喜田貞吉著作集3 国史と仏教史、562頁、5400円、平凡社、1981.11.25
〔入力者注、底本の「出づ」「出づる」は明らかに仮名遣いの間違いなので、「出ず」「出ずる」に修正した。所々改行時の一字下げをしていないところがあるので一字下げした。喜田貞吉存命中に出版された明治時代の喜田の著書などを見ると、底本でヵとあるところはケになっている。よってこれはもとのケに修正した、ケをヵにする理由など毛頭ないからである。また当時の喜田の著書は改行による一字下げをしていない。これは底本のように一字下げをした方が読みやすいので底本に従った。ただし前述したようにいたるところでその原則を破っている。総体に凡例にない恣意的な変更が目立つ。〕
倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う
倭奴国および邪馬台国に関する誤解
御名代・御子代考――穂積先生の「諱に関する疑」について
継体天皇以下三天皇皇位継承に関する疑問
国司制の変遷
後淡海宮御宇天皇論
女帝の皇位継承に関する先例を論じて、『大日本史』の「大友天皇本紀」に及ぶ
中天皇考
河内野中寺金銅仏造像記の「中宮天皇」につきて
皇后宮と中宮との御称号について
道鏡皇胤論
藤原鎌足および不比等墓所考
藤原鎌足および不比等墓所考の追考
再び鎌足および不比等の墓所について、付冬嗣および基経の墓所について
弘法大師の入定説について
善光寺草創考
(5) 倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う
本誌第五巻第十一号における余が質疑〔1〕に対し、稲葉氏はただちに答弁一篇を草して本誌に寄せらる。文は載せて第六巻第一号にあり〔2〕。余はここにまず氏の熱心と忠実とについて感謝の意を表し、しかして氏の与えられたる反問に対し、いささか答うるところあらんとす。
氏は余の質疑に対して答えらるる前に、まず三ケ条の反問を提出せられたり。その(一)は、氏は漢代においてその国の使者のわが国内に来至せしという事実を知らず、よしや来至せざりしまでも、『後漢書』に見えたる奴国および倭奴国の名称の、なんら漢代の資料に著録されしを知るを得ず。この事実につき余の明答に接せざる以上、漢代において奴国なる地方名のかの土に知られしとは確認する能わずというにあり。その(二)は、余が『前漢書』の記事を証するに六朝人の史筆をもってして疑うところあらず、しかもかえって氏が隋末唐初の史料を援照するを忌避する理由いかんというにあり。その(三)は、余が漢人の知識のわが地方名に及べることの傍証として『魏志』の所録を援引せるは不審《いぶか》しとも不審しというにあり。
右に答うるに先だち、余はさきに余が氏に対して質疑を呈したる理由と態度とにつきて、氏の誤解なからんことを(6)求めざるべからず。氏の答弁を読むに、あだかも余が三宅博士に代りてその説を主張し、氏の反対説を論破せんと試みたるもののごとく解せられたるにあらざるかを疑わざるを得ず。余もと漢史のこれらの記事につきて知識浅薄なり。さればさきに三宅博士の新説の出ずるや〔3〕、もとよりその確実を保証するの材料を有せず、したがってこれをもって定説を得たりとまでは信ずる能わざりしかども、これを旧来の諸説に比してすこぶる勝れるところあるを思い、かつみずからその以上の説を出す能わざるをもって、ひたすらこれに敬聴したり。しかしてかくのごときはひとり余のみにあらざりしなるべく、氏もすでに認めらるるごとく、博士の新説を発表せられてより以来、「旧説は大方跡を斂めたるものの如」き姿となりしなり。しかるにその後約二十年を経て氏の新説〔4〕出ずるに及び、当面の博士はこれに対してなんら弁明さるるところあらず、爾来約四ケ年問、世またこれに関してなんら論議することなく、おのずから氏の説を黙認するがごとき状態とはなれり。しかも余は氏の所説に対し、曩記のごとき不審を有するがゆえに、博士の所説がこれがために根抵より覆えされたりとは思わず、氏の新説は、博士の所説以外さらに一異説を加えたりというのみにて、博士の説は依然として旧のままの威力を有すと信じたり。これ余が時機を失したるの感あるにかかわらず、あえて氏の高論を仰ぎしゆえんなり。もとよりもって氏の説を論破せんとにはあらず、ただ余の不審とするところが幸いに氏によりて明瞭に解決されたらんには、氏の新説は単に一説として存在するのみならず、さらに進んで学界の定説として認めらるべきものなれば、みずから揣《はか》らずその完きを氏に求めんとせしに過ぎず。しかるに氏は、余輩の不審とするところに答えらるる前に、まずもって余が予期せざりし前記三条の反問を提出せられ、さらにその本論に至りては、説いて余の聴かんとするところの肯綮に中らざるの感なき能わざるを遺憾とす。
さて、氏の反問の(一)たる、漢代において漢使の倭国に来りしを知らず、奴国および倭奴国の名称が、漢代の資料に見えざるがゆえに、漢代において奴国なる地方名がかの土に知られしとは確認する能わずとのことは、余にとり(7)て案外の感なくんばあらず。氏はここに「確認する能わず」という。余もまた実にこれを確認する能わざるなり。しかれども、「確認する能わず」とのことと、「知られ居らず」(本誌第一巻第一二号七八三頁)とのこととは、その間に論理上非常なる間隔あることを忘るべからず。しかも氏は軽々にこれを論断し、これを根拠として説を立つ。遺憾ならずとせず。余の前回の質疑のこれに及ばざりしは、事理あまりに明白にして、氏の答を煩わすの必要なかりしによる。しかるに今や氏の反間にあいて、この不必要なる事項にまで論及するに至れるを悲しまざるを得ず。
さらに氏は、漢使のわが国に来りし事実および漢代の資料に、倭奴国または奴国の名称の著録されたる事実につき、余の明答を促され、余の明答に接せざる以上は、漢代において奴国なる地方名がかの地に知られしとは確認する能わずとせらる。これまた余において案外ならずとせず。もしさる都合よき古史料あらんには、氏のいわゆる「議論もヘチマも無き事なり」にして、本来面倒なる問題は起らざりしなり。しかもこれなきがゆえにこそ、古往今来多くの学者を煩わし、今に至りてなお、氏と余とを労するなれ。余実に奴国の名称の漢代に知られし事実を確認する能わず。しかれども、「おそらくは知られたりしならん」と想像すべきだけの材料を有し、氏のごとく「漢代に知られ居らず」などと断言せんことは思いもよらざるなり。なんとなれば、漢代人の知識に上れるところは、楽浪海中に百余の倭人国あるの事実にして、しかもその百余国中のあるものは、現に歳時をもって来献見したるなり。この来献見したるものは統一したる倭人国そのものにはあらずして、百余の倭人国中のあるものなりしことは疑いを容れず。しかしてその来献見したる諸国の中に、果して問題の奴国が存在せしや否やを的確に証明せんは困難なれども、かの海岸にありて、海外交通の衝に当れる奴国の地が、またその中にありたるべしと想像せんは、むしろ当然のことというべく、氏のごとく、「伊都の如き、狗奴の如き、不弥の如き、はた奴の如き、幾多小地方の名の漢人の記録に上るを得たるは、正始中曹魏の使者の親しく我が国土を踏みたるの結果に出ず」と証言せんは、思いもよら(8)ぬことなりとす。再言す、漢時に来献見したるものは、統一したる「倭」そのものにあらずして、数多の倭人国中のある者どもなりしことを。しかるを何によりて奴国等の名が漢代に知られおらざりしと断言するを得んや。
なおさらに不審なるは、氏が余の『後漢書』の著者が倭奴国をもって倭人百余国中の一にして、その極南にあるものなりと認定せることを言えるに対して、これ余が「明白に後漢書を典拠として倭奴国の位置を確示せられしに外ならず」と断言せられたることなり。余の文中いずれの所にか、さる意味のことありや。『後漢書』の著者が倭奴国をもって倭人百余国中の一にして、その極南界にありとせるは、説の当否はとにかくこれ明白なる事実にあらずや。しかして余がこれを言うになんの不審かある。『後漢書』の著者は、『魂志』に倭人の数多の国名を列挙して、その最後に奴国の名あるを見、これをもってただちに倭奴国なりとし、その極南界なりといえるなるべし。しからばこれ明かに地理を誤れり。しかれども、彼が倭奴国を倭人国中の奴国と解せしことは明かにして、したがってこれを倭の奴国と読むことは、すでに范氏の時にありというべし。余実にこれをこれ言う。あえてこれを典拠として倭奴国の位置を云々せんとにはあらず。しかるに氏は、他の学説に関してかかる臆説を下し、その臆説より演繹して、余をもって『後漢書』が『三国志』の前にありとなすにはあらずやと疑わるるがごとき不安の念を抱かるるに至りては、余にとりて迷惑少からずとせず。
次に第(二)問において氏は、余が『前漢書』の記事を証するに六朝人の史筆をもってして疑うところあらず、しかもかえって氏が隋末唐初の史料を援照するを忌避する理由を詰問し、明教を求めらる。しかれどもすでに言うごとく、余は『後漢書』の記事をもって『前漢書』の記事を証せしことなし。漢代に倭人国中の諸小国が歳時をもって来献見せしことは『前漢書』みずからこれをいう。あえて他の証明を要せざるなり。ただ『後漢書』の著者もまたかく解したりとして、その説を強むるがための味方の材料とせしに過ぎず。されど、かりにこれをもって証拠となしたりと(9)せんも、ために氏の不満を感ぜらるるには当らぬことなり。『後漢書』の成りし六朝、宋代は光武中元を後るる約四百年、安帝永初を後るる約三百五十年なり。しかして『北史』の成れるはさらにこれよりも約二百年の後なり。しからば『後漢書』が後漢のことを記すると、『北史』がこれを記するとは、室町時代の著書が鎌倉初世のことを伝うると、江戸時代中葉の著書がこれを記するとの軽重いかんのごときものなり。もとよりその実質について問題は起るべきも、単に年代より言わば、前者が比較的多くの遺れる材料を有し、わが戦国時代にも比すべき六朝戦乱を経たる後の唐の学者が、史料に不自由を感じたるべきは言わずして明かなり。しかるに氏あえてこれをもって不満とす。余実に理解に苦しまざるを得ず。
最後に第(三)問において、氏は、さらに解し難き一節ありとして、余が倭奴国を倭の奴国と読み得べきことの例証のために『魏志』の弁辰諸国の名を掲げたるを難ぜられ、不審《いぶか》しとも不審しとまで切言せらる。余において実に不審しとも不審しきことなり。弁辰諸国の名称が、いつのころよりかく記述せられしかは、これを知らずといえども、『魏志』の記事のかく精細なるを致ししは、景初二年以後のことなりとは氏のすでに認めらるるところなれば、しばらくこの説に従わんに、問題に上れる光武中元二年は景初二年に先だつわずかに百八十年、安帝永初元年は百三十年なり。今をもって宝暦、明和もしくは天明、寛政のころを見んがごときのみ。千八百十年ないし千八百六十年前のことを例証せんに、これを距るわずかに百八十年ないし百三十年前の史実をもってしたりとて、あえてかくはなはだしく不審がらるるにも及ばざるべし。ことに余がこれを引用せる趣意は、氏が漢制には宗主国を認めて属国を認めずというに対して、余は漢時代において彼は倭なる統一したる宗主国の存在を認めず、倭人百余国皆別々の独立国と認められたりしものなるべければ、倭の奴国と続けたりとて、それが倭なる宗主国の下に属する奴国という意味にてはなく、倭人国中の奴国ということ、あたかも『魏志』に弁辰国中の数国を記するに、弁辰何々国と書きたると同一なるべし(10)と言えるに過ぎざるものなれば、余において毫末の不審を感ぜざるなり。すでに漢時代において倭人国に百余の独立国あることが知られ、そのあるものが歳時をもって来献見し、しかして後漢光武の時に来聘したるものを倭奴国といい、魏の時代に倭人国中に奴国あることが知られ、その時代に弁辰の諸国を弁辰何々国と連称する実例ありて、『後漢書』の著者は『魏志』が奴国の名を重出して、その位置を倭人国中の最南に置けるにより、いわゆる倭奴国をもってこれに当て、倭国の極南界なりと断定せるなど、かく多くの道具立が具備せる場合において、これを倭の奴国と読むべからずと断定せんは、氏の本誌第一巻第十二号に掲げられたるところのみにては不足の感あり。これ余があえて質疑を提出せしゆえんなり。
以上ほぼ氏の反問に対して所見を開陳す。以下ついでをもって、いささか氏の賜りたる高論につきてさらに腑に落ちぬところを記述すべし。
第一に氏は古本『後漢書』及び古本『通典』は倭面土国もしくは倭面国とあるを、普通の刊本に倭国に作れることにつきて、価値の批判容易ならずとし、通行刊本『通典』の価値必ずしもことごとく北宋刊本の下にありとは速断し難かるべく、『釈記』引『後漢書』に倭面とあるものも、通行刊本に倭国とありて、これまた当不当の問題にあらずと言わる。不審なきにあらず。通行刊本にいわゆる倭国が倭面土国なるの考証は、内藤湖南博士すでに『芸文』においてこれを発表せられ〔5〕、その後氏はほとんど同一の筆法をもってこれを本誌上に再説せられたるものにて、余は実にこの貴重なる両論文によりて有益なる知識を得たりしなり。ことに氏は本誌(第一巻第一二号)において、他の古書に倭面上国または倭面国とあるは、北宋刊本『通典』により、正しくは倭面土に作るべきことを立証せられおるなり。しからば後出の書に単に倭国とあるものは、その倭面土の省略、もしくは誤脱と解せざるべからず。しかれども今かりに両者の価値容易に軽重すべからず、一に倭面土とあるを、他に単に倭といいたりとせんには、これは例えばシナ広東(11)の人の持て来りたることを記して、甲は広東人来るとなし、乙はシナ広東人来るとなし、丙は単にシナ入来るとなせるがごとき類ならんのみ。この場合において誰かシナすなわちこれ広東なりと言うものあらん。倭奴国の場合においてもまた然《しか》なり。『魏志』のごとく単に奴国と書くも可なり。『後漢書』のごとく倭の奴国と書くも可なり。他の場合においてこれを倭国もしくは倭人と記するまた可ならざるべからず。しかしてこれただちに面土国の場合に応用すべく、これを倭の面土と書くもとより可なり。単にこれを倭国と書きたりとしても、またなんの不可かあらん。
氏はまた如淳が『漢書』の註を引きて、倭面の二字は必ず連続すべきものなることを言わる。しかれども、これまた一考を要すべきものにあらざるか。この条における如淳の註、巨※[王+贊]の解、師舌の説、皆ともに解釈に苦しむものなり。氏のごとく然《し》かく単純に解せざるべからざるにあらず。思うに如淳は、帯方の東南に如墨・倭面等の国あるを聞き、これを楽浪海中なる倭人の下に註したりしものかも知れず。如墨は倭人国の一なりや、あるいは倭国の方角にありとして知られたる裸国・黒歯国の類なりや、いまだこれを明白せざれども、ともかく如淳の註は、かの当時彼らの知識に、倭人国中倭面土(倭面、精しくは倭面土たるべしとの氏の説に従う)なるものの存在を知りしことを証するに足るべく、倭面すなわちただちにこれ倭なりとの託にはならざるなり。したがってこれを連続せざるべからざる理由なし。なお言わば、同じ倭国中にありて、二者以上の名のものには、必ずしも常に倭字を冠するに及ばず、ただその一音のものにありては、発声の便宜上しばしば倭字を冠せしめたるものなりや、また知るべからず。『日本紀』に二字名の法師には別に「僧」字を冠せざるも、旻法師のごとき一字名のものには、常に「僧旻」として、他と称呼の例を異にするものあるを思うべし。されば、奴国、面国(精しくは面土なりとの氏の説はあれど、普通に略して面国とのみ呼びし場合多かりしならん)のごとき一音のものには、便宜上倭奴国・倭面国などと呼びし場合の多かりしものなりやいまだ知るべからず。しかして面土国と二字に呼ぶ場合にもまた倭字を冠するを妨げざるは、弁辰何々国の例をもって知るべき(12)なり。
要するに漢時代においては、倭人国百余に分れて統一なく、したがって彼においてはその中に宗主国の存在を認めざりしなり。そほ『前漢書』「地理志」の「分為百余国、以歳時来献見」記事および、『魏志』の、「旧百余国、漢時有朝見者」の文によりて明かなり。歳時をもって来献見するものは倭の宗主国にあらずして百余国中のあるものなり。漢時に朝見したるものまたその百余国中のあるものならざるべからず。女王国が宗主国らしきものとして彼に知られしは魏の時たり。しかるに氏は、魏の時の事実をもって漢時に及ぼし、宗主国・属国云々の説をなす、氏のいわゆる三国時代の史料をもって、明かに百余国分立を認知せる漢代を論ぜんとするものにて、不審しとも不審しといわざるべからず。
次に氏は、終りに臨み一言すべきことありとて、余が倭奴国王印の出処がいわゆる奴国に近ければとて、三宅博士の「倭の奴国説は今尚威力を有す」となせりとなし、手厳しくこれを駁せらる。しかれども、余は決してかくは言わざるなり。余が三宅博士の説なお威力を有すとせるは、明かに「以上二点の不審ありて余いまだ稲葉君の新説に左袒する能わず」との理由のもとに公言せるなり。幸いに拙文を熟読し給うところあれ。
最後に氏は付記として『後漢書』に倭といい、倭奴といい倭面土といい、その記載の区々なるは、たまたまもってこの書の採録せる資料の原始的価値を示すものなりとして、文字の形式に捉われず、適当なる判断を下すを可なりとせらる。全然同感なり。しかして余は同感なるがゆえに、倭奴と倭面土と同一なりとの証明なき以上、両者を同一なりとするを適当ならざるものと判断するなり。また氏は、かかる細条の明記ありたらば、そは議論もヘチマもなきことなりと言わる。余また全然同感なり。しかしてその明記なきがゆえに余は論じてその真相に近づかんとするなり。この理由によりて氏は余が質問中のこの一節の答弁を回避せらる。しかして余はこの理由によりて、倭奴国すなわち(13)倭面土国なりとの説の尚早なるを認む。いわんや百余国を概括せる倭国の名称をもって、また倭奴または倭面土と同一なりとせられんとするをや。
以上氏の反間に答うるついでをもっていささか弁じたるのみ。余がさきに氏に質したりしところにつきては、氏の今回の答弁により、氏の真意を知るを得たるに満足して、もはや再説を請わざるべし。しかして余はここに、氏の弁明を聴くことによりて、さらに安心して三宅博士の所説に左袒するの自信を得たることを明言して筆を描く。妄言多罪。 (九月一九日記)
〔入力者注、初出『考古学雑誌』第六巻第二号、大正四年一〇月〕
(14) 倭奴国および邪馬台国に関する誤解
考古界の重鎮高橋健自君逝かれて、考古学会長三宅先生の名をもって追悼の文をもとめられた。しかもまだ自分がその文に筆を染めぬ間にその三宅先生がまた突然逝かれた。本当に突然逝かれたのだった。青天の霹靂というのはまさにこれで、茫然自失これを久しうすということは、自分がこの訃報に接した時に真に体験したところであった。
自分が三宅先生と衡懇意を願うようになったのは、明治三十七、八年戦役のさい、一緒に戦地見学に出かけた時であった。十数日間いわゆる同舟の好《よし》みを結び、あるいは冷いアソベラの上に御同様南京虫を恐がらされたのであったが、その間にもあの沈黙そのもののごときお口から、ポツリポツリと識見の高邁なところを承るの機会を得て、その博覧強記と卓見とは心から敬服したことであった。今度考古学会から、先生の御研究を記念すべき論文を募集せられるというので、倭奴国および邪馬台国に関する小篇を呈して、もって先生の学界における功績を追懐するの料とする。
史学界、考古学界における先生の遺された功績はすこぶる多い。しかしその中において、直接自分の研究にピンと来たのは漢委奴国王の問題の解決であった。承ってみればなんの不思議もないことで、それを心づかなかった方がか(15)えって不思議なくらいであるが、そこがいわゆるコロンブスの卵で、それまで普通にそれを怡土国王のことと解して不思議としなかったのであった。さらに唐人らの輩に至っては、それをもって邪馬台国のことなりとし、あるいはただちに倭国全休の称呼であるとまで誤解していたのだった。『北史』に、
邪馬台国即※[人偏+妥](倭の誤りか)王所v都。漢光武時遣v使入朝。自称2大夫1。安帝時又遣2朝貢1。謂2之※[人偏+妥]奴国1。
とある。『隋書』またこれに同じい。さらに『旧唐書』や『唐書』に至っては、
倭国者古倭奴国也(『旧唐書』)
日本古倭奴也(『唐書』)
などと、最も露骨にこの誤謬を直書しているのである。しかして『宋史』以下、それをそのまま踏襲していることは言うまでもない。
案ずるに、シナ人わが国の事情に暗く、不完全なる当時の知識をもってみだりに古史を解釈し、世を逐うて誤解を重ねている。わが国の学者また往々その事情に暗く、かの史籍を読んで常にその文字章句の末に捕われ、ために正当の判断を誤る場合が少くない。いわゆる邪馬台をもって大和に擬し、はてはいわゆる狗奴国をもって、遠く東方毛野国に当てんとするがごとき説の出ずる、皆これがためである。
シナ人は南北朝以来呉と交通したわが大和朝廷をもって、漢魏時代の倭人国の延長だと思っていた。しかしてこれを呼ぶに同じく倭国の称をもってした。邦人またその名を踏襲し、宋と交通するに当って倭国王の号を用いたほどであった。かくて『日本紀』著者のごときもむろん邪馬台国をもって日本国なりと解し、その女王卑弥呼を神功皇后に当てて年代を推歩し、あえて疑うところがなかったのである。この間にあってただひとり『旧唐書』が倭と日本とを別国となし、倭はすなわち古えの倭奴国で、日本は倭の別種であるとなし、日本後に倭国の地を併したとの説を収め(16)ていることは、その倭国をもって倭奴国となすの説以外は従うべく、かの地にもなお後まで正しい古伝の存したことを示したものである。日本はもちろん漢魏時代のいわゆる倭とは違う。漢魏時代にシナ人の見てもって倭となしたものは主として九州地方のことで、その以外同種の国の東方にも存したことは知っていても、それは直接彼と交渉を有しなかったがために、史籍のこれに関する記事を伝うるなく、ただわずかに、『魏略』において、「海を度《わた》る千里復国あり皆倭種」との一句を止めているのみである。ここに海を度る国とはもちろん中国、四国地方のことで、ここにかつて九州倭人文化と同一の文化の行われていたことは、今では考古学からも立派に証明せられるところであり、後出の『魏志』がその文を取って、「女王国の東海を渡る千余里復国あり」と改めてある所は、位置についてさらにその要を得たものといわねばならぬ。
いわゆる倭国は『漢書』にいわゆる倭人百余国の総称で、もと統一した国家をなしたものではない。したがってかの史にいうところの倭奴国、すなわちわが史にいわゆる儺県《なのあがた》は、もとその百余国中の一国たるに過ぎないのである。儺県の要津これを那津《なのつ》という。古くこれをナガツと呼んで、その持格をあらわす「ガ」のテニハがついには地名の一部となり、「斉明天皇紀」にはこれを長津と書いてある。かくてついには後の那珂郡の称ともなったが、要するに今の博多地方のことであったにほかならぬ。しかも『後漢書』がその奴国を倭奴国といったのは、『通典』に同じ倭国内の一国王を倭面土地王といい、『釈日本紀』引『後漢書』にその国を倭面国に作ってあるのと同じことで、倭国中の奴国というほどの義であるにほかならぬ。その「奴」というがごときいやな文字を用いたのは、古来シナ人の悪い癖で、彼らはみずから中華をもって任じ、諸外国のことについては殊更に賤しき意味の文字を択んで当てたにほかならぬ。かの北狄を呼ぶに匈奴の文字を用いたり、わがヒナモリ(夷字)を卑奴母離、ヒミコ(姫子か)を卑弥呼と書くの類、皆これである。されば奴国の文字またその一例たるに過ぎないが、しかもたまたまそれを倭の名と連称して「倭(17)奴」と書いたがために、後人これをもって倭人を賤めたる語となし、あるいはこれをもって邪馬台国の称なりとし、はては倭国そのものをもって、ただちに古えのいわゆる倭奴国なりと解するに至ったものであろう。ことに一方には北狄に匈奴の名あるにおいて、匈奴に対する倭奴の称は、俗耳に最も都合よく響いたものであったに相違ない。もちろんその誤解なるべきことは、一とたび『後漢書』『魏志』等を繙いてこれを精読すればたちまち諒解さるべきものなるにかかわらず、後の国史の編纂者までが、世俗の誤りに囚われて先入主となり、ついにこの誤りをあえてするに至ったのであるに相違ない。ことにそれがひとり唐人を誤ったばかりでなく、邦人またこれを疑わずして、真面目に弁解を試みんとするものあるに至っては、滑稽もまたはなはだしといわねばならぬ。『釈日本紀』に、「唐国我が国を謂つて倭奴国となす、其義如何」との問を設けて、「此の国の人昔彼の国に到る時、唐人問うて曰く、汝が国の名如 に
何と称する。自ら東方を指して答へて曰く、和奴国《わぬく》やと云云。和奴は猶我国と言ふが如し。それより後之を和奴国と謂ふ」などと、噴飯にも値せぬ珍説を述べてある類これである。
『魏志』はさすがに奴国をもって、当時使駅彼に通ずるところの三十国中の一として、倭奴国などという名称を用いておらぬ。しかし『魏志』の著者といえどもなおわが国の事情にくらく、倭国と女王国とを混同した嫌いあるを免れぬ。女王卑弥呼はけだし邪馬台国の女王であって、必ずしも倭国全体の王という次第ではなかったであろう。『魏志』に卑弥呼を倭女王といい、あるいは倭王といっているのは、『日本紀』引「晋起居注」に、卑弥呼の後の女王と思わるるものをやはり倭女王と書いてあるのと同じで、一般的に倭国の名をこれに冠したものと解すべく、必ずしも倭人国全体の女王という意味ではなかったであろう。しかもその卑弥呼の死後、また女子を立てて王となすとあり、晋の代に至っても倭の女王貢献したとあって見れば、これに女王国の名を命じたに不思議はなく、ことに神功皇后西征のさいにまで、山門県《やまとのあがた》の土蜘蛛田油津媛を誅せられたとあるその山門県が、すなわち古えの邪馬台国であって、神(18)功皇后のころまでもなお女王をもって継承していたのであったとすれば、『魏志』がこれを女王国といったのもまさにしかるべきことであったであろうが、しかしそれは邪馬台国のことであって倭国全体のことではない。もっとも魏のころには、当時魏に知られた倭人三十国のうち、狗奴国以外は皆女王国に属すとあり、倭国乱れて相攻伐すること年を経たについて、諸国相ともに一女子を立てたというのであるから、当時にあっては邪馬台国の女王卑弥呼が九州北部諸国の上に覇者の地位に立っていたことでもあろうが、それは後に筑紫国造磐井が、火筑豊三州を掩有したとあるのと似た現象で、必ずしも他の諸国王の上に君臨したと解すべきものではなかろう。
なお『魏志』の著者は、その当時の知識をもって、過去の史料を案配し、著しい過誤をあえてしている。しかしてそれが今日のわが学界にまでとんだ迷惑をかけていることは、著者の思い設けぬことであったであろう。『魏志』に投馬国および邪馬台国の位置を記して、不弥国より南水行二十日にして投馬国に至り、さらに水行十日、陸行一月にして邪馬台国に至るとあるがごときこれである。著者陳寿は晋代の人で、当時はすでに『旧唐書』言うごとく日本が完全に倭国を併合した時代であった。したがって著者の頭に映ずるいわゆる倭国は、おそらく大和朝廷のことであろう。少くも大和に至る道程が、晋に知られていたに相違ない。九州なる倭国交通のシナの史籍に見ゆるもの、西晋武帝泰始二年に倭の女王の使者の晋に到れるを最後として、爾後約百五十年間全く消息を断っている。しかして東晋安帝義熙九年に至って、再び倭国方物を貢するの記事があるは、名は同じ倭国であっても、これは明かに大和朝廷のことで、『日本紀』にも仁徳天皇の御代に呉国朝貢すとある、その時代の事件であろう。しかして『魏志』の著者陳寿はこの大和と邪馬台国とを混同して、その位置を『魏志』に書いているのである。すなわちかの記事の中において、九州北岸の博多なる奴国より東行百里にして不弥国に至り、その不弥国より南行して投馬国に至り、さらに南行して邪馬台国に至るとの方位は正しいが、これに関する日程は間違っている。投馬国の所在今これをつまびらかにするを(19)得ぬは遺憾であるが、その邪馬台国が疑いもなく『日本紀』にいわゆる山門県であり、後の筑後山門郡に当るとすれば、その方位の大体において南行というに相当する。この山門郡の地がかつて一の有力なる倭人王の根拠地であったことは、日本において現在知られたる六ケ所のいわゆる神籠石大遺蹟の一が、ここに存することからでも察せられる。しかるに陳寿はさらにそのここに至る道程を記して、不弥より投馬に到る水行二十日、投馬より邪馬台に到る水行十日、陸行一月と言っている。しかしかくのごときの地は九州北岸から南行してとうてい求め得らるべきではない。しかも陳寿は単にその道程の数から割り出して、これを会稽東治の東にありとするがごときはなはだ間違った計算をしているが、これはその基本たる数字の誤謬を受けた結果たるにほかならぬ。ここに水行二十日といい、水行十日、陸行一月というものは、九州北岸から大和に到るの道程を混同して記述したものであるに相違ない。陳寿の記した邪馬台国に到る途中の投馬国は、おそらく山陰道の但馬であって、九州北岸から日本海岸を経てここまでが水行二十日であり、それよりさらに水行十日にしておそらく敦賀に到り、さらに陸行一月にして大和に到るとの晋時代の新知識と、南行投馬に到りさらに邪馬台に至るとの魏時代の旧史料とを、軽率にも綜合して、かの文は出来たものと察せられる。かくて後の学者がこの道程の記事より推して、その南行とあるものをもって東行の誤りなりとし、ために邪馬台国をもって畿内の大和に擬せんとするものあるは、いちおう無理ならぬことといわねはならぬ。
さらに『後漢書』に至っては、いっそうその混同を濃厚に示している。この書はその記述の史の年代は魏の前にあるが、しかもその著者范曄は宋代の人で、その記事多く前出の『魏志』を踏襲しているのである。宋の時代には倭国すなわち大和朝廷との交通がしばしば繰り返されて、著者范曄の脳裏に描出した邪馬台国が大和であったことは毫頭の疑いを容れない。ここにおいてか彼は明かに大倭国は邪馬台国にありと記し、その位置が九州地方よりは遥かに東にあることを熟知するがゆえに、『魏志』に狗邪韓国をもって倭国の北岸と書いてあるものまでも、『後漢書』にはわ(20)ざわざ改めてその西北界となし、また『魏志』には女王国の東千余里に倭種の国あるをいい、また別に女王の境界尽くるところの南に狗奴国があって、女王国に属せず相攻争するの状を記してあるのを綜合して、『後漢書』には、女王国より東海を渡る千余里にして狗奴国に至る、皆倭種といえども女王に属せずなどと、飛んでもない間違いを重ねているのである。ここに范曄の描いた狗奴国とは、ある論者の解するごとく毛野国であったかも知れぬ。崇神天皇の皇子豊城入彦命出でて毛野国に鎮り、子孫上毛野君、下毛野君としてあらわれた事実はこの推測を可能ならしめる。
降って『北史』以下に至っては、漢武帝の時に使を遣わして入朝した倭人をもって、邪馬台なる※[人偏+妥](倭の誤り)王となし、安帝の時に朝貢した倭面土地王(あるいは倭面また倭面土に作る)をもまたこれと混同し、引っくるめてこれを倭奴国というなどと記し、しかもそれをもってただちに後の倭国、すなわち大和朝廷のこととなすがごとき、沙汰の限りの間違いを平気でやっているのである。その以後の史がその誤りを重ねていることは言うまでもない。
倭奴国をもって邪馬台国なりとし、さらにこれを大和朝廷と混同してわが帝国の称となすの説は、ひとり唐人のみならず、わが国の学者また真面目にそれを信じていたのであった。今に至ってもシナ人、朝鮮人の中には、邦人を悪罵する場合にしばしばこの称を用いることがある。わが近世の学者はさすがにそんな馬鹿げたことを信じないが、その代りに漢委奴国王印が発見せられて以来、委奴の二字をイトと読み、これを『魏志』にいわゆる伊都国、すなわちわが古えの怡土県のこととなし、光武帝の時に交通した倭奴国王をもって、怡土県主なりとする説が行われるに至った。しかるに三宅先生の卓見によってその誤解が一掃せられるに至ったのは、たしかに明治学界の大きな獲物であった。しかもなお今に至って邪馬台国をもって大和なりとする説を信ぜんとするもののあるのは遺憾である。日本と倭とは違う。大和と邪馬台とは違う。『旧唐書』が日本と倭国とを別ち、日本が倭を併すというのは正しい伝である。学者すべからくその誤り来ったゆえんについて考うべしである。
〔入力者注、初出『考古学雑誌』第二〇巻第三号、1930.3〕
(23) 御名代・御子代考――穂積先生の「諱に関する疑」について
一緒 言
古代高貴の御方々がその御名を後世に伝え給わんがために、御名代《みなしろ》または御子代《みこしろ》と称する民を置き給いしことについては、「記紀」の二書これを明記し、先輩のこれに関してその説を発表せられたるものまたすこぶる多く、いやしくも多少国史に通暁せるものの、ひとしく知悉せるところなりとす。しかして今さらに余輩のこれについて云々せんとするは、いささか蛇足に類するの嫌いなきにあらざれども、この間なお多少疑義の存するものなきにあらざるがうえに、近く法学博士穂積陳重先生の、『帝国学士院論文集』(邦文第二号)において発表し給える、「諱に関する疑」の中に、御名代・御子代に関する従来の諸説を破し給える新説の、時に多少管見と相容れざるものなきにあらざるがゆえに、このさい平素抱懐するところを披瀝して、先生ならびに大方諸賢の高論を請わんとはするなり。
御名代・御子代については、従来諸学者のその説を発表せられたるもの、近く穂積先生の引用し給えるもののみにても、本居・屋代両翁、小中村博士、和田英松氏、ならびに『日本百科大辞典』(岡部精一氏執筆)等の諸(24)説あり。このほかなお少きにあらず。なかんずく近く『百科大辞典』「御名代」条下の説(三浦博士・岩橋小弥大両氏執筆)は、簡単にしてその要を得たるものなれば、左に摘録してこれが説明に代うべし。
御名代 上古の皇室及皇族所有部民の一にして、天皇・皇后又は皇族の御名を冠したる部曲。我国の上古記録の未だ備はらざりし時に当りて、天皇・皇后又は功業の顕著なる皇族の御名を後世に伝へんが為に、其御名を負はしめたる部曲を設け、これを御名代といへり。皇子・皇孫のましますときは、それによりて自ら其父祖の御名を記念することを得れど、これなき時は御名代が其の名を記念すること、恰も子孫が其御名を記念するが如きものあるを以て、かかる場合にはこれを御子代ともいふ。御名代と御子代とは、畢竟名称の異なるのみにて、其実相同じ。御子代の名史上に見えたるは、古事記中巻垂仁天皇の条に、「次伊登志和気王者」とあるを初見とし、御名代は同書下巻仁徳天皇の条に、「此天皇之御世為2大后石之比売之御名代1定2葛城部1」とあるを初見とす。然れども其実は既に、景行天皇紀四十年日本式尊崩御の条に、「因欲v録2功名1即定2武部1」と見えたり。御名代は歴朝これを置かれしものにて、孝徳天皇紀大化元年九月の詔に、「自v古以降毎2天皇時1置2標v代民1、重2名於後1。」とあり。而して此御名代及御子代は、大化の改新に至りて全く廃せられたり。
また同書中岡部氏執筆の「名」の条下にもこれに説き及ぼして、
君主の名を避くる事は、上世には全く此風なかりしのみならず、御名代又は御子代とて、勲功ありし皇子などの御名を一定の土地又は人民に付して、永く後世に伝へしむる事さへ行はれたりしに、大化改新に御名代・御子代の民及部曲を廃せられて、此事止みたり。といえり。この両説は簡単ながらもほぼ従来の諸説を代表するものといい得べきに似たり。しかして余輩も大体において、今なお同意を表するものなり。
(25) しかるに穂積先生は、近く「諱に関する疑」を発表して、わが邦に太古実名敬避の俗ありしことを説き、御子代・御名代のことにも論及せられて、結局御子代・御名代は実名敬避の俗に反せず、その大多数は避称にして、御実名を付せられたりと思わるるものはわずかに一、二に過ぎず。それも名の一部を称し、または御幼名を呼べるものにして、「いみ名」の反対習俗の証となすを得ずと論断し給えり。
先生の論文は貴重なる新研究として、余輩後進のこれに由りて啓発せられたるもの少からず。しかれどもそのうち実になお二、三のいかがと傾き思わるるものなきにあらず。本編御名代・御子代に関するもののごときまたその一なり。すなわち旧説を祖述し、左に管見のあるところを吐露せんとす。
二 名を重んずるわが古風と御子代・御名代
生時その名の世間に伝称せられ、死後なお永くこれを後葉に伝えんとするは人の情なり。名を重んずる、ひとりわが古風のみにあらざるは言うまでもなけれども、特にその祖の名によって家を伝うるがごとき、いわゆる氏族制度の発達したるわが古代において、その思想のことに盛んなりしことは、容易に想像し得らるるなり。
これを古史に徴するに、允恭天皇は衣通姫を異愛し給うあまり、その名を後葉に伝えんと欲すと詔して藤原部を置き給い、武烈天皇は御子おわさざりしにより、何をもってか名を伝えんと嘆じて、小泊瀬部を置き給い、清寧天皇は御子なきを恨み給いて、諸国に白髪部を置き給い、安閑天皇また」朕四妻を納れ今に至って嗣なし、万歳の後朕が名絶えんと憂い給いて、種々の屯倉を置き給いしの類、その所見すこぶる多し。
古代、文字なく、またこれあるに至りても、その用いまだ周ねからざる時代にありては、たとい語部《かたりべ》の故事を語りつぐものありきとするも」おのずからその範囲は特別の家系、特別の事項に限られて、一般には子孫がその家系に関(26)して、父祖の事蹟を語りつぐことによりて、その名後世に伝えらるるものならざるべからず。されば一天万乗の君にありてすら、御子孫おわさぬ場合には、その御名の絶えんことを憂い給うこと前記のごとし。ここにおいてか御子代の習慣は起れるなり。
しかれども、その卸名を物に寄せて後世に伝えんとすることは、ひとり御子なき場合にのみ限らず。日本武尊のために武部を置き給えることはさらにも言わず、その生みの御子三柱まで天位に即き給える磐之媛皇后の御為にすら、葛城部を定め給うの類、史上またその例多し。ここにおいてか御名代の習慣は存す。御子代も畢竟御名代の一部にして、通じてはこれを御名代と称す。『古事記』清寧天皇の条に、この天皇皇后なく、また皇子なし。ゆえに御名代として白髪部を定むとあるは、明かに御子代なるべきものなり。
御子代・御名代以外にも、名を物に寄せて後に伝うる方法は種々あるべし。『出雲風土記』に、素箋鳴尊がわが名は木石に着けじと詔り給いて、御魂を鎮め置き給いしところ、すなわち須佐郷にして、大須佐田・小須佐田を定め給うとあり。田を定むということ、すこぶる御名代に類すれども、わが名は木石に着けじと詔り給いて、土地に着け給いしところ、やや趣を異にするの観あり。垂仁天皇が御父|御間城《みまき》天皇の御代に来聘せる大加羅国に、天皇の御名を負わせて「ミマナ」の国名を与え給いしもの、また然《し》かなり。これらはいずれもその実いわゆる地名伝説なるべく、史実として承認し難きに似たれども、人名を土地に付して後に伝うる風習の古く存せしことは、これらの伝説あるによりても十分これを認むるを得べきなり。
あるいは直接その名を負わずとも、ある特定の事物によりて、その事蹟を伝え、間接にその名を存する場合また少からず。継体天皇が太子の妃春日皇女のために匝布《さほ》屯倉を賜い、安閑天皇がその三皇妃に、小墾田・桜井・難波の屯倉を賜えるの類これなり。これらはいずれも直接に皇妃の御名を示さざれども、御子代の屯倉として生前にはその所(27)領に帰し、後世までもその由緒が土地について語り伝えらるべきものなれば、おのずからその名はこれによりて永く保存せらるべきなり。
なおここに考うべきは、「記紀」に武烈天皇の御代までは、御名もしくは御名の一部を負える民を置き給いて、いわゆる御名代の実を示すの記事あれこれ見ゆれども、継体天皇以降は、絶えてかかる例を見ざるの一事なり。これけだし、あるいは諱に関するシナの思想輸入せられて、直接高貴の御名を呼ぶことを避くるに至りしにはあらじかと察せらる。この継体天皇の御代には、九州北部火・筑・豊の地を奄有して威を西域に振いし筑築国造磐井を滅ぼして、皇威大いに西に波及し、このさいシナ思想の特に多く輸入せられたりしものありしにてもあらんか。磐井はけだしシナの古史に見ゆる倭人王の類にして、有名なる女王卑弥呼の後に出で、卑弥呼に比すべき勢力を有せしものなりき。彼らが多くシナの文物を輸入したりけんことは、ただに『魏志』等の記事これを示すのみならず、遺物・遺蹟また明かにこれを証す。特に『筑後風土記』の記事によりて磐井の寿墓と信ぜらるるものは、壙に隧道あり、墓域に石人・石馬等ありて、わが帝王陵の制と、シナの帝王陵の制とを兼ね有する状態にあり、もってそのいかにシナ思想が多く輸入せられたりしかを想像するに足るものあるなり。しかしてこの御代にこの倭人王国は最後を告げ、次の安閑天皇の御代には、ここに多くの屯倉さえ置かれしほどなれば、このころより諱に関するシナ思想がわが皇室の間にも波及し、ために御子代を置かるる場合にも、特にその名を直接に呼ぶを避け給うに至りしものにてもあらんか。しかるに穂積先生は、この安閑天皇が三妃に屯倉を賜わりたる記事を引用し給い、「因v物為v名とありながら、天皇の御名をも、妃の御名をも之に負せられざりし理由を了解するに苦まざるを得ず」といぶかり給い、「或は三妃の為に置かれたる屯倉に依りて間接に天皇の御名を記念するの目的たりしやも知るべからず」と推測し給いしが、余の信ずるところはいささかこれに異なり。小墾田・桜井・難波の三屯倉は、三妃の御子代として与え給いしものにして、天皇の御(28)名のためにはあらず。直接には三妃を記念すべきものなるべし。されば皇后の御ためには、別に摂津三島の県主飯粒が奉りたる三所の屯倉あり。初め大河内直味張をしてこれを献ぜしめんとし給いLも、味張これを惜しみしかば、飯粒のをもってこれに代え給いしがごとし。また天皇の御子代としては、他に多くの屯倉を置き給いき。その『日本紀』に見ゆるもの、二年五月の一挙のみにても、二十六の多きに達す。これらいずれも御子代の意義を名に示さず。しかれども『日本紀』に見ゆるこれらの屯倉の名が、果して設置当時のままなりや、あるいは後に改まりしものもありやは明かならず。あるいは『日本紀』編纂当時の名をもって、これを呼びしものもあらんか。その名称はいかにもあれ、少くもそのあるものが御子代として置かれたりしことについては古書その証明あり。しかしてその御子代なることによりて、天皇・皇后・皇妃の御名・御事蹟を保存せしものなるべし。何によりてかこれを言う。この御代に置き給える屯倉数多あるが中に、播磨の越部屯倉というあり。しかるにこれを『播磨風土記』に見るに、揖保郡越部里の条に、
