〕 語 比 佐氣 牟〔三字傍点〕」など動かし難き例語あるを古義は閑却して「獨りすぐれば見も左可受〔三字傍点〕來ぬ」(四五〇)といふ卷三なる異傳に屬する「一云の歌を例として「みさかむ」と訓み改めたのは訝かしい。さて「つばらにも云々」の四句は對句であるから「つばらにも、見つゝ行かむ山〔右○〕なるを〔三字傍点〕、しば/\も見さけむ山〔右○〕なるを〔三字傍点〕」といふべきだが、語勢上、前聯で「山」といふ語を省いたので、自然「見つゝ行かむものを〔三字傍点〕」の意に聞きなされるやうになつたのである。(冒頭の一句を「三輪の山を〔右○〕」と解する説は多分さう見たのであらう。)けれどそれでは後聯の落ちつき所がなくなるから、どうしても前聯で「山」を省いたものと見ねばならぬ。かく人によつて見解を異にするのも、つまりは對句の用法がまだ十分しつくりしない爲めと見る外はあるまい。
○情無《ココロナク》、雲乃《クモノ》――舊訓は一句と見て、「こゝろなき〔右○〕くもの」と訓んでゐるが、義は通ずるけれど味はない。僻案抄は「こゝろなく〔右○〕くもの」と訓み、雲もとより無情だが、無情の雲を有情に言ひなして恨むる所に味があるといつてゐる。但、僻案抄は八言の句と見て、この上に五言一句脱ちたるかと疑ひ、檜嬬手は「雲」の上に落字ありとして「八重棚〔三字右○〕雲乃」と補つてゐるが、玉の小琴が五言、三言の二句として「こゝろなく、雲の」と訓んだのがよい。三言一句といふ事、上代の歌にはまゝある事で、上の三山歌にも「虚蝉毛、嬬乎〔二字傍点〕、相格良思吉」(一三)とあり、(122)卷二なる天智天皇大后の御歌にも「若草乃、嬬之〔二字傍点〕、念鳥立」(一五三)とある。とかくの論はあるけれど、一々脱句ありとして補はんはいかゞである。
○隱障倍之也《カクサフベシヤ》――「かくさふべしや」と訓んでゐる。他にも例はあるが、こゝは反歌の末句に準じて、しか訓むのである。「かくさふ」は「かくす」を波行四段に轉じたので、動作の連續性をあらはす事、上(五)に「かへる」を「かへらふ」といつたに同じい。雲が頻りに隱すのである。「や」は反語。
◎一篇の大意――なつかしき三輪の山はよ、この度はる/”\近江へ下るにつけては、いかにも名殘惜まれる山で、奈良山の山の間に隱れてしまうか、道の隈が積り積つて隔てられゝば致し方もないが、さうなるまでは、ゆつくりとふりかへり/\見て行きたい山であるものを、まだ幾ほども隔たらぬに、早くも雲が隱してしまうた。心なき雲よ、そんなに隱すべき事か、隱すべきではなからう。
遠く異郷に移るにつけて、住み馴れた故郷の山に名殘を惜む情が、平明な辭句の間によく見えて、いかにも女らしい、やさしい歌である。
 
反歌
 
18 三輪山乎《ミワヤマヲ》 然毛隱賀《シカモカクスカ》 雲谷裳《クモダニモ》 情有南《コヽロアラナ》畝《ム・モ》 可苦佐布倍思哉《カクサフベシヤ》
 
○然毛隱賀《シカモカクスカ》――あんなにも隱す事かとの意で、音調急迫、切なる歎息をあらはす語づかひである。「か」は歎息の意(123)を含める一種の疑辭。
○雲谷裳《クモダニモ》――せめて雲なりとも心あれかしとの意。
○情有南《ココロアラナ》畝《ム・モ》――「南畝」舊訓は「南畝《ナム》」と訓じ、元暦校本を初め、多くの古寫本皆同樣であるから、「畝」とあるが本かも知れねど、たゞ類聚古集には「武」とあり、西本願寺本、大矢本、京都大學本等も、左傍に「武」と注してゐるから、姑くそれに從つておく。「なむ」は動詞の未然形を承ける希望の助詞である。この助詞平安朝に入つてはよく用ひられるけれど、萬葉にはをさ/\見えないが、上代ともいふべき此歌に見えてゐるのは聊かいぶかしい。
 山田博士ノ講義ニ「南畝」ヲ「ナモ」トヨマレ、平安時代ノ「たむ」ハ奈良朝時代ニハ「なも」デアツタトイハレタノハ傾聽スベキ説デアル。前條ノ疑問モコレデ解ケルヤウニ思フ。(追記)
◎一首の意――は明である。
古今集なる貫之の歌に「三輪山をしかも隱すか春霞、人に知られぬ花やさくらむ」とあるのは、此歌の初二句をわざと取り入れたので、多少俳諧氣分に轉用したのも面白いが、此歌の痛歎切實なるには及ばない。
 
右二首歌山上憶良大夫類聚歌林曰、遷2都近江國1時御2覽三輪山1御歌焉。日本書紀〔左○〕曰六年丙寅春三月辛酉朔己卯遷2都于近江1。
 
これは類聚歌林の傳である。二首といふは長歌と短歌とを別々に數へたのであらう。「御2覽〔二字傍点〕三輪山1御歌〔二字傍点〕」と(124)いふは、天皇か皇太子かの御詠をいふのであらうが、考は皇太子大海人皇子の御歌として、之によつて端書をさへ改めた。けれど其人を擧げずしてたゞ御覽、御歌といふ書きざまは天皇の御歌と解すべきではなからうか。此集では天皇の御歌は御製と書く例であるが、歌林では、御歌と書いたのであらう。「紀」(ノ)字、流布本には「記」とあるが、多くの古寫本によつて改めた。又近江遷都の干支は書紀の年紀と一年の差がある。之に就いては美夫君志に長々と説いてあるから、こゝには省く。
さて、此歌の端書が、他の例とは少し異なつてゐるので、昔から議論が多い。中にも考は左注の類聚歌林と照し合せて、こゝの端書を「大海人皇子命下2近江國1時御作歌」と改め、次の綜麻形の歌の前に「額田姫王奉v和歌」といふ端書を加へて「井戸王即和歌」の六字を刪つてゐる。又燈は井戸王と額田王とを置き違へたものとして「井戸王下2近江國1時作歌額田王即和歌」と改めてゐる。此等は私意を以て勝手に改めたもので、古典に對する態度とはいへない。殊に考は類聚歌林を僞書として非難しながら、こゝだけはそれに據つて本文を改めるなどは杜撰の最も甚しいものである。かく改めても左注にいふが如く、綜麻形のは到底和(スル)歌とは聞えない。古義、美夫君志等強ひて助けて説いてゐるけれど、遂にしつくりしない。よつて試に私案を述べて見よう。
私案によると、この端書はこれでよいのである。更に改める必要はない。但、他の一般の例によると、額田王の作歌と井戸王の和(スル)歌とは、それ/”\別行にあるべきだが(次の蒲生野の歌などのやうに)、同行に書き連ねたのが違例であるし、「即和歌」といふ「即」(ノ)字のあるのも異例である(但、目録には即(ノ)字がない)。が、それは此歌を詠まれた時の事態が異なつてゐる爲ではあるまいか。思ふに此の場合、長歌だけを額田王が詠まれて、井戸王が(125)反歌を以て之に和したのであらう。否、井戸王の和した短歌が、やがた反歌とせられたのであらう。長歌、反歌二人の合作なので、あゝした端書が書かれたのであらうと考へられる。かく見れば端書の意義もよく了解せられるし、「和歌」としての氣分も一段とうなづかれる。一體反歌といふもの、大化以前から始まつてはゐるが、柿本人麿以前はまだこれ程盛んではない。卷1、二に就いて見ても、僅に中皇命(ノ)歌(三)と軍王歌(五)と三山歌(一三)とがあるだけで、其他は舒明天皇の御製を始め、十首許りの長歌に總て反歌はない。殊に此の三輪山の歌の作者、額田王の歌は春秋の優劣を批判した歌(一六)でも、從2山科御陵1退散之時作歌(一五五)でも皆反歌がない。(總じて此頃の婦人の長歌には殆ど反歌がない。たゞあるのは「奈加弭」の歌(四)だけである。漢土の反辭に擬した新しい形式にまだ親しまない爲であらうかとも考へられる。此意味に於て前記の「奈加弭」の歌――今に傳はる最初の反歌を有する――は皇女の歌ではなく、漢學にも達してゐたらしい間人連老の代作といふ説に左袒したくなる。)此等の點から想察すると、此歌ももと反歌はなかつたのを、同行の井戸王の和した歌が反歌とせられたのではなからうか。事によると、反歌の二字は後に添へられたものではあるまいかとも考へられるのである。かく考へて類聚古集を開いて見ると、此歌の端書の下に「無反歌」といふ三字の注があるので、我が私案の必ずしも空想ではなかつた事を感じたのである。類聚古集は性質上、長歌と短歌とは別々に載録してあるので、反歌のない長歌の下にはすべて「無反歌」としるしてゐる(一々正確とはいへないが)。こゝに「無反歌」とあるからは、「三輪山をしかもかくすか」の歌は、額田王の作ではなくして、同行の井戸王が即座に和したものと見て然るべきであらう。(隨つて井戸王もやはり女王であらうと者へられる。)更に念のため類聚古集の「しかもかく(126)すか」の歌に當つて見ると、これには「反歌井戸王」といふ五字の注があるので、いよ/\作者は井戸王である事がわかつた。(少なくとも類聚古集の著者も吾輩と同じ見解であつた事が明らかである。)ただこゝに反歌とあるのが怪かしいが、長歌の方に「無反歌」とあるのを並せ考へると、もと同じ作者の反歌ではないが、井戸王の和した歌が、やがて反歌として扱はれるやうになつた徑路を物語るものではなからうかと考へられるのである。とにかくに類聚古集は我輩のかねての考とも一致するし、それがまた同時に昔から異例といはれる端書の解釋にもなると思ふのである。
 
19  綜麻形乃 林始乃《ハヤシノサキノ》 狹野《サヌ》榛《ハリ・ハギ》能《ノ》 衣爾著成《キヌニツクナス》 目爾都久和我勢《メニツクワガセ》
 
從來の説の如く三輪山の長歌と反歌とを額田王の作とすれば、「井戸王即和歌」がこの綜麻形の歌でなければならぬ事になるが、左注にいふが如く、和(スル)歌とは聞えないし、綜麻形の三字がよく訓めないので久しく問題とせられて來た。私案によれば「井戸王即和歌」でない事だけは明かだが、作者は誰か、どこで詠まれたかといふ事は依然として判らない。そこで又類聚古集を見ると、この綜麻形の歌には井戸王とも額田王ともなく、たゞ前行に(端書のやうに)「額田王下近江國作歌井※[屋の草書]〔二字傍点〕和歌反歌二首中右之此首不取和歌」とある。(井※[屋の草書]は井戸王の誤寫であらう。)要領を得ない文だが「井戸王和歌反歌二首中」とあるから、古集はこれも井戸王の作としたらしく思はれる。更に古集と同じ性質の古葉略類聚妙を見ると、これには前行に端書として「額田王下2近江國1作歌」とあつて、作者を額田王と謎めたらしい事が推される。これは萬葉の本文に對する見解の相違で、こゝにまた新な問題が起る。(127)次にこの歌の詠まれた場所に就いては、檜嬬手は一種の奇説を立て、次の蒲生野縱獵の時、額田女王が詠まれた歌の一つで、錯簡によつて端書が前後したものと見てゐる。隨つて「綜麻形」を「そまがた」と訓みて、杣の縣と解し、近江國信樂の杣(甲賀郡)か、田上山の杣(栗太郡)かの出先をいふので、蒲生野に徃かれる途中のすさびであらうといつてゐる。これは地勢あまりに南に偏するやうに思はれ、さなきだに遠き蒲生野に赴く途中のすさびとしては腑に落ちないので、容易くは信ぜられないが、歌がらから推して、極めておもしろい見解といふべきである。要するに問題は「綜麻形」の訓にあるので、その如何によつて、歌の作者も、詠まれた場合も、ほぼ推される事とならう。しかし、何れにしても綜麻形は地名(又は地名に準すべきもの)らしく、其地はどこであつても、作者は誰であつても、歌としての大體の趣は變らない事と思ふから、まづ歌の趣を説明しよう。
○綜麻形乃――舊訓は「そまがたの」と訓み、代匠記精撰本は「へそがたの」とよむべきかと云つてゐる。然るに荷田春滿に至り、古事記三輪山の故事を引いて「みわやまの」と訓み改め、一時名説とせられて、爾來大方それに從つて來た(委しい事は僻案抄について見られたい)。此訓の當否は未定の問題であるが、此歌に關する僻案抄の解釋は強説で從へない。檜嬬手等の異説もある事であるから、なほ研究を要する。文字からいへば「へそがた」といふ代匠記の訓がふさはしいかに思はれるが、之に就いても研究すべきである。
○林始乃《ハヤシノサキノ》――此句も不明で、古くは「はやしはじめ」(舊訓)「しげきがもと」など訓んでゐたが、「はやしのさきの」と訓むべきかといふ代匠記中の一説に後の學者は大方從つてゐる。それがよからう。林の先端をいふのである。
○狹野《サヌ》榛《ハリ・ハギ》能《ノ》――「さ」は接頭辭、野榛は野生の榛で、榛は今いふ榛《ハン》の木といふ説と、萩の事といふ説とあつて、これ(128)も今なほ決着のつかぬ問題であるが、此歌では「衣につくなす」の序詞として用ひられたゞけであるから、何れにしても歌の大體の趣には變りがない。(萩は萩の花摺などいつて、昔は衣に摺りつけたもの、榛《ハン》の木は皮を煮た汁を染料に用ひたもの。)なほ下の引馬野の歌(五七)で述べよう。
○衣爾著成《キヌニツクナス》――目につくと言はん爲の料で、「なす」は「如く」の義である。古事記の冒頭に「久羅下那洲〔二字傍点〕たゞよへる」とある「なす」に同じい。舊訓「ころもにきなし」は拙ない。代匠記が「きぬにつくなす」と訓むべきにやといつてるのに從ふべきである。――さて此歌の組立、第四句までは「つく」といはんが爲の序詞で、第五句の「目につく吾が勢」といふだけが歌の主旨であた。場合は端書の如く近江へ下る折にもせよ、檜嬬手の見解の如く蒲生野行幸の折にもせよ、一群の男子が一歩先だちて行くのを、一歩おくれた婦人連が、人々の後姿をつくづくと眺めて、思ふ男の取り分け優れた姿を賞讃した意であらう。「あまたの中に一きは眼に立つ優美な御姿よ」といふのである。思ふにそこには然るべき林があつて、その林の端に一團の榛(萩でも榛《ハン》の木でもよい)が生へてゐたであらう。それを取つて直ちに序詞としたので、古い歌には此類が多い。作者と場所との如何に拘らず、歌の大體の主趣は此の外には出でまいと思ふ。
○ついでに序歌〔二字傍点〕といふものに就いて一言しておかう。序詞はやはり一種の修飾語といふべく、大體に於て枕詞のやうなものであるが、習慣上、五言一句を枕詞といひ(四言も六言もあるが、五言が最も多い、その數約千に上るであらう)、一句以上、二句又は三句になると序詞といふのである。枕詞は上代では意義が知られてゐたであらうし、萬葉集の頃までは作者みづから製造して、自由に活用したらしくも見えるけれど、後漸くその意義が失はれ(129)て、規定のある詞でなければ用ひられなくなつたので、作者の意志を表現する事も、技倆を發揮する事も不可能になつたが(作家獨創の枕詞も絶無ではないが極めて稀である)、序詞は二句三句乃至四句にも亙るから、作家の技倆を施すべき餘地が十分にあるので、序詞の巧拙によつて歌の價値が左右される事にもなるのである。しかし既に見るが如く、歌の本體には關係はない。表面には何等の意義も持たないが、たゞ作家に取つては一種の背景をなすので、場合によると、無言の間に演技以上の活きを爲すのである。上代の歌、特に東歌には序歌が多い。例へば卷十四(三五三七)に
 久敝《クベ》ごしに麥食む駒のはつ/\にあひ見し兒等しあやにかなしも
といふのがある。初二句は「はつ/\に」にかゝる序詞で、表面の意義はなく、末三句だけが歌の意義である。はつ/\〔四字傍点〕は、「端々」又は「小端」などあて、物の端と端とが僅かに觸れあふやうな心ばへで、「はつ/\にあひ見し兒ら」といふは道行きぶりに袖觸れあうて、ちらと見た女の事、それがあやにくに心に掛つて戀しく思はれるといふのである。然るに序詞からいふと、此歌耕人の作らしく、田舍の生活状態はそれとなくよく現はされてゐる。「久敝」は垣の事、こゝは馬埒の意で、馬を外に出さぬやう埒内にこめておくが、埒の外には麥が青々と生えてゐるので、馬がそれを食はんとして頻りに首を伸すが、辛く鼻の先がとゞくほどに麥が植ゑられてあるから、その心ばへではつ/\にかけたのである。女がこひしといふ歌の本義には、何等の關係もないが、たゞ作者日頃の生活状態がそれとなく現はされてゐる所に興味がある。「はつ/\にあひ見し兒らしあやにかなしも」といふだけでは平凡であるが、序詞がおもしろいので歌がずつと引立つてくるのである。然るに後世はとかく理窟がちに(130)なつて、表面から意義ある語を用ひんとするから、演技徒らにこちたくなつて、ほんのりした背景はめつたに見られなくなるのである。
◎一首の意――既に述べた通りである。
序歌といふもの上代には多いが、四句の序詞はさすがに少ない。此歌目前の景物を捉へ來つて背景とし、その風姿見るが如き思あらしむる所、巧妙な作といふべきである。
 
右一首歌今案不v似2和歌1。但舊本載2于此次1。故以猶載焉。
 
この注の如く綜麻形の歌は到底三輪山(ノ)歌の和歌とはうけとれない。強ひて助けて解く説もあるが要領を得ない。假りに之を次なる蒲生野の歌の錯簡とすれば、この左注は錯簡後の文といふ事になるので、隨つて無用のものとなるであらう。けれど錯簡といふ事漫りに斷ずべきでないから、やはり端書に據る外はあるまい。端書に從つて近江下向の途次、さるすさびがあつたとしても歌はとけるのである。但、三輪山の長歌と關係のない事は勿論であるが、恐くはその際殆ど同時に詠まれたものであらう。長歌に關係のない同時の作を並べ擧げた例は、上の三山の歌の後に渡津海の歌(一五)を附載した類ひである。今は姑くそれに準じて見ておく外はあるまいかと思ふ。
 講義ハ栗太都ノ臍《ヘソ》村(草津守山間〕カト云ツテヰル。ゲニ同所ハ綜村トモ書キ、大寶年中ノ鎭座ト稱スル大寶天王社ナドモアツテ、由緒アル所トオボシイカラ、假リニ錯簡ヲ認メルトスレバソコカモ知レネド、錯簡ト云フ事妄リニ云フベキ事デハナク、從來唱ヘラレタ萬葉ノ誤謬説モ研究ノ進ムニツレテ多クハ原文ノマヽガ正シイ事ガ立證サレルカラ、ヤハリ端(131)ニ從ツテオク外ハアルマイ。(追記)
 
天皇遊2獵蒲生野1時額田王作家
 
蒲生野は近江國蒲生郡の野で、愛知《エチ》川以南、今の安土附近の平野をいふ。古今集に「うねの野」とよまれたのも、こゝであるらしい。此時の遊獵は紀によると五月五日であるから、鳥獣の狩獵ではなく、藥狩であつた事がわかる。藥狩は漢土の風習を傳へたもので、鹿の若角(鹿茸)を取り、又藥草などを採取するので、いはゞ一種の行樂である。此時皇太弟大海人皇子を初め、諸王内臣及群臣悉く從つたとあるから、その際同行せられた額田王が大海人皇子に詠みかけられたのであらう。
 
20 茜草指《アカネサス》 武良前野逝《ムラサキヌユキ》 標野行《シメヌユキ》 野守者不見哉《ヌモリハミズヤ》 君之袖布流《キミガソデフル》
 
○茜草指《アカネサス》――は紫の枕詞。茜草は蔓草の名で、その根は赤色の染料に用ひられる(所謂茜染である)。紫は赤と青との間色で、茜をさし加へて染めるからいふのである。
○武良前野逝《ムラサキヌユキ》、標野行《シメヌユキ》――「むらさき野」は紫草の生えてゐる野といふ事で、こゝは蒲生野の事である。紫野といふ固有名詞ではない。美夫君志は官女たちの美しく粧うてうち群れたるをさしていふと説いてゐるが、それも無いとはいへぬけれど、歌本來の意ではあるまい。次の答歌に「紫草能《ムラサキノ》」とあるも、暗に紫草の生えてゐる野の意をほのめかしたものと見てよからう。紫草は野生の草で、根に紫色を帶びてゐるので名を負うたと言はれてゐる。「標(132)野」は御料地として占めおかれた野の事で、これもこゝでは蒲生野の事である。さて二つの「ゆき」(逝、行)は行き歩く意で、語勢は結句の「袖ふる」へかゝる。同じ場所を、名を變へ、動詞をくりかへして疊んだのは、音調を整へると共に彼方此方翩々とさまよひ歩く様をきかせたので上手のわざである。
○野守者不見哉 《ヌモリハミズヤ》――野守は野の番人で、しめおかれた御料地には、妄りに人を入れないやうに、山守、野守などを据え置かれるのである。「や」は反語。
○君之袖布流《キミガソデフル》――次の答歌で見れば「君」は大海人皇子を指す。「袖ふる」は戀ひ挑む動作で、心ありげなそぶりをする事である。大海人皇子が額田女王に對して折々たゞならぬそぶりをするを、額田女王は人目を憚つて注意した歌らしく見える。
◎一首の意――吾君はこの標野の中を彼方此方行きめぐりながら、私に向つて頻りにたゞならぬそぶりをなさるが、人目といふものゝない事ではありませんものを。
四五の句は倒置句で、これは音調のためである事はいぶまでもないが、此の引きしまつた句法で二三の緩やかな疊句と對照させ、言はんとする主旨を力強く響かせたなど、よく歌の要訣を得たものである。さてこゝに雪野山といふがあつて山の北麓が即ち蒲生野であるが、此歌に「紫野ゆき標野ゆき野守は云々」と詠まれたのは地名にいひかけたのかと大日本地名辭書には云つてゐるが、あらずもがなの事と思ふ。雪野山の名稱がいつから初まつたかは知らねど、寧ろ此歌から地名が起つたのではあるまいかと思ふ。又夫木抄匡房の歌に「蒲生野のしめ野の原の女郎花、野守に見する妹が袖なり」とあるのは、此歌から出た事は勿論である。さて雪野山は野守の住所で(133)あつたらうと是も地名辭書の説である。
  此歌には異説が多い。略解、玉の小琴等は「君が袖振り給ふを、野守は見奉らずやといふにて、外によそへたる意なし」といつてゐるが、これは「みずや」の「や」を問ひ掛けの疑辭と見たのであらう。げに此歌常の語勢ならば、さう見るも然るべきかも知れねど、倒置句を用ひて緊縮させた點を思ひ、又次の「皇太子答御歌」の意から推せば、さうは取れない。それに袖ふるといふは、堪へ難き情を表する時、人を招き挑む時などの動作でもあるから、やはり多くの説のやうに、大海人皇子に警告した意と見て、「や」を反語とする外はあるまい。又さう見る説の中でも、野守を何によそへたかといふ點についてまたそれ/”\説を異にする。檜嬬手は天智天皇によそへたといひ、考は司人たちに擬したといひ、古義は女王警護の者をさしたといふ。けれど歌としては、處は標野であるから、野守といふ語を借り用ひたまでなのである。實際の場合には其時の情勢でおのづからそれと知られたかも知れねど、後になつては明かに何々と指摘せられ得るものではない。たゞ廣く他人と見ておくべきである。中に美夫君志は額田王みづから指したものとして、大海人皇子が數多の官女どもの中を翩々と袖を振りつゝあざれ歩くを嫉ましく思うた意に解してゐるが、これはまた異《カハ》つた見樣である。美夫君志は「御答歌に校へ合せて曉るべし」といつてゐるが、我々は御答歌に校へ合せるから、さうは取れないのである。
 
皇太子答御歌 明日香御宇天皇
 
(134)21 紫草能《ムラサキノ》 爾保敝類妹乎《ニホヘルイモヲ》 爾苦久有者《ニククアラバ》 入嬬故爾《ヒトヅマユヱニ》 吾戀目八毛《ワレコヒメヤモ》
 
○紫草能《ムラサキノ》、爾保敝類妹乎《ニホヘルイモヲ》――舊訓は「あきはぎの云々」と訓んでゐるが、五月の歌にはふさはない。此は前の歌に「武艮前野」とあるを承けたので、代匠記に從つて「むらさきの」と訓むべきである。「草」字を添へたのは、前の歌に「茜草《アカネ》」とあるたぐひで、深い意はなからう。實際こゝは色をいふので草をいふのではあるまい。さて紫の匂へる如き妹といふべきを、語を省いて直ちに紫の匂へる妹とつゞけ、その間の關係を密接ならしむるのは歌詞の常である。
○爾苦久有者《ニククアラバ》――言ひ更へれば「ゆかしく思はずば」である。「にくからず思へばこそ」である。
〇人嬬故爾《ヒトヅマユヱニ》――額田王は此時天智天皇の妃でいらせられたから、人妻といつたのである。さてこゝの「ゆゑに」を諸註皆「なるものを」と説いてゐる。歌の意義から推してそれには相違ないが、何故に「ゆゑに」が「なるものを」の意になるかといふ事は更に説かれてゐない。思ふにこは二句又は三句にいふべき氣分を、一語に約めていふ所から起つた語法で、數句を補つて敷衍して説けば、いくらか判らう。此歌の意も
 君は人妻ぢやから、妄りに戀してはならぬといふ事はよく判つてゐる。もし心に深くこひしく思はないなら、その戀してはならぬ人ゆゑに〔三字傍点〕(人のために)我かくあこがれんや。
といふのである。さうまでいはずとも、人妻に戀してはならぬといふ一般牡會の慣習道徳を念頭において讀めば直ぐ會得される。つまり常識といふ事にもたれて語を省いたので、果は「あからひく敷妙の子をしば見れば人妻(135)ゆゑに〔五字傍点〕我戀ひぬべし」(一九九九)などさへいふのである。又卷二、人麿が高市皇子を悼んだ歌に「久方の天知らしぬる君ゆゑに〔三字傍点〕月日も知らに戀ひ渡るかも」(二〇〇)といふ有名なのがある。これも
 君は御昇天あらせられたので、いくら御慕ひ申しても、再び御眼にかゝれぬ事は道理上わかつてゐる。が、その到底御眼にかゝれぬ君ゆゑに〔三字傍点〕、我はかく月日の立つのも忘れて戀ひこがれてゐる事であるわい。
といふ意、つまり理性を超越して已むに已まれぬ氣分をいふので、語は簡にして意は長く、迂餘曲折の面影を留めた古言の微妙な所である。それを「なるものを」と正面からあつさり説き去るのは少し物足らぬ心ちがする。さてこれは所謂|歌詞《ウタコトバ》といふべきもので、散文がまだ起らないで、專ら歌で情を遣つた時代に、自然に發達した語遣ひなので、枕詞の關係などには此種の簡單なのが多い。「天雲の、雷」は「天雲のたなびく空の〔六字傍線〕雷」といふべきであらうが、意はおのづから通ずるから、中間の媒語を節略して「天雲」と「雷」とを直ちに結びつけたのである。「鶯の(鳴く)春」「露霜の(おく)秋」なども同じ事、此歌の冒頭「紫の匂へる」と「妹」とを、ぢかに結びつけたのも同じ筆法で、なほ試に言はば「時過ぎ去つて春になれば」といふ迂餘曲折の氣分から「春されば」といふ語法が出て來たらしく思はれるのもそれであらう、後世散文の發達するにつれ、散文は暢達を主とするから、此種の簡潔にして含蓄深き詞遣ひが、いつとはなくすたれたので、詩歌は後世になるほど衰へるといふ一面の道理を證すべきものかとも思ふ。
○吾戀目八毛《ワレコヒメヤモ》――「吾」を「わが」と訓むべきか「われ」と訓むべきかゞ問題である。舊訓や元暦校本は「わが」と訓み、考、攷證は之に據つてゐるが、他は大方「われ」と訓んでゐる。本集は多く「吾」又は「余」といふ訓宇(136)を用ひてゐるから、判斷の材料にはならないが、唯一つ卷五に「若鮎釣る松浦の川の川浪のなみにしもはゞ和禮〔二字右○〕故飛米夜母」(八五八)とあるだけである。(この外には卷十四(三五〇八)と卷十七(三九七〇)とに「安禮〔二字右○〕古非米夜母」といふ例が二つ見える。)此一つの例によつて、こゝは「われ」と訓む事にする。本集の訓讀でも「われ」とも「わが」ともあるし、古今集以後の歌でも混用してゐるから、意義の上には、さしたる差はあるまい。たゞ「が」の有無によつて調に多少の緩急があるかも知れねど、それは微妙な差で、人により時によつて、ちがふかも知れぬから、各自の頭で味うて見る外はあるまい。――さて此二句僻案抄に、「人づまからに、わけからめやも」と訓んでゐるのは何の意ともわからない。
◎一首の意――既に述べた通りである。
此際皇太弟と女王とが御互に人を以て言はせたのであらうか、聊か疑問である。かうした贈答のあつたのを見ると、説者のとかくいふのも無理もないやうにも思はれる。多少ざれ氣分のあるやうに見られんでもないが。
紀曰、天皇七年丁卯夏五月五日縱2獵於蒲生野1。于v時天〔左◎〕皇弟諸王内臣及群臣皆悉從焉。
 
流布本には「天皇弟」とあるけれど義を成さぬ。紀の本文には「大皇弟」とあるし元暦校本、神田本等も同樣だが、恐くは代匠記精撰本のいふ如く「太〔右○〕皇弟」の誤であらう。
 
明日香清御原宮《アスカノキヨミハラノミヤ》天皇代 天渟中原瀛眞人《アメヌナハラオキノマヒトノ》天皇
 
(137)天武天皇の御代をいふ。清御原宮のあつた所は今の高市郡高市村大字上居で、上居は淨御の音轉であらうといはれてゐるが、近來飛鳥村大字飛鳥と大字雷との中間で、上居には關係がないといふ説がある。よく研究すべきである。又紀の注に「渟中此云2農難《ヌナ》1」とあるから御諱は「アメヌナハラ、オキノマヒトノスメラミコト」と訓むのである。
 
十市皇女參2赴於伊勢神宮1時見2波多横山巖1吹黄刀自作歌
 
十市皇女は天武天皇の皇女で母は例の額田王である。大友皇子の妃となられて葛野王を生まれた事が懷風藻に見えてゐる。その神宮參赴の事は下の左注で述べよう。
○波多横山は明かでない。考は和名抄、一志郡八太郷を之に當て、「伊勢の松坂里より初瀬越して大和へ行く道の伊勢の中に、今八太郷あり。その一里ばかりかなたに、かいとう(垣内)といふ村に横山あり、そこに大なる巖ども川邊に多し。是れならんとおぼゆ」といつてゐる(八太郷から垣内まで一里許りとあるは誤りで實は四里許りある)。本居翁が管笠日記を書かれた時の旅も此道によつたので、これにもそこらしく述べてゐる。そこは昔から交通の衝に當つた所らしいから、それかも知れねど確かではない(伊勢から伊賀の名張を經て、初瀬に通ずる道である)。橘守部は十市皇女の神宮參赴に關する一種の見解により、初瀬から近江の甲賀郡に入り、遠く鈴鹿越をせられたものと見て、そこの畑村といふをあてゝゐるが、あまりに迂回に過ぎて信ぜられない。予先年熊野から伊勢路に入つて神宮へ赴く時、ふと波多の横山と號する處に分け入つたが、これも勿論確かではないけれど、初瀬越して神宮に詣でるものゝ必ず通る所で、路程も最も近く、處のさま(138)も故ありげに見えるから、參考の爲にこゝにしるしておく。
 松坂から北行四里許りで、考にいふ八太郷に出るが(垣内まで八里餘)、こゝは松坂の西南五里許りの地で、櫛田川の流に沿うて横野といふ處がある(多氣郡丹生町の西三里弱)。初瀬街道と吉野街道(五條街道)との分岐點であるが、その上流四五町(吉野道)に畑〔右○〕井村といふがあり、下流十町ばかりに大石村といふがあつて、對岸を波多〔二字右○〕瀬といふ。この邊一帶を廣く横山と唱へてゐるが、横野の對岸なる一群の小山、左右の連脈を離れて、獨り河畔に横はつてゐるさま、げに横山といふべき趣である。又大石村の下流二三町に今、炮烙巖といふ一帶の巖山があつて、高さ十餘丈、丘上に不動堂を安じ、形勝の地であるが、東は櫛田川に注ぐ小流で限られ、巖は斜に斗出して櫛田川に臨んでゐるさま、これも横山といはゞ言はるべき趣である。此の川、雨到れば荒れる川と見えて、河邊一帶に巨岩算を亂して横はり、岩角は水に洗はれて滑らかに、苔も蒸さずつやゝかで、此歌の趣にふさはしいさまである。よつて土地の人々に河流の變遷や古道の沿革やを聞き質して見たが、十分の要領は得られなかつた。その後彼此を比較調査する折も得られなかつたので、こゝに掲げて後の參考としておく。(横野は局ヶ高の東麓で、局ヶ岳は標高二千三四百尺、山容は筑波に似て二峯に分れ、丹生方面からしるく見えて、うるはしい山である。横野附近灯は俗に鳥首と稱する勝地もある。)
○吹黄刀自は卷四にも歌は二首見えてゐるが傳は詳でない。吹黄を吹※[草冠/欠]とする説もあるが、※[草冠/欠]〔右○〕ハ黄〔右○〕の草書を見誤つたものではあるまいか。刀自は戸主の義で家の主婦をいふ語、十市皇女に隨行した老女などであらう。
 
(139)22 河上乃《カハノヘノ・カハカミノ》 湯都盤村二《ユツイハムラニ》 草武左受《クサムサズ》 常丹毛冀名《ツネニモガモナ》 常處女煮手《トコヲトメニテ》
    
○河上乃《カハノヘノ・カハカミノ》――舊訓「かはかみの」、考は「かはづらの」、略解、古義、美夫君志等は皆「かはのべの」と訓んでゐる。「かはのべの」といふが意義明瞭に思はれるから、それに從つておく。但卷十四の東歌にも「可波加美能《カハカミノ》云々」(三四九七)とあつて必ずしも川の上流とは限らないやうであるから、舊訓のまゝでもわるくはあるまい。
○湯都盤村二《ユツイハムラニ》――「ゆつ」は「いほつ」(【五百津】)の約で、古事記上「湯津爪櫛」「湯津|杜樹《カツラ》」などの如く、物の數多き事、こゝは岩石のあまた群がつてゐる意である。近來「湯つ」を「齋《ユ》つ」と解く説があるが、これも考ふべき説であらう。
○草武左受《クサムサズ》――岩面水に洗はれて草も生えず、つやゝかな事である。古義は「年古りたる巖の上に草の生たるをいへるにて受〔右○〕まではかゝらず云々、年經たる巖の上に草の生えぬ事やあるべき」といつてゐるが、さる處を見た事がなかつたであらうか。河中河側などの巖石は絶えず水に洗はれて常につやめいてゐるものである。
○常丹毛冀名《ツネニモガモナ》――「がも」は希望の助詞、後には「がな」といふ。「がもな」の「な」は感動詞、實朝の歌にも「世の中は常にもがもな」とある。この實朝の歌はわざと古風な語遣ひをしたのであるが、その頃では多く「がなや」といふ。
◎一首の意――この川のほとりなる數々の岩が、絶えず水に洗はれて草も生えず、いつも滑らかにつやめいてゐるが、あはれ我が君(十市皇女)も、いつまでも少女姿で、かくうるはしくおはせよかし。
(140)皇女の行末を祝うたのである。然るに古義は刀自が我が身の老い行くを歎いて述懷したものと説いてゐるが、端書を何と見たであらう。
 
吹黄刀自未v詳也。紀曰、天皇四年乙亥春二月乙亥朔丁亥十市皇女阿閉皇女參2赴於伊勢神宮1。
 
十市皇女の參宮參赴はいつの事ともわからないが、紀の文の如く天武天皇四年であつたかも知れぬ。この皇女は大友皇子の妃である事は前に述べたが、大友皇子亡び給ひて後、御父天武天皇の許に引き取られたらしい。然るに同天皇の七年、天神地祇を祭らんとして齋宮を倉梯の河上に竪て、天皇臨御、乘與將に出でんとする際に、十市皇女卒然病發つて宮中に薨じたので、行幸御取止めになつた事が紀に見えてゐる。橘守部は之を皇女の自盡と解釋し、隨つてこの神宮參赴を、大友皇子のまだ亡びなかつた時、父君と夫(ノ)君との軋轢を歎きて、祈願のため間道より窃かに詣でられたものと説いてゐる。げに薨去の際の事態たゞならぬ如くには見えるが、確實な憑據もないのに、神宮參赴の事にまで推し及ぼして臆測を加ふべきではない。萬葉集の記載によれば、此の歌天武天皇の御代となつてからのものでなければならぬから、やはりその心で見ておく外はあるまい。同行の阿閉皇女は天智天皇の皇女で、草壁皇子の妃、後の元明天皇である。
 
麻續王流2於伊勢國伊良虞島1之時人哀傷作歌
 
麻續まさしくは麻績と書くべきだが、昔績、續、相通じて用ひた事、既に先哲によつて辨ぜられてゐる。伊(141)良虞は渥美半島の突端で、今は三河國であるが、昔は伊勢に屬せしものと見えて、古いものに徃々伊勢のいらごと見えてゐる。地勢上さもあるべき處である。半島の事をたゞ「島」といつた例は多いが、こゝは萬葉時代には全く離島であつたかも知れぬ。なほ此島の事は左注で述べよう。――略解は「人」(ノ)字の上、更に「時」(ノ)字あるべしといつてゐるが、さうかも知れぬ。
 
23 打麻乎《ウチソヲ》 麻績王《ヲミノオホキミ》 白水郎有哉《アマナレヤ》 射等寵荷四間乃《イラゴガシマノ》 珠藻苅麻須《タマモカリマス》
 
○打麻乎《ウチソヲ》――「をみ」の枕詞、舊訓は「うつあさを」類聚古集は「うてるをを」と訓んでゐるが、冠辭考に卷十六「打十八爲《ウチソハシ》、麻續兒等《ヲミノコラ》」(三七九一)とあるを引いて「うちそを」と訓まれたのがよからう。但し、冠辭考は「うつくしき麻」の意に見てゐるが、これは打つて和らげた麻の義であらう。さて績む〔二字傍点〕とかゝるのである。「そ」は麻の類を總稱する古言である。
○白水郎有哉《アマナレヤ》――白水郎は海人の義で、和名抄に辨色立成を引いて「白水郎和名阿万〔二字傍点〕」とある。白水は漢土の地名で、そこの人は能く海に没して物を探るといはれてゐる。「なれや」は「なればや」といふほどの意であるが、必ずしも「ば」が省かれたのではなく、古言の一格である。この「や」を諸書多くは反語と見てゐるらしいが、燈に疑の辭として、下の「かります」へかゝるといつてるのがよい。なるほど歸する所は「あまではないのに」といふ意に落つるのであるから、反語の如くにも聞えるが、それは歌全體の上から推して、さう聞えるだけの事で、文法上からは疑辭といはねばならぬ。此の場合、作者は麻續王の海人ならぬ事はよく知つてゐるが、海人同樣のす(142)さびをしてゐるのが氣の毒のあまり、果は「あれは海人ではない筈と思うてゐたが、ハテ海人であつたのか知らん」とみづから訝かるやうな心持になつて詠んだのである。その自から訝かる心、則ち疑辭たる所以である。下の高市古人(黒人カ)の歌に「古人に我あれや〔三字傍点〕さゞ浪の古き都を見ればかなしき」(三二)とある「あれや」も同樣で「我はこの志賀(ノ)宮のゆかり人ではない筈だが、此の荒墟を見ると人事ならず悲しい。あはれ我はそのゆかり人であつたのか知らん」と、悲の餘り理性の判斷を失うたやうな氣分に詠つたので、これも語簡にして意長き古言(歌詞)の妙である。こを「われその古へ人でもないのに」と簡單に説き去るのは、切實な表現とはいへない。さてこの「なれや」「あれや」が反語に紛れ易い所から、後世「まひなしにたゞ名のるべき花の名なれや」(古今集、旋頭歌)の如く、全くの反語に用ふる習はしが起つて來たのであらう。更に古今集以後になると、西行の「津の國の難波の春は夢なれや〔三字傍点〕、芦の枯葉に風わたるなり」の如き語法も出て來た。これは「夢なればや」でも「夢ならんや」でも解けない。詞の玉の緒にもいへる如く、「なり」といふ語に、歎息の「や」を添へたもので、「夢なるかな」の意でなければならぬ。つまり古言の「なりや」と同じ心ばへであるが、それと混同したのである。これは次の例を見るとなほよく會得される。新古今集は萬葉葉卷十なる「百敷の大宮人は、いとまあれや梅をかざしてこゝにつどへる」(一八八三)といふ歌の下句を「櫻かざして今日もくらしつ」と改めて、山部赤人の名で收めてゐるが、萬葉集の方はいふまでもなく「いとまあればや」の意で」や」と「つどへる」とが係結の關係をなすが、新古今の方は普通の語法であるから、その關係は起らない。歌は三(ノ)句切であるから、やはり「いとまあるかな」の意で、これも古言の「ありや」と混同してその心ばへに用ひたものと見ねはなるまい。此頃七五(143)調が流行するから、萬葉をも其目で見て、つひ「いとまあれや」で句を切る事となつたのであらう。かく「あれや」「なれや」は時代によつていろ/\轉訛してゐるが、含蓄の深い古言の用法が廢れてしまつたのは惜しい事である。
◎一首の意――麻續王は蜑であつたのか知らん。アレあのやうに、此の島の玉藻を苅り採つて海人同樣のすさびをしていらせられるよ。
あまりの事に理性の判斷を失つて、みづから訝かる所に深き同情があらはれてゐるのである。
 
麻績王聞v之感傷和歌
 
24 空蝉之《ウツセミノイ》 命乎惜美〔二字左○〕《ノチヲヲシミ》 浪爾所濕《ナミニヌレ》 伊良虞能島之《イラゴノシマノ》 玉藻苅食《タマモカリヲス》
 
○空蝉之《ウツセミノ》――上の三山歌(一三)に虚蝉とあつたと同じく、虚蝉も空蝉も借字で「現し身」の轉音である。枕詞とする説もあるけれども、枕詞とするには及ぶまい。現實に存らへ行く命の義である。
○命乎惜美《イノチヲヲシミ》――「惜美」(ノ)二字、流布本には「情※[草冠/夷]とあるけれど通じない。元暦校本を初め古寫本皆「惜美」とあるに從つて改めた。「命を惜み」は命惜しさにの義である。
○浪爾所濕《ナミニヌレ》――舊訓は「なみにひで」と訓んでゐる。「ひぢて」の意であらうが、「折濕」の二字にはふさはぬ。僻案抄以後「ぬれ」と訓んでゐるのがよい。
(144)○玉藻苅食《タマモカリヲス》――舊訓は「苅食」を「かります」と訓んでゐるが、こは前の歌に引かされたので「食」(ノ)字を「ます」と訓むべき理もなく、義も通じない。考が「をす」と改めたのがよからう。そは「食《ヲス》國」の「をす」で、食ふ義である。(又此歌に引かされてや、前の歌を「苅麻須《カリヲス》」と訓む説もいかゞである。)
◎一首の意――は明かで、これといふも命が惜しいからぞ。(あはれと思うてくれといふのである。)
實際藻を食ふたか否かは深く問ふには及ぶまい。
 
右案2日本紀1曰、天皇四年乙亥夏四月戊戌朔乙卯三品麻續王有v罪流2于因幡1。一子流2伊豆島1、一子流2血鹿島1也。是云v配2于伊勢國伊良虞島1者、若疑後人縁2歌辭1而誤記乎。
 
例によつて日本紀の本文と此集の端詞と合はぬについての考證である。(今の紀の本文には「夏四月甲〔右○〕戌朔辛〔右○〕卯三位〔右○》麻績〔右○〕王云々」とあつて、干支その他に多少の異同がある。)紀によると因幡國に配せられてゐるから、こゝに伊勢國伊良虞島とあるのは、伊勢の伊良虞島の名高い所から、後人が伊勢と誤認して記し添へたのではなからうかといふのである。考、略解等は、この左注を良しとし、考などは「伊勢國」の三字を刪つてゐる。しかし之によると伊良虞島を因幡國とせねばならぬが、因幡にはさる名の島はない。そこで檜嬬手は、紀は最初の沙汰をしるしたので配所は後に變つたのであらうと云つてゐるが、此説の方がまだしも穩かであらう。然るに常陸風土記を見ると、同國潮來に麻續王終焉之地といふがあつて「行方郡云々此謂2板來之驛1、其西榎木成v林、飛鳥淨御原天皇之世遣2流麻續王1之居處云々」といふ記事が載つてゐる。これもまた一つの異傳で(145)いよ/\判斷がつかなくなるが、昔は流人の都から遠ざかるのは黙許せられたらしいから、或は伊豆に流された一子を慕ひ、轉々して常陸までもさまようて行かれたものかも知れぬ。とにかく伊良虞はやはり伊勢國(今は三河)らしいので、確かな根據もなくして漫りに古典の本文を改刪するのは惧まねばならぬ。
 
天皇御製歌
 
25 三吉野之《ミヨシヌノ》 耳我嶺爾《ミヽガノミネニ》 時無曾《トキナクゾ》 雪者落家留《ユキハフリケル》 間無曾《ヒマナクゾ》 雨者零計類《アメハフリケル》 其雪乃《ソノユキノ》 時無如《トキナキガゴト》 其雨乃《ソノアメノ》 間無如《ヒマナキガゴト》 隈毛不落《クマモオチズ》 思乍叙來《モヒツヽゾコシ・オモヒツヽゾクル》 其山道乎《ソノヤマミチヲ》
 
○三吉野之《ミヨシヌノ》――「三」は美稱。
○耳我嶺爾《ミミガノミネニ》――古來色々な説があるが、要するに、吉野山の最高峯、今の金峯山の事であらう。舊訓は「みかのみね」と訓んでゐるが、「耳」を「み」と訓むべき理由がないから、僻案抄、考等は「みみかのみね」と訓んでゐる。それがよからうと思ふ。考はこを「御|缶《ミカ》の嶺」と解き、山が缶《ミカ》の形してゐるからといつてゐるが、大和附近の山は大方缶の形で、此山に限る事ではないから、それは何ともいへないけれど、やはり「みか〔二字傍線〕ね」といふが本(146)の名であらう。「ね」はいふまでもなく嶺の義で、その「みかね」に美稱の「み」が添はつて「み〔右○〕みかね」となり、歌詞としての都合から六言の「み〔右○〕みかのみね」となり、聲音の關係から濁つて「み〔右○〕みがのみね」となつたのであらう。これは轉變の一方であるが、他の一方では「みかね」の「ね」は一言の名詞で、概念があまり明瞭でないから、やがて「岳《タケ》」といふ語が添はつて「みかねの岳」となり(ね〔右○〕と岳〔右○〕とを重用したのである。「はこ嶺」が「はこね山」、「白ね」が「白ね山」となる如く)、之に「御金の岳」といふ文字を當てた所から、轉じて「金の御岳」となり、更に「金峯山」となつたのではあるまいか。
     −み〔右○〕みかね−み〔右○〕みかの峯−み〔右○〕みがの峯(み〔右○〕ト云フ敬語ノ添ハレル場合)
みかね
     −みかねの岳−御金(ノ)岳−金の御岳−金峯山(敬語ガツカズ、嶺《ネ》ト岳トを重用シタ場合)
二すぢの轉變を認めれば轉化の順序は明かなやうに思ふ。隨つてすべて同じものをいふので、歌には其の時々で、さま/”\に詠まれてゐるであらうが、そを考の如くすべて一すぢに律せんとして、卷十三なる「御余嵩《ミカネノタケ》」(三二九三)の「金」をさへ「缶」に改めようとするのは誤であらう。又古義は考の御岳《ミミカ》の説を難じて「みか」は御※[瓦+缶]の意で「み」は美稱であるから、其の上、更に美稱の「み」を添へて「みみか」といふべきではないといつてゐるが、「か」は容器の汎稱で「みか」は酒瓶の義になつたのであるから、更に美稱の「み」を添へて「みみか」といつても不都合はあるまい。宮は御屋《ミヤ》で、「み」は敬稱であるが、後には「おみや」とも稱へる類ひである。古義は又|缶《ミカ》は清音の語であたのに「耳我」の「我」は濁音の文字であるから當らないといつてゐるが、これは聲音の轉變といふ事を無視した論で、はやく「たて津」(盾津)が、「たで津」(蓼津)となつた例しもある(古事記、神武天皇の條)。し(147)かも古義の著者も、下の歌(五一)の所で「古へ清みし言を後に濁りて唱ふる事も多ければ云々」と述べてゐるではないか。
○隈毛不落《クマモオチズ》――上なる「寢夜不落」の「おちず」に同じく、漏さずといふ意。路の隈、一歩々々にといふ事である。
○思乍叙來《オモヒツツゾコシ》――「來」を舊訓は「くる」と訓み、代匠記、考、略解、古義等之に從つてゐるが、燈、檜嬬手、美夫君志等は「こし」と訓んでゐる。「くる」と訓めば途中、山路にての御製となるが、「こし」と訓めば離宮御到着後の御歌となる。(「くる」は「行く」の義である。)「來」の一字にては「くる」と訓むが寧ろ當然と思はれるけれど、下に其〔右○〕山道とあるから離宮御到着後の御歌かも知れぬ。しかしその、この〔四字右○〕相混用してゐる古歌の例を思ふと何ともいへない。要するに讀者の判斷に任せる外はあるまい。
◎一篇の大意――は明瞭である。
辭句も結構もよく整うた御歌であるが、たゞ結句の「思乍叙來」は何を思はせられたのか明でないので、諸説まち/\である。或説には皇太弟の位を辭して吉野に隱退せられた時、深く行末をおぼして詠ませられたものといふ。天皇の御經歴から推すと、さう見るのが最もふさはしいかに思はれるが、記載の順序から見ると、御即位後の御歌とせねばならぬから、輕々しく斷ずるわけには行かぬ。又景色をめでさせられた歌といふ説もあるが(代匠記等)この時代の歌としては組立が大仰過ぎると思ふ。又戀の歌と見る説もあるが(燈、古義及足代弘訓等の見)卷十三に殆どこれと同一で、たゞ末二句が「我はぞ戀ふる妹がたゞかに」(三二九三)となつてゐる民謡があるから、それに準じて見られぬ事もなからうが、實はその民謠から此歌が轉用されたので、この歌本來の義とは受け取れ(148)ない(他にも類似の民謠がある)。一體この歌の構造を見ると、耳我(ノ)嶺の雪と雨とを借り來つて、二段にくりかへした對句の力も、たゞ「思」といふ一語に集注されてゐるから、何を思ふのか、今少し印象の明かな語があるべきだと思ふ(戀の意ならば卷十三の歌のやうに)。然るに組立の平明なるにも似ず、極めて概念的な「思」といふ一語であらはされてゐるに過ぎないから、そこに我々はたゞならぬ感じを懷かせられるのである。萬葉集の記載の順序といふもの、どこまで重きを措くべきであるか、姑く疑問としておく。又次の歌の左注に「八年〔二字右○〕己卯五月庚辰朔甲申幸2于吉野宮1」とあつて、天武天皇としての吉野行幸は此時の外は紀に見えてゐないが、あれほど御執心の吉野に、長い十四五年間の御在任中、たゞ一回の行幸といふは聊か訝かしく思はれるけれど、此時は皇后及び諸皇子と盟約の事あつて、王家の行末に就いて御軫念あらせられたかに見えるから、其事をおぼしめぐらしての御製であらうといふ人もあるが、記載の順位から推せば或はさうかも知れぬ。
 
或本歌
 
26 三吉野之《ミヨシヌノ》 耳我山爾《ミヽガノヤマニ》 時自久曾《トキジクゾ》 雪者落等言《ユキハフルトフ》 無間曾《ヒマナクゾ》 雨者落等言《アメハフルトフ》 其雪《ソノユキノ》 不時如《トキジキガゴト》 其雨《ソノアメノ》 無間如《ヒマナキガゴト》 隈毛不墮《クマモオチズ》 思乍叙《モヒツヽゾ》來《コシ・クル》 其山道乎《ソノヤマミチヲ》
 
(149)○耳我山《ミヽガノヤマ》――舊訓、本歌では「みかのみね」と訓んでゐるが、こゝでは三字で「みかね」と訓んでゐる。
○不時如《トキジキガゴト》――舊訓は「時ならぬごと」と訓んでゐるが、上の「時自久曾」に對して、やはり「ときじきがごと」と訓むべきであらう。略解が「ときじくがごと」と訓んだのはわるい。
 
右句々相換、因v比重載焉。
 
天皇幸2于吉野宮1時御製歌
 
こゝに吉野宮といふは、今の花咲く吉野山ではなく、山麓、上市驛の上流一里許、今の中莊村大字宮瀧附近にあつたらしい。この處、河流一道、巖を穿つて流れ、附近には夢の淵《ワタ》、象《キサ》の中山、三舟の山等の景勝があつて、吉野川流域中の景勝地である。昔の人は特にこのあたりを喜んで、早くから離宮も建てられ、奈良遷都前は歴代よく行事があつたらしい。なほ後の人麿の歌の所で述べよう。
 
27 淑人乃《ヨキヒトノ》 良跡吉見而《ヨシトヨクミテ》 好常言師《ヨシトイヒシ》 芳野吉見《ヨシヌヨクミヨ》 良人四來三《ヨキヒトヨクミツ》
 
○淑人乃《ヨキヒトノ》――所謂淑人君子で、物のよくわかつた優れた人をいふ。
○良跡《ヨシト》――「よしとて」の義。
○良人四來三《ヨキヒトヨクミツ》――舊訓は「よきひとよきみ」と訓み、其他「よき人よくみ」「よき人よくみよ」など、さま/”\によまれてゐるが、略解に荷田御風の説とて「よきひとよくみつ」と訓んだのがよからう。「よくみつ」は一二の句を(150)くりかへした形である。僻案抄も「よしとよくみつ」と訓んでゐるが、又「よき人よくみつ」とも訓むべしと言ひ添へてゐる。
◎一首の意――昔のよき人が、こゝはよき處ぞとて、よくく見て、さていよ/\よしといつた此の吉野を、今の人もよく見よ、昔のよき人がよく見た處ぞ。
此歌「よ」といふ頭韻を疊んで語調を取つたばかりではなく、文字も淑、良、好、吉、芳、などあらゆる文字を集め、「四來《ヨク》」といふ借字まで用ひて興がつてゐる所、いかにも輕快洒落な趣がある。何時か嬉しくおぼしめされた事あつた時の御作であらう。
 
紀曰、八年己卯五月庚辰朔甲申幸2于吉野宮1
 
紀によると、天武天皇の吉野行幸は此時だけの如く見えるが、長い十四五年間の御在任中、日頃御愛好の、しかも近距離にある吉野行幸は、たゞ一回だけであるや否やは俄に斷定は出來ない。
 
藤原宮御宇天皇代 高天原廣野姫《タカマノハラヒロヌヒメノ》天皇
 
藤原宮は持統文武二代の皇居で、その位置は下にある御井歌によつて大體推定されるが、三山の略々中央で、今の高市郡鴨公村大字高殿の邊といはれてゐる。(なほ此の宮の事は後の役民の歌(五〇)で述べよう。)
高天原廣野姫は持統天皇の御諱である。藤原宮は持統、文武の兩朝に亙る稱なるに、こゝに持統天皇だけの御諱を記したのは少しいかゞである。
 
(151)天皇〔左○〕御製歌
 
「天皇」流布本に「天良」とあるは誤である。こゝは持統天皇を申す。天皇は天智天皇第二の皇女で、天武天皇の皇后である。天武天皇崩御の後、草壁皇太子輔佐の下に、朝に臨んで制を稱せられたが、皇太子薨去の後、改めて即位の禮を擧げさせられた。(但、書紀は天武天皇崩御後を直ちに持統天皇の御宇としてゐる。)――さて考は此の御歌をまだ飛鳥淨御原宮におはしました時の御製とし、後の學者も大方之れに從つてゐる。なるほど下の吉野宮の歌、紀伊行幸、伊勢行幸等の歌は、いづれも藤原遵都前の作らしいから、記載の順位から推せば、これもさうかも知れねど、又或は年代不明の此の御製を、前なる天武天皇の御製と相並べて先づ掲げたのかも知れぬ。(年代不明の作は御代の後に掲げるのが例となつてゐるが、さうばかりとも限るまい。)前にも述べた如く萬葉記載の順序といふ事が、どれほど重きを措くべきかは問題である。
 
28 春過而《ハルスギテ》 夏來良之《ナツキタルラシ》 白妙能《シロタヘノ》 衣乾有《コロモホシタリ》 天之香來山《アメノカグヤマ》
 
○夏來良之《ナツキタルラシ》――舊訓は「なつきにけらし」、元暦校本は「なつぞきぬらし」など訓んでゐるが、「なつきたるらし」と訓むべしといふ僻案抄の説がよからう。「きたる」は四段活用の動詞なので、「來《キ》」に「たり」といふ助動詞の添はつたものではあるまい。
○白妙能《シロタヘノ》――妙は借字で、栲の事(この文字の事は後にいはう)、栲は古代に於ける織物の總稱で、白栲は穀(楮の(152)類)の皮の繊維で織つたもの、色純白で光澤がある。こゝの「白妙能」を枕詞とする説もあるが、こゝは實際の白衣をいふので枕詞ではない。
◎一首の意――は時節の推移の速かなるを驚きおぼしめした意で、義明らかである。
新古今集には「春過ぎて夏來にけらし白たへの衣乾すてふ天の香具山」と改めて載せてゐるが、「衣乾すてふ」では人傳に聞しめされた事となるので、實感を去ること遠く、眞率の趣が乏しい。時節の推移は暦によつても知られるけれど、昨日とけふと、眼に立つほどの相違も見えないので、常には氣がつかずにゐるが、一朝高きに登つて眼前に白衣の翻るのを見ると、誰しも「なるほど夏ぢやな」といふ感じが動く。この歌の生命はそこにある。それを人づてに聞しめされた意に改めて何の味があらうぞ。その頃は只管優美な語づかひをのみ喜んだ時代であるから、「衣乾したり」といふ強い語氣を嫌つたのであらう。此の御歌ばかりではなく、平安時代の人の萬葉の歌を改めたのは、大抵皆原作者の意を損ねてゐる。赤人の不盡《フジ》の歌でも、沙彌滿誓の朝開《アサビラ》きの詠でも。
萬葉考には「夏の初の頃、埴安の堤の上などに幸し給ふに云々」と説いてゐる」或はさうかも知れぬが、必ずしも堤上でなくとも、宮中の高樓でもいゝのである。又考は「衣ほしたる」と、連體形に訓んでゐるが、萬葉調に堪能であつた縣居翁の訓ともおぼえぬ。
 
過2近江荒都1時柿本朝臣人麿作歌
 
近江の都は天智天皇の都せられた大津(ノ)宮をいふ。地は大津の北、辛崎に近き滋賀(ノ)里であつたといはれてゐる。よつて世に滋賀(ノ)宮とも稱へる。天智天皇のこゝに遷都せられたのは同天皇の六年で、その十年の冬には(153)天皇崩御あらせられ、翌年は壬申の亂で、亂後天武天皇は明日香淨御原宮で御位をしろしめしたから、大津(ノ)宮は遷都後、間もなく荒廢に委せられたのである。人麿の之を訪うたのは、いつの事か明らかでないが、これも記載の順序から推せば持統天皇の初期であらう(朱鳥二三年の頃かといはれてゐる)。さすれば壬申亂後僅に十五六年に過ぎないけれど、餘程荒れたものと見える。さなくとも、花やかであつた遷都の昔といひ、あわたゞしき近江朝廷の滅亡といひ、間もなき荒廢といひ、我國では、從來曾てない事なので、多情多感の人麿は感慨を禁じ得なかつたであらう。
○人麿は萬葉集中第一の歌人として、昔から名は轟いてゐるが、微官であつたらしく傳は詳かでない。僅に本集によつて、その事蹟の概略が窺はれるのみである。初め日並皇子の舍人、後高市皇子の舍人であつたといはれてゐるが、さうかも知れねど確かではない。或は宮廷詩人のやうな者であつたかも知れぬ。行幸の供奉をして隨所で歌を詠んだのも、皇子皇女の薨去を弔つた歌の多いのも、之が爲めではあるまいかとも思はれる。生國は大和とも、近江とも、又石見ともいふが、いづれも想像説で確かではない。晩年石見國に任官したらしく、終にそこで死んだ。年はいくつであつたかも明かでないが、眞淵翁が「五十に至らで身まかりしなるべし、此人の歌多かれど老いたりと聞ゆる言のなきにて知らる」といへるが大體當つてゐるであらう。死んだのは、元明天皇の和銅年間らしく、寧樂の京には遷らずして終つたらしい。
 
29 玉手次《タマダスキ》 畝火之山乃《ウネビノヤマノ》 橿原之《カシハラノ》 日知之御世從《ヒジリノミヨユ》【或云|自宮《ミヤユ》】 阿禮座師《アレマシヽ》 神之盡〔左○〕《カミノコトゴト》 (154)樛木乃《ツガノキノ》 彌繼嗣爾《イヤツギツギニ》 天下《アメノシタ》 所知食之乎《シロシメシヽヲ》【或云|食來《ケル》】 天爾滿《ソラニミツ》 倭乎置而《ヤマトヲオキテ》 青丹吉《アヲニヨシ》 平山乎越《ナラヤマヲコエ》【或云、虚見倭乎置《ソラミツヤマトヲキ》、青丹吉《アヲニヨシ》、平山越而《ナラヤマヲコエテ》】 何方《イカサマニ》 御念食可《オモホシメセカ》【或云、所念計米可《オモホシケメカ》 天離《アマザカル》 夷者雖有《ヒナニハアレド》 石走《イハバシノ》 淡海國乃《アフミノクニノ》 樂浪乃《サヾナミノ》 大津宮爾《オホツノミヤニ》 天下《アメノシタ》 所知食兼《シロシメシケム》 天皇之《スメロギノ》 神之御言能《カミノミコトノ》 大宮者《オホミヤハ》 此間等雖聞《コヽトキケドモ》 大殿者《オホトノハ》 此間等雖云《コヽトイヘドモ》 春草之《ハルクサノ》 茂生有《シゲクオヒタル》 霞立《カスミタツ》 春日之霧流《ハルビノキレル》【或云|霞立《カスミタツ》、春日香霧流《ハルヒカキレル》、夏草香《ナツクサカ》、繋成奴留《シゲクナリヌル》】 百磯城之《モヽシキノ》 大宮處《オホミヤドコロ》 見者悲毛《ミレバカナシモ》【或云|見者左夫思母《ミレバサブシモ》
 
○玉手次《タマダスキ》――畝火の枕詞、玉は美稱、手襁は肩又は項《ウナジ》にかけるもので、項《ウナジ》にかける事をうなぐ〔三字傍点〕といふから、音通でうね〔二字傍点〕とかけたのである。
○日知之御世從《ヒジリノミヨユ》――萬葉考は天つ日嗣しろしめす御孫の命の事といひ、古事記傳には日の洽き如く汎く天の下を(155)明かに知る義といつてゐるが、要するに天皇を崇めていふ語である。後、漢語の聖(ノ)字の訓に之を當て、高徳神の如き君にも用ひ、又汎く物識りの義にも用ひるやうになつた。さて「橿原の日知の御世」は神武天皇の御代の義、「ゆ」は「より」に同じい。
○阿禮座師《アレマシシ》、神之盡《カミノコトゴト》――阿禮は現はれる義で、こゝは生れ出づる事。神は歴代の天皇、盡《コト/”\》はそのすべてをいふ。「盡」(ノ)字、流布本には「書」とあつて、昔から「あらはす」と訓んでゐたが、義を成さぬ。考は「言」の誤として「神のみことの」と訓んだが、玉の小琴、略解に至つて、初めて一本に據つて「盡」と改めた。勿論それがよからう。元暦校本、類聚古集等皆「盡」とある。
○樛木乃《ツガノキノ》――聲音の關係から「つぎ/\」にかゝる枕詞。樛木は栂の事といふ。
○天爾滿《ソラニミツ》――大和の枕詞。この枕詞、いづれも「そらみつ」とあるが、「そらに〔右○〕みつ」とあるのは、こゝだけである。此歌でも或本の方には「虚見」とあるから、「爾」は衍字かも知れぬ。それとも冠辭考にいふが如く、もとは四言の枕詞であつたが、人麿に至つて五言に用ひたのかも知れねど、語の原が明かでないから何ともいへぬ。
○何方《イカサマニ》、御念食可《オモホシメセカ》――考に、「いかさまに、おもほしめせか」と訓まれたのがよい。「おもほし」は「おもふ」を佐行四段に轉用した例の敬語法であらう。舊訓は「いかさまに、おぼしめしてか」と訓んでゐるが、「おぼす」は「おもほす」の約であらうけれど、萬葉時代にはまだ「おぼす」といふ語遣ひはないから、やはり「おもほしめせか」の方がよからう。「めせか」は「めせば〔右○〕か」の意、前に述べた「あまなれや」などゝ同じく古言の一格である。さて此の二句の意は「如何なる御思召があつたか知るよしもないが」、といふほどの心ばへであらう。代匠記には(156)「此の二句は所を移して、「天爾滿倭云々」の上に置きて見るべし」といつてゐるが、げにと思はれる。
○天離《アマザカル》――「あまざかる」と訓み、夷《ヒナ》の枕詞。一般には天のやうに遠ざかる義と説かれ、冠辭考にも「都方より鄙の國を望めば天と共に遠放りて見ゆる由にて冠らせたり」とあるが、枕詞の起原は多く神代にあるものとすれば、書紀の下照姫の歌に「阿磨佐箇屡、避奈〔七字傍点〕菟謎廼」とあるは、もとは高天原(神樣のおはします處を基點としたのである)を遠ざかる夷《ヒナ》といふ義で、この國土を卑下して自からひなつ女〔四字傍点〕といつたものと見るべきではなからうか。さて後には都を基點として、そこを遠ざかる邊土の義に用ひられるのは語の自然である。
○夷者雖有《ヒナニハアレド》――「ひなにはあれど」と訓んでゐる。「夷者」の二字に、「に」を添へて「ひなには」と訓むのは、下の歌(四七)に「眞草苅、荒野者〔三字傍点〕雖有」を「荒野にはあれど」と訓むと同例であらう、「夷ながらも、そこを御見立てになつて」といふほどの意である。古義は大神景井の説とて、「有」の上に「不」(ノ)字を補つて、「ひなにはあらねど」と訓んでゐるが、それは「いかさまに、おもほしめせか」といひ、「夷にはあれど」といふ語氣、天皇の御心をもどくやうに聞える所から起つた説であらうが、實際人麿も明日香の舊都にあこがれる心から内心訝かつてゐたかも知れぬから、こゝは此のまゝで「深き御心のほどは知るよしもないが、……歴代の都離れた地を御見立てになつて云々」と娩曲にいひまはしたものと見ておくべきである。内心訝かる所あつても荒墟を見て涙を灑ぐのは詩人の情である。
○石走《イハバシノ》――淡海の枕詞。多くは「いはばしの」と訓んでゐるが(考、略解、檜嬬手、美夫君志等)、舊訓は「いはばしる」で、古義も同説である。集中「石走」と書いて「いはばしる」と訓むべき所と、「いはばしの」と訓まねば(157)ならぬ所とがある(卷十二、「石走、垂水之水能云々」(三〇二五)は「いはばしる」で、卷十「石走、間々生有云々」(二二八八)は「いはばしの」であらう)。それはそれ/”\異なつた意義に用ひられてゐるが、こゝは解説の如何によつて、どちらにしても淡海の枕詞になり得るので、訓は遽に定め難い。「いはばしる」と訓む説によれば、岩面を走り流れる水の意で「溢水《アフミ》」とかゝるとするのであるが、「いはばしの」の方はまた數説に分れる。「いはばし」は石橋だが、石造の橋ではない。淺瀬に石を置き並べて、それを蹈んで渡る處をいふので(所謂飛石)あるから、(イ)石と石との間《アハヒ》といふ心で「あふみ」の「あふ」にかゝるといひ、(ロ)石を蹈んで渡るから「足蹈《アフミ》」の義でかゝるといひ、又(ハ)「岩にせかるゝ瀧川のわれても末にあはむ」といふが如き心ばへで「あふ水」とかゝるともいふ。とり/”\にをかしいが、なほ研究を要する。
○樂浪乃《サザナミノ》――「さゞなみの」と訓む。大津の枕詞。もと琵琶湖の西岸一帶の地名で、それから移つて、大津、志賀等の枕詞となつたのである。(湖畔一帶の地を指すやうであるから、もと「さゞ浪寄する大津」などいふ心で用ひられたのではないかと思はれるが、實際の地名となつたのも古い事である。)さて「さゝ」に「樂」の字を當てたのは、昔、神樂の折、笹葉を手にしてサア/\と掛聲しながら舞うたといふ故事によつて「神樂聲」といふ三字を「さゝ」に借りたのを、やがて省略して「神樂」の二字とし、更に省いて「樂」の一字にしたのである。この「樂浪」、後には詩人などにも用ひられ、頼杏坪の詩にも、「湖田田麥秀菜花黄、偶問2舊都1過2樂浪1」など詠んでゐる。
○所知食兼《シロシメシケム》――この語、上にも「所知食之乎」とあつて、舊訓は「しらしめしゝを」と訓み、本集卷十八、卷二十等の假名書にも「之良之賣之」などあるから、しか訓むべきであらうとは思はれるが、祝詞の注には「古語云、(158)志呂志女須」とあり、書紀も「知」(ノ)字を多く「しろしめす」と訓じ、萬葉集でも、元暦校本、類聚古集を初め、多くの古寫本は「しろしめす」と訓じてゐるから、こゝは衆説に從つておく。さてこゝの「しろしめしけむ」は連體形で、次の「すめろぎの、神のみこと」に續くのである。こを代匠記に「此處句絶なり」といつてるのを初として、檜妻手、燈、美夫君志等皆「おもほしめせか」の「か」を結んだものとして、こゝにて段落とすべしといつてゐるのは、どういふ考であらうか。(古義の説はよい)。こゝを段落として、次の段を「天皇の神の命の、大宮は 云々」と唐突に言ひ起して、どこに歌の調子が味はれようか。「おもほしめせか」の氣分が、こゝまで及んでゐる事はいふまでもないが、連體形として下に續ける場合は結辭の形式を取らなくてもよい事は係結の法則ではないか。
○天皇之《スメロギノ》、神之御言能《カミノミコトノ》――「御言」は借字で、こゝは「命」の義である。「神の命」は天皇を崇めていふので、語遭ひの都合から同義の語を繰り返したもの、こゝは天智天皇を申すのである。
○春草之《ハルクサノ》、茂生有《シゲクオヒタル》、霞立《カスミタツ》、春日之霧流《ハルビノキレル》――此の四句は對句で荒廢の状を述べたのである。(玉の小琴は對句と見ないで、初の二句は荒れた形容、次の二句は見た儘のけしきで荒れた意はないといつてゐる。隨つて「春草|之《シ》茂く生ひたり〔二字右○〕」と訓んで、こゝで段落を切つてゐるが、いかにも不思議な見解で、あまり同意者はないやうである。)「霞立」は春日の形容、「きれる」は「きり」と「あり」との熟合したもの(「きり」といふ動詞に現在完了の「り」といふ助動詞の添うたもの)で、こゝは霞ほの/”\と立ちこめて眼路を遮ぎる事をいふ。さて衆説中「茂く生ひたる」「春日のきれる」の二句を連體形として「大宮處」にかゝる修飾語とする説(燈)と、こゝで切れて終止す(159)と見るとの二説あるが、語調から推せば連體形と見る外はあるまい。しかし全體からいふと少し曖昧な點もあるので、後説の出るのも強ち無理とは言へない。それ故、考や古義は「霞立、春日香霧流、夏草香、繁成奴留」といふ一本の方を取つてゐるし、略解は同じ氣分で、二つの「之」(ノ)字を「歟」の誤かといつてゐるし、代匠記も、「この二つの之〔右○〕の字は、の〔右○〕と訓みては、生ひたるの下、切るゝにもあらず、續くにもあらず、されば疑のか〔右○〕になして訓むべきか云々」といつてゐる。又「春草の茂く生ひたるにかあらむ〔五字傍点〕。霞立つ春日のきれるにかあらむ〔五字傍点〕」と意を補つて見る説もある。此等の點に就いては、後に少し述べようと思ふが、今は本文を尊重し、その語調から推して連體形と見ておく。
○百磯城之《モモシキノ》――百石城の意、多くの石もて堅固に造つた城といふ事で、大宮の枕詞となる。又「石《シ》」は堅固な意で用ひるほめ詞で、必ずしも石で築き上げた義ではないともいはれる。畢竟九重の大宮などゝ同じ意に落つるのである。
◎一篇の大意――神武の聖代より此の方、歴代の天皇それからそれと、皆大和國で天の下をしろしめされたものを、何とおぼしめされた事やら、叡慮のほどは測り知るよしもないが、その歴代の都を後にして、遙々と國境の山を御越えになつて、ほど遠い田舍ながら、近江の大津を御見立てになつて、そこで天の下をしろしめされたあの天智天皇の大宮處は、こゝであると、かね/”\聞いてもゐたし、人もさういふけれど、今來て見れば、これぞと思はれる跡形もない。たゞ草が茫々と生ひ茂り、霞がおぼろに鎖してゐるのみであるが、あの音に聞えた大宮の、かうまで荒れ果てたのを見ると、何とも悲しさに堪へぬわい。
(160)上半は比較的平汎であるが、後段、「大宮はこゝと聞けども云々春草の茂く生ひたる云々」のあたり、荒墟のさまがよく寫し出されて、感慨已み難き趣が見える。此歌を誦して思ひ出されるのは「憂來藉v草座、浩歌涙盈v把、冉々征途間、誰是長年者」と詠じた杜甫の玉華宮の詩である。
 此の歌「いかさまにおもほしめせか、天ざかる夷にはあれど」などいふあたり、深き叡慮の知るよしもなき旨、隱微に言ひまはしてはゐるが、どことなく天皇の御心を訝かる趣のほの見えるのは掩ふべからざるやうである。一體遷都といふ事は、いつの世でも多數の人の好まぬ事であるし、殊に明日香の舊都は萬葉人のあこがれの地で、近江遷都の際には朝臣の反對もあり、童謡なども多かつた事であるから、それを傳へ聞いてゐる人麿なども、内心、天皇の御心を訝からずには居られなかつたでもあらう。隨つてその大宮の間もなく荒れ果てたのを見ては、かにかくに心を動かす事が多かつたであらう。
○さて此の歌一本に照して見ると、辭句の異同が極めて多い。本文の下に細注の如く書きこまれた所が、都合六ヶ所あるが、その中で、歌全體の上に關係の深いのは、次の二ヶ所である。
 (イ)所知食之乎……或云食來
 (ロ)春草之茂生有、霞立、春日之所霧……或云、霞立、春日香霧流、夏草香、繁成奴留、
これは互に得失があつて、是非は容易く斷ぜられないが、聊か私見を述べて見よう。まづ(イ)の「食來」は「めしける」と訓むので、本文の一しろしめしゝを」が、一本には「しろしめしける」となつてゐるのである。意義の上からは「めしける」の方が穩かで、本文の如くでは、しろしめした所を指示してないから、よく事蹟を辨げて(160)ゐるものでなくては文意不明に落つるを免れない。そこに文としての〔五字傍点〕缺陷がある。「ける」の方だと、連體形で、下の「大和」に續くから、その患はない。しかし歌としての調からいふと、初句以後やさしく、なだらかに言ひ下しただけで何等の曲折もないのに、その上なほ連體で續けては、調子はます/\平凡に流れる。「しろしめしゝを」と一曲折をなして、そこに多少の精彩を添へる事が出來るのであるから、調の上からは此の方がよい。さて「しろしめしける大和をおきて」と連體でつゞけたとすれば、下の「天の下しろしめしけむ」も連體、「茂く生ひたる」も、「春日のきれる」も連體であるから(前に述べた如く疑問の意に見る説もあるが、感じが明確でない)、こゝでもまた調子がだれる。そこでその弱點を救はんがために、一本の方では「春日か〔右○〕きれる。夏草か〔右○〕繁くなりぬる。」と明らかに疑辭を用ひて言ひ切る事としたのではあるまいか。是非優劣は姑く措き、或本の方も一貫した考の下に筆をつけられたやうに思ふ。抑々かく歌詞の二樣に傳へられてゐるのは、人麿自身が後に修正したのか、傳誦の間にいつとはなく變つたのか、それは知るよしもないが、いづれにもせよ、格調に十分しつくりしない點があるから起つた事ではあるまいか。後の人、近江の荒都といふ悲痛な事蹟と、歌聖人麿とを結びつけて、感慨琳漓、千古の名篇など言ひはやすけれど、吾輩には、それほどには思へない(惡い作でない事は勿論だが)。これは人麿の若い頃の作なので、技倆がまだ十分に發揮されてゐない。諸家の解説(訓點ではない)のまち/\なのも、畢竟句法格調のしつくりしない點があるからではあるまいか。――さて又或本の方を取る場合、春日と夏草と時節の違へる取合せを云々する人がある。それは難には相違ないが、春は最も朧な感じを與へるもの、夏草は草の最も深き感じを與へるもの、昔の人はおほやうで、あまり細かな理窟には頓着しないから、春の末、夏の初(162)頃であると、ふと感じたまゝ、かういはぬとも限るまい。「時節を違へて幼なくいへるこそなか/\にあはれ」など辨解するまでもなからう。(本文の方でも、春草、春日と春をくりかへしてゐるのもあまり好い對とはいはれまい。)
 
反歌
 
30 樂浪之《サヾナミノ》 思賀之辛崎《シガノカラサキ》 雖幸有《サキクアレド》 大宮人之《オホミヤビトノ》 船麻知兼津《フネマチカネツ》
 
○雖幸有《サキクアレド》――「さきく」は恙なき意、昔ながら變らずある意で、辛崎をうけて「さきく」と同音をくりかへしたのは音調をなだらかにせん爲のあやである。
○船麻知兼津《フネマチカネツ》――所謂擬人法で、辛崎が待ちかねる意である。「かね」は集中に多く「不得」と書き、こゝは待てど待ち得ざる意である。志賀宮は辛崎に近い處であつたといふから、當時の大宮人は船漕ぎ列ねて辛崎あたりを逍遙したのであらう。その頃名高き松があつたか否かは知らねど、卷二、天智天皇大殯の時、舍人吉年のよめる歌にも「やすみしゝ吾大王の大御船待ちかこふらむ志賀の辛崎」(一五二)とあるのを思ふと、記念として見るべき何物かゞあつたでもあらう。
◎一首の意――志賀の辛崎はありしながらの姿で、昔なじみの大宮人の船、今來るか/\と待ち顔に見えてゐるが、いつまで待つてもその舟は見えず、辛崎ひとり寂しげであるわい。
(163)31 左散難彌之《》 志賀能《シガノ》【一云|比良乃《ヒラノ》】大和太《オホワダ》 與杼六友《ヨドムトモ》 昔人二《ムカシノヒトニ》 亦母相目八毛《マタモアハメヤモ》【一云|將會跡母戸八《アハムトモヘヤ》】
 
○志賀能大和太《シガノオホワダ》――代匠記・考・檜嬬手、古義等は「大わだ」と訓んで、水の灣曲して入込んだ處と解してゐるが、僻案抄、攷證、燈、美夫君志等は「おほわた」と訓んで、大海の義(こゝは大湖の事)としてゐる。海をわた〔二字傍点〕といふは常の事であるし、「太」(ノ)字、清音に用ひぬ事もないやうであるから、後説も然るべきではあるが、本來は濁音の文字で、吉野川の一つの淀みを「夢の和太《ワダ》」(懷風藻の詩には夢淵といつてゐる)と唱へた例もあるから姑く前説に從つておく。いづれにしても歌の意義にはさしたる關係はないが、二説の分れる根據は次の「淀むとも」の一句にあるらしい。
○與杼六友《ヨドムトモ》――「よどむ」は流れんとして流れず徘徊躊躇してゐる貌で、こゝは「いつまで立ちやすらうて待つてゐようとも」といふのである。燈は大湖の水を淀まぬものとして「この大和太の水は淀む世なく勢多の方へ流るゝ故に、たとひ此水の淀む世はありともと、素よりあるまじき事を設けていふなり」と説いてゐる(美夫君志も之に同じてゐる)。一應尤らしく聞えるが、これは狹い文法上の知識に拘泥して、歌人の實情を考へない論といふべきである。なるほど理窟からいへば、大湖の末は勢多川となつて流れ去るには相違ないから、淀むとはいへない。しかし人麿は今、辛崎附近の湖畔に立つて、荒れ果てた舊都の光景に心を傷めてゐるのである。この際、二里も離れた瀬田川口に思を遣つて「此の水は結局淀みはしないが、假りに淀む事がありとしても」などいふ理窟を考へる餘地があらうか。眼前見る所の小灣の水が、思ひなしにや、立ちやすらうて淀んでゐるやうに思はれるので、(164)こゝに人麿の詩思が動いて、低回去るに忍びざる己が心を之に托して、此の歌が生れたのである。實感でなくてかうした歌がよめようか。「とも」は有り得べからざる事を假り設けていふ語であをからとて、美夫君志は卷廿「鳰烏の息長川は絶えぬとも〔二字傍点〕、君に語らふ事つきめやも」(四四五八)といふ歌などを引いて、論じてゐるが、さうした場合の多いには相違ないけれども、「とも」の用法はそれだけには限らない。こゝは未來を要していふので「そのやうにしていつまで淀んで待つてゐようとも」といふのである。現在の状態から推して未來に及ぼすに「とも」といふ外はないではあるまいか。卷五、「言とはぬ木にはありとも〔二字傍点〕うるはしき君がたなれの琴にしあるべし」(八一一)、卷二「秋の田の穗向のよれる片よりに君によりなゝこちたかりとも〔二字傍点〕」(一一四)なども之に準じて見るべきものであらう。要するに「大和太」は入江でも大湖でも歌の要旨には關係はない。(廣くいへば大湖の水も淀んでゐる。辛崎方面から見れば流れるやうな感じはしない。早瀬の水とはちがふのである。)たゞ「淀むとも」の一句が此歌の眼目である。
○亦母相目八毛《マタモアハメヤモ》――「や」は反語、「も」は感動詞。
○將會跡母戸八《アハムトモヘヤ》――これは一本にある結句で「あはむともへや」と訓む。「もへや」は「おもへや」の略、「や」は反語である。さてこの場合「おもふ」といふ語は極めて輕く用ひられ、殆ど意義の尋ねられぬほどなので、「あはむとおもへや」は「あはむや」といふだけの事である。これは古代の語法で、人麿の歌には特に多い。大方反語に伴つて用ひられるがなほ後々の歌で述べよう。
◎一首の意――志賀の大和太の水よ、汝も昔がこひしいと見えて、徘徊顧望して人待ち顔に見えるが、いつまでさ(165)うして待つて居たとても、昔なじみの人に、またと逢ふ事が出來ようや、出來まいぞよ。
此の荒都を弔ふ歌は長歌よりも反歌がよい。殊にこの歌、立ち去りがたき思を、やすらふ水にたぐへた所、情緒纏綿、荒墟を眺め、湖水を眺めてたゝずんでゐる人麿の姿が見えるやうである。卷三、近江國から都に上る途上、宇治河の邊で「いざよふ波の行方しらずも」(二六四)とよんだのは、此の感情の引き續きである。決して古義などのいふが如き單なる景色の歌ではない。なほそれはそこで述べよう。
 
高市古〔左○〕人感2傷近江舊堵1作歌 或書云、高市連黒人
 
高市古人は他に所見がない。或書に高市連黒人とあるがよいであらう。歌の初句に「古人」とあるに眼移りして、書寫の際に誤つたのであらうと言はれてゐる。これだけでは證據とはならないが、古河家所藏の元暦校本の目録に(本文の所は闕けてゐる)「高市連里人云々」とあるから、この「里人」もやがて「黒人」の誤寫であらうと思はれる。又卷一「倭爾者、鳴而歟來良武》「(七〇)といふ歌の同目録には「大上天皇幸2于吉野宮1時高才連黒人作歌」とあつて朱字で才〔右○〕の傍に「市〔右○〕」、黒〔右○〕の傍に「里〔右○〕」と書き添へてあるし、又こゝの「或書云、高市連黒人」の黒〔右○〕(ノ)字も、類聚古集には里〔右○〕とあつて、里人〔二字傍点〕といふが本ではないかと思はれるほどだが、萬葉集全體を通じて仔細に見れば恐らくは「黒人」の誤寫であらう。(卷三には黒を里に誤つた例が殊に古集に多い。)さて黒人の事蹟も明かでないが、歌は卷一、卷三等に數多見えて、藤原宮時代には人麿に次ぐべき作家である。卷三なる覊旅歌八首を見ると、赤人に先だつて客觀的叙景歌に堪能であつたのは此人である。
○「堵」は「都」と通用。
 
(166)32 古《イニシヘノ》 人爾和禮有哉《ヒトニワレアレヤ》 樂浪乃《サヾナミノ》 故京乎《フルキミヤコヲ》 見者悲寸《ミレバカナシキ》
 
○古《イニシヘノ》、人爾《ヒトニ》云々――古の人とは、昔、志賀(ノ)宮に縁故のあつた人の義である。
○有哉《アレヤ》――既に述べた如く「あればや」の意で、「や」は疑辭である。
◎一首の意――大體「麻續の王あまなれや」(二三)といふ歌の所で述べた如く、「我はこの志賀(ノ)宮のゆかり人ではない筈だが、今この荒廢の跡を見ると人事《ヒトゴト》ならず悲しい。あはれ我はそのゆかり人であつたのかなア(何の縁故もないものなら、こんなに悲しく思はれる事もあるまいに)。
理性の判斷を失つて自から訝かるやうに謠つたのは悲の極なのである。
 上なる麻續王を憐れめる時人の歌、「なれや」の「や」が係辭で「苅ります」で結んでゐるが、「ます」は終止も連體も同形であるから、形式の上では明瞭でないが、此の歌では「あれや」が係つて「悲しき」といふ連體で結んだ形が明瞭であるから、相參照してよく古法を辨ふべきである。
 
33 樂浪乃《サヾナミノ》 國都美神乃《クニツミカミノ》 浦佐備而《ウラサビテ》 荒有京《アレタルミヤコ》 見者悲毛《ミレバカナシモ》
 
○國都美神《クニツミカミ》――その國その地方を知ります神の義、我國は所謂八百萬の神の御國で、到る處にそこをうしはきいます地主の伸がある。それが國つ御神である。
○浦佐備而《ウラサビテ》――「浦」は借字で心の義、「うらさび」は心すさびて樂まず、和《ナゴ》やかならぬ義。卷二「晝《ヒル》はも、浦不樂晩(167)之《ウラサビクラシ》(二一〇)又「夕さればあやに悲しみ、明けくれば裏佐備晩《ウラサビクラシ》」(一五九)など集中に多く用ひられてゐるが、皆心おちゐず、なごやかならぬ意である。すさび、荒ぶる意に用ひられるのも畢竟なごやかならぬ所から起る心の状態であらう。さて、うしはきいます神の御心なごまぬゆゑ其地の荒れ行くといふは、古代人の思想さもあるべきである。
◎一首の意――このさゞ浪地方をしろしめされる神の御心遂になごみかねて、さしもの都の、かくまで荒れたのを見ると、何とも悲しさに堪へぬわい。
かく詠じたのは此の作者も、遷都の事は内心うべなひかねたのでもあらうか。其事はうべなひかねても、その荒廢の状を見て心を動かすのは詩人の情である。
 因にいふ。卷三に「高市連黒人近江舊都歌一首」と題し、「かくゆゑに見じといふものを、さゞ浪の故き都を見せつゝもとな」(三〇五)といふのがあつて、左注に「右謌或本曰2小辨作1也、未v審2此小辨者1也」とある。此の歌を味つて見ると、「見せつゝもとな」といふあたり、男子の作とは思はれない。思ふに小辨といふは女で、左注の傳へが正しいのではあるまいか。もし臆測が許されるならば黒人の妻ではないかと思ふ。黒人は妻を携へて遊歴したらしく、白菅の眞野の榛原でも互に唱和した事も見えてゐるから(二七九−二八一)志賀の舊都を訪うた時も或は同伴で、黒人が此の二首に斷腸の思を述べたに對して、妻はこの「見せつゝもとな」の哀歌を以て和したのではあるまいか。かく見るが此歌に最もふさはしいやうに思ふ。それは端書の「古人」を「黒人」の誤とする旁證の一つにもやと、試に述べて見るのである。
 
(168)幸2于紀伊國1時、川島皇子御作歌 或云2山上臣憶良作1
 
川島皇子は天智天皇第二の皇子。此の歌、卷九に重出(一七一六)、そこには端書に「山上歌」とあり、左注に「或云、河島皇子御作歌」とあつて、作者についての傳へは本文と正に表裏してゐる。但、卷九には第二句「濱松之木乃」とあり、結句「年薄經濫」とある。
 
34 白浪乃《シラナミノ》 濱松之枝乃《ハママツガエノ》 手向草《タムケグサ》 幾代左右二賀《イクヨマデニカ》 年乃經去良武《トシノヘヌラム》 一云|年者經爾計武《トシハヘニケム》
 
○白浪乃《シラナミノ》、濱松之枝乃《ハママツガエノ》――初二句、「白浪乃濱」といふ屬けざまにつき、卷九に「白那彌之、濱松之木乃」(一七一六)とあり、濱成式にも「旨羅那美能、波麻麻都我延」とあつて、疑ふ餘地なきにも拘らず、仙覺以來諸家多く怪んで、古歌の續けざまにあらずとし、僻案抄は「白浪」は冠辭か地名かと訝かり、考は「白神の濱」又は「白良の濱」の誤であらうといひ、燈も之に賛してゐるのは、どういふわけであらうか。「白浪の寄する濱」といふべきを省いたのであらうといふ略解の説明を待つまでもなく、白浪と濱と結びつけらるべき因縁が十分あるではなからうか。「天雲の雷」「陽炎の春」「露霜の秋」とさへいふものを。檜嬬手が卷二なる有間皇子の結松を見ての御歌(一四一)として「磐白乃」と改めたなどは、まして論外である。
○濱松之枝乃《ハママツガエノ》、手向草《タムケグサ》――考は卷九の歌に「松之木」とあつて、この「木」(ノ)字、古本には「本」とあるといふので、それより推して本文の「枝」を「根」の誤とし、「松が根」と訓んでゐる。略解之に同じて「松が根にあらざれば(169)説きがたし」とさへ言つてゐるが、これもどういふ考であらうか。手向といふものは必ず松の根本にするものと思うたのであらうか。濱松の根もとに手向けた品物ならば、浪にさらはれぬまでも久しく殘つてゐる事は不可能であらう。梢上高く掛けた手向草なればこそ、風雨にさらされながらも、年久しく傳はつて此の感懷を寄せるよすがとなつたのではあるまいか。「松が枝ならでは説きがたし」と言ひたい。さてその手向の具はいかなるものであつたか能くはわからないが、赤白などの布帛を細かに切つてまき散らしたのは中世からの事で、上代は木綿、麻等をその儘手向けたものらしい。こゝも恐らくはそれで、要所々々の道の神に旅路の安全を祈るのが、昔の習俗であるから、前人の手向けた品が、縒れ/\になりながら、なほ枝上に懸つてゐたので、遠い昔が思ひ出でられたのであらう。さて「草」は「種」で手向の具である。
○幾世左右二賀《イクヨマデニカ》、年乃經去良武《トシノヘヌラム》――「左右」は「まで」と訓む。こゝに、まで〔二字右○〕とにか〔二字右○〕と重用したについて少し考へねばならぬ點がある。「まで」に重きを措いて説けば「今後いつまで經行くらむ」と未來にかけて見ねばならぬが、「まで」を輕く見て「か」に重きを措けば、「今までに幾世經來つた事であらう」と現在の立場から過去を思ひやる事となる。「經ぬらむ」を「經行くらむ」と見るもいかゞである上、歌としても、かゝる折には昔を思ひやるが人情の常であるから、今は後説に據つて説いておかう。さすれば「まで」は極めて輕く用ひられたので「幾世經來るほど」といふほどの意であらう。一本の「年者經爾計武」も、大體同じ意で、その差は現在をこめると籠めぬとにあるが、現在は刻々過去となるのであるから、かゝる折には大體同意に落つるのである。美夫君志は兩者を別意に見て、「經ぬらむ」を「行末幾代まで經行くらむ」と説き、「經にけむ」をば「今までに幾世か年は經けむ」と(170)説いてゐるが、畢竟は「まで」を重く見ると否との差で、「へぬらむ」と「へにけむ」とから生ずる差ではない。それにしても「經ぬらむ」を「經行くらむ」と未來に見るのは、どうであらうか、首肯しかねる。――さて「まで」に「左右」の二字を當てたのは「左右手」の略で、眞帆、片帆といふが如く、片手に對して兩手の事を「まて」といつたからである。集中には「二手」「諸手」などもかいてゐる。之に就いて、仙覺抄におもしろい挿話が出てゐる。それは梨壺の五人が初めて萬葉に訓點を施す時、この歌の第四句を訓みかね、源順が石山に參籠して祈願をこめたが、歸途、大津の旅宿で、宿の主が荷物を扱ふ馬子に向つて、兩手《マテ》もて扱へと注意したのを聞いて、翻然と其意を得たといふのである。當てにはならぬ傳説だが、昔から萬葉の研究者が、いかに訓點に腐心したかを窺ふべき料とはなるであらう。
◎一首の意――白浪寄する濱邊の松が枝にかゝつてゐる手向の品よ、いつの世、誰人の手向やら、其人は今は世になき人かも知れぬが、ありし手向草は、雨風に打たれながら、今なほかたみを留めてゐる。之を見るにつけても遠い昔がしのばれるわい。
本集だけで見ても、齊明天皇(川島皇子の御祖母)中皇命(皇子の御叔母か)などの牟婁湯におはしました事もあるから、他にもそこばくあつて、それ等の物語も傳はり、手向草も多少殘つてゐたのであらう。今いづれをいづれと指し難いながら、それ等の昔に思を馳せて、かく歌はれたのであらう。(手向草は失せてなかつたらうが、たゞ言ひ傳へを聞いて詠まれたものとする説には同意が出來ない。歌の構造から見ると、上三句は現に見る物についての呼掛けの格で、下二句はそれに就いての感懷でなければならぬ。)
 
(171)日本紀曰、朱鳥四年庚寅秋九月天皇幸2紀伊國1也。
 
略解は朱鳥四年を同五年の誤としてゐる。なるほど持統天皇の紀伊行幸は庚寅の年である事は明かであるし、朱鳥の年號は天武天皇の末年丙戌の歳に立てられたのであるから、それから推算すれば、庚寅は朱鳥五年でなければならぬが、美夫君志は今の日本紀と舊本の日本紀(?)との年紀に一年の差ある事を説き(既に述べた)、こゝは舊本の日本紀に依つたものと辨じてゐる。果してさうであらうか、研究すべき問題である。一體今の日本紀に依ると、朱鳥の年號は丙戌の歳たゞ一年だけて、持統紀(翌年丁亥を持統天皇元年としてゐる)には年號を立てゝゐないが、所謂舊本の日本紀は、同年號を持統天皇の御代まで推し及ぼし、その元年を以て改めて朱鳥元年としたものであつたらうか(美夫君志別記の日本紀年紀攷參照)。
 
越2勢能山1時阿閉皇女御作歌
 
勢能山(背山)は紀伊國伊都郡背山村にある山の名、大和から紀伊國に越える通路で、紀(ノ)川の右岸にある。左岸なる妹山と相對つて、昔から名高い處である。――阿閉皇女は天智天皇第四の皇女、草壁皇子の妃、文武天皇の御母、後御位に即かせられて元明天皇と申す。
 
35 此也是能《コレヤコノ》 倭爾四手有《ヤマトニシテハ》 我戀流《ワガコフル》 木路爾有云《キヂニアリトフ》 名二負勢能山《ナニオフセノヤマ》
 
○比也是能《コレヤコノ》――略解に本居翁の説を擧げて「これやこの〔五字傍点〕はこれやかの〔五字傍点〕といふ意なり。かの〔二字傍点〕といふべき事をこの〔二字傍点〕とい(172)へる例多し。さて上のこれ〔二字傍点〕は今現に見るものを指していふ。かの〔二字傍点〕とは常に聞き居る事、或は世にいひならへる事をさしていふ」といつてゐるのがよい。古き一種の語格で、蝉丸の「これやこの徃くもかへるも云々」の歌も、卷十五に「これやこの名に負ふ鳴門のうづ潮に、玉藻苅るとふあま少女ども」(三六三八)とあるも同樣である。此歌では「これや」が「勢能山」にかゝり、「この」は「木路にありとふ」にかゝる。組立の大本はそれだけで、圖に示せば次の如くである。
 これ〔二字傍長方形〕やこの處……木路にありとふ〔この〜傍長方形〕 勢い能山〔三字傍長方形〕
「や」は疑辭であらうが意は輕い。「これがかね/”\木(ノ)國にあると聞いてゐた背の山かいなァ〔四字傍点〕」といふほどの意である。これだけなれば至つて明瞭であるが、たゞ此歌には修飾語が多く、それがさき/”\に用ひられて構造が複雜になつてゐる。まづ「背の山」の修飾語として「名に負ふ」が用ひられ、更に「背」だけの修飾として「大和にしては我が戀ふる」が用ひられてゐる。「名に負ふ」は名に負かざる義(點じては其名高く音に聞ゆる意ともなる)、元來は雄略紀の歌に「はふ虫もかくのごと名におはむ〔三字傍点〕」とある如く、或る事がらを名に負ひ持つ意であるから、こゝも「こひしき夫《セ》の君のせ〔右○〕といふ事を名に負ひもつ山」といふほどの意であらう。「倭にしては云々」は「倭では」の意、こゝは紀(ノ)國のせ〔右○〕の山だが、假りに大和だとすれば、そこにおはしました戀しき君の事となるといふのである。この二句、構成上では「背」の修飾語に過ぎないが、歌をよまれた動機がそこにあるので、歌としては主要な點である。
◎一首の意――これがかね/”\聞いてゐた名高い背の山かいなァ。せ〔右○〕といふはなつかしい名で、こゝは紀の國だが、(173)もし故郷の大和だとすれば、そこにおはしました戀しき君の事ともなる。その戀しさを名に負ひもつ背の山はここかいなァ。
この御歌、萬葉集記載の順序によつて、持統天皇庚寅の行幸に供奉せられた時の御作とすれば、その前年に夫の君、草壁皇子が薨ぜられてゐるから、今この背の山に對して、年頃忘れ難き夫の君をおぼしめし出でゝの御述懷であらうと哀深く感ぜられる。たゞ結構が巧に過ぎて、爲めに眞率の氣分を缺くから、讀み去つて、さほど感情の動かされぬのが遺憾である。
 諸家の註は萬葉記載の順序に重きを措かないらしく、多くは草壁皇子御在世中の御歌として説いてゐる。燈などは旅中から夫の君に送つた歌であらうといつてゐるが、同時に持統天皇四年庚寅の行幸に供奉せられた時の御作と認めてゐるらしいのが訝かしい。又大和では戀うたが、從駕中は思ひ絶えて慎んでゐるさまに詠みなしたものといふなどは、例のこちたき理窟である。
 
幸2于吉野宮1之時柿本朝臣人麿作歌〔左○〕
 
今本人麿作の下に「歌」(ノ)字はないが、多くの古寫本によつて補つた。――吉野宮は天武天皇の條で述べたと同じ離宮で、持統天皇もしば/\行幸せられた事は紀に見えてゐる。
 
36 八隅知之《ヤスミシヽ》 吾大王之《ワガオホキミノ》 所聞食《キコシヲス》 天下爾《アメノシタニ》 國者思母《クニハシモ》 澤二雖有《サハニアレドモ》 (174)山川之《ヤマカハノ》 清河内跡《キヨキカフチト》 御心乎《ミコヽロヲ》 吉野之國之《ヨシヌノクニノ》 花散相《ハナチラフ》 秋津乃野邊爾《アキツノヌベニ》 宮柱〔左○〕《ミヤバシラ》 太敷座波《フトシキマセバ》 百磯城乃《モヽシキノ》 大宮人者《オホミヤビトハ》 船並※[氏/一]《フネナメテ》 旦川渡《アサカハワタリ》 舟競《フナギホヒ》 夕河渡《ユフカハワタル》 此川乃《コノカハノ》 絶事奈久《タユルコトナク》 此山乃《コノヤマノ》 彌高良之《イヤタカヽラシ》 珠水激《イハバシル》 瀧之宮子波《タギノミヤコハ》 見禮跡不飽可聞《ミレドアカヌカモ》
 
○所聞食《キコシヲス》――古く舊訓等は「きこしめす」と訓んでゐたのを、考は「きこしをす」に改めた。假名書の例はどちらにもあるが「食國」「苅食」など、「食」(ノ)字を「をす」と訓むが常であるから、こゝも「きこしをす」の方がよからう。「をす」は本來「食ふ」意であるが、本居翁の言はれた如く、五官に關する事は、物を身に受け入れる意で、相通はして「食《ヲ》す」とも「見《ミ》す」(めす)とも「聞こす」とも、又「知らす」ともいふのである。
○國者思母《クニハシモ》――「しも」は強く指示する助詞(元來は「し」が強むる助詞、「も」は感動詞であらう)。
○澤二雖有《サハニアレドモ》――「さは」は數多き意の古言で「澤」は借字、紀には「多」(ノ)字を當てゝゐる。古事記、神武天皇の御歌
に「比登佐波〔二字傍点〕爾、岐伊理袁理、人さは〔二字傍点〕に入り居りとも云々」とある。
○山川之《ヤマカハノ》 清河内跡《キヨキカフチト》――「河内」は「かふち」則ち「かはうち」で、河のめぐり流れる處をいふ。卷十四に「阿之我(175)利能、刀比能可布知〔三字傍点〕」(三三六八)などある。のちにはたゞ川に沿うた地をもいひ、下の反歌では川をもこめていつてゐる。さてこゝは山路を流れる川の意ではなく、山と川とを並べ擧げた意らしいから、「やまかはの」と清んで訓むがよい。山秀で水清き河内の地をいふのである。それは後段に「此川の」「此山の」と列べ擧げたのでも知られる。「河内跡」の「と」は「とて」の意。
○御心乎《ミココロヲ》、吉野國之《ヨシヌノクニノ》――「御心を」を代匠記、考、古義等は枕詞とし、吉野をよしと見そなはして御心を慰め給ふ意で、神功紀の御心廣田國、御心長田國と同じ趣と説いてゐる(冠辭考)。それがよからうかと思ふ。隨つて「乎」は名詞格の弖仁平波ではなく「よ」といぶ意の助詞であらう。美夫君志は之を難じて、御心を寄せ給ふ意を吉野の「吉」にかけた掛語と見てゐる。これも聞えた説ではあるが、その續けざま、やゝ後の調子めいて、上代にはふさはぬやうにも思はれるから、姑く前説に從つておく。これは各自の感じに任かせる外はあるまい。さて「吉野國」の「國」は一地方をさしていふ語で、「處」といふほどの義、前の「國はしも」の「國」も同樣である。
○花散相《ハナチラフ》、秋津乃野邊爾《アキツノヌベニ》――「ちらふ」は「ちる」を波行四段に轉用したので、連續的の動作をあらはす事、前に述べた「かへらひぬれば」に同じい。花が頻りに散るのである。なほ言ひかへれば、各種の花が、それからそれと咲き亂れるのである。咲かぬ花の散るやうがないから、「ちらふ」といふ語で、花の盛に咲き亂れる趣を聞かせたのである。畢竟調子の爲なので、「散る」といふ語に泥んではならぬ。さて秋津野は吉野山の麓から上流一里餘りの地で、離宮の在つた處である。隨つて離宮を秋津(ノ)宮とも稱へたらしい。秋津野は蜻蛉野とも書き、其名に關する一種の傳説は雄略紀に出てゐる。
(176)○宮柱《ミヤバシラ》、太敷座者《フトシキマセバ》――「枉」(ノ)字、流布本には「桂」とあるが、誤寫なる事明かであるから、古寫本によつて改めた。さて「しき」は「しり」と同意で、そこを領する事である。古事記に「於底石根宮柱布刀斯理〔四字傍点〕」とある同じ事を、祝詞では「下津磐根爾宮柱太數〔二字傍点〕立」といつてゐる。(此集には多くは「太敷」とある。)「太」は美稱で、柱は太きを貴ぶからではあるが、たゞ柱だけについていふのではない。天皇のそこをめでたく知ります意をも響かせていふのである(古事記傳十の卷參照)。
○船並※[氏/一]《フネナメテ》、旦川渡《アサカハワタリ》、舟競《フナギホヒ》、夕河渡《ユフカハワタル》。――旦川夕河は對句の料に分けただけで、朝夕の時刻には關係はない。「船並※[氏/一]」は前に「馬並めて」とある「並めて」と同じ心。「舟競」も同樣で、訓は古くさま/”\に訓んでゐたが、考に卷二十「布奈藝保布〔五字傍点〕堀江の河」(四四六二)とあるによつて「ふなぎほひ」と訓んだのがよからう。こゝは動詞である。さて此の四句、諸註大方供奉の臣たちが、分番交替して離宮に奉仕する意に取り、燈、古義などは川のあなたに〔六字傍点〕宿れる人々の川を渡り來て〔六字傍点〕勤務する事と見てゐるのはいかゞである。これは早く代匠記に「御供の諸臣の樂ぶよしをいふ」といつてるのがよい。供奉の大宮人が清き流に棹さして逍遥する樣を叙したので、そこに君臣和樂する太平の象も窺はれるのである。(次の反歌には天皇の舟遊し給ふ趣も見えてゐる。)昔の純眞な歌を、ともすれば後世のしかつめらしい理性で見る説の多いのが遺憾である。さてこゝで段落であるから「夕河渡り」と訓む舊訓は穩かでない。玉(ノ)小琴の訓に隨つて「夕河渡る」と言ひ切るべきである。
○此川乃《コノカハノ》、絶事奈久《タコルコトナク》、此山乃《コノヤマノ》、彌高良之《イヤタカカラシ》――此の四句、さしたる難もない事と思ふが、諸註多くは明瞭を缺いてゐる。代匠記は「臣下の仕へまつる事は吉野の川の絶えぬが如く、君の高御座にいます事は吉野山の高きが如く」(177)などいつてゐるが、さうではない。すべて山と川とにたぐへて大宮のめでたからん行末を祝ふのである。「高」といふ語にも泥んでゐるやうだが、「高」はたゞ美稱で、柱いついて「太」といふが如く、山について「高」といふだけの事で、要はめでたからむ事を祝ふのである。宜命に「彌高〔三字傍点〕仕奉」とあるも、めでたく仕へ奉る意、「天下彌高彌廣〔六字傍点〕云々」とあるも、天の下の政をめでたくしろしめす意である。「宮柱太知」も、大宮を造營して、めでたくしろしめす意であるが、そを柱に響かせて「太知」といふ一語で聞かせたやうに、山といふについて、大宮のめでたからん行末を「高からし」の一語であらはした所が、簡潔な古言の活きである。さて「高良之」元暦校本、類聚古集等には「高思良」とあるけれど、訓はなほ「タカヽラシ」とあるから、「思良」(ノ)二字恐くは顛倒であらう(なほ次の句の所で述べよう)。
○珠水激《イハバシル》、瀧之宮子《タギノミヤコハ》――此訓は少し訝かしい。舊訓は「珠水」にて句を切り、「激瀧」と連ねて「たまみづの、たきのみやこ」と訓み、拾遺集にも「たまみづの、たぎつのみやこ」として載せてゐるが意を成さぬ。僻案抄に至つて「珠水激」と三字連ねて「いはなみの」と訓んだが、考は更に「いはゞしる」と訓み改めて瀧の枕詞とした。後又古義は「珠」を「隕」の誤として「おちたぎつ」と訓んだが、誤字説といふ難がある上、卷十五「伊波婆之流〔五字傍点〕たぎもとゞろに、(三六一七)といふ例もあるので、一般には考の説が行はれてゐるから、姑くそれに從つておく。然るに元暦校本には「高思良」とあるので、下の珠〔右○〕まで連ねて、「たかしらす」と訓む説が近來行はれる。なるほど面白い説ではあるが、元暦校本をよく見ると、赭で思〔右○〕と良〔右○〕と顛倒の記號を附してあるし、實際傍訓も「タカヽラシ」とあるから思良〔二字右○〕の二字は顛倒とせねばなるまい。本文はいふまでもないが、古典は傍訓についても閑(178)却してはなるまいと思ふ。但し類聚古集はやはり珠で句を切り「水激」の二字を「ミナギル」と訓んでゐるが、上句の「高思良珠」には訓はない。とにかく多くの古寫本に照しても元暦校本の傍訓から推しても、語勢から判斷しても「高からし」が穩當な訓かと思はれるから、姑く從來のまゝにしておく。此の離宮の在つた處といはれる宮瀧附近は、兩岸相迫つて狹き所僅に三間ばかり、水その間をたぎち行くから「いはゞしる」といつても然るべき所である。瀧の宮といふ稱も、これから出たのであらうし、そを逆に瀧を宮(ノ)瀧と唱へるやうにもなつたのである。「瀧」は「たぎ」と訓じ、水に激して泡立ち流れる所をいふので、今の所謂瀑布ではない。今、湯の沸き立つ事を「たぎる」といふも同じ意である。「宮子」は「宮處」の義、こゝはやがて宮の事である。
◎一首の大意――わが天皇のしろしめされる天の下に、國といふ國、處といふ處はあまたあるけれど、中にもこの吉野といふ處は、山秀で川清く、そを見そなはして御心よく和むばかりにおぼさるゝ勝地であるが、そこの春に秋に花散り亂るゝ(花咲き亂るゝ)風情おもしろき秋津野のほとりに、めでたく離宮を御造營になつておはしますと、供奉の大宮人は朝に夕に舟を並べて、清き川の隈を逍遥してゐる。(まことに見るも太平な姿である。)さて此の吉野の川の流絶えざるが如く、此の大宮はいつまでも御榮えになる事であらう。この吉野の山の高く秀でゝゐるが如く、此の大宮はいや高にいや遠に榮えさせられる事であらう。かゝるめでたき大宮處は見れど/\見飽かぬ事であるわい。
 
反歌
 
(179)雖見飽奴《ミレドアカヌカモ》 吉野乃河之《ヨシヌノカハノ》 常滑乃《トコナメノ》 絶事無久《タユルコトナク》 復還見牟《マタカヘリミム》
 
○常滑乃《トコナメノ》――明かでない。從來の説には凡そ數踵ある。(一)常滑は底滑で河底の石などに附著した水苔のやうなもの(古義)、(二)考、檜嬬手、攷證等も「滑」を水苔やうの物としてゐるが、たゞ「常」をとこしへ〔四字傍点〕の意に見てゐる。(三)永へに水の滑らかに流れる事(燈、美夫君志)、(四)常に滑らかな巖(仙覺抄、――略解は永へにいつも變る事なく滑らかなるよしなりといつてるだけで、水か巖か明かでない)。さて此等の説を批評するについて、まづ心得ておかねばならぬ事は、(イ)吉野は常滑といふべき處で、そは歌から推して宮(ノ)瀧附近をいつたものであらうといふ事、(ロ)「常滑乃」までは「絶ゆる事なく」と言はむための料であらうから、一見して「とこしへ」といふ感じを起させるやうな物(又は事)であらうといふ事である。此等の點から推して考へると、宮(ノ)瀧は一種の激瑞であるから、水苔などの生ずる處とは思へない。よし多少何かゞ生えたとしても「とこしへ」といふ感じを起させるほどのものとは考へられないから、(一)(二)の説はふさはしくないと思ふ。水の滑らかに流れる處ではないから(三)の説も當らない。(流れ絶えせぬといふだけの意ならば、常滑などいはずとも、いくらも言ひ樣があらう。)で、已むなくんば(四)の説に據る外はあるまいかと思ふ。次に集中に用ひられた常滑といふ語の例を見ると、卷九「妹が門、入りいづみ河の床奈馬〔三字傍点〕にみ雪殘れりいまだ冬かも」(一六九五)、卷十一「隱口の豐初瀬路は常滑〔二字傍点〕のかしこき路ぞ云々」(二五一一)の二つがある。前の歌は白浪又は水の泡を殘雪と見立てた意であらうから、水底の苔としては解けない。古義は「苔の附着したる砂石に白沫などの溜れるを見て」など説いてはゐるが強解たるを免れな(180)い。滑かに流れる水では勿論ない。どうしても岩にせかれてたぎち行く水と見る外はない。笠金村が同じ吉野川を「白木綿花に落ちたぎつ瀧のかふち」(九〇九)と詠んだと同じ心ばへであらう。初瀬路はよくは知らないが、歌によつて見ても、人の話に聞いても、やはりたぎち行く流の中に、水に洗はれた岩が數多轉がつてゐる處らしく、山路にはありがちな處と思はれる。さてその河中又は河側の岩が遠い昔から絶えず水に洗はれて、いつとなく角がとれて滑かになつてゐる。それが常滑ではあるまいか。就いて思ひ出されるのは、前にあつた吹黄刀自の波多横山の歌である。それは河邊の岩石が水に洗はれて草も蒸さず、つやめいてゐるのを、十市皇女によそへて「常處女にて」と詠まれた事は既に述べたが、かうした状態が、「とこしへ」といふ感じを起させた事も此歌で知られる。かた/”\予は此の仙覺の説に心引かれる。仙覺は「常に滑かなる巖なり」と、唯一句、事もなげにいつてゐるが、その頃までは、よく知られて、さしてむづかしい事ではなかつたのではあるまいか。(尾州の知多半島に常滑といふ地がある。その海岸は軟岩で、たえず波に洗はれて、つやゝかな處だと聞いてゐるが、これも參照すべきであらう。)
 井上博士の新考に木曾の寢覺の床を思ひ寄せたらしく、「とこ」にとこいは〔四字傍点〕の略で、頂平らかな巖の事、「なめ」は並〔右○〕で、その岩の列をなせるをいふ(つまり今の所謂飛石)と説かれてゐるが、これも面白いけれど、吹黄刀自の歌から推して、なほ仙覺の説に心引かれる。折があらばよく宮の瀧附近や初瀬路等を踏査して定めたいと思ふ。 (追記)
◎一首の意――見れど見飽かぬ此の吉野の川の常滑なるが如く永へに我も立ちかへり/\御仕へ申さうと思ふ。
   ○
(181)38 安見知之《ヤスミシヽ》 吾大王《ワガオホキミノ》 神長柄《カムナガラ》 神佐備世須登《カムサビセスト》 芳野川《ヨシヌガハ》 多藝津河内爾《タギツカフチニ》 高殿乎《タカドノヲ》 高知座而《タカシリマシテ》 上立《ノボリタチ》 國見乎爲波《クニミヲスレバ》 疊有《タタナハル》 青垣山《アヲガキヤマノ》 山神乃《ヤマツミノ》 奉御調等《マツルミツギト》 春部者《ハルベハ》 花挿頭持《ハナカザシモチ》 秋立者《アキタテバ》 黄葉頭刺理《モミヂカザセリ》 遊副川之《ユフカハノ》 神母《カミモ》 大御食爾《オホミケニ》 仕奉等《ツカヘマツルト》 上瀬爾《カミツセニ》 鵜川乎立《ウカハヲタテ》 下瀬爾《シモツセニ》 小網刺渡《サデサシワタス》 山川母《ヤマカハモ》 依※[氏/一]奉流《ヨリテツカフル》 神乃御代鴨《カミノミヨカモ》
 
○神長柄《カムナガラ》、神佐備世須等《カムサビセスト》――二つの「神」(ノ)字、舊訓は何れも「かみ」と訓んでゐるが、げに「可美佐夫流〔五字傍点〕、伊古麻多可禰」といふ例もないではないが、集中には「可武〔二字傍点〕奈加良」「可武〔二字傍点〕佐備伊麻須」などいふ用例が多いから、近代の訓に從つて、「か|む《ン》ながら、か|む《ン》さびせすと」と訓んでおかう。「ながら」(「長柄」は借字)は「しかしながら」などの「ながら」ではなく〕昔ながらの山櫻」などいふ意の「ながら」で、「神ながら」は天皇を神として崇めいふ語、「神にておはしますまゝに」といふほどの意である。「さび」は、さび、さぶ、と活く接尾辭で、男さび、少女さび、翁さび、など、其物に相應するすさび〔三字傍点〕をする意、「せす」は既に述べた如く、佐行變格「す」の敬語法で、(182)その未然形「せ」から、更に佐行四段に轉じたもので、二句連ねて「天皇はそのまゝ神でおはしますから、神樣にふさはしいすさびをし給ふ」といふ事になる。畢竟「大王は神にてませば云々」と同意に歸するのである。さて歌の上では、天皇のし給ふ事は、何事をも崇めて「神さびせす」といふので、こゝも其下にある「吉野川たぎつ河内に、高殿を高知りまして、上り立ち國見をする」といふ事を稱へていふのである。「せすと」の「と」は「とて」の意。
○多藝津河内《タギツカフチ》――「たぎつ」は四段活用動詞の連體形で、沫立ち流れる事である。かく動詞として用ひた例は、卷六「落多藝都《オチタギツ》、湍音毛清之《セノトモキヨシ》」(一〇五三)、同卷「清き河内の多藝津《タギツ》白波」(九〇八)、卷十七「於知多藝都《オチタギツ》、清きかふちに」(四〇〇三)などあまたある。
○高知座而《タカシリマシテ》――既に述べた如く「高」は美稱、高殿といふについて「高知」といふので、めでたくしろしめされる事である。
○國見乎爲者《クニミヲスレバ》――こゝは天皇の國見し給ふ意であるから、「すれば」にてはふさはずとて、橘守部の墨繩では「乎」を「之」の誤として「國見しせれば」と訓んでゐる。げに元暦校本には「爲※[勢の草書]婆」とあり、類聚古集にも「爲藝者」とあるから、何か誤があるかも知れねど、明かでないから姑く本のまゝにしておく。
○疊有青垣山《タタナハルアヲガキヤマノ》――青山垣の如く周つてゐるを青垣山といふ。「たゝなはる」は長きものゝうぬ/\と疊まり重なる意(禮記「主佩垂則臣佩|委《タヽナハル》」)、こゝは群山蜿蜒と列なつてゐる意で、青垣山の形容である。然るに萬葉集の歌には「たたなづく〔五字傍点〕青垣山」とつゞいた例ばかりなので、こゝも「有」を「付」の誤として「たゝなづく」と訓む説(183)が多い(古義は「着」の誤としてゐる)。然るに「たゝなづく」は「たゝなはりつく」義と解せられて、どちらにしても同一に用ひられる語であるから、明かに「疊有《タヽナハル》」とある所まで強ひて誤字として一樣にせねばならぬ必要はあるまい。寧ろ唯一の遺例として珍重すべきではあるまいか。あまりに假名書の遺例といふ事にのみ泥めば、古事記の遺例によつて「高照」をも「たかひかる」と訓む事になるのである。さて又玉(ノ)小琴は「青垣山の」と、「の」を添へて訓むはわろしとて、「青垣山は花かざしもち」と續く意であるから「青垣山」と、句を切つて訓むべしといひ、檜嬬手、古義、攷證等も賛意を表してゐるが、どうであらうか、考ふべきものと思ふ。「青垣山」と「山つみ」とを別々に取り扱うて、「まつる御調」の主語を「山つみ」とし、「花かざし持ち」の主語を「青垣山」としては、組立ていかにもせゝこましく煩はしくて、人麿の調とも思はれない。こゝはやはり「青垣山の〔右○〕山つみ」と山を繰りかへした修辭法で、その山つみが御調として花黄葉を持ちかざす意と大らかに見たい。(「青垣山は」と言はないで、言ひ切つた語調も少しふつゝかに聞えるが、どうであらうか。)
○山神乃《ヤマツミノ》、奉御調等《マツルミツギト》――山神は「山つみ」と訓むべく、青垣山の主をいふ。「奉」は「まつる」と訓み、「たてまつる」義、「御調と」の「と」は「とて」の意。
○春部者《ハルベハ》云々――春べの「べ」は「野べ」「山べ」などの如く輕く添へた語でこゝはたゞ春の事である。強ひていはゞ「春の頃ほひ」とでも譯すべきであらうか。小琴の「春ばえ」の説には賛成が出來ない。さて此四句は春秋に咲き匂ふ花黄葉も、畢竟は山の神の君にさゝげる御調ぞとの意である。
○遊副川之《ユフカハノ》、神母《カミモ》――遊副川は明かでない。仙覺抄には「吉野にある川の名なり、かしこにはゆかは〔三字傍点〕といふとかや(184)云々」とあるが、それも吉野川の本流か支流か明かでない。大和志には吉野川を説明して「原自2大臺原山1流出……至2東《ウブ》川1、舊名遊副川」と見えてゐるが、これも今の所謂|東《ウブ》川が、萬葉にいふ遊副川の事であらうといふ前提の下に書かれたものらしく、その東《ウブ》川も吉野山の麓あたりと稱するだけで、確かな證據とはならない。(其の他、考、墨繩等それ/\説はあるけれど、すべて確かではない。)然るに元暦校本には「逝〔右○〕副」とあるので、それに據つて近來「ゆきそふ」と訓み、離宮のあたりを沿うて流れる意に見る説がある。なるほどこれは面白い説で、「ゆきそふ」で句とすれば、下句は「川之神母」といふ六言の句となつて、調もよくなるから、「遊副川」が明かでないに就けても、注意すべき問題だと思ふが、諸他の古寫本が、すべて「遊」とある上、元暦校本も、訓は「ユフカハ」とあるから、「逝」はやはり「遊」の誤寫ではないかと疑はれるのである。なほいへば、元麿校本には「神母」の傍に「神之」の二字を小さく補つてゐるが、「神之神母」も語を成さないから、これも「川之神母」の誤寫ではないかとも疑はれる。さすれば元暦校本の本文は「遊副川之、川之神母」となつて、「青垣山の山つみ」と「遊副川の川の神」と相對して結構一段と、うるはしくならう。とにかくに考ふべき餘地が、あまたあると思はれるから、今は姑く從來のまゝにしておく。(古葉略累聚鈔の訓には「ゆきそふ川の」とあるさうだから、此をも參照して研究すべきである。)さて從來の訓によれば、「神母」は三言一句で、上の三山歌に「虚蝉毛、嬬乎〔二字右○〕、相格良思吉」(一三)、卷二、大后の御歌に「若草乃、嬬之〔二字右○〕、念鳥立」(一五三)と同じ趣である。
○大御食爾仕奉等《オホミケニツカヘマツルト》――「大」も「御」も敬稱、「食」は食物の事で、こゝは天皇の御膳部の料をいふ。「仕奉等」の「と」は「とて」の意。
(185)○上瀬爾鵜川乎立《カミツセニウカハヲタテ》、下瀬爾小網刺渡《シモツセニサデサシワタス》――上つ瀬、下つ瀬はたゞ對句の料で、そここゝの瀬をいふ。「鵜川乎立」は鵜飼を催す事、鵜を川に放つて鮎を捕らせるから鵜川といふので、その鵜川即ち鵜飼をする事を「鵜川乎立」といふのである。一體「立つ」といふ語の用法は十數種もあつて、極めて繁雜であるが、「鵜川乎立」といふに就いても從來數説ある。「鵜川をたち」と訓んで、川の前後を斷ち切る事とする考の説は論外だが、玉の小琴が鵜飼する人どもを立たする事としたのも、いかゞである。美夫君志が鵜にて魚を捕るわざを指したものといつてるのはよいが、「御獵立師」(四九)「朝獵爾今立須良思」(三)などを例に擧げたのは徹底しないと思ふ。こゝの「立つ」は今、俗に「市が立つ」などいふと同じ心ばへで、多人數が集つて何か催す事をいふのであるり(源氏物語などに「いかめしき願どもを立てさせ給ふ」などある「立て」もそれであらう。そのわざを始めるのである。催すのである。)思ふに昔鵜飼の催される折には「今夜は鵜川が立つ」といふやうに唱へたのであらう。然るに集中の用例を見ると、卷十七「清き瀬ごとに宇加波多知〔五字傍点〕」(三九九一)、又は「八十伴男は宇加波多知家理〔七字傍点〕」(四〇二三)など、多く「たち」と用ひてゐる。それ故「斷ち」といふ考の説も出て來たのであらうが(元暦校本の傍訓にも「タチ」とある)、それは「鵜川に〔右○〕立つ」意と、思はれんでもないけれど、或は萬葉時代には、他動詞も四段に活用したのではないかとも考へられるから一考すべきである。(平安時代になつてからは他動詞は下二段である)。又「小網」は「さで」と訓むべく、和名抄に「※[糸+麗]佐天網如2箕形1、狹後廣前者也」とある。今も手網の事をさで網といふ。それを然るべき處にさしかけて、魚をすくひ捕るのである。さて鵜をつかひ、さで網を渡すなどは、人民のするわざであるが、かくして捕れる魚は、やがて川の神が我君に奉る御調ぞといふ心ばへなのである。――さてこゝ(186)は山と川との對を收束して一段の結とした所であるから、古義の説の如く「さし渡す」と言ひ切るべきである。諸註多く「渡し」と訓んでゐるのはよくない。(この事はなほ次に述べよう。)
○山川母《ヤマカハモ》、依※[氏/一]奉流《ヨリテツカフル》――「依※[氏/一]」を請註多くは帝徳に歸依する意に見てゐるらしいが、歌全體の概念はそれには相違あるまいけれど、うちつけに歸依の意に説くのはどうであらうか。こゝは諸共に「相寄りうちよる」意で、人民のみならず、山の神も川の神も、よりて〔三字傍点〕擧りて仕へまつる義ではあるまいか。それが帝徳の盛なる爲めである事はいふまでもない。
こゝに此歌の構造について一言しておかう。まづ國見をすればまでは冒頭で、神にておはします天皇が高殿を營ませ給ひ、折々登りまして山河の形勢を見そなはす事を述べたもの(國見をするといふ語の中に山河の形勢を見そなはす意が含まれてあるものと見るべきである)、次に山と川とを二節に分け、八句づゝの對を以て之に應じ、山河の神のそれ/”\奉仕する趣を述べて、君徳を稱へると共に山河の形勢の凡ならざるを叙してゐる。しかも各對の中に又二句づゝの小對を設けて、鈞勢をさへ取らせてゐる。末三句は結末で、前段の山と川とを收束し、冒頭の「神」といふに呼應して結んでゐる。之を圖に示せば次の如くである。
 
                   春部者、花捕頭持
           疊有、青垣山  秋立者、黄葉頭刺理
神長柄…國見乎爲波                    山川母、依※[氏/一]奉流、神乃御代鴨
           遊副川之、神母 上瀬爾、鵜川乎立
                   下瀬爾、小網刺渡
 
(187)然るに從來は「黄葉かざせり」を段落として、そこで前後二段に分つ説が多い。なるほど「かざせり」は終止形であるし、「小網刺渡」を「わたし」と訓めば、外に終止する所がないから、こゝを段落とするは無理ならぬ事とならうが、それでは冒頭の「國見をすれば」といふ語勢が「かざせり」で終つて、下に及ばぬ事となるばかりではなく、山と川とを並べ收めた結句の承け方も、あまり緊密ではなく、全篇の結構が散漫になる。どうしても青垣山と遊副川とを對にして、「山川母」の一句で承けて收束したものと見る外はない。
そこで又一方では一本の「黄葉かざし」の方を取つて、「さでさし渡し」と中止形で相對させようといふ説も出て來るのであるが、此歌の本文、「黄葉かざせり」と一先づ前聯で結んだのは全く音調のためなので、こゝで段落を切る意ではないのである。一體近江荒都(二九)の歌の一本では、連體格の語法が多くてだれる傾きがあつたやうに、此歌の一本の方は連用形、中止法の語法が多くて、同じ弊に陥りかけてゐる。(「花かざし持ち」「黄葉かざし」「鵜川を立て」等、皆中止形で「さでさし渡し」と訓めば、それも中止形である。)そこで本文の方では「黄葉かざせり」と言ひ切つて、其弊を救はむとしたらしいので、此點に於て本文の方がよいと思ふ。且つ僅々一二句の短き對ならば、前聯を中止法にするも然るべきだが、こゝは八句づゝの長き對で、對の中に又小對をさへ用ひてゐるから、各節別々に結んでも、音調上格別耳障りにならぬばかりではなく、寧ろ散漫に流れる弊を拒ぐのである。(上の舒明天皇國見の御歌(二)では、「國原波、煙立龍、海原波、加萬目立多都」と短き對ですら、各節別別に結んでゐる。)たゞ何れにしても「小網刺渡」は「わたす」と言ひ切らねばならぬ。こゝが山と川とを收束した一篇の段落で、あとは結末だからである。(此の點、古義の説がやゝよい。美夫君志も「渡す」と訓んではゐ(188)るが『「黄葉かざし」の方に對へる時は「渡し」と訓むべく、「頭刺理《カザセリ》」の方に對へる時は「渡す」と切るべし』といつてるのは少し要領を得ぬ)。それから末三句だけの結びを物足らず思ふ人があるかも知れねど、此の三句、上を承け冒頭に呼應する事極めて緊密で、一言のむだがない。結句として十分で、こゝが人麿の力を見るべき所なのである。此歌の構造極めて明瞭で、長々しく説明するまでもないと思ふが、昔から見解がまち/\だから、試に我が見る所を述べておくのである。
◎一篇の大意――我が大君天皇は神でいらせられるから、その神たる御すさびとして、吉野川のたぎち流るゝ河内の地に高殿を御造營遊ばされ、折々登りまして山河の形勢を見そなはすと、四圍の山々の神は我君を慰めまつらんとて、春に秋に花紅葉を持ちかざして我君に奉り、麓を流るゝ川の神も御食の料を奉らんとて、そここゝの瀬に或は鵜飼を催し、或はさで網をさし渡して、魚を捕つて我君にさゝげる。此の如く臣民のみか、山神河伯も諸共に眞心を致して仕へまつる尊き神の御代なるかな。
 
反歌
 
39 山川毛《ヤマカハモ》 因而奉流《ヨリテツカフル》 神長柄《カムナガラ》 多藝津河内爾《タギツカフチニ》 船出爲加母《フナデセスカモ》
 
○因而奉流《ヨリテツカフル》――神の修飾語である。古義は三四の句を轉倒して「多藝津河内」にかけてゐるが、そのやうな文の構造があらうか。長歌の結尾も「山川母、依※[氏/一]奉流、神乃御代鴨」となつてゐるではないか。そのまゝに見て、ど(189)こに不都合があらう。
○船出爲加母《フナデセスカモ》――舊訓は「ふなでする〔二字傍点〕かも」と訓んでゐるが、考に「ふなでせす〔二字傍点〕かも」と改めたのがよい。「せす」は「神佐備世須」の「世須」と同じく「する」の敬語法である。
◎一首の意――臣民のみならず、山の神も川の神も、よりて擧りて仕へまつる尊き神そのまゝの御身で、たぎつ河内に船出し給ふ事かな。
處は山河秀麗なる吉野の地、御身は山神河伯も諸共に仕へまつる神の御身、かゝる御身でかゝる處に船出し給ふを見奉るのが、眼もあやに畏いといふのである。
 此の二首の長歌、初のは大宮人の和樂して仕へまつるさまを叙し、次のは山神河伯も諸共に眞心を致す事を叙して趣旨一貫してゐる。構造もほゞ似てゐるし、長歌の末尾をその儘反歌の初に移して、其間の關係を緊密ならしめた手法も同一である。二首恐くは同時の作であらう。簡單ではあるが、句法格調共に謹嚴で苟もしない。人麿は此の如くにして我國の歌を一段と向上せしめたのである。然るに此の二首の歌を誦すると、支那の昔からあつた應詔の詩賦を思ひ出す事を禁じ得ない。此の歌も恐らくはそれに擬したものであらう。隨つて漢土の詩賦研究の結果が、この莊重なる歌を生んだといふ事は否定出來ない。しかも内容はあくまでも神に對する昔ながらの思想で、所謂漢意には少しも觸れてゐないのは、この場合寧ろ珍重すべきである。
 
右日本紀曰、三年己丑正月天皇幸2吉野宮1、八月幸2吉野宮1、四年庚寅二月幸2吉野宮1、五(190)月幸2吉野宮1、五年辛卯正月幸2吉野宮1。四月幸2吉野宮1者未v詳2知何月從駕作歌1
 
日本紀を見ると持統天皇は此後も年々行幸、前後二十餘度に及んでゐる。こゝに五年までの行幸を擧げてゐるのは、その頃までの作と認むべき何等かの憑據があつたのであらうか。それとも大凡の推測であらうか。次の六年三月伊勢行幸の歌の前に序でた所を見ると、何か據る所があつたらしくも思はれるが、いかゞであらう。
 
幸2于伊勢國1時留v京柿本朝臣人麿作歌
 
紀に持統天皇六年三月伊勢行幸の事が見えてゐる。その時人麿は京に留つて遙に行幸先きの事を思ひやつて詠んだのである。
 
40 嗚〔左○〕呼兒〔左○〕之浦爾《アゴノウラニ》 船乘爲良武《フナノリスラム》 ※[女+感]嬬等之《ヲトメヲガ》 珠裳乃須十二《タマモノスソニ》 四寶三都良武香《シホミツラムカ》
 
