萬葉集美夫君志(全4册) 上原書店、明治34(1901年)、5月16日、2圓50錢
 
をおもへば、とにもかくにも今よりは久方の月の変若水をちこちの人々とゝもに、ぬしのよはひ長くいやをちにをち得しめむことを、天のはし立かけてこひのみわたらはや、
    明治三十四年二月のはしめ
      正五位本居豐頴
 
(1)萬葉集美夫君志首卷總説
               木村正辭撰
 
  題號の事
萬葉集といふ題號の事は、縣居翁の萬葉考に、此《コ》を萬葉集といへるは萬は數の多かる也、葉は言《コトバ》にて歌をいふぞと荷田(ノ)大人はいはれき、或人はから書に萬葉は萬世の意なるに依つれど、こゝには字を借しのみ也、葉に歌をよせずば何を集めたりとも聞えずといへり、さることなり、【仙覺抄にも、よろづのこの葉の義なりといへるは、古くさる傳へのありしなるべし、】此にから文云々といへるは、顔延年が曲水(ノ)詩の序に、貽v統(ヲ)固2萬葉(ヲ)1とある注に葉(ハ)代也とあり、此等をいふ也、又本邦の古書どもにては、日本後紀に載たる、延暦十六年二月續日本紀を上る表に、傳(テ)2萬葉(ニ)1作v鑒(ト)といひ、承和元年十二月令(ノ)義解を施行する詔に.普(ク)使d遵2用畫一之訓1垂c於萬葉(ニ)u、また古語拾遺に、隨v時(ニ)垂v制(ヲ)流2萬葉之英風(ヲ)1興v廢(タルヲ)繼v絶(タルヲ)補2千載闕典(ヲ)1などあれども、此は皆漢文のうへのことなれば、かの國の連字を用ゐたるにて、代也世也と訓ずる意なること論なし、かくて劉煕が釋名釋樂器に、人聲(ヲ)曰v歌(ト)歌(ハ)、柯也、如3草木之有2柯葉1也とあれば、葉(ノ)字に自から歌の意こもれり、故に葉(ノ)の字は用ゐたるなるべ(2)し、然らざれば縣居翁のいへる如く何を集めたりともわきがたき也、しかるをことのは〔四字右○〕といひたる事、本集に見えねば、葉を詞の意とするは非也と云設あれど、葉は上にいふ如く字義を以て充たる文字なれば、古言にことのは〔四字右○〕といふ事の有(リ)無(シ)に拘はる事にあらず、但し詞《コト》とコトバ〔三字傍線〕といひし事はあり、卷二十【廿一左】に知知波波吾可之良加伎奈弖佐久安禮天伊比之古度婆曾和順禮加禰津流《チヽハヽガカシラカキナデサクアレテイヒシコトバゾワスレカネツル》、卷四【五十七右】に百千遍戀跡云友諾茅等之練乃言羽志吾波不信《モヽチタビコフトイフトモモロチラガネリノコトバシワレハタノマズ》など是なり、寧樂の都の末頃よりはコトバ〔三字傍線〕といふ語も出來しなるべし、コトバ〔三字傍線〕即(チ)言葉の義なるをや、
  撰者の事
本集は橘(ノ)諸兄公の撰にて、家持卿の續撰したるなりと仙覺抄にいへるが如し、榮化物語月宴(ノ)卷に、むかし高野の女帝の御代天平勝寶五年には、左大臣橘卿諸兄、諸卿大夫等集りて萬葉集をえらび給云々、【諸兄の二字は、後人旁書したるが、遂に本文に入りしなるべし、詞林采葉抄に引たるには此二字なし】と見え、元暦校本萬葉集卷一の首書に、裏書を引て高野姫天皇天平勝寶五年左大臣橘諸兄撰2萬葉集1とあり、【此文は余が藏せる正安三年の傳本を以て元龜二年に寫したる古本、又中(ノ)院通村公親筆本即(チ)官本と稱するもの等にもあり、又仙覺抄詞林采葉抄にも此文を載たり】按ふに此は順朝臣等の此集を讀解(キ)たりしをりの勘文にはあらざるか、もししからば榮化物語は此裏書の文によりてしるしたるものなる(3)べし、此撰者の事と此集撰(ヒ)たる時代の事に就きては、古來さま/\の説あれど、いづれもひがことなり、上の説に從ひてあるべきなり、其異説どもは、萬葉集書目提要の附録に出しおきたり、
  訓點の事
此集に訓點を施したるは、天暦の御時をはじめとす、其以前は漢字のみにて、今の活本の萬葉集の如くにぞありけむ、但し天暦の時に讀解(キ)がたくて、其訓を缺(キ)たるもの多くありしを、後の博士だちの次々に讀を考へられたりしが、猶其訓の無き歌、全集中にて百五十二首ありけるを、仙覺が考へて訓點を施したるよしなり、源(ノ)順集に天暦五年宣旨ありて、はじめて倭歌《ヤマトウタ》えらぶ所を梨壷におかせ給ひて、古萬葉集よみときえらばしめ給ふなり、めしおかれたるは、河内(ノ)掾清原(ノ)元輔、近江(ノ)掾紀(ノ)時文、讃岐(ノ)掾大中臣(ノ)能宜、學生源(ノ)順、御書所(ノ)預坂上(ノ)茂樹なり、とあり、此事は清輔朝臣の袋(ノ)冊子にも載(セ)たり、又詞林采葉抄に、天暦(ノ)御宇詔(シテ)2大中臣能宜云々等(ニ)1於2昭陽舍(ニ)1【梨壺】加2和點(ヲ)1此(ヲ)號(フ)2古點(ト)1亦追(テ)加(ヘシ)v點(ヲ)人々(ハ)法成寺入道關白太政大臣、大江(ノ)佐國、藤原(ノ)孝言、權中納言匡房、源(ノ)國信、大納言師頼、藤原(ノ)基俊等、各加(ヘリ)v點(ヲ)此(ヲ)號(フ)2次點(ト)1、亦權律師仙覺加(ヘタルヲ)v點(ヲ)此(ヲ)稱(フ)2新點(ト)1とあり、今本卷一の仙覺が奥書に、古點次點の内にて意義の穩かならざる、又はてにをはのたがへるも(4)のは、紺青を以て點を記し、又古次兩點共に無くして、今新(タ)に訓を附するものは、朱を以て記すといへり、此朱墨紺の三點の内、朱墨を書わかちたるものは、古寫本中に徃徃これあり、といへども、全く三點を書わかちたるものは絶て見ざることなるに、余近頃得たる中(ノ)院通村公の親筆本には、此三點を區別して、右の三色を以て記せり、これによせて仙覺が時の眞面目を窺ふことを得たるはいと/\よろこばし、
因に古人本集の訓點の事につきての論説を、左に出して、參考に備ふ、
顯昭陳状に云、故人の申されしは、萬葉に順が讀殘したる歌の中に、少々匡房卿敦隆道因なども讀加へたるよし侍りき、順がわろきにあらず、五千餘首の短歌長歌等を讀解ほどに、事繁して自然に讀落せる也、○萬葉集仙覺奥書に云、弘長二年以2六條家本1比校畢、此本異v他其徳多珍重々々云々、彼御本清輔朝臣點v之云々、○仙覺抄卷十七【五左】に云、二條(ノ)院御本の流には、たまかづらのこと點ぜられたり、彼御本は清輔朝臣奉v勅點云々、【○長明無名抄云.清輔朝臣|晴《ハレ》の歌よまむとては大事は、いかにも古集を見てこそといひて.萬葉集をかへす/\見られ侍りし、】○同書卷一上【十八右】に云、これは愚老新點の歌のはじめの歌也、彼新點の歌百五十二首はべる云々、同書卷二十【廿一右】に云、寛元四年七月十四日、萬葉集中諸本無點歌、長短旋頭合(テ)百五十二首を抄出して、推點をくはふる事すでに畢ぬ、【○下に引正徹物語にいへる新註釋といふもの是なるべし】○詞林采葉(5)抄に云後嵯峨院(ノ)御宇獻2上仙洞(ニ)1仙覺律帥(ノ)奏状(ニ)云、去(ル)寛元四年夏(ノ)比抄2出(ス)諸本無v點歌長短旋頭合(テ)百五十二首1、同年七月十四日終(ニ)以(テ)加2推點(ヲ)1畢(ンヌ)、所v點(スル)有(ラハ)v誤者棄置何(ソ)有(ン)v恨、所v點(スル)無(クハ)v誤者採用何(ソ)無(ケン)v許、羨(クハ)達2天聽(ニ)1、欲v遂(ト)2地望(ヲ)1、其(ノ)理若(シ)叶(ハヽ)者、勿(レ)v嫌(フコト)2桑門下智之僧徒(ヲ)1、其(ノ)事若(シ)宜者勿(レ)v賤(ムコト)2柳城邊鄙之凡侶(ヲ)1疋夫(ノ)言聖人擇(ム)v之(ヲ)、盖(シ)此(ノ)謂歟、爲v散(セン)2餘執(ヲ)於萬葉之古風(ニ)1只加2數點(ヲ)於一身之底露(ニ)1、採用難v知(リ)任(カス)2浮沈(ヲ)於龍池之水(ニ)1、叡賞不v辨待2許否(ヲ)於鳳闕之雲(ニ)1而巳、此状依(テ)v達(スル)2天聽(ニ)1有(テ)2叡感1萬葉得業之由下(シ)2賜(テ)院宣(ヲ)1則被v召2入續古今集(ニ)1訖、○さよの寢覺【兼良公】に云、顯昭といひし人、日本紀の神代よりの歌の心を書あらはし、仙覺といひし者、萬葉のむねを得て、三百餘首順などだにもよみとかざる點を加へたり、【○按に、仙覺が新點歌は百五十二皆なる事上に引ける文どもにて明らかなるを.こゝに三百首とあるはかの次點をもこめて、いへるにや、又は三は衍文歟、】○顯昭陳状【九右】に云、野遊【左】顯昭、 若菜つむ野邊をしみればたかとりの翁もむべぞたはれあひける、右申云、左歌打任せては竹とりとこそ申なれたるを、たかとりといへる、させる證のあるか、陳云、たかとり竹とり兩樣に萬葉點じたり、云々、判曰左(ノ)歌竹取翁事、たかたけは兩樣にも申成べし、然るに此翁にとりて、たかとりと云けりと云證據ぞ有べきを、萬葉にはたゞ詞に皆有2老翁1號曰2竹取翁1也、此翁季春之月登2岳本1遠望、忽値2華美九箇女子1、百嬌無v儔花容無v止云云といへり、此事を今野遊歌に詠ぜる可v非v無2由緒1、但萬葉集に兩樣に點じたる由左(6)方人申云々、彼集は源(ノ)順が和せる後、假名は付來る也、而彼順が點本于v今難v傳たかたけは以2誰人點1可v爲2指南1哉、顯昭陳云、萬葉集竹取翁事、たか取たけ取兩説也、萬葉にも兩點侍り云々、萬葉は順が和せる後、假名は付たれば、和歌計こそ和したれ、竹取は詞也、兩説の點不v可v有之由侍る如何、順萬葉の歌計を訓じて、詞をば不v訓とは誰人の定侍りけるぞ、詩歌文書詞にも作者にも不審あれば勘(ヘ)讀(ムハ)常(ノ)事也、萬葉中已(ニ)有樣に文筆尤可v被2點置1也、所v謂無常悲歎等の詩四首并序、松浦乃仙暖、佐用嬪面、大伴熊凝反惑情、梧桐日本琴歌等序九首、櫻兒、縵兒、車持娘子、竹取、浦島子、荒雄、葛城王、石川女郎贈2大伴田主1、婦人献2新田部親王1歌、并不v知2姓名1之人々歌の傳は十六通、贈答之帖十三通.沈痾自哀文、教喩の文、鎭懷石の辭等三通、已上皆有2點本1、又順たとひ詞をよまずとも、後人詞に假名付まじと云儀やは侍べき、又順が自筆に點じたる本を見たると申さばこそは于v今難v傳とも侍らめ、又順が自筆の本も世に侍らんもかたからず、村上(ノ)御時年紀不v幾、只見及ばぬにてこそ侍れ、大形は如v此書籍家々重書等も、炎上の爲に空煙滅しぬる事こそ悲しく侍れ、以後自筆本不v侍《ハヘラ》とも移v點の本侍ば同事也、内外書籍も此定也、翻譯三藏の眞筆も、製作論師之正本も、世に不v留事侍れど、展轉書寫の功によりて點本も世にあれば其に付て受習して智惠をひらき侍也、【以下略】○正徹物語に云、萬薬に(7)は仙覺がしたる注釋といふ物と、阿彌陀が作りたる詞林採葉集と、又仙覺がしたる新注釋と云物と三部をだに持たらば、人の前にても萬葉はよむべき也、この新注釋といふもの萬葉には重寶也、【○按に新註釋とは、上に擧たる仙覺抄に新轉歌百五十二首云々といへるものなり、此新註釋といふものはいとゆかしげなるものなるに、今世には傳はらぬにや、そを見たりといふ人もなし、いと口をしき事なり、されど官本にはかの仙覺が跋文にいへる如く、朱と紺とをもて書わけたれば、これによりて考ふるに、これ/\は仙覺が新點なりといふことしられたり、愉快といふべし、】○落書露顯に云、又萬葉集の秘事口傳の事なり、昔の仙覺律師の説とて由阿法師といひし者、あまたの人々に教しより、此秘説も今は昔に下たる上は、我等ばかり非v可v秘也、〇十訓抄中【五十七條】に云、成明親王の位につかせ給たりけるに、女御あまたさぶらはせ給ける中に、廣幡の御息所は、ことに御心ばせあるさまに帝もおぼしめしたり云々、此御息所御心おきで賢くおはしける故に彼帝の御時梨壺の五人に仰せて、萬葉集をやはらげられしも、この御すゝめとぞ、順筆をとれりける云々、○石山寺縁起第二卷に云、康保の頃廣幡の御息所の申させ給けるによりて、源(ノ)順勅をうけたまはりて、萬葉集をやはらげて點じ侍りけるに云々、以上の諸書によりて、萬葉集に訓を施したることは、源(ノ)順朝臣に始れるよし、また仙覺が所v謂古點次轉新轉のこと、又は次轉の點者たちのこととも知(ル)べきなり、
  古訓一樣ならざりし事
(8)袖中抄卷廿【ゐなの水うみ條】に云、おほうみにあらくなふきそしながとり井なの湖にふねとむるまで、顯昭云、ゐなのみづうみとは、湖の字につきてあしくよめる本あり、湖宇を書たがへたるか、或はうみとよみ或はうらとよみ或はしほとよみ或はみなとゝよみ或はみづうみとよめり、この中にみづうみとよめる本はすくなし云々、【○按に此歌は卷七【十七右】にあり、今本の訓はみなととあり】○仙覺抄卷一【五右】に云、八隅知之《ヤスミシヽ》、此詞所々に多以て詠v之、或又書2之(ヲ)安見知之(ト)1、其點不2一准1、或はやすみしる或ハヤスミシリシ〔八字□で囲む〕或はやすみしり或はやすみちの、或はくにしりし、或はやしましる又付(テ)v書(ニ)2安見知之(ト)1或はあめしりしと點(ス)v之(ヲ)、如v此種種(ニ)點(ス)伝々、【○正辭曰、匡中のものは版本には脱(チ)たるを、今古本によりて補ふ、】○顯昭陳状【九左】に云、右申云、左歌打任せては竹とりとこそ申なれたるを、たかとりといへる、させる證のあるか、陳云たかとり竹とり兩樣に萬葉點じたり云々、【○全文は既に出】○同書【三十二左】に云、萬葉に金《カネ・アキ》山舌日下《ヤマノシタヒカシタ》になく鳥の、聲だにきけばなどなげかるゝと云歌あり、初五文字の句を、或はかな山のと讀或は秋山とよめり云々、○顯昭散木集注に云、萬葉集には馬醉木とかきて、あせみともよみつゝじともよめり、可(キ)v付(ク)2何説(ニ)1乎云々、○袖中抄卷【かたちの小野條】に云、みよし野の蜻《カタチ》の小野にかるかやの、思みだれてぬるよ|しもかな《そおほき》【○萬葉集卷十二】顯昭云、蜻をばあきつと讀也、然は此歌をばあきつの小野とよむべし、かたちの小野は旁々そのいはれなし、【中略】俊(9)頼朝臣歌云、みよし野のかたちのをのゝをみなへしたはれて露にこゝろおかるな、是れはかたちの小野と點じたる本に付て讀る也、萬薬のよみはやう/\なるを、能々見定て可v詠也、一説に付てよみつればひが事になるなり、かげろふのをのとよみたることもあり、それもいはれず、○仙覺妙卷二【十右】に云、隱口の泊瀬山者、この詞古點のごとくならば、或はかくらくのはつせの山、或はかくれくのはつせの山、或はこもりえのはつせの山、今※[てへん+僉]がふるに、此和古語に相かなはず、こもりくのはつせの山と云べし、○同卷八【一左】に云、辛荷乃島、此句古點兩樣なり、或(ハ)からかのしま、或(ハ)からにのしま、後の和あひかなへり、○同卷六【九右】に云、吾以在三相二指流云々、此歌第二句に四筒の點あり、一にはみこおほせによれる〔九字右○〕、二にはみゝにさしいるゝ〔八字右○〕三にはみつあひによれる〔八字右○〕、これ江本也、四にはみほかせはれる〔七字右○〕、以上四種の和あるなかに、江本勝歟云々、○萬葉集名寄【下河邊長流著】に云、卷六【十七左】明方云々、萬葉ニ是ヲアスカ潟トヨメル本ト、アカシ潟トヨマセタル本アリ、アカシ潟タルベシトイヘドモ、アスカ潟トモ用來レリ、不v能v改(ル)、○顯昭陳状【四十八右】に云、萬葉に久堅乃羽生の小屋に小雨降云々、をち方のあかしのこやと點じたる本も侍れど云々、○同【五十左】に云、なはの浦を背向に見ゆるおくの島云々、今按に、此等の歌背向と書てそがひとよめり、或はそむきとよみ、或はせなか(10)とよめり、彼浦をうしろざまにみなす心也、
以上古訓一樣ならざりし證也
 
  歌數
八雲御抄二【三十左】に云、萬葉集廿卷、四千三百十五首、長歌二百五十首此内也、但萬葉集有2兩説1、奥五十首或無、○袋草子一【三十一左】に云、萬葉集典、和歌四千三百十三首、此中長歌二百五十九、但本々不v同、難v用2定數1、○閨中抄【縣居雜録補抄所引】に云、萬坡集廿卷、歌數四千三百九十六首、○拾芥抄上末【九左】に云、萬坡集廿卷、四千三百十五首、長歌二百五十此内也、或説奥五十首、或二人〔二字右○〕、【按に二人は旡(ノ)字の誤也】○代匠記惣釋一に云、長歌合二百六十六首、短歌合四千百八十六首、旋頭歌合、六十三首、三體都合四千五百十五首、【注全歌二十首】詩四首、文一首、序十三首、状十二首、○詞林采葉抄卷十に云、長歌二百六十首、短歌四千百八十八首也、○假名萬葉集に云、短歌三千八百九首、旋頭歌五十六皆、長歌二百七十九皆、反歌三百八十九首、都四千五百三十三〔右○〕首、【三恐二】○萬坡集時代難事【顯昭撰】に云、和歌(ノ)惣數四千五百餘首(ノ)中、有2作者1歌二千一百三十六首、皆是(レ)出2諸家(ノ)惣別(ノ)集(ニ)1、惣集者、類聚歌林并(ニ)古今〔右○〕【恐歌】集等也、別集者、柿本人麻呂(ノ)歌四百餘首、山上憶良歌六十餘首、山邊(ノ)赤人(ノ)歌五十首、笠金村(ノ)歌四十餘首、田邊(ノ)福丸歌五十餘首、安陪(ノ)蟲三十餘首、帥伴(ノ)卿四十八首、大伴(ノ)家持(ノ)歌四百(11)五十餘首、大伴(ノ)坂上(ノ)郎女八十餘首、諸國(ノ)防人等(ノ)歌百卅餘首、新羅使等(ノ)歌百餘首、又無2作者1歌一千八百餘首(ノ)之中、稱2作者不1v詳歌百廿餘首、不v載2作者(ヲ)1歌千六百廿餘首、其中五百餘首出2古集(ニ)1又有2奉歌二百卅餘首1云々、
正辭按に、こゝにいふ惣數四千五百餘首は、今本の數にあへり、しかるを其中作者ある歌二千一〔右○〕百三十六首、作者なき歌一千八百餘首とありて、これとあはすれば三千九百餘首となるなり、惣數にあはず、但し二千一〔右○〕百の一は六の誤(リ)にはあらじか、また八雲御抄拾芥抄等に四千三百十五首とあるは心得ず、これも三百は五百(ノ)誤にや、されど袋草子閨中抄にも四千三百云々とあれば猶よく考べきことなり、【上に出したる顯昭陳状に五千餘首とある五は四の誤りなるべし】
 
  略本萬葉集
俊頼無名抄に云、はつ春のはつねのけふの玉はゝさ手にとるからにゆらく玉の緒云々、この歌はある老法師の京極(ノ)御息所へよみかけ奉れるなりと、ある物語にいへりと能因法師|藤《帥イ》大納言に語申けるに、此歌は萬葉集の廿の卷にあればことの外のそら事にてぞ、ひとへに物語のひがことゝおもふべきに、此歌萬葉集にある本もあり、なき本もあり、此本は此歌のみならず、今歌の五十餘首なければきはめてふしん(12)なり、よく/\たつぬべし、【此書各本異同多し、今かれこれを校合し又袖中抄に引たるをも見合せて訂正し、且其原文いと長かれば要を採て記しぬ、按に袖中抄によれば五十餘首の五は九の誤かともおぼゆれど、上に出したる八雲御抄拾芥抄等にも五十首とあればもとよりさる本もありしにや、】○袖中抄卷十七【玉はゝきの條】に云萬葉集第廿卷欠2九十餘首(ヲ)1は僞本也、書寫之間自然(ニ)不v書終1也、料簡由緒等甚深也、委(クハ)如2萬葉時代々勘文1、
 正辭云舊温故堂本及家藏本卷廿【四十左】服部呰女が歌の旁らに朱書あり、其文に云、或本以2此歌1爲2集(ノ)終1、自v此奥歌無v之、仍不决本(ノ)奥(ニ)云、依2秘藏1別書v之云々、此義不v可v然歟と云へり、此文官本及昌平本にもあり、さて今これより以下の歌をかぞふるにすべて九十四首あり、袖中抄にいへると其數合り、されば古くよりさる本もありしなりけり、かくて顯昭古今集序注【四十六左】に云、勝命云、萬葉第廿卷之奥(ノ)哥者、孝謙(ノ)御代藤原直楯撰2加之1、仍付2萬葉集(ニ)1、有2廣略兩本1云々、とあり猶考ふべし、
 
  古萬葉集 附新撰萬葉集
順集に云、天暦五年宣旨ありて、はじめてやまとうたえらぶところを、なしつぼにおかせ給て、古萬葉集よみときえらばしめ給なり、〇同集に又云、應和元年七月十一日四歳なる女ごをうしなひて、同年八月六日又いつゝなるをのこゞをうしなひて、無常のおもひものにふれておこるかなしびの涕かはかず、古萬葉集中に沙彌滿誓が(13)よめる歌の中に、世の中をなにゝたとへんといへることをとりて、かしらにおきてよめる云々、○源氏物語梅妓卷に云、さま/\のつぎ紙の本どもえりいたさせ給へるついでに御子の侍從して宮にさぶらふ本どもとりにつかはす、さがのみかどの古萬葉集を撰びかゝせたまへる四卷、【○細流に嵯峨天皇の手本などのため歌を撰して書給へるなるべし、萬葉全部にはあるべからずとあるが如し、しかるを小本爪印下廿二に、也萬葉の事諸抄さたかならず、愚案古萬葉集 とて別に四卷有歟、さるふるき書を見侍に、古萬葉集の序あり、其詞云、これは世の中にちはやぶることなれば、神代ちかゝりける時のみかど/\人々の歌をかきあつめて、萬葉集となづけておほくのよつみてければ、なをわかといふなのあたらしきにそひて、よみ人さへくちず、云々、嵯峨御門の御撰歟、とあり、こはいみじき誤まりなり、安藤爲章年山打聞云、西山公中御門宣胤卿の親筆の古萬葉集の序を得て、扶桑拾葉集に載られ給ひしが、後に僞作を知たまひしなりといへり、○正辭按に、古萬葉集と云もの別にあるには非ず、こは新撰萬葉集いてきてのち、今の二十卷の萬葉集をば古萬葉集といひし事、諸書にて明らかなり、】○權紀【行成卿】に云、長保三年五月廿八日己亥、故民部卿在世(ノ)日、被v送2續色紙一卷1、請v書2古萬葉集1仍書v之、○袋草子卷二に云、此集末代之人、稱2古萬葉集1、源順集ニモ古萬葉集中ニト云事アリ、是有2新撰萬葉集若ハ管家萬葉集等1之故歟、新撰萬楽集ハ延喜(ノ)御時抄2出之1云々五卷也.
 清水濱臣云、新撰萬葉集上下二卷なり、此に五卷とあるは別に歌數おほき本あるにはあらさるべし、四季戀を五卷に分ちたるなるべし后宮歌合の左右を上下にわかちたるなれば、其五卷なるには、春左右夏左右として五巻とはなせしならむ、(14)決して五卷の本あるにはあらさるべし、卷ものにて五軸なるべし、○正辭按、菅家萬葉集を五卷に分たる事をきかず、こゝに云新撰萬葉集菅家萬葉集は一書にはあらさるべし、新撰と菅家と別々なるべし、若(ノ)字等(ノ)字に心をつくべし、又延喜(ノ)御時抄2出之1とあるも、菅家萬葉の事としては時代に疑あり、そはまづ菅家萬葉集は序には寛平五年撰とみえ、扶略略記には寛平四年撰とみえて、宇多天皇(ノ)御宇のほどなれば延喜(ノ)御時とは云べからず、且此御神は延喜元年に左遷し給ひて、同三年に卒去まし/\たれば、いかで其ころかゝる御撰などはあるべき、されば此新撰萬葉集は菅家萬葉葉の事にはあらで別なるべし、但し菅家萬葉をも新撰萬集集ともいへれ、そは同名異物とすべし、さてこゝにいへる新撰萬葉集はいかなるものにやといふに、たしかなることはしりがたけれど、試にこれを考ふるに、八雲御抄に貫之萬葉五卷抄とみえ、本朝書籍目録外録にも萬葉集五卷抄貫之撰云々とみえたる、是なるべし、但し袖中抄卷五あさもよひ條にこの五卷抄の序と云ものを引けるを見るに、貫之ぬしの撰ばれたるものともみえねど、當時おしなべて貫之ぬしのものとおぼえたるならん、さるからに清輔朝臣も其説に從ひていへるなるべし、さては延喜(ノ)御時抄2出之1とあるによくかなふべく、また抄出とあるも此五(15)卷抄とこそきこゆれ、猶よく考ふべし、
枕草子【春曙抄三【二十六左】】に云、集は古萬葉集云々、○新猿樂記に云、古萬葉集新撰萬葉集、古今後撰拾遺抄云々、○古今和歌集目録に云、柿本(ノ)人麿以2年々(ノ)叙位除目1、尋2其昇進1無2所見1、但古萬葉集第二云、大寶元年辛丑幸2紀伊國1時作歌云々、藏〔右○〕2古萬葉集1尋《ルニ》2人丸在世之時(ヲ)1天智天皇(ノ)御宇以後文武天皇御在位間之人也、【○按藏恐就字之誤】○三十六人歌仙傳に云、柿本朝臣人、件人就2年々除目叙位1尋《ルニ》其昇進1無2所見1、但萬葉集云、大寶元年幸2紀伊國1時作謌從2車駕1云云、又云山邊宿禰赤人、古萬葉集云、神龜元年甲子冬十月五日、幸2紀伊國1時作歌云々○峯相記【貞和四年、播州峯相山鷄足寺参詣記、】に云、古萬葉集云、神龜三年秋九月幸2宇播磨國印甫郡(ニ)1仰(ス)2赤人(ニ)歌(ヲ)1、
以止の諸書にいへる古萬葉集即今の萬葉集なり、
 
  目録の事
本集の目録は、作者の自らものしたるにはあらずとの説はさもあるべし、されどいと古き時よりありこし事は論なし、按ふにこは源(ノ)順朝臣等、勅を奉《ウケタマハ》りて梨壺にて、此集讀解きたりしをりに加へたるものならん、さては後世の私物にはあらず、しかるを後人のしわざに出たるものなればとて、妄りに文字を増減せる人もあるは、いと(16)妄りなる事なり、且目録によりて本文の誤りを正すべき事もあるをや、抑諸々の書の題名は、いつれも本文の首に置くこと、和漢古今同一なるを、萬葉集はもろ/\の古本はさらなり、舊板本も皆題名をば目録の前に記して、本文の首には題名を記さず、これ古へより目録のありし證なり、若(シ)目録は後人のしわざならんには、題名は更に本文の首にもあるべき事ならずや、世の萬葉學者の此に心附かざりしは甚(ダ)遺憾なる事なりき、かくて仙覺が奥書に、本々目録同じからざるよしをしるして、松殿入道殿下(ノ)本、【帥中納言伊房卿(ノ)手跡也、○按に定家卿の長歌短歌説といふものに、松殿入道殿下本、帥中納言伊房卿(ノ)筆、萬葉集三箇證本之一也とあり、】左京兆(ノ)本、肥後(ノ)大進忠兼(ノ)本の三本は、二十卷すべて卷首に目録あり、又二條(ノ)院(ノ)御本尚書禅門眞觀(ノ)本【元家隆卿(ノ)本也】基長中納言(ノ)本等は、卷一より卷十五までは目録ありて、卷十六以下五卷は目録無し、又二十卷すべて目録なき本もありといへり、其二十卷すべて目録無き本は作者の舊色なるにもせよ、上にいふが如く目録を加へたるもいと古き世の事とこそおぼゆれ、かくて仙覺が跋文に、第十六卷以下五卷目録無き本ありといひ、又第十六卷以下の目録に誤り多きをみれば、順朝臣等のをりは、第十五卷までの目録を加へて、其他は果さゞりしを、後人の補ひたるものなるべし、但し今世傳ふる古本は、官本をはじめ、大かたは仙覺校本を傳へたるものなれば、いつれも目録ありて、今本と同(17)じきは【少異同はあれど】もとよりのことなれど、無點活字本また余が藏する細井貞雄舊藏本、及び元の昌平學問所本等は、全く別本にていまだ仙覺の手を經ざりしものなり、しかるにこれ等の本も今本と同じく、二十卷すべて目録あり、此はかの松殿御本の流の傳はれるものにや、とまれかくまれ、目録は古へよりありし事論なし、
さて今傳ふる古鈔本にて最古きは、元暦校本と稱するものなり、【奥書に元暦元年に校合を加へたるよし配せる古鈔本也、此他曼珠院宮卸藏にて、大治天治等に書寫したりといふ本、卷第二第十第十四第十五第十七の零卷五卷ありといへど、いまだ本書を見ざれば、其体裁の如きは决めていひがたし、其鈔録したる本は余も藏せり、精しき事は萬葉集書目提要にいひ置たり、又近き頃出現したる桂宮の御藏にて、貫之の筆なりといへるが、貫四一卷あれど卷首欠けたれば目録の有無は知りがたし、但し此等の本は何れも卷子本也】此本卷々の筆者同じからざれども、第一第二の卷は行成卿の筆なりといひ傳へたれば、いと古し、しかるにこの、本にも目録は今本と同じくありて、且題名は目録の前にある也、但し第十七第十八第十九の三卷には目録なし、卷二十にはまた目録あり、第十五第十六は全く缺けたれば其有無知りがたし、これ仙覺が跋文にいへる二條院御本の流なるべし、今其目録の有無及書樣を左に擧ぐ、
 卷一卷二、目録ありて目録の末二行を空《アケ》て本文を書す、按ふに目録と本文との間二行を空て書《シル》す事は、延喜圖書寮式にある法にて當時の制なり、これを以ても此(18)本の古き傳へなることを知るべし、〇卷四、目録の末直に本文に接《ツヽ》けてかけり、○卷六、目録と本文の間を二行空す、○卷七、目録の末と本文の首とを缺く、○卷九、目録及び本文の首缺く、故に此二卷は體樣知がたけれど、他の卷に準ぶれば目録のありし事疑ひなし、○卷十卷十二卷十三、此三卷は目録の末直に本文に接して空行なし、○卷十四、目録の首缺く、末は直に本文に接して空行なし、○卷十七卷十八卷十九、此三卷は目録全く無くして、題名をば本文の首に書《シル》せり○卷二十、目録ありて本文の首缺けたり、但し其書樣を※[てへん+僉]ふるに、目録と本文との間二行を空したるものゝ如し、第三第五第八第十一第十五第十六の六卷は全く傳はらず、かくて此本の一二の卷は、上にもいへる如く、行成卿の筆なりといへるを彼卿は公卿補任によるに、萬壽四年五十六歳にて薨せられたる人なれば、花山一條天皇の頃盛なりし人にて、源(ノ)順朝臣の本集讀ときたりし天暦よりは、僅に五六十年の後にかけるものなり、かゝれば目録は、順朝臣等の加へたるならんといふことを疑ふべからず、
 
  本集の諸々の傳本の事
今(ノ)世に傳ふる萬葉集の本どもゝいと多かる事にて、先(ツ)板本にては活字板に三本あ(19)り其一は傍訓無くして漢字のみを記したり、此本には仙覺成俊等の跋文を載せず、一はこれも傍訓は無くて漢字のみを記したるものから、其文字を意に任せて改刪したるものありて、題號を古萬葉集と書せり、此は享保年中に土佐の人横田美水の罷印せしなり、陋本據るに足らず、題號を古萬葉集と改めかけるにても、其さかしらを知るべきなり、一は活字ながらに傍訓あり、又仙覺成俊等の跋文などもありて、整版と全く同じきものあり、盖是(レ)整版の原本にして、今の通行本は此活版を覆刻したるものなり、世に此本を知りたる人少し、以上三本は活版なり、次に整版今の通行本の奥に寛永二十年安田十兵衛新刊とあると、寶永六年出雲寺和泉掾としるしたる二種あり、されど此は當時寛永刊本の印版を出雲寺購ひ得て、尾題を改たるものにして、寶永に重彫したるにはあらず、此他拾穂抄旁註本校異本の三種あり、拾穗抄は北村季吟の著す所にして、本文を改易したること少なからず且草假字を以て正文とし、漢字を其側に旁注の如くしるせり、本書の體色を失すること甚しといふべし、旁註本は常陸雨引山の僧惠岳が著す所にして、其注僻説誤謬多く採用すへきものあることなし、且をり/\正文を改易したるもみゆ、校異本は文化年中橘(ノ)經亮藤原(ノ)以文等の諸本を比校して、異同を記したるよし、奥に記せり、按ずるに此本はもと惠(20)岳が旁註本の旁註を刪去して、經亮等の記せる異同を鼇頭に載せたるものにして、もと奸商の贋作に出でたるものなり、此三本は所謂俗本なり、以上刻本七種あり、此他余目撃する所の寫本は、先(ツ)古筆の萬葉集、此本は行成卿公任卿俊頼朝臣寂蓮法師宗尊親王光俊卿等の自筆の本を集めて一書となしたるものにて、【筆者のことは余別に論あり、今は相傳の説につきていふのみ、】元暦年中に右近權少將たる人の校合を加へたるよしの奥書あり、故に世に元暦萬葉と稱す、其次は正安三年に治部丞頼直といふ人の傳へたる本なり、これはもと塙保巳一の藏本なりしを、今余が藏に歸したり、其次は細井貞雄の原藏にして、四百年ばかり前にかけりとおぼゆる古色の本なり、これも今は余が架中に歸せり、次は舊の昌平學問所の藏本にて、林道春の跋文ある本なり、此本は上に擧けたる細井本を以て寫し傳へたるものにて全く同種なり、又無點の活字本は此本に依りて印刷したるものなること、余別に説あり、されば細井本と學問所本と無點活字本とは、親子兄弟といふべし、かくて他に官本と稱するものありて、中(ノ)院家に傳はりたるが、水戸西山公始(メ)て之を寫し傳たへたるを、契沖の代匠紀に引たるより、世の萬葉家も其文字の異同を窺ひ知ることを得たるものにて、其原本は人間には出さゞりしものなりしを、維新の後いかゞせし事にか、東京の書肆の(21)手より吾(レ)購ひ得たり、此本は實に萬葉を今世に傳へたる、仙覺律師が眞面目を見るべきものにて、いと/\貴重すべき本なり、其他尾張の眞福寺に傳へたる本、京都の曼珠院(ノ)宮に傳へたる本、また近頃博物館の御藏品になりたる、貫之ぬしの自筆本といへるなどあれど、これらはいづれも僅に一卷にも足らぬ零本にて、全部の校合に關《アツカ》ることを得ざるなり、遺憾といふべし、又近き頃神田淡崖ぬしの得たる古本あり、其本の筆者は後鳥羽(ノ)天皇關白兼實公勝原(ノ)清範等なりといふ、おのれ唯一見したるのみにて、未熟覧せざれは、其果して然るや否やを知らず、以上述ぶる所皆寫本なり右の諸本を以て現行の板本に比校するに.互に異同善惡あれど、すべてのうへにては、板本に勝れるものある事なし、此は文永年中に、仙覺律師が多くの古本を集めて、校合訂正したる本をもて、刊行したるものなればなり、其校正に用ゐたる本どもは、現行本の仙覺が跋文にみえたり、某氏の藏本と指名したる本のみにても、凡二十本餘の多きに及べり、これ版本の古本に勝れる所以なり、
 
  先哲の注釋に引きたる本どもの事
代匠記に云、今注する所の本は世上流布の本なり字點共に校合して正す所の本は、一つには官本、是は初にかへして官本と注す、八條智仁親王禁裏の御本を以て校本(22)として字點を正し給へるを、中(ノ)院亞相通茂卿此を相傳へて持給へり。水戸源三品光圀卿彼本を以て寫し給へるを以て今正せば、官本と云、彼官庫の原本は、藤澤(ノ)沙門由阿本なり、奥書あり、二つに校本と注するは、飛鳥井家の御本なり、三つに幽斎本と注するは、阿野家の御本なり、本是細川幽斎の本なれば初にかへして注す、四つに別校本、五つに紀州本と注するは、紀州源大納言光貞卿の御本なり、此外猶考へたる他本あれど煩らはしければ出さず、
萬葉考に云、をしきかも仙覺が考へ合せし時までは、ことなるも多かりと聞ゆるを、今は只板に彫たると、字ごとに彫ておしたる【○所謂活本也】のみぞある、荷田うし年月に求めて、いさゝか古き時書けん一つを得つ、こもことにもかはらねど、今の本よりはよき事侍り、且それが傍に朱もて書添たるにぞ、助ることもある也、さて此たびの考に、今本と云は今ありふる本也、古本といふはかのはやき時書けん也.一本といふは字ごとに彫ておしたる也、又ならの若宮の神主がもたる古葉類要集とて、周の中にいぶかしき歌どもをのみ書つめたるあり、こも古本の中に入つ、此外いと後に書出てある歌ども【○撰集其他の書に出たるものをいふなるべし】の、ことわり有をも一本の中に入つ、【○正辭云、古葉類要集とあるは古葉略類聚抄の誤なり、下の略解の説によるに、縣居翁は東麿の書入本によりて記したるよしなれば東麿翁の誤を傳へたるなり、そはかの翁の癖案抄に、古葉畧要集とある是なり、】(23)萬葉考槻の落葉に云、この解に古本といへるは、季吟か拾穗抄に所v引官本、契沖か代匠記に所v引水戸本、豐前(ノ)國人藤原(ノ)重名が京師にて所v校古寫本、己が藏る古寫本等也、活本といへるは活字本、類聚抄といへるは奈良より出たる古葉類聚抄なり、
萬葉集略解に云、今、古本としるせるは東萬呂翁の得られしにて、いさゝか古き時書つる本也、さて世に常にあなる活字の本をば、一本とて擧たり、又伊勢の國人がもてる古本に、元暦元年校合せるよし奥書したるあり、今其本を擧たるをば、傍に元の字をしるせり、又官本と擧たるは、代匠記に官本を校合せし本の有しを得て、それよりとれる也、拾穂本と擧たるは.北村季吟の校合せる古本をいへり、すべてくさ/\の本、よしとおもはるゝをのみ擧て、誤れりと覺ゆるをばとらず、古葉畧要集と擧たるは、東萬呂翁の僻案抄、翁の考などによれり、こは僻案抄に、春日若宮(ノ)神主大中臣祐宗物學びに來りて、彼家に傳へし古葉畧要集を持來りて見せし時、此集の文字のたがひども校合せしよしありて、賀茂の翁は北東萬呂翁の本をもて、異同をしるされたるものなり、又近きころ古葉略類聚抄といへるを.春日若宮の神主の先祖祐茂、建長の比寫しおけるを、難波の江田世恭といふ人の得てうりしたるより、かた/\につたへておのれも寫せり、かの畧要集といへるとは異なるにや、詳にしりがたし、かれ(24)此解には先翁のしるされたるまゝにせり、【○正辭云、畧要集といへるは誤なるよし、上文にいへるが如し、猶精しくは萬葉集書目提要に論じおきたり、】
橘(ノ)守部が萬葉集墨繩に云、【○此書は總論のみありて、本注はなきよしなり、こは同人の著はしたる檜※[木+爪]といふものゝ原稿なるべし、】今世に流布する印本には、活字本校異本等あり、寫本の事は量り知べからず、注さくせる書どもの異本又限りなし、おのれが見し中にして、異なる事のあるかぎりは、其時々に校合して書くはへ置つるを、こたび、本行と並べて出す、古點の下に用ありげなるを引つれば、此に其書目は省きつ、其外に今わつかにもたるは元暦五〔右○〕年(ノ)校合の殘本、建長年間堂上能筆本全部二十卷、同二年(ノ)部類古葉略類聚抄、ヌ時代不知古寫本等也、これらも用ある處には稀に引べし【○正辭云.建長年間堂上能筆本といへるものは絶えて聞かざる本なり、さる本實にありやなしや甚疑はし】
右の注釋どもに所引の古本は左の如し、
  代匠記所引
   官本 飛鳥井本 幽斎本 別校本 紀州本
  萬葉考所引
   古本 即荷田本 古葉略要集 實は古葉畧類聚抄
  久老槻の落葉所引
(25)  官本 拾穗抄所引 水戸本【代匠記所引○蓋謂2別校本1者是也】
   重名本 古寫本 古葉略類聚抄抄
  略解所引
   古本 考所引荷田本 官本 代匠記所引 拾穗本 季吟所引古本 古葉略要集 考所引
   元層校本
  守部墨繩所引
   元暦校本 古葉略類聚抄 建長本 古寫本
右各所引によりて見れば、代匠記は、官本以下すべて五本、萬葉考は僅に二本に過ぎず、久老所引は五本ありと雖ども、官本水戸本は孫引なり、本書に就て校合したるは三本なり、略解は五本引たるうち.四本は孫引にて、元暦校本のみ原本に就て引けるなり、守部は四本みながら原本によりたるものゝ如くなれど、其實いかゞあらん、古本を多く集めて、各原本によりて校合したるは代匠紀のみなり、如v此校合麁なるが故に、遂に其本文の文字を定むること能はず、妄りに文字を改易することの弊盛りに行はれしなり、多く古本を集めて、能く校合するときは、誤字は顯然たる誤字にしていと明らかに知らるゝなり、故に余は諸本の異同を記し集めて、先本文の校異を(26)作り後に注釋をものせんとおもひて、多くの異本を集め、今の板本に悉く書加へ置たれども其校異は卷五までは稿成たるも、いまだ果さず、今より勉めて竣工せんとおもふ、
 
  本書の用字中、隋唐以前の音訓及び六朝の時の俗字を用ゐたるものゝ事
本集は孝謙天皇の天平勝寶元年に、橘(ノ)諸兄卿の撰述したるを、其後大伴(ノ)家持卿の續撰したるなりといへり、其天平勝寶元年は、唐の玄宗皇帝の天寶八年に當れり、故に集中の文字の音訓には隋唐以前のものを用ゐたるがまゝあり、しかるを代々の識者此に心づかずして宋以後に出來れる字書韻書等にのみ據りて、其以前にさかのぼりて考ふべきことをおこたりたるが故に、讀難き文字多くあるを、深くも考へ正さずして、其讀難き文字に遇へば、漫りに誤字なりといひて、意を以て改め易ふるなり、今其先哲の誤字なりとして改めたる文字の、誤字にあらざるものを一二出して、其説の非なるを示すぺし、
 クマ〔二字傍線〕といふ言に隅(ノ)字を用ゐたるがこれかれあるを、皆隈(ノ)字の誤りなりとすれど、魏の張揖が廣雅に隅(ハ)隈也とあれば、固よりクマ〔二字傍線〕の義ある文字なり、又乍(ノ)字を此方の古書にはツヽといふ言に充たるが多くありて、こは誰も疑はざる事なれど、後(27)世の字書には其疑見えず、然るに唐の玄應が一切經音義に蒼頡篇を引て、乍(ハ)、兩辭也とあり、此方にてツヽ〔二字傍線〕に充たるは此義によれるなり、ツヽ〔二字傍線〕は本居翁の古事記(ノ)傳に、此事と彼事と相交るとき、其間に置く辭なりといへり、是(レ)兩辭也とあるによく叶へたるにあらずや、又|齊宮《イツキノミヤ》齊戸《イハヒベ》などの時に、多く齊(ノ)字を用ゐたるを、皆斎の誤りとし、盤(ノ)字をイハ〔二字傍線〕の義に用ゐたるをば、磐の誤りとすれど、齊斎盤磐などは、漢以來通用の文字にて、誤りとすべきにあらず、又卷十九にアヤメ〔三字傍線〕を昌蒲とかけるにつきて、艸冠の落たるなりとて改(メ)たるなどは、殊に笑ふべきことなり、昌は古字菖は俗字なるをや何(ノ)字をニ〔傍線〕の假字に用ゐたるがこれかれあるを、皆荷の誤りとす、されど易または詩經に何を荷の義に用ゐたれば、古へ通用の字にて、此方の古人もそれに傚へるなり、又言(ノ)字をワレ〔二字傍線〕といふ所に用ゐたるが多くあるを、吾(ノ)字の誤りとして改たるは、いみじきひがことなり、毛詩の葛覃又は※[丹+彡]弓の傳に言(ハ)我也とあるをや、此類枚擧に遑あらず、今其一二を擧るのみ、また字形につきていはゞ、紐を※[糸+刃]と作《カ》き、過を※[しんにょう+乃+咼?]と作き、逕を※[しんにょう+至]と作き、匣を※[匣の甲が臾]又は※[しんにょう+更]※[凶の中が更]と作き、釧を※[金+爪]と作き敝を敞と作き、牢を※[穴/牛]と作けるなどいづれも六朝以來の俗體なり、此他又古へ皇國にて造りたる文字を用ゐたるも間々あり、そは其所ゝにいふべし、また字音につきては、(28)卷十三に百岐年三野之國《モヽシネミヌノクニ》とある岐は、もとよりシ〔二重傍線〕の音ありて、それを用ゐたるなるを冠辞考略解等に岐は詩の艸書より誤れるなりといひ、卷五に多良知遲能波々何目美受提《タラチネノハヽカメミステ》とある遲はシ〔二重傍線〕の音を用ゐたるものなるを、進《シ》の誤ならんといひ、而をニ〔二重傍線〕に用ゐたるがこれかれあるを、いづれも爾の誤なりといひ、又等の字にもニ〔二重傍線〕の音ありて、其音を用ゐたるが三所ばかりあるを、これも爾の誤なりといへり、此他字音の用ゐかたの今とたがへるをば、皆誤字或は古言の通ずるものとすれど其實は字音の今と同じからざるものあるが故なり【但し東歌なるはまた別論となすべし、そのよしは余が萬葉集】鳧乙といふものに論じおきたり、】また偏を省ける文字なりといへるが多くあるも、もと皆音義の通ずるものにて、其實は偏を省けるにはあらず、これらのことは余別に萬葉集文字辨證萬葉集字音辨證萬葉集訓義辨證といふ三書を著はして、字形字音字訓のともすれば人のあやしむ限りをえらび出てゝ注し置きたれば、其書に就て見るべし、猶其文字の出たる所々に略注を、ものすべくなん、抑文字の學はしも、縣居翁鈴屋翁の頃には、いまだよくも聞けざりしを、其後政學の次々に明かになりもて來て、己が如き淺學寡聞の者すらも、其根源を窺ひ知ることを得るにいたりしなり、されば先達の學の麁漏なるにはあらず、時世のこゝにいたらざりしにこそ、
 
(29)  文字を妄に改むまじき事
縣居翁の萬葉考、本居翁の玉勝間又は玉の小琴等に、萬葉集はもと草書にてかきたるを、つき/\に寫し傳ふるにつけて、誤りの多く出來しものなれば、その誤りを考へ正すを旨とすべき事なりといはれたるは、何事もくはしかりし翁だちには似ずして、いとわろきをしへにて、古人を強(ヒ)今人をまどはす説とこそいふべけれ、しかるをこれによりて、いさゝかもおのれえよみがてにするところをば、みだりに誤字なりとして改めもし、または前後の序などを、おのがこゝろ/\に改易するともがらいと多かるは、うれたきわざなりかし、しかつぎ/\に改め易へゆきたらんには、あなかしこ舊《モト》の體色は失はてゝ、さばかり學者の尊びつる萬葉集も、遂には後の世のものとやなりはてなまし、慎まざるべからず、さて又此集は舊《モト》草書にてかき傳へしといふことも臆説なり、其は元暦校本をはじめ、いづれの古本も全き草書にかきたるものあることなし、但し楷書の中に行體をおびたる文字はをりをりまじれり、こは萬葉のみにはかきらず、古鈔の諸書皆しかなり、そも/\本邦の古書は六國史をはじめ、其他の雜書の版本は、いづれも誤字脱字甚多かるを、これらにくらぶれば、萬葉の版本は誤字も脱字も少し、偶々は誤字も脱字もなきにはあらねど、さばかりの誤(30)はいづれの書にもあることなるをや、何故に萬葉の版本は、誤字脱字の少きにやといふに、上にもいへるが如く、仙覺律師の多くの古本を比校して、訂正したる本を以て刻したるが故なり、實に律師の功といふべし、
縣居翁も萬葉考をものせられし折には、萬葉集の誤字脱字錯亂等の事を主張せられて、文字を改易し、次序を變更したれども、こは晩年に及び其識見を自《ミヅ》から憑み、古文古訓を漫置して省みず、遂に古書の文字を率意※[纔の旁+立刀]改したるものならん、誠に遺憾といふべし、そのはしめは文字を改易することをばいたく戒められたり、その證は同翁の前《サキ》に著したる萬葉解通釋といふものあり、この書同翁の家集に其序を載せたり、されど本文は傳らざれば、如何なるものにやと、年頃ゆかしく見まほしく思ひ居りしが、明治二十二年の十一月、ゆくりなく翁の自筆本を得て、いとうれしくてよみもてゆくに、萬葉考のおもむきとは、いたく違ひたる事ありて、これによるべきことも少なからず、其うち北村季吟の萬葉拾穂抄のことをあげつらひていはく、その本は端書或は作者などをも見安からん料に、前後に置かへなどせり、甚しき僻事也、凡古書はたとひ誤字とみゆとも多くはそのまゝにして、傍に私の意をば注し付べし、己(レ)は誤也とおもふ文字も、却りて正義なる後賢の辨出來んも知れがたければな(31)り、云云、又古訓のことといへる條に、今の訓點かく有まじきか、又はいとよく訓ぜし、又は决して誤れりといふ事を知、旦文字の誤、衍字脱字ならんといふ事をも疑出來べし、疑ありとも急におもひ得んとすれば、また僻事出來る也、千萬の疑を心に記し置時は、書は勿論今時の諸國の方言俗語なども、見る度聞ごとに得る事あり、さて後ぞ案をめぐらすにおもひの外の定説を得るもの也とあり、
此二條はまことにさることにて、萬葉考の妄りに文字を改易し、次序を變更したるとは雲泥の相違なり、後の條なるは訓のことすらかくの如し、實に古書の注釋をものする方法を得たりといふべし、
この萬葉解通釋といふものは、翁の家集に一の卷のみにて二より以下は果さず止めぬとあれど、今得たる自筆本によれば、一の卷なる蒲生野の贈答の歌までを注したり、但し寛保二年上野寛永寺(ノ)宮の仰によりて書きたるよしなり、さては萬葉考を著はしたる寶暦十年よりは十三年前のことなり、しかるをいかなれば萬葉考はこの説に反して、妄に文字を改易し、次序を變更せしにや、いといぶかしき事になむ、
本居宣長翁の古事記傳は、古書の注釋の体裁を得たるものなる事論をまたず、その文字に於ても、妾に改易せしことなし、その一例をいはゞ、書中に蜈蚣を呉公とかけ(32)るによりて、その注に、これは皇國にて特に偏傍を省きて用ゐたるものなりといひて、文字はもとのまゝに呉公としるし、その略字の例をあげたり、但し呉公は古宇にて本字なり、蜈蚣は晩出の字にて俗字なり、しかるを偏を省きたるなりといへるは、本居翁の誤なれども、忽に文字を改易せざりしは、さはいへど古書の注釋の法を失はざるものなり、又書中に鉾といふ字をこと/”\く桙とかけり、しかるをこれをも改めずして、注に日本にては古(ヘ)杠谷樹《ヒヽラキ》の八尋桙《ヤヒロホコ》などの如く、木を以て製したる矛多きにより、特に金偏を變じて木傍を用ゐたるものにて、皇國製造の字なりといへり、これらも今人ならば、忽改易せんもはかり難し、
凡古書には、古宇あり奇字あり、俗字あり、借字あり、是を盡く今世通用の文字に改るは、亦古書の面目を失するもの也、况や異字異音の字を以て、妾に原字を改易するが如は古書を害する事甚大なりと謂ふべし、清(ノ)李調元が明(ノ)楊慎古音駢字の序云、昌黎有v言(ルコト)作(ンニハ)v文(ヲ)必先識(レ)v字(ヲ)、予謂(フ)識(コト)v字(ヲ)、難(キ)、甚2於文(ヨリ)1也、※[虫+科]※[虫+斗]變(シテ)爲(ル)2篆隷(ト)1篆隷變(シテ)爲(ル)2俗書(ト)1、愈趨(テ)愈簡(ナリ)、取v便臨v文(ニ)有d不v識2古字(ノ)爲(ルヲ)2何物1者u、往々以d古人通用之字稍自2博雅(ノ)者1出uv之、後人目不2經見1、遂乃色然(トシテ)而駭(ク)少(ケレバ)v所v見必多(シ)v所v怪也、といへるはまことにさることなり、
支那にても唐の代までの人は古書の文字を私に改易する事はあらざりしが、宋と(33)いふ代より以來は、學びのすぢみだりになりゆきて、常に私意臆斷を以て、古書の文字を改易増損して、遂に古書の面目を失する事甚多し、東坡志林に、近世(ノ)人輕(シク)以(テ)v意(ヲ)改v書(ヲ)、鄙淺之人好惡多(クハ)同(ジ)、故(ニ)從而和(スルv之(ヲ)者衆(シ)、遂使3古書(ヲシテ)日(ニ)就(カ)2訛舛(ニ)1、深(ク)可(シ)2忿疾(ス)1、といへり、この説の如く、世間おしなべて鄙淺の人多く、故にその好惡同じくして、その妾改に和するもの多きは、支那も日本もおなじくして、實に嘆すべき事也、又清の錢遵王の讀書敏求紀に近代刊行(ノ)典籍、大都率(ヒテ)v意(ニ)※[讒の旁+立刀】改(シ)俚(ム)4古人(ノ)心髓面目(ヲシテ)晦3妹沈2錮(セ)于千載之下(ニ)1、良(ニ)可v恨(ム)也、嗟々秦火之後、書亡(ルコト)有v二、其毒甚(シ)2于祖龍之炬(ヨリモ)1、一(ハ)則宋時之經解、逞(クシ)説(ヲ)1馮(ミ)2臆見(ヲ)1、專2門(ニシ)理學(ヲ)1、人々自(ラ)名(ク)v家(ニ)、漢唐以來諸大儒之訓詁注疏、一※[既/木](ニ)漫置(シテ)不v省、經學幾(ント)幾(シ)2乎滅熄(ニ)1矣、一(ハ)則明朝之帖括、自(リ)2制義之業盛(ニ)行(ハレテ)1、士子專攻《ヲサメ》v之(ヲ)以取(ル)2榮名利禄(ヲ)1五經旁訓之外何(ニカ)從(ハン)、又有(リ)2九經十三經1、而(ルヲ)况(ンヤ)四庫(ノ)書籍(ヲヤ)乎三百年來士大夫劃(キテ)v肚(ヲ)無(ク)v書※[手偏+掌](ケテ)v腸少v字、皆制義誤(ル)v之.可(キ)v爲2痛哭(ヲ)1者也、とあり、古書を※[讒の旁+立刀]改する事の幣此の如くにして、其害秦の書を焚きたるより甚しきものありといふ、これ少しく過激の言なるも、此の如き事無しといふべからず、慎むべきことなり.
 
  傍訓の假字の事
諸々の古寫本は、元暦校本其他一二の古本を除きその外は、皆傍訓の假字のオヲイヱ(34)エ等混じて正しからざるを、板本は大かたよろしくて、混じ誤れるは稀なり、此は板本のかへりて古本にまさる所なり、但し跋文によるに、成俊の改正したるものと見ゆ、さるは今世傳ふる所の古本は皆成俊の跋文はなくて假字はいづれもみだれたればなり、成俊の跋文は左の如し、
 抑於(テ)2和字(ノ)音義(ニ)1從(リ)2京極黄門1之以降《コノカタ》、尋(ル)八雲之跡(ヲ)1之輩、高卑伺(フ)2其趣(ヲ)1者歟、仍(テ)天下大底守(テ)2彼式(ヲ)1而異(ナル)v之(ニ)族《ヤカラ》一人(トシテ)而無(シ)v之、依(テ)v之人人似(タル)v背(クニ)2萬葉古今等之字義(ニ)1者也、僕又專(ニシテ)2彼(ノ)式(ヲ)1而用(ヰ)來(ルコト)年久(シ)、但(シ)特地(ニ)於(テ)2萬葉集1、至(テ)2于加(ルニ)2和字(ヲ)漢字(ノ)右(ニ)1、而聊引(キ)2散(ラシ)愚性之僻案(ヲ)1、偏(ニ)任2當《マカセ》集之音義(ニ)1所v令《シムル》點(セ)レ之(ヲ)也、是且(ツ)非2自由(ニスル)1且(ツ)非v無(キニ)v所v詮(スル)、其故(ハ)者、依(テ)2當世之音義(ニ)1書(キ)2用(ヰルトキハ)其和字(ヲ)1、則違(フ)2萬葉集(ノ)義理(ニ)1之事有v之、所謂《イハユル》當集(ハ)者、遠近之遠(ノ)字之假名(ハ)者、登保《トホ》【登】書(キ)v之(ヲ)草木枝條之|撓《タワム》【乎者】登乎《トヲ》【登】書v之(ヲ)、當世遠近之遠(ノ)字(ノ)和音者、登乎《トヲ》【登】書v之、然者用(ヰ)2書(ス)此(ノ)和音(ヲ)1者《ナラハ》、所v可(キ)v令(シム)2集(ノ)之字(ノ)語相(ヒ)違(ハ)1也、又書2宇惠《ウヱ》1者殖也、書2宇邊《ウヘ》1者(ハ)上也、此外此類雖(モ)v有(リト)v之、恐v繁(ヲ)而注(ス)2別紙(ニ)1、
とあり、これに據に、古(ヘ)の假字遣ひの事に心づきたるは、契沖師の和字正濫抄よりも、はやくこの成俊の考へ出てたる事なり、こは本文の事ならねど序なればおどろかしおくになん、
 
(35)  古訓をあなづるまじき事
近き世の人は、本文をすら妾に改易することなれば、古訓などのことは、一向におとしめあなづりて、意とせざるが如し、されど此集の古訓は、天暦のむかし梨壺の五人に勅して、よみ解かしめられしものにて、そのをりの訓の今の世まで傳へ來しものなれば、後人の及び難き訓もあまたあり、但し今の板本は、その後の人々つぎ/\に訓を加へ、また古訓を改めたりと見ゆるもあれど、大かたはそのかみのまゝなるべく覺ゆ、さて古訓のまされるよしを一(ツ)示さば、
 卷十一【廿右】に希將見君乎見常衣左手之執弓方之眉根掻禮《マレニミムキミヲミムトゾヒダリテノユミトルカタノマユネカキツレ》
この歌の初句、めづらしきとよむべしといへるは、近世の人の考へ出しことゝのみ思ひ居(リ)しを、既《ハヤ》く夫木集にめづらしき〔五字右○〕とあり、又校異本に、類、初句假名メツラシキとあげたり、類とは古葉略類聚抄の事なるべし。かゝれば古くよりしかよめりし本のありしなり、また二(ノ)句の、君乎見常衣《キミヲミムトゾ》をキミヲミトコソとよむべきなりとて、荒木田(ノ)久老の信濃漫録に左の如くいへり、
門人小泉好平が問けるは、萬葉巻十一に云々、この歌(ノ)曾は留《ル》にて結ぶ例と承りつるに禮《レ》ととぢめたるはいかにといへり、右は宣長が詞の玉緒にも、手仁遠波違へる歌(36)の中に出せり、宣長皇朝學の達人といへども、万葉におきてはいまだつくさず、是は第二(ノ)句を見常衣《ミトコソ》とよむべし、下をとゝ受るは體語より受る例なれば、見はみ〔右○〕とよむべき也、常は登古《トコ》の訓を假れるなり、こそは禮《レ》ととぢむる格なれば、右の歌手仁遠波違へるにあらず、今本の訓の誤れるを等閑《ナホザリ》に見過していへるひがごとなり、
といと口ひろく自讃せられたれど、はやくよりしかよめりしことにて、久老ぬしのはじめてよみいでしにはあらず、そはこの歌古今六帖【雜思めづらし】に出てゝ二(ノ)句君みむとこそ〔六字右○〕とあり、古訓なるべし、さるを詞(ノ)玉緒にも既に久老のいへる如く、今本の誤訓によりてみんとそ〔四字右○〕とよみて、てにをはたがへる歌のなかにいれて、結の禮《レ》は類《ル》の誤歟、といはれたるは、何事も精しかりし翁には似げなき事なりけり、
 
  舊訓によりて本文を改正すべきものある事
一【十一右】珠曾不捨〔左○〕《タマゾヒロハヌ》【捨は拾の誤なり】○一【十五右】命乎情※[草冠/夷]〔左○〕《イノチヲヲシミ》【情※[草冠/夷]は惜美の誤なり】〇二【十五左】大夫之戀亂〔左○〕許曾《マスラヲノコノコフレコソ》【亂は禮の誤なり】〇二【廿二左】若〔左○〕之結有《キミガムスベル》【若は君の誤なり】〇二【三十五右】垣〔左○〕安乃《ハニヤスノ》【垣は埴の誤なり】〇二【四十四左】從〔左○〕開香將散《イタツラニサキカチルラム》【從は徒の誤なり】〇四【四十八左】狩〔左○〕念爾《カタオモヒニ》【狩は獨の誤なり】〇四【五十一右】今時有〔左○〕四《イマシハシ》【有は者の誤なり】〇四【五十二左】將念〔左○〕君《アハムキミ》【念は合の誤なり】〇四【五十二左】後手〔左○〕相跡《ノチモアハムト》【手は毛の誤なり】〇十【四十四左】露霜聞〔左○〕《ツユシモノ》【聞は乃の誤なり】〇十一【十一右】止者〔左○〕《ヤミナメ》【者は甞の誤なり】〇十一【十四右】常済〔左○〕乃《トコナメノ》【済は滑の誤なり】〇十二【十三左】嗣而所見而〔左○〕《ツギテモミエヨ》【而は與の誤なり但しツキテミエコソと訓べし】(37)〇十二【十九左】浣不〔左○〕《アラヒキヌ》【不は衣の誤なり】〇十三【三左】春霰〔左○〕《ハルカスミ》【霰は霞の誤なり】〇十三【十九左】常不所念〔左○〕《ツネワスラレス》【念は忘の誤なり】○十三【廿三右】行之長〔左○〕爾《ユキシツトフニ》【長は屯の誤なり】〇十三【三十左】※[女+麗]山〔左○〕志有來《ツマニシアリケリ》【山は尓の誤なり】〇十四【五右】波麻都豆夜〔左○〕《ハマツヾラ》【夜は良の誤なり】〇十七【九右】安可爾氣〔左○〕牟《アカニセム》【氣は勢の誤なり】〇十九【十四左】知智乃寶〔左○〕乃《チヽノミノ》【寶は實の誤なり】〇十九【廿八右】守〔左○〕都勢美毛《ウツセミモ》【守は宇の誤なり】〇十九【四十六左】戀哉許爾〔左○〕禮留《コヒヤコモレル》【爾は母の誤なり】
右いづれも今本にかくの如くあるなり、これら旁訓によりて、本文の字の誤れるを知るべき也、此他猶多し、悉くは萬葉集讀例に出し置たり、
 
  史學をせむとする人は必本集を研究すべき事
加茂(ノ)眞淵翁の嘗ていへることあり、すべて日本書紀をはじめ、御代々々の國史どもには、文飾多くして實を誤れるもの少なからず、且原よりの謬傳を其まゝに記したるもこれかれありて、これによりて其事實を知らむは、いと難きわざなり、しかるに萬葉の歌は其時々の人の喜怒哀樂の情に發したるものなれば、いづれも事實なり、後世の歌は作りものなれば、其歌を以て其時の事實を知るに由なしといへども、萬葉の歌は作りものに非ず、故に其歌を以て其人其時の事實を證するに足れりといへり、此言實にしかなり、今萬葉の歌を以て國史に比較し、其人其時の事實を考ふべきものを一(ツ)二(ツ)出して例を示すべし、(38)本集卷(ノ)一卷頭に載たる、雄略天皇の若菜を摘(ミ)居たる賤女の家名を聞給はむとおもほして、其女に與へたる御製の閑雅優美なると、詩人が※[草冠/不]※[草冠/耜の旁]の詩を以て、王化行れて俗美なるの證として、稱賛することなるが、彼は或詩人の作りたるものによりて、其時世を察することなるを、此は天皇の御自(ラ)謠はせ給へるものにて、其時世のさまを窺ふことの※[草冠/不]※[草冠/耜の旁]の詩に勝れる、萬々なるべし、且此天皇は本紀に據るに、勇猛剛健の事のみなるに、本集の御製に就て見れば、其仁徳の一の賤女に及べることを知る、これ史を讀(ム)者の知らざるぺからざることなり、又同卷に中(チ)大兄(ノ)皇子即(チ)天智天皇の三山(ノ)歌、及び蒲生野に遊獵の時、額田(ノ)女王と大海人(ノ)皇子即(チ)天武天皇との贈答の歌を見れば、兩皇子共に此額田(ノ)女王に懸想し給へりしこと知られて、天智天皇と天武天皇との御中のよからざりしことは、既に此女王のことに胚胎せるかと疑はる、これ後に壬申の亂の出來たりし起りしなるべし、しかるにこれらの事は、正史のうへにてはさらに見る所なし、又麻續(ノ)王の配所を、日本紀には因幡(ノ)國とあれど、本集には伊勢(ノ)伊良虞(ノ)島とありて、其時王の其島にての自詠を載せたり、是(レ)本集を以て其事實を知るべし、又卷二に高市(ノ)皇子の殯宮の時、柿本(ノ)朝臣人麿の長歌に、壬申の亂の時の戰ひの事をよみたるは、いと精しくして、其時の形容をよく知らるゝがうへに、其戰ひの(39)をりに、神變のありしことをいへり、これらも本集によりて、史の闕文を補ふべきものなり、以上述ぶる所僅に例を擧ぐるのみなれば、猶史學を治むる人たちは、本集をよく講究して、其事實を正し、闕文を補ふべきことなり、
 
  本集につきての縣居鈴屋の兩大人の教へ言
萬葉考(ニ)云、すめらみ國の上つ代のことをしりとほらふわざは、古き世の歌をしるゆさきなる物はなかりけり、かゝるをおのれが若かりける程、萬葉はたゞ古き歌ぞとのみおもひ、古うたもていにしへのこゝろをしりなんことゝもおもひたらず、古今歌集或は物がたりぶみらをときしるさん事をわざとせしに、今しもかへりみれば其うたもふみも世くだちてたをやめのをとめさびたることこそあれ、ますらおのをとこさびせるし乏くして、みさかりなりしいにしへのいかし御代にかなはずなんある、このことを知たらはしてより、たゞ萬葉こそあれとおもひ、麻もさ綿もあまたの夏冬をたちかへつゝ、百たらずむそぢの齢にしてときしるしぬ、いにしへの世の歌は人の眞ごゝろなり、後のよのうたは人のしわざなり、此|藝《ワザ》となりにてゆこなたの人、いにしへのうたもしかのみと思ふ故に、古への御代の有さまを、うたもて知ものともおもひたらずや有らん、(40)上つたはみ代には、天津|神王《カミロキ》の道のまに/\、すめらみこといかくをゝしきを表《ウヘ》とし給ひ、おみたちは武く直きを專らとして、治め賜ひつかへまつりけるを、中つ代より言さやぐ國人の作れる、こまかなるまつりごとを多くとりとなはへ、おみたちはもふみのつかさ、つはものゝつかさとわからへ、ふみを貴くつはものをいやしとせしよりぞ、あがすめ神の道おとろへて、人の心ひたぶるならず成にたる、しかりてゆこなたすべての世の手ぶりも古へをはなれ、そびらに千のりのゆぎは負ども、をゝしき心をわすれ、おもてに八つか髭はおひながら、た弱きことの葉をうたふ事と成にしは、ふさはしからぬわざならずや、かれそのこゝろ詞にならはへる人、上つ世の手ぶりをきゝ、古にし歌をとなふるときは、おぞましくことなる事とおもへりける、そもそも天照す大ひるめの命はひめがみにおはしませど、ことゝあるをりは大御身に靱かき負《オバ》し、大御手に弓とりしばりまして、ますらをのをたけびをなし賜ひ、御孫《ミマ》の命のあもりますときは、い建き神だちを撰みまして、ちはやぶる百千のかみをことむけ、神やまといはれ彦の天皇は、たけき御軍もてはつ國しらし、それの大御つぎ/”\のすめらみこと、日つぎのみこの命と申も、此道をうけつがしつゝ、もろ/\のおみたちはいよゝその道にならひて、雄々しく大らかにまつりごちぬれば、上が上ゆ下(41)がしもまで、こゝろひとしく打なびきぬるからに、みやこ人ひな人のよめる歌もいかでをゝしくなほくあらざらめや、そのうたよろづにつけていへど、すべて眞心のまゝにいひ出つゝ、隱さふ隈なんなかりき、たみの心うらうへしあらねば、よしやあしやさやかなるからに、罪なひたまひをさめたまふもたはやすくして、大御代はいやさかえに榮えませりけり、これぞ此皇神のひろきおほみをしへにして、千五百代を傳へますも、神すべらぎの御たまのふゆになんある、うへはうるはしびたる教ことをいひて、下にきたなき心をかくせるはから國人也、すめらみかどの人は、もとよりよろづのよき心を生れ得る國にしあれば、こまかなる教は中/\にそこなふわさぞや、この心をよくしらむにも、萬葉を見るにしく物ぞなき、
同じ翁の初學萬葉梯に云、後の世人萬葉をかつ/\見て、えも心得ぬまゝに、こはふりにしものにしていまにかなはずといふよ、やまともからもいにしへこそよろづによろしければ、古ことをこそたふとめれ、いづこにか古へを捨て下れる世ぶりにつけてふ教のあらんや、そはおのれがえしらぬことをかざらんとて、うるけ人をあざむく也、凡古き史に依て古き代々は知るれど、その史には古への事或はもれ或は傳へ違ひ、或は書人の補ひ或はから文の體に書しかば、古の言をまどはれなどして、(42)ひたぶるにうけがたき事有を、古歌てふ物の言をよく正し唱ふる時は、千年前なる黒人人麿など目のあたりにありてよめるを聞にひとしくて、古への直ちに知るゝ物は古の歌也、且古へ人の歌はときにしたがひておもふことをかくさずよめれば、その人々のこゝろ顯は也、さる歌をいくもゝも常に唱ふるまゝに、古へのこゝろはしかなりてふことをよくしり得らる、且言もから文ざまに書し史などは、左《カ》も訓|右《カク》もよまるゝ所多有を、歌はいさゝけの言も違ひては歌をなさなば、かれを問是を考てよく唱へ得る時は、古言定れり、然れば古言をよく知べきものも古き歌也、天の下には事多かれど、心とことばの外なし、此ふたつをよく知て後こそ、上つ代々の人の上をもよくしるべく、古き史をもその言を誤らず、その意をさとりつべけれ、又後世の人萬葉は歌也、歌はをななのもてあそぶ戯の事ぞとおもひ誤れるまゝに、古歌をこゝろえず古書をしらず、なまじひにから文を見て、こゝの神代の事をいはんとするさかしら人多し、よりてそのいふ事虚理にして、皇朝の古への道にかなへるは惣てなし、先古への歌を學びて古へ風の歌をよみ、次に古への文を學びて古へ風の文をつらね、次に古事記をよくよみ、次に日本紀をよくよみ、續日本紀ゆ下御代つぎの史らをよみ、式儀式など、あるひは諸の記録をも見、【西宮、北山、江家次第等までにいたる、】かなに書る物(43)をも見て、古事古言の殘れるをとり、古への琴ふえ衣の類ひ器などの事をも考へ、其外くさ/\の事どもは、右の史らを見思ふ間にしらるべし、かく皇朝の古へを盡して、後に神代の事をばうかがひつべし、さてこそ天地に合ひて御代を治めませし、古への神皇の道をも知得べきなれ、
玉勝間卷二云、あがたゐのうしの御さとし言、宣長三十あまりなりしほど、懸居(ノ)大人のをしへをうけ給はりそめしころより、古事紀の、注釋を物せむのこゝろざし有て、そのことうしにもきこえけるに、さとし給へりしやうは、われももとより神の御典《ミフミ》をとかむと思ふ心ざしあるを、そはまづからごゝろを清くはなれて、古(ヘ)のまことの意をたづねえずはあるべからず、然るにそのいにしへのこゝろをえむことは、古言を得たるうへならではあたはず、古言をえむことは萬葉をよく明らむるにこそあれ、さる故に吾はまづもはら萬葉をあきらめんとする程に、すでに年老てのこりのよはひ今いくばくもあらざれば、神の御ふみをとくまでにいたることえざるを、いましは年さかりにて行さき長ければ、今よりおこたることなく、いそしみ學びなば、其心ざしとぐること有べし、たゞし世(ノ)中の物まなぶともがらを見るに、皆ひきゝ所を經ずで、まだきに高きところにのぼらんとする程に、ひきゝところをだにうるこ(44)とあたはず、まして高き所はうべきやうなければ、みなひがことのみすめり、此むねをわすれず心にしめて、まづひきゝところよりよくかためおきてこそ、たかきところにはのぼるべきこわざなれ、わがいまだ神の御ふみをえとかざるは、もはら此ゆゑぞ、ゆめしなをこえてまだきに高き所をなのぞみそと、いとねもごろになんいましめさとし給ひたりし、此御さとし言のいとたふとくおぼえけるまゝに、いよ/\萬葉集に、心をそめて、深く考へくりへし問(ヒ)たゞして、いにしへのこゝろ詞をさとりえて見ればまことに世の物しり人といふものゝ、神の御ふみ説《トケ》る趣は、みなあらぬから意のみにして、さらにまことの意はええぬものになむ有ける、【以上】此集を讀あきらめんとするともがらは、必上文の意をよくあぢはひ、常に此を心にとめおきてわするべからざるなり、
萬葉考叙言に又云、後の世に此集の歌を解なんとせし人々有しかど、古にしことばいとはやき代より失はれにたれば、今はかたきともかたきわざ也、近き年ごろ攝津の契沖僧、山城の荷田大人こそ、同じ時に在て相問ぬものから、同じこゝろをおこして古へぶりを唱へたりき、僧は古き歌をときしるすわざの新墾《ニヒバリ》しつれどいまだよくもうゑおふしつくさぬほどに過にしこそをしけれ、大人は歌のみかは、ふりぬる(45)ちゞの書どもを、あらすきかへせしいたづきのかひさはなれど、まだ苅をさめはてざるにやまひにふしつ、おのれ眞淵かの荷田の田をさの齢の末に名簿をおくりて侍れど、お〔右○〕ぢなき山がつはしも斎種《ユタネ》まきまかする水の水《ミナ》もとを遠くも尋《タド》らず、いたづらにまさしとおぼえ、ひでたりとおもふことらを聞よろこべるのみなりき、しかしてよりこなた彼方や古川の邊《ベ》のふるき事をしぬびて手《タ》なひぢに水沫かきたり、向《ムカ》もゝに泥土《ヒジリゴ》かきよせつゝ、この奥つ御年を得まくすれど、いかで獨やはあへん、天(ノ)下|集《ツトヘ》ませるむさしの大城のもとに來りて、千よろづ人の心々をおもひ、もろもろの手ぶりを見、くさ/”\のことばをきゝ、末にやんごとなき大殿へまゐりて、ふせいほの所せき心を見ひろめ、思ひあらためてゆこそ、いさゝか雄々しき日本だましひはおぼえけれ、かくありて後、わが田ぶせを問人々にことの心を傳へたるも、今は一つの門をもたてつべきあるを集へて、立かへりつゝ古言をあげつろふまに/\、おのがじゝ得にし事の數さはに積りぬれば、あらしねをにこしねにすべき時とおぼゆれど、猶うらもとなく誤ることゞも多かりなん、思ひつがむには齢なきをいかにせん、あしびきの山ほとゝぎす鳴て教へしなりはひを、おのが後にわすれずして八束穗《ヤツカボ》のたりほの足みつぎともなりなんまでにも、かの人々つくらひてしがもをさめて(46)しがも、
おのれ正辭此御言のいとも尊くおぼゆるまゝに、かのたり穂のたりみてんことはおもひもかけぬ事ながら、いかでそれが落穂だに拾ひ得なば、大人の御魂もいかによろこび給ひなましとて、をぢなき心ふりおこして、わかゝりし時より此集に心をくだきたりしかば、大人の御魂もあはれとやおぼしけん、いまだ人々の考へ及ばざりしことゞもの、おもひ得たらんとおぼゆるふしもかつ/\つもりにたれば、かくはかきつむるになん、かくて大人の説をもどきたることも多かれど、そも猶大人のをしへによりておもひ得たることなれば、これはた大人の御魂の幸によるものにておのれみづからの力にはあらずなん、
 
  書中に引用したる本どもの稱呼
元本【影鈔元暦校本、塙保己一舊藏、今爲2余所藏1、】○官本【中院通村公親筆本、今歸2余架中1、】○温本【塙保己一舊藏古寫本、今歸2余架中1、】○家本【細井貞雄舊藏古寫本、今爲2余所藏1、】〇昌本【慶長寫本、元(ノ)昌平坂學問所所藏、蓋林道春手澤本也、】○類本【古葉略類聚抄、】○須本【大須眞福寺所藏古本、】〇舊版活字本【寛永刊本則據2此本1、今稱2活字附訓本1】○活本【活字無點本、】○拾本【北村季吟拾穗抄本、】○寛永刊本【今所v著美夫君志以2此本1爲v原】此他は全く書名を擧ぐ
右擧ぐる所の外に、土佐人今村樂が刻したる活字本、常陸雨引山の僧惠岳が傍註本、(47)橘(ノ)經亮が記せる、各本の異同を鼈頭に掲げたる校異本等あれど、並に妄改せるものあるを以て、今取らず、
按ずるに元本類本須本は各古傳本なり、温本官本活字附訓本は仙覺校正本を傳へたるものなり、家本昌本、無點活字本の三本は、全く同種にして、仙覺の校正を經ざるものにて、一の別傳本なり、拾本は後人の私に改刪せるものにて俗本也、今試に系譜を作れば左の如し、
 ●元暦校本
 ●古葉畧類聚抄
 ●大須本
 ●官本−温本−活字附訓本−寛永刊本【今以2此本1爲v原】
 ●家藏本−舊昌平坂學問所本−活字無點本
 ●拾穗抄
以上の本及び此他の本どもの事、又は本集の古へ今の注釋書等の事は余が萬葉集書目提要【既刊】に精しく論じおきたれば、就て見るべし、
又美夫君志中に引用せる注釋本の内、考といふは賀茂(ノ)眞淵の萬葉考、燈と云は富士(48)谷御杖の萬葉集燈なり、此他代匠記【契冲師】僻案抄【荷田東麻呂翁】槻の落葉【荒木田久老】畧解【橘千蔭】等は皆全く書名を書《シル》す、
 
萬葉集美夫君志首卷
 
(1)萬葉集美夫君志附言
本集中の文字の用法は、いとさま/\にて、音を用ゐたるに、正音あり、畧音あり、通音あり、轉音あり、訓に正訓義訓略訓約訓借訓等あり、また殊さらに戯れがきしたるものもあり、此等の事は釋春登が萬葉用字格に精しければ、其書にゆづりて省く、但し同書に漏れたるものも少からず、又誤れる事もあれば心して採るべき也、其他常に異なる音訓及び異體の文字の事は、おのれ別に萬葉集訓義辨證、萬葉集字音辨證、萬葉集文字辨證といふものを著はして、精細しく論辨したれば就て見るへし、
一 枕詞は、一種特別のものにて、其すぢの書も多くして、其注釋を一一擧むことはいと煩はしく、これを解かざるも歌の意に妨げなければ、本編には大かた省きつ、【其由は、卷一下、和銅五年長田王歌、久堅乃天之云々の注にいへり】精しくは別卷枕詞解にいふべし、但し先哲だちの説の誤れるものは、特に論辨す、
一 作者の傳は、別に萬葉集作者履歴に出しおきたれば、本編にはすべて省く、但し歌に要あるものは殊に志るせるもあり、
一 他の説を出して後に、おのが説を注《シル》すには、今按又正辭云の文字を置きて區別す  
(2)一 本集各本の文字の異同は、萬葉集攷文に盡く出したれば、今は用あるものゝみをあぐ、
一 端詞は撰者もとより漢文にてものしたることなるを、強て古言もて訓(マ)むことは、かへりて撰者の言にあらずして、所謂蛇足とやいはまし、故に訓をハ施さず古言もて訓(マ)むも字音のまゝに唱へむも、讀者の意に任すべきなり、
一 本集の部立は、凡六部を似て分てり、其は雜歌、相聞、挽歌、譬喩、四季(ノ)雜歌、四季(ノ)相聞、是也、代匠記に卷毎の部立の樣を精しくあげたれど、本集はもとより精撰したるものにあらされば、卷毎に少しづゝの差ひめあることにて、これを一一いはむも詮なきことなれば、今は省きつ、
一 左注は萬葉考にはすべて後人の所爲なりとて取らざりしが、今按ふに、後人といふにも猶次第ありて古きは順朝臣などの本集を讀解(キ)たりし時に注し置きたるもあるべく、其後かの次點を施したりし人々の勘文なるもあるべく、又仙覺律師などの勘へ加へたるものもあるべし、これらのことのおのが考は、其條々につきて論らふべし、
一 古學者の古言を解(ク)に、延約をもてすること常に多し、但しこは何々の延はりたる(3)なり、約まりたるなりなど、自然音にていふべきことなるを、延べたるなり約めたるなりなど、使然言もていへるもまゝ見えたるは、非なり、延ばはるも約まるも自然のことにて人よりことさらに延べ約めしたるものにはあらず、しかるを本集の卷頭なる御製の名告沙根《ナノラサ子》とある言につきて萬葉考に告れを再び延べたるなりとありて、略解にもしかいへれど、いみじきひがことなり、かくのごとくみだりに延べ約めしたらんには、其相對したる人にも聞知(リ)がたきことなるべし、いかでかさることのあるべき、其委しきことは其詞の出たる所々にいふべし、さておのれは此を緩言急言といふ、
一 注中に本書の歌を引ときは、悉く其卷數張數をしるす、其張數は舊板本即(チ)寛永刊本に從ふ、他の引用書は、書名卷數のみを書す、但し其事柄の要用なるものは、殊に張數をもしるせり、
一 前板の美夫君志には、本書の歌を引くに多く草假字に改め出したれど、本書又は記紀風土記などを引くには、必其文字は其書のまゝに出し、傍に訓をばしるすべき事なり、よりて今回は悉く眞字以てしるせり、
         木 村 正 辭 識
 
(4)土佐の鹿持雅澄といふ人の著せる、萬葉集古義といふものは、卷數も多くて精しきものなれど、おのれ此美夫君志をものしたりしほどは、いまだ其書世に出ざりしかば、余は見ざりき、さだめて吾考へのはやく彼書に見えたるもあるべく、または吾説のひがごとを、彼説につさて改むべきもあるべく、また暗に彼説を非難したる如きこともあるべし、されど彼書を熟覧して後に、こゝかしこ書改(メ)むは、いと暇いるわざなるがうへに、近き頃はよひべき書の年々月々に多くなり、はたことわざゝへしげくて、いとましなければ、いかゞはせん、
 但し、或人彼書によりて、おのが説をいぶかしみ、かれこれ問へるに答へたるものありで、其は新にその所々にしるし加へたるもあり、
 
萬葉集卷第一
 雜歌
泊瀬朝倉(ノ)宮(ノ)御宇天皇(ノ)代
 天皇御製歌
高市崗本(ノ)宮(ノ)御宇天皇(ノ)代
 天皇登2香具山1望國之時御製歌
 天皇遊2獵内野1之時中皇(ノ)命使2間人(ノ)連老獻1歌【并短歌○短歌の二字原大書す、今諸古本に從て小書とす、下皆同じ、】
 幸2讃岐(ノ)國安益(ノ)郡1之時軍王見v山作歌【井短歌】
明日香川原(ノ)宮(ノ)御宇天皇(ノ)代
(2) 額田(ノ)王(ノ)歌【未詳○未詳の二字、今本大書す、諸古本に從て改
後崗本(ノ)宮(ノ)御宇天皇(ノ)代
 額田(ノ)王(ノ)歌
 幸2紀伊温泉1之時額田(ノ)王作歌
 中皇(ノ)命往2于紀伊温泉1之時御歌三首【元本、三首の二字なし、元本、此卷并短歌及首の字皆なし、】
 中大兄三山御歌一首 並短歌二首
近江(ノ)國大津(ノ)宮(ノ)御宇天皇(ノ)代
 天皇詔2内大臣藤原(ノ)朝臣1競2憐春山萬花之艶秋山千葉之彩1時額田(ノ)王以v歌判v之歌
(3) 額田(ノ)王下2江ノ(ノ)國1時作歌 井戸(ノ)王和歌
 天皇遊2獵蒲生野1時額田(ノ)王作歌 皇太子答御歌
明日香(ノ)清御原(ノ)宮(ノ)御宇天皇(ノ)代
 十市(ノ)皇女參2赴於伊勢太神宮1時見2波多(ノ)横山(ノ)巌1吹黄(ノ)刀自作歌【家本昌本活本に、太を大に作れり、元本には太字なし、本文と合へり、】
麻※[糸+賣](ノ)王流2於伊勢(ノ)國伊良虞(ノ)島1之時人哀痛作歌【本文に痛を傷に作れり、】
 麻療※[糸+賣](ノ)王聞v之感傷和歌
 天皇御製歌 或本歌
 天皇幸2吉野宮1時御製歌
(4)藤原(ノ)宮(ノ)御宇天皇(ノ)代
 天皇御製歌
 過2近江(ノ)荒都1時柿本(ノ)朝臣人磨作歌一首 并短歌
 高市(ノ)連古人感2傷近江(ノ)舊堵1作歌【或書高市黒人○此六字、原大書す今諸古本に從ふ】 幸2紀伊(ノ)國1時川島(ノ)皇子御作歌
 阿閉(ノ)皇女越2勢能山1時御作歌
 幸2吉野(ノ)宮1之時柿本(ノ)朝臣人麿作歌二首【并短歌二首】
 幸2伊勢(ノ)國1之時留v京柿本(ノ)朝臣人麿作歌三首 當麻(ノ)眞人麿妻作歌 石(ノ)上(ノ)大臣從駕作歌
(5) 軽(ノ)皇子宿2于安騎(ノ)野1時柿本(ノ)朝巨人磨作歌一首【并短歌四首○官本温本四首の二字なし、】
 藤原(ノ)宮之役民作歌
 従2明日香(ノ)宮1遷2居藤原(ノ)宮1之後志貴(ノ)皇子御歌【官本歌上に作字あり、本文と合ふ、】
 藤原(ノ)宮御井歌一首【并短歌】
大寶元年辛丑秋九月太上天皇幸2紀伊國1時歌二首
或本歌
 二年壬寅太上天皇幸2參河(ノ)國1時歌 長忌寸奥麿一首【此七字、元本にはなし、】 高市(ノ)連黒人一首【此七字元本にはなし、】 譽謝(ノ)(6)女王作歌 長(ノ)皇子御歌從駕作歌【從以下の四字本文になし、此は衍文なり、】 舎人(ノ)娘子從駕作歌 三野連【名闕】入唐時春日(ノ)藏(ノ)首老作歌【名闕の二字、今本には大書す、今諸古本に從ふ、】 山(ノ)上(ノ)臣憶良在2大唐1時憶2本郷1作歌
慶雲三年丙午幸2難波宮1時歌二首 志貴(ノ)皇子(ノ)御歌 長(ノ)皇子(ノ)御歌
 太上天皇幸2難波(ノ)宮1時歌四首 置始(ノ)東人作歌 作主未詳歌【高安(ノ)大島○此四字、今本大書す、今諸古本に從ふ、】 身入部(ノ)王作歌 清(ノ)江(ノ)娘子進2長(ノ)皇子1歌
 太上天皇幸2吉野(ノ)宮1時高市(ノ)連黒人作歌
(7) 大行天皇幸2難波(ノ)宮1時歌三首 忍坂部乙麿作歌 作主未詳歌【式部卿藤原(ノ)宇合○此七字、今本大書す、今諸古本に從ふ、】 長(ノ)皇子(ノ)御歌
 大行天皇幸2吉野(ノ)宮1時歌【諸古本、此下に二首の二字あり、】 或云天皇御製歌 長屋(ノ)王歌
和銅元年戊申天皇御製歌 御名部(ノ)皇女奉v和御歌
 三年庚戌春二月従2藤原宮1遷2于寧樂(ノ)宮1時御輿停2長屋(ノ)原1※[しんにょう+向]望2古郷1御作歌 一書歌
 五年壬子夏四月遣2長田(ノ)王伊勢(ノ)齋宮1時山(ノ)邊(ノ)御井作歌三首
(8)寧樂宮
 長(ノ)皇子與2志貴(ノ)皇子1宴2於佐紀(ノ)宮1歌 長(ノ)皇子御歌
 
(1)萬葉集美夫君志卷一上
                 木 村 正 辭 撰
  雜歌
 泊瀬朝倉(ノ)宮御宇天皇(ノ)代 大泊瀬(ノ)稚武(ノ)天皇
 
 天皇御製歌
 
1 籠毛與《コモヨ》、美籠母乳《ミコモチ》、布久思毛與《フグシモヨ》、美夫君志持《ミブクシモチ》、此岳爾《コノヲカニ》、菜採須兒《ナツマスコ》、家吉閑《イヘキカナ》、名告沙根《ナノラサ子》、虚見津《ソラミツ》、山跡乃國者《ヤマトノクニハ》、押奈戸手《オシナベテ》、吾許曾居《ワレコソヲレ》、師告〔左○〕名倍手《シキナベテ》、吾己曾座《ワレコソマセ》、我許(曾)者《ワレコソハ》、背(止)齒告目《セトハノラメ》、家乎毛名雄母《イヘヲモナヲモ》、
 
雜(ノ)歌とは.後の選集の雜(ノ)部と同じくくさ/\の歌の意なり、古今集の序に、あるは春夏秋冬にもいらぬくさ/\の歌をなむえらばせ給ひけるとあり、此卷には行(2)幸、王臣の遊宴、旅、其他|種々《クサクサ》の歌を載しかば、かく標せり、〇泊瀬は、和名抄に大和(ノ)國城(ノ)上(ノ)郡長谷【波都勢】とある、是也、古事記下卷の輕(ノ)太子の御歌に、許母理久能波都世能夜麻能《コモリクノハツセノヤマノ》云々、書紀繼體紀の歌に、※[草冠/呂]母※[口+利]矩能、※[竹/(方+其)]都細能※[加/丁]婆※[まだれ/臾]《コモリクノハツセノカハユ》など見えたり、【中昔よりは省呼して波世ともいへり、】○朝倉(ノ)宮は帝王編年記に、城(ノ)上(ノ)郡磐坂谷也とあり、大和志に、在2城(ノ)上の郡黒崎岩坂二村(ノ)間1、と見えたり、○御宇はあめのしたしろしめしゝと訓(ム)べし、書紀孝徳紀に御宇日本天皇をあめのしたしらすすめらみことゝ訓り、靈異紀上卷訓釋には御宇の二字を阿米乃之多乎左女多比之とあり、御宇の字面は晋(ノ)武帝紀に武皇承基、誕膺2天命1、握v圖御v宇、と見え、また妙樂大師の釋籤卷一に、※[さんずい+自]2乎隋文御1v寓、台衡誕應、また鶴林玉露卷四に宋(ノ)孝宗御宇などあり、字義は尚書泰誓上の傳に、御(ハ)治也といひ、淮南子齊俗に、四方上下謂2之(ヲ)宇(ト)1、又荘子齊物論の釋文(ニ)引2尸子1云、天地四方(ヲ)曰v宇(ト)、と見えたれば、四方上下を治むといふ義也、○大泊瀬(ノ)稚武(ノ)天皇、此七字古本どもいづれも小字に書り、今これに依る、後人の注文なるべし、後の謚號は雄略天皇と申す、○籠毛與美籠母乳《コモヨミコモチ》は、舊訓に從ひて、こもよみこもちと訓(ム)べし。美《ミ》は美稱也、次の美夫君志《ミブグシ》の美《ミ》も同じ、神代紀に籠(ノ)字をかたまとよめるによりて、こヽをもかたまもよ、みがたまもち、とよむべしと云説出てより、世間おしなべて此説にし(3)たがひて、うたがふ人もなきが如くになれり、されど熟々おもへば、此説はうけがたし、其はまづ籠(ノ)字をかたまとよめるは、神代紀(ノ)下に、作(テ)2無目籠《マナシカタマヲ》1内《イレ》2彦火火出見《ヒコホヽデミノ》尊(ヲ)於|籠中《カタマノナカニ》1沈《シヅム》2之于1v海云々、於是《コヽニ》棄《ステ》v籠《カタマヲ》遊行《イテマス》、とある是也、此外に籠(ノ)字をかたま〔三字傍線〕とよめることは、古書どもに絶てある事なし、此ははじめに無目籠とありて、無目の二字に引かれて、おのづから籠(ノ)字をばかたま〔三字傍線〕とよまるゝなり、うちまかせて籠(ノ)字をかたま〔三字傍線〕と訓るにはあらず、また下の二(ツ)の籠は、即(チ)上の無目籠を指事いふまでもなくて、その無目の二字はゆづりて省けるものなり、【此は映略の文と云ものにて、漢文lこてものせる文には常のことなり、集中にても神樂聲浪《ササナミ》を神樂浪《ササナミ》又は樂浪《サヽナミ》ともかき、喚大追馬鏡《マソカヽミ》を犬馬鏡《マソカガミ》ともがけるは、皆映略法なり此外猶多し、】されば是亦かたま〔三字傍線〕とよまんこともとよりなり、しかるを今これによりて、たゞ何となく書出したる籠(ノ)字をもかたま〔三字傍線〕とよまんことはいかゞなり、按ふに次(ノ)句の五言六言にあはせんとて、しかよまれたるものなるべけれど、古訓のまゝにても調べあしくもあらず、ふるくは文字の數などにはかゝはらぬもおほかれば、しひてよみ改むるにも及ぶまじきなり、かつ籠はこ〔右□〕といふこそもとよりの名なれ、【後の歌に、あふごかたみになりぬらん、われもかたみにつまんわかなを、などおほくよめるによりて、こゝをもかたまもよ云云と訓(マ)むとおもふはわろし、これら皆|互《カタミ》の意をかねて殊更にしかいひなしたるものにて、今とひとつに云べきにはあらず、】籠をこ〔右□〕と訓るは、古書どもにいとおほかるを、【和名抄にも籠和名古とありて、賀太美には※[竹/令]※[竹/青]の二字を充たり、】今集中(4)の例をもてこれを辨まへむに、卷一【十四左】に射等籠荷四間乃《イラコガシマノ》、卷二【三十一右】に八多籠良家《ハタコラガ》、卷四【十二左】に鳥籠之山《トコノヤマ》、卷十二【四十左】に田籠之浦乃《タゴノウラノ》、などありて、籠は必こ〔二重傍線〕とよむべき例也、かくてかたまには勝間とのみかけり、【卷十二に玉勝間《タマカツマ》と三所あり、これを玉籠などかけるがなきにても、籠(ノ)字をうちまかせてかたまとよむまじきことを暁るべし、】さればもし此大御歌もはじめより、かたまもよ、みがたまもち云々、とよみ出給ひしならんには、勝間毛與美勝間母乳【或は堅間とかき猶いくらもかるかたあべし】などやうにかくべき事にこそ、さるを籠毛與云々とあるは、もとよりこもよみこもちとよみ出ませし、大御歌なるからなるべし、古事記傳卷十七に、八目之荒籠《ヤツメノアラコ》大目麁籠《オホメノアラコ》など云るは、目の麁きを云り、さて加多麻と云を、凡て籠の古(ヘノ)名と心得て右の麁籠などをさへ、あらかたまと訓(ム)は非なり云々、許《コ》と云ふぞ本よりの總名《スヘナ》にはありける、といへるなどをもおもふべきなり、但しこもよ【句》みこもち【句】如v此三言四言によむべし、後人此句つゞきの聞馴れぬ故にかのかたまもよ云々との説は出來しなれど、古歌には三言四言の句つゞきの例猶あり、其は古事記中卷、神武天皇(ノ)御歌に、宇陀能《ウダノ》、多加紀爾《タカキニ》、志藝和那波留《シギワナハル》、とありて、傳卷十九に、字陀能は、三言の句なり、次へ連ねで七言の句とするは非なり、といへり、是(レ)全く此と同例なり、また同卷崇神天皇の段の歌に、古波夜《コハヤ》、美麻紀《ミマキ》、伊理毘古波夜《イリヒコハヤ》、同卷應神天皇(ノ)御歌に知婆能(5)加豆怒袁美婆《チバノカヅヌヲミレバ》、同下巻仁徳天皇御歌に夜多能《ヤタノ》、比登母登須宜波《ヒトモトスゲハ》、などあるも、皆初句を三言にいへる例なり、書紀崇神紀にも※[さんずい+彌]磨紀《ミマキ》、異利寢胡播椰《イリビコハヤ》、とあり、また本集の卷十六【二十九左】の長歌にも、伊刀古《イトコ》、名兄乃君《ナセノキミ》、居居而物爾伊行跡波《ヲリヲリテモノニイユクトハ》云々、とあり、皆初句を三言によみし證なり、○毛與《モヨ》、毛《モ》も與《ヨ》も歎息の義にて、毛は俗にマア〔二字傍線〕と云意、與《ヨ》は歎息の也《ヤ》に通ひて、同じく歎息の辭ながら次の詞を呼出す意あるなり、書紀顯宗紀【十二左】に奴底喩羅倶慕與《ヌデユラグモヨ》、同【十四左】に於岐母慕與《オキメモヨ》、阿甫彌能於岐毎《アフミノオキメ》、古事記上巻に、阿波母與《アハモヨ》、賣爾斯阿禮婆《メニシアレバ》、などある皆同じ、かくて此|與《ヨ》と也《ヤ》と同意なりといふは、かの顯宗紀のと同歌なる、於岐毎慕與《オキメモヨ》を、古事記下卷には意岐米母夜《オキメモヤ》とあり、又本集卷二【十一右】に、吾者毛也《アハモヤ》、安見兒得有《ヤスミコエタリ》とあると、上なる阿波母與《アハモヨ》、賣爾斯阿禮婆《メニシアレバ》、と合せ見て暁るべし、○布久思《フクシ》は考に田舍人の野菜などほり取串を、ふぐせともほぐしともいふ是にて、竹または鐵しても作る、とあるが如きものにて、俗に箆《ヘラ》といふものゝ類ならむ、和名抄に※[金+箆]を加奈布久之《カナフクシ》とある、其物は各別なるも、名の義《コヽロ》は同じかるべし、【塵添※[土+蓋]】嚢鈔卷四に、土ヲホル物ヲフグセト云ハ、何レノ字ゾ、漢ニハ是ヲ土堀子ト云、和語ニハツイフグセト云也、ツイハツチ也堀子フクセ也、然レバカナフグセト云ハン時ハ、鐵堀子ト書ベシとあり】○菜採須兒《ナツマスコ》は菜摘兒《ナツマスコ》也、摘《ツム》と都麻須《ツマス》といふは、敬語にて、里言にサセラルといふ意に當れり、例は卷七【廿七右】に小田苅爲子《ヲタカラスコ》、卷九【十九左】に伊渡爲(6)兒《イワタラスコ》卷十【四十左】山田守酢兒《ヤマダモラスコ》などあり、また立《タツ》をたゝす、取《トル》をとらし、などいふ類皆同格なり、此類古言にいと多かり、但し天皇の御うへより、賤女に對して、敬語を用ゐさせ給へるは、いかゞと、おもふ人もあらんか、其は古(ヘ)を知らぬ後世意なり、上古は貴賤にかゝはらず敬語を用ゐしこと其例いと多し、兒《コ》は親《シタ》しみ愛する意ある詞にて、男女にわたる詞なれど.女は殊に愛らしきものなるから、女にいへるが多き也、○配討野家吉閑《イヘキカナ》、名告沙根《ナノラサ子》は、家將v聞令2名告1《イヘキカナナノラサ子》也考、略解等に、いへのらへとよみて、注に吉閑一本告とあり、閑は閇の誤にて、告閇とす、いへのらへとよみて住所をまをせ也、とあるはわろし、版本又は古本ども、いづれも吉閑とありて、こゝに異同あることなし、さればもとのまゝにて家吉閑《イヘキカナ》、名告沙根《ナノラサ子》とよむべきなり、閑は韻鏡第二十一轉山攝の字、【悉曇膽家にて所謂舌内聲】にて音、漢(カヌ)なれば、奈行の通にて(カナ)と轉用すべし【國名の信濃《シナノ》の信《シヌ》を(シナ)因幡《イナパ》の因《イヌ》を(イナ)郡名の引佐《イナサ》の引《イヌ》を(イナ)雲梯《ウナテ》の雲《ウヌ》を(ウナ)などにあてたると同例なり、精しくは別記にいふ、】かなのな〔右○〕はかのん〔右○〕と云意のな〔右○〕也、但し閑は字のゝにて(カン)とよみてもきこえぬにはあらねど、此は必ナ〔二重傍線〕といふべき語勢也、例は卷五【十六右】に阿素※[田+比]久良佐奈《アソビクラサナ》、卷六【十五左】に二寶比天由香名《ニホヒテユカナ》、卷八【三十二左】に紐解設奈《ヒモトキマケナ》、又【五十六右】率所沾奈《イサヌレナ》、卷九【十左】に家者夜良奈《イヘニハヤラナ》、又|風祭爲奈《カサマツリセナ》、又【二十三左】黄葉手折奈《モミチタヲラナ》など卷々にいと多かり、これらいづれもん〔右○〕といひてよからめや、(7)さればこヽも必な〔右○〕といふべきなり、さてん〔右○〕との差別は、記傳卷三十一に牟《ム》といふは己がうへにも、人のうへにも、物のうへにも廣く用る辞なるを、那《ナ》はたゞ自《ミヅカ》ら然せむと欲ることにのみ用ひて、他のうへには云ぬ辞なりとあり、詞(ノ)玉緒にもかくいへり、さてこゝは天皇の御自ら彼女の名を聞し召むとおもほし姶ふ意なり、【此訓は己(レ)始て考へ得て、いにし年より大學または他の學校にても屡々講じたりしが、近頃版行あいたる萬葉集に、此訓を附けたるものあり、されどしか訓るよしをいはねば其かひなし、】かくて家吉閑《イヘキカナ》は天皇の御自から御意におもほしめすことを御詞に先(ヅ)あらはし給へるにて或は次(ノ)句を起さん料也、されど猶此家と云こと次(ノ)句にもひびきて、家も名も告しらせよといふことになる也、又考に沙根《サ子》は二たび延たる言にて、まづ名乃禮《ナノレ》の禮《レ》を延れば名乃良世《ナノラセ》となるを、又その良世をのべて、沙根とはいふ也、といへり今按ふるに、此説はうけがたし、すべて延約をもて古言をとけるには、あたらぬ事のみ多くして、大かたはとり用ゐがたし、凡語ののぶるもつゞまるも皆故ある事にて、みだりにのべちゞめするにはあらず、其よしは總論にも粗いへるが如し、告沙根《ノラサ子》は、古事紀下巻|女鳥《メトリ》(ノ)王の卸歌に佐邪岐登良佐泥《サヽキトラサ子》、又本集此卷の下に草乎苅核《カヤヲカラサネ》などあると同格にて、此類猶多かり、かくて古事記上巻八千矛(ノ)神の御歌に、那賀那加佐麻久《ナカナカサマク》とありて、傳に、汝之將泣《ナガナカサマク》なり・那加麻久《ナカマク》と云べきを、かく云は、(8)那久を耶加須《ナカス》といふ須《ス》の活用《ハタラキ》の佐《サ》なり、といへり、今もこれに同じ、根は乞望《コヒ子ガフ》意の辞なり、【猶別記にいふ】さてこゝにて一段落なり、〇虚見津山跡國者《ソラミツヤマトノクニハ》、これよれり天皇の御自ら御名乘し給ふなり、虚見津は、大和の枕詞なり、古事記下に蘇良美都夜麻登能久邇《ソラミツヤマトノクニ》、また此下にも虚見津山跡之國《ソラミツヤマトノクニ》などあり、猶多し、此は書紀神武紀に至d饒速日(ノ)命乘2天(ノ)磐船(ニ)1而翔c行大虚(ヲ)u也、睨2是郷(ヲ)1而隆之、故(ニ)因目(テ)之曰2虚空見日本《ソラミツヤマトノ》國(ト)1矣とあるより出たる枕詞なり、さて虚見津《ソラミツ》は虚《ソラ》に見《ミ》つの意なり、下に見えたる人麿朝臣の長歌に、天爾滿倭乎置而《ソラニミツヤマトヲオキテ》とあるにて心得べし、又山跡は畿内の大和(ノ)國の事なり、此御時のころはいまだ大八洲をやまとゝいふ事はなかりき、但し大和をしろしめすといふにて、やがて天下をしろしめす意となるなり、鈴屋翁の國號考に、書紀崇神紀の歌に、椰磨等那殊於朋望農之能《ヤマトナスオホモノヌシノ》とある大物主《オホモノヌシノ》神は、天(ノ)下を經營成《ツクリナシ》たまへりしかば、此|椰磨等《ヤマト》は大號のごとく聞ゆめれど、こはたとへば後世の語に、日本一《ニツホンイチ》の剛《カウ》の者《モノ》といふなる日本は皇國のことなれども意はおのづから天地のあひだにならびなき剛の者と聞ゆるが如くにて、古(ヘ)大和の京の時は、その一國の名をいひて、おのづから天の下の事にもなれり、といへるさる事なり、○押奈戸手吾許曾居《オシナベテワレコソヲレ》、師告〔左○〕
名倍手《シキナベテ》、吾己曾座《ワレコソマセ》、これは鈴屋翁の説によりて、かく讀べき也、【但し師告の告は、吉の俗寫なり、布告の字に(9)はあらず、此事は萬葉集文字辨證、増畫の條にいへり、】此等の句を古來對句とのみおもひたりしは麁なり、かく其事をくりかへし仰せられしは、賤女の名を求め給へる意の切なるを示し給へるなり、又こそ〔二字傍線〕といふ音を重ねたるにていよ/\其御意の切なりしことを推測りまつらるゝなり、さて次なる句のこそ〔二字傍線〕は、上の(ツ)を受けたるものにて一段力あり、かくて押奈戸《オシナベ》は、古事紀下巻顕宗天皇の御歌に山三尾之竹矣《ヤマミヲノタケヲ》、※[言+可]岐苅《カキカリス》、末押靡魚簀《スエオシナビカスナス》、如《ゴトシ》v調《シラベタル》2八弦琴《ヤツヲノコトヲ》1、所2治賜《ヲサメタマヒシ》天(ノ)下1、伊邪本和氣《イザホワケノ》天皇、とある如く、天下と所治《シロシメ》す事をいふなり、紀傳四十三【十六左】に、那備加須《ナビカス》は、萬葉十七に、須々吉於之奈倍《スヽキオシナベ》、又一に、楚樹押靡《シモトオシナベ》云々、旗須爲寸四能乎押靡《ハタススキシノヲオシナベ》。六に、淺茅押靡《アサヂヲシナベ》、などある奈倍《ナベ》に同じ、これらの靡も、皆十七(ノ)卷なる奈倍《ナベ》に效ひて、ナベ〔二字傍線〕と訓べし、ナミ〔二字右○〕と訓ては自靡くことになりて意たがへり、那倍《ナベ》は那備氣《ナビケ》の切まりたるにて令《セ》v靡《ナビカ》とことなればなりいといへるが如し、○我許(曾)者《ワレコソハ》、背止歯告目《セトハノラメ》、家乎毛名雄母《イヘヲモナヲモ》は、我社《ワレコソ》は夫《セ》とは告め、家をも名をも也.考に背《セ》夫《セ》也、齒は登志《トシ》の言に借て志《シ》は辞也、吾をこそは夫《セ》として住所をも名をも告しらすべきことなれと也、又背の下登の字脱たるか、さらばせとはのらめと訓べしといヘり、略解には宣長(ノ)説に、吾許者はわをこそと訓べし、者の字は曾を誤れるならんとあり、是しかるべくおぼゆ云々といへり、今按ふるに我許曾をワヲコソ(10)とよむべしといる説は非也、此御製の書《シル》しざまを見るに、さよまむには必乎〔右○〕の字あるべき也、また上よりのつゞきも習ワヲ〔二字傍線〕と云(フ)べき所にあらず、吾許曾居《ワレコソヲレ》云々|吾己曾座我許曾者《ワレコソマセワレコソハ》、と上の二(ツ)の吾許曾《ワレコソ》がを受《ウケ》て、更に我許曾者《ワレコソハ》との給ひしなり、かく見ざれば我許曾といふこと上と.はなれ/\になる也、考略解などの如くにては、吾己曾座の下にされば〔三字傍線〕などの語を漆(ヘ)ざればきこえず、よく味はふべし.猶下に御駄の意をいへるを合考すべし、但し考の、説による時は、鈴屋翁のいへる如く、わをこそとよまでは、上下うちあは、ざれどせとしのらめにて、せとしての意とはきこえず、且(ツ)齒をとし〔二字右○〕の假字とするは、外に例もなく、又上にいへる如くことわりも聞えがたし、されば此字の上に止(ノ)字などのありしが、脱たるなるべし、【考には登の落たるかとあれど、字形遠し、】其は止齒とありしを齒(ノ)字の上止に從へるによりて、見混ひて止(ノ)字は脱ししならん、されば此句は背(止)齒告目《ヤトハノラメ》とよむべき也、又上の我許の下に、紀州本飛鳥井本などに、曾(ノ)字ありといへ、【紀州本に我許の下に曾の字あるよし、釋萬葉にみえたり、又玉緒くり分に飛鳥井雅親卿眞跡本に我許曾者と作《ア》りと、加納諸平いへりとあり、又余が藏《も》てる永正五年鈔本、撰集卷頭歌といふものに載たるにも、曾字あり、これによるに、今本に曾字を脱したるものなり、仙覺抄に、此御製歌の古訓二種あげたるに、共にわれこそはとあり、又今本の訓もワレコソハとありこれらももと曾(ノ)字ありし證也、撰集巻頭款といふものゝ事は、別記にいふ、】これによりて曾(ノ)字を補ふ、【元暦校本には者(ノ)字もなくて、我許背齒告目とあり、又古葉略類聚抄に一訓を載せて、ワレコソハ(11)ツゲメとあり此訓元暦校本の文字とあへり、こは背の訓を借てソ〔右○〕とし、齒も訓を借りてハ〔右○〕の假字としたるなり、これもきこえたり、】かくてこヽの二句は、汝《イマシ》はいかにおもふとも、我こそ者《ハ》【此者の辭はいとおもし、】夫《セ》とはのらめといふ意にて、結句の家をも名をもも天皇の御自らの御事也、上の虚見津云々よりはすべて天皇の御うへと御みづからあらはし給ふなり、さるははじめに賤女の家名を問せ給ひしに、黙然《モダシ》ゐてすみやかに御答まをさゞるけしきなりしによりて、かく御稱號《ミナ》をばあらはし給ひし也、そはかの賤女の家名を、いよ/\切にきこしめさまはしく、所思食すが故にて、我よりかく名のるうへは、其方《ソナタ》の家名もつゝまず名のり聞せよとの意なり、【但し天皇の御うへに家とおほおせられむはいかゞとおもふ人もあらんか、其は後世心なり、且今は上にもいひし如く賤女の家名をいかにもして、きこしめさんとおもほしめす大御意よりのり出給ひしなれば、殊更にかくはのたませたるにて、其大御意の切なるおもむき、いよ/\推量り奉らるゝ也、】さるを此結句の家をも名をもを、賤女の家名として解けるは、ひがことなり、さてこヽのおもむきは、燈の説と大かた同じ、されどかれは猶せとしのらめとよめるに從ひて、とければ、聊強たることまじれり、故に今其説をばあげざる也、
一編の大意は、天皇のある岡に行幸《イデマシ》けるに、若莱を摘み居る賤女あのいと愛らしきあまり、其家名を聞し食《メ》さむとて、問はせ賜ひしに、賤女の黙然《モダシ》ゐて、御答もまをさ(12)ざるけしきなるによりて、先(ヅ)天皇の御みづから御名を告《ノ》らせ給ひてさて賤女の家名をば求め給へるなり、かくて此天皇の御紀を見奉るに、先(ヅ)安康天皇の眉輪《マユワノ》王に殺せらるゝに當りて、諸兄と疑ひ給ひて、或は斬し或は焚殺し、又御獵に臨て獵場にて御親ら膳夫と共に鮮を割き給はむと詔給ひしに、群臣いづれも對へ奉らざりしかば、怒りて御者を斬し給ひ、又葛城山に御狩し給ひしとき、瞋猪《イカリヰ》暴に出て、天皇に觸れ奉らんとせしに、天皇弓を用て刺止め、蹈て之を穀せり、又三諸(ノ)岳の神(ノ)形を見むと欲し、少子部(ノ)螺羸《スガル》に詔して捉へしむ、依て螺羸其岳にのぼり、大蛇を獲て奉れり、又石川(ノ)楯といふ人、釆女を姦したるによりて、二人を執へて、手足を木に縛し、假度《サズキ》の上に置きて、之を焚き殺せり、如v此勇猛残酷の事のみを紀したるに、今此御製を讀(ミ)奉れば、優美閑雅なる事は申すまでもなく、其御仁徳の一の賤女にまで及びたるは、實に寛猛兩ながら有し給ひし事を窺ひ奉るべきなり、此は史學家の研究熟慮して、史の闕義を補ふべき事なり、
 
 高市崗本《タケチヲカモトノ》宮(ニ)御宇(シ)天皇(ノ)代 息長足日廣額《オキナガタラシヒヒロヌカノ》天皇
(13) 天皇登2香具山(ニ)1望國《クニミセス》之時(ノ)御製歌
 
2 山常庭村山有等《ヤマトニハムラヤマアレト》、取與呂布天乃香具山《トリヨロフアメノカグヤマ》、騰立國見乎爲者《ノボリタチクニミヲスレバ》、國原波烟立龍《クニバラハケブリタチタツ》、海原波加萬目立多都《ウナバラハカマメタチタツ》、※[立心偏+可]怜國曾《ウマシクニゾ》、蜻島八間跡能國者《アキヅシマヤマトノクニハ》、
 
崗本(ノ)宮は日本書紀に二年冬十月、天皇遷2於飛鳥(ノ)岡(ノ)傍(ニ)1是(ヲ)謂(フ)】岡本(ノ)宮(ト)1とありて.帝王編年紀に島(ノ)東(ノ)岡本(ノ)地也、玉林抄に橘寺(ノ)東|逝廻《ユキキノ》岡、則今(ノ)岡寺(ノ)地也といへり、息長足日廣額《オキナガタラシヒヒロヌカ》(ノ)天皇、後の謚號を舒明天皇と申す、○崗(ノ)字諸本に岡と作《カケ》り、されど王献之(ノ)書の洛神賦、顔眞卿(ノ)書の麻姑仙壇(ノ)記等に岡を崗と作《カケ》り、玉篇にも岡俗(ニ)作v崗とあれば今改めず、○望國之時は、御歌の詞によりてくにみせすときと訓べし、神武天皇の※[口+兼]間《ホヽマノ》岳に登りて國見し給ひしを始として、御代々々の天皇の遊ばししことにて、もとは民の盛衰を見そなはし給はむとての御業なれども、又たゞに高(キ)處より國内を見渡すをもいふ、故に常人のするをもいひて、卷三【三十八右】に登(リテ)2筑波(ノ)岳(ニ)1丹比(ノ)眞人國人(ノ)作(ル)歌に、國見爲筑波乃山矣《クニミスルツクハノヤマヲ》、卷十【二十二右】に雨間開而國見毛將爲乎《アママアケテクニミモセムヲ》などもあるなり、(14)山常《ヤマト》は大和《ヤマト》にて常《ト》はトコ〔二字傍線〕の略訓なり、村山《ムラヤマ》は群山《ムラヤマ》にて山々の群《ムラ》がれるをいふ、有等《アレド》は雖《ド》v有《アレ》なり、等は常には清音に用ゐれど、こゝは濁音としたるなり、富土谷御杖の萬葉燈にはありととよみて、とはとての意なり、といへるは非也、○取與呂布《トリヨロフ》、とりは形容の挿頭《カザシ》辭なりと御杖のいへるが如し、與呂布《ヨロフ》は物の具足したる意にて、此山の形の足《タリ》とゝのへるをいふ、書紀斉明紀に弓矢|二具《フタヨロヒ》、紫式部日紀に御屏風一よろひをひきつぼね、とあるも二帖を一具《ヒトヨロヒ》といへる也、○天乃香具山《アメノカグヤマ》、此山は十市(ノ)郡にあり、書紀神武紀に、香山此(ニ)云2介遇夜※[麻/糸]1とあり、加具《カグ》と濁るべ、し、天乃《アメノ》といふは、伊豫(ノ)國(ノ)風土記に天より降りし山なるよし記せり、本集三【十六左】にも天降付天之芳來山《アモリツクアメノカグヤマ》とあり.さて此天を舊訓にはアマ〔二字傍線〕とよめれど.古事記中卷の歌に阿米能迦具夜麻《アメノカグヤマ》とあれば、アメ〔二字傍線〕とよむべし、此天某、天之某といふ言につきて異説あり、おのれ別に辨じたるものあり、○騰立《ノボリタチ》の立は其|騰《ノボリ》ます形につきて云(フ)辞なり、古事記景行天皇(ノ)段に登2立其坂(ニ)1、書紀繼體の歌に美母盧我紆陪※[人偏+爾]能明梨陀致《ミモロガウヘニノボリタチ》、本集此卷の下に高殿乎高知座而上立《タカドノヲタカシリマシテノボリタチ》などあり、又後世の歌におりたつと云こと多くあり、ごれも古くよりいふことにて古事記神武天皇(ノ)段に取d所v入2御船1之楯u而下立とあり、〇國原《クニバラ》云々、原とは廣く平かなる所をいふ、次の海原《ウナバラ》もおなじ、但しこゝに海原といふは(15)埴安《ハニヤスノ》池のことにて、此池古(ヘ)はいと廣大にしてありしなるべしと考の別記に精しくいへり、代匠紀、燈などに彼山より難波の方など見ゆるにやとあるは、非なり、此所より難波の海はいかで見ゆべき、且|鴎《カマメ》立つなどのたまへる目《マ》のあたりのさまなるをや、○烟立龍《ケブリタチタツ》、この龍(ノ)字今本には籠と作《アレ》ど、元本温本官本類本拾本、また僻案抄引古本、代匠記引別校本、いづれも龍《タツ》と作《カケ》り、れ今本も訓にはタツ〔二字傍線〕とあるなり、されば籠は傳寫の誤なることしるければ今改(メ)正しつ、但し次(ノ)句の立多都《タチタツ》と詞をかへて、立籠《タチコメ》とあるかたよろしとおもはむは、非なり、かへりて同語をもて重ね給へるに、賛嘆の意深くこそおぼゆれ、其はともかくも各本龍とあるからは、これに從ふべきことにこそ、さて此等の句は其所の賑はへるよしを形容し給へるなり、○加萬目《カマメ》は和名抄に鴎和名加毛米とあり、古へかまめともかもめとも通はしいひしなり○※[立心偏+可]怜國曾《ウマシクニゾ》云々、今本には※[立心偏+可]怜をおもしろきとよめれど、考に神代紀の※[立心偏+可]怜小汀《ウマシヲバマ》とあるを引てうましと訓るに従ふ、うましは物を賞《ホム》る詞なり、俗にケツコウナ〔五字傍線〕といふ意に近し、※[立心偏+可]怜今本に伶※[立心偏+可]と作《アリ》て諸古本皆同じ、いと古くより倒したるものとみゆ、今改正す、※[立心偏+可](ノ)字は字書には無き文字なり、正しくは可と書べきことなるを、古(ヘ)連字の偏旁を増加してかけることありて、此も其例なり、※[立心偏+可]怜の宇面は集中(16)に十一所あり、又仁賢紀遊仙窟等にもあり、細しくは萬葉集文字辨證に出したれば此には省く、【燈に可怜とあるは、さかしらに改めたる也、】さて怜は燐と通ずることありて、其義を用ゐたるなり、○蜻島《アキヅシマ》は、神武紀に登2腋上※[口+兼]間丘《ワキガミノホヽマノヲカニ》1、而廻2望國(ノ)状(ヲ)1曰|妍哉《アナニヱヤ》乎國(ヲ)之獲(ツ)矣、雖2内木綿之眞※[しんにょう+乍]國《ウツユフノマサキクニト》1、猶|如《ゴトシ》2蜻蛉之臀※[口+占]《アキヅノトナメセルガ》1焉、由v是始(テ)有2秋津洲之號1也とあるより起《オコ》れる名にて、もとは葛(ノ)上(ノ)郡なる一郷の名なるを、孝安天皇の此地に久しく宮居坐ししによりて、秋津島倭《アキツシマヤマト》とつゞけいひならひしなり、【あきづのつ文字濁りて唱ふべし.】さてこゝに蜻の一字を用ゐたるは略文にて、集中に※[草冠/因]芋《ツヽジ》を※[草冠/因]、鴛鴦《ヲシ》を鴛《ヲシ》などかけると同倒なり、猶余が萬葉集讀例に多く例を出しおけり、○八間跡能國者《ヤマトノクニハ》は、大和(ノ)國者也、此句は上の※[立心偏+可]怜國曾《ウマシクニゾ》の上にめぐらして心得べし、考に、古は長歌の末を五七七とのみはいひとぢめず、句のたらはぬ如きなる類、此下にもあり、疑ふことなかれといへり、
一篇の大意は、國家を安らげく知しめさむが爲に、民間の形勢を望見《ミソナハシ》給はむとて、香具山に騰りて、国見し給ふに、人家はさらなり、鳥類なとも多くむれ集りて、いと賑はへるを歓び所思食《オモホシメシ》て、げに大知(ノ)國はよき國なりと賞賛し給へるなり、さてかゝる可怜《ウマシ》國なるからに、代々の天皇だちの此(ノ)國に宮敷坐しゝ事よ、との意を言外に含ませ給へるなるべし、
 
(17) 天皇遊2獵内野(ニ)1之時、中皇《ナカチヒメミコノ》命使2間人(ノ)連老(ヲ)獻1歌
 
3 八隅知之我大王乃《ヤスミシシワゴオホキミノ》、朝庭取撫賜《アシタニハトリンデタマヒ》、夕庭伊縁立之《ユフベニハイヨセタチシ》、御執乃梓弓之《ミトラシノアヅサノユミノ》、奈加弭乃音爲奈利《ナガハズノオトスナリ》、朝獵爾今立須良思《アサガリニイマタヽスラシ》、暮獵爾今他田渚良之《ユフガリニイマタタスラシ》、御執梓能弓之《ミトラシノアヅサノユミノ》、奈加弭乃音爲奈里《ナガハズノオトスナリ》、
 
内野は、大和(ノ)國宇智(ノ)郡の野なり、中皇命はなかちひめみこのみことゝ訓べし【ナカチといふ訓の事は下の中大兄とある所にいふ、】舒明天皇の女|間人《ハシヒトノ》皇女にて、後に考徳天皇の后に立給ひ間人《ハシビト》(ノ)皇后と申す、考また燈などに、中皇女命と女(ノ)字を加へたれど、上古はすべて女王などともたゞに某(ノ)王とのみ書して、女(ノ)字をばかゝざる例なれば、此も舊《モト》より女(ノ)字は無きなるべし、古本どもいづれも女(ノ)字なし、間人(ノ)連老は、孝徳紀に出たる人にて、此命の乳母方ならんと考にぃへり、此歌は後宮より御獵所に奉れなしなり、代匠記に、此歌は中皇命の讀せ給て老をして帝に聞上給へるか、又中皇命老に仰て讀せて奉しめ給へるか、下に至て中皇命御歌三首といへり、今の歌も中皇命の歌ならば御歌と有べきを、歌とのみあれば、間人連が歌と見えたり、といへるは非也、中(18)皇命の詠せ給へる歌なる事論なし、但し御歌としるさゞるは、此は天皇に對し奉る所なるから、殊更に御(ノ)字をばかゝざりしならんか、猶下にいふ事あり、合考すべし、○畧解に目録に歌の字の下并短歌の三字有、こゝには脱せり、といへるはいかが、此卷はすべて此三字はかゝざる例なり、目録は後人の加へたるなるべし、八隅知之《ヤスミシシ》、此枕詞は先哲だちの説いづれも解得たるはなし、其は先(ヅ)舊説に八方を知し食す義なりといへるを、仙覺はこれを破りて八隅《ヤスミ》は八洲《ヤシマ》なりすみ〔二字傍線〕としま〔二字傍線〕と通ず、知之《シシ》初のし〔右○〕はしるしめす詞、次のし〔右○〕は飼の助け也といへり、代匠記にはまたこれを難じて、舊説の八方の義をとりて、八方を知しめす君と云意にて、やすみしらしと云べきをら〔右○〕を略せるなりといひ【燈の説粗これに同じ、】冠辞考には集中に安見知之《ヤスミシシ》ともかけるがある、これ正字にて安らけく見そなはししろしめし腸ふといふ語をつゞめいへるにて、下〔右○〕のしはあがめ飼なりといひ、古事紀傳には此冠辞考の説をよしとして、さで下のし〔右○〕は崇《アガメ》申す語なりと師の云れつるは精しからず云々、此し〔右○〕は爲《シ》の意にて安見《ヤスミシ》を爲《シ》賜ふと云ことなりといへり、但し此意ならんには傳にも既にいへる如く、やすみしす〔右○〕といふべきことなり、しかるを傳にまた夢須美斯須《ヤスミシス》と云べきに、志《シ》と云は歌ふ語の一(ツ)の格にて、いさなとる〔右○〕海とつゞくべきをいさな(19)とり〔右○〕、海とつゞくる同例なりといへり、比はいかゞなり、いさなとり海は、いさなどりする海といふ意なるを、安見爲《ヤスミシシ》す〔右○〕と云ては爲《ス》といふこと重なるなりいかでかれと同例といふべき、故(レ)己(レ)熟々考ふるに、下のし〔右○〕は所知《シ》の意にて、天(ノ)下を安《ヤス》けく見所知《ミシシラス》よしの稱言なるべし、【仙覺が初のし〔二重傍線〕はしろしめす詞、次のしは詞の助け也、といひしは知之とある文字に泥みての説也、但しし〔二重傍線〕はしろしめす詞といへるは甚よし、八隅知之とかける文字の事は次に云、】しかいふ故は、日並知《ヒナミシノ》皇子(ノ)尊を續日本紀の古本どもには、日並所知《ヒナミシノ》皇子尊とありて、其他の古書どもにもかくかけるものあり、また粟原寺の鑪盤(ノ)銘には、日並御字《ヒナミシ》(ノ)東宮とあり、これらの所知また御宇の字はし〔右○〕の言に充《アテ》たるものなればし〔右○〕は即(チ)所知また御宇の字の意なること.明らかなり、もとより此御名は日嗣《ヒツギ》の並《アミ》に天下を所知看《シロシメス》よしの稱名なること、既く先哲のいへることなるを、其し〔右○〕の言に充《アテ》たる知(ノ)字をば所知又は御宇ともかけるをもて其説をいよゝ信ずべく、かくて此御名のし〔右○〕と八隅知之《ヤスミシシ》の之《シ》とまたく同意なるべくおぼゆればなり、此事は先(ツ)年板にゑりたる※[木+觀]齋雜攷に精しく論じおきたれば合攷すべし、かくて仙覺抄に知(ノ)字を志《シ》に用ゐたるは音にて、知は一音|師《シ》也、といへるは非也.よしや知《チ》に志《シ》の音あるにもせよ、それを用ゐたるにはあらず、猶訓とすべし或人問て云く、貴説の如くならば、八隅知之は八隅之知とこそあるべき事なるに、八隅(20)知之とのみあるはいかゞ、答此は寧樂人の例の筆のすさびなるべし、【但し上に出せる舊注に、此文に就て解(キ)たる説は、いふにもたらぬ事なり、】其は多麻岐波流【タマキハル】といふ枕詞を、卷五【三十七左】卷六【四十一左】等に靈剋《タマキハル》とかけるなど似たる事なり、しかるを此靈剋も、舊注には此文字に就て靈極《タマキハル》の意なりとすれど、誤なる事、古軍記傳卷三十七【二十九右】に辨へられたるが如し、集中又|駒《コマ》を黒馬《コマ》とかき梅《ウメ》を烏梅とかけるなども、やゝ似たるかきざまなり、黒馬《コマ》烏梅《ウメ》は義と似てかけるにはあらず、共に音を用ゐたるにて假字がき也○我大王《ワゴオホキミ》はわごおふきみと訓(ム)べし、槻(ノ)落葉上【四右】に、古事記日本紀には倭賀《ワガ》とあれど、集中假字書にはすべて和其《ワゴ》和期《ワゴ》と書(キ)、續日本紀卷十五にも和己於保支美《ワゴオホキミ》とあればわご〔二字右○〕と訓べし、といへるはさる事なり、今按ふるに熱由(ノ)大神(ノ)縁起にも和期意富岐美《ワゴオホキミ》とあり、かくて集中假字にて和期和其吾期などかけるは十一所あり、しかるに和我於保伎美《ワガオホキミ》と假字がきせるは、卷十八【十一左】と卷廿【六十一左】とに一(ツ)づゝあるのみなり、されば本集にては多きにつきて、吾大王我大王などあるは、皆ワゴオホキミと訓(ム)へき也、但し記傳卷二十八【十三右】に和賀を萬葉には和期《ワゴ》吾期《ワゴ》などあり、此は下の《オ》へつゞく故に賀意《カオ》約まりて期《ゴ》となるを長く詠《ウタ》へばおのづから期意《ゴオ》とるなり、さる故に是はたゞ吾大王とつゞく時のみのことなりといへるが如し、○朝庭《アシタニハ》云(21)云は毎日といふが如し、庭は借字にて辭のには〔二字右○〕なり、○伊縁立之《イヨセタテシ》、此句舊訓にはいよせたてゝしとあり、畧解はこれに從へり、考にはいよせたゝしゝと訓めり、こはよせとたゝしと自他混淆すれば非なり、燈に古點にいよせたてゝしとよめれど、てもじあるにも及ばぬ所なれば、六言によむべし、といへるに從ふ此は御弓を御側近く引寄《ヒキヨセ》おき給へるをいふなり、伊《イ》は發語、之《シ》は過去(ノ)辭也、此四句は其弓を愛したまふあまり、御側《ミソバ》をはなち給はぬよしなり、○御執乃《ミトラシノ》とは、弓は手に取持ものなるからしかいふなり、御劔をみはかし御衣とみけしといふに同じ、下のしは例の敬語なり、○奈加弭《ナカハズ》云々、考には加は留の誤とし,古(ヘ)は弓弭に玉をまき鈴を懸つれば手に取ごとにも鳴《ナル》からに鳴餌ともいふべしといひ、玉(ノ)小琴には加は利の誤ならんといへり、なるはず〔四字傍線〕といふ語はいかゞなれば、もし此意とせんには利としてなりはず〔四字傍線〕といふべ、代匠記には奈加弭《ナガハズ》は末弭《ウラハズ》なり、末弭《ウラハズ》は下弭《モトハズ》より長ければ長弭といふなり、といへり、此説よろし、此語二(タ)所まて奈加弭とあるがうへに、諸古本どもも皆奈加弭とあれば、後人の寫し誤れるにはあらざることしるし、加は常には清音に用ゐる文字なれど卷二十【三十一右】に和加々都乃《ワガヽドノ》云々、於母加古比須奈《オモガコヒスナ》、又|於枳弖他加枳奴《オキテタガキヌ》など濁音にも用ゐたり、此他集中に清濁を通し用ゐたる文字いと(22)多し、其は萬葉集讀例に集めおけり、但し下弭《モトハズ》より末弭《ウラハズ》は長ければ長弭といふとあるはいざゝか心ゆかず、按ふに此は殊に末弭《ウラハズ》を長く造りなしたるものにて、常にその御弓をば長弭《ナガハズ》と呼びて御寵愛せしなるへし、ざるは事とあらんをり、人にまれ、猛獣にまれ、御側近くより來たらんには、弭むて突《ツキ》とめもし給はひ料にとてのわざなるべし、雄略天皇の御獵場にて、瞋猪《イカリヰ》を天皇御親(ラ)弓を以て刺止《サシトメ》、脚をもて踏殺し給ひたりし事など紀に書せるむおもふべし、さて音すなりとは、弦《ツル》の鞆《トモ》に觸るゝ音なり、此卷の下に大夫之鞆乃音爲奈利《マスラヲノトモノオトスナリ》云々、大神宮儀式帳に弓矢|鞆普不聞《トモオトキコエヌ》國、また神代紀に稜威之高鞆《イツノタカトモ》とあるも、鳴音の高きをいふななり、かかれば後宮にて其鞆の音をきヽ給ひて、今こそ御獵し給ふならめと御|羨《ウラヤマ》しく思ほしめすなり、○朝獵爾《アサカリニ》云々|暮獵爾《ユフカリニ》云々は、玉(ノ)小琴に朝と暮と二(ツ)ながら今〔右○〕たたすらしといへること誰も疑ふめり、こは朝がりとは朝饌の料をとるといひ、夕がりとは夕饌の料をとるを云名にて、其獵する時を云に非ず、されば時に拘らず、朝獵をも夕獵をもするといふなり、といへるがことし、但し此御獵の時は朝なる事、反歌に朝布麻須等六《アサフマスラム》とあるにて知らる、燈には朝夕の文字につきていとむつかしき説あれど非なり、從ふべからず、○御執《ミトラシノ》、元本執の下に能(ノ)の字ありて、梓の下の.能の字なし是に似(23)る、されど他本はいづれも今本と同じさてかく同じ言をふたゝびくりかへしいふを、句の調べの爲のみとおもふは非なり、古人同じ言をかさねていへるは、其事の切なるよしを示す爲にて、いたづらに姿句調のみにいふにはあらず、
一篇の大意は、今父|天皇《ミカト》の御獵に出|立《タヽ》せ給へるに、婦人の身なるから、猶宮中に御坐して、其御獵の御供にもえゆき給はぬを欽《ウラヤ》みおもほして、吾身も男子にてあらませば、今日の御供にもたちて、父命と共に樂みせましを婦人の身のいふがひなさよとおもほしめして、せめてもの心やりにとて、此御歌をば其御獵所に奉らしめたるにて、其欽みおもほし給へる御意の切なるより、同じ言をくりかへして歌はせ給ひしなり、
 
 反歌
4 玉刻春内乃大野爾馬數而《タマキハルウチノオホノニウマナメテ》、朝布麻須等六其草深野《アサフマスラムソノクサフカヌ》、
 
反歌の事につきては、近來さま/\の説出來ていと紛らはしかれど、いづれも僻言のみにて採るに足らず、且其讀も或はかへしうたと訓(ム)べしといひ、或はみじかうたと訓(ム)べしといへるもいかゞなり、按ふに、此は漢土にて賦の末に一篇の括り(24)を述べたるものありてこれを荀子に反辞といへり、本邦の長歌は彼国の賦の如きものなるから、彼に擬して長歌の末に詠添へたる短歌を反歌とはいへるなり、されば其讀も字音にてハンカ〔三字右○〕と唱ふべき也、猶委しくは別記にいふ、
玉刻春《タマキハル》、此(ノ)枕詞、冠辞考の説はわろし、古事記傳卷廿八巻三十七に、枕詞のあらたまは.あたら/\まの約りたるにて、あたらとは年月日時の移りもて行を云(フ)言にてま〔右○〕は間《マ》にて程《ホド》と云(フ)に同じ、かくてたまきはるは、あらたま來經《キフ》るにて、【あら〔二字右○〕を省き經《へ》うぃ通音にては〔右○〕といふなり、】これも年月日の經行《ヘユク》ことにて、宇知《ウチ》とつゞく意は顕現《ウツ》なり、そは現身《ウツシミ》現世《ウツシヨ》など云(ヒ)て人の此(ノ)世に生《イキ》てある間《ホド》を云(フ)なりと猶精しく論はれたり、【久老の槻(ノ)落葉の別記の説これに同じ、橘(ノ)守部の説に更間之《アラタマノ》也、といへるは非也、】さて刻をき〔右○〕に借(リ)たるは、刻《キサム》の意にてき〔右○〕はきだきざむなどの本語なりと、これも、記傳卷廿四【十一左】卷三十八【三十八右】にいへり、卷十三に【二左】眞刻持《マキモタル》ともあり、○朝布麻須《アサフマス》は朝踏《アサフマス》也、鳥などの草むらにかくれをるを踏つるなり、○其草深野《ソノクサフカヌ》、考に今本の訓にクサフケノ〔五字傍線〕とあるに從ひて、ふけぬは深きを約轉して、下へつゞくる時、夜のふけゆくといひ、田の泥深きをふけ田といふが如く、草深き野也とありて、略解も此説を用ゐたれと非なり、其は夜のふけゆくなどのふけはふくるふくれと活き、深はふかしふかきふかけれと活きて、もとより別語な(25)り、夜のふけゆくを、夜のふかきゆくどいはれぬにて暁るべし、然るを卷七【二十四左】に道邊之草深由利乃《ミチノヘノクサフカユリノ》云々とあるも略解にくさふけゆりのと訓(ミ)改めたるはいみじきひがことなり、但し卷二【十三右】に佐夜深而《サヨフケテ》卷七【十二右】に狹夜深而《サヨフケテ》などいと多くあるをもて、深(ノ)字にあたる詞の、ふけともいはるゝことゝおもふはあし、こは義を得てあてたるものなり、おもひまがふべからず、又泥深き田をふけ田といふといへるもたがへり、俗に云(フ)ふけ田とは、地味のよからずして穀のよく實のらぬわろきところをいふなり、猶いはゞ天武紀に※[泥/土]田《フカタ》、また和名抄に筑前(ノ)國の郷名に深田【布加多】などありて、ふけだとはあらぬをや、
一首の意は、多くの御供の人の馬うちなめて、鳥獣《トリシヽ》など蹈たてつゝ、日めもす御獵くらし給へるは、いと興あることならんと、欽《ウラヤ》ましくおもほしめすよしなり、
 
 幸2讃岐(ノ)國|安益《アヤ》(ノ)郡(ニ)1之時、軍王見(テ)v山(ヲ)作歌
 
5 霞立長春日乃《カスミタツナガキハルビノ》、晩家流和豆肝之良受《クレニケルワヅキモシラズ》、村肝乃心乎痛見《ムラキモノコヽロヲイタミ》、奴要子鳥卜歎居者《ヌエコドリウラナゲヲレバ》、珠手次懸乃宜久《タマダスキカケノヨロシク》、遠神吾大王乃《トホツカミワゴオホキミノ》、(26)幸能山越風乃獨座吾衣手爾《イデマシノヤマゴシノカゼノヒトリヲルワガコロモデニ》、朝夕爾還比奴禮婆《アサヨヒニカヘラヒヌレバ》、大夫登念有我母《マスラヲトオモヘルワレモ》、草枕客爾之有者《クサマクラタビニシアレバ》、思遣鶴寸乎白土《オモヒヤルタヅキヲシラニ》、網能浦之海處女等之《アミノウラノアマヲトメラガ》、燒鹽乃念曾所燒吾下情《ヤクシホノオモヒゾヤクルワガシタゴヽロ》、
 
蔡?(ノ)獨斷に、天子(ノ)車駕所v至見2令長三老官屬(ヲ)1親臨軒作v樂(ヲ)賜(フニ)以(ス)2食帛(ヲ)1、民爵有v級、或賜2田租1故謂2之幸(ト)1、又後漢書光武紀に、天子所v行必有2恩幸1故稱v幸などあり、幸はいでましと訓べしこれをみゆきといふは後の言なり、○紀には讃岐へ行幸の事は見えざれども、考に、舒明紀十一年十二月、伊豫の湯(ノ)宮へ幸て、明年四月還ませしとみゆ、ついでに讃岐へも幸有しこと、此歌にてしらるとあるが如し、○安益《アヤ》(ノ)郡は和名抄に讃岐(ノ)國阿野【綾】とあり、益《ヤ》は呉音ヤク〔二字傍線〕を借(リ)用ゐたるなり、〇軍(ノ)王は、傳しれず、霞慄長春日乃《カスミタツナガキハルビノ》云々、此初の四句、故郷を慕ふ情をいかにも優に形容したり、永き春日を旅中にていたづらにくらしたるさま、讀む人をして感を起さしむ、〇和豆肝之良受《ワヅキモシラズ》、考には分《ワカ》ち著《ツキ》も不v知也、手著てふに似て少し異なるのみと、いへれど、いともむづかしき説なり、代匠紀に、別《ワキ》も不v知にて、わきもといふにつ〔右○〕のそはれるなりと、あ(27)るに從ふべし、わきもしらず、といふ語は、卷四【四十八左】に夜晝云別不知吾戀《ヨルヒルトイフワキシラズワガコフル》、卷十【十五左】に春雨之零別不知《ハルサメノフルワキシラズ》、卷十一【二十九右】に月之有者明覧別裳不知而《ツキシアレバアクランワキモシラズシテ》、卷十二【十一右】に出日之入別不知《イヅルヒノイルワキシラズ》、などある是也、かくて語の中らに助僻を置(ケ)る例は、卷十四【十三左】に安左乎良乎遠家爾布須左爾宇麻受登毛《アサヲラヲヲケニフスサニウマズトモ》とあるは、麻《アサ》を桶《ヲケ》に多《フサ》に積《ウマ》ずともにて、須〔右○〕は助辭なり、推古紀【十三右】に、輙《タハヤスク》不v可v罪、後撰集【冬】にも霰ふるみ山の里のわびしさはきてたはやすくとふ人ぞなきとあり、たやすくといふ詞には〔右○〕のそはりたるなり、此類猶あり、【俊頼口傳に文字のたらねばよしなきもじをそへたるうた、花の色はあかずみるとも鶯のねくらの枝に手なゝ〔右○〕ふれそも云々、これも皆よき歌にももちゐるなり.とあり、此歌ハ拾遺雜春にあり、】○村肝乃《ムラキモノ》は心の枕詞なり、心乎痛《コヽロヲイタミ》のみはサニ〔二字傍線〕の意にて、痛《イタ》しとは俗にヒドウ〔三字傍線〕などいふ義にて、此《コヽ》は古郷を戀る心の堪がたき意なり、〇奴要子鳥卜歎居者《ヌエコドリウラナケヲレバ》は、和名抄に漢語抄を引て※[空+鳥]【奴江】とあり、新撰字鏡に鵺※[易+鳥]などを奴江とよめり、此二字は倭字なるべし、考に、※[空+鳥]《ヌエ》が鳴音は恨哭が如し、人の裏歎《ウラナキ》は下《シタ》になげくにて忍音をいへり、然れば※[空+鳥]よりは恨鳴といひ、受る言は下歎也、とあるが如し、※[空+鳥]の事は冠辞考に見えたり、或人の説に、關東の俗の虎ツグミと云ものなりといへり、子《コ》は鳥虫木草などにそへていふ辞なり、卜は借字にて裏也、うらがなしうらさびしなど、いづれも表にいださぬをいふなり、考にうらなげきをればとよめれど(28)舊訓にウラナケヲレハとよめるに從ふべし、卷十七、【三十二左】に奴要鳥能宇良奈氣之都追《ヌエトリノウラナケシツツ》とあり、なけはなげきの急言也、○珠手次懸之宜久《タマタスキカケノヨロシク》、珠手次は手繦《タスキ》也、珠は美稱、次《スキ》は訓を借たる也、天武紀に次此云2須岐1とあり、懸《カケ》の枕詞なり、懸乃宜久は、玉(ノ)小琴によろしきといはずして、久《ク》と云るに心を付べし、此は六句を隔てゝ下の朝夕爾此奴禮婆《アサユヒニカヘラヒヌレバ》といふ所へかゝる詞にて、一首の眼也、旅にては早く本國へ歸むことを願ふ物なる故に、かへるといふことを悦ぶなり、さて今行幸能山越《イデマシノヤマコシ》の風の吾袖に朝夕にかへる/\吹くるを、かけのよろしくとはよめる也、業平(ノ)朝臣のうらやましくもかへる浪かな、と云歌をも思ひ合すべし、此詞を遠神云々へかけて見るはひがこと也、とあり、此説を是とすべし、燈によろしとは里言にチヨウドヨイ〔六字傍線〕といふ意にて、後世よき事をいふとはおなじからずといへり、語例は、卷十【五左】に子等名丹關之宜朝妻之《コラガナニカケノヨロシキアサヅマノ》、片山不之爾霞多奈引《カタヤマギシニカスミタナヒク》、卷三【二十一左】に栲領巾乃懸卷浴寸妹名乎《タクヒレノカケマクホシキイモガナヲ》、此勢能山爾懸者奈何將有《コノセノヤマニカケバイカニアラム》などあり、○遠神《トホツカミ》云々は、天皇は即(チ)神にて人倫に遠きよしの崇詞なり、○山越風乃《ヤマゴシノカゼノ》は、幸し給ひし所の山を吹こす凰をいふ、次の反歌に山越乃風乎時自見《ヤマゴシノカゼヲトキジミ》とあるによりて此もやもごしの〔右○〕と訓(ム)べき也、〇獨居《ヒトリヲル》云々、旅中のさまいとあはれなり、朝夕《アサヨヒ》には日の始夜の始をいひて、毎日毎夜の意を示せるなり、還比(29)奴禮婆《カヘラヒヌレバ》は、吹過《フキスギ》てはまた吹來《フキキ》つゝ、幾回も吹かよふをいふなり、此らふ〔二字右○〕をる〔右○〕の延たるなりとのみおもふはひがことなり、かへるといふとかへらひといふとはおのづから差別のあることにて、古事記の八千矛《ヤチボコ》(ノ)神の越《コシ》の沼河比賣《ヌマカハヒメ》の家に到(リ)坐して詠給ひし歌に、遠登賣能那須夜伊多斗遠《ヲトメノナスヤイタドヲ》、游曾夫良比和何多多勢禮婆《オソブラヒワガタタセレバ》、比許豆良比《ヒコヅラヒ》云々とあるは、處女の鳴《ナス》や坂戸を、押ぶらひ吾立有者《ワガタヽセレバ》引《ヒコ》づらひにて、幾回も押《オサ》へ幾回《イクタビ》も引をいふななり、又集中に花散相《ハナチラフ》とあるは、彌《イヤ》がうへに散かさなるをいふ言にて、たゞにちるといふとは異なり、又卷五【二十九】貧窮問答(ノ)歌に堅鹽乎取都豆之呂比《カタシホヲトリツヾシロヒ》、糟湯酒宇知須々呂比《カスユサケウチスヽロヒ》とあるも、堅鹽《カタシホ》を食《クヒ》かき食《クヒ》かきし、糟湯酒《カスユサケ》を引つゞきて呑《ノム》意にて、つゞしるすゝるとは同じからず、此類いづれもしか心得べし、また其所々にもいふべし、かくて奴禮婆《ヌレバ》の婆《バ》は、客爾之有者《タビシニシアレバ》の者《バ》とひとつに、下の念曾所燒《オモヒゾヤクル》にかかれるなり、さるは朝夕にかへらひぬれ婆《バ》、大夫《マスラヲ》とおもへるわれもおもひぞやくる、旅にしあれ者《バ》おもひぞやくる、と云續きなり、諸注此|婆《バ》のかゝり所を解(キ)たるものなきはいかに、○大夫登念有我母《マスラヲトオモヘルワレモ》は、ますらをは増荒男《マスラヲ》にて、大丈夫と思へる吾も也、燈に、此は抑揚の法にて、われとわが上を引揚(ケ)て、さてつよくおとす爲にて、めめしき事を思はせたる也、とあるが如し、かくて考、燈、略解ともに大夫を丈夫に改(30)めたるは麁忽なり、今集中を通攷するにますらをを大夫とかけるは、四十二所あり、丈夫とかけるは卷四に三(ツ)あるのみなり、但し諸注に大夫を丈夫に改めたるは、和名抄に公羊傳(ニ)云、丈夫【萬葉集(ニ)云未須良乎、日本紀(ノ)私紀男子(ノ)讀同、】大人之稱也、とあるに據(リ)たるものなるべけれど、此に引たる公羊傳の文は、定八年の經文に、陽虎曰、夫(ノ)孺子得v國而已、如丈夫何とある、何休が注の文なり、此は孺子に對(ヘ)て大人《オトナ》をいへるなれば、此集にいふ大夫《マスラヲ》また丈夫《マスラヲ》とは同じからず、しかるを日本紀私紀に.ますらをを男子の稱とおもひ誤(リ)て、男子をますらをと訓たるによりて、順朝臣も此訳(リ)を承(ケ)て大人之稱也とある丈夫をますらをと讀て、遂に本集のますらををも混じ収(メ)たるなり、抑漢籍に丈夫といへるはたゞに男子の稱、【説文に男(ハ)丈夫也.又夫(ハ)丈夫也 と見え、釋名に、甫(ハ)丈夫也ともあり、】または孺子に對(ヘ)て大人《オトナ》といふ稱にて、皇國言《ミクニコトハ》のますらとの事にはあらず、日本紀また本集に、丈夫をますらをと訓るは、大丈夫の略文にて、常に男子を丈夫といふとは自(ラ)別なり、思ひ混ふべからず、但し大夫とあるは丈(ノ)字を略し、丈夫とあるは大(ノ)字を略せるものにて、互に一字を略したるなり、さて集中に正しく大丈夫とかきたるは見えねど神武紀に五瀬(ノ)命(ノ)矢瘡痛(コト)甚(シ)、乃撫v劔而|雄誥之《ヲタケビシテ》曰、慨哉大丈夫《ウレタキカモマスラヲニシテ》被v傷2於虜手1、將不v報而死耶とあり、また大夫とかけるは、神代紀上に、設2大夫武備《マスラヲノタケキソナヘヲ》1、皇極紀に豈其戰勝(ヲ)後(ニ)方(ニ)言2(31)大夫《マスラヲト》1哉、夫損v身(ヲ)固(セハ)v國(ヲ)不2亦大夫1者歟、また丈夫とあるは、神代紀下に豈唯|經津主《フツヌシノ》神獨(リ)爲2丈夫《マスラヲニ》1而吾(ハ)非2丈夫《マスラヲニ》1者哉、とある是也、【以上の字樣は寛永板の日本書紀に據る、後の刻本には、さかしらに改めたるものあり、】此は一書中にて、大丈夫とも大夫とも丈夫ともかける例なり、是にて或(ハ)丈〔右○〕(ノ)字を略し或(ハ)大〔右○〕ノ字を略したるなりといふを暁るべし、かくて漢籍に大丈夫といへるを、一二いはむに、史紀の高祖本紀に、高祖|甞《カツテ》※[搖の旁+系]《エダチス》2咸陽(ニ)1、縱觀(シテ)觀(テ)2秦(ノ)皇帝1喟然(トシテ)太息曰、嗟乎大丈夫當v如v此也、孟子に富貴(モ)不v能v淫、貧賤(モ)不v能v移(ス)威武(モ)不v能v屈(スル)此之謂2大丈夫(ト)1、とある是なり、これら此土の益荒男《マスラヲ》に當れり、猶いはゞ孟子に予豈若2是(ノ)小丈夫1然哉とあるは、俗に量見の小《セバ》き男といふ意、また同書に有2賤丈夫1焉、必求(ム)2龍斷(ヲ)1ともあり、これらの小丈夫賤丈夫は大丈夫に對(ヘ)へたる稱なるにて丈夫とのみ云(フ)はたゞに男子の事なるを暁(ル)べし、【小丈夫賤丈夫などある丈夫を、いかでますらをとはいふべき、】猶萬葉集訓義辯證に精しく論じおけり、○草枕《クサマクラ》云々、草枕は旅の枕詞なり、客爾之《タビニシ》の之《シ》は、其事其物を取立ていふ辞にて、いと力ある辞なり、これを助辞とのみ心得むはあし、此《コヽ》も旅のかなしみを深く思はせむが爲なり、○思遣《オモヒヤル》は、卷二【三十三右】に遣悶流《オモヒヤル》とある文字の意にて、歎く思を遣《ヤリ》はるけるなり、後世の想像の意にはあらず、○鶴寸乎白土《タツキヲシラニ》は、鶴寸は借字にて手著《タヅキ》也、寸《キ》は一寸二寸を古言にひときふたきといへば此訓を借たるなり、白土《シラニ》も借字にて(32)不知也、土《ツチ》を古(ヘ)爾《ニ》といへりしらに〔三字傍線〕のに〔右○〕はぬ〔右○〕の活《ハタラキ》きたる也、此詞集中にはいと多かるを古今集より、以降《コナタ》にはをさ/\見えず白土《シラニ》は俗にシラヌノデ〔五字傍線〕といふ意なり、しらずといふとは少し異なり、かゝる辞の後世絶たるは惜むべし○網能浦之《アミノウラノ》、網の字今本には綱とあり、元本官本には※[糸+囘の巳がメ]類本には※[糸+回の中の口が左につく]とあり倶に網の字の異體なり、家本活本校異本拾本には網とあるなり、温本昌本は今本と同じく綱とあれど、訓はともにアミとあり、今本の訓も同じ、さては網の字なる事疑ひなし、しかるに考に鋼《ツノ》に作りて、注に神祇式に讃岐(ノ)國綱(ノ)丁《ヨボロ》、和名抄に同國鵜足(ノ)郡に津野(ノ)郷ありそこの浦なるべし、鋼をつのといふは古言なり、とありて、燈、略解、ともに此説に從へり、こはいみじき誤なり、其は臨時祭式に、凡桙木千二百四十四竿、讃岐(ノ)國十一月以前差2網丁(ヲ)1進納(セヨ)、とある此事也、こは諸國の貢物を運送する人の長をいへるにて、綱は綱領の義にて、即(チ)今俗の宰領といふものなり、主計式にも諸國(ノ)貢調并雜物(ノ)綱丁等とあり、猶いと多し、さて宇治拾遺卷一に鮭のかうちやう〔五字右○〕とあれば當時も猶|文字音《モシコヱ》のまゝに唱へしなるべし、これを綱丁《ツノノヨボロ》とよめるは笑ふべし、かくて大寂庵立綱の津の跡にまた此綱丁を引て、宜長は猶|網《アミ》の浦なるよしいへれど、丸龜《マルガメ》より高松領につゞきたる海づらを歌津といふ、それより右のかた十五六町あなたに(33)津野《ツノ》の郷といふありて、そこなる山を津野山といへり.これ津野の浦なること明らけし、といへれど、和名抄に津野(ノ)郷は鵜足(ノ)郡とあるを、こゝは安益(ノ)那なれば所たがへり、且つ宗祇の方角抄また行嚢抄【海上卷一】にも網《アミ》(ノ)浦讃州の名所なりとあれば、舊に從ひて網《アミ》(ノ)浦とす、卷十一【三十七左】に留鳥浦之海部有益男《アミノウラノアマナラマシヲ》とあるは、此と同所にや猶考べし、○海處女等之燒鹽乃《アマヲトメラガヤクシホノ》は、次の句をいはむ料《タメ》に所につけたることをもて序とせり、乃《ノ》はの如く〔三字傍線〕の意なり、〇念曾所燒《オモヒゾヤクル》は、思ひわづらひて心《ムネ》の焦《コガ》るゝが加きをいふ、古今集の歌にむねはしり火に心やけをりなどあるに同じ、○吾下情《ワガシタコヽロ》は下《シタ》は裏《ウラ》と同じく内をいふなり、こゝは表《ウハ》べは強《シヒ》て大夫《マスラヲ》心をつくりてをれど、古郷を慕ふ心の内は焦《コガ》るゝが如しといふなり、下情を考、燈、略解などには、しづこころとよめれど、下の字を強てしづとよまでもありなん、故(レ)今は古訓に從ひてしたごゝろとよみつ、一篇の大意は、旅にして古郷を慕ふ情の切なるが故に、永き春の日の盡くるをも知らず、心を傷ましめをるに、又山風の古郷の方に吹き過きては、又|此方《コナタ》へ吹來りて、我古郷を思ふ心をさらに起《オコ》さしむれば、彌々古郷を思ふ情はそはりぬるを、其思ひを遣慰《ヤリナクサ》むべき爲便《スベ》もなければ大夫《マスラヲ》と思へる我も思ひに焦ると也、
 
(34) 反歌
6 山越乃風乎時自見寐夜不落《ヤマゴシノカゼヲトキジミヌルヨオチズ》、家在妹乎懸而小竹櫃《イヘナルイモヲカケテシヌビツ》
 
時自見《トキジミ》は、此卷下に不時とかき、日本書紀また本集卷八に非時をときじくとよめり、其時ならぬを云言なり、此は風の時ならず寒きをいふ、しかるに考には時も定めず風の吹をいふといひ、代匠記には不斷の意なりといへれどわろし、其は紀傳卷廿五【五十三】に辨あり、ひらき見るべし、○寐夜不落《ヌルヨオチズ》は、一夜も漏ずにて、連夜の意なり、○家在《イヘナル》は、家にあるの急言なり、○懸而《カケテ》云々は、古郷なる妹が許《モト》をかけて慕《シヌ》ぶなり、燈にしぬぶと云詞のもとは堪忍《タヘシノブ》にて堪忍《タヘシノブ》をもて慕《シタ》ふをおもはする詞也、といへるが如し小竹櫃《シヌビツ》は借字なり、古言には小竹《シノ》を之奴《シヌ》といへり、
一首の意は山越《ヤマコシ》の風の時ならず寒きにつけて、彌々家を慕ふ情のまさるとなり、
 
 右※[てへん+僉](ルニ)2日本書紀(ヲ)1無v幸2於讃岐(ノ)國1亦軍王未v詳也、他山上(ノ)憶良(ノ)大夫(ノ)類聚歌林(ニ)曰、記〔右○〕曰、天皇十一年已亥冬十二月己巳朔壬午、幸2于伊豫(ノ)温湯(ノ)宮(ニ)1云云、一書(ニ)云、是時宮(ノ)(35)前(ニ)在〔右○〕2二樹木1此二樹(ニ)、斑鳩《イカルガ》此米《シメ》二鳥大集(ル)、時勅(シテ)多掛(テ)2稻穂(ヲ)1而養(シム)v之(ヲ)乃作歌、云々、若疑(クハ)從2此(ノ)便1幸(セル)v之(ニ)歟、
 
類聚歌林は、袋(ノ)草子卷一に云、萬葉集昔は所在稀(ナリ)云々《テヘリ》、而俊綱(ノ)朝臣法成寺寶蔵(ノ)本と申出して書2寫之(ヲ)1云々、山(ノ)上(ノ)憶良類聚歌林一本書也、在2同(キ)寶蔵(ニ)1云々《テヘリ》、八雲御抄卷一に云、類聚歌林山(ノ)上(ノ)憶良撰、在2平等院1云々《テヘリ》、通憲(ノ)説也、又永承五年正子内親王繪合(ノ)詞に、おくらが歌林とかいふなるより、古萬葉集までは心もおよばず、古今後撰こそあをやぎのいとくりかへしみれどもあかず、などありて、古(ヘ)は本集とひとしなみに貴重せしものとみゆ、撰者憶良は元正天皇の時の人なれは、本集を撰びたりし天平勝寶よりは、いさゝか古し、此書、中世までは傳りしといふを、今は絶はてたるにこそ、猶別記にいふ、○記は紀に作るべきに似る、然れども諸本皆記とかければ、妄りに改むべからず、他書にも紀を記とかける事あり、古(ヘ)通じかけるなるベし、さて同紀に十二年夏四月丁卯朔壬午天皇至v自2伊豫1とあり、○一書、こは伊豫(ノ)風土紀なり、仙覺抄卷五に、伊豫國(ノ)風土記を引て以2岡本(ノ)天皇并(ニ)皇后二驅(ヲ)1爲2一度1、于時於2大殿(ノ)戸《ト》1有3椹與2臣木《オミノキト》1、於《ニ》2其木1集(リ)2止(ル)鵤|與《ト》2比米(ノ)鳥1、天皇爲(ニ)2此鳥1、枝(ニ)繋(テ)2稻(36)穗等(ヲ)1養賜(ヘリ)也、【此文板本にハ誤脱あり、今古本に據て訂正して引、】とあり、○在2二樹木1、仙覺抄に風土紀(ニ)云二木者一(ハ)椋《ムクノ》木一(ハ)臣《オミノ》云々、とあり、在は有の意なり、古書には在有を混し用ゐたり、○班鳩《イカルガ》、和名抄に鵤、和名以加流賀、班鳩、和名同上、とあり、いかるがは漢名竊脂といふものにて、本邦の俗豆まはしと呼(フ)者なりといへり、○此米《シメ》元本類本拾本及僻案抄引古本には、比米《ヒメ》とあり、其地の本どもには今本と同じく、此米《シメ》とあり、仙覺抄に引ける風土記の文には、比米《ヒメ》とあるなり、また本集卷十三【六左】なる長歌に仲枝爾伊加流我懸《ナカツエニイカルガカケ》、下枝爾此米乎懸《シモツエニシメヲカケ》とあるも、古本ともには比米《ヒメ》とあり、和名抄に鴒を比米《シメ》、※[旨+鳥]を之米《シメ》と訓り、之米《シメ》其形状詳かならず、比米《ヒメ》は今俗にシユメ〔三字傍線〕と呼(フ)ものならんと狩谷望之いへり、○鳥、今本烏に誤れり、諸本皆鳥とあり、今正す、○乃作歌云々、此云々は本文を略せるをいへるにて、テヘリ〔三字傍線〕とよむべきものと同じからず、但し風土紀には此歌を載たりけむを、今略せるよしなり、○若疑云々、以下此左注をかきたる人の案なり、
 
 明日香(ノ)川原(ノ)宮(ニ)御宇天皇代 天豐財重日足姫《アメトヨタカライカシヒタラシヒメノ》天皇
 
 額田(ノ)王(ノ)歌 未詳
(37)7 金野之美草苅葺屋杼禮里之《アキノヌノミクサカリフキヤドレリシ》、兎道乃宮子能借五百磯所念《ウヂノミヤコノカリイホシオモホユ》
 
明日香(ノ)川原(ノ)宮は、古本どもに裏書を引て大和(ノ)國高市(ノ)郡丘本(ノ)宮同地也とあり、岡本宮は上に出づ、○粁天豐財重日足姫《アメトヨタカライカシヒタラシヒメノ》天皇、後の謚號は斉明天皇と申す、考に云、此天皇再の即位は飛鳥(ノ)板葢(ノ)宮にてなし給ひつ、其年の冬其宮燒しかば、同飛鳥の川原(ノ)宮へ俄に遷まし、明年の冬又岡本に宮づくりして遷ましぬ、かゝれば川原(ノ)宮には暫おはしたり、正辭云、荷田(ノ)東麿翁の僻案抄に、此川原(ノ)宮は皇極天皇の都なりといへり、猶別紀にいふべし、
額田《ヌカダノ》王は、天武紀に鏡(ノ)王(ノ)女額田(ノ)姫王と見えて、此鏡(ノ)王に女王二人ありて、姉を鏡(ノ)女王といひ、妹を額田(ノ)王といへり、此姉妹ともに天智天皇に娶れたる事、卷二に天皇と鏡(ノ)女王との贈答の歌あり、卷四に額田(ノ)王の思2近江(ノ)天皇1歌ありて、次に鏡(ノ)女王の歌もあり、これら此二女王のともに天智天皇に娶《メサ》れし證なり、さて天武天皇皇子にておはしけるほど、竊に此(ノ)額田(ノ)王をめして十市(ノ)皇女を生《ウミ》給ひ、その後も猶御心をかけさせ給ひし事は、此卷なる遊2獵蒲生野(ニ)1時の贈答の歌にてしらる、但し其御(38)歌に人嬬故爾《ヒトツマユエニ》とよみ給へるは、此をり既に天智天皇の妃となりしが故也、此二女王の事は下の歌どものうへに關《アヅ》かれること多かれば今其人がらを粗注しおくなり、猶後に詳くいふべし、考に額田(ノ)姫王と姫(ノ)字を加へて、注に集中額田(ノ)王とて擧たるは皆女歌なり、されば姫の字の落し事定かなる故に今加へつ、とあれど、玉勝間に古(ヘ)は女王をも分て某(ノ)女王とはいはず、男王と同じくたゞ某(ノ)王といへり、かくて萬葉集のころにいたりては、女王をば皆女王と記せるに、此額田(ノ)王に女(ノ)字なきは、古き物に記せりしまゝに記せるなるべし、鏡(ノ)女王は父の名とまぎるゝ故にふるくも女王と記せしなるべし、といへるはいと精しき説なり、○未詳、此は次に云ふべし、此二字古本どもに從ひて小字とす、金野乃《アキノヌノ》、金を秋に借れるは五行を四季に配する時、金を秋とすれば也、文選張景陽雜詩の李善注に、西方爲v秋(ト)而主v金(ヲ)、故秋風曰2金風(ト)1也とあり、卷十【二十六左】に白風《アキカゼ》白芽子《アキハギ》など、白(ノ)字を秋の意に借れるも白は西方秋の色なればなり、○美草《ミクサ》、玉(ノ)小琴に美草はをばな〔三字右○〕と訓べし、貞観儀式大嘗祭(ノ)條に次(ニ)黒酒十缶云々以2美草(ヲ)1飾v之、また次(ニ)倉代十輿云々飾(ルニ)以(ス)2美草(ヲ)1と見えて、延喜式にも同じくみゆ、然れば必一種の草の名なり古(ヘ)すゝきを美草と書ならへるなるべし、もし、眞《ミ》の意ならむには、式などに美草と(39)美(ノ)字を假字にかくべきよしなし、といへり、今按ふるに、大甞祭は陰暦の十一月上旬以下の事なれば、をばなはいかゞなれど、元暦本及家本昌本にはをはな〔三字右○〕とよめり、さては古(ヘ)さる訓もありしなり、また卷八卷十等には、草花とかきてをはな〔三字右○〕とよみたり、かヽればこゝもをばなとよまむもあしからじ、今姑く舊訓に從ふ、○屋杼禮里之《ヤドレリシ》は宿而有之《ヤドリテアリシ》也、宿りしといふとはいさゝか異なり、例(ヘ)ば花はちれりし花はちりし、雪はふれりし雪はふりしなどの如し、○兎道之宮子《ウヂノミヤコ》は山城の宇治《ウヂ》にて、古(ヘ)大和より近江への路次なりしかば近江へ幸の時、此所に行宮を造らせ給ひしによりて都《ミヤコ》とはいふなり、子《コ》は、訓を借(リ)たるのみ.行宮を都《ミヤコ》といひしは、卷六【十五右】に難波へ幸の時の歌に荒野等丹里者雖有大王之敷座時者京師跡成宿《アラノラニサトハアレドモオホキミノシキマストキハミヤコトナリヌ》、など猶あり、○借五百磯所念《カリイホシオモホユ》は、五百《イホ》は借字にて廬《イホ》なり、磯《シ》は其物其事を取立ていふ辞にて、其行宮のわすれがたき意をつよくきかする爲なり、但し此時の行宮は、必しも秋の野の美草を葺れしにもあらざるべけれど、その事そぎたりし風情の、なか/\にわすれがたきよしなり、考に秋野の百草を花ながら苅葺たる、かり宮に宿れりしを面白くおぼえし事の忘れがたきなり、とあるは歌の詞に泥《ナヅ》みすぎたる注也、○磯今本に熾とあるは誤字なり、元本官本類本拾本等に磯と作《アル》による、所念を舊訓に(40)ゾオモフ〔四字傍線〕とあるはわろし、集中すべて所念はオモホユ〔四字傍線〕と訓(ム)例なり、
一首の意はやむごとなき御身の、かの事そぎたりし行宮に宿らせ給ひたりしが、所がらなか/\にをかしかりしかば、そのをりのことの後までも忘られがたきよしなり、燈に此女王もと天智天皇天武天皇の御思ひ人なれば、もし此行幸の時、この二帝のうち從駕せさせ給ひ、共に御やどりましゝをりの事をおもひ給へるにや、といへり、さもあるべし、此女王と二帝の御事は猶下に次々に論ふべし、
 
 右※[てへん+](ルニ)2山(ノ)上(ノ)憶良大夫(ノ)類聚歌林(ヲ)1曰一書曰戊申年幸2比良(ノ)宮(ニ)1大御歌、但紀曰、五年春正月己卯朔辛巳、天皇至v自2紀温湯1、三月戊寅朔天皇幸2吉野宮1而肆宴焉、庚辰日天皇幸2近江之平(ノ)浦(ニ)1、
 
一書曰云々.考の別記略解ともに云、川原(ノ)宮におはせしは斉明天皇重祚元年乙卯の冬より二年丙辰の冬までにて、戊申一の年はなし、是は誤なりといへり、今按ふるに此は類聚歌林に一書の説を載たるものにてもとより異説なり、されば(41)本集に額田(ノ)王の歌とせるとは其傳(ヘ)同じからざれば、斉明天皇の御時にはかゝはらざるなり、さるを此御時に戊申の年なし、などいへるは無用の注なり、但し戊申−は孝徳天皇の大化四年にあたれば、此一書の傳(ヘ)にては孝徳天皇の御製としたるものなるべし、大御歌とあるをおもふべきなり、さて作者の名の下に未詳の二字あるは、此異説あるが故とぞおぼゆる、こは本集の撰者自からかけるか、【左注の中には撰者自からの注も有むとおぼゆる由は、次にいふべし、】または後人の加へたるなるか、いづれにしても此左注をかきたる人のしわざなるべし、○考り別記(ニ)又云、山(ノ)上(ノ)億良(ノ)大夫は古(ヘ)の物知人と聞ゆるを、此(ノ)類聚歌林は惣て誤多きを思ふに、後の好事(ノ)人憶良の名を借て※[言+爲]り書し物なり、よりて多くはとらず、されどかほどむかし人の書しかばたま/\は依るべき所も無にあらず、正辭按ふるに類聚歌林は後人の僞作せしものにはあるべからず、其は既に上文にも出せるが如く、いにしへ萬葉集とならび用ゐられたるをもてもしるべし、本集とたがへることのあるは自から傳(ヘ)の異なるにて、これをもて僞書なりとはいひがたし猶別記にも又次々にいふをも合せ考ふべし、○但紀曰五年云々、考の別記に云、此五年は後(ノ)岡本(ノ)宮におはしませば、川原(ノ)宮にかなはず、ことに三月なればこゝに秋野とあるに背(42)けり、此度の事歌に金野《アキノ》とあるをおもへば、紀に三月の幸とあるは誤れるなるべし、凡遠き幸には百官皆御供とし、經《ヘ》給ふ國々もゆすりて、大きなる御事なるを、朔日に吉野におはしまして、三日に近江への幸有べきにあらねばなり、その飛鳥(ノ)板葢(ノ)宮燒て俄に川原(ノ)宮へうつりまし、かり宮どころ故に、宮地をかた/\求ませるよし、紀にみゆ、仍て近江の穴穂(ノ)宮の舊地など見まさんとて、かの川原(ノ)宮の二年の秋に幸ありつらんとおぼゆ、然れば紀を捨て此集によるべし、紀の文は後に加へしものなるが中に、斉明天智の卷はことに誤れる事多ければ、みだりに取がたきなり、正辭云此はさるごとなり、但し紀の文は歌林を引ける人の勘文にて、唯斉明天皇の御代の行幸を紀よりぬき出して記したるまでにて、必しもこれらの時の歌なりといふにもあらねば、さのみとがむべきにもあらず、○庚辰日、この日(ノ)字衍文なるべし、然れども諸本皆あり、依て姑く舊に從ふ、さて考に紀は誤多ければ此集によるべしとあるは、いといとうべなる事にて、本集を讀解かむとする輩は必記臆しおくべきことになん、
 
 後崗本(ノ)宮(ニ)御宇(シ)、天皇(ノ)代 天豐財重日足姫《アメトヨタカライカシヒタラシヒメノ》天皇、位後即2位(ス)後崗本宮(ニ)1、
(43) 額田(ノ)王(ノ)歌
8 ※[就/火]田津爾船乘世武登月待者《ニキタツニフナノリセムトツキマテバ》、潮毛可奈比沼今者許藝乞菜《シホモカナヒヌイマハコギイデナ》、
 
後(ノ)崗本云々、考に云、右同天皇重て即位まして、二年の冬に本の舒明天皇の岡本(ノ)宮の地に宮づくりして、遷ませし故に、後(ノ)崗本宮と申せり、こは今も飛鳥の岡といふ、かの川原(ノ)宮の東北にて、共にいと近き也、○崗(ノ)字、元本官本温本類本拾本等には岡と作《アリ》、次なるも同じ、但し、崗とやうにかけるもいと古くよりの體なり、説上に見えたり○天豐云々、此十七字今本には大字にかけり、今古本どもに小字にかけるに從ふ、此類いづれも古本には小字とせり、下此に倣へ、略解に位後以下後人の筆なる上に、誤有べしといへり、今按ふるに後人の注なることは論なし、但し元本類本には即位の位(ノ)字なし、又卷二の挽歌の所にも、古本どもには讓位後即後岡本宮の八字あり、これによれば此は讓(ノ)字を脱し、卷二なるは即の下に位(ノ)字を脱したるなるべし、但し斉明天皇紀に、元年春正月壬申朔甲戌、皇祖母(ノ)尊即2天皇位於飛鳥(ノ)板蓋(ノ)宮(ニ)1とあり古注はこれをいへるなり、(44)※[就/火]田津《ニキタヅ》は、斉明紀に熟田津此云2爾枳陀豆(ト)1とあり、※[就/火]は熟の俗體なり、但し元本拾本には熟とあれど、其地の古年ども官本温本家本昌本活本いづれも今本と同じく※[就/火]とあり卷三【三十一左】に讃酒歌、酒不飲人乎※[就/火]見者《サケノマヌヒトヲヨクミバ》とありて、又此字樣を用ゐたり、また令(ノ)義解にも熟を※[就/火]とかけるところあり、故に今改めず○潮毛可奈比沼《シホモカナヒヌ》、神功紀【十六右】に有v志無v從とある從をカナフ〔三字傍線〕と訓、類聚名義抄に應(ノ)字※[立心偏+匚の中に夾](ノ)字などをカナフ〔三字傍線〕と訓り、此の可奈比沼《カナヒヌ》は此等の字の意なり、燈に月待者《ツキマタバ》は海路くらくてはたづきなければ、月出てとて御船とゝめさせ給ふ間を云、これまことは潮まちし給ひしなるべきを、月と主として、潮はかへりてかたはらのやうにいひなしたる詞づくりおもしろしといへり、此説の如し、〇今者《イマハ》は、まちまちてその時を待得たるをいふ、○許藝乞菜《コギイデナ》舊訓にコギコナ〔四字傍線〕とあるは非なり、考にはコギコソナ〔五字傍線〕とよみて、注に御船※[手偏+旁]出よと乞給ふ也とあれど、こそな〔三字右○〕といへること、外に例もなければいかゞなり、玉(ノ)小琴に田中道麻呂の説とて、乞は弖の誤にて、こぎてなにてこぎてむと云に同じといひ、燈には乞はいでといふ訓を用ゐて出《イテ》の假字ならんといへり、今燈の訓に從ふ、乞をいでとよめるは卷四【四十一左】に乞吾君《イデワキミ》卷十二【六左】に乞如何《イデイカニ》、又允恭紀に厭乞此(ニ)云2異提《イデ》などある、是也、
(45)一首の意は、熟田津より船出せんとおもふに、あやにくに海路くらくして便(リ)あしかれば、月まちてこそとおもほしけるに、月のみならず湖もみちて、船出せむによろしき時となりにたれば今は漕出むとなり、【但し左注によるときは、御製なれば歌の意も少し異なり、次に云ふべし、】考に外蕃の亂をしづめ給はんとて、七年正月筑紫へ幸のついでに、此湯(ノ)宮に御船泊給へること紀にみゆ、額田(ノ)王も御ともにて此歌はよみ給ひし也けり、さてそこより筑紫へ向ます、御船出の、暁月を待給ひしなるべL、とあるが如し、
 
 右※[てへん+僉](ルニ)2山(ノ)上(ノ)憶良大夫(ノ)類聚歌林1、曰飛鳥(ノ)岡本(ノ)宮(ニ)御宇天皇元年己丑九年丁酉十二月己巳朔壬午、天皇大后幸2宇伊豫(ノ)湯(ノ)宮(ニ)1後(ノ)岡本(ノ)宮(ニ)駁宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔壬寅、御舩西征(シテ)始(テ)就2于海路1、庚戌御舩泊(ル)2于伊豫(ノ)※[就/火]田津(ノ)石(ノ)湯(ノ)行宮(ニ)1、天皇御2覧昔日猶存之物(ヲ)1、當時忽(ニ)起2感愛之情(ヲ)1所d以因(テ)製2歌詠1爲c之哀傷(ヲ)u也、即此(ノ)歌(ハ)者天(46)皇(ノ)御製焉、但額田(ノ)王(ノ)歌(ハ)者別(ニ)有2四首1、
 
考(ノ)別紀に此元年は何の用ともなし、又舒明天皇より斉明天皇まで、元年に己丑なしといへるはいかゞ、舒明天皇元年即(チ)己丑なるをや、○考(ノ)別記及略解に、舒明紀に九年此幸なし、十年十月にあり、伊豫(ノ)風土紀に崗本(ノ)天皇並皇后二驅爲2一度1と有をこゝにはいふか、然れどもこゝは後(ノ)崗本(ノ)宮と標せれば、時代異にて用なしといへり、今按ふるに此注は例のひとむきなり、此は下文に天皇御2覧昔日猶存之物1といふ事を、舒明天皇の行幸のをりの事ならんと思ひよられたるより、其文を擧たるものなり、さるは天皇未(ダ)皇后にて坐せし時、天皇【舒明】と御同啓遊ばして、その時御覧ありし物の今も存せるによりて、感情を起し給ひての御製とせしなるべし、但し九年丁酉の下に十一年己亥の五字を脱したるならん、皇和通歴によりて推歩するに、九年十二月は辛亥の朔にて、己巳にはあらず、十一年十二月は己巳の朔なり、かくて紀には此元年と九年の行幸の事は記さゞれども、歌林は風土紀などの傳へによりて記したるものなるべし、其月日のなきは、もとより傳(ヘ)の無き故か、または脱したるにもあらん、○壬寅、元本及大須本に壬を(47)丙に作れり、地本は皆今本に同じ、○西征、今本西を而に誤る、活本家本昌本も同じ、今官本温本拾本及大須本に依て改む、元本には惡に誤れり、○考(ノ)別紀に、天皇御覧と申より下は又注にて甚誤れり、こゝに製2歌詠1といふは右の歌を指に、其歌何の處に感愛の意有とするにや、思ふにむかし天皇と御ともにおはしましし時のまゝによろづは在て、天皇のみおはしまさぬを悲しみ姶ふ御心より、昔の御船のこき來れかしとよみ給へりと思ふなるべし、こは今者《イマハ》こぎ乞《コソ》なと訓べき、乞の字の例をもしらで、こぎこなと訓誤りて、よしなき事に取なせるものぞ云々、古言をも古歌をもしらぬものゝ、憶良の名をかりて人を惑はす也といへり、今按ふるに、舊訓にこぎこなとあるはもとより非なり、こは前にいへる如く、いでなと訓べきなり、さて歌林の傳(ヘ)にては、此歌天皇の御製としたるなれば歌の意も上にいへるおもむきとはいさゝかたがへり、其は未(タ)位に即き給はざりし以前に、こゝにおはしましゝ事ありて、其時御覧じける物の今も、存せるをみそなはして、昔日の感情をおこし給へるものにて、名殘も惜く思ほしめさるれば、月待出るほどだにとおもほしめせども、今は潮もかなへるうへは是非なしと、なごりをしくおもほすよしなり、○考(ノ)別紀に云、四首別にあらば何の書とも何(48)歌ともいふべし、右にいふ如くのひが心よりは、何歌をか見誤ていふらん云々、今按ふるに即此歌者といふより下は、歌林を引ける人の詞にて、歌林の原文にはあらず、さて歌林には此歌をば御製とし、別に額田(ノ)王の歌四首ありしよしなり、さるを考に何の書ともいはずとてとがめたるは麁なり、さて又考に、此下なる味酒三輪乃山《ウマザケミワノヤマ》云々の歌をば、左注の類聚歌林によりて、大海人(ノ)皇子の御歌とせる、かく其所によりて心まかせに取捨せるはいかゞ也.おのれは類聚歌林は後人の僞作にはあらで、眞の物なるべしとおぼゆ、かくて左注は撰者の自からの注もあるを、また後人の注もまじりて、いとまぎらはし、但し後人の注と云に、また三(ツ)ばかりにわかれたりとおぼゆ、そは天暦の御時梨子壺の五人に仰せて此集をよみとかしめ給ひしに、此時必(ズ)異本などをも引合せたるべければ、それが異同などをしるすにつきて、或本の歌とて擧(ケ)たるもあるべし、但し此集撰べる頃既に典説ありて作者の一云或本云などかゝれたるがある事は勿論なれど、また後に加へたるにやとおぼゆるもなきにしもあらず、又當時日本紀などをも、かれこれ引合せたるべし、さて此時施したる訓を古點とはいふ也、其後法成寺入道關白大政大臣、大江(ノ)佐國、藤原(ノ)孝言、權中納言匡房など、此集の訓點をつけら(49)れたるよしなり、これを次點と云ふ、されば此人だちの勘文もあるべし、これよりはるか後に、仙覺此集をこれかれ勘合したりしからに、今本には此時の注なども誤りて混じたるもあるべし、されば撰者の自注より仙覺までに四度ばかりとしるべし、すべて此左注をば先哲だちのおとしめあなづりて、ものゝ數ともせざるがうれたさに、今くはしく辯へおくなり、猶次々にもいふべし、
 
 幸2于紀(ノ)温泉(ニ)1之時、額田(ノ)王之作歌
9 莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《ユフヅキノアフギテトヒシワガセコガイタヽセルガネイツカアハナム》
 