越部里【旧名皇子代里】土中々。所3以号2|皇子代《みこしろ》1者、勾宮天皇(安閑天皇の御事)之世、寵人但馬君小津蒙v寵、賜v姓為2皇子代君1。而造2三宅於此村1、令2仕奉1之。故曰2皇子代村1。後至2上野大夫1、結2卅戸1之時、改号2越部里1。
とあり。この越部里なる皇子代《こしろ》の三宅が、明かに『日本紀』安閑天皇二年条に見ゆる、播磨越部屯倉に相当するものなるは、疑いを容れざるなり。されば今『風土記』の記事によりてこれを案ずるに、その設置当時には単に御子代村(皇子代とあるに同じ)と称し、その屯倉の司に皇子代君の姓を賜い、これを統治せしめ給いしもののごとし。しかるに上野大夫の時に至り、これが名を改めて越部といいしなり。上野大夫の年代明かならねど、これを『日本紀』に見るに、大化の改新に際し、良家の大夫を国司に任ずといい、また『常陸風土記』に当時の国司を某大夫といえること、その上野大夫が三十戸を結ぶということが、郡県制によりて新たに、里を立つることなるべく思わるることによりて、大化新政当時のことと解すべく、その新政の結果として子代の屯倉を廃するさいに、越部里と改めしものなるべく察(29)せらるるなり。果してしからば「安閑天皇紀」に見ゆる多くの屯倉中には、他にも御子代として置かれ、また御子代の名をもって呼ばれたりしもの少からざりしを保せず。現に妃|宅媛《やかひめ》に賜いし難波屯倉のごときも、また実に子代の名をもって呼ばれたりしもののごとし。「孝徳天皇紀」に子代離宮の名あり。注に「或本云、壊2難波狭屋部邑子代屯倉1而起2行宮1」と見ゆ。けだし狭屋部邑にもと子代屯倉ありて、それを壊ちて離宮とし給いしものなるべく、これによりて依然子代を名とせしものなるを知るべし。狭屋部は『和名抄』に西成郡|讃揚《さや》郷とある地にして、ここに狭屋部氏あり。物部氏の族なり。『新撰姓氏録』に、佐夜部《さやべ》首は伊香色雄命の後とあり。伊香色雄命は饒速日命六世孫にして、物部氏の祖なり。また「天孫本紀」には、饒速日命八世孫物部大小木連に注して、佐夜部直・久奴直等の祖とあり。しかして宅媛は実に伊香色雄命六世孫|木蓮子《いたぴ》大連の女なりしなり。しからばこの難波の狭屋部の地はもと物部氏のあるものの伝領にして、宅媛に縁由ありLがために子代屯倉として宅媛に賜わりしものか、もしくは宅媛所領の屯倉が、その薨後一族物部氏のある者に移りて、ここに佐夜部氏の名生ぜしか、いずれにしてもこの難波なる狭屋部の子代屯倉が、安閑天皇の妃宅媛の御子代たる難波屯倉なるべきことは、疑いを容れざるに似たり。
御子代・御名代はもと高貴のために置かるるものなれども、名を重んじてこれを後に伝えんとし、また子孫がその祖先の名を現わさんとするの人情は、必ずしも高貴の御方々にのみ限るべきにあらず。したがって臣下のものといえどもまた必ずこれに相当するものあるべし。後世にいわゆる名田・名負地の類は、またその淵源を古代に求め得べしと信ず。かの奔走に衣食して、わずかに生存し得るがごとき卑賎の徒はいざ知らず、いやしくも生活に余裕を存するほどの豪族らが、その名を世に示し後に残さんとするはあえてはなはだしく高貴の御方々の後に落つべきにあらず。大伴家持の歌に、
大伴の遠つ神祖《かんおや》の墳墓《おくつき》は、しるく占め立て、人のしるべく
(30)と詠ぜしも、偉大なる墳墓によりて祖名を世に誇示し、家の名絶たず子孫に伝えんとする人情の結果なり。歴代の天皇また臣下を奨めて、祖名を重んじ、これを絶えざらんことを希望し給いしことは、『続日本紀』に見ゆる代々の「宣命」の常に繰り返し給うところなり。天平十五年聖武天皇の「詔」に、「君臣祖子の理を忘るゝ事なく、継ぎまさん天皇《すめら》が御世御世に、明き浄き心をもちて、祖名《おやのな》を戴き持ちて、天地と共に長く遠く仕へ奉れ」、天平宝字元年孝謙天皇の「詔」に、「己が家々、己が門々、祖名失はず勤《いそ》しく仕へ奉れ」、また天平神護二年称徳天皇の「詔」に、「此寺(隅寺)は朕が外祖父、先の太政大臣藤原大臣の家にあり。今其の家の名をつぎて、明かに浄き心をもちて朝廷を助け奉り仕へ奉る」など、かくのごときの類多く、しかしてこれは奈良朝に至りて始まりしことにはあらざるべきなり。垂仁天皇の朝、野見宿禰が強力当麻蹶速の腰を蹴りて骨を折りこれを殺すや、蹶速の地を奪いてこれを宿禰に賜う。ためにその地に腰折田の名ありと『日本紀』に見ゆるは、その功績を記念すべく命名したるものにして、御名代に相当するものとも称すべきものなるべし。わが古代の史、記事主として皇室国家の事に関し、臣下の上に及ぶもの少し。ゆえに古史の記事に高貴の御子代・御名代以外、土地によりて名を記念するの例を見ること多からざれども、実際にはこれに相当するものの少からざりしは疑いを容れざるべし。神武天皇久米部の功を称して、地を畝傍山以西の川辺に賜う。その地を来目邑《くめのむら》と称するも、久米部の名を記念するものなり。「仲哀天皇紀」に、伊覩県主の祖|五十迹手《いとで》が、天皇を奉迎して忠勤を抽でしより、天皇これを嘉賞して伊蘇志(忠勤の義)と仰せ給いしかば、時人その本土を伊蘇国といいしが、後に伊覩《いと》と訛りたりとあり。伊覩はすなわち筑前怡土郡にして、古くすでに『魏志』に伊都国の名見え、決して右いうごとき故事より起りたる名にあらず。右の説話は例の信ずべからざる地名伝説たるに過ぎざれども、かかる伝説の存することは、人名を地に付する事実の少からざりしことを示せるものなりと言わざるべからず。
(31) また『常陸風土記』には、行方郡|提賀里《てがのさと》は、古え佐伯(蝦夷)手鹿《てが》と称するものの住所なれば、追ってその里に著くといい、曾尼村《そねのむら》は、古え佐伯|疏禰毘古《そねぴこ》と称するものありしかば、名を取って村に著くといい、男高里《おたかさと》は、古え佐伯|小高《たか》というものありしかば、よってその居処に名づくというとあり。『出雲風土記』には、飯石郡波多郷は、波多都美命|天降《あも》ります家あり、ゆえに波多というといい、大原郡斐伊郷は、樋速日子命この処にまししがゆえに樋というとあり。かくのごときの説話は、『風土記』の地名説明伝説にはなはだ多く見るところにして、もとより史実として信ずべきにあらねど、もって人名を土地に付するの思想ありし証拠とはなすべきに似たり。
名負氏人の語はしばしば古書に散見す。大化改新の「聖詔」に、「其襲2拠祖多1為2臣連1」とあるまたこれなり。祖先の名によりてその職を代々にせし上古にありてはもちろん、旧来の陋習を打破して郡県の制を施し、旧職を改め去って門地にかかわらず人材を登庸すべき大化新政の後においても、実際には職を任ずる、まず名負氏人を採るの例は、久しく後まで行われたり。名を重んずる高貴にのみ限らず、これを記念するの方法、あにひとり御子代・御名代のみなるぺけんや。
御子代・御名代はその民によりて、さらに転じてはしばしばその地に付したる名称によりて、高貴の御名を記念するのみならず、実にその土地と人民とを御領として、私有し給いしものなりき。しかして臣下においても、実にまた同様のことありしなり。かの野見宿禰の腰折田の説話のごとき、その古き一例と見るべく、大化改新の「聖詔」にも、
自v古以降毎2天皇時1、置2標v代民1、垂2名於後1。其臣・連等、伴造・国造、各置2己民1、恣v情駆使。又割2国県山海林野池田1、以為2己財1。
昔在天皇等所v立子代之民、処処屯倉、及別・臣・連・伴造・国造・村首所有部曲之民、処々田荘。
(32) 始2王之名名1、臣・連・伴造・国造分2其品部1、別2彼名名1、復以2其民品部1、交雑使v居2国県1。
などの語はしばしば繰り返されたり。高貴の御名代・御子代にも比すべき私地・私民が、臣・連・伴造・国造らの有するところたりし情察すべし。なおこれらの御名代・御子代は、往々にして転じて臣下の有に帰せしものありしがごとし。同じ時の「詔」に、
群臣・連及伴造・国造所v有昔在天皇日所置子代入部、皇子等私有御名入部、皇祖大兄御名入部及其屯倉。
の語あり。もって察すべきなり。
三 御子代・御名代と御実名
御子代・御名代は、高貴の御名を永遠に記念するを目的とするもの、少くともその目的の主なるものとするものなれば、これによりてその御名を想い起すに適当なるものならざるべからず。しかしてその目的を達するに最も適当なるものは、直接にその御名を御名代または御子代なるべき部曲に付するにあり。されば少くも古史に見ゆる限りにおいて、仁賢天皇以前のものにありては、大多数はこの例によれるを見る。垂仁天皇の皇子|伊登志和気《いとしわけ》王の御ための伊登志部《いとしべ》(現存『古事記』に伊部とあり、今本居翁の説によりて「登志」の二字を補う)、同|誉津別《ほむずわけ》王の御ための誉津部《ほむずべ》(『古事記』に品遅部)、仁徳天皇の皇子|大日下《おおくさか》王の御ための大日下部、蝮水歯別《たじひのみずはわけ》命の御ための蝮部、皇后|八田《やた》皇女の御ための八田部、允恭天皇の皇子軽太子の御ための軽部、皇后|忍坂《おさかの》大中姫の御ための刑部《おさかべ》、雄略天皇の皇子|白髪《しらが》太子(清寧天皇)の御ための白髪部(清寧天皇の御代にもおんみずからのために諸種の白髪部を置給う)、御伯父穴穂天皇(安康天皇の御謚号は、穴穂の名を音訳せしものなるべし)の御ための穴穂部など皆しかり。これらのうち、穂積先生は、伊登志別・誉津別は御名の一部、白髪部は天皇の御幼名、その他はいずれも地名にして、御実名敬避の俗に反せずと説き給えり。(33)ここにおいてまず人名とは何ぞやについて一考するの要あるを認む。
言うまでもなく、人名とは一の人を他の人と区別せんがために命じたる名なり。わが国においては、太古よりしてすでにその子の名は、母親その生後にこれを命ずるの習慣ありき。『日本紀』神代巻の一書に、
天孫就而問曰、児名何称者当可平。対怡、宜v号2彦波瀲武※[盧+鳥]※[茲+鳥]草葺不合尊1。言訖乃渉v海※[人偏+徑の旁]去。
とあり。こは妃豊玉姫と彦火火出見尊との御問答を録せるものにして、かかる伝説の存するは、もって古くこの習慣のありしことを示せるものというべきに似たり。さらに『古事記』垂仁天皇の条には、
天皇其の后に命詔《みことのり》して言く、凡そ子の名は必ず母名づく。是子の御名は何と称せんや。こゝに答へて白さく、今火稲城を焼くの時に当りて、火中に生るゝが故に、其の御名を宜しく本牟智和気《ほむちわけ》御子と称すべし。
とあり。これ明かにその習慣ありしことを示せるものなり。しかしてその命名や、右の二例ともに御出産時の情況による。古史の伝うるところ、この例すこぶる多し。「初めて火※[火+陷の旁]明る時に生める児は火明《ほあかり》命、次に火炎盛なる時に生める児は火進《ほすすみ》命、又|火酢芹《ほのすせり》命といふ。次に火炎を避くる時に生める児|火折彦火火出見《ほおえいひこほほでみ》尊」(日本紀)といい、「大碓皇子・小碓尊、一日同胞にして双生す。天皇之を異とし、則ち確に誥《たけ》ぶ。故に因て其の二王を号して、大碓・小碓といふなり」〕といい、「初め天皇(仁徳)生るゝの日、木菟《つく》産殿に入る。明旦誉田天皇大臣武内宿禰を喚《め》して之に語り曰く、是れ何の瑞ぞや、大臣対へて曰く吉祥なり。復昨日臣が妻の産時に当りて、鷦鷯《ささぎ》産屋に入る。是れ亦異なり。こゝに天皇曰く、今朕が子と大臣の子と、日を同じうして共に産めり。兼て瑞あり。是れ天の表なり。ゆゑに其の鳥の名を取りて各相易へて子に名づけ、後葉の契と為さん」〕といい、反正天皇の生れ給うや、「生れながらにして歯一骨の如く、容姿美麗なり。こゝに井あり、瑞井といふ。則ち汲みて太子を洗ふ。時に多遅《たじひ》の花落ちて井の中にあり。因て太子の名と為す。多遅の花は今の虎杖《いたどり戯花なり。故に称して多遅比瑞歯別天皇と謂ふ」といい、また(34)清寧天皇が生れながらにして白髪にましまししがゆえに、白髪太子の御名を得給いきと伝うるがごときの類、皆この例なり。これら伝うるところ、史実としての価値はしばらく別問題として、かかる習慣が古く存せりと認められたりしことは、これを信じて可なりとす。このほかあるいは地名により、あるいはその他の理由によりて、生後久しからずして生子の名は命ぜられしものなり。しかしてこれ実に先生のいわゆる幼名なるものなるべきも、幼名は必ずしも年長じて後に改めらるべきものにあらず。改められずして終身これを使用せんには、幼名すなわち実名にして、これを幼名として特に区別すべき理由は存せざるなり。さればとて幼名必ずしも改められざるべきものにもあらざるべし。その住居地の関係、その人の事蹟等より、あるいはみずからこれを改め、あるいは他よりこれを改むる場合もあるべし。されどたとい後に至りて改められたりとするも、そのいまだ改められざる以前にありては、これただちに実名なるものなるべく、後世のごとく長男なるがゆえに太郎と呼び、次男なるがゆえに次郎と称するものとは、全然趣を異にするなり。後世に至りては、幼時全く実名を有せず、元服の時に及び始めてこれを命ずるがごとき習慣なきにあらざるも、古代においては決してかかることなかりしことと信ず。ただしこの太郎・次郎等の称呼も、他の太郎・次郎等と区別する必要上、その上になんらかの語を冠するようになりては、これまた幼時における一種の実名にして、単に長男・次男の順序を示すための称呼とは同じからざるなり。
わが古俗にありては、男女ともに幼時より必ず実名を有せしものなり。こは現存せる大宝・養老以下の戸籍の断簡を見ても容易に知るを得べし。試みにこれらの史料を精査するに、当歳二歳の小児といえども、形式において壮年者・老年者と、なんら区別を見ざる底の名を有するなり。しかしてこの名は、性質上特にこれを幼名として、年長者の名と区別すべき理由あるを見ず。普通の場合においては、その名は必ず終生を通じて実名たりしものなるべし。
大宝・養老のさいの事蹟は、必ずしも太古の習俗の証となしがたく、臣籍・庶民の上の実際は、必ずしも皇室の御(35)事例を徴するに足らざるものあらん。しかれども、これを古史に散見する他の傍例に徴して、太古以来わが国民は、幼時すでに名を有し、しかしてその名は、年長に及びて変更を必要とするがごとき性質のものにあらざりしものなるべきことは、これを承認するに難からずと信ず。庶民階級と統治階級、特に皇室の御上との間には、命名の方法においても、また中途にこれを変更し、あるいは佳名、尊名を付加する等の習慣のうえにおいても、すこぶる趣を異にするものありしなるべし。されど元服の時に始めて実名を命ずというがごとき習俗の起らざりし以前にありては、幼時に命ぜられたりしものが、中途において変更せられざる限り、ただちにこれ実名たりしものなるべし。 言うまでもなくわが古代史は、皇室を中心として語り伝えられたるものなれば、庶民階級のものはこれを知るの便宜はなはだ少し。これに反して歴代天皇以下、皇族の御名の保存せられたるものはすこぶる多く、中には御一人にして、多くの御名の伝えらるる場合すら少からざるなり。今試みに一例を神武天皇にとりてこれを観察し奉らんか、実に左のごときものあるを見る。
一、神武天皇。こは疑いもなく奈良朝に至りて奉れる漢風の御謚号なり。
二、若御毛沼命。
三、豊衡毛沼命。この御両名『古事記』に見ゆ。『日本紀』一書には、稚三毛野命ともあり。ここに若(稚)といい、豊というは美称を付加したるものにして、御本名としては御毛沼命なるべし。『古事記』には皇兄御毛入野命の御事をも御毛沼命とありて、天皇の御本名と紛わしき嫌いあれど、こは「入」字の誤脱か、もしくは口伝の訛にてもあるべし。
四、狭野尊。この御名『日本紀』一書に見ゆ。同書には、「狭野と称するは是れ年少時の号なり。後天下を撥《はら》ひ平げて八洲を奄有す。故にまた号を加へて神日本磐余彦尊と曰ふ」とあり。しからば狭野尊とはいわゆる御幼名にてましますものなり。日向に狭野と称する所あり、天皇御降誕の地と称し、ここに天皇を祭り奉れる狭野神社もある(36)なり。しからば狭野とは、御降誕地の名をもって、御名となし給いしものと解せらる。しかれども『日本紀』記するごとくんば、狭野は紀伊の名草と熊野との間にありし地名にして、天皇の東幸に際し、経由し給いし所なり。しからば狭野等の御名は、この地に関係あるがごとくにも解せらるるなり。あるいは天皇の大和御平定以前にこの地にましまし、他よりこれを呼び奉るに、「狭野に坐《ま》す尊」の称をもってせしものにはあらざるか。所伝簡単にしてよく決する能わざるなり。
五、磐余彦尊《いわれびこのみこと》。
六、神日本《かんやまと》磐余彦尊。
七、磐余彦|火火出見《ほほでみ》尊。
八、神日本磐余彦火火出見尊。
ともに『日本紀』に見ゆ。『古事記』には神倭伊波礼毘古命とあり。この(六)と同一なり。この御名は磐余彦というを本体とし、他は敬称、美称を加え奉りたるものなり。磐余は大和の地名にして、もと磯城の八十梟師の屯聚せし所。天皇これを平げ給いて、ついに橿原宮に即位し給いきと伝えらるるなり。按ずるに磐余彦とは、磐余の男子の義なり。なお磯城彦・菟狭津彦等の名のごとし。神日本磐余彦と申すも、ただその磐余彦に敬称、美称を付したるに過ぎず。その「神」は吾田津媛《あだつひめ》を神吾田津媛また豊吾田津媛といえるに同じく、「日本《やまと》」は磐余の所在の国名なるヤマトなるべし。次に「彦火火出見」とは、『日本紀』神武天皇条の初めに、神日本磐余彦天皇諱彦火火出見ともありて、『日本紀』編者はこれを諱と解したりしがごとし。先輩の説あるいは、「諱」以下の六字をもって後人の※[手偏+纔の旁]入となせども、古抄本また多くかくのごとくなれば、しばらく当初よりしかりしものと解すべきか。けだし天皇の御祖父|火折《ほおり》尊を一に火折彦火火出見尊、あるいは単に彦火火出見尊と申すと同じく、一の尊称を添加せるものなり。こは天孫|瓊瓊杵尊《ににぎのみこと》の御事を、天津彦彦火瓊瓊杵尊とも、天津彦|国光彦《くにてるひこ》火瓊瓊杵尊とも、天饒石国饒石《あめにぎしくににぎし》天津彦火瓊瓊杵尊とも申し、顕宗・仁賢両天皇の御父|押磐《おしわ》皇子の御事を、天万国万押磐尊《あめよろずくによろずおしわのみこと》と申す類なるべし。かくのごときの尊称は、天皇御生前においてすでにこれを有し給いしか、あるいは崩御の後にこれを奉りしものなる(37)かは明かならず。前記「天万国万」の尊称は、皇子の薨後にその御子よりこれを敬して呼び奉りしものなるべし。また聖武天皇は御生前に、天璽国押開《あめしるしくにおしはらき》豊桜彦尊の尊号を有し拾い、桓武天皇の御生母高野皇太后は、崩御の後に天高知日之子姫尊《あめたかしるひのこひめのみこと》の尊号を、御謚号として得給いき。さればいずれにしても彦火火出見は一の尊号にして、磐余彦尊というが、天皇として衛在位のころの御名と信ぜられたりしものなるべし。天皇は畝傍橿原宮において天が下知ろしめし給いき。されば御名としては畝傍彦尊もしくは橿原彦尊とこそ呼び奉るべきに、これを磐余彦尊としも申し奉れるは、史伝その事実を逸すれども、もと磐余より起り給いし君として、伝えられ給いしものなりと解せらるるなり。 以上神武天皇の御名として伝えらるるところを通観するに、御毛沼命・狭野等・磐余彦尊の御三名に帰すべく、中にも狭野・磐余彦の御両名は、後に天皇の御功業に関係深き地名より得給いたるものにして、御毛沼と申すが当初の御実名なるべく解せらる。しかもその御名は普通に用いられず、『日本紀』本文のごときは毫もこれに言及せざるなり」されば狭野と申すも、磐余彦と申すも、ある時期間の御実名と解し奉るべきものなるべし。
綏靖天皇以下の諸帝の御名も、多くは御実名に敬称を付し奉れるものなるべく、このほかにも後に伝わらざる御実名もあるべく、御実名全く失われて、敬称のみ遣れるものまた少からざるべし。
さて御名を後世に伝え給わんがために、御名代または御子代の部曲・屯倉等を置き給わんには、普通には御実名をもってこれに命ずるを最も適当とすべく、しからざる場合にも、これによりてその御名ならびに御事蹟を回想し得る性質の名を択び給うべきなり。されば余輩の見るところ、上に述べたるがごとく、少くも上代においては、多くは御実名を取りてこれに命じ給いしがごとし。中には御実名ならじと思わるるもの、理由不明のものまたこれなきにあらざるも、これらの中には安閑天皇の御子代の一たる越部の屯倉が、後に改められたる名によりて伝われるがごとく、当初の名が失われて、ただ某天皇もしくは皇族の御名代・御子代なりきとの事蹟のみが、後に改まりたる名によりて(38)語り伝えられたるもあるべく、また御名代・御子代の方にのみ旧名の伝わりて、これを置き給える天皇・皇族の御実名の、史に逸したるものもこれなきにあらざるべし。
今試みに穂積先生の引用し給える実例につきて考うるに、その多数は御実名によれるもののごとし。
一、伊登志部。垂仁天皇の皇子伊登志和気王のために置き給える所。御名の一部をなせる「和気」は、『日本紀』に「別」とあるものと同じく、男子の通称にして、「伊登志」というが御名の全部か、少くも御名の主要なる部分にして、これを取り給えるなり。
二、品遅部《ほむじべ》または誉津部《ほむずべ》。垂仁天皇の皇子本牟智《ほむち》和気命(すなわち誉津別命)の御ために、置き給える所にして、その名は御実名の全部か、少くもその主要部を取りて命じ給えるなり。
三、武部《たけるべ》。日本武尊の功業を願わし給わんがために置き給える所。タケルは武勇者の称にして、古史に八十《やそ》タケル・熊襲タケル・出雲タケルなどあり。景行天皇の皇子小碓尊は日本《やまと》のタケルにましまししがゆえに、この御称号を得給い、その御名最も世に喧伝して、多くの太閤の中にも単に太閤といえば、豊太閤のこととなるがごとく、単にタケルとだに申さば、この皇子の御事を示すほどとなりたれば、最も通じやすきに取りて呼びならわせしものなるべし。
四、葛城部。仁徳天皇の皇后|磐之媛《いわのひめ》の御名代にして、磐之媛は葛城襲津彦の女にませば、当時葛城磐之媛と申し、葛城の名にてよくこの皇后の御事を示すに適したりしものなるべし。
五、壬生部。不明。あるいは思う、もと某の壬生部とありしが、後にその名失われしものか。後の(十三)を参照せよ。
六、蝮部《たじひべ》。反正天皇すなわち瑞歯別《みずはわけ》天皇の御名代なり。この天皇河内|丹比《たじひ》の宮にましましたれば、御宮名を取り給えるかに考えらるれど、タジヒ元来この天皇の御名にして、御降誕のさい御産湯の井に虎杖《いたどり》すなわちタジヒの花散り(39)来りたれば名づくと『日本紀』にあれば、丹比の地名は畢竟この天皇の御宮ありしより起れるものなるべく、したがって蝮部の名は、天皇の御実名の主要部を取りて、命じ給えるものと解すべし。
七、大日下部。大日下王の御名代にして、御名による。大日下王の御名は、もと御誕生地あるいは特に由緒ある地の名より起れりと解せらるるも、すでに御実名となれるものなるべし。
八、若日下部。若日下王の御名代にして、御名による。説右に同じ。
九、八田部。仁徳天皇の皇后八田皇女のために置き給える所。摂津八田部郡はこの皇后の御名代として、またその御宮のありし地なれば、後に郡名ともなりたれど、その八田部の名は皇后の御実名に取りしものなるべし。
十、伊波礼部《いわれべ》。履中天皇の御名代なり。天皇磐余宮にましまししかばこの名あり。あるいは思う、古え天皇を示し奉るに宮号をもってするを普通とするものなれば、この御名代は磐余宮御宇天皇の御ために置き給えるものなりとのいい伝えによりて、もっぱら磐余部の名が伝称せられ、当初の名の失われたる場合またこれなきにあらざらんか。大化の新政に当りてことごとく御名代・御子代の民を廃し、「王の名を以て軽々しく川野にかけて名に呼ぶは、百姓誠に畏《かしこ》むべし」と詔したまいたるほどなれば、かの安閑天皇の播磨なるある御子代の屯倉が、このさい越部と改められ、しかしてその越部の名が、当初よりの屯倉名なるかのごとく『日本紀』編者によりて録上せられたる例をもって考うるに、『日本紀』に見ゆる御名代・御子代の名は、必ずしもことごとく当初よりの命名のままなりとのみ解し難きに似たり。さればとて大化のさいに、王者の御名を名とせるものがことごとく改まりたるにはあらず。現に白髪部のごとき後までも保存せられたりし実例もあり。ただその間往々改称せられたりしもののあるべきをいえるのみ。
十一、軽部。木梨軽太子の御名代。軽はもと地名なれども、その地によりて太子の御実名となれるものにして、御(40)名代の名は御実名によれるなり。
十二、刑部《おさかべ》。忍坂大中姫皇后の御名代。忍坂もと地名なれど、皇后の御名となれるものにして、大中姫とは、後に太郎・次郎など称するごとく、順位を示す添辞なるぺければ、忍坂が御実名なりと解すべし。
十三、河部。田井中比売の御名代なり。河部はすなわち河守部なるべく、ある河部をもって御名代とせられしものならん。雄略天皇が長谷部舎人を置き給い、清寧天皇が白髪部舎人《しらがべのとねり》・白髪部|膳夫《かしわで》・白髪部|靭負《ゆげい》を置き給い、仁賢天皇が石上部舎人を置き給い、安閑天皇が勾舎人部《まがりのとねりべ》・勾靭負部を置き給えるもの、もって例とすべし。しからばもとは田井の河部などとありしものが、後にその名失われて、単にこの河部は田井中比売の御名代なりきとの伝説のみ存して、ついにその名が『古事記』に録せらるるに至りしものならんか。
右のほか穂積先生の実例として列挙し給えるもの多けれども、その命名の理由に至りては、たいてい上記のものと大同小異なれば、煩を厭いてすべて略しつ。しかしてこれらがいずれも御名を後世に伝うるをもって目的とせしものなれば、いわゆる「御名」をもってその名とするを普通とすべきは、言うまでもなく、しかしてそのいわゆる「御名」なるものは、多くの場合において御実名なるべく考えらるるなり。
穂積先生もまた御名代・御子代の名の中には、誉津部・白髪部などの御実名なるべきことを認め給えれども、そは御名の全部にあらざること、また御幼名なることの理由によりて、実名敬避の俗に反せずと解し拾えり。しかも余輩は、上述のごとく、「誉津」をもっておそらくは御名の全部なりとし、「白髪」の御幼名はこれただちに御終生の御実名なるべく考うるなり。されば次には、果してわが歴史時代において、もと実名敬避の俗がいかなる程度にまで認められたりしかを観察するの要あり。 ちなみにいう。臣僚庶民間における名田《みょうでん》・名負地《なおいち》のごときも、またある意味においてほ、御名代・御子代と同様の(41)性質ありと思考するなり。かの何兵衛新田・何右衛門|開《ぴらき》など称する地名の各地に存するは、多くは徳川時代において行われたるものなれども、性質においてはその地を領有し、その名を保存すること、古代における御名代・御子代と相択ぶなきものとすべし。ただし、徳川時代の庶民は苗字の公称を禁ぜられたりしかば、勢いその名を(何兵衛・何右衛門のごときはもと官名なれども、後には性質上実名となれるものなり)もってこれに命ぜしも、中世の名田には苗字を冠せるもの少からず。こは家名を伝うるを重しとせし習俗より来れるものにして、後世にても何屋新田などと屋号を呼べる例も少からざるなり。古代の部曲にも、姓氏を名とするもの多きは同一理由に出づるなり。ただ皇室の御上にありては万世一系にましまし、特に御家を記念するの必要なきがゆえに、いわゆる御名代・御子代の制のみ発達し、はては御代ごとに標代の民を置き給うにも至れるなり。
四 実名敬避の俗と御子代・御名代
他人の実名を直接に指斥するをもって不敬とするの習慣は、果していつのころより始まりしか、今これをつまびらかにするの材料を有せざれども、少くもわが御名代・御子代の制の盛んに行われし古代においては、必ずしもしからざりしがごとし。否、ひとり古代においてのみならず、山間僻陬の地、質素|樸訥《ぼくとつ》の俗を存する人々の間にありてほ、今においてなお往々相互間の対話に際してすら、敬称を用うることなしに先方の実名を相呼称するものあるを見るなり。果してしからばただちに他人の実名を呼ぶを避けんがために、あるいはその居所を指して某殿といい、あるいは形容を説いて某様と呼び、あるいは全くその名を隠してこれに代うるに他の名辞をもってするがごときは、もとこれを尊敬する礼儀謙譲の念より来れるものにして、わが原始的習俗にあらずというべきに似たり。
わが太古における対話において、人名がいかに呼称せられたりしかは、文献不十分にしてこれを明かにするを得ず。(42)『古事記』の記するところ、往々にして古人対話の語を見るべきものなきにあらざれども、こはおそらく該書編著の奈良朝初めの言語なるべく、もって太古の実際を示すものなりとは言い難かるべし。しかるにこの間にありて、ひとり古代の歌詞にあらわるるもののみは、比較的旧時の語をそのままに伝うるものなりと解すべく、もってその当時の実情を推測するの料とすべし。もとより『古事記』『日本紀』収むるところの歌謡が、果してその言うままの時代のものなりや否やについては、疑問少きにあらずといえども、ともかくもこれらが伝唱久しきものとして、比較的古き時代の用語を見んには、これを措いて他に適当なるものあるを知らざるがゆえに、しばらくその歌詞の示すところに従って、これを『万葉集』の収むるところのものに比較し、人名に関する取扱いの変遷を観察せんに、余輩は時代の前後において、すこぶるその趣を異にするものあるの感を禁ずる能わざるなり。
「記紀」載するところの歌謡、その数多きにあらず。しかもその中においてすら人名をただちに詠み込めるもの実に二十数首に達し、これを後の時代のものに比して比較的その数の多きは、すこぶる注目に値するものあり。『万葉集』にありては、かの多数の歌謡の中において、きわめて特別なる場合のほか、ただちに人名を詠み込めるものほとんどこれあるを見ず。ことに「記紀」には、低き地位の神より、高き地位の神の名を呼び、および臣民より天皇・皇族の御名をも指斥して憚らざるものすら、なお数首に上れるに、『万葉集』においてはほとんどかくのごときものあるを見ざるなり。
試みにその実例についてこれを観察せんか。かの下照姫がその兄神なる味耜高彦根神《あじすきたかひこねのかみ》の御事を詠みて、
天なるや、音棚機のうながせる、玉の御統《みすまる》の、あな玉はや、三谷《みたに》二《ふた》渡らす、味耜高彦根。(『日本紀』による。『古事記』には終りの句、「味耜高彦根の神ぞや」とあり)
といい、また大国主神の妃須勢理姫が、その夫神《おつとかみ》の御事を、
(43) 八千矛の神の命や、我が大国主、汝こそは男《を》にいませば、打ち見る島の崎々、かき見る磯の崎落ちず、弱草《わかくさ》の妻持たせらめ……。
などいえるものは、下級の神より上級の神を呼び捨てになせるものなり。「カミ」は「上」にして、キミ(君)というと同語なり。上代において地方の小領主にキミの名あり、後に国造・県主等の土豪が、公《きみ》の姓を有するもの多きは、彼らもとその地方の君主にして、皇化のいまだここに及ばざりしさいには、事実上その地方における独立の君主なりしことを示すものと解すべし。しかして天皇はさらにこれを統べ給うの君にして、これをスベラギ(統君)とも、オオキミ(大君)とも申すなり(後には諸王をオオキミという。用語の下に及べるものなり)。なお神代に大神の称あるがごとし。しかるに皇化地方に周ねきに及びて、これら地方の小君主は、依然としてキミの名を有しながらも、相率いてオオキミの臣下となりしものなり。神代のカミに関する伝説また同一義なるべし。しかるに右の歌謡示すごとくんば、下級の妹神が上級の兄神に対し、また下級の妻神が上級の夫神に対し、ともにその御名を直称して忌まざりしなり。もっともこれらの歌謡は、必ずしも神代において、実際下照姫および須勢理姫の口より出でたりとのみ解すべきにあらざらんも、そのこれを伝誦せし時代において、神名を歌謡中に直称して忌まざるの習慣ありしことはこれを察して余りあるべし。その「大国主」という御名は、その意義よりしてこれを御実名なりと解し難きに似たれども、後のこれを伝うるものは、これをその神名として信じたりしものなるべければ、太古においてはなんら敬避の辞を付することなしに、神名を呼称せし場合ありしものとして、解せられたりしの状を見るべきなり。
次に卸間城入彦天皇(崇神天皇)の御代に、怪しき少女の武埴安彦謀反の計あるを告げ奉らんとて、
こはや、御間城入彦はや。御間城入彦はや、己が命《を》を盗み弑《し》せんと、後《しり》つ戸よ、い行き違ひ、前つ戸よ、い行き違ひ、窺はく知らにと、御間城入彦はや。
(44)と詠み、また吉野の国栖人の歌に、
誉田《ほんだ》(応神天皇)の日の御子|大雀《おほささぎ》(仁徳天皇)。佩かせる太刀、本つるぎ、末ふゆふゆきの、すがらがしたきのさやさや。
などあるも同例なり。御間城入彦・誉田・大雀、ともに至尊の御実名なり。しかして下賤の輩これを歌謡中に直称し奉りて、毫も忌むところあらざりしなり。
仁徳天皇の皇弟隼別皇子異図あり。この時舎人の詠める歌に、
隼《はやぶさ》は天《あめ》に上り、飛び翔《かけ》り、五十槻《いつき》が上の鷦鷯《ささぎ》取らさね。
とあり。こは天皇と皇子との御名を呼びてこれを鳥にたとえ、隼別皇子が大鷦鷯天皇を弑しまつらんことを勧誘せる歌にして、直接皇子と天皇との御実名を指斥せしものにはあらざれども、御実名と同一の名辞を歌謡中に詠み込みて、あえて憚らざりし例とすべし。大鷦鷯天皇の御名、「大」は美称にして、「ササギ」というが御本名なるべし。諸国に雀部《ささぎべ》と称する地名あり。天皇の御名代を置き給えること「記紀」に所見なきも、この地名あるによりて察するに、また天皇の御名「ササギ」を記念すべく、設置し給いし御名代ありしことを知るなり。
このほか、
つぬさはふ、磐之媛(仁徳天皇の皇后)がおほろかに、きこさぬうら桑の木、よるましじき、川の隈々、よろぼひ行くかも、うら桑の木。
は仁徳天皇が皇后の御上を詠み給えるものにて、「媛」の語を付するはこれを呼び捨てにせし場合とは異なるがごときも、また御名の全部を直称して憚らざりし例とすべし。また、
いざ吾兄《あぎ》五十狭茅宿禰、玉きはる内の朝臣が頭椎《くぶつち》の、痛手負はずば鳩鳥の潜《かづ》きせな。
(45) いざ吾兄、振熊が痛手負はずは鳩鳥の、近江の海に潜きせなわ。
大前・小前宿禰がかなでかけ、かく立ち寄らね、雨たちやまん。
山の辺の小島子故に人|衒《てら》ふ、馬の八匹《やつき》は惜しけくもなし。
道に逢ふや尾代の子、天にこそ聞こえずあらめ、国には聞こえてな。
浅茅原、をそねを過ぎ、百伝ふ、鐸《ぬで》ゆらくもよ、置目来らしも。
置目もよ、近江の置目明日よりは、深山隠りて見えずかもあらん。
潮瀬の、なをりを見れば遊び来る、鮪が鰭手《はたで》に妻立てり見ゆ。
琴上に来居る影媛、玉ならば、我が欲《ほ》る玉の鮑《あはび》しらたま。
石上《いそのかみ》、古を過ぎて薦枕、…泣きそぼち行くも影媛あはれ。
青丹よし、奈良のはさまに宍《しし》じもの、水くへこもり水注ぐ、鮪のわく子をあさりつな猪の子。
平潟ゆ、笛吹き上る近江のや、毛野のわく子い笛吹き上る。
韓国を、いかにふ事ぞ目頬子《めづるこ》来《きた》る。むかさくる、壱岐の渡りを目頬子来る。
韓国の城の上《へ》に立ちて大葉子は、領巾《ひれ》振らすも日本へ向きて。
韓国の城の上に立たし大葉子は、領巾振らす見ゆ、難波へ向きて。
畝傍山、木立《こだち》薄けど憑《たの》みかも、毛津のわくごの籠らせりけん。
などの類は、臣籍庶民の名を呼び捨てにせるものなり。こは高貴の御実名の場合とは異なれども、かかる類すら万葉時代には、ほとんど見るを得ざるものなり。右のうち、「毛野のわく子」「毛津のわく子」のごときは、親愛の辞を添えたるものにて、やや趣を異にするがごときも、人名を詠み込める点においては同一にして、後世に多く類を見ざる(46)ものなり。『万葉集』にももちろん人名を詠みこみたるものなきにはあらず。しかも多くは過去の人物、もしくは相手を嘲り戯るる場合などに見ゆるものにして、数においても、とうてい古代のものに比較すべきにあらざるなり。
右のごとく歌詞中に人名を詠み込むことが、時代の前後においてその趣を異にするものは、果していかにこれを解するを至当とすべきか。単に古今によれる歌の態の変化といわばそれまでなれども、余輩はこれをもって、古代には人名を直称して、または人名と同一の名辞を呼びて、あえて憚らざる習慣ありしためなりと解するを至当と信ずるなり。穂積先生は「詩書不v諱」のシナの例をもって、「御間城入彦」「大ささぎ」の歌詞を解し給い、歌謡の場合は例外なりとして説き給いたれども、シナの避諱はもと文字を避くるにありて、すこぶるわが俗と異なるものあり。もってわが古代の例となし難きに似たり。わが中古シナの礼制伝わりて、避諱の制始まるに至りても、なおその避くるところは個々の文字にあらずして、その呼び声の類似を忌むを主としたり。藤原不比等の名を避けんがために、史《ふぴと》・首《おびと》の姓《かばね》を改めて毘登となし、桓武天皇の御名「山部」を避けて、『古今集』に山部赤人《やまべのあかひと》の氏を山辺《やまのべ》とし、平城天皇の御名の「安殿《あで》」を避けて、紀伊の安諦《あで》郡を在田郡となせしがごとき皆しかり。さればもしその呼び声を避けんとならば、歌謡にもこれを詠み込むまじかるべきなり。いわんや直接高貴の御名を指斥するがごときをや。シナの例、詩書諱まざるは、たとい詩書中に後の諱に触るる文字ありとも、特に詩書に限りてこれを忌まざるの義にて、詩書の当時に、その当時の王者の名を指斥するを忌むとか忌まずとかの問題にはあらざるもののごとし。さればもしわが古代において、高貴の御名を口にするを忌むの習慣あらんには、歌謡の場合においてもまた必ずこれを忌まざるべからず。けだし上古にありては、歌謡と口語と、辞句においてその差多からず、ただ歌謡は、これに曲節を付して歌うに都合よき程度のものたるに過ぎざるなり。されば古代の歌謡において、たといその伝えられたる実例がわずかに一、二に過ぎずとも、それは当代天皇の御名を露骨に詠み込みたるものありたらんには、詩書諱まずとしてこれを例外に置くべきもの(47)にてはあらざるべく、少くもその当時においては、天皇の御名を直称するも、必ずしもあえて憚らざりし場合ありと解すべきものなるべし。しかしてその天皇の御名を直称し奉るは、臣籍庶民の名を直称すると、あえてはなはだしく相択ばざりしものなるべし。
古代においては名がことごとく美称なるがゆえに、これを直称するも不敬にあらずとの論の不可なるは、まことに先生の指摘し給えるがごとし。古代の名必ずしも美称のみにあらざるべし。しかも庶民の時にこれを口にする、必ずしも不敬なりとは解せざりしもののごとし。いわんや他の物に付きたる同語の名辞を呼ぶがごとき場合においてをや。古語に鞆をホムダという。応神天皇生れて腕上の衛肉隆起して鞆のごとし。ゆえにこれを誉田《ほんだ》の天皇と申すと伝えたり。果してしからんには誉田天皇の御名は鞆のホムダと同語なり。しかして庶民の鞆を呼んでホムダということは、それが天皇の御名となりたるがために廃せらるべきにあらず。したがって天皇の御名は、軽々しく百姓の呼ぶに委して忌み給わざりし状を察すべきなり。雀《ささぎ》といい、虎杖《たじひ》といい、白髪《しらが》というの類また然かなり。これらの名辞が至尊の御名となりたりとて、庶民がこれを口にする、毫も忌むところなかりしを疑わず。なんぞ雀部《ささぎべ》・丹比部《たじひべ》・白髪部《しらがべ》等の名を、御名代・御子代の名に呼びて忌むべしとせんや。御名代・御子代の名に、至尊・高貴の御実名を付する、けだし当時諱の観念なかりしがためにほかならずと解せざるべからず。ひとりタブーの意味においてこれを呼ぶを忌まざりしのみならず、これをもってあえて不敬なりとも解せざりしものなるべし。もっとも実名に敬語を付するの俗は、古代といえども絶無にはあらざりしならん。しかもその多く適用せらるるに至りしは、上下尊卑に関する形式的区別の観念が著しく発達せしと、特にシナにおける礼制の伝来せし結果とにして、その以前にありてはむしろ衆人に真の名を知られ、多くこれを伝称せらるるをもって名誉とせしもののごとく解せらるるなり。しからばこの俗のいまだ多く発達せず、人名を直称する場合はなはだ多くして、特に至尊の御名をすら、歌謡中に呼び捨てにし奉りてすら忌ま(48)ざりし時代において、御子代・御名代の名に至尊の御名を呼ぶをもって、あえて不敬とせざりしは疑いを容れざるものなるべし。
五 結 論
俗事の蝟集と編纂の都合とによりて、二回掲載を怠りし稿を続ぎて、ここに本編を終らんとす。