○嗚呼兒之浦爾《アゴノウラニ》――舊本には「鳴〔右○〕呼見〔右○〕乃浦」とあつて、「あみのうら」と訓んでゐるが、此時の行幸地にさる地名が見えないから、僻案抄は卷十五の歌(三六一〇、重出)と志摩國の郡名阿呉〔二字傍点〕とを證として、「鳴」を「嗚」、「見」を「兒」の誤とし、「あごのうらに」と訓んでゐる(「嗚呼」の二字は感動辭「あ」を借りたもの)。志摩は昔から伊勢に攝して唱へられてもゐるし、紀によると、此の時、阿胡行宮におはしました事も明かである上(同年五月の紀の文に「御2阿胡行宮1時云々」と見えてゐる)、卷十五に重出してゐる歌には「安胡乃宇良爾云々」とあるから(191)此説がよからう。さて「阿胡の浦」はその行宮附近の浦邊をいふのであらう。但、卷十五の歌の左註には「柿本朝臣人麻呂歌曰安美〔二字傍点〕能宇良云々」とあるから、美夫君志のいふ如く「兒」を「見」に誤つたのも古い事であらう。さて阿胡行宮の所在地は明かでない。隨つて阿胡(ノ)浦も確かではない。諸註も和名抄の志摩英虞郡の海濱であらうと大凡に見てゐるが、げにそこには國府も國分寺もあつたらしいから(英虞郡甲賀郷)、行宮も在つたかも知れねど、地は志摩國の南偏に近い僻土で(俗に崎志摩といふ狹小な沙地である)、行宮などのあるべき處とも思はれないし、次の歌に見える答志、伊良虞の舟遊などいふ事も考へられない。(國府所在地から答志嶋まで海上七里餘、伊良虞嶋までは十里もあらう。往返二十里の舟遊は當時に於ては到底考へられない。)元來養老三年に答志郡の五郷を割いて作藝郡としたが、いつしか佐藝郡の名が消えて、延喜式の頃から英虞郡の名が見えるので、由來も沿革も明かでなく、その英虞が上代行宮の在つた阿胡と同處であるかどうかも疑はしい(後世の地誌などは當てにならぬ)。そこで大日本地名辭書は此時の行幸の歌に答志、伊良虞が詠まれてゐる事や、卷四、市原王の歌に「網兒《アゴ》の山、五百重かくせる佐堤《サデ》の崎」(六六二)(さでの崎は大日本地名辭書に、答志嶋の南に在つて鳥羽灣口を擁する坂手島の出崎としてゐる)とあるなどを例證として、今の鳥羽港を昔の阿胡(ノ)浦に擬してゐる。それは確かとはいへぬ事であるし、佐堤(ノ)崎も果して坂手島の出崎であるか否かも明かでないけれど、假りに阿胡を鳥羽港とすれば、山水給の如き處で、行宮の所在地として最もふさはしく、答志、伊良處への舟遊には最も便宜な地點であるから、或はさうかも知れぬと思ふ。なは後の研究を待つ。
○※[女+感]嬬《ヲトメ》――「をとめ」と訓む事については、美夫君志の説に從つておく。
(192)○珠裳乃須十二《タマモノスソニ》云々――「たま」は美稱で裳の裾の事。卷十五には「安可毛」とある。「四寶三都」は潮滿つ〔三字傍点〕で、浪のしぶきが飛び散つて裳の裾を濡らす意であらう。「舟乘りすらむ」「潮滿つらむ」の二つの「らむ」は作者都に在つて思ひやる心ばへである。
◎一首の意――供奉の少女等が今頃は阿胡の浦に舟乘り出して遊んでゐる事であらうが、馴れぬ舟遊びの物珍らしさに、浪のしぶきを浴びながら、さぞ驚き騷いで嬉々としてはしやいでゐる事であらうな。
 
41 釼著《クシロツク》 手節乃崎二《タフシノサキニ》 今毛可母《イマモカモ》 大宮人之《オホミヤビトノ》 玉藻苅良武《タマモカルラム》
 
○釼著《クシロツク》――舊本には「劔著」とあつて「たちはきの」と訓んでゐたのを、僻案抄は「劔」を「釧」の誤として「くしろつく」と訓んだ。その訓は正しいけれど、類聚古集を初め、多くの古寫本には「劔著」とあつて、その「劔」(ノ)字は「釧」の俗體だといふから(劔、釧に關する文字の辨は美夫君志別記に委しい)字形上、舊本の「釼」は、「釧」を誤まつたのではなく、俗體の「釼」から誤まつたのであらう。さて「くしろ」は昔の腕館で臂に卷きつけたものらしい事は、卷九「吾妹子は久志呂〔三字傍点〕にあらなむ、左手の吾が奥の手に卷きて往なましを」(一七六六)といふ歌でも知られる。臂即ち手の節であるから、「たふし」の枕詞として用ひられたのである。「手節(ノ)崎」は即ち答志崎で、鳥羽港の海上一里弱にある答志嶋の出崎をいふのである。
○今毛可母《イマモカモ》――二つの「も」はいづれも助詞で意は輕い。「今か」「今正に……か」といふだけの意である。「か」は疑辭。さて「今もかも」といふ語法、この歌の如く、二つの「も」共に助詞なると、上の「も」に意義がある(名(193)詞格の弖仁乎波)との二つの場合がある。卷十五「さす竹の大宮人は今もかも〔四字傍点〕人なぶりのみ好みたるらむ」(三七五八)は後者の例であるが、どちらの意に見るべきか、斷じ難き事もある。古今集の有名な「今もかも〔四字傍点〕咲き匂ふらむ橘の小島の崎の山吹の花」も、打開や遠鏡では、人麿の此歌に准じて二つの「も」を共に助詞と見てゐるが、後者の義とも解せられる。後世の歌ながら、風雅集の「今もかも〔四字傍点〕夕立すらし、足引の山の端かくす雲の一むら」はこゝと同じ用語である。所詮は歌の意を案じて判斷する外はない。
○玉藻苅良武《タマモカルラム》――海邊でのすさびをいふ。玉藻刈るといふ語で代表させたので、それに泥んではならぬ。
◎一首の意――今頃は供奉の大宮人は答志の崎あたりを漕ぎ廻つて戯れ遊んで居る事であらうか。
 
42 潮左爲二《シホサヰニ》 五十等兒乃島邊《イラゴノシマベ》 ※[手偏+旁]船荷《コグフネニ》 妹乘良六鹿《イモノルラムカ》 荒島回乎《アラキシマワヲ》
 
○潮左爲二《シホサヰニ》――「さゐ」は物の音より出た語で、「潮さゐ」はさわ/\と蘆の葉などに戰いて潮の滿ち來るのが原であらうが(僻案抄、考等に潮さわぎ〔三字傍点〕の約といつてるのはどうであらうか)、必ずしも滿潮の時でなくとも、さわ/\と音立てゝ漕ぎめぐるにも及ぼしていふのである。卷四、同じ人の歌に「珠衣乃|狹籃左謂沈《サヰ/\シヅミ》家の妹に物言はず來て思ひかねつも」(五〇三)といふのがあるが、これも衣摺れの音のさや/\するより枕詞とし、更にそを妹の泣きさわぐ意によそへたのである。應用は廣い、泥んではならぬ。然るに諸家強ちに滿潮時の事とのみ思うたらしく、「潮さゐの折に〔二字右○〕漕ぐ」と説いてゐるのはどういふものであらうか。(これは「潮さゐ」を名詞と見たのである。)「常だにかしこき島のめぐりなるに、まして潮さゐの時にしも妹乘るらむが云々」これは古義の文であるが、(194)その他もほゞ同樣である。伊良虞はさなきだに浪の荒い濱邊であるから、遊覽のためならば、風なぎ浪靜かな折を待つて舟出すべきに、わざ/”\浪の荒い滿潮時に漕ぎめぐる必要がどこにあらうか。まして京に在る人麿のしか思ひやる理由がどこにあらうか。これは「潮さゐに」は※[手偏+旁]ぐにかゝる副詞句で、潮さわくにかき分けつゝ※[手偏+旁]ぐ樣子をいふので、一段と浪の荒い濱邊であるから、「潮さゐに※[手偏+旁]ぐ」といつたのでなければならぬ。
○荒島回乎《アラキシマワヲ》――この「回」(ノ)字、「まはり」「あたり」などの義であるが、いかに訓むべきかは諸説まち/\である。集中この文字を使用せるは、こゝの島回を初として、浦回(又は浦廻)磯回、阿回、隈回など、卷二、三、四、六、七等に八九ヶ所あつて、舊訓は元暦校本を初め、いづれも「わ」と訓んでゐるが、本居翁は假名書の歌に「わ」といへる例がないからとて、「宇良末」「伊蘇末」などを證として「ま」と訓まれた。然るに荒木田久老の信濃漫録には「ま」といへる例もなく、「末」はすべて「未」の誤で、「浦み」「磯み」など訓むべきものぞと「浦箕」「須蘇未」などを證として論じた。ついで橘守郡の鐘の響や古義は、あまたの例證を擧げて、同じ説を繰りかへし、「回」はすべて「み」と訓むべき事を主張したので、今はそれが殆ど通説となつて、美夫君志ひとり「わ」は傳來の訓なるべしとて「同じ意の詞の和〔右○〕とも麻〔右○〕とも美〔右○〕とも通はしいへるもの」と唱へたが、それもあまり顧みられない状態である、思ふに「わ」と「ま」とは(假りにさる語遣ひがあつたとすれば)音通で相通はしたものと思はれるから、深く云々するにも及ぶまいが「み」と訓む説は、いかにもよく考へられたもので、擧げられた例證を見ると、げにとうなづかれるけれど、靜に思へばまだ疑點が多くて研究の餘地があると思ふから、直樣賛同するわけには行かない。なるほど「字良和」「之麻和」などいふ假名書の例は萬葉集には見えないが、それがないからとて「浦(195)わ」「島わ」といふ語が無かつたといふ證據にはならない。平安時代の歌の中には徃々「うらわ」といふ語が見えてゐる。
 千載集
  玉よする浦わの風に空はれて光をかはす秋の夜の月  崇徳院
 新古今集
  野べの露浦和〔二字傍点〕の波をかこちても行方もしらぬ袖の月影  家隆
そしてその時代の人の點した萬葉集の訓に、「回」をすべて「わ」と訓んでゐるのを見ると、それが所謂傳來の訓で、當時に於ては一般に知れ渡つてゐた事ではなからうかとも思はれるのである。本來「わ」は「まはり」「あたり」などいふ義のある語で、美夫君志に引かれた伊勢の地名、川曲(天武紀に出てゐる)を和名抄には「加波和」と訓んでゐるし(同樣の地名が安房、下總その他にも見えて、いづれも由緒ある古い名である)、同國度會郡の「箕曲」も「美乃和」と訓じてゐる(「曲」と「回」とは義を以て通用されてゐる事はいふまでもない)。やゝ後の語ではあるが、城の外郭を「くるわ」(曲輪)といふも一般の稱である。又和名抄に常陸國新治郡巡廻〔右○〕郷といふがある。これは續紀神護景雲二年八月の條に出てゐる「新治郡川曲村」、將門記に見える同郡川曲村と同所とせられて、やはり「かはわ」と訓じてゐる。(巡廻の「巡」は「川」の訛字で、川の古宇「※[巡の中]」に連字増畫の例によつて「※[しんにょう]」を添へたものである事は先哲既に辨じてゐる。)此等の例から推すと、萬葉集の「回」「廻」を「わ」と訓んでも不都合がないやうに思はれるので、たま/\假名書の例が見えないからとて、古訓を抹殺するのは考へものかと思ふ。(平安時代に於ける萬葉集の研究はまだ幼稚であつたには相違ないが、單語の訓にはさすがに古意の傳はつてゐるものゝある事は看過してはならぬ。)又「回」を「み」の假名に用ひた例として、卷三の「磯前《イソノサキ》(196)※[手偏+旁]手回〔左○〕行者《コギタミユケバ》」(二七三)が擧げられてゐるが、これは本來タミ、タム〔四字右○〕の義ある「回」(ノ)字に「手」を添へて手回《タミ》と訓むべき事を注意した書式なので、「み」の假字に用ひたのではないと、數多の例を擧げて美夫君志が辨じてゐる(「知らに」を「不知爾〔右○〕」とかき〕偲ばゆ」を「所偲由〔右○〕」とかく類)。わざ/”\「手」を添へて必ず「タミ」と訓むべき事を知らせたのは、「回」一字では「わ」とよむが常であるからではあるまいか。假りに、こゝは「み」の假字に用ひたとしても他の場合もすべて「み」と訓まねばならぬ證明にはならない。要は萬葉時代に「浦わ」「島わ」などいふ語があつたか、無かつたか、「回」(ノ)字に「わ」と訓むべき義があるか無いか、といふ點を明かにするにあるのである。此點を明かにしないで、たゞ假名書の例が遺つてゐないといふ一點で斷定するのは早計といはねばならぬ。(疊有は「たゝなはる」で立派に成り立つのに、たま/\遺例がないからとて強ひて疊付の誤とするやうなものではあるまいか。)更に思ふ、「浦箕」といふ語遣ひも有つたには相違あるまいが、從來「浦わ」「浦ま」など唱へられた語づかひと、全く同義であつたらうか。どこにか趣の異なる點がありはすまいか。すべてを一つにしようとばかり考へないで、差別的方面からも思を致す必要があるまいか。是も一つの問題である。それに古義等の説によつて、問題の「末」をすべて「未」の誤とすると、いかに字體が似てゐるにもせよ、その數あまりに多きに過ぎる嫌ある上(「未」の方は割合に少い)、中には歌としての聲調いかゞはしく思はれる所も出て來る。卷九「遊びし磯麻〔二字右○〕見ればかなしも」(一七九六)なども此説では「麻」は「を」の假字に用ひたものと説くが、歌の調からいへば、なほ名詞として「磯麻《イソマ》」と言ひ据ゑたい所である。とにかくに疑問が多いから、今は傳來かと思はれる古訓を重んじて、姑くそれに從つておく。(久老の信濃漫録、守部の鐘の響、古義及美夫君志參照)――(197)さて「島回乎」の「乎」は「なるものを」の義である。
◎一首の意――みしかすると伊良虞の島のあたりまでも漕ぎ廻られたかも知れぬが、潮さわ/\に浪を蹴立てゝ漕ぎ行く舟に、少女らも同乘した事であらうか。あの邊は一段と浪の荒い濱べであるのになア。
 右三首を連ねて、京にて思ひ遣つた心ばへがよく現はれてゐる。略解は第一首を「海人をとめならで御供の女房の裳に潮の滿ち來らんは珍らしとなり」と説き、第二首も、それに准じて「大宮人の藻を苅るらんが珍らしとなり」と説いてゐるし、古義は三首を通じて、供奉の官人、官女等のわびしむさまを憐みたるものと解し、「あらはにわびしかるらむと言ひては行幸を誹るやうに聞ゆれば、ほのめかしたるなり」と、いつてゐる(燈も同説)。此等皆例のこちたき理窟で、人情の自然を辨へぬ説である。(此時の行幸を三輪朝臣高市麿が極諫した事などから、しか推量したのでもあらうか。)又檜嬬手、代匠記等は第一首を渚に下り立ちて貝など拾ふ折、潮の滿ち來て藻裾を濡らす意に解いてゐる。時は三月の行幸であるから潮干狩のすさびもあつたかも知れねど、歌にはその意は見えない。「船乘りすらむ」といつてるではないか。第三首に難航の稱ある伊良虞島の舟遊を思ひ遣つたのは少し訝かしい。考のいふ如く大凡の推し量りかも知れないが、作者自から荒き島回をといつてるほどであるから、なほ腑に落ちぬ。或は此時の御巡覽の御豫定にあつたのかも知れねど、それにしても何故かゝる地が撰定せられたかといふ事は、やはり訝かしいと言はねばならぬ。然るに吾輩先年伊良湖に遊んだ折、圖らずも一種の景觀を見つけて、と胸を衝いた事がある。伊良湖の岬端を東へ廻ること十町ばかり、字日出といふ處に二個の石門がある。一つは波打際に一つは二町許りの海中(198)にあつて岩の大きさは各高さ七八丈、幅八九丈許り、石門の大きさはいづれも高さ三丈、幅七八尺乃至一丈ばかり、そのあたりなほ大小七八個の岩礁散點して風致おもしろく、磯邊は小石まじりのうるはしい砂濱で、所謂伊良湖白(碁石)の名に負ふ處である。(岬端を西へまはれば波も石も荒くなる。)この石門諸國の名勝を探つた者の眼にはさしたる物ではないが、近畿には珍らしいもので、當時の大宮人を驚かすべき價値は十分にある。で、或は當時世に知れ渡つてゐたので、春の事でもあるから、日和がよければ、そこまでもとの御豫定があつたので、人麿も思を走せて見たのではあるまいか。さもなければ此島の舟遊を想ひやつた心ばへが、しつくり説けないと思ふ。はかなき空想ではあるが、不圖うけた最初の印象は容易に消えないものであるし、學者の間にはあまり知られてゐないから、試に書きつけておくのである、(當時「波のしぶき」といふ一種の紀行をものしたが、それには一段と委しく述べておいた。)
 
當麻眞人麿妻作歌
 
これも持統天皇伊勢行幸に關係ある歌で、此時麿は從駕し、京に留まれる妻が、夫の上を思ひやつて詠んだのであらう。それは次の石上大臣從駕作歌の下に伊勢行幸に關する左注のあるのでも推される。麿の傳は詳でないが、此歌卷四(五一一)にも重出して、そこには當麻麿大夫妻とあるから五位であつたのであらう。
 
43 吾勢枯波《ワガセコハ》 何所行良武《イヅクユクラム》 巳津物《オキツモノ》 隱乃山乎《ナバリノヤマヲ》 今日香越等武《ケフカコユラム》
 
(199)○ 何所行良武《イヅクユクラム》――舊訓「何所」を「いづち」と訓んでゐるが、「いづち」は方向をいふ語であるから、こゝにはふさはない。考が「いづこ」と改めたのがよいけれど、「いづこ」といふもやゝ後の語遣ひであるから、略解以後「いづく」と訓んでゐるのがよからう。
○巳津物《オキツモノ》、隱乃山《ナバリノヤマ》――「おきつもの、なばりのやま」と訓む。「なばりの山」は伊賀國名張郡の山をいふ。舊訓には「かくれの山」と訓んでゐるが玉の小琴によつて正されたので(但、代匠記が早く勘づいてゐたらしい)、此頃伊勢へ往くには必ず名張を通過したのである。さて「巳津物」は「奥(ツ)藻の」の借字で隱《ナバリ》にかゝる枕詞である。(「巳」は「起」の省畫とも言はれるが、古文は「起」に同じいとも言はれる【美夫君志】。)名張といふ地名の由來はともあれ、本來「なばり」といふ古語には「隱れる」といふ義があるので、奥の藻草の浪に隱れるといふ趣から枕詞としたのである。さて「なばり」に隱れるといふ義のある事は、天武紀に名張郡の事を「隱郡」とあるを初めとして卷十「淺茅色づく吉無張〔二字傍点〕の」(二一九〇)とあるも、名高き「吉隱《ヨナバリ》」の事らしく、又音通で「なまり」といふが、卷十六蟹歌に「難波の小江に廬作り、難麻理弖〔四字傍点〕居る蘆蟹云々」(三八八六)とあるので推される。なほ卷一の歌に「よひにあひて朝面なみなばり〔三字傍点〕(隱)にか云々」(六〇)とあるも證とすべきだが、それはそこで言はう。
◎一首の意――我がせの君は、今月この頃は、どこを歩いてゐるであらう。日數をかぞへて見ると、今日あたりは名張の山を越えられる事であらうか。
 此歌往路の思ひやりか、又は歸路か、明かでないが、燈に歸路と見てゐるのがよからう。時は飛鳥(ノ)宮時代であるから、都から名張まで八里ばかり、つとめて行けば一日程である(檜嬬手に續紀天平十二年の記事を引いて、(200)二日路といつてるのは奈良の都からの計算である)。女の情とはいへ、往路の思ひやりとしては少し早過ぎるかに思ふ。此時の行幸は往復十五日間(三月六日から同廿日まで)を要しておるから、指折りかぞへて歸期を待ちかねた時の作と見る方が情切に聞える。この頃、西國に旅した者は立田山を、東國に旅した者は名張の山を越えると.半ば故郷に歸つた氣分になるらしい趣が、彼此見えてゐるから、此歌も末二句に多大のあこがれと期待とがかゝつてゐるのであらう。
 
石上大臣從駕作歌
 
これも同じく伊勢行幸從駕の作で、故郷なる妻を戀うて詠んだのである。作者は石上(ノ)麻呂脚で.慶雲元年に右大臣、和銅元年に左大臣になつた人で、此時はまだ大臣でないから、後に極官を以て書いたものとせねばならぬ。隨つて詠歌當時の地位を以て書いたらしい他の歌の端書(三山(ノ)歌(一三)、阿閉皇女歌(三五)、等)に照して聊か訝かしく思はれる。
 
44 吾妹子乎《ワギモコヲ》 去來見乃山乎《イザミノヤマヲ》 高三香裳《タカミカモ》 日本能不所見《ヤマトノミエヌ》 國遠見可聞《クニトホミカモ》
 
○吾妹子《ワギモコ》――「わぎも」は「わがいも」の約、「子」は親みていふ語、こゝは妻の事であらう。
○去來見乃山《イザミノヤマ》――「いざみ」といふが山の名か、「さみ」といふが名か、明かでない(「みの山」といふ説もある僻案抄)。和訓栞には「いざみの山」といふが飯高部にある由をいひ、伊勢名勝志には同郡の西嶺、高見山といふを、それに(201)當てゝゐるが、其の名から推すと、此歌に基いて、後人の擬したものかも思はれる。荒木田久老は「さみの山」説を取り、倭姫命世紀なる佐美津彦、佐美津姫の本郷は二見(ノ)浦に近き山で、その麓を流れる小川を佐美川といふから、山が即ち「作美(ノ)山」であらうといつてゐる。要するに、山の名が何であらうが「吾妹子いざ見む」といふ心を、山の名にいひかけたには相違ない。此種の歌は言掛の技巧を弄して、山の名に思を寄せるのが主眼であるから、必ずしも高山たるを要せぬ(多分歌を詠んだ處に近い山であらう)。歌がらからいへば、「みの山」は少しうとく、「いざみの山」は少し露骨で、「さみの山」への言掛と見るが比較的ふさはしいかと思はれる。
○「山乎《ヤマヲ》、高三香裳《タカミカモ》云々」――例の「を」と「み」と相對する語法で、山が高いからであらうかといふ意。「國遠見可聞《クニトホミカモ》」も同樣で、これには「乎」といふ助辭が伴はないが、それはすべて調子による事である。又二つの「か」は疑の助詞、二つの「も」は詠歎の助詞。
◎一首の意――永らく旅路に在つて故郷戀しさに、吾妹子をいざ見むと、せめて思ふけれど、そこに峙つてゐる山が高いからであらうか、それとも土地が遠く距つてゐるからであらうか、どうも戀しい故郷の大和が見えぬわい。
 
右日本紀曰、朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰以2淨廣肆〔左○〕廣瀬王等1爲2留守宮可1。於v是中納言三輪朝臣高市麿脱2其官位1、フ2上於朝1、重諫曰、農作之前、車駕未v可2以動1。辛未天皇不v從諫譲、遂幸2伊勢1。五月乙丑朔庚午、御2阿胡行宮1。
 
流布本「肆」を「津」に誤る。「農作之前」、紀には「農作之節」とある。「五月云々」は左注の文では此時阿(202)胡行宮におはしたかに聞えるが、これは阿胡行宮におはした時、功勞のあつた者を還幸後、五月に入つて賞せられたので、紀に「五月……御2阿胡行宮1時、進v贄者……免2今年調役1」とあるのを、左注の筆者が見誤つたのである。なほ此の文は持統天皇六年の記事に相當するので、左注は持統天皇元年を朱鳥元年としたものである事はこゝでも知られる。
 
輕皇子宿2于安騎野1時柿本朝臣人麿作歌
 
輕皇子(續紀には珂瑠《カル》とある)は草壁皇子(日並知皇子)の御子で、後の文武天皇におはします。阿騎野は大和國宇陀郡の野で、草壁皇子御在世中、屡々遊獵せられた處、その薨去後、輕皇子が父尊の昔を偲ばんとて御出ましになつた折、人麿も御供して、この歌を詠んだのであらう。(人麿はもと草壁皇子の舍人であつたらうと言はれてゐる。)草壁皇子薨去の時、輕皇子七歳であるから、翌年記念の御狩が催されたとすれば、皇子八歳に當るが、萬葉集記載の順序から推せば、持統天皇伊勢行幸(同天皇六年)の後、藤原宮遷都(同八年)の前となるから、輕皇子十一二歳の時であらう。かゝるうら若き御身で、わざ/\旅寢までせられたのを(歌で見ると殆ど野宿同樣であつたらしい)かしこき事として詠んだのであらう。
 
45 八隅知之《ヤスミシヽ》 吾大王《ワガオホキミ》 高照《タカテラス》 日之皇子《ヒノミコ》 神長柄《カムナガラ》 神佐備世須登《カムサビセスト》 太敷爲《フトシカス》 京乎置而《ミヤコヲオキテ》 隱口乃《コモリクノ》 泊瀬山者《ハツセノヤマハ》 眞木立《マキタツ》 荒山道乎《アラヤマミチヲ》 石根《イハガネノ》 (203)禁〔左○〕樹押靡《シモトオシナベ》 坂鳥乃《サカドリノ》 朝越座而《アサコエマシテ》 玉限《タマカギル》 夕去來者《ユフサリクレバ》 三雪落《ミユキフル》 阿騎乃大野爾《アキノオホヌニ》 旗須爲寸《ハタスヽキ》 四能乎押靡《シノヲオシナベ》 草枕《クサマクラ》 多日夜取世須《タビヤドリセス》 古昔念而《イニシヘオモヒテ》
 
○八隅知之《ヤスミシシ》、吾大王《ワガオホキミ》――こゝは輕皇子をさしていふ。八隅しゝ〔四字傍点〕といふ詞はかく天皇ならでも、皇子にも用ひられるのである。隨つて枕詞としては「四方の國をしろしめす」とか、「安らけく見そなはす」とかいふ義を離れて、單に「おほきみ」といふ語にかゝるのである。
○高照《タカテラス》、日之皇子《ヒノミコ》――考は古事記に「多加比加流〔五字傍点〕比能美古」とあるに准じて「たかひかる」と訓んでゐるが(檜嬬手、古義も同説)、燈は「集中高光とかゝれたる所はさもあるべし、既に日神の御名を天|照《テラス》大御神とも申せば『たかてらす』と訓むべきなり」といつてゐるのが穩當であらう(美夫君志之に從へり)。さて「てらす」は「てる」の敬語法、「高照」は日の枕詞、「高照日之皇子」は「八隅知之、吾大王」と同格。
○神長柄《カムナガヲ》云々――この二句の意は既に述べた。こゝも以下全篇の意をさしていふのである。
○太數爲《フトシカス》云々――「しかす」は「しく」の敬語法。「京をおきて」は「都をあとにして」の意。
○隱口乃《コモリクノ》――種々の説はあるが、「籠り國《グニ》の」の意で、泊瀬の地勢から出たといふ説がおもしろいと思ふ。「はつせ」(204)は墓所の義で「隱城《コモリキ》の終《ハツ》」とかゝるといふ説もおもしろく、或はそれがよいかも知れねど、集中明かに「隱國乃泊瀬」と書いた所もあるし(卷末の長歌)、有名な泊瀬の寺を長谷《チヤウコク》寺といふも同じ地勢から出た名と思はれるから、なほそれに心が引かれる。
○眞木立《マキタツ》、荒山道乎《アラヤマミチヲ》――舊訓は「まきたてる」と訓み、僻案抄は「まきのたつ」と訓んでゐる。五言としては、さうも訓むべきだが、こゝは「まきたつ」と四言に訓むが最もひきしまつて力強く聞える。これは考の訓である。眞木は檜をほめていふ語であるが、こゝは眞木を代表に擧げたので、さる喬木などの立ち茂つてゐる荒山道の意。「を」は「なるを」の義である。
○石根《イハガネノ》、禁樹押靡《シモトオシナベ》――舊訓は「禁樹」を「ふせぎ」など訓んで解しかねたが、考に至り「禁」を「楚」の誤として「しもと」と訓んでから一般にそれに從つてゐる。説文に「楚、叢木也」とあるから、今の雜木《ザフキ》の事であらう。「しもと」は和名抄に「唐韵云※[草冠/〓]【之毛止】木(ノ)細枝也」とあり、字鏡に「※[木+若]【之毛止】」とあるから、手頃の若木をいふのであらう。卷五、貧窮問答の歌に「楚取云々」(八九二)を「しもととる」と訓んでゐる。こは罪人などを打つ笞をいふので、それももと手頃の細枝を折取つて打つたからであらう。要するに、こゝは雜木林の中を押し分けて行く意で、「おしなべ」は「おしなびけ」である。
○坂鳥乃《サカドリノ》――朝越の枕詞。夜、山林に宿つた鳥が、餌をあさらんとて、朝早く山坂を越えて里に通ふ趣から出たので、卷二に「朝鳥の通はす」(一九六)とあるに同じ趣である。この頃はまだ部落の状態をあまり離れなかつたので、郊外の樣子にはよく通じてゐたらしく、さる趣の語づかひが往々見える。
(205)○玉限《タマカギル》――「たまかぎる」と訓み「夕」の枕詞である。舊訓は「たまきはる」だが意を成さぬ。集中「玉蜻」と書いた例が多いので、考は「限」を「蜻」の誤として「かぎろひの」と訓んでから、略解、檜嬬手、燈、攷證等大方それに從つて來たが、古義の著者は玉蜻考を著はして「たまかぎる」と訓み、美夫君志更に補正して同説を唱へてゐる。此の説穩當かと思はれるから、それに從つておく。(但、古義も此歌では、「かぎろひの」と訓んでゐるが、これはまだ玉蜻考を書かなかつた時の舊説であらう。雅澄の玉蜻考は古義枕詞解附録に、美夫君志のはその別記に委しく出てゐる。又伴信友の比古婆衣にも玉蜻考といふがあつて、これは「たまかぎろ」と訓み、專ら蜻※[虫+延]の方面から説をなしてゐる。)さて「かぎる」は「※[火+玄]る」で輝く意、夕日は殊に赤く輝くから夕の枕詞としたのであらう。玉も美しく輝くからいふのであらう。
○三雪落《ミユキフル》――下の短歌に月の良かつた事を詠んでゐるから、當日の實景ではあるまい。阿騎野は雪中の鷹狩などをする所であるから、さる物凄き處のさまをほのめかしたので、荒山路の形容に眞木立をおいたと同じ筆法であらう。但、時は冬で、雪などの降る時節であつたかも知れぬ。三雪の「み」は接頭辭。
○旗須爲寸《ハタスヽキ》 四能乎押靡《シノヲオシナベ》――薄は穗にあらはれて大きく靡くから旗薄といふので、「しの」はその幹をいふのであらう。すべて薄、蘆などのやうに細く長くしなひ易き物の幹の總名を「しの」といふので、薄の事を「しの薄」ともいふ(古事記傳)。こを「薄及び小竹《シノ》」と解く説もあるが(燈)、語勢はさうは聞えない。
○多日夜取世須《タビヤドリセス》――「世須」は「神さびせす」「舟出せす」などの「せす」と同じく、佐行變格「す」の未然形から佐行四段の「す」に轉じたので、例の敬語法である。
(206)○古昔念而《イニシヘオモヒテ》――草壁皇子が御獵せられた昔を偲ぶのである。考は「いにしへおぼして」と訓んでゐるが、げにこゝは敬語のあるべき所ではあるが、「おぼす」といふ語遣ひは、その頃にはまだないといふので、一般に「いにしへおもひて」と訓んでゐる。古義は「念」(ノ)字の上に「御」(ノ)字を補つて「おもほして」と訓んだが語調はなほ整はない。下の短歌にも「かたみとぞ來し〔二字傍点〕」といひ、前の吉野(ノ)宮の長歌にも「國見をすれば〔三字傍点〕(三八)とあつたと同樣で、歌としては音調上、已むなく敬語を省く事もありがちの事であるから、「いにしへおもひて」と訓む事にする。
◎一首の大意――尊き日の御子なる吾が大君(輕皇子)は、神そのまゝの御身で、それにふさはしいすさびを思しめし立たれて、亡き父尊の昔を偲ばんと太しきいます都を後に、かたみの野邊(阿騎野)に赴かせられた、そこは泊瀬の山を越えねばならぬが、泊瀬の山といへば、眞木などの立ち茂つてゐる荒き山道なるものを、しかも石ヶ根こゞしき處に雜木などが生ひ茂つてゐるものを、それを押し靡けつゝ朝早く御越えになつて、はる/”\と阿騎野に赴かせられた。さて終日狩りくらして、日も夕幕になると、宿るべき家もない物すごい曠野に、薄のしのを押し靡けて、それを茵に一夜の旅寐をさへなされた。昔を思召しての御すさび、何ともかしこい事であるわい。
 此歌さばかり長からぬに、枕詞やそれに類似した語が多く、叙述は割合に簡なので、要領を得がたい。しかもその短い中に押靡《ナシナベ》といふ語が繰りかへされてゐるなど人麿の上作とはいへまい。いろ/\語を補つて説いて見たが、我がふつゝかな筆では、いとゞ拙を添へるのみである。
 
短歌
 
 考は「短歌」を「反歌」の誤としてゐるが、これは「短歌」と「反歌」とは異なるものと思うたばかりでは(207)なく、上代に於ける「短歌」といふ意義をも誤解したものである。一體短歌は長歌に對する名稱とのみ近代の人は思ふらしいが、それは後世の考で、恐らく古意ではあるまい。上代の歌謠を見ると、長短の如何を問はず、たゞ「歌」といふのみで、長歌とも短歌とも言はない。藤原宮時代になつて人麿など頻りに長篇の歌を詠じてゐるけれど、「長歌」といふ名稱はまだ見えない。かゝる時代に長歌に對する短歌いゞふ名稱がまづ起らうとは考へられない。(卷五、憶良の歌(八九七)に至つて初めて僅に長短といふ語が見えてゐるが、その端書の常に異なる樣を思ふと、それも後人の筆ではないかと疑はれる。「老身重病經v年辛苦及思2子等1歌七首【長一首短六首】」)。然らばこゝに「短歌」とあるは如何なる義かといふに、短歌即ち反歌なので、長歌といふ定まつた名稱はまだ起らないが、歌の終に添へるべき小篇を反歌とも短歌ともいつたのである。前に反歌の説明に荀子を引いたが、同書に「小歌」といふ事がある。その小歌の注に「此下一章即其反辭〔二字傍点〕也、故謂2之小歌〔二字傍点〕1、※[手偏+總の旁]2論前意1也」とある。これによれば反辭と小歌とは同じものをいふ事は明かで、反歌は反辭から出た名稱だとすれば、短歌は小歌から出た同義語であらねばならぬ。「長」に對する「短」の意ではないのである。なほ卷一、二を仔細に點檢すると、本文の端書では、反歌と短歌と殆ど相半してゐるが(反歌十二、短歌九)、目録には反歌といふ事はなく、すべて皆短歌である。隨つて兩者通じて用ひられてゐる事が知られる。且つ長歌でも短歌でも、單獨に詠んだ場合はたゞ「歌」とのみあつて長とも短ともいはない。「短歌」とある所は必ず反歌に相當する場合に限られてゐるから此點からも推される。
 
(208)46  阿騎乃(野〔左◎〕)爾《アキノヌニ》 宿旅人《ヤドルタビビト》 打靡《ウチナビキ》 寢毛宿良目〔左○〕八方《イモヌラメヤモ》 古部念爾《イニシヘオモフニ》
 
○阿騎乃爾《アキノヌニ》――美夫君志は四言一句として「あきのに」と訓んでゐるが、元麿校本を初め、昔から訓は皆「あきののに」となつてゐるし、現に古寫本の中に「阿騎」の下に「野」(ノ)字ある本もあつて(神田本)、後の註釋書は、それに據つて一般に「あきのぬに」と訓んでゐるから、それに從つておく。
○宿旅人《ヤドルタビビト》――輕皇子を初め、御供の人々を廣く指していふ。
○打靡《ウチナビキ》――「宿《ヌ》る」にかゝる語で、安らかに身を横へてゆつたりと寐る形容である。藻草などの水に靡くさまによそへた語遣ひであらう。諸註大方違はないが、美夫君志ひとり展轉反側の意に説いてゐるのは、どうした事であらう。
○寢毛宿良目八方《イモヌラメヤモ》――「いもぬらめやも」と訓む。「寢《イ》」は名詞、「宿《ヌ》」は動詞で、いづれも寢る事である。兩詞を直接に結びつけたのが「いぬる」といふ熟語動詞であるが、古くは名詞と動詞とをくりかへして、「い〔右○〕をぬる〔二字右○〕」といふ一種の語法があつた。(英語で、run a race, などいふに似てゐる。)卷三「寢乃不勝宿者《イノネガテネバ》」(三八八)、卷九「五十母不宿二《イモネズニ》、吾齒曾戀流《ワレハゾコフル》」(一七八七)、卷十五「伊能禰良延奴爾《イノネラエヌニ》(三六六五)など皆この例であるが、こゝも同樣で、「寢毛」は「寢をも」の意、「や」は反語、「も」は感動の助詞、一句の意は「寢をも寐んや」(いねんや)といふ事である。さて流布本は「目」が「自」になつてゐるが、類聚古集によつて改めた。
○古部念爾《イニシヘオモフニ》――二の句の「宿旅人」と同じく、輕皇子を初め、御供の人々の心と廣く見てよからう。然るに考は「臣(209)たちの心をいふ」と註し、古義も、前の、「宿旅人」の所で、「この旅人を皇子の事としては、下の古部念爾とあるに引合はず」といつてゐる。(略解も旅人を從駕の人としてゐる。)此等皆この句に敬語の意が含まれてゐないから起る説であらう。此時輕皇子はあまりに御幼年であつたらしいから、此のすさびは、もとの舍人等が皇子を奉じて催した記念の遊獵であつたかも知れぬし、隨つて昔を思うて寐られないのも、主に舍人等であつたかも知れぬけれど、そは内實で、歌の表面では、皇子に重きがなくてはならぬ。敬意の含まれてゐないのは長歌の末尾も同樣で、歌としては致し方のない事であるから、それに泥むべきではない。
◎一首の意――こよひ阿騎野に宿る旅人は、ゆつくりと、うちくつろいで、寐る事が出來ようか、とても出來ないであらう。いろ/\昔を思ひ出す事が多くて。
 
47 眞草苅《マクサカル》 荒野者雖有《アラヌニハアレド》 (黄〔左◎〕)葉《モミヂバノ》 過去君之《スギニシキミガ》 形見跡曾來師《カタミトゾコシ》
 
○眞草苅《マクサカル》――「ま」は接頭辭、「眞草」はたゞ草の事、秣の事ではない。「まくさかる」は荒野の形容で、草が生えてあればこそ苅る事にもなるのであるから、畢竟するに「まくさおふる」と同意に落つるのである。「玉藻苅敏馬」(二五〇)等いふも同じ筆法で、音調を重んじて「生ふる」を「苅る」といつたのは古人造句の活きである。前の吉野宮の長歌に「花散らふ秋津の野べ」(三六)といふ句があつたが、これも花の散る事をいふのが目的ではない。色々な花の絶えず咲き匂ふ事を言ひたいのであるが、散るといへば咲いた事もおのづからわかるから、音調の關係上「花散らふ」としただけである。「散る」「苅る」などいふ語に泥んではならない。歌を詠ずる者、この(210)心得がなくてはならぬ。
○葉過去《モミヂバノスギニシ》云々――此の三句、十一字を、舊訓は「葉過去、君之形見、跡曾來師」と點して、「はすぎゆく、きみがかたみの、あとよりぞこし」と訓じてゐるが、意義を成さないので、代匠記が、挽歌などに「黄葉《モミヂバ》の過ぎゆく」と訓んだ例の多い事を擧げて、「黄」(ノ)字の脱ちたるものと斷じ、「もみぢばの、すぎにし君が、かたみとぞこし」と訓んでから、一般の定説となつた。(僻案抄も同説であるが、多分暗合であらう。)さて「もみぢばの」は過ぎにしの枕詞で、もみぢの散る如く、もろく過ぐる意。「過ぎにし」は此世を過ぎてあの世へ行く事で、死ぬる事をいふ。卷五「道にふしてや命周疑南〔三字傍点〕」(八八六)、卷二「時ならす過去〔二字傍点〕子らが朝露のごと云々」(二一七)など例が多い。敏達紀には「死王」を「過ぎたまひしみこ」と訓んでゐる。卷二、人麿の歌には越智野に葬られた川島皇子の事を「越智野に過ぎぬ」(一九五)とさへ詠んでゐる。さてこゝの「過ぎにし君」は草壁皇子の事、阿騎野は皇子御在世の折しぱ/\遊獵せられた處であるから「かたみ」といふのである。「かたみと〔右○〕ぞこし」の「と」は「とて」の意。卷九「鹽氣だつ荒磯にはあれど往く水の過ぎにし妹がかたみと〔傍点〕ぞ來し」(一七九七)と同じ心ばへである。
◎一首の意――こゝは草などの生ひ茂つてゐる荒野ではあるが、はかなくお隱れになつた父尊のかたみの野べと思し召して、わざ/\いらせられたのぢや。
 
48 東《ヒムカシノ》 野炎《ヌニカギロヒノ》 立所見而《タツミエテ》 反見爲者《カヘリミスレバ》 月西渡《ツキカタブキヌ》
 
○東《ヒムカシノ》――一句一字、「の」を添へて「ひむかしの」と訓む。「ひむかし」は日向といふから出た語であらうから、も(211)とは「か」を清んで、正しく「ひむかし」と唱へたであらうが、後世は鼻音化して、「む」を「ん」の如く唱へるから、連聲上「か」を濁つて「ひむがし」といふやうになつた。此語、集中には假名書の例は見えないが、和名抄官職部に「東市司【比牟加〔右○〕之乃以知之官】」とあるから、「ひむかし」と訓んだ事は明かである。然るに同書攝津國の郡名に「東生【比牟我〔右○〕志奈理】」とあるから、その頃から音便になりかけたのであらうか。
○野炎《ヌニカギロヒノ》――二字一句で「に」と「の」とを添へて「ぬにかぎろひの」と訓む。「かぎろひ」は野べに燃え立つ陽炎である。燈に「東野の民家などに早く起きて燒く火のほのかに見ゆるをいふ」といつてるのは此歌の妙味を殺ぐものである。しかし多くの註に曉天の曙光と見てゐるのも穩かでない。「かぎろひ」は火のきら/\する趣を廣くいふ語には相違ないが、「空にさす光」をいふのではない。やゝ昇りかけた日光が野邊の水氣に映じて、眼を射るやうにきら/\するのをいふので、立ち昇る一種の氣である。「野に」といひ、「立つ」といふに意をつくべきである。朝早く曠野を過ぐる人のよく見る趣である。
○立所見而《タツミエテ》――「立つ見えて」で、立つのが見える意である。
○反見爲者《カヘリミスレバ》云々――「かへりみ」といふ名詞を佐行變格に活かせたもの。「月西渡」は「月傾きぬ」の義訓。
◎一首の意――ふと眼が覺めると、東の方、野べの果に、かげろふ〔四字傍点〕のきら/\と燃えたつのが見えるから、ハテ今まで月が輝いてゐた筈だが、もう夜が明けるのかと、頭を回らして西の方を見ると、いつしか月が白けて落ちかかつてゐた。
野宿した翌朝の實景見るが如き歌である。此歌を誦して想像を走せると、いろ/\な事が眼に浮ぶ。まづ野宿同(212)樣の旅寐であつたらうといふ事が推される。假屋の屋根は葺いたかも知れぬが、少くとも東西は殆ど明放しに近い状態であつたらう(少なくとも人麿などの宿つた假屋は)。であるから曉に眼ざめて、東の方に陽炎の燃え立つのを見ると與に、頭を回らして落月の影が見られるのである。相應に廣い曠野といふ事も同じ點で推されるし、月と日との關係から十五夜前後の頃であつたらうといふ事も知られる。五句の短い間に、かく樣々な點のしつくり推されるのは、作者の技倆はいふまでもないが、畢竟實境實感の作だからで、まことに神品といふべきである。人麿は抒情にたけてゐるので、叙景は赤人の方が優れてゐるかに言はれるが、此歌を見ると叙景も決して赤人に讓らない。
 此歌、下二句は早くから正しく訓まれてゐたが、上三句は久しく正當の訓を得なかつた。元暦校本でも、仙覺の新點でも「東野、炎立、所見而」と點して、「あづまのゝ、けぶりのたてる、ところみて」と訓んでゐた。玉葉集の撰者は何と解釋したやら、やはりさう訓んで同書に收めておいたが、萬葉考になつて、初めて今のやうな訓を得て、千古の名吟が世に知られるに至つた(萬葉集編纂後、約一千年)。但「炎」を「かげろふ」と訓む事は代匠記が早く氣がついて、「はるの野の、かげろふ立てる所見て」といふ一説を掲げてゐるが、考はそれからヒント〔三字傍点〕を得たのかも知れぬ。縣居翁の功績はいふまでもないが、前の「眞草苅」の歌を正しく訓み説き、更にこの歌の訓にヒント〔三字傍点〕を與へた契沖阿闍梨もまた偉とすべきである。
 
49 日雙斯《ヒナミシノ》 皇子命乃《ミコノミコトノ》 馬副而《ウマナメテ》 御獵立師《ミカリタヽシヽ》時者來向《トキハキムカフ》
 
(213)○日《ヒ》雙《ナミ・ナメ》斯《シノ》、皇子命乃《ミコノミコトノ》――草壁皇子の事を申す。多分御謚號であらう。續紀には日並知皇子とある。この皇子天武天皇十年に皇太子に立たせられたが、天皇崩御後も、直ちに御位に即かせられないで、母宮(持統天皇)を助けて、政をしていらせられたから、薨後崇めて日並知皇子と稱へたらしいので、准天皇といふが如き心であらう。後、天平寶字二年改めて「岡宮御宇天皇」と稱へる事となつた。さて訓は明かでないが、舊訓は皇子の御名とも思はなかつたやら、「ひなしみこ」「ひならべし」など訓んで要領を得ない。代匠記に至り「ひなめしのみこ」と訓んで、ほゞ一定したが、古義更に「斯」を「能」の誤として「ひなみのみこ」と訓んだ。「日並知」の「知」は「八隅知之」の「知《シ》」と同じく「知らす」意で、こゝの「斯」はその借字であらうから誤ではあるまい。御名の義は日(天皇)の並《ナミ》に知しめす意であらうから、本來は「ひなみし」と訓むが正しからう。但、聲調の上から、やがて音通で「ひなめし」と稱へたかも知れぬが、それは今はわからない。(明治二十五六年の頃、大擧で木村博士の講義を聞いた時は、博士も「ひなみし」と訓まれたが、後、美夫君志の出版されたのを見ると「ひなめし」となつてゐる。これも恐くはさる關係から唱へ易き稱呼に從つたのであらう。)「皇子命」の「命《ミコト》」は崇めていふので、歌では「妻の命」などさへいふが、皇太子に立たれた方には正式にもいふので、紀にも「草壁皇子尊」とある。
○御獵立師斯《ミカリタタシシ》――「たゝし」は「立ち」の敬語法、下の「斯《シ》」は過去の助動詞。此の句諸註簡に過ぎて意を推し難いが、大方は「御獵に〔右○〕立たしゝ」の意に見てゐるらしい。そして、その「御獵に立つ」といふを「御獵に出で立つ」意に見るのと、「獵場に立つてあさる」意に見るらしいのとがあるやうに思はれる。一體「御獵に立つ」は前者の意であらうと思ふが、後者の意に用ふる事もあるかどうか、これはよく考ふべきである。が、何れにしても、「御(214)獵立たしゝ」と「御獵に〔右○〕立たしゝ」とは、語氣少し異なるやうに感ぜられて、しつくりしない。思ふに獵の時、獵場に立つてあさるのは、いふまでもない事であるから、語の都合上、「立つ」といふ語を輕くそへただけで、「立つ」には殆ど意義なく(「思ふ」や「いふ」といふ語が輕く用ひられるやうに)、「御獵立たしゝ」は「御獵せられし」といふだけの義ではあるまいか。「に」を添へてまで「立つ」の意義を説くのは、どうかと思はれるから試に説をなして見るのである。
○時者來向《トキハキムカフ》――この「時」といふにつき、燈と古義とは時節といふ衆説を排し、四首の順序から推して、朝獵の時刻〔二字右○〕と説いてゐる。かゝる歌は特別の事なき限り、時節と見て然るべきものと思ふが、野宿までせられた翌朝の歌とすれば、時刻といふ説も例の理窟と一概に退けかねる。しかし元來は記念の御獵を催して、昔を偲ばんのすさびで、時節も時刻も、それに最もふさはしい折を選んだのであらうから、一概に泥まんでもよからう。
◎一首の意――故日並知皇子が、曾て數多の從者を從へられ、數多の馬を立て並べて、こゝで御獵をせられた時期が正にめぐり來つた。
思へば皇子がしば/\遊獵せられたのは、かうした折であつた。今その向じ時期、同じ時刻に、同じ野邊に立つと、まざ/\とありし昔が思ひ出でられて、懷舊の情にたへぬわいといふのである。此の數首の歌を味うて見ると、たゞしば/\遊獵せられたといふだけではなく、吉凶何れかは知らねど、何か記念すべき事があつたではないかと感ぜられる。
さて此の四首の短歌を追誦すると、第一首は直ちに長歌の末節を承けて、昔を思ふ旅寐に夢も結び難かるべき趣(215)を叙し、次に何故かゝるすさびをせらたかといへば、亡き父尊を偲ばんためである事を叙べ、第三首は轉じて、明方の實景を叙すると共に、曠野の樣と、思うひ寐につかれて我知らずまどろみたる趣とを、それとなく響かせて、なほ前二首の趣を離れず、最後に此行の眼目たる御獵の時のめぐり來れるを述べ、暗に記念の御獵に移る意をほのめかして結んでゐる。四首聯關して氣脈相通じ、まことに連作の模範とすべく、長歌よりは遙にまさつてゐる。
 
藤原宮之役民作歌
 
藤原宮は持統天皇御造營の皇居で、同天皇の八年十二月に明日香淨御原宮から御遷居になつたのである。天皇は早くから新宮御造營の御思召があつたらしく、紀によると、同四年十二月に「天皇幸2藤原1觀2宮地1」とあるが、下檢分であつたらしい。六年五月には「鎭2祭藤原宮地1」とあるから、その頃から造營にかゝつたのであらう。規模は唐制に則つて、從來の皇居よりは遙に莊麗であつたらしい。此歌はその造營に當つた夫役の民の詠んだものとなつてゐるが、普通の役民の手際とは思はれない。諸家の説の如く當時の然るべき學者が役民に擬して作つたものであらう。役民を「えにたてるたみ」など訓んでゐるが、強ひて訓讀するにも及ぶまい。
 
50 八隅知之《ヤスミシヽ》 吾大王《ワガオホキミ》 高照《タカテラス》 日之皇子《ヒノミコ》 荒妙乃《アラタヘノ》 藤原我宇倍爾《フヂハラガウヘニ》 (216)食國乎《ヲスクニヲ》 賣之賜牟登《メシタマハムト》 都宮者《ミアラカハ》 高所知武等《タカシラサムト》 神長柄《カムナガラ》 所念奈戸二《オモホスナベニ》 天地毛《アメツチモ》 縁而有許曾《ヨリテアレコソ》 磐走《イハバシノ》 淡海乃國之《アフミノクニノ》 衣手能《コロモデノ》 田上山之《タナガミヤマノ》 眞木佐苦《マキサク》 檜乃嬬手乎《ヒノツマデヲ》 物之布能《モノノフノ》 八十氏河爾《ヤソウヂカハニ》 玉藻成《タマモナス》 浮流禮《ウカベナガセレ》 其乎取登《ソヲトルト》 散和久御民毛《サワグミタミモ》 家忘《イヘワスレ》 身毛多奈不知《ミモタナシラズ》 鴨自物《カモジモノ》 水爾浮居而《ミヅニウキヰテ》 吾作《ワガツクル》 日之御門爾《ヒノミカドニ》 不知國《シラヌクニ》 依巨勢道從《ヨリコセヂヨリ》 我國者《ワガクニハ》 常世爾成牟《トコヨニナラム》 圖負留《フミオヘル》 神龜毛《アヤシキカメモ》 新代登《アラタヨト》 泉乃河爾《イヅミノカハニ》 持越流《モチコセル》 眞木乃都麻手乎《マキノツマデヲ》 百不足《モヽタラズ》 五十日太爾作《イカダニツクリ》 泝須良武《ノボスラム》 伊蘇波久見者《イソハクミレバ》 神随爾有之《カムナガラナラシ》
 
○初四句は既に前に出たが、こゝの「大王」といひ「日之皇子」といふは、持統天皇を指し奉る。
(217)○荒妙乃《アラタヘノ》――藤の枕詞、古代の布帛は、布目の細いと粗いとで、和栲、荒栲と區別されつが、藤葛の繊維で織つた布は粗いから、「荒栲の藤」とかゝるのである。「妙」は「栲」の借字である事も既に述べた。
○藤原我宇倍爾《フヂハラガウヘニ》――藤原は宮地の名、「うへ」は「ほとり」「あたり」などの義で、卷末の「高野原之宇倍」を初めとして集中に例が多い(古義、美夫君志等に委しい)。さて「藤原我」の「が」は「の」の意であるが、上の語に着く事、「の」よりも一段と密接である。美夫君志はその差を説いて「梅が香」といへば梅が主となり、「梅の香」といへば、香の方が主となるといつてるが大體さる趣である。
○食國乎《ヲスクニヲ》、賣之賜牟登《メシタマハムト》――食國は天皇のしろしめされる天が下をいふ。「をす」は元來食ふ義であるが、五官に關する事は、すべて他物を身に受け入れる意で「をす」とも「見す」とも 「聞こす」とも「知らす」とも通じて用ふる事は既に述べた。「めし」は即ち「見《ミ》し」で(「み」と「め」と通音)「見《ミ》」を佐行四段に轉用した敬語法、ここは天の下を治め給ふ義である。(「めす」は「聞しめす」「しろしめす」などやうに單なる敬語としても用ひられる。)
○都宮者《ミアヲカハ》、高所知武等《タカシラサムト》――舊訓「みやこには」など訓んでゐるが、考に「みあらかは」と訓まれたのがよい。「みあらか」は御殿の義で、祝詞に「瑞之御殿【古語云2阿良可1】とあるが、本集卷二に「御在香乎《ミアラカヲ》高知座而」(一六七)とあるに準じて、こゝも「みあらかは、高知らさむと」と訓むべきである。「高知らす」は、そこにおはしまして、天の下をめでたく知ろしめす義である事は既に述べた。さてこゝは「食國をば〔二字傍点〕」「みあらかをば〔二字傍点〕」の義であるが、一は「ば」を省き、他は「を」を略して對句としたもの。又二つの「と」は「とて」の義である。
(218)○神長柄《カムナガラ》、所念奈戸二《オモホスナベニ》――「神ながら」は既に述べた。「奈戸二」は「なべに」で「それにつれて」「に伴うて」などの義、天皇の御思召につれて、天地の神々も同感する趣である。
○天地毛《アメツチモ》、縁而有許曾《ヨリテアレコソ》――たゞ天地といつて「天地の神々」の意である事は、上の「山川毛因而奉流」(三九)の例に同じい。「縁而」も同樣で、神の御靈の寄り合ふ義である。「あれこそ」は後世の語法ならば「あれば〔右○〕こそ」といふべき所で、これも上の「三山歌」に「古もしかなれこそ」(一三)とあるに同じい。
○磐走《イハバシノ》――淡海の枕詞、既出、「石走」に同じい。
○衣手能《コロモデノ》、田上山之《タナガミヤマノ》――「衣手の」は田上の枕詞、「て」と「た」と音通であるから、たゞ「た」(手)とかゝつたと見てもよいが、衣手は袖であるから「たなが」(手長)とかゝつたと見るがよからう。古代の袖は手の先まで長く垂れるやうになつてゐるからである。それに此歌は皇居造營の歌で、御代を言ほぐ意の序詞が、下にも多く見えてゐるから、これも古代に多く用ひられる「た長〔二字傍点〕の御代」などいふ語氣をそれとなく響かせたものであるかも知れぬ。(但、「た長の御代」といふ場合、「た」は接頭辭であらう。本居翁は足《タリ》長の義に解してはゐるが。)さて田上山は宇治川の上流にある山で(宇治川の支流大|戸《ド》川の岸)、當時そこから木材を切り出したものらしい。
○眞木佐苦《マキサク》、檜乃嬬手乎《ヒノツマデヲ》――「まきさく」は檜の嬬手の形容で、やがてその枕詞といつてもよからう。眞木は檜に限らず木をほめていふ語であるが、昔から建築材料として、檜が最も珍重せられたから、やがて檜の事ともなるのである。「佐苦」は諸註にいへる如く割り析く意で、大凡の寸法をきめて木材を析き割る義であらう。(古義の幸く〔二字右○〕といふ説は取らない。)「嬬手」は抓手の借字で「つまで」と訓むべき事は、同じ事を下文に「眞木の都麻手〔三字傍点〕」(219)とあるので知られる。抓(つま)は冠辭考にいふが如く、荒削りの稜ある木材で、手はその材料をいふのである。で「眞木さく」と「檜のつまで」とは用と體との差こそあれ、同じ事をいふので、歌としての語遣ひの都合上、同義の語をくりかへしたまでゞ、「みとらしの弓」「天皇の神の命」などゝ同じ趣であらう。隨つて「眞木さく」は「檜のつまで」の形容といふもよく、枕詞といつてもよい。枕詞としても「檜のつまで」全體にかゝるので、「檜」だけの枕詞とするのはどうかと思ふ。繼體紀の「莽紀佐供《マキサク》、避能伊陀圖《ヒノイタド》」、古事記雄略卷の「麻紀佐久《マキサク》、比能美加度《ヒノミカド》」も同樣で、御殿も板戸も檜の木材で造るからいふので、やはり同じ趣で説くべきではなからうか。
○物乃布能《モノノフノ》、八十氏河爾《ヤソウヂカハニ》――「物乃布能」は八十氏の枕詞。後世の語に「武夫の矢橋の渡し」などいふ事があつてこれは「矢」にかゝる枕詞であるが、こゝは「八《ヤ》」だけではなく「八十氏」全體にかゝるのである。この場合の「ものゝふ」は廣義の意に解すべきで、武士だけの事ではない。朝廷に仕へまつる文武の百官は皆「ものゝふ」なので(「もの」はすべて廣く唱へる汎稱である)、所謂「ものゝふの八十伴男」「ものゝふの八十氏人」などいふがこれである。(古事記傳卷十九に委しく説いてゐる――それが一面專ら武士の事に用ひられたのは、古は國民皆兵の制で、特別に武職と稱すべきものはなく、如何なる者でも、いざといへば皆矛を執つて起つたから、其道に長けた者が最も評判せられ、最も勢力を得るに至つたからではあるまいか。)で「ものゝふ」の中には氏人、種族の多い點から、「八十氏」へか1るのであるが、その八十氏の「うぢ」を音通で宇治川の「うぢ」に言ひかけて「八十うぢ川」といふのである。又「物部能八十乃|※[女+感]嬬《ヲトメ》」(四一四三)、「物部乃八十乃心」(三二七六)などいふも同じ趣で「八十」の枕詞となるのである。
(220)○玉藻成《タマモナス》、浮流禮《ウカベナガセレ》――「なす」は古事記冒頭の「久羅下那洲〔二字傍点〕多陀用弊琉」と同樣「の如く」の意で、「玉藻なす」は「浮」の枕詞。「浮べ流せれ」は後世の語遣ひならば「流せれば〔右○〕」といふべき所であるが、古言の一格として「ば」がなくても、さる意に通じたので、萬葉には用例が多い。卷二「大雪乃、亂而|來禮《キタレ》」(一九九)、卷三「曉闇跡《ユフヤミト》、隱益去禮《カクリマシヌレ》」(四六〇)、卷五「宇知那比枳《ウチナビキ》、許夜斯努禮《コヤシヌレ》」(七九四)など皆同樣で、卷二の例などは、一本に「霰成、曾知余里久禮婆〔左○〕《ソチヨリクレバ》」とあるなど、殊にその意が得られよう。(總じて「こそ」の係がなくて已然形で終つてゐる所は、大方この語法である。)但、こゝは上句の「天地も縁りてあれこそ」の「こそ」と關聯して、註釋家の間に議論があるが、それは後で述べよう。
○其乎取登《ソヲトルト》、散和久御民毛《サワグミタミモ》――「登」は「とて」の意、その木材を取り運ばんとて騷ぎ仕へまつるのである。すべて造營の工事に與かる人民を廣くいふものと大樣に見るべきである。「御〔右○〕民」といふは、民は天皇の大御寶であるからである。此歌、端書によつて、假りに役民の自作とすれば、作者自身をもこめて廣く「御民」といつたものと、これも大樣に見るべきであらう。下の「吾作、日之御門」も同じ趣と見てよからう。そを此の役民は、あの役民はと一々區別して見る玉勝間の説は、委しいやうだが,いかがあらう。
○身毛多奈不知《ミモタナシラズ》――「多奈」といふ語、集中所々に見え、中には「身を田名〔二字傍点〕知而」(一八〇七)、「事は棚《タナ》知」(三二七九)など肯定的にも用ひられてゐるが意は明かでない。僻案抄は直《タヾ》の義といつてゐるが、どうであらうか。よく考ふべきである。
○鴨自物《カモジモノ》、水爾浮居而《ミヅニウキヰテ》――「自物」といふ語は接尾辭のやうに、名詞の下に添うて枕詞のやう〔五字傍点〕に用ひられるので(本來(221)の枕詞ではあるまい)、鹿自物、 鵜自物、鳥自物、鹿兒自物、狗自物など古文に例が多い。文の大意から推して、大方「の如く」「のやうに」と説かれてゐるが、本來の義は明かでない。稻掛太平は「状之《ザマノ》」の意とし、荒木田久老は「自久《ジク》物」の義と解いてゐるが、なほしつくりしない。(古義はたゞ「の」の義としてゐる。舊訓を初め、古寫本の多くは「しもの」と「し」を清んでゐる。元暦校本など「かもよりもの」と訓んで義を成さない。)試に臆説を言はゞ「じもの」の「じ」は「自」(ノ)字の義ではなく、「其《ソ》」の義で、「じもの」は「其物」といふ意ではあるまいか。「其《ソ》」を「し」といふは古文の常で、古事記の「鮪つくあまよ、斯〔右○〕賀阿禮婆」の「斯《シ》」を初め、用例は多い。卷九「鶯の、かいこの中に、郭公ひとり生れて、己父爾《シガチヽニ》似ては鳴かず、己母《シガハヽ》に似ては鳴かす云々」(一七五五)とあるも「其《ソガ》父」「そが母」の義である事はいふまでもない。そを下の名詞につゞける連聲の關係から「じ」と濁るので、つまり「その物のやうに」といふ義であらう。しかし元來「じもの」は「その物」といふだけの意で、それ自體に「の如く」といふ義があるのではない。たゞ下に現はれる語は「鴨自物水に浮く」、「鹿自物膝折り伏す」、「鵜自物頸根つく」など、其物の自然の習性をいふが常であるから、連繋の關係から附隨して起るだけなのである。然るに卷二の「男自物、腋挾持」(二一〇)は世の常の習慣に反するやうな事を以て承けてゐるから「の如く」といふ附隨の意は起らない。「自物」本來の義だけで「男そのもの(男たるもの)が腋挾み持つ」意となるのである。此點を明にしないで「自物」の中に「の如く」の意を求めるから、この「男自物」について、とかくの説が起るのであらう。本來は何の不思議もないのである。又卷三の「白雪仕物《ユキジモノ》往きかよひつゝ」(二六一)は往きかよふと言はむが爲に、又宣命の「畏自物、受賜理坐而」は畏み承け賜はる心をあらはさん爲に輕く用ひたものと見てよ(222)からう。さて「そを取ると」といひ、「水に浮きゐて」といふは、何處でする業か明かでない。古義は宇治川の下流で陸に取上ぐる業と見てゐるらしいが、吾輩は上流での業と見たい。宇治川の上流には岩が多いから、浮べた木材が、ともすれば岩の迫問に引つかゝるのを、役民自から水に浸つて、下におし遣る意ではないかと思ふ。しかし、水中で作業する事を廣くいつたものと見てもよいので、上流とか下流とか強ひて泥むには及ぶまい。下流なる巨椋の入江(これは後にのべる)に引き入れる時の作業と見てもよい。さて「水に浮きゐて」から九句を隔てゝ「泉乃河爾持越流」に語勢がつゞく事は諸家の説の通りであるが、たゞこの間の九句を全部序詞と見る説の多いのはいかゞである。そは後に述べよう。
○吾作《ワガツクル》、日之御門爾《ヒノミカドニ》――「日之御門」は皇居、こゝは今造營しつゝある藤原宮をいふ。「吾」は役民自からいふのである。
○不知國《シラヌクニ》、依巨勢道從《ヨリコセヂヨリ》――「不知國」舊訓「いそのくに」は義を成さないが、代匠記以後「しらぬくに」と訓むのがよい。外國の事である。さてこの二句、考、略解、燈等は「不知國依」で句を切り、上を七言、下を五言としてゐたが、本居翁が「不知國」にて句を切り、五言七言としてから(玉勝間卷十三)、一般にそれによる事になつた。從來の訓點では五七の調が、こゝに至つて急に七五となるので、句法が亂れるばかりではなく、意義も通らなくなるから、翁の改められたのは正Eしい。(舊説では田上山方面からと、外國からと、南方の巨勢からと、三方の木材が皆藤原宮に集まるものと見たらしいが、文脈を推すと、此等の木材がみな一旦泉河に持ち越される事になるから、全く不合理になるのである。)さて「不知國、依」といふ一句二言は巨勢の序詞で、皇居造營の歌であるか(223)ら「知らぬ餘所の國の者も我君の御代を慕うて寄り來〔右○〕よ」といふ祝意を含めて巨勢の「巨」にかけたのである。巨勢は諸註に高市郡巨勢郷と説いてゐるが、實はこれが問題となるのであるから、姑くたゞ地名としておく。
○我國者《ワガクニハ》、常世爾成牟《トコヨニナラム》――常世はもと遠き外國の事をいふ汎稱らしく、神代に少彦名命の渡つたといふ常世も、景行天皇の朝に田道間守が橘の實を得て還つたといふ常世も、同樣であらうが、やがては現實に滿足せずして理想空想にあこがれる人情として、知らぬ遠き境には、不思議なめでたい國もあらうといふ想像から、蓬莱山、不老不死の仙境などを皆常世といふやうになつた。こゝもその意で、永へに變らぬめでたき國の義であらう。
○圖負留《フミオヘル》、神龜毛《アヤシキカメモ》――古訓以來「ふみおへる、あやしき〔四字傍点〕かめも」と訓んでゐるから、それに從つておく。これは禹が水を治めた時、神龜圖を負うて洛水から出たといふ洛書の故事をいつたので、尚書孔安國の注に「洛書者禹治v水時、神龜負v文而出列2於背1、有v數至2于九1云々」とある。支那では無上の瑞祥とせられてゐるが、我國でも早く之に傚つて、天智天皇の九年に背に文字ある龜を得たといふを初めとして、後々神龜、靈龜、天平など改元したのも皆之が爲であるが、此歌にもまた之を引いたのである。
○新代登《アラタヨト》、泉乃河爾《イヅミノカハニ》――「新代」を舊訓は「あたらよ」と訓んでゐるが、荒木田久老が「あらたよ」と改めたのがよい。久老のいふ如く「あたら」は古事記の「地矣《トコロヲ》阿多良斯〔四字傍点〕登許曾云々」を初め、すべて惜む意で、「新」の意ではない。「新」の意は本集卷十八に「春花の盛も阿良多〔三字傍点〕之家牟」(四一〇六)とあるが證とすべきである。卷廿には「年月は安多良安多良〔六字傍点〕に」(四二九九)とあるが、これも古寫本には「安良多安良多〔六字右○〕」とあるから、今本は誤である事が知られる。後世は副詞動詞などはやはり「あらた」といひ、形容詞だけは「あたらし」といふが、名義抄を見る(224)と「あらたし」「あたらし」兩訓とも附いてゐるから、早く混同したものと見える。今の俗に「茶がま」を「茶まが」といふ類の轉訛であらう。(隨つて假名書ではなく「新」とある所は從來皆「あたらし」と訓んでゐるが、これも本集では「あらたし」と訓すべきであらう。)さて「あらた世」は政新なるめでたき御代の義で、歌に漢土の故事を引いた點などから推せば、所謂「天命維新」などの心ばへであらう。さて上の「我國者」から「新代登」までの五句は次の「泉乃河」にかゝる序詞である。これも御代を祝ふ意を含めたもので、「今は政新なるめでたき御代で、今後ます/\榮えて常世になるであらうから、唐土の昔にあつたといふ圖負へる靈龜も出て來るかも知れぬ」との心を泉の河のいづ(出)にかけたのである。藤原宮造營の時、さる靈龜が現はれたといふ史實をいふのではない。あれほど瑞祥騷ぎに夢中な時代、特筆大書さるべき藤原宮造營に際し、一言半句さる記事の見えないのを思ふと、史實をいふのではないので、漢土に於ける名高き瑞祥を借りて、御代を壽ぐ背景としただけであらう。表面から記さないで、序詞として用ひたのも之が爲であらう。「泉乃河」は今の山城國相樂郡なる木津川の事で、所謂「みかの原わきて流るゝいづみ河」(新古今集戀一)のそれである。
○持越流《モチコセル》、眞木乃都麻手乎《マキノツマデヲ》――眞木のつまでは即ち上にある「檜乃嬬手」の事。宇治川に流した木材を更に木津川に持ち越す徑路に就いては後に述べよう。
○百不足《モモタラズ》、五十日太爾作《イカダニツクリ》――百不足は筏の枕詞。百に足らぬ五十(い)の義で、「いかだ」の「い」にかゝるのである。
○泝須良武《ノボスラム》――筏に組んだ木材を、木津川を泝つて都の方へ上せるのであるが、「らむ」といふ推量の辭を用ひたに(225)就いて、いろ/\作者の位置を想像して、或は田上山の宮材に奉仕せる者とし(考)、或は都にゐて思ひやれるものとする(本居翁)など、まち/\であるが、さう穿鑿するには及ぶまい。此造營は二(ケ)國、十數里に亙大工事であるから、いかなる人でも總べてを見つくし知りつくすわけには行くまい。人傳に聞いた智識を綜合して、一篇の歌に作りあげるのであるから、作者は誰にしても、どこに居たにしても「らむ」といふ外はないではあるまいか。(泝せつゝある樣だといふのである。)且つこの「らむ」を「泝す」にだけかけて見るべきではない。文法上はそれには相違ないが、氣分は全篇に行き亙つてゐるのである。これは「いそはく見れば」と承け、「神ながらならし」と結んだ點からもほゞ推されるが、自分で此種の歌を作つて見たなら、自《オノヅ》ら會得せられよう。
○伊蘇波久見者《イソハクミレバ》――「いそはく」は「いそふ」を加行四段に活用したもの(「いふ」を「いはく」といふが如く)、「いそふ」は美夫君志にいへる如く競ひ勤むる意で、皇極紀に「爭陳」を「いそひて〔四字傍点〕まうす」と訓んだと同じ語である。古義は「勤《イソ》し」と同語と見てゐるが、語原は同じであらうけれど、語は同一ではない。「いそし」は形容詞で「いそはく」とはならないのである。
◎此歌には二つの大きな疑問がある。一つは木材運搬の徑路で、その中心問題となるのは巨勢〔二字傍点〕である。古來の註釋書は和名抄なる高市郡巨勢郷としてゐるが、げにそこは集中しば/\出て來る地名でもあり、他には心當りがないから無理ならぬ事であるが、そこは藤原宮の南、三里許りにあるから、北方の宇治川を下し、木津川を泝せた木材を、巨勢を經て藤原へ運ぶのはいかにも不合理である。そこで本居翁は玉勝間(卷十三)で一種の見解を立て、宇治川を下した木材を一旦陸上げして、更に泉河(木津川)に持ち越し、そこで筏に組んで更に淀河から難波(226)の海に出し、紀州沖から紀の川を泝らせて、巨勢から藤原へ運んだもの(大意)と説明してゐる。この大迂回説は矛盾が多いばかりではなく、あまりに非常識なので「古はしかすべき故ありけむかし」と翁が辨じてゐるにも拘らず、あまり承け引くものはない。(但、檜嬬手は此説を取つてゐる。美夫君志は「今少し地理などの考あらまほし」といつてはゐるが、なほ大方之に從つてゐるらしい。)さらば今の人の考はといへば、よくは知らねど、大方は宇治川を下した木材を今の八幡附近(泉河と合するあたり)から泉河に轉じて木津まで泝らせたものと見てゐるらしい。運搬の順路としては、それが穩當かも知れないけれど、さらば巨勢をばいかに説明するかといふに、それには觸れないやうである。巨勢をば高市郡の巨勢郷としながら、如上の運搬徑路を取らせるのは、これも矛盾で、終にしつくり〔四字傍点〕とはしない。一體此の歌、修飾的な序詞や枕詞を一切切り捨てゝ、實際の意義ある文句だけを並べると、
 ……水に浮きゐて、吾が作る日の御門に……巨勢路より……泉の河に、持來せる、眞木のつまでを……筏に作り、上すらむ……
となる。
 近頃の註釋家は「吾作日之御門爾」から「新代登」に至る九句を全部序詞と見る人が多いが、さうではあるまい。これはやはり從來の説のやうに「不知國、依」の一句強を巨勢の序、「我國者」から「新代登」までの五句だけを泉の序と見る方が穩であらう。其間の「吾作、日之御門爾」の二句と「巨勢道從」の一句弱は實際の事實を叙したものと見るべきである。「吾作」の「吾」は役民自からいふので、現に藤原宮を造營しつゝある事實を(227)叙するのあるから、こを序詞といふべきではない。(「吾」といふに心をつくべきである。)巨勢は問題であるけれど、地名なるには相違なかるべく、恐らくは木材運搬の徑路をいふものと思はれるから、これも實際の事實を叙するので、序詞とすべきではなからう。此點に於ては予は從來の見解を可と信ずる。
さて實際の叙述を以上の如く見て、その文脈をつく/”\玩味すると、どうしても木材は今造りつゝある皇居の方に向つて、巨勢を經て泉の河に持ち越す順序とならねばならぬ。思ふに後世不明となつたが、宇治川と泉河との間に巨勢といふ處が有つたのではあるまいか。それが高市郡なる巨勢の名に掩はれて、學者の研究が行き屆かぬのではあるまいか。試にこの疑問を提出して後賢の研究を待つのである。(近頃井上通泰博士におもしろい新説があると仄聞してゐるが、まだよく聞く事を得ないから、今はそれには觸れない。たゞ我が臆測の私案だけを述べておく。)
吾輩曾て或る木材の事に明かな人の言といふを聞いた事がある。それは「藤原遷都の如き大工事には木材の性質上、どこか一大集積地がなくてはならぬ。木津だけではおつつくものではない。恐らくは巨椋池を利用したのであらう」といふのである。これはまことにさもあるべき説で、吾輩も至極賛成である。巨椋池は萬葉集にも巨椋の入江として詠まれ、千餘年の今日なほ東西一里半、南北一里許りの一大湖をなしてゐるのであるから、萬葉集時代にはなほ廣く大きく、東は宇治川に、西は泉河に通じてゐたであらう。(現に徳川幕府時代にも河水と湖水との衝突を避ける爲に、木津の流を南西に導いたと言はれてゐるし、今も霖雨の時は池水と河水と相合して、渺茫海の如くなるのである。)隨つて木材運搬の際、之を利用しない筈はあるまい。八幡方面を迂回するまでもなく宇(228)治川を下した木材を直ちにこゝに流し入れて集積地とし、用に應じて更に泉河に持ち出したには相違あるまい。さてこの巨椋池のある邊は山城國久世郡である。で、覺束ないながら、久世即ち巨勢ではあるまいかとの臆測も起らんでもない(巨勢は「くせ」の音字でないとも限らぬ)。あらぬ臆説ではあるが、文脈から推せばさう説きたくなるし、それが認めらるれば、此歌何の難もなく、さらりと解ける事になるから試みに提供して見るのである。吾輩淺學で古文書などの智識にも乏しいが、博雅の君子示教を賜はらば幸である。今一つの問題は「天地も縁りてあれこそ」の句と「玉藻なす浮べ流せれ」との關係である。古來の註釋あまり明(229)瞭ではないが、檜嬬手、古義、美夫君志等は「天地もよりてあればこそ云々あるらめ〔四字傍点〕」と結辭の省略法で一旦結んだものと見てゐるらしい。隨つて「流せれ」を「流せれば〔右○〕」の意に見てゐる。然るに燈、攷證等は「縁りてあれこそ」の「こそ」は「流せれ」で全く結ばれたものと見て、燈などは、こゝまでは神祇の力で流し下したもの、以下は人力をいふものと判然區別してゐるが、この二説まことに判斷に苦しむ。燈の説によると、文法上の形式は明瞭に説けるし(美夫君志はさばかり弖爾乎波に明らかな人の説とも覺えぬと嘲つてはゐるが)、神力、人力の説もおもしろいが、つら/\文意語脈を味うて見ると、先入主となつてゐる爲かも知れねど、「浮べ流せれ」では切れないで、氣分は下につゞくかに思はれる(どちらにしても文法上は差支ない)。神力人力の問題も、さう判然と區別すべきではないので、田上山の木材を切り出すにも人力が加はるわけだし、後々の作業も神の助けがないとは言へないから、總べてを廣く大樣に見たい。たゞ「よりてあれこそならめ〔三字傍点〕」と意を含めて一旦結んだものと見るべきか否かは猶考ふべきである。(なほ「縁りてあれこそ」を、考や古義に結句の「神隨爾有之」まで冠らすと説いてゐるのは、多分文意氣分の及ぶ事をいふので、文法上の係結の關係をいふのではあるまい。もし係結の形式をいふのならば、それは同意は出來ない。)
◎一篇の大意――日之皇子なる我が大君は藤原といふ處に地を卜して大宮を御造營遊ばされ、そこにおはしまして、食國、天の下をしろしめさんと神慮かしこく思しめし立たせられると、天地の神々も、寄りて擧りて眞心を致すからであらう。何の滯りもなく、次の如く事が運んで行く。まづ木材をば近江國の田上山から伐り出して麓を流れる宇治川に浮べ流すと、それを取り運ばんとて、騷ぎ仕へまつる人民どもゝ、家をも忘れ、身をも顧みず、自(230)ら水に浸つて、自分等が造營しつゝある大宮の方へ運んで行く。その徑路はといへば、宇治川から巨勢といふ處を經て一旦泉河に持ち越し、そこで筏に組んで、又更に都へ上せるといふさまだが、此く朝廷の督促をも待たず、役民自ら先を爭うて仕へまつるさまを見れば、げにも天皇は神にていますと申すべきであらう。まことに知らぬ外國の者が徳化を慕うて寄り來るもことわり、政新なるめでたさを祝うて、かの圖《フミ》負へる靈龜も出て來さうな御代であるわい。
堂々二十七句、皇居造營、木材運搬の事實を詠ぜる中に、漢土の故事を巧に織込みて、御代を祝する背景としたなど、なみ/\の手際ではない。それ故、本居翁は人麿朝臣の口つきといひ、檜嬬手は端書をさへ「柿本朝臣人麿擬d造2藤原宮1役民u作歌」と改めてゐる。げに今日から見れば、藤原宮時代に、かほどの歌を詠む者、人麿以外にあるべしとも思はれないし、人麿以外にはめつたに用ひない辭句なども見えるけれど、輕々しく臆斷を加ふべきではない。當時に於ける智識階級の何人かゞ役民の名に托して詠んだものと見る外はなからう。(吾輩は人麿の作とは思はない。恐らくは國歌にも堪能な漢學者の手に成つたものであらうと思ふ。)美夫君志は詩の大雅靈臺の一章(經2始靈臺1、經v之營v之、庶民攻v之、不v日成v之、經始勿v丞、庶民子來)に比して、それに優ること幾許ぞやといつてゐるが、それはいふまでもないけれど、本來は此詩が本であらう。木材運搬の事を取り除けば、事態も精神も全く同一である。思ふに當時の心ある學者が此詩からヒント〔三字傍点〕を得て、之を我が國風にうつしたもので、役民の名に托したのも之が爲であらう。隨つてまだ日本的に醇化してゐないといへば言はれんでもないけれど、當時の學者が彼より皆た智識を我に反映させようとした努力は十分に認むべきである。此の如くにして我が國歌(231)が向上したのである。然るに寧樂朝の末になると、學者皆詩作にのみ狂奔して、人麿既に出でず、折角得た智識を反映させる者もまたなくなつて、萬葉の命脈の絶えるに至つたのは、かへす/”\も遺憾な事である。
 
右日本紀、朱鳥七年癸巳秋八月幸2藤原宮地1、八年甲午春正月幸2藤原宮1、冬十二月庚戌乙卯遷2居藤原宮1。
 
この左注は藤原宮が朱鳥七年から同八年にかけて出來たよしを示したものであらうが、前にも述べた如く、これは四年七月以來の問題で、六年五月には地鎭祭を行つて、いよ/\工事に着手せられたらしく、七年八月は工事のさまを見そなはさんが爲の行幸らしく、八年正月は「即日還v宮」とあるから、宮殿は一通り出來上つたが、まだ諸般の準備が整はないので、直ちに還御あらせられたものと見るべきであらう。かくて同年十二月いよ/\御遷居になつたのである。
 
從2明日香宮1遷2居藤原宮1。1之後、志貴皇子御作歌
 
明日香宮は淨御原(ノ)宮の事、藤原遷都の後も志貴皇子はなほ明日香に留つて、その閑《サビ》しくなり行くを傷みて詠ませられたのであらう。(或はたま/\舊都を訪うて感慨を催されたのかも知れぬ。)志貴皇子は天智天皇第七の皇子で、持統天皇の御弟、後の光仁天皇の父君である。歌は多くはないが、御心ばへしめやかで韻致に富み、賀茂眞淵は「靜にしてこまやか」と評してゐるが、御人がらのしのばれる御作が多い。
 
(232)51 ※[女+釆]女乃《ウネメノ》 袖吹返《ソデフキカヘス》 明日香風《アスカカゼ》 京都乎遠見《ミヤコヲトホミ》 無用爾布久《イタヅラニフク》
 
○※[女+釆]女乃《ウネメノ》――舊訓は「たをやめの」と訓んでゐるが、考は「たわやめの」と改め「※[女+釆]」を「※[女+委]」
の誤としてゐる。古義は更に「媛」の誤寫として「をとめの」と訓んでゐるが、古寫本はすべて「※[女+釆]女」であるし、卷四にも「駿河※[女+釆]女」(五〇七)とあつて※[女+釆]、釆通用した事が知られるから誤記ではあるまい。然るに元暦校本には、假名書の本文は「たをやめ」であるけれど、漢字の旁訓には「うねめ」とあるが、これがよからう。今の人は多く之に從つてゐる。歌がら〔三字傍点〕からいへば「たわやめ」でもよく通ずるが、當時の實際からいへば、若くうるはしい采女が袖を飄して都大路を練り行く風情が、強く皇子の印象に殘つてゐたのであらう。采女は郡の少額以上の子女で形容端正なものから採られて、天皇の御膳部に侍する者といはれてゐるから、都をとめの代表とせられたのであらう。
○袖吹返《ソデフキカヘス》――諸註大方「そでふきかへす」と訓んで「袖吹きかへしゝ〔四字傍点〕」といふ過去の意に説いてゐる。文法上から嚴密にいへば破格であるが、歌としては音調上「吹きかへしゝ」とはいへないから致し方があるまい。但、こゝは「吹きかへすべき」といふ意に見る方がよからうと思ふ。「世が世ならば〔六字傍点〕今も采女の袖吹きかへして、風情おもしろかるべき明日香風」といふのである。語法上からも、その方が少し穩やかかと思ふが、それは見る人の心々にまかせてよからう。中に考は「袖吹きかへせ」と命令の意に見てゐるが、これも語法上しつくりしない點から起つた見解かは知れぬけれど、歌としては下句の折合が拙なくなるから賛成は出來ない。
○明日香風《アスカカゼ》――明日香地方を吹く風の意、たゞ風の事であるが、同時に其地の説明となるのがおもしろい。「佐保(233)風」「伊香保風」など萬葉には多い。
○京都乎遠見《ミヤコヲトホミ》――例の「を」と「み」と相對する語法で、「都が遠いから」といふのである。
○無用爾布久《イタヅラニフク》――古訓以來「いたづらにふく」と訓んでゐる。卷五「伊多豆良爾〔五字傍点〕あれを散らすな(八五二)などいふ語氣に準じて、適當な訓であらうと思はれる。吹くかひもなき意である。
◎一首の意――舊き都のさびれ行くのはいかにも物淋しい。世が世ならば、今も若くうるはしい采女の袖を吹きかへして風情おもしろかるべき此の風も、今は都が遠くなつたので、さる風情も見られず、徒らに空吹き過ぎるわい。
舊都のさびれ行くさまがよく現はされてゐる。此歌を誦して思ひ出されるのは劉禹錫の烏衣巷の詩である。
 朱雀橋邊野草西   烏衣巷口夕陽斜
 舊時王謝堂前燕   飛入尋常百姓家
趣がよく似てゐるではないか。無心の燕を借り來つて、王謝の豪華に對照させたのもおもしろいが、無形の風を捉へ來つて美人の袖に反映させたのは一段の風情ではないか。我が國の詩歌、一ふしおもしろいと思うても、よく味へば、彼より出てゐるものゝ多いのが遺憾であるが、禹錫に先だつ事一百年、この歌が志貴皇子によつて詠まれてゐる事はまた一段と珍重すべきである。
 
藤原宮御井歌
 
今は知られなくなつたが、藤原の宮地によき清水があつたものと見える。そこを見立てゝ宮殿を造營せられ(234)たのであらう。住居を營むには、まづ飲料水を見立てねばならぬから、自然を待つ外に道のない上代に於ては、清き湧水は、火と共に非常に珍重せられ、神聖視せられた事は、各種の傳説に照しても、又中臣壽詞などを見ても知られる事である。さて藤原宮の位置は此歌で大體が知られるが、三山のほゞ中央に在つて、比較的畝傍山に近く、東に埴安池をひかへてゐたものらしい。
 
52 八隅知之《ヤスミシシ》 和期大王《ワゴオホキミ》 高照《タカテラス》 日之皇子《ヒノミコ》 麁妙乃《アラタヘノ》 藤井我原爾《フヂヰガハラニ》 大御門《オホミカド》 始賜而《ハジメタマヒテ》 埴安乃《ハニヤスノ》 堤上爾《ツツミノウヘニ》 在立乃《アリタタシ》 見之賜者《ミシタマヘバ》 日本乃《ヤマトノ》 青香具山者《アヲカグヤマハ》 日經乃《ヒノタテノ》 大御門爾《オホミカドニ》 春山路〔左○〕《ハルヤマト》 之美佐備立有《シミサビタテリ》 畝火乃《ウネビノ》 此美豆山者《コノミヅヤマハ》 日緯能《ヒノヨコノ》 大御門爾《オホミカドニ》 彌豆山跡《ミヅヤマト》 山佐備座《ヤマサビイマス》 耳高〔左○〕之《ミミナシノ》 青菅山者《アヲスガヤマハ》 背友乃《ソトモノ》 大御門爾《オホミカドニ》 宜名倍《ヨロシナベ》 神佐備立有《カムサビタテリ》 名細《ナグハシ》 吉野乃山者《ヨシヌノヤマハ》 影友乃《カゲトモノ》 大御門從《オホミカドユ》 雲居爾曾《クモヰニゾ》 遠久有家留《トホクアリケル》 高知也《タカシルヤ》 天之(235)御蔭《アメノミカゲ》 天知也《アメシルヤ》 日之御蔭乃《ヒノミカゲノ》 水許曾波《ミヅコソハ》 常爾有米《トコシヘナラメ》 御井之清水《ミヰノマシミヅ》
 
○和期大王《ワゴオホキミ》――「吾がおほきみ」に同じ。上なる「わが」の「が」が、下なる「おはきみ」の「お」につゞく連聲の關係上、おのづから「ご」となつたのである。集中に「和期大王」と書いた所も相應にあるが、こを例として「吾大王」とある所も皆「わご」と訓むべしといふ考や美夫君志の説はあまりに泥んだものといふべきである。現に集中にも「和我〔二字傍点〕於保伎美」と假名書きにした例もあるし(卷十八「橘の下照る庭に殿たてゝ、さかみづきいます和我〔二字傍点〕於保伎美かも」(四〇五九)、卷二十「高圓の野《ヌ》べはふ葛の末つひに千代に忘れむ和我〔二字傍点〕於保伎美かも」(四五〇八)等)、記紀の歌にも「和賀」とあるから、「和期」は寧ろ後世の訛といふべきである。
○藤井我原爾《フヂヰガハラニ》――多分藤原の元の名であらう。よき湧き水のある所から、しか唱へられたので、藤原といふのは、その略稱であらう。
○大御門《オオミカド》――上の役民の歌に「日之御門」(五〇)とあるに同じく皇居の事である。
○在立之《アリタヽシ》、見之賜者《ミシタマヘバ》――「在」は「あり/\て」「ありつゝ」「あり通ふ」などの「あり」で、折々出でまして御立ちになる事をいふ、意は輕い。「立たす」は「立つ」の敬語法である事は既に述べた。
○見之賜者《ミシタマヘバ》――舊訓は「みしたまへれば」と訓んでるのを(元麿校本も仙覺抄も)、考は「めしたまへば」と訓み改めて、略解、古義等之に從ひ、他は大方「みしたまへば」と訓んでゐる。「みし」も「めし」も同語の通音であらうから、どちらでもよからうが、元來は「見」といふ動詞の未然形から佐行四段に轉用して敬語法としたもので(236)あらうから、「みし」といふが原であらう。上の役民の歌に、「食國乎賣之〔二字傍点〕賜牟」とあると同じ語ではあるが、彼は天の下をしろしめす意に用ひられ、こゝは「見」といふが本義であるから、やはり「みし」と訓むがよからう。古義に「みし」にては「之」の言、過去の辭となるから語整はずといつてるのは何と見たのであらう、怪かしい。(「賜者」は勿論「たまへば」と訓むべきで、「たまへれば」といふべき所ではない。)
○日本乃《ヤマトノ》、青香具山《アヲカゲヤマハ》――「日本」を大和にあてた例は前にもあつたが、香具山を特に「やまとの」といつたのは昔から都は多く此山の近くにあつて、三山の中でも殊に名高く、恰も大和を代表する山のやうに思はれたからであらう。「青」は樹木の繁茂してゐるのをほめていふ詞。
○白經乃《ヒノタテノ》云々――こゝから下文に亙つて、四山の方角を指示した語は成務天皇の時に定められた名稱で書かれてゐる。成務紀には「以2東西1爲2日縱1、南北爲2日横1、山陽曰2影面1、山陰曰2背面1」とあるが「日經」は即ち「日縱」で、紀の文によると、東西を通じて稱ふる語でなければならぬが、今は暫く東の意に借り用ひたのである。推定された藤原宮の位置からいへば、香具山は東南に當るが、之を假りに東としたので、制度の原義ではなくても、民間の通用語としては、便宜上しか言ひならはす類ひ後世もよくある事である。
○春山路《ハルヤマト》、之美佐備立有《シミサビタテリ》――初句、古訓はそのまゝ「はるのやまぢ」など訓んでゐるが、意を成さぬので、考は「路」を「跡」の誤として「はるやまと」と訓まれた。げに古葉略類聚鈔には「〓」(跡の草體に近し)とあるといふから、下の畝火山の所に「彌豆山跡〔右○〕」とあるに照して「跡」の誤と認めてよからう。なほ本居翁は「春」を「青」の誤として、「青〔右○〕香具山は青〔右○〕山としみさび立てり。この瑞〔右○〕山は瑞〔右○〕山と山さぴぃます」と對立させたものとい(237)つてゐるが、なるほど面白い見解で、春、青、字體が頗る似通うてもゐるから、意義から推しても句法から見ても、それがよからうと思ふが、春は山の樹木の最も青々と繁る時期で、本文のまゝでも義は一つに落つるから、姑く原のまゝにしておく。「跡」は燈、美夫君志等は「花と散る」「雨と降る」などの「と」で「の如く」の意と見てゐるが、簡單に「として」の意と見てもよからう。「しみ」は繁き意、「さび」は神さびの「さび」に同じい。
○此美豆山《コノミヅヤマ》――「みづ」は若木などの茂りあうて、みづ/\しく、うるはしき意、「此」は燈に「藤原宮は畝火の山下にて他の山々よりも殊に近ければ」といつてるのがよからう。近頃推定せられた藤原都は必ずしも畝火山に近いとも云はれぬらしく思はれるが、宮城は比較的近かつたのであらう。
○日緯能《ヒノヨコノ》云々――舊訓は「ひのぬきの」と訓んでゐる、文字からいへば、さうも訓めるが、書紀も高橋氏文も皆「日横」とあるから、考が「ひのよこの」と改めたのがよからう。本來「日の横」は南北に通ずる語であるが、此歌では下文に耳梨山と吉野山とを南北に當てた事は明らかであるから、こゝは強ひて西に借り用ひたのであらう(山は宮城の西南に當つてゐる)。それは無理ではあるが、他に適當な語が得られず、成務紀にある成語を用ひるとすれば、致し方がなかつたのであらう。流石の古義も「歌は詞を主とするものなれば、強ちに拘はるべきにあらず」と辨じてゐる。
○山佐備伊座《ヤマサビイマス》――山を神として崇めいふのである。
○耳高之《ミミナシノ》、青菅山者《アヲスガヤマハ》――古寫本皆「耳高」とあつて、文字のまゝ「みゝたかの」と訓んでゐるが、三山の一つなる耳梨山なるべき事は明かであるから「高」は誤字であらう。考は「爲」の誤とし(燈、攷證、檜嬬手、美夫君志(238)等之に從ふ)、古義は「無」の誤としてゐる。「青菅」は樹木の青々と茂つて清くすが/\しい意で、須佐之男命の「須賀(ノ)宮」などの心ばへであらう。
○背友《ソトモノ》――背つ面で日光に背く方面即ち山陰の事。
○宜名倍《ヨロシナベ》、神佐備立有《カムサビタテリ》――「よろし」は考の別記に「物の足り備はれるをいふ」とある如く、上の舒明天皇國見の歌に、「とりよろふ天香具山」(二)とおほせられたと同じ心ばへである。「名倍」は「並べ」で、これも同別記に「別別に並ぶるにあらず、身一つに數の相を具ふといふが如し」といつてゐる通りである。これは三山の中、耳梨山の容が最もうるはしいのを言つたのであらう。特に並べ擧ぐべき數々の美點があるわけでもなからうが、詩人の語遣ひは斟酌して見るべきである。
○名細《ナグハシ》、吉野乃山者《ヨシヌノヤマハ》――「なぐはし」と訓み、吉野の枕詞。元來「くはし」は精細、微妙の義で、「くはし女《メ》」(美女)「くはし馬《マ》」(良馬)「くはし矛」など、物をほめる意に用ひられる。「名ぐはし」は其名のめでたく良き事で、世にいふ名高き意である。隨つて普通の形容語とも見られるが、形式からいへば、「いすくはし鯨」「花ぐはし櫻」などに準ずべきもので、やはり枕詞であらう。卷三人麿の歌に「名細寸〔三字傍点〕稻見之海」(三〇三)とあるのは、形容語として用ひたのでもあらうが、卷二、同じ人の歌に「名細之〔三字傍点〕狹岑之島」(二二〇)とあるのはなほ枕詞とすべきであらう。(これはなほよく考ふべきである。)
○影友乃《カゲトモノ》、大御門從《オホミカドユ》――「かげとも」は影つ面で、日光に面する方、即ち山陽である。
○雲居爾曾《クモヰニゾ》云々――雲居は雲のたなびき居る處即ち空をいふ。――さて此の三山の形容は大體同じ事をくりかへし(239)てゐるに過ぎない。山の高さは四五百尺から七八百尺までゞ、すぐれて高きもなく、山中の景観も格段の特長があるでもなく、たゞいづれも樹木が繁茂して鬱蒼としてゐるから、特に此點を捉へて誇張したので、詞も青山、美豆山、青菅山など少しづゝかへてはゐるが、實は同じ事をいふのである。隨つて之を承けるにも、「しみさび立てり」といひ、「山さびいます」といひ、「神さび立てり」といひ、これも少し語をかへただけで、同じ趣をくりかへしてゐる。(で、「青菅」を山管の茂る意に解く考の説には賛成が出來ない。)似よつた山々を並べ擧げて、それぞれ異なる感じを與へるには、作者相應に苦心してゐる。たゞ吉野山はやゝ離れてゐるので、少し筆法をかへて「影ともの大御門ゆ〔右○〕」といひ、「雲居にぞ遠くありける」と大樣に述べて、「ぞ」といふ辭で力強く抑へてゐる。これで三山の記述も皆一段と引立つので、こゝが作者の技倆を見るべき所である。(四山を王城四門の守護神に見立てたのは勿論の事であらう。)さて歌の意義からいへば、こゝまでは王城四圍の形勝を述べたので、次から漸く題意に入るのであるが、歌の構造からいへば、こゝまでが主眼で、あとは結末である。
○高知也《タカシルヤ》、天之御蔭《アメノミカゲ》、天知也《アメシルヤ》、日之御影《ヒノミカゲ》――天御蔭、日御蔭(影とあるは借字)は本來祝詞の成句で、そを歌によみこまんが爲に、「高知也」「天知也」といふ二句の修飾語を枕詞のやうにおいて、五七の對にしたのである。「高知るや天」は、天は高く空を領してゐるからで、「天知るや日」は、日は天を領して輝いてゐるからである。二つの「也《ヤ》」は感動詞で、「天なるや〔右○〕弟棚機」「石見のや〔右○〕高角山」などゝ同じ格である。「天御蔭、日御蔭」といふ祝詞の文は、もと家屋殿舍の事をあやに言つたもので、家屋は空を覆うて雨露を避け日影を遮る蔭となるからである。祈年祭の座摩御巫の祝詞に「皇御孫命御舍仕奉※[氏/一]《スメミマノミコトノミヅノミアラカヲツカヘマツリテ》、天御蔭日御蔭登隱坐※[氏/一]、四方國安國知食故(240)云々」とあるは皇居の事をいふのであるが、此歌も同樣で美夫君志にもいへる如く、座摩御巫の祝詞は御井(ノ)神を祭る詞であるから、かた/”\取り用ひたものであらう。で、高知也云々の五句の意を要約すれば「かゝるめでたき御住居の中に湧き出づる水こそは」といふ事になるのである。然るに代匠記を初め、略解、古義等は、天の影、日の影のうつる清水と説いてゐるのは、縁語といふものをこちたく唱へる後世の心に泥んだので、歌の本義ではない。清冷な水を稱へるに、日影のうつるなどは無用な事であるから、檜嬬手などは「あたら名句を聞き知らぬのみならず、水もぬるくなりて愛づるに足らざるをや」と憤慨してゐる。――さて天之御蔭の「天」を「あめ」と訓むべきか、「あま」と訓むべきかは、本居翁の古事記傳、村田春海の天字讀法考以來議論まち/\である。古訓は「あま」であるが、仙覺抄以後は多く「あめ」と訓んでゐる。一般の習はしからいつても、「あめの浮橋」とも「あまの浮橋」ともいふし、假名書の例を見ても「阿米〔二字傍点〕乃迦具夜麻」(紀)、「安米〔二字傍点〕乃美加度」(萬、卷廿、四四八〇)もあれば「安麻〔二字傍点〕能之良久毛」(記)、「阿麻〔二字傍点〕能左愚謎」(記)もある。つまりは人により時代によつて、音調の上からさまざまに唱へたらしく思はれる。祝詞では何と唱へたかは知らねど、祝詞考は「あめのみかげ」と訓んでゐる。「天知るや」は「あま知るや」とはいふまいから、四句連續して唱へる場合「○○○あめの御蔭、あめ知るや○○○」と同音をくりかへす方が調子がよいかに思はれるから、やはり「あめ」と訓んでおく。
○常爾有米《トコシヘナラメ》――昔から「ときはにあらめ」「とはにありなめ」「つねにあるらめ」などさま/”\に訓まれてゐるが、文字の上から見ても、語遣ひの自然からいつても、考の「とこしへならめ」(「とこしへにあらめ」の約)が最も穩かであらう。
(241)○御井之清水《ミヰノマシミヅ》――これも文字のまゝには「みゐのしみづ」と訓む外はないが、此歌の結末としては、六言ではいかにも物足らない。さりとて代匠記のやうに「きよみづ」と訓まんもいかゞ。「清水」の二字を「ましみづ」と訓まんも問題だけれど、姑く調に重きを措き、考に同じて「みゐのましみづ」と訓んでおく。
◎一篇の大意――吾が大君、日の御子は、靈泉湧き出づる藤井が原に地を相して、大宮を御造營遊ばされ、折々近き埴安(ノ)池の堤の上に立たせられて、あたりの形勢を見そなはすと、近く畝火、耳梨、香具山の三山を周らし、遠く名山吉野をひかへて四門の鎭護比ひなき形勝の地である。あはれかゝる處に湧き出づる此の靈水よ、かゝる處に鎭まりいます大宮と與に、永へに榮え行かむものぞ。大宮を營むには、第一に清水の湧き出づる地を相したのであらうし、歌も水を詠ずるのが主眼であらうが、水その物には格段に記述すべき點もないので、まづ王城四面の形勝を堂々と述べ立て、最後の二三句僅に水に及ぼして、「かゝる處の水こそ」と水をしておのづから重からしめたのである。この側面描寫の筆法は、これも恐らくは漢土の智識から得た構想であらう。
 
短歌
 
(242)短歌は荀子の所謂小歌即ち反歌であるべき事は既に述べた。考は此歌を反歌ならずと見て、別に端書のありしが脱ちたものとしたのは、歌の意が御井に觸れてゐないかに聞える爲もあらうが、畢竟はこの小歌云々の點に氣づかれなかつたためであらう。これは藤原宮のめでたさを御井と與に大勢の上から述べた長歌の餘波である。反歌は彼土の反辭に擬したものゝ、所謂前意を反覆するに止まらないで、少し目先をかへて、餘意を補ふが却つておもしろいのである。
 
53 藤原之《フヂハラノ》 大宮都加倍《オホミヤヅカヘ》 安禮衝哉《アレツガム》處女之友者《ヲトメガトモハ》 之〔左◎〕吉呂〔左○〕賀聞《トモシキロカモ》
 
○大宮都加倍《オホミヤヅカヘ》――「大宮仕へ」で、こゝは名詞である。
○安禮衝哉《アレツガム》――舊訓は「あれせむや」と訓んでゐるが意を成さぬ。又「衝」字を「せむ」と訓むべきいはれもない。其の他「あれつげや」(考)、「あれつくや」(古義)、「あれつかむ」などさま/”\に訓まれてゐるが、美夫君志に「あれつがむ」と訓まれたのがよい。「あれ」は現はれる義で、こゝは軈て「生れる」意、「つがむ」は「繼がむ」である。「哉」を「む」と訓む事は、上の「君之齒母、吾代毛所知哉」といふ歌(一〇)の所で既に述べた。(本居翁は「武」の誤としたけれど、改むるに及ばぬ事もそこで述べた。)清音の「衝《ツク》」を濁音の「繼《ツグ》に用ひたのを難ずる説(【玉勝間第十一等】)もあるが、「雉」を「岸」に借り、「並べ」に「苗」を借り用ひるなど萬葉に例が多いばかりではなく、卷六田邊福麿が「讃2久邇(ノ)新京1歌」の中に〕八千年繭、安禮衝之乍《アレツガシツヽ》、天下所知食跡」(一〇五三)とあるは、明かに「生れ繼ぐ」義と聞えるから、こゝもそれに準じて見てよからう。但、こゝは子々孫々生々相繼ぐといふほどの義で(243)はなく、現代に就いていふのであるから、「入り代り立ちかはり」などいふほどの心ばへであらう。さて「あれ繼がむ」は連體形で、次の「處女」にかゝるのである。
○處女之友者《ヲトメガトモハ》――采女などの如き若き官女をいふのであらう。「友」は「ともがら」の意で、古事記、神武天皇の御歌に「宇加比賀登母〔二字傍点〕」とある類である。
○之吉呂賀聞《トモシキロカモ》――「呂」(ノ)字、原文には「召」とあるので、代匠記は「しきりめすかも」又「しきめさむかも」など訓み、僻案抄、考等は「しきめさるかも」と訓んで、處女等が頻りに召し出される事と説いてゐるが、歌の意はよく通らない。玉(ノ)小琴に田中道麿の説とて「乏〔右○〕吉呂賀聞」の誤としたのがよい。(玉勝間卷十一にくはしい。但、元暦校本、類聚古集等「召」(ノ)字「呂」とあるから、改めるには及ばない。)さて「ともし」は缺乏の意より轉じて、古言では、めづらしく、めでたき意、羨ましき意などに用ひられる。數少なく、めでたきものは世に珍重せられて、人にも羨まれるから通じて用ひられたのであらう。こゝは羨ましき意である。次なる「朝毛吉」の歌の「樹人友師母」と同じ意である。「ろ」は調子のために添へる助辭で「悲しきろかも」「たふときろかも」など萬葉に例が多い。一句全く同じき例は古事記、雄略卷の歌に「身の盛り人、登母志岐呂加母《トモシキロカモ》」とある。
◎一首の意――この立派な藤原宮に入り代り立ちかはり、それからそれと宮仕へするであらう處女が伴は、まことに羨ましい事であるわい。
從來曾て無い莊嚴な大宮で、帝は女帝でいらせられるから、宮仕の少女等も、時を得顔に花やかな装束で出入するので、餘所目羨ましく見えたのであらう。御井の事には更に言ひ及ぼしてないので、考はその反歌とは見ない(244)事は既に述べたが、燈は「長歌はこの井を以て藤原都の遠長かるべき事をほぎ奉れる歌なれば、御井は表にて、此の都をはぎ奉れるが本情なり。されば此歌もなほ同じ言ほぎなり。更に別時の歌にあらず。表に御井を詠まずとて眞をそこなふまじきなり、云々」といつてるのは、平素理窟がちな著者の言だけに中々にをかしい。
 
右歌作者未v詳。
 
これは長歌と短歌とをこめていふのであらう。この長短歌、徃々人麿作を以て擬せられ、檜嬬手などは、例によつて端書をも「柿本朝巨人麿詠2藤原宮御井1歌」と改めてゐるが、さる確證のあるのではないから、やはり役民の歌に準じて見ておくべきであらう。
 
大寶元年辛丑秋九月太上天皇幸2于紀伊國1時歌
 
此の集こゝまでは天皇の宮居を以て歌を次第してゐるが、こゝから下は更に年號を分けて次第してゐる。そはこれまでは御一代毎に必ず宮居が改まり、又めつたに年號も立てられないので、宮居やがて天皇の御代を表する事となるけれど、藤原宮は持統文武の兩朝及元明天皇の初期に亙り、其間に大寶、慶雲、和銅と三たび年號が更るから、宮居だけでは、何れの時といふ事が判然せぬためであらう。さて大寶は文武天皇となつてからの年號で、隨つて太上天皇といふは持統天皇の御事である。この御幸の事は續紀に「大寶元年九月丁亥天皇幸2紀伊國1、冬十月丁未車駕至2牟漏温泉1」とあつて、彼は天皇、此の端詞は太上天皇となつてゐるが、卷九の歌に「大寶元年辛丑冬十月太上天皇、大行天皇幸2紀伊國1時歌云々」(一六六七)とあるから、御同列で(245)あつたのであらう。歌は太上天皇の御歌ではなく、供奉の者の作で、歌の下に名が記されてゐる。
 
54 巨勢山乃《コセヤマノ》 列列椿《ツラツラツバキ》 都良都良爾《ツラツラニ》 見乍思奈《ミツツオモフナ》 許湍乃春野乎《コセノハルヌヲ》
 
○巨勢山《コセヤマ》――役民の歌で諸書に扱はれた高市郡巨勢郷の山で、藤原の南三里許、紀州へ往く通路に當つてゐる。
○列列椿《ツラツラツバキ》――一面に植ゑ列ねられた椿をいふ。池の汀などの一面に凍つたのを「つらゝ」といふに同じ語遣ひなるべく、卷十五「いさりする、あまのをとめは、小舟乘りつらゝ〔三字傍点〕に浮けり」(三六二七)とあるも同じ心ばへであらう。然るに仙覺は「椿はつる/\としたものなれば」といつてるので、今もこの説を取る人もあるが、こゝの列々椿は山一面の椿をいふが本で、それがつやめき渡る葉の形容にも響いて聞えるのがおもしろいので、つるつるといふが本義ではあるまい。卷二十「足曳の八つ丘《ヲ》の椿都良都良爾〔五字傍点〕」(四四八一)も同じ意で解すべきものであらう。昔は椿油を製して外國への贈品にもしたので(灰は染料にも用ひた)、一時盛に椿を栽培したらしいから、巨勢あたりでも多く植ゑつけたかも知れぬ。(近年まで椿山といふ名稱も遺つてゐたとか聞いてゐる。)地勢は岡つゞきの傾斜面で、歌にも「巨勢山」とも「許湍乃春野」ともいつてゐるから、山から野へかけて、一面に植ゑつけてあつたので、それを一目に見渡すとつやめき渡つていかにも見事であつたらう。それがこゝの「列々椿」で、恐らくは作者人足の新造語であらう。さて「列々椿」から、つら/\にと言ひ下して、音調をなだらかにした事はいふまでもない。
○見乍思奈《ミツツオモフナ》――古訓を初め大方「見つゝおもふな」と訓んでゐる、それがよい。「な」は「よ」に似て感歎の意を含(246)める助辭、古事記、倭建命を傷む歌に「そらはゆかず、阿斯用由久那〔左○〕《アシヨユクナ》」本集卷四に「吾者|將戀名〔左○〕《コヒムナ》」(五五〇)(此の語、卷七、八、十一、十二等に數多見える)とある「な」の類で、こゝは山一面の椿を見やりつゝ花さく巨勢の春げしきをつく/”\と思ひやる意である。(古義の異説については後に述べよう。)
○許湍乃春野乎《コセノハルヌヲ》――巨勢の春の花盛りをつく/”\思ひやるのである。「山」とも「野」ともいつたのは、音調の爲もあらうが、既に述べた如く、山から野へかけて一面の椿であつたからで、それが作者をして「列々椿」と叫ばしめた所以であらう。
◎一首の意――巨勢山の山から野へかけて、つやめき渡つてゐる一面の椿、さても見事な事ぢや。これが花さく春であつたなら、どのやうな眺めであらう。つく/”\と思ひやられるよ。
調を以て勝つた歌である。この歌古來大方右のやうに釋いてゐるが、ひとり古義は大いに説を異にし、「見つゝしぬばな」と訓み、「將賞愛《メデシタハム》」の意に見て春の歌としてゐる。(古義より先に僻案抄は自から僻案と稱する珍説を擧げて、「こひしな」など訓んでゐるが、本釋ではなほ「おもふな」としてゐる。)「な」を動詞の未然形に附く希望の辭と見たのであらう。卷十三の長歌に「珠手次、懸而|思名《シヌバナ》、雖有恐」(三三二四)といふ例もあるから、しか見られぬ事もないけれど、元來古義は強ちに春の歌と思ふあまりに、萬葉集の本文に錯簡あるものとして、端書を改め、次序をさへ變更し、此歌を本文から引き離して、下の「太上天皇幸2于吉野宮1時歌」の中に入れてゐる。それには何等の憑據があるではなく、全くの獨斷なのであるから、問題とすべきではない。此時の行幸は史にも明記され、萬葉の本文も古寫本を初め、すべてそのまゝで、歌の意もその方が趣が深いのであるから、異説を立(247)てるべき餘地は全くない。思ふに古義は「つら/\椿を見つゝ、つら/\に思ふ」といふ句法に氣がつかないで、「巨勢の春野をつら/\に見つゝ」と強ちに思ひこんだのではあるまいか。そこに異見があるなら、別に思ふ所を述べておくはよいが、私見を逞しうして漫りに本文を改削するは、古典に對する態度ではない。
 因にいふ、古事記傳、上掲の倭建命を傷む歌に於ける「な」の説明に、こゝの「見乍思奈」を引き、更に卷十三「珠手次、懸而思名」(三三二四)の歌を引いて、「此等のな〔右○〕、こゝの勢に似たり」といつてるのを、美夫君志更に引用して「全く同意のな〔右○〕なり」といつてゐるが、これは誤である。此の卷十三の歌は挽歌で、「かけてしぬばな」と訓むべき所なので、寧ろ古義の説の方に引くべきものである。混じてはならない。この卷十三の歌は、代匠記も「おもふな」と訓んでゐるが、略解の方は「しぬばな」と訓んでゐる。
 
右一首、坂門人足
 
これは此歌の作者で、御幸に供奉したものであらうが傳記は詳でない。
 
55 朝毛吉《アサモヨシ》 木人乏母《キビトトモシモ》 亦〔左○〕打山《マツチヤマ》 行來跡見良武《ユキクトミラム》 樹人乏師母《キビトトモシモ》
 
○朝毛吉《アサモヨシ》――「き」にかゝる枕詞。種々説ある中に「麻の裳を着る」といふ意で「着」につゞけたものとする説が比較的行はれてゐる。「よし」は「あをによし」「玉藻よし」などと同じく一種の助辭。
○木人乏母《キビトトモシモ》――「木人」は紀の國の人、「乏」は羨ましき意で既に述べた。「母《モ》」は感歎の助辭。
(248)○亦打山《マツチヤマ》――「亦」流布本には「赤」とあるが、訓はなほ「まつちやま」とあつて「亦」の誤寫である事が明かであるから、元麿校本によつて改めた。「またうち」を約めて「まつち」にあてたのである。まつち山は待乳、眞土なども書き、大和から紀の國へ越える國境の山で、北は大和の宇智郡に屬し、南は紀の國の伊都郡に屬してゐる。今は格段な處とも見えぬが、昔は景色のいゝ處であつたらしい。
○行來跡見良武《ユキクトミラム》――「ゆきくとみらむ」と訓むべく、「と」は動詞の終止形を承ける弖爾乎波で「とて」の意、往くとて來《ク》るとて見る意である。「らむ」は推量の助動詞で、後世は終止形を承けて「見るらむ」といふが、古くは連用形を承けて「見らむ」ともいつたのである。卷五にも「人皆の美良武〔三字傍点〕松浦の玉島を」(八六二)といふ例がある。さてこの「見らむ」は連體の格で次の「樹人乏帥母」へつゞくのである。
◎一首の意――木の國の人は羨ましい事ぢや、都通ひの徃來に、常にこゝを通る事であらうが、この景色のいゝ亦打山を、徃くとては見、返るとては見、徃き來《キ》に見て通るであらう木の國の人は羨ましい事ぢや。
藤原都は紀州に近いから、かういつたのであらう。第二句と第五句とに同句を繰り返して調子を取る事は古歌によくある筆法で、卷三、高市黒人の「櫻田へ田鶴鳴き渡る、あゆち渇汐千にけらしたづ鳴き渡る」(二七一)を初め例が多い。單純ながら古代に於ける修辭法の一つである。上の中皇命云々の長歌で「みとらしの梓の弓の、奈加弭の音すなり」(三)と、四句を前後二度くりかへした筆法を短歌で行つたものといふべきである。
 
右一首、調首淡海
 
この人の名、天武紀元年に初めて見えてゐるが、後和銅二年正月從五位下を授けられ、六年四月には從五位(249)上、養老七年五月には正五位上になつた事が續紀に見えてゐる。
 
或本(ノ)歌
 
これは定本にはないのを、校合の時或本によつて書き入れたのであらう。隨つて元來の撰歌ではなく、又異傳でもなく、前記人足の歌の參考として後人が書き入れたのであらう。美夫君志に「豪本昌本に此歌本行より一字下げて書けり。これもとの姿なるべし」といつてるのが穩當と思はれる。
 
56 河上乃《カハノベノ・カハカミノ》 列列椿《ツラツラツバキ》 都良都良爾《ツラツラニ》 雖見安可受《ミレドモアカズ》 巨勢能春野者《コセノハルヌハ》
 
○河上乃《カハノベノ・カハカミノ》――此句は上の吹黄刀自の歌(二二)で述べた。舊訓は「かはかみの」と訓み、略解、攷證、美夫君志等は「かはのべの」と訓んでゐるが、要するに「川のほとり」の義である。――此歌を人足の歌の異傳と見る人もあるが、さうではあるまい。又暗合でも蹈襲でもあるまい。二首互に關聯したもので、一方が本で、他の歌がそれに關して詠まれたものであらう。作者はほゞ同時の人らしいから、先後のほどは定めがたいが、歌からいへば多分人足の方がもとであらう。(反對にも見られぬ事はないが、かく見るが自然である。)さればこそ人足の方が撰に入つたのではないかとも考へられる。元來此等の歌は「つら/\椿つら/\に」といふ秀句が生命なので、一時世間にもてゝ、評判せられたものであらう。(格段な秀句とも思はれないが、昔の人の喜びさうな調である。)で、後年春日老がそこを通つた時は春であつたので、燃ゆるが如き滿山の花に對して、人足の昔を思ひ出し、「曾(250)て人足は春の景氣がつく/”\と思ひやられると歎じたが、なるほど飽かぬ眺であるわい」と歌つたのであらう。歌の語氣をよく味つて見ると、さう見るのが最も自然だと思ふ。かゝる事は後世にもよくある事なのである。さてかく見れば二首共に同李の似よつた作と見るよりも、一は秋、一は春、李を異にして思ひやつたものと見るが、かた/”\趣があるではなからうか。
 
右一首、春日藏首老
 
春日老は僧辨基(辨紀トモ)が還俗の名で、和銅七年には從五位下を授けられてゐる。その還俗したのは、大寶元年三月(人足が列々椿の歌を詠じた年の春)で、勅命によつたものらしいから、才學など認められての事であらう。詩は懷風藻に一首出てゐるが、歌も相應に堪能で、集中にも數首見えてゐる。
 
二年壬寅太上天皇幸2于參河國1時歌
 
此時の御幸は族紀大寶二年冬十月の條に「甲辰(十日)太上天皇幸2參河國1」と出てゐる。御還幸は翌十一月戊子で、其間實に四十五日、大部分は參河國におはしたらしく、歸途、尾張、美濃、伊勢、伊賀を經て、還御あらせられたのである。(檜嬬手に此間に答志、伊良處を訪はせられたといつてるのは誤である。それは同天皇六年の事で既に上に述べた。)さてこゝに掲げられた歌も、太上天皇の御製ではなく、從駕の者の作である。
 
57 引馬野爾《ヒクマヌニ》 仁保布榛原《ニホフハギハラ》 入亂《イリミダリ》 衣爾保波勢《コロモニホハセ》 多鼻能知師爾《タビノンルシニ》
 
(251)○引馬野爾《ヒクマヌニ》――遠江國濱松附近の野で、今の三方(ケ)原の事といはれてゐる。(三方(ケ)原の南部、濱松附近の郊野をいふものらしい。)十六夜日記に「こよひは曳馬の宿といふ處にとゞまる。こゝの大方の名をば濱松とぞいひし」とあるから、さうかも知れぬ。又參河御幸の歌の中に遠江を詠まれたのは、隣國であるから、供奉の官人等がついでに徃つて見たのであらうといはれてゐる。これもさうかも知れぬが、或人は引馬は參河國本野(ケ)原の一部(寶飯郡御津村)をいふので、現に今も引馬神社とて相應に立派な社があるといつてゐる(但、この社神名帳には見えない)。此の行、過ぎたまふ地は、すべて紀に名が出てゐるのに、遠江の事は見えないし、古くは仙覺抄を初め、代匠記も、僻案抄も皆三河とし、代匠記などは遠江とするは誤なりとまで、いつてゐるから(三方(ケ)原の事とするは考からである)、今少し研究すべきであらう。
○仁保布榛原《ニホフハギハラ》――「榛」(ノ)字の義は從來萬葉研究家の間に難問とせられてゐるものゝ一つで、今なほ決着がつかない。大體は萩の事とする(考、美夫君志)と、「はんの木」の事とする(代匠記、略解、檜嬬手、燈、攷證、古義等)との二説であるが(僻案抄は比の歌では「はぎ」と訓み、「綜麻形」の歌(一九)では「野|榛《ハリ》」と訓んで「はんの木」の事としてゐる)、兩説とも、訓はおの/\「はぎ」と「はり」とに分れるから單純には行かない。しかも音の方からいへば「ぎ」と「り」とは通音で、古言には流用した例が多いし(山吹を山振と書く類)、用途からいへば「萩の花摺」といふ事も、「榛《ハリ》摺衣」といふ事もあつて、同じく衣に色づけたのであるから、いよ/\紛らはしくなつて、判斷に苦しむのである。で萩説なる考の別記、美夫君志別記、「はんの木」説なる略解、古義(品物解)、槻落葉別記等を讀んで見ると、いかにもとうなづかれもするが、読み去つて徐に考へると、彼にも此にも疑問が湧い(252)て來る。我が乏しい植物學上の智識では判斷がつきかねるから、今はたゞ不審の點だけを擧げて後考に供する。元來一般からいへば、「榛」は「はり」と訓み、今の「はんの木」の事なので、それは古事記、雄略天皇の條に、天皇が怒り猪を避けて榛の木に登りました時の御歌に「我が逃げ上りし、あり丘《ヲ》の波理能紀〔四字傍点〕能延陀」とあるので明瞭であそ、然るに萩説を取る人々は、萬葉に「榛」とあるのは、「ぎ」と「り」との通音から、萩の意に借り用ひたものでT山振」を「山吹」に借りたと同樣だといふのである。此説は考から始まつてゐるが、實は古訓に基いたものである。元暦校本や仙覺抄は、いづれも「榛」を「はぎ」と訓んでゐるけれど、説明がないから、義は判然せぬが、之に説明を與へたのは考で、美夫君志更に敷衍したものといふべきであらう。「榛」は元來「はり」と訓み來つた文字なのに、萬葉研究の幼稚な時代に、「はぎ」と訓じて怪しまないのは、これも所謂傳來の訓かも知れぬから、等閑に看過すべきではない。(今の大和國、宇陀郡なる萩原町も、もとは榛原と書いてゐる。)それにしても、集中の「榛」はすべて萩で、棒の本義に用ひた所は一つもないであらうか。萬葉集は同時同一人の撰ではなくして、色々なものゝ集合らしいから、此點殊に細心の注意を要する。これが第一の問題である。然るに生憎にも此類の歌には意義曖昧で、分き難いものが多いから、殊によく玩味せねばならぬ。又「ぎ」と「り」とは通音で流用されたものかも知れねど、義と訓とが錯綜して、彼此入り亂れてゐるらしく思はれるから、第二に此點を明かにせねばならぬ。「はぎ」と訓んで「萩」の事とし、「はり」と訓んで「はんの木」の事とする説は、それまでだが、中には「ほんの木」の事として「はぎ」と訓む説(代匠記)も、萩の事として「はり」と訓む人もあるのである。隨つて又「波里」と假名書にした歌は、萩と見るべきか、「はんの木」と解すべきかゞ問題となるのである(253)(卷十四なる二首の東歌(三四一〇、三四三五)などは、どちらでも解ける。一首の方は意義やゝ不明ではあるが)。次ぎに箇々の歌について見てもなほ疑問が多い。此の引馬野の歌は匂ふといひ「入亂」といふ趣「はんの木」とは思はれず、萩の趣らしく見えるが、諸註にもいふが如く、冬十月の御幸であるから(十月十日の御發輦で、供奉の官人が公務の餘暇に出かけたとすれば十月末にもなつたであらう)、萩の咲き匂ふ時期にはふさはない。木《コ》萩の事であらうとか、遠江は暖いからとか説者はいふが、つひにしつくりした説明とはいへない。「綜麻形」の歌(一九)も、榛を序詞に用ひたから、どちらでも説けるが、序詞といふものは、多くは身邊にあるものを材料に取るから、やはりそこに野榛が生えてゐたものと見ねばなるまい。既に述べた如く、是も疑問の歌であるが、端書によつて近江遷都の時の作とすれば、三月であるから、萩のまだ芽立つ頃ではない。假りに守部の説に從つて蒲生野の詠としても、五月五日で、まだ萩の繁茂する頃でないから、此歌などは寧ろ「はんの木」の方がふさはしいかに思はれる。又卷七に「寄v木」といふ題で、眞野の榛原を詠んだ歌(一三五四)があるが、「寄v木」といふからには、榛を萩ともいへまいといふ難に對して、美夫君志は「萩はもと木とも草ともいはるべきものなるから、木といはんも妨なし」と辨じてゐるが、さうかも知れないけれど、わざ/\「寄v木」といふ題で詠じたとすれば、なほ十分納得させるには物足らない。染物といふもの、箇人々々のわざであつた時代には、その材料となるべき榛樹などは、家々に植ゑてあつたので、世間周知の木で、歌の材料にもよく取られたではないかと考へられんでもない(恰も山たづ〔三字傍点〕が相生葉の代表の如く扱はれて、「迎」の枕詞とせられたやうに)。しかし卷三に「眞野の榛原手折りて行かむ」(二八〇)とあるなどは、やはり萩と見たい心ちもする(これも歌の解きかたによるが)」とにか(254)くどちらの説にしても、しつくりしない點が多いので、吾輩は確かな判斷を下しかねる。よつて後人の研究を待つ事として、こゝでは此歌の趣により、いはれありげな古訓に重きを措いて、姑く「はぎ」と訓んで萩の事としておく。
○入亂《イリミダリ》――舊訓は「いりみだる」代匠記、僻案抄は「いりみだれ」と訓んだが、考は更に「いりみだり」と改めた。この語古くは四段に活用したらしいから、姑く考の訓に從つておく。かなたこなた縱横に亂れ入る意であらう。但、考は入り亂らす意に解いて他動詞としてゐるが、その用法については今少し考ふべき點があるやうに思ふ。
○衣仁保波勢《コロモニホハセ》――第二句の「仁保布」はほんのり色づいてうるはしい事、「にほはせ」はその命令形、これは同行の人々にいふので、つまり花摺衣を作らうではないかといふのである。
◎一首の意――見れば引馬野には萩が正に咲き匂うてゐる。いざ人々よ、こゝまで來た旅の記念に、かなたこなたかきまはつて、衣に色づけて行かうではないか。卷八「草枕旅ゆく人も往き觸れば匂ひぬべくも咲ける萩かな」(一五三二)の心ばへに似かようてゐる。
 
右一首、長忌寸奥麿
 
長は氏、忌寸は姓、奥麿は名であらうが、傳記は詳でない。奥麿は意寸麿又意吉麿とも書き、歌は卷二、三、九、十六等に十數首見えてゐるが、特に卷三なる難波宮での應詔の歌(二三八)は一種の佳調として唱へられてゐる。當時相應に名を知られた歌人であつたらしい。
 
(255)58 何所爾可《イヅクニカ》 船泊爲良武《フナハテスラム》 安禮乃崎《アレノサキ》 榜多味行之《コギタミユキシ》 棚無小舟《タナナシヲブネ》
 
○何所爾可《イヅクニカ》――「何所」を「いづく」と訓むべき事は上の「當麻麿妻作歌」(四三)の所で述べた。
○船泊爲良武《フナハテスラム》――「船泊」は船の行き着く意、合名詞で、やがて佐行變格に活用させたものであるから、「ふなはてすらむ」と訓むべきである。「ふね」を「ふな」といふは他の語に冠らせられて熟語となる時に生ずる音韻上の法則で、酒を「さか」、雨を「あま」といふに同じい。
○安禮乃崎《アレノサキ》――明でない。略解は此の御幸に美濃を經たまふ由が見えてゐるから、和名妙なる同國不破郡荒崎かといつてゐるが、此の歌のさま、海又は湖水の趣で、河舟のさまとは見えないから、美濃の國はふさはない。檜嬬手は濱名湖畔の新居(荒井)はもと荒江といつたといふので、之に擬してゐるが、なるほど引馬野を遠江とすれば、こゝも濱名湖畔で、同時の遊覽かも知れねど、若し引馬野が三河ならば、安禮崎も渥美灣内の出崎(今の寶飯《ホイ》郡引馬神社の所から南方へ出てゐた洲崎とも云)かも知れぬから、これも研究すべき問題であらう。
○榜多味行之《コギタミユキシ》――漕ぎめぐり行く意である。「たみ」は迂曲の義で、集中多く回、廻等の字をあてゝゐる。假名書の例は、こゝの外に卷十一「崗前《ヲカノサキ》、多未足道乎《タミタルミチヲ》」(二三六三)といふもある(これも曲りくねつた道の事である)。こゝは小舟であるから、磯に沿うてめぐり行くのである。
○棚無小舟《タナナシヲブネ》――棚は※[木+世]の事で、和名抄に「※[木+世](ハ)大船旁板也不奈太那」とあるがそれである。船の大きさに應じて、棚は幾段にも設けられたらしいが、それの置かれぬ小さいのを棚無小舟といふのである。隨つて歌の音調上、七言(256)の句に言ひ据ゑんがための歌詞たるに過ぎないので、義はたゞ小舟の事である。強ちに棚の有無に拘はるべきではない。
◎一首の意――阿禮の崎を漕ぎめぐりく遠く漕ぎ去つた小舟は、一體どこに泊てる事であらうか(どこを目あてに漕いで徃つた事であらうか)。さても心細げに見える事よ。
漫々たる湖上(又は海上)を獨り漂ひ行く小舟の行方を心細げに思ひやつたのであらう。
 
右一首、高市連黒人
 
黒人の事は既に述べた。
 
譽謝女王作歌
 
この女王の事は續紀慶雲三年の條に「六月(癸酉朔)丙申從四位下與射女王卒」と見えてゐるだけで、他には見えない。さて此の歌、女王從駕して京に留まれる夫の君を思ひやつたのか、又は京に居て旅先の夫(ノ)君を思ひやつたのか、明かでないが、次の長皇子の御歌は京にゐて思ひやられた意である事は明かであるから、諸家多くはそれに准じて見てゐる。しか見るが情切なるやうに思はれるから、それに從つておく。
 
59 流經《ナガラフル》 妻吹風之《ツマフクカゼノ》 寒夜爾《サムキヨニ》 吾勢能君者《ワガセノキミハ》 獨香宿良武《ヒトリカヌラム》
 
○流經《ナガラフル》、妻吹風《ツマフクカゼ》――この歌、第二句の「妻」といふ語がしつくり〔四字傍点〕しないので、初句の「ながらふる」も解きにくい。(257)元來「ながらふる」は雨雪などの斷えず降り續く意で、集中に用例が多く、卷末なる歌にも「天のしぐれの流相見者《ナガラフミレバ》」(八二)とあるが〔轉じて雪の如く花などの散るにもいふ。卷八に「沫雪かはたれにふると見るまでに流倍散流《ナガラヘチルハ》何の花ぞも」(一四二〇)〕、考は妻を衣の端と解し(これは一般の解釋である)、「ながらふる」を寢衣の裾の長きをいふと説いてゐる(代匠記、美夫君志もほゞ同説)。御幸の供奉として何となく異樣に聞えるので、荒木田久老は「妻」は「雪」の誤であらうといつてゐる。げに「妻」も「雪」も横畫の多い文字であるから、紛れぬとも限らないし、「雪吹風」は即ちふゞき〔三字傍点〕で、「ながらふ」といふ語にも相當するから義はよく通ずる。それに校異本にも攷證の頭註にも「妻一本作v雪」とあるさうだから、昔はさる本もあつたらしく、かた/”\久老の説に心が引かれるけれど、今はさる本のある事を聞かないし、校本萬葉集にも擧げてないから、輕々しく信ずるわけには行かぬ。思ふに「妻」はやはり褄であらうが、「ながらふる」について、攷證は「寢衣の裾の長きをいふ」とある考の説を非とし、卷十「春霞流るゝなべに」(一八二一)とある例などを引いて、「物を風の吹き靡かすをも、物の空に浮きてたゞよふをも流るといへり、云々、こゝは衣の褄などの風に吹き流さるゝをいふ」と説いてゐるのがよいではあるまいか。つまり「ながらふる」を「つま」だけにかけないで、風にかけて見たのである。略解は「衣といはずして直ちにつま〔二字傍点〕とつゞくべきにあらず」と難じてはゐるが、これも所謂歌詞の類で、かゝる歌で「、つま吹く」といへば、おのづから衣の端の事と聞えんでもないから、語を節してつゞけたものであらう。「世にながらふ〔五字右○〕(存)」といふも同じ語の轉用であらうから、衣の端を風の吹き靡かす事と見て難があるまい。
○獨香宿良武《ヒトリカヌラム》――「か」は疑辭、獨り寢《ヌ》らむかといふのである。
(258)◎一首の意――家にありてすら衣の裾に風さえて寒き夜なるに、我がせの君はひとり旅寐をせられる事であらうか。
 
長《ナガ》ノ皇子御歌
 
長皇子は天武天皇の第四皇子で「靈龜元年六月甲寅二品長親王薨」と續紀に見えてゐる。この皇子の御名或本の傍訓又仙覺抄に「まさる」とあるけれど、他に據り所がない。日本紀の訓には「なが」とあるから、それに據るべきである。よつて古義は續紀に「天平神護元年十月庚辰、從三位廣瀬女王薨、二品那我〔二字傍点〕親王之女也」とある那我親王と同人と見てゐるが、品位が違ふから確かとはいへない。(古義は二品は一品の誤かといつてゐる。)歌は集中卷一、二に數首見えてゐるが、才氣にまかせて一ふしひねつた歌が多い。さて目録にはこの端書の下に「從駕作歌」といふ四字があるので、攷證は、こゝにも此の四字を補つてゐるが、諸本皆ここにはなく、歌も從駕の意とは聞えぬから、目録は衍文であらう。(もし從駕の作なら「長皇子從駕作御歌」などあるべきで、目録のまゝでは、いかにもふつゝかな書きざまといふべきである。思ふにこれは次の「舍人娘子從駕作歌」とあるに引かされて書誤つたのであらう。)全く攷證の誤解である。
 