此歌仙覺が古本を集めて校合せしときまでは、訓はなかりしを、仙覺始て訓を施したるなりと彼抄にいへり、かくよみしよしは萬葉集新釋といふものに注しおきたるよしなれど、其書今は傳はらねば、いかなる意にてかくよみけむといふことは知がたし、
此歌は集中弟一の難義にて、先哲だちの説もさま/\あれど、いづれもげにとお(50)ぼゆるはなし、おのが考はもとよりなきなり、依て今唯諸の古本の文字の異同を出し、次に先哲だちの説の大意を擧げて、後人の考案に備ふ、但し近代の注家、多く此歌の文字の異同をあげつれど、余が見し古本のうち、其異同あるは、元本類本のみにて、其他官本温本家本昌本及活本拾本いづれも今本と向じくして、異同あることなし、
 元本莫作v草、謁作v湯、子(ノ)字以v朱旁書、兼作v〓以v朱旁2書兼字1、又朱書(ニ)云五(ノ)字或作v吾、○類本莫囂作2莫器1、之作v云、兄作v晃、謁作v湯、○僻案抄(ニ)云、古本莫作v奠、古葉略要集囂作v器、一本圓作v國、一本無2七(ノ)字1古本七兄作2※[七/兄](ノ)一字1、爪作v瓜、古葉略要集謁作v湯、○考(ニ)云、一本囂作v哭、古本圓作v國古葉略要、莫囂圓作2奠器國1、古本七作v云、古葉略要七作v土、爪、作v瓜、謁作v湯、一本兄爪謁作2※[凹/儿]瓜※[立+曷]1、○荒木田久老云、一本兄作v无新作v斯、
異同大かたかくのごとし、按(フ)に僻案抄に古葉略要集といひ、考に古葉略要といふものは、ともに古葉略類聚抄を指せるなるべし、会が類本と稱するもの是也、さて僻案抄にいへる異同は類本と合へるを、考にいへる異同はこれと合はず、こは何ぞの誤なるべし、江田世恭が古葉略類聚抄の序にも、賀茂の眞淵が作れる萬葉考の中にぞ、始て此抄を引て古葉略要といへり、されど題號もたがひ抄のやういひ(51)たるにもたがへる事あれば、したしく此集を見たるにはあらで、おしはかりごとにいひたるやうなり、といへり、さもあるべし、但し此書は僻案抄に引たるを始とす、考を以て始といへるは非なり、かくて先哲の注一二を左に出す、
代匠紀(ニ)云、莫囂は、無v喧なり、夕にいたれば、靜なれば、義を以て莫囂を夕《ユフ》とす、圓隣は十五夜に對していへり、圓月に隣るなり、源氏に五六日の夕月夜ともいひたれど今は十日餘なるべし、莫囂は圓隣を待て夕とよまれ、圓隣は莫囂によりて月とよまる、引分ては共によまるべからず、大相七兄爪謁氣、この謁(ノ)字は靄なるべし、靄は雲(ノ)状と注したれば、此句をおほひなせそくもと訓べし、五可新何本はいつかしがもとゝ訓べし、惣じては
 莫囂圓隣之大相七兄爪靄氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《ユフツキノオホヒナセソクモワカセコガイタヽセリケムイツカシガモト》
かくよむべきか、第十一に遠妻《トホヅマ》のふりさけ見つゝ偲《シノブ》らむ此月の面に雲な棚引、此意にや、いたゝせりけむは、立て我を望て待也、いつかしがもと、しがは己《シ》がなり、然れば月夜に立て我方を見望むらん妹が許に、いつか歸り到らむとなり、又今本の訓につきて云、我せこは妻をさして云、御供に出立時いつの比か歸りなむやと、我を夕月をあふぎ見る如く思ひて問し妹ホ、今は歸べき比とて立待らむに、いつか(52)歸て相見なむと也、但し契沖師は額田(ノ)王を男王とおもひての解なり、
考には
 莫囂圓隣之大相古兄※[氏/一]湯氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《キノクニノヤマコエテユケワカセコガイタヽセリケムイツカシガモト》
かく訓て注に、圓古本に國とあり、神武紀に今の大和(ノ)國を内つ國といひつ、さて其
トツクニハナホサヤゲリトイヘドモウチツクニハヤ
内つ園をこヽには囂《サヤギ》なき国と書たり、同紀に雖2邊土未v清餘妖尚梗《トツクニハナホサヤゲリトイヘドモ》1、而|中洲之地無2復風塵《ウチツクニハヤスラケシ》1てふと同意なり、かくてその隣とは、此度は、紀伊(ノ)國をさす也、然れば莫囂國隣之の五字は、紀のくにのと訓べし、次下に三輪山の事を綜麻形と書なせしなど、相似たるをも思ふべし、大相《ヤマ》は山也、七兄爪謁は七は古、爪は※[氏/一]の誤、謁は古葉畧要に湯とあるに依る、さて古兄※[氏/一]湯氣《コエテユケ》は越てゆけ也、吾瀬子之《ワガセコガ》は大海人《オホアマノ》皇子(ノ)命か、又何れにても此姫王の崇み親み給ふ君の、前《サキ》に此山路を徃ませし事あるを思ひ給ふなるべし、射立爲兼《イタヽセリケム》は射は發語、たゝせりは立しの敬語、けむは過にし事をいふ辞、五可新何本《イツカシガモト》は五は借字|嚴《イヅ》にて嚴橿之本《イヅカシカモト》也、神の坐《マス》この山路の齋橿《イヅカシ》の木の下に、前つ時吾背子の立給ひし事を聞傳へて、かくよみ給へるなり、此は荷田(ノ)大人のひめ歌也、彼此訓をなして、荷田の家に問に全く古大人の訓に均しといひおこせたり、
 正辭云、荷田(ノ)大人の僻案抄には、此訓はなし、但し彼抄に此歌の訓に三の考あり(53)とて、其内二説はあげたれど、一は出さず、さては此考の訓、則その一訓のかたなるにや、但し其二訓はいと強たる説にて、取用ゐるべきものならねば、今は省きて出さず、
本居宣長玉勝間卷七に
 莫囂圓隣之霜木兄※[氏/一]湯氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《カマヤマノシモキエテユケワカセコガイタヽスカネイツカシガモト》
とありて注に、莫囂はかまと訓べし、古へに人のもの云を制してあなかまと云(ヘ)るをそのあなを省きてかまとのみもいひつらむ、そは今(ノ)世の俗言にも、囂《カマビス》しきを制してやかましといふと同じ、やかましは、囂《カマビス》しと云ことなれば、かまといひて莫《ナカレ》v囂《カマビスシキコト》と云意なり、かま山は紀伊(ノ)國の竈山《カマヤマ》なり、國隣はやまと訓べし、山は隣の國の堺なるものなればかくも書べし、圓一本に國とあるに依る、大相は霜の一字の誤れるなり、此幸ハ十月より十一月までおはしつれば、霜の深くおくころなり、七は木、爪は※[氏/一]の誤り、謁は一本に湯とあるに依る、木兄※[氏/一]湯氣はきえてゆけ也、吾瀬子《ワガセコ》とは天智天皇をさす、此時太子にて供奉し給へる趣書紀に見えたり、額田(ノ)王は天智天皇の娶《メシ》たりしなり、爲兼はすがねと訓べし、此度いづかしが本に立給ふべき事をよみ給へるなり、然るをせりけむと訓ては、往時のことなれば物とほし、五可新何(54)本《イツカシガモト》は、竈山(ノ)神社の嚴橿之本《イヅカシカモト》也、此歌は此女王か太子に従奉りて行給へるにて、太子の竈山(ノ)神牡に詣給はむとする朝など、霜の深くおけるにつきてよみ給へるさまにて、一首の意は、かくては竈山に霜ふかくて、いづかしが本は立給ひがたかるべければ、吾兄子がわづらひなく立給ふべきために、しばし霜の消むをまちてゆけかしと也、
荒木田久考の信濃漫録に、
 莫囂圓隣之大相土无靄氣吾瀬子之射立爲兼五可期何本《カクヤマノクニミサヤケミワガセコガイタヽスカネイツカアハナモ》
かく訓て注云、囂《カマビスシキ》ことなきは耳なし也、圓は山の形にて莫囂圓は耳無山也、これに隣れJは香真山なれば、盛莫囂圓隣之はかぐやまのと訓べし大相土は大に相《ミル》v土(ヲ)は國見なるべし、兄爪謁気の兄は一本无に爲《ツク》り瓜謁は靄の一字の誤れるにて、无2靄氣1はさやけきなれば、第二句をば、くにみさやけみと訓べき也、弟三句は舊訓、第四句は宣長の訓に從ひて、いたゝすかねとよむべし、第五句は一本に.新を斯に爲《ツク》れり、斯は期の誤にて、五可期河本はいつかあはなもと訓べし、中(ノ)大兄(ノ)命の、かぐ山の國見のさやけきをおもしろみあそびおはして、紀の行幸に追及《オヒシキ》ます事のおくれ給ひなば、いつしかはあはむと、夫(ノ)君を戀しぬび給ひて、よみませるなるべし、
(55) 此他の説もあれどさのみはとてもらしつ、且右の説どもゝいづれもげにもとみゆるはなくて、いかにぞやおぼゆるのみなれど、姑く後の考案に出しおくなり、但し代匠紀に額田(ノ)王を男王とおもひたるは非なり、こは考に鏡(ノ)王の女なりといへるに從ふべし、さて鈴屋又久老はともに吾瀬子《ワガセコ》とは中(チ)大兄(ノ)命を指といひたれど、考に大海人(ノ)皇子か云々とあるによるべし、そは官本また僻案抄に引ける古本に、此歌の端詞の側に朱にて、奉2天武天皇1歌也と書せり、又諸の古本どもに、額田(ノ)王の側に朱にて、天武天皇夫人也、十市女王(ノ)母額田姫王是歟と書せり、これ古き傳なるべくおぼゆればなり、
 
 中皇(ノ)命往2于紀伊(ノ)温泉1之時(ノ)御歌
10 君之齒母吾代毛所知哉磐代乃《キミガヨモワガヨモシラムイハシロノ》、岡之草根乎去來結手名《ヲカノクサネヲイザムスビテナ》、
 
中皇命、こは間人《ハシビトノ》皇后なる事上にいひたるが如し、さて皇后皇女などに命と尊稱したるは集中外にはみえず、此皇女に限りて命の字と用ゐたるは、何ぞの故よしあることなる吋し、但しこヽは孝徳天皇崩まして後のことなれば、大后とは申す(56)べくもあらず、また皇太后なども申すべきことならねば、やむを得ず、命の字をそへて尊めるものともいふべけれど、上なるは舒明天皇の御代のほどにて、いまだ皇后に立給はざるほどなればいといぶかし、按ふに上なるは皇后に立給ひたりし後に、先の御歌を聞たる人の書し傳へたるものによりて、其まゝに此集にはとり入たるものなるべし、さるたぐひ集中にをり/\あり、其は此には御歌と御(ノ)字あるを上なるは歌とのみありて御の字の無きもさる故にもやあらん、【御の字の事は、上にもいへる一説あり、合考ふべし、】
君之齒母《キミガヨモ》は、齒は齡(ノ)字の意にてよはひをいふ、考云、次に吾勢子とよみ給ふは、御兄中大兄(ノ)命にいさなはれてやおはしけん、さらば此君はかの命をさし給ふべし、〇所知哉《シラム》は舊訓にはシレヤ〔三字傍線〕とあれど略解に宣長は哉は武の誤にて、しらむと訓べしといへり、とあり、げにしれやにては、下(ノ)句のうちあひよからねば、しらむと訓むべきなり、君が齡もわが齡もしらむ磐とつゞけて心得べし、磐《イハ》はとこしなへなるものなるから、君が齡も吾が齡も知らむといふ意なり、磐代は紀伊國日高(ノ)郡の地名なり、但し哉の字諸古本皆哉とありて、武とかける本はなし、且集中哉をむ〔右○〕に借用ゐたること外にもあれば、もとのまゝにてしらむと訓べきにや、其は此卷の(57)下に大宮都加倍安禮衝哉《オホミヤヅカヘアレツガム》、卷四【十四右】に、雖見不能飽有哉《ミレドアカザラム》、卷十【十九左】長歌に鳴渡良哉《ナキワタルラム》同卷【三十八左】に雲隱良哉《クモガクルラム》、など是也、しかるをこれ等の哉を皆武の誤なりといへるは麁忽なり、古本どもいづれも哉とありて武とかけるものあることなし、さて哉をむ〔右○〕とも訓へきよしは古今韻會に柳元宗曰、哉(ハ)疑辭也とありて、本集卷十二【四十一左】に、君之行疑宿可借疑《キミガユクラムヤトカカルラム》と疑をらん〔二字傍線〕に借れるを合せ見て暁るべし、精しくは萬葉集馴義辯證に出しおきおれば、往見すべし、○草根の根は、岩を岩根などいふと同じく添へていふ辭也、〇去來結手名《イザムスビテナ》は、いざはさそふ詞、もろともに草を結ばむとの意なり、てな〔二字右○〕はてん〔二字右○〕といふに似て少し異なる辭なり、上女の家吉閑《イヘキカナ》の注にくはし、古(ヘ)の俗、木草などを結びて齡を誓ひしなり、卷二【二十二右】に磐白乃濱松之枝乎引結《イハシロノハママツガエヲヒキムスビ》、眞幸有者亦還見武《マサキクアラバマタカヘリミム》、などもあり、かくていざといふ詞に去來の字を用ゐたるは、集中にいと多く、また日本書紀卷十二に、去來此(ニ)云2伊弉《イサ》1とあり、今按ふるに天台三大郎補注卷八に、今北地(ノ)人相召(ヲ)多(ク)云2去來(ト)1といへり、故に皇國にてイザ〔二字傍線〕といふ言に此二字を用ゐ來れるなり、こは唐人の俗語ななべし、【但し補注は宋(ノ)沙門從義の著せるものなれど、彼國にて猶古くよりいひ來りしことなるべし、】
一首の意は磐はとこしへなるものなるから、君がよはひも吾齡もしるらむ、その(58)磐と名におへる、此處の草を、ともに結びて、齡の長からんことを誓ひてなとなり、
 
11 吾勢子波借廬作良須草無者《ワガセコハカリホツクラスカヤナクバ》、小松下乃草乎苅核《コマツガシタノクサヲカラサネ》、
 
吾勢子《ワガセコ》は、上にいふが如くならば御兄中大兄(ノ)命を指せるなり、○作良須《ツクラス》は敬語にて、作らせらるゝといふ意なり、上文|菜摘須兒《ナツマスコ》の注にいへるが如し、○草無者《カヤナクハ》、草の字舊訓に、下なるはくさ〔二字右○〕と訓、こゝはかや〔二字右○〕とよめるいとよし、草をかやといふは、屋を茸《フク》ときの稱にて、今も假廬を作る料の草なればかやとよめるなり、神代紀に草祖草野姫《クサノオヤカヤノヒメ》とあるは精しきよみざまなり、上の草は實物にてクサ〔二字傍線〕とよみ、神の御名はそれが用をもてカヤ〔二字傍線〕とよめる也、○小松下乃《コマツガシタノ》、友人間宮永好の説に、考、略解、などに小《チヒサ》き松のおもむきにとけるはいかゞ、小は美稱にて、たゞ松といふことなり、そは集中にいと年ふりたらんとおぼゆるものを、小松といひたるがこれかれあればなり、卷四に君にこひいたもすへなみなら山の、小松か下にたちなげきつゝ【木の下に立ずまるゝばかりの松ならんには、小き木にはあらざるべし、】卷十五に、わがいのちながとの島の小松原、いくよをへてかかみさびわたる、【いくよをへけんとおもふばかりの松ならんには、小き木にはあらさるべし】とあるを見べし、といへり、さる事なり、○苅核《カラサネ》、核は借字なり、此詞のことは上文|名告沙根《ナノラサネ》の注の別(59)紀に精し、一首の意はかり廬《イホ》に葺《フク》べき草をもとめかねなば、かの松の下にみゆる草を苅給へとなり、古へは旅ゆくには、其所々に假庵作りて、宿りしが故なり、
 
12 吾欲師之野島波見世追底深伎阿胡根能浦乃珠曾不拾《ワガホリシヌジマハミシヲソコフカキアコネノウラノタマゾヒロハヌ》
 
吾欲之《ワガホリシ》は、かねて見まくほりしなり、○野島《ヌジマ》は玉勝間に紀伊(ノ)國日高(ノ)郡鹽屋の浦の南に野島の里あり、その海べをあこねの浦といひて、貝のよく集る所也云々、といへり、今按(フ)に此歌のおもむきにてはいと名高き所ならでは叶はず、されば猶淡路の野島なるべし、難波の浦又は住吉の浦あたりよりは、たゞむかひにみゆれば、此時御船にて此あたりを見そなはしたりしなるべし、○見世追、舊訓にミセツ〔三字傍線〕とあれど、初句とうちあはず、按(フ)に追は遠の誤にて、世はシ〔右○〕の音のかたを用ぬたるにや、太田方の漢呉音圖に據るに、世は漢(ノ)原音セイ〔二字傍線〕次音シ〔右○〕なり、此字古(ヘ)シ〔右○〕の音にも用ぬたりし證は、新撰字鏡に※[魚+良]【世比】とあり、此はシビ〔二字傍線〕にて和名抄に鮪【之比】とあるもの是なり、字鏡に又信鞠【止比奈世留】とあるは、神代紀に詰問をナジリテトヒタマヒキと訓、靈異紀(ノ)下に詰見【トヒナシリ】とあれば世はシ〔傍線〕の音を用ゐたることしるし、されば今も此音を(60)用ゐたりとせんか、考には或本の歌によりて改めたれど、或本はもとより別傳なれば、これによりて本文を改むるは妄りなり、○阿胡根能浦《アコネノウラ》、所在上にいへり、底深《ソコフカ》きといふに其處の清く鮮《アザヤ》かなる意をおもはせたるなり、○珠曾不拾《タマゾヒロハヌ》とは、此浦に遊ばざりしを殘りをしくおぼすよしなり、底深きといひて、海の清く鮮かなる意をきかせ、其あたりの景色のよきよしをおもはせ、珠曾不拾といひて、其所に行遊ばざりし恨みむきかせたるおもむき.殊に勝れたる御歌になん、燈にこの浦の底深くて珠のひろはれぬが心ゆかぬよと、あく事しらぬ御心とみづからなげき給ひし也、とあるは詞になづみたるひがことなり、○拾、今本捨に誤れり、諸本皆拾と作《アル》なり、
一首の意は、かねて見まくほりし野島は見しを、かの清くさやけきき所なりときゝおよびたりし、あこねの浦にあそばざりしは、殘りをしき事よとなり、
 
 或頭云、吾欲子島羽見遠《ワガホリシコシマハミシヲ》
右檢(ルニ)2山(ノ)上(ノ)憶良(ノ)大夫(ノ)類聚歌林(ヲ)1曰、天皇御製云々、
 
元本類本には頭の字なし、卷十二【十三左】に或本頭云云々ともあり、○子島《コシマ》、所在詳(61)かならず、舊訓にわがほりししまはみつるを、とあるはわろし、さて歌林の傳へにては天皇の御製とあるよしなり、但し此末の一首のみの事ならん、しかるを燈に左注にしたかはば、盤代の歌吾勢子波の兩首ともに御供の人々の勞をあはれみたる大御歌なりと見るべし、といへるは非なり、
 
 中大兄《ナカチオヒネ》 近江(ノ)宮(ノ)御宇天皇 三山(ノ)歌一首
13 高山波雲根火雄《カグヤマハウネビヲ》、男志等《ヲシト》、耳梨與相諍競伎《ミヽナシトアヒアラソヒキ》、神代從如此爾有良之《カミヨヨリカクナルラシ》、古昔母然爾有許曾《イニシヘモシカナレコソ》、虚蝉毛嬬乎相格良思吉《ウツセミモツマヲアラソフラシキ》
 
中大兄は天智天皇なり、考、燈、等には中大兄(ノ)命と命(ノ)字を補ひたれど、諸本命(ノ)字なければ、今舊に從ふ、もと此歌を書とめたりしものになかりしかば、撰者其まゝにしるしたるなるべし、今紀中の例を按ふるに、勾(ノ)大兄【安閑】古人(ノ)大兄又中大兄【天智】など書して、皇子または王などゝかけるさへいとまれなり、【中大兄命とあるは孝徳紀の首に一所あるのみなり、但しこは輕(ノ)皇子の御言の文にて輕(ノ)皇子の殊さらに敬ひ給へる御言なり、此ひとつゞきの文中に中大兄の御名のいと多かるを、いづれも中大兄とのみあるをもてことさらに敬ひ給ひたる卸言なるを知べし、】信友の説に、大兄はいにしへ皇子たちの中にて、品別《シナゴト》にゆゑづけて、愛寵《メデイツクシミ》(62)てかしづき給ふを申す名稱《ミナ》なりしなるべし、紀中以2某(ノ)大兄(ヲ)1爲2天皇1以2某(ノ)大兄1爲2皇太子1などあるところには、ことさらに皇子王など申す崇辞なきは、大兄と稱《マヲ》すが品《シナ》別《コト》なる御名稱なれば、其もとよりの品を顯さむが爲に、意しらびせる書法なるべし、といへり、又云中大兄はナカチオヒネ〔六字傍線〕と訓べし、大兄の訓はオホヒネ〔四字傍線〕なるを、紀中オホネ〔三字傍線〕又はオヒネ〔三字傍線〕1と訓りオホ〔二字傍線〕は大の義、ヒネ〔二字傍線〕はもと物の年經て成とゝのひたるさまをいふ言にて、今の世にもいふ言なり、舊き節用集に老成をヒネ〔二字傍線〕と注し、恠松古松をヒネマツ〔四字傍線〕と訓り云々、此老成の字を當たるは大かたかなひて、年のほどよりも長《オトナ》しき意ばえなるべし、さて中は紀中他所に多くナカチ〔三字傍線〕とよめるによるべし、【以上ながらの山風採要】今此説に從ふ、○近江云云の七守、今本に大書にせるは非也、古本にはいづれも小字にかけり、後人の注なり、今諸古本に從ふ、〇三山は香山畝火耳梨なり、此は播磨風土紀に載せたる古事によりて詠出給ひしなり、風土記の文は下に出す、考にこはかの三山を見ましてよみ給へるにあらず、播磨(ノ)國印南(ノ)郡に徃ましゝ時、そこの神集《カヅメ》てふ所につけて、古事のありしを聞してよみ給へるなりとあり、【正辭云神集は今本の他覺抄の誤のままにしるしたるなり、これによりて畧解燈などには今も神詰《カムツメ》といふ所ありとぞといへれど、いかゞあらん、風土記の文は神阜《カミヲカ》也猶次の反歌の所にいふべし、】また香具山と耳梨山とは十市(ノ)郡に屬し、畝火山は高市(ノ)郡に屬せり、畝火(63)は西南のかたにあたりて、山の尾いと長く左右に引はへたり、耳梨は北のかたにあり、香山は南東のかたにありて、いづれもやゝ同しほどの山にて、各今の道一里ばかりづゝへだゝりて、相向ひ鼎の如くに峙《ソバ》立り、藤原の宮所は、此三山の間にて香山のかたによれる所にありしなるべし、といへり、おのれいにし年こゝにものして、其地勢を見しに、四方にうちつゞきたる山々は多かるものから、此あたりはいと平原の地にして、獨りだちたる山は、此三山の外は見えず、たとへばいと廣き庭中に造り立たる假山《ツキヤマ》の如し、此故に古人の殊に此山々を愛賞《メデハヤ》したるにこそあらめ、○一首の二字、元本にはなし、此卷はすべて歌數をば記さぬ例なれば、是然るべし、
高山波《カグヤマハ》、代匠紀に云、香山《カグヤマ》を高山と書は、神代より他山に異なれば義を以てかけり、考には香山に改作して、注に、今本に高山と有は誤也、香山は外の二山より低ければ、高山と書べからずといひ、また燈には加具山は大和(ノ)國にての高山なれば、その心を得てかけるにこそ、といへり、いづれもとるにたらぬ説どもなり、さて略解には高は香の誤かともおもへど、高も音もてかぐ〔二字右○〕とよむべければ、暫今本によるべし、といへり、こはさることなれど、高の音のカグ〔二字右○〕となるよしをいはざれば、(64)詮なし、但し此初句古訓にはタカヤマ〔四字傍線〕とありしを仙覺カグヤマ〔四字傍線〕と訓改めたるなり、其は仙覺抄に高山はカグヤマ〔四字傍線〕と和スヘシウ〔右○〕トク〔右○〕トハ同韻相通ナリ、サレバ高麗ヲ彼國人ハカクリ〔三字傍線〕トイフ、香山トカキテモカグヤマ〔四字傍線〕ト讀、同コト也、【版本の仙覺抄には、たとかと同韻相通也、云々とあり、誤なり、今古本によりて引、】とある是也、今按ふるに此説いとよし、されど香山をかぐ山とよむと同(シ)ことと也とあるは、いさゝかあかず、香は韻鏡弟三十一轉陽韻所屬の字にて、三内の方にては喉内聲なれば、カグ〔二字傍線〕と訓むは論なし同轉の當《タウ》(ノ)字|宕《タウノ》字など古書にタギ〔二字傍線〕に相をサガ〔二字傍線〕に借れるなど同例なり、しかるに高は第二十五轉豪韻所屬の字にて、唇内聲なれば此カウ〔二字傍線〕のウ〔右○〕は和行に轉ずべきにて【三内の方にては、ハマワ脣なれは也、】加行ヘは轉ぜぬ例なれども、高〔右○〕(ノ)字第三十二轉の郭〔右○〕と通することあるを見れば、古(ヘ)カク〔二字傍線〕の音もありしなり、そは漢呉音圖の撰者太田方の著せる音徴不盡に云、高、漢(ノ)轉音、加久、墨子所染篇、晋文染2於舅犯高※[人偏+區]1、愚按、高※[人偏+區]即郭※[人偏+區]也、とある是なり、精しくは別記にいふ、○雲根火雄《ウネビヲ》、男志等《ヲシト》は、うねびを【句】をしとと訓べし、をしは愛《ヲシ》の字の意なり、書紀允恭紀に、新羅(ノ)人恒(ニ)愛《ヲシム》2京城(ノ)傍(ノ)耳成山畝傍山(ヲ)1、欽明紀に汝命(ト)與v婦孰(レカ)尤《ハナハダ》愛《ヲシキ》、孝徳紀に、大臣謂2長子興志(ニ)1曰、汝|愛《ヲシム》v身《ミ》乎、などあり、しかるを仙覺抄にうねび【句】をゝしとゝ訓て、注にかく山は女山也畝火山と耳梨山とは男山也云々、とあるによ(65)りて、諸注いづれもをヽしとよみて、雄壯の義としたるは誤なり、こははやく吉備(ノ)國人木(ノ)下幸文の亮々草紙といふものに論らひたることにて、其説に云、代匠記の説、第一の句かぐ山をばと心得べし、うねびの雄々しき山と耳梨山と各我得むとあらかふ也、とありて、考、略解ともにこれにしたがへり、今考るに高山波《カグヤマハ》とあるを、かぐ山をばと云意にみん事は強たる事也、又雄々しといふことを下につけて、うねびをゝしといひては足《タラ》はず、語を成ざる也、よりて思ふにこは雄々しの義にはあらで、雲根火を愛《ヲシ》との意也、さて雲根火を女山として、かぐ山と耳梨山の二男山いどめる意とすれば、いとやすらか也、さる時は反歌の高山與耳梨山與相之時といふも.諸抄の如く男女の逢事にはあらで二(ツ)の男山の諍ひて相向ひ戰ふ事をいへる也、さてこそ出雲(ノ)國の阿菩(ノ)大神諍ひを諫めむとおぼして此處まで出ませりとある播磨風土紀の趣にもいとよくかなひたれ云々、此説に從ふべし、○相諍競伎《アヒアラソヒキ》の伎は前にありし事のさまをかたる辭なり、○神代從如此爾有良之《カミヨヨリカクニアルラシ》、舊訓にはカクニアルラシとあれど、ニア〔二字右○〕の急言ナ〔右○〕なれば、かくなるらしと訓(ム)べし次のなれこそのなれもおなじ、らしはその事の大かたに察し知らるゝをいふ辭なり、〇古昔母《イニシヘモ》、此母は下の虚蝉毛《ウツセミモ》の毛に對へたるなり、○然爾有許曾《シカナレコソ》は、なれ婆《バ》こその婆《バ》を(66)省ける古言の一格なり、然《シカ》は俗にソウ〔二字傍線〕といふ意也、○虚蝉毛《ウツセミモ》は、現身《ウツセミ》もにて現存の身といふ意なり、妻あらそひは神代よりしてありしことなれば、今の世にある人のあらそふはさることなりと也、○相格良思吉《アラソフラシキ》、舊訓にアヒウツラシキとあるは非なり、卷二【三十四左】に相競《アラソフ》、卷十【十右】に相爭《アラソヒ》などあるによりて、こゝも爭挌の二字にてあらそふと訓べし、格の字は卷十六【六右】に有2二壮士1共(ニ)挑(テ)2此娘(ヲ)1而損v生(ヲ)挌競《アラソヒ》ともあるなり、らしきは里言にラシイ〔三字傍線〕と云意、こゝは下にいふ如くなれば御自からの上の事なれど、わざと他《ヒト》のうへのことのやうにいひなしたるものなり、さるは世に憚らせ給ふ御意しらびにこそ、らしきといひたる語例は、書紀推古紀の歌に於朋枳彌能兎伽破須羅志枳《オホキミノツカハスラシキ》、卷六【四十七右】に偲家良思吉《シヌビケラシキ》、などある是也、○さて畝火を女山とするにつきては、安寧天皇の御陵を日本書紀に記して、畝傍山乃南(ノ)御陰《ミホトノ》井(ノ)上(ノ)陵といひ、古事記にも御陵(ハ)在2畝火之|美富登《ミホトニ》1也とあるをもて、此山の女山なりといふ證とすべし、但し記傳卷五に、記中の例を考(ル)に、富登《ホト》とは皆女に云(ヘ)れば、男陰にはわたらぬ名にやあらむ、但し下に迦具士《カグヅチノ》神に陰とあるも富登《ホト》と訓べければ、男にもわたるか、さだかならず、和名抄には、陰(ハ)玉莖玉門等之通稱也、と有て和名は載ず云々|小腹《ホガミ》は富登上《ホトカミ》の意かといへり、此説に據るに男陰をも富登《ホト》といふべければこれをも(67)て女山の證とはしがたきが如し、此は人々の常に心得ぬことなれば、今いさゝかおどろかし置也、されど歌のうへにて、女山なることは決《ウツ》なし、○燈に今思ふに此集中に額田(ノ)王思2近江天皇1といふ歌あり、また此卷に額田(ノ)王の茜指武良前野逝《アカネサスムラサキノユキ》云云といふ歌、皇太子答(ル)御歌【天武天皇なり、】とて紫草能爾保敝類妹乎《ムラサキノニホヘルイモヲ》云々と贈答あり、これによるに額田(ノ)王は天智天皇の御思ひ人にて、つひに天武天皇の夫人となり給ひし也、天智天皇天武天皇は御はらからにて、この王をともによばひ給ひしなり、それをば三山のあらをひにおもひよせられ給ひしとぞおぼゆる、さればかねて天武天皇と額田(ノ)王をいどませ給ひて、御兄にさへましませば、いたく心ぐるしくおもほしめして、おもひなやませ給ひける頃、播磨にてかの三山のあらをひをおぼし出られけるより、これをもて御詞つくりし給ひ、たゞ大かたの世人の妻あらそひのうへによみふせ給ひし也、といへり、此説の如し、
一篇の大意は、古へ女山ひとつを二(ツ)の男山のあらをひしといふことあるをおもへば、神代よりしてかゝるためしはありしなり、いにしへもさるごとのあればこそ今の現に一人の女をしも二人してかたみにいどみあらそふこともあらめ、と他《ヒト》ごとのやうによみなし給へる也、但しかの三山の故事によりて、其御意の鬱結(68)をはるけ給ひしなり、
 
 反歌
14 高山與耳梨山與相之時《カグヤマトミヽナシヤマトアヒシトキ》、立見爾來之伊奈美國浪良《タチテミニコシイナミクニバラ》
 
播磨風土記に云、出雲(ノ)國|阿菩《アボノ》大神、聞2大倭(ノ)國執火香山耳梨(ノ)三山相(ト)1、此(レヲ)欲2諫止(ント)1上(リ)來之時、到2於此處1乃聞2闘止(ヌト)1覆(テ)2其所v乘之船1而坐v之(ニ)、故号2神|阜《ヲカト》1阜(ノ)形似v覆(ニ)【此文板本の仙覺抄に 誤あるを、諸注その誤のまゝを引たれば文義通せず、今古本の他覺抄及本書によりて訂正す、按(フ)に覆の下に船の字ありしが、今本には脱したるなるべし、萬葉考に、風土紀の文の神阜を神集と板本の仙覺抄の誤のまゝにしるして、注に今もはりまの鹿子川の西に神詰《カミヅメ》てふ里あり、こゝをいふか、といへるは非なり、彼國人關口久宣云、さる里の名ある事なし、按ふに神阜は今の揖東郡大住寺村の北に丘陵あり此邊古くより神岡といひて、今猶しか呼べり.是なるべしといへり、】此古事を聞してよみ給ひしなり、○相之時《アヒシトキ》、諸注これを男女の逢ひし事とおもひて、畝火と耳梨は男山にて、高山は女山なりと注したるは、非なり、相《アフ》とは上に出せる木(ノ)下幸文の説の如く、相向ひ戰ふ事にて、其證は神功皇后紀の歌に宇摩比等波宇摩臂苔奴知野《ウマビトハウマビトドチヤ》、伊徒姑幡茂伊徒姑奴池《イヅコハモイヅコドチ》、伊弉阿波那和例波《イザアハナワレハ》、とあり、宇摩比等《》ウマビトは貴人、伊徒姑《イヅコ》は賤就子《イヤツコ》にて賤人をいふ、奴地《ドチ》は共《ドチ》にて貴人は貴人|共《ドチ》、賤人は賤人|共《ドチ》也、阿波那《アハナ》は相闘の意にて、此の相之時《アヒシトキ》の相《アヒ》是也、戰《タヽカヒ》また敵合《ウチアヒ》などのあひも同言なり、されば相之時は、二山の闘《タヽカヒ》し時と(69)いふ意なり、○立見爾來之《タチテミニコシ》は阿菩(ノ)大神の出雲を發《タチ》てなり、此山の闘を諌止むとて、出雲を發《タチ》てといふ意なり、さて諌めむとて來しといふ意なるを、見爾來之《ミニコシ》といとおほらかにしてこち/”\しからざるは、古人の詞づかひの勝れたるところなり、○伊奈美國波良《イミクニバラ》は、播磨の印南《イナミノ》郡をいふ、古は初瀬(ノ)國吉野(ノ)國など一郡一郷をも國といへるは常のことなり、原とは廣く平かなる所をいふ、今播磨風土記を檢ふるに、阿菩(ノ)大神の止まり給ひし神阜《カミヲカ》は、揖保(ノ)郡に属して印南(ノ)郡にはあらざれども、こゝはたゞおほよそによみ出給ひしものなるべし、
一首の意は、高山と耳梨山と相闘し時、阿菩(ノ)大神の其を諌め止めむとて、出雲を發《タチ》ておはせしが、此所に到れる比、闘ひ止ぬときゝて、やがてとゞまらせ給ひし印南の國は此所《コヽ》なりと也、額田(ノ)王と鏡(ノ)女王との事は、本居宣長先生の玉勝間卷七、伴(ノ)信友のながらの山風、さては嚶々筆話に載たる加納諸平の説等に詳かなり、但し其説互によきとあしきとうちまじりて、一かたにのみは.よりがたければ、今かれこれ相交へ考へて、其よしとおもへるところ/\をとりて、しるしつくるになん、額田(ノ)王ははじめ大海人《オホアマノ》皇子【天武】に竊にめされて十市《トホチノ》皇女を生奉りしが、其後|中大兄《ナカチオヒネノ》皇子【天智】に婚《メ》され、御位(70)に即かせ給へる後も妃にて御世の涯《カギ》り仕(ヘ)奉り、天智天皇崩じ給ひ、ほどなく壬申の乱起りて、大友(ノ)皇子自盡し給ひ、大海人(ノ)皇子御世知しめしけるをり、更にめされて仕(ヘ)奉り給へり、是より先既に娶《メ》して生給ひし十市(ノ)皇女は大友(ノ)皇子の妃となりて、葛野(ノ)王を生《ウミ》ひたりき、
今此事のありしやうを推量り考ふるに、はじめ額田(ノ)王の大海人(ノ)皇子にめされたる事をば、中大兄(ノ)皇子も竊に知しめしたりけむをいかなるよしにか、此姫王に御|情《コヽロ》をかけさせ給ひたるに、姫王また此皇子にも從ひ拳りき、大海人(ノ)皇子もうけばりたる御中にしもあらざるがうへに、中大兄(ノ)皇子は御兄と申し太子にてさへおはしつれば、知らず顔つくりておはしつゝも、いかにねたましくやおもはしたりけむ、しかありけるほどに、御兄弟の御中とりもつ人など出來て、顯《アラハ》に妃の列《ツラ》にはなし給ひしならん、かくてよろづ事解(ケ)て大海人(ノ)皇子と姫王との御中に往《サキ》にいでき給へる、十市(ノ)皇女をば大友(ノ)皇子の妃とせさせ給ひしなるべし、さるは御弟の皇子の御心をとり給ひ、はた姫王のねぎ言などもありしことにやあらん、かくて齊明天皇崩坐まし、中大兄(ノ)皇子御代を繼ぎ給ひて、大海人(ノ)皇子を皇太子に立て給へり、其後蒲生野の御獵に、皇太子及び妃の姫王も御供にておはしけるおり、紫野云々(71)の歌をよみかはし給ひたるをおもへば、猶皇太子【天武】と御|情《コヽロ》をかよはしたまひたりしなり、かくて天智天皇御病おもらせ給ひしとき、大海人(ノ)皇子は太子を辭して吉野に人らせ給ひしかば、大友(ノ)皇子をもて皇太子に立て給ひたりき、ほどなく天皇崩じ給ひ、皇太子【大友】御世を受嗣せ給ひしが、壬申の亂に自盡したまひ、大海人(ノ)皇子御世をば知しめしたり、是に於て額田(ノ)王を更に召納れて、妃とは爲《シ》給ひたりしなり、抑男女の道は、後世のごとく嚴《オゴソ》かにはあらざりしも、上古もおのづからなる定りはありつるを、此御兄弟また姫王の御行《ミフルマヒ》の如きは、をさ/\きこえず、御兄弟の御中|親睦《ムツマシ》からずして、つひにゆゝしき壬申の大事のおこりしも、此に胚胎せるにはあらじかとおしはかり奉るぞ、いともかしこかりける、
かくて上にいひたる、三書のうちの殊に誤れりとおぼゆるを、こゝにあぐ、さるはかの書どもによりて、まどひをおこさむ人もあらんかとの、おもひすごしのわざになん、
玉勝間に額田(ノ)王の事を論ひて、天智天皇かくれさせ給ひて後に、天武天皇に娶《メサ》れて十市(ノ)皇女を生《ウミ》奉《マツ》れり、とあるはいかゞなり、十市(ノ)皇女は大友(ノ)皇子の妃となりて葛野《カドノ》(ノ)王を生《ウミ》給へり、懐風藻に記せる王の御年によれば齊明天皇六七年の降誕な(72)り、此時少くも十市(ノ)皇女は十五六歳になり給ひしなるべし、しからざれば御子を生給ふべきよしなし、さては額田(ノ)王の天武天皇に婚《アヒ》給ひしは、これよりはるか前《サキ》つかたのことなることしるし、○ながらの山風の説は大かたよろしかれど.本集の舊注に鏡王(ノ)女額田(ノ)姫王とあるを取りて二人としたるはいかゞなり、こは萬葉考に辨へられたる如く、王女は女王の誤にて、鏡(ノ)女王額田(ノ)王と二人なること、集中の歌にて明らかなるを、強て一人として其歌どもを解あかしたるは、非也、○諸平の説もいとくはしかれど、父の鏡(ノ)王を論ひて、實は額田(ノ)王鏡といふ人にて、常には諱は憚るべければ、もはら額田を稱《イ》ひ、史には諱もて鏡(ノ)王と書し、此集には額田(ノ)王としるせるなるべし、とて集中の歌をすべて父の鏡(ノ)王の詠とせるは非なり、こは考に論ひたるが如く、皆女歌なること、其歌のおもむきにてしらる、此等いづれも其説の從ひがたきところなり、ゆめ此等の説にまどはさるゝ事なかれ、
 
15 渡津海乃豊旗雲爾伊理比沙之《ワタツミノトヨハタグモニイリヒサシ》、今夜乃月夜清明已曾《コヨヒノツクヨアキラケクコソ》
 
海を和多《わた》といふは渡ると云義なり、此卷の下に對馬乃渡渡中爾《ツシマノワタリワタナカニ》ともあり、ごを渡津見《ワタツミ》もいふは、棉津見《ワタツミ》(ノ)神は海を知らせ給へば、此神の御名をやがて晦の名とし(73)ていふ也、○豊旗雲《トヨハタクモ》、諮古本の傍注の朱書に、古語(ニ)曰海雲也、當(テ)2夕日(ニ)1雲(ノ)赤(キ)色也似v幡也、入日能時(ハ)者月光清也、とあり、こは今も常にいふことなり、旗雲は旗に似て長く引はへたる雲をいふ、文徳實録に、天安二年六月庚子、早且有(テ)2白雲1自v艮亘(ル)v坤(ニ)、時人謂2之旗雲(ト)1とあるは、一種異樣の雲と見ゆ、懷風藻に載(セ)たる大津(ノ)皇子の遊獵(ノ)詩に、月(ノ)弓輝2谷裏1雲旌張2嶺前1ともあり、豊は大きく寛かなる意にて、豊葦原《トヨアシハラ》豊明《トヨノアカリ》豊年《トヨトシ》などの豊に同じ、○伊理比沙之《イリヒサシ》、燈に今入日のさすを見ておほせられたるにはあらず、豊旗雲に入日さしてこよひの月あきらけくあらむことを、未然よりおほせられたるなり、沙之《サシ》の之《シ》もじの義をかもふべしといへるが如し、諸注入日さしぬといふ意に解けたるはわるし、今旗雲の引はへたるを見をなはして、その雲に入日さして云々といふ意なり、又諮古本どもに、沙之を禰之又は彌之と作《カケ》るが有は、共に非なり、今本沙之とあるぞよき、○今夜乃月夜《コヨヒノツクヨ》、月夜はたゞ月といふに夜(ノ)字のそはりたるにて、集中にいと多し、○晴明己曾《アキラケクコソ》、舊訓にすみあかくこそとあるはわろし、燈に己曾は願の詞にて未然をおほせられたるにて、入日さしてこよひの月あきらけき事あらかじめしらまほしとの御心なり、とあるが如し、諸注に三(ノ)句をさしぬの意とし、こゝを己曾《コソ》あらめといふ意に解るは非なり、(74)一首の意は、今見わたせる海上は引はへたる旗雲に入日さして、今夜の月の明らかなれかしとなり、さるは海上のけしきのあかぬあまりに、猶夜のけしきをも見給はむとの御意なるべし、
 
 右一首(ノ)歌、今案(ルニ)不v似2反歌(ニ)1也、但舊本以2此歌(ヲ)1載(ス)2於反(ニ)1故(ニ)今猶載(ス)2此次1、亦紀曰、天豊財重日足姫《アメトヨタカライカシヒタラシヒメノ》天皇先(ノ)四年乙巳、立2天皇1爲2皇太子(ト)1、
 
此次の次(ノ)字、今本に歟とあるは誤なり、元本温本家本昌本活本いづれも次と作《ア》り、○立2天星1云々、此は天智天皇本紀の文也、故にかくいへるなり、今本天皇の上に爲(ノ)字を衍す、今元本温容官本大須本等によりて削る、考に此一首は同じ度に、印南《イナミ》の海|方《ベ》にてよみましつらん、故に右に次て載しなるべし、下にも此類あり、といへり、此説の如し、○先(ノ)四年、こは初の度の御位のをりの事なるから、先(ノ)四年といへるにて、天智紀に、天豊財重日足姫(ノ)天皇【皇極】四年讓2位(ヲ)於天萬豊日(ノ)天皇【孝徳】立2天皇1【天智】爲2皇太子(ト)1とある是也、此に紀を引けるは端詞に(75)中大兄とあるにつきての勘文也、
 
 近江(ノ)大津(ノ)宮(ニ)御宇(シ)、天皇(ノ)代 天命開別《アメミコトヒラカスワケノ》天皇
 
 天皇詔(シテ)2内大臣藤原(ノ)朝臣(ニ)1、競2憐(マシムル)春山萬花之艶、秋山千葉之彩(ヲ)1時、額田王以v歌(ヲ)判(ル)之歌
16 冬木成春去來者《フユコモリハルサリクレバ》、不喧有之鳥毛來鳴奴《ナカザリシトリモキナキヌ》、不開有之花毛佐家禮杼《サカザリシハナモサケレド》、山乎茂入而毛不取《ヤマヲシミイリテモトラズ》、草深執手母不見《クサフカミトリテモミズ》、秋山乃木葉乎見而者《アキヤマノコノハヲミテハ》、黄葉乎婆取而曾思奴布《モミヅヲバトリテゾシヌブ》、青乎者置而曾歎久《アヲキヲバオキテゾナゲク》、曾許之恨之秋山吾者《ソコシウラメシアキヤマワレハ》、
 
近江大津、諸古本の朱書に云、志賀(ノ)郡大津是也、今按ふるに、大津(ノ)宮といふこと日本書紀には見えざれども、續紀の慶雲四年七月の詔に、近江(ノ)大津宮(ニ)御宇大倭根子天皇乃與2天地1共長與2日月1共遠云々とあり、書紀には六年三月辛酉朔己卯遷2都(ヲ)于近(76)江(ニ)1とのみあり○天命開別《アメミコトヒラカスワケノ》天皇の下に諸古本に謚曰2天智天皇1の六字あるは後人の注也、○藤原(ノ)朝臣、考に鎌足公也、これはいまだ後(ノ)岡本(ノ)宮にての事とみゆれば、内(ノ)臣中臣(ノ)連鎌足と、もとは有つらんを後より崇みてかく書たるなり、其上今本に朝臣のかばねをさへ書しは、ひがことなり、此集の例に依て藤原卿とすべし、といへり、略解、燈、これに從へり、今按ふるに此は天皇の詔詞をしるせるなれば、卿などはいふべきにあらず、且本集に人名を書せるさま、一定の法は無きなり、其は諸兄(ノ)大臣を、左大臣橘卿とも左大臣橘(ノ)宿禰とも書し、安麻呂卿を、大伴卿とも大伴(ノ)宿禰ともしるし、乙麻呂卿を石(ノ)上(ノ)乙麻呂卿とも石(ノ)上(ノ)乙麻弓朝臣ともしるせるをもて、其書例なきを知るべし、かた/\考の論は非也.かくて元本をはじめ諸の古本に、いづれも朝臣とあれば、もとよりかく書《シル》したりしこと決《ウツ》なき也、猶いはゞ天智紀に八年冬十月丙午朔庚申、天皇遣(シ)2東宮大皇弟(ヲ)於藤原(ノ)内大臣(ノ)家(ニ)1授3太織冠(ト)與2大臣(ノ)位1、仍(テ)賜v姓(ヲ)爲2藤原氏(ト)1とありて、姓氏録【左京神別】に、内大臣大織冠中臣連鎌子、【古記云2鎌足1】天命開別天皇【謚天智】八年、賜2藤原氏1男正一位贈太政大臣不比等、天渟中原瀛(ノ)眞人(ノ)天皇【謚天武】十三年、賜2朝臣(ノ)姓(ヲ)1と見えたれば、鎌足公の時はいまだ明臣の姓は腸らざりしかど、此集を撰へる時に、後の稱を前へめぐらしてかけるなり、又按ふるにはやく恵美(ノ)(77)押勝がかける此公の傳に、【押勝は鎌足公の曾孫武智麻呂公の第二子世、】遣(シ)2東宮皇大弟(ヲ)1就(テ)2於其家(ニ)1詔曰、云々仍授(ケ)2織冠(ヲ)1以任2太政大臣(ニ)1改v姓爲2藤原(ノ)朝臣(ト)1、と見え、【群書類從本には.授2大織冠1以任2大内臣1とあれど、今古本に依る、但し此時の内大臣は後世の内大臣と同じからすして、左右大臣の上におかれたることなれば、當時朝廷ならざる私には、太政大臣と稱したるなるべし、扶桑略記にも.家傳に任2太政大臣1と記せりといへれば.家傳にはもとよりかくありし事明けし、類從本はさかしらlこ改めたるなり、】また扶桑略記卷五にも天智天皇八年十月十三日、内(ノ)臣鎌足任2内大臣(ニ)1、改2中臣(ノ)姓1賜2藤原(ノ)朝臣(ヲ)1、授2大織冠(ヲ)1とあり、【職原抄尊卑分脈等にもかくいへり、】これらの書によれば、姓氏録に天武天皇十三年に至りて始て朝臣(ノ)姓を賜はりしよしに記せるはかへりて誤にて、其實は天智天皇の時賜へりしを、日本書紀の文の紛らはしきがうへに、天武天皇十三年に中臣(ノ)連に朝臣姓を賜はりしことあるによりて、萬多(ノ)親王もふと誤り給ひしにはあらざるか、其は日本紀に賜v姓とある姓の字は、尸《カバネ》にも氏《ウジ》にも通じいへる文字なるから、こゝは氏を指ていへるなりとせんもさることながら、彼天武天皇十三年に朝臣(ノ)姓を腸はりし五十二氏の中に、藤原氏を載せざるは、藤原氏は既に朝臣(ノ)姓を賜へりしによりてなるべし、天智紀なる賜v姓とは猶尸をも腸はりしにはあらざるかとおぼゆればなり、猶よく考ふべきことなり、とまれかくまれ此集なるは、もとより撰者しか書《しる》せりしこと疑ひなし、○額田(ノ)王以v歌判v之(ヲ)歌、燈に此判の字後世の歌合の判の如く、諸人のきそ(78)ひを判断せしめ給ひしにはあるべからず、たゞ人々をして春秋に心ひくかたをことわらしめ給ひしなるべし、とあるが如し、
冬木成、考に成は盛の誤にて、冬木盛《フユコモリ》なり、冬は萬の物内に籠て、春を待てはりづるより此言はあり、然るを今本に冬木成と書てふゆこなり〔5字右○〕と訓しは、言の例も理りもなし、とあり、畧解、燈、ともに此説に従へり、さるは卷七【三十二左】に冬隱春乃大野乎《フユゴモリハルノオホノヲ》云云、卷十【六右】に冬隱春去來之《フユゴモリハルサリクラシ》云々、など語例たしかなれば、ふゆごもり〔五字右○〕と訓べしとの説はうごくまじくこそ、但し冬木成春と書るところ、此外卷二【三十四左】卷六【二十五右】卷九【十二右】卷十三【二右】すべて五所あり、さるをこと/\く誤字なりといへるは、強(ヒ)たることなり、今按ふるに、釋名釋言語に、成(ハ)盛也とあれば、成(ノ)字にもとより盛の義あるなり、さては此まゝにて冬木成《フユコモリ》と訓べし、猶いはゞ易(ノ)繋辭に成象之(ヲ)謂v乾とありて、釋文に蜀才作2盛象1といひ詩(ノ)鹿鳴の傳に、以成禮也とあるを、疏に定本成禮作2盛禮1といひ考工紀(ノ)匠人に白盛とある注に、盛(ノ)之言(ハ)成也、荀子(ノ)王覇に、以觀2其盛1者也とある注に盛讀爲v成などあれば、成盛の二字は古(ヘ)通じ用ゐしなり、かゝれば今も成は盛の義にて用ゐたるものとすべし、【後人傳寫の誤ならんには、五所ともこと/\く同じやうに誤るべきにあらず、また舊訓にフユコナリとよめるが非なることは論なけれど、古(ヘ)より冬木成と書(キ)來たりし一(ツ)の證なり、】因に云(ハ)む卷三【三十八右】筑波山の歌に、冬木成時敷時(79)跡不見而住者《フユキナストキジキトキトミズテユカバ》云々、【記傳廿五に、登りて見るべき時にあらずとてと云意也といへり、】卷六【四十四右】に百樹成山者木高之《モヽキナスヤマハコダカシ》云々、此ニ(ツ)の成も略解には盛の誤れるなりといへれど、此は猶|成《ナス》と訓べし、但し常に如くの意にいへる奈須《ナス》とは異にて、たゞに其物をさしていふ一(ツ)の成《ナス》なり、例は卷二【二十二左】に鳥翔成有我欲比管見良目杼母《ツハサナスアリガヨヒツヽミラメドモ》、巻十三【五右】に水門成海毛廣之《ミナトナスウミモユタケシ》、などある是也、〇春去來者《ハルサリクレバ》、考に去は借字にて春になりくればてふ言也、爾奈の約は奈なるを佐に轉じて佐利といへり、下に夕去來者《ユフサリクレバ》といふも同じ事ぞ、とあるを燈にはこれを非として、いと異やうなる説をとなへ、また橘(ノ)守部の山彦冊子には去は正字にて來《ク》るを去《サル》ともいひしにて、去《サル》と來《クル》とは本(ト)同意の語なり、とていとむづかしき論ひあれど、さては去來《サリクレ》は來來といふ意になれば、一の來は無用の重言となるなり、姑く考の説に從ひてあるべし、そは卷十【九左】に春避來之《ハルサリクラシ》、卷十三【二十八右】に春避者《ハルサレバ》、卷十六《八左》に春避而野邊回者《ハルサリテヌベヲメグレハ》、など避の字を借用ゐたるをもて、去も借字なるを曉るべし、かくて春になるといひし語例は、卷八【十七左】に時者今者春爾成跡《トキハイマハハルニナリヌト》、又同卷【十八右】に※[(目+目)/鳥]鳴都審春爾成良思《ウクヒスナキツハルニナルラシ》などある是也、かゝれば爾奈の釣なりといひしはうべなることなりけり、【猶別記にいふべし、】〇不喧有之《ナカザリシ》云々は、冬は鳴かず開かざりし花も咲き鳥も鳴くといひて、春の賞すべきことをまづいふなり、杼《ド》は雖《ドモ》の意にて、うち反《カヘシ》の辭なれ(80)ば、次に其たよりあしきよしをいはむとてなり、○山乎茂《ヤマヲシミ》、これより以下四句、春山のたよりあしきよしをいふなり、しみ〔二字右○〕のみ〔右○〕はサニ〔二字傍線〕の意にて、山の草木の繁さに入ても花をたをらずと也、考にしみは茂《シゲ》まり也、其しげを略《ハブキ》てしといひ、まりを約てみといふ也といへるは、非也、しげ〔二字傍線〕を古言にはし〔右○〕とのみもいふなり、猶下の藤原(ノ)宮御井(ノ)歌の注にいふべし、〇入而毛不取《イリテモトラズ》、玉(ノ)小琴に取は見の誤にて、みずならん、とあれど不取は折とらぬをいふ事にて、此まゝにてきこえたり、強て改むるに及はず、○草深執手母不見《クサフカミトリテモミズ》、考、略解に執をたをり〔三字傍線〕と訓たれど六言の句も往々ある事なれば、執の一字を殊にたをりとよむには及ばず、舊訓のまゝにとりてもみずと訓べし、以上四句女王のめゝしき御意よりいひいだせるものにていと憐れなり、さるを加納諸平の説に、此歌を父の王のよみませるなりといひしは、いかゞ、此以下もすべて婦人の情を述たるものなるをや、○秋山乃《アキヤマノ》云々、これより秋山のあはれなるよしをいへり、〇黄葉乎婆《モミヅヲバ》、舊訓にモミヂヲバと訓るはわるし、次の青乎者《アヲキヲバ》にむかへたるなればこヽも用言にていふべき也、但し助詞中世よりは、もみぢ、もみづると中二段の活にのみいへど、古くは四段にもみたむ、もみづなども活したるなり、卷十四【二十五右】に、兒毛知夜麻和可加敝流※[氏/一]能毛美都麻※[氏/一]《コモチヤマワカヽヘルデノモミヅマデ》とあるを見べし、○取而曾思(81)奴布《トリテソシヌブ》、しぬぶは慕《シタ》ふ意がもとにて、忍または愛《メヅル》意にも用ゐるなり、こゝは愛《メヅ》る意なり○青乎者置而曾歎久《アヲキヲバオキテゾナゲク》、いまだ染あへぬをば、枝におきて恨《ウラ》みとするなり、○曾許之恨之《ソコシウラメシ》は、其《ソコ》し恨し也、其《ソコ》とは青乎者《アヲキヲバ》云々をいふ、黄葉《モミヅ》をば取て愛《メヅル》といふに對《むか》ひて、青きは恨《ウラメ》しといへるなり、宜長翁の説に恨は怜の誤にて、そこしおもしろしと訓べし、といへるは非也、集中何伶の二字をこそおもしろしともあはれともよめれ、怜一字むしかよめる事なく、且いづれの古本どもゝ恨とあるがうへに、舊訓にウラメシとあるからは、古(ヘ)よりかくありしことしるし、但し其説のおこりは此歌もと秋山の方をあはれとさだめたりし事のしるきに、恨之《ウラメシ》は似つかはしからずとおもひての事なるべし、されど此|恨之《ウラメシ》は青乎者《アヲキヲバ》云々の句のみにかけていへるなればさまたげなき也、さるは春山のかたにては、入而毛〔右○〕不取云々執手母〔右○〕不見と、此(レ)も彼(レ)もの毛の辭をもて句をなし、秋山のかたは、黄葉乎婆〔右○〕云々青乎者〔右○〕云々と物を區別する辭の者《バ》をもて句をしらべたり、此意をよく味ひて、恨之《ウラメシ》は青乎者《アヲキヲバ》云々の句にのみかけたる詞なるを暁るべし、○秋山吾者《アキヤマワレハ》、考に曾の字を補ひたるは、舊訓にアキヤマゾワレハとあるによれるなるべけれど、そはなきかたかへりてよろし、吾は秋山のかたに心依ぬといふ意也、此歌すべて婦人の情をよくいひとれり、
(82)一篇の大意は、春くれば、冬のほどは鳴ざりし鳥もなき、咲ざりし花も咲て、いとをかしかれど、春山は木草生しげりてわけ入らむことかたくしてたよりあしきを、秋山はまだ染あへぬ枝の、うらめしきふしはあれど、入やすく心ゆくこと多かれば、秋のかたに心ひかるとなり、
 
 額田(ノ)王下2近江(ノ)國(ニ)1時(ノ)作歌、井戸(ノ)王即和(ル)歌
 
17 味酒三輪乃山《ウマサケミワノヤマ》、青丹吉奈良能山乃《アヲニヨシナラノヤマノ》、山際伊隱萬代《ヤマノマニイカクルマデ》、道隈伊積流萬代爾《ミチノクマイツモルマデニ》、委曲毛見管行武雄《ツバラニモミツヽユカムヲ》、數數毛見放武八萬雄《シバシバモミサケムヤマヲ》、情無雲乃《コヽロナククモノ》、隱障倍之也《カクサフベシヤ》、
 
考に、此端詞は集中の例に違ひ、井戸王といふ名も氏も物に見えず、且左注の類聚歌林に御覧御歌などあるは、皇太子の御歌なることしるければ、こゝは大海人(ノ)皇子命下2近江(ノ)國(ニ)1時(ノ)御作歌とし、次の綜麻形乃云々の前に額田(ノ)姫玉奉v和(ヘ)歌とすべし、類栢聚歌林は眞の物ならねど、さすがに今よりは古き代の事故に、おのづからかゝる據となる事もまれにあり、といへり、今按ふるに、本集と類聚歌林とはもとより(83)其傳への異なるにて、これをもて本集の端詞を改むるは強たることなり、【考は常に歌林は僞書なりとて取ざるを、此は歌林に依て本集を攻めたり.かく所によりて意に任せて取捨せるは、いと妄り也、】井戸乃王といふ名物に見えずとて、さる人なしとはいふべからず、たま/\は物にもれたるもなどかなからん、また端詞の例にたがへりといへるもひとむきなり、こは古記のまゝをしるしたるなるべし、さて又燈には、井戸(ノ)王下2近江國(ニ)1時(ノ)作歌額田(ノ)王即和(ル)歌と改て、注に綜麻形乃の歌わがせとあれば、それ額田(ノ)王の和歌にて、この長歌反歌は井戸(ノ)王の歌にやされば御名を置たがへたるにやとてかくかけるなり、猶考ふべし、井戸(ノ)王は、額田(ノ)王のうからなどにやありけむ、ある説に井戸(ノ)王といふ名も氏もみえねば、大海人(ノ)皇子云々とあるべしどいへれど、大海人(ノ)皇子を井戸(ノ)王と誤るべくもおぼえず、諸王のうちの御子にて、物にもれたるもはかりがたし.といへるはさることなり、此説に從ふべし、されど端詞を私に改めかゝむもつゝましければ、姑くもとのまゝにしるしぬ、
味酒《ウマザケ》また青丹吉《アヲニヨシ》はともに枕詞也、〇山際《ヤマノマニ》考、略解にやまのまゆと訓て、注に、際の下に從の字脱しか、とあれど、こはゆ〔右○〕といふべきところにあらず、やまのまにとよみて、に〔右○〕は訓そふるなり、○伊隱萬代《イカクルマデ》、舊訓にはイカクルヽマデとあれど、此詞古くは(84)四段にも活かしたればかくよむべし、伊《イ》は發語、下なるも同じ、○道隈《ミチノクマ》は、道の入曲りおる所をいふ、○伊積流萬代爾《イツモルマデニ》、積流《ツモル》は行ゆきて道の隈隈の數の多くなるをいふ、爾は上の伊隱萬代をもうけたるなり、○委曲毛《ツバラニモ》はつまびらかにもといふ意なり、○見管《ミツヽ》は見乍《ミツヽ》也○數々《シバシバ》は、たび/\の意、○見放武八萬雄《ミサケムヤマヲ》云々は、見放《ミサケ》の放は振放見《フリサケミ》るなどの放《サケ》に同じく遠く見やる事也、雄《ヲ》はニ(ツ)ともに、ものを〔三字傍線〕の意にて、見ることの遠ざかりゆくを歎くなり、考に云、飛鳥(ノ)岡本(ノ)宮より三輪へ二里ばかり、三輪より奈良へ四里餘ありて、その間平かなれば、奈良坂こゆるほとまでも、三輪山はみゆるなり、○情無《コヽロナク》、雲乃《クモノ》、隱障倍之也《カクサフベシヤ》、玉(ノ)小琴に云、斬情無《コヽロナク》【句】か句、雲乃《クモノ》【句】雲乃を上(ノ)句へつくるも、下(ノ)句へつくるもわろし、三言の句例多し、九言十言の句は例なし、此たぐひ皆二句によむべし、○隱障《カクサフ》はかくすを緩言にいひたるなり、燈に降は字の如くさへぎる意也、といへるは非也、かくしさふるをかくさふとはいふべくもなし、よくおもふべし、但しかく緩言にいひたるは、數々見放《シバ/”\ミサケ》むとするごとにかくせるをおもはせたるものなり、たゞにかくすをのべたるものとのみおもはむは麁なり、卷十一【八左】に奥藻隱障波五百重浪千重敷々戀度鴨《オキツモヲカクサフナミノイホヘナミチヘシクシクニコヒワタルカモ》とあるも浪の數々《シハシバ》よせて藻を覆ひ隠すといふ也、〇倍之也《ベシヤ》の也《ヤ》は反語にて、しか隱すべきことかや、かくすべき事(85)ならずといふ意なり、〇三輪山《ミワヤマ》は飛鳥《アスカ》の都よりは遠からぬ所なるがうへに、奈良のかたよりまのあたり此山のみゆるをもて、故郷のなごりを此山におほせて、かくよみ出給ひしならん、但し天智天皇六年三月、近江の大津へ遷都の事あれど、和歌に萩になぞらへたれば、井戸(ノ)王はその年の七八月ごろ新都へは遷り給ひしなるべし、
一篇の大意は、明くれ見なれつる三輪山を、今は後になして行《ユク》戀しさに、たびたび見かへりつゝなごりをしくおもふを、あの心なき雲の隱《カク》して見せぬがうらめしきことよとなり、
 
 反歌
18 三輪山乎然毛隱賀雲谷裳情有南畝可苦佐布倍思哉《ミワヤマヲシカモカクスカクモダニモコヽロアラナムカクサフベシヤ》
 
然毛隠賀《シカモカクスカ》、然《シカ》は如v是の意、毛は歎辭にて俚言にマア〔二字傍線〕といぶ意、賀は疑ひて歎く辭なり、此句の意は、如v是《カク》マア隱すことかにて、結句のかくさふべしやに應ずるなり、賀は多くは濁音に用ゐたるを、こゝは清音としたり、此下にも幾代左右二賀《イクヨマデニカ》と清音に用ゐたり、集中清濁に拘らざるよしは既にいへり、○雲谷裳《クモダニモ》、此だに〔二字右○〕は俚言に(86)ナリトモ〔四字傍線〕の意にて、雲なりともせめて心あれとの意なり、谷裳は借字也、○情有南畝《コヽロアラナム》、なむは願のにて情《コヽロ》あれかし也、考に畝を武に改て、注に今本武を畝に誤とあり、今按ずるに僻案抄にも、一古本武に作るといひ、【略解及校異本にも一本武に作るとあれど、こはともに辟案抄に依たるものならん、】又官本にも畝一本武とあり、とあれば、これによらんもあしとにはあらねど、官本も本行は猶畝なるがうへに、諸古本皆畝とあれば、猶今本に從ふべし、さて畝は廣韻【上聲厚】に畝音母、とあり、母にはム〔右○〕の音のある事もとよりなれば、畝にもム〔右○〕の音あること推して知べし、班固が西都(ノ)賦に畝と矩と韻なしたるも、古(ヘ)畝にム〔右○〕の音ありしが故なり、しかるを燈にはいとむつかしき解言ありて、さて畝の訓はうねなるを、此|宇《ウ》を牟《ム》に借たるならんといへり、いとをこなる説なり、○可苦佐布倍思哉《カクサフベシヤ》は、長歌に注したるが如し、
一首の意は、我わかれをゝしみて、見まほしくする三輪山なるを、如v是もマア隱すことか、せめて雲なりとも隔てずあれかしとなり、
 
 右二首(ノ)歌山(ノ)上(ノ)憶良(ノ)大夫(ノ)類聚歌林(ニ)曰、遷2都近江(ノ)國(ニ)1時、御2覧三輪山(ヲ)1御歌焉、日本書記〔右○〕曰、六年丙寅春三月辛(87)酉朔己卯、遷2都于近江(ニ)1、
 
歌林に御覧御歌などいへるは、皇太子などの御歌とせしなるべし、こは例の異傳なり、○日本書記〔右○〕曰六年丙寅云々、今本の日本書紀に據に、丙寅は五年にて.六年は丁卯なり、此下に紀曰天皇七年丁卯とあるも、今本と一年差へり、【革暦部類に載せたる、昌泰四年辛酉二月二十二日、三善(ノ)清行か請2改元(ヲ)1勘奏に謹按(ニ)自2天智天皇即位辛酉之年1云々といへり、左注の年紀とあへり證とすべし、】又下に持統天皇の御代の朱鳥の年紀を記したるも今本の書紀と一年差へり、これらはもと古本の日本紀に據りたるものにて、今本の書紀は後に改吏したるものなるべくおぼゆ、其よしは別記の左注日本記年紀攷にくはしくいふ、こを左注の誤れる也と云故は、ひがことなり、又紀を記とかけることも古書どもにいと多かることにて、古(ヘ)通じ用ゐしなるべし、上文軍(ノ)王の歌の左注にも記〔右○〕とありて、そこにもいひたりき、但し元本温本官本家本には紀とあれど、昌本活本には猶記〔右○〕とあるなり、故に舊に從て改めず、
 
19 綜麻形乃林始乃狹野榛能《ミワヤマノハヤシノサキノサヌハギノ》、衣爾著成目爾都久和我勢《キヌニツクナスメニツクワガセ》
 
綜麻形乃は、みわやまのと訓べし、三輪山の古事によりて設けたる文字なり、考に綜麻形と書しは、古事紀【崇神條】に、三輪山の大神うるはしき男と成て、活依姫《イクヨリビメ》の許へ(88)よる/\通ひ給へるを、姫その男の家所を知ばやとて、卷子《ヘソ》の紡紵《ウミヲ》をひそかに針して男の裔につけたるを、君は引て歸りぬ、さてあとに紵はたゞ三勾《ミワゲ》ぞのこりたりける、やがて其糸筋をとめつゝ尋ぬれば、御室山の神の社に到りぬ、故に其山を三輪《ミワ》山といふと記されたり、然《サ》るからに其紵の三※[榮の木が糸]のこれる形を思ひ得て、綜麻形と書なせるなれば、みわ山とよむべきこと疑ひなし、こは荷田東麿うしの考出せしなりとあり、○林始乃《ハヤシノサキノ》ごれを僻案抄にしげきがもとにと訓めるより、皆これに從ひたれど、代匠紀にはやしのさきのとよめるかた穩かなり、始は前後始終など用ゐる字なれば、さき〔二字右○〕とも訓べし、卷十一【三右】に岡前《ヲカザキ》ともあり、又卷十四【十左】に夜麻乃佐吉《ヤマノサキ》などもあれば、林のさきともいふべき也、○狹野榛能《サヌハギノ》、狹《サ》は發語なり、榛ははぎ〔二字右○〕と訓べし、舊訓もハギ〔二字右○〕とあり、契沖師の圓珠庵雜記にはり〔二字右○〕とよみてはりの木なり、其皮をとりて物をそむるを、はんの木染といふ、とあり、宜長翁も此説に從ひて榛をばはり〔二字右○〕と訓て、はんの木のことゝしたり、眞淵翁は榛は借字にて、花さく萩の事なればはぎ〔二字右○〕と訓べし、といへり此説に從ふべし棒はハリノ木なるを理《リ》と伎《キ》とは通ずる音なるから借(リ)てかける也、集中に山吹《ヤマブキ》を山振《ヤマブキ》とかける全く同例也、精しくは別記にいふ又下の引馬野の歌の注にもいふべし、○衣爾者成《キヌニツクナス》、成《ナス》は鏡成《カヽミナス》鶉成《ウヅラナス》など(89)と同じく、如くの意なり、萩の衣に摺つく如く、目につくといふなり、○和賀勢《ワカセ》とは、井戸(ノ)王を指なるべし、【端詞の入ちがへたることははじめにいへるが如し、】勢とは、すべて女子より男子を親しみ呼《ヨブ》稱《ナ》なり、
一首の意は、故郷の名殘を惜みて、三輪山のかたをしば/\かへり見つゝ行給ふ姿の、其山の崎に咲匂ふ萩の、衣に摺附(ク)が如く、吾がゆかしくおもふ目に、つき給ふとなり、
 
 右一首(ノ)歌、今案(ルニ)不v似2和(ヘ)歌1、但舊本載2于此次(ニ)1、故(ニ)以猶載焉、
 
不v似2和歌1といへるはい、初句をそまかたのはやしはじめのと訓めるより、長歌に縁なき歌となりたるが故なり、荷田(ノ)大人の功偉なりといふべし.
 
 天皇遊2獵蒲生野(ニ)1時、額田(ノ)王作(ル)歌
20 茜草指武良前野逝※[手偏+票]野行《アカネサスムラサキノユキシメノユキ》、野守者不見哉君之袖布流《ノモリハミズヤキミガソデフル》
 
此御獵は七年五月五日Jにて、皇大弟を始め諸王諸臣皆御供なりしよし、左注に(90)日本紀を引けるが如し、こは藥獵とて四月五月のほどにせさせ姶ふなり、卷十六【三十左】に四月與五月爾藥獵仕流時《ウツキトサツキノホトニクスリガリツカフルトキニ》云々、とある是也、蒲生野は、近江(ノ)國蒲生郡の野なり、
茜草指《アカネサス》は枕詞也、○武良前野《ムラサキノ》は、紫草は野に生ふるものなるから、官女だちのうつくしく粧ひして、うちむれたるをさして紫野といひなしたるなり、燈に紫草の生たる野なりといへるはわろし、○※[手偏+票]野《シメノ》は遊獵の爲にしめおかれたる野をいふはもとよりにて、かの官女だちのうちにてかねて御心かけ給ひしがありて、そをよそへたるなるべし、ともに地名にあらず、ふたつの逝《ユキ》行《ユキ》は次の句を隔て君之《キミガ》袖ふるにかゝるなり、※[手偏+票]は標の俗體なり、古(ヘ)木旁を才にかけることいと多し、萬葉集文学辯證に精しく論じおけり、○野守者不見哉《ノモリハミズヤ》は、額田之王自らをそへたるなり、哉は反語のにて、野守は見ずや見奉りをるにの意なり、多くの官女だちにたはぶれ給へるをねたましくおぼしてとがめ奉りしなり、しかるに代匠紀に野守は皇太子を比して云也といひ、燈には皇太子の御思ひ人に比したる也といひ、考にはつかさ人だちの見奉り思はん事をそへし也といへり、【信友のながらの山風も此説によれり、】皆非也、此は必額田(ノ)女王自からをそへたるなること、御答歌に校へ合せて曉るべし、かくて守(91)部の檜※[木+爪]には、野守は本主の天智天皇を申せる也とあれど、天皇を野守に比し奉るとはいとなめげなるわざにて、いかでさる事のあるべき、いみじき僻言なり、また略解にかゆきかくゆき君が袖ふりたまふを、野守は見ずやといへるにて、外によそへたる意なしといへるは、御答歌にも應せずしていよゝ非也、〇君之袖布流《キミカソデフル》、君は大海人(ノ)皇子をさす、袖振は古(ヘ)人を戀慕ふをりにせしわざなるを、いひなれてはしか必袖をばふらざるも、たゞに人を戀ふる事を袖振といひし也、卷六【二十三左】凡有者左毛右毛將爲恐跡振痛袖乎忍而有香聞《オホナラハカモカモセムヲカシコミトフリタキソデヲシヌヒテアルカモ》、卷十一【十二左】に、高山岑行完友衆袖不振來忘念勿《タカヤマノミネユクシヽノトモオホミソデフラスキヌワスルトオモフナ》、卷十二【十九右】に吾妹子哉安乎忘爲莫石上袖振河之將絶跡念倍也《ワキモコヤアヲワスラスナイソノカミソデフルカハノタエントモヘヤ》、【袖振河之などいひくたしたるは、いといといひたれたる詞なるを見べし、】同卷【三十八右】に、草枕旅行君乎人目多《クサマクラタビユクキミヲヒトメオホミ》、袖不振爲而安萬田悔毛《ソデフラスシテアマタクヤシモ》、猶いと多かり、これら推考へて其詞の意を知べし、
一篇の意は、多くの官女だちのむれをる紫野また標野《シメノ》と、かなたこなたにゆきたはぶれたまふは、いとねたまし、私の野守が見奉らぬほどこそあらめ、かくまのあたり見まつりをるものを、それには御心もおき給ハず、かゆきかくゆき袖ふらし給ふは、いかなる御心にかと、とがめ給ふやうに、問まつりたるなり、
 
 皇太子答御歌 明日香宮御宇天皇
(92)21 紫草能爾保敝類妹乎爾苦久有者《ムラサキノニホヘルイモヲニククアラバ》、人嬬故爾吾戀目八方《ヒトヅマユヱニワレコヒメヤモ》
 
皇太子は大海人(ノ)皇子なり、明日香(ノ)宮云々の八字は、諸古本どもによりて小宇とす、考に皇太子をば此集には日並知(ノ)皇子(ノ)命高市(ノ)皇子(ノ)命など書例なるを、こゝにのみ今本に皇太子と書しはいかにぞや、思ふにこゝの端詞亂れ消たるを仙覺が補へるか或本にかく有に依しか、といへるは例の一向也、
紫草能《ムラサキノ》の能《ノ》は、ノ如クニの意、○爾保敝類《ニホヘル》は、色の餘光あることにて、うるはしきをいふ、卷十一【四十一左】に、山振之爾保敝流妹之《ヤマブキノニホヘルイモガ》云々、卷十三【二十三左】に、茵花香未通女《ツヽシバナニホヘルヲトメ》云云ともあり、こゝは額田之女王をほめての給へるなり、○爾苦久有者《ニククアラバ》、此にくヽは嫌《キラ》ふ意なり、嫌《キラ》はしく思はゞとなり、〇人嬬故爾《ヒトツマユヱニ》は、人妻なるものをなり、此をり此女王は天智天皇の妃にておはしつれば、かくの給へるなり、此事上文三山(ノ)歌のところにくはしく注しつ、○吾戀目八方《ワレコヒメヤモ》は、吾戀むやにて、嫌《キラ》はしくおもふならば、何しに人妻なるものを吾が戀むやとなり、やは反語のやなり此歌の注、考はいたく誤れり、ひらき見べし、
(93)−首の意は紫の如くに匂へるうるはしき妹を、嫌はしく思ふことならば、人要なるものを、何しに吾戀むや、もとより嫌はしく思はぬ故に人妻と知つゝも戀ふるなりとなり、
 
 紀(ニ)曰、天皇七年丁卯夏五月五日、縦2獵於蒲生野(ニ)1于v時大皇弟諸王内臣及群臣皆悉従焉、
 
紀は天智紀なり、但し今本の日本書紀にては、七年は戊辰にて、此に丁卯とあるは、一年の差あり、くはしくは別記年紀考にいへり、〇大皇弟は即大海人(ノ)皇子也舊版本及諸古本大皇弟を、天皇弟に作れり、今元本に據て改(ム)、
 
 明日香(ノ)清御原(ノ)宮天皇(ノ)代 天渟中原瀛《アメヌナハラオキノ》眞人(ノ)天皇
 
 十市《トホチノ》皇子參2赴於伊勢(ノ)神宮(ニ)1時、見(テ)2波多(ノ)横山(ノ)巖(ヲ)1吹黄刀自《フキノトジ》作(ル)歌
22 河上乃湯都盤村二草武左受《カハノベノユツイハムラニクサムサズ》、常丹毛冀名常處女煮手《ツネニモガモナトコヲトメニテ》
 
清御原(ノ)宮は、天武天皇元年紀に是歳營(シ)2宮室於崗本宮(ノ)南1、即冬遷(テ)以居(ル)焉、是(ヲ)謂2飛鳥(ノ)淨(94)御原(ノ)宮(ト)1とあり、大和志に高市(ノ)郡上居村にありといへり、宮の下に考、略解、燈、並に御字の二字を補へり、されど諸古本どもゝいづれも此には此二字なし、【定家卿の長歌短歌之説に引たるにも此二字なし、古くより脱たるものとみゆ、】唯元本の朱書に一本を引て此二字を記せるのみなり、故に姑く舊に從ふ、○天渟云々、此下に諸古本に謚曰天武天皇の六字あり、渟中はヌナ〔二字傍線〕と訓べし、日本紀の原注に渟中此(ニ)云2農難《ヌナ》1とあり、幼名は大海人(ノ)皇子也、十市(ノ)皇女は、天武天皇の皇女にて、母は額田(ノ)姫王なり、懐風藻に依るに此皇女は大友(ノ)皇子の妃となりて、葛《カド》野(ノ)王を生給へり、○波多(ノ)横山は、考に神名式に伊勢(ノ)國壹志(ノ)郡波多(ノ)神社、和名抄に同郡に八太(ノ)郷あり、こは伊勢の松坂(ノ)里より初瀬越して、大和へ行道の伊勢のうちに、今も八太(ノ)里あり、其一里ばかり彼方にかいとうといふ村に横山あり、そこに大なる巌ども川邊にも多し、是ならんとおぼゆ、といへり、橘守部が萬葉集檜抓に、伊賀の名張より近江の甲賀(ノ)郡鮎川に出て、伊勢鈴鹿(ノ)郡|石《シヤク》大神の下に出る古道あり、此道近江はては鮎川越といひ、伊勢にては八田越といふ其は關(ノ)驛より北行今道二里弱、野登山の麓の里に南畑村北畑村といふ二村川を隔て斜に向へり、其(ノ)川流の末に至て關川に會す、畑村の北半里許に小岐須村あり、村の西に石《シヤク》大神【式云石(ノ)神社是也、】と云あり、一山石の奇峰也、此石山の下の谷川【大神宮の御贄鮎を漁といふ、】(95)に傍て山に少し入れば、川の北岸に屏風の如く立並びたる所あり、是今も八田越といひて畑村も二村までのこり、横たはりたる山もあれば、此道を通り給ひたるにて、波多(ノ)横山の巖とあるは是也といへり、【猶別記にいふ】こは考にいへる所と同じきにや又は異なるにや猶考ふべし、○吹黄刀自《フキノトジ》此人卷四にも出たり、天平七年(ノ)紀に富紀《フキノ》朝臣といふ、姓見ゆ同族にや、刀自は名なり、歌の意をおもふに、皇女の乳母などにやあらん、但し卷四【十三右】に載せたる吹黄刀自の歌に、眞野之浦乃與騰乃繼楯情由毛思哉妹之伊目爾之所見《マヌノウラノヨドノツギハシコヽロユモオモヘヤイモガイメニシミユル》とあるを以て、吹黄(ノ)刀自は男子なりといふ説あれど、非也、女どち妹といへる事例あり、其は同卷【五十四】に、大伴田村(ノ)家之大孃贈2妹坂(ノ)上大孃(ニ)1外居而戀者苦吾妹子乎次相見六事許爲與《ヨソニヰテコフレバクルシワギモコヲツギテアヒミムコトハカリセヨ》、また白雲之多奈引山之高々二吾念妹乎將見因毛我母《シラクモノタナビクヤマノタカタカニワガモフイモヲミムヨシモガモ》、また何時爾加妹乎牟具良布能穢屋戸爾入將座《イカナラントキニカイモヲムグラフノキタナキヤドニイリマサセナム》、同巻【五十八右】に、紀(ノ)女郎※[果/衣]物(ヲ)贈(ル)v友(ニ)歌、風高邊者雖吹爲妹袖左倍所沾而刈流玉藻烏《カゼタカミヘニハフケドモイモガタメソデサヘヌレテカレルタマモゾ》とある是也、河上乃《カハノベノ》、舊訓はカハカミノ〔五字傍線〕、考にはカハツラノ〔五字傍線〕とあれど、かはのべのと訓べし、べ〔右○〕は邊の意也、○湯都盤村二《ユヅイハムラニ》は、神代紀に五百箇磐石《イヒツイハムラ》とあるを、祝詞に湯津磐村《ユヅイハムラ》とかけり、湯は五百《イホ》の急言|與《ヨ》なるを通音にて由《ユ》といふ也、數の多きをいふ、古事記上巻に湯津爪櫛《ユヅツマグシ》又|湯津楓《ユヅカヅラ》などあるも齒の繁き又は枝の多きを云也、村は群《ムラ》の意なり、盤(96)を考、略解、燈いづれも、磐に改たるは麁忽なり、盤磐は古(ヘ)通用の字なり、荀子富國篇に、國安2于盤石《ヨリモ》などあるを見べし、くはしくは萬葉集訓義辨證にいひおけり○草武左受《クサムサズ》は、草|不《ズ》v生《ムサ》にて、常《トコ》しへに滑らかにてあるをいふ、○常丹毛冀名《ツネニモガモナ》、がもなは願ふ辭なり、故に義を以て冀の字をかけり、集中に欲得をがも〔二字右○〕に充たるも此意也、○常處女煮手《トコヲトメニテ》、神代紀に少女此(ニ)云2烏等※[口+羊]《ヲトメ》とあり、處女は未v嫁女の稱なれば借用あたるなり、皇女のとこしなへに少女の姿にてあれかしと願ふなり、
一首の意は、此河のべに立る巖の、いつも草むさす滑らかにてある如く、皇女にもいつまでも老せずして、若き姿にてあれかしといへるにて、裏《シタ》の意は皇女の御身の上に禍あらせずして御齢の長からんことをねぎまつれるなり、さるは次にいふ如く、父天皇と夫君との御中の睦しからん事を祈誓のための參宮にて、其事調はざる時は、皇女の御身の上にも禍の及ぼす事なればぞかし、
 
 吹黄刀自未詳也、但紀曰天皇四年乙亥春二月乙亥朔丁亥、十市(ノ)皇女阿閉(ノ)皇女參2赴於伊勢神宮(ニ)1、
 
此時の事にはあらじ、按ふに此皇女は天武天皇の皇女にて、大友(ノ)皇子の妃とな(97)り給ひしが父天皇と夫君との御中のよからぬを、裏《ウチ》に歎き給ひて、其御中の睦ましからんことを、大神に祈誓のため、竊に參宮し給ひしものにて是より先の事なるべし、別記に出したる守部の説合考すべし、
 
 麻績王流2於伊勢(ノ)國|伊良虞《イラゴ》島1之時、人哀傷(シテ)作歌
 
23 打麻乎麻續王白水郎有哉射等寵荷四間乃珠藻苅麻須《ウチソヲヲミノオホキミアマナレヤイラコガシマノタマモカリマス》
 
麻續(ノ)王の續(ノ)字、此及び下なるも僻案抄引一本また拾本には績とあり、正字なり、されど其他の本どもはいづれも今本と同じく續と作《カケ》り、此外皇国の古書には多く麻續と作《カキ》たり、但し續績古(ヘ)通し用ゐしなり、其説は隷辨また清(ノ)左喧が三餘偶筆卷三等に見えたり、績とある本は、後人のさかしらに改めたるものなるべし、伊良虞《イラゴノ》島の事は次にいふべし、○略解に、人の字の上に更に時の字有べし、といへるはさることなり、考には、既に補ひたれど、諸本になければ今私に加へず、打麻乎《ウチソヲ》は麻續《ヲミ》の枕詞なり、麻《アサ》を績《ウム》には、水にひたし打やはらげ、それをさきて用ゐ(98)るものなれば、かくつゞけたり、〇白水郎有哉《アマナレヤ》、和名抄に辨色立成云白水郎【和名 阿万】とあり、哉は反語にて、海人《アマ》にありや海人にはあらぬにといふ意なり、略解にあまにてあればにや也、といへるは非也、又燈に禮也《レヤ》は禮婆也《レバヤ》の婆《バ》をはぶき、苅麻須の下に良牟《ラム》をはぶげる也といへるもわろし、海人を白水郎といふは白水は漢土の地名にて、其處の人は多く海に入りて物を採るを業とするを以て、漁人を白水郎とはいへるなり、倭名抄箋注に、李※[日+方](ノ)太平廣記引2原化記(ヲ)1曰、唐周邯自v蜀沿v流(ニ)、甞(テ)市得2一奴(ヲ)1、名曰2水精(ト)1、善2于探1v氷(ヲ)乃崑崙白水之属也、葢白水(ハ)地名、白水人善(ク)没v水(ニ)探v物、故謂d没v海捕v魚者u爲2白水郎1也といへり、是也、○珠藻苅麻須《タマモカリマス》、珠は美稱也、略解に藻の子《ミ》は白く玉の如くなればいへりとあるは、言に泥みたるひがことなり、すべて玉松玉椿玉篠などの玉をも丸きものおいふよしに解るは非也、此類はいづれも美稱なり、麻須《マス》は座《イマス》なり、和(ヘ)歌の結句によりて、こゝをも麻を乎《ヲ》の假字として麻須《ヲス》とよまむかといへる説はわろし、和(ヘ)歌は自らのたまへるなるから殊さらに食《ヲス》といへるなれど、かけ歌にては、あまり禮なきことなり、ます〔二字右○〕とよむべきにこそ、さて玉藻苅などいへるは、島のありさまをおもひやりての詞づくりなり、實に苅にはあらず、
一首の意は、麻續(ノ)王は貴き御方にて海人にては御座《オハシ》まさぬものをいかなれば、伊(99)良虞《イラゴノ》島の藻をば苅|座《オハス》ことよとなり、
 
 麻續(ノ)王聞v之感傷《シテ》和(ル)歌
24 空蝉之命乎惜美浪爾湿《ウツセミノイノチヲヲシミナミニヌレ》、伊良虞能島之玉藻苅食《イラゴノシマノタマモカリヲス》
 
和歌とはこたへ歌をいふ、空蝉《ウツセミ》は命《イノチ》の枕詞也〇惜《ヲシミ》、今本情※[草冠/夷]〔二字右○〕に誤る、今諸古本に據て改(ム)、注中諸古本といふは、凡例に出したる本どもいづれも同じきをいふ、一一書名を擧むはわづらはしければ、さのみ要なき所には諸古本といふ也、前後皆此例と知べし、美《ミ》はサニ〔二字傍線〕の意なり、○浪爾所湿《ナミニヌレ》、舊訓にナミニヒチ〔五字傍線〕とあるは非也、燈に玉藻かるに袖裾などのぬるゝをいふ、袖などのぬるゝはいとわびしけれど、ひたすら命のをしさに、かゝるわびしきめをもしのびをるぞとの心也、とあるが如し、湿、官本類本には濕とあり、正字也、されど温本家本昌本拾本は、今本と同じく湿と作り、活本に温とあるも湿を誤れるなり、さて湿の字は、字書に見えねど、湿の省文なるべし、湿は濕の異體なり、○苅食《カリヲス》、舊訓にカリマス〔四字傍線〕とあるは非也、ヲス〔二字傍線〕とは物を食《ク》ふことをいふ古言なり、此(レ)も配所のわびしきさまをの給へるにて、實に藻を食料としたまひしにはあら(100)ず、二(ノ)句とのかけあひいとあはれに悲しくおぼゆ、
一首の意は、此世にあるほどの命のをしさに、袖などのぬるゝをもいとはず、藻を苅とり食料として、からく命をつなぎをるよとなり、
 
 右案日本紀(ニ)曰、天皇四年乙亥夏四月戊戌朔乙卯、三位麻續(ノ)王有v罪流(ス)2于因幡(ニ)1、一子流2伊豆(ノ)島(ニ)1、一子流2血鹿(ノ)島(ニ)1也、是(ニ)云v配2于伊勢(ノ)國伊良虞(ノ)島(ニ)1者若疑(クハ)後人縁(テ)2歌(ノ)辭1而誤(リ)記(ル)乎、
 
戊戌朔乙卯、此干支諸本同じ、今本の日本書紀には甲戊朔辛卯とあり、但し戊戌より乙卯にいたり、また甲戌より辛卯にいたり、いづれも十八日を得るなり、こは今本の書紀と歴法の異なるにて、此に引たるはかへりて古本の日本紀にあらさるか、別記の左注日本紀年紀攷合攷すべし、〇三位、今本及活本に三品とあるは誤なり、今諸古本に依て改(ム)、○伊勢國(ノ)伊良虞(ノ)島、案るに常陸風土紀に曰、行方《ナメカタノ》郡云々板來《イタコ》之驛、其西(ニ)榎木成v林、飛鳥(ノ)淨御原(ノ)天皇之世遣v流麻續(ノ)王1之居處云々と(101)あり、三書其所を異にするを以て、人々疑ひをなす、さて考には伊勢(ノ)國の三字を削りて注に云、今本に伊勢(ノ)國と有は物よくしらぬ人の傍に書けむを、後の人みだりに本文に加へしものなり、又云いらごの崎は、參河(ノ)國より志摩の答志の崎の方へ向ひて海へさし出たる崎なり、後の物ながら古今著聞集に伊豫(ノ)國にもいらごといふ地有といへり、因幡にも同名あるべレとて、日本紀に因幡とあるによられたれど、橘(ノ)守部の説に、日本紀に因幡とあるは初の沙汰を記せるにて、此集に伊勢と記したるは、後に配所變したるなり、伊良虞(ノ)島は後には三河(ノ)國に屬せれど、古く志摩(ノ)國に附て伊勢といひならひしなり、鴨(ノ)長明伊勢(ノ)記に、伊勢(ノ)國のいらごと云島に渡りて云々、南朝記傳古今著聞集にも、伊勢國いらごが渡りといへり、此等を見れば近き頃までも、伊勢の伊良虞といひしなり、其地理を考るに、まことに、伊勢といふべきものにぞある、志摩の鳥羽より此島へ海上五里といへど答志(ノ)崎に相並て其間わづかに三里也といへり、地勢は參河より接《ツヽ》きたれど、吉田の海より二十里はなれたれば、古きならはしのまゝに、今も彼海濱の者は伊勢と呼といへりとて、猶行嚢抄を引て、地理をくはしくあげたり、此説に從ふべし、さて常陸風土記によるに、後にまた常陸あたりまでさすらひ給ひて(102)遂に此所にて終られ給ひしなるべし、かゝれば三書とも其所は異なれども、其事柄は誤れるにはあらず、おもひまどふ事なかれ、
 
 天皇御製歌
25 三吉野之耳我嶺爾《ミヨシノノミヽガノミネニ》、時無曾雪者落家留《トキナクゾユキハフリケル》、間無曾雨者零計類《ヒマナクゾアメハフリケル》、其雪乃時無如《ソノユキノトキナキガゴト》、其雨乃間無如《ソノアメノヒマナキガゴト》、隈毛不落念乍叙來《クマモオチズモヒツヽゾコシ》、其山道乎《ソノヤマミチヲ》、
 
天皇は即天武天皇なり、
三吉野《ミヨシノ》の三は美稱にて眞《マ》の意なり、○耳我嶺《ミヽカノミネ》、舊訓にミカノミネ〔五字傍線〕古葉略類聚抄にはミヽワカミネ〔六字傍線〕とあり。共に誤なり。考に耳は借字にて御缶《ミミカ》の嶺也。此山の形大きなる甕《ミカ》に似たればにやあらん、といへり、おのれ先にはこれをよしとおもひしが、今按へば此説は從ひがたし、其は山の形は大かた甕《ミカ》を伏せたるが如きものなれば、獨り此山におほせたるはいかゞなり、故(レ)考ふるにみか〔二字右○〕は嚴《イカ》にて其山のいと大きくして嚴《イカメ》しきが故の稱にて、御嚴《ミイカ》の意なるべし伊加《イカ》と美加《ミカ》と通ふよしは、記傳(103)卷五に詳しく見えたり、猶別記にいふを見べし、かくて
此御製と同じ句調の歌巻十三【二十右】にあり、但し戀の歌也、其所には三吉野之御金高爾《ミヨシノノミカネノタケニ》云々とあるを、考には金は缶の誤れるにて御缶高にてこゝと同じ、其ハ古(ヘ)はうるはしくは御美我嶺《ミミガネ》といひ。常には美我嶺《ミカネ》とのみいひけん、そのみかねを、み金《カネ》の事とおもひたる後世心より、金(ノ)嶺とはよこなばれるなりけり、といへれど、こはいかゞなり、吉野山を金峰、金嶺などいひしことは、いと古き時よりのことにて、靈異記上【廿八條】に大倭(ノ)國金峰、神名帳に吉野(ノ)郡|金峰《カネノミタケノ》神社、四時祭式に金(ノ)岑(ノ)社、僧尼令(ノ)義解に假令(ハ)山居在2金嶺(ニ)1判下(ス)2吉野郡(ニ)1之類也、などある是也、されば吉野山の中に嚴嶺《ミカノミネ》と金嶺《カネノミタケ》とは異所にて両名あるなるべし、但し嚴嶺《ミカノミネ》といふ名は他書には見えねど、舊訓に耳我嶺《ミガネ》また耳我山《ミガネ》とあるがうへに或本(ノ)歌の耳我山を、家本類本等の訓又は官本の左點にミヽカノヤマ〔六字傍線〕とあれば、ミヽカノヤマ〔六字傍線〕とよめるも古訓なり、されば古(ヘ)しかよびし所もありしにこそ、後のものなから大和志に吉野山(ハ)、在2吉野山村1一名金御嶽。耳我《ミヽガノ》嶺(ハ)、在2窪垣内村(ノ)上方1山勢盤※[糸+于]頗(ル)幽勝、とありて両山其所を異にせり、此は據あるか、猶考ふべきことなり、しかるを、考には卷十三なる御金高を御缶高の誤れるなりといひ、守部の檜抓には卷十三なるによりて、此は嶺の下に嶽の字を脱したるものとし、耳(104)我嶺嶽《ミカネノタケ》とすべしといへり、とかく此耳我嶺と巻十三なる御金高とを、強てひとつにせんとするはかたくななり、古學者には常に此僻あり心すべきことなり、且守部の説にては、此《コヽ》をも御金《ミカネ》の義とすることなれば、耳我嶺《ミガネ》は御金の假字なるに、外に用ゐるべき字こそあらめ、嶺の字をしも用ゐたるは紛らはし、又考の別記に式の金峰をとがめて、今の京このかたの人、此山は金《コガネ》ある故の名と思ひて、式にも金峯とは書しなりけり、皇朝の上つ代いまだ金のあらはれざりし時に、こかねもて名づけんものかは、といへれど、黄金を堀り採るわざこそ奈良(ノ)朝よりのことなれ、其を貴重せしは神代よりの事なるをや、○時無曽《トキナクゾ》は、いつといふ時も定めずなり、○間無曽《ヒマナクゾ》は、其|止《ヤ》む間のなきをいふ、高山は常に雨雪ふればなり、此までは其山のありさまをのべて、御歌の序の如くにいひなし給ひしなり、○其雪乃《ソノユキノ》云々は、さまざまに御思慮遊ばす、其御心のほどを比諭し給へるなり、○隈毛不落《クマモオチズ》云々は、此山のくま/”\を漏さずといふことなるはもとよりにて、彼大事をこま/”\おもひつづけさせ給へるよしなり、○思乍叙來《モヒツヽゾコシ》、今本の訓にオモヒツヽゾクルとありて、考、略解等これによりたれど、僻案抄にはおもひつゝぞくるとよみては、山路にての御製となるなり、結句に其山道乎《ソノヤマミチヲ》とあれば、山路の間の御製にてはなく。到り給ひて(105)後の御製と見えたれば、來の字をこし〔二字右○〕とよむべしといへり、さることなり、但し家本昌本の左點には來の訓コシ〔二字傍線〕とあり、さては古くも此訓ありしなりけり、○此御製、代匠記、考、畧解等にはたゞに山路の面白きけしきをよみ給ひしおもむきに解たれど、一篇の意を味はふに、天皇いまだ東宮にて御坐しけるほど、東宮を辭して吉野に入らせ給ひしをりの御歌なること決《ウツ》なし、端書に天皇御製歌とあるは、後に此歌を書とめし人の、そのをりは既に御位に即せ給ひて後のことなれば、かくはしるしおきたるなるべし、さて此事ははやく北村季吟の拾穂抄にいへることにて、そこに云、日本紀を勘るに天武は天智の御弟にて春宮なりし時、天智の御子大友(ノ)皇子ねたむ心おはし、大臣なども大友に心よせのけしきあり、天智の御位を天武へ御ゆづりあらんとするに、蘇我(ノ)臣安麻侶、天武へ心づかひして御返事申させ給へといさめける故に、天武多病なれば天下はえたもつまじきよし、天智に申給ひて出家して吉野へのがれいらせ給ひつゝ、時をまちて終に大友をほろぼし、位につかせ給ひけり、されば此御歌はかのよしのにおはしけるほど、大事をさまさま思慮せさせ給ふ心なるべし、よし野へおはしける比も冬の事ときこえ侍るに、此歌雪のさまもおのづから折にかなひ侍にや、とある是也、必此説の如くなるべ(106)し、但しよしのにおはしけるほど大事をさま/”\思慮せさせ給ふ心なるべし、といへるはいかゞなり。こは僻案抄の説の如く吉野に到り給ひし其をりの御製也、さて拾穂抄にいへる事柄は、天智紀十年十月と、天武紀の始とに見えたり、僻案抄にも此御時の歌なりといへり、此は例の史學を修る者の必心得べき事なれば、いさゝか論ひおくなり、
一篇の大意は。耳我嶺《ミヽガノミネ》にはいつとも時を定めず、間斷なく雨雪の降ることなるが、吾大事をおもふ心も、其雨雪の間斷なきが如くにて、隈もおちずさまざまに思ひわづらひつゝ、深き山路をばだどり來し事よとなり、
 
 或本(ノ)歌
26 三芳野之耳我山爾《ミヨシノノミヽガノヤマニ》、時自久曾雪者落等言《トキジクゾユキハフルトイフ》、無間曾雨者落等言《ヒマナクゾアメハフルトイフ》、其雪不時如《ソノユキノトキジキガゴト》、其雨無間如《ソノアメノヒマナキガゴト》、隈毛不堕思乍叙來《クマモオチズモヒツヽゾコシ》、其山道乎《ソノヤマミチヲ》、
 
家本昌本には此歌本文より一字下げてかけり、今之に從ふ。○耳我山《ミヽガノヤマ》舊訓に(107)ミカネ〔三字傍線〕とあるは非也、家本昌本類本にハミヽカノヤマ〔六字傍線〕と訓り、○時自久《トキジク》は、時ならずの意なり、上文軍王の歌の注にいへるが如し、○落等言《フルトイフ》は、人のしかいふよしなれば吉野にてまのあたり見そなはして、よみ給へる御歌にはかなはず、此或本なるは、後人の聞たがひたるものなるべし、○不時如《トキジキガゴト》、此句略解にトキジクガゴト〔七字傍線〕と訓たるはわろし、
 右句々相換(ル)因(テ)此(ニ)重載(ス)焉
  或本以下は撰者の自注かともおもひしかど、猶順朝臣などの此集讀(ミ)解たりしをりのなるべし、
 
 天皇幸2于吉野(ノ)宮1時御製歌
27 ※[さんずい+舛]人乃良跡吉見而好常言師《ヨキヒトノヨシトヨクミテヨシトイヒシ》、芳野吉見與良人四來三《ヨシノヨクミヨヨキヒトヨクミツ》
 
拾穂抄に云、天皇は天武也、是御運をひらかせ給ひてのちなれば幸とかけり、始の御歌は其事なし、彼|籠《コモリ》おはせし時と知べし、又考にも同天皇同吉野の大御歌なるに、端詞を異にして並のせしを思ふに云々、上の御歌はまだ皇太弟と申す時の事なりけん、そはもし此山にのがれ入ます時よみ給ひしにやとさへおもはるゝ也、(108)かゝれば上なるは時も定かならず、こゝのは大御位の後にて定かなれば、幸としるせしならんか、といへり、是等の説の如し、吉野(ノ)宮は應神紀齊明紀等にもゆえたり、上古より此に離宮ありしと見ゆ、
※[さんずい+舛]人乃《ヨキヒトノ》は、誰とはなしに古(ヘ)のうま人をさし給へるなり、爾雅に淑善也とあり、※[さんずい+舛]は淑の俗體なり、※[さんずい+舛]、諸古本皆かく作《カケ》り、唯官本拾本には淑とあり、寛平七年の大安寺縁起に、叔母を舛母と作《カキ》。本草和名に椒字皆桝と作《カケ》り、○良跡吉見而《ヨシトヨクミテ》云々、跡《ト》はとての意なり、好處《ヨキトコロ》とて熟《ヨク》見《み》て後、まことによき處ぞといひしと也、○芳野吉見與《ヨシノヨクミヨ》は、昔の淑《ヨキ》人の熟《ヨク》見《ミ》て好《ヨシ》といひし芳野なれば、今|熟《ヨク》見《ミ》よとなり、こは従駕の人どもに仰せられたるなるべし、與の字、元本官本温本類本等に多と作《ア》るは誤なり、活本家本昌本には今本と同じく與とあり、○四來三《ヨクミツ》、舊訓はヨキミ《三字傍線》とあるによりて、考に良人《ヨキヒト》よ君といふ意として、従駕の人の中にさし給ふ人ありしなるべし、といへるは非也、又玉(ノ)小琴に或人の三の下に四(ノ)字を補ひて、よくみよと訓るを用べし、又み〔二重傍線〕とのみいひても見よと云意になる古言の例也、といへるにつきて、妙玄寺義門の活語指南に一段の活言を其ままにて希求言とする例はなきことなり、よくみと訓てみ〔二重傍線〕をみと截斷言にせるものとすべし、といへれどいづれも從ひがたし、今荷田(ノ)御風の(109)よくみつと訓るに從ふ、上の※[さんずい+舛]人乃良跡吉見而《ヨキヒトノヨシトヨクミテ》をうちかへしての給へるなり、卷九【十五左】に古之賢人之遊兼吉野川原雖見不飽鴨《イニシヘノカシコキヒトノアソビケムヨシノノカハラミレドアカヌカモ》などもあり、
一首の意は、古(ヘ)のよき人の熟《ヨク》見《ミ》て好《ヨシ》といひし此吉野なるぞ、されば今も熟見よかしとなり、
 
 紀曰、八年己卯五月庚辰朔甲申、幸2于吉野宮1、
 
 右の左注は、文例によるに、五月の上に夏の字を脱せるか、
 
萬葉集美夫君志巻一上
 
(1)萬葉集美夫君志卷一下  木村 正辭 撰
 
 藤原(ノ)宮(ニ)御宇(シ)天皇(ノ)代 高天原廣野姫《タカアマノハラヒロヌヒメノ》天皇
 天草御製歌
 
28 春過而夏來良之白妙能衣乾有天之香來山《ハルスギテナツキタルラシシロタヘノコロモホシタリアメノカグヤマ》
 
藤原(ノ)宮は、釋日本紀に私記(ニ)曰師説此地未v詳、愚按(ニ)氏族畧記(ニ)云、藤原(ノ)宮(ハ)在(リ)2高市(ノ)郡鷺栖坂(ノ)北(ノ)地(ニ)1とあり、此卷の下の長歌に藤井が原といへる地にして、香具山の西、耳梨山の南の方なり、考(ニ)云、持統天皇まだ清御原(ノ)宮におはします時なる事下の歌にてしらる、されど天武天皇崩ましてよりは、藤原(ノ)宮の中に入る例也○高天原廣野姫《タカアマノハラヒロヌヒメノ》天皇、彼の謚號は持統天皇と申す、少名は※[盧+鳥]野讃良《ウノサヽラノ》皇女と云、天智天皇の第二女也、○天皇、今本に天良に誤る、今活本及諸古本に依て正す、
春過而夏來良之《ハルスギテナツキタルラシ》は、いつまでも春なるやうにおぼしけるに、はやくも時節の替り來《コ》しを驚かせ給へる意なり、此初句をたゞ何となくおかせ給へるやうにおもへ(2)るは細《クハ》しからず、卷十【八右】に寒過暖來良之朝烏指滓鹿能山爾霞輕引《フユスギテハルキタルラシアサヒサスカスガノヤマニカスミタナビク》とあるは、同じ詞つゞきながらいたく劣れり、○二(ノ)句の訓今本にナツキニケラシとあるは【新古今集に載せたるにもかくあり、】非也、元本の訓にはなつそきぬらしとあり、家藏本の一訓また古來風體抄の訓もしかある也、これ古訓なるべし、荷田(ノ)翁の僻案抄に、來の一学キニ〔二字傍線〕とはよむべし、ケ〔右○〕とよむべき字なし、又來良之の三字ケラシ〔三字傍線〕とはよまるれども、さよみてはキニ〔二字傍線〕とよむべき字なし、一古本の訓及古來風體抄には、なつそきぬらしとあり、此訓は可なり、しかれどもゾ〔右○〕に充る文字なければ、字のまゝになつきたるらしと訓べき也とあり、今此説に從ふ、〇白妙能《シロタヘノ》は、衣の枕詞にて白布《シロタヘ》のなり、妙は義を借りてかけるのみ、○衣乾有《コロモホシタリ》、此句今本の訓にコロモサラセリ〔七字傍線〕とあるはわろし、又新古今にころもほすてふと改めたるはいみじきひがことなり、タリ〔二字傍線〕は而有《タリ》の意なれど、有とのみかくも常のことなり
一首の意は、考に夏のはじめつ比、埴安の堤の上などに奉し給ひて、香具山あたりの家らに衣をかけほしてあるを見ましてよませ給へるなり、とあるが如くきのふけふまでも春の程にて有しに、はやく春は過て夏のけしきになりけらし、香久山あたりに衣ほしたるはと、時のうつり行ことの早きを感歎し給へる也、夏は萬(3)もののしめりがちなれば、衣などをほすは常の事なるが故なり、
 
 過(ル)2近江(ノ)荒都(ヲ)1時、柿(ノ)本(ノ)朝臣人麿(ノ)作(ル)歌
29 玉手次畝火之山乃《タマタスキウネビノヤマノ》、橿原乃日知之御世從《カシハラノヒジリノミヨユ》、【或云自宮】阿禮座師神之盡《アレマシシカミノコトゴト》、樛木乃彌繼嗣爾《ツガノキノイヤツギツギニ》、天下所知食之乎《アメノシタシロシメシシヲ》、【或云食來】天爾滿倭乎置而《ソラニミツヤマトヲオキテ》、青丹吉平山乎越《アヲニヨシナラヤマヲコエ》、【或云虚見倭乎置青丹吉平山越而】何方御念食可《イカサマニオモホシメセカ》、【或云所念計米可】天離夷者雖有《アマザカルヒナニハアレド》、石走淡海國乃《イハバシノアフミノクニノ》、樂浪乃大津宮爾《サヽナミノオホツノミヤニ》、天下所知食兼《アメノシタシロシメシケム》、天皇之神之御言能《スメロギノカミノミコトノ》、大宮者此間等雖聞《オホミヤハココトキケドモ》、大殿者此間等雖云《オホトノハココトイヘドモ》、春草之茂生有《ハルクサノシゲクオヒタル》、霞立春日之霧流《カスミタツハルビノキレル》、【或云霞立春日香霧流夏草香繁成奴留】百磯城之大宮處見者悲毛《モヽシキノオホミヤドコロミレバカナシモ》、【或云見者左夫思母】
 
近江(ノ)都は所v謂志賀の都なり、考(ニ)云、天智天皇六年飛鳥(ノ)岡本(ノ)宮より近江(ノ)大津(ノ)宮へうつりまし、十年十二月崩給ひ明年の五月大海人大友の二皇子の御單有しに、事平(4)らぎて大海人(ノ)皇子(ノ)命は飛鳥(ノ)清見原(ノ)宮に天の下知しめしぬれば、近江(ノ)宮は古郷と成ぬ、云々同別記に人麻呂は岡本(ノ)宮の比に生れて、藤原(ノ)宮和銅の始奈良へ遷都より前にみまがれしなり、此歌は朱鳥二三年の頃よめるにやといへり、かくて考には端詞を柿本(ノ)朝臣人麻呂過2近江(ノ)荒都1時作歌として、注に柿本云々の七字を今本に時の字の下へつけたるは例に違へり、古本に依て改めつ、とあり、今按ふるに、いづれの本も今本と同じくて、さる本はある事なし、恐らくは私に改めたるなるべし、麿は麻呂の二合字なり、
玉手次《タマダスキ》は枕詞なり○橿原乃日知之御世從《カシハラノヒジリノミヨユ》は、考に神武天皇を申す、日知てふ言は先|月讀《ツキヨミノ》命は夜之食國《ヨルノヲスクニ》を知しめせと有に對て、日之《ヒノ》食國を知ますは大日女《オホヒルメノ》命也、これよりして天つ日嗣しろしをす御孫《ミマ》の命を日知と申奉れり、紀に神聖など有は、から文體に字を添しにて、二字にてかみ〔二字右○〕と訓也、聖の字に泥て日知てふ言を誤る説多かり、といへるが如し、精しくは別記に云、從は古言にヨリ〔二字傍線〕を略《ハブ》きてヨ〔右○〕といひヨ〔右○〕を通はしてユ〔右○〕といへるにて即(チ)ヨの意也、或本の自宮《ミヤユ》も同じ意他、集中に或云又は一云とあるは、或本云一本云の義也、橿(ノ)字家本昌本活本等にもかくかけり、又卷九【十九左】に橿實之獨歟將宿《カシノミノヒトリカヌラム》とあるも、此字樣を用ゐたり、こは漢唐以來り俗字な(5)り、其證は萬葉集文字辨證に出しおけり〇阿禮座師《アレマシシ》の阿禮は生《アレ》也、【古事記傳卷十に云|阿禮《アレ》は現《アラ》と通へり、此身の現《アラハ》るゝなり、されば阿禮は子に就て言、又|宇牟《ウム》は母に就たる言なる故に、子に就ていへば宇麻流《ムマル》といふ所《ル》v生《ウマ》の意なり、】此以下六句は、神武天皇よりこなた生《アレ》つぎましヽ御孫(ノ)命は、專(ラ)大倭(ノ)國に宮敷《ミヤシキ》ましたるをいふ、○神盡《カミノコトゴト》、神とは天皇を崇《アガメ》て申す也、此は御代々々の天皇をいふ、盡の字今本に書と作《カキ》て、舊訓にアラハス〔四字傍線〕とあり古本どもいづれも同じ、また仙覺がさばかり多くの古本を集めたりしにも、此に異同はあらざりし事、仙覺抄のおもむきにてしらる、こははやくより誤り來しものとみゆ、萬葉考に一本に盡と有といへるは、僻案抄に依りたるなれど、其は何本なるか、余が見し本どもにはさる本あることなし、【略解または燈に、一本盡に作るといへるも、別にさる本あるにはあらず、考に依りていへるなれば、猶僻案抄の説なり、】されど書は盡の誤なることはいちしるければ今意改す、但し考には盡にても穏ならず、盡は御言の二字を誤れるなりとて、神之|御言《ミコトノ》と改めたり、これも僻案抄の説に依りたるなり、本居翁の玉(ノ)小琴には盡(ノ)字に改て、注に神武天皇より此かた、御世々々の天皇こと/\く大倭(ノ)國に宮しきいましゝよし也といへり、此説よろし、○樛木乃《ツガノキノ》は、つぎ/\の枕詞也、冠辭考には都賀《ツガ》の木は黄楊《ツゲ》の事ならんといへれど、恐らくは非ならん、荒木田(ノ)嗣興の萬葉品類鈔に、ツガノキ〔四字傍線〕は集中に刀我之樹《トガノキ》とも詠るものにて、鳳尾松《モミノキ》の屬にて、葉(6)は鳳尾松より細かなるものなり、俗に栂の字を用といひ、又曾槃の国史艸木昆蟲攷にも、今ツガノキ〔四字傍線〕ともトガノキ〔四字傍線〕ともいひて、常に深山に生て葉は樅《モミ》に似ていとこまかにして、しゞに生ひたり、其材も樅に似ていとこまかにして良材也といへり、是然るべし、今屋造に用ゐる都賀柱《ツガバシラ》といふもの是ならん、但し樛の字を用ゐたるは何の故なるか詳かならず、周南の樛木とは其義自別なるべし、○彌繼嗣爾《イヤツギツギニ》、いやはいよ/\なり、卷二【三十九左】に彌年放《イヤトシサカル》、卷五【四右】に伊與余麻須萬須《イヨヽマスマス》など猶多し、○所知食之乎《シロシメシシヲ》、此乎〔右○〕の辭いと力あり、下の倭乎置而《ヤマトヲオキテ》云々平山乎越《ナラヤマヲコエ》云々とあると三つの乎《ヲ》は、思の外の事せさせ給ひしにおどろける意を示せるものなり、かゝる調べは此朝臣ならではなし得まじきなり、しかるを考に或本の食來《メシケル》のかたをとられて、次の倭乎置といふまでつゞく也.今本|食之乎《メシシヲ》と有て、こゝを句とせるよりは一本まさりぬ、といへるはいみじき非也、此乎は下の何方御念食可《イカサマニオモホシメセカ》にかゝれるなり、僻案抄に定本と異本との句義はおなじけれども、定本の句に乎といへるに歎の意を含めば、定本の句優なるべし、といへるさる事なり、【定本とは本文をいひ、異本とは細注をいふなり、】〇天爾滿《ソラニミツ》青丹吉《アヲニヨシ》は共に枕詞也、〇倭乎置而《ヤマトヲオキテ》、おきては此卷の下に飛鳥明日香能里乎置而伊奈婆《トブトリノアスカノサトヲオキテイナバ》、とあるに同じく、其所にとゞめおく意也、○平山乎越《ナラヤマヲコエ》、この句も考には或(7)本のかたをとられたるはいかゞ、さて次の何方《イカサマニ》云々の句のみは本文によられたり、抑本文と或本とは各其傳への異なることなれば、或本によらんとならばすへてを或本によるべきことなり、しかるを或本と本文とを交じへ考へて、吾好めるに隨ひ取捨せるは、古人の歌を私物にせるが如し、必さはすまじきわざになん、○何方御念食可《イカサマニオモホシメセカ》は、遷都をおぼしめし立せ給ひける叡慮のほどを量りがたくあやしみたるなり、さるは御代々々の天皇だちの所知食《シロシメシ》たりし倭を置て、鄙の淡海には何故にか都を遷させ給ひしとの意なり、此所一首の眼目なり、○天離夷者雖有《アマザカルヒナニハアレト》は、天離は夷《ヒナ》の枕詞也、僻案抄に此一句下の天(ノ)下しろしめしけむと云句にかけて見るべし、遷都以前は近江は鄙にてありけれども、此に天下しろしめしゝ後は、一度都となりて榮えしことを含めたるなりとあり、此意也○石走《イハバシ》は石橋《イシバシ》にて、淡海の枕詞也、淺瀬に石を置並べて渡るものにて、石橋の間《アヒ》といふを、あふみ〔三字右○〕にいひかけたる也、○樂浪《サヽナミ》は、地名にて古へ志賀わたりの大名なりしなり、故に古書にはさゝ波の志賀さゝ波の平山、さゝ波の栗林《クルス》、さゝ波の合坂《アフサカ》山など、此わたりの地名に冠らせていへり、さて樂の字をサヽ〔二字傍線〕とよめるは、卷七【四十右】に神樂聲浪《サヽナミ》とあるがもとにて卷二【二十四右】には神樂浪《サヽナミ》ともかけり、こは神樂《カミアソビ》をする時に、人々のサアサアと(8)唱へ囃《ハヤ》す事あるが故なり、さるからに神樂聲と聲の字をそへてかけり、さて後には聲の字を省(キ)て神樂とかき、又省(キ)て樂とのみもかけるなり、集中に喚犬迫馬鏡《マソカヾミ》とも犬馬《マソ》鏡ともかけるが如き類、いと多し、上巻に辨じたる大丈夫を大夫とも丈夫ともかけるも此例なり、こと/”\くは萬葉集讀例に集めおきたり、○大津宮《オホツノミヤ》は、今の大津也、所知食兼《シロシメシケム》、この兼《ケム》は上の可《カ》の辭のうちあひ也、こゝにて段落とすべしと燈にいへるは、さる事なり、○天皇之神之御言能《スメロギノカミノミコトノ》は、天智天皇を指し奉れり、荒木田久老の説にスメロキ〔四字傍線〕とは遠祖《ミオヤ》の天皇を申奉る稱なるを、皇祖《ミオヤ》より受繼《ウケツギ》ませる大御位につきては、當代をも申す事ありといへり、猶下に云べし、御言《ミコト》は命《ミコト》にて、命をミコト〔三字傍線〕と訓ずるは即(チ)御言の義なるべし、○大宮《オホミヤ》者云々雖聞《キケドモ》は、、豫《カネ》て聞《キヽ》たること雖云《イヘドモ》は人の今まのあたりに云ことなり、これをただ調べにつきて言を換たるのみと思ふは細《クハ》しからず、さてかく同じおもむきの言を重ねいへるには、其意を強く聞せむが爲にて、後世の人の歌の如くいたづらに重ねいへるにはあらず、〇春草之《ハルクサノ》云々、考には或本のかたを採《トリ》て、注に春霞といひ、又夏草といふは、時違ひつと思ふ人有べけれど、こは此宮の見えぬをいかなる事ぞと思ひまどひながらをさなくいふなれば、時とも違へて思ふこそ中々あはれなれ、とあれどわろし、燈に春草之《ハルクサノノ》(9)云々は、大宮の草の高きにかくれてみえぬさまになしていへる也、霞立《カスミタツ》云々は、春日のかすみて大宮のみえぬさまになしていへる也、大宮の見えぬ事はいさゝかもいはず、たゞかくのどかにいふ古人の詞づくりの至妙よく/\味はふべし、之《ノ》もじふたつわざとかろ/\とみゆるやうの手段いふばかりなし、まことは大かた大宮のあるを、見えぬよしになして詞をつけられたる、げに此ぬしのしるしは見ゆかし、或云に二句ともに香《カ》もじあるは、理はさるべき事のやうなれど、本行のかたまさる事雲泥也、とあり、比説よろし、又玉(ノ)小琴にも本行のかたをよしとして、其説に春草し茂く生たりと訓べし、之《シ》はやすめ詞也、さて此二句は宮のいたく荒たる事を歎きて云也、次に霞立云々は只見たるけしきのみにて、荒たる意を云には非ず、春日のきれる百磯城之《モヽシキノ》云々とつゞけて心得べし、春草之云々と霞立云云とと同意に並べて見るはわろし、一本の趣とは異也、一本のかたは春日と夏草と時節の違へるもわろし、二つの疑ひの香《カ》も心得難し、とあり、正辭云、春草之云々と霞立云々とを、別々になしたるは非也、猶並べ見る説に従ふべし、さて按ふるに、近江(ノ)都の宮殿は、壬申の乱に燒亡して、此時は無りしなるべし、さるを此はわざと春草之云々霞立云々といひて、さばかり嚴《イカメ》しかりし宮殿も、今は跡形もなくなり(10)しよしを歎きたるならん、但し壬申の乱に焼亡したりといふ事、史には見えざれとも、弘文天皇の曾孫淡海三船の天平勝寶三年に撰べる懐風藻の作に、天智天皇の文學を好み給へるよしを述て云る文中に、當2此之際1宸翰垂v文、賢臣献v頌、雕章麗筆非2唯百篇1、但時經2亂離1從2※[火+畏]燼〔二字右○〕1、言《コヽニ》念(フ)湮滅軫悼傷v懷、とあり、但し此は文書にのみに就ていひたるなれど其宮城の焼亡推して知るべし、○百磯城《モヽシキ》は、大宮の枕詞也、○見者悲毛《ミレバカナシモ》、此歎辭の毛をば、宮士谷成章のサテモ〔三字傍線〕と譯したるはよく當れり、さてここは悲シイサデモマアといふ意なり、此句、考には或本のかたを採られたるは古書を訂正する法にたかへる事、上文にいへるが如し、其うへこゝは本行のかたまされるものをや、
一篇の大意は、神武天皇以來御世々々の.天皇、大倭(ノ)國にのみ宮敷坐《ミヤシキマシ》けるを、其|舊《モト》の京《ミヤコ》を捨て給ひて、鄙《ヒナ》の近江之國に遷都し給ひけむ事の叡慮のほどこそあやしけれ、今此處に來て見奉るに、其大宮の見えぬは、春草の生ひ茂《シゲ》れる故か、または霞の立隠せる故か、されど春草の茂《シゲ》れるにもせよ、霞の立隠せるにもせよ、舊の如く宮城の立榮えたらんには見ゆべき事なるに、見えざるは、荒壊《アレコボチ》て今は無きことゝおぼゆ、サテモ/\悲シイコトジヤマアといふ意なり、
(11)かくて僻案抄に云、此歌はじめには、神武天皇のひじりの徳まし/\ける叡慮に、大倭(ノ)國を皇居の地と定め給ひしより、繼々久しく帝都の國なりしを、其を捨て近江(ノ)國に遷都し給へる事を几慮の量りがたきよしに云り、これたゞ表には帝都の元由をいひつゞけたるのみに聞ゆれども、裏には神武帝の徳を稱美して、天智帝の遷都の事を諷刺したる意あるべし其情句體の上におのづからそなはれり、もと此遷都の事は天下の百姓不願にして、諷諫の者多く童謡もおほくありしよし日本紀に見えたれば、紀文と此歌の詞とを引合せて眼をつくべし.されば表には遷都を思召立けるは凡慮のはかりがたく去故こそあらめとおもふよしに詠み、次には、近江(ノ)國は天さかるひなにて有けれども、遷都以後は大宮大殿相そなはりて一度郡と賑はひ榮えし意を合みて詠り、しかれども、終には天智天皇御一代にて大宮大殿も皆絶はてゝ、其所の名のみ殘りて春草生ひしげり、皇居の跡とも見えず、只春日のおぼろげなるが大宮所の跡に見ゆれば、感慨堪がたくて悲嘆する意也、此長歌句々相とゝのひ首尾かけ合て、一首の中に盛衰興廢まのあたりにあらはれて、感慨の情きはまりなし、といへり、實に此説の如しよく/\味はふべきなり、史學者等閑に見過《ミスグ》す事勿れ、
 
(12) 反歌
30 樂浪之思賀乃辛崎雖幸有大宮人之舩麻知兼津《サヽナミノシガノカラサキサキクアレドオホミヤビトノフネマチカネツ》
 
雖幸有《サキクアレド》は、辛崎と云をうけてさきくとつゞけたるなり、さきくは日本紀に無恙また平安などの文字をよめり、○麻知兼津《マチカネヅ》は待てども/\待久しくて待堪へぬをいふ、こは辛崎が待堪へぬ意なり、燈にこれを人麻呂ぬしの待かねられたるやうにおもふはあし、辛崎を主によめる歌なればすべて辛崎を主とたてゝ見るべき也、非情の物を有情になしてよむ事常なり、さるをから崎は幸くあれども、大宮人の舟を我まちかねつといふ意に見るときは、雖の字の落居語を成さず、といへるさる事なり、卷二【二十三左】天智天皇大殯之時の歌に八隅知之吾期大王乃大御船待可將戀四賀乃辛崎《ヤスミシヽワゴオホキミノオホミフネマチカコヒナムシガノカラサキ》とあるを合せ見べし、
一首の意は、辛崎は昔のまゝに平安《サキク》あれど、大宮人の乘つれて遊びなどせし舟の、今は待ども寄こねば辛崎が待かぬとなり、
 
31 左散難彌乃志我能《サヽナミノシガノ》【一云比良乃】大和太與杼六友昔人二亦(13)母相目八毛《オホワダヨドムトモムカシノヒトニマタモアハメヤモ》【一云將會跡母戸八】
 
大和田《オホワダ》、代匠紀、考、玉(ノ)小琴、略解等に、神代紀の曲浦《ワタノウラ》を引て、入江の水の淀をいふとあるはわろし、此は拾穗抄に、志我大海《シガノオホワタ》、近江の湖也、此潮水の水は淀む事有とも、昔の都人には又難v逢となり、とあるぞよろしかりける、僻按抄にも大和太は大海といふに同じ、海をわたともいふは常の事也、與杼六友《ヨドムトモ》は、よどむは流れざるをいふ詞也、志賀の海は谷上《タナガミ》川を過て、宇治に流れ出てよどまぬ水海なればかくよめりといへり、かくて燈に此事を猶細はしくいへり、其説に、神代紀に曲浦とわたのうらとよめるによりて、和太は入江の水の淀をいふと古注に見えたり、此説非也、もと淀まぬ水にむかひてこそよどむといふ詮もあれ、もとより淀なるをよどむとはいふべき事にあらぬをや云々、今思ふに和太は海を和太といふに同じく渡の義なるべし、大和太は大渡なるべし、大和田と云所三代格にも見え、又淀【山城】に大渡などもいふ、曲浦ももとおのづからわたるに宜しきよりの名にもやあるらん、いづれにもあれ、この大和太の水はよどむ世なく勢多のかたへ流るゝが故に、たとひ此水のよどむ世はありともと.もとよりあるまじき事を設ていふなり、とあり、こ(14)れ等の説に從ふべし、本集卷二十【四十九右】に爾保杼里乃於吉奈我河波半多延奴等母伎美爾可多良武巳等都奇米也母《ニホドリノオキナガガハハタエヌトモキミニカタラムコトツキメヤモ》、とあるも、絶まじき河の水の絶る事ありとも、君にかたらん事はつきぬといふにて、こゝと全くおなじおもむきの歌なり、合考すべし、一本に志我能を比良乃とある、比良も地名なれば、いづれにてもあるべし、○昔人二《ムカシノヒトニ》は、大津の宮人をさしたるなり.〇亦母相目八方《マタモアハメヤモ》は、其世の人に又逢はむや逢ふ事はあるまじと云意也、や〔右○〕は反語にて意のうらへかへる辭、も〔右○〕は歎辭なり、一云|將會跡母戸八《アハムトモヘヤ》は、母戸《モヘ》はおもへのお〔右○〕を省ける也、逢はむと思ふや逢はむとは、思ふまじき也との意也、○考に此句をば一本のかたをとり、二(ノ)句の志我熊は本文に依りたるは、例のさかしらわざなり、
一首の意は、志我の大和太即(チ)湖の水のもしよどむ世はありとも、過にし昔の人にふたゝび逢ふ事ありとはおもふまじき也との意にて、上の歌の船まちかねつをうけて、いつまで待どもあふ事はなきよしをいへるなり、
 
 高市古人感2傷(テ)近江(ノ)舊堵(ヲ)1作(ル)歌 或書云|高市連黒人《タケチノムラジクロヒト》
 
32 古人爾和禮有哉樂浪乃故京乎見者悲寸《イニシヘノヒトニワレアレヤサヽナミノフルキミヤコヲミレバカナシキ》
 
(15)高市古人は或書に高市連黒人とあるこぞ正しかりける、今本は歌の初句をフルヒトニとよみ誤りたるより、さかしらに改めたるものなるべし、○堵は都と通ずるよしありて借用ゐたるなり.其由は萬葉集訓義辨證に辨へおけり.集中に堵を都の義に用ゐたるは四所あり、○或書云云の八字今本に大書とせるは非なり、古本ども皆小書なり、今これに從ふ、古人爾和禮有哉《イニシヘノヒトニワレアレヤ》、此句今本にフルヒトニワレアルラメヤと訓るは非なり、家本昌本にはイニシヘノヒトニワレアレヤと讀て、左の方にフルヒトニワレアルラメヤと點ぜり、僻案抄に引ける古本これに同じ、有哉《アレヤ》はあればやの意なり、古《イニシヘ》の人とは大津(ノ)宮の世の人をいふ、其世の人にてわれあらば、此故京を見て悲しかるべき事なれど、さもあらぬにかくかなしきはいかなる事にやと、自(ラ)いぶかるなり、悲寸《カナシキ》のきは上のやの結びなり卷七【三十九左】に鹽滿者入流礒之草有哉見良久少戀良久乃太寸《シホミテハイリヌルイソノクサナレヤミラクスクナクコフラクノホキ》とある有哉もあればやの意にてさてそれを寸《キ》と結べるも同例なり、
一首の意は、むかしの都人ならば、かく舊都の荒たるを見て悲しみおもふもさることなれど、我はむかしの都人にもあらぬに、いかでかくは悲しくおぼゆる事かと、我と我心をあやしめるやうによみなしたるなり、
 
(16)33 樂浪乃国都美神乃浦佐傭而荒有京見者悲毛《サヽナミノクニツミカミノウラサビテアレタルミヤコミレバサムシモ》
 
さゝ浪は此わたりの大名なれば、さゝ浪の國といふ也、古(ヘ)は吉野の國、泊瀬の國などもいへり、○國津美神《クニツミカミ》は、卷十七【十五左】に美知乃奈加久爾都美可未波《ミチノナカクニツミカミハ》云云ともありて、其所を知坐《シリマス》神をいふ、○浦佐備而《ウラサビテ》は、浦《ウラ》は借字|裏《ウラ》の意にて心をいふなり、佐備《サビ》は、考に國つ御神の御心の冷《スサ》び荒びて、遂に世の亂をおこして都も荒たりといふ也、といへるが如し、又同別記に、古事紀に遠須佐之男《ハヤスサノヲノ》命云々、自我勝云而《オノヅカラワレカチヌトイヒテ》於|勝佐備《カチサビニ》離《ハナチ》2天照大御神之|營田之阿《ツクダノア》1埋《ウメ》2其|溝《ミゾ》1云々とあるは、此神誓に勝給(ヘ)る御心の進める勢(ヒ)に荒び給ふを、勝佐備《カチサビ》と云て進み荒ぶる意なりとあり、【採要】これにて佐備《サビ》の意を知べし、
一首の意は、さばかり榮えたりし都も、神の御心の荒びまして暫がほどにかく荒たるを見れば、いと/\悲しきことよと也、
 
 幸(セル)2于紀伊(ノ)國(ニ)1時.川島(ノ)皇子(ノ)御作歌 或云|山上臣憶良《ヤマノヘノオミオクラ》
 
34 白浪乃濱松之枝乃手向草幾代左右二賀年乃經去良(17)《シラナミノハママツガエノタムケグサイクヨマデニカトシノヘヌラム》【一云年者經爾計武】
 
川島(ノ)皇子は天智天皇の皇子也、或云の八字、今本大書とす、今諸古本に從て小書とす、此歌卷九に再び出て、山上歌と有て、左注に或云河島皇子御作歌としるせり、白浪乃濱松之枝乃《シラナミノハママツガエノ》、この句を考に白浪の濱といひては詞とゝのはず、浪は神の誤れるならん、卷九に同國に白神之礒とよめり、又今本に松之枝とあるはよしなし、九の卷なる松之木《マツノキ》も古本には松之本《マツガネ》とあり、こゝは根を枝に誤し也、といへるは非也、既に畧解に宜長翁の説を載て、古事記八千矛(ノ)神の御歌|幣都那美曾爾奴伎宇弖《ヘツナミソニヌギウテ》は邊浪磯《ヘツナミソ》に脱棄《ヌキウテ》也と師説也、さて浪のよる機などゝこそいふべきを、直に浪磯とては言つゞかぬに似たれど、こゝの白浪の濱松が枝とよめるも同じさま也、土左日記の歌に、風による浪のいそにはともよめり、といへりとて考の説には從はざりき、しかるを燈には此宣長翁の説を破りて考の説に依りたれど、其は強説なり、正辭按ふるに、此類のいひなしはいと多かる事也、今一二出して考及び燈の説の非なるよしを辨ふべし、其は此卷【三十左】に久堅乃天之四具禮《ヒサカタノアメノシグレ》、卷三【十二右】に天雲之雷《アマグモノイカヅチ》、卷二【十三左】に大船之津守《オホフネノツモリ》、卷六【四十二左】に露霜乃秋《ツユシモノアキ》、卷十【八右】に鶯之春《ウグヒスノハル》などある是也、濱(18)は浪のよする所なれば、其を打かへしに白浪乃濱とつゞけ、しぐれは天よりふりくるものなれば、天の四具禮といひ、雷は雲に鳴ものなるをもて、天雲の雷といへるなり、其他は準へて知(ル)べし、是皆同例なり、又松之枝の枝を根の誤とするも強たることなり、諸本いづれも枝とあるをや【卷九なる松之木も、諸本皆同じくて、本とかける本あることなし、】又仙覺抄に引ける濱成式に載たるにも、旨羅那美能波麻々都我延能佗牟氣倶佐《シラナミノハマヽツガエノタムケグサ》云々とあり、これも一(ツ)の證とすべし、○手向草《タムケグサ》は手向種《タムケグサ》にて、手向の具といふと考にいへり、古(ヘ)旅ゆくには、其所の神に幣帛《ヌサ》を手向て往來の恙なからん事を祈るものなれば、今此松が枝に幣帛とりかけあるを見てよめるなるべし、又は下にいふ意か、○幾代左右二賀《イクヨマデニカ》云々は、昔此濱松のあたりにて手向せしことは、今は年ふりにたれど松は年久しきものなれば、今より後も猶幾代までにか經行らんと云なり、又一云のかたにては其意少しくかはりて、昔手向ぐさをかけたりし此松は、その時より今に至るまで幾代ばかりか年はへにけむ、と云意也、此本行の歌の意をうまく解得たるものなし、いづれも本行をも一云のかたの意と同じおもむきに解けるはいまだし、左右をマデ〔二字傍線〕とよむは、眞手《マテ》の意にて、正しくは左右手と書べきを、手を省ける也、賀は濁音の字なれども清音にも用ゐる也、さて此卷の上に斉明天皇の紀(19)伊の温泉に幸の事を載せたり、天皇は川島(ノ)皇子の御祖母にて御坐《オハシ》つれば、其幸のをり此松のあたりにて手向せさせ給ひし事などありしに、其を思ひ出てよみ給へるにもやあらん、
一首の意は、その昔手向し給ひし人は、今は此世に御坐《オハシ》まさぬを、松は今に榮えありて、此行末猶幾代までか、經《ヘ》ゆくらんと、其松につけて古人をしのべるなり、
 
 日本紀(ニ)曰、朱鳥四年庚寅秋九月、天皇幸2紀伊(ノ)國(ニ)1也、
 
略解に云、紀を見るに持統天皇四年の幸あり、則朱鳥五年也、こゝは誤れり、今按ずるに此説非也、其は此下に紀を引て朱鳥六年壬辰、朱鳥七年癸巳.八年申午、又卷二にも朱鳥五年辛卯云々と有、これらいづれも今本の紀と一年の差(ヒ)あり.抑朱鳥の號は、今本の書紀には天武天皇の御代の丙戌の年唯一年のみなるを、これを持統天皇の御代に係て用ゐたりし事、古書どもに其例いと多かり、されど其は皆丙戌を元年として、次々に數へたるものなるを、此集なるは持統天皇即位の丁亥を朱鳥元年として數へたるにて、諸説と異也、但し本集なるは舊本の日本紀に依たるものなるべくおぼゆ【諸書に丙戌を元年として數へたるは、猶今本の年紀に依たるものなるべし、】又伴(20)信友の説に日本書紀の書(ノ)字はもとあらざりしを後人加へたるなるべし、と云り、此説に依て考ふるに、本集に引たるには皆書(ノ)字なくて日本紀とのみあり、唯卷一に二所書(ノ)字あるのみ也.但し此二つのうち一は古葉略類抄に載たるには書(ノ)字なし.これによるに此ニつは後によくも心得ぬ人の、今本の日本書紀によりて傍に書(ノ)字をかき添たるを、後また寫す人の本文の字の脱たるならむおもひて遂に本行に加へしなるべし、此等の事は別紀年紀攷に精細しくしるしおきたればひらき見べし、
 
 越(ル)2勢能《セノ》山(ヲ)1時、阿閉《アベノ》皇女(ノ)御作歌
 
35 此也是能倭爾四手者我戀流木路爾有云名二負勢能山《コレヤコノヤマトニシテハワガコフルキヂニアリトフナニオフセノヤマ》
 
略解に宣長翁の説を出して云、此《ゴレ》や是《コ》のの辞は是《コ》のはかのといふ意也、すべてかのといふべき事をこのといへる例多し、さて上の此は今現に見る物をさしていふ、かのとは常に聞居る事或は世にいひ習へる事などをさしていふ、これやかの(21)云々ならんといふ意也、此御歌にては、此山や倭にして我戀奉る夫《セ》の君【日並知皇子】の、そのせといふ言を名に負る、かの紀路にありてかねて聞居るせの山と云意也、とあるが如くにて、これや倭にて聞をりし、かの勢の山ならんとなり、一皆の意もこれにて聞えたり、さて燈に此《コ》は旅中より夫《せ》の君におくらせ給ひし御歌なるべしといへり、さなるべし、勢(ノ)山は、孝徳紀に畿内の堺を定むる所に、南(ハ)自2紀伊(ノ)兄《セノ》山1以來とある山にて、伊都(ノ)郡背山村にありとぞ、
 
 幸(セル)2于吉野宮(ニ)1之時、柿(ノ)本(ノ)朝臣人磨(ノ)作歌
 
36 八隈知之吾大王之《ヤスミシシワゴオホキミノ》、所聞食天下爾《キコシヲスアメノシタニ》、國者思毛澤二雖有《クニハシモサハニアレドモ》、山川之清河内跡《ヤマカハノキヨキカフチト》、御心乎吉野乃國之《ミコヽロヲヨシヌノクニノ》、花散相秋津乃野邊爾《ハナチラフアキツノノベニ》、宮柱太敷座波《ミヤバシラフトシキマセバ》、百磯城乃大宮人者《モヽシキノオホミヤビトハ》、船並※[氏/一]旦川渡《フネナメテアサカハワタリ》、舟競夕河渡《フナギホヒユフカハワタル》、此川乃絶事奈久《コノカハノタユルコトナク》、此山乃彌高良之《コノヤマノイヤタカヽラシ》、珠水激瀧之宮子波《イハヾシルタギノミヤコハ》、見禮跡不飽可聞《ミレドアカヌカモ》、
 
(22)今本作の下の歌(ノ)字を脱せり、今諸古本によりて補ふ、略解、燈、並に目録によりて歌(ノ)下に二首並短歌二首の七字を加へたるは非也、拾穂抄に此七字あるは、さかしらに加へし也、此卷にはすべて歌數の文字はしるさぬ例なるをや、たゞ上の三山歌の下に一首とあるのみなれど、元暦校本には此二字もなし又今本も目録のかたには此二字無きなり、本文は後人の加へたるなるべし、
八隅知之《ヤスミシヽ》は枕詞也、此言の意は上文中皇命の御歌の注に辨へたるが如し○所聞食《キコシヲス》は、所知食《シロシメス》と同じく此國を知らし給ふをいふなり、語意の釋は下の藤原宮之役民の歌の注に引く記傳の説に詳なり、○國者思毛《クニハシモ》、しもは其物其事を取出てゝ云辭也、○澤二雖有《サハニアレドモ》、澤は借字にて物の多きをいふ、○山川之《ヤマカハノ》は、山と川とをいふ、かは〔二字右○〕をすみて唱ふべし、濁る時は山にある川といふ義にて、川のみのことゝなるなり、〇清河内跡《キヨキカフチト》、河内は即(チ)河の内にて川のめぐれる内をいふ、かう〔二字右○〕の約めふ〔右○〕なればかふち〔三字右○〕といふ、○御心乎吉野乃國《ミコヽロヲヨシノノクニ》は、冠辭考に吉野をよしと見をなはして、御心を慰め給ふてふ意にていひかけたる也、といへるは非也、もし此意ならば御心乃〔右○〕といはでは聞えず、こは御心をよすといふ意のつゞけにて其|寄《ヨス》をよしといひ下したるなり、後世の歌にえぞやましろのなどいひつゞけたる類地、語例は神功紀に御(23)心廣田《ミコヽロヒロタノ》國、御心長田《ミコヽロヲナカタノ》國などある是也、さて古(ヘ)は郡郷などをも國といへるは常の事なり、○花散相《ハナチラフ》は、此字の意にて花の散相《チリアフ》なり、あまた散をいふ、きらふは霧相《キリアフ》、ひこつらふは、つ〔右○〕は助字にて引相《ヒキアフ》なり、此類いづれも此意を以て解くべしこれらのラフ〔二字傍線〕をル〔傍線〕の延言とのみ心得たるは細しからず、○秋津乃野邊《アキヅノノベ》は、蜻蛉野《アキヅノ》也、此野の名のもとのおこりは雄略天皇紀に見えたり、○宮柱太敷座波《ミヤバシラフトシキマセバ》、太《フト》は廣く大きなるを云|稱辭《タヽヘコト》、敷《シク》は知《シリ》にて知《シ》ろしめす意の辞也、此は吉野の離宮に御坐ますをいふ、卷二【二十八右】眞弓崗爾宮柱太布座《マユミノヲカニミヤバシラフトシキイマシ》ともあり、今本柱を桂に誤る、今活本及諸古本に依て改む、〇百磯城乃《モヽシキノ》は枕詞、○大宮人者《オホミヤビトハ》は、從駕の臣《オミ》だちをいふ、○船並※[氏/一]《フネナメテ》は船ならべてにて數の多かるをいふ、○舟競《フナギホヒ》云々は臣だちの朝夕に分番交代して兢ひ勤むるをいふ、○夕河渡《ユフカハワタル》此句今本にワタリ〔三字傍線〕と訓たるはわろし、ワタル〔三字傍線〕と訓切べし、こゝにて段落なり、さて次の此川乃云々と更に句を起したるなり、○此川乃《コノカハノ》云々は、此川の水の絶ること無きが如く、此山の彌《イヨヽ》高く成重りて崩るゝことの無きが如く、大宮の.榮えまさむことを祝《ホギ》たるなり、考、略解に高良之の高の下に加(ノ)字を落せしかといへるはいまだし、かゝる所に文字を省ける例集中にいと多し、今−二を出して示すべし、卷三【二十七右】に水乃當□烏《ミヅノタギチゾ》、同卷【三十九左】に開□乃門從者《アカシノトニハ》、卷七【十一右】に與杼湍(24)無□之《ヨトセナカラシ》、同卷【四十二右】に失□留《ウセヌル》などある是也、猶此文字を省てかけるには、種々の書法あるを、こと/\く萬葉集讀例に集めおきたれば往見すべし、○珠水激《イハヾシル》は瀧の枕詞也、かくかけるは水の岩に矚れて玉の如くなりて散亂るゝ意をもて也、激は水の走り流るゝ意の字なり、○瀧之宮子《タギノミヤコ》は、略解に今夏箕河の下に宮の瀧村といふあり、古へ此宮の在し跡なるべしとあり、貝原篤信の吉野名勝圖に、宮瀧村は川むかひに有、夏箕《ナツミ》より三町ほどゆけば宮瀧あり、西河《ニシカウ》より、此地まで一里除あり、山谷めぐれり、宮瀧は瀧にあらず.四方に大岩あり其間を吉野川ながるゝなり、両岸は大なる岩なり、岩の高さ五間ばかり屏風を立たるが如し、兩岸の間川の廣さ三間ばかり、せばき所に橋あり、大河爰に至てせばき故河水甚ふかし、其景甚妙なる所也といへり、○見禮跡不飽可聞《ミレトアカヌカモ》は、其景色の勝れたるを賞讃せるなり、
一篇の大意は大王のしろしめす天(ノ)下に國は多くあれども、吉野は山も川もすぐれたる所なりとて、御心を寄《ヨセ》給ひて此に宮敷御坐《ミヤシキオハシ》ませば、百の臣だちも朝夕に舟競ひつゝ、われおとらじと仕へ奉る事なるが、此|瀧《タギ》の宮處《ミヤコ》は、此川の絶ゆる事無が如く、此山の彌高きが如く彌遠《イヤトホ》長く榮えゆくらむと祝《ホギ》奉る意なり、【燈には歌の意をあらぬ事に解き曲げたり、これのみならず燈に歌の意を解けるには.牽強附會の説多し、ゆめまどはさるゝ事勿れ、】
 
(25) 反歌
37 雖見飽奴吉野乃河之常滑乃絶車無久復還見牟《ミレドアカヌヨシヌノカハノトコナメノタユルコトナクマタカヘリミム》
 
常滑乃《トコナメノ》は、とこしなへになめらかに流るゝを云、卷九【十一右】に妹門入出見河乃床奈馬爾《イモガカドイリイヅミガハノトコナメニ》、三雪遺未冬鴨《ミユキノコレリイマダフユカモ》などあり、乃は如くの意なり、
一首の意は、いく度見ても飽たらぬ此吉野の宮は、そこなる何のとこしなへになめらかに流れて絶えぬ如く、絶えず行かへり見むとなり、
 
38 安見知之吾大王《ヤスミシシワゴオホキミ》、神長柄神佐備世須登《カムナガラカムサビセスト》、芳野川多藝津河内爾《ヨシヌガハタギツカフチニ》、高殿乎高知座而《タカドノヲタカシリマシテ》、上立國見乎爲波《ノボリタチクニミヲスレバ》、疊有青垣山《タヾナハルアヲカキヤマノ》、山神乃奉御調等《ヤマツミノマツルミツギト》、春部者花挿頭持《ハルベハハナカザシモチ》、秋立者黄葉頭刺理《アキタテバモミヂカザセリ》、【一云黄葉加射之】遊副川之神母大御食爾仕奉等《ユフカハノカミモオホミケニツカヘマツルト》、上瀬爾鵜川乎立《カミツセニウガハヲタテ》、下瀬爾小網刺渡《シモツセニサデサシワタス》、山川母依※[氏/一]奉涜神乃御代鴨《ヤマカハモヨリテツカフルカミノミヨカモ》、
 
(26)神長柄《カムナガラ》は、神にて坐(シ)ますまゝにといふ意にて、天皇は現御神と申て神にて御坐が故なり、考に書紀孝徳紀の注を出していへる説はわろし、其由は別紀にいふ、舊訓にカミ〔右○〕ナガラとあれど、卷五【十三左】に可武奈何良《カムナガラ》卷十七【四十左】に可無奈我良《カムナガラ》卷十八【二十一右】に可牟奈我良《カムナガラ》などあるによりて、カム〔右○〕ナガラと訓べきなり、此言|可美《カミ》云々又は加微《カミ》云々などかけることはあることなし、○神左備世須登《カムサビセスト》は、左備《サビ》は進《スサ》びにて、天皇の御心の進《スサ》びませるよし也、此事上の黒人の歌の注にいへり、世須《セス》は爲《ス》の敬語、登《ト》はとての意也、下の奉御調等《マツルミツキト》云々仕奉等《ツカヘマツルト》云々とある等《ト》も同じ、此|等《ト》集中にいと多し、すべて古言にはとて〔二字傍線〕と云(フ)辭は無くて皆|等《ト》といへり、記傳卷十四【十四左】にも凡て登弖《トテ》と云は奈良のころ以前《マデ》は無きことば也、といへり、但鎭火祭(ノ)詔詞に隱坐事奇《カクリマスコトアヤシ》【止※[氏/一]】見所行《ミソナハ》【須】時《トキ》云々とあるはいとめづらし。※[氏/一]は後人の私に増したるならん、○高知座而《タカシリマシテ》、上の太敷座と同意にて、高も高く大きなるを云稱(ヘ)辭也、○疊有《タヾナハル》は、枕詞也、冠辭考に有は付の誤にて、疊付《タヾナヅク》なりといへるはさること也、疊有《タヾナハル》にても聞えぬにはあらぬど、古事紀の倭建(ノ)命の御歌に、夜麻登波久爾能麻本呂婆《ヤマトハクニノマホロバ》、多々那豆久阿袁加伎夜麻碁母禮流《タヾナヅクアヲガキヤマコモレル》云々、本集卷六【十三左】に芳野《ヨシノ》(ノ)離宮者立名付青墻隱《ミヤハタヾナヅクアヲガキゴモリ》、卷十二【三十八左】に田立名付青垣山《タヾナヅクアヲガキヤマ》、などあるにより猶|疊付《タヾナヅク】とすべし、さてかくつゞくる意は、冠辭(27)考に疊《タヾナハ》り著《ツク》山てふ也といへるが如くにて、山の並重《ナミカサナ》れるをいふ也、しかるに古事紀傳廿八【四十七右】廿九【四右】には那豆岐田《ナヅキダ》の那豆岐《ナヅキ》と同語として、注に多々耶豆久《タヾナヅク》はたゞなはりなづくにて、四面《ヨモ》にたゞなはり周《メグ》れる山の其中なる國に靡附《ナミツキ》たるをいふ、靡《ナミ》とは必しも其形は靡《ナビ》かねども依附《ヨリツク》を云也とあり、此説はいかゞなり、那豆岐田《ナヅキダ》の耶豆岐とは別義なるべし、但し那豆岐といふ言を地名にいへるは出雲風土紀に脳礒《ナヅキイソ》脳嶋《ナヅキシマ》などいふ、地名あり、猶考ふべし、和名抄に脳和名奈都岐《ナツキ》とあり、○青垣山《アヲガキヤマ》は、青山の垣のごとくにめぐれるをいふ、○山神乃《ヤマツミノ》、やまつみは山つもちの意にて山を領し給ふ神をいふ、海(ノ)神をワタツミ〔四字傍線〕といふも同じ、○奉御調等《マツルミツギト》、云々は、山の花|黄葉《モミヂ》を山(ノ)神の天皇に奉る御調と云なせるなり、奉(ノ)字舊訓にタツルとあるもさることなれど、【奉を古言にタツル〔三字傍線〕とばかりもいひしことあり、】猶マツル〔三字傍線〕とよめるかた穩やかなり、○春部者《ハルベハ》は、春者《ハルハ》也、玉(ノ)小琴に此べは方《ベ》の意と誰も思ふめれど、春にのみいひて、夏べ秋べと云ことなければ、方《ベ》には非ず、春榮《ハルバエ》を約めたる言也、故(レ)此言は春の物毎に榮《サカユ》る事によれる時にのみ云(ヘ)り、とあるはかへりてひがこと也、其は夕べといふは常なれど、朝べとはいはず、春日《ハルビ》といひて、夏日《ナツビ》秋日《アキビ》とはいはず、其は自から詞のよりこぬのみのことにて、別に意あるにはあらず、春べも準へて知(ル)べし、但し此|部《ベ》を方《ベ》又は(28)邊《ベ》の意とするはわろし、部《ベ》は輕くそへていふ詞なり、漢文に池上(ノ)鳥橋上(ノ)霜などいふ上(ノ)字に同じ、記傳十二【廿六右】に山上《ヤマノウヘ》は峯を云に限らず、又山(ノ)邊《ホトリ》の意にも非す、たゞ山と云こと也、山べと云も同じ、其他海べ岡べ野べなども皆たゞ海岡野と云事にて、邊《ホトリ》の意にはあらず、とあるぞよろしかりける、○花挿頭持《ハナカザシモチ》、燈に山上に花の咲たるをば山(ノ)神の花をかざし持たるに見なしていふ也、持は添たるのみ也、といふ説【考略解にかくいへり】あれど、しからず、これ山(ノ)神の貢と奉り給ふさまにいふなれば、添たるばかりにあらず、さゝげもちて奉るを云、といへり此意也、○黄葉頭刺理《モミヂカザセリ》、これも天皇をなぐさめ奉らむとての神の御心なる由になしいへる也、こゝにて段落也、次(ノ)句よりは川の神の事をいふ、○遊副川之神母《ユフガハノカミモ》は、仙覺抄によしのにある川の名也、かしこにはゆがはと云とかや、これおなじこと歟といへり、是然るべし、夕川の意とするはわろし、僻案抄に、此上に五言の句脱たり、といへるは非なり、古(ヘ)の長歌にはかゝる句調をり/\あり、○大御食爾《オホミケニ》云々は、天皇の御食《ミケ》の料にせんとてとなり、○鵜川乎立《ウガハヲタチ》、考に立をタチ〔二字傍線〕と訓て、川の上下を斷《タチ》せきて中らにて鵜を飼ものなればなり、といへるは非也、又玉(ノ)小琴に、是は御獵立又射目立などのたて〔二字右○〕と同くて、鵜に魚をとらする業を即鵜川といひて、其鵜川をする人共を立するを云也.と(29)あるもいかゞなり、但し射目立《イメタテ》は、此の説の如く射目人《イメヒト》を立るをいふことなることは卷六【十四右】に野上者跡見居置而御山者射目立渡《ノノベニハトミスヱオキテミヤマニハイメタテワタシ》とあるにて知らるれど、御獵立の立はこれとは別なり.そは此卷の上に朝獵爾今立須良思《アサガリニイマタヽスラシ》、暮獵爾今他田渚良之《ユフガリニイマタヽスラシ》云々、下にも御獵立師《ミカリタヽシ》などありて、御獵せさせ給ふ事《ワザ》をさして立とはいへるにて御獵する人を立るといふにはあらず、されば鵜川乎立も其鵜にて魚をとる事《ワザ》をさしたるなり、おもひまがふべからす、かくて又今一の立あり、そは卷三【四十六右】に吾屋戸爾御諸乎立而枕邊爾齋戸乎居《ワカヤトニミモロヲタテヽマクラベニイハベヲスヱ》、同卷【五十八右】に安積(ノ)皇子薨之時の歌に和豆香山御輿立之而《ワヅカヤマミコシタヽシテ》云々、卷十六【廿九右】に高杯爾盛机爾立而母爾奉都也《タカツキニモリツクエニタテテハヽニマツリツヤ》などあるは、いづれも居置《スヱオク》意なり、しかるを古學者の僻としてこゝも.かしこも一つ意に解むとするは強たる事なり、よく/\、分別して解べきなり、〇小網刺激《サデサシワタス》、此渡をワタシ〔三字傍線〕と訓(ム)はわろし、上の一云|黄葉加射之《モミヂバカザシ》のかたに對へるときは、此をワタシ〔三字傍線〕とよむべけれど、今は本行の頭刺理《カザセリ》と對すれば、此もワタス〔三字傍線〕と語を切るべし、網今本に綱とあるは訳也、各本皆網とある也、和名抄に文選注云、※[糸+麗]【佐天】網如2箕(ノ)形1狹(シ)v後(ヲ)廣(セル)v前名也と見えたり、○山川母《ヤマカハモ》云々、此母は山も川ものも〔右○〕なることはもとよりにて、臣民のみならず、山(ノ)神も川(ノ)神もといふ意なり、○依※[氏/一]奉流《ヨリテツカフル》は、天皇の御徳に靡《ナビ》き依りてなり、○神(30)乃御代鴨《カミノミヨカモ》は、かく山川の神も依り靡き仕奉《ツカヘマツル》を見れば、げに天皇は神にて御坐《オハシ》ます事よと稱嘆するなり、
一篇の大意は、天皇の御心の進みませるまに/\、芳野に宮殿を營み給ひ其樓上に登りまして見そなはし給へば、山(ノ)神は春は花秋は黄葉をもて御心を慰めまつり、又川(ノ)神は朝夕の食物をたてまつりなどす此をおもへば、實に神徳のほどはかりがたしとなり、はじめの長歌には、臣民の勞を忘れて仕奉る事を述べ、此歌には神々までも依り靡き仕奉るよしをいへり、
 
 反歌
39 山川毛因而奉流神長柄多藝津河内爾舩出爲加母《ヤマカハモヨリテツカフルカムナガラタギツカフチニフナデセスカモ》
 
山川もは山(ノ)神川(ノ)神もなり、○多藝津《タギツ》は川のたぎち流るゝをいふ、○船出爲加母《フナデセスカモ》は、船遊びせさせますかとなり、
一首の意は、かく山川の神までも仕奉れるばかりの、尊き天皇の船出遊ばすを見奉るがかしこしとなり、
 
 右日本紀曰、三年己丑正月、天皇幸2吉野宮(ニ)1、八月幸2吉(31)野(ノ)宮(ニ)1四年庚寅二月幸2吉野(ノ)宮(ニ)1、五月幸2吉野(ノ)宮(ニ)1五年辛卯正月、幸2吉野(ノ)宮(ニ)1、四月幸2吉野(ノ)宮(ニ)1者、未v詳2知何月(ノ)從駕(ニテ)作(ル)歌(ナルヲ)1
 
日本書紀を按るに、此後も六年より十一年まで毎年吉野(ノ)宮に行幸あり、
 
 幸(セル)2于伊勢(ノ)國(ニ)1時、留(レル)v京柿(ノ)本(ノ)朝臣人麿(ノ)作(ル)歌
40 嗚呼兒乃浦爾船乘爲良武※[女+感]嬬等之珠裳乃須十二四寶三都良武香《アゴノウラニフナノリスラムヲトメラガタマモノスソニシホミツラムカ》
 
持統紀六年三月伊勢の幸ありて志摩を過給ひし事日本書紀に見ゆ、此をり阿胡(ノ)行宮にもおはしゝなるべし、
嗚呼兒乃捕《アゴノウラ》、今本に兒を見に誤りてアミノウラ〔五字傍線〕と訓り、感十五【九右】に誦詠古歌とて載たる中に安胡乃宇良爾府奈能里須良牟乎等女良我安可毛能須素爾之保美都良武賀《アゴノウラニフナノリスラムヲトメラガアカモノスソニシホミツラムカ》とあるは、即此歌なり、これによりて見は兒の訳とすべし、但し卷十五なる(32)歌の左注に、柿本(ノ)朝臣人麻呂(ノ)歌(ニ)曰愛美能宇良《アミノウラ》と有、さては此兒を見と誤たるも、いと古き時よりのこと也、嗚呼をア〔右○〕の假字とせるは、所謂歎辭のときの聲を借たる也、但しあごの浦といふ所伊勢にはなし、こは志摩(ノ)國|英虞《アゴノ》郡の浦なるべし、○爲良武《スラム》とは、京よりおもひやれるが故なり、○※[女+感]嬬等之《ヲトメラカ》は、從駕の女房だちをさす、※[女+感]嬬といふ字面は、集中にいと多くあるを、※[女+感](ノ)字は字書には無き文字なるから、人の疑ふことにて、萬葉集用字格には、※[女+感](ノ)字の誤なるべしといへり、されど集中に此字を用ゐたること、凡十四所見えたり、これらこと/\く誤るべきにはあらず、岡本保孝翁の説に、こはもと感嬬とかくべきを下の嬬(ノ)字にあやかりて、※[女+感]と女偏をつけたるものにて、嬬は説文に弱也とありて若き女の稱也、感は感動の意にて、春心感動之女と云義にて、少女に充たるならんといへり、是にて年來の疑義氷解せり、感嬬を※[女+感]嬬とかけるは、諸々連字の偏旁を増して、かける事、一の書法にていと多かることなり、其類は萬葉集文字辨證に集めおきたり、猶いはゞこゝの嗚呼も、正しくは烏呼とかくべきを、下の呼にあやかりて嗚ともかける也、是全く同例なり、清の段玉裁曰經傳、漢書、烏呼無v有(ルコト)d作2嗚呼(ニ)1者u、唐石經誤(テ)爲v嗚(ト)者、十之一耳、近今學者、無v不2加(テ)v口(ヲ)作1v嗚(ニ)といへり、○珠裳《タマモ》の珠は美稱なり、考に上に出したる卷十五なる安可毛能(33)須素爾《アカモノスソニ》とあるによりて、こゝをもアカモ〔三字傍線〕とよめるはわろし、〇四寶三都良武香《シホミツラムカ》は、潮にぬれぬらんかといふ意なり、香は疑幹也、
一首の意は、阿胡の浦に船乘すらん女房だちの、珠裳の裾に潮みち來てぬれぬらんといへるにて、官女だちのいまだならはぬことなれば、めづらしとやおもふらんといふ意をかくいへるなり、
 
41 ※[金+刃]著手節乃崎二今毛可母大宮人之玉藻苅良武《クシロツクタフシノサキニイマモカモオホミヤビトノタマモカルラム》
 
※[金+刃]著《クシロツク》は枕詞也、※[金+刃]の字諸本劔とかきてタチハキノ〔五字傍線〕とよめるは、字も訓も誤れり、卷十二【四右】に玉※[金+刃]卷宿妹母有者許増《タマクシロマキネシイモモアラバコソ》、同卷【三十四左】に玉※[金+刃]卷寢志妹乎《タマクシロマキネシイモヲ》などあるによりて※[金+刃]に改む、卷十二なるを舊訓にタマツルギ〔五字傍線〕とよめるは非なり、必タマクシロ〔五字傍線〕と訓べき也.さて久之呂《クシロ》は正しくは釧(ノ)字なれども、古(ヘ)※[金+刃]の字をも久之呂に用ゐたる事他にもあり、但し※[金+刃]は鈕の俗體にて、古(ヘ)皇國にて製造したる文字也常に印鼻也と訓ずる鈕(ノ)字にはあらず、其形の同じきを以て混ずること勿れ、猶委しくは別記にいふ、○手節乃崎《タフシノサキ》は、志摩(ノ)國|答志《タフシノ》郡の崎也、枕詞よりのつゞけは、※[金+刃]《クシロ》を著る手《テ》の節《フシ》といふ意也、※[金+刃]《クシロ》は臂に著るものなれば也、○今毛可母《イマモカモ》は、上の毛は輕く添たる辭也、下(34)の母は歎辭也、○玉藻苅良武《タマモカルラム》、これを諸注詞のまゝに解したるはわろし、此はだゞ宮人だちの濱邊を遊びありくことを形容したるにて、まことに玉藻苅にはあらず、
一首の意は、從駕の宮人だちの、いまだ見なれぬ濱邊などをめづらしみ遊びありくは、さぞかしおもしろきことならんとなり、
 
42 潮左爲二五十等児乃島邊※[手偏+旁]船荷妹乘良六鹿荒島回乎《シホサヰニイラゴノシマベコグフネニイモノルラムカアラキシマワヲ》
 
潮左爲《シホサヰ》、考に潮の滿る時波のさわぐをいふ、爲《ヰ》は和藝《ワギ》の約め也とあるは非なり、左爲《サヰ》は潮の滿る時の音を形容したる詞なり、古事記上に、口大之|尾翼鱸佐和佐和邇控依《オハタスヾキサワサワニヒキヨセ》、本集卷四【十五右】に、珠衣乃狹藍左謂沈《サヰザヰシヅミ》、卷十四【廿三右】に、安利伎奴乃佐惠佐惠之豆美《アリギヌノサヱザヱシヅミ》など有も、其音をうつしたる詞なるを思ふべし、○五十等兒乃島邊《イラゴノシマベ》、此島の事は上の麻續(ノ)王の歌の注に云り、考にいらごは參河國の崎也、其崎いと長くさし出て志摩のたふしの崎と遙に向へり、其間の海門《ウナト》に神島大づヽみ小づゝみなど云島ども有、それらかけて古へはいらご島といひしか、されど此島|門《ト》あたりは世に(35)畏き波の立まゝに常の船人すら漸くに渡る所なれば、官女などの船遊びする所ならず、こゝは京にて大よそをきゝておしはかりによみしのみ也とあり、○※[手偏+旁]船《コグフネ》※[手偏+旁]は榜の字の省畫なり、古(ヘ)木旁を才とかけるものいと多し、○乘良六鹿《ノルラムカ》は、京にて想像したる事故にらむかと疑へるなり、○島回乎《シマワヲ》、回(ノ)字各本廻とあり、同字也、ワ〔右○〕とは其めぐりをいふ古言なり、さて此回を代匠紀、僻案抄、考、略解、燈には、級訓に從ひてワ〔右○〕と訓めり、しかるに鈴屋翁はこれらの回はすべて麻《マ》とよまむといひ、荒木田(ノ)久老、橘(ノ)守部は、未《ミ》と訓むといへり、いづれも一向なり、こは和《ワ》といふがもとにて、それを第一(ノ)音にて通はして麻《マ》といひ、また轉じて、未《ミ》ともいへるにて、共に通用の言《コトバ》なるべし、猶別記にいふを見よ、乎《ヲ》はものをの乎にて、俚言にジヤニ〔三字傍線〕といふ意なり、
一首の意は、五十等兒島は荒き島なるに、潮の滿來《ミチキ》て浪のさわぐをりしも、なれぬ妹らがのりゆかむは、いかにかしこからんと、いたはる意なり、
 
 當麻眞人麿《タギマノマヒトマロノ》妻(ノ)作(ル)歌
43 吾勢枯波何所行良武巳津物隠乃山乎今日香越等六《ワガセコハイヅクユクラムオキツモノナバリノヤマヲケフカコユラム》
 
吾勢枯とは、夫の麿をさす、こは夫の從駕にて行たる跡に留《トヾ》まれる妻の詠るなり、(36)上の端辭に幸2于伊勢國1時云々とある、同時の歌なり、次の石上(ノ)大臣の歌もおなじ、○何所行良武《イヅクユクラム》は、いかなる處を行らむと、夫の行方のしらまほしさの意也、○巳津物《オキツモノ》は、奥つ藻のにて、隱《ナバリ》の枕詞也、なばりはかくるゝ意の古言にて藻は水中に隱るるものなるが故也、略解に鈴屋翁の説をあげて、巳は起の字の省ける也、といへるは非也、冠辭考に巳の字は、韻會に巳、苟起切起也といへり、起《オコ》る意なれば、於伎《オキ》てふ語にかりて、まことには奥の意なりとあるに從ふべし、鈴屋翁の偏を省けるなりといふ字の説、多くは誤りにて、其よしは※[木+觀]斎雜攷に精しく辨じおきたり、又萬葉集文字辨證にも論ひおけり、○隱乃山《ナバリノヤマ》は、玉(ノ)小琴に、隱はなばり〔三字右○〕と訓べし、伊賀(ノ)國|名張《ナバリノ》郡の山也、大和の京より伊勢へ下るには、伊賀を經《フ》る事は常也、又大和の地名に吉隱《ヨナバリ》もあれば、なばりの山なる事をおもひ定むべし、さてなばりとは、即隱るゝ事をいふ古語と見えて、おきつものといふも、又此卷の末に朝《アシタ》面《オモ》なみ隱《ナバリ》にかといふも隱るゝ意のつゞけなり、云々とあるが如し、○今日香越等六《ケフカコユラム》は、燈に香《カ》は疑なり、上に伺所行良六《イヅクユクラム》といひて、又|隱乃山乎今日香越等六《ナバリノヤマヲケフカコユラム》とよめるは、上にひろくいづこをか行らむと大抵にいひおきて、さて今日などは名張の山を越もすらむかとさまざまにおもひわづらふ情、かへりておもひやり深き也、とあるは、よく解得(37)たりといふべし、
一首の意は、吾夫《ワガセ》は此ごろ何れの所をか行すぎ給ふらんにや、およびをりて日數をかぞふれば、きのふけふのほどは、なばりの山などをや越え姶ふらん、と夫を慕ふ情をうたひ出たるなり、
 
 石上《イソノカミノ》大臣從駕(ニテ)作(ル)歌
44 吾妹子乎去來見乃山乎高三香裳日本能不所見國遠可聞《ワギモコヲイザミノヤマヲタカミカモヤマトノミエヌクニトホミカモ》
 
石(ノ)上(ノ)大臣は麻呂公也、公は慶雲元年右大臣になり給ひて、此時はいまだ大臣ならねど、後よりめぐらして極官をもてかける也、
吾妹子《ワギモコ》は妻をいふ、わがいもこといふかい〔二字右○〕の反き〔右○〕なれば、急言してかくいふなり、○去來見乃山《イザミノヤマ》は、久老の説に、二見の浦なる大夫の松といへる大樹の生たる山なるべし【伊勢三郎が物見松といふ、則同人の城跡なりとも運へり、】さるは倭姫(ノ)命(ノ)世紀に、佐見津彦佐見津姫參相而御鹽濱御鹽山奉支《サミツヒコサミツヒメマヰリアヒテミシホバマミシホヤマタテマツリキ》といへるは、この二見が浦なるを、今猶|彼《ソノ》山の麓に流るゝ小川(38)を佐美《サミ》河といへば、【さめ川ともいへり、】これぞ佐美《サミ》の山なるを、伊《イ》の發語をそへ、吾妹子乎《ワキモコヲ》といふまくら辭を蒙らせて、去來見《イザミ》の山とはつゞけしならん【正辭云、此は卷六に.韓衣服楢乃里《カラゴロモキナラノサト》、巻七に吾勢子乎乞許世山《ワガセコヲコチコセヤマ》などつゞけし類也、又坂士佛の大神宮参詣記に、二見の浦に佐美明神とて古き神ましますといへりるは、佐見津彦佐見津姫を祭れるにや、】又國は異なれど卷二【四十二 右】に讃岐園にてよめる歌に佐美乃山あり此二見の浦より阿胡《アゴ》にいたりまさんには、此山の東より南に折れて、鳥羽《トバ》に御船はつべきなれば、二見が浦をいでます程は、大和の國より越ませし山々も、西のかたに迄に見放《ミサケ》らるゝに、此山をしも榜廻りまして東南に入ては大和の方の見えずなりぬるをかなしみて、かくはよみ給へるなるべしといへり、二の、かも〔二字傍線〕は疑辭なり、
一首の意は大倭なる妹があたりをいざ見むとて見放《ミサク》れど見えざるは、佐美の山の高くて隔つるか、山は隔てねど、國の遠き故に見えぬかと故郷を慕ふ情を述べたるなり、
 
 右日本紀(ニ)曰、朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰、以2淨廣肆廣瀬(ノ)王等(ヲ)1爲2留守官(ト)1、於v是中納言三輪(ノ)靭臣高市麿、脱(テ)2其冠位(ヲ)1フ2上《サヽゲ》於朝(ニ)1、重(テ)諌(テ)曰、農作之節、車駕未v可2以(39)動(ス)1、辛未天皇不v從v諌(ニ)遂(ニ)幸2伊勢(ニ)1、五月乙丑朔庚午、御(ス)2阿胡(ノ)行宮(ニ)1、
 
朱鳥の號の事は既にいへり、○淨廣肆は、天武天皇十四年に制定せられたる位階なり、肆、今本津に誤る、今諸本に依て改む、○節(ノ)字、諸本前に誤る、今日本書紀に依て改む、○重諫とは、此卿本年二月丁未に上表して、此行幸は農時に妨げあるよしを直言諫爭せられし事、紀に見たり、故にかくいふ、○車駕は、義制令(ニ)云(ク)車駕(ハ)行幸(ニ)所v稱(スル)、〇五月云々、此に五月御2阿胡(ノ)行宮(ニ)1とあるは、誤なり、其故は紀に三月丙寅朔云々、辛未幸2伊勢國1、乙酉車駕還v宮とあり、然れば三月六日に京を發し給ひて、同月二十日に京へ還り給ひし也、さて五月乙丑朔庚午、御《オハシヽ》2阿胡(ノ)行宮(ニ)1時(ニ)進(レル)v贄(ヲ)者云々(ニ)服(ス)2十年(ノ)調役(ヲ)1とありて、三月の行幸の時に、阿胡(ノ)行宮にて贄を奉りし者を、還宮の後五月に賞せられたる事をしるせる也、此は紀文をよくも考へずして引たる誤なり、○代匠紀に高市麻呂は忠と功とを兼たる人也、直諫も本朝第一にて、朱雲が折檻に多く讓るまじき人なり、其功は天武紀に見え.忠諫は此に引たる特統紀に猶具なり、披て見るべしといへり、さることなり、
 
(40) 《カルノ》皇子宿(ル)2于|安騎《アキノ》野(ニ)1時柿(ノ)本(ノ)朝臣人麿(ノ)作(ル)歌
45 八|隅知之吾大王《スミシシワゴオホキミ》、高照日之皇子《タカテラスヒノミコ》、神長柄神佐備世須登《カムナガラカムサビセスト》、太敷爲京乎置而《フトシカスミヤコヲオキテ》、隱口乃泊瀬山者《コモリクノハツセノヤマハ》、眞木立荒山道乎《マキタツアラヤマミチヲ》、石根楚樹押靡《イハガネノシモトオシナベ》、坂鳥乃朝越座而《サカトリノアサコエマシテ》、玉限夕去來者《タマカキルユフサリクレバ》、三雪落阿騎乃大野爾《ミユキフルアキノオホヌニ》、旗須爲寸四能乎押靡《ハタスヽキシノヲオシナベ》、草枕多日夜取世須《クサマクラタビヤドリセス》、古昔念而《イニシヘオモヒテ》、
 
輕(ノ)皇子、諸古本の朱書に、文武天皇是也、天武天皇(ノ)孫、草壁(ノ)皇子、第二子、母(ハ)天智天皇第四女、阿閉(ノ)皇女、元明天皇也とあり【古本どもに少しく異同あるを今訂正して引、○考略解に、古本の傍注に、皇子枝別記を別て云々といへれど、萬葉の古本どもには此注なし、此は釋記に私記の文を引たるなり、暗記の誤なるへし、】○安騎野は、大和(ノ)國宇陀(ノ)郡の野也、式に宇陀(ノ)郡阿紀(ノ)神社あり、
八|隅知之《スミシヽ》、此枕詞の解は上にいへり、但し比は輕《カルノ》皇子を申せるなり、皇子をもかく申す例は、巻二【三十五右】に、高市(ノ)皇子、同【三十六左】に弓削(ノ)皇子、卷三【十七左】に新田部(ノ)皇子等にも、(41)八隅知之吾大王《ヤスミシヽワゴオホキミ》云々とあるなり、しかるを考に天皇の御事を申す言をいひしは、此王他に異なるを知(ル)べしといへるは非也、○高照《タカテラス》、此|照《テラス》は天照《アマテラス》大御神の照《テラス》と同じくて※[氏/一]流《テル》を敬語に※[氏/一]良須《テラス》といふなり、【取をとらす、立をたたすと云が如し、】さて日といふ言に冠ちせたるなり、卷二【二十七右】に天照日女之《アマテラスヒルメノ》命、日本書紀一書にも天照大日靈《アマテラスオホヒルメノ》尊とあり、同じ意のつゞけなり、【集中の歌に、月にはあまてるつきといひて、日にはてらすといへり、古言の正しきを見るべし、】しかるを冠辭考には、古事記に、多加比加流比能美古《タカヒカルヒノミコ》とあると、本集に高光《タカヒカル》ともかけるによりて、高照とあるも、タカヒカル〔五字傍線〕とよむべしといへるは一向なり、○神長柄《カムナガラ》云々、神柄《カムナガラ》は、神にて御坐ましながらなり、別紀に委し、登《ト》はとての意也、○太敷爲《フトシカス》、上に既にいへり、しかすはしくの敬語也、○京乎置而《ミヤコヲオキテ》、上の近江の荒都の歌に、倭乎置而《ヤマトヲオキテ》とあるに同じく、其處にとゞめ置て也、○隱口乃《コモリクノ》は、枕詞也、○泊瀬山《ハツセヤマ》、和名抄大和(ノ)國城(ノ)上(ノ)郡の郷名に長谷【波都勢】とあり、泊は船の宿るを泊《ハツ》るといふ意をかりてかける也.〇眞木立《マキタツ》、眞木は檜をいふ、此木深山に多く生るものなり、故にかくつゞけいふなり、○荒山道乎《アラヤマミチヲ》、荒《アラ》は和《ニコ》の反にて、人げうとき山をいふ、乎《ヲ》はものをの意也、○石根《イハガネ》、根は添(ヘ)たる詞、屋根《ヤネ》草根《クサネ》などの根に同じ、○楚樹《シモト》、楚、各本に禁と作《ア》るは誤也、今考の説に依て改む、説文(ニ)云、楚(ハ)叢木也一曰荊とあり、しもとは和名抄に唐韵云、※[草冠/兇]【之毛止】木(ノ)細枝也とあり(42)て、弱木をいふ、眞淵翁云比は繁本《シゲモト》の略なり、本とは木の事也、○押靡《オシナベ》、今本にオシナミ〔四字傍線〕とよめるはわろし、ナミ〔二字傍線〕は自靡くことなり、ナベ〔二字傍線〕はなびけの急言にて令《セ》v靡《ナビカ》の意なり、卷十七【四十八右】に、須々吉於之奈倍《スヽキオシナベ》とあるに依てナベ〔二字傍線〕とよむべし、○坂鳥乃《サカトリノ》、朝越《アサコエ》の枕詞なり、木の間などに宿れる鳥どもの、朝に山を飛こえて里にいづるを、供奉の人の山路を越るに譬(ヘ)たるなり、〇玉限《タマカキル》は、夕の枕詞なり、卷十一【十三左】に玉限石垣淵《タマカキルイハガキブチ》、卷十三【九左】に玉限日文累《タマカキルヒモカサナリ》などつゞけたり、これらを舊訓にタマキハルとあるは非也、限の訓カキリ〔三字傍線〕カキル〔三字傍線〕を用ゐたる也、卷十一【五左】には玉垣入《タマカキル》ともあるを以て、其訓を定むべき也、さてこれを集中に多く玉蜻とかけり、これも蜻の訓カキロフ〔四字傍線〕を約めてカキルに借(リ)たるにて玉蜻《タマカキル》とよむべきなり、しかるを冠辭考に玉蜻の二字をカギロヒと訓て、玉限とある限は蜻の誤、玉垣入《タマカキル》は玉蜻乃《カギロヒノ》の誤なりとて、しか改たれど、玉限または玉垣入とあるをもて、玉蜻とかけるもタマカキルと訓べき證とこそはすべけれ、限は蜻の誤なりとて改たるは、いみじきひがごとなり、かくて此詞の義、または集中に玉蜻《タマカキル》とかけると蜻火《カキロヒ》とかけるとのわかちなどの事は、別紀に土佐人鹿持雅澄の説を出して、おのが補攷をもしるしたれば就て見るべし、○三雪落《ミユキフル》は、今現に降にはあらず、ひろき野の、ことに寒きさまをおもはせたる(43)なり、三《ミ》はかろく添(ヘ)たる辭なり、み冬み空などのみ〔右○〕に同じ、〇阿騎乃大野爾《アキノオホヌニ》、天武紀に菟田(ノ)郡云々到(ル)2大野(ニ)1とあり、大和志に、大野は内牧村にありといへり、燈に此の爾もじ、上の京乎置而にむかへて意を味はふべしといへり、さることなり、○旗須爲寸《ハタスヽキ》は、書紀神功紀に幡荻穂出吾也《ハタスヽキホニイヅルワレヤ》とあり、これらの旗幡の字の意にて薄《スヽキ》は長高くして、衆艸にこえていちじるく顯れ、其穂を出したる形、旌旗を立たるが如く見ゆれば、かくいふなり、本集卷三【二十五右】に皮爲酢寸久米能若子我《ハタスヽキクメノワクコガ》とある皮の字は訓を借れるのみ、この字につきていふ説は非也、但しこゝは冬なれば枯たる薄なるに、かくいふはたゞひとつの名目としていへるなり、【又|久米《クメ》につゞけたるは、久米《クメ》は熊橿《クマカシ》熊篠《クマザヽ》などの久麻《クマ》と同じく、薄の葉の繁れるよしのつゞけなり、】○四《シ》能《ノ・ヌ》乎押靡《ヲオシナベ》、考にすすきのしなひを押なびかし也といひ、燈には旗薄《ハタスヽキ》小竹《シヌ》などをおしなびけてと二種なるべしといへり、共に非也、考の説の如くならむには、たゞに薄おしなべといふべきなり、しなひといふ言いたづらなり、又燈に薄《スヽキ》と小竹《シヌ》と二種なりと云るもいかゞ、さはきこえぬをや、記傳卷廿九【十二右】に志怒《シヌ》とは.細竹《ホソキタケ》を始めて其外|薄《スヽキ》葦《アシ》などにも云て.然《サル》類(ヒ)の物の幹《カラ》の總名なり、萬葉一に旗須爲寸四能乎押靡《ハタスヽキシノヲオシナベ》とあるも薄《スヽキ》の幹《カラ》を云り、しの薄といふもたゞ薄のことなり、一種の名には非ずとあり、此説よろし、かくて傳の分注に志怒を人麻呂の歌(44)に、志能《シノ》とあるはめづらしきことなりといへり、【別記あり、合考すべし、】〇草枕は旅の枕詞也、○多日夜取世須《タビヤドリセス》は、旅宿爲《タビヤドリセス》也、爲《ス》を世須《セス》といふは敬語なり、考にせさせますてふを約めてせすといふ、といへるはわろし、此は佐行變格の爲(ノ)字に當る詞の、せ〔傍線〕す〔傍線〕する〔二字傍線〕と活く語の一たびうつりて、其將然言のせ〔傍線〕より、さらにさしすせと活かしてせ〔傍線〕し〔右○〕せ〔傍線〕す〔右○〕といへるなり、○古昔念而《ムカシオモヒテ》は、昔《ムカシ》父尊の此野に御獵したまひしことを思ひ給ひて、かゝる荒野にやどりしたまふことよといふ意なり、考に此句をイニシヘオボシテとよめり、上の旅やどりせすといふに對しては、こゝも敬語にいはまほしかれど、おもほしといふ言をおぼし〔三字右○〕といひたることは、集中に絶てある事なし、又オモホシとよまむには、所念となくては文字たらず、又さよみては調べもわろし、故に今舊訓に從へり、
一編の大意は、輕(ノ)皇子の父尊を慕ひ給ふ御心のすさびに、其父尊の卸獵遊はしゝ此阿騎(ノ)野に山路の越がたきをも、此野のわけがたきをも厭ひ給はずしておはしまして、み冬の寒き夜すがら、此に旅寢したまへる事よと也、其御孝心のほどを感嘆し奉りたる也、
 
 短歌
46 阿騎乃爾宿旅人打靡寐毛宿良目八方古部念爾《アキノニヤドルタビヒトウチナビキイモヌラメヤモイイニシヘオモフニ》
 
考に、短歌を反歌と改たるは妄りなり、【拾穗抄に反歌とあるも、私に改めたる也、下なるも同じ、】反歌《ハンカ》は長歌につきたるにかぎれる稱なれ、短歌は長歌に對(ヘ)て、すべての三十一字の歌をいふ稱なれば、反歌《ハンカ》をも短歌といはむことなでう事かあるべき、長歌につきたるを短歌といひしは、此下及び卷二に七所あり、抑々反歌の事は、上卷に粗辨へおけるが如く、【精しくは別記にいふ、】漢土の反辭に擬したる稱呼なれば、短歌《ミジカウタ》といふぞ、もとよりの此國のものいひにはありける、さてこれを佛書の注に所謂總別といふことを以ていはば、反歌は長歌につきたるをりの三十一言の歌をのみいふ稱《ナ》にして、別言なり、短歌は長歌につきたるをりのも常のも、すべて三十一字の歌をいふ稱《ナ》なれば.總言なり、此總別を、清人は統言折言とぞいふなる、此は此方の古言を解にもいと要あることゝおぼゆるから、序におどろかしおくなり、
阿野乃爾《アキノニ》、考に乃下に野(ノ)字を補ひたるは私也、諸古本及版本どもにも野の字あることなし、校異本に、官本騎下有2野字1とあれど、今官本を※[てへん+僉]るに野の字は無し、されば、此は四言の句とすべし、四言の句の例は、紀紀の歌にもあり、○宿旅人《ヤドルタビヽト》は、從駕の(46)人々をいふ、○打靡《ウチナビキ》、此句、諸注皆解得ず、其は先(ツ)代匠記に打なびきとは御父の昔を思召す故に、藻などの靡きたる樣に、打とけてもえ寢させ給はじとなり、考には、打なびきは、其なよゝかに臥さまをいふ也、惣ていはゞ、身をなよゝかになびけ臥てねいられめやなり、【略解これに同じ】燈には、打靡は草などのかたへになびきふしたるさまを人のふしたるにたとへていふ也、これおのづからうちとけて寢たるさまを形容する詞となれり、こゝもうちとけたるいはねられめやとの心なり、又僻案抄には、打靡をうちふしてとよひべしといへり、いづれもひがことなり、今按(フ)るに打靡《ウチナビキ》とは、輾轉反側するさまを形容したるものにて、古(ヘ)を念ふあまりに、ふしまろびいねかへるさまをいふなり、詩經國風一、周南、關雎に、窈窕淑女、寤寐求v之、求v之不v得寤寐思服、悠哉悠哉、輾轉反側、とある集傳に、輾者轉之半、轉者輾之周、反者輾之過、側者轉之留、皆臥不v安v席之意とあり、今も此意なり、○寐毛宿良自八方《イモヌラメヤモ》は、いねられめやにて、いねむとすれどいねられぬといふ意なり、さて自は目の字の増畫なり、各本自とありて、目とあるは拾穗抄のみなり、こはさかしらに改たるなるべし、此僧畫の例は集中他の字にもあり、また卷四にも目を自とかけることあり、【今本の訓にイモネラシヤモとあるも、原より自とかけりし證也、】精しくは、萬葉集文字辨證にいへり、○古部念爾《イニシヘオモフニ》、上の古昔念(47)而《ムカシオモヒテ》と同じく、御父尊の事を思ひ出てなり、
一首の意は、此野に今夜やどれる人々は、いにしへを念ふに堪かねて、ふしまろびいねかへりつゝ、いねられめやといふなり、
 
47 眞草苅荒野者雖有黄葉過去君之形見跡曾來師《マクサカルアラヌニハアレドモミヂバノスギニシキミガカタミトゾコシ》
 
眞草《マクサ》の眞は美稱なり、いづれの草とさしたるにはあらず、廣く野草をいふなり、〇荒野者《アラノニハ》、荒野は長歌に荒山とあるに同じく、人げ遠き野をいふなり、考に、野の下に二の字を補ひて、一本によるとあり、【畧解、燈も、ごれに從へり、】今按(フ)るに、いづれの本も二の字のあるはなき也、こは縣居翁の私せしなるべし、に〔右○〕の辭を讀そへたる例は、卷二【二十六右】伊勢國者《イセノクニニハ》同【三十八右】に念有之妹者雖有《オモヘリシイモニハアレド》、同【四十一右】に霧己曾婆夕立而明者失等言《キリコソハユフヘニタチテアシタニハウストイヘ》など猶いくらもあり、こればかりの事をいかで考へざりけむいといぶかし、此他てにをはの文字を省ける例さま/\あり、其は萬葉集讀例に集めおきたり、○黄葉《モミヂバノ》云々、黄の字、諸本になきは、脱したるなること決《ウツ》なし、考に、補へるに從ふ、人の死《ミマカリ》しを黄葉《モミヂバ》の散失ぬるに譬ふるなり、此詞集中にいと多し、さてこゝは日並知(ノ)皇子(ノ)尊をさし奉れるなり、○形見跡曾來師《カタミトゾコシ》は、過去《スキニ》し父母の形見とてぞ來しなり、卷九【三十二右】に(48)鹽氣立荒磯丹者雖在往水之過去妹之方見等曾來《シホケタツアリソニハアレドユクミヅノスキニシイモガカタミトゾコシ》とあるも同じおもむきなり、
一首の意は、人げ遠き荒野なれども、過にし父母の形見なりとおもへば、なつかしさにとひこしとなり、
 
48 東野炎立所見而反見爲者月西渡《ヒムカシノヌニカギロヒノタツミエテカヘリミスレハツキカタブキヌ》
 
此歌の上(ノ)句、舊訓はいたく誤れり、考にかくよめるに從ふ、ひむかしはむ〔右○〕を正しく唱ふべし、後世ん〔右○〕の如く唱ふるは訛(リ)なり、東野《ヒムガシノヌ》とは、阿騎野の東のかたの野をひろくいへるなり、〇炎《カギロヒ》は、陽炎にて、明がたの空に立つ光をいふ也、しかるを燈に、東(ノ)野の民家などに、はやく起てたく火のほのかにみゆるをいふ、明そむる光をいふといへるは後世心也、といへるは、かへりて後世心なり、猶次にいふことを見て知(ル)べし、○反見爲者《カヘリミスレハ》は、西のかたをうち見やればなり、〇月西渡《ツキカタブキヌ》、西渡の二字は義を得てかける也、
一首の意は、草まくらのわびしきがうへに、昔の事さへおもひ出られて、いをねかべたる夜の、とく明なむことを欲《ホリ》せしに、やう/\に東のかたに陽炎の立のぼれるを見て、いとうれしく、さてまたかへり見すれば月はやゝ西のかたにかたぶき(49)おちて、夜の明むとするけしきをよろこべるなり、第一の歌と第二の歌とを合せ考へて、かくは知らるゝなり、
おのれわかゝりし時、とみの事ありて下總に佐倉にものしたるをり.晝すぐる頃江戸を發足《タチ》て船橋といふ宿にやどりぬ、頃は陰暦の七月十六日なりけり、あくる日まだ夜の明はなれざるに、在明の月の光をよすがに、船ばしをいでゝ大和田の宿へとゆく、此あはひ三里あまりなるが、いと廣く平らかなる原道なり、此原の中らにいたれる頃、やう/\夜はあけんとするに、げにも東の空にきら/\とかぎろひたちわたり、やがて赤く大なる日のさしのぼり出たるけはひ、えもいはれぬけしきなり、さて今までかげ清かなりし月は、いかならんとうしろのかたを見やりたれば、ひかりは消て色あかばみたる月の、いと大きやかにみえて、はるかなる向ひの山の端に入かゝりたる、更にたとへんものもなくあはれにいみじくおぼえたり、そのをり此歌のことをおもひ出て、ひとりうち誦したりしはいとゆかしかりき、こは燈の説の此歌をわろく見たるが口をしさに、おのがまのかたり見しさまをしるして、此歌の實景なるよしを明かさむとす、
 