御子代・御名代とは、高貴の御名を世に示し、後に伝え給わんがために設けられたる御私有の民の称なり。その民たるや、あるいは舎人・靭負・膳夫等、高貴の御身辺に付随して、日常これを守り奉り、あるいはその御身のまわりの御用を弁ぜしむる類のものありといえども、その大部分はおそらくは農民にして、御生時にはその収穫の一部を納めしめ、あるいはその民を雑役に使用し給いしものなるべし。かくてその世を去り給いし後には、あるいはこれを次の帝に伝え、あるいはこれを任意の人々に譲り渡し、あるいはこれを公に返還せしものなりしがごとし。この意味において御子代・御名代は、いわゆる乳部《みぶべ》の民もしくは屯倉《みやけ》の民に類し、その民は当然土地を伴いて、後の荘園と相似たるものなりしならんも、特にいわゆる御子代・御名代は、高貴の御名を負いてこれを世に示し、後に伝うるの点において、その間著しき相違あるべきなり。しかしてその農民の場合においては、必然その名はその住所の地名となりて、ために御名が永久に記念せらるべく、その他の場合においても、その子孫が祖名を帯してその由来を語り伝うることによりて、いわゆる標代の民たるの実を現し、あるいは皇后・皇子らの御名も、これによりて長しえに保存せらるべきなり。さればよしやその民が公に帰し、あるいは他の皇族・臣連らの有に転じ、もしくはついに離散するに至ることありとも、その地が保たれ、その子孫が存する間は、御子代・御名代たるの目的は達せらるべきなり。かくのごときはけだし、もと他に名を伝うる方法なかりし時代において、高貴の御名を重んじ、これを後に伝え給わんとす(49)るの意味より起れるものにして、その民を使役し、その穀を収納するがごときは、むしろその副産物ともいうべきものたりしなり。しかるに漢字渡来して、史部《ふひとべ》設置せられ、文字によりて名を伝うるの道次第に開くるに及びては、特別の民を置きて高貴の御名を記念するの必要はようやく減じ、ために御子代・衛名代設置の習慣は依然として保存せられながらも、その実質においてはいつしか屯倉もしくは荘園のごときものとなり、その名を冀うよりはむしろその実を求むるを重しとするに至りしを疑わず。ことにこのさいにありては、漢土の礼制また我に伝わりて、高貴の御名を民に付し、あるいは土地にかくるをもって不敬とするの念もようやく生じたりしなるべく、ために安閑天皇以後に多く設置せられたるもののごときは、『日本紀』にも単にこれを屯倉とのみ称して、呼ぶにその固有の地名をもってせず、またその所置の高貴の御名をも冠せざるに至れり。しかもなお旧によりてこれを御子代と呼びたりけんことは、『播磨風土記』に当時設置の越部《こしべ》の屯倉をもと皇子代《みこしろ》村と呼びきといい、「孝徳紀」に難波|狭屋部《さやべ》屯倉を子代屯倉としも称するあるによりて察せらるるなり。けだしこの時代にありてほ、もはや民によりて高貴の御名を記念するの必要はほとんどこれあるなく、御子代・御名代は単に後の封戸・荘園等と相択ぶところなきほどなりしかば、ただ旧慣のままに御子代の名はなお存するとも、これを其の君の御子代なりと呼ぶの要すらなかりしものなるべし。ここにおいてか大化の改新に際して、これらの民は他の部曲・荘園等とともに、その上代設置のものをまで容赦なく廃して毫も顧慮するところあらざりしなり。ただしここにこれを廃すとは、その私領を廃して公に帰せしむるの謂にして、必ずしもその旧名をまで改めたりというにはあらず。もとより当時諱の思想輸入せられて、「王の名を以て軽々しく川野にかけて名に呼ぶは、百姓誠に畏《かしこ》むべし」との「詔」ありしほどなれば、『播磨風土記』に、もと皇子代村といいしをこのさい越部里と改めたりとあるがごとく、そのあるものは改名したるもあるべけれど、これをことごとく遠き御代のそれまでに及ぼしたるにあらざりしことは、光仁天皇の御諱白壁の語を避くるまで、白髪部の名が各地に存し、(50)また八田部・忍坂部・武部等の名が、今もなお往々保存せらるるによりても察せらるるなり。
御子代・御名代の設置がもと高貴の御名を伝うるを主なる目的となせしものなることは、もはや疑いを容れざるべし。しかしてその御名なるものが、多くは御実名なるべく解せられ、したがって当時いまだ実名敬避の俗なかりしことも、またほとんど疑いを容れざるものなるべし。そは既述のごとく、もとその設置が御名の亡ぶるを虞れてこれを後葉に伝え給わんとの御趣意より出でしこと、その部曲の名が多くは御実名なるべく解せらるること、古代の歌謡に高貴の御名をも憚らず詠み込めるものあること等によりて察せらるるのみならず、孝徳天皇の「詔」に、「王の名を以て軽々しく川野にかけて名に呼ぶ」とある「王」は、これすなわち至尊の謂にして、大化当時にありては明かにこれを敬避すべきはずのものを、古くは軽々しく川野にかけて呼びたりしことあるを示せるによりても察せらるるなり。
余輩いまだタブーのことにつきて知るところ多からず。したがってこれによる実名敬避の俗があらゆる民族を通じて必然的に存せざるべからざるものなりや否やをつまびらかにせずといえども、少くもある民族にありては、ある時代においてほとんどこの思想の存在を見ざるものあることは疑いを容れざるなり。しからばすなわちわが国においても、かつて有史以前の時代にありては、あるいはかかる習俗ありしことまた絶無ならざるべしとするも、少くも古代御子代・御名代の民が盛んに設置せられし時代にありては、ほとんどこの思想は失われたりしものなりと解すべきに似たり。しかして我にこの俗あるは、後に漢土の礼制の輸入によりて、避諱の思想を生ぜし以来のことなりと解すべきに似たり。漢土における避諱のごときも、実はその根原が遠くタブーに由来するものなりや否やをつまびらかにせず。しかれども少くもその盛んなる発達は、君主の権力の次第に盛んになれるとともに、これを尊敬するの形式ますます繁縟となりし結果ならずとせず。かくてついにはその王者の実名を指斥するを避くるのみならず、はては実名以外に用いられたる場合ありといえども、これと同一なる文字を使用するを避けしむるに至り、その極ついに字形のそ(51)の文字に類したるものをまでも忌みて、唐の高宗の名「治」なるにより、いやしくも字旁に「台」を有するものはことごとくこれを避けて、「始」を「初」となすの極端なる事例をすら生じたり。
わが国にありては文字よりもその呼び声を重しとし、避諱の制始まりて後も久しく同音もしくは類似の音を避け、必ずしもその文字を用うるを忌まざりき。けだし名は耳をもって聞くべき声にして、目をもって見るべき文字にはあらざりしをもってなり。されば奈良朝ころに至るまでも、人名を現わすに文字必ずしも一定せず、ただその音を表わすをもって主となせしがごとき場合も少からざりしが、このころより次第に文字に重きを置き、その文字も努めて好字を選ぶの風始まりて、ついには名はこれを耳をもって聞くよりも、目をもって見るべきもののごとき有様となり、昵近のものすら、藤原家隆の名をカリューと信じ、その実これをいかに読むべきかを知らざりしというの滑稽をも生ずるに至れり。かくてついには高貴の御名につきてその文字を避くる例も生じたりといえども、こは後の世のことにして、中世においては単にその呼声の類似をのみ避け、さらに遡りては、なんら避くるところなかりし時代に到達すべきなり。
これをわが古代の人名について見るに、高貴の御名を始めとして、豪族※[手偏+晉]紳の命名、往々にしてあるいは地名、あるいは動植物名・物品名等にこれを取るもの少からず。しかしてこれらの名は、庶民が平常口にして憚らざるところに属す。しからばもし高貴にして、その御名と同一もしくは類似の語が、庶民の口によりて軽々しく呼ばるるを忌み給わんには、かくのごとく何人もこれを口にする語をことさらに択びて御名となし給わざりしなるべく、またもしすでにその御名が定まりたらんには、これと同一名もしくは類似の語が、庶民によりて口にせらるるを憚らるべきはずなるに、古代においてかつてさる形蹟を示したるものあるを知らざるなり。これまたもって当時避諱の習俗なかりし証と解すべく、かくてその御名を伝うべく御子代・御名代の民は置かれたりしものなるべし。
(52) 御子代・御名代につきては、その地名に存して古史に設置を伝えざるものまた多かるべく、古史によりて伝えらるるところは、けだしその過去に設置せられたりしものの一小部分に過ぎざるべし。されば周ねくこれを古今の地名に探り、これを古代高貴の御名と比較研究せば、さらに得るところ多かるべく、いかなる時代にいかなる地方において、いかなる状態のもとにこれが設置せられたりしやを明かにすることは、わが歴史地理学上すこぶる興味ある問題なるべし。しかも余輩不幸にして、今これが暇なきを遺憾とす。もしそれ御子代・御名代と乳部《みぷべ》・屯倉との比較、またはこれと部曲・田荘との差異のごときの研究も、歴史地理学上すこぶる有益なる題目なりと信ずといえども、今またこれに及ぶ能わざるなり。
終りに臨みて穂積先生に対して、先生の高著が、余輩後進を啓発することすこぶる多かりしを感謝し、先生の「疑」に関するこの「疑」の忌憚なき発表が、敬を先生に失するの大なるを宥恕し給いて、さらにこの「疑」に関して示教を賜わらんことを請わんとす。ここに先生に対して甚深の敬意を表す。
(53) 継体天皇以下三天皇皇位継承に関する疑問
一 緒 言
『日本紀』の記するところ、継体天皇より欽明天皇に至るまで、御四代に渉れる皇位継承の年時その他のことに関して、解し難いものがすこぶる多い。中について、継体天皇は御代の二十五年辛亥の歳をもって崩御し給うこと、その本文に明記しながら、さらに二十八年甲寅の歳崩御との「或本」の異鋭を注記せること。
安閑天皇は、父天皇のなお御存生中に天皇となり給い、その日のうちに継体天皇崩じ給うと記し、ために後世譲位の先例にまで引かるるほどであるにかかわらず、それよりも二年を隔てた甲寅の歳をもって安閑天皇の元年とし、壬子、癸丑の二ケ年を空位とせること。
欽明天皇の御代は庚申の歳を元年とし、辛卯の歳まで三十二年の治世を数えてあるが、『法王帝説』等の古書には、庚申よりも二年前の戊午の歳を天皇の治世年間とし、あるいはその治世を四十一年と数うるなど、『日本紀』(54)の紀年を裏切るものの少からざること。
などは、その解釈の最も困難とするところである。
ここにおいて故平子鐸嶺君は、明治三十八年中に『史学雑誌』第十六編第六、七の二号に捗って、「継体以下三皇紀の錯簡を弁ず」と題して、同君一流の新研究を発表し、きわめて鋭利なる断案をこれに対して与えられたことであった。
しかしながら余輩は、その当時すでにこれに対してすこぶる同君と意見を異にし、ために口頭をもって座上に論議を交換し、一編の駁論を起稿しかけたほどであった。しかも当時余輩は、一方に同君との問に法隆寺、薬師寺等の件に関して論戦に忙しかったさいであったので、当面の問題に対して比較的関係の薄いこの間題にまで、その戦線を拡げるの暇がなく、荏苒歳月を経過するうちに、図らずも同君の訃にあって、ついにその機会を逸してしまったのであった。
爾来十八年、今やその人なきに当って、余輩がここにこれを論ぜんとすることは、反対者の口を篏してひとりその所見を発表せんとするに似て、ただに情において忍びざるものあるのみならず、これに対して同君得意の反駁を聞くを得ざることは、余輩にとってもまたはなはだ遺憾なる次第ではあるが、しかもこれがために永くこれを筐底に埋没すべきではない。たまたま近ごろ継体天皇陵に関する新研究が、天坊幸彦君によって提出せられた〔6〕。すなわちこれを機会として、いささか旧稿に改訂を加えて、識者の批判を請わんとする。
説明の順序として、まずはじめに平子君新研究の大要を紹介し、次にこれに関する意見を述べてもって余輩の考説に及ぼうとする。ことさらに二十数年前の故人の旧説を引き出して、これを弁駁せんとするのではない。余輩の引用せんとする史料の大部分が、すでに平子君によって提供せられたものであるがゆえに、必要上これに及ぼざるを得ざるものであるばかりでなく、これすなわち、かえって同君博引の労に酬いるものであると信ずるのである。
(55) 二 平子君の新研究
平子君の新研究は、種々の点から継体以下三皇紀の記事に錯簡多きことを論じ、結局継体天皇の崩御は、『古事記』に随って、同天皇の二十一年なる丁未の歳であるとなし、この年安閑天皇即位せられて、『日本紀』では継体天皇の二十三年なる己酉の歳に崩ぜられ、その翌庚戊の年に宣化天皇即位せられて、在位一年余の辛亥の歳、すなわち『日本紀』では継体天皇崩御の歳に崩ぜられ、欽明天皇この歳をもって即位せられたとなさんとするのである。これを見やすいように年表に作れば左のごとくなる。
干支 『日本紀』の説 平子君の説
丁未 継体二一年 継休崩、安閑即位
戊申 同 二二年 安閑元年
己酉 同 二三年 同 二年崩
庚戌 同 二四年 宣化即位元年
辛亥 同 二五年崩、安閑即位 同 二年崩
壬子 空位 欽明即位元年
癸丑 空位 同 二年
甲寅 安閑元年 同 三年
乙卯 同二年崩、宣化即位 同 四年
丙辰 宣化元年 同 五年
(56) 丁巳 同 二年 同 六年
戊午 同 三年 同 七年
己未 同四年崩、欽明即位 同 八年
庚申 欽明元年 同 九年
すなわち安閑、宣化両天皇の治世を、『日本紀』継体天皇の治世中に片づけてしまって、欽明天皇の治世を、ただちにその翌年から始まることにするのである。
平子君がかく定められたことについては、もちろんそれぞれに相当の根拠があった。
まず宣化天皇の崩御をもって、『日本紀』に継体天皇崩御の年となせる辛亥の歳だと認定したことについては、『法王帝説』に欽明天皇の治世を四十一年とし、辛卯年四月崩とあることから、逆推して得られたのである。このことについては、『日本紀』の宣化天皇の三年戊午の歳をもって、欽明天皇の御世なりとし、また最澄の『顕戒論』にも、南都の僧綱らの表にこのことあるをいい、『元興寺縁起』また同説なることをいっているなど、他にこれを傍証すべきものが多く、平子君は当時いまだ見るを得なかったがために、ここには引いておられぬけれども、後に同君も親しく調査されたはずの、醍醐本『諸寺縁起』収むるところの『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』なるものにも、立派に戊午の歳をもって欽明天皇即位の七年だとまで書いてあるのである。されば平子君のすでに推定せられたごとく、欽明天皇の即位がこの辛亥の歳であり、その翌年が元年であったことは疑いを容れず、したがって『日本紀』の説の誤りなるべきことは、一見きわめて明白なるがごとく解せられるのである。
『日本紀』がこの辛亥の歳をもって、継体天皇崩御の年と定めたことについては、同書がみずから注するがごとく、『百済本紀』に、
(57) 大歳辛亥……聞、日本天皇及太子皇子倶崩薨。
とあるのによったものである。しかるに平子君はこの記事をもって、宣化天皇に関することであると推測せられたのであった。しかしてその証拠として、『日本紀』に、継体天皇の皇子は御三方まで帝位に即かれたとあって、この時天皇とともに薨じ給わず、これに反して宣化天皇を桃花鳥坂《つきさか》上陵に葬り奉ったことを記した条には、皇后橘皇女およびその孺子をこの陵に合葬すとあるのが、よく右の『百済本紀』の記事に契合すとのことを述べておられる。これもまたいちおうもっともな見解というべく、かくのごとくにして、安閑、宣化両天皇の御代は、『日本紀』紀年の継体天皇二十五年以前に納まってしまったのである。そしてそれからすぐ欽明天皇の御代に続くこととなれば、戊午年が同天皇の御代であるという『法王帝説』や、『顕戒論』(『元興縁起』)の記事、また同天皇の治世が、辛卯の歳まで四十一年だという『法王帝説』の記事なども、都合よく出合うこととなるのである。
平子君はさらに『続日本紀』天平勝宝三年二月条の、雀部朝臣真人らの言を引いて、『日本紀』継体天皇の二十三年なる己酉の歳が、その実安閑天皇の御代なるべきことの一証とせられた。真人らの言によれば、祖先男人の大臣は、継体、安閑二朝に仕え奉ったとある。しかも『日本紀』には、男人は継体天皇二十三年己酉に薨じたとあるから、その己酉は当然安閑天皇の初代のうちなるべく、安閑天皇皇位の継承が、必ずその以前になければならぬ。あたかもよし『古事記』には、継体天皇は丁未の歳に崩じ給うたとある。そこで安閑即位をこの丁未の歳に置き、『日本紀』に従ってその治世を二年とすれば、己酉崩御という註文通りの年表が出来上ることとなるのである。これまたいちおうもっともなる見解だといわねばならぬ。
このほかにも平子君は、種々の点から『日本紀』の紀年の不信を訴え、自説に声援を与えるような材料を列挙しておられるけれども、大局から見てさまで重要なものでもないから、ここに紹介することを略する。詳細を知りたい方(58)は『史学雑誌』の本文について見られたい。
三 平子君新研究の批評
平子君の右の新研究は、継体以下三皇紀の皇位継承に関する紀年について、確かに一新解釈を下したものとして、傾聴するに十分の価値あるものである。しかして『日本紀』の記事の矛盾について、ある程度までこれを説明し得るものであることを疑わぬ。しかしながら、さらに詳細にこれを観察するに、やはり他の多くの『日本紀』の紀年に関する考説と同様、単にそうあるらしいという以上に、断定的威力に乏しいの感がないでもない。のみならず、同君は『日本紀』紀年の不信を訴うるに急にして、何故にその矛盾を生ずるに至ったかについての観察に欠くるところがあり、その説の取捨についても、遺憾の点の少からぬことを惜しまざるを得ぬ。
実際平子君は、『日本紀』の紀年を改訂せんとするに熱心なるあまりに、その説と他の説との間に相違ある場合にはただちに、他の説を採りて『日本紀』の方を改めんとするの嫌いがないとは言えぬ。あたかも法隆寺庚午火災の記事が、『日本紀』と『太子伝』と両者にあるを見て、容易に『日本紀』の天智九年説を排し、『伝』の推古朝説を採られた〔7〕と同様の態度が、この場合にもあらわれているのである。例えば仏法渡来の年時について、『日本紀』は欽明天皇十三年壬申の歳といい、『法王帝説』等には同天皇戊午の歳とある場合において、君は簡単に壬申説を捨てて、戊午説を採っておられるがごときこれである。また継体天皇の崩御について、『日本紀』に「二十五年二月丁未」といい、『古事記』に「丁未年四月九日」とある場合において、「丁未」はその実崩年の干支であるべきのを、『日本紀』は崩日の干支と誤ったのだと言っておられるがごときまたこれである。さらに同じ『日本紀』の中についても、大臣巨勢男人の薨去、蘇我稲目の任命に関して、『日本紀』には己酉歳に男人薨じ、丙辰歳に稲目任ぜられ、その間六年(59)大臣を欠くことになっているが、君はたちまちこの点に疑いを挟まれ、その実稲目の任官は、干支のいかんにかかわらず、男人薨去の翌年、すなわち同君新説の宣化元年庚戌歳にあるべきものだと論じておられるのである。かくのごときの類他にも多く、自説を証せんとするに急にして、取捨の選択に粗漏多きの憾みあるを惜しまざるを得ぬ。
『日本紀』の紀年に往々誤謬あることは何人も否定し得ないところである。しかしながら、それも時と場合によりけりで、そう軽々しく改訂すべきものではない。何分にも『日本紀』は多年「勅」によりて史局を開き、研究を重ねたうえの産物である。されば史料の全然欠如せる古代のことのごときについては、ある目的のもとに故意に作成せられたる紀年のすこぶる多きを認むるも、年代もやや降って、史料の比較的豊富なる時代のことについては、そう軽々しく筆を下したものではない。もちろん編纂者の研究の粗漏から、誤りを来したと思われるものもないではない。しかしその編者が、現在の史料について、及ぷ限りの穿鑿を重ね、取捨についてもはなはだしく慎重の態度を採ったものたることは、十分にこれを認めなければならぬ。すでに平子君も着眼せられたごとく、本書は『百済本紀』によって、継体天皇の二十五年崩御説を本文に採用しながら、なお「或本」の二十八年説を捨てかねて、後の勘校者にその史料を遺し、また安閑天皇の治世についても、その二ケ年ということ、またその崩御が乙卯の歳であったということの、とうてい否定し難いものがあったがために、一方に継体天皇崩御の当日、新帝即位の事実を認めながらも、その後元新帝年との間に、二年の空位を設けるがごとき矛盾をも忍んでいるがごとき、皆史料の取捨を軽々しくせず、推考についてきわめて慎重なる態度を採ったことを窺知すべきものである。決して平子君のなされたがごとく、ある場合には治世の年数に重きを置き、ある場合には毫も頓着せず、ある場合には干支を尊重し、ある場合にはこれにかかわらず、無雑作に自説に都合よき取捨をこれに施したものではない。したがって『日本紀』を研究せんとするものは、まずもってどこまでもその記するところを尊重し、ことに「継体天皇紀」以下のごとき、やや降りたる時代のことにつ(60)いては、当時編纂者がその記事をなすに足るだけの、相当の史料を有したりしものなることの認定のうえに、もしその記事に過誤があるならば、その過誤の由って来ったところの道筋を考えて、始めてこれが改訂を試むべきものであると信ずる。
試みに右の仏教伝来の年時について考察せんか。『日本紀』がこれを欽明天皇十三年壬申歳となせるほかに、これをもってこれよりもさらに十四年前なる、戊午年だとなす説のあったことについては、『法王帝説』等の記するところ疑うべからざるもので、何人もこれを承認せざるを得ぬのであるが、しかしながらこれあるがために、『日本紀』の壬申説を、誤りなりとどうして断定することが出来よう。欽明天皇十三年壬申渡来説は、決して『日本紀』編者の偽作でもなければ、過誤でもない。すでに孝徳天皇大化元年の「詔」にも、明かにこのことが見えているのである。したがって『日本紀』の編者は、ただその旧説のままに従っただけで、その以外に戊午説の存在を知らなかったか、知っていても研究上の結果として、それに従う価値なしと認めたものであったかに相違なく、いまだもって壬申説は軽々しく捨てらるべきではないのである。
次に継体天皇崩御に関し、『古事記』が丁未の歳とし、『日本紀』が丁末日としていることについても、平子君は、その「丁未」の二字の古伝なることを認められるとともに、それを歳の干支とした『古事記』を正しとし、日の干支とした『日本紀』を誤りとしておられるが、これもそう簡単に断定し得べきものであろうか。もっとも平子君は、『日本紀』のこの条の記事が、
廿五年春二月天皇病甚、丁未天皇崩。
とあることに注意せられて、『日本紀』普通の筆法によれば、日次を記する必ず朔の干支を掲記すべきに、ここにこれなきは、もともとこの「丁未」の二字が、実は『古事記』の記するごとく、天皇崩年の丁未の歳であるべきを、『日(61)本紀』は「百済本紀』によって二十五年辛亥の歳を天皇崩御の年と定めたがために、漫然これを日の干支と誤解して、その下に採録したものであろうと論じておられるのである。しかしながら、この条の記事は、二十五年二月に天皇の病はなはだしきことを記したので、その日を明記し得なかったがために、他の例に常に見るごとくこれを月にかけて、朔の干支を標せず、さらにその下に崩御の日を連記したものと解し得べく、その代りに次の「安閑前紀」の文には、明かに、
廿五年春二月辛丑朔丁未……天皇崩。
とあって、必ずしも浸然間違いを書いたとのみは言い難いのである。しかも平子君は、この『古事記』の丁未年崩御説を重んぜられた結果として、安閑、宣化二代の治世をも引き上げんと試みられたのであるが、それほどにまで重んぜられる『古事記』には、その次の安閑天皇の崩年をもって、『日本紀』と同じく乙卯歳としてあることになんらの注意を払われなかったことは不思議である。安閑天皇が乙卯崩御であることについては、「記紀」ともに一致するのみならず、『日本紀』にはその前に二ケ年の空位を設けてまでも、これを動かすことが出来なかったことを見ても、とうてい容易にこれを引き上げることは出来ないのである。継体天皇には三皇子まで並び即位し給うて、「太子皇子倶崩薨」という『百済本紀』の文にあわず、これに反して宣化天皇を葬る時の記事には、皇后橘皇女およびその孺子を合葬すとあれば、『百済本紀』のこの文に都合よく契合すと言わるるも、これまた必ずしもしかりとは首肯し難い。なんとなれば、継体天皇には、次に相ついで即位し給いし三皇子のほかに、『古事記』にはなお四皇子十二皇女あることを記し、『日本紀』にはさらに別に二皇子の存在を記してあるのみならず、特に『古事記』には、十九皇子女の筆頭に、大郎子(『日本紀』には大郎皇子)の名を列ねてあるのである。あるいはこの大郎子が、『百済本紀』にいわゆる太子に当るお方であったかと思われないでもない。これに反して宣化天皇陵に合葬せるは、皇后と孺子とであって、(62)太子および皇子というには当らないのみならず、この合葬の記事は、必ずしも天皇と同時に葬ったことを示したものではなく、後より陵内に葬る場合に、常にこの書き方をなすことはいっこう不思議ではない。現に安閑天皇の皇后は、宣化天皇崩御の後までも生存し給いしにかかわらず、『日本紀』には天皇葬儀の記事の条に、宣化天皇葬送の記事の場合と同じく、皇后および皇妹と合葬すと、全然同一筆法をもって記述してあるのである。
されば平子君が「丁未」の干支をもって、『古事記』のこれを歳の干支なりとするを正しとし、『日本紀』が日の干支とするを誤りなりとすることは、論拠なお不十分であるのみならず、特に『日本紀』が『百済本紀』の、「日本天皇及太子皇子倶崩薨」の記事をもって、継体天皇の場合に宛つるを誤りなりとし、これを宣化天皇の御事なりと解せんとするは、遺憾ながらとうてい首肯し難いものなりといわねばならぬ。
最後に平子君が、大臣男人の二朝歴仕の記事を証として、『日本紀』に男人の薨を記する己酉(『日本紀』では継体二十三年)の歳をもって、その実宣化天皇の治世でなければならぬとせられたことも、論拠なお薄弱なるの嫌いがないでもない。男人の後と称する雀部真人らが言うところは、二朝歴仕の事が『日本紀』に漏れているという点ではなくて、雀部氏を誤って巨勢氏と書いてあるという点の訂正を求めんとするにあった。しかもその二朝歴仕の事は、ただその家において然《し》か伝えていたというだけで、必ずしもこれによって、『日本紀』を訂正するほどの威力のないものであることは、普通に諸家の系図の記するところ、この類の多いことによって察せられる。しかしかりにこの二朝歴仕の事実が、絶対に信ずべきものであるとするも、これがために『日本紀』の宣化天皇の治世を改むべきではない。なんとならば、その薨去を『日本紀』が己酉歳としたことの方が誤りで、実は『日本紀』に宣化天皇元年丙辰の歳、蘇我稲目が大臣に任ぜられる前年、すなわち安閑天皇の二年乙卯歳に男人薨じたのであったとも考え得られるからである。平子君は男人大臣と稲目大臣との間に、六年に渉って大臣の位を欠けることを怪しまれ、ために稲目の任官の年を引(63)き上げんと試みておられるけれども、稲目の任官を六年引き上げんと試み得べくんば、男人の薨去を六年引き下げんと試みることも、あえて憚るには及ばぬはずではなかろうか。余輩はあえてかくまでして、『日本紀』の紀年を改竄するほどの必要を認めざれども、もし強いて男人二朝歴仕の事実を固執せんとするならば、平子君がなしたと同一程度の改竄によって、平子君の投ぜられた疑問に対して、平子君のなしたと全く反対の解説を下し得るのであることを付言しておく。
これを要するに、『日本紀』の継体以下三皇紀の皇位継承紀年に関して、平子君の試みられた新研究は、先人未発の一新説として、確かに傾聴すべき十分の価値あるものではあるけれども、これによってその疑問を解決し得たりとなさんは、遺憾ながらいまだしといわざるを得ない。
四 遺されたる疑問の解釈
平子君の新研究が、なおいまだ適当なる解説を与え得ずとすれば、余輩が緒言において掲記したる三大疑問は、依然としてそのままに遺されているのである。しからばこれを果していかに解釈すべきものであろうか。
第一に継体天皇二十五年辛亥の歳崩御の説は、『百済本紀』のこの年における、「日本天皇及太子皇子倶崩薨」との記事が、安閑、宣化両天皇のいずれにも当て嵌め得られざる限り、必ずこれに従うべきもので、『日本紀』の編者が「或本」に、二十八年甲寅の歳崩御の説を伝うるにかかわらず、それを捨てて二十五年説を本文に採用したる態度は、どこまでもこれを承認せざるを得ぬ。すでに言えるごとく、安閑天皇が乙卯歳崩御ということは、「記紀」ともに一致するところであり、ことに『日本紀』には、その在位二年ということと、乙卯崩御ということとの疑うべからざるものがあったがために、一方では継体天皇崩御の日において、あらかじめ大兄を立てて天皇となすといいながら、し(64)かも爾後二年間を空位として、甲寅の歳をもって安閑天皇の元年となせるがごとき、はなはだしき矛盾をあえてしてまでも、なおかつこれを改めることが出来なかったのである。人あるいはこの空位二年をもって、『日本紀』編者の年代推算の過誤だと言うかも知れぬ。しかしこれは決して過誤でなく、編者が明かにその矛盾を認めていたことは、継体天皇崩御の記事の条に、安閑天皇の元年に相当する甲寅の歳崩御の一説を注して、特に後の勘校者の注意を促し、また他の場合にはことごとく「天皇の位に即く」と書く例であるにかかわらず、ひとり安閑天皇の場合のみは、「立てて天皇と為す」という曖昧なる筆法を用いたことによっても知られよう。
果してしからば二十八年甲寅歳崩御の、「或本」を余輩はいかに解すべきか。これは一方に、安閑天皇の即位が甲寅の歳なることの疑うべからざるものがあり、しかも一方には継体天皇崩御の日に、前もって次の天皇を立てて天皇となすとのことの、また疑うべからざるものがあったがゆえに、先帝の崩御をこの安閑即位の年に推定した説が存在したものと解せられる。あるいは強いて推測を逞しうするならば、継体天皇の崩御のさいには、天皇、太子、皇子ともに崩薨すと『百済本紀』にある通り、このさい皇室内になんらかの重大なる事変があったので、したがって、皇太子なる勾大兄皇子も、ただちに即位し給うの運びにならず、その事変は百済にまでも聞こえて、『百済本紀』の記事となるほどであったけれども、表向きにはその喪を秘して二年の後なる甲寅の歳の安閑天皇即位とともに、これを発表したものであったかも知れぬ。ともかくも継体天皇が二十五年辛亥の歳に崩じ、中二年を置いて、甲寅の歳に安閑天皇即位したもうたことについては、毫末の疑いを容れる余地なきものといわねばならぬ。もしそれ『古事記』の丁未歳崩御の記事に至っては、しばらく平子君の認定を逆に行って、『古事記』は丁未の崩日を誤って、崩年としたとでも解すべきものであろう。
次に欽明天皇治世の年数に関する疑問は、解決さらに困難なるものであるが、その真相はほぼ忖度し得られないで(65)もない。
平子君もすでに認められたごとく、『法王帝説』に欽明天皇の治世をもって、辛卯年まで四十一年と数えたものは、決して誤写または誤伝ではなく、『日本紀』とは別にかくのごときの古伝が、明かに存在したことはとうてい疑いを容れることが出来ないのである。それは同書に、仏法が始めて伝わったという戊午の歳をもって、欽明天皇の御代だと記してあるばかりでなく、平子君も引かれたごとく、『顕戒論』に、「元興縁起戊午の歳を取る」といい、南都僧綱の説にも、欽明天皇戊午の歳に百済王仏法を渡し奉るとあるによって知られるのである。平安朝の初めにおいて、すでに『日本紀』の紀年とは異にして、『日本紀』の欽明天皇元年庚申の歳よりも二年前なる戊午の歳が、やはり欽明天皇の御代なりしことの説のあったことは、とうてい否定するを得ないのである。
のみならず、平子君がこの新研究を発表したさいには、いまだ見るに及ばれなかったけれども、すでに言うごとく、その後同君も親しく調査せられたはずの醍醐本『諸寺縁起』所収『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』なる物には、その戊午の歳をもって、欽明天皇七年と明記してあるのである。この事はそのみずから言うごとき古書ではないけれども、いわゆる戊午の歳をもって欽明天皇七年とする治世の数え方が、少くも古く元興寺において採用されていたことは疑いを容れぬ。されば『顕戒論』記するごとく、南都北嶺の論議において、よしや南都方のこの説が、『日本紀』の紀年を真向から振りかざした最澄の詭弁の前に、いったん屈服したのであったとしても、欽明朝に戊午の年のあったという説の存在は、相変らず生きているはずである。
されば今この説に従って、戊午歳を欽明天皇の七年としたならば、その元年は王子の歳で、まさに『百済本紀』にいわゆる、「日本天皇及太子皇子倶崩薨」の辛亥の翌年に相当する。すなわち継体天皇の御代の次がすぐ欽明天皇の御代となるべき道理で、辛亥の歳継体天皇崩じ、欽明天皇即位し給うたこととなるのである。
(66) 辛亥より数えて欽明崩御の辛卯の歳は、まさに四十一年目に当る。『法王帝説』が天皇の治世を四十一年と数えたのは、『古事記』の治世の数え方にしばしばその例を見るがごとく、即位と崩御と双方の年を加えたもので、まさにその事実たることが証明せられるのである。
百済王聖明によって伝来した仏教が、果して『日本紀』これをいい、すでに孝徳天皇の「詔」にも見えるごとく、欽明天皇十三年壬申の歳であったか、あるいは『法王帝説』『元興寺縁起』等の主張するごとく、欽明天皇七年戊午の歳であったかということについては、別の問題に譲る。ただこの戊午の歳をもって欽明天皇の御代なりとし、天皇がただちに継体天皇の後を承け給うたとの旧説の存在は、どこまでも承認せねばならぬ。
しかるに一方にはこの戊午の歳をもって、『日本紀』と同じく宣化天皇の三年だとする説の存在せることをもまた忘れてはならぬ。戊午の歳仏法伝来せりとの説は、ひとり元興寺において唱えたばかりではない。『法王帝説』の記事は、あるいは『元興寺縁起』と出所を一にするものであるかも知れないけれども、凝然の『三国仏法伝通縁起』引くごとくんば、大安寺の学僧たる新羅の審祥の『審祥大徳記』にもそれがある。しかもそれはこの戊午の年をもって宣化天皇三年としたもので、紀年においてまさに『日本紀』に一致し、明かに『元興寺縁起』とは、その出所を異にしたものだと考えられるのである。これは仏教伝来の年時を戊午の歳だとするうえにおいて、有力なる援助を与えるものであるが、それを別にしても、この戊午をもって宣化天皇の御代だとすることにおいて、『日本紀』の紀年を裏書きすべく、貴重なる資料であらねばならぬ。
平子君もつとにこの点には注意せられて、これをもって戊午歳仏法伝来説の一証拠としておられるが、しかもこれをもって宣化天皇の御代だとなすことについては、『伝通縁起』の著者凝然が、『日本紀』によって然か改訂したものだといっておられるのである。あるいはすでに審祥の時において、そう誤っていたのかも知れぬともいっておられる(67)のである。しかしこれは凝然の改訂でもなければ、また審祥の時に誤っていたのでもなく、まさに『日本紀』の通りに、一方で欽明天皇の七年だというこの戊午の歳を、一方では宣化天皇の三年だと主張する説のあったことを示したものであらねばならぬ。すでに述べたるがごとく、安閑天皇の治世を甲寅、乙卯の二年とする『日本紀』の説が、絶対確実のものである以上、その次に宣化天皇の御代が続いて、問題の戊午の歳が、その三年であるべきことは疑いを容れず、『日本紀』の年立と、『審祥大徳記』の記事と、ともに動かすべからざるものであらねばならぬ。
一方で継体天皇が二十五年辛亥の歳に崩じて、この年欽明天皇が即位し給うたとのことが疑うべからず、しかも一方では安閑天皇の御代が甲寅、乙卯の二年に渉り、その乙卯の歳に宣化天皇即位し給うて、それより四年目の戊午の歳が、その宣化天皇の御代であることまた疑うべからずとすれば、ここにとうてい説明すべからざる、相矛盾したる二つの紀年が提供せられた訳である。これを年表に現わすと左の通りである。
干支 『日本紀』『審祥記』説 『帝説』『元興縁起』説
辛亥 継体二十五年崩 欽明即位
壬子 ―― 同 元年
癸丑 ―― 同 二年
甲寅 安閑元年 同 三年
乙卯 同 二年安閑崩、宣化即位 同 四年
丙辰 宣化元年 同 五年
丁巳 同 二年 同 六年
戊午 同 三年 同 七年
(68) 己未 同 四年宣化崩、欽明即位 同 八年
庚申 欽明元年 同 九年
平子君はこの矛盾を解決せんと試みられて、継体天皇の崩御を四年前の丁未の歳となし、安閑、宣化の二代を辛亥以前に押し上げてしまわれたのであったが、その首肯すべからざること前述のごとく、『日本紀』の記する安閑、宣化両代の治世とうてい動かすべからず、しかも欽明辛亥即位説また疑うべからざるにおいて、この難問をいかに解決すべきか。その途はただ一あるのみ。すなわち寿永元暦のさいのごとく、また南北南朝対立の時のごとく、両帝同時に位にましましたとの仮定のもとにのみ、はじめて了解せらるべきものである。
五 最後の断案
継体天皇の皇位継承については、普通の場合をもって律し難いことがはなほだ多い。応神天皇五世孫というがごとき、遠い傍系の御身をもって、当時武烈天皇皇子なくして崩じ給いたりとするも、他に比較的近き御血縁の皇族多々ましますべきにかかわらず、遠く天皇が越前より迎えられて、大統をつぎ給うたということが、すでに異数の事実であった。また当時歴代の帝都は常にほとんど大和平野の外に出でず、天皇またその大和朝廷の大官によって迎えられ給うたと言うにかかわらず、大和とは遠く離れた河内の北端樟葉宮で即位し給い、五年に至って山城の筒城に遷都し、十二年さらにそれよりも北方なる同国弟国に遷都し、二十年に至って、始めて大和の磐余に遷り給うたというがごときことも、普通にはその例を見ざるところである。あるいは天皇の即位について、当初大和平野に入り給い難き事情があり、周王三遷の態を学び給うた形勢があったのではないかと想像されないでもない。ことにその二十年の磐余遷都のことを、「一本に七年といふ」と、『日本紀』に注記せるを見れば、一方にさる説もあったことと思しく、いった(69)ん天皇七年に大和に入り給いしも、当時なおこれを許さざる事情があって、いったん山城の筒城に退き、さらに遠く弟国に退き、最後に、再び大和に落ちつき給いたりとの想像が許されないでもない。後にその御病篤きに及び給うや、まずもって太子を天皇となし、即日崩じ給うたということのごときは、かつて前例を見ざるところで、たといわずかに一日の間のことなりとも、明かに譲位の先例をなしたものといわねばならぬ。しかもその即日天皇となり給うたという次の天皇の御代が、その後二年を経たる甲寅の歳をもって元年とし、また父天皇の崩御について、「太子皇子倶崩薨」との噂が百済にまで伝わっていたということは、この間なんらかのはなはだ複雑したる事情が、伏在していたことを想像せしめるに十分なものがある。いわんや一方には天皇の崩御とともに、欽明天皇の御代が始まったとの古伝の否定しがたいものがあり、一方にはこの欽明天皇の治世の間にあって、重複して安閑、宣化両帝の治世の存在することが、またとうてい否定し難いことによって、いっそうこの感を深くせしめるのである。
『百済本紀』に「太子皇子倶崩薨」とある太子が、安閑天皇たる勾大兄皇子にましまさぬことは明かである。皇子が父天皇の長子として、その七年すでに春宮に据えられ給い、はやくから太子と定められたことに疑いなしとしても、その以外に太子とも見らるべきお方がないではなかった。現に欽明天皇のごときも、『日本紀』には特にこれを嫡子と明記して、皇嗣たらるべき資格ある御方として認められたような筆法を用いており、『古事記』の十九皇子女の筆頭として記《しる》された大郎皇子のごときは、そのお名前からして、また特別のお方でおわしたと推測されるのである。されば『百済本紀』にいわゆる日本の太子が、この大郎皇子であったか否かはもちろん明かでなく、あるいはその太子ということが全然誤聞であったかも知れないけれども、ともかく継体天皇崩御のさいに、皇室において何かの事変の発生したことは疑いを容れない。ここにおいてか天皇は、御病篤きに及んで、御生前に次の天皇を立て給うというがごとき、空前の異例をあえてし給うの必要があったことと思われる。しかしてこの選に中ったお方(70)は、『日本紀』に記するごとく安閑天皇ではなくて、その実欽明天皇にておわしたと察せられるべき理由がある。『日本紀』にこれを安閑天皇に推定したのは、同書が欽明天皇の継位を認めず、安閑天皇をもってただちに次の御代となしたことから導かれた当然の帰結であつたにほかならぬ。