60 暮相而《ヨヒニアヒテ》 朝面無美《アシタオモナミ》 隱爾加《ナバリニカ》 氣長妹之《ケナガキイモガ》 廬利爲里計武《イホリセリケム》
 
○暮相而《ヨヒニアヒテ》、朝面無美《アシタオモナミ》――「よひにあひて、あしたおもなみ」と訓む、第三句の「隱《ナバリ》」にかゝる序詞で、考に「夜べ新枕(259)などせし少女は、そのつとめて〔四字傍点〕は恥ぢて面隱しするものなるを序として隱《ナバリ》てふ事に言ひかけたるなり」といつてる通りである。「なみ」は「無し」といふ形容詞の語幹に、「み」といふ接尾辭の添はつた例の語法で、「面なみ」は「面なさに」の意、「はにかむ」事である。卷八なる同じ序詞には義を以て「面羞」(一五三八)とあてゝゐる。
○隱爾加《ナバリニカ》――「隱」は「なばり」で、伊賀國名張の事、上の當麻麿が妻の歌(四三)で既に述べた。「なばり」といふ語に「かくれる」といふ義のある事も、そこで述べた。「か」は疑辭。
○氣長妹之《ケナガキイモガ》――「け」は古事記傳にいへる如く「來經《キヘ》」の約で、月日の經行く意である。「來經《キヘ》」といふ語は古事記、倭建命の歌に、「あら玉の月は岐閉《キヘ》ゆく」とあるが、「けながく」の例は同書衣通王の歌に「君が行き氣那賀久〔四字傍点〕なりぬ」とある。(此の歌、本集卷二(八五)にも出て磐姫皇后の御歌としてゐる。)日數あまたに亙る義で、「氣長き妹」とは、久しく旅路にあつて相見る事の出來ぬ妹の意。こゝは「妻」の事であらう。
○廬利爲里計武《イホリセリケム》――「廬せり」は庵してある事、「いほりす」は旅路に庵を營んで宿る事で、「いほり」といふ名詞を佐行變格に活用させたもの、卷六「いづれの野べに庵せん子ら」(一〇一七)、卷三「野島(ケ)崎に伊保里須〔四字傍点〕われは」(二五〇)など集中に多く見える。「けむ」は過去推量の助動詞。――さて此の歌、諸註「物いひ渡りたまふ女などの御供したるを思召しやらるゝなるべし」(代匠記)、「御幸の御供して徃きし女房の日數經て歸り來ぬを待ちかねたるよしなり」(美夫君志)などあるばかりで、「せりけむ〔二字傍点〕」といふ語法に就いては説明されてない。古義は「今夜などは伊賀國名張の里に廬造りて旅寢すらんか云々」と説いてゐるが、その意ならば「廬すらしも」などいふべきで、「けむ」といふべきではない。長皇子が此歌を詠まれた場合を思ふと、妹の歸りを待ちわびての御述懷であらうか(260)ら、「廬すらしも」などいひたい所ではあるが、「せりけむ」といふ過去の推量では、如何にしてもさうは説けない。いろ/\考へて見たが好い案が浮ばないので、姑く次のやうに見ておきたい。――これは妹の歸るのを辛く待ちつけて、やつと妹の顔を見た瞬間、又は今日還るといふ前觸の音信があつた折、ホツトして思はず口を衝いて出た作ではあるまいか。意は「ヤレ/\、ヤツト味にあへるか、一體今まで何處にゐたのであつたらう。さうだ、あの徃き來《キ》に立ち寄る名張の里、−あの隱れるといふ義のある名張の里にでも居たのであつたのかなア、道理で妹の顔を見る事が出來なんだわい」といふのではあるまいか。「名張にいほる」といふ事を過去の事實として推量せねばならぬから、右の樣に見る外はないと思ふ。隨つて「なばり」も單なる地名としてゞはなく、「隱れる」といふ義を表面からひゞかせて用ひたものと見ねばなるまい。それは歌としての品位は少し下るかに思はれるけれど、右の如き場合の作なら致し方もあるまい、辛く待ちおほせてホツ〔二字傍点〕トした氣分に思はず輕いしやれ〔三字傍点〕が出たものと言はゞ言はれぬ事もあるまい。試に右のやうに説いて見たが、なほよく考ふべきである。
卷八(一五三六)にも、これと同一な序詞を用ひた
 暮相而《ヨヒニアヒテ》、朝面羞《アシタオモナミ》、隱野乃《ナバリヌノ》、芽子者散去寸《ハギハチリニキ》、黄葉早續也《モミヂハヤツゲ》、縁達師
といふ歌がある。時代の前後は判らないが、序詞としての用方は、此の御歌の方が遙に面白い。此の御歌の序詞に就いて想像を逞うする事が許されるなら、此の御歌で「妹」といつてるのは新婚當座の少女などで、かうした序詞をいひ下すにつけて、皇子の眼には、そのうひ/\しさが浮び出でゝ、心やりになつたのではあるまいか。元來序詞といふもの、しば/\いふ如く表面から用ひられたものでないから、歌の意義には關らないが、作者自(261)身には人知れず背景をなしてゐる場合が多いから、かゝる想像もすればし得られるのである。上の軍王の歌(五)で「かけのよろしく」といふ語の説明に「子らが名にかけのよろしき朝妻の片山ぎしに霞たなびく」(一八一八)といふ歌を引いたが、此歌の初二句も、たゞ「妻」といはんための序詞に過ぎないが、作者は若い男で、心の中に「妻に」と思ふ女があつたらしいので、朝妻といふ山の名にかこつけて、かく言ひ下し、獨り心行かせをしてゐるのであらうといふ事が窺はれる。卷四(五〇一)に人麿の
 をとめ等が袖ふる山の、瑞垣の久しき時ゆ思ひき我は
といふ有名な歌がある。これも初三句は「久しき」にかゝる序詞である事はいふまでもないし、「をとめらが袖ふる山」と言ひ下したのも、布留の社の巫女《ミコ》舞を思うての事かも知れぬが、なほいふと作者が久しき以前から思うて居たといふ相手は、その巫女の一人で、かく長々と緩やかに言ひつゞける間に、若くうるはしい巫女が、長き袖を飄して翩々と舞うたうるはしの姿が眼に浮んで來て、これも一種の心行かせになるのではないかと思はれる。こはもとより作者心中の隱微で、當てにはならぬ事であるが、しか想像すれば想像せられぬ事もないやうに言ひまはすのが序詞といふものゝ性質でもあり、又巧妙な用方ともいふべきである。
 此歌の初二句を早く古訓は「よひにあひて、あしたおもなみ」と正しく訓んでゐる。然るにどうした事やら、仙覺に至り第二句を「あさかほなしみ」と訓み改め、長々と辨じてゐるけれど、要領を得ないので、代匠記以後はまた古訓にかへつた。但、第三句を古訓は「しのびにか」と訓み、仙覺抄、代匠記、考等は「かくれにか」と訓んでゐるが、これも義を成さない。「隱」を「なばり」と訓む事は既に述べた如く、本居翁から始まつたの(262)である。
◎一首の意――既に述べた所で明かであらう。
 
舍人娘子從駕作歌
 
舍人娘子は傳詳でない。卷二に舍人親王と贈答した事が見えてゐるが、舍人は氏であらう。「娘子」は「をとめ」といふほどの義で、「いらつめ」と訓むべき事は記紀等に見えてゐる。
 
61 大夫之《マスラヲノ》 得物矢手挿《サツヤタバサミ》 立向《タチムカヒ》 射流圓方波《イルマトカタハ》 見爾清潔之《ミルニサヤケシ》
 
○得物矢手挿《サツヤタバサミ》云々――「得物矢」を舊訓は、「ともや」と訓みて諸矢の義に解してゐるが、僻案抄に至り「さつや」と訓みて、獵に用ひる矢と説いたのがよい。「さつ」は本來「さち」(幸)の義で、獵には獲物の多きを幸ありとするが故に(山幸、海幸などいふもこれ)、そを祝うて獵に用ひる弓矢を、さつ失、さつ弓、又さち矢、さち弓などいふので、「得物矢」はその義を以て當てた義訓である。さてこゝは的に向つて射る心であるから、獵の矢には限らないが、音調のために「さつ矢」といつただけである。「手挿《タバサミ》」は手の指に挾み持つ事、古義は「た」を濁り、「は」を清みて、「だはさみ」と訓み、「夜降ち」を「夜|降《グタ》ち」といふ例などを引き、古語の一例として、こちたく論じてゐる。多分熟語の場合、清濁移動する事のあるをいつたのであらうが、「さつ矢たばさみ」を一つの熟語と見たのであらうか、訝かしい事である。いふまでもなく「さつや」は名詞、「たばさみ」は動詞で、さつ矢をたばさむ義(263)であるから、卷十六に「梓弓八つ多波佐彌〔四字傍点〕」(三八八五)とあるに準じて、やはり「たばさみ」と訓べきである。但、卷二十に「伊乎佐太波佐美〔四字傍点〕」(四四三〇)といふ例があつて、古義は此をも證としてゐるが、此歌は防人の詠んだ東歌で、誤字もあるらしく、意義もよくは聞えず、清濁の標準とすべきものではない。總じて清濁の關係は自然の音調によるもので、人により、處により、又時代によつて、多少の差は免かれないから、特異な例に泥んで、一般の習慣に戻るべきではない。
○射流圓方《イルマトカタハ》――此歌上より三句あまり「射流」といふまでは「まと」にかゝる序詞で、弓射る的の意から移つて、「圓形」といふ地名にかけたのである。圓形は伊勢國の地名で、仙覺抄に伊勢風土記を引いて「的形浦者、此浦地形似v的、故以爲v名、【今已跡絶成2江湖1也】天皇行2幸濱邊1歌曰、麻須良遠能《マスラヲノ》、佐都夜多波佐美《サツヤタバサミ》、牟加比多知《ムカヒタチ》・伊流夜麻度加多《イルヤマトカタ》、波麻乃佐夜氣佐《ハマノサヤケサ》」とあるから早く埋れたものと見えるが、昔は景色のよい處であつたのであらう。處は松坂の束、櫛田川の海に注ぐあたりで、今も海濱から半里ばかりの地に、式内麻刀方神社といふのがある。
○見爾清潔之《ミルニサヤケシ》――「清潔之」は古くから「さやけし」と訓んでゐる。「之」を添へた點からも判ぜられるが、風土記の歌の假名書からも推される。見る眼さやけく明媚な處ぞといふのである。
◎一首の意――圓形の浦は見る眼さやけく、すが/\しい處ぞ。
といふのである。歌の意はそれだけだが、その清くさはやかに心ちよき趣を隱然と響かせんために、三句餘りの序詞が長々とおかれたので、やはり一種の背景をなすのである。かゝる歌は、昔のやうに聲調をとゝのへて、緩やかに謠ひ出したなら、實際さる感じを與へるであらう。阿韻の音の多いのも、かゝる歌にはふさはしい。(風(264)土記の方の歌は殊にさうである。)平忠度の「昔ながらの山櫻かな」(千載集)の歌は、その點で或人々によく稱せられるが、この風土記の歌も、それと同數で一段と花やかである。風土記の方は此歌の異傳であらうが、この御幸の時、持統天皇の詠ませられたものとするのであらうか、明かでない。栗田博士の古風土記逸文考證によると、古寫本旁注に景行天皇とあるさうだが、さほど古い歌とは思はれない。
 
三野連 名闕 入唐時、春日藏首老作歌
 
「名闕」の二字は諸註のいふが如く、後人の書き入れたものであらう。隨つて古本に小字で書いてあるのが正しい。三野連は美奴連とも書き、古本の傍注、西本願寺本や京都帝國大學本等の勘物に「國史曰、大寶元年正月遣唐使民部卿粟田眞人朝臣以下百六十人乘船五隻、小商監從七位下中宮少進美奴連岡麿云々」とある、その岡麿なのである。(但、こゝに國史とあるは何を指すか明かでない。恐らくは今に傳はらぬ當時の記録であらう。略解、檜嬬手等は類聚國史としてゐるが、類聚國史には此文は見えない。美夫君志のいふ如く、略解等の速斷であらう。)然るに此時の遣唐使の事は績紀にも記されてゐるが、岡麿の事は見えないので、多少疑問とせられてゐたが、明治五年大和國平群郡萩原村字龍王山といふ處から銅版に刻した岡麿の墓誌が發掘されたので、入唐の事も明かになつた。その大樣をいへば「我祖美奴岡萬連、飛鳥淨御原天皇御世甲申正月十六日勅賜2連姓1……大寶元年歳次辛丑五月使2乎唐國〔四字傍点〕1……靈龜二年歳次丙辰正月五日授2從五位下1(これは續紀の記事にも合致する)……神龜五年歳次戊辰十月廿日卒、春秋六十有七」(下略、此の墓誌は天平二年十月に刻したもので、全文は美夫君志に出てゐる)――さて「入唐」とは彼を本としての語遣ひで、我よりい(265)ふべき事ではないと考などはいたく憤慨してゐるが、彼を貴ぶあまりに知らず/\かゝる語遣ひをした事は早くからあつたので、千年以來の通弊である。次の歌の端書に大唐とあるも、同じ心のあらはれである。
 
62 在根良《アリネヨシ》 對島乃渡《ツシマノワタリ》 渡中爾《ワタナカニ》 幣取向而《ヌサトリムケテ》 早還許年《ハヤカヘリコネ》
 
○在根良《アリネヨシ》――對馬の形容か、枕詞であらうが、訓も義も定かではない。舊訓は「ありねよし」と訓んでゐるけれど、説明を附してないから義は明かでない。後世の釋家多くは誤字あるものとして、考は「百船乃」(卷十五「毛々布禰乃、波都流對馬」(三六九七)とあるを例とす)又は「百都舟」かといひ、略解は「布根尽」の誤とし、玉(ノ)小琴は太平の説を斟酌し、「布根竟」の誤として、いづれも「ふねはつる」と訓み、古義は「大夫根之」の誤として「おほふねの」と訓んでゐるが、この中では、字體からいふと、小琴など比較的穩當であらうか。しかし誤字説は萬已むを得ざる時の事で、出來るだけは、原文のまゝで工夫すべき事はいふまでもない。從來本文のまゝで解釋を試みる説の中では、早く僻案抄は「ましねよし」と訓み、「汝《イマシ》よく心して」(ね〔右○〕は尊長を稱する辭と説く)といふほどの義に解してゐるが、これはうなづけない。檜嬬手は舊訓のまゝ「ありねよし」と訓み、「ありね」は對馬に名高き在明山の事で、昔から航海の目じるしであつたから「在|嶺《ネ》よ津島」といふ意であるといひ、攷證はやはり「ありねよし」と訓み「在」は「荒」の借字、「根」は島根、岩根などの根で、荒れたる島根の景色をよしとしたものと説いてゐる。此等は一應故ありげな説で、誤字説にはまさるやうに思はれるが、いづれがいゝか、對馬といふ所の實際をよく知らないから輕々しく斷言は出來ない。
(266)○對馬乃渡《ツシマノワタリ》云々――對馬は津島で、昔から外國へ行く船の立ち寄る所であつたからいふのであらう。「わたり」は海でも河でも船にて渡る所をいふ。古事記中卷の歌に、「ちはやぶる宇治の和多理〔三字傍点〕」と見えてゐる、此の語、中世からは、「あたり」といふ語と混用されるが、萬葉時代にはまださる事はない。「渡中」は海中の義。
○幣取向而《ヌサトリムケテ》、早還許年《ハヤカヘリコネ》――「ぬさ」は神に手向ける代物で、上の歌に「濱松之枝乃、手向草」とあるに同じい。「取向」は幣物を神に捧げる事、こ土は渡の神に手向して航海の安全を祈るのである。海でも山でも、手向して通るべき習はしとなつてゐるかしこき所がおのづからあつたであらう。土佐日記にも「夜中ばかり舟を出して漕ぎ來《ク》る道に手向する所あり楫取してぬさ奉らするに云々」と見えてゐる。「許年《コネ》」の「ね」は希望の辭。
◎一首の意――唐土までの長い航海、殊に對馬の渡りは音に聞えるかしこき處、よく渡りの神に手向をして、旅路の安全を祈つて、首尾よく事を了へて、無事に早く御かへりなされませ。
 この歌、大寶元年五月遣唐使出發の際に詠んだものとすれば同年九月紀伊國御幸の歌の前に入るべきだが、類を以て次なる憶良の歌と並べ擧げんが爲、わざとこゝに入れたのであらうか。
 
山上臣憶良在2大唐1時憶2本郷1歌
 
憶良は齋明天皇の六年に生れた人だが、記録に見えてゐるのは、大寶元年五月遣唐使の一員となつて「旡位|山於《ヤマノウヘ》憶良爲2少録1」と見えてゐるのが初めてゞある。(但、此時は風浪にさへられて渡海を果さなかつたが、翌二年六月更めて渡航し、その翌々年(慶雲元年)七月歸朝した。)後和銅七年に從五位下、靈龜二年に伯耆守となり、又養老五年には東宮侍候の命を受け、晩年筑前守となつて、天平五年七十四歳で終つたらしい。憶(267)良は本集中、有數の歌人で、殊に長歌は人麿に次ぐべき作家であるが、多くは筑紫在任中のもので(此時の作は卷五に收められてゐる)、壯年の作はあまり見られない。此の歌は比較的壯時のもので、大寶三年か、慶雲元年かの作であらう。憶良此の時四十四五歳である。――「本郷」は本國故郷の義。
 
63 去來子等《イザコドモ》 早日本邊《ハヤクヤマトヘ》 大伴乃《オホトモノ》 御津乃濱松《ミツノハママツ》 待戀奴良武《マチコヒヌラム》
 
○去來子等《イザコドモ》――「こども」は同行の年少等をさしたのであらう。
○早日本邊《ハヤクヤマトヘ》――舊訓は「はやひのもとへ」と訓み、代匠記之に從つてゐるが、僻案抄は「はやくやまとへ」と訓み、考も此の説を取つてゐる。「日本」を「やまと」と訓むべきか、「ひのもと」と訓むべきかは明らめ難い。こゝは大和國を指すのではなく、唐土に在つて我が日本國を思ふ意であるから、「ひのもと」然るべしといふ人もあるが、早く神代紀に「日本此云2邪麻騰〔三字傍点〕1」とあるし、欽明紀に大葉子が新羅に在つて「ひれふらすも、耶魔等〔三字傍点〕へ向きて」と詠んだ例もある。元來は一種の義訓で「やまと」に「日本」の二字を當てた所から、歌などでは、音調上「ひのもとのやまとの國」など繰りかへして唱へるやうになつたらしいので、國名を單獨に「ひのもと」と稱へた例は見當らないやうに思ふから、まづは「やまと」と訓むが無難であらう。さて「日本」を「やまと」と訓むと定めて、次には、略解は「はやも〔右○〕やまとへ」と訓み、古義は「はややまとべに〔右○〕」と訓んでゐるが、これは書式からいふと、「も」文字又は「に」文字を添へて訓まねばならぬのが少しいかゞである。で、卷三「いざ子ども倭部早《ヤマトヘハヤク》白菅の眞野の榛原手折りて行かむ」(二八〇)とあるに照して、「はやくやまとへ」といふ僻案抄の訓が最も穩當で(268)あらう。
○大伴乃《オホトモノ》――御津の枕詞。これは下の「大伴乃、高師能濱乃云々」(六六)とある所で説明しよう。
○御津乃濱松《ミツノハママツ》云々――「御津」は難波の津をいふ。昔は國々の重なる峠を「御坂」といひ、重なる港を「御津」といつた。殊に難波の津は全國第一の港であるから、御津とも大津ともいつた。もと大御船の泊つる義から出たのであらう。昔は濱邊一帶に松原が續いてゐたらしい。その松も我々の歸りを待ちわびてゐるであらうといふのである。難波は歸國して取りあへず本土を踏む第一歩の地點であるから、故里人の心を松に擬したのであらう、
◎一首の意――いざ若者どもよ、早く故郷へ歸らうではないか。あのなつかしい難波の御津の濱松も、我々の歸るのを、今日か明日かと待つてゐるであらうから。
古義は三四の句を序詞と見てゐる。げにさうも見られる形ではあるが、よく味へば、文の表は、やはり濱松のまち戀ふる語氣なので、純然たる序詞とはいへまい。情からいへば家人の待つ意には相違なからうが、そをうちつけにはいはず、「松」と「待つ」と聲相通ずる所から松を媒として家人の待つ意に擬へたので、そこに歌としての趣がある。上の「巨勢山の列々椿」(五四)といふ二句も、序詞の形にも見えるが、歌の意に無關係とはいへないから(ゆかしく思ふ巨勢野の春も、畢竟は椿の花が主となるから)、やはり純然たる序詞とはいへないと同樣である。
 
慶雲三年丙午幸2于難波宮1時
 
續紀に「慶雲三年九月丙寅(廿五日)行2幸難波1」冬十月壬午(十二日)還v宮」と出てゐる。この端書は次なる「志貴皇子御作歌」と「長皇子御歌」との二首に亙るのであらう。目録には此下の「歌二首」の三字が(269)ある。それにしても、此の二首、一は「御作歌」とあり、一はたゞ「御歌」とあるのが訝かしい。目録には二首とも、やゞ「御歌」とある。
 
志貴皇子御作歌
 
64 葦邊行《アシベユク》 鴨之羽我比爾《カモノハガヒニ》 霜零而《シモフリテ》 寒暮夕《サムキユフベハ》 和之所念《ヤマトシオモホユ》
 
○鴨之羽我比《カモノハガヒ》――「はがひ」は「羽交」で、左右の翼のうち合ひたる所をいふ。但、こゝは音調の都合で用ひただけで、たゞ羽の事である。
○寒暮夕《サムキユフベハ》、和之所念《ヤマトシオモホ」》――諸註いづれも「さむきゆふべは、やまとしおもほゆ」と訓んでるのがよい。然るに考は「ゆふべ」に暮夕の二字を當てた事や、「やまと」に「和」の字をあてた事に不審を抱き(「和」(ノ)字を用ひたのは寧樂朝よりの事で、藤原朝までは「倭」(ノ)字を用ひたといふのである)、「夕和」の二字を「家」(ノ)字の誤として「さむきゆふべは、いへしおもほゆ」と訓み、本文をも改めたのは思ひ切つた獨斷といふべきである(檜嬬手も之に從つてゐる)。けれど、元暦校本、其他の古寫本には「倭」とあるから、考の説は根本から崩れる。(假りに「和」とあるとしても、某月某日より「和」と書くべしと法令で定められたのでもなく、慶雲三年は、寧樂遷都の間際でもあるから、一概に泥むべきではない。)又同義の語を重ねて熟語とする事は漢土本來の習慣(支那は世界一の熟語國てある)で、集中でも之に傚つた用例は、輕皇子遊獵の歌に、「古昔《イニシヘ》念而」(四五)とあるを初めとして、少な(270)からず見えるから、「暮夕」の二字を「ゆふべ」に當てたからとて不思議はない。こゝもこのまゝで、やはり「さむきゆふべは、やまとしおもほゆ」、と訓むべきである。「おもほゆ」は下二段活用の自動詞で、おのづから思はれる意である。齊明紀に「あすか川みなぎらひつゝ行く水の間《アヒダ》もなくも於母保喩屡〔五字傍点〕かも」など見えて、それに「所念」の二字をあてた例は集中に多い。
 因にいふ、考は「寒き夕は家しおもほゆ」と訓み改めたが、誤字説は姑く措き、この訓も穩かには聞えない。集中の例を見るに、「家し」といへば「しぬばゆ」と承け、「やまとし」の場合は「おもほゆ」と承けてゐる。前者は卷一(六六)と卷六(九四〇)とに各一(ケ)所、後者はこゝの外に卷三に一(ケ)所(三五九)、卷七に二(ケ)所(一一七五・一二一九)見えてゐるが、「家しおもほゆ」といふ例は一つも見えない。意義に變りはあるまいから、たま/\違例が傳はらないのかも知れねど、何となき音調がおのづからさうなつたのではあるまいか。又舊訓は「寒き夕は大和しぞおもふ」、元暦校本は「夕の事をしぞおもふ」など訓んでゐるのは、例の人麿作と喧傳せられた「ほの/”\と」の歌の結句などに引かされたのであらう。
さて此歌、諸家の註いづれも簡に過ぎて(考の誤字説は別として)、一讀明瞭と見てゐるらしいが、よく味ふとさまざまな問題がある。まづ初句の「蘆邊行く」は何であらうか。諸家大方此時の實景と見てゐるらしいが、霜の置くのは夜更け、曉かけての事で、さる時刻に鴨がさまよひ歩いてゐるものとは考へられないから、實景とは言へまい。實景でないとすれば枕詞といふ外はあるまい。鴨はとかく蘆の茂みをさまよひ歩く鳥であるから、その性情を以て枕詞としたもので、「さして行く」が笠の枕詞に用ひられると同樣である。卷十二「蘆べ行く鴨の羽音の(271)音のみに聞きつゝもとな戀ひ渡るかも「(三〇九〇)、又雁にかけて「蘆べゆく雁の翅を見るごとに、君が佩《オ》ばしゝ投矢《ナグヤ》しおもほゆ」(三三四五)、此等を見ても序詞又は枕詞として用ひられて、歌の意義には與らぬ事が判らう。此の詞、冠辭考にも同續貂にも古義の枕詞解にも見えてはゐないが、吾輩は鴨の枕詞〔二字傍点〕と思ふのである。
次に鴨の羽に霜の降つた事を志貴皇子が、どうして知つたであらうか。夜更に起き出でゝ見たわけでもあるまいが、わざ/”\鴨の羽を持ち出すには仔細がなくてはなるまい。是は鴨の羽ばたきの音を聞かれたのであらう。鴨といふ鳥は、夜更けて霜がおくと、羽ばたきをして霜を排ひ/\寢てゐる鳥なのである。昔の人はそれをよく知つてゐるので、枕草子「鳥は」の條にも「水鳥は鴛鴦いとあはれなり。かたみにゐかはりて羽の上の霜拂ふらんなどいとをかし云々、鴨は羽の霜うち拂ふらんと思ふにをかし」と出てゐる。又本集卷九の旋頭歌に「埼玉の小埼の沼《イケ》に鴨ぞ羽きる、おのが尾に降りおける霜を拂ふとにあらし」(一七四四)といふのもある。遙か後世でも兼好法師家集に「蘆べ行く鴨の羽がひに波こえて拂はぬ霜もおきやかぬらむ」といふのが見えてゐる。これなどは此の志貴皇子の御歌から出た事は明かで、やはり霜を拂ふ意に見てゐる事が知られる。註釋書の中では、古い代匠記だけが此點に觸れて、上掲の「小埼の沼《イケ》」の歌などを引いてゐるのは流石といふべきである。要するに志貴皇子は旅寐久しきに亙つて望郷の念堪へがたく、寒夜輾轉して夜更けまで眠りかねてゐると、濱邊の方に當つて鴨の羽ばたきの音が聞えたので「あゝ鴨の羽にも霜が置いたと見えるな、道理で寒いと思うたが」といふのである。難波離宮は極めて濱邊に近かつたらしく、海人の呼び聲も聞えると歌にも詠まれた(二三八)ほどであるから、人の寐靜つた夜更けなどは、鴨の羽ばたきも聞えたであらう。
(272)◎一首の意――既に述べた通りであるが、「羽ぶく」とも「拂ふ」とも言はない所に、しつとりとした氣分が出て來る。
此歌や上掲の「明日香風」の歌(五一)、又卷八なる「垂見の上の早蕨」(一四一八)などを誦すると、「靜にして細《コマ》やか」と縣居翁の評されたのは、げにとうなづかれる。
 
長皇子御歌
 
65 霞打《アラレウツ》 安良禮松原《アラレマツバラ》 住吉之《スミノエノ》 弟日娘與《オトヒヲトメト》 見禮常不飽香聞《ミレドアカヌカモ》
 
○霰打《アラレウツ》――舊訓は「みぞれふり」「あられふる」など訓んでゐるが、代匠記に「あられうつ」と訓んだのがよい。但、諸家大方はこを枕詞としてゐるが、前の「蘆邊行く」とはうらうへ〔四字傍点〕に予は此時の實景と見たい、そは歌の趣を説明する間におのづから了解せられよう。
○安良禮松原《アラレマツバラ》――神功紀に「をちかたの阿邏邏まつばら云々」といふ歌がある。これは山城國宇治川の彼方に疎らに並び立てる松原をいふのであるが(「あらゝ」は「あらあら」の略であらう)、考はこゝもそれに準じて、住(ノ)江に近く、あら/\立ち並べる松原の事とし、例の如く「禮」を「羅」の誤として改めてゐる。然るに古義、檜嬬手は攝津國に荒々神(延喜三年五月に此神に從五位下を授けた事が日本紀略に見えてゐる)といふがあり、又新撰姓氏録の同國諸蕃に荒々《アラ/\ノ》公といふのがあるのを證に地名としてゐる。(これは疎松といふ考の説を否定するの(273)である。)地名にしても、もとは「あられ」ではなく、「あらゝ」(荒々)であつたらうといふ事が推されるから、疎松の義の「あらゝ松原」が名高くなつて、やがて地名ともなり、又訛つて「あられ」となつたものかも知れぬ。隨つて考が「禮」を「邏」に改めたのも無意義とも言はれないが、長皇子の頃ははや「あられ」と訛つてゐたかも知れず、さなくとも、「あられうつ」につゞける語調の關係から、わざとかく詠まれないとも限らぬ事であるから、私意を以て妄りに改むべきではない。
○住吉之《スミノエノ》――「すみのえの」と訓むべき事はいふまでもないが、古訓は「すみよしの」と訓んでゐる。平安朝になつてから、字面に引かされた俗間の稱呼が早く一般の稱になつたものと見える。仙覺抄に至り攝津風土記や次の清江娘子などによつて、「すみの江の」と訓み改めた。考は「吉〔右○〕(ノ)字も古はえ〔右○〕といひしを、いかで古の事を誰も忘れけむ」と憤慨してゐるが、學者が全く忘れたのではなく、世俗の大衆に壓せられて、つひ馴致したので、いつの世にもよくある事である。古今集を見ると、なほ「すみの江」とよんだ歌が多く、「すみよし」といへるは至つて少ない。然るに古今集後は「すみよし」の方が次第に多くなり、和名抄にすら「須三與之《スミヨシ》」と載せるやうになり、彼の窮恒の「住の江の〔四字傍点〕松を秋風吹くからに云々」の歌から出て有名な〔傍点〕逸話の傳はつた源經信卿の歌も、「沖つ風吹きにけらしなすみよし〔四字傍点〕の松の下枝をあらふ白浪」と詠まれてゐるのを見ると、その頃から大勢が「すみよし」となつたのであらう。(但、大方は「住吉の」と書いてあるから、嚴密にいへば「すみの江」か「すみよし」か判斷のつかないのが多い。)仙覺に至り、平素はいかに稱へたかは知らねど、古典たる萬葉集の訓には、「すみのえの」と點じたのである。さて「え」は「江」の義で、「吉」を「エ」の音に借りるのは古の常である。「日吉」を「ひ(274)え」と訓むが如く。
○弟日娘與《オトヒヲトメト》云々――「弟日娘」を古訓は「おとひむすめ」と訓んでゐるが、仙覺以來「おとひをとめ」と訓んでるのがよい。たゞその解釋に至つては諸家まち/\である。考は「おとひ」を「おとゝひ」の省略とし「はらから」の義に解して姉妹の遊行女婦と見てゐるが(略解、檜嬬手も同説)、「はらから」の義ならば、「弟《オト》と兄《エ》」の音便で、「おとゝい」といふべきで、「おとゝひ〔右○〕」ではないから根本的に誤である。次に代匠記、攷證等は、弟は年若き心、日は一種の助語と見てゐるが、古義、美夫君志等は更に進んで、此の娘子の名としてゐる。この二説何れとも斷じ難いが、「弟」といひ、「日」といふは若き女の名にふさはしい語でもあり、美夫君志にいふが如く、持統紀八年十月の條に弟日といふ人名も見えてゐるから(但、、これは男であつたらしい)、姑く娘子の名と見るもよからう。(集中遊行女婦の名として傳へられてゐるものは兒島、土師、佐夫流など彼此見えてゐる。)しかし仙覺が卷五、詠2領巾麾嶺1歌の所に引いた肥前國風土記には、世にいふ松浦佐用姫(卷五「八八三」には明かに佐用嬪面とある)の事を「乙等〔二字傍点〕比賣《・オトヒメ》」としるしてゐるが、今世に傳はつてゐる肥前風土記といふものには「弟日〔二字傍点〕姫子」となつてゐる。此等の點から見ると、弟日は娘子の本名ではなく、若い女子をなつかしみいふ汎稱ではあるまいか。總じて弟日といふ語は自から卑下していふ意にも用ひられ得るし(顯宗紀の「弟日|僕《ヤツコ》」が是である。若輩、ふつゝか者などいふが如き意であらう)、又女子などを他からいふ場合は、若くうるはしい義にも用ひられ得る語である(肥前風土記などの場合がそれである)。此等を思ふと、こゝは寧ろ後者の方ではあえまいか。
所で、此歌で最も大切なのは「弟日娘與」の「と」といふ弖仁乎波で、歌全體の生命はこの「と」一つにかゝつ(275)てゐる。從來の説には凡そ二樣ある。
(一)「與に」といふ意に取つて娘子と與に見る事と解釋するので、代匠記、考を初め多くは此説である。しかし愛する娘子と與に見ればこそ景色も一段と引き立つべきで、娘子と與に見れど〔右○〕なほめでたいといふのは人情の自然ではない。で、此等の説の中には、知らず/\「見れば〔右○〕あかぬかも」の意に説いてゐるのが多い。中には「娘子と共に見るだに飽かずおもしろきを、まして獨り見ば」とか「日比あかず眺めてゐたが、今日は愛する娘子と共に見るけれどなほ飽かぬ」とか、いろ/\語を添へて、ひねくつた解釋を試みる人もあるが、遂にしつくりした表現とはいへない。
(二)は物を並べ擧げる「と」で、松原と娘子と二つながらめでたき意に見るのである。略解と古義とは此説である。が、是はまた語法の自然に背く嫌がある。いふまでもなく此種の「と」は「彼と〔右○〕此と〔右○〕」「春の花と〔右○〕秋の月と〔右○〕」の如く、兩者それ/”\「と」を添へるのが、語法上の原則であるが、語調などの爲に已むなく一つを省く場合は、「彼と此」「宗教と教育の關係」などの如く、後者を省くのはこれ亦語法の自然である。若し前者を省くと、徃々文意不明に陷る事があるから、自然一般の習はしとなつて來たのである。然るに(二)の解釋によると、その習はしに背く事となるから穩かな語法とはいへない。しかし語法といふもの、初めからあつたわけでもなからうし、表現は人によつて異なるから、數多き歌の中には普通の習はしによらぬ特異な例はないとも限らぬが、それはその表現法によらずとも、おのづから意義の通ずる場合、他の意に紛れぬ場合に限られねばならぬ。然らざれば拙劣といふ外はない。略解や古義に擧げた卷七の歌「佐保川の清き河原に鳴く千鳥、川津と二つ忘れかねつも」(一一二三)(276)はあまり適例とも思はれないが、「二つ」とあるから意は紛れない。それよりも古義等には引いてないが、卷三「詠2不盡山1歌」の中に「なまよみの甲斐の國、うちよする駿河の國と〔右○〕、こち/”\の國のみ中ゆ云々」(三一九)とあるなどは此説に取つての好適例だらうと思ふが、それも世に知れ渡つてゐる事がらであるから、事なく通ずるのである。(それにしても語法は穩かだとはいへない。「甲斐乃國」の下に、「與」(ノ)字が脱ちたではないかとも疑はれる又「與」は漢文訓読の法に傚つたもので、前後繰返し「…と…と」と訓むべきではないかとも疑はれるのである。)然るに此の皇子の御歌は簡單に行かないから、それからそれと異見が出て、今に決着がつかない。これは歌の表現が拙ない爲であらうか、解釋が當を得ないのであらうか、よく考ふべき義務があると思ふ。つら/\思ふに、此歌説者のいふ如く娘子と松原とを並べ擧げようとならば、三四の句と一二の句とをそのまま顛倒して
 住吉之、弟日娘と、霞打、安良禮松原、見れど飽かぬかも。
といふべきではなからうか。調も同調で、語法にもかなひ、意も紛れなく聞える。これは初心の者でも容易に氣のつく事である。それに並べ擧ぐる兩者の價値に差別がないとしても、一はもの言はぬ非情物、一は側に侍してゐる愛姫であるから、まづその愛姫を先にすべきが修辭法の自然であるから、寧ろこの方が穩當といはねばならぬ。然るに(二)の説によると、容易く現はし得べき修辭法も、語法上の自然も皆無視して、強ひていかゞはしい、表現法を取つた事になるので、萬葉集の撰歌が、かくまでふつゝかなものであらうとは考へられない。然らば、いかに見るべきかといふに、予はこを「の如く」の意に見たいのである。即ち「落花雪と〔右○〕散る」「彈丸雨〔右○〕と降る」等の「と」で、娘子の見飽かぬが如く松原も見飽かぬのである。隨つて初二句は呼掛の格と見るべき(277)で、「霰うつ霰松原はよ」と呼びかけて、印象を明かにしたのである。思ふに此時の御幸は九月末から十月に亙つてゐるから霰の降つた事もあつたであらう。青い松原へ白い霰のばら/\と降り注いだ景氣が、いかにもおもしろかつたので、取りあへず「霰うつ霰松原はよ」と言ひ出されたので、これが歌を詠まれた動機であらう。けれど娘子と對照するに當つて、側にをる愛姫を下にはせられないから、「娘子はいふまでもなく見あかぬが、その如く松原も見飽かぬ」と言ひまはされたのであらう。これで歌を詠まれた動機も判り、重きを娘子に歸した意も酌まれて、すべてがしつくりすると思ふ。右の如き見解の下に、予は「霰打」を實景と見たいのである。枕詞としても解けぬ事はないが、實景とする方がなほ自然だと思ふ。(もし枕詞とするなら、「霰ふり鹿嶋」などの例に準じて「霰うち」と訓むがよからうと思ふ。)
なほ言はゞ「見れどあかぬかも」といふ句、集中にあまた見えるが、これは「見る」と「あかぬ」とを離して別別に見るべきではない。「ど」は輕く用ひられてゐるので「見あかぬ」といふだけの意である。「見あかぬかも」では、結句として力足らないから、「ど」をそへて八言の句にしただけなので、句意は「見あかぬ」といふ熟合動詞のやうに見るべきである。これから推して行くと、「と」を「與に」の意に見ても「娘子諸共見あかぬ」、「娘子の見あかぬと與に松原も見あかぬ」事となるので、意は一に歸する。(實は「の如く」の意の「と」も、かかる所から轉じて來たのであらう。)たゞ從來の釋家、「見る」と「飽かぬ」とを切り離して、「與に」を「見れど」だけにかけて説くから、しつくりしないのである。「流經《ナガラフル》」(五九)を從來妻〔右○〕だけにかけて見た類ひであらう。
◎一首の意――青い松原に霰が玉なして打ちつけるやうに降り注いだ景氣は何ともいへぬ趣ぢや。弟日娘子はいふ(278)までもなく見あかぬ娘子ぢやが、それと共にこの松原もまた見あかぬ眺ぢやわい。
 
太上天皇幸2于難波宮1時歌
 
これは以下四首に亙る端書で、歌は供奉の者、及び之に關聯した娘子の作である。太上天皇は持統天皇である事はいふまでもない。考は「大寶二年十二月崩御せられた持統天皇時代の歌を慶雲三年云々の歌の下に載すべきにあらず」と難じ、古義などは之によつて次序をも吏へてゐるが、これは美夫君志の辨ずる如く、まづ年月の明かな歌を掲げ、年月不明のものを後に廻はしたものらしいから(前にも例がある)、錯亂ではあるまい。(古義が次序を變更したのは、こゝばかりではないから、後で一括して別に辨じよう。)又諸註は太上天皇難波御幸の事は史に見えないから、續紀に見える文武天皇三年正月難波行幸の時、御同行であつたのであらうといつてゐるが、或はさうかも知れぬ、大寶元年の紀伊御幸も史には見えないけれど、本集卷九(一六六七)の端書によつて、天皇と御同列であつたらしい事が知られる例もあるから。
 
66 大伴乃《オホトモノ》 高師能濱乃《タカシノハマノ》 松之根乎《マツガネヲ》 枕宿杼《マキテヌルヨハ・マクラニヌレド》 家之所偲由《イヘシシヌバユ》
 
○大伴乃《オホトモノ》――「高師」の枕詞。高師は和泉國大鳥郡なる濱の名で、そこに式内高石神社といふがある(今の濱寺附近)。さて上掲の憶良の歌には「大伴乃御津」とあつたが、「大伴の」は「御津」にも「高師」にもかゝる枕詞である。其義は明かではないが、もと大伴氏は難波附近から高師の濱に亙る一帶の地域を領してゐたらしいので、やがて地(279)名とも枕詞ともなつたといふ説が比較的行はれてゐる。(紀に「大伴金村大連、居2住吉宅1、稱v疾而不v朝」と見え、又日本靈異記に大伴野栖古といふ人「居2難波宅1而卒」と見えてゐるなどから、大伴氏と難波との關係を推すのである。)此説によれば「さゝ浪の」が「志賀」又は「大津」にかゝると同じ趣の枕詞となる(考、美夫君志等)。又大伴家は武を以て聞えた猛き家柄であるから、「みつ/\し」「たけし」などの意で、「みつ」へも「たかし」へもかゝるといふ説もある(古義、山彦冊子等)。これも故ありげに聞える。
○松之根乎《マツガネヲ》 枕宿杼《マキテヌルヨハ・マクラニヌレド》――この句、古來「まくらにぬれど」(【元暦校本】)「まくらにねぬと〔右○〕」(【仙覺抄】)「まくらねぬとか」(【舊板本】)「まきてしぬれど」(【考、略解】)「まきてさ〔右○〕ぬれど」などさま/”\に訓まれてゐるが、「杼」といふ語がしつくりしないので、どの訓に據るべきかは確かに判じかねる。(そが中に板本の訓と仙覺の訓とは義が通じないし、【「杼」を清音に訓んだのも誤りである、】「し」といふ助辭や「さ」といふ接頭辭を添へるのもいかゞであるから、元暦校本の訓が比較的穩かといへよう。「まくらにぬれど」は「枕にしてぬれど」の意であらう。)さて此の「杼」(ノ)字、古來の諸本、皆このまゝなので、詩註大方之に據つて説を立てゝゐるが、詮ずる所は「かくおもしろき〔五字傍線〕濱べの松が根を枕として寐るから、外に思ふ事もなく心行きぬべき事なるを〔外に〜傍線〕、なほ獨寐の物うさに家人の事がしのばるゝよ」(美夫君志)といふやうに説く外はないやうである。なるほど語を補つてかく言ひまはせば、事もなく聞えるやうではあるが、何分「景色がよい」といふ事も、「思ふ事もなくめではやす」といふ事も本文には更に見えないで、肝心な表現は「松が根を枕にして寐る」といふだけであるから、幾たび讀誦しても美夫君志のいふやうな氣分がひゞいて來ない。隨つて此時代に於ける一般の旅情と相容れないやうな感を免れない。さればこそ代匠記は「浪の音の騷がしき濱邊に荒らかな(280)る松が根を枕として、馴れぬ旅寐の物うければ故郷の偲ばるゝとなり」と説き(これは知らず/\「寐れば〔右○〕」の意に説いたのである)、早く仙覺は「松が根を枕にして寐たらんはもとも家を偲びぬべき事にこそ侍るめれば云々」と難じてゐるが、これは此歌の表現では當然起るべき疑問で、前の歌で「弟日娘と與に見るけれど、なほ飽かぬ」と説いたと同じ矛盾といふべきである。そこで玉(ノ)小琴は「杼」を「夜」の誤として「まきてぬるよは」と訓んだ。「夜」の草體は「杼」に似てもゐるし、かく改めれば歌の意もすなほに聞えるから、古義、檜嬬手等は之に従つてゐる。たゞ此説の缺鮎は、誤字として本文を改めねばならぬ事である。いふまでもなく.古典の解釋は出來るだけ、本文に忠實なるべきで、私意を以て漫りに改めるのは最も慎むべき事であるが、又古書に誤の多い事も否み難い事實であるから、飽くまで本文に泥んで、強ひてふさはぬ説を立てるのも亦考へものである。この歌従來の説明では遂にしつくりしないし、外に良き案も浮ばないから、然るべき解説の出で來ぬかぎり、小琴の訓も捨つべきではなからうと思ふが、なほよく考ふべきである。さて小琴の訓によれば、「まき」は四段活用の動詞で、枕にする事を「まく」といふのである。さて又、歌の意はいづれにしても、松が根を枕にして寐るといふ事、實際にはあるべき事ではないが、旅寐といふ事を誇張した詩人の修辭である事はいふまでもない。
○家之所偲由《イヘシシヌバユ》――元暦校本は「いへしおもほゆ」と訓んでゐるが、仙覺抄は「しの〔右○〕ばゆ」と改めた。代匠記、考等もそのまゝだが、略解は更に「しぬ〔右○〕ばゆ」と改めた。卷五「栗はめば、まして斯農〔右○〕波由」(八〇二)、卷六「氣長くしあれば、家之小篠生《シヌバユ》」(九四〇)などから推せば、略解の訓がよからう。此の語、上掲の「おもほゆ」と同樣に見る人もあるが、意は似てゐるけれど、語格は同一ではない。「おもほゆ」は既に述べた如く、下二段の動詞で(281)「ゆ」はその語尾であるが、「しぬばゆ」の「ゆ」は動詞の未然形を受ける受身の助動詞で、後には「る」となるのであるから混じてはならない。さて又この「偲」(ノ)字は詩經の「美且偲」などいふ「偲」ではない。人に从ひ、思に从ひて思慕の意をあらはした我國製造の會意文字であらうと言はれてゐる。又「所偲」二字で「しぬばゆ」と訓まるべきを、更に「由」(ノ)字を添へたのは、衍字といふ人もあるけれど、美夫君志のいふ如く、「知らに」を「不知爾」と書いたと同樣で、念のため他に紛れぬやう訓方を明示したものであらう。「家之」の「し」は助辭。
◎一首の意――(姑く小琴の訓による)都を遠く離れて、浪の音、松の嵐の茂き濱邊に旅寐する夜は、一段と故郷が偲ばれるわい。
 
右一首、置始東人
 
67 旅爾之而《タビニシテ》 物戀之伎乃《モノコヒシギノ・モノコヒシキニ》 鳴事毛《ナクコトモ・イヘゴトモ》 不所聞有世者《キコエザリセバ》 孤悲而死萬思《コヒテシナマシ》
 
○物戀之伎乃《モノコヒシギノ・モノコヒシキニ》、鳴事毛《ナクコトモ・イヘゴトモ》――此歌も、この二句の意がしつくりしないので、諸説まち/\であるが、大樣は攻の二つにわかれる。
(一)代匠記、考等の説で、「ものこひしぎの、なくことも」と訓み、「戀しき」を「鴫」に言ひ掛けたものとするのである。(これにも諸説多少の差はあるが、「之伎」を「鴫」とする事は大方違はない。)たゞ此種の掛語は、後世の卑俗な調で、上代にはあまり見えないから、萬葉の撰歌としてはどうかと思はれる。且つ此等の説では結局下の(282)三句を「鴫の鳴く聲を聞けばせめて慰む」とか、「物戀しさに堪へをる我が同類と思ひて慰む」とか、「我のみならば戀ひて死ぬべし」とか説く事となるので、やはり昔の人の旅情と相反する嫌がある。猿の聲、時鳥の聲にいとゞ郷思を誘はれるといふが、古來の詩歌の常で、萬葉でも數へ切れぬほどある。(この下にも「倭こひ寢のねらえぬに心なくこの洲の崎にたづなくべしや」(七一)といふがある」此の作者は一種變つた感情を歌つたのかも知れねど、語遣ひのしつくりせぬにつけて猶首傾けられるのである。(檜嬬手は「鴫はたゞ鳴くといはんよせに裁ち入れたるのみにて歌の意にはあづからず」といつてゐるが、これは我が(作者)泣く事を家人に聞かせるを慰めとする意であらうか。「鳴くといはんよせ」だけなら、鴫を持ち出すは徒らではあるまいか。)
 次に「戀之伎」の訓に就きて、略解は「こふしぎ」と訓み、燈は「こほしぎ」と訓んでゐる。「しぎ」にかゝる連體形なら「こふる」といふべきだから、略解の訓は論外だが、「こほしき」は古格で齊明紀の歌にも「君が目の姑〓之枳〔四字傍点〕」などあるから、これは差支ないが、「戀しき」を「鴫」に言ひかけたといふ説からいへば、調子が近代だから、用語も寧ろ古格でない方がふさはしからう。
(二)は古義と美夫君志との誤字説で、兩者とも「鳴」を「家」の誤とし(「鳴」と「家」と草體が似てゐるからといふ)、又古義は「乃」を「爾」の誤とし、美夫君志は「乃」に「に」の音があるからとて、そのまゝで、いづれも「ものこひしきに、いへごとも」と訓んでゐる。そして「事」は「言」の借字、「家言」は故郷からの音信をいふと解し、「たまに家人の音信が聞えるからせめて慰む」意に説いてゐる。かく改めると、歌の意は一通り聞えるし、「旅にして物戀しきに」といふ二句などは、卷三、高市連黒人の歌(二七〇)にも用例が見えて、げにとも思はれ(283)るが、何分本文を改めねばならぬのが缺點で、その改めた「家言」といふ語もあまり耳馴れないから(卷廿「家風は日に/\吹けど、吾妹子が伊倍其等〔四字傍点〕もちてくる人もなし」(四三五三)といふ唯一の例があるにはあるが)、なほ首傾けられるのである。
 「乃」を「に」と訓むにつき、美夫君志は、「乃」は韻鏡第十三開轉所屬の文字で呉の次音は「に」であると説き、卷十六「朝霞香火屋之下乃〔右○〕鳴川津」(三八一八)といふ歌を證としてゐるが、げにこれと上(ノ)句全く同じき歌は卷十にもあつて、それには「朝霞鹿火屋之下爾〔右○〕鳴く蝦、聲だに聞かば我こひめやも」(二二六五)とあるから、「乃」は「爾」の假名に用ひたものかも知れねど、乃〔右○〕でも意は通ずると思ふから、何ともいへない。
要するに兩説とも、十分釋然とはしないが、他に良い案もないから、姑く兩説を掲げ、小評を附して後の攷究を待つ事とする。
◎一首の意――((一)の訓によつて説けば)旅路にあつて物戀しげに鳴く鴫の聲を聞くと、アヽ戀に泣くものは我のみではないわいと感ぜられて、せめてものあきらめ〔四字傍点〕となる。もしそれがなかつたなら我は戀死するであらう。
((二)の訓によつて説けば)々他郷に在つて何につけても故郷偲ばれるのに、たまさかでも家人の音信が聞えるから、それがせめてもの慰めである。もしそれがなかつたなら、我はこがれ死に死ぬであらう。
後者の意なら何かの音づれがあつた時の作であらう。必ずしも美夫君志のいふ如く故郷から贈られた歌の返歌とは限るまい。
 
右一首、高安大島
 
(284) この歌、本文にはかく名を明記してゐるが、目録には「作者未詳歌」とあつて其下に「高安大島」の四字を小書にしてゐる。美夫君志、よつて其間の關係を推測して「もとはこゝも作者未詳とありしに、後人其下に異説を記したるを、其後の人、更に本文をば改易し、さて目録の方はもとのまゝに置きたるなるべし」といつてゐる。どうであつたか今からは判らぬ。
 
68 大伴乃《オホトモノ》 美津能濱爾有《ミツノハマナル》 忘貝〔左○〕《ワスレガヒ》 家爾有妹乎《イヘナルイモヲ》 忘而念哉《ワスレテオモヘヤ》
 
○忘貝《ワスレガヒ》――「貝」流布本には「具」とあるが、誤なる事明かであるから、古寫本によつて改めた。「忘貝」は一種の貝の名であるといふ説と、もとはうつせ貝と同じく、何貝にもあれ、肉のない貝殻をいふので、浪の寄せ來て磯に殘しおき忘れてかへる意からいふので、後世、一種の貝の名とするのは語によつて假りに設けたものだといふ二説あるが、卷十五「よせ來ておけれ押つ白浪」(三六二九)といふ例からいへば、後説がいゝかと思へど、予は此種の智識には乏しいし、歌の本旨にはさしたる關係がないから、其道の人にまかせておく。何れにしても難波の海には多かつたものと見える。さてこの三句は結句の「忘れ」を出すための料で、眼前に横はるものを捉へて旅寐の趣をひゞかせかた/”\序詞としたので、序詞としては最も普通な形である。
○忘而念哉《ワスレテオモヘヤ》――古訓以來「わすれておもへや」と訓んでゐる。類聚古集には「わすれておもふ〔右○〕や」と訓んでゐるが、人麿が過2近江荒都1時の反歌の一本に「昔の人に將會跡母戸八〔三字傍点〕」(三一)とあり、又卷十五に「一日も妹を忘れて於毛倍哉〔四字傍点〕」(三六〇四)とあるから、やはり「おもへや」と訓むべきである。(この人麿の歌によつて「忘れてもへ(285)や」と訓むべきかとも思ふが、なほ縮約せぬ卷十五の例による方がよからう。)「や」は反語、「おもふ」に反語を添へて「おもへや」といふは「忘れむ」を反語に「忘れめや」といふ類で、俗語に「忘れるかイ、忘れぬぞ」といふほどの語氣である。さてこの「念」といふ語は、人麿の歌で既に述べた如く、一種の古格で、殆ど意義が尋ねられないほど輕く用ひられてゐる。隨つて意は「家なる妹を忘れむや」といふだけの事になるのである。或る人は「思ひ忘れむや」といふを顛倒した古格の用法ではないかといふが、げにこゝはさうも見られるけれど、人麿の歌の方はさうは取れない。卷二「うつそみと念ひ〔二字傍点〕し時に」(一九六)、「うつそみと念ひ〔二字傍点〕し妹が灰にていませば」(二一三)(うつそみなりし時、うつそみなりし妹の意)などの例もあるから、所詮は輕く用ひたものと見るが穩當であらう。もとより全く無意義といふ事はあるまい。何等かの氣分はあつたらうが、今はその氣分も味ひ難くなつたのである。隨つて「忘而」の「て」「將會跡」の「と」も、句と句とを連ねるくさび〔三字傍点〕に用ひられたに過ぎないのであらう。
◎一首の意――難波の浦の旅寐久しくなつて、いとゞ故郷なる妹の事が思ひ出されるわい。(濱べに出て見ると忘貝がそここゝに轉つてゐる。アヽ忘貝、忘貝、妹の事が忘られようかい。)
 
右一首、身人部王
 
續紀に六人部王とあると同じ人であらう。和銅三年正月無位から從四位下となり、累進して神龜元年二月に正四位上となり、天平元年正月卒せられた事が見えてゐる。
 
(286)69 草枕《クサマクラ》 客去君跡《タビユクキミト》 知麻世婆《シラマセバ》 岸之埴布爾《キシノハニフニ》 仁寶播散麻思乎《ニホハサマシヲ》
 
○草枕《クサマクラ》――客(旅)の枕詞。
○客去君跡《タビユクキミト》――君は長皇子をさす。「客去く」は難波の御幸事了へて京へ歸られる事をいふのであるから、實は旅先から故郷へ歸るのであるが、いつまでもこゝにおはしますものと思うてゐた娘子の心には、俄に旅へ出かける人のやうな感じがするので、その氣分からかく詠んだのである。此の一句で、いかに永く泥みかはしてゐたか、いかに名殘をしく思はれたかといふ事が、多くを言はずしてよく響くので、こゝが此歌の眼目である。寵愛した皇子も哀を催した事であらう。
○知麻世波《シラマセバ》――「ませ」は「まし」の未然形で、「しらませば」は「かねて知つてゐましたならば」といふのである。
○岸之埴布爾《キシノハニフニ》――「岸」は住の江の岸、「埴」は和名抄に釋名を引いて「土黄而細密曰v埴、和名|波爾《ハニ》」とあつて、世にいふ粘土の事、「ハニ布」の「布」は借字で「埴生」の義、「生」は物の生ずる所をいふので、「芝生」「園生」「粟生」「豆生」「淺茅生」など多く用ひられ、「埴」のあまたある所を「埴生」といふのであるが、こゝはやがて「埴」の事で、上の歌(六四)で、「羽」の事を音數の都合で「羽がひ」といつたと同じ類である。埴生の小屋などいふも同樣である。
○仁寶播散麻思乎《ニホハサマシヲ》――「匂はさましを」である。「匂はす」は既に述べた如く、ほんのりとうるはしく色づける事、こゝは御※[貝+盡]の爲に住の吉の黄土で衣を染めて進らすべききであつたものをといふのである。「を」は「ものを」の義。
(287)◎一首の意――マアあなたが今日この頃旅に御出ましになると豫て知つていましたなら、住の江名物の埴生染でも仕立てゝ、御かたみにさし上げるのでありましたものを。
日頃何心もなく昵みかはした趣も見え、あわたゞしき別のさまも酌まれていぢらしい歌である。
 
右一首、清江娘子進2長皇子1 姓氏未詳
 
「清江」は「すみの江」であらう。卷三にも「清江乃木笑《キシ》松原」(二九五)と出てゐる。この娘子は上掲の長皇子の御歌に詠まれた弟日娘であらうと僻案抄、燈、美夫君志等は見てゐる。歌がら〔三字傍点〕からいへば或はさうかも知れねど何ともいへぬ。考と略解とは「弟日娘とは異なるべし」といつてゐるが、これは弟日娘を姉妹の遊行女婦(二人)と見た爲であらうか、それとも彼と此と年代が隔たるからとの見解であらうか。定かではない。(假りに績紀によつて此時の御幸を文武天皇の三年とすれば、弟日娘の歌が詠まれた慶雲三年の七年前である。)「姓氏未詳」は此の娘子に就いての注であらう。
 
太上天皇幸2于吉野宮1時、高市連黒人作歌
 
 績紀大寶元年の條に「六月庚午太上天皇幸2于吉野離宮1」といふ記事が見えてゐるから、此時の事かも知れぬ(考及燈に八月としてあるのは書寫の誤であらう)。しかし此時の事とすれば年月が定まるが既に述べた如く、前項以後の四項は、年月不明のため後にまはされたものらしいから、必ず此時とは定められぬのであらう。なほ此年二月にも吉野行幸〔二字右○〕の事が見えてゐるから、この時太上天皇も御同列であつたらうといふ人もあ(288)るが、これも何ともいへぬ。
 
70 倭爾者《ヤマトニハ》 鳴而歟來良武《ナキテカクラム》 呼兒鳥《ヨブコドリ》 象乃中山《キサノナカヤマ》 呼曾越奈流《ヨビゾコユナル》
 
○倭爾者《ヤマトニハ》――代匠記に「吉野の山も大和なるを、今大和といふは藤原の都を指していふ。※[手偏+總の旁]即別名の心なり」といつてゐるが、大體その意であらう。「やまと」は廣くいへば、日本全國の事となり、狹くいへば國名の起つた本の一郷の名ともなるが、既に國名となつたからには、その中心たる天皇のおはします都を特に指す事ともなるのは、そこに住む者の自然の情である。殊に吉野は山地で、平原の中にある藤原(ノ)都とはおのづから地勢が異なるから、長く家を離れてゐる身は、馴れぬ異郷にある心ちして、早く故郷へ、都への氣分で、こゝも大和ぞといふ理性を没して我知らず「倭に」といつたものであらう(次の歌にも倭戀《ヤマトコヒ》とよんでゐる)。此の心やがて次の「鳴きてか來《ク》らむ」といふ語遣ひともなるのである。然るに攷證はこを山邊郡大和郷の事とし、縣居翁の説を借りて、こちたく述べてゐるが、小理性に捉はれたものといふべきである。
○鳴而欺來良武《ナキテカクラム》――これも普通には「徃くらむ」といふべき所であるが、「來らむ」といつたのは、燈、美夫君志などのいふ如く、作者の心境によつて、身の置き處が異なる爲である。この作者は永く旅路にあつて望郷の念堪へ難く、心は早く故郷に飛んでゐるので、その氣分から、故郷へ鳴き行く鳥を、我知らず「鳴きて來《ク》らむ」といつた形なのである。元來往くも來るも、移動性をあらはす語であるから、今も地方には流用してゐる所もあるし、集中にも流用らしい例も彼此見えるが、よく味へば作者の心境をそれとなく匂はした場合が多い。殊にこの歌は(289)初句の「倭爾者」と相俟つて、切なる望郷の氣分がそれとなく匂はされてゐるので、前の清江娘子の「旅行く君」と同工異曲といふべきであらう。
○呼兒鳥《ヨブコドリ》――古來諸説まち/\で、いかなる鳥とも分き難いが、考、美夫君志、山彦册子などにいに所やゝ據るべきかと思ふ。それによれば、俗にかつぽう鳥〔五字傍線〕又かつこう鳥〔五字傍線〕といふもので、集中に※[日/木]《カホ》鳥〔二字傍線〕といふも是だといふのである。その聲、人を呼ぶやうに聞える所から名になつたらしい。(考及美夫君志の別記に委しい。)
○象乃中山《キサノナカヤマ》――「きさのなかやま」と訓み、吉野郡喜佐谷村にある山の名で、吉野川を隔てゝ離宮址と相對する。その麓をめぐる小流が象の小川で、末は吉野川に入る。共に吉野の名所である。
○呼曾越奈流《ヨビゾコユナル》――呼兒鳥の鳴く聲は物を呼ぶやうに聞えるから、「呼ぶ」といつたのである。「なり」は本來、動詞の連體形を承ける助動詞であるが、歌などでは「聲すなり」などの如く、終止形を承ける事もある。調子のためであらう。こゝもその例で「こゆなる」と訓むべきである。
◎一首の意――呼兒鳥が物なつかしげな聲して象の中山を飛び越えて行くわい。かくして我が住む里にも鳴き行く事であらうか。あゝその古郷人がなつかしい事ぢや。
「來《ク》」は作者の心情を暗にほのめかしただけなので、表面からはやはり「鳴きゆく」と説かずばなるまい。
 
大行天皇幸2于難波宮1時歌
 
こゝの大行天皇は文武天皇を申すので、「藤原宮御宇」と標榜した下に於ては持統天皇を「太上天皇」と申したに對し、文武天皇をば「大行天皇」の名を以て區別したものらしい。しかし「大行」といふ語に就いては、(290)漢土の本義と我國の適用とは多少趣を異にしてゐるやうである。禮記陳氏注に「以2其往不v反故1曰2大行1也」、漢書音義に「大行、不v在之稱、天子崩末v有2謚號1、故稱2大行1」など見えてゐるが、文武天皇は慶雲四年六月辛巳崩御、同年十一月丙午謚して倭根子|豐祖父《トヨオヂ》天皇と申したのであるから、本義からいへば、大行天皇と申すべきは六月から十一月までの間でなければならぬ。それ故、考の別記には「此六月より十一月までの間に前年の幸《ミユキ》の時の歌を傳へ聞きたる人、私の歌集に大行云々と記し載せしならん、さてその歌集を此萬葉の裏書にしつるを、今本には表へ出して大字にしも書き加へし故に、かくことわりなくはなりしなりけり。云々」といつてゐる。漢土の原義から推せば、かく見る外はなからうと思はれる。然るに和銅三年十一月に記された、伊福吉部臣徳足比賣墓志」(因幡國から出土したもの、徑八九寸ばかりな圓形の銅壺で、蓋に放射状に刻したものである。益田孝氏所藏)といふものに、「藤原大宮御宇、大行天皇〔四字傍点〕御世、慶雲四年歳次丁未春二月云々」の句が見えてゐるが、これは御謚號あつて三年の後になほ大行天皇と稱へてゐるのである。又天平二年に記した上掲の美奴連岡麿の墓志には、「藤原宮御宇、大行天皇〔四字傍点〕御世大寶元年云々使2乎唐國1、平城宮治2天下1大行天皇御世靈龜二年云々授2從五位下1云々」と見えて、當時(天平二年)まだ御在世中の元正天皇も三代前の文武天皇も同じく大行天皇と稱へてゐる。(元正天皇は天平二十年崩御。)これから推せば、所謂「天子崩未v有2謚號1云々」の意義は勿論ないのである。もと漢土の語を借り用ひたので、轉用も誤用もないとは限らぬから、彼土の本義だけでは推されぬ。いかにそれが適用されたかを見ねばならぬ。然らば「大行天皇」といふ語をいかに見るべきかといふに、大體先帝といふほどの義に用ひたかと思はれる。持統(291)天皇三年の紀に天武天皇の事を「大行天皇」と記して、「サキノ天皇」と訓じてゐるのも此意であらう。しかし岡麿の墓志から推して判ずれば、必ずしも「故天皇」とか「一代前の天皇」とかいふ義ではなく、「曾て天位におはしました御方」を汎くいふものと見ねばなるまい。思ふに天武天皇や文武天皇崩御の際には、學者はほゞ原義の如く用ひたのかも知れぬが、本義に疎い我が邦人は、やがて轉訛してさま/”\に用ひたであらうから、その轉訛の跡を今日かち尋ねるのは容易ではない。この萬葉の端書などは、「太上天皇」は「持統天皇」といふ名稱の代り、「大行天皇」は「文武天皇」といふ名稱の代りに用ひたのではないかとさへ思はれるのである。「藤原宮御宇」といふ標題下に於ては「太上天皇」といふは持統天皇の外なく、之に對して「大行天皇」といふべきは、文武天皇の外はないからである(美夫君志參照)。
さて文武天皇の難波行幸は續紀によれば即位三年の正月と慶雲三年九月との兩度であるが、何れの時といふ事は此集撰述の當時既に判然しなかつたので、こゝにまはしたものらしい。
 
71 倭戀《ヤマトコヒ》 寢之不所宿爾《イノネラエヌニ》 情無《ココロナク》 此渚崎爾《コノスノサキニ》 多津鳴倍思哉《タヅナクベシヤ》
 
○寢之不所宿爾《イノネラエヌニ》――舊訓は「いのねられ〔右○〕ぬに」と訓んでゐるが、代匠記が卷五「人に伊等波延〔左○〕《イトハエ》」(八〇四)を引いて「いのねらえ〔右○〕ぬに」と訓んだのがよい。(代匠記も初めは「ねられぬに」と訓んでゐるが、後に改めたのである。)然るに僻案抄、考等は又「ねられぬに」と訓んだが、略解後は一般に「ねらえぬに」となつた。上代では良行音と他行音と通じて用ひられた事は、上の「所偲由」(六六)の所で既に述べたが、卷十五「妹を思ひ伊能禰良延奴爾《イノネラエヌニ》」(292)(三六六五)を初め、集中に假名書の例が多い。さて「い」は寢るの名詞、「ね」(ぬ)は同じ意の動詞で、古くは名詞と動詞とを繰りかへして「いをぬる」といふ語法が行はれた事も「四六」の歌で既に述べた。こゝも同じ語法で、「寢《イ》がねられない」「いをぬる事が出來ない」ので、つまりは「ねられない」といふ事である。
○情無《ココロナク》――「思ひやりもなく」の意で、これも上の歌(一七)で既に述べた。
○此渚崎爾《コノスノサキニ》――「渚」は洲渚など熟合して洲と同じ意に用ひる文字で、本集でも、卷六「奥渚《オキツス》に鳴くなるたづの」(一〇〇〇)、卷十二「みさごゐる渚爾居舟之」(三二〇三)など多く此の意に用ひてゐる。舊訓は「こゝのすさきに」と訓んでゐるが、これもわるいとは言はれぬけれど、「こゝの」といふ語少し落ちゐぬやうに思はれるから、考に「このすのさきに」と改めたのがよからう。「渚崎」を名詞と見るなら、「これのすさき」といふが寧ろ古格であらう。又元暦校本には渚崎の下に「未」の字があつて、それが類聚古集には「末」となつてゐるが、いかに訓むべきかは判らない。しかし兩者とも訓はなほ「すさきに」とあるから、恐らくは衍字であらう。
○多津鳴倍思哉《タヅナクベシヤ》――「たづ」は鶴の一名で、和名抄に「※[零+鳥]」を「多豆」と訓じて「鶴(ノ)別名也」と注してゐる。「田鶴」など書く所から、田におり立つてゐる鶴の事とするは俗説である。「や」は反語で、動詞、助動詞の終止形につく事は既に述べた。
◎一首の意――故郷戀しさの物思ひに、夜もおち/\眠りかねてゐると、近きあたりの洲崎に鶴の鳴く聲が聞えるが、それを聞くと、いとゞ故郷が偲ばれて旅情に堪へない。心なき鶴よ、思ひやりもなく鳴くべき事か、鳴くべきではなからう。
 
(293)右一首、忍坂部乙麿
 
忍坂部は「おさかべ」と訓む。「おしさかべ」の縮約であらう。乙麿の傳は詳でない。
 
72  玉藻苅《タマモカル》 奥敝〔左○〕波不榜《オキヘハコガジ》 敷妙之《シキタヘノ》 枕之邊《マクラノアタリ》 忘可禰津藻《ワスレカネツモ》
 
○玉藻苅《タマモカル》――諸家多くは枕詞としてゐるが、それは歌の意を解しかねて、第四句との關係に氣付かなかつた爲で、こゝは實際の形容と見るがよからう。しかし「苅る」といふ語は、上の「眞草苅」の所でも述べたが、強ちに泥んではならぬ。こゝも「玉藻生ふる」「玉藻なびく」などの意に見るべきである。
○奥敝波小榜《オキヘハコガジ》――「敝」(ノ)字、今本「敞」とある。誤とはいへないけれど、それは俗體で古寫本の或るもの(細井本、温故堂本等)に「敝」とあるのが正しい。さて「奥敝」の二字、古來の釋家の説く所、曖昧で要を得がたいが、大體は
(イ)「敝」を清音に訓んで、名詞格の弖仁乎波とする説(此の場合は「沖の方へ漕ぎ出まい」の意となる)
(ロ)「ベ」と濁つて「沖邊《オキベ》」といふ名詞と見る(この場合は「沖邊をば漕ぐまい」の意となる)
との二説になるやうに思ふ。この二説いづれにしても歌の大意は變らないが、語法上いづれを可とすべきかは俄に斷じかねる。が、「敝」といふ文字は清音に用ひるが常であるから、今は(イ)の説に從つておく。
○敷妙之《シキタヘノ》――「枕」にかゝる枕詞、「妙」は借字で「栲」の事、「敷栲」は下にしく布帛の義で、寢衣などの事を「敷た(294)への衣」といつたが、轉じて、袖、袂、床、枕など、すべて夜の具にかけ、家も夜寢る所であるから「敷たへの宅《イヘ》」などかけるのである。然るに冠辭考は「しき」は絹布の織目のしげき意、「妙」は「和《タヘ》」で、なごやかなる意、寢衣はなごやかなるを用ひるから、和らかな服《キモノ》といふ心で、「夜の衣」にかゝると説いてゐるが、石原正明は之を非として、こは枕詞ではない。夜の衣は下に引きしくものであるから敷たへといふので、「敷たへの衣」と衣(ノ)字までかけて義をなす詞であるといつてゐる(年々隨筆)。げに「敷たへ」の義は正明のいふ如くであらうが、枕詞でないともいへまい。「敷たへの衣」は寢衣をいふのであらうし、「敷たへの袖」は「敷たへの衣の袖」の略ともいへようが、「敷たへの枕」「敷たへの家」となれば、はや原義を離れて枕詞の性質を帶びて來るから、通じて枕詞とするが然るべきであらう。
○枕之邊《マクラノアタリ》――舊訓は「まくらのあたり」と訓んでゐるが、僻案抄、古義等は「枕のほとり」と訓み改めた。「あたり」も「ほとり」も、ほゞ同一の義に用ひられる語ではあるが、古事記などには「妹が家の阿多利〔三字傍点〕」などいふ語例はあるが、「ほとり」といふ假名書の例は見えないやうだから、やはり舊訓のまゝがまからう。さて「枕のあたり云々」は沖へ出て藻草の浪に靡く樣を見れば、枕のあたりに漂ふ妹の寐くたれ髪が思ひ出されて、情に堪へないといふのであらう。少し後の例ではあるが、大和物語に、采女が猿澤(ノ)池に身を投げたのを、人麿が弔うたといふ歌に「わぎもこが寐くたれ髪を猿澤の池の玉藻と見るぞかなしき」といふのがあるが(拾遺集にも出てゐる)、それと同じ聯想であらう。從來の釋家皆この句を解きかねてゐる中に、燈が「常に玉藻を妹のなびき寢るにたとへたるが如く、玉藻の靡けるさまにて妹の寢たりし形の思はるればなり」と説いてゐるのはやゝ近いが、なほ妹(295)が寐た姿の聯想として、黒髪の事に氣付かなかつたやうである。げに集中には女のやさしく靡きよる樣を、玉藻の浪に靡くさまによそへた歌は多いが、そればかりではあるまい。大和物語の如き聯想も必ずあつたに相違あるまい。
○忘可禰津藻《ワスレカネツモ》――忘れかねるといふは思ひ出される事である。燈は「つ」に重きを措き、「或る日、澳を漕ぎて、玉藻を苅るを見て懲りたるが故に、この後、澳の方は漕がじとよめるなり云々」と説いてゐるが、強ひて「つ」を解釋せんとすれば、さうもいふべきかも知れねど、こゝはさほどの事ではあるまい。語の都合で輕く添へたものと見てよからう。強いて解釋せんとせば、曾つて見た時に忘れかねた事になりはすまいか。
◎一首の意――玉藻の生ひ茂つてゐるといふ澳の方へは私《ワシ》は漕ぎ出まい。藻草の浪に靡くさまを見ると、妹の寐くたれ髪が思ひ出されて、いとゞ旅情に堪へないから。沖へ出て見ようではないかと人から誘はれた折の歌であらう。
 
右一首、式部卿〔左○〕藤原宇合
 
「卿」(ノ)字、今本には「郷」とあるが、誤なること明かであるから、古寫本によつて改めた。宇合卿は藤原不比等の三男で、所謂式家の祖である。績紀を見ると、初めは「馬養」と書いたが、後に文字を「宇合」と改めて、やはり「うまかひ」と訓むのである。こは所謂反名で「うま」の「ま」を省き、「合《カフ》」を「かひ」に轉じたので、藤原明衡〔二字傍点〕を「安蘭」、橘成季〔二字傍点〕を「南袁」とかく類である。さてこゝも上の高安大島の場合と同じく、目録には「作者未詳歌」とあつて、下に小さく「式部卿藤原宇合」と書いてゐる。宇合卿は公卿補任、懷風(296)藻等によると天平四年に四十四歳で歿してゐるから、逆算すれば、持統天皇八年の出生で、此時の行幸を慶雲三年としても僅に十三歳の小童である。此歌の趣、決して小童などの詠むべきすぢとは思はれないから、諸家のいふ如く「作者未詳歌」とあるが正しいであらう。
 
長皇子和歌
 
73 吾妹子乎《ワギモコヲ》 早見濱風《ハヤミハマカゼ》 倭有《ヤマトナル》 吾松椿《ワヲマツツバキ》 不吹有勿勤《フカザルナユメ》
 
○吾妹子乎《ワギモコヲ》、早見濱風《ハヤミハマカゼ》――上に「吾妹子をいさみの山」(四四)とあつたやうに、こゝも「吾妹子をはや見む」といふ心を言ひ掛たには相違なからうが、「はやみ」の解釋は諸家まち/\である。考は「早見」を濱の名と見て、「豐後に速見郡あるが如く、難波わたりにも早見てふ濱ありて、しかつゞけ給へるならん」といつてゐるが、難波邊にさる名が聞えない。代匠記は卷十「泊湍川速見早湍乎云々」(二七〇六)とあるを引いて、「早き濱風」の意に見てゐるが、この卷十の歌も聊か疑問と思はれるから、之を證として説を立てるのは、なほ考慮すべきであらう。玉(ノ)小琴は「見濱」は「御濱」でたゞの浦の事、妹を早や見むと言ひかけただけの事と説いてゐる。(これは御津を御濱といつたものと見るのであらう。)これも續けざま、十分しつくりしてゐるとはいへないが、比較的穩かな見解であらうか。さらば「吾妹子を御津の濱風云々」とでもいへば、少しはすなほに聞えるが、恐らくは此の場合「はや見」といふ語が言ひたかつたのであらう。さて此の二句は呼掛けの句である。
(297)○吾松椿《ワヲマツツバキ》――古訓は多く「わがまつつばき」と訓んでゐるが、考に至つて「わをまつつばき」と訓み改めた。「待つ」を「松」にいひかけたので、故郷人が我を待つ意であらうから、勿論考の訓がよからう。(「あれまつつばき」僻案抄「われまつつばき」燈、など訓む説もあるが、意はほゞ同じい。)「松椿」は、これも少ししつくりしないが、多分故郷の庭園に眼に立つ松と椿とがあつたのであらうと見られてゐる。それにしても歌としては椿は徒らなやうにも思はれるので、僻案抄は「つばき」の「つば」に「つま(妻)」を言ひかけたものと見てゐる。それもないとは限らないが、あまりこちたくなるから、どうかと思ふ。古義は「椿」を「樹」の誤(草體が似てゐるから)として「わをまつのきに」と訓み改めてゐる。なるほどさう改めれば句は少し穩かになるが、さる本が一つもないから、なほ一考すべきである。
○不吹有勿勤《フカザルナユメ》――「ふかざるなゆめ」と訓む。必ず音づれよといふのであるが、語氣が急促してゐるから、たゞ吹き行く風に言傳てよといふだけではなく、「淀むといふ事はなく、勤めて必ず吹き通へ」と責め促がす意であらう。「ゆめ」は「忌《イメ》」で、こゝは副詞、忌み憚りて、ひたすら其わざに精進する心で「勤」(ノ)字をあてたのである。卷三に「浪立莫|勤《ユメ》」(二四六)とあり、皇極紀には「慎矣」を「ゆめ」と訓んでゐる。
◎一首の意――御津の濱風よ、見たい逢ひたいと思ふ我が妹の住む里に必ず吹き音づれよ。そこには吾をまつの樹も名に負ふ椿もあるが、その松や椿に吹き音づれて、我が思ふ心を傳へてくれよ。きつと/\頼むぞよ、怠つてはならんぞよ。
此の皇子の御歌、とかく理智が先に立つて組立てが事々しく、志貴皇子のやうにすなほに品よく行かぬ憾がある。(298)殊に此歌はいかにもこちたい。一首の中に掛言葉の二つあるのもうるさいが、二の句、「はやみ濱風」と名詞だけでいひつゞけたのも此歌では少し不自然にひゞく。(めつた〔三字傍点〕に用ひぬ早き意の「早み」を用ひたとすれば猶更である。)「吹かざるな」といふ言ひまはしも少し事々しく聞えるが、「松、椿」と並べ擧げた調も耳立つて聞える。(椿に妻〔右○〕を言ひかけたとすれば猶更である。)とにかくに、此も惜し、彼も捨てられぬと言ひたげな氣の多い作である。今少しすなほ〔三字傍点〕な見解がないものであらうか。この意味に於て、古義の誤字説も強ちに排せられまいかとも思ふ。
 
大行天皇幸2于吉野宮1時歌
 
文武天皇の吉野行幸は績紀によれば大寶元年二月と同二年七月との兩度であるが、記載漏れがないとも限らないし、何れの時とも定めがたいから、こゝに載せたのであらう。風の寒い趣が詠まれてゐるから元年二月の方かと思ふけれど、さう斷ずるわけにも行くまい。
 
74 見吉野乃《ミヨシヌノ》 山下風之《ヤマノアラシノ》 寒久爾《サムケクニ》 爲當也今夜毛《ハタヤコヨヒモ》 我獨宿牟《ワガヒトリネム》
 
○山下風之《ヤマノアラシノ》――舊訓に「やましたかぜの」と訓んだのは山から吹きおろす風の義であらうか。聞えぬ事もないと思ふが、萬葉には例がない。元暦校本には「やまのしたかぜ」と訓んでゐるが、文字の順位からさうは訓めない。で、僻案抄に「やまのあらしの」と訓んだのがよからう。和名抄に「孫※[立心偏+面]云、嵐、山下出風也、和名|阿良之《アラシ》」とあ(299)るによつて山下風」を「あらし」にあてたのであるが、更に省略して、たゞ「山下」とも「下風」とも集中に見えてゐる(卷十三「衣手に山下吹而《アラシノフキテ》寒き夜を」(三二八二)、卷十一「足檜木の下風《アラシ》吹夜者」(二六七九)等)。ここは歌としての語遣ひの關係上、「山下風」を「やまのあらし」と訓むべきである。
○寒久爾《サムケクニ》――諸註はこを形容詞の活用と見たらしい(多くの辭書もさう見て此歌を例に擧げてゐる)。さらば「寒けきに」といふべきを、「寒けくに」とあるは如何。諸註大方「ある」を添へて「寒けくあるに」と説いてゐるが、しか言はねばならぬ所であらうか。古來の例を見るに、卷二「引放箭繁計久〔二字傍点〕」(一九九)、卷五「世間中能《ヨノナカノ》宇計久〔二字傍点〕都良計久〔二字傍点〕」(八九七)、同「安志家口〔二字傍点〕毛、與家久〔二字傍点〕も見むと」(九〇四)など數多見えるが、いづれも「ある」といふ語を補つて見るべき語氣ではなく、歌の語調をとゝのへんがため、加行の音通で「く」の一音を「けく」二音に轉じたものと見るが自然のやうに思はれる。で、こゝもそれに準じて「寒きに」の「き」を「けく」二音に轉じたものと見てはどうであらうか。なほ卷九「筑波ねの吉久《ヨケク》を見れば」(一七五七)、古今集雜下、讀人不知の歌に「世の中のうけく〔三字傍点〕に飽きぬ」又古事記、久米歌に「たちそばの、實の那祁久袁〔四字傍点〕」など相應に見えるが、これも「うき〔右○〕に飽きぬ」「實のなき〔右○〕を」の「き」をそのまゝ「けく」二音に轉じたもので「うくあるに〔三字傍点〕飽きぬ「實のなくあるを」など一々「ある」を補つて解釋すべきものではなからうと思ふ。畢竟「き」も「く」も加行の通音であるから、いづれも「けく」二音に轉じ得るのである。隨つてこの「けく」は延語としての特殊な例で、形容詞の活用ではなからうと思ふ。拾遺集に此歌を「さむけきに」として收めたのは、「はやく見誤つたので」古格ではあるまい。若し此説が認められるなら、「寒けくに」は即ち「寒きに」で、たゞ一音を二音にした爲め、「寒いといふ氣分が、どこと(300)なく濃厚にひゞくだけなのである。燈や美夫君志に「寒くある事なるに」など、まはりくどく説いてゐるのも畢竟この氣分をいふつもりなのであらう。
○爲當也今夜毛《ハタヤコヨヒモ》――「爲當也」は昔から「はたや」と訓んでゐる(「也」は疑辭)。「はた」といふ語は、今は「はた又」など連ねて、「また」とほゞ同じ意に用ひられるが、古くはやゝ異なつた意味を持つてゐたらしい。その用方は隱微で明らめ難く、今の語で簡單には寫されないが、強ひていへば、「おのづからさる結果になり行くやうな折の氣分」を現はす一種の詞(副詞)であつたらしい。「爲當」は之にあてた漢語で、この漢語が、その氣分を探る便りになるやうに思はれる。「爲當」の二字は漢籍佛典等には數多見えるが(古義、美夫君志等に多く擧げてゐる)、我國典では欽明紀に「於v是許勢朝臣問2王子惠1曰|爲當《モシ》欲v留2此間1、爲當《ハタ》欲v向2本郷1」とあるを初め、日本後紀、令集解等にも見えてゐるが、眞名伊勢物語には「爲將」とも見え、後には、「當」又は「將」だけでも「はた」と訓ませてゐる。(卷六「さをしかの鳴くなる山を越えいなむ日だにや君に當不相將有《ハタアハザラム》」(九五三)、又漢籍佛典には「爲《トス》」だけで「爲當」の義に用ひてもゐる。) さて「爲當」又は「爲將(トス)」は飜譯的にいへば「爲v當《トス》2云々(セン)1」「爲v將《トス》2云々(ナラン)1」などいふ「とす」といふほどの氣分に相當する詞らしいので、此歌の氣分を、假りに他の語で現はせば、「こよひも獨り寐ねんとすらむ〔四字傍点〕」といふほどの氣分かと思はれる。上に擧げた欽明紀の文の訓を見ると、下の「爲當」は「はた」、初の「爲當」は「もし」と訓んでゐるが、これから推せば、「爲當」に「もし」といふ氣分も含まれてゐるものと見られる(當然の事ではあるが)。その意で此歌を解釋すると、旅寐久しくなつて、いつ歸れるとも分らなかつたのが、ある事に觸れて、今日は多分歸れるかと豫期してゐたのが、晝も過ぎ夕暮近くにもな(301)つたので、「アアもしかすると今夜も獨寐する事になるのかなア」といふほどの氣分ではあるまいか。(これが「爲當」の二字に最もふさはしい場合を假りに想像したのである。)要するに「はた」はもと「爲當」の二字が現はすやうな氣分の語で、集中の例も多くその意と思はれるが、古義や美夫君志に「爲當」は借字で、其意ではないといつてるのはどうであらうか。たゞかゝる隱微な語遣ひなので、やがては崩れ/\て、さま/”\に移り行き、果ては「また」と同じ意にも用ひられる事になつたので、此歌でいへば「こよひも」の「も」の方が濃厚になつたのであらう。もと一つの語が次第に轉じたので、「はた」に初から二つの義があるのではあるまい。――さて諸家の説の中に、燈は「はた〔二字右○〕はせむ心ちもなき事のやごとなくせらるゝ歎きなり」といひ、更に父成章の脚結抄を引きて「はた〔二字右○〕は里言にせう事もない事といふ義あり」といつてゐるのは、意義はほゞ當つてゐると思ふ。古義はこれから出たらしく「そのもと心に欲《ネガ》はず、厭ひ惡みてある事なれど、外にすべきすぢなくて止む事なくするをいふ詞なり」とて、數多の例を一々繰りかへして説明してゐるのはこちたく煩はしい。
○我獨宿牟《ワガヒトリネム》――舊訓は「われひとりねむ」と訓んでゐる。考に至つて「わがひとりねむ」と訓み改め、爾來諸家大方それに從つて來たが、燈と美夫君志とは舊訓を主張し、例の「の」と「が」との用法を頻りに説いてゐる。しかしこゝは「の」と「が」との差別ではない。「われ」といふ代名詞だけにするか、「が」といふ「テニヲハ」を添へるかの問題で、要は語調の如何にある。用例は兩者ともあるが、語調は「わが」の方がいゝかに思はれるから考の訓に從ふべきである。
◎一首の意――吉野山下の旅寢久しきに亙つて、故郷の妹戀しさに堪へない。今日は殊更山風烈しくて寒さ身にし(302)むが……此の樣子では、こよひも亦讀寐する事になるのかなア、この寒いのに。「はた」といふ語、上述の如くならば、かゝる折の旅愁を巧に婉曲にほのめかしたものといふべきであらう。拾遺集戀二に題不v知、讀人不v知として「足引の山下風も寒けきに、こよひもまたや我が獨りねむ」とあるのは、恐らくは此歌を誤り傳へたのであらうが、いたく拙なくなつたものである。
 
右一首、或云、天皇御製歌
 
この歌端書に御製とないから、從駕の人の作で、其名が不明なのであらう。左注は文武天皇の御製とする一説を記したのであらうが、歌がら〔三字傍点〕から推せば御製とは思はれない。新勅撰集に此歌を持統天皇御製として載せたのは、又この左注を誤解したのであらう。
 
75 宇治間山《ウヂマヤマ》 朝風寒之《アサカゼサムシ》 旅爾師手《タビニシテ》 衣應借《コロモカスベキ》 妹毛有勿久爾《イモモアラナクニ》
 
○宇治間山《ウヂマヤマ》――大和志に池田莊千俣村にあるよし出てゐる。千俣は上市の北で、今、千俣山といふが昔の宇治間山だといはれてゐるが明ではない(千俣山は離宮址にも近い)。
○衣應借《コロモカスベキ》――昔から一般に「ころもかすべき」と訓んでゐるが、攷證は「ころもかるべき」と訓み改めた。なるほど「借」(ノ)字は本來「かる」と訓むべき字には相違ないが、萬葉には「かる」とも「かす」とも通じて用ひてゐる。前者の例は上の額田王の歌に、「兎道の都の借五百《カリイホ》しおもほゆ」(七)と出てゐるし、後者の例は攷證の著者が自か(303)ら「吾妹子に衣|借香《カスガ》の宜寸《ヨシキ》川」(三〇一一)と擧げてゐる。然るに古來の説に反して、わざ/\「かる」と訓んだのは、歌としてその方がよいと信じたのであらうか、訝かしい事である。「衣をかる」も「衣をかす」もひとしく妹を思ふ意には相違ないが、「かる」は主たる點が我にあるし、「かす」は彼方にある。寒くして衣を思ふは有りふれた情だが、家を放れて旅路にある身には、我より求めずとも、彼より心を用ひて衣着せてくれるやうな、やさしい妹を思ひやるが、人情の自然でもあり、哀も深いではあるまいか。これはやはり古來の訓の方がよい。さて男女互に衣を借りて着る事、彼此物に見えるのは、昔は制法の差別あまり著しくなかつたからだと、或る人々はいふが、それもあるかも知れねど、かゝ折に、とりあへず何かを着せて寒さを凌がせるのは人情の常なので、「衣」といひ「かす」といふに強ちに泥むべきではない。
○妹毛有勿久爾《イモモアラナクニ》――「あらなくに」は「あらぬに」で、「ぬ」を加行に轉じて「なく」の二音に延ばしたのである。
◎一首の意――明かである。
何といふ事もないが、すらりとして、たけ高き歌である。
 
右一首、長屋王
 
長屋王は天武天皇の孫、高市皇子の子、慶雲元年初めて正四位上を授けられ、宮内卿、式部卿、大納言、右大臣等を歴て神龜元年二月正二位左大臣になられたが、天平元年二月讒に遭うて自盡せしめられた。年四十六(公卿補任による、懷風藻には五十四とあるが、元暦校本の傍注にはやはり四十六とある)。詩は懷風藻に三首見えてゐる。
 
(304)和銅元年戊申天皇御製歌
 
天皇は元明天皇、慶雲四年六月文武天皇崩御ましましたので、御遺命で御後を承けさせられたが(七月御即位)、翌慶雲五年正月武藏國秩父郡から和銅を獻つたので、慶雲五年を改めて和銅元年とせられたのである。天皇は上掲の「これやこの」の御歌(三五)を詠ませられた阿閇皇女の御事で、草壁皇子の妃、文武天皇の御母である。さて此の御製につき、代匠記は此年十一月大嘗祭を行はせられた折の御作としてゐるが、考は翌二年三月蝦夷征討の事が見えてゐるから、こゝは前年の冬、都で武事の練習をせられた鼓吹の音を聞しめしての御製であらうといつてゐる。これは考の説の方がよからう。即位禮、大嘗祭等にも大楯を立てる儀はあるが、それは儀式だけの事で、この御製の趣にはふさはない。越後奥羽の蝦夷がこの頃不穩であつた事も史に見えてゐるから、征討の軍を起される事になつたのであらうが、奥地雪深くして進發困難なので、その間都で調練をしてゐたのであらう。女帝の御代のはじめに兵馬を動かすやうな事のあるに御心を痛めさせられたのであらう。御製は大樣であるが、次の御名部皇女奉v和御歌から見ても御軫念のさまが窺はれる。此時の大將軍は巨勢麻呂、佐伯石湯である。
 萬菓考は下の「長皇子御歌」の前に標せる「寧樂宮」の三字を削つてこゝの端書の前に移してゐる。(古義も同じく「寧樂宮御宇天皇代」の八字を、こゝに書き入れてゐる。)しかし和銅元年は寧樂遷都前であるから、萬葉の本文のやうに「藤原宮御宇」の下に書き連ねてよいわけである。たゞ持統天皇の紀伊行幸や伊勢行幸は藤原遷都前であるにも拘はらず、何れも「藤原宮御宇」の下に收めてあるのを見ると、少し訝か(305)しくも思はれる。撰者には何等かの考があつたであらうが、それが不明なのである。そを推し究めないで、私意を以て漫りに傳來の本文を改削すべきではない。
考は又「和銅元年戊申」の下に「冬十一月」の四字を補つてゐるが、これは徒ら事である。代匠記の如く大嘗會の折の御製とすればこそ、この四字も意義を爲さうが、武士の調練を聞しめしての御製とすれば、いつと時を定むべきではない。
 
76 大夫之《マスラヲノ》 鞆之音爲奈利《トモノオトスナリ》 物部乃《モノノフノ》大臣《オホマヘツギミ》 楯立良思母《タテタツラシモ》
 
○大夫之《マスラヲノ》――上に述べた。
○鞆乃音爲奈利《トモノオトスナリ》――鞆は平安朝の末頃から廢れたので、その用方等確かではないが、弓を射る時左の肘に着けて、弓弦の觸れるのを防いだ具といふが、一般の説である。正倉院に寧樂時代のものが現存してゐるが、外面は革で包んで、中に綿、藁等を充てゝあるさうである。形はやゝ圓形で※[図あり]の如く世に鞆繪といふがこれから出てゐるらしい。弦の觸れる時音を發するので、音の高きを貴び、紀にも「稜威之高鞆」といつてゐる。これで威容を示したものであらう。さて鞆は漢土にはないもので、隨つて文字も我國の製造らしい。「音すなり」は、上の「中皇命云々」の歌(三)にあると同じく「音がするわい」といふほどの事である。
○物部乃《モノノフノ》、大臣《オホマヘツギミ》――「ものゝふの、おほまへつぎみ」と訓む。(舊訓は「まうちぎみ」と訓んでゐるが、これは平安時代の音便に崩れた訓である。)「ものふの」は、上の役民の歌(五〇)で既に述べたが、こゝは專ら武事に奉(306)仕する者どもをいふのである。「まへつぎみ」は「前つ君」で、天皇の御前に親しく仕へ奉る公卿をいひ、「大前つ君」は一段と高き臣たち、即ち大臣などの格に當るのであるが、こゝは「ものゝふの大前つ君」であるから、大將軍といふほどの義であらう。諸註皆同説であるが、ひとり攷證は「物のべの大前つ君」と訓み、石上麿卿(舊姓物部)を指し給ふものと説いてゐる。麿卿は持統天皇の御即位禮に大楯を立てた人であるから、代匠記の如く大嘗會の折の御製と見るなら、多少意味ありげにも聞えるが、攷證は代匠記を難じて、やはり武事の調練と見てゐるのに、大將軍の事とはしないで、當時正二位左大臣であつた麿卿の事としたのは如何なる考であらうか、おぼつかない。
○楯立良思母《タテタツラシモ》――楯は敵の矢又は鉾を拒ぐ具、楯を立つるは陣容を整へる趣なので、天皇は鞆の響を聞しめされて、楯を並べ陣形を整へて調練に取りかゝれるらしき樣を御推量遊ばされたのであらう。「も」は歎辭。
◎一首の意――兵士どもの弓射る鞆の音が響いて聞えるわい。今日も蝦夷征討の大將軍が楯を並べて武事の練習をしてゐるらしいわい。(我が御代の初にかゝる物騷な事のあるのは、さても氣遣はれる事ぢや。)
あつさりとおほやうに仰せられたので、括弧の中の意は表には現はれてゐないが、其時の情勢で御側に居られた御名部皇女が、御心中を御推察申し上げたのであらう。さて奉和の御歌となつたのであらう。
 
御名部皇女奉v和御歌
 
御名部皇女は天智天皇の皇女で、元明天皇と御同腹の御姉君に渡らせられる。
 
(307)77 吾大王《ワガオホキミ》 物莫御念《モノナオモホシ》 須賣神《スメガミノ》 嗣而賜流《ツギテタマヘル》 吾莫勿久爾《ワレナケナクニ》
 
○吾大王《ワガオホキミ》――舊訓は上の「中皇命云々」の歌(三)を初めとして七言の句の場合はすべて「わがおほきみ」と訓んでゐるのに、こゝだけは「わがみかど」と訓んでゐるのは、強ひて五言に訓まうとしたのであらうか。これはやはり考に從つて「わがおほきみ」と訓むがよい。こゝは元明天皇の御事を指し奉る。
○物莫御念《モノナオモホシ》――玉の小琴の訓に從つて「ものなおもほし」と訓むべきである。舊訓は「ものなおぼしそ」と訓んでゐるが、既に述べた如く、「おぼし」は「おもほし」の略で、平安朝以後の語遣ひと思はれるから、こゝにはふさはない。代匠記は舊板本と同じく「ものなおもほしそ」と訓んでゐるが、それでは音調は拙なくなる、やはり小琴の訓がよいであらう。この語法、後世は「な」と「そ」と必ず相待つて用ひられるが、上代は卷五「父母毛|表者奈〔左○〕《ウヘハナ》佐加利」(九〇四)などの如く、「な」だけで其意を現はすが常である。さて「な」は禁止の辭で、句の意は「物をおぼしめすな」といふ義である。
○須賣神《スメガミノ》――皇神で、高天原にいらせられる皇祖神を申す。代々の天皇は此等皇祖神(主として天照大御神、高御産巣日神)の御議らひで此世に下し給ふものといふが昔からの思想である。
○嗣而賜流《ツギテタマヘル》、吾莫勿久爾《ワレナケナクニ》――「つぎてたまへる」は吾の修飾語で「君に次ぎて吾をも下し給へる」義である。上に述べた如く、代々の天皇は皇祖神の御議らひで、大八洲國の主として此世に下し給ふものといふが昔からの思想で、隨つて今の天皇(元明)も、その意味で特に御下しくだされたのは、いふまでもないが、それに次いで、吾をも(308)御下しくだされた〔それ〜傍点〕といふのである。それは何の爲かといへば、君の御護りとして、御輔佐としての意である事は、歌の意を推してこれも明かな事である。その吾あるからは云々といふのである。(御名部皇女は天皇の姉君に當らせられるから、先に生れましたのであるが、臣下としての言であるから、かく申さねはならぬのである。)さて「吾莫勿久爾」を舊訓は「われならなくに」と訓んでゐるが、それでは義が聞えないし、文字の上から見ても「莫勿久」を「ならなく」と訓むべき理はない。卷四「火爾毛水爾毛吾莫七國〔三字傍点〕」(五〇六)、又卷十五の假名書に「妹にこひつゝ須敝奈家奈久爾〔五字傍点〕」(三七四五)などあるによつて、考以後「われなけなくに」と訓んだのがよい。「吾なけなくに」は歸する所は「吾あるものを〔五字傍点〕」といふ事で、「なけ」の「け」は「から」の約(「なから〔二字傍点〕むや」を「なけ〔右○〕んや」といふにひとしい)、「なく」は「ぬ」の延語で(「前の歌に「妹もあらなく〔二字傍点〕に」(七五)とあるにひとしい)、この延約をもとにかへせば、「なけなくに」は「なからぬに」といふ事になる。然るに、この「に」は「ものを」といふ如き感歎の意ある助辭であるから、言ひ更へれば「なからぬものを」といふ事になる。そを更に簡明に言ひかへると「あるものを〔五字傍点〕」といふ義になるのである。「吾かくてあるからは、そのやうに御心配遊ばすな」といふのである。
◎一首の意――我が大君よ、そのやうに御心配遊ばしますな。御先祖の皇神たちが此國の御主として我が君を御下しくだされ、それに次いで、御護りとして我をも下し給はつた、その我が、かくて居りまするからには、いざ事あらん折は身を捨てゝも御奉公致しませうものを。
 此御歌、右のやうに解いて何等の難もなく、至つて安らかに聞えると思ふが、どういふものか古來解説まち(309)まちで要を得かねてゐる。代匠記は上の御製を大嘗會の折の御作と誤解してゐるから姑く措いて、最も不思議なのは考の説である(略解、美夫君志等も之に同じてゐる)。三四の句から初句につゞけて、「皇祖神の嗣々に依《ヨサ》し賜へる天皇の御位ぞ」と説き、「これを隔句(ノ)體といふ」といつてゐるが、此の御歌は第二句の「ものなおもほし」で、文が切れてゐるから。一二の句と、三四五の句とは、各主語を異にした獨立の文である。甲の文の主語を乙の文で修飾するといふ語法が世にあるであらうか。又「つぎて賜へる」は連體形である、其下に現はれる「吾」といふ語にかゝらないで、前の文にかゝるといふ文脈が世にあるであらうか。次に略解は「吾莫勿久爾」の「吾」は「君」の誤かといふ本居翁の説を擧げて「しかする時は上よりのつゞき穩かに聞ゆ」と同じ、古義、攷證も之に賛し、更に「君〔右○〕なけなくに」を敷衍して「君にてなきにはあらぬ事なるものを」と説き、「落つる所は君にてあるものを〔八字傍点〕といふ事なり」といつてゐるが、これはいづれも、「なけなくに」を「なるものを」の意に誤解したのである。「なけなくに」は既に述べた如く「あるものを」の義で、「なるものを」の義ではない。よく味うて分別すべきである。(檜嬬手の「告《ノリ》莫勿久爾」などは論外である。)ひとり燈の説はやゝ正鵠を得てゐるけれど徹底しない。要するに諸家の誤は「嗣而賜流」を「天祖つぎ/\の日嗣の御位を授け給ふ」意とのみ思ひこんだ爲であらうが、それはいふまでもない事なので、本文にはあらはに述べてない。こゝの「つぎて」は「それに次いで」の義である。「つぎて」の一語、おのづから天皇と皇女とに亙つて聞えるのである。
 
和銅三年庚戌春二月從2藤原宮1遷2于寧樂宮1時、御與停2長屋原1※[しんにょう+向]望2古郷1御作歌
 
この端書には不審があつて「太上天皇御製」といふ左注の一書と相待つて問題は複雜になるが、まづ端書の(310)まゝで解釋すると、藤原から寧樂へ遷らせられる途上、長屋原といふ處から、飛鳥の故郷を望んで懷を寄せられた御歌で、作者の名はないが、「御輿云々」の語氣は天皇かとも思はれるけれど、「御製」とはなく「御作歌」とあるから、然るべき皇子又は皇女の御詠と見ねばなるまい。或説(僻案抄)では「作」(ノ)字を「製」(ノ)字の誤とし、他の説では、前の歌からのつゞきで、御名部皇女の御詠であらうといつてゐるが、それは何ともいへぬ。さて長屋原は和名抄なる山邊郡、長屋郷で、今の朝和村、永原であらうと言はれてゐるが、そこは藤原と奈良との中間で、藤原の北、三里許りの地である。寧樂に遷らせられたのは和銅三年三月であるから諸注こゝの「二月」を「三月」の誤とし、考、古義などは、例によつて本文を改めてゐるが、遷都などいふ事は數多の日數を要するから、遷都の終了は三月でも、此歌の作主は先だつて二月に移られたのであらうといふ攷證の説が穩當かも知れぬ。「※[しんにょう+向]」(ノ)字、元暦校本や類聚古集には「廻」とあるが、それはいづれでもよからう。「※[しんにょう+向]」は「はるかに」と訓ずべく、「廻望」は見かへる義であらう。
 
一書云、太上天皇御製
 
これは作者についての異傳であるが、和銅三年に太上天皇と申すべき方がいらせられないから、此の左注をいかに見るべきかゞ問題である。そこで玉(ノ)小琴は從來の例に照らして、こを持統天皇と解釋し、「是は飛鳥云々の歌を一書には持統天皇の御時に飛鳥より藤原へ遷り給へる時の御製とするなるべし。然るを太上天皇といへるは、文武天皇の御代の人の書ける詞なり。又和銅云々の詞につきていはゞ、和銅の頃は持統天皇既に崩れ給へども、文武天皇の御時に申しならへるまゝに太上天皇と書けるなり。此歌のさまを思ふに、まこ(311)とに飛鳥より藤原へ遷り給ふ時の御歌〔飛鳥〜傍点〕なるべし。然るを和銅三年云々といへるは傳への誤〔四字傍点〕なるべし」といつてゐる。げに歌の趣からいへば、此の説然るべきかに思はれるけれど、長屋原は藤原と奈良との間で、飛鳥と藤原との間でないから「御輿停2長屋原1云々」の句も傳への誤とせねばなるまい。そこで考、攷證等はこの左注を衍文として抹殺し、檜嬬手は「和銅三年云々」の端書に對する歌が脱ちたものとして、「飛鳥云々」の歌の爲に別に「太上天皇御製歌」といふ端書を設けたけれど、遂にしつくりしない。然るに又新古今集(卷十)には此歌を元明天皇の御歌とし「和銅三年三〔右○〕月藤原宮より奈良宮にうつり給ひける時」と端書して收めてゐる。新古今集は何によつて元明天皇の御製と斷じたかは知る由もないが(多分は端書によつたものであらう)、美夫君志はこれに據つて、やはり元明天皇と推定し、撰者定家卿の萬葉に關する權威に就き長々と辨じてゐるが、作者不詳の歌を人麿、赤人等の名で多く新古今集に收め、高市皇子を弔ふ歌を「奈良の帝ををさめ奉りけるを見て」と端書して載せた手際などを見るとこれもあてにはならぬ。假りに此の太上天皇を元明天皇とすれば、この「一書云々」の注はその御退位(和銅八年)から、崩御(養老五年)まで數年間の記入とせねばなるまい(美夫君志のやうに「太上」の二字だけを衍文とすればそれまでだが)、然るに此の左注は目録にも見えないほどで、後人の筆ではないかと疑はれるふしもあるので、萬葉集(卷一、二)の編纂が終はつたか否かも測り難い頃の注であらうとは考へられない。とにかく、それからそれと疑問が湧くので、所詮は疑問は疑問として端書のまゝに見ておく外はあるまい。
 
(312)78 飛鳥《トブトリノ》 明日香能里乎《アスカノサトヲ》 置而伊奈婆《オキテイナバ》 君之當者《キミガアタリハ》 不所見香聞安良武《ミエズカモアラム》【一云、君之當乎《キミガアタリヲ》、不見而香毛安良牟《ミズテカモアラム》】
 
○飛鳥《トヲトリノ》――明日香の枕詞。いろ/\説はあるが確かな事は判らぬ。
○明日香能里乎《アスカノサトヲ》、置而伊奈婆《オキテイナバ》――小琴の説の如く飛島から藤原へ遷る時の事とすれば論はないが、此の端書に從つて、藤原から奈良へ遷る時の歌とすれば、少しいかゞにも思はれる。しかし藤原は明日香にいと近く(十町許)、共に埴安池のほとりで、明日香の里つゞきともいぶべき處であるから、日頃は遙に相望んで、同じ里に住む心ちしてゐた人が、五六里の遠方に去らんとする時の氣分を詠んだものとすれば格段難もあるまい。「おきて」はそこを捨てゝ他へ行くので、上の荒都の歌(二九)にも「倭乎置而」とある。
○君之當者《キミガアタリハ》――君が住む家のあたりの義で、親しくおぼす御方がなほ舊都に留まつていらせられたのであらう。代匠記は持統、文武の陵を指し給ふにやといひ、考も同樣に疑つてゐるが、「君が當り」といふ語遣ひは御陵墓などの事とは聞えぬ。
○不所見香聞安良牟《ミエズカモアラム》――「か」は疑辭、「も」は感動の意を含める助辭。
○一云、君之當乎《キミガアタリヲ》云々――これは末二句の異傳で、心は同じだが、本文の方は「君が當り」といふに主點を置き、一本の方は我が心を主としたのである。
(313)◎一首の意――今までは近きあたりに居て、遙に望み見る(木立など)事が出來たが、これから、こゝを去つて遠く遷つたなら、懷かしき君が家のあたりは、見る事が出來なくなるであらうな。
飛鳥は推古天皇以來十代百餘年間の帝都である。孝徳天皇の難波豐碕宮も天智天皇の志賀宮も僅かに敷年間で、やがては飛島に復歸せられたほどで、集中に散見する諸作に照しても、當時の人がいかに飛鳥の舊都にあこがれてゐたかゞ窺はれる。この御歌假りに元明天皇の御製とすれば、ある事情の下に奈良へ遷らせられるものゝ、なほ舊都が懷かしいので、そこに居られる故舊を思ふに托して、戀々の情を寄せさせられたのであるかも知れぬ。考の所謂「藤原の都ならで、飛鳥の里をしもの給うた」のは、これが爲ではなからうか。
 
或本、從2藤原宮1遷1于寧樂宮1時歌
 
或本といふは、いつの頃か萬葉校合の時、その底本(多分今の流布本がそれであらう)にはなく、他の一本にあつたのを、こゝに載せたのであらう。美夫君志は梨壺で校合せられた時のわざであらうといつてゐるが、さうかも知れない。元暦校本はこの所闕けてゐるが他の古寫本にはあるし、目録にも「一書歌」と出てゐるから、古い時代からの姿であらう。然るに考、古義等が、私見を以てこの二字を削り去つたのは、例のさかしらといふべきである。但、「或本」の二字は此歌一首だけにかゝるか、この下全部に亙るかは明かでない。檜嬬手には「建長本には是より以下の歌なし」とあつて、以下全部に亙るものと見てゐるらしいが、此歌の下に「寧樂宮」といふ標記が出て來るのを見ると(これにも問題はあるが)、さうも言へないやうに思ふ。
 
(314)79 天皇乃《スメロギノ》 御命畏美《ミコトカシコミ》 柔備爾之《ニキビニシ》 家乎擇《イヘヲオキテ》 隠國之《コモリクノ》 泊瀬乃川爾《ハツセノカハニ》 ※[舟+共]浮而《フネウケヲ》 吾行河乃《ワガユクカハノ》 川隈之《カハグマノ》 八十阿不落《ヤソクマオチズ》 萬段《ヨロヅタビ》 顧爲乍《カヘリミシツツ》 玉桙乃《タマボコノ》 道行晩《ミチユキクラシ》 青丹吉《アヲニヨシ》 楢乃京師乃《ナラノミヤコノ》 佐保川爾《サホカハニ》 伊去至而《イユキイタリテ》 我宿有《ワガネタル》 衣乃上從《コロモノウヘユ》 朝月夜《アサヅクヨ》 清爾見者《サヤカニミレバ》 栲乃穂爾《タヘノホニ》 夜之霜落《ヨルノシモフリ》 磐床等《イハトコト》 川之氷凝〔左○〕《カハノヒコヾリ》 冷夜乎《サユルヨヲ》 息言無久《イコフコトナク》 通乍《カヨヒツツ》 作家爾《ツクレルイヘニ》 千代二手《チヨマデニ》 來座多公與《イマサムキミト》 吾毛通武《ワレモカヨハム》 
 
○天皇乃《スメロギノ》――舊訓は「すめろぎの」と訓んでゐるが、荒木田久老の槻落葉別記に、こゝは「おほきみの」と訓むべしとて長々と辨じてゐる。その大意をいへば「おほきみ」は當代の天皇及び皇子諸王などを申す稱、「すめろぎ」とは遠組の天皇を申し奉る稱で(皇祖より受繼ぎませる大御位につきては當代をも申す事があるといつてゐる)、こゝは當代の天皇だけを申すのであるから、「おほきみ」と訓むべきだといふのである。この意義から、こゝを初(315)めとして、卷六、十九、二十の「天皇のみことかしこみ」及卷四、六の「天皇の行幸の隨」を,皆「おほきみ」と訓んでゐるが、爾來近代の釋家大方之に從つてゐる。古義もほゞ同説であるが、たゞ「天皇」とある所はすべて「すめろぎ」と訓むべき例だと稱《トナ》へて、こゝを初め槻落葉に擧げた諸例中の「天皇」をすべて「大皇」の誤として、やはり「おほきみ」と訓んでゐる。(つまり、「おほきみ」と「すめろぎ」との差別については、久老と同説なのである。)此等の説、一應尤には聞えるが少し一概な説ではないかと思ふ。なるほど「すめろぎ」といふ語は本來皇祖神の事を申すに相違なく、當代の天皇の御事も「皇祖より受繼ぎませる大御位」につきて申す場合の多き事も勿論であるが、後にはたゞ當代御一人を指すやうになつたものと思はれるし、又さうなり行くのは語の自然だと思ふ。久老が「皇祖より受繼ぎませる大御位につきては當代をも申す」といつてゐるのは、既にその徑路を示すものである。古義は古今集の頃からさうなつたといふが、早く萬葉集にも例があると思ふ。槻落葉、古義等は「すめろぎ」と用ひた例につきて一々説明を試みてゐるが、隨分苦しい解説もあるし、中には歌の意義を誤解してゐる所もある。一例を言へば、卷二、日並皇子尊殯宮之時の歌に「飛島之《アスカノ》、淨《キヨミ》之宮爾、神隨、太布座而、天皇之〔三字右○〕、敷座國等云々」(一六七)とあるを、古義は天武天皇崩れ給ひて皇組神のおはします高天原をしろしめす義に解いてゐるが(久老も同樣に見てゐるらしい)、これは大いな誤である。こゝは、その當時持統天皇が淨御原宮におはして天の下を知ろしめした事を申すので、こゝの「天皇」は當代を指すのである(委しくは其歌の所で述べよう)。又假名書の例について見ても、卷十八、賀2陸奥國出v金詔書1歌の反歌に「須賣呂伎〔四字傍点〕能御代榮えむと、東なる陸奥山に黄金花咲く」(四〇九七)とある「須賣呂伎」を、古義も槻落葉も、行きがかり上、「皇祖より受繼ぎませ(316)る御代の榮ゆる」意に説いてゐるが、是もたゞ當代の榮えを祝うたものと見るが自然ではあるまいか。元來「おほきみ」といふ語は尊み崇める汎稱で、「すめろぎ」は天の下をしろしめすといふ資格を以ていふ稱なので、當體は同一でも、表現の氣分には相違がある。遠祖とか當代とかで區別すべきものではあるまい。(どちらから言つても哥の意義相通ずる場合の多い事は勿論である。)此の意味からいへば「天皇」はやはり「すめろぎ」と訓むべきもので、「おほきみ」と訓ずべきものではなからうと思ふ。とにかくまだ攷究すべき餘地があると思ふから、姑く古訓に重きを措いて「すめろぎ」と訓んでおく。
○御命畏美《ミコトカシコミ》――「大王(又は天皇)の命かしこみ」といふ句、集中に極めて多いが、この「かしこみ」は動詞であらうか、形容詞であらうか、明かでない。動詞とすれば、宣命の「大命 乎 受賜 利 恐座 弖〔三字傍点〕」などと同樣に見るべく、形容詞とすれば、その語幹に「み」といふ接尾辭が添はつて「かしこさに」の意になる特殊の語法と見るべく、どちらでも意は通ずるが、語格上いかに見るべきかゞ問題である。諸註この點は明かでないが、多くは仰せを承り諾《ウベ》なふ意と解いてゐるから動詞と見てゐるのであらうが、たゞ燈は形容詞と見てゐるらしい。(これも言ふ所ははつきりしないが、「を」と「み」とうちあひて「さに」の意に用ひられる語法と見てゐる事は推される。又攷證は「かしこさに」と説いてゐるから、やはり同説であらう。)この二説いづれとも判じ難いが、集中の語例を味うて見ると、「かしこさに」と見るがふさはしいかに思ふ。誦む人の氣分にもよる事だが古事記雄略卷の「しゝの、やみ猪の、うだき加斯古美〔四字傍点〕」も「うだきをかしこみて」と説いてゐるのもあるけれど、「かしこさに」と見る方が自然と思はれるし、卷二「いさなとり、海を〔右○〕かしこみ、行く船の、梶ひきをりて」(二二〇)は「海をかしこみて」(317)とも見られるが、やはり「海のかしこさに」といふ方が自然なやうに思ふ。そはいづれにしても、「かしこむ」は本來恐れつゝしむ義であるが、王命否むべきではないから、やがては謹み承はる意となるのはいふまでもない。
○柔備爾之《ニキビニシ》――卷三に「丹杵火爾之《ニキビニシ》家ゆも出でて」(四八一)とあるに準じて、「にきびにし」と訓んでゐる。「にきび」は「にご」「なご」「にぎはふ」などゝ同意の語で、やはらかに温か味のある心ばへをいふ。「あらび」と反對で、こゝは住み馴れた家を去る意である。この語、本來はにぎ栲《タヘ》、賑《ニギ》やか、などの如く「き」を濁音に唱ふべきものであらうが、卷三に「丹杵火《ニキビ》」とあるのは、下に「び」といふ濁音がある爲で、和毛(爾古介)・和草(爾故具左)などと同例であらう。それ紋、古義は「にき〔二字右○〕と清んで唱ふべし」とわざ/\ことわつてゐるが、元來は濁る語らしく、清濁は音調の如何にもよる事であるから一概には言へない。
○家乎擇《イヘヲオキテ》――舊訓は「いへをえらびて」と訓み、代匠記は「元より住みし家をすておく心なり」と説いてゐるが、「擇」(ノ)字の義が、しつくりしないので、擇を「えり捨つる」義に解し、僻案抄は「釋」の誤として「おきて」と訓み、考は「放」の誤とし(「択」の略字が放に似てゐるから)、更に「乎」を「毛」の誤として「いへをもさかり」と訓んでゐる。又攷證は呂覽簡選篇に「擇(ハ)別云々」とあるを引いて「いへをわかれて」と訓んだ。誤字説の多い中に、本文のまゝで解かんとしたのは多とすべきだが、その「別」は簡別の「別」、即ち「わかつ」意で、「わかれる」意ではあるまい。で、いづれもしつくりした説とはいへないが、冷泉本には「釋」とあるといふから、姑く「おきて」と訓んでおく。「釋」は辭書にも「廢也」「去也」「置也」などあり、集中の用例も、上の近江荒都の歌に「倭乎置而」(二九)、阿騎野遊獵の歌に「京乎置而」(四五)、前の歌に「明日香能里乎、置而伊奈婆」(七八)な(318)ど數多見えてゐるが、たゞ「釋」(ノ)字を用ひた例は集中に見えないし、他にはすべて「而」(ノ)字があるのに、こゝにはないのも不審である。然るに又「擇」を「釋」の誤としながら「さかり」と訓む説(美夫君志)もあるから、かた/”\なほよく考ふべきである。
○隱國乃《コモリクノ》――泊瀬の枕詞。上に述べた。こゝに隱國とあるのが正字であらう。
○※[舟+共]浮中《フネウケテ》――※[舟+共]は釋名に「艇小而深者曰v※[舟+共]」とあつて小舟の事である。よつて僻案抄は「をふねうけて」と訓むべきかといつてゐるが、そは文字に泥むもので、※[舟+共]はたゞ義を以てあてただけの事、歌の調からいへば、たゞ「ふねうけて」と訓むべき事はいふまでもない。さて舟を用ひたのは建築用の木材を運ぶためかといふ人もあるが、さうではあるまい。下文の意から推せば恐らくは舟を一時の假屋として建築場に通はん爲であつたらうかと思はれる。
○川隈之《カハグマノ》、八十阿不落《ヤソクマオチズ》――隈は上の三輪山の歌(一七)で、「不落」は軍王の歌(五)で既に述べた。「阿」は楚辭の注に「曲隈也」とある。八十阿は隈の多きをいふ。
○萬段《ヨロヅタビ》、顧爲乍《カヘリミシツヽ》――卷二にも「此道の八十隈毎に萬段《ヨロヅタビ》顧みすれど」(一三一)とある。川の屈曲する毎に顧みて故郷の名殘を惜むのである。「段」を「たび」と訓むのは美夫君志のいふ如く義を以て借りたのであらうか、よくはわからぬが、卷二十に「與呂頭多比〔五字傍点〕かへりみしつゝ」(四四〇八)とある假名書の例などに照してしか訓むのである。
○玉桙乃《タマボコノ》――道の枕詞。冠辭考は「玉桙の刃《ミ》」とつゞくと説いてゐるが、この枕詞はいつでも必ず「道」につゞく(319)やうに思はれるから、「み」の一音にかゝるといふのはおぼつかない。「道」にかゝるべきいはれがあるではないかと思ふけれど、まだ適説を得ない。さて「桙」(ノ)字、萬葉には皆木扁に書いてあるが、我國の上代では專ら木桙を用ひたので、「鉾」の金扁を「木」に更へて用ひたものと言はれてゐる。此の點から見ても考の「桙の刃《ミ》」といふ説はどうかと思はれる。
○道行晩《ミチユキクラシ》――道行き暮しで、舟中で行きくれた意である事はいふまでもないが、考、略解、攷證等は陸路と解したらしく、「人は陸に上りても行けばなり」などいつてるのは大きな誤りである。此歌、陛行の意はどこにも見えてゐない。燈が之を説破したのはいゝが、その倒語説は例によつてうるさく強解である。
○青丹吉《アヲニヨン》、楢乃京師乃《ナラノミヤコノ》――青丹吉は寧樂の枕詞。「楢」は寧樂の借字。
○佐保川爾《サホガハニ》、伊去至而《イユキイタリテ》――佐保川を溯ると、當時の都の入口に着くから、かくいつたのであらう。「い去《ユ》き」の「い」は接頭辭。
○我宿有《ワガネタル》、衣乃上從《コロモノウヘユ》――舟を宿りに旅宿をしたので、翠曉眼ざめて被をかづきながら外を見渡したさまである。考は之を佐保川のほとりなる假屋に寐たものと解し、「衣」を「床」の誤として、「まだ假屋なれば夜床ながら月影の見えて寒くわびしきなり」といひ、略解、檜嬬手、燈、攷證等皆之に據り、殊に檜嬬手は「まだ戸壁等のよくも整はず隙多かるさまなり」といひ、攷證などは「衣の上より朝月夜のさやかに見ればとは何の事とも聞えず」とさへいつてゐる。けれど假屋といふべき語はどこにも見えないし、いくら戸壁の全からぬ假屋でも、下に述べる「川之氷凝」などいふ状態の、寐ながらに見える事もなからうから、これは乘つて來た舟をその儘假寐の宿としたも(320)のと見る外はなからう。(舟を泛べて來たのも恐らくは之が爲であらう。)さればこそ眼がさめると、月影にすかして、外の光景が直ちに見やられるのである。「衣乃上從」は「夜の衣を引被りながら見るさまなり」といふ美夫君志の説が要を得てゐる。畢竟考の説は途中から陸行したものと思つたのが誤解の本であらう。
○朝月夜《アサヅクヨ》、清爾見者《サヤカニミレバ》――朝月夜は卷十五に夕月夜を「由布豆久欲《ユフヅクヨ》」(三六五八)とあるに準じて「あさづくよ」と訓む。さて朝月夜を諸註多くは有明の月の事として月に主點を置き、「夜は添へたるのみ」など説いてゐるが、語の成立ちからいへば、夜其物が主體なので、月がまだ殘つて、夜の全く明け離れぬ頃〔右○〕をいふのでなければならぬ。夕月夜といふも、夕方近く、月ほの暗く照らしてゐる頃〔右○〕をいふので、趣は同じい。卷九に「朝月夜明けまく惜み」(一七六一)とあるも、夜の明けたのが惜しい意で、やはり時刻が主である。語法自然の變遷で、後には月その物をさす事にもならうが、こゝは本來の義で、夜の明け方に見る意である。たま/\月が殘つてゐるから、おのづから月の光で見る事になるので、月が主體ではない。月を見るのでもなければ、月が見える意でもない。この朝月夜といふ語は實際の景物を活用して枕詞の調子のやうに用ひたので、「さやか」にかゝるのである。常の語法としては「朝月夜、さやかに見る〔二字傍点〕」といふ事穩かとはいへないが、朝月夜といふ語を巧に利用して、さる語遣ひをした所に、この二句の價値がある。その意義は「明方に眼ざめて見れば〔三字右○〕、殘んの月影に、あたりの樣子(霜の降つた事、川の水の凍つた事等)がさやかに見える〔七字右○〕」意なので、つまりはさやかな月影で見る事になるのである。この簡潔にして要を得た句法は、詞人の徃々試みる所で、巧拙は人によるが、一種の技巧なのである。考は此句を「さやかに見ゆれば」と訓んでゐるが、「見者」の二字は「みゆれば」とは訓めないし、下の「夜之霜落云々」へ(321)も意は續かない。つまりこの句法を會得しなかつたのであらう。次に略解は「さや〔二字右○〕にみれば」と訓んでゐるが、此語は「さや」とも「さやか」とも用ひられる語で、假名書では卷十四「せなのが袖も佐夜〔二字右○〕にふらしつ」(三四〇二)、卷二十「左夜加〔三字右○〕に聞きつ、思ひし如く」(四四七四)など見えてゐるが、多くは「清」の一字を、音調によつて「さや」とも「さやか」とも訓んでゐる。こゝは六言に訓まねばならぬ格段な理由もないと思ふから、衆説に從つて「さやかに見れば」と訓んでおく。(又檜嬬手は「爾」の下に「之」を補つて「さやにしみれば」と訓んでゐるが、さる本があるのであらうか。よしあつても賛成は出來ない。)
○栲乃穗爾《タヘノホニ》、夜之霜落《ヨルノシモフリ》――「栲(タヘ)」は楮の皮の繊維で織つた白布の事で既に述べた。「栲」の字、近代の書には徃々「栲」とあるが、正しくは「栲」である。「栲」は爾雅に「山樗也」とあつて、おのづから別物である。「栲」(ノ)字は古事記傳には和字ならんといひ、狩谷※[木+夜]齋は「楮」(ノ)字の異體としてゐる(此の字の辨は掖齋の和名類聚抄箋注に委しい)。「穗」は色澤のくつきり〔四字傍点〕と眼に立つてしるく見えるをいふので、代匠記に「赤き色のそれとあらはれて見ゆるを丹の穗といふが如し」といつてる通りで、こゝは霜の色の栲の如くくつきり〔四字傍点〕と白きをいふのである。(浪の穗、薄の穩なども皆同じく、「穗にあらはる」「聲をほにあぐる」など皆同じ心の轉用である。)「穗爾」の「に」は「白木綿花爾〔右○〕落ちたぎつ」(二〇七)の「に」に同じく、「の如く」の意である。「夜之霜」は「朝霜夕霜に對へていふ」と燈には説き、美夫君志は「夜のほどに降れる霜を朝に見ていへるなり」と辨じてゐるが、それはさる事ながら、霜は夜おくもの、歌には語數の都合もあるからで、「夜」といふ語を事々しく説くほどの事はなからう。
(322)○磐床等《イハトコト》、川之氷凝《カハノヒコゴリ》――河水凍りて磐石の床といはんばかりに堅くなつた事をいふのである。(「凝」(ノ)字今本には「疑」とあるけれど、訓はなほ「こり」とあるし、多くの古寫本皆「凝」とあるから、誤なる事明かである。)さて「川之氷凝」を舊訓は「かはのひこりて〔三字傍点〕」と訓んでゐるが、考が「かはのひこゞり〔三字傍点〕」と訓み改めてから、略解、攷證、美夫君志等皆之に從ひ、古義と檜嬬手とは更に「かはのひこほり〔三字傍点〕」と訓んでゐる。いづれでもよからうと思ふが、文字からいへば、「凝」は「こる」と訓むべきもので、「こほり」に當てるにはふさはぬから、やはり舊訓のまゝがよからう。たゞ句の調からいへば、「て」文字なくてありたいと思ふから姑く考の説に從つて、「かはのひこゞり」と訓んでおく。「こゞり」は「こり/\」の約で、凝る事を強める貌である。然るに僻案抄は「ひこりて」は重言であるからとて「氷」を「水」の誤とし、「水凝」二字で「こほり」と訓んだ。けれど「氷《コホリ》が凍る」なら重言とも言へようが、語を更へて「氷《ヒ》凝る」といふに何の不都合があらうか。既に述べた如く「い〔七字傍点〕をぬる〔二字傍点〕」といふ語法もあるではないか。その上「かはのこほりて」といふ句も拙なく聞えるから、これは從ふべきではない。又燈は同じく「氷」を「水」の誤とし、「かはのみづこり」と訓んで「夜の霜降り」と相對させたのはおもしろい見解だが、古寫本大方皆「氷」とある上(たゞ冷泉本には「水」とある由)、「川の氷凝り」で意はよく通ずるから、今は古來の訓に從つておく。さて「磐床等」の「と」は「栲之穗爾」の「爾」と同じく「の如く」の意である。
○冷夜乎《サユルヨヲ》――舊訓の「さゆるよを」、考の「さむきよを」、いづれも「冷」(ノ)字の動かぬ訓ともいへないやうに思ふけれど、他に適切な訓を思ひ得ないから、今は舊訓に從つておく。代匠記の「ひゆるよを」は歌詞としては少しいかゞに思ふ。「を」は「ものを」の意。さてこれは佐保川のほとりに到着して、舟中に寐た當夜の状況をいふので(323)ある。歌意を案ずるに、その後幾日か同じやうなさまが續いたのを、當夜の状況の中にいひ含めたのである。(その間物象多少の變化はあつたらうけれど、要は寒い事をいふが眼目であるから、すべてを此の一句にこめたのである。)
○息言無久《イコフコトナク》――これも「やむこともなく」(舊訓)、「いこふことなく」(僻案抄)、「やすむことなく」(古義)など、さま/”\に訓まれてゐるが、神武紀にも「息」を「いこふ」と訓じ、新撰字鏡でも、「憩」「息」相通じて「伊己不《イコフ》」と訓じてゐるから、姑く僻案抄の訓に從つておく。
○通乍《カヨヒツツ》云々――この「かよひつゝ」を諸註皆藤原の舊都から寧樂の新京に通ふ意に見てゐるのは、どうした事であらう。藤原と寧樂とは少なくとも五里隔つてゐる。徃復十里の道を日毎に往き通ひて、どれほどの作業が出來ようぞ。燈、古義等はたび/\舟路を往復したものと見てゐるらしいが、これは猶更時を要する。何故にしかせねばならぬのか、何故にしか解かねばならぬのか、合點の行かぬ事である。これは舟を假の宿りとして連日そこから建築場へ通うたものと見るべきで、舟を運んで來た意義もそこにあるのではなからうか。道の隈毎に故郷の名殘を惜んだのも、舊都を引き拂つて來たからなので、その後も絶えず往復するとしては、この語句も切實に響かないではないか。
○千代二手《チヨマデニ》 來座多公與《イマサムキミト》 吾毛通武《ワレモカヨハム》――舊訓は「ちよまでに、きませおほきみと云々」と訓んでゐるが、よくは解けない。文字から見ても「多」を「大」の意に用ひたのも萬葉としては異例であるし、「二手」を「までに」と「に」を添へて訓むも、此歌の書式では少し穩かでない。歌全體の趣から見ても、調子からいつても、「千代までに來ま(324)せ」といふ句も、「と」といふ語もしつくりしない。後の釋家いろ/\に説をなすけれど、遂にしつくりしない。然るに考は「來」を「爾」の誤とし、上句につけて「千代二手爾」と訓み、下句は「多」を「牟」に改めて「座牟公與《イマサムキミト》」と訓んでゐる。これは「來」「多」の二字を改めねばならぬから、漫に從ふべきではないが(但、考、略解、古義等は「多」一本「牟」に作るといつてゐるが、今は見當らない)、歌の趣には最もふさはしいから、參考として見る價値はあらう。さて「二手」を「まで」と訓むは「眞手」の意で、上の川島皇子御作歌の「幾代左右〔二字傍点〕にか」(三四)の所で既に述べた。末の「與」は訓によつて義は變らうが、考の訓に從つて解けば、「として」「と思ひて」の義に見るべきである。「幾千代までも、こゝにおはしますであらうから、我もその心で、末長く仕へ奉らう」といふのである。結句の「吾も通はむ」は此の作者の居が、他にあつたのであらうが、後世の趣でいへば御出入《オデイリ》して仕へ奉らうといふ事なので、或人のいふが如く、必ずしも遠方から通ふ意と見るに及ぶまい。同じ構内でもいゝのである。
 此歌は主君などのために寧樂の新宅を經営した者の作で、先づ舊都から舟で飛鳥川を下り、更に佐保川を溯つて、新都のほとりなる佐保の川邊に舟を泊し、そを假の宿泊所として、連日建築所へ通つたのである。考、略解等は一旦途中で下船して陸行したかに見てゐるのは誤りで、舟は新都の入口まで上つたのである。それは他の諸註にも辨じてゐるが、その諸註が、藤原から寧樂へ折々通ひつゝ造り上げたものと見てゐるのも、亦誤りで、舟中に起臥しながら通うたのである。
◎一篇の大意――天皇の仰せかしこさに、寧樂の新都に移らんとて、住み馴れた家をあとに、舟を泛べて泊瀬の川(325)を下り、更に佐保川を溯り、行く/\顧みて故郷の名殘を惜みつゝ、漸く新都の片ほとりに達して、そこに舟を泊めた。その夜は空いとさえて、曉に被を擁し窓をかゝげて殘んの月影にすかし見れば、夜の間の霜は白く輝き、河水は磐石の如く凝り竪まつて、冷氣身にしむ程であつたが、我君の爲と思へば、それも厭はず、うちつゞく寒氣の中を、身をも休めず通ひつゞけて、造り上げた此の御新居に、幾千代かけて君は住まはせられる事であらうから、我もその心で、行末長く仕へまつらうと思ふ。「千代二手云々」の二句は姑く考の訓に據つて説いた。
 
反歌
 
80 青丹吉《アヲニヨシ》 寧樂乃家爾者《ナラノイヘニハ》 萬代爾《ヨロヅヨニ》 吾母將通《ワレモカヨハム》 忘跡念勿《ワスルトオモフナ》
 
○寧樂乃家爾者《ナラノイヘニハ》――主人の爲に營んだ新居をいふ。
○萬代爾《ヨロヅヨニ》、吾母將通《ワレモカヨハム》――「吾も」といふは、長歌に「千代までに座さん君」(考の訓による)とあるを承けていふのである。
○忘跡念勿《ワスルトオモフナ》――この句「念」といふ語の意が輕いやうに思はれるから、上掲の「家なる妹を忘れて念へや〔三字傍点〕」(六八)「昔の人にあはむともへや〔三字傍点〕」(三一)などに擬へて、「君も忘るな」の意に見るべきかとも思ふけれど、よく考へると語法が少し異なるやうにも思はれ(この類は「念へや」と反語にいふが常である)、又卷十一に「高山の岑行く(326)しゝの友多み袖ふらす來ぬ、忘ると念ふな」(二四九三)、「人言を茂みと君に玉桙の使もやらず忘跡思名」(二四九三)などいふ例もあつて、いづれも形の如く用ひられてゐるから、こゝもそれになぞらへて見るべきであらう。たゞ諸註にいふ如く「しばし本宅へかへる時、君の事を忘るらんと思召すな」(代匠記)とか、「今こそあれ、末はいかにと主人は思ふべけれど」(古義)とか、「古京と新京と離れ居りとて」(美夫君志)とか、餘分の意を添へて強ひて「念」といふ語を説くほどの事はあるまい。「念」に意味があるとしても、それよりも「忘」の方に一段の重きがあるので、「忘れるものと思し召すな、決して/\忘れはしませぬぞ」といふほどの語氣ではあるまいか。この「念」といふ語の用方につきてはなほよく研究すべきである。
◎一首の意――この度の御新居には我も萬代かけて通ひつゝ御仕へ申さう。忘れ去る折があるものとは思しめすな。決して/\忘れは致しませぬぞ。
 
右歌作主未v詳。
 
和銅五年壬子夏四月、遣2長田王于伊勢齊宮1時、山邊御井作歌
 
○長田王――攷證が續紀等によつて考證した所によると、當時長田王と稱する人が二人あつたらしい。一人は天平九年六月辛酉正四位下で卒去した人、今一人は天平十二年冬十一月從四位下から從四位上になつた人で(但、攷證に十二年十月とあるのは筆寫の誤であらう。なほ十三年八月の條に「從四位上長田王爲2刑部卿1」 の長田王はどちらであるか明かでない。又三代實録貞觀元年十月廣井女王薨(327)去の條に、その祖先の事を述べて、「廣井者二品長親王之後也、曾祖二世從四位上長田王云々」とある記事から推せば、長親王の御子に長田王といふがあつた事も知られるが、それがどの長田王であつたかも分別がつかない。その極官を從四位上としてゐるから、恐らくは前者でなからうか、さうすれば諸註にこゝの長田王を長親王の御子として、前者の經歴を擧げてゐるのは誤といふ事になる。しかし、すべて確證がないから、何ともいへぬ。
○齊宮――は後世專ら齋〔右○〕宮とかくが、昔は齊、齋通用した由が廣韻に見えてゐる。齋宮は伊勢神宮に奉仕する齋王のおはします宮をいふ。後には齋王の事をも申すが、こゝは前者の意である。宮は伊勢國多氣郡にあつたので、今字御館といふ處にその址が遺つてゐる。
○山邊御井――伊勢國鈴鹿郡山邊村で、今もその跡が殘つてゐる由、本居翁の玉勝間(卷三)に委しく考證してゐる。井は埋もれがちなもので、昔名高かつたものも今は知られぬ所が多いから、確かとはいへまいが、卷十三の長歌に「山邊乃五十師乃原」(三二三四)といひ、同反歌に「山邊乃五十師乃御井」とあるも同處とせられ、本居翁は親しく踏査せられて、その長歌の趣に符合する由を述べてゐるから或はそこかも知れぬ。
 