49 日雙斯皇子命乃馬副而御獵立師斯時者來向《ヒナメシノミコノミコトノウマナメテミカリタヽシシトキハキムカフ》
 
(50)日雙斯《ヒナメシ》は草壁《クサカベノ》皇子の御名なり、續紀文武紀に日並知(ノ)皇子とあるは、此によりてヒナメシノミコと訓(ム)べき也、猶卷二の注にいふべし.舊訓または萬葉考にはヒナメシミコノミコトと初句を四言とし、の〔右○〕文字なきはわろし、すべて假字がきの所は、てにをはの文字をよみ付る事すくなけれど、例はあるなり、卷二【三十右】に太寸御門《タギノミカド》卷九【十六左】に、足利湖《アトノミナト》、卷十八【二十右】に美豆保國《ミツホノクニ》など猶あり、悉くは萬葉集讀例に出しおきたり、命《ミコト》は尊稱也、○馬副而《ウマナメテ》、副は義をもてかける文字なり、ナメテは並《ナラベ》てなり、○立師斯《タヽシヽ》は、御獵せさせ給ふ事《ワザ》をいふなり、上の鵜川乎立《ウガハヲタテ》の注に精《クハ》し、さて上の師《シ》は例の敬語、下の斯《シ》は過去のなり、昔(シ)日並知(ノ)皇子の御獵遊ばしゝをいふ、〇時者來向《トキハキムカフ》は、其父尊の御獵遊ばしゝ時節の來向ふと也、卷十九【十八左】に春過夏來向者《ハルスギテナツキムカヘバ》ともあり、考に此をキマケリと訓(ミ)、卷十九なるを、キマケレバとよむべしといへるは、わろし、
一首の意は、夜も明はてゝ昔(シ)父(ノ)尊の御獵し給ひし、其時節は來たれども御父尊は再び來りおはします事のなきを歎きたる也、時者《トキハ》の者のてにをはにて、さきこゆる也、
さて此四首の順序をいはゞ、はじめに荒野らの旅宿のくるしき事をいひ、次にさ(51)る荒野なれども、御父尊の形見なりとおもほして幸ませるよしをいひ、次に其夜のはやく明なむ事をおもふよしをいひ、次に夜も明はてゝ御父尊の御獵し給ひし時の來たれるよしを述べたるなり、
 
 藤原(ノ)宮之役民(ノ)作(ル)歌
50 八隅知之吾大王《ヤスミシシワゴオホキミ》、高照日之皇子《タカテラスヒノミコ》、荒妙乃藤原我宇倍爾《アラタヘノフヂハラガウヘニ》、食國乎賣之賜牟登《ヲスクニヲメシタマハムト》、都宮者高所知武等《ミアラカハタカシラサムト》、神長柄所念奈戸二《カムナガラオモホスナヘニ》、天地毛縁而有許曾《アメツチモヨリテアレコソ》、磐走淡海乃國之《イハバシノアフミノクニノ》、衣手能田上山之眞木佐苦檜乃嬬手乎《コロモデノタナガミヤマノマキサクヒノツマデヲ》、物乃布能八十氏河爾《モノノフノヤソウヂガハニ》、玉藻成浮倍流禮《タマモナスウカベナガセレ》、其乎取登散和久御民毛《ソヲトルトサワグミタミモ》、家忘身毛多奈不知《イヘワスレミモタナシラズ》、鴨自物水爾浮居而《カモジモノミヅニウキヰテ》、吾作日之御門爾《ワガツクルヒノミカドニ》、不知國依巨勢道從《シラヌクニヨリコセヂヨリ》、我國者常世爾成牟《ワガクニハトコヨニナラム》、圖負留神龜毛新代登泉乃河(52)《フミオヘルアヤシキカメモアラタヨトイヅミノカハニ》、持越流眞木乃都麻手乎《モチコセルマキノツマデヲ》、百不足五十日大爾作《モヽタラズイカダニツクリ》、泝須良牟伊蘇波久見者神隨爾有之《ノボスラムイソハクミレバカムナガラナラシ》、
 
藤原(ノ)宮は、持統天皇四年よりあらましの事ありて、八年十二月に清御原(ノ)宮より此に遷り給へり、其宮造りに役《たて》る民のよめるなり、但し本居宜長翁は役民の歌には非ずといへり、其説は下に出す、○拾穂抄に、題の藤原の上に營の字を置き之の字を削りたるは、私に改めたる也、さる本ある事なし、
八隅知之以下四句の事は已にいへり、○荒妙乃《アラタヘノ》は、藤の枕詞なり、たへは絹布《キヌヌノ》の總稱にて、藤もて織れる布はあら/\しければ、かくつゞくる也、○藤風我宇倍爾《フヂハラガウヘニ》は、我《ガ》は乃《ノ》といふに似て少し異也、そは梅が〔右○〕香と梅の〔右○〕香との如し、梅が香といへば梅のかた主となり、梅の香といへば香のかた主となる也、いづれも此意なり、字倍《ウヘ》は上《ウヘ》にて邊《ホトリ》の意也、卷二十【十五左】に多可麻刀能秋野乃字倍能安佐疑里爾《タカマトノアキノノウヘノアサギリニ》又【六十一右】に多加麻刀能努乃宇倍能美夜波《タカマトノヌノウヘノミヤハ》などある是也、此卷【三十一】にも、高野原之宇倍《タカノハラノウヘ》とあり、卷五【三十九左】に、伊射禰余登手乎多豆佐波里父母毛表者奈佐我利《イザネヨトテヲタヅサハリチヽハヽモウヘハナサカリ》とあるは、兒の古日《フルビ》が詞にて、父母は我ほとりを離《ハナ》るゝ事勿れといへるなり、これにて邊《ホトリ》の意なる事い(53)と明か也、萬葉考に、此所今は畑と成つれど、他よりは高し、古(ヘ)はいよゝ高き原なりけん、仍て上といふとあるは非也、○食國乎賣之賜牟登《ヲスクニヲメシタマハムト》は、天(ノ)下を知《シロ》しめさむとゝ也、記傳七【八左】に云、食國《ヲスクニ》とは御孫《ミマノ》命の所知看《シロシメス》この天(ノ)下を惣云稱《スベイフナ》にして、食《ヲス》はもと物を食《クフ》ことなり、さて物を見《ミル》も聞《キク》も知《シル》も食《クフ》もみな他物を身に受入《ウケイ》るゝ意同じき故に見《ミス》とも聞《キコス》とも、知《シラス》とも食《ヲス》とも相通はして云こと多くして、君の御國を治め有《タモ》ち坐《マス》をも、知《シラス》とも食《ヲス》とも聞看《キコシメス》とも申すなり、これ君の御國治め有坐《タモチマス》は、物を見《ミル》が如く聞《キク》が如く知《シル》が如く食《ヲス》が如く、御身に受入れ有《タモ》つ意あればなり、といへるが如し、賣之《メシ》は見《ミシ》にて天(ノ)下を、所知看《シロシメス》をいふ、め〔右○〕とみ〔右○〕と通へり、考に天の下の臣民を召給ひ治給ふ都なればいふ、といへるは非也、○都営者《ミアラカハ》、舊訓にミヤコニハ〔五字傍線〕とあるはわろし、考に、卷二【廿八右】に御在香乎高知座而《ミアラカヲタカシリマシテ》と有に依てよみつ、みあらかは、御在所《ミアラカ》にて、即宮をいふとあるに從ふ、○神長柄《カムナガラ》、注上にあり.〇所念奈戸二《オモホスナベニ》は、考に奈戸二《ナベニ》は並《ナミ》にてふ言にて、おもほせるまゝにてふ意と成ぬとあり、今按(フ)るに、奈戸《ナベ》は多く別物《コトモノ》と相むかへたるところにいへる詞なれば、此は次の天地毛とあるにむかへて、天皇の所思《オモホス》なべに、天地の神も御心をよせ給ふといふ意にて、奈戸《ナベ》とはいへるならん、戸は常には清音に用ゐる文字なれども、此は濁音に用ゐたるなるべし、猶下の藤(54)原御井歌の注に云べし、〇天地毛縁而有許曾《アメツチモヨリテアレコソ》、考に、上に山川も依而《ヨリテ》つかふるとよみし類にて、此大宮造に天つ神國つ神も御心をよせ給てあればこそ也、此言どもは末に諸の國の宮材どもを奉り、民どもゝいそしくつかへまつるといふに皆冠らす、とあるが如し、○磐走《イハバシノ》、は淡海の枕詞也、○衣手能《コロモデノ》は、田上《タカガミ》の枕詞、○田上山《タカガミヤマ》は、近江栗本(ノ)郡にある山なり、○眞木佐苦《マキサク》は、檜の枕詞也、但し此枕詞は常のとは少し異なるいひくだしなり、其は冠辭考に眞木は檜《ヒ》也、佐苦《サク》とは古へは木を斧もて柝《サキ》て板ともせればしかいひて、此は柝たる檜てふ事なるを、用を冠辭として體にかけたる也、とある是也、○嬬手乎《ツマデヲ》、嬬は借字にて柧《ツマ》なり、柝《サキ》たる木には必|稜柧《カドツマ》のあれば也、説文に柧(ハ)※[木+稜の旁]也といひ、字彙に四方(ナルヲ)爲v※[木+稜の旁](ト)八※[木+稜の旁](ヲ)爲柧とあり、神代紀に、紀(ノ)國に齋《イハ》へる三神の中|柧津《ツマツ》姫は材を守り給ふ神なるべし、手は其料にする物をいふ稱にて、宮木の料に造りなしたるをいふ也、麻《アサ》を麻手《アサデ》など、いふもこれなり、○物乃布能《モノノフノ》は枕詞なり、古事記傳十九【六十一】に、物部《モノノベ》は母能々布部《モノノフベ》といふことにて、布辨《フベ》を約めて母能々辨《モノノベ》とはいふなり、さて其|母能々布《モノノフ》といふは、總て武勇職《タケキワザ》を以(テ)仕奉る建士《タケキヲ》の稱にして云々、三卷には、武士《モノヽフ》とも書り、後世までも武士《タケキヲ》を、ものゝふといへり、さて又朝廷に仕奉る人等を凡ても母能々布《モノノフ》と云て、母能々布之八十伴緒《モノヽフノヤソトモノヲ》などよめるも(55)萬葉に多きは、上代に武勇職《タケキワザ》を主《ムネ》とせられし世の古言の遺れりしなり、又分注に八十氏とつゞけ云るは、かの八十伴(ノ)緒と云ると同じくて、武(キ)人のみならず、凡て朝廷に仕奉る人をも皆母能々布と云る其(ノ)氏々の多き意にて云々、彼(ノ)八十といはずして、たゞものゝふのうぢといひ、又ちはやぶるうぢ、ちはや人うぢ、などゝ云るとは、つゞけの意異なり、彼(ノ)ちはやぶる、ちはや人などは、唯宇治とのみつゞけて、八十宇治とはつゞけたる例なきを以て、此|差《ケヂメ》をさとるべし.母能々布之《モノノフノ》と云る枕詞は、只宇治と續けたるは、彼(ノ)ちはや人などゝ同じくて、いちはやき意、八十宇治とつゝけるは、八十伴(ノ)緒の氏々の多き意にて、同枕詞、同地名ながら、そのつゞけの意ことなり、よくせすば混(ヒ)ぬベし、さて又ものゝふの八十《ヤソ》の※[女+感]嬬《ヲトメ》、ものゝふの八十(ノ)心、などつゞけるも、八十氏とつゞくと同意にて八十の枕詞なり、とあるが如し、〇八十氏河爾《ヤソウヂガハニ》、氏河は宇治川にて、山城國宇治郡にある川なり、○玉藻成《タマモナス》は枕詞也、成《ナス》は如《ナス》なり、○浮倍流禮《ウカベナガセレ》、此|禮《レ》は詞玉緒卷七古風部に上にこそ〔二字右○〕とかゝらずしてれ〔右○〕といひて切れたるは、皆長歌のなかばに在て事の他へ轉る際にいふ一つの格にて、下へば〔右○〕を加へてれば〔二字右○〕と見ればよく聞ゆる也、とあるが如し、但し此等の類のれ〔右○〕を、皆ば〔右○〕を省けるものとのみおもふは麁也、此れ〔右○〕の下には今少し意を合めて聞くべきもあ(56)るなり、さて燈に、禮は上の許曾のうちあひ也とて、許曾の結辭としたるは、さばかりてにをは學に細しかりし人の説ともおぼえず、上の許曾は既に考の説をあげていひたる如く、未の句までへかゝる辭なり、其語脈をよく味ふべし、○其乎取登《ソエオトルト》は、檜乃嬬手を取あぐるとて也、登《ト》はとて〔二字傍線〕の意、○散和久《サワグ》は多くの民どもの競ひ取あぐるさまをいふ、考に、田上山の材ををの川より宇治まで流して、宇治にてとりとゞめて筏に作り、淀川をさかのぼせて藤原へいたらすとあり、代匠記にもかくいへり、宜長翁の説は少し異なり、下に出す、○御民毛《ミタミモ》、此|毛《モ》は上の天地毛《アメツチモ》の毛《モ》に相應ずる也、〇身毛多奈不知《ミモタナシラズ》、此詞の義詳ならず、契沖師はたなびくを輕引《タナビク》ともかける心にて身を輕むずる事かといひ、東麻呂翁は直《タヾ》の字の義なりといひ、眞淵翁はたねらひといふことなりといへり、いづれも諾ひがたき説どもなり、眞淵翁の説は殊にわろし、さて此詞は卷九【十八右】に金門爾之人乃來立場夜中母身者田菜不知出曾相來《カナトニシヒトノキタテバヨナカニモミハタナシラズイデヽゾアヒケル》又卷十三【十六佐】に、葦垣之末掻別而君越《アシガキノウレカキワケテキミコユト》、人丹勿告事者棚知《ヒトニナツゲソコトハタナシリ》、又卷十七【二十九左】に己許呂具志伊謝美爾由加奈許等波多奈由比《ココログシイザミニユカナコトハタナユヒ》、などもあるなり、猶よく考べきことなり、○鴨自物《カモジモノ》は、延喜式の祝詞に、宇事物頸根衝拔《ウジモノウナネツキヌキ》とある縣居翁の考上【十九右】に、鵜の鳥がかつぐには、頸を倒に水に衝入るを、人の頭もて地につき敬ふに譬た(57)り、云々、事物《ジモノ》は即その物といふ辭にて、万葉に鴨自物《カモジモノ》水に浮居《ウキヰ》てと、船の浮びゐるを譬いひ、宍自物膝折伏※[氏/一]《シシジモノヒザヲリフセテ》と、人の膝をかゞめて敬ふに譬たる羸也、といひ、又續日本紀の詔に、大前【爾】恐古士物進退匍匐廻【保利】《オホマエニカシコジモノシジマヒハラバヒモトホリ》とある、鈴屋翁の注に、恐古士物《カシコジモノ》、十四詔にも、云々|勅【夫】御命【乎】《ノリタマフオホミコトヲ》、畏自物受賜【利】《カシコジモノウケタマハリ》と見ゆ、凡て自物《ジモノ》といふ言、武烈紀(ノ)歌に、斯々貳暮能《シシジモノ》とあるを始めて、萬葉に鹿子自物《カコジモノ》、鳥《トリ》自物、鴨自物、馬自物、犬自物、鵜《ウ》自物などあるはいづれもそれがやうにといふ意と聞え、又同二に男自物《ヲノジモノ》、三に雄自毛能《ヲジモノ》、十一に男士物《ヲノコジモノ》などあるは、男のすまじきわざをする意にいへりと開ゆるを、こゝと十四詔なるとは、件の二つとは、又意|異《カハ》りて、ただ恐《カシコ》まりてといふやうに聞え、又用言の下に付たるも、件の例どもと異なり、こゝに稻掛(ノ)大平が萬葉に就て考へたるは、自物は状之《ザマノ》なるべし、ざま〔二字右○〕とじも〔二字右○〕と音通へり、鹿自物《シヽジモノ》は鹿状之《シヽザマノ》にて、此類みな同じ、男《ヲノコ》自物は、男の状《サマ》としてといふ意にて聞ゆといへり、此考へさも有べし、さてこれによりて思ふに、恐士物《カシコジモノ》も恐状之《カシコザマノ》にて、進退匍匐《シヽマヒハラバヒ》即(チ)其恐状也、十四詔なるも、其状は、詔給はねども、こゝのごとく進退匍匐《シヽマヒハラバヒ》ひ、恐状にて、受賜はり給ふよしなるべし、といへり、猶考ふべし、但し今の俚言にありては、ノヤウニ〔四字傍線〕ノゴトク〔四字傍線〕などいふ意なり、〇水爾浮居而《ミヅニウキヰテ》、舟又は其材木などの上に居るさまをいふ、鈴屋の説に(58)川より陸に取あぐるとて、水に浮居てとりあげて、其を泉の河に持越流《モチコセル》とつゞく詞也、されば浮居而にて姑くきれたる語にて、たゞに吾作《ワガツクル》へはつゞかず、といへるが如く、其材木を取りあげて云々するよしを、此|而《テ》の下にふくめたるなり、〇吾作日之御門爾《ワガツクルヒノミカドニ》、吾作は役民の吾《ワガ》也、日之御門は日(ノ)神の御子の御座《オハシマス》宮殿をいふ、爾《ニ》は、下の泝須良牟《ノボスラム》にうち合辭也、○不知國依巨勢道從《シラヌクニヨリコセヂヨリ》は、三韓其他名もしらぬ國々よりも、徳化を幕ひ奉て歸來《ヨリク》といふ、壽詞《ホギコト》をもて序として、高市(ノ)郡なる巨勢といふ地名にいひかけたるなり、されば不知國《シラヌクニ》にて句とし、依巨勢道從《ヨリコセヂヨリ》とつゞけよむべし、卷四【十四左】に未通女等之袖振山乃《ヲトメラガソデフルヤマノ》云々とあるなどの類也、しかるを考、又燈に、不知國依《シラヌクニヨリ》と依を句として、不知國よりも巨勢道よりもの意としたるは非也、卷三【二十六左】に小浪礒越道有能登湍河《サヾレナミイソコセヂナルノトセカハ》とあるも、浪の磯こすといふ意にて此と同じつゞけざまなり、〇我國者《ワガクニハ》云々、以下五句は泉といはむ料にて出《イヅ》といひかけ、やがて御代を壽まつる言をもて序とせるなり、尚書の僞孔注に、洛出v書神龜負v文(ヲ)而出、易(ノ)繋辭曰河出v圖(ヲ)洛出v書(ヲ)などあるをおもひよせたるなり、○新代登《アラタヨト》、舊訓アタラヨト〔五字傍線〕とあれど、此はアラタヨト〔五字傍線〕とよむべきなり、新京に御代しろしめすをいふ、登《ト》はとて〔二字傍線〕の意也、久老の説に古言にアタラ〔三字傍線〕といふは惜の意にて、新の字の意になるは、此集にては皆(59)アラタ〔三字傍線〕とよむべし、新をアタラシ〔四字傍線〕といへるは、今(ノ)京になりて訛れる言なり、卷廿【十一右】に、年月波安多良安多良爾安比美禮騰《トシツキハアタラアタラニアヒミレド》とあるを、一本には安良多安良多とあり、證とすべしといへり、正辭云、此二十卷の歌は、元本官本温本いづれも安良多安良多とあるがうへに、催馬樂の安太良之支止之乃波之女爾《アタラシキトシノハジメニ》と云歌を、宗尊親王御自筆本には安良多之支とあり、こは古本に據りてかゝせたまへるものなるべし、されば古くは新(ノ)字の意なるをばアラタシ〔四字傍線〕といひし事|決《ウツ》なし、さてこれまで五句は泉《イヅミ》といはん料なり、○泉乃河爾持越流《イヅミノカハニモチコセル》、泉河は、山城(ノ)國相樂郡也、今|木津《キヅ》川といふ、持越流《モチコセル》は代匠紀には、田上より宇治川に流し、宇治より淀に流し、淀より泉川に泝らしむるを云といひ、考に、右の不知國依てふ中に此川へ持こすべき方も有べし、それらはこゝにて筏として藤原の宮所へ川のまに/\上する也、上の田上の材も宇治にて筏とせしも、同じくこゝへ至りてのぼする也、といひ、燈には、持越流はかの遠國より巨勢路をもち來て、此泉河にうくるを云、越としもいふはその國にてきり出けむ山にも又路のほどにも河海など必ありて、そこにうけたりし材なるを、一旦陸路にあげて、さて又泉河にうかぶる故にいふ也といへり、下に出す玉勝間の説には、田上山より伐出せる宮材を宇治川へくだし、そを又泉川に持越《モチコシ》て筏(60)に作りて、その川より難波(ノ)海に出し、海より又紀の川を泝《ノボ》せて、巨勢の道より藤原の宮の地へ運ぶなりといへり、此うち代匠紀の説は安らかに聞えたれど、持越流といふ詞の解なきはいかゞ、また考、燈、の説は、田上山より伐出せる材の外に、又不知國より出せるものをこゝに持越て、こゝにてともに筏に作る也といへるは、不知國はたゞ序のみなる事をおもはざりしものにて從ひがたし、玉勝間の説はさることのやうなれど、泉川より難波(ノ)海に出し、海より又紀の川を泝《ノボ》せて巨勢の道より藤原の宮地へ運ぶといふ事、今少し地理などの考へあらまほし、猶別記の追攷にいへる事を合攷すべし、○眞木乃郡麻手乎《マキノツマデヲ》、即上の檜乃嬬手《ヒノツマデ》也、〇百不足《モヽタラズ》は、枕詞也、〇五十日太爾作《イカダニツクリ》は、筏に造也、○泝須良牟《ノボスラム》は、考に良牟といふは、田上の宮材に仕奉るものゝおしはかりていへる也とあるを、燈にとがめて、これは中の良牟の例にて、次のいそばくに上の義をつゞけて心得べき法なり、かの注【上の考の説をいふ】語勢にも詞の法にもそむけり、中の良牟はたとはゞ、筏につくりのぼすなるいそばくみればといふべきを、そのわざをまのあたりに見ぬが故に良牟とはよむ也、としるべし、此卷の末に行來跡見良武樹人友帥母《ユキクトミラムキビトトモシモ》とよめるなど此例なり、此京になりても多く用ふ〔右○〕る例にて、けむ〔二字右○〕にも、比例ある也、大かた時所によりさだかなる事を(61)も、わざと良牟《ラム》計牟《ケム》などゆるべてよむも常也とあり、此説よろし、下に出す玉勝間の説には、良牟と疑ひたるは、此作者は宮造(リ)の地に在てよめるよしなれば、はじめ田上山より伐出せるより巨勢道を運ぶまでは、皆よその事にて見ざる事なれば也、さていそばくみればとは、宮地に運び來たるを目のまへに見たるをいへり、上の良牟とこの見者《ミレバ》とを相照して心得べしとあれど、此説はあまりうがちすぎたる説ならんとおぼゆ、はじめよりの事を皆想像して詠《ヨミ》たりとはいひがたし、こは田上より京《ミヤコ》に始終徃來せる役民の、京《ミヤコ》に在てよめるなるべし、〇伊蘇波久《イソハク》は爭《イソハク》也、兢ひ勤《ツトム》るをいふ、皇極紀に爭陳をイソヒテマウスと訓(ミ)、此集卷十三【三右】に諍榜とあるを舊訓にイソヒコギとあり、【こはキソヒコキ〔五字傍線〕と訓改たるかたよろしかれど、今は古くイソヒ〔三字傍線〕といふ言のありし證までに出せり、但し今本に諍(ノ)字淨とあるは誤なり、】同卷【六左】に、伊蘇婆比座與伊加流我等此米登《イソバヒヲルヨイカルガトシメト》、【いそばひはいそふに同じ、伊(ノ)字(ハ)阿の誤なるべしといふ説はとらず、】とあるも鵤《イカルカ》と※[旨+鳥]《シメ》と競《いそ》ひ居《ヲ》るなり、又新撰字鑑に※[言+賣+言]【伊佐不】とあり、【※[言+賣+言](ノ)字はいかが、此は※[言+旨]の字の訓を混じ收たるにはあらぬか、※[言+旨]は字書に競言也と注せり、】後のものなれども伊呂波字類抄にも爭競角の三字いづれもイソフ〔三字傍線〕とよめり、これ爭競等の字に當る詞のイソ〔二字傍線〕を、波行四段に活かしたる證なり、さて思ふを思はく、曰ふをいはくなどいふ格にて、いそふをいそはくとはいへるなり、これを勤の字に當る詞のいそしとひとつに解ける説は精し(62)からず、いそしはいかでいそはく〔二字右○〕といはるへき、よく思ふべし、○神隨爾有之《カムナカラナラシ》、らし〔二字右○〕は上の許曾《コソ》の結びなり、考に上にもいへる言を二たびいひて結びたりとあるが如くにて、天地の神までも御意《ミコヽロ》を依せ給へる事は、天皇はやがて神にて御座《オハシマス》が故ならしの意也、【神隨の解は別記に有、】ニア〔二字傍線〕の急言ナ〔右○〕なる故に、爾有之とかきてナラシ〔三字傍線〕とよむなり、らし〔二字右○〕は疑ひながら大かたに定めていふ辭也、
一編の大意は、天皇の大御意に都遷しをし給はむとおもほして、宮殿を何營《イトナマ》せけるに、天地の神も御心をよせ給ひ、諸民も家をも身をも忘れて、互に競ひ勤むるを見れば、天皇の御徳化のほどはさるものにて、實に又天皇は神にて坐《マシ》ますが故ならしと也、漢籍詩經に經2始(ス)靈臺(ヲ)1經(シ)v之營(ス)v之庶民攻(ム)v之不日成v之(ヲ)經始(スルコト)勿(モ)v丞(ニスル)庶民子來(ス)、とあるは、詩人が文王の徳化の行るゝを賞賛したるなるを、これは是其役に從へる民の自ら詠じたるものにて靈臺の詩にまさること幾許《イクバク》ぞや、此歌忽に讀過する事勿れ、
かくて此歌の句つゞき等の事は、玉勝間にくはしくいはれたり、但し其内にはいかにぞやおぼゆるふしもなきにしもあらねど【上の注にところ/\に引て辨じたるをみべし、】今其全文を左に出して讀者の後案とす.
(63)玉勝間十三の卷に云、萬葉集一の卷に、藤原(ノ)宮之役民(ノ)作歌とある長歌は、役民(ノ)作歌とあるによりて、たれも、たゞその民のよめると、心得ためれど、歌のさまをもて思ふに、然にはあらず、こはかの七夕の歌を、彦星棚機つめになりてよめると同じことにて、かの民の心に擬《ナスラ》へて、すぐれたる歌人のよめる也、その作者《ヨミビト》は、誰ともなけれど、歌のさまのいと/\めでたく、巧の深きやう、人麻呂主の口つきにぞ有ける、さてかの主の長歌は、いづれも巧ふかぎ故に、詞のつづきのまぎらはしく聞ゆるが多きを、此歌は殊にまぎらはしきつゞきおほくして、物しり人たちも、皆|解《トキ》誤れるを今よく考ふれば、語のつゞきも、いと明らかにして、まぎるゝことなく、いともめでたく、すぐれたる歌也、さて歌のすべての趣は、田上山より伐(リ)出せる宮材を、宇治川へくだし、そを又泉川に持越《モチコシ》て、筏に作りて、其川より難波(ノ)海に出し、海より又紀の川を泝《ノボ》せて、巨勢《コセ》の道より藤原の宮の地へ運び來たるを、その宮造りに役《ツカ》はれ居る民の見て、よめるさま也、其乎取登《ソヲトルト》云々は、川より陸に取上《トリアゲ》るとて、水に浮居てとり上て、其(レ)を泉乃河爾持越流《イヅミノカハニモチコセル》とつゞく詞也、されば浮居而《ウキヰテ》にて、姑く絶《キレ》たる語にて、たゞに吾作《ワガツクル》へはつゞかず、吾作《ワガツクル》云々は、吾は役民の吾也、さて日之御門《ヒノミカドニ》とあるを以て見れば、此作者の役民は藤原(ノ)宮の地に在て、役《ツカ》はるゝ民也、上の云々|散和(64)久御民毛《サワグミタミモ》とある民にはあらず、思ひまがふべからず、泉乃河爾持越流《イヅミノカハニモチコセル》は、宇治川より上《アゲ》て陸路を泉川まで持越て、又流す也、こは今の世の心を以て思へば、宇治川より直《タヾ》に下すべき事なるに、泉川へ持越(シ)て下せるは、いかなるよしにか古は然《シカ》爲《ス》べき故有けむかし、泝須良牟《ノボスラム》とは海より紀の川へ入れて、紀の川を泝《ノボ》すをいひて、さて、巨勢路より、宮處に運ぶまてを兼たり、さればこは、泉の河に持越る材を、云々して、巨勢道より、吾(カ)作(ル)日(ノ)御門にのぼすらむ、といふ語のつゞきにて、御門爾《ミカドニ》の爾《ニ》と、巨勢道從の從《ヨリ》とを、此|泝《ノボ》すらむにて.結びたるもの也、辭《テニヲハ》のはこびを、熱《ヨ》く尋ねてさとるべし、なほざりに見ば、まがひぬべし、さて良牟《ラム》と疑ひたるは、此作者は.宮造(リ)の地に在てよめるよしなれば、はじめ田上山より、伐出せるより、巨勢道を運ぶまでは皆よその事にて、見ざる事なれば也、さて伊蘇波久見者《イソハクミレバ》とは、宮地へ運び來たるを目のまへに見たるをいへり、上の良牟《ラム》と、この見者《ミレバ》とを、相照して心得べし、さて難波(ノ)海に出し、紀の川をのぼすといふ事は、見えざれども、巨勢道よりといへるにて然聞えたり、巨勢道は、紀の國にゆきかふ道なれば也、又筏に造り泝《ノボ》すらむといへるにても、かの川をさかのぼらせたることしるし、然らざれば此言聞えず、大かたそのかみ、近江山城などより伐(リ)出す材を倭へのぼすには必(ス)件の如く、難波(ノ)海よ(65)り紀の川に入れて泝すが、定まれる事なりし故に其事はいはでも、然聞えしなりけり、さて不知國依《シラヌクニヨリ》は、異國の歸來《ヨリク》るよしにて、依《ヨリ》までは、たゞ巨勢の序也、異國までもなびき從ひて、歸來《ヨリク》といふ壽詞《ホキコト》をもて序としたるもの也、されば不知國は、五言の句、依巨勢道從《ヨリコセヂヨリ》は、七言の句にて、をとめらが袖ふる山などの類也、上の依《ヨリ》は.自《ヨリ》の意にはあらず、また我國者《ワガクニハ》より、新代登まで五句は、これも壽詞をもて、泉の序とせるにて、出《イヅ》とつゞく意也、そも/\此歌の意、上(ノ)件のごとくなれば、巨勢道從(リ)といへるは、即(チ)上の田上山の材也、又別に巨勢道よりものぼすにはあらず又不知國よりも材をのぼすといふにあらず、思ひまがふべからす、【以上】
 
 右日本紀(ニ)曰、朱鳥七年癸巳秋八月、幸(ス)2藤原(ノ)宮地(ニ)1、八年甲午春正月、幸(ス)2藤原(ノ)宮(ニ)1冬十二月庚戌朔乙卯、遷2居(ス)藤原(ノ)宮(ニ)1、
 
朱鳥の號の事は別紀年紀攷にいふ、僻案抄に此日本紀を引ける意は、天皇七年までは大宮ならざりしことをしらせむとて、宮地に幸とある文を引、八年正月(66)には大宮なりぬることをあかさむとて藤原(ノ)宮に幸の文を引、其年の十二月には遷都ありける文を引て注せるなるべしといへり、しかなるべし.
 
 從2明日香(ノ)宮1遷2居(シ)藤原(ノ)宮(ニ)1之後、志貴《シキノ》皇子(ノ)御作(ル)歌
 
志貴(ノ)皇子は天智天皇の皇子にて、靈龜二年に薨給へり、但し光仁天皇の御父にて、御坐《オハシマセ》ば、後に春日(ノ)宮御宇天皇と追尊し給へり、
 
51 ※[女+釆]女乃袖吹反明日香風京都乎遠見無用爾布久《タヲヤメノソデフキカヘスアスカカセミヤコヲトホミイタヅラニフク》
 
考に※[女+釆]を※[女+委]に改て、注に※[女+委]は弱好顔といへば、手弱女てふ言に書つらん、※[女+釆]女と書は後の誤とす、とあるによりて、燈にも※[女+委]と改たり、略解は本文は本のままに※[女+釆]とかきて、注に※[女+委]の誤なるべしといへり、しかれども諸本いづれも※[女+釆]とありて異同あることなし、【拾穗抄に婬とあるは、例の私に改たるなるべし、】依て按(フ)るに、に※[女+釆]女《ウネメ》は釆女の俗字にて、釆女《ウネメ》は官女の稱なるを、義を以てタヲヤメ〔四字傍線〕に借たるなり、卷四【十六右】に臣女とかきて、マウトメ〔四字傍線〕とよめり、此舊訓は誤にて、これも官女の意にてタヲヤメ〔四字傍線〕と訓べし、互に證して其義を暁るべし、卷四【十五左】に駿河(ノ)※[女+釆]女ともあり、これ釆女を※[女+釆]女とかける例也、玉篇に※[女+釆](ハ)※[女+釆]女也とあり、但し正しくは釆の字を用ゐるへきを後人女旁を増加して、(67)釆擇の字に分てるものなり、卷四【二十三右】に手弱女《タワヤメ》と有も、弱(ノ)字に女旁を加へたるにて同例也、くはしくは萬葉集訓義辨證にいへり、○袖吹反《ソデフキカヘス》、考に、吹反《フキカヘス》とよみて、注にこゝ宮所なりし時、花の如き袖吹わたりし風の、今はたゞよしなくのみふきぬるかな、むかしべに吹かへせかしと、風によせて歎給へり、とあれどいとむづかし、但しふきかへすは現在をいふ語にて、こゝはふきかへしゝと過去にいはでは調はずとおもひて、かくよみ改たるならん、玉(ノ)小琴の又(ノ)説にたわやめの袖をも吹かへすべき飛鳥風なれども、今は京遠くなりぬれば、さる女も行通はねば、いたづらに吹と云也、とあるにてきこえたり、正辭按(フ)るに、卷三【十六左】に鴨(ノ)君足の香具山をよめる歌に、大宮人乃退出而遊船爾波梶棹毛無而不樂毛《オホミヤビトノマカリデヽアソブフネニハカチサオモナクテサブシモ》とあるは、高市(ノ)皇子薨たまひて後、香具山の宮に住人なきよしをよめるなれば、遊船は遊ぶへき船の意にて、同例なり、○明日香風《アスカカゼ》は、いかほ風佐保風などに同じく明日香にて吹風をいふ、〇無用爾布久《イタヅラニフク》、無用は義を以てかけるなり、
一首の意は、此明日香の里の舊《モト》の如く京《ミヤコ》ならましかば、行かふ官女だちの袖をも吹かへすべき風なるに、今は京の遠くなりぬるが故に、さる官女だちの行かひもなければ、いたづらに吹よと也、舊都の淋しきさまをおもひやり給へるなり、
 
(68) 藤原(ノ)宮(ノ)御井歌
52 八隅知之和期大王《ヤスミシシワゴオホキミ》、高照日之皇子《タカテラスヒノミコ》、麁妙乃藤井我原爾《アラタヘノフヂヰガハラニ》、大御門始賜而《オホミカドハジメタマヒテ》、埴安乃堤上爾《ハニヤスノツヽミノウヘニ》、在立之見之賜者《アリタヽシミシタマヘバ》、日本乃青香具山者《ヤマトノアヲカグヤマハ》、日經乃大御門爾《ヒノタテノオホミカドニ》、春山跡之美佐備立有《ハルヤマトシミサビタテリ》、畝火乃此美豆山者《ウネビノコノミヅヤマハ》、日緯能大御門爾《ヒノヨコノオホミカドニ》、彌豆山跡山佐備伊座《ミヅヤマトヤマサビイマス》、耳爲之青菅山者《ミヽナシノアヲスガヤマハ》、背友乃大御門爾《ソトモノオホミカドニ》、宜名倍神佐備立有《ヨロシナヘカムサビタテリ》、名細吉野乃山者《ナグハシヨシヌノヤマハ》、影友乃大御門從《カゲトモノオホミカドユ》、雲居爾曾遠久有家留《クモヰニゾトホクアリケル》、高知也天之御蔭《タカシルヤアメノミカゲ》、天知也日之御影乃《アメシルヤヒノミカゲノ》、水許曽波常爾有米《ミヅコソハトコシヘナラメ》、御井之清水《ミヰノマシミヅ》、
 
藤原(ノ)宮の地の事は、上にいへり、考に上の歌の注に、宮の所は十市(ノ)郡にて、香山耳成(69)畝火の三山の眞中也、今も大宮殿《オホミヤドノ》と云て、いさゝかの所を畑にすきのこして、松立てある是也、正辭云、鎌足公の本居《ウブスナ》の大原(ノ)里も藤原といへど、其は此宮地とは別地《コトトコロ》也、しかるを大和志に藤原(ノ)宮在2大原村(ニ)1、持統天皇八年遷2居於此(ニ)1、とあるは非也、さて歌の詞によるに、此宮地はもと藤井が原といふ地なるを畧稱して藤原とはいひしなるべし、また端詞に御井(ノ)歌とあれど、此歌はすべて藤原の宮地の勝れたるよしを延べたるものにて、御井も其内の一なり、
和期大王《ワゴオホキミ》、わごといふ事は上卷にいへり、考にこの言の辨あれどいとむづかし、决《キハメ》て非なり、○麁妙《アラタヘ》は枕詞なり、○藤井我原爾《フヂヰガハラニ》、上古よりこゝに靈泉のありしによりて地の名にも負《オヒ》たるなるべし、大御門始賜而《オホミカドハジメタマヒテ》は、遷都の事を始賜ひしをいふ、○埴安之堤上爾《ハニヤスノツヽミノウヘニ》、卷二【三十六右】にも埴安之池之堤《ハニヤスノイケノツヽミ》とよめり、香山の尾につづきて高き堤なりけるなるべし、大和志に埴安池在2南浦村(ニ)1今曰2鏡池1とあり、○在立之《アリタヽシ》、在は何にても物の存在するをいふ言にて、こゝは天皇の堤の上に立し給ふをいふなり、此詞集中にいと多し、有通《アリガヨフ》有待《アリマツ》などの有《アリ》皆同じ、但し此等の在《アリ》を上に置ことは後世は無故に耳遠く聞ゆるなり、○見之賜者《ミシタマヘバ》は、見《ミ》しは見《ミ》の敬語にて見させ給へば也、書紀持統紀に四年十月高市(ノ)皇子觀2藤原(ノ)宮地(ヲ)1、十二月天皇幸2藤原(ニ)1觀2宮地(ヲ)1云々とあり、(70)實は歌主の今こゝの宮地のありさまを見てよめるなれど、其をはじめ京を遷さむとせしをりに、天皇の御覧《ミソナハ》し給ひしことのおもむきによみなしたるにて、上の人麻呂朝臣の長歌に、高殿乎高知座而上立國見乎爲婆《タカドノヲタカシリマシテノボリタチクニミヲスレバ》云々、とあるにおなじ、○日本乃《ヤマトノ》、考に此下に幸2吉野(ノ)宮1時、倭爾者鳴而歟來良武《ヤマトニハナキテカクラム》とよめるは、藤原(ノ)都べを倭といへる也、然れば香山をもしかいへる事知べし、後にも山邊(ノ)郡の大和《ヤマト》の郷といふは、古(ヘ)は大名《オホナ》にて、其隣郡かけてやまとといひし也とあるを、本居翁の國號考に辨じて云、山邊(ノ)郡(ノ)倭郷《ヤマトノサト》より始れる名なりといへるはわろし、倭は一國の名のかたもとにて、郷《サトノ》名は後に倭大國御魂《ヤマトノオホクニミタマノ》神の鎭座《シヅマリマセ》るによりて、とり分て一國の名を負《オフ》せて、その郷をも倭とはいふなるべし、今の世に伊勢の國内にても、大御神の宮のべの里をさして、殊に伊勢といふに同じ心ばへなり、又云都の名をこそかたはらの郷までも及なしていふべけれ、かへりて隣《トナリノ》郡の郷(ノ)名を何の由《ヨシ》にかは都あたりまで冠らせいふべき、もしまた藤原(ノ)都あたりまでも倭(ノ)郷の内なりとせば、同じ倭(ノ)郷の内にしてさらにやまとゝいはむは、これもかの伊勢といふ例と同じ心ばへにて、同じ倭(ノ)國の内ながらも、殊に京師《ミヤコ》のあたりをさして倭とはいへるなり、香具《カグ》山は藤原(ノ)都の東(ノ)方にならびていと近し、吉野にてよめる歌も同じ意なり、かゝればこは(71)萬葉考の説はわろくて、冠辭考のしき嶋の條に、一國の名を都に負《オハ》せていへるなりといはれつるかたぞ宜しかりける、○青香具山者《アヲカグヤマハ》、青は木の繁茂したるさまをいひて、賞《ホメ》たるなり、山は木の繁きを貴べはなり、○日經乃大御門爾《ヒノタテノオホミカドニ》、日經《ヒノタテ》は東西をいふ、成務天皇(ノ)紀に、五年秋九月云々、隔2山河(ヲ)1而分(チ)2國縣(ヲ)1、隨2阡陌(ニ)1以定(ム)2邑里(ヲ)1、以2東西(ヲ)1爲2日縦《ヒノタヽシト》1南北(ヲ)爲2日横《ヒノヨコシト》1、山(ノ)陽(ヲ)曰2影面《カゲトモト》1、山(ノ)陰(ヲ)曰2背面《ソトモト》1とあり【漢土にては、東西を横とし南北を縦とせり、皇國と異なり、南北を縦とする事は、史記蘇秦傳の索隱、漢書項籍傳の孟康(ノ)注見えたり、東西を横とせし事おして知るべし、又玉篇廣韻等に南北(ヲ)曰v阡(ト)東西曰v陌(ト)とあるも是也、さて又史記秦本紀の索隱に、風俗通を引て南北(ヲ)曰v阡(ト)東西曰v陌(ト)河東以2東西1爲v阡(ト)南北爲v陌(ト)と見えたれば、彼國にても東西を縦としたる事もありしなり、】大御門爾《オホミカドニ》とは香山《カグヤマ》は東(ノ)御門に當ればなり、○春山跡《ハルヤマト》、跡の字各本路に誤れり、今改む跡をと〔右○〕に用ゐるは、あと〔二字右○〕の略訓也、春はことに樹木の繁《シゲ》れる時なるからかくいふ、跡《ト》はあゆび抄にに〔右○〕のと〔右○〕ゝいふものにて、彼抄に雨とふる花と散など、其物にたとへて云こと多しとある、是也、下なる彌豆山跡《ミヅヤマト》の跡《ト》も同じ、さて玉(ノ)小琴に春《ハル》は青《アヲ》の誤なるべし、此歌の凡ての詞どもを思ふに、分て春と云はむこといかゞ、其上|畝火乃此美豆山者彌豆山跡《ウネビノコノミヅヤマハミヅヤマト》と云へるに對へても、青香具山者青山跡有べきもの也、といへり、此説然るべくおぼゆ、○之美佐備立有《シミサビタテリ》、繁進立《シミサビタテリ》也、之美《シミ》は繁《シミ》なり、こはたゞ繁の字の意の一の古言なり、卷十七【九右】に烏梅乃花美夜萬等之美爾安里登母也《ウメノハナミヤマモシミニアリトモヤ》ともあり、佐備《サビ》の注は上に出、○(72)畝火乃此美豆山者《ウ子ビノコノミヅヤマハ》、畝火山は高市(ノ)郡にあり、美豆《ミヅ》はみづ枝《エ》などのみづにて、若くうるはしきをいふ、此は草木の繁茂して榮ゆるをいふ也、卷十三【十二左】に※[木+若]垣久時從《ミヅガキノヒサシキトキユ》とありて※[木+若]の字をミヅとよめるも、この意なり、此は※[木+若]榴の※[木+若]字にはあらずして、別に皇國にて製作したるものにて若木の二合字なり、若木はみづ/\しくうるはしきが故なり、燈に此としもいへるは、藤原(ノ)宮は畝火の山下にて、他の山々よりもことに近ければ、此とはいへるなりとあるが如し、○日緯能大御門爾《オホミカドニ》、日緯《ヒノヨコ》は南北をいふ、玉(ノ)小琴に云、畝火山は正しくは西の御門に當るべけれど、日の經は既に云(ヘ)れば、爰は必日の緯といはでは宜からぬ所なる故に、少し強てかく云(ヘ)るも、西面ながら南の方へよれる山なればなり、○山佐備伊座《ヤマサビイマス》とは其山をやがて神としていふなり、山佐備は、山進《ヤマサビ》にて、年經て草木の茂りゆくさまをさしていふ、即(チ)山の榮ゆくよし也、これらの佐備を神さびの略なりといへるはわろし、神さびのさびも同意なることは論なけれど、山佐備は山さびにて、言のまゝに心得べし、僻案抄に山の年ふりたるを、山佐備座とはよめるなり、佐備は神さびの佐備に同じとあるが如し、○耳爲之青菅山者《ミヽナシノアヲスガヤマハ》、爲、諸本に高とあるは决て誤なり、考に改たるによる、爲をナシ〔二字傍線〕とよめるは、卷二【四十二右】に枕爾爲而《マクラニナシテ》とある是也、また卷十六【十九右】に成(73)棗《ナシナツメ》と成を梨《ナシ》に借れるなどをもおもふべし。青菅は、考に、常葉なる山菅の茂れるをいふといへれど、燈に、菅は借字にてすが/\しき山と云也、とあるがよろしかりける、青く清々《スガスガ》しき山といふ意なり、○背友乃《ソトモノ》は、成務紀に山(ノ)陽(ヲ)曰2影面《カゲトモト》1山(ノ)陰(ヲ)曰2背面《ソトモト》1とあり、日の影の背のかたの面といふことにて、山の北をいふなり、こゝは凡に北の方をいへるなるべし、耳梨山は藤原(ノ)地よりは北にあたりてある也、○宜名倍《ヨロシナベ》、宜《ヨロシ》は俗にチヤウドヨイ〔六字傍線〕と云意にて、其事其物の相應したるをいふ、名倍《ナベ》は、考の別記に並《ナベ》の意なりされども別々に並ぶるにあらず、譬ば身一つに數の相《カタチ》を具《ソナフ》と云が如し、常《トコ》しなへは常《トコ》しく年を續並《ツギナベ》ゆく事なり、又|別《コト》物と相むかへて奈倍といひたるぞ多き、とて猶くはしく辨へられたり、さて集中に共の字を奈倍《ナベ》に借りたるをもて其義を知(ル)べし、かくて考ふるに此一句は上の二(ツ)の大御門爾の爾をも一つにうけたるものならん、耳梨山のみを宜名倍と取わけていふべき由《ヨシ》なければ也、よく味はふべし、○神佐備立有《カミサビタテリ》、しみさび山さび神さびと語をかへてあやなしたり、上の山さび、伊座《イマス》といへるも、山をやがて神としての意を知らせがてら、前後の立有《タテリ》と語をかへて調べをあやなせる手際《テギハ》のほどをおもふべし、○名細《ナグハシ》は枕詞なり、クハシ〔三字傍線〕は卷十三【三十左】の歌に麗妹爾《クハシメニ》ともありて、即(チ)麗(ノ)字細(ノ)字などの意にて物を美(74)稱《ホムル》詞なり、此は俗に名高きといふ意なり、○影友乃《カゲトモノ》は、影面《カゲトモ》にて山陽をいふ、吉野は南の方にあたれば也、從《ユ》はよりの意の也、大御門より遠く隔たれるをいふ、○雲居爾曾《クモ井ニゾ》云々、吉野は遠く空に見放《ミサク》るをいふ、曾《ゾ》の辭を置たるは、他の三山に異なりて遠かるよしをとり出でたるなり、さてかく四山をあげたるは、御門祭(ノ)御巫の祝詞に、四方能御門爾湯津磐村能如塞座※[氏/一]《ヨモノミカドニユヅイハムラノゴトクフサガリマシテ》、朝者御門開奉《アシタニハミカドヒラキマツリ》、夕者御門閇奉※[氏/一]《ユフベニハミカドタテマツリテ》、陳夫留物能《ツトブルモノノ》、自下往者下乎守《シタヨリユカバシタヲマモリ》、自上往者上乎守《ウヘヨリユカバウヘヲマモリ》、夜能守日能守爾守奉故《ヨルノマモリヒルノマモリニマモリマツルユエ》云々、とあるが如く、此地のさま自(ラ)なる四山の四門を護(リ)立るをもて祷《ホギ》まつれるなり、○高知也天之御蔭《タカシルヤアメノミカゲ》云云、延喜式なる諸の祝詞に、天御蔭日御蔭登隱坐※[氏/一]《アメノミカゲヒノミカゲトカクリマシテ》とありて、宮殿の事をかくいへり、殿屋は雨露を覆ひ日を覆ふが爲のものなれば、詞をあやなしてしかいふなり、諸注にこゝなるは祝詞とは別《コト》にて、天の影日の影のうつる水といふ意なりといへるは、非也、こゝもかの祝詞なると同じく、宮殿の事にて、此大宮の水こそは云々といふ意なり、かくて此詞をこゝに用ゐたるは、年祈祭の座摩御巫《井カズリノミカムノコ》の祝詞にも此詞あれば、やがて其をとり用ゐてあやなしたるなるべし、さるは座摩(ノ)御巫の祝詞は、御井(ノ)神を祭る詞なるが故に、殊に取出たるならん、此歌のいとたくみなるは、上の役民の歌と共に、人麻呂朝臣などの作にやとぞおぼゆる、さて記傳十【六十一右】に(75)高知(ル)はたゞ高き意なるを、次の天知(ル)と對(ヘ)て調べをなさむために知(ル)を添(ヘ)たりとこそ聞ゆれ、といへり、さもあるべし、也《ヤ》は二(ツ)ながら詠歎の也《ヤ》にて、おしてるやなにはのみつ、いはみのやたか角山、天なるやおとたなばた、などの也《ヤ》なり。さて天之《アメノ》某といふ事に就て、村田春海の天字讀法考といふものに、神名國名物名に天の字のそひたるをば、皆アマノ〔三字右○〕と讀むが古(ヘ)のとなへなりといへり、友人飯田武郷は此説を襲蹈して、阿米乃某といふ事古(ヘ)ある事なしとて、古事記傳の説を非也としたれど、其はかへりて非也、其よしはおのれ別に辨へおけるものあり、○水許曾波《ミヅコソハ》は、上にのべたるが如き靈山四方にめぐれる此宮殿の水なれば、他所の水は涸《カル》ることありとも、此水こそはといふ意にて、こそはとはいへるなり、諸注このこそはを等閑に見すぐせるはいまだし、山林の河水を蓄ふるに必要なることは、今の人もいふ事なれど、古人は殊にこゝに心を用ゐたる事と見えて、弘仁十二年四月廿一日の官符に、産業之努(ハ)非2只堰池(ノミニ)、浸潤之本(ハ)水木相生(ス)、然則水邊(ノ)山林(ハ)必須2欝茂1、何者(トナレバ)大河之源(ハ)其山欝然(タリ)、小川之流(ハ)其岳童?(ナリ)焉、爰(ニ)知(ル)流(ノ)細大(ハ)隨v山(ニ)而生(ルヲ)、夫山(ハ)出2雲雨(ヲ)1河(ハ)潤(ス)2九里(ヲ)1、山童(ニシテ)毛盡(レバ)谿流涸乾(ス)とあるを見るべし、さてこゝの波(ノ)字は古本にいづれも婆とあり、仙覺抄にも婆とあるなり、【但し板本の仙覺抄には倒置して、婆(ノ)字常(ノ)字の下にあり、古本には水許曾婆常爾とあるなり、】集中婆も清(76)音に用ゐたる事あれば、古本のまゝにてもよし、今本は後人のさかしらに改たるなるべし、○常爾有米《トコシヘナラメ》、考に、トコシヘナラメと訓るに從ふ、米《メ》は上の許曾《コソ》の結び也、舊訓ときはにあらめとあれど、常の一字をときはと訓る例なし、又文字のまゝにツ子ニアラメと訓(ミ)ては此の意に叶はず、○御井之清水《ミ井ノマシミヅ》、眞《マ》の言をそへてかくよむべし、御井の清水《マシミヅ》の水こそは常しへならめといふ意也、
一編の大意は、天皇藤原の地に遷都したまはむとて、埴安(ノ)堤に上り給ひて、地勢を御覧《ミソナハ》し給へば、香具山畝火山耳梨山、及び吉野山の四山四方に立榮えて、宮城の四門を護り、また御井の水もことによろしければ、まことに美地なりとて、こゝに遷都し給ひけるもうべなることなり、されば此水の淺《アセ》ず、涸《カレ》ざるが如く、此宮殿も永く立榮えむものぞといふ意なり、
 
 短歌
53 藤原之大宮都加倍安禮衝哉處女之友者乏吉呂賀聞《フヂハラノオホミヤヅカヘアレツガムヲトメガトモハトモシキロカモ》
 
反歌をまたは短歌ともいへるよしは上にいへり、さて考に此歌は右の長歌の反歌にはあらず、此所に別に端詞のありしが落たるならんといへり、今按(フ)るに此長(77)歌は、上にもいへる如く、題には御井歌とあれども藤原の宮地を稱贊したる歌なれば、反歌に御井の事なしとて別歌なりとはいふべからず。
大宮都加倍安禮衝哉《オホミヤヅカヘアレツガム》、安禮《アレ》は生《アレ》、衝《ツグ》は假字にて繼《ツグ》也、都加倍《ツカヘ》は仕へにて、大宮仕(ヘ)に生繼《アレツガ》むなり、哉は宣長翁の説に武の誤れるなりといへど、こゝを武とかける本は絶てなければ、文字はもとのまゝにて、訓はアレツガムとすべし【舊説にアレセムヤとあるは理りきこえず、】哉をム〔傍線〕とよむべきよしは、此卷【十一右】に君之齒母吾代毛所知哉《キミガヨモワガヨモシラム》とある所にいへり、卷六【四十四右】に布當乃宮者《フタギノミヤハ》云々、八千年爾安禮衝之乍《ヤチトセニアレツガシツヽ》、天下所知食跡《アメノシタシロシメサムト》、百代爾母不可易大宮處《モヽヨニモカハルベカラヌオホミヤドコロ》とある安禮衝之も、生繼《アレツガ》しにて此と同じ、但し卷六なるは御代々々の天皇の御事なるから、敬ひて、繼之《ツガシ》といへる也、しかるを玉勝間卷十一に安禮《アレ》は賀茂の齋王を阿禮乎止女《アレヲトメ》と申せる阿禮と同じく、奉仕をいへる言也、賀茂の祭を御阿禮《ミアレ》といふも奉仕る意なるべし、衝《ツク》は神功紀に、撞賢木嚴之御魂《ツキサカキイヅノミタマ》とある撞《ツキ》と同くて、伊都伎《イツキ》の伊を省たる言なり、されば、安禮衝哉處女《アレツガムヲトメ》とは、藤原(ノ)宮にして持統天皇に奉仕《ツカヘ》いつきまつる女官をいへる也とて、卷六なるも其意に解(キ)なしたるはいみじきひがことなり、阿禮乎止女の事は久老の信濃漫録に説あれど、それも猶いまだし、余別に考あり、其はこゝに要なければ別に云べし、とにかくに此の安禮衝の安禮(78)とは別義なる事論なし、又玉勝間に繼《ツグ》と禮《ツク》とは、久《ク》の清濁も異なるを、いかでか借(リ)用ひ〔右○〕む、といへるもわろし、本集の借字には清濁を通はし借れる事は常なるをや、今一二の例を示さむに、卷七【三十九右】、雉爾絶多倍《キシニタユタヘ》とある雉は岸の借字、卷十【二十八右】に磨待無《トキマタナクニ》とある磨は時の借字、卷四【三十九右】卷十一【二十三左】等に言借《イブガシ》とあるは、欝《イブカシ》なり、猶あり、又橘(ノ)守部の説には、安禮は在《アリ》、衝《ツク》は三諸就《ミモロツク》などのつく〔二字傍線〕にて其宮に親《シタシ》み附(ク)よしにて、其所《ソコ》に在附《アリツク》をいふ、といへるは、いとむづかしき解也、生繼《アレツグ》にてよく聞えたるをや、○處女之友者《ヲトメガトモハ》、友《トモ》は輩《トモ》にて多くの女官をいふ、○乏吉呂賀聞《トモシキロカモ》、今本に乏を之、呂を召と作《カキ》て、シキメスカモとよめるは誤也、田中道麻呂のかく考(ヘ)正せるに從ふ、【此道麻呂の考は萬葉問答といふものにあるぞもとなりける、】乏は此次に朝毛吉木人乏母《アサモヨシキビトトモシモ》とあると同意にて羨《ウラヤマ》しき意につかへる古言なり、すべて物の乏しきは愛《メヅ》らしく羨るゝものなるが故なり、賀聞《カモ》は例の歎辭なり、かゝる宮に仕る宮女だちは羨しきことよとの意なり、
一首の意は、かゝるよき地の都の宮づかへに生《ウマ》れ繼《ツグ》女官だちは、常に其よきけしきをも見つゝあらむは、羨しき事よとなり、
 
 右歌作者未v
 
(79) 大寶元年辛丑秋九月、太上天皇幸(セル)2于紀伊(ノ)國(ニ)1時(ノ)歌
 
以上は天皇の御代を以て序で、以下は年號を以て序でたり、太上天皇は持統天皇を申す、續日本紀に大寶元年九月丁亥天皇幸2紀伊國(ニ)1、冬十月丁未車駕至2武漏(ノ)温泉1とあてりて、太上天皇の事は見えされども、本集卷九にも、此幸の事を載て、太上天皇大行天皇とあり、今本の紀は天皇の上に太上天皇の四字を脱せるなり、本条に依て正すべし、猶下にくはしく云べし、皇國にて太上天皇の尊號を奉りしは、此天皇を始とす、史紀始皇本紀(ニ)云、追2尊(シテ)荘襄王(ヲ)1爲2太上皇(ト)1、注(ニ)云漢(ノ)高祖尊v父(ヲ)曰2太上皇(ト)1、亦放v此(ニ)也、高祖本紀(ノ)注(ニ)云、索隱(ニ)曰葢太上(ハ)者無上也、皇徳大(ナリ)2於帝(ヨリ)1、故尊(テ)2其父(ヲ)1號2太上皇1也、蔡※[災の火が邑](ノ)獨斷(ニ)曰、高祖得2天下1而父在v上(ニ)、尊號(シテ)曰2太上皇(ト)1、不v言v帝(ト)非(レバ)2天子1也、と有、
 
54 巨勢山乃列列椿都良都良爾見乍思奈許湍乃春野乎《コセヤマノツラツラツバキツラツラニコセノハルヌヲ》
 
巨勢山は、藤原の京より紀伊に行く路なり、○列々椿《ツラツラツバキ》は、多く立つらなりたる椿をいふ、○都良都良爾《ツラツラニ》は、上の列々をうけて熟《ツラ/\》にといひくだしたる也、○見乍思奈《ミツヽオモフナ》、此|奈《ナ》は、古事記中卷【日代宮段】の歌に阿佐士怒波良《アサジヌバラ》、許斯那豆牟《コシナヅム》、蘇良波由賀愛《ソラハユカズ》、阿斯用由久那《アシヨユクナ》とある傳二十九【十四左】に阿斯用由久那《アシヨユクナ》は、從《ヨ》v足《アシ》行那《ユクナ》なり、徒《カチ》より行と云ふが如し(80)云々、徒より馬より船よりなど云ぞ古言の初にて、足して歩行《アユミユク》を從v足とは云なり、那《ナ》は助辞にて、與《ヨ》と云に似ていさゝか歎く意あり、此辭萬葉に多かる中に、一【二十四】に見乍思奈《ミツヽオモフナ》十二【二十八】に球手次懸而思名《タマタスキカケテオモフナ》、雖恐有《カシコクアレドモ》、これらの那《ナ》、此《コヽ》の勢(ヒ)に似たり、【正辭云全く同意の奈也】此外四【二十四】に吾者將戀各《ワレハコヒムナ》云々など牟那《ムナ》とつゞきたるなほ此彼あり、とあるが如し、【考に、奈は言をいひおさふる辭といひ、燈には勿《ナ》の意としたり此他にも説あれども皆非なり、】○許湍乃春野乎《コセノハルヌヲ》、野は山の裾野をいふ、今は九月なれば、椿の花の咲む春を想ひやるなり、見乍許湍乃春野乎思奈《ミツヽコセノハルヌヲオモフナ》といふ意也.【此句のかゝりを、諸注皆誤れり、】
一首の意は、巨勢山には多く椿の列《ツラ》なり立るに、今は花なき時節なるを歎きて春のながめはさぞかしと羨みおもふよしなり、四(ノ)句の見乍《ミツヽ》は今見つゝなり、思奈《オモフナ》は春野を也、
 
 右一首|坂門人足《サカドノヒトタリ》
 
考に是と次の調(ノ)首淡海とは目録にもしるさず、又一本には小字に書たり、然ればいと後世人の書しものなり、いか成物に依けん捨もしつべし、といへるは例のいと妄なる言なり、一本には小字に書たりといふもいかゞ、いづれの本も小(81)字にかけるはなし、又かゝる事を後人の推當に書《シル》すべきにはあらず、目録になきは落したるなるべし、
 
55 朝毛吉木人乏母亦打山行來跡見良武樹人友師母《アサモヨシキビトトモシモマツチヤマユキクトミラムキビトトモシモ》
 
朝毛吉木人《アサモヨシキビト》、冠辭考にこは淺葱《アサギ》てふ色の事なるを、上に淺《アサ》よといひて葱《キ》とつづけしならん云々、衣の色の淺黄《アサギ》てふは、もとは淺葱にて葱の萠出る色のうるはしきよりいへる名ぞ云々、とあれど、淺葱《アサギ》といふことを二つにわけてつづけしならんといへるは強言なり、いかでさることのあるべき、信濃漫録に麻もて作る裳にて、萬葉九【三十四左】直佐麻乎裳者織服而《ヒタサヲヲモニハオリキテ》とある是也、よは呼かけたる言、しは助語にて、麻裳《アサモ》よ着といふ意にかゝれる發語也、とあるぞよろしかりける、木人《キビト》は紀伊(ノ)國人也、○乏母《トモシモ》は、上にいへるが如く羨しき意にて乏を羨しき意とせるは、卷五【二十二右】に麻都良河波多麻斯麻能有良爾和可由都流伊毛良遠美良牟比等能等母斯佐《マツラガハタマシマノウラニワカユツルイモラヲミラムヒトノトモシサ》、卷六【十八左】に島隱吾榜來者乏毳倭邊上眞熊野之船《シマガクリワガコギクレバトモシカモヤマトヘノボルマクマノノフネ》、など猶あり、○亦打山《マツチヤマ》、紀伊(ノ)國にある山にて、大和に近き所なりといふ、亦打《マタウツ》を急呼して、麻都知《マツチ》に借たる也、亦(ノ)字今本及び活本家本昌本等に赤と作《ア》るは誤也、今官本温本拾本等に依て改む、○行來跡《ユキクト》、跡《ト》は(82)とての意、行《ユク》とて、來《ク》とてなり、かゝるおもしろき所を常にゆきゝする紀人は羨しとなり、【考に乏《ヨモシ》を稀《マレ》なる意に解けるは非也、】○友師《トモシ》は借字にて乏也、かく同じ言をくりかへしいふは、其羨む意の切なるを示すなり、
一首の意は、かゝるけしきのおもしろきよき所を、常にゆきゝつゝ見らん紀(ノ)國人は羨しきことよと、其所のおもしろさに其國人を羨むなり、
 
 右一首|調首淡海《ツキノオビトアフミ》
 
 或本(ノ)歌
 
56 河上乃列列椿都良都良爾雖見安可受巨勢能春野者《カハノベノツラツラツバキツラツラニミレドモアカズコセノハルヌハ》
 
考に、こは春見てよめる歌にして、此度の事にあらず、後にこゝに注せしものなるを、今本に大字に署しはひがこと也.とあり、こはげにさる事なり、家本昌本には此歌本行より一字下げてかけり、是もとのすがたなるべし、今之に從ふ、但しこれらは順朝臣等本集校合の時の勘文なるべくおぼゆ、
(83)一首の意は、河上に並立《ナミタテ》る椿の花は、熟《ツラ/\》見れども猶飽よしなしとなり、
 
 右一首|春日藏首老《カスガノクラノオビトオユ》
 
 二年壬寅、太上天皇幸(セル)2參河(ノ)國(ニ)1時(ノ)歌
 
續紀に此幸の事を載て冬十月とあり、こゝには此三字脱したるなるべし、
 
57 引馬野爾仁保布榛原入亂衣爾保波勢多鼻能知師爾《ヒクマヌニニホフハギハライリミダリコロモニホハセタビノシルシニ》
 
考別記云、遠江(ノ)國敷智(ノ)郡濱松の驛を、古へは引馬(ノ)宿といふ、阿佛尼の記に見ゆ、そこの城を近ごろまで引馬の城といひ、城の傍の坂を引馬坂といひ、其坂の上をすこしゆけば大野あり、そを古へは引馬野といひつと所にいひ傳へたり、此野今は三方が原といふ、さてこの度三河國へ幸とありて遠江の歌あるをいぶかしむ人あれど、集中には難波へ幸とて河内和泉の歌もあり、紀には幸2伊與(ノ)温湯(ノ)宮1とある同じ度に、集には讃岐の歌もあり、其隣國へは次に幸もあり、又宮人のゆきいたる事もありしゆゑ也、いまもそのことくなり云々、○仁保布榛原《ニホフハギハラ》、榛《ハギ》は借字にて萩なり、榛はハリノ木なるを、理《リ》と伎《キ》とは通ずる音なるから借(リ)てかける也、萬葉考別記に(84)も論ひあり、僻案抄にも萩なりといへり、集中に數多ある榛の字、舊訓に皆ハギ〔二字傍線〕とよめるも古來相傳の訓なるべし、別紀あり、又上の綜麻形乃《ミワヤマノ》歌の注にもいへり、爾保布《ニホフ》とは、花の光澤をいふ也、〇入乱《イリミダリ》、亂は、後世は下二段の活詞とすれど、古くは四段に活かしたれば、ミダリ〔三字傍線〕とよむべし、〇衣爾保波勢《コロモニホハセ》は從駕の人だちにいひかけたるにて所謂希求言なり、さて比幸は十月なれど、考に遠江はよに曖にて十月に此花のにほふ年多かりといひ、僻案抄にも十月には花も過《スギ》葉もかれにつく萩の、此引馬野には花も殘り葉もうるはしくてにほふが故にかくよめりと見るとも難あるべからず、草木は氣運によりて例にたがひ、土地により遲速あることも常のことなり、しからば一入めづらしき心ちすべければ、衣にほはせなどよめるなるべしとあり、○多鼻能知師爾《タビノシルシニ》は、旅《タビ》の標《シルシ》に也、三河遠江あたりまで來りししるしにといふなり、考に、旅には摺衣きる古へのならひ也、といへるはいりほが也.
一首の意は、此野に今咲匂ふ萩原に入り亂れて、京へかへりて旅のしるしなりと示さむ料に、おの/\衣にほはせとなり
 
 右一首|長忌寸奥麿《ナガノイミキオキマロ》
 
(85)卷二卷三卷十六には意吉麿とかけり、
 
58 何所爾可船泊爲良武安禮乃崎榜多味行之棚無小舟《イヅクニカフナハテスラムアレノサキコギタミユキシタナナシヲブネ》
 
何所爾可《イヅクニカ》は、舟のとまらむ所を知らまくする意なり、○船泊爲良武《フナハテスラム》、船の到り着くをはつるといふ、船《フネ》をフナ〔二字傍線〕といふは、竹《タケ》をタカ〔二字傍線〕、酒《サケ》をサカ〔二字傍線〕、天《アメ》をアマなど下の詞につゞくるとき轉じいふ例なり、卷十四【十四右】に、布奈波之《フナバシ》、卷廿【十七左】に布奈可射里《フナカザリ》、同【廿六左】に布奈與曾比《フナヨソヒ》、とあり○安禮乃崎《アレノサキ》は、或説に和名抄に美濃(ノ)國不破(ノ)郡|荒崎《アラサキ》どある是なるべしといへり、此幸に美濃をも經給ひしよしは續紀にも見えたれども、美濃は海なき國なれば、いかゞなり、守部の檜柧には、敷智(ノ)郡の今荒井といふ里は、本は、荒江なりといへば、古くは荒の崎といひしなるべし、といへり、猶考ふべし、○榜多味行之《コギタミユキシ》、タミ〔二字傍線〕は集中に回(ノ)字轉(ノ)字等をよめり、此等の字の意にてこぎめぐり行し也、〇棚無小舟《タナヽシヲブネ》、大船には船の左右に楫子《カコ》のありきする所ありて、これを船だなといふ、和名抄に竅iハ)大船(ノ)旁板也不奈太那とあり、小舟には此棚なき故に、棚なし小舟といへり、
一首の意は今此のあれの崎をこぎ廻り行し小舟は、何處に行到るらむとなり、こ(86)はたゞ其うち見たるさまをいへるのみにて、外に意はなきなるべし、
 
 右一首|高市《タカチ》(ノ)連《ムラジ》黒人《クロヒト》
 
 譽謝《ヨサノ》女王(ノ)作(ル)歌
 
59 流經妻吹風之寒夜爾吾勢能君者獨香宿良武《ナガラフルツマフクカゼノサムキヨニワガセノキミハヒトリカヌラム》
 
流經《ナガラフル》は、考に、流は借字にて長ら經《フ》る也、寢衣のすその長《ナガキ》をいふとあり、○考妻吹風之《ツマフクカゼノ》、考に云妻は端也、代匠紀にも夜の物は長きものなれば、つまの裾になびきてあるをながらふるつまといへりとあり、○寒夜爾《サムキヨニ》、此幸は十月いでまして、十一月に還幸ませしよし續紀に見えたり、〇吾勢能君者《ワガセノキミハ》云々、夫君の旅ねを京に在て思ひやり給へるなり、かくて荒木田(ノ)久老の説に、衣といはずして妻とのみいふべきにあらず、妻は雪の誤ならんといへり、此説いとおもしろし、【但し校異本に、妻異本作v雪とあるは、おぼつかなし、さる本あることなし、】其は此下に天之四具禮能流相見者《アメノシグレノナガフミレバ》、卷八【十四左】に沫雪香薄太禮爾零登見左右二流倍散波何物花其毛《アワユキカハダレニフルトミルマデニナガラヘチルハナニノハナゾモ》、卷十【十右】に櫻花散流歴《サクラバナチリナガラフル》などあればなり、
一首の意は、家に在りて寢《ヌ》るだにかく寒き夜なるを、旅のまろ寢はいかにあるら(87)ん、と夫君をいとをしみたるなり、
 
 長皇子御歌
 
60 暮相而朝面無美隱爾加氣長妹之廬利爲里計武《ヨヒニアヒテアシタオモナミナバリニカケナガキイモガイホリセリケム》
 
長(ノ)皇子は天武天皇第四子也、
暮相而《ヨヒニアヒテ》、考云、集には惣ての夜るをも初夜をもよひとよめり、こゝは其初夜に依て暮と書たれど、こゝろはたゞ夜るの事也、譬ば夕占《ユフゲ》てふ事を、夜占《ユフゲ》とも書るが如し、○朝面無美《アシタオモナミ》、今本にアサガホナシミとよめるは非也、古本どもにはアシタオモナミとありて.アサガホナシミの訓は文字の左のかたに附(ケ)たり、古く兩訓ありしなり、少女の男に逢たるそのつとめては、耻て面がくしするものなるを序として、隱《ナバリ》といふことにいひかけたり、卷八【三十五左】に暮相而朝面羞隱野乃芽子早者散去寸黄葉早續也《ヨヒニアヒテアシタオモナミナバリヌノハギハチリニキモミヂハヤツゲ》、ともあり、○隱爾加《ナバリニカ》、伊賀(ノ)國|名張《ナバリノ》郡也、舊訓にカクレニカとあるは非也、此幸に尾張美濃伊勢伊賀等の國を經《ヘ》給ひしよし、續紀に見えたり、〇氣長妹之《ケナガキイモガ》、宜長翁の説に氣《ケ》は來經《キヘ》の約也、古事記倭建(ノ)命の御歌に阿良多麻能登斯賀岐布禮婆《アラタマノトシガキフレバ》、阿良多麻能都紀波岐閉由久《アラタマノツキハキヘユク》、とありといへるが如く月日の久しくたちたる事を、集中に(88)気長《ケナガ》くなりぬなどいへる是也、○廬利爲里針武《イホリセリケム》、考に、行営をいふとあるはいまだし、此|廬《イホリ》は行宮にもせよ、歌のうへにては此させる女房の廬《イホリ》と見るべきなり、さて廬《イホ》といほりとは體用の差ありて、宿《ヤド》とやどり〔三字右○〕の如し、旅中假りに設くる廬《イホ》をいほりとはいふ也、爲里《セリ》は爲而有《シタリ》にて、過去より現在にわたる辭なり、
一首の意は、幸の御供にて行し女房の、日數へてかへりこぬを待かねたるよし也、こは此皇子の御思ひ人の許へおくらせ給ひしなるべし、
 
 舎人娘子《トネリノイラツメ》從駕(ニテ)作(ル)歌
 
61 大夫之得物矢手挿立向射流圓方波見爾清潔之《マスラヲノサツヤタバサミタチムカヒイルマトガタハミルニサヤケシ》
 
舎人《トネリ》は氏なり、娘子はイラツメと訓(ム)べし、氏の下にある郎女女郎孃子いづれもイラツメとよむべき也、書紀景行紀に、郎姫此(ヲ)云2異羅菟※[口+羊]《イラツメ》1と見え、天智紀に、伊羅都賣《イラツメ》、續紀卷二十二に藤原(ノ)伊良豆賣《イラツメ》などもあるなり、伊羅《イラ》は伊呂兄《イロセ》伊呂弟《イロト》などの伊呂《イロ》にて、親み愛《ウツク》しみて云稱なり、
大夫、冬本同、唯官本に丈夫とあるのみ也、【古葉略類聚抄lこも丈夫とあれど彼抄にはこゝのみならず、こと/\く丈夫とかけるは、後人の説によりて傳寫のをりさかしらlこ改たるなるべし、】大夫も丈夫も大丈夫の略文にて、ともにマスラヲ〔四字傍線〕とよ(89)むべきよしは.上卷軍王(ノ)歌の注にいへるが如し、しかるを考、略解、燈、ともに丈夫と改たるはさかしら也、僻案抄にも丈夫に改て、注には古本印本ともに大夫に作る、といへり荷田(ノ)翁の見たりし本も皆大夫とありしことを知(ル)べし、○得物矢手挿《サツヤタバサミ》、得物矢を舊訓にトモヤ〔三字傍線〕とあるは非也、神代紀に彦火々出見《ヒコホヽデミノ》尊の山幸《ヤマサチ》おはして、能く鳥獣を得給ふ、其弓を幸弓《サチユミ》といへり、佐知《サチ》とは物を得るをいふ古言なり、【記傳に幸取《サキトリ》の義也といへり、】故に其義を以て得物とかけるなり、卷二卷六等にも得物矢《サツヤ》とかけり、卷五【九左】には、佐都由美《サツユミ》と假字がきもあり、佐知《サチ》佐都《サツ》は通音なり、手挿《タバサミ》とは、燈に、弓射るには片矢は弦にかけ、片失を小指と食指との間に挿みながら、片矢を射るなりといへり、挿は插の字の俗體なり、此方の古書には多く挿とかけり、○立向《タチムカヒ》は的にむかふ也.次の射流《イル》までは的といはむ料《タメ》の序なり、○圓方《マトガタ》は地名なり、神名帳に伊勢(ノ)國多氣(ノ)郡|服部麻刀方《ハトリマトカタノ》神社あり、仙覺抄に伊勢(ノ)國風土紀を引て、的形(ノ)浦者此浦(ノ)形似v的(ニ)故(ニ)以(テ)爲v名(ト)也、今已(ニ)跡絶(テ)成2江湖(ト)1也、天皇行2幸浦邊1歌云、麻須良遠能佐都夜多波佐美牟加比多加伊流夜麻度加多波麻乃佐夜氣佐《マスラヲノサツヤタバサミムカヒタチイルヤマトガタハマノサヤケサ》、とあるは此歌を誤り傳(ヘ)たるにか、または、本集のかた謬傳なるか、いづれにしてもひとつ歌なる事は論なし、歌の調べは風土記なるかた差々まされり、○見爾清潔之《ミルニサヤケシ》、的形(ノ)浦はいとすが/\しきよき所な(90)りと也、四五の句の波もじ爾もじの辭いささか心よからず、風土記のかたはよく聞えたり、
一首の意は、たゞ的形(ノ)浦のすが/\しくよき所なりといへるのみなり、但しかく長々と序をのべたるは、其物其所をいたく稱美せる意あるなり、たゞいたづらに置けるにはあらず、かのあし引の山鳥のをのしだりをのなが/\し夜をひとりかも寐む、とよめるもひとりぬることの歎きを、つよくきかせむ爲なり、よく味はふべし、
 
 三野連《ミヌノムラジ》 名闕 入唐(ノ)時|春日藏首老《カスガノクラビトオユガ》作(ル)歌
62 在《アラ・アリ》根良對馬乃渡渡中爾幣取向而早還許年《ネヨシツシマノワタタリワタナカニヌサトリムケテハヤカヘリコネ》
 
名闕の二字は後人の加へたるなり、今本に大字にせるは非也、古本はいづれも小字にかけり、今諸古本に從ふ、諸古本の傍注に、國史云、大寶元年正月、遣唐使民部卿粟田(ノ)朝臣眞人以下百六十人乘2船五隻(ニ)1、小商監從七位(ノ)下中宮(ノ)少進美奴(ノ)連岡麿云々とあり、今本の續日本紀に此度の事を載て、岡麿の事の無きは脱たるなるベし、【略解又檜柧に、類聚國史に云とて此文を出したるは誤也、此文類史にはなし、按ふに、千蔭は國史とあるを類聚國史の事とおもひてしかいへるならん、守部は略解の誤を襲ひたるな(91)り、】明治五年十一月、大和(ノ)國平群(ノ)郡萩原村富山利平治といふものゝ所有地、字龍王山と稱する所より此岡麻呂の墓版を掘出せり、此墓版今上野博物館に在り、參考の爲に其銘文を左に出す、
 我祖美努岡萬連、飛鳥淨御原天皇御世、甲申年正月十六日、勅賜連姓、藤原宮御字、大行 天皇御世、大寶元年歳次辛丑五月、使乎唐國、平城宮治天下大行 天皇御世、靈龜二年歳次丙辰正月五日授從五位下、任主殿寮頭、神龜五年歳次戊辰十月廿日卒、春秋六十有七、其爲人小心事帝、移孝爲忠、忠簡帝心、能秀臣下、成功廣業、照一代之高榮、揚名顯親、遺千歳之長跡、令聞難盡、除慶無窮、仍作斯文、約置中墓、
  天平二年歳次庚十月二日
考に、此遣唐使は大寶元年正月命ありて、五月節刀を賜りて立ぬ、老はもと僧にて辨記といひしを、右同年三月還俗せしめて、春日(ノ)倉首老と姓名を賜へり云々、しかれば此歌は三月より五月までによみし也、仍て是は、右の大寶元年九月と有より上に入べき也、といへり、今按(フ)るに、此は月こそ先なれ、同じ大寶元年のことなるから、先(ヅ)行幸のを多の歌をあげて、遣唐使の歌を後にしたるなり、其間に二年の歌もあれど、そは同じ行幸の歌なれば一つゞきとし、さて遣唐使のをば出したるもの(92)ならん考の説は年序に泥み過きたるものといふべし、但し元年五月のをりは、風浪よろしからざるが爲、翌二年五月渡海したり、○藏首は尸《カバネ》なり、クラヒトと訓(ム)べし、説、記傳卷四十四【六十四左】に詳なり、在《アラ・アリ》根良《ネヨシ》、冠辭考又萬葉考に、此三字を誤なりとて布根盡《フネハツル》、また百船乃《モヽフネノ》、また百都舟《モヽツフネ》の此三のうちを誤れるなるべしといひ、玉(ノ)小琴には布根竟《フネハツル》の誤れるなりといへり、されど諸古本または版本どもゝ皆在根良とありて、異同あることなければ、傳寫の誤にはあらざるなり、【舊訓にアリネヨシとあるも、もとより此字を書たりし證なり、】かくて上田秋成の冠辭考續貂に、字はもとのまゝにて、在嶺《アリネ》または荒嶺《アラネ》の意かといへるぞよろしかりける、くはしくは別記にいふ、良《ヨシ》は青丹《アヲニ》よしなどのよしにて、よ〔右○〕は物を取出でゝ云辭、し〔右○〕は助辭也、○對馬乃渡《ツシマノワタリ》、古へ三韓に行には、此より船出したれば渡《ワタリ》とは云也、渡中《ワタナカ》は海中《ワタカ》也、○幣取向而《ヌサトリムケテ》、海神に幣を奉りて、海路の無恙ならんことをいのる也、取向とは幣を取て神に向け奉るをいふ、※[敞/巾]の字活本また古本どもにも幣とあれど.龍龕手鑑に※[敞/巾](ハ)正幣(ハ)俗とあれば、今本のまゝにてもよし、○早還許年《ハヤカヘリコネ》、年《ネ》は乞望《コヒノゾム》意の辭也、
一首の意は、對馬の海中にいたらば、海神に幣奉りて、海路の無事ならんことを祈り、恙なく公事をしはてゝはやくかへりこねと、其かへらん日の待久しからんこ(93)とを、あらかじめおもひてよめる也.
 
 山上臣億良《ヤマノヘノオミオクラ》在(リシ)2大唐(ニ)1時憶(テ)2本郷(ヲ)1作(ル)歌
63 去來子等早日本邊大伴乃御津乃濱松待戀奴良武《イザコドモハヤクヤマトヘオホトモノミツノハママツマチコヒヌラム》
 
 歌(ノ)上の作(ノ)字、今本に脱せり、今官本温本拾本に依て補ふ、目録のかたには作(ノ)字あり、續紀に、大寶元年正月乙亥朔丁酉、以2守氏部尚書直大貳粟田(ノ)朝臣眞人(ヲ)1爲2遣唐執節使(ト)1云々、無位|山於《ヤマノヘノ》憶良(ヲ)爲2少録(ト)1とあり、上の三野(ノ)連と同じ度也、こゝに大唐としるし、上に入唐ともあるは、皆當時の文人自他内外の別を忘れて、みだりに他をたふとめるよりの事なるを、此集の撰者もおのづからそれにならひてかけるものなれど、其實は彼國の制をうくる國などよりこそさはいへ、皇國人などのかけてもいふまじきことぞかし、【今世の人だちの、西のはてなる國々をさして、みたりに泰西などいふめるも同じぢやう也、心すべきことなり、】去來子等《イザコドモ》、去來をいざとよむ事は、上卷中皇命の君之齒母《キミガヨモ》云々の御歌の注にいへり、人をさそひすゝむる詞なり、子等《コドモ》とは在唐の人のうちなる朋友だちをさしたるなり、卷三【二十左】に去來子等倭部早白菅眞野乃榛原手折而將歸《イサコドモヤマトヘハヤクシラスゲノマノノハギハラタヲリテユカナ》卷二十【五十六左】に伊射子等毛多波和射奈世曾《イザコドモタハワザナセソ》などあり、〇早日本邊《ハヤクヤマトヘ》、舊訓にハヤヒノモトヘ〔七字右○〕とよめる(94)は非也、此頃いまだ皇國をさしてヒノモト〔四字右○〕とはいはず、卷三【二十七左】の詠(ル)2不盡山(ヲ)1長歌に、日本之山跡國乃鎭十方座神可聞《ヒノモトノヤマトノクニノシヅメトモイマスカミカモ》云々、續日本後記に載たる興福寺の僧の長歌に、日本乃野馬臺能国《ヒノモトノヤマトノクニ》云々とあるは、倭《ヤマト》の枕詞にて國號にはあらず、國號の日本は、神代紀に日本此云2耶麻騰《ヤマト》1とありて、ヒノモト〔四字傍線〕といへることはなし、これを國號ともしたるは、やゝ後の事にて、拾遺集雜春に、ひのもとにさける櫻の色見れば人のくにゝもあらじとぞおもふ、源氏物語薄雲(ノ)卷に、ひのもとにはさらに御覧じうるところなしなどある、是也、早を略解に卷十五【十六左】に、和伎毛故波伴也母許奴可登麻都良牟乎《ワギモコハハヤモコヌカトマツラムヲ》、又【十七左】に、欲和多流月者波夜毛伊弖奴香文《ヨワタルツキハハヤモイデヌカモ》などあるによりて、こゝもハヤモ〔三字傍線〕とよめるは非也、燈に右兩首ともに下に可もじありて、そのうちあひに母《モ》とはおけるにて、これとは例ことなりとあり、さることなり、日本邊《ヤマトヘ》の下に、歸らむといふ意をふくめたるなり、○大伴乃御津能濱松《オホトモノミツノハママツ》、御津は難波の三浄なり、大伴は下の歌に、大伴乃高師能濱《オホトモノタカシノハマ》ともありて、此ほどりの大名《オホナ》なり、上の歌に樂浪乃大津《サヽナミノオホツ》とも樂浪之思賀《サヽナミノシガ》ともつゞけたるに同じ、これを枕詞とするは非也、【記傳三十六に大伴乃御津とつゞくるは稜威《イツ》の意につゞくるなり、伊《イ》と美《ミ》と通ふといへるはわろし、】上古大伴氏は、代々|大連《オホムラジ》の重職にありて、攝津河内の兩國を食地に賜りて領し居りしなるべし、【高師は、今は和泉(ノ)國大鳥郡に屬せれども、古(ヘ)は河内(ノ)國なりし也.靈龜二年(95)四月に割(テ)2河内(ノ)國大鳥日根和泉三郡(ヲ)1置2和泉國(ヲ)1とあり、】其は書紀欽明紀に、大伴(ノ)金村(ノ)大連居(テ)2住吉(ノ)宅(ニ)1稱(シテ)v疾(ヲ)而不v朝とあり、日本靈異紀に、推古天皇の御時に大伴(ノ)野栖古《ヤスコ》と云人、居(テ)2難波(ノ)宅(ニ)1而卒(ス)と見えたるなどをもて知(ル)べし、故に其地の大名を大伴とはいひしならん、本集卷七【四左】に靱懸流件雄廣伎大伴爾國將榮常月者照良思《ユギカクルトモノヲヒロキオホトモニクニサカヘムトツキハテルラシ》、とある是此氏人の榮えむ事を祝たる歌にて、大伴即(チ)地名なり、上に樂浪乃國都美神乃《サヽナミノクニツミカミノ》ともある如くたゞに大伴(ノ)國ともいへる也.【以上上田秋成の冠辞考續貂の説を取捨したるなり、さるは彼説のうちにはいかにぞやおぼゆる事も多くまじりたれば今よろしと見ゆることのみを取て、おのが説をも交へてかけるなり、】さて難波の御津は、西の國々へ行かへる船の出入する所なれば、かくいひてやがて其處の松を家人の待に轉じつゞけたるなり、【記傳三十六に、難波(ノ)古圖に高津《カウツ》の西方海邊に三津(ノ)里濱あり、其處なるべし、其あたり今も大阪に三津寺町と云處ありて、三津(ノ)社三津寺もあり、三津寺は古今集雜下詞書、江次第などにも見ゆといへり、】
一首の意は、唐國にきて今は久しくなりたれば、いざかへらむ、家人も吾等の船のかの御津に泊《ハテ》む日を待戀居るならんとなり、こは自《ミヅカラ》故郷を慕ふにつけて、家人の待わびをらんことのいとをしさをかねてよめるなり
 
 慶雲三年丙午秋九月、幸(セル)2于難波(ノ)宮(ニ)1時
 
續紀に、慶雲三年九月丙寅行2幸難波(ニ)1、十月壬午還宮とあり、
 
(96) 志貴《シキ》(ノ)皇子(ノ)御作歌
64 葦邊行鴨之羽我比爾霜零而寒暮夕和之所念《アシベユクカモノハガヒニシモフリテサムキユフベハヤマトシオモホユ》
 
葦邊行《アシベユク》は、難波の宮わたりよりうち見給へるさまをいふ、○哺鴨之羽我比爾《カモノハガヒニ》は、鴨の羽の背のうちあひたるところをいふ、衣に裾のうちかひなどいふに同じ、○霜零而《シモフリテ》、鴨の羽がひにまで霜のふれるよしによませ給へるは、寒さの甚しきをおもはしめむが爲也、○寒暮夕和之所念《サムキユフベハヤマトシオモホユ》、考に夕和の二字を家の一字に改めて注に、今本暮夕をゆふべ、和をやまとゝ訓しは誤りぬ、此卷の字を用る樣、ゆふべとよまんには碁か夕か一字にて有べし、又やまとの事に和の字をかゝれたるは、奈良(ノ)朝よりこそあれ、藤原(ノ)朝までは倭の字なる事、此下の歌どもにてもしれ.仍て考るに家の字の草を夕和の二字に誤りたるなり、といへり、正辭云、此所諸版本はさらなり、古寫本どもゝ皆今本と同じくて、異同ある事なし、よりて按(フ)るに、ゆふべに幕夕の二字をかけるは、重字を用ゐる一の書法にて、此例集中にいと多し、一二をいはゞ、卷三【五十八左】に、招集聚率比賜比《メシツトヘイサナヒタマヒ》卷九【二十一左】に櫻花者瀧之瀬從落墮而流《サクラノハナハタギノセユオチテナガラフ》、卷十二【二十八左】に野者殊異爲而心者同《ヌハコトニシテコヽロハオナジ》などある、集聚《ツトヘ》落墮《オチ》殊異《コトニ》いづれも同じ意の文字を重ねてかけ(97)り、さてゆふべはのは〔右○〕の辭はそへて訓べし、てにをはの文字を略てかける事は常なり、又和の字はいと古くより和倭通じ用ゐたることにこて、後に國名の倭〔右○〕を和〔右○〕に改たるも、もと通用の字なるからの事なるべし、其は先(ツ)畿内の大倭國を大和國と改たるは、天平勝寶年中の事なるに、それより以前崇神天皇六年の紀に、和(ノ)大國魂(ノ)神と見え、千々衝倭姫《チヽツクヤマトヒメノ》命を古事紀に千々都久和比賣《チヽツクヤマトヒメ》と作《カ》き、田令に凡畿内(ニ)置(ハ)2官田(ヲ)1大和攝津(ニ)各卅町とあり、又續紀養老五年十月同十二月の文に大和(ノ)國とかけり、これら天平勝寶以前に和〔右○〕の字を用ゐたる例なり、以上は畿内の大倭國の事なれども、大號のかたをまた古く知〔右○〕とかける例あり、本集卷七【十左】端詞に、詠2和琴1と見え、養老五年正月の紀に和琴師あり、是等もて上古和倭通じ用ゐたる事を知(ル)べし、之《シ》は和《ヤマト》を思ふ情の切なるよしをあらはさむ爲の助辭なり、
一首の意は、旅中にありては常に故郷を慕はるゝ事なるが、かゝる寒き夕べは殊にしのばるゝよしなり、さるは家にあらばいかにもして寒さを凌くわざもあるべきを旅は物ごとにたらはぬがちなるが故也、
 
 《ナガノ》皇子(ノ)御歌
(98)65 霰打安良禮松原住吉之弟日娘與見禮常不飽香聞《アラレウツアラレマツバラスミノエノオトヒヲトメトミレドアカヌカモ》
 
霰打《アラレウツ》は霰の物にあたるは打つくるが如くなればなり、古事記|輕《カルノ》太子の御歌に.佐々波爾宇都夜阿良禮能多志陀志爾《サヽバニウツヤアラレノタシダシニ》とあり、さてこは次の句をいはむ料《タメ》に設けたるにて、此時實に霰のふりしにはあらざるべし、○安良禮松原《アラレマツバラ》、書紀神功紀に烏智筒多能阿邏々摩菟麼邏《ヲチカタノアラヽマツバラ》とありて、あら/\立る松原をいふ、うらうらをうらゝいよ/\をいよゝなどいふに同じ、考に、禮は邏の誤れるなりとて改たるはいかゞ、上の霰《アラレ》をうけて羅《ラ》を禮《レ》に通はしいへるなるべし、又按(フ)るに禮は呉音ライ〔二字傍線〕を省呼してラ〔傍線〕の音にてものしたるにはあらぬか、吾妻鏡【文治四年二月二日條】に、伊勢(ノ)國|志禮石御厨《シライシノミクリ》とあるは、禮をラ〔右○〕に用ゐたるなり、此類猶あるべし、攝津志に霰松原(ハ)在2住吉安立町(ニ)1林中(ニ)有2豐浦神社1といへるは、此歌につきて後に設けたる名なるべし、〇住吉之《スミノエノ》、住吉を後世すみよしと唱ふるは誤なり、古はえ〔右○〕と訓(ム)なり、すみよしといふ事は奈良の御代の比まではなき也、○弟日娘與《オトヒヲトメト》、考に顯宗紀に倭者彼々茅原淺茅原弟日僕是《ヤマトハソヽチバラアサヂバラオトヒヤツコラマソ》也とのたまひしは、意計《オケ》弘計《ヲケ》の二王の御兄弟なるをのたまひぬ、後世も兄弟をおとゝひといへり、然ればこゝもはらからの遊行女婦がまゐりしをもて、かく(99)よみ給ふならんといへり、正辭云、弟日を兄弟の事なりとは何によりていへるかいとおぼつかなし、後世も兄弟をおとゝひといふとあるも、おとゝひ〔右○〕はおとゝえ〔右○〕の訛にて弟《オト》と兄《エ》の義なるべし【おとゝひといふことは、十六夜日記中務内侍日紀平家物語等に見えたり、】またはらからの遊行女婦なりといへるも推當の説にて從ひがたし、顯宗紀なる弟日は、集解に弟日(ハ)即(チ)弟(ナリ)日(ハ)盖(シ)古語(ノ)日古日賣之日猶v謂2弟彦(ト)1也とあり、是然るべくおぼゆ、彼々茅原淺茅原《ソヽヂバラアサヂバラ》は謙遜の辭にて、賤しき者也との意なり、かくて燈には考の説を非也として、紀なるも本集なるも弟日をおとびとよみて、日《ビ》は疎備《ウトビ》荒備《アラビ》などの類にてぶりの意也、さて紀なるは謙遜して弟びとの給ひ、集なるは弟は兄にむかへていふにて、大かた弟びたるはその人ざまもいとめでたくあはれなるものなれば、その人ざまをめでゝ弟日娘とおほせられけるなるべし、といへり、此説もいまだよしともおぼえず、故(レ)按(フ)るに、弟日は此娘子の字《アザナ》なるべし、持統八年十月紀に、飛騨(ノ)國荒城(ノ)郡弟國部(ノ)弟日といふ人見え、雄略二年十月紀に倭(ノ)釆女|日媛《ヒノヒメ》といふ名あり、又遊行女婦の名は、卷四【四十六左】に河内(ノ)百枝(ノ)娘子、同【四十七左】に豐前(ノ)國(ノ)娘子大宅女、卷六【二十四右】に府中之中(ニ)有2遊行女婦1、其宇(ヲ)曰2兒島(ト)1卷十八【九右】に遊行女婦|土師《ハジ》卷十五【三十左】には狹野(ノ)茅上《チガミノ》娘子などあり、かくて其名を歌によみ入たるは、卷二【十一右】に内大臣藤原(ノ)卿娶(ル)2采女(100)安見兒(ヲ)1時(ニ)作(ル)歌、吾者毛也安見兒得有皆人乃得難爾爲云安見兒衣多利《ワレハモヤヤスミコエタリミナヒトノエガテニストフヤスミコエタリ》、【これは遊行女婦ならねど同例也、】同【十三左】に日並《ヒナメンシノ》皇子(ノ)尊贈2賜石川(ノ)女郎(ニ)1御歌、【女郎字曰2大名兒1】大名兒彼方野邊爾苅草乃束間毛吾忘目八《オホナゴヲヲチカタヌベニカルクサノツカノアヒダモワレワスレメヤ》、卷九【二十五左】に拔氣大首任2筑紫(ニ)1時娶2豊前(ノ)國(ノ)娘子|※[糸+刃]兒《ヒモノコヲ》1作歌、豐國乃加波流波吾宅※[糸+刃]兒爾伊都我里座者革流波吾家《トヨクニノカハルハワギヘヒモノコニイツガリヲレバカハルハワグヘ》.卷十八【二十六】長歌に、左夫流其兒爾比毛能緒能移郡我利安比弖《サブルソノコニヒモノヲノイツガリアヒテ》云々、左注言2佐夫流《サブルト》者遊行女婦之字也、と見えたる是也、與《ト》は共にの意也、○見禮常不飽香聞《ミレドアカヌカモ》、此ほどよりあかずながめし松原の、けふは娘《ヲトメ》と共に見れど、猶あかずとなり、續日本紀寶龜二年二月藤原(ノ)永手公の薨じ給ひし時の詔に、山川淨所者孰倶《ヤマカハノキヨキトコロヲバタレトトモニ》【加母】見行阿加良《ミソナハシアカラ》【閇】賜《タマハ》【牟止】歎賜《ナゲキタマ》【比】云々とある、をおもふべし、此句の意、諸注うまく解得たるものなし、今後人のまどひをとかむ爲に、其説どもを出して辨じおくべし、そは先僻案抄にあられうちふる嚴冬の氣色ははげしかるべきに、おとひ娘と共に見給へばおもしろきよし也、代匠紀にあられ松原の面白きを、あられさへ降て興を添たるに、うつくしき娘と共に見れば又一入あかぬと也、此二説のおもむきにては、見禮婆《ミレバ》の意にて常《ド》とあるに叶はず、燈には與《ト》はともにの心なるべし、娘とゝもに見給へばあかぬ事はあるまじきを猶あかざるをかもとはよませ給へるにて.さて娘《ヲトメ》とゝもに見るだにかゝり、ましてひとり見ば(101)いかにあかざらむとの心なりとあり、此説はやゝよろしきが如くなれども、すべてもてまはりたる説にてむづかし、考には愛《ウツク》しと思ふ娘どもと共に見れど、此松原の氣しきは氣壓《ケオサ》れず面白しと也、娘をも松原をも並べてめでませりとあり、此はからくして常《ド》の辭の意を解出たれど、一首の意さは聞えぬをや、またこれらの説の從ひがたきによりてにや、玉(ノ)小琴に、卷七に佐保川の清き河原に鳴千鳥河津とふたつ忘れかねつも、とよめる河津は蛙にはあらず、佐保川の川津にて千鳥と此川の氣色の面白きと、二つながら忘れがたしとよめると同意にて、此弟日娘とあらゝ松原と二つ見れど飽ぬかも也.といへり、今按(フ)るに卷七なるは河津と二つとあれば二つなる事論なきを、ここは娘與見禮常《ヲトメトミレド》とあるをいかでさは聞ゆべき、非也、
一首の意は、住吉のあられ松原はいとおもしろきけしきの所なるから、日々あかずながめをりしが、けふはことに娘《ヲトメ》と共に見れども、猶|飽《アキ》ずとなり、
此弟日娘は、次に見えたる清江(ノ)娘子なるべし、さて次の太上天皇の幸を、假に大寶二年とすれば、今慶雲三年は五年の後なれど、かの大寶の時召たりし娘子を.此時再び召し給ひしならん、御歌の趣もはじめて召したる娘子にはあらざるべく見(102)えたり、
 
 太上天皇幸(セル)2于難波(ノ)宮(ニ)1時(ノ)歌
 
太上天皇は、持統天皇也.考に此下五首も右の大寶元年とあるより、前に入べき也、此太上天皇はおりゐまして六年.大寶二年の十二月崩給ひき、然るを慶雲三年と標したる下に載べきにあらず、是も亂れ本を仙覺が校合せし時よく正さゞるもの也、といへり、今按(フ)るにこれも上の三野連の歌の注にいひし如く年序に泥み過きたる説なり、是より、以下は行幸年月の傳(ヘ)の詳ならざるものを列載したるものにて、後に錯亂せしにはあらず、
 
66 大伴乃高師能濱乃松之根乎枕宿杼家之所偲由《オホトモノタカシノハマノマツガネヲマクラニヌレドイヘシシヌバユ》
 
大伴は既にいへる如く地名にて、此あたりの大名なり、○高師能濱乃《タカシノハマノ》、考に和泉(ノ)國大鳥(ノ)郡に此濱はあり、難波へ幸としるせれど、隣國へは幸もあり大御供の人の行到てよみし類も多し、とあるが如し、延喜神名式に和泉(ノ)國大鳥(ノ)郡高石神社あり、高石はタカシ〔三字傍線〕にて同所なるべし、〇枕宿杼《マクラニヌレド》は、かく面白き濱の松が根を枕にしてぬれど猶故郷はしのばるゝと也、さてこは實に松が根を枕とせしにはあらざる事(103)はいふまでもなきことにて、高師の濱邊に旅寐するを、其所のものによせていへるにて、そは歌の常なり、此句古點は、即(チ)まくらにぬれどなり、僻案抄に引ける古本また家本昌本の一訓是也、【新勅撰集にもかくよめり、】今の版本にマクラネヌトカとあるは、刻本のをりの誤也、官本家本温本いづれもマクラニネヌトとあり、但しこは仙覺が改たる訓也、仙覺抄に此歌下句まくらにぬれどいへししのばゆと點ず、松が根をまくらにぬれど家ししのばゆと云べきにあらず、松がねをまくらとしてねたらんには、もつとも家をしのびぬべきことにこそ侍りぬべければ、まくらにねぬといへししのばゆと和すべき也、とあり、此説の如きは、旅中の不自由なるよりいよゝ家の慕《シヌ》ばるゝよし也、されど杼は濁音の字なれば、古點に從ふべき也、【考にはマキテシヌレドとよみおれど、し〔右○〕文字の意こゝに叶はず、】因(ニ)云、本集の訓を考へ正さむことのかたきは、今更にいふまでもなきことなれど、今此歌古點のかたにつきていはゞ、かくいと両白き所に旅やどりすれば、家のしのばるゝ事はあるまじきに、猶しのばるゝ事よといふ意、また仙覺の改點のかたにては、旅のほどは常に故郷のしのばるゝ事なるが、今霄此松が根を枕にぬるがくるしさに、いよゝ家をおもひ出らるゝよしにて、其意はうらうへになるなり、此等をもても本集の歌の訓は一言半句といへども、等閑にすま(104)じきことをおもふべし、○家之所偲由《イヘシシヌバユ》、かゝる所に置く之《シ》はいづれも俗にガサ〔二字傍線〕といふ意也、こゝも家ガサ〔二字傍線〕偲ばゆ也、【上の和之所念も同じ、】しのばるをしのばゆといふは、古言の格也、さて所偲の二字にてしのばゆなるを、由の字をそへてかけるは、不知《シラニ》を不如爾《シラニ》ともかけるが如し、また偲は慕ぶ意は無き文字なれども、こは彼國にて偲(ハ)才也と注せる字にはあらで、別に此方にて人〔右○〕と思〔右○〕とに从ひて造れる會意の字也.
一首の意は、高師の濱はよき景色の所にして、松が根をさへ枕にしてぬる夜は、外に思ふ事もなく心ゆきぬべき事なるを、なれぬ旅路の獨ねの物うさに家人の事思ひ出られ、しのばるゝよとなり、
 
 右一首|置始《オキソメ》(ノ)東人《アヅマド》
 
67 旅爾之而物戀之伎乃鳴〔左○〕事毛不所聞有世者孤悲而死萬思《タビニシテモノコヒシキニイヘゴトモキコエザリセバコヒテシナマシ》
 
諸注此歌の二(ノ)句|物戀之伎乃《モノコヒシキノ》の之伎《シキ》を、鷸《シギ》に云かけたるものとして、其聲をきけば旅の心のなぐさむ意なりと解けるは非也、鷸の鳴聲はいとあはれに悲しきもの(105)にて、哀れをこそそふれ、心のなぐさむものにはあらず、卷十九【九右】に春儲而物悲三更而羽振鳴志藝誰田爾加須牟《ハルマケテモノカナシキニサヨフケテハブキナクシギタガタニカスム》、などあるもその悲しさをそふるよしなり、また鷸ならでも此下に、倭戀寐之不所宿爾無此渚崎爾多津鳴倍思哉《ヤマトコヒイノネラエヌニコヽロナクコノスノサキニタヅナクベシヤ》、とあるも其聲をきけばいよゝ物悲しさのそはるが故なり、さて又略解にものこひ〔右○〕しぎのといふいひかけざま、集中に例なければひがことなるよし宣長いへりとて、ものこふ〔右○〕しぎのとよみ改たれど、ものこふ〔右○〕しぎのといふ詞も例なし、故に燈にはまたこほ〔右○〕しぎのと改(メ)よめり、されど此はもとより、鷸にいひかけたるにはあらざれば其説はいたづら事なり、又三(ノ)句の事〔右○〕といふことも諸注の如くにては穩かならず、故(レ)按(フ)るに、これは京に留りたる妻の許より使につけて、夫(ノ)君を戀慕ふ意の歌をおくれるに、【其歌のみえぬはもれたるか、またはもとより傳はらざりしにもあるべし、】それが和(ヘ)歌なるべし.二(ノ)句の乃(ノ)字はニ〔右○〕と訓べく乃〔右○〕をニ〔右○〕の假字としたるは、卷十六【十五左】に朝霞香火屋之下乃鳴川津之努比管有常將告兒毛欲得《アサガスミカビヤガシタニナクカハヅシヌビツヽアリトアリトツゲムコモガモ》卷十九【十四左】に後代乃可多利都具倍久名乎多都倍志母《ノチノヨニカタリツグベクナヲタツベシモ》、とある是也、しかるを略解に卷十六なるをば乃は耳〔右○〕か爾〔右○〕の誤也といひ、卷十九なるは、乃をノ〔右○〕とよみて、注に、後の代の人のといはんが如しといへれど、人のといふことを略きたりとは見えず、乃〔右○〕をニ〔右○〕とよめばこともなくきこえたり、、卷十六なるは舊(106)訓にも乃《ニ》とあるをや、乃は韻鏡第十三開轉所屬の文字にて、呉(ノ)次音はニ〔右○〕なり、同轉去聲の泥(ノ)字、古書にニ〔右○〕の音に用ゐたり、又横列の閉(ノ)字倍(ノ)字等にヒ〔右○〕の音ある事、太田方の著せる漢呉音圖を見て知(ル)べし、かゝれば乃〔右○〕ニ〔右○〕の音のある事明けし、精しくは余が萬葉集字音辨證及び萬葉集鳧乙に論じおけり、○鳴|事毛《コトモ》、鳴は家(ノ)字の誤れるなるべし、鳴と家と草書の形いと近し〔頭注に、後に鹿持雅澄の古義を見るに、既に鳴は家の誤れるなりとあり、されど乃字も爾の誤なりといへるはいまだしかりけり、とあり。〕、事《コト》は借字にて言《コト》也、即(チ)妻のもとよりおくれる歌をいふなり、家言といふ例は、卷二十【廿三右】に伊陪加是波比爾比爾布氣等和伎母古賀伊倍其登母遲弖久流比等母奈之《イヘカゼハヒニヒニフケドワギモコガイヘゴトモチテクルヒトモナシ》、とある是也、今の歌のずへての意も此歌によりて準へ知(ル)べし、これ只鳴の一字を改めたるのみにて、一首の意よくきこえて、且其情もいとあはれにかなしき歌なり、
一首の意は旅はつらきものなるから、物ごとにつけて故郷を戀しくおもはぬ事はなきに、今此|家言《イヘゴト》をきゝて少しは心もなぎぬ、もし此家言のいつまでもきこえざりせば、ほど/\戀死に死なむものぞとなり、
 
 右一首|高安《タカヤス》(ノ)大島《オホシマ》
 
 目録には作主未詳歌とありて、其下に高安大島の四字を小書す、【今本目録に大書にしたるは(107)菲也、古本はいづれも小書とせり、】これによりて按(フ)るに、もとは作生未詳とありしに、後人其下に異説をしるしたるを、其後の人さらに本文をば、改易し、さて目録のかたはもとのままに置たるなるべし、元暦校本は此所逸したれど、目録のかたなる高安大島の四字は朱をもて小字にかけり、後人の書なること論なし、
 
68 大伴乃美津能濱爾有忘貝家爾有妹乎忘而念哉《オホトモノミツノハマナルワスレガヒイヘナルイモヲワスレテオモヘヤ》
 
大伴乃美津《オホトモノミツ》は上に注せり、○濱爾有《ハマナル》は濱に在《アル》也、爾阿《ニア》を急呼して奈《ナ》といへるなり、次の家爾有《イヘナル》も同じ、○忘貝《ワスレガヒ》は、何貝にまれ肉の矢て殻《カラ》のみになりたるを、浪のよせきて磯にのこしおきわすれてかへる意にていふ也、卷十五【十五右】に安伎左良婆和我布禰波弖牟和須禮我比與世伎弖於家禮於伎都之良奈美《アキサラバワガフネハテムワスレガヒヨセキテオケレオキツシラナミ》とある此意也、但し卷十二【二十七右】に、海處女潜取云忘貝代二毛不忘妹之光儀者《アマヲトメカツギトルトフワスレガヒヨニモワスレジイモガスガタハ》とあるは、海中に在る如くきこゆれど、此はたゞ貝といふにつきていへるまでのことばなれば、拘はるべからず、さて此句までは忘といはむ序なり、○忘而念哉《ワスレテオモヘヤ》、哉《ヤ》は反語のや〔右○〕にて、忘れむや忘れはせじなり、念《オモフ》はかろく添たる詞也.かくて此歌もひさしく家に音づれもせざりしを、妹の許よりうらみおこせたるに答へたるなるべし、其は上の歌と同じ(108)便におこせたるなるべくこそ、
一首の意は、久しく音づれはせざりしも、家の妹を忘るゝひまはしばしもあらず、いかで忘レウカイ、わすれはせずとなり、
 
 右一首|身入部《ムトベ》(ノ)王
 
69 草枕客去君跡知麻世婆岸之埴布爾仁寶播散麻思乎《クサマクラタビユクキミトシラマセバキシノハニフニニホハサマシヲ》
 
草枕《クサマクラ》は枕詞也、○客去君跡知麻世婆《タビユクキミトシラマセバ》、たびゆくとは京にかへりのぼり給ふをいふ、君は長(ノ)皇子をさし奉る、いつまでも此所におはしますことゝおもひしに、今京にかへらせ給はむとするにつけて、はじめて旅客なりしと知りたるよしの詞づくりなり、かくをさなくいふぞ古(ヘ)のみやびわざなりける、しらませばのませばはまくせばにて俗にウモノニシタラバ〔八字傍線〕と譯すべし、即(チ)かねて知(リ)たらばと云意なり、○岸之埴布爾《キシノハニフニ》、岸は住吉の岸なり埴《ハニ》は和名砂(ニ)云、釋名(ニ)云土黄(ニシテ)而細密(ナルヲ)曰vハニ(ト)【和名波爾】とあり、東國の今俗にヘナ〔二字傍線〕と呼ぶもの是也、【ヘナ〔二字傍線〕はハニ〔二字傍線〕の訛りなるべし、】卷六に白良之千重來縁流住吉能岸乃黄土紛二寶比天由香名《シラナミノチヘニキヨスルスミノエノキシノハニフニニホヒテユカナ》、ともあり、古事記に丹※[手偏+皆]袖《ニズリノソデ》とあるも黄土《ハニ》を以て摺《スリ》たるをいふ、古(ヘ)丹土草木の花などを以て衣に摺《スリ》色どることは常なり、布《フ》は蓬生《ヨモギフ》芝(109)生《シバフ》などの生《フ》にて、埴《ハニ》の生ずる所をいふ、○仁寶播散麻思乎《ニホハサマシヲ》は、にほふは色の麗しきをいひて、衣に其色を移し染《ソム》るをいふ、乎《ヲ》はものをの乎《ヲ》也、
一首の意は、君を旅人なりとかねて知たらましかば、後に君がおもひ出給はむ料に此土《コヽ》の黄土《ハニ》を御衣に摺りおかましものを、さもせざりしが殘をしとなり、
こは此娘子のいつまでも皇子につかへ奉るべきことゝおもひをりしを今|急《ニハカ》に別れまつるにつけて、其を歎きてよみて奉れる歌なり、
 
 右一首|清《スミ》(ノ)江《エ》(ノ)娘子進(ル)2長《ナガノ》皇子(ニ)1 姓氏未詳
 
姓氏未詳の四字、今本に大書とせるは非也、今諸古本に從ひて小字とす、此は娘子の姓氏の詳ならざるよしなり、但し上の弟日娘なるべし、説既に上にいへり、
 
 太上天皇幸(セル)2于吉野(ノ)宮(ニ)1時|高市《タケチ》(ノ)連黒人(ノ)(ル)歌
70 倭爾者鳴而歟來良武呼兒鳥象乃中山呼曾越奈流《ヤマトニハナキテカクラムヨブコドリキサノナカヤマヨビゾコユナル》
 
倭爾者《ヤマトニハ》、吉野も同じ倭の内なれど、こゝは殊に京《ミヤコ》をさして倭とはいへるなり、上の御井(ノ)歌の所にいへるが如く、今伊勢の國内にて大御神の宮のべの里を、殊に伊勢(110)といふに同じ、倭といふ文字を、暫く京《ミヤコ》といふ字にかへて心得べし、○鳴而歟來良武《ナキテカクラム》、略解に來《ク》らんは行《ユク》】らんといふに同じ、とのみいへるは精しからず、往《ユク》と來《ク》とは其心を此方《コナタ》におけば、往《ユク》といひ、心を彼方《カナタ》におけば、來《ク》といふ、古人ゆきく〔三字右○〕を用ゐる法皆かくの如し、こゝも京のかたに心をおきていふが故に、來《ク》といへるなり、卷十二【十七右】に湊入之葦別小船障多今來吾乎不通跡念莫《ミナトイリノアシワケヲブネサハリオホミイマコンワレヲヨトムトオモフナ》、同【三十四左】に霞立春長日乎奥香無不知山道乎戀乍可將來《カスミタツハルノナガビヲオクカナクシラヌヤマヂヲコヒツヽカコム》とあるはともに往《ユカ》むの意なり、卷十五【十三右】長歌に、波夜久伎弖美牟等於毛比弖於保夫禰乎許藝和我由氣婆《ハヤクキテミムトオモヒテオホブネヲコギワガユケバ》とある、伎弖《キテ》は往て也、卷十四【四左】防人の歌に、可須美爲流布時能夜麻備爾和我伎奈婆伊豆知武吉※[氏/一]加伊毛我奈氣可牟《カスミヰルフジノヤマベニワガキナバイヅチムキテカイモガナゲカム》とあるも、今人ならは由加婆《ユカバ》といふ所なり、卷五【二十九右】に出弖由伎之日乎可《イテヽユキシヒヲカゾヘツヽケフケフトアヲマタスラムチヽハヽラハモ》、とあるは、出て來《コ》しとあるべき如くなれど父母の意をおもひやりてよめるが故なり、これらにて古人の徃來《ユキク》の用ゐかたを暁(ル)べし、【左氏昭三年(ノ)傳に、張※[走+濯の旁]使(テ)v謂2大叔(ニ)1曰、自2于之歸(リシ)1也、小人糞2除(シテ)先人之敝廬(ヲ)1、曰、子其(レ)將v來(ント)今子皮實(ニ)來(レリ)、小人失(フ)v望(ヲ)、大叔曰、吉(ハ)賤(シ)不v穫v來(ルコトヲ)畏2大國(ヲ)1尊(ゲナリ)2夫人(ヲ)1、とありて、正義に張※[走+濯の旁]自v晉使v告2大叔(ニ)1、大叔在v鄭(ニ)、遙(ニ)報(ス)v※[走+濯の旁](ニ)、語(テ)而云v不v來(ルヲ)者、教2使者(ヲシテ)報(セ)1v※[走+濯の旁](ニ)作(ス)2至(ルノ)v晉(ニ)時(ノ)語(ヲ)1、故(ニ)云v不v穫v來(ルヲ)今人語猶然也といへり、秦鼎云來猶v往也、これ倭漢何例也、】○呼兒鳥《ヨブコトリ》は今田舍人のカツコウ鳥と云ものにて、漢名は布穀鳥なり、別記に精はし、(111)○象乃中山《キサノナカヤマ》は、宮瀧の上|喜佐谷《キサタニ》村にあり、卷六【十三左】に三吉野乃象山際乃《ミヨシヌノキサヤマノマノ》ともあり、卷三【廿七右】に象乃小河《キサノヲガハ》とあるも、此山の麓をめぐれる川にて、其末は宮瀧に入るなり、貝原篤信の大和廻に云、櫻木(ノ)宮は、宮瀧より五町ばかり芳野へ歸る路|側《バタ》也、左の方に橋をこえて行けば小山あり、是櫻木の宮なり、其前に流るゝ水を象の小川といふ、橋を外象《トキサ》の橋といふ、それより先に象谷と云村あり、櫻木の宮より十町許ゆけば坂あり、高瀧とて瀧あり、其上の山を象山といふ、○呼曾越奈流《ヨビゾコユナル》、呼とは其鳴聲の人を呼が如くなればなり、今象の中山を越て京《ヤマト》のかたに鳴つゝ行なり、
一首の意は、今此象の中山を呼つゝ越ゆく呼子鳥は、我戀しくおもふる古郷の倭にや來らむ、とそれをしたはしくおもふ也、
 
 大行天皇幸(セル)2于難波(ノ)宮(ニ)1時(ノ)歌
 
卷九【七左】にも大寶元年辛丑十月、太上天皇大行天皇幸2紀伊(ノ)國(ニ)1時(ノ)歌云々とあり、略解に云大行天皇は文武天皇をさし奉る、崩ましていまだ御謚奉らぬ間を大行天皇と申奉れば、其ころ前にありし幸の度の歌ども傳聞て紀置しを、其まゝに書るなるべし、考に委し、卷九の注に又云、目録に太上天皇大行天皇の八字なし、(112)こゝの太上と申奉るは持統天皇也、續紀大寶元年九月丁亥、天皇幸2紀伊(ノ)國(ニ)1、冬十月丁未車駕至2武漏(ノ)温泉(ヨリ)1云々とみゆ、此集卷一大寶元年辛巳秋九月幸2于紀伊(ノ)國(ニ)1歌とて載たるは、御幸の道にての歌にて今こゝに【卷九】載たるは、既(ニ)紀伊に到り給ひての歌なるべし、紀に太上天皇の御幸を載ざるは脱文か、こゝの大行の二学は全衍文也.【以上】○考(ニ)云、大行とは天皇崩ましていまだ御謚奉らぬ間に申奉る事なれば.大行の幸といふ言はなき事也、然るを此に慶雲三年と標したる條に、大行天皇幸2難波1とあるは、同四年六月天皇【文武】崩まして十一月に謚奉りたり、此六月より十一月までの間に、前年の幸の時の歌を傳聞たる人の、私の歌集などに大行云々としるし載しならん、さて其歌集を此萬葉のうら書にしつるを【正辭云、古(ヘ)の書籍は卷子なれば、注を其卷子の裏面に紀すなり、其を裏書といふ、】今本には表へ出して大字にしも書加へし故に、かくことわりなくは成し也けり、こは左《と》まれ右《かく》まれ、本文ならぬ事明らかなれば、今度の考には小字にしるして分てり云々、【以上】○正辭按(フ)に大行と申事は、漢書音義云、大行(ハ)不v在之稱、天子崩(テ)未v有2謚號1、故(ニ)稱(ス)2大行(ト)1、禮記陳氏注曰、行(ハ)乃循行(ノ)之行去聲、以(ノ)2其往(テ)而不(ルヲ)1v反故(ニ)曰2大行(ト)1也、小爾雅廣名五云、諱v死謂2之大行1などみえたるが如くにて、いまだ御謚奉らぬほどを申奉る稱なる事は勿論也.しかるを古昔本邦にてはこれをば先帝の稱號とおもひ誤りたることゝみゆ、其證は和銅三年に記せる伊福部(ノ)臣徳足比賣(ノ)墓志(ニ)云、藤原大宮御宇大行天皇御世慶雲四年歳次丁未春二月二十五日云々、又天平二年に紀せる美努連岡麿の墓志に、藤原宮御宇大行天皇御世、大安元年歳次辛丑五月、使2乎唐國1、平城宮治天下大行天皇御世、靈龜二年歳次丙辰正月五日、授2從五位下1、【此墓志の全文は既上に出せり、】とみえたる是也、文武天皇の崩し給ひしは考にもいへる如く慶雲四年六月なるを、和銅三年はこれより四年の後天平二年は二十四年の後也、こは當時しるすところのものにて、後人の所爲也などはいふべきにあらず、されば此集なるもおして知るべき也、又書紀持統天皇三年の紀に大行《サキノ》天皇とあるは、天武天皇を申奉れるにて、これも先帝を申宰るれる也、旁訓にサキ〔二字傍線〕とあるも其よしなり、かくてはやく仙覺抄の序に、以2文武天皇(ヲ)1稱(ス)2大行天皇(ト)1、云々、譬(ヘハ)如(シ)3凡人(ノ)之道俗稱(スルガ)2先師先考等(ト)1、といへるはさることなりき、さて又卷九なるを、略解に大行の二字は衍文なりとあれど、諸本かくの如くなるがうへに、仙覺抄の序にも此文を引て、太上天皇大行天皇兩帝行幸の證としたれば、かの律師の見たりし本どもは皆しかありし事疑ひなし、されば衍文又は後人の加へたるなりなどはいふべきに非ず、猶上文大寶元(114)年云々とある所の注合攷すべし、又考に、以下五首は裏書の文なりしを、表へ出して書加へしなり.といへるも憶説なり、上にいへる如く、行幸年月の傳(ヘ)の詳ならざるものを列載したるにて、先に太上天皇の行幸年月の詳ならざる類を出し、次に大行天皇の行幸年月の詳ならざる類を出したるなり、これ撰者のもとよりの心しらびなるべくこそ、さるをかゝる道理をば考へむものともせず、考略解に妄りに謬傳なりといひしは、あかず口惜き事なりけり、
 
71 倭戀寐之不所宿爾情無此渚崎爾多津鳴倍思哉《ヤマトコヒイノネラエヌニコヽロナクコノスノサキニタヅナクベシヤ》
 
倭戀《ヤマトコヒ》は、故郷をこひしく思ひて也、○寐之不所宿爾《イノネラエヌニ》、寐《イ》はいを安く宿《ヌ》るなどもいひて、熟寐《ウマイ》するをいふ、宿《ヌ》とは臥《フス》ことをいふ言なり、さてこゝは熟《ヨ》く寐《イネ》られぬにの意也、ねられ〔右○〕ぬをねらえ〔右○〕ぬといふは、卷十五【廿右】に伊母乎於毛比伊能禰良延奴爾《イモヲオモヒヒイノネラエヌニ》又【廿二右】に欲乎奈我美伊能年良延奴爾《ヨヲナガミイノネラエヌニ》など猶多し、○情無《コヽロナク》は、鶴のおもひやりなきとなり、此句は結句にかけて心得べし、○此渚崎爾《コノスノサキニ》、燈に此《コノ》といひ爾《ニ》といふは、この難波の宮に近き渚の崎をいふにて、せめて此宮より間遠き所にてだになけかしといふ心をさとしたるなrり、といへるが如し、渚(ノ)字は和名抄に奈木左《ナギサ》と訓て、常にもし(115)かいへれど、集中に洲《ス》の意としたる所猶あり、爾雅釋水に小洲曰v渚とある是也、○多津鳴倍思哉《タヅナクベシヤ》は、上の三輪山の歌の注にいへるが如く、鳴べき事かはととがめたるやうにいひなしたるなり、さるはかれが物悲しげに鳴聲をきけばそれに催されて故郷をおもふ情のます/\まさるが故なり、
一首の意は、さらぬだに故郷の戀しくていねかぬる今夜しも、此近きあたりにてうらがなしき聲してなく鶴《タヅ》の心なき事よ、さやうに鳴べき事かや心すべしとなり、
 
 右一首忍坂部(ノ)乙麿
 
72 玉藻苅奥敝波不榜敷妙之枕之邊忘可禰津藻《タマモカルオキベハコガジシキタヘノマクラノアタリワスレカネツモ》
 
玉藻苅《タマモカル》は、枕詞也、奥《オキ》は沖《オキ》にて、初句よりのつゞきは海といはむが如し、藻は沖のみに生ふるものにはあらねばなり、○奥敝波不榜《オキベハコガジ》、こかじは俗に榜《コグ》マイといふ意なり、敝、今本に敞とあるは、即(チ)敝の俗體なれば、さてもあるべきを、古本にはいづれも敝とあれば、今改つ、○敷妙之《シキタヘノ》は、冠辞考に教は敷布の織めのしげきをいひて、和らかなる服《キモノ》てふ意にて、數栲《シキタヘ》の夜の衣といふより袖枕床ともつゞくる也、といへる(116)はわろし、石原正則の説に、夜の衣は下に引しく物なれば、敷たへといへるにて、枕詞にはあらず、さてこゝは數たへなる枕といふ意也、といへるぞよき、全文は別記に出しつ、○枕之邊《マクラノアタリ》、此句の意詳かならず、古本どもにいづれも邊の下に人の字あり、それもいかなる意とも辨へがたし、○忘可禰津藻《ワスレカネツモ》は、忘れむとすれども忘られぬよしなり、藻《モ》は歎辭也、
此歌は、四(ノ)句の枕之邊といふことの意さだかならざるより、一首の意わきまへがたし、但し先哲の説は左の如し、
拾穂抄(ニ)云、古郷の妹をおもふより、遙の沖へは舟出せじとよめるにや、○代匠紀(ニ)云、沖にはこぎ出てうき寐せじ、波の音の枕のあたりに聞えつるがわびしさの忘れぬにといふ意なり、○僻案抄(ニ)云、枕は地名ならん、難波江の枕といふ名所のほどりの、心にわすれがたくおもへば、はなれて沖へはこぎゆかじとなり、○考(ニ)云、此旅ねする浦のあかねば、沖へこぎ出む事はおもはずと云なり、○燈(ニ)云、玉藻かる澳の方には、そのなびきに妹が寐たりし姿おもひ出らるれば、澳の方はこかじとよめるなり、
右いづれもげにとおぼゆる解なし、されどわがおもひ得し事もあらねば、ただ諸(117)説を出して後案に備ふ、
 
 右一首式部(ノ)卿藤原(ノ)字合
 
卿今本に郷とあるは誤也、今諸古本及活本に從て改む、目録には作主未詳とありて、其下に式部卿云々としるせり、但し此七字古本にはいづれも小字にかけり、また元暦校本には、上なる高安大島と同じく朱にてかけり、後人の注なる事しるし、かくて按(フ)るに、續日本紀に天平九年八月丙午云々、正三位藤原(ノ)朝臣宇合薨と見えて公卿補任に此時年四十四とあり、これによりて逆推すれば、持統天皇八年の生れ也、懐風藻にも其薨年を載て四十四とあり、さて此をりの行幸を慶雲三年の事とする時は、宇合卿は十三歳のほどなり、歌の意は詳ならざれども、妹を思ふ情をよめるものとはおもはる、いかで十三歳の童男の歌ならんや、されば比説は謬傳にて、作主未詳とあるぞもとよりの傳(ヘ)なるべき、宇合の訓の事は別記にいふ、
 
 《ナガノ》皇子(ノ)御歌
(118)73 吾妹子乎早見濱風倭有吾松椿不吹有勿勤《ワギモコヲハヤミハマカゼヤマトナルワヲマツツバキツバキフカザルナユメ》
 
早見濱風《ハヤミハマカゼ》、考に豊後に逸見《ハヤミノ》郡あり難波わたりにも早見てふ濱ありてしかつづけ給へるならんといへるを、玉(ノ)小琴には、見濱は御濱にて、只濱の事なるべし、御津御浦などいへば、御濱とも云べき也.それを妹を早く見むといひかけたる也.といへり、共にげにともおぼえず、今按(フ)るに、早見濱風《ハヤミハマカゼ》は、濱風は物の障りなくて吹過ぐることの速きものなれば、早き〔右○〕濱風といふを、吾妹子をはやく見むといひかけたるなるべし。早き〔右○〕を早み〔右○〕といひしは、卷十一【三十三右】に泊湍川速見早湍乎結上而《ハツセガハハヤミハヤセヲムスビアゲテ》とある是也、又濱風の速《ハヤ》きよしは、同卷に濱行風彌急《ハマユクカゼノイヤハヤニ》ともあるを、見べし、○倭有《ヤマトナル》は、倭に在にて、吾《ワヲ》といふ言をへだてゝ松椿にかゝるなり、○吾松椿《ワヲマツツバキ》、考に、京にては妹が吾を待べきといふを、其園の松椿にいひつゞけたる也、とあるが如し、また僻案抄にも松椿は皇子の園にある木を、われを待妻《マツツマ》とよせてよみ給へりとあり、婆《バ》と麻《マ》とは通音なれば也、卷十【十六左】に梅花咲而落去者吾妹乎將來香不來香跡吾待乃木曾《ウメノハナサキテチリナバワギモコヲコムカコジカトワガマツノキゾ》などもあり、〇不吹有勿勤《フカザルナユメ》、燈に吹かよへとの心にて、其ふかざらん事をいさめて勤《ユメ》とはいへる也、不吹有勿《フカザルナ》はふけといふ心なれど、ふけといふはふかぬにむかへ(119)て促す詞、ふかざるなとは吹べきをふかずにをる事勿れといふ意也、あらずといふはなきといふに同じ詞の如くなれど、なきはあるにむかへたる詞、あらずはあるべきがなき心なるに同じといへるは精《クハ》しき解なり、
一首の意は吾妹子を早く見むとおもふ我心を、倭にありて我を待妻に、必(ス)吹かよひて音づれよとなり、
 
 大行天皇幸(セル)2于吉野(ノ)宮(ニ)1時(ノ)歌
74 見吉野乃山下風之寒久爾爲當也今夜毛我獨宿牟《ミヨシヌノヤマノアラシノサムケクニハタヤコヨヒモワガヒトリネム》
 
山下風之《ヤマノアラシノ》、舊訓にはヤマシタカゼノとあれど、卷十一【三十右】に佐保乃内從下風之吹禮婆《サホノウチユアラシフケレバ》、同卷【三十左】に足檜之下風吹夜者《アシヒキノアラシフクヨハ》などあるによりて、こゝもヤマノアラシノと訓べし、和名抄に孫※[立心偏+面]云、嵐(ハ)山下出風也、和名|阿良之《アラシ》とあり、此山下出風を省て下風とかけるなり、卷八【十七右】に霞立《カスミタチ》、春日之里《カスカノサトノ》、梅花山下風爾《ウメノハナアラシノカセニ》、落許須莫湯目《チリコスナユメ》、又卷十三【十七右】長歌の反歌に、衣袖丹《コロモテニ》、山下吹而《アラシノフキテ》、寒夜乎《サムキヨヲ》、君不來者獨鴫寢《キミキマサスハヒトリカモネム》、などある山下もこアラシと訓べきなり、それも山下出風を省たるにて同例なり、○寒久爾《サムケクニ》は、常にさむきにといふとは同じからず、寒くある事なるにといふ意にて、寒さの堪がたきよしを、(120)つよく聞かせむ爲の詞なり、〇爲當也《ハタヤ》、爲當をハタ〔二字傍線〕よめるは、書紀欽明紀に於v是許勢(ノ)臣問2王子惠(ニ)1曰、爲當《ハタ》欲(ルカ)v留(ント)2此間(ニ)1、爲當《ハタ》欲(ルカ)v向(ト)2本郷(ニ)1、日本後紀卷十八に常(ノ)政有v闕(ルコト)波加《バカ》、爲當《ハタ》神(ノ)道有v妨(ルコト)波加《バカ》などあり、また漢籍にも左傳(ノ)疏(ニ)云、以v今(ヲ)觀(レハ)v之(ヲ)不v可2一日而無(ル)1v律爲當《ハタ》吏不v及v古(ニ)民偽2於昔1、爲《ハタ》是(レ)聖人作v法(ヲ)不v能v經v遠(ヲ)、古今之政何以異乎とあり、これらの爲當は、常に漢籍讀に將の字をハタ〔二字傍線〕とよめるに同じく又は〔二字傍線〕の意なり、本集の詞のハタ〔二字傍線〕はこれとは同じからず、此に爲當の字を用ゐたるは訓を借たるのみなり、考の別記の説はいまだし、燈にはたは又と云ふに同じといへれど又の心にあらず、又は一事のうへに更らに一事のかさなるをいひ、はたはせむこゝちもなきことのやごとなくせらるゝ歎きなり、されば、亡父脚結抄に、はたは見言にセウコトモナイことといふ義なりといへり、こゝもこよひ獨寐せむこゝちさらに/\なけれど、從駕なれば、やごとなく、ひとり寐すべきを歎きて爲當《ハタ》とはよめるなり、とあるが如し、燈に又|也《ヤ》は疑なり、はたやはたなどよめるは詠の也《ヤ》なれどこれは下の牟《ム》にうちあひたるなれば疑なり、混ずべからず、これはいまだ寐ざるほどにおもへる心也、毛もじはこの連夜のひとり寐につけむとていふなり、この前の連夜は今夜ばかり山風も寒からざりしに、今夜のいたく寒き夜なるを、まへの連夜につけて毛《モ》(121)とよめる也、といへり、さる事なり、○我獨宿牟《ワレヒトリネム》、考、略解等に我をワガ〔二字傍線〕とよみたるはわろし、舊訓にワレ〔二字傍線〕とあるに從ふべし、燈に云が〔右○〕といふ時は上のもの主となり、の〔右○〕といへば下のもの主となる格なり、我といふよりはひとり寢の事此歌の主なれば、必われとよむべきなり.
一首の意は、此たび從駕にて芳野の山のふもとに連夜ひとり寢せしが、こよひことに山のあらしの寒くして、ひとりねせらるべき夜ならねど、外にせんすべなければ、今夜もひとり寢《ネ》せむかとなげきたるなり、
 
 右一首或云天皇御製歌
 
注に或云云々とあるは後人の異説をしるしたるなり、されど一首の意御製とは思はれざるなり、新勅撰に此歌を持統天皇御製として載たるは此異説によりたるなり、
 
75 宇治間山朝風寒之旅爾師手衣應借妹毛有勿久爾《ウヂマヤマアサカゼサムシタビニシテコロモカスベキイモヽアラナクニ》
 
宇治間山《ウヂマヤマ》、大和志に在2吉野(ノ)郡池田(ノ)荘千俣村(ニ)1といへり、〇衣應借《コロモカスベキ》、古へは男女の衣を互にかりて着る事常なりし也、○有勿久爾《アラナクニ》は、あらぬにの緩言にて、あらぬものを(122)といふ意になる詞也、
一首の意は、今旅中にて衣借べき妹もあらぬものを、心なくも宇治間山の風はいたく寒く吹事よと、風を恨るやうの意なり、
 
 右一首|長屋《ナガヤノ》
 
和銅元年戊申 天皇御製歌
 
慶雲五年正月、武藏(ノ)國秩父(ノ)郡より和銅を献りしによりて、慶雲五年を改て和銅元年とし給へるよし、續日本紀に見えたり、考に、戊申の下に冬十一月の四字を加へたるは、何の由なるにか、もとよりさる本はある事なし、但し代匠紀には、和銅元年十一月大甞會を行はせ姶ふ時の御製なりとあれど、縣居翁は此説には從はねば、此四字を加へたるはいぶかし、
天皇は天津御代豐國姫《アマツミヨトヨクニヒメノ》天皇にて後の謚號は元明天皇と申す、考に下の寧樂宮の三字をこゝに移して、注に卷二にも和銅四年の所に此標あれど、其上に同元年の歌有所に記しつ、此卷には同三年の歌ども有て、後に同五年と記せし下に此標有は、何のよしともなし、亂れ本のまゝに後人の書し事明か也.仍て今こゝ(123)にしるしつ、且同三年此都へ遷ませしより前、元年の歌の上に擧るは、上の藤原宮の所にいへる例なり、とあり、今按(フ)るに、こは例の一向なり、上にもいへる如く大寶元年以下はは年號を似て時代の標としたる事なれば、こゝもたゞ年號のみを擧たる也、さて下の長(ノ)皇子の歌の所に、殊に寧樂(ノ)宮と標したるは、此御歌よみ給ひし年月の傳(ヘ)なくて知れざるから、最終に載て、さて凡に寧樂(ノ)宮とは標したるなり、又卷二なるは和銅三年に寧樂(ノ)宮には、遷りませしによりて、其翌年四年の所に寧樂宮とは標したるにて、御代の號をもて時代を標したる例とは同じからず、さるを考に藤原(ノ)宮の所にいへる例なりといへるは、精はしからざる説也、【猶卷二の注にいふべし、】また略解にこゝに寧樂宮御宇天皇代の標有べき也、といへるは、いよ/\非也、大寶元年より以下は御代にかふるに、年號を以てせることをば辨へざりしにや、すべて古書の注をものし、または古書を校正するは、よくもあしくも其書の撰者の舊色《モトノスカタ》を存するを主とすべきことなるを、ともすれば私意憶斷をもて文字を改刪しまたは増補し、書の體裁を變易するはあるまじきわざなり、近頃の學者にはかゝることをするを、たけきわざとや心得つらん、もとのまゝにても解かるべき所をも、強て改めかふることの多かるは、いとわろき(124)習はしなり、書をよく讀(ミ)よく解むとする人は、心すべきことぞかし、
 
76 大夫之鞆乃音爲奈利物部乃大臣楯立良思母《マスラヲノトモノヲトスナリモノノフノオホマヘツキミタテタツラシモ》
 
大夫、官本及古葉略類聚抄には丈夫とあり、大夫も丈夫も共にマスラヲ〔四字傍線〕と訓(ム)べきことは、上文に注せり、○鞆乃音爲奈利《トモノヲトスナリ》、鞆《トモ》は古事紀に伊都之竹鞆《イツノタカトモ》、書紀に稜威之高鞆《イヅノタカトモ》、大神宮(ノ)儀式帳に弓矢鞆音不聞國《ユミヤトモノオトキコエヌクニ》などあり、鞆の字は漢籍には見えず、古(ヘ)皇國にて製造したる字なるべし、吉部秘訓抄に鞆の圖あり、漢土には此物なし、しかるを和名抄に※[旱+皮]の字を止毛《トモ》に當《アテ》たるはわろし、※[旱+皮]は鞆とは別物なり、其由は和名抄箋注に詳なり、古事紀(ノ)傳卷七に、此は何の料に着《ツク》る物ぞと云に、古歌などにも鞆にはみな音を云るを思へば、此物に弓弦の觸(レ)て鳴る音を高からしめむためなり、音を以て威《オド》すこと、かの鳴鏑《ナリカブラ》なども同じ、然るを師は袂をおさへ弓弦を避る物なり、故に弦のあたる音あるなり、と云れつるは非也、といへり、さることなり、○物部乃大臣《モノノフノオホマヘツキミ》、物部《モノヽフ》は氏にはあらず、武事をもて仕(ヘ)奉れる建男《タケヲ》をいふ、大臣《オホマヘツキミ》は大前君《オホマヘツキミ》にて、天皇の御前に親しく仕(ヘ)奉る臣をいふなり、此句は此度の大將軍巨勢(ノ)麻呂佐伯(ノ)石湯をさせるなり、〇楯立良思母《タテタツラシモ》、此時陸奥越後の蝦夷《エミシ》らが叛きぬれば、討手《ウテ》の使と遣さ(125)る、その御軍の手ならしをすなるべければ楯をも立つるなり、燈に良思《ラシ》は里言にラシイ〔三字傍線〕又コトソウナ〔五字傍線〕などいふ心なり、此|良思《ラシ》は上の奈利《ナリ》より出たるにて、鞆の音するより楯たつらしきをはかり給へる也、鞆は音する物なるが故に、おまし遠けれど奈利《ナリ》とよませ給ひ、楯たつるは音もせねば、良思《ラシ》とはおほせられし也、諸注ただ二事をならべておほせられしやうに釋《トケ》るは、奈利良思《ナリラシ》の義を審かにせずといへり、
考(ニ)云、此御時陸奥越後の蝦夷が叛きぬれば、討手《ウテ》の使を遣さる、その御軍の手ならし京にてあるに、皷吹の聲鞆の音などかしかましきを聞し召て、御位の初めに事有をなげきおもほす御心より、かくはよみませしなるべし、此大御歌にさる事までは聞えねど、次の御こたへ歌と合せてしるき也、又云、陸奥越後の蝦夷の反しかば、和銅二年三月遠江駿河越前越中云々七國の兵士を立させられ、巨勢佐伯二氏を大將軍にてつかはされし事、此御代の紀に見ゆ、然れば前年の冬、軍の手ならしする物のおとを聞して、大御歌よみ給ひし故に端に元年とは有なりけり、うての使を遺されむに、北國は大雪にて冬の軍はなしがたければ、明年三月に立せらるる也、
(126)一首の意は、弓弦の鞆に触(レ)てなる音のきこゆるは、今や大夫《マスラヲ》どもの楯をも立ならべて、軍の調練する事ならんと、宮中よりおしはかり給へるにて、其は御位につかせ給へるはじめより、かく世のさわがしきを御歎かせ給ひて、蝦夷どものすみやかに服従《マツロヒ》て、天(ノ)下しづかならむことをおもほしめす御心よりよませ給へるなり、
 
御名部《ミナベノ》皇女奉(ル)v和(ヘ)御歌
 
考(ニ)云、天皇と此皇女は御はらからにて、紀の次ても皇女のかた御姉におはせり、されども天皇は文武天皇の御母后なりければ、文武天皇崩まして後には、御位には居させ給ひし也、かくていと御むつましければ、此御和(ヘ)も有しならん、
 
77 吾大王物莫御念須賣神乃嗣而賜流吾莫勿久爾《ワゴオホキミモノナオモホシスメガミノツギテタマヘルワレナケナクニ》
 
吾大王《ワゴオホキミ》は天皇をさし奉る也、〇物莫御念《モノナオモホシ》、舊訓にモノナオモホシソとよめれど、莫《ナ》云々|曾《ソ》といふことと古言には莫《ナ》とのみもいふ事常なれば、猶七言の句とすべし、さて物思ひせさせ給ふ事勿れとの意なり、○須賣神乃《スメガミノ》は皇御祖《スベミオヤノ》神だちをさし奉るなり、〇嗣而腸流《ツギテタマヘル》は皇女の自からをかくの給へる也、そは次にいふを見るべし、○吾莫勿久爾《ワレナケナクニ》、卷十五【三十三右】に多婢等伊倍婆許等爾祖夜須伎額久奈久毛伊母爾戀(127)都都須敝奈家奈久爾《タビトイヘバコトニゾヤスキスクナクモイモニコヒツツスベナケナクニ》とあるによりてかくよむべし、さて考に天つ皇祖神《カミロギノ》より嗣嗣に依《ヨザ》し給へる天皇の御位ぞとのたまふ也、こは言を上下にいふ體にて、三四の句を吾大王の上へやりて意得る也、といひ、略解には宜長は吾莫勿久爾の吾は君の字のあやまれるならんかといへり、しかする時は上よりのつゞきおだやかに聞ゆ、といへり、しかるを燈に上よりのつゞきおだやかなりといへる事こゝろえず、上に吾大王《ワゴオホキミ》とありて、又君とさし奉らんに穩なりといはむやは、これは猶吾なるべし、すめ神の嗣てうまれしめ給へる吾なからぬにては、あらねば、あらむかぎりはたすけ奉らむ、しかるを何をかなげきおぼしめすぞ.となくさめ奉り給へる也、といへり、今按(フ)るに鈴屋翁の説の如く吾を君とすれば、一首の意はやすくきこゆるも、例の文字を改る説なるがうへに、燈に難じたるが如く吾大王といひてさらに又君といへるもげにいかが也、又燈の説はおもしろけれど嗣而賜流《ツギテタマヘル》の句を皇女の事とするは穩かならぬこゝちす、かゝればおのれは猶考の説によるべくおぼゆ、其は皇神の嗣而御國よざし腸へる吾大王なれば、何事をかおはしますべき、物なおもほしそ、もし又事しあらんには、いかなる事にも吾代りつかへ奉らむと、御心をなぐさめまつれる也、卷四【十五左】に吾背子波物莫念事之有者火爾毛水爾(128)毛吾莫七國《ワガセコハモノナオモホシコトシアラバヒニモミヅニワレナケナクニ》とあてり.此歌を以て今をもおして知(ル)べし、又天武紀元年六月辛酉朔丁亥云々天皇謂2高市(ノ)皇子1曰、其近江(ノ)朝(ニハ)左右大臣、及、智謀《カシコキ》群臣共(ニ)定議(ス)、今朕無2與(ニ)計v事(ヲ)者1、唯有2幼小少孺子1耳.奈之何《イカヽセム》、皇子攘v臂按v劔奏言、近江(ノ)羣臣雖v多、何敢逆2天皇之靈1哉、天皇雖v獨則臣高市、頼2神祗之靈1請2天皇之命1、引2率諸將1而征討、豈有v距乎、とあるなど、其意よく似たり、
一首の意は皇神のつぎて御國よざし給へる吾大王なれば、何事かあるべき、めゝしき女ながらもわれあるからは、いかなる事ありとも代りてつかへ奉るべければ、御心安くおはしませ、と御なぐさめ給へるなり、
 
和銅三年庚戌春二月、從2藤原(ノ)宮1遷(マス)2于寧樂(ノ)宮(ニ)1時、御輿(ヲ)停(テ)2長屋(ノ)原(ニ)1、※[しんにょう+向](ニ)望(テ)2古郷(ヲ)1御作歌 一書云太上天皇御製
 
續日本紀に和銅三年三月辛酉始(テ)遷2都(ヲ)于平城(ニ)1、とあり、これによるに二月は三月の誤なるべし、されど古本どもにもいづれも二月とのみあれば、姑く舊のまゝにておきつ、【新古今集に別けるには三月とあり、拾穗抄にも三月とあれど、其は私に改たるならむ、】○御輿(ヲ)停2長屋(ノ)原(ニ)1、和名抄に山邊(ノ)耶長屋とある地なるべし、停の字は御輿の上にある意なり、【拾穗抄に改たるは、例のさかしら(129)也】○※[しんにょう+向]望、温本官本同じ、家本に※[しんにょう+回]と作《カケ》り、活本には回と作《カキ》、元本(ノ)目録及類本には廻と作《カケ》り、按(フ)るに韻會に※[しんにょう+囘]俗作v※[しんにょう+向]、説文に※[しんにょう+囘](ハ)遠也とあれば、ハルカ〔三字傍線〕と訓べし回と作《カケ》る本は非也.廻は宇書には無き文字なり、※[しんにょう+回]の俗體なるべし、※[しんにょう+回]は回と同字なり、
一書云云々、此九字今本には大書とす、今諸古本に小字とせるに從ふ、此九字考に削り去りたるは、例の臆斷也、玉(ノ)小琴に此歌一書には持統天皇の御時に飛鳥より藤原へうつり給へる時の御製とするなるべし、然るを太上天皇といへるは、文武天皇の御代の人の書る詞也、又和銅云々の詞につきていはゞ、和銅のころは持統天皇既崩(リ)給へども、文武の御時に申しならへるまゝに、太上天皇と書る也、此歌のさまとおもふに、まことに飛鳥より藤原宮へうつり給ふ時の御歌なるべし、然るを和銅三年云云といへるは、傳への誤なるべし、といへり、○今按(フ)るに此御歌新古今集第十※[羈の馬が奇]旅(ノ)部に載て、和銅三年三月藤原の宮よりならの宮にうつり給ける時、元明天皇御歌、とあり、これに據るに、一書に太上天皇御製とある太上の二字は衍文なるべし、新古今集は定家卿の撰なるに、此卿は萬葉集はよく研究せられたりと見えて中古以來誤り來し長歌短歌の名稱を、本集の(130)例を悉く擧げて之を正し、又萬時といふものを記して、本集の撰者は諸兄公及家持卿なるよしを論じたり、縣居翁の萬葉解といふ書の總論にも、中世にいたりては其まことの意を明らめ知る人なかりしを、末の代に藤原(ノ)定家卿はじめて此集のまことの筋を立しより、仙覺大に力を盡して、本文の校正をば遂げたりき、といへり、さて又此卿は萬葉集古來相傳の本を藏したるよし、東鏡に見えたり、同書卷廿一建暦三年(ノ)條に云、十一月大廿三日己丑天晴。京極侍從三位【定家卿】献(ル)2相傳(ノ)私本萬葉集一部(ヲ)於將軍家(ニ)1是(レ)以2二條(ノ)中將(ヲ)1【雅經】依v被v尋也、就v之去七日羽林請取送(リ)進(ル)、今日到着之間、廣元朝臣持2參御所(ニ)1、御賞翫無v他重寶何物(カ)過(ンヤ)v之乎由有v仰、かかれば新古今に元明天皇御歌としるせるは、必據ある事なるべし、さて御歌に明日香乃里乎云々とあるは、明日香は藤原(ノ)京よりはいと近き所にて【今道凡十町許もあるべし、】此里に住給へる皇族の御人などの坐せるがもとに、よみておくり給ひしなるべし.
 
78 飛鳥明日香能里乎置而伊奈婆君之當者不所見香聞安良武《トブトリノアスカノサトヲオキテイナバキミガアタリハミエズカモアラム》【一云君之當乎不見而香毛安良牟】
 
(131)飛鳥は、明日香の枕詞喝、○置而伊奈婆《キテイナバ》は、上に倭乎置而《ヤマトヲオキテ》、又|京乎置而《ミヤコヲオキテ》などあるに同じく、其處に留置《トヾメオキ》てなり、伊奈婆《イナバ》は去《イ》なばにて、なばは未然をかけていふ詞也、〇君之當者《キミガアタリハ》、君とは常に親しみおもほしめす、かの明日香に殘り居給へる人なり、○不所見香聞安良武《エズカモアラム》、香聞は疑ひながら歎く意ある詞にて、其人の住めるあたりの見えずなりゆかむ事を歎き給へるなり、一云のかたにては、藤原に遷りて後は、君があたりを見ずして、常にこひしぬびてかあらんとの意にて、歌がら少し下れるやうにおぼゆ、さるは本文の當者《アタリハ》とある者《ハ》の辭にて、其意のつよく聞えて感情深きを、乎《ヲ》にては其意やゝ緩くきこゆればなり、
一首の意は今明日香の里をおきて寧樂にいたりなば、こひしくおもふ君があたりは、見えずなりゆかむがいとあぢきなきことよと、道のほどより其人のもとに贈られ給ひし御製なるべし、
 
 或本從2藤原(ノ)京1遷2于寧樂(ノ)宮(ニ)1時歌
 
或本とは、此歌定本には無くて、他の一本に載れるを以て校合者の加へたるが故なり、但しこはいと古き時に加へたるものと見えて、諸古本ども皆かくあり、(132)又元暦校本は此所は逸して今はなけれど、目録には今本と同じく、三年庚戌云々の次に一番歌とあれば、本文も今本と同じく或本云々とありし事しるかり、かかればこはかの梨壺にて此集讀ときたるをり、異本を校合して加へたるものなるべし、これのみならず一云とて句の異同をしるしたるは多くは其をなの事なるべくおぼゆるなり、拾穗抄に或本の二字無きはさかしらに削りたるなり、
 
79 天皇乃御命畏美《オホキミノミコトカシコミ》、柔備爾之家乎擇《ニキビニシイヘヲサカリ》、隱國乃泊瀬乃川爾《コモリクノハツセノカハニ》、※[舟+共]浮而吾行河乃《フネウケテワガユクカハノ》、川隈之八十阿不落《カハクマノヤソクマオチズ》、萬段顧爲乍《ヨロヅタビカヘリミシツヽ》、玉桙乃道行晩《タマボコノミチユキクラシ》、青丹吉楢乃京師乃《アヲニヨシナラノミヤコノ》、佐保川爾伊去至而《サホガハニイユキイタリテ》、我宿有衣乃上從《ワガネタルコロモノウヘユ》、朝月夜清爾見者《アサヅクヨサヤカニミレバ》、栲乃穂爾夜之霜落《タヘノホニヨルノシモフリ》、磐床等川之氷凝《イハトコトカハノヒコヾリ》、冷夜乎息言無久《サユルヨヲイコフコトナク》、通乍作家爾《カヨヒツヽツクレルイヘニ》、千代二手來〔左○〕座多〔左○〕分與《チヨマデニイマサムキミト》、吾毛通武《ワレモカヨハム》
 
天皇《オホキミ》、舊訓にスメロキとあるは非也、オホキミとよむべし、荒木田(ノ)久老の槻落葉に(133)おほぎみとは、當代天皇より皇子諸王までを申稱にて、すめろぎとは、遠祖《ミオヤ》の天皇と申奉る稱なるを、皇祖《ミオヤ》より受繼《ウケツギ》ませる大御位につきては、當代とも申事のあると、天皇と書てすめろぎともよむ例のあるによリて、後人ゆくりなくすめろぎと申もおほきみと申も.ひとつ言と心得て、大皇と書るをも皇と書るをも、すめろぎと誤れるぞおほかりける、かくて歌の題に天皇云々とあるは、皆その御代々々の天皇と申奉る事なれば、おほぎみとよむべきに似たれど、そはすめらみことゝよみて、當代天皇を申奉る稱なり、と猶精細しくいへり、此説よろし、○御命畏美《ミコトカシコミ》、御命《ミコト》は御言《ミコト》なり、畏美《カシコミ》は古事紀(ノ)傳卷十四【五左】に、恐之はかしこし〔四字右○〕とよむベし、如此《カク》言《イヒ》て即(チ)仰(セ)を承《ウケタマハ》り諾《ウベ》なふ辭になるなり、今(ノ)世にカシコマリマシタと云も是より出たり、とある是也、○柔備爾之《ニキビニシ》、柔備《ニキビ》は荒備《アラビ》の反《ウラ》にて、住馴れたるをいふ、卷三【五十九】に丹杵火爾之家從裳出而《ニキビニシイヘユモイテテ》ともあり、荒備《アラビ》は疎《ウト》く放《ハナ》るゝをいふ言にて、卷二【二十九左】に、御立爲之島乎母家跡住鳥毛荒備勿行年替左右《ミタヽシシシマヲモイヘトスムトリモアラビナユキソトシカハルマデ》、などある是也、此は住なれたる鳥を疎く放れな行そといへる也、○家乎擇《イヘヲサカリ》、擇は釋の誤なるべし、左氏襄二十八年(ノ)傳の注、また漢書劉屈※[釐の里を毛]傳の注等に、釋(ハ)放也とあればサカリ〔三字傍線〕と訓べし、又國語魯語、楚辭天問等の注に釋(ハ)置也ともあれば、イへヲオキテ〔六字傍線〕とも訓べきにやとおもひしかども、もし(134)しか讀べきならむには釋而と而の字あらずしてはいかゞなれば猶サカリ〔三字傍線〕とよむべき也、家は藤原の家をいふ、○隱國乃《コモリクノ》は枕詞也、○※[舟+共]浮而《フネウケテ》、※[舟+共]は字書に小船也とあり、今も小さき船なるよしを知らせむとて、※[舟+共]の字を用ゐたるにや、うけてはうかベて也、○川隈之《カハクマノ》、川の彼方此方《カナタコナタ》に曲れる所をいふ、道隈《ミチノクマ》などいふに同じ、玉篇に※[さんずい+畏]於回切、水※[さんずい+畏]曲也、亦作v隈とあり、〇八十阿不落《ヤソクマオチズ》、八十とは隈々の多かるをいふ.不v落は漏ずにて、隈毎にのこらずといふ意也.上の三吉野《ミヨシヌ》の御歌に隈毛不落《クマモオチズ》とあるに同じ、阿は玉篇に曲也とあり、○萬段顧爲乍《ヨロヅタビカヘリミシツヽ》、故郷のなごりをしさに、幾度も顧《カヘリミ》せらるとなり、段は廣韻に分段也とあり、義を以てかける借宇也、○玉桙乃《タマボゴノ》は、道の枕詞也、桙(ノ)字は、金旁を此方にて殊更に木旁に變じてかきならへるものにて古(ヘ)多く木鉾を用ゐたるが、故なり、しかるを拾穗抄にこと/\く鉾に書かへたるは例のさかしら也、古事紀延喜式其他の古書にも多く桙とかけををや、○道行晩《ミチユキクラシ》は、舟中にて行暮れたるをいふ、考、略解ともに、人は陸にのぼりて行ば也、とあるは非也、道《ミチ》とは船路をいへるなり、すべて舟中の事をいへるに、此句のみ陸の事をいふべきよしなし、燈にも舟中の事としたれども、舟行なるを陸のやうにいふは倒語なり、といへるは猶非也.此のみならず燈の倒語の説は、いづれもひがことなり、かくて以(135)上の數句は、考に此川三輪にては三輪川ともいヘど、その源初瀬なれば大名《オホナ》を初瀬川といひしならん、さて末は廣瀬の河合にて落合なれば、そこまで舟にて下りて、河合よりは廣瀬川をさかのぼりて、佐保川まで引のぼすべし、とある如く此間のさまをいへるなり、○青丹吉《アヲニヨシ》は枕詞也、○楢乃京師《ナラノミヤコ》、楢《ナラ》は借字、京師《ミヤコ》は義を得てかける文字なり、○佐保川爾《サホガハニ》、考に佐保川は人の乘てさかのぼらるゝ水とはなし、調度を舟してこゝまで引のぼせけん、といへるは非也、調度などを積おくりたる意はいづこにかある、猶此人だちの舟にて行到《ユキイタ》りたるなり、古(ヘ)は今少し廣かりし川なりしなるべし、伊《イ》は發語也、○我宿有衣之上從《ワガネタルコロモノウヘユ》、考に衣は床の字の誤なりとて改たるは非也、そは上の道行晩《ミチユキクラシ》よりは、人は陸行したりとし、こゝも寧樂の新室に宿《ネ》たることゝおもへるからの説也、されど此次にも磐床等川之氷凝《イハトコトカハノヒコヾリ》ともありて、すべて舟中のさまなるをや、此句は夜の衣を引被りながらに見るさまなり、○朝月夜《アサヅクヨ》は在明月にて朝まである月をいふ、つくよ〔三字右○〕と訓(ム)べし、夜は添(ヘ)たるのみにて、たゞ月の事なり、○清爾見者《サヤカニミレバ》、月の光りにてさやかに見るなり、月かげのさし入りたるなど、舟中のさまおもふべし、燈に、次に夜之霜落とあるによりて、朝月夜は清爾のよせ也、といへるは非也、次の夜之霜落といへるは、夜のほどにふれる霜を、朝に見(136)ていへるなり、よく味はふべし、○栲乃穗爾《タヘノホニ》、栲は白布の事、穂は丹《ニ》の穗《ホ》などの穗《ホ》と同じく秀《ホ》の意にて、こゝは光澤のあらはるゝをいふ、爾《ニ》は如クニ〔三字傍線〕の爾《ニ》にて、霜の白くふりたるが、白布の如くに見ゆるといふ、栲の字は古事紀(ノ)傳卷八【三十九左】に栲(ノ)字は楮を草書より誤りつと師はいはれつれど、楮(ノ)字を書る例なければいかゞ、此はなほ別に和字ならむといへり、狩谷望之の和名抄箋注に、栲は楮(ノ)字の異體なりとて、精細しき辨あり、余が萬葉集訓義辨證に其説を出したれば、今は省きつ、【此栲の字を栲とかける本は誤なり、〔入力者注、栲の考の右下は丁が正しいと言うこと〕】○夜之霜落《ヨルノシモフリ》、よべふりたる霜をいふ、○磐床等川之冰凝《イハトコトカハノヒコヾリ》は、氷のこゞりて石牀の如くなるをいふ.等《ト》はあゆひ抄ににのと〔三字傍線〕といふ等《ト》にて俗にニ成テ〔三字傍線〕の意なり、卷十三【三十右】に石根之許凝敷道之石床之根延門爾《イハガネノココシキミチノイハトコノネハヘルカドニ》とあるは、夫の墓の側の假屋に、妻のやどり居て、其墓所のさまをいへる也、これにて石床の意を心得べし、凝、今本に疑とあるは、偏旁の缺失たるなり、古本には皆凝とあり、活本も同じ今正す、○冷夜乎《サユルヨヲ》は、霜ふり氷凝て寒き夜をなり、乎《ヲ》はものをのを〔右○〕也、〇息言無久通乍《イコフコトナクカヨヒツヽ》は、其寒き夜をも息ふことなく、藤原の舊都より寧樂の新京へ通ひつゝにて、つゝ〔二字右○〕とは此夜のみならず、これまでも屡々通ひたりしをいへるなり、言《コト》は借字にて事也、〇千代二手來〔左○〕座多〔左○〕公與吾毛通武《チヨマデニイマサムキミトワレモカヨハム》、二手をマデ〔二字傍線〕とよむは、集中に左右手をマデ〔二字傍線〕とよめる(137)に同じく眞《マ》とは物の具したるをいふ言にて、左右の袖をマソデ〔三字傍線〕左右の楫をマカヂ〔三字傍線〕といふ、皆是也、この三句の意、今本のまゝにてはきこえず、必誤字あるべし、さて代匠紀には多公を大君の意として云、來座はきますと讀べし、此都に遷來て、千代までもまします大君と共に我も營作《イトナミツク》れる私の家に、通ひ來て仕(ヘ)奉らんとなりといひ、考には來は爾、多は牟の誤として、チヨマデニイマサムキミトと訓て、注によき人の家を、親しき人の事とり作りて、且其作れる人は異所に住故に、吾も通はんとよめるならんといひ、燈には多を牟の誤とし二〔右○〕の助辭を讀添てチヨマデニキマサムキミトとよみて、公とは主人父母などなるべし、吾毛通武《ワレモカヨハム》とは、公とさしたる人を主とたてゝ、毛《モ》といへるなりといへり、【僻案抄の説は、いと異やうにて、いふにも足らねばあげず、】右のうちにて考の設をまづは得たりとすべし、さて其意を今少しくはしくいはゞ與《ト》は常の共《トモ》にの與《ト》にて、千代までに座《イマ》さん君なれば、其君の座《イマ》すと共に吾も千代までに通はむ、との意ならむ、卷七【十一右】に能野川石迹栢等時齒成吾者通萬世左右二《ヨシヌカハイハトカシハトトキハナスワレハカヨハムヨロヅヨマデニ》とあるは此所《コヽ》の趣《オモムキ》に似たり、
かくて考に、此歌初めには大御言のまゝに、人皆所をうつろふ心をいひ、次に藤原より奈良までの道の事をいひ、次に冬寒きほどに家作せし勞をいひ、末に事成て(138)新家をことぶく言もて結べるは、よく調へる歌也といへり、
一編の大意は、天皇の命の畏さに久しく住なれたりし家をはなれ、遠く舟路をたび/\通ひて、霜ふり川の氷これる夜の寒さをもいとはず、からくして作れる家なれば、幾千とせも君はこゝにおはしつらん、されば吾も幾千とせふとも、かはらず、此家作りに通ひし如く、數《シバ/\》通はむと也、
 
  反歌
80 青丹吉寧樂乃家爾者萬代爾吾母將通忘跡念勿《アヲニヨシナラノイヘニハヨロヅヨニワレモカヨハムワスルトオモフナ》
 
寧樂乃家爾者《ナラノイヘニハ》、新京に作れる家也、〇萬代爾《ヨロヅヨニ》は、長歌に千代二手にといへるに同じ、幾百千代《イクモヽチヨ》もといふ意なり、○吾母將通《ワレモカヨハム》は、長歌にいへるが如し、但し座牟公與といふ言をば、長歌にゆづりたるなり、吾母とある母の辭にて、さきこゆる也、○忘跡念勿《ワスルトオモフナ》は千代萬代までも通ひ來《ク》べし、忘るゝことありともおもひ給ふ事勿れとなり、
一首の意は、此家のあらんかぎり、萬代までも通ひつゝあるべし、古京と新京と雖れ居りとて、わするとおもひ給ふ事勿れとなり、
 
 右(ノ)歌作主未v詳
 
(139)官本温本には作の字なし、
 
 和銅五年壬子夏四月、遣2長田《ナガタノ》王(ヲ)于伊勢(ノ)齊宮(ニ)1時、山(ノ)邊(ノ)御井(ニテ)作(ル)歌
 
長田(ノ)王は、續紀に天平九年六月甲辰朔辛酉、散位正四位下長田(ノ)王卒とあり、さて長(ノ)親王の御子なるよし三代實録貞觀元年十月(ノ)條の、廣井(ノ)女王の傳に見えたり、〇齊宮、齊は齋と通用の字なり、廣韻に齋(ハ)齋潔也、亦莊也、敬也、經典通(シテ)用v齊(ヲ)也、とありて、古(ヘ)は多く齊を用ゐたるなあ、しかるを、考、略解等に、齋に改かけるは麁忽也、【拾穗抄に齋とあるは、例のさかしらなり、】集中齊を齋の意に用ゐたるはいと多かり、其は萬葉集訓義辨證に精しく云、さて斎宮は御世々々の齋王の御坐《オハシマ》す宮なり、齋宮式に、凡天皇即v位(ニ)者、定(ム)2伊勢(ノ)大神宮(ノ)齋王(ヲ)1仍(テ)簡(ビ)2内親王(ノ)未嫁者(ヲ)1卜(ス)v之とあり、○山(ノ)邊(ノ)御井は、鈴屋翁の説に、伊勢(ノ)國鈴鹿郡|山邊《ヤマベ》村といふ所也、そこに山邊(ノ)赤人の屋敷跡といひ傳へたる地あり、又同じ人の硯水とて古き井もあり、是也、但し赤人のことを此地の名につきていひよせたるはひがことなるよし、くはしく玉勝間卷三に見えたり
 
(140)81 山邊乃御井乎見我※[氏/一]利神風乃伊勢處女等相見鶴鴨《ヤマノベノミヰヲミガテリカムカゼノイセヲトメドモアヒミツルカモ》
 
見我※[氏/一]利《ミガテリ》は、卷十七【十七左】にも見我底利《ミガテリ》とかけり、又卷七【十八左】には片待香光《カタマチカテリ》ともかけり、又假宇かきにて我底良《ガテラ》とあるは卷十八【七左】卷十九【十二左】等に見えたり、利良《リラ》通音にていづれにもいひしなり、古今以後はがてら〔右○〕とのみいひて、がてり〔右○〕とはいはず、こは二事を相兼るときいふ詞なり、こゝは御井を見るにつけて、處女をも見たるをいふ、○神風乃《カムカセノ》は伊勢の枕詞也、〇伊勢處女等《イセヲトメドモ》、舊訓にイセノヲトメラとあるは非也、すべて地名をかゝぶらせて、某處女といふ時は、多くは某乃《ナニノ》とはいはぬ例也、菟名日處女《ウナビヲトメ》、泊瀬處女《ハツセヲトメ》などの如し、○相見鶴鴨《アヒミツルカモ》は、燈に、つるは現當なりしことを今よりおもひやらする詞也、これは處女の相見たるより後によみ給まへれば也、といへるは、詞に泥み過たる解なり、但しつるは里言にタワイ〔三字傍線〕といふ意なれば、見たる後にいふ詞なる事は論なけれど、今見たる事をやがて見つるともいふべきなり、たゞ時刻に遲速はあれど、既に見たるうへの事なれば、意は同じきなり、しかるを後に云々といひては、端詞に御井(ニテ)作(ル)歌と有にも叶はざるをや、燈は辞《テニヲハ》の解の精しきに過て、をり/\此弊あり心して見べし、
(141)一首の意は御井を見むとて來つるに、おもひがげず、此土地の處女にさへあひみつる事よといふにて、京の處女どもとは其なりかたちの異なるを見て、めづらしくおもひ興ぜさせ給ふなり、○考に、よきをとめどもに行あひて、興を増たるこゝろ也といひ、燈にもうるはしき處女をさへ見たるを深くよろこびたる也といへるはともにいまだし、
 
82 浦佐夫流情佐麻禰之久堅乃天之四具禮能流相見者《ウラサブルコヽロサマネシヒサカタノアメノシグレノナガレアフミレバ》
 
浦佐夫流《ウラサブル》、浦は借字にて心《ウラ》なり、佐夫流は集中にサブシ〔三字傍線〕を不怜又は不樂とかけるこれらの文字の意にて、もと同語の活用を異にせるものなるべし、卷四【二十八】に、眞十鏡見不飽君爾所贈哉旦夕爾佐備乍將居《マソカヾミミアカヌキミニオクレテヤアシタユフベニサビツヽヲラム》とある左備は、全くこれと同語なり、○情佐麻禰之《コヽロサマネシ》、禰、諸本に彌とあるは誤也、今正す、考に麻禰之《マネシ》は間なくにて、佐《サ》は發語とあるを、玉(ノ)小琴にはまねしは物の多き事繁き事也、こゝは浦淋《ウラサビ》しき心の繁き也、卷二に眞根久ゆかば人しりぬべみ、卷四に君が使の麻禰久《マネク》かよへば、是等しげき意也、卷十七にたまぼこの道に出たちわかれなば見ぬ日|佐麻禰美《サマネミ》こひしけむかも、又やかたをのたかを手にすゑみしま野にからぬ日|麻禰久《マネク》月ぞへにける、云々、(142)是等日數の多きを云り、此外數多と書るにまねくと訓てよろしき所多し、といへり、さて燈に此詞本義は聞無《マナシ》にてその間《マ》なきは即數多きかたちなれば、間無をもて數多き事をさとす詞也、とあり、以上の説どもにて、此詞の本義と用法とと曉(ル)べし、○久堅乃《ヒサカタノ》は枕詞也、此枕詞の解、冠辭考の説はうけがたし、其他くさ/”\の説あれどげにとおぼゆるはなし、すべて古言のもとの意を辨へむことはかたきわざにて、それよく解得たりとみゆる説も、まことはあたれりやあたらざるやを極むべきよしなきが多かり、殊に枕詞のその意を解むはいと/\、かたきわざにて、いかに考ふるも、そのもとの意の知(リ)がたきも多かる事なり、されば石原正明の年々随筆に、あら玉のは年の枕詞、あらがねのは土の枕詞とだにしらば、事かくことあらじ古學といひて詞のもとをさぐらんとする人だち、みづからのちからのほどをもしらでいかで、新らしき説いひ出んとするは徒なる力いれにて、よそめさへくるし、といへるさることなり、○天之四具禮《アメノシグレ》、しぐれは天より降くるものなるから、天のといへるのみ、○流相見者《ナカラフミレバ》、雨雪の降ることをながらふと云こと、上の譽謝(ノ)女王の歌の所にいへり、考に、るを延てらふといふといへるは、精しからず、ながるとながらふとは差別あることにて、ながらふは、雨雪の引つゞきて降といふことな(143)り、上の吉野(ノ)宮に幸のときの歌に花散相《ハナチラフ》とある所にいへることを合(セ)考ふべし、
一首の意は、しぐれのをやみなくふりつゞくにつけて、旅中の物さびしさのいやましに繁くなれるを歎き給へる也、こは左注に疑へる如く、御井にての歌にはあらず、こと時の歌なり、
 
83 海底奥津白浪立田山何時鹿越奈武妹之當見武《ワタノソコオキツシラナミタツタヤマイツカコエナムイモガアタリミム》
 
海底《ワタノソコ》は、燈に奥《オキ》の冠とせる也、奥とはとほくもあれ深くもあれ奥《オク》まりたる所といふなり、この故に海底奥《ワタノソコオキ》とはつゞけたるなりとあるが如くにて、海底《ワタノソコ》よりは深きとつゞき、意は沖なり、さて初二句は立田山といはむ序なり、○立田山《タツタヤマ》、考の頭書に立田は大和平群(ノ)郡にて河内の堺なれば、伊勢とは甚方違へりといひ、燈には伊勢よりの歸路にあらねばこと人の歌にや、又左注にいへるが如く誦せられたる古歌にやともおもへど、いかなる公用ありて伊勢よりの歸路、河内の方よりかへり給ふべき事ありて、かくよませ給ひしもはかりがだし、といへり、今按(フ)るにこはいまだ伊勢に御坐ての歌なれば、地理のことなどかれこれいはむはいたづらごとなり、そは立田は故郷大和のかたにて名高き所なるからたゞ凡にの給へるもの(144)にて、はやく故郷にかへらんとおもふにつけて、その故郷に近き山の名をもてのべ給へるなり、○何時越奈武《イツカコエナム》は其歸らむ時を待遠くおもほすなり、○妹之當見武《イモガアタリミム》、これも凡にいへるものにて、實にこゝより妹が家の見ゆるにはあるべからず、しかるを燈に立田山を越はつる所より妹が家のあたりみやらるればなるべし、といへるは、詞に泥みたるものにて非也、
一首の意は、いつか立田山をこえて故郷にはかへらるべき、その故郷の妹がこひしさに、かへらん日のいと待とほにおもふことよとなり、
 
 右二首、今案(ルニ)不v似2御井(ニテ)所1v作、若疑(クハ)當時誦(セル)之古歌歟
 
 考に云、齋宮改作らるゝ司ならば、夏より秋の未までも居給ふべし、端詞には、事一つを擧る例もあれば、次の歌は是につゞけても、有つらん、この立田山の歌はこゝによしなし、かの注にいへる如くか、又別に端詞の有しが落失しにや、燈に浦佐夫流の歌の下に云此王を伊勢につかはされしは、四月と端作にあり、しぐれは長月のしぐれの雨と此集中によめるが如く、九月より冬かけてふる雨をいへば、この歌は四月より九月までも伊勢にありてよみたまへるにこそ、これ(145)は時たがひ、次の歌は立田山伊勢よりの路にあらねば、もし此二首はこと人のにて、端作の脱たるにや、それはしらず、されどこれは九月までも伊勢におはしてよみ給ひ、立田山は、其歸路に伊勢より此山をこゆべき公務ありて、しかよみ給ひしにや、實事をしらねばさだめがたけれど、上の歌のつゞきなれば、それにしたがはむが、穩しかるべし、
正辭云、浦佐夫流の歌は、是等の説の如く九月ごろまでもおはして、しぐれの降つゞけれるをりによみ給ひしなるべく、又立田山の歌も上にいへる如く、其歸路を待遠におもほすよりの詠にて、しぐれの歌と同じころの作なるべし、さるはそのしぐれの降つゞきて、旅中のいとゞ心淋しさに.故郷を慕ふ情のますます切なるにつけて、何時か歸ることならん、と歎き給ひての詠なるべし、さて考にもいへる如く、端詞には事一つを擧る例もあれば、今もその例にて同じ伊勢にての歌なるから、ひとつゞきに擧たるものなるべし、
 
寧樂(ノ)宮
 
 《ナガノ》皇子(ト)與2志貴《シキノ》皇子1、於2佐紀(ノ)宮1倶(ニ)宴(スル)歌、
 
(146)寧樂宮も三字、今本に長(ノ)皇子云々に連書したるは非也、官本温本には、此三字は前行にしるし、長(ノ)皇子以下を別提せり、今これに從ふ、諸注此三字を後人の書入なりとて削去りたるは私なり、其よしは上の和銅元年とある所に辨じたるが如し、○佐紀《サキノ》宮は、和名抄に大和(ノ)國添(ノ)下(ノ)郡|佐紀《サキノ》郷とある、是也、神名式に同郡に佐紀(ノ)神社もあり、續紀卷三十に葬2高野天皇(ヲ)於大和(ノ)國添(ノ)下(ノ)郡|佐貴(ノ)郷高野(ノ)山陵(ニ)1とあり、歌に高野原とあるも此山陵の地也、卷十【十二左】に春日在三笠乃山爾月母出奴可母佐紀山爾開有櫻之花乃可見《カスガナルミカサノヤマニツキモイデヌカモサキヤマニサケルサクラノハナノミユベク》、とよめるも同所なるべし、さて.こは長(ノ)皇子の宮にて、此歌はあるじの皇子のよみ給へる也、
 
84 秋去者今毛見如妻戀爾鹿將鳴山曾高野原之宇倍《アキサラバイマモミルゴトツマコヒニカナカムヤマゾタカヌハラノウヘ》
 
秋去者《アキサラバ》、來む年の秋になりなば也、此宴遊は即(チ)秋にてありしなるべし、○今毛見如《イマモミルゴト》は、今は方今をいふ、毛《モ》は又ものもにて、今見る如く、來む秋又も見むとなり、○鹿將鳴山曾《カナカムヤマゾ》、鹿はカ〔右○〕といふべき也、玉(ノ)小琴に凡て集中にある鹿(ノ)字は皆か〔右○〕と訓べし、しか〔二字右○〕と訓ては何れも文字餘りてわろし、しか〔二字右○〕には必牡鹿と牡の字を添て書けり、心をつくべし、鹿の一字をしか〔二字右○〕と訓て宜き所は、集中に纔一つ二つ也、和名抄にも鹿、和(147)名、加、とあり、といへり、さる事也、○高野原之宇倍《タカヌハラノウヘ》、高野は.上に出したる御陵あたりをいふ、宇倍とは其|地《トコロ》をいふ、即(チ)其あたりといふことなり、上文藤原(ノ)宮の役民の歌の注に精し、
一首の意は、此高野原は妻ごひに鳴鹿の聲なども、かく面白き所なれば、來む秋も又今見る如く來て見ませといふなり、
 
 右一首長皇子
 
元暦校本は、此所本文は逸したれど、目録に、長皇子御歌とある次に、志貴皇子御歌と標したり、これによれば、もとは志貴(ノ)皇子の和歌もありしなるべし、倶宴歌とあるからは、必此皇子の御歌もありけんかし、
 
萬葉集美夫君志卷一下
 
萬葉集美夫君志卷二
 
  附 言
 
此に云むとするは、和名抄と新撰字鏡也、
一 和名抄は那波道圓本にして、契冲本居、其外國學者の人々の校正を加へたるものにて、最善本也、
  同狩谷望之の箋注、此本近頃刊行せり、然るに余が萬葉集の注の起稿は、明治以前にて、未(ダ)※[木+夜]齋の箋注の世に出ざる時にあり、今箋注によりて記せしもの一二ありといへども、九牛が一毛にして、多くは舊稿の儘なり、之を遺憾とす、
二 新撰字鏡は、かねて眞本十二卷の天治本を影寫して藏せれど、これも余が原稿よりは、遙かに後に得たるものなれば、之を考補する暇なかりしを、亦遺憾とす、
 
(1)萬葉集卷第二
  相聞《サウモム》
難波(ノ)高津(ノ)宮(ニ)御宇(シ)天皇(ノ)代
 磐(ノ)姫(ノ)皇后思2天皇1御作歌四首【磐元本作v盤】
 或本歌一首
 古事記(ノ)歌一首
近江(ノ)大津(ノ)宮(ニ)御宇(シ)天皇(ノ)代
 天皇賜2鏡(ノ)女王1御歌一首【鏡女王、今本作2鏡王女1、今改、下皆同、】
鏡(ノ)女王奉v和歌一首
 内大臣藤原卿、嫂2鏡(ノ)女王1時、鏡(ノ)女王贈2内大臣1歌一首(2)【卿今本作v郷、依2元本官本昌本家本温本活本1改、】
 内大臣報2贈鏡(ノ)女王1歌一首【大臣下、本文有2藤原卿三字1、次行同、】
 内大臣娶2采女安見兒1時作歌一首
 久米(ノ)禅師嫂2石川(ノ)郎女1時歌五首
 大伴(ノ)宿禰嫂2巨勢(ノ)郎女1時歌一首
 巨勢(ノ)郎女報贈歌一首【巨今本作v臣、依2元本官本温本家本活本1改、】
明日香(ノ)清御原(ノ)宮(ニ)御宇(シ)天皇(ノ)代
 天皇賜2藤原(ノ)夫人1御歌一首【官本昌本、賜作v贈、】
 藤原(ノ)夫人奉v和歌一首
藤原(ノ)宮(ニ)御宇(シ)天皇(ノ)代
(3) 大津(ノ)皇子竊下2於伊勢(ノ)神宮1還上時、大伯(ノ)皇女御歌一首【本文還上作2上來1、○本文歌上有2作字1、元本旁書同、○元本官本一首作2二首1、】
 大津(ノ)皇子贈2石川(ノ)郎女1御歌一首
 石川(ノ)郎女奉v和一首【本文及官本温本元本校本引古本、和下有2歌字1、】 大津(ノ)皇子竊婚2石川(ノ)女郎1時、津守(ノ)連通占2露其事1、皇子御作歌一首【女郎、元本温本家本昌本活本作2郎女1、○家本昌本活本無2露字1、】
 日並(ノ)皇子(ノ)尊賜2石川(ノ)女郎1歌一首【女郎字曰2大名兒1○元本校引古本、並下有2所知二字1、又女郎下有2御字1、】
 幸2吉野(ノ)宮1時、弓削(ノ)皇子賜2額田(ノ)王1歌一首【本丈幸下百2于字1、○温本官本、賜作v贈、本文作2贈與二字1、〇元本、額作v※[各+頁]、次皆同、】
(4) 額田(ノ)王奉v和歌一首
 從2吉野1折2取蘿生松※[木+可]1遣時額田(ノ)王奉入歌一首【家本昌本活本無2一首二字1、】
 但馬(ノ)皇女在2高市(ノ)皇子(ノ)宮1之時、思2穗積(ノ)皇子1御作歌一首
 勅穂積(ノ)皇子遣2於近江(ノ)志賀(ノ)山寺1時、但馬(ノ)皇女御作歌一首【皇女今本作2皇子1、依2本文及官本元本温本校引古本1改、】
 但馬(ノ)皇女在2高市(ノ)皇子(ノ)宮1時、竊接2穗積(ノ)皇子1之事既形而後御作歌一首
 舍人(ノ)皇子御歌一首
(5) 舍人(ノ)娘子奉v和歌一首
 弓削(ノ)皇子思2紀(ノ)皇女1御歌四首
 三方(ノ)沙彌娶2園(ノ)臣生羽之女1、未v經2幾(ノ)時1臥v病作歌三首
 石川(ノ)女郎贈2大伴(ノ)宿禰田主1歌一首
 大伴(ノ)宿禰田主報贈歌一首
 石川(ノ)女郎更贈2大伴(ノ)宿禰田主1歌一首
 大津(ノ)皇子(ノ)宮(ノ)侍石川(ノ)女郎、贈2大伴(ノ)宿禰宿奈麿1歌一首
 長(ノ)皇子與2皇弟1御歌一首
 柿(ノ)本(ノ)朝臣人麿、從2石見(ノ)國1別v妻上來時歌二首【并短歌○短歌二字今本大書、依v例小書とす、下皆同、】
(6) 或本歌一首 並短歌
 柿(ノ)本(ノ)朝臣人麿妻依羅(ノ)娘子、與2人麻呂1相別歌一首
 挽歌 竹林樂【此三字、温本家本朱書、元本官本昌本無2三字1、】
後(ノ)岡本(ノ)宮(ニ)御字(シ)天皇(ノ)代
 有間(ノ)皇子自傷結2松枝1歌二首【二首今本作2一首1、依2本文及官本元本温本校引古本1改、】
 長(ノ)忌寸意吉磨見2結松1哀咽歌二首
 山(ノ)上(ノ)臣憶良追和歌一首
 大寶元年辛丑幸2紀伊(ノ)國1時、見2結松1歌一首
近江(ノ)大津(ノ)宮(ニ)御宇(シ)天皇(ノ)代
 天皇聖躬不豫之時、太后(ノ)奉御歌一首
(7) 一書歌一首
 天皇崩御太后御作歌一首【御、元本官本温本校引古本作v後、】
 天皇崩時婦人作歌一首【未v詳2姓氏1○此四字今本大書、依2元本官本温本家本昌本1小書、】
 天皇大殯之時歌二首
 太后(ノ)御歌一首
 石川(ノ)天人(ノ)歌一首【天は夫の誤、諸古本皆夫に作る、】
 従2山科(ノ)御陵1退散之時、額田(ノ)王(ノ)作歌一首
 明日香(ノ)清御原(ノ)宮(ニ)御宇(シ)天皇(ノ)代
 十市(ノ)皇女薨時、高市(ノ)皇子(ノ)尊御作歌三首
 天皇崩時太后御作歌一首
(8) 一書歌二首
 天皇崩之後八年九月九日、奉2爲御齋會1之夜(ノ)夢(ノ)裏習賜御歌一首
 藤原(ノ)宮(ニ)御宇(シ)天皇(ノ)代
 大津(ノ)皇子薨後、大來(ノ)皇女從2伊勢(ノ)齊宮1還v京之時御作歌二首【本文還作v上】
 移2葬大津(ノ)皇子屍於葛城(ノ)二上山1之時、大來(ノ)皇女哀傷御作歌二首
 日並(ノ)皇子(ノ)尊(ノ)殯宮之時、柿(ノ)本(ノ)朝臣人麿作歌一首 並短歌
 或本歌一首
(9) 皇子(ノ)尊(ノ)舍人等慟タ作歌二十三首【本文尊下有2宮字1○タ、本文及元本家本温本作v傷、】
 柿(ノ)本(ノ)朝臣人麿、獻2泊瀬部(ノ)皇女忍坂部(ノ)皇子1歌一首 並短歌
 明日香(ノ)皇女木※[瓦+缶](ノ)殯宮之時、柿(ノ)本(ノ)朝臣人麿作歌一首 並短歌
 高市(ノ)皇子(ノ)尊城上(ノ)殯之時、柿(ノ)本(ノ)朝臣人麻呂作歌一首【並短歌○本文及元本、殯下有2宮字1、】
 或本歌一首
 但馬(ノ)皇女薨後、穂積(ノ)皇子冬日雪落遙望2御墓1、悲傷流涕御作歌一首
(10) 弓削(ノ)皇子薨時、置始(ノ)東人作歌一首 並短歌
 柿(ノ)本(ノ)朝臣人麿、妻死之後、泣血哀慟作歌二首 並短歌
 或本歌一首 並短歌
 吉備津(ノ)采女死後、柿(ノ)本(ノ)朝臣人麿作歌一首【並短歌〇本文及元本官本温本、後作v時、】
 讃岐(ノ)挾岑(ノ)島視2石(ノ)中(ノ)死人1、柿(ノ)本(ノ)朝臣人麿作歌一首 並短歌
 柿人朝臣人麿在2石見(ノ)國1臨v死之時、自傷作歌一首【柿人は柿本の誤】
 柿(ノ)本(ノ)朝臣人麿死時、妻依羅(ノ)娘子作歌三首
(11) 丹比(ノ)眞人 名闕 擬2柿(ノ)本(ノ)朝臣人麿之意1報歌一首
 或本歌一首
寧樂宮
 和〓四年歳次辛亥、河(ノ)邊(ノ)宮人(ノ)姫島(ノ)松原見2孃子之屍1悲嘆作歌二首【〓は銅の誤】
 靈龜元年乙卯秋九月、志貴(ノ)親王薨時歌一首
 或本歌二首
 