安閑天皇はすでに父天皇の七年に、皇太子として定められ、「朕を助けて仁を施し、吾を翼けて闕を補へ」との優詔を拝せられたほどで、常に政治にも参与しておられたと察せられる。しかしながら、一方欽明天皇は、皇后の嫡子として、特に父天皇の御鍾愛深くましまし、『日本紀』にも、「天皇之を愛して常に左右に置く」と、わざわざ書いてあるほどで、御兄弟多き中にも、特別のお方におわしたに相違ない。ことに欽明天皇は、幼時から、後に天皇とならるべき予言を有しておられたのであった。『日本紀』に、夢中に人あり、秦大津父を寵愛し給わば、壮大に及んで必ず天下を有し給わんと、告げ奉った者があったというのがこれである。かくて天皇これを近侍に登用し給うたところが、秦氏大いに饒富を致したとある。天皇は御幼時から、天下の大富豪たるこの秦氏の背景を有し給うたのであった。かくて天皇即位の後、これを大蔵省の官に任じ給うたが、当時秦氏の数ははなはだ多く、『日本紀』には天皇の元年において、その数すべて七千五十三戸あり、大蔵掾をもって秦伴造となすとある。このころのわが国の戸口ははなはだ少く、奈良朝初めに国家の認むる編戸の数、わずかに二十万八百戸に過ぎなかった。しからばこれよりも百八十余年の古えにあった欽明天皇の御代の戸口が、遥かにそれよりも少かったことは勿論であるが、今かりに同数であったとしても、秦氏の数は当時全国総戸数の約二十八分の一を占めていたのであった。この大部族を配下に有する大富豪秦大津父を背景とし、ことに「之を寵愛し給はゞ、天皇とならるべし」との予言を幼時より有し給うが上に、その御身は皇后所生の嫡子におわし、父天皇の御鍾愛特に他に異なりと言われたほどの皇子が一方にまします場合において、一方にはつとに皇太子として、久しく政治に慣れ給える皇子がましますとすれば、天智天皇晩(71)年における大海人皇子と大友皇子との間に見るごとき関係の起ること、絶無なりと何人か言い得るであろう。天智天皇御病篤きに及び、大海人皇子は自発的に儲位を退かれたけれども、天皇なお意を安んじ給う能わず、二度までも大友皇子を中心として、仏前に、また天皇の御前に、諸大官を召集して忠誠を宣誓せしめ給うたことであった。しかもなお、その崩後壬申乱の勃発するを避け得なかったのである。継体天皇が大漸に際しての委曲の事情は、ほとんど後に伝うるところなきも、御生前に後の天皇を立て給い、その崩御に際しては、「太子皇子倶崩薨」とまで伝えられ、しかもその後二年の空位を見るがごとき、これら数多の異数の事実を綜合して考うるに、このさい勾大兄太子が、大海人太子の場合のごとく、皇儲を辞し給うたか否かは不明なるも、ともかくも継体天皇は御病篤きに及んで、切に後事を顧慮し給い、あらかじめ崩後の事を定め給うくらいのことでは満足し給わず、御みずから目のあたり後帝を立て給うたのであったと察せられる。しかして後帝はすなわち欽明天皇で、『法王帝説』や、『元興寺縁起』は、これをそのままに認めて天皇の御代を四十一年とし、戊午の歳を天皇の七年と数えたのであったに相違ない。
しかるに一方では、欽明天皇のこの即位の事実を認めず、先帝の喪を秘して依然勾大兄皇太子を推戴するものがあり、甲寅の歳に至って始めて太子位に即き給うたものであったと想像される。かく仮定してみれば、継体天皇二十八年崩との「或本」の説のあることも、これによって説明せられ、一方に欽明天皇の御代と重複して、安閑天皇の御代の存在も承認される訳である。かくて安閑天皇在位二年にして崩じ給い、同母弟にます宣化天皇即位し給うた。大安寺『審祥記』に、『元興寺縁起』が欽明天皇七年という戊午の歳をもって、宣化天皇三年に当てているのは、まさにその治世によったものであらねばならぬ。
宣化天皇在位四年にして崩じ給い、ここに欽明天皇一統の御代となったはずである。かくて天皇の治世は、『法王帝説』の説に従えば、ただちに継体天皇の御代辛亥の歳からつづいて、四十一年目の辛卯まで一貫したものとなり、(72)『審祥記』の流儀では、宣化天皇の崩御から始まることとなるべきものである。これはあたかも寿永二年後鳥羽天皇の践詐の時をもって、安徳天皇の御代は終ったものと解するか、後鳥羽天皇践詐の後も、安徳天皇のなお御存生の間は安徳天皇の御代とし、天皇崩御の時をもって、後鳥羽天皇の御代は始まると解するか、二た通りの見方のあるがごときものであろう。しかして『日本紀』は、安閑、宣化両天皇の治世をみとめたがために、宣化天皇崩御の己未の歳をもって欽明天皇の御代は始まるものとの解釈に従ったがために、継体天皇御存生中に天皇となり給うた御方を安閑天皇の御事なりと解し、しかも安閑天皇の即位の甲寅の歳なることが動かすべからざるものであったがために、これをもって天皇の元年となし、したがってその以前に壬子癸丑の空位二ケ年を生ずるのやむなきに至ったものであろう。
時代古く、史料乏しく、いかなる形式のもとにその皇位継承が行われたか、また重複した両帝の御間柄がいかにあったかのごときは、今にしてもとよりこれを知ることが出来ない。しかしながら、『日本紀』には、宣化天皇崩御の己未の歳十二月に欽明天皇位に即き給うと記し、大臣、大連らも依然として前代に引続き、平和にその職にあったらしく見えていることから考うれば、その実際はいかにもあれ、その表面にあらわれたところでは、統一後の欽明天皇の御代にあっては、安閑、宣化両天皇の治世が立派に認められ、欽明天皇は円満にその後を承け給うたことになっていたに相違ない。
しからば安閑天皇御即位前の空位二ケ年間は、如何であったであろう。欽明天皇は父天皇のなお御存生中に、すでに天皇となり給うたのであったとしても、それが果して公式に後に認められたとは限らない。『日本紀』には、単に「天皇と為す」とのみあって、「天皇の位に即く」との普通の例と異なる筆法によっているのである。これは当時天皇いまだ即位の式を挙げ給うに及ばなかったか、あるいは正式に即位し給うたのであったとしても、後に安閑、宣化両帝の治世を認むるうえからは、その以前の天皇の御位を認めず、これを空位とするのやむなきに至ったものであろう。
(73) しかし実際において欽明天皇は、継体天皇の御存生中より天皇となられ、一方に安閑、宣化両天皇の治世の認められた期間をも通じて、四十一年目の辛卯の歳まで、引続きその御位にましましたのであったから、『法王帝説』等の古書が、天皇の治世を四十一年と認め、宣化天皇三年の戊午の歳をも、なお欽明天皇の七年となすがごとき説のあるのは、またやむを得なかったものであろう。
しからばその皇位継承の形式や、その治世期間の認定が如何にもあれ、それは妥協により、もしくは解釈によって定まるべきことであって、事実は一方に欽明天皇が、継体天皇のなお御存生中より引続きて天皇にましまし、一方にはその間に安閑、宣化両天皇の御代が、重複して存在したと解すべきものであろう。
六 余論――継体天皇以下の陵墓について
継体天皇以下三天皇の皇位継承に関する容易に解し難き諸問題は、ただ両朝重複して存在したとの仮定のもとにのみ、始めて合理的に説明せらるべきものであること、前述の通りであるが、ここにこれを論じたちなみに、さらにその陵墓について一考するに、ややこれを裏書するかの感をなさしむるものがないでもない。実をいわば、余輩が今日突然この旧研究を発表するに至ったのは、緒言述ぶるごとく、近ごろ継体天皇陵に関する問題の起ったに刺戟せられた結果であった。そこでつらつらこれらの諸陵墓について考察を重ねてみると、継体、欽明と安閑、宣化との間に、規模その他において著しい差があり、かりに両朝の重複存在の事実を信ずるとすれば、その両朝間の勢力に大なる逕庭があったことが認められて、ほぼ当時の形勢を髣髴せしめるものがないではない。
『延喜式』によるに、継体天皇陵は摂津三島郡(旧島上郡)にあって、兆域方三町というほどの、至って宏大なものである。しかして現に三島郡には、これに匹敵すべき前方後円の大古墳が二基あって、その一つが天皇陵として指(74)定になっているのである。
これを既往の例に見るに、歴代の天皇陵多くは帝都の地なる大和にあり、時として河内および和泉に設けられた場合もあるが、この三島の地のごとく、遠く帝都から離れたところに選定されたことは一度もなかったのである。しかるにひとり継体天皇陵のここに設けられたのは、天皇が始めその東南の樟葉宮に都し、後またその東北の弟国宮に都したまいて、この地方に縁故深くおわしたためで、あるいはこの偉大なる山陵は、御生前ここに築造して置かれたのであったかも知れぬ。今日継体天皇陵として定められたるものは、もと茶臼山と称する大前方後円墳で、単※[さんずい+皇]を繞らし、規模においては方三町という『延喜式』の記事に相当するが、その地が旧島下郡の地域に属して、『延喜式』島上郡というに合わぬ。しかるにこれからやや東北に離れて、旧島上郡の地にこれとほとんど同規模の大陵がある。今城山《いましろやま》と称して、二重の※[さんずい+皇]を繰らし、地理においても、大きさにおいてもまさに『延喜式』言うところに匹敵するのである。しかしてこの二墳以外に、三島の地にはこれにあつべきものなきがゆえに、余輩はすでに大正二年十二月発行の、本誌臨時増刊皇陵号において、この今城山こそ、其の継体天皇陵たるべきかの疑問を提出しておいた〔8〕のであったが、その後天坊幸彦君が、古記録と実地とより、この地方の古代の条里を調査せられたる結果〔9〕として、島上、島下両郡の境界が、古今相違なきことを確かめられたので、『延喜式』言うところの真の継体天皇陵が、今は荒陵として委棄せられたるこの今城山なることを、確認するを得るに至ったのである。
今城山の規模においては、茶臼塚以外一もこれに追随するものなきまでに、この地方においてははなはだ偉大なるものである。これを既往の皇陵について見るに、その規模においては、応神、仁徳、履中のころを最盛期として、爾後やや縮小の傾きがないではないが、それでもこれを後の諸皇陵に比するに、概していずれも偉大なもので、近く顕宗、仁賢、武烈諸帝のごとき、ともに兆域東西二町、南北三町という大規模のものであった(現在のこれら諸帝の皇陵(75)の規模の中にはこれに相当せぬもののあるのは、けだし推定を誤ったものと認められる)。しかして継体天皇陵の、さらにそれよりも大規模なるは、天皇の御威勢を示したものであらねばならぬ。
また継体天皇の皇后として、欽明天皇の御生母たる手白香皇女の山陵は、『延喜式』に大和山辺郡衾田基とあって、兆城東西二町、南北二町という、これもすこぶる宏大なものである。言うまでもなく欽明天皇が、母后の御ために築造せられたものであろう。しかるに安閑、宣化両帝の御生母たる、継体天皇の元妃目子媛陵のことは『延喜式』に見えぬ。けだし荷前の奉幣に預らなかったためである。しかも実地について考うるに、現在継体天皇陵とし指定せられたる茶白塚は、規模天皇の真陵たる今城山とほとんど一対の大陵として、その位置も近く存し、必ずこの時代の高貴の陵墓たることを、認むべきものであるにかかわらず、延喜式内の陵墓、一もこれにあつべきものがなく、またその前後において、この地方に葬られ給えりと伝えられたる高貴の御方の存在も伝えられておらぬのである。よって思うにこの茶臼塚は、安閑、宣化両天皇の御生母として、地を先帝陵の附近に選定し、同じ規模をもって目子媛元妃のために築造せられたのではなかろうかと想像せられる。目子媛は継体天皇に皇妃多くおわした中にも、特に元妃の称号を有せられ、その所生の二皇子は、相ついで即位し給うたのであってみれば、天皇に比すべきほどの陵が営まれてもしかるべきもので、ことに付近に目子媛を祭れりと伝うる目久神社の存在することも、またもって参考とすべきものであろう。しかるに安閑、宣化の両帝は御血統絶えて、欽明天皇の御後永く大統をつぎ給いたれば、後に手白香皇后衾田墓のみが祭られて、目子媛の方は奉幣から除かれたものであろう。これはもちろん想像の範囲を出でぬものなれども、今城山が天坊君によって継体天皇の真陵と確認せられる以上、今の継体陵たる茶臼塚をいかにすべきかの問題も当然起るべきことなれば、特に記して天坊君の参考に供する。
さて継体天皇およびその御配偶者たる皇后元妃の山陵が右のごとく偉大なるにかかわらず、次の安閑、宣化両天皇(76)の山陵を見るに、前者古市高屋丘陵は、兆城東西一町、南北一町半、後者身狭桃花鳥坂上陵は、兆城東西二町、南北二町と『延喜式』にあって、その規模継体陵に及ばざること遠く、さらに次なる欽明天皇檜隈坂合陵の、東西南北各四町というに比するに、規模においてはなはだしい逕庭のあることが認められるのである。もっとも兆域の面積のみをもって、山陵の大小を言うことは出来ないが、これを実地について見るに、その差の著しいものがあって、安閑、宣化両帝の御勢力の、継体、欽明両帝に比して、はなはだしく劣り給うたことを思わしめるのである。もちろんこれには治世の短かかったということもあろう。しかし『日本紀』によると、安閑天皇陵には皇后春日山田皇女と、皇妹神前皇女とを合葬し、また宣化天皇陵には皇后橘皇女と、その孺子とを合葬すとあって、御近親の御方についても、特に薄葬が行われたことを伝えているのである。もっとも後には、敏達天皇を母后石姫皇女の陵に合葬し奉り、推古天皇を、竹田皇子の陵に合葬し奉り、持統天皇を、天武天皇陵に合葬し奉るというような、薄葬の例が少からず見えているが、安閑天皇以前においてかくのごとき実例は一も見当らぬ。のみならず、欽明天皇陵が前述のごとく特に宏大なる規模をなし、またその皇后石姫皇女のためにも、東西南北各三町というような、はなはだ偉大なる山陵が営まれているのである。これまたもって、ひとり両帝の山陵が比較的小規模なるばかりでなく、その御関係者についても、特に薄葬が行われたことを示したもので、その間の事情が朧気に認められるのである。
ちなみにいう、『延喜式』には、安閑天皇陵に合葬せられ給える春日山田皇后のために、別に古市高屋墓を標して、兆域東西二町と記し、今も安閑天皇陵とは別に、付近に皇后陵のあること、その顛末を知らぬ。
またいう、敏達天皇は母后陵に合葬し奉れるものなれば、その陵はもと欽明天皇の皇后石姫皇女のために築かれたものであったに相違ない。しかしてそれは、東西三町、南北三町という、これもはなはだ偉大な前方後円墳である。
(77) 七 結 語
余輩のこの旧研究の発表は、継体天皇以下三天皇紀の皇位継承に関する記事の、とうていそのままでは了解し難く、故平子鐸嶺君のこれに関する新研究も、またいまだもって十分首肯せしむるに足らざるものあるがゆえに、みずから揣《はか》らず旧稿を改訂して、あえて識者の高教を請わんとするためであるが、しかし事実の真相は真相として、これが御歴代に関する公の認定とは、没交渉であることをここに付言しておきたい。余輩がかつて発表したごとく、大友皇子はその当時において皇位を継承せられたるの事実なく、天智天皇と天武天皇との間において、別に大后天皇と呼ばれる、天智天皇の皇后倭姫の御一代の存在したりし事実は、厳として動かすべからざるものであるとしても、すでに弘文天皇が後淡海宮御宇天皇として、公にその御一代を認められたる以上、天智、天武の両朝の間に、弘文天皇の御代を置くことに問題がないと同様である。寿永、元暦の関係にしても、南北両朝の関係にしてもまた同じく、事実は事実、認定は認定である。かりに継体天皇以下三皇の皇位継承の真相が、本編言うがごとく両天皇重複してましましたのであったとしても、すでに勅撰の『日本紀』において、安閑天皇以前に二年の空位を置いてまでも、宣化天皇崩御前の欽明天皇の御代を認めざる以上、どこまでもこれに従うべきは勿論である。余輩はただ『日本紀』に遺された疑問の真相が、かくのごとくにして説明せられ得べきことを述べたに過ぎないのである。近くは多年懸案の長慶天皇の御一代が、公に認められたがごときまたこれである。一方には長慶天皇が明かに天皇にましましたという事実の動かすべからざる確証があるとしても、一方にこれと重複して、後亀山天皇の在位が否定さるべき確証がなかったならば、花咲く松の主張はなお攻究の余地がないとは言えぬ。しかしすでにそれが公に否定せられ、ある期間が長慶天皇の治世として認められた以上、これを御歴代に加え奉ることについては、もはや問題はないのである。しかもその治世が(78)果してただちに後村上天皇崩御の後に始まり、何年まで継続したかについては、おのずから別箇の研究もないではなかろう。付記して読者の誤解し給わらざらんことを望む。 (三・五・一五)
(79) 国司制の変遷
緒 言
およそ政体の如何を問わず、国あれば必ずこれを支配するにあたって、事に中央政府に従う者と、地方の事務を採る者との別なかるべからず。中央政府の官吏は上にありて号令の任に当り、地方官はこれを受けて弘く天下に布く、なお脳髄と四肢五官との関係のごとし。しかれどもこの両者の関係はその間すこぶる困難なる事情を醸しやすきものあり。古来幾多の政治家の常に痛くその心を悩ましむるところにして、国家の興亡また多くはこの調和如何によりて来ると言うもあえてはなはだしき誣言にあらざるなり。けだし権中央に偏すれば地方官の威民に行われずして豪族天下に跋扈し、これに反して地方官勢を得れば政府の命四方に及ばず、政令の統一を欠くに至るべきなり。かつや都鄙道遠く両者の事情往々にして隔絶するにおいては、弊害の百出することまた免るべからざるものあり。試みに一度歴朝興亡の最も著しきシナ史を繙かば、いかに創業の英主、中興の賢君らがこの両者の調和を図るに苦心して、深く前代の覆轍に鑑み、巧みにその弊の起るべきところを予戒し、あるいは封建とし、あるいは郡県とし、あるいは一族を(80)封じ、あるいは功臣を仆すなど、百方これ勉めたるかを見るを得べし。しかれどもいまだかつてよく千年の基業を開きたる者あらざるなり。わが国は開闢以来、天壌とともに窮りなきの大詔を奉戴して、万世一系の天皇天下を統治し給えば、下民のこれを仰ぎ奉ること、例えば日輪の天空に懸りて万民等しくこれを望むがごとし。しかれども天に陰翳あり時に興廃の差なき能わず。神代のことはしばらく措き、神武天皇都を大和に奠《さだ》め給いしより天下皆その徳に服したりしもの、いつしか臣連二造の都民田荘を私するに至りて大化の改革となり、再び院宮勢家の荘園に地方の政乱れてついに武門政治に移り、その武門政治においてもまた、鎌倉仆れ、室町仆れ、信長、秀吉となり、江戸となりたるもの、多くは両者の調和を失したるによらずんばあらざるなり。しかるに従来俗学者流の史を読む者、多くは中央にもっぱらにして地方に粗なるの傾きあり。いたずらに皮相の現象を見て深くその由来を極むることをなさざるがために、興廃を論じて往々その見解を誤れるがごとき者またなきにあらず。彼らは神武天皇の東征を説いて、当時日向と出雲と大和との関係を問わず。彼らは景行天皇の七十余皇子を封ぜられたりしを見て、その国造、県主らとの関係および分封前後の事情を考えず。彼らは熊襲および東夷の反をのみ知りて、その反するに至らしめたる来歴をつまびらかにせず。彼らは大臣、大連の朝廷に争うを知りて、かえって地方の乱れのいっそうはなはだしきものありしを省みず。彼らは大化に土地人民を収めたるを知りて、この時すでに荘園の胚胎せしを暁らず。また彼らはいたずらに延喜、天暦の治を称して、その裏面に武士を養成しつつありしを注意せざるなり。実に彼らは朝廷の歴史を読みて人民の歴史を略し、しかしてその朝廷の興廃はその人民によりて作られたるを知らざるなり。真正の史を読む者はあにかくのごとくなるぺけんや。すべからくまず意を地方の状態に注いでこれをつまびらかにせざるべからざるなり。この方面に向って史家のなすべきところ一にして足らず、「紀記」以下歴世の史籍によりて事実の真相を研究すべきは勿論なれども、また彼らは、漢土の史籍に称する倭国は、いつの世いかなる人を指したるものなりや、関東の平野に散(81)布する大小無数の古墳は、いつの世いかなる人によりて作られたりやなど、助けを地理学、考古学等に求めて、文字以外の事実を探らざるべからず。しかれどもこれらはむしろ各専門の学者の範囲に属す。まず広く地方の状態を知らんとするには、必ず事を地方官沿革の研究に始むべきなり。すなわち上は国造、県主、稲置、君、公、別、村主らの関係より、朝廷の入部、宮家、臣、連、伴造の部民、田荘に至り、下は国司、郡司の起原、沿革、衰頽より、荘園、守護、地頭、大・小名に至るまで、ことごとく皆史家の研究を漏るべからざるなり。なかんずく国司はその端を上古に開き、大化に至りて一変し、ついに地方政治の大綱となること五百年、武士諸国に跋扈するに至って次第に衰うといえども、なおその間に夾まりて絶えざること縷のごとく、室町時代皇室の式微とともに全くその実を失えるも、なお伊勢の北畠、飛騨の姉小路、土佐の一条のごときは皆国司と称して永禄、天正のころまで存在し、その後に至りてもなおその名をのみ受領して、某守、某介の官はついに明治維新まで綿々として絶えざりしこと誠に稀有というべし。されば今地方官の沿革を研究するに当り、まず歩をこの国司に起すこともっとも至当なりとす。
国司の端を上古に開き大化に一変したりしことは、上文すでにいえるがごとくなるも、そのよく整頓したるは実に大宝のころにあり。しかしてこれより奈良朝を歴て平安に入るに及んでは、次第に紛雑に流るるなれば、今まず大化以前と大宝以前との状態を観察し、次に国司の標準た各べき大宝の制を研究し、序を追いてその以後の沿革に及ばんとす。
第一章 大化以前の国司
1 国司の名義
国司また国宰という、ともにクニノミコトモチと訓ず。勅を奉じて地方に至りその国政を行う官吏の謂なり。国司、(82)国宰の同一なるは、『日本紀』清寧天皇二年十一月の条に「播磨国司山部連の先祖伊与来目部小楯」とあるを、『古事記』には「針間国之宰山部連小楯」と記するにても知らるべく、なお大化以後に至りて、文武天皇御即位の「宣命」に、
四方【ノ】食国【乎】治奉【止】任賜【幣留】国国【ノ】宰等云云。
とあり。同天皇六月八日の「詔」にも国宰郡司と連称し、降りて『三代実録』元慶三年二月の「紀」にも、讃岐国宰とあり、そのほか『尾張国解文』をはじめ諸書に所見多し。これらいずれも史家の筆ならざる当時の公文にかく記せるを見れば、後世までも国宰と呼ぶ方かえって普通なりしかとも思わるるなり。
2 国司の初見
国司、国宰の同一なること上に言えるがごとくならば、国司の史に見えたるは、「神功皇后摂政前紀」の注に、
留2一人1為2新羅宰1而還v之。
とあるを始めとすべし。次に仁徳天皇六十二年五月の「紀」に遠江の国司の大井川の流木を奏上せるあり。雄略天皇七年是歳の「紀」に田狭を拝して任那の国司となすとあり。次に「清寧天皇紀」には前件の播磨の国司あり。「崇峻天皇紀」に河内国司の捕鳥部万の死状を朝廷に奏したることあり。ことに聖徳太子の憲法第十二条に「国司国造百姓を斂する勿れ」とあるは、たまたまもって当時国司の数のすでに多く、かつその専権に流れたりしを知るに足るなり。また皇極天皇二年十月の「紀」に国司に勅して「宜しく厥任に之て爾の治むる所を慎むべし」と宣り賜いしがごときは、皆もって大化以前に国司ありし証とすべく、国司、国造の別々に存在せしを知るべし。けだし国造は世襲土着にして、国司は命を受けて任に赴く官なり。かの上件の、一人を留めて新羅の宰とすと言い、田狭を拝して任那の国司とすと言い、任に行て治むるところを憤めと言うがごとき、皆もって証とすべし。
3 国司の職権
(83) 上世には諸国に国造あり、県主あり、稲置あり、別あり、君、公、村主あり、これらと国司との権限果して如何なりしや。あるいはこれをもって、天皇直轄の地を支配せしむる官吏にして、なお旧幕時代に代官の、大小名の間に挟まりて、天領の地を支配せるがごときならんとの説をなす者あれど、これいまだ拠なきに似たり。かの任那といい、新羅というは、地は海外にありといえども当時純然たるわが属地にして、なお河内といい、遠江というと異なるなかるべし。しかるに彼らには皆おのおの世襲の国王ありてその国を統治するかたわら、わが補任せし任那の国司、新羅の宰等はその上にありて国を警衛し、兼ねて朝貢を催促するがごとき任務を執りたりしがごとし。しかして河内にありては凡河内の国造あり、遠江には遠淡海の国造あり、各世襲して国を治むることなお任那、新羅の国王のごとき者ありしならん。しからばこれと並び置かれたる国司の任務もまた彼をもって想像すべきにあらずや。論者のいわゆる天皇直轄の地とは果していかなるものを言えるにや、代々の天皇の置かせられたる官家あるいは筑紫国造の奉りし糟屋の屯倉のごときを言えるにや。これらには皆田令あり屯田司あり、屯倉首あり、特にこれを治めんがために国司を置くの必要あらざりしなり。またかの国造、県主を始め、熊襲、隼人のごときが治むる国にても、一として天皇の御領ならざるはなく、彼ら皆その土地を支配して各朝貢したりしことは、景行天皇十二年七月熊襲反して朝貢せざりしがためにこれを御親征あらせられたるにても知らるべし。また『万葉集』巻首の雄略天皇の御製に、
虚見つ大和の国は押なべて我こそ居らし宣りなべて我こそ居れ
と宣給われたるがごとき、当時大和には大倭国造あり、葛城国造あり、闘鶏国造あり、また猛田、磯城、春日、十市、添、高市、山辺等の諸県主ありといえども、押しなべて天皇御領に相違なきを証するに足るべし。しかしてこれら御領の地はいずれも皆納租したりしならん。されば、国司の任務は、これを監督し、これを催促せしむるものなりしならんか。清寧天皇二年の「紀」に曰く、
(84) 冬十一月、依2大甞供奉之料1遣2於播磨1国司、山部連先祖伊与来目部小楯、於2赤石郡縮見屯倉首忍海部造細目新室1、云云。
これ播磨の国司なる小楯が、その国内の屯倉の首に朝貢を催促したるものなり。国造以下にありても各朝貢するものとすれば、国司は常にこれを監督せしならん。しかるに年を経るに従い、その朝威を仮りてほしいままに聚斂するの弊あるがゆえに、聖徳太子の憲法第十二条に「百姓に斂むる勿れ」と戒められたり。しかれどもなおその弊止まず、国にありて往々職権外に亘り、猥りに民の罪を判し、他の貸賂を貪り、上京のさい多く百姓を従うるなどのことありしがゆえに、孝徳天皇の東国国司を任命せらるるにあたり、特にこれらのことなからんようにと戒められたり。
これを要するに、大化以前の国司は朝廷より任命せられて任に之き(「皇棲紀」)、国造、県主、田司等の政治を監督し、その調貢を促す(「滑寧紀」)などの職務を執りたりしものにして、後の国司とやや異なるところありしがごとし。
第二章 大化以後大宝以前の国司
大化改革は臣連、伴造、国造等の領地および部曲の私民を没し、子代、屯倉等を廃してことごとくこれを国家に帰し、従来国造らのなせし政治は国司をして執らしめたり。親房卿の『職原鈔』に「国造は乃ち国司の名後改めて守と云ふなり」とあるはけだしその職務上より言えるなり。しかるに藤原惺窩の首書に、
上世国司云2国造1至2皇極天皇1始改2国司1至2文武天皇1又改云2国守1。
と注せるより誤りを伝えて、国造ただちに国司となりたるなりとの説をなしたる者もありしといえども、その誤れることは今これを弁ずるを須《もち》いざるなり。
さて従前の国造はここに至りてその職務を失い、あるいは任ぜられて郡領となり(「大化二年紀」)、あるいは専ら祭(85)祀の職を司り(斉明天皇五年紀」に出雲国造に命じて厳神の宮を修めしむと云云)、ともにこれを世襲す。国司は朝廷より派遣せられ期を定めて交替するものにして、その次第はほぼ「大宝令」の規定のごときものなりしならん。しかれどもその制いまだ整わず、得分のごとき、交替のごとき、さらに考うべきところなし。ただそのやや考うべきもののみを集めて逐一これを左に弁せん。
(一) 官 制
l 国司の名目
国司は長官、次官、判官、主典より成る(「大化元年紀」)。長官は守という、あるいは長吏とも、頭とも書したるあり。
斉明天皇四年紀 越国守〔傍点〕阿倍引田臣比羅夫
天武天皇元年紀 伊勢国司守〔傍点〕三宅連石床
同 尾張国司守〔傍点〕小子部連※[金+且]鉤
同 河内国司守〔傍点〕来目臣塩籠
同 三年紀 対馬国司守〔傍点〕忍海造大国
持統天皇六年紀 郡国長吏〔二字傍点〕云云
同 八年紀 近江国司自v頭〔傍点〕至v目云云
このほか『続日本紀』にも大宝以前においてすでに所見多し。しかるに藤原惺窩『職原鈔』を注して「文武天皇に至り国司を改めて国守といふ」と記したるより、往々その誤りを承くる者あり。
次官を介という。
大化元年紀 介〔傍点〕以上奉法云云判官以下云云
(86) 同 二年紀 穂積臣咋云々其介〔傍点〕富制臣
天武天皇元年紀 伊勢国司守云云介〔傍点〕三輪君子首
判官もまた後のごとく操といえりしにや。ただし「大化元年紀」に判官の文字見ゆるのみにて他に所見なし。
主典は目という。
持統天皇八年紀 近江国司自v頭至v目〔傍点〕云云
これあたかも大宝の制と同じ。ただし単に国司といいて守一人を指せるあり。
白雉元年紀 穴戸国司草壁連醜経白雉を献ず云云
しかれども国司の名なお後の制のごとく、必ずしも長官に限れるものにあらず。「天智天皇紀」に「播磨国司岸田臣麻呂等宝剣を献ず」とあるは、長官以下を含めるならん。また「大化元年紀」に東国の国司を任ぜられしにも、長官、次官、判官、主典と一々その心得を命じたるにて知るべきなり。 2 国司の員数
大宝以前すでに国に大、上、中、下の別ありしや否や、はたその国司の員数も如何なりけん、もとよりそのつまびらかなるを知り難し。ただし大化二年三月の「紀」に、朝集使に詔して国司の罪科を宣らせ給える条の文によりて見れば、守は一人にして、介は二人あるいは三人あり、その以下の官人に至りては八人の多きに及べりしがごとし。このほかにいまだその員数を考うべきものを見ず。「大化元年紀」に長官従者九人、次官七人、主典五人などあるは従者の制限を立てたるにて、国司の数にはあらざるべし。
3 国司の官位相当
大宝以前にはいまだ官吏の官位相当についても判然たる制なかりしにや。しかれどもすでに「令」にその制定を見(87)る以上は、必ず、前すでにその淵源し来るところなかるべからず。また稀にはその制を定められたるがごとき文の史に見ゆるもあれど、今これらを拾集して参考の資に供す。
白雉元年穴戸国司白雉を献ず、よりて之を賞して大山と賜ふ、大山は十九階の冠位中第十一十二階に当る也。
斉明天皇五年三月蝦夷征討の功を以て陸奥と越の国司に位各二階を進めらる。
天武天皇三年三月対嶋国司銀を献して小錦下を授けらる、小錦下は当時の冠位二十六階の第十二階に当るなり。
次いで五年正月「詔」あり、「国司を任ぜん事は畿内及陸奥、長門国を除て以外は皆大山位以下の人を任ずべし」と。けだし畿内は王畿、陸奥は蝦夷に接し、長門は内海の関門なれば、特にこれを重んじたるならんか。ここにおいて国司官位の制ほとんど定まる。大山位は二十六階中の第十三、十四、十五階に当るなり。
次いで朱鳥元年に至り、諸国司の有功者に勤位を授く。勤位は当時六等(一等各八階)の冠位中第三等に当る。しからば通例の国司は皆その下の務位などにてありしならんか。しかるに文武天皇のころに及んでは勤位の上なる直位の国司多し。伊勢守直広肆高橋朝臣嶋麻呂、美濃守直広肆石川朝臣小老などのごとし。
これをもって観れば国司の官位(長官を指す)は、そのはじめ大山といい小錦といい、皆当時冠位の中央以下の相等官たりしも、次第に上りて勤となり直となりしがごとし。官位のことまたこのほかにいまだ考うべきものを見ず。
(二) 国司の職務
大化のはじめ東国の国司等に任ぜられし職権は、戸籍を作り、田畝を校し、百姓と水陸園地の利を倶にし、国造、伴造、稲置らの従来領せし官家郡県はこれを調査し、つまびらかにその実状を朝廷に奏してこれが所分を乞い、閑曠の地に兵庫を起てて国郡百姓の所有の兵器を集め、ただその蝦夷に近き所にては、特にその数のみを数えて本主に貸し与え(「大化元年八月紀」)、また田を数えて民に均分し、つとめて彼我を生ずることなく、調賦仕丁を徴し、国図を製(88)し、堤防を築き、池溝を穿ちて田地を開墾せしむるにあり。これらはともに牧民の業として欠くべからざるものなり(「大化二年八月紀」)。そのほかまた年ごとに分番朝集して、年内の施政経過を朝廷に奏するがごときも国司の任務の一なりしならん。またその弊害たるべきところをあらかじめ戒めて曰く、国にありては罪を判するを得ざれ、貨賂を貪りて民を貧苦に致すなかれ、上京のさいは国造郡領のほか猥りに多数の百姓を従わしむるを得ざれ、その従者は長官九人、次官七人、主典五人(判官は主典と同じきにや)を限り、もしこれを超えたらん者は、その主、所従ともに罪せらるべし。公事をもって国内を往来せん時には、部内の馬に乗り部内の飯を食うことを得(以上大化元年八月)れども、強いてその馬を取りまた百姓の物を求索するがごときことあるべからずと(「大化二年三月紀」)。しかるに国司ら国に下るに及んでは、朝威を借りて権をもっぱらにし、わずかに任命後七ケ月の間において、已にあるいは百姓の戸ごとに物を求索し、あるいは草代の物を家に収置し、あるいは禁を犯して猥りに罪を判し、あるいはみずから怠りて官刀を偸まるる等の犯罪を生ずるに至れり(「大化二年三月紀」)。
右述ぶるところをもって観れば、国司はただ行政をのみ司りて司法の権なかりLがごとし(このことなお再考を要す)。また兵庫を立て民の兵器を納めしめたるがごときは、国司をして併せて兵権を司らしめたるものならん。斉明天皇四年越国守阿倍引田臣比羅夫粛慎を討ち、また五年三月陸奥と越との国司の蝦夷を征したることあり。壬申乱に当りて、尾張の国司守小子部連※[金+且]鉤兵二万衆を率いて天武天皇に帰し、伊勢国司守三宅連石床、介三輪君子首らの天皇に従い奉りしがごときも、皆もって国司に兵権ありし証とすべし。ただしその兵制に至りてはいまだつまびらかならず。持統天皇の御代に及びて、大いに武芸をすすめ、その三年七月左右京職および諸国司に詔して習射所を築かしめたることありき。また国家の大工事あるにあたりては国司はなお他の官吏百姓とともに事に従いしなり。持統天皇元年十月の「紀」に曰く、
(89) 島太子率2公卿百寮人等并諸国司国造及百姓男女1始築2大内陵1。
また斉明天皇六年是歳の「紀」に、駿河の国に命じて船を造らしめ給うことありき。そのほかその国の祥瑞を献ずるも、なお後の世と等しく国司の任務の一なりしがごとし。白雉元年穴戸国司の白雉を献じたりしを始めとし、斉明天室二年には石見国白狐の見えたるを奏し、四年には出雲国北海の浜に魚の死したるを奏し、六年には科野国蝿群の西に向いて飛びたるを奏したる等、史に見ゆるところ一々枚挙するにいとまあらざるなり。
右のほかなお朝集使、巡察使等ありて、中央政府と地方庁との連絡を保ちたるがごとき、あるいは筑紫率(「天智天皇八年正月紀」)、左右京職(「持統天皇三年七月紀」)、摂津職(「天武天皇六年十月紀」)等の国司の変例のごとき、ともに本編において研究すべき題目なれども、煩を厭いて今は漏らしつ。
第三章 大宝の国司
孝徳天皇大化元年始めて国司を東国に試み、次いで翌年これを畿内に施してより以来ほとんど六十年、大宝に至りてその制度大いに備われり。これより奈良の朝を経、平安の朝に至るに及んで次第に複雑に赴くとともに紊乱に傾き、ついには武士の世と移りにけり。されば今この章においてはもっぱら「大宝令」の条文によりて特にその当時の制を考え、以下章を追いてその後の変遷に及ばんとす。 (一) 官 制
1 国の等級
国七と中央政府直轄の行政区画の称にして、これに大、上、中、下四等の別あり。そのこれを別かちたる標準およびその国名はともに令条に明記なきがゆえに、もとよりその詳細を知るを得ずといえども、思うに開墾地および住民(90)の数と、これに伴うて来るところの政府収入の多少とによれるものならんか。天長二年の「太政官符」に曰く、
加賀国定2上国1事。云々。今件国准2諸上国1課丁田疇其数差益、被2右大臣宣1※[人偏+稱の旁]奉v勅宜3改為2上国1。(『類聚三代格』)
けだし課丁田疇多きは、開墾よく行き届き住民多き謂にして、従って政府の収入多きを意味するものなり。ことに『三代実録』元慶三年二月の文に、
讃岐課丁万八千、菅田一万八千町、貢賦之数踰2諸国1、国司由v茲申請准2大国例1。
とあるがごときは、明かにこれを証するものというべし。
2 国司の員数および官位
すでに国に大、上、中、下の別あるがゆえに、従ってその国司の員数および官位に差等あり。
大国、守一人 従五位上 介一人 正六位下 大掾一人 正七位下 少掾一人 従七位上
大目一人 従八位上 少目一人 従八位下
上国、守一人 従五位下 介一人 従六位上 掾一人 従七位下 目 一人従八位下
中国、守一人 正六位下 掾一人 正八位上 目一人 大初位下
下国、守一人 従六位下 目一人 少初位上
ほかに各国史生三人あり。通例以上を総称して国司という(「官位令」「職員令」)。目以上は奏任なり、史生は式部の判補なり(「選叙令」)。なおこのほかに国衙の事務を執るべき国掌のごとき等外の小吏はもとより数人ありしならんも、今その詳細を知るべからず。
各国また博士・医師各一人あり。これに伴って大国には学生五十人、医生十人、上国には学生四十人、医生八人、中国には学生三十人、医生六人、下国には学生二十人、医生四人を養い、各業を授けて貢挙の候補者とす(「職員令」「選(91)叙令」)。
3 国司の赴任交替および補欠
国司は中央政府の命を受けて京都より各地方に赴く者にして、限るに六年をもってす(「選叙令」)。任|訖《おわ》らば帰京の準備として装束暇を給す。その日数、道程の日を除いて、近国二十日、中国三十日、遠国四十日なり。もしその暇のうちにただちに新任の国に行かんと欲する者あればもとよりこれを聴す。またもし事急を要するありて早く赴くべくんば、強いてこの令に従うを要せざるなり(「仮寧令」)。
およそ国司はただ一定の任期問、任所に赴き、期満つればただちに帰京すべき制なるがゆえに、多く家族を国に伴うを許さず。子弟年すでに二十一以上ならば、これに随うを得ざるなり。父祖伯叔またしかり。ただその覲問する者にありてはこれを聴す(「公式令」)。これけだしその弊害の起るべき根を絶ちたる者にして、「雑令」にはさらにこれを詳細にし、国司がその親族賓客を将いて任に赴くを禁じ、もしその来訪に遇うも官物をもってこれに供するを得ざるを明示せり。
国司は任地にありて一国の政務を掌る者なれば、もとより厥官あるべからず。ゆえにもし大上国においてはその守、介、中国においてはその守、掾、ともに死亡あるいは解免の事情をもって厥け、もしくは下国の守厥けなば、その任期の満つるを待たず、ただちに馳駅してこれを太政官に申し、太政官これに対して新司を任じ訖らば、また馳駅してこれを発遣せしむべし。中にも大宰府、三関国(美濃、伊勢、越前)および壱岐、対馬等の国はことにその警備を鄭重にすべき所なるがゆえに、その長官一人厥くるもただちに馳駅して報ずべし。しかしてその壱岐、対馬にありては臨時に大宰庁より判事以上の官人を遣りて事務を執らしむべし(「選叙令」)。
(二) 国司の職務
(92) 国司の職務は「職員令」にほぼ見ゆ。すなわち守はその一国の政務を統轄し、介はこれを助け、掾の職掌は国内を糺判し、文案を審署し、稽矢を勾え、非違を察する等、ほぼ司法警察の事務に近く、目は事を受けて上抄し、文案を勘署し、稽失を※[手偏+驗の旁]出し、公文を読申することを掌る、なお今日の書記のごとし。史生はその下にありて公文を繕写し官人のもとに之《ゆ》いて文案の署を取る、いわゆる筆生の職なり。
右のほか、国博士は経業を教授し、学生を課試し、国医師は診候療病および医生の教授を掌る。学生、医生はこれらの教授を受け課試に及第して貢挙を待つものなり。なお守の職務はすこぶる広くかつ繁多なれば、今各令条に散見するところを拾集して左にこれを略述すべし。
一、祠社 国守は国内の神社を保管してその祭祀を掌り、兼ねて大甞祭を行事し、神戸の調庸田租を※[手偏+驗の旁]校す(「神祇令」)。
一、戸口、簿帳 国守は国内の戸口の増減を※[手偏+驗の旁]し戸籍計帳を製するを掌る。戸籍は六年ごとに十一月上旬より起て、式に従い勘造し、里ごとに巻を別ち五月三十日までに訖るべし。しかして各巻三通を写し二通は調使に付して太政官に送り一通を国に留む。もしゆえありて調使京に入らずんば専使を派してこれを送る(「戸令」)。
戸口、帳簿を作るにあたりて年を数うるに、まさに丁、老、疾に人らんとし、もしくば課役を免じあるいは侍を賜うべき者は皆国司みずからその形状を見てこれを定む(「戸令」)。
一、字養百姓、勧課農桑、糺察所部 国司は年ごとに一度同郡を巡行し、風俗を観、百年を問い、囚徒を録し、冤枉を理し、つまびらかに政刑の得失を察し、百姓の患苦するところを知り、敦く五教を喩し、勧めて農桑を務めしむべし、云云(「戸令」)。
一、貢挙 国守は毎年学生を課試し、及第したる者を太政官に送り、なお学ばんと欲する者を大学生に補す(「学(93)令」)。その医生における、またこれに准じ(「医疾令」)、皆朝集使に付して貢送せしむ(「考課令」)。
一、孝義 国守は部内に好学、篤道、孝悌、忠信、清白、異行の郷閭に聞ゆる者あらば、挙してこれを進め、不孝悌にして礼に悖り、常を乱り、法令に率わざる者は糺してこれを縄す(「戸令」)。その孝子、順孫、義夫、節婦の志行国郡に聞こゆる者は、これを太政官に申し、奏問してその門閭に旌表すべきなり(「賦役令」)。
一、田宅 国守がすべてその部内の田宅を保管すべきは言うまでもなし。中にも諸国の公田は、皆郷土の估価に従いて賃租せしめ、また口分田を班給すべくんば、班年ごとに正月三十日以内にこれを太政官に申し、十月一日より起りて京官、国司あらかじめこれを校勘し、もってその簿を作るべし(「田令」)。また水草虫霜の害ありて田熟せざる時は国司実を※[手偏+驗の旁]し録して官に申告すべし(「賦役令」)。
一、良賤 良民賤民の戸籍の区別、良賤間あるいは賤民相互の結婚および生子の所分等に関して戸令に規定するところに従い、国守はこれを取締るべし。
一、訴訟は皆下より始め(「公式令」)、その笞罪以下は郡ただちにこれを決し、杖罪以上は郡断定してこれを国に送り、国覆審し訖りなば、その徒罪、杖罪および流罪の決杖すべき者もしくは贖うべき者はすなわち決配徴贖し、流罪以上もしくは除免官等を断じなば、案を連写て太政官に申すべし(「獄令」)。
一、税調 租調を徴集するは地方政治の眼目なり。その地租は町ごとに二十二束(「田令」)、よくこれを乾燥せしめ、これを輸す人とともに次をもって籌を取りて対受す(「倉庫令」)。舂米を京に運ばしむるには輸租の家均しく脚力を出して大炊寮に送る、なお調庸を送るがごとくせしむ(「田令義解」)。調庸物は毎年八月中旬より、国司これを領して京に送るなり(「賦役令」)。