81 山邊乃《ヤマノベノ》 御井乎見我※[氏/一]利《ミヰヲミガテリ》 神風乃《カムカゼノ》 伊勢處女等《イセヲトメドモ》 相見鶴鴨《アヒミツルカモ》
 
○御井乎見我※[氏/一]利《ミヰヲミガテリ》――「がてり」は後世の「がてら」と同じく、此事と與に彼事をも兼ぬる意の接尾辭で、動詞につき、又名詞につく事もある。こゝも御井を見るついでに圖らず處女をも見た意である。
(328)○神風乃《カムカゼノ》――伊勢の枕詞。
○伊勢處女等《イセヲトメドモ》云々――舊訓を初め代匠記、考等は「いせの〔右○〕をとめら〔右○〕」と訓んでゐるが、「泊瀬越女《ハツセヲトメ》」「菟名比處女《ウナヒヲトメ》」「可刀利乎登女《カトリヲトメ》」などの例に準じて、略解以後大方「いせをとめども」と訓んでるのがよい。(僻案抄には「伊勢(ノ)處女乎《ヲトメヲ》」と出てゐるが、さる本があつたであらうか。)さてこれは如何なる種類の處女をいふのであらうか、それを決するには山邊の御井といふものが、今一段と明かにならねばならぬ。もし世の常の清水で名高いだけのものであつたなら、そのあたりに屋を建てゝ徃來の人の款待に當つてゐる後世の茶屋女の類であつたかも知れぬ。(眞間の手古奈も「葛飾の眞間の井〔四字傍点〕見れば立ならし、水汲ましけむ手古奈しおもほゆ」(一八〇八)といふ歌あるを思へば、さる種類の女であつたらうとも想像される。)さすれば長田王が齊宮差遣の用向が了つて、ついでにさる處まで遊覽せられたものと見るべきであらう。けれど「御井」といひ、「遣2伊勢齊宮1時」とわざ/\端書せられたのを思ふと、此の御井は齊宮とか神宮とか行宮とかに關係のある靈泉で、長田王が公用で赴かせられたのであつたかも知れぬから、さう見れば、そこに奉仕する女嬬の類ひであつたかも知れぬ。(卷十三の長歌にも「かけまくもあやに恐こき、山邊の五十師の原は、内日さす大宮仕へ〔四字傍点〕云々」(三二三四)の句が見えて本居翁の玉勝間にも、そこに行宮があつたらしい事を説いてゐる。)なほよく研究すべきである。要するに此歌は風俗服飾などの異なる、うるはしい處女に圖りなく出逢うたのを興ぜられての作であらう。又御井を訪れる途上、圖らずさる處女に出逢うた意に見る人もあるが(考の説もしか聞えるやうである)、なるほどさうも見られるけれど、細かに端書の趣を味へば、やはり御井と處女と關係あるものと見るが自然であらう。
(329)◎一首の意――名高い山邊の御井を見に來たが、同時に姿をかしき伊勢をとめをも見た。思ひがけず興ある事であつたわい。
 
82 浦佐夫流《ウラサブル》 情佐麻彌〔左○〕之《コヽロサマネシ》 久堅乃《ヒサカタノ》 天之四具禮能《アメノシグレノ》 流相見者《ナガラフミレバ》
 
○浦左夫流《ウラサブル》――上の高市古人云々の歌に「國つ御神の浦佐備而」(三三)とあるに同じく、心すさびてわびしき意である。
○情佐麻彌之《ココロサマネシ》――舊訓は文字のまゝに「こゝろさまみ〔右○〕し」と訓んでゐるが、義が通じないので、代匠記(精撰本)に「彌」を「禰」の誤とし、「さまね〔右○〕し」と訓んでから、一般にそれに從つて來た。「さまねし」の「さ」は接頭辭で、「さまよふ」「さ走る」などの「さ」に同じい。「まねし」は物の多き意、繁き意の古言で、こゝはわびしく思ふ事が繁いのである。然るに此の「まねし」を、代匠記も考も「間なし」の義に解いてゐるが(和訓栞、言海等も「間なし」の轉かといつてゐる)、玉(ノ)小琴は然らざる事を、辨じて、物の多き事、繁き事をいふ義とし、卷十七「玉桙の道に出で立ち別れなば、見ぬ日さまねみ〔四字傍点〕戀しけむかも」(三九九五)、又「屋形尾の鷹を手に据ゑみしま野に狩らぬ日まねく〔三字傍点〕月ぞへにける」(四〇一二)、卷十八「月重ね見ぬ日さまねみ〔四字傍点〕云々」(四一一六)、卷十九「朝よひに聞かぬ日まねく〔三字傍点〕」(四一六九)等あまたの例を擧げて、此等皆日數の多き意で「聞なし」の義にはかなはずといつてゐる(これは「まねし」と「間なし」とは原義を異にするものとの見解であらう)。然るに燈は此の二説(考と小琴)を評して互に得失ありとし」禰〔右○〕はもと奈〔右○〕の通へるにて「間無」といふ詞なれば、眞淵の説當れり。然れども(330)宣長が數多き義なりといへるも、異すぢにはあらで畢竟この語の心を得て釋したるなり。此の詞、本義は間無〔二字右○〕の義にて、其間なきは即ち數多き形なれば問無〔二字右○〕をもて數多き事をさとす詞なり」といつてゐる。美夫君志も亦この説を賛して「之を以て詞の本義と用法とを曉るべし」といつてゐる。若し「まねし」の本義が「間なし」ならば、燈のいふ所が至當で、ひまなき意の「間なし」がやがて繁き意、數多き意になるのは、言語變遷の自然であるから、事々しく例證を擧げて、少しばかりの異同を云々するほどの事はあるまいが、「まねし」といふ語は「間なし」よりも古い所に多く用ひられてゐるので、「間なし」が轉じて「まねし」となつたとは認められない。萬葉集ばかりではなく、龍田風神祭の祝詞に「歳眞尼久〔三字傍点〕傷故」、元明天皇御即位の宣命に「遍多《タビマネク》自重而讓賜倍婆」、光仁天皇寶龜三年五月の宣命に「魘魅大逆之事三遁《エムミダイギヤクノコトヒトタビフタヽビ》能味仁不在、偏《タビ》麻年久〔三字傍点〕發覺奴《アラハレヌ》」など數多見え、又「あ」といふ接頭辭が添はつて「あまねし」となり、「あまねはす」(欽明紀に流通を「あまねはす」と訓んでゐる)となるのも、此の「まねし」で、「間なし」の方ではなからうと思はれるから、この二語意味は似通うてゐるが、初から本義を異にした別々の語であつたらうと思はれる。本居翁が事々しく辨じたのも之が爲であつたらう。
○久竪乃《ヒサカタノ》――天の枕詞。
○天之四具禮能《アメノシグレノ》――しぐれは天から降つて來るからいふのである。「しぐれ」は「九月乃|鐘禮《シグレ》乃雨丹」(二一八〇)、又「かみなづき鐘禮の雨に」(三二一三)など集中多く晩秋から初冬へかけて降る雨の義に用ひてゐる。
○流相見者《ナガラフミレバ》――舊訓(ながれあふみは)は義を成さない、考以後すべて「ながらふみれば」と訓んでるのがよい。「ながらふ」は「ながる」の延語。元來「ながる」は雨雪などの降る事をいふ語であるが(例へば卷十「卷向の(331)檜原も未だ雲ゐねば、小松がうれゆ沫雪ながる〔三字傍点〕」(2314)、「ながらふ」は、之を波行下二段に轉じたので、おのづから動作の連續性を帶びる事となるから、こゝは時雨の絶間なく降りつゞく意である。(上の「流經、妻吹風」の歌(五九)參照。)
◎一首の意――かう毎日々々時雨の降りつゞくのを見てゐると旅情いとゞわびしさに堪へんわい。
歌は上下の句の倒置によつて、わびしく思ふ事を強調したのである。
 
83 海底《ワタノソコ》 奥津白浪《オキツシラナミ》 立田山《タツタヤマ》 何時鹿越奈武《イツカコエナム》 妹之當見武《イモガアタリミム》
 
○海底《ワタノソコ》、奥津白浪《オキツシラナミ》――「海底」を舊本「わたつみの」「みなそこの」など訓んでゐるが、代匠記に卷五「和多能曾許《ワタノソコ》、 意枳都《オキツ》深江」(八一三)とあるによつて「わたのそこ」と訓んだのがよい。「わたのそこ」は奥の枕詞、海の底も沖も「深い」といふ感じを與へるからで、「おきつ深江」とつゞけたのも同じ心である。さて此の二句は立田山の「たつ」にかゝる序詞である。
○立田山《タツタヤマ》――大和と河内との國境の山(地は大和國平群郡に屬する)で、西方諸國に通ふ要路に當つてゐる事は人の知る所である。
○何時鹿越奈武《イツカコエナム》、妹之當見武《イモガアタリミム》――燈に「立田山を越えはつる處より妹の家のあたり見やらるればなるべし」といつてるのを、古義は更に進んで「そのあたりよりは妹が家のあたりの見やらるれば、待遠に思はるゝなり」とさへ言つてゐる。美夫君志が之を難じて「これも大凡にいへるもの、實にこゝより妹が家の見ゆるにはあるべからず」(332)といつてるのが穩當であらう。
◎一首の意――いつ立田山を越える事が出來るであらうか。早く妹が家のあたりを見たいものぢや。
それだけの事であるが、立田山を越えれば、やがて大和の地を蹈む事にもなるから、故郷へ歸つたやうな氣分にもならうし、ほどなく妹が住む家のあたりの木立なども遠く見放けられようから、妹に逢ふ第一歩として、まづあこがれてゐたのであらう。「いつかこえなむ」「妹があたり見む」と、短文をくりかへして結んだふつゝかな語調も、しか聞えるやうである。此の意味に於て、僻案抄に「いつしか立田山をも越えむ。いつしか妹があたりをも見む」といふ句格なりといつてるのが、燈、古義などの見解よりも面白いと思ふ。さて伊勢物語の有名な「夜半にや君がひとり越ゆらむ」といふ歌の序詞は、これから來たものであらうと言はれてゐる。
 
右二首、今案不v似2御井所1v作、若疑當時誦之古歌歟。
 
左注にいふが如く、この二首は御井の作とは思はれない。長田王の齊宮に遣はされたのは四月であるのに、「浦さぶる」の歌は秋の時雨を詠じてゐるし、立田山の歌は西國から還る者の詠と思はれるから、地理さへ違ふ。けれど目録には三首と出てゐるから、古くからかく傳へ來つたのであらう。そこで左注後半の推定説が出て來たので、それは「當時長田王が滞留久しきに亙つて旅愁堪へがたく、其折々々に身につまされた古歌を誦して悶を遣つたのが、王の作としていひ傳へられたのであらうか」との見解であらうが、何ともいへぬ。後の釋家は又さま/”\に想像をめぐらして、或人は端書が脱ちたのであらうといひ、或人は御井の歌のついでに同じ長田王の他の歌を並べ擧げたのであらうといひ、燈などは「浦さぶる」の歌は九月頃まで伊勢(333)に滯在せられての作、「立田山」の歌は歸路故あつて西から廻られた折の作かとまでいつてゐる。それも無いとは限らぬが遂に確かな事は判らぬ。要するに記載上何等かの缺陷ある事は免れまい。
 
寧樂宮
 
この三字次の歌の端書には關係なく、單に時代を標記したものと思はれるから、今本に次の端書に連書したのは誤であらう。仍つて古寫本の或るものに從つて、別行に改めた。又この標記がこゝにあるのも訝かしい。上の「和銅元年云々」の所で述べた如く、和銅三年寧樂遷都後を寧樂宮とするならば、この三字は上の「和銅五年壬子云々」の歌(八一)の前にあるべきである。(卷二が和銅四年の歌の前に此の標記を置いたのは、その意に解せられる。)若し又元明天皇をおしなべて寧樂宮御宇とするならば、考に從つて「和銅元年戊申云々」の歌(七六)の前に入るべきである。然るに和銅五年の歌(八一)の後に此標を置いたのは、撰者の意志は知る由もないが、恐らくは誤であらう。又この標記の下に「御宇天皇代」の七字のないのも、異例である。卷二も同樣であるが、何かいはれがあるであらうか。
 
長皇子與2志貴皇子1於2佐紀宮1倶宴歌
 
長皇子、志貴皇子共に既に述べた。佐紀は和名抄の添下郡、佐紀郷。續紀に「葬2高野天皇於大和國添下郡佐貴郷〔三字傍点〕高野山陵1」とある地で、歌に「高野原之宇倍」とあるが即ちそれである。當時寧樂の京の西北に當る郊外で、野には杜若、女郎花等生ひ、山には櫻があつた樣子が集中た見えてゐる。佐紀宮は遷都の際、そこに(334)營ませられた長皇子の御住居であらう。(志貴皇子の宮は高圓にあつた由が後に見えてゐる。)皇子は靈龜元年に薨去になつてゐるから、この御歌は遷都後靈龜元年前四五年の間に詠ませられたものであらうといふ事も推される。
 
84 秋去者《アキサラバ》 今毛見如《イマモミルゴト》 妻戀爾《ツマゴヒニ》 鹿將鳴山曾《シカナカムヤマゾ》 高野原之宇倍《タカヌハラノウヘ》
 
秋去者《アキサラバ》、今毛見如《イマモミルゴト》――此の歌舊本には訓がない。類聚古集には「あきくれば〔五字傍点〕、いまもみるごと、つまごひに、しかなく〔四字傍点〕やまぞ、云々」と訓んでゐるが、古葉略類聚鈔其他の古寫本は初句をすべて「あきされば」と訓み、第四句を「しかなくやまぞ」、又は「しかなかむやまぞ」と訓んでゐる。元來この歌「いまもみるごと」といふ第二句がよく解けないので、諸説まち/\であるが、初句及第四句の訓み方のまち/\なのも、畢竟之が爲めであらうと思はれる。(但、類聚古集の「あきくれば」は從ふべきではない。これは古今集以後の訓法で、萬葉集時代には「秋くれば」とはいはない。「くれば」といふべき所はすべて「されば」である。たゞ此歌「秋されば」といふべきか、「秋さらば」と訓むべきかゞ問題なのである。)近代になつて代匠記、萬葉考はやはり「秋されば」と訓んでゐるが、略解以後は一般に「秋さらば」と訓んで來た。(代匠記初稿本に「あきさらば」と訓める由、校本萬葉集にあるのは誤寫であらう。代匠記は初稿本でも、精撰本でも、すべて「秋されば」と訓み、「已に野山もおもしろく見ゆる秋になりたれば〔三字傍点〕と説明してゐる。)一體「去者」の二字は「されば」とも「さらば」とも訓めるが、こゝは第四句の「鹿|將鳴《ナカム》」のうち合ひ上、「さらば」の方が穩當であらう。又第四句を類聚古集を初め、二三の古寫本に(335)「しかなく〔二字傍点〕やまぞ」と訓んでるのは、如何なる理由によるか知る由もないが、「將鳴」の二字に誤なき限り、「なかむ」と訓むべきはいふまでもなからう。
次にこの宴遊の行はれた時季に就いて考察する必要があらう。從來の諸説、この點にはあまり觸れてゐないが、「秋されば」と訓む諸註は姑く措き、「秋さらば」と訓む説の中では、燈は春夏の程とし、古義、美夫君志は秋と見てゐるが、秋と見た當然の結果として、「秋さらば」を「來む年の秋になりなば」と解してゐる。しかし是も「今も見るごと」といふ句の解釋次第で定まるものと思はれるから、試に假定をおいて二三の見解を立てゝ見よう。
(一)「見る」といふ語を、かたの如き意義に解すると、燈のいふ如く、この宴遊は春夏の頃に催されたものと見るべきで、その時、庭外の山路に鹿のさまよひ歩くのが見えたのであらう。そを客の皇子が、いたく興ぜられたので、主の皇子が、かく詠まれたのではあるまいか。意は「秋になりましたなら、御覽の如く、鹿の立ちさまよふは愚か、妻戀のために可憐な聲で鳴きかはしませう。それは/\興ある處でありまするぞ(その時重ねていらせられよ)」といふのである。たゞ「見るごと」といふ句の下に、少し語が省かれたものと見ねばならぬので、この點あまりしつくり〔四字傍点〕したとは言へないと思ふ。
(二)「今も見るごと」といふ句は、こゝの外、集中三(ケ)所に見えてゐる。
卷十七 「思ふどちかくし遊ばむ、異麻母見流其等〔七字傍点〕」(三九九一)
 遊2覽布勢水海1賦の末節である。
卷十八 「常世物この橘のいや照りに、わご大君は伊麻毛見流其登〔七字傍点〕」(四〇六三)
(336) これは太上天皇(元正)が難波宮におはした時、左大臣橘宿禰(諸兄)の御案内で、舟を堀江に泛べて宴遊せさせられた時の唱和の御作に、家持が追和した歌である。
卷二十「はしきよし今日の主《アロジ》は磯松の常にいまさね伊麻母美流其登〔七字傍点〕」(四四九八)
 これは家持が式部大輔中臣清麿朝臣の宅で宴せる時の作である。
此等の例を見ると」見如《ミルゴト》」といふ語は意義輕く且つ廣く、今「あるごと〔四字傍点〕」(このやうに(ノ)意)といふが如き心ばへで、強ひてかた〔二字傍点〕の如く解くには及ばないではなからうかと思ふ、(今でも此語は輕く用ひられて「聞いて見よ〔二字傍点〕」「食うて見よ〔二字傍点〕」などもいふ。それは「試みよ」の意ではあらうけれど」ためしてみよ〔二字傍点〕」「試みてみよ〔二字傍点〕」などもいふから、意義の輕い事は疑ひないと思ふ。これは「思ふ」や「いふ」といふ語に準へて見るべきものではあるまいか。さすればこゝは現に鹿の鳴き居る事を指したものとも見らるべく、「來《ク》る秋毎にあのやうに〔五字傍点〕鹿の鳴くべき山でありまするぞ」といふほどの意ではあるまいか。隨つて古義、美夫君志のいふ如く、時季は秋で、夜にかけて行はれた宴會と見ねばなるまい。
(三) 「今も見るごと」といふ句、上掲の諸例によると、すべて宴會、宴遊などの席上の作のみであるが(外に卷四、安貴王の語に「今裳見如〔四字傍点〕副而毛欲得《タグヒテモガモ》」(五三四)といふがあつて、これは宴席の歌ではないが、諸註皆「今も〔二字傍点〕見し〔二字右○〕ごと〔二字傍点〕、たぐひてもがも」と訓み、本居翁は「見し〔右○〕ごと今も」の意に解いてゐる。歌意を按ずるに、然るべく思はれるから、こゝには入れない)、仔細にその趣を味ふと、「このやうに、いつまでも變らずに」といふ祝意をこめただけのやうにも思はれる。此歌も「秋になつたなら重ねて」といふ意をこめて言ひ切つたので、下の「鹿將鳴」(337)とは關係はないではあるまいか。燈に「此一句、下の三句につゞけて見るべからず」といつてゐるのはこの意かとも思はれる。(燈のこちたき倒語説や言靈説には賛成も出來ないが、語法の解釋には徃々機微に觸れた所があるから等閑に看過すべきではない。)假りにかく見ると、歌の意は「秋になつたら重ねてこの宴遊を催しませう。こゝは秋になると、妻戀に鳴きかはす可隣な鹿の聲も聞えて一段と興ある所でありまするぞ」といふ事にならう。これは宴遊の時季は春夏の頃とならうが、夜とも晝とも定められない。
とにかくに、「今も見るごと」といふ句は一種の習慣的句法で、「見る」といふ語に重きを措いて解かずともと感ぜられる。これは我ながらまだ何ともいへないが、後の參考にもと試に記しておくのである。
妻戀爾《ツマゴヒニ》、鹿將鳴山曾《シカナカムヤマゾ》云々、――玉(ノ)小琴に「鹿」は總て「か」と訓むべきで、「しか」と訓むべき所は必ず「牡鹿」とあるといつてから、諸註大方之に從つて「かなかむやまぞ」と訓んでゐる。なるほど和名抄にも「鹿和名|加《カ》」とあるから、それが本名かも知れないけれど、「しか」と訓むべき所には必ず「牡鹿」とあるといふは本居翁の誤解で、「鹿」一字で「しか」と訓んだ所は、古義が擧げただけでも其數少くはない。(中には、卷三「吾去鹿齒《ワガユキシカバ》」(二八四)、卷四「何時鹿跡《イツシカト》」(五一三)などいふ例さへある。)且つ「しか」といふは牡鹿の事なら、こゝは妻戀に鳴く牡鹿の事であらうから、義を以て「しか」と訓ずるもよからうではないか。これは本居翁が字餘りの歌を好まれない所から起つた説らしいので、結局は調の上から判斷する外はなからうが、こゝは字餘りでもさして惡しき調とも思はれないし、印象は却つて明瞭となるから、古來の訓のまゝでもよからうと思ふ。が、調は時代により人によつて好尚を異にするから一概には言へない。古義が本居翁の「か、しか、」の説に反對しながら、歌の訓(338)はなほ「か〔右○〕鳴かむ」と訓んでゐるのも、やはり調のためであらうと思はれる。さて「字倍」は上に述べた如く「あたり」の義であらう。
◎一首の意――は既に述べた通りである。
三樣の解説いづれも十分しつくり〔四字傍点〕しないかに思はれるから、なほよく考ふべきである。總じて此の皇子の御歌、既に述べた如く、才氣迸り過ぎて詞足らぬ憾があるやうに思はれる。
 
右一首、長皇子
 
元暦校本の目録(この所本文は逸して傳はらない)には、こゝに「長皇子御歌」の五文字があつて次に「志貴皇子御歌」といふ一行がある。よつて美夫君志は「もと志貴皇子の御歌もありしなるべし」といつてゐるが、げに歌の左方に「右一首長皇子」と記した點から推せば、次に志貴皇子の一首もあつて「於2位紀宮1倶宴歌」は兩首に亙る端書であつたであらうが、卷末のため闕損したものであらう。それがあつたなら此歌を判斷すべき料ともなつたかも知れぬに、惜しい事である。
 
萬葉集精考卷第一 終
 
(339) 萬葉集精考卷第一附録
 
    歌の次序を變更した古義の妄を辨ず
 
萬葉集の研究は、近世に至り契沖阿闍梨を初め、眞淵、御杖、雅澄、其他の人々の異常なる努力によつて漸く開けそめて來た事はいふまでもないが、それと同時に私意を以て本文の改削を試みる人の多くなつた事も、爭ふべからざる事實である。考と古義とは此の弊殊に多いが、中にも古義が卷一なる大寶元年云々以下の歌の次序を改めたなどは、その最も甚しいものゝ一つであらう。卷一は年代を逐うて歌を次第した卷である事はいふまでもないが、その中、藤原宮御宇は持統、文武の兩朝(及元明天皇の初期)に亙り、「藤原宮御井歌」(五二・五三)までが持統天皇の朝で、次なる「大寶元年辛丑秋九月太上天皇幸2于紀伊國1時歌」(五四)より下は文武天皇の朝である事も勿論である。然るに文武天皇の朝の歌の次第には多少訝かしく思はれる點があるので、古義は後人傳寫の際に錯亂したものとし、私意を以て次第を變更し、傳來の諸本と全く異なるものとした。それには多少のいはれがあるにしても、何等確たる憑據なく全く獨斷的の私見なので、古典を講ずる者の態度としては遺憾といはねばならぬ。中には歌の意義を誤解し、事實の調査に疎かで、反つて誤謬に陷つた事さへあるので全く人騷がせである。こゝに先づ舊本と古義との次序を對照し、然る後その妄を述べて見よう。
 
(340)   原本      〔二段組にして、原本が上段、古義が下段〕
 大寶元年辛丑秋九月太上天皇幸2于紀伊國1時歌
  巨勢山乃云々
  朝毛吉云々
  或本歌
 二年壬寅太上天皇幸2于參河國1時歌
  引馬野爾云々
  何所爾可船泊云々
  流經云々
  暮相而云々
  舎人娘子從駕作歌
 三野連入唐時春日蔵首老作歌
 山上臣憶良在2大唐1時憶2本郷1歌
 慶雲三年丙午幸2于難波宮1時
  蘆邊行云々
  霰打云々
(341) 太上天皇幸2于難波宮1時歌
  大伴乃高師云々
  旅爾之而云々
  大伴乃美津能濱云々
  草枕客去君跡云々
 太上天皇幸2于吉野宮1時高市連黒人作歌 倭爾者云々
 大行天皇幸2于難波宮1時歌
  倭戀云々
  玉藻苅云々
  吾妹子乎早見云々
 大行天皇幸2于吉野宮1時歌
  見吉野乃山下風云々
  宇治間山云々
 
   古義
 太上天皇幸2于難波宮1時歌
  大伴乃高師云々
  旅爾之而云々
  大伴乃美津能濱爾有云々
  草枕容去君跡云々
 大寶元年辛丑太上天皇幸2于吉野宮1時歌
  倭爾者鳴而歟來良武云々
  巨勢山乃列々椿云々
  或本歌
 三野連入唐時春日蔵首老作歌
 山上臣憶艮在2大唐1時憶2本郷1作歌
 太上天皇幸2于紀伊國1時調首淡海作歌 朝毛吉云々
 二年壬寅太上天皇幸2于參河國1時歌
  引馬野爾云々
  何所爾可云々
  流經云々
  暮相而云々
  舎人娘子從駕作歌
 慶雲二年丙午幸2于難波宮1時歌
  蘆邊行云々
  霰打云々
 大行天皇幸2于難波宮1時歌
  倭戀云々
  玉藻苅云々
  吾妹子乎早見云々
 大行天皇幸2于吉野宮1時歌
  見吉野乃山下風云々
  宇治間山云々
(一) 古義は「巨勢山」の歌の意義を誤解してゐる。此歌は端書の示す如く、諸家の註にいふ如く、花なき秋季に滿山の椿樹を見渡し、花咲かむ春を思ひやった意であるのを、親しく花をめでゝ詠んだ春季の作と見たのは誤であ(342)る。そは歌の解説中に既に述べたが、恐らくはこれが他の點に於ける誤解の本となつたのであらう。或本の春日藏首老の作は確かに春の歌に相違ないが、古義は之を人足の歌の異傳とでも思うたのであらうか(人足の歌と老の歌との關係も、その歌の所で述べた)。そはともあれ、此時の紀伊御幸は續紀と本集卷九の端書とによつて推されるが、それが又こゝの端書と合致するから、他に動かすべからざる確證のない限り、こゝを錯簡と認めるわけには行かぬ。隨つて秋の歌として解すべきはいふまでもない事で、且つさう見るが歌も面白く聞えるものを、強ひて端書を改めて春の歌としたのは、畢竟秋の歌として説き得なかつたものと言はねばなるまい。思ふに古義は「つら/\」といふ句が、主として「思ふ」にかゝる事に氣付かないで、強ちに「見つゝ」だけにかけて見たのであらう。結句の「許勢の春野を」を第三句の上に置いて心得べしといつてるのも、之が爲であらう。かゝる誤解から、古義は同じ端書の下にある「朝毛吉」の歌と引き離して、この歌(巨勢山)を大寶元年吉野御幸の折の作としてゐるけれど、もとより何等の憑據もなく、全くの獨斷なのである。端書に「秋九月」と季月を記したにつき、古義は「御幸の季月を記さゞるは此卷の例なるに、此處にのみかくあるは如何と思はるゝに云々」といつて、暗に錯誤の意をほのめかしてゐるけれど、下に「三年庚戌春二月〔七字傍点〕從2藤原宮1遷2寧樂宮1時云々」又「五年壬子夏四月〔七字傍点〕遣2長田王于伊勢齊宮1時云々」などの例もあるから、これも證にはならぬ。古義は又「巨勢山」の歌に關する或本歌(春日老作)をその直下に掲げないで、次の「朝毛吉」の歌の下に掲げた點にも不審を抱いて、此點からも錯簡を認めたらしく見えるが、此の二首は「大寶元年辛丑云々」の題下に一括せられたものなので、その一括せられた歌どもの最後に參考として或本の歌が載せられたのであるから、撰者の意志を酌めば何等の不思議はない。寧ろ此の二首は引き離すべ(343)からざるものとの傍證にすべきものと思ふ。卷二、從2石見國1別v妻上來時の長歌二首の後〔四字右○〕に前の歌の異本を掲げあと同じ筆法で、編者の意を推せば何等の不思議はない。然るに古義は卷二にまで私意を推し及ぼして改削を試みたのはいみじきひが事といふべきである。
(二) 「山上臣憶良在2大唐1憶2本郷1作歌」を「(大寶)二年壬寅太上天皇幸2于參河國1時歌」及「太上天皇幸2于紀伊國1時歌」の前に改め載せたのは、事實に精しからぬ誤である。思ふに著者は大寶元年正月遣唐使等の任命せられた事や、同年五月に節刀を賜はつた事だけを知つて、その後の事實を精査しなかつたものではあるまいか。續紀を案ずるに次の項が見える。
 ○大寶二年六月乙丑、遣唐使等去年從2筑紫1而入v海、風浪暴險不v得v渡v海、至v是及v發。
 ○慶雲元年秋七月甲申朔正四位下粟田朝臣眞人自2唐國1至。
これによれば、大寶二年六月に出發して、慶雲元年七月に歸朝したので、その間二ヶ年餘に亙つてゐる。憶良の歌を味ひ見るに、逗留久しきに亙つて、望郷の念堪へ難くなつた頃の作かと思はれるから、製作年月は定かに知られないにしても、萬葉の撰者が、その意を推して、大寶二年十月參河御幸の後、慶雲三年難波御幸の前に載せたのは至當の事であらう。古義の改めた次第に從へば、此歌の後につゞく紀伊御幸(大寶元年九月)は出發前、參河御幸(大寶二年十月)は出發後僅に三四ヶ月に過ぎないから、その妄なる事は言ふまでもあるまい。
(三) 「太上天皇幸2于難波宮1時歌」四首を文武天皇三年正月行幸の時の事としたのは、或はさうかも知れぬが、これも全く臆測なので、輕々しく斷ずべきではない。古義は次のやうに述べてゐる。「幸2于難波宮1は續紀に文武天皇(344)三年正月癸未幸2難波宮1、二月丁未車駕至v自2難波宮1と見えたる其度に太上天皇も共に幸し給へるなるべし。もし績紀には太上天皇の四字を脱せるものとする時は、此集の如く太上天皇のみの幸なるべし」と。皆臆測だけで何等の憑據もないではないか。元來持統天皇の難波に幸せられた事は、國史に一つも見えて居らぬ(その吉野離宮に幸せられた事などは前後三十餘度に亙つて、一々記載されてゐるに拘らず)。そこで假りに萬葉の端書に誤なきものとすれば、文武天皇三年正月の行幸に太上天皇も御同列であつたではあるまいかとの推測が生れるのである。(持統天皇御在世中に文武天皇の難波に行幸せられたのは此の一回だけである。)上謁の「大寶元年秋九月太上天皇幸2于紀伊國1時云々」も、續紀には天皇の行幸となつてゐるが、本集卷九の端書によつて御同列であつた事が知られるから、この推測は當つてゐるかも知れねど、續紀に記載漏れがないとは限らぬし、萬葉の端書に遺漏がないとは誰がいへよう。そを文武天皇三年と斷じて古來の次序を變更する古義の猛斷には驚かざるを得ぬのである。
 なほ試に言はゞ慶雲三年の行幸の時には、長皇子供奉して、住吉の弟日娘と馴れ昵んだ事があるし、この度の御幸の時にも同じ皇子が清江娘子と昵みかはした趣が見えてゐる。事が頗る似てゐるので、古義のやうに推測を逞しうするなら、兩者同時の事ではなからうかとも疑はれる。實際は彼と此とは別々の幸《ミユキ》で兩度とも長皇子が供宰せられたかも知れないし、又弟日娘と清江娘子とは別人かも知れないし、同人でも舊交をくりかへされたのであるかも知れぬが、紀及續紀に持統天皇の難波に幸せられた事が一つも見えない事を思ふと、こゝの太上天皇云々は慶雲三年の行幸を誤り傳へたのではなからうかとの疑問の起るも、まんざら〔四字傍点〕理由のない事ではあるまい。とにかく推しもて行けば疑問は多い。疑問は疑問として意見を述べるのはいゝが、漫りに私意を以て本文を改削すべ(345)きではない。
(四)「太上天皇幸2于吉野宮1時高市連黒人作歌」を大寶元年二月の事としたのも穩かではない。續紀を案ずるに、持統天皇が太上天皇として吉野に幸せられたのは次の一回だけである。
 ○大寶元年六月庚午太上天皇幸2吉野離宮1。秋七月辛巳車駕至v自2吉野離宮1。
その二月の條には
 ○二月癸亥行2幸吉野離宮1。庚午車駕至v自2吉野宮1。
とあつて、これは天皇の行幸で、太上天皇の御幸ではない。但、一本には行幸の上に「太上天皇」の四字があるけれど、本文には「行幸」とある上、日本紀略の本文も續紀と同樣であるから、此の一本は疑はしいものと言はねばならぬ。然るに古義は確かな六月を取らないで、疑はしい一本によつて二月としたのは何の爲であらうか。思ふに古義は「巨勢山」の歌を飽くまで春の歌と誤信し、強ちにその時季を探して、この一本に活路を求めたものではあるまいか。目的はそこにあるので、黒人の歌をこゝに入れたのは、そのついでに過ぎまい。此の如き考へを以て古來の次序を變更するなどは、まことに危險至極といふべきである。
つら/\萬葉集撰者の意思を推し測るに(特に卷一二に就いていふ)、撰者は製作年代を逐うて歌を次第せんとした事は明かであるが、その年代の明かならぬものも多いから、美夫君志などのいふ如く、或るものは推定を以て次第し、あるものは類を以て次第し、なほ定め難きものは、その御代々々の後に記載したものゝ如く見える。例へば天智天皇の御宇で額田王が春秋の優劣を判ずる歌を、志賀遷都の歌の前に載せ、藤原宮御宇で、人麿が吉野宮を詠じた(346)歌を、紀伊行幸と伊勢行幸との間に載せたなどは推定であらうし、人麿が過2近江荒都1歌の次に、高市古人(黒人カ)の歌を掲げたのは類を以て載せたのであらうし、又三山歌を齊明天皇御宇の最後に掲げ、天武天皇の御製二首を、同時代の最後に載せたなどは年代の定め難きためではないかと思はれる。今この意を以て文武天皇時代の歌の次第を見ると、大方はうなづかれる。「慶雲三年云々」までは、ともかくも年代の推定し得る歌で、その次第も大方正しく、「太上天皇幸2于難波宮1時歌」と「同幸2于吉野宮1時高市連黒人作歌」とは、言ひ傳へだけで定かでないから後にまはしたのであらう。又「大行天皇云々」の二項も同樣確かでないから、更にその次に次第したものであらう。中には少し訝かしく思はれる事もないではないが、それは我々の研究がまだ到らぬ爲かも知れぬから、疑點のある所を述べて、後の參考に資するに止むべきである。いふまでもなく古典を講ずるものは、善くも惡しくも撰者の意のある所を推究して、その意志を闡明する事を心がくべきで、勤かすべからざる憑據のなき限り、妄りに本文に手を觸るべきものではない。上代の學者は幸に此點に忠實であつたから、研究は幼稚ながら、本文はあまり亂れてゐないので、今日ともかくも原の姿に近いものを窺ひ得て、我々後學が、それに向つて思を致す事が出來るが、もし古義の著者のやうな人が上代に出て、それが勢力を得たなら、或は眞相全く失はれて手がかりが得られなくなつてゐたかも知れぬ。まことに寒心に堪へぬ態度といふべきである。古義は大作には相違ないが、かゝる態度で書かれたものかと思ふと、折角の好著も半ば權威を失ふ事となるので、古義のために甚だ惜むべき事である。
 
(347)萬葉第一奥書
本云
 文永十年八月八日、於2鎌倉1書寫畢。
 此本者、正二位前大納言征夷大將軍藤原卿、始自2寛元元年初秋之比1、仰2付李部大夫源親行1、※[手偏+交]2調萬葉葉一部1爲v令2書本1、以2三箇證本1令v比2※[手偏+交]親行本1了。同四年正月、仙覺又請2取親行本并三箇本1、思※[手偏+交]合畢。是則一人※[手偏+交]勘、依v可v有2見漏事1也。三箇證本者、松殿入道殿下御本【帥中納言伊房卿手跡也】光明峯寺入道前攝政左大臣家御本、鎌倉右大臣家本也。此外又以2兩三本1令2比※[手偏+交]1畢。而依2多本1直2付損字1書2入落字1畢。寛元四年十二月二十二日、於2相州比企谷新釋迦堂僧坊1以2治定本1書寫畢。同五年二月十日※[手偏+交]點畢、又重※[手偏+交]畢。今此萬葉集假名、他本皆漢字歌一首書畢、假名歌更書v之、常儀也。然而於2今本1物爲v糺2和漢之符合1、於2漢字右1令v付2假名1畢。如v此雖v令2治定1、今又見v之不審文字且千也。仍去弘長元年夏比、又以2松殿御本并兩本1【尚書禅門眞觀本基長中納言本也】遂2再※[手偏+交]1糺2文理※[言+比]謬1畢。又同二年正月、以2六條家本1比※[手偏+交]畢。此本異v他其徳甚多。珍重、々々。
彼本奥書云、
(348) 承安元年六月十五日、以2平三品經盛本1手自書寫畢。件本以2 二條院御本1書寫本也。他本假名別書v之。再起v自2 叡慮1被v付2假名於眞名1。珍|書《思イ》々々。可2秘藏1、々2々々1。
                        從三位行備中權守藤原重家
彼御本清輔朝臣點v之云云。
 愚本假名皆以符合。水月融即千悦萬感。弘長三年十一月、又以2忠定卿本1比※[手偏+交]畢。凡此集既以2十本1遂2※[手偏+交]合1畢。又文永二年閏四月之比、以2左京兆本1【伊房卿手次(跡イ)也】令2比※[手偏+交]1畢。而後同年五六兩月之間、終2書寫之功1、初秋一月之内、令v※[手偏+交]2點之1畢。
 抑先度愚本假名者、古次兩點有2異説1歌者、於2漢字左右1付2假名1畢。其上猶於d有2心詞※[穴/瓜]曲1歌u者、加2新點1畢。如v此異説多種之間、其點勝劣|輕《輒イ》以難v辨者歟。依v之去今兩年二箇度書寫本者、不v論2古點新點1取2捨《拾イ》其正|※[言+瓜]《訓イ》1於2漢字右1一筋所2點下1也。其内古次兩點詞者、撰2其秀逸1同以v墨點v之。次雖v有2古次兩點1、而爲2心詞參差1句者、以2紺青1點v之、所v謂不v勘2古語1之點并手爾乎波之字相違等、皆以2紺青1令v點2直之1也。是則、先顯v有2古次兩點1、且《亦イ》示3偏非2新點1也。次新點謌并訓中補v闕之句、又雖v爲2一字1、漏2古點1之字、以v朱點v之。偏是爲2自身所見1點v之、爲2他人所用1不v點v之而己。
  文永三年八月十八日
                                 權律師仙覺
 
〔349〜354頁の目次省略〕
 
 
萬葉集精考 卷第二
 
(355)相聞
 
相聞は贈答徃來などいふが如き意で、文選、曹子建が與2呉季重1書に「口授不v悉徃來數相聞〔二字傍点〕」などある所から出た熟語である。隨つて字音のまゝ「さうもむ」と訓むべきで、考に「あひぎこえ」、古義に「したしみうた」など訓讀したのは撰者の意志ではあるまい。勿論戀の場合には限らないが、昔は男女間の情事に關する贈答が多かつたので、古今集以後戀の部といふが之に相當する形となるが、萬葉集時代では、それには限らない、君臣、父子、兄弟の間に取りかはされた何となき贈答も皆含んでゐるのである。
 
難波高津宮御宇天皇代 大鷦鷯《オホサヽギノ》天皇
 
仁徳天皇である。皇居の所在は明かでないが、今の大阪城の邊であらうといはれてゐる。
 
磐姫皇后思2天草1御作歌四首
 
磐姫は葛城|襲津濠《ソツヒコ》の女で、仁徳天皇二年三月立つて皇后となられ、履仲、反正、允恭の三天皇を生み奉り、三十五年六月筒城(ノ)宮で薨ぜられ、三十七年那羅山に葬り奉つた事が紀に見えてゐる。こゝに磐姫といふ御(356)名をあらはしたに就いて、考は法令にも背き、此集の例にも違へりとて、磐姫の二字を削られたけれど、攷證に「この皇后薨じ給ひて後、三十八年正月、八田皇女を立てゝ皇后とし給ひしかば、たゞ皇后とのみにては、いづれを申すにか分かざれば御名をばしるせるなり」と辨じてゐるのが寧ろ穩當であらう。
 
85 君之行《キミガユキ》 氣長成奴《ケナガクナリヌ》 山多都禰《ヤマタヅネ》 迎加將行《ムカヘカユカム》 待爾可將待《マチニカマタム》
 
此の歌、古事記、允恭天皇の條に輕(ノ)大郎女(衣通王)が御兄、木梨輕(ノ)太子を慕うてよまれた歌と辭句頗る似通うてゐる。よつて考は衣通王の歌を誤り傳へたものとして抹殺してゐる。美夫君志は之を難じて、たま/\歌の似通ひたるものと報じてゐるが、元來批の歌(四首とも)仁徳天皇又は允恭天皇頃の調でない事は、一讀して誰しも感ずる事であらう。(五句三十一字の體を爲してゐる事はなほ更。)これは文字の使用まだ發達せず、口づから言ひ傳へた時代の歌謠等にはありがちな事で、古事記、書紀の歌には辭句の多少違つてゐるもの、作者の傳への異なるもの等は徃々見える。此の集卷頭の雄略天皇の御製も、天皇に關する傳説を本として後人の作つたものかの疑もあるし(詞は古風だけれど)、卷三なる聖徳太子の挽歌(四一五)も書紀に見えてゐる二段十二句の歌が本であらうといふ事は大方推察せられる。で、こゝでは遙か後世の調と思はれる此等の歌に就いて云々する事を姑くさけて、萬菓集所傳のまゝ、磐姫皇后の御歌として説いておかうと思ふ。
○君之行《キミガユキ》――行は名詞、御幸《ミコキ》などいふに同じ、卷三「吾行者久《ワガユキハヒサ》にはあらじ」(三三五)、卷五「枳美可由伎《キミガユキ》、氣郡我久奈利努《ケナガクナリヌ》」(八六七)など集中に例は多い。
(357)○氣長成奴《ケナガクナリヌ》――「氣長く」は日數あまたに亙る意で、卷一「氣長き妹が廬せりけむ」(六〇)とある所で既に述べた。二日三日などいふ日《カ》はこの「け」の轉じたものであらう。
○山多都禰《ヤマタヅネ》――下の左注に掲ぐる古事記の歌を誤り傳へたものとして、「山たづの」と解く説がある(略解、攷證等)。げに歌としては少ししつくりしないかにも思はれるから、傳への誤りかも知れねど、このまゝでも強ち解せられぬ事もないから、こゝは姑らくこのまゝで解いておかう。さすれば御幸先の山を尋ねて天皇の御行方を探さうかとの意であらう。美夫君志は「禰」に「の」の音があるとて、「山たづの」と訓んでゐるが、どうであらうか。あまり韻鏡に泥み過ぎた説といふべきであらう。
○迎加將行《ムカヘカユカム》、待爾可將待《マチニカマタム》――御迎へに行かうか、御歸宅を待たうかといふのである。二つの「か」は共に疑辭で、今の語遣ひでは、句の終りにまはして、「迎へに行かんか〔右○〕、持ちに待たんか〔右○〕」といふべき格である。
◎一首の意――君の御出ましはあまり日數が長く立つて御歸りが遲い。いつそ思ひ切つて御幸行きの山路を尋ねて御迎へにまゐらうか、それともぢつと〔二字傍点〕して御歸りを待つてゐようか、どうしたものであらう。
 
右一首歌、山上憶良臣類聚歌林(ニ)載(ス)焉。
 
類聚歌林の事は卷一に於て既に述べた。
 
86 如此許《カクバカリ》 戀乍不有者《コヒツツアラズハ》 高山之《タカヤマノ》 磐根四卷手《イハネシマキテ》 死奈麻志物乎《シナマシモノヲ》
 
(358)○戀乍不有者《コヒツツアラズハ》――不有者の一句、古來の訓、清濁の關係まち/\で、本居翁の詞の玉の緒及びそれから出たらしい攷證等は「あらずば」と「は」を濁つてゐるが、これは古事記仲哀天皇の條に「いざあぎ振熊が、痛手淤波受波〔二字傍点〕」、神功紀「頭椎のいたで於破孺破〔二字傍点〕」、本集卷五「おくれゐてなが戀ひ世殊波〔三字傍点〕」(八六四)等の例によつて「は」は清音に訓むべきであらう。(古來の註釋書この點は明かでないが、考、略解、檜嬬手、美夫君志等は清んで訓んでゐる。古義も同樣で解釋はやはり詞の玉の緒から出てゐるらしいが、いつになく清濁の關係はやかましく言はぬ。近頃の新考は「は」を濁つてゐる。)さてその意義は、「ず〔右○〕(否定の助動詞)には〔右○〕の添ひたるにて、は〔右○〕はいと輕く、除き去りても心に妨なし」といふ黒澤翁滿の言靈のしるべの説及び之を紹介した橋本進吉氏の説がまづ穩であらう。(橋本氏獨自の研究が、たま/\翁滿の説と一致したのである。)「徒らに戀してゐないで、寧ろ」といふほどの意となるのである。本居翁の詞の玉の緒では比較の意ありとしてすべて「んよりは」の義と解いたが、歌全體の上から見た常識的解釋としては如何にも要領を得てゐるので、爾後殆どそれに從つて來たが、「ず」は何であるか、何故比較の意になるかといふ語學上の根據ある説明は出來ない。橋本氏の説はそれに向つて説明を與へたものといふべきである(「國語と國文學」第九號【大正十四年一月】「奈良朝語法研究の中から」參照)。予は初から「ずは」と訓み「んよりは」と解する美夫君志の説を學んだので、先入主となつて長い間漫然としか信じてゐたが、後ふとこれも「ずば」にはあらずやとの疑問起り、語法に委しい同僚杉氏も同樣の疑問を起されたので、少し調べて見たが、調査の結果やはり「ずは」である事が分つたが、こん度は「戀ひつゝあらず、それよりは」といふやうな語調が一句に約まつたものではあるまいかとの疑問が起つて、なほ調べて見たが萬葉集卷二十の「たちしなふ君が姿を(359)忘ずは〔二字右○〕、世の限りにや戀ひ渡りなむ」(四四四一)といふ歌に至つて解釋がつかなくなり、いろ/\と孝へてゐる所へ橋本氏の論文が發表せられ、同時にまだ見なかつた翁滿の「言靈のしるべ」の説を知るを得て、なるほどと感じたのである。之に就いて少し述べたい事もあるが、今は姑く其説に從つておく事にする。
○磐根西卷手《イハネシマキテ》――根は接尾辭、「し」は強める助辭、「まきて」は枕にする意で、卷(ノ)一「枕宿杼」(六六)といふ所で既 に述べた。「岩を枕に倒れ死ぬとも」の意であらう。考は「山中に葬りてあらんさまをかくいひなし給へり」といつてゐるが、此歌のさまかく生《ナマ》やさしい情ではあるまい。一の歌の意を受けて、山路に倒れるまでもお迎へに行かうとの意であらう。
◎一首の意――こんなに戀ひこがれてゐずに、いつそ行き倒れて高山の岩を枕に死ぬるとも御行方を尋ねてお迎へにまゐらう。その方がましぢや。
 
87 在管裳《アリツツモ》 君乎波將待《キミヲバマタム》 打靡《ウチナビク》 吾黒髪爾《ワガクロカミニ》 霜乃置萬代日《シモノオクマデニ》
 
此の歌、下の二句を年經て、我が黒髪の白くなるまでもと解く説(檜嬬手、攷證、美夫君志、新講等)と、一夜の事として、夜更けて霜は降るともと解く説(古義、新考、全釋等)とがある。考(略解も)などは白髪の事を霜のおくによそへるといふやうな事は上代にはないから、これは下の或本なる「居明して」の歌、又は卷十二「君まつと庭にのみ居ればうちなびく吾が黒髪に霜ぞおきける」(三四四四)などある歌にまがへて、古歌のさまよく心えぬ人の書き誤れるならんとて、私に「吾黒髪刀白久|爲能代日《ナルマデニ》」と改めて載せてゐる。なるほど此の歌一つ切(360)り離して見れば、「居明して」の歌などから出來たかも知れぬから、一夜の事として説くが穩當かも知れぬ。又まじめに仁徳天皇時代の歌として見れば、考の如き説も出て來ようけれど、既に述べた如く、元來この歌仁徳天皇時代の調ではなく、後人の手に成つて、それが磐姫皇后の御作として言ひ傳へられたに過ぎぬものと思はれるから、所傳のまゝ姑く皇后の御歌として四首連ねて見れば、「年經て我が黒髪の白くなるまで」と見ておくが、比較的穩當ではあるまいか。何分時代と歌詞と作者と皆こんがらかつて〔七字傍点〕ゐるのであるから、すべてに矛盾せぬやうな見解がむづかしいのである。今この見解の下に解釋すれば、
○在管裳《アリツツモ》――かくしつゝ、あり存へて、などの意。
○打靡《ウチナビク》――黒髪の形容、枕詞のやうに用ひたので、旁ら「長い」といふ意をきかせたのであらう。
○吾黒髪爾《ワガクロカミニ》、霜乃置萬代日《シモノオクマデニ》――年經て黒髪の白くなるまでといふのである。「日」を「ニ」の假名に用ひた例は外にないので、全釋は耳〔右○〕又は目〔右○〕の誤であらうかといつてゐるが、これも面白い見解である。
◎一首の意――いや/\やはりかうしてゐて君の御歸りをいつまでも御待ちしよう。長い/\我が黒髪に霜おいて白くなるまでも。
一旦、死すともと思ひ立つたのを、又思ひかへしたのである。
 
88 秋之田《アキノタノ》 穗上爾霧相《ホノヘニキラフ》 朝霞《アサガスミ》 伊時邊乃方二《イヅヘノカタニ》 我戀將息《ワガコヒヤマム》
 
○秋之田《アキノタノ》――古義は「秋田乃《アキノタノ》」の誤とし、いろいろ例證をあげてゐる。強ひて誤とするにも及ぶまいけれど、(361)金澤本、類聚古集、神田本其他にも「秋田乃」とあるから、それがいゝであらう。
○穗上爾霧相《ホノヘニキラフ》――穗はいふまでもなく稻穗の事、「きらふ」は「きり」を波行四段に轉用したもので、霧のたちこめる意(霧遮)である。
○朝霞《アサガスミ》――後世は春に霞、秋に霧と殆ど一定した形になるが、昔はさるやかましい區別がなかつたので、卷八「霞立天の河原に君待つと」(一五二八)、卷十「春山の霧に惑へる」(一八九二)など通じて用ひてゐる。
○伊時邊乃方二《イヅヘノカタニ》、我戀將息《ワガコヒヤマム》――伊時邊の「へ」は方向をあらはす「へ」で、いつ方といふに同じい。今の人は多く濁音に唱へるやうだが、元來は清音であらう。新考は結句の「將息《ヤマム》」は「いづへの方に」と打合はずとて「將遣〔左○〕《ヤラム》」の誤としてゐる。一應尤なやうではあるが、かゝる語遣ひもあるかに思はれるから(今適例は思ひ出せないが)、姑くこのまゝにしておく。
◎一首の意――秋の田の稻穗の上にかゝつてゐる朝霧はいつかは霽れるであらうが、吾がこの胸の思は、いつはれる事であらう。霽れる待つ間のもどかしさ、さてもじれつたい事ぢやわい。
 此の四首、第一首ではお迎へに徃かうか、ぢつと待つてゐようかと、とつおいつ煩悶する趣、第二首は、ぢつと待つてゐるに堪へかねて途中で倒れるまでも、思ひ切つてお迎へに出ようと氣もそゞろにあせる體、第三首に至り、御身分を考へて、いや/\それもなるまい、年經て白髪になるまでも、かうしてお待ちする外はあるまいと、思ひあきらめられる趣、最後は徃くにも徃けず、ぢつとして居るには堪へず、えゝこの胸の思を何とせうと、身悶えして苦しむ躰、四首聯關して、これも一種の連作といふべきである。(必ずしもさう見ねばなら(362)ぬほどの調でもないが、折角四首相連つてゐるのであるから、助けて説けば、かう見得るのである。)磐姫皇后の嫉妬深かつた事も史に見えてゐるから、いろ/\さる情熱に關する説話もあつたので、此四首の傳説も唱へられたのであらう。これが傳説磐姫皇后の御歌の解釋である。但し調といひ、語遣ひといひ、皇后御自身の作でない事はいふまでもない。
 
或本歌曰
 
89 居明而《ヰアカシテ》 君乎者將待《キミヲバマタム》 奴婆珠乃《ヌバタマノ》 吾黒髪爾《ワガクロカミニ》 霜者零騰文《シモハフルトモ》
 
これは上の「在管裳《アリツツモ》」の歌の異傳を記したのである。
○居明而《ヰアカシテ》――代匠記に卷十八「乎里安加之〔五字傍点〕、こよひはのまむ云々」(四〇六八)とあるを引いて、「をりあかして」と訓むべきかといひ、字餘り嫌ひの本居翁も之によつてゐるが(玉勝間卷十四)、舊訓に「ゐあかして」とあるまゝでよからう。起き明す意である。
○奴婆珠乃《ヌバタマノ》――黒の枕詞、諸説まち/\であるが、烏扇又は檜扇と稱する草花の實といふ説が普通である。その實は熟すると漆のやうに黒くなるからである。
◎一首の意――「夜もすがら起き明して君の歸るを持たう。よしや夜更けて我が黒髪に霜はおくとも」の意であらう。もしも此歌から上の「在管裳」の歌が出たものなら、それも實際の霜と見るべきものかも知れぬ。けれどそ(363)れが一轉して、磐姫皇后の御作として傳稱せられようになつては、上記の如く解すべきではないかと思ふ。
 
右一首、古歌集中(ニ)出(ヅ)。
 
「古歌集」といふは今は傳はらないが、何人かゞ古い歌を集めておいたのであらう。その名は卷二、卷七、卷十、卷十一等に散見してゐる。
 
     ――――――――――
 
古事記曰、輕太子奸2輕太郎女1、故其太子流2於伊豫湯1也。此時衣通王不v堪2戀慕1而追〔左○〕徃時歌曰、
 
90 君之行《キミガユキ》 氣長成奴《ケナガクナリヌ》 山多豆乃《ヤマタヅノ》 迎乎將徃《ムカヘヲユカム》 待爾者不待《マツニハマタジ》
 
此云2山多豆《ヤマタヅ》1者、是今|造木《ミヤツコギ》者也。
 
この左注は卷首の歌についての考證であるが、古事記の本文そのまゝではなく、所々節略して要點だけを繋ぎ合せたもの、歌も古事記流の字音のみではなく、萬葉流に音訓交へ用ひて書いたものである。さて輕太子は允恭天皇の皇子(木梨輕(ノ)皇子)で、輕(ノ)太郎女はその同母妹、衣通王は輕太郎女の別名である。此の衣通王はかの有名な「我がせこが來べきよひなり、さゝがにの蜘蛛のおこなひ今宵しるしも」の歌を詠じて、後世和歌三(364)神の一人に數へられる衣通姫と甚だ紛れ易い。記紀の説く所によると,所生も違ふし、事蹟から見ても、一は淫蕩にして不倫、一はすなほでやさしい振舞、全く別人のやうには思はれるが、他方から見れば、衣通王は皇后忍坂大中姫の子で、さゝがにの衣痛姫は皇后の妹で關係近く似通うてゐる上、御名の由來についても、前者は古事記に「其名所v負2衣通王1者、其身之光、自v衣通出也云々」と見え、後者は書紀に「艶色徹v衣而晃v之」と見えて、是も似通うてゐる。で、古事記傳でも藤原之琴節郎女の事と取合せて、さま/”\疑點を述べてゐる。こゝの歌に就いても、古事記は伊豫に流された輕太子を慕うて追ひ徃く時の詠とし、書紀は儲君は流すわけに行かないからとて、輕太郎女の方を伊豫に流した事となつてゐるので、隨つて此歌は見えない。かく傳説はまちまちなので、古事記がいゝか、萬葉の所傳がいゝかは斷言出來ない。で、こゝでは萬葉所傳の磐姫皇后の御作として、出來るだけ、それにふさはしいやうに説いておく外はあるまい。但し歌の調はまた格別で、此四首の歌終に仁徳天皇時代の調ではないのである。さて歌は古事記には「岐美貿由岐《キミガユキ》、氣那賀久那理奴《ケナガクナリヌ》、夜麻多豆能《ヤマタヅノ》、牟加閇袁由加牟《ムカヘヲユカム》、麻都爾波麻多士《マツニハマタジ》」とあるが、「山多豆乃」は加納諸平の説に、もと漢名、女貞、又接骨木、和名「みやつこ木」(今は訛つてにはとこ〔四字傍線〕といふ)といふ植物の名で、其葉は對生して兩々相對つて出るから迎への枕詞に用ひたものといふのがよい。卷六高橋連蟲麻呂の歌にも「山たづの〔四字傍点〕迎へまゐでむ君が來まさば」(九七一)とある。然るに本居翁の古事記傳には、たつげ、手斧の事で、使用の際、刃が我が方に向ふから迎への枕詞になつたものといつてるのは、原注に「是今造木者也」とあるを訓み誤つて誤解したのであらう。「迎乎」の「乎《ヲ》」は助辭、「待つには待たじ」は徒ら(365)に待つてゐるには堪へぬといふのである。卷頭の歌も此歌の異傳であらうから、やはり「山たづの」の誤として解くのが當然かも知れねど、磐姫皇后の御歌として唱へられるやになつては、「山たづね」として傳へられたらしく、次の「かくばかり」の歌も、その意から出たものらしく思はれるから、「傳説磐姫皇后の御歌」としてはやはり上述の如く説くべきものかと思ふ。さて遣往は追〔右○〕往の誤、古事記の本文にも「追」とある。
 
右一首(ノ)歌(ハ)古事記與2類聚歌林1所v説不v同。歌(ノ)主亦異焉。因檢2日本紀1曰、難波高津宮御宇大鷦鷯天皇廿二年春正月、天皇語2皇后1納(レテ)2八田皇女(ヲ)1將v爲v妃。時皇后不v聽。爰天皇歌(ヲ)以(テ)乞2於皇后1云々。」三十年秋九月乙卯朔乙丑、皇后遊2行紀伊國1、到2熊野岬1、取2其處之|御綱葉《ミツナカシハ》1而還(ル)。於v是天皇伺2皇后不1v在而娶2八田皇女1納2於宮中1。時皇后到2難波|濟《ワタリ》1、聞3天皇合2八田皇女1大恨v之云々。」亦曰、遠(ツ)飛鳥宮御宇雄朝嬬稚子宿禰《ヲアサツマワクゴノスクネ》天皇廿三年春正月甲子朔庚子|木梨《キナシ》輕皇子爲2太子1。容姿佳麗、見者自感。同母妹輕|太娘《オホイラツメ》皇女亦艶妙也云々。」遂竊通。乃悒懷少(シク)息(ム)。廿四年夏六月、御羮〔左○〕汁|凝〔左○〕(リテ)以作(ル)v氷(ト)。天皇異v之、卜2其所由1。卜者曰、有2内亂1、盖親親相姦乎(ト)云々。」仍移2太娘皇女於伊與1者、今案二代二時不v見2此歌1也。
 
これは此の「君が行」の歌の傳説が、古事記と類聚歌林と説を異にするが故に、古事記(仁徳記)と書紀(允恭紀)とに就いて考證した事を記したのである。大體、今の記紀の本文通りで、異なる所は「岬」の下に「即」(ノ)(366)字があり、「於是」は「於是日」とあり、姦は※[(女/女)+干]、移は流、伊與は伊豫とあるだけである。さて御綱葉は三津野柏(延喜造酒司式)、又御角柏(太神宮儀式帳)ともいつて神事に用ひたものらしい。又雄朝嬬稚子天皇は允恭天皇の御諱、最後の一句は左注を書いた人の言で、仁徳天皇、允恭天皇の二代中、磐姫皇后の條にも輕(ノ)太郎女の條にも書紀にはこの歌が見えないといふのである。
 
近江大津宮御宇天皇代 天命開別《アメミコトヒラカスワケ》天皇
 
天皇賜2鏡王女1御歌一首
 
鏡王女は鏡王の御女で、卷一に見えた額田王の御姉、内大臣藤原鎌足の妻である。〔與福寺縁起(昌泰三年筆)に「至2於天命開別天皇即位二年歳次己巳冬十月1内大臣枕席不v安、嫡室鏡女王〔五字右○〕請曰云々」と見えてゐる」隨つて朝廷でも重ぜられて、天武紀に「十二年秋七月己丑天皇幸2鏡姫王之家1訊v病庚寅鏡姫王薨」と見えてゐる。諸書多く鏡王女〔二字傍点〕を鏡女王〔二字傍点〕の誤としてゐるが、これは今少し考ふべきではないかと思ふ。昔は男女の王、たゞ王とのみいつて女王といふ名稱のなかつた事は既に一の卷で述べた。たゞ此の女王だけは父王と區別するために鏡姫王など唱へたらしい事も述べた、鏡王女といふも同じ心で、天皇の御女を皇女といふが如く、たゞ女子である事を示して王女と唱へ、父王の名と區別しただけではあるまいか。さて後に女王といふ名稱が定まつてから、改めて何某女王と稱へるやうになつたのであらう。此の御名、卷二に五ヶ所見えてゐるが、目録に至るまで、すべて王女〔二字傍点〕である。卷四に額田王と應和した歌が見えてゐるが、そこも鏡王女〔三字傍点〕で(367)ある。尤も考のいふ如く後人がさかしらに改めたものとすれば、それまでだけれど、「王女」とあるをさかしらに「女王」と改むるは、さもあるべきだが、反對に「女王」とあつたのを、悉く「王女」と改めたといふ見解は少しどうかと思ふ。新考は御名が傳はらなかつたのであらうといふ見解の下に、すべて「鏡王の女」と訓んでゐるが、おのづから、さうした場合もあらうけれど(天武紀に「天皇初娶2鏡王(ノ)女〔三字右○〕額田姫王1、生2十市皇女1」とある類)、こゝはさうではあるまい。やはり「鏡(ノ)王女〔二字傍点〕」で、意義からいへば「鏡女王」といふも同じ事であらう。
 
91 妹之家毛《イモガイヘモ》 繼而見麻思乎《ツギテミマシヲ》 山跡有《ヤマトナル》 大島嶺爾《オホシマノネニ》 家母有猿尾《イヘモアラマシヲ》
   一云、妹之當《イモガアタリ》、繼而毛見武爾《ツギテモミムニ》
   一云、家居麻之乎《イヘヲラマシヲ》
 
此の御歌「大島嶺」の所在も判然せず、いつ、どこから贈らせられたかも明かでないので、十分の判斷を下しかねる(歌に「大和なる云々」とあるから、大和に居らせられた女王に大和以外の地から贈らせられたものであらうといふ事はほゞ察せられるが)。殊に本集記載の順序から推せば、ます/\判斷に苦しむ事となる。古義などの所見を彼此取りすべて見ると、鎌足薨去後、鏡王女は大和の本居にかへつて妹の額田王と平群郡額田郷に同居してをられたらしいので(これも明證があるのではないが、恐らくは卷四に「思2近江天皇1作歌」(四八八)とある額田王の歌に對して、鏡王女の唱和した作(四八九)が相並んで出てゐるなどから推したのであらう)、そこへ近江の(368)新都から贈らせられたのであらうと見てゐるらしい。(古義は情歌と見てゐるかも知れねど、大功臣の未亡人でもあり、愛姫の姉君でもあるから、普通の戀といはむよりも、寧ろ一般的の見舞として贈らせられたものと見るべきであらう。)まことにふさはしい推察で、吾輩もさう見たいのであるが、記載の順位に重きを措けば、さうもいへない。直ぐ後に鎌足と鏡王女との情事に關する應唱の歌が出て來るので、諸家のいふ如く、本集記載の順序に心あるものとせば、生前贈答した歌のすぐ前に、死後に關する歌が掲げられようと見る事が出來ない。又「大島嶺」についても、古義、攷證等は、日本後紀に「(大同三年九月)戊戌幸2神泉苑1、有v勅令3從五位下平群朝臣賀是麿作2和歌1曰、伊賀爾布久《イカニフク》、賀是爾阿禮婆可《カゼニアレバカ》、於保志萬乃《オホシマノ》、乎波奈能須惠乎《ヲハナノスヱヲ》、布岐牟須悲太留《フキムスビタル》云々」とあるを、引いて、平群氏ももと地名から出たのであるから、此の賀是麿もこゝの人で、「於保志萬」も同郡なるべく、額田王姉妹の住みたまへる同郡額田郷の近きほとりであらうといつてゐるが、今の額田郷は平地で、山らしいものもなく、大島嶺といふ名も聞えないといふから、なほ考へものである。そこで新考は天智天皇御若年の頃の情事と見て、孝徳天皇に從つて難波豐碕宮におはした折、そこから王女の許に通はれ、歸途大島嶺といふ處でよませられたのであらうといつてゐるが、なるほどこれも一つの見解であるけれど、それならば難波豐碕宮御宇天皇代と標出すべきであらうと思ふ。(卷一には例の三山歌は中大兄の御名で後崗本宮御宇天皇代【齊明天皇】の標下に掲げ、直後に標を改めて、近江大津宮御宇天皇代としてゐる。)新考が「本集の撰者、詳かによみ給ひし時を知らずば其御代の標下に掲ぐべし」といつてゐるのもさる事だが、卷一の例によらば、これも美夫君志などのいふが如く、其御代の最後に掲ぐべきではないかと思ふ。一體この「御代の標出」といふ事については折々不審を述ても來た(369)し、明らかに歌の次序の狂うた例も下に見えるから、強ちに泥むべきではないかも知れねど、昔から多くの學者によつて唱へられてゐる事であるから、一應は顧慮せずばなるまい。そこで又檜嬬手は近江遷都の後(恐らくは鎌足薨去前)なほ舊都崗本宮にいらせられた鏡王女に新都から贈らせられた情歌と見てゐるらしいが、記載の順序といふ點だけでいへば、これがふさはしいかに思はれるけれど、「山跡有大島嶺」を一つの山の名ではなく、「大和島根の山」といふ意に見るなどは到底同意は出來ない。それに鎌足の薨去は遷都後僅かに二年であるから、この間に王女との情事も起り、やがて嫡妻ともなり、やがて未亡人ともなつたものと見ねばならぬので、有り得ぬ事ではないが、少しどうかとも思ふ。とにかくに解きにくい歌である。もし記載の順序に拘はらないなら予は普通の御慰問と見たい。
○繼而見麻思乎《ツギテミマシヲ》――相繼ぎて絶えず見むものをの意である。
○家母有猿尾《イヘモアラマシヲ》――「まし」に猿(ノ)字をあてたのは飜譯名義集に※[獣偏+彌]猴を「摩斯※[口+託の旁]」といふから出たもので、梵語だといはれてゐるが、攷證、美夫君志等は本來の日本語だと主張してゐる。これも研究すべき問題であらう。
○一云、妹之當《イモガアタリ》、繼而毛見武爾《ツギテモミムニ》、――本文の意に同じい。
○一云、家居麻之乎《イヘヲラマシヲ》――此の歌、新千載集には「妹があたり、つぎても見むと、大和なる大島嶺に家居せましを」として收めてあるが、それはこの一本に據つたのであらう。「家居麻之乎《イヘヲラマシヲ》」は讀人自身の家居をいふので、新千載集の家ゐせましを」と同意である。(攷證が擧げた三首の類歌も皆同樣である。後世「家|居《ヰ》す」といふを「家|居《ヲ》る」といふが古風である。)元來本文の「家母揖猿尾《イヘモアラマシヲ》」は我が家とも妹が家とも解けるが、昔から諸註一般に「我(370)が家」の義に解してゐるのは、恐らくはこの一本に引かされたのであらう。古義等は「まし」の重複するのを嫌つて、すべて一本に據つて本文を改めてゐる。今も此の一本の意によつて姑く「我が家」と解釋しておくが、大島嶺も問題なのであるから、それと相待つて考究すべきであらう。
◎一首の意――出來る事なら妹が家のあたりを、絶えず見たいと思ふが、あの大和の大島(ノ)嶺に我が家でもあつてくれゝばなア。」――あつさりと見ておく。
二(ノ)句と結句とに「まし」をくりかへしてゐるのが成程聊か耳ざはりに聞える。全釋は故意の技巧と見てゐるが、予は寧ろ技巧に頓着しなかつた昔の偶然の結果と見たい。
 
鏡王女奉v和御〔左◎〕歌一首 鏡王女又曰2額田姫王1也
 
「御」(ノ)字目録にはなく、本集は天皇、皇后、皇子、皇女の外は用ひぬ例であるから恐らくは衍字であらう。又端書の下に「鏡王女又曰2額田姫王1也」とある細字は後人の注で誤である。鏡王女と額田姫王とは別人で、御姉妹である事は今更説明するまでもあるまい。金澤本、大矢本等にはない。かゝる後人の筆らしい注にも「鏡王女」とあるは注意すべきである。
 
92 秋山之《アキヤマノ》 樹下隱《コノシタガクリ》 逝〔左○〕水乃《ユクミヅノ》 吾許曾益目《ワレコソマサメ》 御念從者《ミオモヒヨリハ》
 
○秋山之《アキヤマノ》、樹下隱《コノシタガクリ》、逝〔左○〕水乃《ユクミヅノ》――秋山の木の下に落ちて木(ノ)葉隱れに流れ行く水の如くの意で、下の句の譬喩に用ひ(371)たものである。「隱《カク》る」は昔は四段に活用したので、「かくり」と訓むべき事は既に卷一で述べた。「逝」(ノ)字、舊本は「遊」に誤つてゐるが、元暦校本、金澤本、神田本其他の古寫本によつて改めた。卷一、吉野離宮の歌(三八)なる「遊〔右○〕副川」を元暦校本には「逝〔右○〕副川」とあると互に參照すべき問題である。
○吾許曾釜目《ワレコソマサメ》――古義は「あこそまさらめ」と訓んでゐるが、これは本のまゝでよからう。
○御念從者《ミオモヒヨリハ》――舊訓「みおもひよりは」を古義は「おもほさむよは」と訓み改めたが、これはなるほどさう訓むもよからう。「御念」を「おもほす」と訓んだ例は上にも數多見える。「よ」は「より」の義で古語である。元暦校本の傍訓には片假名で「オモホスヨリハ」とあるが、これもわるいとは言へないけれど、要するに、いづれも舊訓のまゝでよいので強ひて改めるには及ぶまい。
◎一首の意――御意のほどは誠に忝けなう御座いますが、私のあなた樣の事を思ひます方が一層深い事と存じまする。恰も秋の落葉隱れに流れ行く水のやうに、うはべに現はれては見えませんけれど。
 玉勝間卷二に、この御姉妹(鏡王女、額田王)ともに天智天皇に召された人として、其の證にこの贈答の歌を擧げてゐるが、後々の釋家も大方その心で歌を解いてゐる。なるほど本集記載の順序から推せば、鎌足と鏡王女との關係が起らない前とせねばならぬから、早く天智天皇との關係があつたかも知れないし、後に功臣優遇の御思召で、それを鎌足に下賜せられたのであるかも知れねど(曾て孝徳天皇が鎌足の心を結ばんが爲に寵妃安倍氏をして枕席を拂はせた例しもあるから、さる事がなかつたとはいへぬ)、此歌のさま、當時の贈答歌として有りがちな趣で特に云々すべきほどのものとも思はれない。王女の答歌は戀の意かとも思はれるが、また「亡(372)夫生前からの御恩寵御眷顧に對しては、とても語には申しあらはせませぬ」との心と見られんでもない(假りに此歌を鎌足薨去後の御慰問と見れば)。殊に卷四、額田王が「思2近江天皇1作歌」に和した「風をだに戀ふるはともし、風をだに來むとし持たば何かなげかむ」(四八九)といふ歌までを、天皇に召された證としたのはいかがであらう。此歌恐らくは鎌足薨去後、姉妹同居してをられた折などの作らしく、額田王の風の歌に和して「おまへのやうに待つ人のあるのはまだしも羨ましい事ぢや」と未亡人としての心情を訴へたものらしく、何等天智天皇との情事と思はしめるものではない。鏡王女が召されたか否かについては多分の疑があるが、此等を證として、しか解釋するのは少しいかゞと思ふ。すべて疑はしい事は明かにその事由をしるして斷定を避くべきである。よくも調べぬ後人が、先哲の言に引かれてつひそのまゝになる事が多いから。
 
内大臣藤原卿娉2鏡王女1時、鏡王女贈2内大臣1歌一首
 
「卿」字、舊本「郷」に誤まる。元暦校本、金澤本、類聚古集等によつて改めた。「卿」は大方三位以上の人に用ひた。「娉」は妻問ひする事。略解に「此の時、天皇の寵衰へたるを鎌足卿よばひしなるべし」といつてるのは餘りな推量といふべきである。
 
93 玉匣《タマクシゲ》 覆乎安美《オホフヲヤスミ》 開而《アケテ》行者《イナバ・ユカバ》 君名者雖有《キミガナハアレド》 吾名之惜毛《ワガナシヲシモ》
 
○玉匣《タマクシゲ》、覆乎安美《オホフヲヤスミ》――二句次の「開け」にかゝる序である。玉は美稱、匣は櫛笥、笥はすべて物を容れる器で、女の(373)化粧道具を入れる箱を櫛笥トイフ。それには蓋があつて、常は、ふた、み、開く、などの枕詞として用ひられるが、こゝはその蓋を開けたり覆うたりするが易いといふ意で、二句連ねて「開け」の序になると見られてゐる。「安美」は「やすさに」の意である。古義は「安」の上に「不」(ノ)字脱ちたものとして「覆乎|不安美《イナミ》」と訓んでゐるが、誤字脱字説には妄りに從へない。
○開而《アケテ》行者《イナバ・ユカバ》――嘗訓は「あけてゆかば」であるが、元暦校本は「あけていなば」と訓み、略解・檜嬬手も之に從つてゐるが、どちらでもよからう。
○君名者雖有《キミガナハアレド》云々――あなたの名はともかく(君は男であるから世評などには頓着せられぬかも知れねど)、女の我が身はつらいといふのである。
◎一首の意――新講に倣つて此の場合の情勢を俗譯すれば――「夜が明けると世間がうるさいから、早く御歸り遊ばせよ」「世間が何といはうがかまはないではないか」「あなたはかまはないかも知れないけれど、私はいやです」。――かくて次の鎌足卿の歌が出て來るのである。思ふに相應に親しくなつてからであらう。男女の間にはかうした場合もあり得るのである。然るに略解は、古今六帖に、歌の下句「吾名はあれど君が名をしも」と改めたるに據り、本集卷四に「吾が名はも千名の五百名に立ちぬとも、君が名立たば惜しみこそ泣け」(七三一)とあるなどを參酌して、「君」と「吾」と交互に誤つたであらうといつてゐるのは、所謂一を知つて二を知らぬものといふべきである。
 
内大臣藤原卿〔左○〕報2贈鏡王女1歌一首
 
(374)「卿」、今本「郷」に誤る。
 
94 玉匣《タマクシゲ》 將見圓山乃《ミムロノヤマノ》 狹〔左○〕名葛《サナカヅラ》 佐不寢者遂爾《サネズハツヒニ》 有勝麻之自〔左○〕《アリカツマシジ》
   或本歌云、玉匣《タマクシゲ》、三室戸山乃《ミムロトヤマノ》
 
○玉匣《タマクシゲ》――王女の歌の初句をそのまゝ受けて用ひたので、此頃の贈答にはよくある例である。但しこゝは「身」とかゝる枕詞である。
○將見圓山乃《ミムロノヤマノ》――舊訓「みむまとやまの」は拙ない。考の「みむろのやまの」がよい。上なる將見《ミム》の「む」と、下なる圓《マロ》の「ま」とが音通で熟合して「む」となつたのである(玉の小琴の説)。さて三室の山とは神を齋く山の義で、本來の固有名詞ではないが、こゝは三輪山をさしたのであらう。
○狹名葛《サナカヅラ》――「狹」(ノ)字、舊本「挾」に作つてゐるが、元暦校本、金澤本、其他によつて改めた。「さなかづら」は「さねかづら」ともいひ、葉は赤く色づき、實は赤き小粒の集合から成つて、庭園などにも植ゑるものである。昔は莖の粘液から頭髪を塗り固める料を作つたので、一名美男かづらともいふ。さて以上三句は、同音(さな、さね、通音)を繰り返して、次の「さねずは」につゞける序としたのである。
○佐不寢者《サネズハ》――「さ」は接頭辭で意味はない。
○有勝麻之自《アリカツマシジ》――此の句、舊本には「有勝麻之目〔右○〕」とあつて、從釆「ありがてましも」と訓み「がて」を難き意に解し、「目」の字元暦校本に「自」とあるのを「目」の誤とし、卷四「有不勝自〔右○〕」(六一〇)」、卷十四「由吉可都麻思(375)自〔右○〕」(三三五三)の「自」も同じく「目」の誤としてゐたが、橋本進吉氏は國學院雜誌第十六卷九、十、十一號に亙ツテ、「がてぬ、がてまし考」を發表して(明治四十三年)その誤まてる由を論ぜられたのが正しいと思ふ。氏の研究によれば、元暦校本に「自」とあるのが、やはり正しいので「麻之自《マシジ》」と訓むべきもの、卷四の「有不勝自」、卷十四の「由吉可都麻思自」もやはり「ましゞ」と訓むべく、又卷四「有勝益士」(七二三)、卷十「依勝益士」(一三五二)を從來「ましを」と訓んでゐたが、これも「ましゞ」と訓むべきである。「ましゞ」といふ語は續紀宣命に「敢 末之時止 爲 弖 辭 備 申 豆良久《アフマシジトシテイナビマヲシツラク》」(第廿六詔)、又日本紀の歌に「山こえて海渡るともおもしろきいま城のうちは忘らゆ麻旨珥〔三字傍点〕」とあると同じ古言で、「まじ」同樣、否定推量をあらはし、「まじ」と同じく動詞の終止形に附く詞である。又「かつ」は下二段活用であるから、上掲の卷十四の歌が證する如く「かつましゞ」といふべく、「がて」からは續かないといふのである。誠に千古の蒙を啓く卓見といふべきである。さて「かつ」は「難い」といふ意ではなく、堪《タ》ふ、敢《ア》ふ、などの義で「ありかつましゞ」は堪へ得じ、有り得じ、といふほどの意である。
○三室戸山乃《ミムロトヤマノ》――明でない。略解は戸〔右○〕は乃〔右○〕の誤かといひ、美夫君志は室戸二字でむろ〔二字右○〕と訓むかといつてゐる。
◎一首の意――上三句は序詞で意義はない。あなたは、さう言はれるが、一所に寐もしないで歸れるものですか。
親しい中の痴話であらうが、少し露骨な歌である。
 
内大臣藤原〔左○〕娶2釆女安見兒1時作歌一首
 
今本「卿」を「郷」に誤まる。采女《ウネメ》の事は一の卷でも述べたが、天皇の御饌に奉仕する者で、内膳司式によると、其の數六十人「凡采女者貢2郡少領以上姉妹及子女形容端正者1云々」と孝徳紀に見えてゐる。釆は釆(376)擇の義で、多くの中から撰拔する意。「うねめ」は「うなげめ」の義で、頂に領巾《ヒレ》を掛けて奉仕するから出たといはれてゐる。大祓詞にも「比禮挂伴男《ヒレカクルトモノヲ》」とある。
 
95 吾者毛也《ワレハモヤ》 安見兒得有《ヤスミコエタリ》 皆人乃《ミナヒトノ》 得難爾爲云《エガテニストフ》 安見兒衣多利《ヤスミコエタリ》
 
○吾者毛也《ワレハモヤ》――「も」も「や」も感動詞。
○安見兒1《ヤスミコ》――采女の名。
○得難爾爲云《エガテニストフ》――「えがて」の「がて」は一種の接尾辭で、「かたし」の語幹「かた」から出たものと言はれてゐる。「とふ」は「といふ」の約。舊訓はあらはに「といふ」と訓んでゐる。
◎一首の意――明かである。
二(ノ)句と五(ノ)句とに同一の句を繰り返して、得意滿面の樣が躍如としてゐる。鎌足ほどの人も、よほど嬉しかつたと見える。宮中に奉仕する采女を手に入れたのは、如何なる事情によるかは知らねど、たゞこのまゝを卒直に見ておくべきである。美夫君志などのいふ所は少し穿鑿に過ぎるかと思ふ。二(ノ)句と五(ノ)句とを繰り返すのは古歌の一つの姿で、萬葉にも相應に多い事は既に述べた。幼稚な形ではあらうが、この歌などではよくきいて嬉しい趣が輕快に躍動してゐる。萬葉集時代の歌は五七の調で、多く二(ノ)句で切れるから、この繰り返しがきくのである。
 
(377)久米禅師娉2石川郎女1時歌五首
 
久米禅師は傳詳かでない。この頃、阿彌陀、釋迦などいふ名が流行したので、之を禁ぜられた事が續日本紀に見えてゐるから、これも俗人の名であらうといはれてゐる。美夫君志は僧侶としての名と説いてゐる。石川郎女も判らぬ。少しおぼしき事は後に言はう。郎女は景行紀に「郎姫此云2異羅菟※[口+羊]〔四字傍点〕1」とあるによつて「いらつめ」と訓む。さて此の五首の歌、禅師の贈歌と、郎女の答歌と交々雜つてゐるが、そは箇々の歌の下に注し、端書は「時(ノ)歌」といふ二字に攝して、この件に關する歌なる事を知らせたのである。然るに考はそれそれ端書の落ちたものとして、第二首の首に「石川郎女和歌」第四首の首に「久米禅師重贈歌」など補つてゐる(攷證も之に倣つてゐる)のは却つていかゞである。
 
96 水薦苅《ミスズカル》 信濃乃眞弓《シナヌノマユミ》 吾引者《ワガヒカバ》 宇眞人佐備而《ウマビトサビテ》 不欲〔左○〕當將言可聞《イナトイハムカモ》 禅師
 
○水薦苅《ミスズカル》――信濃の枕詞、舊訓は「みぐさかる」(古點はみこもかる)と訓んでゐたのを、考は薦を篶の誤として「みすゞかる」と訓んだが、美夫君志は「篶」(ノ)字は金(ノ)韓道昭の五音篇海といふ書に初めて見える文字で、萬葉集編纂の頃にはまだないからと考證し、紀の「五百箇野薦《イホツヌスヾ》」などを證として、このまゝで「みすゞかる」と訓まれた。それがよからう。「薦」は茂草の義であるが、轉じて小竹の意に用ひたのである。「水」は借字で次の歌には「三」とある。三は接頭辭である。
○信濃乃眞弓《シナヌノマユミ》――古へ、甲斐、信濃から弓を獻つた事は延喜式などに見えてゐる。さて此の二句は「引く」にかゝる序詞である。
(378)○宇眞人佐備而《ウマビトサビテ》――宇眞人は高貴の人、佐備は少女さび、男さびなどのさびで、こゝは俗に「貴人ぶつて」といふ意である。
○不欲當將言可聞《イナトイハムカモ》――「欲」(ノ)字もと「言」とある。代匠記初稿本には「不言」は「不許」の誤かとしてゐるが、元暦校本其他には「不欲」とあるから、それがよからう。
◎一首の意――私が試みにあなたを引いて見たなら、貴人ぶつて、おまへのやうなものはいやぢやと言ふであらうか。
それとなしに當つて見たのである。
 
97 三薦苅《ミスズカル》 信濃乃眞弓《シナヌノマユミ》 不引爲而《ヒカズシテ》 弦〔左○〕作留行事乎《ヲハクルワザヲ》 知跡言莫君二《シルトイハナクニ》 郎女
 
○弦作留行事乎《ヲハクルソザヲ》――「弦」(ノ)字、舊本に「強」とあつて、「強作留行事」を「しひざること」と訓んでゐるが何の事とも分らぬ。代匠記は「強」を「弦」の誤として「を」と訓み、「作」は書紀に「矢作部《ヤハギベ》」などあるによつて「をはぐる」と訓むべきかといつたのに諸註皆從つてゐる。但し「はぐる」と濁るのはよくない。これは下の歌に「都良絃取波氣〔右○〕」、卷十四に「都良波可〔右○〕馬可毛」(三四三七)、卷十六「牛爾已曾、鼻繩波久〔右○〕例、」(三八八六)などの例によつて「をはくる」と訓むべしといふ古義の説に從ふべきである。「はくる」は、はかしむる事で、弦を着けることである。
 
○知跡言莫君二《シルトイハナクニ》――「思ふ」といふ語が輕く用ひられるやうに、昔は「言ふ」といふ語も殆ど意義なく輕く用ひられ(379)た。こゝもその一例で「知るといはなくに」は「知らなくに」の意であらう。(但しこゝは意義あるとも見られるので少し曖昧だが、委しくは下の「一六六」の歌で述べよう。)
◎一首の意――引かない弓に弦をかける要はありますまい。そのやうに私も引いて見ないで、否といふか、どうか、判らんではありませんか。
初二句を引かずの序とする説もあるが、四(ノ)句を「をはくる」と訓めば眞弓はやはり歌の上に意義ある語となるので、序とはいへまい。「信濃乃」は前の歌を踏襲したゞけである。
 
98 梓弓《アヅサユミ》 引者隨意《ヒカバマニマニ》 依目友《ヨラメドモ》 後心乎《ノチノココロヲ》 知勝奴鴨《シリガテヌカモ》 郎女
 
○梓弓《アヅサユミ》――昔は多く檀や梓で弓を作つたから語の都合で、眞弓とか梓弓とかいふので、泥んではならぬ。たゞ弓の事である。矢の事をいふのに「さつ失たばさみ」などいふと同じ事である。さてこゝは枕詞であらう。
○依目友《ヨラメドモ》――弓の縁語としてよく用ひられる。引き寄せる意から轉じて、こゝは心の靡き依る事である。
○知勝奴鴨《シリガテヌカモ》――「知り得ぬかも」の意で「ぬ」は否定の助動詞である。この「ぬ」に就いては、從來否定の助動詞とするもの(古事記傳卷十二)、完了の助動詞とするもの(古義、美夫君志別記及岡本保孝等の説)、まち/\で、さまざまに論議されてゐたが、上に述べた橋本進吉氏の説(九四)によれば、「勝《カテ》」は堪ふ、敢ふ、能ふ、などの意であるから、やはり否定の助動詞とせねばなるまい。隨つて「知りがてぬかも」は知り得ない意で、知る事が難い意ではない。
(380)◎一首の意 引く人があるなら、引かれるまゝに靡きもしようけれど(「誘ふ水あらばいなむとぞおもふ」の意)、後々の御心が分らないから、うつかり出來ません事よ。
 
99 梓弓《アヅサユミ》 都良絃取波氣《ツラヲトリハケ》 引人者《ヒクヒトハ》 後心乎《ノチノココロヲ》 知人曾引《シルヒトゾヒク》 禅師
 
○都艮絃取波氣《ツラヲトリハケ》――都良は蔓で「つる」と同語、弓弦を「つる」といふも昔は蔦かづらなどを用ひたからである。「つらを」は弦緒で、同意義の語を重ねたもの、絃と弦とは通用の文字である。
○引人者《ヒクヒトハ》――禅師自身を指す。
◎一首の意――弓に弦をかけて引く人は、引けばどうなるかといふ後々までの事を、しかと思ひ定めた上で引くものです。うつかり引くものではありませんよ。
 
100 東人之《アヅマビトノ》 荷向※[しんにょう+(竹/夾)]乃《ノサキノハコノ》 荷之緒〔左○〕爾毛《ニノヲニモ》 妹情爾《イモガココロニ》 乘爾家留香聞《ノリニケルカモ》 禅師
 
○東人之《アヅマビトノ》――此の句、元暦校本に「あづまづの」とあり、考以後は大方「あづまどの」と訓み、古義は「あづまびとの」と訓んで、近頃の新考、全釋等は之に據つてゐる。(舊訓は「東《アヅマ》人|之《ノ》」とあるが、これは四言に訓んだのであらうか。又「あづまづ」とも「あづまど」とも「あづまびと」とも定めかねて「人」(ノ)字にあたる訓を闕いておいたのであらうか。)「あづまど」でもよからうと思ふが、姑くまじめな古義の訓に從つておく。又萬葉集の東人(381)は邊陬の人を指すといふ説もあるが(和名抄箋注、美夫君志等)、廣く阪東諸國の人と大樣に見てよからう。
○荷向※[しんにょう+(竹/夾)]乃《ノサキノハコノ》――荷向は荷前で、朝廷に奉る貢の初荷をいふ。荷《ニ》を「の」といふは、火《ヒ》を「ほ」、木を「こ」といふ類である、※[しんにょう+(竹/夾)]は諸本に「篋」(篋は俗字)とあるに同じく匣、笥即ち箱の事である。
○荷之緒爾毛《ニノヲニモ》――「緒」(ノ)字、舊本「結」とあるが、元暦校本、金澤本其他によつて改めた。「荷の緒のやうに」の意で、三句、乘りにかゝる序詞である。祈年祭の祝詞は荷前を獻る樣を述べて、「荷前者云々、自v陸徃道者《クガヨリユクミチハ》、荷緒結堅※[氏/一]磐根木根履佐久彌※[氏/一]馬爪能至留限《ニノヲユヒカタメテイハネキネフミサクミテウマノツメノイタリトドマルカギリ》、長道無間久《ナガヂヒマナク》立都々氣※[氏/一]云々」とあるが如く馬の背に載せて、長い路程を運ぶのであるから、緒をしつかりと結びかためて載せるので、その如くしつかりと動きなくといふのである。(關西地方からは船で運んだのであらうが、馬で運んだのは主に東國であつたから、特に東人の荷前の箱云々といつたものであらう。)諸註たゞ「乘る」の一語にかゝると見て、荷物の緒を結んで馬の背に載せるからとか、緒の上に凾の乘りたる如く我が心に妹が乘るなりとか説いてゐるが、少し物足らぬやうに思ふ。此の種の類歌なる卷十「春されば垂柳のとをゝにも〔五字傍点〕妹が心にのりにけるかも」(一八九六)、卷十六「この川の瀬々の重浪しく/\に〔五字傍点〕、妹が心に乘りにけるかも」(二四二七)なども、たゞ乘るといふだけではなく、「とをゝにも」「しく/\に」が、それぞれ特別の意義を以てゐるのであるから、こゝもさうであらう。即ち東人の奉る荷前の凾を結ぶ緒のやうに、しつかりといふ意であらう。「にも」は「のやうにも」の意で、「も」は助辭。
○妹情爾《イモガココロニ》、乘爾家留可聞《ノリニケルカモ》――「聞」(ノ)字、流布本「問」とあるが、元暦校本、類聚古集によつて改めた。心に乘るとは、舟に乘る、馬に乘るなどいふ心から出た語で、妹の事が吾が心の上にしつかりと乘りかゝつて、常に忘れる(382)事が出來ない意である。
◎一首の意――妹の事が我が心の上にしつかりと乘つてしまうた。丁度東人が朝廷に獻る貢の荷前の緒を結び堅めるやうに、しつかりと動ぎなく乘つてしまうて到底忘れる事が出來ないわい。
 この「妹が心に乘りにけるかも」といふ句に就いて聊か疑問がある。それは妹の心に我が乘る意か、我が心に妹の乘る意かは少し問題なのである。代匠記初稿本に「我が心も常に妹が上にあるといふ心をよめるなり」(前者の意)といひ、又「我が心に常に妹が乘りゐるとたとへたりともいふべし」(後者の意)といつて決しかねてゐるが、精撰本では「心に妹がといふべきをかくいへば、妹が心に乘るやうなれど、緒の上に凾の乘りたる如く、我が心に妹が乘るとなり」とやゝ後者の意に定めてゐる。下の卷十「春さればしだり柳のとをゝにも妹が心に乘りにけるかも」(一八九六)でも同じ趣を繰り返してゐるが、卷十二「いさりする海人のかぢの音ゆくらかに、妹が心に乘りにけるかも」(三一七四)では、「いさりする海人小舟なれば、急がぬ楫の音に寄せて我心の故里の妹が情に乘り居る事も此の如しと也」と精撰本でも、前者の意に説いてゐるので、よほど迷うてゐたらしい趣が察せられる。考は卷十四「白雲の絶えにし妹をあぜせろと、心に乘りてこゝばかなしけ」(三五一七)の歌によつて後者の意に見たらしく、訓を改めて「妹は〔右○〕心に乘りにけるかも」としたが、玉の小琴は、その訓を難じて「は〔右○〕文字穩ならず、本のまゝに妹が〔二字右○〕と訓むべし。我が心に妹の乘るなり。必ずが〔右○〕といふべき語の例なり」といつてから、諸註皆其の訓に據り、其の意に從つてゐる。(考も後々の歌は妹が〔二字右○〕と訓んでゐるが、何と解釋したかは明かでない。)立ちかへつて仙覺抄を見ると、是も後者の意に解したらしく「かの荷前の凾の離る(383)まじく結ひつけたるやうに、心に妹が乘るとたとへたるなり」といつてゐる。元來「心に乘る」といふは一種の成語で、かふべからざるものかも知れぬし、仙覺を初め、契沖(少し迷うてゐるやうではあるが)、眞淵、宣長などいふ諸大家が揃うて後者の意に見るのは、然るべきいはれがあるであらうと思はれるから、姑く其の説に從つておいた。が愚な疑問を提出するなら、「心に乘る」といふに、我が心に妹の乘る場合もあらうが、先方(妹)の心に我《ワレ》が乘るといふ場合もあり得ようと思ふ。卷四「百しきの大宮人は多かれど情に乘りて思ほゆる妹」(六九二)、卷十四「白雲の絶えにし妹をあぜせろと心に乘りてこゝぱ悲しけ」(三五一七)などは、我が心に乘る意であらうが、卷七「さゝ波の志賀津の浦の舟乘爾乘りにし心常忘られず」(一三九八)、同「百傳ふ八十の島回をこぐ舟爾乘りにし心忘れかねつも」(一三九九)などは、先方の心に我《ワレ》が乘つた意ではないかと思はれる。(それとも曾て我が心に妹がしつくり乘つた其時の氣分が今でも忘れかねるといふ意であらうか。序詞のつかひ方からいへば、さうは取れないと思ふ。)さすれば、この東人の歌も、妹の心に我が乘る意に解する方が語調の自然ではないかとも考へられる。假りにさう見れば、我《ワレ》妹の心を十分に捉へ得て、しつかりと、その意中の人となり了せたといふ得意の氣分を歌つたものとも解せられよう。が、何分にも此種の類歌は解釋次第で、どちらにも取れるやうに思はれるから、十分の判斷がつきかねる。よく考ふべきである。
 
大伴宿禰娉2巨勢郎女1時歌一首
 
大伴宿禰は誰人かは分かねど、元麿校本に端書と同じ大字で「大伴宿禰諱曰2安麻呂1也、難波朝右大臣大紫大伴長徳卿之第六子、平城朝任2大納言1兼2大將軍1薨也」といふ注がある。考は大納言御行としてゐるが、(384)御行でも安麻呂でも時代はさして違はないけれど、特別の理由なき限り、古注を否定するにも及ぶまいと思ふ。且つ下の大伴宿禰田主云々の所に、同じ元暦校本が注して「即佐保大納言大伴卿之第二子、母同2巨勢朝臣〔四字右○〕1也」とあるは、此の巨勢郎女をいふものと思はれるから、やはり安麻呂がよいであらう。安麻呂は旅人の父である。巨勢郎女は、これも元暦校本には次の歌の分注に「即近江朝大納言巨勢|人《ヒト》卿之女也」とある。人は名で紀には大納言巨勢臣比等〔二字傍点〕と見えてゐる。壬申の亂に近江方に屬して配流された人である。
 
101 玉葛《タマカヅラ》 實不成樹爾波《ミナラヌキニハ》 千磐破《チハヤブル》 神曾著常云《カミゾツクトフ》 不成樹別爾《ナラヌキゴトニ》
 
○玉葛《タマカヅラ》、實不成樹爾波《ミナラヌキニハ》――玉は美稱、葛は蔓草の總稱、玉葛は枕詞、これは實の成るものゆゑ、成らぬまではかゝらない。「實」の一語にかゝるので、卷四「山菅の實成らぬ事を云々」(五六四)、卷九「石上振の早田の穗には出でず」(一七六八)などゝ同例だといはれてゐる(美夫君志等の説)。然るに檜嬬手は「成るも成らぬもあるを、こゝは成らざる方を以てつゞけたるなり」といひ、新考は「此歌のみについて見ば、木村博士の説を穩當とすべけれど、答歌に至りて忽ち窮すべし。されば余は玉葛は實の成らぬもの、又は實の成り難きものにて、此歌ではみならぬ〔四字傍点〕にかゝれりと認む」といつてゐる。よく研究すべきである。さて實ならぬ樹とは女の男せぬに譬へたのである。
○千磐破《チハヤブル》――「いち速ぶる」で、すばやく敏捷に荒びまはる義である。古事記などに「ちはやぶる荒ぶる國つ神」などあるは、狂暴な神の義であるが、もとそこから出て、後にはさる意を離れて、たゞ神の枕詞として用ひられる(385)のである。
○神曾着常云《カミゾツクトフ》――實のならぬ樹には、神が憑いてそれを領し給ふといふ諺が有つたのであらう。あなたも早くよすがを定めないと神に魅せられますぞといふのである。
○不成樹別爾《ナラヌキゴトニ》――第二句を少しかへて繰りかへしたのである。
◎一首の意――實のならない樹には、どの樹にも神樣がお着きなさるといひますが、あなたも、いつまでも、さうして獨りで居られると、今に神樣がとりつきますぞ。
戯に托して女を脅威する所、狡猾なる手段といふべきである。
 
巨勢邸女報贈歌一首
 
102 玉葛〔左○〕《タマカヅラ》 花耳開而《ハナノミサキテ》 不成有者《ナラザルハ》 誰戀爾有目《タガコヒナラメ》 吾孤悲念乎《ワハコヒモフヲ》
 
○玉葛《タマカヅラ》――舊本「葛」を「萬」に誤つてゐる、今元暦校本、金澤本、類聚古集等によつて改めた。
○花耳開而《ハナノミサキテ》、不成有者《ナラザルハ》――贈歌に「實不成樹爾波《ミナラヌキニハ》」とあるを承けて、口先ばかりで眞實のない意に言ひかへたものといふ全釋の解がよからう。
○誰戀爾有目《タガコヒナラメ》――代匠記に「有目〔二字右○〕をアラメ〔三字右○〕と訓みては、今のテニヲハ〔四字右○〕に叶はねど、此集には比類あり。音を用ひたればアラモ〔三字右○〕と訓みてアラム〔三字右○〕と心得べきか」といひ、古義も「あらも」と訓み「め〔右○〕と訓むはわろし」といつてゐる(386)が、本居翁の詞の玉(ノ)緒、卷(ノ)七に、此等多數の例を擧げて「弖仁乎波違へるに似て違へりともいへぬ」由を辨じてから、學者多く古の一格として扱つてゐる。一體語法といふもの初めから定まつてゐるのではなく、もと音調などの自然から起つて、それが後世の法則ともなつたので、萬葉集の頃には、略、一定の規矩に嵌まつては來たものゝ、數多き歌の中には、後世の法則で律する事の出來ないものゝあるのは勿論なのである。此歌なども「目」を「も」と訓んだ例もないではないが、卷三「見えずとも孰不戀有米〔右○〕」(三九三)、卷四「しゑや吾がせこ奥も何如荒海藻〔右○〕《イカヾアヲメ》」(六五九)などの例で、やはり「め」と訓むが然るべきであらう。
○吾孤悲念乎《ワハコヒモフヲ》――舊訓は「わが〔二字傍点〕こひおもふを」と訓んでゐるが、考は「あは〔二字傍点〕ひもふを」と訓み、略解は更に「わは〔二字傍点〕こひもふを」と改めた。それがよからうと思ふ。私は花(口先き)ばかりではなく、此の戀に實を結ばせようと、眞釼に念うて居りますものをといふのである。
◎一首の意――あだ花ばかりで實が成らない。口先ばかりで眞實がないといふのは誰の事でせう。私は此花に實を結ばせようと頻りに戀ひこがれて居りますものを。
それとなく大伴宿禰をさしたものであらう。かくしてこの戀が成立したらしい。
 
明日香清御腹宮御宇天皇代 天停名原瀛眞人《アメノヌナハラオキノマヒト》天皇
 
天武天皇の御事である。天停名原云々の九字は後人の注であらう。卷一には天渟〔右○〕中原云々とあつて書紀の書式と正に合致してゐる。但し、渟、停、通用の文字で書紀の原注にも、渟中此云2農難《ヌナ》1とあるから、こゝも誤と(387)はいへない。天皇の下に「謚曰2天武天皇1」とあるが更に後人の注であらう。
 
天皇賜2藤原夫人1御歌一首
 
鎌足の二女、氷上娘と五百重娘とが、相並んで妃となられたから、二人の中であらうが、天武紀二年に「夫人氷上娘(ノ)弟五百重娘生2新田部皇子1云々」とあつて、本集卷八、藤原夫人とある所(一四六五)の古注に「字曰2大原大刀自1、即新田部皇子之母也」とあるから、こゝの夫人は五百重娘の方であらう(古義、美夫君志等)。この夫人大原に住まれ大原大刀自とも呼んだので、そこへ天皇から此歌を御遣はしになつたのであらう。姉君の方は、これも卷二十に藤原夫人とある所(四四七九)の古注に「淨御原宮天皇之夫人也、字曰2氷上大刀自1也」とあるだけであるから恐らくは大原には住まれなかつたのであらう。「御」(ノ)字の下、例によると「製」字あるべきだが、このまゝでも差支がなからう。
 
103 吾里爾《ワガサトニ》 大雪落有《オホユキフレリ》 大原乃《オホハラノ》 古爾之郷爾《フリニシサトニ》 落卷者後《フラマクハノチ》
 
○大原乃《オホハラノ》、古爾之郷爾《フリニシサトニ》――大原は從來多く藤原宮址附近が擬せられてゐたが、近時萬葉地理研究に名ある辰巳利文氏が、高市郡飛島村小原の地と斷ぜられたのがよいかと思はれる。そこは藤原氏の居住地で、近年まで鎌足産湯の井など稱へるものもあつたといふ事である。山にも近いから歌の趣にも相應するであらう。古りにし里といふに就いて、昔天皇の通ひ住み給うた地であるからとか、後崗本宮に近いからとか、しかつめらしい理窟で解釋す(388)る説もあるが、こゝは歌の性質上、わざと言ひけなされたものと見ればよいのである。卷十一に「大原のふりにし里に妹をおきて、云々」(二五八七)、卷十「藤原のふりにし里の秋萩は云々」(二二八九)などもあるから、今はさびれたといふ意があるかも知れぬが。
○落卷者後《フラマクハノチ》――「ふらむ〔右○〕は後」の意で、未來の助動詞「む」を、加行を借りて「まく」の二音に轉じたもの、從來加行延言と稱へられてゐる。延言といふは聞えぬといふので、近來「く」を一種の添語とする説、一種の接辭とする説、一種の語尾とする説など、さま/”\、あるやうだが、便宜上姑く從來のまゝ加行延言としておく。
◎一首の意――都(我が住む里)では大雪で中々見事ぢや、おまへの住んでゐる古ぼけた大原の里では、まだであらうな。
 
藤原夫人奉v和歌一首
 
104 吾崗之《ワガヲカノ》 於可美爾言而《オカミニイヒテ》 令落《フラシメシ》 雪之摧之《ユキノクダケシ》 彼所爾塵家武《ソコニチリケム》
 
○於可美爾言而《オカミニイヒテ》――書記に高※[雨/龍]、闇※[雨/龍]《クラオカミ》といふ名が見えて、※[雨/龍]此云2於箇美〔三字傍点〕1とある。後世の所謂龍神である(高※[雨/龍]は空の龍神、闇※[雨/龍]は谷の龍神)。水、雨、雪等を掌るから、それに言ひつけて雪を降らせたといふのである。古義は「言」を「乞」の誤として、「今まで註者たちのいかで心づかざりけむ」といつてゐるが、なほ賛成は出來ない。
○令落《フラシメシ》――考は「ふらせたる」と訓み、略解、檜嬬手之に從つてゐるが、これは書式からいつても古義の「ふらし(389)めし」がよからう。
○雪之摧之《ユキノクダケシ》――「摧」は名詞、「之」は強く指示する助辭、略解、攷證等に「し」を過去の言としてゐるのは、摧を動詞と見たのであらうか。考、美夫君志等も同じく動詞と見てゐるらしいが、大いな誤である。
◎一首の意――どう致しまして、こちらがもつと/\大層な雪でございます。元來は私の住んでゐます崗の於可美《オカミ》に言ひつけて降らせた雪でございますもの、その雪のかけらが、あなたの方へも散つたのでございませう。
好箇の諧謔、贈歌も面白いが答歌の方が一層機智輕妙で御昵ましさの程も推し量られる。昔の相聞といふ中には、かゝる贈答も含まれてゐるのである。戀愛ばかりではない。
 
藤原宮御宇天皇代 高天原廣野姫《タカマノハラヒロヌヒメ》天皇
 
舊本、標記の下に「天皇謚曰2持統天皇1」と大書してゐるのは後人の注であらう。又元暦校本に「藤原宮御宇高天原廣野姫天皇代」と標してゐるのも、他の例に異なるからこれも誤であらう。今卷一の例によつて改めた。
 
大津皇子竊下2於伊勢神宮1上來時、大伯《オホク》皇女御作歌
 
大津皇子は天武天皇の第三子で、母は太田皇女、大伯皇女の同母弟である。幼より才擧學あつて文筆に長ぜられたので、天智天皇に愛せられたが、朱鳥元年天武天皇崩御の際、反を謀つて捕へられ、死を賜はつた。時に年二十四、紀に「容止墻岸、音辭俊朗云々、及v長辯有2才學1、尤愛2文筆1、詩賦之興自2大津1始也」とある。その反を謀つた事に就いては、懷風藻に「時有2新羅僧行心1、解2天文卜筮1、詔2皇子1曰、太子骨法不2是人臣之相1、(390)以v此久在2下位1、恐不v全v身、因進2逆謀1」とある。詩は懷風藻に四首見えてゐる。その絶命の辭に曰く「金烏臨2西舍1、皷聲催2短命1、泉路無2賓主1、此夕誰家向」と。大伯皇女は大來皇女とも書く、齊明天皇西征の時、七年正月、備前の大伯の海上で産れられたので大伯皇女と名けた事や、天武天皇の二年に齋宮に選ばれ、同三年十月伊勢に下られた事やらが紀に見えてゐる。皇子が窃かに伊勢神宮に下られたのは、事の露見しかゝつてからか否かは明かでないが、そこには姉君も居らせられるから、袂別を兼ねた祈願の爲であつたであらう。時は秋であつたらしい。
 
105 吾勢枯乎《ワガセコヲ》 倭邊遣登《ヤマトヘヤルト》 佐夜深而《サヨフケテ》 鷄鳴露爾《アカトキツユニ》 吾立所霑之《ワガタチヌレシ》
 
○吾勢枯手《ワガセコヲ》――「せこ」は男を親しんで呼ぶ稱であるが、こゝは弟の大津皇子を指すのである。
○倭邊遣登《ヤマトヘヤルト》――「やると」の「と」はとての意。
○佐夜深而《サヨフケテ》――「さ」は接頭辭。
○鷄鳴露爾《アカトキツユニ》――「あかとき」は明時で、夜が明けかけて明るくなる頃をいふ。即ち後の「あかつき」である。
○吾立所霑之《ワガタチヌレシ》――わが立ちぬれしよの意で、詠歎の意をこめて已然形で結んだのである。
◎一首の意――わがせこを大和へかへし遣るとて、あまりに名殘をしさに、夜更けまで立ちつくして明方の露にぬれましたわい。さても心づくしな事ぢや。
夜更けに君を送つて曉まで立ちつくした意に見る説もある。此歌の場合はさうであつたかも知れぬけれど、夕と(391)いひ、夜といひ、曉といふ、歌では語の都合で流用する事が多い。卷一「蘆邊行く鴨の羽がひに霜降りて、寒き夕は大和しおもほゆ」(六四)なども、霜のおくのは、夜更け曉近くの事でなければならぬが、歌では「寒き夕」とよんでゐる。此歌も語法上からは「小夜ふけて」も「明時露に」も共に「吾が立ちぬれし」にかゝるのであらうから、強ちに泥まずともの事である。
 
106 二人行杼《フタリユケド》 去過難寸《ユキスギカタキ》 秋山乎《アキヤマヲ》 如何君之《イカニカキミガ》 獨《ヒトリ》越武《コエナム・コユラム》
 
○二人行杼《フタリユケド》云々――二人行くとも行き過ぎ難かるべき秋山の意であるが、歌には語數の制限が有つて、さうはいへないから、すべてを現在にしたのである。卷一、「※[女+采]女の袖吹きかへす明日香風」(五一)の類である。
○如何君之《イカニカキミガ》――舊訓以來「いかでかきみが」と訓んでゐるが、萬葉時代には「いかにか」とはいふが、「いかで」「いかゞ」などいふ用法はまだないといふ新考、全釋、講義等の説が、げにと思はれるから、それに從ふ事にする。但し檜嬬手、攷證等は早く「いかにか」と訓んでゐる。
○獨《ヒトリ》越武《コエナム・コユラム》――舊訓は「ひとりこゆら〔右○〕む」であるが、考は「こえな〔右○〕む」と改めた。どちらがいゝとも俄に斷ぜられないが、全釋にいふ如く「らむ」は多く「良武」とあるやうだから、姑く「なむ」と訓む事にする。尤も「良」が脱ちたとする攷證の説、「良」なくても用ひるといふ美夫君志の説(卷七「うぢ河は與杼湍無之《ヨドセナカラシ》云々」(一一三五)の類)もあるから強ちに泥むにも及ばないかも知れぬ。
◎一首の意――二人連れ立つて行つてすら、淋しくてとても通れないであらうと思はれる秋の山路を、我が弟の君(392)が、どうして只一人越えて行かれる事であらうか。
この二首の歌を見ると陰謀の件はそれとなく姉君にも洩らされたのであらう。今更如何ともする事が出來ず、行末を案じ煩うて氣もそゞろな樣子が見える。
 
大津皇子贈2石川郎女1和歌一首
 
107 足日木乃《アシビキノ》 山之四付二《ヤマノシヅクニ》 妹待跡《イモマツト》吾立所沾《ワレタチヌレヌ》 山之四附二《ヤマノシヅクニ》
 
○足日木乃《アシビキノ》――山の枕詞、古來最も廣く用ひられてゐるが意義は明かでない。山は足を曳きながら喘ぎ/\登るからといふ古説はあまり幼稚で、此點から説を立てるなら、山は長く脚を曳いて横たはつてゐるから(裾野)といふ説の方がまだしも穩であらう。その他冠辭考、古事記傳、古義等とり/”\に説を爲してゐるが、これぞと思はれるものもない。
○妹待跡《イモマツト》――「と」はとての意。
◎−首の意――昨夜(?)はあなたの御出でを待つとて木の下露(山の雫)にいたく霑れましたよ、わびしい事でありました。
例の二(ノ)句と五(ノ)句とに同じ語をくりかへして、わびしい心を強調したのである。期して來なかつたのでそれとなく恨を云つたのかも知れぬ。
 
(393)石川郎女奉v和歌一首
 
108 吾乎待跡《アヲマツト》 君之沾計武《キミガヌレケム》 足日木能《アシビキノ》 山之四附二《ヤマノシヅクニ》 成益物乎《ナラマシモノヲ》
 
○吾乎待跡《アヲマツト》――舊訓「われをまつと」を、考の「あをまつと」と改めたのがよからう。
◎一首の意――それはまア、しかしあなたの御召物に滴つたといふ山の雫が羨しい事です。わたし、その雫になりたいものでしたね。
巧に受け流して、その雫になりたかつたとは、先方の武器を逆用したもの、兵法に所謂「資2糧於敵1者」で何等の老獪な手段ぞ、この郎女たゞ者ではあるまい。戀の贈答には此種の形が多いが、之が抑々その先驅であらう。
 
大津皇子竊婚2石川女郎1時、津守連通占2露其事1皇子御作歌一首
 
津守連通は續紀に「養老五年正月甲戊詔曰云々、宜(丙)擢於百僚之内、優2遊學業1、堪v爲2師範1者u、特加2賞贈1、勸(乙)勵後生(甲)因賜2云々、陰陽從五位上大津連首、從五位下津守連通〔四字右○〕云々各※[糸+施の旁]十疋、絲十※[糸+句]、布二十端、鍬二十口1云々」と見え、卜占の道に長じた人であつたらしい。占露云々は皇子が石川女郎と窃かに通じた時、この通が占であらはしたといふのである。
この前後に石川郎女又は石川女郎といふが所々に見えてゐるが、如何なる人とも判らぬ。檜嬬手別記には遊行女婦であらうといつてゐるが、或はさうかも知れねど、その言ふ所はあまりに想像に過ぎるやうに思ふ。(394)美夫君志は年代の相違してゐる事や、次の歌の注に「女郎字曰2大名兒1」とあるのや、下の大津宮侍云々の歌(一二九)の古注に「女郎字曰2山田郎女1也」とあるのや、卷四の歌(五一八)なる古本の注に「即佐保大伴大家也」とあるなどを擧げて、各、別人であらうといつてゐる。但、二書とも郎女も女郎も同じ事と見てゐるらしいが、果してさうであらうか。これが第一の疑問である。「女郎名曰2山田郎女1也」といふ注から推せば、郎女も女郎も同義のやうにも見えるが、一概にさうばかりも言へない點もある。三、四の卷には大伴坂上郎女の歌が隨分多いが、いづれも皆郎女とあつて女郎といふ所は一つもない。そしてその間に阿倍女郎、笠女郎、中臣女郎、紀女郎、大神女郎などいふ名が、ぽつ/\入り雜つてゐる所を見ると、郎女と女郎とは區別があるではなからうかとも感ぜられる。つまり女郎といふは遊行女婦で、郎女といふが然るべき夫人淑女の事ではあるまいかとも思ふけれど、久米禅師が聘した石川郎女や大津皇子と贈答した石川郎女も、歌のよみ口からいへば、たゞ人ではないらしくも思はれる。とにかくよく研究すべきである。
 
109 大船之《オホフネノ》 津守之占爾《ツモリノウラニ》 將告登波《ノラムトハ》 益爲爾知而《マサシニシリテ》 我二人宿之《ワガフタリネシ》
 
○大船之《オホフネノ》――大船の泊つる津といふ意で、津の枕詞となる。
 
○將告登波《ノラムトハ》――舊訓「つげむとは」を考が「のらむとは」と改めたのがよからう。卷十一「事靈を八十の衢に夕占《ユフケ》問ふ占正謂《ウラマサニノレ》云々」(二五〇六)、又「夕卜《ユフケ》にも占にも告有《ノレル》こよひだに云々」(二六一三)などの如く卜にあらはれる事を「のる」といふのである。「のる」は本來他動詞であるが、此の場合、他動詞が轉じて一種の自動詞のやうになつ(395)たものといふべきである。占卜も事はよくは知らないが、卜にあうて隱し切れず白状〔二字右○〕した意であらうから、この意味でやはり他動詞であらうけれど、事の性質上、當人が親しく白状するのではないから、世上では「卜に出た」「卜にあらはされた」といふのである。此の場合、轉じて自動詞のやうになるので、「津守の占に告る」といふが恰もそれである。委かにいへば「卜にあうて告る」のである。卷十四に「武藏野にうらへ片やき麻佐※[氏/一]爾毛乃良奴〔三字傍点〕君が名うらに出にけり」(三三七四)といふのがあるが、此歌の「のらぬ」は正しく他動詞のやうに用ひられてゐるが、「告げぬ」といはないで「のらぬ」といつたのは卜の縁語だからである。末句の「うらに出にけり」は正に自動詞のやうに扱はれた氣分をあらはしてゐる。攷證や美夫君志などが、なほ舊訓を固執してゐるのは此點をよく分別しないからであらう。美夫君志の擧げた卷十三の例「夕卜之吾爾告良久《ユフウラノワレニツグラク》」(三三一八)などは、夕卜にあらはれた事を、夕卜が吾に告げたといふ意に言ひなしたので、再び他動詞に還元したのである。こゝの「占爾將告」とはおのづから異なるのである。なほよく可v考。
○益爲爾知而《マサシニシリテ》――略解に本居翁の説を擧げ、上に述べた卷十四「武藏野にうらへ片やき」(三三七四)の歌を引いて、「益爲爾」は「益※[氏/一]爾」の誤であらうといつてゐるが「益爲爾《マサシニ》」は「正しに」で、「正し」といふ形容詞の語幹に「に」を添へて副詞としたものであらう。前に引いた「占正にのれ」の「正に」と同じく、「正に」とも「正《マサ》しに」ともいつたものであらう。正しく、たしかに、などの意である。古義が「兼而乎《カネテヲ》」の誤とし、山家集なる「年くれぬ、春くべしとは思ひ寐のまさし〔三字傍点〕に見えてかなふ初夢」とあるを、この御歌の誤字によつてよめるものとしたなどは、思ひ切つた獨斷といふべきである。(但、この山家集の歌」思ひ寐に〔右○〕、まさしく〔右○〕云々」といふ本もある。)
(396)○我二人宿之《ワガフタリネシ》――上の「吾が立ちぬれし」と同じ語法である。
◎一首の意――さうかい、津守の占に卜はれてあらはれたのかい。ハヽヽヽ。さういふ事があらうとは豫ねて承知で、我々二人が寢たのだよ。今更驚くにも及ぶまい。
懷風藻に此の皇子の人となりを評して「状貌魁桐、器宇峻遠云々性頗放蕩不v拘2法度1」といつてゐるが、この歌よく其趣をあらはしてゐる。
 
日並皇子尊贈2賜石川女郎1御歌一首 女郎字曰2大名兒1也
 
考が「日並」の下に「知」を補つて「日並知」としてゐるのは績日本紀に據つたのであらう。攷證は更に進んで、元暦校本の目録によつて「日並所知」と改めてゐるが、其他の諸本は皆「日並」となつてゐるので、美夫君志は、これ當時の慣習で、吉備眞吉備を眞備と書く類で、省略の法に從つたもの、誤ではないといつてゐる。訓は卷一、日雙斯皇子の所(四九)で述べた如く「ひなみし」又は「ひなめし」と訓むべきで、草壁皇太子の事である。さて元暦校本、金澤本、類聚古集其他には端書の下に「女郎字曰2大名兒1也」といふ小字の注がある。此の舊本には「女郎字曰」の四字あるだけだが、多分書きもらしたのであらう。
 
110 大名兒《オホナコヲ》 彼方野邊爾《ヲチカタヌベニ》 苅草乃《カルカヤノ》 束間毛《ツカノアヒダモ》 吾忘目八《ワレワスレメヤ》
 
○大名兒《オホナコヲ》――上の小注に見える如く、即ちこの女郎の字である。此句を元暦校本、金澤本、類聚古集、其地多くの(397)古寫本には「大名兒が」と訓んでゐるが、それでは女郎が草を苅る事になるので、いかゞである。これは舊訓のやうに「を」といふ弖仁乎波を添へて「大名兒を」と訓むべきで、此くから二句を隔てゝ、第四句へつゞくのである。藤原基俊が「大名兒が草苅る岡のさ百合葉のしめゆふまでは人に知らすな」と呼んだのは、この誤れる古寫本の訓に據つたものであらうか。
○彼方野邊爾《ヲチカタヌベニ》、苅草乃《カルカヤノ》――をち方は彼方の義、そこらあたりの野邊といふ事。三(ノ)句元暦校本には「かるくさの」と訓んでゐるので、美夫君志は之に據つて、草を「かや」とよむは屋根を葺く料にする時の稱で、一般には「くさ」といふべきだといつてゐる。一應道理ある事だが、歌としては「をち方野べにかるかやの」といふ調が、何となく面白くひゞくから、やはり舊訓(其他一般の訓)に從つておく。さてこの二句は束間にかゝる序である。
○束間毛《ツカノアヒダモ》――「つか」は八拳髭、十握劍などの「つか」で苅り取つた草の一握りほどの長さをいふので、短き事の譬へである。序詞からのつゞきは空間的に用ひられてゐるが、下句への續きは時間的に轉じたのである。
◎一首の意――しばしなりとも御まへの事を忘れようか、忘れはせぬぞよ。
歌の意はそれだけだが、「をち方野べにかるかやの」といふ二句の序がおもしろい。序で歌が引き立てられてゐるのである。卷四「夏野ゆく男鹿の角の束の間も、妹が心を忘れて念へや」(五〇二)といふ人麿の歌の技巧も意義も、ほゞ同型のものといふべきである。
 
幸2于吉野宮1時、弓削皇子贈2與額田王1歌一首
 
弓削皇子は天武天皇の第六子で、母は大江皇女、卷一に見えた長皇子と同腹の御兄弟である。持統天皇七年(398)正月、兄(ノ)皇子と共に淨廣貳を授けられ、文武天皇三年七月薨ぜられた事が續紀に見えてゐる。
 
111 古爾《イニシヘニ》 戀流鳥鴨《コフルトリカモ》 弓絃葉乃《ユヅルハノ》 三井能上從《ミヰノウヘヨリ》 鳴渡遊久《ナキワタリユク》
 
○古爾《イニシヘニ》、戀流鳥鴨《コフルトリカモ》――古に〔右○〕戀ふとは、今、古を〔右○〕戀ふといふに等しい。「かも」の「か」は疑辭、昔戀しくて鳴く鳥かといふのである。吉野は御父天武天皇の鍾愛せられた場所で、離宮を営ませられてしば/\行幸あらせられた所だからいふのであらう。
○弓絃葉乃《ユヅルハノ》、三井能上從《ミヰノウヘヨリ》――「三井」は御井で「ゆづる葉の御井」といふは泉の名である。大和志によると、その頃「ゆづる葉の御井」と稱へるものが、二ヶ所にあつた事が見えてゐる(一は池田荘六田村に、一は川上莊大瀧村に)。多分側に大きなゆづる葉の木でもあつたのであらう。ゆづる粟は年の始にも用ひるもので、人のよく知る所である。「絃」は「弦」の誤であらうといふ人もあるが、絃、弦、通じて用ひられた事は上にも見えてゐる。「上從《ウヘヨリ》」は今「上を」といふにひとしい。すべてそこを通過して他へ行く意の時は皆「より」といつたのである。
◎一首の意――こゝに來て見ると父帝の昔を偲ぶべきかたみがくさ/”\ある。丁度今、ゆづる葉の御井の上を鳥が鳴いて行くが、これも昔戀しさに鳴く鳥であらうか。(この心を語るべき者は、あなたの外にはないと思ふ。)
額田王も昔關係のあつた人で、此時は都に留つて居られたらしいから、使に托して此歌を贈る氣になつたのであらう。卷一、「倭には鳴きてか來らむ云々」(七〇)と何となく似通うた歌である。
 
(399)額田王奉v和歌一首 從2倭京1進入
 
「從2倭京1進入」の五字は舊本にはないが、元暦校本、金澤本、其他にはある。弓削皇子のやさしい志に對して、遙々都から返歌を送つた意をことわつたもので、古い注であらう。
 
112 古爾《イニシヘニ》 戀良武鳥者《コフラムトリハ》 霍公鳥《ホトトギス》 盖哉鳴之《ケダシヤナキシ》 吾戀其騰《ワガコフルゴト》
 
○古爾《イニシヘニ》――全釋に卷十「倭には啼きてかくらむ霍公鳥、汝がなく毎になき人おもほゆ」(一九五六)といふ歌などを擧げて、郭公は昔を懷ふ鳥、故人を慕ふ鳥といふ傳説があつたのであらうといつてゐるが、さうかも知れない。少し後ながら古今集にも「むかしへや今もこひしき時鳥、古里にしも啼きて來つらむ」といふのがある。さうした傳説を本に時期などから推して時鳥と定められたのであらう。
○盖哉鳴之《ケダシヤナキシ》――盖は若しの意、この語、語法上からは時島にかゝらない事勿論であるが、歌の心ばへは暗にひゞいてゐるのである。考に「盖し時鳥ならむ」と解いたのは穩當でないが、美夫君志のそを難じたのも、また一概といふべきである。「や」は疑辭。
◎一首の意――昔こひしげに鳴いたと仰しやるのは多分時鳥の事でせう。そしてその時鳥はもしかすると啼いたかも知れませぬ。私が昔戀しさに、都に居て啼いて居りますやうに。
 
從2吉野1折2取蘿生松柯1遺〔左○〕(シシ)時額田王|奉入《タテマツレル》歌一首
 
(400)蘿生松柯は「こけむせるまつがえ」と訓んでゐる。但し蘿《コケ》は松蘿又は女蘿、和名|万豆乃古介《マツノコケ》、又|佐流乎加世《サルヲガセ》の事といはれてゐる。これは深山の樹上にかゝつて長く垂れ下るもので、今俗に「さがりごけ」といふ。松柯は松の枝。「遺」(ノ)字元暦校本、金澤本、其他の古寫本「遣」とあるが、舊本には「遺」とある。これはどちらでもよからう。(但、舊本も目録には「遣」とあるので、代匠記は之に從つてゐる。)「奉入」二字は「たてまつれる」にあてた字であらう。此歌は前なる「一一一」の歌の端書にもたれて、少し節略したので、弓削皇子が額田王に贈つた意であらう。隨つて「奉入」は女王が皇子に奉つた意である。歌によれば、それには詞が副はつてゐたらしいがそれは分らない。恐らくは上の「弓弦葉云々」の歌が、それであるかも知れぬ。木の枝又は花などにつけて人に文を贈るといふ習はしは、よほど古くから行はれたものと見える。
 
113 三芳野乃《ミヨシヌノ》 玉松之枝者《タママツガエハ》 波思吉香聞《ハシキカモ》 君之御言乎《キミガミコトヲ》 持而加欲波久《モチテカヨハク》
 
○立松之枝者《タママツガエハ》――玉は美稱、本居翁は卷十六に「足曳之、山《ヤマ》縵之兒」(三七八九)とある歌を引いて、字體の似たるより「山」を「玉」と誤れる例多きを論じて、こゝも山〔右○〕松の誤であらう。玉松といふ事はある事なしと言はれた(玉勝間卷十三)のは面白い説だが、それはそれ、これはこれ、玉椿、玉柏、玉藻、玉襷、玉櫛笥などの例によつて美稱と見て何の不郡合があらうか。強ちに誤字とするにも及ぶまい。老松の葉は圓くなるを玉松といふべしといふ考の説も、いかゞである。又「三(ノ)句にて『はしきかも』とほめむとするは、二(ノ)句にて豫めほむべきにあらず」といふ新考の説も一概といふべきである。なは玉縵をすべて山縵の誤とする本居翁の説(上掲の卷十六(401)の歌は別であるが)に從ひがたき事は下の「一四九」の歌で述べよう。
○波思吉香聞《ハシキカモ》――「かはゆきかな」の意。
○君之御言乎《キミガミコトヲ》、持而加欲波久《モチテカヨハク)――君は弓削皇子を指す。「かよはく」は所謂加行延言で通ふ事よの意。
◎一首の意――吉野の此の松が枝は何て可愛いでせう。あなたの御言傳を以て遙々通うて來ました事よ。
萬葉には珍らしい三句切の歌であるが、優にしてやさしい氣分の歌である。
 
但馬皇女在2高市皇子宮1時、思2穗積皇子1御歌一首
 
天武紀に「夫人藤原大臣女、氷上娘生2但馬皇子1云々次夫人蘇我赤兄大臣女、大〓《オホヌ》娘生2一男二女1、其一曰2穗積皇子1、其二曰2紀皇女1云々、次納2胸形君徳善女尼子娘1生2高市皇子命1云々」と見えてゐるから、いづれも異腹の御兄弟でいらせられる。さて皇女はいかなる理由で高市皇子の宮中にいらせられたのか、それは判らぬ。それに關する新考の説は次に述べよう。
 
114 秋田之《アキノタノ》 穗向之所縁《ホムキノヨレル》 異所縁《カタヨリニ》 君爾因奈名《キミニヨリナナ》 事痛有登母《コチタカリトモ》
 
○秋田之《アキノタノ》、穗向之所縁《ホムキノヨレル》、異所縁《カタヨリニ》――稻は實のるに隨つて一方に靡き伏すものであるからいふのである。「穗向」を舊訓に「ほむけ」と訓み、考も同訓であるが、卷十七に「秋田之穗牟伎〔三字傍点〕見がてり」(三九四三)とあるから、それによるべきである。(略解以後は一般にほむき〔三字傍点〕と訓んでゐる。)「所縁」は考によれる〔三字傍点〕と訓んだのがいゝ。「異所縁」(402)を「かたより」と訓むのはよく判らないが、卷十に三句全く同じい歌があつて、それには「秋田之、穗向之所依、片縁、吾者物念、都禮無物乎」(二二四七)とあるから、それに據つたのであらう。全釋は「こと」と「かた」と通はしたものであらうといつてゐる。さて此の三句は「かたより」にかゝる序詞である。
○君爾因奈名《キミニヨリナナ》――因《ヨリ》は依り靡く意、「なな」未來完了の「なむ」に似て少し異なり、下の「な」は動詞、助動詞の未然形に附いて希望(こゝは自己の希望)をあらはす古代の助辭で、卷一「今はこぎ出でな」(八)の「な」にひとしい。卷一卷頭の「家|吉閑《キカナ》」の條に委しく述べておいた。混じてはならない。
○事痛有登母《コチタカリトモ》――「事痛」は「言痛」で、「こといた」の約、下に「人事を繁み許知痛美〔四字傍点〕」(一一六)とあるにひとしく、口やかましく、うるさい義である。(轉じては仰山な意にもいふが、こゝはうるさい義である。)
◎一首の意――今はもうひとへに君の御心に從はうと思ひます。よし世間は何と言はうとも。
此歌の序は面白いが、全釋は耕人の捉へさうな詩材だとて、前に掲げた卷十の民謡が基で、下句を變へただけであらうといつてゐる。
 
勅2穗積皇子1遣〔左○〕2近江志賀山寺1時、但馬皇女御作歌一首
 
志賀山寺は崇福寺の事で、天智天皇七年正月十一日近江の志賀郡に建てられた由が扶桑略記に見えてゐる。穗積皇子をこゝに遣はされた事に就いては、考は法師にする爲であらうといつてゐるが、新考は「但馬皇女は高市皇子の妃たりしにて、其前より穗積皇子と通じたりしが、高市皇子に聘せられし後も、なほ穗積皇子を思ふ事已まずして、秋の田の云々の御作歌あり、それのみならず、宮にましながら、窃に穗積皇子に逢ひ(403)給ひしかば、その咎によつて皇子は近江に遣られ給ひしにこそ」と想像してゐる。それは何とも言へぬけれども、皇子と皇女とを隔てん爲には相違あるまい。「遣」舊本「遺」に誤る。
 
115 遺居而《オクレヰテ》 戀管不有者《コヒツツアラズハ》 追及武《オヒシカム》 道之阿回爾《ミチノクマワニ》 標結吾勢《シメユヘワガセ》
 
○戀管不有者《コヒツツアラズハ》――「八六」の歌で述べたやうに、「徒らに戀してゐないで、寧ろ御跡を追うてまゐりませう」の意に解すべきだが、便宜上「戀ひつゝあらむよりは」と見ておいてもよからう。
○追及武《オヒシカム》――舊訓「おひゆかむ」とあるはわるい。代匠記を初め、すべて「おひしかむ」と訓んでゐる。「しく」は追ひ及ぶ義で、おひつく事である。
○道之阿回爾《ミチノクマワニ》――「阿回」を今は一般に「くまみ」と訓むが、卷一「四二」の歌で述べた如く、まだ研究を要するものと思ふから、舊訓のまゝ「くまわ」と訓んでおく。「阿」は曲也とあつて隅、隈、などゝ同義である。
○標結吾勢《シメユヘワガセ》――こゝの標は妄りに人を入れぬために繩など引き渡したしめ〔二字傍点〕ではない。道しるべ、目じるし、をいふので、後世の栞の事である。君が行く路のくま/”\に目じるしをしておいてたまはれ。それをしるべに私もあとから追うて參りませうからといふのである。然るに攷證はあくまで前者の意に解して「おくれゐて戀ひつゝあらんよりは、君を追ひ行きなむ、君はそれをうるさしとおぼすべし〔君は〜傍線〕、さらば道のくま/”\に標引き渡し、我がこすまじきやうに隔てしたまへとすまひていへる〔七字傍点〕なり」といつてゐる。不思議な見解もあるものである。
◎一首の意――あなたにおくれて徒らに戀ひこがれてあらんよりは、いつそ御あとを慕うて追うてまゐりませう。(404)吾が背の君よ、御通りになる道のくま/”\に道しるべの標をしておいて給はれ。それを栞に追うてまゐりませうから。
これも三句切である。「追及武」を連體形と見る説もあるがどうであらうか。
 
但馬皇女在2高市皇子宮1時、竊接2穂積皇子1事既形而後御作歌一首
 
116 人事乎《ヒトゴトヲ》 繁美許知痛美《シゲミコチタミ》 己(母〔左○〕)世爾《オノガヨニ》 未渡《イマダワタラヌ》 朝川渡《アサカハワタル》
 
○人事乎《ヒトゴトヲ》――事は借字で「人言を」であらう。
○繁美許知痛美《シゲミコチタミ》――例の形容詞の語幹につく「み」をくりかへしたので、世間の口がしげさに、うるさゝにの意である。
○己母世爾《オノガヨニ》――この句よく訓めないので、古來さま/”\にいぢられてゐる。まづ代匠記は、このまゝで「いもせに」と訓み、考は「おのもよに」と訓み(このも〔右○〕はの〔右○〕の意のも〔右○〕で「おのがよに」といふに等しいといつてゐる)、略解は「母」を「我」の誤として「おのがよに」と訓み、略解に引いた本居翁の説では、「爾」は川又は河、又は水の誤で、「いもせがは」であらうといひ、古義は「己母」の二字を「生有」の誤として「いけるよに」と訓み、檜嬬手は由阿本に「母」の下に「流」字があるとかで、「母」を「介」の誤とし「涜」を取り入れて、「いけるよに」と訓してゐる。いづれも「母」(ノ)字を認めての説であるが、元暦校本には「母」(ノ)字がないから、これによれば、その(405)まゝで「おのがよに」とよめるのである。尤も攷證は「おのがよに〔五字傍点〕と訓まんに、母〔右○〕(ノ)字ありてはいかゞなれば、さかしらに省けるなるべし。此等にても元暦校本は、さかしらを交へしを知るべし」といつてゐる。げの「己世」二字の間に○印のあるも故ありげにみ見えるから、攷證の説も考慮すべきではあるが、「母」のなきは元暦校本のみではなく、類聚古集、古葉略類聚鈔、神田本其他も同樣で、しかも元暦校本の訓は「おひのよに」とあるから(義は通じないが)、「おのがよに」と訓まんとて故らにさかしらをしたものともいへないと思ふ。よつて多少の疑問はあるけれど、姑くその訓に從つておく。「おのがよに」といふは、此世に生れて初めてといふほどの義である。
○未渡《イマダワタラヌ》、朝川渡《アサカハワタル》――朝に川を渡るを朝川渡るといふ。皇女は人言のうるさゝに堪へずして、夜ふけて窃に皇子の宮中を脱出して、他に隱れられたのであらう。その途中小川などあつてかち渉りせられたわびしさを宣うたのであらう。檜嬬手に人言がうるさいので川に禊して拂ふ意とせられた説は當らない。
◎一首の意――人の噂がうるさいので、ぢつとしては居られず、かうして他所へ避けてゆくが、私がまだ渉つた事のない朝けの川を徒《カチ》渉りする事であるわい。戀といふものはつらいものぢや。
高貴の御身分で、冷たい朝の流を徒渉せられたのは、いかにもつらかつたので「おのが世にいまだ渉らぬ」と強調せられたのであらう。これも戀なればこそである。新考にいはれた如く、涼氏物語夕顔の卷に、源氏の君が、霧深き朝、夕顔をなにがしの院につれ出すとて、「古もかくやは人のまどひけむ、我がまだ知らぬしのゝめの道」とよまれたのは、よくこゝの趣に似てゐる。
 