(1)萬葉集美夫君志巻二上  木村 正辭撰
 
   相聞《サウモム》
 
難波(ノ)高津《タカツノ》宮(ニ)御宇(シ)天皇(ノ)代 大鷦鷯《オホササギノ》天皇
 
  磐姫《イハノヒメノ》皇后|思《シヌバシタマフ》2天皇1御作歌四首
 
君之行氣長成奴山多都禰《キミガユキケナガクナリヌヤマタヅノ》、迎加將行待爾可將待《ムカヘカユカムマチニカマタム》
 
相聞とは、考云、こは相思ふ心を互に告聞ゆれば、あひきこえ〔五字右○〕といふ、後の世の歌集に戀といふにひとし、されど此集には、親子兄弟の相思ふ歌をも、此中に入てこと廣き也、【略解も同じ】○今按(フ)るに文選に、曹子建(ガ)與2呉季重1書に、口授不v悉往來數相聞とありて、呂向の注に、聞(ハ)問也とあり、たがひに問かはす事也、卷四卷十三にも相聞の部あり、卷十には春(ノ)相聞夏(ノ)相聞などともあり、又卷十一十二の兩卷の目録に、古今相(2)聞往來歌類之上下としるせり、先師岡本保孝の説に、狩谷望之先生の筆記中に、相聞とは互に問ひかはすといふ事なり、欝岡齋法帖に載たる、唐無名書月儀に、十二(ケ)月朋友相聞書と題せり、此月儀はこゝの往來といふものゝ如く、毎月の贈答の文章を作れるものにして、男女の情を通はしたるものにはあらず云々、とありといへりき、正辭云、本集なるは、男女の情を通はしたるをも廣くいふなり、さて此二字を、大須本【此本は尾張の大須眞福寺の所蔵にして、正中二年に、藤大納言爲世卿の自筆なりと云、】に、相聞《サウモム》と假字さしたり、これ傳來の讀法なるべし、今も字音にてかく唱ふべし、【但しサウモム〔四字右○〕は呉音にて、かゝる名目は、呉音もて唱ふる事故實也。】もとより漢土の連字を用ゐたるものなれば也、かの挽歌なども、強てカナシミウタ〔六字右○〕と讀(マ)むよりは、字音にて唱ふるかた、撰者の意なるべし、長歌の奥の短歌を、反歌、又答歌を同歌と云るも、皆字音にて唱ふべし、
難波は、古(ヘ)は難波(ノ)國ともいひて、攝津(ノ)國西生(ノ)郡、又は東生(ノ)郡の西邊迄かけての大名なり、高津(ノ)宮は、日本紀の本紀に、元年春正月丁丑朔己卯、都2難波(ニ)1、是(ヲ)謂2高津(ノ)宮(ト)1とあり、記傳卷三十五に、難波の地形、今も北は大坂より南へ住吉のあたりまで、長くつゞきたる岸ありて、古(ヘ)は此岸まで潮來り船著て、難波津は岸の上なりけむ、故(レ)高津とは云なるべし、或人今の大坂の内なりと云り、さもあるべしとあり、○大鷦鷯《オホサヽギノ》天皇(3)後の謚號は仁徳天皇と申す、大鷦鷯天皇の五字、今本に大書にせるはわろし、今諸古本に從ひて小書とす、以下此類皆同じ、又諸古本此下に、謚曰2仁徳天皇1の六字ありて小書せり、最後人の注也、大鷦鷯《オホサヽギノ》尊と申す御名は、本紀【五左】に、初天皇生日、木菟《ツク》入(ル)2于産殿(ニ)1、明旦|譽田《ホムダノ》天皇、喚(テ)2大臣武内(ノ)宿禰(ヲ)1曰、是何(ノ)瑞(ナラム)也、大臣對言、吉祥也、復當(リテ)2昨日臣(ガ)妻(ノ)産(ノ)時(ニ)1、祥鷯入(ル)2于産屋(ニ)1、是亦|異《アヤシ》焉、爰天皇曰、今朕之子與2大臣之子1同日(ニ)共(ニ)産(レテ)兼《ナラビニ》有v瑞、是|天之表焉《アマツシルシナラム》、以爲(フニ)取2其鳥名1、各相易(テ)名v子(ニ)、爲2後葉之契1也、則取2鷦鷯(ノ)名(ヲ)1以名(トシ)2太子(ノ)1、曰2大鷦鷯《オホサヽギノ》皇子(ト)1、取2木菟(ノ)名1號2大臣之子(ニ)1、曰2木蒐《ツクノ》宿禰(ト)1とあり、和名抄に、文選鷦鷯賦云、鷦鷯【焦遼二音佐々岐】小鳥也、生2於蒿莱之間(ニ)1、長2於藩籬之下(ニ)1と見ゆ、鷦遼は今俗ミソサヽイ〔五字右○〕といふもの也、○磐(ノ)姫(ノ)皇后は、古事記下卷に、此天皇娶2葛城之|曾都毘古之《ソツビコノ》女|石之日賣《イハノヒメノ》命(ヲ)1と見え、書紀本紀に、二年春三月辛未朔戊寅、立2磐之媛(ノ)命(ヲ)1爲2皇后1とあり、考云、今本こゝに御名を書たるは、令法に背き、此集の例にも違へり、こは類聚歌林てふ後のふみに依て、後(ノ)人、御名を加へしなれば、今除きつとて、皇后とのみしるせるは私也、此皇后は、三十五年六月薨じ給ひしかば、三十八年正月、八田《ヤタノ》皇女を立て皇后とし給へり、かゝれば皇后とのみにては、何れを申にかわきがたき也、且集の例にも違へりといへど、此下にも倭《ヤマトノ》太后ともあるをや、橘(ノ)經亮が校異本に、元暦本を引て、無2磐姫二字1と(4)いへるは誤也、元暦本も此二字あるなり、但し磐を盤と作《カケ》り、盤盤の二字は古へ通じ用ゐし也、又校異本に、古本無2四首(ノ)二字1とあるも誤なり、いづれの古本にも皆あるなり、
この歌は、次に引ける古事記の歌を誤り傳へたるものなり、といへる説は非なり、偶々かの歌に似かよひたるものにて、其は次なる在管裳《アリツヽモ》云云の歌と、居明而《ヲリアカシテ》云云の歌とよく似、又卷一【二十四左】に載たる、坂門(ノ)人足の歌と、或本(ノ)歌ともいとよく似たるなどを思ふべし、考には、この歌は、類聚歌林に誤り載たるを、後人みだりにこゝに注せし物也、さるを又の後人、本文とさへ書なしたり、故にこゝには除きぬとて、略《ハブ》かれたるは例の私也、諸古本何れも今本と同じければ、もとより如v此ありしにて、後人の私せしにはあらず、類聚歌林の事は、卷一の注、又其別記に精しくいへり、又下にもいふべし、しかるを古事記傳卷三十九【六十二左】に、此御歌を出して、此歌は御作者《ミウタヌシ》をも詞をも誤りて傳へたるものなり、結句、待爾可將待《マチニカマタム》にては、上に叶はず、又山と云こともいかゞに聞ゆ、さて其四首を擧て、次に古事記(ニ)曰(ク)云々とて、又其歌を擧たるは、萬葉を集めたる人のしわざか、はた仙覺などが書入たるか、辨へ難しといへるは、彼翁にも似ず、いと麁漏なる説なり、此處何れの古本にもかくあれば、後人の(5)しわざにあらざる事は※[日+丙]焉《イチジルシ》、又結句、待爾可將待《マチニカマタム》にては上に叶はず、又山と云こともいかゞに聞ゆ、といへるも非也、其は山多都《ヤマタヅ》は木の名なるを曉らず、又禰にノ〔右○〕の音ある事を思はざりし誤りにこそ、君之行《キミガユキ》、此|行《ユキ》は御行《ミユキ》などの行《ユキ》と同じく、體言にいひ居《スヱ》たるなり、卷三【三十一右】に、吾行者久者不有《ワガユキハヒサニハアラジ》、卷十九【三十四左】に、君之徃若久爾有婆《キミガユキモシヒサナラバ》などあり、假字にて正しくかけるは、卷二十【四十左】に、和我由伎乃伊伎都久之可婆《ワガユキノイキヅキシカバ》とある是也、○氣長久成奴《ケナガクナリヌ》は、氣《ケ》は來經《キヘ》の急言にて、月日の經るをいふ古言なれば、月日の久しくなりたるをいふなり、○山多都禰《ヤマタヅノ》は、迎《ムカヘ》の枕詞也、【其由は別記附録に委し】禰は舊訓にネ〔右○〕とあれど、山たづね〔右○〕といひては、其詞も鄙びて、皇后の御詞とも見えず、禰は必ノ〔右○〕の音を用ゐたるなるべし、禰は韻鏡第十三開轉の字にて、舌音上聲第四等泥母に屬し、呉(ノ)原音ナイ〔二字傍線〕次音ニ〔右○〕にて、常にネ〔右○〕の假字とせるは轉音也、又同轉第一等にて、同じ泥母の乃〔右○〕、又同轉平聲第一等の能〔右○〕を、常にノ〔右○〕の假字とせり、されば禰にノ〔右○〕の音ある事推して知るべし、猶漢呉音徴の乃(ノ)字の説を見て了解すべし.〇迎加將行《ムカヘカユカム》、待爾何將待《マチニカマタム》、此二(ツ)の加《カ》は、疑ひのか〔右○〕にて、迎へ行むかといふ意なるを、強く聞せむとて、かく所を置かへ給へるなり、此二句の意は、待《マツ》に堪難《タヘガタ》ければ迎へ行むか、または堪忍びて還幸を持奉らむかと也、古事記の(6)歌よりは其意穩かなり皇女の眞情としては、かくのごとくこそあらめ、しかるに記傳卷三十九【六十二左】に、此御歌の結句、まちにかまたむ〔七字右○〕にては上に叶はず、といへるは、三(ノ)句山タヅネ〔四字右○〕とよめるに就ての説にて、禰をノ〔右○〕とすればいとよく聞ゆるにあらずや、又同傳に此歌を、古事組の歌の謬傳なりといへるは、萬葉考の説に泥みたる誤りなり、
一首の意は、君が行幸し給ひてより、月日久しくなりぬ、今は待《マチ》奉るに得堪《エタヘ》がたければ、出行き迎へ參らせむか、其は婦人の身としては、ふさはず、此うへ月日久しくならむも堪忍びて、還幸を待奉らむか、と御意定めかね給ひしよし也、
 
右一首歌、山(ノ)上(ノ)憶良(ノ)臣(ノ)類聚歌林載焉、
 
類聚歌林の事は、巻一の注にしるせり、
 
如此許戀乍不有者高山之《カクバカリコヒツヽアラズハタカヤマノ》、磐根四巻手死奈麻死物乎《イハネシマキテシナマシモノヲ》
 
如此許《カクバカリ》、官本拾本、許作v計、諸古本同2今本1、
此歌の解、考の説はいとむづかし、非也、今按、不有者《アラズハ》は、集中いと多かる詞なるが、いづれもあらむよりは〔六字右○〕といふ意に解すべき詞なるよし、詞の玉緒に委しくいはれ(7)たり、さて其あらむよりはの下に、俗云ムシロ〔三字傍線〕といふ意を合めて聞(ケ)ば、いとゞ心得安し、かくの如く戀つゝあらむよりはムシロ〔三字傍線〕云々なり、○高山之《タカヤマノ》は、高は輕くおきたるにて、只山といはむが如し、〇磐根四卷手《イハネシマキテ》は、考に、葬てあらむさまをかくいひなし給へり、とあるが如し、四《シ》は助辭ながら、其事を強くきかせむとて置く辭なり、卷手《マキテ》は枕とするをいふ也、○死奈麻死物乎《シナマシモノヲ》は、考に、御思ひの餘りに、かくまでもおぼす也、天皇の吉備《キビ》の黒媛がもとへ幸《イデマシ》し時など、かくまで待わび給へるにやといへり、然《サ》なるべし、但し黒媛の事、古事記に見えたれど、紀にはなし、鈴屋の記傳には、應神(ノ)卷なる兄媛の事と、混ひつるものにやといへり、猶考ふべし、
一首の意は、かくの如く戀つゝくるしみをらむよりは、ムシロ〔三字傍線〕山に入りて死なむものを、さすがにさもせで、思ひこがれをる事よとなり、
 
在管裳君乎者將待打靡《アリツヽモキミヲバマタムウチナビク》、吾黒髪爾霜乃置萬代日《ワガクロカミニシモノオクマデニ》
 
在《アリ》は、存在の意にて、初二句の意は、ながらへ在つゝ君をば待むとなり、○打靡《ウチナビク》は枕詞にて、髪は長くてなびく物なれば、かくつゞくる也、○霜乃置萬代日《シモノオクマデニ》は、吾黒髪が變じて白くなるまでに年經とも、君の御還りの程を待奉らむとなり、しかるを考に、吾黒髪乃白久爲萬代日《ワガクロカミノシロクナルマデニ》と改て、注に、今本に霜乃置萬代日と有は、此左に擧し或(8)本の歌、居明而君乎者將待奴婆珠乃吾黒髪爾霜者零文《ヲリアカシテキミヲバマタムヌバタマノワガクロカミニシモハフルトモ》、又卷十二【二十二右】に、待君常庭耳居者打靡吾黒髪爾霜曾置爾家類《キミマツトニハノミヲレバウチナビクワガクロカミニシモゾオキニケル》、とある歌などにまがひて、古歌の樣よく意得ぬ人のかき誤れるもの也、何ぞといはゞ、古歌に譬言は多かれど、かく樣に、ふと霜の置と云て白髪の事を思はする如き事、上つ代の歌にはなしといひ、略解も此説に從ひて云、藤原奈良の比には、打まかせて、白髪を露とのみもよみたれど、此御歌は、仁徳の御時にて、いと古ければ、未だしかる事はあらじといへり、正辭案ずるに、此論一わたりはさる事なれど、古本どもいづれもかくあれば、誤りとするは私なり、上古よりかゝる譬言はありしなるべし、さて又初句|在管裳《アリツツモ》は、門に立待て在つゝの意とする説はわろし、此は上の歌に、死なましものをといひ給ひしが、更に御意を思ほしかへさせ給ひて、かくよませ給ひしものなるべければ、在管裳は、猶世に存在しての意とすべし、代《デ》は訓なりともいふべけれど、代は韻鏡第十三開轉舌音去聲定母の字にて、呉(ノ)ノ開音デ〔右○〕にて、本集の假字は、清濁に拘はらざれば、猶音とすべし、全齋の漢呉音徴合考すべし、
一首の意は、命死ぬるはいと悲しき事の極《キハミ》なれば、猶在ながらへて、君の御かへりを待奉るべしと、御意を思ひかへし給ひしよし也、
 
(9)秋之田穂上爾霧相朝霞《アキノタノホノウヘニキラフアサガスミ》、何時邊乃方二我戀將息《イヅベノカタニワガコヒヤマム》
 
秋之田を、官本拾木には、秋田之と作《ア》り、誤なり、○穗上爾《ホノウヘニ》は、穗は稻穂をいふ、上《ウヘ》は邊《ホトリ》の意也、此事は卷一下、藤原(ノ)宮之役民(ノ)歌の注に精しくいへり、○霧相《キラフ》は、きりあふ〔四字右○〕なれば、相(ノ)字は義を以て充たるなり、卷一【十八左】に、花散《ハナチラフ》、此卷【十九左】に、渡相月《ワタラフツキ》などもあり、さて此をキル〔二字右○〕の延りたるなりとのみ思ふは細しからず、霧の深きをいふなり、卷一の吉野(ノ)宮の歌、花散相《ハナチラフ》の注に辨あり、合考すべし、○朝霞《アサガスミ》は、中古よりは、霞は春にのみよめれど、本集卷八【三十四左】七夕の歌に、霞立天河原爾君待登《カスミタツアマノカハラニキミマツト》、伊往還程爾裳襴所沾《イカヨフホドニモノスソヌレヌ》とあるは、秋によめり、承暦三年に記せる、金光明最勝王經音義といふものに、霧、武音、加須美《カスミ》とあり、此は霧をカスミ〔三字右○〕と訓、倭漢朗詠集に、咽v霧山鶯啼猶少とあり、此は霞を霧とかけり、されば今も霧を霞といへる也、○何時邊乃方《イヅベノカタ》は、何方《イヅカタ》也、○我戀將息《ワガコヒヤマム》は、考に、いかにすれども御悶《ミオモヒ》の遣《ヤリ》給はむよしのなきを、秋の田面の何方も霧の立こめたるに譬給へり、とあるが如し、
一首の意は、秋の田の霧立こめて、東西もわかちがたきが如き吾おもひを、何方にかははらし遣む、と歎かせ給へる也、此四首の御歌の順序のよく調ひたるは、同時に詠出給ひし御歌にて、始なるも古事記の歌を傳へ誤りしにはあらざる事しる(10)し、其は初に、君の行幸の月日ながくなりたるに、待かね給ひて、出迎へ奉らむと思ほせるも、又思ひかへして、たゞ待に待奉らむかといひ、次にかくの如く戀つゝあらむよりは、ムシロ〔三字傍線〕死《シヌ》にしかじ、とよみ出給ひ、更に思ひかへして、吾黒髪に霜の置までも生ながらへて、御還幸のをりを待奉らむ、との意をよみ出給ひ、終に其御思ひのはらし遣《ヤル》べき方のなき事を歎かせ給へるなり。
 
  或本歌曰
居明而君乎者將待奴婆珠乃《ヲリアカシテキミヲバマタムヌバタマノ》、吾黒髪爾霜者零騰文《ワガクロカミニシモハフルトモ》
 
居明而《ヲリアカシテ》を舊訓に、ヰアカシテ〔五字右○〕と訓るはわろし、玉勝間卷十四に、此句をヲリアカシ〔五字右○〕と訓て云、卷十一【二十九左】に、眞袖持床打拂君待跡《マソデモテトコウチハラヒキミマツト》、居之間爾月傾《ヲリシアヒダニツキカタブキヌ》、卷十八【十三左】に、乎里安加之許余比波能麻牟保登等藝須《ヲリアカシコヨヒハノマムホトトギス》、安氣牟安之多波奈伎和多良牟曾《アケムアシタハナキワタラムゾ》、卷二十【三十四左】に、伊弊於毛負等伊乎禰受乎禮婆多頭我奈久《イヘオモフトイヲネズヲレバタヅガナク》、安之弊毛美要受波流乃可須美爾《アシベモミエズハルノカスミニ》、猶あり、大かた此たぐひの居《ヲリ》は、たゞ一わたり輕く常にいふとはかはりて、夜(ル)寝ずに起て居《ヰ》る意也、輕く見べからずといへり、○奴婆珠乃《ヌバタマノ》は、黒髪《クロカミ》にかゝる枕詞にて、烏扇の事なり、此草、野にありて、葉は鳥の羽に似たる形故に、野羽《ヌハ》といひ、其|實《ミ》は黒き玉(11)なれば、野羽玉《ヌバタマ》といふ也、と記傳にいへり、烏扇は今俗に檜扇《ヒアフギ》といふもの也、【此他萬葉考槻落葉にも説あれど、今は出さず、猶考ふべし、】○霜音零騰文《シモハフルトモ》は、此霜はまことの霜にて、さよふけて髪の上などに霜おけりとも、それをも厭はず、君の御かへりを待奉らむとなり、古今集戀四に、君こずばねやへもいらじこむらさき、わがもとゆひに霜はおくとも、とあり、いとよく似たる歌なり、
一首の意は、夜ふけて吾髪の上に霜はおくとも、それをも厭はず、こよひは此まゝ此處に立まちて、君の御かへりを待むとなり、
 
右一首古歌集中出
 
上の在管裳《アリツヽモ》云々の歌に似たる故に、参考の爲に出し置たる也、此は源(ノ)順朝臣等の、本集を訂正したりし折の注なるべし、例は卷一に、坂門(ノ)人足の歌に、巨勢山乃列列椿都良都良爾《コセヤマノツラツラツバキツラツラニ》、見乍思奈許湍乃春野乎《ミツヽオモフナコセノハルヌヲ》、といふ歌の左に、或本歌とて河上乃列列椿都良都良爾《カハカミノツラツラツバキツラツラニ》、雖見安可受巨勢能春野者《ミレドモアカズコセノハルヌハ》といふ歌を出し、右一首春日(ノ)藏(ノ)首老とあり、此兩首、詞は差似たるも、其意はいたく違へり、前なるは秋九月の歌にて、春の事を思ひやりてよめるなるを、後なるは春よめるにて、歌主もことなり、是(レ)今と全く同例なり、
 
(12)古事記曰、輕《カルノ》太子※[(女/女)+干]2輕太郎女《カルノオホイラツメ》1、故其太子流(ル)2於伊豫湯1也、此時|衣通《ソトホシノ》王不v堪2戀慕1、而追徃(ク)時歌(ニ)曰、
 
古事記は、和銅四年九月十八日、太(ノ)朝臣安萬侶に詔して撰録せしめ、同五年正月二十八日、奏上したり、○輕《カルノ》太子は、允恭天皇の皇子にて、輕(ノ)太郎女《オホイラツメ》とは同母妹なり、○※[(女/女)+干]は、諸本、奸とあり、今古事記に依て改、但し龍龕手鑑に、※[(女/女)+干]、奸同上、又音干、亂也とあれば、※[(女/女)+干]を古く奸ともかけるなり、○衣通《ソトホシノ》王、衣通はソトホシ〔四字右○〕と訓べし、古事記に、輕(ノ)太郎女《オホイラツメ》、亦名2衣通郎女《ソトホシノイラツメ》1、原注に、御名所3以負2衣通王1者、其身之光、自v衣|通出也《トホリイデツレバナリ》とあり、○其太子流2於伊豫(ノ)湯1也は、古事記には、其(ノ)字の下に、輕(ノ)字あり、又伊豫を伊余に作れり、書紀には、太子(ハ)是(レ)爲2儲君1、不v得v罪、則流2輕(ノ)太娘皇女於伊豫(ニ)1とあれど、其は傳(ヘ)の誤れるものなるべし、さるは凡て同罪を犯したる時、女は宥めて男子よりは輕かるべきことなるに、此は※[(女/女)+干]罪なれば、男の方重きはもとより也、此事、記傳卷卅九【五十三】に詳かに論じられたり、往見すべし、○追待の追(ノ)字、今本、遣に誤る、古事記及諾古本に依て改、
 
君之行氣長久成奴山多豆乃《キミガユキケナガクナリヌヤマタヅノ》、迎乎將徃待爾者不待《ムカヘヲユカムマツニハマタジ》
 
(13)此歌、古事記には、文字の音のみを用ゐて、所謂假字がきなるを、此は本集の撰者の改(メ)かけるなり、さて上三句の意は既にいへるが如し、山多豆乃《ヤマタヅノ》は、迎《ムカヘ》の枕詞也、本集卷六【廿五右】にも、山多頭能迎參出六公之來益者《ヤマタヅノムカヘマヰデムキミガキマサバ》とあり、下二句の意は、迎(ヘ)に行む待《マツ》には不v待《マタジ》にて、待に不v堪《タヘジ》なり、乎《ヲ》は助辭にて其意を強《ツヨ》むる辭なり、結句、舊訓にはマチニハマタジ〔七字右○〕とあれど、古事記に、麻都爾波《マツニハ》とあれば、マツニハ〔四字右○〕と訓(ム)べし、上の皇后の御歌は、よく御婦人の情をつくしていとあはれなるを、此歌は、何となく詞あらあらしく聞ゆるは、四(ノ)句|迎乎《ムカヘヲ》の乎〔右○〕の字の強き辭なるが故なるべし、此を〔右○〕は俗に是非ともといふ意を含めり、釋(ノ)義門の玉(ノ)緒繰分【乎十七】に、やすめ辭におくを〔右○〕は、活語略圖にいはゆる希求の詞、又は將然言をうくるん〔右○〕にて、いひとゞむるぞまづは自《オ》らの格《サダマ》りなり、凡てん〔右○〕と置か、又けせてへめれ〔六字右○〕或はねこ〔二字右○〕、又よ〔右○〕こそ〔二字傍線〕こせ〔二字傍線〕の十二のうちにて應ずる例とぞ思はるゝ、さて休め辭なる事は勿論ながら、希求言して應ぜるはさらにもいはず、ん〔右○〕と應ぜるも亦聊歎息を含めりとあり、これにて助辭のを〔右○〕の意を明らむべし、
 
此云、山多豆《ヤマタヅ》者、是今(ノ)造木者也、
 
山多豆《ヤマタヅ》の説は、冠辭考も古事記傳なるも甚誤れり、先冠辭考に、和名抄に、※[金+番]、【和名多都(14)伎】廣刃(ノ)斧也、とあるものなるべし、迎《ムカ》へとつゞくるは、斧もて木を割には、左右の手して眞《マ》向ひに振あげて撃をいふならむといへり、此は舊説に泥みたるものにて、いとわろき説也、【但し此説は、既《ハヤ》く顯昭の袖中抄に見えたり、】鈴屋は此説をわろしといひて、※[金+斤]《テヲノ》の事とし、※[金+斤]は刃を吾方へ向へて用《ツカ》ふ物なればなり、といはれたれど、五十歩百歩の論にて、猶非也、かくて加納諸平の説に、造木の字は、ミヤツコギ〔五字右○〕と訓て接骨木の事也、此木は、葉も枝も對《ムカ》ひ生るものなれば、迎へといふ詞の發語に置しなるべし、といへるは、まことによき考へなり、但し造木をミヤツコギ〔五字右○〕とよめるは非也、造木は女貞の漢名にて、女貞の和名は、比女都波木、又太豆乃木といふもの也、此木も其葉相兩對せるものなれば、對ひ〔右○〕の意なるを、轉じて迎へ〔右○〕の枕詞としたるならむ。猶別記に委し、此云以下十二字、諸古本に小書とす、官本には此注|脱《オト》したり、袖中抄にはあり、
 
右一首歌、古事記|與《ト》2類聚歌林(ト)1所v説不v同、歌主亦異(ナリ)焉、因※[手偏+驗の旁](スルニ)2日本紀(ヲ)1曰、難波(ノ)高津(ノ)宮(ノ)御宇、大《オホ》鷦鷯(ノ)天皇廿二年春正月、天皇語2皇后(ニ)1、納(レテ)2八田《ヤタノ》皇女(ヲ)1將v爲v妃、時(ニ)皇后不v聽、(15)爰(ニ)天皇歌以乞2於皇后1云々、三十年秋九月乙卯朔乙丑、皇后遊2行(シタマフ)紀伊(ノ)國(ニ)1、到2熊野(ノ)岬(ニ)1、取(テ)2其之處|御綱葉《ミツヌガシハヲ》1而還、於v是天皇伺(ヒ)2皇后(ノ)不1v在、而娶(リ)2八田(ノ)皇女(ヲ)1納(レタマフ)2於宮中(ニ)1、時(ニ)皇后到(テ)2難波(ノ)済(ニ)1、聞d天皇|合《メシツト》c八田(ノ)皇女(ヲ)u大恨之云々、亦曰、遠飛鳥《トホツアスカノ》宮(ノ)御字、雄朝嬬《ヲアサヅマノ》稚子《ワクコノ》宿禰(ノ)天皇二十三年春正月甲午朔庚子、木梨《キナシノ》輕(ノ)皇子爲2l太(ト)1、容姿佳麗、見者自|感《メデ》、同母妹輕(ノ)太娘(ノ)皇女亦艶妙也云々、遂(ニ)竊(ニ)通、乃悒懷少息(ム)、廿四年夏六月、御羮(ノ)汁|凝《コホリテ》以作v氷(ト)、天皇異v之卜(シム)2其所由(ヲ)1、卜者曰、有2内亂1、盖親親相姦乎云々、仍移2太娘(ノ)皇女(ヲ)於伊與(ニ)1者《テヘリ》、今案二代二時不v見2此歌1也、
 
(16)語2皇后1、原書に、皇后の下、曰(ノ)宇あり、〇八田ヤタ》四(ノ)皇女、書紀應神二年紀云、妃、和弭《ワニノ》臣(ノ)祖、日觸《ヒフレノ》使主《オミ》之女、宮主(ノ)宅媛《ヤカヒメ》生2矢田(ノ)皇女1云々、仁徳紀云、三十八年春正月癸酉朔戊寅、立2八田(ノ)皇女(ヲ)1爲2皇后1、〇皇后云々、今本云々の二字を、之の一字に誤る、諸古本に依て改、文選の阮元瑜書の張銑(ノ)注に、云々(ハ)謂2辭多略不1v能v載とあり、○紀伊、原書に伊(ノ)字なし、○熊野岬、岬、今本※[山+卑]に誤る、官本温本家本昌本同じ、今元本及原書に依て改、和名抄に、唐韻云、岬【三佐木】山側也とあり、同抄國郡部に、紀伊(ノ)國牟婁(ノ)郡|三前《ミサキ》とある所なるべし、○御綱葉《ミツヌガシハ》は、延喜造酒司式に、三津野柏《ミツヌガシハ》と見え、大神宮(ノ)儀式帳、九月祭(ノ)條に、御角柏《ミツヌガシハ》などありて、此柏は葉三岐にて、さき尖《トガ》りたれば、三角《ミツヌ》の意の名なるべしと、記傳にいへり、【此は今かくれ簑といふものにて、葉廣く厚くして、光澤ある常葉《トコハ》のものなり、】○難波(ノ)済は、柏済《カシハノワタリ》なるべし、攝津志に、柏済在2西成(ノ)郡野里村と見えたり、○雄朝嬬稚子《ヲアサヅマワクゴノ》宿禰天皇は允恭天皇也、稚、今本、雅に誤る、諸古本及原書に依て改む、○木梨、原書、木の上に立(ノ)字あり、太子、元本には、太を大と作《ア》り、○太娘、原書に、大と作《ア》り、次なるも同じ、○羮汁、今本、羮を美に誤る、諸古本及原書に依て改、原書、羮の上に、膳字あり、○凝以作v氷、今本、凝を疑に誤る、諸古本及原書に依て改、〇内亂、唐(ノ)名例律云、内亂、謂d姦2小功以上親父祖妾1、及與和者u、○相姦、姦、諸古本及原書には、※[(女/女)+干]とあり、姦※[(女/女)+干]同字なり、○仍移、此(17)二字、原書には、則流輕の三字に作れり、○伊與、原書に、伊豫とあり、〇二代二時、二代は、仁徳、允恭の二代、二時は、磐姫(ノ)皇后と、輕(ノ)大娘(ノ)皇女との事をいふ、○不v見2此歌1とは、日本書記に見えざるをいふ、考の別記に、類聚歌林に言をも後世意もて唱へ誤り、【正辭云、後世意もて唱へ誤りとは、三句山多都禰を、舊訓に、ヤマタヅネとあるをいへるにて、禰はノ〔右○〕の音にて用ゐたるに心づかざりしが故なり、】よみ人をも誤りしを、みだりにこゝに加へて人まどはせり、その上たれその人か、歌の左に、古事記日本紀の言を引たれど、皆本を心得ずして擧たれば、何のことわりとも分ず、中々人まどはしなれば捨つとあるは、例の妄説なり、此は卷一の別記にいひたる如く、此集の撰者のもとよりの注なるべし、其故は、古事記日本紀に出たる歌は、本集には一首も載ず、されば今類聚歌林によりて本文をしるし、其注に古事記の歌を引たるにて、撰者もとよりの注なる事|决《ウツ》なし、しかるを今妄に、此歌どもを削り捨てたるは、麁忽いふばかりなし、其弊後世に傳へて、今もかゝるわざする人の多かるは、此集のためいとうれたき事にこそ、
 
近江(ノ)大津(ノ)宮(ニ)御宇(シ)天皇(ノ)代 天命開別《アメミコトハルキワケノ》天皇
 
(18)  天皇賜2鏡(ノ)女王1御歌一首
 
妹之家毛繼而見麻思乎山跡有《イモガイヘモツギテミマシヲヤマトナル》、大島嶺爾家母有猿尾《オホシマノネニイヘモアラマシヲ》【一云妹之當繼而毛見武爾一云家居麻之乎】
 
近江大津宮は、天智天皇の都也、卷一の注に精し、○天皇は即(チ)天智天皇なり、天命開別《アメミコトハルキワケノ》天皇、諸古本此下に、謚曰2天智天皇1の六字小書せり、最後人の注也、○鏡(ノ)女王を、今本に、鏡王女とあるは、後人のさかしらに改たるなり、今正す、其由次々にいふ、○御歌、考に、歌の上に製(ノ)字落たりとて加へたるはいかゞ、諸古本にも皆製(ノ)字はなし、集中、人に賜《フ》ときのには、いつも天皇賜2云云1御歌とのみありて、製(ノ)字はなき例也、本集此卷下文にも、賜2藤原夫人1御歌とあり、妹之家毛《イモガイヘモ》、毛《モ》もは輕く添たる也、○繼而見麻思乎《ツギテミマシヲ》は、卷四【五十四右】に、次相見六事計爲與《ツギテアヒミムコトハカリセヨ》、卷五【十左】に用流能伊昧仁越都伎提東延許曾《ヨルノイメニヲツギテミエコソ》などあり、つゞきて絶えず見むものをと也、○山跡有《ヤマトナル》は、大和にある也、跡《ト》はアト〔二字右○〕の略訓、○大島嶺《オホシマノネ》は、大和(ノ)國平群郡なるべし○家母有猿尾《イヘモアラマシヲ》、ましをは、まし物をといへる意にて、家のあらむ事を望《ノゾミ》願ひ給ふ意也、猿をマシ〔二字右○〕に借れるは、猿は古くマシ〔二字右○〕とも呼(ビ)たれば也、翻訳名義集に、※[獣偏+彌]猴を摩斯(19)※[口+托の旁]とあるによりて、此土の詞のマシ〔二字右○〕を、梵語なりとするは非也、其は自ら似たるにこそ、此頓いと多き事にて、唐(ノ)玄應一切經音義卷二に、迦々羅、是鳥(ノ)聲也、迦迦此(ニハ)云v鳥とあり、これ此方のからす〔三字右○〕に同じ、又究究羅、是鷄聲也、鳩鳩※[口+托の旁]此(ニハ)云v鷄とあるも、此方のくだかけ〔四字右○〕に近し、猶多し、〇一云の見武爾《ミムニ》の爾《ニ》は、ものを〔三字右○〕といふに近き爾《ニ》にて、卷十五【九左】の旋頭歌に、安乎爾與之奈良能美也故爾由久比等毛我母《アヲニヨシナラノミヤコニユクヒトモガモ》、久佐麻久良多妣由久布禰能登麻利都礙武仁《クサマクラタビユクフネノトマリツゲムニ》、とあるも是也、〇毅家居麻之乎《イヘヲラマシヲ》は、卷十【三十九左】に、山近家哉可居《ヤマチカクイヘヤヲルベキ》、卷十九【二十六右】に、多爾知可久伊敞波乎禮騰母《タニチカクイヘハヲレドモ》などあれば、かく訓(ム)べし、家造りしてをらむものをとなり、
一首の意は、二(ノ)句と結句とのうち合よろしからぬやうに聞ゆれど、【一云のかたも同じ】大島(ノ)嶺に家もあれかし、さらば其處に家居して、妹が家を繼て見む物をとの意なり、
 
  鏡(ノ)女王奉v和御歌一首 鏡(ノ)王女又曰2額田(ノ)姫王1也
 
秋山之樹下隱逝水乃《アキヤマノコノシタガクリユクミヅノ》、吾許曾益目御念從者《ワレコソマサメミオモヒヨリハ》
 
御歌一首、諸古本にも御歌とあり、御(ノ)字は衍文なるべし、天皇皇后皇子皇女の外は、御(ノ)字を用ゐざる例也、目録の方には、今本及諸古本皆御(ノ)字なし、○鏡(ノ)王女又曰2額田(ノ)(20)姫王1也、此十字、官本温本家本には朱書せり、後人の注なる事論なし、元本には墨もて小書せり、鏡(ノ)女王と額田(ノ)女王とは姉妹にて共に鏡王の女なる事、下に委しくいふ、又卷一、金野乃《アキノヌノ》云々の歌の注にもいへり、しかるを題辭に、鏡(ノ)王(ノ)女とあるは、後人のさかしらに改たる也、今正す、次なるも同じ、
樹下隱《コノシタガクリ》は、秋は山川の水は、木(ノ)葉ちりつもりて、うづもれあるをいふ、此は婦人の身なれば、表には堪(ヘ)忍べども、下の心は君にもまされり、との意を含めたる也、舊訓に、隱をカクレ〔三字右○〕と訓るはわろし、此詞古くは四段活用なれば、カクリ〔三字右○〕と訓べし、卷五【十六右】に、許奴禮我久利弖《コヌレガクリテ》、卷十五【九右】に、夜蘇之麻我久里《ヤソシマガクリ》など假字書あり、○逝水乃《ユクミヅノ》、逝、原本には遊とあり、遊もユク〔二字右○〕ともよむべけれど、元本官本温本家本昌本、皆逝とあれば、今これに從ふ、乃《ノ》はの如く〔三字傍線〕の意也、以上序なり、○吾許曾益目《ワレコソマサメ》は、秋は川々の水がさ、まさるものなれば、かくつゞけたる也、
一首の意は、表《ウヘ》にこそ堪(ヘ)忍びてあらはさね、其|裏《シタ》の心は、彼木(ノ)葉の下にかくれて行水の、水かさまされる如く、吾こそまさらめとなり、
 
  内大臣藤原卿娉2鏡(ノ)女王1時、鏡(ノ)女王贈2内大臣1歌一首
 
(22)玉匣覆乎安美開而行者《タマクシゲオホフヲヤスミアケテユカバ》、君名者雖有吾名之惜毛《キミガナハアレドワガナシヲシモ》
 
内大臣藤原卿は、鎌足公也、卿は尊稱にて、古今韻會に、秦漢以來、君呼(ブニ)v臣(ヲ)以(テス)v卿(ヲ)、凡敵體相呼(ブモ)亦爲v卿(ト)、蓋貴v之也とあり、卿、今本に、郷と作《ア》り、次なるも皆郷とあるは、共に誤なり、今諸古本に依て改(ム)、〇玉篇に、娉(ハ)娶也とあり、考に、〓は古(ヘ)は妻問といひ、後には懸想といふにあたるといへり、〓は俗の娉の字也、毛晃増韻に、娉俗作v〓とあり、○贈、官本温本には、賜とあれど、其他の古本は今本に同じ、
玉匣《タマクシゲ》云々、玉は美稱、匣《クシゲ》は櫛筍《クシゲ》にて、婦人の假粧《ケハヒ》の具を納るゝ箱也、匣の葢《フタ》は、覆《オホフ》も開《アク》るもやすきものなれば、かくいひて夜の明るにかけたる序也、安美《ヤスミ》の美はサニ〔二字傍線〕の意なり、○開而行者《アケテユカバ》は、夜明て後歸り給ふらむには也、○君名者雖有《キミガナハアレド》云々、考に、此公の來て、夜ふくれども歸給はぬを、女王のわびていひ出せる歌也、且男はさるものにて、女は名のたちてはかたはなるよしをのたまふ也、とあるが如く、君は男におはせば、さのみいとはせ給ふ事もなからむかなれども、妾は女子にしあれば、世にうき名立られむ事は、いとわびしとなり、婦人の世を憚る心さる事なり、しかるに略解に、君吾二字、互に誤りつらむ、わがなはあれどきみがなしをしも、と有べしと(22)て、六帖と卷四の歌とを引て論じたれど、其は非也、さる諂らひ言をいふは、古人の意にあらず、たゞありのまゝにいへるこそ、古(ヘ)人の眞情にはあるなれ、六帖は、本集の誤本に就てよめるなるべし、又卷四なるは、自ら別意にて、これらによりて此を改(メ)むとするは、ひがこと也、又略解に、鈴屋の説を出して玉くしげは開《アク》るへかゝれり、覆は字の誤れるにや、といへるも非也、此は覆《オホフ》と開《アク》とをかけ合せたるが、一段おもしろき也、
一首の意は、夜明(ケ)て歸り給はゞ、人に知られて、とかくいひさわがるべし、されど君は男にませば、さてありなむも、われは女にしあれば、いと心苦し、いざ歸り給はれかしと也、
 
  内大臣藤原卿、報2贈鏡(ノ)女王1歌一首
 
匣將見圓山乃挾名葛《タマクシゲミムロノヤマノサナカヅラ》、佐不寐者遂爾有勝麻之目《サネズバツヰニアリガツマシモ》【或本歌云玉匣三室戸山乃】
報贈、贈(ノ)字、官本温本には、賜とあり、其他の古本は皆今本と同じ、拾穗抄に、贈(ノ)字なきは、私に削りたるなるべし
(23)玉匣《タマクシゲ》は枕詞にて、匣《クシゲ》の身《ミ》とかゝる也、匣には葢《フタ》も身もあれば也、卷七【二十二左】に、珠匣見諸戸山矣行之鹿齒《タマクシゲミモロドヤマヲユキシカバ》ともあり、○將見圓山乃《ミムロノヤマノ》、舊訓にミムマトヤマノ〔七字右○〕とあるは非也、冠辭考に、將見圓山の四字は、みむろのやま〔六字右○〕とよむべし、將見の二字は、常にみん〔二字右○〕とはねて唱ふるを、はねずして、み〔右○〕とむ〔右○〕と二つの假字に用ゐたり、卷十二【三十九左】に、いなみの川を、將行乃河《イナミノカハ》と書たるに似たり、といへるはさる寧なり、正辭云、將は將然言の將の字にて、ン〔右○〕と撥る意の字なれども.此撥るム〔右○〕を、上古は明らかにム〔右○〕とも唱しなるべし、ン〔右○〕と撥るは後の音便ならむ、其證は、卷一【八右】に、布麻須等六《フマスラム》、卷十一【十七右】に、待八金手六《マチヤカネテム》、卷十二【廿九右】にも、待八金手六《マチヤカナテム》とありて、撥る辭のン〔右○〕を六〔右○〕とかけるは、正しくム〔右○〕ともいひたりしが故なるべし.鈴屋の漢字三音考【二十五左】に、字音のン〔右○〕の韻を論じて云、字菅ノン〔右○〕ノ韻モ、古ヘニ初メテ定メラレシ時ニハ、如何《イカニ》アリケム、本ノマヽニン〔右○〕ト呼シ歟、又轉ジテム〔右○〕トサダカニ呼シ歟、サダカナラザレドモ、皇國言スラ中古ニ至テ、ム〔右○〕等ハ音便ニン〔右○〕ト呼ブ者多クナリヌルヲ思へバ、字音モ原《モト》ハム〔右○〕ナリシヲ、後ニ音便ニテ、凡テン〔右○〕ト呼ブコトニナレルニモアルベシ、大和ノ多武《タム》(ノ)峯ハ、古ヘハ今ノ如クタウ〔二字右○〕トハ唱ヘズ、ム〔右○〕ヲタシカニム〔右○〕ト呼シニ、古ク談《タムノ》峰トモ書タレバ、談(ノ)字タム〔二字右○〕ト呼シカ、三郎ノ三〔右○〕ハ、今モサム〔二字右○〕ト呼ベリ、といへるを合考すべし、かくて(24)考の頭注に、圓《マロ》をろ〔右○〕のかなに用るは、臣《オミ》をみ、相《アフ》をふ〔右○〕、麻《アサ》をさ〔右○〕に用し類にて、訓をば多は下の言を用、とあるは非也、集中、訓の上を省けるは、アイオ〔三字右○〕の三言にて、其外にはなし、鈴屋の玉(ノ)小琴に、凡て略て取例は多けれども、事によるなり、まろ〔二字右○〕といふことを、ま〔右○〕を賂くやうの例はなし、此は上に將《ム》v見《ミ》と云む〔右○〕とま〔右○〕と通ふ音なる故に、おのづからみまろ〔三字右○〕と云やうにもひゞくから、圓の字を書る也、とあるが如し、さて此は三輪山《ミワヤマ》の事にて三輪の大神を祭り奉れる故に、御室《ミムロ》の義にて、かくいふなり、集中には、三諸《ミモロ》とも三室《ミムロ》ともかけり、む〔右○〕とも〔右○〕は、五十音の同行にて通ずるなり、〇挾名葛《サナカヅラ》は五味にて、今俗に美男葛《ビナンカヅラ》といふもの也、古(ヘ)さね〔右○〕かづらとも、さな〔右○〕かづらともいへり、卷十【五十七右】に、足引乃山佐奈葛黄變及《アシビキノヤマサナカヅラモミヅマデ》、卷十二【二十五右】に、狹名葛在去之毛《サナカヅラアリユキテシモ》、又古事記中卷に、舂(テ)2佐那葛之根《サナカヅラノネヲ》1取2其汁滑(ヲ)1ともあり、此卷の下に、狹根葛後毛將相等《サネカヅラノチモアハムト》、卷十一【十一左】に、核葛後相《サネカヅラノチモアハムト》などもあり、さて新撰字鏡に、※[草冠/緒]【左奈葛】また木防巳【佐奈葛】と見え、醫心方に、防已【和名阿乎加都良又佐禰加都良】本草和名に、五味、和名佐禰加都良、和名抄に、五味【和名作禰加豆良】などあり、但し字鏡と醫心方に、防巳をよめるは誤なり、さて此までは、次の句をいひ出む爲の序なり、〇佐不寐者《サネズバ》は、鈴屋の説に、さねは眞寐《マネ》にて多くは男女|率《ヰ》てぬるをいへりとあり、○有勝麻之目《アリガテマシモ》、かくは難《カタ》き意にて、さねずば遂に此世に在難《アリガタ》からむと(25)也、勝《カテ》はカツ〔二字傍線〕の訓を活し用ゐたるにて、松《マツ》をマト〔二字傍線〕、酒ヲサキ〔二字傍線〕などの假字とせると同じ、しかるに此カテ〔二字傍線〕に、不勝《カテ》と不(ノ)字を添(ヘ)てかける所もあるにつきて、記傳にいとむづかしき説あれど、不勝《カテ》は字義を以てかける文字にて、勝の一字をかけるとは、もとより其用法異なり、思ひ混ふべからず、委しくは別記にいふ、目《モ》はモク〔二字傍線〕の略音なり、或本歌云、玉匣三室戸山乃《タマクシゲミムロ〔二字右○〕ノヤマノ》、考に、卷八に、珠くしげ見諸戸山《ミモロドヤマ》を行しかば、てふ旅の歌の中に有て、西の國の歌どもに交れれば、備中(ノ)國に今もみむろど〔四字右○〕ゝいふ祈なるべし、こゝのは大和の都にてよめれば、他國の地名をいふことなかれ、古人はよしなき遠き所を設てよむことなかりし也、といへるはいまだしかりけり、略解には.戸〔右○〕は乃〔右○〕の誤りにて三室乃山乃《ミムロノヤマノ》ならむとあれど、諸古本も皆今本と同じければ、傳寫の誤りにはあらざるべし、按ずるに、卷八【五十四右】に、黒木用造有室戸者雖居不飽可聞《クロギモテツクレルヤドハヲレドアカヌカモ》とある、室戸と同じくて、二字にてムロ〔二字右○〕と訓(マ)むか、卷三【十六右】に、一云|家門當見由《イヘノアタリミユ》とあるも、門(ノ)字は、義を以て添てかけるものにて、同例也、舊訓に、ヤドノアタリミユ〔八字右○〕とあるはわろし、かくて本集の例を考ふるに、一云、又は或本云とて出したる中には、たゞ文字の異同のみにて、其訓は全く正文と同じきものも彼此あり、其は此卷(26)【二十右】に、屋上乃山《ヤガミノヤマ》、一云|室上乃山《ヤガミノヤマ》、同【二十左】に勿散亂曾《チリナミダレソ》、一云|知里勿亂曾《チリナミダレソ》、同【三十二左】に、越野過去《ヲチヌニスギヌ》、一云|乎知野爾過去《ヲチヌニスギヌ》、卷九【九右】に、妻常言長柄《ツマトイヒナガラ》、一云|嬬云長柄《ツマトイヒナガラ》、卷十【二十七左】に、不遏者《ツキネバ》、一云|不盡者《ツキネバ》など猶あり、今も此等と同例とすべし、
一首の意は、そなたは夜の明ぬうちに早くかへれといはるれど、此まゝにて今夜かへりたらむには、我思ひのやるかたなくして、命も遂に有難からむをとなり、鶴田(ノ)王と鏡(ノ)女王との事は、卷一の金野乃美草苅葺《アキノヌノミグサカリフキ》云々の歌、及び三山の歌の注に、委しくいひおきたれど、猶いはゞ、鏡(ノ)王といふ人に二女ありて、鏡(ノ)女王は姉、額田(ノ)王は妹なるべし、但し古(ヘ)は、女王を別に女王とはいはず、男王と同じく、たゞ某(ノ)王とのみいひしかど、此王を鏡(ノ)女王といへるは、父の鏡(ノ)王と同名なれば、之に分たむが爲、殊更に女(ノ)字を加へて書けるなるべし、又妹の額田は、其住居の地名なるべし、大和(ノ)國平群(ノ)郡に額田(ノ)郷あり、萬葉考別記云、此卷に、天皇賜2鏡(ノ)王(ノ)女1云々、鏡(ノ)王(ノ)女奉v和歌とありて、鏡王女又曰2額田姫王1也、と注せしは誤り也、卷四【考には卷十三とあり】に、額田(ノ)王思2近江(ノ)天皇1作歌、君待登吾戀居者吾屋戸之簾動之秋風吹《キミマツトワガコヒヲレバワガヤドノスダレウゴカシアキカゼノフク》、次に鏡王(ノ)女作歌、風乎太爾戀流波乏之風乎谷將來登時待者何香將嘆《カゼダニコフルハトモシカゼヲダニコムトシマタバイカヾナゲカム》、これ鏡(ノ)王女傍より、右の歌に和(ヘ)よめる也、然れば額田(ノ)王と鏡(ノ)王女は別なり、もしこれを和(ヘ)歌ならずと思ふ人有とも、かく並べ(27)あぐるに、同人の名をことに書ことやはある、左《ト》にも.右《カク》にも別なる證也、かゝるを同女王ぞといへるは、紀【天武】に、天皇始娶2鏡王(ノ)女額田(ノ)姫王1生2十市(ノ)皇女1とあるを、不意に見て誤れるもの也、さてその意を立て、鏡(ノ)女王とあるは、王(ノ)女の誤りぞとて、さかしらに字を上下せし事|顯《アラ》は也、すべて集中に、生羽が女播磨の娘子《ヲトメ》などあるは、名のしられざる也、すでに名の顯はなる額田(ノ)姫王を、又は某(ノ)女とは書べからず、仍て今改て鏡(ノ)女王とせり、といへるはさる事なり、かくて正辭考ふるに、此鏡(ノ)女王は、天智天皇の御思ひ人なる事、上の贈答の歌にて明けし、しかるに興福寺縁起を見るに、天命開別《アメミコトヒラキワケノ》天皇即位二年歳次己巳冬十月、内大臣枕席不V安、嫡室鏡(ノ)女王請(テ)曰云々とあり、内大臣は鎌足公也、これによるに、公の豫《力ネ》て此女王を娉せられし事を、天皇|聞《キコ》し召(シ)て、遂に内大臣に賜はりしならむ、【其は次なる娶2采女安見兒1時の歌に思ひ合て、かく考へらるゝ也、略解に、此時天皇の寵おとろへたるを、鎌足卿よばひしなるべし、といへるはいまだし、】かくて是より先に、此女王の御腹に、氷上娘《ヒガミノイラツメ》、五百重娘《イホヘノイラツメ》の二女を生《ナ》させ給へるを、此時女王にそへて賜はりしなり、かくいふは、書紀天武紀二年の條に、夫人、藤原(ノ)大臣(ノ)女、氷上(ノ)娘生2但馬(ノ)皇女1、次(ニ)夫人氷上(ノ)娘(ノ)弟《イモ》五百重(ノ)娘生2新田部(ノ)皇子1とありて、皇胤紹運録、天武天皇の皇子皇女の列《ツラ》に、但馬(ノ)皇女、母(ハ)大織冠(ノ)女氷上媛、新田部(ノ)親王、母(ハ)五百重媛、鎌足公(ノ)女と見え、尊卑分脉の、鎌足公の男女の列に、夫人氷上(ノ)(28)娘、天智天皇(ノ)女、夫人五百重(ノ)娘、天智天息(ノ)女とありて、母は書さゞれども、鏡(ノ)女王なる事しるし、【今本の尊卑分脉に、天智天皇女御とある御(ノ)字は、衍文なり、】かゝれば此二女は、母の鏡(ノ)女王に添(ヘ)て賜はりしなるべし、【以上伴(ノ)信友の、ながらの山風と、嚶々筆話の、加納諸平の説とを參考してかくは考へたるなり、】
内大臣藤原卿、娶2采女《ウネベ》安見兒《ヤスミコ》1時作歌一首
 
吾者毛也安見兒得有皆人乃《ワレハモヤヤスミコエタリミナヒトノ》、得難爾爲云安見兒衣多利《エガテニストフヤスミコエタリ》
 
娶とは、説文に、娶(ハ)取v婦也とありて、嫡妻のみにはかぎらず、妾にもいへり、○釆女はうねべ〔三字右○〕とよむべし、和名抄に、伊勢(ノ)國三重(ノ)郡の郷名に、釆女【宇禰倍】とあり、記傳卷四十二【二十五】に、べ〔右○〕は部《ベ》の意也、女《メ》の意には非ず、常にめ〔右○〕と唱るは音便なり、公卿《カムタチベ》をかんたちめ〔五字右○〕と唱るたぐひ也とあり、按(フ)るに、采女は、書紀孝徳天皇二年紀に、凡采女者、貢(レ)2郡(ノ)少領以上(ノ)姉妹及子女、形容端正者1云々、後宮職員令に、其貢(ラス)2采女(ヲ)1者、郡(ノ)少領以上姉妹及女(ノ)形容端正者、皆申(テ)2中務省1秦聞(セヨ)云々と見えて、形容端正なる女を貢(ル)なり、采(ノ)字を用ゐるも、形容端正なるを撰び取るよし也、采女は専(ラ)陪膳の事をつかさどれる官(29)女也、
吾者毛也《ワレハモヤ》は、毛《モ》も也《ヤ》も嘆辭にて、也《ヤ》は與《ヨ》に通ひて、呼(ビ)出す意をもかねたり、古事記下卷に、意岐米母夜阿布美能淤岐米《オキメモヤアフミノオキメ》云々、とある母夜《モヤ》を、書紀には慕與《モヨ》とあり、本集卷一なる、籠毛與《コモヨ》云々の毛與も同じ、○安見兒得有《ヤスミコエタリ》、得《エ》とは、古事記應神天皇の條に、汝《イマシ》得《エテムヤ》2此(ノ)孃子《ヲトメヲ》1乎、答曰、易得《ヤスクエテム》也とあり、女をわがものにするをいふなり、此二句の意、いたく悦び誇りたる趣にきこゆ、○皆人乃得難爾爲云《ミナヒトノエガテニストフ》、がて〔二字右○〕は上にいへる如く、難《カタ》き意にて、人皆の得がたくすなる安見兒を、吾こそ娶りえたれ、とほこりかにいへる也、結句、安見兒衣多利とくりかへせるも、悦のあまりに、其事を反覆いへる也、
一首の意は、人皆の得る事難き采女安見兒をば、吾こそは今得たれとよろこべるなり、
上の鏡(ノ)女王の事より考(フ)るに、卿の此采女にも、※[(女/女)+干]《タハケ》給ひしより、終に賜はりしなるべし、抑釆女に姦通する事などは、决《キハメ》てなしがたきことにて、若(シ)さる事あらむには、重き罰を蒙ることなるを、それにも拘(ハ)らせ給はずして、かへりて其釆女をしも賜はりけむ、さるからに殊に悦び、且は世人のなしがたき事をしも、成(シ)得たるを誇り給へるなるべし、かゝる賢臣の御うへにても、男女の間の事は、思ひの外なる事もあ(30)りけるにや
 
久米(ノ)禅師娉2石川(ノ)郎女1時歌五首
 
水薦苅信濃乃眞弓吾引者《ミスヾカルシナヌノマユミワガヒカバ》、宇眞入佐備而不欲常將言可聞《ウマビトサビテイナトイハムカモ》 禅師
 
久米(ノ)禅師は、傳詳ならず、考に、久米は氏、禅師は名也、下の三方(ノ)沙彌も是に同じ、すべて氏の下に有は、いかに異なるも名と知べし、紀には、阿彌陀釋迦などいふ名も有しを、禁《トヾ》め給ひし事見ゆといへり、略解も此説に依たり、但し氏の下にあるは、いかに異なるも名と知べし、といへるはいかゞなり、其は下文の三方(ノ)沙彌、又卷五【十五左】に、笠(ノ)沙彌とあるは、笠(ノ)朝臣麻呂にて、僧名滿誓の事也、又靈異記中卷弟十一條に、奈良(ノ)右京(ノ)薬師寺(ノ)僧題惠禅師とある原注に、字(ハ)曰2依網(ノ)禅師1、俗姓依網(ノ)連、故以爲v字ともあり、これに依に、此も久米氏の人の僧ならむとおぼゆ、○歌の下の禅師の二字、及次の郎女の二字、今本皆大書とせり、今諸古本に依て小書とす、考に、歌毎に、前に石川郎女和歌、久米禅師重(テ)贈歌、と改めしるしたるは、さかしら也、本書はもと精撰し(31)たるものならねば、かゝるしどけなき事もまゝあるなり、下の三方(ノ)沙彌の歌のしるしざまと全く同例也、○石川郎女は、傳詳ならず、郎女はいらつめ〔四字右○〕と訓(ム)べし、書紀景行紀に、郎媛此云2異羅菟※[口+羊]《イラツメ》1、又續紀廢帝紀に、藤原(ノ)伊良豆賣《イラツメ》などあり、水薦苅《ミスヾカル》は枕詞也、冠辭考に、薦を篶に改て云く、荷田大人のいへらくは、水篶《ミスヾ》は眞《ミ》すゞ也、【水は借字】神代紀に、五百箇野篶八十玉籤《ユヅヌスヾノヤソタマグシ》云々、【今本は是も薦に誤ぬ】これによるに、すゞてふ小竹《シヌ》をかる野とつゞけし物也と、こは古言也云々、篶はしのめ竹の類にて、いとちひさくて色黒き竹なり、それを阿波土佐などの國にては、須々《スヾ》と云といへり、正辭云、薦(ノ)字、此まゝにてスヾ〔二字右○〕と訓(ム)べし、【舊訓に水薦《ミクサ》とあるは非なり、】書紀神代紀に、野薦をヌスズ〔三字右○〕と訓るを證とすべし、これを篶に改むるはわろし、其故は、篶(ノ)字は古くはなき文字にて、五音篇海といふものに始て見えて、篶(ハ)黒竹也とあり、此五音篇海は、金(ノ)韓道昭といふ者、其父孝彦が著はしたる、四聲篇海といふ書を、増訂して造れるものにて、金の明昌承安年間に成れるもの也、本邦後鳥羽天皇の時に當れり、かゝれば舍人(ノ)親王の、日本紀を撰び給へる時はもとよりにて、萬葉集撰集の時も、未だ此文字はあらざりし也、いかで日本紀、萬葉集等に用ゐらるゝ事のあるべき、按ずるに、管子八觀の薦草多衍の注に、薦(ハ)茂草也、又漢書、景帝紀の注に、如淳云、草稠(ヲ)曰v薦(ト)とあり、これによる(32)に、須々《スヾ》は茂生の小竹なるを以て茂草草稠などゝ注せる、薦(ノ)字を借(リ)て充たるものなり、但し竹は、爾雅に、釋草に收(メ)たり、故に草稠の字を借(リ)て、これに充たる也、須々支《スヽキ》に薄(ノ)字を借れると同例也、猶余が歌集、※[木+觀]齋集の附録に詳なり、○信濃乃眞弓《シナヌノマユミ》、眞《マ》は(ノ)美將なり、檀をマユミ〔三字右○〕と呼(ブ)も、弓に作るに良き木なるをもて、名におほせたるなり、弓は古(ヘ)專(ラ)甲斐信濃より貢れる事、續紀、延喜式等に見えたり、此までは引といはむ序也、○吾引者《ワガヒカバ》は、弓の縁語をもて、吾《ワレ》に依り靡くやいかにと、其方《ソナタ》の心を引《ヒカ》ば也、〇宇眞人佐備而《ウマビトサビテ》は、貴人ぶりて也、書紀仁徳紀に、于麼臂苔能多菟屡虚等太弖《ウマビトノタツルコトダテ》、本集卷五【二十左】に、美流爾之良延奴有麻必等能古等《ミルニシラエヌウマビトノゴト》などあり、書紀に、君子、※[手偏+晉]紳、良家などをウマビト〔四字右○〕とよめり、佐備《サビ》は、翁さび、をとめさび、などのさびと同じく、俗にブリ〔二字右○〕と云意也、○不欲常將言可聞《イナトイハムカモ》は、郎女の心を吾引《ワガヒカ》ば、貴人ぶりて否《イナ》といはむか也、今本、欲を言に誤る、今元本官本類本拾本及仙覺抄に、欲とあるに從ふ、温本の、不言を不知に作て、イサ〔二字右○〕とよめるも誤也、○禅師の二字、今本大書す、今諸古本によりて小書とす、下の郎女の二字も皆同じ、一首の意は、今|吾《ワガ》其方《ソナタ》に心を惣憑《ヨ》せて引こゝろみなば、其方《ソナタ》は貴人ぶりて、否といひて、われに從はざらむかと也、
 
(33)三薦苅信濃乃眞弓不引爲而《ミスヾカルシナヌノマユミヒカズシテ》、弦作留行事乎知跡言莫君二《ヲハクルワザヲシルトイハナクニ》 郎女
 
三薦苅《ミスヾカル》、三《ミ》の字は借字にて、眞《ミ》の意也、○弦作留《ヲハクル》、原本、弦を強に誤る、諸古本も同じ、類本に、濕と作《ア》るも誤なり、今代匠記の説に依て改、又類本拾本、作を佐に作るも誤也、代匠紀に、強は弦の誤にて、作は日本紀に、矢作部と書て、ヤハギベ〔四字傍線〕とよみたれば、ツルハクル〔五字傍線〕と讀べきかとあり、此説よろし、但し訓は、考に、ヲハクル〔四字傍線〕とよめるに從ふ、ハクル〔三字傍線〕は令v著《ハカシムル》なり、常に佩《ハク》v刀、著《ハク》v履などいふ是也、卷十六【三十一右】に、牛爾己曾鼻繩波久禮《ウシニコソハナナハハクレ》ともあるは、牛縻をかくるをいふ也、○行事乎《ワザヲ》、行事は義を以てかける也、○知跡言莫君二《シルトイハナクニ》、いはなくには、俗に云、イハヌノニ〔五字傍線〕の意なり、
一首の意は、考に、弓を引ぬ人にて、弦かくるわざをば、知つといふ事なし、其如く我をいざなふわざもせで、そらにわがいなといはむをば、はかり知給ふべからずと云也.といへるが如し、
 
梓弓引者隨意依目友《アヅサユミヒカバマニマニヨラメドモ》、後心乎知勝奴鴨《ノチノコヽロヲシリガテヌカモ》 郎女
 
梓弓《アヅサユミ》は、古へ多く梓の木をもて、弓をば造りたるから、かくいひならへるにて、必し(34)も梓にて造りたるのみにはかぎらず、○引者隨意《ヒカマニマニ》は、ひくがまゝになり、隨意の字は、義を以てかける也、卷十一【三十七右】に、任意《マニマニ》ともかけり、又これを省きてまにま〔三字右○〕といひ、たゞにまに〔二字右○〕とのみもいふ、卷二十【十八左】に、大王乃美許等能麻爾末《オホキミノミコトノマニマ》、卷六【四十四右】に、吾大王者君之隨《ワゴオホキミハキミノマニ》、所聞賜而《キコシタマヒテ》などある是也、○依目友《ヨラメドモ》は、依靡《ヨリナビ》かむとなり、古今集戀二に、梓弓ひけばもとずゑわがかたに、よるこそまされ戀のこゝろは、などもあり、○後心乎《ノチノコヽロヲ》は、行末までの心をいふ、○知勝奴鴨《シリガテヌカモ》、勝《ガテ》は難(ノ)字の意にて、知り難《ガタ》しと也、奴《ヌ》は添(ヘ)ていふ辭也、別記、かてを又かてぬともいふ條に精細し、
一首の意は、まこと我をいとしく思ひて引とならば、其まにまに依り靡きもすらめども、今こそあれ、行末いかゞとならむと、知りかぬるが心もとなしとなり、
 
梓弓都良絃取波氣引人者《アヅサユミツラヲトリハケヒクヒトハ》、後心乎知人曾引《ノチノコヽロヲシルヒトゾヒク》 禅師
 
都良絃《ツラヲ》、絃、元本には緒と作《ア》り、いづれにてもあるべし、絃は正しくは、弦とかくべきなれども、皇國の古書には、多く絃の字を用ゐたり、都良《ツラ》は蔓《ツル》なり、都良絃《ツラヲ》は重言なり、例は卷十八【十八左】に、山乎之毛佐波爾於保美等《ヤマヲシモサハニオホミト》、卷十七【十七右】に、鶯能奈久久良多爾《ウグヒスノナククラタニ》とあるも、久良即(チ)谷の古言なれば、重言也、○取波氣《トリハケ》は、取《トリ》は手してする事をいふ、波氣は上の作留《ハクル》に同じ、○引人者《ヒクヒトハ》は、禅師自らを指す、○後心乎《ノチノコヽロヲ》云々は、うきたる心に(35)はあらず、末々かけて必かはらじとこそ、思ひ定めてのわざなれとの意、一首の意は、後の心を知りがたしとて疑はれつれど、弓に弦をはけて引人は、必其弓ひくわざを知得たる人なるが如く、人を引いざなふには、後々の事までも、心に定てこそするわざなれ、さればしか疑ひ給はで、我に從ひ依りねとなり、
 
東人之荷向※[しんにょう+(竹/夾)]乃荷之緒爾毛《アヅマドノノサキノハコノニノヲニモ》、妹情爾乘爾家留香聞《イモガコヽロニノリニケルカモ》 禅師
 
此は禅師の更に贈れる也、○東人、今本に、人の字の訓を缺く、舊版本及官本も同じ、温本家本昌本の訓は、アヅマヅとあり、元本も同じ、古本の和名抄に文選を引て、邊鄙、阿豆万豆《アヅマヅ》と注し、又世説の注、東野之鄙語也を引て今案俗用2東人(ノ)二字1、其義近矣とあり、但しアヅマヅ〔四字傍線〕は、アヅマド〔四字傍線〕の音便なり、東人をアヅマド〔四字傍線〕といふは、旅人《タビヾト》をタビト〔三字傍線〕といへる類也、かくて代匠記考略解等に、此東人を、坂東諸國あ人として解けるは非也、狩谷望之の和名抄箋注に、あづま〔三字右○〕といふ語は、もと日本武(ノ)尊の、吾嬬者耶《アヅマハヤ》とのたまひしよりの事なれど、後に轉じて、凡て邊鄙の土地をいふ語となりし也、萬葉集の東人は、廣く邊鄙の人をいふ也、古事記の三重※[女+采](ノ)歌に、本都延波阿米袁淤幣理《モトツエハアメヲオヘリ》、那加都延波阿豆麻袁淤幣理《ナカツエハアヅマヲオヘリ》とあるも、東國のみの事にはあらず、廣く邊鄙の(36)國々をさす也、【記傳四十二の三十一葉の説はわろし】其證は、書紀孝徳紀に、大化二年三月癸亥朔甲子、詔2東(ノ)國(ノ)國司等1曰、集侍《ウギナハレル》群卿大夫、及臣連國造伴造、并(テ)諸百姓等|咸《コトゴトク》可v聽之云々、又辛巳詔2東(ノ)國(ノ)朝集使等1曰云々とある是也、この東國も、坂東諸國を云にはあらず、廣く邊土の國々をさせる也といへり、此説に從ふべし、箋注の全文は、別記に出せり、○荷向※[しんにょう+(竹/夾)]乃《ノザキノハコノ》、荷向《ノザキ》の向《サキ》は、訓を借れるなり、正しくは荷前《ノザキ》とかくべし、諸國より今年の貢物を、初めて奉れるをいふ、又これをば神社、又は陵墓にも奉らしめ給ふ、其御使を、荷前《ノザキノ》使といふ、【江家次第の裏書に、荷前(トハ)者、四方(ノ)國(ヨリ)進(ル)御調(ノ)荷(ノ)前(ヲ)取(テ)奉(ル)故(ニ)、曰2荷前1、】荷《ニ》をノ〔右○〕といふは、木をコ〔右○〕といふが如く、第二の音を第五の音に通はしいふ也、書紀神功紀に、肥前(ノ)國の荷持田村の注に、荷持此云2能登利《ノトリ》1とあり、※[しんにょう+(竹/夾)]の字、家本昌本活本同、元本官本温本拾本及仙覺抄には、篋とあり、但し匣の字、又匠の字を、俗に※[しんにょう+(一/甲)]※[しんにょう+(一/斤)]に作れり、故に篋を※[しんにょう+(竹/夾)]ともかける也、新撰字鏡※[しんにょうの原字]部に、※[しんにょう+(竹/夾)]、笥也、己呂毛波古とあり、委しくは萬葉集文字辨證にいふ、○荷之緒爾毛《ニノヲニモ》、緒、今本結に誤(ル)、諸古本及仙覺抄に依て改(ム)、祈年祭祝詞に、荷前《ノザキハ》【者】云々、自《ユ》v陸《クガ》往道者《ユクミチハ》、荷緒縛堅【弖】《ニノヲユヒカタメテ》云々、其儀式は、西宮妃、北山抄等に細《クハ》しく見えたり、爾毛《ニモ》は如くにも〔四字右○〕の意にて荷の緒の如くにも也、以上は次句の情爾乘《コヽロニノル》といはむ料なり、○妹情爾乘爾家留香聞《イモガコヽロニノリニケルカモ》、考に、いもはこゝろに、とよみ改たれど、舊訓のかたよろし、玉(ノ)小琴にも、妹は〔右○〕(37)心に、と訓るはわろし、本のまゝに、妹がと訓べし、我心に妹が乘る也、必が〔右○〕といふべき語の例也といへり、例は卷十【十三右】に、春去爲垂柳十緒《ハルサレバシダリヤナギノトヲヲニモ》、妹心乘在鴨《イモガコヽロニノリニケルカモ》、卷十一【八右】に、是川瀬々敷浪布々《コノカハノセヽノシキナミシクシクニ》、妹心乘在鴨《イモガコヽロニノリニケルカモ》、又四卷【四十五右】に、百礒城之大宮人者雖多有《モヽシキノオホミヤビトハオホカレド》、情爾乘而所思妹《コヽロニノリテオモホユルイモ》などあり、妹が事の常に忘れずして、我心に在るをいふ、○考に、こは妹に贈る意ならず、膳師が獨思ふ歌なれば、別に端詞の有しが落たるにや、とい人るはわろし、こは同時に更に贈りたるにて、其情の切なるを示せるなり、
一首の意は、荷前《ノザキ》の※[しんにょう+(竹/夾)]の荷の緒の如く、常に妹が我心の上に在りて忘られぬ事よとなり、
 
大伴(ノ)宿禰娉2巨勢《コセノ》郎女1時歌一首
 
玉葛實不成樹爾波千磐破《タマカヅラミナラヌキニハチハヤブル》、神曾著常云不成樹別爾《カミゾツクトフナラヌキゴトニ》
 
大伴(ノ)宿禰は、元本に古注を載て、大伴宿禰諱曰2安麿1也、難波(ノ)朝(ノ)右大臣大紫、大伴(ノ)長徳卿之第六子、平城(ノ)朝任2大納言兼大將軍(ニ)1薨とありて、官本温本類本にも如v此あり、是古來よりの傳説なるべし、考には、大伴|御行《ミユキ》卿と定て、その若き時、近江(ノ)宮にしてよまれしもの也、といはれたれど、安麿卿としても、時代はたがはざれば、古注に依(ル)べ(38)し、安磨卿は、續紀に、和銅七年五月朔日薨とあり、年齡は詳ならざれども、七十ばかりも生《イキ》給ひしならむには、近江(ノ)宮の御代のほどは、二十七八歳なりしなるべし、さて集中、大納言以上は、多くは諱を書(ル)さゞる例なれば、大伴宿禰とのみしるせるなり、但し大納言に任《マケ》給ひしは、和銅元年三月なれども、後より前にめぐらして、諱をば省ける也、
玉葛《タマカヅラ》、考に、葛は子《ミ》の成もの故に、次の言をいはむ爲に、冠らせしのみ也、且|子《ミ》の成てふまでにいひて、不成の不《ズ》まではかけぬ類、集に多しとありて、略解にもかくいへれど非也、此は實《ミ》の一言にかけたるにて、卷四【二十六右】に、山菅乃實不成事乎吾爾所依《ヤマスゲノミナラヌコトヲワレニヨリ》言禮師君者孰與可宿良牟《イハレシキミハタレトカヌラム》とある山菅は、本草和名に、麥門冬、和名、也未須介、【和名抄も同じ】とありて俗に龍《リヨウ》ノヒゲといふものにて本草陶隱居の注に、麥門冬・冬月作v實如2青珠1といへり、此物よく實を結べるものなる事は、常に人の知ところなり、又卷九【二十六右】に、石上振乃早田乃穗爾波不出《イソノカミフルノワサダノホニハイデズ》、心中爾戀流此日《コヽロノウチニコフルコノゴロ》とあるも、早田の穗とかけたるにて同例なり、さて玉は美稱なり、しかるを冠辭考に、玉とは子《ミ》ある物なればいふ、とあるはわろし、玉藻《タマモ》、玉小竹《タマザヽ》、玉松《タママツ》なども皆美稱なるをや、〇千磐破《チハヤブル》は枕詞にて、冠辭考にくはし、但し千《チ》を稜威《イツ》の意といへるはわろし、此は最速《イチハヤ》ぶるにて、ぶる〔二字右○〕は備《ビ》(39)の緩言也、其ありさまをいふ、宮び宮ぶり、夷《ヒナ》び夷《ヒナ》ぶりなどの如し、元本には、磐を盤と作《ア》り、磐盤、古へ通用なり、○神曾著常云《カミゾツクトフ》、考に、今の世にも、子《ミ》なるべき木の子《ミ》ならぬあれば、神の領じ給へりといへり、とあり、此意也、源氏物語爪印上に、女の嫁すべき時分すぐるは、鬼魅などの領じて事を妬とかといへり、トフ〔二字傍線〕、はトイフ〔三字傍線〕の急言、常《ト》はトコ〔二字傍線〕の訓を省きて、用ゐたるなり、○不成樹別爾《ナラヌキゴトニ》、考に、女のさるべき時に男せねば、神の依《ヨリ》まして、遂に男を得ぬぞと譬ふ、とあるが如し、
一首の意は、實《ミ》のなるべき樹に實のならざるは、神がつき領し給ふといふ諺の如く、女子も其年比になりて男せねば、神に見いれらるゝ事なれば、とく吾に隨へよとなり、
 
巨勢(ノ)郎女報贈歌一首
 
玉葛花耳開而不成有者《タマカヅラハナノミサキテナラザルハ》、誰戀爾有目吾孤悲念乎《タガコヒナラメワハコヒノオモフヲ》
 
巨勢(ノ)郎女、元本官本温本類本家本昌本、並に古注を載て、即近江(ノ)朝大納言巨勢(ノ)人《ヒト》卿之女也とあり、書紀に、巨勢(ノ)人臣、又は巨勢(ノ)臣|比等《ヒト》ともあり、玉葛《タマカヅラ》、原本、葛を萬に誤、今諸古本に依て改、○花耳開而不成有者《ハナノミサキテナラザルハ》、右の歌に、實不成樹(40)爾者《ミナラヌキニハ》とあるをうけて、かくいへるなり、○誰戀爾有目《タガコヒナラメ》は、誰戀ならむ也、誰《タガ》といひてめ〔右○〕と結べるは、古への一格にて卷三【四十一右】に、不所見十方孰不戀有米山之末爾《ミヘズトモタレコヒザラメヤマノマニ》、射狹夜歴月乎外爾見而思香《イザヨフツキヲヨソニミテシカ》、卷四【四十左】に、豫人事繁是有者《カネテヨリヒトゴトシゲシカクシアラバ》、四惠也吾背子奥裳何如荒海藻《シヱヤワガセコオクモイカヾアラメ》、【結句、舊訓に、アラモとよめるはわろし、】などある是也、一首の意は、花のみ咲て實《ミ》ならぬ如く、まことなきは誰うへの戀にかあらむ、我はまことに戀思ふ物をと也、
 
明日香《アスカノ》清御原《キヨミハラノ》宮(ニ)御字(シ)天皇(ノ)代 天《アメノ》停名原瀛眞人《ヌナハラオキノマヒトノ》天皇
 
天皇賜2藤原(ノ)夫人1御歌一首
 
吾里爾大雪落有大原乃《ワガサトニオホユキフレリオホハラノ》、古爾之郷爾落卷者後《フリニシサトニフラマクハノチ》
 
明日香(ノ)清御原(ノ)宮の事は、卷一の注に出づ、○天《アメノ》停名原《ヌナハラ》、停、諸古本皆同、唯官本及校異本引古本に、渟に作れり、書紀に、天渟中原に作りて元注に、渟中此云2農難《ヌナ》1とあり、しかるに仲哀紀に、到2停田門1とある停田を、ヌタ〔二字右○〕とよみ、續日本後紀、承和三年四月(ノ)條に、天停名倉太玉敷《アメヌナクラフトタマシキノ》天皇とあるも、渟を停とかけるなり、按(フ)に、左氏隱三年(ノ)傳に、※[さんずい+黄]※[さんずい+于](41)停水とあり、是停は渟に借(リ)たる也、又爾雅釋山の注の、渟泉の釋文に、渟亦作v停同とあり、かゝれば古へ、渟停の二字は通じ用ゐしなり、後の謚號は天武天皇と申す、諸古本に、天皇の下に、謚曰2天武天皇1の六字あり、最後人の注なり、元本には、天皇賜以下十一字脱たり、後人朱を以て行間に書せり、藤原(ノ)夫人は、書紀、天武天皇二年(ノ)條に、夫人(ハ)藤原(ノ)大臣(ノ)女|氷上《ヒカミノ》娘、生2但馬(ノ)皇女1、次(ニ)夫人氷上娘(ノ)弟《イモ》、五百重《イホヘノ》娘、生2新田部(ノ)皇子1云々とありて、本集卷八【二十二左】に、藤原夫人とある古注に、宇曰2大原(ノ)大刀自《オホトジ》1、即、新田部(ノ)皇子之母也とあり、此注諸古本に皆あり、又袋草紙卷二、傳2師説1條にも、此注を載たり、是古傳と見えたり、これによれば、此夫人は五百重(ノ)娘なり、又卷二十【五十四左】に、藤原(ノ)夫人とある古注に、淨御原(ノ)宮(ノ)天皇之夫人也、字(ハ)曰2氷上(ノ)大刀自《オホトジ》1也とあり、此注も諸古本に皆あり、此は御姉氷上(ノ)娘なり、五百重(ノ)娘は、大和(ノ)國高市(ノ)郡大原(ノ)郷に住れし故に、大原(ノ)大刀自といひしなるべし、さて此夫人を、考に、みやすどころ〔六字右○〕と訓(ム)べしといへるは、後の唱へにて、もとより從ひがたし、或説には、オホトジ〔四字右○〕と訓(ム)べしといへり、されど天皇の夫人を、オホトジと唱ふるはいかゞ也、古事記傳卷二十【十三右】又詔詞解二【六十三】等には、キサキ〔三字右○〕と訓(ム)べしといへり、これもわろし、此は字音にて唱ふべくこそ、但し記傳、詔詞解等に、古へ凡人の女主を刀自《トジ》と(42)いひ、貴人の夫人をば大刀自《オホトジ》といへり、書紀の訓に、天皇の夫人を、オホトジと訓るは、臣家の夫人をさいふより、紛れたる稱なり、萬葉の注に、天武天皇の藤原(ノ)夫人五百重(ノ)娘の字(ヲ)曰2大原(ノ)大刀自1といひ、氷上(ノ)娘の字(ヲ)曰2氷上(ノ)大刀自1とあるも、尊みて申せし也、これらは字《アザナ》をかく申せしよしにて、夫人の號に關《アヅカ》れることにはあらず、思ひまがふべからすといへり、此説よろし、正辭云、上宮聖徳法王帝説に、聖王(ノ)妻《ミメ》、膳大刀自《カシハデノオホトジ》也とありて、其文中に、膳夫人、又はたゞに大刀自とのみもあり、是貴人の夫人を大刀自といへる明證也、〇御歌、考には、御製歌と製の字を補はれしかども、各本になければ、今舊に從ふ、集中、人に對して賜ふ歌には、いづこも御歌とのみあるなり、此事上文に已にいへり、
吾里爾《ワガサトニ》、天皇の住給へる、清御原(ノ)宮のほとりをのたまへる也、○大雪落有《オホユキフレリ》は、此卷の下に、大雪乃亂而來禮《オホユキノミダレテキタレ》、卷十九【四十七右】に、布禮留大雪《フレルオホユキ》などあり、多くふれる雪をいふ、○大原乃古爾之郷爾《オホハラノフリニシサトニ》は、考に、大原は、續日本紀に、紀伊へ幸の路をしるせしに、泊瀬《ハツセ》と小治《ヲハリ》田の間に、大原といふあり、今も飛鳥の西北の方に、大原てふ所ありて、鎌足公の生《ウマレ》給へる所とて杜《モリ》あり、是大方右の紀にかなへり、こゝを本居にて、夫人の下(リ)て居給ふ時の事なるべし、卷十二【十左】に、大原古郷妹置《オホハラノフリニシサトニイモヲオキテ》ともよめり、とあるが如し、(43)○落卷者後《フラマクハノチ》は、降むは後也、まく〔二字右○〕はむ〔右○〕の緩言にて、見むを見まく、聞むをきかまく、などいふに同じ、これらのまく〔二字右○〕は、む〔右○〕といふと同意にて、まし〔右○〕と一つ詞なるを、下につゞけむとて、はたらかして、まくといふ也、べし〔二字右○〕を下へつゞくる時、べく〔二字右○〕といふに同じ、
一首の意は、吾都には大雪ふりたり、汝がすめる大原の郷にふらむは、此後ならむと、都の初雪を愛《メデ》給ひて、ほこりがに詔ひたる也、
 
藤原(ノ)夫人奉v和(ヘ)歌一首 
 
吾崗之於可美爾言而令落《ワガヲカノオカミニイヒテフラシメシ》、雪之摧之彼所爾塵家武《ユキノクダケシソコニチリケム》
 
吾崗之《ワガヲカノ》は、大原(ノ)里の岡也、崗、元本官本温本には、岡とあり、玉篇に、岡俗作v崗とあり、又王獻之(ノ)書(ノ)洛神賦、顔眞卿(ノ)書(ノ)麻姑仙壇記等に、岡を崗と作《カケ》り、いと古くよりの體なり、○於可美爾言而《オカミニイヒテ》は、於可美《オカミ》は※[雨/龍]《オカミ》にて龍をいふ、玉篇に、※[雨/龍](ハ)龍也、又作v靈、神也、霜※[雨/龍]【同上】とあり、古事記上卷に、次(ニ)集(ル)2御刀之|手上《タガミ》1血、自2手俣1漏出所v成神(ノ)名、闇於可美《クラオカミノ》神、書紀神代紀上の一書に、伊弉諾《イザナギノ》尊、拔v劔斬2軻遇突智《カグツチ》1爲2三段1、是爲2高※[雨/龍]《タカオカミ》とある原注に、※[雨/龍]此云2於箇美《オカミ》1とあり、龍は水をつかさどるものなれば、雨をふらし雪をもふらすなり、故に吾(44)岡にすめる※[雨/龍]にいひつけてふらしめし、その雪の摧けたるが、都には少しばかり散りたりけむとて天皇のほこりがに、大雪と詔給へるに對(ヘ)まつりて、かくはいひ貶《オト》しめし也、○雪之摧之《ユキノクダケシ》、之《シ》は其事柄をつよくきかする助辭也、考に、之《シ》は之毛《シモ》の略といへるはわろし、但し摧之《クダケシ》の下に、其レガ〔三字傍線〕といふ語を加へて聞(ク)べし、○彼所爾塵家武《ソコニチリケム》、彼所《ソコ》は京を指す、塵《チリ》は訓を借たるにて、散《チリ》也、家武《ケム》は過去をいふ、
一首の意は、御製に、大原のふりにし里にふらむは、此後ならむと、ほこりかにの給へるをうちけちて、此頃わが里のおかみにいひつけてふらしめし雪の、くだけたるが、少しばかり都にはふりたるならむと、和へまつれる也、
 
藤原(ノ)宮(ニ)御宇(シ)天皇(ノ)代 高天原廣野姫《タカマノハラヒロヌヒメノ》天皇
 
大津(ノ)皇子竊(ニ)下2於伊勢(ノ)神宮(ニ)1上來時、大伯《オホクノ》皇女御作歌
 
吾勢枯乎倭邊遣登佐夜深而《ワガセコヲヤマトヘヤルトサヨフケテ》、※[奚+隹]鳴露爾吾立所※[雨/沾]之《アカトキヅユニワガタチヌレシ》
 
藤原(ノ)宮の事は、卷一の注にいへり、天皇、後の謚號は持統天皇と申す、今本、天皇代の下に、天皇謚曰2持統天皇1の八字ありて大書す、諸古本には此八字小書す、又高天原(45)廣野姫天皇の八字は、今本及諸古本皆無し、元本、御宇の下に、高天原廣野姫の六字あり、天皇代の下の注文を、誤しるせるならむ、今、本書の例に依て改正す、○大津(ノ)皇子は、書紀、天武天皇二年紀に、先納(テ)2皇后(ノ)姉大田(ノ)皇女(ヲ)1爲v妃(ト)、生2大來《オホクノ》皇女(ト)與《トヲ》2大津(ノ)皇子1、持統紀に、朱鳥元年十月己巳、皇子大津、謀反發覺(シ)、逮2捕(ス)皇子(ノ)大津(ヲ)1、庚午賜2死(ヲ)皇子大津(ニ)於|譯語田《ヲサダノ》舍(ニ)1、時年二十四、妃皇女山(ノ)邊、被髪徒跣、奔赴(シテ)殉(ス)焉、見者皆歔欷(ス)、皇子大津(ハ)、、天渟原瀛(ノ)眞人(ノ)天皇【天武】第三子也、容止墻岸、音辭俊朗、爲(ニ)2天命開別(ノ)天皇1【天智】所v愛、及v長(ズルニ)辨有2才學1、尤愛2文筆(ヲ)1、詩賦之興、自2大津1始也とあり、○竊下云々、考別記云、天武天皇は、十五年九月九日崩ましぬ、さて大津(ノ)皇子、此時皇太子にそむき給ふ事、其、十月二日にあらはれて、三日にうしなはれ給へり、此九月九月より十月二日まで、わずかに二十日ばかりのほどに、大事をおぼし立ながら、伊勢へ下り給ふ暇はあらじ、且|大御喪《オホミモ》の間といひ、かの事おぼすほどに、石川(ノ)郎女をめし給ふべくもあらず、仍て思ふに、天皇御病おはすによりてはやくより.おぼし立ことありて、其七八月の比に、彼大事の御祈、又は御姉の斎王に聞え給(ハ)むとて、伊勢へは下給ひつらむ、さらば清御原(ノ)宮の條に載べきを、其天皇崩ましてより後の事は本よりにて、崩給はぬ暫前の事も、崩後にあらはれし故に、持統の御代に入しならむとあり、しかなるべし、但し彼大事(46)の御祈とのみいひては、大事を祈り奉る如く聞えていかゞなり、此は其比、此大事の顯るべき兆《キザ》しのあるによりて、身の上の恙なからむ事を、祈り申さむが爲、且は姉君にも此事うちあけもし、事顯れて罸《ツミナ》はれむには、再び對面もしがたきよしなど、聞えあげしならむ、皇女の御歌のいたく悲しく聞ゆるは、これが爲なるべし、○大伯《オホクノ》皇女は、天武天皇の女なり、大來《オホクノ》皇女ともかけり、齊明紀に、七年正月甲辰、御船到2于|大伯《オホクノ》海1時、大田(ノ)姫皇女産v女焉、仍名2是女1曰2大伯((ノ))皇女1とあり、大伯((ノ))海は、和名抄に、備前(ノ)國邑久(ノ)郡邑久【於保久】とあり、此處の海也、書紀、天武紀二年夏四月己巳、欲v遣v侍2大|來《クノ》皇女(ヲ)于天照大神(ノ)宮(ニ)1、而令v居2泊瀬(ノ)斎宮1云々、三年冬十月乙酉、大來(ノ)皇女、自2泊瀬(ノ)齋宮1向2伊勢(ノ)神宮1【十四歳】云々とありて、此時伊勢(ノ)齊宮にて御坐《オハセ》る也、
吾勢姑《ワガセコ》とは、御弟大津(ノ)皇子をさす、すべて古人、男子よりは女子を妹《イモ》といひ、女よりは男を兄《セ》といふが定まりなり、書紀仁賢紀に、古者不v言2兄弟長幼1、女以v男稱v兄《セ》、男以v女稱v妹とあり、枯、元本温本拾本には、※[示+古]と作《ア》り、○倭邊遣|登《ト》、登《ト》はとくて〔二字右○〕の意なり、〇佐夜深而《サヨフケテ》、佐《サ》は發語也、○※[奚+隹]鳴露爾《アカトキヅユニ》は、曉露《アカトキヅユ》也、書紀仁徳紀にも、※[奚+隹]鳴をアカツキ〔四字右○〕とよめり、曉をあかつき〔四字右○〕といふは、やゝ後の事なり、集中、假字がきの所は、安可等伎《アカトキ》、又|阿加登吉などのみあり、新撰字鏡にも、※[日+出]、旭、※[日/〓/口]などを、阿加止支《アカトキ》とよめり、明時《アカトキ》の意也、○(47)吾立所※[雨/沾]之《ワガタチヌレシ》、舊訓に、吾をワレとよめるはわろし、之《シ》は過去のし〔右○〕にて、わがのが〔右○〕の結び也、此卷下に、我二人宿之《ワガフタリネシ》ともあり、古事記中卷の歌にも、和賀布多理泥斯《ワガフタリネシ》とあり、並に之《シ》は賀《ガ》の結び也、此は夜のふくるとも知(ラ)ずして、皇子の行方を見おくりをりしかば、遂に曉近くなりて、露にぬれたりと也、いとあはれなる御歌也、
一首の意は、吾せこを大和へかへしやるとて、別れのをしさに、夜更け行くをもしらず、行方を見おくりをりし程に、曉近くなりて、我身は露にぬれそぼちたる事よとなり、
 
二人行杼去過難寸秋山乎《フタリユケドユキスギガタキアキヤマヲ》、如何君之獨越武《イカデカキミガヒトリコユラム》
 
二人行杼《フタリユケド》、杼《ド》はども〔二字右○〕の意也、○去過難寸《ユキスギガタキ》云々は、秋山は草も木も枯て、物さびしき折なればなり、○如何《イカデカ》は、俗にドウシテカ〔五字傍線〕の意、○獨越武《ヒトリコユラム》は、しのびて下らせ給ふとも、などか御供の人もなからむ、しかるにかくの給ふは、歌のうへの常なり、考に、ヒトリコエナム〔七字傍線〕とよみ改めたるは非也、必コユラム〔四字傍線〕といふべき所なり、但しラム〔二字傍線〕とよまむには、ラ〔右○〕にあたる文字なきから、しかよみ改めたるならむか、かゝる處に文字を省ける事、集中其例いと多し、其はまづラ〔右○〕を省けるは、卷七【十一右】に、與杼湍無□之《ヨドセナカラシ》、又ケム〔二字傍線〕のケ〔右○〕む省けるあり、卷七【十四左】に、衣丹摺□牟《キヌニスリケム》、卷十二【三十一右】に、入而所見□牟《イリテミエケム》な(48)ど猶多し、ことごとくは余が萬葉集讀例に集めおきたり、
一首の意は、二人共々に行かむだに、物さびしき秋山なるを、語らふ人もなく、しかも夜のほどに、ひとり越行給ふ御心は、いかにあらむと思へば、泪もせきあへぬばかりなりと也、其情いと深くて、よむ人をして斷腸の思あらしむ、代匠記に、同腹の陸じき御兄弟の、珍らしき御對面に、程なく歸り上らせ給ふ、あかぬ御別には、さらでもかくよませ給ふべきながら、殊に身にしむやうに聞ゆるは、御謀反の志をも聞せ給ひしなるべければ、事の成不成も覺束なく、又の對面も如何ならむと思召、御胸より出ればなるべしといへるは、げにさる事なりけり、
 
大津(ノ)皇子贈2石川(ノ)郎女1御歌一首
 
足日木乃山之四付二妹待跡《アシビキノヤマノシヅクニイモマツト》、吾立所沾山之四附二《ワレタチヌレヌヤマノシヅクニ》
 
石川(ノ)郎女は、上の久米(ノ)禅師との贈答ありし人か、又は別人か、猶次の石川(ノ)女郎の所にいへるを、合攷すべし、
足日米木《アシビキ》は枕詞也、此詞の解はくさぐさ有(レ)ど、何れもげにとおぼゆるはなし、記傳卷三十九【二十三左】に、阿志比紀能《アシビキノ》は山の枕詞にて、足引城之《アシヒキノ》也、足は山(ノ)脚《アシ》、引《ヒキ》は長く引延《ヒキハヘ》た(49)るを云ふ、城《キ》とは一構《ヒトカマヘ》なる地《トコロ》を云て此は即(チ)、山の中なる處を云、といへるに暫く從ふべし、〇四付二《ツヅクニ》、しづくは、木(ノ)葉より落る雨露なり、○妹待跡《イモマツト》、跡《ト》はとて〔二字右○〕の意、跡の字を借たるは、アト〔二字右○〕の略訓也、〇吾立所沾《ワレタチヌレヌ》、所沾《ヌレヌ》は濡《ヌレ》ぬ也、沾は正字通に、漬也濡也、別(ニ)作v※[雨/沾]とあり、○山之四附二《ヤマノシヅクニ》、かく同じ言を再びくりかへしいふは、何れも其事を強く聞せむが爲なり、
一首の意は、今夜は郎女の訪《トヒ》もやすと、山のしづくをも厭はず立待て、吾身はしどゝにぬれそぼちたれど、遂にとひ來ぬによりて、いたづらに待あかしたる事よと也、
 
石川(ノ)郎女奉v和歌一首
 
吾乎待跡君之沾計武足日木能《アヲマツトキミガヌレケムアシヒキノ》、山之四附二成益物乎《ヤマノシヅクニナラマシモノヲ》
 
吾乎《アヲ》は、舊訓に、ワレヲ〔三字右○〕とあるはわろし、アヲ〔二字右○〕と訓べし、卷十二【十九右】に、安乎忘爲莫《アヲワスラスナ》、卷十四【十九左】に、安乎許登奈須那《アヲコトナスナ》などあり、
一首の意は、吾を待とて、君が沾《ヌレ》給ひけむ、山のしづくにならましものを、さは知ざりしかば、あふ事の難きをのみ、なげきてありし事よと也、
 
(50)大津(ノ)皇子竊(ニ)婚《ミアヒマシヽ》2石川(ノ)女郎(ニ)1時、津守(ノ)連|通《トホル》、占2露《ウラヘアラハシヽカバ》其事1、皇子御作歌一首
 
大船之津守之占爾將告登波《オホブネノツモリノウラニツゲムトハ》、益爲爾知而我二人宿之《マサシニシリテワガフタリネシ》
 
石川郎女、又女郎といふ人、所々に出たるが、同名別人ならむと見ゆるもありて、いと紛はし、上の久米(ノ)禅師が婚《ヨバヒ》たりし人は、またく同名別人なるべし、又此次に、日並(ノ)皇子(ノ)尊の御歌賜ひし女郎は、其處の古注に、女郎字曰2大名兒1とあれば、これ又別人なるべし、【卷四【十八右にも、石川(ノ)女郎(ノ)歌ありて、古本(ノ)注に、即佐保大伴(ノ)大家也とあれば、此は大伴安麿卿の室にて、これも同名別人也、卷三【五十五右】に、尼理願が死去を悲める歌の左注也に、大家石川命婦とある此人なり、又卷二十【五十七左】の左注に、右一首藤原宿奈麿朝臣之妻、石川女郎薄愛離別、悲恨作歌也とあるは、又別人なるべし、】さて此《コヽ》の石川(ノ)女郎は、下に大津(ノ)宮(ノ)侍《マカダチ》とある古注に、女郎字曰2山田(ノ)郎女1也とありて其處に出たる、大伴(ノ)田主に贈れる歌の、左注の趣を以て見るも、尋常一樣の婦人とは見えず、又彼の大伴(ノ)宿奈麿に贈れる歌も、たゞ人のとは思はれざる也、橘(ノ)守部が檜※[木+瓜]の別記には、此等の石川女郎は皆同人にて、もと遊行女婦にてありしならむとて、大伴(ノ)宿奈麿に贈れる歌の注に、大津(ノ)皇子うしなはれ給ひし後、又衢に出て、勢ひもおとろへ、年齢もおよ(51)すげけむ、故に彼さをふ水あらばといふ心になりて、大伴(ノ)田主にもよそりつき、又此人にもこひしにや、歌に、古《フリ》にし嫗にしてやとよめる、實に此時はさた過たるべしといへり、げにさる事とぞおぼゆる、但し檜※[木+瓜]に、皆同人なりとして次に日並(ノ)皇子(ノ)尊の、御歌賜ふ事あるをみれば、津守(ノ)連に令《オホ》せて、占(ヒ)露はされしにや、又下に、大津(ノ)皇子(ノ)宮(ノ)侍とあるを思へば、此後宮に引入置給ひて、皇太子の召を妨げ給ひしにこそ、かくて此女婦より、二皇子の御中あしくなり、大津(ノ)皇子は、朱鳥元年にうしなはれ給ひにけむ云々といへるは、萬葉考の説を、おしひろげたるものなれども、いかゞ也、其は日並(ノ)皇子(ノ)尊の御歌賜ひしは、大名兒にて山田(ノ)郎女にはあらず、又久米(ノ)禅師が娉《ヒ》しも、上にいへる如く、別人なるべければ也、又(ヒ)※[木+瓜]に、卷三なる、石川少郎とあるも、此女郎の事なりとて、論じたれど、其事は別にいふべし、○婚はミアヒマシシ〔六字右○〕と訓(ム)べし、○津守(ノ)連通は、養老五年正月甲戌詔曰、文人武士(ハ)國家所v重、醫卜方術(ハ)古今(ノ)期v崇(ヲ)、宜【丙】擢d於百僚之内優2遊學業(ニ)1堪v爲爲2師範(ト)1者(ヲ)u、特(ニ)加2貫賜(ヲ)1勸【乙】勵(ス)後生(ニ)【甲】、因賜2陰陽從五位下津守(ノ)連通王(ニ)、※[糸+施の旁]十疋、絲十※[糸+句]、布二十端、鍬二十戸(ヲ)1とあり、卜占の道に長じたる人也、○占露の二字は、ウラヘアラハシヽカバ〔十字右○〕と訓(ム)べし、ウラヘ〔三字傍線〕は卜合《ウラアヘ》の略言也、
大船之《オホブネノ》は枕詞也、船のよる津といふ意也、〇將告登波《ツゲムトハ》、舊訓にツゲムトハ〔五字右○〕とあるを、(52)考には、ノラムトハ〔五字右○〕と改めよみたり、但し卜の辭をば、多くノル〔二字右○〕といへれば、考に改めよめるもさる事なれど、卷十三【二十六左】に、吾問之可婆《ワガトヒシカバ》、夕卜之吾爾告良久《ユフウラノワレニツグラク》、吾妹兒哉《ワギモコヤ》云々とあるは、ノラク〔三字右○〕と訓(ミ)ては、調べ手つゝにてよろしからず、さればこゝも舊訓のまゝに、ツゲムトハ〔五字右○〕と訓(ム)べし、按ふに、直に卜かたに出たる事をいへるには、ノル〔二字右○〕といひ、人に對する時は、ツグ〔二字右○〕といへるなるべし、○益爲爾知而《マサシニシリテ》、益爲《マサシ》は訓を借たるのみにて正《マサ》し也、卷十一【十三左】に、夕占問占正謂妹相依《ユフゲトフウラマサニノレイモニアヒヨラム》、卷十四【七左】に、武藏野爾宇良敝可多也伎麻左※[氏/一]爾毛《ムサシヌノニウラヘカタヤキマサテニモ》、乃良奴伎美我名宇良爾低爾家里《ノラヌキミガナウラニデニケリ》などあるマサ〔二字右○〕と同じ、但し略解に、鈴屋の説とて、此十四(ノ)卷なる歌を引て此|益爲爾《マサシニ》の爾《ニ》は、※[氏/一]《テ》の誤にて、正定の意ならむ、といへるもわろし、正《マサ》しのし〔右○〕は、しく〔二字傍線〕し〔傍線〕しき〔二字傍線〕の活詞のし〔右○〕にて、終止言なるを、體言にいひなしてそれをに〔右○〕と受(ケ)たる也、くしき〔三字右○〕の活用の無(ノ)字にあたる詞のなし〔二字傍線〕を、なし〔二字傍線〕に〔右○〕と受るにて心得べし、後のものながら、後撰集戀一に、まどろまぬかべにも人を見つるかな、まさし〔三字傍線〕からなむ春の夜の夢、古今集誹諧に、思ひけひ人をぞ友におもはまし、まさしや〔四字傍線〕むくいなかりけりやは、山家集に、年くれぬ春くべしとはおもひねに、まさしく〔四字傍線〕見えてかなふはつ夢などあり、これにてまさし〔三字傍線〕の詞を辨ふべし、○我二人宿之《ワガフタリネシ》、之《シ》は過去のしにて、わがのが〔右○〕の結び也、古事記中卷、神武天皇(53)の大御歌に、須賀多多美伊夜佐夜斯岐※[氏/一]和賀布多理泥斯《スガダタミイヤサヤシキテワガフタリネシ》ともあり、
一首の意は、津守が占にあらはされむ事は、かねても正《マサ》しく知つれど、戀しさにえ堪ずして、二人宿《ネ》し事のはかなさよとなり、
 
日並《ヒナメシノ》皇子(ノ)尊、贈2賜石川(ノ)女郎1御歌一首【女郎字曰2大名兒1也】
 
大名兒彼方野邊爾苅草丹《オホナゴヲヲチカタヌベニカルクサノ》、束間毛吾忘目八《ツカノアヒダモワレワスレメヤ》
 
日並(ノ)皇子、考には、日並の下に、知(ノ)字を補へり、略解にも、日並の下、知の字有べしといへり、此は續日本紀、卷一【一右】卷三【二十五右】等に、日並知(ノ)皇子(ノ)尊とあるに依てなるべし、しかれども下の殯宮の時の端書にも、日並(ノ)皇子(ノ)尊とありて、諸古本どもにも皆かくあり、されば後人の誤り脱したるにはあらず、もとよりかくかけるにこそ、其は天武天皇の郡、清御原(ノ)宮を、古書どもに、清原(ノ)宮とかけるなどに同じくて、當時其文の冗長なるを厭《キラ》ひて殊更に省略してかける也、吉備大臣の名、眞吉備《マキビ》なるを、續紀に眞備とあるも、吉の字を省(キ)かける也、かゝる例他にも多くあり、かくて此處なる日並皇子を、元暦本の目録のかたには、日並所知〔二字右○〕皇子尊とかけり、【校異本に引る古本も同じ】又本朝月令に、右官史記を引けるにも、日並所知〔二字右○〕皇子命と作《カキ》、永萬元年鈔本の七大寺年表(54)に、龍蓋寺傳記を引て、日並所知〔二字右○〕皇子とあり、かくて續日本紀卷四【一左】に、日並知〔右○〕皇太子とあるを、村尾元融が考證に、知(ノ)上(ニ)卜本永正本補寫本堀本(ニ)有2所字1といへり、かゝればもとは、日並所知〔二字右○〕皇子とかけりけむを、所の字を省きて、日並知とかき、又知の字をも省きて日並とのみもかけるなりけり、又大和國栗原寺の鑪盤(ノ)銘には、日並御宇〔二字右○〕東宮と記せり、此御宇も、所知とあると同じく、シ〔右○〕といふ言に充たる文字にて、ヒナミシ〔四字右○〕は、日嗣《ヒツギ》の並《ナミ》に天下を所知看《シロシメス》意の稱(ヘ)名なる事を知べし、さて其唱へは、卷一【二十二右】の歌に、日雙斯《ヒナミシノ》皇子(ノ)命とあるにて定むべし、【此事は明治廿一年十二月刑行したる、余が※[木+觀]齋雜攷に詳かに辨じおきたれば、合考すべし、】○女郎字曰2大名兒1也、大以下四字、今本脱せり、今諸古本及目録に依て補ふ、仙覺抄、又袋(ノ)草紙に引るにも此注あり、字《アザナ》はいと古くより用ゐ來れる事と見えて、書紀孝徳紀に、大伴(ノ)長徳(ノ)連【字馬飼】蘇我(ノ)臣日向【字身刺】などあり、猶いと多し、婦人の名に某兒といふは、もと親しみ尊みていふことなれど、後にはたゞ呼名に添ていへるなり、上文なる釆女安見兒、又卷十六【六右】に、娘子字曰2櫻兒1、同卷【六左】に、娘子字曰2鬘兒1などあるも皆同じ、
彼方野邊爾《ヲナカタヌベニ》は、かしこの野邊者に也、○苅草乃束間毛《カルクサノツカノアヒダモ》、元本、束の下に之の字あり、苅草、舊訓にカルカヤノ〔五字傍線〕と訓るはわろし、草をカヤ〔二字傍線〕とよむは、屋を覆ふ料にする時にい(55)ふ稱にて、すべてはクサ〔二字傍線〕といふべき也、草を苅て束《ツカ》ぬといふいひかけ也、つかの間は暫《シバシ》の間《ホド》也、束《ツカ》は握《ツカ》にて、四(ツ)の指をならべたる程をいひて、短き事のたとへなり、書紀に、十握劍《トツカツルギ》、八握鬚《ヤツカヒゲ》などありて、物をにぎる事、今ツカム〔三字右○〕といふ是也、此は刈たる草の一|握《ツカ》(ミ)ほどなるをいひて、短き間といふ意なり、卷十一【三十九右】に、紅之淺葉乃野良爾苅草乃《クレナヰノアサハノヌラニカルクサノ》、束之間毛吾忘渚菜《ツカノアヒダモワヲワスラスナ》ともあり、○吾忘目八《ワレワスレメヤ》は、吾(レ)忘れむやは忘れはせぬと也、目《メ》はむ〔右○〕の通言、八《ヤ》は也波《ヤハ》の意也、
一首の意は、大名兒を戀しく思ほすあまり、しばしのほども、御心に忘るゝ間《ヒマ》なく思ふとなり、
 
幸2于吉野(ノ)宮1時、弓削《ユゲノ》皇子、贈2與額田(ノ)王1歌一首
 
古爾戀流鳥鴨弓絃葉乃《イニシヘニコフルトリカモユヅルハノ》、三井能上從鳴渡遊久《ミヰノウヘヨリナキワタリユク》
 
弓削(ノ)皇子は、天武天皇第六(ノ)皇子也、○歌の上に、御の字脱たるか、但し諸古本皆無れば、暫く舊本に從ふ、
 
古爾戀流鳥鴨《イニシヘニコフルトリカモ》、古爾《イニシヘニ》のに〔右○〕は、を〔右○〕の意のに〔右○〕にて、卷四【四十五左】に、家人爾戀過目八方川津鳴《イヘビトニコヒスギメヤモカハヅナク》、泉之里爾年之歴去者《イヅミノサトニトシノヘヌレバ》、卷六【二十二左】に、湯原爾鳴蘆多頭者如吾《ユノハラニナクアシタヅハワガゴトク》、妹爾〔右○〕戀哉時不定鳴《イモニコフレヤトキワカズナク》など(56)あるに同じ。此鳥は、次の奉v和歌に、霍公鳥《ホトヽギス》とあり、○弓絃葉乃三井能上從《ユヅルハノミヰノウヘヨリ》、絃を、略解に、弦に改たるは私也、古へ弦絃は通じ用ゐし也、但し官本には、弦とあれど、其他の古本どもには、何れも絃とあるなり、官本はさかしらせしなるべし、弓絃葉《ユヅルハ》は、讓《ユヅリ》葉といふ木の名を以ておひたる地名也、此木常に庭園に植るものにて、新葉|生《オ》ひて後舊葉落る也、故に讓《ユヅリ》葉と名づく、大和志に、弓絃葉(ノ)井在v二、一(ハ)在2池田(ノ)荘六田村(ニ)1、一(ハ)在2川上(ノ)荘大瀧村(ニ)1といへり、三井の三は借字にて、御井なり、卷一に、藤原(ノ)御井、山(ノ)邊(ノ)御井、などあるに同じく美稱也、上《ウヘ》は邊《ホトリ》をいふ、○鳴渡遊久《ナキワタリユク》、渡の字、元本には済と作《カキ》て、校語に或本作v渡といへり、いづれにてもあるべし、遊久《ユク》は、吉野より大和のかたになり、
一首の意は、昔(シ)御父の天皇【天武】の、此に行幸ありし折の事を、思ひ出てしのべる折しも、時鳥の鳴わたるは、吾が如くかれも古(ヘ)を戀てなくならむとなり、額田(ノ)王も、此天皇にめされし人にて、古へをしのぶ情の同じかるべければ、此御歌をよみておくり給ひし也、
 
額田(ノ)王奉v和歌一首 從2倭京1進入
 
(57)古爾戀良武鳥者霍公鳥《イニシヘニコフラムトリハホトヽギス》、盖哉鳴之吾戀流其騰《ケダシヤナキシワガコフルゴト》
 
一首の下なる、從2倭京1進入の五字、今本にはなし、今、元本温本官本家本昌本活本拾本に依て補ふ、
古爾《イニシヘニ》は、上と同じく、古(ヘ)をの意也、〇霍公鳥《ホトヽギス》、時鳥を霍公鳥といふことの説は、卷一の別記、呼兒鳥の條に精し、○蓋哉鳴之《ケダシヤナキシ》、けだしは若《モシ》といふ意にて凝ふ辭也、卷四【四十四右】に、盖毛人乃中言聞可毛《ケダシクモヒトノナカゴトキケルカモ》、幾許雖待君之不來益《コヽダマテドモキミガキマサヌ》、同卷【四十八左】に、夜晝云別不知吾戀《ヨルヒルトイフワキシラズワガコフル》、情盖夢所見寸八《コヽロハケダシユメニミエキヤ》、卷十七【四十五左】に、氣太之久毛安布許等安里也等《ケダシクモアフコトアリヤト》云々などあるにて、其意を明らむべし、新撰字鏡に、※[人偏+黨](ハ)設也、若也、※[人偏+周]也、太止比、又介太志とあり、かの鳥も吾が古へを戀る如く、もしや古へを戀てなきしならむの意也、考に、其鳥はけだしほとゝぎすならむとおしはかるなり、といへるは非也、○吾戀流其騰《ワガコフルゴト》、其〔右○〕の字、各本同、元本には碁と作《アリ》て、校語に、一本作v基、或作v其とあり、
一首の意は、君が古へにこふる鳥かもとのたまへる、その烏はほとゝぎすにて、ほとゝぎすは、古へを戀慕ふ鳥なりといへば、吾が古へを戀る如く、古へを思ひてなきしならむとなり、
 
(58)從2吉野1折2取(テ)蘿生松柯《コケムセルマツガエヲ》1遣(リタマヘル)時額田(ノ)主(ノ)奉入《タテマツル》歌一首、
 
三吉野乃玉松之枝者波思吉香聞《ミヨシヌノタママツガエハハシキカモ》、君之御言乎持而加欲波久《キミガミコトヲモチテカヨハク》
 
蘿生はコケムセル〔五字右○〕と訓(マ)べし、此卷の下に、子松之末爾蘿生萬代爾《コマツガウレニコケムスマデニ》、卷六【二十二左】に、奥山之磐爾蘿生《オクヤマノイハニコケムシ》などあり、和名抄苔類に、雜要決(ニ)云、松蘿一名女蘿、【和名萬豆乃古介、一云佐流乎加世、】とあるものにて深山の樹上にかゝりて長く垂れ下れり、今俗にサガリゴケ〔五字右○〕といふもの是也、其形かせ糸の如し、故にさるをかせ〔五字右○〕ともいふ也、○松柯《マツガエ》玉篇に、柯、音(ハ)哥、枝也とあり、○遣時、遣の字、今本には遺に誤る、今諸古本及目録に依て改(ム)、○奉入《タテマツル》、入の字は、添(ヘ)てかける文字也、但し其尊む意を示さむとてのわざ也、例(ヘ)ば祝詞式に、齋内親王(ヲ)奉入《タテマツル》時、【但雲州板には、參入とあり、】又天長五年(ノ)宣命に、大神(ノ)御杖代【止之弖】奉入【多留、】三代實録卷三十にも、御杖代【止之天】奉入【倍流奈利】などあり、此は弓削(ノ)皇子の、吉野より蘿《コケ》むせる松が枝に、御文をそへて給へるにつきて、額田(ノ)王の奉れる歌也、但し上に、幸2于吉野(ノ)宮1時、弓削(ノ)皇子云々、とあると同じ時の事なれば、こゝには別にそのよしをば書(ル)さゞるなり、(59)古へ、文又は歌などを、木の妓につけておくる事、物語ぶみ、又は日記などに見えたるが、此端詞によれば、いと古くよりの習はしとぞみえたる、
玉松之枝者《タママツガエハ》、玉は美稱也、しかるを考に、老松の葉は圓らかなるを玉松といふべし、丸らかに繁き篠を玉ざゝ、まろき筺を玉かたま、などいふ類也といへるは非也、玉篠玉かたまも皆美稱なるをや、此他玉藻、玉椿、玉柏など、皆同じくほむる詞也、又玉勝間、卷十三に、玉は山の誤にて、山松が枝なりといへるもわろし、其由は猶此卷なる、玉※[草冠/縵]影爾所見乍《タマカヅラカゲニミエツヽ》とある所にいふべし、○波思吉香聞《ハシキカモ》、波思吉《ハシキ》は愛《ハシキ》にて、即(チ)愛する意也、此卷に愛伎妻等者《ハシキツマラハ》、卷四【四十一右】に、愛妻之兒《ハシキツマノコ》、又假字がきなるは、卷二十【十九右】に、波之伎都麻良波《ハシキツマラハ》、同卷【三十三左】に、波之伎多我都麻《ハシキタガツマ》などあり、香聞《カモ》は歎辭也、○君之御言乎持而加欲汝久《キミガミコトヲモチテカヨハク》、御言《ミコトは御文をさす、持而《モチテ》は松の技が持て也、加欲波久《カヨハク》はかよふの緩言にて通《カヨ》フコトハヨといふほどの意也、
一首の意は、此玉松はまことに愛《アイ》らしきかな、ゆかしくおもふ君の御言を持て、かくはる/”\かよひこし事はと也、
 
但馬(ノ)皇女|在《イマセル》2高市(ノ)皇子(ノ)宮(ニ)1時、思(テ)2穂積(ノ)皇子(ヲ)1御作歌一首
 
(60)秋田之穗向乃所縁異所縁《アキノタノホムキノヨレルカタヨリニ》、君爾因奈名事痛有登母《キミニヨリナナコチタカリトモ》
 
但馬皇女は、天武天皇の皇女にて、母は氷上(ノ)娘なり、高市(ノ)皇子も共に、天武天皇の皇子にて、異母兄弟なり、目録に、宮の下に之の字あり、○御作歌、作の字、今本及元本温本家本昌本並に無し、今官本拾本及目録に依て補ふ、
穂向乃所縁《ホムキノヨレル》、卷十【五十一右】に、秋田之穗向之所依片縁《アキノタノホムキノヨレルカタヨリニ》ともあり、稻穗は實のるにしたがひて、一方にたれふすものなれば也、舊訓にホムケノヨスル〔三字右○〕とあるはわろし、ヨスル〔三字右○〕は風などの吹よする意なれば、こゝに叶はず、又穗向は卷十七【十七左】に、秋田之穗牟伎見我底利《アキノタノホムキミガテリ》とあるによりて、ホムキ〔三字右○〕と訓べし、○君爾因奈名《キミニヨリナヽ》、因《ヨリ》は依り從ふ意、奈名《ナヽ》はなむ〔二字右○〕といふ意のつよき辭にて、なむ〔二字右○〕は他のうへにも自(ラ)のうへにもひろくいふを、なゝ〔二字右○〕は自(ラ)のうへにのみいふ辭也、卷一雄略天皇の御製歌の注にくはしくいへり、○事痛有登母《コチタカリトモ》、事は借字にて、卷四【二十二右】に、他辭乎繁言痛《ヒトゴトヲシゲミコチタミ》とある文字の如く、言痛《コトイタミ》なるを、トイ〔二字右○〕の切チ〔右○〕なるが故に、急言してコチタミ〔四字右○〕といふなり、次下の歌に、人事乎繁美許知痛美《ヒトゴトヲシゲミコチタミ》と正しき假字がきもあり、人にいひさわがれぬとも、それをもいとはず、君が方によりなむとなり、さて此詞、後の物語ぶみには、事しげくらうがは(61)しき事にいへるを、此意に近きが集中にもあり、其は卷十二【十一右】に、人言乎繁三毛人髪三《ヒトゴトヲシゲミコチタミ》とあるは、蝦夷を毛人ともいへるにつきてかける文字にて、其毛の多きを以て、コチタミ〔四字右○〕といふ言にあてたるは、則かの事しげくらうがはしき意ともせしなり、これによりて按へば、卷十【六十右】に、甚多毛不零雪故言多毛《ハナハダモフラヌユキユヱコチタクモ》、天三空者隱相管《アマツミソラハクモリアヒツヽ》とあるも、言は許の誤れるにて、コヽダクモ〔五字傍線〕とよむべし、との説もさることなれど、舊訓にコチタクモ〔五字傍線〕とあるによれば、多の下に、久のありしが落たるにてこれも雲の重なり合(ヒ)たるが.しげくらうがはしきよしなるべくこそ、さるは集中、コヽダク〔四字傍点〕コヽダ〔三字傍線〕コヽラ〔三字傍線〕などには、皆幾許とのみありて、許多とかける事は、一つもある事なければ也、此はついでにおどろかしおくなり、
一首の意は、言いたく人にいひさわがれぬとも、今はそれともいとはず、一向《ヒタスラ》に君によりなびかむとなり、
 
勅2穂積《ホヅミノ》皇子(ニ)1遣(ルヽ)2近江(ノ)志賀山寺(ニ)1時、但馬(ノ)皇女(ノ)御作歌一首、
 
遣居而戀管不有者追及武《オクレヰテコヒツヽアラズハオヒシカム》、道乃阿囘爾標結吾勢《ミチノクマワニシメユヘワガセ》
 
(62)遣の字、今本及家本昌本、遺に誤る、類本に追とあるも誤り也、今元本温本官本拾本に依て改(ム)、○志賀山寺は崇福寺をいふ、扶桑畧記に、天智天皇七年正月十七日、於2近江(ノ)國志賀(ノ)郡1建2崇福寺(ヲ)1、續日本紀に、天平十二年十二月乙丑、幸(シ)2志賀山寺(ニ)1禮v佛(ヲ)などあり、此皇子を此寺に遣されし事につきて、考に、左右の御歌どもを思ふに、かりそめに遣さるゝ事にはあらじ、右の事顯れたるに依て、此寺へうつして、法師に爲給はむとにやあらむといへるは、御歌のおもむきより考ふるも、さこそおぼゆれ、此卷のはじめに出たる、輕(ノ)太子と輕(ノ)太郎女と※[(女/女)+干]《タハケ》給へるによりて、太子を伊豫に流し給ひし事など、思ひ合すべし、
遺居而《オクレヰテ》、皇女は京にのこり居給へばかくいふ、遺の字は、行く人に後れてのこれる意を以てかける也、卷十二【三十三左】に、君所遺而戀敷念者《キミニオクレテコヒシクオモヘバ》ともあり、○戀管不有者《コヒツヽアラズハ》は、戀つゝあらむよりはの意也、上に既にいへり、○追及武《オヒシカム》、舊訓にオヒユカム〔五字右○〕とあるはわろし、考に、仁徳紀に、皇后の筒城の宮へおはせし時、夜莽之呂珥《ヤマシロニ》、伊辭鶏苔利夜莽《イシケトリヤマ》、伊辭※[奚+隹]之※[奚+隹]《イシケシケ》とよませ給へるに同じく、こゝはおひあよばむてふ意也、とあるが如し、及の字は、本集他所にも多くシク〔二字傍線〕とよみたり、〇道之阿囘爾《ミチノクマワニ》、玉篇に、阿(ハ)曲也、回(ハ)回轉也とあり、ワ〔右○〕と訓(ム)よしは、卷一別記にしるせり、回の字、元本温本昌本類本拾本に(63)は、※[廻の回が囘]と作《ア》り、官本家本には、廻と作《ア》り、廻は回と同字、廻も回と、音訓ともに同じき文字なり、○標結吾勢《シメユヘワガセ》、此は道しるべの爲に、裂帛《サイヂ》やうのものなどを、道の阿曲《クマ》ごとに、結《ユヒ》つけおき給へとなり、即(チ)道のしをりのこと也。常に繩引はへて、人の入(ル)まじき料《タメ》にする標繩《シメ》にはあらず、混ずべからず、
一首の意は、君に後れ居て、戀つゝあらむはいとくるし、跡につきて追ひ及ぶべければ、道の阿曲《クマ》ごとに、しるべの標《シルシ》をつけおき給へかしとなり、
 
但馬《タヂマノ》皇女|在《イマセル》2高市《タケチノ》皇子(ノ)宮(ニ)1時、竊(ニ)接《ミアヒマシテ》2穗積(ノ)皇子(ニ)1、事既(ニ)形《アラハレテ》而後(ニ)御作歌一首
 
人事乎繋美許知痛美己《ヒトゴトヲシゲミコチタミオノ》母|世爾《ヨニ》、未渡朝川渡《イマダワタラヌアサカハワタル》
 
接は、廣韻に、交也合也とあり、ミアヒマシと訓(ム)べし、而(ノ)下の後の字、今本になし、諸古本も皆同じ、今目録に依て補ふ、竊接、又事既形などあるは、常ざまの事ならず、上に出せる考の説の如くなるべし、
人事乎《ヒトゴトヲ》、事は借字にて、言《コト》也、○許知痛美《コチタミ》は、注上に出づ、痛《タ》はイタ〔二字右○〕のイ〔右○〕を省て用ゐた(64)るなり、イは知《チ》の韻《ヒヾキ》なれば、自然に省(キ)いはるゝ也、人にいひさわがるゝ事の繁く甚しさにとなり、○巳母世爾、此句につきてくさ/”\の説あれど、いづれも諾ひがたし、先(ヅ)代匠記には、巳母世爾を、いもせに〔四字右○〕と訓(ム)べしといひ、考には、おのもよに〔五字右○〕とよみて、も〔右○〕はが〔右○〕に通ふなりといひ、略解には、母は我の誤かといひ、又鈴屋の説を出して爾は川か河か水かの誤にて、いもせがは〔五字右○〕ならむかといへり、猶考べしとあり、此内代匠記の説は、差々穩かに聞えたり、巳をイ〔右○〕の假字とせるは、卷二十【二十右】に、已波比弖麻多禰《イハヒテマタネ》など猶多くあり、されど、いもせに、と四言の句とするは、此歌にては言たらぬやう也、考の説、母《モ》を之《ガ》の意といへるは非也、さる意の母はある事なし、略解、又鈴屋の説は、文字を改ての考へなれば、もとより從ひがたし、かくて元本官本温本類本拾本には、母の字なし、但し官本と温本の旁書には、一本に母の字ありとしるせり、此母の字のなき本に就ていはゞ、おのがのが〔右○〕は、よみそふる例にて事もなき也、【てにをはの文字をよみそふる例は、萬葉集讀例に集めおきたり、】又母の字のあるかたにては、おのも〔三字右○〕は、おのも/\といふ意にて、自身《ミヅカラ》と夫《セ》の君とをいふなるべし、續紀卷二十六の詔に、於乃毛於乃毛貞《オノモオノモサダカ》【仁】能《ヨ》【久】淨《キヨ》【伎】心《コヽロ》【乎】以《モチ》【天】とあり、鈴屋の詔嗣解に、つねにいふ各《オノオノ》は、己己《オノオオノ》なるを、それに毛を添ていへるにて、各《オノオノ》誰《タレ》も/\皆といはむが如しといひ、又古事記上に、各《オノオノ》中2置《ナカニオキテ》(65)天(ノ)安(ノ)河(ヲ)1とある、記傳七【四十八右】軋、各《オノオオノ》は互ひにと云むが如し、源氏物語若菜(ノ)上に、おのおのはまたなく契りおきてければ云々、これも互にの意なり、といへるが如く、こゝの各母《オノモ》も、おのも/\互にの意とすべし、○朝川渡《アサカハワタル》、朝川は朝の川なり、卷一にも、旦川《アサカハ》夕河《ユフカハ》といふ事あり、上の遺居而云々の御歌を思ふに、戀しさに堪かね給ひて、遂に追《オヒ》ゆき給ひし道に、小川などありて、橋もあらざれば、裾引かゝげて渡り給ひしわびしさをの給へるなるべし、考の又の説に、事あらはれしにつけて、朝明に道行給ふよし有て、皇女のなれぬわびしき事にあひ給ふをのたまふか、とあるをよしとす、
一首の意は、竊に接《ミア》ひし事の顯れて、人にいひさわがるゝより、君が他所へうつしまゐらせられつる事の悲しさに、あと追つきまつらむとて未だなれぬ川などをも渡る事よ、と歎き給ふなり、
 
舍人《トネリノ》皇子(ノ)御歌一首
 
大夫哉片戀將爲跡嘆友《マスラヲヤカタコヒセムトナゲヽドモ》、鬼乃益卜雄尚戀二家里《シコノマスラヲナホコヒニケリ》
 
大夫哉《マスラヲヤ》、大夫をマスラヲ〔四字右○〕と訓(ム)事、卷一軍王歌の注に、細しく辨じおきたり、此大〔右○〕夫を(66)丈〔右○〕夫の誤とする説は非也、哉《ヤ》はやは〔二字右○〕の意にて、次の句にうつして意得べし、大夫《マスラヲ》は片戀せむや、片戀などすべきにはあらぬものをと嘆けどもの意也、○片戀將爲跡《カタコヒセムト》、片戀は此方よりのみ思ふをいふ、本集此卷【三十三右】に、宿兄鳥之片戀嬬《ヌエドリノカタコヒヅマ》、卷八【二十四右】に、霍公鳥片戀爲乍《ホトギスカタコヒシツヽ》などあり、鳥は雄の方より雌を慕ふものなればなり、○鬼乃益卜雄《シコノマスラヲ》、鬼は醜の字の偏を略るなり、といふ説はいまだし、鬼にやがて醜の意あるなり、書紀通證に、神代紀の醜女を注して、醜女(ハ)即(チ)所v謂八色(ノ)雷公、而言2避v鬼之縁(ヲ)1、欽明紀、〓鬼訓爲2志古女《シコメ》1、則鬼之爲2醜女1、可2以知1也とある、此意にて、しこ〔二字右○〕は物をのゝしりいふ言なるを、此は自ら卑下していへる也、卷四【五十左】に、萱草吾下紐爾着有跡《ワスレグサワガシタヒモニツケタレド》、鬼乃志許草事二思安利家理《シコノシコグサコトニシアリケリ》、卷八【三十左】に、志許霍公鳥《シコホトヽギス》云々|雖追雖追《オヘドオヘド》などあり、益卜雄《マスラヲ》は訓を借たるなり、卜はウラ〔二字右○〕なれど、ウ〔右○〕を省きて、ラ〔右○〕の假字としたるなり、
一首の意は、われはかねて大夫《マスラヲ》なりとおもひをれば、片戀などはせまじと思へど、猶片戀せらるゝは、まことの大丈夫《マスラヲ》にはあらで、醜《シコ》の大丈夫よと歎き給へるなり、
 
舍人《トネリノ》娘子奉v和歌一首
 
歎管大夫之戀禮許曾《ナゲキツヽマスラヲノコノコフレコソ》、吾髪結乃漬而奴禮討禮《ワガモトユヒノヒドテヌレケレ》
 
(67)舍人(ノ)娘子は、注卷一下【八十八】にあり、
大夫之は、マスラヲノコノ〔七字右○〕と訓(ム)べし、卷九【三十三右】に、古之益荒丁子各競《イニシヘノマスラヲノコノアヒキソヒ》、卷十九【二十右】に、念度知大夫能《オモフドチマスラヲノコノ》、許能久禮《コノクレニ》云々などあり、○戀禮許曾《コフレコソ》はこふればこそ也、ば〔右○〕を畧せるは古言の一格也、禮、今本には亂に誤る、官本温本家本拾本には禮〔右○〕と作《ア》り、禮と亂と字體近し、故に誤りしなり、今改む、代匠記に引ける別校本にも、禮〔右○〕と作《ア》りといへり、又今本の訓に、コフレコソ〔五字右○〕とあるも、舊《モト》禮〔右○〕と作《ア》りし證なり、旁訓によりて、本文の誤字を正すべきもの少からず、其例は萬葉集讀例に出しおきたり、○吾髪結乃《ワガモトユヒノ》、髪結は、義を以てかける文字也、元本拾本には、結髪と作《ア》り、もとゆひは和名抄に、孫※[立心偏+面]切韻云、※[髟/〓]【音活、和名毛度由比、】以v組束v髪也とありて、髪を結べき料の糸の事なれど、やがて髻《モトヾリ》の事としていへるなり、髻の字をモトヾリ〔四字右○〕と云も、本取《モトヾリ》にて、髪の本を取て結《アグ》る故なり、○漬而奴禮計禮《ヒヂテヌレケレ》、古へ、人に思はるれば、下紐の解《トク》るといふ諺ありし如く、人に思はるれば、髪の漬《ヒヂ》てとくるといふ諺もありしなるべし、ぬれけれとのみいひて、とくるといはねど、おのづからさ聞ゆるなり、さてぬれは、考にいへる如く、本結のとけて、髪のぬる/\とさがり垂るゝをいふなり、計禮《ケレ》は許曾《コソ》の結びなり、
一首の意は、此ごろ我|本結《モトユヒ》のとかく漬《ヒヂ》てとけつるは、げに諺にいへる如く、大夫《マスラヲ》が(68)吾《ワ》をいたくこひ給へるが故ならむとなり、
 
弓削(ノ)皇子思2紀(ノ)皇女(ヲ)1御歌四首
 
芳野河逝瀬之早見須臾毛《ヨシヌガハユクセノハヤミシマシクモ》、不通事無有巨勢濃香毛《ヨドムコトナクアリコセヌカモ》
 
弓削(ノ)皇子は上に出づ、紀(ノ)皇女も、天武天皇の皇女にて、弓削(ノ)皇子の異母妹也、例に依るに、歌の上に作の字あるべし、されど諸本皆無れば、姑く舊に從ふ、
逝瀬之早見《ユクセノハヤミ》、見は所謂サニ〔二字傍線〕の意にて、流れゆく川の瀬の早さに也、之《ノ》は乎《ヲ》に通ふ之《ノ》にて、卷六【二十七左】に、照有月夜乃見者悲沙《テレルツクヨノミレバカナシサ》、卷九【三十右】に、冬夜之明毛不得乎《フユノヨノアカシモエヌヲ》、【之《ノ》はをの意なり、常の乃なれば、明毛はアケモと訓べきなれど、さよみては調わろし、舊訓、アカシモとあるに從ふべし、】などあるに同じ、○須臾毛《シマシクモ》は暫《シバラク》も也、卷十五【七右】に、之麻思久母《シマシクモ》、比等利安里宇流《ヒトリアリウル》云々、同【十四左】に、思未志久母見禰婆古非思吉《シマシクモミネバコヒシキ》などあるによりて、シマシクモ〔五字右○〕と訓べし、○不通事無《ヨドムコトナク》は、舊訓に、タユルコトナク〔七字右○〕とあるはわろし、卷十二【十七右】に、今來吾乎不通跡念莫《イマコムワレヲヨドムトオモフナ》、同【十九左】に、河余杼能不通牟心思兼都母《カハヨドノヨドマムコヽロオモヒカネツモ》、これらも舊訓は誤れり、皆ヨドム〔三字右○〕と訓べき也、さて上三句は、不通事無《ヨドムコトナク》の序也、○有巨勢濃香毛《アリコセヌカモ》、巨勢《コセ》は乞《コソ》の轉聲にて、こせ〔二字傍線〕もぬかも〔三字傍線〕も、共に希求言なり、例は卷五【十四左】に、烏梅能波奈伊麻佐家留期等知利須義受《ウメノハナイマサケルゴトチリスギズ》、和我覇能曾能爾阿利已世奴加毛《ワギヘノソノニアリコセヌカモ》、卷六(69)【三十七右】に、千年五百歳有巨勢奴香聞《チトセイホトセアリコセヌカモ》などありいづれもあれかしの意也、今の俗に、來《コ》よと云ことをコヌカ〔三字傍線〕、行《ユ》けといふことをユカヌカ、など云と同意の詞にて、ヌ〔右○〕は不(ノ)字の意なるを、疑僻のカ〔右○〕に引れて、意の裏《ウラ》になるものなり、猶卷七【二十八右】に、青角髪依網原人相鴨《アヲミヅラヨサミノハラニヒトモアハヌカモ》、石走淡海縣物語爲《イハヾシルアフミアガタノモノガタリセム》、とある歌につきて云べし、
一首の意は、常に絶えず見まほしき君なれば、芳野河の流の早くしてよどむ事無が如く、絶えず通ひ來ませかしとなり、
 
吾妹兒爾戀乍不有者秋芽之《ワギモコニコヒツヽアラズハアキハギノ》、咲而散去流花爾有猿尾《サキテチリヌルハナナラマシヲ》
 
戀乍不有者《コヒツヽアラズハ》は、戀つゝあらむよりはの意なり、上に既に注せり、○秋芽之《アキハギノ》、今本、芽〔右○〕を茅〔右○〕に誤る、今諸古本に依て改む、芽《ハギ》は秋咲ものなるから、秋芽《アキハギ》といふ、櫻を春花《ハルバナ》といへるに同じ、芽《ハギ》の字は、別に皇國にて製造したる文字にて、萌芽の字と形は同じかれど、製字の原委異なり和名抄に、〓に改め作《カケ》るは非也、委しくは別記にいふ、○咲而散去流《サキテチリヌル》云々、萩の花はいと散易きものなれば、かくいへるなり、爾有《ニアル》の急呼はナル〔二字傍線〕なれば、ナラ〔二字傍線〕といふ、猿をまし〔二字右○〕の假字とする事は、上の天智天皇の御製の注にいへり、
一首の意は、かく戀しさのせんかたなくて、物思ひつゝながらへをらむよりは、ム(70)シロ〔三字右○〕萩の花の咲とたちまち落《チル》如くに、死に失せなましものを、さすがにさもしえねば、いとくるしとなり、
 
暮去者〓滿來奈武住吉乃《ユフサレバシホミチキナムスミノエノ》、淺香乃浦爾玉藻苅手名《アサカノウラニタマモカリテナ》
 
暮去者《ユフサレバ》は、夕べにならば也、卷一|春去來者《ハルサリクレバ》の別記に委し、○〓滿來《シホミチキナム》、〓は鹽と同字也、○淺香乃浦《アサカノウラ》は、攝津志に、淺香(ノ)丘、在2住吉(ノ)郡船堂村(ニ)1、林木録茂迎v春霞香、臨2滄溟1遊賞之地とあり、此所の浦なるべし、〇玉藻苅手名《タマモカリテナ》、玉は美稱、手名《テナ》はてむ〔二字傍線〕といふ意に似て、てむ〔二字傍線〕よりは切なる辭なり、上にくはしくいへり、一首の意は、障《サハリ》の出來ぬうちに、はやく皇女を吾ものにせむとの意を、玉藻によせての給へるにて、夕べにならば汐滿來て、玉藻を刈《カル》障《サハリ》となるべし、その汐の滿來ぬうちに、はやく玉藻を刈とりて、吾物にしてむとなり、
 
大舶之泊流登麻里能絶多日二《オホブネノハツルトマリノタユタヒニ》、物念痩奴人能児故爾《モノオモヒヤセヌヒトノコユヱニ》
 
泊流登麻里能《ハツルトマリノ》、船のゆきつきたるをはつるといひ、其處にやどるをとまりといふ、○絶多日二《タユタヒニ》は、此卷の下に、大船猶預不定見者《オホブネノタユタフミレバ》、卷十一【三十六左】に、大船乃絶多經海爾《オホブネノタユタフウミニ》などあり、船の動《ウゴ》き漂ふをいふ、此は船の泊《トマリ》を求めむとて、こぎめぐり漂ふ也、さて上(71)二句は、たゆたひといはむ序にて、皇女に逢まゐらせむとて、さま/”\心をなやましたまふにたとへたり、又卷四【二十二左】に、常不止通之君我使不來《ツネヤマズカヨヒシキミガツカヒコズ》、今者不相跡絶多比奴良思《イマハアハジトタユタヒヌラシ》、同【四十八右】に、情多由多比不合頃者《コヽロタユタヒアハヌコノゴロ》などもあり、これらはためらふ意なり、〇物念痩奴《モノオモヒヤセヌ》は、卷四【四十九左】に、念二思吾身者痩奴《オモヒニシワガミハヤセヌ》云、卷十五【五右】に、和我由惠爾於毛比奈夜勢曾《ワガユヱニオモヒナヤセソ》云々などあり、いたく物を思へば、痩るものなれば也、〇人能兒故爾《ヒトノコユヱニ》は、いまだ吾ものとなし給はぬ程なれば、かくはのたまへる也、
一首の意は、いまだ我ものにもあらぬ人を思ふとて、かにかくに思ひなやみて、終に身も痩くづをれぬ事よとなり、
 
三方(ノ)沙彌、娶(テ)2園(ノ)臣|生羽《イクハノ》之女1、未v經2幾時1臥v病(ニ)、作歌三首、
 
多気婆奴禮多香根者長寸妹之髪《タケバヌレタカネバナガキイモガカミ》、比來不見爾掻入津良武香《コノゴロミヌニミダリツラムカ》 三方(ノ)沙彌
 
三方(ノ)沙彌は、略解に、三方は氏、沙彌は名か、又持統紀六年十月、山田(ノ)史《フビト》御形《ミカタ》に、務廣肆を授く、前に沙門と爲て、新羅に學問すと有、此人かといへり今按(フ)るに、又の説は非(72)也、但し此御形は、養老四年正月(ノ)紀には、山田(ノ)史三方ともありて、三方は俗稱なるを、いかで僧號の上に加ふべき、本集の三方は氏にて、續紀、寶字五年十月に、内舍人御方《ミカタノ》廣名、賜2姓(ヲ)御方(ノ)宿禰1と見えて、延暦三年正月(ノ)紀には、三方《ミカタノ》宿禰廣名とあり、又天平十九年十月(ノ)紀に、御方(ノ)大野といふ人もありて、姓氏録に、左京(ノ)皇別甲能(ハ)、從五位(ノ)下御方(ノ)大野之後也とあり、かゝれば三方氏の人の沙彌とこそおぼゆれ、上文久米(ノ)禅師の注合考すべし、園(ノ)臣生羽は、父祖官位詳ならず、卷六【三十七左】の左注に、三方(ノ)沙彌戀2妻苑(ノ)臣1作歌云々ともあり略解に、臥病の下(ノ)作の字は、時の誤なるべし、沙彌一人のにあらざれば也といへり、さもあるべし、
多氣婆奴禮《タケバヌレ》、多氣《タケ》とは、髪を揚《アゲ》るをいふ古言なり、奴禮《ヌレ》は、考に、髪のあぶらづきてぬる/\と延垂《ノビタル》るをいふ、とあるが如し、但し多氣婆《タケバ》は、多我奴禮婆《タガヌレバ》の我奴《ガヌ》の約|具《グ》にて、多具禮婆《タグレバ》となるを、又その具禮《グレ》を約れば牙《ゲ》となる、故に多氣婆《タケバ》といへり、とあるはわろし、これらの事は、猶別記に委しくいへり、すべて考に、言の延約をいへる説は、大かたは從ひがたし、さて奴禮を、ぬる/\の意とする證は、卷十四【八左】に、伊波爲都良比可婆奴流奴流《イハヰヅラヒカバヌルヌル》とあるを、同卷【十三左】には、伊波爲都良比可婆奴禮都追《イハヰヅラヒカバヌレツヽ》ともある是也、卷十一【二十三右】に、夜干玉之吾黒髪乎引奴良思《ヌバタマノワガクロカミヲヒキヌラシ》、亂而《ミダレテ》反〔左○〕|戀度鴨《コヒワタルカモ》【反の字は誤字なるべし】ともあ(73)り、此|奴良思《ヌラシ》も同語也、○多香根者《タカネバ》は不v束《タカネ》ば也、古への女の髪のさまの事、考の別記に委しくいへるを、要を採ていふべし、凡古への女の髪のさま、幼《イトケナ》きほどには、目ざしといひて、ひたひ髪の目をさすばかり生下れり、それ過て、肩あたりへ下るほどに、末をきりてはなちてあるを、放髪《ハナリガミ》とも、童放《ウナヰハナリ》とも、うなゐ兒ともいへり、八歳子《ヤトセゴ》となりては、きらで長からしむ、それより十四五歳と成て、男するまでも、垂てのみあれば、猶うなゐはなり〔六字右○〕とも、わらは〔三字右○〕ともいへり云々、卷十六【十六左】に、橘寺之長屋爾吾率宿之《タチバナノテラノナガヤニワガヰネシ」》、童女波奈理波髪上都良武可《ウナヰハナリハカミアゲツラムカ》などあり、かくてそのゐねて後に、髪あげつらむかと云る、こゝの沙彌が歌と似たり、且髪の事も、年のほどをもしるべし、後の事ながら伊勢物語に、ふり分髪も肩過ぬ、きみならずして誰かあぐべき、てふも是也云々【以上】とあるにて、此歌の意を推量《オシハカ》るべし、長寸《ナガキ》の寸をキ〔右○〕といふは、古訓也、古へ一寸二寸|等《ナド》を、ヒトキ〔三字傍線〕、フタキ〔三字傍線〕と云へり、記傳卷三十八【三十八右】に、寸を伎《キ》と云は、刻の意なり、萬葉に玉刻春《タマキハル》云々、伎《キ》に刻(ノ)字を書るも【十三卷に、眞刻持《マキモテル》ともあり、】其意にて、伎《キ》と云ぞ、伎陀《キダ》、伎邪牟《キザム》などの本語なる、といへるが如し、○掻入津良武香《ミダリツラムカ》、代匠記に、掻入を今はミダリ〔三字右○〕と點じ、六帖にはミダレ〔三字右○〕》とあり、今按に、ことわりは明なれど、しかよむべきやう意得がたし、カキレ〔三字右○〕と讀て、カキイレ〔四字右○〕と心得べきか、入は收《イ》る義なれば、掻上て結なり(74)といひ、考には、掻入《カキレ》とよみて、注に云、此比《コノゴロ》病て、女のもとへ行て見ぬ間に、いかゞ髪あげしつらむか、あげまさりのゆかしきてふ意なるべしといひ、略解には、考の説をあげて、さて掻入の入〔右○〕は、上〔右○〕の誤にて、かきあげつらむかなるべしと宣長いへりとあり、何れもひがことなり、正辭按に、代匠記に、掻入をミダリ〔三字右○〕とよむべきやう意得がたしとあるは、未だ深く考へざる誤なり、掻は騷と通用の字にて、ミダル〔三字右○〕とも訓べき文字なり、呉志の陸凱傳に、所在掻擾更(ニ)爲2煩苛(ヲ)1とある掻〔右○〕はすなはち騷(ノ)字の意にて用ゐたるなり、韻會に、騷俗作v掻とある是なり、玄應音義卷十三賢愚經第九卷に、騷騷、經文從v手作v掻とあるも、二字通用なるが故なり、又廣雅釋詁にも説文にも、騷(ハ)擾也とあれば、ミダリ〔三字右○〕と訓べき文字なること、もとよりなり、かくてミダレ〔三字傍線〕をミダリ〔三字傍線〕といふは、古へこの詞、四段にも活かしたるものにて、【六帖に此歌を引て、ミダレとあるは、後世の格也、】隱《カク》り〔右○〕恐《オソ》り〔右○〕の類なり、又入をり〔右○〕の假字としたるは、卷七【二十二右】に、庵《イホリ》を五百入《イホリ》とかき、卷十二【十九右】に、登能雲入雨零河之《トノグモリアメフルカハノ》などある是也、抑和(ヘ)歌に、君之見師髪亂有等母《キミガミシカミミダリタリトモ》【舊訓に、ミダレタレドモとあるはわろし、】とあるにても、此句、ミダリツラムカとよまではかなはぬ事をさとるべし、かの長き髪の、病に臥て久しく見ぬほどに、いたく亂つらむか、といへるなり、さるによりて、君が見し髪みだりたりとも、とはこたへたるならずや、古への女子(75)の眞情かくこそあらめ、しかるに契冲師も、縣居鈴屋兩大人も、皆此掻の字を、ミダリ〔三字右○〕とよむべきよしを知ずして、舊訓を改めたるは麁忽なり、此大人だちにして此の如し、當時文字の上の學問の如何に疎《ウト》かりしかを知るべし、○歌の下の三方(ノ)沙彌の四字、今本に大書とせり、今諸古本に依て小書とす、次なるも同じ、
一首の意は、髪を揚《アグ》れば、ぬる/\とし揚結《アゲユヒ》がたく、振分おきてあげざれば、長くしてわづらはしかりし妹が髪を、此頃病の床に臥て、行くも見ざりしが、さだめて亂つるならむとなり、古へは女を娶《メト》れるも、最初は己が家には迎へとらず、男のかたより、女の家に行通ひ住《スミ》けるから、病に臥せる程は、行《ユキ》も見ぬによりて、かくはいひやりし也、
 
人皆者今波長跡多計登雖言《ヒトミナハイマハナガシトタケトイヘド》、君之見師髪亂有等母《キミガミシカミミダリタリトモ》
 
人皆者《ヒトミナハ》、元本には、人者皆と作《ア》りて、訓もひとはみな〔五字右○〕とあり、官本の校語にも、一本に人者皆とあるよしいへり、されど他の古本どもは、皆今本と同じく、且集中何處なるも、人皆者とありて、人者皆とかける事は、一(ツ)もある事なし、元本は書者の誤りなるべし、〇今波長跡多計登雖言《イマハナガシトタケトイヘド》、今波《イマハ》とは、過しかたに對へていへるにて、今は髪も(76)いと延過《ノビスギ》たれば、振分おかむは似つかはしからず、揚結《タガネ》よといへどもなり、長跡《ナガシト》の跡は、とて〔二字傍線〕の意也、○君之見師髪亂有等母《キミガミシカミミダリタリトモ》人皆は揚《タゲ》よといへど、君に見え初し折の姿をかへむ事は、心うく思へば、よしや亂りたりとも、再び君にあふまでは此まゝにておかむと思ふと也、其心情の深き、此二句にこもりて聞ゆ、いとめでたき歌にこそ、○歌の下の娘子の二字は、今本には脱たるを、今諸古本に依て補ふ、考には、歌の前に、園(ノ)臣生羽之女(ノ)和歌と標して、此處には娘子の二宇をしるさず、次の歌も、三方(ノ)沙彌更贈歌と標して、歌の後にある名は削れり、かく古書の面目を私に改めたるは、妄りなりといふべし、
一首の意は、人皆は、此頃は髪もいと長く延て、振分髪にては似つかはしからねば、とく揚《アゲ》よといへど、初て君に見えし折の姿をかへむも、心うき事なれば、よしや亂りたりとも、またあひ見えむまでは、此まゝにてあらばやと思ひ侍るなりと也、
 
橘之蔭履路乃八衢爾《タチバナノカゲフムミチノヤチマタニ》、物乎曾思妹爾不相而《モノヲゾオモフイモニアハズテ》 三方(ノ)沙彌
 
橘之蔭履路乃《タチバナノカゲフムミチノ》は、橘の木の下蔭の路をいふ、古へ都の大路、市の衢などに、菓樹を植しこと、類聚三代格、延喜雜式等に見えたり、其は道路の人をして、夏は蔭に息《イコ》はしめ、秋は其實を取食はしめむが爲也、猶くはしくは卷三【二十五左】詠2東市之樹1歌の注に(77)云べし、さてこの此二句は、八衢《ヤチマタ》といはむ料《タメ》也、〇八衢爾物乎曾思《ヤチマタニモノヲゾオモフ》、八衢は彌衢《ヤチマタ》にて道路の方々に分れ行く所をいふ、衢の字は、爾雅釋宮に、四達謂2之衢1とあり、一方《ヒトカタ》ならずさまざまに物思ふよし也、○妹爾不相而《イモニアハズテ》、此句は、四(ノ)句の上にめぐらして心得べし、妹に相ずて物をぞ思ふといふ意なり、
一首の意は、此頃病に臥し居て、あひ見ることもなければ、戀しさのあまり、道の八衢の彼方《カナタ》此方《コナタ》に分れたるが如く、さま/”\に物おもひ居る事よとなり、
 
石川(ノ)女郎贈(ル)2大伴(ノ)宿禰|田主《タヌシニ》1歌一首
 
遊士跡吾者聞流乎屋戸不借《ミヤビヲトワレハキケルヲヤドカサズ》、吾乎還利於曾能風流士《ワレヲカヘセリオソノミヤビヲ》
 
石川(ノ)女郎は上に出、○田主は、安麿卿の第二子也、元本に古注を引云、即佐保大納言大伴卿之第二子、母曰2巨勢(ノ)朝臣1也、【温本昌本家本には、卿(ノ)下の之字なく、代匠記引官本、也(ノ)上に女(ノ)字ありといへり、】安磨卿の巨勢(ノ)郎女を娉(ヒ)給ひし事、上に見ゆ、
遊士《ミヤビヲ》は、舊訓に、タハレヲ〔四字右○〕とあるを、考に、東麻呂大人の説なりとて、ミヤビト〔四字右○〕と改たるを、鈴屋は、ミヤビト〔四字右○〕とよみては、宮人と聞えてまぎらはし、ミヤビヲ〔四字右○〕とよむべし、八卷【十六】に、※[女+感]嬬等之頭挿乃多米爾《ヲトメラガカザシノタメニ》、遊士之※[草冠/縵]之多米等《ミヤビヲガカヅラノタメト》云々、是をとめに對へていへ(78)れば、必|男《ヲ》といふべき也といへり、【元本に、あそびを、とよめるもわろし】みやびのび〔右○〕は、、ぶり〔二字傍線〕の急言にて、宮ぶりなるを、轉じては風流の意ともせるなり、故に結句には、風流士ともかけり、○於曾能風流士《オソノミヤビヲ》、於曾《オソ》は癡鈍の意にて、卷十二【三右】に、山代石田杜心鈍《ヤマシロノイハタノモリニコヽロオソク》、手向爲在妹相難《タムケシタレヤイモニアヒガタキ》とある鈍(ノ)字是也、卷九【十九右】に、浦島(ノ)子を作《ヨメ》る歌に、常世邊可住物乎釼刀《トコヨベニスムベキモノヲツルギダチ》、己之心柄於曾也是君《ナガコヽロカラオソヤコノキミ》とあり、此語は、後の世の物語ぶみなどに、心おそしといへるに同じく、オソ〔二字右○〕は遲《オソ》なり、
一首の意は、遊士《ミヤビヲ》なりとかねて聞およびて、戀しく思ふあまり、しのびてゆきつるを、宿をもかさずしてつれなくかへし給へるは、ものゝあはれも知らぬ鈍《オソ》の風流士なり、と謔戯《タハムレ》おくれるなり、
 
大伴(ノ)田主字曰2仲郎1、容姿佳艶、風流秀絶、見人聞者、靡v不2歎息1也、時有2石川(ノ)女郎1、自(ラ)成2雙栖之感1、恒(ニ)悲(ム)2獨守之難(ヲ)1、意(ニ)欲v寄v書(ヲ)、未v逢2良信1、爰(ニ)作(テ)2方便1、而似(セ)2賤嫗(ニ)1、己(レ)提(ゲ)2鍋子(ヲ)1、而到(リ)2寢側(ニ)1、哽音跼足、叩(キ)v戸諮(テ)曰、東隣(ノ)貧女、將v取(ント)v火(ヲ)來(ル)矣、(79)於v是仲郎、暗裏非v識2冒隱之形(ヲ)1、慮外(ニ)不v堪2拘接之計(ニ)1、任(セ)v念取(シメ)v火(ヲ)、就(テ)v跡(ニ)歸(リ)去(ラシム)也、明後女郎、既恥2自媒(ノ)之可1v愧《ハヅ》、復恨2心契之|弗《ザルヲ》1v果(サ)、因(テ)作2斯歌1、以贈(テ)諺戯焉、
 
字曰2仲郎1、仲は中と同義にて、古へ第二にあたる子をいへる稱なり、田主は、佐保(ノ)大納言(ノ)第二子なれば也、○雙栖は、文選、潘岳悼亡(ノ)詩に、如2彼翰林(ノ)烏(ノ)雙栖(ノ)一朝隻(ナルガ)1とあり、ならび住事也、感は思ひの深き也、○獨守之難は、文選、卷二十九古詩に、蕩子行(テ)不v歸、空牀難2獨(リ)守1とあり、つゝしみ守る事のかたきをいふ、〇良信、信は使也、よきつかひをいふ.〇方便は、翻譯名義集卷七に、引2淨名(ノ)疏1云、方(ハ)是智(ノ)所v詣之偏法、便(ハ)是菩薩權巧用之能、巧(ニ)用2諸法(ヲ)1、隨v機(ニ)利v物(ヲ)、故云2方便(ト)1とあり、○賤嫗は、和名抄云、説文云、嫗【於屡反、和名於無奈、】老女(ノ)稱也とあり、猶下にくはし、○(鍋子《ナベ》、鍋、元本官本温本類本拾本并に、堝と作《ア》り、和名抄に、辨色立成を引て、堝に作り、注に、今案金謂2之鍋(ト)1、瓦謂2之堝(ト)1、字或相通といへり、○哽音、哽はムセブ〔三字右○〕と訓(ム)、韻會に、哽(ハ)咽塞也とあり、老女の聲色に似せてむせぷやうにいふ也、○跼足、跼は、廣韻に、曲也促(80)也などありて、セクヽマル、又カヾマルなどよめる文字なり、官本には、※[足+滴の旁]に作り、元本温本類本及仙覺抄には、※[足+商]とあり、※[足+商]〔右○〕は※[足+滴の旁]の俗體なり、※[足+滴の旁]は.玉篇に、※[足+滴の旁]、躅行不v進とありて、行なやむ意の文字なり、老人の足もとのわろきをいふ、いづれにてもあるべし、今姑く今本に從ふ、○諮臼、玉篇に諮、問也謀也とあり、今賤嫗に似せてはかるなれば、はかりて〔四字右○〕と訓(ム)べし、○暗裏は、袖中抄に引て、裏作v夜、各本、今本に同じ、〇冒隱、玉篇に、冒覆也とあれば、物にて其形をおほひかくせる也、○拘按云々、玉篇に、拘、止也、接、交也とありて止めて交接せざりしをいふ、○任v念、温本、念作v意、各本、今本に同じ、○就v跡とは、入來りたるその路より、直に歸らしめし也、〇自媒、文選、曹植(ガ)求2自試(ラレンコトヲ)1表に、夫自衒(ヒ)自媒(ル)者、士女之醜行也とあり、○諺戯、諺、元本には謔とあり、袖中抄に引るも、謔とあり、これ然るべし、類本、此處虫食にかゝりたれども、猶謔の字の如し、新撰字鏡に、謔(ハ)戯也、太波夫留とあり、考には、此左注は、後人の所爲なりとて、削除したれど、かゝる事を後人の構造すべきにあらず、既にもいへる如く、此女郎は、遊行女婦なるから、折にふれてはかゝる戯をもせしなり、贈答の歌のおもむきも、もとより戯れなるを思ふべし、
 
(81)大伴(ノ)宿禰田主、報贈歌一首
 
遊士爾吾者有家里屋戸不借《ミヤビヲニワレハアリケリヤドカサズ》、令還吾曾風流土者有《カヘセルワレゾミヤビヲニハアル》
 
結句、風流士者有を、今本の訓に、タハレヲニ〔右○〕アルとあるは、版行の折、ハ〔右○〕の字缺たるなり、元本をはじめ、官本温本家本類本拾本等、いづれも者(ノ)字に、ニハ〔二字傍線〕と假字をつけたり、仙覺抄、又は袖中抄に引けるにも、には〔二字右○〕とあり、今本は版行の折、落したる事|決《ウツ》なし、ニ〔右○〕の助辭は、讀添(ヘ)たるにて、例は此卷【廿六右】に、伊勢能國者奥津藻毛《イセノクニニハオキツモモ》、同【三十八左】に、念有之妹者雖有《オモヘリシイモニハレド》などあり、此事卷一|輕《カルノ》皇子宿2于|安騎《アキ》野1時の短歌の注にもいへり、
一首の意は、我が事をおそのみやびをなりとのたまへど、さるたばかり事にあざむかれて、うちつけに宿かさむこそ、鈍《オソ》人のするわざなれ、さればあはでかへしゝは、なか/\みやび男の故にあらずやとなり、
 
同石川(ノ)女郎、更贈2大伴(ノ)田主中郎1歌一首
 
吾聞之耳爾好似葦若末乃《ワガキヽシミヽニヨクニバアシカビノ》、足痛吾勢勤多扶倍思《アナヘグワガセツトメタブベシ》
 
目録には、同(ノ)字及中郎の二字なくて、田主の上に宿禰の二字あり、是なるに似る、然(82)れども諸本皆今本と同じければ、姑く原のまゝにて改めず、左注に、中郎足疾云々とあるによるに、題の中郎の二字は、もとよりありしなるべし、但し上には仲郎としるし、此には中郎とあれど、仲中は、古へ通用の文字なれば、いづれにてもあるべし、○更贈、更は玉篇に、改也復也と見え、増韻去聲敬に、更(ハ)再也とあれば、ふたゝび贈る意也、考に、右の同度の歌にあらず、別なれば更にといふべからずとて、削たるはいかゞ、同度の歌にあらざるは論なけれど、上の歌に對して、後に贈たる歌を、かくいはむもなヂやうことかあらむ、同の字をおきたるも、時は異なれど、同じ女郎なるよしを、明さむが爲ならむとさへおぼゆるなり、さるは上文にもいへる如く、石川(ノ)女郎といふ人、他にもありて紛はしければ、殊更に同の字は書(ル)せしにもやあらむ、とかく文字を改易する僻より、少し異なる所をば妄に刪削、又は改易せるは、いと/\わろきわざなりけり、
吾聞之《ワガキヽシ》の之《シ》は過去にて、かねて足疾ありと聞《キヽ》し也、○耳爾好似《ミヽニヨクニバ》、似は如くの意にて、吾聞し耳の如くなれば也、卷十一【二十一右】に、言云者三三田八酢四《コトニイヘバミヽニタヤスシ》云々とあるも、聞《キク》事を三三二《ミミニ》といへり、今俗にも、人の言行を聞たる事を、われかねて耳にせし事ありなどいふなり、○葦若末《アシカビ》は、冠辭考に、未を末に改て、神代紀に、葦牙をアシカビと(83)訓り、葦牙は葦の若芽《ワカメ》にて、即葦の苗《ナヘ》なれば、葦牙《アシカビ》の葦笛《アシナヘ》てふ意にて、蹇《アシナヘ》に轉じいひかけたるかといひ、又同書の頭注に、若は加《力》の假字、未は備《ビ》の假字として、即あしかびとよむべしといへり、共に從ひ難し、正辭按(ル)に、未は類本に生と作《ア》れば、若生にて、苗《ナヘ》の意を以てかけるなるべし、略解に鈴屋の説を出して、一本若生とあるによらば、かびとよむべしと見えたれば、猶他にも生と作《カケ》る本ありと見ゆ、又舊訓に、葦若未《アシカビ》とあるも、もと若生とありしからとぞおぼゆる、かくて葦芽をアシカビといへる由は、古事記傳卷三【二十三左】に、葦牙は阿斯※[言+可]備《アシカビ》と訓べし、書紀にも然訓り、葦のかつがつ生《オヒ》初たるを云名なり、牙(ノ)字は芽と通へり、和名抄に、玉篇云、※[草冠/亂](ハ)※[草冠/炎]也、※[草冠/炎](ハ)蘆之初(テ)生(タル)也《ナリ》、和名|阿之豆乃《アシヅノ》とあり、葦の初生《オヒソム》るを角具牟《ツノグム》と云、故に葦角《アシヅノ》とも云なり、是(レ)葦牙《アシカビ》なり、とあるにて辨ふべし、〇足痛《アナヘグ》、考には、アシナヘと體言に訓たれど、必アナヘグと用言に訓べし、足をア〔右○〕とのみいふは、卷十四【三十左】に、安奈由牟古麻能《アナユムコマノ》【足悩駒《アナユムコマ》のなり】云々などあるが如し、語例は、新撰字鏡に、※[馬+蹇]【足奈戸久馬】和名抄に、蹇【阿之奈閇、此間云、奈閇久、】などあり、○勤多扶倍思《ツトメタブベシ》、考に、此つとめは、紀【舒明】に、自愛の字をツトメと訓しが如しといへり、多扶《タブ》は賜《タマ》ふなり、此詞古くより後々までも、たび〔二字傍線〕たぶ〔二字傍線〕などとも活かしたる事にて、本集にては卷十四【十七左】に、伊低兒多婆里爾《イデコタバリニ》、卷十八【三十六左】に、己禮波多婆利奴《コレハタバリヌ》などあり、
(84)一首の意は、君は足の疾に悩み給へりと、かねてきゝ侍りしが、其事實ならば、いといたはしき事也、よく/\自愛し給ひてよと也、
 
右依2中郎足疾1贈2此歌1問訊也
 
中郎、上文には、仲郎とあり、尋は玉篇に、問也とあり、
 
大津(ノ)皇子(ノ)宮(ノ)侍《マカダチ》石川(ノ)女郎、贈2大伴(ノ)宿禰|宿奈麿《スクナマロ》1歌一首
 
古之嫗爾爲而也如此許《フリニシオミナニシテヤカクバカリ》、戀爾將※[さんずい+冗]如手童兒《コヒニシヅマムタワラハノゴト》
 
一云、戀乎太爾忍金手武多和郎波乃如《コヒヲダニシヌビカネテムタワラハノゴト》
 
大津、温本に、津を伴に作れるは誤なり、元本にも、津の字の傍に朱にて、伴一本としるせれば、古くさる本もありし事と見ゆ、○侍、原本には、待と作《ア》り、元本官本温本類本家本活本拾本並に、侍と作《ア》るに依て改(ム)、侍はマカダチ〔四字右○〕と訓(ム)べし、神代紀下の侍者、遊仙窟の侍婢などを、マカダチ〔四字右○〕とよめり、前子等達《マヘコラダチ》の意にて、御前に侍り仕ふる女をいふ、○元本温本家本昌本、一首(ノ)下に、女郎字曰2山田郎女1也、宿奈麿《スクナマロノ》宿禰者、大納言兼大將軍卿之第三之子也の二十九字あり、但温本、郎女を女郎に作り、元本、麿を麻(85)呂の二字に作り、三(ノ)下の之〔右○〕字なし、大納言兼大將軍卿は、大伴(ノ)安麿卿也、古之《フリニシ》、舊訓にはイニシヘノ〔五字右○〕とあれど、齢のふりしをいふなれば、かく四言に訓(ム)べし、○嫗爾爲而《オミナニシテ》也、嫗、舊訓にはオウナ〔三字右○〕と訓(ミ)、元本にはおむな〔三字右○〕とあり、共に音便の唱(ヘ)なり、正(シ)くはオミナ〔三字右○〕と云(フ)べし、古事記傳卷九【十八右】に、老女は意美那《オミナ》と訓(ム)べし、新選字鏡に、※[女+長]【於彌奈】とあり、【※[女+長]は字書には見えず、字のさまを思(フ)に、老女の意の和字なるべし、】續紀十三に、紀(ノ)朝臣意美那《オミナ》と云婦人の名も見ゆ、抑老女を意〔左○〕美那《オミナ》と云は、少《ワカ》きを袁〔左○〕美那《ヲミナ》と云と對(ヘ)て、大《オ》と小とを以て、老《オイタル》と少《ワカキ》とを別てる稱なり、和名抄に、説文(ニ)云、嫗(ハ)女之稱也、和名於無奈と見え、書紀に、老婆《オムナ》、老嫗《オムナ》、老女《オムナ》、又萬葉に、嫗《オウナ》、靈異記に、嫗【於于那】など見えたるは、中古よりして、美《ミ》を音便に、牟《ム》とも宇《ウ》とも云(ヒ)なせるもの也、これ袁美那《ヲミナ》とも後に、袁牟那《ヲムナ》とも、袁宇那《ヲウナ》とも云と同例なり、師は萬葉に據ありとて、老女は於與那《オヨナ》と讀べし、和名抄の於無奈も、無〔右○〕は與〔右○〕の誤ならむと云れつれど、心得ず、凡て於|與那《ヨナ》と云こと、物に見えたることなしといへり、此説に從ふべし、爾《ニ》爲|而《テ》は、卷一【十八左】に、此也是能倭爾四手者我戀流《コレヤコノヤマトニシテハワガコフル》云云とあると同じく、にて〔二字右○〕の意にて、爲《シ》は輕く添りたるなり、也《ヤ》は嘆辭也、○戀《コヒ》爾|將※[さんずい+冗]《シヅマム》、※[さんずい+冗]は臥沈《フシシヅミ》て泣なり、卷四【十五右】に、珠衣乃狹藍左謂さんずい+冗]家妹爾《アリギヌノサヰサヰシヅミイヘノイモニ》、物不語來而思金津裳《モノイハズキテオモヒカネツモ》ともあり、沈は沈と同字也、○如手童兒《タワラハノゴト》、如はゴトと訓(ム)、ゴトクの意なり、手童兒は、略解(86)に、母の手さらぬほどの童をいふとあるが如し、卷四【三十四左】長歌に、幼婦常言雲知久《タヲヤメトイハクモシルク》、手童之哭耳泣管《タワラハノネミナキツヽ》云々ともあり、
一云云々、此十六字、舊版本に大書にせるはわろし、今諸古本に依て小書とす〇戀乎大爾《コヒヲダニ》、大、元本類本家本昌本活本同2今本1、但し温本拾本に太と作《ア》るは、私に改めたるなるべし、此卷下【四十四左】に、己《コ》伎|大雲繁荒有可《ダクモシゲクアレタルカ》とある大も、官本及拾本に、太とあるのみにて、諸古本皆今本と同じく、大と作《ア》り、又此卷【三十五右】に、神隨大敷座而《カムナガラフトシキマシテ》とある大も、太の義なり、此他、大をダ〔右○〕の濁音に用ゐたる事、集中猶あり、余が萬葉集字音辨證に集めおきたり、按に、廣韻去聲【三十八箇】に、大、唐佐切、音駄とあり、これダ〔右○〕の音なり、○忍金手武《シヌビカネテム》は、難v堪《タヘ》也、○多和郎波乃如《タワラハノゴト》、元本温本官本類本拾本、郎作v良、家本昌本活本には、今本と同じく、郎と作《ア》り、按に、郎良二字音通ず、いづれにてもあるべし、
一首の意は、いたく老たる身にてありながら、此やぅに戀にこがれて、泣沈《ナキシヅミ》つゝ、いとけなき童が、母を慕ふが如くなるは、あぢきなき事かな、と自ら耻歎くなり、
 
長(ノ)皇子與(フル)2皇弟(二)1御歌一首
 
丹生乃河瀬者不渡而由久遊久登《ニフノカハセハワタラズテユクユクト》、戀痛吾弟乞通來禰《コヒタムワガセコチカヨヒコネ》
 
(87)皇弟は弓削《ユゲノ》皇子なるべし、天武紀に、妃大江(ノ)皇女生3長皇子(ト)與2弓削(ノ)皇子1と見えたり、丹生乃河《ニフノカハ》、大和志に、宇智(ノ)郡丹生(ノ)河、源出v自2吉野(ノ)郡加名生(ノ)谷1、經2丹原生子等(ヲ)1、至2靈安寺(ノ)村1、入2吉野川(二)1とあり、又吉野(ノ)郡の下にも見ゆ、二皇子の此川を隔て住給ひしなるべし、○由久遊久登《ユクユクト》、原、遊を※[しんにょう+(竹冠/夾)]に誤る、今諸古本に依て改、代匠紀に、ゆくゆくは集中に、大舟のゆくらゆくら、などよめるに同じく、猶豫《タユタフ》意にて、思ふ心のはかゆかで、のび/\なる意なりとあり、略解は此説に從ひて、物思ひにおもひたゆたふにて、卷十二、あまのかぢ音ゆくらかに、卷十三、大舟のゆくら/\に、など有に同じといへり、此説しかるべくおぼゆ、考に、物思ふ時、心のゆら/\とするをいふとのみあるは、いひたらずして、何の事とも聞えず、又或説には、拾遺集第六に、贈太政大臣、君がすむ宿のこずゑのゆく/\と、かくるゝまでにかへり見しはや、とあるに同じく、行々《ユクユク》の意にて、句を隔てゝ、結句の乞通來禰《コチカヨヒコネ》につゞくるなりといへるは、いかゞなり、さては此|由久遊久《ユクユク》の句は、皇弟のかたにかけて見るべき事なるが、いかでさは聞ゆべき、其うへ登《ト》の肋辭を、何とか解くべき、よく思ふべし、されば代匠記、又は略解の説の如く、長(ノ)皇子の自らのうへにかけて、句つゞきも、三四五と、尋常の調べとせむこそよけれ、拾遺のとは、自ら別詞とすべし、○戀通吾弟《コヒタムワガセ》、戀痛《コヒタム》は、舊訓には、コヒ(88)イタム〔五字右○〕とあれど、約めてコヒタム〔四字右○〕と訓(ム)べし、痛《イタム》は戀に苦しむ意にて、戀しさの切なるをいふ、略解に、わがせは、親しみ敬ふ言、實を以て弟の字を用ゐたり、和名抄國郡部に、備中賀夜郡の地名に、庭妹【爾比世】下道郡の地名に、弟翳【勢】などもあり、といへるが如し、正辭云、男どち背《セ》といへる例は、卷六【三十六右】に、石上(ノ)乙麿卿、配2土左國1之時歌に、王命恐見刺並之《オホキミノミコトカシコミサシナミノ》、國爾出座耶吾背乃公矣《クニニイデマスヤワガセノキミヲ》、同【三十七右】に、右大臣橘公の巨曾倍《コソベノ》對馬(ノ)朝臣に答たる歌に、吾背子者千年五百歳有巨勢奴香聞《ワガセコハチトセイホトセアリコセヌカモ》などある是也、猶多かり、〇乞通來禰《コチカヨヒコネ》、乞《コチ》は借字にて此方《コチ》也、乞をコチといふは呉音にて、卷七【六右】に、吾勢子乎乞許世山登《ワガセコヲコチコセヤマト》、又卷六【十二左】卷七【十一右】等に、越乞《ヲナコチ》など猶あり、允恭紀に、壓乞此云2異提《イデ》1とあるによりて、此を乞《イデ》とよめる説はわろし、舊訓にも乞《コチ》とあるをや、
一首の意は、相見まくほしさに、丹生の川の瀬をわたりゆかむと思へど、いまだわたらずして、たゞ物思ひにたゆたひつゝ戀慕ひをり、吾弟《ワガセ》よいかで此方へかよひ來り給へかしとなり、【但し此は御病などの爲に、行給ふ事能はずして、かくはいひおくり給ひしにもやあらむ、】
 
柿(ノ)本(ノ)朝臣人麿、從2石見(ノ)國1別v妻、上(リ)來(ル)時歌二首、并短歌
 
石見乃海角乃浦回乎《イハミノミツヌノウラワヲ》、浦無等人社見良目《ウラナシトヒトコソミラメ》、滷無等《カタナシト》【一云礒無登】(89)人社見良目《ヒトコソミラメ》、能咲八師浦者無友《ヨシヱヤシウラハナケドモ》、縱畫屋師滷者《ヨシヱヤシカタハ》【一云礒者】無鞆《ナケドモ》、鯨魚取海邊乎指而《イサナトリウミベヲサシテ》、和多豆乃荒磯乃上爾《ニギタヅノアリソノウヘニ》、香青生玉藻息津藻《カアヲナルタマモオキツモ》、朝羽振風社依米《アサハフルカゼコソヨラメ》、夕羽振流浪社來縁《ユフハフルナミコソキヨレ》、浪之共彼縁此依《ナミノムタカヨリカクヨリ》、玉藻成依宿之妹乎《タマモナスヨリネシイモヲ》【一云波之伎余思妹之手本乎】露霜乃置而之來者《ツユジモノオキテシクレバ》、此道乃八十隈毎《コノミチノヤソクマゴトニ》、萬段顧爲騰《ヨロヅタビカヘリミスレド》、彌遠爾里者放奴《イヤトホニサトハサカリヌ》、益高爾山毛越來奴《イヤタカニヤマモコエキヌ》、夏草之念之奈要而志怒布良武《ナツクサノオモヒシナエテシヌブラム》、妹之門將見靡此山《イモガカドミムナビケコノヤマ》、
 
妻は、考の頭注に云、人麻呂の妻の事は、別記にいへる如く、くさ/”\の考へあり、こゝなるは嫡妻にあらずとて、別記に、人まろが妻の事は、いとまどはしきを、こゝろみにいはむ、始め後かけては四人か、そのはじめ一人は思ひ人、一人は妻なりけむを、共に死て後に、又妻と思ひ人と有しなるべし、【頭書云、始め二人の中に、一人は妻也、後二人も一人は妻と見ゆ、しかるを惣て妻と(90)書きしは、後に誤れるならむ、○正辭紜、後に誤れるならむといへるはわろし、古へは、嫡妻をも妾も、妻といひしにて、後世の如く、きはやかに區別せざれば、誤にはあらず、猶下文、柿(ノ)本(ノ)朝臣人麿妻死之後、泣血哀慟作歌、とある所にもいふべし、】何ぞといはゞ、この卷の挽散に、妻の死時いためる歌二首並載たるに、初一首は、忍び通ふほどに、死たるを悲しむ也、次の一首は、兒ある女の死を悲しむめれば、こはむかひ女《メ》なりけむ、【これらは、石見の任よりはいと前なり、】かくて後に石見へまけて、任の中に京へ上る時、妻に別るとて悲しめる歌は、考にいふが如し、【頭注云、石見に別れしは、久しく戀し女に逢初たる比故に、深き悲しみはありけむ、嫡妻はむつまじき事なれど、常のこゝちには、かりそめのわかれを、甚しく悲しむべくもめらず、】然れども考るに、こは妻といふにはあらで、石見にて其頃通ひそめし女ならむ、其歌に、さぬる夜はいくだもあらで、はふつたの別れしくれば、とよみたれば也、又その別れの歌についでゝ、人麿(ノ)妻依羅(ノ)娘子、與2人麿1別時(ノ)歌とて、思ふなと君はいへどもあはむ時、いつと知てか吾こひざらむ、とよみしは、載し次でによらば、かの石見にて別れしは、即この娘子とすべきを、下に人まろの石見にありて、身まからむずる時、しらずと妹がまちつゝあらむとよみ、其を聞てかの娘子、けふ/\とわが待君とよみたるは、大和にありてよめるなれば、右の思ふなと君はいへどもてふは、石見にて別るゝにはあらず、こは朝集使にてかりにのぼりてやがて又石見へ下る時、むかひ女依羅(ノ)娘子は、本より京に留りてある故に、かくよみつらむ、あはむ時いつと知てかといふも、かり(91)の別と聞えざる也、然ればかの妻の死て後の妻は、依羅(ノ)娘子なるを、任にはゐてゆかざりしもの也、人まろ遠き國に年ふれど、この娘子他にもよらでありけむも、かりの思ひ人ならぬはしらるとあり、げにしかなるべし、○上來時、考に、この度は朝集使にて、かりに上るなるべし、そは十一月一日の官會にあふなれば、石見などよりは、九月の末十月のはじめに立べし、仍てこの歌に、黄葉の落をいへりとあり、石見乃海《イハミノミ》、舊訓に、イハミノウミ〔六字右○〕とあれど、神功皇后紀に、阿布瀰能瀰齊多能和多利《アフミノミセタノワタリ》とあれば、今もウミのウを略きよむべし、○角乃浦回乎《ツヌノウラワヲ》、和名抄郷名に、石見(ノ)國那賀(ノ)郡都農【都乃】とあるこれ也.但本集卷十七【八右】に、角の松原を、都努乃松原《ツヌノマツバラ》、古事紀中卷に、角鹿を都奴賀《ツヌカ》と作《カキ》たれば、つぬ〔二字右○〕のうらとよむべし、浦回《ウラワ》は、島回《シマワ》礒回《イソワ》などいふ回《ワ》と同じく、めぐり、又ほとりなどの意なり、卷一の別記に精しくいへり、回、元本温本昌本作v廻、官本作v※[しんにょう+回]共に同字也、○浦無等《ウラナシト》、考に、浦《ウラ》は裏《ウチ》にて、※[さんずい+内]江《イリエ》をいふ、此に浦無といふは、設てまづかくいふとするはわろし、次に潟無といふは、北の海に、干潟てふ事のなきをもていふに對へし句なれば、これも實もていふべし、然るをこの國の海に、よき湊ありといへり、右の理もて思へば、其湊は他にあるにて、角の浦には古へなかりしにやといへり、〇人社見良目《ヒトコソミラメ》、社をコソとよむは、孝徳紀【十六左】に、神社福草《カミコソノサキクサ》(92)といふ人あり、神社は、諸人の諸願を祈請する所なれば、乞の字をコソ〔二字右○〕と訓るに同じ意なり、姓の古曾部《コソベ》も、天武紀上【十三右】に、社戸《コソヘ》と書り、久老の説に、社をこそ〔二字右○〕と訓は、木苑《コソ》の意、則本集卷十六に、死者木苑《シナバコソ》と書たり、といへるは非也、木苑《コソ》は借訓にて、苑《ソ》はソノ〔二字右○〕の略なり、見良目《ミラメ》は、後世見るらめ、見るらむなどいふに同じ、鈴屋云、見らむ見ともなど、是は後世の格をもて思へば、見るらむ見るともの、る〔右○〕を略けるが如く聞ゆめれど、さにはあらず、すべて萬葉には皆、見らむ見ともとのみいひて、見るらむ見るともといへるは一つもなし、これもとよりしかいふべき格の言なれば也、十の卷十一のひらに、春の野のうはぎつみてにらしもといへる、にらし〔三字右○〕も同じ格にて、後世なふば、これもにるらし〔四字右○〕といふべきを、にらし〔三字右○〕といへり、見らむは、古今集の歌にもあり、〇滷無等《カタナシト》【一云礒無登】和名抄云、文選海賦云、海濱廣潟、【思積反、與v昔同、師説加太、】又玉篇に云、滷音魯鹹水、又云、潟、齒亦反、或滷字とありて、潟滷義かよへり、干潟をいふ也、潮の引たる跡に、地形のあらはるゝをいふなるべし、契冲云、潟《カタ》は堅《カタ》なり、○能嘆八師《ヨシヱヤシ》、嘆、元本温本代匠記引別校本、作v咲、又卷十【五十七左】に、忍咲八師《ヨシヱヤシ》、卷十一【二十八左】に、縱咲八師《ヨシヱヤシ》、卷十二【四左】に、縱咲也思《ヨシヱヤシ》、卷十三【三右】に、吉咲八師《ヨシヱヤシ》などあれば、此は决《ウツ》なく咲の誤なり、代匠記に云、能咲八師《ヨシヱヤシ》は、よしや〔三字右○〕の古語なり、古事記上に阿那邇夜志《アナニヤシ》とあるは、日本紀の(93)神代紀に、妍哉此(ニテハ)云2阿那而惠夜《アナニヱヤ》1とあるに同じ、然ればあなにやしのし〔右○〕は助語なり、又神代紀に、妍哉此(ニテハ)云2鞅奈珥夜《アナニヤ》1とあれば、あなにゑやのゑ〔右○〕も、休め字なるを以て、今のよしゑやしのゑ〔右○〕とし〔右○〕との、助語なること准じて知べし、正辭云、ゑ〔右○〕は歎辭なり、卷十一【十六左】に、心者吉惠君之隨意《コヽロハヨシヱキミガマニマニ》、卷十四【十二左】に、安禮波麻多牟惠《アレハマタムヱ》、書紀天智紀の童遙に、愛倶流之衞《エグルシヱ》、奈疑能母騰《ナギノモト》、制利能母騰《セリノモト》、阿例播倶流之衞《アレハクルシヱ》などある是也、○浦者無友《ウラハナケドモ》、舊訓には、無友《ナクトモ》とあれど、玉(ノ)小琴に云、無友無鞆は、ともになけども〔四字右○〕とよむべし、なけれどものれ〔右○〕を略てしかいふは、古言の例にて、集中に多しといへるに從ふ、卷十三【三右】に、隱來※[竹/矢]長谷之河者《コモリクノハツセノカハハ》、浦無蚊船之依不來《ウラナミカフネノヨリコヌ》、礒無蚊海部之釣不爲《イソナミカアマノツリセヌ》、吉咲八師浦者無友《ヨシヱヤシウラハナケドモ》、吉畫矢志磯者無友《ヨシヱヤシイソハナケドモ》とよめるは、此とよく似たり、○鯨魚取《イサナトリ》は枕詞なり、契冲の説に勇細《イサクハシ》なり、佐《サ》と須《ス》と音通へり、鯨《クヂラ》を伊佐那《イサナ》と云て、萬葉集に勇魚《イサナ》とかけり、くはし〔三字右○〕は名細《ナグハシ》花細《ハナグハシ》香細《カグハシ》などの類にて、美稱なり、鯨を美稱《ホメ》て云(フ)枕詞也、冠辭考もこれと同説にて、もと海とつゞくるより、轉て濱とも灘《ナ》ともいふは、冠辭の常也、又|淡海《アフミ》につゞけたるは.淡海に鯨はあらねど、たゞ海《ウミ》てふ語に隔てつゞけしなるべしといへり、これに從ふべし、しかるに荒木田久老の日本紀歌解、又萬葉考槻落葉、信濃漫録、又橘(ノ)守部の山彦冊子、稜威(ノ)言別などに、いとむづかしき説あれど、皆わろし、從ふべ(94)からず、鯨《クヂラ》を伊佐《イサ》といへる事は、仙覺抄又詞林採葉抄に引る、壹岐(ノ)國(ノ)風土記に、鯨伏、【在2郡西1】昔者|鮨鰐《ワニ》追v鯨、鯨走(リ)來(テ)隱(レ)伏《ス》、故云2鯨伏1云々、俗云鯨爲2伊佐《イサ》1、【版本の仙覺抄には脱字あれば、今詞林採葉抄に依て訂正して引、】とあり、俗云とあるは、當時の俗にて、古言を傳へたるなり、又魚を奈《ナ》といふも、即古言なり、○海邊乎指而《ウミベヲサシテ》、集中、海邊とあるを、ウナビ〔三字右○〕と訓るは非也、但し卷五【三十一左】に、大伴御津濱備爾《オホトモノミツノハマベニ》、又卷六【三十一右】に、清濱備乎《キヨキハマベヲ》、又は乎加備《ヲカベ》、又|夜麻備《ヤマベ》などある備を、ビ〔右○〕と訓めるによりて、海邊、又は山邊などあるをも、ウナビ〔三字傍線〕、ヤマビ〔三字傍線〕とよめるなれど、これらの備(ノ)字は、呉(ノ)轉音はべ〔右○〕にて、これを用ゐたる也、又舊訓にも、これらの備は、多くべ〔右○〕と假事附(ケ)たるをや、此備(ノ)事は、常にビ〔右○〕と呼(ビ)て、漢(ノ)原音ベイ〔二字傍線〕也、かの常にへ〔右○〕と呼(ブ)文字の、閉、倍、蔽、等も、原音はベイ〔二字傍線〕ハイ〔二字傍線〕なるを、、ベ〔右○〕と呼(ブ)は轉音なり、これを以ても、備はべ〔右○〕の音を用ゐたるを知べし、猶委細はしくは、余が萬葉集字音辨證にいへるを見よ、考に云、指而《サシテ》は指てゆく也、これより十句餘は、海の事もて妹がうへをいふ序とす云々、○和多豆乃《ニギタヅノ》考云、今は此名なしといへり、されども國府より屋神《ヤガミ》までゆく間、北の海邊にて、即そこの有樣をことばとしつる歌なるからは、和《ニギ》たづてふ所、そのほとりにありし也、今濱田といふは、もしにぎた〔三字右○〕の轉にやといへり、玉(ノ)小琴には、石見(ノ)國那賀(ノ)郡の海邊に、渡津《ワタツ》村とて今もあり、こゝなるべし、さればわたつの〔四字右○〕と四言(95)の句也、或本の歌、柔田津と書るは、和多豆をにぎたづ〔四字右○〕とよみ誤れるにつきて、出來たる本なるべしといへるは、いともてまはりたる説にて非也、或本の歌に、柔田津とあれば、しばらく古訓に從ひて、和多豆《ニギタヅ》と訓(ム)べし、但し考に、今の濱田をにぎた〔三字右○〕の轉にや、といふは強説也、又本集卷一【十右】に、※[就/火]田津とあるは、伊豫にて、こゝとは別なり、○荒磯乃上爾《アリソノウヘニ》は、字の如く、荒き礒のうへに也、あらいそのらい〔二字右○〕の急言り〔右○〕なれば、ありそ〔三字右○〕とよむべし、卷九【十左】に、在衣邊著而榜尼《アリソベニツキテコグアマ》、卷十四【三十三左】に、安里蘇夜爾於布流多麻母之《アリソヤニオフルタマモノ》、【夜《ヤ》は麻《マ》の誤字なるべし、】などあるにて心得べし、○香青生《カアヲナル》の香《カ》は、卷四【十七右】に、香縁相者《カヨリアハヾ》、卷五【九右】に、美那乃和多迦具漏伎可美爾《ミナノワタカグロキカミニ》云々、などあるか〔右○〕と同じく發語也、○玉藻息津藻《タマモオキツモ》、玉藻の玉は美稱なり、息津藻は、神代紀下に、憶企都茂播陛爾播譽戻耐母《オキツモハヘニハヨレドモ》云々、本集卷七【二十三右】に、奥藻花開在《オキツモノハナサキタラバ》云々などあり、津《ツ》は助字にて、海の奥にある藻をいふ、○朝羽振風社依米《アサハフルカゼコソヨラメ》、和名抄に、唐韻云※[者/羽]【音怒、字亦作v※[者/飛]、文選射雉賦云、軒※[者/羽]波布流、俗云波都々】、飛擧也とありて、鳥の羽振《ハフル》をいふ、それを朝ふく風に、浪の起《タツ》にそへていへる也、卷六【四十六右】に、朝羽振浪之聲※[足+參]《アサハフルナミノトサワギ》とあり、又卷十一【三十六左】に、風緒痛甚振浪能《カゼヲイタミイタブルナミノ》、卷十四【三十二左】に、奈美乃保能伊多夫良思毛與軒《ナミノホノイタブラシモヨ》、相模(ノ)國風土記に、鎌倉郡見越(ノ)崎、毎(二)有2速浪《ハヤナミ》1崩v石《イソヲ》、國人名號2伊曾布利《イソブリ》1、謂v振v石《イソ》也云云とあるも、みな浪の起を振といへり、古事記中卷に、振浪比禮《ナミフルヒレ》振風比禮《カゼフルヒレ》といふも(96)のあるも、浪を發し風を發する比禮なり、かくて鳥の羽振といふことは、本集卷十【六左】に、尾羽打觸而(貝+貝)/鳥鳴毛《ヲハウチフリテウグヒスナクモ》、卷十九【九右】に、羽振鳴志藝《ハフリナクシギ》などある是也、風こそよらめは、風にこそよらめ也、○浪社來縁《ナミコソキヨレ》は、浪のよせ來て藻をなびかすをいふ、○浪之共《ナミノムタ》は、巻四【三十四右】に、浪之共靡珠藻乃《ナミノムタナビクタマモノ》云々、卷十五【十九右】に、可是能牟多與世久流奈美爾《カゼノムタヨセクルナミニ》云々、同【三十七右】に、君我牟多由可麻之毛能乎《キミガムタユカマシモノヲ》云々などありて、字の如くともに〔三字右○〕といふ意にて、浪とともに藻のよりくるをいへるなり、〇彼縁依此《カヨリカクヨリ》、此卷【三十一左】に、玉藻成彼依此依靡相之嬬乃命乃《タマモナスカヨリカクヨリナビカヒシツマノミコトノ》云々、又【三十三右】に、夕星之彼往此去《ユフヅヽノカユキカクユキ》、卷四【三十六右】に、鹿煮藻闕二毛《カニモカクニモ》云々、などあると同格の語にて、こゝは玉藻おきつ藻などの、浪と共に、彼により此によるが如く、よりねし妹を、とつゞけたるなり、○玉藻成《タマモナス》は枕詞にて、玉藻の如くといふ也、○依宿之妹乎《ヨリネシイモヲ》は、藻の浪とともによりくるが如く、依そひてねしいもを也、〇一云|波之伎余思妹之手本乎《ハシキヨシイモガタモトヲ》、はしきよしは、はしけやしとも、はしきやしともいひて、はしきは愛《ハシ》きにて、妹を愛していへる也、その愛《ハシ》き妹がもとを、露じもの如くおきわかれてくればと也、波の字、今本、渡に誤れり、諸古本及活字附訓本には、波とあるなり、今改(ム)、○露霜乃《ツユジモノ》は枕詞也、露霜乃置とつづけし也、鈴屋の玉勝間に、萬葉の歌に露霜とよめる、卷々に多し、こは後の歌には、露と霜とのことによめども、萬葉なる(97)はみな、たゞ露のこと也、されば七の卷十の卷などには、詠v露といへる歌によめり、多かる中には、露と霜と二つと、見も聞ゆるやうなるもあれど、それもみなさにはあらず、たゞ露也、これにさま/”\説あれども皆あたらずといへり、さればツユジモ〔四字右○〕と濁りていふべし、〇置而之來者《オキテシクレバ》は、露霜の如く、妹を石見におきてくれば也、○八十隈毎《ヤソクマゴトニ》、八十は、物の數の多きを彌十《イヤソ》といへるにて、必しも八十とかぎりたる事にあらず、隈は説文に、水曲也とあり、此は道の屈曲の多きをいふ、神代紀下に、隈此云2矩磨※[泥/土]《クマヂ》1とあり、○顧爲騰《カヘリミスレド》、石見の國に妹を置てこし故に、その道の隈々などにて、もしや妹があたりの見えもするかとて、いく度もかへり見すれども、いや遠く里をも山をもこえて來たれば見えずと也、〇里者放奴《サトハサカリヌ》、本集卷三【五十七右】に、離家伊麻須吾妹乎停不得《イヘサカリイマスワギモヲトヾミカネ》云々、卷十三【七右】に、里離來奴《サトサカリキヌ》などありて,離《ハナ》れわかるゝ意なり、○益高爾《イヤタカニ》、舊訓にはマスタカニとありて、考に、ましたかとよまれたり、されど益はイヤとよむべし、例は此卷【四十左】に、相見之妹者益年離《アヒミシイモハイヤトシサカル》、卷七【二十三左】に、益河上《イヤカハノボル》などある是也、又卷十三【七右】に、道前八十阿毎《ミチノクマヤソクマゴトニ》、嗟乍吾過往者《ナゲキツヽワガスギユケバ》、彌遠丹里離來奴《イヤトホニサトサカリキヌ》、彌高二山文越來奴《イヤタカニヤマモコエキヌ》云々とあるは、大かたこれと同じつゞけなるをも見べし、○夏草之《ナツクサノ》は枕詞也、夏草は、日にあたりてしをれ萎《ナエ》ふすものなれば、人の物思ひする時のさまにたとへて、夏草(98)の如くに思ひしなえてとつゞけし也、○念之奈要而《オモヒシナエテ》、下に出たるこの歌のある本に、思志萎而《オモヒシナエテ》と作《カキ》、又此卷【三十三右】にも、念之萎而《オモヒシナエテ》とかき、卷十【五十七右】に、於君戀之奈要浦觸《キミニコヒシナエウラブレ》などもありて、しなえのし〔右○〕はそへたる言にて、なえ〔二字右○〕は萎の字の意にて、物のなゆるといふ、戀しきおもひに萎くづをれてあるよしなり、類聚名義抄に、萎、シボム、ナユと訓り、又韻曾上聲賄韻に、萎、※[鳥+おおざと]賄切、萎《ワイ》、萎※[月+委]、※[而/大]弱也とあり、さて草木などのたわむを、しなひしなふなどいへるとは、かなもたがひて別也、思ひまがふことなかれ、○志怒布良武《シヌブラム》は、妹がわれを戀ひ慕ひて、萎《ナエ》くづをれをる姿を見むと思ふに、この山ありて見えざれば、彼方になびき避《サケ》よと也、〇靡此山《ナビケコノヤマ》、山などは靡《ナビク》ものならねど、妹が門を見むと思ふ情の切なるより、かくいへるにて彼の磐をも通すなどの意なり、其調べの勇壯なる、此朝臣ならではいかでいひいづべき、さて卷十二【三十五右】に、惡木山木未悉明日從者《アシキヤマコズエコトゴトアスヨリハ》、靡有社妹之當將見《ナビキタレコソイモガアタリミム》、卷十三【七左】に、奥十山三野之山《オキソヤマミヌノヤマ》、靡得人雖跡《ナビケトヒトハフメドモ》、如此依等人雖衝《カクヨレトヒトハツケドモ》、無意山之奥礒山三野之山《コヽロナキヤマノオキソヤマミヌノヤマ》などもあり、古今集雜上に、業平胡臣、あかなくにまだきも月のかくるゝか、山のはにげていれずもあらなむ、とよめるは、此歌の結句より思ひ得たるならむとおぼゆ、
一首の大意は、吾住める石見(ノ)國の海邊には、よき景色の浦も潟もなしといへど、吾(99)が愛《イツ》くしと思ふ妻と共に住ば、いと樂しくよき處ぞと思へるを、今其妻を置て、獨京に上る事なれば、名殘をしくて、道の隈々ごとにかへり見するも、彌々其里は遠ざかり、ます/\重《カサ》なる山は越來たれば、いと戀しくこそ思へ、妻も亦吾を戀ひしたひて、夏草の如く思ひしをれて居らむ、其妻の姿を見むとすれど、山の障りて見えねばいと口をし、いかで此山靡きよりて、其姿を見せよとなり、
 
