風土の万葉

  象山の際のこぬれには                                                              米田進(こめだすすむ)

 

   巻6-924 み吉野の象山の際のこぬれにはここだも騒く鳥の声かも

は、神亀二年(725年)五月芳野離宮に聖武天皇が行幸した時笠金村が作った歌の次に山部宿祢赤人作歌二首并短歌と題して載っている歌の第一反歌で、非常に有名なものであり、人麻呂の吉野讃歌との関係とか、歴史的な背景や長歌反歌の内容とかについて多くの論文があることは周知の如くである。しかしなぜか地理的な面に関しては殆ど論じられない。直訳的に、象山の山あいの梢で多くの鳥が鳴いている、と言った程度ですまし、象山についても、吉野離宮の川向こうの南正面にある山というだけである。宮瀧は私の若かった頃と比べればかなり変わったが、それでも、象山、その東にある三船山、が削られて形が変わったとか、自動車道路でトンネルが出来たとか、ダムで水没したとかいうこともなく、昔ながらの形と緑(その質や動物相はともかく)を見せている。歌や資料から読み取れる情報は少ないが、現地を踏査し、地図を凝視すれば、歌の理解に資するところがあろうと思う。

 高木市之助『吉野の鮎』の「象山際考」1941、が「行幸に扈従して離宮に滞在していた赤人がこの清流に沿ってこうした「ヤマノマ」へ入ったということはまことに自然なことであろう。…(際の実景が曖昧な点を指摘して)写生に徹した作品でこのように焦点が合わないということは把握のうえの致命的支障だとも言えよう。」というように、「際」の実景が曖昧だと、写生言い換えれば叙景歌としては致命的な支障だが、「際」以外にも曖昧な理解に留まっているところがいくつかある。

 「際(ま)」については高木の言うように「山と山との間(つまり谷間)」で落ち着き今は異論がないが、具体的に現地のどのあたりかとなると、高木説でも説明不十分である。象山の際というと、象山の山中にかなりの凹み(谷間)があるように思えるが、実際の象山は小さい尾根で谷らしい谷はない。御園方面には小さいながら谷があるが、そこまで含めた山地を象山と言ったとは思えない。それにそんな小さい谷間に入っていくことも考えにくい。三船山の方は象山より少し高いだけでなく、山体が大きくて小さい谷が沢山あるが、もちろんこれは象山ではない。となると、象山と三船山の間の喜佐谷を「象山の際(山あい、谷あい)」と詠んだことになろう。しかしこれはやはり言葉足らずで、省略した表現となる。本当は、象山と三船山の際(ま)というべきだった。しかしそう正確に言わなくとも現地をよく知っていた万葉人には納得できただろう。なんといっても、吉野離宮の南正面に聳えるのが象山であり、三船山の方は、コブコブのような稜線で、喜佐谷川から東に離れており、印象が薄い。吉野離宮から見ると、谷間の川沿いの森を象山の際(山あい、谷あい)(吉井全注の結論とほぼ同じ)と言う方が印象が鮮明なのである。ちょうど「伊豫の高嶺の射狭庭の岡」のようなもので、散文的には省略が通じにくいが、和歌としてはその省略のためにかえって印象が強くなる。更に言うと、「際のこぬれには」の「こぬれ」も理屈から言うとわかりにくい。「際(ま)」に「こぬれ」などあるはずがない。このまま直訳する注釈も多いが、断りなしに「木の梢には」と訳すのもある(『万葉百歌』池田担当、ただし池田は際を稜線としている)。「木の」を省略すると分かりにくいのである。吉野離宮から見ると、象山の左側の麓、喜佐谷川が吉野川に合流するあたりは、特に樹木が密に茂っている。だから「象山の際の」と言っただけで、深々とした森がイメージされる。「木の」を略してもその森の梢だと分かるのである。赤人という歌人はとことん簡潔に歌う人だったのだろう。犬養孝『万葉の旅(上)』では、かなり奥の喜佐谷の集落あたりからの写真を載せているが、これは地図(二万五千分の一図「新子」)に記入された象山のピークを見せるためのもののようで、前景に杉らしい木の梢が少しあるだけで、赤人が鳥の声を聞いた場所とは思えない。宮瀧の背後にでも行って、喜佐谷の入口を撮ればよかったであろう。あるいは桜木社の森でも撮るか。