舍人親王御歌一首
 
(406)親王は天武天皇の第三子で、母は新田部(ノ)皇女、持統天皇九年正月淨廣貳を授けられ、養老二年正月一品に叙せられ、天平七年十一月薨去せられた事が史に見えてゐる。その勅を奉じて日本書紀三十卷を撰進した事は人のよく知る所である。
 
117 大夫哉《マスラヲヤ》 片戀將爲跡《カタコヒセムト》 嘆友《ナゲケドモ》 鬼乃益卜雄《シコノマスラヲ》 尚戀二家里《ナホコヒニケリ》
 
○大夫哉《マスラヲヤ》、片戀將爲跡《カタコヒセムト》――他が我を思はぬのに、我のみ獨り思を運ぶのが片戀である。「や」は反語。
○鬼乃益卜雄《シコノマスラヲ》――鬼は醜の省畫で「しこ」と訓む。もと醜惡なるものを惡み罵るより出で、一般に他を厭ひ罵るにも、又自分から卑下して嘲りいふにも用ひる。卷四「忘草わが下紐につけたれど、鬼《シコ》の志許〔二字傍点〕草ことにしありけり」(七二七)は他を罵る意、こゝは卑下の意で、卷二十「今日よりはかへり見なくて大君の之許の御盾〔五字傍点〕と出で立つ我は」(四三七三)などゝ同じ趣である。
◎一首の意――大丈夫たる者徒らに片戀などをするものか、そんなめゝしい事はせんぞと、幾たびとなく自から抑制するけれど、この愚かしい、くされますらをめが、やはり戀をするわい。その片戀をさ。
嘆友といふ語に煩悶努力の跡が見える。熱情の樣子も見える、正に丈夫の戀といふべきである。
 
舍人娘子奉v和歌一首
 
舍人娘子は卷一「六一」の歌にも出で、持統天皇の行幸に供奉した娘子であるが、何者とも判らぬ。皇子の(407)乳母の女かといふ説もあるが、何ともいへぬ。
 
118 歎管《ナゲキツツ》 大夫之《マスラヲノコノ》 戀禮〔左○〕許曾《コフレコソ》 吾髪結乃《ワガモトユヒノ》 漬而奴禮計禮《ヒヂテヌレケレ》
 
○大夫之《マスラヲノコノ》、戀禮許曾《コフレコソ》――「禮」(ノ)字舊本「亂」とあるに據つて、代匠記は「戀」を上句につけて「ますらをのこひ、みだれこそ」と訓んでゐるが、金澤本、大矢本、西本願寺本、其他には「禮」とあるし、舊本も訓はやはり「こふれこそ」であるから」亂」は「禮」の誤であらう。よつてそれに從ふ事にした。その結果「戀」字は下句につき、上句は「ますらをのこの」と訓む事になるのである。「こふれこそ」は「こふればこそ」の意である。
○吾髪結乃《ワガモトユヒノ》、漬而奴禮計禮《ヒヂテヌレケレ》――此の二句、少し要領を得ない。代匠記は「髪結」を「もとゆひ」と訓み、「もとゆひ〔四字傍点〕といへども只髪なり」といつてから、諸家皆之に從つてゐる。又「奴禮」は考に下の「多氣婆奴禮〔二字傍点〕」の歌を引いて「たがね結ひたる髪のおのづからぬる/\と解け下りたるをいふ」といつてから、これも大方これによつてゐる。人に戀ひらるれば束ねた髪のおのづから解けるといふ諺があつたのであらうと言はれてゐる。然るに近來の學者は「もとゆひ」を語通りに髪の根本を束ねる紐と解し、「ぬれ」をたゞ濡れるの意に解し(昔の註釋では古義がこの説である)人に戀ひせらるれば、おのづから元結が濡れるといふ諺があつたのであらうと解く説が多いかに思ふ。これは諺の意義如何にもよる事であるが、人に戀せらるれば元結が濡れるといふは、少し要領を得がたいと思ふけれど、油づきてぬる/\と垂れ下るといふも、亦新考の難ずる如くどうかと思ふから、なほよく考ふべきである。なは舊訓は「髪結」を「ゆふかみ」と訓み、元暦校本は「結髪」とあつて、やはり「ゆふかみ」と(408)訓んでゐるが、朱で入(レ)換の記號を附してゐる。又結句の「漬」(ノ)字、元暦校本、金澤本には「須」とあつて「まちて」と訓んでゐる。參考のため附記しておく。
◎一首の意――丈夫たるあなたが、そのやうに戀せられるからでありませう。私の髪が、この頃とかくほどけかゝります。(又は道理で私の元結がとかくしめりがちでございます。)
戀せられた反應のあつた事は認めた歌であるが、果して心を許したか否かは明かでない。
 
弓削皇子思2紀皇女1御歌四首
 
弓削皇子は上に出づ。紀皇女も上に擧げた如く、穗積皇子と同腹の御兄弟で、弓削皇子の異母妹である。
 
119 芳野河《ヨシヌガハ》 逝瀕之早見《ユクセノハヤミ》 須臾毛《シマラクモ・シマシクモ》 不通事無《ヨドムコトナク》 有巨勢濃香毛《アリコセヌカモ》
 
○逝瀬之早見《ユクセノハヤミ》――早みは「早さに」の意である。常の例によると「逝瀬を〔右○〕早み」といふべきであるから、檜嬬手は「之」を「乎」の誤としてゐる。但し古本に隨へりとあるけれど、今さる本が見當らぬ。又古葉略類聚鈔には「見」(ノ)字がないが、之によらば「ゆくせのはやく」と訓むべきである。さて此の二句は「不通事無」にかゝる序詞である。
○須臾毛《シマラクモ・シマシクモ》――I舊訓は「しばらくも」であるが、それは少し後の語遣であるから、萬葉の多くの例によつて、略解以後「しましくも」と訓んでるのがいゝかも知れぬ。攷證は舊訓の面影を殘さんとて、「しまらくも」と訓んでゐる(409)が、それもよからう。
○不通事無《ヨドムコトナク》――舊訓は「たゆることなく」で、それもわるくはないが、萬葉の他の例に照して、代匠記が早く「よどむことなく」と訓んだのがよからう。
○有巨勢濃香毛《アリコセヌカモ》――「こせぬ」の「こせ」は希望の意を表はす古格の助辭である。これは「こそ」といふが常だが、轉じて「こす」とも「こせ」とも用ひられる。すべて動詞の連用形を承けるので、「こそ」の例は卷五に「梅の花、夢に語らく、みやびたる花とあれ思ふ酒に泛べこそ〔二字右○〕」(八五二)といふが、それである。「こす」の場合は、必ず下に禁止の助辭「な」を件ふので、卷八「霞立ち春日の里の梅の花、嵐の風に散り許須〔二字右○〕なゆめ」(一四三七)、又「こせ」の場合は、下に希望の「ね」又は打消の「ぬ」を伴ふ事が多い。古事記上に「うれたくも鳴くなる鳥か、此鳥もうちやめ許世〔二字右○〕ね云々」などいふ類である。こゝは打消の「ぬ」を伴ふ場合で、この場合は俗に「來れ」といふ事を、「來ぬか」といふ如く、「か」に引かされて意が強く裏がへるのである。卷五「梅の花今さけるごと散りすぎず、我が家《ヘ》の園にあり己世奴〔三字傍点〕かも」(八一六)も同樣で、「我家の園にあらぬか、あれよ」といふのである。隨つて「か」は反語であらう。
◎一首の意――(吉野川の早瀬のやうに)しばしも淀まず通うて來られんかなア。どうか、さうあつてほしいものぢや。
この四首を連ねて味ふに、この歌も恐らくは直接皇女に贈つたものではなく、皇子獨自の述懷であらう。今その意で解釋した。
 
(410)120 吾妹兒爾《ワギモコニ》 戀乍不有者《コヒツツアラズハ》 秋芽〔左○〕之《アキハギノ》 咲而散去流《サキテチリヌル》 花爾有猿尾《ハナニアラマシヲ》
 
○秋芽之《アキハギノ》――「芽」(ノ)字、今本「茅」に誤まる。今、元暦校本、金澤本其他によつて改めた。さて萬葉集撰述の頃はまだ「萩」の字がなかつたといふので、此集には多く芽、芽子又は榛(ノ)字などをあてゝゐる。後に「萩」(ノ)字を借りてあてたが、漢字本來の義ではない。「芽」字も我國の製造で、漢字の芽(ノ)字の義ではないと美夫君志はいつてゐる(同別記に委しい)。
○咲而散去流《サキチチリヌル》――咲いてやがて散る意であらう。後世ならば櫻でも持ち出すべきであらうと思ふが、櫻はまだあまり詠まれてゐない。萩は廣く賞玩せられたらしい。
◎一首の意――徒らに妹に戀して懊悩してゐるよりは、寧ろ咲いてやがて散る、あの清い優美な萩の花であればよかつた。何の物思もなげで。
 
121 暮去者《ユフサラバ》 鹽滿來奈武《シホミチキナム》 住吉乃《スミノエノ》 淺香乃浦爾《アサカノウラニ》 玉藻苅手名《タマモカリテナ》
 
○暮去者《ユフサラバ》――舊訓は「ゆふされ〔右○〕ば」とあるが、二(ノ)句の「來なむ」との打合上、「ゆふさらば」と訓むべきである。
○淺香乃浦爾《アサカノウラニ》――今は埋もれてよく判らないさうだが、攝津志に「淺香丘、在2住吉郡船堂村1、林木緑茂、迎v春霞香、西臨2滄溟1遊賞之地」とある。そこの浦邊であらうといはれてゐる。船堂村は今の五筒莊村で、堺市の東方に當つてゐるが、淺香の浦は市の北方であらうといふ事である。
(411)○玉藻苅手名《タマモカリテナ》――しば/\述べた如く、「な」は希望をあらはす古代の助辭で、こゝは自己の希望を表はす意である。
◎一首の意――夕方になつたなら汐が滿ちて來るであらうから、さうならぬ中に、この淺香の浦の玉藻を早く苅り取りたいものぢや。
弓削皇子思2紀皇女1作歌といふ端書があるから、全篇皆比喩なので「ぐづ/\してゐると邪魔がはいらうから、さういふ事のない中に早く思ふ人を得たいものぢや」といふ意には相違あるまい。それにしても、めつたに歌にはよまれない淺香浦を取り出したのは何か仔細があるであらうか。
 
122 大船之《オホフネノ》 泊流登麻里能《ハツルトマリノ》 絶多日二《タユタヒニ》 物念痩奴《モノオモヒヤセヌ》 人能兒故爾《ヒトノコユヱニ》
 
○大船之《オホフネノ》、泊流登麻里能《ハツルトマリノ》――此の一句は「たゆたひ」にかゝる序詞である。「たゆたふ」は船のゆた/\とゆれる事で、それを心が動搖して落ちつかぬ意に轉用したのである。
○物念痩奴《モノオモヒヤセヌ》――とせんかくせんの物念ひに身は痩せ細つたといふのである。
○人能兒故爾《ヒトノコユヱニ》――考は「未だ得ぬほどなれば他《ヒト》の兒といふべし」といつてゐる。「人の子」は、文字通り他人の子女の意にもいふが、多くの場合、人妻の事をいふのである。こゝはどちらの義か明かでないが、代匠記は「廣く我が手に入らぬ人と心得べきか」といつてゐる。「ゆゑに」は卷一「人嬬故爾、我こひめやも」(二一)といふ所で、述べた如く、「人の子であるのに」の意である。
◎一首の意――とやせん、かくやせんと、所謂ゆたのたゆたの物思ひに、身はかく痩せ細つた。思へはどうともな(412)らぬ人の兒であるものを。
此の四首は其時々々の作を集めたもので、所謂連作ではあるまい。
 
三方沙彌娶2園臣生羽之女1未v經2幾時1臥v病作歌三首
 
三方沙彌といふ人、明かではないが、考は久米禅師などゝ同じで、三方は姓、沙彌は俗人としての名であらうといつてゐる。攷證は持統紀六年十月「授2山田史御形〔二字傍点〕務廣肆1、前爲2沙門〔二字傍点〕1學2問新羅1云々」とある人で、それが沙門であつた時の名であらう。姓氏録などにも、三方といふ姓は見えないし、沙彌滿誓の事を卷四に滿誓沙彌ともあるから、かた/”\三方は名であらうといつてゐる。然るに美夫君志は續紀寶字五年十月に「内舍人御方廣名賜2姓御方宿禰1」と見え、又姓氏録に「左京皇別甲能、從五位下御方大野之後也」とも見えてゐるから、三方はやはり姓で、三方氏の人で、僧侶になつたものをいふのであらう。山田史三方ならば、三方は俗稱と思はれるから、僧號の上に俗稱を冠らすべきではないといつてゐる。諸説まち/\であるが、僧侶としても少しふさはぬやうに思はれるから、姑く考の説に從つて俗人の名としておく。園(ノ)臣生羽は如何なる人か、これも明かでない。次に略解に「病臥の下の作(ノ)字は時の誤なるべし。沙彌一人の歌にあらざればなり」といつてゐる。げに上の久米禅師云々 例によらば、さうあるべきだと思ふが、これはうつかり書いたのかも知れぬ。要するに形式は前の久米禅師と娘子との贈答の例に倣ふべきで、考、攷證等が、例によつて端書を改めて「園臣生羽之女和歌」、「三方沙彌更贈歌」など補つたのは却つていかゞであらう。
 
(413)123 多氣婆奴禮《タケバヌレ》 多香根者長寸《タカネバナガキ》 妹之髪《イモガカミ》 比來不見爾《コノゴロミヌニ》 掻入《カカゲ・カキレ》津良武香《ヅラムカ》 三方沙彌
 
○多氣婆奴禮《タケバヌレ》――「多氣」は次の句に、「多香根者《タカネバ》」ともあるから、四段活用「たく」の已然形である事は明かで、髪などを取上ぐる義の古言らしい。卷九「小放《ヲバナリ》に髪多久〔二字傍点〕までに」(一八〇九)などもいふ。紀に頂髪(頭髪)を「たきふさ」といふも、髪を掻き上げて頂に結ふからであらう。考は「たがぬれば」の約といつてゐるが、趣は似てゐるけれど、「たがね」は下二段だから、こゝには當るまい。又古義は統べ束ぬる義に見てゐるが、これは、「たきふさ」などから思ひついた考かも知れぬけれど、それは「ふさ」の義で、「たき」はやはり取り上ぐる義と見るが穩當であらう。元來「多氣」の「け」は清音だが、此の語後には轉じて駒の手綱をさばく事にも(卷十九「秋づけば萩咲き匂ふ岩瀬野に馬太伎〔三字傍点〕ゆきて云々」(四一五四))、又舟を操つる事にも(土佐日記「ゆくりなく風吹きてたけども〔四字傍点〕/\後しぞきにしぞきて云々」)用ひたらしいが、さうなると清濁混淆して來たではないかと思はれるふしがある。此點なほよく研究すべきである。さて「ぬれ」はぬる/\と髪の解け下る事、當時の女は十四五歳まで振分髪で垂れ下げてゐたのである。その垂れた髪をかゝげても/\、まだ短いので、ぬる/\と解け下るといふのである。なほ昔の女の髪の事は考の別記に委しく説いてある。
○多香根者長寸《タカネバナガキ》――「寸」を「き」といふは古訓である。馬の高さを計るには今でもいふ。
○掻入《カカゲ・カキレ》津良武香《ヅラムカ》――代匠記、考等は「掻入」を「かきいれ」約めて「かきれ」、と訓み、「髪を上げをさむるを、かき入るといふべし」、「纔にそゝけたる髪をもかき入るゝなり」といつてゐるが、「入る」といふ語、少ししつくりせ(414)ぬので、本居翁は「入」は「上」の誤で、「かきあげ」であらうといつてゐる(略解引用)。げに卷十六「うなゐ放《ハナ》りは髪上げつらんか」(三八二二)、卷七「をとめらが織る機の上を眞櫛もち、掻上栲島《カヽゲタクシマ》浪の間に見ゆ」(一二三三)などの例もあるから、さう見たいと思ふ。然るに美夫君志は舊訓に「みだりつらんか」とあるに據つて、呉志の陸凱傳や韻會等を引いて「掻」は「騷」と通用の文字なる由を辨じ「抑、和へ歌に、君之見師髪亂有等母とあるにても、此句みだりつらむか〔七字傍点〕と訓まではかなはぬ事をさとるべし」といはれてゐる。しかし答歌の主意は「人はかかげろといひますけれど、まだかゝげませぬ」といふにあるのであるから「みだれ」といふ語の有無如何にかゝはらず「掻入」といふ語は必ずなくてはならぬので、美夫君志の掻、騷通用論はどうかと思ふ。假りに「掻入」を「亂」の義に解するにしても「みだり〔右○〕」がよいか「みだれ〔右○〕」がよいかゞ問題である。古今六帖は舊訓同樣「みだり〔右○〕」と訓んでゐるが、次の答歌で「みだれ〔右○〕たれども」と訓んでゐるのは自他混同である。
◎一首の意――掻き上げると髪がまだ短いので、ぬる/\と垂れ下るし、さりとて掻き上げねば長くてうるささうな妹が髪、もうどうかせねばならぬ頃であつたが、私が長く病氣して見ないでゐる中に、綺麗に結び上げた事であらうか。早く見たいものぢやな。
昔は妻を娶つても直樣同棲しないで、女は當分父母の家にすまひ、男が夜な/\通ひ行く慣習があつたから、かうした事もあり得たのである。古義は「病み臥して行きて見ぬ間に、誰ぞの男がかゝげ結びつらんとおぼめきていひやれるなり」と評してゐるが、これは一種の理窟で歌を見るので、調を、よく味はぬ人の言である。おとなになりかける童女の髪にいかにあこがれを以てゐたかは、此歌の初三句によく味はれるではないか。
 
(415)124 人皆者《ヒトミナハ》 今波長跡《イマハナガシト》 多計登雖言《タケトイヘド》 君之見師髪《キミガミシカミ》 亂有《ミダリタリ・ミダレタリ》等母《トモ》 娘子
 
○人皆者《ヒトミナハ》――元暦校本には「人者皆」とあるけれど、諸本皆「人皆者」とあるから恐らくは書き誤であらう。
○今波長跡《イマハナガシト》、多計登雖言《タケトイヘド》――上の「と」は「とて」の意であらう。但「今は長しといへど、たけといへど」と繰りかへした用法ではないかとも考へられる。それに類した例もあつたかに記憶するが、今は思ひ出せない。
○亂有《ミダリタリ・ミダレタリ》等母《トモ》――既に述べた如く、古義、美夫君志は「みだり〔右○〕たりとも」と訓んだが、舊訓は「みだれ〔右○〕」と訓んでゐる。この語いかにも明かにし難いので、或る人はいふ、「みだり」といふが、古訓のやうに思ふかも知れねど、そは他動詞で、今の「みだす」といふべきを昔は「みだる」といつたが(卷八「小田を苅亂《カリミダリ》云々」(一五九二)、又やや後の例ながら、十訓抄に「奈良の先帝世をみだり〔三字傍点〕給ひしに」)、自動詞の方は昔から下二段で、卷十四「伊豆の海に立つ白浪のありつゝも、つぎなむものを美太禮〔三字傍点〕しめゝや」(三三六〇)など用ひてゐるといふが、さうばかりも言へないやうにも思ふから、なほよく研究すべきである。但、舊訓に「みだれたれども〔四字傍点〕」とあるのはよくない。これは書式から見ても、語法からいつても、「たりとも〔四字傍点〕」といふ考の訓に據るべきである。
歌の下に「娘子」二字の小書あるべきだが、今本には脱したものと思はれるから、元暦校本、金澤本、其他によつて補つた。
◎一首の意――仰の如く髪が長く延びましたので、早く上げたらよからうと誰も/\申しますけれど、あなたに御目にかゝつた時の姿をかへるに忍びませんから、よし亂れて、うるさくとも、かうして、あなたの御出でを待た(416)うと思ひます。
やさしの少女心は「君が見し髪亂有たりとも」の二句にあらはれてゐる。伊勢物語で有名な「君ならずして誰かあぐべき」に似た心ばへである。古義は「昔は女の髪を取り上げるのは、夫たる者のするわざであつたらしい」といつてゐるが、おのづから、さうした場合もあつたらうが、さうでない場合もあつた事は諸書に見えてゐるから泥んではならない。誰ぞの男がかゝげつらむといふ前の歌に對する推量説も、そこから出たものであらうと思はれるが、賛成は出來ない。
 
125 橘之《タチバナノ》 蔭履路乃《カゲフムミチノ》 八衢爾《ヤチマタニ》 物乎曾念《モノヲゾオモフ》 妹爾不相而《イモニアハズテ》 三方沙彌
 
○橘之《タチバナノ》、蔭履路乃《カゲフムミチノ》――此の二句は八衢にかゝる序詞。昔は道路の兩邊に多く果樹を植ゑたものらしい。類聚三代格卷七、天平賓字三年六月廿二日の乾政官符、應3畿内七遣諸國驛路兩邊遍種2果樹1事とある條下に、「右東大寺普照法師奏状※[人偏+稱の旁]、道路百姓來去不v絶、樹在2其傍1、足v息2疲乏1、夏則就v蔭避v熱、飢則摘v子※[口+敢]v之。伏願城外道路兩邊、栽2種果子樹木1者、奉v勅使v奏」と見えてゐる(此の事、元亨釋書廿二卷、天平賓字二年六月の條にも見えて、文字も多少の異同がある)。此歌は其時より六七十年以前ではあるが、橘は昔から珍重せられて城内主要の道路には早くから植ゑられたものであらう。
○八衢爾《ヤチマタニ》――八は數の多き意。衢は道岐で、四通八達の岐路をいふ。八衢に物思ふとは、千々に思を碎く意である。
◎一首の意――長らく病床にあつて、妹にあへないので、それからそれと、さま/”\に思ひ碎かれる事ぢや。どう(417)かして早くあひたいものぢやな。
此歌も序詞がおもしろい。全釋などのいふ如く、長く病床に横はつてゐるものは、次から次へと空想に耽るものであるから、これも何かの縁にふれて、橘の街路樹の事が心に浮び、それが忽ち序詞とせられたのであらう。古義は例の筆法で「あるまじき事をもとかく考へ出し、娘子の心をまで探りて、もしは此ほど心變りして、あだし男に……」など論じてゐるが、吾輩はさる氣分で、この歌を見たくはない。卷六に豐島(ノ)釆女の作として「橘の本に道履八ちまたに、物をぞ念ふ人に知らえず」(一〇二七)とあるのは、此歌を詠み更へたものであらうが、いたく拙なくなつてゐる。
 
石川女郎贈2大伴宿禰田主1歌一首
 
石川女郎については、上の「−〇九」の歌で既に述べた。大伴田主は大伴安麿の第二子で、元暦校本題詞の下に「即佐保大納言大伴卿之第二子、母曰2巨勢朝臣1也」といふ小注がある。
 
126 遊士跡《ミヤビヲト》 吾者聞流乎《ワレハキケルヲ》 屋戸不借《ヤドカサズ》 吾乎還利《ワレヲカヘセリ》 於曾能風流士《オソノミヤビヲ》
 
○遊士跡《ミヤビヲト》――遊士は「たはれを」(舊訓)、「あそびを」(元暦校本)などの訓もあるが、考は「みやびと」と改めた。それでは宮人と紛れるからといふので、玉の小琴は更に「みやびを」と訓み改めた。それがよいであらう。みやびやかな風流の士をいふのである。
(418)○於曾能風流士《オソノミヤビヲ》――於曾《オソ》は遲鈍の義で、心鈍く氣のきかぬ意である。この語後世は濁つて唱へるやうだが、古言は清音である。元暦校本は初句の「遊士」を「あそびを」、第五句の「風流士」を「たはれを」と訓んでゐるが、文字こそちがへ、歌からいつても同じ訓をくりかへすべきはいふまでもあるまい。
◎一首の意――あなたは風流な御方だとかねて聞いてゐましたが、折角私がまゐつたのに、宿をも貸さず御還しになつた。氣のきかない、えせ風流人ですこと。
此歌を誦しても、次の左注の經緯を見ても、只者でない事が知られる。これが所謂女郎ではあるまいか。郎女《イラツメ》とはいへないやうに思ふ。
 
大伴田主字曰2仲郎1。容姿佳麗、風流秀絶、見(ル)人聞(ク)者、靡v不2歎息1也。時有2石川女郎1、自成2雙栖之感1、恒悲2獨守之難1。意《ココロニ》欲v寄v書、未v逢2良信1。爰作(シ)2方便1、而似2賤嫗1、己(レ)提2※[土+渦の旁]子1、而到2寢側1、※[口+更]音跼足、叩v戸|諮《トヒテ》曰、東隣貪女、將v取v火來(レリ)矣。於v是仲郎、暗裏非v識2冐隱之形1、慮外不v堪2拘接之計1、任v念取v火就v跡歸去也。明(テ)後女郎既恥2自媒之可1v愧、復恨2心契之弗1v果。因(リテ)作2斯歌1、以贈(リ)諺〔左◎〕戯焉。
 
○仲郎――大伴家の二男だからである。古葉略類聚鈔には「ナカチゴ」といふ訓がついてゐる。第二女を「中の君」といふ類である。
○成2雙栖之感1――同棲せんとの下心があつたとの意。
(419)○悲2獨守之難1――空閨守り難き意で、古詩に蕩子行不v歸、空牀難2獨守1、など見えてゐる。
○良信――良き使、又良き便り。
○※[土+渦の旁]子――流布本鍋子に作る、※[土+渦の旁]は土燒の鍋。
○※[口+更]音跼足――※[口+更]は咽ぶ意、跼はかゞまる意、つまり聲づくりをしたり、足をゆがめて歩いたり、つとめて老婆の樣子に似せた意である。
○暗裏非v識2冐隱之形1――冐(ハ)覆也とあるから、何かで形を包んで行つたので、要するに暗中變装の樣子が分らないといふ事であらう。
○慮外不v堪2拘接之計1――拘(ハ)止也、接(ハ)交也とあるから、案外にも仲邸は女郎を止めて交接する態度に出なかつた意であらう。
○就v跡歸去也――もと這入つて來た所から、そのまゝ黙つて徃なせたといふのである。
○諺戯焉――諺戯では通じない。元暦校本に「謔〔右○〕戯」とあるがよいかも知れぬ。謔はやはり戯の意で、此歌を贈つて戯れたといふのである。
 此の左注を、考は後人の所爲なりとて、全部削除してゐるが、美夫君志にも言ふが如く、かゝる事を後人故らに作爲したものとも思はれないから、舊本の面目をそのまゝに存しておく。
 
大伴宿禰田主報贈歌一首
 
(420)127 遊士爾《ミヤビヲニ》 吾者有家里《ワレハアリケリ》 屋戸不借《ヤドカサズ》 令還吾曾《カヘシシワレゾ》 風流士者有《ミヤビヲニハアル》
 
○令還吾曾《カヘシシワレゾ》――舊訓以來、一般に「かへせる」と訓んでゐるが、書式から見ても、歌の意義から推しても、新考が「かへしゝ」と訓んだのが穩當であらう。古義の訓「かへせし」は活用の誤なる事はいふまでもない。
○風流士者有《ミヤビヲニハアル》――古義は「者」を「煮」の誤として「みやびをにある」と訓んでゐるが、元暦校本、類聚古樂、神田本を初め、多くの古寫本には「者」に「ニ」といふ弖仁乎波を添へて「にはある」と訓み、考、略解、攷證、檜嬬手、美夫君志等皆之に據つてゐる。少し異樣には思はれるけれど、卷一「眞草刈、荒野|者《ニハ》雖有」(四七)の例もあるし、「二一〇」の長歌の對句「念有之、妹者〔右○〕雖有、憑有之兒等爾者〔二字右○〕雖有」などは「者」と「爾者」とを對立させて、訓を示したのではないかとさへ思はれるから、それに縁つてよからうと思ふ。實際この歌、「は」又は「に」といふだけでは力が足りない。「にはある」と訓んで、平凡ながら、そこに一種の力が出て來るのである。
◎一首の意――先日老婆に化けて來たのは、あなたですかい。そんな者にうつかり宿を貸しては、どんな事が起るかも判りませんからね、貸さずに返したのは我ながら眞の風流人でありますわい。
 
同石川女郎更贈2大伴田主中郎1歌一首
 
目録には「同」(ノ)字及び「中郎」の二字がなくて、田主の上に「宿禰」の二字がある。それがよかりさうではあるが、諸本皆今本と同樣であるし、少し考ふべきふしもあるから、姑くそのまゝにしておく。或は石川女(421)郎といふに數人あつて、こゝの女郎は、前の田主と贈答した同じ女郎である事を特に標出した意かも知れぬ。(此事に就いてはなほ次の歌で言うはう。)
 
128 吾聞之《ワガキキシ》 耳爾好似《ミミニヨクニル》 葦若未乃《アシノウレノ・アシカビノ》 足痛吾勢《アシイタムワガセ・アナヘグワガセ》 勤多扶倍思《ツトメタブベシ》
 
○吾聞之《ワガキキシ》、耳爾好似《ミミニヨクニル》――二(ノ)句、古點は「みゝによくにる」とあるが(元暦校本、神田本、古葉略類聚鈔その他の古寫本も同樣)、仙覺が「みゝによくにば」と改めてから大抵皆それに從つて來た。多分仙覺は「聞くが如くば」といふ意に解して、それが因襲を爲して來たのであらう。けれどそれでは、世間の噂を聞いていふだけの事になるから、一旦仲部を訪れた後の歌としては、足疾を認めて、「似る」と訓む方がよいではあるまいか。尤もそ知らぬふりで、噂に托してよんだものとも見られるけれど、本文は「似」の一字だけであるから、やはり「にる」がよささうに思ふ。近世になつて、古義だけが「につ」と訓んで、新考之に從つてゐるが、それもよいけれど、「都」といふ助辭がないから、なほ古訓に從つておく事にする。
○葦若未乃《アシノウレノ・アシカビノ》――訓明かでない。昔から「あしかびの」と訓んでゐるが、委しい説明はない。本居翁は「若未〔傍点〕」を「若末〔傍点〕」と見たらしく、「卷十に小松之|若末《ウレ》爾とあるは、うれ〔二字右○〕と訓めれば、こゝもあしのうれ〔五字傍点〕と訓みて、足痛はあなへて〔四字傍点〕と訓まんか、云々一本|若生〔二字右○〕とあるによらばかび〔二字右○〕と訓むべし」といつてから、この二説それ/\とり/”\に採られてゐるが、どちらがよいか、次の句と關聯して考へる必要もあるから、俄に判斷がつかない。さて「あしかび」は蘆の芽の事、「うれ」は梢、こゝは蘆の尖端をいふ。この一句は次の句にかゝる枕詞である。
(422)○足痛吾勢《アシイケムワガセ・アナグワカセ》――これも古點は「あしいた」、舊訓は「あなへぐ」で、攷證、美夫君志之に從ひ、(「なへぐ」は歩行正しからざる貌)考、略解は「あしなへ」(名詞に見たらしい)、檜嬬手は「あなへて」、古義は「あなやむ」又「あしひく」など、さま/”\であるが、全釋は痛(ノ)字は「いた」と訓むが普通であるからとて「あしいたむ」と訓んでゐる。
○勤多扶倍思《ツトメタブベシ》――自愛したまへの意。「たぶ」は「たまふ」の古い形で、それが波行四段に轉じて「たまふ」となつたものと山田孝雄氏はいはれるさうだが、多く古い所に用ひられるから、さうかも知れない。
◎一首の意――先夜ちらと拜見した所によると、御み脚が惡いといふ世間の噂が眞かに御見受け致しました。どうか御自愛あそばせよ。
計畫行はれず、歌を贈つても取り合はないので、悔しまぎれのわる口であらう。事によると當夜、女郎の火を取り去るに任かせて、中郎が座も立たなかつたので、悔しまぎれにあてつけたのかも知れぬ。
 
右依2中郎足疾1贈2此歌1間訊也。
 
中郎、上の左注には仲郎とある。中、仲、通用の文字であるから、いづれでもよからう。
 
大津皇子宮|侍《マカタチ》〔左○〕石川女郎贈2大伴宿禰宿奈麿1歌一首
 
「侍」(ノ)字、流布本「待」に作る。元磨校本、神田本、古葉略類聚鈔其他の古寫本によつて改めた。侍婢の意で、「まかたち」と訓む。元暦校本には此の題詞の下に「女郎字曰2山田郎女1也、宿奈麿宿禰者、大納言兼大將(423)軍之第三子也」といふ註がある。即ち宿奈麿は大伴安麿の子で、旅人や田主の弟である。和銅元年正月正五位下を授けられ、同年三月安藝周防兩國の按察使となり、神龜元年二月從四位下を授けられた事が續紀に見えてゐる。こゝに「大津皇子宮侍」と標出した事に就いて、代匠記は、皇子は藤原宮御宇の初に死なれたのであるし、天武天皇諒闇中の事でもあるから、歌は淨御原宮御宇の作であらうといつてゐる。これも一理ある事だが、これは皇子薨去の後まで、舊のならはしを以て呼んだもので、歌はやはり萬葉標出の如く持統天皇御宇の作であらうと見る説もある。假りに前の端書の「同」(ノ)字が、田主と贈答した同じ女郎である事をことわるための標記とすれば、こゝはそれとは別人で曾て大津皇子の宮の侍婢であつた事をことわる爲の端書ではあるまいか。元暦校本の細注「女郎字曰2山田郎女1也」が、特に此歌の所にあるのも、その意かと思はれる。隨つて歌はやはり萬葉標出の通り、藤原宮御宇の歌と見るべきであらう。要するに、この論據から推せば、石川女郎といふは一人ではない事になるので、檜嬬手別記に、すべてを一つにして、九州の遊行女婦が都に出て來て、田主をも挑み、大津皇子の宮中にも引き入れられて、爲めに皇太子との御中あしくなり、皇子失はれて又衢にさまようたなどは、いかゞはしい想像説かと思はれる、
 
129 古之《フリニシ》 嫗爾爲而也《オムナニシテヤ》 如此許《カクバカリ》 戀爾將沈《コヒニシヅマム》 如手童兒《タワラハノゴト》
    一云 戀乎太爾《コヒヲタニ》忍金手武《シヌビカネテム》 多和〔左○〕良波乃如《タワラハノゴト》
 
(424)○古之《フリニシ》、嫗爾爲而也《オムナニシテヤ》――舊訓は「いにしへの」とあるけれど、年よつた義であるから、考に「ふりにし」と改めたのがよい。嫗は舊訓「をうな」、元暦校本、類聚古集等は「おむな」と訓んで略解之に從ひ、他は大方「おみな」と訓んでゐる。嫗は老女の事で、雄略紀に老女を「オムナ」と訓じ、和名抄には「嫗【於無奈】老女稱也」と見え、又神代紀に、老婆を「おみな」と訓み、宇鏡に娘を「於彌奈」と訓んでゐるから、「おみな」とも「おむな」とも訓む字であるが、原は「おみな」で、記傳にいふが如く「お」と「を」とで、老少を區別したもの、「おむな」も「おうな」も音便であらうと思はれるけれど、上掲の如く紀にも和名抄にも早く「おむな」とあるから、姑く通稱に從つて「おむな」と訓んでおかう。考は卷五、「意余斯遠波《オヨシヲバ》」(八〇四)を「老いしをば」の義に誤解して、嫗を「およな」と訓み(「およな」は物に見えぬ語である)、それより推して和名抄の「於無奈(嫗)」をも「於與奈」の誤とするなどは、隨分危險な説といふべきである。さて「にしてや」は「にてや」の意、「や」は疑辭。
○如手童兒《タワラハノゴト》――「たわやめ」などの如く「た」は接頭辭であるまいか。た〔右○〕やすし、た〔右○〕なびく、た〔右○〕ばしる、た〔右○〕もとほる、などの如く多く用ひられる。隨つてたゞわらは〔三字傍点〕の事で、必ずしも「母の手さらず日足すほどの乳兒」などいふ義に泥まずともよいではあるまいか。「ごと」は如くの意。「良」(ノ)字、舊本「郎」に誤る。
◎一首の意――こんな老婆のやうな分別盛りの身で、小娘などの如く戀にあこがれ沈まねばならぬ事でありませうか。我ながら情けない事です。
 
長皇子興2皇弟1御歌一首
 
皇弟は弓削(ノ)皇子の事であらう。この二皇子は大江皇女の所生で、同腹の御兄弟である事は前に見えてゐた。(425)代匠記が後の二上山の歌(一六五)に「弟世」と書いて「いもせ」と訓むから、「弟」(ノ)字は「妹」の義に用ひたもの、「せ」は男女に通ずる詞であるからとて、この歌を異腹の皇妹に贈られた歌としたのは飛んでもない誤といふべきである。
 
130 丹生乃河《ニフノカハ》 瀬者不渡而《セハワタラズテ》 由久遊〔左○〕久登《ユクユクト》 戀痛《コヒタキ・コヒタム》吾弟《ワガセ》 乞通來禰《イデカヨヒコネ》
 
○まづ歌の大體を明かにしておきたいと思ふ。多くの釋家は第二句の「瀬は渡らずて」と第三句の「ゆく/\と」を作者長皇子にかけて解き、第三句より第四句につゞくものとしてゐる。(代匠記、考、略解等は一句々々の解説だけで、歌全體の解釋は判然せぬ。)之がため「ゆく/\と」を「大舟のゆくら/\」と同じく見て、思ふ心の動搖して落ちつかぬ意としてゐる。即ち一首の意を、「都合あつて、そちらへは行き得ないので(長皇子が病氣してゐるのであらうとの見解が多い)、徒らに物思ひにたゆたうてゐる。吾が弟《セ》の君よ、いかでこなたへ通ひ來給へかし」と説いてゐる。しかし吾輩にはどうしても、さうは説けない。第一「ゆく/\と」が「ゆくら/\」と同意の語であらうとは思へない。これは古義のいふが如く、源氏賢木の卷に「何事にかは滞り給はむ。ゆく/\と〔五字傍点〕宮にもうれへ聞え給ふ」とある意で、「する/\と滯りなく」の意に見るが遙に穩當かと思ふ。なほ言はゞ、後のものながら増鏡村時雨の章、後醍醐天皇の中宮御難産の條に「たゞゆく/\と〔五字傍点〕水のみ出でさせ給ひて」とあるも、ただ水ばかりがスー/\と出た意で、こゝの語勢によく當るやうに思ふ。其頃までは公卿殿上人の間にはまだ此語が傳はつてゐたのではあるまいか。次に第二句の「瀬は渡らずて」を長皇子にかけて見る事も、語調上吾輩には(426)承けられぬ。畢竟この句を長皇子にかけて見るから、「ゆく/\と」を、心の動搖する義に解く事にもなるので、實は「戀痛」といふ一語の外は、全部弓削皇子にかけて見るべきではないかと思ふ。でないと、古義のいふ如く、尾句甚だ力なく聞えて、歌としてはいかゞである。さて全部を長皇子にかけて見れば、一首の意は「御互の間に丹生の河が横はつてゐるので、一々河瀬を踏んで通ふなどは煩らはしくてならない。戀しき吾がせの君よ、瀬ぶみなどはせず、たゞもう隨時にスーツとやつて來給へ」といふ感情を謠つたものではあるまいか。かゝる事は日常の談話では、戯によく人のいふ事であるが、常識を逸したやうな事であるから、さすがに歌などではひかへる。長皇子は之れを歌に詠ぜられたので、そこが此の皇子の他と異なる所かも知れぬ。卷一なる此の皇子の數首の歌を見ると、「吾松椿」(七三)でも、「妻戀爾鹿將鳴山曾」(八四)でも、「暮相而朝面無美」(六〇)でも、何れも常識を逸したやうな、ひねくれた作ばかりであるが、此歌もそれに准じて見たいと思ふ。新考に「丹生川を隔てゝ住み給ひけむに、此よりにもあれ、彼よりにもあれ、瀬をば渉らでいかにしてか通はむ」と難ぜられたのは常識論である。かく見れば古義の説が、最も當つてゐるかに思はれるが、「恐き河瀬を渡らばそこなひもや侍らむ云々」と理窟で説いたのはなほいかゞである。これはさる理窟ではない、たゞ感情なのである。又菅家大臣の「ゆく/\と隱るゝまでにかへり見しはや」を、こゝの例に引いて「これもする/\〔四字傍点〕と顧みしといふなるべし」といつてるのもいかゞである。菅家の歌は行く/\顧みる意なので、「と」はたゞ輕くそへたものである。こゝの「ゆくゆくと」と同一視すべきではない。
姑く如上の見解の下に他の語句を解釋すれば、
(427)○丹生乃河《ニフノカハ》――諸家の註、皆大和志などを引き、金峯山の後から發し賀名生の峽谷を流れ、五條の南で吉野川に注ぐ河を指してゐるらしいが、それは後世、南朝の天子が一時隱れられたので名高くはなつたが、そんな處に兩皇子が住まれたものとはとても考へられない。これは神武天皇が天神地祗を祭られた丹生川をいふので、つまり宇陀郡菟田川の上流ではあるまいか。神武紀に云「吾今當d以2嚴瓮1沈c于丹生之川〔四字右○〕u如魚無2大小1悉醉而流、譬猶2枝葉之浮流1者吾必能定2此國1云々乃沈2嚴瓮於河1、其口向v下、頃魚皆浮出、隨v水※[口+僉]※[口+禺]」、又曰く「乃以2此埴1造2作……嚴瓮1、而陟2于丹生川上〔四字右○〕1用祭2天神地祗1、則於2彼菟由川之朝原1譬如2水沫1而有朗咒著《カシリツクル》也云々」と見えてゐる。處は宇陀の萩原村(榛原村トモ)大字|雨師《アマシ》(菟田川の西岸)で、そこに式内丹生神社がある。朝原といふは其の西に在つて、原中に龍王池といふがあるといふ事である(雨師、龍王はいづれも丹生(ノ)神の別名)。かゝる由緒ある地であるけれど、後世あまり世に唱へられず、賀名生谷の丹生川上の神社が名高くなつたので、菟田の方は自然閑却されるに至つたのではあるまいか。さて兩皇子の家は、その兩岸にあつたのであらうが、必ずしも水を隔てて相對さなくとも、丹生川を渉らないでは通へない地點にあつたものと思へばよからう。
○戀痛《コヒタキ・コヒタム》吾弟《ワガセ》――「戀痛」の二字、舊訓は「こひいたむ」、考、古義、攷證、美夫君志、新考等は、約めて「こひたむ」と訓み、略解、檜嬬手及び近頃の全釋等は「こひたき」と訓んでゐる。「こひたむ」は動詞で、こひ悩む意(攷證が戀ひ回む〔四字右○〕意としたのは取らない)、「こひたき」は形容詞で、いたくこひしき意である。これはどちらでもよからうが、歌がら〔二字傍点〕からいへば寧ろ形容詞とする方がよいではあるまいか。古葉略類聚鈔には「痛」の字がないさうだが、それは證とはし難いけれど、やはり形容詞のやうに、「こひしき吾|弟《セ》」と訓むのであらう。「吾弟」は古義だ(428)けが「あおと」と訓んでゐるが、衆訓一般に「わがせ」で、これは辨ずるまでもなからう。
○乞通來禰《イデカヨヒコネ》――「乞」を「いで」と訓む説と、「こち」と訓む説とがある(略解、古義、檜嬬手は「いで」其他は「こち」)。「いで」は感動詞「こち」は「此方へ」の意で、義はどちらでも通ずるし、用例も共に多いが、皇子の詠み口から推せば「いで」の方がよいではあるまいか。此等の事は詠む人々の心々の感じによるから強ちには定められない。
◎一首の意――再説すると、吾々の間に横たはつてゐる丹生の川瀬を、一々踏んで通ふなどは面倒ぢや、戀しい/\我がせの君よ、たゞもう隨時にスーツ〔三字傍点〕と宙を飛んで來たまへよ。
 
柿本朝臣人麿從2石見國1別v妻上來時歌二首並短歌
 
人麿の事は略々一(ノ)卷で述べた。生國は大和とも石見とも言はれるが皆想像説で定かではない。その閲歴も確かではないが、晩年(?)石見國で任官してゐたらしい。事を以て都へ上つて來た事もあるらしいが、此歌はその際、妻に對する訣別の情を詠んだ作である。歌に黄葉を詠んでゐる點から推して、考は朝集使などで上つたのであらうといつてゐるが、或はさうかも知れぬ。(朝集使は十一月一日の官會にあはんが爲めに諸國から上るのであるから、石見國を出たのは丁度黄葉する頃であつたかも知れぬ。)人麿の妻の事は後に述べようが、こゝの妻は恐らくは石見で馴れそめた女をいふのであらう。昔は妻(め〔右○〕又はつま〔二字右○〕)といふ語は、さる意に廣く用ひられたのである。
 
(429)131 石見乃海《イハミノウミ》 角乃浦回乎《ツヌノウラワヲ》 浦無等《ウラナシト》 人社見良目《ヒトコソミラメ》 滷無等《カタナシト》【一云|礒無登《イソナシト》】 人社見良目《ヒトコソミラメ》 能咲〔左○〕八師《ヨシヱヤシ》 浦者無友《ウラハナクトモ》 縱畫屋師《ヨシヱヤシ》 滷者《カタハ》【一云|礒者《イソハ》】無鞆《ナクトモ》 鯨魚取《イサナトリ》 海邊乎指而《ウミベヲサシテ》 和多豆乃《ニギタヅノ》 荒磯乃上爾《アリソノウヘニ》 香青生《カアヲナル》 玉藻息津藻《タマモオキツモ》 朝羽振《アサハフル》 風社依米《カゼコソヨセメ》 夕羽振流《ユフハフル》 浪社來縁《ナミコソキヨレ》 浪之共《ナミノムタ》 彼縁此依《カヨリカクヨル》 玉藻成《タマモナス》 依宿之妹乎《ヨリネシイモヲ》【一云、波之伎余思《ハシキヨシ》、妹之手本乎《イモガタモトヲ》】 露霜乃《ツユシモノ》 置而之來者《オキテシクレバ》 此道乃《コノミチノ》 八十隈毎《ヤソクマゴトニ》 萬段《ヨロヅタビ》 顧爲騰《カヘリミスレド》 彌遠爾《イヤトホニ》 里者放奴《サトハサカリヌ》 益高爾《イヤタカニ》 山毛越來奴《ヤマモコエキヌ》 夏草之《ナツクサノ》 念之奈要而《オモヒシナエテ》 志怒布良武《シヌブラム》 妹之門將見《イモガカドミム》 靡此山《ナビケコノヤマ》
 
○石見乃海《イハミノウミ》――「淡海乃海」を記に「阿布瀰乃瀰《アフミノミ》」とあるから、こゝもそれに準らへて「いはみのみ」と訓むべきだ(430)が、「みのみ」といふ語勢急迫して、いかゞに聞えるから、かゝる長歌の冒頭としては「いはみのうみ」と大樣にありたい感じがする。現に元暦校本の旁訓は「いはみのうみ」と訓んでゐるし、その時代々々の調といふものもあるであらうが、人麿時代には何と唱へたか知る由がない。
○角乃浦回乎《ツヌノウラワヲ》――角乃浦は和名抄、石見國那賀郡都農郷の地で、「角」を舊訓は「つの」と訓んでゐるが、元來は「つぬ」と訓むべき字で、古事記中卷に「角鹿」を「都奴賀《ツヌガ》」、本集卷十七に「角の松原」を「都努乃《ツヌノ》松原」(三八九九)と書けるに準じて、近代一般に「つぬのうら」と訓じてゐるに從ふべきである。角の浦は此時の國府の東三里餘りの地で、人麿の妻はそこに住んでゐたらしい事は、此歌の或本の結句に「角の里見む靡け此の山」とあるのでも知られる。人麿も同棲してゐたかも知れぬが、又或は別居してゐて、國府から折々通うたのかも知れぬ。「青駒の足掻を早み、雲居にぞ妹があたりを過ぎて來にける」(一三六)や、其他の歌を仔細に味うて見ると、恐らくはその方であらう。さて「浦回」は、古訓はすべて「うらわ」、本居翁は「うらま」と訓んだが、荒木田久老、橘守部等が、改めて「うらみ」と訓んでから、殆ど定説となつてゐるけれども、なほ一段の研究を要すべきものである事は、卷一「四二」の歌の所で既に述べた。意は浦のまはり、あたりの義である。
○浦無等《ウラナシト》、人社見良目《ヒトコソミラメ》――舊訓「うらなみ〔右○〕と」と訓んでゐるのは、よくない。元暦校本を初め、近代の諸註、大方「うらなしと」と訓んでゐるのに從ふべきである。「見らめ」は、今の語法では「見るらめ」といふべきだが、昔は終止形を受けて「見らめ」とも言つた事は、卷一「徃き來《ク》と見らむ」(五五)の所で既に逃べた。「社」を「こそ」と訓むのは一種の義訓で、神社は諸人の祈請する所であるから、「乞」(ノ)字を「こそ」と訓むと同じ心であてた(431)ものと言はれてゐる。孝徳紀に神|社《コソノ》福草といふ人の名も見えてゐる。
○滷無等《カタナシト》【一云|礒無登《イソナシト》】――滷は干潟で、汐の滿干で隱現する所をいふのであらう。日本海岸は岸から斷崖な處が多く、且つ汐の滿干が緩漫だといふから、遠干潟などがあまり見られず、隨つて下り立つて貝などあさるすさびの出來ない事をいつたのであらう。一本の方は取らない。
○能咲八師《ヨシヱヤシ》――「咲」(ノ)字、流布本には「嘆」とあるが、多くの古寫本には「咲」とあるし、流布本も訓はなほ「よしゑやし」で、誤なること明かであるから、集中の他の例に照らして改めた。「よしゑやし」は「よしや」といふほどの義で。「ゑ」と「し」とは詠嘆の助辭であらう。古事記に「阿那邇夜志《アナニヤシ》」とある同じ意の語を、紀には「妍哉」と書きて「阿那而惠夜《アナニヱヤ》」又は「鞅奈珥夜《アナニヤ》」と注せるを見れば、惠〔右○〕も志〔右○〕も助辭なる事が知られる由、早く代匠記が述べてゐる。なほ「ゑ」は集中にも卷十一「心者|吉惠〔左○〕《ヨシヱ》君がまに/\」(二五三七)、卷十四「安禮波麻多牟惠〔左○〕《アレハマタムヱ》ことしこずとも」(三四〇六)など用ひられて「や」又は「よ」に通ふ助辭である。
○浦者無友《ウラハナクトモ》――元暦校本を初め、昔から「うらはなくとも」と訓んでゐるのを、玉の小琴に至り「なけども」と訓み改め、攷證、美夫君志等之に和してゐるのはどうしたわけであらう。此の下に「人者|縱《ヨシ》、念息登母《オモヒヤムトモ》」(一四九)、卷六「白珠は人に知らえず、知らずともよし」(一〇一八)とあるが如く、よしや、といふ意に對して「とも」と應ずるのは語の自然ではあるまいか。「縱」(ノ)字をあてたのも其の意で、「よし浦や滷がないものとしても」の義である。卷十五には「與之惠やし〔五字傍点〕ひとり寐る夜は明けば明けぬ等母〔二字傍点〕」(三六六二)といふ例さへある。
○鯨魚取《イサナトリ》――「いさなとり」と訓み、「海」の枕詞である。鯨の古名を「いさな」といふから、鯨捕る海の義であらう(432)といふ。其外すなどりする義だとか、磯魚《イソナ》捕の義だとか、冠辭考を初め槻落葉、山彦冊子等にとり/”\の説があるが、要するに魚を捕る意で、海へかゝるのであらう。訓は允恭紀の歌に「異舍儺等利、宇彌〔七字傍点〕能波摩毛能云々」とあるのが根據であるが、「とる」とは言はないで「とり」といふのは、「やすみしゝ大君」「霰降り鹿嶋」などと同じく、枕詞の一格で、「とる」といへば、「魚を捕る、海」といふ實際の義を以て用ひたかに聞える恐があるから、單なる枕詞で、實際の意義には關係のない事を明にしたものであらう。
○海邊乎指而――「海邊」を元暦校本は「あまべ」と訓んだが、仙覺は之を否として「うみべ」と訓み、古義、美夫君志等之に從つてゐる。然るに舊訓は「うなび」と訓み、代匠記、考、略解、檜嬬手等皆之に同じてゐる。げに濱備、岡備などいふ事もあるから「うなび」といふが古語かも知れねど、之について美夫君志には異見があつて明らめ難き點もあると思ふから、姑く卷十八「波萬部〔三字傍点〕より我がうち行かば、宇美邊〔三字傍点〕より迎へも來ぬか」(四〇四四)とあるに照して仙覺の舊訓に從つておく。さてこの二句は少し要領を得がたい。代匠記は「出で立つて舟に乘つて來るなり」と説き、考も「さして行くなり」と説いて、沖をさして漕ぎ出で、一旦舟に乘つた意に見てゐるらしいが、此歌、舟に乘つた趣がどこにも見えないからさうは見られない。やはり沖の方から岸邊をさして藻草などをうち寄する意であらうが、この二句がなければ調子が唐突になるから置いただけで深い意はあるまい。
○和多豆乃《ニギタヅノ》――仙覺抄以來「にぎたづの」と訓んで來たが、「にぎたづ」といふ地名が石見に見えないので、玉(ノ)小琴は、之を都農津の東二里、江(ノ)川の東岸なる渡津村の事とし、「わたづの」と四音に訓んでから、一般にそれに從ふ事となつた。しかし、これはどうであらうか、予はなほ舊訓を可とする者である。まづ此の歌、前半の主旨は何(433)を述べたのであらうか。冒頭に「石見の海、角の浦回を」と言ひ出してから、すべて角の浦の説明ではあるまいか、。「世間の人はつまらぬ處といふかも知れぬが、我が妻の住む里であるから、我には懷かしい處だ。それに滿更捨てた處ではないので、朝夕の風浪に青くうるはしい藻草を磯邊に打寄する風情も中々見るに足る。さういふ處に妹が住んでゐるのである」といふ事を繰りかへし述べて、妹に一段の懷かしさを添へた事はいふまでもあるまい。然るに冒頭の「角の浦回」を忽ち除却して飛んでもない渡津の説明に移つたのでは主旨全く徹底しないではなからうか。都農津は那賀郡、渡津は邑智郡で郡さへ異つてゐる。しかも其間二里、江(ノ)川といふ大河をさへ隔ててゐる。こを同じ氣分で見る事は到底不可能で、渡津がいかに佳い處であるからとて都農浦の説明にはなるまい。これは冒頭の「角の浦回」といふ名を直ぐまた繰りかへすのは歌として拙ないから、名稱を更へただけで、「和多豆」はやはり「角の浦」の事をいふものと見ねばなるまい。隨つて「和多豆」をいかに訓むべきかは姑く措いても、問題の「渡津」であつてはならないと吾輩は思ふ。さて下に附載せられた或本に「柔田津」とあるのが、やはり舊訓のやうに「にぎたづ」と訓むべき一つの證かと思ふ。論者は和多豆を「にぎたづ」と訓みひがめて「柔田津」といふ本も出て來たのであらうといふが、なるほどそれも無いとは限らぬが、「わたづ」と訓んで義がよく通るなら、其説も成り立たうが、上述の如く徹底しないでは甲斐なき事である。その上、元暦校本を見ると「和多豆乃《ワタツミノ》」と訓んでゐるので、「にぎたづの」といふ訓はまだ始まらない。(「にぎたづ」の訓は仙覺から始まつたと思ふ。)しかも同校本附載の或本にはやはり「柔田津」と出てゐる(但、同校本には「柔ホ〔右○〕田津」とあるが、ホ〔右○〕は勿論書寫の誤であらう)。して見れば、早くから「柔田津」といふ異本があつたので、「和多豆《ニギタヅ》」と訓みひがめてから(434)出來たものとはいへない。隨つて説者のいふ如き意味でこの「或本」を閑却するわけには行くまい。然らば「にぎたづ」を何と説明すべきか、それは吾輩にもよく判らないが、卷一にも此名が見えて(※[就/烈火]田津に船乘せんと月まてば云々「八」)、伊豫の三津ヶ濱の事と言はれてゐるが、伊豫にもこの地名が傳はつてゐない。仙覺抄には「にぎたづ〔四字傍点〕といふは祈2渡海安1義也にぎ〔二字傍点〕といふは祈祷を致して神慮を和らげ奉る義也」といつてゐるが、或は船舶の賑ふ義で、其國々々の重なる港をいふのではなからうかとも考へられる。檜嬬手は玉の小琴の説とうらうへで、今の渡津も本はにぎたづ〔四字傍点〕といひしを「和」を「わ」と訓みひがめて、近來渡津となつたものといつてゐるが(江(ノ)川の東岸であるから、もと渡川の義から出た名かも知れない)、「にぎたづ」の義に就いては「和幣|奉《タツ》」の義に解してゐる。いづれにしても「にぎたづ」といふ名は本來の固有名詞ではなく、ある同じ條件の下に唱へられた地の汎稱ではないかと考へられる。都農津もさうした斬なので、「角の浦」といふ名稱をくりかへす事を避けて、代りに用ひたものではないかと思ふ。
○荒礒乃上爾《アリソノウヘニ》――「あらいそ」を約めて「ありそ」と訓む。「うへ」は「ほとり」の義であらう。
○香青生《カアヲナル》――「か」は接頭辭、か〔右○〕細し、か〔右○〕弱し・か〔右○〕黒き髪、などやさしく弱々しいものに多く用ひられる。「生」は借字で「爾有」即ちなる〔二字傍点〕の義である。
○玉藻息津藻《タマモオキツモ》――玉は美稱、息は借字で、「澳」の意。澳つ藻は海の澳の方にある藻をいふ。玉藻も沖つ藻も二物ではあるまいが、語の都合で重ねたのである。さてこゝは「玉藻息津藻を〔右○〕」の意で、やがて、次の「依米」へつゞくのである。
(435)○朝羽振《アサハフル》、風社依米《カゼコソヨセメ》云々――朝夕はたゞ對句の料、「羽振」は本來鳥の羽たゝく事であるが、こゝは風の煽つて來る事に借り用ひたのである。「依米」を舊訓は「よらめ」と訓んでゐるが、略解が「よせめ」と改めたのがよい。風が荒磯邊に藻草を吹き寄せる意なのである。代匠記、考、攷證、美夫君志等は、「風にこそよらめ」の意に解いてゐるけれど「風こそよらめ」が「風に〔右○〕こそよらめ」と聞ゆべき道理はない。「を」といふ弖爾乎波の省かれるは常であるけれど、「に」は妄りに省かるべき弖爾乎波ではない。
○夕羽振流《ユフハフル》、浪社來縁《ナミコソキヨレ》――こゝの羽振は、浪のあふつて來る趣に借り用ひてゐる。さてこの「來縁」二字の訓が問題である。舊訓は一般に「きよれ」と訓んでゐるが、さうすれば此の對句、前聯は玉藻澳つ藻を風がうち寄する事、後聯は浪自身が寄る事となるから、對句としては不備の感あるを免れない。代匠記、考、攷證等は「風こそ依らめ……浪こそ來よれ」と訓んで、「風に〔右○〕こそ依らめ、……浪に〔右○〕こそ來よれ」の意に解いてゐるけれど、それは既に述べた如く、語法としては無理で、しか聞ゆべき道理はない。美夫君志は「浪こそ來縁れ」を浪の寄せ來て藻を靡かすをいふと説いてゐるけれど、藻を靡かすといふ意義はどこにもない。「藻を運んで浪が寄り來る」意には見られぬ事もないかも知れねど、それも隨分苦しい。そこで古義は「來縁」を「きよせ」と訓み、「きよすれ」の義として、浪が藻草をもつて來て寄せる意に説いてゐる。これはいかにも面白い説で、かく見れば對句としての語法もしつくりするが(但、古義は前聯の「依米」をも「來依」の誤としてゐるが、これは改めるには及ぶまい)、「來よせ」といふ語遣ひが面白くないので、句法に重きを措いて古義の説に從ふ人、調子に重きを措いて舊訓による人、まち/\である。しかしよく考へると古義は一つの大きな誤をしてゐる。「來縁」は「きよすれ」で藻(436)草を令《ス》2來依《キヨ》1意だといふが、元來「よする」といふ語は新考にいふが如く、一種の自動詞で己《レ》自身を寄せる意(即ちみづから寄る意)なので、他物を寄せる意ではない。(よる〔二字傍点〕浪といひ、よする〔三字傍点〕浪といふも、もと語數の都合で用ひられただけで同じ事をいふのである。)隨つて此歌を「浪こそ來よせ〔三字傍点〕」と訓んでも「浪こそ來よれ〔三字傍点〕」と同じ意になるので、浪が藻草をうち寄する意とはならないのである。この點新考の説が至極當を得てゐるが、たゞ「浪に〔右○〕こそ來よれ」の「に」を略したものとの見解は、前に代匠記、考、攷證等が「風にこそ依らめ――浪に〔右○〕こそ來よれ」の義に説いたと同じ筆法で無理な事である。「前聯には玉藻、奥津藻を〔右○〕風が寄すといひ、後聯には唯「浪に來よる」といひて何が〔二字傍点〕といふ事を云はねど、なほおのづから浪にたぐひて玉藻澳つ藻の來寄るやうに聞ゆるは調の所爲なり」といつてをられるが、吾輩にはいかに誦して見てもさういふ意には聞えない。しからばこゝをどう見るかといふに、吾輩はたゞありのまゝに、自然の語遣ひのまゝに見たいのである。そして對句として不備なやうに見える點については、卷二額田王が春秋の優劣を判ずる歌(一六)で述べた如く、我が國上代の對句は後世の漢土の嚴密な法則を以て律すべきものではないといひたいのである。こゝも玉藻澳つ藻をば、「風こそよせめ」で收めて、更に夕はふるの方で浪のおもしろく碎け散る意を添へたものと見たいのである。實際一語々々必ず相對させる煩瑣漢土の對句法に囚へられた眼で見ればこそ不備の感も起らうが、大體から見て、朝はふる方で玉藻を吹き寄せるおもしろさを述べ、夕はふるの方で磯に碎くる浪のおもしろさを説く、對句として別に不都合がなからうではないか。殊に時代は諷誦を專らとして調子に重きを措いた時代であるし、就中この歌は初から調子に心を用ひたらしく思はれるから、なるべく有りのまゝに見たいので、小智を弄して不自然に陷るやうな語法の(437)解釋はしたくないのである。
○浪之共《ナミノムタ》――仙覺以後「浪のむた」と訓んでゐるのがよい。「むた」は名詞の下なる「の」を承けて「と與に」の意をあらはす副詞で、「まに/\」といふ語の趣に似てゐる。卷四「浪之|共《ムタ》靡く珠藻の云々」(六一九)、假名書の例は卷十五「可是能牟多〔二字傍点〕、與世久流奈美爾云々」(三六六一)などある。
○彼縁此依《カヨリカクヨル》――これは藻草の彼方此方に靡く意であるが、舊訓に「かよりかくより〔右○〕」と訓んでるのを、古義が「かよりかくよる〔右○〕」と改めたのがよい。「かくより」と訓めば下の「依宿之」へかゝるから、妹が浪のまに/\靡き寐る事となるが、こゝは玉藻にかゝる連體形で「浪のまに/\靡く玉藻のやうに」の意でなければならぬから「かくよる」と訓むべきである。
○玉藻成《タマモナス》、依宿之妹乎《ヨリネシイモヲ》――玉藻の浪に靡く如く、やさしく我に靡きて寐ねし事をいふのである。さて上の「いさなとり」より「玉藻成」まで十三句は一般に「依宿之妹」の序詞とせられてゐるが、普通の所謂序詞とは少し異なる所がある。歌の表面に明かに意義をもつてゐるので、角の浦の形容をしがてら、浪を出し、玉藻を出し、その浪や玉藻から更に妹を引き出したので、歌の主旨と構造と離るべからざる關係を以てゐるから、單なる序詞といはんよりは、一變の序論ともいふべき形である。
○一云、波之伎余思《ハシキヨシ》、妹之手本乎《イモガタモトヲ》――一本の方が、しつくりつゞかないかに思はれるが、「波之伎」は愛《ハ》しきで、ここは懷しき意、「手本」は袂で、妹と共に寐る事を「袂をまく」といふから、「妹が袂をおきてくる」といふは、やがて親しく寢ねた懷しき妹に別れて來る意であらう。
(438)○露霜乃《ツユシモノ》、置而之來者《オキテシクレバ》――「露霜の」は「おく」の枕詞。露も霜も草葉の上におくからといふのは最も簡單明瞭な説、玉勝間はたゞ露の事と辨じてゐるが、又「露自物」と見る説もある。「おきてしくれば」は妹を故里に殘しおいて、我(レ)ひとり旅路に上つて來ればといふのである。
○彌遠爾《イヤトホニ》云々、益高爾《イヤタカニ》云々――舊訓は「益高爾」を「ますたかに」と訓み、考も「ましたかに」と訓んでゐるが、玉(ノ)小琴に例證を擧げて此類の「益」はすべて「いや」と訓むべき事を辨じてから、一般に「いやたかに」と訓む事になつた。(略解が小琴の説に同じながら、なほ「ましたかに」と訓んでゐるのは訝かしい。)「彌」とかき「益」と書き分けたのは萬葉流の書式に過ぎないので、國語の性質上、對句としては「いや遠に、いやたかに」といふべきは論のない事であらう。「まし高」などいふ語遣ひがあるべしとも思はれない。卷十三に「道のくま八十阿毎に嗟きつゝ、我が過ぎ往けば、彌遠〔二字右○〕に里さかり來ぬ彌高〔二字右○〕に山も越え來ぬ」(三二四〇)といふ例さへある。
○夏草之《ナツクサノ》 念之奈要而《オモヒシナエテ》――「夏草の」は「念ひしなえ」の枕詞。「しなえ」はしほれ、うなだれる貌、「しなふ」といふ語の轉じたのかとも思ふけれど、恐らくは「萎ゆ」と同語で「し」は本來接頭辭であらう。意は夏草の日光にしほれるやうに思ひにうちしほれる事である。
○志怒布良武《シヌブラム》、妹之門將見《イモガカドミム》――「しぬぶらむ」は連體形で、下の「妹」にかゝる。「妹之門」は妹が住む家の事、そは角の里にあつた事は、下の或本の歌には、こゝの句が「角里將見《ツヌノサトミム》」とあるのでも知られる。
○靡此山《ナビケコノヤマ》――靡くは物の横ざまに移り動く貌であるから、「そこに立ち塞がつてる山よ、しばしそちらにどき居れ」といふのである。
(439)◎一篇の大意――石見の海、角の浦のあたりは、面白き浦べもなく、興ある干潟もなく、一向つまらぬ處だと世間の人は見るであらうが、よしやさる浦がなからうが、さる干潟はなからうが、我が懷かしき妻の住む里であるから、我にとつては此上もない所なのである。それに滿更捨てた處ではないので、海の沖の方から色青くうるはしい藻草を、朝夕の風が、そこの荒磯べに吹き寄せるではないか。朝に夕に寄る浪も寄せて碎けて面白く飛び散るではないか、これも中々見るに足る風情である。さうした處に我が懷かしき妻が住んでゐるのである。さてその浪のまに/\靡き寄る藻草のやうに、年頃我に從つて寄り寐ねし妹を、この度故里に殘しおいて、ひとり旅路に上つて來たのであるから、さすがに情に堪へかねて、辿り行く道の隈毎に幾度となくふりかへつて見るけれども、そのかひもなく、いよ/\故里は遠ざかり、いよ/\山路も高く越え來つた。もう山々に遮ぎられて、いかにしても故里の妹が門を望み見る事が出來ぬ。定めて妹も思ひに堪へかねて、旅行く我を偲んでをる事であらうが、その妹が門を今一たび望み見たいものぢや。そこに立塞がつてゐる山よ、しばしそちらに靡きをらうぞ。
此歌は調子を以て有名な歌で、角の浦の形容を述べるあたり、詞やさしく調なだらかに、やがて妹を出してからは、情緒纏綿として絶えざる趣があるが、最後の一句、急轉直下して感情激越、全篇皆震ふ概がある。山に靡けといふは、諸家のいふ如く、卷十二「惡木山、木末こと/”\、明日よりは靡きたりこそ、妹が當り見む」(三一五五)といふがあるし、美夫君志のいふが如く、在原業平の「山の端にげて入れずもあらなむ」も、この遺意を得たものともいへようが、遂にこの一句の簡にして力強きに及ばぬ。此種の表現はともすれば滑稽に聞え易いものであるが、人をして肅然たらしむる事此の如きは、古今得易からぬ事である。
 
(440)反歌
 
132 石見乃也《イハミノヤ》 高角山之《タカツヌヤマノ》 木際從《コノマヨリ》 我振袖乎《ワガフルソデヲ》 妹見津良武香《イモミツラムカ》
 
○石見乃也《イハミノヤ》――「や」は古今集の「淡海のや〔右○〕鏡の山」などの如く、輕く添へた感動詞で、「石見の高角山」と直ちにつづく語勢である。
○高角山之《タカツヌヤマノ》――高角山は從來、石見國美濃郡高津といふ處(今、人麿神社のある處)にある山の名とせられたのは誤で、角の浦の後方にある島星山とかいふのがそれだと、石見の擧者藤井某といふ人が考證したさうだが、果して島星山か、どうかは知らねど、山の名から見ても、歌の意からいつても、角の浦に近い山であらうといふ事は推される。高〔右○〕は山の高い意であらうか、よくは判らぬが、人麿はその片ほとりを越えて行くのであらう。
○木際從《コノマヨリ》、我振袖乎《ワガフルソデヲ》――「木の間より」は直ちに「振る袖」にかゝるので、木立の茂き所で袖を振つても效果がないから、木の問/\に出る毎に袖を振るのである。袖を振るは、思ひに堪へかねて情を示す爲である事は既に述べた。
○妹見都良武香《イモミツラムカ》――我がふり行く袖を、故里の門邊に立つて見送つてゐる妹が、見つけてくれたであらうか、と氣遣ふ心である。これから推せば妻の住む家は高角山の麓にあつたものらしい。
◎一首の意――石見の高角山の木の間/\から我が振りつゝ行く袖を、門邊に立つて見送つてゐる妹が、見つけてくれたであらうか、どうであらうな。
(441)名殘のをしさに、せめて振り行く袖だけでも認めてもらひたいが、果して認めてくれたかどうかを気遣ふ趣に詠んだのである。
 この歌、右のやうに見れば至つて安らかで筋もよく通るが、從來の註釋は全く之に反し、「木の間より」といふ第三句を、結句の「見」にかけて、妹が高角山に上つて人麿の振り行く袖を木の問から見送る意に解いてゐる。しかし語法から見て、「より」といふ助辭が、その下に現はれる「振る」にかゝらないで、そを隔てゝ更にその下なる「見」といふ動詞にかゝるといふ文脈が穩當といへようか。もし其の意ならば四五の句を顛倒して、「妹見つらむか、我が振る袖を」といへばよいのである。代匠記は「さいへば手づゝなれば」と辨じてゐるが、どこが手づゝであらう。此類の調は集中に多く、卷一にも、同じ人麿の歌に「妹乘るらむか、荒き島回を」(四二)といふ例があるではないか。それに「木の間より」といふ句も、木立の茂き處では、袖を振つても効果がないから、木の間/\に出る毎に振つたと見ればこそ切實に聞えるが、妹が高角山の上から見送るでは、「門見む」といふ句と與に、あまりよく響かないではなからうか。隨つて歌詞の上から、どう見ても舊説の如くには説けない。然らばさうした説が、なぜ出て來たかといへば、つまり高角山の所在が誤り傳へられたからである。舊説によれば高角山は石見國美濃郡高津といふ處にある山とせられてゐるが、そこは國府を西へ距ること十數里の地で、都へ上る人麿の越え行くべき山ではない。隨つて妻に別れて東行する人麿を妻が高角山から見送るものとする外はないのである。しかし此の高津説には何等の根據もない。足利末期の宗祗法師や細川幽齋などの筆に漸く見えてゐるが(宗祇法師集又は玄旨法印九州道紀)、此歌を解しかねた當時の人が「高角山」を「たか(442)つの山〔五字傍点〕」と訓み、「高津の山」と解し、高津といふ地名と心得て、いつとなくそこに引きつけたものではないかと考へられる。それでは角の浦の細《コマ》やかな形容も「角の里見む」といふ句も徒らになり、次の長歌も解けなくなる事には一切氣がつかれなかつたものらしい。此の如くにして人麿社も出來、歌聖の事蹟も誤まられて來たのは歎かはしい事である。
 
133 小竹之葉者《ササノハハ》 三山毛清爾《ミヤマモサヤニ》 亂友《サヤゲドモ》 吾者妹思《ワレハイモオモフ》 別來禮婆《ワカレキヌレバ》
 
○小竹之葉者《ササノハハ》――昔から一般に「さゝのはは」と訓んで來たが、古義だけは卷二十に「佐々賀〔右○〕波乃さやぐ霜夜に」(四四三一)とある歌を引いて、「さゝがはは」と訓んでゐる。しかしかゝる語は特異な例があるからとて、それに泥むべきではない。
○三山毛清爾《ミヤマモサヤニ》――「みやま」の「み」は接頭辭で、所謂深山の義ではない。「清」(ノ)字、元暦校本は「そよ」と訓んだが、一般に「さや」と訓んでるのがよい。笹の葉のさや/\と鳴り響く音をいふのである。
○亂友《サヤゲドモ》――此の字の訓は少し覺束ない。舊訓は「みだれども」(古義之に從ふ)「みだるとも」など訓んでゐるが、歌の意義から推してふさはしいとも思はれない。次の歌に「黄葉乃、散之亂爾《チリノマガヒニ》」とあるを引いて、攷證は「まがへども」と訓んでゐるが、これも同樣である。考は「さわげども」と訓み、美夫君志は「さやげども」と訓んでるが、これも「亂」(ノ)字としては、しつくりした訓ともいへないけれど、歌の意義にはふさはしい。今は「さやに」といふ語に對する調の上から、美夫君志の訓に從つておく。
(443)◎一首の意――山一面の小笹、吹き過ぐる風にさや/\と音して、かしましく聞えるが、さるい音にも紛れず吾は妹の事を思ひつゝ行く。
これも人麿の辿り行く方面の山路で、下句は「吾が思は何物にも紛れぬ」といふ意を強調したのである。滿山の小笹、山風さつと吹き渡ると、全山動搖するばかり、すさまじく鳴り響くけれど、さる音にも我が思は紛れぬといふのである。かゝる場合、後世ならば初めから、めゝしい泣言ばかり並べるが、さすがに人麿の作は、かゝる繊細な哀調を述べるにしても、對象に持ち出すものは、どこにか力強いものがあるので、そこに男らしい調が出て來る。こゝが學ぶべき所である。
 
或本反歌
 
134 石見爾有《イハミナル》 高角山乃《タカツヌヤマノ》 木間從文《コノマユモ》 吾袂振乎《ワガソデフルヲ》 妹見監鴨《イモミケムカモ》
 
○木問從文《コノマユモ》――「このまゆも」又は「このまよも」(古義)と訓まれてゐる。「よ」はやはり「より」の意で、古事記、神武天皇の御歌に「許能麻用〔右○〕母、い徃きまもらひ戰へば」とある同じ語法である。「も」は助辭。
  ○
 
135 角※[章+おおざと]經《ツヌサハフ》 石見之海乃《イハミノウミノ》 言佐敝久《コトサヘグ》 辛乃崎有《カラノサキナル》 伊久里爾曾《イクリニゾ》 深海松生流《フカミルオフル》 (444)荒磯爾曾《アリソニゾ》 玉藻者生流《タマモハオフル》 玉藻成《タマモナス》 靡寐之兒乎《ナビキネシコヲ》 深海松乃《フカミルノ》 深目手思騰《フカメテモヘド》 左宿夜者《サヌルヨハ》 幾毛不有《イクダモアラズ》 延都多乃《ハフツタノ》別之來者《ワカレシクレバ》  肝向《キモムカフ》 心乎痛《ココロヲイタミ》 念乍《オモヒツツ》 顧爲騰《カヘリミスレド》 大舟之《オホブネノ》 渡乃山之《ワタリノヤマノ》 黄葉乃《モミヂバノ》 散之亂爾《チリノマガヒニ》 妹袖《イモガソデ》 清爾毛不見《サヤニモミエズ》 嬬隱有《ツマゴモル》 屋上乃《ヤカミノ》【一云室上山】山乃《ヤマノ》 自雲間《クモマヨリ》 渡相月乃《ワタラフツキノ》 雖惜《オシケドモ》 隱比來者《カクロヒクレバ》 天傳《アマヅタフ》 入日刺奴禮《イリヒサシヌレ》 大夫跡《マスラヲト》 念有吾毛《オモヘルワレモ》 敷妙乃《シキタヘノ》 衣袖者《コロモノソデハ》 通而沾奴《トホリテヌレヌ》
 
○角※[章+おおざと]經《ツヌサハフ》――卷三には「角障經」(二八二)とあるが、※[章+おおざと]、障、通用の文字で、「つぬさはふ」と訓み、石の枕詞である。「つぬ」は綱《ツヌ》で蔦の事、蔦かづらなどの多く蔓ひまつはる石《イハ》の義だといはれてゐるが、他にもいろ/\の異説がある。
(445)○言佐敝久《コトサヘグ》――辛の枕詞。「さへぐ」はがや/\とさわがしく物いふ事、外國の人の物言ふ事は、義が通じないで、たゞ囀づる如く聞えるといふ心で、韓《カラ》、百濟などにかけるのである。孟子に南蠻鴃下之人といふに同じ趣である。
○辛乃崎有《カラノサキナル》――都農津の東北、八九里許、石見國邇摩郡宅野村の海中半里許りに辛島といふがある。そこの出崎であらう。
○伊久里爾曾《イクリニゾ》――「いくり」は海中の巖をいふ古語である。應神紀の歌に「由良の門の、となかの異句離〔三字右○〕に、ふれ立つ、なづの木の云々」とあつて、その釋紀の解説に「句離〔二字傍点〕謂v石也、異〔二字傍点〕(ハ)助語也」とあるから、「い」はもと接頭辭であるらしい。
○深海松《フカミル》――海の深い處に生える海松《ミル》をいふ。海松は海岸の巖に附著して生える一種の藻で、長さ五六寸ばかり、字鏡に「海松、水松 美留《ミル》」とある。
○深目手思騰《フカメテモヘド》――玉藻といふにつきて「靡き寐し」と承け、深海松といふにつきて「深めて思ふ」と、あやなした修辭法である。舊訓「ふかめておもふと」と訓んでゐるのは義を成さない。考以後「ふかめてもへど」と訓むのがよい。
○左宿夜者《サヌルヨハ》云々――舊訓「さぬるよは」を、古義は「さねし〔右○〕よは」と改めた。卷五に「左禰斯〔右○〕欲の、いくだもあらねば」(八〇四)とあり、上にも「靡寐之〔右○〕兒」とあるから、一應道理ある事だが、本文は「左寐夜者」で「之」の辭がなく、かゝる所は現在辭にてもよくいふ習ひであるから、なほ舊訓のまゝにしておく。「さ」は接頭辭。
○幾毛不有《イクダモアラズ》――玉の小琴は卷十七「年月も伊久良母《イクラモ》あらぬに」(三九六二)とあるによつて、「いくらもあらず」と訓(446)んだが、古義、攷證、美夫君志等が、卷五「左禰斯欲能《サネシヨノ》、伊久陀母阿羅禰婆《イクダモアヲネバ》」(八〇四)とあるによつて、「いくだ〔右○〕もあらず」と訓んだ、それがよからう。「ら」と「だ」とは通音で、かく兩者とも用例はあるが、「いくだ」といふが古格らしい。「こゝら」といふ語も「こゝだ」の方が古いやうに。(舊訓に「いくぱくもあらず」とあるのは少しいかゞ。)
○延都多乃《ハフツタノ》云々――別れの枕詞。蔦の根は遠くはびこつて彼方此方と別れ行くからである。「別れし〔右○〕くれば」の「し」は助辭。
○肝向《キモムカフ》、心乎痛《ココロヲイタミ》――「肝向ふ」は心の枕詞。卷一、軍王の歌(五)に「村肝乃、心乎痛見」とあつたと同じ心で、臓腑は腹の中に群がつて、互に向きあつてゐるからと言はれてゐる。「痛み」は痛さにの意。
○念乍《オモヒツツ》、顧爲騰《カヘリミスレド》――この「念」も輕く用ひられてゐるので、強ひて解くほどの事はなからう。
○大舟之《オホブネノ》、渡乃山《ワタリノヤマノ》――「大舟の」は渡の枕詞、渡の山は江(ノ)川の渡りに近い山であらうか、定かではないが、人麿の辿り行く山には相違あるまい。
○黄葉乃《モミヂバノ》、散之亂爾《チリノマガヒニ》――下句、舊訓以來「ちりのまがひ」と訓み來つたのを、古義は「ちりのみだり」と訓み改めた。それは「亂」(ノ)字の正訓であらうし、それで意義の通ぜぬ事もないけれど、此種の思想は古くから行はれてゐるらしく、古今集春下に「この里に旅宿しぬべし櫻花、ちりのまがひに家路〔七字傍点〕忘れて」とあるのも傳來の語句によつたものかと思はれるから、やはり舊訓のまゝがよからう。(古義の訓に從ふにしても「みだれ」と訓ずべきで、「みだり」は誤であらう。此事は後に述べよう。)さて少し隔れば、振る袖などの見えよう筈もないが、之を黄(447)葉の散るにかこつけたのは、誇張していふ詩歌のあやで、そこに切なる情があらはれるのである。
○嬬隱有《ツマゴモル》、屋上乃山乃《ヤガミノヤマノ》――「嬬隱る」は屋の枕詞。屋上の山は明かでない。江(ノ)川の東なる下松山村大字八神といふ所にある山であらうと言はれてゐるが、さうかも知れぬ。(室神山とも書く由、隨つて、一本の室上山も同じく「やがみの山」と訓むのであらう。)さて歌の意義から推せば、此山は人麿の辿り行く位置から故里の方面に當つてゐるので、妹が家の目じるしに見て行く山であらう。さて又最後の「乃」は「か」の意で、次の二句を隔てゝ「惜しけども隱ろひ來れば」にかゝる序詞で、本文には直接の關係はない。雲の絶間を渡る月影の忽ち隱るゝ如く、目ざす屋上の山が惜しくも隱れ行くのである。此の二句、調子の上からは少し耳障りに聞えるが、これがなくては又少し物足らないので、惜しいといふ情を引立てる文のあやに置いたのであらう。玉(ノ)小琴は詞の關係を委しく説明して、「此のわたり紛らはし、よく辨ふべし」といつてゐるが、語調の紛らはしく聞える難はつひに免れまい。さて「雲間より〔二字右○〕渡る」は「雲間を渡る」意で、土佐日記に「水底の月の上より〔二字右○〕漕ぐ舟の、棹にさはるは桂なるべし」とあるに同じ心ばへである。「わたらふ」は「わたる」の延語で渡り行く意である。
○雖惜《ヲシケドモ》、隱比來者《カクロヒクレバ》――舊訓に「をしめども」と訓んでゐるが、ふさはない。考は「をしけれど」と訓んだが、そを約めて「をしけども」といふが古格である。卷五「伊能知遠志家騰〔四字傍点〕、せむすべもなし」(八〇四)、卷四「天雲のそきへの極み遠鷄跡裳〔四字傍点〕」(四一〇)など例は多い。「かくろひ」は「かくれ」の延語で、屋上の山が、次第に雲などに隱れて行くのである。古義は「者」を「乍」の誤として「來つゝ」と訓んでゐるが、げに次の「入日刺奴禮」は「さしぬれば」の意で、「隱ろひくれば〔右○〕」「入日さしぬれば〔右○〕」と、同じ語調の重なるのは拙ないから、この説おも(448)しろく聞えるけれど、それは「ば」を添へて訓むからなので、上代では「入日さしぬれ」といふだけで意は通じてゐたので、語調の上には、さしたる關係はなかつたらうと思ふから、強ひて改めるにも及ぶまい。
○天傳《アマヅタフ》、入日刺奴禮《イリヒサシヌレ》――天傳ふは日の枕詞。「入日さしぬれ」は「さしぬれば」の意で、この語法は卷一、役民歌の「玉藻なす浮べ流せれ」(五〇)といふ所で既に述べた。總じて上に「こそ」の係がなくて、已然形で終つてゐる所は、大方この語法である。
○敷妙乃《シキタヘノ》云々、通而沾奴《トホリテヌレヌ》――敷妙は「敷栲」で、もと寢衣の事であるが、點じて一般に衣、枕などにかゝる枕詞となつた事は既に述べた。檜嬬手に、宿についても、なほ夜の衣まで沾した意に説いてゐるのは語に泥み過ぎたものである。「通りて沾れぬ」は裏まで沾れ通つた意であらうが、これも涙に沾れた事を強調するだけの事と見てよからう。
 さて石見の國府から都へ上る昔の官道は、よくは知らねど、此歌によつて見れば、濱邊に沿うて北行したものと思はれる。考の別記に、地理に委しき人の言とて、安藝へ出ると、備後へ出ると、北國へ向ふとの三大道があるといつてゐるが、人麿の取つたのは、その所謂北國道であらう。さすれば人麿は角の浦で妻に別れ、江(ノ)川を渡つて出雲方面へ向つたので、渡りの山、屋上の山、皆過ぎ行く山の名であらう(恐らくは江川附近であらう)。江(ノ)川の上流五六里の地にも、渡の山といふがあり、その南三里許りに矢上山といふもあるので、そこではないかといふ人もあるが、地理方向が違ふから、さうではあるまい。又前にも述べたが、代匠記、考等は、一旦舟に乘つたものと見たらしく、處々にさる趣をほのめかしてゐるけれど、そは大きな誤で、二首とも舟に乘(449)つた趣はどこにも見えない。
◎一篇の大意――石見の海、辛の崎のあたりを見ると、岩礁には深海松が生え、磯邊には玉藻が生えてゐる。あゝその玉藻のやうに、やさしく我に靡き寐ねし妹を、日比深海松の心深く思うてゐたが、生憎に同棲する日は幾ほどもなくて、忽ち別れて來たので、胸の痛さ名殘の惜しさに、見かへり/\過ぎ行くけれど、生憎に辿り行く渡の山の黄葉々の亂れ散るに紛れて、妹が袖もよくは見えず、古里の目じるしに眺め行く屋上の山も、おひ/\影薄れ、果は日影も傾いて、闇さへ近づいて來るので、ますらを〔四字傍点〕を以て任じてゐる我も、思に堪へかねて、衣の袖は涙で沾れ通つた事であつたわい。
 これも前の歌と同時の作であらう。趣向も大體似通うて、やはり調を以て勝る作である。玉藻の浪に靡くさまを女のやさしき趣に擬へるのは人麿の常套手段で、珍らしくはないが、冒頭「深海松生ふる」「玉藻は生ふる」といふ對を、「玉藻なす靡き寐し子を深海松の深めてもへど」と逆に承けたのは面白い(よくある事ながら)。結末二句も力があつてよい。たゞ枕詞が多きに過ぎて、やゝ生氣を缺く憾がある、終に前篇の渾然たるには及ばない。
 
反歌二首
 
136 青駒之《アヲゴマノ》 足掻乎速《アガキヲハヤミ》 雲居曾《クモヰニゾ》 妹之當乎《イモガアタリヲ》 過而來計類《スギテキニケル》 一云、當者《アタリハ》 隱來計留《カクリキニケル》
 
(450)○青駒之《アヲゴマノ》――和名抄に説文を引いて「※[馬+總の旁]、青馬也」といひ又「青白雜毛馬也」といつてゐる。青|味《ミ》を帶びた毛なみの馬をいふのであらう。然るに考に「白馬なり」と註せられたのは白馬節會などを思ひ合せられたのであらうか、覺束ない。卷二十「水鳥の鴨の羽の色の青馬を、今日見る人は限りなしといふ」(四四九四)とさへあるものを。又集中には多く赤駒をよみ、青駒を詠んだ例は少ないので、略解は安田躬絃といふ人の説をあげて、「青」は「赤」の誤かといつてゐるが、古義は上の卷二十の歌を例として、なほ「青駒」としたのはよい。然るに卷十四に「安可胡麻我〔右○〕あがきを早み云々」(三五三四、三五四〇)とあるによつて、此歌をも「あをこまが〔右○〕」と訓じたのは聊か異を立つるものといふべきである。さて漢詩には白馬が多いが、我國の歌には赤駒、青駒の多く用ひられるのは、要するに音調の自然によるものであらう。
○足掻乎速《アガキヲハヤミ》――馬は地を掻く如く歩むから、馬の足の運びを「あがき」といふ。「はやみ」は形容詞の語幹に「み」を添へた例の語法で、「足掻が早さに」の意である。
○雲居曾《クモヰニゾ》――雲居は雲のたなびいて居る處で、空の事であるが、こゝは遙かに遠く隔つた事を誇張していふのである。
◎一首の意――乘る駒の足掻の早さに、懷しいとおもふ妹が家のあたりも、名竄惜む間もなく、はや雲路遙に遠ざかつたわい。
 馬を早めるも緩めるも乘る人の手加減による事であらうが、そを馬にかこつけて、我が心に任かせぬ如く言ひなすのは、心ならずも別れ行く情の表現である。「過ぎて」といふ語遣ひから推せば、人麿は國府などから通つたの(451)で、妹と同棲ではなかつたらうとも考へられる。勿論かゝる語に泥むべきではないが。
 
137 秋山爾《アキヤマニ》 落《オツル・チラフ》黄葉《モミヂバ》 須臾者《シマラクハ》 勿散亂曾《ナチリミダレソ》 妹之當將見《イモガアタリミム》 一云、知里勿亂曾《チリナミダレソ》
 
○秋山爾《アキヤマニ》――こゝは長歌にある渡の山の事であらう。
○落《オツル・チラフ》黄葉《モミヂバ》――元暦校本を初め、昔から一般に「おつるもみぢば」と訓んでゐるが、古義だけは「ちらふもみぢば」と訓んだ。それもわるいとはいへない。「ちらふ」は頻繁に散る事である。
○須臾者《シマラクハ》――舊訓「しばらくは」と訓んでるのを、略解以後「しまらくは」と訓み、その方が古訓だとせられてゐる。げに集中に「しばらく」といふ假名書は見えないが、「しまらく」といふ假名書も、卷十四の東歌に「思麻良久〔四字傍点〕波ねつゝもあらむを云々」(三四七一)とあるのみで、他はすべて「須臾」又「暫」の訓読であるが、此集以外のものには、名義抄に「暫シバラク」とあるし、書紀の旁訓に「欲d暫《シバラク》向2高天原1與v姉相見而後永退u矣」など見えてゐる。畢竟「ば」と「ま」とは通音なので、何れが古いかは俄に斷じ難いが、「之麻思」「思末志久」などいふ例もあるから、今は「しま〔右○〕らく」と訓んでおく。古義は「しましくは」と訓んでゐる。これも然るべきだと思ふが、主に防人など東國人の歌に見えるので、聊か異を好むといふ憾がないでもない。
○勿散亂曾《ナチリミダレソ》――昔から「なちりみだれそ」と訓んでるのを考は「みだりそ」と訓み改め、檜嬬手、古義、美夫君志等之に同じてゐるが、「みだり」は四段活用の他動詞なので、自動詞は昔から下二段のやうであるから(これは上(452)の「一二三」及「一二四」の歌で既に述べた)、舊訓の方がよからうと思ふ。
◎一首の意――降りと降りしきる山のもみぢよ、しばらくはひかへてくれよ、今一度妹が家のあたりをさやかに見たいから。
妹か袖の見難きを黄葉の亂れ散るにかこつけるも、心ならずも遠ざかり行くを、馬の足の早きにかこつけるも、同一筆法である。山に靡けといふも、黄葉に散るなといふも、同じ思想で、いづれも切なる情の表現であるが、彼はすさまじくひゞき、此はやさしく聞えるは對象がちがふからである。
 
或本歌一首并短歌
 
138 石見之海《イハミノウミ》 津之浦乎無美《ツノウラヲナミ》 浦無跡《ウラナシト》 人社見良目《ヒトコソミラメ》 滷無等《カタナシト》 人社見良目《ヒトコソミラメ》 吉咲八師《ヨシヱヤシ》 浦者雖無《ウラハナクトモ》 縱惠夜思《ヨシヱヤシ》 滷者雖無《カタハナクトモ》 勇魚取《イサナトリ》 海邊乎指而《ウミベヲサシテ》 柔田津乃《ニギタヅノ》 荒磯之上爾《アリソノウヘニ》 蚊青生《カアヲナル》 玉藻息都藻《タマモオキツモ》 明來者《アケクレバ》 浪己曾來依《ナミコソキヨレ》 夕去者《ユフサレバ》 風己曾來依《カゼコソキヨレ》 浪之共《ナミノムタ》 彼依此依《カヨリカクヨル》 玉藻成《タマモナス》 靡吾寐之《ナビキワガネシ》 敷妙之《シキタヘノ》 妹之手本乎《イモガタモトヲ》 露霜乃《ツユシモノ》 置而之來者《オキテシクレバ》 此道之《コノミチノ》 八十隈毎《ヤソクマゴトニ》 (453)萬段《ヨロヅタビ》 顧雖爲《カヘリミスレド》 彌遠爾《イヤトホニ》 里放來奴《サトサカリキヌ》 益高爾《イヤタカニ》 山毛越來奴《ヤマモコエキヌ》 早敷屋師《ハシキヤシ》 吾嬬乃兒我《ワガツマノコガ》 夏草乃《ナツクサノ》 思志萎而《オモヒシナエテ》 將嘆《ナゲクラム》 角里將見《ツヌノサトミム》 靡此山《ナビケコノヤマ》
 
○冒頭の「津乃浦乎無美」は意を成さない。考は「津能乃浦回乎」の「能」と「回」とを落し、「無美」は紛れて、こゝに混入したものとしてゐるが、それもいかゞであるけれど、いづれ何かの誤があるであらう。「明來者浪己曾來依云々」の對句は、古義の「きよせ」といふ説が出て來た原であらうけれど、どうかと思はれる。しかし古義の説も一理はあるから、「よする」といふ語について、なほよく研究すべきである。他にもしつくりしない所はあるが、大體は本文と變らない。たゞ「柔田津《ニギタヅ》」と「角里將見《ツヌノサトミム》」との二點は、本文を解する有力な參考で、珍重すべきである。
 
反歌
 
139 石見之海《イハミノウミ》 打歌山乃 木際從《コノマヨリ》 吾振袖乎《ワガフルソデヲ》妹將見香《イモミツラムカ》
 
(454)○打歌山――舊訓は「うつたのやま」と訓んでゐるけれど、さる山の名は聞えない。考は「打歌」を「たか」と訓み、下に「角」又は「津野」が脱ちたので、やはり「たかつぬやま」であらうといつてゐる。(古義は「竹綱」を草體から誤つたものとしてゐる。)冒頭の「石見之海」も、しつくりしないから、何等かの誤があるかも知れぬ。
 
右歌體雖v同句句相替、因v比重載。
 
柿本朝臣人麿妻依羅娘子與2人麿1相別歌一首
 
依羅娘子は依羅氏の人であらう。此の娘子に就いては考の別記に委しく考證してゐるが、それについて少し言ひたい事があるけれど、そは下の「二二四」の歌の所で述べよう。たゞこゝでは、此歌は人麿が從2石見國1別v妻上り來し二首の歌の直後に添へられた形であるから、こゝだけでいへば、石見で新に得た假の妻と見たい氣がするといふにとゞめておく。
 
140 勿念跡《ナモヒソト・ナオモヒト》 君者雖言《キミハイヘドモ》 相時《アハムトキ》 何時跡知而加《イツトシリテカ》 吾不戀有牟〔左○〕《ワガコヒザラム》
 
○勿念跡《ナモヒソト・ナオモヒト》――舊訓は「おもふなと」と訓み、考は「なもひそと」と訓んだが、古義はそれを難じて「なおもひと」と改めた。この語、後世は必ず「な」と「そ」と相待つて用ひるが、昔は「な」だけで同樣の意を聞かせる事が多いから。それがよいかも知れねど、卷十に「春さればまづさき草のさきくあらば後にもあはむ莫戀〔二字右○〕吾妹」(一八(455)九五)といふがあつて、これは「なこひそわぎも」と訓むべきであらうと思はれるから、考の訓も強ちにわるいとは言はれまい。
○君者雖言《キミハイヘドモ》――舊訓は「きみはいふとも」と訓んでゐるが、現在の事であるから、代匠記、考等の「いへども」と改めたのに從ふべきである。
○相時《アハムトキ》――舊訓「あはむとき」を美夫君志は「あふときを」と改めたが、これは未來の事であるから舊訓のまゝでよからう。「あはむときを」の意であるが、かゝる所の「を」を省くが常である。
○吾不戀有牟《ワガコヒザラム》――「牟」(ノ)字、今本「乎」とあるが訓はなほ「む」とある。誤である事明かであるから、金澤本、類聚古集其他によつて改めた。
◎一首の意――そんなに心配すな、くよ/\物を思ふなと、あなたは仰しやるけれど、今御別れして、いつ又あへるかといふ確かなめどのない事であるから、どうして戀ひずにをられませうや。
都と石見國、交通の便の乏しい時代の女性としては無理もない情であらう。卷四「珠衣のさゐ/\しづみ家の妹に物いはず來て思ひかねつも」(五〇三)といふ同じ人麿の歌は、かうした折の作でゞもあつたらうか。
 
(456)挽歌
 
挽歌は漢土で送葬の際、柩車を挽く者に謠はせた歌の義で(代匠記、攷證等が晋書樂志崔豹の古今注等を引いて委しく註してゐる)あるが、之を借りて、廣く哀傷の歌の義に用ひたのである。考は「かなしみのうた」、古義は「かなしみうた」など訓讀してゐるが、もと彼土の熟語であるから、相聞を「サウモン」といふが如く、これも「バンカ」と音讀するがよからう。
 
後崗本宮御宇天皇代 天豐財重日足姫《アメトヨタカライカシヒタラシヒメ》天皇
 
齊明天皇の御代である。卷一で既に述べた。
 
有間皇子自傷結2松枝1歌二首
 
有間皇子は孝徳天皇の御子で、母は阿部倉梯麻呂大臣の女、小足媛である。齊明天皇の四年十一月、蘇我赤兄の爲に陷れられ、叛を謀つて捉へられたが、折から天皇が紀の國、牟婁の湯に行幸中であつたので、そこに召されて糺明され、翌日終に藤白坂で絞られた事が齊明紀に見えてゐる。此歌は牟婁行宮に引かれる途中、磐代の濱で詠まれたものと、諸註は見てゐるが多分さうであらう。ひとり新考は行宮から京へ送還される時の作であらうと言つてゐるが、どうであらうか。それにしても九日に京で捕へられた皇子が、翌十日に(457)ははや牟婁行宮で糺明され、その又翌日、送還の途中、藤白で絞られるなどは晝夜兼行で通られたとしても、あまりに迅速に過ぎるかに感ぜられる。(飛鳥の京から藤白坂まで十六七里、藤白から牟婁湯まで又十六七里。磐代から田邊まで約三里、田邊から温泉まで海を隔てゝ約二里。)今も藤白坂のはづれに、その遺跡と稱する所が傳へられてゐる。
さて皇子皇女の作には必ず「御歌」とあるのが、此集の例だが、此歌には「御」(ノ)字がない。之に就いて代匠記は次の如く述べてゐる。「他の皇子に准ずるに、此皇子も御歌といふべきを、歌とのみあるは若し脱ちたるか。罪あつて經《ワナカ》れ給ふゆゑなりといはゞ、大津皇子も御歌といふべからざるをや」(これは卷二、「一〇七」の歌の端書に「大津皇子贈2石川郎女1御〔右○〕歌一首」とあるなどをいふのであらう)といつてゐる。これはげにさる事で、此の卷二の歌は、大津皇子が、まだ罪を得ない時の作であるが爲かも知れねど、同卷「一一一」の歌に「幸2于吉野宮1時、弓削皇子贈2與額田王1歌一首」といふ例もあるから、既に述べた如く「御」(ノ)字の有無だけでは斷ずる事が出來ないと思ふ。
 
141 磐白乃《イハシロノ》 濱松之枝乎《ハママツガエヲ》 引結《ヒキムスビ》 眞幸有者《マサキクアラバ》 亦還見武《マタカヘリミム》
 
○磐白乃《イハシロノ》――磐代とも書く。紀伊國日高郡の海濱で、卷一「一〇」の歌で既に述べた。
○濱松之枝乎《ハママツガエヲ》、引結《ヒキムスビ》――松の小枝をわがねたのであらう。草又は木の枝を結ぶは昔の風習で、記念のため又は後會を期するために結んだらしい。隨つて常盤な松が最もふさはしいので集中さる趣の歌が多い。卷六「たまきはる命(458)は知らず松が枝を結ぶ心は長くとぞおもふ」(一〇四三)、卷二十「八千種の花はうつろふ常磐なる、松の小枝を我は結ばな」(四五〇一)など皆それである。殊に磐代といふ地名も、常盤の意を含んでゐるから、よく結ばれたものらしい。卷一、中皇命が「君が齒も我がよも知らむ磐代の岡の草根をいざ結びてな」(一〇)と詠まれたのも磐代の名にあやかつての事であらう。又同卷「三四」の歌に川島皇子が「濱松が枝の手向草」と詠まれたのも、恐らくは此の磐代の濱であらう。此時有間皇子が結ばれた松は、後々結松と稱へて、長く行人の情を惹いたらしく、何代目のものかは知らねど、二十數年前に予が通過した時は、昔からの松は、數年前に枯れたといつてゐたが、其後また代りに小松を植ゑたといふ事である。
○眞幸有者《マサキクアラバ》――「ま」は接頭辭、「さきくあらば」は幸に無事であつたならばの意。
◎一首の意――かやうに磐代の濱邊の松を結んでおくが、幸に身の明りが立つて無事でかへる事が出來たら、又重ねて御前にあはう。御まへも、それまで無事でをれよ。
情まことに隣むべしである。
 
142 家有者《イヘニアレバ》 笥爾盛飯乎《ケニモルイヒヲ》 草枕《クサマクラ》 旅爾之有者《タビニシアレバ》 椎之葉爾盛《シヒノハニモル》
 
○笥爾盛飯乎《ケニモルイヒヲ》――笥は物を容れる器物の總稱、こゝは食器をいふ。和名抄に禮記(ノ)注を引いて、「笥【思吏反、和名、計、】盛飯器也」とあり、又武烈紀、影暖の歌にも「玉け〔右○〕には飯さへもり、」と見えてゐる。
○旅爾之有者《タビニシアレバ》――「し」は強める助辭。
(459)○椎之葉《シヒノハ》――椎は葉が細かで、物を盛るには適しない所から、新撰字鏡に「椎、奈良乃木也」」とあるによつて、或は楢の意に借り用ひたものであらうといふ説もあるが、時にとつて有りあふ椎の小枝を用ひたものと見てよからう。
◎一首の意――家に居れば然るべき器物に盛つて食《タ》べる飯を、今は旅の事であるから、椎の葉に盛つて食ふ事であるわい。
これも前の歌と同時の作であらう。これは昔の旅の困難を語つたものとせられてゐるが、そればかりではあるまい。なるほど卷一にも中皇命が紀温泉に下られた時、途中假屋を営んで野宿せられた趣の歌(一一)も見えてゐるし、高貴の方々ですら野宿せられたほどであるから、食事などは實際椎の葉に盛つたかも知れねど、天皇の行幸もあつたほどであるから、然るべき處々には多少の設備もあつたではないかとも考へられる。又一般にさる状態であつたなら、故らに之を強調して、歌に詠まれずともの事かとも考へられる。(紀によれば、天皇の行幸に先だつて有間皇子が一度牟婁(ノ)湯に下られ、さて天皇に御勸めした由が見えてゐる。)思ふに皇子が、罪人扱をせられて、もてなしおろそかであつたので、心中に憤慨せられたが、何分囚はれの身であるから、陽はに不平も言へず、旅といふに托して憤懣を洩らされたのではあるまいか。かく見れば、皇子の境遇も、歌の趣も、一段と身にしみて感ぜられるのである。
 
長忌寸意吉磨見2結松1哀咽歌二〔左○〕首
 
流布本、「首」(ノ)字の上に空白があつて「二」(ノ)字を脱してゐる。多くの古寫本によつて補つた。
 
(460)143 磐代乃《イハシロノ》 岸之松枝《キシノマツガエ》 將結《ムスビケム》 人者反而《ヒトハカヘリテ》 復將見鴨《マタミケムカモ》
 
○意吉麿は卷一の「五七」に奥麿とあつた人で、既にその所に述べた。
○岸之松枝《キシノマツガエ》――皇子の歌には「濱松之枝」といひ、」こゝでは「岸之松枝」といひ、次の歌では「野中爾立有」といつてゐるが、何れも同じ處をいふは勿論の事で、卷一なる中皇命の御歌(一〇)に「岡之草根」とよまれたのも、やはりそのあたりをいふのであらう。松のあつたといふ所は濱邊に近い崖上で、後は丘つゞきの野であるから、歌の調子によつて、さま/”\に言ひまはされたのであらう。卷一「五四」の歌で、巨勢山とも巨勢の春野とも詠んだやうなものである。「岸」(ノ)字、元暦校本には「崖」とあるが、訓はやはり「きし」である。
○將結《ムスビケム》、人者反而《ヒトハカヘリテ》――結びけむ云々と訓む。「けむ」は過去推量の助動詞で、こゝはその連體形である、「將」一字を「けむ」と訓むのは少しいかゞに思はれるけれど、歌の意義は、しか訓までは叶はぬ所である(下句に「複將見〔二字右○〕鴨」とあるのも同樣である)。「結びけむ人」は有間皇子をいふ。「反而」は「また立ち還り來て」の意である。
○復將見鴨《マタミケムカモ》――「かも」の「か」は疑辭、おしもて行けば反語の意ともなるのである。「も」は感動辭。
◎一首の意――あの磐代の岸の松ヶ枝を結んで、「まさきくあらば又かへり見む」と詠まれた其人は、言はれた如く、再び立ちかへつて見られた事であつたらうか。イヤ/\とう/\見る事が出來なかつたといふは、何とも卿氣の毒にたへぬ。
考及び略解に皇子の御魂の立ちかへつて見給ふ意に解いたのは、次なる憶良の追和の歌から誤つたのであらう。(461)こゝは皇子其人をいふので御魂ではない。
 
144 磐代乃《イハシロノ》 野中爾立有《ヌナカニタテル》 結松《ムスビマツ》 情毛不解《ココロモトケズ》 古所念《イニシヘオモホユ》 未詳
 
○情毛不解《ココロモトケズ》――此歌は解くと結ぶとの縁語を取り合はせて仕立てたので、やゝ後世ぶりの傾きがある。この結松を見れば、我(作者)もありし昔がしのばれ、情結ぼれて解け難く感ずるといふのである。「情《コヽロ》も」とあるによつて、松も〔右○〕其時まで結ばれたまゝであつた事が知られる。美夫君志に「その結びし人の心も解けずぞありけむ」と皇子の心にして説いてゐるのは誤である。(但、「一首の意」とある所は正しい。)
○古所念《イニシヘオモホユ》――舊訓に「むかし、おもへば」とあるのは拙ない。早く代匠記が、そを「字に叶はず」とて「いにしへおもほゆ」と訓み改めたのがよい。――さて此歌の下に、「未詳」とあるのは何の意か判らない。或は衍文であらうといひ(代匠記)、或は、この歌を拾遺集には人麿の歌として載せてあるから、それにつきて後人のしるしたものであらうといひ(美夫君志)、或はこれは意吉麿の作ではなく、作者未詳の歌であらうなど、さまざまに言はれてゐるが、要するに、それもわからない。
◎一首の意――磐代の野中に立つてゐる結松を見ると、我さへ思ひ結ぼれて昔の事がしのばれるよ。
 
山上臣憶良追和歌一首
 
美夫君志は、この端書を「山上臣憶良追同〔傍点〕歌一首」と改め、追同歌を或人、追和歌と改めたるは粗忽なり(462)と注し、追同は唐人の稱謂で、追和の義だと説明してゐるのは、どういふわけであらう。追同は追和の義であらうが、こゝを追同と書いた本が世にあるであらうか。なるほど卷四に後人追同歌(五二〇)といふがあるし、卷十九、追2和處女墓歌1(四二一一)とあるを、温古堂本には追同とあるさうだから、こゝも原は追同であつたであらうのを、後人が追和と改めたものであらうとの推量から出た判斷かも知れないが、こゝは元暦校本を始め、舊本、古寫本等すべて皆追和とある。初から追同とある所は、それでよいけれど、すべて追和とある所までを追同とせねばならぬ事はあるまい。但、こゝの追和については、代匠記が早く有間皇子の歌を和するか、意吉麿が歌を和するかと訝かつてゐるが、嚴密にどの歌に和したといふほどの事ではなく、攷證のいふが如く、結松に關する歌を後人が添へた意に見てよからう。若し強ひて和の義を尋ねるなら、やはり意吉麿の初の歌に和したものと見ておくべきであらう。
 
145 鳥翔成《ツバサナス》 有我欲比管《アリガヨヒツツ》 見良目杼母《ミラメドモ》 人社不知《ヒトコソシラネ》 松者知良武《マツハシルラム》
 
○鳥翔成《ツバサナス》――舊訓は「とりはなす」と訓んでゐるが語を成さない。考は「つばさなす」と訓み改め、爾後一般にそれに從つて來た。これもしつくりした訓とは言へないと思ふけれど、他に適當な訓も思ひ得ないから、姑くそれに從つておく。鳥の翼の如く天翔りつゝの義である。略解に「翔」を「翅」の誤かといつてゐるが、強ひて誤字とする必要はあるまい。(近頃、新考は「とゝびなす」と訓んでゐるが、これも熱合した訓とは考へられない。)
(463)○有我欲比管《アリガヨヒツツ》――「あり」はありつゝ、あり/\て、などのあり〔二字傍点〕で、存在の意を含めて輕く添へた語である。卷一、御井之歌(五二)に「埴安の堤の上にあり〔二字傍点〕立たし」とあるあり〔二字傍点〕と同じで、皇子の御魂が鳥の如く天翔りつゝの意である。
○人社不知《ヒトコソシラネ》――靈魂の事であるから、人の眼には見えないがといふのである。「知らね」の「ね」は否定の助動詞「す」の已然形で、こその結びである。
◎一首の意――皇子の御魂は、今も天翔りつゝ、御心殘された結松の許に通うて見そなはす事であらうが、人目には見えないけれど、深く契られた松は定めて知つてゐる事であらう。
肉體と靈魂とは死後分離して存するものといふ古代人の考を證すべき歌である。
 
右件歌等雖v不2挽v柩〔左○〕之時所1v作、唯擬2歌意1、故以載2于挽歌類1焉。
 
これは挽歌といふものを、柩車を挽く時の歌とのみ考へた後人の注であらうと言はれてゐる。さうかも知れないが、辭句の趣は編者の如くにも聞える。とにかくに疑問といふべきである。「柩」(ノ)字、流布本には「枢」とある。元暦校本、金澤本等によつて改めた。又「唯」(ノ)字金澤本には「准」とある、恐らくはそれがよからう。
 
大寶〔左○〕元年辛丑幸2于紀伊國1時、見2結松1歌一首
 
「寶」(ノ)字、今本には「實」とあるが、誤なる事明かであるから、他の古寫本によつて改めた、此時の行幸(464)は續日本紀に「大寶元年九月丁亥天皇幸2紀伊國1、十月丁未車駕至2武漏《ムロ》温泉1云々」とある時の事であらうから、「秋九月」の三字が脱ちたのであらうと美夫君志にはいつてゐる。(但、績紀の文面から推せば、此歌の読まれたのは十月になつてからであらう。)又作者の姓名が記されてないので、或は脱漏であらうともいはれ、或は意吉麿の歌の第二首の下にある「未詳」の二字は、こゝにあるべきであらうといふ人もある。然るに元暦校本などにほ、此端書の下に、小字で「柿本朝臣人麿歌集中出也」とあるが、昔の歌集は必ずしも其人の作ばかりとは言へないらしいから(一種の手控のやうなものであつたらしい)、果して人麿の作であるか否かは分らない。又此時の行幸に人麿が供奉したか否かも明かでない。次に他の例から推せば、「歌」(ノ)字の上に「作」(ノ)字が脱ちたのであらうと代匠記はいつてゐる。とにかくしつくりしない端書である。
 
146 後將見跡《ノチミムト》 君〔左○〕之結有《キミガムスベル》 磐代乃《イハシロノ》 子松之宇禮乎《コマツガウレヲ》 又將見香聞《マタミケムカモ》
 
○君之結有《キミガムスベル》――君は有間皇子を指す。今本は「若」(ノ)字に誤つてゐるが、諸本によつて正した。
○子松之宇禮乎《コマツガウレヲ》――子松の「子」は借字で小松の義、その「小」は美稱で、必ずしも小さい松の義でない事は、卷一「一一」の歌で既に述べた。有間皇子が松を結ばれた時(齊明天皇四年)から大寶元年まで四十三年、松も相應に大きくなつてゐたであらうと、辨ずる人さへある。「宇禮」はうらと同じく梢をいふ。
○又將見香聞《マタミケムカモ》――こゝでも「見けむ」といふに「將見」の二字をあてゝゐる。舊訓、上の意吉麿の歌では、「また見けむかも」(復將見鴨)と訓んでゐるが、こゝでは「またもみむかも」と訓じてゐるのは少しいかゞである。(465)これも前に准じて訓むべきである。
◎一首の意――後また立ちかへつて見ようとて、皇子が結んでおかれた松の梢を、その如く見られた事であつたらうか、やがて失はれて再び見る事が出來なかつたのは何とも御氣の毒な事ぢや。
意義は意吉麿の始の歌によく似てゐる。よつて考は意吉麿の歌を唱へ誤つて後人の妄りに書き加へたものとして抹殺し、古義は意吉麿の歌の異傳として下に小さく書き添へてゐるが、聊か獨斷たるを免れぬ。同義異人の歌は昔からある習ひで、大寶元年は恰も意吉麿の時代であるから、似よりの歌が此方彼方で詠まれたものと見てをくべきであらう(下にある舍人吉年の歌 「一五二」が、卷一なる人麿の歌「三〇」に似てゐる如く)。又上の「右件歌等云々」といふ左注の後に、この歌が出て來るので、代匠記などは、此歌の後に左注が入るべきだといつてゐるが、これも原形を尊重して、左注を記した後に更に此歌を得て書き添へたものと見ておくべきであらう。端書のふつゝかな點などを思ふと、さう見る方が寧ろ穩當であらう。
 さて意吉麿も憶良も、藤原宮御宇から寧樂宮御宇へかけての人であるから、此等の歌は後崗本宮御宇天皇代と標榜した下に掲げらるべきではないが、唯有間皇子の歌の參考として附載せられたものである事は推される(人麿臨v死時の歌の後に丹比眞人の歌が掲げられたやうに)。隨つて皇子の歌と同列に記すべきではなく卷一、坂門人足や調首淡海の歌(五四、五五)の次に春日藏首老の歌(五六)が參考として載せられた如く、一段と低く小さく附載すべきであらうと思ふ。今は「春日藏首老」の歌の例に倣つて一字切下げただけで、他は從來の面目をそのまゝ存しておく。
 
(466)近江大津宮御宇天皇代 天命開別《アメミコトヒラカスワケ》天皇
 
天智天皇の御代
 
天皇聖躬不豫之時太后奉御歌一首
 
「豫」は東雅釋詁に「安也、樂也」とあつて不豫は所謂御不例の事である。太后(大后とした本もある、昔は太、大、通じて用ひたものらしい)は天智天皇の皇后で古人大兄の皇女倭姫をいふ。考は皇太后の義に見たらしく「未だ天皇崩れまさぬほどの御歌なれば、今本こゝを大后とかきしは誤也」とて、皇后と改めてゐるが、こゝは「おほきさき」と訓むべく、後の皇太后の事ではない。(古は妃、夫人をもすべて「きさき」と唱へたので、其中の正妃を特に太后「おほきさき」といつたのである。)
 
147 天原《アマノハラ》 振放見者《フリサケミレバ》 大王乃《オホキミノ》 得壽者長久《ミイノチハナガク》 天足有《アマタラシタリ》
 
○振放見者《フリサケミレバ》――集中多く用ひられてゐる語で、「ふり」は添へていふ語、「さけ」は放け又は避けで、遙に遠く見やる意、こゝは大空遙に仰ぎ見る事である。
○御壽者長久《ミイノチハナガク》、天足有《アマタラシタリ》――舊訓は「おほみいのちは、ながくてたれり」とあるが要を得がたい。考は「みよはとこしく、あまたらしぬる」と訓み改めたが、これもやはり要を得ない。玉の小琴に至るつて「みいのちはながく、あ(467)またらしたり」と改め、爾來大方之に從つてゐる。(京都大學本には、漢字の左に赭字で、同樣の訓がついてゐるさうだが、恐らくは小琴の訓を書き入れたものではあるまいか。)姑く此訓に據るとして、意義は猶十分明かではない。「たらし」にも從來二説あつて、(甲)(檜嬬手、美夫君志)は垂れる意に解し、「振放見」を寢殿の空を仰ぎ見る義として、その屋上に千尋繩を長く垂れてあるを、御壽命の長きによそへたものと解いてゐるが、平素事なき折の室壽ぎ歌ならばともかく、かゝる際の歌としてはあまりふさはしいとは思はれない。(乙)は考其他の説で「たらす」を「足る」の敬語法とし、空に充ち足る意と説き、天の遠く久しきが如く、御壽命も長久であらうと壽いだ意に見るのであるが、此の方はやゝ穩かであるけれど、あまりに抽象的で、概念的で、かゝる特殊な場合の御歌としては、ふさはしいとも思はれない。こゝはどうしても、景雲が長くたなびいたとか、壽星が光を垂れたとかいふ一種の景象を認めて、それに托して壽詞を上られたものでなくてはならぬやうに思ふ。漢土の習慣にかぶれて瑞祥騷ぎをする時代であるから、それも有りさうな事と思ふ。事によると御病勢が募つて御|自《ミヅ》から心弱げな事を仰せられるので、假りに設けて御慰め申したのであるかも知れぬ。とにかく何か指すものが有つたものと見ねば歌がしつくりしないと思ふ。
◎一首の意――大空遙かに仰いで見ますると、天にもかく/\の瑞祥があらはれて居りまする。此の度の御病氣御平癒、御壽命長久に何の疑がありませうや。
雄大な所のある歌として近頃の人々によく稱せられる歌であるが、げに悠揚として迫らざる所、調は極めてめでたいが、意義は十分明瞭だとはいへない、姑く右の如く解釋して見たが、なほ物足らぬ感じがする。よく味ふべ(468)きである。
 
一書曰、近江天皇聖體不豫、御病急時太后奉v獻御歌一首
 
この二十三字は前の歌の注か、後の歌の端書か明かでない。考は端書と見たが、次の歌の端書にはふさはぬので、その歌が脱ちたものとしてゐる。後々の釋家も多くは之に從つてゐるが、たゞ略解、檜嬬手、古義等は前の歌の注と見てゐる。いづれにしてもしつくりはしないが、姑く略解、古義の見解に從つて左注と見ておきたい。さう見れば大體、上の端書と同義ではあるが、少し字句の異同があるから、それをことわつたのであらう。(少しの文字の異同でも掲げるのが此集の規模である。屋上山の一書として室上山を掲げたやうに。)殊に「御病急時」の一句は前に述べた我が見解を助けるに極めて有力なものとなるのである。
 
148 青旗乃《アヲバタノ》 木旗能上乎《コバタノウヘヲ》 賀欲布跡羽《カヨフトハ》 目爾者雖視《メニハミレドモ》 直爾不相香裳《タダニアハヌカモ》
 
此歌の意、崩御後の御作と聞えるから、考の如く、前の「一書曰云々」を端書と見れば、此歌にはふさはない。そこで考等は、この端書に對する歌が脱ちたものとしてゐるが、「一書曰」を、天原の歌の注と見れば、その必要はない。それにしても此歌の端書がやはり闕けるので、考は次の歌の端書(天皇崩御之時倭太后御作歌)をこゝに入るべきものとし(育旗云々と人者縱云々との二首に亙る端書とするのである)、攷證は別にあつた端書が脱ちたものとしてゐる。それはいづれとも定め難いが、何等かの錯亂があつたものらしい。
(469)○ 青旗乃《アヲバタノ》、木旗《コハタ》――明でない。代匠記は卷四「青旗乃葛木山」(五〇九)、卷十三「青旗乃忍坂山」(三三三一)等を例に引いて、木幡(地名、天智天皇の御陵山科に近き處)にかゝる枕詞とし、「木の茂りたるは、青き旗を立てたらんやうなればなり」といつてゐる。天皇の御魂が、御陵墓近くから大津宮に通はせ給ふ意に見たのであるが(美夫君志、新考、之に從ふ)、早く仙覺抄には「葬具儀育旗赤旗交雜云々」といふ常陸風土記の文を引いて葬具としてゐるので、之によつて殯宮に樹てた旗とする説が多い(考其他)。然るに考は葬具といふ事は認めてゐるが、孝徳紀の葬制に照して青旗を白旗と解き、更に「木」を「小」の誤として、「をはた」と訓んだので、又之に對する賛否の説がまち/\に分れる(檜嬬手は白幡説で攷證は最もそれに反對してゐる)。按ふに枕詞といふ説も、卷四、卷十三の歌から推して故ありげにも聞えるけれど、此歌では葬具とする方がふさはしいかにも思はれる。それに木幡といふが、宇治の北、伏見の東なる地をいふならば、近しといへども御陵を距ること南二里餘に當るから、大津(ノ)宮で御崩れになつた天皇の御魂が、何が故にさる處を飛翔せられるのか、又太后も何が故に之を木幡とみそなはされたのか覺束ないと思ふから、此説には從ひがたい。次に葬儀に白を用ふるが一般の制でもあらうし、常陸風土記の文が動かぬ證ともし難からうが、白の外、更に用ひなかつたか否かも調査すべきである。考は上の「一三六」の歌でも「青駒は白馬也」といひ、下の「一六一」の歌でも「青雲は白雲也」といつてゐるが、白馬節會を「あをうまの節會」と訓ずるなどは、特殊の事情による事なので、いかなる場合でも青は白也とはいへまい。青旗はやはり青色の旗と見るべきであらう。それから「木」は「小」の借字であらうが、その「小」は小さい義かも知れねど、小松などの如く一種の美稱かとも思はれる。強ひて「小」の誤として「を〔右○〕はた」と訓まねば(470)ならぬ事はあるまい。要するに吾輩は式場に樹てられた青色の小旗と見たいのである。(もし「小」が美稱ならば、「さがみ嶺の小《ヲ》嶺」「玉篠のを篠」などいふと同樣、同じ言をくりかへした古歌のあやで、たゞ青旗の義と見て然るべきであらう。)
○目爾者雖硯《メニハミレドモ》――舊訓「めにはみれども」を古義は「めにはみゆれど」と改め(古義の此の異訓は校本萬葉集には漏れてゐる)、近頃の新考は之に從つてゐる。なるほどそれがいゝかとも思はれるけれど、舊訓のまゝでも、義はよく通ずるから、わざ/\改めるにも及ぶまい。集中の諸例を見ると、卷一「雖見〔二字傍点〕阿可受、巨勢の春野は」(五六)、卷二「國柄加雖見〔二字傍点〕不飽」(二二〇)、卷七「目庭雖見〔二字傍点〕因縁《ヨルヨシ》もなし」(一三七二)、卷十二「我がせこを目者雖見〔二字傍点〕あふよしもなし」(二九三八)皆「みれども」と訓んでゐる。生憎「目には見ゆれど〔四字傍点〕」といふ實例は一つも見えない。又代匠記が「目にはみるとも〔二字傍点〕」と訓み、下句を「たゞにあはじかも」と訓んだ説には賛成出來ない。
○直爾不相香裳《タダニアハヌカモ》――「たゞに」は直接にの意。「かも」は感動の助辭。
◎一首の意――(小さい)青旗の並んでゐる上を、天皇の御魂が天翔り給ふやうに目には見えるけれど、實際に親しく御逢ひ申す事の出來ぬのは悲しい事ぢやわい。
何か幻の如く見そなはしたのであらう、前の「鳥翔成《ツバサナス》」の歌と與に、死ねば靈魂が遊離してさまよふものとの信念があつた事を證すべき歌である。御陵墓にての御作ならば、大津宮の方へでも通はれるやうに見そなはしたのであらうか。
 
天皇崩御之時、倭太后御作歌一首
 
(471)考、檜嬬手、古義等は此端書を、上の青旗の歌の前に繰り上げてゐる、又崩御の二字、金澤本其他には「崩後」とあるので、美夫君志はそれに據つてゐる。「倭太后」といふ事、例に背くとて、考、攷證、古義等は「倭」(ノ)字を衍として削つてゐるが、美夫君志は磐姫皇后の例もあるからとて、そのまゝ存してゐる。代匠記は「倭鯛太后」の「姫」(ノ)字脱ちたるかといつてゐる。とり/”\に一理ある説だが終に何ともいへぬ。
 
149 人者縱《ヒトハヨシ》 念息登母《オモヒヤムトモ》 玉※[草冠/縵]《タマカヅラ》 影爾所見乍《カゲニミエツツ》 不所忘鴨《ワスラエヌカモ》
 
○人者縱《ヒトハヨシ》――舊訓は「ひとはいざ」と訓んでゐるが、「縱」を「いざ」と訓んだ例はない。代匠記に「よし」と訓んだのがよいので、同書に「たとひといふ心にて假りに縱す詞なり」といつてる通りである。上の「一三一」の歌に「縱畫八師《ヨシヱヤシ》」、第六、元興寺之僧自嘆歌(一〇一八)に「不知友|縱《ヨシ》」など集中に例は多い。
○念息登母《オモヒヤムトモ》――念ひやむは結句の「忘る」と同じ意で、語を代へて繰りかへしたに過ぎぬ。
○玉※[草冠/縵]《タマカヅラ》――「かげ」にかゝる枕詞で諸説まち/\である。(一)玉を貫いた※[草冠/縵]で、※[草冠/縵]は頭にかけるものであるから「かけ」とつゞきたるを、轉じて「かげ」にかけたもの(冠辭考)、(二)玉は照りかゞやくから映《カゲ》とつゞけたもの(古義)、(三)玉は美稱、※[草冠/縵]は神事に用ひる日蔭(ノ)※[草冠/縵]の事で、こゝも神事を行ふ際であるから、玉※[草冠/縵]かげとつゞけたもの(攷證、美夫君志)。是非何れとも定め難く、(一)の説が比較的行はれてゐるらしいが、予は(三)の説が穩當ではないかと思ふ 然るに本居翁は玉を山の誤とし、山※[草冠/縵]は日蔭※[草冠/縵]の事であるから、「かげ」とつゞいたものと説いてゐる(玉(ノ)小琴、玉勝間卷十三、古事記傳卷二十五等)。しかし此の意ならばまを美稱として(三)の説に據るがよいので、強ひ(472)て山の誤として改める必要はあるまいかと思ふ。玉蔓とかげ〔二字傍点〕とを取り合せた歌は後々もあまた見えるが、すべて山の誤とするはいかゞであらう。(玉を山の誤とする翁の説については上の「一一三」の歌で既に述べた。)
○影爾所見乍《カゲニミエツツ》――影は面影で、ありし姿の眼前にちらつく事。
○不所忘鴨《ワスラエヌカモ》――舊訓は「わすられぬかも」で、誤ではないが、早く代匠記精撰本に「わすらえぬかも」と訓むべき由、注意したのがよい。「れ」を「え」といふが古言の常で、集中卷五「美流爾之良延奴《ミルニシラエヌ》云々」(八五三)、同「都の手ぶり和周良種〔左○〕爾家利《ワスラエニケリ》」(八八〇)、卷十三「しばしも吾は忘枝〔右○〕沼鴨」(三二五六)など假名書の實例が多い。
◎一首の意――よし他人は思ひ忘れて情の薄らぐ事があらうとも、我はありし御姿が目にちらついて、とても忘れる事は出來ない事ぢや。
これは下の「從2山科御陵1退散之時額田王作歌」(一五五)と相照して味ふべき歌である。初二句假り設けていふ意には相違あるまいが、日數經るまゝに情の薄らぐかに見えるものもあるので、特に強調せられたのであらう。
 
天皇崩時婦人作歌一首 姓氏〔左○〕未v詳
 
婦人は宮人をいふのであらう。古義は「をむなめ」と訓んでゐる。檜嬬手が夫人と改めたのは例の妄斷である。「姓氏」、流布本には「姓民」とあるが、諸他の古寫本によつて改めた。
 
150 空蝉師《ウツセミシ》 神爾不勝者《カミニタヘネバ》 離居而《ハナレヰテ》 朝嘆君《アサナゲクキミ》 放居而《サカリヰテ》 吾戀君《ワガコフルキミ》 (473)玉有者《タマナラバ》 手爾卷持而《テニマキモチテ》 衣有者《キヌナラバ》 脱時毛無《ヌグトキモナク》 吾《ワガ》戀《コフル・コヒム》 君曾伎賊之夜《キミゾキゾノヨ》 夢所見鶴《イメニミエツル》
 
○空蝉師《ウツセミシ》、神爾不勝者《カミニタヘネバ》――簡潔な句である。空蝉は現し身で、現實の此の身をいふ。代匠記に空蝉の世〔右○〕と解かれたのは少し心ゆかぬ。「師」は強める助辭。「神に勝へねば」は「神たる君に從ひまつるにたへねば」の意で、天皇は神とならせられて昇天せられたが、我はまだ此世にさまよふ身の上で、いくら御慕ひ申しても到底隨つて行く事が出來ないからといふのである。新考は「あへねば」と訓んでゐるが、それも然るべきであらう。
○灘居而《ハナレヰテ》云々、放居而《サカリヰテ》云々――舊訓は兩者とも「はなれゐて」と訓んでゐるが、對句だから、一方は語を變へて相對させる方がよからう。そこで代匠記は「離」を「はなれ」、「放」を「さかり」と訓み別け、爾來、考、略解、檜嬬手・攷證、美夫君志等皆之に從つてゐるが、ひとり古義は、之を逆に離を「さかり」、「放」を「はなれ」と訓んでゐる。「離」(ノ)字後世は專ら「はなれ」と訓ずるが、上代は「天離」などの如く、「さかる」と訓ずる場合が多いから、古義の訓は或は穩當かも知れねど、要するに、さしたる差別はあるまいと思ふから、古來の衆説のまゝ「離」を「ほなれ」、「放」を「さかり」と訓んでおく。
○朝嘆君《アサナゲクキミ》云々、吾戀君《ワガコフルキミ》――對句ならば朝に對して夕といふが常であるし(但「夕戀君」は少しをかしい)、さもなくば「吾」は兩者共通で差支のない語であるから、「吾嘆君……吾戀君」とすべきではないかと思ふに、こゝの對句(474)のさまは少し腑におちぬ。だから朝を「まゐ」と訓む説や、「吾」の誤とする説なども出て來るのである。考は夢に見奉つた翌朝の歌だからといつてゐるが、歌は翌朝の作には相違あるまいが、まだ夢に見奉つた事を言はぬ先に、それが爲に嘆く心をいふべきではない。語勢から見ると、どうしても崩御後朝毎の意でなければならぬ。思ふにこれは朝に眼覺めて、昨夜もとう/\夢に見奉る事が出來なかつたといふ悲しさを嘆く意と見るべきであらう。それでこそ結句の「きぞの夜、夢に見えつる」が、よく響くので、之が爲にわざ/\朝嘆くといふ句が用ひられたのであらう。それにしても對句としては、なほ不備の觀を免れないが、これも既に述べた如く、我が國上代の對句といふものは、漢土の如きやかましき法則に拘束されてゐなかつたといふ一例と見るべきではなからうか。
○玉有者《タマナラバ》、手爾卷持而《テニマキモチテ》――昔は釧といふものがあつて、玉を貫いて腕に卷きつけておかれた事は既に述べた。攷證美夫君志等にあまたの例證を擧げてゐる。
○衣有者《キヌナラバ》、脱時毛無《ヌグトキモナク》――舊訓「ぬぐときもなみ」は歌の意は通らない。考は「なけむ」と訓んでゐるが、これも下句への關係がとぎれて、ふつゝかに聞える。玉(ノ)小琴以後、「なく」と訓んでるのに從ふべき事勿論である。
○吾戀《ワガコフル》、君曾《キミゾ》云々――舊訓は「わがこふる云々」と訓んでゐるが、玉(ノ)小琴は「わがこひむ云々」と訓むべき事を主張して、「衣ならば脱ぐ時もなく、身を放たずて思ひ奉らむ君といふ意なり」といつてから、衆説皆それに從つてゐる。思ふに「こひむ」と訓めば、專ら喩に引いた衣につけていふ事になるが、「こふる」と訓めば、現在の我が心情に即して、主に下句につゞける事となるので、見樣によつては、どちらにも取れるが、玉と衣とは比喩で、(475)歌の本筋は「離居而、朝嘆君、放居而、吾戀、君曾伎賊之夜、夢所見鶴」といふ事であらうから、こゝは寧ろ現實に即して見る方がいゝではあるまいか。小琴は「此歌のさまにては吾戀ふる君と二度云つてはわろし」といつてゐるが、同じ句をくりかへして調子を取るに、どこがわるいであらう。
○伎賊之夜《キゾノヨ》――「きぞ」は昨日又は昨夜の義で、「きず」又は「こぞ」ともいふ。卷十四に「伎曾こそは子ろとさ寐しか、雲の上ゆ鳴き行くたづの間遠くおもほゆ」(三五二二)などある。
○夢所見鶴《イメニミエツル》――舊訓は「ゆめにみえつる」と訓んでゐるが、夢は「いめ」といふが古言である。集中に「伊米」とも書いてある。「い」は寢《イ》、「め」は目で、睡眠中見る所のもの即ち「いめ」だといはれてゐる。
◎一首の大意――まだ現し身の此世に居る我が身、神とならせられた君に從つて行く事が出來ないから、幽明處を隔てゝ朝な/\御慕ひ申してゐる我が君、それがもし玉であつたなら、いつも手に卷きつけて、身を放たすに置かうと思ふほど懷かしき君、もし衣であつたなら脱ぐ時もなく常に膚身につけておかう、と思ふほど懷かしき君、それほど戀しく思ふ我が君を、せめて夢になりともと思うても、それすら叶はなかつたが、昨夜久しぶりで、まざまざと夢に御見えになつた。いかにも懷かしくてくたまらなかつた。
狂喜のあまりに作つた歌であらう。中間は對句を二段に疊んで、なつかしさの情をしみ/”\とくり返し、前後は「空蝉し神にたへねば」「きぞの夜夢に見えつる」といふ、簡潔にして力強き句を以てぴたりと抑へた手法、いかにも手際で、歌はさして傑作といふべきほどでもあるまいが、短篇の長歌としては、句法結構いかにも氣のきいた作といふべきである。
 