 反歌
石見乃也高角山之木際從《イハミノヤタカツヌヤマノコノマヨリ》、我振袖乎妹見都良武香《ワガフルソデヲイモミツラムカ》
 
石見刀也《イハミノヤ》のや〔右○〕は、地名の下につけて、かろく添たる字にて意なし、書紀繼體紀に、阿符美能野〔左○〕※[立心偏+豈]那能倭倶吾伊《アフミノヤケナノワクゴイ》云云、本聚卷十四【十八右】に、美奈刀能也〔左○〕安之我奈可那流《ミナトノヤアシガナカナル》云云、古今集大歌所に、あふみのやかゞみの山をたてたれば云々などあり、〇高角山《タカツヌヤマ》は、石見(ノ)國美濃(ノ)郡にあり、今高津といふ所なりとぞ、○木際從《コノマヨリ》、この句は下へつけて、わが振袖を、高角山の木の間より、妹見つらむとの意なり、○我振袖乎《ワガフルソデヲ》、袖を振は、人を戀慕ふ時にする業《ワザ》にて、古への俗習なり、卷一の注に委し、
一首の意は、石見にのこし置たる妻を慕ひて、吾袖ふりつゝ來しを、石見の高角山(100)の木の間より、妹は見つらむかとなり、四一二三五と、句を次第して心得べし、
 
小竹之葉者三山毛清爾亂友《サヽノハハミヤマモサヤニサヤゲドモ》、吾者妹思別來禮婆《ワレハイモオモフワカレキヌレバ》
 
小竹之葉者《サヽノハハ》、古事記上卷に、訓2小竹1云2佐ゝ1とありて、書紀神功皇后元年(ノ)紀に、小竹此云2之努1云々、本集卷一【八右】に、小竹櫃《シヌビツ》とあり、小竹をさゝ〔二字右○〕ともしぬ〔二字右○〕ともよむ也、和名抄竹類に、蒋魴切韻云、篠、【先鳥反、和名之乃、一云佐々、俗用2小竹二字1、謂2之佐々1、】細竹也とも見えたり、〇三山毛清爾《ミヤマモサヤニ》、みやま〔三字右○〕のみ〔右○〕は、ほむる詞にて、眞《ミ》也、深山の意とするは誤れり、清爾《サヤニ》の清《サヤ》は借字にて、小竹の葉の、風などにさや/\と鳴るをいへり、古語拾遺に、阿那佐夜憩《アナサヤケ》とある本注に、竹葉之聲也とありて、本集卷二十【四十二右】にも、佐左賀波之佐也久志毛用爾《サヽガハノサヤグシモヨニ》などあり、卷六【十二左】に、御山毛清落多藝都《ミヤマモサヤニオチタギツ》ともあり、○亂友《サヤゲドモ》、舊訓に、ミダレドモと訓るはわろし、又集中ところ/”\に、亂をマガフ〔三字右○〕とよめれど、此は上のサヤニ〔三字右○〕をうけたるなれば、必サヤゲ〔三字右○〕と訓べき也、書紀神武紀に、聞喧擾之響焉、此云2左揶霓利奈離《サヤゲリナリ》1云々、古事記中卷に、久毛多知和多理許能波佐夜藝奴《クモタチワタリコノハサヤギヌ》云々などもあり、
一首の意は、小竹の葉は心なく風に鳴(リ)さやげども、それにもまぎれ忘るゝ事なく、一向《ヒタスラ》にわかれ來《コ》し妹を思ひつゝありとなり、源氏物語野分に、風さわぎむら雲きそふ夕べにも、わするゝまなくわすられぬ君とあり、此意也、
 
(101) 或本反歌
石見爾有高角山木間從文《イハミナルタカツヌヤマノコノマユモ》、吾袂振乎妹見監鴨《ワガソデフルヲイモミケムカモ》
 
木間從文米《コノマユモ》、從《ユ》はよりの意、文《モ》は助字也、書紀神武紀に、伊那瑳能揶摩能虚能莽由毛《イナサノヤマノコノマユモ》云々とあるに同じ、○見監鴨《ミケムカモ》、見監《ミケム》は過去なれば、此には叶はず、本文のかたよろし、
一首の意は、上にいへるが如し、但し此歌は道すがらの詠にあらで、後によみたるなるべし、
 
角※[章+おおざと]經石見之海乃《ツヌサハフイハミノウミノ》、言佐敝久辛乃埼有《コトサヘグカラノサキナル》、伊久里爾曾深海松生流《イクリニゾフカミルオフル》、荒礒爾曾玉藻者生流《アリソニゾタマモハオフル》、玉藻成靡寐之兒乎《タマモナスナビキネシコヲ》、深海松乃深目手思騰《フカミルノフカメテモヘド》、左宿夜者幾毛不有《サネシヨハイクダモアラズ》、延都多乃別之來者《ハフツタノワカレシクレバ》、肝向心乎痛《キモムカフコゝロヲイタミ》、念乍顧爲騰《オモヒツヽカヘリミスレド》、大舟之渡乃山之《オホブネノワタリノヤマノ》、黄葉乃散之亂爾《モミヂバノチリノマガヒニ》、妹袖清爾毛不見《イモガソデサヤニモミエズ》、嬬隱有屋上乃山《ツマゴモルヤガミノヤマ》【一云室上山】《ノ》、自(102)雲間渡相月乃《クモマヨリワタラフツキノ》、雖惜隱比來者《ヲシケドモカクロヒクレバ》、天傳入日刺奴禮《アマヅタフイリヒサシヌレ》、大夫跡念有吾毛《マスラヲトオモヘルワレモ》、敷妙乃衣袖者通而沽奴《シキタヘノコロモソデハトホリテヌレヌ》
 
角※[章+おおざと]經は枕詞なり、角※[章+おおざと]經は借字にて、蘿這石《ツタハフイハ》とつゞけし也、つつ〔二字右○〕、つな〔二字右○〕、つた〔二字右○〕通音なり、本集卷三、【二十一右四十六左】又卷十三【二十八左二十九右】には、角障經とかけり、障※[章+おおざと]は通用字也、障は常に故障などいへる意にて、サハル〔三字傍線〕の訓なるべし、○言佐敝久《コトサヘグ》は枕詞なり、冠辭考に、から人の言は、こゝの人の耳にはわかず、さへぎてのみ聞ゆれば、ことさへぐ韓《カラ》といふを、辛《カラ》の埼とはつゞけしなり、又百済の原ともつゞけりとあり、正辭云、鳥の囀《サヘヅル》といふも同じ、源氏赤石(ノ)卷に、あやしき海士どもの、高き人おはする所とて、あつまりまゐりて、聞も知たまはぬことどもを、さへづりあへるも云々などもあり、敝、元本温本官本、作v敞、仙覺抄見安同、按に、敞は俗體也、○辛乃埼有《カラノサキナル》、辛乃崎、この外ものに見えず、處知りがたし、埼、官本温本昌本家本、作v※[土+辛]、※[土+辛]、玉篇に、赤堅土也とあり、誤字也、○伊久里爾曾《イクリニゾ》、古事記下卷に、由良能斗能《ユラノトノ》、斗那加能伊久理爾《トナカノイクリニ》、布禮多都那豆能紀能《フレタツナツノキノ》云々、本集卷六【十六右】に、淡路乃野島之海子乃《アハヂノヌジマノアマノ》、海底奥津伊久利二《ワタノソコオキツイクリニ》、鰒珠左盤爾潜出《アハビダマサハニカヅキデ》云云とありて、いくりは海の石をいふ也、宣長云、くりといふにつきて、栗を思ひて、小《チヒサ》(103)き石をいふと云説は非也、海松《ミル》の生とよあるにても、小きに限らぬ事をしるべし、又海の底なる石をいふと云も非也、古事記の歌も、底なる石にては叶はず、六卷の歌に、海底とよあるは、たゞ奥《オキ》の枕詞にていくりへかゝれる言にはあらず、海底なるをも、又上に出たるをもいひ、又小きをもいひ、大きなるをもいふ名也云々、といはれつるが如し、按に、釋日本紀に、句離《クリ》謂v石也、伊(ハ)助語也とあり、○深海松生流《フカミルオフル》、本集卷六【十八左】に、奥部庭深海松採《オキベニハフカミルトリ》、浦回庭名告藻苅《ウラミニハナノリソカリ》云々、卷十三【二十二左】に、朝名寸二來依深海松《アサナギニキヨルフカミル》云々、和名抄海菜類に、崔禹錫食經云、水松、状如v松而無v葉、【和名美流】楊氏漢語抄云、海松【和名上同、俗用v之、】云々とあり、○靡寐之兒乎《ナビキネシコヲ》、靡ねしとは、物のうちなびきたるやうに、そひふしたるをいふ、兒とは男女にかぎらず、人を愛し親しみ稱していふことにて、本集卷一【七右】に、此岳爾菜採須兒《コノヲカニナツマスコ》云々、卷四【二十左】に、打日指宮爾行兒乎《ウチヒサスミヤニユクコヲ》云々などありて、猶いと多し、これらみな女を親しみ愛して、子とはいへる也、玉篇に、子、咨似切、兒也愛也ともあり、○深目手思騰《フカメテモヘド》、本集卷十三【二十二左】に、深海松乃深目師吾乎《フカミルノフカメシワレヲ》云々ともありて心をふかめて思へども也、舊訓に、思をオモフ〔三字右○〕と訓たるは非也、○左宿夜者《サネシヨハ》、舊訓にサヌル〔三字右○〕とあるはわろし、サネシ〔三字右○〕と過去にいふべし、さ〔右○〕は眞《マ》にて、男女共寢するをいふ、これを發語のさ〔右○〕と一(ツ)にするはわろし、○幾毛不有《イクダモアラズ》、舊訓に、イクバク〔四字右○〕とよめ(104)るはわろし、イクダモアラズ〔七字右○〕とよむべし、そは本集卷五【九左】に、左禰斯欲能伊久陀母阿羅禰婆《サネシヨノイクダモアラネバ》云々、卷十【二十七右】に、左尼始而何太毛不在者《サネソメテイクダモアラネバ》云々などあるを見べし、○延都多乃《ハフツタノ》は枕詞なり、葛《ツタ》のかなたこなたへはひわかるゝが如く、わかれしくればといふつゞけ也、つたとは、蔓草をすべいふなり、○別之來者《ワカレシクレバ》、考に、このぬる夜は、いくばくもあらで別るといふからは、こは國にてあひそめし妹と聞ゆ、依羅《ヨサミノ》娘子ならぬ事しるべしといへり、○肝向《キモムカフ》は枕詞なり、舊訓にキモムカヒ〔右○〕とあるは非也、鈴屋の説に、かくつゞくる由は、まづ腹の中にある、所謂五臓六腑の類を、上代にはすべて皆きも〔二字右○〕と云し也、さて腹の中に、多くの肝の相|對《ムカ》ひて集りありて、凝々《コリコリ》しと云意に、こゝろとはつゞくる也といへり、○心乎痛《コヽロヲイタミ》は、心も痛きまで思ひこがるゝ意にて妹にわかれくれば、心をいたさに、妹を思ひつゝかへり見すれど、わたりの山の紅葉のちりまがふ故に、妹が袖のさやかに見えずとなり、○大舟之《オホブネノ》は枕詞にて、舟の渡るとつゞけし也、○渡乃山之《ワタリノヤマノ》、考に、府より東北今道八里の所にありと云り、妹が振袖の見えず、といふにかなへり云々といへり、○散之亂爾《チリノマガヒニ》、本集卷八【三十八右】に、秋芽之落之亂爾《アキハギノチリノマガヒニ》、卷十三【二十三右】に、黄葉之散亂有《モミヂバノチリマガヒタル》などありて、散まぎらはする意にて、紅葉のちりまぎらはす故に、妹がふる袖のさやかにも見えずと也、古今集春下に、この(105)里にたびねしぬべしさくら花、ちりのまがひに家路わすれてとよめるも、ちりのまぎれに也、○清爾毛不見《サヤニモミエズ》、清爾のさやは、明らかなる意にて、明らかなるものは、清きものなるから、清の字をかよはしかける也、卷十四【十一左】に、勢奈能我素低母佐夜爾布良思都《セナノガソデモサヤニフラシツ》云々、卷二十【四十一右】に、伊波奈流伊毛波佐夜爾美毛可母《イハナルイモハサヤニミモガモ》などある、皆同意なり、○嬬隱有《ツマゴモル》は枕詞なり、古へは妻問する折、屋をば新に建造りしことなれば、妻の隱屋とつゞけし也、玉(ノ)小琴に、これをつまごもる〔五字右○〕とよむ事は、假字書の例あればうごかず、然るに隱有と、有の字をそへて書るはいかゞ、有の字あれば、必こもれる〔四字右○〕と、よむ例也、されば有は、留の字などの誤りにや、といへるはいまだし、有は集中、リ〔右○〕又はラ〔右○〕の假字としたるもあれば、此はル〔右○〕の假字にて、アル〔二字右○〕のア〔右○〕を省きて用ゐたるなり、○屋上乃山乃《ヤガミノヤマノ》、屋上は、渡(ノ)山近きほとりの山なるべし、冠辭考に、光仁紀、和名抄等にも、因幡(ノ)國に、八上(ノ)郡あるによりて、この人麿、石見より山陰道を經て上られしにやともいへど、同じ歌に、熟田津《ニギタヅ》とあれば、石見より、長門豐前の間をこぎ出て、伊豫の方へよりてのぼられつとも見ゆれば、いづこにや、知がたしといへり、一云|室上山《ムロガミノヤマ》の五字を、今本に、山の字の上に入たるはわろし、よりて今山の字の下に移したり、この室上は、たゞ文字のかはれるによりてあげたるものなり、此例外にもあ(106)り、猶萬葉集讀例に細し、○自雲間《クモマヨリ》、この自《ヨリ》を〔右○〕の意にて、古事記上卷に、箸《ハシ》從《ヨリ》2其河1流(レ)下云々とあるも、その河を流れ下る也、傳の注に、從《ヨリ》は袁《ヲ》の意ぞ、書紀繼體(ノ)卷(ノ)歌に、簸都細能※[加/可]婆※[まだれ/臾]那峨例倶屡《ハツセノカハユナガレクル》とあるも同じ、又萬葉に、霍公鳥などの歌に、從此鳴渡《コユナキワタル》と多くよあるも、此より〔二字右○〕と云意にはあらず、こゝを〔右○〕鳴わたると云意なりといへり、○渡相月乃《ワタラフツキノ》、諸注に、わたらふのらふ〔二字右○〕は、る〔右○〕を延たるにて、わたる月といふ意也、とのみいへるは粗なり、ワタラフ〔四字右○〕は、ワタル〔三字右○〕の緩言なる事はもとよりなれど、しか緩言にいへるは、ワタル〔三字右○〕と全く同意にはあらず、此は月の漸々に空を過ぎ行くをいふ也、次の隱比《カクロヒ》も同じ、次弟に隱るゝをいふなり、かくて此の意は、玉(ノ)小琴に、屋上の山のと切て、隱《カクロ》ひ來ればといふへつゞく也、惜けども屋上の山の隱れて見えぬよし也、さて雲間より渡らふ月のといふ二句は、たゞ雖惜《ヲシケドモ》の序のみなり、はつかなる雲間をゆくあひだの月は、をしきよしの序也、もしこの月を、この時の實の景物としては、入日さしぬれといふにかなはず、このわたりまぎらはし、よくわきまふべしといへり、〇雖惜《ヲシケドモ》、舊訓、ヲシメドモ〔五字右○〕、又考に、ヲシケレド〔五字右○〕と訓れしもいかゞ、をしけども〔五字右○〕とよむべし、をしけどもは、をしけれどものれ〔右○〕を略ける也、そは本集卷五【十右】に、伊能知遠志家騰《イノチヲシケド》、卷十一【二十九左】に、隱經月之雖惜《カクラフツキノヲシケドモ》など見え、又卷四【二十五右】に、遠鶏跡裳《トホケドモ》、卷十五(107)【三十一右】に、由吉余家杼《ユキヨケド》などあるも、みな同格なり、○天傳《アマヅタフ》は枕詞なり、天路を傳ひゆく日とつゞけし也、〇入日刺奴禮《イリヒサシヌレ》、上にこそ〔二字右○〕のかゝりなくして、れ〔右○〕とうけたるは、長歌の一つの格也、細《クハ》しくは、卷一藤原(ノ)宮(ノ)役民(ノ)歌の注にいへり、○大夫跡念有吾毛《マスラヲトオモヘルワレモ》、卷一【八左】に、大夫登念有我母草枕客爾之有者《マスラヲトオモヘルワレモクサマクラタビニシアレバ》、卷四【四十九右】に、大夫跡念流吾乎《マスラヲトオモヘルワレヲ》などあり、猶多し、われは大丈夫なれば、自ら雄々しと思へるも、故郷を思ふ情に堪へずして、衣の袖はとほりてぬれぬと也、大夫を丈夫と改むる説あれど、そは非也、細しくは卷一の注にいへり、○敷妙乃《シキタヘノ》は枕詞なり、卷一注にくはし、○衣袖者通而沾奴《コロモノソデハトホリテヌレヌ》、卷十三【十一左】に、吾衣袖裳通手沾沼《ワガコロモデモトホリテヌレヌ》、卷十五【二十八左】に、和我袖波多毛登等保里弖奴禮奴等母《ワガソデハタモトトホリテヌレヌトモ》などありて、袖のうらまで通りてぬれぬと也、
一篇の大意は、石見(ノ)國にて迎へし妻の、いまだ幾許もあらぬに、公けの事ありて、其妻に別れて、京に上れる道すがら、慕はしさに、石見の方をかへり見しつゝあれど、妻の吾(レ)をしたひて振袖も山の紅葉の散かくして見えず、さればなげきつゝゆくほど、今は日も夕ぐれ近くなりたるに、いと悲しくて、常には自ら大丈夫と思ひ居るわれなれど、今は前後もうち忘れて、めゝしき事ながら、衣の袖もとほるばかりに、涙にぬれぬとなり、かくて歌のはじめは、其處の海の玉藻を以て文《アヤ》なしたるな(108)り、
 
 反歌
青駒之足掻乎速雲居曾《アヲゴマノアガキヲハヤミクモヰニゾ》、妹之當乎過而來計類《イモガアタリヲスギテキニケル》【一云當者隱來計留】
 
青駒之《アヲゴマノ》、和名抄に、説文云、※[馬+怱]、【音聰、漢語抄云、※[馬+怱]、青馬也、黄※[馬+怱]馬、葦花毛馬也、日本紀私記云、※[馬+怱]馬品、美多良乎乃宇末、】青白雜毛馬也と見え、新撰字鏡にも、※[馬+聰の旁]阿乎支馬とあり、本集卷二十【五十八左】に、水鳥乃可毛能羽能伊呂乃青馬乎《ミヅトリノカモノハノイロノアヲウマヲ》云々ともあり、○足掻乎速《アガキヲハヤミ》、卷七【十二右】に、赤駒足何久激《アカゴマノアガクソヽギニ》云々、卷十一【十四左】に、赤駒之足我枳速者《アカゴマノアガキハヤクハ》云々、又新撰字鏡に、※[足+宛葦]、踝也、踊也、馬奔走貌、阿加久などありて馬は足掻《アシカク》やうに行ものなればなり、○雲居曾《クモヰニゾ》、雲居は空をいひて、空は遠きものなれば、遠きたとへにいへるなり、
一首の意は、戀しとおもふ妹があたりを、今暫く見ましと思へど、馬の足掻の速さに、今は遠く過ぎ來にける事よとて、其名殘ををしめる也、
 
秋山爾落黄葉須臾者《アキヤマニオツルモミヂバシマラクハ》、勿散亂曾妹之當將見《ナチリミダリソイモガアタリミム》【一云知里勿亂曾】
 
須臾者《シマラクハ》、舊訓、シバラク〔四字右○〕とあれど、シマラク〔四字右○〕とよむべし、○勿散亂曾《ナチリミダリソ》、舊訓、ミダレソ〔四字右○〕とあれど、ミダリソ〔四字右○〕とよむべし、亂は古へ四段活用なれば也、
(109)一首の意は、戀しき妹が家のあたりを、しばしのほどにても、猶見てましと思ふに、紅葉の散みだれて、あきらかに見えぬは、いと口惜しき事なれば、せめて紅葉なりとも心して、須臾は散る事勿れといふなり、
 
 或本歌一首 并短歌
石見之海津乃浦乎無美《イハミノウミツノウラヲナミ》、浦無跡人社見良目《ウラナミトヒトコソミラメ》、滷無跡人社見良目《カタナミトヒトコソミラメ》、吉咲八師浦者雖無《ヨシヱヤシウラハナケドモ》、縱惠夜思滷者雖無《ヨシヱヤシカタハナケドモ》、勇魚取海邊乎指而《イサナトリウミベヲサシテ》、柔田津乃荒磯之上爾《ニギタヅノアリソノウヘニ》、蚊青生玉藻息都藻《カアヲナルタマモオキツモ》、明來者浪已曾來依《アケクレバナミコソキヨレ》、夕去者風已曾來依《ユフサレバカゼコソキヨレ》、浪之共彼依此依《ナミノムタカヨリカクヨリ》、玉藻成靡吾宿之《タマモナスナビキワガネシ》、敷妙之妹之手本乎《シキタヘノイモガタモトヲ》、露霜乃置而之來者《ツユジモノオキテシクレバ》、此道之八十隈毎《コノミチノヤソクマゴトニ》、萬段顧雖爲《ヨロヅタビカヘリミスレド》、彌遠爾里放來奴《イヤトホニサトサカリキヌ》、益高爾山毛越來奴《イヤタカニヤマモコエキヌ》、早敷屋師吾嬬乃(110)兒我《ハシキヤシワガツマノコガ》、夏草乃思志萎而將嘆《ナツクサノオモヒシナエテナゲクラム》、角里將見靡此山《ツヌノサトミムナビケコノヤマ》、
 
短歌、此二字、今本に大字に書せるは非也、今諸古本に從ひて小字とす、
津乃浦乎《ツノウラヲ》、縣居の説に、津能乃浦回乎《ツヌノウラワヲ》の、能と回を落し、無美の二字まぎれてこゝに入たる也といへり、しかなるべし、○海邊乎《ウミベヲ》、舊訓に、ウナビヲとあるは非なる由、上文にいへり、○明來者《アケクレバ》、卷六【十一右】に、開來者朝霧立《アケクレバアサギリタチ》、夕去者川津鳴奈利《ユフサレバカハヅナクナリ》云々、卷十【十八右】に、明來者柘之左枝爾《アケクレバツミノサエダニ》、暮去者小松之若末爾《ユフサレバコマツガウレニ》云々、卷十五【十一左】に、由布佐禮婆安之敝爾佐和伎《ユフサレバアシベニサワギ》、安氣久禮婆於伎爾奈都佐布《アケクレバオキニナヅサフ》云々などありて、皆夜が明來《アケク》る意にて、あけゆけばといふに同じ、○風己曾來依《kゼコソキヨレ》は、風のふき依るをいふ也、本歌には、風社依米《カゼコソヨラメ》とあるを、此は誤なるべし、○妹之手本乎《イモガタモトヲ》、手本《タモト》は借字にて、袂なり、○早敷屋師《ハシキヤシ》のし〔右○〕は、よしゑやしのし〔右○〕と同じく助字也、はしきは愛《ハシキ》にて、愛する意なれば、吾嬬の兒とはつゞけし也、屋《ヤ》は借訓にて歎辭也、○益高《イヤタカ》は舊訓に、マスタカとあるはわろし、イヤタカとよむべし、○越來奴《コエキヌ》、越、元本温本家本拾本、作v超、○嘆、官本昌本家本活本、作v咲、○吾嬬乃兒《ワガツマノコ》、兒《コ》は親しみ愛する詞なり、○角里將見《ツヌノサトミム》、角里《ツヌノサト》は、角浦《ツヌノウラ》と同所なるべし、高角山《タカツヌヤマ》といふも、同所と聞えたり、
(111)一篇の大意は、上の歌にいへるが如し、次なる反歌も同じ、
 
 反歌
石見乃海打歌山乃木際從《イハミノウミウツタノヤマノコノマヨリ》、吾振袖乎妹將見香《ワガフルソデヲイモミツラムカ》
 
打歌山乃《ウツタノヤマノ》は、考云、この打歌《タカ》は假字にて次に、角か津乃などの字落し事、上の反歌もてしるべし、今本に、うつたの山と訓しは、人わらへ也といへり、必角《ツヌノ》字ありしなるべし、
 
右歌體雖v同、句々相替(ル)、因(テ)此(ニ)重戟、
 
 柿本(ノ)朝臣人麿(ノ)妻|依羅娘子《ヨサミノイラツメ》、與2人麿1相別歌一首
 
勿念跡君者雖言相時《ナモヒソトキミハイヘドモアフトキヲ》、何時跡知而加吾不戀有牟《イツトシリテカワガコヒザラム》、
 
依羅娘子《ヨサミノイラツメ》は、人麻呂の嫡妻なるべし、但人麻呂の嫡妻に、前後二人ありて、前妻は人麻呂に先だちて身まかり、後妻は人麻呂に後れて人麻呂の死を哀しめる歌、共に此卷の末にあり、此歌は、人麿石見(ノ)國の任に趣き、娘子は京に留り居りしが、人麿朝(112)集使にて、京に上る事ありて、石見より京へ上りて、又石見へ下らむとせられし時、其別れを哀しみて、依羅(ノ)娘子のよめる歌也.さて依羅《ヨサミ》氏の人は、紀記の中に多く見えたり、この娘子はいづれの末の人ならむ、猶考(フ)べし、○與2人麿1相別とは、考に、こは右の假に上りて、又石見へ下る時、京にある妻のよめるなるべしといへり、
勿念跡《ナモヒソト》は、今任國へ行につきて、その別れを悲しび思ふなと、諫め慰むるなり、舊訓に、オモフナ〔四字右○〕とあるはわろし、今改む、〇君者雖言《キミハイヘドモ》は、舊訓に、キミハイフトモ〔七字右○〕とあれど、イヘドモ〔四字右○〕と改む、○相時《アフトキヲ》、舊訓に、アハムトキ〔五字右○〕とあるはわろし、今改む、○吾不戀有牟《ワガコヒザラム》、牟の字、今本乎〔右○〕に誤れり、官本温本に依て改、
一首の意は、吾を念ひて歎く事なかれと、君は妾《ワ》を慰め給へど、再び上り來給はむ日は、何時《イツ》の事とも知られざれば、慕ひまつらずにはあられじと也、
 
萬葉集美夫君志卷二上
 
(1)萬葉集美夫君志卷二中      木村正辭撰
 
   挽歌
 
後(ノ)崗本(ノ)宮(ニ)御宇(シ)天皇(ノ)代  天豐財重日足姫《アメトヨタカライカシヒタラシヒメノ》天皇
 
有間(ノ)皇子自傷、結2松枝1歌二首
 
磐白乃濱松之枝乎引結《イハシロノハママツガエヲヒキムスビ》、眞幸有者亦還見武《マサキクアラバマタカヘリミム》
 
挽歌は、晋書樂志に、挽歌、出2于漢(ノ)武帝役人之勞1、歌聲哀切、遂以爲2送終之禮1、崔豹古今注に、薤露蒿里並喪歌也、出2田横門人1、横自殺、門人傷之、爲2之悲歌1、言人命如2薤上之露1、易2※[日+希]滅1也、亦謂人死〓〓歸2乎蒿里1、故有2二章1、至2孝武時1、季延年乃分爲2二曲1、薤露送2王公貴人1、蒿里送2士大夫庶人1、使2挽v柩者歌1v之、世呼爲2挽歌1云々とありてその歌のあはれにはかなくかなしければ、柩《ヒツギ》を挽《ヒク》時うたはせしより、挽歌といへるなり、もとは(2)喪歌とも悲歌ともいひしにより、その字を借用ゐて感傷の歌の標目とはせしなり、往來歌を、相聞と標したると同法なり、さて左の山上(ノ)憶良追和(ノ)歌の左注に、右件(ノ)歌等、雖v不2挽v柩之時所1v作、唯擬2歌意1、故以載2于挽歌(ノ)類1焉云々とあるは、柩を挽く時うたふ歌とのみ、心得たる人のしわざにて、論ずるにもたらず、但又古事記中卷日代(ノ)宮の段に、倭建(ノ)命の、八尋(ノ)白智鳥と化(リ)て飛行たるを、追行時の歌四首ありて、是四歌者、皆歌2其御葬1也、故至v今其歌者、歌2天皇之大御葬1也とあれば、此土にても古くより、御葬に歌をうたひし事はありし也、〇後(ノ)崗本(ノ)宮(ニ)御宇(シ)天皇(ノ)代は、皇極天皇重祚にて、御謚を齊明と申す、〇有間(ノ)皇子は、書紀孝徳記に、妃阿部(ノ)倉梯麻呂(ノ)大臣(ノ)女曰2小足媛1、生2有間(ノ)皇子1云々、齊明紀に、四年十二月庚辰朔壬午、留守(ノ)官蘇我(ノ)赤兄(ノ)臣、語2有間(ノ)皇子1曰、天皇所v治政事有2三失1矣、大(ニ)起2倉庫1積2聚民財1一也、長《トホク》穿2渠水(ヲ)1損2費公糧1二也、於v舟載v石運積爲v丘三也、有間(ノ)皇子乃知2赤兄之善1v己、而欣然報答之曰、吾年始可v用v兵時(ナリ)矣、甲申有間(ノ)皇子向2赤兄(ノ)家1、登v樓(ニ)而謀、夾膝《オシマツキ》自斷、於v是知2相之不詳1、倶盟而止、皇子歸而宿之、是夜半赤兄、遣2物部朴井(ノ)連鮪1、率2造宮丁1、圍2有間(ノ)皇子於市經《イチフ》家1、便遣2驛使1奏2天皇(ノ)所1、戊子捉2有間(ノ)皇子、與2守(ノ)君大石、坂部(ノ)連藥、塩屋(ノ)連〓魚1、送2紀(ノ)温湯1、舍人新田部(ノ)米麻呂從焉、於v是皇太子.親問2有間(ノ)皇子1曰、何故謀反、答曰、天與2赤兄1知(ル)、吾全不v解《シラ》、庚寅遣2丹比《タヂヒ》小澤(ノ)(3)連國襲1、絞2有間(ノ)皇子於藤白坂1云々とあり、皇子の謀反あらはれて、紀(ノ)温湯におはします、天皇の御もとに遣はされけるに、磐白にて自傷し給ひて、松(ノ)枝を結び給ひ、吾此度幸くあらば、又かへり見むと契り給ひしなり、○自傷、此二字、考に、カナシミテ〔五字右○〕とよめり、○結2松枝1とは、皇子は十一月九日に捕へられて、十日に磐代の濱をすぎ給ふとて、わが運命盡ずして、その申ひらきを聞召わけさせ給ひて、たすけたまはゞ、かへりて再びこの松を見むと契りて、引むすび、つゝがなからむ事をいのり給へるなるべし、本集卷一【十一右】に、君之齒母吾代毛所知哉磐代乃《キミガヨモワガヨモシラムイハシロノ》、岡之草根乎去來結手名《ヲカノクサネヲイザムスビテナ》、卷六【四十一左】に、靈剋壽者不知松之枝《タマキハルイノチハシラズマツガヱヲ》、結情者長等曾念《ムスブコヽロハナガクトゾオモフ》、卷二十【六十右】に、夜知久佐能波奈波宇都呂布等伎波奈流《ヤチグサノハナハウツロフトキハナル》、麻都能左要太乎和禮波牟須婆奈《マツノサヱダヲワレハムスバナ》などあるも、齢をちぎりてむすべる也、
盤白《イハシロ》は、紀伊(ノ)國日高(ノ)郡也、○眞幸有者《マサキクアラバ》、眞幸の眞《マ》は添ていふ辭、幸《サキク》は字の如く、つゝがなき意、かの謀反の事を申ひらきて、つゝがなくかへり來らば、今この結びし松を二たびかへり見むと也、
一首の意は、謀反の事によりて、捕はれ人となりたるが、其事申ひらき相立ちて、つつがなからば、再び松をかへり見むと、祈りたる也、
 
(4)家有者笥爾盛飯乎草枕《イヘニアレバケニモルイヒヲクサマクラ》、旅爾之有者椎之葉爾盛《タビニシアレバシヒノハニモル》
 
笥爾盛飯乎《ケニモルイヒヲ》、笥《ケ》は和名抄に、禮記(ノ)注云、笥、【思吏反、和名介、】盛v食器也とありて、玉篇に、笥盛v飯方器也、又書紀武烈紀に、〓摩該※[人偏+爾]播伊比佐倍母理《タマケニハイヒサヘモリ》云々とある、たまけも玉筍也.〇椎之葉爾盛《シヒノハニモル》、椎は、書紀神武紀に、推根津彦【椎此云2辭※[田+比]1】とあり、和名抄に、本草云、椎子【直〓反、和名之比、】とあり、考云、今も檜の葉を折敷て、強飯を盛事あるが如く、旅の行方《ユクヘ》にては、其處《ソコ》に有あふ椎の小枝を折敷て盛つらむ、椎は葉の細《コマ》かにしげく平らかなれば、かりそめに物を盛べきもの也、さてあるがまゝによみ給へれば、今唱ふるにすら、思はかられてあはれ也云々、
一首の意は、事なくして家にあらむには、筍に盛飯を、今旅にある事とて、椎の葉にもりて食するが悲しき事よと、謀反の事を裏《ウチ》に思ひて詠給へる也、
 
長(ノ)忌寸《イミキ》意吉《オキ》麿見2結松1、哀咽歌二首
 
磐代乃岸之松枝將結《イハシロノキシノマツガエムスビケム》、人者反而復將見鴨《ヒトハカヘリテマタミケムカモ》
 
長(ノ)忌寸意吉麿、考に意吉麿は、文武天皇の御時の人にて、いと後の歌なれど、事の次(5)でこゝには載し也、下の人麿が死時の歌になぞらへてよめる、丹治(ノ)眞人が歌を、其次に載たる類也、眞人は、人麿と同時なるやしらねど、擬歌などをならべ載たる例に取也といへり、○哀咽、哀はかなしむ意、咽はむせぶ意にて、哀《カナシミ》にたへざるをいふ也、
磐代乃岸之松枝《イハシロノキシノマツガエ》、始の御歌には、濱松之枝といひ、こゝなるは岸といひ、次なるは野中に立るといへり、此は何れも同じ處にて、海岸の野にありて、海の方へさし出たる松なるべし、○復將見鴨《マタミケムカモ》のかも〔二字右○〕は、疑ひのカ〔右○〕にモ〔右○〕を添たるにて、此卷【十九左】に、吾袂振乎妹見監鴨《ワガソデフルヲイモミケムカモ》などあるカモ〔二字右○〕に同じ、
一首の意は、盤代の岸の松が枝を結びけむ人は、又かへりきて、二たびこの松を見けむか、二たび見し事はなくて、やみたりけむは、いとあはれなる事かなとの意なり
 
磐代乃野中爾立有結松《イハシロノヌナカニタテルムスビマツ》、情毛不解古所念《コヽロモトケズイニシヘオモホユ》
 
情毛不解《コヽロモトケズ》とは、松の結ばれたるまゝにてあるを見てその結びし人の心も、解ずぞあ盈りけむとなり、卷九【二十二右】に、歡登※[糸+刃]之緒解而《ウレシミトヒモノヲトキテ》、家如解而曾遊《イヘノゴトトケテゾアソブ》とあり、○古所念《イニシヘオモホユ》は、舊(6)訓にムカシオモヘバ〔七字右○〕とあるは非也、
一首の意は、磐代の結び松を見れば、古へを思ひ出られ、心むすぼれて悲しき事よとなり、
 
未詳
 
此歌拾遺集に、人麻呂の歌とあれば、それにつきて、後人のしるしたるならむ、されど拾遺集は、もとより誤りなれば、無用の注なり、
 
山(ノ)上(ノ)臣憶良追同歌一首
 
鳥翔成有我欲比管見良目杼母《ツバサナスアリガヨヒツヽミラメドモ》、人社不知松者知良武《ヒトコソシラネマツハシルラム》
 
追同歌を或人、追和〔右○〕歌と改たるは麁忽なり、卷四【十八左】に、後人追同歌とあり、又卷五【十九左】に、後追和〔右○〕梅歌、又卷十九【二十六左】に、追和〔右○〕處女墓歌とあるを、温本及拾穗抄に引一本には、追同〔右○〕とあり、共に唐人の稱謂に擬したるなり、顔氏家訓卷四文章篇に、比世往々見v有d和2人(ノ)詩1者u、題云2敬同1とありて、清の盧文※[弓+召]の注に、以v同爲v和、初唐人如2駱賓王、陳子昂、諸人(ノ)集中1猶然と見えたり、(7)鳥翔成《ツバサナス》を舊訓に、トリハナス〔五字右○〕とあるはわろし、又略解に、翔は翅の誤なるべし、とあるも非なり、元本温本家本昌本官本活本及見安、いづれも翔と作《ア》りて、翅とかける本ある事なし、按に、説文に、翔(ハ)回飛也とあれば、義を以てかける文字なり、さて成《ナス》は、諸注に、如くの意なりといへれど、此は常の成とは異にて、作《ナス》、又は生《ナス》などの意なるべし、書紀崇神紀の歌に、椰磨等那殊於肌望能農之《ヤマトナスオホモノヌシ》とあるは、日本作大物主《ヤマトナスオホモノヌシ》なり、又本集卷六【四十四右】に、百樹成山者木高之《モヽキナスヤマハコダカシ》とあるは.生《ナス》の意と聞ゆ、又卷九【三十三左】に、哀2弟死去1作歌に、父母賀成乃任爾《チヽハヽガナシノマニマニ》、箸向弟乃命者《ハシムカフオトノミコトハ》云々とあるは、文字は成〔右○〕とあれど、生〔左○〕《ナシ》の意なり、書紀神代紀上【二十四右】に、天照大御神と素戔嗚尊との、誓約の詞を載て、汝所v生兒《イマシガナサムコ》必當v男矣、言訖先|食《ヲシ》2所帶十握《トツカノ》釼(ヲ)1、生《ナス》v兒《ミコヲ》、號2瀛津島姫1、又|食《ヲシ》2九握《コヽノツカノ》釼(ヲ)1生《ナス》v兒《ミコヲ》、號2湍津姫1、又食2八握釼1生v兒、號2田心姫1云々とあり、又後の物ながら、竹取物語に、おのがなさぬ子なればなどもあり、今東國の俚言に、子を生《ウム》をナス〔二字右○〕といへるは、古言の殘れるなり、さて又一つの那須《ナス》あり、其は卷三【二十五左】に、常磐成石室《トキハナスイハヤ》、卷五【十右】に、等伎波奈周迦久斯母何母《トキハナスカクシモガモ》、卷七【十一右】に、時齒成吾者通《トキハナスワレハカヨハム》などあるは、如《ゴトク》の意と聞えたり、此|如《ゴトク》の意の那須《ナス》を、古事記傳卷三【二十一左】に、那洲《ナス》は、稻掛天平が、似《ニ》すなるべしと云る、さもあるべし、那《ナ》と爾《ニ》とは通音なるうへに、那須《ナス》を能須《ノス》ともいへる例あると、和名抄、備中の郷名に、近似(ハ)(8)知加乃里《チカノリ》と見え、又似を漢籍にて、ノレリ〔三字右○〕と訓(ム)などとを合せて思へば、似《ニ》すを那須《ナス》と云つべきものぞといへり.又此那須の活用の事につきて、義門の活語雜話二篇に説あり、猶考ふべし、○有我欲比管《アリガヨヒツヽ》は、古事記上卷に、佐用婆比爾阿理多々斯《サヨバヒニアリタヽシ》、用婆比爾阿理加用婆勢《ヨバヒニアリガヨハセ》云々、本集卷三【二十四左】世、大王之遠乃朝廷跡蟻通《オホキミノトホノミカドトアリガヨフ》、島門乎見者神代之所念《シマトヲミレバカミヨシオモホユ》、同【五十九右】に、皇子之命乃安里我欲比《ミコノミコトノアリハヨヒ》云々、卷六【三十二右】に、自神代芳野宮爾蟻通《カミヨヨリヨシヌノミヤニアリガヨヒ》云云などありて、集中猶多し、ありがよひのあり〔二字右○〕は、集中、ありたゝし、ありまち、などいへる有《アリ》にてこゝは皇子の御魂の今もありて、かよひつゝといへるなり、○見良目杼母《ミラメドモ》は、考云、皇子の御魂は、飛鳥の如く天がけりて、見給ふらめどと云也云々、一首の意は、皇子の御魂の天がけりつゝ、見給ふらめども人は凡夫なれば知ざるが、かの結び松はよく知りてあらむとなり、
 
右件(ノ)歌等、雖v不2挽v柩之時所1v作、唯擬2歌意1、故以載2于挽歌類1焉、
 
此左注の事は、上にいへるが如し、
 
大寶元年辛丑、幸2于紀伊(ノ)國1時、見2結松1歌一首
 
(9)後將見跡君之結有磐代乃《ノチミムトキミガムスベルイハシロノ》、子松之宇禮乎又將見香聞《コマツガウレヲマタミケムカモ》
 
今本、寶の字、實に誤る、今諸古本に依て改、續日本紀云、大寶元年九月丁亥、天皇幸2紀伊(ノ)國1、十月丁未、車駕至2武漏(ノ)温泉1云々とある、此度の事なるべし、しからば此は、秋九月の三字脱したるなり、但元暦本を始め各本、此三字なきは、いと古くより脱漏したること知べし、一首の下に、元暦本及諸古本に小字にて、柿本朝臣人麿歌集中出也の十一字あり、
君之結有《キミガムスベル》、今本、君の字を、若の字に誤れり、元本官本活本温本昌本によりて今改、○子松之宇禮乎《コマツガウレヲ》、子は借字にて、小松なり、宇禮《ウレ》は末《ウラ》にて木の末《スヱ》をいふ、ら〔右○〕とれ〔右○〕と通音なり、本集此卷【四十三左】に、姫島之小松之末爾《ヒメシマノコマツガウレニ》云々、卷十【五左】に、吾門之柳乃字禮爾《ワガカドノヤナギノウレニ》云々などあり、猶いと多し、さてこの歌は、皇子の御歌に、まさきくあらば又かへり見む、とのたまへるをうけて、松を又かへりきて見給ひけむか、いかゞあらむといへるなり、又この歌を、考には、右の意寸《オキ》麿の、磐代の岸の松が枝結びけむ人はかへりて又見けむかも、といへる歌を、唱へ誤れるを、後人みだりに書加へしもの也とて、除かれたるは私なり、
(10)一首の意は、後猶恙なくしてあらましかば、此處に來て再び見むとて、約ひして結びたる松の今もあれど、其(ノ)人は終に見ざりしならむとて、悲しみ嘆げきたる也、
 
近江(ノ)大津(ノ)宮(ニ)御宇(シ)天皇(ノ)代 天命開別《アメミコトハルキワケノ》天皇
 
皇聖躬不豫之時、太后(ノ)奉御歌一首
 
天原振放見者大王乃《アマノハラフリサケミレバオホキミノ》、御壽者長久天足有《ミイノチハナガクアマタラシタリ》
 
近江(ノ)大津(ノ)宮の事は、卷一の注にあり、○天皇は、天智天皇なり、○聖躬とは、天皇の大御身を申す也、御漢書、班彪傳下注に、聖躬謂2天子1也とあり、躬は説文に、※[身+呂]或从2弓身1也と見えたり、○不豫は、爾雅釋詁に、豫、安也樂也とありて、不豫は不安の意にて、天皇の御疾あるをいふ、○太后は、天智天皇の皇后なり、本紀に、七年二月丙辰朔戊寅、立2古人(ノ)大兄(ノ)皇女倭姫王1爲2皇后1云々とあり、考に、未だ天皇崩まさぬ程の御歌なれば、今本こゝを大后と書しは誤也とて、改められしは非也、鈴屋の古事記傳卷二十【十右】に、大后はオホキサキ〔五字右○〕と訓べし、後世の皇后なり云々、古(ヘ)に后《キサキ》とは一柱に限らず、後に妃夫人などゝ申す班《ツラ》迄を、幾柱にても申せり云々、さて其(ノ)后等の中の、最上な(11)る一(ト)柱を、殊に尊みて大后とは申せしなり、然るを萬(ヅ)の御制《ミサダメ》、漢國のにならひ賜ふ御代となりては、正しき文書などには、當代のをば皇后、先代のを皇大后と書《シルサ》るゝことゝなれり、されど口に言(フ)語、又うちとけたる文などには、奈良の頃迄も、猶古(ヘ)の隨《マヽ》に、當代のを大后、先御代のをば、大御祖と申せるを、其後遂に常の語にも、當代の嫡后をば、只后と申し、大御母を大后と申すことにはなれるぞかし、といへるが如し、○太后の字、此に四所あり、内大を用ゐたるもの一所、諸古本又或は太、或は大とかけり、但(シ)古へ大太通用なり、余が萬葉集訓義辨證、同字音辨證に詳なり、依て大(ノ)字太(ノ)字、並に原本に從ひて改(メ)ず、但し官本温本家本昌本活本には、原本と同じく、太とあり、拾穗抄には、改て大とかけり、天原振放見者《アマノハラフリサケミレバ》とは、天皇の御寐殿の屋上を仰ぎ見上給ふなり、書紀推古紀に、二十年春正月辛已朔丁亥、置酒宴2群卿1、是日大臣上2壽歌1曰、夜須彌志斯和餓於朋耆彌能《ヤスミシシワガオホキミノ》、※[言+可]句理摩須阿摩能椰蘇河礙《カクリマスアマノヤソカゲ》、異泥多多須彌蘇羅烏彌禮磨《イデタタスミソラヲミレバ》、豫呂豆余珥※[言+可]勾志茂餓茂《ヨロヅヨニカクシモガモ》云々とあるも、宮殿をさして、彌蘇羅烏彌禮磨《ミソラヲミレバ》といへるにて、此と同法なり、かくて上代の屋造は、綱繩を以て結(ビ)固め、其端を長く垂し置たるものにて、顕宗紀なる、播磨の縮見《シヾミノ》屯倉《ミヤケノ》首《オビト》の、新室壽《ニヒムロホギ》給へる御詞に、取結繩葛者《トリユヘルツナネハ》、此家長御壽之堅也《コノイヘヲサノミイノチノカタメナリ》とある(12)是也、振放《フリサケ》は、ふりあふぎ見るをいふ、放《サケ》は、遠ざけ見さけなどのサケ〔二字右○〕にて、見遣《ミヤル》意なり、古事記に、大國主(ノ)神|國避《クニサリ》の段に、唯僕住所者《タヾアガスミカヲバ》、如《ナシ》2天(ツ)神(ノ)御子(ノ)之|天津日繼所知之《アマツヒツギシロシメサム》、登陀流天之御巣《トダルアマノミス》1而《テ》於《ニ》2底津石根《ソコツイハネ》1宮柱布斗斯理《ミヤバシラフトシリ》、於《ニ》2高天原《タカマノハラ》1※[にすい+氷]木多迦斯理而治賜者《ヒギタカシリテヲサメタマハヾ》云々とある天之御巣も、御殿の御事にて今と同じ、記傳の再按の説はわろし、〇長久天足有《ナガクアマタラシタリ》は、舊訓に、ナガクテタレリ〔七字右○〕とあるは非也、古葉略類聚抄、又範兼の和歌意蒙抄に、ナガクアマタラシアレ〔ナガ〜右○〕とあり、此訓よろし、但(シ)アレ〔二字右○〕はタリ〔二字右○〕と改(ム)べし、此は葛根《ツナネ》の長く垂りあるを見て、御命つゝがなく御座むよしをの給へるなり、天とは宮殿の屋上をいふ、
猶いはば本集卷十九【四十四左】に、石川年足朝臣、新嘗會肆宴應歌、天爾波母五百都綱波布萬代爾《アメニハモイホツツナハフヨロヅヨニ》、國所知牟等五百都々奈波布《クニシラサムトイホツツナハフ》とある注に、縣居云、天は禁中をさす、綱はふとは、大嘗宮に注連などはへたるなるべし、五百都《イホツ》は數多きをいふ、鈴屋云、天とは大嘗祭の屋根のあたり、上の方を祝《ホギ》ていふ、二の句は其宮の上方を結び固めたる綱をいふ、神代紀に、天(ツ)日栖宮云々以2千尋栲繩1結爲2百八十紐1とあり、百八十紐と云るを以、五百と去る意を知べし、波布《ハフ》は結固めたる繩の長きをいふといへり、合考して辨ふべし、
(13)一首の意は、御殿の屋上即(チ)天の原を仰ぎ見れば、其屋を結固《ユヒカタ》めたる綱繩《ツナ》の端《ハシ》の長く垂《タレ》てあり、さては此家長の御|壽《イノチ》は恙なしとほぎ申せる也、
 
一書(ニ)曰、近江(ノ)天皇聖體不豫、御病急(ナル)時、太后(ノ)奉獻御歌一首
 
青旗乃木旗能上乎賀欲布跡羽《アヲバタノコハタノウヘヲカヨフトハ》、目爾者雖視直爾不相香裳《メニハミレドタヾニアハヌカモ》
 
この處錯亂あり、右の青旗乃木旗能上乎《アヲバタノコハタノウヘヲ》云々の歌は、天皇崩御の後の歌なれば、右の一書曰云々の端詞の御歌にあらず、されば此一書の大后の御歌一首脱て、次の天皇崩後之時云々の端書は、青旗乃云々の前に在しが、錯亂したるなるべし、○太后は、官本家本活本昌本には、原本と同じく、太后とあり、拾穗抄には、大〔右○〕とあり、青旗乃《アヲバタノ》は、諸注いづれも、旗(ノ)字を正字として、孝徳紀の葬制と、常陸風土記とを引たれど、其は仙覺抄の記に誤られたるものにて非也、又考に、これを殯宮に立たる白旗なりといひ、又木は小《ヲ》の誤にて、小《ヲ》の發語を置て重ねいふ、古歌の文《アヤ》なりといへ(14)るもいかゞ、白馬を青馬といへるなどは、ゆゑある事にて別事なり、代匠記に、木幡といはむ爲の枕辭なり、木のしげりたるは、青き旗を多く立たらむやうに見ゆればなり、卷四に、青旗乃葛木《アヲバタノカツラギ》山、卷十三に、青幡之|忍坂《ヲザカノ》山と云へる、皆同じ意なり、仙覺抄に、常陸風土記を引たるは此に用なし、とあるに從ふべし、薄を※[竹冠/旗]に見なして、※[竹冠/旗]薄といふをも思ふべし、○木旗能上乎《コハタノウヘヲ》、木幡は、御陵所の山科に近き處なれば、かくのたまへるなり、〇目爾者雖視直爾不相香裳《メニハミレドモタヾニアハヌカモ》は、大后の御目には、山科のほとりを通はせ給はむやうに見奉れども、神と人との道異なれば、直に逢奉らむ事のあらぬを、歎かせ給へるなり、
一首の意は、木幡を過ぎて、大津(ノ)宮の空にも通はせ給へるが如く、現《ウツヽ》に見え給ふものから、直に逢ひ奉る事ならざるを、歎かせ給へるなり、
 
天皇崩後之時、倭(ノ)太后(ノ)御歌一首
 
人者縱念息登母玉※[草冠/縵]《ヒトハヨシオモヒヤムトモタマカヅラ》、影爾所見乍不所忘鴨《カゲニミエツヽワスラエヌカモ》
 
天皇云々、本紀云、十年九月、天皇寢疾不豫、十二月癸亥朔乙丑、天皇崩2于近江(ノ)宮1、癸酉殯2于新宮1云々とあり、崩の下の後の字、今本、御に誤れり、今官本温本類本に依て改(15)む、目録に之時倭の三字無きは略したるなるべし、古本ども皆有り、○太后、官本温本昌本家本活本、皆今本と同じ、考に倭字を削りたれど、磐姫皇后などの例もあれば、猶存しおくべき也、
人者縱《ヒトハヨシ》、縱の字、舊訓にイザ〔二字右○〕とあれど、代匠記にヨシ〔二字右○〕とよみしに從ふべし、本集此卷【十八左】に、縱畫屋師《ヨシヱヤシ》、卷六【三十五左】に、不知友縱《シラズトモヨシ》とあり、延喜太政官式に、仰曰縱【讀曰2與志1】ともあるを見べし、さてこのよしは、放念する意にて、俗にヨシヤ〔三字右○〕などいふに同じ、○玉※[草冠/縵]《タマカヅラ》は枕詞なり、玉かづらの玉は、例の物をほめいふ言、※[草冠/縵]《カヅラ》は日蔭※[草冠/縵]《ヒカゲカヅラ》の事にて、玉かづらかげとはつゞけし也、この玉※[草冠/縵]の玉は、山の誤り也と、古事記傳卷二十五、又玉勝間卷十三にいはれつるは非也、其由は、上の玉松之枝《タママツガエ》の所にもいへり、○不所忘鴨《ワスラエヌカモ》は、舊訓にワスラレヌカモ〔七字右○〕とあれど、ワスラエヌカモ〔七字右○〕とよむべし、れ〔右○〕をえ〔右○〕に通はせてえ〔右○〕といふぞ古言なる、そは本集卷五【十右】に、可久由既婆比等爾伊等波延《カクユケバヒトニイトワエ》、可久由既婆比等爾邇久麻延《カクユケバヒトニニクマエ》云々、又同【二十六右】に、美夜故能提夫利和周良延爾家利《ミヤコノテブリワスラエニケリ》云々、卷十三【十左】に、暫文吾者忘枝沼鴨《シバシクモワレハワスラエヌカモ》などあり、猶多し、
一首の意は、天皇崩御遊ばされたる歎きを、人はよしや思ひ止《ヤ》むとも、われは其御面影の、常に見え給へれば、忘れむとするも、忘るゝ事能はずして、悲しき事よとな(16)り、
 
天皇崩(マセル)時、婦人(ノ)作歌一首 姓氏未詳
 
空蝉師神爾不勝者《ウツセミシカミニタヘネバ》、離居而朝嘆君《ハナレヰテアサナゲクキミ》、放居而吾戀君《サカリヰテワガコフルキミ》、玉有者手爾卷持而《タマナラバテニマキモチテ》、衣有者脱時毛無吾戀《キヌナラバヌグトキモナクワガコフル》、君曾伎賊乃夜夢所見鶴《キミゾキソノヨイメニミエツル》、
 
婦人は、後宮職員令(ノ)義解に、宮人(ハ)謂2婦人(ノ)仕官者1之惣號也云々とあれば、こゝに婦人とあるは、宮人をいへる也、○姓氏未詳、この四字、今本大字とせる、今集中の例によりて小字とす、又氏の字、民に誤る、今諸古本に依て改(ム)、
空蝉師《ウツセミシ》、こは借字にて、顯身《ウツシミ》也、師は助字也、○神爾不勝者《カミニタヘネバ》は、考に、天つ神となりて上り給ふには、わがうつゝにある身の、從ひ奉る事かなはで、離れをると也といへり、たへねば〔四字右○〕は、本集卷四【五十二右】に、戀二不勝《コヒニタヘズテ》云々、卷十【五十五右】に、不堪情尚戀二家里《タヘヌココロニナホコヒニケリ》、卷十一【十一右】に、人不顔面公無勝《ヒトニシヌベバキミニタヘナク》などあると同じく、不勝の字をよめるは、かたれざるよしの義訓にて、意もかたれねばといふなり、○朝嘆君《アサナゲクキミ》は、考に、下の昨夜《キゾノヨ》夢に見えつる(17)といふを思ふに、そのつとめてよめる故に、朝といへるならむ、といへるが如し、○放居而《サカリヰテ》は、舊訓、ハナレヰテ〔五字右○〕とあれど、放は集中、サカリ〔三字右○〕とのみよめれば、こゝもサカリヰテ〔五字右○〕とよむべし、〇玉有者手爾卷持而《タマナラバテニマキモチテ》は、本集卷三【四十九左】に、人言之繋比日玉有者《ヒトゴトノシゲキコノゴロタマナラバ》、手爾卷以手不戀有益雄【テニマキモチテコヒザラマシヲ】、卷四【五十左】に、玉有者手二母將卷乎欝瞻乃《タマナラバテニモマカムヲウツセミノ》、世人有者手二卷難石《ヨノヒトナレバテニマキガタシ》とあると同じく、吾戀る君が、もし玉にてましまさば、手に卷持てはなたざらましものをと也、さて古(ヘ)の風俗、手足頸などに玉を卷事、まゝ見えたり、書紀神代紀下一書に、手玉玲瓏織袵之少女《タダマモユラニハタオルヲトメ》、本集卷三【四十七右】に、泊瀬越女我手二纏在《ハツセヲトメガテニマケル》、玉者亂而《タマハミダレテ》云云、卷七【二十九右】に、海神手纏持在玉放《ワタツミノテニマキモタルタマユヱニ》云々、同【三十一左】に、照左豆我手爾纏古須玉毛欲得《テルサツガテニマキフルスタマモガモ》云云、卷十【三十右】に、足玉母手珠毛由良爾《アシダマモタダマモユラニ》云々などあり、さてこの頸玉手玉足玉などの制は、今は知りがたけれど、緒に貫《ツラヌ》きてまとひしものなるべし、○衣有者脱時毛無《キヌナラバヌグトキモナク》は、本集卷十【五十二左】に、吾妹子者衣丹有南秋風之《ワギモコハキヌニアラナムアキカゼノ》、寒比來下著益乎《サムキコノゴロシタニキマシヲ》、卷十二【二左】に、人言繁時吾妹《ヒトゴトノシゲキトキニハワギモコガ》、衣有裏服矣《コロモナリセバシタニキマシヲ》、同【十四右】に、如是耳在家流君乎衣爾有《カクノミニアリケルキミヲキヌナラバ》、下毛將著跡吾念有家留《シタニモキムトワガモヘリケル》などあると同じく、わが戀る君、もし衣にてましまさば、ぬぐ時もなくきてあらましをと也、無の字、舊訓ナミ〔二字右○〕とよみ、考にナケム〔三字右○〕とよまれしかど、ナク〔二字右○〕とよむべし、そのよし次にいふべし、〇吾戀《ワガコヒム》、珠(ノ)小琴に云、無吾戀は、ナクワガコヒム〔七字右○〕とよむべし、一(18)つ所に居て思ふをも、戀るといふ例多ければ、衣ならばぬぐ時もなく、身をはなたずて、思ひ奉らむ君といふ意也、この無の字を、なみとよめるはわろし、又わが戀る〔四字右○〕君とよめるもわろし、上にもわが戀る君とあれば也、同じ言をふたゝびかへしていふは、古歌の常なれども、この歌のさまにては、わが戀る君と、二度いひてはわろし、又無の字、考にはなけむ〔三字右○〕と訓れたれども、さてはいよ/\下の詞づかひにかなひがたしとあるが如し、○君曾伎賊乃夜《キミゾキゾノヨ》、伎賊《キゾ》は昨日也、本聚卷十四【二十六左】に、孤悲天香眠武伎曾母許余比毛《コヒテカヌラムキゾモコヨヒモ》、同【二十八左】に、伎曾許曾波兒呂等左宿之香《キゾコソハコロトサネシカ》云々などあり、○夢所見鶴《イメニミエツル》は、考(ニ)云、古(ヘ)はいめ〔二字右○〕といひてゆめ〔二字右○〕といへることなし、集中に伊米《イメ》てふ假字あり、伊《イ》は寢《イ》也、米《メ》は目《メ》にて、いねて物を見るてふ意也、後世いつばかりよりか轉じて、ゆめ〔二字右○〕といふらむとあり、
一首の大意は、現身の我々は、神にあらざれば、天(ツ)神となりて天に昇り給ひし、大御身に從ひ奉る事は得ずして、うち嘆き、離れ奉りて、戀ひ慕ひつゝあれど、もし此君が玉にて御座《オハセ》ば、手に纏ひ、又衣にてあらませば、脱ぐ時なく身を放たずして、思ひ奉らむものを、さはなしがたくて、嘆き悲しみつゝをれば、神もあはれと思ほし給ひてか、昨夜夢に見え給へる事よとなり、
 
(19)天皇|大殯《オホアラキ》之時(ノ)歌二首
 
如是有乃豫知勢婆大御船《カヽラムトカナテシリセバオホミフネ》、泊之登萬里人標結麻思乎《ハテシトマリニシメユハマシヲ》   額田(ノ)王
 
大殯《オホアラキ》とは、こは天皇崩じまして未だ葬り奉らず、別宮に置奉る程をいへるなり、大の字は尊稱也、大殯を、考には、オホミアガリ〔六字右○〕とよまれしかども、オホアラキ〔五字右○〕とよむべし、本集卷三【五十右】に、左大臣長屋(ノ)王賜v死之後、倉橋部《クラハシベノ》女王(ノ)歌、大皇之命恐大荒城乃《オホキミノミコトカシコミオホアラキノ》、時爾波不有跡雲隱坐《トキニハアラネドクモガクリマス》とありて、荒城とは、荒《アラ》は璞《アラタマ》などのアラ〔二字右○〕にて、新に死たるほどを云、城《キ》は墓《オクツキ》のキ〔右○〕也、
如是有乃《カヽラムト》、此乃〔右○〕の字を、代匠記に、乃は刀を寫誤れるなるべしといひ、萬葉考には、刀に改(メ)たり、略解も本文をば、刀に改(メ)て、注に、乃は刀の誤也とあり、げにも刀は、集中他所にも、ト〔右○〕に用ゐたるが、これかれあるがうへに、字形もいとよく似たれば、一わたりは誰も、さ心得べきことなり、されどあまねく古本どもを比校するに、此を刀と作《カケ》る本は、ふつにある事なく、いづれも皆今本と同じく乃〔右○〕とありて、訓も亦ト〔右○〕とあ(20)る也、其はまづ舊版本はさら也、活版また官本温本家本昌本古葉類聚抄拾穗抄等、いづれも今本と同じく乃〔右○〕とあり、且代匠記は、數本を校合して、常に異同を記したるに、こゝに異同のさたなきは、其本ども皆今本と同じきが故なるべし、かゝればもとのまゝにて、乃〔右○〕をト〔右○〕に用ゐたるものとすべし、【舊訓に乃《ノ》とあるは、古(ヘ)はさるものにて、仙覺が頃までも、乃にトの音のある事は、さらに疑ひはなかりし事と見えたり、】抑常に乃〔右○〕ノ〔右○〕の假字に用ゐるは、もと第十一轉の女(ノ)字と通ずるかたの音にて、轉音なり、乃と女と通ずることは、漢籍の上にはいと多かることにて、女は漢次音ド〔右○〕呉次音ノ〔右○〕なる事、漢呉音圖音徴等を見て知(ル)べし、さて續日本後紀卷九【十六右】に、天地【止】共(ニ)長【久】日月【止】共(ニ)遠【久】云々とある二(ツ)の止〔右○〕(ノ)字、細井貞雄所藏古鈔本、大塚嘉樹所藏本、また類聚國史卷卅五等には、乃〔右○〕と作《ア》るよし、狩谷望之の校本に記せり、此乃〔右○〕はト〔右○〕の假字なる事、今本其外の本どもに、止〔右○〕とあるにて明かなり、猶精しくは余が萬葉集字音辨證にいへり、○豫知勢婆《カネテシリセバ》は、本集卷十【六十三左】に、君無夕者豫寒毛《キミナキヨヒハカネテサムシモ》、卷十七【二十一左】に、可加良牟等可禰底思理世婆《カカラムトカネテシリセバ》云々などあり、○泊之登萬里人《ハテシトマリニ》は、御船の泊たる其處に也、〇標結麻思乎《シメユハマシヲ》は、考に、こゝの汀に御舟のつきし時、しめ繩ゆひはへて、永くとゞめ奉らむものをと、悲しみのあまりに、をさなく悔する也、古事記に、布刀玉《フトダマノ》命、以2尻久米繩1控2度其後方1、白言、從v此以内不v得2還入1云々、てふを思ひ(21)てよめるなるべしとあり、○額田(ノ)王、此三字今本にはなし、官本温本家本昌本類本活本並有、今禰ふ、次の舍人吉年の四字も同じ、
一首の意は、かくの如き事のあらむとかねて知せば、こゝの汀に御船のつきし時、しめ結ひはへて、永くとどめ奉らむものをとなり、
 
八隅知之吾期大王乃大御船《ヤスミシヽワゴオホキミノオホミフネ》、待可將戀四賀乃辛崎《マチカコヒナムシガノカラサキ》舍人吉年
 
八隅知之《ヤスミシヽ》は枕詞なり、○吾期大王《ワゴオホキミ》を、ワゴオホキミといふべきよしは、上文既にいへり、〇四賀乃辛崎《シガノカラサキ》は、近江(ノ)國滋賀(ノ)郡なり、注上に出たり、
一首の意は、卷一の歌にいひたる如く、辛崎が待戀るにて、無情の物を有情になしてよめる也、
この二首は、天皇の近江の湖水のほとりなどに、行幸ありし事を、思ひいでゝよめるなるべし、考に、卷一に、大宮人のふねまちかねつと、柿本人麿のよみしは、これより年へて後也、然れども今をまねぶべき人ともおぼえず、おのづから似たる也といへり、さる事なり、○舍人《トネリノ》吉年、舍人は氏にて、吉年は名なり、此人卷四にも見えて、(22)女子なり、猶其處にいふべし、
 
大后御歌一首
 
鯨魚取淡海乃海乎《イサナトリアフミノウミヲ》、奥放而※[手偏+旁]來船《オキサケテコギクルフネ》、邊附而榜來船《ヘツキテコギクルフネ》、奥津加伊痛勿波禰曾《オキツカイイタクナハネソ》、邊津加伊痛莫波禰曾《ヘツカイイタクナハネソ》、若草乃嬬之念鳥立《ワカクサノツマノオモフトリタツ》、
 
大后、官本家本昌本活本は今本と同じ、温本及給穗抄には太とかけり、考云、これより御新喪の程過て後の事故に、又更に大后の御歌をあぐ、
鯨魚取《イサナトリ》、イ〔右○〕は發語、サナ〔二字右○〕はサ〔右○〕とス〔右○〕と通ひて漁《スナド》り也、○奥放而《オキサケテ》、奥は海のおきをいふ、放而《サケテ》は離《サカリ》てにて、奥より遠ざかりてこぎ來る也、○邊附而《ヘツキテ》は、海邊に附て也、邊《ヘ》は、海邊《ウミベ》山邊《ヤマベ》などいふ邊と同じ言なれど、語のはじめにいふ故に、清《スミ》ていふべし、本集此卷【四十一左】に、奥見者跡位浪立《オキミレバシキナミタチ》、邊見者白浪散動《ヘミレバシラナミドヨミ》云々など猶あり、此はおきよりこぎ來る舟も、うみべをこぎめぐる舟もといふ也、邊は舊訓、ヘニ〔二字右○〕とニ〔右○〕をそへて訓るはわろし、○奥津加伊《オキツカイ》、奥つのつ〔右○〕は助字にて、輿※[手偏+旁]舟《オキコグフネ》の櫂《カイ》なり、邊津加伊《ヘツカイ》は、邊《ヘ》を※[手偏+旁]舟の櫂な(23)り、この櫂といふものも、※[楫+戈]といふものも、古くは一つ物にて、中古より※[舟+虜]《ロ》といふもの也、今|梶《カヂ》といふ物は、古への※[舟+施の旁]《タイシ》なり、和名抄舟具云、唐韻云、舵【徒可反、上聲之重、字亦作v※[舟+施の旁]、】正v船木也、漢語抄云、柁【船尾也、或作v※[木+施の旁]、和語云太以之、今案、舟人呼2挾※[木+少]1、爲2舵師1是、】と見えて古事記中卷に、倭武(ノ)命の、吾足不v得v歩、成2當藝斯《タギシノ》形1云々とのたまへるも、この物にて、曾當藝斯《タギシ》なるを、音便に多伊之《タイシ》とはいへる也。さて櫂楫と※[舟+虜]と一物なれども、其製造は少しく異なり、又|※[舟+虜]《ロ》は漢名にてこの物和名なし、然るを今世は、カイ〔二字右○〕もカヂ〔二字右○〕もロ〔右○〕も皆別物となりて、※[舟+施の旁]《タイシ》といふ名は絶たり、其を和名抄舟具に、釋名云、在v旁撥v水曰v櫂、【直教反、字亦作v棹、楊氏漢語抄云、加伊、】櫂2於水中1且進v櫂也、又釋名云、※[楫+戈]、【音接、一音集、賀遲、】使2舟捷疾1也、兼名苑云、※[楫+戈]一名※[木+堯]、【奴効反、一音饒、】又唐韻云、※[舟+虜]【耶古反、與v魯同、】所2以進1v船也と、おの/\別にあげられしは誤り也、本集卷八【三十三左】に、左丹塗之小船毛賀茂《サニヌリノヲブネモガモ》、玉纏之眞可伊毛我母《タママキノマカイモガモ》云々、卷十七【三十七左】に、阿麻夫禰爾麻可治加伊奴吉《アマブネニマカヂカイヌキ》云々、卷十九【二十右】に、小船都良奈米眞可伊可氣伊許藝米具禮婆《ヲブネツラナメマカイカケイコギメグレバ》云々、同【三十九右】に、等母爾倍爾眞可伊繁貫《トモニヘニマカイシヾヌキ》云々、卷二十【十八左】に、大船爾末加伊之自奴伎《オホブネニマカイシヾヌキ》云々、又卷三【三十四左】に、大舟爾眞梶貫下《オホブネニマカヂヌキオロシ》云々、卷六【十八右】に、眞梶貫吾榜來者《マカヂヌキワガコギクレバ》云々.卷七【三十八左】に、眞梶繁貫水手出去之《マカヂシヾヌキコギデニシ》云云ともありて、全く同じつゞきざまなるを以て、櫂※[楫+戈]同じものなるを知るべし、又これを中古より、※[舟+虜]《ロ》ともいへり、そは枕草子に、ろ〔右○〕といふものおして、歌をいみじう(24)うたひたる、いとをかしう云々、夫木抄卷十二に、匡房卿、小夜ふけて空にからろ〔右○〕の音すなり、あまのとわたる雁にやあるらむ、とあり、○痛勿波禰曾《イタクナハネソ》は、櫂にて水を甚《イタ》くはぬる事勿れと也、古事記下卷に、加那須岐母伊本知母賀母《カナスキモイホチモガモ》、須岐婆奴流母能《スキハヌルモノ》ともあり、〇若草乃《ワカクサノ》は枕詞なり、橘(ノ)守部は、冠辭考の説をわろしとして、書紀の仁賢紀に、弱草吾夫※[立心偏+可]怜《ワカクサアヅマハヤ》矣とある分注に、古者以2弱艸1喩2夫婦1、故以2弱草1爲v夫とあり、弱草の二葉相對ひて生るを、夫婦に喩《ヨソヘ》てつゞけならへる也といへり、○嬬之念鳥立《ツマノオモフトリタツ》は、考に、こゝは夫《ツマ》と書べきを、たゞ言をとりて、字にかゝはらぬ古へぶり也、下にも多し、さて紀にも集にも、御女は、天皇を吾せこともよみしかば、こゝのつま〔二字右○〕もしか也、此鳥は、下の日並知(ノ)皇子(ノ)尊の殯《モガリ》の時、島宮池上有放《シマノミヤイケノウヘナルハナチドリ》、荒備勿行君不座十方《アラビナユキソキミマサズトモ》とよめる如く、愛で飼せ給ひし鳥を、崩まして後放たれしが、そこの湖に猶をるを、いとせめて御名殘に見給ひて、しかのたまふならむとあり、玉(ノ)小琴に、此とぢめの句、本のままにても聞えはすめれど、猶思ふに、嬬之命之《ツマノミコトノ》とありけむを、之の字重なれるから、命之二字を脱せるにやといへるはわろし、哀傷の歌には、言の足らぬが如きもの徃々あり、其由は別にいふべし、
一首の大意は、此都の淡海の海を榜通《コギカヨ》ふ船は、其櫂をいたく撥《ハヌ》る事勿れ、世に御座《オハ》(25)せしほど、殊に愛し給ひたりし鳥の、おどろき立騷ぐが、いとほしければとなり、
 
石川(ノ)夫人歌一首
 
神樂浪乃大山守者爲誰可《ササナミノオホヤマモリハタガタメカ》、山爾標結君毛不有國《ヤマニシメユフキミモアラナクニ》
 
考に、夫人知がたし、蘇我(ノ)山田(ノ)石川麻呂(ノ)大臣の女ならむかといへり、夫人の事は、上文藤原(ノ)夫人の所にいへり、
神樂浪乃《ササナミノ》は枕詞にて、神樂浪の三字を、サヽナミ〔四字右○〕とよむよしは上にいへり、○大山守者《オホヤマモリハ》は、書紀應神紀に、五年秋八月庚寅朔壬寅、令2諸國1定2海人及山守部1云々、顯宗紀元年四月紀に云、小楯謝(テ)曰、山官|宿《モトヨリ》所v願、乃拜2山官1、改賜2姓山部(ノ)連氏1、以2吉備(ノ)臣1爲v副、以2山守部《ヤマモリベ》1爲v民云々、續日本紀に、和銅三年二月庚戌、初充2守山戸1、令v禁v伐2諸山木1云々など見えたり、本集卷三【四十二右】に、山守之有家留不知爾其山爾《ヤマモリノアリケルシラニソノヤマニ》、標結立而結之辱爲都《シメユヒタテヽユヒノハヂシツ》、又山主者蓋雖有《ヤマモリハケダシアリトモ》云々、卷六【二十左】に、大王之界賜跡山守居《オホキミノサカヒタマフトヤマモリスヱ》、守云山爾不入者不止《モルトイフヤマニイラズバヤマジ》、などもありて、竹木をきる事を禁じ、又はみだりに界を越えざる爲に、山守を居たまふ也、鈴屋云、大山守とよめる大は、さゝなみの山は、大津(ノ)宮の邊なる山にて、ことなるよしをもて、この山守をたゝへていふ也、大御巫などの大の如し、○山爾標結《ヤマニシメユフ》は、御山(26)なればしめ結ひて、人を入しめぬなり、○君毛不有國《キミモアラナクニ》は、舊訓に、マサナクニ〔五字右○〕とあるはわろし、此卷【四十四左】に、久爾有勿國《ヒサニアラナクニ》、卷四【四十二右】に、不相見者幾久毛不有國《アヒミヌハイクヒサシクモアラナクニ》などあるによりて、アラナクニ〔五字右○〕とよむべし、アラナクニは、あらぬものをの意なり、
一首の意は、今は天皇も御座しまさぬに、山守は誰が爲にか、かく標結ひて、御山をばまもりをるならむとなり、哀れ深き歌なり、
 
從2山科御陵《ヤマシナノミハカ》1退散之時、額田(ノ)王作歌一首
 
八隅知之和期大王之《ヤスミシヽワゴオホキミノ》、恐也御陵奉仕流《カシコキヤミハカツカフル》、山科乃鏡山爾《ヤマシナノカヾミノヤマニ》、夜者毛夜之盡《ヨルハモヨノコトゴト》、晝者母日之盡《ヒルハモヒノコトゴト》、哭耳呼泣乍在而哉《ネノミヲナキツヽアリテヤ》、百礒城乃大宮人者去別南《モヽシキノオホミヤビトハユキワカレナム》、
 
山科(ノ)御陵は、天智天皇の御陵なり、但(シ)書紀には、この御陵に葬奉る事をのせられず、文武天皇三年(ノ)紀に、十月甲午、欲v營2造越智山科二山(ノ)陵1也とあり、延喜諸陵式に、山科(ノ)陵、近江(ノ)大津(ノ)宮(ノ)御宇天智天皇、在2山城(ノ)國宇治(ノ)郡1、兆域東西十四町、南北十四町、陵戸六烟云々と見えたり、古事記傳卷十七【八十四】に、御陵はミハカ〔三字右○〕とよむべし、書紀仁徳紀(27)に、難波荒陵《ナニハノアラハカ》と云地名もあり、源氏物語須磨(ノ)卷に、院の御はか〔二字右○〕とあり、又|美佐邪紀《ミサヽギ》と云も古さ稱也、和名抄に、山陵【美佐々岐】又諸陵寮【美佐々岐乃豆加佐】とあり、但(シ)某天皇の御陵など云時は、美波加《ミハカ》と云べく、其御陵を指ては、美佐邪紀〔四字右○〕とも云べし、例へば、某處《ソコ》の美佐邪紀は、某天皇の美波加ぞなど云むが如し、某天皇の美佐邪紀などは云(ハ)ざりけむといへり、さてこゝは歌なれば、必ミハカ〔三字右○〕とよむべければ、端詞もしかよむべし、○退散、こは御陵に葬り奉てしばしが程は、常に仕奉りし人達の、晝夜分番交代して、御陵に仕奉りてありしを、期みちて退散するなり、
恐也《カシコキヤ》は舊訓、カシコミ〔右○〕ヤとあれど、カシコキ〔右○〕ヤとよむべし、玉(ノ)小琴に、恐也を、かしこみ〔右○〕や、かしこしや〔二字右○〕、などとよめるはわろし、かしこき〔二字右○〕やとよむべし、や〔右○〕は添たる辭にて、かしこき御陵《ミハカ》といふ意也、卷二十【五十四左】に、可之故伎〔左○〕也安米乃美加度乎《カシコキヤアメノミカドヲ》云々、この例也、又卷八【三十左】に、宇禮多伎〔左○〕也志許霍公鳥《ウレタキヤシコホトトギス》云々、これらの例をも思ふべしとあり、○御陵奉仕流《ミハカツカフル》、陵はハカ〔二字右○〕とよむべきよし、上にいへるが如し、後漢書、光武帝紀(ノ)注に、陵(ハ)謂2山墳1云々、水經渭水(ノ)注に、長陵亦曰2長山1也、秦名2天子冢1曰v山、漢曰v陵、故通曰2山陵1矣云々とあり、此は天子と庶人とを、文字の上にてわけたるのみ、訓は違ふ事なし、奉仕流はツカフルとよむべし、舊訓にツカヘルとあるはわろし、○山科乃鏡山爾《ヤマシナノカヾミノヤマニ》、(28)和名抄郷名に、山城(ノ)國宇治(ノ)郡山科【也末之奈】とあり、鏡(ノ)山は、山城志に、在2御陵村(ノ)西北1、圓峰高秀、小山環列、行人以爲v望云々とあり、○夜者毛《ヨルハモ》は四言の句也、毛は助字也、○夜之盡《ヨノコトゴト》は、ヨノコトゴト〔六字右○〕とよむべし、古事記上卷に、伊毛波和須禮士余能許登碁登邇《イモハワスレジヨノコトゴトニ》云云とあるも、世の盡にて、世の限りといふ意なり、本集此卷【三十五右】に、赤根刺日之盡《アカネサスヒノコトゴト》云云、卷三【五十四左】に、憑有之人之盡《タノメリシヒトノコトゴト》云々、卷五【六右】に、久奴知許等其等美世摩斯母乃乎《クヌチコトゴトミセマシモノヲ》、同【二十九左】に、布可多衣安里能許等其等伎曾倍騰毛寒夜須良乎《ヌノカタギヌアリノコトゴトキソヘドモサムキヨスラヲ》云々などある、ことごとも、みな限りの意也、これらの例をおして、こゝもコトゴト〔四字右○〕とよむべきを知るべし、考に、卷十三【今本四】に、崗本(ノ)天皇(ノ)御製とて、晝波日乃久流留麻弖《ヒルハヒノクルヽマデ》、夜者夜之明流寸食《ヨルハヨノアクルキハミ》とあるに依てよみぬ、こはいと古言にて、古言をば古言のまゝ用る事、集中に多き例也云々といはれしはわろし、○晝者母《ヒルハモ》、これも母《モ》は助字にて、晝者《ヒルハ》也、○哭耳乎《ネノミヲ》、哭《ネ》は音にたてヽ泣也、○百礒城乃《モヽシキノ》は枕詞也、上にいでたり、○去別南《ユキワカレナム》は、考云、葬まして一周の間は、近習の臣より舍人まで、もろもろ御陵に侍宿《トノヰ》せるを、今期|滿《ミチ》て各別るゝ也、
一篇の大意は、大王《オホキミ》の神上《カムアガリ》ませるによりて、大宮人は、其御陵山科の鏡(ノ)山の貧窮に、夜も晝も仕へ奉りて、悲しみ嘆きつゝありしが、今は其期も終りたれば、おの/\我家々に別れ行く事なるが、其歎きは一層まして、いと/\悲しき事かなとなり、
 
(29)明日香清御原宮《アスカノキヨミハラノミヤニ》御宇(シ)天皇代 天渟中原瀛《アメヌナハラオキノ》眞人(ノ)天皇
 
十市《トヲチノ》皇女薨(マセル)時、高市《タケチノ》皇子(ノ)尊御作歌三首
 
三諸之神之神須疑《ミモロノヤカミノカミスギ》已具耳矣自得見監乍共不寐《イメニヲシミムトスレドモイネヌ・イクニヲシトミケムツツトモネヌ》夜叙多《ヨゾオホキ》
 
明日香(ノ)清御原(ノ)宮(ニ)御宇(シ)天皇は、御謚を天武と申す、この宮の事は上に出たり、〇天渟中原瀛(ノ)眞人(ノ)天皇の九字、今本大字とす、今諸古本に依て小字とす、諸古本此下に、謚曰2天武天皇1の六字あり、後人の注なる事しるければ今取らず、〇十市(ノ)皇女は、天武天皇の皇女也、上に出たり、書紀天武紀に、七年夏四月丁亥朔、欲v幸2齋宮1卜v之、癸巳食v卜、仍取2平旦時1、警蹕動、百寮成v列、乘與命v盖、以未v及2出行1、十市(ノ)皇女卒然病發、薨2於宮中1、由v此鹵簿既停、不v得2幸行1、遂不v祭2神祇(ヲ)1矣、庚子葬2十市(ノ)皇女於赤穗1、天皇臨v之降v恩、以發v哀云々とあり、○高市(ノ)皇子(ノ)尊、この皇子の御事は上に出たり、但(シ)皇太子に立給ひしかば、尊とはかけり、此時は未だ皇太子に御座《オハ》しまさねど、すべて極官を書べき例なればなり、(30)此歌昔より、うまく解(キ)得たりと見ゆる説の無きは、口惜しき事なり、且先哲達の説は、文字を改る事多くして、何れも從ひがたし、縣居翁は、具以下九字の内八字を改、橘(ノ)守部の鐘の響には、三字改たるうへに、巳具耳を已《スデ》に具する耳《ノミ》の意として、上の須疑《スギ》を受て、スギ〔二字右○〕の假字なりといへるは、いと強言なり、又契冲師は、文字は改易せざれども、其意聞えず、且いへるやう、四(ノ)句は心得がたきやうなれど、古語は今の耳には、彷彿なる事多かりとて、曖昧にいへり、季吟の拾穗抄にも、此歌難解とありて注なし、されば早くよりよみ難き歌と見えたり、
正辭按(フ)るに、先(ヅ)具は、一本に、目とありといへるに從ひ、得は將の誤なりといふに依る、【考に、得將、草書字形近き故、誤(リ)、しなりとあり、さもあるべし、】乍は爲の誤なるべし、【乍爲、草書字形近し、】さて三四の句は、已目耳矣自將見監爲共《イメニヲシミムトスレドモ》と讀べし、ト〔右○〕の辭は讀そふるなり、【此例は集中に甚多し】矣をヲ〔右○〕に用ゐるは、漢文の助辭の意を以てなり、監を見〔右○〕に用ゐたるは、卷七【二十七右】に、監乍將偲《ミツヽシヌバム》、卷十六【九右】に、堅監將爲迹《カタミニセムト》などあり、又同意の文字を重ねかけるは、卷一【廿六左】に、暮夕《ユフベ》、卷三【五十八左】に、集聚《ツドヘ》、卷八【五十四左】に、雖居座《マセド》、卷六【三十一右】に、止駐《トマメ》などあり、自〔右○〕は常には濁音の字なれども、卷十九【二十三右】に、敲自努比《ウチシヌビ》と清音にもつかへり、【此外集中、清濁互に通じ用ゐたる例甚多し、余が萬葉集讀例に集め置きたり、】かくて上二句は、イ〔右○〕といはむ科の枕詞にて、神杉齋《カミスギイ》といふ意のつゞYき也、【又はイミ〔二字右○〕といふべきを活か(31)して、イメ〔二字右○〕】といひくだしたるにもあらむ、】されば此歌は、
  みむろのや神の神杉いめにをし、みむとすれどもいねぬ夜ぞおほき
とよむべきなり、
一首の意は、卷十一【七右】に、我妹戀無乏夢見《ワギモコニコヒテスベナミイメニミムト》、吾雖念不所寐《イネラエナクニ》、とあると全く同じくて、戀しさに、いとせめて夢にだに見むとおぼし給へど、御思ひにえ堪ずして、いをね給はねば、なか/\に夢にもえ見給はぬよしなり、
かくて此趣の歌、集中にいと多かり、卷十一【七右】に、何名負神幣嚮奉者《イカバカリナニオフカミニタムケセバ》、吾念妹夢谷見《ワガオモフイモヲイメニダニミム》、同【十七左】に、寤者相縁毛無夢谷《ウツヽニハアフヨシモナシイメニダニ》、間無見君戀爾可死《マナクミムキミコヒニシヌベシ》、卷十四【二十六右】に、波流敝左久布治能宇良葉乃宇良夜須爾《ハルベサクフヂノウラハノウラヤスニ》、左奴流夜曾奈伎兒呂乎之毛倍婆《サヌルヨゾナキコロヲシモヘバ》などあり、これら考へわたして、歌の意を明らむべし、さては文字を改むるは、得乍の二字のみにて、一首の意も穩當に聞ゆるに非ずや、【初句は、舊訓のままに、ミムロノヤと、ヤ〔右○〕の辭をよみつくべし、別に説あり、猶委しくは卷二の別冊にいへり、又傍訓、右なるは今案、左なるは舊訓也、】
 
神山之山邊眞蘇木綿短木綿《ミワヤマノヤマベマソユフミジカユフ》、如此耳故爾長等思伎《カクノミユヱニナガクトオモヒキ》
 
神山之《ミワヤマノ》は三輪山也、三輪は大和國城上郡也、考に、三諸も神山も、神岳と三輪とにわ(32)たりて聞ゆるが中に、集中をすべ考るに、三諸といふに三輪なるぞ多く、神なびの三室、又|神奈備山《カミナビヤマ》といへるは、飛鳥の神岳也、然れば.こゝは、二つともに三輪か、されど此神山を、今本に押てみわ山〔三字右○〕とよみしは、おぼつかなしとて神山をかみやまとよまれしかど、猶舊訓のまゝ、みわ山〔三字右○〕とよむべき也、さる故は、古事記傳二十三【五十四】に、神君《カミノキミ》とある注に、神の字、美和《ミワ》と訓り、そも/\美和を神と書(ク)故は、古へ大和(ノ)國に、皇大宮敷座《スメラオホミヤシキマセ》りし御代には、この美和《ミワノ》大神を殊に崇《アガメ》奉らしてたゞ大神とのみ申せば、即(チ)此神の御事なりしから、遂に其(ノ)文字を、やがて大美和《オホミワ》といふに用る事にぞなれりけむ、さるまゝに大を省《ハブ》きて云(フ)にも、又神(ノ)字を用ゐし也けり、和名抄に、大和(ノ)國城(ノ)上(ノ)郡の郷名、大神を、於保無和《オホムワ》と記し、神名式にも、大神《オホミワ》としるされたりとあり、○山辺眞蘇木綿《ヤマベマソユフ》、山邊は、神山《ミワヤマ》の山邊とつゞきて、即(チ)みわ山のほとりにある木綿《ユフ》といへる也、眞蘇木綿《マソユフ》の眞《マ》は、物をほむる言、蘇《ソ》は佐乎《サヲ》の急言にて、佐は添ていふ語、乎《ヲ》は緒《ヲ》也、そは本集卷九【三十四左】に、眞佐麻乎裳者織服而《マサヲヽモニハオリキテ》云々とある是也、大祓(ノ)祝詞に、菅曾《スガソ》とあるも、菅佐乎《スガサヲ》にて、菅の緒也、木綿《ユフ》は、豊後風土記に、速見(ノ)郡柚富《ユフノ》郷、此郷之中、栲樹多生、常取2栲皮1以造2木綿《ユフ》1、因曰2柚富(ノ)郷1云々、寶基本記に、贈d以2穀木1作2白和幣u、名2號木棉1云々とある如く、栲又は穀などの皮をもて作れる布也、さてその皮を割《サキ》て、緒《ヲ》とな(33)して織によりて、眞蘇木綿《マソユフ》とはいへり、麻を乎《ヲ》といふも割《サキ》て緒《ヲ》になして、物に用ゐるものなればなり、○短木綿《ミジカユフ》は、考に、こは長きも短きもあるを、短きを設出て、この御命の短きによそへ給へり、後に、短きあしのふしの間も、とよめるも此類也とあり、○如此耳故爾《カクノミユヱニ》、耳《ノミ》は今いふバカリ〔三字右○〕の意、故爾《ユヱニ》は、なる物を〔四字右○〕といふ意にてかくばかりなるものをとなり、
一首の意は、神山之山邊眞蘇木綿《ミワヤマノヤマベマソユフ》といふまでは、短木綿《ミジカユフ》といはむ序にて、其短木綿の、みじかき御命にて座せしものを、長くおはせよかしと思ひしことの、口惜しさよとなり、
 
山振之立儀足山清水《ヤマブキノタチヨソヒタルヤマシミヅ》、酌爾雖行道之白鳴《クミニユカメドミチノシラナク》
 
山振之《ヤマブキノ》、山振《ヤマブキ》は借訓の字なり、振《フリ》をフキ〔二字右○〕に借は、キ〔右○〕とリ〔右○〕と横に通ずるが故なり、又卷十九【二十・二十三】には、山吹ともあり、これも借字也、本集に、山吹とかけるは此のみにて、他は皆山振とあり、和名抄に、※[疑の右を欠]冬をよめるは誤也、こは今食物にするものにて、單にフキ〔二字右○〕といふものなり、新撰字鏡には、※[木+在]をヤマブキ〔四字右○〕とよめり、こは古へ皇國にて造れる文字なり、貝原篤信が大和本草には、棣棠をこれに當たり、○立儀足《タチヨソヒタル》は、舊訓(34)にサキタル〔四字右○〕とよめり、代匠紀に、立儀足をサキタル〔四字右○〕とは、如何によめるにか、其意を得ず、清水の下に、テニヲハの字もなければ、立ヨソヒタル山シミヅと讀べきにや、皇女四月七日に薨じ給ひて、十四日に赤穂に納む、赤穂は添(ノ)上(ノ)郡にあり、此歌によれば、赤穗は山なるべければ、其比猶山吹有るなるべし山吹の匂へる妹なども、よそへよめる花なれば、立よそひたると云べし、さらぬだに清き山の井に、山吹の影うつらむには、殊に清かりぬべし、下句の心は、其山の井を酌てだに、なき人の手向にすべきを、歎きにくづほれて、うつゝ心もなければ、道をもしらせ給はずとなり、といへり、是然るべし、足《タル》は詞なり、儀は、伊呂波字類抄に、ヨソフ〔三字右○〕とよみ、廣雅釋訓に、儀(ハ)儀容也ともあれば、ヨソヒ〔三字右○〕とよまむ事論なし、○道之白鳴《ミチノシラナク》は、道を知らぬにて、それ故せんすべなしと也、卷九【十九左】に、問卷乃欲我妹之家乃不知《トハマクノホシキワギモガイヘノシラナク》などもあり、
一首の意は、代匠紀の説にて、よく聞えたり、
 
天皇崩之時、太后御作歌一首
 
八隅知之我大王之《ヤスミシヽワゴオホキミノ》、暮去者召賜良之《ユフサレバメシタマフラシ》、明來者問賜良志《アケクレバトヒタマフラシ》(35)神岳乃山之黄葉乎《カミヲカノヤマノモミヂヲ》、今日毛鴨問給麻思《ケフモカモトヒタマハマシ》、明日毛鴨召賜萬旨《アスモカモメシタマハマシ》、其山乎振放見乍《ソノヤマヲフリサケミツヽ》、暮去者綾哀《ユフサレバアヤニカナシミ》、明來者裏佐備晩《アケクレバウラサビクラシ》、荒妙乃衣之袖者乾時文無《アラタヘノコロモソデハヒルトキモナシ》、
 
天皇崩とは、書紀本紀(ニ)云、朱鳥元年九月丙午、天皇病遂不v差《イエ》、崩2于正宮1、戊申始發v哭、則起2殯宮(ヲ)於南庭(ニ)1云々、持統紀に、三年十一月乙丑、葬2于大内(ノ)陵1云々とあり、○太后の太、類本には大とかけり、官本温本家本活本は原本と同じ、太后は後に即位して持統天皇と申す、書紀本紀(ニ)云、高天原廣野姫《タカマノハラヒロヌヒメノ》天皇、少名|※[盧+鳥]野讃良《ウヌサヽラノ》皇女、天開別《アメヒラキワケノ》天皇第二女也、母(ハ)、曰2遠智娘《ヲチノイラツメ》1、天豐財重日姫《アメトヨタカライカシヒタラシヒメノ》天皇三年、適2天渟中原瀛《アメヌナハラオキノ》眞人(ノ)天皇1爲v妃、天渟中原瀛眞人(ノ)天皇(ノ)二年、立爲2皇后1云々、四年春正月、戊寅朔、皇后即2天皇(ノ)位1とあり、召賜良之《メシタマフラシ》を、舊訓に、メシタマヘラシ〔七字右○〕とあるはわろし、玉(ノ)小琴に、召賜良之《メシタマフラシ》、問賜良志《トヒタマフラシ》、二つながらたまふらし〔五字右○〕とよむべし、卷十八【二十三右】に、みよしぬのこの大宮に、ありがよひ賣之多麻布良之《メシタマフラシ》ものゝふの云々、これ同じ格也、つねのらし〔二字右○〕とは意かはりて、何とかや心得にくきいひざま也、卷二十【六十二右】に、於保吉美乃都藝弖賣須良之《オホキミノツギテメスラシ》たか(36)まどの、ぬべ見るごとにねのみしなかゆ云々、このめすらし〔四字右○〕も、常の格にあらず、過しかたをいへる事いまも同じ、これこの例によりて、今もたまふらし〔五字右○〕とよむべき事明らけし、今本に、たまへらし〔五字右○〕と訓るは誤り也といへり、但(シ)召賜《メシタマフ》の召は借字にて米《メ》と美《ミ》と音通へば、見之《ミシ》給ふにて、神岳のもみぢを見給ふをいふ、○明來者《アケクレバ》は、夜のあけゆけばなり、○間賜良志《トヒタマフラシ》、この問《トフ》は、人に物をたづぬる意にはあらで、訊《トブラ》ふ意にて、神岳のもみぢをとぶらひ給ふらしと也、本集卷三【五十三右】に、芽子花咲而有哉跡問之君波母《ハギノハナサキテアリヤトトヒシキミハモ》、卷九《十九左》に、問卷乃欲我妹之家乃不知《トハマクノホシキワギモガイヘノシラナク》などありて、たづねとぶらふ意なり、○神岳乃《カミヲカノ》は、舊訓ミワヤマ〔四字右○〕》とあれど、カミヲカ〔四字右○〕とよむべし、神岳は、三諸《ミモロ》の雷岳《イカヅチノヲカ》の事にて、雷は奇しくあやしきものなれば、古くより只神とのみもいひ來つれば、雷岳をやがて神岳ともいひし也、そは書紀雄略紀に、雷をカミ〔二字右○〕とよみ、本集卷十二【十九右】に、如神所聞瀧之白浪乃《カミノゴトキコユルタキノシラナミノ》云々、卷十四【十四右】に、伊香保禰爾可未奈那里曾禰《イカホネニカミナナリソネ》などあり、丘を岳と作《カケ》るは俗體也、岡(ノ)字を、本集又他の古書にも、崗と作《カケ》るが多かるをも思ふ可し、委しくは萬葉集文字辨證にいひおけり、○今日毛鴨《ケフモカモ》は、天皇の今もおはしまさば、今日もあすもめしたまはましとなり、○綾哀《アヤニカナシミ》は、本集此卷【二十六右】に、味凝文爾乏寸《ウマゴリアヤニトモシキ》云々、同【三十三右】に、綾爾憐《アヤニカナシミ》云々・卷六【十九左】に、决卷毛綾爾恐《カケマクモアヤニカシコク》云々などありて、集中い(37)と多し、綾文〔二字右○〕などかけるは皆借字也、さるを考に、稜文の如く、とざまかくざまに入たちてなげく也、といはれしは僻言也、古事記傳三【四十四】に、阿夜《アヤ》は驚て歎《ナゲク》聲なり、皇極紀に、咄嗟を夜阿《ヤア》とも阿夜《アヤ》とも訓り、凡そ阿夜《アヤ》、阿波禮《アハレ》、波夜《ハヤ》、阿々《アヽ》など、皆本は同く歎く聲にて少しづゝの異あるなり、抑歎くとは、中昔よりしては、只悲み愁ふる事にのみいへども、然にあらず、那宜伎《ナゲキ》は、長息《ナガイキ》の約まりたる言にて、凡て何事にまれ、心に深く思はるゝ事あれば、長き息をつく、是即|那宜伎《ナゲキ》なり、されば喜きことにも何にも歎《ナゲキ》はすること也、さて其歎きは、阿夜《アヤ》とも、阿波禮《アハレ》とも、波夜《ハヤ》とも、聲の出れば、歎聲とはいへり、又|阿夜《アヤ》といひて歎くべき事を、阿夜爾《アヤニ》云々ともいへり、阿夜爾《アヤニ》かしこし、阿夜爾戀《アヤニコヒ》し、阿夜爾悲《アヤニカナ》しなどの類也とあり、此説の如し、○裏佐備晩《ウラサビクラシ》、裏は借字にて心なり、佐備《サビ》は、集中、不樂不怜などの字をもよみて、たのしまざる意にて、こゝは心の不樂《サビ》しく、なぐさまずあかしくらすをのたまへり、此事卷一の注に既にいへり、○荒妙乃《アラタヘノ》は枕詞にあらず、荒妙乃《アラタヘノ》衣とつゞきて、喪服なり、儀制令義解に、謂※[なべぶた/凶]服者※[糸+衰]麻也とありて、※[糸+衰]衣は、和名抄葬送具に、唐韻云、※[糸+衰]【倉回反、與v催同、不知古路毛】喪衣也とあり、必しも藤にて織たる布ならぬも、※[糸+衰]衣はあら/\しきものなれば、藤衣といふなり、
(38)一篇の大意は、世に御座しましゝ時、神岳《カミヲカ》の山の紅葉の盛りなりし折は、朝夕べに見し給ひ、訊《トブラ》はせ給ひたりしが、今も世に御座ましせば、かく盛りなる紅葉を、日毎御覧ありて、御歡び給ふべきに、さはなければ、吾々はただ其山をふりさけ見つゝ、世のはかなさを歎き悲しみ、衣の袖は涙にぬれて、ひる時もなき事かなとなり、
 
一書曰、天皇崩之時、太上天皇御製歌二首
 
燃火物取而裹而福路庭《モユルヒモトリテツヽミテフクロニハ》、入澄不言八《イルトイハズヤ》面知男雲
 
代匠紀に云、太上天皇は持統天皇なり、天武天皇崩じましゝ所なれば、太后とかくべきを、太上天皇と書しは、文武天皇崩御の後久しからずして、或人の記し置るを取て、萬葉の撰者が其まゝに出したるならむ、
燃火物《モユルヒモ》は、舊訓に、トモシビモ〔五字右○〕とあれどわろし、モユルヒモと〔五字右○〕訓べし、廣韻に、燃、俗(ノ)然字、説文に、然(ハ)燒也とあり、本集卷十二【三十二左】に、燒乍毛居《モエツヽモヲル》、卷十二【三十一右】に、燒流火氣能《モユルケブリノ》など、燒をモユル〔三字右○〕とよめるにて今ももゆる〔三字右○〕とよむべきを知るべし、代匠記に、燃火物はモユルヒモ〔五字右○〕と讀べきか、結句はオモシルナクモ〔七字右○〕とよむべし、第十二に、面知君が見えぬ此比《コノゴロ》とも、又面知兒等が見えぬ比《コロ》かもとよめるは、面知とは、常(ニ)相見馴るゝ(39)顔を云なり、幸に仙覺抄に、智を知に作れり、今按に、如何なるもゆる火をも、能方便してつゝみつれば、袋に入ても持と云に非ずや、賓壽かぎりまし/\て、昇霞したまふをば、冥使の來る時、如何にも隱し奉るべき方なければ、明暮見馴奉し龍顔を、今は見參らせぬが悲しき事と、讀せたまへるかといへり、考に、後世も火をくひ火を踏わざを爲といへば、其御時に在し役(ノ)小角《ヲツヌ》がともがらの、火を袋に包みなどする、恠き術する事有けむ、さてさるあやしきわざをだにすめるに、崩ませし君に、逢奉らむ術を知といはぬがかひなし、と御歎きのあまりに、のたまへるなりといへり、又結句の智は、知曰二字の誤れるなるべしとてイルトイハズヤモシルトイハナクニ〔イル〜右○〕と訓り、橘(ノ)守部の説には、智は知日の二字にて、面知とは、逢見と云意の義訓にて、アヒミルナクモ〔七字右○〕と訓べしといへり、○福路庭《フクロニハ》、福路は借字にて、袋なり、〇入澄不言八面知男雲《イルトイハズヤアヒミルナクモ》、澄(ノ)字、古葉畧類聚抄に再び引て、共に登とあり、又仙覺抄の一本にも、登とあり、智(ノ)字、拾穗抄及畧解に引一本、又仙覺抄に、知とあり、さて拾穗抄には、結句オモシルナクモ〔七字右○〕とよめり、舊訓に、モチヲノコクモ〔七字右○〕とあるは非也、此歌いと難解なれば、唯衆説を出しおくのみ、
假に一首の意をいはゞ、もゆる火を袋に包むといふ、怪しき業をさへすといふに、(40)戀ひしたひ奉る、亡き君に逢見るわざのなきは、いとうれたく悲しき事かなとなり、
 
向南山陳雲之青雲之《キタヤマニタナビククモノアヲグモノ》、星離去月牟離而《ホシサカリユキツキモサカリテ》
 
向南山を、きた山とよむは、義訓也、名所にあらず、南に向ふは北なれば、かくかけるなり、○陳雲之《タナビククモノ》、陳は、玉篇に、列也布也とあり、書紀神代上に、薄靡の二字をタナビキテ〔五字右○〕と訓、本集に、輕引、霏※[雨/微]、桁曳などの字をも、タナビク〔四字右○〕とよみて、空に雲などの引わたし覆《オホ》ふをいふ也、○青雲之《アヲグモノ》、青雲といへる例は、祈年祭祝詞に、青雲能靄極《アヲグモノタナビクキハミ》、白雲能墜座向伏限《シラクモノオリヰムカフスカギリ》、本集卷十三【二十九左】に、白雲之棚曳國之《シラクモノタナビククニノ》、青雲之向伏國乃《アヲグモノムカフス》クニノ、卷十四【二十八右】に、安乎久毛能伊底來和伎母兒《アヲグモノイデコワギモコ》、卷十六【二十九左】に、青雲乃田名引日須良霖曾保零《アヲグモノタナビクヒスラコサメソボフル》などあり、青色の雲はなきものなれども、たゞ大虚空《オホゾラ》の蒼々《アヲ/\》見ゆるをしかいふ也、○星離去月牟離而《ホシサカリユキツキモサカリテ》は、玉(ノ)小琴に、青雲之と云は、青空にある星と云意地、雲と星とのはなるゝにはあらず、二つの離はさかり〔三字右○〕と訓て、月も星も漸くにうつりゆくをいふ、ほどふれば星月も次第にうつりゆくを見たまひて崩たまふ月日の、ほど遠くなりゆくを悲しみ給ふ也といへり、考に、月牟《ツキモ》の牟は、毛の誤り也とて改めたるはわろし、牟《ム》(41)を毛《モ》に用ゐたるは、新撰萬葉集に、鶯者郁子牟〔左○〕鳴濫《ウグヒスハムベモナクラム》、又|山郭公老牟〔左○〕不死手《ヤマホトトギスオイモシナズテ》、新撰字鏡に、※[木+止]【牟彌乃木】また※[草冠/閭]【呂居反、蓬類也、伊波與牟支、】とあり、是等皆、牟はモ〔右○〕の假字としたるなり、猶精細しくは余が萬葉集字音辨證にいへり、
一首の意は、玉(ノ)小琴の説にてよく聞えたり、
 
天皇崩之後、八年九月九日、奉v爲2御齊會1之夜、夢裏習賜《イメノウチニナラヒタマヘル》御歌一首、 古歌集中(ニ)出
 
明日香能清御原乃宮爾《アスカノキヨミハラノミヤニ》、天下所知食之《アメノシタシラシメシシ》、八隅知之吾大王《ヤスミシシワゴオホキミ》、高照日之皇子《タカテラスヒノミコ》、何方爾所念食可《イカサマニオモホシメセカ》、神風乃伊勢能國者《カムカゼノイセノクニハ》、奥津藻毛靡足波爾《オキツモモナビキシナミニ》、塩氣能味香乎禮流國爾《シホゲノミカヲレルクニニ》、味凝文爾乏寸《ウマゴリノアヤニトモシキ》、高照日之御子《タカテラスヒノミコ》、
 
崩之後八年、天武天急は、朱鳥元年崩じ給ひしかば、後八年は持統天皇七年也、〇九月九日は、持統紀(ニ)云、七年九月丙申、爲2清御原(ノ)天皇1、設2無遮(ノ)大會於内裏1云々とあり、此(42)月丁亥朔なれば、丙申は十日に當れり、こゝに九日とせるは、暦法の異ならむ、○御齊會の齊〔右○〕(ノ)字、諸古本に齋〔右○〕と作《ア》り、されど齊齋は、古へ通用の字なれば、もとのまゝにてよし、此事卷一上、又萬葉集訓義辨證にもいひおけり、齋會は、書紀敏達紀に、大會設v齊とありてこゝにも齊(ノ)字を用ゐたり、○夢裏習賜《イメノウチニナラヒタマヘル》とは、習は誦習にて、數々皆ひ給ふをいふ、論語に、學而時習v之とある何晏注に、學者以v時誦2習之1、又易坎卦の注に、習謂v更2習之1とありて、釋文に、習(ノ)重也とあるを見べし、然るを考には、唱賜と改め、略解には、習は誦の誤かといへるは、共に非也、考に、此次に、藤原(ノ)宮(ノ)御宇と標して、右同天皇の崩ませる朱鳥元年十一月の歌を載て、次には同三年の歌有を、こゝには同八年の歌を載べきにあらず、且持統天皇の大御歌とせば、御製とも御夢とも書べし、かたがたいか成野書をか、裏書にしつらむ、然るを後の心なしの、遂に本文にさへ書なせしもの也といひて、本文には省きて、小書にせるは、例の妄説也、年代はいかにまれ、こは天武天皇の御爲に、御斎會をまうけ給ひし夜、天皇を慕ひ給ふ御心より、よませ給ひしなれば、こゝに入べき事、もとよりの事也、すべて萬葉考に、年次の事をいへるには、泥みすぎたる事往々あり、又こゝに太后としるし奉らねど、こは前の天皇崩之時太后御作歌とある、端辭をうけたるにて、御歌とさへあれば、太后(43)の御歌なる事明らけし、○古歌集中(ニ)出、此五字、今本脱す、今諸古本に依て補ふ、
高照日之皇子《タカテラスヒノミコ》、高照《タカテラス》は枕詞、日之皇子《ヒノミコ》とは、天皇は日之神の御未ぞと申意也、此事既にいへり、こゝもわが大王《オホキミ》は、日之神の御末ぞと申す意也、高照は、舊訓には、何處もタカテラス〔五字右○〕と訓(ミ)たり、しかるを古事紀の景行天皇(ノ)段の歌に、多加比加流比能美古《タカヒカルヒノミコ》、夜須美斯志和賀意富岐美《ヤスミシシワガオホキミ》、又雄略天皇の大御歌に、多加比加流比能美夜比登《タカヒカルヒノミヤビト》とあるによりて、高照も、タカヒカル〔五字右○〕と訓べしといへるは、げにさる事なれど、又舊訓のまゝにて、タカテラス〔五字右○〕にてもあしからじと覺ゆ、さるは本集卷十八【三十三左】七夕欧に、安麻泥良須可未能御代欲里《アマテラスカミノミヨヨリ》、夜洲能河波奈加爾敝太弖々《ヤスノカハナカニヘダテヽ》、牟可比太知蘇泥布利可波之《ムカヒタチソデフリカハシ》云々とあり、又天照大御神の照は、テラス〔三字右○〕と訓べき事なれば、高照《タカテラス》ともいふべきなり.延喜式の神名帳に、阿麻※[氏/一]流《アマテル》神社といふもあり、又三代實録、元慶四年、藤原(ノ)基經公を太政大臣に任《マケ》給ふ宣命に、朕我食國乎平久安久天照之治聞食須故波《ワガヲスクニヲタイラケクヤスラケクアマテラシヲサメキコシメスユヱハ》、此(ノ)大臣之|力奈利《チカラナリ》とあるは、天皇の天(ノ)下|知看《シロシメス》を、大御神に準へて、天照《アマテラス》との給へるなり、かゝれば舊訓のまゝに訓(マ)むも、よろしかるべしと思へば、もとのまゝにておきつ、猶考(フ)べし、但本集に、高光〔二字右○〕とある所は、猶古事記によりてタカヒカル〔五字右○〕と訓べき也、○何方爾所念食可《イカサマニオモホシメセカ》は、本集卷一【十七右】に、何方御念食可《イカサマニオモホシメセカ》、天離夷者雖有《アマサカルヒナニハアレド》、石走淡海國乃《イハバシノアフミノクニノ》、樂(44)浪乃大津宮爾《サヽナミノオホツノミヤニ》、天下所知食兼《アメノシタシラシメシケム》云々ともありて、食可《メセカ》はメセバカの意にて、可《カ》は疑ひの辭にて、下の香乎禮流國《カヲレルクニ》までにかゝれり、いかさまにおぼしめせばか、この伊勢の國にはおはしますらむと也、○神風乃は枕詞にて、冠辭考にくはし、○靡足波爾《ナビキシナミニ》、靡足《ナビキシ》は、波へもかゝりて、波の風に吹きよせらるゝをいひて、藻も波もなびく也、本集卷二十【六十三右】に、阿乎宇奈波良加是奈美奈妣伎由久左久佐《アヲウナバラカゼナミナビキユクサクサ》、都々牟許等奈久布禰波々夜家無《ツヽムコトナクフネハヽヤケム》とあり、波にもなびく〔三字右○〕といふなり、足をシ〔右○〕の假字に用ゐしは、略訓也、石《イシ》をシ〔右○〕、跡《アト》をト〔右○〕、開《アク》をク〔右○〕の假字に用ゐたる類多し、○塩氣能味《シホゲノミ》、塩氣は鹽の氣也、本集卷九【三十二右】に、塩氣立荒磯丹者雖有往水之《シホゲタツアリソニハアレドユクミヅノ》、過去妹之方見等曾來《スギニシイモガカタミトゾコシ》ともあり、能味《ノミ》はバカリの意にて、伊勢の國は、鹽氣のみ立みちたる國なるを、いかにおぼしめしてか、此國にはおはすらむとの意也、○香乎禮流國爾《カヲレルクニニ》、香乎禮流《カヲレル》は、鹽氣のたちてくもれるをいふ、書紀神代紀上、一書に、我所v生之國、唯有2朝霧1而薫滿之哉《カヲリミテルカモ》云々とあり、塩氣能味香乎禮流國爾《シホゲノミカヲレルクニニ》、味凝文爾乏寸《ウマゴリアヤニトモシキ》、此あたりよく聞え難し、决めて脱句あるべし、○味凝《ウマゴリ》は枕詞也、本集卷六【十一右】に、味凍《ウマゴリ》とかけるも、借字にて、美織《ウマオリ》の綾とつゞけし也、クオ〔二字右○〕急呼コ〔右○〕なれば、ウマゴリ〔四字右○〕とはいへり、綾を、詞のあやにとりなしてつゞけし也、〇文爾乏寸《アヤニトモシキ》、文爾《アヤニ》は借字にて、歎辭也、乏寸《トモシキ》は、こゝなるはめづらしと愛する意也、何(45)にまれ少くともしき物は、めづらしく思ふよりいへるなり、そは本集卷三【二十二左】に、出來月乃光乏寸《イデクルツキノヒカリトモシキ》、卷四【二十左】に、人之見兒乎吾四乏毛《ヒトノミルコヲワレシトモシモ》、卷六【十一右】に、味凍綾丹乏敷《ウマゴリノアヤニトモシク》などあり、猶多し、さてこゝの意は、あやにともしくめづらしと思ひ奉る日之皇子と、天皇をさして申給ふ也、
一篇の大意は、夢中の御詠なれば、おのづからしどけなきにや、又此天皇、はじめよし野に入らせ給ひしが、吉野より伊勢(ノ)國へ幸して、桑名にありし事あるをおぼしいでゝ、よみ給へるにもあるべし、
 
藤原(ノ)宮御宇(シ)天皇(ノ)代  高天(ノ)原廣野姫(ノ)天皇
 
大津《オホツノ》皇子薨之後、大來(ノ)皇女、從2伊勢(ノ)齊宮1上v京之時、御歌二首
 
神風之伊勢能國爾母有益乎《カムカゼノイセノクニニモアラマシヲ》、奈何可來計武君毛不有爾《ナニシカキケムキミモアラナクニ》
 
(46)藤原(ノ)宮(ニ)御宇(シ)天皇は、御謚を持統と申す、此宮の事は既にいへり、高天(ノ)原廣野姫(ノ)天皇の九字、今本大字とす、古本は何れも小字にかけり、今集中の例と、古本とによりて、小字とす、○大津(ノ)皇子は、天武天皇の皇子也、朱鳥元年十月薨給へり、上にくはし、○大來皇女、又大伯《オホクノ》皇女ともかけり、天武天皇の皇女にて大津皇子同母の御姉なり、白鳳二年、齋宮になり給ひて、朱鳥元年十一月に、齋宮より京にかへらせ給ひぬ、こは大津皇子、謀反發覺して、死を賜へるによりてなるべし、齋宮は、伊勢大御神に仕(ヘ)奉り給ふ皇女たちの、御座せる宮をいふ、
奈何《ナニシ》、ナニシ〔三字右○〕は義訓也、〇君毛不有爾《キミモアラナクニ》は、君は大津皇子をさしたまへり、不有爾《アラナクニ》は、アラヌモノヲ〔六字右○〕の意なり、
一首の意は、慕ひ奉り給ふ君も、今は御座せぬに、何故に遙々と京へは歸り來りし事かな、かくあらむには、伊勢の國にあるべかりしをと、皇子の薨じ給ひし事を、始めて知り給ひし如く、うたがひ給へるにていとあはれ深く聞ゆるなり、
 
欲見吾爲君毛不有爾《ミマクホリワガセシキミモアラナクニ》、奈何可來計武馬疲爾《ナニシカキケムウマツカラシニ》
 
欲見《ミマクホリ》は見むと欲する也、本集卷七【十九右】に.欲見吾爲里乃《ミマクホリワガスルサトノ》、同【二十七左】に、見欲我爲苗《ミマクホリワガスルナヘニ》など(47)あり、猶多し、アラナクニ〔五字右○〕は、上文に同じく、俗にアラヌノニ〔五字右○〕の意也、○奈何可《ナニシカ》は、舊訓にナニニカ〔四字右○〕かとあるはわろし、○馬疲爾《ウマツカラシニ》は、略解に、ウマツカルルニ〔七字右○〕とあるはわろし、舊訓のまゝウマツカラシニ〔七字右○〕とよひべし、疲《ツカル》は、本集卷七【二十八右】に、春日尚田立羸《ハルビスラタニタチツカル》、卷十一【二十六左】に、玉戈之道行疲《タマボコノミチユキツカレ》などあり、
一首の意は、吾見むと思ふ君も、今はおはせぬものを、何しか京へは來りし事か、いたづらに馬を疲らするのみの事なるものをと、歎かせ給へる也、上の御歌と共に、いとあはれなる歌なり、
 
移2葬大津(ノ)皇子(ノ)屍(ヲ)於|葛城《カツラギノ》二上《フタガミ》山(ニ)1之時.大來(ノ)皇女哀傷(シテ)御作歌二首
 
宇都曾見乃人爾有吾哉從明日者《ウツソミノヒトナルワレヤアスヨリハ》、二上山乎弟世登吾將見《フタガミヤマヲイモセトワレミム》
 
移葬は、假寧令集解に、凡改葬、改2移舊屍1、古記曰、改葬、謂殯2埋舊屍柩1、改移之類云々とあれば、移葬は、今迄殯宮にてありつるを、墓所に移し葬るをいへる也、○屍《カバネ》は、考に、(48)屍をおきつき〔四字右○〕とよみたるは誤り也、屍は、禮記曲禮に、在v牀曰v屍、在v棺曰v柩とあり、○葛城二上山《カツラギノフタガミヤマ》、葛城山は、大和(ノ)國葛(ノ)上(ノ)郡、二上山は、葛(ノ)下(ノ)郡なり、和名抄國郡部に、大和(ノ)國葛上【加豆良岐乃加美】葛下【加豆良木乃之毛】とあり、延喜神名式に、大和(ノ)國葛(ノ)下(ノ)郡、葛木二上神社と見え、大和志に、葛(ノ)下(ノ)郡、二上叫(ノ)墓、在2二上山(ノ)二上(ノ)神社(ノ)東1とあり、
宇都曾見乃《ウツソミノ》は、現身《ウツシミ》といふ意にて、志《シ》と曾《ソ》と通音也、これを集中に、虚蝉《ウツセミ》、空蝉《ウツセミ》などかけるは、志《シ》と世《セ》と又通音なれば也、〇人爾有吾哉《ヒトナルワレヤ》は、われは現《ウツヽ》の身の人にはあれども、君を二上山に葬りたるからは、明日よりは、二上山をいもせと見む事の悲しさよと也、○弟世登吾將見《イモセトワレミム》、弟をイモ〔二字右○〕とよむは、妹の意にて、義訓也、古(ヘ)兄弟夫婦皆イモセ〔三字右○〕といへり、そは書紀仁賢紀分注に、古者不v言2兄弟長幼1、女以v男稱v兄《セ》、里以v女稱v妹《イモ》とあり、すべて男よりは女をイモ〔二字右○〕といひ.女よりは男をセ〔右○〕といひし也.こゝは兄弟を、イモセ〔三字右○〕とはいへる也、宗于集に、はらからなる人のうらめしきことあるをりに、君とわがいもせの山も秋くれば、いろかはりぬるものにぞありける、是等は後のものながら、兄弟をイモセ〔三字右○〕といへる也、
一首の意は、現身《ウツヽノミ》にてある吾なれども、明日よりは此二上山を、弟世《イモセ》と見むことの、あはれはかなく悲しとなり、
 
(49)磯之於爾生流馬醉木乎手折目杼《イソノウヘニオフルツヽジヲタヲラメド》、令視倍吉君之在常不言爾《ミスベキキミガアリトイハナクニ》
 
磯之於爾《イソノウヘニ》、於《ウヘ》は上なり、本集卷十二【三左】に、磯上生小松《イソノウヘニオフルコマツノ》などもありて、邊《ホトリ》をいふ、山(ノ)上(ノ)憶良を、續日本紀卷二に、山於〔右○〕憶良とかけり、代匠記に、南京の法相宗に、語助の於字を、ウヘ〔二字右○〕と讀めりといへり、これらは上下の上の字の意也、○生流馬醉木乎《オフルツヽジヲ》、馬醉木は※[木+浸の旁]木の事にて、古(ヘ)アセミ〔三字右○〕といへる是也、又|木瓜《ボケ》は、古名アシビ〔三字右○〕にて、漢名は櫨子なり、此アシビ〔三字右○〕とアセミ〔三字右○〕と音近き故に、混じて誤れるなり、考にアシビ〔三字右○〕と訓て、本集卷七【十右】に、安志妣《アシビ》、卷二十【六十二右】に、安之婢《アシビ》とあるものと同物として今いふ木瓜《ボケ》なりといはれしは誤也、馬醉木は、本集卷八卷十卷十三等に、馬醉木、又は馬醉花とかけり、此名漢土の書にはなし、古へ皇國にて設けたる稱號なるべし、本集卷十に、馬醉花とかける三首の歌は、六帖第六あせみ〔三字右○〕の條に載て、皆アセミ〔三字右○〕と訓り、又赤人集、家持集にも、此歌どもをアセミ〔三字右○〕と訓り、こは天暦の御時、梨壺の五人に詔して、此集を讀解しめ給ひし折の訓なるべし、しかるを今本の訓には、ツツジ〔三字右○〕とあり、俊頼の散木集の、顯昭の注に、萬葉集には馬醉木とかきて、あせみ〔三字右○〕とも、つゝじ〔三字右○〕ともよめり、とあり、(50)かゝれば六帖、赤人集等は、アセミ〔三字右○〕の方に從ひ、仙覺は.ツツジ〔三字右○〕の方をとれる也、委しくは別記にあり、○在常不言爾《アリトイハナクニ》、このナクニ〔三字右○〕もモノヲ〔三字右○〕の意也、
一首の意は、今この二上山の岩の上に生たるつゝじの、いと美はしければ、手折持行て土産《ツト》にせむと思へど、いかにせむ、今は見すべき君も、在といはぬものをと也、いと悲しき歌也、さて考に、移はふりの日に、皇女も慕ひ行き給ふ道のべに、この花を見てよみ給へるもの也、上の歌に、あすよりはとあるからは、他《アダ》し日に非ず、さてかゝる時に、皇子皇女もそこへおはする事、紀にも集にも見ゆ、古(ヘ)の心深さ知るべしといへり、
 
右一首、今案不v似2移葬之歌1、盖疑從2伊勢神宮1還v京之時、路上見2花盛〔右○〕1傷哀咽、作2此歌1乎
 
此(ノ)左注は誤なり、其由は前にいへるが如し、さて次の日並知(ノ)皇子云々の端辭を、今本、此(ノ)左注につゞけしるせるはわろし、今諸古本に從ひて、別提す、○花盛、盛字、温本官本に、感と作《ア》り、
 
(51)日並皇子《ヒナミシノミコノ》尊殯宮之時、柿本(ノ)朝臣人麿作歌一首 并短歌
 
天地之初時之《アメツチノハジメノトキシ》、久堅之天河原爾《ヒサカタノアマノカハラニ》、八百萬千萬神之《ヤホヨロヅチヨロヅカミノ》、神集集座而《カムツドヒツドヒイマシテ》、神分分之時爾《カムハカリハカリシトキニ》、天照日女之命《アマテラスヒルメノミコト》【一云指上日女之命】天乎波所知食登《アメヲバシロシメスト》、葦原乃水穗之國乎《アシハラノミヅホノクニヲ》、天地之依相之極《アメツチノヨリアヒノキハミ》、所知行神之命等《シロシメスカミノミコトト》、天雲之八重掻別而《アマグモノヤヘカキワケテ》【一云天雲之八重雲別而】神下座奉之《カムクダリイマセマツリシ》、高照日之皇子波《タカテラスヒノミコハ》、飛鳥之淨之宮爾《アスカノキヨミノミヤニ》、神隨太布座而《カムナガラフトシキマシテ》、天皇之敷座國等《スメロギノシキマスクニト》、天原石門乎開《アマノハライハトヲヒラキ》、神上上座奴《カムアガリアガリイマシヌ》【一云神登座尓之可婆】吾王皇子之命乃《ワゴオホキミミコノミコトノ》、天下所知食世者《アメノシタシロシメシセバ》、春花之貴在等《ハルバナノタフトカラムト》、望月乃滿波之計武跡《モチヅキノタヾハシケムト》、天下《アメノシタ》【一云食國】四方之人乃《ヨモノヒトノ》、大船之思憑而《オホブネノオモヒタノミテ》、天水仰而(52)待爾《アマツミヅアフギテマツニ》、何方爾御念食可《イカサマニオモホシメセカ》、由縁母無眞弓乃崗爾《ツレモナキマユミノヲカニ》、宮柱大布座《ミヤバシラフトシキイマシ》、御在香乎高知座而《ミアラカヲタカシリマシテ》、明言爾御言不御問《アサゴトニミコトトハサズ》、日月之數多成塗《ツキヒノマネクナリヌル》、其故皇子之宮人《ソコユヱニミコノミヤビト》、行方不知毛《ユクヘシラズモ》、【一云刺竹之皇子宮人歸邊不知爾爲】
 
日並(ノ)皇子とあるは、知(ノ)字を省けるもの也、續日本紀には、並(ノ)字の下に知(ノ)字あり、上文に委しくいへり、日並皇子《ヒナミシノミコノ》尊は、文武天皇の御父、草壁《クサカベノ》皇子と申奉る、尊號を岡(ノ)宮(ノ)天皇と申奉れり、書紀持統紀に、三年四月乙未、皇太子|草壁《クサカベノ》皇子(ノ)尊薨云々と見えたり、○殯宮之時、考の頭注に、この集に、葬の後にも、殯の時とあるは、既(ニ)葬(リ)奉りても、一周御はか仕へる間をば、殯といひしのみ、天皇の外は、別に殯宮をせられねば也とあれど、船(ノ)首(ノ)王後(ノ)墓志に、殯2葬於松岳山上1とありて、狩谷望之の古京遺文に、此版以v殯爲v葬、伊福吉部氏(ノ)墓志亦同、萬葉集以2眞弓(ノ)岡(ノ)陵1、爲2日並知(ノ)皇子(ノ)殯宮1、亦與v此同義、といへり、猶別記に云(フ)べし、この歌にも、眞弓乃崗爾宮柱太布座《マユミノヲカニミヤバシラフトシキイマシ》云々とありて、下の明日香《アスカノ》皇女|木※[瓦+缶]《キカメノ》殯宮(ノ)歌にも、木※[瓦+缶]宮乎常宮跡定賜《キカメノミヤヲトコミヤトサダメタマヒ》云々ともあれば、殯宮なしとはいひ難し、○柿本(ノ)朝臣人麿、原本に朝臣の二字なし、諸古本同じく無し、今目録、及古葉類(53)聚抄に依て補ふ、○短歌の二字、原本大字とせり、今官本家本に依て小字とす、
初時之《ハジメノトキシ》、考には、之をノ〔右○〕と訓れしかど、シ〔右○〕とよむべし、シ〔右○〕は助字也、古事記に、天地初發之時《アメツチノハジメノトキ》とあるは、實に天地の初發といふ、此は神代をさして凡にいへる也、○天河原《アマノカハラ》は、安之河《ヤスノカハ》をいふ、古事記上卷【二十一右】に、是(ヲ)以(テ)八百萬(ノ)神、於《ニ》2天安之河原《アマノヤスノカハラ》1神集集而《カムツドヒツドヒテ》云々とあり、集中七夕の歌に、天漢《アマノカハ》などあるは、漢士にいへる天漢を、此安之河原に引(キ)合せていへる也、○八百萬千萬神之《ヤホヨロヅチヨロヅカミノ》は、八百《ヤホ》は彌百《イヤホ》にて、數多きをいふ、○神聚聚座而《カムツドヒツドヒイマシテ》、舊訓に、カムアツメアツメイマシテ〔カム〜右○〕とあるは非也、又考に、カムヅマリツマリイマシテ〔カム〜右○〕とよめるもわろし、古事記にも、上に引(キ)たる如くありて、大祓(ノ)祝詞には、高天原爾神留坐《タカマノハラニカムヅマリマス》、皇親神漏美乃命以弖《スメラガムツカムロミノミコトモチテ》、八百萬神乎神集集賜比《ヤホヨロヅノカミヲカムツドヘツドヘタマヒ》、神議議賜※[氏/一]《カムハカリハカリタマヒテ》云々とあり、さて此はカムツドヒツドヒイマシテ〔カム〜右○〕とよむべし、千萬神の自らつどひ給ふなれば也、古事記上卷に、訓v集云2都度比1とあり、ツドヒは自(ラ)集ふなり、命じてツドハセの意の時は、ツドヘ〔三字右○〕なり、○神分分之時爾《カムハカリハカリシトキニ》、字鏡集に、分をハカル〔三字右○〕とよめり、古事記上卷に、八百萬神議白之《ヤホヨロヅノカミタチハカリテ》云々、大殿祭(ノ)祝詞に、以天津御量※[氏/一]事問之《アマツミハカリモテコトトヒシ》云云とありて、諸神達のはからひ定めたまふをいふ也、○天照日女之命《アマテラスヒルメノミコト》、書紀神代紀上に、生2日神1、號2大日〓貴1、【大日〓貴、此云2於保比屡※[口+羊]能武智1、〓音、力丁反、一書云、天照大神、一書云、天照大日〓尊、】此子光華明彩、照2徹於六合之内1云云とあり、こ(54)れ即(チ)日神にて、天照大御神を申(シ)奉れり、〇一云|指上目女之命《サシノボルヒルメノミコト》、日は虚空《ソラ》にさし上《ノボ》る故に、枕詞の如く、さしのぼる日とつゞけし也、○天乎波所知食登《アメヲバシロシメスト》、古事記上卷に、其御頸珠之玉緒毛由良邇取由良迦志而《ソノミクビダマノタマノヲモユラニトリユラカシテ》、賜《タマヒ》天照大御神《アマテラスオホミカミニ》1而《テ》詔之《ノリタマハク》、汝命者《ナガミコトハ》所2知《シラセ》高天原《タカマノハラヲト》1矣事依而賜《コトヨザシタマヒキ》也云々とある如く、天をば、天照大御神のしろしめすをいふなり、天乎波《アメヲバ》の波は、濁りて唱ふべし、登はとての意なり、食登《メスト》を、舊訓に、メサムト〔四字右○〕とよめるは非也、○葦原乃水穂之國乎《アシハラノミヅホノクニヲ》、葦原は、鈴屋の國號考に云、葦原はもと、天つ神代に、高天原よりいへる號にして、この御國ながらいへる號には非ず、さて此(ノ)號の意は、いといと上つ代には、四方の海べたは、悉く葦原にて、其(ノ)中に國所はありて、上(ノ)方より見下せば、葦原のめぐれる中に見えける故に、高天原よりかくは名づけたる也、又云、水穗國《みづほのくに》の水は借字にて、みつみつしき意、穂は稻穗にて、中(ツ)國は、稻の萬國に勝れたる國なれば、殊更にみつ穗(ノ)國とはいへる也といへり、かくてこゝは、古事記上卷に、天照大御神之命以《アマテラスオホミカミノミコトモチテ》、豐葦原之千秋長五百秋之水穂國者《トヨアシハラノチアキノナガイホアキノミヅホノクニハ》、我御子正勝吾勝勝速日天忍穗耳命之所知國《アガミコマサカアカツカチハヤビアメノオシホミヽノミコトノシラサムクニト》、言因賜而天降《コトヨザシタマヒテアマクダシタマヒキ》也云々、とあるによりてよまれし也、〇天地之依相之極《アメツチノヨリアヒノキハミ》、本集卷六【四十三右】に、天地乃依會限《アメツチノヨリアヒノキハミ》、萬世丹榮將往迹《ヨロヅヨニサカエユカムト》云々、卷十一【四十一左】に、天地之依相極玉緒之《アメツチノヨリアヒノキハミタマノヲノ》、不絶常念妹之當見津《タエジトオモフイモガアタリミツ》など見え、書紀神代紀下の一書に、寶祚之隆、當d與2(55)天壤1無窮u者矣とあり、考に、すでに天地の開(ケ)わかれしてふにむかへて、又よりあはむ限(リ)までといひて、久しきためしにとりぬとあり、○所知行《シロシメス》、行の字をメス〔二字右○〕と訓(メ)る由は、記傳卷二十七【五十四】に説あり、往見すべし、○神之命等《カミノミコトト》、こは皇孫|天津彦彦火瓊々杵命《アマツヒコヒコホノニヽギノミコト》を申す、等《ト》はとて〔二字右○〕の意にて、神下《カムクダリ》といふへかけて心得べし、こゝの意は、この葦原の中(ツ)國は、天神《アマツカミ》の御子の、しろしめすべき國ぞとて、天の八重雲をかきわけて、くだし奉り給ふとなり、○天雲之八重掻別而《アマグモノヤヘカキワケテ》、古事記上卷に、押2分《オシワケ》天之八重多那雲《アメノヤヘタナグモヲ》1而《テ》、伊都能知和岐知和岐弖《イヅノチワキチワキテ》、於《ニ》2天浮橋《アメノウキハシ》1宇岐士摩理蘇理多々斯弖《ウキジマリソリタヽシテ》、天2降坐《アマクダリマス》于|竺紫日向之高千穗之久士布流多氣《ツクシノヒムカノタカチホノクシブルタケニ》1云々、書紀神代紀下に、且排2分天(ノ)八重雲1云々、大祓(ノ)祝詞に、天之八重雲【乎】伊頭【乃】千別【爾】千別【弖】《アメノヤヘグモヲイヅノチワキニチワキテ》などありて、八重《ヤヘ》の八は、彌《イヤ》の意にて、天の雲の幾重ともなく重なりたるをかきわけて、天降し奉れりと也、○神下座奉之《カムクダリイマセマツリシ》、舊訓に、カムクダリイマシツカヘシ〔カム〜右○〕とあるはわろし、玉(ノ)小琴に、十五卷【五十四】に、比等久爾爾伎美乎伊麻勢弖《ヒトグニヽキミヲイマセテ》とあるによりて、イマセマツリシ〔七字右○〕とよむべし、イマセは令v坐の意也といへり、さることなり、但し此をイマセマツリシと訓(メ)ば、神下《カムクダリ》は、カムクダシ〔右○〕といふべきが如くなれども、神下《カムクダリ》は、御自らの上につきていふ言なれば、此にて暫く句を切(リ)て心得べし、之《シ》は過去のシ〔右○〕なり、○高照日之皇子波《タカテラスヒノミコハ》、略解に、この日之皇子は、(56)日並知(ノ)皇子(ノ)尊を申す也、この句にて暫(ク)切(リ)て、天原云々といふへかゝる、此(ノ)國土は、天皇の敷(キ)座(ス)國也として、日並知(ノ)皇子(ノ)尊は、天へ上り給ふといひなしたり、この時天皇は、持統天皇にて、淨御原宮《キヨミハラノミヤ》におはしませり、とあるをよしとす、萬葉考に、天武天皇を申せり、といへるは非也、玉(ノ)小琴に、凡て高照日の御子と申すは、御代々々の天皇、皇太子、皇子を申す稱也、かくて爰は、大方は右の如くにて當代の天皇をもこめて申(シ)ながら、日並(ノ)皇子の尊を主として申せる也、さて神下云々より、引(キ)續けて申せるは、凡て皇孫は、いく萬代を經坐《ヘマ》しても、神代に天降(シ)ましたる御孫の命と、一體にまし座が故也、さて日之皇子波《ヒノミコハ》と云(ヘ)るにて、句を切(ル)べし、こは下の天原石門乎云々へ續きたり、飛鳥へ續けては見べからずとあり、之に從ふべし、○飛鳥之淨之宮爾《アスカノキヨミノミヤニ》、此は天武天皇の大宮にて、今持統天皇の、此所に御座(シ)ます也、玉(ノ)小琴に、飛鳥之は、トブトリノ〔五字右○〕と訓(ム)べし、其由は國號考に云(ヘ)りとあれど、此は猶アスカノ〔四字右○〕と四言に訓(ム)べし、飛鳥之《トブトリノ》は、もと明日香《アスカ》の枕詞なれど、いひなれてはやがて明日香《アスカ》を、飛鳥ともかけるなり、其は春日《ハルビ》のかすが〔三字右○〕といふは、枕詞なるを、春日とかきで、やがてカスガ〔三字右○〕とよめると同例なり、淨をキヨミ〔三字右○〕と、ミ〔右○〕の言を添(ヘ)てよむは、本集卷三【四十九左】に、妹毛吾毛清之河乃《イモモワレモキヨミノカハノ》とあるに同じ、○神隨《カムナガラ》、舊訓に、カミノマニ〔五字右○〕とあるは非也カムナガラ〔五字右○〕と訓(ム)べ(57)し、神にましますまゝにといふ意也、精しくは既に卷一の注にいへり、○太布座而《フトシキマシテ》、太《フト》はものをほめていふ詞、布《シキ》は借字にて、知(リ)領し給ふをいふ、本集卷一【二十一右】に、高照日之皇子《タカテラスヒノミコ》、神長柄神佐備世須登《カムナガラカムサビセスト》、太敷爲京乎置而《フトシカスミヤコヲオキテ》云々ともあり、古事記傳卷十【六十】の布刀斯理《フトシリ》の注に、祝詞等に、太知立《フトシリタテ》とも、太敷立《フトシキタテ》とも、又|廣知立《ヒロシリタテ》とも、廣敷立《ヒロシキタテ》ともあり、そは師(ノ)説に、萬葉二に天皇之敷座國《スメラギノシキマスクニ》と云(ヒ)、祈年祭(ノ)詞に、皇神能敷坐島能八十島者《スメガミノシキマスシマノ》云云など、知坐《シリマス》を敷坐《シキマス》と云(ヒ)たれば、知《シリ》と敷《シキ》と同じとあり、さて此(ノ)稱辭《タヽヘゴト》を、古來只、柱の上とのみ意得れども、さに非ず、今考(フ)るに、萬葉二【三十五右】に、水穗之國乎神隨太敷座而《ミヅホノクニヲカムナガラフトシキマシテ》云云、又一【二十一左】に、太敷爲京乎置而《フトシカスミヤコヲオキテ》云々、又二【二十七左】に、飛鳥之淨之宮爾《アスカノキヨミノミヤニ》、神隨太布座而《カムナガラフトシキマシテ》云云、などある例を思ふに、宮柱布刀斯理《ミヤバシラフトシリ》も、其|主《ヌシ》の其(ノ)宮を知(リ)座(ス)を云(フ)なり、布刀《フト》も、右の萬葉に、柱ならで.國を知(リ)座(ス)にも云へれば、たゞ廣く太きにと云(フ)稱辭なり、【布刀御幣《フトミテグラ》、布刀詔戸《フトノリト》、太占《フトマニ》、などともいへり、】故(レ)廣知《ヒロシリ》とも云(ヘ)るぞかし、かゝれば此(ノ)語は、專(ラ)柱に係《カヽ》るには非ず、其(ノ)宮の主に係れる語なるを、布刀《フト》と云(フ)が、柱に縁《ヨシ》あるから、宮柱太《ミヤバシラフトク》とは云(ヒ)かけて、兼て其(ノ)宮をも祝《ホギ》たる物なり、【萬葉二十に、麻氣波之良寶米弖豆久禮留等乃能其等《マケバシラホメテツクレルトノノゴト》云々、】書紀(ノ)神代(ノ)下(ツ)卷に、其造(ル)v宮(ヲ)之|制《ノリ》者、柱(ハ)則|高太《タカクフトク》云云、萬葉二【三十左】に、眞木柱太心者《マキバシラフトキコヽロハ》云々など、柱は太《フトキ》を貴ぶなり、といへるが如し、○天皇之敷座國等《スメロギノシキマスクニト》、この國土は、今の天皇【持統】のしりまします國として、日の皇子は、【日並知(ノ)皇(58)子 天にのぼり給ふと也、等《ト》(ノ)字に心をつくべし、此所、考の説は甚誤りたり、○石門乎開《イワトヲヒラキ》、古事記上卷に、天(ノ)石屋戸とある、傳八【十五左】に、必しも實《マコト》の岩窟《イハヤ》には非じ、たゞ堅固をいへるにて、天之|石位《イハクラ》、天之|石靭《イハユギ》、天(ノ)磐船《イハブネ》などの類にて、尋常の殿をかく云るなるべし、といへるが如し、此は天上にて、神のおはします所なれば、この皇子の神上《カムアガリ》し給へるにつきて、天原の石門を開てのぼり給ふといへる也、しかるにこの開の字を、玉(ノ)小琴には、開は閇の誤りにて、たてゝ〔三字右○〕とよむべし、卷三【四十五左】に、豐國乃鏡山之石戸立《トヨクニノカヾミノヤマノイハトタテ》、隱爾計良思《コモリニケラシ》とある頻也、開といふべきにあらず、石門《イハト》を閇《タテ》て上るといひては、前後たがへるやうに思ふ人あるべけれど、神上りは、隱れ給ふといふに同じ、天なる故に上りとは申す也とて、開を閇に改められたるは非也、門は出るにも入るにも、開くべきものなれば、本のまゝに開として何のうたがはしき事かあらむ、閇に改むるは、なか/\に誤りなるべし、○神上《カムアガリ》、古事記書紀などに、崩をカムアガリ〔五字右○〕とよめり、こゝも崩じ給ふといへるにて、天皇にまれ皇子にまれ、崩じ給ふを、神となりて天に上り給ふよしにいへる古言也、古事記傳卷三十【二十九】に、阿賀理《アガリ》てふ言の意は、まづ天皇の崩《カクリマ》すを、神上《カムアガリ》と申す、こは底津《ソコツ》根(ノ)國|黄泉《ヨミノ》國に幸《イデマ》すと申すことを忌憚《イミハヾカリ》て其(ノ)反《ウラ》を以て、天に上座《アガリマス》と申しなせるもの也、かの僧を髪長、葦を余斯《ヨシ》と反《ウラ》を云(59)が如し、天皇のみならず、皇子等などにも、天所知《アメシラス》など申し、事によりては凡人《タヽビト》にも、さま/”\に云ることある皆同じ、かゝれば死《シニ》し時の事をも、天に上《アガ》るをりの事《ワザ》と云意にて、阿賀理《アガリ》とは云なり、とある是也、○上座奴《アガリイマシヌ》、舊訓にアガリマシヌ〔六字右○〕とあるはわろし、イマシヌ〔四字右○〕と訓べし、天へ上り行《ユキ》ましぬと也、この座《イマシ》は、つねの居る事を、座《イマス》といふとは同じからずして、行ます事をいへる也、そは古事記中卷に、佐々那美遲袁須久須久登《サヽナミヂヲスクスクト》、和賀伊麻勢婆《ワガイマセバ》とある、傳三十二【三十九右】に、和賀伊麻勢婆《ワガイマセバ》は、吾行座者《ワガユキマセバ》なり、行座ことを伊麻須《イマス》と云るは、万葉三【三十八右】に、好爲而伊麻世荒其路《ヨクシテイマセアラキソノミチ》、同四【三十二左】に、彌遠君之伊座者《イヤトホクキミガイマサバ》、同十五【四左】に、大船乎安流美爾伊多之伊麻須君《オホブネヲアルミニイタシイマスキミ》、又【五左】に、多久夫須麻新羅邊伊麻須《タクブスマシラギヘイマス》、同二十【四十四左】に、安之我良乃夜敝也麻故要※[氏/一]伊麻之奈婆《アシガラノヤヘヤマコエテイマシナバ》など多く見ゆ、此はたゞ座《マス》を、伊麻須《イマス》と云と意は異なれども、言は一なり、其證は、古今集(ノ)詞書に、法皇西川におはしたりける日、などある類(ヒ)多きは、行坐《ユキマス》ことを、おはし坐《マス》と云(ヘ)り、おはし坐《マス》も、たゞ坐を云と同じ言なればなり、【又今(ノ)世の言に、其處《ソコ》に御座《ゴザ》らせらると云は、其處《ソコ》に坐(ス)と云こと、其處《ソコ》へ御座《ゴザ》らせらるると云は、行《ユキ》給ふと云ことにて、意は異なれとも、言は一(ツ)なり、されば此《コ》は、坐《マス》ことに云(フ)言を、行坐《ユキマス》ことにも通(ハシ)用ること、古(ヘ)も、中昔も、今(ノ)世も、おのづから同じことなりけり、又俗言に、其處《そこ》に御出《オイデ》なさると云は、坐《マス》と云こと、其處《ソコ》へ御出《オイデ》なさると云は、行坐《ユキマス》ことにて、是(レ)はた一(ツ)言を通(ハシ)用る例、同じことなり、然るを契冲も誰も、此|伊麻須《イマス》を、伊爾坐《イニマス》の略なりと云て、たゞ坐《マス》を云とは別言と心得たるは非なり、若(シ)然らば、かの西川におはしましな(60)どは、何とか解む、萬葉十七、和我勢古我久爾幣麻之奈婆《ワガセコガクニヘマシナバ》とさへあるは、伊《イ》を略きてたゞ麻之《マシ》とも云(ヘ)り、これらを以ても思ひ定むべし、】又同傳卷三十九【五十八左】にも、上の如くいへり、一云の神登座爾之可婆《カムノボリイマシニシカバ》、とあるかたはわろし、○吾王皇子命乃《ワガオホキミミコノミコトノ》、こは日並(ノ)皇子を申奉る也、すべて皇太子をば、日並(ノ)皇子(ノ)尊、高市(ノ)皇子(ノ)尊など、皇子の下へ尊といふ字を付て、尊稱すれど、こゝに皇子之命とあるは、それとは別にて、妹の命、嬬の命、父の命、母の命など、常に命の字を附て尊稱する詞なり、本集卷三、【五十七左】安積(ノ)皇子の薨じ座る時の歌にも、吾王御子乃命《ワゴオホキミミコノミコト》云云とあり、此句よりは、日並(ノ)皇子の天下をしろしめさば、めでたからむと思ふことのさまをいへり、○春花之《ハルバナノ》は枕詞なり、春の花はめでたくうるはしきものなれば、貴《タフトシ》とはつゞけしなり、之《ノ》はごとくの意也、○貴在等《タフトカラムト》、古事記上卷に、益《マシテ》2我王(ニ)1而|甚貴《イトタフトシ》、また斯良多麻能伎美何余曾比斯多布斗久阿理祁理《シラタマノキミガヨソヒシタフトクアリケリ》、本集卷五【七右】に、父母乎美禮婆多布斗斯《チヽハヽヲミレバタフトシ》云云、同【三十九右】に、世人之貴慕七種之《ヨノヒトノタフトミネガフナヽクサノ》、卷六【二十八左】に、常磐爾座貴吾君《トキハニイマセタフトキワギミ》、催馬樂、安名尊歌に、安名太不止介不乃太不止左也《アナタフトケフノタフトサヤ》云云などありて、傳十七【二十五左】に、貴《タフトシ》は美《メデタ》く好《ヨ》き意なり、是(レ)貴さの本義なり、太占《フトマニ》、太祝詞《フトノリト》、太幣《フトミテグラ》などの類の太《フト》と同言にて、多布斗伎《タフトキ》は、太《フト》きに多《タ》の添《ソハ》りたるなり、後の世には、音便に太布斗《タフト》をばとをと〔三字右○〕と呼《イフ》故に、異なるが如くなれども、古(ヘ)は本(ノ)音のまゝに呼《イヒ》つれば、同じことなりといへり、又玉(ノ)小琴に、考に、貴とは花にいふことばに(61)あらずとて、賞の字に改められしは、中々にわろし、といへるはさることなり、かくてこゝの意は、わが皇子の命の御代とならば、春の花のさきさかゆるがごとく、めでたからむと、又望月のてりみてるがごとく、たゝはしけむと思ひしものをとなり、○望月乃《モチヅキノ》は枕詞にて、望月のごとく滿《タヾ》はしけむといへる也、○滿波之計武跡《タダハシケムト》、舊訓にミチハシケム〔六字右○〕とよめるは誤り也、本集卷十三【二十八右】に、十五月之多田波思家武登《モチヅキノタダハシケムト》云云とあるによりて、ただはしけむと〔七字右○〕とよむべし、さてこゝは、十五夜の月のごとく、足《タリ》そなはりとゝのひなむといへる也、〇大船之《オホブネノ》は枕詞なり、海上にては、たゞ大船をのみ思ひたのむものなればなり、〇思憑而《オモヒタノミテ》、わが皇子の命の、天下をしろしめさば、めでたく滿《タヾハ》しからむと、天下の人の思ひたのみ奉りてあふぎまち奉りしものを、いかにおぼしめしてか、かく早く世をさり給ひけむとなり、○天水仰而待爾《アマツミヅアフギテマツニ》、天水《アマツミヅ》は雨なり、旱魃の時天をあふぎて、雨を待ごとく、君が御代をまちしとなり、本集卷十八【三十二左】の旱歌に、彌騰里兒能知許布我其登久《ミドリゴノチコフガゴトク》、安麻都美豆安布藝弖曾麻都《アマツミヅアフギテゾマツ》云云とも見えたり、○何方爾御念食可《イカサマニオモホシメセカ》、いかにおぼしめせばかの意にて、食《メセ》の下にば〔右○〕を省ける、古(ヘ)の一格なり、舊訓に、オボシメシテカ〔七字右○〕とあるは非也、○由縁母無《ツレモナキ》、玉(ノ)小琴に、三卷【五十四左】に、何方爾念鷄目鴨《イカサマニオモヒケメカモ》、都禮毛奈吉佐保乃山邊爾《ツレモナキサホノヤマベニ》、十三卷【二十九右】に、何方(62)御念食可《イカサマニオモホシメセカ》、津禮毛無城上宮爾《ツレモナキキノヘノミヤニ》云云、これらによるに、爰の由縁母無、また下なる所由無佐太刀岡邊爾《ツレモナキサタノヲカベニ》などをも、つれもなき〔五字右○〕とよむべきこと也、といへるに從ふべし、舊訓にユヱモナキ〔五字右○〕とあるは非也、ツレモナキ〔五字右○〕は、此の字の如く、故縁《ユヱヨシ》も無(キ)意也、○眞弓乃崗爾《マユミノヲカニ》延喜諸陵式に、眞弓(ノ)丘(ノ)陵、岡(ノ)宮(ノ)御宇天皇、在2大和(ノ)國高市(ノ)郡1、兆域東西二町、南北二町、陵戸六烟とあり、日並知皇子を追崇して、岡(ノ)宮(ノ)御宇天皇と申すよし、續日本紀、天平寶字二年八月戊申紀に見えたり、また續日本紀に、天平神護元年十月癸酉、車駕過2檀(ノ)山(ノ)陵1、詔2陪從百官1悉令2下馬1、儀衞卷2其旗幟1とあり、○御在香乎《ミアラカヲ》、御在香は、御ありかのり〔右○〕をら〔右○〕に通はしたるにて、すなはち宮殿なり、古語拾遺に、古語、正殿謂2之|麁香《アラカ》1、大殿祭祝詞に、御殿、古語云|阿良可《アラカ》などあり、○高知座而《タカシリマシテ》、本集卷一【十九右】に、高殿乎高知座而《タカドノヲタカシリマシテ》、同【二十二右】に、都宮者高所知武等《ミアラカハタカシラサムト》などあり、古事紀傳十【六十三左】に、於2高天(ノ)原1氷椽多迦斯理《ヒギタカシリ》とある處に云、多迦期理《タカシリ》も、たゞ氷木《ヒギ》のことのみに非ず、主《ヌシ》の其(ノ)宮を知(リ)坐を云、多迦《タカ》も布刀《フト》も同じく稱《タヽヘ》言なり、續紀、聖武天皇即位(ノ)時の詔に、天(ノ)下乃|政乎彌高爾彌廣爾《イヤタカニイヤヒロニ》云云、萬葉六【十七右】に、吾大王乃神隨《ワゴオホキミノカムナガラ》、高所知流稻見野能《タカシラスルイナミヌノ》云云又【三十二左】に、自神代芳野宮爾蟻通《カミヨヨリヨシヌノミヤニアリガヨヒ》、高所知者山河乎吉三《タカシラスルハヤマカハヲヨミ》、此歌を以(テ)意得べし、宮爾《ミヤニ》と云れば、宮の高きを云に非ず、天皇の此宮を高知(リ)坐なることあきらけしとあり、○明言爾《アサゴトニ》、代匠記に、(63)明言爾《アサゴトニ》は、朝は日の意にて、日毎になりとあり、今按ふるに、物のたまふ事は、朝にかぎらざれども、伺候する人は、ことに朝とくまゐり、御あたりちかくはべりて、物仰らるゝものなれば也、明は借字なり、〇御言不御問《ミコトトハサズ》、舊訓に、トハセ〔右○〕ズとあるはわろし、此は四段の活きなれば、トハサ〔右○〕ズとすべし、考に、古(ヘ)はものいふを、こととふ、ものいはぬを、こととはずといへり、この次に、東《ヒムガシ》のたぎの御門にさもらへど、きのふもけふもめすこともなし、といへると心同じ云云といはれつるがごとし、正辭云、本集卷四【二十一右】に、明日去而於妹言問《アスユキテイモニコトトヒ》云云、同【五十七右】に、事不問木尚《コトトハヌキスラ》云云、卷五【十一左】に、許等々波奴樹爾波安里等母《コトトハヌキニハアリトモ》云云などある、いづれも物いはぬといふ意なり、○數多成塗《マネクナリヌル》、玉(ノ)小琴に、まねくなりぬる〔七字右○〕と訓べし、まねくの事、一卷にいへるがごとし、此れを舊訓に、あまたになりぬ〔七字右○〕と訓るはわろし.塗の字、ぬ〔右○〕と訓べきよしなし云云といへり、○其故《ソコユヱ》は、それゆゑに〔五字右○〕といふと同じ、すべて中ごろよりの言に、それといふべきを、古くはそこ〔二字右○〕とのみいへり、そは本集此卷【三十一左】に、所虚故名具鮫兼天《ソコユヱニナグサメカネテ》、卷三【五十六左】に、曾許念爾※[匈/月]已所痛《ソコモフニムネコソイタメ》云云などありて、集中猶多し、みなそれ〔二字右○〕といふ意也、さてこの句は、朝毎爾御言不御問《アサゴトニミコトトハサズ》、日月之數多成塗《ツキヒノマネクナリヌル》といふをうけて、それゆゑにしか/”\といふ語を起すことば也、○皇子之宮人行方不知毛《ミコノミヤビトユクヘシラズモ》、皇子の宮人は、春宮の官人をおし(64)なべていふ事ながら、此は專ら舍人をいふとおぼし、その舍人等が、御墓仕へする日數へてそれ/”\退散するにつきて、今より仕へ奉る宮のなきを、ゆくへしらずもといへる也、考云、下の高市(ノ)皇子(ノ)尊の殯(ノ)時、この人のよめる長歌、その外この人の樣を、集中にて見るに、春宮舍人にてこの時もよめるなるべし、然ればこゝの宮人は、もはら大舍人の事をいふ也、その舍人の輩、この尊の過ましては、つく所なくて、思ひまどへることまことにおしはかられてかなし云云、○一云|刺竹之皇子宮人歸邊不知爾爲《サスタケノミコノミヤビトユクヘシラニス》、刺竹之《サスタケノ》は枕詞なり、此一云の意は、本書とかはる事なけれど、句のつゞき、枕詞など置たるは、其意緩になりて此に叶はず、本書のかたまされり、
一篇の大意は、天地の初め、天(ノ)河原に八百萬の神の集りて、議《ハカ》り給ひし時に、天をば天照日(ノ)大御神の知《シロ》し食《メス》事と定り、此水穗の國は、天つ御子のしろしめす國ぞとて、天孫を天降らしめ給ひしによりて、皇子たち繼々に御代|所知行《シロシメシ》けるを、今の日嗣の御子、日並知《ヒナメシノ》皇子は、此國は、今清見原の天皇の、所知食《シロシメス》國なりとして、天の石門を開き給ひて、天に登り給ひぬ、此皇子の、天下|所知《シロシ》めさむ事を、四方の御民らも、仰ぎ待つゝありしほどなるに、何《イカ》なる故にか、おもひもかけぬ眞弓の岡に、宮敷ゐませば、宮の舍人等は此所《コヽ》に伺候しつゝあれども、御言|問《トハ》せ給ふ事もなくて、月日重り、(65)今は其期日も過て、夫々退散する事となりたるが、今よりは、何處いかなる方に行くべきか、其方向もしられず、いとかなしき事かなと也、
 
反歌二首
 
久堅乃天見如久仰見之《ヒサカタノアメミルゴトクアフギミシ》、皇子乃御門之荒巻惜毛《ミコノミカドノアレマクヲシモ》、
 
仰見之《アフギミシ》、仰《アフギ》は、すべて下より上を見る事なれば、尊み敬ひていへるなり、○荒巻惜毛《アレマクヲシモ》、荒《アレ》むはをしもにて、も〔右○〕は助字也、まく〔二字右○〕は、む〔右○〕といふ意にかよへり、考に、こは高市(ノ)郡橘の島(ノ)宮の御門なり、さて次の舍人等が歌どもにも、この御門の事のみを專らいひ、下の高市(ノ)皇子(ノ)尊の殯の時、人まろの、御門の人とよみしをむかへ見るに.人まろ即舍人にて、その守る御門を申すなりけりとあり、
一首の意は、天見る如くあふぎ見し御門も、今は守る人もなくて、荒れ行むことを、歎きたる也、
 
茜刺日者雖照有烏玉之《アカネサスヒハテラセレドヌバタマノ》、夜渡月之隱良久惜毛《ヨワタルツキノカクラクヲシモ》
 
茜刺《《アカネサス》は枕詞なり、集中、茜、赤根などかけるは、借字なり、あかね〔三字右○〕の急言あけ〔二字右○〕にて、あけ(66)は赤なり、日はあかくさすものなれば、しかつゞけしなり、○夜渡月之《ヨワタルツキノ》、渡るは、空行く月をいふ、○隱良久惜毛《カクラクヲシモ》、隱らく〔二字右○〕はかくる〔右○〕の緩言にて、月の隱れ行をいふ、云《イフ》をいへらく、申すをまをさくなどいふに同じ格なり、考に、これは日嗣の皇子(ノ)尊の御事を、月にたとへ奉りぬ、さてこの日はてらせれどてふは、月のかくるゝをなげくを強《ツヨ》むる言のみ也、かくいへる詞の勢ひ、まことに及ぶ人なし、常のごとく、日をば天皇にたとへ申すと、思ふ人あるべけれど、さてはなめげなるに似たるもかしこしといへり、これにて一首の意明かなり、
 
或本云、以2件(ノ)歌1爲2後(ノ)皇子(ノ)尊(ノ)殯宮之時(ノ)反歌1也
 
右の左注、活字本には大字とす、各古本小字とす、今之に從ふ、又今本、尊をと貴に誤れり、官本温本類本に依て改、又今本及各本、反歌を歌反に誤る、今意改す、後(ノ)皇子(ノ)尊とは高市(ノ)皇子を申せる也、高市(ノ)皇子の皇太子に立たまひし事、書紀には見えざれど、持統天皇三年四月、皇太子草壁(ノ)皇子薨じ給ひて、十一年に、珂瑠(ノ)皇子【文武】皇太子に立給ひぬ、この三年より十一年までの間、この高市(ノ)皇子、皇太子に立給ひし事明らか也、されば日並知(ノ)皇子薨じ給ひて、後の皇太子なれば、後(ノ)皇子(ノ)尊とは申すなり、書紀持統紀に、十年七月庚戌、後(ノ)皇子(ノ)尊薨云云とあるも、この高市(ノ)皇子(67)の御事なり、
 
或本歌一首
 
島宮勾乃池之放鳥《シマノミヤマガリノイケノハナチドリ》、人目爾戀而池爾不潜《ヒトメニコヒテイケニカヅカズ》
 
島宮《シマノミヤ》、島は、庭に池島など作りたるを島といへば、その島を專らとし給ふ宮のよしにて、島(ノ)宮とはいへる也、この島(ノ)宮は、書紀天武紀のはじめに見えて、島(ノ)宮の池は、天武十年九月の紀に見えたり、鈴屋の玉勝間卷十三に.俗にいはゆる作庭、泉水、築山の事を、古へには島といへり、萬葉集のこの巻に、舍人等が二十三首の歌の中に、御立爲之島乎見時《ミタヽシシシマヲミルトキ》云云、御立爲之島之荒磯乎《ミタヽシシシマノアリソヲ》云云などいと多くあり、又伊勢物語に、島このみたまふ君なり云云とあるも、同じことにて造り庭好み給ふをいへりとあり、正辭云、此宮は、日並知(ノ)皇子の、つねにおはしましゝ宮也、大和志高市(ノ)郡の條に、島(ノ)宮、島(ノ)荘村、一名橘(ノ)島、又(ノ)名御島(ノ)宮、天武天皇元年、便2居於此1、先是蘇我(ノ)馬子、家2於飛鳥河(ノ)傍1、乃庭中開2小池1、築2小島於池中1、時人曰2島(ノ)大臣1云云と見えたり、○勾乃池之《マガリノイケノ》、こは御庭の中の池ながら、勾《マガリ》は地名也、安閑天皇の宮を、勾金箸《マガリノカナハシノ》宮と申すもこゝにて、大和(ノ)國高市(ノ)郡なり、大和志高市郡の條に、曲川《マガリガハ》、曲峽《マガリヲノ》宮、勾(ノ)池などあり、皆同所なるべし、(68)さて書紀崇峻紀に、廣瀬(ノ)勾(ノ)原、和名抄郷名に、大和(ノ)國廣瀬(ノ)郡下勾などあれば、古へは廣瀬(ノ)郡なりしが、隣郡なれば、後に高市(ノ)郡とはなせるか、考ふべし、○放鳥《ハナチドリ》、次の二十三首の中の歌にも、島宮上池有放鳥《シマノミヤウヘノイケナルハナチドリ》、荒備勿行君不座十萬《アラビナユキソキミマサズトモ》とありて、こは放生の鳥にはあらで、池のうへ、また島などに、放《ハナ》ち飼ひたる鳥なり、そは次に、島乎母家跡住鳥毛《シマヲモイヘトスムトリモ》云云、また烏※[土+(而/一)]立飼之雁乃兒《トグラタテカヒシカリノコ》云云、などあるにても知べし、〇人目爾戀而《ヒトメニコヒテ》、人めにの爾(ノ)字は.を〔右○〕の意にて、人めをこひて也、をの意の爾もじの事、上文にいへり、さて人めは、たゞ人を云、皇子薨じ給ひて後は、人げもなくさびしければ、鳥さへも、たゞ人をのみこひて池にもかつがずとなり、考に、これは必らず右の反歌にはあらず、次の歌どもの中に入しものなるを、この所亂れてこゝに在也、といへるはさる事なり、〇池爾不潜《イケニカツガス》、かつぐとは、水中に入事にて、波をかつぐよりいへるなり、人にも鳥にもいへり、古事記上卷に、於《ニ》2中瀬《ナカツセ》1降迦豆伎而滌《オリカツギテソヽギ》云云、書紀神功紀(ノ)歌に、齊多能和多利耳加豆區苫利《セタノワタリニカツグトリ》云云、本集卷四【五十右】に、二寶鳥乃潜池水《ニホドリノカツグイケミズ》云云などありて、集中いと多し、
一首の意は皇子の神あがりませしよりは、宮守人もすくなければ、放鳥も、とかく人めをなつかしみて、水の上にのみうきゐて、底へかつぎ入ことをもせずとなり、
 
(69)皇子(ノ)尊(ノ)舍人等、慟傷作歌二十三首
 
考に、こは右の長歌につぎて同じ御事を、同じ舍人のよめるなれば、端詞をはぶきて書しと見ゆ、職員令に、春宮の大舍人は六百人あり、その人々分番して宿直するに、今尊の薨ましゝ後も、島(ノ)宮の外重《トノヘ》を守ると、佐太(ノ)岡の御喪舍に侍宿するとある故に、こゝかしこにての歌どもある也、といへるが如し、慟傷は、かなしといたむ意なり、慟(ハ)哀(ノ)極也と、玉篇に見えたり、
 
高光我日皇子乃萬代爾《タカヒカルワガヒノミコノヨロヅヨニ》、國所知麻之島宮婆母《クニシラサマシシマノミヤハモ》
 
高光《タカヒカル》、舊訓には、タカテラス〔五字右○〕とあれど、古事記景行天皇(ノ)卷に、多加比加流比能美古《タカヒカルヒノミコ》、又雄略天里(ノ)卷に、多加比加流比能美夜比登《タカヒカルヒノミヤビト》とあるによりて、タカヒカル〔五字右○〕と訓むべし、日《ヒ》にかゝる枕詞なり、詳しくは別にしるす、○國所知麻之《クニシラサマシ》、舊訓、クニシラシマシ〔七字右○〕とあるは非也、シラサマシ〔五字右○〕と訓べし、此は此の皇子(ノ)尊の、この宮にまし/\て、天下をしろしめさむとこそ思ひつれと、この宮を見るにつけても、思ひいづるさま、さもあるべし、○島宮婆母《シマノミヤハモ》、婆母《ハモ》といふ語は、下へ意をふくめたる詞にて、歎息のこゝろこもれりさ、母《モ》は助辭なり、そは古事記中卷に、佐泥佐斯佐賀牟能袁怒邇毛由流肥能《サネサシサガムノヲヌニモユルヒノ》、(70)本那迦邇多知弖斗比斯岐美波母《ホナカニタチテトヒシキハモ》とある、傳二十七【七十右】に、波母《ハモ》は歎息の辭にて、いづらと尋求むる意ある辭なりといへり、本集卷三【五十三左】に、芽子花咲而有哉跡問之君波母《ハギノハナサキテアリヤトトヒシキミハモ》、同【二十一右】に、阿倍乃市道爾相之兒等羽裳《アベノイチヂニアヒシコラハモ》などあり、
一首の意は、我皇子《ワガミコノ》尊の、こゝにおはしまして、天(ノ)下をいくとせもしろしめさむと思ひし島の宮は、君がかくれましゝかば、人げもなくあれはてゝ、見し姿もなくなりしは、いかにせし事よと、尋求むる意なり、
 
島宮上池有放鳥《シマノミヤウヘノイケナルハナチドリ》、荒備勿行君不座十方《アラビナユキソキミマサズトモ》
 
上池有《ウヘノイケナル》、略解に、上池有とあるは誤也、一本池上とあるをよしとすとて、池上と改めたり、此(ニ)云一本とは、何本をいへるにか、此所諸本皆今本と同じく、上池とありて、池上とある本あることなし、略解の一本おぼつかなし、按に、島(ノ)宮の山(ノ)上にある池にて、勾乃池とは別なるべし、依て今舊に從ふ、代匠紀に、上池、官本或作2池上1とあれど、官本に此注なし、契冲師の引く官本は、水戸にて傳寫したる本なれば、水戸にての校語なるべし、略解は、即これによりたるならむ、顯昭の袖中抄卷二十にも、此歌を引て、島宮上池有放鳥《シマノミヤウヘノイケナルハナチドリ》とあり、顯昭は、萬葉集の古本をも多く見たりし人と見ゆる(71)に、かくあるは、いづれも此れ異同なかりし事しるし、○放鳥《ハナチドリ》、既にいへり、○荒備勿行《アラビナユキソ》、荒備《アラビ》は、つねにあらぶる神などいふ、あらぶるとは別にて、物の疎くなぁゆくをいへるにて、此は鳥の飛去りて、うとくなるをいふ、本集卷十二【四十六右】に、栲領巾乃白濱浪乃不肯縁《タクヒレノシラハマナミノヨリモアヘズ》、荒振妹爾戀乍曾居《アラブルイモニコヒツヽゾヲル》、古今集戀(ノ)四に、伊勢、ふるさとにあらぬものからわがために、人の心のあれて見ゆらむ、などあるも、うとく遠ざかりゆくをいへる也、
一首の意は、今は君は御坐まさずとて、疎く放れ行事なかれ、君の御寵愛遊ばされし汝《イマシ》をば、御形見として見侍らむとなり、
 
高光吾日皇子乃伊座世者《タカヒカルワガヒノミコノイマシセバ》、島御門者不荒有益乎《シマノミカドハアレザラマシヲ》
 
伊座世者《イマシセバ》は、上の天地之云々の長歌の、上座奴《アガリイマシヌ》の注に、古事記傳の説を出したる所に委し、此なるは、俗に御座《ゴザ》ラセタラバと云ふ意なり、〇島御門者《シマノミカドハ》、島(ノ)宮の宮殿をいふ、本集卷一【二十二左】に、吾作日之御門爾《ワガツクルヒノミカドニ》云云、同【二十三左】に、藤井我原爾大御門始賜而《フヂヰガハラニオホミカドハジメタマヒテ》云々などありてこの前後にある御門も、みな宮殿をいへり、○不荒有益乎《アレザラマシヲ》、今本、益を蓋に誤る、官本類本拾本並に、益に作るに依て改む、温本家本昌本に、葢〔右○〕と作るも誤也、(72)代匠記に、別校本益に作るといへり、
一首の意明かなり、
 
外爾見之檀乃岡毛君座者《ヨソニミシマユミノヲカモキミマセバ》、常都御門跡侍宿爲鴨《トコツミカドトトノヰスルカモ》
 
外爾見之《ヨソニミシ》、外とかけるは正字也、本集卷三【三十八左】に、筑羽根矣四十耳見乍《ツクバネヲヨソノミミツヽ》云云ともあり二て、四十《ヨソ》は借字也、○檀乃岡毛《マユミノヲカモ》、長歌に、眞弓(ノ)岡とあると同じ、和名抄木類に、唐韻云、檀【音彈、和名萬由三、】木名也云云と見えたり、○常都御門跡《トコツミカドト》、都《ツ》は助字にて、常の宮なり、跡《ト》はトシテ〔三字右○〕の意也、〇侍宿爲鴨《トノヰスルカモ》、書紀雄略天皇十一年(ノ)紀に、侍宿《トノヰ》とありて、天武紀には、直者をよめり、とのゐ〔三字右○〕の假事の事は、鈴屋の説に、侍宿の假宇を考に、とのいと定められたるはわろし、殿居の意にてゐ〔右○〕の假字也、もし宿の字によりて、い〔右○〕の假字なりとせば、とのねとこそいふべけれ、ね〔右○〕とい〔右○〕とは意異也、ね〔右○〕は形につきいひ、い〔右○〕は睡眠のかたにいふ也、侍宿は形につきて、殿にてぬるとはいふべけれど、殿にて睡眠するとはいふべき事にあらず、集中にも、宿の字は、ぬまたね〔右○〕とは書れども、い〔右○〕には宿の字はかゝず、とのゐ〔右○〕は居〔右○〕にて、夜殿に居といふ事也、晝をとのゐ〔右○〕とはいはざるは、晝は務に事ありて、たゞにはゐぬもの也、夜は務事なくて、たゞ居る故に、夜をとのゐ(73)とはいふ也、さて務る事なき故に、寐もする事なれども、寐るを主とする事にはあらで侍宿は、殿に居るを主とする事なる故に、とのゐ〔三字右○〕とはいふ也、眠るを主として、とのいといふべきよしなしといへり、この説の如し、
一首の意は、今まではよそに見たりし、檀の岡なれども、君が陵となりたれば、君がとこしなへにおはします所なりと、今よりわれ/\は殿居する事かなとうちなげきたる也、
 
夢爾谷不見在之物乎欝悒《イメニダニミザリシモノヲオホホシク》、宮出毛爲鹿作日之隅回乎《ミヤデモスルカサヒノクマワヲ》
 
欝悒《オホホシク》、干禄字書に、欝鬱【上俗下正】とありて欝は鬱の俗字也、舊訓に、オボツカナ〔五字右○〕とあれど、オホホシク〔五字右○〕と訓べし、本卷【四十二右】に、玉桙之道太爾不知欝悒久《タマボコノミチダニシラズオホホシク》、待加戀良武《マチカコフラム》、卷五【二十八左】に、意保々斯久伊豆知武伎提可《オホホシクイヅチムキテカ》、卷十一【九左】に、雲間從狹徑月乃於保々思久《クモマヨリサワタルツキノオホホシク》などあり、おぼは、おぼろ、おぼつかなしなどいふおぼ也、また欝悒の字、漢籍にも多くありて、さだかならずおぼつかなきをいふなり、○宮出毛爲鹿《ミヤデモスルカ》、代匠紀に、宮出は出仕するなり、とある如く、宮門を出入するをいふ、○作日之隈回乎《サヒノクマワヲ》、本集卷七【八左】に、佐檜乃熊檜隅川之瀬乎早《サヒノクマヒノクマガハノセヲハヤミ》、君之手取者將縁言毳《キミガテトラバヨシトイハンカモ》、卷十二【二十八右】に、左檜隈檜隈河爾駐馬《サヒノクマヒノクマガハニコマトメテ》、馬爾水(74)令飲吾外將見《コマニミヅカヘワレヨソニミム》とありて、佐日之隈《サヒノクマ》のさ〔右○〕は發語にて、檜隈《ヒノクマ》なり、この檜隈も、大和(ノ)國高市(ノ)郡なれば、この島(ノ)宮にかよふ道なるべし、玉(ノ)小琴に、作日一本に、佐田とあるを用べし、といへるは非也、隈回《くまわ》は、くま/”\といはむがごとし、隅は隈の誤りならむと云説はわろし、廣雅に、隅(ハ)隈也とありて、隅もクマ〔二字右○〕と訓べき文字也、猶余が萬葉集訓義辨證にいへり、
一首の意は、かゝる事をば、夢にも知ざりしものを、この檜隈《ヒノクマ》の隅回をかよひつゝ、宮出するがおぼつかなしと也、
 
天地與共将終登念乍《アメツチトトモニヲヘムトオモヒツヽ》、奉仕之情違奴《ツカヘマツリシコヽロタガヒヌ》
 
天地與《アメツチト》は、天地ばかり久しき物あらざれば、久しきたとへなり、○共将終登《トモニヲヘムト》、君が代は、天地と共にこそ、終らめと思ひつゝ、仕奉りしその心たがへりと也、将終は、本集卷五【十四左】に、鳥梅乎乎利都々多努之岐乎倍米《ウメヲヲリツヽタヌシキヲヘメ》ともあり、
一首の意は、君が代は、天地の久しきと共に、終らむとおもひつゝ、長しなへに仕へ奉らむとおもひをりし、其心のたがひたるが、かなしきよと也、
 
朝日弖流作太乃岡邊爾群居乍《アサヒテルサダノヲカベニムレヰツヽ》、吾等哭涙息時毛無《ワガナクナミダヤムトキモナシ》
 
(75)朝日弖流《アサヒテル》、朝日また夕日のさすをもて、その所をほむる事、古へのつね也、そは古事記上卷に、朝日之直刺國《アサヒノタヾサスクニ》、夕日之日照國也《ユフヒノヒテルクニナリ》云云、同下卷に、阿佐比能比傳流美夜《アサヒノヒデルミヤ》、由布比能比賀気流美夜《ユフヒノヒガケルミヤ》、又龍田(ノ)風(ノ)神(ノ)祭の祝詞に.吾宮者朝日乃日向處《ワガミヤハアサヒノヒムカフトコロ》、夕日乃日隱處《ユフヒノヒガクルトコロ》云云などありて朝日夕日の照《テル》處を賞するなり、〇佐太乃岡邊爾《サダノヲカベニ》、考に、この前後に、日隈《ヒノクマ》とも、佐太岡《サダノヲカ》とも、眞弓岡《マユミノヲカ》ともよめるは、今よく見るに、檜の隈の郷の内に、佐《サ》太、眞|弓《ユミ》はつゞきたる岡也、さてこの御陵の侍宿所は、右の二岡にわたりてある故に、いづれをもいふ也けり、とあるが如し、○吾等哭涙《ワガナクナミダ》、等〔右○〕は添字也、
一首の意は明かなり、
 
御立爲之島乎見時庭多泉《ミタヽシシシマヲミルトキニハタヅミ》、流涙止曾金鶴《ナガルヽナミダトメゾカネツル》
 
御立爲之《ミタヽシシ》、立爲《タヽシ》は立の緩言にて敬語なり、之《シ》は過去の辭、在立《アリタヽ》しなどの立しにて、其處に行き坐しゝをいふ、○島乎見時《シマヲミルトキ》、島は庭の池島也、○庭多泉《ニハタヅミ》、和名抄に、唐韻云、潦(ハ)雨水也【爾八太豆美】とあり、雨水の庭にたまりてながるゝをいふ、庭多泉とかけるは借字也、
一首の意は、皇子の常にいでましゝ、池島などを見るにつけても、當時の事おもひ(76)出られて、にはたづみのごとく、涙のながれいでゝ、とゞめかねることよと也、
 
橘之島宮爾者不飽鴨《タチバナノシマノミヤニハアカネカモ》、佐田乃岡邊爾侍宿爲爾往《サダノヲカベニトノヰシニユク》
橘之島宮爾者《タチバナノシマノミヤニハ》、橘は、島(ノ)宮のある所の地名なるべし、大和志高市(ノ)郡に、橘村あり、此所なるべし、○不飽鴨《アカネカモ》は、アカネカモ〔五字右○〕と訓べし、あかねばにやの意なり、舊訓に、アカズカモ〔五字右○〕とあるはわろし、鴨は歎辭也、
一首の意は、島の宮にはとのゐを、なしたらねばにやあらむ、佐田の岡べへも、とのゐしにゆくことよと也、
 
御立爲之島乎母家跡住鳥毛《ミタヽシシシマヲモヘトスムトリモ》、荒備勿行年替左右《アラビナユキソトシカハルマデ》
 
御立爲之《ミタヽシシ》は、皇子の行き坐し給ひし也、○島乎母家跡《シマヲモヘト》は、島をおのが家としてすめる也、跡《ト》は、としての意也、〇住鳥毛《スムトリモ》、毛といへるは、鳥もといふにて、人はさら也、鳥までもといふ意也、○荒備勿行《アラビナユキソ》は、上に既にいへり、〇年替左右《トシカハルマデ》、年替は、今年の來年とかはる也、池島などを家として住る鳥も、また人も、今は君ましまさずとも、うとくなりゆく事なかれ、せめて年のかはるまでもと也、右左《マデ》をまでとよめるは義訓也、(77)卷一に既にいへり、
一首の意は、常に皇子の御|立《タヽ》しましける、池島を家として住る鳥も、皇子の御坐ねばとて、疎《ウト》く此所を去る事勿れ、せめて年替るまでは、他へ行かずして居れよとなり、
 
御立爲之島之荒磯乎今見者《ミタヽシシシマノアリソヲケフミレバ》、不生有之草生爾來鴨《オヒザリシクサオヒニケルカモ》
 
島之荒磯乎《シマノアリソヲ》、代匠記に、磯は海に限らず、川にも池にもよめり、されば歌の習なれば、必あら浪のよする所ならずとも、大かたに磯をあらいそといへるか、もしは海邊を學びて、作らせ給へば云かとあり、考に、御池に砦をたてゝ瀧おとして、あらき磯の形作られしをいふなるべしと云へるは、少しおもひすごしたる説といふべし、○今見者《ケフミレバ》、考略解等に、イマミレバ〔五字右○〕と、訓を改たるはわろし、舊訓に、ケフミレバ〔五字右○〕とあるに從ふべし、日(ノ)宇は略してかける例あり、卷六【十五左】に、今耳二秋足目八方《ケフノミニアキタラメヤモ》、これを舊訓に、イマノミニ〔五字右○〕とあるはわろし、必ケフノミニ〔五字右○〕と訓べし、又卷十一【五左】に、今朝可戀物《ケフノアシタニコフベキモノカ》ともあり、此は文字を省きてかける一の法にて、重石《イカリ》を重《イカリ》と作《カキ》、背向《ソガヒ》を背《ソガヒ》、爲當《ハタ》を當《ハタ》と作《カケ》るが如し、○生爾來鴨《オヒニケルカモ》、集中、來〔右○〕をけり〔二字傍線〕ける〔二字傍線〕けれ〔二字傍線〕の假字に用ゐたるは、來る(78)といふく〔右○〕を、け〔右○〕に轉じたる也、書紀仁徳紀に、摩箇儒鷄麼虚曾《マカズケバコソ》とあるも、不經來者乞《マカズケバコソ》なり、古事記傳三十四【五左】に、天之日矛《アメノヒボコ》の條の、參渡來の注に、マヰワタリケリと訓べし、祁理《ケリ》は【辭のけりには非ず】來而有《キテアリ》【約めてキタリと云】と云意の古言なり、萬葉十七【二十丁】に、多麻豆佐能使乃家禮婆《タマヅサノツカヒノケレバ》とあるは、來而有者《キテアレバ》と云る意なり、是にて心得べし云云、書紀に、來朝、來歸、參來などを、マウケリ〔四字右○〕と訓る是(レ)なり、又萬葉に、辭のケリ〔二字右○〕に來《ケリ》と書るも、此を借れるものなりとある是也活語雜話に、ケリ〔二字右○〕は來《キ》アリなりといひ、物集高世の辭格考に、來經《キヘ》アリ也といへるは、共にわろし、
一首の意は、君のまし/\たりしほどは、草などをも苅はらふ人ありしかば、草も生ざりしかど、君うせ給ひて今《ケフ》見れば、その生ざりし草も、かく生にける事よと也、いとあはれ深き歌なり、
考に、まことに歎きつべし、卷十四【今の三の三十七右】に、故太政大臣家の山(ノ)池を、赤人、むかし見しふるき堤はとしふかみ、池のなぎさに水草生にけり、ともよみつといへり、
 