 省略という点で言うと「み吉野の象山の際のこぬれには…」と、「の」の三畳で、空間を絞っていくズームアップのような技法(犬養氏も上掲の書で触れている)が赤人らしい。吉野、象山といった当時の歌人なら誰もが知っている地名を出しながら、それについて何も描写しないで簡潔に焦点を鳥の鳴き声に絞っていく。見事な雑音の除去であり、佳景の透明感も漂う。

 ところでその象山の東麓あたりでの鳥の鳴き声だが、これを吉野離宮のあった宮瀧側から聞いたものとする説がある。土橋寛『万葉開眼(上)』1978、は、吉野離宮の川沿いから対岸の象山の梢での日暮れ時の賑やかな鳥の声を聞いて詠んだものだろうとする。他に、川口常孝『萬葉歌人の美学と構造』1973、があるが、鈴木崇大「山部赤人の吉野讃歌第一歌群」国語と国文学、2022.11、「「象山」は宮滝から吉野川を挟んで立つ山であり、長歌に詠まれた「たたなづく 青垣」の中で最も作者に近い部分である。指呼の間にある「象山」から聞こえてくる「鳥の声」は「吉野の宮」にある者たちに等しく響き渡ったことだろう。それを「ここだも」と詠むことは妥当であるにくわえ、このように表現することで「鳥の声」を作者も聞き手もともに体験しているという構図が成立するのであり、それは長歌の表現性と通じていると見られるのである。」という詳しい説もある。注釈類は簡単なのではっきりしないが、高木説のように、象山の喜佐谷川沿いで聞いたものとするようにとれるのがほとんどである。これは確実なことは言えそうもないが、土橋等の説だと、離宮の近くからだから、長反三首がすべてほぼ同じ場所からの描写となり都合がよいし、鈴木説のように詠み手と聞き手が同じ体験を持ち、長反が通底する表現性を持つことにもなる。しかし、離宮側の川岸から対岸象山麓まで最短で60メートルはあり、宮瀧の地名のようにそのあたりの吉野川は瀧状の激流になっていて、川音がかなり激しい。聞こえることは聞こえるとしても、「ここだも騒く」というほどの騒音にまでなるかどうか疑わしい。また土橋の言うように日暮れ時だとすると、60メートル以上離れた所の木の梢まではっきりと見えるかどうか疑問である。対岸の桜木社あたりまで行けば、吉野川の川音も邪魔をせず、鳥の鳴き声に集中できる。木々の梢も間近に見られて、よく見ていれば枝や葉の間を飛び交う鳥が見えるだろう。これはやはり、赤人は喜佐谷川に少し入って体験したものと見るべきだろう@。となると、長歌の場所は宮瀧の離宮で、反歌の一つ目は対岸の山中、二つ目は吉野川の夜の川原、となってバラバラのように見えるが、それは赤人が意図的に配置したものだろう。象山の場合、朝にしろ夕方にしろ、赤人はどうやって、またなんのために対岸まで行ったのか。象山あたりは、高市黒人、大伴旅人も詠んでおり、旅人の場合は確実に喜佐谷川まで行っている。離宮へ行った人たちには足を運ぶ価値のある風景だったのだろう。ただし日中ならともかく、早朝や夕方にそんな山中へ行くとは思えない。早朝や夕方だとすれば、対岸の菜摘あたりに宿泊していて喜佐谷川あたりへ散歩でもしたと見るしかないだろう。夜の吉野川の河原となると、宮瀧あたりは、岩場になっており久木の生えるような川原がない。滝の上流はかなりの砂原があるが、その少し上、対岸の樋口から菜摘に移るあたりで、大きく北方に湾曲しており、流れも緩やかで対岸への簡単な橋ぐらいは作れそうだ(後述)。久木などの灌木ぐらいはいくらでもあるだろうから、菜摘あたりの吉野川の夜の川原を見た体験を反歌二つ目に詠んだとすればよいだろう。菜摘に宿泊先があったとすれば、簡単に体験できよう。