(476)天皇大殯之時歌二首
 
大殯は「おほあらき」と訓む。考は仲哀紀に「旡火殯斂、此云2褒那之阿賀利〔三字傍点〕1」とあるを引いて「おほみあがり」と訓まれた。それもわるくはないけれど、古事記傳卷三十に本集卷三「大君の御命かしこみ大荒城の時にはあらねど雲隱ります」(四四一)とある歌を引いて「大あらき」と訓まれた方がよからう。「あらき」は新城で新喪の事(「き」は奥つ城などの城《キ》に同じ)、未だ山陵を起さゞる前、假りに喪屋に收めて近臣などの奉仕する間をいふ。此の問、昔は一年を期としたが、おひ/\短縮して、後には數十日、又は十數日になつた。天智天皇の頃は多分一年であらう。
これは天智紀に「十二月癸亥朔乙丑天皇崩2于近江宮1、癸酉殯2于新宮1」とあるほどの事をいふのであらう。
 
151 如是有刀〔左◎〕《カカラムト》 豫知勢婆《カネテシリセバ》 大御船《オホミフネ》 泊之登萬里人《ハテシトマリニ》 標結麻思乎《シメユハマシヲ》 額田王
 
○如是有刀《カカラムト》――「刀」(ノ)字、流布本には「乃」とあるが、舊訓は「かゝらむと」と訓み、代匠記も同訓で、「乃」を「刀」の誤寫としてより、諸註皆之に從つてゐるが、ひとり美夫君志は「乃」に「と」の音ありと力説してゐる。予は音韻の學に暗い者であるから、そは其道の人にまかせて、こゝでは姑く衆説に從つておく。
○大御船《オホミフネ》、泊之登萬里人《ハテシトマリニ》、標結麻思乎《シメユハマシヲ》――いつぞや御船の泊てた所に標繩ゆひ廻して、こめておくのであつたものをといふのである。「はてしとまりに」の句意聊か不明瞭だが、次の舍人吉年の歌から推せば、御病氣前に辛崎あたり(477)に御船を泛べて逍遥し給うた事があつたのであらう。間もなく御病氣で起たせられずなつたので、その時の事が思ひ出されて、女心に理性を没した幼なき愚痴も出て來たのであらう。標結云々は岩屋戸の故事を思ひ寄せたのであらうと諸註にいつてゐるが、さうかも知れない。――「額田王」の三字、今本にはないが、温故堂本、類聚古集其他にはあるから脱ちたのであらう。今假りに補つておく。
◎一首の意――今日この頃、御崩れ遊ばす事と豫ねて知つてゐたならば、いつぞや湖上に御船を泛べて御遊びあらせられた時、御船の着いた所に標張り渡して圍つておくのであつたものを、殘念な事をしたわい。
 
152 八隅知之《ヤスミシシ》 吾期大王乃《ワゴオホキミノ》 大御船《オホミフネ》 待可將戀《マチカコフラム》 四賀乃辛崎《シガノカラサキ》 舍人吉年
 
○吾期大王《ワゴオホキミ》――卷一の「五二」で既に述べた。
○待可將戀《マチカコフラム》――舊訓は「まちかこひなむ」と訓んでゐるが、代匠記精撰本に「將戀」を古點には「こふらむ」とある由を注して、「今の大殯によめれば、待ちかこふらむといふよりは、こひなむ〔四字傍点〕と末をかけたる點まさりぬべくや」といつてゐる。しかし作者が辛崎あたりのすさび行く実際を見て發した歎聲であらうから、未來をかけていふべきではない。攷證と美夫君志とが漫然と舊訓に從つてゐるのが、訝かしい。さて「まちか〔右○〕こふらむ」は「まちこふらむか〔右○〕」の意である。――「舍人吉年」の四字も今本にはないが、假りに古寫本によつて補つた。吉年の傳は詳ではないが、卷四にも見えて、多分女子であらうと思はれる。
◎一首の意――志賀の辛崎は御門が御崩れ遊ばしてから訪ふ人もないので、寂しげに見えるが、御門の崩御をも知(478)らずに、今か/\とさぞ御船を待ちこがれて居る事であらうな。
卷一なる人麿の「大宮人の船まちかねつ」(三〇)と頗る似てゐる。考は「今をまねぶべき人ともおぼえず、おのづから似たるか」と人麿の爲めに辨じてゐるが、果してどうであらうか。
 
大后御歌一首
 
153 鯨魚取《イサナトリ》 淡海乃海乎《アフミノウミヲ》 奥放而《オキサケテ》 榜來船《コギクルフネ》 邊附而《ヘツキテ》 榜來船《コギクルフネ》 奥津加伊《オキツカイ》 痛勿波禰曾《イタクナハネソ》 邊津加伊《ヘツカイ》 痛莫波禰曾《イタクナハネソ》 若草乃《ワカクサノ》 嬬之《ツマノ》 念鳥立《オモフトリタツ》
 
○鯨魚取《イサナトリ》――海の枕詞、「一三一」の歌で既に述べた。○奥故而《オキサケテ》――舊訓以來「おきさけて」と訓んでゐる。「奥にさかりて」の義であらう。元來「さけて」は下二段の他動詞であるが(宣命【第五十一詔】に「誰にかも我が語ら佐氣牟〔三字傍点〕、孰にかも我が問ひ佐氣牟〔三字傍点〕」、又上の「一四七」の歌に「天原、振放見〔二字傍点〕者」とある類)、こゝが自動詞でなければならぬから、古事記神代の卷、奥疎神の注に、「訓v疎云2奢加留〔三字傍点〕1」とあるによつて「おきさかりて」と訓むべきかとも思ふけれど、調が少し面白くないから、やはり舊訓のまゝで「奥にさかりて」の意に解しておく。それとも昔は自他兩樣とも「さけて」といつたものであらうか、諸註に何の沙汰もないのは少し訝かしい。新考が四段活の自動詞として「おきさきて」と訓まれたのは、一應尤もな(479)事と思ふけれど、「さきて」と活用した確な例證をまだ見ないから、何ともいへない。卷三、「往くさには二人我が見し此の崎をひとり過ぐれば見も左可〔二字傍点〕ず來ぬ」の「さかず」もやはり他動詞であらうが考慮すべき點があるやうに思ふ。姑く舊訓のままにして後の研究を待つ事とする。
○奥津加伊《オキツカイ》云々、邊津加伊《ヘツカイ》云々――舟の櫂をいふ、櫂は水を掻く具で、和名抄に釋名を引いて「在v旁撥v水曰v櫂、漢語抄云2加伊《カイ》1」とあるがこれであらう。但、この語、楫又は艫と出入して用ひられてゐるらしいから、強ちに泥むべきではない。古義が古事記を引いて、奥津加伊は舟の左に貫ける櫂、邊つ櫂は舟の右に貫ける櫂をいふといつてゐるが、左を奥、右を邊にあてたのは、對句自然の結果に過ぎないので、本來その義があるのではあるまい。これも拘泥説といふべきである。
○邊附而《ヘツキテ》――舊訓「へにつきて」を考が「へつきて」と改めたのがよい。磯べにつきての義である。
○痛勿波禰曾《イタクナハネソ》――「はね」は今もいふ語で、櫂で水をいたく撥ね飛ばすことをいふのである。
○若草乃《ワカクサノ》――「つま」の枕詞、萌え出づる若草の、めづらしく、めでたき心からかけたものといはれてゐる。「つま」は妻の事をも夫の事をもいふ。他にも異説はあるが、しばらくそれに從つておく。
○嬬之《ツマノ》――三音一句、嬬は借字でこゝは夫の義である。玉の小琴は、此下に「命之」の二字を脱せるにやといつてゐるが、げに後世の調ならば、しかありたい所ではあるが、此時代の歌は卷一「虚蝉毛、嬬乎〔二字傍点〕、相格艮之吉」(一三)、又「情無、雲乃〔二字傍点〕、隱障倍之也」(一七)など例が多いから強ひて補ふには及ぶまい。
○念鳥立《オモフトリタツ》――湖上に浮んでゐる鳥は故天皇の愛《メ》でさせられたものなる事を思して、之を驚かさじとの大御心であ(480)る。考に「めで飼はせ給ひし鳥を崩れまして後、放たれしが、そこの湖になほ居るを、いとせめて御名殘に見給ひてしかのたまふならん」といひ、後世も多く此説を取つてゐるが、さうかも知れねど、これも新考に「放鳥ならずとも近江の海には自然に水鳥多かるべし」といつてる如く、たゞ湖上に泣べる水禽を驚かさじとの意と大樣に見てよからう。
◎一首の意――近江の海(琵琶湖)を沖遠く離れて漕いでくる舟よ、岸について近く漕ぎくる舟よ、どちらも強く櫂をこいで水を撥ねるなよ。あまりに強く漕ぐと、夫の君が御生前御覺になつて愛でさせられた水鳥が、驚いて飛び立つから。
遺愛の物を驚かさじといふ纏綿の情、やさしく言ひ表はされてゐる。
 
石川夫人歌一首
 
石川夫人は誰とも知り難い。天智天皇は蘇我山田(ノ)石川麿の女を納れて、嬪とせられた事が紀に見えてゐるから、それだらうと言はれてゐる。しかし代匠記精撰本には、石川麿は此の大臣の諱であるから、諱を以て夫人の名を呼ぶべきではないといつてゐる。
 
154 神樂浪乃《サザナミノ》 大山守者《オホヤマモリハ》 爲誰可《タガタメカ》 山爾標結《ヤマニシメユフ》 君毛不有國《キミモアラナクニ》
 
○神樂浪乃《サザナミノ》――さゞ浪地方の山守をいふ。さゞ浪は志賀附近の總名である。大山守は「大」を「山守」(481)につけて見ると、山につけて見るとの兩説がある。考は「大山は御山の意なり」といつてゐるから、山につけて見たのであらうが、これは山守につけて見るべきではなからうか。都近くの御領の山を守るのであるから、特に敬つて「大山守」といつたのであらう。さて山守は、みだりに界を越え竹木などを伐る事を禁ずる爲に据ゑおかれたのである。
○山爾標結《ヤマニシメユフ》、君毛不有國《キミモアラナクニ》――御料の山であるから猥りに人を入れぬやうに、標結ひまはして守つたのであらう。「不有國」を舊訓「まさなくに」と訓んでゐるが、強ひて泥まずとも一般の訓に從つて文字通り「あらなくに」でよからう。
◎一首の意――天皇もおはしまさぬのに此のさゞ浪の山守は誰の爲に山に標張り渡して番をしてゐるぞ。
恐らくは天皇崩れ給ひて後、宮中にはそれ/\多少の變動もあつたであらう。それにつけても有爲轉變の世のさまをあぢきなく思うてゐた官人が、たま/\外へ出て、今なほ昔に變らぬ山守のさまに心を動かしたものであらうか。
 
從2山科御陵1退散之時、額田王作歌一首
 
山科御陵は天智天皇の御陵をいふ。文武天皇三年十月此の陵を營ませられた事が續紀に見えてゐる。延喜諸陵式に「山科陵、近江大津宮御宇天智天皇、在2山城國宇治郡1、兆域東西十四町南北十四町云々」と見えてゐる。退散云々は崩御の後、昵近の人々が、一周の間、御陵に奉仕して居たのが期滿ちて、それ/\分散するをいふ。
 
(482)155 八隅知之《ヤスミンシ》 和期大王之《ワゴオホキミノ》 恐也《カシコキヤ》 御陵奉仕流《ミハカツカフル》 山科乃《ヤマシナノ》 鏡山爾《カガミノヤマニ》 夜者毛《ヨルハモ》 夜之盡《ヨノコトゴト》 畫者母《ヒルハモ》 日之盡《ヒノコトゴト》 哭耳乎《ネノミヲ》 泣乍在而哉《ナキツツアリテヤ》 百磯城乃《モモシキノ》 大宮人者《オホミヤビトハ》 去別南《ユキワカレナム》
 
○恐也《カシコキヤ》――舊訓「かしこみや」考は「かしこしや」など訓んでゐるが、玉の小琴に「かしこきや」と訓まれたのがよい。「や」は小琴のいふ如く、輕く添へていふ歎辭で、「かしこき御陵」と連體形で下につゞく意である。卷二十「可之故伎也〔二字右○〕あめの御門」(四四八〇)、又上の「石見のや〔右○〕高角山」(一三二)などの「や」と同例である。
○御陵奉仕流《ミハカツカフル》――舊訓「みはかつかへる」とあるが、これも、小琴が「つかふる」と訓んだのに從ふべきである。さて「御陵つかふる」は、御陵を造營する意であるが、諸註多くは御陵に奉仕する意に解いてゐるのは誤である。ひとり古義は造り奉る義に説いてゐるが、説く所精しからず「すべて上の爲に造り奉るをつかふるといふ」といふに過ぎないから、十分に人を納得させる事が出來ない。元來此詞は正しくいへば「御陵を造り仕へ奉る」といふべきを略していふので、そは祝詞を見ればわかる。大殿祭の詞に、皇居造營の事を述べて「齋※[金+且]《イムスキ》以齋柱※[氏/一]皇孫之命天之|御翳《ミカゲ》日之|御翳《ミカゲ》造〔左○〕仕奉《ツクリツカヘマツ》【禮留《レル》】瑞之御殿云々」とある同じ事を、祈年祭の祝詞では「皇御孫命御舍仕奉仕※[氏/一]《ミヅノミアラカツカヘマツリテ》天御蔭日御蔭隱坐※[氏/一]云々」と書いてある、これは正しくは「造仕奉」といふべきを祈年祭の(483)方は簡單な祝詞であるから、語を省いてたゞ「仕奉」としたので、意義は同一であらねばならぬ。こゝの「御陵奉仕流」は正にその例なのである。一體「造仕奉《ツクリツカヘマツル》」といふ場合は「造」(ノ)字に意義があるので、「奉仕」は敬語に過ぎない(御造り申し上げるといふだけの義である)。然るに後になると肝心な「造」の字を省いて敬語だけで同樣の意義を聞かせるのは我が國語の性質である。中古の物語文などで、敬語を諸他の動詞に代用する事の多いのも同じ關係である(御衣を着用するを「御衣奉る」といひ、御車に乘る事を「御車に奉る」といふ類)。今の世にも此類の語遣ひがなは行はれてゐる。「仰を承はる」事を敬つて「仰を拜承する」といふが、この場合「承」の字に意義があるので「拜」は敬語に過ぎぬ。然るに後には敬語だけを殘して「仰を拜する」で同じ意味を聞かせる。これは我が國語本來の性質で、早く祝詞にその實例が見えてゐるのである。で、こゝの文章も之に準じて「御陵を御造り申し上げた」意に見るべきである。「御陵に奉仕する山科の鏡山の御陵」では義を成さない。
○山科《ヤマシナノ》乃、鏡山爾《カガミノヤマニ》――山科御陵、一に山科鏡山御陵ともいふ。鏡山は御陵の後方にある山で、旁に鏡池といふもある。琵琶湖の疏水、陵畔を繞ると大日本地名辭書に出てゐる通りである。
○夜者毛《ヨルハモ》云々、晝者母《ヒルハモ》云々――二つの「も」は助辭。
○夜之盡《ヨノコトゴト》云々、日之盡《ヒノコトゴト》――舊訓「よのつき……ひのつき」は拙ない。考は卷四「畫波日之|久流留麻弖《クルヽマデ》、夜者夜之|明流寸食《アクルキハミ》」とあるによつて「よのあくるきはみ、ひのくるゝまで」と訓み改めた、なるほどこゝはそれでも通ずるが、人之盡(四六〇)、國之盡(三二二)、神之盡(二九)などいふ所ははまらない。すべてに通じては、古事記上卷「妹は忘れじ余能許登碁登爾《ヨノコトゴトニ》」、本集卷五「くぬち許等其等《コトゴト》見せましものを」(七九七)、同「布肩衣ありの許(484)等其等《コトゴト》着そへども」(八九二)などの例によつて玉の小琴の説の如く、「よのこと/”\……ひのこと/”\」と訓む外はなからう。あらんかぎりの意である。
○哭耳乎《ネノミヲ》、泣乍在而哉《ナキツツアリテヤ》――音を〔右○〕泣くとも、音に〔右○〕泣くともいふ。聲立てゝ泣く意である。慟哭するのであらう。泣きつつありてやの「や」は、今の語法では、「行き別れなむ」の下に移して「か」と用ひられる。
○百礒城乃《モモシキノ》――大宮の枕詞、既出。
○去別南《ユキウカレナム》――陵側に侍宿せる昵近の者どもが、期滿ちて、それ/\分散する意である。「なむ」は未來完了の助動詞で、上文「泣きつゝありてや」の「や」と相待つて、「行き別れる事か」の意となるのである。
◎一篇の大意――申すもかしこき我が大君の御陵を御造り申し上げた山科の鏡山に終日終夜泣き明かし泣きくらして、今はとなれば、銘々思ひ/\に去《ユ》き別れる事かいなア。
既に述べた如く、此の歌は前の「縱し人は思ひやむとも」の歌と相照らして味ふべき歌である。近習の人々が一周の間(多分一年間)分番交替して、陵側に侍宿するのが此の時代の習はしであつたらうし、漢土の習慣を摸して慟哭もしたであらう。しかしそれは形式で、久しきに亙れば、いかに敬虔な人でも、自然倦怠を生じて、期の滿つるを待ちかねて、期終れば、今はとばかり、さつさ〔三字傍点〕と退出するのが、これも免れがたき人情であらう。徒然草にかゝる状況を寫して「果の日はいとなさけなう互にいふ事もなく、我かしこげに物引きしたゝめ、ちり/”\に行きあかれぬ」とあるのは、げにさる事である。之を后妃などの終生忘れる事の出來ぬ方々の眼から見たなら、あさましと思はれる事もあつたであらう。この兩首はさうした折の御作でああうが、此の歌は鋒鉾やゝあらはれ(485)てゐるけれど、大后の御歌は假り設けて隱微に言ひまはされた筆法、さすがに大后たる品位を保たれてゐるといふべきである。
 
明日香清御原宮御宇天皇代 天渟中原瀛眞人《アメヌナハラオキノマヒト》天皇
 
天武天皇の御代
 
十市皇女薨時、高市皇子尊御作歌三首
 
十市皇女は天武天皇の皇女、母は額田王で大友皇子の妃であつた事は既に述べた。その薨去については天武紀に「七年夏四月丁亥朔欲v幸2齋宮1卜v之。癸巳食《アヘリ》v卜。仍取2平旦時1、警蹕既動。百僚成v列、乘輿命盖以未v及2出行1。十市皇女卒然(ニ)病發、薨2於宮中1、由v此鹵簿既停、不v得2幸行1。遂不v祭2神祇1矣。云々庚子葬2十市皇女於赤穗1。天皇臨v之降v思以發v哀云々」と見えて、何か異變を思はしめるものがある。高市皇子尊も同じく天武天皇の皇子で十市皇女と異腹の御兄弟である。是も既に述べた。こゝに「尊」の字を添へたのは草壁皇子の薨去後、この皇子が皇太子とならせられたからである。此時はまだ皇太子ではなかつたけれど極官を以て書いたのである。
 
156 三諸之《ミモロノ》 神之神須疑《カミノカミスギ》 巳具耳矣自 得見監乍共 不寐夜叙多《イネヌヨゾオホキ》
 
○此の歌、三四の句がよく訓めないので、全體の歌意も明かでない。たゞ末句の「いねぬ夜ぞ多き」から推して、(486)夢にすら見る事を得ぬ意かと推察するだけである。先づ舊訓の「いくにをし、とみけむつゝとも」は何の事か義を成さぬ。考は十字の中、八字を改めて「巳免乃美耳《イメノミニ》、將見管本無《ミエツツモトナ》」と訓み、古義また五字を改めて「如是耳荷《カクノミニ》、有得之監乍《アリトシミツヽ》」と訓んでゐるが、從ふべき限りではない。こゝでは美夫君志が二字を改めて「いめにをし、みむとすれども」と訓んだ説だけを假りに紹介しておかう。そは十字の中、「得」を「將」の誤、「乍」を「爲」の誤とし、「具」は一本「目」とあるを取り「矣」は漢文の助辭の意を以て「を」と訓み(舊訓も「を」と訓んでゐる)、「見監」二字を熟語として「み」と訓んだので、初二句は「神杉|齋《イ》」とかゝる意で、夢《イメ》につゞくものと解するのである。是も「をし」といふ助辭の用法が、しつくりしないので、容易くはうなづけないが、手を入れる事の少ないだけが取りえである。
◎一首の意――姑く美夫君志の訓によつて大意を説明すれば「亡くなられた皇女を、せめて夢にでも見たいと思ふけれど、思ひのために寐られぬ夜が多いので、夢にすら見る事が出來ないよ」といふほどの意であらう。
 
157 神山之《カミヤマノ》 山邊眞蘇木綿《ヤマベマソユフ》 短木綿《ミヂカユフ》 如此耳敢爾《カクノミカラニ》 長等思伎《ナガクトオモヒキ》
 
○神山之《カミヤマノ》――舊訓「みわやまの」と訓んでるのを、代匠記精撰本に至り、「かみやまの」と訓み改め、考、略解、古義等之に從つたが、檜嬬手、攷證、美夫君志等は、又舊訓に立ちかへつて、「みわやまの」と訓んだ。然るに近頃の新考、全釋等は又更に代匠記の訓にかへつて「かみやまの」と訓んでゐる。けれどたゞ「神山」二字の訓について云々するだけで、何故に「みわやま」と訓むべきか、又は「かみやま」と訓まねばならぬかの説明をしたも(487)のはない。思ふに「神山」は神とならせられた皇女を祭つた墓所をいふのであらうが、墓所は天武紀七年四月の條に「庚子葬2十市皇女於赤穗(ニ)1」と見え、赤穗は添上郡で、三四里隔たつてゐるから、特に「みわやま」と訓むべきいはれはないかに思はれる。よろしく普通名詞として「かみやま」と訓むべきである。(但、意義不明瞭ながら、前の歌でも「三諸之、神之神須疑」といふ語句あるを思へば、皇女と三輪山と何等かの關係があるかも知れぬから、これは別に研究すべきである。とにかく皇女の祭られた所として「かみやま」と訓むに難はなからう。)
○山邊眞蘇木綿《ヤマベマソユフ》、短木綿《ミヂカユフ》――皇女を祭つた山邊に色々な木綿が手向けられてゐる。その中に長きもあり、短きもあるが、こゝには特に短きを取り出でゝ、次の句を呼び起す料としたのである。手向けの木綿に長きも短きもあつただらうといふ事は、歌の結句に「長くと思ひき」とある語氣からも推される。これは短《ミヂカ》に對して長《ナガ》といつた語のあやだけではないやうに思はれる。さて「眞蘇」は眞麻で、「ま」は接頭辭(美稱)「そ」は麻、木綿《ユフ》は麻でも穀でも祭祀に用ふる幣の義である。
○如此耳故爾《カクノミカラニ》――舊訓は「かくのみゆゑに」と訓み、多くの説皆之に從つてゐるが、獨り略解と檜嬬手とは「かくのみからに」と訓んでゐる。これはどちらでもよからうと思ふが、卷五「加久乃未加良爾〔七字傍点〕したひこし云々」(七九六)といふ實例があるから、その方がよからう。調も其の方が面白いと思ふ。いづれにしても、「かくのみなるものを」の意で、卷一「人づまゆゑに我こひめやも」(ここの「ゆゑに」と同意である。さて「かく」は短木綿の「みじか」といふ語をうけたので、「かく短き命であつたものを」といふのである。
◎一首の意――皇女を祭つた山邊に來て見ると長い木綿、短い木綿、いろ/\な木綿が、捧げられてゐる。あはれ(488)皇女の御命はその短木綿の短き命であつたものを、日頃は長木綿の長かれかしと祈つてゐた事であつたわい。
此歌、山邊に捧げられた木綿の長き短きに着想して、山邊眞蘇木綿短木綿と繰りかへした調子も、如此耳故爾と承けた手法も極めて巧妙で、飛鳥時代の歌としては、寧ろ巧に過ぎるともいふべき歌である。
 
158 山振之《ヤマブキノ》 立儀足《タチヨソヒタル》 山清水《ヤマシミヅ》 酌爾雖行《クミニユカメド》 道之白鳴《ミチノシラナク》
 
○山振之《ヤマブキノ》――山振は山吹の事である。古事記、夜見國行の段に「御佩かせる十拳の釼を拔きて後手に布伎都々〔四字傍点〕逃げ來ませるを」とある如く、古言は「ふり〔右○〕」と「ふき〔右○〕」とを相通はして用ひてゐる(榛《ハリ》と萩とを相通はした如く)。此集では卷十九「山吹の花とりもちて」(四一八四)、同「山吹乎やどに殖ゑてば」(四一八六)などの、如く、山吹とした所もあるが、多くは山振と記してゐる。
○立儀足《タトヨソヒタル》、山清水《ヤマシミヅ》――此の二句、舊訓は「さきたるやまのしみづをば」と訓んでゐるが、「立儀」の二字を「さき」と訓ずべきいはれもなく、「をば」といふ弖仁乎波を添へて訓むも拙ない。代匠記精撰本に「たちよそひたる、やましみづ」と訓まれたのに從ふべきである。「儀」は儀式の儀で、粧ひ凝らした意に假り用ひたのであらう。後に玉の小琴は歌意を推量し「※[糸+麗]」の字の誤として、「たちしなひたる」と訓み、古義は「茂」の誤として「たちしげみたる」と訓んだが、從ふべきではない。やはり代匠記の訓が最も穩かである。さて「山吹の立ちよそひたる山清水」の三句は一種の戯訓で「黄花波に映じて色黄に見える泉」即ち黄泉といふ事の謎だといふ檜嬬手(鐘の響に委しい)の説が最も從ふべきである。當時漢學いたく流行して、早くかゝるいたづら書きも初まつたので、後世(489)梅を木毎の花と詠じ、むべ山風をあらしといふ類ひの先驅をなしたものといふべきである。皇女の死なれたのは四月七日で恰も山吹の咲き匂うてゐる時期であるから、かた/”\借り用ひたのであらう。
○酌爾雖行《クミニユカメド》、道之白鳴《ミチノシラナク》――夜見の國を黄なる泉と取りなしたから、そを汲みに行かめどと言ひまはしたので、「あの世までも尋ねて行きたく思へど、行くべき道が知られぬ事よ」といふのである。
 此の歌、從來正面より説かんとしたが故に、考、略解等は「葬りませし山邊には皇女の今も此花の如くたをやぎおはすらんと思へども、尋ね行かん道の知られねばかひなしと稚なくよみ給へるなり」といひ、古義は「皇女のおはしましゝ宮のほとりに山吹の生ひをゝれる清水のありて、皇女の常に往き通はしつゝ汲ませ給ひしを、高市皇子その山清水を汲むに託せて常々通ひ給ひ云々」と説きて、暗に皇子と皇女と情を通じてゐたるが如くほのめかしてゐるけれど、「道の知らなく」の一句はなほよく解けなかつたが、黄泉の謎とわかつて、すべてがしつくりした。これは確かに守部の卓見といふべきである。但し、守部の創見か否かは疑問である。是と殆ど同時に伴信友が、長等の山風、上で、同じ意見を發表してゐるが、いづれが先か、又遇合か、それはわからない。(年輩は信友の方が上である。)
◎一首の意――皇女は遽かに黄泉の旅に赴かれた。あゝその黄泉までも逐うて行きたいと思ふけれど、道がわからないので、いかんともする事が出來ないわい。
黄泉を山吹の立ちよそひたる山清水と言ひまはして、若くうつくしかつたであらうと思はれる皇女の姿を偲ばせたのは、いかにも巧妙といふべきだが、挽歌としてはあまりに巧妙に過ぎて實感の伴はざる憾がある。古今集哀(490)傷の部に、良房の大臣を白川に葬つた時、素性法師が血涙といふ語を、そのまゝ翻案して「血の涙落ちてぞたぎつ白川は君が世までの名にこそありけれ」と歌つた技巧が思ひ出される。
 此の三首を通じて見るに、措辭巧妙に過ぎて、情はあまり切實には聞えないが、並一通りの挽歌とも言へないかに思はれるので、皇子と皇女と何等かの關係があつたではないかと推量したくなる。さて上掲の古義の想像説も出て來たのであらう。所で上の但馬皇女の歌(一一五)で、新考は想像説を立てゝ但馬皇女は高市皇子の妃であつたらうといつて居られるが、今それに倣つて想像を逞しうするなら、大友皇子の自害せられた後、十市皇女は天武天皇に引き取られて、内々高市皇子の妃に擬せられてゐたのではあるまいか。その下心で此等の歌を誦すると、思ひ半に過ぎるやうな氣がする。あてにはならぬ想像説だが試に掲げておく。
 
天皇崩之時太后御作歌一首
 
天皇は天武天皇をいふ。天武紀に「朱鳥元年九月丙午天皇病遂不v差、崩2于正宮1、戊申初發v哭、則起2殯宮於南庭1云々」と見えてゐる。太后は當時の皇后、後の持統天皇である。(太を大に作つた本もある。)
 
159 八隅知之《ヤスミシシ》 我大王之《ワガオホキミノ》 暮去者《ユフサレバ》 召賜良之《メシタマヘラシ》 明來者《アケクレバ》 問賜良之《トヒタマヘラシ》 神岳乃《カミヲカノ》 山之黄葉乎《ヤマノモミヂヲ》 今日毛鴨《ケフモカモ》 問給麻思《トヒタマハマシ》 明日毛鴨《アスモカモ》 召賜萬旨《メシタマハマシ》 (491)其山乎《ソノヤマヲ》 振放見乍《フリサケミツツ》 暮去者《ユフサレバ》 綾哀《アヤニカナシミ》 明來者《アケクレバ》 裏佐備晩《ウラサビクラシ》 荒妙乃《アラタヘノ》 衣之袖者《コロモノソデハ》 乾時文無《ヒルトキモナシ》
 
○召賜良之《メシタマヘリシ・メシタマフラシ》――此歌全體の句法構造極めて平明で、筋がよく通つてゐると思はれるが、たゞ「暮去者、召賜良之云云」といふ冒頭の對句は常の「らし」の意では解けないので、古來所説まち/\である。まづ古點に「めしたまふらし」とあるを、仙覺は崩御後の事といふに「たまふらし」は義を成さないとて、「たまへらし」と訓み改め、「たまへらまし」といふ事であらうと説明した。けれど「たまへらまし」といふ語遣ひがあるべきではないから、代匠記精撰本はその説を難じて其訓を取り、これは「見がてら」を良〔右○〕と里〔右○〕と通じて「見がてり」といふが如く、「たまへり〔右○〕し」といふを古語に通はして「たまへら〔右○〕し」といつたものと説いてゐる(考も同説)。なるほど「がてら」を「がてり」といつた例はたしかにあるが、それは普通の場合で、助動詞の「り、し」を意義の紛れ易い「らし」に通はしたといふ實例はまだ見ないから是もどうかと首傾けられる。然るに玉(ノ)小琴は「たまふらし」と訓むべき事を主張し、過去の「らし」の一特例として、卷十八「……み吉野の此大宮にありがよひ賣之多麻布良之〔七字傍点〕ものゝふの云々」(四〇九八)、及卷二十「大君のつぎて賣須良之〔四字傍点〕高圓の野べ見るごとに音のみし泣かゆ」(四五一〇)の二首を擧げ、これと同格なる由を論じてをられるが、爾來諸註大方之に同じ、皆この二歌を例としてこゝの「良之」を過去の意に解いてゐる。けれど現在から未來を推量すべき「らし」が、過去の意になるとは、語法上どう(492)しても承けられぬ事なので、よくその用方を吟味せねばならぬ。まづ卷二十の歌は端書に「依v與各思2高圓離宮處1作歌」とあつて、家持や今城眞人や中臣清麿等が相集うて太上天皇御在世の昔を偲んだ時の作で(歌は五首あつて、これは家持の最後の作である)、意は「大君世におはしましなば〔大君〜傍点〕、今も相繼いで見そなはすであらうものを、其事なくしてかく荒れ果てたのを見るが悲しい」といふ意なので、常の「らし」と見てよいのである。そを過去の意に見たのは全く本居翁の誤解で、後の釋家がたゞ漫然とそれに從つてゐるのである。卷十八の例も、新考のいふが如く常の「らし」でも解けるので、過去の意の「らし」などは全くないのであるから、これは問題とすべきではないと思ふ。新考の如く「召賜比之」の誤とすれば、それまでだけれど、出來得るかぎり本文のまゝで解説を試みるのが後人の義務であるから、さま/”\の臆説が出るのである。然るに又守部の檜嬬手は中間の四句二聯を天皇の御魂の訪ひたまふ意と解いてゐるが、成程これも面白い見解であるけれど、問題は上聯の「召賜良之」にあつて中聯ではない。上聯では守部は「我大王この秋も世にましまさば」と語を添へて解いてゐるが、それはこの中聯でこそしか見るべきではなからうか。語氣がおのづからさう聞える(上に引いた卷二十の「大君のつぎてめすらし」も同樣である)。もし御魂のなほ留まつておはしますが如き感じをいふものなら、中聯だけに限るのは少し徹底しないと思ふ(歌の構造句法等を顧慮したのかも知れねど)。とにかくこれはまだ考慮すべき餘地があると思ふが、元來この御歌、上聯は御生前の事實、中聯は今も御在世ならばとの假説、下聯は現實の有樣を述べたものらしく、組立極めて平明簡易、誰が詠んでも「召したまへりり」といひたい所と思はれるから、姑く代匠記の説に從つておいて、なほよく研究する事とする。そは何れにしても、こゝの「らし」は連體の格で、(493)下の「神岳乃山之黄葉」につゞく意である。(上に引いた卷二十の「大君のつぎてめすらし」も同樣である。)さて「召」は「見し」の借字、「見し」は「見る」の敬語法である事は既に述べた。
 從來ノ諸註ハ大方漫然ト玉ノ小琴ニ從ツテヰルが、山田博士ノ講義ニ至リ、ソノ誤ナル事ヲ指摘シテヰル。但講義モ訓ハ小琴ヲ可トシテヰルガ、ソノ解説ハ檜嬬手ノ如ク天皇ノ御魂ガ今モ天翔リテ見ソナハス意ニ説イテヰル。コレハ既ニ述ベタ如ク今一應考慮スベキモノト思フ。(追記)
○神岳乃《カミヲカノ》――舊訓は「みわやまの」と訓んでゐるが、古訓は「かみをかの」で、八雲御抄にもしか訓ませられてゐるに從ふべきである。この山は今の高市郡飛鳥村大字雷にある雷(ノ)丘の事で、集中には神岳とも、雷岳とも、又「三諸之神奈備山」とも又たゞ「神なび山」とも詠まれてゐる。一握の小山ではあるが、雄略紀に少部《チイサコベノ》連※[虫+果]羸《スガル》が雷神を捕へたといふ傳説で昔から有名な山で、その西南麓を飛鳥川が帶の如くうねつて流れてゐる。卷三に人麿が「大君は神にしませば天雲の雷の上にいほりせるかも」(二四一)と詠まれたのも此の山で、同卷、赤人が登覽して飛鳥の舊都を偲ぶ有名な長歌(三二四)を詠じたのもこれである。今は全山櫟林だといふが、卷九に「勢能山に黄葉常敷《モミヂトコシク》、神南の山の黄葉は今日かちるらむ」(一六七六)といふ歌も見えるから、昔は黄葉の名所であつたものと見える。
○今日毛鴨《ケフモカモ》――「か」は疑辭、上の「も」は常の弖仁乎波、下の「も」は輕く添へた助辭、卷一、人麿の歌に「今もかも〔三字右○〕大宮人の玉藻苅るらむ」(四一)とある「もかも」とはちがふ。
○振放見乍《フリサケミツツ》――「ふり」は接頭辭、「さけ見る」は遙に見やる意。
(494)○綾哀《アヤニカナシミ》――「あやにかなしみ」で、「あや」はあゝ、あな、などゝ同じく歎く聲から出る感動詞で、非常に、本當になどやうに事を強めいふ語である。
○裏佐備晩《ウラサビクラシ》――「うら」は心、「さび」は集中多く「不樂」「不怜」などかきて、心樂しまず、わびくらす意である。
○荒妙乃《アラタヘノ》――こゝは枕詞ではない。粗末な荒い織物の意、所謂荒妙の藤衣の義で喪服の事である。「妙」は借字で栲である。
◎一篇の大意――我が君、御在世の折、暮方になると夕映の黄葉の色を見そなはして御心を慰められ、夜が明けると、今朝の色はどうぢやなと御尋ねになつて、日頃御心にかけさせられた神岳の山の黄葉を、今も世におはしまさば、見もし尋ねもしたまふ事であらうに、今は此世におはしまさぬから、我ひとり其山を仰ぎ見て、朝に夕にわび明しわびくらして、喪服の袖の乾る時もないわい。
此の歌次田氏の新講にいふが如く、天智天皇崩御の時、太后の詠ませられた歌と好一對で、彼は遺愛の水禽について思を寄せ、此は遺愛の黄葉について情を致した趣向同一である。歌の構造も、彼は對句を二段に疊み、此は三段にくりかへして、纏綿の情をきかせた所、頗る似てゐる。句法平明簡易で(初句の召賜良之の外)いづれも筋のよく通つた御作と申すべきである。
 
一書曰、天皇崩之時太上天皇御製歌二首
 
こゝに「一書曰」とあるは、もと萬葉集の原本にはないのを後に書き入れたものであらう。隨つて考の如く一段下げて小書にすべきものかとも思ふが、姑く傳來のまゝにしておく。又太上天皇といふは持統天皇の事(495)を申すらしく思はれるが、元來此の御代(清御原宮御宇)に太上天皇と申すべき方がいらせられないから、文武天皇の御代に何人かゞ記しておかれたのを、そのまゝ書き込んだものであらうといはれてゐる。御製歌とあるも、其の意で見ておくべきである(詠ませられた當時は太后)。
 
160 燃火物《モユルヒモ》 取而※[裏に似た字]而《トリテツツミテ》 福路庭《フクロニハ》 入澄不言八面 智男雲
 
○燃火物《モユルヒモ》云々――舊訓「ともしびも」とあるを、代匠記が「もゆるひも」と改めたのがよからう。さて此歌考にいふが如く、此頃役(ノ)行者などいふ輩が、火を取り紙に包んで袋に入れるといふ不思議な術などを演じた事を聞しめして、さる不思議な術すらあると聞くに、といふ御述懷であらうといふ事は略々推されるが、五の句が、よく訓めないので、下句の意義が判然しない(舊訓は義を成さない)。姑く衆説について見るに、「面」の字を、四(ノ)句につけると五(ノ)句につけて見るとの二樣あつて、考は四(ノ)句につけ、智を「知曰」の誤として(なほ「澄」を「騰か」といつてゐるが古葉略類聚鈔には「登」とある)、「いるといはずやも、しるといはなくも」と訓み、「崩れませる君に逢ひ奉らんすべを知るといはぬがかひなし」と説き、代匠記は「面」を五(ノ)句につけ、智は一本に「知」とあるに據つて「おもしるなくも」と訓み、檜嬬手も「面」を下句につけ、智を「知日」二字の誤とし、「面知」を「逢ふ」の義訓として「いれぬといはずや、あはむひなくも」と訓んでゐる。その中、考の説が、比較的穩かに聞えるが、たゞ何を知らぬ意にや、徹底しないと思ふ。(但、この場合「曰ふ」は輕く添へたので、意義はなからうと思ふから解くには及ぶまい。此の事は下の「一六六」の歌で委しく述べよう。)なほ一段の研究を要する。
(496)◎一首の意――(姑く考の説で解く)役(ノ)行者などの術では、燃ゆる火も手に取つて包んで袋に入れるといふではないか。さる不思議な術さへあるのに、御崩れ遊ばした天皇に御逢ひ申す術のないといふは何と悲しい事であらうぞ。
 
161 向南山《キタヤマノ》 陣雲之《タナビククモノ》 青雲之《アヲクモノ》 星離去《ホシサカリユキ》 月牟離而《ツキモサカリテ》
 
此歌も何やらん心得にくき歌である、姑くおしあてに註釋すると、
 
○向南山《キタヤマノ》――「向南」は「北」の義訓であらう。淨御原宮の北方の山をいふので、固有名詞ではあるまい。
○陣雲之《タナビクケモノ》――「陣」又「陳」に作り、布地、列也とあつて「つらなくも」と訓む説もあるが、今は衆説によつて「たなびくくもの」と訓んでおく。卷十六「青雲乃田名引〔三字傍点〕日すら、こさめそぼふる」(三八八三)といふ例もある。但、歌意を推すに晴れたる空をいふので、「たなびく」といふ語に泥んではならない。
○青雲之《アヲクモノ》――考は例によつて「青は白なり」と註してゐるが、これはなるほど古事記に「青雲之白肩津」といふがあつて、「青雲の」を「白」の枕詞としてゐるから、青駒を白馬、青旗を白旗と解くとは多少異なる點もあるやうに思はれるが、古事記の本文は古事記傳にもいふ如く、青空の鮮明な意でかけたので、うちまかせて「青は白」だとはいへまい。祈年祭祝詞に「青雲能靄極、白雲能墜座向伏限」とあるも、同樣の氣分で、何となく對させただけであらう。これはやはり玉の小琴に「青雲の星は青天にある星といふ意なり」とあるがよからう。
○星離去《ホシサカリユキ》、月牟離而《ツキモサカリテ》――二つの「離」の字、舊訓は「わかれ」と訓み、考、略解等は「はなれ」と訓んでゐるが、(497)これも本居翁が「さかり」と訓まれたのがよからう。略解に翁の意を酌んで「ほど經れば星月も次第に移り行くを見給ひて、崩れ給ふ月日のほど遠くなり行くを悲み給ふなり」とある意であらう。「牟」を考は「毛」の誤とし、諸註多くは之に從つてゐるが、美夫君志は新撰萬葉、新撰字鏡等の例をあげて「牟」を「も」の假名に用ひたものと論じてゐる。卷一(一八)の「情有《ココロアラ》南畝《ナム・ナモ》、可苦佐布倍思哉《カクサフベシヤ》」の南畝を「なも」と訓ずれば、これに準ずべきもので、誤ではあるまい。
◎一首の意――北山に當つて青空の中に輝いてゐる星も月も、夜な/\その位置をかへて、はや遠く移ろうた。これを見ても天皇が御崩れになつてから、いつのまにか日數の經つた事が知られて悲しさにたへぬ。
 右は姑く玉の小琴の見解によつたのであるが、古義と檜嬬手とは、月牟離而の「月」を空行く月の意には取らないで、月次の「月」の意に解してゐる。天武天皇の崩御は九月九日で、月のある頃であつたが、北山に向つて月をながめるといふも少しいかゞであるから、古義の説も棄つべきではない。さうすれば星の縁で大空の月を聯想し、同音の關係で更に月次の月に轉用したものと見るべきである。その意で解けば、
◎一首の意――北山に當つて、青空の中に輝いてゐる星は、夜な/\その位置を變へて、早や遠くうつろうた。思へば星ばかりではない、月もかはつてはや十月となつたが、いつまで立つても胸の思ひの息む時はないわい。
といふ意にならうかと思ふ。歌は一層こちたくなる。
 
天皇崩之後八年、九月九日奉v爲2御齊會1之夜、夢裏習賜御歌一首
 
天武天皇の崩御は朱鳥元年であるから、その八年後は持統天皇の七年に當る。九月九日は同天皇の忌日であ(498)る。持統紀七年に「九月丙申、爲2清御原天皇1設2無遮大會於内裏1云々」とあるは即ちこの御齊會の事であらう。然るに九月は丁亥朔であるから丙申は十日でなければならぬ。こゝに九日とあるのは何かの違算であらう。美夫君志は暦法の異であらうといつてゐる。齊は古く「齋」(ノ)字と通じて用ひた事は卷一「八一」の歌の端書で既に述べた。「習賜」の習は誦習の義で、古事記の序文に「令v誦2習先代舊辭1」とある同じ心であらう。但、かゝる端書に用ひた漢字の用法は輕く見てよからう。必ずしも夢裏にくりかへして習熟せられた意ではあるまい。古義は習を「唱」又は「誦」の誤かといひ、攷證は「狎」(ノ)字の義に解いてゐるが、どうであらうか。これもあまりに考へ過ぎた説ではあるまいか。御歌とあるからこれも太后夢裏の御作であらう。
 
162 明日香能《アスカノ》 清御原乃宮爾《キヨミハラノミヤニ》 天下《アメノシタ》 所知食之《シロシメシシ》 八隅知之《ヤスミシシ》 吾大王《ワガオホキミ》 高照《タカテラス》 日之皇子《ヒノミコ》 何方爾《イカサマニ》 所念食可《オモホシメセカ》 神風乃《カムカゼノ》 伊勢能國者《イセノクニハ》 奥津藻毛《オキツモモ》 靡足《ナミタル・ナビキシ》波爾《ナミニ》 鹽氣能味《シホゲノミ》 香乎禮流國爾《カヲレルクニニ》 味凝《ウマゴリ》 文爾乏寸《アヤニトモシキ》 高照《タカテラス》 日之御子《ヒノミコ》
 
○初十句は既に注した。
 
(499)○神風乃《カムカゼノ》――伊勢の枕詞。
○奥津藻毛《オキツモモ》 靡足《ナミタル・ナビキシ》波爾《ナミニ》――「靡足」を舊訓「なびきて」と訓んでゐるが、代匠記精撰本に「なみたる」と訓んだのが穩かであらう。古義は「毛」は「之」の誤ではないかと訝かり、又「足」を「合」の誤として「なびかふなみに」と訓み、檜嬬手は「留」の誤として「なびける」と訓んでゐるが、もと/\夢裏に誦み給へる歌であるから、しつくりせぬ所のあるのも理りで、強ひて常の心で判斷すべきではなからう。
○鹽氣能味《シホゲノミ》、香乎禮流國爾《カヲレルクニニ》――鹽氣は潮の氣で、海上何となく煙りて見えるをいふ。「香乎禮留」は、その汐の香のするをいふ。俗に磯くさいといふは是であらう。卷九に「鹽氣立荒磯にはあれど」(一七九七)とあり、諸註いふが如く神代紀上に「我所生之國、唯有|朝霧而薫滿之哉《アサギリノミカヲリミテルカモ》」とある意であらう。「國爾」の「に」は「なるに」の意であらう。
○味凝《ウマゴリ》――「味凝」は借字、美織の略で、文(綾)の枕詞、諸註多くは「うまごりの」と「の」を添へて訓むが、略解、古義等に「の」を省いたのがよからう。
○文爾乏寸《アヤニトモシキ》――「あやに」は前の歌(一五九)で既に述べた。「乏寸」は珍らしく、ゆかしい意である。元來「ともし」は缺乏の意であるが、少なく、ともしきものは、珍らしくも羨ましくも思はれるから、轉じてさま/”\に用ひられた。その羨ましき意なるは「五三」及「五五」の歌で既に述べたが、こゝは珍らしく、かしこき意である。
◎一篇の大意――夢の中で詠み給へる歌であるから、しつくりせぬ所もあるが、大體の意は窺はれる。「飛鳥の清御原の宮で天の下をしろしめされた日の御子が、何と思し召されたやら、ある時、伊勢の國の藻草の浪に靡く所、(500)汐氣の立ち薫る所に、おいで遊ばされた事があつた。何と珍らしく恐《カシ》こい日の御子でいらせられる事よ。
といふほどの意であらう。これは天武天皇が吉野から伊勢に幸して、しばし桑名に居らせられた時の事をおぼし出でての御詠であらうとせられてゐる。奥津藻毛、靡足波爾云々のあたり、少ししつくりせぬので、諸註多く脱句あるべしといつてゐるが、既に述べた如く、夢裏の歌は常理を以て云々すべきではない。たゞその文面に現はれてゐるだけを味へば足れりで、強ひて辭句を修補して常識に訴ふべきではあるまい。昔から夢裏に歌を詠じたといふ事はよく聞く(本集卷十六にもその例がある)、故正岡子規氏も夢中に句を得たとて示された事があつたが、あまり良い句ではなかつた。吾輩も二三度經驗があるが多くは翌朝忘却して摸索しがたい。一度あつぱれ名歌を得たと感じて眼が覺めたので、直ぐに物の端に書きつけて寢たが、あとで見ると、やはり物にはならなかつた。此の御歌二十句に亙り、大體意義の聞えるのは多とすべきである。撰集に收めたのも主にその意で、歌が良いからといふのではあるまい。
 此の歌の記載の次序につき、萬葉考は「此次に藤原宮御宇と標して右同天皇崩れませる朱鳥元年十一月の歌を載せ、其次には同三年の歌あるを、こゝに同八年の歌を載すべきにあらず、且つ持統天皇の大御歌とせば御製とも御夢ともあるべし。かた/”\如何なる野書をか表書にしつらむ。さるを後の心なしの遂に本文にさへ書きなせしものなり」とて本文を除き去り、小書にして後に附したのは一應尤な事だが、攷證、美夫君志等が之を難じて「年代はいかにもあれ、こは天武天皇の御爲めに御齋會を設け給ひて、しかも多年を經ても、猶忘れかねさせ給ひて御夢にさへ見奉りて、御歌をよませ給ふなれば、こゝに入るべき事論なきをや」と辨じてゐるの(501)は、恐らくは編者の意を得たものであらう。その上、この御歌は伊勢の濱邊におはした時の事を、そのまゝ夢に見させられた意と聞えるし、まだ太后でいらせられた時の氣分で、夢裏に詠ませられたものと思はれるから、かた/”\斟酌して、こゝに載せたのであらう。古典を釋する者は編者の意志を斟酌して見るのが肝心で、己れ一箇の我見で妄りに取捨すべきではない。その編者の意志が當を得て居るや否やはおのづから別論である。
 
藤原宮御宇天皇代 高天原廣野姫《タカマノハラヒロヌヒメ》天皇
 
藤原宮御宇は持銃、文武、二代に亙る名であるが、こゝに持統天皇の御名だけを記したのは後人のしわざであらうといはれてゐる。前々の例に倣つて、うつかり書きしるしたのであらう。
 
大津皇子薨之後、大來《オホク》皇女從2伊勢齊宮1上v京之時、御作歌二首
 
大津皇子の事は上の「一〇五」の歌で既に述べたが、天武天皇崩御の際、謀反の事露はれて、朱鳥元年十月二日捕へられ、翌三日|譯語田舍《ヲサダノイヘ》で失はれた事が紀に見えてゐる。大來皇女(上には大伯とある)の事も既に述べたが、大津皇子と同母の姉君で、天武天皇の二年に十四歳で齋宮に立たれ、朱鳥元年、二十六歳で任を解かれて京に歸られた。多分弟の罪に坐してゞあらう。大寶元年十二月薨去、時に御年四十一歳であつた。
 
163 神風之《カムカゼノ》 伊勢能國爾母《イセノクニニモ》 有益乎《アラマシヲ》 奈何可來計武《ナニシカキケム》 君毛不有爾《キミモアラナクニ》
 
○有益乎《アラマシヲ》――「まし」は假りに設けて想像する助動詞で、こゝはその連體形である。
(502)○奈何可來計武《ナニシカキケム》――舊訓は「なににかきけむ」と訓んでゐるが、考は「なにしかきけむ」と訓み改め、爾來一般にそれに從つてゐる。「し」は強める助辭で、書式から見れば「し」をそへて訓むもいかゞと思はれるけれど、歌としては、それが最も穩やかであらうと思はれるから、姑くそれに從つておく。
○君毛不有爾《キミモアラナクニ》――君は大津皇子を指す。
◎一首の意――かうと知つたなら伊勢の國に居るべきであつたのに、何しに遙々と上つて來た事であつたらう。逢ひたいと思ふ弟《セ》の君も、はや世になき人であるのに。
大津皇子の變事を入京して初めて知つたのであらうと諸註にはいつてゐるが、さうかも知れぬ。けれど、皇子の死なれたのは十月三日、皇女の着京は十一月十六日であるから、その間、何も知らなかつたといふのは聊か疑問でもある。よし薄々知つてゐても、いよ/\着京して、齋宮としての任を解かれて、自由の身となられて、さて思ふ人の居らぬに一段の悲を増すのは人情の常であらうから、かう詠まれるのに難はあるまい。とにかく悲痛な御歌である。
 
164 欲見《ミマクホリ》 吾爲君毛《ワガスルキミモ》 不有爾《アラナクニ》 奈何可來計武《ナニシカキケム》 馬疲爾《ウマツカラシニ》
 
○欲見《ミマクホリ》、吾爲君毛《ワガスルキミモ》――舊訓は「みまくほり、わがせし〔二字傍点〕きみも云々」と訓んでゐるが、考に「せし」を「する」と改めた。卷四「生ける日の爲こそ妹を欲見爲禮《ミマクホリスレ》」(五六〇)、卷七「見まくほり吾|爲《スル》里乃云々」(一二〇五)といふ例もあるから、それがよからう。「わが見まくほりする君」といふ事で、君はいふまでもなく弟君の事である。
(503)○馬疲爾《ウマツカラシニ》――舊訓は「うまつからしに」であるが、玉の小琴は「うまつかるゝに」と訓み改めて、その方が古風だといつてから、一般にそれに從つてゐるが、これはどちらでもよからう。強ひて改めるにも及ぶまい。殊に二(ノ)句を「わがする」と訓むとすれば、その打合ひ上、寧ろ「つからしに」の方がよいではあるまいか。さて攷證に「こは齋宮自から馬に乘り給ふにはあらず、御供の人々の馬に乘り給ふなり」とて延喜齋宮式を引いて、齋宮は御輿、從行の人は騎馬なる由を辨じてゐる。さもあるべき事である。
◎一首の意――あひたい/\と思うてゐた君も世におはしまさぬのに、何しに遙々上つて來た事であつたらう。徒らに馬を疲らして。
世にいふ「骨折損のくたびれまうけ」で、ありがちな感情である。
 
移2葬大津皇子屍於葛城二上山1之時、大來皇女哀傷御作歌二首
 
移葬といふ事、明かではないが、多分假りに殯宮に收めておいた柩を、改めて墓所に移した意であらう。それは馬醉木の花の盛な春の頃であつたらしい事が、次の歌から推される(大津皇子が死なれた翌年の春か)。葛城の二上山は葛城連脈中の一部で、地は北葛城郡當麻村に屬し、河内の國境に跨つてゐる。頂は二つに分れて馬耳の如く、土俗男岳女岳と呼ぶ。山上に二上神社といふがあつて、大津皇子の御墓はその東に在る。
 
165  宇都曾見乃《ウツソミノ》 人爾有吾哉《ヒトナルワレヤ》 從明日者《アスヨリハ》 二上山乎《フタカミヤマヲ》 弟世登吾將見《イモセトワガミム》
 
(504)○字都曾見乃《ウツソミノ》、人爾有吾哉 《ヒトナルワレヤ》――「宇都曾見」は上の「一五〇」の歌に「空蝉《ウツセミ》」とあつたと同じく「現し身」で、現實の此世をいふ。し、せ、そ、皆通音である。人なる吾やの「や」は疑辭。
○弟世登吾將見《イモセトワガミム》――「弟世」の二字、舊訓をはじめ、昔から多くは「いもせ」と訓んでゐるが、それは二上山の雙峰並び峙つてゐるのを、同胞(こゝは姉弟)と見做した意に解釋したのである。然るに此の二字を「いもせ」と訓むには疑問があるので、古義は「吾世」の誤として「わがせ」と訓み(新考同説)、代匠記の一説には「をとせ」と訓み、檜嬬手は「なせ」と訓んでゐる。しかし誤字説には漫りに賛同は出來ないし、「をとせ」(多分「おと《弟》せ」の義であらう)といふ語は熟さないし、「なせ」もこゝの訓としては熟さない(この説なら、寧ろ「いろせ」と訓むがよからうと思ふ)。それに此等の説は何れも「今よりは二上山を我が弟《セ》と見做さう」の意に解するので、雙峰並び立つてゐる事には關係はない。仔細に歌の趣を味うて見ると、二上山の雙峰を、我を忘れて同胞の姿と眺めるやうな氣分にならうかといふ方があはれも深く歌もおもしろいと思はれるから、やはり舊訓のまゝ「いもせ」と訓む事にする。さすれば「弟」(ノ)字は實際に即して用ひたもの、「世」(ノ)字はいもせ〔三字傍点〕と訓むべき事を示したもので、「いもせ」はやがて同胞の意であらう。次に「吾將見」は舊訓は「われみむ」だが、考以後一般に「わがみむ」と訓んでるのがよからう。(但、攷證と美夫君志とは舊訓に從つてゐる。)
◎一首の意――まだ此世にある我が、我を忘れて明日からは此の二上山の二つの峰を我々兄弟と見るやうな氣分になる事であらうか。
身は此世にあれど、心は早く弟君の所に往つてゐる。隨つて、つひ我が身の此世にあるを忘れて、あそこに相並(505)んで睦まじく語らうてゐるやうな氣持にならうかとは何たる悲痛な語であらうぞ。皇女は皇子に長ぜること二歳、十四の時より別れて伊勢に下り、人に優れて有望であつた弟君が、世にあさましき死を遂げたあとに、ひとり寂しく還つて來られた心情、さこそと察せられる。
 
166 礒之於爾《イソノウヘニ》 生流馬醉木乎《オフルアシビヲ》 手折目杼《タヲラメド》 令視倍吉君之《ミスベキキミガ》在當不言爾《アリトイハナクニ》
 
○礒之於爾《イソノウヘニ》――礒は水邊の石群《イハムラ》をいふ、こゝは小川の岸であらう。「於」は「上」の義で、山上憶良を續日本紀に山於〔右○〕憶艮としるしてゐる。上はほとりの義。
○生流馬醉木乎《オフルアシビヲ》――馬醉木は古來さま/”\の説があつて、萬葉研究者の間に一つの問題となつてゐる。先づ舊訓は「つゝじ」で、攷證、美夫君志は之によつて説をなしてゐるが、馬醉木といふ名は漢土の羊躑躅に擬へて我が國人の命じた名だといふが根據らしい(但、攷證は後に變じて考とほゞ同説となつた)。然るに考は「あしみ」と訓み、略解、檜嬬手は「あしび」と訓んで、いづれも今の木瓜《ボケ》の事としたが、古義はやはり「あしび」と訓んで、今、植木屋などの唱へる白花壺状の總状花(鈴蘭の花に似てゐる)の事としてゐる(近頃の學者は多く此説である)。然るに本集卷十なる馬醉花の歌三首(一八六八、一九〇三及一九二六)を六帖には「あせみ」とよんでゐるので、「あせみ」と「あしび」とを同じ物とする説(古義)と、異なるものとする説(美夫君志)とを生じて、ます/\紛亂して來る。予は植物上の智識に乏しいので、之を斷ずる資格はないが、たゞ馬醉木の訓は、やはり「あしび」で、「つゝじ」と訓むべきではなからうと思ふ。そは卷八に「山もせに咲ける馬醉木〔三字傍点〕の不惡《・アシカラヌ》君〔三字傍点〕をいつしか(506)徃きてはや見む」(一四二八)、卷十に「春山の馬醉の花〔四字傍点〕の不惡《・アシカラヌ》君〔三字傍点〕にはしゑやよせぬともよし」(一九二六)とあつて、今本は「不惡君」を一般に「にくからぬ君」と訓んでゐるが、これは「あしびの、あしからぬ」と同音をくりかへした調なので、つまり馬醉木を「あしび」と訓む證とすべきものではないかと思ふ。次に言語上からいへば、あしび、あしみ、あせび、あせみ、あせぼ、皆通音で同一物を指すので、動かし難い確乎たる證據のない限り、漫に差別を立てるのはどうかと思ふ。さて馬醉木を「あしび」と訓むとして、それが木瓜の事か、白色壺状の花の事かは吾輩にはわからぬ。木瓜説ではいふ、壺状の白花は寂しげな花で、さして賞玩すべきものではない。卷二十「いそかげの見ゆる池水照るまでに、咲ける安之婢〔三字傍点〕のちらまくをしも」(四五一三)といふ歌を見れば、赤いうるはしい花でなければならぬといふ。それも尤と思はれるが、卷八、草香山の歌に「夕ぐれに〔四字傍点〕吾越えくれば、山もせに咲ける馬醉木の云々」(一四二八)とあるを見れば、白花と見たくも思ふ。この白花に毒氣があつて、馬が過つて食ふと醉状を呈するとも聞いてゐるから、馬醉木の名にもふさはしいし、少し寂しげには見えるけれど、今も畿内地方の野山には廣く分布せられて、一般に賞玩されてゐるといふから、それとしても別に不都合もなからうと思ふ。池水に映じて照りはえるのは必ず紅花でなければならぬとは限るまい。
○在常不言爾《アリトイハナクニ》――「思ふ」といふ語が輕く用ひられる事ある如く、「いふ」といふ語も殆ど意義なく輕く用ひられる事がある。こゝがその例で「ありといは〔二字傍点〕なくに」は「あらなくに」といふだけの意である。これは今でも廣く行はれてゐるので「然りといへ〔二字傍点〕ども」などは、その類ひである。漢文で「然」(ノ)字を「然れども」と譯するが、「雖然」二字の場合に「然りといへども」と譯すると同じ筆法で、強ひて意義ありとすれば綬急の差別があるだけであら(507)う。(近代の漢學者の中には「然りといふといへども」と繰りかへして唱へる人さへある。)なほ上の「燃火物」の歌(一六〇)の結句「しるといはなくも」(考の訓)もこれと同樣で、「しらなくも」の義に解して然るべきではないかと思ふ。
◎一首の意――磯(岩)の上に見事な、あしびの花か咲いてゐる。あれを一枝手折つて家苞にと思ふけれど、折角折取つても、見せようと思ふ人があるわけでもないのに、折る力もない事である。
何につけても愛弟を思ひ出す。源氏の君が、見るもの聞くものにつけて紫の上を思ひ出すのも正に此の情である。
 
右一首、今案不v似2移葬之歌1。盖疑從2伊勢神宮1還v京之時、路上見v花感〔左○〕傷哀咽作2此歌1乎。
 
この左注は諸家のいふ如く後人のさかしらであらう。移葬の際、とある水邊又は岩上に美しいあしびの花を見つけて訓まれたものとして、何の不都合があらうか。皇女が京に還られる途上の作とせば、上京は十一月であるから、それこそ馬醉木の花の咲く時期ではない。さて「感」(ノ)字、流布本には「盛」とあるが、諸他の古寫本によつて改めた。
 
日並皇子尊|殯宮《アラキノミヤ》之時、柿本朝臣人麿作歌一首并短歌
 
日並皇子の事は卷一(四九)でも既に述べたが、天武天皇の皇子、文武天皇の御父、草壁皇子の尊稱で、天武天皇の九年に皇太子に立たれ、持統天皇の三年四月に二十八歳で薨ぜられた。後に謚號を岡宮天皇と申し奉る。殯宮は上の大殯とある所で略々述べたが、「あらきのみや」と訓み、新城(又は荒城ともいふ)即ち新喪(508)の義である。元來「殯」字は説文に「死在v棺將v遷2葬柩1賓2遇之1」などあつて、屍を葬る前に暫く收め置く所をいふものらしいが、漢字本來の意義と我國の適用とは必ずしも一致しないので、此歌でも「つれもなき眞弓の岡に宮柱太しき座」といひ、下の明日香皇女や高市皇子の殯宮の歌(一九六・一九九)でも「木※[瓦+缶]之宮を常宮と定め賜ひて云々」といつてゐる所を見ると、眞の奥つ城をいふものらしい。かの伊福吉部臣徳足比賣墓志にも「冬十月火葬即殯2此處1、故末代君等不v應2崩壞1」とあるのを見れば、やはり「殯」と「葬」とを同じ意義に用ひたらしく見える。で、大體は我國の習慣上、死後假りに收めておく時期から、送葬後、御墓所に奉仕する期間を、こめていつたものと見てよからうと思ふ(美夫君志別記參照)。原本には「人麿」の上、朝臣の二字がないが、他の例に照らし、目録によつて補つた。
 
167 天地之《アメツチノ》 初時之《ハジメノトキシ》 久堅之《ヒサカタノ》 天河原爾《アマノカハラニ》 八百萬《ヤホヨロヅ》 千萬神之《チヨロヅガミノ》 神集《カムツドヒ》 集座而《ツドヒイマシテ》 神《カム》分《ハカリ》 分《ハカリ・アガチ》之時爾《シトキニ》 天照《アマテラス》 日女之命《ヒルメノミコト》【一云、指上《サシノボル》、日女之命《ヒルメノミコト》】 天乎波《アメヲバ》 所知念登《シロシメスト》 葦原乃《アシハラノ》 水穗之國乎《ミヅホノクニヲ》 天地之《アメツチノ》 依相之極《ヨリアヒノキハミ》 所知行《シロシメス》 神之命等《カミノミコトト》 天雲之《アマグモノ》 八重掻別而《ヤヘカキワキテ》【一云、天雲之《アマグモノ》、八重雲別而《ヤヘグモワキテ》】 神下《カムクダシ》(509) 座奉之《イマセマツリシ》 高照《タカテラス》 日之皇子波《ヒノミコハ》 飛鳥之《アスカノ》 淨之宮爾《キヨミノミヤニ》 神隨《カムナガラ》 太布座而《フトシキマシテ》 天皇之《スメロギノ》 敷座國等《シキマスクニト》 天原《アマノハラ》 石門乎開《イハトヲヒラキ》 神上《カムアガリ》  上座奴《アガリイマシヌ》【一云、神登《カムノボリ》、座爾之可婆《イマシニシカバ》】 吾王《ワガオホキミ》 皇子之命乃《ミコノミコトノ》 天下《アメノシタ》 所知食世者《シロシメシセメバ》 春花之《ハルバナノ》 貴《タフト・メデタ》在等《カラムト》 望月乃《モチヅキノ》 滿波之計武跡《タタハシケムト》 天下《アメノシタ》【一云、食國《オスクニ》】 四方之人乃《ヨモノヒトノ》 大船之《オホブネノ》 思憑而《オモヒタノミテ》 天水《アマツミヅ》 仰而待爾《アフギテマツニ》 何方爾《イカサマニ》 御念食可《オモホシメセカ》 由縁母無《ツレモナキ》 眞弓之崗爾《マユミノヲカニ》 宮柱《ミヤバシラ》 太布座《フトシキイマシ》 御在香乎《ミアラカヲ》 高知座而《タカシリマシテ》 明言爾《アサゴトニ》 御言不御問《ミコトトハサズ》 日月之《ヒツキノ》 數多成《マネクナリ》塗《ヌル・ヌレ》 其故《ソコユヱニ》 皇子之宮人《ミコノミヤビト》 行方不知毛《ユクヘシラズモ》【一云、刺竹之《サスタケノ》、皇子宮人《ミコノミヤビト》、歸邊不知爾爲《ユクヘシラニス》】
 
(510)○天地之《アメツチノ》、初時之《ハジメノトキシ》――「時之」の「之」を、考は「の」と訓まれたが、舊訓を初め、諸註皆「し」と訓んでゐるからそれに從つておく。「し」は強める助辭である。
 山田博士ノ講義デハ考ノ訓ニ從ツテ「天地之初時|之《ノ》」ト訓マレタ。「天地の初の時〔傍点〕の〔右○〕……神分り分りし時〔傍点〕に」トカヽル古代ノ格デ、上ナル「青旗〔傍点〕の〔右○〕木旗〔傍点〕」ナド、同ジ形デアル。タヾ下ノ語ガ餘リ長キユヱ迷ヒ易イノダ」ト言ハレタガ、ナルホドコレハ考慮スベキ事ト思フ。下ニ云フ掛言葉ノ轉換ト云フ事モ同ジ筆法デ説明シ得ルカモ知レヌ。(追記)
○久堅之《ヒサカタノ》――天の枕詞。
○天河原爾《アマノカハラニ》――天安河の河原をいふ。このあたり古事記、祝詞などの文について述べたのであるから、強ひて説くほどの事はあるまい。
○八百萬《ヤホヨロヅ》、千萬神之《チヨロヅガミノ》――所謂八百萬の神の事で、調子のために繰りかへしただけである。
○神集《カムツドヒ》、集座而《ツドヒイマシテ》――祝詞の文に照して「神つどひ、つどひいまして」と訓むべき事は言ふを待たない。舊訓に「かむあつめ、あつめいまして」、考に「神づまり、つまりいまして」など訓んだのは拙ない。但、祝詞は「かむつどへ〔右○〕」と訓んでゐるが、彼と此とは自他の差別があつて、こゝは神々の自から寄り集ふ義であらうから、「つどひ〔右○〕」と訓むべきである。
○神分《カムハカリ・カムアガチ》、分《ハカリ・アガチ》之時爾《シトキニ》――舊訓を初め、古義以外の諸本は皆「かむはかり、はかりしときに」と訓んでゐる。そは「神集々賜 比 神議々賜 ※[氏/一]氏 」といふは祝詞の成語の如くなつてゐるからである。美夫君志は字鏡集に「分」(ノ)字を「はかる」と訓めりといつてゐるが、これ信ずべきものならばそれがよからうが、普通の訓とも思はれないから、「あが(511)ち」と訓んだ古義の訓も、強ちに咎むべきではあるまい。それは知ろしめすべき處の分配を定められた義であらう。近頃の新考は「かむくまり」と訓んでゐる。
○天照《アマテラス》、日女之命《ヒルメノミコト》――日女之命は天照大御神の御諱である。書紀に「生2日神1、號2大日〓貴1」又「大日〓貴、此云2於保比〓※[口+羊]能武智《オホヒルメノムチ》1」とある。――一云、指上《サシノボル》云々――「指しのぼる」は、日の枕詞で、天照といふほどの意であらう。
○天乎波《アメヲバ》、所知食登《シロシメスト》――「と」は「とて」の義、高天原をば永へに日の神がしろしめされる事になつたので、此の國土をば天孫にまかせられるといふ下文を言ひ起すのである。元來古事記等の本文によれば、日の神が高天原をしろしめされる事になつたのは、伊邪那岐命の御はからひで、月讀命、須佐之男命とそれ/\所屬の分配をせられたのであるし、天孫の蘆原中つ國をしろしめされるのは、後に天照大御神、高御産日神などの御議らひによるのであるが、此歌では便宜上一つに言ひなしたのである。(上の「神分」も、神々が集つて所屬の分配を議したといふ事はないが、古義の訓に從はゞ、便宜さういひまはしたものと見てもよからう。)或はさる言ひ傳へもあつたかも知れぬが、恐らくは作者活用の手段であらう。
○蘆原乃《アシハラノ》、水穗之國《ミヅホノクニ》――四面に海をめぐらし、海邊には蘆が繁つてゐるといふ意の蘆原中つ國と、稻穗のよく穰るといふ瑞穂國とを取り合せたのである。
○天地乃《アメツチノ》、依相之極《ヨリアヒノキハミ》――考に「既に天地の開け分れしといふに對へて、又寄り合はん限りまでといひて久しきためしにとりぬ」といつてから諸註大方之に從つてゐる。ひとり代匠記ははやく「地の果は天もより合ふ心なり」といつてゐるが古義は之を難じてゐる。しかし歌の意はどちらでも通ずるが、語の起りは、代匠記の説の如く空間(512)的の意か、諸註のいふが如く時間的の意かゞ問題だと思ふ。本集の例についていへば、卷六「天地の依會限《ヨリアヒノカギリ》萬世に榮え行かむと云々」(一〇四七)、卷十一「天地の依相極、玉緒の絶えじと思ふ妹が當り見つ」(二七八七)などはいづれも時間的に用ひられてゐるが、同卷「天雲の依相遠み雖不逢《アハズトモ》、あだし手枕我はまかめや」(二四五一)は空間的に用ひられてゐる。天地の果といふ事を祝詞では「青雲 能 |靄極《タナビクキハミ》、白雲 能 |墜坐向伏限《オリヰムカフスカギリ》」といつてゐるが、これが上代から言ひ傳へられた成語ならば、空間的表現の方が原ではあるまいか。遠き地平線の果を見渡して、天と地と相接するやうに見るのは、いつの世、何人でも感ずる事であらうが、天地剖判に對へて、また寄り合はんまでなどいふひねくつた〔五字傍点〕思想は古代人にはどうかと思ふ。さて空間的、時間的、何れが先にしても、やがて他に轉用されるのは語の自然で例證は多い。人麿の有名な「夏野行く牡鹿の角のつかの間も、妹が心を忘れて思へや」(五〇二)といふ歌の序詞も、空間的から時間的に轉用されたのである。こゝもどちらでも義は通ずるが、強ひて言はば、予は「天地のあらん限り、どこからどこまでも」の意に見たいのである。
○所知行《シロシメス》、神之命等《カミノミコトト》――「等」は「として」の意。
○天雲之《アマグモノ》、八重掻別而《ヤヘカキワキテ》――古事記、天孫降臨の條に、「押2分天之八重多那雲1而、伊都能知和岐知和岐弖〔七字傍点〕云々」、又大祓祝詞に「天之八重雲伊頭千別千別〔六字傍点〕」などあるをいふのである。「別」といふ語は古事記にも「知和岐弖」とあるし、本集卷五の歌に「うち靡く春の柳と吾がやどの梅の花とをいかにか和可牟〔三字傍点〕」(八二六)などもあつて、古く四段に活用したらしいから、こゝも「八重かきわきて」と訓むべきではないかと思ふが、昔から諸家大方「わけて」と訓んでゐるのが訝かしい。近頃の新考や全釋には「わきて」と訓んであるが説明はない。
(513)○神下《カムクダシ》、座奉之《イマセマツリシ》――これも諸家多くは「かむくだり云々」と訓んでゐるが、こゝは天つ神が天孫を御下しになる意と聞えるから、次の句に對して、「かむくだし」と訓んだ檜嬬手の訓が穩當であらう。美夫君志は「神下り」をおさせ申す意に見てゐるが、なるほどさう見られぬ事もないかも知れぬから強ひては主張せぬ。だがそれは穩やかな句法とはいへまい。下句は玉の小琴に「いませまつりし」と訓んだのがよい。舊訓の「いましつかへし」も、考の「いましまつらし」も義を成さない。さて最後の「し」は過去の助動詞「き」の連體形で、次の「高照日之御子」へかゝるのである。
○高照《タカテラス》、日之皇子《ヒノミコ》云々――此あたり諸説まち/\で、今なほ定まらないが試に我が所見を述べて見よう。こゝ日之皇子は、前文からの續きは瓊々杵命の事でなければならぬが、下文との關係はどうしても日並皇子でなければならぬ。これが議論の起る原で、多くの説では、「いませまつりし」までを瓊々杵命の事として、そこまでを第一段とし、「いませまつりき〔右○〕」といふべき所だといつてゐる。そして次の高照日之皇子を或は天武天皇とし、或は日並皇子とし、中には脱文ありとして數句を補ふ説さへ出て來た。けれど「いませまつりし」で句を切り、段落を切る事は、語法上いかにしても無理といはねばならぬ。古義は「奉伎〔右○〕といふが正格なれど、こゝは然《サ》云つては宜しからざる故に、わざと〔宜し〜傍点〕偏格に奉之〔右○〕といへるなるべし」といつてゐるが、こゝで段落が切れるならば、「いませまつりき」と結んで、どこが宜しくないであらう(その例として古義が擧げた數首の歌皆當を失つてゐる)。且つ天孫降臨の事、我が國民には知れ切つた事實とはいへ、文章上からは「いませまつりし」で句を切つては主體が明かでない。どうしても高照日之皇子までつゞけて初めて文を成すのである。その上こゝで段落を切つては第二(514)段の冒頭は極めて唐突で體を成さなくなる。上の從2石見國1別v妻上來時之歌でも「いさな捕海邊をさして」(一三一)とか、「雲間より渡らふ月の」(一三五)とか、わざ/\餘許な句を挿入して調子の圓滑を計つた人麿としては、あまりにふつゝかではあるまいか。畢竟よい解釋のつかぬ所から強ひて説を成して見るに過ぎないのである。然らばこゝの日の皇子はいかに見るべきかといふに、これは瓊々杵命の事であると同時に日並皇子の事でもあるので、我が國獨特の掛言葉の筆法を應用して、瓊々杵命の事を直ちに日並皇子の事に轉換したものである。言ふまでもなく掛言葉といふものは、或る類似點を楔子として前後異なる二物を繼ぎ合はせる方法で、複雜を單純化させる一種の技巧である。上掲の「夏野行く」の歌でも「夏野行く牡鹿の角」といふは空間的に距離の短き意、妹が事をしばしも忘れないといふのは時間的の意で、全く異なる事であるが、「つかの間」といふ語は、時間的にも、空間的にも用ひられる語であるから、そを楔子として兩者を同化させたのである。これは古くから我國に行はれた一種の技巧であるが、こゝにも其の筆法が應用せられたのである。繼々杵命と日並皇子とは別人であるが、「蘆原中つ國を知ろしめさしむる爲に特に御下しになつた日の皇子」といふ點は同一であるから、そを捉へて御二方を繼ぎ合せ、同化轉換せしめたので、高照日之皇子といふ二句は上を承け下を起す緊要な位置にあるのである。たゞ普通の掛言葉は一二句で轉換するが、こゝは事體があまりに大きく、且つ長句に亙るので、さうした氣分にはなりにくいのである。實際これは稱賛すべき技巧であるか否かは聊か問題であらうと思ふが、少なくとも複雜を單純ならしむる效果はあるので(これがため十句ばかり節略されてゐる)、人麿も思ひ切つて此の筆法を用ひたものであらうと吾輩は信ずる。(なほ言はゞ後の本地垂跡説も、この頭《アタマ》から出て來たものともいへよう。)――さて(515)次に、こゝの高照、日之皇子を考、古義及近頃の諸註は皆天武天皇の御事としてゐるが、とんでもない事である。これは「天皇之、敷座國等」といふ句を、高天原の事と見たので、高天原は歴代の天皇の終に敷き座すべき國であるから、天武天皇も終にそこへ歸らせられた意に解したのである。けれど此歌は日並皇子の薨去を傷む歌であるのに、その薨去の事には一言も觸れないで(下文は薨去後の事である)、却つて三年前に崩御になつた天武天皇の事を事々しく述べ立てる必要がどこにあるであらうか。それで歌の組立が、しつくりするであらうか。こゝの「日之皇子」は日並皇子の事、「敷座國」は蘆原中つ國の事で、皇子薨去の時には持統天皇が淨御原の宮におはして、世をしろしめされた際であるから、それをいつたものでなければならぬ。(持統天皇御位の事は、下の「一六九」の反歌で重ねて述べよう。)意は皇子薨去の事を婉曲に叙したので、「蘆原の中つ國をしろしめすべく一旦高天原から御降りになつたけれど、此國はまだ今の天皇(持統天皇)が淨御原(ノ)宮におはして知ろしめすべき國で、我が降るべき時期ではないと思し召されて、再び高天原へかへらせられた」といふのである。此點だけは略解に「此句(日之皇子)にて暫く切つて天原云々といふにかゝる」と云つてるのがよい。さて又「天原、石門乎開云々」に就いて、玉(ノ)小琴は「開」を「閉」の誤とし、卷三「豐國乃鏡山之石戸立、隱爾計良思云々」(四一八)といふ例を引いてゐるけれど、そは「隱《コモ》る」といふ意を切に件ふ時の事で、一般の例とはしがたい。小琴は「石門を閉て上るといつては前後違へるやうに思ふ人もあるべけれど、神上りは隱れ給ふと云ふに同じ云々」と辨じてゐるが、神上りを、そのまゝ隱れる意に用ふるのは後の事で、こゝの表面はやはり蘆原(ノ)中つ國から高天原に上ります本義で用ひたのであるから、なほ「石戸を開いて上る」といふべきである。さて、これまでが第一段で、天孫(516)降臨に由來し、同じ資格で下らせられた日並皇子が圖らずも皇太子のまゝで、御隱れになつた事を述べたのである。これで次の段の冒頭「吾王、皇子(ノ)命の、天下、しろしめしせば」への接續關係もよく響いて聞えるのである。(なほこのあたり、檜嬬手は「もはら瓊々杵命の天降の状なるを直ちに日之皇子に安く言ひ移せる、妙とも妙と稱すべし」と評してゐるが、文意簡で要を得がたく、日之皇子〔四字傍点〕を何と見たかも明かでないけれど、瓊々杵命の事をやがて、日並皇子(?)に轉用したものと見たらしい事が知られて多とすべきである。)
○吾王《ワガオホキミ》、皇子之命乃《ミコノミコトノ》――吾王も皇子之命も同格で、日並皇子の事。
○天下《アメノシタ》、所知食世者《シロシメシセバ》――御位に即かせられて、天の下しろしめされるやうになりもせばといふのである。
○春花之《ハルバナノ》――枕詞。
○貴《タフト・メデタ》在等《カラムト》――一般に「たふとからむと」と訓んである。考は「貴」は花にいふ語にあらずとて「賞」(ノ)字に改め、「めでたからむと」と訓んだが、「賞」(ノ)字は花にはふさはしいが、皇子の御身にはふさはない。「たふとし」といふも、めでたき意であらうから、此のまゝで、初めから「めでたからむと」と訓んではどうであらうか。舊訓は「かしこからむと」と訓んでゐる。
○望月乃《モチヅキノ》――枕詞。
○滿波之計武跡《タタハシケムト》――舊訓「みちはしけむと」は義を成さない。卷十三「十五月之、多田波思家武登《タタハシケムト》」(三三二四)とあるによつて、代匠記が「たゝはしけむと」と訓んだのがよい。「たゝはし」は滿ち足つて虧くる所なき意である。
○大船之《オホブネノ》――憑むの枕詞。
(517)○天水《アマツミヅ》、仰而待爾《アフギテマツニ》――天水は雨の事で、「仰而待」の枕詞。所謂「若3大旱望2雲霓1」などの心ばへである。
○何方爾《イカサマニ》、御念食可《オモホシメセカ》――卷一、近江荒都の歌(二九)で述べた如く「おもほしめせ〔右○〕ばか」の意で、何とおぼしめした事やらといふ事である。
○由縁母無《ツレモナキ》――舊訓は「ゆゑもなき」、代匠記、考等は「よしもなき」と訓んでゐる。それも義は通するが、玉の小琴が、卷三に「何方に念ひけめかも、都禮毛奈吉〔五字傍点〕佐保の山邊に云々」(四六〇)、卷十三に「何方御念食可、津禮毛無〔四字傍点〕城上宮爾云々」(三三二六)とあるによつて「つれもなき」と訓まれたのがよい。緑もゆかりもなき意である。
○眞弓之崗爾《マユミノヲカニ》――大和國高市郡眞弓といふ處にある岡の名で、そこに日並皇子の御陵がある。
○宮柱《ミヤバシラ》、太布座《フトシキイマシ》、御在香乎《ミアラカヲ》、高知座而《タカシリマシテ》――これは對句であるから、新考が「太布座」を「太布立」の誤としたのは道理ある事と思ふが、誤字として改めるまでの事はあるまい。但、舊訓に「太しきまして〔三字傍点〕……たかしりまして〔三字傍点〕」と、雨者とも同訓によんだのはいかゞである。これは書式からいつても調からいつても、考が前者を「ふとしきいまし」後者を「たかしりまして」と訓んだのに從ふべきである。(前者を「ふとしきまし」と訓むもよからう。)さて「太しき」「みあらか」ともに卷一で既に述べた。
○明言爾《アサゴトニ》――此句の訓は明かでない。昔から一般に「あさごとに」と訓み、「朝毎に」の意に解いてゐるが、どうかと思ふけれど、他に適當な訓も得られないから、假りにそれに從つておく。さすれば「明」は義訓、「言」は「毎」の借字であらう。さて「朝毎に」は「日毎に」といふも同じ意で、代匠記初稿本に「物のたまふ事は朝に限らざれども、伺候する人は特に朝疾くより御あたり近く侍りて、物仰せらるればなり」と説明してゐる。思ふに朝は(518)其日々々の初であるから、朝といふ語で代表させた意で、皇子が御隱れになつてから、たえて物仰せられる事のない意であらうか。又近頃この句を「まさごと」と訓んで、うつゝに正《マサ》しく物仰せられる事のなくなつた意に解いた人がある。是も一説として掲げておく。
○御言不御問《ミコトトハサズ》――舊訓「みこととはせ〔右○〕ず」と訓んだのは誤りで、「みこととはさ〔右○〕ず」と訓むべきである。「とはさず」は「とはず」を左行四段に轉用した敬語法で、「御問」の二字もその意で當てたのである。隨つて「ず」はその未然形を承けるので「とはせず」とはならない。
○日月之《ヒツキノ》、數多成《マネクナリ》塗《ヌル・ヌレ》――舊訓は「ひつきの」であるが、考が「つきひの」と訓み改めてから、諸註大方之に從つてゐる(たゞ攷證と全釋とだけは舊訓に從つてゐる)。こゝは強ひて「つきひの」と言はでもの所と思ふから、文字通り「ひつきの」でよからう。(卷六に「天地之遠哉如、日月之長我如」(九三三)といふ例もあつて、これは古義も略解も「ひつきの」と訓んでゐる。)さて「數多成塗」を舊訓は「あまたになりぬ」と訓んでゐるが、玉(ノ)小琴に「まねくなりぬる」と訓んだのがよい。「まねし」といふ語は卷一の末「浦佐夫流、情さまねし」といふ所で委しく述べた。「なりぬる」は「なりぬるよ」の義であらう。但、古義は「なりぬれ」と訓んでゐるが、それは「なりぬれば」の義で、なるほどそれがよいかも知れぬ。
○其故《ソコユヱニ》――「そこゆゑに」と訓む。「それゆゑに」といふに同じい古言の格で、「明毎に云々」の數句を承けていふのである。次の歌にも「所虚故《ソコユヱニ》なぐさめかねて」とある。
○皇子之宮人《ミコノミヤビト》――專ら皇子の宮に奉仕する大舍人等をいふのふぇあらう。人麿も其の一人であつたらしく見られてゐ(519)る。
○行方不知毛《ユクヘシラズモ》――頼む皇子に先だたれて、どうしてよいか途方にくれるといふのである。高市皇子殯宮之時の反歌に「去方乎不知、舍人はまどふ」(二〇一)とあるに同じ意であらう。
○一云、刺竹之《サスタケノ》云々――「刺竹之《サスタケノ》」は宮の枕詞、「歸邊不知爾爲」を、古義は「ゆくへしらにする」と訓み、略解は「よるべしらにして」と訓んでゐる。意は本文とかはるまいが、調は面白くない。要するに本文の方がよからう。
◎一篇の大意――天地開闢の初、天の安河原に八百萬の神樣達が御集ひになつて御評議あらせられた時に、高天原をば永へに日の神がしろしめす事となつたので、此の蘆原中つ國をば、どこからどこまでも天孫瓊々杵命に御任せする事になつて、八重棚雲をかき分けて御下しくだされたのであつたが、その天孫の御末で同じ資格の下に御下りなされた我が日の皇子(日並皇子)は、今は現代の天皇が淨御原宮におはして世をしろしめすべき時なので、まだ我が降るべき時期ではないと思し召されて、再び天岩戸を押し開いて、原の高天原へ御上りになつた、何とも悲しい事ぢや。あはれ我が日の皇子(日並皇子)が天(ノ)下を知ろしめす時ともなつたならば、春咲く花のうるはしきが如く、望月の圓かなるが如く、足らぬ所なくめでたき事であらうと、天の下、四方の民草が、大旱の雲霓を望むが如き思をしてゐたのに、何と思しめされた事やら、縁もゆかりもない眞弓の岡に天つ宮を立派に御定めになつて御|隱《コモ》り遊ばしたので、今は朝な/\御言承はる事も已み、かくして數多の月日さへ重ねて、日頃奉仕してゐた我々舍人どもゝ、それ/\分散すべき時期ともなつたので、これからどうしてよいか途方にくれまどふ事であるわい。
(520)此の歌は前後二大段に分れ、前段は天孫降臨の事から堂々と説き起し、同じ資格で天降りました日並皇子が圖らずも御隱れになつた事で結び、後段はそれについての悲しみの情を詞を盡して述べてゐる。前段天孫の事から日並皇子に轉ずるあたり、文脈やゝ明瞭を缺くので、恐らくは將來も議論の種となる事であらうが、天孫の事と日並皇子の事とを並べ擧げて、重複煩雜を避けるには、此の筆法を用ふる外はあるまい。とにかくに人麿ならでは見難かるべき筆法といふべきである。
 
反歌
 
168 久堅乃《ヒサカタノ》 天見如久《アメミルゴトク》 仰見之《アフギミシ》 皇子乃御門之《ミコノミカドノ》 荒卷惜毛《アレマクヲシモ》
 
○天見如久《アメミルゴトク》、仰見之《アフギミシ》――「皇子の御門」へかゝる。皇子だけにかゝるのではない。御門は御殿の事で、この皇子の御殿はもと高市郡高市村字島(ノ)庄にあつたといはれてゐる島(ノ)宮の事である。此の宮の事はなほ後に言はう。
○荒卷惜毛《アレマクヲシモ》――「まく」は「む」の延語て「荒れむが惜し」といふ事である。「荒れ」は檜嬬手に「宮殿のわろくなるのみにあらず、人の散り行くをいふなり」とあるが如く、日頃賑やかであつた處が人も通はずなつて、さびれ行くをもいふのである。
◎一首の意――今まで天を仰ぐやうにかしこく思うてゐた皇子の御所が、おひ/\人も通はずなつてさびれ行くのが、いかにも惜しく悲しい事ぢやわい。
 
(521)茜刺《アカネサス》 日者雖照有《ヒハテラセレド》 烏玉之《ヌバタマノ》 夜渡月之《ヨワタルツキノ》 隱良久惜毛《カクラクヲシモ》
 
○茜刺《アカネサス》――日の枕詞、既出。
○烏玉之《ヌバタマノ》――夜の枕詞。既出。
○夜渡月之《ヨワタルツキノ》――夜、空を照らしながら渡り行く月である。
○隱良久惜毛《カクラクヲシモ》――「かくらく」は「かくる」の延語、「かくる」は昔は四段活用で、こゝはその連體形である。隱れるのが惜しいといふのである。さて日を天皇によそへ、月を日並皇子に譬へたのである。
◎一首の意――日にもたとふべき天皇は世を照らしていらせられるけれど、夜渡る月にもたとふべき皇太子の早くも御隱れになつたのは如何にも惜しい事ぢや。
考は「常の如く日をば天皇にたとへ申すと思ふ人あるべけれど、さてはなめげなるに似たるもかしこし」といつてゐるが、天皇を日によそへて何故なめげに聞えるであらう。又略解も同じ説を敷衍して「天武天皇崩れまして三年に此の御子薨れたまひ、その明くる年大后位に即き給へれば此時天皇おはしまさず云々」といつてるが、持統天皇が即位の大禮を擧げさせられたのは、日並皇子薨去の翌年であるけれども、それより先、天武天皇の崩御後、直ちに制を稱して朝に臨ませられたので、書紀も、翌年の正月から持統天皇元年といふ年紀を立て、紀事にも天皇と稱してゐるほどであるから、ましてその當時に作られた歌などにては、崇めて天皇と稱するのはいふまでもない事であらう。「此時天皇おはしまさず」などいふは、後世のやかましい名分論から出た理窟で、單純にしてす(522)なほな古代人の考ではない。現に長歌の中に「飛鳥之、淨之宮爾、神隨、太布坐而、天皇之、敷座國等」とある所で「此時天皇は持統天皇にて淨御原宮におはしませり」と略解自から説明してゐるではないか。彼と此とは全く矛盾といふべきである。
 
或本云、以2件歌1爲2後(ノ)皇子尊〔左○〕殯宮之時歌(ノ)反1也。
 
「尊」(ノ)字、今本「貴」とあるが、誤なる事明かであるから、他の古寫本によつて改めた。又「歌反」の二字、考以後の諸註は「反歌」の顛倒として改めてゐるが、代匠記のやうに、「爲2後皇子尊殯宮之時(ノ)歌(ノ)反1也」と訓んだらよからう。わざ/\改めるにも及ぶまい。「後皇子尊」は高市皇子の事、この皇子の皇太子に立たれた事は紀には見えてゐないが、持統天皇十年七月薨去の時には「後皇子尊薨」と見えてゐるから、日並皇子薨去後に立たれた事は明かである。日並皇子に對して後皇子尊と申すのである。さて此の左注にいふ或本は、この茜刺の歌を高市皇子薨去の時の歌の反歌としてゐるのであるけれど、それは誤であらう。この歌、日を天皇に、月を皇太子によそへたのも、一つは「日並知」といふ御名にちなんだものと思はれるから、本文の傳への方がふさはしからう。然るに古義は、日を天皇によそへた意に解釋せんが爲の根據として、この左注の傳へを取つてゐるのは、畢竟長歌の「天皇之、敷坐國等」の「天皇」を、天武天皇と見た誤解に基くのであらう。
 
或本歌一首
 
(523)170 島宮《シマノミヤ》 勾乃池之《マガリノイケノ》 放鳥《ハナチドリ》 人目爾戀而《ヒトメニコヒテ》 池爾不潜《イケニカヅカズ》
 
○島宮《シマノミヤ》――日並皇子の宮の名で、高市郡島莊村にあつたと云はれてゐる。大和志に「島宮、島荘村、一名橘島、又名御島宮、天武天皇元年便居2於此1。先v是蘇我馬子家2於飛鳥河傍1、乃庭中開2小島1、築2小島於池中1。時人曰2島(ノ)大臣1云々」と見えてゐる。元來島は作庭の事で(玉勝間卷十三に委しい)、大和志にも見える如く、庭には池を穿ち、池中には島を築いて風情を添へるから出た名らしい。中にもこの島(ノ)宮は馬子、天武天皇と經營を重ねて、當時名高い庭園であつたらしい。
○勾乃池之《マガリノイケノ》――これは島(ノ)宮の中なる池の名で、形から出た名であらう。美夫君志は勾を地名として安閑天皇の勾(ノ)金箸宮と同所かに説いてゐるが、地理が違ふからさうではあるまい(同じ郡内ながら彼は金橋村、此は島莊村、彼は西北、此は東南、相距ること一里餘)。恐らくは池の形が曲りくねつた風情ある趣から出た名であらう。
○放鳥《ハナチドリ》――下の舍人等が詠んだ歌の中に「島をも家と住む鳥も」とあるを思へば、平生放ち飼にしておかれた鳥であらう。放生の鳥ではあるまい。
○人目爾戀而《ヒトメニコヒテ》――人目を戀ひての意。皇子御隱れになつて人氣《ヒトゲ》疎くなつたので、鳥も人目を懷かしがる意である。
○池爾不潜《イケニカヅカズ》――「いけにかづかず」と訓む。「かづく」は水中にくゞり入る事で、水鳥の常にするすさびであるが、今は人目戀しさに、さる事もせず、ぢつと水上に浮びゐて物思はしげに見えるといふのである。
◎一首の意――既に述べた所で一首の意は明かであらう。
(524)ふと鳥のボンヤリ〔四字傍点〕と浮び居るを見て、作者は己が心から推し量つて皇子の御門のさびれ行くのをしのぶのであらう。さて此歌はこゝの反歌とは聞えない。諸註にいふが如く、次の「舍人等慟傷作歌二十三首」の中に入るべきものが紛れてこゝに入つたのかも知れぬ。檜嬬手はそこへ移し入れて端書を二十四首と改め、例の古義は「島宮上(ノ)池有」(一七二)の異傳として、そこに小さく附載してゐる。
 
皇子尊宮舍人等慟傷作歌二十三首
 
日並皇子(ノ)尊の舍人等が、皇子の薨去を悼んだ歌である。前に柿本人麿が此の皇子を悼んだ歌があつて、ここは同じ事を同じ舍人等の詠んだのであるから、端書を略したのであると考にいつてゐる如くである。舍人はいろ/\あるがこゝは東宮職の舍人で、職員令に、東宮の大舍人六百人とある、それである。此等の人々が尊の薨去後、或は島(ノ)宮に、或は佐太(ノ)岡の御喪舍に互に交替して侍宿したらしいので、その趣が歌に見えてゐる。當時は一般に歌を詠んだ時代ではあるが、此の二十三首の中には優秀な作も少なからず見えるのは、同じ舍人であつたらしい人麿などの感化もあつたのであらうか。さて「とねり」は殿居の義であらうといはれてゐるが、確かではない。平生は左右に近侍して御用を承はり、御出ましの時には御伴して警衛するものである。
 
171 高光《タカヒカル》 我日皇子乃《ワガヒノミコノ》 萬代爾《ヨロヅヨニ》 國所知麻之《クニシラサマシ》 島宮婆毛《シマノミヤハモ》
 
(525)○高光《タカヒカル》――こゝは高光とあるから古事記の訓によつて「たかひかる」と訓むがよからう。日の枕詞。
○國所知麻之《クニシラサマシ》、島宮婆毛《シマノミヤハモ》――舊訓、「くにしられ〔右○〕まし」又は「くにしらし〔右○〕まし」は拙ない。代匠記精撰本以後「くにしらさ〔右○〕まし」と訓んでゐるのがよい。「まし」は假想の助動詞、こゝはその連體形で、下句の「島宮婆毛」へ續くのである。「もし皇子がおはしましたなら、こゝで國知らすべきであつた島の宮はよな」といふのである。「はも」の「は」は指示する辭、「も」は感動の助辭。
◎一首の意――我が御子が御在世であつたなら、萬代までも世を知ろしめすべきであつたこの島の宮はよなア。
「はも」は意義の深い感動詞で、島(ノ)宮のさびれて行くにつけ、庭園の荒れ行くにつけ、かねて皇子にかけてゐた期待を事毎に反映させて、すべてを「はも」の一語にこめたので、まことに二十三首中の首におかるべき總括的の歌である。古事記弟橘姫の海に入らんとする時の辭世「さねさしさがむの小野に、燃ゆる火のほなかに立ちて問ひし君はも〔二字右○〕」と同巧同曲といふべきである。
 
172 島宮《シマノミヤ》 上池有《ウヘノイケナル》 放鳥《ハナチドリ》 荒備勿行《アラビナユキソ》 君不座十方《キミマサズトモ》
 
○上池有《ウヘノイケナル》――「上(ノ)池といふは恐らくは今の修學院の離宮などの如く、水が遞次に流れ下つて、上(ノ)池、下(ノ)池などいふがあつたのであらう。考は一本に「池上」とあるに據つて「池の上なる」と訓み、今もそれに從ふ説もある。げに歌としては其の方が一般的であらうが、現に神田本以外の古寫本は、すべて「上池」とあつて、それで意が通ずるから、強ひて改めるにも及ぶまい。(古義は勾池の誤としてゐる)。
(526)○荒備勿行《アラビナユキソ》――荒ぶは疎くなる事、和《ナゴ》まない事、心すさび荒びて住みつかなくなる事である。
◎一首の意――島(ノ)宮の上の池に住んでゐる放ち飼の鳥よ、おまへを愛《メ》でさせられた皇子は世におはしまさずとも、決して餘所に飛び行くなよ、せめてもの御形見であるから。
これは鴨、鴛鴦などの類であらう。
 
173 高光《タカヒカル》 吾日皇子乃《ワガヒノミコノ》 伊座世者《イマシセバ》 島御門者《シマノミカドハ》 不荒有益〔左○〕乎《アレザラマシヲ》
 
○伊座世者《イマシセバ》――「いましせば」は上の長歌に「天下、所知食世者」とあるに同じく、「御子世におはしますものとしたならば」といふが如き意で、「せ」は過去の助動詞「き」の未然形といはれてゐる。(これはなは考ふべき餘地があると思ふ。)
○島御門者《シマノミカドハ》――この御門を考は御門《ゴモン》の事と見たらしいのは誤で、島(ノ)宮の宮殿をいふのである。上の藤原宮役民作歌(五〇)に「吾作日御門爾《ヒノミカドニ》云々」、又藤原宮御井歌(五二)に「藤井我原爾、大|御門《ミカド》始賜而云々」とある御門と同じ事である。
○不荒有益〔左○〕乎《アレザラマシヲ》――「益」字、流布本には「蓋」とあるが、訓はなほ「まし」である。「益」の誤なる事明かであるから、代匠記の説に從つて改めた。
◎一首の意――皇子が御在世であつたならば、この島(ノ)宮が、かく荒れる事がなかつたらうものを。
 
(527)174 外爾見之《ヨソニミシ》 檀乃岡毛《マユミノヲカモ》 君座者《キミマセバ》 常都御門跡《トコツミカドト》 侍宿爲鴨《トノヰスルカモ》
 
○外爾見之《ヨソニミシ》――日頃は外《ヨソ》に見なして心にもとめなかつた意。
○檀乃岡毛《マユミノヲカモ》――日並皇子の御陵墓のある處で、長歌に眞弓岡とあるに同じい。
○常都御門跡《トコツミカドト》――永久の御殿としての意で、御陵墓の事をかくいつたのである。「と」はとしての意。
○侍宿爲鴨《トノヰスルカモ》――こゝに「侍宿」とあるについて、考は「殿寢」の義と考へ、假名を「とのい」としたが、玉の小琴は「殿居」の義として「とのゐ」と改め、委しく論じてゐる。こゝに「侍宿」と書いたのは、夜間も勤仕する心を主に示しただけであらう。
◎一首の意――日頃は何の關係もない處と思つて、よそに見てゐた檀の岡も、今は皇子がおはしますから、永への御殿と心得て、とのゐする事であるわい。まことに思ひがけない事であつた。
 
175 夢爾谷《イメニダニ》 不見在之物乎《ミザリシモノヲ》 鬱悒《オボホシク》 宮出毛爲鹿《ミヤデモスルカ》 作日之隈回乎《サヒノクマワヲ》
 
○欝悒《オボホシク》――舊訓「おぼつかな」と訓んでゐるが、代匠記精撰本以來「おぼほしく」と訓んでゐるのがよい。此卷「二二〇」の歌に「欝悒、まちかこふらむ」とあるも此の意で、卷五に假名書で「意保保斯久〔五字傍点〕いつち向きてかあが別るらむ」(八八七)とあるに同じ心ばへと見える。物思ひに心の晴れやかならぬをいふ語である。
○宮出毛爲鹿《ミヤデモスルカ》――宮出は宮に出仕する意、こゝに宮といふは殯宮やがて眞弓の岡なる喪屋をいふのであらう。爲鹿《スルカ》(528)は「するかな」の意。
○作日之隈回乎《サヒノクマワヲ》――玉の小琴は一本に「佐田之隈」とあるを用ふべしといつてゐる。げに佐田(ノ)岡は下に四ヶ所も見えて、日並皇子の御陵墓の在る所であるから、然るべきかにも思はれるが、こゝを「佐田」とするのは代匠記初稿本の書入といふものだけで、一つもさる古寫本がないから容易くは信ぜられない。やはり「作日之隈」がよからうと思ふ。これは卷十二に「さ檜の隈檜隈川に駒とめて、駒に水かへ、我よそに見む」(三〇九七)と詠まれた處、和名抄に「高市郡檜前郷、訓|比乃久末《ヒノクマ》」とある所で(今も大字檜前といふが殘つてゐる)、眞弓岡の東に當つてゐるから、作者が島宮から御陵墓へ通ふ途中の作と見るべきであらう。さて「さ」は接頭辭、「ひのくま」が地名で、「回」はあたり、まはりの義であるから、文意は「ひのくまあたりを」の意である。しかし「ひのくま」といふも、もとはくま/”\しい所の多い所から出た名であらうから、こゝは「檜隈のくま/”\しいあたりを」などの意と見てよからう。又「隈」(ノ)字、舊本「隅」に作つてゐるが、金澤本、神田本等に從つた。
◎一首の意――この檜隈などいふくま/”\しいあたりは、日頃は夢にも見なかつた所なのに、今は御陵墓通ひの出仕に日毎に立ちならす事よ。思ひもよらなかつた事であるわい。
 
176 天地與《アメツチト》 共將終登《トモニヲヘムト》 念乍《オモヒツツ》 奉仕之《ツカヘマツリシ》 情違奴《ココロタガヒヌ》
 
◎一首の意――天地のあらん限り、此世のあらん限り御奉公しようと思うてゐた我が願は、空しくなつてしまうたわい。
(529)この歌古義にいふ如く意かくれたる所なきやう思はれるが、略解、檜嬬手、攷證、美夫君志等揃ひも揃うて「終へむ」を皇子にかけて「君が代、天地と共にこそ終らめ」(攷證の文)など説いてゐるのは訝かしい。こは新考や新講に指摘した如く、「終へむ」は仕を終ふる事、「天地のつくる時あらばこそ我が仕終へめ」の意で、約めていへば、「天地のあらん限り仕へまつらむ」といふ事なのである。
 
177 朝日弖流《アサヒテル》 佐太乃岡邊爾《サタノヲカベニ》 群居乍《ムレヰツツ》 吾等哭涙《ワガナクナミダ》 息時毛無《ヤムトキモナシ》
 
○朝日弖流《アサヒテル》――御陵墓の形容に朝日照るは少しふさはぬかにも思はれるが、下にも「朝日照る佐太の岡邊」(一九二)などいふ句も見えるから、やはり實際の形容であらう。夜の間は泣き明し歎き明して、夜明けてあたりの樣を見て、又更に悲を新にするのであらう。新考は准枕詞などいふ名を命じてゐるが、全釋は「夜の間はおのがじゝ悲しい思を抱きつゝも黙々として明したが、朝日が斜に鮮やかな光を投げると、そこに展開せられる御墓の周圍の情景は何一つとして舍人等の心を掻き亂さぬものはない。彼等の集團はたゞ相擁して號泣するの外はないのだ。何等の悲痛なる場面ぞ」と稱揚してゐる。
○佐太乃岡邊爾《サタノヲカベニ》――舍人等の歌のうちに「檀の岡も君座せば」(一七四)、「檀の丘に飛びかへり來ね」(一八二)といひ、又「佐田の岡べにとのゐしに行く」(一七九)、「佐太の岡べにかへりゐば」(一八七)などあるを見れば、佐太(ノ)岡、眞弓(ノ)岡、同所で、差別がないやうに思はれるので、代匠記も佐田(ノ)丘は眞弓(ノ)岡の別名かといつてゐるが、實際は同地異名ではないけれど、近く相隣接して區別し難きほどの處だといふ事である。思ふに皇子を葬つたのは(530)眞弓(ノ)岡で、多數の舍人等の侍宿する所は佐太(ノ)岡まで亙つて建てられたので、その人々によつて樣々に稱へてゐるのではあるまいか。當時の盛儀も偲ばれる心ちがする。
○吾等哭涙《ワガナクナミダ》――原文には「吾等」とあつて多人數の泣く意を示してゐるが、歌の調としては「われらが」とはいへないから「わが」と訓むのである。畢竟我が國の語法では單複の差別が、さばかり嚴密でないからである。此類の書式は所々に見える。
◎一首の意――我々舍人が朝日さす此の佐太の丘に群れつどうて、皇子戀しさに泣く涙、いつまでたつても息む時はないわい。
 
178 御立爲之《ミタタシシ・ミタチセシ》 島乎見時《シマヲミルトキ》 庭多泉《ニハタヅミ》 流涙《ナガルルナミダ》 止曾金鶴《トメゾカネツル》
 
○御立爲之《ミタタシシ・ミタチセシ》――舊訓は「みたちせし」と訓んでゐるのを考は「みたゝしゝ」と訓み改め、爾來一般にそれに從つて來たが、近來「み」といふ接頭辭は用言にはつかない例だから、「みたゝす」とはいへないといふので、又舊訓を主張する説が多くなつて來た。井上博士の新考の如きは、下の「一八八」なる「御立之〔三字傍点〕、島に下りゐて」(從來の訓「みたゝしゝ〔五字傍点〕云々」)、「四二四五」なる「御立座而〔四字傍点〕」(從來の訓「みたゝしまして〔七字傍点〕」)の二例を擧げて、「御立之」は「御立爲之」の誤で、やはり「みたちせし」と訓むべきもの、「御立〔二字傍点〕座而」は「たゝしいまして」と訓むべきものと論じ、「御念」を「おもほし」と訓じ、「不御問」を「とはさず」と訓ずる例を引いて辨じてゐる。此説一應げにと思はれるが、用言に「み」を添へる事は全くないであらうか、今少し研究すべき問題と思ふ。(今四國邊の人(531)は動詞に「お」を添へて「お歸つた」などいふ。古代にもさる用例がなかつたであらうか。但し我々の耳には異樣にひゞくが。)
○島乎見時《シマヲミルトキ》――島を考その他は池の中島と見てゐるらしいが、やはり廣く庭園の事と見てよからう。
○庭多泉《ニハタヅミ》――庭にたまつて流れる雨水の事で、こゝはやがて「流るゝ」の枕詞。
◎一首の意――皇子が折々御立ちになつて御賞覽遊ばされた庭園を見ると、在りし日の事が、それからそれと思ひ出でられて懷舊の涙禁めがたい事ぢや。
いつぞやはかういふ事があつた。或る時はかゝる事があつたと見る事毎に昔が偲ばれるのであらう。
 
179 橘之《タチバナノ》 島宮爾者《シマノミヤニハ》 不飽鴨《アカネカモ》 佐田乃岡邊爾《サタノヲカベニ》 侍宿爲爾徃《トノヰシニユク》
 
○橘之《タチバナノ》――橘は地名であらう。今橘寺(島の庄の西)の在るあたりで、やがて島(ノ)宮の所在地に近かつたらしい。語から推せば、橘は廣い名で、其中に島宮も含まれてゐたのであらう。この邊一帶に昔は橘樹が多かつたので名となつたものであらうと言はれてゐる。
○不飽鴫《アカネカモ》――舊訓「あかずかも」、考「あかもかも」共にわるい。略解、檜嬬手、古義等が「あかねかも」と訓んだのがよい。「あかねばかも」の意で、かゝる所の「ば」を省くこと上にも例が多い。「か」は疑辭、「も」は感動の助辭。
◎一首の意――我は島(ノ)宮の侍宿だけでは爲《シ》たらないのか、今又佐田丘の方へも、とのゐしに行く事であるわい。(532)多數の舍人等が島(ノ)宮と佐田(ノ)丘とに分番交替して侍宿したらしいので、これは島(ノ)宮の侍宿を了へて、これから佐田(ノ)丘の方へ行かうといふものゝ作であらう。いくら奉仕しても飽き足らぬ氣分を、自から劫なく「あかねかも」と訝かる如く言つたのである。
 
180 御立爲之《ミタタシシ・ミタテセシ》 島乎母家跡《シマヲモイヘト》 住鳥毛《スムトリモ》 荒備勿行《アラビナユキソ》 年替左右《トシカハルマデ》
 
○島乎母家跡《シマヲモイヘト》、住鳥毛《スムトリモ》――初の「も」は輕く添へたまで、後の「も」は、人ばかりではなく鳥も〔右○〕の意であらう。
○年替左右《トシカハルマデ》――は一周までの意か、せめて今年の中はの意か、明かではないが、作者の氣分は「せめて我々の居る間は」 の下心であらう。
◎一首の意――御子が御立ちなされた島を家として住んでゐる鳥よ、せめて來年まで、我々の居る間はよそへ飛び去るなよ。
其問だけでもせめて友とし、御形見として見たいからといふのであらう。
 
181 御立爲之《ミタタシシ・ミタチセシ》 島之荒磯乎《シマノアリソヲ》 今《イマ・ケフ》見者《ミレバ》 不生有之草《オヒザリシクサ》 生爾來鴨《オヒニケルカモ》
 
○島之荒礒乎《シマノアリソヲ》――荒礒は島(ノ)宮の池のまはりに石などを疊み上げた處をいふのであらう。古くは海濱ばかりではなく、池、川などにも用ひた事は既に述べた。
(533)○今《イマ・ケフ》見者《ミレバ》――舊訓は「けふみれば」であるが、考は「いまみれば」と改め、爾來諸説まち/\で、美夫君志などは省字の一法として、「けふ」と訓むべき事を力説してゐる。(重石《イカリ》を「重」と書き、背向《ソガヒ》を「背」とかく類。)しかし、おのづから「けふ」と訓まねばならぬ所もあらうが、こゝはどちらでもよいので深く云々するには及ぶまい。ふと草を見つけた時の感じであらうから、寧ろ「いま」がよからう。
◎一首の意――皇子が平生御立ちになつた池のほとりの荒磯べをふと見ると、皇子御在世中はつひぞ生えた事のなかつた雜草が早やもう生えてゐるわい。さても/\。
實際ありさうな感慨である。
 
182 鳥〓立《トグラタテ》 飼之鴈乃兒《カヒシカリノコ》 栖立去者《スダチナバ》 檀崗爾《マユミノヲカニ》 飛反來年《トビカヘリコネ》
 
○島〓立《トグラタテ》――「〓」は字書に見えぬ文字なので、代匠記は「栖」の誤であらうといひ、美夫君志は栖の俗字としてゐる。又類聚古集には「垣」に作つてゐるが、和名抄に孫※[立心偏+面]の切韻を引いて「穿v垣栖v鷄曰v塒【音、時、和名、止久良】とあるから、いづれにしても「とぐら」と訓むべきであらう。「とぐら」は鳥座で鳥を据ゑおく所をいふのである。舊訓は「とぐらたち」と訓んでゐるが、考以後「とぐらたて」と訓むのがよい。
○飼之鴈乃兒《カヒシカリノコ》――鴈之兒に就いては二説ある。二説とも代匠記の説であるが、一はかる鳧の事で夏鴨ともいふと説き、略解、檜嬬手、美夫君志及近頃の全釋等は此説によつてゐるが、一は鷹の古字「※[麻垂/雁の中]」から誤つたもので、「たかのこ」であらうといひ、古義、攷證を初め、近頃の新考、新講等は皆之に從つてゐる。後者はいふ、鴨の如き(534)水鳥ならば、初めから水に放つべく、鳥座の要はないではないかと、前者はいふ、幼なき時に鳥座に飼ふは狐、鼬等の害を避くる爲なりと、兩者各執る所あつて一概に定むべきではないが、「眞弓の岡に飛びかへり來ね」といふは鴨の如き水鳥にはふさはないと思ふから、姑く後説に從つておく。日並皇子はしば/\雪中の鷹狩などをせられた樣に見えるから、御所内に鷹の子を飼育しておかれたのであらう。
○栖立去者《スダチナバ》――鳥の雛が自から飛べるやうになつたならばといふのである。
○飛反來年《トビカヘリコネ》――舊訓以來すべて「とびかへりこね」と訓んでゐるのを、美夫君志だけが「とびうつり〔三字傍点〕こね」と訓んで、いろ/\論らうてゐるが從ひがたい。
◎一首の意――皇子が鳥座を立てゝ御飼ひになつた鷹の兒が巣立ちするやうになつたなら、皇子がいらせられる檀の岡に飛び通うて來いよ。
かへるといふは飛びかへり又飛びかへり、幾度もくりかへす意の語であらうが、かゝる所は強ちに泥むにも及ぶまい。たゞ飛び來よといふ意に見てよからう。
 
183 吾御門《ワガミカド》 千代常登婆爾《チヨトコトハニ》 將榮等《サカエムト》 念而有之《オモヒテアリシ》 吾志悲毛《ワレシカナシモ》
 
◎一首の意――隱れたる所なく明かで、我が皇子の御殿は千年も萬年も、いつまでも榮えさせられる事と思うてゐたあてがはづれて、いかにも悲しい事ぞといふので、有りのまゝの眞情である。「吾し」の「し」は強める助辭。
 
(535)184 東之《ヒムカシノ》 多藝能御門爾《タギノミカドニ》 雖伺侍《サモラヘド》 昨日毛今日毛《キノフモケフモ》 召言毛無《メスコトモナシ》
 
○東之《ヒムカシノ》、多藝能御門爾《タギノミカドニ》――池水の流れ出づる落口にある御殿をいふか、又は池に引き入れる水のたぎち落つる所をいふか明かではない。もし前者ならば、そこにとのゐする者は後の瀧口武士などの類か、もし後者ならば後の泉殿などの類であらうか。とにかくそれが御所の東に當つてゐたのであらう。(平安時代の制度でも泉殿は東に當つてゐる。)
○召言毛無《メスコトモナシ》――代匠記は「言」を正字として、「召し給ふ御言もなし」と説いてゐるが、これはやはり衆説の如く「事」の意で、「言」は借字であらう。
◎一首の意――いつに變らず日頃出仕する御殿に伺候して御用を待つてゐるけれど、昨日も今日も何の御召しもない。……あゝ、さうであつた、皇子が御隱れになつたのであつた。
皇子が御薨れになつたといふ氣にはなれず、吾知らす常の如く出仕して御用を待つてゐるが、いつまで經つても御召しのないのに、ふと我にかへつて、皇子の薨去といふ事に氣づいて、涙滂沱として禁めあへぬ趣である、「忘れては夢かとぞおもふ」といふもこの情、「とんぼ釣り今日はどこまでいつたやら」といふも此の心ばへ、古今を通じて違はぬ眞情である。
 
185 水傳《ミヅツタフ》 礒乃浦回乃《イソノウラワノ》 石乍自《イハツツジ》 木丘開道乎《モクサクミチヲ》 又將見鴨《マタミナムカモ》
 
(536)○水傳《ミヅツタフ》――水が岩間々々を傳うて池に流れ入る實景をいふのであらう。こを枕詞として「磯邊は水につきてつたひ行けばなり」などいふ代匠記の説はとらない。又舊訓に「みづつての」と訓んでゐるのも義を成さない。考の訓の如く「みづつたふ」と訓むべきである。
○木丘開道乎《モクサクミチヲ》――「もく咲く道を」の意で、「もく」は「茂《シゲ》く」の古語、もく、もし、もき、と活用したものらしい。應神紀に芳草薈蔚〔二字傍点〕を「もくしげし」と訓み、顯宗紀には「厥功|茂《モシ》焉」と訓んでゐる。「道」は「ところ」と譯するがよい。そはなほ後の「二〇七」の歌で言はう。
○又將見鴨《マタミナムカモ》――舊訓「またもみむかも」を、考は「またみなむかも」と改めてゐる。「みなむ」といふ語遣ひが、少ししつくりしないかに思はれるけれど、舊訓の「またも」も少しいかゞと思はれるから、姑く考の訓に從つておく。さて「かも」の「か」は疑問の「か」がやがて反語となつたもの、「も」は感動の助辭。
◎一首の意――かなたこなたと水の流れ行く岩間々々の躑躅が、かく繁く美しく咲いてゐる處を、又と再び見る事が出來ようか。今年が見をさめかと思ふといふよしもなく悲しい。
皇子の薨去は四月であるから、躑躅の咲き匂ふ時季がやがてほどなく來たのであらう。
 
186 一日者《ヒトヒニハ》 千遍參入之《チタビマヰリシ》 東乃《ヒムカシノ》 大寸御門乎《オホキミカドヲ》 入不勝鴨《イリガテヌカモ》
 
○大寸御門乎《オホキミカドヲ》――舊訓が「たぎのみかどを」と訓んだのは、上の歌に「東乃、多藝能御門」とあつた同じ所と見たのであらう。げに無理もない見解で、考、略解、以外の諸註は勿論、近頃の新考、全釋等に至るまで皆之に從つ(537)てゐる。然るに考は「寸は借字なり、假字の下に辭を添ふるよしなし」とて、「おほきみかど」と訓み改めた。これも然るべきだと思はれるが、美夫君志は更に地名、人名などでは假字の下に「ノ」の辭を添へて訓む例があるとて、いろ/\擧げてゐるから(卷十「沙穗内之《サホノウチノ》云々」「二二二一」、卷十八「蘆原能、美豆保國乎《ミヅホノクニヲ》」「四〇九四」、等)、これも確な理由とはしがたいであらう。しかし「大」を「た」と訓むも聊か異例であるし(古義の所謂取りはづして誤つたのかも知れねど)、「寸」は清音の文字であるから、このまゝでは考の如く「おはきみかど」と訓むが穩當ではあるまいか。たま/\「東乃」といふ修飾語がかゝつてゐるので、つひ上の「一八四」の歌に准へて見たくなるけれど、さもなくば「おほきみかど」で立派に通ずる歌である。「大」を「太」の誤とし、「寸」を濁音に通はしたものとせんでもよいのである。敢て異を立てるではないが、本文はなるべくすなほに、有りのまゝに見たいからである。なは古寫本の中でも、類聚古集や神田本は「おほきみかど」と訓んでゐるので、考に初まつた訓ではない。さて「おほきみかど」は大きなみかどの意で、大門即ち正門の義であらう。
○入不勝鴨《イリガテヌカモ》――「がてぬ」は堪へぬ、などの意で、入る氣にはなれぬ事である。考が門を閉してあるから入る事が出來ない意に説いてから、之に從ふ説が多いが、さうではあるまい。今は吾が君、眞弓の岡におはしますから、そなたに心引かれて此方の門をくゞる氣力がないのである。代匠記、檜嬬手等の説がよからう。
◎一首の意――皇子御在世の時はいそ/\と心進みて日に千度も參つたこの御門も今は皇子がおはしまさぬので、何となく足がにぶりがちであるわい。
 
(538)187 所由無《ツレモナキ》 佐太乃岡邊爾《サタノヲカベニ》 反居者《カヘリヰバ》 島御橋爾《シマノミハシニ》 誰加住舞無《タレカスマハム》
 
○所由無《ツレモナキ》――舊訓は副詞句として「よしもなく」と訓んでゐるが、略解以後「つれもなき」と訓んでるのがよい。佐太乃岡の修飾語で、上なる人麿の長歌に「由縁母無、眞弓乃崗」(一六七)とあるに同じ事である。
○反居者《カヘリヰバ》――此歌は島(ノ)宮の方から、佐太(ノ)岡の方へ新に轉じて來た者の作であらう(恐らくは途上の作)。「かへる」とは、今吾が居る所を主にしていふのである。古義は「反」を「君」の誤として、「君ませば」と訓んでゐるが、かゝる誤字説はもとより從ふべきではない。美夫君志は上の「檀崗爾《マユミノヲカニ》、飛反來年《トビカヘリコネ》」(一八二)と同じく「うつりゐば」と訓んで、こちたく辨じてゐるが、之にも從へない。「かへりゐば」で別に不都合がないではあるまいか。
○島御橋爾《シマノミハシニ》――橋は借字で階であらう。此の舍人は島(ノ)宮の御殿に昇る階段の許にとのゐした者であらう。
◎一首の意――日頃縁もゆかりもない佐太の岡に、かうして私が來てゐたなら、島(ノ)宮の御階の下には誰がとのゐする事であらう。
我ならではの心ばへ、日頃役目を大切に思ふ情から出た言葉であらう。
 
188 且覆 日之入《ヒノイリ》去者《ユケバ・ヌレバ》 御立之《ミタタシシ・ミタチセシ》 島爾下座而《シマニオリヰテ》 嘆鶴鴨《ナゲキツルカモ》
 
○且覆産――この二字いかに訓むべきか明かでない。諸説まち/\で、舊訓は「あさぐもり」と訓み、考は「天覆」の誤として「あまくもり」と訓み、檜嬬手は「あさがへり」と訓み、美夫君志は「且」を「旦」の誤として「た(539)なぐもり」と訓んでゐるが、げにと思はれる説もない。その中におもしろきは「茜指」の草體から誤まつたもので「あかねさす」と訓むべきだといふ古義の説であるが、おもしろいといふだけで、それがよからうともいへない。總じて昔の萬葉學者はともすれば草體からの誤字といふ事をいふが、今日傳はつてゐる各種の古寫本を見ると、大方は楷書に近い行體で、草體といふべきものはあまり見當らない。比較的字體の正しい寫本だけが殘つてゐるのであらうか、よく研究すべきである。
○日之入《ヒノイリ》去者《ユケバ・ヌレバ》――舊訓は「ひのいりゆけば」と訓んで、諸家大方之に從ひ、古義は「ひのいりぬれば」と訓んで、近頃の人は多く之に從つてゐるが、初句の訓が明かでないので、明確な制斷は下し難い。姑くもとのまゝにしておく。
○御立之《ミタタシシ・ミタチセシ》――この句を「みたゝしゝ」と訓む説では、こゝを一つの證とし、「みたちせし」説を取る人は、上の「一七八」、「一八〇」及「一八一」の歌を例として、こゝは「爲」を脱したものと説く。とにかくに今一段の研究を要する句である。
◎一首の意――初二句が、よく解けないので一首の意も明確には説きがたい。こを譬喩歌と見て、月の雲に隱れたといふを日並皇子の薨去によそへたものとする説が多いやうだが、どうであらうか。予は何となくさうした氣分にはなれない。「日之入去」といふは夕暮をいふので、夕暮は殊に物悲しき時であるから、おひ/\闇が逼つて來ると、我知らず御かたみの庭に立ち出でゝ、あたり見まはして泣く意ではあるまいか。
 
(540)189 旦〔左○〕日照《アサヒテル》 島乃御門爾《シマノミカドニ》 欝悒《オボホシク》 人音毛不爲者《ヒトオトモセネバ》 眞浦悲毛《マウラガナシモ》
 
「旦」(ノ)字、今本「且」に作つてゐる。金澤本、類聚古集等によつて改めた。
○欝悒《オボホシク》――心結ぼれて晴やかならぬ事で既に述べた。廣い御殿の中に人音もせぬのがおぼゝしいのである。
○眞浦悲毛《マウラガナシモ》――「ま」は接頭辭、「うら」は心の義、「も」は感動詞。
◎一首の意――朝日の照り輝いてゐる廣い御殿の中ひつそりして人音もしないから心悲しさに堪へぬわい。これは島の宮に殿居した者が、朝になつて、日は花やかに輝いてゐるのに、賑やかなるべき殿の内が、ひつそりして、物音もしないのに、心を動かしたのであらうか。又は前夜ごた〔二字傍点〕/\した眞弓の岡に殿居した者が、今朝は島(ノ)宮の方へ轉じて來たので、來て見ると、折から莊麗な庭園に日は輝いてゐるが、廣い御殿の内はひつそりとしてゐるので、と胸をついたのであらうか。いづれにもせよ、皇子御在世の折はかうはなかつたものをとの氣分を、朝日のうらゝかに照るにつけて、一段と強く感じたのであらう。
 
190 眞木柱《マキバシラ》 太心者《フトキココロハ》 有之香杼《アリシカド》 此吾心《コノワガココロ》 鎭目金津毛《シヅメカネツモ》
 
○眞木柱《マキバシラ》――太きの枕詞、柱は太きを貴ぶからである。眞木は檜。
◎一首の意――我は日頃物に動ぜぬますらを〔四字傍点〕心を持つてゐるつもりであつたが、この度の皇子の薨去については我が心の動搖を如何ともする事が出來ぬわい。
(541)御殿の柱を撫しつゝ洩らした述懷であらう。
 
191 毛許呂裳遠《ケゴロモヲ》 春冬《ハルフユ》片設而《マケテ・カタマケテ》 幸之《イデマシシ》 宇陀乃大野者《ウダノオホヌハ》 所念武鴨《オモホエムカモ》
 
○毛許呂裳遠《ケゴロモヲ》、春冬《ハルフユ》片設而《マケテ・カタマケテ》――此歌は訓も解も古來まち/\で釋き難い歌である。先づ初句、實際の毛衣(裘)と見る説(考、略解等)と、はる(張る)にかゝる枕詞と見る説(古義、攷證、新考等)とがある。(又鳥獣の毛を以て織つた衣といふ説【代匠記】もあるが、我國の昔にさるものがあつたといふ事を聞かないから、これは取らない。又攷證は褻《ケ》衣と見てゐるが、これも今は取らない。)次に「片設」を他動詞として、毛衣を準備して着る意に見ると(考、略解、但、考は「とりまけ」の誤としてゐる)、時節を待ち設くる意とすると(古義、攷證、美夫君志、全釋等、攷證は「片」は辭にて意なしとさへいつてゐる)、「片設」を自動詞として、向きて、近づきて〔七字右○]、などの意とすると(檜嬬手、新考等)の三説がある。中にも攷證は、六首の例歌を擧げて、委しく説いてゐるから、念のため、その六首をこゝに掲げて參考に供する。
 卷五「梅の花ちりまがひたる岡びには、鶯なくも春加多麻氣弖〔六字傍点〕」(八三八)
 卷十「鷺の木傳ふ梅のうつろへは、櫻の花の時片設奴〔四字傍点〕」(一八五四)
 卷十「秋の田の我が苅りばかの過ぎぬれば雁がね聞ゆ冬方設而〔四字傍点〕」(二一三三)
 卷十「草枕旅に物思ひ吾が聞けば夕片設而〔四字傍点〕鳴くかはづかも」(二一六三)
 卷十一「いつしかも戀ひぬ時とはあらねども夕方※[手偏+王]〔三字傍点〕戀無乏《コヒハスベナシ》爲歟」(二三七三)
(542) 卷十五「いそのまゆ瀧つ山河たえずあらば又もあひ見む秋加多麻氣弖〔六字傍点〕」(三六一九)
此等の例證によると、なるほど「片設」といふ語は、新考のいふが如く自動詞で、になりて、近づきて〔八字右○]などいふが如き語氣らしい。然るに攷證自から、こを他動詞と見て、「其時を待ち設けたる意」(方儲)に解いてゐるのは少し訝かしい。
 新講ニ「カタマク〔四字傍点〕は傾くと關係わる語で其意は片寄ること即ち近づく事をいふのであらう」トアルハ面白イ説デアル。(追記)
思ふにこは時を〔傍点〕待ち設くるのではなく、時が〔右○〕待ち設くる意で、上に擧げた鶯の云々の例歌でいへば、梅が移ろうてくれば櫻がそろ/\待ちかまへてゐる意なので、恰も秋の落葉と共に既に春の芽が下に萌してゐるが如き氣分をいつた語であらう。それが使ひ馴らされて後には單にになりて、近づきて〔八字右○]といふが如き意になつたものではあるまいか。(「告《ノル》」といふ他動詞が「占爾皆《ウラニノル》」といふ場合に自動詞的になるやうなものであらう。)隨つて片は「かたはら》、片一方〔七字右○]などの「片」でやはり意義がある。そこでこの「片設」に重きを措いて此の歌を解釋すれば、
(甲) 春に冬に(春になり、冬になつて)隨時に御狩に出でました宇陀の大野はこれからなつかしく戀ひしく思ひ出でられる事であらうかなア、
といふほどの意になるのであらう。隨つて毛衣を準備する意には見られないから、これはたゞ「張る」にかゝる枕詞で、時に取つてふさはしいから用ひたものと見ねばなるまい。
しかしながら此の歌、雪中の御狩を思ひやつた作と考へられるから「毛衣を」といへば、誰しも實際の毛衣を着て狩に出で立つ意を聯想するのが自然である。然るに豈圖らんやたゞ枕詞といふだけで實際の毛衣でないとすれ(543)ば讀者の豫想を裏切る事となつて、思想上迷亂を起さしめる恐があるので、修辭上からは聊か遺憾を感ずる。(實際張るの枕詞としてならば他に適當な語がいくらもあらうと思ふ。)やはりこゝは實際の毛衣を指すものと見たい。それに「はるふゆかたまけて」といふ九言の句も少し違例であるが、古い訓を見ると「片」(ノ)字を訓んでゐないのが多い。まづ舊訓は「はるふゆまけて」と訓み、金澤本には「はるふみまけて」、神田本には「はるふゆかけて」(左方の訓にマケテ〔三字右○〕とある)とある。又今の京都大學本、大矢本などには「春冬」を「とし」と訓み、此の一句を「としかたまけて」と訓んでゐる。(近世、荒木田久老の信濃漫筆には「冬」を「秋」の誤として「春秋」を連ねて「とし」と訓んだのは、之に基いたものであらうか。)此等を考へ合はせると、「春冬」又は「春秋」を「とし」と訓むは少しいかゞに思はれるが、「片」の一字は、これは春の料、これは冬の料とそれ/\〔四字傍点〕毛衣を設け備へて出でました意を聞かせるために、特に添へただけで訓讀では訓むに及ばないもの、つまり舊訓の「はるふゆまけて」が最もよいではあるまいかとも思ふ。さすれば「片設」は「かたまけ」と訓む特殊な語法ではなくして、普通の他動詞となるべく、毛衣は實際の毛衣で「まけ」はその毛衣を準備する意。歌の意は、
(乙) これは春の料、これは冬の料と、それ/\毛衣を準備しておいて、時をたがへず御狩に出でました宇陀の大野は、これから戀しく思ひ出でられる事であらうかなア」――と説くべきではあるまいか。
試みに甲、乙二説を立てゝ見たが、よく考へて取捨すべきである。さて
○幸之《イデマシシ》――舊訓は「みゆきせし」であるが、いふまでもなく考以後「いでましゝ」と訓むのがよい。
○宇陀乃大野者《ウダノオホヌハ》――宇陀郡の西邊で初瀬に近く、諸書多く榛原附近を之に充てゝゐるが、皇子の狩せられた處は寧(544)ろ松山町に近かるべく、中世宇陀の御狩場といふも、こゝを指すらしい。(卷二、人麿の歌「四五・四六」に阿騎野とあつて輕皇子の宿られたあたりであらう。)この處、今は開けて村落となつてゐるが、四面皆山で圍まれた平地で、東西一里、南北二三里許り、北に榛原驛(萩原ともいふ)南に松山町があつて、その間が所謂宇陀野であらう。
◎一首の意――甲乙二説に分けて既に述べた通りである。予は(乙)説に心引かれるがなほよく考ふべきである。
 
192 朝日照《アサヒテル》 佐太乃岡邊爾《サタノヲカベニ》 鳴鳥之《ナクトリノ》 夜鳴《ヨナキ》變布《カヘラフ・カハラフ》 此年己呂乎《コノトシゴロヲ》
 
○夜鳴《ヨナキ》變布《カヘラフ・カハラフ》――此歌も、この一句がよく解けないので、全體の意も明かでない。訓は「變布」を「かは〔右○〕らふ」と訓むと「かへ〔右○〕らふ」と訓むとの二つであるが(舊訓と古義及近頃の全釋は後者、他はすべて前者)、「かはらふ」と訓む説の中に代匠記は「この年頃、佐太の岡邊に凶鳥の夜鳴に惡き聲鳴きつるは、かゝらんとてのさとしなりけるよと、思ひ合せて歎く意なり」と説き、美夫君志之に同じてゐるが、それでは皇子が薨去せられて、こゝに葬られる事を烏は數年前から豫知してゐた事にもならうが、それはともかくも、鳥の夜泣と解いては、全釋が評した如く「朝日照」といふ修飾語が何の爲におかれたか意義をなさない事になりはせぬかと思ふ。「かはらふ」と訓む他の説は大方、舍人等が泣きながら交替する意に説いてゐるが、交替する時もあらうに、さ檜(ノ)隈のくま/”\しい路を、闇夜のたど/”\しい折に交替するといふ必要があつたであらうか。特別な事情がなければ、これも腑に落ちぬ事である。推しもて行けば、これも舊説の如く「かへらふ」と訓むがよいではあるまいか。「かへらふ」は(545)佐太の丘に居る舍人等が、時を期して御墓前で慟哭して宿舍に還る意かも知れねど、必ずしも歸還の意には限らず、ある動作をくりかへす事であるから、こゝも舍人等が夜な/\繰り返し/\泣き明かす意かも知れぬ。(卷一「朝よひにかへらひねれば」(五)も、風がくりかへし/\吹く意で、故郷へ吹き還る意ではない。)「變」(ノ)字元來は「かはる」と訓むべき文字ではあるが、萬葉は借訓が多いから、こを「かへる」といふに當てた例も中々に多い。(全釋はいろ/\實例を擧げてゐる。「い往き變良比《カヘラヒ》、見れど飽かぬかも」、(一一七七)、「釣りする海人を見變《ミテカヘリ》來む」(一六六九・一六七〇)、「つりする海人の袂變《ソデカヘル》見ゆ」(一七一五)等。)
○此年己呂乎《コノトシゴロヲ》――御墓に侍してゐる間の月日をいふのであらう。最後の「を」は四(ノ)句にかへるといふ説と、「よ」といふ感動詞とする説とあるが、「かへらふ」を上述の如く見れば、それは自動詞であるから、「を」はやはり感動詞と見るがよからう。隨つて「かへらう」は連體形といふ事にならう。尤も近來かゝる所に名詞格の弖仁乎波を用ひる人が多いから、さうも見られぬ事はないが、上代ではどうであらう。
◎一首の意――夜明けて朝になると、この佐太の岡のあたりに鳥がかしましく鳴くが、その如く我々は夜になると、いとゞ心結ぼれて、夜もすがら泣き明かす事であるわい。
初三句を序詞といふ人もあるが、まことの序詞ではあるまい。實際を以て喩へたので、鳥は朝になると鳴くが、我々は夜、泣き明かすといふほどの心であらう。さもなければ「朝日照」といふ修飾語がよくきいたとは言へないと思ふ。姑く右の如く説いて見たが、我ながらしつくりしない點があると思ふから、なほよく考ふべきである。
 