鳥※[土+(而/一)]立飼之雁乃兒栖立去者《トクラタテカヒシカリノコスダチナバ》、檀崗爾飛反來年《マユミノヲカニトビウツリコネ》
 
鳥※[土+(而/一)]立《トクラタテ》、※[土+(而/一)]字、温本家本昌本活本、皆今本と同じ、官本に、垣〔右○〕と作《アル》は、後人の私に改たる(79)なるべし、此※[土+(而/一)]の字は、栖の俗字にて、類聚名義抄に、栖棲【二正、音西、スミカ〇やドル○ス○鳥ノス】※[土+(而/一)]【俗、】字鏡集に、棲※[土+(而/一)]同と見え、これを手偏に作《カケル》は、龍龕手鑑【手部】に、※[手偏+妻]【俗、音西、正作v棲、鳥棲、】※[手偏+面]【同上】とある是也、かゝれば、※[土+(而/一)]は栖の俗體なる事明らけし、立《タテ》は塒を造るをいふ、新撰字鏡に、桀【巨列反〓栖杙、止久良、】云云、和名抄鳥體云、毛詩云、鷄栖2于塒1、注云、鑿墻而棲、曰塒、【音時、訓止久良、】本集卷十九【十一左】に、鳥座由比須惠※[氏/一]曾我飼眞白部乃多可《トクラユヒスヱテゾワガカフマシラフノタカ》とあり、此に鳥座とかけるが正字にて、書紀神代紀上に、千座置戸《チクラオキド》云云、大祓(ノ)祝詞に、千座置座《チクラオキクラ》云云ともありて、釋日本紀卷七に、座者、是置v物之名也とあり、とぐらは、鳥を置所をいふ、藏、倉などを、くらといふも、物を置よしの名にて同じ、舊訓に立《タテ》を、タチ〔二字右○〕とよめるはわろし、○飼之雁乃兒《カヒシカリノコ》、代匠記云、雁の兒は、かりの子をいふ、かるの子ともいふ云云、又は雁は※[まだれ/(人偏+隹)]《タカ》の誤にやといへり、今按に、猶カリ〔二字右○〕にて、かる鳧《カモ》のことゝする説よし、○栖立志者《スダチナバ》、栖より出たちなば也.後撰集卷(ノ)上に、谷さむみいまだすだたぬ鶯の、なく聲わかみ人のすさめぬ、源氏物語橋姫に、いかでかくすだちけるぞと思ふにも、うき水鳥のちぎりをぞしる、などあり、○飛反來年《トビウツリコネ》、考に、きみのますところへ來れ也といひ、略解も此意を得て、御陵へ來れと也とあり、今按に、反は變と通用の文字なるから、【此事は余が萬葉集訓義辨證に、精しく辨じおきたり、】今も通じかけるにて、反はウツリ〔三字右○〕と訓むべし、移《ウツリ》の意なり、變をウツリ〔三字右○〕と(80)よめるは、本集卷四【四十左】に、翼酢色之變安寸吾意可聞《ハネズイロノウツロヒヤスキワガコヽロカモ》、卷八【三十八右】に、朝香山之將黄變《アサカヤマノウツロヒヌラム》とある是也、叉|此所《コヽ》より彼所《カシコ》に移るをいへるは、卷十【二十六左】に、天漢去歳渡伐遷閉者《アマノガハコゾノワタリバウツロヘバ》、河瀬於蹈夜深去來《カハセヲフムニヨゾフケニケル》、同【五十五左】に、木間從移歴月之影惜《コノマヨリウツロフツキノカゲヲヲシミ》などある是也、又卷三【五十三左】に、見禮杼不飽伊麻之君我黄葉乃《ミレドアカズイマシシシキミガモミヂバノ》、移伊去者悲喪有香《ウツリイヌレバカナシクモアルカ》とあるは、大納言大伴卿の薨去の時に、犬養(ノ)宿禰|人上《ヒトガミ》のよめる歌にて、黄葉よりのつゞきは、變《ウツロ》ふにて、卿の此世を去りて、彼所に至るといふなれば、此《コヽ》の飛反《トビウツル》と全く同じ、かくて此下に、所由無佐太乃岡邊爾反居者《ツレモナキサダノヲカベニウツリヰバ》、島御橋爾誰加住舞無《シマノミハシニタレカスマハム》とある、反居者は此と同じく、反變通じ用ゐたるにて、ウツリヰバ〔五字右○〕と訓むべし、しかるを此反〔右○〕を、君〔右○〕の誤にて、キミマセバ〔五字右○〕と訓(ム)べしといへる説は非なり、其由は下にいふべし、
一首の意は、皇子の塒を造らしめて、飼ひ給ひし雁の子よ、栖だちなば、此皇子のおはします、檀の岡に飛來れとなり、
 
吾御門千代常登婆爾將榮等《ワガミカドチヨトコトハニサカエムト》、念而有之吾志悲毛《オモヒテアリシワレシカナシモ》
 
吾御門《ワガミカド》は、吾《ワガ》皇子の御門なり、○千代常登婆爾《チヨトコトハニ》は、千とせもとこしなへに久しくといへる也、とことはゝ、常《ツネ》にといふ古言にて、本集卷四【二十二左】に、常不止通之君我《トコトハニカヨヒシキミガ》云云、(81)佛足石(ノ)歌に、巳禮乃與波字都利佐留止毛《コレノヨハウツリサルトモ》、止已止婆爾佐乃已利伊麻世《トコトハニサノコリイマセ》、乃知乃與乃多米《ノチノヨノタメ》云云と見えたり、婆は濁音の字なれども、本集にては、清濁通はし用ゐたり、例は萬葉集讀例に集めおけり、〇吾志悲毛《ワレシカナシモ》、志《シ》は其事を取立ていふ助字なり、毛は歎辭、
一首の意は、吾御門は、千年もとこしへに、さかえむとおもひてのみありし、心にたがひて.いとかなしとなり、
 
東乃多藝能御門爾雖伺侍《ヒムガシノタギノミカドニサモラヘド》、昨日毛今日毛召言毛無《キノフモケフモメスコトモナシ》
 
東乃多藝能御門爾《ヒムガシノタギノミカドニ》、瀧《タギ》の宮子《ミヤコ》、多藝津河内《タギツカハチ》などいへるは、川のたぎち流るゝを以ていへるなれど、この御門は、瀧ある方の御殿をいふなるべし、○雖伺侍《サモラヘド》、本集此卷【三十五左】に、鶉成伊波比廻《ウヅラナスイハヒモトホリ》、雖侍候佐母良比不得者《サモラヘドサモラヒエネバ》ともありて、侍候するをいふ、○昨日毛今日毛《キノフモケフモ》、本集卷十五【二十七左】に、伎能布家布伎美爾安波受弖《キノフケフキミニアハズテ》云云、卷十七【四十六左】に、乎等都日毛伎能敷母安里追《エオトツヒモキノフモアリツ》など見えたり、卷三【五十三右】に、愛八師榮之君乃伊座勢波《ハシキヤシサカエシキミノイマシセバ》、昨日毛今日毛吾乎召麻之乎《キノフモケフモワヲメサマシヲ》とあるは、今の歌に似たり、
一首の意は、常に仕へまつり居る時は、何くれと仰せ言ありしに、此頃はふつに召(82)し給ふ事もなき事よとなり、かくをさなくいひ出たるに、かへりてかなしみの情深くきこゆ、
 
水傳礒乃浦回乃石乍自《ミヅツタフイソノウラワノイハツヽジ》、木丘開道乎又將見鴨《モクサクミチヲマタミナムカモ》
 
水傳《ミヅツタフ》、冠辭考には、枕詞として注せられたれど、此はたゞ其所のさまをいへるにて、池の礒邊を行には、其礒邊の水につきてつたひゆくをいふ、枕詞にはあらざるべし、礒は、上の歌に、島《シマ》の荒礒《アリソ》とある礒《イソ》なり、○礒乃浦回乃《イソノウラワノ》、回は、島回る《シマワ》、礒回《イソワ》などいふ回《ワ》に同じ、礒といふより、浦ともいへるなり、○石乍自《イハツヽジ》、本草和名に、羊躑躅、一名玉支、一名史光、和名以波都々之、又之呂都々之、一名毛知都々之とあり、和名抄これに同じ、本集卷三【四十九右】に、美保乃浦廻之白管仕《ミホノウラワノシロツヽジ》、卷六【二十五右】に、丹管士乃將薫時能《ニツヽジノニホハムトキノ》、卷七【十七右】に、遠津之濱之石管自《トホツノハマノイハツヽジ》云云などあり、乍自《ツヽジ》、管仕《ツヽジ》などは、皆借字なり、○水丘開道乎《モクサクミチヲ》、玉(ノ)小琴に、木丘《モク》は茂く也、神代紀に、枝葉|扶※[足+流の旁]《シキモシ》、應神紀に、芳草※[草冠/會]蔚《モクシゲク》、顯宗紀に、厥功|茂《モシ》焉などあり、また森《モリ》といふ名も、木の生ひ茂りたるよし也といへり、正辭云、丘の字、常にはキユフ〔三字右○〕の音なれど、韻鏡三十七開轉に收て、呉次音はク〔右○〕なり、同轉の口〔右○〕また久〔右○〕を、常にク〔右○〕と呼べるを見べし、躑躅《ツヽジ》のしげく咲たる道也、○又將見鴨《マタミナムカモ》、又見なむか、マア〔二字右○〕見(83)ることはあるまじとなり、
一首の意は、皇子薨たまひしかば、今よりはこの宮に、まゐる事もあらざるべければ、御池のほとりの、石つゝじのうるはしくさきたる此道も、又とは見まじと、なごりををしめるなり、
 
一日者千遍参入之東乃《ヒトヒニハチタビマヰリシヒムガシノ》、大寸御門乎入不勝鴨《タギノミカドヲイリガテヌカモ》
 
大寸御門乎《タギノミカドヲ》、考云、今本、たぎのとよみたれど、寸は假字也、假字の下に辭を添るよしなしとて、オホキミカドヲ〔七字右○〕とよまれたり、今按るに、人名地名などには、假字の下に、ノ〔右○〕の辭をよみそへたる例あり、卷九【十六左】に、足利□湖《アトノミナト》、卷十【四十七左】に、沙穂□内之《サホノウチノ》、卷十八【二十右】に、美豆保□國乎《ミヅホノクニヲ》など是也、猶いはゞ、古事記上卷に、知※[言+可]《チカノ》島、又中卷に、多祁理宮《タケリノミヤ》などもあり、こゝの大寸御門《タギノミカド》は、地名にはあらで、本たきのあるによりていへるなれど、御門の名としつれば、地名とかはる事なし、又|大寸《タギ》を、オホキ〔三字右○〕と訓るも非也、舊訓のまゝにタギ〔二字右○〕とよむべし、大の字のことは、萬葉集訓義辨證にいへるを見べし、〇入不勝鴨《イリガテヌカモ》、がてぬのぬ〔右○〕文字にはこゝろなく、難《カタ》き意にて、こゝは入がたきかも也、別記に精細し、
(84)一首の意は、一日の中には、幾たびとなくまゐりたりし、御門なれども、いまは入がたきやうになりしと也、
 
所由無佐太乃岡邊爾反居者《ツレモナキサダノヲカベニウツリヰバ》、島御橋爾誰加住舞無《シマノミハシニダレカスマハム》
 
所由無《ツレモナキ》、舊訓には、ヨシモナク〔五字右○〕とあれど、ツレモナキ〔五字右○〕と訓改たるをよしとす、○反居者《ウツリヰバ》、考に、舊訓に、カヘリヰバとあるにつきて、かへりゐるとは、ゆきかへりつゝ分番交替してゐるをいふ、下に、夜鳴《ヨナキ》かはらふとよめるもこれ也といひ、萬葉集古義二中【九十二右】に云、【古義の説は、此美夫君志には大概載せぬ例なれど、此處は他の人々の説をも多く引たれば、參考の爲に出せるなり、】反居者は、反は、君の字の寫誤なるべし、草書は似たり、キミマセバ〔五字右○〕と訓べし、居(ノ)字はマス〔二字右○〕と訓べき處|往々《ヲリ/\》あり、三卷【十四右】に、神左備居賀《カミサビヲルカ》と有も、カムサビマスカ〔七字右○〕と訓べき所なり、又は座の寫誤にても有べし、座の打とけ書、居と能混ひやすし、此上に、外爾見之檀乃岡毛君座者《ヨソニミシマユミノヲカモキミマセバ》、常都御門跡侍宿爲鴨《トコツミカドトトノヰスルカモ》とあるにてこゝも君座者《キミマセバ》なるべきをしれ、岡部氏が。反居者《カヘリヰバ》は、分番交替してゐるをいふとあるはたがへり、もしさらば.カヘリヲレバ〔六字右○〕といはではかなはぬことなり、また度會(ノ)弘訓が、海人のしわざといふものに、反居者は、殿居者の誤にて、トノヰセバ〔五字右○〕なるべし、といへるもわろし、トノヰセバ〔五字右○〕とは、いまだ(85)侍宿せぬほどより、後をかけていふ詞なるに、この歌既く佐田(ノ)岡の御墓所に、侍宿《トノヰ》つかうまつる間に、舍人等のよめるなれば、こゝに叶はず、又上にも侍宿とのみ書るを、こゝにのみ殿居と書きたりとも思はれず、彼海人のしわざといふもの、初一卷を近頃見しなり、無證論《アトナシゴト》の多き書なり、正辭云、縣居翁の説のわろきはもとよりなり、但し此まゝにて、カヘリヲレバ〔六字右○〕とも訓べけれど、さてもカヘル〔三字右○〕といふ首此に叶はず、弘訓の説は、文字を改ての上の事なれば、もとより從ひがたし、又代匠記には、かへり居ばとは、假初に島(ノ)宮へ參れども、眞弓(ノ)岡に侍宿《トノヰ》する我等にて、歸たらばなり、又|反《カヘル》とは、そむく心にも有べし、あらぬ處に侍宿すればなり、とあるもいかゞなり、又の説は殊に強たりといふべし、此は上にいへる如く、反はウツリ〔三字右○〕と訓て、佐太の岡に移り居者《ヰバ》の意なり、しかるを此反の字を、得《エ》よみかねて、さま/”\の説をなしたるは、皆|非《ヒガゴト》なりけり、○鳥御橋爾《シマノミハシニ》、考に、橋は階なり、舍人は、御門と御階とのもとにもさむらへば、かくいへり云云、といはれつるがごとし、和名抄居宅具に、考聲切韻云、階音皆、【俗爲2階字1、波之、一訓之奈、】登v堂級也云云とあるこれ也、橋とかけるは借字にて、宮中の階《ハシ》なり、○誰加住舞無《タレカスマハム》、すまはむは、すまむ〔三字右○〕を延たる言也、こはすまふ、すまひ、すまはむ、とはたらく語にて、本集卷四【二十九右】に、天地與共久住波牟等《アメツチトトモニヒサシクスマハムト》云云、卷五【二十六右】に(86)比奈爾伊都等世周麻比都々《ヒナニイツトセスマヒツツ》云云、卷七【三十六右】に、木末爾住歴武佐左妣乃《コズヱニスマフムササビノ》云云などある是なり、
一首の意は、佐太の岡べは、ゆかりもなき所なれど、山陵のある故に、宿直《トノヰ》もす也、その佐太の岡に、人々うつりてとのゐせば、今よりは御階の下には、たれかさむらはむとなり、
 
旦覆日之入去者御立之《タナグモリヒノイリユケバミタヽシシ》、島爾下座而嘆鶴鴨《シマニオリヰテナゲキツルカモ》
 
旦覆はタナグモリ〔五字右○〕と訓べし、旦《タン》今本に且《シヤ》とあるは誤なり、今改む、撥假字のン〔右○〕は奈行の通にて、ナ〔右○〕と轉じ用ゐる例なり、諸注皆旦を舊訓によりて、アサ〔二字右○〕と訓るはわろし、音にてタン〔二字右○〕即(チ)タナと訓べし、其由は別紀に精しくいふ、タナグモリ〔五字右○〕といふ言は、卷十三【二十四左】に、棚雲利雪者零來奴《タナグモリユキハフリキヌ》、又これをトノグモリ〔五字右○〕とも云り、同卷【十三左】に、登能陰雨者落來奴《トノグモリアメハフリキヌ》、卷十二【十九右】に、登能雲入雨零河之《トノグモリアメフルカハノ》などある是也、此はタ〔右○〕とト〔右○〕と音通にて同意也、棚引合ひ陰《クモ》るをいふなり、〇日之入去者《ヒノイリユケバ》は、日の傾き入をいふ、○御立之《ミタヽシシ》、考に、爲の字を加へて、御立爲之《ミタヽシシ》とあれど、爲の字なくともよろし、本集卷三【十三右】に、三獵立流《ミカリタヽセル》云云、卷十九【三十六左】に、御立座而《ミタヽシマシテ》云云、などあるにて知べし、○島爾下座而《シマニオリヰテ》、(87)島は池島なり、
一首の意は、夕ぐれ近くなりて、空もうちくもりて、日の入りゆけば、物さびしくかなしさもまさりて、池島に下り居て歎かるゝと也、すべて夕べは、物のあはれ深く感ずるものなればなり、
 
旦日照島乃御門爾欝悒《アサヒテルシマノミカドニオホヽシク》、人音毛不爲者眞浦悲毛《ヒトオトモセネバマウラカナシモ》
 
旦日照は、御門を賞したる也、上に、朝日弖流佐太刀岡邊《アサヒテルサダノヲカベ》とあるがごとし、旦《タン》今本作v且《シヤ》、今意改、○眞浦悲毛《マウラカナシモ》、眞《マ》は誠《マコト》の事にて本集卷二十【三十一左】に、多妣等弊等麻多妣爾奈理奴《タビトヘドマタビニナリヌ》などある麻《マ》にて、物を賞《ホメ》ていへる眞とは別なり、浦悲《ウラカナシ》の浦は借字にて心中|悲《カナシ》なり、本集卷八【三十左】に、曉之裏悲爾《アカツキノウラガナシキニ》云云、卷十四【二十五左】に、比等刀兒能宇良我奈之家乎《ヒトノコノウラガナシケヲ》など、猶多し、
一首の意は、君の御座ざれば、島の御門もものさびしく、すさまじく、人おともせざるを見れば、心の中のかなしと也、毛は助字のみ、
 
眞木柱太心者有之香杼《マキバシラフトキコヽロハアリシカド》、此吾心鎭目金津毛《コノワガコヽロシヅメカネツモ》
 
(88)眞木柱《マキバシラ》は枕詞なり、眞木は檜也、柱は太きを賞する故に、眞木ばしらふときとはつゞけし也、○太心者《フトキコヽロハ》は、すぐれてをゝしく、したゝかなる心といへる也、○鎭目金津毛《シヅメカネツモ》、心を靜めかねつにて、毛は助字也、書紀顯宗紀、室壽(ノ)詞に、築立柱者《ツキタツルハシラハ》、此家長御心之鎭《コノイヘヲサノミコヽロノシヅメ》也ともあり、
一首の意は、われは大丈夫にて太くをゝしき心なりしかども、今皇子の御喪にあひ奉りてそのをゝしき心もうせはてゝ、われながら、わが心をしづめかねつとなり、
 
毛許呂裳遠春冬片設而幸之《ケゴロモヲハルフユカタマケテイデマシシ》、宇陀乃大野者所念武鴨《ウダノオホヌハオモホエムカモ》
 
毛許呂裳《ケゴロモ》は、毛を以て製したるものにて、和名抄に、説文云、裘【加波古路毛】皮衣也、とあるものと別也、又伊呂波字類抄に、褻、ケゴロモとあれど、こは常の服の事にて、毛衣《ケゴロモ》には非ず、説文に、褻、私服とあり、論語に、紅紫不3以爲2褻服1ともあり、字類抄のケゴロモ〔四字右○〕はこれにて、常の服の意也、毛衣には非ず、考に、毛衣と皮衣と、一つにしたるは誤なり、又諸注に、春冬は毛許呂裳《ケゴロモ》を張《ハル》と、春にかゝる枕詞也といへるも非也、又片設を取設と改めたるもわろ、片設は、方儲《カタマケ》にて、其時を待まうくる也、御獵は多く春冬(89)にするものなれば也、○春冬片設而《ハルフユカタマケテ》、片設は、本集卷五【十七左】に、烏梅能波奈知利麻我比多流乎加肥爾波《ウメノハナチリマガヒタルヲカベニハ》、字具比須奈久母波流加多麻氣弖《ウグヒスナクモハルカタマケテ》、卷十【三十八右】に、秋田吾苅婆可能過去者《アキノタノワガカリバカノスギヌレバ》、鴈之喧所聞冬方設而《カリガネキコユフユカタマケテ》、同【四十一左】に、草枕客爾物念吾聞者《クサマクラタビニモノモヒワガキケバ》、夕片設而鳴川津可聞《ユフカタマケテナクカハヅカモ》、卷十一【四左】に、何時不戀時雖不有《イツシカモコヒヌトキトハアラネドモ》、夕方枉戀無之《ユフカタマケテコヒハスベナシ》などあり、これらのかたまけも、方儲《カタマケ》にて、皆その時を待まうけたる意也、さるを考に、片設は取設の誤りなりとて、改たるは非也、又荒木田久老の信乃漫録に、冬は秋の誤として、春秋の二字を、トシ〔二字右○〕と訓むといへるもわろし、○宇陀乃大野者《ウダノオホヌハ》、書紀天武紀に、菟田(ノ)郡【中畧】到2大野1云云とある此處也、本集卷一【二十一左】に、安騎乃大野《アキノオホヌ》とあるも、宇陀(ノ)郡なれば、こゝなるべし、○所念武鴨《オモホエムカモ》、考に、今よりはこのありし御獵の事を、常の言《コト》ぐさ、思ひ種とし、慕ひ奉らん哉と歎きていふ也といへり、
一首の意は、これにてしるべし、
 
朝日照佐太乃岡邊爾鳴鳥之《アサヒテルサダノヲカベニナクトリノ》、夜鳴變布此年已呂乎《ヨナキカハラフコノトシゴロヲ》
 
鳴鳥之夜鳴變布《ナクトリノヨナキカハラフ》は、考に、舎人等のかはる/\夜のとのゐを嘆きつゝするを、この岡に夜鳴鳥に譬へていひくだしたり、とあるはさることなれど、かはらふは、上に(90)反居者《カヘリヰバ》といへるに同じく、侍宿の交替をいふとあるはわろし、代匠記に、舊訓、ヨナキカヘラフ〔七字右○〕は、ヨナキカハラフ〔七字右○〕と點ずべき歟、歌の心は、此年比、佐太の岡邊に、凶烏の夜鳴に、惡き聲《ネ》鳴つるは、かゝらむとてのさとしなりけるよと、思ひ合てなげく意なり、とあるをよしとす、今此説を補はむが爲に、聊漢籍に見えたる事を示さむ、鳥の鳴聲に依て、吉凶を知ることは、佛説十二縁生祥瑞經にも見えたることなるが、漢籍にもまたあり、説文に、※[學の子が鳥]※[車+(八/隹)]※[學の子が鳥]、山鵲知2來事1鳥也、段玉裁(ノ)注に、淮南書、乾鵠知v來而不v知v往、高曰、乾鵠(ハ)鵲也、人將v有2來事憂喜之徴1則鳴、此知v來也云云とある是也、山鵲はヤマガラス〔五字右○〕なり、遊仙窟にも、今朝《ケサ》聞(ク)鳥鵲(ノ)語、眞成好2客來1とありて注に、凡鵲聲|緩《ユルキ》者、爲v喜之也と見えたり、○此年已呂乎《コノトシゴロヲ》、考に、去年の四月より、今年の四月まで一周の間、御陵づかへすれば、としごろとはいへりとあるがごとし、乎《ヲ》よ〔右○〕といふ意の助辭也、
一首の意は、此年ごろ佐太の岡べになく鳥の、夜鳴聲の變りしは、かゝる凶事のあるしるしならむとは知らざりしこそ、遺憾なる事なれとなり、
 
八多籠良家夜晝登不云行路乎《ハタゴラガヨルヒルトイハズユクミチヲ》、吾者皆悉宮道叙爲《ワレハコトゴトミヤヂトゾスル》
 
(91)八多籠良家《ハタゴラガ》、代匠記一説に、又一(ツ)の今按あり、八の字は、音訓共に用れば、音を取てハタゴラガ〔五字右○〕と讀べきか、和名抄に、唐韻云、※[竹/〓]【當候(ノ)反、漢語抄云、波太古、俗用2旅籠二字1、】飼v馬器籠也、かゝれば馬を追男を、彼が持ところの具によりて、ハタゴラ〔四字右○〕と云歟、旅人に宿かす所を、俗にハタゴ〔三字右○〕屋と云を思ふべし、八多籠とかける籠の字も此意にや、馬を追ふ男は、詞なめげにて、賤しき者の限りなれば、それらのみ行道と云るかとある、此意なり、はたごうまといふことは、蜻蛉日記、宇治拾遺などにも見えたり、かゝればはたご〔三字右○〕とは、馬を飼ふ籠の名なれど、其※[竹/〓]を用ゐる男を、やがてはたごといへるなり、又考に、家を※[我の草書]〔右○〕の誤りとして、我に改たれど、家をか〔右○〕の假字に用ゐたるは、卷五【十八右】に、和家夜度能烏梅能之豆延爾《ワガヤドノウメノシヅエニ》ともあり、集韻に、家、居牙切、音加、正字通に、居沙切、音加とあれば、加の假字にも用ゐるべきなり、○夜晝登不云《ヨルヒルトイハズ》、本集卷九【三十四右】に、味澤相宵晝不云蜻蛉蜒火之心所燎管《アヂサハフヨルヒルトイハズカギロヒノコヽロモエツヽ》云云ともあり、夜とひるとそのわかちをもいはずとなり、〇吾者皆悉《ワレハコトゴト》、皆悉を舊訓に、サナガラ〔四字右○〕、とあるはわろし、二字にてコトゴト〔四字右○〕と訓べし、コトゴト〔四字右○〕は、ことごとくといふに同じ、
一首の意は、いやしき奴等が、夜るひるとなくゆきかよふ道を.われ等は眞弓の御陵へ交替して、宿直する宮路とする事よと、おもひもかけぬよしをいひてかなし(92)び歎くなり、
 
右日本紀曰、三年巳丑夏四月癸未朔乙未薨、
 
三年は、持統天皇の三年なり、
 
柿(ノ)本(ノ)朝臣人麿、獻2泊瀬部(ノ)皇女忍坂部(ノ)皇子1歌一首并短歌
 
飛鳥明日香乃河之《トブトリノアスカノカハノ》、上瀬爾生玉藻者《カミツセニオフルタマモハ》、下瀬爾流觸經《シモツセニナガレフラバヘ》、玉藻成彼依此依《タマモナスカヨリカクヨリ》、靡相之嬬乃命乃《ナビカヒシツマノミコトノ》、多田名附柔膚尚乎《タダナヅクニコハダスラヲ》、劍刀於身副不寐者《ツルギダチミニソヘネネバ》、烏玉乃夜床母荒良武、《ヌバタマノヨドコモアルラム》【一云何禮奈牟】所虚故名具鮫兼天《ソコユヱニナグサメカネテ》、氣田敷藻相屋常念而《ケダシクモアフヤトオモヒテ》、【一云公毛相哉登】玉垂乃越乃大野之《タマダレノヲチノオホヌノ》、且露爾玉藻者※[泥/土]打《アサツユニタマモハヒヅチ》、夕霧爾衣者沾而《ユフギリニコロモハヌレテ》、草枕旅宿鴨爲留不相君故《クサマクラタビネカモスルアハヌキミユヱ》、
 
(93)考に、この端詞誤れりとて、左注に依て、葬2河島(ノ)皇子於越智野1之時、柿(ノ)本(ノ)朝臣人麻呂獻2泊瀬部《ハツセベノ》皇女1歌と改たり、此はさる事ながら、各本皆此の如くなればしばらく本《モト》のまゝにておきつ、又考に、此は河島皇子の薨給へる時、其|御妻《ミメ》泊瀬部皇女に獻る歌にして、此皇女の御兄、忍坂部(ノ)皇子に、兼獻るよし有べき事なく、歌にもたゞ、御夫婦の常の御有樣をのみいひて、かの皇子の事はなしとあり、泊瀬部(ノ)皇女は、天武天皇の皇女にて、河島(ノ)皇子の妃にておはせり、○短歌二字、原本大書す、今依2温本官本昌本家本小書す、
飛鳥明日香《トブトリノアスカ》は、鈴屋の國號考に、書紀に、天武天皇の十五年、改v元曰2朱島元年1、仍(テ)名(テ)v宮(ヲ)曰2飛鳥淨御原宮《トブトリノキヨミバラノミヤ》1云々、飛鳥とは、はふ蟲といふと同じくて、たゞ鳥のこと也、さて大宮の號を然いふから、をの地(ノ)名にも冠らせて、飛鳥《トブトリ》の明日香《アスカ》とはいへるなり、かすがを春日、明日香を飛鳥ともかくことは、いひなれたる枕詞の字をもて、その地名の字となせるなりといへり、此説の如し、縣居の冠辭考の説は非也、○明日香乃河《アスカノカハ》は、大和(ノ)國高市(ノ)郡也、○上瀬爾《カミツセニ》、カミツセ〔四字右○〕と訓べし、舊訓にノボリセ〔四字右○〕とあるはわろし、古事記上卷に、上瀬者瀬速《カミツセハセハヤシ》、下瀬者瀬弱《シモツセハセヨハシ》云々、下卷に、許母理久能波都勢能賀波能《コモリクノハツセノカハノ》、賀美都勢爾伊久比袁宇知《カミツセニイクヒヲウチ》、斯毛都勢爾麻久比袁宇知《シモツセニマクヒヲウチ》云々など見えたり、下瀬、舊訓に(94)クダリセ〔四字右○〕とあるはわろし、○流觸經《ナガレフラバヘ》、鈴屋去、舊訓に、ながれふれふるとよめるは、ひが言なり、考に、ふらへり、とよまれたるも心得ず、經の字は、へ〔右○〕とかふる〔二字右○〕とかは訓べし、へりへる〔四字右○〕などは訓べきよしなし、これはふらばへ〔四字右○〕と訓べきなり、古事記雄略の時の歌に、本都延能宇良婆波《ホヅエノウラバハ》、那加都延爾淤知布良婆閇《ナカツエニオチフラバヘ》とあり云々、といへるが如く、こは上つ瀬に生たる玉藻の流れ來て、下つ瀬に觸《フル》なり、ふらばへは、ふれの緩言也、○玉藻成《タマモナス》は枕詞也、成は如くの意、玉藻は波のまに/\、彼方此方になびくものなれば、玉藻の如く、かよりかくよりなびきあひしと也、○彼依此依《カヨリカクヨリ》、本集此卷【十八左】に、浪之共彼縁此依《ナミノムタカヨリカクヨリ》、玉藻成依宿之妹乎《タマモナスヨリネシイモヲ》云々、同【二十左】に、浪之共彼依此依《ナミノムタカヨリカクヨリ》、玉藻成靡吾宿之《タマモナスナビキワガネシ》云々などあり、○靡相之《ナビカヒシ》は、男女そひふすをいふ、物のうちなびきたらむやうに、なよゝかに添ひ臥しゝを云なり、舊訓にナビキアヒシ〔六字右○〕とあれど、ナビカヒシ〔五字右○〕と急言に唱ふべし、○嬬之命乃《ツマノミコトノ》、命は、父(ノ)命、母(ノ)命、弟(ノ)命、妹(ノ)命などいふ命と同じく、敬ひていふ言にて、古事記上卷に、伊刀古夜能伊毛能美許等《イトコヤノイモノミコト》、【中略】和加久佐能都麻能美許登《ワカクサノツマノミコト》云々、本集卷十八【二十三左】に、波之吉餘之都麻乃美許登能《ハシキヨシツマノミコトノ》云々などあり、嬬を舊訓に、イモ〔二字右○〕とあるはわろし、温本にツマ〔二字右○〕とあるに從ふ、○多田名附《タタナヅク》は枕詞なり、冠辭考の説はいまだし、和らかなる衣などの、身にしたしく疊《タヽナハ》り付如く、妹が膚の和らかに、な(95)びき付をいへる也、美夫君志卷一【二十六】に細しくいへり、○柔膚尚乎《ニコハダスラヲ》、柔膚を舊訓に、ヤハハダ〔四字右○〕とあるはわろし、集中、柔の字は、卷一【二十九左】に、柔備爾之《ニギビニシ》、卷十二【四十右】に、柔田津《ニギタヅ》と見え、假事書には、巻十一【三十九右】に蘆垣之中之似兒草爾故余漢《アシガキノナカノニコグサニコヨカニ》、卷二十【十四右】に、爾故具佐能爾古與可爾之母《ニコグサノニコヨカニシモ》などあり、これらによりて、柔は、爾古《ニコ》とよむべし、柔膚は、和らかににこよかなるを云、靈異記中卷に、柔【爾古也可】とも見えたり、尚《スラ》といふ詞を考に、すら〔二字右○〕は、さながらてふ言を約めたるにて、そのまゝてふに同じく、又摘ていはゞ、それ〔二字右○〕をと心得ても聞ゆといへり、按に、さながらの約言との稱説は、少しいかゞなれど、俗に、ソレヲ〔三字右○〕などいふ意なる事は明か也、尚の字をかけるは、尚は猶と同意になるより、借用ゐたるなるべし、○劔刀《ツルギダチ》は枕詞也、刀は人の身をはなたず、身にそへ持るもの故に、刀のごとく身に副とつゞけし也、劔、温本拾本、作v釼、官本作v※[余+刃]、○於身副不寐者《ミニソヘネネバ》とは、川島(ノ)皇子薨じ給ひてより、泊瀬部(ノ)皇女、御獨寐なるをかくはいへり、於は義をもて、てにをはの、ニ〔右○〕の假字に用ゐし也、廣雅に、於(ハ)于也とあり、漢文の讀法に、ニ〔右○〕とよめる是也、寐、温本、作v寤、誤也、○烏玉乃《ヌバタマノ》、原本、烏を鳥に誤れり、今依2官本昌本活本家本1改、○夜床母荒良無《ヨドコモアルラム》、夜床は夜のふし處也、書紀仁徳紀に、瑳用※[しんにょう+栗の上]虚烏那羅倍《サヨドコヲナラベ》務|耆瀰破《キミハ》云々、本集卷十八【二十三左】に、奴婆玉乃夜床《ヌバタマノヨドコ》云々など見えたり、荒良無《アルラム》は、上文(96)|荒備勿行《アラビナユキソ》とある所にいへるが如く、疎く遠ざかる意にて、ことは皇子おはしまさずして、夜床も踈くあれぬらむとなり、一云|何禮奈牟《カレナム》、何禮は離《カレ》にて淋しき意也、○名具鮫兼天《ナグサメカネテ》、今本及諸本に、名具鮫魚天氣留《ナグサメテケル》とあるは非也、久老の説に、魚は兼の誤にて、なぐさめかねてけだしくも〔なぐ〜右○〕と訓べしといへり、此説に從ふべし、本のまゝにては、何の事ともわからず、鮫は、和名抄龍魚類に、陸詞切韻云、鮫【音交、和名佐米、】と見えて、借字也、○相屋常念而《アフヤトオモヒテ》は、逢邪《アフヤ》と念ひてなり、舊訓に相屋常《アフヤトト》とあるは、誤なり、○玉垂乃《タマダレノ》は枕詞なり、玉を垂るには、緒につらぬく故に、玉垂の緒と、ヲ〔右○〕の一言にかけしなり、○越乃大野之《ヲチノオホヌノ》、舊訓、コス〔二字右○〕の大野の、とよめれど、反歌の一云に、乎知野とありて、左注にも越智野とあれば、こゝもをち〔二字右○〕の大野とよむべし、考に、この越を乎知とよむ、次の或本、又卷五に、眞玉就越乞兼而《マタマツクヲチコチカネテ》云々、卷十三に、眞玉付彼此兼手《マタマツクヲチコチカネテ》云々、などあればなりといへり、越智《ヲチ》野は、大和(ノ)國高市(ノ)郡なり、○玉藻者※[泥/土]打《タマモハヒヅチ》、玉藻の藻は借字にて裳也、玉は物をほむる詞也、※[泥/土]の字は、書紀神代上の訓注に、※[泥/土]士此(ニ)、云2于毘尼《ウヒヂ》1と見え、和名抄塵土類に、孫※[立心偏+面]云、泥(ハ)土和v水也、【奴※[人偏+弖]反、和名比知利古、一云古比千、】とありて、ヒヂ〔二字右○〕なるを、チ〔右○〕をツ〔右○〕に通はして、ヒヅ〔二字右○〕といひ、打は、ウチ〔二字右○〕のウ〔右○〕を略して、チ〔右○〕の假字としたり、本集卷三【五十八右】に、展轉泥土打雖泣《コイマロビヒヅチナケドモ》ともあり、これを正しく假字書にしたるは、卷十五【二十四左】に、安佐都由(97)爾毛能須蘇比都知《アサツユニモノスソヒヅチ》、由布疑里爾巳呂毛弖奴禮弖《ユフギリニコロモデヌレテ》云々、卷十七【二十七右】に、赤裳乃須蘇能《アカモノスソノ》、波流佐米爾爾保比比豆知底《ハルサメニニホヒヒヅチテ》などある是也、猶下文、衣※[泥/土]漬而とある所に、精しく云べし、○衣者沾而《コロモハヌレテ》は、越野を、皇女のわけ行き給ふさまをいひて、その野の朝露に御裳をひたし、夕霧に衣をぬらすらむ、といへる也、○旅宿鴨爲留不相君故《タビネカモスルアハヌキミユヱ》は、かくの如く困苦しつ、尋ね求め給へども、君に逢ふ事ならぬ故、此野に旅宿かもしたまふらむと、おしはかり奉れるなり、考に、古は新喪に、墓屋を作りて、一周の間、人してもまもらせ、あるじも折々行もやどり、或はそこに住人もありしなり、舒明紀に、蘇我(ノ)氏(ノ)諸族等悉集、爲2島(ノ)大臣1造v墓、而|次《ヤドレリ》2于墓所(ニ)1云々といへり、
一篇の大意は、明日香の川の川藻は、枯れて絶れば、再生ひ出て榮ゆるを、一たび此世を去り給ひし人は、また相見ることもなくして、次第に夜床もあれまさりて、いとかなしさに、墓所に行きて、歎き居る事よとなり、
 
反歌一首
 
敷妙乃袖易之君玉垂之《シキタヘノソデカヘシキミタマダレノ》、越野過去亦毛將相八方《ヲチヌニスギヌマタモアハメヤモ》【一云乎知野爾過奴】
 
(98)袖易之君《ソデカヘシキミ》、本集卷三【五十九左】に、白細之袖指可倍※[氏/一]《シロタヘノソデサシカヘテ》、靡寢《ナビキネシ》云々、卷四【二十四右】に、敷細乃衣手易而《シキタヘノコロモデカヘテ》、自妻跡憑有今夜《ワガツマトタノメルコヨヒ》云々、卷十一【六左】に、敷白之袖易子乎忘而念哉《シキタヘノソデカヘシコヲワスレテオモヘヤ》などありて、男女袖をかはして寢るをいふ、○越野過去《ヲチヌニスギヌ》、この過去《スギヌ》は、皇子の薨じ給ひしをいへるなり、字の如く、すぎ去意なり、本集卷一【二十二右】に、黄葉過去君之《モミヂバノスギニシキミガ》云々、卷三【五十五左】に、過去人之所念久爾《スギニシヒトノオモホユラクニ》などあり、○亦毛將相八方《マタモアハメヤモ》、舊訓に、マタモアハムヤモ〔八字右○〕とあれど、やも〔二字右○〕は、うらへ意のかへるや〔右○〕に、も〔右○〕の字のそひたるにて、このやも〔二字右○〕といふべき所も、必め〔右○〕といふべき格也、そは本集卷一【十四右】に、吾戀目八方《ワガコヒメヤモ》、同【二十一左】に、寐毛宿良目八方《イモヌラメヤモ》云々、卷四【五十五左】に、不相在目八方《アハザラメヤモ》などある是也、
一首の意は、常に御袖をかはしたりし君も、今は越野に葬り奉りしかば、又もあひ給ふ事はあらじと歎くなり、
 
右或本曰、葬2河島(ノ)皇子越智野1之時、獻2泊瀬(ノ)皇女1歌也、日本紀曰、朱鳥五年辛卯秋九月己巳朔丁丑、淨太參皇子川島薨、
 
 
(1) 萬葉集美夫君志卷二下     木 村 正 辭 撰
 
明日香(ノ)皇女木※[瓦+缶](ノ)殯宮之時、柿(ノ)本(ノ)朝臣人麿作歌一首並短歌
 
飛鳥明日香乃河之《トブトリノアスカノカハノ》、上瀬石橋渡《カミツセニイハバシワタシ》、【一云石浪】下瀬打橋渡《シモツセニウチハシワタス》、石橋《イハバシニ》【一云石浪】生靡留《オヒナビケル》、玉藻毛叙絶者生流《タマモモゾタユレバオフル》、打橋生乎爲禮流《ウチハシニオヒヲヲレル》、川藻毛叙干者波由流《カハモモゾカルレバハユル》、何然毛吾王乃《ナニシカモワゴオホキミノ》、立者玉藻之如《タタセレバタマモノゴトク》、許呂臥者川藻之如久《コロブセバカハモノゴトク》、靡相之宜者之《ナビカヒシヨロシキキミガ》、朝宮乎忘賜哉《アサミヤヲワスレタマフヤ》、夕宮乎背賜哉《ユフミヤヲソムキタマフヤ》、宇都曾臣跡念之時《ウツソミトオモヒシトキニ》、春部者花祈挿頭《ハルベハハナヲリカザシ》、秋立者黄葉挿頭《アキタテバモミヂバカザシ》、敷妙之袖※[手偏+雋]《シキタヘノソデタヅサハリ》、鏡成雖見不※[厭のがんだれなし]《カガミナスミレドモアカズ》、三五月之益目頬染《モチヅキノイヤメヅラシミ》、所(2)念之君與時時《オモホヘシキミトトキドキ》、幸而遊賜之《イデマシテアソビタマヒシ》、御食向木※[瓦+缶]之宮乎《ミケムカフキノベノミヤヲ》、常宮跡定賜《トコミヤトサダメタマヒテ》、味澤相目辭毛絶奴《アヂサハフメゴトモタエヌ》、然有鴨《シカレカモ》【一云所已乎之毛】綾爾燐《アヤニカナシビ》、宿兄鳥之片戀嬬《ヌエドリノカタコヒヅマ》【一云爲乍】朝鳥《アサドリノ》【一云朝露】往來爲君之《カヨハスキミガ》、夏草乃念之萎而《ナツクサノオモヒシナエテ》、夕星之彼往此去《ユフヅツノカユキカクユキ》、大船猶預不定見者《オホブネノタユタフミレバ》、遣悶流情毛不在《オモヒヤルコヽロモアラズ》、其故爲便知之也《ソコユヱニスベシラマシヤ》、音耳母名耳毛不絶《オトノミモナノミモタエズ》、天地之彌遠長久《アメツチノイヤトホナガク》、思將往御名爾懸世流《シヌビユカムミナニカカセル》、明日香河及萬代《アスカガハヨロヅヨマデニ》、早布屋師吾王乃形見何此焉《ハシキヤシワゴオホキミノカタミニココヲ》、
 
明日香皇女は、續日本紀云、文武天皇四年夏四月癸未、淨廣肆明日香皇女薨、遣v使弔2賻之1、天智天皇(ノ)皇女也云々と見えたり、○木※[瓦+缶]《キノベノ》殯宮、木※[瓦+缶]は、和名抄に、廣瀬(ノ)郡城戸とある所なるべし、此次に城(ノ)上(ノ)殯宮とあるも同じく、キノヘ〔三字右○〕なり、※[瓦+缶]の字は、字書に見えず、集韻に、缶※[缶+瓦]或從v瓦とあり、此※[瓦+缶]の扁傍を左右せるなり、文字の扁傍を左右し、又(3)は上下するを、隷行といふ、漢(ノ)議郎元賓碑に、翻※[羽/者]色斯とありて、隷釋云、以v※[羽/者]爲v※[者/羽]、隷辨云、碑盖移2羽於上1、所謂隷行也、又郭忠如佩※[魚+(山/雋)]に、〓※[月+良]之作2詞朗1、是謂2隷行1とあり、もと篆文を變じて隷書とするをいふなり、※[缶+瓦]をべ〔右○〕の假字に用ゐしは、忌瓮《イハヒベ》、嚴瓮《イヅベ》など、日本紀、又古事記に、瓮をべ〔右○〕と訓るに同じ、又新撰字鏡に、※[缶+瓦]|取戸《トリベ》とも見えたり、○短歌二字、原本大書す、依2官本昌本家本京本1小書す、
考に、この長歌に、夫君のなげき慕ひつゝ、木のべの御墓へ、往來したまふさまをいへるも、上の泊瀬部(ノ)皇女の、乎知野《ヲチヌ》へ詣給ふと同じ樣なり、然れば此端に、そのかよはせける皇子の御名を擧べきに、今はこゝには落ちて、上の歌の端に入しなり、他の端詞の例をも思ふに、疑なければ、かの所を除きて、こゝに入たり云々とて、人麿の下に、獻2忍坂部(ノ)皇子1の六字を加へたり、こはいかにもさる事ながら、私に改るもいかゞなれば、しばらく本のまゝにておきつ、
石橋渡《イハバシワタシ》、本集卷七【二十七左】に、橋立倉椅川石走者裳《ハシダテノクラハシガハノイハバシハモ》、壯子時我度爲石走者裳《ミサカリニワガワタリシイハバシハモ》、同【十右】に、明日香河《アスカガハ》、湍瀬由渡之石走無《セセユワタシシイハバシモナシ》、卷十【五十六右】に、石走間間生首貌花乃《イハバシノママニオヒタルカホバナノ》云々などもありて、水中に石をならべて人を渡すを、いはばしとはいふ也、枕詞に、いはばしの何々とつゞくるもこれなり、さて爾雅釋宮に、石杠謂2之※[行人偏+奇]1、注に、聚2石(ヲ)水中1以爲2歩渡(ノ)※[行人偏+勺]《ハシ》1也、孟子曰、(4)歳十一月徒杠成、或曰今之石橋とあり、説文に、※[行人偏+奇](ハ)擧v脛有v渡也、といへる是也、和名抄にこれを出して、石橋也とあるは、石造の橋としたるにて誤也、一云|石浪《イシナミ》とあるも、浪は借字にて、石並にて、石を並べて橋とする也、同じ事ながら、此はイシナミ〔四字右○〕と訓べし、卷二十【十四右】に、安麻能河波《アマノガハ》、伊之奈彌於可婆都藝弖見牟可母《イシナミオカバツギテミムカモ》とあり、但新撰字鏡に、砌の字、磴の字を、共に伊志波志と訓じたるは、石階にて、今と同じからず、○打橋渡《ウチハシワタス》、小琴に、打橋は、打は借字にてうつしの約りたるなり、こゝへもかしこへも遷しもて行きて、時に臨てかりそめに渡す橋なりといへり、按に書紀神代紀下に、於2天(ノ)安(ノ)河1亦造2打橋1、本集卷四【十九左】に、打橋渡須奈我來跡念者《ウチハシワタスナガクトオモヘバ》、卷七【十七左】に、勢能山爾直向妹之山《セノヤマニタダニムカヘルウモノヤマ》、事聽屋毛打橋渡《コトユルセヤモウチハシワタス》、卷十【三十右】に、機※[足+搨の旁]木持往而天河《ハタモノヽフミキモチユキテアマノガハ》、打橋度公之來爲《ウチハシワタスキミガコムタメ》、源氏物語桐壺に、まうのぼり給ふにも、あまりうちしきるをり/\は、うちはし、わた殿、こゝかしこの道に、あやしきわざをしつゝ云々などあり、渡を舊訓には、ワタシ〔右○〕とあれど、此はワタス〔右○〕と訓べし、○生靡留《オヒナビケル》は、石をならべ置わたせる、その間などに生るをいへり、オヒナビケル〔六字右○〕と訓べし、舊訓にオヒナビカセル〔七字右○〕とあるはわろし、○玉藻毛叙《タマモモゾ》、毛叙《モゾ》は、モ〔右○〕とゾ〔右○〕と重なりたるにて、本集此卷【四十右】に、好(ケ)雲叙無《クモゾナキ》云々、卷十一【十八右】に、立念居毛曾念《タチテオモヒヰテモゾオモフ》云々、卷十三【二十三左】に、汝乎曾母吾丹依云《ナレヲゾモワレニヨストフ》、吾※[口+立刀]毛曾汝丹依云《ワレヲモゾナレニヨストフ》云(5)々などある、皆同じ格なり、詞の玉緒卷七【古風都】に、これらのもぞ〔二字傍線〕は、古今集よりこなたの、もぞ〔二字傍線〕の意とは異にしてたゞも〔右○〕とぞ〔右○〕と、おのづから重なりたるのみ也といへり、○生乎爲禮流《オヒヲヲレル》、この乎爲《ヲヲ》は、卷十【五十九左】に、枝母等乎々《エダモトヲヲ》などある乎々にてその等乎乎《トヲヲ》は、多和和《タワワ》と同語にて、【乎と和と、同行にて通ず、】等《ト》を省きて、乎々を活かして、乎々里《ヲヲリ》といへる也、上の等乎々《トヲヲ》の注に、或云|枝毛多和多和《エダモタワタワ》とあり、是|等乎《トヲ》と多和《タワ》と、同語なるを見べし、但本集には、多和和《タワワ》といふことは此のみなれど、後のものには多くあり、古今集【秋上】に、とりて見ば.おちぞしぬべき秋萩の、枝もたわゝにおける白露、など猶多し、雪露などにたわむをいふ、古事記上に、打竹之登遠々登遠々《サキタケノトヲヲトヲヲ》とありて、傳十四【七十右】に、登遠々《トヲヲ》は多和々《タワワ》と同じくて、物の撓む貌《サマ》を云とあり、【打は折の誤也】さて乎爲禮流《ヲヲレル》は、生繁るさまといへる也、考に、爲は烏の誤なりとて、改たるはわろし、卷三【三十二左】卷八【十四左】卷九【二十左】同【二十一左】等にも、乎爲里、乎爲流〔六字右○〕とかけり、かく多くあるを、皆誤なりとはいふべきにあらず、古本どもにも、皆かくの如くあるをや、但舊訓には共に、ヲセ〔右○〕リヲセ〔右○〕ルとよめり、此は誤訓なれど、これにて古へより、爲〔右○〕とかき來りし證とはなる也、さて考にいへるが如く、乎遠里《ヲヲリ》乎呼里《ヲヲリ》など、たしかにかける所あるによりて、此をもヲヲリ〔三字右○〕と訓べき事はしるし、猶別記にいふべし、爲〔右○〕にヲ〔右○〕の音ある事は、余が萬葉集(6)字音辨證に精しくいひおけり、○干者波由流《カルレバハユル》は、枯るれば生《ハユ》るなり、卷十四【二十四左】に、楊奈疑許曾伎禮婆伴要須禮《ヤナギコソキレバハエスレ》云々、書紀顯宗天皇(ノ)紀に、※[草冠/夷]媛《ハエヒメ》、原注に、※[草冠/夷]、此云2波曳《ハエ》1とあり、※[草冠/夷]は、文選郭璞の詩に、陵v岡※[手偏+綴の旁]2丹※[草冠/夷]1とある善注に、凡草之初生、通名曰v※[草冠/夷]とあり、是生をハエ〔二字右○〕といふ證也、又本集卷六【十七左】に、家之小篠生《イヘシシヌバユ》とあり、生をハユ〔二字右○〕の借字としたるにて生をハユルともいふべき事を知るべし、和名抄木具に、蘖を比古波衣とあるも是也、かくてこゝにかくいへるは、藻などは絶れば生ひ、枯れば生ひなどすれど、薨じ給ひし君には、二度逢ふよしのなきを歎くなり、○何然毛《ナニシカモ》、こは下の忘賜哉《ワスレタマフヤ》といふへかけて、上の藻などの如く、生かはることもなくて、何しかも云々との給ふなり、し〔右○〕は助辭也、○立者《タタセレバ》、舊訓、タチタレバ〔五字右○〕とあるは非也、考に、タタスレバ〔五字右○〕とよまれしもわろし、タタセレバ〔五字右○〕と訓べし、書紀雄略天皇四年の條の御歌に、※[手偏+施の旁]磨磨枳能阿娯羅※[人偏+尓]陀※[陀の旁宅]伺《タママキノアグラニタタシ》とあるを、原注に、一本以2※[こざと+施の旁]※[こざと+施の旁]伺《タタシ》1易2伊麻伺《イマシ》1とあり、又古事記には、此句|阿具良爾伊麻志《アグラニイマシ》とあり、これにて立者《タタセレバ》は、居座者《ヰマセバ》の意なるを知べし、古訓古事記上卷【三十八】に、和何多多勢禮婆《ワガタタセレバ》とあり、傳十一【十一右】に、多弖禮《タテレ》を延べて、多多勢禮《タタセレ》といふは立《タツ》を多多須《タタス》と云格ぞとあり、かくて此の立者《タタセレバ》は、居給ふをいふ也、○許呂臥者《コロブセバ》、此卷【四十二右】に、荒床自伏君之《アラドコニコロブスキミガ》とありて、臥す形《サマ》をいふ詞也、俗に自ら倒るゝを、コロ(7)ブ〔三字右○〕といふも是也、○靡相之《ナビカヒシ》は、御夫婦のなからひ御むつまじく、日夜ともに、藻などの水になびくが如く、はなれたまはず、なびき居給ひしとなり、○宜君之《ヨロシキキミガ》、書紀繼體紀に、勾大兄《マガリノオホエノ》皇子の御歌に、與廬志謎鳴阿※[口+利]等枳々底《ヨロシメヲアリトキキテ》云々、本集卷三【二十一左】に、宜奈倍吾背乃君之《ヨロシナヘワガセノキミガ》云々ともありて、よろしは、物の足りそなはれるをいへる言也、○朝宮乎《アサミヤヲ》、朝宮は、夕宮にむかへたるにて、朝夕常にまします宮をいふ、○忘賜哉背賜哉《ワスレタマフヤソムキタマフヤ》、そむくは背向《ソムク》也、こゝの意は、朝夕常におはしましゝ、大宮を忘れ給ふや、又はそむき給ふや、この大宮をばすてゝ、木※[瓦+缶]《キノベ》の宮を常《トコ》宮とさだめ給ひしはとなり、○宇都曾臣跡念之時《ウツソミトオモヒシトキニ》、ソ〔右○〕とシ〔右○〕と音通ひて、現身《ウツシミ》なり、現《ウツヽ》におはしましゝ折は、春は花を折かざし、秋は紅葉をかざしなどし給ひしと、こし方を思ひやる也、時を舊訓に、トキノ〔右○〕とあるはわろし、○春部者花折挿頭《ハルベハハナヲリカザシ》云々、春になれば花を折てかざし、秋立ば黄葉を折てかざしなどしたまひし、皇女の御遊の形容《サマ》をいへる也、○袖※[手偏+雋]《ソデタヅサハリ》、本集此卷【三十九左】に、宇都曾臣等念之時《ウツソミトオモヒシトキニ》、※[手偏+雋]手吾二見之《タヅサハリワガフタリミシ》云々、卷四【五十左】に、吾妹兒與携行而《ワギモコトタヅサヒユキテ》云々、卷十七【三十七右】に、於毛布度知宇麻宇知牟禮底《オモフドチウマウチムレテ》、多豆佐波理伊泥多知美禮婆《タヅサハリイデタチミレバ》云々、※[手偏+雋]は玉篇に、弦鷄切、提※[手偏+雋]也、又連也、携俗(ノ)※[手偏+雋]字、廣雅釋詁四に、※[手偏+雋]提也など見えたり、○鏡成《カガミナス》は枕詞也、鏡の如く見るとつゞけし也、○雖見不※[厭のがんだれなし]《ミレドモアカズ》、※[厭のがんだれなし]は玉篇に、足也飽也と見えたり、〇三(8)五月之《モチヅキノ》は枕詞にて、冠辭考にくはし、望月は滿月にて、めづらしきものなれば、めづらしとつゞけし也、さて三五をもちとよめるは、九九の數、三五十五なれば、陰暦の十五日の月の義に用ゐたる也、こは集中、八十一をくく〔二字右○〕とよみ、重二、並二などを、四の意にてし〔右○〕とよみ、十六をしし〔二字右○〕とよみ、二五をとを〔二字右○〕とよめる類也、和名抄に、釋名云、望【此間云、望月、毛知豆岐、】月(ノ)大(ハ)十六日、小(ハ)十五日、日在v東月在v西、遙相望也とあり、○益目頬染《イヤメヅラシミ》、益はイヤ〔二字右○〕と訓べし、上にいへり、舊訓にマシ〔二字右○〕とあるはわろし、目頬染《メヅラシミ》は借字也、頬は新撰字鏡に、頬【居牒反、豆良、】和名抄に、野王按云、頬【音挾、豆良、一云保々、】面旁目下也とあり、染はシミ、シメ、シムとはたらきて、本集卷三【二十四右】に、相見染跡衣《アヒミシメトゾ》、卷四【三十八右】に、和備染責跡《ワビシミセムト》云々など訓(メ)り、めづらしは、書紀神功紀(ノ)訓注に、希見此云2梅豆邏志《メヅラシ》1とある意にて、望月は、月に一度ならではなく、希に見る物にて、いとゞめづらしく思ふを、この皇子のさまを、いつもめづらしくあかず、見奉り給ひしにたとへしなり、本集卷八【四十七右】に、目頬布《メヅラシキ》云々などあり、猶いと多し、〇君與時時幸而《キミトトキドキイデマシテ》、幸而を舊訓に、ミユキシテ〔五字右○〕とあるはわろし、イデマシテ〔五字右○〕と訓べし、考に、こゝに君とさす人有からは、彼の忍坂部《ヲサカベノ》皇子の事をしれ、と云るが如し、時々を考には、ヲリヲリ〔四字右○〕と訓れしかど、卷二十【十六右】に、等伎騰吉乃波奈波佐家登母《トキドキノハナハサケドモ》とありて、時々をヲリヲリといへる事、古くは見えざれば、(9)舊訓にトキドキとあるによるべし、○御食向《ミケムカフ》は枕詞にて、こゝは御食《ミケ》の料に、備へ設る酒《キ》とづゞけし也、酒を古語にキ〔右○〕といふ、○常宮跡定賜《トコミヤトサダメタマヒテ》、本集此卷【三十五左】に、朝毛吉木上宮乎《アサモヨシキノベノミヤヲ》、常宮高之奉而《ツネミヤトタカクシタテテ》ともありて、萬代に御魂の鎭り座(ス)、常宮と定め給ふをいふ、常《トコ》は、とこしへにかはる事な含よし也、○味澤相《アヂサハフ》は枕詞にて、冠辭考にくはし、味《アヂ》は、あち鴨の事にて、この鳥|群《ムレ》ゆくものなれば、そのむれの約言メ〔右○〕へかけて、昧多經群《アヂサハフムレ》といひたる也、○目辭毛絶奴《メゴトモタヘヌ》、本集卷四【四十四左】に、海山毛隔莫國奈何鴨《ウミヤマモヘダタラナクニナニシカモ》、目言乎谷裳幾許乏寸《メゴトヲダニモココダトモシキ》、卷十一【二十七右】に、東細布從空延越遠見社《ヨコグモノソラユヒキコシトホミコソ》、目言疎良米絶跡間也《メゴトウトカラメタユトヘダツヤ》などありて、目に見口に言事を、めごとゝいふ、皇女薨じ給ひしかば、目言もたえぬとなり、〇然有鴨《シカレカモ》は、しかあればかものバ〔右○〕を略ける也、舊訓にシカアル〔四字右○〕とあるはわろし、卷十七【四十七右】七、之比爾底安禮可母《シヒニテアレカモ》云々とあるに同じ、但しこゝは、しかあれかもとありては、下へのつゞきもあしく、意も聞えがたし、一云|所已乎之毛《ソコヲシモ》とあるかたに從ふべし、○綾爾憐《アヤニカナシモ》、綾は借字にて、あやは歎辭也、憐、舊訓にカシコミ〔四字右○〕とあるは非也、カナシモ〔四字右○〕といふべし、義訓也、○宿兄烏之《ヌエドリノ》は枕詞也、鳥はすべて雌を慕ふものなるから、片戀の枕詞としたる也、卷三【三十六右】に、容鳥能《カホドリノ》云々片戀耳爾《カタコヒノミニ》、卷八【二十四右】に、霍公鳥片戀爲乍《ホトトギスカタコヒシツツ》とあるを見べし、冠辭考の説はわろし、○片戀嬬《カタコヒヅマ》、皇女は薨たまひしかば、皇子のみ(10)片戀し給ふ也、但此は、片戀嬬とありては、次へのつゞきよろしからず、一云|片戀爲乍《カタコヒシツツ》とあるかたよろし、〇朝鳥《アサドリノ》は枕詞也、朝には鳥のねぐらをいでゝ、里に徃かよふものなれば、かくつゞくる也、一云朝露とあるは非也、露(ノ)字、古本には皆、霧とあれど、それもわろし、〇往以爲君之《カヨハスキミガ》、この君は、皇子をさし奉りて、皇女のおはしましゝ折、皇子の通ひ給ひしをいふ、舊訓にカヨヒシ〔四字右○〕とあるはわろし、○夏草乃念之萎而《ナツクサノオモヒシナエテ》は、夏草の日に萎るゝが如く、思ひにしをれて、萎《ナエ》くづをれたるをいふ、上文既に云り、○夕星之《ユフヅツノ》は枕詞也、和名抄天部に、兼名苑云、大白星、一云長庚、暮見2於西方1爲2長庚1【此間云、由不都都、】と見えたり、此星を一夜めぐりともいふ、其は晨に東方に出て、暮に西方に見ゆるが故也、又此星日毎に遊行して、所在を異にするを以て、皇子の皇女をしたひ給ひて此處彼處に行きさ迷ひ給ふにたとへて、かくつゞけし也、○彼往此去《カユキカユキ》、本集卷十七【三十六右】に、可由吉加久遊岐《カユキカクユキ》と見えたり、彼にゆき此にゆきにて、彼依此依《カヨリカクヨリ》などいふ類也、○大船猶預不定見者《オホブネノタユタフミレバ》、上文に大船之泊流登麻里能絶多日二《オホブネノハツルトマリノタユタヒニ》、とある所にいへるが如く、船は.海上に浮きて、ただよひたゆたふものなれば、大船の如くたゆたふとはつゞけし也、こゝは皇女にわかれ給ひて、皇子のこゝかしこにゆきさまよひ、たゆたひ給ふをいへる也、猶預不定の字は、義を以てかける也、猶蕷の字は、(11)史記高帝記云、諸呂老人、猶預未v有v所v决、注云、猶豫二獣名、皆多v疑、故借以爲v喩とありて、先輩多くは此説に依る、されど猶豫は、雙聲字にて、或は猶預と作《カキ》、或は猶與とかけり、音に因て義を知る者也、史記の注、字義を以て解する者誤也、精しくは清の王念孫の、廣雅疏證に見えたり、玉篇云、豫或作v預とありて、豫預同字也、○遣悶流《オモヒヤル》は、心の欝悶を晴し遣るにて、こゝは皇子の悲しみ給ふ、其さまを見るにつけても、われさへ思ひを遣るべき心なく、悲しとなり、○其故爲便知之也《ソコユヱニスベシラマシヤ》、マシ〔二字右○〕はン〔右○〕の意、ヤ〔右○〕はうらへ意のかへるヤ〔右○〕にて、すべしらんや、すべをしらずとなり、玉(ノ)小琴に、この一句は誤字あるべし、せんすべしらにとか、せんすべをなみとか、あるべき所なりといへり、此はさる事ながら、しばらく考の訓に從ひつ、舊訓にスベモシラジヤ〔七字右○〕とあるは非也、其故《ソコユヱ》も舊訓に、ソノユヱ〔四字右○〕とあるはわろし、○音耳母名耳毛不絶《オトノミモナノミモタエズ》、本集卷十七【四十右】に、於登能未毛名能未毛伎吉底《オトノミモナノミモキキテ》云々とあり、今はかくせんすべもなければ、せめての事に、皇女の名のみなりとも、絶ず傳へむとなり、○天地之彌遠長久《アメツチノイヤトホナガク》は、天地の如く、いや遠く長く、年久しく皇女の御事を、思ひ奉りゆかむとなり、本集卷三【四十六左】に、延葛之彌遠永萬世《ハフクズノイヤトホナガクヨロヅヨニ》云々、同【五十九右】に、天地與彌遠長爾萬代爾《アメツチトイヤトホナガニヨロヅヨニ》なども見えたり、○思將往《シヌビユカム》、舊訓にオモヒユカム〔六字右○〕とあるはわろし、思〔右○〕をシヌブ〔三字右○〕と訓るは義訓也、本集卷三(12)【五十六右】に、見乍思跡《ミツツシヌベト》なども見えたり、猶多し、〇御名爾懸世流《ミナニカヽセル》、舊訓にミナニカケセル〔七字右○〕とあるはわろし、カカセル〔四字右○〕と訓べし、カカセル〔四字右○〕はカケル〔三字右○〕の敬語にて、皇女の御名も、明日香《アスカ》の川の名も、明日香《アスカ》なれば、御名にかゝらせる、あすか川とはいへるなり、卷三【二十一左】に、妹名乎此勢能山爾懸者奈何將有《イモガナヲコノセノヤマニカケバイカニアラム》、卷十六【六左】櫻兒をよめる歌に、妹之名爾繋有櫻花開者《イモガナニカケタルサクラハナサカバ》云々ともあり、○及萬代《ヨロヅヨマデニ》、こは下の形見何此焉《カタミニココヲ》といふへかゝりて、この皇女の御名にかゝれる川の名なれば、この川を萬代までも、吾王の御形見とは見むと也、○早布屋師《ハシキヤシ》、こは古事記中卷の御歌に、波斯祁夜斯和岐幣能迦多用《ハシケヤシワギヘノカタヨ》云々、これを書紀には、波辭枳豫辭《ハシキヨシ》とあり、本集卷四【三十八右】に、波之家也思不遠里乎《ハシケヤシマヂカキサトヲ》云々、卷六【二十八右】に、愛也思不遠里之《ハシキヤシマヂカキサトノ》云々、卷十二【三十四左】波之寸八師志賀在戀爾毛有之鴨《ハシキヤシシカアルコヒニモアリシカモ》云々などあり、考の別記に、、早布《ハシキ》は訓を借たるにて細《クハシ》きてふ言の略き也、屋《ヤ》は與《ヨ》に通ひて、細《クハシ》きよ〔右○〕也、師は助辭のみ、そのくはしとほむる事を轉じて、かゝる事にいふ時は、したしまれなつかしまるゝことゝなりぬ、仍て此言に、愛(ノ)字を書たりとあるを、古事記傳二十八【五十二右】には、波斯《ハシ》を細《クハ》してふ言の略なりとあるはいかヾ、其は返て波斯《ハシ》を本にて、久波斯《クハシ》は、奇愛《クハシ》なりとこそ思はるれ、續紀の宣命に、久須波斯伎《クスハシキ》とも見えたり、といへり、○形見何此焉《カタミニコヽヲ》、形見は遊仙窟に、記念、又信(ノ)字を、カタミ〔三字右○〕と訓み、本(13)集卷十六【十二左】の傳文に、寄物【俗云可多美】とあり、玉(ノ)小琴に、此焉《ココヲ》といふを、考には、こゝをばの意とあれど、をばにては、上の詞にかなはず、此を〔右○〕は輕くして、よ〔右○〕といはむが如し、集中さる例多しといひ、略解に、宜長云、形見何の何は、荷の誤也、かたみにこゝをといはれつるはいかゞ、此を〔右○〕の字は、上へうちかへしてきく意にて、こゝをわが大王のかたみかと、詞をかへして心得べし、こゝを形見にしのびゆかむと、上へ返る意也、といへりとあり、此は後に改たる説とみゆ、正辭按に、何は荷の誤也といへるは非也、何荷二字は、漢土にても古へ通用の文字にて、もとのまゝにてニ〔右○〕の假字也、精しくは萬葉集文字辨證に辨へおきたり、
一篇の大意は、皇女の御名におへる明日香河の、上(ツ)瀬に石橋【石を並べ置たる橋】渡し、下(ツ)瀬にうち橋【移し橋也】わたせる、其石間に生る玉藻はも、絶ゆれば又生る、川藻はも枯るればはゆる、【以上序歌】さて皇女(ノ)命の立せれば、かの玉藻の如くしなひ靡きおはして、御中うるはしくおはし給ひしに、此比は何故にか、夫(ノ)君の朝宮づかへをば忘れ給ふや、夕宮づかへを背き給ふや、かの世に御座せし時は、春秋の花紅葉を互にうちかざし、袖たづさはりて、あかずめづらしと、姫君とをり/\遊び賜ひしに、今は木※[瓦+缶]《キノベ》の宮を常宮と定め給へれば、逢見ます事も絶えて、皇子の君は悲しみ歎き、殯宮にゆき(14)てかなたこなたたゆたひ給ひ、したひつゝ、なぐさむる心もなくて、せんすべなければ、明日香といふ御名ばかりも、此にとゞめて、姫みこの御形見と、彌遠長くしたひゆかむとなり、
 
短歌二首
 
明日香川四我良美渡之塞益者《アスカガハシガラミワタシセカマセバ》、進留水母能杼爾賀有萬思《ナガルルミヅモノドニカアラマシ》【一云水乃與杼爾加有益】
 
短歌を考には、反歌と改めたり、誤字と思ひしなるべし、下文六所なる短歌をも、皆反歌と改めたるは、いみじきひが言也、此事は卷一の別記に精細く辨じおきたり、四我良美渡之《シガラミワタシ》、四我良美《シガラミ》は、木をもて造りて、水をせく料とするをいふ、本集卷六【四十二左】に、芽之枝乎石辛見散之《ハギガエヲシガラミチラシ》、狹男鹿者妻呼令動《サヲシカハツマヨビドヨメ》云々、卷七【三十八右】に、明日香川湍瀬爾玉藻者雖生有《アスカガハセゼニタマモハオヒタレド》、四賀良美有者靡不相《シガラミアレバナビキアハナクニ》など、集中猶多し、○塞益者《セカマセバ》、集中、塞の字を多くセク〔二字右○〕とよめり、狹《セ》といふを活かしたるなり、マセバはマシセバの約言也、本集卷三【五十六左】に、出行道知末世波豫《イデテユクミチシラマセバカネテヨリ》、妹乎將留塞毛置末思乎《イモヲトドメムセキモオカマシヲ》、○進留水母《ナガルルミヅモ》、進をナガル〔三字右○〕とよめる(15)は義訓也、○能杼爾賀有萬思《ノドニカアラマシ》、常にノドカ〔三字右○〕といふは、此|能杼《ノド》を活かしたる也、卷十三【三十一左】に、吹風母和者不吹《フクカゼモノドニハフカズ》、同【三十三右】に、立浪裳崑跡丹者不起《タツナミモノドニハタタズ》、又續日本紀、天平勝寶元年四月(ノ)詔には、海行《ウミユカ》【波】美豆《ミヅ》【久】屍《カバネ》、山行《ヤマユカ》【波】草牟《クサム》【須】屍《カバネ》、王《オホキミ》【乃】幣《ヘ》【爾去曾】死《シナ》【米】、能杼《ノド》【爾波】不死《シナジ》【止】云々などある是也、○一云|水乃與杼爾加有益《ミヅノヨドニカアラマシ》、卷三【二十九左】に、明日香河川余藤不去《アスカガハカハヨドサラズ》、卷四【五十七左】に、苗代水乃中與杼爾四手《ナハシロミヅノナカヨドニシテ》など猶多し、これ等皆よどむ意にて、淀をよどゝいふも、水のよどめるよりいへる名也、
一首の意は、皇女の御名に懸たまへる明日香川も、しがらみなどしてせかば、流るる水ものどかに行く物を、皇女の御わかれをとゞめ奉るに、よしなかりしは、すべなき事よと也、
古今集哀傷に、壬生(ノ)忠峰、瀬をせけば淵となりてもよどみけり、わかれをとむるしがらみぞなき、とよめるは此に似たり、
 
明日香川明日谷《アスカガハアスダニ》【一云左倍】將見等念八方《ミムトオモヘヤモ》【一云念香毛】吾王御名忘世奴《ワゴオホキミノミナワスレセヌ》【一云御名不所忘】
 
明日谷《アスダニ》、代匠記(ニ)云、明日谷《アスダニ》みむとは、アス〔二字右○〕は明日に限りて云にはあらず、今より後の(16)意也、〇念八方《オモヘヤモ》、代匠記(ニ)云、念《オモ》へやもは思はむやなり、方《モ》は助辭、一云|念香毛《オモヘカモ》とあるも同じ、〇御名忌世奴《ミナワスレセヌ》、上に明日香川とおけるは、詞をかさねて、明日谷《アスダニ》といはむ料にて、皇女の御名をも兼たり、〇一云御名不所忘《ミナワスラエヌ》、本文に意同じ、
一首の意は、代匠記に、水の流るゝ如く、過ゆかせ鈴へる皇女をば、明日香川の明日だに、又も見奉らむと思はむや、思はぬものを、なか/\川の名の通ひて、御上の忘られまゐらせぬ由なり、といへるが如し、
 
高市(ノ)皇子(ノ)尊、城上《キノヘノ》殯宮之時、柿本(ノ)朝臣人麿(ノ)作歌一首 并短歌
 
挂文忌之伎鴨《カケマクモユユシキカモ》【一云由遊志計禮杼母】言久母綾爾畏伎《イハマクモアヤニカシコキ》、明日香乃眞神之原爾《アスカノマガミノハラニ》、久堅能天津御門乎《ヒサカタノアマツミカドヲ》、懼母定賜而《カシコクモサダメタマヒテ》、神佐扶跡磐隱座《カムサブトイハガクリマス》、八隅知之吾大王乃《ヤスミシシワゴオホキミノ》、所聞見爲背友乃國之《キコシミスソトモノクニノ》、眞木立不破山越而《マキタツフハヤマコエテ》、狛劔和射見我原乃《コマツルギワザミガハラノ》、行宮爾安母理座而《カリミヤニアモリイマシテ》、天(17)下治賜《アメノシタヲサメタマヒ》、【一云拂賜而】食國乎定賜等《ヲスクニヲシヅメタマフト》、鳥之鳴吾妻乃國之《トリガナクアヅマノクニノ》、御軍士乎喚賜而《ミイクサヲメシタマヒツツ》、千磐破人乎和爲跡《チハヤブルヒトヲヤハセト》、不奉仕國乎治跡《マツロハヌクニヲヲサメト》【一云拂部等】皇子隨任賜者《ミコナガラマケタマヘバ》、大御身爾大刀取帶之《オホミミニタチトリハカシ》、大御手爾弓取持之《オホミテニユミトリモタシ》、御軍士乎安騰毛比賜《ミイクサヲアトモヒタマヒ》、齊流鼓之音者《トトノフルツヅミノオトハ》、雷之聲登聞麻低《イカヅチノコヱトキクマデ》、吹響流小角乃音母《フキナセルクダノコヱモ》【一云笛乃音波】敵見有虎可※[口+立刀]吼登《アタミタルトラガホユルト》、諸人之恊流麻低爾《モロビトノオビユルマデニ》、【一云聞惑麻低】指擧有幡之靡者《ササゲタルハタノナビキハ》、冬木成春去來者《フユゴモリハルサリクレバ》、野毎著而有火之《ヌゴトニツキテアルヒノ》【一云冬木成春野燒火乃】風之共靡如久《カゼノムタナビクガゴトク》、取持流弓波受乃驟《トリモタルユハズノサワギ》、三雪落冬乃林爾《ミユキフルフユノハヤシニ》【一云布由乃林】飄可毛伊卷渡等《ツムジカモイマキワタルト》、念麻低聞之恐久《オモフマデキキノカシコク》【一云諸人見惑麻低爾】引放箭繁計久《ヒキハナツヤノシゲケク》、大雪乃亂而來禮《オホユキノミダレテキタレ》【一云霰成曾知余里久禮婆】不奉仕立向之毛《マツロハズタチムカヒシモ》、露霜之消者消倍久《ツユジモノケナバケヌベク》、去鳥乃相競(18)端爾《ユクトリノアラソフハシニ》【一云朝霜之消者消言爾打蝉等安良蘇布波之爾】渡會乃齋宮從《ワタラヒノイツキノミヤユ》、神風爾伊吹惑之《カムカゼニイブキマドハシ》、天雲乎日之目毛不令見《アマグモヲヒノメモミセズ》、常闇爾覆賜而《トコヤミニオホヒタマヒテ》、定之水穗之國乎《シヅメテシミヅホノクニヲ》、神隨大敷座而《カムナガラグトシキマシテ》、八隅知之吾大王之《ヤスミシシワゴオホキミノ》、天下申賜者《アメノシタマヲシタマヘバ》、萬代然之毛將有登《ヨロヅヨニシカシモアラムト》【一云如是毛安良無等】木綿花乃榮時爾《ユフバナノサカユルトキニ》、吾大王皇子之御門乎《ワゴオホキミミコノミカドヲ》【一云刺竹皇子御門乎】神宮爾装束奉而《カムミヤニヨソヒマツリテ》、遣使御門之人毛《ツカハシシミカドノヒトモ》、白妙乃麻衣著《シロタヘノアサゴロモキテ》、埴安乃御門之原爾《ハニヤスノミカドノハラニ》、赤根刺日之盡《アカネサスヒノコトゴト》、鹿自物伊波比伏管《シシジモノイハヒフシツツ》、鳥玉能暮爾至者《ヌバタマノユフベニイタレバ》、大殿乎振放見乍《オホトノヲフリサケミツツ》、鶉成伊波比廻《ウヅラナスイハヒモトホリ》、雖侍候佐母良比不得天《サモラヘドサモラヒカネテ》、春鳥之佐麻欲此奴禮者《ハルトリノサマヨヒヌレバ》、嘆毛來過爾《ナゲキモイマダスギヌニ》、憶毛未盡者《オモヒモイマダツキネバ》、言左敝久百済之原從《コトサヘグクダラノハラユ》、神葬葬伊座而《カムハフリハフリイマシテ》、朝毛吉木上宮乎《アサモヨシキノベノミヤヲ》、常宮等高之奉而《トコミヤトタカクシタテテ》、神隨安(19)定座奴《カムナガラシヅマリマシヌ》、雖然吾大王之《シカレドモワゴオホキミノ》、萬代跡所念食而《ヨロヅヨトオモホシメシテ》、作良志之香來山之宮《ツクラシシカグヤマノミヤ》、萬代爾過牟登念哉《ヨロヅヨニスギムトオモヘヤ》、天之如振放見乍《アメノゴトフリサケミツツ》、玉手次懸而將偲恐有騰文《タマダスキカケテシヌバムカシコカレドモ》、
 
城上《キノベノ》殯宮は、前に木※[瓦+缶](ノ)殯宮とあると同所なりと、考にいはれつるが如し、延喜諸陵式に、三立岡墓、高市(ノ)皇子、在2大和(ノ)國廣瀬(ノ)郡1、云々とありて、和名抄郷名に、大和(ノ)國廣瀬(ノ)郡|城戸《キノヘ》云々ともあれば、此の陵は、廣瀬(ノ)郡なる事明らかなるを、大和志には、この陵をば廣瀬(ノ)郡とし、木(ノ)憶※[瓦+缶]ば高市(ノ)郡として、別所とせり、○短歌、この二字、諸古本には小書せり、今是に從ふ、
この歌は、高市(ノ)皇子(ノ)尊の薨給へるを、悲み奉りてよめるにて、この皇子は上にいへるが如く、持統天皇三年四月、日並知《ヒナメシノ》皇子の薨給ひし後、皇太子に立給ひて、同十年七月薨給ひしを、惜み悲み奉るとて、當時たゞの皇子におはしましゝ程、御父天武天皇と大友(ノ)皇子【弘文】と御軍の折、專ら軍事をとり給ひて御功ありし由、其後太政大臣となり給ひて、政を申給ひし事などをあげて、悲み奉れる也、(20)挂文《カケマクモ》は、心にかけて思奉らむもゆゝしといへるにて、マク〔二字右○〕はム〔右○〕の緩言なれば、カケム〔三字右○〕といふが如し、本集卷三【五十七左】に、掛卷母綾爾恐之《カケマクモアヤニカシコシ》、言卷毛齋忌志伎可物《イハマクモユユシキカモ》云々、卷六【三十六左】に、繋卷裳湯湯石恐石《カケマクモユユシカシコシ》云々などあり、○忌之伎鴨《ユユシキカモ》、ゆゝしは忌《ユユ》しにて、物を忌《イミ》ていへる也、こゝはいやしき心にかけて思ひ奉らむも、憚多しといへるにて、恐み忌憚る意也、古事記下卷の御歌に、由由斯伎加母加志波良袁登賣《ユユシキカモカシハラヲトメ》云々、本集卷十【五十四左】に、言出而云忌染《コトニデテイハバユユシミ》云々、卷十二【七右】に、忌忌久毛吾者歎鶴鴨《ユユシクモワレハナゲキツルカモ》などあり、鴨《カモ》は歎息の意こもりて、後世カナ〔二字右○〕といふ意也、一云|由遊志計禮杼母《ユユシケレドモ》はわろし、○言久毛《イハマクモ》、これもマク〔二字右○〕はム〔右○〕の緩言也、〇綾爾畏伎《アヤニカシコキ》、綾は借字にて歎辭也、畏伎《カシコキ》は、もとはかしこみ恐るゝ意なれども、そを轉じて、ありがたき意、かたじけなき意とせる事もあり、○眞神之原爾《マガミノハラニ》、考に、是より下七句は、天武天皇の御陵の事を先いへり、さてこゝには明日香の眞神(ノ)原とよみたるを、紀には大内てふ所と見え、式には檜隈大内(ノ)陵とあるは、もと明日香檜隈はつゞきてあり、大内はその眞神(ノ)原の小名と聞ゆ、然ればともに同じ邊にて、違ふにはあらず云々とあり、さて此地名は、書紀崇峻紀に元年始作2法興寺1、此地名2飛鳥(ノ)眞神(ノ)原1、亦名2飛鳥(ノ)苫田1云々、〇天津御門乎懼母定賜而《アマツミカドヲカシコクモサダメタマヒテ》、すべて天皇皇太子などの崩たまふを、神上りとも、天しらすとも申て、天を所知《シラス》ごとく申來れるに(21)よりて、こゝも天武帝の御陵を、眞神(ノ)原に定め奉るを、天つ宮殿《ミアラカ》を定めたまふとは申せる也、○神佐扶跡《カムサブト》、こは神さびし給ふことゝいへるにて、天皇の御心のすさびし給ふ事也、舊訓に神をカミ〔二字右○〕とよめるはわろし、この事卷一に.安見知之吾大王神長柄神佐備世須登《ヤスミシシワゴオホキミノカムナガラカムサビセスト》云々とある所に既にいへり、○磐隱座《イハガクリマス》、陵墓は土を堀て築て作れるものなれば、磐隱座とはいへり、舊訓に隱をカクレ〔三字右○〕とあるはわろし、本集卷九【三十三右】に、磐搆作冢矣《イハガマヘツクレルツカヲ》ともあり、隱は古くは四段活用なれば、カクリ〔三字右○〕といふべき也、古事記下卷の御歌に、美夜麻賀久理弖《ミヤマガクリテ》云々、書紀推古紀の歌に、夜須彌志斯和餓於朋耆彌能《ヤスミシシワガオホキミノ》、※[言+可]句理摩須阿摩能椰蘇※[言+可]礙《カクリマスアマノヤソカゲ》云々などある是也、○所聞見爲《キコシメス》、こはきこしめすといへると同じくて、此詞は、きこしめすとも、きこしをすとも、きこしみすともいひて、皆その國を所知食給ふよしなり、舊訓にキカシミシ〔五字右○〕とあるはわろし、この事は卷一に。所聞食天下爾《キコシヲスアメノシタニ》云々とある所に精しくいへり、さてきこし見〔左○〕爲《ミス》とあるは、常にきこしめ〔右○〕すといへる本語也、さてこれよりは天武天皇の御代の事をたちかへりいひて、かの大友(ノ)皇子との御軍の事をいへり、此に吾大王と申せるは、天武帝をさし參れり、○背友乃國之《ソトモノクニノ》、考に、美濃(ノ)國をいふ、大和よりは北、多くの山の背面《ソトモ》なればなり云々といへるが如し、ソトモ〔三字右○〕の事は卷一にいへり、○眞木立《マキタツ》、舊訓にマ(20)キタテル〔五字右○〕とあるはわろし、立《タツ》とは植《ウハ》りてある由也、眞木は檜をほめていへる也、其由卷一の注にいへり、○不破山越而《フハヤマコエテ》、不破山は美濃(ノ)國不破(ノ)郡の山也、こゝより下|御軍士乎喚賜而《ミイクサヲメシタマヒテ》といふまでは、天武天皇都をさけて東國に入まして、御軍をおこし給ひしほどの事をいへるにて、考に、これは天皇はじめ吉野を出まして伊勢の桑名におはしませしを、高市(ノ)皇子の申給ふによりて桑名より美濃の野上の行宮へ幸の時、この山を越ましゝをいふとあり、○狛劔は枕詞也、高麗《コマ》の劔には、頭に環《ワ》を付たる故、高麗劔《コマツルギ》環《ワ》とわ〔右○〕の一言へつゞけし也、高麗《コマ》を狛《コマ》とかけるは借字也、〇和射見我原《ワザミガハラ》、これも不破(ノ)郡なるべし、書紀天武紀に、高市(ノ)皇子自2和※[斬/足]1參迎云々とあるここ也、こは天皇のわざみが原の行宮へ幸し給ひし也、考に、わざみに高市(ノ)皇子のおはして、近江の敵をおさへ、天皇は野上の行宮におはしませしを、その野上よりわざみへ度々幸して、御軍の政を聞しめしゝ事紀に見ゆ云々とある是也、さて此地は、本集卷十【六十三右】に、和射美能嶺往過而《ワザミノミネユキスギテ》、卷十一【三十五右】に、吾妹子之笠乃借手乃和射見野爾《ワギモコガカサノカリテノワザミノニ》などあり、○安母理座而《アモリマシテ》、舊訓にヤスモリマシテ〔七字右○〕とあるはわろし、本集卷三【十六左】に、天降付天之芳來山《アモリツクアメノカグヤマ》云々、卷十九【三十九右】に、安母里麻之掃平《アモリマシハラヒタヒラゲ》云々、卷二十【五十右】に、多可知保乃多気爾阿毛理之《タカチホノタケニアモリシ》、須賣呂伎能可未能御代欲利《スメロギノカミノミヨヨリ》云々などありて、アモリ〔三字右○〕は(23)天下《アマオリ》の急言也、こは天皇皇子などを神にたとへ奉りて、京よりこの鄙に下り給へるを、天降ませりとは申せる也、こゝは天皇の幸《イデマ》し給ひしを申せり、○天下治賜《アメノシタヲサメタマヒ》、考には、こゝも、下の國乎治跡《クニヲヲサメト》とあるをも、一云の方を取れしは非なり、玉(ノ)小琴に、此二(ツ)の治を、考には一本を取て、上を拂賜而《ハラヒタマヒテ》とし、下を拂部跡《ハラヘト》とせられて、治〔右○〕をばわろきが如くいはれたれども、二つ共に治にてもわろからず、又下なるは、をさめと〔四字右○〕とよみて、をさめよと〔五字右○〕といふ意になる古言の格也、とあるに從ふべ、○一云|掃賜而《ハラヒタマヒテ》、書紀神代紀下に、撥2平《ハラヒムケ》天下1、本集卷十九【三十九右】に、掃平《ハラヒタヒラゲ》ともある如く、まつろはぬ人をはらひ除く意もていへる也、〇食國乎《アオスクニヲ》、食國《ヲスクニ》は天皇のしろしめす天の下をおしなべていふ名也、○定賜等《シヅメタマフト》、この訓を考に、サダメタフト〔七字右○〕と改めしは非也、舊訓に從ふべし、定をシヅメ〔三字右○〕と訓は義訓也、こは天皇の、しろしめす國中の亂を鎭め給はむとて東國の兵士を召給ふをいへる也、増韻に、定(ハ)靜也とあるにても、定は靜の意なるを知べし、又木集卷四【三十六右】に、戀水定《ナミダニシヅミ》とよめるも、定をシヅメ〔三字右○〕とよめる證也、○鳥之鳴《トリガナク》は枕詞なり、冠辭考に、鳥は鷄にて、鷄は夜の明る時に鳴故に、鷄之鳴《トリガナク》明《アカ》とつゞけたるにて、あづまといふも、本は吾妻《アガツマ》のが〔右○〕を略けるなれば、あ〔右○〕の一言にあか〔二字右○〕の意こもれるによりて、しかつゞけし也とあり、〇吾妻乃國之《アヅマノクニノ》、東國をアヅマ〔三字右○〕といふ事(24)は、弟橘比賣《オトタチバナヒメノ》命の故事より出て、廣く足柄山より東(ノ)方(ノ)諸國をいへり、書紀景行天皇(ノ)紀に、號2d山東諸國1曰2吾嬬《アヅマノ》國1也とある是也、○御軍士乎《ミイクサヲ》、古事記上卷に、黄泉軍《ヨモツイクサ》云々、書紀神武紀に、女軍《メイクサ》男軍《ヲイクサ》などありて、本集卷六【二十五左】に、千萬乃軍奈利友《チヨロヅノイクサナリトモ》なども見えて、いくさとはもとは兵士をいふ、こゝも兵士を東國より召よし也、さるを只戰ふ事をもイクサ〔三字右○〕いふは、後に轉じたるもの也、考に、いくさとは箭《ヤ》を射合《イクハス》てふ事なるを、用を體にいひなして、軍人の事とすといへるは、本末を轉倒したる説也、○喚賜而《メシタマヒツツ》、考に、メシタマハシシ〔七字右○〕とよまれたるはわろし、略解に、メシタマヒテ〔六字右○〕と六言の句としたるもいまだし、而を舊訓にツツ〔二字右○〕と訓るは、傳來の訓なるべし、卷十三【九右】に、沼名河之底奈流玉《ヌナガハノソコナルタマ》、求而得之玉可毛《モトメツツエテシタマカモ》、拾而得之玉可毛《ヒロヒツツエテシタマカモ》とある二つの而、ともに舊訓にツツ〔二字右○〕とあり、此外にも而をツツ〔二字右○〕と訓る所ありて、萬葉集訓義辨證の爾(ノ)字の條に精しくいひおきたり、古事記傳十八【十七】に、都々《ツツ》てふ辭は、此事を爲《シ》ながら彼事をも相交へて爲《ス》るを云ときに置り、凡て事の輕くて傍にゐる方を、乍《ツツ》の上にいひ、重くて主となる方を、下に云ぞ定りなるとあり、此意也、考に、此度いせ尾張などは本よりにて、東海東山道の軍土をもめしゝ事紀に見ゆとあり、さてこゝまでは天皇の、天下を治め給はむとて、東國の兵士をめし給ふをいひて、さてその兵士を高市(ノ)皇子(25)に付給ひて、軍事を皇子に任給ふよし也、〇千磐破《チハヤブル》は枕詞也、千磐破《チハヤブル》は、いちはやぶるにて、恐く猛きをいふ、續紀に、天平神護元年正月、藤原(ノ)仲麻呂が亂の詔に、如此久宇治方夜伎時仁《カクノゴトクウヂハヤキトキニ》、身命乎不惜之天《イノチヲヲシマズシテ》云々とあるも、ウヂ〔二字右○〕とイチ〔二字右○〕と通音にて同意也、此は世の中亂れて人心の荒ぶるをいふ、神代紀に、慮v有2殘賊強暴横惡《チハヤブルアラブル》之神1とある文字を以て、其意を知(ル)べし、猶冠辭考に委し、〇人乎和爲跡《ヒトヲヤハセト》、和《ヤハ》すとは、荒びて從ひ奉らぬ人を和《ヤハ》し平《タヒ》らぐるをいふ、舊訓に和爲をナゴシ〔三字右○〕とあるはわろし、古事記書紀等、皆和の字をさよめり、本集卷二十【五十左】に、知波夜夫流神乎許等牟氣《チハヤブルカミヲコトムケ》、麻都呂倍奴比等乎母夜波之《マツロヘヌヒトヲモヤハシ》云々、大殿祭(ノ)祝詞に、言直志和志《コトナホシヤハシ》【古語云2夜波志1】座※[氏/一]《マシテ》云々、倭姫(ノ)命(ノ)世記に、夜波志志都米《ヤハシシヅメ》云々などあり、こゝより國乎治跡《クニヲヲサメト》といふ迄は、高市(ノ)皇子へ天皇の詔給へる大御言の由也、○不奉仕《マツロハヌ》、こは古事紀に不伏、書紀に不服不順などの字を、マツロハヌ〔五字右○〕とよめり、此意にて、天皇に順ひ奉らざる國々をいふ、例は古事記中卷に、令v和2平其|麻都漏波奴《マツロハヌ》人等1云々、本集卷十八【二十一右】に、麻都呂倍乃牟氣乃麻爾麻爾《マツロヘノムケノマニマニ》云々、卷十九【二十七左】に、大王爾麻都布物跡《オホキミニマツロフモノト》云々などある是也、○國乎治跡《ムニヲヲサメト》、給訓にクニヲヲサムト〔七字右○〕とあるはわろし、クニヲヲサメト〔七字右○〕とよむべし、下二段(ノ)詞の使令言の與《ヨ》を略くは、古(ヘ)の一格なり、但此格後のものにも稀にある也、さてこゝは高市(ノ)皇子に天皇(26)の荒ぶる人をば和《ヤハ》せよ、まつろはぬ國をばげ治めよと詔給へるにて、此より下は皇子の御軍にたゝせ給ふさまを申せり、此句考には、舊訓のヲサム〔三字右○〕とあるによりて、其をわろしとして、掃部等《ハラヘト》のかたを採りしは非也、○皇子隨《ミコナガラ》、考に、こは上に神隨《カムナガラ》とあるにひとしく、そのまゝ皇子におはしまして、軍のつかさに任給ふと也とあり、皇子を舊訓に、ワガミコノ〔五字右○〕とあるはわろし、○任賜者《マケタマヘバ》、舊訓に隨任の二字を、ママニ〔三字右○〕とよめるは非也、マケ〔二字右○〕は其人にその事をゆだねて、他に令罷《マカラセ》てつかさどらしむる意にて、此は高市(ノ)皇子に軍事をゆだねまかせ給ひて、戰場に罷《マカ》らしめ給ふ所なれば、まけ〔二字右○〕とよむべき也。古事記傳九【四十八右】に云、まけは京より他國の官に令罷《マカラスル》意にて、即(チ)まからせを約めて、麻氣《マケ》とは云なり、萬葉に此言多し、みな鄙《ヒナ》の官になりてゆく事にのみ云り、心を付て見べし、又史記南越傳に、天子|罷《マク》v參(ヲ)也とあり、此訓にて、まけはまからせなる事をさとるべし、然るを京官の任をも、まけと訓はみだりごと也、今按に、任《マケ》を令罷《マカラセ》の釣りなりといはれしはいかゞ、任は其事をその人にゆだね、委《マカス》意にて、まかせ〔三字右○〕のかせ〔二字右○〕をつゞむればけ〔右○〕となれり、これまけ〔二字右○〕はまかせ〔三字右○〕の意なるをしるべし、かくて書紀天武紀に、皇子攘v臂按v劔奏言、近江(ノ)群臣雖v多、何敢逆2天皇之靈1哉、天皇雖v獨、則臣高市、頼2神祇之靈1、請2天皇之命1、引2率諸將1而征討、豈有v距乎、爰天皇(27)譽v之、携v手撫v背曰、慎不v可v怠、因賜2鞍馬1、悉授2軍事1云々とあるこれ也、○大御身爾《オホミミニ》は、即(チ)高市(ノ)皇子の大御身になり、○大刀取帶之《タチトリハカシ》、舊訓にタチトリオバシ〔七字右○〕とあれど、靭《ユキ》また鞆《トモ》などをばおぶ〔二字右○〕といへど、大刀をば古(ヘ)ははく〔二字右○〕とこそいひたれ、但佩帶などの字をたがひに通はせて、所によりてはおぶ〔二字右○〕ともはく〔二字右○〕ともよめり、そは古事記上卷に、所2御佩《ミハカセル》1之|十拳劔《トツカツルギ》云々、又|所2佩《トリオバセル》1伊都之竹鞆《イヅノタカトモ》云々、本集卷三【五十八左】に、劔刀腰爾取佩《ツルギダチコシニトリハキ》云々、卷十三【三十四左】に、公之佩具之投箭之所思《キミガオバシシナグヤシゾオモフ》など、佩をはく〔二字右○〕ともおぶ〔二字右○〕ともよみ、又帶をおぶ〔二字右○〕とよめるは常のことなれど、帶刀をたちはき〔四字右○〕と、帶をはく〔二字右○〕ともおぶ〔二字右○〕ともよめり、されど書紀景行紀、日本武(ノ)尊(ノ)御歌に、多智波開麻之塢《タチハケマシヲ》、本集卷五【九左】に、都流岐多智許志爾刀利波枳《ツルギダチコシニトリハキ》云々、卷九【三十六右】に、懸佩之小劔取佩《カケハキノコダチトリハキ》など猶多し、常に御刀をみはかし〔四字右○〕といひて、みおばし〔四字右○〕とはいはざるをも思ふべし、さてハカシ〔三字右○〕のシ〔右○〕は、次の持之《モタシ》と同じく敬語也、○安騰毛比賜《アトモヒタマヒ》、この語原詳ならず、本集卷九【十四右】に、足利思代※[手偏+旁]行舟薄《アトモヒテコギユクフネハ》云々、同【二十八右】に、三船子呼阿騰母比立而《ミフナゴヲアトモヒタテテ》、喚立而三舶出者《ヨビタテテミフネイデナバ》云々、卷十七【三十七左】に、阿麻夫禰爾麻可治加伊奴吉《アマブネニマカヂカイヌキ》、之路多倍能蘇泥布理可邊之《シロタヘノソデフリカヘシ》、阿登毛比底和賀已藝由氣婆《アトモヒテワガコギユケバ》云云などありて、誘《イザナ》ひ催す意を、あともひとはいへりと聞ゆ、○齊流《トヽノフル》、とゝのふとは呼集《ヨビアツ》むる意也、本集卷三【十二左】に、網引爲跡網子調流海人之呼聲《アビキストアコトトノフルアマノヨビゴヱ》、卷十【三十九右】に、左男牡鹿(28)之妻整登鳴音之《サヲシカノツマトトノフトナクコヱノ》、續日本紀、天平寶字八年十月(ノ)詔に、六千乃兵乎發之等等乃倍《ムナチノイクサヲオコシトトノヘ》云々、などあるにて知べし、玉篇に、齋、整也と見えたり、○皷之音者《ツヅミノオトハ》、皷は鼓の俗字也、和名抄に、皷【都々美】とあり、此は軍鼓をいふ、鼓を鳴らして散たる兵士を齋《トトノ》へ集むる也、軍防令義解に、謂鼓者皮鼓也、鉦者金鼓也、所2以靜v喧也と見えたり、天武紀に、旗幟蔽v野、埃塵連v天、鉦鼓之聲聞2數十里1、列弩亂發、矢下如v雨云々とあるこれなり、〇雷之聲登聞麻低《イカヅチノコヱトキクマデ》は、鼓の音のおびたゞしきが、雷の聲かと聞ゆるまで也となり、さて雷《イカヅチ》は、和名抄神靈類に、兼名苑云、雷公一名雷師、【雷音、力〓反、和名奈流加美、一云以賀豆知、】とあり、○吹響流《フキナセル》は吹ならせるのら〔右○〕を略ける也、書紀繼體紀の歌に、須衛陛鳴麿府曳※[人偏+爾]都倶※[口+利]府企儺須《スヱベヲバフエニツクリフキナス》云云、本集卷十一【二十六左】に、時守之打鳴鼓《トキモリガウチナスツヅミ》云々、後撰集秋(ノ)中に、よみ人しらず、秋のよは人をしづめてつれ/”\と、かきなす琴の音にぞ泣かるゝ、これ等も皆ら〔右○〕文字を略けるなり、○小角乃音母《クダノコヱモ》、小角は代匠紀に、クダ〔二字右○〕と訓しによるべし、舊訓にヲツノ〔三字右○〕とあるはわろし、書紀天武紀に、十四年十一月癸卯朔丙午、詔2四方(ノ)國1曰、大角《ハラ》、小角《クダ》、鼓《ツヅミ》、吹《フエ》、幡旗《ハタ》、及|弩《オホユミ》、抛《イシハジキ》之類、不v應v存2私家1、咸收2于郡家1云々、軍防令に、凡軍團(ニハ)、各置(ケ)2鼓二面、大角二口、小角四口(ヲ)1云々、和名抄征戰具云、兼名苑注云、角、揚氏漢語抄云、大角、【波良乃布江】小角、【久太乃布江】本出2胡中1、或云、呉越以象2龍吟1也など見えたり、考には、今本に小角乃音母とあ(29)る母の辭、前後の辭に違ふとて、一云|笛乃音波《フエノオトハ》とある方をとられたれど、本文のままにてよく聞えたり、母《モ》の字はまへの鼓之音者《ツヅミノオトハ》といふに對して、小角《クダ》の音母《オトモ》といへる也、○敵見有《アタミタル》、敵見は新撰字鏡に、快、於亮反、〓也、強也、心不v服也、宇良也牟、又阿太牟とありて、あだみあだむ〔六字右○〕と活く詞也、これを虎が敵を見たる意とするは非也、こは虎が心不v服して怒れるをいふ也、さて常に敵をやがて敵《アタ》ともいふは、此あたむ〔三字右○〕とはたらく語を體言としていへる也、本集卷六【二十五左】に、賊守筑紫爾至《アタマモルツクシニイタリ》云々、卷二十【十八右】に、筑紫國波安多麻毛流於佐倍乃城曾等《ツクシノクニハアタマモルオサヘノキソト》などある是也、○虎可※[口+立刀]吼登《トラガホユルト》、虎は和名抄に、説文云、虎【乎古反止良、】山獣之君也と見えたり、※[口+立刀]吼の二字をホユル〔三字右○〕とよめるは義訓なり、※[口+立刀]は叫の俗體也、靈異記上卷に、※[口+皐]吠、【二合保由】和名抄に、玉篇云、※[口+皐]、【胡刀反】虎狼(ノ)聲也、唐韻云、吼、【呼后反、亦作2※[口+牛]※[口+向]牛鳴也、吠、【符〓反、巳上三字訓並保由、】犬之鳴聲也とあり、○恊流麻低爾《オビユルマデニ》、恊《オビユ》は靈異記上卷に、脅、【オビユ】新撰字鏡に、恊※[立心偏+却]同、今作v脇、虚業反、怯於比也須とあり、按(ル)に玉篇に、恊、許劫切以2威力1相恐恊也、廣雅釋詁二に、脅懼也ともありて、恊脅※[立心偏+脅]三字通用也、吹立る小角の音おびたヾしく、虎のほゆる如くにて、諸人のおびゆるまでなりとなり、一云|聞惑麻低《キキマドフマデ》、これも本書の方まされり○指擧有《ササゲタル》、舊訓にはサシアグル〔五字右○〕とあれど、考にササゲタル〔五字右○〕と訓れしに從ふ、サ〔右○〕はシア〔二字右○〕の緩言也、○幡之靡者《ハタノナビキハ》、幡は軍防(30)令義解に、幡者旌旗(ノ)惣名也、將軍所v載《タツル》曰2〓幡1、隊長所v載曰2隊幡1、兵士所v載曰2軍幡1也とありて、旌旗をすべて幡《ハタ》とはいへる也、その幡の風に靡きたるが、春の野ごとに付たる野火の、風と共になびくが如しと也、○冬木成《フユゴモリ》、冬は萬物内にこもりてあるが、春になりてはりいづるより、冬ごもりはるとはつゞけしなり、但考には、成は盛の誤りなりとて改めたるは非也、成と盛とは古(ヘ)通用の字にて、冬木成にて、フユゴモリ〔五字右○〕と訓べし、精しくは卷一上にいひおけり、○野毎著而有火之《ヌゴトニツキテアルヒノ》、春は野を燒もの故にかくいへり、本集此巻【四十四右】に、春野燒野火登見左右《ハルヌヤクヌビトミルマデ》、燎火乎《モユルヒヲ》云々、卷七【三十二右】に、冬隱春之大野乎燒人者《フユゴモリハルノオホヌヲヤクヒトハ》、燒不足香文吾情熾《ヤキアカヌカモワガココロヤク》など猶あり、古今集春上に、よみ人しらず、春日野はけふはなやきそ若草の、つまもこもれりわれもこもれり、など見えたり考には一云|冬木成春野燒火乃《フユゴモリハルヌヤクヒノ》とあるをとられしかど例の私也、○風之共《カゼノムタ》、ムタ〔二字右○〕は字の如く、ともにといふ意、既に上に出たり、こゝは野火の風とともになびくが如しとなり、○弓波受乃驟《ユハズノサワキ》、弓波受《ユハズ》は古事記中卷に、男弓端之調《ヲトコノユハズノミツギヲ》、女手末之調《ヲミナノタナスヱノミツギ》云々、本集卷十六【三十右】に、吾爪者御弓之弓波受《ワガツメハミユミノユハズ》云々、和名抄征戰具に、釋名云、弓末曰v※[弓+肅]、【音肅、和名由美波數、】とありて、弓の末をハズ〔二字右○〕とはいふ也、又書紀神武紀、本集卷一【八右】に、弭をハズ〔二字右○〕とよめり、谷川士清の日本紀通證に、波須、蓋端末之義といへり、さてゆみはずをゆはず(31)といへるは、弓※[弓+付]をゆづか、弓腹《ユミハラ》をゆはらなどいふ類也、又弓を弓弭《ユハズ》と云るは、弓は弭の方がいちじるく目につくものなれば也、弓弭のさわぎとは、矢さけびの音をいへる也、驟を舊訓にウゴキ〔三字右○〕とあるはわろし、〇三雪落《ミユキフル》、三雪《ミユキ》の三《ミ》は添(ヘ)たる辭にて、み〔右○〕山み〔右○〕谷などのみ〔右○〕に同じ、○冬乃林爾《フユノハヤシニ》は、人ごとに弓桙などを持て戰ふさまを、冬の枯木に風のわたるが如く見なしたる也、〇一云由布乃林とあるは、布由乃林《フユノハヤシ》の誤也、此は文字の變りたるものにて意は同じ、一云の中には、かゝる例も猶あること也、〇飄可毛伊卷渡等《ツムジカモイマキワタルト》、飄はツムジ〔三字右○〕と訓べし、舊訓にアラシ〔三字右○〕とあるはわろし、飄、官本温本昌本家本、作v※[風+票]、書紀神功紀に、飄風《ツムジカゼ》忽起、御笠隨v風云々、新撰字鏡に、※[風+火三つ]※[火三つ+風]〓〓四形作、※[人偏+卑]遙反、暴風、豆牟志加世云々、和名抄に、文選詩云廻※[火三つ+風]卷2高樹1、【音※[火三つ]、和名豆无之加世、】兼名苑注云、※[火三つ+風]者暴風從v下而上也と見えて、文選長笛賦注に、〓與v※[風+火三つ]同、禮記月令の釋文に、〓本又作v飄とあれど.飄※[火三つ+風]〓三字通用せり、和名抄に、音※[火三つ]とあるは〓の誤也、伊卷渡《イマキワタル》の伊《イ》は發語にて、風の吹卷なり、文選に、廻※[火三つ+風]卷2高樹1とある是也、つむじの卷といふは今もいふ事也、○聞之恐久《キキノカシコク》、聞之《キキノ》はキキといふ連用言を、體言にして之《ノ》と受たる也、本集卷四【二十三右】に、吾背子之往乃萬萬《ワガセコガユキノマニマニ》.同【二十五左】に、大船乎※[手偏+旁]之進爾《オホブネヲコギノススミニ》、卷十【五左】に、子等名丹關之宜《コラガナニカケノヨロシキ》云々、卷十八【十九右】に、春佐禮婆伎吉能可奈之母《ハルサレバキキノカナシモ》云々、卷二十【二十五右】に、(32)夜麻美禮婆見能等母之久《ヤマミレバミノトモシク》云々などあり、此例いと多し、○引放箭繁計久《ヒキハナツヤノシゲケク》、玉篇に、箭(ハ)矢也とあり、けく〔二字右○〕はく〔右○〕の緩言にて、矢の繁くなり、人毎にはなつ矢のしげく、大雪のふりくるごとく亂れ來《ク》となり、古事記中卷に、射出之矢、如2葦來散《アシノチリクル》1云々、書紀欽明紀に、發箭《ハナツヤハ》如v雨云々など見えたり、○大雪乃亂而來禮《オホユキノミダレテキタレ》、大雪は多くふれる雪也、乃《ノ》は如くの意なり、此句まへにこそ〔二字右○〕の詞なくして、來禮《キタレ》と禮〔左○〕《テ》にてうけたるは、古(ヘ)の一(ツ)の格にて、れ〔右○〕の下にば〔右○〕の字を添てきくべし、此事卷一の注にいへり、來禮を舊訓に、クレ〔二字右○〕とあるはわろし、〇一云|霰成曾知余里久禮婆《アラレナスソチヨリクレバ》、成は如の意、曾知は彼方《ソチ》なり彼《ソ》は彼所此所《ソコココ》の彼《ソ》に同じ、考に、曾知はそのみちのみ〔右○〕を省けるなりといへるはわろし、かくて此所の意は、人毎に引はなつ矢のしげく、霰のごとく彼方よりくればとなり、上に大御身爾大刀取帶之《オホミミニタチトリハカシ》といふより此處迄は、高市皇子の御軍を引率して、敵と戰ひたまふさまをいへり、○不奉仕立向之毛《マツロハズタチムカヒシモ》、こゝより下|相競端爾《アラソフハシニ》といふまでは、敵方の事をいひて天武天皇にまつろひ奉らずして立向ひしも、今は身命を露の如くに輕んじてあらそひしと也、立向《たちむか》ひは敵たふをいふ、○露霜之《ツユシモノ》は枕詞也、露霜はたヾ露のこと也、露と霜と二つにはあらず、霜の如くに消《キユ》とつゞけし也、○消者消倍久《ケナバケヌベク》は、きえなばきえぬべくといふ也、本集卷十一【十右】に、朝霜消消念乍《アサシモノケナバケヌベクオモヒツツ》云々、卷(33)十三【十三左】に、朝露之消者可消《アサツユノケナバケヌベク》、戀久毛《コフラクモ》云々などあり、〇去鳥乃《サルトリノ》は枕詞にて、群りて飛びゆく鳥の、おのれおくれじとあらそふにたとへて、ゆく鳥の如くあらそふとはつゞけし也、○相競端爾《アラソフハシニ》、相競の二字をアラソフ〔四字右○〕とよめるは義訓也、本集卷一【十一左】に、諍競《アラソフ》、相格《アラソフ》、卷十【十右】に、相爭《アラソヒ》などをもよめり、端《ハシ》をハシ〔二字右○〕とよめるは借字にて、端《ハシ》は間《ハシ》の意、あひだといふ事にて、敵味方あらそふ間《あひだ》に、神風ふき來りて敵をまどはしゝと也、はしといふ言を、あひだの意とするは、本集卷十九【十五右】に、宇知歎之奈要宇良夫禮《ウチナゲキシナエウラブレ》、之努比都追有爭波之爾《シヌビツツアラソフハシニ》、許能久禮罷四月之立者《コノクレヤミウヅキシタテバ》云々とある、あらそふはしも、あらそふ間也、又氏の間人《ハシヒト》をハシヒト〔四字右○〕とよめるも、ハシといふはアヒダの意なるを知べし、古今集雜下に、木にもあらず草にもあらぬ竹のよの、はしに我身はなりぬべらなり、とある竹は、草と木との間のよしなり、〇一云|朝霜之消者消言爾《アサシモノケナバケトフニ》、こは朝霜の如く消えばきえよといふにといふ意となれば、こゝにかなはず○打蝉等安良蘇布波之爾《ウツセミトアラソフハシニ》、打蝉《ウツセミ》は借字にて、現《ウツツ》の身《ミ》といふ言、【上に既に注す】波之《ハシ》は間《ハシ》の意にて、軍士たがひに現《ウツツ》の身なるが、共に相あらそふあひだにといへるなり、これも本書のかたまされり、○渡會乃齋宮從《ワタラヒノイツキノミヤユ》、渡會は伊勢(ノ)國の郡名にて、和名抄に、伊勢(ノ)國度會【和多良比】とあり、其名の縁由は、伊勢(ノ)國風土紀に見えたり、齋宮《イツキノミヤ》は、天照大御神をいつき奉る(34)宮をいへるにて、齋内親王のおはします宮を、齋宮と申すとは別也、古事記に、天照大御神の、御靈體の御鏡を、皇孫《スメミマノ》命に授(ケ)給ふ時の詔に、此之鏡者、專爲(シ)2我|御魂《ミタマ》1而如v拜2吾御前(ヲ)1伊都岐奉《イツキマツレ》、又日本書紀の一書に、天照大神、手(ニ)持(チ)2寶鏡(ヲ)1、授(ケ)2天(ノ)忍穗耳《ヲシホミミノ》尊(ニ)1而祝v之曰、吾兒視(ルコト)2此寶鏡(ヲ)1、當v猶v視(ルガ)v吾(ヲ)、可3與(ニ)同(シ)v床(ヲ)共(シ)v殿(ヲ)、以(テ)爲(ス)2齋《イハヒ》鏡(ト)1とあり、是に依に、天照大神(ノ)宮をイツキノミヤ〔六字右○〕と申すべき事論なし、記傳卷十五【三十四右】に、垂仁(ノ)御卷に、二十五年三月丁亥朔丙申云々、隨《マニマニ》2大神(ノ)教《ミヲシヘノ》1、其祠立2於伊勢國1、因|興《タツ》2齋《イツキノ》宮(ヲ)于五十鈴(ノ)川上《カハラニ》1、是謂2磯《イソノ》宮1、則天照大神(ノ)始(メテ)自v天降之處也、此(ノ)文にまぎらはしき事どもあり、よくせずば誤りぬべし、まづ其祠立2於伊勢國1、因|興《タツ》2齋宮于五十鈴川上1とある齋宮《イツキミヤ》、即(チ)大御神(ノ)宮なり、しかるを古語拾遺、倭姫(ノ)命(ノ)世紀などに、文を少し換《カヘ》て、此(レ)を倭姫(ノ)命の座す宮の如く記せるは、御世々々の齋(ノ)王の宮をも、齋(ノ)宮と申す故に、其と心得たるひがことなり、齋(ノ)王の宮を云(フ)は、其(ノ)王の座(ス)宮と云意、此《コヽ》は大御神を齋《イツキ》奉る宮といふことにて、同(ジ)名ながら意異り、抑此には、大御神の宮をこそ委曲《ツバラ》には記すべきことなるに、其《ソ》をば只祠立2於伊勢(ノ)國1とのみ大かたに云て、齋王の座(ス)宮をしも、却(リ)て具に五十鈴(ノ)川上といふべきに非ず、萬葉なる人麻呂の長歌に、渡會乃齋宮《ワタラヒノイツキノミヤ》とよめるも、必(ズ)大御神の宮とこそ聞たたれ、且《ソノウヘ》倭姫(ノ)命に宮と云て、大御神に祠とは云べくもあらず、然れば立(ノ)字は、定を(35)誤れるなるべしといへり、又いつくとは、古事記上卷に、以伊都久神《モテイツクカミ》云々とある、傳卷六【六十六左】に、伊都久《イツク》は齋《イツク》なりといへり、また本集卷十九【三十五左】に、春日野爾伊都久三諸乃《カスガヌニイツクミモロノ》云々、同【三十六右】に、住吉爾伊都久祝之《スミノエニイツクハフリガ》云々などありて、神にまれ何にまれ、大切に敬《アガ》めおくをいふこと也、正辭按るに、こゝは敵味方たゝかひ爭ふ間に、伊勢の神宮の方より神風吹來りて、敵をまどはしゝと也、從《ユ》はヨリの意、此御軍に神風吹來りし事、書紀には見えねど、此御軍の事を記したる所に、於2朝明(ノ)郡迹太川邊1、望2拜天照大神1とありて、大御神を祈らせ給ひし事しるく、又前後に雷雨ありし事、又黒雲天にわたりし事も見えたれば、かく神風の吹來りし事もありつらむを、紀にはもらしたるなるべし、此御軍の時は、人磨朝臣は未だいと若きほどにて、其事をまのあたり見しにはあらざめれど、其頃人々のいひはやせる實事なるから、殊更によみ入れたるものにて、此靈驗ありし事凝なき也、○神風爾《カムカゼニ》、神風は、渡會の風(ノ)神(ノ)社より吹來る風也、伊勢風(ノ)神(ノ)社は、内宮と外宮とにあり、此は齋宮從《イツキノミヤユ》とあれば、内宮の風(ノ)神(ノ)社を指せるなり、太平紀に、弘安の時の神風の靈驗をいへるくだりの、禰宜の上奏の詞に、その神異を述べ若(シ)誠有て奇瑞變に應ぜば、年來申請(フ)處(ノ)宮(ノ)號、以2叡感之儀(ヲ)1可v被2宜下1、と申せる由見え、類聚神祇本源に社記を引て、正應六年三月二十日官符、改2(36)社號1奉v授2宮(ノ)號1、預2官幣1二宮同前也、依2異國降伏之御祈祷1也とあり、中世までも此神社の靈驗ありし事を知べし、○伊吹惑之《イブキマドハシ》、伊吹《イブキ》の伊《イ》は假字にて、息吹《イブキ》なり、神風に息吹《イブキ》まどはし給ふ也、書紀神代紀上(ノ)一書に、我所v生《ウム》之國、唯有2朝霧1而薫滿之哉、乃|吹撥之氣《フキハラフイキ》化爲v神、號曰2級長戸邊《シナトベノ》命1、亦曰2級長津彦《シナツヒコノ》命1、是風神也云々、大祓(ノ)祝詞に、氣吹戸座須氣吹戸主止云神《イブキドニマスイブキドヌシトイフカミ》、根國底之國爾氣吹放※[氏/一]牟《ネノキヌソコノクニニイブキハナチテム》云々などありて、息を吹をいぶき〔三字右○〕といふ、○天雲乎《アマグモヲ》、天雲は天にたなびく雲をいふ、空《ソラ》を天《アメ》のみ空《ソラ》、※[雨/衆]雨《シグレ》を天之四具禮《アメノシグレ》などいへるに同じ、○日之目毛不令見《ヒノメモミセズ》は、日の見ゆるべきをも見せずといふなり、目《メ》は所見《ミエ》の急言也、本集卷四【五十六右】に、君之目乎保利《キミガメヲホリ》、卷十二【十九右】に、妹之目乎將見《イモガメヲミム》といへるも、君が見えむ、妹が見えむの意也、○常闇爾《トコヤミニ》、常闇《トコヤミ》は書紀神代紀上に、六合之内常闇而《クニノウチトコヤミニシテ》、不《ズ》v知《シラ》2晝夜之相代《ヨルヒルノアヒカハルワキモ》1云々とありて、晝夜のわかちなく闇になりたるを、とこやみとはいへる也、本集卷十五【三十三右】に、安波牟日乎其日等之良受等許也未爾《アハムヒヲソノヒトシラズトコヤミニ》、伊豆禮能日麻弖安禮古非乎良牟《イヅレノヒマデアレコヒヲラム》なども見えたり、○覆賜而定之《オホヒタマヒテシヅメテシ》、上の齋宮從《イツキノミヤユ》といふより此處までは、大御神の御惠によりて、神宮より俄に神風を吹出して敵を惑し、又晝さへ闇の如くなして敵をなやましなど、神の御力も加はりてしづめ給ひし由なり、○水穂之國乎《ミヅホノクニヲ》、水は借字にて瑞々《ミヅ/\》しき意、穗は稻の事にて、御國は稻の萬國に(37)すぐれたる國なれば、賞して御國の號を、瑞穂《ミヅホ》の國ともいへる也、○神隨《カムナガラ》、こはカムナガラ〔五字右○〕とよむべし、舊訓にカミノマニ〔五字右○〕とあるはわろし、其由既にいへり、神隨《カムナガラ》は神にましますまゝにといへる意にて、此處に神とさせるは天皇の御事にて、即天武帝より持統帝までを申すなり、○大敷座而《フトシキマシテ》、大、官本温本拾本、太と作《カケ》り、家本昌本活本は今本に同じ、大は賞ていふ詞、敷《シキ》は知領《シリ》給ふこと也、既にいへり、大敷座而、或説に、而は衍字なるべし、座而《マシテ》といひては、下の申賜者《マヲシタマヘバ》といふ事、天皇の申給ふことゝ聞ゆればなり、といへるはさることなれど、此而の下に多く辭を略けるなるべし、萬葉考に、天下申賜者《アメノシタマヲシタマヘバ》の注に、天皇の敷座天下の大政を、高市(ノ)皇子の執申し給へばといふ也、此あたり言葉多く略きつ、とあるを思ひ合すべし、上なる日並知(ノ)皇子(ノ)尊の殯宮之時の歌にも、所々詞の足らぬげに見えたるもあり、此朝臣の歌の一つの法にて、彼の心あまりて詞足らぬ類なるべし、○吾大王之天下申申賜者《ワゴオホキミノアメノシタマヲシタマヘバ》、吾大王とは持統天皇をさし奉り、持統天皇のしろしめす天の下の政を、高市(ノ)皇子の執奏《トリマヲ》し賜へばといふ意也、書紀天武紀に、十年二月甲子、立2草壁(ノ)皇子(ノ)尊1爲2皇太子1、因以令v攝2萬機1云々、持統紀に、三年四月乙未、皇太子草壁(ノ)皇子(ノ)尊薨云々とありて、天武天皇十年より持統天皇三年までは、天下の政を草壁皇子の執申給ひしを、此皇子、持統天皇(38)三年四月薨給ひしかば、四年七月庚辰、以2皇子高市1爲2太政大臣1云々とあり、しかるに此文にては、天武天皇の御時の事を申たる如く聞えて、まぎらはしきやうなれど、此は文を多く略きたるにて、上の定之《シヅメテシ》よりは、天武天皇の御上を申たるなれど、吾大王《ワゴオホキミ》といふ宮は、持統天皇へもかけて心得べし、此間に天武の崩御と、持統即位の事を略したる也、古事記傳卷三十二【二十二】に、此を引て、此吾|大王丑《オホキミ》は高市(ノ)皇子(ノ)尊を申せりとあるはわろし、古事記中卷に、大雀(ノ)命執2食國之政1以|白賜《マヲシタマヘ》、本集巻五【二十五左】に、余呂豆余爾伊麻志多麻比提阿米能忍多《ヨロヅヨニイマシタマヒテアメノシタ》、麻乎志多麻波禰美加度佐良受弖《マヲシタマハネミカドサラズテ》、同【三十一右】に、天下奏多麻比志《アメノシタマヲシタマヒシ》、家子等撰多麻比天《イヘノコトエラビタマヒテ》、勅旨戴持弖《オホミコトイタダキモチテ》云々など見えて、天(ノ)下の政をそれ/”\に聞行ひて、その由を天皇に奏し給ふをいふ、○萬代然之毛將有登《ヨロヅヨニシカシモアラムト》は、高市(ノ)皇子の、天下の政を執申給ふ事にて、然《シカ》とは、次の句の榮る時をかけたる也、志毛《シモ》は助字にて、然《シカ》あらむとなり、一云|如是毛安良無等《カクモアラムト》とあるも、意はかはらねど、本書のかたまされり、○木綿花乃《ユフバナノ》は枕詞也、冠辭考にくはし、木綿は上にもいへるが如く、穀又は栲の木の皮をとりて織れる布にて、木棉花はをの布もて作れる花なれば、今いふ作り花をいへるなるべし、實の花は咲《サキ》たるも盛り過ぬれば散ものなるを、造り花は、常しへに久しく散ことなきものなれば、いつもかはらず榮えまさむと(39)思ふを、木綿花にたとへて、その木綿花の如く、常しへに榮えまさむと思ひしを、とつゞけし也、さて木綿花は、本集卷六【十一右】に、泊瀬女造木綿花《ハツセメノツクルユフバナ》云々、卷七【七左】に、泊瀬川白木綿花爾墮多藝都《ハツセガハシラユフバナニオチタギツ》云々などあり、○榮時爾《サカユルトキニ》、榮《サカユル》は、皇子のさかえ給ふを木綿花にたとへて、木綿花の如く榮《サカユ》るといへる也、時爾《トキニ》の上に、其《ソノ》といふ字を加へて心得べし、本集卷六【三十右】に、御民吾生有驗在天地《ミタミワレイケルシルシアリアメツチノ》、得時爾相樂念者《サカユルトキニアフラクオモヘバ》、卷二十【二十五右】に、母能其等爾佐可由流等伎登《モノゴトニサカユルトキト》云々などもあり、〇吾大王皇子之御門乎《ワゴオホキミコノミカドヲ》、上の日並知(ノ)皇子(ノ)尊の殯宮の時の歌にも、吾王皇子之命乃《ワゴオホキミコノミコトノ》云々とありて、オホキミ〔四字右○〕と申す稱は、天皇より皇子諸王にわたる御稱なり、皇子之御門《ミコノミカド》とは、皇太子のおはします宮殿をいへるにて、御門とかけるは借字也、一云|刺竹皇子御門乎《サスタケノミコノミカドヲ》、刺竹《サスタケ》は枕詞なり、○神宮爾《カムミヤニ》、天皇にまれ皇子にまれ、崩給ふを神になりませるよしにいへるは、古への常なり、上の日並知(ノ)皇子(ノ)尊の殯宮(ノ)歌に、天原石門乎開《アマノハライハトヲヒラキ》、神上上座奴《カムアガリアガリイマシヌ》云々、下に弓削《ユゲノ》皇子(ノ)薨時(ノ)歌に、神隨神等座者《カムナガラカミトイマセバ》云々などある是也、こゝは皇子薨給ひしかば、其大宮をも神宮として、宮のよそひをも改給ふなり、○装束奉而《ヨソヒマツリテ》、舊訓にも考にも、装束をカザリ〔三字右○〕とよめれど、古事記書紀等、みな装束をばヨソヒ〔三字右○〕とよみて、本集巻三【五十八右】安積《アヅミノ》皇子薨之時(ノ)歌に、白細爾舍人装束而《シロタヘニトネリヨソヒテ》云々、卷十二【三十一左】に、衣乎取服装間爾《コロモヲトリキヨソフマニ》云々などあれば、こゝ(40)もしかよむべし、但ヨソフ〔三字右○〕といふもカザル〔三字右○〕といふも同意にて、本集卷十三【二十八左】に、大殿乎振放見者《オホトノヲフリサケミレバ》、白細布飾奉而《シロタヘニカザリマツリテ》、内日刺宮舍人方《ウチヒサスミヤノトネリモ》、雪穂麻衣服者《タヘノホノアサギヌキレバ》云々とありて、又常には舟をよそふ事を、ふなよそひとのみいふを、卷二十【十七左】に、布奈可射里《フナカザリ》ともあれば、舊訓に從はむも誤にはあらずされど此はヨソフ〔三字右○〕と訓方まされり、○遣使《ツカハシシ》、使を今本便に誤る、昌本家本活本同じ、官本温本代匠記引別校本によりて改む、又舊訓タテマダス〔五字右○〕とあるもわろし、考にツカハシヽ〔五字右○〕とよめるに從ふ、此の皇子のつかひ給ひし人達をいふ也、本集卷十三【二十九右】に、朝者召而使《アシタニハメシテツカハシ》、夕者召而使《ユフベニハメシテツカハシ》、遣之舍人之子等者《ツカハシシトネリノコラハ》云々などもあり、○御門之人毛《ミカドノヒトモ》、考に、卷三【五十九右】に、皇子乃御門乃五月蠅《ミコノミカドノサバヘ》なすさわぐ舍人は、ともよみしかば、專ら御門守る舍人をいふ也、春宮(ノ)舍人は、神階の下をも守なれど、薨まして後は、御門のみ守る事上に見ゆ云々とあるが如し、○白妙乃麻衣著《シロタヘノアサゴロモキテ》、舊訓にアサノコロモキ〔七字右○〕とあるはわろし、妙《タヘ》は※[糸+旨]布の惣名なる事上にいへるが如し、されば白き麻衣をば、白妙乃麻衣とはいへるにて、此處は舍人達の御喪服をきるをいへり、本集卷三【五十八右】に、安積《アヅミノ》皇子薨時の歌に、白細爾舍人装束而《シロタヘニトネリヨソヒテ》云々、同【五十九右】に、天地與彌遠長爾《アメツチトイヤトホナガニ》、萬代爾如此毛得跡《ヨロヅヨニカクシモガモト》、憑有之皇子乃御門乃《タノメリシミコノミカドノ》、五月蠅成驟騷舍人者《サバヘナスサワグトネリハ》、白栲爾服取著而《シロタヘニコロモトリキテ》云々、卷十三【二十八左】に、大殿矣振放見者《オホトノヲフリサケミレバ》、白細布飾奉而《シロタヘニカザリマツリテ》、内日(41)刺宮舍人方《ウチヒサスミヤノトネリモ》、雪穂麻衣服者《タヘノホノアサギヌキレバ》云々などあり、○埴安乃御門之原爾《ハニヤスノミカドノハラニ》、今本、埴を垣に誤る、今官本温本家本等に依て改(ム)、埴安は大和(ノ)國十市(ノ)郡なり、此地の事は上にいへり、御門之原《ミカドノハラ》は、藤井が原をいへるなるべし、如何となれば、本集卷一【二十三左】藤原(ノ)御井(ノ)歌に、八隅知之和期大王《ヤスミシシワゴオホキミ》、高照日之皇子《タカテラスヒノミコ》、麁妙乃藤井我原爾《アラタヘノフヂヰガハラニ》、大御門始賜而《オホミカドハジメタマヒテ》、埴安乃堤上爾《ハニヤスノツツミノウヘニ》、在立之見之賜者《アリタタシミシタマヘバ》云々とある、和期大王《ワゴオホキミ》は持統天皇をさし奉り、日之皇子《ヒノミコ》は高市(ノ)皇子をさし奉りて、天皇と春宮との宮殿は別なるべけれど、地はおなじ地におはしまして、同じ地なれば、何れをも廣く藤原(ノ)宮とは申し給ふ、此地香具山のほとりなれば、春宮をば香具山の宮とも申しゝなるべし、藤井が原に大御門始賜而《オホミカドハジメタマヒテ》とある如く、此原に大御門を建給ひしかば、御門の原ともいへるなるべし、すべて此歌と彼の藤原(ノ)宮(ノ)御井(ノ)歌とをてらし合せて、此地の事をば考ふべし、○赤根刺《アカネサス》は枕詞也、上に出たり、○日之盡《ヒノコトゴト》、舊訓にはヒノツクルマデ〔七字右○〕と訓、考にはヒノクルルマデ〔七字右○〕とよまれしかど、ヒノコトゴト〔六字右○〕と訓べし、日のこと/”\は、日の限りといふ意也、其由は上に夜者毛夜之盡《ヨルハモヨノコトゴト》、晝者母日之盡《ヒルハモヒノコトゴト》云々とある所にいへり、○鹿自物《シシジモノ》は枕詞也、自物《ジモノ》といふ言は、書紀武烈紀(ノ)歌に、斯々貳暮能瀰逗矩陛御暮黎《シシジモノミツクヘゴモリ》云々とありて、集中|鹿兒自物《カゴジモノ》、鳥自物《トリジモノ》などもありて、の如く〔三字傍線〕といふ意に近し、此事は下にもいふべし、此處は(42)獣などの如くに、匍伏すといふ意なり、さて鹿をシシ〔二字右○〕と訓は、古(ヘ)すべて獣をシシ〔二字右○〕といひしが故也、獣は肉《シシ》を專と賞するものなれば也、今の世に猪をさしてしし〔二字右○〕といふも是也、○伊波比伏管《イハヒフシツツ》、伊波比《イハヒ》の伊《イ》は發語、波比《ハヒ》は匍《ハヒ》なり、下に伊波此廻《イハヒモトホリ》とあるも同じ、古事記上卷に、化《ナリ》2八尋和邇《ヤヒロワニニ》1而《テ》匍匐委蛇《ハヒモコロヒキ》云々、本集卷三【十三右】に、四時自物伊波比拜《シシジモノイハヒオロガミ》、鶉成伊波比毛等保理《ウヅラナスイハヒモトホリ》云々など見えたり、さて此處は舍人などの終日|匍伏《ハヒフシ》て、禮を亂さぬをいへるにて、獣は膝を折て伏もの故に、それにたとへていへるなり、卷三【三十七左】に、十六自物膝折伏手《シシジモノヒザヲリフセテ》云々などもいへり、書紀天武紀に、十一年九月壬辰勅、自今以後跪禮匍匐並止v之、更用2難波朝廷之立禮1云々とあり、上古は匍匐《ハヒフス》を以て禮とせし也、○烏玉能《ヌバタマノ》は枕詞也、○暮爾至者《ユフベニナレバ》、暮を考に、よふべ〔三字右○〕と訓れしは誤也、舊訓にユフベ〔三字右○〕とあるに從ふべし、飜集卷五【三十九左】に、有星乃由布弊爾奈禮婆《ユフヅツノユフベニナレバ》云々、卷十四【三十五右】に、左牟伎由布敝思《サムキユフベシ》云々、卷二十【十三左】に、須受之伎由布敝《スズシキユフベ》云々などあり、○大殿《オホトノ》は、高市(ノ)皇子(ノ)尊のおはしましゝ春宮なり、○振放見乍《フリサケミツツ》は、ふりあふぎ見るをいふ也、今も、フリムク、又フリカヘルなどいへり、古事記傳卷三十三【六十右】に、望をミヤリテと訓るも、見遣《ミヤル》意なり、本集卷三【五十四右】に、問放流親族兄弟《トヒサクルウカラハラカラ》、續紀寶龜二年二月の詔に、誰【爾加妣】詔【比】佐氣牟、孰【爾加妣】我問【比】佐氣《サケ》【牟止】などあり、情を遣る意なり、○鶉成《ウヅラナス》は枕詞也、(43)鶉の野をはひめぐれるが如く匍廻とはつゞけし也、○伊波比廻《イハヒモトホリ》、上に伊波比伏管《イハヒフシツツ》とある伊波比《イハヒ》と同じく、伊《イ》は發語、波比《ハヒ》は廻の字の如く、めぐれるをいふ、古事記中卷の御歌に、波比母登富呂布志多陀美能伊波比母登富理《ハヒモトホロフシタダミノイハヒモトホリ》云々、本集卷三【十三右】に、四時自物伊波比拜《シシジモノイハヒオロガミ》、鶉成伊波比毛等保理《ウヅラナスイハヒモトホリ》、恐等仕奉而《カシコシトツカヘマツリテ》云々、續日本紀、神龜六年八月の詔に、恐古士物進退匍匐廻保理白賜比《カシコジモノシジマヒハヒモトホリマヲシタマヒ》早々など見えたり、舍人達の詮すべ知らで、大殿をあにぎ見ては悲みにたへず、うち歎くさまをいへる也、○雖侍候《サモラヘド》は、大殿に伺候するをいふ、〇佐母良比不得天《サモラヒカネテ》は、皇子のおはしまさねば、大殿にさもらへども侍候《サモラフ》に得堪へずと也、今本に不得者とありて、エネバ〔三字右○〕と訓るはわろし、玉(ノ)小琴に、者の字は天を誤れるなるべし、必ずかねてといはでは語とゝのはずといへり、此説に從ふべし、者〔右○〕にては次の佐麻欲比奴禮者《サマヨヒヌレバ》とあるに重なりてわろし、○春鳥之《ハルトリノ》は枕詞也、舊訓にウグヒス〔四字右○〕と訓るはわろし、考にハルトリ〔四字右○〕と訓つるに從ふべし、卷九【三十四右】に、葦垣之思亂而《アシガキノオモヒミダレテ》、春鳥能啼耳鳴乍《ハルトリノネノミナキツヽ》云々、卷二十【三十七右】に、春鳥乃巳惠乃佐麻欲比《ハルトリノコヱノサマヨヒ》云々などあり、之《ノ》は例の如く〔二字傍線〕の意也、○佐麻欲此奴禮者《サマヨヒヌレバ》、さまよふは、新撰字鏡に、※[口+屎]【時伊反、出2氣息1、心呻吟也、惠奈久、又佐万與布、又奈介久、】呻【舒神反、吟也、歌也、左万與不、又奈介久、】とありて、迷ひ歎く意に云る言にて、春になればいろ/\の烏來りて、さ迷ふにたとへて、舍人達のむなしき大殿に歎き(44)さ迷ふをいへる也、玉(ノ)小琴に、さまよひぬるに〔三字右○〕といふ意也、次の思ひもいまだつきねばも、つきぬに〔二字右○〕といふ意なると同じ古言の格也、常のぬれば〔三字右○〕の意としては、下へかゝる所なしといへり、○嘆毛未過爾《ナゲキモイマダスギヌニ》は、皇子薨まして、その嘆も未だすぎやらぬに、早くも百済の原に葬り奉りぬとなり、○憶毛未盡者《オモヒモイマダツキネバ》は、上の嘆毛未過爾《ナゲキモイマダスギヌニ》といふに對へたる語にて、皇子薨給ひし歎の、思ひも未だつきやらぬにといへる也、さて此ねば〔二字右○〕といふ言は、ぬに〔二字右○〕といふ意也、そは古事記上卷、八千矛(ノ)神(ノ)御歌に、於須比遠母伊麻陀登加泥婆《オスヒヲモイマダトカネバ》云々、本集卷四【二十九左】に、奉見而未時太爾不更者《ミマツリテイマダトキダニカハラネバ》、如年月所念君《トシツキノゴトオモホユルキミ》、卷八【二十五右】に、字能花毛未開者霍公鳥《ウノハナモイマダサカネバ》、佐保乃山邊來鳴令響《サホノヤマベヲキナキドヨモス》など集中いと多し、是等のねば〔二字右○〕は皆ぬに〔二字右○〕の意也、○言左敝久《コトサヘグ》は枕詞也、上にも出たり、今本左を右に誤れり、今諸古本に依て改(ム)、○百済之原從《クダラノハラユ》、百済の原は、大和(ノ)國廣瀬(ノ)郡也、書紀舒明紀に、十一年秋七月詔曰、今年造2作大宮及大寺1、則以2百済川側1爲2宮處1云々、十二年冬十月、從2百済宮1云々、天武紀に、繕2兵於百済家1云々とあり、本集卷八【十六左】に、百済野乃芽古枝爾《クダラヌノハギノフルエニ》云々などあるも同所なり、陽成天皇實録、元慶四年紀に、大和(ノ)國十市(ノ)郡百済川云々とあるは、大和志に、百済川、自2高市(ノ)郡1流2於郡(ノ)東界1、至2于河合1入2廣瀬(ノ)郡1云々とありて、此川十市(ノ)郡と廣瀬(ノ)郡との界を流れたれば、十市(ノ)郡ともいへるなるべし、從《ユ》は例のヨリ〔二字右○〕(45)の意にて、此御葬送、十市(ノ)郡藤原の京をいでゝ、廣瀬(ノ)郡百済(ノ)原より、同じ郡の城(ノ)上(ノ)殯宮にをさめ奉るなれば、從《ユ》とは云(ヘ)る也、○神葬《カムハフリ》、天に阻まれ皇子にまれ、崩姶ふを、神になりませる由にいへる事なれば、神葬《カムハフリ》とは申す也、舊訓に神をタマ〔二字右○〕と訓るはわろし、本集卷十三【二十八左】に、朝裳吉城於道從《アサモヨシキノベノミチユ》、角障經石村乎見乍《ツヌサハフイハレヲミツツ》、神葬葬奉者《カムハフリハフリマツレバ》云々とも見えたり、葬をはふりといふよしは、古事記傳卷二十九【二十一】に、凡てはふりとは其|儀《ワザ》を云り、しかいふ意は、遠(ツ)飛鳥(ノ)宮(ノ)段(ノ)歌に、意富岐美袁斯麻爾波夫良婆《オホキミヲシマニハフラバ》、續紀卷三十一の詔に、彌麻之大臣之家内子等乎母《ミマシオホオミノイヘヌチノコドモヲモ》、波布理《ハフリ》不v賜失不v賜、慈賜|波牟《ハム》などあるハフル〔三字右○〕と、本(ト)同言にて放《ハフ》る也、葬は、住なれたる家より出して野山へ送りやるは、放《ハフラ》かし遣る意よりいへる也、といはれつるが如し、○葬伊座而《ハフリイマシテ》、伊座《イマス》は往ますといふ事にて、常にましますと云事を、いますといふとは別也、そは古事記中卷の御歌に、佐々那美遲遠《ササナミヂヲ》、須久須久登《スクスクト》、和賀伊麻勢婆夜《ワガイマセバヤ》云々、本集卷三【三十八右】に、好爲而伊麻世荒其路《ヨクシテイマセアラキソノミチ》、卷五【三十一右】に、唐能遠境爾《モロコシノトホキサカヒニ》、都加播佐禮麻加利伊麻勢《ツカハサレマカリイマセ》云々などあるは、往《ユキ》ますの意なり、さて此處は皇子のおはしましゝ藤原の都をいでゝ、百済の原より城(ノ)上の御墓所に行道のほどをばいへる也、○朝毛吉《アサモヨシ》は枕詞也、吉を舊訓にヨヒ〔二字右○〕と訓るはわろし、○木上宮《キノベノミヤ》は、上に木※[瓦+缶]《キノベノ》殯宮、城(ノ)上《ベノ》殯宮などあると同所也、○常宮等《トコミヤト》は、今より此處(46)の御墓を作り、久しくかはる事なき大宮と定め給ふをいふ、○高之奉而《タカクシタテテ》、玉(ノ)小琴に、高之奉而は、定〔右○〕を高之〔二字右○〕の二字に誤れるなり、上の長歌にも常宮跡定賜《トコミヤトサダメタマヒテ》とあり、考に、高知座と改められつるは、字形遠しといへり、暫く此説に從ふ、定奉而《サダメマツリテ》と訓べし、奉をタテ〔二字右○〕とも訓べけれど、此はマツリテ〔四字右○〕と訓む方よろし、略解に、高之〔右○〕奉而の之〔右○〕の字、久〔右○〕の誤にて、タカクマツリテとありしかとあるも非也、○神隨安定座奴《カムナガラシヅマリマシヌ》、神隨《カムナガラ》は上にいへるが如く、神におはしますまゝにとの意也、舊訓にカミノママニ〔六字右○〕とあるはわろし、安定をシヅマリ〔四字右○〕と訓るは義訓也、書紀神代紀下に、平定をシヅム〔三字右○〕と訓り、さて此しづまりますといふ言は、外へ遷《ウツリ》行まさずして、其處に永く留り給ふをいへるにて、古事記に鎭座をよみ、出雲風土記、枕詞等に、靜座をよめり、委しくは古事記傳卷十一に見えたり、○雖然《シカレドモ》、此言は上下へかゝりて、次下の香具山の宮は、萬代過ぬとも失むと思へやは、失むとは思はざりしものをといふなり、○吾大王《ワゴオホキミ》は高市(ノ)皇子をさし奉る、○萬代跡所念食而作良志之《ヨロヅヨトオモホシメシテツクラシシ》は、此香來山の大宮を、萬代もかくてあらむと思ほしめして、作り給ひしと也、○香來山之宮《カグヤマノミヤ》、此地は大和(ノ)國十市(ノ)郡にて、香來山のほとりなれば、香具山の宮とも申しゝ也、○萬代爾過牟登念哉《ヨロヅヨニスギムトオモヘヤ》、萬代は年久しきをいへる也、過牟登念哉《スギムトオモヘヤ》は、たゞ此まゝにて徒らに過むと思へやは、徒らに(47)過むとは思はざりしと、うらへ意のかへるなり、○天之如振放見乍《アメノゴトフリサケミツツ》は、大殿をふりあふぎ見るなり、天はふりあふぎて見るもの故に、天之如《アメノゴト》とはいへり、○玉手次《タマダスキ》は枕詞也、○懸而將偲《カケテシヌバム》は、心にかけて忍び奉らむと也、〇恐有騰文《カシコカレドモ》は、かしこくあれどもにて、かしこしといふ言は、上文の注にいへるが如く、本はかしこみ恕《オソ》るゝ意なれど、そを轉じて、ありがたくかたじけなき意にて、俗言に恐れおほきといふ心にて、恐れおほけれども、心にかけて忍び奉らむとなり、
一篇の大意は、飛鳥の眞神の原に鎭り座す天武天皇は、壬申の年の亂の時、美濃の不破山を越て、和※[斬/足]の行宮におはしまして、まつろはぬ人々を治め和《ヤハ》せと、高市(ノ)皇子(ノ)尊におほせ給へば、皇子は軍事を負《オヒ》持給ひて、御自ら劔とり佩き弓矢取持し給ひて、數多の軍衆を率ゐ給へり、其|節《ヲリ》の鼓の音は、雷の落くるかと驚き、小角《クダ》の音も、仇見たる虎がほゆると思ふまでおびえられ、風になびく幡旗のしげきは、野火かとばかり思はれ、弓弭の音のしげきは、諸人のおそれおのゝくまでにて、入亂れ戰ひたり、其折伊勢の齋(ノ)宮の方より神風吹興り、朝敵を時の間に撥ひ平げて穩に靜め給へり、かゝれば萬代までにかくてあらむとよろこび思ひしに、如何なればならむ皇子(ノ)尊は、城(ノ)上(ノ)宮べを常宮《トコミヤ》と定め給へば、せんすべなみ皇子(ノ)尊の造らせ給へ(48)りし香具山の宮を、御形見と仰ぎ見つゝあらむとなり、
 
短歌二首
 
久堅之天所知流君故爾《ヒサカタノアメシラシヌルキミユヱニ》、月月毛不知戀渡鴨《ツキヒモシラズコヒワタルカモ》
 
短歌は總稱にて、常の三十一言のはもとより、長歌の後なるも短歌といふ、反歌は別稱にて、長歌の後にあるものに限れり、此事は一の巻の注に委しくいへり、天所知流《アメシラシヌル》とは、天皇にまれ皇子にまれ、崩給ふを、神となりて天をしろしめすといへり、上の日並知皇子の殯宮(ノ)歌に、天原石門乎開《アマノハライワトヲヒラキ》、神上上座奴《カムアガリアガリイマシヌ》云々、本集卷三【五十八右】に、和豆香山御輿立之而《ワヅカヤマミコシタタシテ》、久堅乃天所知奴禮《ヒサカタノアメシラシヌレ》云々などもあり、〇君故爾《キミユヱニ》、此故はなるものを〔五字右○〕といふ意也、○月日毛不知《ツキヒモシラズ》とは、皇子の薨ませるを歎き戀まどひて、月日の經行をも知ずとなり、舊訓に日月を、字のまゝにヒツキ〔三字右○〕と訓たるはわろし、ツキヒ〔三字右○〕と訓べし、
一首の意は、皇子(ノ)命は今は天をしろしめして、神上したまひしものを、いかでかくは戀奉ることよとなり、
 
埴安乃池之堤之隱沼乃《ハニヤスノイケノツツミノコモリヌノ》、去方乎不知舎人者迷惑《ユクヘヲシラニトネリハマドフ》
 
(49)埴安乃池之堤之《ハニヤスノイケノツツミノ》、本集巻一【二十三左】に、埴安乃堤上爾《ハニヤスノツツミノウヘニ》、在立之《アリタタシ》云々とありて、既にいへり、○隱沼乃《コモリヌノ》、舊訓にカクレヌノ〔五字右○〕とあるはわろし、本集卷十四【三十二右】に、須沙能伊利江乃許母理沼乃《スサノイリエノコモリヌノ》云々とあるによりて、コモリヌ〔四字右○〕と訓べし、隱沼とは本集卷九【三十六右】に、隱沼乃下延置而《コモリヌノシタバヘオキテ》云々、卷十二【二十右】に、絶沼之下從者將戀《コモリヌノシタユハコヒム》云々などありて、水の流れずしてこもりてのみあるをいひて、此處は池の堤のめぐりて、水の流れざるが故に、去方乎不知《ユクヘヲシラニ》とはつゞけたるなり、和名抄水土類に、唐韻云、沼【之少切、和名奴、】池沼也、古事記に、沼の字ぬ〔右○〕の假字に用ゐたり、本集卷十一【三十三右】に、青山之石垣沼間乃水隱爾《アヲヤマノイハガキヌマノミゴモリニ》云々ともあり、○去方乎不知《ユクヘヲシラニ》、舊訓不知をシラズ〔三字右○〕と訓れど、シラニ〔三字右○〕と訓べし、
一首の意は、隱沼《コモリヌ》は水のゆく處なくこもりてのみある、その如く行方を知ざれば、舍人はまどふといへるにて、皇子薨ましてすべきかたなきよし也、
 
或書反歌一首
 
哭澤之神社爾三輪須恵雖祷祈《ナキサハノモリニミワスヱイノレドモ》、我王者高日所知叔《ワゴオホキミハタカヒシラシヌ》
 
哭澤之《ナキサハノ》、古事記上卷に、故爾伊邪那岐(ノ)命詔之、愛我那邇妹命乎、謂v易2子之一木1乎、乃匍2匐御枕方1、匍2匐御足方1而哭時、於2御涙1所v成神、座2香山之畝尾(ノ)木本1、名2泣澤女神《ナキサハメノカミ》1云々と(50)ある此神也、延喜神名式に、大和(ノ)國十市(ノ)郡畝尾(ノ)都多本(ノ)神社云々とあるこれなるべし、古事記傳巻五【六十七】に、昔かく人の命を此神に祈りけむよしは、伊邪那美(ノ)神の崩ませるを悲しみ給へる御涙より戚座る神なればかといへり、○神社爾《モリニ》、集中神社をも社の一字をもモリ〔二字右○〕と訓り、ともに義訓也、本集卷七【三十三左】に.卯|名手之神社《ナテノモリ》、卷九【十六左】に、石田社《イハタノモリ》などあり、神社には必ず樹木生しげりて、森ともなるによりて、其義もてかける文字也、又集中にも新撰字鏡にも、杜の字をもモリ〔二字右○〕と訓り、社には樹木あるものなれば.或は木に从てもかけるにて、皇國古人の造宇也、〇三輪須惠《ミワスヱ》、三輪《ミワ》は神酒、須惠《スヱ》は居なり、和名抄祭祀具に、日本紀私記云、神酒【和語云2美和1】本集卷十三【四右】に、五十串立神酒座奉神主部之《イグシタテミワスヱマツルハフリベガ》云々ともあり、これは神酒を甕《ミカ》に醸《かみ》たるまゝ神にそなへ供する也、○雖祷祈《イノレドモ》、これを玉(ノ)小琴に、コヒノメド〔五字右○〕と訓べしといへれど、舊訓のまゝイノレドモ〔五字右○〕と訓べき也、本集巻十三【二十四右】に、天地乃神乎祷迹《アメツチノカミヲイノレド》云々、又|神尾母吾者祷而寸《カミヲモワレハイノリテキ》云々などあるを見べし、〇高日所知奴《タカヒシラシヌ》は、即天を所知めすをいふ也、古事記傳卷三【五右】高天原《タカマノハラ》の注に、高《タカ》とは天を云稱にて、たゞに高き意に云るとはいさゝか異なり、【高は體言なり】日の枕詞に、高光《タカヒカル》と云も、天照《アマテラス》と同じ意、高御座《タカミクラ》も天《アメ》の御座と云ことにて同じとあり、さて日は卷一に、過2近江(ノ)荒都1時、柿(ノ)本(ノ)朝臣人麿の歌に、橿原乃日(51)知之世從《カシハラノヒジリノミヨユ》とある日知の日と同じくて、天つ日嗣しろしめすを申せるにて、此の高日の日これに同じ、三代實録に、元慶四年藤原(ノ)基經公を、太政大臣に任《メシ》給ふ宣命に、朕我食國乎平久安久天照之治聞食須故波《アガヲスクニヲタヒラケクヤスクアマテラシヲサメキコシメスユヱハ》、此大臣之力奈利《コノオホオミノチカラナリ》とあり、此は天照大神に准へて、天皇の天(ノ)下|所知食《シロシメス》を天照《アマテラス》といへるなり、これにて高日所知奴《タカヒシラシヌ》の意を辨ふべし、上に天所知流《アメシラシヌル》とも申て、天皇はもとより、皇子達の薨ませるをも、神となりて天を領し給ふとは申すなり、
一首の意は、哭澤の神に御酒を居奉りて、我大王の御命を祈り申しゝかども、其甲斐く薨まして、天を知り領しましぬとなり、
 
右一首、類聚歌林曰、檜隈(ノ)女王、怨《ウラムル》2泣澤(ノ)神社1之歌也案日本紀曰、持統天皇十年丙申秋七月辛丑朔庚戌、後(ノ)皇子(ノ)尊薨、
 
檜隈(ノ)女王は、高市(ノ)皇子の御妃《ミメ》なるべし、父祖不詳、續日本紀に、天平九年二月、授2從四位下檜(ノ)前(ノ)王從四位上1と見えたり、此處は内親王又は夫人等の叙位なれば、此(52)王なるべし、但續紀には檜前とあれど、古(ヘ)前の字をもクマ〔二字右○〕とよみて、同訓なれば通はし書る也、○怨《ウラムル》2泣澤(ノ)神社1とは、此高市(ノ)皇子の御事を祈申されしかど、其甲あらざりしかば怨み奉れる也、○持統天皇の四字は、元朱鳥とありしを、後人其側に、持統天皇の四字を記せるを、最後(ノ)人の朱鳥の二字を削りて、持統天皇の四字を書したるなるべし、○後(ノ)皇子、高市(ノ)皇子は、草壁(ノ)皇子薨給ひて後、皇太子に立給ひしかば、後(ノ)皇子とは申なり、
 
但馬(ノ)皇女薨後、穗積(ノ)皇子、冬日雪落(リ)、遙望2御墓1悲傷流v涕、御作歌一首
 
零雪者安幡爾勿落吉隱之《フルユキハアハニナフリソヨナバリノ》、猪養乃岡之塞爲卷爾《ヰカヒノヲカノセキナラマクニ》
 
但馬(ノ)皇女は、續日本紀に、和銅元年六月丙戌、三品但馬(ノ)内親王薨、天武天皇之皇女也とあり、本卷上文に、但馬(ノ)皇女在2高市(ノ)皇子(ノ)宮1時、思2穗積(ノ)皇子1御作歌、又但馬(ノ)皇女在2高市(ノ)皇子(ノ)宮1時、竊接2穗積(ノ)皇子1、事既形而後御作歌などありて、ひそかに通じおはしましける也、○穗積(ノ)皇子は天武帝の皇子也、○遙望2御墓1悲傷流v涕、考に、但馬(ノ)皇女の肩(53)に、寧樂(ノ)宮の三字の標目を加へたるは非也、卷一下にいひたる如く、大寶元年より以下は、年號を以て順序を立たることにて、宮城の稱號をばしるさゞる例にて、廣く寧樂(ノ)宮とのみ標せる也、但和銅三年に遷都ありしかど、三年の歌はなければ、此四年の所に標目を置たるにこそ、
安幡爾勿落《アハニナフリソ》、此|安幡《アハ》は必ず地名なるべし、考には、安幡《アハ》の安は佐の誤とて、佐幡《サハ》と改めて、雪のおほくふる事勿れといふ意とし、鈴屋は、近江の淺井(ノ)郡の人、其あたりにては、淺き雪をばゆき〔二字右○〕といひ、深く一丈もつもる雪をばあは〔二字右○〕といふとなり、此處によくかなへり、古今集の、雪のあはだつも、雪の深く立意なるべし、古言は田舍《ヰナカ》に殘れることもあればにやあらむ、猶考ふべしといへり、閑田耕筆にも.近江彦根(ノ)人の云るは、或農夫に其が家の後の山林を、伐りひらくべくさとしけるに、農夫の云けるは、これなくてはあは〔二字右○〕のふせぎいかにともすべきやうなしといひければ、あはとは何の言ぞと云たるに、あはとは雪のつもりて崩るゝを云、されば林をもて其を防がざれば、家をうちたふすなりと答へけるよしいへりとあり、○吉隱之猪養乃岡之《ヨナバリノヰカヒノヲカノ》、大和志、城(ノ)上(ノ)郡に猪(ノ)飼(ノ)山、在2吉隱《ヨナバリ》村(ノ)上(ノ)方1、持統紀曰、九年十月、幸2菟田(ノ)吉隱1、即此。今隷2本郡1、其野曰2浪芝《ナミシバ》野1、又延喜諸陵式に、吉隱(ノ)陵、在2大和(ノ)國城上(ノ)郡1と見えたり、舊訓(54)に隱をコモリ〔三字右○〕とあるはわろし、本集巻八【三十九右】に、吉名張乃猪養山爾伏鹿之《ヨナバリノイカヒノヤマニフスシカノ》云々、卷十【四十四左】に、吉魚張能浪柴乃野之《ヨナバリノナミシバノヌノ》云々などあり、○塞爲卷爾《セキナラマクニ》、塞は字の如くふさぐ意にて、古事記上巻に、逆2塞上《サカサマニセキアゲ》天(ノ)安(ノ)河之水1而云々、本集卷三【五十六左】に、妹乎將留塞毛置未思乎《イモヲトドメムセキモオカマシヲ》などあり、又廣雅釋詁(ノ)三に、關(ハ)塞也ともあり、
一首の意は、皇女の御墓仕へ奉る人の行通はむに、ふる雪の安幡《アハ》にふりたらむには、御墓所の猪養の岡に行かよふ道の關《セキ》となりて、通ひ難からむとなり、
橘(ノ)守部の萬葉緊要に、此御歌、諸抄の訓すべて通《キコ》えがたし、結句の塞の字は、寒を誤れるにて、皇女の御墓の寒からむに、ふる雪は多く勿《ナ》ふりそとなりといへるは、いかにも哀れに聞えて情深し、故に今一説として出しぬ、
 
弓削(ノ)皇子(ノ)薨時、置染《オキソメノ》東人歌一首并短歌
 
安見知之吾王《ヤスミシシワゴオホキミ》、高光日之皇子《タカヒカルヒノミコ》、久堅乃天宮爾《ヒサカタノアマツミヤニ》、神隨神等座者《カムナガラカミトイマセバ》、其乎霜文爾恐美《ソコヲシモアヤニカシコミ》、晝波毛日之盡《ヒルハモヒノコトゴト》、夜羽毛夜之盡《ヨルハモヨノコトゴト》、臥居雖嘆飽不足香裳《フシヰナゲケドアキタラヌカモ》
 
(55)集中の例によれば、歌の字の上に作の字あるべし、但諸古本共皆無し、さて考に、此皇子は文武天皇紀に、三年七月過給ふとありて、右の但馬(ノ)皇女の薨より九年前也、此卷年の次でを立しを、この年次の違ふを始として、歌にも多く疑あり、仍て後人の注なる事しるければ小字にせりとて、歌をも端辭をも小字とせり、正辭按(フ)に、本集はもとより精撰したるものにあらざれば、前後したる事もあるべく、又は他に異なる由などありて、順序を變たるもあるべし、とにかくに元のまゝにて置むこそ、古書を傳ふる本意にはあるべけれ、依て今はもとの如く大字としたり、○置始(ノ)連東人は父祖官位未詳、○短歌、今本大書す、今依2元本官本温本昌本家本1小書とす、天宮爾《アマツミヤニ》、皇子たちの薨ませるを、神上《カムアガ》りとも、天所知《アメシラス》とも、高日《タカヒ》しらすともいひて、此處も神となりて天へ上りましておはすを、天宮《アマツミヤ》とは申せる也、○神隨神等座者《カムナガラカミトイマセバ》、これも.上に處々いへるが如く、神隨《カムナガラ》は神にましますまゝにといへる意也、神等座者《カミトイマセバ》は、神となりていませば也、舊訓にカミノマニ〔五字右○〕とあるはわろし、○其乎霜《ソコヲシモ》、舊訓に其をソレ〔二字右○〕と訓れど、かゝる處はソコ〔二字右○〕と訓べき例也、本集此卷【三十三右】に、所已乎之毛綾爾憐《ソコヲシモアヤニカナシビ》、卷十七【三十七右】に、曾巳乎之母宇良胡非之美等《ソコヲシモウラコヒシミト》などあり、霜《シモ》は借字にて助辭也、○文爾恐美《アヤニカシコミ》、上文高市(ノ)皇子(ノ)尊(ノ)殯宮(ノ)歌に、言久母綾爾畏伎《イハマクモアヤニカシコキ》とある所にいへるが如し、美は(56)サニ〔二字右○〕の意也、○晝波毛日之盡《ヒルハモヒノコトゴト》、上文に既にいへり、日のかぎりといふ意也、○臥居雖嘆《フシヰナゲケド》、本集卷十【十六左】に大夫之伏居嘆而《マスラヲノフシヰナゲキテ》云々ともありて、伏てはなげき居てはなげく也、○飽不足香裳《アキタラネカモ》、本集卷六【十五左】に、今耳二秋足目八方《イマノミニアキタラメヤモ》、卷十【二十七右】に、相見久※[厭のがんだれなし]雖不足《アヒミマクアキタラネドモ》などあり、伏居なげくとも猶あきたらずと也、新撰字鏡に、※[女+周]、好貌、阿支太留とあり、飽不足《アキタラズ》は此|反《ウラ》にて、不盡《ツキヌ》なり、
考に、これは古言をもていひつゞけしのみにして、わが歌なるべき事も見えず云々とて、いとあしざまにいひたれど、別に難とすべき所もあらず、唯いひふりたる言もてつゞけたるのみにて、反歌は二首ともに、人麻呂朝臣などの歌と並べ見むもはづかしからじ、
一篇の意はよく聞えたり、
 
反歌一首
 
王者神西座者天雲之《オホキミハカミニシマセバアマグモノ》、五百重之下爾隱賜奴《イホヘガシタニカクリタマヒヌ》
 
神西座者《カミニシマセバ》、神とは皇子を申せり、天皇皇子達の薨給へるを、神になりませる由にいへる事は、集中いと多し、西《ニシ》は借字にて、し〔右○〕は助辭也、〇五百重之下爾《イホヘガシタニ》本集此卷【二十七左】(57)に、天雲之八重掻別而《アマグモノヤヘカキワケテ》ともあるが如く、雲の多く重りたるを、八重とも五百重ともいへり、考には下を上と改て、五百重之上爾《イホヘノウヘニ》とせられしは誤也、鈴屋云、考に下を上と改られしはひがこと也、下《シタ》は裏《ウラ》にてうち〔二字右○〕といふに同じ、うへは表なればたがへり、表に隱るゝといふことやはあるべき、上下の字にのみなづみて、表裏の意を忘れられしなりと、此説よろし、本集卷十一【七右】、吾裏※[糸+刃]《ワガシタヒモ》云々、同【八左】に、從裏戀者《シタユコフレバ》云々など、裏をシタ〔二字右○〕と訓り、此處の下《シタ》は裏《ウチ》の意なるを曉るべし、
一首の意は、皇子は神にしましませば、天雲の五百重かさなれるうちにかくれ給へりとなり、
 
又短歌一首
 
神樂波之志賀左射禮浪敷布爾《ササナミノシガササレナミシクシクニ》、常丹跡君之所念有計類《ツネニトキミガオモホセリケル》
 
又とは、前の端辭の弓削(ノ)皇子薨時、置始(ノ)連東人作歌をうけて、又そのをりのといへる意、短歌とは前の長歌にむかへいへる也、しかるに考に、此二首は或本の歌にて(58)本文にはあらずとて、小字にしるされたるはわろし、神樂浪之《ササナミノ》は枕詞にて、卷一の注にいへり、神樂浪と書る文字の事も、其所にいへり、
○志賀左射禮浪《シガササレナミ》、志賀は近江(ノ)國の郡名|滋賀《シガ》也、左射禮浪《ササレナミ》は、本集卷四【十九左】に、佐保乃河瀬之小浪《サホノカハセノササレナミ》云々、卷十三【三右】に、沙邪禮波浮而流《ササレナミウキテナガルル》などもありて、小浪とも訓るが如く、小《チヒサ》き浪をいへる也、書紀允恭紀の御歌に、佐瑳羅餓多邇之枳能臂毛弘《ササラガタニシキノヒモヲ》云々とあるも、小紋形の錦の紐にて、ら〔右○〕とれ〔右○〕と通へば、さゝれともさゝらともいふ也、さて志賀の海の泊※[さんずい+柏]《ササラナミ》を、志賀左射禮浪といふは、古語の一格にて、卷三の人磨朝臣の歌に、夕べの浪に立さわぐ千鳥を、夕浪千鳥《ユフナミチドリ》と訓るが如し、○敷布爾《シクシクニ》、本集卷四【四十六右】に、朝居雲之敷布二《アサヰルクモノシクシクニ》、吾者戀益《ワレハコヒマス》云々、感六【十五右】に、邊津浪之益敷布爾《ヘツナミノイヤシクシクニ》、月二
異二《ツキニケニ》云々、又卷十七【三十四左】に、與須流奈美伊夜思久思久爾《ヨスルナミイヤシクシクニ》云々などあり、さて此處までは序歌にて、しくしくといはむとて、さゝ浪のしがさゝれ浪とはいひて、其浪のしく/\によりきて、かはる事なきが如く、つねにかはらじと君がおもほしたりとなり、○常丹跡君之所念有計類《ツネニトキミガオモホセリケル》、鈴屋云、常はつねと訓べし、結句はおもほせりける〔七字右○〕とよむべし、考に、とこにと君がおぼしたりける、とよまれしかど、おぼしといふ言は集中に例なし、
一首の意は、初二句は序歌にて、三句以下は重々《シクシク》による波の如く、常しへに座しま(59)さむとおもほしけむものを、今かく薨じ給へるはいとかなしとなり
 
柿(ノ)本(ノ)朝臣人麿(ノ)妻(ノ)死之後、泣血哀慟作歌二首并短歌
 
天飛也輕路者《アマトブヤカルノミチハ》、吾妹兒之里爾思有者《ワギモコノサトニシアレバ》、懃欲見騰《ネモゴロニミマクホシケド》、不止行者人目乎多見《ヤマズユカバヒトメヲオホミ》、眞根久往者人應知見《マネクユカバヒトシリヌベミ》、狹根葛後毛將相等《サネカヅラノチモアハムト》、大舩之思憑而《オホブネノオモヒタノミテ》、玉蜻磐垣淵之《タマカキルイハガキブチノ》、隱耳戀管在爾《コモリノミコヒツツアルニ》、度日乃晩去之如《ワタルヒノクレユクガゴト》、照月乃雲隱如《テルツキノコモガクルゴト》、奥津藻之名延之妹者《オキツモノナビキシイモハ》、黄葉乃過伊去等《モミヂバノスギテイニキト》、玉梓之使乃言者《タマヅサノツカヒノイヘバ》、梓弓聲爾聞而《アヅサユミオトニキキツツ》【一云聲耳聞而】將言爲便世武爲便不知爾《イハムスベセムスベシラニ》、聲耳乎聞而有不得者《オトノミヲキキテアリエネバ》、吾戀千重之一隔毛《ワガコフルチヘノヒトヘモ》、遣悶流情毛有八等《ナグサムルココロモアレヤト》、吾妹子之不止出見之《ワギモコガヤマズイデミシ》、輕市爾吾立聞者《カルノイチニワガタチキケバ》、玉手次畝火乃山爾《タマダスキウネビノヤマニ》、喧鳥之音母不所聞《ナクトリノオトモキコエズ》、玉(60)桙道行人毛《タマボコノミチユクヒトモ》、獨谷似之不去者《ヒトリダニニテシユカネバ》、爲便乎無見妹之名喚而袖曾振鶴《スベヲナミイモガナヨビテソデゾフリツル》、【或本有d謂2之名耳聞而有不得者1句u】
 
人麿(ノ)妻、人麿の妻は本集上文にあげたる、考別紀のごとく、前後四人の中に、二人は嫡碎妻、二人は妾とおぼしき也、こゝなる二首の歌の、前の一首は妾、後の一首は妻の失たるを、かなしまれし歌と見えたり、さて考に、この端詞を柿本(ノ)人麿竊(ニ)所(ノ)v通娘子(ノ)死之時、悲傷作歌、と改られしは誤り也、既に上にいひし如く、古(ヘ)は妻をも妾をも、共につま〔二字右○〕といひしなれば、こゝに妻をも妾をも、ともに妻と書て、二首の端詞とせしなるをや、○泣血とは、中ごろよりいふ、血の涙なり、毛詩に、鼠思泣く血、無言不疾、韓非子に、泣盡而繼v之以v血などあり、古今集哀傷に、素性法師血の涙おちてぞたぎつしら川は、君が世までの名にこそありけれ、竹取物語に、おきな嫗、ちの涙をながしてまどへどかひなし、伊勢物語に、をとど、ちの涙をながせど、とゞむるよしなし、など見えたり、本集巻十六【六右】に、其兩壯士、不v堪2哀慟1、血泣漣v襟ともあり、○哀慟は、かなしみなげく意なり、○短歌、此二字、官本家本昌本、小字とす、從ふべし、今本大字とせるは非也、
(61)天飛也《アマトブヤ》は枕詞にて、天とぶ雁《カリ》といふをはたらかして、輕《カル》の地名にいひかけたる也、也《ヤ》はたかゆくや、たかしるや、おしてるや、さひづるやなどの也《ヤ》にて、助辭なり、○輕路者《カルノミチハ》、輕は、大和(ノ)國高市(ノ)郡の地名也、古事記に、輕之境岡(ノ)宮、輕之酒折(ノ)池、輕(ノ)池など見え、また本集卷四【二十三右】に、天翔哉輕路從《アマトブヤカルノミチヨリ》、玉田次畝火乎見管《タマダスキウネビヲミツヽ》云云ともありて、畝火乃山を讀合せたれば、高市(ノ)郡なる事川明らかなり、路、官本拾本作v跡、誤也、○里爾思有者《サトニシアレバ》、吾妹子が住し里なればと也、その人の本居をさして里といへり、物語ぶみに、里ずみ又里になどいひ、本集此巻【十二左】に、吾里爾大雪落有大原乃《ワガサトニオホユキフレリオホハラノ》、古爾之郷爾落卷者後《フリニシサトニフラマクハノチ》、卷三【十八左】に、吾背子我古家乃里之明日香庭《ワガセコガフルヤノサトノアスカニハ》云々などあり、○懃《ネモゴロニ》、この語を俗にいはゞ、一方《ヒトカタ》ならず、ひとへに、などいふに當れり、書紀神代紀に、慇懃、本集に、懃、惻隱、靈異記に、慇、續日本後紀、興福寺僧長歌に、丁寧などの字をよめり、みなひとかたならずの意也、○欲見騰《ミマクホシケド》は、見まくほしけれどの、れ〔右○〕を略ける也、上文、渡相月乃雖惜《ワタラフツキノヲシケドモ》とある注に精し、舊訓にミマクホリスト〔七字右○〕とあるは非也.輕の路は妹がすめる里なれば、一方ならず見まほしく思へどもとなり、○不止行者《ヤマズユカバ》、不止はやむ時なくといふにて、不斷の意なり、本集卷三【二十九右】に、在管裳不止將通《アリツヽモヤマズカヨハム》云云、卷九【二十五右】に、不息來益常玉橋渡須《ヤマズキマセトタマハシワタス》などあり、○眞根久往者《マネクユカバ》、○眞根久《マネク》は、間無くの意にて、しげく度々ゆかば也、○人應知(62)見《ヒトシリヌベミ》、ベミ〔二字右○〕といふ言は集中いと多くありて、皆べき〔二字右○〕、それ故に、といふ意なり、こゝも度度ゆかば、人しりぬべき〔二字右○〕それ故に、のちにもあふことあらむと思ひたのみて、人めを忍びつゝあるにと也、○狹根葛《サネカヅラ》は枕詞にて、葛《カヅラ》は長くはひわかれては、末のまたはひあへるものなれば、さねかづらのごとく、また後にあはむとつゞけしなり、狹根葛は、本草和名に、五味、和名佐禰加都良とありて、和名抄もこれに同じ、古事記には、佐那葛《サナカヅラ》とありて、集中には、さねかづらとも、さなかづらともよめり、猶この事は此卷(ノ)上に精しくあり、〇後毛將相等《ノチモアハムト》は、また後にも.あはむとゝ也、本集卷四【四十六右】に、逝水之後毛將相今爾不有十方《ユクミヅノノチモアヒナムイマナラズトモ》、また同【五十二右】に、後湍山後毛將相常念社《ノチセヤマノチモアハムトオモヘコソ》云云などあり、○大舩之《オホブネノ》は枕詞なり、海上にて、たゞ大船《オホブネ》をのみ、たのもしきものに思ひたのむよし也、〇玉蜻《タマカキル》は枕詞なり、舊訓にカゲロフ〔四字右○〕とあり、考にはカギロヒ〔四字右○〕と改たれど、それも是ならず、タマカキル〔五字右○〕と訓べし、此事は卷一に詳かに論じおきたり、○磐垣淵之《イハガキブチノ》は、谷川に、岩の垣の如く立めぐりたる淵をいふ、本集卷十一【十三左】に、玉限石垣淵乃隱而在※[女+麗]《タマカキルイハガキブチノコモリタルツマ》、同【三十二左】に、玉蜻石垣淵之隱庭《タマカキルイハガキブチノコモリニハ》云云なども見えたり、○隱耳《コモリノミ》、こは上の不止ゆかば人目を多み、まねくゆかば人しりぬべみをうけて、それ故に家に隱耳《コモリノミ》居て、戀つゝ在と也、さて舊訓カクレノミ〔五字右○〕とあれど、隱はこもりとよむべき事、上文、高(63)市(ノ)皇子(ノ)尊(ノ)殯宮之時の歌の、隱沼《コモリヌ》の所にい へるがごとし、〇度日乃晩去之如《ワタルヒノクレユクガゴト》、わたるとは、日の空を行ことをいふ、こゝは過にし妹がことをいはむとて、天をゆく日の夕になりて入るがごとく、てらせる月の雲にかくるゝかごとくに、妹は過去にきと、使の來りていへるとなり、○奥津藻之名延之妹者《オキツモノナビキシイモハ》、藻は浪と共に、うち靡くものなれば、奥に生たる藻の如く、なよゝかに靡き伏て、共にねし妹はといへるなり、本集此卷【三十一左】に、玉藻成彼依此依《タマモナスカヨリカクヨリ》、靡相之嬬乃命乃《ナビカヒシツマノミコトノ》云云、同【三十二左】に、川藻之如久靡相之《カハモノゴトクナビカヒシ》云云、卷十一【四十一右】に、奥藻之名延之君之《オキツモノナビキシキミガ》云云なども見えたり、○黄葉乃《モミヂバノ》は枕詞にて、黄葉よりは、落て過ぐる事、人のうへにかけては、此世を過去《スギサリ》し事をいふ、○過伊去等《スギテイニキト》、舊訓スギテイユク〔六字右○〕とあるも、考に、スギテイニシ〔六字右○〕とよまれしもいかゞ、スギテイニキト〔七字右○〕とよむべし、黄葉は散て過去《スギユク》ものなれば、失にしかの隱し妻は、黄葉のちり失るがごとくに、過ゆき給ひしと、大和より使が告しとなり、○玉梓之《タマヅサノ》は枕詞なり、玉はほむる詞ときこゆれど、梓の字解しがたし、代匠紀、萬葉考、玉(ノ)小琴などの説、いづれも從ひがたし、高田與清の十六夜日紀殘月抄に、師説に、玉梓は玉豆志《タマヅシ》の通音なり、字鏡(ノ)艸(ノ)部に、慧苡子(ハ)玉豆志《タマヅシ》、苡は玉豆志などみえ、古語拾遺には、古語以v慧曰2郡須《ツスト》1とあり、本草和名、和名抄などには、都之太末《ツシダマ》とよめり、今の世にもスヾダマ〔四字右○〕といふ(64)物にて、その實《ミ》一むらに附《ツキ》てなるがゆゑに、玉豆志の附合《ツカヒ》とつゞけたり、妹とつゞけしは、相したしむ心もてつゞけしなり、さてやがて使の事にも、又使は文もて行かよふたのなれば、文の事にも轉じていへり、〇使乃言者《ツカヒノイヘバ》、使は大和より來たる使なり、言者《イヘバ》は、かの失にしよしを告るなり、○梓弓《アヅサユミ》は枕詞にて、弓を引には必らず音するものなれば、おととつゞけし也、○聲爾聞而《オトニキヽツヽ》、集中聲と音と通はし書るは常の事なり、こは女の失にし事を告來りし、使のいふ言をきゝて也、而は舊訓にツツ〔二字右○〕とよめり、こは必かく訓べき也、諸注にテ〔右○〕と訓(ミ)改たるは非なり、而をツツ〔二字右○〕とも訓べきよしは、萬葉集訓義辯證に精しくいひたれば往見すべし、一云|聲耳聞而《オトノミキヽテ》とあるは、調べわろし、これも而はツツ〔二字右○〕と訓て、耳〔右○〕はニ〔右○〕の假字とすべし、耳〔右○〕をニ〔右○〕の假字に用ゐたるは、常の事なり、但し一云とて記したるには、文字の形の異なるのみにて、訓は同じきもある事にて、此事は萬葉集讀例に集めおきたり、○將言爲便世武爲便不知知爾《イハムスベセムスベシラニ》は、女の失にし事を使の告るを聞て、あきれまどひ歎きしづみて、何といはむすべも、何とせむすべもしらずといへるなり、爲便をすべ〔二字右○〕と訓ことは上に既にいへり、本集卷三【三十一左】にも將言爲便將爲便不知《イハムスベセムスベシラニ》云云とあり、此他猶多し、不知爾《シラニ》の爾はズ〔右○〕の意なり、○聲耳乎聞而有不得者《オトノミヲキヽテアリエネバ》は、女の失にしよしを告來りつれば、歎にの(65)みしづみて、何といはむすべも、何とせむすべもしらず、されどそのたよりをきゝては、かくてのみはあられねばといふ意にて、思ひかねたるさまさもあるべし、○吾戀千重之一隔毛遣悶流《ワガコフルチヘノヒトヘモナグサモル》、吾戀《ワガコフル》は、わが戀ふる心のといふ意なれば、ワガコフル〔五字右○〕と訓べし、舊訓にワガコヒノ〔五字右○〕とあるはわろし、千重之一隔《チヘノヒトヘ》毛は、戀ふる心のしげきをたとへて、その心の千重にかさなりたるうちの、一重だにもなぐさむやとてといふ意なり、遣悶の字は、上の明日香(ノ)皇女の殯宮(ノ)歌にも、おもひやるとよめり、こゝをも舊訓にオモヒヤル〔五字右○〕とあれど、本集卷四【十六右】に、吾戀流千重乃一隔母《ワガコフルチヘノヒトヘモ》、名草漏情毛有哉跡《ナグサムルコヽロモアレヤト》、家當吾立見者《イヘノアタリワガタチミレバ》云云、卷六【二十三右】に、吾戀之千重之一重裳奈具佐末亡國《ワガコフルチヘノヒトヘモナグサマナクニ》などあるによりて、ナグサムル〔五字右○〕とよむべきなり、さてこれを玉(ノ)小琴には、ナグサモル〔五字右○〕とよまれしかど、集中にも、なぐさむ〔右○〕るとも、なぐさも〔右○〕るともありて、なぐさむるは本語、なぐさもるは轉語なれば、本語につきて、なぐさむるとよまむ方よろし、〇情毛有八等《ココロモアレヤト》、沓訓にアルヤ〔三字右○〕と訓れども、玉(ノ)小琴に、アレヤ〔三字右○〕と訓べしといへるに從ふ、あれ〔二字右○〕は希求言、や〔右○〕は歎息のや〔右○〕にて意なし、本集卷六【十八右】に、水烏二四毛有哉家不念有六《ウニシモアレヤイヘモハザラム》、卷七【三十六左】に、雲西裳在哉時乎思將待《クモニシモアレヤトキヲシマタム》などあるに同じ、さてこゝの意は、吾戀わたるこころの、千重が一つだ一になぐさむる方もやあれとて、輕の市にて立きくと也、○不(66)止出見之《ヤマズイデミシ》、考にツネニデテミシ〔七字右○〕とよまれしは非也、ヤマズ〔三字右○〕は不斷の意なれば、舊訓のまゝにてよし、また出を殊更にデテ〔二字右○〕とよみ改たるもわろし、此は吾妹子が、不斷たえす輕の市にて、商人が物の賣買するを、出て見しをいふなるべし、○輕市爾《カルノイチニ》、輕の地の事は上文にいへり、市は關市令に、凡市、恒以2午時1集、日入前撃v鼓三度散、義解に、謂日中爲v市、致2天下之民1是也と見えたり、〇吾立聞者《ワガタチキケバ》は、その輕の市に行て立てきけばにて、妹が事をいふ人もやあるときくなり、戀しさのあまり、妹がつねに出て見たりし所なればとて、そこに立まよへるさまなり、この句は下の音母不所聞《オトモキコエズ》といふへかけて心得べし、〇玉手次《タマダスキ》は枕詞なり、既に出たり、○畝火乃山《ウネビノヤマ》は、大和(ノ)國高市(ノ)郡なれば、この輕の地の近き所なるべし、この山の事、卷一にいへり、○喧鳥之《ナクトリノ》、こは音母不所聞《オトモキコエズ》といはむ序にて、喧鳥之音《ナクトリノオト》とかけたるなり、○音母不所聞《オトモキコエズ》、オト〔二字右○〕は聲といふに同じ、本集卷五【十八右】に、于遇比須能於登企久奈倍爾《ウグヒスノオトキクナベニ》云云、卷七【四十一左】に、黒髪之白成左右妹之音乎聞《クロカミノシロクナルマデイモガオトヲキク》、卷十七【三十五右】に、保登等藝須奈久於登波流氣之《ホトトギスナクオトハルケシ》云云などあり、○玉桙《タマボコノ》は枕詞なり、○道行人《ミチユクヒト》、本集卷九【十七左】に、玉桙乃道行人者《タマボコノミチユクヒトハ》、己行道者不去《オノガユクミチヲバユカズ》云云とありて、集中猶多し、舊訓これらをもみな、みちゆき人とよめれど、卷十五【十五右】に、久左麻久良多妣由久比等乎《クサマクラタビユクヒトヲ》云云とあると同格の語なれば、みちゆく人とよ(67)むべし、市に群行人をいへるなり、○獨谷似之不去者《ヒトリダニニテシユカネバ》、輕の市を群行人を見れども、ひとりだにも妹に似たるが行かねばと也、せめての事に似たる人をだに見むと思へるさま、悲みの情さもあるべし、谷《ダニ》は借字也、○爲使乎無見《スベヲナミ》は、妹に似たる人だにゆかねば、せむすべをなさにと也、見《ミ》はさにの意也、○妹之名喚而袖曾振鶴《イモガナヨビテソデゾフリツル》は、あまりの悲しさにたへかねて人めをはぢず、妹が名をよぴて軸をふりぬと也、すべて袖をふるは、悲しみにまれ、人にわかるゝにまれ、その事にたへかねしをりのわざなる事上にいへり、○或本以下十四字、今本大書す、官本温本昌本家本に依て小字とす、舊訓にナヲノミキヽテ〔七字右○〕とあるは非也、而をツツ〔二字右○〕とよめるは既にいへり、
一篇の大意は、高市(ノ)郡の輕の路は、吾妹の里なれば、ねもごろに見まくほしけれど、さては人目多く、度々行かば人も知らむと、忍びつゝあるに、其妹は俄にてる日のくれぬるが如く、月の入ぬるが如く、此世を去りぬと使の告るに、いはむすべせむすべしらず、あはれに悲しく、其使の言のみ聞てあるべきにあらねば、吾が思ふ千重の一重も、慰むる事もあれやと、妹が常にやまずいで見し、輕の市に出《イデ》て尋ぬるも、妹が聲も聞えず、群行く人の中に、一人だに似たる人もなければ、せむすべなく妹が名よぴて、袖振りきつることよとなり、
 
(68)短歌二首
 
秋山之黄葉乎茂迷流《アキヤマノモミヂヲシゲミマドヒヌル》、妹乎將求山道不知母《イモヲモトメムヤマヂシラズモ》【一云路不知而】
 
黄葉乎茂《モミヂヲシゲミ》は、秋の山の黄葉のしげさに、道をふみまどひぬるとなり、しげみのみ〔右○〕は、さにの意也、○山道不知母《ヤマヂシラズモ》、母は歎息のモ〔右○〕なり、一云の而《シテ》は、いひそへたるシテ〔二字右○〕にて、上へかへるシテ〔二字右○〕にはあらず、一首の意は、代匠紀に、次の長歌によるに、羽易(ノ)山に葬たるを、黄葉をめでゝ見に入たるが、道まどひして歸らぬさまにいひなせり、第七に、秋山に黄葉あはれとうらぶれて、入にし妹はまてどきまさぬ、これ能似たる歌なり、之に依に、妻の死去は九月下旬なりけるにやとあるが如し、
 
黄葉之落去奈倍爾玉梓之《モミヂバノチリユクナベニタマヅサノ》、使乎見者相日所念《ツカヒヲミレバアヒシオモホユ》
 
落去奈倍爾《チリユクナベニ》、なべは並《ナベ》なり、奈倍の言は、卷一下【五十三】又【七十三】にいへり、○相日所念《アヒシオモホユ》、考には、アヘルヒオモホユ〔八字右○〕とよめれど、舊訓のまゝアヒシヒ〔四字右○〕とよむ方まされり、
一首の意は、現在の時黄葉のちれるころ、あはれし事ありしを思ひいでゝ、黄葉の(69)ちりゆくにつれて、大和より來たる使を見るにつけて、むかしあひし日の事を思ひ出されぬと也、
 
打蝉等念之時爾《ウツセミトオモヒシトキニ》【一云宇都曾臣等念之】取持而吾二人見之《タヅサヒテワガフタリミシ》、※[走+多]出之堤爾立有《ハシリデノツツミニタテル》、槻木之已知碁智乃枝之《ツキノキノコチゴチノエノ》、春葉之茂之如久《ハルノハノシゲキガゴトク》、念有之妹者雖有《オモヘリシイモニハアレド》、憑有之兒等爾者雖有《タノメリシコラニハアレド》、世間乎背之不得者《ヨノナカヲソムキシエネバ》、蜻火之燎流荒野爾《カギロヒノモユルアラノニ》、白妙之天領巾隱《シロタヘノアマヒレガクリ》、鳥自物朝立伊麻之弖《トリジモノアサタチイマシテ》、入日成隱去之鹿齒《イリヒナスカクリニシカバ》、吾妹子之形見爾置《ワギモコガカタミニオケル》、若兒乃乞泣毎《ミドリゴノコヒナクゴトニ》、取與物之無者《トリアタフモノシナケレバ》、烏徳自物腋挾持《ヲトコジモノワキバサミモチ》、吾妹子與二人吾宿之《ワギモコトワガフタリネシ》、枕付嬬屋之内爾《マクラツクツマヤノウチニ》、晝羽裳浦不樂晩之《ヒルハモウラサビクラシ》、夜者裳氣衝明之《ヨルハモイキツキアカシ》、嘆友世武爲便不知爾《ナゲケドモセムスベシラニ》、戀友相因乎無見《コフレドモアフヨシヲナミ》、大鳥羽(70)易乃山爾《オホトリノハガヒノヤマニ》、吾戀流妹者伊座等《ワガコフルイモハイマスト》、人之云者石根左久見手《ヒトノイヘバイハネサクミテ》、名積來之吉雲曾無寸《ナヅミコシヨケクモゾナキ》、打蝉跡念之妹之《ウツセミトオモヒシイモガ》、珠蜻髣髴谷裳不見思者《タマカキルホノカニダニモミエヌオモヘバ》
 