一、倉廩 国司はその国内の国庫、義倉等を掌り、「賦役令」「倉庫令」の定むるところに従い、その出納を監督(94)すべし。
一、徭役 政府丁を要する時は、その赴役の日国守みずから点※[手偏+驗の旁]し并せて衣糧を閲し、周ねく備わりて後発せしむべし(「賦役令」)。官田に役すべき丁の上役の日は、まず役目の閑要に准じて事を量り遣わすなり(「田令」)。
一、兵士 諸国の軍団は国守の保管するところなり。その兵士以上皆歴名簿二通を作り、一通は国に留め他の一通は年ごとに朝集使に付して兵部に送る(「軍防令」)。また兵衛には郡司の子弟の強幹弓馬に便ならん者を簡びて各郡一人ずつを貢す(「軍防令」)。
一、器仗 国司が官の器仗を監督すべきは言うまでもなく、特に軍団の戎具に関しては、毎年孟冬にこれを簡閲すべし(「軍防令」)。
一、鼓吹 三関には鼓吹軍器を設け国司分当してこれを守固す(「軍防令」)。
一、郵駅 国守は部内の郵駅の事務を管理す。その諸道に駅馬を置くこと、大路に二十疋、中路に十疋、小路に五疋なり。なお使の往来稀なる所は国司これを量って必ずしもその数に足るを須いず(「厩牧令」)。
一、烽候 烽には長二人、国司その所部内において家口重大※[手偏+驗の旁]校に堪ゆべき者を簡んで、これに宛つ。しかしてその烽を放つにあたり、もし参差することあらば、もと放ちたる所および候を失える状を勘当し、その実を知らば駅を発して速かに奏問すべし(「軍防令」)。
一、城牧 国司は牧にある駒犢の齢二歳に至らば毎年九月牧長と対して官印を、駒は左髀上に、犢は右髀上に印す。訖りて具さに毛色歯歳を録し簿二通を作り、一通を国に止め、他の一通を朝集使に付して官に送るべし。またその駅伝馬は毎年必ずこれを検閲すべし(「厩牧令」)。
一、過所 およそ関を越えんと欲する者は皆本部、本司に経《ふ》れて過所を乞い、官司は※[手偏+驗の旁]勘して後、公式令の書式(95)に従いてこれを給す(「閑市令」)。
一、公私馬牛 国司はその部内公私の牛馬を監督す。これを売買せんとする者は保証を乞うて私券を立つべし(「関市令」)。
一、闌遺雑物 闌遺の者は五日間にこれを所司に申し(「厩牧令」)、所司これが所分をなすべし。官地にて宿蔵物を得ば、これを得たる人に与え、私地にて得ば、地主と中分せしむ。ただし古器の形製異なる者を得ば、ことごとく官に送ってその直を酬ゆべし(「雑令」)。
一、寺、僧尼名籍 僧尼等身死すれば、三綱は月ごとに国司に報じ、国司は年ごとに朝集使に付けて官に申す。僧尼みずから還俗せば三綱その貫属を録して京は僧綱に自余は国司に報じ、治部省に申してこれを除籍す(「僧尼令」)。その僧尼の戸籍は京職、国司六年ごとに三通を作り、各出家せし年月、夏臈および徳業を誌《しる》し、一通は職国に留め、二通は太政官に送る(「雑令」)。
右、令条中に散見せる国守任務の細目に関するものを拾集して、その一斑を示せるに過ぎず。その規定の多く細事に亘り、かえって大綱を逸するがごとき観あるは当時の規定の不完全なりしゆえんなるべけれども、また一は余が研究の及ばざるところなるべし。
なお、陸奥、出羽、越後等蝦夷に接する国の国司は兼ねて饗給、征討、斥候等の事を掌り、壱岐、対馬、日向、薩摩、大隅等外国に近き国にありては、鎮桿、防守、蕃客帰化の事を兼ね、伊勢、美濃、越前の三関国にては関※[賤の旁+立刀]および関契の事を併せ掌るなり(「職員令」)。
なお国司は大瑞、軍機、災異、疫疾、境外の消息等を馳駅して言上し、また朝集使、貢調使等の諸使となりて上京し(「公式令」)、郡司および軍団少毅以上の功過を録し、国守また特にその介以下の功過を録して式部に送るの務あり(96)(「考課令」)。
(三) 国司の得分
当時いまだ貨幣の使用発達せず。官吏の俸給は皆田地をもって与えられたり。これを職分田という。当時田地収穫の定率は「田令義解」によれば、一段五十束、一束舂て米五升を得、すなわち一段の収穫米二石五斗なり。しかれどもこれを横山由清氏の説〔10〕に従い、当時の一升は今日の四合〇五八余に当るというによりて計算すれば、一段の得米わずかに一石一升四合五勺余に過ぎず。しかるに段の獲稲五十束というも、これもとそれ上田の事にして、「延喜主税式」の定数によれば各一町の獲稲、上田五百束、中田四百束、下田三百束、下々田百五十束なり。しからば平均一町の獲稲三百三十七束五把とし、一段の得米、わずかに今日の六斗八升四合七八余に過ぎざるなり。
横山由清氏が「田令義解」首条の解釈によれば「段獲五十束一束舂米五升」とあるは義解当時の法にして、大宝には七十二束なり、故に五十束とすれば租は一束五把なり云々。而して和銅以後の一升は今日の五合八勺四四(氏の説に従えば)なれば、この法によりて計算すれば、上田一反の得米は一石四斗六升一合にして、延喜主税式の数により上、中、下、下々田の平均を求むれば、九斗八升六合一勺七五となるべし。
田地の収穫はかくのごとくそれ僅少なり。しかして国司の得べき職分田は、
大国、 守 二町六段 介 二町二段 掾 一町六段 目 一町二段
上国、 守 二町二段 介 二 町 掾 一町六段 目 一町二段
中国、 守 二 町 掾 一町二段 目 一 町
下国、 守 一町六段 目 一 町
このほか史生は各国通じていずれも六段ずつ(「田令」)。
(97) また国司には事力を給せらるる制あり、毎年一度上等の戸の中より丁を取りて使用するなり。その数、
大国、 守 八人 介 七人 掾 五人 目 四人
上国、 守 七人 介 六人 掾 五人 目 四人
中国、 守 六人 掾 四人 目 三人
下国、 守 五人 目 三人
このほか史生は各国通じていずれも二人ずつ(「軍防令」)。
かくのごとく国司の得分はその職務の重きに対して至って廉なりと言うべし。ただ大、上国の守は五位なるがゆえに、資人二十人(「軍防令」)、位田八町(「田令」)等の収入あれども、こはもとより国司たるの報酬として計算すべきにあらず。ここにおいてか国司はその薄給の補としてその在任の問、所部の界内において空閑の地を営種するを許されたり(「田令」)。もちろん替解の日はこれを還公すべき制なれども、これ後世国司をしてその私慾を逞しうするを得せしむるの道を開きたるものというべし。けだし空閑の字義すでに漠然たるがうえに田数において制限なければ、彼らはついにその権力に任せてあるいは班給すべき部分をも空閑の名義の下に没入することもあるべく、あるいは事力と称して民衆を苦使するを得べければなり。しかして交替の節にあたり新司との間に起るべき交渉を予防して、交替期(五月一日)以前に植えたるものは前司に入れ、前司みずから耕していまだ種えざる者は新司その功直に酬うべし(「田令」)。ただし前司その収穫を待たんと欲すればその訖るを侯って遣り還され(「仮寧令」)、新司は秋収に至るまで式によりて糧を給せらる(「田令」)る等の規定あり。
なおまた後世に至りて国司所得の主たるものとなりし公※[まだれ/解]稲の制は当時如何なりしや、今その詳細を知り難し。「雑令」に公※[まだれ/解]の物を出挙して利を得るの制あり、私契によりてこれをなし、官より関せざるものなればその利稲はもち(98)ろん国司の役徳なるべし。また公※[まだれ/解]の雑物は本司みずから勾録し、その費用および現在の帳は年終に一度太政官に申さしむるの制(「雑令」)あれども、いまだこれを分配するの規定なかりしにや。しかれどもこれをもって官物の欠負未納を填充したる残余は皆国司の取り分なりしならんか。そはその分配の制定まらざりしがゆえに、交替の日競て争論を起し、ために上下の序を失し、清廉の風を欠くの弊あるに至り、ついに天平宝字に六、四、三、二、一の制を立てられたるにて知らるるなり。
かくのごとく国司はその職分田および事力においてこそその報酬は少なけれども、他に役徳として収入の道多きがゆえに、特に季禄を給せられず、ただ大宰府はその任ことに重く、壱岐、対馬また辺要にありて国狭く空閑の地および公※[まだれ/解]等も少なければ、特にこれを給せらるるなり(「令禄」)。かの延暦十二年に摂津職を改めて国となし、同時に季禄を停止せられたるがごとき(『類聚三代格』)は、国司のこの点において他の官人と取扱いの異なりしを見るに足るなり。
国司は遠く地方に出でて常にこれを監督する者なきがゆえに、往々小民の上に権威を弄し、これら役徳のほかになお私慾を逞しうすること容易なれば、令条において往々これを予戒するものあり。親属賓客を将いて任に之き、田宅を請け占め、あるいは百姓と利を争い、また官物をもって訪問者に供給するを禁じたるがごとき(「雑令」)はその一例なり。
(四) 国司の考課
国司の職務およびその民に対するの地位、上文に述ぶるがごときものなるがゆえに、その功過才芸を考校試課するにも、一般共通の倒すなわち、
職専修理昇降必当……長次官之最、 訪察精審庶事兼挙……判官之最、 勤於記事稽失无隠……主典之最
のほかに特に、
(99) 強済諸事粛清所部……守、介之最、无有愛憎供承善成……掾之最
と定む。もし一最以上四善あらば上々の考課を得べし。ただ一長のみあるもなお中の中を得べし。四善とは、
徳義有聞、 清慎顕著、 公平可称、 恪勤匪懈
をいう。けだしともによくその職務を尽すの謂なり。
また戸口の増加は国家富強の基なり。ゆえにもし国郡司部内を撫育するに方あり、ために戸口増益せば、その現在戸口の一割を増すごとに、国郡司、掾および少領以上に考一等を進む。次丁二人、中男四人、不課口六人はともに課丁一人に准ぜらるるなり。もしこれに反して撫育方に乖《そむ》き戸口減損せば、一割ごとに一等を降すべし。また田農を勧課し、よく豊殖せしめば、現在熟田の二割を増すごとに考一等を進め、もし怠りて勧課を加えず減損せしむることあらば、一割ごとに一等を降すべし。また戸貫に従わざる者を招き慰め、籍帳に漏れたるを勘出し、あるいは無籍の民来りて自首し、逃亡の者帰り来る等のことあらば、ともに国郡司の功とすべし。ただし分家して戸数の増したるはこの限りにあらず。もしまた戸口逆党に入り、あるいは逃亡し、あるいは流以上の罪を犯し、前帳に空しく注し、および賊に没して戸口減損せば、ともに考を降すべきなり。ただし賊に没すること人力の制する能わざる場合にはこの限りにあらずとす(「考課令」)。
かくのごとくにして遷代(六年)ごとに官位を昇降せしむるなり。
(五) 中央政府と地方庁との連絡
政府と国衙との連絡は、頻繁なる国司の交替と諸使の来往とによりて保たるるなり。国司の交替は六年をもって定制とす。しかれども守、介、掾、目いずれも時を異にして交替するがゆえに、政府と国衙との間の来往はすこぶる頻繁なるべきなり。
(100) 諸使は朝廷よりするものと地方よりするものとあり。朝廷より派遣する者は、諸種の命令を齎したる詔使、勅使、官使などもとより多かるべきも、かの令前時代より存在したる巡察使はその主なる者なるべし。巡察使は臨時に内外の官において清正灼然なる者を取り、諸国を巡察せしむる者にして、その巡察の事条、使人の数は臨時にこれを定む(「職員令」)るの制なり。その名称は始めて「持統天皇紀」(八年七月条)に見ゆれども、その職はなお古くすでに「斉明天皇紀」(四年条)に、
西海使小花下阿曇連頬垂
あるを始めとし、「天武天皇紀」(十四年条)に、
直広肆都努朝臣牛飼為2東海使者1、直広肆石川朝臣虫名為2東山使者1、直広肆佐味朝臣少麻呂為2山陽使者1、直広肆巨勢朝臣粟持為2山陰使者1、直広参路真人迹見為2南海使者1、直広肆佐伯宿禰広足為2筑紫使者1、各判官一人史一人、巡2察国司郡司及百姓之消息1。
とあるがごときこれなり。大宝前後に至りてその発遣すこぶる多し。『続日本紀』よりその四、五を抄録せんか。
文武天皇三年十月、巡察使を諸国に遣はし非違を検察せしむ。
同四年二月、巡察使を東山道に遣はし非違を検察せしむ。
大宝元年九月、使を諸国に遣はして産業を巡省し百姓を賑給せしむ。
同三年正月、正六位下藤原朝臣房前を東海道に、従六位上多治比真人三宅麿を東山道に、従七位上高向朝臣大足を北陸道に、従七位下波多真人余射を山陰道に、正八位上穂積朝臣老を山陽道に、従七位上小野朝臣馬養を南海道に、正七位上大伴宿禰大沼田を西海道に、道別録事一人を遣はして政績を巡察し冤枉を申理せしむ。
同十一月、太政官処分す、巡察伎の記する所、諸国郡司等の治能ある者は式部令によりて称挙し、過失ある者は(101)刑部、律によりて推断すべし。
慶雲二年四月、使をつかはして天下諸国を巡省せしむ。
これら皆併せてその職務をも示せるものなり。後和銅五年五月に至りては毎年必ず巡察使を遣わすことと定められたり。このほか臨時の詔使、勅使、官使のごとき定制なきものは今これを略す。
地方よりするものは四度の使をその主なるものとす。すなわち朝集使、貢調使、税帳使、計帳使これなり。このほか祥瑞禍災を報じ急変の大事を告ぐるなど(「公式令」)臨時の使のごときまたこれあり。朝集使は大宰府にては大弐以下、国司は目以上の者年ごとに分番して朝集し、よく所部内の見任および解代等の事を暗《そら》んじて、その来任以来年別の成蹟等、問わるるに従いこれに答うべきものとす(「考課令」)。朝集使の初見は大化二年の「紀」にあり、爾後毎年必ずこれありしものなるべし。その朝集するにあたりては、国守は便により、介以下および郡司軍団の功過(「考課令」)、僧尼の還俗死去(「僧尼令」)、官私の船簿(「営繕令」)、官私の牛馬帳(「厩牧令」)および急速大事を馳駅して報告したる顛末等をこれに付けて、式部あるいは太政官に送るを常とす。
貢調使は調庸を大蔵省に輸し、舂米を大炊寮に送るにあたりて、その調庸輸租の家より脚力を出さしめ、みずからこれを監督して京に運ばしむるなり(「賦役令」「田令義解」)。しかして国司は便に従い戸籍をこれに付して太政官に送る(「戸令」)。
計帳使はその国の計帳を毎年八月三十日以前に、税帳使は租税の処分決算を毎年末に各太政官に申送する者なり。
およそこれらの諸使解を送りて京に至らば、十条以上は一日中に、二十条以上は二日中に、四十条以上は三日、一百条以上に及ぶも四日中に必ず申し了えしめ(「公式令」)、次て事務の延滞なからんを期す。
これら諸使の来往のために諸国駅伝の設あり、繁閑によりて馬疋の数を異にす(「厩牧令」)。各駅田ありて(「田令」)(102)その資に給し、使者をして自由にその馬に乗ずることを得せしむ。ただし朝集使にありては東海道は板東、東山道は山道、北陸道は神済以北、山陰道は出雲以北、山陽道は安芸以西、南海道は土佐、および西海道のものに限りて駅馬に乗ずることを得るも、自余の国にありては皆当国の馬に乗りて朝集すべき制なり。貢調使以下またしかりしならん。
六 地方官の変例
諸国には等しく国司を派遣してその政務を執らしむといえども、また時に二、三の変例あり。大宰府、左右京職、摂津職のごとし。 1 大宰府
大宰府は西※[土+垂]の辺要に備え、兼ねて九州を総管し、および筑前国を帯するものなり。なお鎌倉幕府の九州探題のごとし。それ大宰の名は「推古天皇紀」(十七年四月条)に始めて見ゆ。曰く、
筑紫大宰奏上言、百済僧道欣恵禰為v首一十人俗人七十五人泊v于2肥後国葦北津1云云。
けだし欽明天皇の朝に任那の官家廃たれてより、唇亡びて歯の寒からんことを恐れ、これを筑紫に移して辺要に備えしものならん。それ肥後の事を奏上せるを見ても当時すでに広く筑紫を管せしを知るなり。また、かの壬申乱にあたりて栗隈王の弘文天皇に誘われたるを辞し奉りたる言に、
筑紫国者元戊2辺賊之難1也、其峻v城深v湟臨v海守者豈為2内賊1耶、今畏v命而発v軍則国空矣、若不意之外有2倉卒之事1頓社稷傾之、然後雖2百殺1v臣何益焉、豈敢背徳耶輙不v動v兵者其是縁也。
と言えるは必竟一時の遁辞に過ぎざるべきも、その理はけだししかりしなり。
宰はなお司と言うがごとし、大宰はその大なるの謂なり。ゆえにあるいはこれを筑紫の国(「天武天皇元年紀」)といい、その長官を筑紫率(「天智天皇八年正月紀」)あるいは筑紫帥(「同十年六月紀」)といい、あるいはまた筑紫大宰(「天武天皇(103)五年九月紀」および「六年十一月紀」「十一年四月紀」)という。持統天皇の御代に至りては大宰はやがてその府の称となりて、長官を呼んで筑紫大宰帥(「三年閏八月紀」「八年九月紀」)と言うに至る。また「文武天皇紀」(四年十月条)に筑紫の総領というが見ゆるは、この大宰の長官のことを言えるなるべし。大宝の制すこぶる整頓を示し、ほとんど一小政府の模型のごとき状あり。その官員、位階ならびに職務、職田、事力の数等左のごとし。
官名 人員 位階 職田数 事力数 職務
主 神 一 正七位下 一町六段 五人 祭祀を掌る
帥 一 従三位 十 町 二十人 国守に同じ
大 弐 一 正五位上 六 町 十四人 帥に同じ
少 弐 二 従五位下 四 町 十 人 大弐に同じ
大 監 二 正六位下 二 町 六 人 国掾に同じ
少 監 二 従六位上 二 町 六 人 大監に同じ
大 典 二 正七位上 一町六反 五 人 国目に同じ
少 典 二 正八位上 一町四反 四 人 大典に同じ
大判事 一 従六位下 二 町 六 人 犯状を案じ、刑名を断じ、争訟を判ず
少判事 一 正七位上 一町六反 五 人 大判事に同じ
大令史 一 大初任上 一 町 三 人 判文を抄写するを掌る
少令史 一 大初任下 一 町 三 人 大令史に同じ
大 工 一 正七位上 一町六段 五 人 城湟、舟※[楫+戈]、戎器、諸営作を掌る
(104) 少 工 一 正八位上 一町四段 四 人 大工に同じ
博 士 一 従七位下 一町六段 五 人 国博士に同じ
陰陽師 一 正八位上 一町四段 四 人 占筮相地を掌る
医 師 二 正八位上 一町四段 四 人 国医師に同じ
※[竹/卞] 師 一 正八位上 一町四段 四 人 物数を勘計するを掌る
防人正 一 正七位上 一町六段 五 人 防人の名帳、戎具、教閲、食料田等を掌る
防人佑 一 正八位上 一町四段 四 人 防人正に同じ
防人令史 一 大初任下 一 町 三 人 令史に同じ
主 船 一 正八位上 一町四段 四 人 舟※[楫+戈]を修理するを掌る
主 厨 一 正八位上 一町四段 四 人 食事を掌る
史 生 廿 無 位 六 段 二 人 国史生に同じ(「職員令」「官位令」「田令」「軍防令」)
大宰官員の数右のごとくすこぶる多し。これその事務の重くしてかつ繁雑なるがためならん。その得分のごときは、右に挙げたる職田、事力のほかに筑前国を帯し、他の諸国を管して公※[まだれ+解]の分配も、また少なからざりしならん。公※[まだれ+解]の事令制に判然せざれども、後に筑前国を大宰府より分ち置くに及んで、公※[まだれ+解]は、前後肥筑豊六国より出せる事(『延喜式』)など参考すべきなり。なおまた大宰の官吏は国司と異にして、その位階に従い禄令の制によりて春秋二李の禄を給せらる。
大宰府の官員について注意すべきは位階低き主神の最高位にあることこれなり。なお従四位下の伯を戴ける神祇官が太政官の上にあるがごとし。これけだしわが国は神国にして特に神祇を尊崇するゆえんなればあえて怪しむに足ら(105)ざれども、他国にその例を見ずしてひとりこの府にあるは、もって大宰府の管内諸国に対するなお政府の諸国に対するに似たる関係あるを知るべし。大宰府は政府の小摸型なり。なお鎌倉幕府が六波羅探題を置き、室町幕府が関東管領を置きてその本庁と相似たる組織をなさしめたるをも思い合すべし。
2 左右京敬および摂津職
京師は帝都諸官舎のある所、諸王、諸臣多くこれに住し、難波には離宮あり津港あり、船舶日々に出入して商估人民の群集する所なれば、大宝の制特にこれを重んじ、京職、摂津職を置いてもって国司と分つ。京職は京師を帯す。なお先年政府がいったん議会に提出したりし都制案のごときか、その大和国(後には山城国)内に存在するはなお東京の都が武蔵県の中に包まれて存するがごとし。摂津職は難波津のみならず併せて摂津国を帯す。なお今日の三府が大市街の外に付近地方をも併せ管するがごとし。この職なる変例は大宝以前すでにこれあり。
持統天皇三年七月左右京職及諸国司に命じて習射所を築かしむ云云。
天武天皇六年十月内大錦下丹比公麻呂を摂津職大夫とす云云。
など証とすべし。大宝制定の官員、位階および職務は左のごとし。
大夫一人 正五位上 職掌は国守と大同にして小異なり(「職員令」を見よ)
亮一人 従五位下 職掌大夫に同じ
大進一人 従六位下 少進一人 正七位上 職掌は国掾に同じ
大属一人、正八位下 少属二人 従八位上 職掌は国目に同じ
使部三十人 直丁二人 及び京職には防令十二人、摂津職には史生三人あり
また凌右京職は東西市司を管す。その職務は財貨、交易、器物の真偽、度量衡の軽重、売買の估価等、東西の市を(106)監督し、その非違を※[手偏+驗の旁]察するなり。その官員位階左のごとし。
正一人 正六位上 佑一人 従七位下 令史一人 大初位上
価長五人 物部二十人 使部十人 直丁一人
以上京職、摂津職の官吏は、職田、事力を給与せられずといえども、公※[まだれ/解]の分配、季禄そのほかの役徳は少からざりしならん。今その詳細を知るを得ず。
右のほか吉備大牢(「天武天皇八年三月紀」)、周防総領、吉備総領(「文武天皇四年十月紀」)等の名称見ゆるも、「大宝令」にはすべてこれを除き、その制またつまびらかならず。
右大宝国司の一章は古来すでにこれを論じたる先輩少からず、かつその事柄もほとんど知れ切りたるもののみにて、ために貴重なる紙面を汚すの恐れあれども、国司制の変遷を観察せんとするには、必ずまずその根元たる大宝の制を最もつまびらかに研究せざるべからず。これこの章あるゆえんなり。乞うこれを諒せられんことを。(付記)
第四章 大宝以後の国司
「大宝令」は律と相俟って王朝五百余年間政治の根本となれりといえども、そのはじめ編纂の当時もっぱら標準を唐朝の律令に採りたるがゆえに、中にも国司制のごときは、すでに前章において述べたるごとく大化以来六十年間の実蹟に徴して制定したるにもかかわらず、なお実施に際して往々不都合あるを免れず。ために時々補正追加せるものあり。今これをその後の国史に徴し格式に鑑み、傍ら日記、野乗の顆によりてその変遷の一斑を伺わんとす。
(一) 国司員数の沿革
国司の員数は国の大上中下の別によりて各その定りあること前章においてすでに述べしがごとし。すなわち、
(107) 大国 守 介 大掾 少掾 大目 少目 各一人
上国 守 介 掾 目 各一人
中国 守 掾 目 各一人
下固 守 目 各一人
外に各国を通じて史生三人、博士、医師各一人
なり。しかるに時を経るに従い、あるいは戸口増益して国の等級を進め、あるいは事務の繁多なるがために、あるいはその他の事情のために、官吏の員数を増加し、ついには員外官、権官をさえも生ずるに至れり。
1 員数の増加
諸国の戸口が年とともに増益し、従って事務の繁多を来すとともに地方官庁を増設し、およびその官吏の数を増加すべきはまた免れ難きところなりとす。されば「大宝令」を頒ちたる翌年すなわち大宝三年二月早くすでに大宰府史生十員を増加し、その後も国郡の分置続々絶えず、和銅元年九月越後国に出羽郡を置き、同二年二月遠江国長田郡を割いて上下二郡としたるを始めとし、四年に上野の多胡郡、大和の吉野郡の新置あり、五年九月に至りてさらに出羽国を置き、六年四月丹後、美作、大隅の諸国を置けるがごとき、その以後の廃置一々枚挙するにいとまあらざるなり。しかしてこれら新設の国郡にはいずれも令条規定の官吏を置かれたるに、なお往々不都合ありて、聖武天皇神亀五年八月諸国の史生、博士、医師の数を改めて、
史生 大国四人 上国三人 中下国各二人
博士は三四国に一人 医師は各国に補す
とし、次いで孝謙天皇天平宝字元年五月勅して能登、安房、和泉は旧によりて分立し、但馬、肥前に介各一人を加え(1O8)(中国を上国とせしものか)、出雲、讃岐に目各一人を加う(上国にも大国並みに大少目を置きしものか)。その後称徳天皇天平神護二年四月官奏により博士、医師、隣国兼任の国には格外に国別史生二人を置き、光仁天皇宝亀六年三月には、
伊勢 遠江 武蔵 下総 美濃 陸奥 越前 播磨 肥後
に少目二人を(すなわち守、介、掾、大目各一人、少目二人となる)、
参河 駿河 下野 越中 但馬 因幡 伯耆 美作 備中 阿波 伊予 土佐 豊前
に大少目各一人を(すなわち守、介、掾各一人、大少目各二人となる)、
常陸
に少掾二人、少目二人を置きたり(すなわち守、介、大目、大掾各一人、少掾、少目各二人となる)。これ「大宝令」の地方官制上における一大変革というべし。降りて宝亀十年閏五月さらに史生、博士、医師の数を改めて、
史生 大国五人 上国四人 中国三人 下国二人 博士 医師 国毎に各一人
とせり(以上『続日本紀』)。しかるに延暦十六年四月六日の官符をもっていっさい博士、医師の赴任を停止したるがゆえに、学道廃し救疾医なく大いに不便を生ぜしかば、弘仁十二年まず大和国の解に従い五畿内諸国に史生二人を省きて博士、医師各一人を置き、次いで対馬国に史生一人を省きて博士を置き、天長七年さらに五畿内ならびに志摩、伊豆、飛騨、佐渡、隠岐、淡路の十一国に博士、医師各一人を置き、承和十二年筑後、肥前、肥後、豊前、豊後五国にも医師を置きたり(『類聚三代格』)。これよりしてまた他の諸国にも及びしがごとし。
掾目等は宝亀六年に前記の増置ありてより以後なお諸国にその例を襲うあり。『類聚三代格』によりて左にその一斑を示さん。
佐渡、隠岐両国掾各一人 大同四年加置
(109) 出羽国大少目各一人 天長七年加置
周防国目一人 嘉祥二年加置
甲斐国目一人 仁寿二年加置
駿河、安芸、紀伊三国目各一人 同 三年加置
陸奥国少掾一人 同 四年加置
下野国掾一人 天安二年加置
甲斐、周防両国介各一人上国、能登、丹後、石見、長門、土佐、日向介各一人中国、
飛騨掾一人下国 貞観七年加置
右のほかなお尾張、豊後を始めとし、その他の諸国にも加置ありて、貞観七年飛騨の加置の後にはただ、
安房 若狭 佐渡 大隅 薩摩 志摩
の六国を除くほかは中国にも介あり下国にも掾あるに至り、大宝の地方官制全くその面目を変じたり。
陰陽師はもと大宰府のみにありしを、当時迷信の深きより嘉祥四年出羽、武蔵の両国始めて請うてこれを置きしより、次いで諸国に及び、
弩師は天平宝字六年四月始めて大宰府に置きてより、辺要の諸国多くこれに傚い、時に停廃するありといえども、ついには陸奥、越前、能登、越中、越後、佐渡、因幡、伯耆、出雲、石見、隠岐、長門、伊予、大宰府、肥前、肥後、壱岐等いずれも史生一員を廃してこれを置くに至り、そのほか牧監の増置、諸国の国師、講師、※[手偏+驗の旁]非違使、追捕使、押領使の設置の如きも、ある点よりいえば国司員数の一部分なるべきも、煩を厭いて今はことごとく漏らせり。
(110) 右はただ法令として現れたるものを拾集せるのみ。延喜・延長以後に至りてはほとんど徴すべきものなし。ことに年官年爵の制あるに至りては任意にその数を増加してもっとも錯雑を極む(後項参看)。
2 員外国司
官吏の員数は令条すでに規定ありて猥りに動かすべからざるがゆえに、もしその事務繁多となり、あるいは補任すべき人員多く出来たる時は、前項述べたるごとく格式によりてその員数を増加するのかたわら、また臨時に定員外の官吏を置くに至る、これを員外官という。光仁天皇天応元年六月の「詔」に曰く、
惟王之置2百官1也、量v材授v能、職員有v限、自v茲厥後事予議、務稍繁、即量2劇官1仍置2員外1。
とあり。これ員外官の由来を解したるものなり。しかれども員外地方官に至りてはややこれと趣を異にするものあり。彼らは決して職務の繁劇なるがためなる唯一の理由をもってこれを置くにあらず。むしろその所得をもって主なる目的とせるがごとし。ゆえに実務上においてはこれなきもために事務の渋滞を来《きた》すことなく、かえってこれあるがためにいたずらに繁冗に亘るの患あり。されば同天皇宝亀五年の「勅」に、
比年員外国司其数寔繁、徒有2煩擾之損1、弥乖2簡易之化1。
とあり。これより先、天平神護二年にもその任国に赴き国務を妨ぐるを禁じ、藤原浜成が罪ありて大宰員外帥となりし時(天応元年六月)にも、「宜莫預釐務」と命じたるにてもその目的とするところを知るを得べし。
員外官、その始めをつまびらかにせず。京官にては養老四年十月、式部員外少輔巨勢朝臣是人あり。地方官にては天平宝字元年七月日向員外掾藤原朝臣乙縄、大宰員外帥藤原朝臣豊成、同二年四月出雲員外掾難波薬師奈良など史に見ゆる始めなるにや。しかれども国史多く判官以下の補任を省けり。ゆえに史に記するところはなはだ少なしといえども、当時すでにその数多かりしは同元年十月太政官が国司の公※[まだれ/解]分配の率を規定して特に、
(111) 員外官者各准2当色1。
と令したるにても知らるべく、またこれをもって員外国司が多くその所得を目的とせるをも知るを得べし。
員外国司はその始めはただ判官以下なりしがごとし。これより次官にも及びたれどもいまだ員外守を生ずるに至らずして廃滅につけり(ただし大宰府には往々員外長官あり、これ大臣らの貶せられて任ぜらるる者なれば例外なり)。員外次官の史に見ゆるは、
天平宝字三年七月 上総員外介 田中朝臣多太麻呂
同 十一月 越前員外介 長野連君足
同 四年二月 遠江員外介 当麻真人広名
同 五年十月 越中員外介 密奚野
始めなるべきにや。降って天平神護のころに至りては、往々任国に赴きてかえって国務を妨ぐる者あるがゆえに、前にも言えるごとく二年十月これを厳禁せしも、なおその補任は止まず、翌神護景雲元年には、
三月 越中員外介利波臣志留志 七月 播磨員外介息長丹生真人大国 八月 越前員外介石川朝臣名継
八月 下総員外介丈部直不破麻呂 八月 武蔵員外介弓削御浄朝臣広方 八月 讃岐員外介上村主五十公
など新たに任ぜられその翌二年には、
上野 武蔵 遠江 駿河 参河 武蔵再 美濃 越前 美作 但馬
の十国各新任の員外介あり〔12〕。かくのごとく年とともに増加し来り、光仁天皇その後を受け給いて、即位の始め宝亀元年十月より翌二年十一月に至るわずかに一年有余の間に、実に十八人の員外介の補任あり。これ国史の明記するところのみを数えたるものなればなお漏れたるもあるべく、判官以下に至りてほいっそう多数なるぺければ、当時その数(112)の意外に多かりしを知るべし。ここにおいて弊害従いて生じ、朝廷またその煩に堪えざりければ、宝亀五年三月勅して歴任五年以上の者は一切これを解却し、いまだ秩満せざる者は五年に満つるごとに符を待たずして解任せしむ。これより後、員外地方官の新任はただ天応元年六月に藤原浜成が罪ありて大宰員外師に貶せられたるほかには、永くその跡を絶ちたるがごとし。さらに翌宝亀六年六月に至りては、秩満を待たずして畿内諸国の員外国司を史生以上ことごとくこれを解却し、次いで天応元年六月に至りては、ただ郡司軍毅を除くほか一切の内外文武員外官吏はことごとくこれを解却しおわれり。
員外国司が必然執るべきの職務なく従って任所に赴くを禁ぜられたることは、上文すでに説けるがごとし。しかるに『続日本紀』神護景雲三年九月の条に、和気清麻呂貶せられて因幡員外介となり、「いまだ任所に赴かざる前に更に詔あり除名の上大隅に配せらる」と記し、延暦九年二月大宰員外帥藤原浜成が任所において薨去せしがごときを見れば、赴任の禁制も行われざりしがごときも、これらは罪ありて左遷せられたる者なればいわゆる配流の性質上より然《しか》りしものならん。
3 権国司
権とは仮りの義なり、いまだ本官に補するには及ばざれどもまず仮りにその官に補するの謂なり。されば権官は員外官とはその起原を異にし、始めには正官と相並んで存する者にあらず。権国司の初見は『続紀』神護景雲元年八月の条に「従五位下藤原朝臣雄依為2備前権守1」とある者なるべし。このころは員外国司隆盛の時代にして、両者の間にも毫もその関係なきがごとくなるも、その後宝亀五年三月員外国司の新任を禁ぜられてより、権国司の補任はますます増加の傾きあり。すでに同年九月に、
山城権介 尾張連豊人 参河権介 笠朝臣名麻呂
(113)の任ぜらるるあり。同九年十月にも下総権介小野朝臣滋野あり。その他権掾権目など少なからず。しかれどもなお員外宮とその性質を異にし、正官なき時に限り仮りに補せられたるがごとし。しかるに天応元年六月員外国司全く廃せられてより得分多き外官を望む輩の処置に窮し、さきに宝亀六年八月いったん諸国公※[まだれ/解]の四分の一を割きて京官に頒ち与うるの制を立てしも、いたずらに煩雑にしてその得るところ少なかりければ、これも行われず、権国司はいつしか員外国司の性質を帯びて正官と相並ぶに至れり。すなわち延暦八年二月文室真人子老を安房守に任じながらその四月に大野朝臣仲男をもってその国の権守に補し、翌九年三月に至りて仲男ようやく子老に代って正守となりしがごときはその一例として見るべきか。降って平安朝に至りては権国司次第にその数を増し、藤原氏摂関の世となりては大上国には必ずこれを見るに至れり。
『職原鈔』に地方官員数を記して「犬上国の守、介、掾共に権あり」とす(『官職秘抄』これに同じ。『百寮訓要抄』には権大少目をも併せ記せり)。しかるに『日本後紀』延暦十五年十二月の条に出雲臣乙上を佐渡権目となすとあり。『類聚三代格』に武藏権史生屋代直行、『三代実録』に備中権史生大宅鷹取というあり。『類聚符宣抄』にも越前権少目真髪部良介などそのほかにも実例多ければ、中ごろまでは上守より下史生に至るまでいずれも権官は置かるべく、国の等級にも必ずしもかかわらざりしがごとし。
元来権官の起原は前にも言えるごとく員外官と異にして、事務に練達する者その身分の低きゆえなどより仮りにこれに補する者にして、『百寮訓要抄』に、
守 殿上地下の五位是に任ず 権守 地下の五位是に任ず
とあるは当を得たり。しかるに朝官が公※[まだれ/解]を貪るよりしてついに員外国司の性質を帯ぶるに至りて紊《みだ》れたり。されば同書にも、
(114) 又春の除目の時参議雲客などの兼官になる事もありそれは別の事なり。
と記し、『職原抄』にも、
権守者多是遥授之官也、参議二三位中将少納言必兼v之云云。納言以上貶謫之時任2諸国権守1也、仍常儀参議兼国任2納言1之日即止v之、介権介者弁官近衛中少将等兼v之。
と見えたり。けだし中ごろまでは正官と並び置かるる時いずれかその一赴任せること国史に徴して知らるるを、なお降りては権守の方多く遥授となりしにや。
(二) 国司任限の沿革
令制長上の遷代は六考を限りとす。しかるに国司の任限その後種々の変遷ありてその間すこぶる紛らわしきものあるがゆえに、今その変更の史籍に散見するものを拾集して試みに年代順をもって左に列挙せん。
「大宝令」の制定 長上の遷代六年を限りとす(「選叙令」)
慶雲三、二、十六 一般に四年に改む(『三代格』『続紀』巻三)
天平宝字二、十、甲子 国司の交替を六年とす、但し史生は四年とす(『続紀』巻二十一)
宝亀五、三、丁巳 員外国司歴任五年以上皆解却す(『続紀』巻三十三)
同 十、閏五、廿七 医師、博士は六考遷代とす(『続紀』巻三十五)
同 十一、八、廿八 大宰管内の国司は五年交代とす(『三代格』『続紀』巻三十六)
大同二、十、十九 一般に六年とす(『三代格』)
同 二、十一、廿三 史生は六考の限りに非ず、旧に依り四年とす(『三代格』)
同 五、三、一 陸奥国史生、弩師は五年とす(『三代格』)
(115) 弘仁三、十一、十五 出羽国史生、弩師は五年とす(『三代格』『後紀』巻二十二には出羽国史生、弩師は国司と同じくすとあり)
同 六、七、十七 諸国司遷代を四年とす、ただし大宰管内は五年(『三代格』『後紀』巻二十四)
同 七、正、十二 陸奥出羽の国司史生、弩師は五年とす(『三代格』)
天長元、八、二十 諸国司介以上を六年とす(『三代格』)
承和二、三、十五 鋳銭司は国司並に四年とすべきに非ず、六年とすべし(『三代格』)
同 二、七、三 国司の歴四年とす(『三代格』)
貞観八、十二、五 鎮守府医師を六年とす(『三代格』)
元慶二、二、三 諸国の弩師は凡て史生に准ずべし(『三代格』)
右列挙の中にはあるいは脱漏などのために前後相符合せざるものあれども、なおその大体を窺うを得べし。畢竟かくのごとく任限の時々伸縮する原因は外官を望む者の多きと民の送迎に疲るるとによる。天平宝字の「勅」はよくこの意を明かにせり。曰く、
如v聞、吏者民之本也、数遷易則民不v安、居久積習則民知v所v従、是以服2其徳1而従2其化1、安2其業1而信2其令1頃年国司交替皆以2四年1為v限、斯則適v足労v民末v可2以化1、孔子曰如有2用v我三年1有v成、夫以2大聖之徳1猶須2三年1、而況中人乎、古者三載考v続三考黜陟、所2以表v善簡v悪尽2臣力1者也、自今以後宜以2六歳1為v限、省2送v故迎v新之費1、其毎v至2三年1遣2巡察使1推v検改v遠慰2間民憂1、待v満両廻、随v状黜陟、(中略)又勅諸国史生遷易依v格待2満六年1者、望人既多任所良少、由v此或有d至2於白頭1不v得2一任1、空帰2故郷1潜抱c怨歎u、自今以後宜以2四歳1為v限遍及2群人1。
(116) 不公平なきようあまねく群人に及ぼし、もって国司の利を得せしむべしとの趣意をもって吏を補す。国司の制紊れざらんと欲するも得べけんや。今上記任限の変更表中疑わしきを去り、承和二年七月の「官符」を本として試みにさらに表を作らば左のごとくならんか。、
「大宝令」の制
この間四年 任限六年
慶 雲 三 年
この間五十二年 任限四年
(イ) 天平宝字二年
この間二十年ばかり? 任限六年
(イ) 宝亀八、九頃?
この間三十年ばかり? 任限四年
(ロ) 大同二年
この間八年 任限六年
(イ)天平宝字二年の制は広く及ばずして止みしものならんか、宝亀五年に員外国司の秩満を五年と定めあるいは歴任五年以上に及ぶもの云云の語あり、宝亀十年の制に「天平宝字の格に従ひ史生を尚四年とす」と定めたるを見れば当時いわゆる「天平宝字の格」はなお現行法たるべきものなれども実際には行われざりしを見るなり。また宝亀十一年の制に「他の国司は四年なるも九州は遠国なれば特に五年とす」とあるを思えば当時実際には四年なりしを知るなり。
(ロ)奥羽九州は国司、史生、弩師ともに五年なりしが、弘仁三年十一月の『後紀』の文にその意見ゆ。
ただし史生四年、以下同。
(117) 弘仁六年、
この間九年 任限四年
天長元年
この間十一年 介以上任限 六年
(ハ) 承和二年
この間?
? 任限四年
(ハ)承和二年三月の格によれば当時国司は四年任限なりしがごとし。これ年月に誤りありて七月の格の後にあるべきものならんか。
右のごとくその年限は四年、五年あるいは六年と定まれども、実際上における国司の転免の史に見ゆるところ決してかくのごとくならざりしは注意すべきことなりとす。
およそ秩満に至らずして転免せらるる者大宝のころよりすでにこれあり。降って藤原氏摂関のころに及んではことにはなはだしく、秩満に至るまで一国に止まる者の方かえって稀なるに至れり。今試みに清和天皇貞観元年より一遷代四年間における守、介両官の五十日未満にして転免せられたる者を列挙すれば実に左のごとき者あり。
官 名 姓 名 前官名 任年月 在官日数
後官名 免年月
越中介 大枝直臣 河内守
駿河権守 貞観三年正月十三日
同 二月廿五日 四十一日
紀伊介 菅野高松 散 位 同 右
越中介 同 右 同 右
上総介 吉備全継 散 位 貞観元年二月十三日
伯耆守 同 三月廿日 三十九日
(118) 伯耆守 家原民主 玄蕃頭 同右
勘解由次官 同右 同右
武蔵介 坂上滝守 貞観四年正月十三日
左兵衛権佐 同 二月十四日 三十一日
上総権介 和気春生 散位 貞観二年正月十六日
遠江権介 同 二月十四日 二十八日
上総介 清原真貞 内膳正 貞観元年正月十三日
左京亮 同 二月十三日 二十九日
伯耆守 三原永道 散位 同右
出雲守 同右 同右
出雲守 藤原数守 散位 同右
右兵庫頭 同右 同右
伊予権介 源 頴 刑部少輔 同右
備前介 同右 同右
土佐守 安倍房上 大判事 同右
図書頭 同右 同右
肥前守 橘忠宗 散位 貞観四年正月十三日
治部少輔 同 二月十一日 二十八日
上総介 藤原貞庭 散位 貞観元年十二月廿一日
大蔵少輔 同二年 正月十六日 二十五日
これただ『三代実録』を一読して目に触れたるもののみ。もとより漏れたるも多かるべく、なお五十日以上秩満に至らずして交迭せし者を数えなば実に枚挙にいとまあらざるなり。なおこれを国別について観察するに、貞観のはじめ二年間における上総国介、権介二官の任免左のごとし。
官 名 姓 名 任 年 月 免 年 月
上総介 ? ? 貞観元年正月十三日
同 清原真貞 貞観元年正月十三日 同 二月十三日
同 吉備全継 同 二月十三日 同 三月廿二日
同 闕? 同 三月廿二日 同 十二月廿一日
(119) 同 藤原貞庭 同 十二月廿一日 同 二年正月十六日
同 藤原大野 同 二年正月十六日 同 二月十四日
同 伴 龍男 同 二月十四日 ?
上総権介 藤原良尚 ? 貞観元年正月十三日
同 闕? 貞親元年正月十三日 同 三月廿二日
同 藤原良尚【再任】 同 三月廿二日 同 二年正月十六日
同 和気春生 同 二年正月十六日 同 二月十四日
同 坂上高道 同 二月十四日 ?
また伊予国においては同二年間に、
伊予守 春澄良縄 ? 同 二年正月十六日
伊予権守 藤原氏宗 ? 同 元年正月十三日
同 伴 善男 貞親元年正月十三日 同 二年正月十三日
伊予介 藤原良世 ? 同 八月廿六日
伊予権介 源 頴 貞親元年正月十三日 同 二月十三日
同 藤原 宜 同 二月十三日 ?