(546)193 八多籠良家《ハタゴラガ》 夜畫登不言《ヨルヒルトイハズ》 行路乎《ユクミチヲ》 吾者皆悉《ワレハコトゴト》 宮道叙爲《ミヤヂニゾスル》
 
○八多籠良家《ハタゴラガ》――此歌も歌の大要は通ずるけれど、この「八多籠」といふ語が、よく解けないので今なほ議論が絶えない。舊訓は「やたこ」と訓んでゐるが、「た」と「つ」とは音通で、「やつこ」であらう、賤しき奴僕などの通ふ路をいふのであらうと解く説が多い。檜嬬手の如きは、私に文字をさへ改めて「八箇籠《ヤツコ》」としてゐる。然るに代匠記の一説には「八」を「ハ」と訓んで「はたご」かといつたのを、玉の小琴が更に敷衍して「良」は「馬」の誤で「はたごうま」であらうといひ、近頃の全釋も之に據つてゐる。此の二説いづれとも俄に斷定しかねるが「はたご」といふ語は昔からあるし、「やつこ」を「やたこ」と言つた例はまだ見ないから、今は姑く「はたご」説に從つておく。「はたご」は和名抄に漢語抄を引いて「※[竹/兜のような字]……波太古《ハタゴ》、俗用2旅籠二字1、飼v馬籠也」とあつて、もと馬の飼料を入れる旅行用の籠をいふのであるが、後にはその籠を家の軒頭に懸けおきて馬子の需用に應じ、更に後にはその家で馬をも人をも宿するやうになつたのが、所謂|旅籠屋《ハクゴヤ》のはじめだといふから、或は馬子の事をも「はたご」と唱へた時代があつたかも知れぬ。さすれば必らずしも「馬」の誤とせずとも、このまゝでも意は通ずるであらう。「夜晝といはず行く路」といふ語は驛馬の通路をいふらしくも聞えるが、當時島(ノ)宮から御陵墓に通ふ路は、さる通路に當つてゐたか否か、これは今一段研究すべきである。さて「家」(ノ)字、多くの古寫本には「我」とある。
○吾者皆悉《ワレハコトゴト》――舊訓は「皆悉」を義訓と見て「さながら」と訓んでゐるが、考以後は一般に「こと/”\」と訓む。(547)たゞ新考だけが舊訓に從つてゐるが、今は衆説に從つておく。
○宮道叙爲《ミヤヂニゾスル》――舊訓「みやかとぞする」は義を成さない。「道」(ノ)字を「か」と訓ずべき理由もないと思ふから、書きそこねではあるまいか。考以後はすべて「みやぢにぞする」と訓んでゐるが、それがよからう。攷證と美夫君志とが「みやぢと〔右○〕ぞする」と訓み改めたのも、わるいとはいへないが、少し後世の調かと思はれるから、やはり考の訓によるがよからう。宮道は宮に出仕する道で、宮は上にある宮出もするかの宮と同じく、御陵墓に立てられた喪舍をいふのであらう。
◎一首の意――賤しき馬子等が夜となく晝となく通る此の田舍道を、今我々は殯宮に出仕する晴の途として通ふ事よ。さても/\思ひがけない事であつた。
 
右日本紀曰三年己丑夏四月癸未朔乙未薨。
 
日本紀によつて、日並皇子薨去の年月日をしるしたもの、三年は持統天皇の三年、乙未は十三日である。
 
柿本朝臣人麿獻2泊瀬部皇女忍坂部皇子1歌一首井短歌
 
此の端詞は他の例に違つてゐるので、古來誤があるものとせられ、考は左注によつて「葬2河島皇子於越智野1之時、柿本朝臣人麿獻2泊瀬部皇女1歌」と改め、「忍坂郡皇子」の五字を削つてゐる(檜嬬手、古義等も大體之に倣つてゐる)。或はさうかも知れねど、さる本は一つもなく、諸本皆このまゝであるから、姑く疑を存して題詞は本のまゝにしておく。泊瀬部皇女は天武天皇の皇女で、左注によると、川島皇子の妃であつた(548)らしく、天平十三年三月、三品で薨去せられた。忍坂部(忍壁又刑部ともかく)皇子は、その御同腹の兄弟で、慶雲元年やはり三品で薨去せられた。さて端詞のまゝに解釋すれば、御同腹の事であるから、その際、同時に獻るべきいはれがあつたのであらう。事によると女の御子の事であるから、うちつけに奉る事を避けて、兄君を通《トホ》して獻つたのかも知れぬ。さう見るべき可能性が十分にあると思ふ。すべて古典は妄りに私意を以て改むべきではない。疑はしい事があつても、出來るだけ撰者の意志を推究して合理的に註すべきである。忍坂部皇子は兄君でいらせられるのに、御名を後にしたのは、歌は皇女に獻るのが、主眼だからであらう。
 
195 飛鳥《トブトリノ》 明日香乃河之《アスカノカハノ》 上瀬爾《カミツセニ》 生玉藻者《オフルタマモハ》 下瀬爾《シモツセニ》 流觸經《ナガレフラバヘ》 玉藻成《タマモナス》 彼依此依《カヨリカクヨリ》 靡相之《ナビカヒシ》 嬬乃命乃《ツマノミコトノ》 多田名附《タタナヅク》 柔膚尚乎《ニギハダスラヲ》 劔刀《ツルギタチ》 於身副不寐者《ミニソヘネネバ》 烏〔左○〕玉乃《ヌバタマノ》 夜床母荒良武《ヨトコモアルラム》【一云、何禮奈牟《カレナム》 所虚故《ソコユヱニ》 名具鮫兼〔左◎〕天《ナグサメカネテ》 氣田〔左○〕敷藻《ケダシクモ》 相屋常念而《アフヤトオモヒテ》【一云、公毛相哉登《キミモアヘヤト》】 玉垂乃《タマダレノ》 越乃大野之《ヲチノオホヌノ》 旦露爾《アサツユニ》 玉藻者※[泥/土]打《タマモハヒヅチ》 夕霧爾《ユフギリニ》 衣者沾而《コロモハヌレテ》 草枕《クサマクラ》 旅宿鴨爲留《タビネカモスル》 不相君故《アハヌキミユヱ》
 
(549)○飛鳥《トブトリノ》――枕詞。
○上瀬爾《カミツセニ》云々、下瀬爾《シモツセニ》――舊訓「のぼりせに……くだりせに」と訓んだのは拙ない。「かみつせ……しもつせ」と訓むべき事は、早く古事記下卷の歌に「こもりくの泊蘭瀬の川の、賀美都勢爾〔五字傍点〕いぐひをうち、斯毛都勢爾〔五字傍点〕まぐひをうち、」とあるのでも知られる。
○流觸經《ナガレフラバヘ》――舊訓「ながれふれふる」、考は「ながれふらへり」と訓んでゐるが、いづれも少し義を成し難い。玉(ノ)小琴が古事記雄略天皇の條に「ほつえの、枝《エ》のうら葉は、中つ枝《エ》に淤知布良婆閇《オチフラバヘ》」とあるによつて、「ながれふらばへ」と訓まれたのがよからう。「ふらばへ」は「ふれ」の延語であらう、上つ瀬の玉藻は下つ瀬に觸れ靡く意である。(「經」は「はへ」にあてた借字で、卷六に「打|經《ハヘ》而里なみしけば」ともある。)此の語、中古には「ふればふ」となつたらしく、古義は源氏物語を引いて、あまたの例を擧げてゐる。元來古義はこゝを「ながれふらふ」と訓んでゐるが、小琴の説をも認めて、その訓による時は「ふらばふ」と言ひ切るべきだと云つてゐる。それもさる事だが、卷五「かくゆけば、人に伊等波延〔四字傍点〕、かくゆけば、人に邇久麻〔三字傍点〕延〔右○〕、およしをば、かくのみならし、云云」(八〇四)の如く、言ひ切らずに中止させておく語法も往々見えるから姑くこのまゝにしておく。さてこゝの調子は讀み去つて何となく物足らぬ感じがするので、檜嬬手は「下瀬爾、生玉藻者、上瀬爾、靡觸經」の四句を私に補つて八句二聯の對とし、「もし是を私事と見む人は古の歌を聞きわくる耳も目もなき心なり。人麿大人の御魂は喜びたまひなんかし」と氣を吐いてゐる。しかし下つ瀬の藻草が上つ瀬に靡くとは不思議な事で、人麿大人の御魂も苦笑せられる事であらう。對句を用ふる事の出來なかつたのも恐らくは之がためで、あまりに玉藻をふり(550)まはす一種の弊ともいふべきであらう。さて以上六句は下の玉藻成云々を言ひ起す序説である。
○靡相之《ナビカヒシ》、嬬乃命之《ツマノミコトノ》――舊訓は「なびきあひし」と訓んでゐるが、考は「なびかひし」と改めた。但、意義にはかはりあるまい。「嬬乃命」を舊訓は「いものみこと」と訓んでゐるが、こゝは夫《セ》の君の事をいふのであるから、「いも」ではない、「つまのみこと」と訓むべきである。「嬬」は借字で訓を借りただけ、「一五三」の歌に「嬬之、念鳥立」とあるに同じい。「命」は親み敬うていふのである。
○多田名附《タタナヅク》、柔膚尚乎《ニギハダスラヲ》――「たゝなづく」は卷一にあつた「たゝなはる」(三八)と同じ心で、それは群山蜿蜒と連なる形容であつたが、こゝは男女相擁して寐ぬる趣に借り用ひたのである。強ひて枕詞とすべきほどのものではあるまい。「柔膚」を、舊訓は「やははだ」と訓んでゐるが、「柔」(ノ)字、集中多く「にぎ」と訓んでゐるから、古義が「にぎはだ」と改めたのがよからう。美夫君志は「にごはだ」と訓んでゐる。いづれも義は同一である。「すら」は、こゝは調子をとゝのへる爲に輕く添へたのである。
○劔刀《ツルギタチ》、於身副不寐者《ミニソヘネネバ》――「劍刀」は身に副への枕詞、古事記倭建命の歌に「劍の太刀、その太刀はや」とある意で、劍と太刀とではない。下句は泊瀬部皇女の獨寐せられるをいふのである。
○烏玉乃《ヌバタマノ》、夜床母荒良無《ヨトコモアルヲム》――今本「烏」を「鳥」に誤つてゐるが、今、温古堂本其他によつて改めた。閨も淋しく荒れすさぶであらうといふのである。……一本の「何禮奈牟《カレナム》」は「涸れなむ」で、やはり淋しくなる意であらう。略解は「何」を「阿」の誤として「荒れなむ」と訓んでゐる。
○名具鮫兼天《ナグサメカネテ》、氣田敷藻《ケダシクモ》、相屋常念而《アフヤトオモヒテ》――この三句、舊本には「兼」を「魚」、「田」を「留」とあり、訓も「なぐさめ(551)てける、しきもあふ、やどゝおもひて」などあつて何の事とも判らない。然るに荒木田久老は「魚」を「兼」の誤、「留」を「田」の誤とし、「なぐさめかねて、けだしくも、あふやとおもひて」と訓んだので、意義初めて明瞭となつた。「實に千載の發明といふべし」と古義はたゝへてゐる。但、累聚古集には「留」は「田」とあるから、「魚」(ノ)字一つ改めればよいのである。その又「魚」(ノ)字と「兼」(ノ)字とは、字體極めてよく似てゐるから誤つたのも無理のない事で、誤字説もかうした場合には効果が認められる。さて「けだしくも」は「もしも」の義である。……一本の「公毛相哉登《キミモアヘヤト》」の公《キミ》は夫《セ》の君の事、語法上は主格で「思ふ夫の君も見えよかし」といふほどの義である。(これはなほ後の「二一九」の歌で述べよう。)
○玉垂乃《タマダレノ》、越乃大野之《ヲチノオホヌノ》――「玉垂の緒」の意で、越《ヲチ》の「を」にかゝる枕詞。越野は武市郡にある野で、越智野とも書き、反歌の一本には「乎知野」ともある。然るに舊訓「こすのおほの」と訓んでゐるのは、枕詞としての關係から見てもあたらない。
○玉藻者※[泥/土]打《タマモハヒヅチ》――「たまもはひづち」と訓む。「玉藻」は「玉裳」の借字、「ひづち」は卷十五に「朝露にものすそ比都知〔三字傍点〕」(三六九一)、卷十七に「春雨ににほひ比豆知底〔四字傍点〕」(三九六九)などあつて、雨露、又は涙などに濡れる意であるが「※[泥/土]打」の二字をあてたのは、「ひぢうち」の約は「ひづち」となるから借り用ひたのである。さて「ひづち」といふ語につきては、考、古義、美夫君志等に、とかくの説はあるが、これは「ひぢ」といふ動詞を三音に用ひんため、「ぢ」の一音を「づち」二音に轉じたもので、「寒く」を「寒けく」、「しげく」を「しげけく」とする類であらうと考へられる。
(552)○旅宿鴨爲《タビネカモスル》――「鴨」は疑辭の「か」と助辭の「も」とに借り用ひたもの。「旅宿」といふは、一周の間御陵墓の傍に廬を結んで、皇女も折々通ひつゝ宿り給へるをいふのであらう。
○不相君故《アハヌキミユヱ》――「逢はれぬ君なるものを」の意で、この「ゆゑ」は卷二、蒲生野遊獵の歌(二一)のところで既に述べた。
◎一篇の大意――明日香川を見ると、そここゝに瀬があつて、瀬毎に玉藻が生えてゐるが、その上の瀬に生えた玉藻は水にゆられて下の瀬に靡きよる。さてその玉藻のやうに、此方より彼方より靡き寄つて、昵みかはされた夫《セ》の君が、この度御隱れになつて、そのなごやかな御肌に觸れたまふ事もないので、あとに殘された妹の君が御獨寢の閨淋しく、さぞすさび行く事であらう。それ故、思ひ慰むべきすべもなく、もしも亡き夫《セ》の君の面影に出あふ事もやと朝に夕に越智野(ノ)原の露に霧にぬれそぼちつゝ御墓に通はせられ、折々はそこに旅寐をさへしたまふいぢらしさよ。あはれかくても終にあひ難き君ぢやものを。
氣分を現はしにくいので、多少語を取捨して譯した。「夜床も荒るらむ」といふあたり、後世の心から見れば、なめげにも聞えるが、昔は人事の常として忌まなかつたものと見える。
 
反歌一首
 
195 敷妙乃《シキタヘノ》 袖易之君《ソデカヘシキミ》 玉垂之《タマダレノ》 越野過去《ヲチヌニスギヌ》 亦將相八毛《マタモアハメヤモ》【一云、乎知野爾過奴《ヲチヌニスギヌ》】
 
(553)○敷妙乃《シキタヘノ》――袖の枕詞。
○袖易之君《ソデカヘシキミ》――「袖かふ」は彼方此方袖さしかはして寐る事で、男女同衾の意である。卷三「白|細《タヘ》之、袖|指可倍※[氏/一]《サシカヘテ》靡寢云々」(四八一)、卷十一「敷|白《タヘ》之、袖|易子乎《カヘシコヲ》忘れて念へや」(二四一〇)など集中に例は多い。「君」は夫の君の事である。
○越野過去《ヲチヌニスギヌ》――「をちぬにすぎぬ」と訓む。「過ぐ」は此の世を過ぎてあの世へ行く事で、卷一、輕皇子遊2獵阿騎野1歌の反歌(四七)で既に述べた。「越智野に過ぎぬ」は死して越智野に葬られた意で、いかにも簡潔にして力強い引きしまつた句ではないか。然るに舊訓「こすのをすぎて」とあるのはいふにも足らないが、代匠記も「をちのすぎゆく」と訓んで、「皇子の神靈去つて留まらぬなり」と解し、今も越智野を通過して、とある丘陵に葬つた意に見る説のあるのが口惜しい。なるほど其下に「一云、乎知野爾過奴《ヲチヌニスギヌ》」とあるから、本文の方はそれと違へて、「すぎゆく」と訓む説の出るのも、尤であるが、これは上に「屋上山」の下に「一云、室上山」とある類で、文字の異同を示しただけで、訓には關係はないのである。寧ろ此の一本に據つて、考は本文をも「越野過去《ヲチノニスギヌ》」と訓まれたものであらうと思ふ。とにかく「越智野に過ぎぬ」と訓むと、「越智野すぎゆく」又は「越智野を過ぎぬ」と訓むのとでは、歌としての價値は、雲泥の差がある。もしも本文は「すぎゆく」、又は「を過ぎぬ」と訓まねばならぬものならば、吾輩は斷然と一本の方を取る。
○亦毛將相八毛《マタモアハメヤモ》――卷一、近江荒都の歌の反歌(三一)で既に述べた。
○一云、「乎知野爾過奴《ヲチヌニスギヌ》」――本文と同一である。
(554)◎一首の意――日頃袖さしかへて昵みかはされた夫の君は、御傷はしくもお隱れあそばして、越智野が原の奥つ城深く鎭まりました。いくら御慕ひ遊ばされても、またと再び御逢ひになる事が出來ようか。まことに御傷はしい事ぢや。
この歌、長歌の方は人麿の作としては、さして上作とも思はれないが、反歌の方がよい。反歌も内容は既に述べただけの事だが、調や語遣ひがいかにもめでたい。初句は枕詞で、調緩やかに第二句は「袖かへし君」といふ要を得た句で、やゝ引きしめ第三句は又枕詞で、再び調を緩め、第四句は「越智野に過ぎぬ」といふ簡潔にして力強い句で、重ねて大に引きしめ、最後に「またもあはめやも」といふア〔右○〕韻の多い字餘りの句で、どつしりと結んだ構造、緩急曲折の妙を得て、通誦一過、皇女に對する同情、惻々として逼り來るを覺える。歌は内容ばかりではなく、調も大切であるといふ事は、これでもわかると同時に、人麿が調に心を用ひて(此歌ばかりではないが)、その眞髓を得てゐる事も感ぜられるのである。「越智野過ぎ行く」「越智野をすぎぬ」など訓んでは此の妙味が出で來ぬ。
 
右或本曰、葬2河島皇子越智野1之時、獻2泊瀬部〔右○〕皇女1歌也。日本紀曰、朱鳥五年辛卯秋九月己巳朔丁丑、淨大參皇子川島薨。
 
考が此の左注によつて端詞を改めた事は既に述べた。この左注で見ると、泊瀬部皇女は河島皇子の妃であらうが、他に憑據がない。又左注には「泊瀬」の下の「部」(ノ)字がないが、書紀、本集の端詞及び古葉略類聚鈔、(555)神田本等に照らして補つた。川島皇子の事は既に卷一「三四」の歌でほゞ述べたが、持統天皇の五年九月薨去、御年三十五、平素大津皇子と莫逆の友であつたが、大津皇子が反を謀つた時、先づ變を朝廷に告げたので、或るものはその忠誠を稱し、或るものはその情に薄きを難じた由が懷風藻に見えてゐる。詩は懷風藻に一首載つてゐる。
 
明日香皇女木※[瓦+缶]殯宮之時、柿本朝臣人麿作歌一首并短歌
 
明日香皇女は天智天皇の皇女で、文武天皇四年四月薨去の事が續紀に見えてゐる。木※[瓦+缶]は城上、城於、なども事き、和名抄、廣瀬郡城戸郷とせられてゐるが、此地今は北葛城郡に屬し、同郡馬見村大字大塚のあたりとせられてゐる。「※[瓦+缶](ノ)字は字書に見えないが、攷證、美夫君志にいふ如く、「※[缶+瓦]」の扁傍を左石に置きかへたので、「※[缶+瓦]」は新撰字鏡に「※[缶+瓦](ハ)取戸《トリベ》」とあるから、嚴瓮、齋瓮などの「べ」と同義に用ひたのであらう。さて考は例によつて端書を改め、人麿の下に「獻2忍坂部皇子1」の六字を補つてゐるが、極めておぼつかない。泊瀬部皇女は河島皇子の妃であつたらしい事は、前の左注からほゞ推されるが、明日香皇女が忍坂部皇子の妃であつたといふ事は全くの推し當てゞ、何にも見えてゐない(或はさうであつたかも知れねど)。端書に錯簡があるらしいといふ推測から、彼方此方取り合せて結びつけるのは極めて危險である。前の歌で述べた我が解釋から推せば、忍坂部皇子は泊瀬部皇女の兄といふだけで、此歌とは何等の關係も認められないのである。
 
(556)196 飛鳥《トブトリノ》 明日香乃河之《アスカノカハノ》 上瀬《カミツセニ》 石橋渡《イハハシワタシ》【一云、石浪《イシナミ》】 下瀬《シモツセニ》 打橋渡《ウチハシワタス》 石橋《イハハシニ》【一云、石浪《イシナミ》】 生靡留《オヒナビケル》 玉藻毛叙《タマモモゾ》 絶者生流《タユレバオフル》 打橋《ウチハシニ》 生乎爲禮流《オヒヲヲレル》 川藻毛叙《カハモモゾ》 干者波由流《カルレバハユル》 何然毛《ナニシカモ》 吾王乃《ワガオホキミノ》 立者《タタセバ》 玉藻之如許呂《タマモノモコロ》 臥者《コヤセバ》 川藻之如久《カハモノゴトク》 靡相之《ナビカヒシ》 宜君之《ヨロシキキミガ》 朝宮乎《アサミヤヲ》 忘賜哉《ワスレタマフヤ》 夕宮乎《ユフミヤヲ》 背賜哉《ソムキタマフヤ》 宇都曾臣跡《ウツソミト》 念之時《オモヒシトキニ》 春部者《ハルベハ》 花折挿頭《ハナヲリカザシ》 秋立者《アキタテバ》 黄葉挿頭《モミヂバカザシ》 敷妙之《シキタヘノ》 袖携《ソデタヅサハリ》 鏡成《カガミナス》 雖見不厭《ミレドモアカズ》 三五月之《モチヅキノ》 益目頬染《イヤメヅラシミ》 所念之《オモホシシ》 君與時時《キミトトキドキ》 幸而《イデマシテ》 遊賜之《アソビタマヒシ》 御食向《ミケムカフ》 木※[瓦+缶]之宮乎《キノベノミヤヲ》 常宮跡《トコミヤト》 定賜《サダメタマヒテ》 味澤相《アヂサハフ》 目辭毛絶奴《メゴトモタエヌ》(557) 然有鴨《シカレカモ》【一云、所己乎之毛《ソコヲシモ》】 綾爾憐《アヤニカナシミ》 宿兄鳥之《ヌエトリノ》 方戀嬬《カタコヒヅマ》【一云、爲乍《シツツ》】 朝鳥《アサトリノ》【一云、朝露《アサツユノ》】 徃来爲君之《カヨハスキミガ》 夏草乃《ナツクサノ》 念之萎而《オモヒシナエテ》 夕星之《ユフヅツノ》 彼牲此去《カユキカクユキ》 大船《オホブネノ》 猶預不定見者《タユタフミレバ》 遣悶流《ナグサムル》 情毛不在《ココロモアラズ》 其故《ソコユヱニ》 爲便知之也《スベシラマシヤ》 音耳母《オトノミモ》 名耳毛不絶《ナノミモタエズ》 天地之《アメツチノ》 彌遠長久《イヤトホナガク》 思將徃《シヌビユカム》 御名爾懸世流《ミナニカカセル》 明日香河《アスカガハ》 及萬代《ヨロヅヨマデニ》 早布屋師《ハシキヤシ》 吾王乃《ワガオホキミノ》 形見何此焉《カタミニココヲ》
 
○石橋渡《イハハシワタシ》――石橋《イハハシ》は卷一、近江荒都の歌(二九)(「石走」といふ所)で述べた如く、淺瀬に石を並べて踏んで渡るをいふので、後世の所謂飛石の事である。石造の橋ではない。……一本の石浪も同じ事で、「浪」は「並」の借宇、石を並べて渡る意であるから、訓は「いし〔傍点〕なみ」と訓むべきである。
○打橋渡《ウチハシワタス》――假りに板などうち渡した橋の事である。玉の小琴に「うつし橋」の約で、こゝへも、かしこへも遷しもて行きて假初に渡す義だといつてるのはどうであらうか。さて舊訓は「わたし」と訓んでゐるが、文意の切れる所であるから、古義が「わたす」と訓み改めたのがよい。
(558)○石橋《イハハシニ》、生靡留《オヒナビケル》――「石走《イハバシ》の間々に生ひたる貌花の」(二二八八)といふが如く、並べた石と石との間に生えた藻草をいふのであらう。……さて、こゝの「石橋」の下にも「一云、石浪」とあるが、こゝの「石浪」は名詞であらうから、訓は「いしなみ」と訓むべきか否かは疑問である。要するに本文の方がよい。
○玉藻毛叙《タマモモゾ》云々、川藻毛叙《カハモヒゾ》云々――こゝの「もぞ」は「も」と「ぞ」と重なつただけで、あらかじめ訝かる意の「もぞ」(雨もぞ降る)ではない。
○生乎爲禮流《オヒヲヲレル》――「おひをゝれる」と訓む。「ををる」は古事記神代卷に「柝竹之登遠遠登遠遠〔六字傍点〕」、本集卷十「枝母等乎乎〔三字傍点〕爾、雪の降れゝば」(二三一五)などある「乎乎」の活用したもので、本來「たわむ」の意である。(この「とをゝ」がやがて「たわゝ」となる。此の卷十の歌の左に「或云|多和多和《タワタワ》」とあるが、「多和多和」はやがて「たわわ」となるので、古今集秋下に「枝もたわゝ〔三字傍点〕における白露」などあるがそれである。)隨つて枝もたわむ許り花の咲く事を「咲きをゝる」と詠んだ例は集中に多いが、こゝは藻草がふさ/\と水に靡く形容である、さて考は「乎爲禮留」の「爲」を「烏」の誤としてゐるが、美夫君志は、集中「乎爲里」又「乎爲流」と書いた所は四ヶ所もあるから誤ではあるまい。和行の音通で「爲」を「を」とも發晋したのであらうといつてゐるが、なほよく研究すべきである(美夫君志及萬葉集字音辨證參照)。以上十四句序説。
○何然毛《ナニシカモ》――「なにしかも」と訓む。「し」も「も」も助辭、「か」は疑辭で、下の「忘れ給ふや」へかゝる。
○吾王乃《ワガオホキミノ》、……宜君之《ヨロシキキミガ》――これは「立者云々」の五句を隔てゝ「吾が王の、宜しき君」と續く句法で、「吾王」も「宜しき君」も、明日香皇女を指す同格の主語である。約めていへば、「宜しき吾が大王」といふ事で、中間の五(559)句は宜しき〔三字傍点〕の形容である。これは泰西諸國の文章ならば、關係代名詞をおいて、前後同格を繰りかへす所なので、極めて明瞭な語法と思ふが、要を得かねる人もあると見えて、一方を皇女、一方を夫の君と見る説などの彼此見えるのは訝かしい(檜嬬手は「吾王」を夫の君とし、古義は「宜しき君」を夫の君と見てゐる)。此種の語法は昔からあるので、祈年祭祝詞に「皇神等佐志《スメカミタチノヨサシマツラム》奥津御年〔五字傍点〕、手肱《タナヒヂ》水沫畫垂《ミナワカキタリ》、向股《ムカモモ》泥畫寄※[氏/一]取作《ヒヂカキヨセテトリツクラム》奥津御年〔五字傍点〕」とあるも、やはり歐文ならば關係代名詞で繰返さるべき所である。此等を玩味して、よく語法を悟るべきである。
○立者《タタセバ》――舊訓は「たちたれば」、代匠記は「たゝせれば」、考は「たゝすれば」と訓んでゐるが、「立者」の二字に「たれ」「せれ」などいふべき意義がない。又「たゝす」は四段活用であるから、「立たすれ」とはならない。略解に「たゝせば」と訓んだのがよい。「たゝす」は「たつ」を佐行四段に轉用した例の敬語法である。
○玉藻之如許呂《タマモノモコロ》、臥者《コヤセバ・フセバ》云々――從來この二句を「たまものごとく、ころぶせば云々」と訓んでゐた。それは意義の聞えぬ事もないが、「ころぶす」といふ語がいかにも落ちつかない。玉藻、川藻が對句であるのに、一方は「……如久〔右○〕」と語尾を送り、一方はこれのないのも、しつくりした書式とはいはれない。で、橋本進吉氏が金澤本に「如」の字「母」とある所からヒント〔三字傍点〕を得て、「許呂」(ノ)二字を上句につけて「たまもの如許呂《モコロ》」と訓まれたのがおもしろい。但、代匠記初稿本書入に「たまものもころ、ふしせれば」とあるさうだが、橋本氏は之を見られたか否か知らねど、要するに新發見といふべきである。さて「もころ」は「如く」といふ意の古言で、神代紀下の訓に「夜者|若※[火+票]火而喧響《ホベノモコロニオトナヒ》」と見えてゐる。本集卷二十には「松のけ(木)の並みたる見れば、いは(家)人の我を見送る(560)と立たりし母己呂」(四三七五)など東歌に多い。「如許呂」と書いたのは、「如」に「も」の音があるのではなく、「如」は本來「もころ」といふ訓のある文字だが、特に「許呂」をそへて「もころ」と訓むべき事を明示したもので、「しらに」を「不知爾」とかき、「しぬばゆ」を「所偲由」とかくと同じ書式であらう。卷九には「如己男《モコロヲ》」(一八〇九)といふ例もあるが、是も意を以て當てた訓であらう。さて「如許呂」を上句につけると、下句は「臥者」の二字となるが、これは卷四「客爾臥有《タビニコヤセル》」(四一五)、卷九「妹之臥勢流《コヤセル》」(一八〇七)などの例によつて、「こやせば」と訓むがよからう。代匠記の書入には、上掲の如く「ふしせれば」とあるさうだが、これは拙ない。寧ろ「ふせば」と三音に訓むべきだ。その時は「立者《タテバ》」「臥者《フセバ》」と三音で對させるがよからう。
○宜君之《ヨロシキキミガ》――よろしきはめでたき意である。この立たせば云々の四句は、俗謡に「立てば芍薬、座れば牡丹」といふに似てゐるが、俗謠の方は姿のうるはしい形容であらうが、こゝは「靡かひし」にかゝる修飾語であるから、氣立てのやさしく、すなほなる事を主にいふので、考の説の如く容貌だけについていふのではない。――さて「宜君」を夫の君と見る説は「之《ガ》」を領格の「が」と見るのであらうが、「の」と訓む人のないのが聊か訝かしい。新考は「宜君」を皇女とする見解であるが、反つてこの「之」を「の」と訓んでゐるのも亦訝かしい。こゝの語勢はそんなにわかりにくい語勢であらうか。
○朝宮乎《アサミヤヲ》云々、夕宮乎《ユフミヤヲ》云々――朝宮、夕宮は、たゞ對句の料で朝夕に深い意はない。日頃住み馴れた宮殿をすてゝ何故再びかへらぬ所へ徃かせられた事であらうぞといふのである。「忘れ」といふは「捨て去る」事で再びかへらぬ意を強くいふのである。さてこゝまでが第一段である。
(561)○宇都曾臣跡《ウツソミト》、念之時《オモヒシトキニ》――「うつそみ」は「現し身」である。音通で「うつせみ」とも「うつそみ」ともいふ。「念」は輕く用ひられてゐるので、「うつそみなりし時」の意、皇女がまだ此世におはしました時の事をいふ。
○袖携《ソデタヅサハリ》――「たづさはる」は人と相携ふる義で、連れ立つ事、「袖携はる」は袖を連ね行く事である。
○鏡成《カガミナス》――「雖見不厭《ミレドモアカズ》」の枕詞。「※[厭のがんだれなし]」は「厭」に同じく玉篇に「足也飽也」と見えてゐる。
○三五月之《モチヅキノ》――「いやめづらしみ」の枕詞。「もちづき」と訓むのは義訓。
○益目頬染《イヤメヅラシミ》――「いやめづらしみ」と訓む。益は「いや」と訓むべき事は既に述べた。「目頬染」は借字で、めでたくめづる義である。これは「めづらしみ、おもほしゝ」と下句につゞくのであるが、「み」は形容詞の語根につきて其状を思はせる趣にいひなす一種の接尾辭で、「めづらしみ思ふ」とは、やがて、めづらしくめでたく思ふ事である。卷三「不怜彌《サブシミ》か念ひて寢《ヌ》らむ、悔彌《クヤシミ》か念ひ戀ふらむ」(二一七)など集中に例は多い。(不盡のねを高みかしこみ」など「を」を伴ふ「み」はこれの一轉したものであらう。)
○君與時時《キミトトキドキ》、幸而《イデマシテ》――「君」は夫《セ》の君の事、「時々」は舊訓「とき/”\」を考は「をり/\」と改めたが、げに後世の語遣では、しか言ひたげな所であるけれど、古義の辨ずる如く古言には例がないやうであるから。卷二十「等伎騰吉〔四字傍点〕の花は咲けども」(四三二三)などに準じて、やはり「とき/”\」と訓むが無難であらう。又「幸而」を舊訓は「みゆきして」と訓んでゐるが、これは考に「いでまして」と訓み改めたのがよい。「いでます」は皇子皇女にもいふが「みゆき」といふ事は天皇以外には用ひない。
○遊賜之《アゾビタマヒシ》云々、木※[瓦+缶]之宮乎《キノベノミヤヲ》――「遊び賜ひし」は木※[瓦+缶]だけにかゝるので宮まではかゝらない。平生、夫の君と遊散(562)などせられた水※[瓦+缶]の岡が、やがて御陵墓となつたのである。御所に近い處であつたのであらう。
○御食向《ミケムカフ》――御食膳に供する酒《キ》の意で、木※[瓦+缶]の「き」にかけた枕詞といはれてゐる。古義は「き」を「葱《キ》」の意に見てゐる。
○常宮跡《トコミヤト》、定賜《サダメタマヒテ》――永への御住居と定めるので、つまり奥つ城處とせられる意である。
○味澤相《アヂサハフ》――「あぢさはふ」と訓み、「め」にかゝる枕詞、「あぢ」は味鴨の事、群をなして渡り行く鳥であるから、「味鴨多《アヂサハ》に經る群《ムレ》」といふ意で「群《ムレ》」の約言「め」にかゝるものと言はれてゐる。經るは渡り行く事。
○目辭毛絶奴《メゴトモタエヌ》――考は「辭」を「事」の借字として、相見る事と説いてゐるが、古義は「目」と「辭」と二つの意に見て相見る事も語らふ事も絶えた意に説いてゐる。考の意ならば「こ」を濁つて「めごと」と訓むべく、古義の意ならば「めこと」と清音に訓むべきである。さてこゝまでが第二段である。
○然有鴨《シカレカモ》――「しかればかも」の義で、「も」は助辭である。これも義は通ずるが、一本に「所己乎之毛《ソコヲシモ》」とある方がよからう。「しも」は強める助辭である。
○綾爾憐《アヤニカナシミ》――舊訓「あやにかしこみ」と訓んでゐるが、「憐」(ノ)字「かしこみ」と訓むべきいはれがないから、代匠記以後「かなしみ」と訓むのがよい。愛憐の義である。「あやに」は「あなに」に似て「まことに」「妙に」などいふ心ばへをあらはす古語である。古事記下に「許斯母《コシモ》、阿夜爾〔三字傍点〕かしこし高光日の皇子」とある。
○宿兄鳥之《ヌヱトリノ》、片戀嬬《カタコヒヅマ》――「ぬえ島の」は枕詞。卷一「奴要子鳥うらなけをれば」(五)と同じ心ばへである。但、片戀といふは皇女を喪つた夫の君の御心を推していふので、枕詞としては、たゞ戀といふにかゝるのであらう。さ(563)て「片戀づま」では意義を成さない。一本の「片戀|爲管《シツヽ》」とあるがよからう。」
○朝鳥《アサトリノ》、徃来爲君之《カヨハスキミガ》――「朝鳥の」は「かよはす」の枕詞。夕には山林に宿つた鳥が、朝早く食をあさる爲に里へ通ひ來る心ばへをいふので、卷一に「坂鳥の朝越」(四五)とあつたと同じ事である。「かよはす」は「かよふ」を佐行四段に轉じた例の敬語法。「君」は夫の君の事で、こゝは、あとに殘られた夫の君が、皇女の御墓通ひをなされる意である。然るに攷證と美夫君志とが、皇女の生前に皇子の通はれた意に説いてゐるのは何と見られたのであらうか、飛んでもない誤である。隨つて舊訓に「かよひし」と訓んでゐるのも亦誤である。――又一本に「朝露」とあるのも意はよく通じない。
○夏草乃《ナツクサノ》、念之萎而《オモヒシナエテ》――既出。
○夕星之《ユフヅツノ》――「ゆふづゝの」と訓む、「彼徃此徃」の枕詞。本來は太白星(金星)の事、此の星、朝には東に見え、夕には西に見える。東に見える時をあか星又明の明星とい匹、西に見える時を長庚、夕づゝ、又宵の明星といふ。かく時刻によつて所在を異にするが故に、「かゆきかくゆき」の枕詞となる。
○大船《オホブネノ》――「たゆたふ」の枕詞。
○猶預不定見者《タユタフミレバ》――昔から「たゆたふみれば」と訓んでゐる。「たゆたふを見れば」の意である。夫の君が御墓のあたりを立ち去りかねて、徘徊躊躇していらせられる樣を見奉ればといふのである。古義は心の悩と動作とを區別して、「彼徃きかくゆき〔七字傍点〕は御道についていひ、たゆたふ〔四字傍点〕は御心の悩み給ふ事をいへるなり」といつてゐるが、しか明に區別して見るべきものではあるまい。さて「定」(ノ)字、流布本には「※[山/疋に似た字]とあるけれど、これは畫が少し崩れ(564)たのであらう。今は諸他の古寫本に從つた。
○遣悶流《ナグサムル》、情毛不在《ココロモアラズ》――舊訓を初め、代匠記、考、攷證、美夫君志等何れも「おもひやる云々」と訓んでゐる。それも聞えた訓ではあるが、他の用例を見ると玉(ノ)小琴の説に據つて、古義が「なぐさむる」と訓んだのがよからう。(但・小琴や略解は「なぐさもる」と訓んでゐるが、古義は卷五其他の假名書に「奈具佐牟流《ナグサムル》」(八九八)とあるを引いて辨じてゐる。)「情《コヽロ》」は作者自身の心で、皇子の悩しげなさまを見奉れば、我さへ心慰め難き意である。
○其故《ソコユヱニ》、爲使知之也《スベシラマシヤ》――舊訓は「そのゆゑを、すべもしらすや」など訓んでゐるが義を成さない。考が「そこゆゑに、すべしらましや」と訓み改めたのがよい。玉の小琴は此の一句誤あるべしとて、「せむすべをなみ」又は「せむすべしらに」などあるべき所といつてゐるが、それは意義は平明に聞えるが、調は平凡になる。こゝはやはり反語のあるべき所で、「外にせんすべあらうか〔右○〕、せんすべのない事であるから」といふ語氣なのである。
○音耳母《オトノミモ》、名耳毛不絶《ナノミモタエズ》云々――こゝから結句まで十一句の間は、さすがの人麿も五七の調をとゝのへるに餘程苦心したらしく、先にいふべき事を後へまはしたり、後にいふべき事を先にしたり、いろ/\操つてゐるが、それでも、なほしつくりしない憾がある。まづ「絶えず」といふ語は「思《シス》び徃かむ」にかゝる副詞句であらうが、「絶えず思《シヌ》ぶ」といふ句が「天地の云々」の二句を隔てゝ、前後に分れてゐるのが穩かとはいへない上、「音のみも、名のみも」といふ句のかゝり所も、少ししつくりしないやうに思はれる。又「思《シヌ》び徃かむ」は元來連體形で「思《シヌ》び徃かむ、その御名」と續く意であらうけれど、ふとうち聞けば、こゝで切れるかにも聞きなされる。その下の「御名にかゝせる、明日香河、萬代までに」といふあたりも同樣である。仔細に推して行けば、いろ/\しつ(565)りしない點があると思はれるが、姑く全體の上から、作者の言はむとする所を推量して解釋すると、「それ故、外にせんすべがないから、いまたゞ皇女の名に負へる明日香河を形見と見る外はない。明日香河を形見とするなどは名だけの事で、はかなき限りであかけれど、それだけでも、今はせめてもの御形見であるから、天地と共に遠く長く、萬代かけて絶えず偲びゆかむと思ふ」といふほどの意であらう。いろ/\繰りまはしてあるけれど、靜かに味へば、文意定かにたどられるのは流石に人麿といふべきであらう。さて「音」も「名」も、落つる所は同じ事、「天地の〔右○〕いや遠長く」は、天地の盡きざる如く遠く長き意。「萬代までに」は「天地のいや遠長く」と同じ意。「御名にかゝせる」は「御名にかけ給へる意、即ち御名に負ひたまへる」意。「明日香河」は「明日香河を」の意で、最後の「此を」は之を繰りかへしたもの。又「はしきやし」は「愛《ハ》しき、懷しき」意で、「やし」は助辭。「形見何」の「何」は玉の小琴に從へば「荷」の誤、美夫君志によれば、何、荷、通用の文字でいづれにもせよ、「かたみに」と訓むがよからう。最後の「此焉《コヽヲ》」の「を」を、小琴は「よ」の意に見てゐるけれど、「此(明日香河)を形見として偲びゆかむ」の意と思はれるから、やはり普通のテニヲハ〔四字傍点〕と見るが穩當であらう。
◎一篇の大意――明日香の川を見ると、そここゝに瀬があつて、或は石橋を渡し、或は打橋を渡してゐる。その石橋にも打橋にも、玉藻や川藻が生えて靡いてゐるが、それが時としては絶えたり干れたりする事はあるけれど、程へれば又生えるので、全く斷え果てるといふ事はない。それにその玉藻や川藻の水に靡くやうに、行往坐臥、何につけても、やさしく夫の君に靡き從はれた、あのめでたき大君(明日香皇女)が、日頃住み馴れた宮殿を捨てゝ再び歸らぬ所へ徃かせられたといふは、どうした事であらうぞ。」顧みれば皇女の御在世中はまことにめ(566)でたい事であつた。春には花をかざし、秋には紅葉をかざして、鏡に向ふが如く、望月を仰ぐが如く、御心に飽かずめでました夫《セ》の君と折々相携へて御遊などをせられた事であつたに、今はその御遊び場所を永への御住居所(御陵墓)と定めさせられて、再びその懷しき夫の君と相見る事も出來なくならせられた。」後に殘られた夫の君は、その點を言はん方なく悲しく思し召されて、妹の君戀しさに頻りに御墓に通はせられるが、その甲斐なさに、御墓のあたりを立ち去りかねて、徘徊躊躇していらせられる樣を見奉ると、餘りの御いたはしさに、見る人人さへ心も心ならず悲しい。それ故なんとせんすべあらうぞ、外にせんすべのない事であるから、今はたゞ皇女の御名におへる明日香川を御形見として偲ぶ外はあるまい。それは明日香といふ名だけの事で、極めてはかない事であるけれども、それだけでも今はせめてもの御形見であるから、天地と共にいや遠く長く、萬代かけて絶えず偲びまつらんと思ふ。
此歌は三大段に分れる。第一段は序説からつゞいて皇女薨去の事を叙し(序説を一段と見てもよいが、仔細に全體の趣を味ふと、薨去の事までを連ねて一段とする方がよいかと思ふ。そは見る人の見解にもよるが)、第二段は轉じて皇女生前のめでたかつた事を叙し、第三段は薨去後、夫の君の悲む事を叙し、遂に記念の事に説き及ぼして遙に冒頭の序説に呼應して結んでゐる。大體の手法は前の獻2泊瀾部皇女1歌に似てゐるけれど、彼は簡單で飽き足らぬふしもあるが、此は結構周匝、十分に情を盡してゐる。御墓通ひの一段も、彼は皇女の事であるから「朝露に玉裳はひづち、夕霧に衣はぬれて」と、姿態のいぢらしい方面から筆をつけ、此は「思ひしなえて、かゆきかくゆき、たゆたふ」と内面的方面から叙してゐるのもおもしろい。人麿の歌の中でも結構格法の優れた作とい(567)といふべきであらう。たゞ末段十數句は句法やゝ艱澁に聞えるが、よく翫味すれば、意義おのづから通ずるのは流石といふべきである。
 
短歌二首
 
197 明日香川《アスカガハ》 四我良美渡之《シガラミワタシ》 塞益者《セカマセバ》 進留水母《ナガルルミヅモ》 能杼爾賀有萬思《ノドニカアラマシ》【一云、水乃與杼爾加有益《ミヅノヨドニカアラマシ》】
 
○四我良美《シガラミ》――河の中に杙を打ち、横ざまに竹木などをからみつけて水をせきふさぐもの。柵、※[竹/冊]。
○塞益者《セカマセバ》――「ませ」は、美夫君志は「ましせば」の約とし、言海、其他は「まし」といふ助動詞の未然形としてゐる。要するに「塞《セ》きふさいだならば」の意で、この場合は下を「まし」で結ぶのが常である。
○能杼爾賀有萬思《ノドニカアラマシ》――「能杼」は「のどか」の意、古言は「のど」とのみいふ事が多い。宣命にも「王乃幣爾去曾《オホキミノヘニコソシナメ》能杼〔二字傍点〕爾波不死《ニハシナジ》」など見えてゐる。――一本「水乃與杼爾加有益」の「水乃」は「水が」の意であらうか。語氣が少し聞えにくい。
◎一首の意――明日香河の如き早い川でも、柵をかけ渡して、せき塞いだならば、早く流れる水も、しばしはよどます事が出來ように。
あの世に徃く人をせきとめる柵のないといふは何と悲しい事であらうぞといふ事は言外にある。古今集哀傷の部に壬生忠岑が、姉の身まかつた時に詠んだといふ「瀬をせけば淵となりてもよどみけり、別をとむる柵ぞなき」(568)といふ歌は、これと全く同意義である。たゞ古今集の方は「別をとむる柵ぞなき」といふ所まで、明瞭に言ひ切つてゐるが、萬葉のは、そこは言外に言ひ含めてゐる。此の二歌だけで、萬葉と古今との差を論ずるわけには行かないが、大體やはりさうした傾向をなしてゐるので、次第に含蓄が乏しくなる。但、萬葉の方は、端詞がなければ何の意とも聞き取り難いかも知れねど、明日香皇女を悼む歌といふ事がわかれば、意義よく聞えて、反つて情を惹く事が強い。端書の力を借りて歌を聞かせるなどは抑末だと或人はいふ。それには相違ないけれど、それは理想である。すべての歌、皆理想通りに行くものでないから、或る場合には端書にもたれて歌の詞を省くのが必要な事もある。要は歌として面白いか否かゞ最後の結論なのである。(近頃の歌集には歌だけで、端詞のないのが多いが、もしも此の理想論から出てゐるなら少し考へものと思ふ。)
 
198 明日香川《アスカガハ》 明日谷《アスダニ》【一云、左倍《サヘ》】將見等《ミムト》 念八方《オモヘヤモ》【一云、念香毛《オモヘカモ》】 吾王《ワガオホキミノ》 御名忘世奴《ミナワスレセヌ》【一云、御名不所忘《ミナワスラエヌ》】
 
此歌は表現が明瞭でないのと一本の異傳とが相混じて、昔から諸説まち/\である。まづ「念八方」の「念」に意義なしとすると、然らざるとの二説がある(但、前者は略解だけで、他は大方後者である)。又「や」を反語とすると疑辭とするとの二説があつて、前者は三(ノ)句で切り、後者は「念へばや(か)も」の意に見て、結句の「ぬ」で結んでゐる(代匠記、略解、檜嬬手、古義、美夫君志等は前者で、考、攷證、全釋、新考等は後者に屬する)。又「見」を古義は明日香川を見る意に取つてゐるが、他は皇女を見奉る意に解してゐる。隨つて此等の(569)多くは初句を枕詞と見てゐる。さて此等の諸説紛然として據る所もない趣であるから、その批評はしばらく措きて、まづ我が所見を述べて見よう。
まづ結句の「御名忘れせぬ」を考へて見たい。此句を諸註は一本の「御名忘らえぬ」と同樣に見て「何れにてもあるべし」などいつてゐるが、さうではあるまい。「御名忘らえぬ」は「御名忘られ〔右○〕ぬ」で、忘れんとしても忘れ得ぬ事(それは寧ろ苦痛である事は裏に含まれてゐる)、「御名忘れせぬ」は「御名忘れをせぬ」意で、懷しさにいつまでも忘れもせず偲び行く意であらう。長歌の意から推せば、此歌の反歌としては最もふさはしく聞える。次に「念へやも」と「念へかも」とについて考へて見る。これも諸註は漫然と一樣に見てゐるらしいが、全然意義が違ふ。「念へかも」の方は萬葉集に例が多いから、特に説明するまでもないかも知れねど、「念へば〔右○〕かも」の義で、「も」は助辭」か」は疑辭、此歌では「御名忘れせぬ〔右○〕」の「ぬ」で結ぶのである。「念へやも」の方は例は少ないが、卷一「會はむともへや」(三一)「忘而念哉」(六八)などゝ同形で、「念」に意義なしといふ略解の見解が穩當と言はねばならぬ。此の場合「や」は反語で、文意はそこで切れるのである。さて長歌の意と、結句の「御名忘れせぬ」から推せば、一本の「念へかも」の方が、いふまでもなくふさはしい。(諸註多くは「念へやも」の本文に據つて「念へかも」の意に解いてゐるのは訝かしい。)「さへ」と「だに」とは輕く用ひられてゐるから、どちらでもよからうが、此歌では寧ろ「さへ」の方がふさはしからう。そこで、全體は次の如くになる。
 (一) 明日香河明日さへ〔二字傍点〕見むと念へかも〔四字傍点》我が大君の御名忘れせぬ〔六字傍点〕
◎一首の意――明日香河は皇女の御形見であるから常に見て偲ばうと思ふ。昨日も見た、今日も見た、明日もまた(570)見むと思ふからであらうか、記憶が常に新たで、いつまでも忘れるといふ事がないのぢや。
試に除外された部分を取り合はせて見ると、
 (二)明日香河明日だに〔二字傍点〕見むと念へやも〔四字傍点〕、吾が大君の御名忘らえぬ〔六字傍点〕
となる。前者と全然反したものとなるが、歌としての意義は通ずる。此の場合は「念」に意義なく、「や」は反語で、「だに」は輕く用ひられてゐるから、「明日だに見むと念へやも」は「明日も見むや」といふ事になる。代匠記に「あすは明日に限りていふにはあらず、今より後の意なり」とあるが如く、言ひ更へれば「今よりは見むや」、即ち「今よりは見まい」といふ事になる。「今よりは」といふ事を「明日だに」と言ひまはしたのは、初句の明日香河にひかされた修辭上のあやである。「見」は明日香河を見る意で、いふまでもなく皇女の事ではない。
さて此の方で解けば、
◎一首の意――今からは明日香河を見まい、見れば、その名に連れて亡き皇女の事が思ひ出されて、忘れんとしても忘れる事が出來ない、それが苦痛であるから。
歌はさう解けるが、我ながら安んじないのは、長歌では明日香川を形見と見ようと謠ひながら、反歌では今からは見まいといふ矛盾と、萬葉時代ではめつたに見られない三句切だといふ事で、こゝではやはり前の歌の方が穩當であらう。がそれを離れて常の場合でいへば、後の歌の方が普通かとも思はれる。所で、この二つの思想、二つの歌が、こんがらがつて〔七字傍点〕傳はつて來たのを、後の人々が漫然と一つに解釋しまうとしたので要を得がたいのではあるまいかと思ふ。何れにしても「見る」は明日香河を見て偲ぶので、長歌の意もそこにある。そを枕詞とす(571)とする説には賛成は出來ない。試に愚見を述べて後賢の參考に供する。
 
高市皇子尊城上殯宮之時、柿本朝臣人麿作歌一首并短歌
 
高市皇子は天武天皇の皇子で、草壁皇太子薨去の後、太政大臣として國政を執られ(持統天皇四年七月より)、尋で皇太子に立たれたが、同天皇十年七月皇太子のまゝで薨去あらせられた(皇太子に立たれた事は、紀には見えてゐないが、薨去の時には「後皇子尊薨」と出てゐる)。壬申の亂には天武天皇を輔けて軍務を督せられた事は紀にも見えてゐるが、此歌にも詳述せられて、皇子の功業は此歌と共に朽ちない。城上は前の明日香皇女殯宮の歌にある木※[瓦+缶]と同所である。皇子の御墓は廣瀬郡三立岡(今の北葛城郡)といはれてゐるが、木※[瓦+缶]はそのあたりを廣く稱へた名であらう。御墓は今は畠地となつて明かでないといふ事である。
さて記載の次序は、このあたり錯亂してゐるらしい。明日香皇女は文武天皇四年に薨去せられ、高市皇子は持統天皇十年の薨去であるから、皇女を悼む歌の後に載すべきではない。よつて古義は次序を改めてゐるが、今はその事を指摘して、次序はもとのまゝにしておく。なほこのあたり他にも錯亂が見えるが、そはその處處で述べよう。
 
199 挂文《カケマクモ》 忌之伎鴨《ユユシキカモ》【云、由遊志計禮杼母《ユユシケレドモ》】 言久母《イハマクモ》 綾爾畏伎《アヤニカシコキ》 明日香乃《アスカノ》 眞神之原爾《マガミノハラニ》 久堅能《ヒサカタノ》 天津御門乎《アマツミカドヲ》 懼母《カシコクモ》 定賜而《サダメタマヒテ》 神佐扶跡《カムサブト》 磐(572)隱座《イハガクリマス》 八隅知之《ヤスミシシ》 吾大王乃《ワガオホキミノ》 所聞見爲《キコシメス》 背友乃國之《ソトモノクニノ》 眞木立《マキタツ》 不破山越而《フハヤマコエテ》 狛劍《コマツルギ》 和射見我原乃《ワザミガハラノ》 行宮爾《カリミヤニ》 安母理座而《アモリイマシテ》 天下《アメノシタ》 治賜《ヲサメタマヒ》 【一云、拂賜而《ハラヒタマヒテ》】 食國乎《ヲスクニヲ》 定賜等《サダメタマフト》 鳥之鳴《トリガナク》 吾妻乃國之《アヅマノクニノ》 御軍士乎《ミイクサヲ》 喚賜而《メシタマヒテ》 千磐破《チハヤブル》 人乎和爲跡《ヒトヲヤハセト》 不奉仕《マツロハヌ》 國乎治跡《クニヲヲサメト》 【一云、掃部跡《ハラヘト》】 皇子隨《ミコナガラ》 任賜者《マケタマヘバ》 大御身爾《オホミミニ》 大刀取帶之《タチトリハカシ》 大御手爾《オホミテニ》 弓取持之《ユミトリモタシ》 御軍士乎《ミイクサヲ》 安騰毛比賜《アトモヒタマヒ》 齊流《トトノフル》 皷之音者《ツヾミノオトハ》 雷之《イカヅチノ》 聲登聞麻低《コヱトキクマデ》 吹響流《フキナセル》 小角乃音母《クダノオトモ》 【一云、笛之音波《フエノオトハ》】 敵見有《アダミタル》 虎可※[口+立刀]吼登《トラカホユルト》 諸人之《モロビトノ》 〓流麻低爾《オビユルマデニ》 【一云、聞惑麻低《キキマドフマデ》】 指擧有《ササゲタル》 幡之靡者《ハタノナビキハ》 冬木成《フユゴモリ》 春去來者《ハルサリクレバ》 野毎《ヌゴトニ》 著而有(573)火之《ツキテアルヒノ》 【一云、冬木成《フユゴモリ》、春野燒火乃《ハルヌヤクヒノ》】 風之共《カゼノムタ》 靡如久《ナビクガゴトク》 取持流《トリモタル》 弓波受乃驟《ユハズノサワギ》 三雪落《ミユキフル》 冬乃林爾《フユノハヤシニ》 【一云、由布之林《ユフノハヤシ》】 飄可母《ツムジカモ》 伊卷渡等《イマキワタルト》 念麻低《オモフマデ》 聞之恐久《キキノカシコク》 【一云、諸人《モロビトノ》、見惑麻低爾《ミマドフマデニ》】 引放《ヒキハナツ》 箭繁計久《ヤノシゲケク》 大雪乃《オホユキノ》 亂而來禮《ミダレテキタレ》 【一云、霰成《アラレナス》、曾知奈里久禮婆《ソチヨリクレバ》】 不奉仕《マツロハズ》 立向之毛《タチムカヒシモ》 露霜之《ツユシモノ》 消者消倍久《ケナバケヌベク》 去鳥乃《ユクトリノ》 相競端爾《アラソフハシニ》 【一云、朝霜之《アサシモノ》、消者消言爾《ケナバケヌトフニ》、打蝉等《ウツセミト》、安良蘇布波之爾《アラソフハシニ》】 渡會乃《ワタラヒノ》 齋宮從《イツキノミヤユ》 神風爾《カムカゼニ》 伊吹惑之《イフキマドハシ》 天雲乎《アマグモヲ》 日之目毛不令見《ヒノメモミセズ》 常闇爾《トコヤミニ》 覆賜而《オホヒタマヒテ》 定之《サダメテシ》 水穗之國乎《ミヅホノクニヲ》 神隨《カムナガラ》 太敷座而《フトシキマシテ》 八隅知之《ヤスミシシ》 吾大王之《ワガオホキミノ》 天下《アメノシタ》 申賜者《マヲシタマヘバ》 萬代《ヨロヅヨニ》 然之毛將有登《シカシモアラムト》 木綿花乃《ユフバナノ》 榮時爾《サカユルトキニ》 吾大王《ワガオホキミ》 皇子之御門乎《ミコノミカドヲ》 【一云、刺竹《サスタケノ》、皇子御門乎《ミコノミカドヲ》】 (574)神宮爾《カムミヤニ》 装束奉而《ヨソヒマツリテ》 遣使〔左○〕《ツカハシシ》 御門之人毛《ミカドノヒトモ》 白妙乃《シロタヘノ》 麻衣著《アサゴロモキテ》 埴〔左○〕安乃《ハニヤスノ》 御門之原爾《ミカドノハラニ》 赤根刺《アカネサス》 日之盡《ヒノコトゴト》 鹿自物《シシジモノ》 伊波比伏管《イハヒフシツツ》 烏玉能《ヌバタマノ》 暮爾至者《ユフベニナレバ》 大殿乎《オホトノヲ》 振放見乍《フリサケミツツ》 鶉成《ウヅラナス》 伊波比廻《イハヒモトホリ》 雖侍候《サモラヘド》 佐母良比《サモラヒ》不得者《カネテ・エネバ》 春鳥之《ハルトリノ》 佐麻欲比奴禮者《サマヨヒヌレバ》 嘆毛《ナゲキモ》 未過爾《イマダスギヌニ》 憶毛《オモヒモ》 未盡者《イマダツキネバ》 言左〔左○〕敝久《コトサヘグ》 百濟之原從《クダラノハラユ》 神葬《カムハフリ》 葬伊座而《ハフリイマシテ》 朝毛吉《アサモヨシ》 木上宮乎《キノベノミヤヲ》 常宮等《トコミヤト》 高之《タカク・サダメ》奉而《マツリテ》 神隨《カムナガラ》 安定座奴《シヅマリマシヌ》 雖然《シカレドモ》 吾大王之《ワガオホキミノ》 萬代跡《ヨロヅヨト》 所念食而《オモホシメシテ》 作良志之《ツクラシシ》 香來山之宮《カグヤマノミヤ》 萬代爾《ヨロヅヨニ》 過牟登念哉《スギムトモヘヤ》 天之如《アメノゴト》 振放見乍《フリサケミツツ》 玉手次《タマダスキ》 懸而將偲《カケテシヌバム》 (575)恐有騰文《カシコカレドモ》
 
○挂文《カケマクモ》、忌之伎鴨《ユユシキカモ》――「かけまく」は「かけむ」の延語。「かけむ」は口にかけ、言にかけて申す事である。考は「賤しき心にかけて慕ひまつらむも恐れつゝしましき」と説き、略解、攷證、美夫君志等もそれに從つてゐるが、なるほど心にかけて偲ぶ意にも用ひるから(此歌の末句「かけてしぬばむ、かしこかれども」もその意である)、ここは次の「言はまくも云々」と相對させようとの意であらうけれど、こゝの語氣からいへば、やはり口にかける意で「言はまくも」は同じ事をくりかへしただけであるまいか。さて「忌《ユヽ》々し」は忌み憚るべき意で、かしこき天皇の御名を妄りに口にかけ言にかけて申すは憚り多い事だからいふので「かしこき」と同じ意である。
○言久母《イハマクモ》、綾爾畏伎《アヤニカシコキ》――「いはまくも」は「いはむも」の意、「あやに」は前の歌で既に述べた。さて「かしこき」から八句を隔てゝ、次の「八隅知之、吾大王」へかゝる、其問の八句は天武天皇御陵の事を述べて、「吾大王」の修飾語としたのである。元來此歌は高市皇子を悼む歌であるから、この歌で、たゞ「吾大王」といへば高市皇子の事でなければならぬから〔この〜傍点〕、わざ/\長々と御陵墓の事を述べて、天武天皇の事なるを明にしたのである。簡單な御謚號のまだ定まらなかつた時代なので致し方がなかつたのである。此點をまづ心に銘して讀まれたい。
○天津御門《アマツミカド》――既に述べた如く天皇隱れまして神上りますといふ心から、御陵墓の事を高天原の御殿に擬らへて、天つ御門といふのである。
○神佐扶跡《カムサブト》、磐隱座《イハガクリマス》――「神佐扶」もしば/\述べたやうに神としてのすさびをいふので、次の「磐隱座」の修飾(576)語である。底つ岩根の奥深く神々しく鎭まります事を、天(ノ)岩戸の中に隱れ給ふに擬らへていふのである。「隱る」はこれも前に述べた如く、古くは四段活用であるから、「いはがくります」と訓むのである。さて天武天皇の御陵は山陵式に檜隈大内陵とあるので、從來大内は眞神ヶ原の小名であらうとせられてゐたが、某歴史家の言に、それは實地とよく合はない、寧ろ天武天皇の皇居の在つた淨御原のあたりと見るべきだといふ所から、近頃こゝの本文を天武天皇淨御原奠都の義に解する説があるさうである。御陵墓の研究は其の道の人に任かせるとして、此歌の本文のまゝでは、どうしても眞神の原を天武天皇の御陵と見る外はない。歌は調や語遣ひの關係もあるから、實地としつくり合はない場合もあらうけれど、少かくとも眞神が原といふ名稱の下に含め得る所であつたのであらう。一歴史家の言に驚いて、「久堅の天つ御門云々」を奠都の意に解釋しようといふ説には賛成は出來ない。それでは折角の名歌がうちこはされてしまふ。
○所聞見爲《キコシメス》、背友乃國之《ソトモノクニノ》――聞しめす國の背友の國の意で、聞こしめす國とは歴代の帝都なる大和國の事、「そともの國」は美濃國の事で、美濃は大和の東北に當るが、大凡を以てそとも〔三字傍点〕(北)としたのである。「きこしめす」を舊訓「きかしみし」と訓んでゐるのは義を成さない。
○眞木立《マキタツ》――卷一にも「眞木立荒山道」(四五)とあつたが、こゝは、不破山の嶮岨な形容である。
○狛劍《コマツルギ》、和射見我原乃《ワザミガハラノ》――狛劍は高麗劍で「わざみが原」の「わ」にかゝる枕詞。彼土の劍には柄頭に飾の鐶が着いてゐたからと言はれてゐるが、近頃は發掘物等に徴して、柄の端が輪状を爲してゐるからとの説が多いやうである。
(577)いづれにしても「わ」とかゝるには相違ない。「わざみ」は書紀に「和※[斬/足]」の二字をあてゝゐるが、今の關ヶ原のあたりだといふ事である。
○安母理座而《アモリイマシテ》――「あもり」は「あまおり(天降)」の約、天皇のいでましの事を嚴かにいつたのである。舊訓に「やすもりまして」とあるのは義を成さない。さて考には「和※[斬/足]に高市皇子のおはして、近江の敵をおさへ、天皇は野上の行宮におはしませしを、其野上よりわざみ〔三字傍点〕へ度々幸して、軍の政をきこしめせし事、紀に見ゆ。こゝは省きてかくよめり」といつてゐる。歌では一々細かに述べられないから、すべて大凡に見ておくべきである。
○食國乎《ヲスクニヲ》、定賜等《サダメタマフト》――食國は天の下の事で既に述べた。「定賜」を舊訓「しづめたまふ」と訓んだのを、考は「さだめたまふ」と改めた。それを又攷證、美夫君志等は難じてゐるが、これはいづれでもよからう。
○鳥之鳴《トリガナク》――吾妻の枕詞。義はよくわからぬ。冠辭考、古義等にいろ/\説はあるが、當否は知らず、吾妻は東國、夜は東から明ける、明け方に鳥が鳴くから、いろ/\取合はせたものとの説が最も簡明ではなからうか。
○千磐破《チハヤブル》、人乎和爲跡《ヒトヲヤハセト》――「ちはやぶる」は「いちはやぶる」の約で、すばやく荒びる意。神代紀に「ちはやぶる神」などいふは、強暴な神の義である。後、意義を離れて、たゞ神の枕詞として用ひられるが、こゝは本義で枕詞ではない。考、略解、攷證、美夫君志等が枕詞としてゐるのは誤である。又舊訓に「人」を「かみ」と訓んでゐるのは、神の枕詞といふ觀念に引かされたのであらう。さて「やはせ」は「やはせよ」の意で、「やはす」は懷柔する義である。
○不奉仕《マツロハヌ》、國乎治跡《クニヲヲサメト》――「まつろはぬ、くにををさめと」と訓む。「まつろふ」は紀に「服」(ノ)字又は「順」(ノ)字を訓ん(578)でゐるが、「まつろはぬ國」とは歸服しない不逞の國をいふのである。さて此の對句「人をやはせと」「國ををさめと」は、「人をやはせよ」「國ををさめよ」といふ命令の意で、舊訓「人をなごしと」「國ををさむと」は義を成さない。
○皇子隨《ミコナガラ》、任賜者《マケタマヘバ》――舊訓は「わかみこの、まゝにたまへば」と訓んでゐる。隨任とこ字連ねて「まゝ」と訓んだのであらうが、義が通じない。代匠記は「わがみこに、まかせたまへば」(初稿本)、「みこのまに、よさしたまへば」(精撰本)など訓んでゐるが、これもいかゞ。考になつて初めて「みこながら、まけたまへば」と訓まれたが、それがよい。「ながら」は上に「神隨」とあるにひとしく、皇子のまゝにて任じ給ふ意で、これも考の説がよい。「まけ」は「任かせ」の意である(古事記傳に「まけ」は令v遣《マカラセ》の約で都から他國へ遣《マカ》らする義と説いてゐるのはいかゞ)。古義は「まきたまへば」と訓んでゐるが、げに卷十八に「おほきみの麻伎《マキ》のまに/\」(四一一六)と用ひた例があるから、音通で「まけ」とも「まき」ともいつたものと見えるけれど、それは特例で、「まけ」といふが一般である。現に「大王の麻氣〔二字右○〕のまに/\」と書いた例は卷十八の長歌(三九五七)を初め、集中六七ヶ所に見えて、一般はいふまでもなく、古義もそこは「まけのまに/\」と訓んでゐる。然るに唯一の例なる「四一一六」の例によつて、強ひて「任」(ノ)字を「まき」と訓むのはやはり異を好むものと言はねばならぬ。
さて、ここまでは天武天皇が主格で、次からは高市皇子が主になる。
○太刀取帶之《タチトリハカシ》――昔から「たちとりおばし」と訓んで來たが、攷證、美夫君志等は、太刀は「はく」といふが常であるからとて「はかし」と訓み改めた、それがよからう。「はかし」は「はき」を佐行四段に轉じた例の敬語法で(579)である。次の「もたし」も同樣である。
○安騰毛比賜《アトモヒタマヒ》――「あともふ」といふ語は明かでないが、「後《アト》に伴ふ」義で、率ゐる事であらうといはれてゐる。
○齊流《トトノフル》、皷之音波《ツヅミノオトハ》――皷を鳴らして軍卒を呼び集へ、軍容を整へる事で、二句連ねて義を成すのである。諸註「齊ふる」だけに呼び集へる義があると説いてゐるが、多くの場合それで意が通ずるけれど、結極はやはり皷を鳴らして調整する事となりはすまいか。所で舊訓「とゝのふる」とあるを、考が「とゝのへ〔右○〕る」と改めたのは、どうした事であらうか。
○吹響流《フキナセル》、小角乃音母《クダノオトモ》――「ふきなせる、くだのおとも」と訓む、「なせる」は「鳴らせる」で「鳴らす」を「なす」とのみいふが古言である。古事記上「少女の那須〔二字右○〕や板戸を」、卷五「佐那周〔三字右○〕板戸をおしひらき」(八〇四)など、わざわざ感歎詞や接頭辭を漆へて「なすや〔右○〕」「さ〔右○〕なす」などいつてゐる。「小角」は舊訓「をづの」は聞えないが、代匠記精撰本に「くだ」と訓まれたのがよい。和名抄征戰具に、「小角|久太乃布江《クダノフエ》」とあるから、細長い管笛のやうに聞えるが、虎の聲によそへた所を見ると、すさまじい音するものであらう。
○敵見有《アダミタル》、虎可※[口+立刀]吼登《トラカホユルト》――己が仇を見つけて、反抗の態度で吼えかゝる虎の聲かと聞き驚く意と從來は説いてゐるが、たゞ古義、美夫君志は「あだ」を活用させた動詞と見てゐる「あだむ」は新撰字鏡に「怏、於亮反、※[對/心]也、強也、心不v服也、宇良他牟《ウヲヤム》、又|阿太牟〔三字左傍点〕《アダム》」とあつて、美夫君志は「虎が心不服して怒れるをいふ」と説いてゐる。從來の説でも意はよく通するが、こゝの語勢、なるほど動詞にふさはしく思はれるから、それに從つておく。さて「虎か」の「か」は疑辭。(「※[口+立刀]」は「叫」の俗體ださうで、集中にも折々用ひられてゐる。)
(580)○〓流麻低爾《オビユルマデニ》――玉篇、新撰字鏡等によれば、〓、脅、通用の文字らしいが、「脅」は靈異記上に「おびゆ」と訓み、又字鏡に「愕然」を「おびゆ」と訓じてゐるから、それらの義を參酌して、こゝも「おびゆるまでに」と訓んでゐるので、恐れ驚く意である。(中古の物語などに、物に襲はれる意に用ひてゐるのは、少し轉じたのであらう。)
○冬木成《フユゴモリ》、春去來者《ハルサリクレバ》――卷一「一六」の歌で既に述べた。
○野毎《ヌゴトニ》、著而有火之《ツキテアルヒノ》――昔から春には野を燒く習慣があるからいふので、此の卷の末にも「春野燒く野火と見るまで燎ゆる火を云々」(二三〇)と見えてゐる。旗の靡く樣を野火によそへたのは赤旗を用ひたからで、此時の軍の事を叙した古事記の序文にも、「絳旗耀兵、兇徒瓦解」と出てゐる。さて「冬木成云々」の四句は、一本には「冬木成、春野燒火乃」といふ二句になつてゐるが、その方がまさつてゐると思ふ。「野毎につきてある火の云々」といふあたり、句も弱く調子もだれるので、修辭上からは、「春野燒く火の」といふ簡にして力強き一句に及ばぬ。考も一本の方を取つて、本文については「人麿のよめる詞ともおぼえず」と評してゐる。次の弓弭の一節が八句であるから、こゝの旗の一節も八句で對させたのだといふ人もあるが、前の音響の所では皷四句、小角、六句で、必ずしも對をなしてゐないから、泥むには及ぶまい。皷四、小角六、の音響に對して、旗六、弓弭八、の方が寧ろふさはしいともいへよう。(「弓弭の驟」は音響の形容ではあるまいと思ふ。之はその所でいはう。)
○取持流《トリモタル》――舊訓に「とりもたる」とあるを、考は「とりもてる」と改めたが、これは「もたる」といふ方が古語である。
○弓波受乃驟《ユハズノサワギ》――舊訓は「ゆはずのうごき」だが、考に「ゆはずのさわぎ」と訓まれたのがよからう。「波受」は弭(581)で弓の端をいふが、こゝは語の都合で輕く添へたので、たゞ弓の事である。弓矢で獲た鳥獣の調《ミツギ》を、弓弭の調といふ類である。
○三雪落《ミユキフル》、冬乃林爾《フユノハヤシニ》――三雪の「み」は接頭辭で、たゞ雪の事である。こを實景といふ人もあるが、此時の戰は七月であるから、實景とはいへない。たゞ物凄さを響かせる爲においた冬の修飾語と見るべきである。――一本に「由布乃林」とあるのは「布由」の二字が顛倒したのであらう。
○飄可毛《ツムジカモ》、伊卷渡等《イマキワタルト》――「飄」を舊訓は「あらし」と訓んでゐるが、神功紀に「飄風」を「つむじかぜ」と訓んでゐる例もあるから、考が「つむじ」と改めたのがよからう。「か」は疑辭、「伊卷」の「い」は接頭辭。つむじ風の吹き捲き渡るかと訝かるのである。
○聞之恐久《キキノカシコク》――「きゝのかしこく」と訓む。「きゝ」は動詞の連用形をそのまゝ名詞にしたので、耳に聞いて、すさまじいのを「聞きのかしこし」といふのである。眼に見てすさまじきを「見のかしこし」ともいふが、これも「見」を名詞としたのである。――さて「念麻低、聞之恐久」の二句、一本には「諸人、見惑麻低爾」とあるので、考は之によつて、本文を「念麻低、見之恐久」と改め「こゝは聞くことならず、見を誤まれること明なれば改めつ。又一本に「諸人、見惑麻低爾」とあれど、上にも諸人云々とあるに、わざと對へいへるとも聞えず、且つ雷、虎に聞〓、幡、弓に見恐むといふと見ゆれば彼此取捨したり」といつてゐる。私意を以て本文を書き改めるのは從ふべきではないが、その見解には聞くべきものがある。この所、弓弭の響きのすさまじさを、冬の林につむじ風の吹くによそへたらしくも聞えるが(諸註多くさう説いてゐる)、全體の構造からいふと、耳で聞く音の(582)すさまじさは、前に皷の音と小角の音とを擧げて、雷と虎とによそへてゐるので、あとの二つ(旗の靡きと弓弭のさわぎ)は、眼で見る方のすさまじさをいふものでありたい。此の點からいへば、一本の方がふさはしいので、意は「多數の軍卒が一樣に携へてゐる弓のゆら/\と亂れ動ぐさまは(弦の音ではない、又美夫君志のいふ矢叫びでもない)、遙に望めば、冬枯木立に風吹き渡つて梢の動搖するが如く物すごく見える」といふ形容かと思はれる。冬の林は落葉して裸であるから、多數の弓のゆれる形容にもふさはしい。要するに、こゝの軍容の形容は、初めの二點は音、後の二點は形で、次にその全體をうけて「引放、箭繁計久、大雪乃、亂而來禮」と結んだものと見たいと思ふ。たゞ一本の「諸人、見惑麻低爾」をそのまゝ取れば、上文の「諸人之、〓流麻低爾」と語氣が重複するから、そこで考の如き説が出たのである。しかし上文も一本の方を取つて「敵見たる虎か吼ゆると、諸人の、聞き惑ふまで……飄かも、い捲き渡ると、諸人の、見惑ふまでに」と相對させたものと見られぬ事もあるまい。一本にもない句をわざ/\作り出して補ふにはまさるであらう。とにかくこの一本は考慮すべき點があるから徒らに閑却すべきではない。
○箭繋計久《ヤノシゲケク》――「けく」は音調の都合上「繁く」の「く」を二音に轉じたもの、「寒く」を「寒けく」といふにひとしい(「七四」の歌、參照)。
○大雪乃《オホユキノ》、亂而來禮《ミダレテキタレ》――大雪のなだれ落つるが如き勢で敵に襲ひかゝつたのである。「來たれ」この語勢は上にもあつたが、後世の語遣ひでは「來れば〔右○〕」といふべき所である。總じて「こそ」の係がなくて、已然段で結ばれてゐる所は此種の語勢である。一本の「そちよりくれば」はそなたにより來れば〔そな〜傍点〕の義であらうか、多分密集して競ひ(583)かゝる意かと思はれるが明かでない。さて此のあたりのさまは紀に「旌旗蔽v野、埃塵連v天、鉦鼓之聲、聞2數十里1、列弩亂發、矢下如v雨」とある趣である。
○不奉仕《マツロハズ》、立向之毛《タチムカヒシモ》――こゝは敵方の事で、立ち向うて抵抗した者どもゝの意であらう。
○露霜之《ツユシモノ》――「消」にかゝる枕詞。
○去鳥之《ユクトリノ》――「あらそふ」の枕詞、鳥の群つて飛び行くさまは、我おくれじと爭ふ如く見えるからいふのであらう。
○相競端爾《アラソフハシニ》――「相競」を「あらそふ」と訓むは義訓、「端」は借字で間《ハシ》即ち「あひだ」の義である。卷十九「しぬびつゝ爭ふ波之《ハシ》に、木のくれ闇、卯月し立てば」(四一六六)とあるも同じく、爭ふ聞にの意、古今集雜下に「木にもあらず草にもあらぬ竹のよの、はし〔二字傍点〕に我が身はなりぬべらなれ」とあるも、竹は草と木との中間性のものだからいふのである。どちらつかずの心ばへから、やがて端の事にもなるが、こゝは間《アヒダ》の意である。――一本の「朝霜之消者消言爾云々」はよく聞えない。
○度會乃《ワタラヒノ》、齋宮從《イツキノミヤユ》――天照大御神をいつきまつれる大廟をいふ。度會は伊勢の郡名、大廟の在る所。「齋宮」を從來「いつきのみや」と訓んで來たが、考は「いはひのみや」と改め、古義も「齋王の坐す宮に紛はしければ」とて同じく「いはひのみや」と訓んでゐる。げに「因興2齋宮于五十鈴川上1」とある垂仁紀の旁訓にも「いはひのみや」とあるから、道理ある説だが、舊訓のまゝでも紛れる事もなからう。古事記には「如v拜2吾御前1伊都岐〔三字傍点〕奉」といふ語も見えてゐる。
○神風爾《カムカゼニ》、伊吹惑之《イフキマドハシ》――度會の齋宮より吹き來る〔四字傍点〕神風の意、「伊吹き」の「い」は接頭辭、考、略解、攷證、美夫君志(584)等は「息吹」と解いてゐるが、「い」は接頭辭として能く用ひられる語で、此歌でも上に「つむじかもい〔右○〕捲き渡る」、下に「い〔右○〕はひ臥しつゝ」「い〔右○〕はひもとほり」などあまた見えてゐる。皆同例でよく聞えるのに、こゝだけを強ひて「息吹」と解くのは、「風は神の息である」といふ心ばへに泥んだもいといふべきではあるまいか、
○天雲乎《アマグモヲ》云々、常闇爾《トコヤミニ》云々、定之《サダメテシ》、水穗之國乎《ミヅホノクニヲ》――常闇は畫夜の分ちなく永へに闇なのである。こゝは一時日の目も見せず世を常闇に覆うて、その虚に乘じて敵を追ひ退けられた意である。此事史には見えてゐないが、何事か有つたのであらう。上に引いた紀の文に埃塵運v天とあるから、或は強風吹き起つて土塵を捲き、天地暗澹となつたのかも知れぬ。その風の方向が天武天皇の御軍に有利であつたので、それを神風といつたのかも知れぬ。
○神隨《カムナガラ》、太敷座而《フトシキマシテ》――此の二句は既に上の日並皇子の殯宮の歌(一六七)で述べたが、こゝは、かくして定められた瑞穗(ノ)國を時の帝たるべき天武天皇が取りあへず御位をしろしめされた事をいふのである。但、次に高市皇子の執政の事を述べてゐるが、皇子が太政大臣として政を執られたのは、持統天皇の四年七月で十數年後の事であるから、こゝは其間の事を簡略に言ひこめたものと見るべきである。歌では細かに述べ難いし、またそれが主旨ではないから、たゞ要點だけを擧げて他は類推させたので、當然の事である。
○八隅知之《ヤスミシシ》、吾大王之《ワガオホキミノ》、天下《アメノシタ》、申賜者《マヲシタマヘバ》――吾大王はいふまでもなく高市皇子の事で、皇子が太政大臣として政を執られた事をいふのである。「天(ノ)下申す」は委しくは「天(ノ)下の政を申す」といふべきで、「申す」は執奏の義、臣下が政を執る事をいふのである。(天皇御親ら執らせられる場合は「しろしめす」又は「聞しめす」といふのである。)隨つて「申す」の主語「大王」は高市皇子の事であるべきは論を待たない。然るに考、古義を初め、諸註多(585)くは天皇の事とし、今なほ甲論乙駁の姿であるのが怪訝に堪へないから、こゝに少しく辨じたおかう。考や古義の説では「吾大王之」を「申し給へば」の主語としないで、「之」を領格のテニヲハと見たのである。隨つて「申し給へば」の主格が缺けるから、「高市皇子」といふ主語を補つて見るのである。考も古義も「天皇の敷座す天(ノ)下〔八字傍線〕の大政を高市皇子の執り申し給へば〔高市〜傍点〕」といつてゐる。しかし天(ノ)下といへば、天皇の敷き座すべきものなのは言を待たぬ事である。なるべく無用の言を省いて簡潔にすべき歌で、わざ/\「天皇の天(ノ)下」などいふべき必要があらうか。それよりも「申し給へば」は天皇の事でないから、誰が政を奏《マウ》すのか、文章上主語が必ずなくてはならぬ筈である。然るに古義等の説に從へば、なくて事かゝぬ二句の修飾語をわざ/\置いて、なくてはならぬ主語を省いた事になる。試に語を更へて「天皇の天の下を申し給へば」としてそれで義がよく徹するであらうか。これが人麿の筆ならば歌聖ともいはれまい。こゝはどうしても、吾大王が〔右○〕天の下を申す意でなくてはならぬ。考や古義の著者もそを辨へぬ事はなからうが、思ふに此歌の冒頭にては、天武天皇の事を「八隅知之、吾天王」といつてゐるから、それに引かされて考へ違ひをしたのではあるまいか。そこで今度は其事について辨せねばならぬ。元來「八隅知之、吾大王」といふ詞は天皇に限らず、皇子、皇女等にも廣く用ひられるので、これも一般に知れ渡つてゐる事だが、歌は多くの場合、或る一人について述べるから他に紛れる事もないが、もし大王《ナホキミ》といふべき人が二人以上に亙る時はそを區別すべき方法がなくてはならぬ。それは外ではない、其歌の主題たるべき人が、其歌では「八隅知之、吾大王」なので、他人の場合は其人にふさはしかるべき特殊の修飾語をかけるのである。これはおのづからさうあるべき理合なのである。で、此歌の冒頭では、天武天皇の事を先づ言ひ出さんが(586)爲に、わざ/\長々と御陵墓の事を述べて「八隅知之、吾大王」の上に冠らせたので、さる特別な修飾語のない所はこゝを初め、下の二ヶ所ともすべて高市皇子の事なのである。(八隅知之はたゞ枕詞であるから、その有無には拘らない。)此點をよくふまへて通誦すれば結構極めて明瞭で何等紛れる所はない。やはり歌聖なのである。(古義は前の明日香(ノ)皇女の歌でも同樣の誤をくりかへしてゐる。「宜君之」の一句、その上の「吾王乃〔右○〕」に對する語調上、「宜君|之《ガ》」とは訓んでゐるが、古義の文意を推せば、やはり「宜しき君の〔右○〕朝宮」と領格の「が」の意に見てゐるのである。畢竟「吾王〔右○〕の、宜しき君〔右○〕」とくりかへした語勢に氣がつかなかつた爲であらう。)
○然之毛將有登《シカシモアラムト》――「しも」は強める助辭。一本の方も意は同じ。
○木綿花乃《ユフバナノ》、榮時爾《サカユルトキニ》――「ゆふ花の」は榮ゆるの枕詞。木綿で造つた造花の事で、散る事なく久しく榮えるからと言はれてゐるが、どうであらうか。「木綿花」といつたのは音調のためで、枕詞としての關係はたゞ花の咲み榮える義ではあるまいか。
○吾大王《ワガオホキミ》、皇子之御門《ミコノミカド》――吾王と皇子とは同格で、語遣ひの都合から繰りかへして重ねたので、高市皇子を指すのはいふまでもない。御門は御殿の事、古義に「殯宮の御門なるべし」とあるのは泥んでゐる。やがて神宮《カムミヤ》に装うて殯宮となるのであらうが、こゝは平素の意義からいふ語遣るひである。――一本「刺竹《サスタケノ》、皇子御門乎《ミコノミカドヲ》」、刺竹のは枕詞。
○神宮《カムミヤニ》、装束奉而《ヨソヒマツリテ》――隱れたまひて神とならせられたから御殿をも神宮といふ。此場合、平素の花やかな装飾を皆撤去して、白又は黒に變へるから神宮に装ふといふのである。卷十三に「大殿をふりさけ見れば、白栲に飾りま(587)つりて、内日さす宮の舍人も、栲の穗の、麻衣着るは夢かも、云々」(三三二四)とある趣である。さて此の二句で皇子薨去の事を聞かせたので簡潔な句法といふべきである。
○遣使《ツカハシシ》――舊本「遣便」とあつて「たてまたす」と訓んでゐるが要領を得ない。代匠記は「便」を「使」の誤とし、考はそれによつて「つかはせる」と訓んだのを略解は更に「つかはしゝ」と訓み改めた。いかに訓むべきか十分の憑據も得られないけれど、「便」の字、類聚古集を初め、金澤本、京都大學本、西本願寺本其他に「使」とあるから、本文はそれに依り、訓は卷十三に「遣之舍人の子ら」(三三二六)などあるを參酌して、略解の訓に從つておく。「つかはし」は「つかひ」を佐行四段に轉じた例の敬語法、下の「し」は過去の助動詞である。
○御門之人毛《ミカドノヒトモ》――皇子の御殿で日頃御使ひ遊ばされた人どももの意。こゝは主として舍人等をいふのであらう。
○白妙乃《シロタヘノ》、麻衣着《アサゴロモキテ》――喪服をつける事で、その趣は、上に引いた卷十三の歌で想像されよう。
○埴安乃《ハニヤスノ》、御門之原爾《ミカドノハラニ》――「埴」字、舊本「垣」とあるが、訓はなほ「はに」とある。誤なる事明かであるから、他の諸本によつて改めた、高市皇子の御殿は、下に香具山(ノ)宮とあるから、香具山に近い所であつたであらう、隨つて埴安池にも近く、池のほとりから御門前まで廣場がつゞいてゐたのであらう。それが埴安の御門の原で、御門前の埴安の原の意であらう。
○赤根刺《アカネサス》――日の枕詞。
○日之盡《ヒノコトゴト》――舊訓「ひのつくるまで」、考「ひのくるゝまで」など訓んでゐるが、略解以後「ひのこと/”\」と訓むのがよからう。日のあらん限りの意である。
(588)○鹿自物《シシジモノ》、伊波比伏管《イハヒフシツツ》――「鹿自物」は「いはひふし」の枕詞。「じもの」は既に述べたやうに、「其物」の義で、鹿その物のやうにはひ伏す義である。「しゝ」は元來肉の事であるが、轉じて野獣の肉の事に用ひ、昔は猪鹿の肉を賞玩したので、特に猪鹿の事を指すやうになつたのである。卷三にも「しゝじもの膝折伏」(三七九)などある。「いはひ」の「い」は接頭辭。
○烏玉能《ヌバタマノ》――暮《ユフベ》の枕詞、既に述べた。
○大殿乎《オホトノヲ》、振放見乍《フリサケミツツ》――大殿は皇子の御殿をさす。「ふり」は接頭辭、「さけ見る」は遙に望み見る義。
○鶉成《ウヅラナス》、伊波比廻《イハヒモトホリ》――「鶉成」は「いはひもとほり」の枕詞、「いはひ」の「い」は接頭辭、「もとほり」は文字の如く廻る意で、鶉は草の中をはひまはるからいふので、卷三にも「鶉成、伊波比毛等保理〔四字傍点〕」(二三九)とある。さて新考に「茜刺云々」と「烏玉の云々」とは、相對の句であるから「大殿をふりさけ見つゝ」の二句を此に挿入すべきではない、且つ「ふりさけ見つゝ」は下の「天之如、振放見乍」と重複するし、その「つゝ」はまた上の「いはひ伏しつゝ〔二字傍点〕」とも重複するから面白くないといふので、此の二句は恐らくは下の「天之如振放見乍」の異傳が紛れてこゝへ入つたのであらうといつてゐる。なるほど面白い見解であるが、夕暮になるとおひ/\闇に消え行く御殿の甍を望んで、一入悶えてはひまはる意を聞かせんが爲に、特に挿入したのかも知れないから俄に斷ずべきではない。總じてしば/\いふ如く昔の對句といふものについては今少し考究すべき餘地があると思ふ。
○雖侍候《サモラヘド》、佐母良比《サモラヒ》不得者《カネテ・エネバ》――「さもらふ」といふは侍ると同じく卑下の語であるが、卑下の意を取り去つた實質は「ある」又は「をる」といふ意である。こゝは語遣ひの都合上「さもらふ」といふ語を用ひたが、その氣分から(589)いへば「云々してゐるけれど、なほさうして居るにも堪へかねて」といふ事なのである。終日御門前の原にはひ伏し、はひ廻つて歎いてゐるけれど、それでも堪へ得ないで、果ては音に泣く意なのである、然るに諸註大殿に伺候する事として、皇子おはしまさねば物淋しくて、伺候するに堪へぬ意に説いてゐるのは、あまり「さもらふ」といふ語に泥んだものではあるまいか。よく前後の語氣を味うて判斷すべきである。玉(ノ)小琴は「者」(ノ)字を「天」の誤とし(草體から誤つたものとしてゐる)、「不得天」と改めて「かねて」と訓み、後の諸家大方之に從つてゐる(古義は「弖」から誤つたものとしてゐる)。しかし「不得者《エネバ》」でも意は通ぜぬ事もないから、このまゝでもよからうが、次の「春鳥のさまよひぬれば」と調が合はないから、小琴の如くありたい所ではある。
○春鳥之《ハルトリノ》、佐麻欲比奴禮者《サマヨヒヌレバ》――「さまよふ」は彷徨する事ではなく、こゝは呻吟する意である。新撰宇鏡に「呻【舒神反、吟也、歎也、左萬與不《サマヨフ》、又奈介久】」とあり、書紀にも「行吟」又「憂吟」を「さまよふ」と訓んでゐる。本集卷五にも「憂ひ吟比〔二字傍点〕」(八九七)とある。さて「春鳥の」は「さまよふ」の枕詞、卷一に「ぬえ子鳥、うらなけをれば」(五)とあつたと同じく、春には色々な鳥が啼くが、憂ひある身には、そを歎くやうに聞きなしていふのである。(舊訓「うぐひすの」と訓んでゐるのは穩かでない。)又「さまよひぬれば」は玉の小琴に「さまよひぬるに〔三字右○〕といふ意なり。次の思ひも未だつきねばも、盡きぬにといふ意なると同じ古言の格なり。常のぬれば〔三字傍点〕の意にしては、下へかゝる所なし」といつてゐる。要するに「聲立てゝ泣き悲しんでゐると〔三字傍点〕」といふ事である。貫之集卷二に「唐衣新しく立つ年なれば〔三字傍点〕人はかくこそふりまさりけれ」とあるが、これも「年なるに」の意である。
○憶毛《オモヒモ》、未盡者《イマダツキネバ》――上の「歎毛未過爾」と對句で、意義は同一である。「ねば」は「ぬに」の意で、これも古言の(590)格である。古事記上に「おすひをも、いまだ登加泥婆〔四字傍点〕」、卷八「秋立ちて幾日も不有者《・アラネバ》〔三字傍点〕この寐ぬる朝けの風は袂寒しも」、これも幾日もあらぬに〔四字傍点〕の意である。平安朝の未、鎌倉の初頃までは散文にも折々見える、平治物語、待賢門軍の條に「御邊は誰ぞと問へば讃岐國の住人大木戸八郎と名のりも果てねば〔二字傍点〕、しや首の骨射て落し云々」と出てゐる。上の「ぬれば」が「ぬるに」の意に用ひられるのは、この「ねば」が「ぬに」の意になると語法上同じ形である。
○言左敝久《コトサヘグ》 百濟之原從《クダラノハラユ》――「言さへぐ」は唐、百濟等の枕詞である事は既に述べた。「左」今本「右」とあるが、誤なる事明であるから、金澤本等によつて改めた。百濟原は廣瀬郡(今の北葛城郡)百濟村の原野で、皇子の御殿から御陵墓へ往く途中の原である、隨つて「從《ユ》」は「から」の意で、そこを經て行く意である。
○神葬《カムハフリ》、葬伊座而《ハフリイマシテ》――「葬《ハフ》りいまして」といふだけの事を、詞の都合上繰りかへして調子を整へたのである。「神葬」は神とならせられた皇子の御葬であるから嚴そかにいふのである。(舊訓「たまはふり」と訓んでゐるが穩かでない。考は「かん〔右○〕はふり」としてゐるが、やはり神隨などの場合と同じく「かむ〔右○〕はふり」とすべきである。)
○朝毛吉《アサモヨシ》――「木」の枕詞、既出。
○高之《タカク・サダメ》奉而《マツリテ》――舊訓は「たかくしたてゝ」と訓んでゐるが、要領を得ない。考は「之」を「知」の誤とし」奉」をも「座」と改めて「高知座而」と訓み、略解は「之」を「久」の誤として「たかくまつりて」と訓んだが、玉の小琴は更に「高之」の二字は「定」(ノ)字を草體から誤まつたものとして(※[高之の草書]――※[定の草書])「さだめまつりて」と訓んだ。本文のまゝではよく訓めないから、假りに誤字説を認めるとすれば、略解の訓でも、義は通ぜぬ事もないが、(591)小琴の訓が比較的面白からうか。上の明日香皇女殯宮の歌にも「常宮跡定〔右○〕賜」(一九六)とあつた。さて新考に、このあたり自他紛はしき事を論じ「はふり〔三字傍点〕は他動詞なれば、はふりいまして〔七字傍点〕とはいふべからず」とて、犬鷄隨筆の説を引いて「はふりいませ〔右○〕て」と訓み、又下の「常宮と定めまつりて、神ながら鎭まりましぬ」も、「定めまつりて」の下で主格の變はつたものとして、「人が定めまつりて、皇子が鎭まりましぬるなり」と説いてゐる。これは一應道理ある説で、新講も賛意を表してゐるが、又思へば、こゝの語勢すべて皇子が主なので、皇子の御魂などの自から活《ハタラ》きたまふ趣とも聞えるから、「定めまつりて」は「定め給ひて」と同意に用ひられた敬語ではなからうか。上の明日香皇女殯宮の歌でも「出でまして、遊び給ひし、御食向ふ、木※[瓦+缶]の宮を、常宮と、定め賜ひて〔五字傍点〕、あぢさはふ、目辭もたえぬ」とやはり皇女を主にして書いてゐる。(皇子の御魂の活きとか、人が定めて皇子が鎭まつたとか、むづかしく言はずとも、自然の人事を自然の成行きのまゝに平易に叙したものと見ては、どうであらうか。さすれば「葬伊座而」もやはり舊訓のまゝで、よいではなからうか。とにかく今一段研究すべきである。)
○作良志之《ツクラシシ》、香來山之宮《カグヤマノミヤ》――「つくらし」は「つくり」を左行四段に轉じた例の敬語法、下の「し」は過去の助動詞、香來山之宮は高市皇子の宮殿。
○萬代爾《ヨロヅヨニ》、過牟登念哉《スギムトモヘヤ》――上の明日香皇女殯宮の反歌(一九八)にあつたと同じ句法で、「念」は輕く添へた詞、「や」は反語。「萬代かけて過ぎうせるといふ事があらうや」といふ意。さて此の二句、前にも「萬代とおもほしめして」といふ句があるので、新考は、この萬代は「偶然重なれるにはあらで、わざと重ねたるなり。即ち萬代にましまさんとおもほして宮を作り給ひし御身は過ぎ給ひしかど、その宮は萬代失せじといへるなり」といはれてゐる。(592)果してさる技巧があるであらうか。これも一考すべきである。
○玉手次《タマダスキ》――かけの枕詞。
○懸而將偲《カケテシヌバム》――心にかけて偲びまつらうといふのである。
◎一篇の大意――言葉にかけ口にかけて申すもかしこき吾が大王。それは今は此世におはしまさず、飛鳥の眞神ヶ原に永への天つ宮を定めさせられて、底の岩根の奥深く神と鎭まりいます吾が大王、天武天皇が、まだ御在世の折に、亂れがちな天の下を治め定めんと思しめされて、都の東北、美濃國の嶮岨な不破山を越えて、和※[斬/足]が原の行宮に御下降遊ばされ、そこに東國の軍勢を召されて、汝之を率ゐて、荒ぶる人どもを懷け和らげ、歸服せぬ國國を治め鎭めよと仰せられて、我が高市皇子に御委任遊ばされたので、我が高市皇子は手づから武器を執り、軍卒を率ゐて敵に向はれた。その勢物すさまじく、軍容を齊へる鼓の音は雷の轟くが如く、鳴り響く角笛の音は虎の吼ゆるが如く、赤旗の風に靡くさまは、春の野を燒く火の、風のまに/\靡くが如く,軍卒どもが手に/\放つ弓弦の響き渡る音は、冬枯木立に飄風《ツムジ》の吹き渡るが如く(又は軍卒どもが手に/\携へてゐる弓の弭のゆらゆらとゆれるさまは、冬枯の林に飄風の吹き捲きて梢の動搖するが如く)、かゝる勢で引き放つ矢の繁き事、雨の如く、大雪のなだれるが如く敵に襲ひかゝつたので、敵もさるもの、容易に屈服せず、立ち向うて抵抗を試みた者もあつて、消えなば消えよ、死なば死ねと、命をすてゝ相爭ふその拍子に、伊勢の大廟の方から吹き來る神風で敵を吹き惑はし、天雲を以て日の目も見せず、一時世を常闇におほひ給ひて、その虚に乘じ、敵を追ひ退けて定められた瑞穗(ノ)國を、時の帝たる天武天皇が世をしろしめされ、やがては勲功高き我が高市皇子が、太政大臣(593)として政を申されたから、いかにもめでたき限りで、萬代かけて、かくおはしますであらうと存ぜられて、今を盛りに花の如く榮えていらせられた其時に當つて、豈に圖らんや我が皇子の花の如き御殿が、一朝忽ち神宮に装ひ改めて、日頃御使ひ遊ばされた宮人舍人等も、皆白栲の麻の喪服に身をぬぎかへて、御門前の埴安の原に寄り集うて、晝はひねもすはひ伏して歎き悲しみ、日も夕碁になれば、闇に消え行く御殿の甍を仰ぎ見て、一層身を悶えて歎き悲しむ。かくして居れど、なほさうして居るにも堪へかねて、果ては聲にあげて泣き呻くと、胸の歎きも心の思も、まだ盡きないのに、はや御葬儀も嚴かに、百濟の原を通つて、城の上《べ》の宮を常宮と御定めになつて神と鎭まりました。まう今は亡き御姿すら見奉る事が出來ぬ。何とも悲しい事ぢや。」然しながら、我が大君が萬代までもと思しめして造らせられたあの香來山の宮は、末かけて失せるといふ事があらうか、これだけは長く傳はるであらう。今はこれがせめてもの御形見であるから、大空を仰ぐが如く、この大宮を仰ぎ見つゝ、申すもかしこき事ながら、心にかけて偲びまつらんと思ふ。
通篇百四十九句、集中第一の長篇で、人麿が最も力を注いだ不朽の大作として、古來籍々の評あるものである。中にも中間、軍容の壯んな形容を稱へる人が多いが、それはもとより宜いには相違ないけれど、予はそれよりも「神宮に装ひまつりて」の二句で皇子の薨去を簡單に聞かせた省筆を多とする。かいなでの作者なら、生前の御功業を長々と述べ立てた後であるから、薨去の所でも若干の語を費す事とならうが、それでは結構が煩雜となり、語勢がだれる。そを思ひがけなき「神宮に装ひまつりて」の二句で、さつと薨去後に移つた所にいふべからざる力がある。爲めに前段の長々しい軍容の形容も、後段の委曲を盡した舍人等の悲歎も、一段と引き立ち、「木綿花(594)の榮ゆる時に」といふ句もよくひゞくのである。就いて思ひ出されるのは古事記、天(ノ)安河の宇氣比の一段である。天照大神が須佐之男命の上つて來られるのを待ち構へる所、「即ち御髪を解き、御みづらに卷かして、左右の御みづらにも御蔓にも、左右の御手にも、皆八尺の勾玉の五百つのみすまるの玉を卷きもたして、背には千入の靱を負ひ、五百入の靱を着け、又いつの高鞆を取りおばして、弓腹ふり立てゝ、堅庭は向股に踏みなづみ、淡雪なすくゑはらゝかして、いつの男建踏みたけびて待ち問ひたまはく」(古事記傳の訓による)と層々と嚴かに形容し來つて、語の上では「など上り來ませる」と、たゞ一句で收めた所に力がある。そこの筆法によく似通うてゐるとも言へよう。すべて歌でも文章でも、長篇では此の詳略の呼吸を辨へねばならぬ。さて考は此歌を四大段に分けてゐる。どこで段を切るかは委しく述べてゐないが、察する所「皇子隨任賜者」までが一段(こゝまでが天武天皇が主格である)、「定之水穗之國乎」までが又一段(生前の御功葉、つまり軍容の壯んな形容から、敵を打退けて、天の下を定められるまでの一段で、こゝが歌としての中堅である)、次に「神隨安定座奴」までが又一段で(薨去後舍人等の悲歎する一段である)、末の一段は記念の意を述べて收結としたのである。しかしこれは意義の上から見た段落である。意義の上からは見樣によつて五つにも六つにも分けられようが、文法上の段落は「神隨安定座奴」たゞ一ヶ所である。その間百三十六句、「ぱ」とか「を」とかいふ弖爾乎波を利用して、潮の湧くが如く層々と言ひつゞけられてゐる。これが我が國、語法の長所で又短所といふべきである。
 
短歌二首
 
(595)200 久堅之《ヒサカタノ》 天所知流《アメシラシヌル》 君故爾《キミユヱニ》 日月毛《ヒツキモ》不知《シラニ・シラズ》 戀渡鴨《コヒワタルカモ》
 
○天所知流《アメシラシヌル》――神とならせられて、高天原を知ろしめされる意で、薨ぜられた事をいふのである。舊訓「あめにしらるゝ」は拙ない。
○君故爾《キミユヱニ》――「君なるものを」の意で,卷一「人婿故爾」(二一)の所で委しく述べた。
○日月毛《ヒツキモ》不知《シラニ・シラズ》――月日の立つのも知らずとの意。日月を舊訓はありのまゝに「ひつき」と訓んでゐるが、考は「つきひ」と改めた。なるほど後世は「つきひ」といふが普通であるが、古くは「ひつき」といつたらしく思はれるから、強ひて改めるにも及ぶまい。「不知」は舊訓「しらず」と訓んでゐるが、略解は「しらに」と訓み改め、古義之に從つてゐる。此の訓近來は一般に認められてゐるさまだが、聊か疑問がある。そは次の歌で述べよう。「しらに」の「に」は打消の助動詞「ぬ」の變化で、大體「しらす」といふに似た意である。
◎一首の意――御魂が昇天せられて」高天(ノ)原をしろしめされる事とならせられた君であるから、いくら御慕ひ申しても再び見奉る事の出來ぬは道理上わかつてをるが、さうと知りながらも、その君の爲めに、我は月日の立つのも忘れて戀ひこがれて居る事であるわい。
理性を超越して已むに已まれぬ情の極致をいつたのである。
 
201 埴安乃《ハニヤスノ》 池之堤之《イケノツツミノ》 隱沼乃《コモリヌノ》 去方乎不知《ユクヘヲシラニ》 舍人者迷惑《トネリハマドフ》
 
(596)○埴安乃《ハニヤスノ》、池之堤之《イケノツツミノ》、隱沼乃《コモリヌノ》――此の三句は「去方を知らに」の序詞で、埴安(ノ)池は皇子の御所に近かつたらしいから、それを序詞の材料にしたのである。さて「隱沼」は舊訓「かくれぬ」と訓んでゐるけれど、本集卷十四に「須佐の入江の許母理沼乃〔五字傍点〕」(三五四七)とあるによつて、「こもりぬの」と訓む説がよからう(代匠記精撰本)(ノ)「隱《コモ》り沼」を考は堤にこもつて水の流れぬ沼の意とし、古義は草など生ひ茂つて、水の隱れて流れる沼の事としてゐるが、これは考の説の方がよからう。卷九「隱沼乃、下延《シタバヘ》置而云々」(一八〇九)」卷十一「隱沼、從裏《シタユ》戀者」(二四四一)など、「下《シタ》」とつゞく例が多いので、古義の説を取る人もあるが、それは水の流れない沼は、多くは底に水草が生えてゐるから「下延」などゝつゞけて、心の底に思ふ戀の意に取りなすからで「行く方を知らに」へかゝる本義としては、やはり考の説が穩かであらう。殊に此歌では「池之堤之」とさへいつてゐるから、堤に圍まれて流れぬ水なので、出づべき方を知らずくれまどうてゐる趣の序である。卷十一「青山之、石垣沼間乃、水隱爾」(二七〇七)と同じ心ばへであらう。
○去方乎不知《ユクヘヲシラニ》――途方にくれるといふ事である。「不知」を「しらに」と訓む考、略解、古義の訓が、近來一般に認められてゐるやうだが、前の歌と、此の歌と、書式が同一であるのに、考は前者を「しらず」と訓み、この歌では「しらに」と訓んでゐるのが訝かしい。それに對する理由の説明もないから,深い意ではないかも知れねど、同一作者の歌で二首連續してゐるから、たゞならず感ぜられる。のみならず、後來檜嬬手、攷證、美夫君志等も同樣で、何等の理由も述べないで、前後訓を異にしてゐるから猶更訝かしい。どことなしに意義の差を認めたのであらうか。又は前者は舊訓のまゝをうつかりしるしたのであらうか。(代匠記精撰本は、前の歌では新古今集に(597)よつて「しらで〔三字傍点〕とも訓むべし」といひ、此歌では「しらに〔三字傍点〕とも訓むべし」といつてゐる。)元來「しらに」といふ例は集中に多いが、大抵は「不知爾」と書き、又は「白土」「白二」「斯良爾」など書いてゐる。然るに、おのづから「しらず」と訓まねばならぬ所も亦少なからずある(卷一、「和豆肝之良受〔三字傍点〕」(五)、卷十四「利根川の川瀬も思良受〔三字傍点〕たゞ渡り」(三四一三)等)。そこで、この「爾」は「しらに」と訓むべき事を示すために、わざ/\添へたもので、これのない所は「しらず」と訓むべきではないかと考へられるが、同式異訓を認めるとなるとます/\判斷しにくゝなる。意義から推しても、燈は「しらぬので」と譯し、略解は「しらずに」の意としてゐるが、大體そんな氣分かと思はれるけれど、其の旨隱微で明かにはいひかねる。又卷十三には「巳《シ》之母手、取久乎不知〔二字傍点〕、巳之父乎、取久乎思良爾〔三字傍点〕」(三二三九)とあつて、後の註釋家が深く心もとゞめす、思ひつきで勝手に訓んでゐるらしいが、これも前後調子を合せて「しらに」と訓むべきものか、又はその間に差別を認めて、訓み分くべきものか、よく研究すべき問題だと思ふ。要するに「に」は打消の「ぬ」の轉じたものには相違ないが、上代に特有な語で、比の時代を過ぎると、やがて廢れてしまふのであるから、その用法についても會得しにくいのである。
◎一首の意――頼む皇子におくれまゐらせて、我々舍人はどうしてよいか、たゞもう途方にくれるわい。
 折々述べたやうに、序詞といふものは表面の意義はなく一種の背景である。隨つてその調や語遣ひが、すなほに安らかで、あまり耳立たぬがよい。古歌に用ひられた序詞は多くさうである。殊に此歌の序詞は、たゞ名詞を四つ「の」でくりかへしただけで、あまりにも平凡である。だがその平凡な調が、此歌では最もよく活いてゐると思ふ。歌の意義は極めて單純で、たゞ途方にくれるといふだけであるが(悲しみの歌は、多くはさうである。悲(598)しい理窟を述べた歌は多くは面白くないものである)、その途方にくれるといふ氣分を、調子で響かせようといふが此歌の目的である。當時は如何なる調子で謡つたかは知らねど、聲緩やかに四つの名詞を層々と疊んで來て、その後に行方を知らに〔六字傍点〕と謡ひ出したなら、さも途方にくれたといふ氣分が力強く響いて、聽者の涙を誘うた事であらうと思ふ。最も平凡に見える句法が、此歌では最も優れた技巧なのである。これは人麿が好んで用ふる筆法で、卷三「處女等が袖ふる山の瑞垣の、久しき時ゆ思ひき我は」(五〇一)の序詞も同樣である。人麿はまことに調の眞諦を得たものといふべきである。
 
或書反歌一首
 
202 哭澤之《ナキサハノ》 神社爾三輪須惠《モリニミワスヱ》 雖祷祈《イノレドモ》 我王《ワガオホキミハ》 高日所知奴《タカヒシラシヌ》
 
○哭澤之《ナキサハノ》、神社《モリ》――哭澤女の神は伊邪那美命が隱れませる時、伊邪那岐命が悲しみ泣き給へる御涙から生れませる神で、香山之畝尾の木本に座す由、古事記に見えてゐる。古事記傳にもいへる如く、この神話の由來によつて、人の壽命を祈る習はしがあつたのであらう。神社を「もり」と訓むのは、神は多く樹木の茂つてゐる森の中に祭られたからで、一種の義訓である。
○三輪須惠《ミワスヱ》――三輪は神に捧げる酒、崇神紀に「神酒」を「みわ」と訓み、日本紀私記にも「神酒、和語云2美和《ミワ》1」と見えてゐる。「須惠」は「据ゑ」で、酒を甕に釀して神前に裾ゑて捧げるのである。(考は酒を釀める※[瓦+缶]の事と(599)してゐるが、恐らくはそれが本で、やがて神酒その物の事ともなつたのであらう)。
○雖祷祈《イノレドモ》――舊訓「いのれども」を、玉(ノ)小琴は卷五「阿布藝許比乃美《アフギコヒノミ》」(九〇四)等の例を引いて「こひのめど」と改めた。「祷」も「祈」も訓字で、「こひ」とも「のむ」とも訓んだ例はあるが、卷十三「天地乃、神乎祷迹《カミヲイノルト》」(三三〇六)、又「神尾母吾者《カミヲモワレハ》、祷而寸《イノリテキ》」(二三〇八)の如く、「いのる」と訓までは調ひ難き所も彼此見えるから強ひて改めるには及ぶまい。又古義が「のまめ〔右○〕ども」と訓んだのは左注を無視して、歌の意を取りそこねたのである。
○高日所知奴《タカヒシラシヌ》――上の「天所知流」と同じ意で、皇子薨去の事をいつたのである。「高」は「高照日」の「高」と同じ意、舊訓「しられぬ」は拙ない。檜嬬手の訓「しらさぬ」は論外である。
◎一首の意――泣澤の神の社に酒甕を据ゑて、吾が大王の御平癒を、あんなに御祈りしたのに、その甲斐もなく吾が大君が御薨れ遊ばして、御魂が昇天せられた。泣澤の神さまも聞えませぬわい。
 
右一首、類聚歌林曰、檜隈女王怨2泣澤神社1之歌也。案2日本紀1曰、持統天皇十年丙申秋七月辛丑朔庚戌、後皇子損薨。
 
これは此歌の異傳を記したのである。或書とあるから底本には初からなかつたのであらうが、歌の趣からいへばその方がふさはしいかも知れぬ。考も人麿の歌の體にあらずといつてゐる。然るに古義は三の句を「のまめども」と訓んで、こゝの反歌としてゐるのはどうであらうか、覺束ない。さて檜隈女王は續紀天平九年二月の條に「授2從四位下檜前王從四位上1」とある檜前王と同じ人であらうか。此頃は男王と女王との別が(600)立つて女の御子は必ず女王とかく習はしとなつてゐるから、或はその姉妹などであらうか。とにかく高市皇子の妃であらうといはれてゐる。又「持統天皇」の四字は、もと朱鳥とあつた傍に書き添へたのが本文となつたのであらうと美夫君志はいつてゐる。
 
但馬皇女薨後、穗積皇子冬日雪|落《フリ》遙望2御墓1、悲傷流v涕御作歌一首
 
但馬皇女、穗積皇子共に既出、いづれも天武天皇異腹の御子で、互に情を通じて居られた事が上の「一一四」乃至「一一六」の歌に見えてゐる。皇女の薨ぜられたのは和銅元年六月であるが、その次に文武天皇三年七月に薨ぜられた弓削皇子を悲む歌の載つてゐるのは、本文記載の順序が亂れたものと見える。古義は例によつて次序を改めてゐるが、今はその事を指摘するにとゞめて、次序はもとのまゝにしておく。
 
203 零雪者《フルユキハ》 安幡爾勿落《アハニナフリソ》 吉隱之《ヨナバリノ》 猪養乃岡之《ヰカヒノヲカノ》 塞爲〔二字左○〕卷爾《サムカラマクニ》
 
○安幡爾勿落《アハニナフリソ》――「安幡」といふ事明かでない。代匠記は泡雪と解いて不思議な説を立てゝゐるが、從ふべき限りではない。考は「佐幡」の誤と見て、雪の深く降り積る事としてゐるが、漫に誤字とするもいかゞである。攷證は地名として、藤原の京から猪飼の岡に往來する途中であらうといつてゐるが、歌といふものを如何に見ていふのか訝かしい事である(美夫君志も同説を蹈襲してゐるが、語が少し足らないので、要領を得ない)。然るに略解は本居翁の説を擧げて(此の説、玉の小琴には見えない)、「近江の淺井郡の人の云く、そのあたりにて、淺き雪(601)をば、ゆき〔二字傍点〕といひ、深く一丈も積る雪をばあは〔二字傍点〕といふとなり。こゝによく叶へり。古今集の雲のあは立つも雲の深く立つ意なるべし」といつてゐる。檜嬬手も同じ歌を引き、古義も閑田耕筆を擧げて、似よりの説を唱へてゐる。此等の説、よしありげに聞えるけれど、確かではない。古今集の歌も雲の淡々しく立つ意に見られぬ事もないから、かた/”\よく考ふべきである。
○吉隱之《ヨナバリノ》、猪飼乃岡之《ヰカヒノヲカノ》――「吉隱《ヨナバリ」は泊瀬から菟田へ往く通路で、泊瀬の東一里許にある。(もとは宇陀郡に屬してゐたらしいが今は磯城郡である。)猪飼(ノ)岡は大和志に「猪飼山在2吉隱村上方1」と見え、光仁天皇の太后紀氏の御墓の所在地であるから、但馬皇女の御墓もそこにあるのであらう。さて舊訓は「吉隱《ヨゴモリ》」など訓んでゐるが、代匠記精撰本から「よなばり」となつた。
○塞爲卷爾《サムカラマクニ》――舊本には此句の訓はない。代匠記は「せきにせまくに」と訓んだが義を成さない。考、略解、攷證、美夫君志等は「せきならまくに」と訓んで、「雪深く降らば行きかふ路の關となりて通ひ難からむ」など説いてゐるが、それには語が足らないやうに思ふ。それ故、新考は「猪飼乃岡之、塞跡〔右○〕爲卷爾」と「跡」(ノ)字を補つてゐるが、私に本文を増減するのは考へものである。所詮このまゝでは、古義、全釋等の如く「せきなさ〔二字右○〕まくに」と訓む外はなからうが、歌はしつくりしたとはいへない。然るに檜嬬手は「塞爲」を「寒有」の誤として「さむからまくに」と訓んでゐるが、實際金澤本には「寒」とあるし、「有」と「爲」とは略體酷似して、歌の意も、よく聞えるから、予は此論に心引かれる。但、訓はやはり「せき」とあるから、なほ考慮を要する。
◎一首の意――雪よ、そんなに澤山降るなよ(姑く小琴の説や檜嬬手の説による)。吉隱の猪飼の岡なる皇女の御墓(602)は、さぞ寒いであらうから。
此雪に墓中の人が寒いであらうとは、古代人の抱きさうな感情である。皇女薨ぜられてから約半歳(?)なほこの痴情が失せないといふは其志憐むべしである。
 
弓削皇子薨時、置始東人歌一首并短歌
 
弓削皇子、置始東人、共に既出。金澤本、神田本等、東人の下に「作」(ノ)宇あり。
 
204 安見知之《ヤスミシシ》 吾王《ワガオホキミ》 高光《タカヒカル》 日之皇子《ヒノミコ》 久堅乃《ヒサカタノ》 天宮爾《アマツミヤニ》 神隨《カムナガラ》 神等座者《カミトイマセバ》 其乎霜《ソコヲシモ》 文爾恐美《アヤニカシコミ》 畫波毛《ヒルハモ》 日之盡《ヒノコトゴト》 夜羽毛《ヨルハモ》 夜之盡《ヨノコトゴト》 臥居雖嘆《フシヰナゲケド》 飽不足香裳《アキタラヌカモ》
 
○天宮爾《アマツミヤニ》――上なる高市皇子殯宮の歌に天武天皇の御陵の事を「天津御門」(一九九)といつたと同じく、所謂終ひ〔二字傍点〕の宮をいふのである。
○神等座着《カミトイマセバ》――神としておはしませばの意。
○其乎霜《ソコヲシモ》、文爾恐美《アヤニカシコミ》――上の明日香皇女殯宮の歌に「所己乎之母、綾爾|憐《カナシミ》」(一九六)とあるに同じく、その點を(603)かしこくおぼしめすのである。舊訓に「それ〔二字右○〕をしも」とあるのはわるい。又此「かしこみ」は卷一なる「天皇之、御命畏美」(七九)の「かしこみ」とは違つて、「かしこさに」の意ではなく、「かしこみて」(動詞)の意であらう。すべて「一九六」の「そこをしも、あやにかなしみ」に擬らへて見るべきである。考は「此の恐みは上よりはつゞけど、下へかなはず、こは本より歌の拙きか、又悲しみとありしを誤りしにや」と難じ、檜嬬手は思ひ切つて「悲美」と改めてゐるけれど、元來「かしこみ」といふ語は、新考のいふが如く、高貴の人に對しては、よきにも惡しきにもいふ語であるから、これでよいのである。わざ/\改める必要はなからう。
○日之盡《ヒノコトゴト》云々、夜之盡《ヨノコトゴト》――上にもしぱ/\ある語法で、「ひのこと/”\、よのこと/”\」と訓むべき事勿論である。舊訓「ひのつき、よのつき」はいかにも拙ない。
○臥居雖嘆《フシヰナゲケド》――臥しては嘆き、居ては嘆くのである。考はこゝでも「臥〔右○〕は夜、居〔右○〕は晝をうくる心にや、言あまりに略に過ぎて拙く聞ゆ」と難じてゐるけれど、本集卷十に「大夫之、伏居歎而」(一九二四)といふ例もあつて、句は必ずしも拙いとはいへない。
◎一篇の大意――わが大王、日の皇子なる弓削皇子が此度御隱れ遊ばされて、奥つ城深く神そのまゝ鎭まりましたので、その點を言はん方なく恐こく悲しく思ひまして、終日終夜、居たり座つたり嘆いてゐるけれど、なほ飽き足らぬ事であるわい。
此歌全釋に評した如く「人麿の作中の句を、少しづゝ頂戴して小さい長歌を作つたまでゞ作者の特色は少しも見えてゐない」ので、萬葉集の撰歌、殊に堂々たる人麿の長歌の後に列べ擧ぐべきものとは思はれないが、されば(604)とて、その語遣ひ等は考が難じたほどふつゝかなものとも言へまい。
 
反歌一首
 
 
205 王者《オホキミハ》 神西座者《カミニシマセバ》 天雲之《アマグモノ》 五百重之下爾《イホヘガシタニ》 隱賜奴《カクリタマヒヌ》
 
○王者《オホキミハ》、神西座者《カミニシマセバ》――「西」は借字、その「にし」の「し」は強める助辭。
○五百重之下爾《イホヘガシタニ》――考は「下」を「上」の誤として、「五百重之上爾」と改めたが、反つて誤である。玉(ノ)小琴に、「下は裏にてうち〔二字傍点〕といふに同じ」といはれたのがよい。卷十一に「吾|裏紐《シタヒモゾ》、令解《トケシムル》云々」(二四一三)、又「從裏《シタユ》戀者云云」(二四四一)とある「裏」の字の意で、天雲の幾重にも重なつた中にといふことである。
◎一首の意――吾が大王は神でいらせられるから、御魂が昇天せられて、天雲の幾重にも立ち重なつた中に御隱れ遊ばした、むべ神でいらせられるから。
天皇や皇子を神と崇めて、その御行動を神にしませばといふのは昔からの事で、卷十九に「大君は神にしませば赤駒の腹ばふ田居を都となしつ」(四二六〇)、又「大王は神にしませば水鳥のすだく水沼を都となしつ」(四二六一)、人麿の歌には卷三「大王は神にしませば天雲の雷の上に廬せるかも」(二三五)、又「大君は神にしませば眞木の立つ荒山中に海を成すかも」(二四一)などあつて、決して新味とは言へないが、薨去の事を、天雲の五百重の下に隱れたといふ言ひまはしが嚴かである。此の反歌のため、長歌の方も共に採られたのではないかとさへ思は(605)れる。
 
又短歌一首
 
此の五字疑はし、古義は「右の反歌の一本ならば或本歌と載すべし、又と書きたることいかゞ」とて、この五字を削つてゐる。攷證は「又とは前の端辭の弓削皇子薨時置始東人作歌とあるをうけて、又その時のといへる意、短歌は前の長歌に對へいへるにてたゞの歌といふ意なれば、前の長歌の反歌といふにあらで、弓削皇子の薨じ給へる時、別によめるたゞの歌といふ也」と辨じてゐる。けれど、既に述べた如く(輕皇子宿2于阿騎野1時歌「四六」參照)、萬葉時代の短歌といふは長歌に對する名ではなくて、荀子の所謂小歌(反辭)即ち反歌の事と思はれるから此説は成り立たない。目録にはない所から見ると、やはり反歌として扱はれて來たものであらう。考に「別に題詞のありけむを脱しゝものぞ」といつてゐるのもうけられぬ。思ふに後に此歌を詠じて反歌として更に追加したものではあるまいか。
 
206 神樂波之《サザナミノ》 志賀左射禮浪《シガサザレナミ》 敷布爾《シクシクニ》 常丹跡君之《ツネニトキミガ》 所念有計類《オモホセリケル》
 
○神樂波之《ナザナミノ》――志賀の枕詞、既出。
○志賀左射禮浪《シガサザレナミ》――志賀の浦にうち寄する浪の事で、簡潔な句法である。「さゞれ」は「さゝら」ともいひ、集中多く「細浪」「小浪」などかきて小さく立つ浪の事である。枕詞の「さゝ浪」ももとは同じで、やがて地名となり、(606)更に枕詞となつたのであらう。さて此の二句は次の「しく/\」にかゝる序詞である。
○敷布爾《シクシク二》――あとから/\層々と浪の立つて來る意で、上の序詞を承けて、意は結句の「おもほせりける」につゞくのである。卷十七「あがもふ君は思久思久於毛保由《シクシクオモホユ》」(三九七四)など集中にあまた見える。
○常丹跡君之《ツネニトキミガ》、所念有計類《オモホセリケル》――舊訓は「つねにときみがおぼし〔三字傍点〕たりける」と訓んでゐるが、萬葉時代には「おぼす」といふ語遣ひがまだないといふので(「四五」の歌參照)、玉(ノ)小琴が「おもはせりける」と訓んだのがよい。世は常に變らず永へにありたい事と日頃歎いていらせられた事であつたよと、いふのである。(古義は「おもほえたりける」と訓んでゐるが、調子がとゝのはない憾がある。又考は上句を「常《トコ》にと」と訓み改めてゐるが、いかなる考かわからない。)按ずるに、此の皇子曾て吉野に遊ばれて「瀧の上の三船の山にゐる雲の、常にあらむ〔五字傍点〕と我がもはなくに」と詠まれた事が卷三(二四二)に見えてゐる。この東人の歌に「常にと君がおもほせりける」といつたのは、その卷三の歌を指すのではあるまいか。此歌は吉野の勝景に封して人世の常ならぬ事を歎かれたので、同行の春日王は之に和して「王《オホキミ》は千歳にまさむ、白雲も三船の山に絶ゆる日あらめや」(二四二)と壽いでゐる。當時置始東人も同行であつたかも知れず、さなくとも悼歌を詠ずるほどの深い關係にあるから、やがては聞き知つたのであらう。此歌の「常にと」は三船(ノ)山の歌から來たものと見るべき理由は相應にあると思ふ。さすればこの歌もその意を含んで解すべきで、代匠記その他の註釋書の如く「常にまし/\て久しく仕へまつらむと思ひし事のはかなかりけるよ」など説くべきものではなからうと思ふ。
◎一首の意――世はいつまでも變る事なく、永へにありたいものと常々歎いていらせられた事であつたが。(さう(607)出來なかつたのは何とも御氣の毒な事ぢや。)
此の歌、志賀さゞれ浪の二句を序としたのは、此の皇子、近江の舊都にでも住んでをられたのであらうか。又はたま/\舊都に遊んで、志賀の浦の景勝にあこがれ、吉野同樣「世の中は常にもがもな」の歎聲を洩らされたのであつたらうか。いづれ然るべきいはれがあつたであらう。
 此の歌皇子が生前のあらましをいろ/\仰せられたが、果さずに、まもなく薨ぜられたのを傷む意であらうと、も上は思うてゐたが、卷三なる御船(ノ)山の歌が同じ皇子の詠なるに氣づいて、かく説いて見る事になつたのである。だが、それも推測で確かな事はわからない。
 
柿本朝臣人麿妻死之後、泣血哀慟作歌二首并短歌
 
この題詞二首に亙つてゐるけれど、内容からいへば、二首同時の作ではなく、また同じ妻ではなく、前なるは忍びて通うた女、後なるは同棲して兒まである女であつたらしい。よつて考は此歌の端詞を「柿本朝臣人麿所2竊通1娘子死之時悲傷作歌」と改め、後のをば「柿本朝臣人麿妻之死後悲傷作歌」と改めてゐる。一應道理あることだが、昔は竊かに通うた女をも、すべて妻と呼んだらしいから、強ひて改めるには及ぶまい。流石の古義も、「理りはさる事なれど、なほ私説なり」と難じてゐる。
 
207 天飛也《アマトブヤ》 輕路者《カルノミチハ》 吾妹兒之《ワギモコガ》 里爾思有者《サトニシアレバ》 懃《ネモコロニ》 欲見騰《ミマクホシケド》 (608)不止行者《ヤマズユカバ》 人目乎多見《ヒトメヲオホミ》 眞根久徃者《マネクユカバ》 人應知見《ヒトシリヌベミ》 狹根葛《サネカヅラ》 後毛將相等《ノチモアハムト》 大船之《オホブネノ》 思憑而《オモヒタノミテ》 玉蜻《タマカギル》 磐垣淵之《イハガキブチノ》 隱耳《コモリノミ》 戀管在爾《コヒツツアルニ》 度日〔左○〕之《ワタルヒノ》 晩去之如《クレヌルガゴト》 照月乃《テルツキノ》 雲隱如《クモガクルゴト》 奥津藻之《オキツモノ》 名延之妹者《ナビキシイモハ》 黄葉乃《モミヂバノ》 過伊去等《スギテイニキト》 玉梓之《タマヅサノ》 使乃言者《ツカヒノイヘバ》 梓弓《アヅサユミ》 聲爾聞而《オトニキキテ》【一云、聲耳聞而《オトノミキキテ》】 將言爲便《イハムスベ》 世武爲使不知爾《セムスベシラニ》 聲耳乎《オトノミヲ》 聞而有不得者《キキテアリエネバ》 吾戀《ワガコフル》 千重之一隔毛《チヘノヒトヘモ》 遣悶流《ナグサムル》 情毛有八等《ココロモアリヤト》 吾妹子之《ワギモコガ》 不止出見之《ヤマズイデミシ》 輕市爾《カルノイチニ》 吾立聞者《ワガタチキケバ》 玉手次《タマダスキ》 畝火乃山爾《ウネビノヤマニ》 喧鳥之《ナクトリノ》 音母不所聞《コヱモキコエズ》 玉桙《タマボコノ》 道行人毛《ミチユクヒトモ》 獨谷《ヒトリダニ》 似之不去者《ニテシユカネバ》 爲便乎無見《スベヲナミ》 妹之名喚而《イモガナヨビテ》 袖曾振(609)鶴《ソデゾフリ》
 
○天飛也《アマトブヤ》、輕路者《カルノミチハ》――「天飛ぶや」は輕の枕詞、「天飛ぶ雁《カリ》」とつゞき、轉じて「かる」にかゝつたものと言はれてゐる。「や」は助辭で意義はない。
○輕路者《カルノミチハ》――輕は地名、今の高市郡白橿村の東部で、畝火山に近く、昔は市も立つた所らしい。そこに人麿の妻が住んでゐたのである。さて「みち」は多くの註釋書に、「輕といふ地の道路」、「輕に通ふ街道」など説かれてゐるが、さるむづかしい意ではなく、たゞ「輕といふ處」と見るべきである。「みち」といふ語は大きくいへば國の事で、奥州の事を「みちのく」といふは國の奥の義である。(越のみちの口、みちの後《シリ》などいふも同じ意である。)簡單にいへば「處」といふ事なので、上に「もく咲くみち」(一八五)とあつたのも、それである。躑躅の茂く咲く道路でも街道でもない。(國《クニ》といふ語も同じ心ばへに用ひられるので、上の「御心を吉野の國〔右○〕」、「廣由(ノ)國〔右○〕」、「長田(ノ)國〔右○〕」などは、やはり處、里などいふほどの義である。)こゝは直ぐ次の句に「吾妹子が里〔右○〕にしあれば」とあるから、音調上語をかへて「みち」といつただけで、「輕之里〔右○〕者」といふも同じ事である。下の二つの「行かば」と呼應すると説くのは少し穿ち過ぎてゐる。
○懃《ネモコロニ》、欲見騰《ミマクホシケド》――「ねもころに、見まくほしけど」と訓む。ゆつくりと見たく思ふけれどの意である。「けれど」を古言に「けど」といふ事は、上の「渡らふ月の、惜けども」(一三五)の處で述べた。舊訓「みまくほりすと」と訓んでゐるは義を成さない。
(610)○不止行者《ヤマズユカバ》、人目乎多見《ヒトメヲオホミ》――例の「を」と「み」と相對する語法で、世間の人目が多いからの意。
○眞根久徃者《マネクユカバ》、人應知見《ヒトシリヌベミ》――「まねく」は數多き意、しぱ/\の義で、「間なく」と意は似てゐるけれど、語は違ふ事は既に述べた。「人知りぬべみ」は「人が知るであらうから」の意。「べし」といふ助動詞は形容詞の如く活用するから、やはり形容詞同樣、語根に「み」が附いて「べみ」となり、「べきによつて」の意となるのである。
○狹根葛《サネカヅラ》――「後もあはむ」の枕詞、上の「九四」の歌に狹名〔右○〕葛とあつたと同じもので、五味子、美男かづらの事、根が遠く長く蔓ふものであるから、重ねて廻りあふ心で、「後もあはむ」にかけたのである。今は内所だけれど、後には晴れて一所にならうといふ希望があつたのであらう。
○大船之《ナホブネノ》――思ひ憑むの枕詞。既に述べた。
○玉蜻《タマカギル》、磐垣淵之《イハガキブチノ》――「玉蜻」は「たまかぎる」と訓む、磐垣淵の枕詞で、「磐垣淵」は隱りの序詞である。「玉かぎる」は「玉限」とも書き卷一、輕皇子宿2于安騎野1時歌(四五)では、夕日のかゞやく心で、「夕」の枕詞として用ひられたが、こゝは玉は淵にあつて輝く心であらうといはれてゐる。(岩の中には火が籠つてゐるといふ事は早くから知られてゐるから、「磐」にかゝつたのであるといふ説もある。なほ此の枕詞の事は古義の「玉蜻考」、美夫君志別記等に委しいから、就いて見られたい。)さて磐垣淵は垣の如く岩に圍まれた淵の事であるから、「隱《コモ》り」の序となるのである。
○隱耳《コモリノミ》、戀管在爾《コヒツツアルニ》――めつたに妹を訪はないで、家に籠つてゐて、心の中で戀しく思うてゐたといふのである。
○度日之《ワタルヒノ》、晩去之如《クレヌルガゴト》――舊訓は「くれゆくがごと」であるが、考は「くれぬるがごと」と改めた。爾後人によつて(611)取捨まち/\であるが、いづれでもよからう。「日」(ノ)字、流布本は「目」に誤つてゐる。
○黄葉乃《モミヂバノ》、過伊去等《スギテイニキト》――下句、舊訓は「すぎていゆくと」と訓んでるゐが、考は「すぎていにし〔右○〕と」と改め、美夫君志更に「すぎていにき〔右○〕と」と改めた。これは語法上、美夫君志の訓が穩かであらう。「すぐる」は死ぬ事、もみぢ葉の散る如く脆く此世を去る意で、「四七」の歌で既に述べた。
○玉梓之《タマヅサノ》――使の枕詞、考、玉(ノ)小琴、美夫君志等に、いろ/\説はあるが明かでない。
○梓弓《アヅサユミ》――聲《オト》の枕詞、弓を射れば音がするからである。
○聲耳乎《オトノミヲ》、聞而有不得者《キキテアリエネバ》――「おと」は使のもたらした音づれをいふ。そを聞いて、ぢつとしてゐるに堪へぬからといふのである。
○吾戀《ワガコフル》、千重之一隔毛《チヘノヒトヘモ》――千が一つといふだけの事である。舊訓は「わがこひの」と訓んでゐるが、それも通ずるけれど、考に動詞と見て、「わがこふる」と訓まれた方がよからう。
○遣悶流《ナグサムル》――此句は上の明日香皇女殯宮の歌にもあつて、舊訓は「おもひやる」と訓んでゐる。それも聞えぬ事はないけれど、卷四の類似の歌(五〇九)に「吾戀流、千重乃一隔母、名草漏《・ナグサムル》〔三字傍点〕、情毛有哉跡」とあり、又卷六「吾戀之、千重之一重裳、奈具佐〔三字傍点〕末〔右○〕亡國〔二字傍点〕《ナグサマナクニ》(九六三)などあるから、相照らして「なぐさむる」と訓むがよからう。(小琴の訓を古義が修正したもの、「一九六」の歌參照)。
○情毛有八等《ココロモアリヤト》――舊訓「こゝろもあるやと」を玉の小琴は「こゝろもあれや」と改めた。「あれや」はあれかしと希望する意で、「や」は感動詞である。それも聞えた訓ではあるが、古義が更に「ありや」と訓み改めたのがよか(612)らうと思ふ。「ありや」は「ありやせむ」「あるかもしれない」の意で、「や」は疑辭、疑ひながら希望をつなぐ心ばへである。
○吾妹子之《ワギモコガ》、不止出見之《ヤマズイデミシ》――舊訓「わぎもこし、やまずいでみし」と訓んでゐるが、「之《シ》」の助辭穩かでない。考が「わぎもこが〔右○〕」と訓んだのはよいが、下句を「つねにでゝみし」と訓み改めたのは更に拙ない。略解以後「わぎもこが、やまずいでみし」となつたのがよい。さて此句を代匠記が「人麿の通ひくるやと出で見るなるべし」と説き、古義も同説をくりかへしてゐるが、これもいかゞである。攷證に「市にて商人などが物の賣買するを不斷出て見しなるべし」といつてるのはよいが、何も賣買するを見る意に限らずともよからう。たゞ何かにつけて不斷立ちならした意に見るべきである。
○輕市爾《カルノイチニ》、吾立聞者《ワガタチキケバ》――窃かに通うた女であるから、あらはに音づれる事が出來なかつたので、平生妹が立ちならした市に徃つて、それとなく見聞したのであらう。はかなき事を頼みにする遺瀬なき情である。
○玉手次《タマダスキ》、畝火乃山爾《ウネビノヤマニ》、喧鳥之《ナクトリノ》――此の三句は「こゑ」といはむが爲の序詞である(玉手次は畝火の枕詞)。畝火山は輕の町に近い所であるから、そを材料にして「山に鳴く鳥の聲」といひつゞけたのである。しかし本文の上では「妹の聲」の事で、鳥の聲ではない。たゞ「聲」といふ語を引き出すための序詞に過ぎない。かゝる所に、かうした序詞を置いたのは少し訝かしいと思はれるが、これがないと調子が唐突になるから、詞のあやにおいたのであらう。石見の妻に別れる長歌の後篇(一三五)に、「雲間より渡らふ月の」とおいた序詞と同じ筆法である。
○音母不所聞《コヱモキコエズ》――舊訓は「おともきこえず」と訓んでゐる。げに卷五に「于遇比須能《ウグヒスノ》於登〔二字右○〕きくなべに」(八四一)と(613)もあるけれど、「鳥のこゑ」といふが一般の習はしである。且つこゝは本文の上では妹の聲をいふのであるから、「こゑ」と訓んだ古義の訓に從ふべきである。文字は「音」とあるけれど、萬葉集の書式では聲、音、相通はして用ひてゐるので、現に此歌でも上文の「梓弓、聲爾聞而」は「聲」(ノ)字を書いてゐるにも拘らず、昔から「おと」と訓んでゐる。「弓のこゑ」とは言はないからである。
○道行人毛《ミチユクヒトモ》――舊訓「みちゆきびとも」も聞えぬ事はないけれど、考に「行」を動詞として、「みちゆくひとも」と訓んだのがよい。上文の「吾戀、千重之一隔毛」を「わがこふる」と訓み改めたと同じ趣である。
○獨谷《ヒトリダニ》、似之不去者《ニテシユカネバ》――「之《シ》」は指示する意の助辭、道行く人を見ても、一人として妹に似た者がないからといふのであり、卷三「河風の寒き泊瀬を歎きつゝ君が歩くに似る人もあへや」(四二五)と似た心ばへである。
○妹之名喚《イモガナヨビテ》、袖曾振鶴《ソデゾフリツル》――我知らず妹が名を呼んで袖を振つて身悶えしたといふので、情極まつて遣瀬なき趣である。
 