 どこで鳥の鳴き声を聞いたかに続いて、何時聞いたかが問題になる。

 夕方説、土橋、川口の前掲書、窪田評釈、武田全註釈、

 朝方説、土橋『万葉集−作品と批評−』1956、坂本信幸「赤人風の確立」『万葉史を問う』所収、中西全訳注、古典集成、釈注、和歌大系。

 昼間説、金子評釈。

 ほかに朝説で有力なもの二つ。

 『註釈万葉集《選》』1978、

  長歌の綜合的・観念的な叙述を反歌で具象的・写実的に描くのは富士山の歌などにも見られたが、…同様な傾向をもち、長歌の山川讃美を承けて、朝の山、夜の川を展開的に歌ったのである。…明け方の静寂を破って鳴くさわやかな諸鳥の囀りを清澄な調べで歌い上げている。…一見まさに自然詠だが、黎明の諸鳥の声を歌ったのはそのまま離宮のにぎにぎしい繁栄につらなるとした心からである。…新しい讃歌であった。(橋本)

 久松潜一『万葉秀歌』1976

  (一首目について)夜明けの爽やかな時とする説がある。そのことを最初にといたのは、私の知る限りでは今井邦子氏が『文学』に昭和十年頃にといたのがはじめである。 やはりこれは夜明けの歌と見たい。山の夜明けの爽やかな時に、木の間で鳴く鳥の声はいかにも爽やかである。

 土橋は始め朝説だったのが、後に夕方説に変わった。理由は不明。朝説の方が有力なのは明らかで、伊藤、橋本、坂本などは反歌二首の山川朝夜の対比に言及している。これは歌そのものに朝夜を決める表現はない。鳥は朝でも日中でも夕方でも鳴く。また対比と言ってもそう見ればそう見えると言った程度である。山、川と言うより、谷間と川原で、主題も鳥であり、純然たる山川対応ではない。今井、久松、橋本の説などは早朝とまで言うが、他の朝説も含めて早朝に対応するのは夕方であって夜中ではない。夜中が確実な二つ目の反歌に対応させるなら、早朝ではなく日中が適するのではないだろうか。日中の谷間の鳥の声から夜中の川原の千鳥の声という流れとして読めるものであり、特に山と川、朝と夜という対応を考える必要はないであろう。ただし日中と夜中の対応はありえる。

 ところで赤人の長歌は、宮の周囲の山の青垣的な美と清い河内という空間美と、春の山の花と秋の川霧(吉野の名物)という季節美を述べ、山川の永遠性を比喩にしてこれからも大宮人は常に通うだろうという型どおりに近い宮ぼめをしたものだが、初めは天皇が統治する吉野の宮といいながら、最後は大宮人の行動で締めくくっていて、天皇の影は薄い。通説のように離宮の讃美であり、素晴らしい環境にある離宮に通うことを楽しんでいる雰囲気がある。ということは、反歌の二首は具体的に見る価値のある吉野離宮周辺の自然美を歌いあげたもので、長反全体として、いわば観光的な調子を帯びていると言うことではないだろうか。反歌二首の内容は離宮本体に直接した自然ではなく、それに付属する局所的な自然であろう。

 その局所的な自然は赤人の好みというより、当時そこに来た大宮人たちが共同でその美しい自然を楽しんだ場所であろう。それは巻六の巻頭の歌群にある吉野歌や他の吉野歌からも窺えよう。

 まず907番の笠金村。

  滝の上の三船の山…とがの木の…

これは長歌の冒頭から、宮瀧の南東川向かいの三船山のとがの木を持ち出す。反歌の二首は908番に「み吉野」とあるだけで、局所的と言える地名はない。或る本反歌でも「み吉野の滝の河内」「み吉野の秋津の川」「み吉野の滝の水沫」とあるだけで吉野川の地方名である「秋津の川」が目を引くが、場所的には局所的ではない。

 次に913番の車持千年。

    …み吉野の真木立つ山ゆ…川の瀬…朝霧…かわず…清き川原を見らくし惜しも

これは局所的な地名はないが、どこかの山に登ったようなことを言い、以下の内容は赤人に似ている。自分だけ見るのが惜しいというのは観光的である。反歌の914番で三船の山がでる。或る本反歌の二首はどちらも吉野川が出るだけ。