打蝉等念之時爾《ウツセミトオモヒシトキニ》、上にいへるが如く、し〔右○〕とせ〔右○〕と音通ひて、現し身にて、妻の現在の時はといへる也、〇一云|宇都曾臣等念之《ウツソミトオモヒシ》、これもそ〔右○〕とし〔右○〕と通音にて同意なり、○取持而《タヅサヒテ》、舊訓にトリモチテ〔五字右○〕とあるはわろし、下の或本に、※[手偏+雋]手《タヅサハリ》とあるによりて、タヅサヒテ〔五字右○〕とよむべし、タヅサヒ〔四字右○〕はタヅサハリ〔五字右○〕の急言なり、集中|取持《トリモツ》といふことも、いと多かれど、物を手に持ことか、政を取持所にのみいひて、かゝる所にとりもつといひしことなく、こゝをとりもちてと訓ては、前後へかけて意聞えがたし、本集卷四【五十左】に、吾妹兒與携行而副而將座《ワギモコトタヅサヒユキテタグヒテヲラム》、卷九【十八左】に、細有殿爾※[手偏+雋]二人入居而《タヘナルトノニタヅサハリフタリイリヰテ》云云などあり、集中猶多し、この事上文、敷妙之袖柑※[手偏+雋]《シキタヘノソデタヅサハリ》とある所にもいへり、○吾二人見之《ワガフタリミシ》は、妹とわれとたづさはりつゝ二人して見しと也、〇※[走+多]出之堤爾立有《ハシリデノツヽミニタテル》、※[走+多]出は、走り出る意なり、玉篇に※[走+多]走也と見えたり、書紀雄略紀(ノ)和歌に、和斯里底能與廬斯企野磨能《ワシリデノヨロシキヤマノ》云云(71)とあり、走り出るばかり近き所をいふ、考には、※[走+多]出をハシリデ〔四字右○〕とよまれたり、走は、卷六【二十九右】に、石走多藝《イハバシルタギ》云云とありて、卷十五【十左】には、伊波婆之流多伎《イハバシルタギ》と假字書あり、又卷五【三十二右】に、多知婆志利勢武《タチバシリセム》とありて、卷九【十九右】には、立走《タチバシリ》とかき、卷十【五十九左】に、雹手走《アラレタバシル》とありて、卷二十【十一右】には、安良禮多婆之里《アラレタバシリ》とあり、かゝれば走は、本集にてはハシリ〔三字右○〕の假字なる事明けし、今集中の例に縱ふ、さて雄略紀の御歌には、和斯里《ワシリ》とありて、允恭紀(ノ)御歌に、斯※[口+多]媚烏和之勢《シラビヲワシセ》とあるは、下樋を令v走《ワシセ》なりといへば、走をワシリ〔三字右○〕の假字とせり、思ふにハ〔右○〕とワ〔右○〕はことに近き音なれば、古(ヘ)より通はしいひしならむ、日本紀歌の解に、和〔右○〕しりとは〔右○〕しりを別語とせるは非なり、〇槻木之《ツキノキノ》、和名抄木類に、唐韻云、槻、【音規、和名都岐之木、】木名、堪v作v弓者也とあり、此木の事は卷一下【六】にいへり、いと枝葉のしげるものなり、本集卷十三【二左】に、垣津田乃池之堤之《カキツダノイケノツツミノ》、百不足三十《モモタラズミソ》【今本元本塙本昌本家本、三十を卅に作る、】槻枝丹《ツキガエニ》、水枝指《ミヅエサシ》云云ともあり、立有《タテル》は、堤に槻の木の立るなり、營繕令に、凡堤内外并堤上、多殖2楡柳雜樹1、充2堤堰用1云云と見えたり、立るとは植《ウハ》りてあるをいふ、書紀神代紀下に、植此云2多底婁1とあり、○已知碁智之枝之《コチゴチノエノ》、橘(ノ)守部の山彦冊子に、彼此《ヲチコチ》とは別にて、上に物二つを云て、其一つを此《コチ》と指し、今一つをまた此《コチ》と指ていふ詞なり、彼此《ヲチコチ》と云語は、をちこちのたづきもしらぬ山中にとやうに、うちつけ(72)にもよみ出せるを、こちごちは一首の初にうち出せるに非ずして、必ず先(ヅ)上に物二(ツ)を云て、其次にのみいへり、とあるをよしとす、しかるを古事記傳四十二【二十一右】に、久老の説をよしとして、猶いへる説はわろし、こちごちといふ事は、古事記下卷(ノ)御歌に、久佐加辨能許知能夜麻登《クサカヘノコチノヤマト》、多多美許母幣具理能夜麻能《タタミゴモヘグリノヤマノ》、許知碁知能夜麻能賀比爾《コチゴチノヤマノカヒニ》云云、本集卷三【二十七左】に、奈麻余美乃甲斐乃國《ナマヨミノカヒノクニ》、打縁流駿河能國與《ウチヨスルスルガノクニト》、已知其智乃國之三中從《コチゴチノクニノミナカユ》云云など見えたり、〇春葉之茂之如久《ハルノハノシゲキガゴトク》は、春は木葉の茂くなるものなれば、妹を思ふ思ひのしげきにたとへたり、○念有之妹者雖有《オモヘリシイモニハアレド》は、その葉のごとく、しげくおもひたりし妹にはあれどもなり、○憑有之兒等爾者雖有《タノメリシコラニハアレド》は、心に思ひたのみてありし妹にはあれどもとなり、兒等は妹をいふ、○世間乎背之不得者《ヨノナカヲソムキシエネバ》は、生あるもの死するは世の中のならひなり、それにそむく事を得ざればと也、〇蜻火之《カギロヒノ》、かぎろひは陽炎なり、中世よりは、かげろふ又は糸ゆふともいへり、蜻は本草和名に、蜻蛉、一名青※[虫+廷]、和名加岐呂布とあれば、之を借てカケロに用ゐたるなり、火はヒ〔右○〕の借字なり、舊訓にカゲロフ〔四字右○〕とあるは非なり、必カキロヒ〔四字右○〕と訓べし、唐土にては之を野馬、又は遊絲ともいふ、庶物異名疏に、野馬(ハ)日光、一曰遊絲(ハ)水氣也、龍樹大士曰、日光著微、塵風吹之野中1、轉v名爲2陽※[蹈の旁+炎]1、愚夫見v之謂2之野馬1とあり、このもの日のうらう(73)らとてりてのどかなるをりは、野ごとにたつものなれば、かぎろひのもゆるあら野とはつゞけし也、此枕詞の事は卷一の別記に精細しくいへり、○燎流荒野爾《モユルアラヌニ》、もゆるとは、陽炎の火の氣の如くきらめくをいふ、○白妙之《シロタヘノ》は枕詞にて、領巾《ヒレ》とつゞけし也、○天領巾隱《アマヒレガクリ》、隱、舊訓にコモリ〔三字右○〕とあるはわろし、ガクリ〔三字右○〕と訓べし、考に、天雲隱れて遠きをいふ、雲をひれといふは、卷十に、秋風にふきたゞよはす白雲は、たなばたつめの天つ領巾《ヒレ》かもともありといひ、代匠紀もこれに同じ、略解に、宣長云、白たへの天ひれがくりは、葬送の旗をいふ、柩の前後左右に旗をたて持行さま也、右の説いづれもよろしともおぼえず、但し領巾は、古事記下卷(ノ)歌に、毛々志紀能游富美夜比登波《モヽシキノオホミヤビトハ》、宇豆良登理比禮登理加氣弖《ウヅラトリヒレトリカケテ》云云、書紀欽明紀(ノ)歌に、柯羅倶※[人偏+爾]能基能陪※[人偏+爾]※[こざとへん+施の旁]致底《カラクニノキノヘニタチテ》、於譜磨故幡比例甫※[口+羅]須母《オホバコハヒレフラスモ》、耶魔等陛武岐底《ヤマトヘムキテ》云云、天武紀に、十一年三月辛酉詔曰、膳夫釆女等之手襁肩巾、【肩巾此云2比例1】莫v服云云、本集卷五【二十三左】に、麻都良我多佐欲比賣能故何比列布利斯《マツラガタサヨヒメノコガヒレフリシ》云云、卷八【三十三右】に、久方之天河原爾《ヒサカタノアマノカハラニ》、天飛也領巾可多思吉《アマトブヤヒレカタシキ》、眞玉手乃玉手指更《マタマデノタマデサシカヘ》云云などあり、これら皆女の服也、和名抄衣服類(ニ)云、領巾、【日本紀私記云、比禮、】婦人項上(ノ)飾也と見えて、集中に多く振ものゝやうにもよみ、紀に肩巾とも出るを見れば、肩《カタ》にかくるものとおぼし、これらの事、記傳四十二【四十一】に精しく見えたり、こ(74)れを白妙《シロタヘ》の天領巾とつゞくるは、枕詞に栲領巾乃白濱浪《タクヒレノシラハマナミ》、細比禮乃鷺坂山《タクヒレノサギサカヤマ》などもつゞけて、この領巾てふものはみな白きものなれば、白妙とはかぶらせたる也、○鳥自物《トリジモノ》は、鳥のごとく也、鳥はねぐらを朝とく立出るものゆゑ、鳥のごとく朝立とはつゞけし也、○朝立伊麻之弖《アサタチイマシテ》は、朝立行まして也、行をいましといふ事は、此卷上文にいへるがごとし、こゝは妻を葬りに朝立ゆくをいへり、本集卷十三【十九左】に、群鳥之朝立行者《ムラドリノアサタチユケバ》云云とあるも、つゞけがら同じ、〇入日成《イリヒナス》は、隱といはむ爲の枕詞也、○隱去之鹿齒《カクリニシカバ》は、日のごとく隱りにしかば也、本集卷三【五十九左】に、入日成隱去可婆《イリヒナスカクリニシカバ》云云とも見えたり、こゝは妻がかくりにしかばといふなり、○形見爾置《カタミニオケル》、形見は、今いふかたみとおなじく記念の意也、〇若兒乃乞泣毎《ミドリゴノコヒナクゴトニ》、若兒をミドリゴ〔四字右○〕と訓は義訓也、本集卷三【五十三左】に、若子乃匍匐多毛登保里《ミドリゴノハヒタモトホリ》云云、同【五十九左】に、緑兒乃哭乎毛置而《ミドリゴノナクヲモオキテ》云云、卷十八【三十二左】に、彌騰里兒能知許布我其登久《ミドリゴノチコフガゴトク》云云、新撰字鏡に、阿孩兒、【彌止利子】和名抄男女類に、嬰兒、唐韻云、孩、【戸來反、辨色立成云、嬰兒、美都利古、】始生小兒也、など見えたるごとく、嬰兒をみどり子といへり、和名抄箋注云、嬰兒訓2知古1爲v允、美度利古者、謂2小兒鬢髪深黒、如v帶v緑色1也、蓋謂2五六歳前後者1云云、集中若子と書たるに、わくご〔三字右○〕とよむべき所あり、みどりごとは、五六歳の小兒をいひ、わくごとは壯子をいふ、乞泣毎《コヒナクゴトニ》は、何にまれ物を乞て(75)泣たびごとにといふ也、○取與物之無者《トリアタフモノシナケレバ》、玉(ノ)小琴に、考に物は人也とあれどいかゞ、兒を取與とはいふべからず、物は玩物にて、泣をなぐさめむ料の物なりといへり、○烏徳自物《ヲトコジモノ》、こゝを今本、鳥穗自物とありて、トリホジモノ〔六字右○〕と訓るは誤なる事明らけし、次の或本の方には、こゝを男自物《ヲトコジモノ》とあるによりて、考に、鳥は烏、穗は徳の誤として、烏徳自物《ヲトコジモノ》と改められたり、今この説に從ふ、烏徳《ヲトコ》と書るは借字にて男なり、自物《ジモノ》の解は卷一下【五十六】にいへり、但し此なるは男ソノモノガと云ふ意なり、○腋挾持《ワキバサミモチ》は、兒を腋の下に抱くをいふ、古語拾遺に、天照大神育2吾勝(ノ)尊1、特甚鐘愛、常懷2腋下1、稱曰2腋子1云云ともあり、玉篇に、挾懷也とも見えたり、今本、挾作v狹、今改、○吾妹子與二人吾宿之《ワギモコトフタリワガネシ》は、吾妹子が此世に有しほどは、二人ねたりしつまやのうちに、今はみなし子をいだきて、よるひる悲しみあかすよしをいへるなり、〇枕付《マクラツク》は枕詞にて、冠辭考に、房《ネヤ》に枕を並付《ナラベツケ》てぬるが故にいへりとあり、○嬬屋之内爾《ツマヤノウチニ》、嬬は借字にて端《ツマ》の意也、衣のつまといふも衣の端、つま木といふも木の端也、かゝればつまやも端屋《ツマヤ》にて、家の端《ハシ》の方にある屋なるべし、閨などは中央に作るべきものならねば、家の端《ハシ》のかたに造れるをもて、端屋《ツマヤ》といふなるべし、猶稜威(ノ)言別卷九【三十六】に説あり、合考すべし、○晝羽裳《ヒルハモ》、裳は助辭にて晝はなり、夜者裳《ヨルハモ》の裳も助辭なり、○浦不樂(76)晩之《ウラサビクラシ》、この句舊訓に、ウラブレ〔四字右○〕とあるを、考にはウラサビ〔四字右○〕と訓(ミ)改(メ)たり、玉(ノ)小琴に、考にうらぶれとよむはわろしとあれど、卷々に浦觸、裏觸といへる多し、又五の卷【二十五丁】十七の卷【三十二丁】などに、假字にもうらぶれとかければわろからずとて、舊訓をとられしかど、此はかへりて鈴屋翁の誤り也、考にうらさびとよまれしをよしとす、そは本集卷三【十六左】に、梶棹毛無而不樂毛已具人奈四二《カヂサヲモナクテサブシモコグヒトナシニ》、卷四【二十九右】に、從今者城山道者不樂牟《イマヨリハキノヤマミチハサブシケム》、吾將通常念之助乎《ワガカヨハムトオモヒシモノヲ》など、不樂の字をさぶしと訓、又卷々に不怜の二字をサブシ〔三字右○〕とよめるも、怜は燐と通じて、此燐は廣韻に愛也とあれば、不怜は愛の反《ウラ》にて、サブシとよめる也、さればこゝの浦不樂も、うらさびと訓べき也、うらさび、うらぶれなどいふ詞は、心の冷《サビ》しくなぐさめがたき意なり、こゝはむかしは妹と二人して居たる嬬屋のうちに、今は一人をるのみならず、みなし子をさへいだぎて、晝は心不樂《ウラサビ》なぐさむる事もなくてくらし、夜は母を乞て泣兒をもてなやむよしなり、本集此卷【二十五左】に、暮去者綾哀《ユフサレバアヤニカナシミ》、明來者裏佐備晩《アケクレバウラサビクラシ》云云なども見えたり、浦は借字にて心の意なり、此佐備の詞は、考の別記に精細しきを、今別記追加に出して示すべし、○氣衝明之《イキツキアカシ》は、息をつきあかしなり、何にまれ心にふかく感ずるをりは、歎息して息をつかるゝものにて、今はみなし子をもてなやみて、息をつきあかす也、本集卷(77)五【二十六右】に、加久能未夜伊吉豆伎遠良牟《カクノミヤイキヅキヲラム》云云、卷八【二十左】に、穴氣衝之相別去者《アナイキツカシアヒワカレナバ》などあり、猶多し、○世武爲便不知爾《セムスベシラニ》、爾《ニ》はぬ〔右○〕の意にて、俗にシラヌノデといふ意なり、卷一上【三十二】に既にいへり、いかにもせんすべをしらぬ事とて、いたすべきやうなしとなり、奴〔右○〕を活かして爾〔右○〕といへる例は、卷十七【三十六右】に、曾許母安加爾等布勢能宇彌爾布禰宇氣須惠底《ソコモアカニトフセノウミニフネウケスヱテ》云云とあり、又同卷【九右】に、見禮登安可爾勢牟《ミレドアカニセム》とあるも、あかぬ〔右○〕ものにせむにて同例なり、但し今本には勢を氣に誤れり、今元本官本温本に從ひて改、○無見《ナミ》、ミ〔右○〕はさに〔二字右○〕の意にて、あふよしのなきにといふ意なり、○大鳥《オホトリノ》は枕詞なり、鳥の羽《ハ》とかけたる也、冠辭考の説はわろし、大鳥は本草和名に、鸛、和名於保止利云云、和名抄鳥名に、本草云、鸛、【古亂反、和名於保止利、】水鳥、有2二種1、似v鵠而巣v樹者爲2白鸛1、曲頭者爲2烏鸛1など見えたれど、此はたゞ大きなる鳥といふ意也、〇羽易乃山爾《ハガヒノヤマニ》、考云、本集十【六左】に、春日有羽買之山從《カスガナルハガヒノヤマユ》とあり、藤原の都べより春日は程近からねど、こゝの言もと近きほどの事とは聞えねば、かしこに葬りしならむ、○吾戀流妹者伊座等《ワガコフルイモハイマスト》、この吾の字を、考には、或本の方につきて汝と改めたり、されど吾戀流《ワガコフル》は、人まろ自身にいふ言にて、妹者伊座等《イモハイマスト》とは、人の告る言なれば、こゝは自らが戀る妹は、羽易の山にいますと人のいへばてふ意なり、又按るに、吾〔右○〕は此字のまゝにて、吾戀流《ナガコフル》とよまむか、(78)吾〔右○〕をナ〔右○〕とよめる事は萬葉集訓義辨證に論じおきたり、合考すべし、○石根左久見手《イハネサクミテ》、今本手を乎に誤れり、此はいと古くより誤りしものと見えて、官本温本家本昌本活本拾本、並に今本と同じく乎とありて、訓もヲ〔右○〕とあるなり、今意改す、さくみは本集卷二十【五十左】に、山河乎伊波禰左久美弖《ヤマカハヲイハネサクミテ》、布美等保利《フミトホリ》云云、祈年祭(ノ)祝詞に、磐根木根履佐久彌※[氏/一]《イハネキネフミサクミテ》云云などありて、さくみ、さくむ、さくめなどはたらく言にてさくは放《サク》にて、見放《ミサケ》問放《トヒサケ》などいふ放《サケ》と同じく、石根木根などをふみはなちゆく意也、○名積來之《ナヅミコシ》、名積《ナヅミ》は借字にて、煩(ノ)字悩(ノ)字などの意也、古事記上卷に、堅庭者於2向股1蹈那豆美《フミナヅミ》云云、同中卷(ノ)歌に、阿佐士恕波良許斯那豆牟《アサジヌハラコシナヅム》云云などありて、猶紀記に見えたり、本集卷三【三十八左】に、雪消爲山道尚矣名積叙吾來並二《ユキゲスルヤマミチスラヲナヅミゾワガコシ》、卷四【四十六右】に、不近道之間乎煩參來而《チカカラヌミチノアヒダヲナヅミマヰキテ》などあり、古事記傳卷七又卷二十九に證ども多く出されたり、此も煩ひとゞこほる意にて、石根をふみさくみなづみ煩ひつゝ、墓所に來りしと也、○吉雲曾無寸《ヨケクモゾナキ》は、よくもぞなきにて、ケク〔二字右○〕はク〔右○〕を延たる言なり、この句は結句の不見思者《ミエヌオモヘバ》といふより上へかへりて、なづみこしたる甲斐なきよし也、○打蝉跡念之妹之《ウツセミトオモヒシイモガ》、打蝉は上にもいへるがごとく、現身《ウツシミ》の意にて、常にしか思ひたりし妹がといへるなり、○珠蜻《タマカキル》は枕詞なり、舊訓カゲロフ〔四字右○〕とあるはわろし、タマカキル〔五字右○〕と訓べし、卷一の別記(79)に精し、○髣髴谷裳《ホノカニダニモ》、ほのかは、さだかならざる意也、本集卷八【三十四右】に、珠蜻蜒髣髴所見而《カキロヒノホノカニミエテ》云云など猶多し、髣髴は文選(ノ)注に、不2分明1貌とあり、○不見思者《ミエヌオモヘバ》は、墓所に行いたりても、猶面かげだに見えざるを歎くなり、
一篇の大意は、世にありし折、互に袖引つれて二人して見し、走出の堤に立てる槻の木の、春の枝葉の茂きが如く、思へりし妹も、世の中のならひには違ふ事も出來ず、赤子《ミドリゴ》をあとにのこして過去りしかば、その赤子の泣く毎に、取與ふ物しなければ、男ながら抱きかゝへて、妻屋の内に夜晝愁へくらし居るに、汝の戀る妹は今|羽易《ハガヒ》の山におはすと、人のいへば、石根ふみさくみ、かにかくにいたづきして來し甲斐もなく、其妻はほのかにだにも見えぬ事かなとなり、
 
短歌
 
去年見而之秋乃月夜者雖照《コゾミテシアキノツキヨハテラセレド》、相見之妹者彌年放《アヒミシイモハイヤトシサカル》
 
去年見而之《コゾミテシ》、本集卷八【十六右】に、去年之春相有之君爾《コゾノハルアヘリシキミニ》云云、卷十八【三十一右】に、許序能秋安比見之末
々爾《コゾノアキアヒミシママニ》云云などありて、又卷三【二十三左】に、雨莫零行年《アメナフリコソ》など、こその假字に行年とも書て、こそ〔二字右○〕とは去年のことなる事明らかなれど、訓義は思ひ得ず、書紀允恭紀(ノ)(80)御歌に、去※[金+尊]去曾《コゾコソ》とあるは、昨夜乞《コゾコソ》にて、本集卷二【二十三左】に、君曾伎賊乃夜夢所見鶴《キミゾキゾノヨイメニミエツル》、とある伎賊《キゾ》は昨夜の義なるを、去《コ》と伎《キ》と通音にて同語ときこたたり、又書紀允恭紀の御歌に、箇※[口+多]儺企貳和餓儺句菟摩《カタナキニワガナクツマ》、去※[金+尊]去曾|椰主區波娜布例《ヤスクハダフレ》とありて、釋紀【和歌部】に、私説曰、去※[金+尊]《コゾ》(ハ)如v謂2與倍《ヨベ》1といへり、是キ〔右○〕とコ〔右○〕と通音にて全く同じ、下の去曾は助辭なり、これを古事記には許存許曾婆《コフコソハ》とあり今日こそは也、存(ノ)字は布の誤なり、今〔右○〕をコ〔右○〕といへるは此《コ》の意にて、今夜《コヨヒ》今年《コトシ》などの如し、これによれば許布《コフ》は此日《コヒ》の義なるべし、かくて年〔右○〕をソ〔右○〕とよめるはいかなる義なるか詳かならねど、卷三【二十三左】卷十【二十一左】に、雨なふり行年《コソ》、卷七【三十一右】に、風なふき行年《コソ》、卷十三【十六左】に、犬なほえ行年《コソ》とあるは、鈴屋翁の説に、行は所の誤れるにて、所年《ソネ》なりといへるはさる事ながら、古くより年をソ〔右○〕の假字としたることゝ見ゆ、猶考ふべし、昨夜を伎曾《キゾ》といへるも皆音通にて、いづれも過し方をさしていへるなれば、去年をこそといへるも、本は同語とこそきこゆれ、○彌年放《イヤトシサカル》、彌《イヤ》はいよゝといふ意にて、いよ/\年をへだてゆくと也、放《サカル》は集中に離をもよみて、はなれ遠ざかる意也、
一首の意は、妻の失し明年の秋よめるにて、去年見し秋の月は、かはる事なく大空にてらせれども、相見し妹はいよ/\年へだゝりゆく事よとなり、
 
(81)衾道乎引手乃山爾妹乎置而《フスマヂヲヒキテノヤマニイモヲオキテ》、山徑往者生跡毛無《ヤマヂヲユケバイケリトモナシ》
 
衾道乎《フスマヂヲ》は枕詞にて、冠辭考に出たれど、おぼつかなきよしに解れたり、衾は和名抄衣服類に、説文云、衾、【音金、和名布須萬、】大被也とあるこれにて、道《ヂ》は借字にて、今も幟などの手をち〔右○〕といふごとく、衾の手《テ》といふにて、衾は引かつぐものなれば、衾ぢを引とつづけたるなるべし、雅亮(ノ)装束抄に、御ふすま【中略】くびのかたには、紅のねりいとをふとらかによりて、二すぢならべてよこさまに三はりさしをぬふ也云云とあり、この紅のねりいとをち〔右○〕とはいふか、本集卷五【二十九左】に、麻被引可賀布利《アサブスマヒキカカフリ》云云とあるにても、衾手を引とつゞけたるなるべし、○引手乃山《ヒキテノヤマ》、長歌に、大鳥羽易乃山爾《オホトリノハガヒノヤマニ》、吾戀流妹者伊座等《ワガコフルイモハイマセト》云云とあれば、この引手の山は羽易の山の一名か、いかにまれ羽易山は、大和(ノ)國添(ノ)上(ノ)郡なれば、これも同郡なる事しるし、○生跡毛無《イケリトモナシ》は、いきたるこゝちもなしとなり、引手の山に妹を置て、その山みちをわれひとりゆけば、いきたるここちもなくかなしとなり、さて生跡毛無を、宣長の玉勝間卷十三に、本集卷十九【十六左】に、伊家流等毛奈之《イケルトモナシ》とあるを引て、集中生ともなしとあるは、みな生利《イケルト》もなしにて、利は利心《トゴコロ》、心利《ココロド》などの利にて、生る利心《トゴコロ》もなく心のうつけたるよしなり、といは(82)れつれども、すべてを考ふるに、ト〔右○〕はてにをはにて、生りともなき意とこそ聞ゆれ、宣長は、生りともの卜〔右○〕文字へ心をつけて、十九なるはまへにぞのやなどの疑の詞なくて、る〔右○〕よりと〔右○〕とうけたれば、生利《イケルト》もならむと思はれしかど.かゝる事猶ありて、これ一つをもて例とはなしがたし、それ等の事は別記に委し、
一首の意は、引出《ヒキデ》の山に、妹を留め置て、山路をかへり來れば、悲しみに堪かねて、生る心もなしとなり
 
或本歌曰
 
字都曾臣等念之時《ウツソミトオモヒシトキニ》、※[手偏+雋]手吾二見之《タヅサハリワガフタリミシ》、出立百兄槻木《イデタチノモモエツキノキ》、虚知期知爾枝刺有如《コチゴチニエダサセルゴト》、春葉茂如《ハルノハノシゲキガゴトク》、念有之妹庭雖在《オモヘリシイモニハアレド》、特有之妹庭雖有《タノメリシイモニハアレド》、世中背不得者《ヨノナカヲソムキシエネバ》、香切火之燎流荒野爾《カギロヒノモユルアラノニ》、白栲天領巾隱《シロタヘノアマヒレガクリ》、鳥自物朝立伊行而《トリジモノアサダチイユキテ》、入日成隱西加婆《イリヒナスカクリニシカバ》、吾妹子之形見爾置有《ワギモコガカタミニオケル》、緑兒之乞哭別《ミドリゴノコヒナクゴトニ》、取委物之無者《トリマカスモノシナケレバ》、男自物脅挿持《ヲトコジモノワキバサミモチ》(83)吾妹子與二吾宿之《ワギモコトフタリワガネシ》、枕附嬬屋内爾《マクラヅクツマヤノウチニ》、旦者浦不怜晩之《ヒルハウラサビクラシ》、夜者息衝明之《ヨルハイキツキアカシ》、雖嘆爲便不知《ナゲケドモセムスベシラニ》、雖戀相縁無《コフレドモアフヨシヲナミ》、大鳥羽易山爾《オホトリノハガヒノヤマニ》、汝戀妹座等《ナガコフルイモハイマスト》、人云者石根割見而《ヒトノイヘバイハネサクミテ》、奈積來之好雲叙無《ナヅミコシヨケクモゾナキ》、宇都曾臣念之妹我灰而座者《ウツソミトオモヒシイモガハヒニテマセバ》、
 
※[手偏+雋]手《タヅサハリ》、舊訓にタヅサヘテ〔五字右○〕とあるは非なるよし、既にいへるがごとし、※[手偏+雋]手と書る手もじは、物を手に持意にて、添たる字なれば、二字にてたづさはりとよむべし、そは本集卷十【二十七右】に、萬世※[手偏+雋]手居而《ヨロヅヨニタヅサハリヰテ》云云、卷十九【三十四右】に、光神鳴波多※[女+感]嬬《ヒカルカミナルハタヲトメ》、※[手偏+雋]手共將有等《タヅサハリトモニアラムト》云云、これらもタヅサヘテ〔五字右○〕とはよむまじきを以てしるべし、またこれを假字書にしたるは、卷十七【三十七右】に、於毛布度知宇麻宇知牟禮底《オモフドチウマウチムレテ》、多豆佐波理伊泥多知美禮婆《タヅサハリイデタチミレバ》云云、是也、○出立《イデタチノ》、出立は書紀雄略紀(ノ)御歌に、擧暮利矩能播都制能野磨播《コモリクノハツセノヤマハ》、伊底※[手偏+施の旁]知能與廬斯企夜磨《イデタチノヨロシキヤマ》云云、本集卷十三【三十一右】に、青幡之忍坂山者《アヲハタノオサカヤマハ》、走出之宜山《ハシリデノヨロシキヤマノ》、出立之妙山叙《イデタチノクハシキヤマゾ》云云などありて、外へゆくとて出たつ道のはじめをいふなり、古今集(ノ)序に、とほき所もいでたつあしもとよりはじまりて云云とあるにて心得べし、こゝはわ(84)が家近きほとりの百枝槻といふ意なり、〇百兄槻木《モモエツキノキ》、兄《エ》は枝の假字にて、枝のしげきをいふ、○枝刺有如《エダサセルゴト》、刺有《サセル》は枝の生ずるをいふ、〇春葉茂如《ハルノハノシゲキガゴトク》、舊訓にはシゲレルガゴド〔七字右○〕とあれど、本歌に、春葉之茂之如久《ハルノハノシゲキガゴトク》とあるによりて、かく訓べし、〇朝立伊行而《アサタチイユキテ》、伊は發語にて行て也、本歌には朝立伊麻之弖《アサダチイマシテ》とあり、〇取委《トリマカス》は、その手をとりゆだぬるをいふ、左傳の注に、委、任也とあり、任を常にマケ〔二字右○〕とよむも、事を人にまかするにて、マカセ〔三字右○〕をつゞめてマケ〔二字右○〕とはいへる也、○物之無者《モノシナケレバ》、本歌に、取與物之無者《トリアタフモノシナケレバ》とある物は、あたふる品をいへれど、こゝの物は.取まかせてゆだぬる人しなければといふ意にて、人をさして物といへる也、○浦不怜晩之《ウラサビクラシ》、浦不怜を舊訓に、ウラブレ〔四字右○〕と訓たれど、本歌に浦不樂とあると同じく、ウラサビ〔四字右○〕とよむべし、本集此卷【四十一右】に、若草其嬬子者《ワカクサノソノツマノコハ》、不怜彌可《サブシミカ》云云、卷十【五十六右】に、雖見不怜《ミレドモサブシ》云云などあるを見べし、○不知《シラニ》、舊訓シラズ〔三字右○〕とあるは非也、シラニ〔三字右○〕と訓べし、○汝戀《ナガコフル》、本歌には吾戀流《ワガコフル》とあり、その解は其處にいへるが如し、汝は漢文讀にてナムヂ〔三字右○〕と訓(ム)、ナムヂ〔三字右○〕は名持《ナモチ》といふ義にて、もと美稱なり、大國主(ノ)神の亦(ノ)名を大穴牟遲《オホアナムヂノ》神と申すも、穴牟遲は名持にて美稱なり、又汝をナ〔右○〕とのみいへるは、古言に兄を那兄《ナセ》、妹を那泥《ナネ》などいひ、又|汝《ナガ》命、汝者《ナビト》などある、皆那を本としたる稱也、○灰而座者《ハヒニテマセバ》、本歌にはこの一句なくて、珠蜻《カギロヒノ》、髣髴谷裳《ホノカニダニモ》、不(85)見思者《ミエヌオモヘバ》の三句あり、考に、或本に灰而座者とあるは、亂れ本のまゝなるを、或人そをはひしてませば〔七字右○〕と訓て、文武天皇の四年三月に、始て道昭を火葬せし後にて、これも火葬して灰まじりに座てふ事かといへるは、あやまりを助けて人まどはせるわざ也、【此或人は契冲師をさす】火葬しては古へも今も、やがて骨を拾ひて、さるべき所にをさめて墓とすめるを、此反歌は葬の明る年の秋まゐでゝよめるなるを、ひとめぐりの秋までも、骨を納めず捨おけりとせんかは、又この妻の死は、人まろのまだ若きほどの事とおもはるゝよしあれば、かの道昭の火葬より前なるべくぞおぼえらる、さてその灰の字を誤りとする時は、是も本文のごとき心詞にて、珠蜻仄谷毛見而不座者《カキロヒノホノカニダニモミエテマサネバ》とぞ有つらんを、字おちしなるべしといはれしは.例の古書の文字を妄りに改めむとする説にて、ひがことなり、此は灰となりましませばといふを、灰而座者《ハヒニテマセバ》とはいへるなり、しかるに考に、一周の秋まで骨を納めず捨おけりとせんかはと、とがめたるはわろし、こゝは火葬して埋めたるを、やがて灰にて云云といへるなり、火葬して埋めたりとも、既に火葬せしは灰ならずや、猶別紀にいふを合考すべし、
一篇の大意は粗同じ、
 
(86)短歌三首
 
去年見而之秋月夜雖度《コゾミテシアキノツクヨハワタレドモ》、相見之妹者益年離《アヒミシイモハイヤトシサカル》
 
雖度《ワタレドモ》は、上に度日乃《ワタルヒノ》ともあるごとく、空を月日のゆくをいへり、この外本歌にかはる事なし、
 
衾道引出山妹置《フスマヂヲヒキテノヤマニイモヲオキテ》、山路念邇生刀毛無《ヤマヂオモフニイケリトモナシ》
 
衾道《フスマヂヲ》は、代匠記に、衾道は衾道の〔右○〕と云べきを、古語にを〔右○〕との〔右○〕と通していへり、第十三【十九右】に、みはかしの劔の池といふべきを、御佩乎劔池《ミハカシヲツルギノイケ》といへるに同じ、衾は山邊(ノ)郡にある所の名にや、延喜諸陵式に、衾田(ノ)墓ありて、注に山邊(ノ)郡にありといへり、按に引手の山は、春日にありて、添(ノ)上(ノ)郡なれど、此山は衾といふ地に往來ふ道なるを以て、かくつゞけたるならむか、衾田を衾とばかりもいひしなるべし、冠辭考に、夜のものゝ衾には組をわたし著て、そをもて引ひろげて覆へば、その組を衾手の引手といふ意にて、引手の山に冠らしめたりとせむにや、且幕などの手《テ》を後世はち〔右○〕といへり、古へもさいひて、ふすまぢといひしか、さらば道は借字也とあれど、道を借(87)字とせむには、借字はいくらもあるべきを、殊さらに道(ノ)字を用ゐたるは、猶上の意なるべし、○山道念邇《ヤマヂオモフニ》は、引出の山に妹を置てし來たれば、その妹が居る山路を思ひやるに、いけるこゝちもせずとなり、此|生刀毛無《イケリトモナシ》の解は上文已にいへり、
 
家來而吾屋乎見者玉床之《イヘニキテワガヤヲミレバタマドコノ》、外向來妹木枕《ホカニムキケリイモガコマクラ》
 
家來而《イヘニキテ》は、妻の墓にまうでゝ、さて家にかへりきてなり、○吾屋乎見者《ワガヤヲミレバ》、考に、吾はもし妻の字にやといはれたれど、吾にてよく聞えたり、○玉床之《タマドコノ》は、靈床にて、玉は借字なり、美稱とするは非也、續日本後紀卷十四、承和十一年五月丙申、甲斐(ノ)國言、山梨郡(ノ)人伴直富成女、年十五嫁2郷人三枝(ノ)直平麻呂1、生2一男一女1、而承和四年平麻呂死去也、厥後守v節不v改云云、恒事2齋食1、敬2於靈床1、宛如2存日1、とある靈床也、本集卷十【二十九右】七夕の歌に、明日從者吾玉床乎打拂《アスヨリハワガタマドコヲウチハラヒ》、公常不宿孤可母寢《キミトイネズテヒトリカモネム》とある、玉床は美稱にて今とは異なり、混ずべからず、書紀神代紀下に、佐禰耐墟茂阿黨播怒介茂譽《サネドコモアタハヌカモヨ》云云、本集卷五【三十九左】に、敷多倍乃登許能邊佐良受《シキタヘノトコノベサラズ》など猶多し、舊訓に床をユカ〔二字右○〕とよめるはわろし、トコ〔二字右○〕と訓べし、○外向來《ホカニムキケリ》は、家にかへり來てわが屋を見れば、其靈床の枕は外に輾轉してうち亂れたるさま、畫にて見るが如し、外は集中多くよそとよめれど、こ(88)こはほか〔二字右○〕とよむべきなり、本集卷十一【八右】に、荒磯越外往波乃外心《アリソコエホカユクナミノホカゴコロ》云云とも見えたり、來をけりとよめるは.巻三【十八左】に、相爾來鴨《アヒニケルカモ》、卷十一【十左】に、浦乾來《ウラガレニケリ》、卷十三【二十四右】に、戀云吻者郡不止來《コヒトフモノハスベテヤマズケリ》などありて、まう來たりといふを、まうけりといふ時、來をけりけるけれ、とよめる訓を借て云るなり、本集卷十七【二十左】に、使乃家禮婆《ツカヒノケレバ》ともあるなり、舊訓にホカニムキケル〔七字右○〕とあるル〔右○〕はリ〔右○〕と改む、〇妹木枕《イモガコマクラ》、木枕は木にて造りたる枕也、集中巻十一【十三右】に、黄楊枕《ツゲマクラ》ともあり、さて考に、、去年死て葬りやりしかば、又の秋まで其床の枕さへそのまゝにてあらむこと、おぼつかなしと思ふ人有べし、このこと上にもいへる如く、古へは人死て一周の間、むかしの夜床に手をだにふれずいみつゝしめる例なれば、この靈床は又の秋までかくである也けり、たとへば旅行人の、故郷の床の疊にあやまちすれば、旅にてもことありとて、其疊を大事とする事、古記にも集にも見ゆ、これに依て、この歌と上の河島(ノ)皇子を乎知野に葬てふに、ぬば玉の夜床母荒良無《ヨドコモアルタム》とよめるなどを、むかへ見るに、よみ路にても事なからむ事を思ふは人の情なれば、しかあるべき事也、こぬ人をまつとても床のちりつもるとも、あるゝともいふ、これもその床に、手ふるゝを齋《イム》故なれば、この三つおなじ意にわたるなり、とあるが如し、
(89)以上三首、通讀すれば其意自ら聞ゆ、
 
吉備津(ノ)釆女死時、柿(ノ)本(ノ)朝臣人麿作歌一首 并短歌
 
秋山下部留妹《アキヤマノシタブルイモ》、奈用竹乃騰遠依子等者《ナヨタケノトヲヨルコラハ》、何方爾念居可《イカサマニオモヒヲレカ》、栲紲之長命乎《タクナハノナガキイノチヲ》、露已曾婆朝爾置而《ツユコソハアシタニオキテ》、夕者消等言《ユフベニハキエヌトイヘ》、霧已曾婆夕立而《キリコソハユフベニタチテ》、明者失等言《アシタニハウセヌトイヘ》、梓弓音聞吾母《アヅサユミオトキクワレモ》、髣髴見之事悔敷乎《オホニミシコトクヤシキヲ》、布栲乃手枕纏而《シキヤヘノタマクラマキテ》、劔刀身二副寐價牟《ツルギダチミニソヘネケム》、若草其嬬子者《ワカクサノソノツマノコハ》、不怜彌可念而寐良武《サブシミカオモヒテヌラム》、悔彌可念戀良武《クヤシミカオモヒコフラム》、時不在過去子等我《トキナラズスギニシコラガ》、朝露乃如也夕霧乃如也《アサツユノゴトヤユフギリノゴトヤ》、
 
吉備津(ノ)釆女、玉(ノ)小琴に云、吉備津を考に、この釆女の姓なるよしあれど、すべて釆女は出たる地をもてよぶ例にて、姓氏をいふ例なし、其うへ反歌に、志我津子とも凡津子ともよめるを思ふに.近江の志我の津より出たる釆女にて、こゝに吉備と書(90)るは志我の誤りにて、志我津釆女のなるべしとあり、此説に從ふべし、○并短歌、官本温本家本三字小書、活本昌本無2三字1、
秋山《アキヤマノ》は枕詞なり、下部留《シタブル》は、次にいへるがごとく、黄葉の色のうるはしくにほへるを、女のうるはしき紅顔にたとへいへるにて、秋山のごとく下部留とはつゞけしなり、猶くはしくは余が冠辭考補正にいふべし、○下部留妹《シタブルイモ》、舊訓にシタヘ〔右○〕ルイモとあるは非也、下部留《シタブル》は、古事記中卷に、秋山之下氷壯夫《アキヤマノシタヒヲトコ》云云とある下氷《シタヒ》と同じく、また本集卷十【五十右】に、金山舌日下《アキヤマノシタヒガシタ》などある、舌日も借字にて意同じく、皆黄葉の色のうるはしきを、女のうるはしき紅顔にたとへて、下部留妹《シタブルイモ》とはいへる也、さてこの言は、したびしたぶると活用して、言の本は朝備《アシタビ》といふことにて、秋山の色の紅葉ににほへるが、赤根さす朝の天の如くなる由なりと、記傳三十四【三十三右】にいへるが如し、精しくは本書につきて見べし、〇奈用竹乃《ナヨタケノ》は枕詞なり、本集卷三【四十五左】に、名湯竹乃十縁皇子《ナユタケノトヲヨルミコ》云云ともありて、なよ竹はなよ/\としなやかなる竹をいへるにて、とをゝにたわむこともて、とをよるこらとはつゞけし也、古事紀上卷に、打竹之登遠々登遠々邇《ウチタケノトヲヲトヲヲニ》云云など見えたり、さて舊訓、用をユ〔右○〕の假字としたれど、用はみなヨ〔右○〕の假字にのみ用ゐて、ユ〔右○〕と訓る事例なければ、なよ竹とよめり三(ノ)卷なるはナ(91)ユタケど訓べし、ユヨ音通にて同じ、○騰遠依子等者《トヲヨルコラハ》、騰遠《トヲ》は本集卷八【四十六右】に、秋芽子乃枝毛十尾二降霜乃《アキハギノエダモトヲヲニフルツユノ》云云、卷十【十三右】に、爲垂柳十緒《シダリヤナギノトヲヲニモ》云云などありて、とをむ、たわむ、とをゝ、たわゝ、通はしいひて、みな枝の撓む事にて、こゝの騰遠依《トヲヨル》のトヲ〔二字右○〕も、女のすがたのなよゝかにたわみたるをいへるなり、依《ヨル》はより靡く意、子等《コラ》のラ〔右○〕は助辭にて、本集卷十【三十左】に、君待夜等者《キミマツヨラハ》云云、卷十四【二十三左】に、安左乎良乎《アサヲラヲ》云云などある等《ラ》良《ラ》におなじ、○何方爾念居可《イカサマニオモヒヲレカ》、本集卷一【十七右】卷二【二十七左】などに、何方御念食可《イカサマニオモホシメセカ》云云とあると同じく、居可はヲレカ〔三字右○〕とよむべし、舊訓にヲリテカ〔四字右○〕とあるはわろし、此は釆女を歎き疑へるなり、○拷紲之《タクナハノ》は枕詞にて、栲の木の皮にてよりたる繩の如く、長きとつゞけたるなり、玉篇に、紲、思列切、馬※[革+橿の旁]也、几繋2※[糸+累]牛馬1皆曰vv紲とあり、楊雄方言卷十に、緤(ハ)緒也などあれば、繩の意にてナハ〔二字右○〕と訓べし、○長命乎《ナガキイノチヲ》は、いまだ若く末長き命を、いかに思ひてかかく失ぬらむとなり、○露已曾婆《ツユコソハ》、二(ツ)の已曾婆《コソハ》は他にむかへて、その物を取立ていに詞にて、人はさはあらざるものをといふ意を含めたる也、○梓弓《アヅサユミ》は枕詞にて、弓を引ときは音ある故なり、○音聞吾母《オトキクワレモ》、音とは釆女の失にしといふ言をきゝしをいふ、上に梓弓聲爾聞而《アヅサユミオトニキキツツ》ともあり、〇髣髴見之《オホニミシ》、舊訓ホノニミシ〔五字右○〕とあれど、反歌に相日於保見敷者今叙悔《アヒシトキオホニミシカバイマゾクヤシキ》とあれば、こゝをもおほに見しと(92)よむべきなり、猶本集卷三【五十八右】に、吾王天所知牟登不思者《ワゴオホキミアメシラサムトオモハネバ》、於保爾曾見谿流和豆香蘇麻山《オホニゾミケルワヅカソマヤマ》、同【五十九左】に、朝霧髣髴爲乍《アサギリノオホニナリツツ》云云などあり、おほ〔二字右○〕は大方といふ意にて、われさへも釆女が生てありしほど、おほよそに見すぐしたる事のくやしきを、常にそひ臥せし人はいかならむと也、○事悔敷乎《コトクヤシキヲ》、敷は借字にて、乎はものを〔三字右○〕の意なり、○布栲乃《シキタヘノ》は枕詞にて、上にも出たり、手の言をへだてゝ、枕とつゞけたるなり、○手枕纏而《タマクラマキテ》、手枕は手を枕とするなり、古事記上卷(ノ)歌に、多麻傳佐斯麻岐《タマデサシマキ》云云とあるこれなり、纏而は字の如く、まとふ意にて、枕は、此マク〔二字右○〕といふ活語を體言にしたるなり、本集此卷【四十二左】に、奥波來依荒磯乎色妙乃《オキツナミキヨルアリソヲシキタヘノ》、枕等卷而奈世流君香聞《マクラトマキテナセルキミカモ》、卷三【四十四左】に、家有者妹之手將纏《イヘナラバイモガテマカム》云云などありて、猶いと多し、○身二副寐價牟《ミニソヘネケム》は、よそながら音づれに聞たるわれだに、凡に見過しゝ事のくやしきを、まして身にそへて寐けむ人はいかならむとなり、○若草《ワカクサノ》は枕詞にて、既に上に出たり、こゝも其といふ字をへだてゝ、嬬とつゞけし也、○其嬬子者《ソノツマノコハ》、こは釆女とかたらひし男をいへるにて、嬬は借字にて夫をいふ、男女たがひにつまといへる事、上にいへるがごとし、子とは其人を稱し親しみていへるなり、本集卷十【三十二左】に、稚草乃妻手枕迹《ワカクサノツマデマカムト》、大船乃思憑而《オホブネノオモヒタノミテ》、榜來等六其夫乃子我《コギクラムソノツマノコガ》云云とあるも夫をいへり、○不怜彌可念而寐良武《サブシミカオモヒテヌラム》、不怜《サブシ》は、今もいふさ(93)びしといふ言にて、心冷まじくなぐさめがたき意なり、上に浦不樂《ウラサビ》、浦不怜《ウラサビ》などあるに同じ、本集卷四【十二左】に、吾者左夫思惠君二四不在者《ワレハサブシヱキミニシアラネバ》、同【二十九右】に、從今者城山道者不樂牟《イマヨリハキノヤマミチハサブシケム》云云などありて猶多し、彌《ミ》は常のさに〔二字右○〕の意とは少し異にて、卷十五【二十九右】に、安伎佐禮婆胡非之美伊母乎伊米爾太爾《アキサレバコヒシミイモヲイメニダニ》、比左之久見牟乎安氣爾家流香聞《ヒサシクミムヲアケニケルカモ》などある、美なども常に異なり、此等の類猶あるべし、但し義門の活語雜話三篇に、サニ〔二字右○〕の意のミ〔右○〕をソレユヱ〔四字右○〕として見べしといへり、さてはいづれのミ〔右○〕もやゝ聞えたり、○悔彌可念戀良武《クヤシミカオモヒコユラム》、この二句今本には脱したり、今家本昌本活本拾穗抄に依て補ふ、此はいと古くより脱したるものと見えて、官本また温本にも此二句無し、されど代匠記に引ける別校本、考に引ける古本、又官本の朱書に、一本を引て、此二句あり、釆女が失にし事のくやしく思ひてか戀したふらむとなり、〇時不在《トキナラズ》は、釆女がまだ若くして、死べき時ならぬをいふ、○過去子等我《スギニシコラガ》、すぎにしとは失しをいふ、本集卷一【二十二右】に、黄葉過去君之《モミヂバノスギニシキミガ》云云、此卷【三十七左】に、黄葉乃過伊去等《モミヂバノスギテイニキト》云云、卷三【五十五左】に、過去之人之所念久爾《スギニシヒトノオモホユラクニ》などありて、猶多し、子等《コラ》は、たゞ子といふ意にて、等《ラ》は助辭にて妹をいふ、○朝露乃如也夕霧乃如也《アサツユノゴトヤユフギリノゴトヤ》、玉(ノ)小琴に、如也はごと〔二字右○〕と訓べし、也の字は焉の字などのごとく、たゞ添て書るのみなり、ごとや〔三字右○〕と訓てはや〔右○〕もじとゝのはず、さてこ(94)の終りの四句は、子等が朝露のごと夕霧のごと、時ならず過ぬと次第する意なり、かくのごとく見ざれば語とゝのはざるなり云云、といへるはわろし、也もじは歎息のや〔右○〕にて、此は上に露こそは霧こそはといふをくりかへしいひて、その朝つゆのごとくや、夕ぎりのどとくやと、うちなげきたるなり、詞(ノ)玉緒に、歎息のや〔右○〕は除きても意は同じことなれども、此もじにてその情深くなるなり、或はよ〔右○〕、或はな〔右○〕、又かな〔二字右○〕といふ意にも通へり、とあるが如し、
一篇の大意は、紅顔のにほひていとうるはしき志賀津の子等は、いかに心得けむ、長き命をまだ若ざかりに世を去りき、かの露こそは朝《アシタ》には置て夕べには消といへ、霧こそは夕べに立ちて朝にはうすといへ、それらはかくはかなきものなれど、人はしからぬものを、さてその紅顔を吾だによく見ざりし事の悔しきに、其を添寐せし夫《ツマ》は、いかばかりか悲しかるらむ、いかにくやしく思ひ戀らむ、時ならず過にし妹がはかなさは、朝露の如く夕霧の如くなりとなり、
 
短歌二首
 
樂浪之志我津子等何《ササナミノシガツノコラガ》【一云志我津之子我】罷道之《マカリヂノ》、川瀬道見者不怜(95)《カハセノミチヲミレバサブシモ》
 
樂浪之《ササナミノ》は枕詞なり、美夫君志卷一下【七】にくはし、○志我津子等何《シガツノコラガ》、志我は近江(ノ)國滋賀(ノ)郡なり、そこの津を志我津とはいふなり、志我の津といふの〔右○〕もじを畧ける也、吉野の山とも吉野山ともいへる類にて、この類地名にはつねのことなり、本集卷七【二十四右】に、神樂浪之思我津乃白水郎者《ササナミノシガツノアマハ》云云、同【四十右】に、神樂聲浪乃四賀津之浦能《ササナミノシガツノウラノ》云云なども見えたり、子等《コラ》の等《ラ》は例の助字にて、子とは釆女をいへり、〇一云|志我津之子我《シガツノコガ》、之の字の有無と、何我の異同をあげたるなり、○罷道之《マカリヂノ》、考云、葬送る道をいふ、紀【光仁】に、永手(ノ)大臣の薨時の詔に、美麻之大臣《ミマシオトド》【乃】、罷道母《マカリヂモ》、意太比爾念而《オタヒニオモヒテ》、平《タヒラケ》【久】幸《サキ》【久】罷止富良須倍之《マカリトホラスベシ》【止】詔とあるは、黄泉の道をのたまへど、言は同じ云云、といはれつるがごとし、罷は國語呉語に、遠者罷而未v至、注に、罷(ハ)歸也とあり、以呂波字類抄に、罷(ハ)歸《マカル》也と見え、類聚名義抄に、罷【シリゾク○マカル○マカデム】などあり、まかるとは貴き所より賤き所へゆくをいへるにて、本集卷三【三十一右】に、憶良等者今者將罷《オクララハイマハマカラム》云云、卷五【三十一右】に、唐能遠境爾都加播佐禮麻加利伊麻勢《モロコシノトホキサカヒニツカハサレマカリイマセ》云云、卷六【二十五左】に、食國遠乃御朝庭爾《ヲスクニノトホノミカドニ》、汝等之如是退去者《イマシラガカクマカリナバ》云云などある是也、しかるを玉(ノ)小琴に、罷道之道は邇の誤なるべし、爰はまかり(96)ぢ〔四字右○〕にてはわろし、といへるは非也、中世より死るを身マカル〔三字右○〕ともいへるをおもふべし、罷道を舊訓にユクミチ〔四字右○〕とあるは非也、○川瀬道《カハセノミチヲ》は、葬りゆく道なり、考に、大和(ノ)國にして何處の川かさしがたしといへり、○見者不怜毛《ミレバサブシモ》、不怜は上にもいへるごとく、心すさまじくなぐさめがたき意、釆女がまかりし川瀬の道を見るにつけてもかなしくおもふとなり、一首の意は明らけし、
 
天數凡津子之相日《ソラカゾフオホツノコガアヒシヒヲ》、於保爾見敷者今叙悔《オホニミシカバイマゾクヤシキ》
 
天數《ソラカゾフ》は枕詞なり、天をソラ〔二字右○〕といへるは、本集卷一【十六左】に、天爾滿倭乎置而《ソラニミツヤマトヲオキテ》云云とある是也、古事記傳卷十七【二十七右】に、虚空《ソラ》は天《アメ》と地《ツチ》との中間なり云云、常には通はして天《アメ》をもソラ〔二字右○〕といひ、虚空をもアメ〔二字右○〕と云ことも多きは、地よりいへば虚空《ソラ》も天の方なればなりといへり、此説によれば虚空《ソラ》なる物をかぞふるは凡なる故に、凡《オホ》につづけしなるべし、今の俗にそら覺え、そら讀などいふも、此ソラ〔二字右○〕に同じかるべし、天を舊訓にアマ〔二字右○〕とあるはわろし、○凡津子之《オホツノコガ》、凡津は近江(ノ)國滋賀(ノ)郡大津にて、大津(ノ)宮といふもこゝなり、凡をオホ〔二字右○〕とよめるは、書紀推古紀に、大河内(ノ)荘とあるを、天武紀(97)に、凡河内(ノ)直とかき、同紀に大海とあるを、姓氏録には凡海とかけり、これ大と凡の訓を通はし用ゐたるをしるべし、凡津を舊訓にオフシヅ〔四字右○〕とあるはわろし、○相日《アヒシヒヲ》は、釆女がわれにあひし日なり、○於保爾見敷者今叙悔《オホニミシカバイマゾクヤシキ》、於保《オホ》は上の長歌に髣髴見之《オホニミシ》とあるがごとく、凡《オホヨソ》の意なり、
一首の意は、志我《シガ》の大津の釆女にあひたりし時、心にとめても見ず、たゞおほよそに見過しゝが、今ぞくやしく思ふといふにて、かく時ならず失ぬべしとしりたらば、心をとめて見おかましものを、といふ意をふくめり、
 
讃岐(ノ)狹岑(ノ)島視2石中(ノ)死人1、柿本(ノ)朝臣人麿(ノ)作歌一首 并短歌
 
玉藻吉讃岐國者《タマモヨシサヌキノクニハ》、國柄加雖見不飽《クニガラカミレドモアカヌ》、神柄加幾許貴寸《カムガラカココダタフトキ》、天地日月與共《アメツチヒツキトトモニ》、滿將行神乃御面跡《タリユカムカミノミオモト》、次來中乃水門從《ツギテコシナカノミナトユ》、船浮而吾※[手偏+旁]來者《フネウケテワガコギクレバ》、時風雲居爾吹爾《トキツカゼクモヰニフクニ》、奥見者跡位浪立《オキミレバシキナミタチ》、邊見者白浪散動《ヘミレバシラナミサワグ》、鯨魚取海乎恐《イサナトリウミヲカシコミ》、行舩乃梶引折而《ユクフネノカヂヒキヲリテ》、彼此之島者(98)雖多《ヲチコチノシマハオホケド》、名細之狹岑之島乃《ナグハシサミネノシマノ》、荒磯面爾廬作而見者《アリソモニイホリシテミレバ》、浪音乃茂濱邊乎《ナミノトノシゲキハマベヲ》、敷妙乃枕爾爲而《シキタヘノマクラニナシテ》、荒床自伏君之《アラドコニコロブスキミガ》、家知者往而毛將告《イヘシラバユキテモツゲム》、妻知者來毛問益乎《ツマシラバキテモトハマシヲ》、玉桙之道太爾不知《タマボコノミチダニシラズ》、欝悒久待加戀良武愛伎妻等者《オホホシクマチカコフラムハシキツマラハ》
 
狹岑《サミノ》島、代匠記に、狹岑(ノ)島は那珂(ノ)郡にあり、所(ノ)者サミジマと云、反歌にも佐美乃山とよまれたれば、ミネ〔二字右○〕とはよむまじきなり、考の説もこれに同じ、○石中死人、代匠記に、石中とは石をかまへて葬るには非ず、石の中に交るなりといへるが如し、○并短歌、今本大書、依2官本家本温本1小書、
玉藻吉《タマモヨシ》は枕詞にて、玉は美稱、吉のシ〔右○〕は助辭なり、讃岐は海藻の多かる國なるから、玉藻よさぬきとつゞけしなり、代匠記に、其所の名物をほめて云とあるが如し、冠辭考の説は非なり、○讃岐國者國柄加《サヌキノクニハクニガラカ》、柄は借字にて故《カラ》の意也、讃岐の國は國のよき故にか、見れどもあかぬとなり、本集卷三【二十六左】に、芳野乃宮者《ヨシヌノミヤハ》、山可良志貴有師《ヤマカラシタフトカルラシ》、水可良思清有師《ミヅカラシキヨクアルラシ》云云、卷六【十右】に、蜻蛉乃宮者《アキツノミヤハ》、神柄香貴將有《カムガラカタフトカルラム》、國柄鹿見欲將有《クニガラカミマホシカラム》云云など(99)もあり、これらの精しき説は、美夫君志卷一別記【二十七】にあり、○雖見不飽《ミレドモアカズ》、不飽を考にアカズ〔三字右○〕よめるは非也、アカヌ〔三字右○〕のヌ〔右○〕は、上の國柄加との加の結び詞なれば、ヌ〔右○〕とよむべし、○神柄加《カムガラカ》、讃岐の國は神の生ましゝ故にか、たふとかるらむとなり、古事記上卷に、次《ツギニ》生《ウム》2伊豫之二名島《イヨノフタナノシマヲ》1、此島者身一而《コノシマハミヒトツニシテ》有《アリ》2面四《オモヨツ》1、毎《ゴトニ》v面《オモ》有《アリ》v名《ナ》、故《カレ》伊豫國《イヨノクニヲ》謂《イヒ》2愛比賣《エヒメト》1、讃岐國《サヌキノクニヲ》謂《イフ》2飯依比古《イヒヨリヒコト》1云云とあるを見べし、さて本集卷六【十右】に、蜻蛉乃宮者《アキツノミヤハ》、神柄香貴將有《カムガラカタフトカルラム》云云とあるも、この蜻蛉の宮は、神にします天皇のおはしましゝ所なる故にか、たふとかるらむといふ意、卷十七【三十四右】に、布里佐氣見禮婆《フリサケミレバ》、可牟加良夜曾許婆多敷刀伎《カムガラヤソコハタフトキ》云云とあるも、二上山をよめる歌にて、この山は神のまします山なる故にや貴かるらむといふ意にて、今と同じ、○幾許貴寸《ココダタフトキ》、幾許《コヽダ》は此(ノ)字の義にて、いかばかりといふ意なり、本集卷五【十八右】に、伊母我陛邇由岐可母不流登彌流麻提爾《イモガヘニユキカモフルトミルマデニ》、許々陀母麻我不烏梅能波奈可毛《ココダモマガフウメノハナカモ》、卷十四【七左】に、多麻河泊爾左良須※[氏/一]豆久利佐良左良仁《タマガハニサラステヅクリサラサラニ》、奈仁曾許能兒乃己許太可奈之伎《ナニソコノコノココダカナシキ》などあり、かくて此詞集中には種々に轉じ用ゐて、いと紛はしかれば、一わたり辨へおくべし、其は此卷【四十四左】に、已伎大雲《コキダクモ》、卷二十【二十五左】に、己伎婆久《コキバク》、卷十四【二十八右】に、許己婆《ココバ》、同【七左】に、己許太《ココダ》、卷十七【四十八左】に、許己太久《ココダク》、又卷九【十八左】に、曾己良久《ソコラク》、卷十七【三十四右】に、曾許婆《ソコバ》、卷二十【二十五左】に、曾伎太久《ソキダク》などありて、皆同語也、又(100)古事記中卷の歌に、許紀志斐惠泥《コキシヒエネ》とある許紀志《コキシ》も同語にて、斐惠は肉を薄《ウス》く切《キル》をいふ、泥は希求言なり、但しココダ〔三字右○〕はもと物の數の多きことなれども、アマタ〔三字右○〕、サハニ〔三字右○〕などいふとはことにて、イカバカリカといふことなる故に、幾許とは書るなり、さて其イカバカリカと云は、數の多きより云(フ)言なるを、轉じて甚しき意にも云るなり、此外にも上に出したる、卷(ノ)九なる曾已良久爾堅目師事乎《ソコラクニカタメシコトヲ》云云は、俗にキツト約束シタなど云意、又古今集に、木づたへばおのが羽風にちる花を、誰におほせてこゝらなくらむとあるは、シキリニナクといふ意なり、かく種々に轉じたるものなれば、其所々によりて解すべし、貴寸を舊訓にカシコキ〔四字右○〕とあるはわろし、タフトキ〔四字右○〕と訓べし、○天地日月與共《アメツチヒツキトトモニ》、天地とも日月とも共にみち足《タリ》なむといふ意なれば、舊訓に天地《アメツチノ》とノ〔右○〕もじのあるはわろし、本集卷十三【十一右】に、天地丹思足椅《アメツチニオモヒタラハシ》云云とあるも、足《タレ》る事を天にたとへいへるなり、○滿將行神乃御面跡《タリユカムカミノミオモト》、天地日月は、滿《タリ》とゝのひたるものなれば、それにたとへて、その如く滿《タリ》行むといへるにて、滿とは足そなはりとゝのひたるをいへるにて、本集此卷【二十七左】に、望月乃滿波之計武跡《モチヅキノタヾハシケムト》云云、卷九【三十四左】に、望月之滿有面輪二《モチヅキノタレルオモワニ》云云などありて、神代紀に、面足《オモダルノ》尊といふ神の御名もこれ也、さてこゝは上にもいへるが如く、四國は神の生ませる國なれば神といひて、(101)その國の年經つゝひらけゆくをいへり、○次來《ツギテコシ》、此は上の句をうけて、云云と古へより言つぎこし意也、○中乃水門從《ナカノミナトユ》、考に、讃岐に那珂(ノ)郡ありと、この湊をいふならむとあり、水門とは湊なり、○舩浮而吾※[手偏+旁]來者《フネウケテワガコギクレバ》、※[手偏+旁]は榜の俗體、凡木に从へる字、或は變じて※[手偏]に從ふ事常なり、但し榜は船也と訓ず、今コグ〔二字右○〕とよめるは榜人の意を用ゐたるものにて、集中いと多し、○時風《トキツカゼ》、つは助辭なり、時風は、考に、潮の滿來る時に吹來る風なりといへり、本集卷六【二十二右】に、時風應吹成奴香椎滷《トキツカゼフクベクナリヌカシヒガタ》、潮干※[さんずい+内]爾玉藻苅而名《シホヒノウラニタマモカリテナ》とあるは、風のふき來ぬさきに、潮干のうらにて玉藻かりてむといふ意、卷七【十四右】に、時風吹麻久不知阿胡乃海之《トキツカゼフクマクシラニアコノウミノ》、朝明之鹽爾玉藻苅奈《アサゲノシホニタマモカリテナ》ともあり、○雲居爾吹爾《クモヰニフクニ》、上天は常に雲の居るものなれば、天の事を雲居といへるなり、本集卷一【二十三左】に、雲居爾曾遠久有家留《クモヰニゾトホクアリケル》云云ともあり、○跡位浪立《シキナミタチ》、考に、跡居は敷坐《シキヰル》てふ意の字なるを借て書り、卷十三【三十二右】に、立浪母疎不立《タツナミモオホニハタヽズ》、跡座波之立塞道麻《シキナミノタチサフミチヲ》、同【三十三右】に、敷浪乃寄濱邊丹《シキナミノヨスルハマベニ》とありて、其末に腫浪能恐海矣直渉異將《シキナミノカシコキウミヲタダワタリケム》とあるも、共に重浪《シキナミ》てふ意なるに敷とも腫とも云て、訓をしらせたるを思ふべし、とあるが如し、正辭云、新選字鏡に、※[さんずい+施の旁]※[さんずい+沓](ハ)波浪相重之貌、志支奈美とあり、※[さんずい+施の旁]〔右○〕、今本には※[さんずい+色]〔右○〕とあり、眞本に※[さんずい+施の旁]とあるに依て改て引、按に、文選木華海賦に、長波※[さんずい+沓]※[さんずい+施]とある注に、※[さんずい+沓]※[さんずい+施](ハ)相重之貌とあり、字典に引て相(ノ)上(102)に水波の二字あり、昌住見る所の本と同じ、さて※[さんずい+施]と※[さんずい+施の旁]と同字なり、但し字鏡の※[さんずい+施の旁]※[さんずい+沓]は※[さんずい+沓]※[さんずい+施の旁]を誤り倒したるなるべし、○邊見者《ヘミレバ》、こはヘミレバ〔四字右○〕と四言に訓べし、此卷【二十四右】に、奥放而※[手偏+旁]來《オキサケテコギクルフネ》船、邊附而榜來船《ヘツキケテコギクルフネ》云云、これも舊訓にヘニツキテとよめるはわろし、○白浪散動《シラナミサワグ》、舊訓には散動の字をドヨミ〔三字右○〕とあれど、考にサワグ〔三字右○〕と訓みたるに從ふ、さてドヨムは音《オト》につきていひ、サワグは形につきて言なり、此は形につきていふ所なればさわぐとよむべし、本集卷六【十四右】に、御※[獣偏+葛]人得物矢手狭散動而有所見《ミカリビトサツヤタバサミサワギタルミユ》、同【十七右】に、鮪釣等海人船散動《シビツルトアマブネサワギ》云云とある散動も、共にサワギと訓べし、舊訓はわろし、○鯨魚取《イサナトリ》は枕詞なり、クヂラをイサといふは古語にて、壹岐(ノ)國風土記を引て上文にいへるが如し、鯨の名はイサにて、魚《ナ》をそふるは食料とする時の稱にて、菜《ナ》の意なり、さてこれを海濱等に冠らするは、此魚は魚之王といひて、魚漁の第一とするものなるから、廣く魚漁(ノ)事をかくいへる也、又本集に、勇魚《イサナ》とかきたるは、勇の訓をかりてかけるなり、此勇を字義を以て云(フ)説はわろし、○海乎恐《ウミヲカシコミ》、恐《カシコミ》は恐み畏るゝ意にて、本集卷七【十六右】に、荒磯超浪乎恐見《アリソコスナミヲカシコミ》云云、同【二十一左】に、大海之波者畏《オホウミノナミハカシコシ》云云などもあり、○梶引折而《カヂヒキオリテ》、梶《カヂ》は船尾にありて船を正すものにて、漢語抄に、柁(ハ)船尾也、和語云太以之とあるもの也、梶引折とは、巻二十【十八左】に、大船爾末加伊之自奴伎《オホブネニマカイシジヌキ》、安佐(103)奈藝爾可故等登能倍《アサナギニカコトトノヘ》、由布思保爾可知比伎乎里《ユフシホニカヂヒキヲリ》、安騰母比弖許藝由久伎美波《アトモヒテコギユクキミハ》云云、同【二十五左】に、安佐奈藝爾可治比伎能保里《アサナギニカヂヒキノボリ》、由布之保爾左乎佐之久太理《ユフシホニサヲサシクダリ》云云などもある如く、梶を引たわめこぎゆくをいふ、狹岑の島に船をよせて、こゝにて風のなほるをも船つくろひもせし也、こゝの所考の解は誤られたり、○彼此之島者雖多《ヲチコチノシマハオホケド》、彼此をヲチコチ〔四字右○〕と訓るは義訓也、本集卷四【四十三右】にも、彼此兼手《ヲチコチカネテ》云云とあり、をちこちとは遠近《ヲチコチ》にて、道の遠近をいふが本なれど、そを轉じて俗にあちこちといふ意にもいふ、すべて彼《カレ》と此《コレ》とをむかへいふ言なり、こゝも俗にあちこちといふ意也、オホケド〔四字右○〕は多けれどのれ〔右○〕を略きていへる古言なり、○名細之《ナグハシ》は枕詞なり、既に卷一下【七十四】にいへるが如く美稱にて、細の字は、玉篇に微也とありて、即正字なり、○狹岑之島乃荒礒面爾《サミノシマノアリソモニ》、考に、面は回の誤として、改てアリソワニ〔五字右○〕と訓るはわろし、此面の字、古本ども皆今本と同じくして、訓もモ〔右○〕とあれば、誤字にはあらず、ありそのおもの、お〔右○〕を略けるにて、礒のおもてをいふ、川づら海づらなどいふつらと同じ、風浪あらければ、この狹岑の島に船をよせて風待するほど、荒礒の面に假廬を作りてをるなり、○廬作而見者《イホリシテミレバ》、考に、古へ旅路にはかりほを作りてやどれゝば、作とは書しのみにて、こゝの意は廬入而《イホリシテ》を略きいへる也、云云といはれつるがごとく、古へ(104)は旅宿といふものも多くあらざりしかば、山野海岸にも假廬を作りて旅人のやどれりし也、そは本集卷三【十五左】※[羈の馬が奇]旅(ノ)歌に、野島我埼爾伊保里爲吾等者《ヌジマガサキニイホリスワレハ》、卷六【三十五左】に、木綿疊手向之山乎今日超而《ユフダタミタムケノヤマヲケフコエテ》、何野邊爾廬將爲子等《イヅレノヌベニイオホリセムコラ》、卷七【十七左】に舟盡可志振立而廬利爲《フネハテテカシフリタテテイホリスル》、名子江乃濱邊過不勝鳧《ナコエノハマベスギガテヌカモ》同【二十二右】に、竹島乃阿戸白波者動友《タカシマノアトカハナミハドロメドモ》、吾家思五百入※[金+色]染《ワレハイヘオモフイホリカナシミ》、卷九【九右】に、山跡庭聞往歟大我野之《ヤマトニハキコエモユクカオホカヌノ》、竹葉苅敷廬爲有跡者《タカハカリシキイホリセリトハ》などありて、集中猶いと多し、又拾遺集戀四に、よみ人しらず、旅人のかやかりおほひつくるてふ、まろやは人をおもひわするゝ、などあるにても、いづれも假廬をつくりてやどれりしをしるべし、廬作而を舊訓にイホリツクリテ〔七字右○〕とあるはわろし、○波音乃茂濱邊乎《ナミノトノシゲキハマベヲ》は、吾ここに廬してをれば、浪の音のしげき濱べにて、いをやすくも寐られぬものを、いかなればかこゝの濱べをしも枕としては寐ぬらむと、かの死人をさしていへる也、本集卷一【二十一左】に、泊瀬山者《ハツセヤマハ》、眞木立荒山道乎《マキタテルアラヤマミチヲ》、石根禁樹押靡《イハガネノシモトオシナミ》云云とある乎〔右○〕も、なるものを〔五字右○〕の意なり、○荒床《アラドコニ》は、あら山、あら野などいふあらと同じく、あれはてゝ人げなきをいへるにて、濱べにかの死人の伏したるを、床と見なしてよめる也、〇自伏君之《コロブスキミガ》、ころぶすは此卷上文、明日香(ノ)皇女の殯宮の歌に、許呂臥者川藻之如久《コロブセバカハモノゴトク》云云とある所にいへるがごとく、ころびふす意也、○家知者往而毛將告《イヘシラバユキテモツゲム》は、かの死人の家所(105)をしらば往てもつげむに、家をも所をもしらざればせんすべなしと也、○妻知者來毛問益乎《ツマシラバキテモトハマシヲ》は、その妻がしらば必ず來てもとはましものをと也、○玉桙之《タマボコノ》は枕詞なり、卷一下【百三十四】にも出たり、○道太爾不知《ミチダニシラズ》は、此處に死をる事を妻はしらずしての意、○欝悒久《オホホシク》は、上文にいへるがごとく、おぼつかなくいぶかしき意にて、夫の失ぬる事をしらでおぼつかなく待か戀ふらむとなり、○愛伎妻等者《ハシキツマラハ》、愛伎《ハシキ》は字のごとく愛する意にて、人を愛しうつくしむ意の言也、既に上文にもいへり、かの人の愛する妻は、おぼつかなく侍か戀ふらむと、上へうちかへして聞意にて、妻等の等もじは助辭にて、輕くそへたるなり、
一篇の大意は、始に讃岐の國を稱《ホ》めて、天地日月と共に滿《ミチ》ゆかむよしをいひ、中の水門《ミナト》より船うけてごぎ來れば、奥も邊も浪高くして行なやめる事を述べ、狹岑の島に廬してみれば、浪の音のしげき濱邊を枕になし、荒床に伏たる此君が、家知らば徃ても告む、又妻知らば來ても問はましを、それも知らずしておぼつかなく待ち戀らむ、うつくしみし妻はとなり、
 
反歌二首
 
(106)妻毛有者採而多宜麻之佐美乃山《ツマモアラバツミテタゲマシサミノヤマ》、野上乃宇波疑過去計良受也《ヌノベノウハギスギニケラズヤ》
 
採而多宜麻之《ツミテタゲマシ》、採而を舊訓にトリテ〔三字右○〕とあれど、考にツミテ〔三字右○〕と訓れしによるべし、採は集中多くツム〔二字右○〕とよめり、多宜麻之《タゲマシ》は上文|多氣婆奴禮多香根者長寸妹之髪《タケバヌレタカネバナガキイモガカミ》云云とある所にい へるが如く、本はたぐりあぐる意なれど、そをたゞあぐる事にも用ゐて、こゝは取あぐる意にて、妻あらば來りて、死屍をとりあげましをといへるなり、委細しくは別記にいへり、〇佐美乃山《サミノヤマ》、こは狹岑(ノ)島中にあるなるべし、○野上乃宇波疑《ヌノベノウハギ》、野上は舊訓にノガミ〔三字右○〕と訓たれど、ヌノベ〔三字右○〕と訓べし、べ〔右○〕はほとりの意なり、野の邊の意なる事、上文|河上乃列々椿《カハノベノツラツラツバキ》云云とある所にいへるが如し、本集卷六【十四右】に、飽津之小野笑野上者《アキツノヲヌノヌノベニハ》云云、同【四十右】に、多藝乃野之上爾《タギノヌノベニ》、卷八【十八右】に、霞立野上乃方爾《カスミタツヌノベノカタニ》云云など見えたり、宇波疑《ウハギ》は、本集卷十【十一左】に、春野之菟芽子採而※[者/火]良思文《ハルヌノウハギツミテニラシモ》、本草和名に、薺、蒿菜、和名於波岐、和名抄菜類の、七卷食經云、薺、蒿菜、一名莪蒿【上音鵝、和名於波岐、】とあり、この物今よめがはぎ、又よめ菜とも野菊ともいふ、ウ〔右○〕とオ〔右○〕と音かよへば、うはぎとも、おはぎともいふ、○過去計良受也《スギニケラズヤ》、過はかの薺蒿を採べきときのすぎたる(107)をいふ、
一首の意は、死人を薺蒿にたとへて、うはぎをつむべき時すぎゆけど、つむ人もなしといふ意にて、その死人を葬り埋る人もなしといひて、歎きたるなり、
 
奥浪來依荒磯乎色妙乃《オキツナミキヨルアリソヲシキタヘノ》、枕等卷而奈世流君香聞《マクラトマキテナセルキミカモ》
 
奥浪來依荒磯乎《オキツナミキヨルアリソヲ》は、海の奥より浪のよせ來て、さわがしき荒磯を枕としてなり、○枕等卷而《マクラトマキテ》は、上の吉備津(ノ)釆女(ノ)死時(ノ)歌に、布栲乃手枕纏而《シキタヘノタマクラマキテ》、云云とある所にいへるが如く、まく〔二字右○〕はまとふ意なるを、一の體語となしたるなり、○奈世流君香聞《ナセルキミカモ》、奈世流《ナセル》は寐而有《ネタル》なり、古事紀上巻(ノ)歌に、多麻傳佐斯麻岐毛々那賀爾《タマデサシマキモモナガニ》、伊波那佐牟遠《イハナサムヲ》云云とあるも、寐者將v宿《イハナサム》にて、本集卷五【八右】に、夜周伊斯奈佐農《ヤスイシナサヌ》、卷十四【二十一右】に、伊利伎※[氏/一]奈左禰《イリキテナサネ》、卷十七【三十二左】に、吾乎麻都等奈須良牟妹乎《ワヲマツトナスラムイモヲ》云云、卷十九【十八右】に、安寐不令宿君乎奈夜麻勢《ヤスイシナサズキミヲナヤマセ》など見えたるも、みな寐るをなす〔二字右○〕といへるにて、この言はなぬね〔三字右○〕と活《ハタラ》くなり、然るをぬ〔右○〕またね〔右○〕とは常にいへど、な〔右○〕とは後世は耳《ミヽ》とほき詞故に、ナス〔二字右○〕又はナサム〔三字右○〕などは心得にくきなり、考の頭書に、ねるはなえるてふ言にて、なよ/\と臥《ネ》たるさまをいふ、仍て寐せるをな〔右○〕せるともいふ也、とあるは僻言なり、
(108)一首の意は、かゝる浪の音のさわがしき荒礒を、枕として寐たまふ君が、マアいとほしくかなしきことよと也、
 
柿(ノ)本(ノ)朝臣人麿、在2石見(ノ)國1臨v死時、自傷作歌一首
 
鴨山之磐根之卷有吾乎鴨《カモヤマノイハネシマケルワレヲカモ》、不知等妹之待乍將有《シラニトイモガマチツツアラム》
 
喪葬令云、几百官身亡者、親王及三位以上稱v薨、五位以上及皇親稱v卒、六位以下達(ルマデ)2於庶人1稱v死とあり、こゝに臨v死とかき、次に死時ともあれば、人麿は六位以下の人なりし事しるべし、石見(ノ)國は中國なれば、このぬしたとへ守なりとも、六位以下の官なりしなるべし、
鴨山之《カモヤマノ》、考に、こは常に葬する山ならむ云云といはれつるがごとく、此國人の葬する墓所なるから、かくいひしならむ、守部の萬葉集檜※[木+瓜]に、石見人云、鴨山高角同處にて、美濃部の海岸也とて、其地の沿革を詳しく載たり、○磐根之卷有《イハネシマケル》は、磐根を枕としてあるとうふ意にて、卷《マク》は本はまとふ意なれど、それを轉じてやがて枕とする事をもいへり、本集卷一【二十六左】に、枕の字をまきて〔三字右○〕とよめるにてもしるべし、猶この事は上にもいへり、○不知等妹之《シラニトイモガ》、等《ト》はとて〔二字右○〕の意にて、此はしらぬ事とてといふ(109)意なり、この助字の等《ト》は、集中さま/”\に用ゐたり、不知を舊訓にシラズ〔三字右○〕とあれど、此はシラニ〔三字右○〕と訓べし、
一首の意は、われ死なば鴨山に葬られて、磐根を枕としてあらむをも、妹はしらずしてかへらむ日を、いつかいつかとまちつゝあらむとなり、
 
柿(ノ)本(ノ)朝臣人磨死時、妻依羅(ノ)娘子作歌二首
 
旦今日旦今日吾待君者石水《ケフケフトワガマツキミハイシカハノ》、貝爾《カヒニ》【一云谷爾】交而有登不言八方《マジリテアリトイハズヤモ》
 
この依羅(ノ)娘子は、人まろの後妻なりし事、上にいへるがごとし、旦今日旦今日《ケフケフト》は、けふやかへるけふやかへると、待居るよし也、本集卷五【二十九右】に、家布家布等阿遠麻多周良武《ケフケフトアヲマタスラム》云云、卷九【二十五右】に、旦今日旦今日吾待君之《ケフケフトワガマツキミガ》云云などあり、猶多し、○石水《イシカハノ》、水をカハ〔二字右○〕とよめるは義訓なり、書紀神武天皇元年紀に、縁《ソヒテ》v水《カハニ》西行云云、本集卷七【八右】に、此水之湍爾《コノカハノセニ》などもよめり、石水《イシカハ》は鴨山のうちの川なるべし、人まろをばこの川の邊などに葬りしにや、○貝爾《カヒニ》【一云谷爾】交而《マジリテ》、海岸ならで山川の岸の崩(110)れなどよりも、貝の出る事あればかくいへるなり、一云|谷爾《タニニ》とあるはいかゞ、〇有登不言八方《アリトイハズヤモ》、この八方《ヤモ》は反語にて、本集卷三【四十七右】に、隱口乃泊瀬越女我手二纏在《コモリクノハツセヲトメガテニマケル》、玉者亂而有不言八方《タマハミダレテアリトイハズヤモ》などあるに同じ、
一首の意は、けふやかへり給ふ、けふやかへり給ふかとて、待わたる君は、石川の貝にまじりておはせりといはずや、貝にまじりておはせらば、たとひ臥しおはすとも尋ね行て、率て來らむといふなり、
 
直相者相不勝石川爾《タヾニアハバアヒモカネテムイシカハニ》、雲立渡禮見乍將偲《クモタチワタレミツツシヌバム》
 
直相者《タヾニアハバ》は、たゞちに相《アハ》ばなり、略解に、宜長翁の説を出して、卷四に夢之相者《イメノアヒハ》とよめれば、こゝもたゞのあひはとよまむといへるはわろし、古事記中卷(ノ)歌に、遠登賣爾多※[こざと+施の旁]爾阿波牟途《ヲトメニタダニアハムト》云云、本集此卷【二十三右】に、目爾者雖視直爾不相香裳《メニハミレドモタダニアハヌカモ》、卷四【十四右】に、心者雖念直不相鴨《コヽロハモヘドタダニアハヌカモ》、卷五【十一右】に、多陀爾阿波須阿良久毛於保久《タダニアハズアラクモオホク》云云などあり、佛足石(ノ)歌にも、多太爾阿布麻弖爾《タダニアフマデニ》云云ともあれば、舊訓のまゝにタダニアハバ〔六字右○〕とよむべし、○相不勝《アヒモカネテム》、不勝をカネ〔二字右○〕とよむ例は、本集卷三【二十四右】に、凝敷山乎超不勝而《コゴシキヤマヲコエカネテ》云云、卷八【二十一右】に、言持不勝而《コトモチカネテ》云云、同【四十九左】に、留不勝都毛《トドメカネツモ》など見えたり、考にアヒニテマシヲ〔七字右○〕と(111)よまれたるはわろし、舊訓に從ふべし、○雲立渡《クモタチワタレ》は、石川はかの鴨山の山中なるから、雲となりてだに立わたれ、それを見つゝしぬばむとなり、一首の意は、たゞにうつゝにあはむにはあひがたかるぺければ、せめてかの墓所なる鴨山の石川のほとりに、雲だにもたちわたれ、それを形見とも見てしのばむとなり、雲煙などを形見として忍ぶ事、集中いと多かり、
 
   丹比(ノ)眞人【名闕】擬2柿(ノ)本(ノ)朝臣人麿之意1報歌一首
 
荒浪爾縁來玉乎枕爾置《アラナミニヨリクルタマヲマクラニオキ》、吾此間有跡誰將告《ワレココナリトタレカツゲケム》
 
丹比(ノ)眞人は、本集卷八【四十八右】に、丹比(ノ)眞人(ノ)歌名闕、卷九【十五左】に、丹比(ノ)眞人(ノ)歌などあるは同人歟、この外集中丹比氏の人多くあり、今不v可v考、〇擬、こは人まろが意をおしはかりて、人まろが心になりて、妻の歌には報じたる也、
縁來玉乎《ヨリクルタマヲ》、玉はすべて水中に多くあるよしいへり、本集卷一【十一右】に、底深伎阿胡根能浦乃珠曾不拾《ソコフカキアコネノウラノタマソヒロハヌ》、卷六【二十左】に、石隱加我欲布珠乎《イソガクリカガヨフタマヲ》云云、卷七【十九右】に、奥津波部都藻纏持依來十方《オキツナミヘツモマキモチヨリクトモ》、君爾益有玉將縁八方《キミニマサレルタマヨラムヤモ》などあり、○枕爾置《マクラニオキ》、枕は頭といふと同じく、伏たる枕のかたになり、古事記上巻に、匍2匐《ハラバヒ》御枕方《ミマクラベニ》1、匍2匐《ハラバヒ》御足方《ミアトベニ》1云去、本集卷五【三十右】に、父(112)母波枕乃可多爾《チヽハヽハマクラノカタニ》、妻子等母波足乃方爾《メコドモハアトノカタニ》、圍居而《カコミヰテ》云云、古今集誹諧に、よみ人しらず、まくらよりあとより,戀のせめくれば、せむかたなみぞとこなかにをる、とあるこれらの枕は頭の方をさしたるなり、
一首の意は、荒波によりくる玉を、まくらのかたにおきて、吾こゝにありといふことを、妻にたれかつげゝむとなり、
 
或本歌曰
 
天離夷之荒野爾君乎置而《アマサカルヒナノアラヌニキミヲオキテ》、念乍有者生刀毛無《オモヒツツアレバイケリトモナシ》
 
原注に、或本歌曰とあれど、此は人まろの妻の意にかはりてよめる歌なり、この歌は上に人麿(ノ)妻死之後泣血去慟歌の反歌に、衾道乎引手乃山爾妹乎置而《フスマヂヲヒキデノヤマニイモヲオキテ》、山徑往者生跡毛無《ヤマヂヲユケバイケリトモナシ》、といふによく似たり、
天離《アマサカル》は枕詞にて、冠辭考に出づ、○夷之荒野爾《ヒナノアラヌニ》、夷は都より遠き所をいへるにて、今田舍といふも同じ、この事既にいへり、荒野は、人げなくあれはてたる野をいふ、この事も卷一にいへり、この荒野は鴨山をさせり、
一首の意は、鄙の鴨山に君を置て、その事を念乍《オモヒツツ》あれば、いける心ちもせずとなり、
 
(113)右一首歌、作者未v詳、但古本以2此歌1載2於此次1也
 
寧楽宮
 
この標目を、考には地を易て、上の但馬(ノ)皇女薨後穗積(ノ)皇子云云の歌の上にしるされしはわろし、そのよしは美夫君志卷一下【百二十三】にいへり、
 
和銅四年歳次辛亥、河邊(ノ)宮人、姫島(ノ)松原(ニ)見2孃子(ノ)屍1、悲歎作歌二首
 
妹之名者千代爾將流姫島之《イモガナハチヨニナガレムヒメシマノ》、子松之末爾蘿生萬代爾《コマツガウレニコケムスマデニ》
 
河邊(ノ)宮人は、父祖官位不v詳、○姫嶋(ノ)松原は、攝津(ノ)國西成(ノ)郡なり、○孃子はヲトメ〔三字右○〕と訓べし、少女《ヲトメ》の意なり、韻會に、娘(ハ)少女之號、通作v孃云云とあり、
妹之名者千代爾將流《イモガナハチヨニナガレム》は、妹が名はゆく末遠く傳はらむと也、常に川又は雪などに、流經といふと本は同語にて、流れて年月を經《フル》意にて、この世に生てあるをながらふといふも、流經《ナガレフ》る意なり、名の流といふも、とゞまる事なく後の世までも流經《ナガレフ》る(114)意もていへる也、本集卷十八【二十一左】に大夫乃伎欲吉被名乎《マスラヲノキヨキソノナヲ》、伊爾之倣欲伊麻乃乎追通爾《イニシヘヨイマノヲツツニ》、奈我佐敝流於夜能子等毛曾《ナガサヘルオヤノコドモゾ》云云、續日本紀、神護景雲三年十月(ノ)詔に、善名于遠世爾流傳天牟《ヨキナヲトホキヨニナガサヒテム》云云などあり、○子松之末爾《コマツガウレニ》、末《ウレ》は、レ〔右○〕とラ〔右○〕と通じて、字のごとくすゑ〔二字右○〕の意なり、○蘿生萬代爾《コケムスマデニ》、蘿は和名抄苔類に、雜要決云、松蘿一名女蘿、【和名萬豆乃古介、一云佐流乎加世、】と見えたり、生《ムス》は字のごとく生《オフ》る也、萬代は音を借てかける假字書なり、本集卷三【十六左】に、何時間毛神左備祁留鹿香山之《イツノマモカミサビケルカカグヤマノ》、鉾椙之本爾薛生左右二《ホコスギノモトニコケムスマデニ》、古今集賀に、よみ人しらず、わが君は千世に八千世にさゞれ石の、いはほとなりてこけのむすまで、などあり、
一首の意は、孃子の名は千年の末までも傳はらむ、此島にある小松の老木となりて、蘿のむさむまでもとなり、
 
難波方塩干勿有曾禰沈之《ナニハガタシホヒナアリソネシヅミニシ》、妹之光儀乎見卷苦流思母《イモガスガタヲミマククルシモ》
 
難波方《ナニハガタ》、方は借字にて瀉なり、集中滷をもよめり、新撰字鏡に、洲【洲渚加太】とあるがごとく、洲、渚をもいへり、○鹽干勿有曾禰《シホヒナアリソネ》、塩干は今もいふごとく、潮の干る也、本集卷四【二十左】に、難波方塩干之名殘《ナニハガタシホヒノナゴリ》云云など見えたり、曾禰《ソネ》の禰《ネ》は希求言にて、鹽ひる事な(115)かれとなり、本集卷七【二十六左】に、柴莫苅曾尼《シバナカリソネ》云云、卷九【九左】に、雨莫零根《アメナフリソネ》などあり、○妹之光儀乎《イモガスガタヲ》、光儀をすがたとよめるは魏訓なり、本集卷八【五十左】に今毛見師香妹之光儀乎《イマモミテシカイモガスガタヲ》、卷十【五十二左】に、見管曾思努布君之光儀乎《ミツツゾシヌブキミガスガタヲ》などあり、○見卷苦流思母《ミマククルシモ》、卷は借字にて辭なり、此卷の上に、落卷者後《フラマクハノチ》とある所にいへる如く、まく〔二字右○〕の急言む〔右○〕にて、ふらまくはふらむ.みまくは見むの意なり、苦流思母《クルシモ》の母は一歎辭なり、
一首の意は、この難波瀉は鹽の干るといふ事なかれ、鹽ひなばおぼれ死たりし妹がすがたの見えなむ、それを見むがいたはしく心くるしければとなり、
 
靈龜元年歳次乙卯秋九月、志貴(ノ)親王薨時作歌一首 并短歌
 
梓弓手取持而《アヅサユミテニトリモチテ》、大夫之得物矢手挿《マスラヲノサツヤタバサミ》、立向高圓山爾《タチムカフタカマドヤマニ》、春野燒野火登見左右《ハルヌヤクノビトミルマデ》、燎火乎何如問者《モユルヒヲイカニトトヘバ》、玉鉾之道來入乃《タマボコノミチクルヒトノ》、泣涙※[雨/沛]霖爾落者《ナクナミダヒサメニフレバ》、白妙之衣※[泥/土]漬而《シロタヘノコロモヒヅチテ》、立留吾爾語久《タチドマリワレニカタラク》、何鴨本(116)名言《ナニシカモモトナイヘル》、聞者泣耳師所哭《ネノミシナカユ》、語者心曾痛《カタレバココロゾイタキ》、天皇之神之御子之《スメロギノカミノミコノ》、御駕之手火之光曾幾許照而有《イデマシノタビノヒカリゾココダテリタル》
 
志貴(ノ)親王薨、志貴(ノ)親王は天智天皇の皇子なり、其證は本集中に、志貴(ノ)皇子の御歌凡五首ばかりあるを、之を後の撰集に載て、田原(ノ)天皇御製としるせり、光仁天皇紀に、寶龜元年十一月己未朔甲子詔曰、追d皇(シ)掛(クモ)恐(キ)御2春日宮(ニ)1皇子(ヲ)u奉v稱2天皇(ト)1、二年五月甲寅、始(テ)設2田原(ノ)天皇八月九日忌齋(ヲ)於川原寺1とあり、光仁天皇の御父なればなり、諸陵式曰、田原(ノ)西陵【春日(ノ)宮(ニ)御宇(シ)天皇、在2大和(ノ)國添上(ノ)郡1、】ともみえたり、しかるを此親王を、文武天皇の皇子磯城(ノ)皇子なりといへる説は誤なり、磯城(ノ)皇子の事は、紀には朱鳥元年に加2封二百戸1といふ事あるのみにて、すべて何事も記されず、薨去の事も見えず、或はいと幼なく御座して御うせ給ひしにもやあらむ、猶考べし、又題於辭に、靈龜元年歳次乙卯秋九月、志貴(ノ)親王薨時云々とあり、今續日本紀を閲するに、靈龜二年八月甲寅、二品志貴(ノ)親王薨とあり、之によりて本集の元年及九月を誤とし改むる説あれど非なり、其故は元年九月は元正天皇御即位の事ありて、御多端なるをりからにして、且|忌《イマ》はしき事なれば忌み憚り給ひて、薨奏を延引して(117)翌年八月奏せしめしかば、其年月を以て紀には記されたるものならむ、されば本集に記せるは其實にて、紀は延期したる薨奏の年月を記したるものなり、元年の元を二の誤りとし、九月の九を八の誤りとせむには、干支の乙卯を如何せむ、按ふるに萬葉集は其事實にして、紀は修飾の文なり、これ萬葉集の最尊むべき所なるをや、かくて集中此所までは、諾皇子皆皇子とのみあるを、古事記書紀を考ふるに、古事記には、命または王などのみしるし、書紀には、皇子皇女また王ともしるしたれど、親王といふ事はなく、天武天皇四年の紀に至りて、親王諸王及諸臣といふ文はじめて見えたれど、親王を御名の下につけて申ことはなかりき、その後續日本紀に至りても、文武天皇四年四月までは、皇子皇女とのみあるを、六月甲午勅2淨太參刑部親王以下1撰2定律令1云云とある所より以下はみな、親王内親王とのみしるされたるをおもふに、繼嗣令に、凡皇兄弟皇子皆爲2親王1云云とあれば、この時皇子と申すを皆親王と改められしなり、故に靈龜元年にはこの制改りし後なれば、親王とはかけるなり、さてこの歌作者をしるさゞる事は、作者未詳歌なるべし、○並短歌、今本大書、依2官本家本温本1小書、
梓弓手取持而《アヅサユミテニトリモチテ》、こゝより立向《タチムカフ》といふまでは、高圓山《タカマドヤマ》といはむ序にて、圓《マト》を的《マト》にとり(118)なしたるなり、○大夫之《マスラヲノ》、此大夫を丈夫に改むるは非也、其由卷一に詳かにいへり、
○得物矢手挿《サツヤタバサミ》、得物矢をサツヤ〔三字右○〕とよむべきよしは卷一にいへり、こは幸矢にて、獵《ミカリ》せむ料《タメ》の矢なり、手挿《タバサミ》は手に挿《ハサミ》なり、得物矢を舊訓にトモヤ〔三字右○〕と訓るはわろし、○高圓山《タカマドヤマ》は、大和(ノ)國添(ノ)上(ノ)郡にて、春日のほとりにあり、志貴(ノ)親王の陵は、延喜諸陵式に、田原(ノ)西陵、春日(ノ)宮(ノ)御宇天皇、在2大和(ノ)國添(ノ)上(ノ)郡1とあり、春日にをさめ奉らむとて、御葬送のとき高圓山の麓をすぎしなるべし、○春野燒野火登見左右《ハルヌヤクヌビトミルマデ》、上の高市(ノ)皇子(ノ)尊(ノ)殯宮の時の歌に、冬木成春去來者《フユゴモリハルサリクレバ》、野毎著而有火之《ヌゴトニツキテアルヒノ》云云とあると同じく、春は專ら野をやくものなればなり、○燎火乎何如問者《モユルヒヲイカニトトヘバ》は、高圓山をのぞみ見れば、春の野を燒ごとくもゆる火の見ゆるを、道くる人にあれはいかにとゝへばとなり、○道來人乃《ミチクルヒトノ》は、道を往來する人なり、本集卷十三【十六右】に、玉桙乃道來人之《タマボコノミチクルヒトノ》、立留何常問者《タチドマリイカニトトヘバ》、答遣田付乎不知《コタヘヤルタヅキヲシラニ》云云、卷十九【二十八右】に、玉桙之道來人之《タマボコノミチクルヒトノ》、傳言爾吾爾語良久《ツテゴトニワレニカタラク》云云などあり、○泣涙※[雨/沛]霖爾落者《ナクナミダヒサメニフレバ》は、かの道來人に燎《モユル》火を何ぞと問しかば、その人涙を流して答ふるを、其涙|大雨《ヒサメ》のごとしとなり、古事記に氷雨、書紀に大雨甚雨など、みなヒサメ〔三字右○〕とよめり、和名抄に云、丈字集略云、※[雨/沛](ハ)大雨也、日本紀私記云、大雨得【比佐女】雨氷【上同、今案俗云比布流、】とあり、大雨をヒサメ〔三字右○〕といふは、ひたあめの急言にて、暫も止まざる雨をいふ、又雨(119)氷を比佐女といふは、氷雨《ヒサメ》の義にて雹をいへるなり、訓同じかれど意は別なり、和名抄に、大雨と雨氷とを混じ收めたるは誤りなり、宜長翁は※[雨/脉]霖の誤りとして、舊訓のまゝコサメ〔三字右○〕とよまれたれど、此は哀しみの情をこと/”\しく聞せむとの意なれば、もとのまゝにてヒサメ〔三字右○〕と訓べし、○白妙之《シロタヘノ》は枕詞にあらず、卷一の別記にくはし、○衣※[泥/土]漬而《コロモヒヅチテ》は、泣(ク)涙の雨のごとくおつるに、衣をひたしぬらしつゝ、その人立どまりて吾に語らくとなり、※[泥/土]漬をヒヅチ〔三字右○〕と訓よしは、考別記に、この言を集中に※[泥/土]打と書しが多かれど、打は借字にて、この卷の末に、※[泥/土]漬と書たるぞ正しさ也、且この二字を比豆知《ヒヅチ》と訓ことは、下に假字にてもあるなり、言の意は物の※[泥/土]《ヒヂ》に漬《ツキ》てぬるゝを本にて、雨露泪などにぬるゝにもいへり、かくて比豆知《ヒヅチ》は右の※[泥/土]漬の字のごとく比治都伎《ヒヂツキ》なり、その比治都伎《ヒヂツキ》の治《ヂ》と豆《ヅ》は音通ひ、都伎《ツキ》の約は知《チ》なれば、比豆知《ヒヅチ》といふ、又その豆知《ヅチ》を約れば治《チ》となる故に、比治《ヒヂ》とばかりもいふめりとあり、猶上文にもいへるを合考すべし、○立留吾爾語久《タチドマリワレニカタラク》、らく〔二字右○〕はる〔右○〕の緩言なり、彼人立どまりてわれにかたる事はとなり、○何鴨本名言《ナニシカモモトナイヘル》、舊訓にイツシカモモトノナトヒテ〔イツ〜右○〕とあるは非也、以下六句はかの道來人の答へ言へる詞なり、さて此句、言はイヘル、聞者はキケバ、語者はカタレバと三言四言に訓べし、舊訓に聞者はキキツレ(120)バ、語者はカタラヘバとあるは非也、こは胸せまりてのどやかにいひかぬる也、すべて哀傷の歌には、句つゞきの切れ切れなる、又は言の足らぬものあり、これ自然の勢ひのしからしむるなるべし、本名といふ言は、今世の俗言にメツタニといふと同じ、めつたにはみだりにといふと同意にて、みだり、めつた、もとな、皆通音にてもと同意也、さて集中にてもとなといふは、實にみだりなるにはあらざれども、其事をばとふ心より、みだりなるやうに思ひていふ言なり、こゝの歌にては、言《イハ》ば聞《キカ》ば音《ネ》のみなかれ、心いたきものを、何ぞみだりにいへるといふ意なりと、鈴屋の説なり、本名は借字にて、この言は本集卷三【三十三左】或本歌に、明日香川今毛可毛等奈《アスカガハイマモカモトナ》、卷四【三十左】に、不相見者不戀有益手妹乎見而《アヒミズバコヒザラマシヲイモヲミテ》、本名如此耳戀者奈何將爲《モトナカクノミコヒハイカニセム》などありて、集中いと多し、契沖師は、よしなしといふ意なりといへり、本づく所なき意なれば、これも聞えたり.〇聞者泣耳師所哭《キケバネノミシナカユ》、かの高圓山にもゆる火のゆゑよしをきけば、われも音《ネ》をのみぞなかるゝとなり、ユ〔右○〕はル〔右○〕の意なり、○語者心曾痛《カタレバココロゾイタキ》は、その事語れば心いたましくて、苦《クル》しとなり、○天皇之神之御子之《スメロギノカミノミコノ》、天皇をすめろぎと申奉る事は、卷一にいへり、神之御子とは天皇の皇子《ミコ》の義なり、天皇を神と申す事は上に數々あり、○御駕之《イデマシノ》、舊訓にオホムマノ〔五字右○〕とあるはわろし、考にいてましとよまれしによ(121)る、親王の御葬送をいへるなり、行幸をいてましといへど、天皇の御事にかぎらず、出座《イデマス》といふ意なれば、尊みては誰うへにもいふべし、書紀天智紀の童謠に、于知波志能都梅能阿素弭爾伊提麻栖古《ウチハシノツメノアソビニイデマセコ》とあるは出座子なり、本集卷八【二十右】に、闇夜有者宇倍毛不來座梅花《ヤミナラバウベモキマサジウメノハナ》、開月夜爾伊而麻去自常屋《サケルツクヨニイデマサジトヤ》ともあり、○手火之光曾《タビノヒカリゾ》、手火は御葬を送り奉る人の手ごとに持たる火にて、今ツイマツ、又タイマツなどいふものなり、書紀神代紀上云、陰取2湯津爪櫛1、牽2折其雄柱1、以爲2秉炬1而見v之云云、別注云、秉炬此云2多妣1、釋日本紀卷六引私記云、秉炬猶如2云2手火1とありて、新選字鏡に、炬苣、同巨音、丞也、太比、又止毛志とも見えたり、集韻に、炬束v葦燒也、これらを合せ考へて、今いふタイマツなる事をしるべし、かの高圓山にもゆる火は、御葬の火のあまたてらせるなりとなり、○幾許照而有《ココダテリタル》、幾許は.數多なり、上に既にいへり、
一篇の大意は、かの高圓山に春野燒く野火と見るまでもゆる火を、いかにと問へば、道來る人の立留り、涙を雨の如くふらしていひけるは、何故にしかたづね問ふ事ぞ、其を聞けばかなしくて涙ぞいづる、其を語らむと思へば心痛めり、かのもゆる火は、志貴(ノ)皇子を葬らむとての、秉炬の光りなりといふ、いとかなしき事よとなり、
 
(122)短歌二首
 
高圓之野邊秋芽子徒《タカマドノヌベノアキハギイタヅラニ》、開香將散見人無爾《サキカチルラムミルヒトナシニ》
 
高圓之野邊秋芽子徒《タカマドノヌベノアキハギイタヅラニ》は、高圓山は御葬送の道なる事、長歌にいへるが如し、芽子は萩なり、今本芽を茅に誤る、諸古本及活本によりて改む、今本徒を從に誤れり、諸古本及活本によりて改む、○開香將散《サキカチルラム》は咲散らむかなり、
一首の意は、今は親王のおはしまさゞれば、高まどの野べの秋はぎは、見る人もなく無用に咲散らむかとなり、
 
御笠山野邊往道者巳伎大雲《ミカサヤマヌベユクミチハコキダクモ》、繁荒有可久爾有勿國《シゲクアレタルカヒサニアラナクニ》
 
御笠山《ミカサヤマ》、これも大和(ノ)國添(ノ)上(ノ)郡高圓山のほとりにて、春日のうちにあり、○巳伎大雲《コキダクモ》は、上文狹岑(ノ)島の歌に、幾許とある所にくはし、大を太の字の誤なりといふ説はわろし、此所の大の字、諸本皆大とあり、獨り官本に太とあるは、さかしらに改めたるなるべし、大は古音駄にて、廣韻に、大、唐佐切、音駄とあり、精しくは余が萬葉集字音辨證に辨じおきたり、○繁荒有可《シゲクアレタルカ》、繁は荒たることの繁きにて、いたくあれたるを(123)いふ、可はかもの意にて歎息の詞なり、考に、巳伎大雲繁荒有可《コキダクモシゲクアレタルカ》とあるを重言なりとて、或本に巳伎太久母荒爾計類鴨《コキダクモアレニケルカモ》とあるを取れしかど、本集卷十七【四十八左】に、許巳太久母之氣伎孤悲可毛《ココダクモシゲキコヒカモ》ともありて、巳伎大雲《コキダクモ》は數多きをいひて、一かたならずといふ意なれば、重言にはあらず、本集卷六【十六左】に、越乞爾思自仁思有者《コエガテニシジニモヘレバ》云云、卷四【十六左】に、打靡四時二生有莫告我《ウチナビキシジニオヒタルナノリソカ》云云、卷十三【十八左】に、竹珠呼之自二貫垂《タカダマヲシジニヌキタレ》云云など、假字書の所多し、○久爾有勿國《ヒサニアラナクニ》、久しくといふをひさとのみいへるは、本集卷十五【七左】に、和可禮弖比左爾奈里奴禮杼《ワカレテヒサニナリヌレド》云云、卷十七【十六左】に、美受比佐奈良婆《ミズヒサナラバ》云云などあり、この歌は親王を葬り奉りて後、御墓詣などのをりよめるなるべし、されど同じ度の歌なれば此には加へつるならむ、考に右の短歌二首を反歌にあらずとて、新に端辭を加へて別の歌としたるはわろし、
一首の意は、三笠山の野をゆく道は、其後いまだいくばくをも經ざるに、一かたならずしげくあれたるものかなと、歎息したるなり
 
右歌笠(ノ)朝臣金村(ノ)歌集(ニ)出
 
或本歌曰
 
(124)高圓之野邊乃秋芽子勿散禰《タカマドノヌベノアキハギナチリソネ》、君之形見爾見管思奴幡武《キミガカタミニミツツシヌバム》
 
勿散禰《ナチリソネ》、ソネ〔二字右○〕の事は上の難波方塩干勿有素禰《ナニハガタシホヒナアリソネ》とある所にいへり、
一首の意は、君が陵のほとりなる高圓山の野べの秋萩よ、ちる事なかれ、過給ひし君が形見と見つゝしのび奉らむとなり、
 
三笠山野邊從遊久道巳伎太久母《ミカサヤマヌベユユクミチコキダクモ》、荒爾計類鴨久爾有名國《アレニケルカモヒサニアラナクニ》
 
野邊從遊久道《ヌベユユクミチ》、從《ユ》はよりの意にて、野べよりゆく道なり、
一首の意は、本歌の注にいへるが如し、
 
萬葉集美夫君志卷二下
              2007.9.23(日)11時4分、入力終了
  残暑厳しき畝傍山近くの陋居にて。はや32度。
 
(1)萬葉集美夫君志卷一二別記目録
一卷
 吉閑《キカナ》
 名告沙根《ナノラサネ》
 代々集卷頭歌
 類聚歌林
 反歌の説
 明日香川原(ノ)宮
 高山《カグヤマ》
 春去來者《ハルサリクレバ》【春去者、秋去者、夕去者】の説
 榛(ノ)字の訓
 十市(ノ)皇女參2赴於伊勢(ノ)神宮(ニ)1
 耳我嶺《ミヽガノミネ》
 日知《ヒジリ》
(2) 釼《クシロ》
 島囘《シマワ》
 神隨《カムナガラ》
 旗須爲寸四能《ハタススキシノ》
 在根良《アラネヨシ》
 呼兒鳥
 敷妙《シキタヘ》
 藤原(ノ)宇合卿
 反歌の説追記
 春去者《ハルサレバ》の説追記
 耳我嶺追記
卷二
 加弖をまたは加弖奴ともいひ、又それにあてたる文字どもの事
 芽の字を波岐《ハギ》と訓る事
 多久《タク》
(3) 多宜《タゲ》
 十市(ノ)皇女薨時、高市(ノ)皇子(ノ)尊御作歌
 馬醉木
附録
 山多豆考及補正
 玉蜻考及補正
 左注日本紀年紀考
 
(1)萬葉集美夫君志卷一別記
                     木 村 正 辭撰
   吉閑《キカナ》
凡字音の韻の撥假字に三(ツ)の別あり、これを悉曇家【印度の音韻學】にては
喉内聲舌内聲脣内聲といふ、所謂喉舌脣の三内といふ是也、喉内は本邦にて※[ウに濁点が一つ]〔右○〕と引音、唐音にては【ン】〔右○〕と撥る文字なり、舌内は本邦の假字にて其韻をヌ又はニ〔右○〕と書(ル)す文字、脣内はム〔右○〕としるす字なり、さて古(ヘ)本邦にて舌内聲の字の韻はナニヌネノラリルレロ〔十字右○〕に轉用し、脣内聲の字の韻はマミムメモ〔五字右○〕に轉用したり、此等の例は本居宜長翁の地名字音轉用例、又其説は釋義門の男信《ナマシナ》、太田方の漢呉音圖、關政方の傭字例等に見えたれば、其書どもに就て見べし、義門の著書を男信《ナマシナ》と名づけたるは、上野(ノ)國利根(ノ)郡なる郷名にて、男は脣内聲なれば麻《マ》行の通音にてナム〔二字傍線〕をナマ〔二字傍線〕と轉じ、信は舌内聲なれば奈《ナ》行の通にてシヌ〔二字傍線〕をシナ〔二字傍線〕と轉じ用ゐたるなり、これ一の地名にて舌音と脣音との別を證する事を得るは、いとおもしろし、かくて本文に出したる引佐《イナサ》は遠江の郷名にて、和名抄に伊奈佐《イナサ》と訓じ、雲梯《ウナデ》は大和の郷名にて、同書に宇奈天《ウナデ》と訓じたり、又伊勢の郷名(2)に員辨《イナベ》ありて、爲奈倍《ヰナベ》と訓ぜり、此等|引《イヌ》をイナ〔二字右○〕、雲《ウヌ》をウナ、員《ヰヌ》をヰナに用ゐたるなり、されば閑《カヌ》はカナ〔二字右○〕に轉用する文字なる事を了解すべし、此他舌内聲の韻のニヌ〔二字右○〕をネノリル〔四字右○〕等に轉じ用ゐたるものあり、いづれも上にいへる書どもに精しく載たれば今省きぬ、
 
   名告沙根《ナノラサネ》
萬葉考に云、沙根は二たび延たる言にて、まづ名乃禮《ナノレ》の禮《レ》を延れば、名乃良世《ナノラセ》となるを、又その世《セ》をのべて、沙根《サネ》とはいふ也、又詞(ノ)玉緒に、かやをからさねといふ詞につきて云、此さね〔二字傍線〕はまづ萱《カヤ》をかれといふ事を、かりね〔三字傍線〕ともいふ、此ね〔右○〕は後の歌にもよむことにて、かれ《刈》を古言にはからせともいふ、そのからせ〔三字傍線〕をかのかりねの例のごとくに、ね〔右○〕を添ていふときに、からさね〔四字傍線〕となるなり、餘もこれになずらへてわきまふべし、然ればさ〔右○〕はせ〔右○〕のはたらける言、ね〔右○〕はかりね〔三字傍線〕のりね〔三字傍線〕などいふね〔右○〕と同じくて、さね〔二字傍線〕とつゞきたる一つの辭にはあらず、○正辭云、考の説の非なるはもとよりにて、玉緒の説も其いひざま紛はしく、且盡さゞる所あり、此|根《ネ》はもと連用言を受くると、將然言を受くると二つありて、その連用言を受くるは仰する辭、將然言を受くるは願ふ意の辭なり、こはなん〔二字傍線〕といふ辭に、連用言を受くると、將然言を受くるとがあると同例なり、(3)なん〔二字傍線〕も仰する意なると、願ふ意なるとの別なり、かくて仰する詞のね〔右○〕は、畢(ン)ぬ〔右○〕のぬ〔右○〕の活ける辭なる事玉(ノ)緒にいへるが如くなれど、願ふ意のねは外に活用する詞にあらず、又かれ〔二字傍線〕とからせ〔三字傍線〕とは全く同語にはあらず、こゝのいひさま紛はし、からせは敬語なり、將然言よりね〔右○〕と受けたる例は、此卷の下に、小松下乃草乎苅核《コマツガシタノクサヲカラサネ》、卷二十【三十八右】に、於夜爾麻宇佐禰《オヤニマウサネ》、又此卷下に、早還許年《ハヤカヘリコネ》、書紀崇神紀に、宇磨佐階《ウマザケ》、※[さんずい+彌]和能等能能《ウマザケミワノトノノ》、阿佐妬珥毛《アサトニモ》、於辭寢羅簡禰《オシヒラカネ》、※[さんずい+禰]和能登能度烏《ミワノトノドヲ》、などある是也、
 
   代々集卷頚歌
代々集卷頭歌といふもの一卷あり、撰者は詳ならざれとも、やゝ古き時の人の撰びなるべし、余が藏《モ》たる本は永正五年の鈔本を以て、元録十三年に僧義遍の傳寫したるものなり、奥書に、本云永正五年五月九日於2駿州國府1書v之重而校合、不審多之、桑門祐什、と記し其次に此一冊武州東叡山凌雲院在宿之刻、足立氏依2所望1不v顧2麁毫1令2染筆1者也、于時元緑十三辰載九月盡日、和州吉野山蓮藏院義遍書とあり、此書は萬葉集を始とし、古今以下二十一代集の卷頭歌を出し、其撰者及撰集の年月を記したるものなり、最初に萬葉集卷頭歌雄略天皇の御歌の長歌を取て、我許者背齒告目の句中許の下に曾(ノ)字あり、今本に曾(ノ)字なきは脱文なり、本書に依て補ふべし、又此書延寶五(4)年に書せるものをも藏す、奥書に廷寶五丁己季七月廿五日、於2花洛1戯染2禿毫1矣、後松軒仲安とあり、此本にも許の下に曾(ノ)字あるなり、しかれば代々集卷頭歌撰者の藏したりし萬葉集には曾(ノ)字ありし事疑ひなき也、
 
   類聚歌林
左注の類聚歌林は、皆本集の撰者の引たるものなり、其證は卷二の始に磐姫皇后の|君之行《キミガユキ》云々の御歌を載て、右一首歌山(ノ)上憶良(ノ)臣類聚歌林載焉とあり、其奥に古事記の輕(ノ)大郎女の君之行《キミガユキ》云々の御歌を出し、其左注に右一首(ノ)歌古事記與2類聚歌林1所v説不v同歌主亦異焉と記し、更に日本紀の文を引きて、其歌共に日本紀には見えざるよしを注せり、如v此類聚歌林を以て本文とし、其參考として古事記の歌を載たるを見れば、類聚歌林は全く本集撰者の引用したるものなる事明かなり、これによりて他所に引きたる類聚歌林も本集撰者の引きたるものなる事を暁るべし、さて類聚歌林の撰者山(ノ)上(ノ)憶良は本聚卷五【三十二左】に出たる、天平五年六月三日に作れる沈痾自哀文中に、時年七十有四とあり、按ふに此年の秋冬の頃卒したるなるべし、但し本集は孝謙天皇天平勝寶五年の撰とすれば、憶良の卒年は二十年の前にあり、撰者諸兄公は天平寶字元年年七十四にて薨したりといへば、憶良は聊先輩なり、
 
(5)   反歌の説
萬葉考に、反歌は長歌の意を約めても、或は長歌にのこれる事にても、短歌に打反しうたふ故にかへし歌とはいへり、然るに是をば字音のまゝに唱ふることといふ人あれど、皇朝の古言を字音に唱ふるはひがことなれば從ふべからず、といへり、されどかへしうたとよまむことはいかゞなり、その由下に精しくいふべし、荷田(ノ)東麿翁の僻案抄には、反歌はみじかうた〔五字右○〕とよむべし、反の字をかけるは、長歌に並べてよむ短歌は、おなじことをくりかへし打かへしてよむことある故に反歌と書たり、所詮短歌反歌おなじこと也、といへり、此説は稍おだやかなれども、猶いまだし、正辭按ふるに、反歌をかへしうたとよみたるは何時よりの事なるか、清輔朝臣の奥義抄に、反(ノ)字の訓或はかへす或はならふ或はそむくとよめり云々、とあれば、是より古くかへしうたとよみし事はありしなり、されどかへしうたとは、古事紀に所v歌之六歌者、志郡《シヅ》歌之返《カヘシ》歌也と見え、又神樂催馬樂などにいへる返歌も同義にて、其うたふ調子の易《カハ》るをいふ言にて、呂の嗣子の律に易(ヘ)たる際にうたふ歌を返歌といふなり、【此事は古事記傳卷三十六に、精しく論じられたり、】いかでか本集の反歌をかへしうたとはよむべき、然るを橘(ノ)守部の説に此返歌とひとつにして論じたるは、いと強たることなり、其説に云、反歌は長歌(6)をうたふ時樂(ノ)調子の反しにかりに用ひ〔右○〕し短歌の名也、上(ツ)代長歌をうたひしに、律に發して呂にうつし、又律に反して結《トヂム》るが大かたの例なりけるに、其歌の句がら言がらによりて、律に復し難かる時、更に短歌をよみそへて、其を律の反《カヘ》り聲に用ひ〔右○〕しを云、といへり、甚しき牽強附會の説といふべし、いかでさるむづかしき事のあるべき、又田中芳樹の古風三體考には、反は段の草書の變じたるものにて.短と反《タン》とは義異なれども、音の同じきを以て借用ゐたるならん、といひ、又或説には、佛經音義に反、音丹、短也とあり、反は段の草變せるものにて、注に短也とあれば、古へ反に短の義もありしなり、といへり、こは三體考の説につきて設けたる妄誕なるべし、其由は下に云ふ、かくて代匠紀の惣釋に、長歌に副たる短歌を反歌と云は、反覆の義なり、經《キヤウ》の長行に偈《ゲ》頌の副ひ、賦等に亂の副たる類なり、長歌の意を約めて再ひ云意なりとあり、此説を得たりとすべし、【萬葉考に字音のまゝに唱ふる事といふ人あれど云々、といへるは、此事なるべし.代匠記精撰本には、字音云々の事はあらざれども、代匠記の異本にはしか書るものもあるべし、】
今代匠記の説に從ひて熟考ふるに、反は荀子の反辭によりて設けたる名目なること決《ウツ》なし、【此反辭を又は小歌ともいふ】荀子卷十八【賦篇】に天下不v治請v陳(ント)2※[人偏+危]詩1云々、與(フルニ)v愚(ニ)以(ス)v疑(ヲ)願(ハ)聞(ン)2反辭(ヲ)1とある揚※[人偏+京](ノ)注に、反辭(ハ)反覆叙説之辭、猶2楚詞(ノ)亂曰1といひ、又、同書に其小歌(ニ)曰云々とあ(7)る注に、此下(ノ)一章即其反辭(ナリ)、故(ニ)謂2之(ヲ)小歌(ト)1※[手偏+總の旁]2論(スル)前意1也とあり、かくて、楚辭(ノ)離騷の亂(ニ)曰の王逸の注に、亂(ハ)理也所d以發2理(シ)詞指(ヲ)1總c撮(スル)其要(ヲ)u也、といへり、此の既に述べたる賦の詞指を發露して、其要を總理するを亂といふよしなり、楚辭の離總もまた賦なれば、其末に亂を述べて賦の終を總理したるなり、又洪興祖の補注に、國語(ニ)云其輯(ス)2之亂(ニ)1輯(ハ)成也、凡作2篇章1既(ニ)成撮2其大要1以爲2亂辭(ト)1也、離總(ニ)有v亂、亂(ハ)者總2理(スル)一賦之終(ヲ)1也といへり、かゝれば本邦の反歌は全く荀子の反辭に擬したるものなる事を明むべし、其は長歌は西士の賦の如きものなればなり、既に卷十七には長歌をさして賦といひ、短歌を一絶二絶などいひ、又同卷【三十左】に大伴(ノ)家持卿の池主に贈りたる文の後に、七言絶句一首と短歌二首とを載せて、式(テ)擬(ス)v亂(ニ)とさへいへり、是楚辭の亂の意なり、之にて彌反歌は反辭をまねびうつされたること論なき也、すべて寧樂人の癖として、唐土の文章の風をまねびて、名目を彼(レ)にならへること多し、かの徃來歌の類を相聞と名づけ、哀傷歌を挽歌といひ、又卷四【十八左】に和(ヘ)歌を同歌【唐人和詩を同詩ともいへるによりて、之をまねびたるなり、】とかける類、いづれも唐土の稱謂を假り用ゐたるなり、類推すべし、さて又古事記日本書紀に載たる長歌には、此反歌といふものある事なし、これを集中に考ふるに、舒明天皇の御代の時の歌に始て見えたれば、此頃よりぞはしまりけん、其は推古天皇の頃より、唐(8)國に屡々往來して、何事も彼國の風俗をまねびうつされたることなれば、此土の長歌も彼國の賦にならひて、一篇の末に其大意を總括し、又いひもらしたることをも、短くつゞめてよみそへ、それを反歌と名づけたるなり、されば其讀も字音にてハンカ〔三字右○〕とよむべきにこそ、
かゝれば反歌は長歌につきたるをりの短歌をいふ稱なることは論なきを、集中長歌につきたるをも、たゞに短歌ともかけることのあるを以て、反歌とあるも短歌とあるも同義なりとし、反は段の草變せるものにて、段短音近きを以て借用せるなりといひ【田中芳樹古風三體攷】又安井衡【息軒】の睡餘漫筆に、反は※[反の一角目が斜め]〔右○〕字の誤りなり、※[反の一角目が斜め]〔右○〕は段(ノ)字の草體を更に楷書としたるものにて、反〔右○〕(ノ)字は上畫を左より右にひく、※[反の一角目が斜め]〔右○〕(ノ)字は右より左にひく、天(ノ)字と夭(ノ)宇の違ひの如し、※[反の一角目が斜め]〔右○〕字、藏經の中に見ゆ、音注に音短とあり、今其書名は忘れたり、一切經音義を調べなば書名分るべけれども、老衰の上眼病なればさることも煩はし、古(ヘ)佛教盛なる故、俗人も佛書中の字を知れり、筆畫の省けるを利して、※[反の一角目が斜め]〔右○〕(ノ)字を用たりと見ゆといへり、おのれ甞て此事を塙忠寶及び僧徹定に聞たる事あり、其説に石晋の可洪の著せる新集藏經音義随凾録に※[反の一角目が斜め]〔右○〕音丹、短也、とあれば、元より※[反の一角目が斜め]〔右○〕に短の義ありて、※[反の一角目が斜め]〔右○〕歌は短歌といふに同じき也、といへりき、これによれば息軒の見た(9)りし藏經は、可洪の随凾録をいふものゝ如し、但し忠寶また徹定にも随凾録いづれの卷にありやと問たれど、其卷の名は答へざりき、其後随凾録全部【本書は高麗版にて、徳川家康公の増上寺に寄附したるものなり、】を借得て、おのれ自からも全部をくりかへし、又人しても捜索せしめたれど、さる注は見えず、此説は恐らくは妄誕なるへし、安井衡もたゝ藏經とのみいひて書名は忘れたりといへり、恠しむべし、もし又藏經中にさる注ありとせんも、段(ノ)字の草書より變じたる※[反の一角目が斜め]〔右○〕(ノ)字を殊更に用ゐたるは甚奇を好めるものといふべし、いかでさるもの遠き文字を用ゐるべき理あらんや、ゆめかゝる奇説にまどはさるゝ事なかれ、
附言、田中芳樹の古風三體考の説は、いと妄りなるものにて、其證として引用したる、古今集の眞名序、類聚國史、清輔袋草紙、仙覺萬葉集の奥書等の反歌の文字は、いづれも證とはなしがたきものなるを、其文義をよくも考へずして引出たるは甚麁忽なり、又長歌につきたる反歌を、或は短歌ともかける事あるにつきて種々の説もあれど、短歌は三十一言の歌の總稱なれば、常の三十一言の歌をいふはもとよりにて、長歌の奥なるもまたしかいふべし、反歌は長歌の奥なる短歌に限る稱にて所謂總稱別稱といふものなり、猶おのが※[木+觀]齋雜攷に精しく論じおきたり、
 
(10)   明日香川原(ノ)宮
明日香川原(ノ)宮を、荷田(ノ)東磨翁の僻案抄には、皇極天皇の都なりといへり、拾穗抄にも古注を引てしかいへり、拾穗抄は古注はさらなり、本文をさへに私に改めかへたる所多ければ只管には從ひがたし、但し延喜諸陵式に、越智(ノ)崗(ノ)上(ノ)陵【飛鳥川原(ノ)宮御宇皇極天皇大和(ノ)國高市(ノ)郡云々、】とありて、他書にも多くかくいへれば、飛鳥川原は皇極天皇の都なる事は明かなれども、書紀には齊明天皇の川原(ノ)宮に御座したる事は記せるも、皇極天皇の川原(ノ)宮に座しましたることは見えず、其は漏れたるなるべし、かくて書紀皇極紀には、元年十二月壬午朔壬寅、天皇遷2移小墾田(ノ)宮(ニ)1、二年夏四月庚辰朔丁未、自2權《カリノ》宮1移2幸飛鳥板蓋(ノ)新宮(ニ)1、と見えたるのみなるを、齊明紀には、元年正月壬申朔甲戌、皇祖母(ノ)尊即2天皇(ノ)位(ニ)於飛鳥(ノ)板蓋宮(ニ)1云々、是冬災2飛鳥(ノ)板蓋(ノ)宮1故(レ)遷2居飛鳥川原(ノ)宮(ニ)1、とあり、されば齊明天皇の川原(ノ)宮に御坐しましたる事は明かなり、愚管抄にも齊明云々、皇極再ビ位ニツキ給ヒ、大和國岡本宮ニオハシマス、とありて此下の分注に、マヅ飛鳥川原宮に遷都、とあり、マヅ〔二字右○〕とは岡本(ノ)宮御造營中、先川原(ノ)宮に遷都遊ばしたるよしにて、書紀の文と合へり、かくて此額田(ノ)王の歌は、此川原(ノ)宮に御坐しませるほどの歌なるから、かく標して別に出せるなるべし、又本集の左注に引たる日本紀は、皆齊明天皇の紀の文なり、其(11)は此注者も齊明天皇の川原(ノ)宮に御坐けるほどの事としたるが故也、さて又歌の作者額田(ノ)王は天智天武兩朝に仕へて、その頃さかりの齢なりし人とみゆるに、もし此歌を皇極天皇の御代のとすれば、既に此御代の頃さかりの齢にてありしなり、歌のおもむきにてしかしらる、今假りに此時二十四五歳とするも、天武天皇の御代知しめしゝ頃は五十六七歳のよはひなるべし、しかるにその歌どものさまを見るに、さる年老たる人とは見えず、故におのれは縣居翁の説に從へるなり、
        
   高山《カグヤマ》
仙覺抄に高をカグ〔二字傍線〕といふは音を用ゐたるにて、香山をカグヤマ〔四字傍線〕と讀と同じことなりとあれど、此は猶細しからず、香は韻鏡第三十一轉陽韻所屬の字にて喉内聲なれば、カク〔二字二重傍線〕と讀むこと論なし、同轉の當(ノ)字宕(ノ)字をタギ〔二字二重傍線〕相をサガ〔二字二重傍線〕などに用ゐたると同例なり、又第二轉の勇をイク〔二字二重傍線〕、第三轉の雙をサク〔二字二重傍線〕などに用ゐたるは、皆喉内聲なればなり、されど高は第二十五轉豪韻の字にて脣内聲なれば、此ウ〔右○〕韻は和行に轉すべき例にて、【三内の方にてはハマワ〔三字右○〕脣なれば也、】加行へ轉じたるはたがへり、されど又例はあるなり、孝徳紀【三十一左】に、猪名(ノ)公高見、天武紀上【十八左】に、大紫韋那(ノ)公高見とある、高見はカヽミ〔三字二重傍線〕と訓(ム)べきなり、其は威奈(ノ)大村(ノ)墓誌銘に、卿諱(ハ)大村、檜(ノ)前五百野(ノ)宮(ノ)御宇天皇之四世、後(ノ)岡本(ノ)聖朝、紫冠威(12)奈(ノ)鏡(ノ)公之第三子也、とみえたる鏡(ノ)公即高見(ノ)公なり、これ高《カウ》の音を轉じてカヾ〔二字二重傍線〕に借(リ)たるものなり、されば古(ヘ)此轉音ありし事を明らむべし、かくて西士にもまた例あり、太田方の音徴不盡に、高、漢(ノ)轉音、加久、墨子所染篇、晉文染2於舅犯高※[人偏+區]1、愚按高※[人偏+區]即郭※[人偏+區]也、可v見3入聲借2音鐸韻1矣【正辭云、香は三十1轉陽韻にて喉韻也、高は二十五轉唇韻にて別なるやうなれども、三十一轉の入聲の字を、二十五轉の借音にするは、音の近きよしある故也、又墨子の文、呂氏春秋當染篇に載たるには、高※[人偏+區]を郭※[人偏+區]に作れり、御覧六百二十に呂氏を引て、郭※[人偏+區]とあるなり.太田方はこれに據りたる也、】とあり、是高郭通するなり、郭は第三十二轉鐸韻所屬にて喉韻の字なり、さて又同人の著せる同※[穴/巣]音圖に云、
 蒿、※[月+確の旁]、※[目+曜の旁]、膠、※[手偏+確の旁]、
釋名釋飲食、※[月+確の旁](ハ)蒿也、香氣蒿蒿也、呂氏春秋賛能、乃使吏〓2其〓1膠2其目1、説苑雜言、管夷吾〔三字傍線〕束縛膠目、居2檻車中1、史紀荊香軻〔二字傍線〕傳、乃※[目+曜の旁]2其目1、索隱、以2馬矢1※[重/烈火]令v失v明、前漢五行志、萬后鴆2殺如意〔二字傍線〕1、支2斷其母戚夫人手足1※[手偏+確の旁]2其目1、※[耜の旁]爲2人〓1、愚案、※[手偏+確の旁]一音霍、集韻忽郭切、※[手偏+確の旁]眼、膠目、※[目+曜の旁]目、言閉2塞其目1也、顔氏〔二字傍線〕云、※[手偏+確の旁]謂3敲撃去2其精1也、未v得2其考1也、荘子駢拇、今世之仁人、蒿目而憂世之患、蒿入聲借音※[月+確の旁]、※[月+確の旁]※[目+曜の旁]同音、膠一音豪、皆音轉也、蒿目猶v言2瞑目1也、
按に蒿は豪韻二十五轉の字、※[月+確の旁]※[目+曜の旁]はともに鐸韻にて三十一轉の字なり、※[手偏+確の旁]は第三轉覺韻なれども、一音霍は三十二轉鐸韻の字也、これにて二十五轉と三十一二の兩轉(13)と通ずる事あるをしるべし、又按るに玄應音義卷二十五に、〓、〓蒼作v槁同、苦學反、とあるなども同例也、
 
   春去來者《ハルサリクレバ》【春去者、秋去者、夕去者、】の説
僻案抄に云、春去者《ハルサレバ》は春になればと云詞也、○考に云、去は借字にて春になればてふ言也、にな〔二字傍線〕の約はな〔右○〕なるをさ〔右○〕に轉じてされ〔二字傍線〕といへり〇倭訓栞に云、はるされば、萬葉に春之在者と書り、又はるさりくればともよめり、しあ〔二字傍線〕(ノ)反さ〔右○〕也、○年々随筆五に云、夕されば、春されば、秋されば、夕になれば、春になれば、秋になればといふ事、されといふにさせる意なし、もと去(ノ)字也、詩には晩來といふ來に意なし、老去歸去といひ、春來秋來などいふ去來の字、いとかろくてそへていふもじ也、○山彦冊子三【四十一】に云、去《サル》は來《ク》る意にて、古へ來《く》るを去《サル》るともいひしなり、○燈二十に云、古説みな去といふにわびたる説ども也、これわが御國言の法にくらければ也、春となればその春時々刻々わが限前を去りゆくが故也、來るを去るといふは、事たがひたるやうにおぼゆるは後世心なり、○古事記傳卷二【四十三】に云、由布佐禮婆《ユフサレバ》は、夕去者《ユフサレバ》にて、夕になればと云むが如し、萬葉に多き詞なり、明去《アケサレ》ば朝去《アササレ》ば、春去《ハルサレ》ば秋去《アキサレ》ば又|春去《ハルサリ》來ればなどゝもいひ夕《ユフ》さらば春さらば、秋さらばなどもいひ、又夕去來《ユフサリク》れば春去來《ハルサリク》ればとも、春去《ハルサリ》にけり(14)とも、又春去|徃《ユク》とも、さま/”\に云る、みな去《サル》は其時になる意に云り、【去往《サリイヌ》る意にはあらず、春去往《ハルサリユク》と いへるも春になりゆくなり、春去《ハルサリ》にけりといへるも春になりにけりといふ意也、】今の俗言に、夜を夕《ユフ》さりとも夜《ヨ》さりとも云は、此より出たる言なるべし、
正辭按ふるに、此詞はいかなる意とも辨へがたし、本居翁もいまだ考得ぬこととみえて、古事記傳にも、由布佐禮婆《ユフサレバ》は夕になればと云ふが如しとのみいひて、其語の原をば解かず、又縣居翁のにな〔二字傍線〕の約なりとの説を出さぬは、猶諾ひがたくやありけむ、但し外によき説もなければ、おのれは姑く縣居翁の説に從ふべくおぼゆ、かくて年々隨筆にいへる、去(ノ)字は助辭なりとの説は非也、漢文にては助辭とする事あるも、そは去といふ音の事なり、今サリ〔二字傍線〕サレ〔二字傍線〕など、此方の辭に當たる去(ノ)字を、それとひとしなみにせむは強たる事なり、又山彦冊子に、去《サル》は來《ク》る意なりといへるもわろし、但し徃《ユク》と來《ク》とは古人の用《ツカヒ》ざまに紛はしきがあれど、古人は其心をおくかたにつきて、徃《ユク》と來《ク》との用《ツカヒ》ざまあることにて、徃と來とを全く同じ意に用《ツカ》へるにはあらず、よく心をとめて古歌をば見べし、又燈の説はいとむづかし、いかでかゝる事あるべき、此は春去徃《ハルサリユク》とあるによりて説を立てたるが如し、春去者《ハルサレバ》と已然言にいひたるをはいかゞするにや、
 
(15)   榛(ノ)字の訓
萩を榛とかけるは山吹を集中に山振《ヤマブキ》とかけると同例なり、然るを卷十四【十六左】に伊可保呂乃蘇比乃波里波良《イカホロノソヒノハリハラ》、和我吉奴爾都伎與良之母與多敞登於毛敞婆《ワガキヌニツキヨラシモヨタヘトオモヘバ》、とある歌によりて、榛は猶はり〔二字傍線〕と訓て、萩をば古(ヘ)はり〔二字傍線〕ともいひしなりといふ説、【渡會弘訓】あれど、此は東歌なれば猶方言とすべし、また神樂歌にも、さいばりに衣はそめんとあれど、これも謠ふものゝ調子にてハギ〔二字傍線〕をはり〔二字傍線〕とはいひしなるべし、これらをもて集中の榛を、皆はり〔二字右○〕とよまむとおもふはわろし、さてはかの山振も文字につきてやまぶり〔四字傍線〕とよまむか、いかでさはよむべき、又卷七【二十四右】に不時斑衣服欲香衣服針原時二不有鞆《トキナラヌマダラノコロモキホシキカコロモハリハラトキニアラネドモ》、といふ歌あり、こは衣を張《ハル》といふいひなしなれば、わざとはぎ〔二字傍線〕をはり〔二字傍線〕とはいひくだしたる也、【そははぎとはりとは、もとより通音なればなり、】もしはりの木〔四字右○〕のことならば、いつとても時なきものなれば、結句に時にあらぬどもとあるに叶はず、此は秋を時としたるにて萩なること論なし、はぎ〔二字傍線〕とはり〔二字傍線〕と通ずるよしを猶いはゞ、播磨風士紀に、萩原(ノ)里、右所3以名2萩原(ト)1者、息長帶日賣(ノ)命韓國還上之時御舶宿2於此村(ニ)1、一夜之間(ニ)生2萩根1、高一丈許、仍名2萩原1即闢(ク)2御井(ヲ)1故(ニ)曰2針間井1、とあり、これはぎ〔二字傍線〕はり〔二字傍線〕通ずるの證なり、また卷七に端詞に寄木と有て、歌に榛(ノ)字を用たるにつきて、榛ははり〔二字傍線〕の木なる證とするもわろし、萩はもと木(16)とも草ともいはるべきものなるから、木といはむもさまたげなし、【萩をはぎ〔二字右○〕といふも、もとはりの木の略ならん、そは榛も萩も叢生するものなるから、ともに此名を得たるなるべし、】これら大かた、人のまどふべきふしなれば、今殊にこゝに辨ふるなり、かくて集中を通攷するに、榛をよめる歌十首ありて、いづれも衣に摺《スル》といひ、つくといひ句ふといひ、または愛《メヅ》るよしにいへるを、はりの木は、しかたゞに衣に摺附《スリツク》ものにあらず、【はんの木の若葉をもて摺附るなりといふ説あれど、それもひがことなり、若葉をもて摺附むには、いづれの木の葉も色附べきなり、はんの木のみにかきるべきことかは、】匂ふといふべきものにあらず、また愛《メヅ》べきものにあらされば、萩なること論なし、【考の頭書に此都うつしは三月なれば、秋はぎは、いかゞといふべけれど、歌のあやにいひつゞくるものは、時にかゝはらぬ例多し、とあり、こは歌林に遷都云々の文によりていへるなれど、歌林はもとより異傳にて本集にては下2近江(ノ)國1時とあれば、三月の遷都の時とはかぎるべからず、考は常に歌林は僞書なりとて取ざるを、こゝは歌林に依りて本集を改めたり、かく所によりて意にまかせて改め易へたるはいとみだりなり、】
 
   十市(ノ)皇女參2赴於伊勢(ノ)神宮(ニ)1
橘(ノ)守部が萬葉集檜※[木+瓜]に云、世に此參赴を、齋(ノ)内親王にて參り給ふと心得つる故に、尋て波多(ノ)横山(ノ)巖までも心得謬れりし也、此間の齋宮は、大伯(ノ)皇女次(ニ)阿部皇女にして、齋宮列名にも十市皇女は見えず、懐風藻葛野(ノ)王(ノ)傳云、王子者淡海帝之孫大友太子之長子也、母(ハ)淨見原之長女、十市(ノ)内親王也と見えて、既に大友(ノ)皇子の御妃なりければ、本より齋宮に立給ふべきことはりもなし、此度の參赴は御父と夫君との軍を歎き給ひ(17)て、密に祈願のために出立せ給ふめれば、其道筋も齋宮群行の路次にはあらず、云々【道筋の事は、既に本文に出したり、】かくて皇女の御事、紀(ニ)曰七年是(ノ)春將v祠2天神地祇(ヲ)1、而天下悉祓禊(ス)之、竪2齋宮(ヲ)於倉梯(ノ)河上(ニ)1夏四月丁亥朔欲v幸2齋宮1卜v之、癸己食(リ)v卜(ニ)、仍取2平旦(ノ)時(ヲ)1、警蹕既(ニ)動(ス)、百寮成v列(ヲ)乘輿命(シ)v盖(ヲ)以(テ)未(ルニ)v及2出行(ニ)1、十市(ノ)皇女卒然病發薨2於宮中(ニ)1由v此鹵簿既(ニ)停(テ)不v得2幸行(ヲ)1、とあり、此に病發と書たるは只文の刷ひにて實は今暁卒に自害して失坐(シ)たる也、其故は此時倉梯に竪られたる齋宮は、大友(ノ)皇子を亡し給はんと御出願ありし報賽のためなりければ、十市(ノ)皇女其大友(ノ)御妃と坐(シ)て此(ノ)從駕には立《タヾ》しがたかる故にぞある、されば次(ノ)文(ニ)云庚子葬2十市皇女(ヲ)於赤穂(ニ)1天皇臨之降v恩以發v哀とて痛く悲み給ひ、又此集二(ノ)卷に、十市(ノ)皇女薨時高市(ノ)皇子尊(ノ)御作歌とて三首載たり、何れもいと悲しく聞えて、御自ら命を短くなし坐(シ)し御歎きあり、此等を合せて按にも、既に此伊勢の御參赴の頃も、彼御物思ひにて、つひに存へては世にあらじとおもほしける色の見えけんから、吹黄(ノ)刀自が如此しも御命をいはふ歌をよみて慰めけるにこそ、卷二【十三】に大津皇子竊下2於伊勢神宮(ニ)1上來時大伯(ノ)皇女御歌云々、此等をも合せて事とある時、皇子だちの神宮に詣て給ふ事を知べし、また此歌に、二人ゆけど行(キ)過がたき秋山を、いかでか君が獨りこゆらん、とあるも、此(ノ)波多越の山道なりけらし、【以上】此説まことにさる事なり、故(18)に此に出す、
 
   耳我嶺《ミヽガノミネ》
おのれ先には眞淵翁の説に從ひて、耳我《ミヽガ》は御甕《ミミカ》の意ならんとおもひたりしが、後に考ふれば、此みか〔二字傍線〕は嚴《イカ》にて、其山の大きくして嚴《イカメ》しきが故の稱なるべし、伊加《イカ》を美加《ミカ》ともいへるよしは、古事記傳卷五等に建御雷之男《タケミカヅチノヲノ》神、御雷《ミカヅチ》を、書紀には甕槌《ミカヅチ》と書り、何(レ)も借字にて、美迦《ミカ》は伊迦《イカ》に通ふ言なり、その伊迦《イカ》は嚴矛《イカシホコ》【舒明紀】重日《イカシヒ》【皇極紀】伊賀志御世《イカシミヨ》【祝詞】などのいか〔二字傍線〕也、これをみか〔二字傍線〕ともいへるは、書紀に武甕槌《タケミカヅチノ》神とあるを祝詞には健雷《タケイカヅチノ》命とあり、又仁徳紀の歌に、※[さんずい+彌]箇始報破利摩波椰摩智《ミガシホハリマハヤマヂ》とあるは、嚴《イカメ》しき潮の速きと云意のつづけなり、又日本書紀に甕星《ミカホシ》甕栗《ミカグリ》などあるも、甕《ミカ》は嚴《イカ》の意なりとあり、【以上採要】さればみかの嶺《ミネ》も嚴《イカノ》嶺なるべくこそ、上のみ〔右○〕は吉野《ヨシヌ》を三吉野《ミヨシヌ》と云に同じく美稱也、さて又|甕《ミカ》の意とするも、嚴の意とするも、加は清音なるべきに、濁音の我の字を用ゐたるはいかにといふに、上に美稱の御《ミ》の言の添りて、それよりつゞけ唱ふるから、自然に美我《ミガ》と濁り唱へしならん、但し本集卷五【三十九左】に父母毛表者奈佐我利《チヽハヽモウヘハナサカリ》と我を清音に用ゐたる例もあれど、猶こゝは濁音にてものしたるなるべし、又祝詞に、伊賀志御世《イガシミヨ》とあるも、濁音の賀を用ゐ、又和名抄に栗刺を伊賀と訓り、狩谷望之の和名抄箋注(19)に或曰|伊賀《イガ》、嚴也、言(ハ)有(テ)v刺可v畏也、といへり、これによれば嚴(ノ)字の意なるイカ〔二字傍線〕は、イガ〔二字傍線〕と濁りてもいひしなり、栗刺は今も濁りてクリノイガ〔五字傍線〕といへり、
 
   日知《ヒジリ》
日知とは本文にいへる如く、天つ日嗣知しめす御孫《ミマノ》命を申すなり、しかるに古事紀上卷に聖神とある傳卷十二の【三十六右】注に、名義未考得ず、聖は借(リ)字にて是は地名にもやあらん、師云、比自理《ヒジリ》と云こと、日(ノ)神より嗣たまふ皇統ならでは、いはぬことなれば、此神名は後のことかと云れき、是も論あり、なほ下卷に辨ふといひ、下卷仁徳天皇(ノ)段に、稱(テ)2其御世(ヲ)1謂2聖帝(ノ)世(ト)1也とある傳卷三十五【二十六右】に、聖帝の二字を比自理《ヒジリ》と訓むべし、日知《ヒジリ》の意なり、但し此は、皇國の元《モト》よりの稱には非じ、聖(ノ)字に就て設けたる訓なるべし、其は、漢籍に、聖人と云者の徳をほめて、日月に譬へたることあるを取て、日の如くして、天(ノ)下を知《シロ》しめすと云意なるぺし、されば日の如《ゴト》知《シリ》の意なるを如《ゴト》を省き云は常なり、然るに此(レ)を、皇國の元《モト》よりの稱として、日嗣所知看《ヒツキシロシメ》す意と思ふは非ず、日嗣知(リ)を、日知《ヒジリ》と云(ハ)むは、古(ヘ)の物言(ヒ)ざまに非ず、且《ソノウヘ》若(シ)其意ならば御世々々の天皇は、皆本より日知《ヒジリ》に坐(シ)ますを、今此仁徳天皇をより分て、稱《タヽヘ》申せるは、何の意とかせむ、天皇を賛《ホメ》奉(リ)て日|知《ジリ》と申すは、此(ノ)天皇より始まれる事にて、漢國の例に效《ナラ》へる稱なり、といへるは非(20)なり、又日知を日の如《ゴト》知《シリ》の意といへるも諾ひがたし、今按ずるに、聖帝と申す稱は、實に仁徳天皇よりの事にて、漢國の例に效ひたるなり、【此帝の外にも、續日本紀の詔詞に、聖天皇聖皇聖者など申したることあり、いづれも漢國の例に效へるものにて、日嗣知しめすよしにはあらず、】さて其訓は日知と同じかれども意は別なり【此事下に云ふ、】日知《ヒジリ》の日嗣《ヒツギ》知《シロ》しめす意なる事は、草壁(ノ)皇子の御謚號を日並知《ヒナメシノ》尊と申すにても知らるゝなり、此皇子は皇太子にておはしましけるに、御父天皇の崩じませし後も御位には即せ給はでありしほどに、遂に薨じ給ひしかば、御母持統天皇のいふがひなくおもほしめして、日嗣《ヒツギ》の並に御世を知らし給へるよしにて、日並知《ヒナメシ》と稱へて御謚に奉られたるなり、【後に岡宮天皇と尊號を奉られたるにてもおもひ合すべし、但し紹運録に日並知を一名と注せるはわろし、】これに準へて日知《ヒジリ》は日嗣知しめすよしなる事を曉るべし、谷川士清の倭訓栞にもひじり日本紀に聖(ノ)字をよめり、萬葉集に日知とかけり、日徳を知しめす聖天子の稱也、又大人をもよめり、西土にも天子を聖といへれど、我邦日知の意は西土と異なり、天つ日嗣しろしめす皇孫の尊を申奉る也、といへり、日徳を云々とあるは非なれども我邦日知の意は云々はさることなり、かくて考ふるに、聖(ノ)字をひしり〔三字右○〕とよめるしり〔二字右○〕は物《モノ》識の意のしり〔二字右○〕にて日知とは自ら別ならん、【比《ヒ》の意は、いまだ思ひ得ざれども、もしくは日古《ヒコ》日賣《ヒメ》の日《ヒ》にて靈異《クシヒ》なる意の尊稱ならんか、】さて物識りたる人は尊むべけれは轉じて大徳ある人を比自利《ヒジリ》といふなるべし、中昔(21)より僧をひじりといふも同義也、古事記上卷なる聖神を、縣居翁の説に、此神名は後のことか、といはれたれど、此はまた別義にて、記傳に聖は借字にて地名にもやあらんといへり、さもあるべし、
 
   釼《クシロ》
釼は鈕の俗字なり、【丑は俗に※[釼の旁]刃などかくことは、萬葉集訓義辨證の※[糸+刃](ノ)字の條にくはし、此に劔と作るは、もと釼とありしを、後人妄りに改めたるなり、】久之呂《クシロ》は、鈴または玉などを多く緒にて貫《ツラヌキ》て臂に紐附《ユヒツク》るものなれば、金と丑とに从ひて古(ヘ)皇國にて造れる文字なるべし、丑は説文に紐也【廣雅及釋名にもかくあり、】とありて、ゆふ〔二字傍線〕むすぶ〔三字傍線〕など訓べき字なれば也、其字偶々印鼻也と訓ずる鈕(ノ)字と形を同じくし、其俗體のかたの釼はまた鈍也と訓ずる※[金+刃](ノ)字と粗同じ形となりたれど、其實は釼は鈕の俗體にて、皇國にて造れる會意の字にして、鈕鼻の鈕、また純也と訓ずる※[金+刃]とは造字の原委同じからざる也、其は萩《ハギ》椿《ツバキ》なども皇國にて造れる文字にて、漢字の萩椿とは自《オ》から別なるが如し、猶いはゞ集中または他書にも、偲(ノ)字をしのぶ〔三字傍線〕とよめり、こは从v人从v思此方にて造れる會意の字なり、詩齊風に其人美(ニシテ)且偲とある字にはあらず、又鮎(ノ)字を古くより年魚《アユ》の名とす、しかるに漢字の鮎は鯰と同字にて奈末豆《ナマヅ》の事也、鮎を年魚《アユ》に用ゐるは別に皇國にて造れる字なり、其は神功皇后韓國を征し給ふ時其勝敗(22)を卜し給ひて、細鱗魚《アユ》を獲給ひし故事によりて、魚と占とに从ひて製したる文字なりと、谷川士清の日本紀通證にみえて、狩谷望之の和名抄箋注も此説に從へり、これら皆今と同例なり、此他皇國にて造りたる文字どもはいと多かるを、其は余が皇朝造字攷といふものに集めおきたり、かくて鈕の俗體の釼の字を久之呂《クシロ》と訓べき證は、古事紀(ノ)下【高津宮段】に、女鳥《メトリノ》王(ノ)所纏御手之玉釵《マカセルミテノタマクシロ》云々、以2其王之|玉釵《タマクシロ》1纏2于己(レノ)手(ニ)1云々、太后見2知其|玉釵《タマクシロヲ》1云々、所v纏《マカセル》2己(カ)君之御手(ニ)1玉釵《タマクシロ》云々、とある釵之字は釼の誤なり、眞福寺本には皆釼と作《ア》るなり、これ古へ久之呂《クシロ》に釼(ノ)字を用ゐたる證なり、【古事記傳には釵は釧の誤なりとて悉く改めたるはいまだし、眞福寺本に依て釼とすべし、】本集の釼(ノ)字と合せ考へて互に證すべし、かくて考ふるに猶確證こそありけれ、其は古本新撰字鏡卷六に、釼【女久反環也※[王+川]也】とある是なり、【原書には女を安、※[王+川]を※[王+立刀]に誤れり、今改正して引、】さるは注に※[王+川]也とある※[王+川]は釧と同字にて、同書同卷に※[王+川]、齒縁詩川二反臂※[金+貫]也、女人挂2於臂上1也釧同比知玉とあり、比知玉即(チ)久之呂也、これにて釼を久之呂と訓むべきこと彌々明かなり、さて環は由比万岐《ユビマキ》にて久之呂《クシロ》は釧なれども、古(ヘ)釧をも通して環ともいひしなり、其は文選曹植樂府【美女篇】に、皓腕約2金※[金+環の旁]1注に※[金+環の旁](ハ)釧也とあり、又慧琳一切經音義卷十九に、環釧【上(ノ)※[金+環の旁](ハ)臂釧也、或以2象牙1作(ル)v環而以2七寶1鈿v之、或用2金銀1作(ル)、如2環之象1、下州〔右○〕戀反釧亦環也.皆臂腕之寶飾也、】などあるにて釧をも環といへるを見るべし、故に字鏡に釼(ハ)環也と注したるなり、折言すれば環と(23)釧と別なり、統言すれば釧亦環といふなり、
 
   島回《シマワ》
荒木田(ノ)久老の信濃漫録に、浦回磯回島曲【○正辭云、島曲とかける事集中にはなし、曲は回の誤にや、】このこと師は和《ワ》と訓(マ)れ、宜長は麻《マ》とよみたれど、萬葉集中に和《ワ》とよめる例も麻《マ》とよめる例もなし、すべてみ〔右○〕と訓べき也、た/\ま〔右○〕とよむべくおもふは、磯末《イソマ》浦末《ウラマ》と書る所あるのみ也、こは未《ミ》を末に誤れるにて、今本の訓はひがごと也、また卷十五に伊蘇乃麻由《イソノマユ》とあるは、石《イソ》の間《マ》にて回の意とは別也、其證は卷三に磯前※[手偏+旁]手回行者《イソノサキコキタミユケバ》とありて、回を美《ミ》の假字《カナ》に用ひ〔右○〕たり、又四に稲日都麻浦箕乎過而《イナビツマウラミヲスギテ》など、猶委しく萬葉四(ノ)卷別記にいへりとあり、〇橘(ノ)守部の鐘の響に、蓮光寺興瑛問云、萬葉集中に浦回磯回嶋曲〔右○〕など書たるをば、考、略解などには、うらわいそわ島わとよまれ、本居氏はうらまいそましまゝとよまれ、槻(ノ)落葉にはいそみうらみしまみとよまれたり、此讀はいづれかよろしからん、答云、おのれも年來さだめかねて假字もてかける歌どもに心をつけゝるに、とかく定めがたし、先第九【三十二丁】磯之裏未〔左○〕《イソノウラミ》、十四に麻萬能宇良末乎《ママノウラマヲ》、十五【七丁】神島乃伊曾未〔左○〕乃宇良爾《カミシマノイソミノウラニ》、また【十六丁】宇良未〔左○〕欲里《ウラミヨリ》、また【二十七丁】多可思吉能宇良末能毛美知《タカシキノウラマノモミヂ》、十七【十九丁】伎欲吉伊蘇末爾《キヨキイソマニ》、また【二十二丁】白浪之余須流伊蘇末《シラナミノヨスルイソマ》、また【三十四丁】須蘇未乃夜麻乃《スソミノヤマノ》、また【三十六丁】之麻未〔左○〕(24)爾波《シマミニハ》、二十【十五丁】多可麻刀能宮乃須蘇未乃《タカマトノミヤノスソミノ》、また【三十四丁】之麻《シマ》米|爾多知弖《ニタチテ》、【此米は未歟末歟の誤りなるべし、】云々、これらの未と末とは字形も相近く互に語安き貌なれば、うらみともうらまとも定めがたし、四【十六丁】稻日都麻浦安箕乎過而《イナビツマウラミヲスギテ》、九【八丁】礒浦箕乎《イソノウラミヲ》、十一【三十六丁】住吉之城師乃浦箕爾《スミノエノキシノウラミニ》、などあるはうらみいそみと讀むべき一の證なり、又みとびとは常に親しく通ふ音なるに、恒に海備《ウナビ》浦備《ウラビ》島備《シマビ》など云るを見れば、うらみいそみしまみすそみとよむべき徴は慥かなるを、うらまともうらわとも讀べき證は凡て集中假字書にいまだ一(ツ)も見ず、十五に伊蘇乃麻由《イソノマユ》とあるは、山(ノ)際《マ》など云と同じくて、回の意とは別なれば證とはしがたし、さて船をこぎたむといふに、※[手偏+旁]回※[手偏+旁]轉などかきて、其假字書に一【二十五丁】安禮乃崎※[手偏+旁]多味行者《アレノサキコギタミユケバ》、十一【三丁】崗前多未足道乎《ヲカザキノタミタルミチヲ》などもあり、又かの浦回を浦轉浦※[さんずい+彎]など書たるも同例なるに、三【十九丁】礒前※[手偏+旁]手回行者《イソノサキコギタミユケバ》と回(ノ)字を美の假字に用ひたる例もあれば、うらみいそみしまみすそみとよむべきものとぞおぼしき、○又萬葉集問目【此書は宜長翁の集中にて解しかたき所をを、ふみして眞淵翁の許に問ひやりしを、やが て眞淵翁の答へかへしたるその往來の文を集めたるものなり、】に、問云、島回磯廻浦廻などの回廻の字を和とよみたれども、假字にかける歌に和《ワ》といへること見あたり侍らず、宇良末《ウラマ》伊蘇末《イソマ》などゝのみ候へば、回廻とかけるをも末《マ》とよみ候べきにや、第七のかざはやのみほの浦廻を云々てふ歌も、第十四にはかづしかの(25)まゝの宇良|末《マ》を云々とて入たれば、いよゝしか思はるゝに、又|里廻《サトワ》などいふこともあるを.佐登麻《サトマ》とよまむはことやうに候べき、此義いかゞよみ候べき、答云、よく考られしとはきこゆれど、猶卷十一に湖轉《ミナトワ》と有をみなとまとはよみがたし、神賀詞に天瓶和《アメノミカワ》とも有、
正辭云、信濃漫録に集中に和とよめる例も麻とよめる例もなしといへるはいかゞ也、島回《シマワ》浦回《ウラワ》また石轉《イソワ》などを、舊訓にワ〔二重傍線〕とよめるは義訓にて、これ古(ヘ)より傳來の訓なるべければ、和《ワ》とよめる證なり、【すべて近き世の人の舊訓をば、ものゝかずともせぬはかたくな也、】伊勢の郡名河曲ハ延喜式和名抄以呂波字類妙共にカハワ〔三字右○〕とよめり、これも同義なり、回はめぐりと訓む字にて、和は即(チ)島にまれ浦にまれ其ほどりをいふ古言也、またこれを麻《マ》ともいひし證は卷九【三十二右】に遊礒麻見者悲裳《アソビシイソマミレバカナシモ》とある是なり、此他|宇良末《ウラマ》伊蘇末《イソマ》などあるも皆マ〔傍線〕といへる證也、しかるを此末をこと/\く未の誤なりとするは強たることなり、又回を美《ミ》の假字に用ゐたる證なりとて、卷三【十九左】なる磯前※[手偏+旁]手回行者《イソノサキコギタミユケバ》を出したれど、此は美《ミ》と訓べき證にはならず、其は同卷【三十三左】に奥島榜回舟者《オキツシマコギタムフネハ》、又【四十右】に敏馬乃埼乎許藝廻者《ミヌメノサキヲコギタメバ》などありて、回の一字にてタミ〔二字傍線〕タム〔二字傍線〕などいふ意の字なるを、更に手の字を増加へてかけるものにて、例は卷十一【四左】に近渡乎回《チカキワタリヲタモトホリ》とありて、回の一字をタモトホ(26)リ〔五字右○〕とよめり、しかるに卷七【二十四左】に君爾將相登他回來毛《キミニアハムトタモトホリクモ》卷八【四十一左】に手回來津《タモトホリキツ》とありて、他手〔二字右○〕等の字を増加へたり、又卷十一【五左】に風所見去子故《ホノカニミエテイニシコユヱニ》とありて、去(ノ)字もとよりイニシ〔三字右○〕とよむべき字なるを、卷二【三十七左】に黄葉乃過伊去等《モミチバノスギテイニキト》、卷三【五十六左】に情哀伊去吾妹可《コヽロイタクイニシワキモカ》など、伊〔右○〕の字を加へてもかけり、此例猶多し、其は萬葉集讀例に集めかけり。しかるを守部も此久老の説におどろかされて、回を美とよまむとて、かの三(ノ)卷なる※[手偏+旁]手回行者《コキタミユケバ》を證に出したるは笑ふべし、さて又鐘の響に出したる歌どもの未〔右○〕は、本書には大かた末〔右○〕と作《ア》りて マ〔傍線〕とよめるを、未〔右○〕と改めて引けるは人まどばしなるわざなり、其本書に末《マ》とあるをば基字の左のかたに○をしるして其さかしらなるを明す、其卷九【三十二右】卷十五【七右】同【十六左】卷十七【三十六左】等のもの是也、全(ク)み〔右○〕とあるは卷十七【三十四右】卷廿【十五右】なる須蘇未《スソミ》の二(ツ)のみなり、又|海備《ウナビ》浦備《ウラビ》島備《シマビ》など云るを見れば云々といへれど、かくいひたる語、集中に一もある事なし、【濱《ハマ》備|夜麻《ヤマ》備|乎加《ヲカ》備などはあり、但し此備は古本どもに皆ベ〔二重傍線〕とよめるに從ふべし、今本にビ〔二重傍線〕とあるは非なり、其よしは萬葉集字音辨證に辨へおきたり、】又云、かの浦回を浦轉浦※[さんずい+彎]など書たるも同例なるに云々、かくかける事も集中にはなし、此人はとかくかゝる妄言をいひて人をまどはする事常なれば心して見べきなり、殊にをかしきは信濃漫録の標目に、島曲とあるは島回の誤寫なるべきを、此書にも其誤のまゝ出されたり、かくて萬葉集問目の宜長翁の説は一(27)わたりさることなれど、猶かの里廻《サトワ》【卷七の廿二丁】また湖轉《ミナトワ》【卷十二の三十五丁】などは、げに麻とはよみがたかれば、回轉などかけるは、舊訓のまゝに和《ワ》よまむこそ穩かなれ、されば此は同じ意の詞の、和《ワ》とも麻《マ》とも美《ミ》とも通はしいへるものとすべし、古言にはさる例いと多し、しかるをこれを一定にせんとして辨論をなすは、いたづら事なり、但し眞淵翁の答文中に、神賀詞の天瓶和を引たるはわろし、此は別事なること宣長翁のかの書の後釋に辨へられたるが如し、
 
   神隨《カムナガラ》
萬葉考に、神長柄《カミナガラ》の長柄は借字、天皇は即(チ)神にておはするまゝにといふ意也、孝徳紀に惟神我子應治故寄《カムナカラモワカミコノシラサムモノトコトヨザシ》云々、こを古注に、惟神者謂d隨《マヽニ》2神(ノ)道1亦自有c神(ノ)道u也といへるをもて思へ、下の藤原(ノ)宮つくりに役《タツ》民が歌の末に神隨爾有之《カムナガラナラシ》とよめる是也、後世にながらといふとは異也、とありて、平田篤胤の巫學譚※[敝/大]に、此日本紀の注は、天皇の御自から御下しなされたる御注歟、又は撰者舍人(ノ)親王のなされたる御注歟、天皇の遊ばしたる御言なればいよ以て有難く、舍人(ノ)親王のなされたるにもあれ、實によく吾が古道の意を明したる語で、これが吾が徒の所謂神道と云の出所據所でござります、といへり、(28)今按ずるに、此詞さるむづかしき意味あるにはあらず、考に引ける孝徳紀の文は三年四月の所に在り、但し注の云々の文は、河村秀根の集解に、後人所v加不v爲v語といひて此十三字を削りたるぞよろしかりける、必ず※[手偏+讒の旁]入なるべし、かゝる※[手偏+讒の旁]入の例書紀中いと多し、かくて此詞本卷【二十四右】なる藤原(ノ)宮之役民(ノ)作歌の結句|伊蘇波久見者神隨爾有之《イソハクミレバカムナガラナラシ》とあるは、何とかや深き意ありげに見ゆるも、猶他所なると同じくて、神にておはすまゝの事ならしといふ意なり、今本集に此詞のあるかぎりを左に出して辨すべし、
 卷一【十九右】長歌に、安見知之《ヤスミシシ》、吾大王《ワゴオホキミ》、神長柄《カムナガラ》、神佐備世須登《カムサビセスト》、芳野川《ヨシノガハ》、多藝津河内爾《タギツカフチニ》、高殿乎《タカドノヲ》、高知座而《タカシリマシテ》、云々同卷【十九左】に、山川毛因而奉流神長柄《ヤマカハモヨリテツカフルカムナガラ》、多藝津河内爾船出爲加母《タギツカフチニフナデセスカモ》、同卷【二十一右】長歌に、八隅知之《ヤスミシシ》、吾大王《ワゴオホキミ》、高照日之皇子《タカテラスヒノミコ》、神長柄《カムナガラ》、神佐備世須登《カムサビセスト》、太敷爲《フトシカス》、京乎置而《ミヤコヲオキテ》、云々同卷【二十二左】長歌に都宮者《ミアラカハ》、高所知武等《タカシラサムト》、神長柄《カムナガラ》、所念奈戸二《オモホスナベニ》、云々卷二【二十七左】長歌に、飛鳥之淨之宮爾《アスカノキヨミノミヤニ》、神隨太布座而《カムナガラフトシキマシテ》、天皇之敷座國等《スメロキノシキマスクニト》、云々同卷【三十五右】長歌に、水穂之國乎《ミヅホノクニヲ》、神隨太敷座而《カムナガラフトシキマシテ》、云々同卷【三十五左】長歌に、木上宮乎常宮等《キノベノミヤヲトコミヤト》、高之奉而《タカクシタテヽ》、神隨安定座奴《カムナガラシヅマリマシヌ》、云云同卷【三十六左】長歌に、高光日之皇子《タカヒカルヒノミコ》、久堅乃天宮爾《ヒサカタノアマツミヤニ》、神隨神等座者《カムナガラカミトイマセハ》、云々卷五【十三左】長歌に美弖豆可良《ミテヅカラ》、意可志多麻比弖《オカシタマヒテ》、可武奈可良《カムナガラ》、何武佐備伊麻須《カムサビイマス》、久志美多麻《クシミタマ》、云々同卷(29)【三十一右】長歌に、高光日御朝廷《タカヒカルヒノオホミカド》、神奈我良《カムナガラ》、愛能盛爾《メデノサカリニ》、天下奏多麻比志《アメノシタマヲシタマヒシ》、家子等《イヘノコト》、云々卷六【十七右】長歌に、吾大王乃《ワゴオホキミノ》、神隨高所知流《カムナガラタカシラシヌル》、稻見野能大海乃原※[竹/夭]荒妙《イナミノノオホウミノハラノアラタヘノ》、藤井乃浦爾《フヂヰノウラニ》、云々卷十七【四十左】立山の長歌に、阿佐比左之《アサヒサシ》、曾我比爾見由流可無奈我良《ソガヒニミユルカムナガラ》、彌奈爾於婆勢流《ミナニオバセル》、云々|安麻曾曾理多可吉多知夜麻《アマソソリタカキタチヤマ》云々、同卷【四十一左】右の歌の反歌に多知夜麻爾《タチヤマニ》、布里於家流由伎能《フリオケルユキノ》、等許奈都爾《トコナツニ》、氣受底和多流波《ケズテワタルハ》、可無奈我良等曾《カムナガラトゾ》、卷十八【二十一右】賀2陸奥國出v金詔書1歌に、御食國波《ミヲスグニハ》、左可延牟物能等《サカエムモノト》、可牟奈我良於毛保之賣之弖《カムナガラオモホシメシテ》云々、卷十九【三十九右】長歌に、天之日繼等《アメノヒツギト》、神奈我良《カムナガラ》、吾皇乃《ワガオホキミノ》、天下治賜者《アメノシタヲサメタマヘバ》云々、同卷【四十二左】長歌に、吾大皇乃神奈我良《ワゴオホキミノカムナガラ》、於母保之賣志※[氏/一]《オモホシメシテ》、豐宴見爲今日者《トヨノアカリミシセスケフハ》云々、卷二十【二十五右】長歌に、可氣麻久母安夜爾可之古志《カケマクモアヤニカシコシ》、可武奈我良和其大王乃《カムナガラワゴオホキミノ》、宇知奈妣久春初波夜知久佐爾《ウチナビクハルノハジメハヤチクサニ》、波奈佐伎爾保比《ハナサキニホヒ》云々、
以上擧ぐる所の歌、いづれも可武奈我良《カムナガラ》は、神にておはすまゝにといふ意にて、かの日本紀の注にいへるが如きむづかしき意はあることなし、さればかの役民の歌なるも、これらと同じく、神にておはすまゝにといふ意の外他意ある事なきを曉るべし、卷十七【四十右】に、多知夜麻爾布利於家流由伎乎登己奈都爾《タチヤマニフリオケルユキヲトコナツニ》、見禮等母安可受加武賀良奈良之《ミレドモアカズカムガラナラシ》、とあるも、彼役民の歌の結句と全く同じいひなしなるを、此歌にてはさる(30)深き意ありとは見えず、此から〔二字右○〕となから〔三字右○〕と同意なるよしは下にいふ、猶いはゞ續日本紀の第一詔に、神隨所思行《カムナガラオモホシメ》【佐久止】詔《ノリタマフ》云々とある、本居翁の解一【十七右】に云、隨神《カムナガラ》は萬葉に假字書に可武奈何良《カムナガラ》と有(リ)、此言諸の詔に多く有(リ)、下に母《モ》を添ていへる所々もあり、天皇の御事には、何事にも、神なから云々と申すことにて、萬葉の歌にもいと多し、天皇は現御神と申(シ)て、まことに神にましますが故に、神にて坐(シ)ますまゝに物し給ふよし也、又同詔に、天《アマ》都|神《カミ》乃|御子隨《ミコナガラ母とある解一【十三右】に隨《ナガラ》母は、神髄《カムナガラ》のながらと同くて、天照大御神の御子に坐(シ)ますにといふ也、といへるが如くにて、別に深き意味のある詞にはあらず、しかるを萬葉考又は俗神道大意の説によりて、かれこれ牽強附會したる説あれど、いづれも據るに足らず、此詞第十三詔には、神奈我良母所念行《カムナガラモオモホシメサク》【久止】と正しく假字にて書けるもあり、かくて猶考ふるに、本集卷十三【十右】に神在隨《カムナガラ》とかけるは即(チ)神にて坐(ス)まゝにといふ意の文字也、これを以ても此詞の意を知るべき也、又卷二【三十三】高市(ノ)皇子(ノ)尊の殯宮の時の歌に、皇子隨任賜者大御身爾大刀取帶之《ミコナガラマケタマヘバオホミミニタチトリオバシ》云々ともあり、上の詔に御子隨《ミコナガラ》とあると共に、この隨《ナガラ》は神隨《カムナガラ》のながら〔三字右○〕と全く同意の詞なるにあらずや、又|神柄《カムガラ》國柄《クニガラ》などあるから〔二字右○〕はこのながら〔三字右○〕とは異なるが如く見ゆといへども、卷十三【九右】長歌に、蜻島倭之國者神柄跡言擧不爲國《アキヅシマヤマトノクニハカムガラトコトアゲセヌクニ》云々とありて、この歌に并べて人(31)麻呂歌集の歌とて載せたる長歌には、葦原水穗國者神在隨事擧不爲國《アシハラノミヅホノクニハカムナガラコトアゲセヌクニ》云云とあり、これによれば、神柄《カムガラ》と神在隨《カムナガラ》とは、同意の詞とこそ覺ゆれ、しかのみならずかの神隨爾有之《カムナガラナラシ》といふ言を卷十七【四十左】には、加武賀良奈良之《カムガラナラシ》ともあれば、かたがたながら〔三字右○〕とから〔二字右○〕とは同じ意にも用ゐる詞なる事明けし、さて又古事記雄略天皇の段に、志幾(ノ)大縣主の天皇に答へまつれる詞に隨奴とありて、傳四十一【十六左】に隨奴はやつこながら〔六字右○〕と訓(ム)べし、奴なるまゝにと云ふ意なり、隨《ナガラ》は天皇を神隨《カムナガラ》と申すに同じ、といへり、されば、神隨《カムナガラ》御子隨《ミコナガラ》奴隨《ヤツコナガラ》のながら〔三字右○〕は同じ意の詞にて、孝徳紀の注文の如き意味ある詞にはあらず、彼文は後人の注なる事疑ひなし、
 
   旗須爲寸四能《ハタスヽキシノ》
古事記傳卷廿九【十二右】に云、志怒《シヌ》とは細竹を始て、其外|薄《スヽキ》葦《アシ》などにも云て、然《サル》類(ヒ)の物の幹《カラ》の總名なり、此は薄《スヽキ》の幹《カラ》を云(ヘ)り、しの薄といふもたゞ薄のことなり、一種の名には非ず、志怒《シヌ》を人麻呂の歌に志能《シノ》とあるはめづらしき事なり、云々、○正辭云、能にヌ〔右○〕の音もあるべくおぼゆれば、此は直《タヾ》に能《ヌ》とよまむか、能は韻鏡第四十二轉にありて呉次音ヌウ〔二字傍線〕なり、此ヌウ〔二字傍線〕の省呼ヌ〔右○〕を用ゐたるものなるべし、其は漢呉音徴第四十二轉の登(ノ)字等(ノ)字の徴に、共に呉(ノ)次音|追于《ツウ》省呼|追《ツ》といひ、騰(ノ)字の徴に呉(ノ)次音|豆于《ヅウ》省呼|豆《ヅ》と(32)いへり、【但し其處《ソコ》に引ける萬葉集のなるは、猶ト〔傍線〕、ド〔傍線〕とよむべくおぼゆれど、登等にツ〔傍線〕騰にヅ〔傍線〕の音ありといへることは、さることにぞありける、】今按ふるに、古事紀上卷に所謂《イハユル》久延毘古者《クエビコハ》於《ニ》2今者《イマ》1山田之曾富騰者《ヤマダノソホヅト云》也とあり、これ騰にヅの音のある證也、しかるを傳にはソホド〔三字右○〕と訓て、曾富騰《ソホド》はそほぢ人《ビト》てふ意にや【ヂビト〔三字傍線〕を 約ればドとなるなり、】といへるは、例の一字一音の説を守りての事なれど、古今集以下代々の撰集の歌にも、そほづとこそよみたれ、そほどといへることは絶てある事なし、且ヂビト〔三字右○〕の約なりといふ説も手づゝなり、さればこゝも騰は呉音の省呼を用ゐたるものとしてそほづとよみて、名義は雨露に所沾《ヌレ》そほぢて立る由なりといへる説の穩當なるに從ふべし、さて又應永抄本の日本書紀(ノ)私記に清地【曾加】とあり、曾はス〔右○〕の音にて用ゐたることしるし、是また呉音スウ〔二字傍線〕の省呼にて同例なり、登等能騰曾〔五字右○〕いづれも韻鑑第四十二轉にありて、共に第一位に屬する字なり、かゝれば四能の能も、此省呼ヌ〔右○〕の音を用ゐたるものならんとおぼゆ、
 
   在根良《アラネヨシ》
略解に在根良は布根盡《フネハツル》の誤にて、ふねはつるか又は百船能《モヽフネノ》の誤歟、卷十五毛母布禰乃波都流對馬云々、または百都舟《モヽツフネ》の誤か、是も津とつゞくべしと翁いはれき、宣長は布根竟《フネハツル》の誤とせり、何にせよ、ありねらとては解べきやうなければ必誤字也、といへ(33)り、此他いづれの説もげにとおぼゆるはなし、但し古本ども皆今本と同じかれば、文字の誤れるにはあるべからず、よりて考ふるに、上田秋成の冠辞考續貂に云、彼國にゆきし人に問へは在明山と云て國に二つなき高嶺あり、山の姿都の比枝に似て海上より望めばことにめでらるゝ山なりとぞ、昔は在嶺《アリネ》といひしが在明山と呼かはれるか、此島根は巌石《イハホ》をつみて化《ナリ》たるかしこ根の國なれば荒磯《アリソ》のためしに一國を荒嶺《アラネ》又は荒根といひしか、さらばあらねよし、ありねよしいづれにもとなふべく山のかたち國の化《ナリ》たるさまをほめしなるべし、【以上】此説よろし、古事記の雄略天皇の大御歌に、阿理袁能波理能紀能延陀《アリヲノハリノキノエタ》とある、阿理袁も荒岳《アリヲ》也と記傳卷四十二【四左】にいへるを思ふべし、【久老の日本紀歌解に、阿理鳴は在岑《アリヲ》にて、萬葉の在根良に同じく、存在の意にして在たたし、ありかよはせの在に同じと云るはいまだし、こは契冲師のはやくいへる説にて、記傳に其説を難破したり、往見すべし、】かくて又記傳に、荒磯は阿良伊蘇《アライソ》の良伊《ライ》の切りたるにてこそ、阿理《アリ》とは云れ、荒岳などは阿良袁《アラヲ》とこそ云(ハ)め阿理《アリ》と云むことはいかゞとも思はるれども、猶荒を阿理《アリ》とも云べきか、といへり、今按ふるに此の在はやがてアラ〔二字右○〕の假字とし、在根良《アラネヨシ》とよむべし、在をアラ〔二字右○〕とよめるは、卷十二【三十五左】に在千方在名草目而行目友《アラチカタアリナグサメテユカメドモ》【古訓にはアリチカタ〔五字傍線〕とあれど.こは越前の荒治なるべければアラチガタ〔五字傍線〕とよむべし、和名抄に越前坂井郡荒治とある是なり、今本和名抄に治を泊に誤れり、】と見え、又卷十【三十二右】に天漢去年之渡湍有二家里《アマノガハコゾノワタリセアレニケリ》、漢十九【十五右】に有爭波之爾《アラソフハシニ》などある是(34)なり、又|對馬能禰《ツシマノネ》といふこと卷十四【二十七左】の歌に見えたり、されば對馬をさして荒根とはいへるなるべし、かくて又考ふるに、かの雄略紀なる阿理袁《アリヲ》もこゝの在根も安利《アリ》はともに鮮なる意にて山の前《サキ》のはり出たる處を阿理袁《アリヲ》といひ對馬島の海中に現《アラハ》れ立るさまを在根《アリネ》とはいへるならん歟、もししからば在根良《アリネヨシ》とよむべし、安利《アリ》を鮮かなる意とするは、玉勝間卷六【ありぎぬの條】に安利伎奴乃《アリギヌノ》云々、ありぎぬは鮮なる衣なり阿理《アリ》とはあざやかなるをいふ、あざやかといふ言もすなはちありさやかなり、又俗言に物のあざやかに見ゆるをあり/\と見ゆるといふも是也、又月に在明といふも、空に月の在て夜の明る意にはあらず、夜の明がたは月の影の殊にあざやかに見ゆる物なれば、あざやかにて明るよしにて、ありあけの月とはいふなり、書紀(ノ)欽明(ノ)御卷に※[(日/羽)+毛]※[登+毛]をありがも〔四字右○〕と訓るも、鮮なるよしなりといへる是也、右二説の中いづれよけむ、猶考へ定めてよ、
 
   呼兒鳥
呼兒鳥は考(ノ)別記に、田舍人のかつぽうどりといふ鳥にて、集中に容鳥《カホドリ》とよめるも是なり、といひ、橘(ノ)守部が山響冊子にも、かつこう鳥にて果《カホ》鳥といへる是也、といひ、【俗にかつぽうともかつこうともいふ、故に考にはかつぽうといへるなり、】萬葉品類鈔にも、俗のカツコドリ【かつこはかつこうなり、】にて、集(35)中にカホドリとよめるものにて、漢名は※[尸+鳥]鳩※[監+鳥]〓又郭公などいふ、といへり、以上の説に從ひて呼兒鳥はかつこう鳥にて、又は果鳥《カホドリ》ともいふものとすべし、かつこうは狩谷望之の和名抄箋注に、漢名布穀又は郭公にて、和名は、布々止利《フヽドリ》又作2保々止利《ホヽドリ》1一名|都々《ツヽ》鳥又呼2豆蒔《マメマキ》鳥1按今俗呼2加久古宇鳥1是鳥鳴云2加久古不《カクコフ》1見2高光日紀1とあり、かかれば呼兒鳥は、漢名は布穀にて、又は※[尸+鳥]鳩※[監+鳥]〓郭公などいふもの是なり、しかるを和名抄に布穀を布々止利《フヽドリ》とし、郭公を保度々岐須《ホトゝギス》として別載したるは誤也、又布穀を.布々止利《フヽトリ》といふは後の稱にて、古くはよぶこどりなるを、はやく順朝臣の頃には其鳥の知られずなりにしかば、和名抄にも本集を引て別に喚手島をば出したるなるべし、さて又伴(ノ)信友が比古婆衣に、字鏡集に鵑(ハ)杜鵑也、三月(ヨリ)鳴ヨビコドリ、又字要集といふ書に、※[單+鳥]ヨブコドリと訓り、とてこれを證として、よぶこ鳥は杜鵑の事なりといへり、○正辭云杜鵑はほとゝぎす也、ほとゝぎすとよぶこ鳥とひとつなりといふはいと強たる説なり、上の二書に鵑又は※[單+鳥]をヨブコドリとよみたるは、古く布穀の一名なる郭公をほとゝぎすに誤り用ゐたるによりて、彼二書の作者は、ほとゝぎすを又はよぶこ鳥ともいふことゝおもひひがめてしかよめるものにて、誤によりて更に又誤れるものなり、鵑も※[單+鳥]も共に杜俄鵑ホトヽギス》の名也、郭公は布穀にてフヽドリ俗に云(36)ツヽドリなるを、古人誤りて之をも杜鵑の名とせり、新撰萬葉集新撰字鏡和名抄ともに郭公をほとゝぎすに充たるは誤也、何故に古人が郭公をはとゝぎすに誤りけむとおもふに、本集にほとゝぎすを霍公鳥とかけるを見て、此は霍公と郭公と音通にて、霍公鳥は郭公島の異文なりとおもひて、遂に誤れるものなるべし、されど本集に霍公鳥とかきたるは、皇國にて名づけたる稱にて漢名にはあらず、但ししか名づけたるよしは、説文に※[雨/(隹+隹)](ハ)飛聲也、雨而雙飛(スル)者、其聲※[雨/(隹+隹)]然、徐※[白+皆]曰、其飛霍忽疾也、會意、呼郭反、と見えて、韻會に※[雨/(隹+隹)]通霍作v霍とあり、又字典(ニ)引2玉篇(ヲ)1霍(ハ)鳥飛(コト)急疾(ナル)貌とあり、今本玉篇には※[雨/(隹+隹)](ハ)飛聲霍(ハ)揮霍とありて、文選の陸機が文賦の注に、揮霍(ハ)疾貌とあり、【後のものながら明(ノ)韋道成の著せる直音篇といふものにも霍(ハ)忽郭切飛聲、鳥(ノ)飛(コト)急(ナリ)、※[雨/(隹+隹)]同v上とあり、】これらによるに霍は鳥の飛ゆく事の急《ハヤ》きをいふ文字にて、杜鵑《ホトヽギス》は飛事のいとはやき鳥なれば、此字を用ゐて彼の名としたるなり、公はかゝるものに添ていふ文字にて、鶯を黄公、燕を社公、布穀を郭公、※[虫+郎]蛆《ムカデ》を呉公【蜈蚣とかくは俗字なり、】といふに同じ、又古(ヘ)此方にて漢名に準へて物(ノ)名を製したる例は、胡枝子《ハギ》を鹿鳴草、といひ、※[木+浸の旁]木《アセミ》を馬醉木などいへるなど是也、しかるを信友が上の二書によりて、よぶこ鳥は杜鵑《ホトヽギス》の一名なりといへるは、古人の誤りを愈おしひろげたるものとぞいふべき、ゆめさる説になまどはされそ、
(37)伊勢貞丈の説に呼子鳥、くわつこう、つゝ鳥、三鳥別々にて共に春三月頃なく、故にまぎれ易し、呼子鳥はほい/\ときこえて人を呼ふが如くなれば、呼子鳥といふなり、くわつこう鳥は郭公なり、此字をほとゝぎすに用來れるハ誤なり、其鳴音くわつこうくわつこうときこゆ、故に郭公といふ、つヽ鳥は鳴音ぽん/\ときこゆ、竹の筒の切口を手の腹にて叩きて、音を發するに似たり、故に筒鳥といふ也、といへるは非也、郭公つゝ鳥呼子鳥は異名同物なるよし上に辨へたるが如し、
後に寂照堂谷響集を閲《ミル》に其卷一に云、客曰、俗呼(テ)云2加牟古鳥《カンコトリ》1、亦云2加豆保宇《カツホウ》島l者、華名爲v何(トカ)、答所v謂郭公也、日本古昔誤(テ)以2郭公1謂(モヘリ)2杜鵑(ノ)名(ト)1、順和名集、和漢朗詠集等(ニ)、稱2杜鵑(ヲ)1爲2郭公(ト)1竝非v是(ニ)、郭公(ハ)※[尸+鳥]鳩也、本艸(ニ)云、※[尸+鳥]鳩釋名(ニ)、布穀【列子】※[吉+鳥]※[※[菊の草冠なし]+鳥]《カツキク》【音戞※[菊の草冠なし]】獲穀、【爾雅註】郭公、藏器曰布穀(ハ)※[尸+鳥]鳩也、江東呼(テ)爲2獲穀(ト)1、亦曰2郭公(ト)1、北人名2撥穀(ト)1、時珍曰布穀名多(シ)、皆各因(テ)2其聲(ノ)似(タルニ)1而呼(フト)v之(ヲ)、今按(ニ)唐人(ノ)耳(ニハ)、如(シ)v呼(フガ)2※[吉+鳥]※[※[菊の草冠なし]+鳥]獲穀郭公等(ト)1、倭人(ノ)耳(ニハ)如(シ)v呼(フガ)2加牟古或(ハ)加豆保宇1、雖2文字異(ナリト)1其聲相近(シ)矣、名(ルコトハ)2布穀(ト)1者、時珍曰因2其鳴時(ニ)1、可(シ)v爲2農候(ト)1、とあり、是全く前説に同じ故に書して考補とす、
 