或本、有d謂(ル)2之|名耳聞而有不得者《ナノミキキテアリエネバ》1句u
 
この一文、美夫君志は小字にして本文の末に載せてゐる。代匠記は「聲耳乎、聞而有不得者」の次にあるものとし、攷證も同意見で本文の中に書き加へてゐる。又美夫君志は本文の舊訓によつて「而」を「つゝ」と訓んでゐるが、その舊訓も、こゝは「而《テ》」と訓んでゐる。「謂之」の二字も不明なので、略解は衍文としてゐる。とにかくに要領を得ぬ一文である。
◎一篇の大意――輕といふ處は我が妹の住んでゐる里であるから、我にとつても懷かしい處で、日頃ゆつくり見(614)たく思ふ所であるけれど、何分内所の事であるから、しげく通うたなら、世間の人目が多くて、つひ知られるであらうから、なに今強ひてあはずとも、後になったなら晴れてあへる機會があるであらうと、それを頼みに、多くは家に籠つて、心の中で戀しく思うてゐた事であつたのに、豈圖らんや、さうした機會が來ないで、あのやさしい妹が、恰も空行く月の俄に雲に隠れたが如く、はかなくなつたと、内所の使が來て告げるものであるから、我その音づれを聞いて何とも言はん方なく悲しい。で、その音づれだけを聞いて、ぢつとしてゐるに堪へないから、もしや我が戀しく思ふ情の一端だけでも思ひ慰むるよすがゞあらうかと、日頃妹が立ちならした輕の市に出かけて見た。が、いくら眼を張り耳をすましても、妹らしい聲を聞く事も出來ず、道行く人も、一人も妹に似た者が通らないから、折角出かけて來ても、やはり慰むるよすがゞない。せん方なさに、我知らず妹が名、一聲高く呼んで、袖を振つて身悶えした事であつたわい。
人目を悼つて逢ふ瀬をひかへ/\してゐた妹が俄かに失せたので、掌中の玉を失つたやうな遣瀬なさが辭句の間によく見えてゐる。殊に妹が名呼びて袖ぞ振りつるといふ結末二句は、「靡け此山」と同一筆法で、情熱の強い歌人の面目が躍如としてあらはれてゐる。石見の歌(二三一)と並べ傳ふべきものである。
 
短歌二首
 
208 秋山之《アキヤマノ》 黄葉乎茂《モミヂヲシゲミ》 迷流《マドヒヌル》 妹乎將求《イモヲモトメム》 山道不知母《ヤマヂシラズモ》 【一云|路不知而《ミチシラズイシテ》】
 
(615)○黄葉乎茂《モミヂヲシゲミ》――例の「を」と「み」と相對する語法で、黄葉茂さにの意。
○迷流《マドヒヌル》――舊訓は「まどひぬる」と訓み、、攷證、美夫君志を初め、今も大方それに從つてゐるが、考は「まどはせる」と改め、略解、古義等之に同じてゐる。但、考は「まどはす」といふ他動詞と見てゐるらしいが、古義は「まどへる」の義に解し、その「まどへる」を佐行四段に轉じた自動詞の敬語法と見てゐる。此の訓によるとせば、古義の方が寧ろ穩當であらうが、考の説と紛らはしくもなり、又わざ/\敬語を用ふべき所とも思はれないし、且つ結局は「まどひぬる」と同意に落つるのであるから、舊訓のまゝがよからう。又、檜嬬手は「さ〔右○〕どはせる」と訓んでゐる。それは「まどはせる」と同義の古語だが、奇を衒ふ嫌もあるから、なほ舊訓のまゝがよからう。所で語の表面から見れば、黄葉《モミヂバ》の茂きに惑うた意には相違あるまいが、次の反歌に「黄葉の散りぬる〔四字傍点〕なべに」といひ、上の石見の歌(一三五)にも「黄葉《モミヂバ》のちりのまがひに〔七字傍点〕、妹が袖さやにも見えず」などあるを思ふに、作者の氣分は、いふまでもなく散るもみぢ葉の繁き意にあらうと察せられる。又「黄葉を茂み」を「まどひぬる」にかけて見るのが一般の説であるが、中には結句にかけて、散るもみぢ葉の茂きに尋ぬべき山路も分かぬ意に見る人もある。なるほど、それも一説だが、卷七の類歌「秋山の黄葉あはれとうらぶれて、入りにし妹はまてど來まさぬ」(一四〇九)と相照して、やはり「まどひぬる」にかけて見るが穩當であらう。但、結句にも響かぬ事はあるまい。
◎一首の意――秋山の散るもみぢ葉の茂きに道踏みまどうて、還つて來ぬ妹の行方を尋ねたいと思ふけれど、尋ぬべき山路も分かず、悲しい事ぢや。
(616)死して山路深く葬られたのを美化したのである。殊に内所の妻で、はれて送葬する事も出來なかつたらうから、かた/”\かういひまはしたのであらう。(代匠記、美夫君志等に羽易(ノ)山に葬りたるを云々とあるは前後二首の妻を混同したものである。)
 
209 黄葉之《モミヂバノ》 落去奈倍爾《チリヌルナベニ》 玉梓之《タマヅサノ》 使乎見者《ツカヒヲミレバ》 相日所念《アヒシヒオモホユ》
 
○落去奈倍爾《チリヌルナベニ》――舊訓「ちりゆくなべに」を、考が「ちりぬるなべに」と改めたのがよからう。長歌の「度日乃晩去之如」を「くれぬる」と改めたと同じ趣である。「なべに」は上にもあつたが、「つれて」の意、黄葉の散るにつれて、恰も妹が死んだといふ使が來たのである。
○相日所念《アヒシヒオモホユ》――舊訓「あひしひおもほゆ」とあるを、考は「あへるひ」と改め、略解、檜嬬手等之に從つてゐるが、これは語法上、舊訓の方がよからう。
◎一首の意――黄葉ほろ/\と散つてさなきだに物悲しき折に妹の訃報が來たので、一段とうら悲しく、曾て逢うた日の事がいろ/\思ひ出されて情に堪へぬ。
考、略解、古義等は「あひし日」といふ句に重きを措いて、「現身なりし時、使を待ち得て徃きて逢ひたりし日に、黄葉の散りたりけむ〔九字傍点〕、今日も黄葉の散るに使の來たるを見れば、逢ひし日の心地するといふ也」(【考の文】)など説いてゐるが。少し泥み過ぎるではあるまいか。「あひし日おもほゆ」といふは、妹なつかしさに、それからそれと、いろ/\思ひ出されるので、必ずしもその日も黄葉の散る日であつたといふ意ではあるまいと思ふ。たゞ折が折(617)であつたから、所謂「時しもあれ」と感じた意であらう。源氏物語桐壺(ノ)卷に、帝が桐壺更衣を偲ばれて「御覽じはじめし年月の事さへ、かき集め、萬におぼしつゞけられて」とある心ばへで見るべきであらう。
 
   ○
 
210 打蝉等《ウツセミト》 念之時爾《オモヒシトキニ》【一云、宇都曾臣等《ウツソミト》、念之《オモヒシ》】 取持而《タヅサヒテ》 吾二人見之《ワガフタリミシ》 ※[走+多]出之《ハシリデノ》 堤爾立有《ツツミニタテル》 槻木之《ツキノキノ》 己知碁智乃枝之《コチゴチノエノ》 春葉之《ハルノハノ》 茂之如久《シゲキガゴトク》 念有之《オモヘリシ》 妹者雖有《イモニハアレド》 憑有之《タノメリシ》 兒等爾者雖有《コラニハアレド》 世間乎《ヨノナカヲ》 背之不得者《ソムキシエネバ》 蜻火之《カギロヒノ》 燎流荒野爾《モユルアラヌニ》 白妙之《シロタヘノ》 天領巾隱《アマヒレガクリ》 鳥自物《トリジモノ》 朝立伊麻之弖《アサタチイマシテ》 入日成《イリヒナス》 隱去之鹿齒《カクリニシカバ》 吾妹子之《ワギモコガ》 形見爾置有《カタミニオケル》 若兒乃《ミドリコノ》 乞泣毎《コヒナクゴトニ》 取與《トリアタフ》 物之無者《モノシナケレバ》 鳥穗〔二字左○〕自物《ヲトコジモノ》 腋挾〔左○〕持《ワキバサミモチ》 吾妹子與《ワギモコト》 二人吾宿之《フタリワガネシ》 枕付《マクラヅク》 (618)嬬屋之内爾《ツマヤノウチニ》 晝羽裳《ヒルハモ》 浦不樂晩之《ウラサビクラシ》 夜者裳《ヨルハモ》 氣衝明之《イキヅキアカシ》 嘆友《ナゲケドモ》 世武爲便不知爾《セムスベシラニ》 戀友《コフレドモ》 相因乎無見《アフヨシヲナミ》 大鳥《オホトリノ》 羽易乃山爾《ハガヒノヤマニ》 吾戀流《ワガコフル》 妹者伊座等《イモハイマスト》 人之云者《ヒトノイヘバ》 石根左久見手〔左○〕《イハネサクミテ》 名積來之《ナヅミコシ》 吉雲曾無寸《ヨケクモゾナキ》 打蝉等《ウツセミト》 念之妹者《オモヒシイモハ》 珠蜻《タマカギル》 髣髴谷裳《ホノカニダニモ》 不見思者《ミエヌオモヘバ》
 
○打蝉等《ウツセミト》、念之時爾《オモヒシトキニ》――上の明日香皇女殯宮の歌(一九六)にもあつた詞で、それは、こゝの一本と同じであつた。「せ」と「そ」とは音通、「念」は輕く用ひられてゐるので、殆ど意義なく「現し身なりし時」即ち妻が世に存らへて居た時の意である。
○取持而《タヅサヒテ》――舊訓には取り持ちてとあるが、たゞ「とりもちて」では意義が明かでない。考、略解、檜嬬手、古義等は「たづさへて」と訓んでゐるが、「たづさへ」は他動詞で、こゝにはふさはないから、攷證、美夫君志等が「たづさひて」と訓んだのに從ふべきである。こは四段活用の自動詞で、「つれだつ」意、「たづさはる」といふにひとしく、上の明日香皇女殯宮の歌に、「敷妙の袖たづさはり云々」(一九六)とあるに同じ意である。用例は卷四「吾味兒と携行而《タヅサヒユキテ》たぐひてをらむ」、假名書の例は後の世のものながら、建久六年民部卿歌合の跋(俊成卿)に(619)「たゞ此の道にたづさひて〔五字傍点〕新玉の年つもれるといふばかりに云々」など見えてゐる。
○※[走+多]出之《ハシリデノ》――「はしりでの」と訓む。雄略紀の歌に「和斯里底〔四字傍点〕のよろしき山」とあるによつて「わしりで」と訓む説もある(舊訓は「わしりいでの」)、それもよからう。家から走り出た處をいふので門口、門前の廣場などの事であらう。
○槻木之《ツキノキノ》――和名抄に「唐韻云、槻、音、規、和名、都岐之木《ツキノキ》」とある。欅の一種である。
○己知碁智之枝之《コチゴチノエノ》――をちこち即ち彼方此方の枝の意である。橘守部の山彦冊子に「こち/”\は、をちこちと、もとより別にて上に物二つをまづいひて其一つをこち〔二字右○〕と指し、今一つを又こち〔二字右○〕とさしていふ詞なり」と辨じてゐる。これは同一物を手まねで兩方面からいふ時、今もよくある事で、なるほど詞の起りは或はそこから出てゐるかも知れぬが、結局は、その兩方面をいふので、彼方此方と同じ事に落つるのである。古くあち、こち〔四字右○]などいふ區別的の語づかひがまだなかつた時の語法であらうといふ人もある。卷三「奈麻余美《ナマヨミ》の、甲斐の國、うちよする、駿河の國と、己知其智《コチゴチノ》の國のみ中ゆ、いで立てる、不盡の高嶺は云々」(三一九)とあるも同じ事である。さて人麿が住んだ家の門口に、若干の廣場があつて、前に池か川かの堤が横たはり、堤上には枝葉の繁つた大きな槻の木が立つてゐたものと見える。此歌によつて歌聖の住居の大凡が知られるのが面白い。
○春葉之《ハルノハノ》、茂之如久《シゲキガゴトク》――その槻の木を材料にして、その枝葉の茂きが如く限りなく心深く思ひ頼んだ妹といふのである。「子ら」も妹の事、「ら」は添へていふ辭、複數ではない。
○世間乎《ヨノナカヲ》、背之不得者《ソムキシエネバ》――生ある者いつかは死ぬるといふ世の道理に背く事が出來ないからの意。
(620)○蜻火之《カギロヒノ》、燎流荒野爾《モユルアラヌニ》――「かぎろひ」は陽炎である。野べの水氣に日光が映じて、きら/\と燃ゆるが如く見えるもの、卷一「東の野にかぎろひの立つ見えて」(四八)とあるに同じく、荒野の形容である。「蜻火」とかいたのは、蜻※[虫+廷]の事を和名「かぎろふ」「かげろふ」などいふから、「蜻」を「かぎろ」の訓に借りたのであらう。
○白妙之《シロタヘノ》、天領巾隱《アマヒレガクリ》――諸説まち/\で確かな事はわからない。代匠記、考等は卷十「秋風に吹きたゞよはす白雲は、棚機つめの天つひれかも」(二〇四一)といふ歌を引いて、「白雲隱れ」の意と説き、玉の小琴は送葬の旗と説き、檜嬬手は柩を覆ふ天蓋の類とし、古義は柩の周りに立て行く歩障の類とし、葬儀を天に昇ると見なして、天人の天路を通ふさまに取りなしたものと説いてゐる、元來|領巾《ヒレ》は文字の如く、上代婦人の襟につけた薄く細長い装飾の巾《キレ》であつたらしいが、一方では、そを振りまはして蠅などを拂ひ、人を招く用に供した事は、かの松浦佐用姫の傳説(八七四)や、大葉子の歌(から國の城《キ》の上に立ちて大葉子は、ひれふらすも大和へ向きて)(欽明紀)などから推されるが、魚の鰭と同系の語で、ひら/\するものであつたらしい。此點から見ると天蓋でも歩障でも多少ひらめくには相違あるまいが、柩の前後に立てた旗と見るが最もふさはしく最も普通ではあるまいか。そを婦人の葬儀であるから領巾に擬らへたのでもあらうし、必ずしも天女によそへずとも、葬儀であるから「天ひれ」といつたのでもあらう。「白栲の」は葬儀であるから實際の白布を用ひたので、こゝは枕詞ではない。
○鳥自物《トリジモノ》――鳥其の物の如くの意で、「朝立つ」の枕詞。「坂鳥の朝越」などゝ同じ心ばへである。
○人日成《イリヒナス》――「障り」の枕詞。
○若兒之《ミドリコノ》、乞泣毎《コヒナクゴトニ》――舊訓以來一般に「みどりこ」と訓んでゐる。次なる或本の歌に「緑兒之」とあるから、勿論(621)それがよからう。和名抄に辨色立成を引いて「嬰兒、美都利古《ミドリコ》、始生小兒也」とある。集中、若子などかきて「わくご」と訓む場合もある。卷十六、竹取翁の歌(三七九一)には「緑子之若子」と繰りかへしても用ひてゐるが、多くの場合、若子《ワクゴ》は少年、若者をいふので、「みどり子」は乳呑子をいふのである。語の義は狩谷※[木+夜]齋の和名抄箋注には「謂d小兒※[髪の友が眞]髪眞黒如uv帶2緑色1也」とあるけれど、さうではあるまい。若くみづ/\しき意で、木の葉などに擬へていふとの説がよからう。さて「乞泣」は物を乞うて泣くのである。
○取與《トリアタフ》、物之無者《モノシナケレバ》――考に「物は人也」とあるを玉の小琴は難じて、「兒を取與ふとはいふべからす、物は玩物にて、泣くをなぐさめん料のものなり」といつてゐるが、これもどうであらうか。玩具ならば、男の手でも辨ぜられぬ事はあるまい。これは恐らくは乳をいふのであらう。卷十八に「彌騰里兒能《ミドリコノ》、知許布我其登久《チコフガゴトク》云々」(四一二二)ともある。さてこゝの「與ふ」は連體形で、昔は四段に活用したものと見える。
○鳥穗自物《ヲトコジモノ》――舊訓は「とりほじもの」と詠んでゐるが、何の事ともわからぬ。然るに考は次なる或本には「男自物」とあるにより、卷三、高橋朝臣が妻の死を悲傷して詠んだ歌に「腋挾、兒の泣く毎に、雄自毛能《ヲトコジモノ》、負ひみ抱きみ」(四八一)とあるなどに照らして、「鳥」を「烏」の誤、「穗」を「徳」の誤として「をとこじもの」と訓んだので、爾來一般にそれに從ふ事になつた。「男じもの」は男その物の義で、男たる者が、女のする如く、兒を腋の下にかゝへてあやす事をいふのである。古義其他の註には、こゝの自物は常の場合とは變りて、男のすまじきわざをするをいふと説いてゐるが、實はこゝが「じもの」本來の意なので、「鴨自物」「鹿自物」などいふ他の場合は、その下にあらはれる語との關係上「のやうに」といふ意が、附隨して起るだけなのである。此事は卷一役民の歌(622)(五〇)鴨自物の條下で委しく述べた。
○腋挾持《ワキバサミモチ》――流布本「挾」を「狹」に誤つてゐる。
○枕付《マクラヅク》、嬬屋之内爾《ツマヤノウチニ》――枕付は嬬屋の枕詞、嬬屋は夫婦の寢る閨の事、「つま」は妻の事にも、夫の事にもいふが、又夫婦合せてもいふ。美夫君志に攷證の説を承けて「つま」は端の意で、閨は家の端に造るからといつてるのは承け取れない。
○畫羽裳《ヒルハモ》…夜者裳《ヨルハモ》――二つの「も」は助辭。
○浦不樂晩之《ウラサビクラシ》――舊訓「うらぶれくらし」と訓んでるのを、考は「うらさびくらし」と改めた。「うらぶれ」でも、意は通ずるが、卷三「棹梶毛、無而|不樂毛《サブシモ》」(二五七)、卷四「今よりは城の山道は不樂牟《サブシケム》」(五七六)など不樂の二字を集中多くさぶ、さび、と訓んでゐるから、考の訓がよからう。「うら」は心の義である。
○大鳥《オホトリノ》、羽易乃山爾《ハガヒノヤマニ》――「大鳥の」は「羽」にかゝる枕詞。羽易(ノ)山は明でないが、卷十に「春日なる羽易の山ゆ」(一八二七)とあるから春日山の一部分であらう。
○吾戀流《ワガコフル》、妹者伊座等《イモハイマスト》、人之云者《ヒトノイヘバ》――次の一本の歌には「汝〔右○〕戀」とあるので、考や古義はそれを取つてゐるが、「吾戀」とすれば「羽易の山に我が戀しく思ふ妹がゐる由を、人がいふから」といふ意で、すべてが人麿の心を寫した間接話法となるが、一本の方だと「大鳥の羽易(ノ)山に汝がこふる妹はいます」といふ全部が或る人の詞で、直接話法となるのである。文の組立てが違ふだけで、文意は何れにしても同じであるから、本文は本文のまゝ、一本は一本のまゝに見てをくべきであらう。(「います」といふ敬語が、他からの直接話法の方が、ふさはしいといふか(623)も知れねど、かゝる折に我より敬語を添へて「妹がいます」といふも、常にある事であるから、これもどうでもよからう。)さて舊訓に「いもは、いませ〔右○〕と」と訓んでゐるのは意を成さない。しかも一本の方では「いもはいますと」と訓んでるのはどういふわけであらうか。
○石根左久見手《イハネサクミテ》――「手」(ノ)字印本「乎」に作り、訓も「を」とついてゐるが、意義からいつても、次なる一本に「割見而〔右○〕」とあるに照らしても、誤なる事、明かであるから、代匠記によつて改めた。「さくむ」は祈年祭祝詞に「磐根木根|履佐久彌 弖《フミサクミテ》云々」、本集卷二十に「山河を岩根|左久美弖《サクミテ》蹈み通り」(四四六五)などあつて、蹈み分け蹈み開く事である。攷證、美夫君志等は放《サク》の義に説いてゐるが、寧ろ割(裂)の義とする考の説がよいではあるまいか。
○名積來之《ナヅミコシ》――「なづむ」はもと泥田の中に足を蹈み入れた貌の語である。隨つて滯る、はかどらぬ、足掻がとれぬなどの趣になる。こゝも岩根こゞしき山路に行き悩んだ趣である。さてこゝは次の句への關係上「なづみ來しに」などの意に見るべきである。
○吉雲曾無寸《ヨケクモゾナキ》――「よくもぞなき」で、「く」を「けく」二音に轉じたのは、寒くを「寒けく」、繁くを「繁けく」といふに同じい。卷五にも「安志家口毛《アシケクモ》、與家久母〔左三字傍点〕見牟登《ヨケクモミムト》」(九〇四)とある。「よけくもぞなき」は來たかひもないといふ事で、結句の「見えぬ思へば」からかへる倒置句である。「も」は助辭。
○打蝉等《ウツセミト》、念之妹者《オモヒシイモハ》――冒頭の二句に同じい。「念」はやはり輕く用ひられてゐるので「現し身なりし妹が」の意である。
○珠蜻《タマカギル》、髣髴谷裳《ホノカニダニモ》――「珠蜻」は上に「玉限」「玉蜻」などあつたと同じく、「たまかぎる」で「ほのか」の枕詞であ(624)る。玉の光のほんのりと柔かく輝く意でかゝつたのであらう。
○不見思者《ミエヌオモヘバ》――「見えぬを思へば」の意である。舊訓に「思」を名詞と見て、「見えぬおもひは」と訓んだのは拙ない。
◎一篇の大意――我が家の門前なる堤の上には、彼方此方枝さしかはした大きな槻の木があつて、吾が妻在世の時は常にうちつれて眺めた事であつたが、春の頃ほひにはその枝や葉が茂く榮えたやうに、心深く限りなく思ひ潜んだ妻であつたけれど、世の無常の理りは免れえず、此度とう/\はかなくなつて、白たへの旗に圍まれ、朝早く家を出でゝ、陽炎もゆる荒野の中に隱れたものであるから、あとに殘したかたみの緑子が物乞うて泣く毎に、我《ワレ》男として與ふべき乳もないので、せん方なく、男たる我《ワレ》が手づから抱きかゝへて、曾ては諸共に寢ねた閨の中で、晝となく夜となく、わびくらし、溜息つき明して歎いてをるけれど、なほ如何にともすべき方がないので、聞けば戀しき妻が羽易(ノ)山に居るといふから、岩根こゞしき山路を蹈み分け蹈み開いて尋ねて來たが、やはり折角來たかひもない事であつた。昨日までうつゝに見えた妹の姿は影だに見る事が出來ないから。
眼に近きものを取つて序詞の材料にするのは、古歌の常で、殊に人麿の歌には浪に靡く藻草を材料にしたのが多いが(石見の妻に別れ來る二首、獻2泊瀬部皇女1歌、明日香皇女殯宮(ノ)歌等皆それである)、此歌は門前の槻の木を材料にして住居の樣が明かに描き出されてゐるのが面白い。考は「こは葬の明くる年の秋に墓に詣でてよめり」といつてゐるが、何によつて明くる年と判斷したのであらうか。反歌の一つは翌年の作らしく聞える所から類推したのであらうか(これにも異見はあるが)。乳呑子を抱へて途方にくれた趣からいへば、寧ろ妻の失せた當座の(625)作と見るべきではなからうか。又自分の妻の墓所を知らない筈はなからうが、人の言ふを聞いて尋ねた趣に詠まれてゐるのは、昔から妻の送葬當日には夫は參列しないので、翌日私に詣でたものであらうか。(田舍は今も多くはさうである。)さうだとすれば、此もその時の作で、かた/”\翌年の秋の作とはいへまいと思ふ。
 
短歌二首
 
211 去年見而之《コゾミテシ》 秋乃月夜者《アキノツクヨハ》 雖照《テラセドモ》 相見之妹者《アヒミシイモハ》 彌年放《イヤトシサカル》
 
○月夜《ツクヨ》――「つくよ」と訓み月の事である事は既に述べた。
○雖照《テラセドモ》――舊訓「てらせども」を、考は「てらせれど」と改め、爾後一般にそれに從つてゐる(たゞ新考は舊訓を取つてゐる)。これはいづれでもよからうが、書式からいへば同じ卷二、日並皇子殯宮の歌の反歌に「茜刺、日者雖照有〔右○〕」(一六九)、又卷四「月讀之、光者清、雖〔右○〕照有」(六七一)とあつて、いづれも「てらせれど」と訓んでゐるけれど、こゝは「有」の字がないから、強ひて「てらせれど」と改めねばならぬ事はあるまい。次なる或本の反歌には「雖度」とあるが、これも一般に「わたれども」と訓んでゐるので「わたれゝど」とは訓んでゐない。
◎一首の意――去年妻と諸共に眺めた秋の月は、今も昔に變らす照してゐるけれど、共に見し人は世になき人となつて、月日が段々と遠ざかつて行くのが淋しい事ぢや。
此歌、諸註は妻の亡せた翌年の秋の作としてゐる。「いや年さかる」とあるから、年を隔てゝの作のやうにも聞え(626)るが、新考にいふが如く、「年さかる」は月日の立つ事をいふので年といふに泥むべきではない。最近まで存らへて、たゞ再び秋の月を見るには及ばないで亡せたものと見られぬ事もないのである。總じて長歌と反歌とは異なる時の作を取り合はせる事もあらうが、同時の作と見るべきが普通である。此歌も長歌は妻の失せた當座の作らしい事は既に述べたが、反歌も「衾道」の歌も、一本の「玉床」の歌もいづれも其折の作と思はれるから、それに準じて説けるなら、さう見るが自然ではなからうか。中にも古義などは妻の一周忌に詠まれたものとしてゐるが、何によつて、しか判斷したかはわからない。拾遺集には「妻にまかりおくれて又の年の秋、月を見侍りて」と端書して、此歌を收めてゐるがこれが翌年説の起つた原かも知れねど、拾遺集の端書などは準據とすべきものではない。(但、拾遺集には、結句を「いや遠さかる」と改めてゐる。)
 
212 衾道乎《フスマデヲ》 引手乃山爾《ヒキテノヤマニ》 妹乎置而《イモヲオキテ》 山徑徃者《ヤマヂヲユケバ》 生跡毛無《イケリトモナシ》
 
○衾道乎《フスマヂヲ》――或は枕詞といひ、或は地名といふ。枕詞とする説は衾手の義とし、雅亮《マサスケ》装束抄などを引いて、夜の衾には、昔は首の邊りに幟の乳の如きものをつけて(紅の練糸といふ)、之を手づから引いて引つ被くゆゑ「引手」とかゝるといふ(考及古義の一説、攷證、美夫君志等)。地名とする説は諸陵式に衾田墓とあるを引いて衾道を衾へ通ふ道の義とし、引手(ノ)山もその邊りにて山邊郡中村の東なる龍王山といふがそれであらうと説く(考及古義の一説、代匠記、新考等)。此の二説、いづれもしつくりしたとはいへないが、殊に後説は衾と衾田との關係も、「乎」といふ語の意義も明かでなく(或説には「之」の誤とし、或説には輕く見るべしといふ)、引手(ノ)山は長歌(627)から推せば羽易山と同處でなければならぬが、卷十の歌(一八二七)によつて、羽易山を春日山の一部分とすれば、上掲の説とは、地理が合はない。かた/”\姑く前説に從つておくが、なほよく考ふべきである。
○生跡毛無《イケリトモナシ》――昔から「いけりともなし」と訓み、「と」を「弖爾乎波」として生きた心ちもせぬ意に解いてゐるが、玉の小琴は卷十九に「伊家流〔右○〕等毛奈之」(四一七〇)とある例を引いて「いける〔右○〕」と訓み、「と」を「利」の意の名詞として、生ける利心〔二字右○〕もなき意に説いてゐる(古義、檜嬬手、之に同じてゐる)。此の句、集中七ヶ所ばかり見えてゐるが、何れも「生刀毛」「生友」などあつて、假名書の例は卷十九だけであるから、小琴はこれによつて、他もすべて「いける」と訓むべしとしたのも無理はないが、語の趣を味ふに、しか訓んでも「と」はやはり弖爾乎波で「利心」の意ではあるまい。さて「いけりともなし」とも、「いけるともなし」ともいつたのであらうが、語法上からは「いけりとも」の方が自然であらうから、古來の訓に從つておくが穩當であらう。
◎一首の意――引手の山に妹を留めおいて、我獨り山路を辿り行くと、あまりの悲しさに肝心もうせて、生きてゐるやうな心ちもせぬ。
長歌の末尾と同じく墓參した時の山路の作であらう。
 
或本歌日
 
213 宇都曾臣等《ウツソミト》 念之時《オモヒシトキニ》 携手《タヅサヒテ・タヅサハリ》 吾二見之《ワガフタリミシ》 出立《イデタチノ》 百兄槻木《モモエツキノキ》(628) 虚知期知爾《コチゴチニ》 枝刺有如《エダサセルゴト》 春葉《ハルノハノ》 茂如《シゲキガゴトク》 念有之《オモヘリシ》 妹庭雖在《イモニハアレド》 恃有之《タノメリシ》 妹庭雖有《イモニハアレド》 世中《ヨノナカヲ》 背不得者《ソムキシエネバ》 香切火之《カギロヒノ》 燎流荒野爾《モユルアラヌニ》 白栲《シロタヘノ》 天領巾隱《アマヒレガクリ》 鳥自物《トリジモノ》 朝立伊行而《アサタチイユキテ》 入日成《イリヒナス》 隱西加婆《カクリニシカバ》 吾妹子之《ワギモコガ》 形見爾置有《カタミニオケル》 緑兒之《ミドリコノ》 乞哭別《コヒナクゴトニ》 取委《トリマカス》 物之無者《モノシナケレバ》 男自物《ヲトコジモノ》 脇挿持《ワキバサミモチ》 吾妹子與《ワギモコト》 二吾宿之《フタリワガネシ》 枕附《マクラヅク》 嬬屋内爾《ツマヤノウチニ》 旦者《ヒルハ》 浦不冷晩之《ウラサビクラシ》 夜者《ヨルハ》 息衝明之《イキヅキアカシ》 雖嘆《ナゲケドモ》 爲便不知《セムスベシラニ》 雖戀《コフレドモ》 相縁無《アフヨシヲナミ》 大鳥《オホトリノ》 羽易山爾《ハガヒノヤマニ》 汝戀《ナガコフル》 妹座等《イモハイマスト》 人云者《ヒトノイヘバ》 石根割見而《イハネサクミテ》 奈積來之《ナヅミコシ》 好雲叙無《ヨケクモゾナキ》 宇都曾臣《ウツソミト》 念之妹我《オモヒシイモガ》 (629)灰而座者《ハヒニテマセバ》
 
○携手《タヅサヒテ・タヅサハリ》――舊訓「たづさへて」は他動詞で、こゝにふさはぬ事は既に述べた。前の本歌には「取持而」とあつて「たづさひて」と訓んだが、こゝは「而」(ノ)字がないから、明日香皇女殯宮の歌に「袖|携《タヅサハリ》」(一九六)とあるに擬らへて「たづさはり」と訓むべきであらう。集中「たづさはり」と訓むべき所には、多く「携」一字をあてゝゐるが、手を取つて連れ立つ心で、「携手」とあてたのであらう。古義などは「てたづさひ」と訓んでゐるが、それもわるくはあるまいけれど、卷十「萬世《ヨロヅヨニ》、携手居而云々」(二〇二四)も、「萬代に、たづさはりゐて」と訓むが最も穩かかと思はれる。
○出立《イデタチノ》――舊訓は動詞として「いでたてる」と訓んでゐるが、これは前の本歌に「※[走+多]出之」とあると同意で、門口から走り出た所をいふのであるから、名詞として、「いでたちの」と訓むべきである。卷十三に「出立之、清瀲爾《キヨキナギサニ》」(三三〇二)とあり、又同卷に「忍坂山は、走出の、宜山の、出立の、妙山叙《クハシキヤマゾ》云々」(三三三一)と、兩語相對させて用ひてもゐる。
○百兄槻木《モモエツキノキ》――百枝槻(ノ)木の意で、古事記下にも「天皇坐2長谷之百枝槻下1爲2豐樂1之時云々」など見えてゐる。
○虚知期知爾《コチゴチニ》――舊訓は「かちこちに」と訓んでゐるが義を成さない。前の歌に照らして「こち/”\に」と訓むべき事はいふまでもない。
○朝立伊行而《アサタチイユキテ》――「伊行」の「い」は接頭辭。
(630)○取委《トリマカス》――いかに訓むべきかは明かでない。舊訓は「とりまかす」と訓んでゐるが、「まかす」は「與ふ」と同じく昔は四段に活用したのであらうか。さる例をまだ見ないが、考ふべきである。姑くその訓に從へば「取りまかす物」とは、小兒の爲すにまかせて委ねる玩具などをいふのであらう。
○旦者《ヒルハ》――舊訓「ひるは」と訓んでゐるが、聊か稔穩でないので、「日者」の誤であらうといふ説もある。
○汝戀《ナガコフル》――本歌には「吾戀」とある。此事に就いては既に前の歌で述べた。
○灰而座者《ハヒニテマセバ》――舊訓「はひれてませは」又は「はひしてませば」は要領を得ない。「はひにてませば」といふ攷證の訓によるべきである(略解も訓だけは同訓である)。義は火葬して灰となつた事をいふのである。然るに考は「灰」と「仄」と字體の似通ふ所から、上掲の本文に擬らへて「珠蜻、仄谷毛《ホノカニダニモ》、見而不座者《ミエテマサネバ》」とあつたのを誤つたのであらうといつてるのは甚しき臆斷といふべきである(古義も略々同説)。これは火葬の始まりを道昭和尚からと思ひこみ、此妻の死は人麿のまだ若き時で、道昭の火葬前なるべく考へた結果かと思ほれるが、道昭以前といふ證もなき上、道昭の火葬は史に見えた始まりで、民間ではその前から行はれてゐたらしく思はれるから、泥むべきではない。同じ人麿の作にも卷三「土方娘子火2葬泊瀬山1時作歌」(四二八)、又「溺死出雲娘子火2葬吉野1時作歌」(四二九・四三〇)等あつて、年月は明かでないが、これも道昭火葬以前であつたかも知れぬ。とにかく當時上下を通じて火葬の盛であつた事が窺はれるので、道昭以前にはなかつたと解釋するなどは事態を辨へぬものである。又考は「此反歌は葬の明くる年の秋、まゐでゝよめるなるを一めぐりの秋までも骨を納めず捨ておけりとせんかは」といつてゐるが、これも誤解なるべき事は上に述べた。此のあたり攷證(631)はよく辨じてゐる。
◎一篇の大意――ほゞ上掲の本歌に同じい。
 
短歌三首
 
214 去年見而之《コゾミテシ》 秋月夜《アキノツクヨハ》 雖度《ワタレドモ》 相見之妹者《アヒミシイモハ》 益年離《イヤトシサカル》
 
○雖度《ワタレドモ》――空渡り行く意。本歌には「雖照」とある。
 
215 衾路《フスマヂヲ》 引出上《ヒキデノウヘニ》 妹置《イモヲオキテ》 山路念邇《ヤマヂオモフニ》 生刀毛無《イケリトモナシ》
 
○衾路《フスマヂヲ》――美夫君志は、本歌の方では、攷證の文をさながらに取つて、衾手の意に解いてゐるが、こゝでは代匠記の説を引いて衾田へ通ふ道とし、考の衾手の説をもどいてゐる。どちらが眞意であらうか、訝かしい。
○引出上《ヒキデノウヘニ》――本歌には引手の山とある。
○山路念邇《ヤマヂオモフニ》――檜嬬手は「さびしき深山に妹を葬りおきて其山路に獨りあるかと思へば」と説き、攷證も、妹が居る山路を思ひやる意に説いてゐるが、又本歌に擬らへて妹思ひつゝ山路を行く意に見る人もある。少ししつくりしないので、本歌の方を採る人が多い。
 
(632)216 家來而《イヘニキテ》 吾屋乎見者《ワガヤヲミレバ》 玉床《タマドコノ》 外向來《ホカニムキケリ》 妹木枕《イモガコマクラ》
 
○吾屋乎見者《ワガヤヲミレバ》》――考は「吾」は「妻」の誤かと疑ひ、古義も同じてゐる。げにと思はれるけれど、吾屋でも意の通ぜぬ事がないから、強ひて改めるには及ぶまい。
○玉床《タマドコノ》――舊訓「たまゆか」と訓んでゐるが、神代紀下に「佐禰耐據《サネドコ》もあたはぬかもよ云々」とあるが如く、臥床の意に「とこ」といふが常であるから、考に「たまどこ」と訓まれたのがよからう。さて玉は美稱、考は死して臥したりし床なればとて靈《タマ》床と説き、略解は更に續日本後紀なる伴直成富(ノ)女の例などを引いてゐるけれど、さるむづかしき意ではあるまい。卷十、七夕の歌に「明日よりは我が玉床を打拂ひ、君といねすて獨りかもねむ」(二〇五〇)とある宝床と同じ意であらう。考は玉床では人麿の妻に似つかずといつてゐるけれど、似つかぬ事はあるまい。
○外向來《ホカニムキケリ》、妹木枕《イモガコマクラ》――木枕は木製の枕であらう。「ほかにむきけり」は日頃すゑてゐた位置ではなく、あらぬ方に向いて横はつてゐたので、と胸を衝いたのであらう。舊訓「ほかにむきける〔右○〕」と訓んだのは拙ない。「むきけり」といふ考の訓に從ふべきであらう。
◎一首の意――ー墓參からかへつて、ふと閨の中を見ると、日頃妹がして寢た枕はあらぬ方に向つて横はつてゐる。さてもまあ。
昨日に變はる閨中の樣に心を動かした趣である。妻の死んだ騷ぎに、枕の位置なども移動したのを、葬儀やら(633)墓參やらに氣をとられて、心附かずにゐたが、墓參から還つて、心靜かに閨中を見まはせと、かたみの木枕が、あらぬ方に向いて横はつてゐるので、と胸を衝いて、今更に一段のわびしさを感じたのであらう。ありさうな事である。これは妻の死んだ當座の事で、考にいふが如く一周後の事ではあるまい。又新考には、こを右の長歌の反歌にあらずとし「久しく其家に住みたりけるが墓に詣でゝ歸り來てよめる調にあらず、他處にありけるが、妻の死にし後に始めて其家に歸り來てよめる調なり」と言はれたが、必ずしもさうとは限るまい。
 
吉備津釆女死時、柿本朝臣人麿作歌一首并短歌
 
反歌には志賀津子、又凡津子などあるので、考は此の采女の氏を吉備津、出身地を近江の志賀と見てゐるが、玉の小琴はすべて采女は出身地を以て呼ぶ例で、姓氏をいふ例がないから、こゝの吉備津は志我津の誤であらうといつてゐる。或はさうかも知れぬ。
 
217 秋山《アキヤマノ》 下部留妹《シタブルイモ》 奈用竹乃《ナヨタケノ》 騰遠依子等者《トヲヨルコラハ》 何方爾《イカサマニ》 念《オモヒ》居可《ヲレカ・マセカ》 栲紲之《タクナハノ》 長命乎《ナガキイノチヲ》 露己曾婆《ツユコソハ》 朝爾置而《アシタニオキテ》 夕者《ユフベハ》 消等言《キユトイヘ》 霧己曾婆《キリコソハ》 夕立而《ユフベニタチテ》 明者《アシタハ》 失等言《ウストイヘ》 梓弓《アヅサユミ》 音聞吾母《オトキクワレモ》 (634)髣髴見之《オホニミシ》 事悔敷乎《コトクヤシキヲ》 布栲乃《シキタヘノ》 手枕纏而《タマクラマキテ》 劍刀《ツルギタチ》 身二副寢價牟《ミニソヘネケム》 若草《ワカクサノ》 其嬬子者《ソノツマノコハ》 不怜彌可《サブシミカ》 念而寢良武《オモヒテヌラム》 (悔彌可《クヤシミカ》 念戀良武《オモヒコフラム》) 時不在《トキナラズ》 過去子等我《スギニシコラガ》 朝露乃如也《アサツユノゴトヤ》 夕霧乃如也《ユフギリノゴトヤ》
 
○秋山《アキヤマノ》、下部留妹《シタブルイモ》――秋山のやうに下ぶる意で、こゝは枕詞の如く用ひられてゐる。「下部留」を、舊訓は「したべる」と訓んでゐるが(代匠記、考、古義等皆同樣)、これはしたび、したぶと活用する上二段の動詞であるから、古事記傳の説によつて「したぶる」と訓むべきである。「秋山のしたぶる」は山の赤くもみぢする事で、こゝは紅顔うるはしき喩である。古事記中卷に「秋山之|下氷壯夫《シタビヲトコ》」とあるも同じ義で、記傳(卷三十四)の説明に「言の本の意は朝備《アシタビ》といふ事にて、秋山の色のもみぢに匂へるが、赤根さす朝の天の如くなる由なり」といつてゐる。語源はなほ研究を要する事と思ふが、紅匂ふといふほどの意ではあらう。(考は萎《シナビ》の義とし、木の葉はしなび枯れる頃、色づくからといつてゐるが、さうではあるまい。)
○奈用竹乃《ナヨタケノ》――舊訓「なゆ〔右○〕たけの」と訓んでゐるが、げに卷三に「名湯竹《ナユタケ》乃、十縁皇子《トヲヨルミコ》」(四二〇)といふ例もあるけれど、「よ」と「ゆ」とは音通で「なよたけ」とも「なゆたけ」ともいふので、「用」を「ゆ」の假名に用ひた例がないから、こゝはやはり「なよたけの」と訓むべきである。「なよたけ」はなよ/\とした竹の事で、「とをよ(635)る」の枕詞、女の姿態のしなやかな趣である。竹取物語の「なよ竹のかぐや姫」も同じ心の名であらう。
○騰遠依子等者《トヲヨルコラハ》――「とをよるこら」と訓む。「とを」は「たわ」と音通で、撓む義、「依る」は寄り添ふ、靡くなどの義で、これも女の姿態のたをやかな趣である。古事記上、大名持命を祭る詞に「析竹之登遠遠登遠遠〔六字傍点〕爾」、本集卷十「枝母等乎乎〔三字傍点〕爾」(二三一五)などある。この卷十の歌、或本には「枝毛|多和多和《タワタワ》」とあるなど、其意を推すべきである。「子等」の「ら」は接尾辭、こゝに妹といひ、子等といふは、いづれも采女をさす事はいふまでもない。
○何方爾《イカサマニ》、念《オモヒ》居可《ヲレカ・マセカ》――舊訓「いかさまに、おもひをりてか」と訓んでるのを、略解は「いかさまに、おもひをれか」と改めた。「をれか」は「をればか」の意で、それも惡くはないが、古義が「おもひませか」と訓み改めたのが、なほ穩當であらう。「ませか」は「ませばか」の義である。卷二、近江荒都の歌(二九)、卷二、日並皇子尊殯宮の歌(一六七)等にも「何方爾、御念食可」といふ同じ趣の句があつて、考もそこでは「何方爾」を「いかさまに」と訓んでゐるのに、此歌では「いづこに」と訓じてゐるのはどういふわけであらう。
○栲紲之《タクナハノ》、長命乎《ナガキイノチヲ》――「栲紲の」は長きの枕詞、舊訓「たくなはの」を考は「たくづぬの」と改めたけれど」古義の説の如く説は長繩也とある上、「たくづぬの」は白の枕詞で、長の枕詞には「たくなはの」とかゝるが常であるから、やはり舊訓のまゝがよからう。縣居翁も、冠辭考では此歌を「たくなはの長き命」と訓み、栲綱、栲衾などは白の枕詞と辨じてゐるのに、彼と此と説の異なるはどうしたわけであらう。しかも冠辭考の方がさきに世に出たのであるから、かた/”\怪訝にたへぬ。さて栲《タヘ》は古代の織布の名である事は既に述べたが、これが他の名詞(636)に冠せられて熟語となる時は、「たく」となるのである(栲《タク》繩、栲網《タクヅヌ》、栲《タク》衾、栲領巾《タクヒレ》など)。但、「たへ」は織布其の物の名であるが、「たく」はその原料の絲(樹皮の繊維)をさすのである。即ち栲繩は栲《タヘ》を織るべき原料の絲でなうた繩をいふのであらう。――さて此の所、次の句につゞかぬやう聞えるので、檜嬬手は「此處置居の句にて、つひすておくなれど、終には下に係る處なくばあるべからず。此歌は下の『時不在過去』といふにつゞきたり」といひ、中には脱句ありとする人もあるが、さうではあるまい。思ふに采女の死は常の死でなく、變死であらう、自殺であらう(吾輩は入水と思ふ、そは次の反歌で述べよう)。その悼ましさを露骨に説破するに忍びず、わざと意味ありげな語を殘して、言ひさしたもので、強ひていへば「末長かるべき命を何と思うて今の若さでちゞめたのであらうぞ」といふほどの心ばへを含めてゐるものと見るべきであらう。「いかさまに思ひませか」といひ、「長き命を」といひさした語調、それとなく自殺をほのめかした語氣である。
○露己曾婆《ツユコソハ》云々、霧己曾婆《キリコソハ》云々――前の「栲紲の長き命を」は、いひさした形で、とぢめたので、こゝから新に言ひ起したのであるが、それも十分に言ひきらないで餘意をこめて結んでゐる。意は「はかなきものゝ例には露や霧が引かれるが、露でも霧でもない采女がいかなれば、かくはかなく消え失せた事であらうぞ」といふのである。さて舊訓は「消等言」「矢等言」を、「きえぬといへ」「うせぬといへ」と訓んでゐるが、略解に「きゆといへ」「うすといへ」と訓み改めたのがよからう。又「夕者」「明者」の二句、舊訓は「ゆふべに〔右○〕は」「あしたに〔右○〕は」で、これもわるいとはいへないけれど、書式からいへば、古義の「ゆふべは」「あしたは」と訓んだのが穩當であらう。
○梓弓《アヅサユミ》、音聞吾母《オトキクワレモ》――梓弓は音の枕詞、既出。音聞くは采女の死んだといふ音づれを聞いた意である。
(637)○髣髴見之《オホニミシ》、事悔敷乎《コトクヤシキヲ》――舊訓「ほのにみし」とあるを、考は「おほにみし」と改めた。髣髴の二字は集中「ほの」又は「ほのか」と訓んだ例は多いが、元來「ほの」とも「おほ」とも訓まるべき文字で、こゝも、どちらでも意は通ずるが、同じ心ばへを反歌では「於保爾〔三字傍点〕見しかば」と假名書にしてゐるから、それによるがよからうと思ふ。「おほ」は卷三「吾大王、天知らさんと思はねば、於保爾曾〔四字傍点〕見谿流和束杣山《ミケルワヅカソマヤマ》」(四七六)とあるに同じく、大凡、大方などの意で、こゝは采女の世に在りし日、よく見おかで等閑に見過したのが悔しいといふのである。(もし「ほのみし」と訓めば【舊訓の「ほのにみし」は拙い、この場合は「ほのみし」と訓むべきである。】「初から見なかつたならば、其死を聞いても、さばかり心を動かす事がなからうに、なまじひ曾て仄かに見た事があつたので、その面影が偲ばれて、悼ましく悔しい」といふ意にならう。然るに古義は「おほにみし」と訓みながら後者の意に解釋し、「よく見おかざりしを悔しむ意にはあらず」とわざ/\斷つてゐるのは、どうした事であらう。)
○布栲乃《シキタヘノ》、手枕纏而《タマクラマキテ》――「布栲の」は枕の枕詞、既出。手枕は手を枕にする事、枕するを「まく」といふ事も既に述べた(卷一、「六六」)。
○劍刀《ツルギタチ》――身に副ふの枕詞、これも上に出づ。
○若草《ワカクサノ》、其嬬子者《ソノツマノコハ》――若草は「つま」の枕詞で、これも既出。嬬は借字でこゝは夫の事、「子」は親んで添へた語。
○不怜彌可《サブシミカ》、念而寢良武《オモヒテヌラム》――「さぶし」は心淋しく慰め難き意、「み」は形容詞の語根につく一種の接尾辭、「さぶしみ」は「念」にかゝる修飾語、「さぶしみ念ふ」はつまりさぶしく思ふ意で、明日香皇女殯宮の歌に、「いやめづらしみ思ほしゝ云々」とあるに同じ語法である(「一九六」の歌參照)。「か」は疑辭。
(638)○悔彌可《クヤシミカ》、念戀良武《オモヒコフラム》――此の二句は流布本にはないが、代匠記が異本によつて補つたのである。げにこゝの調子は對句ならでは物足らぬ所であるから、普通本には早く脱ちたのであらう。類聚古集、神田本、西本願寺本、細井本にはあるから、それによつて假りに補つた。
○時不在《トキナラズ》、過去子等我《スギニシコラガ》――過ぐるは死ぬ事で、既に述べた。時ならず過ぐるは若くて、死ぬべき時でもないのに死んだ意、「子等」は上の「とをよる子等」と同じく采女をいふ。古義は「子等我」の「我」を「香」の誤として「かな」の義に解き、「朝露のごと、夕霧のごと、過ぎにし子等かな」と後からかへる語勢と見てゐる。新考も之に同じて卓見とまでたゝへてゐるが、おぼつかない。そは次の句の所で同時に述べよう。
○朝露乃如也《アサツユノゴトヤ》、夕霧乃如也《ユフギリノゴトヤ》――舊訓は「あさつゆのごとや〔右○〕、夕霧のごとや〔右○〕」と訓んでゐるが、玉(ノ)小琴は「如也はごと〔二字右○〕と訓むべし。也の字は焉の字などの如く、たゞ添へてかけるのみなり。ごとや〔三字右○〕と訓みては、や〔右○〕文字調はず。さて此の四句は、子等が朝露のごと夕霧のごと、時ならす過ぎぬると次第する意なり。かくの如く見ざれば語調はざる也」といつてゐる。思ふに前の句で、古義が「我」を「香」の誤としたのは、小琴の此の倒句説が本で、更に一歩を進めたのであらう。初から「香」とあるなら、それも然るべきだが、強ひて誤字として説を成すほどの事はあるまい。「也」を添字とする小琴の説もさる事で、卷八「芽子者散去寸《ハギハチリニキ》、黄葉早續《モミヂハヤツゲ》也〔右○〕」(一五三六)、卷十「思はすぎず、戀許増益《コヒコソマサレ》也〔右○〕」(二二六九)などいふ例もあるけれど、こゝは「朝露の如や云々」と字餘りに訓む方が、寧ろ此歌の趣にふさはしいかにも思はれるから、これも強ひて漢文流の書式と見ねばならぬ事はあるまい。そも/\假りに「也」は訓まないにしても、何が故にさる文字を使用したかを考へて見ねばならぬ。それは歌の(639)語勢上、漢文ならば也(ノ)字などのあるべき所といふ見解から、出たものと見ねばなるまい(然らざれば「也」文字徒らである)。此の意でこの歌を味へば、たしかに結句に感歎の意味があるので、「時ならす過ぎにし子等が命は朝露の如くなるかな〔四字傍点〕、夕霧の如くなるかな〔四字傍点〕」といふほどの氣分を「也」であらはしたものと見るべきであらう。隨つて倒句法ではないのである。又「我」が「香」の誤でもないのである。隨つて又誤解なきやう「朝露のごとや〔右○〕、夕霧のごとや〔右○〕」と舊訓の如く訓むがよいのである。本居翁は宇餘りを嫌ふ癖があるから、ごとや〔三字傍点〕と訓みては文字調はすなどいはれたのであらう。(小琴を難じた攷證、美夫君志等の説の方がよい。)
◎一篇の大意――紅顔うるはしく容姿なよやかな吉備津(ノ)采女は、末長かるべき命を何と思うてか…露こそは朝に置いて夕には消えるといふし、霧こそは夕に立ちて朝には失せるといふが、露でも霧でもない采女は何として……あの音に名高き采女が、はかなくなつたといふ噂を聞いた我さへ、平生おろそかに見過してゐた事が今更悔しく思はれるのに、まして親しく手枕を交して同衾せられた夫なる人は、どんなにか戀ひこがれて淋しく獨寐する事であらう。思へばまだ死ぬべき時でもないのに、はかなくなつた采女は、朝露のやうな、夕霧のやうな脆い命であつたわい。
既に述べた如く、采女の死は變死と思はれる。音に聞ゆる美人といふばかりではなく、その變死といふが同情を惹いて、この一篇が成つたのであらう。で、自殺といふ事を露骨にいふを避けて隱微に言ひまはし、斷ゆるが如く、續くが如く歔欷して語るに堪へぬ如き筆法を用ひたので、それが此歌の句法をして變化あらしめた所以なのである。檜嬬手は二段に分けて「失等言」までも一段としてゐるが、上述の意義から推せば「長命乎」で一段、(640)「矢等言」で二段、「念戀良武」で三段とすべきであらう。「時不在」以下の四句は結末で、前意をくりかへして收束したもの(初の二句は第一段を承け、次の二句は第二段を承けてゐる)、句法簡潔にして緊密、結句を對句的に繰り返して、五、七、八、八、ととぢめたのは、早く佛足石の歌體の前驅をなしたものといふべきである。(憶良が令v反こ惑情1歌(八〇〇)の、段落毎に、五、七、七、と結んだと共に長歌に於ける一種の變法といふべきであらう。)人麿の長歌はとり/”\にめでたいが、中にも高市皇子殯宮の歌(一九九)は雄渾を以て優り、從2石見國1別v妻上來時の歌(一三一)は調を以て勝り、此歌は句法の變化を以て勝り、いづれも他の追隨を許さぬもの、此の三者を兼ね備へて人麿の名、永へに朽ちずといふべきである。
 
短歌二首
 
218 樂浪之《サザナミノ》 志我律子等何《シガツノコラガ》【一云、志我津之子我《シガツノコガ》】 罷道之《マカリヂノ》 川瀬道《カハセノミチヲ》 見者不怜毛《ミレバサブシモ》
 
○樂浪之《サザナミノ》、志我津子等我《シガツノコラガ》――樂浪之は志我の枕詞、近江の志賀の津から出た采女で、志賀津の子といふのであらう。
○罷免道之《マカリヂノ》、川瀬道《カハセノミチヲ》――此の二句で采女の死は入水であらうといふ事が推されるのである。罷道はあの世にまかる道即ちよみぢ〔三字傍点〕をいふので、光仁紀、永手大臣薨去の時の宣命に「美麻之大臣罷道〔二字右○〕宇之呂輕意太比、平罷止富良須倍之止詔」とあるが、それである。考は此歌の寵道を送葬の道と解したので、此の宣命の文をさして「黄泉の道をのたまへど言は同じ」といつてゐるが、言ばかりではなく、事も意も同一なのである。釆女は(641)投身して川瀬を傳うて、あの世へ往くのであるから、それが即ち罷道の川瀬の道である。(身を投げた處は恐らくは淀であらうが、邊には瀬もあらうし、屍は淺瀬にかゝつてゐたかも知れぬ。とにかくかゝる場合、歌の詞として川瀬の道といふに難はあるまい。)然るに玉の小琴は「道」を「邇」の誤として「まかりにし」と訓み、古義、檜嬬手及新考、新講等皆之に從つてゐるが(大方は葬列が川を渡つて行く意に解してゐる)、このまゝでも意はよく聞えるのに、何故誤字とせねばならぬのであらうか。但、拾遺集には「さゞ浪や志賀のてこらがまかりにし〔五字傍点〕川瀬の道を見ればかなしも」と改めて載せてゐるから、小琴は之に據つたのかも知れねど、あらゆる古寫本皆罷道〔二字右○〕とあるし、拾遺集の頃は萬葉の歌はよく訓めず、勝手に引き直して載せてゐるから、憑據とすべきものでない事は、今更いふにも及ぶまい。「道」といふ語の重複を云々する人もあるが、「玉篠〔右○〕のを篠〔右○〕」「青旗〔右○〕乃木旗〔右○〕」(一四八)、「伏庵〔右○〕の曲庵〔右○〕」(八九二)、「吾大君〔右○〕の――宜しき君〔右○〕」(一九六)、「丹管士《ニツツツ》の匂はむ時〔右○〕の櫻花咲きなむ時〔右○〕」(九七一)、「風雜り雨降る夜〔右○〕の雨雜り雪降る夜〔右○〕」(八九二)などのやうに、同義異語の重複には「の」を以て、主要な名詞を繰り返すのが古文の常である。罷道の河瀬の道も、全く同調の句法なので、これ故にこそ「罷道」と「河瀬の道」とは同じものを指す事が知られるのである。昔からこを入水と解した人は殆どないが、たゞ代匠記は早く疑を挾んで、長歌の所では「思ふ故ありて川に行て身を投と見えたり」といひ、この反歌でも「川瀬の道は身を投むとて行きしをいふなるべし」といつてるのは流石である。近頃の新考も變死とは認めてゐるらしいが「川瀬道」をばなほ送葬の道と解してゐるのは遺憾である。就いて思ふ、大和物語に……昔、奈良の御代に或るうるはしい采女が帝を思ひそめて猿澤池に投身して死んだのを、人麿が隣んで「わぎもこが寐くたれ髪を猿澤の池の玉藻と見るぞか(642)なしき」といふ歌をよんで弔うた説話が見えてゐる。大和物語といふもの杜撰なものであらうが、此の吉備津の采女の説話が轉訛して、萬葉のよく讀めぬ時代までも、曲りなりに言ひ傳へられたものではなからうか。とにかく采女入水の傍證として參照すべきものであらうと思ふ。
◎−首の意――あのうるはしい志賀津の子が身を投げたといふ川瀬のあたりを見ると、あまりの悼ましさに、そゞろうら淋しく思はれるわい。
身を投げたとは言はずに「罷道の川瀬の道」といふも隱微な言ひ廻しである。試に當時を思ひ浮べると、采女の死はともあれ、あの多情多感の詩人が、川風寒き所、悄然と立ちつくしてゐる姿の方がいとゞ偲ばれるのである。
 
219 天數 凡津子之《オホツノコガ》 相日《アヒシヒニ》 於保爾見敷者《オホニミシカバ》 今叙悔《イマゾクヤシキ》
 
○天數、凡津子《オホツノコ》――「凡津」を考に「おほつ」と訓まれたのがよい。近江の大津の事で、前の歌なる「志我津の子」と同じ人を指すのである。「大」と「凡」と訓相通はし用ひた事は、推古紀に「大〔右○〕河内直」とあるを天武紀には「凡〔右○〕河内直」と書き、同紀に「大海」とある氏を姓氏録には「凡海」と書ける例を擧げて、攷證が辨じた通りである。(舊訓に「おふしつのこ」と訓み、代匠記も「凡直津子」といふ采女の夫なるべきを説いてゐるなどはいみじき誤である。)さて「天數」は大津の枕詞であらうが、義も訓もよく判らぬ。舊訓「あまかぞふ」を考は「そらかぞふ」と改め、大空の星の數を大凡の推しあてに數ふる義に説いてゐるが、いかゞあらうか。檜嬬手は「佛説の天數にて兜率の三十三を思へるなるべし、さらば三々並ぶ意にて三々並《サヾナミ》とょまする義訓とすべし」といつてゐる(643)が、隨分むづかしいことを考へたものである。古義は「佐々數」又は「樂浪」などの誤で、「さゝ浪」と訓むべきものとしてゐる。(左〔右○〕の草體「※[左の草書]」から天の草體「※[天の草書]」に誤まつたものとの意であらうか。又數は馬數而《ウマナメテ》などもあつて「なみ」と訓むべき文字だといつてゐる。)げに大津の枕詞としては、「さゞなみ」が最もふさはしいけれど、その説明には容易くうなづけぬ。それから前の歌「志賀津子|等何《ラガ》」とあるに擬らへて、こゝも「凡津子等之」の「等」が脱ちたのであらうといふ人もあるが、一本には前の歌も「志賀津之子我」とあるから、何ともいへない。
○(凡津子之《オホツノコガ》)相日《アヒシヒニ》――道行きぶりにふと大津の子を見た意であらう。今ならば「凡津子爾〔右○〕相日」といふべき所だが、昔は我に心あつて逢うた場合は「○○に〔右○〕あふ」といひ、心なくして遇然出逢うた場合は「○○が〔右○〕あふ」といつたのである。古義にいろ/\例語を擧げてゐるが、卷十六、怕物歌に「人魂のさをなる君が〔右○〕たゞひとりあへりし雨夜は非左思《ヒサシク》所念」(三八八九)、結句は判然せぬが、雨夜の獨り歩きに、ふと幽靈の如く青ざめた人に出會うた意である。古事記、神武天皇の條に「打羽擧來人〔右○〕遇2于速吸門1」とある文を、記傳に「打はぶり來る人、速吸門に遇ひき」と訓まれたのも其の意で、今の俗語でいへば、さる者が〔二字右○〕やつて來たといふほどの心ばへである。又古今集春部の端書に「志賀の山越に女の〔右○〕多くあへりけるに」、拾遺集に「散りちらず聞かまはしきを故里の花見てかへる人も〔右○〕あはなむ」、伊勢物語、宇都(ノ)山越の條に「宇都の山べに至りてこ……修行者〔三字右○〕あひたり云々」、さて其時の歌、普通本には「駿河なる宇都の山べのうつゝにも夢にも人に〔右○〕あはぬなりけり」とあるが、古本には「人の〔右○〕あはぬなりけり」とある。これが古格で、歌の意もその方がおもしろい。此等の例から推せば、こゝもいつぞや采女の道行くのを、人麿がちらと見たといふほどの意であらう。又「相日」を舊訓は「あひしひを」と訓んでゐる。それ(644)も惡いとはいへまいが、古文の語遣としてはやはり「あひしひに」の方(考の訓)がよからう。
○於保爾見敷者《オホニミシカバ》云々――長歌で述べた如く、いつでもと思ふ心の怠りに等閑に見過したのが今となつては悔しいといふのである。
◎一首の意――いつぞや大津の子を途中で見かけた時、深く心にもとゞめず等閑に見過したのが今となつては悔しく思はれる事ぞ。
 
讃岐|狹岑《サミ》島視2石中死人1、柿本朝臣人麿作歌一首并短歌
 
狹岑島は今沙彌島と書く、著岐國仲多度郡、宇多津の海上二海里許りにあつて、南北十町、東西三町許り、鹽飽群島中の一孤島であるが、地勢平衍で割合に人家多く、理源大師の誕生地といふを以て此の地方には名高い島である。狹岑、舊訓には「さみね」とあるを(拾遺集も同樣)、代匠記、考等は、反歌に「佐美乃山」とあるに據つて「さみの島」と訓み改め、爾來大方それに從つて來た。たゞ古義は舊訓を主張し、「岑」(ノ)字は「みね」又は「ね」と訓むべく「み」と訓むべき文字ではないといつてゐる。それも道理ある言だが、反歌の「佐美乃山」の「乃」を「尼」か「年」かの誤であらうといふのは、いかゞと思はれるし、處の者は代匠記時代でも「さみ島」と唱へてゐたといふから、姑く「さみ」と訓む事にする。(もと「さみね(ノ)島」と唱へて、「狹岑」の二字を當てたのを、稱呼は早く略されて「さみ(ノ)島」となつても、文字は本のまゝであつたのかも知れぬ。我國には此類の名稱が多い。)
○石中死人――歌に荒床とあるから、岩石などの多い荒磯邊に倒れてゐたのであらう。拾遺集に「讃岐のさみ(645)ねの島にして、石屋の中にてなくなりにたる人を見て」と端書したのは誤解であらう。
 
220 玉藻吉《タマモヨシ》 讃岐國者《サヌキノクニハ》 國柄加《クニカラカ》 雖見不飽《ミレドモアカヌ》 神柄加《カムカラカ》 幾許貴寸《ココダタフトキ》 天地《アメツチ》 日月與共《ヒツキトトモニ》 滿將行《タリユカム》 神乃御面跡《カミノミオモト》 次來《ツギテクル》 中乃水門從《ナカノミナトユ》 船浮而《フネウケテ》 吾榜來者《ワガコギクレバ》 時風《トキツカゼ》 雲居爾吹爾《クモヰニフクニ》 奥見者《オキミレバ》 跡位浪立《シキナミタチ》 邊見者《ヘミレバ》 白浪散動《シラナミサワグ》 鯨魚取《イサナトリ》 海乎恐《ウミヲカシコミ》 行船乃《ユクフネノ》 梶引折而《カヂヒキヲリテ》 彼此之《ヲチコチノ》 島者雖多《シマハオホケド》 名細之《ナグハシ》 狹岑之島乃《サミノシマノ》 荒磯《アリソ》面《モ・ワ》爾《ニ》 廬作而見者《イホリテミレバ》 浪音乃《ナミノトノ》 茂濱邊乎《シゲキハマベヲ》 敷妙乃《シキタヘノ》 枕爾爲而《マクラニナシテ》 荒床《アラトコニ》 自伏君之《コロブス〔四字傍点〕キミガ》 家知者《イヘシラバ》 往而毛將告《ユキテモツゲム》 妻知者《ツマシラバ》 來毛問益乎《キモトハマシヲ》 玉桙之《タマボコノ》 道太爾不知《ミチダニシラズ》 (646)欝悒久《オボホシク》 待加戀良武《マチカコフラム》 愛伎妻等者《ハシキツマラハ》
 
○玉藻吉《タマモヨン》――讃岐の枕詞、良き藻草の多く生えてゐる意に解かれてゐる。昔の人は海濱の形容には、取りあへず藻草の靡く事をいふから、つまりは磯濱のめでたき意であらう。
○國柄加《クニカラカ》、雖見不飽《ミレドモアカヌ》云々――「から」といふ語がいろ/\ある中に、こゝは名詞に附く接尾辭らしい。これも用法多岐に亙つて明らめ難いが、一般には「○○故」の意に解釋されてゐる。(俗に「○○のせい〔二字傍点〕」(所爲?)といふに似て、本來は物の品位、分際をあらはす趣の語である)。こゝも「此の國がらがめでたい故であらうか、見れども見あかぬ」といふほどの意である。此種の「から」は今は「人がら」「身がら」「事がら」「處がら」などの如く多くは濁音に唱へるが、卷三「吉野乃宮者、山可良志〔三字傍点〕貴有師云々」(三一五)、卷十七「ふりさけ見れば可牟加良夜〔五字傍点〕そこばたふとき云々」(三九八五)などあるから、昔は清音に唱へたものらしい(多くは「柄」といふ借字を用ひてゐるから、確かな證にはならぬが)。今でも用言を承ける場合は、「思ふから」「見るから」などの如く清んで唱へ、又「折から處がら」などの如く混用する事もある。畢竟清濁は既に述べた如く、時代により、人により、又慣用によつて異なるから、強ちに泥むべきではない。こゝも今ならば「國がらか」「神がらか」と濁るべきであらうが、昔の語遣払では「國からか」「神からか」であつたらしい。さて考は此の「から」を濁音に訓んで「ながら」の意に見たのは、誤であらう。又「雖見不飽」を舊訓「みれどもあかぬ」とあるを、「あかず」と改めたのも、よくない。――「國からか〔右○〕」の下の「か」は疑辭。
(647)○神柄加《カムカラカ》――上代の人は國土即ち神なりと考へてゐたので、上の「國から」の「國」は、國土その物を指し、こゝの「神」はその神靈を指すのである。古事記、國生の條に「次生2伊豫之二名島1、此島者身一而有2面四1、毎v面有v名、故伊豫國、謂2愛比賣1、讃岐國、謂2飯依比古1云々」とある趣である。
○幾許貴寸《ココダタフトキ》――舊訓「こゝばかしこき」とあるを、考は「こゝだたふとき」と改めた、それがよからう。「こゝだ」は「こゝら」と同じく、「そこぱく」「いかばかり」などの義であるが、轉じて、甚しく、多く、などの意に用ひられる。卷五「妹がへに雪かもふると見るまでに許々陀〔三字傍点〕もまがふ梅の花かも」(八四四)、卷十四「玉川にさらす手づくりさら/\に、なにぞこの子の己許太〔三字傍点〕かなしき」(三二七三)など例が多い。舊訓の「こゝば」も惡いとは言へぬが、多くは東歌などに用ひられてゐるので、やゝ異例に屬する。
○天地《アメツチ》、日月與共《ヒツキトトモニ》、滿將行《タリユカム》、神乃御面跡《カミノミオモト》――上に引いた古事記の趣をうけて、天地日月と共に滿ち足らひて、いやます/\に榮え行くべき神の御面の國ぞといふのである。舊訓「あめつちの〔右○〕ひつき」は義を成さぬ。考が「あめつち」と四言に訓んだのがよい。又「滿將行」を「みちゆかむ」と訓んだのは無理もないが、滿ち足る義であるから、卷十三に「天地|丹《ニ》、思|足椅《タラハシ》」(三二五八)、また神名、面足尊などに倣つて卷九「望月之、滿有〔二字傍点〕面輪二」を「たれる」と訓んだ例に擬らへて、これも「たりゆかむ」といふ考の訓に從ふべきである。
○次來――此の句、明かでない。代匠記は「つぎてくる」と訓み、「上中下とも始中終ともいふ時、上より中に次ぎ、始より中に次ぐゆゑ、中といはんとて次ぎて來るといふ歟」といつてゐる。これは要するに、中古の物語などで次女の事を中(ノ)君といふ心ばへで、「中」の枕詞の如くに見たのであらうが、どうあらうか、しつくりした説とは(648)いへない。考は神代より言ひ繼ぎ來れる意に解し、爾後の諸註も大方その意に見てゐるが、語が少し足らぬやう思はれるので、古義は「※[なべぶた/ム]」(ノ)字を補つて「※[なべぶた/ム]次來《イヒツゲル》」としてゐる。げにさう言ひたげな所ではあるが、漫りに私意を以て本文を増減すべきではないから、なほよく考ふべきである。但、神代より言ひ繼ぎ來れる意ならば、攷證、美夫君志などの如く「つぎてこし〔二字右○〕」と訓むがよいかも知れぬ。
○中乃水門從《ナカノミナトユ》――昔の那珂郡の港であらう。今は多度津と合併せられて仲多度郡となつてゐるが、その中の金藏郷、中津といふ所が、その名殘であらうといはれてゐる(丸龜の西北一里弱)。「從」を古義は「爾」の意に見てゐるが、やはり「より」の意であらう。
○時風《トキツカゼ》――一般には汐の滿ち來る時、吹き起る風といはれてゐる。攷證は思ひよらぬ時に吹き來る風といつてゐる。
○跡位浪立《シキナミタチ》――義訓「あとゐなみたち」と訓んでゐるが義を成さない。考は「敷坐《シキヰル》」てふ意の字なるを、重浪の重《シキ》に借りて書けりと説き、なぼ卷十三の長歌「跡座浪〔三字傍点〕之、立塞道麻《タチサフミチヲ》」(三三三五)、その或本(三三三九)に「敷浪乃 寄濱邊丹」又「腫浪能《シキナミノ》 恐海矣《カシコキウミヲ》」とあるなどを擧げて、さま/”\に書き分けて重浪といふ訓を知らせたのであるといつてゐる。しつくりした書きざまともいへないが、歌の意は「重浪」にふさはしい所であるから、姑く考の訓に從つておく。重浪は頻りに立つ浪で、あとから/\層々と立ち重なつて來る浪の事である。(あとから起つて、その位置になり代はる意で當てたのでもあらうか。)
○邊見者《ヘミレバ》――舊訓「へを〔右○〕みれば」は穩かでないが、考に「へた〔二字傍点〕みれば」と改めたのも穩かではない。「海べた」など(649)いふ語もないではないが、祝詞に「奥津藻菜、邊津藻菜」本集卷二、「奥津加伊、邊津加伊」(一五三)などの如く、「奥」に對して「邊《ヘ》」とのみいふが常であるから、古義、美夫君志等に從つて「へみれば」と訓むべきである。
○白浪散動《シラナミサワグ》――散動を舊訓は「とよみ」と訓んでゐるが、考は「さわぐ」と改めた。文字からいへば「とよむ」とも「さわぐ」とも訓まるべく、意義もどちらでも通ずるが、攷證にいふが如く、音につきていふと形につきていふとの差で、こゝは上に奥見者、邊見者とあるから形につきて「さわぐ」と訓むがよからう。
○鯨魚取《イサナトリ》――海の枕詞、既出。
○梶引折而《カヂヒキヲリテ》――梶は船尾にある舵の事ではない。艫櫂の事である。梶引き折るとは艫を引きたわめて漕ぐ事で強く押す形である。
○彼此之《ヲチコチノ》、島者雖多《シマハオホケド》――所謂鹽飽群島の中でも、沙彌(ノ)島の附近には與島、牛島、瀬居島、眞島等あまたの島々が散點してゐる。「多けど」は「多けれど」の意。
○名細之《ナグハシ》――藤原宮御井歌(五二)で述べた如く「名細し」は名のめでたき義、名高き義であるから、意義からいへば普通の修飾語の如く聞えるが、終止形で終はつてゐる形は枕詞の趣である。枕詞の如く用ひられた修飾語といふべきであらうか。よく考ふべきである。
○荒礒《アリソ》面《モ・ワ》爾《ニ》――舊訓「ありそもに」を代匠記及考は「面」を「回」の誤として「ありそわに」と訓み改めた。(古義、檜嬬手も同説であるが、例の主張で「ありそみ〔右○〕」と訓じてゐる。)げにこゝの趣、荒礒回とありたい處とは思はれるが「荒礒面〔右○〕」でも義は通ずるから、強ひて改めるにも及ぶまい。「も」は「おも」の義で、こゝは濱づらを(650)いふのである。
○廬作而見者《イホリテミレバ》――舊訓「いほりつくりてみれば」は拙ない。代匠記も同訓で要を得かねたものと見え「見者〔二字右○〕の上に一句半を脱《オト》せりと見えたり」といつてゐる。が考に至りこのまゝで「いほりしてみれば」と訓んだが、略解は更に「いほりてみれば」と訓み改めた。それがよからう。「いほりて」は「いほり」といふ名詞を活用したもので(「いほ」といふを良行に活かせたものと見るべきか)、やがて庵を作つて宿る義である。此の語、廣く用ひられて、必ずしも廬を結んで宿らずとも、しばし立ち寄つて休息しただけでも「いほりす」といふやうだから、こゝもたゞ上陸しただけの意かも知れぬ。わざ/\「作」(ノ)字を添へて「廬作」としてあるから、假屋を結んだ意かとも思はれるけれど、前後の趣から推せば、やはり舟漕ぎ寄せて一時避難上陸しただけの意ではあるまいか。それとも風浪連日に亙つて、その間假屋を結んで宿つたのでもあらうか。
○敷妙乃《シキタヘノ》――枕の枕詞、既出。
○荒床《アラトコニ》――浪うち寄する荒磯べを寢床にして横はつてゐる意である。
○自伏君之《コロブキミガ》――從來舊訓を初め「自伏」の二字を「ころぶす」と訓んだのは、上の明日香皇女殯宮の歌(一九六)なる「玉藻之如許呂臥者」の二句を「玉藻の如くころ臥せば〔五字傍点〕」と訓んだ所から類推したのであつた。然るにそこに述べた如く、そこを「玉藻之如許呂《モコロ》」と訓む事にすれば、それとは離れて、こゝの訓を考へねばならぬ。新考は「臥伏」の誤として「こいふす」と訓まれたが、訓はわるくもなからうけれど、誤字説には俄に賛同されない。全釋の「よりふす」(寄り臥す義)は尤な訓で、外に訓みやうも考へられないけれど、寄りふすは物に寄り添うて(651)安らかに臥す意で、行き倒れ人の形容にはふさはぬ憾はある。(さればこそ新考は「臥伏《コイフス》」といふ誤字説を唱たのであらう。)然るに代匠記は、舊訓のまゝ「ころぶす」と訓んで、南京の法相宗では「自《オノヅカ》ら」といふべき所を、常に「ころと」と訓む由を述べて、「相傳の古語なるべし」といつてるのが故ありげに聞えるが、よく研究すべきである。とにかくに、こゝは明日香皇女殯宮の歌の如何に拘はらず、「ころぶす」といひたげな所と思ふから、姑く舊訓のまゝにして後の研究を待つ事にする。「ころぶす」は「ころびふす」で横臥する事である。――さてここの文意は「上陸して見ると、濱づらに倒れて横はつてゐる人があるが、その人(君)の家路を我もし知らば」と下文につゞく意であるが、そを約めて直ちに言ひ下したのである。
○家知者《イヘシラバ》――我れその家路を知らばの意。
○來毛問益乎《キモトハマシヲ》――舊訓「きてもとはましを」と訓み、代匠記、考、攷證、美夫君志等皆之に從つてゐるが「て」に當るべき文字がないから、略解に「きもとはましを」と改めたのがよからう。古義、檜嬬手は之に從つてゐる。
○路太爾不知《ミチダニシラズ》――代匠記、考を初め、諸註大方、妻の知らぬ意に解いてゐるが、文意を按ずるに、こゝは上の對句をそれ/\別々に承けた所で、「家知らば往きても告げむを、我れその家路を知らず、告げむよすがもない。妻知らば來も問はましを、知らねばこそおぼほしく云々」の意に見るべきではなからうか。然らざれば句法が散漫に流れるかに思ふ。もし衆説の如く見るべきものならば、「家知者、往而毛將告、妻知者、來毛問益乎」といふ對句の前聯を忽ち除却して、後聯だけを「玉桙之、路太爾不知、欝悒久、待加戀良武、愛伎妻等者」と承けた事になるので(卷一、春秋の優劣を判ずる歌「一六」の末節と同じ形である)、これも昔の對句の承け方が、嚴密な尺度(652)で見るべきものではないといふ證據の一つにならうと思ふが、こゝは恐らくはさうではあるまい。
○欝悒久《オボホシク》――「おぼほしく」で既に述べた如く(一七五)おぼつかなき義、心結ぼれて晴やかならぬ意である。卷五「國遠き道の長手を意保保斯久〔五字傍点〕計布や過ぎなむ、ことゝひもなく」(八八四)。
○愛伎妻等者《ハシキツマラハ》――舊訓「をしきつまらは」を、考に「はしきつまらは」と改めたのがよい。「はしき」はいとほしき意で、めでいつくしむ趣の形容詞である。「ら」は助辭。「待加戀良武」の「か」は疑辭。
◎一篇の大意――讃岐の國は國がらがよい爲であらうか、しろしめす神がらが、めでたい爲であらうか、見れど見れど兒飽かず、たふとい國である。一體この國は、天地日月と共に足り整うて、いやます/\に榮え行くべき神の御面の國であると、昔から言ひ傳へて來た國であるが、我この度、その國の那珂の港から船出して漕いで來ると、生憎、汐時の風が雲居から吹き來つて海が荒れたので、沖を見ると重浪層々といやが上に立ち重なり、磯邊を見ると白浪岸に碎けていかにも物すごい。あまりに海の恐しさにしばし櫂を轉じて、狹岑の島――そこらあたり避難すべき島々は數多あるが中にも名高い狹岑(ノ)島――の荒磯べに辛く船を着けて上陸して見ると、思ひきや波音茂き濱邊の岩を枕に、倒れ伏してゐる人があつた。あはれこの人、いづくいかなる人であらう。定めて家もあらう、妻もあらう。我その家を知らば、往きても告げんものを、家路知らねば、告げやらんすべもない。妻なる人も、かくと知らば飛んでも來ようものを、さうとは知らず、歸りの遲きを待ちわびつゝ、思ひ結ぼれて戀ひこがれてゐる事であらう。あはれそのいとしき妻はよ。
祝詞の風格を學んで、ともすれば神を説き出すのは人麿の常套手段である。これがために幾段の荘嚴と崇高とを(653)加へて、我國の歌をして重からしめたのは言ふまでもない。けれど曾て故藤岡東圃も言つた如く長所はやがて短所で、此歌にはやゝその弊が規はれてゐるといはねばならぬ。冒頭「神からかこゝだ貴とき」といひ、「天地日月と與に足り行かむ神の御面」といふあたり、筆法森嚴、何事が起るかと思はれるやうだが、結局名もなき死人が一人出て來るだけなので、終に泰山鳴動して鼠一疋の感を免れない。たゞ人麿は人生の最も嚴肅なる死といふ事に深い同情を持つてゐたのはいふまでもないが、中にも不慮の變死といふ事には最も情を動かしたらしいので、自分と關係のない吉備津釆女の爲に歔欷して聞くに堪へざるが如き調を爲し、更に此歌では名もなき行倒れ人を山水明媚の境地に見出し、屍を收むる人もなき有樣にいとゞ心を動して、覺えず冒頭の數語が發せられたらしく思はれるので、この多涙多感なる純情詩人の性格を窺ふべき好材料かと思はれるのである。
 
反歌二首
 
221 妻毛有者《ツマモアラバ》 採而《ツミテ・トリテ》多宜麻之《タゲマシ》 佐美乃山《サミノヤマ》 野上乃宇波疑《ヌノヘノウハギ》 過去計良受也《スギニケラズヤ》
                    
○妻毛有者《ツマモアラバ》云々――從來この歌の解釋に二樣ある。それは第二句の「多宜」といふ語の見解が異なるためである。(甲)は皇極紀の童謠「米だにも多礙底《タゲテ》通らせかましゝのをぢ」や、雄略紀の「共食人《アヒタゲヒト》」などを引いて「食ふ」義とし、歌の意を「此人もし妻あらば、此の狹岑(ノ)島の野の上のうはぎ〔三字傍点〕(嫁菜)を摘み取つて食うたであらうに、うはぎの時過ぎて食へなくなるまで、徒らに捨てられてあるのは妻なる人が無いのであらうか」と説く。考、古義等(654)は此の説で、近頃の新考、新講、全釋等も皆同説である。(乙)は「多宜」を上の「多氣婆奴禮云々」(一二三)の歌なる「多氣」と同語で、髪を取上ぐる事を、屍を取上ぐる義に轉じたものと解し、屍をうはぎ〔三字傍点〕にたとへて、うはぎ〔三字傍点〕の時過ぐるまで摘み取る人のなきによそへたものと説く。これは略解に引いた本居翁の説を初め、檜嬬手、攷證、美夫君志等皆同説である。(什匠記は疑を存して兩説を擧げてゐる。)さてこの兩説を按ずるに、(乙)の屍を取り上げ收めるといふ事、此歌には故ありげに聞えるが、既に述べた如く(「一二三」の歌參照)、取り上ぐる意のたけ、たく、は四段活用で、こゝの「多宜」は下二段でなければならぬから、同語と見るわけには行かぬ。こゝはやはり(甲)説によつて食ふ義に解する外はあるまい。しかし、過ぎにけらずやといふ語勢を味ふと、表面はうはぎ〔三字傍点〕の盛り過ぎた意には相違あるまいが、暗に時過ぐるまで死屍を收むる人のない趣をひゞかせたものと考へられる。かゝる折に、とりあへす由縁の人がないのかとの感を起すのは人情の自然でもあるし、單にうはぎ〔三字傍点〕を食ふだけの事としては歌の表現も、しつくりしないかに思はれる。たゞ從來の(乙)説の如く表面から死屍を取上げる事と説くのは、語格上どうしても當らないが、作者はさる忌むべき點に露骨に觸れる事を避けて、うはぎを摘み採つて食ふといふ方面から筆を着けて、「過ぎにけらずや」の一句で、うはぎの盛り過ぎた事を聞かせると同時に、それとなく死屍の半腐ちかゝつてゐた趣を匂はしたものではあるまいか。さう見れば歌も餘程しつくりすると思ふ。次に訓に就いて一考すると、舊訓は第二句を「とりて〔三字傍点〕たぎまし」と訓んでゐるが、「とりて」も惡いとは言へまいけれど、うはぎを摘み採る義ならば衆説の如く、「つみて」と訓むがよからう。(「採」の字は集中多く「つむ」と訓んでゐる。又「たぎまし」は上二段とならうから、こゝには當らない。)しかし屍を取り上げる意に見る(乙)説は(655)勿論だが、その意を匂はしたものと見る説でも、寧ろ「とりて」と訓むがよからうと思ふ。「つみて」ではよくひびかないからである。たゞ訝かしきは攷證と、美夫君志とで、歌の意義は屍を取り上げると解きながら、訓は考に從つて「つみて」と訓んでゐる。殊に不思議なのは美夫君志で、本文の解釋は攷證の文をそのまゝ取つて屍を取上げる意に説いてゐるが、その別記には「多久」と「多宜」と別々に標題を掲げて、多久は四段活用で取り上ぐる事、多宜は下二段で食ふ義である事を數多の例證を擧げて詳細に論じ、こゝの「妻もあらば」の歌は食ふ意に見るべき事を説いてゐる。後に説が變つたのであらうか、訝かしい事である。――さて佐美の山〔右○〕といひ野〔右○〕(ノ)上といふ、矛眉のやうではあるが、元來この島は大體平衍な高地で、山といふべきほどのものはないが、卷一(五四)にも巨勢山とも巨勢の春野ともいつたやうに、たゞ大凡をいふので泥むべきではない。野上は「野のへ」で「へ」はあたりの義、過ぎにけらずやの「や」は反語。
◎一首の意――此の人、妻があるならば、此の野べのうはぎを摘み採つて食に供しさうなものだに、見ればうはぎは盛り過ぎて、食へなくなつてゐるではないか。して見れば或は妻なる人が無いのかもしれぬ。(妻もなく縁者もなく倒れたまゝ時過ぎるまで收める者もないとは何と氣の毒な人であらうぞ。)
うはぎについて殊更に云々したのは或る人々のいふが如く或は餓死ででもあつたであらうか。
 
222 奥波《オキツナミ》 來依荒磯乎《キヨルアリソヲ》 色妙乃《シキタヘノ》 枕等卷而《マクラトマキテ》 奈世流君香聞《ナセルキミカモ》
 
○色妙乃《シキタヘノ》――敷栲の借字で、枕の枕詞、既出。
(656)○枕等卷而《マクラトマキテ》――枕にするをまくといふ事、これも上に出づ。「と」は「として」の意。
○奈世流君香聞《ナセルキミカモ》――「なせる」の「な」は「ね」(寢)と通音で、「寢たる」といふほどの義である。美夫君志に「この言はな、ぬ、ね、と活く」といつてるのは少し明瞭を缺くが、こはぬ、ね、と活く上二段の動詞で、そのね〔右○〕(將然)が音通で「な」となり、その「な」が更に佐行四段に轉じて例の敬語法となつたものである(語が少しやさしくなるだけなので敬語法といふ名に泥んではならぬ)。その敬語法の已然段から、所謂現在完了の助動詞「り」に連なつたのが「なせる」で、枕と爲した〔三字傍点〕意ではない。古事記上、沼河日賣の歌に「毛毛那賀爾、伊波那〔左○〕佐牟遠《イハナサムヲ》云々」(寢《イ》をば寢《ネ》むをの意)、同、須世理毘賣の歌に、「伊遠斯那〔左○〕世《イヲシナセ》」(寢《イ》を寢《ネ》給への意)、集中卷十四に「伊利伎弖奈〔左○〕佐禰《イリキテナサネ》」(入り來て寢たまへの意)(三四六七)、卷十七「吾乎麻都等、奈〔左○〕須良武《ナスラム》妹乎」(吾《ア》を待つとて寢ぬらむ妹をの意)(三九七八)等皆同じ心ばへである。代匠記の一説に「枕と爲せる」意に説いてゐるが、こゝはそれでも、通ずるけれど、卷十四、十七の歌はそれでは解けない。同書の一説に、「な〔右○〕とね〔右○〕と音通すればねせる〔三字傍点〕といへるにや」といつてるのがよい。
◎一首の意――奥つ浪のうち寄する荒磯邊を枕にして、ひとり臥してをる人かな。氣の毒な人であるわい。
 
柿本朝臣人麿在2石見國1臨v死時、自傷作歌一首
 
人麿の石見で死んだ事が、この端書で明かであるが、生國を石見とする説のあるのは、これから推し當てにいふのであらう。
 
(657)223 鴨山之《カモヤマノ》 磐根之卷《イハネシマケル》 吾乎鴨《ワレヲカモ》 不知等妹之《シラニトイモガ》 待乍將有《マチツツアラム》
 
○鴨山之《カモヤマノ》――此の地名、今傳はらないので、所在明かでない。考はたゞ「常に葬りする山ならん」といつてゐるが、檜嬬手は國人の言を引いて、美濃郡の海岸とし、高津と同處で、港口に鴨山、鴨島といふがあつて繁華の地であつたが、後一條天皇万壽三年五月に津浪の爲めに崩れ失せたと稱へてゐる。けれど所謂高角は美濃郡でない事は既に辨じた如くであるから(「一三二」の歌參照)、此説は信を措くに足らぬ。大日本地名辭書は那賀郡|神村《カムラ》の山を之に擬し(都農津の南、國府の東北二里許)、石見の學者、藤井宗雄氏は濱田の舊城祉龜山を之にあてるさうだが(國府の西南一里餘)、何れも推しあてゞ確證はない。下の歌から推せばいづれ海に近い河のほとりであらう。
○磐根之卷有《イハネシマケル》――岩根を枕とする義で、死して葬られた事をいふのである。「し」は弛める助辭で、用法少ししつくりしないやうにも思ふけれど、上の「八六」の歌にも「磐根四巻手、死なましものを」とあるから、同じ用法と見るべきであらう。
○不知等《シラニト》――舊訓は「しらずと云々」と訓み、玉(ノ)小琴は「しらにと」と訓み改めた。此種の訓に就いては既に上の歌(二〇〇・二〇一)に疑義を述べたが、姑く小琴の訓に從つておく。古事記中卷の歌に「宇迦迦波久斯良爾等〔四字傍点〕、みまき入彦はや」を初め、集中にも例が多い。「に」は否定の助動詞である事は既に述べたが、「と」は古義に「語の勢を助けるのみにて、意には關らねば、捨てゝ聞くべし」といつてゐる。思ふに「しらにと」は「しらずて」といふほどの意であらうか。
(658)◎一首の意――もう死ぬばかりで、やがては鴨山の磐根を枕として横はるべき我が身を、さりとも知らずに懷かしき妹が待ちこがれてゐる事であらうな。
人麿の死に關する歌は疑點が多く、すべてがしつくり〔四字傍点〕しない。此歌も新考は『鴨山に葬らるゝ意ならば、今はまだ死にだにせざれば「岩根しまかむ」とこそいふべけれ、恐らくは旅にて病に罹りて鴨山の山べに假庵を作りて臥したりけむを「鴨山の磐根しまける」といふなるべし』といつてゐるが、又或は人麿が死後鴨山に葬られん事を遺言したので、歌はそれと定めて詠んだものと見てもよからう。だが下の「荒浪爾」(二二六)や「天離」(二二七)の歌などから推すと、後人が人麿の意に擬して詠んだものとの疑も起らんでもない。
 
柿本朝臣人麿死時、妻依羅娘子作歌二首
 
人麿の妻の事は考の別記に考證して前後四人とし、「其始め一人は思ひ人、一人は妻(正妻の意)なりけむを、ともに死て後にまた妻と思ひ人とありしなるべし」といひ、こゝの依羅(ノ)娘子は、後の嫡妻で、與に石見に下らず、京にありて訃報を聞いたものと説いてから、後人大方之に從ひ、近頃の書には確定の事實なるかの如く言ひなす人もあるが、實はまだ定まつた説ではないので、依羅娘子は石見で假りに得た思ひ人ではないかとの疑もあるのである。(さうすれば萬葉に見えてゐる人麿の妻は前後三人で、その中二人は思ひ人といふ事になるのである。)此の娘子を京に留れる妻と見たのは、恐らくは此の「今日/\と」の歌と、下なる「天離」の歌とは、遠方に在つて訃報を開いた時の作らしく聞えるからの推し當てゞあらうが、石見で人知れす契つた思ひ人としても、當座は人麿の死を知らずにゐたかも知れないし、知つても直ちにかけつける事も出來な(659)かつたかも知れぬから、此歌を解釋するに別に難はあるまいし、「天離」の歌も後人の擬作でもあるし、旅で死んだといふ心ちを誇張したものと思へば、これもさしたる難はあるまい。それよりも、次なる「石川に雲立ち渡れ見つゝしぬばむ」の歌は、寧ろ近くに在つて聞いた時の歌で、京にゐて詠んだ歌とは聞えない。且つ上なる「勿念跡」の歌(一四〇)も、石見で人麿に別れる時の歌と見る方が自然でもあるし、かた/”\吾輩は依羅娘子は石見で狃れそめた娘子ではないかと思ふのである。敢て異を立てるではないが、世には考の説を既定の事實かの如く言ひなす人が多いから、聊か注意を促がすのである。
 
224 且〔左○〕今日且今日《ケフケフト》 吾待君者《ワガマツキミハ》 石水《イシカハノ》 貝爾《カヒニ》【一云|谷爾《カヒニ》】交而《マジリテ》 有登不言八毛《アリトイハズヤモ》
 
○且今日且今日《ケフケフト》――古訓以來「けふ/\と」と訓んでゐる。「且」の字「旦」か「且」か明かでないが、代匠記は「且」と見て、「且は苟且の義にて、かりそめなればたしかならぬ心あり」といつてゐる。古義更に其義を釋して「確に其日と定めず、今日か今日かと思ふよしにて書ける字なるべし」と解いてゐる。或はさうかも知れぬ。隨て「且今日且今日」とくりかへすので、上を「旦」としたのは誤であらう。集中同じ書式は、卷九「且今日且今日わが待つ君が船出すらしも」(一七六五)、卷十「且今日且今日言ふに年ぞへにける」(二二六六)と二ヶ所見え、又卷八には「吾がせこを何時曾旦今登持苗爾《イツゾイマカトマツナベニ》」(一五三五)といふ例も見えてゐる。
○石水《イシカハノ》、貝爾交而《カヒニマジリテ》――「石水」は古訓以來「いしかは」と訓んでゐる。「水」を「かは」と訓むは義訓で例が多い。石川は鴨山の麓を流れる川であらう。固有名詞かも知れないが、所在明でない。「貝爾交而」の一句、要領を得な(660)い。諸註此川の海に落つる桝にて貝もあるべし(考)、「海岸ならで山水の岸の崩れなどよりも貝の出づる事あれば云々」(美夫君志)、「山中などを掘るに地下より貝の出づる事もあり、小川の底なるも石とともに貝の流るゝ事もあれば云々」など、いろ/\に説いてゐるけれど、つひにしつくりしない。所詮は代匠記のやうに「鴨山の麓かけて川邊に葬れるにこそ」と大凡に見ておく外はなからう。然るに檜嬬手は石水の下に「山」(ノ)宇脱ちたるものとして、「いはみやま」と訓み、下句一本に「谷爾」とあるによつて、「かひに」の義に解き、本文の「貝」(ノ)字をも「峽《カヒ》」の借字としてゐるのは面白い見解だが、此説による時は、次の歌にも脱句を認めねばならぬ上、「交而」といふ語遣ひも穩かでない。そこで檜嬬手は「交而」を「こやして」と訓んでゐるが、これも無理な訓で容易くはうけ取れない。――隨つて一本の「谷爾」は貝の借字で、やはり「かひに」と訓むべきであらう。「たにに」と訓んでゐるのはよくあるまい。
○有登不言八毛《アリトイハズヤモ》――「あるといふではないか」といふ意で、人傳に聞いて歎いたのである。「や」は反語、「も」は助辭。
◎一首の意――今日くるか/\と待つてゐた人は終にかへらず、仄かに聞けば、石川の貝に交つて葬られてゐるといふではないか。何と悲しい事であらうぞ。
あつさりと説いておく。吾輩の聊か思ふふしは最後に述べよう。
 
225 直相者《タダノアヒハ・タダニアハバ》 相不勝《アヒモカネテム・アヒカツマシジ》 石川爾《イシカハニ》 雲立渡禮《クモタチワタレ》 見乍將偲《ミツツシヌバム》
 
(661)○直相者《タダノアヒハ・タダニアハバ》――舊訓「たゞにあはゞ」を玉(ノ)小琴は、卷四「夢之相者」(七四一)を例として、「たゞのあひは」と改めたが、古義、攷證、美夫君志等は、更に之を難じて、舊訓を主張してゐる。按ふに小琴が舊訓を取らないのは、「ただにあふ」といふ語遣ひをもどくのではなくて、「たゞに」と「あはば」との打合がしつくりしない點にあらうかとも思はれるから、攷證、美夫君志等の擧げた例は少し見當違ひかも知れぬ。しかし「たゞにあはゞ」といふ句は、「たゞにあはむとせば」「たゞにあはむとならば」といふほどの語氣かと思はれるから、舊訓のまゝでも、よいではあるまいかと思はれるけれど、小琴の訓の方が意義明瞭であるから、今は姑くそれに從つておく。「あひ」は名詞で、直接の面會はの意である。
○相不勝《アヒモカネテム・アヒカツマシジ》――舊訓以來「あひもかねてむ」と訓んでゐたのを、考は「あひがてましを」と改めたが、近頃上の「九四」の歌で述べた橋本進吉氏の説を應用して「あひかつましゞ」と訓む人が多い。「あひかつましゞ」は逢ふ事は出來まいの意である。但、卷三「こゞしき山を、超|不勝而《カネテ》」(三〇一)、「落涙者、留不勝都毛《トヾメカネツモ》」(一六一七)などの如く、「不勝」の二字を「かね」と訓ずる場合が多く、且つさう訓まねばならぬ場合もあるから、こゝは舊訓のまゝでもよからうと思ふ。(たゞ「も」「てむ」などいふ詞を補つて訓まねばならぬのが考へものである。)考の改訓は全く誤りである。
○石川爾《イシカハニ》――前の歌に「石水」とあるが即ちこの石川の事であらう。檜嬬手は「川」を「水」の誤とし、其下に「嶺」の字を脱したものとして、「いはみねに」と訓んだのは面白いが、容易く從ひがたき事は既に述べた通りである。
(662)○雲立渡禮《クモタチワタレ》――諸註何のことわりもないが、他の場合に照すに火葬の烟と見てしのばうといふのであらう。鴨山の麓、石川のほとりに火葬地があつたのであらう。
◎一首の意――今は世になき人だといふから直《ヂカ》に逢ふ事はとてもかなふまいが、せめてその石川の方面に雲でも立ち渡れ、それを形見と見て心にしのばうから。
依羅娘子は立つ雲を望み得る近い距離に住んでゐたものと見ねばなるまい。古義は「死を聞いて石見に下りて作《ヨ》めるにや」といつてゐるが、畢竟娘子を京に留つてゐた者とすれば、そこで訃報を聞いて詠んだ歌とは取れないから、かゝるあらぬ想像説なども出て來るのであらう。
 
丹比眞人名闕擬2柿本朝臣人麿之意1報歌一首
 
丹比眞人は集中名の明かなのは、丹比眞人笠麿、同國人、同屋主、など數人見え、名の闕けてゐるのも二三ヶ所に見えてゐるが、こゝは誰人か明かでない。古義は丹比眞人縣守にやといつてゐるが、げに此人は天平四年八月山陰道節度使となつて下つてゐるから、其時人麿の死に關する事や、依羅娘子の悲歌などを聞いて(娘子を石見の人とすれば)、心を動かしたかも知れぬから、故ありげに聞えるけれど、確かな事は終に知る由がない。端書の意は上なる「貝に交りて」といふ娘子の歌を人麿が聞いて和した趣に擬して詠んだものと聞えるが、考は「報といふべき所にあらず。後人さかしらに加へし言と見ゆ」とて「報」(ノ)字を削つてゐる。これは歌の訓みやうにもよる事で、何ともいへないけれど、予はこのまゝで解釋したいと思ふ。
 
(663)226 荒浪爾《アラナミニ》 縁來玉乎《ヨリクルタマヲ》 枕爾置《マクラニオキ》 吾此間有跡《ワレココナリト》 誰將告《タレカツゲケム》
 
○荒浪爾《アラナミニ》、縁來玉乎《ヨリクルタマヲ》――荒浪は河水ばかりではなく海から寄する浪をもいふのであらう。玉はこゝは石の事である。さて「縁來」を舊訓は「よりくる」と訓み考、略解、古義、檜嬬手は「よせくる」と改めたが、これは上の「一三一」の歌で、古義が「浪社|來縁《キヨセ》」を「浪こそきよせ」と訓んだと同じ誤である。「よせ」「よする」は浪みづから寄る意なので、玉の寄る意とはならない。新考に「荒浪の〔右○〕寄せくる玉」とはいふべく、「荒浪に〔右○〕寄せくる玉」とはいふべからずといつてる通りである。
○枕爾置《マクラニオキ》――舊訓「まくらにて」とあるを、考は「置」を「卷」の誤として「まくらにまき」と訓み、略解、古義、檜嬬手、攷證、美夫君志及近頃の全釋等は、このまゝで「まくらにおき」と訓み、新考は「置」を「爲」の誤として「まくらにし」と訓み、早く童蒙抄は「四直」二字の一字になれるものとして、「まくらにして」と訓んでゐる。誤字説には俄に同じ難いし、「まくらにおき」もしつくりした訓とはいへないから、今一段の研究を要すべきものと思ふ。それにしても問題は「置」の一字にあるが、「置」を「て」とは訓めないであらうか。新考は「にして〔三字傍点〕をにて〔二字傍点〕といへる事は此集の時代には例なき事」といつてゐるが、果して「にて」とは言はなかつたであらうか。たま/\實例が殘つて居ないだけではなかつたらうか。これも亦考究すべきである。
○誰將告《タレカツゲケム》――舊訓は「たれかつげなむ」と訓み、代匠記、略解、新考等之によつてゐるが、古義、攷證、美夫君志、全釋等は「たれかつげけむ」と訓んでゐる。つまり「つげけむ」と訓む説は、端詞をありのまゝに見て、そ(664)れに即して訓む説、「つげなむ」と訓むのは、考の如く端詞の「報」(ノ)字を衍字とする説なのである(但、考は「つげまし」と訓んでゐる)。一體書式からいへば「將告」二字は、「つげむ」と訓むが最も穩當で、四言の場合は、「つげなむ」が比較的ふさはしいといふべく、過去推量の助動詞を添へて「つげけむ」と訓むのは少し穩當を缺くやうにも思はれる。これが意見の分れる本だらうと思はれるが、この過去推量の助動詞を添へて訓む書式は集中割合に多い。上の長忌寸意吉麿が結松をよめる歌(一四三)に、「將結《ムスビケム》、人者反而《ヒトハカヘリテ》、復將見《ミケム》鴨」と一つ歌に二ヶ所にも見えてゐる。更に二首隔てゝ「一四六」の歌にも「又|將見《ミケム》香聞」と見えてゐる。此等の例に據り、端詞の意を酌んで、こゝも「たれかつげけむ」と訓むのである。考は「報」といふべき所にあらずといつてゐるが、そんな事はない。人麿(靈)が娘子の歌に和した意に擬して、丹比眞人が作つたものとして立派に説けるのである。寧ろその方が面白いではあるまいか。(最後に述べる私見を參照されたい。)
◎一首の意――荒浪にうち寄る小石を枕にして、おれが横はつてゐるといふ事を誰が妹に告げた事であらう。
「貝に交りてありといはずやも」と妹が歎いたのを語を更へて、荒浪に云々と和したので、意は同じ事である。
 
或本歌日
 
227 天離《アマザカル》 夷之荒野爾《ヒナノアラヌニ》 君乎置而《キミヲオキテ》 念乍有者《オモヒツツアレバ》 生刀毛無《イケリトモナシ》
 
○天離《アマザカル》、夷之荒野爾《ヒナノアラヌニ》――此歌は依羅娘子の意に擬して作《ヨ》んだものであらうが、もし娘子が京で作《ヨ》んだものなら、石(665)見を夷の荒野といふ事勿論だが、石見にゐたものとしても、家を離れて旅路で死んだ意を強調したものと見て差支なからう。諸註にいふが如く、元來人麿の「衾道を引手の山に妹をおきて、山路を徃けば生けりともなし」(二一二)の歌から出て來たものかと思はれるから、強ひて憑據とするには及ぶまい。人麿の葬られた處、上の數首では海近き河のほとりかと思はれるのに、こゝに荒野とあるも少しいかゞに聞えるけれど、これも大やうに見て然るべきであらう。さて此歌も、大方丹比眞人の作であらうと見られてゐるが、さうかも知れねど、歌がらのいかゞはしいばかりではなく、或本の歌でもあり(底本には無かつたのであらう)、左注に作者未詳ともあるから、何とも言へない。
◎一首の意――遠い荒野の果に君をすておいて、我ひとりその事を思うてゐると、生きてゐる心ちもしない。
 
右一首(ノ)歌作者未v詳。但古本以2此歌1載2於此次1也。
 
さて此の「荒浪爾」「天離」の二首は人麿臨死の歌や依羅娘子の悼歌の參考に、後人の歌を載せたもので、一段下げて附載すべきものであらうと思はれるが、丹比眞人の年代も明かでないから、姑く他の註釋書の例に倣つて同列に掲げておく。
石川を石見山の誤とした檜嬬手は、この二首の擬歌に對しても亦一種奇拔な新説を出してゐる。そは「荒浪爾」の歌を丹比眞人が、狹岑島の石中の死人の意に擬して人麿に報へた歌とし、「天離」の歌をば同眞人が、その死人の妻の意に擬して作んだ歌とするのである。なるほど面白い見解で、守部といふ人の奇才には感心するが、あまりに古典の本文を無視して我見をふり立てるので採用の限りではない。
(666)抑、吾輩人麿の死に關する此の一群の歌を誦して、一種の疑問を禁じ得ざるものがある。そは人麿の遺骸は荼毘に附して、骨を碎いて鴨山の麓から側を流れる石川の川口にかけて散布したものではあるまいかといふ事である。千古の歌聖の葬に關する事がら、妄りに臆測を逞しうするは、おほけなき事ではあるが、この一群の歌、いかにも意義が徹底しないが、かく見れば、すべてがそのまゝで無理なく安らかに解けるからである。散骨といふは火葬に伴ふ事で、昔から印度では盛に行ほれた風習だが、支那は儒葬で身體髪膚を傷ふ事を忌み嫌つたから、火葬はあまり行はれなかつた。三韓も同樣、何事も漢土に模倣したから、やはりあまり行はれなかつたらしい。然るに我國ではこの障碍がないので、佛説傳來と共に早く行はれ、道昭以前に民間には廣まつてゐたらしい事も既に述べた。道昭の火葬後僅に三年、大寶三年には御遺命を以て、持統天皇を火葬し奉り、續いて文武、元明、元正と何れも火葬し奉つた、此く至尊の御遺骸をすら荼毘に附するといふ大勢は、道昭一人の私葬から※[并+刃]まつたものとは到底考へられないので、早く人心に浸潤して居た事が推知せられる。散骨の事は上代の史には見えてゐないが、續後紀、承和七年五月藤原朝臣吉野奏言の條に、兎治稚郎子が遺教して散骨せしめた事が見えてゐる。これは餘りに古くて信を措き難く、恐らくは稚郎子の名に托した後人の所爲かとも考へられるが、稚郎子の名に托する者の出たといふ事が、たま/\散骨の早く行はれてゐた證とすべきではあるまいか。殊に吉野の奏言にも「自使2散骨、後世效1v之」とあるから、史にこそ見えないが、そこばくの模倣者があつた事が知られる。とにかく火葬が盛であれば、上代火葬の精神から推して、散骨といふ事も起り得る事と思ふのである。火葬では、燒却後、白骨を拾うて金瓶に盛り、或は塔墳に納め、又は河中に投ず(即ち散骨である)とい(667)はれてゐるが、人麿のは鴨山の麓を流れる石川の川口に投じたのではあるまいか。依羅娘子が、その音づれを聞いて「貝に交りてありといはすやも」と歎いたのも、人麿がそれに和する意に擬して「荒浪によりくる玉を枕に」と眞人の詠まれたのも、それでしつくり説けると思ふ。たゞ人もあらうに、日頃神を説く人麿が、佛説を奉じて散骨までするとは考へられないので、幾度か考へ直して見たが、どうしても歌は此外にはしつくり解けないので、試に疑問として述べて見る事にした。此説が誤にしても何等かの解決に導き得る動機ともならば幸である。
 
 
寧樂《ナラ》宮
 
「寧樂宮」の三字を標榜して、御宇天皇代とないのは卷一も同樣である。何かいはれがあるであらうと思はれるが、撰者の意志は明かに知る事が出來ない。
 
和銅四年歳次辛亥河邊(ノ)宮人《ミヤビト》姫島松原(ニ)見2孃子《オトメ》屍1悲歎作歌二首
 
河邊宮人は傳詳かでない。姫島松原は安閑紀に「宜v放3牛於難波大隅島(ト)與2媛島松原〔四字傍点〕1云々」とある處であらう。檜嬬手は委しく説明して「津(ノ)國神崎川の舟渡の東岸の中島に御幣《ミテグラ》島といふあり、其南の海の川口に田箕島あり、今佃島といふ、其佃島の奥にある松のめでたき小島是姫島也」といつてゐる。今は埋もれて陸地となつたであらう。(卷三にも、こゝと全く同一な端詞の歌が見えてゐるが、歌の意義は女の屍を弔うた意とは聞えないから何かの誤であらう。)
 
(668)228 妹之名者《イモガナハ》 千代爾將流《チヨニナガレム》 姫島之《ヒメシマノ》 子松之未爾《コマツガウレニ》 羅生萬代爾《コケムスマデニ》
 
○千代爾將流《チヨニナガレム》――妹が名は永く傳はるであらうの意。
○子松之末爾《コマツガウレニ》――「うれ」は「うら」に同じく、梢の事である。三四の句、舊訓は「ひめしまが〔右○〕、こまつの〔右○〕うれに」と訓んでゐるが拙ない。「姫島の〔右○〕こ松が〔右○〕うれ」と訓むべきはいふまでもない。
◎一首の意――この姫島の小松が大きくなつて、梢に苔蒸すまでも、妹が名は永く傳はるであらう。
昔の人が名を後に遺す事を望んだ意は諒とするが、作者は孃子の名を知つてゐたであらうか。恐らくは考のいふが如く、姫島の松もて言擧げして歌に詠む事をかくいつたものであらう。
 
229 難波方《ナニハガタ》 潮干勿有曾禰《シホヒナアリソネ》 沈之《シヅミニシ》 妹之光儀乎《イモガスガタヲ》 見卷苦流思母《ミマククルシモ》
 
○難波方《ナニハガタ》――方は借字で難波渇である。
○潮干勿有曾禰《シホヒナアリソネ》――「ね」は「雨なふりそね」などの「ね」と同じく、希望の意をあらはす助辭である。
○妹之光儀《イモガスガタ》――光儀を「すがた」と訓むのは義訓で集中に例が多い。
○見卷苦流思母《ミマククルシモ》――「みまく」は「見む」の延語で、見るのが心苦しいといふのである。
◎一首の意――此の難波渇には汐干といふ事がなくてくれ1ばよい。汐が干ると底に沈んだ女の姿があらはに見えて、心苦しく見るに堪へないから。
 
(669)靈龜元年歳次乙卯秋九月志貴親〔左○〕王薨時、作歌一首并短歌
 
流布本、「親王」を「視王」に誤つてゐる。
この志貴親王は卷一にしば/\見えて「明日香風」(五一)、「鴨の羽がひ」(六四)などいふやさしき歌を詠まれた志費皇子(施基《シキ》とも書く)と同じ人であらう。光仁天皇の御父で、高圓山の麓に宮居せられ、後に春日宮天皇と追尊し奉り、御陵は今も山の東十數町にある(その御陵地の所在によつて一に田原天皇とも稱する)。然るに續紀によると、親王の薨去は靈龜二年八月甲寅であるから年月は合はない。そこで代匠記は暗に天武天皇の皇子なる磯城皇子を之に擬し、古義も同説を唱へてゐるが、磯城皇子薨去の年月は紀にしるされてゐないから、甚だ頼りなく、春日の高圓に葬られたといふ歌の趣はやはり志貴皇子らしく思はれる。又元年九月は二年八月の誤であらうといふ人もあるが、「乙卯」は元年に當るから、如何ともする事が出來ない。之に就いて攷證は「此の元年九月は元正天皇御即位の事ありて騷がしく、しかも忌はしき事をば忌み憚かる折なれば、實はこの元年九月薨じ給ひしなるべけれど、翌年八月まで延ばして薨奏せしかば、其日を以て紀には記されたるものにて、こゝに元年九月とあるは、實に薨じ給ひし時なり。此等にても此集は貴くかたじけなき古書なるを知るべし」と辨じてゐるが、注意すべき説である。又こゝに志貴親王とあるにつきて、考は「此の一二(ノ)卷にはすべて皇子とのみあるに、此の一所のみ異なるべからず」と難じたのを、攷證は「皇子皇女又王とも記したれど親王といふ事はなく、天武紀(四年)に至りて、親王、諸王及諸臣といふ文、はじめて見えたれど、御名の下につけて、某親王、某内親王など申す事はすべて書紀には見えず、其後云々(670)文武四年六月甲午『勅淨大參刑部親王以下撰2定律令1云々』とある所より以下は皆親王内親王とのみしるされたり云々、思ふに經嗣令に凡皇兄弟皇子皆爲2親王1とあれば、此時皇子と申すを皆親王と改められし也云々、靈龜元年は此制改まりし後なればわきて親王とはかけるなり」と辨じてゐる。これも亦注意すべき事ある。とにかく歌の内容から推せば、こゝは志貴皇子らしく思はれるから、それに從つておく。
 
230 梓弓《アヅサユミ》 手取持而《テニトリモチテ》 大夫之《マスラヲノ》 得物矢手挿《サツヤタバサミ》 立向《タチムカフ》 高圓山爾《タカマトヤマニ》 春野燒《ハルヌヤク》 野火登見左右《ヌビトミルマデ》 燎火乎《モユルヒヲ》 何如問者《イカニトトヘバ》 玉桙之《タマボコノ》 道來人乃《ミチクルヒトノ》 泣涕《ナクナミダ》 霈霖爾落者《ヒサメニフレバ》 白妙之《シロタヘノ》 衣※[泥/土]漬而《コロモヒヅチテ》 立留《タチドマリ》 吾爾語久《ワレニカタラク》 何鴨《ナニシカモ》 本名言《モトナイヘル》 聞者《キケバ》 泣耳師所哭《ネノミシナカユ》 語者《カタレバ》 心曾痛《ココロゾイタキ》 天皇之《スメロギノ》 神之御子之《カミノミコノ》 御駕之《イデマシノ》 手火之光曾《タビノヒカリゾ》 幾許照而有《ココダテリタル》
 
○梓弓《アヅサユミ》云々――初五句、「立向」までは、高圓山の圓を的の意に取りなしてつゞけた序詞で、卷一の「大夫之、得物矢手挿、立向、射流圓方波云々」(六一)に倣つたものである。すべてはそこで述べた。
(671)○高圓山《タカマトヤマ》――大和國添上群春日山の南につゞいてゐる山で、そこに志貴皇子の宮殿があつたのである。
○道來人乃《ミチクルヒトノ》――道行く人の事、こゝは會葬者の一人であらう。
○霈霖爾落者《ヒサメニフレバ》――舊訓は「こさめにふれば」と訓んでゐる。和名抄に「霈(ハ)大雨也」とあり。日本紀私記に「大雨【比左米《ヒサメ》】」とあるなどによつて、考は「ひさめにふれば」と訓み改めた。但、この「霈霖」二字、古寫本にはさまざまに書き、金澤本、大矢本、京大本等には「※[雨/泳]※[雨/沐]」とあつて、代匠記も早く「今の本は※[雨/泳]※[雨/沐]の誤なるべし」といつてゐる。※[雨/泳]※[雨/沐]は和名抄に「細雨【小雨也和名|古左女《コサメ》】」とあるから、舊訓のまゝでも然るべきかと思はれるが、この歌初から事を誇張していふ趣があるから、姑く考の説に從つておく。さて「ひさめ」といふに二義あつて、古事記傳では氷雨を「ひさめ」と訓じてゐるが、これは今いふ雹《ヘウ》の事(倭建命の難にあはせられたのはこれである)、こゝは前述の大雨の義で、書紀では、大雨、甚雨、※[さんずい+妥の女が缶]雨等を皆「ひさめ」と訓み、「ひたさめ」の義といはれてゐる。
○白妙之《シロタヘノ》――こゝは喪服の事で枕詞ではあるまい。
○衣※[泥/土]漬而《コロモヒヅチテ》――涙で衣のぬれる事をいふ。語源については、考の別記には「※[泥/土]漬」とあるが正字で、「ひぢつき」の約であるといひ、全釋は「ひづ」に更に語尾を添へて四段に活用したものらしいといつてゐるが、「ひぢ」の「ぢ」を音通で二音に轉じたものではあるまいか。「寒く」の「く」を「けく」二音に轉じて「寒けく」といふが如く。(「ひぢて」の「ぢ」を「つち」二音に轉ずると同時に、「ぢ」の濁音を「つ」に移したから、「ひぢて」の意が密接にひゞくのである。)
○吾爾語久《ワレニカタラク》――吾に語るやうはといふ意で、以下最後まで道行く人の答の詞である。古義は「此句までは道來人の(672)悲み語るさま也」といひ、「これより姑く句を隔てゝ、下の天皇之云々へつゞけて意得べし」といいひ、「中間の六句は自己の上を悔いていへるなり」など説いてゐるのは、如何にこの歌を見たのか、大きな誤である。
○何鴨《ナニシカモ》、本名言《モトナイヘル》――「もとな言へる」は「もとな問へる」の意で、「何しにそのやうな事を御尋ね下さるぞ」と、問はれた人(道來人)が歎くのである。「もとな」は集中に多い語で、昔からさま/”\に説かれてゐるが、語原が確でないので、すべてに通じてうなづかれるやうな適解はまだない。代匠記は「本無」と見て、由なき意とし、考は「空し」と解き、玉(ノ)小琴は今の俗言に「めつたに」といふ事で、「猥りに」といふに同じく、其事を厭ふ心より猥りなるやうに思ひていふ事なりと説き(大意)、古義は「黒白の分別もなく物するやうの意なり」と解き、檜嬬手は漢語の「寧」を之に擬らへてゐるけれど、何れもしつくりしたとはいへない。近頃山田孝雄氏の「母等奈考」には「もとな」は「もと」といふ名詞と、形容詞「なし」の語幹「な」との合成語で、本來は「根據なく」、「理由なく」などの義であるが、その場合に應じて「わけもなく」「よしもなく」「みだりに」等適宜に解すべきものと説かれたのは、從來の諸説を綜合した一段の見といふべきである。又最近小林好日氏は音韻の轉變から説を立てて、「もとな」の「もと」は「あまた」の「また」から出たもの、「もとな」は「あまたに」の義で、「頻りに」と解すべきものと説いて居られるが、どうあらうか、俄に首肯し難い。要するに語の原はよく判らないが、此語の用ひられてゐる所は多くは俗語の「あやにくに」「なまじひに」などいふ氣分を含んでゐる所のやうに思ふ。こゝも「まことにあやにくな事ぢや〔八字傍点〕、何しにそのやうな事を御尋ね下さるぞ。なまじひ〔四字傍点〕尋ねてくれねばいゝものを」といふが如き語氣の所と思はれる。他の場合も大方これで推される。下の語例を味ひ見て推知すべきである。
(673)  卷三「かくゆゑに見じといふものを樂浪の古き都を見せつゝもとな〔三字傍点〕」(三〇五)
  卷五「まなかひに母等奈〔三字傍点〕かゝりてやすいしなさぬ」(八〇二)
  卷十「もだもあらむ時も啼かなむ日ぐらしの物もふ時になきつゝ本名〔二字傍点〕」(一九六四)
  卷八「玉かぎるほのかに見えて別れなば毛等奈〔三字傍点〕やこひむ逢ふ時までは」(一五二六)
  卷十「さきぬとも知らずしあらばもだもあらむ此秋萩を見せつゝもとな〔三字傍点〕」(二二九三)
○聞者《キケバ》、泣耳師所哭《ネノミシナカユ》――「聞けば」は「あなたの御尋を承れば」の意。「し」は強める助辭、「なかゆ」は古代の語遣ひで「なかる」といふに同じい。さて此の邊り舊訓は「いつしかも、もとのなとひて、きゝつれば、ねのみしぞなく、かたらへば、こゝろぞいたき」など訓んで、要領を得ないが、考、玉(ノ)小琴などの修正を經て「なにしかも、もとないへる、きけば、ねのみしなかゆ、かたれば、こゝろぞいたき」と訓むやうになつた。いへる、きけば、かたれば〔七字傍線〕、など三音乃至四音の短句をくりかへした事に就いて、美夫君志は「こは胸せまりて、のどやかにいひかぬるなり。すべて哀傷の歌には句つゞきの切れ/\なる、又は言の足らぬもあり、これ自然の勢の然らしむるなるべし」といつてゐるが、さる事もあるであらう。
○天皇之《スメロギノ》、神之御子之《カミノミコノ》――考は「神之は上につけて意得よ」といつてゐる。これは天皇を神としての意で、その御子といふはやがて志貴親王の事である。然るに新考が「なほ句のまゝ下へつけて心得べし」といつてゐるのは、「神《カム》御子」の意に見るのであらうか。説はどうとも立たうが、こゝでは考の説に從つておきたい。
○御駕之《イデマシノ》――考が「いでましの」と訓まれたのに從つておく。此世を出でまして、あの世へ行く意で、御葬儀の事(674)をいつたもの、意を以てあてた訓である。(舊訓「おほむたの」とあるは何の事とも判らないが、古點及神田本などの點を合せ考へると、「おほむまの」の誤ではなからうか。「駕」の字を「いでまし」と訓む事、集中、他には見えないから、「御馬《オホムマ》の」と訓んだのかも知れないが、それもいかゞな訓ではあるが、仙覺抄はそれを否として、やはり「おほむたの」を取り、「供奉多かる御幸なり」と注したのはいよ/\判らない。)
○手火之光曾《タビノヒカリゾ》――昔の葬儀は夜行つたから、會葬者は手に手に炬火を秉つて路を照らして行つた、之を手火といふので、書紀に「秉炬此云2多妣《タビ》1」とあるがそれである。佛教に火葬の事を荼毘といふはおのづから別である。
○幾許照而有《ココダテリタル》――「こゝだ」は「そこばく」「數多」などの意。
◎一篇の大意――高圓山の方に當つて、春の野を燒く野火かの如く、盛んに火が燃えてゐるのを、あれは何の火かと道往く人に尋ねると、其人は大雨の如く、涙をぼろ/\とこぼして、それが爲めに白栲の喪服がびつしょり〔五字傍点〕ぬれて、立ち止まつて我に語るやう、「何しに思ひやりもなく、そのやうな事を聞いて下さるぞ、誠にあやにくの事だ、あなたの御尋を承はると、いとゞ悲しさに泣きたくなります。御話するにつけても我が心が痛みます。けれど折角の御尋ねだから、申さぬわけには行かないが、あれはな、神たるすめろぎの御子、志貴皇子が、この度御隱れになつたので、その御葬儀の手火の光が、あのやうに照り輝やいてゐるのでありまするぞ。何とも悲しい事ぢやと語つて泣く/\立ち去つた。
此の歌、作者の主觀をば少しも述べないで、徹頭徹尾、道行く人に語らせた趣向いかにも面白い。思ふに志貴皇子は温厚の長者で、皇族方の重望を負うて、めでたく世を終へられたものではあるまいか。これは想像だが、上(675)なる明日香風(五一)「鴨の羽がひ」(六四)の兩歌、及、卷三なる「むさゝび」の歌(二六七)、卷八なる懽歌(一四一八)等を見ても。その風格がしのばれる。で、孝謙天皇崩御あらせられて繼嗣が絶えた時、朝臣議して、その御子を立てまゐらせたのも、さうした點があるのではなからうかとさへ想像される。けれど自から韜晦していらせられたので、稱揚すべき御事業などはなかつたであらうから、作者かゝる趣向を構へたのではあるまいか。かばかりの歌を詠むほどの者が當時志貴皇子の御葬儀を知らなかつたといふも、どうかと思はれる(笠金村の作とすれば猶更である)。右は全くの推量だが、それとも攷證に述べた如く、元正天皇の御即位の折であつたので、世を憚つて内々で假の埋葬を行つたものとすれば、世間は全く知らなかつたのかも知れぬ。いづれにもせよ、冒頭五句の序を初め、措辭極めて大仰で、縁故深き者の涙をそゝる所、巧妙な趣向といふべく、漢文には往々見るが、我が國の歌では珍らしいといふべきである。
 
短歌二首
 
231 高圓之《タカマトノ》 野邊秋芽〔左○〕子《ヌベノアキハギ》 徒〔左○〕《イタヅラニ》 開香將散《サキカチルラム》 見人無爾《ミルヒトナシニ》
 
○二の句の「芽」(ノ)字、今本「茅」に誤まつてゐる。三の句「徒」(ノ)字、「從」に誤つてゐる。いづれも古寫本によつて正した。
○開香將散《サキカチルラム》――咲き散るらむかの意。「か」は疑辭。
(676)◎一首の意――高圓の野邊の秋萩も、皇子がお隱れになつてから、見る人もないので、徒らに咲き徒らに散る事であらうか。
 
232 御笠山《ミカサヤマ》 野邊徃道者《ヌベユクミチハ》 己伎太雲《コキダクモ》 繁荒有可《シジニアレタルカ》 久爾有勿國《ヒサニアラナクニ》
 
○御笠山《ミカサヤマ》――春日山の一部分である。今、嫩草山の事を三笠山といふ人もあるが、さうではない。昔の御笠山は春日神社の後の山で、樹の繁つた笠のやうな山である。
○野邊往道者《ヌベユクミチハ》――野道といふ事で、七言の句に用ひるために野邊往く道〔五字傍点〕といつたのである。
○己伎太雲《コキダクモ》――「こきだ」は前の長歌に「こゝだてりたる」とあつた「こゝだ」と同じ語で、數多く、甚しくなどの意である。此語は「こきだ」「こゝだ」「こゝら」など用ひられて、「こきだ」は比較的古く、「こゝら」は比較的新しい。古事記久米歌に「許紀陀〔三字傍点〕ひゑね」とあると同じ意である。「も」は輕く添へた歎辭。
○繁荒有可《シジニアレタルカ》――舊訓「しげくあれたるか」を、考は「しゞにあれたるか」と訓み改め、略解、檜嬬手、攷證等之に從つてゐるが、古義、檜嬬手はなほ舊訓によつてゐる。これはどちらでも、さしたる問題ではなからうと思ふが、卷四「打靡、四時二〔三字傍点〕生ひたる云々」(五〇九)、卷十三「竹玉を、之自二〔三字傍点〕ぬき垂れ云々」(三二八六)とある假名書の例によつて、考の訓に從つておく。「か」は「かな」の意である。
○久爾有勿國《ヒサニアラナクニ》――「久《ヒサ》」を名詞として用ひたので、卷十五「別れて比左〔二字傍点〕になりぬれば」(三六〇四)とある類ひである。
(677)◎一首の意――三笠山の野邊の道は、はやもうこんなに荒れなた事かな。皇子がおかくれになつてから幾程も經たないのに。
考は「こきだくも」と「しゞ」とは重言であると嫌つて、一本の「荒れにけるかも」の方を取られたが、「しゞに」といふは荒れやうの繋き事には相違ないけれど、重言とはいへまい。攷證は卷十七「こゝだくも、しげき戀かも」(四〇一九)とあるを引いて辨じてゐる。それに此歌、長歌に述べた如く、わざと大仰に誇張していふ趣があるから、「こきだくも、しじにあれたるか、久にあらなくに」といふ意氣張つた言ひまはしが、此歌にはふさはしいかも知れぬ。それがよいといふではないけれど。
 此の二首の前に掲げた「短歌二首」の四字は目録にはないので、考と古義とはこの二首を此歌の反歌にあらずとし、別に端書のあつたのが脱ちたものとして補つてゐる。げに此の二首は薨去當時の作ではないかも知れねど、さればとて反歌でないとも言はれまい。目録にはいろ/\疑はしい事も多いから、所詮は本文のまゝに見ておく外はあるまい。
 
右歌、笠朝臣金村歌集(ニ)出(ヅ)。
 
これは上の長歌一首短歌二首を指すのであらうか。今の人は多くさう見てゐるらしい。昔の歌集といふもの多くは後世の手控のやうなもので、それに載つてゐる歌、必ずしも其人の歌とは限らないらしい。其點が不明であつたので、「歌集出」と記したのであらう。金村は赤人と相並んで歌に堪能であつたので、行幸の供奉もしたらしいから、此歌の作者として、ふさはしくない事はないが、その作、神龜から天平へかけての作が(678)多いのに、これは年代がやゝ古いから、多少疑はれんでもない。
 
或本歌曰
 
233 高圓之《タカマトノ》 野邊乃秋芽子《ヌベノアキハギ》 勿散禰《ナチリソネ》 君之形見爾《キミガカタミニ》 見管思奴幡武《ミツツシヌバム》
 
◎一首の意――高圓の野邊の秋萩の花よ、いつまでも散らずにゐてほしい。せめて御隱れになられた皇子の御形見として見て偲んで行きたいから。
 
234 三笠山《ミカサヤマ》 野邊從遊久道《ヌベユユクミチ》 己伎太久母《コキダクモ》 荒爾計類鴨《アレニケルカモ》 久爾有名國《ヒサニアラナクニ》
 
◎一首の意――第二句第四句が少し異なるだけで、大意は「二三二」の歌とかはりはない。盖し異傳であらう。
           *        *         *
予は久しく病臥してゐたので、原稿の淨寫に久曾神昇君を煩らはし、校正は君及び市古貞次君を煩らはし、索引も亦兩君の努力に成つた。こゝに附記して重ねて謝意を致す。
 
萬葉集精考卷第二 
 
 
(1)     索引凡例
 
一、本索引は語釋竝に人名・書名・地名・件名その他主なる語句の檢索に便宜の爲め作つたものである。
一、萬葉集の索引は國語索引と漢字索引と相待たなければ、到底完全は期し難いが、漢字索引は徒らに繁雜で利用が少いであらうから、今は姑く簡便を旨とし國語索引だけにとゞめた。
一、本索引は主として精考の訓に從ひ五十音順に竝べたものである。但し漢字索引を省略した爲め、確定せざる訓、異説多きものなどは、その主なる異訓をもともに掲げた。
一、本索引の語句等は成るべく本文の用字に據り、讀み難きものには振假名を附して掲げた。但し、用言は終止形に改めたものもある。
一、本索引にては同じ語句は之を纏め、用字の異なるものは悉く併記した。
一、本索引は簡便を専らとし繁雜をさけた爲め、理論的學問的態度に悖ること多きを特に斷つて置く。
 
 
昭和十年七月十二日印刷
昭和十年七月十八日發行
萬葉集精考
定價金四圓八拾錢
著者  菊池壽人
 
著作權所有
 
  東京市神田區神保町一丁目五十九番地
發行者  矢島 一三
  東京市神田區神保町一丁目五十九番地
印刷者  兒玉 豐
  東京市神田區神保町一丁目三十四番地
印刷所 株式会社 開明堂 
 
發行所 東京市神田區神保町
    振替東京四一二三番 中興館
【電話神田一二三五番】
 
            2009年10月8日(木)、午後4時25分、入力終了