なお漏れたるもあるべし。あに驚くべきの数にあらずや。もって当時任免の頻繁にして秩限の制もほとんど無効なりしを知るべし。 しかれども、ともかくもなお一定の任限は大宝以来引続きて存在せるが中に、天長三年九月清原夏野の奏上により(120)て上総、常陸、上野の三国を親王の任国と定め、その国守を特に正四位下勅任の官となし号して太守と称し、一代を限り親王をもってこれに任ずることとせり。もとより太守はその身在京にして国務は介以下の執るところなれども、また国司任限の一異例として見るべきものなり。また志摩国守は高橋氏の内膳(ノ)奉膳《カミ》たる者必ず任ぜらるる慣例にして、その由来を尋ぬるに、この国は太古より志摩の速贄と称して生魚を朝廷に奉るの習慣あり。しかして高橋氏はその祖磐鹿六鴈命以来代々職を内膳司に奉ずるがゆえについにはこの慣例を開きしならん。しからばその任限は他の国司と異にして自然に内膳(ノ)奉膳と一致すべきなり。しかれども時には他姓の者も任ぜらるることなきにあらざるがごとし。宝亀三月四月、
外従五位下県造久太良為2志摩守1。(『続日本紀』)
とあり、なお研究すべき問題なるべし。
(三) 国司の交替
国司すでに一定の任限あり、その任限満たば新司は中央政府より派遣せられて前司と交替し、このさいその一切の事務引継ぎをなす。これを分付受領という。この分付受領には一定の期限と一定の法式とありて、もし前司政務に渋滞なく貢物のごときもことごとく整いおらばその交替もきわめて円滑に行われ、分付受領においてさして手数を要せざる道理なれども、実際においては必ずしもしからず。往々新司と前司の間に悶着を生じ、ついに前司は新司よりその任限内において、事務滞りなしとの証明書を得て始めて帰京し得ることとなれり。この証明書を解由状という。後には政府において実際についてこの解由状を検査するの必要起り、ために勘解由使の新設あるに至れり。しかして前司事務に渋滞するところありて容易に分付受領を終る能わずんば願いによりて一定の延期を許し、かくてもなお解由状を得る能わずんばさらに不与解由状と称するものを新司より得て始めて入京を許さるるの制も起れり。これらの分(121)付受領、解由状、勘解由使、不与解由状の制度の起原沿革のごときは国司制変遷の研究上においてもっとも重要なる個条なれども、大森文学士かつて「国司の交替に付き解由状与不の制」の題のもとにつまびらかに研究せられて本誌第六編第二号、第三号(明治二十八年二、三月発行)に掲載せられたれば、今これに譲りて再説せず(後項「国司の滞京」の条参看)。
(四) 国司の得分
国司の得分たる職田、事力の給与および空閑地営種の特権、出挙等の制は令条記載するところ前節つまびらかにこれを述べたり。しかれども実際上その得分の主部分たる公※[まだれ/解]稲のことに至りては判然せざりしなり。今前節を受けてこれを観察せん。
元来公※[まだれ/解]稲とは諸国の田租を二分しその一を正税と称して国庫に儲著しもって国用に供し、他の一をもってまずその国の欠負未納を填めたる残稲すなわち国司一同の所得たるべきものを称するなり。『延喜式』には明かに各国につきてその正税公※[まだれ/解]の数を記したれども、なお早く物に見ゆるは『続日本紀』天平十七年十一月の条に、
大国 四十万束
上国 三十万束
中国 二十万束 ただし大隅、薩摩は各四万束
下国 十万束 ただし飛騨、隠岐、淡路は各三万束、志摩、壱岐は各一万束
若し正税数少なく及び民挙するを肯ぜざる者は必しも限に満てず
と定められたるものならんか。降って天平宝字元年十月に至り、諸国司ら交替の日にあたりて各公※[まだれ/解]を貪り争論を起しすこぶる失体を致すをもって、特にその分配の法を定められたり。すなわち、
(122) 長官六分 次官四分 判官三分 主典二分 史生一分
医師博士は史生の例にして又員外官は各当色に准ず
この分配の割合につきてかつて故小中村博士が伊勢貞丈編、大塚嘉樹補の『年給図解』を節略して製せられたる表、載せて『皇典講究所講演』にあり〔13〕。その分配の比例を見るにおいてもっとも簡明なればさらにこれを左に節録す。
大上国守六分 中国守五分 下国守四分
大上国介四分 中下国介なし
大上国掾三分 中国掾大上国に同じ、下国掾なし
大上国目二分 中下国目共に大上国に同じ
大上国史生一分 中下国史生共に大上国に同じ
かの天平宝字四年八月大隅、薩摩、壱岐、多※[衣+陸の旁+丸]等の司、身辺要におりてやや飢寒に苦しみ出挙稲乏しくしてかつて利を得ず、私物を運ばんと欲するにも路嶮にして通り難くすこぶる矜むべきものあるがゆえに、大宰管内諸国の地を割いて、
守に一万束 掾に七千五百末 目に五千束 史生に二千五百束
を給せられたるはこれ右の表の下国四、三、二、一の法なりとす。しかるに右博士の表にはさらに公※[まだれ/解]一千石を六、四、三、二、一の法に従って分ちたる時の計算を載せて、
大上国守三百七十五石 介二百五十石 掾百八十七石五斗 目百二十五石 史生六十二石五斗 合計一千石
と記せり。この計算いかがあらん。愚見をもってすれば一千石を分配せんに大国守一人六分介一人四分掾二人各三分目(123)二人各二分史生三人、医師博士各一人各一分なるがゆえに合計二十五分、一分四十石に当る。よりて、
守二百四十石 介百六十石 掾百二十石 目八十石 史生、博士、医師各四十石
なるべきなり。もし員外官あるいは権官ありて各当色に准じてこれを分配し、また前項に述べたるごとく正官の員数を増加し、陰陽師、弩師、検非違使らも加わりたらんには分配の法さらに異なるべきなり。けだし目二分史生一分というもその二分を目二人に分ちその一分を史生三人に分つの謂にあらざるぺければなり。なお降って年給として一分官、二分官、三分官等を院宮諸臣に給与せらるるに至りてはさらにはなはだしきものあらん。しかれども公※[まだれ/解]の数ははなはだ多し。かく数多の人に分配するもなおその得るところ多かりしを知るなり。
『延喜式』に記するところ、公※[まだれ/解]稲のもっとも多きは陸奥国にして八十万三千七百十五束、次いで肥後国にして七十五万束、もっとも少きは隠岐国にして四万束なり。その各国平均はおよそ二十六万束に当る。しかれども中下国には権官なければ今大上国のみについて平均を取るに、 大国公※[まだれ/解]平均およそ四十二万束 上国公※[まだれ/解]平均凡そ二十八万四千束なり。もって欠負未納を補うもなお得分多かりしを想像すべく、畢竟大上国に必ず実務上無用なるべき権国司を正国司と並べ置くがごときもその主なる原因はこの多額なる公※[まだれ/解]稲の利を分たしめんためならんかし。
なおまた前項に述べたるがごとく国司の員数増加し、中国にも介を置き下国にも掾を置く場合にはなお六、四、三、二、一の法に従いその介に四分、掾に三分を給せらるるなり。『三代実録』貞観八年三月の条に、
太政官判定、新置介掾諸国公※[まだれ/解]田事力数、甲斐能登丹後石見周防長門土佐日向八国介給公※[まだれ/解]四分、公※[まだれ/解]田一町六段、事力五人、飛騨一国掾公※[まだれ/解]三分、公※[まだれ/解]田一町二段、事力四人。
とあり。ここに至りては分配の比例また変じて、
(124) 大上中国は六、四、三、二、一下国は五、三、二、一
となりしものならんか。降って地方に荘園増加し国司の支配するところ減少するに至りてはその所得の減少すべきや論なし。
もしそれ職田、事力に至りてはもとより国司の所得において重きを成すものにあらず。しかれども令条すでにつまびらかにこれを規定し、その後といえども表面上なお国司の俸給のごとくなれるものなれば、いささか左にその沿革を観察せん。
「延喜民部式」に曰く、
凡造授国司不v給2公※[まだれ/解]田並事力1。
遥授とは国司のその身京にありて任地に赴かざる者の謂なり。かの天平神護二年十月員外国司の下国を禁ぜらるるや、彼らは皆在京にしてその公※[まだれ/解]稲分配は「各当色に准じ」てこれに与かるを得れども、職田、事力は給せられざりしものと見ゆ(なお造授のことは下に言うべし)。また赴任の国司といえども地方の事情によりてこれを停止せらるることあり。『後紀』延暦十六年二月の条に曰く、
壬申(十六日)是日停v給2畿内国司事力並職田1。
これその地の田令にいわゆる「挟郷」にしてかつ国司往復の費用等も少きがゆえなるべきにや。その後国司員数増加し、中国にも介を置き下国にも掾を置くに至りては、その職田、事力は上文に引きたる『三代実録』(貞観八年三月)の文のごとく中国介は下国守、大上国掾と同じく、下国掾は中国掾、大上国目と同じき数を給せられたるを見る。
(五) 国司の遥任
令条の規定にして正しく行われなば国司は各その任期間国に下りて事務を執るべきを、早くすでに天平のころ員外(125)官を生じ、神護景雲二年その赴任を禁ぜられてより国司遥授の端を啓きけり。これより天長三年に至りて公然親王遥任国司の法起り、次いで年給の法もあるに至りてますます紊れ、後世地方の政振わざるに至りては受領の国司も国に下らず、国衙はいわゆる留守所の名目を帯び、国司は揚名となりおわれり。その原因政府よりこれを成さしむると国司みずから成すとあり。政府より成さしむる者とはかの員外国司のごとき、親王を国司とするがごとき、あるいは中央政府に官職を有する者をして国司を兼ねしむるがごとき、降っては年給として院宮諸王諸臣に国司の一分二分あるいは三分官を与うるがごときをいい、国司みずから成す者とは赴任すべくしてなお滞京する者をいうなり。
員外国司がいかに国司制を紊したるかは今さらに論ずるを須いざるべし。親王の国司のごときは一方より見れば清原夏野の上表のごとく事務に馴れざる親王の処置のためには誠に適当の法なるべけれども、他方より見ればこれすでに紊乱に赴きつつある地方制度をしていっそうその度を早めしめたるものというべし。いわんや俸給恩典のごとき旨意をもって国司を任じ朝官をしてこれを兼ねしむるに至りては、国司の制度紊れざらんと欲するも得ぺけんや。
1 朝官兼任の国司
敏腕の官吏をして二、三官を兼ねしむることは公式令においてすでにこれを認めたり。しかれども朝官をして地方官を兼ねしむるにおいては必ずその一を忽にせざるべからず、国司制これより紊るべきなり。
国司の他官兼任の最も早く史に見ゆるは(内膳奉膳高橋氏が志摩の国司を兼ぬるは由来久しく、これは例外なり)、「大宝令」制定の翌年すなわち大宝三年六月、
以2従五位上引田朝臣広目1為2斎宮頭兼伊勢守1。
とあるものなるべし。しかれども斎宮また伊勢にあるものなれば国守これを兼ぬるもその職務において差支えなかるべし。次に天平三年九月、
(126) 以2正三位大納言藤原朝臣武智麻呂1為2兼大宰帥1。
とあり。武智麻呂は不比等の子として特にこの優遇を受けたる者ならん。この時武智麻呂は京師にありて任に赴かず、ただその帥としての得分のみを受けたりしなり。そは天平五年県犬養橘宿禰三千代の薨じたるにあたりて一品舎人親王らとともにその第について従一位を贈らしむるの使者となりたるにて知らるるなり。後天乎十八年四月左大臣従一位橘宿禰諸兄の大宰帥に兼任せしもこの類ならん。しかれども一般国司にはいまだかく判然たる遥任の兼官は見えざるなり。次に天平四年九月、
以2従五位上石川朝臣夫子1為2備後守1兼知2安芸守事1。
とあり。これ便によりて隣国を兼ねしめたるものにしていまだ判然たる遥任兼官の例となすに足らず。次に天平十年四月、
以2従五位下藤原朝臣広嗣1為2大養徳守1式部少輔如v故。
また天平十七年九月、
以2民部卿正四位上藤原朝臣仲麻呂1為2兼近江守1。
とあるはやや好例たるべきか。広嗣は不比等の孫宇合の子として、仲麻呂はまた武智麻呂の子としてともに当時随一の貴公子なれば、なお武智麻呂が大宰帥を兼ねしと同じ意味のものなるべし。しかれども犬養徳は京師のある国にして近江はまたその隣国なれば、この兼官もまたいまだ遥任の好例と成し難きに似たり。降って天平宝字元年六月に、
紫微少弼従四位上巨勢朝臣堺麻呂
が下総守を兼ぬるあり。翌二年八月には、
参議従三位出雲守文室真人智努(参議は定まりたる職事官たらずといえども、智努が遥任国守たるの例としては、差支えな(127)し)
の名見ゆ。これともに純然たる遥任の例にして、実際において彼らはともに京師に止まり勅を奉じて官号改易の業に従事せしこと国史の明記するところなり。
これより後はこの類の兼官すこぶる多く翌三年十一月に、
右衛士督従四位下上道朝臣正道備前守を兼ね、
翌四年正月に、
従三位藤原朝臣弟貞神宮大弼となり旧により但馬守を兼ぬ。
この弟貞はその六月にもなお京都にありて裘儀の装束司を務めたる人なり。
かくのごとく兼官遥任の国司は早くすでに奈良朝にありて員外官と相並べり。これより次第に盛んになり行き、光仁天皇員外国司の遥任を禁ぜられて後ますますその数を増し、参議納言諸省卿等の守を兼ね、諸寮諸司の長次官の介、掾等を兼ねたる者すこぶる多く見ゆるなり。これより兼官の補任盛んなるに至りていよいよその弊を極め、参議二、三位中将少納言等は必ず権守を兼ね、弁官近衛中少将は介権介等を兼ね、諸他の朝官また多く国司を兼ぬるに至れり。しかしてこれらはともにただ公※[まだれ/解]の分配に預らんと欲するがためのみにして、始めにはその利を分つとともに責任をも在庁の国司とともに分ちしならんも、後には単に利をのみ得て責任はこれを免るるに至れり(後項「国司の滞京」の条参看)。
右は朝官にして国司を兼ぬる者のみについて述べたれども、あたかもこのころよりして諸王などには、
2 単官にしてなお遥か任なる国司
も実際上往々見受けらるるところなり。けだし公※[まだれ/解]の分配を得せしめんがために員外国司も起り、朝臣より兼任する(128)者も起り、後には年料給分として国司数人の所得を給与するの法も生じたりとすれば、単官にして遥授の者もまた理において起らざるべからざるなり。しかれども単官の者にありてはその滞京の者についても、いずれを遥任の者としいずれを赴任すべくしてしかも滞京せる者なりと判すべきかはすこぶる困難の業なり。ただ実例上諸王にこの類多きを見るのみ。かの天平勝宝八歳十二月諸寺に遣わして梵網経を講ぜしめられたる中に、
出雲守 山背王 讃岐守 安宿王
など明かに在京にしてしかも政府にもこれを認めたるを見れば、ともにこの好例なるべし。降りて藤原氏摂関の世となりてはこの類の者はなはだ多し。一例を挙れば文徳天皇崩御のさいに御葬儀の役を務めし人々の中に、
正四位下 下野守豊江王 従四位上 越中守源啓(嵯峨天皇皇子)
従四位下 越中権守房世王 従四位上 山城守基兄王
ら、ともに単官の在京国司あり。しかしてこれらいずれも皇胤たるを前の山背王安宿王などと思い合すれば、これ特に皇胤を待遇するの道なりしがごとし。しかしてこの遥授よりして、
3 年料給分
も起れるもののごとし。年料給分あるいは単に年給と称す。院宮権門に毎年一人ないし数人の国司の官を与え、手を拱してその官相応の公※[まだれ/解]の分配に与らしむるものなり。貞観七年正月、太政大臣藤原良房等の奏議に曰く、
伏見d自2延暦1至2仁寿1六代親王年料給分u、主典史生等毎代各一人、互称2一代1不v用2通計1、是以或隔2一年1即給、或経2数年1稀給、或省2内親王1不v関2給例1、執論各殊披訴間出、天慈攸v及還似2不平1、謹案2此事1格式不v載、宣旨非v切、徒見2流例1、未v詳2本源1、方今年中所出之給、始v自2三宮1至v於2諸司1有v労応v補者居多常苦2其不足1、而親王之数四十有余、非v隔2数年1、難v可2周給1、伏請惣2計親王1不v別2代々1、輪転而給鱗次弗v※[衍/心]、将v使2先後無v恨男(129)女共欣1、永々相承以為2成式1。(下略)
いたずらに流例を見て本源をつまびらかにせずとは実に当時の状態を見るべく、およそ制度の乱るるは多くかくのごとくいつよりとなく流例となりてついに動かし難き規則となるものなり。次いで翌八年正月、女御藤原多美子に、
自今以後毎年給2二分官(目の類)一人、一分官(史生の類)一人1。
とあるは前の奏文にいわゆる年料給分にして、諸国の目一人、史生一人の受くべき公※[まだれ/解]の配当を受くるの謂なり。ゆえにこの年給の目となり史生となる人は、多くはその家司従僕などを用い全く有名無実にしてはなはだしきは実にその人なき者すらあるなり。
故小中村博士かつて『江家次第』および『除目抄』によりて作られたる表〔14〕あり、左に節録す。
年官年爵一覧表
内 給 諸国掾二人 目三人 一分二十人
太上天皇
并に 三 宮
東 宮 爵一【従五位下に任ずるを云ふ】 内宮一人【助、允或ハ兵衛尉、近衛将監】 諸国掾一人 目一人 一分三人
(太上天皇并(ニ)三宮御出家の後、院と称し玉ふも尚同様なり)
親 王 目一人 一分一人【又別給、巡給、別巡給等の事あり】〔当代第一の親王には毎年掾を給ひ式部卿となれば一分二人を加ふ)
太政大臣 目一人 一分三人 【自余隔年加給】掾一人
左右大臣
内大臣 目一人 一分二人 同上
納 言 目一人 一分一人 【三年三度加給】掾一人
(130)参 議 目一人 一分一人 【献五節舞姫次年加給】掾一人
女 御 目一人 一分一人 尚侍一分一人【天暦野以後掾一人を任ず】
典侍掌侍 一分一人
すなわち准三宮とは三宮の方々の受くべき年給をその身に受くるをいうなり。
『官職秘抄』に曰く、
諸国 介云云又臨時内給、院宮臨時給、任之、掾云云内給、臨時内給、院官給、諸臣二合四所籍等毎年任之、目云云内給、臨時内給、院宮親王給、諸臣給、内侍司二合籍等任之。
これら皆年給として与えらるるをいえるなり。ここに至りて国司はほとんど恩賜の品物あるいは賞典禄のごときものとなれりと言うも、はなはだしき誣言にあらざるべし。
4 国司の滞京
上来説けるところは始めより赴任せざる性質の国司として任ぜらるる者にして、員外国司親王任国などとともに上よりこれを為さしむる者なれども、明かに受領なるべき性質の国司がみずから滞京することもまた平安京のころより始まりけり。けだし地方に荘園増加し課丁減少して国司の知るべきところ少なく、そのかたわら、また豪族跋扈し盗賊蜂起するあるに引きかえ、京都の貴公子は月に日にますます優柔に流れ行きたれば、ついに任国に下るを喜ばざるに至りしなり。またいったん赴任せる者にありても、朝集貢調等の諸使となりて入京するや荏苒年を経て帰らざる者あり。早くすでに承和七年阿波国司の「解」(正倉院蔵)にもその署名せる者はわずかに掾一人のみ。左のごとし。
(本文略)
承和七年六月二十五日 大初位上守少目神服宿禰【去年貢調使】
(131)守【闕】 正六位下行掾 文屋朝臣雄道
従五位下守右近衛少将兼行介藤原朝臣在京 正七位下大目宮原宿禰【承和四年貢調使】
堂々たる一上国の国務を掾一人にて執る、国司の威の下に行われざる誠に以《ゆえ》ありと言うべきなり。
ここにおいて政府またこれを匡正せんと欲し、仁和二年五月勅して官を拝しながらなお任に赴かざる国司、
肥後守正五位下 藤原朝臣時長 摂津守従五位上 多治真人藤善
豊後守従五位下 橘朝臣長茂 甲斐守従五位下 藤原朝臣当興
らを罪して各位一級を下し左右京職に下知してその告身を奪いもって他を戒められしも病膏肓に入りてついに救うべからず。赴任せざる者年を逐うてその数を増し、政府また暗にこれを認めこれを遥任と称して本任の放遠を待たずしてただちに他官を任ずるに至れり。左のごときはその好例なるべし。 刑部少録 真髪部良助 元越前権少目
河内守 備 平 王 元 山城守
甲斐守 藤原朝臣貞淵 元 上総介
美濃守 源 朝 臣 悦 元 大宰大弐
出雲守 凡河内宿禰弘恒 元 大隅守
右大納言藤原卿(忠乎)宣、件人等不v向2任国1、宜v莫v責2本任放還1者。
延喜十四年五月七日 大外記阿刀宿禰春正奉
ゆえにもし解由を責むることあらばたちまち解文を奉りてこれと争い、『類聚符宣抄』八なる丸部安沢が延喜二十年六月の「解」のごとくんば、
(132) 不v向2任国1云云然則遥任之人何拘2解由1。
などかえって己が権利を奪われたらんかのごとくこれを攻撃するに至れり。降って寛弘七年大江匡衡尾張守より丹波守に転じたる時のごとき、数多の傍例を引いてこれに因循し、本任放還を請うて許されたり。この類また少からず。ここに至りて国司交替の制も大いに紊れたり。けだし前項に述べたるごとく交替もっとも頻繁となり分付受領の期を過ぎざる中に早く他へ転任するなどあるがゆえに、実際において解由状、不与解由状等の制も行われ難かりしならん。
5 在庁の国司
国司の遥任盛んなるに及んでは在庁の国司の減ずべきやもとより論なし。前項引ける阿波国司の「解」のごときの風は貞観のころに至りてますますはなはだしく、その三年七月伊勢国司介清原長統以下、前司、諸郡司等併せて二十七人、課丁隠匿の罪によりて推問にあいたるにあたり、この時当時国にはなお、
守 源 朝 臣 冷 貞観三年正月十三日任
権守 高階真人峰緒 同 五月二十日任
権介 藤原 良近 同 正月十三日任
などのあるあり。しかしてこれらの人の少しも与らざりしはけだし在京せしによるならんか。降って貞観八年十月讃岐国司断罪の法を失して連帯責任を負いたる中にも、遥授にしてその責を免れたるは、
守 藤原朝臣良縄 権守藤原朝臣良世 権掾藤原朝臣房雄
あり、当時在庁の人々は、
介 藤原朝臣有年 掾 高階真人全秀 大目秦忌寸安統 少目阿波奈臣安継
(133)あるのみ。
当時にありて任国に赴く国司の種類を考うるに彼らは、
一、橘良基のごとく、紀夏井のごとく、藤原保則のごとく、坂上当道のごとく、安倍貞行のごとく、在原行平のごとく、小野葛絃のごとく、よく事務に練達して誠実その職を重んずる者なり。しからずんば彼らは、
二、伴龍男のごとく、石川宗継のごとく、清原長統のごとく、弘宗王のごとく、降っては藤原元命のごとく、ともに貪りて飽くことを知らざる小人の輩なり。しからずんば彼らは、
三、源平二氏の祖先のごとく有為の才を抱いて京師に志を伸ぶるを得ざるの士、あるいは兇賊藤原純友のごとく大志を抱いて地方に赴く者なるべし。
けだし当時京官は多く藤原氏に占められ、彼ら許多の荘園を有して栄華を尽くすといえども、他姓の者にありてはついにこの間に驥足を伸ばす能わず、ここにおいてか彼ら出でて国司たるに及んでは往々土着して帰らず、もって地方の豪族と化しおわるなり。『源氏物語』の明石入道のごときは当時の実情を写したる者ならん。しからざるも地方に止まりて民害を成す者すこぶる多し。寛平三年九月の「官符」に曰く、
秩満解任之人王臣子孫之徒、結v党群居、同悪相済、侫2媚官人1、威2凌百姓1妨v農奪v業、為v蠹良深云云。
ことに東国は土地広くして風化洽からざれば、ここに立脚地を求むる者多し。桓武天皇の曾孫高望王上総介に任ぜられてより、その子国香、良兼、良時らいずれも東国の国司に補せられ、ついに土着して平氏一族の基を開き、清和天皇の六孫王経基また武蔵、上総、下野、陸奥等の国司に歴任して源氏の祖と仰がれたり。純友のごとき異図を挟む輩また国司たること好都合なりしなるべし。かくて武士諸国に起り国司の政ますます乱れたり、その罪けだし藤原氏にあり。かの貪りて飽くを知らざる小人の輩に至りては国司の政紊れたるに乗じ、国に出でて私をもっぱらにせんと(134)する者、もとより論を俟たず。伴龍男は貞観の始め越後守として官物を犯用し従者をして書生物部稲吉を殴殺せしめ、ついで上総介となるにおよんで交替のさい、官物の欠負多しと称してほしいままに前司を禁錮するがごとき不法あり。石川宗継は豊後守として百姓の財物を奪食し、清原長統は伊勢介として課丁二百十八人を隠匿し、弘宗王は貞観十三年越前国守として新たに出挙の数を増しその息利を私せんと欲し、ことに藤原元命のごときは寛和・永延のころ尾張守として赴任三年間あらゆる手段を尽くして私利を逞しうせしこと想像の外にあり。ついに郡司、百姓らに訴えられてその任を解かれたり。しかれどもこれただ元命一人のみにあらず。また龍男、宗継ら以下の者のみにあらず。滔々として天下の国司多くしかりしなり。ここにおいて郡司、百姓らのこれを恨むる輩、あるいは神火と称して倉廩に火を放ちもって国司の過に帰し、あるいは相結んでこれを襲うこと、仁和二年五月〔15〕石見国の郡司らが百姓とともに守上毛野氏永の邸を囲めるがごときあり。しかれども郡司、百姓ら私怨をもって国司を誣告するの風また往々にしてあり。朝廷軽々これを信じ使を発して国司を鞠問するがゆえに無辜の国司も威権ために廃れて政令ますます行われず、三善清行『意見封事』において切にこれを痛論したることあり。
かくのごとくにして国司の政ついに救うべからざるに至り、荘園いよいよ増して国領いよいよ減じ、武士ますます跋扈するに至りては任に赴く者ますます少く、白河、鳥羽両帝院政の間大いに造寺の工を起して国用ますます窮迫せしかば、成功をもって官に任ずることもしきりに行われ、『中右記』大治四年七月の条などには、あるいは父子数人同時に任ぜられ、あるいは十余歳の少童の補せらるるすらあり。ついに国司は全く遥任となり国衙はただ目代等留守職に任かせて国宣を出すにも必ず留守所あるいは在庁と宛名するに至れり(留守所は国司の末路を観察するにおいてもっとも必要にしてしかももっとも困難なる、かつもっとも趣味ある研究題目なり。友人文学士伊東尾四郎君「留守所考」の著あり。まさに本誌上においてこれを公にせられんとすと聞く〔16〕。よってしばらく彼に譲り今詳説せず)。
(135) 降って源平争乱の世となり、次いで鎌倉幕府の世となり、天下に周ねく守護、地頭を置くに至りては、留守所のごときもますますその事務減少し、遥授の国司も今は分配するに公※[まだれ/解]の米なきに至り、いつしか国司は全く職務も所得も従って任限もなき者となり畢りて、ただ守護、地頭などの武士そのほか令外の官人が官位相当の令制によりて単に儀式上の位置を得んがために任ぜらるるに止まり、朝廷またこれらの補任をもって一の財源となす有様となれり。降って建武中興のさいいったん旧制に回復せられんとせしも行われず、その新任国司はなお他の守護、地頭などと相択ばざる者となり、わずかに伊勢の北畠氏、飛騨の姉小路氏、土佐の一条氏のごときは室町時代を通じて単に国司と称する名をのみ存せしも、その実当時の大名と少しも異なるなし。これより乱世に及んでは武人あるいは私に国司の称号を呼ぶ者ありしといえども、その後徳川時代を通じてその補任の権は依然朝廷に存し、陸奥の大名(磐城平)にして対馬守を称し、四国の大名(丸亀)佐渡守たるがごとき奇観を演じつつ明治維新に及べり。大宝よりここに至ってほとんど一千百七十年、わずかにその名をのみ存したりし地方官制も全く廃滅につけり。
なお大宰府の沿革、摂津職の廃止(延暦十二年三月)、左右京職の衰頽、和泉監、吉野藍など、国司制変遷の一部として研究すべき問題少なからざれども、いたずらに冗長に流れて永く貴重の紙面をふさがんことを恐れすべて省略に従う。
(136) 後淡海宮御宇天皇論
一 緒言
天智天皇淡海の大津宮に天が下治《し》ろし給うこと四年、辛未の歳十二月三日をもってこの宮に崩じ給い、翌壬申の歳にはいわゆる壬申乱ありて、淡海の軍利を失い、大友皇子は畏くも長等《ながら》の山前《やまざき》に縊れ給いて、政権はおのずからさきにいったん儲位を辞し給いし大海人皇子の御手に帰し、翌年二月この君大和の飛鳥浄見原宮において即位し給えり。これを天武天皇と申す。ここにおいて後にこの天皇の皇孫女とます、元正天皇の御代において、皇子とます舎人親王を総裁と仰ぎて編纂せられたる『日本書紀』には、淡海宮御宇天皇と仰がれ給う天智天皇の御次に、別に後淡海宮御宇天皇のましませしことを認めず、天武天皇をもってただちに天智天皇の御次に列し奉ることとなれり。しかれども、天武天皇の治世を壬申乱平定以後のことなりとなさんにはさてもあれ、その以前における天下の政治がこの君の御手に出でたりきとはとうてい認め得べきことにあらず。ことに『日本紀』にも、壬申歳三月使を筑紫に遣わして、天皇(天智)の喪を唐使郭務※[立心偏+宗]に告げ給うといい、五月郭務※[立心偏+宗]に甲冑弓矢以下巨多の禄を賜い、高麗の使者また来りて調を(137)奉るの事実ありしことをも明記せるなり。この喪を告げ、禄を賜い、調を受け給うのことは、当時淡海朝廷なくして何者かよくこれに当るべき。いわんや同書には、「朝庭美濃尾張の両国司に宣して曰く、山陵を造らんが為に予め人夫を差定す」といい、また天武天皇の大御言として、「今聞く近江朝庭の臣等朕が為に害を謀る云々」の語を録するあるをや。天智天皇の崩後、壬申乱平定以前において、後の淡海朝廷の存在せしこと、炳として蔽うべからざるにあらずや。すでに朝廷あり、必ずその元首となす天皇なかるべからず。よしや当時の前後の例に見るごとく、先帝の崩後ある期間内にありては、いまだ正式に即位の大典を挙行し給いし君なく、あるいは天智天皇の皇太子として、また持統天皇の皇后として、しばらく制を称し給いしがごときことありきと仮定するも、その称制の君として事実上の元首と仰ぎ奉るべき御方は、必ずこれなかるべからざるなり。しかして『日本紀』が天智天皇のなお皇太子として制を称し給いし六年間をもって、ただちに天皇の御治世中に加えたる例によれば、たといその期間が短かりしとはいえども、必ずその君の御ためにも御治世の存在を認めざるべからざるなり。少くともこれを天武天皇の御治世とは認むべからざるなり。ここにおいてか先哲すでに論あり、『日本紀』のこの筆法をもって編者なる舎人親王の曲筆に帰し、臣子君父のために隠すものなりとなす。あるいはしからん。しかれども翻ってさらに思うに、こは必ずしも『日本紀』の曲筆とのみ容易に断ずべきにあらず、『日本紀』はただ当時の定めのままを筆に録したるに過ぎざるものなりやもまた知るべからざるなり。さればその是非の論はしばらく措くとするも、また当時の御定めがいかにありきとするも、事実はとうてい誣うべからず、たとい称制の君にもせよ、後淡海宮の御一代がこの間に存在せしことは、歴史上ついにこれを滅却する能わざるなり。しかも『日本紀』が後淡海宮御宇天皇の御事を言わざるがゆえに、後世俗間の史を言うもの、往々にして壬申乱における大海人皇子の軍をもって正義の師となし、大友皇子をもって謀叛人にてませしかのごとく説きなし、すこぶる名分を転倒せるがごときの嫌いあるものなきにあらず。かの謡曲「国栖」に天武(138)天皇の御事を叙し、「此の君と申すに御譲りとして、天津日嗣を受くべきところに、御伯父(大友皇子を殊更にかくいえるか、あるいは俗間これを誤伝せしものか)何某の連に襲はれ給ひ、都の境も遠田舎の、馴れぬ山野の草木の露、分け行く道の果までも、行幸《みゆき》と思へば頼もしや」などといいて、もっぱらこの君に同情を表し奉るの筆法を採り、淡海朝廷の官軍を「狼藉者」とさえ記するがごとき、乱暴なる筆法を取れるは、この著しき例なり。また『都名所図会』八瀬の条に、「天武帝大友王子と位を諍ひて、山城の北へ馳せ給ひし時、王子の軍兵追ひかけ奉りて射かけければ、御背に矢中りけり。此故に名とす。当所に竃風呂あり。天武帝の矢の跡平癒の為しつらひしを始とせり」などいえるも、またこの類なりというべし。しかもかくのごときははなはだしくその真相を誤れるものなりといわざるべからず。しかしてこれが事実の真相を明かにするは、これ史家の任務たらざるべからざるなり。
後淡海宮御宇天皇がいかなる君にましまししかについては、先哲すでにその説あり。夙く『大日本史』においてはこれを大友皇子にましきと考定し、ために「天皇大友本紀」を立てて盛んにその順逆の次第を論述せり。ついで伴信友大人は、その著『長等の山風』においてさらにこれを祖述し、大いに前説の不備とするところを補い、これに関する『日本紀』の曲筆を論じて淡海朝廷の御ために弁説はなはだ努められたり。かくのごとくにして世論ために一定せるかの観なきにあらず。
しかれども今にしてこれを観るに、『大日本史』のもって証となすところやや薄弱の憾みあり、伴大人の説かるるところまたすこぶるその正鵠を失するものなきにあらず。しかして一方には天智天皇の皇后倭姫王をもって、「天皇」にてまししことを記する史料また尠しとせざるなり。ここにおいてか余輩はすでに去る明治三十七年中において、雑誌『歴史地理』(第六巻第一〇、一一号)の誌上に女帝皇位継承の事歴を論じたるついでに、『大日本史』の「天皇大友本紀」のことに論及し〔17〕、ついで翌年さらに同誌(第七巻第四号)上において、「天智天皇の皇后倭姫は果して即位(139)し給ひしか」の題下に、皇后即位に関する疑問を提出せしことありしが、その後大正四年に至り、雑誌『芸文』(第六年第一号)の誌上に「中天皇考」と題して、往時女帝を中天皇と称し奉りし事実を説いて、論また倭姫皇后の御事に及ぴ、さらに大正七年に至り、『考古学雑誌』上(第九巻第二号)に河内野中寺金銅仏像銘中の中宮天皇の語を論じ〔18〕、翌年再び「中天皇に就いて」と題して前説を訂補せる一編を『芸文』誌上(第十年第一号)に掲げたり。これら諸編の説くところ、必ずしも後淡海宮御宇天皇にのみ関するものにあらず、また論じてなおいまだ悉《つ》くさざるところありて、後説をもって前説の誤りを正せるものもありしがうえに、さらにその後思い得たるところまたこれなきにあらざれば、今これら諸編を一括して、主として後淡海宮御宇天皇に関する考説のみを輯録し、その重複を削り、その足らざるを補い、その誤れるを正してここに本編を成す。要は倭姫皇后が天智天皇崩御の後において、淡海宮にありて天皇と仰がれ給いし事蹟を立証せんとするにあり。これによりて永く世に隠れ給える一天皇の御存在を明かにするを得ば、ただに余一人の幸いのみにあらざるなり。その論旨時に先哲の研究を弁駁するがごときあるは、けだしやむを得ざるに出ず。読者請うこれを諒とせよ。
二 大友皇子即位説、一(『大日本史』)
『日本紀』に天武天皇をもってただちに天智天皇の次の御代に列し奉れるの先例を排して、この間に新たに大友天皇の御一代を設けたるは実に『大日本史』をもって始めとすること、前節説けるところのごとし。しかして伴大人が『長等の山風』においてこれを祖述敷衍せしこと、またすでに言えるがごとし。しからばこれらの諸書は果していかなる史料に基づきてこの新説を建立せしか。余輩は余輩の所説を論述するの順序として、まずここにこれを観察するの要あるを認む。
(140) 言うまでもなく『大日本史』の編纂は、史を論じて大義名分を明かにせんとするの目的を有するものなり。神功皇后を御歴代より除いてこれを皇后列伝に叙し奉れるがごとき、大友皇子を天皇としてために新たに御一代を設けたるがごとき、あるいは南朝を正統として北朝をこれに付記せるがごとき、いわゆる三大特筆は皆この趣意に基づきて立案せられたるものなり。さればかの『日本紀』が壬申乱の顛末を叙して曲筆を弄せるの嫌いあり、後の俗間史を言うもの往々にしてその順逆を顛倒せるの疑いあるがごときは、この種の史においてとうてい黙過すべからざるのことに属するや明かなり。このさいに当りて壬申乱平定前における淡海朝廷の存在のとうていこれを蔽う能わず、しかも一方において大友皇子の皇太子にておわせし確証あり、しかしてさらに他の古書において、ともかくも皇子の立って天皇となり給えることを記するものまたこれあるにおいて、『大日本史』がこれらを綜合してその即位の事蹟を認識し、新たに「天皇大友本紀」を設くるに至りたるは、まことにそのゆえなきにあらざるなり。しかれども当時編纂者があまりに大義名分を論ずるに急にして、ために広く他に史料を探り、もしくはすでに得たる資料の価値を討覈《とうかく》するに緩なりしの傾向あるは、切にこれを惜しまざるべからず。
『大日本史』が壬申乱を論ずるや、意気きわめて旺んなるものありき。今その編修総裁澹泊安積氏の『帝大友紀議』を見るに曰く、
今懐風藻・水鏡の二書によるに、書して立て皇太子となると曰ひ、天皇の位に即くといふ。その正大明白、凛として犯すべからず、天武の簒奪ここに於てかつひにあらはる。乱臣賊子以て心を寒うし、胆を破るべし。
と。また『大日本史』の論賛に曰く、
是を是とし、非を非とするは天下の公論なり。壬申の事に至りては則ち挙世能く其の是非を弁ずるなし。云々。世徒らに成敗を以て之を論ず。故に是非混淆し、順逆倒置す。亦旧史の大友を以て統に係けずして、天武を以て緒(141)に接ぐが故に、此の紛紜を致すのみ。然れども天武の舎人親王に於ける君父なり。直筆之を書する能はざるは固より亦宜なり。天智登遐より以て天武志を得るに至る迄、凡そ書する所の機務政令、帝にあらずして誰にか出でん。其の近江朝廷と書する者、豈蓋はんと欲して之を章にするの謂にあらずや。観者就いて之を繹ねなば、則ち其是非曲直自ら掩ふ能はず。云々。
また曰く、
逆取順守は蓋し陸賈権時の語、聖人の大経にあらず。遂に姦雄をして口を湯武にかりて以て其の私をなさしむ。後世見て以て常となし、恬として怪むを知らず。嗚呼之を取る固より逆なるべからず。況んや骨肉の間に於てをや。
と。その筆鋒の鋭利なるほとんど近よるべからず。この意気をもってして『大日本史』は、始めて天智、天武両帝紀の間に新たに一帝紀を立てしなり。
今『大日本史』の引用書を見るに、大海人皇子儲位を辞するに及びて大友皇子が立って皇太子となり給いしのことは『水鏡』により、天智天皇の崩後わずかに二日にして皇太子の即位し給いしのことは『水鏡』および『立坊次第』によれり。しかして『大鏡』の「太政大臣となり、其の年に帝となる」との記事を付記して考証に備えたり。『大日本史』の挙証これのみ。単にこれのみ。しかして古来の慣例に反して新たに一帝紀を立つ。卓見はすなわち卓見なれども、またすこぶる大胆なるの感なき能わざるなり。
『大日本史』の引用せる書が明かに大友皇子の皇太子となり給いしこと、またその即位し給いしことを記せるは言うまでもなし。なおその以外の書にしてこれを記するもの、またこれなきにあらず。今便宜これら諸書の本文を左に引用せんか。
(142)(一)『懐風藻』
大友皇子……年二十三立つて皇太子となる。云々。壬申の年の乱に会ひ天命遂げず。時に年二十五。
(二)『扶桑略記』
天智天皇十年辛未正月五日大友皇子を以て太政大臣となす。年廿五歳。云々。十月大友太政大臣を立てて皇太子となす。十二月三日天皇崩ず。同月五日大友皇太子即ち帝位と為る。
(三)『水鏡』
十年と申しし正月五日、御門の御子に大伴の皇子と申ししを太政大臣に成し奉り給ひき。二十五にぞ成り給ひし。東宮なんぞにぞ立ち給ふべかりしを、御門の御弟の東宮にて御座ししかばかくなし給へりしにこそ。此の年の九月に御門例ならず思されしかは、東宮をよび奉りて、我が病重く成りにんたり。今は位を譲り奉りてんやと宣りたまひしかば、東宮、あるべき事にも侍らず、身にも病多く侍り。后の宮に御位をば譲り奉り給ひて、大伴の太政大臣を摂政とし給ふべきなり。我は衛門の御為に仏道を発さんと申給ひて、やがて頭をそりて彼の吉野山に入り給ひにき。さて其の年の十月にぞ、大伴の太政大臣は東宮に立ち給ひし。云々。天智天皇十二月三日失させ給ひしかば、同き其の五日大伴の皇子位につき給ひて、云々。
(四)『大鏡』
(イ)天智天皇こそははじめて太政大臣をばなし給へりけれ。それはやがて我が第二の王子におはしける大友王子なり。正月に太政大臣になり給へり。天智天皇十年二月三日うせ給ひて後大友の王子われ位につかんとてし給ひしに、六月二十六日此の王子をころして、おほみの王子位に即き給ひて、天武天皇と申し給ひき。云々。持統天皇又太政大臣に高市の王子をなし給へり。天武天皇の王子なり。此の二人の太政大臣はやがてみかどとなり給へり。
(143) (ロ)太政大臣になり給ひぬる人は、うせ給ひて後必ずいみなと申ものありけり。然りと雖大友皇子やがて御門に立ち給へり。御門ながら失せ給ひぬればいみななし。
(ハ)其の姫君(鎌足の女)は天智天皇の御皇子大友の皇子と申ししが、太政大臣の位にて、次にはやがて同じ年の中にみかどとなり給ひて、天武天皇と申しける御門の御時の女御にて、二所ながらさしつづきおはしけり。
(五)『立坊次第』
大友皇子。天智天皇十年辛未十月立太子。元太政大臣。今年正月五日之に任ず。同年十二月五日帝位に即く。
(六)『年中行事秘抄』
天智天皇十年春正月己亥朔庚子、大友皇子始めて太政大臣となる。天皇の男なり。後皇太子となり、帝位に即く。
このほかにも、なお、伴大人の『長良の山風』には、「京人若槻幾斎が見たる承和元年藤原長良公の裏書を書き加へたる日本紀の古写本に(中略)天智紀に、大友皇子受禅の事見えたりと云へり」といえども、確かならず。これは吉沢義則博士(『史林』第四巻第三号)の日本書紀古抄本に関する研究〔19〕中に、伴氏のこの言を引きて、
是によると承和写本があつた様に見えて、信友は疑つては居なかった様だが、右異本裏書の長良の語なるものは、固より拙劣至極な贋作で、一顧の値もないものである。
と断ぜられたるものなり。また日下部勝美の『疑斎』に大友天皇のことを論じたる中に、「大鏡裏書引2西宮記1云。天智十年任2太政大臣1、十二月即2帝位1。」とありといえれど、伴氏自身にさえ、「おのれが見たる本ども何れも欠ありげにて、件の文あるを見ず」といえるによりて見れば、これもまた証となすに足らず。ゆえに今しばらくこれを闕く。
されば、『大日本史』以前の書にして、大友皇子の立太子、また即位を記するものは、まず指を右の六書に屈すべし。しかしてそのうち『大日本史』は、わずかに『水鏡』と『立坊次第』とのみを取り、参考として『大鏡』中の一(144)節を引けるに過ぎざるなり。しかも御年齢の点に至りては『水鏡』と『立坊次第』とを排して『懐風藻』に従い、立太子の年月は『懐風藻』を排して『水鏡』と『立坊次第』とに従えるなど、すこぶる都合よく取捨採択せり。
今『大日本史』が引用せる史料の値について考うるに、『水鏡』は余がかつて論じたるごとく〔20〕(『史学雑誌』第十四巻第二号、明治三十六年二月発行)、その大部分は『扶桑略記』の翻訳にして、しかも往々誤訳に陥り、そのしからざるところは著者の好奇心に任せて、つとめて異説を集録したるものなれば、すでに『扶桑略記』ある以上は、『水鏡』は史料としては価値すこぶる少きものなり。ことに『水鏡』のこの大友皇子に関する条は、全く『扶桑略記』の翻訳なれば、『扶桑略記』のこれに関する記事以上にはなんらの価値なし。また『立坊次第』は、その奥書にも、「予扶桑記以下の旧記を引き勘へて之を抄す」とありて、この大友皇子に関する記事は全く『扶桑略記』の書き抜きなり。しかるに『大日本史』は『扶桑略記』を引用せずしてこの二書を引用す。これ実体を省みずして陰影を追うがごときものなり。けだし、『扶桑略記』は天台の僧皇円阿闍梨の編するところなれば、著者が仏法を嫌うのあまり、ために僧徒の著書を直接に引用するを憚かりしものか。そはともかくもあれ、『扶桑略記』のこの記事にして信憑すべくぼ、本書より取ると末書より取るとに論なく、『大日本史』の論結において間然するところなかるべきも、如何せん余輩はさらにこの『扶桑略記』の記事を信ずるにおいて、すこぶる躊躇せざるを得ざるものあるなり。