 次に再び笠金村の920番。

    …吉野の川…

例によって、川の清さ、千鳥、かわず、という吉野名物とも言える自然を出していつまでもと願っている。反歌二首も吉野の滝を出すだけで局所的な場所はない。

 次に923番の赤人。既出。ついで926番。

    …み吉野の秋津の小野の野の上には…御山には…馬なめて御狩りそ立たす春の茂野に

秋津の小野というのは今のどこか不明だが、離宮のあった宮瀧一帯と言われる。確かに小野も山もあるが、山頂まで含めてもせいぜい600メートル四方ほどで、馬を走らせて狩猟するほどの広さはない。よく分からない歌である。反歌は一首で地名なし。全体に自然美とは関係のない歌だ。以下の行幸歌群に吉野歌はない。結局、局所的なものとしては、象山、三船の山だけである。秋津の小野は離宮の周囲では余りに不自然で、対岸下流に面する御園かもしれない。巻六以外のも含めてすべての用例を見よう。

 三船の山、3-242、243、244、6-907、914、9-1713、10-1831

  242    弓削皇子遊吉野時御歌一首

  滝の上の三船の山に居る雲の常にあらむと我が思はなくに

  243    春日王奉和歌一首

  大君は千年に座さむ白雲も三船の山に絶ゆる日あらめや

  244    或本歌一首

  み吉野の三船の山に立つ雲の常にあらむと我が思はなくに

  907    養老七年癸亥夏五月幸于芳野離宮時笠朝臣金村作歌一首并短歌

  瀧の上の 三船の山に 瑞枝さし 繁に生ひたる 栂の木の いや繼ぎ繼ぎに 萬代に かくし知らさむ み吉野の 秋津の宮は 神からか 貴くあるらむ 国からか 見が欲しからむ 山川を 清みさやけみ うべし神代ゆ 定めけらしも

  (913)    車持朝臣千年作歌一首并短歌

  (参考)…音のみ聞きし み吉野の 眞木立つ山ゆ 見下ろせば …

  914    反歌一首

  滝の上の三船の山は畏けど思ひ忘るる時も日もなし

  1713    幸芳野離宮時歌二首(その一首目)

  滝の上の三船の山ゆ秋津辺に來鳴き渡るは誰れ呼子鳥

  1831朝霧にしののに濡れて呼子鳥三船の山ゆ鳴き渡る見ゆ

 象の中山1-70、象山6-924、象の小川3-316、332

  70    太上天皇幸于吉野宮時高市連黒人作歌

  大和には鳴きてか來らむ呼子鳥象の中山呼びぞ越ゆなる

  (923)    山部宿禰赤人作歌二首并短歌

  924    反歌二首(その一首目)

   み吉野の象山の際の木末にはここだも騒く鳥の声かも

  (315)   暮春之月幸芳野離宮時中納言大伴卿奉勅作歌一首并短歌 未逕奏上歌

  316    反歌

  昔見し象の小川を今見ればいよよさやけくなりにけるかも

  (331)    帥大伴卿歌五首

  332我が命も常にあらぬか昔見し象の小川を行きて見むため

夏実、9-1737、夏実の川3-375、夏実の川門、9-1736

  1737    兵部川原歌一首

  大滝を過ぎて夏身に近づきて清き川瀬を見るがさやけさ

  375    湯原王芳野作歌一首

  吉野なる菜摘の川の川淀に鴨ぞ鳴くなる山蔭にして

  1736    式部大倭芳野作歌一首

  山高み白木綿花に落ちたぎつ夏身の川門見れど飽かぬかも

他に、六田、宇治間山、吉野郡内の山々や川、があるが、吉野離宮からは遠く離れており、また不明のものもあり、今は除外してよかろう。

 行幸歌以外のは観光の歌らしいものばかりでそこにあがった地名は名所と言っていいだろう。今の上市あたりから宮瀧周辺までだとかなりの距離があるが、出て来る地名は少ない。圧倒的に多いのが、三船山の7つ、ついで象(きさ)関係のもの4つ、ついで菜摘(夏実)3つ、である。大滝も地名らしいが右岸の離宮の前面のようだ。三船山、象、菜摘はすべて左岸のもので、右岸は離宮の存在地の秋津、近くの大滝以外には見当たらない(狩猟の場の秋津は左岸のようだが、観光とは縁がない)。