   敷妙《シキタヘ》
敷妙《シキタヘ》は、冠辭考に、敷《シキ》は絹布の織めのしげき意、妙《タヘ》は和《タヘ》にて和らかなる意にて、夜の衣をいふとあるを、石原正明はこれを非なりとして、敷《シキ》たへは冠辭にあらず、夜の衣は(38)下に引しく物なれば敷たへといひて、敷たへの衣と衣の字までかけて義をなす詞なりといへり、此説しかるへくおもふ、依て其全文を左に出す、但したへとは穀皮を以て織れる布の總稱なり、
年々隨筆卷五に云、冠辭考云、萬葉二に、敷妙乃衣袖者通而沾奴《シキタヘノコロモノソデハトホリテヌレヌ》、また靡我宿之敷妙之妹之手本乎《ナビキワカネシシキタヘノイモガタモトヲ》、卷十一に、敷妙之衣乎離而玉藻成靡可宿濫和乎待難爾《シキタヘノコロモヲカレテタマモナスナビキカヌランワヲマチガテニ》、また敷細之衣手可禮天《シキタヘノコロモデカレテ》、卷十七に、之岐多倍能蘇泥可幣志都追宿夜於知受《シキタヘノソテカヘシツヽヌルヨオチズ》云々、こは夜の衣袖《コロモデ》に冠らせたり、さて敷細布とて、専寢衣に冠らしむる事は、古事記に、牟志夫須麻爾古夜賀斯多爾《ムシブスマニコヤガシタニ》、多久夫須麻《タクフスマ》、佐夜具賀斯多爾《サヤグガシタニ》、云々.萬葉にも、蒸被《ムシブスマ》なごやが下にねたれどもといへり、然ればなごやかに身に親しきを用る故に、和らかなる服てふ意にて敷栲《シキタヘ》の夜の衣といふより、袖枕床ともつゞくる也、既に朱良引敷たへのゝ下に引る如く、神祇令の集解に、敷和者|宇都波多《ウツハタ》也といへる敷《シキ》は絹布の織めのしげき意、和はなごやかなるいひなれば、美織《ウツハタ》也といへるをもおもへ、」とあり、敷(ノ)字に絹布の織めのしげき義はあるべくもなけれど、しきといふ詞のかりもじとして、繋き意にみたる也、織めの繁きは糸の繋きといふ事にて、俗に地ノヨイといふ事なるべし、地ノヨイたへは、はれの衣にこそ似つかはしからめ、夜の衣には物遠し、今おもふに敷たへの夜とつゝ(39)きたるは、衣の字をかけて義をなす、夜の衣は下に引しく物なれば、敷たへといふ名は有、今フトンと云物也、上にかうぶるも有、いひなれてはそれも敷たへの衣といふべし、こは枕詞にはあらざるを、岡部氏はいかゞ心えつらん、まづ萬葉集二なるは、柿本の人丸の、石見なる妻に別れて、京に上る時の歌にて、ますらをとおもへる我も敷たへの衣のそではとほりてぬれぬとありて、別し夜の旅ねに妻をおもひてよるの衣をなきぬらしたりといふ事、其次なるは、同じ人の妻を國にのこして來る事にて、玉藻なすなびきわがねし敷たへのいもがたもとを露霜の置てしくればと有、敷たへのいもが袂とは、夫婦相ぬる時は、女の衣は下に敷、をとこの衣は上にきる事なれば也、露霜の置てしくればは、歌のつゞきは衣を置てくる事なれど、やがて妻を殘しおきて來し事也、敷たへの衣手かれては、女に久しくあはぬを、その衣に遠ざかる事にいへる也、敷たへの袖かへしつゝぬる夜おちず夢にはみれどは、夢にみん爲に夜の衣をかへす、其夜ごとに夢にみし事、以上|敷栲《シキタヘ》乃衣とつゞきて、始て義をなす、被衾なり、美織《ウツハタ》にはあらず、又考云、卷一に、敷妙之《シキタヘノ》、枕之邊忘可禰津藻《マクラノアタリワスレカネツモ》、【これは數いと多ければ略つとて三條引けり、今又略之、】こは枕とつゞけたり、卷五に敷多倍乃登許能邊佐良受《シキタヘノトコノベサラズ》、云々、こは夜床をいひかけたれば、即夜の物といふ」とあり、今おもふに敷たへの上《ウヘ》なる枕、敷たへを敷設し床と(40)いふつゞきにて、いひつゞけたるさま敷妙の衣とはこと也、又考云、布細乃宅乎毛造《シキタヘノイヘヲモツクリ》、また敷細乃家從者出而雲隱去寸《シキタヘノイヘユハイデヽクモカクレニキ》、こは寢衣より一たびうつりて夜床につゞけ、二たびうつりて常に所v宿家にもいひかけたる也、」とあり、此説の如し、
 
   藤原(ノ)宇合卿
藤原(ノ)宇合卿の名、續日本紀また本集の古抄本どもには、ノキアヒ〔四字右○〕と訓めり、此訓は決て誤なり、村田春海の宇合稱呼考といふものに宇合は猶ウマカヒ〔四字右○〕と訓むべしとて、其説に宇は上聲の字なればウウ〔二字右○〕と引たる者也、よりて下のウ〔右○〕をマと轉用せしものなり、例ば續紀に改2大倭1爲2大養徳1といふ事見え.和名抄に安藝(ノ)國賀茂郡養訓【也万久爾】とある是也、又ウ〔右○〕とヤ〔右○〕と吾國の詞のかよふ事はオハシマスをオハサウズといひタマハルをタウベルといふ類にて知るべし、といへるは甚非なり、字音の韻のウ〔右○〕をマ〔右○〕に轉用したる事は外に例なければ、養徳養訓は文字を省ける例にて、かの美□作《ミマサカ》對□馬《ツシマ》の類とすべし、さて文字は上聲の字なればウウと引たるものなりといへるはことわり聞えがたし、何故に上聲の字なればウウと引くにや、又オハサウズとタウベルと出したるは笑ふべし、此二つは音便なるをや、此は契沖師の代匠紀に反名なりといひて、宇合の二字にて猶ウマカヒとよむべしといへり、此説に從ふべし、但し代(41)匠紀に國名の美□作《ミマサカ》對□馬《ツシマ》等を出してこれになずらふべしといひたれど.國名は必二字にすへき制なれば、殊更に文字を省けるものにて、今の例とは同じからず、此はウマカヒの上の字の初音と下の字の初音とをとりてしるせるものにて、即(チ)ウカ〔二字右○〕なり、日本書紀通證卷一に、神鏡抄を引て云、藤原敦光云|賀能《ガノ》は葛野之反名也、取(リテ)d上(ノ)字(ノ)和訓之初(ト)與c下(ノ)字(ノ)倭訓之初若終(トヲ)u而連讀爲v名(ト)、稱曰2反名(ト)1如2匡房(ノ)反名万歳《マサ》通憲(ノ)反名|民輪《ミリ》1、とあるを見べし、いづれも訓讀を中略して始めと終りとの訓をとりて、其音の文字を當てたるなり、この反名を用ゐる事は猶古くよりの事にて、推古天皇の紀に、小野(ノ)妹子號2蘇因高1とあり、蘇は小野の小の字の轉音なるべし、因高はイコ〔二字右○〕にてイモコ〔三字右○〕の中略なり、又後なれど江談に藤明衡を安蘭とあるもアラ〔二字右○〕にてアキヒラ〔四字右○〕の前後の音なり、又古今著相集の作者は、其序に散木士橘南袁とあるを古鈔本には卷尾に朝請(ノ)大夫橘(ノ)成季とあり、これに依るに南袁〔二字右○〕は南利須惠《ナリスエ〔四字右○〕》の中略なり、然れば宇合はウマカヒ〔四字右○〕の略にてウカ〔二字右○〕の音を用ゐたるものなる事論なし、かくて此卿の名の續紀に見えたるは、靈龜二年八月癸亥、多治比眞人縣守爲2遣神使(ト)1云々、正六位下藤原(ノ)朝臣馬養爲2副使(ト)1、己巳授2從五位下(ヲ)1、とあるがはしめにて續紀卷八【七右】養老三年正月壬寅授2藤原朝臣馬養(ニ)正五位上(ヲ)1、とみえで、同年七月、始置2按察使(ヲ)1と云處に、正五位上藤原朝臣宇合(42)管2安房上總下總三國(ヲ)1とあり、かくて此後の紀には、卷九に四所、卷十一に六所、卷十、卷十二、卷三十五、卷三十六に各一所見えたるが、皆宇合とのみありて、馬養とかゝず、これに依るに養老三年以後は宇合のかたのみを用ゐたるものと見ゆ、其文字を改めたるは養老三年正月より同年七月までの間《ウチ》ならん、さるは正月の紀には馬養とあるを、七月の紀には宇合とありて、此後は皆宇合とのみあれば也、但し養老五年正月【卷八の廿三左】の紀に、唯一つ馬養とあれどこは偶誤り記したるものなるべし、此他卷十三【廿三左】天平十二年十一月の紀に、廣嗣の事をいへるところに、廣嗣(ハ)式部卿馬養第一(ノ)子也、又卷三十四【二十六左】寶龜八年九月の紀に、内大臣從二位勲四等藤原(ノ)朝臣良繼薨、平城(ノ)朝參議正三位式部卿大宰(ノ)帥馬養之第二子也と見えたれど、これらは廣嗣良繼等の傳につきていへるものなるから.殊更にもとの文字につきて馬養とはかけるなるべし、【如是院年代記に廣嗣が事を載て、馬養を宇合に作れり、】此三つをおきては養老三年七月より後の紀に馬養とかける事一つもある事なし、何故に養老三年よりは宇合とのみ記せるにやと考ふるに、靈龜二年に遣唐副使となすとあり、これに依れば支那國に對するに就き反名を用ゐたるなるか、小野(ノ)妹子の蘇因高といひしも支那國にての稱なるをおもふべし、又はかの養老三年七月按察使となりたる時より宇合の二字を用ゐたるによ(43)れば、此時同按察使の内に小野(ノ)朝臣馬養といふ人ありて、管2丹後但馬因幡三國1とあり、これ同し按察使の中に同名の人ありてまぎらはしければ、このをりより反名を用ゐ初めたるにもやあらん、
 
   反歌の説追記
或人問、此頃刊行なりたる土佐人鹿持雅澄の萬葉集古義に、中山嚴水の説を出したるを見るに、貴説と全く同じ、此は暗合したるものなるかといへるによりて、古義を見れば、げに吾説と同じ、されど吾此説はもと代匠記の説におどろかされて考證せし事にて、いにし慶應二年の春師翁【岡本保孝】と萬葉集略解を對讀せしをりの事なり、其をり師もこれにて反歌の事誠に明らになれりとよろこばれて、自からの筆記にも書しとゝめられたりき、其後明治十五年十一月廿五日出版の好古雜誌の二篇第七號に、其説を出し、又同き廿一年に刊行したる拙著※[木+觀]齋雜攷にも之を載せたり、當時は萬葉集古義はいまだ世に公(ケ)にならざりし書なるから、嚴水の説のある事はおのれは知らざりしなり、但し嚴水ももとは代匠記の説によりて考へ出でたるものなるべし、されど嚴水の考中には、荀子及楚辞の注文を出さず、又鹿持は其嚴水の説を細注とし、其末に此考おもしろし、とのみいひて、其説には從はざりき、いと口をしき(44)事なりけり、
 
   春去者《ハルサレバ》の説追記
或人又問、別記の春去者の説、古義一上【百二十五丁】には、春し有(レ)ばてふ辭の切(マ)りたるにて、集中に春去者《ハルサレバ》、春避者《ハルサレバ》など書るは、皆借(リ)字にて、春之在者《ハルサレバ》と書るぞ實なりける【十(ノ)卷六丁又十三丁又廿三丁に、春之在者云々などあり、しかるを去を字の意と心得て、時々刻々わが眼前を去(リ)ゆくが故ぞと思ふは後世心な、】さて之在者と伸る時はその之《シ》は例の力ある助辭なれば、たしかにその時になりたるよしを、一(ト)すぢにおもくおもはせたる意を含めり、といへり此説の是非如何、
答古義に春之在者とあるが正字にて、之《シ》は助辭なりといへるは非なり、かくては春あれ《有》ばといふ意なれば即(チ)春有者《ハルアレバ》、秋有者《アキアレバ》、夕有者《ユフアレバ》といふ意となるなり、又|春去徃者《ハルサリユケバ》は春有徃者《ハルアリユケバ》といふ意、春去《はるさり》にけりは春有《ハルアリ》にけりとなるなり、いかでさる詞づかひのあるべき、又卷三【三十九左】に明去者鹽乎令干《アケサレバシホヲヒシメ》、卷十九【二十五左】に、安氣左禮婆榛之狹枝爾《アケサレバハリノサエダニ》、卷十六【八左】に春避而野邊尾回者《ハルサリテノベヲメフレバ》、云々、秋避而山邊尾徃者《アキサリテヤマベヲユケバ》、云々、などあるをばいかにかする、明有者《アケアレバ》、春有而《ハルアリテ》、秋有而《アキアリテ》といひてきこえむやは、よくおもふべし、但し春之在者とあるは、倭訓栞にいへる如く、しあの約さなれば、かくかけるのみにて、此文字に意あるにはあらず、
 
(45)   耳我嶺《ミヽガノミネ》追記
或人云、眞淵翁の御甕の説に就て、鹿持雅澄の説に、甕を美加といふは、御甕《ミカ》の意にて、御《ミ》は美稱にそへたるものにて、加《カ》は由加《ユカ》比良加《ヒラカ》多志良加《タシラカ》などの加《カ》なり、さればみゝか〔三字右○〕といひては、御々※[瓦+長]《ミ々カ》の意になりて、御の言重なり、いかでさることのあるべき、また美加《ミカ》の加は清て唱(フ)る例なれば、濁音の字の我を用ゐるべきにあらず、かにかくにここは誤字脱字などあるべしといへり、此はこたびの改正の説には關からぬ事なれど、初眞淵翁の説によりたるをりはこれらの事はいかが心得たりしにか、と問けるに、おのれ答へけらく、其は先(ツ)美加《ミカ》の美を美稱なりといへるはわろし、其よしは和名抄に辨色立成云、大甕【美賀】本朝式云、※[瓦+長]【和名同上】とありて、狩谷望之の箋注に、美《ミ》は大の意にて【深山《ミヤマ》などのみに通ふ、】美賀《ミカ》は大甕の義也、本朝式に※[瓦+長]とあるは、皇國にて製造したる文字にて、これも※[瓦+長]は長大の意をもて會意したるものなりといへり、此説に從ふべし、されば、御甕《ミカ》の意とするは非也、我の字の事は既に本編にいへるが如し、されば鹿持の説はうけがたくなん、
 
萬葉集美夫君志卷一別記
 
(1)萬葉集美夫君志卷二別記    木村 正辭撰
 
   加弖をまたは加弖奴ともいひ又それにあてたる文字どもの事
古事記傳卷十二【二十二右】に云、難成は那利加弖麻志《ナリカテマシ》と訓べし、【麻志は牟と云に同じ、加弖の加は書紀の歌によるに、清むべし、】書紀崇神(ノ)卷(ノ)歌に多誤辞珥固佐麼固辞介※[氏/一]務介茂《タゴシニコサバコシカテムカモ》【手越《タゴシ》に越《コサ》ば難《カテム》v越《コシ》かもなり、】萬葉二【十一右】に【○玉匣將見圓山乃狹名葛】佐不寐者遂爾有勝麻之目《サネズハツヒニアリカテマシモ》、四【四十九左○常呼二跡云々如是許本名四戀者古號爾】此月期呂毛有勝益士《コノツキゴロモアリカテマシヲ》、十【三十三右○飛島川水往増彌日異】戀乃増者在勝申目《コヒノマサレバアリカテマシモ》【○正辭云、今本の訓、アリカテヌカモとあり、又古本には申を甲に作れり、申は誤りなるべし、】四【十四右○古爾有兼人毛如吾歟】妹爾戀乍宿不勝家牟《イモニコヒツヽイネカテニケム》などあるに依れり、加弖《カテ》は消難《キエカテ》行難《ユキカテ》などゝ同じくて、難《カタ》き意なり、又|加泥《カネ》と云にも通ひて聞ゆ、【○以下原書分注。】萬葉三に別不勝鶴《ワカレカネツル》、この加泥《カネ》に不勝と書ると、【○正辭云、加泥を不勝とかける猶多かり、】右に引る加弖《カテ》にも同字を書るとを思ふべし、○加弖を不勝と書るは、多閇受《タヘズ》と云意を取れるなるべし、多閇奴《タヘヌ》は難《カタ》きと同意なればなり、然るを其不(ノ)字を省きて勝《カテ》とのみ書るは、いさヽか意得がたけれど萬葉二【十一右】に【梓弓別者隨意依目友】後心乎知勝奴鴨《ノチノコヽロヲシリカテヌカモ》、又【三十右】に【○一日者千遍參入之東乃】大寸御門乎入不勝鴨《オホキミカドヲイリカテヌカモ》、又十【三十(2)九右】に宿不勝鴨《イネガテヌカモ》、七【九右】に、宿不難爾《イネカテナクニ》などある加弖奴は、加弖の反對《ウラ》なる詞なるを、同意によめり、さて其字も加弖にも不勝と書るに、又加弖奴にも不勝と書れば、不勝を勝とのみ書るも、所以あるにや、又|宿不勝爾《イネカテナクニ》とあるは、言も字も宿かたからぬと云ことに聞ゆれども、猶いねかてと同くて、いねがたき意なり、さればこれも不《ナク》字あるとなきと同意におつめり、【以上○傳には本集の歌を省昭して引たれば、今其前後を小字にしるして補へり、此は全歌の意を明めしめんが爲なり、】今按、此説いとまぎらはしく、かつ自《ミヅ》からもいかなるよしともおもひさだめかねたりげなり、抑この詞、集中にいとおほくみえたるを、いまだこれをさだかに解あかしたる説のあらぬは、あかぬことなれば、今くはしく辨へむとす、其は先不勝とあると勝とのみあるとは、もとより文字の用ゐざまの異なるにて、勝とのみあるはカツ〔二字傍線〕の訓を通はして借(リ)用ゐたるにて、字義には關《アヅ》からず、松《マツ》をマト〔二字傍線〕酒《サケ》をサキ〔二字傍線〕高《タカ》をタケ〔二字傍線〕などに借れると同例なり、かくてカテヌカモ〔五字右○〕とあるヌ〔右○〕は去の意のにて、連用言を受るヌ〔右○〕なり、將然をうくる不のヌ〔右○〕にはあらず、卷四【十四右】に妹爾戀乍宿不勝家牟《イモニコヒツヽイネカテニ〔右○〕ケム》、卷十【廿一左】に待夜之名凝衣今宿不勝爲《マチシヨノナゴリゾイマモイネガテニ〔右○〕スル》などニ〔右○〕とも活かしいへるにて、去の意のなること明らけし、【略解四の卷なる歌の注に、いねかたくしにけんなり、とあるは非なり、さては十一の卷なるをば、いかにかはせん、】但し去の意のヌ〔右○〕は截斷言なれば、カモ〔二字傍線〕とは受まじきやうなれども、此ヌ〔右○〕は、古くは連體をもかねたるなり、其證は(3)卷十四【二十九右】に、伊伎豆久伊毛乎於伎※[氏/一]伎奴可母《イキヅクイモヲオキテキ〔傍線〕ヌ〔右○〕カモ〔二字傍線〕》とある是今と全く同例なり、○又|不勝《カテ》とあるは、義を以てかけるにて、カテ〔二字傍線〕と云言は即(チ)此字の意なり、さればこれは正字にて、勝の一字を用ゐたるとは甚《イタ》く異なり、おもひ混ふべからず、勝をカテ〔二字傍線〕ヌ〔右○〕と訓(ム)此ヌ(ム)は、已に云如く去の意のにて、よみそへたるものなり、上に出したる宿不勝家牟《イネカテニ〔右○〕ケム》、また宿不勝爲《イネカテニ〔右○〕スル》とあるニ〔右○〕と合せ見て、そのよみそへたる辞なることを知(ル)べし、かゝれば不勝とかけると、勝とかけるとは、字の用ゐざまの異なるを、ひとつにして不勝を勝とのみも、かけりといへるは誤にて、文字のうへはもとよりにて此方《コヽ》の言にてもかならずさはいはるまじき理(リ)なるをや、さて此詞のたしかにみえたるは、卷廿【廿左】に由伎加弖努加毛《ユキカテヌカモ》とある是也、
 但し卷十【五十九右】に宿不勝爾《イネカテナクニ》とあるは、いさゝか紛はしきかきざまなり、古訓にはイノネラレヌニとあり、これもわろしとにはあらねど、猶略解にイネカテナクニとよめるかたまされり、さて此不はナク〔二字傍線〕と云言にあてたるにて、勝は上にいふと同じく、訓を通はし用ゐたるにて借字なり、不勝をカテ〔二字傍線〕とよめると同じからず、もし不勝の二字をカテ〔二字傍線〕とよまむには、ナク〔二字傍線〕と云(フ)言にあたる文字なきをや、猶いはゞ卷十二【十一左】に宿不勝苦者《イネカテナクハ》とある、これも勝の一字をカテ〔二字傍線〕にあてたるにて、宿不v勝苦(4)者《イネナカテクハ》なり、これを不勝のこ字にてカテ〔二字傍線〕とよむ時は、ナ〔右○〕の言にあたる文字なきなり、苦《ク》の字をしもかきそへながら、ナ〔右○〕にあたる文字を略くべきにあるず、されば不はかならずナ〔右○〕の言にあてたる文字にて、勝の一字をカテ〔二字傍線〕にあてたる事明らけし、さて其ナク〔二字傍線〕ははしたなくいはけなきなどのナク〔二字傍線〕ナキ〔二字傍線〕にて、其言をつよくいはむとてそへていふ詞なり、
又|宿《イネ》不《ナク》v難爾《カテニ》、には集中に思ふを不念久爾《オモハナクニ》などあると全く同例にてイネカテナクニとよみて、いねかぬる意になる詞なり、不(ノ)字に泥むべからず、不は唯ナク〔二字傍線〕といふ言にあてたるのみなること已にいふが如し、さて難は正字なり、【○因云不念久二などのナクニ〔三字傍線〕のことは、予また別にくはしく論らひたるものあり、】かく見るときは、いづれも疑はしきことなくよくわかれたるを、記傳にはヌ〔右○〕もナク〔二字傍線〕もともに不の意のなりとおもひたるより、文字のうへまでも疑はれたるは、何事も精細かりし翁には、似げなきことなりけり、
 
   芽の字を波岐《ハギ》と訓る事
倭名抄に爾雅集注云萩一名※[草冠/肅]、【波岐、辨色立成新撰萬葉集等用2※[芽の最終画が右下がり]字1、唐韻、※[芽の最終画が右下がり]音胡誤反草名也、】とあれど、※[芽の最終画が右下がり]《ゴ》の字萬葉集には皆|芽《ガ》とありて※[芽の最終画が右下がり]《ゴ》とかける事なし、古本どもゝ皆同じ、新撰萬葉集も同じく芽《ガ》とあり、【三宅公輔が刊行したる新撰萬葉には、妄に改て守※[芽の最終画が右下がり]《ゴ》とかけり、】但し和名抄に新撰萬葉集を引て※[芽の最終画が右下がり]《ゴ》とかけるは、順(5)朝臣のさかしらに改めたるなり、然るに契冲師の代匠紀に其誤をうけ傳へて※[芽の最終画が右下がり]《ゴ》は※[草冠/互]の俗字なり、此集に※[芽の最終画が右下がり]《ゴ》を芽《ガ》に作れるは、傳寫の誤歟、芽《ガ》は萠芽にて別義なりとあり。狩谷望之の和名抄箋注も、契冲師の説に從へり、正辭按ふるに、これらの説は和名抄の妄改に據て、更に説をなしたるものなれば、從ふべからず、芽《ガ》は牙の字に艸冠を加へて、皇國古人の作りたる文字なり、【萌芽の字と形は同じかれど、製字の原委同じからず、皇國にて製造の文字に、此類いと多し混同すること勿れ、】其は萩の花は牙《キバ》の形したれば、この字に艸冠を加へて作りたる文字にて象形と會意とを兼たる皇國製造の字也、新撰字鏡に※[草冠/開]の字を阿介比《アケビ》とよめり、開は倭名抄に女陰也とあり、※[草冠/匐]子《アケビ》の實の熟したる状に擬して、古人从v艸从v開この字を製《ツク》りたるものにて、芽の字も此頻なり、萩の漢名は胡枝子也、かくて波岐《ハギ》とよめる芽《ガ》は※[芽の最終画が右下がり]《ゴ》の字にあらざる證は、新撰萬葉集上卷に、詠v芽《ガ》詩四首ありて、皆|芽《ガ》を平字としたり、是新撰萬葉集固より※[芽の最終画が右下がり]《ゴ》にあらざる明證なり、※[芽の最終画が右下がり]《ゴ》は仄字なれば也、但し新撰萬葉集下卷に載する所の詩は平仄調はず、しかれども上卷は平仄押韻皆誤らず、故に證とするに足る、葢下卷の詩は管公の作にあらず、後人の※[言+爲]作也、和名抄に本集及新撰萬葉を引て※[芽の最終画が右下がり]《ゴ》に改め作れるは孟浪といふべし、契冲師狩谷氏の説は和名抄の誤(リ)に蛇足をそへたるものなり從ふべからず、
(6)又按るに俊通の香要抄に、芽香一云鹿鳴草、是當土(ノ)萩也、【今本、土誤v云今據2香藥抄1改、】又香藥抄といふものにも、芽香、此香(ハ)當土之萩(ナリ)所v謂鹿鳴草也、而異州之通事呉里卿〔三字傍線〕(ノ)説(ニ)云、去(ル)康平五季之比、來朝之唐人王滿〔二字傍線〕之宿房(ニ)有2此香氣1、仍尋問(スル)之處、遂(ニ)秘而不v見(セ)v之(ヲ)云々とあり、この芽香といふものはいかなるものなるか詳かならざれども、此香當土之萩所v謂鹿鳴草也とあれば、本邦の萩のことなる事は論なし、さては西土にて古く芽の字を胡枝子の事に用ゐたるなり、猶識者に尋ぬべし、
 
   多久《タク》
多氣|婆奴禮多香根者長寸妹之髪比來不見爾掻入津良武香《バヌレタカネバナガキイモガカミコノゴロミヌニミタリツラムカ》、」卷九【三十五左】長歌に八年兒之片生乃時從小放爾髪多久麻庭爾《ヤトセゴノカタナリノトキユヲバナリニカミタグマデニ》云云、卷十一【十七右】に振別之髪乎短彌青草髪爾多久濫妹乎師曾於母布《フリワケノカミヲミジカミワカクサヲカミニタクラムイモヲシゾオモフ》、同【二十八右】に妹之髪上小竹葉野之放駒蕩去家良思不合思者《イモガカミアゲタカバヌノハナチゴマアラビニケラシアハヌオモヘバ》、【舊訓にアケサヽハノヽとあるはわろし、荒木田久老が信濃漫録に、城戸千楯の説を出してアゲタカバヌノとよむべしといへるに從ふ、髪を掲け束《タカ》ぬといふいひかけ也、】卷七【二十五右】に大舟乎荒海爾榜出八船多氣吾見之兒等之目見者知之母《オホブネヲアルミニコギイデヤフネタキワガミシコラガマミハシルシモ》、【鈴屋翁云、八船たけは、あやふき所にていろ/\とはたらきて舟をこぐをいひて、色々と心をつくして女にあひたるをたとへたる也、】卷十四【十九右】に左奈都良能乎可爾安波麻伎可奈之伎我古麻波多具等毛和波素登毛波自《サナヅラノヲカニアハマキカナシキガコマハタクトモワハソトモハジ》、【戀しと思ふ男の駒の手綱を引たぐりて、粟畠をそこなふとも、吾は曾《ソ》とも追《オハ》じなり古へ馬を追ふには曾《ソ》といひし也、】卷十九【十一左】長歌に芽子開爾保布石瀬野爾馬太伎由吉※[氏/一]《ハギサキニホフイハセヌニウマダキユキテ》云々、また後(7)なれど中務集に、人の家より瀧ながれたり、馬引とゞめたる男有、いかでかは過て行らん川波のたきとまらるる宿の花より、【契冲師の河社云、大凡かやうにかける詞書は、皆屏風障子の繪に合せてよめるなり、いかでかは過て行らんとは、馬をとめたる男の瀧を云るなり、川波のたぎとまりるゝとは、馬のたづなをくりてとむるをいふ、それを瀧によそへて、道ゆく我さへかく宿の花の見すぐしがたくて馬を引とめらるゝにとよめる也、たきとま〔右○〕らるゝは、たきとめ〔右○〕らるゝを寫したがへたるにもあるべし、】古今集【雜下】に、おもひきやひなのわかれにおとろへてあまのなはたきいさりせんとは、又土佐日記に 風ふきてたけともたけともしりへしぞきにしぞきて、ほと/\うちはめつべし、【各本こげともこげともとあり、今は考證本による、】これらの多久といふ詞、髪にいへるは髪を揚《アゲ》る意、書紀景行紀【十五右】に、箭(ヲ)、藏(ム)2頭髻《タキフサニ》1、神功皇后紀【十一左】に各儲弦(ヲ)藏(ム)2于|髪《タキフサノ》中(ニ)1、崇峻紀【七左】に作(テ)2四天王(ノ)像(ヲ)1置2於|頂髪《タキフサニ》1とありて、皆かく訓り、フサ〔二字右○〕は其|揚《アゲ》たる髪の束ねたる所を云、頂髪《タキフサ》は後の本取《モトドリ》の事也、又馬にいへるは、手綱《タヅナ》してひき上《アグ》る意、繩など手繰《タグル》をいふは、其たぐるは掻上《カキアグ》る意を以てなり、又舟にいへるは.加伊もて舟をこぐは、ものをたぐるが如きさまなればなるべし、和名抄舟(ノ)具に、唐韻云舵【亦作※[木+施の旁]】正v船木也、漢語抄云、柁(ハ)船(ノ)尾也、或作v※[木+施の旁]、和語云、太以之、今按舟人呼2挾※[木+少]1爲2舵師1是とありて、此物を古事記には當藝斯《タギシ》といへり、【和名抄に太以之とあるは後世の訛なり、】此舵は今のカヂ〔二字右○〕といふものなり、【集中にカヂといへるは今の臚の事にて舵にはあらず、】此は舟を正し進むる器の名なれどもとは多岐の用言より出たる名にて、舟を吾がおもふかたに擬《マカナ》(8)ひ行《ヤ》るより負ひたる名なり、さて此詞の活用はいづれも四段活用なるを、卷七なるのみは下二段にて他の例と異也、按ふに此氣〔右○〕はキ〔右○〕の音のかたにて用ゐたるものにて、猶四段活用とすべし、【但し行も活きも別にて、同じ意なる詞もなきにはあらねど、こゝはさにはあらさるべし、】さて氣を常にケ〔右○〕に用ゐるは呉音にて漢音はキ〔右○〕なること、誰も知れるが如くにて、別に證にも及ぶましけれど、此方にては多く呉音のケ〔右○〕を用ゐ來れるにより、あやしむ人もあらむかなれば、左に證を擧ぐべし、神武紀【七右】に居氣〔左○〕辞被惠禰《コギシヒヱネ》云々|居氣〓被惠禰《コキダヒヱネ》とありて、これを古事記のかたには許紀〔左○〕志斐惠泥《コキシヒヱネ》とあり、傳に書紀には紀《キ》を氣と書り、氣はケ〔右○〕の假字にて、書紀にもケ〔右○〕にのみ用ひ〔右○〕たれば、彼《カレ》はケ〔右○〕と讀べきかとも思へど、凡て書紀の假字は呉音をも漢音をも用ひ〔右○〕、一字を三音四音にも通はし用たれば、此字も漢音を取て此《コヽ》はキ〔右○〕と讀べし、とあり、又釋義門が活語雜話三篇に萬葉にかなしきのき〔右○〕に家祁の二字を用ゐたるもをり/\あり云々、家祁二字とも、ケ〔右○〕にあてたりとみて、東歌ゆゑかくいへるものと人おほく思ふめり、そも/\かなしき〔右○〕のき〔右○〕はく〔右○〕と活く音、かく活用する音どもは、東歌なりとてさのみ異なるものとはおもはれず云々、今家祁の字によりてかなしき〔右○〕をかなしけ〔右○〕といはむは、いといかにぞや覺ゆ、これによりて考ふるに、祁は玉篇に渠宜切とあり、キ〔右○〕ともよむべきならずや、家は正くは古牙切なれ(9)ど、叶韻に堅溪切ともある事字彙にみゆ、ケイ〔二字傍線〕つゞむるればキ〔右○〕なり、されば家(ノ)字にまれ祁にまれかなしき〔右○〕のき〔右○〕にあてたるにこそあるべけれ云々、國名の安藝ゲイ〔二字傍線〕州とは云なれど、アケ〔右○〕ノ國とはいはぬをも思ふべし、かく考ふれば、家祁ともにキ〔右○〕の音にて物せるなるべし、云々【採要】といへるをもおもふべきなり、此|多氣《タキ》を諸注次の多宜《タゲ》に混じて解るは非也、多宜《タゲ》は食《クフ》ことをいへる言にて、其活用は下二段なるをや、しかるを卷七に八船多氣とあるを、ヤフネタケ〔右○〕と訓て下二段の活きとせるより、ひとつ詞とおもひ誤れるなり、此氣はキ〔右○〕の音のかたにて用ゐたるものなるよし、上に辨へたるが如し、
此|多久《タク》多氣《タケ》は、皆清音の字を用ゐたれば、清音に唱ふべし、卷十四なる古麻波多具〔右○〕等毛は、濁音の字なれども、東歌なれば方言には濁りたるか、但し卷十八【十六右】に佐具〔左○〕良波奈《サクラバナ》、同【十九右】に由具敞奈久《ユクヘナク》、卷二十【二十九左】に具〔左○〕爾具爾乃《クニクニノ》など具を清音にも用ゐたれば、今も清音のかたにて用ゐたるものとすべくや、古事記なる多藝之《タギシ》は下の之と連續すれば濁れるなるべし、さて又詞八衢上加行四段に萬葉二に多氣ばぬれ多香根ば長き、九にかみ多久までに、十に手寸そなへうゑしもしるく云々などあり、又十四にこまは多具とも、十九に馬太伎ゆけばとあるは同じ詞か、別にても活きはおなじこ(10)となり、とあり、此説につさておもへば髪にいへるは清音、馬舟のかたなるは濁音にて、もとより異なる意の詞にてもあるべし、猶考べし、
 
   多宜《タゲ》
妻毛有者採而多宜麻之佐美乃山野上乃宇波疑過去計良受也《ツマモアラバツミテタゲマシサミノヤマノガミノウハギスキニケラズヤ》
考云、皇極紀の童謠に伊波能杯※[人偏+爾]古佐屡渠梅野倶渠梅多※[人偏+爾]母多礙底騰〓※[口+羅]栖歌麻之之能烏膩《イハノヘニコザルコメヤクコメダニモタゲテトホラセカマシシノヲヂ》といふは、燒きたる米の飯を給《タベ》て行《トホラ》せ也、然ればこゝも採て給《タベ》させましものをといふ古言なるを知めり、略解云、とりてたげましは、死屍をとりあぐる事也、たげは髪たぐなどのたぐと同言なり、此死屍をうはぎにたとへて、うはぎの時過るまでつみとる人もなきにたとへたるならんと宜長いへり【以上】今按ふるに、此二説のうち考の説やまさりたらん、其は彼皇極紀なる童謠を、平氏太子傳暦に載て云、盤上丹兒猿米燒米谷裙喫〔左○〕而今核山羊之伯父《イハノヘニコザルコメヤクコメダニモタゲテイマサネカマシヽノヲヂ》とあり、此に多礙《タゲ》に喫の字を當たるは、古くさる説ありしが故なるべし.今核《イマサネ》は借字にて徃《イマ》さね也【但し考に給《タベ》るの古言なりといへるはいかがなり、かくては今俗にタベルと云言を、古ヘはすべてタゲ〔二字右○〕といひしことのごとくにきこえてまぎらはし、さればこゝは多礙《タゲ》とは食《クフ》ことをいふ一の古言なりといふべきなり、抑此傳暦には、いと/\いかゞなることゞもうちまじりて、すべては諾なひがたき事多かれど、さすがに今の京となりて後のものとは見えねば、これらは據とするに足れり、】荒木田(ノ)久老の日本紀歌解に、多礙底騰〓※[口+羅]栖《タゲテトホラセ》は、即下文に山背大兄(ノ)王等、四五日間淹2留(シテ)於山(ニ)1、不v得2(11)喫飯(ヲ)1とある應也、といへるはさることにて、是(ノ)多礙《タゲ》は食《クフ》ことをいへる證也、猶いはゞ上宮聖徳法王帝説に伊我留我乃止美能井乃美豆《イカルガノトミノヰノミヅ》、伊加奈久爾多義弖麻之母乃止美乃井能美豆《イカナクニタゲテマシモノトミノヰノミヅ》、是歌者膳(ノ)夫人臥(シテ)v病(ニ)而將v臨v没(ニ)時、乞v水(ヲ)、然(レドモ)聖王不v許、遂(ニ)夫人卒也、即聖王誄而詠2是歌(ヲ)1、【類従本に乃井の二字を疊めるは衍文なり、眞本にはなし、】また常陸風土記【香島郡】に年別(ノ)四月十日(ニ)設(ケ)v祭(ヲ).灌v酒(ヲ)、卜氏(ノ)種屬、男女集會、積v日(ヲ)、累v夜(ヲ)飲樂歌舞、其唱(ニ)曰|安良佐賀乃賀味能彌佐氣乎多義多義〔二字□で囲む〕止伊比祁婆賀母與和我惠比爾祁牟《アラサカノカミノミサケヲタゲタゲトイヒケバカモヨワガヱヒニケム》、【多義の二字原書不v疊、今意もて補ふ、此二字必脱たるなるべし、】などあり、是らはともに飲《ノム》ことをいへり、皆同語なり、【食《クフ》ことをも飲《ノム》ことをもひとつにいへるは、古言の常也、】これにて食《クフ》ことをいふ古言なることいよゝ明らけし、さて以上は皆八衢にいはゆる下二段の活詞なり【多宜を板本にタキ〔二字右○〕とあるはわろし、タケ〔二字右○〕と訓(ム)べし、タキにては中二段の語となりて、他の例にたがへり、宜義にゲの音ある事は、次にいふべし、】但し風土記なるは第四音を希求言としたれば、四段活用かのうたがひあるべけれどさにあらず、其は詞八衢上卷にふるく下二段の活詞にはよ〔右○〕もじをそへず云々とて、多く例證を擧て古への一格也といへり、しかるを諸注に上の多氣婆奴禮《タケバヌレ》の多氣と同語とせるは、細《クハ》しからず、上なるは既にいへる如く下二段活用なるをや、かくて多宜《タゲ》の宜はケ〔右○〕の音を用ゐたる也、此字集中にギ〔右○〕とゲ〔右○〕と兩音に用ゐたり、古事記には宜はゲ〔右○〕の音にのみ用ゐたり、按ずるに、宜は韻鏡第四開合轉平聲牙音第三等疑母に屬して、漢音キ〔右○〕呉音ギ〔右○〕(12)なれども、本邦の古書は多くゲ〔右○〕の音とす、義の字も同纏牙音去聲三等の字にて同母なり、義をゲ〔右○〕に用ゐたる例は、佛足石の歌に、佐々義麻宇佐牟《サヽゲマウサム》【捧げ申さむ也、】熱田縁起に、麻蘇義乎波理之夜麻《マソゲヲハリノヤマ》、姓氏録卷三に、牟義(ノ)公、景行天皇(ノ)皇子大碓(ノ)命之後也、とありて、景行天皇の紀には、身毛津《ムゲツノ》君と作《ア》り、古事記には牟宜都《ムゲツノ》君と作《ア》り、【本書は宜はすべてゲ〔右○〕の音のみに用ゐたり、】但し宜義共に漢原音ケイ〔二字傍線〕なることは、太田方の漢呉音圖及び音徴不盡に詳にて、ゲ〔右○〕に用ゐるは此省略音なり、又本集卷二十【二十六左】に伊母爾都岐許曾《イモノツゲコソ》とある岐はゲ〔右○〕と訓(ム)べし【ツギコソ〔四字右○〕といふ例はなければ也、】此岐も韵鏡第四轉の文字にて同例なり、和名抄上野郷名、池田【伊岐太】とあるもケ〔右○〕の音を用ゐたるなり、かかれば宜義共にゲ〔右○〕の音ある事を了知すべきなり、
 橘守部が稜威言別一【三十右】八千矛《ヤチボコノ》神の御歌の波多々藝母《ハタヽギモ》の注に多藝《タギ》は揚《アゲ》る事也とて、皇極紀の童謠に多礙《タゲ》、また本集の採而多宜麻之《ツミテタケマシ》とひとしなみに、神代紀なる吐《タグリ》を出して、吐却する貌《サマ》の物を繰揚《クリアグ》る如くなるより云、といへるは甚《イミ》じき非《ヒbガゴト》也、本文にいふ如く多宜《タゲ》は食《クフ》ことなるに、吐《タグリ》は吐出《ハキイダ》す事なれば、表裏の違ひあるをや、いかで同語なるべき、
 因云、雄略紀十四年四月甲午朔、天皇欲(シ)v設《アヘタマハント》2呉人(ニ)1歴2問群臣(ニ)1曰、其|共食者《アヒタゲビト》誰好(ン)乎、群臣僉(13)曰、根(ノ)使主《オム》可《ヨケム》、天皇即命(テ)2根(ノ)使主(ニ)1爲2共食者《アヒタゲビトト》1、また推古紀十八年十月乙己、饗2使人等(ヲ)於朝(ニ)1、以2河内(ノ)漢(ノ)直贄(ヲ)1爲2新羅(ノ)共食者《アヒタゲビトト》1、とあり、此等のアヒタゲビトは.宴人《ウタゲビト》の略言にて、今のタゲとは同じからず、そは延喜治部式蕃客入朝(ノ)條に、共食二人、掌(ル)d饗(ノ)日各對2使者1欲宴(ヲ)uとある是也、宴人《ウタゲビト》の義なる事を辨ふべし、此はおもひまがふ人もあらんかとおぼゆれば、おどろかしおく也、
 
   十市(ノ)皇女薨時、高市(ノ)皇子(ノ)尊御作歌
三諸之神之神須疑己具耳矣自得見監乍共不寐夜叙多
代匠紀云、己具耳矣自得《イクニヲシト》、此句意得がたし、次の句も亦同じ、今按此三首の次第を見るに、此歌は皇女の世におはせし時の事を、重て悔て讀たまへば、いくに惜とは、行を惜とにて、第二の句までは杉を過にからん爲の序なるべし、徒に逢ぬ月日の過行を惜となり、見監乍共はみけむつゝむだと点ずべきか、むだはともにと云心なり、互に目には見つつ人目を憚て寢ぬ夜の多かりしが悔しくおぼさるゝとなるべし、見けむこそ心得かたきやうなれど、古語は今の耳には彷彿なる事多かり、或は監を見るともよめばみゝつゝともに、と点ぜば心得やすかるべし、
解云、己の字より下十字、今本いくにをしとみけんつゝともとかなつきてあれど(14)分がたし、具一本目、矣一本笑に作る、翁は己免乃美耳將見管本無とありしが誤れるにて、いめのみにみえつゝもとなならむといはれき、尚考べし、橘守部が鐘のひびきに云、關根※[さんずい+煕]【埼玉粕壁】問云、萬葉二云々此三四の句を、萬葉考に己免乃美耳將見管本無《イメノミニミエツヽモトナ》の誤として讀れたれど、神杉の夢に見ゆと云つゞきも穩やかならぬうへに、十字の中に七字まで改めたるもいかゞなり、何とかや御めでたく可v惜歌に侍り、御考へもあらざるか、答云、此集はかねて精注を作らんの心あれば、をり/\に考へて書入などもすれど、此御歌のよめざるには實に窮せり、いとせめて申さば己具耳《スデニグスルノミ》の三字は、上の須疑《スギ》と云言に具したるにて、義を以て聞せたる書法なる歟、第十【四十八丁】に芽子之花開乎再入緒《ハキノハナサキノヲヲリヲ》云々とある乎再も、乎(ノ)字を再び重ねたる義を以て書る同例とすべき歟、さらば三四の句は己具耳之自影見疊乍共《スギシヨリカゲニミエツヽ》にて、一首のつづきは、
 みもろの神の神すきすきしよりかけにみえつゝいねぬ夜そ多き
かくて初二句は須疑《スギ》を重ねてすぎしといはん序とし給へるにて、皇女が過にしよりその面かげの御夢に見えきてねられ給はぬよしにて、御句がらおだやかに似たり、【字も三字ならではかはらず、さばかりは誤ともせんに、】とあり、
(15) 正辭云、考の文字を多く改たるがひがことなることは論なし、今又それをわろしといふ此鐘のひびきの説いよ/\非なり、そは己具耳の三字の訓いと心得がたく、其うへすぎ〔二字右○〕といふ言を重ねん爲のみにては、みもろの神云々といへることいたづらなり、きはめて強説也、また改たる文字ども原《モト》の字形と似つかはしからず、乍共の二字をつゝ〔二字右○〕とよめるもいかゞ、すべてかくさまに隨心《コヽロノマヽ》に文字を改めてよまむには、いかにもうるはしくよまるべきことなるに、歌のしらべさへよろしともきこえぬは、いとわろき説どもなり、さておのが説は本文にいへるが如し、姑く諸説をしるして、讀者の採擇を乞むとす、
 
   馬醉木
馬醉木は、版本には皆ツヽジ〔三字傍線〕とよめるを、冠辭考にこれを〓子《ノボケ》の事として、アシビ〔三字傍線〕とよみ改(メ)たるより、世間おしなべて此説に從へれど、馬醉木はアセミ〔三字傍線〕にて漢名は※[木+浸の旁]木なり、此もの牛馬食へば醉るが如しと云り、又一説によれば茵芋のこととすべし、さてアシビ〔三字傍線〕は漢名木《ホ》爪又は〓子《ノボケ》にて、此ものは牛馬の毒にはあらず、しかるを冠辭考にこれを馬の毒なりとて、さま/\にいはれたれど、恐らくは推當の説ならん、按ふにアシビ〔三字傍線〕とアセミ〔三字傍線〕と名の似たるより、遂に附會して、馬醉木をアシビ〔三字傍線〕とよみ改めた(16)るなるべし、此事は猶下にいふべし、さて集中に出たる馬醉木の歌には、いづれも其花のなよぴかに愛らしきよしをよめるに、安志妣《アシヒ》の歌のかたにはさる詞づかひはなくして.伊氣美豆※[氏/一]流麻※[泥/土]爾《イケミヅテルマデニ》などあれば紅色の花なることしるかり、これ木爪なること論なし、しかるにアセミ〔三字傍線〕は新撰六帖衣笠(ノ)内大臣の歌に、よしの河たぎつ岩ねの白砂にあせみの花も咲にけらしな、とありて、白花なること明らかなり、又馬醉木のかたは自然の山樹のみをよめるに、安志妣のかたはいづれも庭中のことのみをよめり、【これによるに集中なるあしびは、皆木瓜にて〓子《ノボケ》にはあらじ、】これらを以て判然二物なる事を明らめ曉るべし、今集中に載せたる、馬醉木と安志妣との歌をこと/\く出して示すべし、萬葉集卷二【廿六左】に磯之於爾生流馬醉木乎手折目杼令視倍吉之在常不言爾《イソノウヘニオフルツヽジヲタヲラメトミスヘキキミカアリトイハナクニ》卷八【十五左】打靡草香乃山乎暮晩爾吾越來者山毛世爾咲有《ウチナヒククサカノヤマヲユフクレニワガコエクレバヤマモセニサケル》馬醉木《ツヽジ・アセミ》乃不惡君乎何時徃而早將見《ノニクカラヌキミヲイツシカユキテハヤミム》、卷十【十右】に川津鳴吉野河之瀧上乃《カハツナクヨシノヽカハノタキノウヘノ》馬醉《ツヽジ・アセミ》之花曾《ノハナソ》置未勿勤、同卷【十四右】に吾瀬子爾吾戀良久者奥山之《ワカセコニワカコフラクハオクヤマノ》馬醉《ツヽジノ・アセミ》花之今盛有《ハナノイマサカリナリ》、又【十七右】に春山之《ハルヤマノ》馬醉《ツヽジノ・アセミ》花之不惡公爾波思惠也所因友好《ハナノニクカラヌキミニハシヱヤヨセヌトモヨシ》、卷十三【二右】に三諸者人之守山本邊者《ミムロハヒトノモルヤマモトヘハ》馬醉木《ツヽジ・アセミ》花開末邊方椿花開浦妙山曾泣兒守山《スヱヘハツハキハナサクウラクハシヤマソナクコモルヤマ》、以上馬醉木の歌なり、安志妣《アシビ》の歌は、卷七【十右】に安志妣成榮之君之穿之井之石井之水者雖飲不飽鴨《アシビナスサカエシキミガホリシヰノイハヰノミツハノメトアカヌカモ》、卷廿【六十二右】に乎之能須牟伎美我許乃之麻家布美禮婆安之婢乃波奈毛左伎(17)爾家流可母《ヲシノスムキミカコノシマケフミレハアシビノハナモサキニケルカモ》、又|伊氣美豆爾可氣左倍見要底佐伎爾保布安之婢乃波奈乎蘇弖爾古伎禮奈《イケミツニカケサヘミエテサキニホフアシビノハナヲソテニコキレナ》、又|伊蘇可氣乃美由流伊氣美豆※[氏/一]流麻※[泥/土]爾左家流安之婢乃知良麻久乎思母《イソカケノミユルイケミツテルマテニサケルアシビノチラマクヲシモ》、などある是なり、かゝれば馬醉木はアセミ〔三字傍線〕と訓(ム)べきなり、【アシビ〔三字傍線〕アセミ〔三字傍線〕其名甚近くして、其物は各別なり混ずべからず、】アセミ〔三字傍線〕は本草拾遺に載せたる※[木+浸の旁]木にて、俗にはアセボ〔三字傍線〕といへり、【アセミ〔三字傍線〕の訛れるなり、】此もの牛馬誤り食ふときは醉るが如しといふ、但しこれをアセミ〔三字傍線〕とよむは、予が臆記にはあらず、即(チ)古訓なり、其證は卷十なる三首を古今六帖あせみの條に出して、その訓もあせみ〔三字傍線〕とあり、赤人集家持集にも此歌どもを載せてあせみ〔三字傍線〕とあり、又塵添※[土+蓋]嚢鈔卷九【十九左】にアセボ〔三字傍線〕ト云木ノ毒ナルト云ハ何ゾ并其字如何、此木ハ和名ニモ不v載侍歟、定テ本名アルラン、萬集ニハ馬醉木ト書テアセボ〔三字傍線〕トヨムト云リ、馬此ノ木ノ葉ヲ食テ醉テ死ケル也、毒ト云ハ此事ヲ云ニヤ、人ニモ定メテ毒ナル歟、但シ朱(タ)其由ヲ不v見侍りともあり、これらにてアセミ〔三字傍線〕は古訓なることを知(ル)べし、又俊頼朝臣の散木集に、とりつなけ玉だよこのゝはなれ駒つつじのをかにあせみさくなり、【下學集に云|馬醉木《アセボ》馬食(ヘバ)2此葉(ヲ)1則死(ス)故(ニ)云(フ)2馬醉木(ト)1倭歌(ニ)云(フ)取繋玉田横野放駒躑躅岡馬醉木花發《トリツナケタマタヨコノヽハナレコマツヽシノヲカニアセボハナサク》○版本の下學集には岡字を脱せり今補ふ、】とある顯昭の注に、今按すればあせみ〔三字傍線〕つゝジ〔三字傍線〕は共に馬(ノ)毒なり、萬葉集には馬醉木とかきてあせみ〔三字傍線〕ともよみつゝじ〔三字傍線〕ともよめり、可(キ)v付2何(レノ)説(ニ)1乎、又ともに毒なれば、つゝじのをかにあせみさかば、かた/\あし(18)ければかくの如くよめるかといへり、これによるに馬醉木の訓古(ヘ)アセミ〔三字傍線〕ツヽシ〔三字傍線〕の兩訓ありしなり、さて六帖赤人集家持集などはアセミ〔三字傍線〕のかたに從ひ、仙覺はツヽジ〔三字傍線〕のかたをとられしなり、【卷十【十四右】なるは家持集にもつゝじとよみ同卷【十七右】なるは夫木集春五雜につゝじとよめり、】かくて※[木+浸の旁]木の形状は、本草啓蒙に、※[木+浸の旁]木山ニ五六尺ノ小木多シ、年久シキモノハ丈餘ニ至ル、葉ノ形細長ニシテ鋸齒アリ、※[木+令]《ヒサカキ》ノ葉ニ似テ薄ク硬シ互生ス、冬凋マズ春枝頂ニ花アリ、色白ク綟木《ネヂキ》ノ花ノ形ノ如シ、穗ノ長サ三寸許、多ク集リ垂ル、後小子ヲ生ズ亦綟木ノ子ノ如シ、若(シ)牛馬コノ葉ヲ食ヘバ醉ルガ如シ、故ニ馬醉木ト云、鹿コレヲ食ヘバ、不時ニ角解ス、又菜圃ニ小長ノ黒蟲ヲ生スルニ、コノ葉ノ煎汁ヲ冷シテ灌クトキハ蟲ヲ殺スとあり、【但し此文の前に和名を出して、※[木+浸の旁]木アシミ【萬葉集】とあるは心得ず、アシミ〔右○〕はアシビ〔右○〕の筆誤か、集中にアシミ〔右○〕といへるものあることなし、また其アシヒ〔三字傍線〕ハ〓子の古名にて※[木+浸の旁]木にはあらずかた/\誤なり、】さて顯昭の注にあせみつゝじは共に馬(ノ)毒なりとあるによれば、羊躑躅も羊のみにはあらで牛馬にも毒なるにや、されば古訓にツヽジ〔三字傍線〕ともよめるは、この馬醉木を羊躑躅の一名とせる説のありしなるべし、【古事記傳卷三十三【七十左】に、本書卷十三なる歌を引て、馬醉木を舊訓のままにツヽジ〔三字傍線〕とよめり、縣居翁の説には從はれざりしなり、】
扨又一説あり、其は集中にては馬醉木と茵芋とひとつ物の如く見えたれば、一向に※[木+浸の旁]木なりとも定めがたきこゝちす、しか云は本集に馬醉木の古訓はツヽジ〔三字傍線〕なるこ(19)と上にいへるが如くなるに、又卷三の歌に茵花香君《ツヽジハナニホヘルキミ》云々、卷十三に茵花香未通女《ツヽジハナニホヘルヲトメ》云云とありて、茵をつゝじ〔三字傍線〕に充たればなり、輔仁の本草和名にも茵芋和名爾都々之一名乎加都々之と見え、和名抄も同じ、又惟宗(ノ)時俊が醫家千宇文に、茵芋華細とありて、自注に茵芋和名於〔右○〕加津々之私案阿勢保是也といひ、又康頼本草にも茵芋和名於〔右○〕加川々之、三月三日採v葉陰乾、四月開2白花1とありて、和氣氏某の注を載せて、私家舊紀云和名アセボノキとあり、【アセホ〔三字傍線〕はアセミ〔三字傍線〕の訛れるなり、】以上の書に據るに、古く茵芋にツヽジ〔三字傍線〕とアセミ〔三字傍線〕の二訓あり、又馬醉木にもツヽジ〔三字傍線〕とアセミ〔三字傍線〕と二訓あり、これ茵芋と馬醉木とは同物異名とこそおぼゆれ、但し茵芋は俗にミヤマシキミ〔六字傍線〕といふものにて、其花さまで愛らしきものにあらずと友人伊藤錦※[穴/果]翁いへり、然るに本集の馬醉木の歌のおもむきを見るに、いと愛らしく且山中にありてよく人の目につくものゝ如し、※[木+浸の旁]木は其花愛らしく人の目につくべきさまなれば、猶※[木+浸の旁]木なりといふ説は動くまじくこそ、されば皇國の古人は※[木+浸の旁]木を茵芋《ミヤマシキミ》と誤り認めたりしにや、茵芋も本草綱目に毒草の部に收(メ)たれば、おもひまがひたるものならんか、姑く書して識者の定めを竢、
追考
護摩密紀(ニ)云、只調伏(ニハ)用(ヰヨ)2阿世美《アセミ》1、餘法(ハ)用(ル)2之支美《シキミ》1歟、又云、毒|舂《ツキハ》以2諸(ノ)毒藥1可2舂|揉《マズ》1、今用(ル)2付子|阿(20)世美《アセミ》等(ヲ)1とあり、此に樒に對して阿世美といへるは、必茵芋のことなるべし、其は樒に易ふるにミヤマシキミ〔六字傍線〕を以てするなるべければなり、又夫木集雜十一に光俊、おそろしやあせみの枝を折たきて南にむかひいのる祈りは、とみえたるも、かの調伏のをりの事をおもひてよめるなり、かかれば茵芋を古くより後々までもアセミ〔三字傍線〕といひしなりけり、
此はいにし年横山由清の問へるに答へたりし考なるを、其後改(メ)正してかくはものしつるなり、次に※[木+浸の旁]木と茵芋との圖を出して覧者に示す
 
萬葉集美夫君志卷二別記
 
(21)萬葉集美夫君志巻一二別記附録
 
   加納諸平山多豆考
古事記下卷、遠飛鳥宮允恭天皇の段に見えたる衣通姫の歌の中に岐美賀由岐氣那賀久那理奴夜麻多豆能牟加閇遠由加牟麻都爾波麻多士《キミガユキケナガクナリヌヤマタヅノムカヘヲユカムマツニハマタジ》といふ歌の注に、此(ニ)云2山多豆(ト)1者是今造木者也、とある造木を、記傳に建木《タツゲ》の誤として、山多豆は釿《テヲノ》ならむと云れたり、さるは袖中抄やまたづの條に、顯昭云、今按にたつぎといひて木きるものに山をそへてやまたつぎといふべきを、きの詞を畧して山たつといふか云云、また冠辭考に廣刃斧の類なるべしなどあるを據にして、决《ウヅナ》く工匠の具なりと思はれしよりの考なれど、顯昭は山多豆の註の造木者の三字は、木を造る具《モノ》の義とおもひ、縣居翁は者の字を斧の誤として、造v木斧也とさへ改められしを、鈴屋翁は木を造る義にはあらずと委しく辨られながら、猶|※[金+番]《タヅキ》になづまれしはいと怪しく、すべて穩ならぬさまにきこえ、はた造木者の三字は、此紀の諸本また萬葉集袖中抄等に引たるもすべて同じければ、必ず誤にはあらざるべし、今按ふるに、造は国造《クニノミヤツコ》伴造《トモノミヤツコ》など古書に美夜都古《ミヤツコ》と訓めれば、其訓によりて造木者也《ミヤツコキナリ》と訓むべし、【者の字はといふものゝ意なり、記傳に例を引て委しくいはれたる(2)がごとし、】其みやつこ木は、和名抄に本草(ニ)云接骨木【和名美夜都古木】と見え、伊呂波字類抄に女貞【此木と接骨木と混れたる事下にいふべし、】ニハツコギとあるは美夜都古木《ミヤツコギ》を訛れるを、今は都古《ツコ》を登古《トコ》に訛り木を除きて爾波登古《ニハトコ》といふ木なり、此|迩波登古《ニハトコ》の木は一名を多豆《タヅ》の木又|木多豆《キタヅ》ともいふ、木多豆の名は、葉も花も實も此木と同じ草あるを草多豆《クサタヅ》といふに對へたる名なり、其草多豆は漢名を※[草冠/朔]※[草冠/〓]といひて、古くは漢名の字音によりて曾久止久《ソクドク》といへるを、其形のいとよく接骨木に似たるより草多豆といふ名のあるにても、接骨木に多豆の木の名あるを知べし、【漢名接骨木の一名を木※[草冠/朔]※[草冠/〓]といひ、※[草冠/朔]※[草冠/〓]の−名を接骨草といふをも思べし、】多豆の木は和名抄に拾遺本草(ニ)云女貞一名冬青【和名太豆乃木楊氏漢語抄云比米都波木】冬月青翠故以名v之とありて接骨木とは別に載たれども、本草和名には女貞一名冬生【出2釋藥1】一名索盧【出2太清經1】一名山節一名青員【已上出2兼名苑1】和名美也都古岐一名多都乃岐、伊呂波字類抄【美部】接骨木 ミヤツコキ 女貞、冬生、山節、青員、索盧、獨骨、冬青【已上七名同亦名タツノキ】又【多部】女※[木+貞]【タツノキヒメツハキ】女貞【タツノキニハツコキ】など接骨木も女貞も共に多豆乃木美夜都古木など訓めると、上にいへる接骨草の名にても、多豆乃木は接骨木の一名なる事明なり、【按ふに女貞は今禰受美毛知といふ木にて、葉は楊桐葉に似て、すべて接骨木と異なる物なれど、葉の兩對せるより、ふるくは誤用ひしならむ、さて女貞の木を寺椿藪椿なといひ、また石州にてはタマツバキ雲州にてはカハツバキ泉州にてはイヌツバキともいふよし本草啓蒙にみゆ、かく山茶《ツバキ》の名多きと漢名の女貞の女の字とに よるに、比女都婆木と和名抄にあるぞこの木の本命なるべき、又冬青を女貞の木の名と(3)したるも誤にて、冬青冬生などは毛知の木の漢名也、すべて一名とて多く載たる名どもは、接骨木の漢名にはあらさるべし、そはこゝに用なければ云はず、〇正辭云、接骨木の漢名にはあらざることはもとより也、此は本草和名によりて出したるにて、女貞の漢名なり、但し此内實は女貞の名にもあらざるもあれど、其は別に論ずべし、】さて多豆乃木造木といふ名義はいまだ考へず、かくて多豆乃木を山多豆といふ名、今は聞えされど、深山にも自然生多く、人の家にも多く裁れば庭前《ヤド》の多豆に對へて深山の自然生を山多豆といへる歟、又は山多豆の山を畧きて多豆とのみ云へるにてもあるべし、【今山中に谷タツとて接骨木に似たる木ありと或人いへり、此谷多豆やがて山多豆にてもあるべし、】古事記を撰ばれたる時代にも、山多豆の名知れる人少なく、大かたは造木とのみ云しかば、是今造木者也《コハイマノミヤツコキナリ》と註したるなるべし、されど猶多豆乃木といふ名殘りて古名の失はれざるはいとめでたし、さて此木葉も枝も對ひ生るものなれば迎へといふ詞の發語《マクラコトバ》に置れしならむ、【但し對ひは四段の活にて自然むかふ詞、むかへは下二段の活にてこなたよりむかふる訓にて、活たがへば、山多豆の葉の對ひたるが如く迎へゆかむといふ意也、】以上採要
 
   山多豆考補正
此山多豆の事は、古くより有識人《モノシリビト》だちの誤り來たれるを、接骨木なりと考(ヘ)得たるはいみじき功也、【但し山多豆は女貞なり接骨木にあらず、其よしは下にいふ、】されど造は國造《クニノミヤツコ》伴造《トモノミヤツコ》などのをり、美夜都古《ミヤツコ》と訓(メ)れば、其訓によりて古事記の原注の造木者也とあるを、造木者也《ミヤツコキナリ》と訓べしといへるは非也、そも/\造を美也都古《ミヤツコ》と訓(メ)るは、國造《クニノミヤツコ》伴造《トモノミヤツコ》などのをりに限れる事に(4)て、其は御臣《ミヤツコ》の意なり、【これに造の字をかけるはいかなる意にか知がたし、縣居翁は國造をクニツコと訓(ミ)て、其國を草創《ハシメ》し意にて即(チ)造《ツクル》と云言なり、又たゞの造は宮を造《ツク》れる功に因れる尸《カハネ》なりといはれたれど、そはわろきよし古事記傳卷七【八十一】にくはしき辨あり、さて其處《ソコ》に云、造(ノ)字を書(ク)所由《ヨシ》は未(タ)思(ヒ)得ず、漢國秦(ノ)宮に大良造又は大上造とも云あり、又北史に新羅國官十七等の中の第十七を造位と云り、此等に由有て書(キ)始(メ)たるか、猶考ふべしといへり、】然るを木の名の美也都古と云言に借(リ)用ゐむ事あるべくもおぼえず、すべてかうやうの假宇書《カナカキ》の文字は、常に人もよく知(リ)ゐて文字の義にも當《カナヒ》たる訓をこそ用ゐるべきことなれ、かく迂遠《モノトホ》く且義訓にして本訓にもあらざる文字をばいかで借(リ)用ゐるべき、【萬葉集などには、さま/\の假字書もあれど其《ソ》は異事《コトゴト》にて此記などにはかゝることのあるべきことかは、又孝徳記に、蘇我(ノ)山田(ノ)麻呂の女に、造媛といふ名ありて、ミヤツコヒメと訓(メ)り古(ヘ)人の名には種々の借字を用ゐたる事なれば、こは別例とすべし、】正辭按(フ)に造木の二字は假字にはあらずして正字にて即(チ)山多豆《ヤマタヅ》の漢名也、しか云は、本書の注の例を考ふるに上卷に此(ニ)謂(ヘルハ)2赤加賀知《アカカガチト》1者今酸醤者也、中卷【玉垣宮段】に其|登岐士玖能迦玖能木實者《トキジクノカクノコノミトハ》今橘者也、などありて皆漢名を用ゐて假字書にはあらず、されば此(ニ)云2山多豆《ヤマタヅ》1者是今(ノ)造木者也とある造木も必漢名なる事明けし、今其碓證をあげてこれを辨へむ、其は眞本新撰字鏡卷七に、女貞實【八月採實陰干、比女豆波木又云造木、】と見えたる是なり、【こは板本には注文に省略あれば、今は眞本によりて引けり、女貞に太豆乃木の和名ある事に、和名抄本草和名以呂波字類抄字は見えて、既に諸平の考中に引るが如し、】此にかく造木の字面あるからは【下に出す〓(ノ)字〓(ノ)字をも見べし、】古事記なるももとより文字の誤れるにはあらざること疑ひなし、【かの萬葉集袖中抄などのみにては未(タ)必(ス)誤字にあらざる證ともいひがたかるべし、其故は萬葉なるに今の記によ(5)りて引きたるものにて即(チ)誤本のまゝを引(カ)れたりともいはるべし、袖中抄はまた萬葉より引きたるものとみれば、是また其誤(リ)を受傳へたりともいはるゝにあらずや、さるを今新撰字鏡を合(セ)見るに誤字ならぬ事は必定せり、】且必(ス)木(ノ)名にして※[金+番]《タツキ》にあらざる事も炳焉也、かくて字鏡の造木の漢名なる證は、同書此次に、折傷木【伊太比、云木連子、】卷栢【久彌、亦云求〓、又云万歳、又云豹足、又白〓、】又草部に黄精【安万奈、又云惠彌、又云重樓、又〓格、又救窮、】石龍茵【不加豆彌、又云牛乃比太比、又地椹、又彭根、又天豆、】石龍〓【太豆乃比介、一云牛乃比太比、又云草〓斷、又龍朱、又龍花、又懸莞、】牛膝【爲乃久豆知、又爲乃伊比、又云百倍草、】獨活【宇度、又云乃太良、一云獨〓草、】升麻【鳥足草、又云周麻、】猶いと多かるを、さのみはとてもらしつ、【原書には誤字脱字あれば、今眞本と板本とを比校して正して引く、】比等又云〔二字右○〕云々とあるは、皆漢名なるに準へて造木も漢名なる事明か也、但し諸平は古事記の造木をミヤツコキと訓(ミ)て接骨木の和名としたれど、造木は漢名にて、ミヤツコキとよめる事の非なるよしは、既に辨じたるが如し、又接骨木をタツノキといへる事古書には見えず、【本草啓蒙に、接骨木にタツノキの訓を出したるは、かの俗稱の木タツ草タツの名によりて、設けたるにはあらざるか、】以呂波字類抄の訓も、接骨木はミヤツコキ、女貞以下七名はミヤツコキ、又名タツノキといふ意と聞えたり、かくのことく女貞にはタツノキの名あるのみならず一名造木とさへあれば、古事紀の歌詞又其原注と全く符合せり、これ決《ウツ》なく女貞と定むべき也、但し女貞も其葉相兩對せるものなれば、向ふといふべきものなり、【諸の草木のうちにて、枝又は葉の相對して生ふるものはいと多くして、獨(リ)女貞又は接骨木には限らざることなれば、こは別に意義ある事ならんか猶考ふべし、そはとまれかくまれ多豆及び造木は女貞のことなること、上にあげたる證どもにて明らか也、】タツノキを山タツとい(6)ふは、此木もとより山中に多くあるものなるが、又家の庭などにもよく移し植るものなるから、山中なるものを殊に山タツとはいひしなるべし、諸草木の名に、山何といへるもの、いと多かるをおふべき也、古事紀の山由理草《ヤマユリグサ》の傳卷二十【三十一】に山由理は姫由理の事にて、山由理てふ名は他に見えざれとも、凡て木草の名に山某《ヤマナニ》と云(フ)多ければ、此姫由理も山由理と云つへき物なりかし、とあるを合せ見べし、
以上論ずるが如くなれば、造木は女貞の漢名なること、古事記の注文の例と、新撰字鏡の又云の例とにて、いと/\明らかなり、且和名は多豆乃岐なる事も、上に出したる諸書にて知るべし、
さて又眞本新撰字鏡卷七【小學篇(ノ)字、及本草(ノ)木(ノ)異名部、】に※[木+歳]【造木】※[木+造]【同上】とも見えたり、【こは板本にはなし、眞本に如v此ある也、】按(フ)に※[木+造]は即(チ)造木の二合字、※[木+歳]は歳木の二字を合せたるものにて、古(ヘ)此方《コヽ》にて製作《ツクリ》し文字ならむ、女貞は常磐木にして、年中枯れ凋まざる故に、そのまゝにて一歳を經《フ》といふ義もて造れるものなるべし、されば玉篇に※[木+歳]、小棺也と訓ずる字とは、原委自ら別なりと知るべし、かの冬青の一名を萬歳樹まおは萬歳枝などいへるをもおもふべし、しかるに接骨木は年中葉のあるものにあらざれば、いよ/\造木の女貞なること論なき也、
(7)人の考出たる説を.強(ヒ)て云けちて、われだけくいひのゝめくことは、いとをこなるわざにして、學のすぢにも有まじき事なりかし、今はさるたぐひにはあらで、あたら考へのいさゝかたらはぬところあるが口惜さに、かくはものしたる也、さてかの造木の名は必(ス)唐本草にはありしならむ猶よく考ふべき也、正辭志
 
   鹿持雅澄玉蜻考
集中に玉蜻珠蜻など書たるを、むかしよりカギロヒ〔四字右○〕とひとつと心得て、【舊印本などにもカゲロフと訓り、】世のふること學する人どもゝ疑ふ事なく、おのれもそれに委《ユタネ》てさらに考出べき物とも思ひをらざりしを、近き比玉蜻のカギロヒ〔四字右○〕にあらざる確據《タシカナルヨリトコロ》を得たり、さてしか定めおきて熟《ツラ/\》思見るに、今までわれ人のここに心のつかざりし事を、かつはいぶかしみ、はたおのが今かく思得たる事を、吾ながらもかつはあやしみおもふ事になん有ける、さて其|謂《ヨシ》をことわるに、まづ玉蜻珠蜻のカギロヒ〔四字右○〕にあらざる證《アカシ》を一(ツ)一(ツ)に辨《ワキマ》へ論ひて、さて後にそを訓べきやうをさだめいはんとす、まづその歌どもは、集中卷二【三十七丁】長歌に、天飛也《アマトブヤ》云々玉蜻|磐垣淵之《イハカキフチノ》云々、同卷【卅八丁】長歌、打蝉等《ウツセミト》云々珠蜻|髣髴谷裳《ホノカニタニモ》云々、卷八【卅四丁】に、玉蜻※[虫+延]|髣髴所見而別去者毛等奈也戀牟相時麻而波《ホノカニミエテワカレナハモトナヤコヒムアフトキマテハ》、卷十五【五丁】に、玉蜻|夕去來者佐豆人之弓月我高荷霞《ユフサリクレハサツヒトノユツキカタケニカスミ》※[雨/非]※[雨/微]、同卷【五十九丁】に、皮爲酢寸穂庭不出戀乎(8)吾爲《ハタスヽキホニハテヌコヒヲワカスル》玉蜻|直一目耳視之人故爾《タヽヒトメノミミシヒトユヱニ》、卷十一【卅二丁】に、玉蜻|石垣淵之隱庭伏以死汝名羽不謂《イハカキフチノコモリニハフシテシヌトモナカナハノラシ》卷十二【廿七丁】に、朝影爾吾身者成奴《アサカケニワカミハナリヌ》玉蜻|髣髴所見而徃之兒故爾《ホノカニミエテイニシコユヱニ》、と見えたり、正しくカギロヒ〔四字右○〕をよめるは、集中卷一【廿二】に東野炎立所見而反見爲者月覆《ヒムカシノノニカキロヒノタツミエテカヘリミスレハツキカタフキヌ》、卷二【卅八丁】長歌に、打蝉等《ウツセミト》云云|蜻火之燎流荒野爾《カキロヒノモユルアラノニ》云々、同域本長歌に云々香切火之燎流荒野爾云々、卷六【四十二丁】長歌に、八隅知之《ヤスミシシ》云々|炎乃春爾之成者《カキロヒノハルニシナレハ》云云、卷九【三十四丁】長歌に、父母云々蜻※[虫+延]火之心所燎管《カキロヒノコヽロモエツヽ》云々、卷十【七丁】に今更|雪零目八方蜻火之燎留春部常成西物乎《ユキフラメヤモカキロヒノモユルハルヘトナリニシモノヲ》、など見えたり、是等はさらにうたがひなきカギロヒ〔四字右○〕なり、さてその玉蜻珠蜻のカギロヒ〔四字右○〕にあらざる謂《ヨシ》といふは、まづ右に擧たる如く、玉蜻、珠蜻、玉蜻※[虫+延]などやうにのみ書て、玉蜻之珠蜻乃とやうに之乃等の字を添て書るは一(ツ)もなく、其次に擧たる方は皆蜻火之炎乃とやうに必(ス)之乃等の字を添て書たり、これカギロヒ〔四字右○〕にあらさる證《アカシ》の一(ツ)なり、【但之等の字は畧きて書る例も、集中に多くあることなれば、猶疑ふ人もあるべけれども、きはやかに玉蜻の方には之等の字を添て書ろうは一(ツ)もなくして、炎の方に之等の字をそへて書ざるはひとつもなきは、もとよりその差別《ケチメ》ある事さらに決《ウツ》なし、】さて蜻※[虫+延]は虫の名なるに、蜻※[虫+延]をやがてカギロヒ〔四字右○〕と呼《イヒ》しことにはあらず、カギロ〔三字右○〕なり、【猶次に委云へし、】其謂は右の如く蜻火、蜻※[虫+延]火とのみ火字を添て書ざるは一(ツ)もなく、玉蜻の方には火を添て玉蜻火と書る一(ツ)もなき、これ玉蜻のカギロヒ〔四字右○〕にあらざる證のニ(ツ)なり、【もし蜻※[虫+延]やがてカギロヒならんには、火の字を添たるは無用《イタヅラ》の長物とやいふべからん、】また玉蜻を(9)カギロヒ〔四字右○〕とせんに甚《イト》も疑しきは、玉蜻、蛛蜻の文字なり、但し彼蜻※[虫+延]といふ虫の眼は透徹《スキトホ》ること、珠玉の如くなる故に玉蜻と書事と心得、またからふみ博物志といふものに、五月五日埋2蜻※[虫+延]頭於西向戸下(ニ)1、埋(ルコト)三日不v食、則化爲2青眞珠1、といふ事もあれば、さる謂《ヨシ》によりて書るならんと思ふめれど、よく考るにさまで巧に思ひめぐらして、文字を造り成ること彼頃の人の肇すさみにあらず、たま/\は丸雪《アラレ》青頭鶏《カモ》などやうに書る事もあれど、其(レ)等はたゞさし近く思ひ設て書る物にて、いたくことのさま異れり、これ又玉蜻のカギロヒにあらざる證の三(ツ)なり、さてかく思ひめぐらして後、右に擧たる歌どもを、ことごとく相照し見て熟《ヨク》考るに、玉蜻の方は磐垣淵、また髣髴、また夕、また直一目、とのみつゞき、炎之《カキロヒノ》の方なるは、燎流、また春、とのみ續きて、玉蜻と炎とは混雜《マギレ》もなく詳明《サダカ》に別れたり、これ玉蜻のカギロヒ〔四字右○〕にあらざる證の四(ツ)なり、かくまできはやかに玉蜻のカギロヒ〔四字右○〕ならぬことを正しく思ひ得てより、玉蜻をよむべきやうを熟《ツラ/\》思ひめぐらすに、此をばタマカギル〔五字右○〕と訓べきことなり、いかにとなれば、右にいふごとく蜻火蜻※[虫+延]火など書る其火の字を省きすつる時は、蜻※[虫+延]はカギロ〔三字右○〕也、さて其は今世にトンバフといふ虫にて、【袖中抄にもとほふといへり、】古(キ)名は阿岐豆《アキツ》なるを、その一名《マタノナ》を加藝呂といひしとおぼえたり、【和名抄に蜻蛉(ハ)和名加介呂布と見えたるは、やゝ後の稱ならん、】故(レ)蜻※[虫+延]に玉の字(10)をそへて、タマカキル〔五字右○〕といふ言の借字とせり、加藝呂《カギロ》を加藝留《カギル》に借たるは轉(シ)用る古の借字の一(ツ)の例にて、香切火と書ると同(シ)例也、【切《キル》をキロに借たり、】この事ははやく古義に委く論《アケツラ》へり、さてタマカキル〔五字右○〕とよむべき事のさらに動くまじきよしをいはんに、卷一【廿一丁】長歌に、八隅知之《ヤスミシシ》云々|玉限夕去來者《タマカキルユフサリクレバ》云々、【これを舊印本にタマキハルとよめるは、さらに論《イフ》にも足ぬ事也、】とあるは、上に引たる卷十【五丁】玉蜻夕去来者云云と全《モハラ》同く續き、また卷十一【十三丁】に眞祖鏡雖見言哉玉限石垣淵乃隱而在※[女+妹]《マソカヽミミトモイハメヤタマカキルイハカキフチノコモリタルイモ》とあるは、上に引たる卷二【卅七丁】の玉蜻盤垣淵之云々、巻十一【卅二丁】の玉蜻石垣淵之云々と全《モハラ》同くつゞきたるにて、さらに/\、うたがひ思ふべき事にあらず、【然るを岡部氏〔三字傍線〕がこれらの玉限をも、玉蜻と書改てカギロヒとよみたるより、世のふることまなびの徒もそれに從ひて、さらに疑ふ色もなく、おのれも近くまで然のみ心得居たりしを、今思へば中々に古書を謾《ミタ》せしわざにて、いとも/\ゆゝしく淺ましき事にそ有ける、】又卷十三【九丁】に蜻嶋《アキツシマ》云々玉限日文累《タマカキルヒモカサナリ》云々とあるも同語也、これ必玉蜻のタマカキル〔五字右○〕なる證の一(ツ)なり、また卷十一【五丁】に朝影吾身成玉垣入風所見去子故《アサカケニワカミハナリヌタマカキルホノカニミエテイニシコユヱニ》とあるは、上に引たる卷十二【廿七丁】に朝影爾云々とあると一句一言たがふこともなき同歌なるを、カギル〔三字右○〕といふ言に垣入と借て書る也、但し加藝留《カキル》は藝の言濁音、垣は清音なれば、いかにぞや思ふ人もあらん、その人のためにかつ/\いふべし、抑古(ヘ)は言の清濁こそきはやかに差別ありて正かりけれど、借字には清濁かたみにまじへ用たる例ありて、集中に加豆思加《カヅシカ》といふ(11)地(ノ)名は、豆《ヅ》の言濁音なるに勝牡鹿とかき、又|庭多豆水《ニハタヅミ》を庭立水とかき、夕方設《ユフカタマケ》を夕方狂と書たる類あれは、今の垣の字も此等に准へて加藝に借たるを知べく、且入のイ〔右○〕の言は加藝の藝の餘韻に含まれば、自ら垣入はカキル〔三字右○〕となる理也、【然るをこの玉垣入をも、玉蜻乃の誤ぞといふは、いはかたなく謾言なる事、右の玉限を玉蜻の誤とするにひとし、】これ玉蜻のタマカキルなる證の二(ツ)なり、【かくはあれとも、集中に多末加藝留とうるはしく假字書にせしは一(ツ)もなければ、後來の人猶疑ひを殘ん事有べければ、次に確《タシカ》なる一(ツ)の證を擧ぐ、】大日本國靈異記卷上、狐妻令生縁第二に載たる、欽明天皇の御世三野國大野(ノ)郡(ノ)人の歌に、古非波未奈和我戸爾於知奴多万可岐留波呂可邇美縁弖伊邇師古由惠邇《コヒハミナワカコニオチヌタマカキルハロカニミエテイニシコユヱニ》とあり、これは上に引たる集中卷十二【廿七丁】朝影爾云々の歌と下句大方同じきを、遙《ハロカ》といひ髣髴《ホノカ》といへるのみの少《イサヽカ》異《コトナル》にて、唯同じ事なり、しかるをかく多万可岐留《タマカキル》と假字書にせるうへは、まきれもなき事なり、これ玉蜻のタマカキル〔五字右○〕なる證の三(ツ)なり、かく考出て見れば、いさゝかもうたがふべきすぢなく、さらに/\動くべきことわりなきわざにぞ有ける、さてかく思ひ定めて後に、語意《コトノコヽロ》をおもひ設んとするに、そは考へ得ん事いともかたきことなり、そも/\語の意を釋ことはかたきわざなるを、まして枕詞の類はあるが中にもいたくかたきわざになん有ける、さるはあし曳の久かたのなどの類のむかしより朝夕人の耳なれたる枕詞すらも、其語のしかいふ意はたしかに知たる人な(12)ければ、まして其餘のすこし耳遠き枕詞のこゝろは、思ひ得てん事のかたきもうべならずや、さるからは此タマカキル〔五字右○〕といふ語も、いかなる所由《ユヱ》にてしかいへるぞといふことは知がたくとも、玉蜻をタマカキルとよまんことはさらに疑ふまでもなきことなり、さはいへど考へ得がたしとて、たゝにもたりて打捨おかん事も、しかすかにくちをしければ、こゝろみにおのがおもひよれるよしをいさゝかこゝに記しおくべし、多方《タマ》といふ言の義は、次に云べし、可岐留《カキル》はR《カキル》といふなるべし、凡て加我《カガ》、加|藝《ギ》、加具《カク》、加宜《カゲ》、などいふは皆同言にて、【加我欲布《カガヨフ》、加藝呂火《カギロヒ》、又火之|迦具土《カグツチノ》神、枕詞に玉※[草冠/縵]影《タマカツラカケ》とつゞくも、玉※[草冠/縵]のR《カヽヤ》くよしなり、後の歌にも夕日影かげろふなどよめり、】可藝呂火《カギロヒ》といふも、R《カギ》る火といふにて、陽炎のきらきらとR《カヽヤ》くよしなり、さて磐垣淵とつゞくは、【卷九に河(ノ)瀬のたぎつを見れば、玉もかも散亂れたる、この河常かも、とよめる如く、磐垣かこみたる淵に、激落《タギリオツ》る水玉を、眞の玉の如くとりなして、玉散乱(レ)てRく磐垣淵とつゞきたるかとも思へと、淵はしづかなるをむねとする物なれば、激る義にとらん事相|應《カナ》ざる歟、】およそ深き淵は、青く透徹るやうなれば、玉R《タマカギル》といへりとすべき歟、さて多万といふ稱《ナ》をその本に立かへりていふ時は、元來珠玉より出たる名にはあらず、美麗《ウルハシ》く清明《サヤカ》なるを賛いふ稱にして、古事紀に玉津寶とあるも、清明にして美麗しき寶をいへり、其餘古語に多万某といへる皆その趣也、さて珠玉も多万とたゝへいふ物の中の一(ツ)なから、珠玉はきはめて清明なる故に自然《オノヅカラ》珠玉の名の如くなれるものなり、されば透徹りて清明にRく(13)淵といふ意につゞきたるにてあらんか、又夕とつゞきたるは、夕陽《ユフヒ》の清明にRく夕といふ意につゞきたるか、又日とつゞきたるは、清明に光りRく日といふならんか、さて髣髴とつゞくは、即(チ)玉は珠玉の義にて、明珠の光はほのかにはる/\とRくよしにて、髣髴とつゞきたるか、靈異記の歌に、波呂可とつゞけたるも同義也、又直一目とつゞくも、明珠の光は直一目見ても、灼《イチシ》るきよしのつゞき歟、これらの事は猶よくさらに考へ尋てん、抑この玉可岐留の事、おのれさきに南京遺響に、靈異記の歌につきて、いさゝかおもひよれるよしをかつ/\いひたれど、猶今の如くさたかに得思定めずして、猶古き説に拘泥《ナツミ》て、本編にもものしおきたりつれば、今かくさらに論(ヒ)辨へつるになむ、【以上採要】
 
   正辭玉蜻考補正
 蜻※[虫+延]をやがてカキロヒ〔四字傍線〕と呼《イヽ》しことにはあらず、カギロ〔三字傍線〕なり云々、
補正云、此は非なり、其由は次にいふ、カギロ〔三字傍線〕といふ名、ものにみえたる事なし、
 さまで巧に思めぐらして文字を造り成ること、彼頃の人の筆すさみにあらず、
補正云、此は今の要とすることならねど序にいふべし、此いひざま甚わろし、そはかの羲之を手師の意にとりてテシ〔二字傍線〕の假字とし、又樗蒲の五木の事におもひよせて、折(14)木四をカリ〔二字傍線〕とよみて雁の假字としたる【此事は北村節信といふ人の委しき考有、】など、其巧なること驚くばかりなるをや、
 一名を加藝呂《カギロ》といひしとおぼえたり云々、
補正云、按に、蜻※[虫+延]をカギロ〔三字傍線〕といひし事あることなし、ひがことなり、本草和名に、蜻※[虫+延]一名青※[虫+延]、和名加岐呂布とあり、【醫心方にも如支呂布とあり、和名抄に如介呂布とあるは、やゝ後に轉じたる稱なるべし、】この呂布〔二字右○〕の急呼留〔右○〕なるによりて、カギル〔三字傍線〕に借(リ)たるなり、さて陽炎のかたに火(ノ)字を加(ヘ)てかけるは、カギロフ〔右○〕とよまずしてカギロヒ〔右○〕とよむべきよしを知らせたるものにて不知《シラニ》を不知爾《シラニ》かけるなど同例なり、
 凡て加我《カヾ》加藝《カギ》加具《カグ》加宜《カゲ》などいふは、皆同言にて、
補正云、此事は既く古事記傳卷五【五十四左】に、火之迦具土《ホノカグツチノ》神、迦具《カグ》は赫《カヾヤク》と云意、其は迦賀《カヾ》とも迦藝《カギ》とも迦具《カグ》とも迦宜《カゲ》とも活て、同(シ)言なり、迦藝《カギ》といへる例は、若櫻(ノ)宮(ノ)段の大御歌に、火を加藝漏肥《カギロヒ》とよみ給へる【萬葉にも、香切火のもゆる荒野とあり、】是なり、迦宜《カゲ》は影《カゲ》と云是なりとあり
 磐垣淵とつゞくは云々、
補正云、多万《タマ》といふ言の本義はさることなれど、【古事記傳三十四の二十二葉に、既に此説あり、】透徹《スキトホ》りて清(15)明にR《カヾヤ》く淵をいふ意につゞきたるにてあらんかといへるは、いともてまわりたる解ごとにて、強説なり、又次々なるは皆珠玉の意にて解けるを、これのみしからずとせんもことわりなし、今按(フ)に卷六【廿左】に、見渡者近物可良石隱加我欲布珠乎不取不已《ミワタセバチカキモノカライソガクリカヾヨフタマヲトラズハヤマジ》、卷七【廿九右】に、遠近磯中在白玉人不知見依鴨《ヲチコチノイソノナカナルシラタマヲヒトニシラエズミルヨシモガモ》などありて、玉はもと石また磐などの中に交りてあるものなれば、玉R磐《タマカギルイハ》とつゞけたるか、または巻七【四左】に、水底之玉障清可見裳《ミナゾコノタマサヘサヤニミユベクモ》、同【廿九右】に、安治村十依海船浮白玉採人所知勿《アヂムラノトヲヨルウミニフネウケテシラタマトラムヒトニシラユナ》同【三十一右】に、海底沈白玉《ワタノソコシヅクシラタマ》云々、又|底清沈有玉乎欲見《ソコキヨミシヅケルタマヲミマクホリ》云々、又|大海之水底照之石著玉《オホウミノミナゾコテラシシヅクタマ》云々などありて、玉はすべて水中にあるよしなれば淵とはつゞけたるにもあるべし、【文子上徳篇に、玉在v山而草木潤、珠生v淵而岸不v枯と見え、荀子勸學篇にも此語を用ゐたり、久淮南子墜形に、水圓折者有v珠、方折者有v玉.清水(ニハ)有2黄金1、龍淵(ニハ)有2玉英1、管子小稱篇に、丹青在v山民知而取v之、美珠在v淵民知而取v之、などあるを見るべし.】かくて允恭紀に云、赤石(ノ)海底(ニ)有2眞珠1云々、唯有2一海人1曰2男狹磯《ヲサシ》1云々、是腰(ニ)繋v繩(ヲ)入2海底(ニ)1、差傾之《シバラクシテ》出(テ)曰(ク)、於2海底1有2大|蝮《アハビ》1、其處光(レリ)也云々、爰(ニテ)男狹磯《ヲサシ》抱2大蝮(ヲ)1而泛出(タリ)之、乃息絶(テ)以死(ス)2浪上(ニ)1、既而下v繩(ヲ)測2海庇(ヲ)1六十尋、則割v蝮(ヲ)實眞珠在2腹中1、其大如2桃子1、【太平御覧八百三に、幽明録を引て云、漢武帝幸2河渚1、聞2絃歌之音1、而有2老公及年少數人1出、皆長八九寸、爲v帝奏v樂飲v酒樂、老公顧2命洞穴之寶1、一人受v命下2没川底1得2大珠1徑數寸明、耀絶v世、上問2東方朔1、朔曰、河底有v穴沈數百丈、中有2赤※[虫+奉]1生2此珠1也とあるは、似たる事なり、】これ珠の沖にありて耀けるよし也、かゝれば、珠R淵《タマカギルフチ》とつゞけたるなるべし、
 又夕とつゞきたるは云々、又日とつゞきたるは云々、
(16)補正云、今按に、朝夕の日かげは、殊にきらめくものなれば、玉のR《カヾヤク》になぞらへたる也、古事記朝倉宮(ノ)段の歌に、麻岐牟久能比志呂乃美夜波《マキムクノヒジロノミヤハ》、阿佐比能比傳流美夜《アサヒノヒテルミヤ》、由布比能比賀氣流美夜《ユフヒノヒガケルミヤ》とある是也、但し傳四十二【三十左】に、夕日之|日陰《ヒカゲ》る宮なり、賀氣流《カゲル》は、日影の刺たるが刺ずなりて陰《カゲ》になるを、中昔の歌に加宜呂布《カゲロフ》とよみ、今(ノ)世の言に加宜流《カゲル》と云是なり、然るを賀《ガ》を濁り氣《ケ》を清(メ)るは、古(ヘ)の音便にて、此例此(レ)彼(レ)とあり、」といへるは非なり、こゝの比賀氣流《ヒガケル》即(チ)加藝流《カギル》と同言にてRく意なるべし、然らざればその宮を賛稱《ホメタヽヘ》たる意うとし、朝日の日照《ヒテル》といひたる對も日R《ヒガケ》るにてよく叶ひたるをや、龍田風(ノ)神(ノ)祭(ノ)祝詞に、朝日乃日向處夕日乃日隱處《アサヒノヒムカフトコロユフヒノヒカクルトコロ》とあるは、其處のさまにつきていへるものにて、少し異なり、祝詞考にも、こゝの夕日はその山の西に隱るれば、けしきにとるべからねど、文の爲にいふのみ、記傳十五【八十六】にも日隱處は賞《メヅ》べきにもあらざれども、たゞ朝日を主として、其對に詞の文《アヤ》にいへるのみなり、といへり、さて朝日夕日の照《テレ》るをもて祝賞《ホギメデ》たることは、古事紀上卷に、此地者|朝日之直刺國《アサヒノタヾサスクニ》、夕日之日照國《ユフヒノヒテルクニ》と見え、大神宮儀式帳に、朝日(ノ)來向國《キムカフクニ》、夕日(ノ)來向國《キムカフクニ》などある是也、
 髣髴《ホノカ》とつゞくは云々、
補正云、今按に、こは下の所見而までにかゝる也、其(ノ)光耀《ヒカリ》の遠く照R《テリカヾヤキ》みゆるよしのつ(17)づけなり、靈異記なるも美縁弖《ミエテ》まででにかゝれり、【卷二なる珠蜻髣髴谷裳不見思者とあるも、みゆるを轉じていひくだしたるにて、此類は他(ノ)詞どもにもいとおほかり、】又は火《ホ》の意につゞけたるにてもあるべし、其は火之迦具土《ホノカグツチノ》神の御名をうちかへしにして心得べし、
 又直一目とつゞくも云々、
補正云、按に、これも上なる初のかたの説と大かた同じ意にて、明珠の餘光よそながらも、目につくよしのつゞけなり、
かくて此枕詞のつゞきたるやうを圖示せば左の如し、
 
玉蜻※[虫+延]       いはがきぶち
玉蜻             ほのかに見えて
玉限             夕さりくれば
玉垣入            たゞ一目
〔入力者注、四つ括弧でくくる〕日〔入力者注、四つ括弧でくくる〕
 
蜻※[虫+延]火之    
蜻火之             もゆる
香切火之         
炎之              はる
〔入力者注、四つ括弧でくくる〕 〔入力者注、二つ括弧でくくる〕
 
(18)此玉蜻考は、いにし年横山由清にかりてうつせる也、こはいとよき心づきにて、おのれもはやく玉蜻と蜻火との玉(ノ)字火(ノ)字の有無につきて、異なる意あらむとまでは心づきつれど、猶かにかくにおもひまどひて定めかねつるを、後に此考を見れば、火(ノ)字の有無のみならず、之(ノ)字のあるとなきとの事をも辨へられたるは、げにいはれたることゝぞおぼゆる、但し玉(ノ)字の有無をいはざりしはいかゞ、かくてかゝるよき考への、今少しあかぬところのまじれるが口をしさに、そのたらはぬところを補ひがてら、おのがおもふよしをも、いさゝかしるしつけぬ、木村正辭
 
   左注日本紀年紀攷
本集の左注に天智天皇の御世の年紀《トシタテ》と、持統天皇の朱鳥の年號とを記せるに、今本の日本書紀とは一年つゝの差進《タガヒ》あるを、誰も誤り也とのみおもひてをるめり【伴(ノ)信友がながらの山風にも、誤りなりといへり、】されど一《ヒト》ところ二《フタ》どころこそあらめ、いとおほかるを悉く誤とはいひがたし、且今本の日本書紀の此あたりの年紀には、後人の改更せしにやとおぼゆるところところもあれば、如何あらんと古書どもを參考するに、左注の年紀《トシダテ》と同じきがこれかれあり、其は先(ツ)大織冠公(ノ)傳(ニ)云(ク)、白鳳五年秋八月【紀には白雉とあり、白鳳白雉は同年にて二號ありし也、】云々、俄(ニシテ)而天萬豐日(ノ)天皇【○孝徳天皇也】已(ニ)厭(ヒ)2萬機(ヲ)1登2遐(シタマフ)白雲(ニ)1皇祖母(ノ)尊【○齊明天皇也】俯(テ)從(ヒ)2物願(ニ)1再(19)應(リタマヒ)2寶暦(ニ)1悉(ク)以2庶務1委2皇太子(ニ)1、【○中(ノ)大兄(ノ)皇子即天智天皇也、】云々、十二年冬十月天皇【○齊明天皇也】幸(シタマフ)2于難波宮(ニ)1即隨(ヒ)2福信所v乞之意(ニ)1思《オモホス》v幸(セント)2筑紫(ニ)1將v遣(ント)2救(ノ)軍(ヲ)1初(テ)備(フ)2軍器(ヲ)1、十三年春正月御船西征始(テ)就(キヌ)2海路(ニ)1云々、とある、此十二年云々のことは、齊明天皇(ノ)御紀六年に見え、十三年云々の事は七年の御紀に見えたり、然るを此に十二年十三年といへるは、孝徳天皇の白鳳【白雉】を齊明天皇の御世に係(ケ)て記せるものなるを、書紀の年紀とは一年|差進《タガヒ》たり、【書紀の年紀にては、十一年云々、十二年云々、といふべきなり、下の圖にて考ふべし、但し右の傳を、藤原(ノ)貞幹が古本三本をもちて校合したる本を、狩谷望之がうつしたるを見るに、皆今本と異なることなければ.後人の寫ひがめたるにはあらで、もとよりしか有しなり、信友曰、書紀には大化の六年庚戌をもて、白雉の改元と記されたるを、傳の年歴に據りて、五年己酉に白鳳【白雉】と改(メ)給へりとするときは、書紀に記されたる事實と、悉く符合《カナ》へり、大鏡一本の注に、齊明天皇治七年、白鳳十三年辛酉崩御と書るも傳と合ひ、辛酉も年紀に合へり、そも/\此傳は、押勝が大師の時記せる書なれば、御世の年號年紀などを記せるに、浮虚《ウキ》たる事はあるべからず、决(メ)て舊本の日本紀に據(リ)訂してものしたりけむ、しかれば今の書紀なる件の年號年次なども、後の度に議ありて吹刪られたるなるべし【以上】○下の圖に己西の下に白鳳元の三字を記したるは、此説に依りてなり、また此傳を押勝が撰なりといふも、うきたることにはあらず、かの狩谷※[木+夜]齋の校本にも右傳一卷首(ニ)題2大師(ノ)二字(ヲ)1或謂(ハ)2弘法大師之作1非也、大師謂2惠美(ノ)朝臣押勝(ヲ)1也押勝爲2大師(ト)1、見(ユ)2續曰本紀及本書下卷(ニ)1、以(テ)2押勝之撰(ヲ)1故(ニ)不(シテ)v言2某傳(ト)1而言2家傳(ト)1、下卷余定(テ)爲2天平寶字八年以前(ノ)之書(ト)1、上卷曷(ソ)得v云2後來(ノ)續撰(ト)1乎、とあり、】これすなはち左注の年紀と合へるがごとし、本書卷一に、額田(ノ)王下2近江(ノ)國(ニ)1時作歌の注(ニ)云(ク)、日本書記〔二字右○〕曰、六年丙寅、春三月辛酉朔己卯、遷2都(ヲ)于近江(ニ)1【○按に天智天皇五年の紀に見えたり、書紀の紀の字記とかけるもの古書に往々あり古(ヘ)通し用ゐしなるべし、また古葉略類聚抄に引けるには書(ノ)字なし、】同卷に天皇【○天智なり、】遊2獵蒲生野(ニ)1時(ニ)額田(ノ)王作歌の注(ニ)云(ク)、紀曰、天皇七年丁卯、夏五月五日、縱2獵於蒲生野(ニ)1于v時天〔右○〕皇(20)弟諸王内臣及群臣皆悉從焉、【○按に此文今本の紀には六年の條に見ゆ、但し天皇弟を大皇弟に作る、元暦校本天を大に作る、紀と合へり、】これともに紀と一年差へり、按にこは齊明天皇崩給ひて、天智天皇践祚し給へる辛酉の年を、やがて元年として數へたる年紀なり、【上にあげたる大織冠公(ノ)傳に、孝徳天皇の年號の白鳳【白雉】をもて、かぞへたる、年紀なるを此集は天皇の元年よりかぞへたるなり、さてともに紀とは一年の差ありて、傳と此集とは全く符合《カナ》へり、かくて運歩色葉集に云、六十六ケ國、天智天皇白鳳三癸亥(ニ)分(ツ)、至(リテ)2天文十六年丁未(ニ)1八百八十五年、又云當麻寺、天智天皇白鳳廿一年辛巳二月、至(リテ)2天文十七年戊申(ニ)1八百六十七年也、〇按に辛巳は天武天皇の十年にあたれり、六十七〔右○〕年の七は八の誤なり、これ天智天皇即位を辛酉の年にかけたるにて、此集の年紀と符《ア》へりさてその年やがて白鳳と改元ありしよしなり、たゞしこの御世に六十六(ケ)國に分(ツ)と云(フ)は孟浪なり、こは庚午の年に戸籍を編み給ひしなどを訛り傳へたるものなるべし、また伊豫(ノ)國三島社(ノ)縁記にこ、卅九代天智天皇位、白鳳元年辛酉異國渡、とあり、これまた色葉集の年紀と同じ、但し白鳳元年を辛酉に係る事は、逸號年表に引(ケ)る古本水鏡年代紀等同説なり、これらは後のものなれども、古きものに據て記したるなるべし、】こは舊本の日本紀に據(リ)たる年紀にて、かへりて正しきなるべし、さて又本書卷一持統天皇の御代の歌の注に、日本紀(ニ)曰(ク)朱鳥四年庚寅云々、同卷に日本紀。曰(ク)朱鳥六年壬辰、又同卷に、日本紀(ニ)曰(ク)、朱鳥七年癸巳云々、八年甲午云々、卷(ノ)二に、日本紀(ニ)曰(ク)朱鳥五年辛卯云々、とあり、これら皆紀と一年の差(ヒ)あり、圖を※[てへん+僉]して知べし、但し今本の書紀には、朱鳥の號は天武天皇の御代の丙戌の年唯一年のみなるを、これを持統天皇の御代に係て用ゐしこと、古書どもに其例いと多かり、【此事はながらの山風に、おほく例證を擧て論はれたれば、今はゆづりて省きぬ、】されど其は皆丙戌を元年として.次々に數へたるものなるを、此集な(21)るは持統天皇即位丁亥を、朱鳥元年として數へたるにて、諸説と同じからず、故(レ)いささかこれを辨(マ)へむとするにつきて、先(ツ)天武天皇の御世の年紀に異説あることを徴して、後に此事は云べし、書紀に、二年春二月丁巳朔癸未天皇【○天武天皇也】命(シ)2有司(ニ)1設2壇場《タカトノヲ》1即2帝位《アマツヒツキシロシメス》於飛鳥淨御原(ノ)宮(ニ)1、立2正妃1爲2皇后1云々、と見えて、扶桑略記にも、二年癸酉二月廿七日癸未、天皇即位と有て、二年癸酉に即位し給ひし事|灼然《イチシル》し、また藥師寺(ノ)※[木+察](ノ)銘(ニ)曰(ク)、清原宮馭宇天皇即位八年庚辰之歳云々、【これを日下部氏勝〓の説に、書紀と一年の爽ひありとて、いとむつかしき辨論あれど、按(フ)にこは即位の年癸酉を元年として、數へたるものにて、爽ひあるにはあらず、即位云々とある即位の字に心をつくべし、古事記(ノ)序(ニ)云(ク)、歳次(リ)2大梁(ニ)1月踵2夾〓(ニ)1、清原(ノ)大宮(ニ)昇即2天位1とありて、應永鈔本に、大染の傍らに、酉年(ノ)名天武天皇元年癸酉と記したり、されば他書に壬申の年を元年とせる説とは同じからず、】とあるも同じ、【皇代紀に、二年正月廿六日癸未、天皇即位、ともあり、こは月と日とに誤り有べし、但し皇年代略記、紹運録等にも、かく有、東寺三代記には、天武天皇元壬申云々、元年建2朱雀(ノ)號1二年帝即位、改(テ)2朱雀(ヲ)1號2白鳳(ト)1あり、此外癸酉の年を即位としたる説は、猶いと多かり】然るを壬申の年を元年とし、即位し給ひしよしの説あり、其は藤原(ノ)武智麻呂公(ノ)傳に、天武天皇即位九年歳次庚辰四月十五日、誕2於大原之第1云々、とある是也、【上に出したる、擦(ノ)銘と合せ見るべし、扶桑略記に二年癸酉を即位の年とし、白鳳と改元有しよしに記しながら、猶壬申を元年として、次々に二年三年とかぞへられたるはまぎらはしき記しざまなり、さて傳の九年は八年の寫し誤れるにやともおもへど、かの※[木+夜]齋校本に異同を記さぬは、古本三本皆同じければならむ、されば寫しひがめたるにはあらざるなり、但し此傳は天平寶字八年前の撰なるよし、※[木+夜]齋の説あり、其説に曰(ク)、案(ルニ)此書於3豐成左降押勝鎭2撫天下(ヲ)1絶v筆(ヲ)、其作不(コト)v在2天平寶字八年乱後(ニ)1可v知(ル)也、續日木紀天平寶字二年八月辛丑、外從五位下僧延慶、以(テ)3形異2於俗1辞2其爵位(ヲ)1者、盖(シ)其(ノ)人也、とあり、こはげにさることなり、かゝれば日本書紀を撰進し給ひし養老より僅に四十年あまりの後なるに、かくあるは當時既に異説(22)有しと見ゆ、】また紹運要録、大友(ノ)皇子の注に、天武天皇即位元年壬申七月二十三日、於2近江(ノ)國粟津(ニ)1自害と見え、如是院年代紀といふ書にも、【壬申】第四十代天武、【云々即位年壬申、改2元朱雀(ト)1】と記し、帝王編年記に、天武天皇云々、白鳳元年壬申即位などあり、【但し壬申の年の改元は、白鳳朱雀両説なり、また同年のうちに再び改元ありしよしに記せるものもあり、これらの事は余が年紀異同攷に載たれば省きぬ、】これ即位の年を壬申とせると、癸酉とせると兩説あるなり、さて又この御世の年號の年紀を考ふるに.白鳳元年を癸酉の年に係(ケ)たると、壬申の年に係(ケ)たると、これもまた兩説あり、まづ癸酉の年とせるは、扶桑略記に、二年三月備後(ノ)國進(ル)2白雉(ヲ)1仍(テ)改(テ)爲2白鳳元年(ト)1白鳳合(テ)至(ル)2十四年(ニ)1水鏡に云(ク)八月に御門野上の宮にうつり給ひたりしに、つくしより足みつあるすゞめのあかきをたてまつれりしかば、年號を朱雀元年とぞ申侍りし、あくるとしの三月に備後(ノ)國よりしろききじをたてまつりしかば、朱雀といふ年號を白鳳とぞかへられにし、年中行事秘抄卷下に云(ク)、天武天皇白鳳元年、四月十四日、以2大來(ノ)目〔右○〕皇女(ヲ)1獻2伊勢神宮(ニ)1依(テ)2合戰(ノ)願(ヒニ)1也、【紀には此事を二年の條に載たり、さればこは白鳳元年を癸酉に係(ケ)たるなり、目(ノ)字は衍文なり、】東寺(ノ)王代記に云(ク)天武天皇元壬申云々、元年建2朱雀(ノ)號(ヲ)1、二年帝即位、改2朱雀(ヲ)1號2白鳳(ト)1云々、此外濫觴抄如是院年代記等の説もこれに同じ、またこれを壬申の年とせるは、二十二社註式【日吉社條】に山家要略記所(ノ)引扶桑明月集を引て云(ク)、第四凹十代天武天皇即位白鳳元年【壬申】近江(ノ)國滋賀郡(ニ)垂跡、同書(23)【丹生社條】に云(ク)、人皇四十代天武天皇白鳳四年【乙亥】御垂跡師元年中行事【正月十五日條】に云(ク)宮内省進2御薪1事、【天武天皇白鳳二年癸酉始供2御薪1○今按るに此事は天武天皇四年乙亥なるを今癸酉の年とせるはあやまりなり、】興福寺伽籃縁起に云(ク)、厩坂寺、天武天皇即位元年白鳳十二【癸未】年都(テ)大和國移(ス)2高市郡(ニ)1時(ニ)山階寺(ヲ)改(テ)而號2厩坂寺(ト)1、【此書は承暦三年に、僧還圓が著せる也、】袋冊子卷一に云(ク)大甞會、天武天皇御宇、白鳳二年癸酉十一月始v之、袖中抄卷三に云(ク)、帝王系圖(ニ)云(ク)、白鳳九年十一月、依2皇后(ノ)病(ニ)1造(ル)2藥師寺(ヲ)1【按に此事は天武天皇九年の紀に見えたり、】紹運録【天武天皇條】に云(ク)、白鳳二年正月廿六日即位、【天武天皇の即位は、書紀にては二月廿七日なるを皇代紀にも正月廿六日と記したり、】同書【文武天皇條】に云(ク)白鳳十二癸未降誕、同書【元正天皇條】に云、白鳳十辛巳降誕、【皇年代略記これに同じ】皇代記に云(ク)、白鳳十三年、元年壬申備後(ノ)國獻2白雉(ヲ)1、仍(ト)爲v瑞改元(ス)、などある是なり、また駿河(ノ)國風土記【こ古(ヘ)のにはあらねど、むげにすつべきものにもあらず、】に白鳳二年癸酉、白鳳三年甲戌、白鳳十年辛巳、白鳳十二癸未、など見えたり、猶多かるを、さのみはとてもらしつ、以上即位の年にも、年號改元の年にも、ともに兩説有(リ)て一年づつの差進《タガヒ》ある也、此は左注の年紀を辨へむには、用なきことの如くなれど、まづ前朝の年紀に如v此異説有(ル)ことを徴《アカ》しおきて、次なる愚説の照應にせむとなり、かくて持統天皇の御世の朱鳥の年紀を攷ふるに、皇帝系圖【續群書類從に收(ム)】に、持統云々、治十、朱鳥十、【こは此天皇の御代のほどをすべて朱鳥の號をもて唱へしおもむきの記しざま也、】と有は天皇元年をやがて朱鳥元年としたるにて、此集の年紀と合へり、【東鑑七に、文治三年十二月七(24)日甲戌、浄善信申云、天武天皇(ノ)御宇二年八月帝遷2坐野上(ノ)宮(ニ)1給之時、自2鎭西1献2三足(ノ)赤色(ノ)之雀(ヲ)1仍(テ)改元(シテ)爲2朱雀元年(ト)1、明年三月自2個後(ノ)國1献2白雉(ヲ)1、又改(テ)2朱雀二年(ヲ)1爲2白雉〔右○〕元年(ト)1同(キ)十五年(ニ)自2大和國1進2赤雉(ヲ)1之間改2年號(ヲ)1爲2朱鳥元年(ト)1、とあり、此文のうち、御宇二年の二は元の誤(リ)、白雉元年の雉は鳳(ノ)字の誤りなるべし、かくて按ふ るに、明年は即(チ)癸酉の事にて、其年に白鳳と改元したりといふは諸説と同じ、さて其十五年は丁亥の年に當れり、これ此集の年紀に合へるが如し、されど十五は十四の誤(リ)か、もししからずば即位の年壬申より數へたるにて、此集のと同じきにはあるべからず、但し同(キ)十五年とある、同(ノ)字は上の白鳳をうけたる文なれば、いとまぎらはし、】また皇代紀に、朱鳥八年と標して、其下に、元年丙戌大和(ノ)國献2赤雉(ヲ)1仍爲v瑞改元(ス)云々とありて、次にまた大化四年と標して、【こは孝徳天皇の御世の大化とは異にて、持統天皇九年乙未に、更に大化と改元ありしよし諸書に見えたる即(チ)是也、】其次に文武天皇云々、治十一年とある下の細注に、大化殘二年、無2年號1二年、大寶三年、慶雲四年、如v此あり、此文を按ふるに、朱鳥元年を丙戌としたる事は諸書と同じ、然るを八年と標したるは、此年號を持銃天皇七年癸巳の年までへ係(ケ)たるものなり、さて次に大化四年と標して、殘二年無2年號1二年とあるは、きはめて大化元年を乙未の年としたるものなり、【諸説も是に同じ、くはしくは別にいへり、】しからざれば殘二年無2年號1二年とあるに叶はず、【殘(リ)二年とは大化は特統天皇の御代の年號なるを、文武天皇の御代の二年まで用ゐさせ給ひしよし也、文武天皇二年は戊戌にあたれり、さて此天皇五年辛丑に大寶と吹元ありしなればこの間(タ)二年は別に年號をば用ゐさせ給はぬよしにて、無2年號1二年とはいへるなり、但し元年丁酉に大長と改元ありて、四年庚子まで用ゐたるよしの傳へもあれど、其は又別論とすべし、】さてはこの間に甲午の年なきが如し、朱鳥元年を丁亥とすれば甲午は即(チ)八年にて、翌年の乙未大化と改元ありしに年紀合へり、もししかるときはこれも此集の年紀と合へり、友人小中村清矩曰(ク)、(25)皇年代略記、皇代紀、愚管抄の皇帝年代記等に、朱鳥の號は八年とありて、一年は天武天皇の御世に係(ケ)、殘七年を持統天皇の御世に係(ケ)たれど、皇年代畧記愚管抄ともに、乙未の年は大化と改元ありしおもむきなれば、九年ならでは合はず、然るを八年とせば、乙未の年の前年の甲午の年の一年をいかにせむとする、【天武天皇の朱鳥元年丙戌より、持統天皇の癸巳の年まで八年なり、さて大化元年は乙未の年なれば、其(ノ)間(タ)に甲午の年一年餘れり、又丙戌を朱鳥元年としてかぞふれば、大化改元の乙未の年まで十年に當れり、】かゝれば當時の日本紀に、持統天皇の御世の始(メ)の丁亥の年を、朱鳥元年とせし傳(ヘ)の有(リ)しにやあらむ、【但し天武天皇の丙戌に改元したまひし朱鳥の号は、前朝の号として立置(キ)給ひ、別に丁亥の年を更に改(メ)て朱鳥元年と定め拾ひしにや、大寶以前の年號には、かくしどけなきことどもありけるよし、ながらの山風にもいひたりき、正辭按に本書卷三に、大津(ノ)皇子被死之時(ノ)作歌の注(ニ)云(フ)、右藤原(ノ)宮朱鳥元年冬十月、と見えたるは、他所に丁亥の年を元年としたるとは同じからで、今本の書紀と合へり、かゝれば小中村氏の説は得たりといふべし、さて此をりいまだ藤原(ノ)宮には遷(リ)給はざりしほどなれど、かくいへるは、持統天皇の御世しろしめしてよりの事なるを知(ラ)せたるものなり、但し藤原(ノ)宮に遷坐しは八年甲午なるを、後より前におよぼして記しゝ也、】云々といひおこせたり、【但し此末に猶皇年代略記の文を擧て、證とせられたれど、余はまた別におもふよし有(レ)は省きぬ、】かくて後(ノ)世の書どもには、天武天皇の丙戌の年を朱鳥元年として、持統天皇の御代かけて次々に數へたるが、これかれ見えたれど、其は皆今本の書紀に據(リ)りて記しゝものなれば、【但し書紀には朱鳥の合は一年のみなれど、これを持統天皇の御代へかけたる傳(ヘ)の有しなり、】上件の愚説にさまたげなきを、靈異記上卷【第廿五條】に云(ク)、有(ル)記(ニ)曰(ク)朱鳥七年壬辰二月云々、とあるはいと疑はし、【此書は弘仁の頃著せるものなればいまた日本紀の改刪なきほどなるべければ、必ず舊本の紀によりたるな(26)るべくおぼゆればなり、】これ即(チ)丙戌の年を朱鳥元年として數へたる支干なればなり、【清矩曰(ク)、こはもと朱鳥六年壬辰云々とありけむを、後人の今本の書紀に據(リ)て、さかしらに改(メ)しものなるべしといへり姑く此説に從ふべし、】かゝれば、左注の年紀の今本の書紀と異なるは、もとより別傳にして、後に誤りたるにはあらざるなり、猶孝徳天皇より文武天皇までの年號年紀の事につきて、種々異説あれどこゝに用なければいはず、其はなからの山風に辨じおかれたるを、余また改(メ)正して別に年紀異同攷といふものを著しおけり、さて上件のおもむきを、かりに圖に著はして覧者に便す、
 圖中標目凡例 冠【大織冠公傳】 万【本集】 水【水鏡】 水イ【水鏡一本】 武傳【武智麿公傳】 要略【紹運要略】 編【帝王編年紀】 明【扶桑明月集】 師【師元年中行事】 興【興福寺加藍縁起】 銘【擦銘】 扶【扶桑略記】 紀【日本書紀】 年秘【年中行事秘抄】 靈【靈異記】 皇系【皇帝系圖】 皇【皇代記】 
      年紀目安
乙  孝徳 大化元  甲   三   癸       十二
巳          子       未
 
丙       二  乙   四   甲       十三
午          丑       申
(27)
丁       三  丙   五   乙       十四
未          寅  万六   酉
 
戊       四  丁   六   丙 紀靈   朱鳥元
申          卯  万七   戌
 
己 據冠    五  戊   七   丁 持統     元
酉     白鳳元  辰       亥 皇系據万 朱鳥元
 
庚     白雉元  己   八   戊        二
戌    〔白鳳元〕 巳       子
 
辛       二  庚   九   己        三
亥          午       丑
 
壬       三  辛   十   庚        四
子          未       寅     万朱鳥四
 
癸       四  壬 天武 武傳要略編元 辛    五
丑     冠 五  申    明師興白鳳元 卯 万朱鳥五
 
(28)甲     五  癸 天武 銘紀扶二    壬   六
寅          酉  年秘水扶白鳳元   辰 万朱鳥六
 
乙 齊明    元  甲   三   癸        七
卯          戌       巳     万朱鳥七
 
丙       二  乙   四   甲        八
辰          亥       午
 
丁       三  丙   五   乙        九
巳          子       未     皇大化元
 
戊       四  丁   六   丙     皇  十
午          丑       申 大化二 皇系朱鳥十
 
己       五  戊   七   丁  文武    元
未          寅       酉     皇大化三
 
庚       六  己   八   戊        二
申     冠十二  卯       戌     皇大化四
 
(29)辛 天智據万七  庚   九   己        三
酉   水イ冠十三  辰  銘八   亥    皇 無年號
 
壬 天智    元  辛   十   庚        四
戌          巳       子     皇 同上
 
癸       二  壬  十一   辛      大寶元
亥          午       丑
  右圖に標したる書目は、要とあるをのみあげたるなれば、猶本文につきて見るべし、
因(ミ)に云(ハ)む、信友の説【ひこばえ】に、日本書紀と書(ノ)字を加へ書れたるは、釋日本紀に引(キ)たる弘仁私記(ノ)序に始めて見えたり、されば弘仁の年中より、文人だちの書(ノ)字を加へてかゝれたるなるべし、それより古(キ)物に書(ノ)字を加へてかけることなし、又云萬葉集中に、日本紀または日本書紀ともあれど、後人の勘文と見えたれば、論ふべきにあらず云々、【以上】正辭云、後人の勘文なりといふはさもあるべし、されど、後人といふ中に、また古今の差別有(リ)て【左注はかならず一筆になりしものにはあらで、おほくの人の手になりしものと見ゆ、其中撰者のもとよりの注ならむとおぼゆるも少なからざるなり、】(30)日本紀を引(キ)たるはいと古くよりのことゝぞおぼゆる、さて集中に日本紀を引(キ)たるは、多くは書(ノ)字なし、唯卷(ノ)一に引たるうち二所に書(ノ)字あるのみなり、また此二つの中ひとつは、古葉略類聚抄に載てそれには書(ノ)字なし、これによるに、此二つは後によくも心得ぬ人の、今本の日本書紀によりて、傍らに書(ノ)字をかき添(ヘ)たるを、後また寫す人本文の字の脱たるならんとおもひて、遂に本文に書(キ)加へしものなるべし、こはさまでいはでもありぬべくおもふ人もあらむか、されど此左注を後人の注なりとて、とかくおとしめとらぬ人のみおほかれば、今かくまで論らひおくなり、これらもても左注のいと古くして、捨がたきことをさとりねかし、
 こは萬延とあらたまりたる年の八月九日、本集會讀のをり、稿をおこして、其のち猶考へ正して、かくはものしつるなり、     木村 正辭識
 
 追 攷
本集卷一に右案(ルニ)2日本紀1曰、天皇四年乙亥夏四月戊戌朔乙卯、三位【○今本品ニ誤、今古本ニ依テ正ス】麻續(ノ)王有v罪流2于因幡1云々、とあり、今本の天武紀を考るに甲戌朔辛卯とあり、但し戊戌より乙卯にいたり、また甲戊より辛卯にいたり、ともに十八日を得るなり、しかれば其干は異なれども日はたがふ事なし、これまた今本日本書紀と暦法同じからぎるな(31)り、此干支も左注なるは、舊本の日本紀に依たるものならんとさへおもはるゝなり、
 
萬葉集美夫君志卷一二別記附録
 
(1)萬葉集美夫君志卷二別記追加目録
  卷二
 東人《アヅマド》
 殯宮
 旦覆《タナグモリ》
 乎爲禮流《ヲヲレル》
 佐備《サビ》
 生跡毛無
 火葬の始
附録
 折木四また三伏一向の考
 刻本萬葉集復舊
 
(1) 萬葉集美夫君志卷二別記追加   木村 正辭撰
 
   東人《アヅマド》
古事記下卷朝倉(ノ)宮(ノ)段の三重※[女+采]《ミヘノウネベ》の歌に、淤斐陀弖流《オヒダテル》、毛毛陀流《モモダル》、都紀賀延波《ツキガエハ》、本都延波《ホヅエハ》、阿米袁淤幣理《アメヲオヘリ》、那加都延波《ナカツエハ》、阿豆麻袁淤幣理《アヅマヲオヘリ》、志豆延波《シヅエハ》、比那袁淤幣理《ヒナヲオヘリ》云々とあり、傳四十二【三十二左】に、那加都延波《ナカツエハ》は、中(ツ)枝|者《ハ》なり、○阿豆麻袁淤幣理《アヅマヲオヘリ》は、吾妻《アヅマ》を覆へりなり、東(ノ)方(ノ)國を吾妻と云事の由は、中卷倭建(ノ)命(ノ)段に見ゆ、【傳二十七の八十二葉】さて鄙《ヒナ》と云に、東(ノ)國もこもれるを、かく別《ベツ》に東《アヅマ》を云るは、只上枝中枝下枝と三(ツ)に分充《ワケアテ》て云む料のみなり、凡て歌は、さしも事の理(リ)をきはめて云物には非ず、事實《コトノマコト》に違はず、理りに背ける事にだにあらざれば、依來《ヨリク》るまゝに廣く云て、詞を文なすぞ常なりける、【契沖が、本朝に於ては東國は畿内に次(グ)意なり、七道を數ふるときも、東海道を以て五畿内に次(グ)なりと云(ヒ)、古今集の東歌の處にも、かの豐城(ノ)命の事などを引て、殊に東方(ノ)國をば、別に擧(グ)べき由を云れど、皆わろし、】されば、鄙《ヒナ》の外に、西(ノ)國をば云(ハ)ずして、東(ノ)國を云ること、何の意も故もあるにはあらず、○志豆延波《シヅエハ》は、下枝者なり、【次には斯毛都延波《シモツエハ》とも云り、】○比那袁淤幣理《ヒナヲオヘリ》は、鄙を覆へりなり、都《ミヤコ》の外を、總て何處《イヅク》にても比那《ヒナ》と云り、書紀神代の歌に、あまざかる鄙《ヒナ》つ女とあり、さてかく天を云(ヒ)、鄙を云(ヒ)、東をさへ云る(2)に、都《ミヤコ》をしも云(ハ)ざることは、是(レ)は槻の枝の刺覆《サシオホ》へることの、廣く遠きよしを云るなれば、遠き處をのみ擧て、近き都の内はさらなれば、云はざることおもしろし、【契冲が、比那とは下界を云か、然らば下界に准へて、畿内と東海道との外を、比那と云ならむと云るは、皆ひがことなり、下界と云も由なく、又東海道を除きて、比那に非ずとせむこともいはれず、此(レ)は東《アヅマ》を別に云るからの説なれども、中々にわろし、又阿米と云を、畿内に准ふと云るもわろし、比那を擧て京を擧ざることは右に云るが如し、】とあれど此注は非也、
正辭云、傳(ノ)注に、上枝中枝下枝と三(ツ)に分充《ワケアテ》て云む料のみなり、凡て歌は云々、此説は強説なり、後世の人の歌は、しか依來《ヨリクル》まゝに廣く云(ヒ)て、詞を文《アヤ》なす事も常なれど、上古の人は、さるみだりなる事はせざりしなり、此は阿豆麻《アヅマ》といふ詞を、專ら東國の稱とのみ心得たるよりの誤解也、又|比那袁游幣理《ヒナヲオヘリ》の注に、かく天を云(ヒ)鄙を云(ヒ)東をさへ云るに云々、此處の注は殊に窮したり、契冲師の説の非なる事は、傳にいへるが如し、かくて此|阿豆麻《アヅマ》といふ事は、古(ヘ)より人々の思ひ誤れる事なるを、狩谷望之の和名抄箋注に辨駁せられたれば、今其全文を出して示すべし、
和名抄に云、文選云、※[山/虫]眩邊鄙【師説邊鄙阿豆麻豆】世説(ノ)注云、東野之鄙語也、【今案、俗用2東人二字1其義近矣、
 箋注云、所v引西京賦(ノ)文、廣本、文選(ノ)下(ニ)有2西京賦(ノ)三字1、按(ズルニ)令本(ノ)文選、邊鄙訓2安川万宇止1、説文、邊(ハ)行2垂崖1也、即邊垂(ノ)字、説文又云、鄙(ハ)五※[賛+おおざと]爲v鄙、非2是義1、※[鄙の左]、※[艢の旁]也、是(レ)※[鄙の左]吝(ノ)字、經傳借v鄙爲v※[鄙の左]、皆作2鄙吝1、※[鄙の左](ノ)字廢矣、鄙吝、轉注爲2都鄙(ノ)義1、西京賦謂d所v在2邊鄙1之人u、爲2邊鄙1者、轉注之(3)義也、
 箋注云、宋(ノ)劉義慶〔三字傍線〕世説八卷、【二十七左】梁(ノ)劉孝〔二字傍線〕標注所v引、言語篇(ノ)注文、原書作2東野之言也1、按(ニ)阿豆麻《アヅマ》、坂東諸國之總稱、蓋起2於日本武(ノ)尊〔四字傍線〕(ノ)吾嬬者耶《アヅマハヤ》之語1、其後以2坂東諸國、獨未1v慣2華風1、故(ニ)轉(テ)泛(ク)謂d邊鄙下士、不v慣2華風1、如c坂東諸國之地u、亦爲2阿豆麻《アヅマ》1、古事記載2三重(ノ)※[女+采](ノ)歌1云、本都延波《ホヅエハ》、阿米袁游幣理《アメヲオヘリ》、那加都延波《ナカツエハ》、阿豆麻袁游幣理《アヅマヲオヘリ》、志豆延波《シヅエハ》、比那袁游幣理《ヒナヲオヘリ》、謂(ハ)d上枝蔭2翳上天1、中枝蔭2翳邊鄙1、下枝蔭2翳都城之外u、其枝高者、蔭翳倍々遠、中枝非2特可1v蔭2翳東1、則|阿豆萬《アヅマ》之爲2邊鄙諸國之稱1可v證、故謂2邊鄙之人1爲2阿豆万止《アヅマド》1、萬葉集(ノ)歌(ニ)云、東人之荷向篋《アヅマドノノザキノハコ》、亦謂2邊鄙諸國1也、其用2東人(ノ)字1者、蓋以d阿豆万之語原、出c於坂東u、訓2東(ノ)字1爲2阿豆万《アヅマ》1、故借2東人(ノ)字1爲2凡邊鄙人1也、孝徳紀、東國(ノ)國司、東國(ノ)朝集使、亦謂2諸國國司、諸國朝集使1、非d特(ニ)指c言坂東諸國u也、源君引2東野鄙語1、謂2其義近1矣、然東野之言、即孟子萬章上、所v謂齊東野人之語也、趙注云、東野(ハ)東作田野之人(イ)所v言耳、則知東野、東作田野之義、以爲2東方野鄙(ノ)人之義1者、牽強尤甚、世説以下、廣本皆無、
是に依に、世説の東野之鄙語とは、即孟子の齊東野人の語の事にして、凡邊鄙の人の語をいへる也、しかるを順朝臣これを引て、東人《アヅマド》に附會したるは誤なりと、箋注の説なり、從ふべし、
(4)すべて東人といふことは、人々の兎角思ひ誤れることにて、鹿持雅澄の古義にも、いとむづかしき説を出したれば、序に辨へをくべし、
 萬葉集古義に云、東人とは、アヅマビトノ〔六字右○〕と六言に訓べし、アヅマド〔四字右○〕といふは、やゝ後の音便なり、其は音便にアヅマンド〔五字右○〕と云るを、又後に其(ノ)ン〔右○〕を省きて、アヅマド〔四字右○〕と云るに、ン〔右○〕を省きても、なほン〔右○〕をそへたる時の濁を殘して、トを濁りて唱るなり、凡て音便のン〔右○〕の下は、清音なるをも皆濁る例なればなり、かくて人を、某人と連ね云時、音便にンド〔二字右○〕といふは、商人《アキヒト》をアキンド〔四字右○〕、旅人をタビンド〔四字右○〕など云(ヒ)、和名抄に、丹波(ノ)國(ノ)郷名に、川人|加波無止《カハンド》、備中(ノ)國(ノ)郷名に、間人|萬無止《マンド》などあるを思へば、この音便もやや舊きことなり.かくて和名抄大須本に、阿豆米豆《アヅマヅ》、今按、俗用2東人(ノ)二字1とあるは.もしは阿豆末無豆《アヅマンヅ》とありしを、無(ノ)字を後に脱せるか、又は其(ノ)頃は、省きて唱へしにもあるべし、袖中抄に載せたる歌に、ひなへさそはむあづまづもがなとあるは、後なれば證とするにたらず、さていかにまれ、アヅマンド〔五字右○〕、アヅマヅ〔四字右○〕など云は、後に訛れるものにて、古(ヘ)の正しき稱にはあらず、かくて等《ト》を豆《ヅ》と轉ぜるは、後に藏人をクラウヅ〔四字右○〕といふ類にて、これも訛なり、中山(ノ)嚴水、荷前は國々より奉る中に、中國北國四國西國は、皆船にて難波につき、又夫(レ)より船にて、大和までも持はこび行(5)を、東國には皆馬にて、おびたゞしきまで多く引つゞくれば、殊に東人《アヅマヒト》の云々とはいへるなるべし、といへり、これ是《アタ》れるに近し、(岡部氏(ノ)考に、いづこはあれど、東の調をいふは、御代のはじめ、西の國々まつろひて東の國々の平らぎしは後なるに、遂に東までも貢奉るを悦び賜ひて、神宮陵墓へも奉り初め賜ひしよの例ならむ、から國の貢物をも、先(ヅ)神宮などへ奉り賜ふと、同じ意なるべしといへれど、こゝはさる心をまで思ひて、いふべきところにあらず、)
此古義の説も、東人を吾妻の國々の人としての説なれば、皆いたづら事なり、殊に音便の説はすべて此に要なし、又中山(ノ)嚴水の説、又萬葉考の説も、皆|吾妻《アヅマ》の國々の人の義としての説なれば、共に非也、萬葉考の説は、特にいりほがなり、
 
   殯宮
日並(ノ)皇子(ノ)尊(ノ)殯宮之時  二【二十七左】
明日香(ノ)皇女|木※[瓦+缶]《キノヘ》(ノ)殯宮之時 二【三十二右】
高市(ノ)皇子(ノ)尊城(ノ)上(ノ)殯宮之時 二【三十三左】
殯(ノ)字の用ゐざま、漢籍にいへるおもむきとは異にて、こゝは墓所をさして殯宮といへる也、但し例はあるなり、
(6)船(ノ)首(ノ)王後(ノ)墓志云、殞2亡於阿須迦(ノ)天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅1故、戊〔右○〕辰年十二月殯2※[苑/土]於松岳山上1、
 ※[木+夜]齋云、【古京遺文】阿須迦(ノ)天皇(ハ)後(ニ)謚(シテ)曰2舒明天皇(ト)1、辛丑即十三年、是歳(ノ)十月帝崩(ズ)、故(ニ)此(ニ)云2天皇之末(ト)1、故(ハ)猶v死也、戊辰天智天皇七年也、此版以v殯爲v葬、伊福吉部氏(ノ)墓志亦同、萬葉集以2眞弓(ノ)岡(ノ)陵(ヲ)1爲2日並知(ノ)皇子(ノ)殯宮(ト)1、亦與v此同義、【禮記檀弓、季武子成寢2杜氏之葬1、在2西階之下1、漢書哀帝紀、載作2杜氏之殯1、荀子禮論、三月之殯何(ゾ)也、掲僚注云、此(ノ)殯謂v葬v之也、則知彼亦有2謂v葬爲v殯者1、】
伊福吉部(ノ)臣徳足比賣(ノ)墓志云、和銅元年歳次戊申秋七月一日卒也、三年康戌〔二字右○〕冬十月火葬、即殯2此處1、故末代君等不v應2崩壊1とある、是皆墓所をさして殯といへるなり、古事記傳卷三十【二十九左】に云、師の考には.天皇の餘【ホカ】は別に殯宮は立られず、これらは一周まで御基づかへする間を、凡て殯と云しなりとあり、今|按《オモフ》に、天皇のほかは殯宮無き證も見えず、又|正《マサ》しく殯宮ありし證も見えねども、既に殯(ノ)宮之時とあるうへは、たとひ其(ノ)宮は立られずとも、殯宮と云しことは明《シル》し、孝徳紀の制に、凡王以下及至2庶人(ニ)1、不v得v營v殯とあるに依らば、皇子は殯せしなり.又此(ノ)制より前には、王以下も殯せしなるべし、さて右の如く殯宮之時といへるは、御《ミ》喪之時と云|義《ココロ》にて、必しも殯宮に座(ス)ほどのみを云に非ず、故(レ)端に右の如く標《アゲ》たる歌、いづれも既に葬奉れる後の事までをよめり、(7)されば師の一周までの間を云と云(ハ)れたるは當れり、
又殯は書紀などに皆モガリ〔三字右○〕と訓り、其は或説に、喪《モ》あがりなり、仲哀紀に、旡火殯斂此(ヲ)云2褒那之阿餓利《ホナシアガリ》1とありと云(ヘ)り、さもあるべし、師は此(ノ)仲哀紀の訓注に依て、殯を凡てアガリ〔三字右○〕と訓れき、さて萬葉考に、阿羅紀《アラキ》は、阿羅《アラ》は假の意、紀《キ》は加理《カリ》の約まりたるにて、もと阿賀里《アガリ》と同言なりと云れたるはいかゞなり、阿羅紀《アラキ》と阿賀理《アガリ》と、言は本より別也、但し殯とあるをば、二(ツ)の内何れに訓ても違はず、殯宮もアガリノミヤ〔六字右○〕と訓むもひがことに非ず、然れども此《ココ》は然《シカ》訓(マ)むよりは、アラキノミヤ〔六字右○〕と訓ぞ、直《タダ》によ當れる、といへり、
 
   旦覆《タナグモリ》
代匠記に、日は一日を渡て暮てこそ入なるを、朝の程に雨雲などの立重たらむに、雲がくれ行むやうに、皇子の、後は天(ツ)日繼をも知召て、御年久に天(ノ)下をも照し臨ませ給ふべき御身の、纔に三十にもならせ給はで隱ませば、初二句はあるなり、〔考〕には天靄《アマグモリ》と改て、注に旦覆《アサグモリ》とあるは理りなし、こは天靄を誤れるもの也とあり、略解はこれに從へり、橘(ノ)守部の萬葉集檜※[木+瓜]には、旦覆《アサガヘリ》と訓て、此は前夜佐田(ノ)岡の御墓に仕へて、其翌朝の明番《アキバン》を云なりといへり、
(8)正辭云、代匠紀の説はいとむづかし、いかでさる意あるべき、考は例の文字を改むる説なれば從ひがたし、守部の説はいふにも足らぬ僻言也、今按るに、旦はタン〔二字傍線〕の音を用ゐたるにて、タナ〔二字右○〕に借りたるならむ、タナグモリ〔五字右○〕といふ事は集中に多し、【語意は別にしるしたるものあり】さて旦《タン》をタナ〔二字右○〕に轉じ用ゐたる例は、いと多かる事にて、此旦は悉曇家にて所謂舌内聲の字なれば、撥假字のン〔右○〕は、奈行即(チ)ナニヌネノ〔五字右○〕の音に轉ずる例也、其は國名の信濃、【之奈〔右○〕乃】因幡、【以奈〔右○〕八】伊勢の郡名員辨、【爲奈〔右○〕倍】大和の榔名雲梯、【宇奈〔右○〕天】以上皆和名抄に見えて、ン〔右○〕をナ〔右○〕に轉じたる也、又此ン〔右○〕をニ〔右○〕に通じたるは、山城の郡名乙訓、【於止久邇】これも和名抄にあり、又ヌ〔右○〕に通じたるは、本集卷十一【十二右】に、珍海《チヌ〔右○〕ノウミ》、又國名の讃岐、【佐奴〔右○〕岐】又ノ〔右○〕に通じたるは、伊勢の郡名民太、【三乃〔右○〕多】陸奥の郡名信夫、【志乃〔右○〕夫】最(モ)古きは日本書紀神代上に、※[石+殷]〔左○〕馭盧島《オノゴロジマ》とある是也、此事古事記には、於能碁呂島とあれば、※[石+殷]《オン》はオノ〔二字右○〕の假字に用ゐたる事明らけし、是等にて舌内聲の撥假字を、古音にはナニヌネノ〔五字右○〕に轉じ用ゐたる事を明らむべし、猶云はゞ、國名の丹波も、和名抄の訓注には太邇〔左○〕波《タニハ》とあり、これを古事記の孝元天皇の段には旦波《タニ〔右○〕ハ》と作《カケ》り、これ旦をタナ〔二字右○〕と訓べき明證也、覆は説文に、蓋也とあれば、クモリ〔三字右○〕と訓(マ)む事もとより也、序にいはむ、此覆の字、官本温本家本昌本等には、雨に从て※[雨/復]と作《カケ》り、此※[雨/復]の字は、集韻【屋韻】に見えて、注に覆水也とありて別字なれど、(9)古(ヘ)覆を※[雨/復]とも作《カケ》りし事にて、類聚名義抄【雨部】に、※[雨/復]【音蝮、覆字、クツガヘス、コボス、】と見えたり、
 
   乎爲禮流《ヲヲレル》
乎爲禮流に就ては本編に述べたれど、猶考と玉(ノ)小琴の説とをあげて、此に論辨すべし、考別記云、【但卷數丁數は原本に從ふ】今本に鳥を爲と書しは誤りなり、卷六に、春部者花咲乎遠里《ハルベハハナサキヲヲリ》、また【三十四右】春去者子呼理爾乎呼里《ハルサレバヲヲリニヲヲリ》、【花の咲たをみたるを略き云】卷十【四十八左】に、芽子之花拓開之乎烏入緒《ハギノハナサキノヲヲリヲ》、【今本烏を再に誤】卷十七【九左】に、久爾能美夜古波春佐禮播花咲乎々理《クニノミヤコハハルサレバハナサキヲヲリ》などは正しき也、卷三【五十八右】に、花咲乎爲里《ハナサキヲ○リ》、卷八【十四左】に、開乃乎爲里《サキノヲ○リ》、【今本里を黒に誤りて、をすぐろ〔四字右○〕と訓しは笑ふべし、】卷九【二十左】に、開乎爲流《サキヲ○ル》などの爲〔右○〕の字は誤り也、その故は、乎々里《ヲヲリ》てふ言の本は、藻も草も木も枝も、みな手弱く靡くてふを略きて、たわみなびくといふ、そのたわみ〔三字右○〕のたわ〔二字右○〕を重ね、み〔右○〕を賂きて、たわたわ〔四字右○〕ともいふを、音の通ふまゝ、とをとを〔四字右○〕ともいひ、そのとをとをを又略きて、とをゝ〔三字右○〕といふを、又略きて乎々里《ヲヲリ》といふ也、【里《リ》は美《ミ》に通ひて、とをみ〔三字右○〕てふ辭也、即右にこいへる、たわみ〔三字右○〕のみ〔右○〕に同じ、】此の言の理りは猶もあり、乎爲〔右○〕里といふべき處はすべて見えぬにても、爲〔右○〕は誤りなるをしれ、玉(ノ)小琴に、此言を考に、たわみなびく意として、とをとをを略きて、をゝりといふとあるは、いとむづかし、今案に、此言は卷五【三十】に、みるのごと和々氣《ワワケ》さがれる、卷八【五十】に、秋萩のうれ和々良葉になどよめる、此わゝげわゝら葉は、俗語に髪がわゝわゝとしてあるとも、(10)髪がをわるともいふ、をわる〔三字右○〕はわゝる〔三字右○〕の通音にて、わゝげわゝらば是等と同意也、又木の枝のしげりてをぐらきを、うちをわる〔五字右○〕といふもわゝる〔三字右○〕と通音也、然ればをゝり〔三字右○〕はわゝり〔三字右○〕にて、わゝわゝとしげく生てあるをいふ也、花咲をゝりも、わゝわゝとしげく花の咲けるをいふ也云々、
正辭云、考に爲〔右○〕は皆乎〔右○〕の誤なといへる説は、本編に辨じたるが如し、分注に里《リ》は美《ミ》に通ひて云々とは、何の事なるにか、其他にもくだ/\しき所あり、又玉(ノ)小琴に、わゝけ〔三字右○〕とをゝり〔三字右○〕と同語とするは、いかゞなり、もとより活用も異なるをや、又俗に髪がわゝく〔五字傍線〕、又髪がをあwる〔五字傍線〕、木枝のしげりてくらきを、うちをわる〔五字傍線〕など云るは、伊勢にてしかいへるにや、いと聞つかぬ詞にこそ
 
   佐備《サビ》
考別記に云、佐備《サビ》は四くさばかりに轉《ウツ》しいふめり、〇一つは進《スヽ》む事を須佐備《スサビ》、また佐備ともいへり、【こは須をはぶく】古事記に、速須佐之男命云々、我勝云而、於2勝左備《カチサビ》1離2天照大御神之營田之阿1、埋2其溝1云々、かの命かけ物に勝ましゝ御心勢ひの進(ミ)に、物を荒しなどし給ふを、勝佐備といひて、荒進《アレスヽ》む方にいへり、【寸さびは本|進《スヽ》むことなるを、用る事によりてくさ/”\になるなり、】○また卷十【五十五右】に、朝露に咲酢左乾《サキスサビ》たるつき草のてふは、たゞ花の咲進む也、卷十八【三十七右】に翁(11)佐備勢牟【オキナサビセム》てふは、老の心進みせんといふにて、愁怒る時、心の和進《ナグサム》わざするに同じ、心ずさみ、手ずさみなどいふ意也、卷十一【九左】に、雲だにも灼《シルク》したゝば意進《ナグサメニ》、見乍《ミツツ》をらまし直《タヾ》にあふまでにてふ、意進の字を思へ、○神佐備といふも同じ、一卷【十九右】に、【幸2吉野宮1】神長柄神佐傭世須登《カムナガラカムサビセスト》、芳野川云々てふ、即天皇の神御《カムミ》心のすさみせさせ給ふよし也、○二つには只神ぶりしたる事をも神さびといふ、卷一【二十三左】に、耳爲之青菅山者《ミミナシノアヲスガヤマハ》云々、神佐備立《カミサビタテリ》、卷二十【二十九左】に、神さぶる伊駒《イコマ》高ねなどの類多かり、卷二【十一左】に、宇眞人佐備而《ウマビトサビテ》、卷五【九右】に、遠等※[口+羊]良何遠等※[口+羊]佐備周等《ヲトメラガヲトメサビスト》などいふは、かのすさびより出て、物の有さまをいふことゝも成ぬ、是一轉なり、【ならの中末になりて、神さびを神備とのみもいへるは、轉にはあらで言の略なり、】○三つにはこの神ぶりとするより又轉じて、たゞ古《フル》びたることとも成ぬ、卷三【十六左】に、いつの間も神佐備けるか香具《カグ》山の、ほこ杉が末《ウレ》に薛生《コケムス》までに、卷八【四十九右】に、神佐夫等《カミサブト》いなにはあらず、卷十【十七右】に、石上ふるのかみ杉神佐備而、吾は更々戀にあひにけりとさへあり、〇四つにはうらさびといふ也、こは上に擧し勝佐備《カチサビ》は、勝たる氣の進みには物を荒す方と成より轉て、卷一【十七左】にも、國つ御神の心すさびて、國の亂をおこしあらせしとよめり、【あふみの荒都をよめる歌也】又かく物を荒すまでにはあらで、心の和《ナグ》さめがたきをいふはことに多し、卷一【三十左】に、浦佐夫流情佐麻禰之《ウラサブルココロサマネシ》、卷二【三十九右】に、晝羽裳浦不樂晩《ヒルハモウラサビクラシ》、【一云浦不怜】卷四【二十(12)八右】に、旦夕爾佐備乍將居《アシタユフベニサビツツヲラム》、又【二十九右】に、今よりは城山の道は不樂牟《サブシケム》、卷三【三十二右】に、世中の遊《アソビ》の道爾冷者《ミチニサブシクハ》、これら也、かくさま/”\に轉ぬれど、其本を得る時は皆聞ゆ、【不樂も不怜も、今本にうらぶれと訓しは誤れり、】以上、
正辭云、此佐備の言は、種々に轉じ用ゐる事なれば、考の説を出して、凡を知らせつるなり、
 
   生跡毛無
玉勝間卷十三【五】云、萬葉集(ノ)歌に、生《イケ》るともなしとよめる多し、二の卷【三十九左】に、衾道乎《フスマヂヲ》云々|生跡毛無《イケルトモナシ》、また【四十左】衾路《フスマヂヲ》云々|生刀毛無《イケルトモナシ》、また【四十三右】天離《アマサカル》云々|生刀毛無《イケルトモナシ》、十一の卷【十五左】に、懃《ネモゴロニ》云々|吾情利乃生戸裳名寸《ワガココロドノイケルトモナキ》、十二の卷【二十四右】に、萱草《ワスレグサ》云々|生跡文奈思《イケルトモナシ》、また【二十九左】に、空蝉之《ウツセミノ》云々|生跡毛奈思《イケルトモナシ》、また【三十八右】に、白銅鏡《マソカガミ》云々|生跡文無《イケルトモナシ》、十九の卷【十六左】に、白玉之《シラタmノ》云々|伊家流等毛奈之《イケルトモナシ》、これらなり、いづれもみな十九の卷なる假名書(キ)にならひて、イケルトモナシと訓べし、本にイケリ〔右○〕トモナシと訓るは誤なり、生《イケ》る刀《ト》とは、刀《ト》は、利心《トゴコロ》心利《ココロド》などの利《ト》にて、生《イナ》る利心《トゴコロ》もなく、心の空《ウツ》けたるよしなり、されば刀《ト》は、辭《テニヲハ》の登《ト》にはあらず、これによりて伊家流等《イケルト》といへるなり、もし辭《テニヲハ》なれば、いけり〔右○〕ともなしといふぞ、詞のさだまりなる、又刀(ノ)字などは、てにをはのと〔右○〕には用ひざる假字なり、これらを以て、(13)古(ヘ)假字づかひの嚴《オゴソカ》なりしこと、又詞つゞけのみだりならざりしほどをも知べし、然るを本に、いけり〔右○〕ともなしと訓るは、これらのわきだめなく、たゞ辭と心得たるひがことなり、【以上】
正辭按るに、此に出したる歌、舊訓には皆イケリ〔右○〕トモナシとあり、しかるに卷十九【十六左】なるは、伊家流等毛奈之と假字書(キ)なるによりて、等《ト》をてにをはのト〔右○〕とするときは、此歌上にゾノヤカ〔四字右○〕の辭なくて續く詞の流《ル》を、等《ト》とうくるは不合格なりと思ひて、等〔右○〕は僻《テニヲハ》にあらず、利《ト》の意なりといひたるものなり、されど此流〔右○〕は常にル〔右○〕の假字とせるとは、其音異にて、リ〔右○〕の音を用ゐたるなり、【其由は次にいふべし】されば生跡《イケリト》毛|無《ナシ》などあると同じく、生《イキ》て居《ヲル》心《ココ》ちもせぬと云意にて、此|刀《ト》はかの利心などの利《ト》にはあらで、全くてにをはのト〔右○〕なるべし、しかいふは利心《トゴコロ》のト〔右○〕には、利(ノ)字又は鋒(ノ)字神(ノ)字などを用ゐたるを、生刀毛《イケリトモ》の刀《ト》には、刀、跡、などの字を用ゐて、戸、鋒、などの字を用ゐず、これ古人の注意せしなるべし、かくて右に引ける歌の中、卷十一【十五左】なる吾情利乃生戸裳名寸といふ歌は、情利乃生戸裳名寸とト〔右○〕を重ねたるに、生戸のかたは戸を用ゐて、利を用ゐざるも、故ある事ならむ、かゝれば此生跡のト〔右○〕と、利心のト〔右○〕とは、別意とせむかた穩かなるべし、かくて考ふるに、卷十九【十六左】なる伊家流等毛奈之の流〔右○〕は、リ〔右○〕の音にて用ゐたるも(14)のとおぼゆ、しかいふ故は、卷二十【四十右】に、許禮乃波《コレノハ》流|母志《モシ》、同【二十七右】に、佐由《サユ》流|能波奈《ノハナ》、同【三十左】に、志《シ》流|敝爾波《ヘニハ》【後方《シリヘ》には也】などある流は、リ〔右○〕の音のかたにてなるべし、此は東歌なればともいふべけれど、同東歌にて卷二十【十六左】には、等能々志利弊乃《トノノシリヘノ》とあれば、猶上の志流敝も、シリ〔右○〕ヘとよむべくもおぼえたり、猶いはゞ、催馬樂|階香取《シナガドリ》に、天治本の假字、之奈加止留〔右○〕夜、爲奈乃見奈止仁とあり、次なる本末歌も二首共に、之奈加止留〔右○〕とありて、これを梁塵愚案抄には、皆しながとり〔右○〕やとかけり、元龜三年六月四日、式部少輔藤長の寫したる、梁塵愚抄の古本を余藏せり、此本には三首共に、しながとる〔右○〕やとあり、これによれば、古來には之奈加止留〔右○〕夜とありし事明か也、留流〔二字右○〕は韻鏡第三十七開轉來母三等の劉(ノ)字と同音にて、漢音リユウ〔三字傍線〕呉音リユ〔二字傍線〕なり、又三音正※[言+爲]に、劉《ル》【リウ〔二字傍線〕は漢音】とあり、此轉は開轉なれば、ウクスツヌフムユルウの音あるまじき事なるに、常に此第三等の音とするものは、第十二合〔右○〕轉の虞模の韻と通ずる故に、その合〔右○〕にあやかりたるなり、今は本音のリユ〔二字傍線〕の省呼なるべし、又鈴屋は、刀の字などはてにをはのと〔右○〕には用ゐざる假字なりといへれど、此はたま/\てにをはに用ゐざりしのみにて、別に意あるにはあらざるべし、さて卷二【二十三右】に、如是有乃豫知勢婆《カカラムトカネテシリセバ》云々とある乃〔右○〕は、刀〔右○〕の誤なりとの説に從ひて、記傳二十四【四十九右】に、刀〔右○〕と改て引用したり、其説齟齬せり、但し卷(15)二なる乃〔右○〕は、もとのまゝにてト〔右○〕と訓べき也、其由は萬葉集字音辨證に論じpきたり、猶よく調べたらむには、刀〔右○〕を辭《テニヲハ》の假字に用ゐたる處あらむも知るべからず、
 
   火葬の始
今按(フ)るに、火葬は道昭より始れる事は、續日本紀に、文武天皇四年三月己未、道昭和尚物化、火2葬於栗原1、天下火葬從v此而始也とあれど、人麿の妻の死せしは、萬葉考にもいへる如く、是より先なるもしるべからず、但し史に道昭を以て火葬の始としたるは、道昭は有名なる僧なるが上に、始て此事を公の許を受けて行ひたればかく書《シル》せるものにて、其實は是より以前より、火葬の事ありしなるべし、其は持統天皇の崩じたまへる時、即(チ)大寶三年十二月、飛鳥(ノ)岡にて火非し奉れり、文武天皇四年より大寶三年まで僅に四年の間に、天皇の御遺體をさへ火葬し奉りしを以ても、はやくより此事のありしを知るに足る、本集卷七挽歌の部に、獨人不v知(ノ)歌を載て、
  玉梓能妹者珠氈足氷木乃《タマヅサノイモハタマカモアシビキノ》、清山邊蒔散《キヨキヤマベニマケバチリ》染〔左○〕
といふ歌あり、【染は※[(さんずい+ヒ)/木]〔右○〕の誤にて、※[(さんずい+ヒ)/木]は漆〔右○〕の俗體なり、】こは遺骸を火葬して、其骨を搗碎きて、これを山野にまき散せるなり、此同つらに火葬の事を詠るもの猶二首あり、但卷七は萬葉集中にても、やゝ古き時代の歌をのせたるものなれば、此等の歌或は道昭以前の事なるも(16)知るべからず、縣居先生萬葉考別記にも、今の七と十の卷は、歌もいさゝか古く、集めぶりも他と異なりといへり、この他本集卷三【四十七左】に、土形(ノ)娘子火葬泊瀬山1時、柿(ノ)本(ノ)朝臣人麿作歌、同【四十八右】溺死(セル)出雲(ノ)娘子火2葬吉野1時、柿(ノ)本(ノ)朝臣人麿作歌などもあり、また後なれど續日本後紀卷九、承和七年五月辛巳、後(ノ)太上天皇【淳和天皇】顧2命皇太子1曰云々、予聞人沒精魂歸v天、而存2冢墓(ヲ)1、鬼物憑v焉、終(ニ)乃爲v祟長貽2後累1、今宜d碎v骨爲v粉散c之山中u、於v是中納言藤原(ノ)朝臣吉野奏言、昔宇治稚彦(ノ)皇子者、我朝之賢明也、此皇子遺教自使v散v骨、後世效v之とあり、即(チ)骨を散すとあるは火葬なり、但し宇治(ノ)皇子の頃、火葬せし事はなけれども、世に宇治(ノ)稚彦(ノ)皇子と尊信するより、かゝる事の始めをも、此皇子に歸したるにて、其遺命とするもの、もとより謬傳なる事疑ひなしといへども、火葬の起りの甚(ダ)古しとする一證とはすべし、但し續紀に道昭を以て火葬の始めとするもの、其最|※[日+丙]焉《イチジル》きものを表明したるなり、凡史に現はるゝもの、其事既に天下之を行ひ、稍盛なるに至て、始て之を記する事往々あり、今一例を擧ぐれば、元正天皇養老三年二月壬戌、初命2天下(ノ)百姓1右v襟とあり、然れども推古天皇十一年初て冠色を行ひ、十六年服色皆冠色を用ゐたり、爾來服色の制度專(ラ)唐樣を摸す、しかして是に初て襟を右にすとあるは、これより以前の制は、官吏以上に止まり、民間に及ばざりしならむ、故に今此制を(17)出し、天下悉く右袵としたるなり、即(チ)其事既に行ひ、稍慣習となりし後、制令を發したるものにて、令文の實事におくるゝ所以なり、方今の聖代に於ても、官吏の洋服を用ゐたるは、明治の初年にありと雖、民間に於ては、今日に至るも猶之を用ゐるもの多からずして因習固有の服を用ゐるが如し、之を以て上古の樣を推察すべし、かゝれば火葬の事も、萬葉は當時の實を傳へたるものにして、史に天下火葬從v此而始也といへるは、其正式の例文なるを知るべき也、
 
萬葉集美夫君志卷二別記
 
萬葉集美夫君志卷二別記附録    木村 正辭撰
 
   折木四また三伏一向の考
萬葉集卷六【十九左】長歌
 物部乃八十友能壯者《モノノフノヤソトモノヲハ》、折木四哭之《カリガネノ》來繼皆石《・キツゲルゴトク》此續《コヽロツギ》常丹有者《ツネニアリセバ》云云
同卷十【三十八右】
 左小壯鹿之妻問時爾月乎吉三《サヲシカノツマトフトキニツキヲヨミ》、切木四之泣所聞今時來等霜《カリガネキコユイマシクラシモ》
此折木四、また切木四、とかける事は、先哲の説すべてひがことのみにて、いかなる意とも知(リ)がたかりしを、近きころ北村節信といへる人の考(ヘ)にて、其義いと明かになりたり、但(シ)其説いと長ければ、今其意を採り、約略してこゝに載ぐ、和名抄雑藝部に、兼名苑(ニ)云、樗蒲、一名九釆【内典云、樗蒲、賀利宇智、】又陸詞曰、※[木+梟]【音※[朝の月が干】、和名、加利、】※[木+梟]子、樗蒲(ノ)采名也、とあるこれにて、折木四は、即(チ)樗蒲子の事にて、其は小木を薄《ウス》く削《ソギ》て、兩邊を尖《トガ》らしめて其形杏仁を削《ソギ》たるが如し、その半面は白く半面は黒く塗《ヌリ》て、白きかた二(ツ)に雉を畫(キ)黒きかた二(ツ)に犢を書(キ)て、これを投じて、其釆色によりて、勝負をなすなり、但(シ)西土にてはこれを五木と(2)いひて、其釆五子なれども、皇國にては四子を用ゐたるなり、【西土にてももと四子を用ゐしことゝ見えて、演繁露に、樗蒲經、舊畫只有2四木1、四木1者博子(ノ)四箇也といひ、五雜俎にも、其用有2五子四子三子之異1といへり、○正辭按に、朝鮮國刊本訓蒙字會(ノ)下雜器に、樗〔入力者注ハングルでスット〕、樗蒲四數賭博とあり、これ朝鮮にても、四木を用ゐしなり、】其圖左の如し、〔入力者注、図省略〕
これ其釆九色となるなり、故に兼名苑に九采と名づけたるにて、皇國にては四木を用ゐたりし證なり、かゝれば祈木四はこれ樗蒲子のことにて、加利の假字としたるなり、【以上採要】
正辭云、此説は實に千古の發明にて、うごくまじき考(ヘ)なり、然るを北靜廬が梅園曰記(3)に、自らの説として載たるは、いとをこなる事なり、又按に、樗蒲を加利といふは、梵語なるべし、此|戯《ワザ》はもと西域より傳(ヘ)しなれば、其語をもて云(ヒ)ならへるならむ、其は翻譯名義集卷三帝王篇に、歌利〔二字右○〕、西域記云、羯利〔二字右○〕王、唐(ニハ)言2闘諍(ト)1、舊(ニ)云(ハ)2歌利〔二字右○〕(ト)1訛也、とある是也、樗蒲の互に勝敗を諍ふは、即(チ)闘諍するに同じければ、加利とは呼べるなるべし、今の世に紙牌の戯れありて、これを加留多〔三字右○〕といふ、歌がるた源氏がるたの類是なり、こはもと西洋の語にて、羅甸語にてはカルタ(Charta)伊太利語にてもカルタ(Carta)といふ、【佛蘭西にては、カルト(Carte)といひ、英吉利にてはカード(Card)といへるとぞ、ともに訛りなるべし、】これを辭典に牌子、闘牌、遊滸などゝ譯せり、このカルタ〔三字右○〕といふ語は、かの歌利《カリ》より出たるものなるべし、然るを此をもとよりの日本語として、樗蒲札《カリフダ》の急言なりといへる説はひがことなりけり、かゝれば折木四〔三字右○〕の加利《カリ》の假字なる事は論なきを、次の句の來繼皆石の一句猶えよみがてなるは、あかず口をし、【略解に載たる本居翁の説も、うべなひがたし、】故(レ)考ふるに、此はいかにも誤字あるなるべし、其は皆〔右○〕は留〔右○〕(ノ)字、石〔右○〕は如〔右○〕(ノ)字の誤りにて、【皆と留、石と如、其字形いとよく似たり、】來繼留如此續《キツゲルゴトクコヽニツギ》なるべし、【鴈の來つぎ群がれる如く、友なめていつも/\此所に遊ばむものを也、】かく改れば其意明かなり、
同卷十【十左】詠月
 春霞田菜引今日之暮三伏一向夜《ハルガスミタナビクケフノユフヅクヨ》、不穢照良武高松之野爾《キヨクテルラムタカマドノヌニ》
(4)同卷十二【十六右】寄物陳思
 梓弓《アズサユミ》末中一伏三起不通有之《スヱナカタメテユカザリシ・スヱノナカゴロヨドメリシ》、君者曾奴嘆羽將息《キミニハアヒヌナゲキハヤメム》
同卷十三【十八右】長歌
 菅根之根毛一伏三向《スガノネノネモゴロ》、凝呂爾吾念有《ゴロニワガモヘル》云云
これも舊説どもは皆ひがこと也、狩谷望之の和名抄箋注に、上の折木四と同じく、樗蒲の事にて、そのツク〔二字右○〕といひコロ〔二字右○〕といひタメ〔二字右○〕と云(フ)は、いづれも釆色の名にて、西土にて盧、白、雉、犢、などいへるに同じと云(ヘ)り、【これをもまた梅園日記に、己(レ)が説として出したり、】
正辭云、これを樗蒲の事なりといへるはさることながら、ツく〔二字右○〕またころ〔二字右○〕などを釆(ノ)名なりといへるは、猶いかゞあらむ、今按るに、ツク〔二字右○〕といひコロ〔二字右○〕と云(フ)も、皆たゞに樗蒲をいへるにて、別に釆色の名なるにはあるべからず、しか云(フ)故は遊仙窟【三十一左】に、取2雙六(ノ)局(ヲ)1來(レリ)、共(ニ)2少府公(ト)1賭《ウタム》v酒《サカヅクヲ》、僕答(テ)曰、下官不v能v賭《ウツコト》v酒《サカヅクヲ》、共(ニ)2娘子(ト)1賭(ム)v宿《ネヅクヲ》、十娘問(テ)曰、若爲《イカンスルカ》賭《ウツト》v宿《ネヅクヲ》云云とある旁訓のサカヅク、ネヅク〔七字右○〕のヅク〔二字右○〕は、すべて羸輸《カチマケ》するわざを云(フ)言なり、但(シ)此はいと古言にて、古事記中卷【五十七左】に、於是《コヽニ》有2二神1、兄(ヲ)號2秋山之|下氷壯夫《シタビヲトコト》1、弟(ヲ)名2春山之霞壯夫(ト)1、故其(ノ)兄謂(ケラクハ)2其(ノ)弟(ニ)1、吾|雖v乞《コヘドモ》2伊豆志袁登賣(ヲ)1不v得v婚、汝《イマシ》得《エテムヤトイヘバ》2此孃子(ヲ)1乎、答曰易v得《ヤスクエテムトイフ》也、爾《コヽニ》其(ノ)兄(ノ)曰(ク)、若《モシ》汝有v得2此(ノ)孃子(ヲ)1者、避2上下(ノ)衣服《キモノヲ》1量《ハカリテ》2身(ノ)高《タケヲ》1而|釀《カミ》2甕(ニ)酒(ヲ)1、亦山河之物(ヲ)悉(ニ)備(ヘ)設《マケテ》、爲《セメト云ウ》2宇禮豆玖《ウレヅクヲコソ》1云爾、【自v宇(5)至v玖以v音】とある豆玖《ヅク》是なり、記傳卷三十四【三十七右】に云、宇禮は慨《ウレタキ》の宇禮にて、豆玖《ヅク》は今(ノ)世に云、賭豆玖《カケヅク》なり、【此を今京人は加氣呂久《カケロク》と云、呂久は録の意か、其(レ)も聞えたれど、加氣豆久といふぞ古言に叶へる、】うつぽ物語初秋(ノ)卷に、【仲忠が帝と碁を打て負奉りたるところに、】上、興ありとおぼしめして、早う賭物豆玖《ノリモノヅク》の事はと仰せらる云云、仲忠身に堪《タヘ》ぬべき事ならば仕奉《ツカヘマツ》り、堪《タヘ》ぬ事ならば、其由をこそ奏し侍らめ、【碁の負《マケ》わざをせよと仰せられたるなり、】遊仙窟に賭酒《サカヅクヲウタム》また賭宿《ネヅクヲウタム》とあり、契冲、豆玖《ヅク》は都具能比《ツグノヒ》の略語なりと云へり、然もあるべし、即下文に不v償《ツグノハ》2其宇禮豆玖之物(ヲ)1とあり、【償《ツグノフ》をば、常に都《ツ》を清《スミ》、具《ク》を濁(リ)て云を某豆久《ナニツグ》と云ときは、上に言|連《ツヾ》く故に、都《ツ》を濁り、都《ツ》を濁るから、返りて具を清《スム》は古(ヘ)の音便にて、さる例あり、さて今(ノ)世俗言に、力《チカラ》づく、錢金づくなど云言もある、其らも皆|豆久《ヅク》の意の轉れるなり、】かくて此の宇禮豆玖《ウレヅク》は、此(ノ)孃子《ヲトメ》を弟の易《ヤスク》得《エ》てむと云るを、慨憤《ウレタ》みて爲《ス》る豆玖《ヅク》にて、汝若(シ)孃子を得たらむには、上(ノ)仲の賭物《カケモノ》を汝に與《アタ》ふべし、若(シ)又汝え得《エ》ずば、上(ノ)件の賭物を吾に與《アタ》ふべし、となるべし、【以上】これにて豆久の意明らか也、されば樗蒲を此土《ココ》にては、古(ヘ)ヅク〔二字右○〕ともいひしなり、【但記傳に、豆玖は契冲が都具能比の略語なりと云り、然《サ》もあるべしといへるは本末たがへり、都具能比は此豆久を活かしたるものにて、卜《ウラ》かたするを、ウラナフ、商《アキ》をするをアキナフと云(フ)と同例也、】○又コロ〔二字右○〕は、呼盧の音にて、盧は第一の貴釆にて、此戯をなすには、常に盧を呼ぶことのあるによりて、やがて名とせしなり、樗蒲經畧(ニ)云、凡投子者、五皆現(セハ)v黒(ヲ)則其名(ハ)盧、盧(トハ)黒也、言(ハ)五子皆黒也、五黒皆現(ハルレバ)則五犢隨現(ラルヽコト)從可v知矣、此(レ)在2樗蒲(ニ)1爲2最高(ノ)之采(ト)1、※[手偏+采]v木而擲、往往叱喝(シテ)使v致2其極(ヲ)1、故(ニ)亦名2呼盧(ト)1也、また資暇録云、餞戯有d毎以2四文(ヲ)1爲2一列(ト)1者u、即史傳(ニ)云云所意錢是也、俗(ニ)謂2(6)之※[手偏+難]錢(ト)1、亦曰2※[手偏+難]鋪(ト)1云云、今人書(シテ)2此(ノ)錢戯(ヲ)1率作2樗蒲(ノ)字1、何(ゾ)貶(スル)2樗蒲(ヲ)1之甚(シキヤ)耶、案(ニ)樗蒲(ハ)起v自2老子1、今亦爲2呼盧(ト)1者、不v宜v雜2其號(ヲ)於錢(ニ)1云云、また通雅云、五木(ハ)其形當2長※[木+隋](ニシテ)而尖1、一子爲2兩面1、面一(ハ)黒、一(ハ)白、黒(ニ)畫v犢(ヲ)白(ニ)畫v雉(ヲ)、投v子者、五皆黒(ヲ)曰v盧(ト)、此(ヲ)爲2上采1、故(ニ)曰2呼盧(ト)1云云、これらにてコロ〔二字右○〕は呼盧の音なる事を知(ル)べし、但し卷十二なるは、鈴(ノ)屋の説に從て、スヱノナカゴロヨドメリシと訓(ム)べし、舊訓は非なり、かゝれば加利《カリ》は梵語、都久《ツク》は皇國(ノ)詞、古呂《コロ》は漢語にて、ともに樗蒲の名なりけり、
以上は北村節信の考によりて、猶種々考究して、遂に加利《カリ》、都久《ツク》、古呂《コロ》の三言を、日本支那洋語の三語に分ち、其語原を考へ出でたるなり、此考は卷六以下の別記に出すべき順序なれど、此折木四及三伏一向の説は、いとあやしき文字にて、其義得がたく、人々のはやくしらまく欲りすることなれば、繰り上げて此卷に出せり、
 
萬葉集美夫君志卷二別記附録
 
(1)刻本萬葉集復舊序
萬葉集の刻本凡五本あり、【注解本を除く】其は活版三本、校異本、今の通行本是なり、此うち校異本と稱するは、もと常陸(ノ)國雨引山(ノ)住僧惠岳といふものゝ著したる傍註本の注を削去り、いさゝか文字を改易して、それがかしらに諸本の異同をば記しつけたるものにて、いみじき贋本なり、次に通行本、この本卷二十の尾に、寛永貳拾年癸未蝋月吉日、洛陽三條寺町誓願寺前、安田十兵術新刊とあり、また書寶永六丑季春吉辰、御書物屋出雲寺和泉掾、としるしたるも有、されどこは寛永の印版を購ひて.其尾題を改めたるものにて、別に寶永のをり重刊せしにはあらず、しかるを羣書一覧に、寶永六年三月上木すといへるは、いたく誤たるものなり、次に、活版に三本ありとは、其一つは、常に云ところの活本にて、傍訓なく、仙覺律師の序跋、および成俊等の跋文皆載せず、刊行の年月をもしるさず、此本今本に校讎するに、異同甚多し、即(チ)一つの傳本にして、いまだ仙覺律師の校正をへざるものなり、【余稱曰2活字無點本1、】また古萬葉集と題して、享和三年八月、土左人今村樂の序ある本あり、此本また傍訓をよび序跋なし、をり/\文字の異同あれど、皆樂等がさかしらに改易せるものにて、採にたらず、そはまづ古萬葉集とある題名を見ても、其さかしらを知(ル)べきなり、【余稱曰2土佐本1】さて今一つ仙覺律師の序(2)跋も、成俊等が跋文も皆有て、しかも傍訓のある本あり、【余稱曰2活字附訓本1】これ今世通行本の原本にして、今本はすなはち此本を翻刻せしものにて、此活本の外に別に傳本ありて、刊行せしにはあらず「かくて翻刻のをり刊者のために誤られたるもの少なからねば、もし訓にまれ文字にまれ疑はしきがあらば、まづ此活本に對校して、その舊に復してさてのちに可否をば論ずべき也、しかるに世々の萬葉家、契冲師縣居翁をはじめとして、鈴屋翁も畧解の作者も、また本どもをあまた集めて、校異をものしたる橘經亮等も、今本の外に此活版ありて、しかもその原本なることを知(ラ)ざりげなり、こゝにいとをかしきは、卷九に其津於〔左○〕指而《ソノツヲサシテ》とある於(ノ)字につきて、義門師の於乎輕重義と云ものに、いとむつかしき辨論あり、されどこは今本の誤刻にして、【原本の活本には其津乎とあり、】さる傳本のあるにはあらぬを、さばかりものにくはしかりし義門すら、此原本のあることをしらざりしによりて、誤刻なることをさとらずして、於乎輕重義を著して諸人の惑を生ぜしめたり、故(レ)今其異同をこと/”\く擧て、今本の誤刻を舊に復しつ、さるははじめにもいひしごとく、今本は此活版の外に別に傳本ありて、刊行せしにはあらねば、こゝにあげたるかぎりは、よきもあしきもともに誤刻にして、さる傳へのありしにはあらず、しかるを世に此活版のあることをしらず、かつ其本もいとま(3)れなれば、遂には失せはてゝ、今本の誤刻をさとる人なくなり行む事のうれたくてなん、
 文久二年二月廿一日   ※[木+觀]齊正辭
                    しるす
 
(1)刻本萬葉集復舊       木村 正辭作
      ※[入力者注、外字注記はほとんど不可能、ふりがなの字も活字がつぶれて判読不可能の部分がある。大方は誤植か干禄字書にでもあるような俗字で、わざわざ読むほどの価値はない。]
 
  卷一 【上なるは、今の通行本にして、原とあるは、活字附訓本也、以下同、】
幸2吉野宮1時歌【五左五行】 原、歌下有2二首二字1  美夫君志持【七右四行】 原、志作v忘、葢誤、今改  梓能弓【八右三行】 原、弓作v【弓の異体字】  花插頭持【十九右八行】 原、插作v挿  御并作歌【三十右七行】 原、并作v井  御并所作【三十左六行】 原、并作v井  卷第一終【三十一】 原、無2終字1
 
  巻二
※[さんずい+(麻垂/叟)]之伎余思【十八左八行】 原、※[さんずい+(麻垂/叟)]作v波  哀咽歌□首【二十二右四行】 原、空位有2二(ノ)字1  不※[山/疋]【三十三右三行】 原、※[山/疋]作v定  度目乃【三十七右四行】 原、目作v日(2)  無有【三十九右六行】 原、有作v寸  〓在【三十九左八行】 原、〓作v雖  ※[題の頁が隹]【三十九左八行】 原、※[題の頁が隹]作v雖  香切火《〓ケロフ》【三十九左八行】 原、香傍訓カ〔右○〕  外向來《オカニムキタル》【四十左四行】 原、外(ノ)傍訓ホ〔右○〕カニ  狹※[山/八/子]【四十二右一行】 原、※[山/八/子]作v岑
 
  卷三
引削皇子【一左三行】 原、引作v弓  請咒〓【五右六行】 原、〓作v願  〓短歌【十左五行】 原、〓作v并  太宰師【十左六行】 原、師作v帥  之奴浪受《シルハス》【二十二左五行】 原、奴訓ノ〔右○〕  座神【二十八右一行】 原、神作v祇  伊去羽計《イミキハハカリ》【二十八右七行】 原、去訓ユ〔右○〕キ  田莱引【二十八右七行】 原、莱作v菜  極此〓【二十八左六行】 原、〓作v凝  射狹庭《イテニハ》【二十八左七行】 原、狹訓サ〔右○〕  人等毛《ヒトヽラモ》【三十一左三行】 原、等訓トチ〔右○〕  之見【三十五右四行】 原、之作v乏 (3)左爲能《サヲメ》【三十九左七行】 原、傍訓サヰノ〔二字右○〕  待從爾《マツヨトニ》【三十九左八行】 原、從訓ヨリ〔右○〕  射※[獣偏+來]夜歴【四十一右二行】 原、※[獣偏+來]作v狹  須敝【五十四左六行】 原、敝作v〓  未干爾《アマタヒナクニ》【五十七右一行】 原、未訓イ〔右○〕マタ
 
  卷四
下2筑紫國1、※[目+寺]【一左八行】 原、※[目+寺]作v時  亡國【十五左二行】 原、亡作v七  狹穗河【十九右七行】 原、穗作v※[禾+惠]  太宰師【二十五右五行】 原、師作v帥  徒安〓【三十右二行】 原、徒作v徙  草※[木+穴]【三十七右四行】 原、※[木+穴]作v※[木+穴の一画目なし]  名具左曾《ナグセソ》【四十左三行】 原、左訓サ〔右○〕  葉根※[草冠/縵]《ハネカツラ》【四十七右六行】 原、傍訓ハ〔右○〕、誤作vニ今本正v之  大孃歌二【五十六右五行】 原、二下有2首(ノ)字1
 
  卷五
(4)久禮奈爲能《クレナヰヲ》【九右八行】 原、能訓ノ〔右○〕  挿著御※[衣偏+田]【十三右五行】 原、挿作v〓、※[衣偏+田]作v袖  〓〓【十四左一行】 原、〓作v穀  ※[立心偏+夫]然【十四左三行】 原、※[立心偏+夫]作v快  紀※[多+おおざと]【十四左七行】 原、※[多+おおざと]作v※[女+即]【一本同、岡本本作v郷】  鳥梅【十五左二行】 原、鳥作v烏  奈久〓【十六右一行】 原、〓作v母  米豆良之〓【十六左一行】 原、〓作v岐  波奈《ハナ》【十九左二行】 原、訓ハハ〔右○〕盖誤也  十齢【二十二右八行】 原、十作v于  衡〓【二十二左一行】 原、〓作v皐  須〓【二十七右一行】 原、〓作v疑  宮位【二十七右五行】 原、宮作v官  泡沫之〓【二十七左一行】 原、〓作v命  布奈〓【三十一左一行】 原、〓作v※[(ム/月)+長の簡体字]  ※[沈の異体字]〓【三十二右七行】 原、〓作v痾  所〓【三十二左一行】 原、〓作v値  鑿龕【三十二左三行】 原、龕作v籠 割〓【三十三左六行】 原、〓作v刳  ※[月+瞻の旁]浮〓【三十四右七行】 原、〓作v洲(5)  〓短【三十四左三行】 原、〓作v〓  〓作【三十五左六行】 原、〓作v劇  合樂【三十六右一行】 原、樂作v薬  〓鹽【三十七左六行】 原、〓作v鹹  憂今比【三十八右三行】 原、今作v吟  於毛波奴爾《ホモハヌニ》【三十九左五行】 原、於訓オ〔右○〕
 
  卷六
師大伴※[女+即]【二左七行】 原、師作v帥  有者毎見《アレハコトミ》文【十二左八行】 原、此五字無2傍訓1  伊奈〓嬬【十八右三行】 原、〓作v〓  〓波宮【二十左三行】 原、〓作v〓  〓還歸【三十一左五行】 原、〓作v既  〓賜【三十六左三行】 原、〓字訓缺
 
  卷七
佐檜乃能【八右一行】 原、能作v熊  足結出【八右三行】 原、出字訓缺  ※[手偏+力]兼【九右二行】 原、※[手偏+力]作v折  不十【十二左三行】 原、十v于【按上横畫、墨色薄不鮮明、盖其所v本亦如v此、故誤爲v十也、】(6)  得哉【三十四右六行】 原、此二字訓缺
 
  巻八
開可聞《ケバカモ》【十七右七行】 原、開訓ケム〔右○〕  舌郷【三十右三行】 原、舌作v古  下住【三十二右二行】 原、下作v不  〓久【三十四右三行】 原、〓作v倍  所沽【三十四左一行】 原、沽作v沾  不置《ホカス》【四十左四行】 原、傍訓オ〔右○〕カス  逆〓【五十四右五行】 原、〓作v葺  鶴鴨【ヲルカモ】【五十四左八行】 原、鶴訓ツ〔右○〕ル  繁〓鳩【五十七左七行】 原、〓作v鷄
 
  卷九
弓〓【二右八行】 原、弓作v〓  立沽【十一右八行】 原、沽作v沾  田并【十一左五行】 原、并作v井  〓毛【十三右六行】 原、〓作v※[立心偏+(ヌ/宏の下)](7)  越良武《ロユラム》【十六右八行】 原、越訓コユ〔二字右○〕  沽通【二十四右三行】 原、沽作v沾  〓弓【二十六左六行】 原、〓作v〓  〓舍【二十六右八行】 原、〓作v〓  通春【二十七右三行】 原、春作v舂  其津於【二十八右五行】 原、於作v乎
 
  巻十
月一首【四右二行】 原、月上有2詠字1  怒怒《ヌヌ》【七右一行】 原、訓缺  不成登《カラネト》【九左二行】 原、傍訓ナ〔右○〕ラネト  所活【二十二左六行】 原、活作v沾  不宿《ヱステ》【二十九右七行】 原、傍訓ネ〔右○〕ステ  衣爾〓【三十右七行】 原、〓作v縫  不〓【三十二左四行】 原、〓作v遭  〓荒【三十二左六行】 原、〓作v旗  競竟《オホロ/\》【三十五左一行】 原、傍訓キ〔右○〕ホヒ〔右○〕/\ニ令見〓【三十六右一行】 原、〓作v〓  未開《マタマカス》【三十七右二行】 原、傍訓マタサ〔右○〕カス  山爾文野爾文《ヤマニセ〔右○〕ノニセ〔右○〕》【三十九左五行】 原、文訓モ〔右○〕(8)  〓影【四十一右二行】 原、〓作v暮  以而《モチ》【四十七右七行】 原、傍訓モテ〔右○〕  沽而【五十九差八行】 原、沽作v沾  薄大良【六十右一行】 原、大作v太
 
  卷十一
弓〓【二右六行】 原、弓作v〓  來〓【三右五行】 原、〓作v背  〓津【七左五行】 原、〓作v深  〓徑【九左一行】 原、〓作v狹  木綿《エノフ》【十二左八行】 原、傍訓ユフノ  我〓【十四右四行】 原、〓作v馬  住箕【十七右五行】 原、住作v往  名〓【二十一左四行】 原、〓作v〓  〓動【二十二右二行】 原、〓作v枕  生來《ヲイヒケリ》【二十五左一行】 原、生字訓缺  〓鼻【二十六右六行】 原、〓作v※[口+西] 湯移去者《ユツロヘハ》【三十右一行】 原、湯字訓缺  〓渚菜【三十九左二行】 原、〓作v忘  左寐〓齒【四十一右七行】 原、〓作v蟹  (9)氷汐【四十七右七行】 原、氷作v水
 
  巻十二
人〓【十二右八行】 原、〓件v麿  梓弓【十六右六行】 原、弓作v〓  吾妹〓【十九右五行】 原、〓作v兒  〓左倍【二十八右三行】 原、〓作v鷄  來〓【三十三左二行】 原、〓作v甞  〓毛【三十八右二行】 原、傍訓缺  〓居【四十一右五行】 原、〓作v將
 
  巻十三
朝夕【アサユフ】 原、此二字傍訓缺  左〓【十七左三行】 原、〓作v叡 左〓〓【二十一左七行】 原、〓作v〓  大皇【二十五右六行】 原、大作v天  乍鳥【三十右七行】 原、鳥作v烏  哭〓【三十二右七行】 原、〓作v兒
 
(10)  卷十四
伊刹奈麻之【四右六行】 原、刹作v利  伊波久〓乃【六左三行】 原、〓作v叡  可伎武太〓【十二右二行】 原、〓作v伎  譬〓歌【十五左二行】 原、〓作v喩  奴賀奈〓【二十二右六行】 原、〓作v敝  禰奈〓乃【二十三右七行】 原、〓作v敝
 
  卷十五
家島作歌五首【三右四行】 原、首一字別提、【按本書目録、毎行十七字、此獨十八字、宜2從v舊別提1矣、又按原版目録、以2尾之一行1爲2第四頁1、今其一行將v收2第三頁1以滅2一紙1、故先於v此滅2一行1也、】  中臣朝臣宅守【三右五行】 原、爲2第六行1、而下皆與2今本1異2一行1、  中臣朝臣宅守〓花云云【三左八行】 原、以2此一行1爲2第四頁1、而今本之第四頁爲2第五頁1、以下頁數皆増v一、  字良我奈之【四左七行】 原、字作v宇  (11)須〓奈美【五左五行】 原、〓作v敝  伊〓乃安多里【八左四行】 原、〓作v敝  多麻能宇良《タマノヲラ》【十三左二行】 原、宇訓ウ〔右○〕  可〓里【十五右三行】 原、〓作v敝  安里〓禮【二九左七行】 原、〓作v家  夜麻冶【三十左二行】 原、冶作v治  夜須〓【三十七左二行】 原、〓作v伊
 
  卷十六
正身《ヤウシミ》【二右七行】 原、訓シヤウシミ  櫻〓【六右二行】 原、〓作v兒  〓頭【六左一行】 原、〓作v挿  易〓【六左六行】 原、〓作v滅  鬘〓【六左八行】 原、〓作v兒  〓繦【七左六行】 原、〓作v〓【按代匠記畧解及校異本、以爲2〓字1者誤、】  童〓【八右三行】 原、〓作v兒  〓寸【八右七行】 原、〓作v稻  水苑【九右七行】 原、水作v木  佐〓【十八右一行】 原、〓作v叡  (12)〓播《ハヲマム》【二十左七行】 原、訓ハラ〔右○〕マム  碓爾春【三十一右五行】 原、春作v舂  碓子爾春【卅一右六行】 原、春作v舂
 
  卷十七
網手【十四左六行】 原、網作v綱  麻爾未爾【二十左二行】 原、未作v末  代人《ロイヒト》【二十二左八行】  原、訓ヨノ〔右○〕ヒト  都麻須《クマス》 原、都訓ツ〔右○〕  牟流〓之【二十七右二行】 原、〓作v波  ※[手偏+爪]悲【二十七右六行】 原、※[手偏+爪]作v孤  伊尼【二十七右四行】 原、尼作v泥  爲〓【二十七左四行】 原、〓作v底  〓春【二十七左七行】 原、〓作v晩  〓色【二十七左八行】 原、〓作v〓  以〓【二十七右四行】 原、〓作v〓  〓醉【二十八左一行】 原、〓作v縦  〓鴻【三十一右二行】 原、〓作レ歸  於久豆麻《テクツマ》【三十一左六行】 原、於訓オ(13)  〓保久關左閑爾【三十二右八行】 原、〓作v騰閑作v閉  多知《タテ》【三十二左四行】 原、、知訓チ  於毛比《テモヒ》【三十二左五行】 原、於訓オ  吾乎《ワレラ》【三十二左七行】 原、乎訓ヲ  〓義〓【三十六右四行】 原、〓作v底  麻未爾【三十六左一行】 原、未作v末  〓婆《ナミ》【三十八左三行】 原、婆訓ハ  加〓【三十八左五行】 原、〓作v妣筆跡少異  於知《ヲテ》【四十一左五行】 原、於訓オ  都我能〓《トカノヲ》【四十二右二行】》 原、チ作v〓即キ之〓 夜蘇《ヤヲ》【四十九右七行】 原、蘇訓ソ
 
  巻十八
令史《サクリシ》【六右二行】 原、傍訓サクワン  佐乎左〓【十二右五行】 原、〓作v指  都〓乎《テキヲ》【十四左三行】 原、都訓ツ  良牟曾《ラムヲ【十四左四行】》 原、曾訓ソ  〓立【二十一左三行】 原、〓作v辭【中横畫墨色薄故誤】  多麻〓流【二十三右一行】 原、〓作v敞  (14)奈氣〓【二十六右四行】 原、〓作v伎  〓〓那具【二十六左三行】 原、〓作v坐、具作v〓  於〓乎【二十六左三行】 原、〓作v伎  〓美我【二十七右三行】〓奴爾【同上】伊都〓之【同上】 原、〓並作v伎  手〓【二十九四行】 原、〓作v枕  主人〓【三十右五行】 原、〓作v守  佐未禰〓【三十左三行】 原、未作v末
 
  卷十九
〓子早花【四右四行】 原、〓作v芽  藤原皇右【四右八行】 原、右作v后  情也良牟等《コヽロヤケムト》【二十右八行】 原、良訓ラ  未佐禮杼【二十左三行】 原、未作v末  〓者【三十三左一行】 原、〓作v鷄  ※[女+感]嬬《ラトメ》【三十四右五行】 原、傍訓ヲトメ 〓大皇【三十九左三行】 原、〓作v吾
 
(15)  卷二十
太右【六左二行】 原、右作v后  朝〓郡【二十三右八行】 原、〓作v夷  大〓【三十二左七行】 原、大作v犬  於保〓〓【三十九右四行】 原、〓作v伎  夜〓佐〓【四十六右六行】 原、〓作v敝  【弁】短歌【五十右五行】 原、弁作v并  〓爾麻〓【五十左三行】 原、〓作v藝  於〓流【五十一右八行】 原、〓作v敝  中〓【六十一右一行】 原、〓作v臣  之〓【六十五右七行】 原、〓作v流  年〓〓【六十六左三行】 原、〓作v等
 
序文にも已にいへるが如く、原本はいと少くして、手に入がたきものなるにより、今原本と通行本と對照して、一點一畫をたがへず、異同をしるしたれば、此校本を藏する時は、活字附訓本を藏せるもおなじことなりとしるべし、
 
(16)刻本萬葉集復舊
 
明治四十四年一月十二日印刷
明治四十四年一月十五日發行
萬葉集美夫君志卷二
定價金貳圓五拾餞
   東京市下谷區入谷町三十五番地
著作者  木 村  正  辭
   東京市神田區裏神保町六番地
發行者  上 原 才 一 郎
   東京市神田區裏神保町六番地
發行所  光 風 館 書 店
   東京市神田區裏神保町六番地
印刷者  矢  島 一 三
 
 
 
 
 
 
 
明治三十四年五月十三日印刷   萬葉集美夫君志四冊
明治三十四年五月十六日發行   正價金貳圓五十錢
           東京市下谷區入谷町三十五番地
     著作者  木 村 正 辭
著          東京市神田區裏神保町六番地
作    發行者  上 原 才 一 郎
権          東京市神田區裏神保町六番
所    發行所  上 原 書 店
有          東京市神田區表神保町二番地
     印刷者  藤 澤 外 吉
 
大  東京市日本橋通三丁目   林平治郎
賣  仝京橋區南傳馬町二丁目  吉川半七
捌  仝京橋區南傳馬町三丁目  目黒書店
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   長野市大門町       西澤喜太郎
   松本市本町二丁目     高美書店