『扶桑略記』の著者皇円は決して史眼の明かなりし人にはあらず。好んで異説を採用せんとするの癖あり。こは『扶桑略記』を精読する人の必ず首肯すべきところ。しかしてその異説を採用するについては、必ずしもこれが信否を研究して後しかりしにはあらざるなり。されば『扶桑略記』に大友皇子が皇太子となり、ついで即位し給いしとの記事ありとても、そはその当時においてさる一異説の存在せしことを示すに足るのみにて、これのみによりてただちに従来の一切の史の体を排せんは、いささか軽挙の憾みなき能わざるなり。ことに本書のこの天智天皇の条には、「十二(145)月三日に天皇崩ず」といいながら、更に「天皇馬に駕して山階郷に幸し、更に還御なし。永く山林に交りて崩所を知らず。只履沓の落ちたる処を以て其の山陵となす」との異説をさえ併せ記せるなり。この後説はまた確かに皇円の当時に存在したる一異説なるべし。要するに壬申の変は一大事変に相違なく、したがって彼此の間に秘密の存在せしこともありしなるべく、これに関して種々の異説の世に存するものあるは、けだしやむを得ざるところ。これを識別して取捨選択よろしきを得るは、これ史家の任務なり。猥りに異説を綜合して説を成さんには、ついに誤りたる論結に陥るを免れ難かるべし。
今試みに『扶桑略記』の記する天智天皇崩御の事蹟と大友皇子即位の事蹟との両説を綜合せんか。天皇失踪して永く山中に交り給いきという、いよいよその崩御を確かむるには、短時日のよく成すべきにあらず。しかも十二月三日に失踪し給いて、その五日までにこれを崩御と認定し、ここに皇太子の即位ありきということ、とうてい常識の信ずべきにあらざるなり。またよしや天皇三日に崩じ給いきとするも、その後わずかに二日にして、その五日に皇太子即位し給いきというがごときのことも、これを当時の前後の例に徴して、とうていあり得べからざるのことに属するなり。ことに『大日本史』が引用せる『水鏡』に至りては、明かに両立せざる『扶桑略記』の異説を綜合して、「十二月三日ぞ御門は御馬に奉て、山科へ御座して林の中に入てうせ給ひぬ。いづくにおはすと云事を知らず。只御履の落ちしを陵には籠め奉りしなり。云々。同き其の五日大伴の皇子位に即き、云々」となせるなり。三日に行衛不明になり給いてその御存亡さえ明かならぬに、その五日に後帝即位し給うことあるべきや。その説の価値けだし知るべきのみ。なお、さらに考うるに、『扶桑略記』には第四十代天智天皇の条に、「十二月五日大友皇太子即ち帝位と為る」と記しながら、別にそのために帝紀を立てざるは勿論、第四十一代天武天皇の条には、「大友皇子既に執政に及び、左右大臣等相共に兵を発して吉野宮を襲はんとす。云々。近江朝廷美濃尾張両国司に宣して曰く、云々」と記せり。す(146)なわち前には「帝位と為る」といい、後には「執政」といい、別に近江朝廷という。矛盾を免れざるなり。今この後の記事を信ぜんには、(一)当時近江に朝廷ありて、政治ここより出で、大友皇子はなお天智天皇が斉明天皇の崩後に、皇太子のままにて制を称し給いしがごとき有様にておわしきとも、(二)あるいほ近江朝廷には別に天皇ありて、なお推古天皇朝における聖徳太子のごとく、大友皇子は摂政にておわしきとも解するを得べし。いずれにしても同書中の前説、すなわち「十二月五日大友皇子帝位と為る」との記事とは両立せざるなり。『扶桑略記』のこの条の記事の価値また知るべきなり。しかも『大日本史』はこの『扶桑略記』の記事を、二箇の抄本、訳本より引用し、「天武志を得るに至る迄の機務政令、大友天皇を措きて他に出る所あるべからず」との推論によりて、「天皇大友本紀」を立つ。しかして他に天皇のましまし得べきことには考え及ばざりしなり。挙証の不備なるを惜しまざるを得ず。
壬申乱前に近江朝廷現存し、政令のここより出でしは事実なり。しかも理論上は必ずしもその間天皇なかるべからざるにもあらず。すでに近く天智天皇が六年の間皇太子として制を称し給いし先例もあるなり。持統天皇が三年間、皇后として制を称し給いし後の例もあるなり。されば皇太子にてましし大友皇子が、この間皇太子のままに制を称し給いきと仮定せんか、『日本紀』の筆法によりてこれを天皇と認め奉らんこと、また必ずしも不可ならざるに似たり。しかも『大日本史』にありてはすなわち可ならざるなり。『日本紀』には天智天皇の称制六年間をも天皇御治世に算入し、この即位前の称制六年と即位後の四年とを通じて、天智天皇の御治世十年と算し奉りたれども、『大日本史』にありてはすなわちしからず、ことさらに『日本紀』の筆法を排して天皇の御治世を戊辰の歳すなわち即位の元年より始め、その以前の称制六年間を空位となせるなり。その記述の体裁は、一に『日本紀』に、神武天皇崩後綏靖天皇即位前の出来事を記述せる筆法と同じく、各その本紀紀年の前に列記せるなり。されば今かりに大友皇子儲位のままにて制を称し給いしうちに、不幸天命を遂げずして薨じ給いしものとせんか、『大日本史』の筆法にてはその称制の(147)期間をもって、一帝紀を立つべからざるなり。されど今かりに機務政令他に出ずるところなしとの理由をもって、天武天皇以前に帝位に登り給いし御方ありて、政令ここに出でしと定めんか。その御方が果して大友皇子にましきと決せんには、さらに考慮を要するものなくんばあらず。そは後に詳説するごとく、これを前後の例と当時の行懸りとに徴するに、大友皇子にあらずしてむしろ天智天皇の皇后倭姫女王にましきとの、推測を下すべき十分の理由の存するものあればなり。ゆえに天智、天武両天皇の本紀問に、新たに一帝紀を立つとせば、まずもって十分この疑問を決するの要あるなり。
しかれども『大日本史』はもとこれ記事の簡を尚び、編者の正当と認定したる事実を編年体に列記せしものにして、必ずしも考証の書にあらざれば、記して委曲を尽くさざるものあらん。よりて余輩はさらにこれを澹泊の史論について見るを要す。
澹泊の『帝大友紀議』は収めて「甘雨亭叢書」中にあり。今これを観るに、その引用するところの史料は『懐風藻』と『水鏡』との外に出でずといえども、その取捨についてはすこぶる詳細の意見を述べたり。その大要に曰く、
舎人親王の天武紀を作る、事に当りて隠諱し曲筆多し。懐風藻に曰く、年二十三立つて皇太子となると。之によれば実は天智帝の三年なり。天智紀に曰く、十年正月太政大臣に拝すと。所謂十年は即ち四年なり。三年已に儲位に定まり、明年又此の命あるべからず。懐風藻には年甫めて弱冠太政大臣に拝すとなす。すでに弱冠と云へば応に二十左右なるべし。天智元年大友年二十一(この年齢は『懐風藻』による)。然らば則ち元年に太政大臣となるか。水鏡載する所其の太政大臣となるは則ち日本紀に同じく、皇太子と為るは即ち懐風藻と異なり。曰く、十年九月帝疾病あり、十月大友皇子を立てて皇太子と為すと。此の時天武すでに吉野に遁る。之が時勢を揆るにそれ或は然らん。故に其の太政大臣と為るは日本紀に従ひ、皇太子となるは水鏡に従ふに如かず。云々。
(148) しかして、『日本紀』の記事を曲筆の二字に排して、大友皇子の即位に関しては、史料としての価値きわめて少き『水鏡』(実は『扶桑略記』なれど)に盲従するのほか、あえて一言をも費さざるなり。されば安積氏の史論、またいまだもって『大日本史』の説いて及ばざるところを補うに足らざるを覚ゆ。要するに『大日本史』は、『日本紀』を排して新たに一帝紀を立てんとするには、挙証なおすこぶる不備なりきといわざるべからざるものなりとす。
三 大友皇子即位説、二(『長等の山風』)
『大日本史』の「天皇大友本紀」の挙証の不備をいうもの、実は決して余輩をもって始めとするにあらず。早くすでに伴信友大人は『長等の山風』を著して曰く、
今、其の史(『大日本史』のこと)の徴に引き給へる本書どもを立ちかへり読み見るに、省《ことそ》ぎて採り給へるにかと思はるる事のあるが上に、なほ他書どもの中にも、徴とせまほしき事の見えたるを考へあはせ、云々。ひそかに論《あげつら》ひ試みんとてするなり。
と。伴氏は実に『大日本史』の憑拠の不十分なることを感じ、さらにその足らざるを補いて『長等の山風』を著わされしものなり。よりて余輩はさらに本書について、ここにその所説をも観察するの要あるを認む。
伴大人の考証の結果は『大日本史』に同じ。しかもその証として引けるところは、『懐風藻』『水鏡』等、『大日本史』所引の書のほかに、『扶桑略記』『年中行事秘抄』『大鏡』等を引用し、さらに薬師寺の塔擦の銘の文、および『日本紀』第二十八、九の両巻(「天武紀」)の記事体裁の他と異なるものあることなどによりて、壬申の年はもとは天武天皇の御治世とはせずして、大友天皇の御治世とせしものなりきと論じ、『日本紀』ももとその壬申の年の巻は、「大友天皇紀」にてありしを、奏上の期となりて急に改刪せしか、もしくはその後に改められたるものにてもあるべしと(149)まで論断せるなり。けだし『長等の山風』は、『大日本史』の後に出でていまだ『大日本史』の言わざるところを議き、竿頭さらに歩を進めたるものというべきなり。
果してしからば『長等の山風』は、論じてもはや余蘊なきに至れるものなりや。余輩の見るところをもってすれば、これまたいまだすこぶる尽さざるところあるに似たり。『長等の山風』の論ずる主要の点、大略左のごとし(『水鏡』および『扶桑略記』に関する説はすでに述べたれば今これを省く)。
(一)『懐風藻』は大友天皇の曾孫淡海三船が、『日本紀』奏上よりも三十年ばかり後、天平勝宝三年をもって撰せるものにて、その曾祖父たる天皇の御事蹟の世に隠れたるを悲しみ、しかも当世を憚り、この詩集を作りてひそかにその事実を記し、文には婉曲に、あるいは隠語を用いて、自然にそれと知らるるようになせるなり。その序に、「淡海よりここに平都《ならのみやこ》におよびて凡そ一百二十篇、勒して一巻を成す」といいて、巻首に大友皇太子の詩二首を載せたるは、淡海宮の天皇すなわち大友天皇なることを示したるなり。そはこの天皇を除きては、淡海朝の人の詩は一首もあることなきをもって察すべし。また序に「宸翰垂文」とある宸翰も、まさに大友天皇の御事なり。
また序に、「作者六十四人具さに姓名を題し、并に爵里を顕して篇首に冠す」とありながら、実際は大友皇子よりその王子葛野王までわずかに六人の伝を記し、他には四人のほかことごとくこれを略したるは、祖先の事蹟を明かにする目的なれば、他は措いて心を用いざりしなり。云々。
(二)『大鏡』六十八代の帝の段の末に、「天智天皇十年十二月三日うせ給ひて後、大友の皇子我位につかんとてし給ひしに、明る年の七月廿六日〔九字右○〕此皇子をおろして、おほあまの皇子〔十一字右○〕位につき給ひて天武天皇と申し給ひき」と見え、また、「太政大臣になり給ひぬる人は、うせ給ひて後必ずいみなと申すものありけり。然りと雖、大友皇子はやが(150)て帝に立ち給へり。みかどながら失せ給ひぬればいみななし」。また鎌足大臣の子のことをいえる条に、「その姫君は天智天皇のみこ大友皇子と申しし時みめに奉り給ひけり。この皇子〔十四字右○〕太政大臣の位にて、つぎにはやがて同じ年の中に、みかどとなり給ひにき〔二字右○〕」など見えたり。これら皆そのかみ、正しき古記録のありけるによりて採りたるものなること決《うつな》し(圏点を付したる所は、『長等の山風』において、伴氏の私に都合よきよう改竄せるものなり。前に引ける文と比較すべし)。
(三)『年中行事秘抄』に、「天智天皇十年春正月己亥朔庚子、大友皇子始為2大政大臣1。天皇男也。後為2皇太子1、即2帝位1。」とあり。
(四)舎人親王題書し給えりとて、現《いま》も存《のこれ》る奈良の薬師寺の塔の露盤の擦銘に、「維、清原宮《きよみはらのみや》馭宇天皇即位八年庚辰之歳建子之月、云々」とあり。八年を庚辰といえば、天武天皇の元年は癸酉なること明かなり。この塔は『扶桑略記』に、「天武九年庚辰十一月、因2皇后病1、造2薬師寺1、云々」「為憲記云、薬師寺、云々。宝塔二基、云云。持統天皇奉造座者也」とあるものにて、持統天皇の造られしものなれば、この御代までは癸酉を天武天皇の元年とし、壬申の年はなお大友天皇の御世に立てられしこと明かなり。
(五)『古事記』の序に、「歳次2大梁1、月踵2夾鐘1、清原《きよみはら》大宮、昇即2天位1」とあるは、天武天皇が酉の歳の二月即位し給える由にて、『書紀』の年月に合えり。これまたそのかみ癸酉を元年と立てられたりし趣なり。
(六)『日本紀』も始めは壬申の年をもって「大友天皇紀」と立てしものなりしならん。しかるに奏上の期となりその紀を除きたるか、また後世に改刪して、現今のごときものとなりしならん。その証は、「紀」の例として代々の元年の条の終りに、必ず大歳干支を記するものなるに、ひとり「天武紀」に限りて、二年の条に大歳癸酉とあり。こはこの年がもと「天武紀」の元年の条なりけるを、「大友紀」の元年を除きて天武の元年に改刪する時、大歳をも(151)その下に遷し、改めて壬申と改め記すべきを遺れたるものなること決し。
『長等の山風』の論拠の主なるものほ大略右のごとし。なお些末に渉り、あるいは単に推測を下せるがごときの類はこれを挙げず。読者幸いに本書についてその詳細を知らるべし。
さて、右の六ケ条について、一々これを精読するにいずれも種々の弱点あるを認む。すなわち煩を厭わず左にこれを弁明せんか。
(一)『懐風藻』の記事について
伴大人が『懐風藻』をもって淡海三船の著なりということすでにその証に乏し。けだしこの説は、その初め林鵞峰が、天平勝宝のころにこれほどの著述をなすもの、淡海三船を措きて他にあるべからずと推測せしが本となりしものなり〔21〕という。しかしてその推測がついに肯定となり、『大日本史』には三船の著としてこれを引用し、これを論述せり。さらに伴大人は、「普通の本朝書籍目録の印本又一本には之を脱したれども、嘗て見たる一写本には、淡海三船撰と明記しありたり」とさえ付加せり。ここにおいて何人も『懐風藻』が三船の撰なることを疑わざるようなれども、かつて見たりという一写本の出所をも言わず、他にその存在を聞きも及ばねば、これ実は疑問中のものたるべし。すでに『懐風藻』が三船の著なりとすることの証なくば、大人のこの書に関する種々の推論は、全く無意味のものとなり、『大日本史』論賛の「淡海三船其の天命遂げざるを嘆じ、云々」の語も、取り消さざるを得ざることとなるべし。よしやかりにこれをもって三船の著なりとするも、もって大友皇子即位の証となすに足らず。否、むしろ反証を供するものなりというべきものなきにあらず。なんとなれば、本書に大友皇太子の御事を叙して、「天命遂げず」としもいえるは、「天寿を保たず」との意にあらずして、天の命を受けて天子となり給うには至らざりきとの意なるべければなり。この「命」の字は、本書の序の中に、「淡海先帝の命を受くるに至るに及びて」とある「命」と同意義なり。(152)天命を受けて天子となり給うの謂なり。果してしからば『懐風藻』は、大友皇子の即位を立証するものにあらずして、かえって皇子が皇太子とまではなり給いしも、壬申乱のためについに天命遂げず、天子となり給うには至らざりきとの反証を提供するものなりとも解すべきものなりとす。
次に、「淡海より平《なら》朝」すなわち近江朝より奈良朝までというをもって、淡海朝を大友天皇に擬せんとするは、周到なる伴大人の見解としていささか奇異の感なきにあらず。大友皇子は明かに近江朝すなわち天智天皇の御世の皇子にまします。さればこれを淡海朝といえるに毫末も不当なることあるべからず。
次に本書に「宸翰」とあるは、これを通読するに疑いもなく上文の淡海先帝すなわち天智天皇の宸翰なり。伴氏何故にこれを大友皇子に係けて解せんとせられしか。いかに本文を読下するもこれを大友天皇の宸翰と解すべき理由は毫末も存するところなし。また序に作者六十四人つぶさに姓名を題し、ならびに爵里を顕わして篇首に冠すとありながら、実際には六人(実は五人)の伝を記し、他には四人のほかことごとくこれを略したるは、祖先の事蹟を明かにせば足れりとの意味なりというに至りては、臆測もまたはなはだしといわざるべからず。本書は巻首五人のほかに、僧侶三人と石上中納言と四人のみの伝あり。これはもと本書には各人の下にその伝記の具備せしを、伝写者自己の必要と思いしもののみを写して他を略せしものなりやまた知るべからず。あるいはその第六に序せられたる中臣大島の名の下に、「自茲以降諸人未v得2伝記1」とあるによれば、当初より巻首の五人のみに伝ありしごとくにも思わるれども、後にまた前記のごとく四人の伝あるを思うに、この十字は後人の上の五人に伝あるを見て、軽率にもかく付記せしものか、あるいは著者当初よりかく記しながら、後にさらに四人の伝を得て補いしものか、あるいは後の四人の伝は後人の加筆にかかるものか。いずれにしても矛盾あるを免れざるなり。
このほか伴大人が『懐風藻』について論述せられたる雑多の事項は、いずれも推測に止まるのみ。『懐風藻』にし(153)て三船の著なりとするの証左なくば、ことごとくこれ砂上の楼閣のみ。これらよりも、むしろ大人の引ける谷森種松の説に、「懐風藻の序に淡海先帝と天智天皇の事を云へるは、後帝、即ち大友天皇あるを示すの隠語なり」といえる方、かえって有力なるに似たり。されどつらつら思うに、天武天皇以前に別に近江後帝ありきとするも、それが大友天皇にましましきと決定すべき理由あるべからず。かえってこれ倭姫皇后を指し奉れるものなるか、またにわかに知るべからざるなり。されば「淡海先帝」の文字をもって、大友皇子の即位の確証となすには足らざるなり。いずれにしても『懐風藻』は、あるいは大友皇子即位の反証ともなりこそすれ、一もその証拠を提供するものにはあらざるなり。
(二)『大鏡』の記事につきて
『大鏡』にはなるほど大友皇子の天皇となり給いしことを明記せるなり。されば大人が自説に利益ある一部分のみを摘録し、ことにそのあるものを改竄しつつ引用せられしところのみを見れば、すこぶるもって拠となすに足るべきがごときも、さすがに『大日本史』のこれを採用せず、わずかにその一をもって備考となすに止めしほどありて、毫も信用するに足らざるものなり。
まず第一の、「天智天皇十年十二月三日うせ給ひて、云々」の文を見よ。余輩が前に引用せるごとく、その次には高市皇子の太政大臣となり給いしことを記して、「この二人の太政大臣は、やがてみかどとなり給へり」とあるにあらずや。もしこの文を信ぜんには、持統・文武両天皇の問に、高市皇子の御一代をも認めざるを得ざるにあらずや。しかも大人はこれを捨てて自説に利益ある部分をのみ取らんとす。史を論ずる者として公平の所為にあらず。要するに、このあたりの『大鏡』の記事は、支離滅裂、前後矛盾をもって充たさる。もって証となすに足らざるなり。
次に、「太政大臣になり給ひぬる人は、云々」の文を見よ。ここには、明かに「大友皇子やがて御門に立ち給へり」とは記したれども、これを前後の記事と対照するに、彼此混淆、いずれをいずれと識別し難きまでの度に達し、ほと(154)んどまた信憑するに足らざるなり。思うに、『大鏡』の成れる当時には、学者は比較的シナの沿革には通じても、わが国の歴史的知識は一般に欠乏し、ことに壬申前後の事情、藤原氏の祖先などのことに関しては、現今の史家がこれを明かにするがごとき比にあらずして、多数の世人はもとより、学者といわるるほどの人にても、これに関してほとんど正確なる知識を有せざりしものならん。今日よりしてこれを観れば、とうてい信じ難きがごときも、当時史学の開けざるはもちろん、「六国史」のごときも秘庫に蔵して、容易に窺い知り難き世にありてはさもあるべきことなり。されば、最も世に時めける藤原氏の祖先の系図に関しても、当時世間にははなはだしき誤謬を重ねたり。試みにその著しきものを挙げんに、
一、当時世人は最も名高かるべき鎌足と不比等とをしばしば取り違えたり。
これは、『大鏡』に、「鎌足の大臣は天智天皇の御時藤原姓をたまはりて、其の年ぞ失せ給へりける。内大臣の位にて廿三年おはしましける。太政大臣きはめ給はねど、藤原の御いではじめのやんごとなきによりて、うせ給へる後のいみな淡海公と申しけり」とある類にして、はては、当時の政府の公文書にまでも、その墓を取違うに至れるなり。そは『三代実録』天安二年の十陵四墓指定の「勅」の文に、明かに「贈太政大臣正一位藤原朝臣鎌足多武峯墓」とあるを、『延喜式』に「贈太政大臣正一位淡海公藤原朝臣多武峯墓」となし、『政事要略』に至りてはさらに誤謬に誤謬を重ねて、「多武峯墓、贈太政大臣正一位淡海公藤原朝臣」とある下に、「淡海公は内大臣鎌足の長子なり。藤氏の先たるに依て、他墓多しと雖別に注する所なり」とさえ付記するによりて知るべし。さればただに『大鏡』のみならず、当時鎌足を淡海公と誤り、ついに鎌足の墓を不比等の墓と混同するがごときは、上下一般の誤認なりしものというべし。なおこのことにつきては、『三代実録』に多武峯墓を鎌足とせるは後人の加筆にして、実は淡海公すなわち不比等の墓なりとの説をなすものあれども、その取るに足らざることは、『歴史地理』第二十六巻第五号に「藤(155)原鎌足及不比等墓所考」と題してこれを論述し、さらにその駁論に対して、同誌弟二十七巻第二号および第三号に追考を掲げ、その第六号において三たびこれを論じて委曲を悉《つ》くしたれば〔22〕今言わず。
二、『大鏡』には、鎌足の孫すなわち不比等の子なる宇合および麻呂を鎌足の子となし、しかもその麻呂を長兄武智麻呂の名と紛淆してふぢ麻呂と誤り、ために父子、兄弟、叔姪の序を混同せるのみならず、さらに不比等を天智の落胤となすがごときはなはだしき誤謬を重ねたり。試みにこれに基づきて藤氏祖先の系図を作らば、左のごときものとなるべし。
――意美麻呂
――武智麻呂(南家)
――不比等《天智の落胤》――
――房 前(北家)
鎌足――
――宇 合《母同不比等》(式家)(実は不比等の子)
――ふぢ麻呂《母同不比等》(京家)(同右)(実は麻呂)
あに噴飯の至りならずや。
論者あるいはいう。『大鏡』の著者ほどの者、なんぞかかる明白なる事実を知らざらんや。しかもことさらにその最も明かなるところを誤り記したるは、もって本書の記事に関する責任を免れんとするの手段とせるものなりと。なんぞそれ然らん。すでに『大鏡』のみならず、当時一般世間において、はなはだしきは政府においてすら、かかる誤謬をあえてするほどにも、歴史的の知識ははなはだしく欠如したりしなり。けだし当時の人士は容易に古史を見たることなく、大江匡房ほどの博学の人にありてすら、『日本紀』は少々これを見たるも『続日本紀』以下は見たることな(156)しと自白せるほどなりしかば、かかる誤謬が信ぜらるるに至りしも無理ならぬことといわざるべからず。されば『大鏡』にはなはだしき誤謬多く、ついには誤りて大友皇子の即位を説くに至れるも、またあえて怪しむに足らざるなり。
なお、さらに考うるに、『大鏡』が大友皇子の即位をいえるは、実はこれを大海人皇子と混同せるに起因せるの誤謬なりとすべし。しかしてその動機は、鎌足を淡海公と誤り、はてはその子不比等と混同せると揆を一にせるものなりとす。そは『大鏡』の伴大人が引ける第三の条に、
その姫君(鎌足の女)天智天皇の御皇子大友の皇子と申ししが、太政大臣の位にて、次にはやがて同じ年の中にみかどとなり給ひて、天武天皇と申ける御門の御時の女御にて、二所ながらさしつづきおはしけり。
とあるによりて知らるるなり。すなわち大友皇子をもって、天武天皇となり給えりと記せるなり。しかるに伴氏はこれを引用するに当り、その「天武天皇云々」の句を除き、さらに上文に改竄を加えて、自説に都合よく捏造せるなり。今もし伴氏の変造して引ける文のみを見ば、いかにも大人の説のごとく、大友皇子の天子となり拾いしことを認むべきがごときも、さらに大人の捨てて省みざりしその後半を見れば、その御門となり給いしは実は大海人皇子にして、さらに鎌足がその姫君を奉りしというも、大友皇子にはあらずして大海人皇子におわししなり。事実鎌足の二女は、ともに天武天皇の後宮に入りしものにして、大友皇子の妃となりしにはあらざりしなり。従ってここにその即位し給いしという君も、その実大友皇子にはあらずして、大海人皇子の御事を混同せしものなるは明白なりとす。その後の条にこの同じことを記して、
内大臣鎌足の大臣の御女二所、やがて皆天武天皇に奉り給へり。おとこ、女、御子だちおはしけれど、みかど、とうぐうに立たせ給はざめり。
とも明記しあるにおいてをや。今これらの文を合せ見ば、前文にその姫君二所を奉りしという大友皇子は、これただ(157)ちに大海人皇子の御事にて、その「やがて御門となり給へり」とは、同じく天武天皇の御上をいえるものなりと解せざるべからざるにあらずや。
大友皇子と大海人皇子とを混同するは、実に敵味方黒白の相違にして、ほとんど言語に絶したるの誤謬なれども、その混同にはけだしまたよって来るところあるなり。かの鎌足を淡海公といい、はてはこれを不比等と誤りて、多武峯なる鎌足の墓をその子不比等の墓なりと誤認するに至りたるは、鎌足がもと淡海朝の大臣なりしかば、これをただちに淡海公なりと誤解せしがためならざるべからず。しかして大友皇子と大海人皇子との混同また然かなり。大海人《おおあま》皇子の御事を『大鏡』『扶桑略記』等にはいずれも大海《おおみ》皇子となし、特に『大鏡』に「おほみ」の皇子と仮名書きにさえ書けるなり。されば大海《おおみ》、淡海《おうみ》、音相近きより、淡海朝の大臣を淡海公と誤りしと同一の道筋を経て、淡海朝の皇太子なる大友皇子の御事をも、大海人皇子と混同せしものにてもあるべきなり。しかしながら、その誤謬の原因はともかくもあれ、事実において鎌足と不比等とを混じ、鎌足の子と不比等の子とを混じ、大友皇子と大海人皇子とをさえも混じたる『大鏡』記事中のある不確かなる文句の、しかも自説に都合よき一部分のみを取りて他を改作し、もって大友皇子即位の証となさんとするはとうてい従い難きのことに属す。『大日本史』がこれを採らずしてわずかに備考となせるもの、炯眼というべし。
『大鏡』のこの記事すでに信ずべからず、しかしてその誤謬のよって来るところすでにかくのごとくなる以上は、それと同時もしくはやや後の書なる『扶桑略記』に、大友皇子即位のことをいえるものありとも、そは当時かかる謬説もありきということ以上には、なんらの価値なきものなるべく、したがってこれを翻訳抄録せる『水鏡』『立坊次第』等の記事の、もとより採るに足らざるはまた明々白々なりとすべきなり。
なおいわば、『大鏡』にも天智天皇を三十九代の君となし、次に天武天皇を四十代の君となし、その間に別の御一(158)代を置かざるなり。
(三)『年中行事秘抄』の記事について
『年中行事秘抄』の記事はもと『立坊次第』と同じく、『扶桑略記』に出でたるものなるべし。さればこれもとより『扶桑略記』以上の価値あるべからず。この書永仁より嘉暦の間に成れるものにて、『立坊次第』とほぼ時を同じうす。思うにこのころ『扶桑略記』世に行われて、これより種々に抄出せしものならん。ただし本書の「己亥朔庚子」とあるは、『日本紀』の本文の誤写なり。『日本紀』には、「庚子云々。癸卯云々。是日以2大友皇子1拝2太政大臣1」とあるを、『年中行事秘抄』著者が抄出する場合に、その「癸卯云々」の条を見落し、「是日」を「庚子」のことと思い誤りしなり。軽率というべし。
(四)薬師寺塔擦の銘に関する伴大人の誤解
薬師寺塔擦の銘に天武天皇即位の八年を庚辰とあるによりて、『日本紀』に九年を庚辰とせるは改刪なるべしとの伴大人の説ははなはだしき誤解なり。そは『日本紀』紀年の筆法を見ばおのずから明かなることなるべし。天智天皇は称制六年の後に即位し給えり。しかも『日本紀』には称制の初めすなわち斉明天皇崩御の翌年なる壬戌歳をもって、天智天皇の元年となせるにあらずや。これをもって天皇即位の元年といわばすなわち不可ならんも、天皇の治世の元年となすには、『日本紀』の筆法としては毫も妨げなきことなり。天武天皇・持統天皇の条において、治世を数うるまた同一筆法に出ず。ただし当時の史料には天智天皇治世の十年辛未歳のことを即位の四年と記せしもありきと見え、『日本紀』天武天皇の条の初めには、これをそのままに取りて文を成せるところあるなり。かくて『大日本史』はこの紀年に基づきて、『日本紀』の天智天皇条の年立を排し、戊辰即位の年をもって元年となせるなり。これと同じく天武天皇条についても、薬師寺塔擦の銘に庚辰の歳を即位の八年とあるより逆算して、『日本紀』の年立を排し、癸(159)酉の歳をその元年としてその前年なる壬申の歳を大友天皇の御代となせるなり。もしこの筆法をもってせば、持統天皇の御治世をも、その即位の庚寅の歳をもって元年となすべきはずなるに、たまたまこの天皇につきてはこれを明記せる史料の存せざるままに、『大日本史』がその即位前に遡りて『日本紀』の年立のままに、丁亥の歳をその元年となせるは、けだし治世を算するに一定の則ありというべからず。天武天皇の御代につきては、『日本紀』にも明かに、癸酉の年即任すと記せるなり。しかしてその癸酉より数えて庚辰が即位の八年に当ること、毫末の疑いを挟むの余地あるべからず。されば『日本紀』に九年とある庚辰の年をもって、天皇即位の九年とせばすなわち不可ならんも、これを壬申の歳より数えて九年とせるは、天智天皇の御世を称制の初年より数うると同一筆法のみ。なんぞ他意あらんや(ただし、『大日本史』が、天智天皇の御治世を戊辰より数えて四年間とする筆法をもって、天武天皇の御治世を癸酉より算するは可なり。『日本紀』に称制六年間を天智の治世に数えたることを認めながら、壬申の年を天武の治世に算入するを疑うは不通の論なり)。
(五)『古事記』の序の紀年について
『古事記』の序に天武天皇が癸酉年に即位し給えることをいえるは、全く『日本紀』の紀年に同じ。なんらの疑いなきものなり。伴氏がこれをしも疑われたるは、炯眼なる大人には不似合なることといわざるべからず。
(六)『日本紀』改刪に関する伴氏の誤解について
『日本紀』巻二十九は天武天皇二年をもって始まる。しかしてその終りに大歳干支を記せるは事実なり。治世の二年に干支を記すること、いかにも『日本紀』中他にその例なく、伴大人が不審を起さるるもいちおうもっともの次第なり。しかれどもつらつら『日本紀』を検するに、大歳干支を記するもの、必ずしも元年の条のみとは限らず。「神武紀」「綏靖紀」「神功紀」には、各二ケ所ずつ大歳干支を記せり〔23〕。伴大人は「これ皆理由あり、別に弁ぜり」といわれ(160)たり。余輩いまだそのいわゆる別に弁ぜられたるものを見ざれども、思うに『日本紀』の大歳干支は、深き理由ありて記したるにはあらで、ただ、各天皇の治世の年紀を知りやすからしむるが第一の目的なるべし。ゆえに必ずしも一治世ごとに限りて記すことは定まらざるなり。今『日本紀』巻二十九は天武天皇治世の二年をもって始めたり。ゆえにもしその巻の初年において干支を記入するなくんば、この巻を播くもの、さらに他の巻を播いて年次を計算するにあらずば、容易にその年紀を知り難からん。ゆえに特に二年の終りに干支を記して、これを知らしむるに便したるものなるべく、むしろ著者の用意周到を謝すべきものならん。今日のごとく、一冊の書に数巻の記事を込むるものにありては、あるいはこの必要は少なかるべきも、もと一巻ずつ軸をなしたるいわゆる巻子本にありては、実際上この必要はあるべきなり。
しからば、天武天皇元年の条には何故に干支を記入せざりしか。この弁解については、いまだ満足なる答を考え得ず。しかれども試みにいわば、この元年の条すなわち『日本紀』巻二十八は、単に壬申一ケ年問の記事に止まるをもって、別にわざわざ干支を記入するの必要を認めざりしものかとも解せらるるなり。
そばともかくもあれ、伴大人の説のごとく、「二年の条に大歳癸酉とあり、こははじめ天武紀の元年の条なりけるを、大友紀の元年を除きて天武の元年に改刪せらるる時、大歳をも其の年の下に遷改て、壬申と改記さるべきを遺れたるものなる事|決《うつな》し」とは、いずれにしても、従い難きものなり。なんとなれば、元年の号が始めに大友帝の本紀なりしならんには、その終りに(伴氏の説によれば)必ず始めより「大歳壬申」とありしなるべし。しからば二年の条の「大歳癸酉」を削りて、ここへ新たに「壬申」と記入するの要もなきことならずや。大人は、『日本紀』改刪の時不必要なる「大歳癸酉」の文字を削るを忘れて、必要なる「大歳壬申」の文字を削りたりという意にや。いかに不用意なる者の手に改刪せられたりとて、不必要なるものを存し、必要なるものを削るの愚をなすべきや。なお『日本紀』の(161)例によれば、各帝の本紀は必ず天皇崩御、もしくは禅位の時をもって記事を終り、その後のことは、次の天皇即位前の出来事たりとも、必ず次帝の本紀の初めに記するなり。しからば、今かりに巻二十八を大友天皇の巻なりきとせんか、その壬申年七月天皇崩御し給いしものなれば、その以前のことは巻二十九の初めに記せざるべからず。しかるに本書には癸酉の年の初めをもって巻を改む。けだし初めよりかかりしものならん。舎人親王が御父天皇のために曲筆を用いたりとのことはあるいは想像するを得ん。しかれども現行の『日本紀』のこの条をもって、いったん成りたる『日本紀』を不用意に改刪したるものなりとは考え難きなり。されどかりに百歩を譲りて、後に改刪し、一帝紀を抹殺したるものなりと仮定せんも、その抹殺せられたる本紀は、あるいは倭姫王皇后の治世に属したるものなりしや、またいまだ知るべからざるにあらずや。
これを要するに、『長等の山風』の論ずるところ、また一も余輩をして首肯せしむるに足らず、もって大友皇子即位の証拠となすに足らざるのみならず、『大日本史』が捨てて取らざりし史料を提供して、かえってその反証を示すの結果を呈するものなりともいうべきなり。
四 倭姫王皇后即位の論証
余輩は前二節において、大友皇子即位のことをいえる史料のすこぶる薄弱なる次第を叙し、天智天皇の崩後において皇子が即位し給いきとの『大日本史』および『長等の山風』の論証の、いまだ不備なるゆえんを観察したりき。しかるにこれに反して一方には、天智天皇の皇后倭姫王が、天皇崩後の淡海朝廷において天皇と仰がれ給いきとの御事の、これを前後の傍例と、その当時の状態とに徴し、またこれを当時を距る遠からざる時代の史料に求めて、証拠すこぶる確実なるものあるを見る。すなわち左にいささかこれを弁ぜん。
(162) 天智天皇の晩年御病驚きに及び、東宮大海人皇子儲位を辞し給う。『日本紀』にその当時の事情を記して、
天皇疾病弥留、勅して東宮を喚して臥内に引き入れて詔して曰く、朕疾甚し、後事を以て汝に属す云々。是に於て再拝して疾と称して固辞して受けずして曰く、請ふ洪業を奉じて大后(倭姫王皇后)に付属し、大友王をして諸政を宣せしめ奉らん。臣請ひ願はくは天皇の奉為《おんため》に出家修道せんと。天皇許し給ふ。
とあり。けだし天智天皇崩後には皇后即位し給うべしとの条件のもとに、大海人皇子は皇儲を辞し給いしなり。天皇崩後皇后即位し給うの実例は、この前後においてすこぶる多し。しかしてこのことは、すでに宣化天皇崩御のさいにおいて、その萌芽ありしを見るなり。『日本紀』に曰く、
四年冬十月武小広国押盾天皇(宣化)崩ず。皇子天国排開広庭天皇(欽明)群臣に令して曰く、余幼年浅識未だ政事にならはず。山田皇后明かに百揆にならひ給へり。請ふ就いて決せよと。山田皇后怖み謝して曰く、妾恩寵を蒙る山海もなんぞ同じからん。万機の難き婦女いづくんぞ預らんや。今皇子は老を敬し少を慈み云々。請ふ諸臣等、早く登位《たかみくらい》に臨みて天下に光《て》り臨みまつらしめよ。冬十二月庚辰朔甲申天国排開広庭皇子天皇の位に即く。
と。さればこの時には事実上女帝の出現を見るには至らざりしも、その思想はすでに当時に存在せしことを知るに足るべし。けだし上代にありては、幼帝立ちて権臣政を摂するがごときのことはいまだこれなく、天皇は必ず親しく政治を※[手偏+總の旁]攬し給うに堪うる御方ならざるべからざりしかば、儲位の皇子御年なお若くましますさいには、先帝の皇后まず帝位に即き給いて太子の御成長を待ち給い、太子はこれを佐けて政治の実際にならい給うを可とせしによるものならん。その先后の即位を可とするゆえんのものは、もしその間に他の男帝立ち給わんには、その男帝の皇子と先帝の太子との間に皇位継承上の紛紜を来すの虞れあらんも、その中間の継続として先帝の皇后立ち給わんには、決してこの患なかるべきをもってならん。かくて崇峻天皇の非業に崩じ給いし後、当然立って天皇たるべき厩戸皇子のなお御(163)年若くましましたるがために、推古女帝(敏達天皇の皇后)は立ち給いしなり。けだしこの思想の実現せられたるものと見るべし。次いで舒明天皇の後に皇極女帝(舒明天皇の皇后)の立ち給いしもの、また一にこの前例により給えるなり。蘇我大臣父子、中大兄皇子のために誅せられて、皇極天皇位を遁れ給うや、皇子御年なお若く(十九歳)おわせしがうえに、みずからただちに立ち給うの不可なる事情やおわしけん、すなわち孝徳天皇を擁立し奉りて、皇子は皇太子となり給う。かくて天皇の崩じ給いし後にも、皇太子はなお立ち給うに不利なる事情のおわしてにや、皇祖母尊(皇極)重祚し給いて斉明天皇と申す。斉明天皇崩じて皇太子なお立ち給わず、東宮にありて制を称し給うこと六年、ついで位に即き給う。天智天皇これなり。皇弟大海人皇子を儲位に定め給う。けだししかるべき事情おわしてのことならん。『日本紀』にはこれを東宮皇大弟などとあり。かくてこの東宮なる大海人皇子は、前記のごとく皇位を倭姫王皇后に伝え給うべき条件のもとに儲位を辞し給いしなり。しからばその後特別の事情の起らざる限りは、この条件は必ず実現せられ、ここに女帝の御一代を見るべき順序なりしなり。ついで天武天皇の崩後草壁皇太子なお御年若くおわししかば、御母にてます持統女帝(天武天皇の皇后)立ち給う。また前例を追えるなり。文武天皇崩じて皇后ましまさず。しかも皇子また幼なり。すなわち衛生母(草壁皇太子の妃)元明女帝立ち給う。事情において先后の立ち給う例を追えるものと見るべし。ついで元正女帝の立ち給いしも、また依然皇太子の御成長を待ち給えるの意と解せらる。元正天皇は文武天皇の皇妹にして、皇后にてはましまさず。しかもその天位に即き給いしは、当時女帝の朝に立ち給うこと普通にして、上下これに慣れ、あえて怪しまざりし結果ならん。しかるにその後聖武天皇の御代に至りては、皇后は藤原氏の出にていませば、とうてい天位を継承し給うべきにあらず。ここにおいてか皇后即位の先例を廃せられて、皇女孝謙天皇立ち給う。女帝皇位継承の例はかくのごとくにしてもなお継承せるなり。しかして光明皇太后は、御在世中事実において院政を行い給うの姿にてましましき。
(164) かくのごとく、女帝はほとんど一代置きごとに立ち給いて、前後約百八十年の久しきに及び、その中間において倭姫王皇后即位の条件は契約せられたりしなり。しかも天智天皇の崩後、壬申乱の起る以前、約六ケ月の間には淡海朝廷においてなんらの事変ありしを見ず。しからば皇位は予定のごとくこの倭姫王皇后に伝わり、大友皇子は皇太子として、なお聖徳太子がなし給いしがごとく、親しく諸政を宣し給いしものと解するを至当とせん。いわんや倭姫王皇后を天皇と称し奉り、この間の御代を太后天皇の御代と号するの史料の、最も確実なるもの少からず存するあるをや。
『懐風藻』釈智蔵の伝に曰く、
智蔵師は俗姓禾田氏、淡海帝(天智天皇)の世唐国に遣学す。時に呉越の間に高学の尼あり。法師尼に就いて業を受け、六七年中にして学業頴秀す。同伴の憎等頗る忌害の心あり。法師之を察し、躯を全うするの方を計り、遂に髪を被り陽《いつわ》り狂して道路に奔蕩す。(中略)太后天皇の世、師本朝に向ふ。同伴陸に登りて経書を曝涼す。法師襟を開いて風に対して曰く、我亦経典の奥義を曝涼すと。衆皆嗤笑し、以て妖言となす。試業に臨みて座に昇り敷演するに、辞義峻遠、音詞雅麗にして、論蜂起すると雖も応対流るるが如く、皆屈服して驚駭せざるなし。帝之を嘉し、僧正に拝す。時に年七十三。
と。ここに淡海天皇とは言うまでもなく天智天皇の御事なり。智蔵天智天皇朝に唐に留学し、在留六、七年、学大いに進む。その後の滞留何ケ年なりしかもとより今にしてこれを知るべからざるも、思うに久しからざりしなるべく、しかして、天武天皇二年において彼が僧正に任ぜられたりしことは、『僧綱補任』これを記し、一切の僧伝、仏事史これを認むるによりて観れば、彼の帰朝は必ずや天武天皇二年以前ならざるべからず。天智天皇朝入唐し、在唐六、七年、学大いに進み、天武天皇二年以前なる太后天皇の世に帰朝したりとせば、そのいわゆる太后天皇とは何帝を擬し奉るべきか。従来これを解するもの、あるいはもって持統天皇となす。もし果してしからば、彼は学成りて後なお(165)十余年間佯狂して唐に在留し、しかもその佯狂在留中、遥かに僧正に任ぜられたりといわざるべからず。当時如何ぞ僧正遥任のことあらんや。いわんや『懐風藻』には帰朝の後試業の好成績によりて、僧正に任ぜらるることを明記せるをや。『懐風藻』は奈良朝の書なり。その当時と距ること遠からず、『大鏡』『水鏡』等のごとく、はなはだしき誤謬あるべくもあらず。いわんや特に太后天皇というごとき、普通ならざる治世の名を用うるあるをや。本書のこの条の記事信ぜざるべからざるなり。言うまでもなく太后天皇とほ、皇太后にして天子となり給える御方の称なり。『日本紀』天智天皇条に天皇の詔を録して、中に斉明天皇の御事を皇太后天皇と申し奉れり。『霊異記』にもまた持統天皇の御事を大后天皇とも、大皇后天皇とも申し奉れるあり。もって証とすべし。さて天智天皇以後天武天皇以前において、太后天皇と申すべき御方を求むれば、実にこの倭姫王皇后以外にとうていこれあるべからず。いわんや天平十九年奈良大安寺三綱言上の同寺『伽藍縁起并流記資財帳』に、明かにこの皇后を仲天皇としも申し奉れるものあるをや。『資財帳』に曰く、