 なぜ三船山が一番多いのか。その内容を見るとまず三首にわたって雲が詠まれ、一首に朝霧が詠まれている。離宮周辺はぐるっと山が取り巻いているが、やはり中でも三船山が雲や霧がよくかかったのであろう。ついで栂の木がよく茂っていたようだ。雲や霧と言い栂といい、深山の趣である。また滝の上ということも三首に詠まれ強調されている。宮瀧の離宮で最も注意を引くのが滝状の激流で、それに一番近い所にある山が三船山だと言うことになる。なお千年の長歌に、「眞木立つ山ゆ 見下ろせば」川の瀬がよく見えるとあるが、どうもこれは三船山らしいA。川向こうから見るだけで満足せず、中腹まででも登山したのではないだろうか。道らしいものはないが、私も薮漕ぎの要領でちょっとした見晴らしのいい所まで登った。眼下に宮瀧の川原が広がり、喜佐谷の上流までよく見え、上流下流の折り重なる山々も見えて、素晴らしいものである。これは三船山以外では無理だろう。地図で見ると宮瀧の背後(北方)の山は約380メートル、象山は約405メートル、三船山が約480メートルで、三つの山の中では高度も山全体の大きさ複雑さもずば抜けている。しかも滝に一番近い。恐らくちょっとした登山道ぐらいはあったかもしれない。

 象山は赤人しか歌っていないが、それと同じと思われる象の中山を黒人が、象の小川を旅人が歌っている。三船山の歌では呼子鳥が歌われていたが、ここでも赤人、黒人の歌で鳥が歌われている。吉野ならどこでも鳥は多かっただろうが、三船山から象山にかけては目立つほどに多かったようだ。旅人が象の小川を歌っているように、吉野川とは違った親しみやすい山間の小さい渓流で、まさに自然のまっただ中を味わうことが出来、旅人などの大宮人に愛されたのであろう。

 次の菜摘(夏実)では瀬、淀、滝状の流れというふうに形状が複雑だが、北に大きく湾曲した流れだから、瀬、淀が交互に出てくる地形ではあるし、宮瀧に向かって右に曲がる所などすでに滝状になっていたのであろう。残念ながら菜摘は車窓からは何度も見たが歩いた事はない。淀には鴨が鳴く。吉野川は水鳥も多かったようだ。そんな中で滝状のところが川戸になっているのが注目される。川戸というのは川が狭くなった所で渡渉地点にされやすいB。岩が露出する所だろうから、そんな岩から岩に木材を渡せば橋になる。宮瀧から東へ山の出っ張りを越したあたりだろう。つまり三船山への最短路である。そういう意味でも菜摘は印象に残ったのであろう。三船山や象山へ遊びに行くのに、恰好の通過点だったわけだ。

 赤人は、長歌で離宮の風光明媚な環境を讃美し、反歌で、具体的に、大宮人達の遊覧した、三船山の西隣の象山の谷間に分け入った(おそらく昼間)ところと、夜の吉野川の河原(おそらく菜摘の「清き川瀬」)という大宮人も体験したであろう興味深い夜景とを詠んだということである。

 全体として、観光の気分に充ちた歌と言えよう。

 

@伊藤博は釈注で、反歌二首目の川原は喜佐谷川の川原で、そこから一首目も喜佐谷川に入ったところだと言うが、象山の山の際の場所としてはいいとしても、二首目の川原を喜佐谷川であるとして、それを根拠にするのは無理であろう。ここの川原は通説通り吉野川とするべきだ。

A鴻巣全釈「芳野の山に登つて、謂はゆる清き河内を見下して、詠んだ歌である。反歌に三船之山とあるから、眞木立つ山とは三船の山をさしたものか。高きに登つて展望を喜ぶ心と、家を懷ふ旅愁とがあはれに歌はれてゐる。」

窪田評釈「「山」は反歌で、「み船の山」とわかる。標高四八七米あり、その辺りの高山である。」「その山は高い「み船の山」であり、そこに逗留していたとみえるから、果たして行幸の供奉としてであったかどうかを疑わしめるところがある。何らかの官命を帯びて、み船の山に逗留していた時の作かも知れぬ。」み船の山に逗留する官命などありそうもない。強いて言えば菜摘あたりに宿泊して宮瀧の離宮に通ったか。

B全註釈「夏身之川門…カハトは、河の兩岸が對して門戸のような感じの地形で、渡り場所などにいう。」

鴻巣全釈「夏身之河門…河門は河の渡るべき所をいふ。」

釈注「「川門」は渡し場。川の流れが浅く狭くなっていて歩いて渡れる所。」

皆同じ内容だが原文を引用しておいた。

    〔2023年11月26日(日)午後6時40分成稿〕