天皇(斉明)筑志朝倉宮に行車《みゆき》しまさに崩じたまはんとする時、甚《いた》く痛み憂ひ勅りたまはく、此の寺を誰にか授けて参来《まいり》つと、先帝の待ち問ひたまはば、いかが答へ申さんと憂ひたまひき。時に近江宮御宇天皇奏したまはく、開い髻に墨※[夾+立刀]を刻み、肩に※[金+立]《ておの》を負ひ、腰に斧を※[夾+立刀]みて為し奉らんと奏しき。仲天皇奏したまはく、妾も我※[女+夫]《わがせ》と、炊女《かしきめ》として造り奉らんと奏しき。時に手を拍ち慶びたまひて、崩じたまひき……。
と。ここに 「開」とは天命開別天皇《あめみことひらかすわけのすめらみこと》、すなわち天智天皇にましますこと、近江宮御宇天皇とあるによりても明かにして、けだし「開別」の御名を略して、みずから呼び給いしものなり。しかして、これに対してこの天皇を「我※[女+夫]」と呼び奉り、みずから「妾」と称し、「炊女」となりても大安寺を造り奉らんと、斉明天皇に対し奉りて受け合い奉りし「仲天皇」は、そも何人にかおわすべき。言うまでもなくその皇后にます倭姫王ならざるべからず。『群書類従』(166)にはこの『資財帳』を収めて、「仲天皇」を「件天皇」となす。けだし斉明天皇に擬するなり。しかれども「件天皇」にては文意通ぜず、「妾」といい 「我※[女+夫]」といい、「奏」ということ、一も解すべからざるのみならず、また同書の原文にも明かに「仲」とあれば、これは問題となすの価値なし。『大日本古文書』またこの文書を収めて、仲天皇に注する持統天皇の御名をもってす。しかれども、斉明天皇崩御のさいには、持統天皇は御年十七歳にて、御父帝に伴われて新羅親征の軍旅中にましましきとは思われず。また御父なる天智天皇に対し奉りて、「我※[女+夫]」と仰せ給うべくもあらねば、これまた問題とはならざるなり。「※[女+夫]」とは普通の場合妻としてその配偶者を呼ぶの称なり。『日本紀』に仁賢天皇朝におけるある女人の、「母《おも》にも兄《せ》吾にも兄《せ》即、弱草《わかくさ》の吾《わが》夫《つま》はや」と号泣せし語を注して、「古老不v言2兄弟長幼1、女以v男称v兄《せ》、男以v女称v妹《いも》」とあり。しかれども、こは『日本紀』編纂当時より見て、「古老」のことなり。『大安寺資財帳』の筆者は必ずこれをもって、天智天皇すなわち中大兄皇太子の御配偶の御事として執筆せしものならん。また事実上、天皇の皇姉妹中に、これに擬し奉るべき御方あるを見ず。されば、ここに仲天皇とは、古人大兄皇子の女にして、天智天皇即位し給うに及びて立って皇后となり給える、倭姫王その人ならざるべからざるは明かならずや。果してしからば、何がゆえに倭姫王を仲天皇と申し奉りしか。その意義については便宜説明を後節に譲るべきも、要するに倭姫王皇后が、天皇として仰がれ給いし御方なりしことは明かなりとす。ことに右の『大安寺資財帳』が、一の私の記録にあらずして、官の大寺が政府の命によりて録上し、三綱連署をもって公に提出せし文書なるによりて、いっそうの価値あるを認めざるべからざるなり。
仲天皇はナカツスメラミコトと読むべし。『万葉集』に「中皇命」とあるまたこれなり。同書に「中皇命往2于紀温泉1之時御歌」三首を録す。時代は斉明天皇の御代とあり。従来これを解する者、「中皇命」をもって「中皇女命」の「女」字を誤脱せるものなりとし、あるいは「中皇女」の誤写なりとす。しかして時代と状況とを案じて、舒明天(167)皇の皇女にして、孝徳天皇の皇后に立ち給える間人《はしひと》皇女の御事なりとし、爾来また多くこれを疑わんともせざるなり。しかれども、こは中皇命の語を解する能わざりし結果にして、山上憶良の『類聚歌林』には、この詠をもって「天皇御製の歌」としも伝うるあれば、いわゆる中皇命がその文字のごとくナカツスメラミコトにして、すなわち天皇にてましますは明かなりとす。なんぞこれを誤脱、誤写なりなどと想像して、間人皇女にますと曲解するを要せんや。
今この御製歌の時代を案ずるに、『日本紀』に斉明天皇四年十月紀温湯に行幸のことあり。翌月有間皇子謀飯のことありて、皇子を捕えて紀温湯に送り、中大兄皇太子は、ここに親しくこれを鞫問《きくもん》し給う。しからば皇太子は天皇の行幸に陪従し給いしなり。妃倭姫王がまたこれに従いて紀伊温泉に往き給い、磐代の岡にことよせて、夫《おつと》の皇太子たる君が齢《よ》と、その配偶たるわが齢《よ》とを祝うの詠ある、まことにその理由あり。しからば憶良の歌集が、後の尊称よりしてこれを天皇御製となすも、また正伝を得たるものなりというべきなり。しかるにこれを旧説のごとく中皇女命、もしくは中皇女の誤写なりとし、孝徳天皇の皇后間人皇女の和歌なりと解せんか、すでに先帝の皇后とます御身分の方を皇女と申さんことも妥当ならず。いわんや先帝の皇后が、当時天皇に従いて紀伊温泉にありしとのことを想像すべきなんらの理由なく、また天皇と御自分との齢をかけて、磐代の岡の草根を結ばんと希うことも似つかわしからざるをや。ことにその第二詠のごとき、「我が※[女+夫]子《せこ》」とはいずれの御方を指し給いしか、とうていこれに擬すべき御方なきを如何せん。いわゆる中皇命の御歌に曰く、
君がよも、吾がよも知らむ磐代の 岡の草根をいざ結びてな
吾がせこは借廬《かりほ》作らす草《かや》なくば 小松が下の草《かや》を苅らさね(第三首略)
これ余が中皇命をもって、誤脱、誤写にあらず、『大安寺縁起』にいわゆる仲天皇にして、実に当時中大兄皇太子の妃にてましし、倭姫王の御事なりとなすゆえんなり。
(168) すでに『懐風藻』にその御代を太后天皇の世と称し、『大安寺資財帳』にこれを仲天皇と書し、『万葉集』にこれを中皇命といい、『類聚歌林』にその詠を天皇御製ともあるにおいて、この君がその遠からぬ後の世において、天皇と仰がれ給いし御方なりしことは、証拠十分なりといわざるべからざるにあらずや。これらの書は、『大鏡』『扶桑略記』以下の後世の編著とは選を異にして、いずれも当代を距る遠からざる時代の、正確最も信ずべき史料なり。その価値もとより同一視すべからず。いわんやこれを前後の事情と当時の条件とに徴して、倭姫王皇后の即位ほとんど疑いを容れざるにおいてをや。
しかれども今しばらく一歩を譲りて、『日本紀』これを記せざるのゆえをもって、倭姫王皇后はいまだ即位の式を挙げ給うに及ばず、単に先帝の皇后として制を称したまい、間もなく壬申乱起りて、ついにその地位を去り給いしものなりきと仮定せんか、壬申乱後の朝廷においてその間の治世を認めず、これを御歴代に列し奉らざりし理由はもって解すべきも、事実上の天皇として、たとい数ケ月間なりとも明かに御治世を有し給いしことは、『日本紀』が御即位前の天智天皇の称制六年間、および持統天皇の称制三年間をも、ともに天皇の御治世と認めたりし例によりて、またこれを認め奉らざるべからざるなり。いわんや天武天皇の御裔が引続き朝に立ち給える奈良朝時代の諸書、特に『大安寺資財帳』のごとき公に提出せし文書において、これを天皇と記し奉りて憚らざりしものあるにおいてをや。倭姫王皇后が後淡海宮御宇天皇とならせ給いしこと、とうてい否定すべからざるなり。
しからば何がゆえにこの君を仲天皇もしくは中皇命と申し奉りしか。請う、これに関する意見を左に披瀝して、大方の教示を請わん。
(169) 五 中天皇の語義について
仲天皇または中皇命は、一の普通名詞にして、ともにナカツスメラミコトと読むべし。こは右に引ける『大安寺資財帳』および『万葉集』の記事以外、なお『続日本紀』所載、称徳天皇の「宣命」、正倉院御所蔵の象牙札の銘、および『万葉集』中の他の一ケ所にも、また等しくこの語の存せるによりて察せらるるなり。
称徳天皇の「宣命」の文に曰く、
天皇《すめら》の御命《おおみこと》らまと詔《の》りたまはく、掛まくも畏き新城《にいき》の大宮に天の下|治《し》ろし給ひし中都天皇の、臣等《おみたち》を召して後の御命《おおみこと》に勅《の》りたまひしく、汝等《いましたち》を召しつる事は、朝庭《みかど》に侍《つか》へ奉《まつ》らん状《さま》教へたまはむとぞ召しつる。おたひに侍りて、諸《もろもろ》聞食《きこしめ》させ、貞《ただ》しく明かに浄き心を以ちて、朕が子天皇に侍《つか》へ奉《まつ》り、護り助けまつれ。継ぎては是の太子を助け侍《つか》へ奉れ。朕が教へ給ふ御命《みこと》に順《したが》はずして、王等《おおきみたち》は己が得まじき帝《みかど》の尊き宝位《みくらい》を望み求め、人をいざなひ、悪く穢《きたな》き心を以ちて逆《さかしま》にある謀を起て、臣等《おみたち》は己がひきびき、是に託《つ》き彼に依りつつ、頑《かたくな》に礼《いや》なき心を念《おも》ひて、横しまの謀を構へ、かくあらむ人等《ひとども》をば、朕必ず天翔《あまかけ》り給ひて見そなはし、退け給ひ、捨て給ひ、きらひ給はんものぞ。天地《あめつち》の福《さち》も蒙らじ、是《か》くの状《さま》知りて明かに浄き心を以ちて、侍《つか》へ奉らん人をば、
慈み給ひ、愍み給ひて、治ろし給はむ物ぞ。復《また》天《あめ》の福《さち》も蒙り、永き世に門《かど》絶えず侍《つか》へ奉り、昌《さか》えむ。ここ知りて謹《かしこ》まり、浄き心を以ちて侍へ奉れと、命《の》りたまはむとなも召しつると勅り給ひ、おほせ給ふ御命を、衆諸《もろもろ》聞こしめさへと宣る。
ここに中都天皇とは、また明かにナカツスメラミコトと読むべく、前記仲天皇または中皇命とあるに同じ。しかして本居宣長翁はこの中都天皇を解してその『歴朝詔詞解』に、
平城《なら》は元明天皇より宮敷きまして、元正天皇は第二世に坐ますが故に、中つとは申し給へるなり。中昔に人の女(170)子あまたある中にも、第二に当るを中の君と云へると同じ。
と言われたり。ただに女子のみに限らず、舒明天皇の第二皇子とます葛城皇子(天智天皇)を中大兄皇子と申すも同一の例にして、第二番目に生れたる子女は、第三番目の子女生れたらん場合に対して、「中の坊っちゃん」「中の嬢さん」などと呼びならわし、さらに第四・第五の子女生れて後に至りても、なおこの称をつぐことは今も俗間に往々見る習いなれば、本居翁の解説いちおうその理なきにあらずといえども、今この全文を通読する場合には、ここに「中都天皇」とある君を元正天皇にてますとは解し得ざるなり。けだし翁はまず中天皇をもって第二の天皇の義なりとするの解説を得られたるがために、深く他を顧みるに暇なかりし結果ならんか。
右の「宣命」にいわゆる「中都天皇」の「詔」は、明かに「後の御命」とありて、その天皇崩御のさいの遺詔ならざるべからず。しかしてその文中に「朕が子天皇に侍《つか》へ奉り、護り助けまつれ。継ぎては是の太子を助け侍へ奉れ」とあるを思うに、崩御のさいに当りてその御子とます天皇と、太子とを有し給いし君ならざるぺからず。しかしてかくのごときの君は称徳天皇以前において、元明天皇のほかあるべからざるなり。天皇は養老五年十二月に崩じ給いしが、その当時は御所生の皇女なる元正天皇の御世にして、御孫にます聖武天皇は、実に皇太子にてましまししなり。しからばこの「中都天皇」をもって、元明天皇にますと解し奉らんこと、毫末の異議あるべからざるなり。本居翁は「朕が子天皇」は聖武天皇にして、太子とは孝謙天皇にますと解せられ、「聖武天皇は実は御甥命に坐ませども、太子とし給へれば、朕が子とは詔給へるなり」と論じ、その傍例をも挙げられたり。しかして当時すでに孝謙天皇が、皇太子にてましましし事実を指摘せられたり。されば単にこの事情のみをもってせんには、これを元正天皇に擬定し奉らんこと、また必ずしも不可ならざるに似たれども、とうていこれを元明天皇となすのいっそう適切なるにしかざるなり。これを『続日本紀』について見るも、元明天皇は御病驚きに際して、しばしば後事を遺詔し給いしも、元正天(171)皇には一もかかることありしを言わざるなり。いわんやこれを「新城の大宮に天下治ろし給ひし中都天皇」と申し奉れるあるにおいてをや。「新城の大宮」従来正しく解し得たるものを見ず。余また久しくこれが定説を得ず。かつて天武天皇が新城《にいき》に遷都し給わんとして果し給わざりしことあり。今郡山町の南に新木《にいき》と称する地あれば、新城あるいはこの所なるべく、しかして平城《なら》の地またこれに近ければ、あるいはこれをも新城と呼びしにあらざりしかとも考えたることもありしが、今にして思うになお足らざりき。平城宮《ならのみや》果して新城宮《にいきのみや》ならんには、これを詔し給える称徳天皇、またまさに「新城宮御宇天皇」にてますべく、この同じ語をもって、過去の某帝をあらわし給わんは適切ならず。一説に「新城」は「平城」の誤写ならんといえど、同じ平城宮御宇天皇なる称徳天皇の御口より、過去の某帝をかく申し奉らんことの不可なるまた同じ。元明天皇より光仁天皇まで七代ことごとく平城宮御宇天皇にてましますなり。ゆえに天平十九年の『法隆寺資財帳』『大安寺資財帳』等には、同一「平城宮御宇天皇」の御名の下に、当時の年号を記してその治世を分つぺく記述せり。よりて思うに、ここに同じ平城宮御宇天皇にてます称徳天皇の御口より、同じく平城宮御宇天皇にてます過去のある天皇を指し奉りて、特に「新城の宮に天下治ろし給ふ天皇」と宣り給えるは、新たに営まれたる平城宮の御代を指し給えるものなりと解するを妥当とせん。余輩はこの意味よりしても、またこの「中都天皇」が平城宮御宇第一代の元明天皇にますべきを信ぜんとするなり。もしこれを強いて元正天皇なりと擬し奉らんか、新城宮の義とうてい解すべからざるなり。次に正倉院御所蔵御物の象牙札には、金粉にて表に、
平城御宇中太上天皇恒持心経
裏に、
天平勝宝五年歳次癸巳三月廿九日
と書きたるものあり。勝宝は孝謙天皇の御代の年号なり。しかしてここに中太上天皇とあるは、前記称徳天皇すなわ(172)ちこの孝謙天皇の後の御代の「宣命」に、中都天皇と申し給えると同一の君ならざるべからず。あるいはこの「中」を先中後の「中」の義に取り、当代以前の奈良朝における三柱の太上天皇の中の太上天皇、すなわち元正天皇にますと解すべきに似たれど、かく相対するは三柱の君の現に並びませる時の称ならばこそあれ、当時すでに元明・元正両帝ともに崩御の後なるがうえに、事実上三上皇の並び給いし時もなければ、この考は当らざるべし。あるいはこれを当代の聖武太上天皇の御事にやとの説もあれど、これを特に中太上天皇と申すべき理あるべからず。されば、これまた「宣命」に示し給える元明太上天皇の御事なりと解すべきものなりとす。
しからば何がゆえに元明天皇を中都天皇と号し奉りしか。
今一つ『万葉集』には、舒明天皇の御代として、「天皇遊2猟内野1之時、中皇命使2間人連老1献歌」と題する歌あり。この中皇命また従来解して間人皇女にして、中皇命は中皇女命または中皇女の誤りなりとなす。しかれどもこれまた間人皇女にてますとなすべき理由あるべからず。また誤写と見るべき必要もあることなし。ここに中皇命とは天皇に陪従し給いし宝皇后の御事なるべし。皇后後に即位して皇極天皇と申す。ここをもってこれを中皇命《なかつすめらみこと》と称し奉れること、前記倭姫王の場合に同じ。舒明天皇内野御遊猟のこと『日本紀』これを記せず。今かりにこれを御代の最後の年とするも、この時天智天皇ほ御年十六にてましまししかば、その御実妹とます間人皇女は、さらにそれよりも御年少なるべく、その御年少の皇女が父天皇の御遊猟に陪して、侍臣に命じて歌を献ぜしめ給いしとは想像すべからず。むしろ傍例に徴して宝皇后すなわち皇極天皇の御事なりと解するを至当とすべきなり。
しからば何がゆえに皇極天皇を中皇命と号し奉りしか。
今以上、中都天皇・中太上天皇・仲天皇・中皇命とある四箇の史料を通覧するに、その天皇と指し奉れるところはいずれも女帝にてましますなり。よって思うに本来女帝の立ち給うや、皇嗣とます皇子の長じて政に熟し給うを待つ(173)の意味にての御事なるべければ、先帝と後帝との中を取り持ち給う天皇との義を解し奉るべきに似たれども、かくては元明・元正両天皇ともに中天皇にてましますべく、称徳天皇の「宣命」に中都天皇と指し給える御方が、果していずれの天皇にましますかを明かにし難きの憾みなきにあらず。しかるに河内野中寺なる金銅仏の台座に刻せる造像銘には、斉明天皇を指して中宮天皇と称し奉れる実例あり。銘に曰く、
丙寅年四月大□八日癸卯、開記、橘《?》寺智識□等、□中宮天皇大御身労坐之時誓願之、奉弥勒御像也。交《?》□人数一百十八、是依六道四生人等、此教□相|之《?》也。
文字読み難く文意通じ難きものなきにあらねども、丙寅の年四月の大の月にして、その八日の癸卯の日に当れるは、天智天皇の五年以外にあるべからず。しかして天皇の五年釈尊降誕の吉日をもって、中宮天皇の御ために仏像を造る。ここに中宮天皇とは必ず今上の御生母とます斉明天皇を指し奉れるものならざるべからず。
斉明天皇はもと舒明天皇の皇后にして、後に天位に即き給いし君なれば、実に中宮天皇にましますなり。されば天皇崩じてこれを越智の陵に葬り奉るや、天智天皇群臣にいってのたまわく、
我れ皇太后天皇の勅する所を奉じて、万民を憂へ恤むの故に、石槨の役を起さず。冀ふ所は、永代に以て鏡誡とせよ。
と。ここに「皇太后天皇」とは明かに斉明天皇にてましますなり。旧説あるいは皇太后と天皇とを別視す。しからば皇太后とは孝徳天皇の皇后間人皇女にてますか。しかも皇后はすでに天智天皇の四年に崩じ給い、六年斉明天皇を葬り奉るに当り、その越智陵に合葬せられ給えるなり。なんぞここに天皇の勅とともに皇太后の令旨を言わん。かりに皇太后また薄葬の御遺志あり。その令旨をも天皇の遺勅と並べ説くの便宜上、「勅」の一字に籠めたりとせんも、今天皇の遺勅により、葬を薄くし給うことを述べ給うに当り、ここにこれを援引するの要あらざるべきならずや。され(174)どなお仮りに百歩を譲りてこれを援引すと言わんも、かくては天皇、皇太后と序すべく、皇太后を天皇の上位に置くべからざるにあらずや。いわんや他方において、太后天皇の御称号のその例少からざるをや。かの『懐風藻』に倭姫皇后を太后天皇と申し奉れることはすでに言えり。ただしこは天皇なるの御資格において問題あるがゆえに、しばらく例とすべからずとせんも、『霊異記』に二ケ所までも、持統天皇を大后天皇もしくは大皇后天皇と呼び奉れるはいかに。該書上巻「忠臣少v欲足2諸天見1v感、得2現報1示2奇事1縁第廿五」に、
故中納言従三位大神高市万侶卿者、大后天皇時忠臣也。
とあり。こは明かにもと天武天皇の皇后にておわしし、持統天皇を指し奉れるなり。また同巻「持戒比丘修2浄行1、而得2奇験力1縁第廿六」に、
大皇后天皇之代有2百済禅師1、名曰2多常1。
とある大皇后天皇も、また同じく持統天皇にてましますべきなり。こは本書の例、ほぼ年代をもって序するによりても察せらるるなり。しからば天智天皇の群臣に語り給いし皇太后天皇が、斉明天皇にてましますは明かなりといわざるべからず。しかしてその皇太后天皇はこれただちに中宮天皇にてますべきなり。天智天皇五年において開眼せる仏像に、中宮天皇御不予の節に誓願してその像を作ると銘せるもの、斉明天皇を措き奉りてなんぞ他にこれを求むべけんや。
およそ仏像の成るは、必ずしもその誓願の時なるを要せざるなり。推古天皇十三年四月に、天皇・皇太子・大臣、および諸王、諸臣共同誓願して作れる銅繍丈六仏像は、満一ケ年を費して翌年四月に成れり。奈良薬師寺金堂に今も存する丈六薬師三尊は、おそらく持統天皇がなお天武天皇の皇后にてましし時、天皇の即位八年庚辰の歳建子の月、すなわち『日本紀』紀年の九年十一月の誓願にして、その始めて成れるは持統天皇の十一年六月なれば、その間実に(175)十七年七ケ月を費したり。さればこの野中寺の仏像も、斉明天皇七年五月、朝倉社の神の祟りありて、七月に天皇崩じ給いしものなれば、このさい橘寺の知識らが誓願して、人数一百十八人を催し、天智天皇五年四月八日の聖日を期とし、この銘を刻して開眼供養せしものと解すべきものならんなり。
「大宝令」に皇后宮を中宮と称す。大皇太后、皇太后宮またおのずから中宮なりとあり。けだしその中宮職において三后宮の御事務を合せて扱い奉りしなり。されば皇后をも、皇太后をも、大皇太后をも、単独にまた中宮と申し上げたるや論なし。平安朝において、皇后中宮並立の場合にも、正しくはその中宮たる御方をも皇后と申し上げ、冊立の「宣命」には皇后と記し給うを例とするなり。奈良朝において、聖武天皇その御生母藤原宮子娘を尊みて皇太夫人とし、ために中宮職を置き給う。しかして別に藤原光明子を皇后となし給う。ここにおいて別に皇后宮職あり。中宮と皇后宮と相並立す。桓武天皇の時、御生母高野皇太夫人を中宮とし、別に皇后宮職を置き給えるまた同じ。しかれどもこは令制の変態にして、古くは皇太后をも、大皇太后をも、ともに中宮職にて御扱い申し上げ、これを通じて中宮と称し奉りしことは明かなり。中宮とはもと正殿および東宮に対する宮殿の位置上の名なり。中宮がもとその宮殿の名称なりしことは、『続日本紀』に、天平勝宝六年七月、大皇太后中宮に崩ずとあるによりて知らる。ここに大皇太后とは、さきの宮子皇太夫人の御事にして、孝謙天皇御即位後、その尊号を奉りしものなり。
中宮の名称がいつのころより始まりしかは明かならず。『周礼』鄭玄の注に、「今称2皇后1為2中宮1矣」とあり。『漢書』顔師古の注に、「中宮、皇后之宮」とあり。漢土においてはその用い来れるや久しというべし。本朝においてもすでに『日本紀』天智天皇の条に、東宮の名称の多く見ゆれば、近江朝廷の「令」において、必ず東宮・中宮の規定ありしことと察せらる。「大宝令」の制定は『続日本紀』に、「ほぼ浄御原《きよみはら》朝庭を以て准正となす」とあり。しかもその浄御原朝廷の令なるものは、すなわち近江朝廷の「令」を完成せるものなれば、「大宝令」の東宮・中宮(176)の名は、畢竟天智天皇朝の規定をそのままに蹈襲せしものにてもあるべきなり。しかしてその中宮職において、皇太后の御事務をも管したるものなれば、天智天皇の「詔」に皇太后天皇と称し給える斉明天皇の御事を、同じ御代に中宮天皇と申してまさにしかるべきところなるべし。
ある人の説に、ここに中宮とは天智天皇すなわち中大兄皇子の宮を指し奉れるものにして、これただちに天智天皇の御事なるべしと。
またある人の説に、ここに中宮とほ聖徳太子を上宮太子と申す類にして、当時天皇はなお皇太子のままに制を称し給いたれば、いまだ正殿には入り給わず、中の宮にましましたるより申したるならんと。
しかれども天智天皇の五年は、天皇なおいまだ天位に即き給わず、依然皇太子として政を摂し給いし御時なれば、そのさいこれを天皇と申し奉るべくもあらず。またかりに事実上より天皇と申したりとも、これを呼び奉るに三后の称なる中宮の名をもってすべきにあらざるなり。
すでに皇太后天皇にてます斉明天皇を中宮天皇としも申し奉れる実例現存する以上、『懐風藻』に太后天皇と呼ばれ給いし倭姫王皇后が、また中宮天皇にてますべきは言うまでもなかるべし。しかしてその斉明天皇(皇極)ならびに倭姫王皇后をともに『万葉集』に中皇命と申し、『大安寺資財帳』に倭姫王皇后を仲天皇と称し奉れることによれば、中天皇《なかつすめらみこと》はけだし中宮天皇《なかつすめらみこと》の義ならざるべからず。しかれどもかくては称徳天皇の「宣命」に、皇后にてましまさざりし元明天皇を中都天皇と申せる理由如何との疑問あらん。しかもこの天皇また実に中宮天皇にてましまししなり。
元明天皇はもと阿陪皇女と申し、文武・元正両帝の御生母にして、草壁皇太子の妃にてましましき。かくて皇太子いまだ即位に及ばずして薨じ給い、妃なる皇女は皇后となるに至り給わざりしも、その御子の立ちて文武天皇とならせ給うに及び、特に御父を遇し奉るに至尊の礼をもってし給い、『日本紀』これを「草壁皇子尊」と記す。本書の例(176)「尊」は至貴の義なり。さらに『続日本紀』には、これを「日並知皇子尊」といい、その妃とます阿陪皇女を皇太妃とも申したり。かくて天平宝字二年に至り、さらに皇子尊を追尊して岡宮御宇天皇と申す。ここに至りて皇太妃とます阿陪皇女は、当然皇太后たるべく、すなわち中宮にてましますなり。否、後に皇太夫人藤原宮子媛ならびに高野夫人がともに中宮にてましし例をもって推すに、皇太妃と仰がれ給いし文武天皇の御代において、すでに中宮の称を得給いしものなるべきなり。しかしてその中宮たる皇太妃立ちて元明天皇となり給う。これを中宮天皇と申し奉らんに、毫も不可あるを見ざるなり。しかしてこれを中都天皇と申し奉れるは、上件両天皇の場合に同じく、ともに中つ宮の天皇の略称たるべきなり。中天皇の義もって解すべし。
六 結 論
天智天皇の崩後、壬申乱平定前において、淡海朝廷現存して、政令ここに出でたりしことは毫末の疑いを容れず。しかしてその元首とますべき御方は、予定の順序にして変更するなくば、当然天智天皇の皇后倭姫王にておわししなり。天皇崩じて皇嗣御年若き場合において、あるいは皇嗣のただちに立ち給うことの不可なる事情おわしし場合において、先帝の皇后立ちて位に即き給うの実例は、この前後において常にこれを見る。倭姫王皇后の立ち給うべき予約の成立せる、またこの意味にほかならず。しかして史はこのさいにおいて、この予約を変更すべきほどの事情ありしことを伝えず。内実はとにかく、表面において淡海朝廷は平和なる数月を送り給いしなり。しからば単に推論よりこれを観るも、倭姫王は必ず淡海宮御宇天皇として、朝に臨み給いしならんと解するを至当とす。いわんや史料として最も信ずべき天平勝宝三年の『懐風藻』には、天智天皇と天武天皇との御代の間に、別に太后天皇の御世の存在せりしことをいい、官の大寺たる大安寺より天平十九年に勅を奉じて録上せる『資財帳』には、この君を仲天皇としも申(178)し奉り、『万葉集』またこの御歌と解すべき御詠に、中皇命と署名し奉り(山上憶良の『類聚歌林』には天皇御製歌として収む)、しかもその仲天皇または中皇命の御称号は、称徳天皇の「宣命」に中都天皇、正倉院御所蔵御物象牙札に中太上天皇とあると同じく、もと皇后にてましし女帝の御称号として、当時普通に行われたりし語にして、太后天皇すなわち中宮天皇の御義に解せらるるにおいて、この倭姫王皇后が、予定のごとく天智天皇につぎて、後淡海宮に天が下知ろしめしし天皇にましまししことは、もやは毫末の疑いを挟むべきにあらざるなり。平安朝中ごろ以後、上下ともに国史の知識きわめて欠乏せし時代の書には、時に大友皇子即位のことをいえるものなきにあらざれども、その記事いずれも曖昧にして、矛盾に充たされ、毫も信ずべきにあらず。その誤解が天武天皇の即位と混同せる結果なることは、『大鏡』に「おほともの皇子と申ししが、太政大臣の位にて、次にはやがて同じ年のうちに帝になり給ひて、天武天皇と申ける」とあるによりて明かなり。しかしてその誤解の原因は、天武天皇にます大海人《おおあま》皇子を「大海皇子」と書きしより、これをおおみと読み(『大鏡』には明かに「おほみ皇子」と仮名書きせり)誤り、淡海朝廷の皇子にます大友皇子と混同せしにあること疑うべからず。さればこの時代もしくはこの以後の不確実なる書に、間々大友皇子の即位をいうものも、そは当時かかる誤れる説の存在せしことを知るのほか、一ももって重きをなすに足らざるなり。いわんや『懐風藻』に、皇子が皇太子となり給いしことをいいて、しかも壬申乱にあい天命遂げ給わざりしことをいえるあるをや。「天命遂げず」とは天寿を保ち給わざりきとの謂にあらずして、天命を受けて天子となり給わざりし謂なることは、同書の序に天智天皇の立ち給いしことをいいて、「命を受くる」とあるの用例によりても察すべし。果してしからば後淡海宮御宇天皇は、疑いもなく倭姫王にましまして、大友皇太子は皇子として政を摂し給いしこと、なお推古天皇朝における聖徳太子のごとくにてましましきと解し奉るべきなり。
しかるに世あるいは大友皇子をもって、事実天皇にましまししごとく解し、ために壬申乱を論じて、「天武の簒奪」(179)といい「乱臣賊子以て心を寒うし胆を破るべし」となす。余輩あえて壬申乱の邪正曲直を論ぜんとするにあらず。事実を直写してその真相を明かにし、もって史家たるの任務をつくさんとするにあるのみ。しかも親しく天下に君臨し給い、その御銃は爾後約百年間天位を継承し給いし至尊に対し奉りて、簒奪の語を用い、乱臣賊子に比し奉るを傍観するに忍びざるなり。『日本紀』に従えば、壬申乱は、近江朝廷の皇太子なる大海人皇子が、時勢の可ならざるを見て儲位を辞し給いしにもかかわらず、後淡海宮朝廷の臣僚ら、なお危害をこれに加え奉らんとするに対して、皇子の憤起し給えるものにして、勢の赴くところ、ついに現皇太子にして執政にてましましし大友皇子の、みずから縊れ給うに至りしものなりという。天智天皇には四皇子ましき。しかもこれを措きて何がゆえに皇弟を東宮に定め給いしか。けだし大海人皇子は斉明天皇の御子として、天智天皇の同母弟にましまし、衛年も長じ給えるがうえに、天智天皇の四皇子は、建皇子が蘇我右大臣石川麿の御腹に生れ給いしほかは、いずれも御母の御身分卑しくおわし、しかもその建皇子は唖と生れ給い、御歳八歳にて斉明天皇四年に薨じ給いし後なりしかば、天智天皇が御母天皇より承け給える天下を自己に私せざるの大御心に出でしこととして、当時に取りてまさにしかるべき御処置なりしなるべし。大友皇子の御母宅子媛は、伊賀より貢せし采女にておわしき。采女のごとき身分低き御方の御腹に生れ給いし皇子にして、大銃を継ぎ給えるもの前後にその例あるを見ず。また川島皇子の御母は忍海小龍の女|色夫舌娘《しこぷこいらつめ》と申し、施基皇子の御母は越道君伊羅都売《こしのみちのきみいらつめ》と申す。忍海氏は神功皇后の御代に葛城襲津彦の伴い来りし新羅の俘虜の後か、しからざれば応神天皇朝に阿智使主の帰化に随い来りし漢人の後なるべく、いずれにしても当時において身分高きものにあらず。また越道君は北陸の土豪なり。されば川島・施基両皇子の大海人皇子儲位を辞し給いし後にも皇儲の選に漏れ給いしこと、そのゆえなしというべからず。しかるに大臣藤原鎌足の薨後における近江朝廷の臣僚は、大海人皇子を忌みて、心を大友皇子に寄する者多かりしがゆえに、大海人皇子は形勢の可ならざるを見てついに儲位を辞し給うに至りしも(180)ののごとく、したがって、人心多く大海人皇子に傾き、壬申乱に脆くも近江軍の敗北を見るに至りしものなるべし。ただに天下の人心多く大海人皇子に傾きしのみならず、皇室の御内部においても、御心をこの皇子に寄せ給いしもの多くおわししがごとし。天智天皇の皇女にます※[盧+鳥]野讃良皇女は天武天皇の皇后として、後に位に即きて持統天皇と仰がれ給い、その御株とます阿陪皇女は、草壁皇太子(御父は天武天皇、御母は持統天皇)の妃として、後に位につきて元明天皇と仰がれ給い、天智、天武両天皇の御流はここに相合して久しく天が下知ろし給いしのみならず、他の二皇子たる川島皇子・施基皇子、またこれらの御代においてそれぞれ重く用いられ給い、大田・新田部・大江の三皇女は、ともに天武天皇の妃となり給い、御名部・飛鳥・泉・水主の四皇女、またそれぞれ後の代に重く待遇せられ給いしなり。されば天智天皇の四皇子十皇女中、ただ大友皇子と、大津皇子の妃となり給いし山辺皇女とが、不幸にして終りを完うし給わざりし以外は、いずれも大海人皇子の側に親しくおわししものと解せらるるなり。かくてその後に起れる浄見原朝廷の政治は、多く前朝の施政を祖述完成し、その統を承け給える代々の天皇、また事ごとに淡海朝廷を宗とし給い、両者の間相扞格することなく、最も和熟したる御関係にておわししことを示し給えるなり。しかのみならず壬申の事あるにつきても、大海人皇子が、「若し大臣(藤原鎌足)をして生存せしめば、我れ豈に此の困に至らんや」(『大織冠伝』)と嘆息し給いし御事情にこれを鑑み、後に鎌足の子不比等が、浄見原の御系統の御代において自由にその手腕を振いたりし事実に基づきてこれを察するも、壬申乱は大化の元勲藤原鎌足の薨後における、後淡海朝廷の臣僚らが、大海人東宮を忌みてこれを排斥し奉らんがために、大友皇子を擁し奉りしに起因せしものなりと解すべく、しかしてその乱の結果として、天下は事ごとに鎌足在世当時の淡海の朝廷の政治に復せしものにして、したがってその間における倭姫王の御在位をも認めざるに至りしものなりというべきか。果してしからんには、これら臣僚の野心の犠牲となり給いてその終りを完うし給わざりし大友皇子はもとより、いったん天位を践み給いて後の代にも天皇の(181)尊貴を認められながら、永く御歴代にも数えられ給わざる倭姫王は、ともに御痛わしき限りにして、恐懼の至りに堪えざれども、壬申乱が淡海軍の敗北に終りて天命の大海人皇子に帰するに至りしもの、またおのずからその間しかるべき事情のおわししものなりと解すべからんなり。さればこの事変の結果として、後淡海宮御宇天皇とます倭姫王が天位を遁れ給いしことのごときも、これを天武天皇の御側より観察せんか、中大兄皇子が血を大極殿上に灑ぎて、玉座の御前に執政の臣蘇我入鹿を誅戮し、さらに大臣蘇我蝦夷を自邸に燔死せしむるがごとき断乎たる御処置を執り給いし後、その事変の結果として皇極天皇天位を遜れ給い、天命おのずから中大兄皇子に帰するに至りし事情と、相対比すべきものならんもまた知るべからず。このさい中大兄皇子がただちに立ち給わざりしと、大海人皇子のただちに天位を践み給いしと、すこぶるその趣を異にするがごときありといえども、中大兄皇子は前すでに言えるごとく、当時御年わずかに十九歳の御少年にましまして、かかる弱年の天皇はこの前後に例なきのみならず、いまだ政治の実際にもならい給わざりしに反して、大海人皇子は御年も長じ給い、かつすでに数年間東宮にましまして政治にも慣れ給いしかば、その間またおのずから事情を異にするものなきにあらず。ことに前述のごとく、女帝の皇位を継承し給うや、本来は皇嗣の成長を待ち給うの意義によるものならんには、この時倭姫王の位を遁れ給いしは、さきに皇極天皇の位を遁れ給いしに比して、むしろ時機に適すとも言わば言い得べきに似たり。さればもとより専横なる蘇我大臣父子と、後淡海朝の執政の諸臣、特にその首班とます大友皇太子とを同日に論ずべきにはあらざるも、形式において前後相似たるものなしとはいうべからず。大友皇子が天皇にてましますと、皇太子にして臣僚のために擁せられ給いしと、壬申乱の顛末について論者の見るところおのずからその差なき能わざるなり。
聞くならく、普通教育上の教科書には、壬申乱に関する記事を忌諱して説くところなしと。余輩はこれを信ずるを欲せず。けだし事や大なりといえどももと皇室の御内事に過ぎず、ために天下の大勢に影響するところ少かりしかば、(182)簡単なる国史のこれを説くにいとまあらずとなすがためならん。しかれども万一右のごとく解するものあらんには、これ教育上の一大恨事なりといわざるべからず。余輩は後淡海朝廷の臣僚らの野心の犠牲となり給いし大友皇太子に対し奉りて、深く同情し奉るとともに、史上の誤解よりして纂奪の名を負い給える天武天皇に対し奉りて、また深く同情し奉るものなり。しかしてこの誤解よりして、国民の前に強いて史実を隠蔽せんとする教育家に対して、遺憾なき能わざるなり。
事至尊に関す、論じて謹厳ならざるべからず。もし言辞不穏、敬を皇室に失するあらんには、これ一に余輩不文の罪なり。読者文をもって意を害するなくんは幸いはなはだし。 (一一・六・四)
(付 言)
本編(上)を前号に発表して後、宮内省図書寮の本多辰二郎君から、『西宮記』の文について注意を賜わった。それは前号四一頁に、日下部勝美の『疑斎』を引いて、「大鏡裏書引2西宮記1云、天智天皇十年任2太政大臣1、十二月即2帝位1」の文は伴信友のごとき博識の人すら見たことがないほどだから、もって証とはなし難く、しばらくこれを闕くといっておいたのについて、現にその文のある『西宮記』が前田家に存し、宮内省にもその写しがあるはずだとのことを知らせてくださったのだ。その後東大史料編纂官の和田英松君からも同様の注意を賜わった。和田君のはすでに大正九年一月の『史学雑誌』に掲げられた「西宮記考」の中に述べておかれたことなのだ。自分がそれを今日まで気付かずにいたのはお恥しい。また和田君は、天智天皇が山科山中で行衞不明になったという『扶桑略記』所載の一説は、すでに『政事要略』に出ていることで、これも同君が大正四年十一月の『史学雑誌』に掲げられた「政事要略考」中に述べておかれたことを注意された。自分の懶惰なる、これも今日まで気付かずにいたのだ。
(183) 右の『西宮記』の記事によって、大友皇子即位説がすでに西宮左大臣のころ、すなわち延喜を距る遠からぬころより存在していたことを知ることが出来た。これは自分の説にとって有益なる傍証を与えるものである。だいたい大友皇子即位説は、この皇子が淡海《おうみ》朝廷の皇子にますことから、大海《おおみ》(実は大海人)皇子の即位と混同したにあるので、それは淡海朝廷の大臣たる鎌足と、その子の淡海公とを取り違えたと同一の経路を取ったものであるとのことは、すでに述べておいた通りである。しかしてその鎌足と不比等との混同がすでに『延喜式』にあるのであるから、それと同じ時代において、この間違いの説の存在したということは、双方相啓発して自分の仮定説を確かめるものであらねばならぬ。次に『政事要略』の記事は、これも天智天皇御行衛不明説の出所を、少くも一条天皇のころまで遡り得るもので、壬中の事に関する種々の異説の、由来するところすこぶる久しいものたることを証するものとして、本編にはぜひ注意しておくべきところであった。
要するに右の両者ともに、自分の説を確かめるべき有益なる史料として、ここに付記して本編の不備を補い、これが注意を賜わった両君に厚く感謝の意を表する。 (一一・九・一追記)
〔入力者注、初出『史林』第七巻第三、四号、大正一一年七,一〇月〕
(184)女帝の皇位継承に関する先例を論じて、『大日本史』の「大友天皇本紀」に及ぶ
一
この一編は、昨年二月中の起稿なり。当時上半のみ、すでに成りて、これを『史学雑誌』に掲載を求め、もって識者の叱正を乞わんと欲せしが、障ることありて、引続きその後半を起稿して、これを完成するの見込なくなりしかば、ついにそのまま筐底に蔵して今日に至りしなり。今度、本誌の編者より、「※[口+幼]々斎雑話」の続稿を促されしにあたり、また差支えありて起稿、期日に後れたれば、やむを得ず筐底にこの旧稿を探りて投稿の責めを塞ぐこととせり。
さて、本論の主意は、すでに一昨三十五年十一月の本会例会において、これが談話を成せしことあり。その記事は、載せて『歴史地理』第四巻第十二号にありしが、すこぶる記事に誤謬の点ありしかば、さらに、第五巻第一号において、これを訂正し〔24〕、なおその考説を「史学雑誌へでも載せて貰って、公にしたきつもり」と付記しおきたり。(185)本稿のなる、けだしこれを果さんとてなりき。
『大日本史』の「大友天皇本紀」を始めとし、水戸の史官安穏澹泊の『帝大友紀議』、伴信友の『長等の山風』等に、大友天皇即位のことを論ずるもの、いずれも、なおいまだ尽さざるものあるに似たり。しかしてこれを論ずるに、多くは、『水鏡』『扶桑略記』『大鏡』等の記事をもって証と成すに似たれば、まず、これらの書の記事の、価値を研究するの要あり。すなわち、当時の『史学雑誌』第十四巻第二号に、「水鏡と扶桑略記、水鏡の価値を論ず」と題して、その研究の一半を発表しおきたり。今、当時の志をついで本稿を公にするにあたり、さらに、読者諸君が、右の『水鏡』『扶桑略記』に関する卑説を、併せ見られんことを望む。『大鏡』の記事に関しては、次号において説くところあらん。
「皇室典範」第一条に曰く、大日本国皇位は、祖宗の皇統にして、男系の男子これを継承すと。これわが国体上より規定あらせられたるところにして、実に永世不磨の大典たり。しかるに、これを史上について見るに、時に女帝の皇位を継承せらるるあり。古くは神功皇后、飯豊青尊の、親しく朝に臨み給えるありて、『日本紀』には、神功皇后の本紀を立て、『扶桑略記』の伝うるところによれば、和銅五年奏上の『日本紀』というものには、飯豊天皇を載せたりという。今これらに従えば、神功皇后も、飯豊青尊も、ともに女帝の先例として、見るべきに似たり。しかれども、『古事記』は神功皇后を歴代の中にかぞえず、『大日本史』またこれに従いて、「后妃伝」の中につらね、また、普通の史籍には、皆、飯豊天皇を歴代の中に加えざるがゆえに、今はまず、普通の解釈に従って、推古天皇をもって女帝の始めとなすべし。推古天皇ひとたび、婦人の御身をもって、皇位に即かせ給いてより以後、この例を追うもの陸続として相つぎ、前後約百八十年問に、ほとんど一代措きをもって、推古、皇極・斉明、持統、元明、元正、孝謙・称(186)徳の六天皇は、八代の皇位に即かせ給えり。その後、久しく、女帝の例を絶ちしが、八百六十年を経て、また明正天皇、次に後桜町天皇あり。
『皇位継承篇〔25〕』には、女帝の皇位継承を説明して曰く、「皇位の継承は、男子之を承く、是れ恒典なり。女子のこれを承くるは、時に事故ありて、已むことを得ざるに出で、而して必ず、俟つことあるなり。其の俟つことありと云ふは何ぞ、其の立つべき皇子ありと雖、年尚幼ければ、其長ずるを俟つと、皇子年長ずと雖、事故ありて其時の至るを俟つとなり、云々。」実にしかり。しかれども、推古天皇より称徳天皇に至るまで、僅々百七十七年間に、八代の女帝立ち給いしがごとく、かく、俟つあるの事故の、頻繁に至れるについては、一考を要せざるべからざるものあるなり。
今、右の八代六天皇の御系統を見るに、左のごとき関係あり、すなわち、推古、皇極・斉明、持統、元明の四天皇は、いずれも先帝の皇后、もしくは母后にてましますなり。
女帝皇位継承系図 (二つの御名の下を連ぬる横線は御配偶の関係を示す)
欽明 敏達 坂彦人大兄皇子 舒明
天智
用明 茅渟王 皇極斉明 天武
草壁皇子 文武−聖武−孝謙称徳
推古 孝徳 持統 元正
崇峻 元明 〔入力者注、敏達‐推古、舒明‐皇極斉明、天武‐持統、草壁‐元明の各組が夫婦〕
右の系図について、その継承の次第を考うるに、欽明天皇の後に、敏達、用明、崇峻の三天皇、御兄弟の御間柄を(187)もって、順次皇位を伝え給えるは、履中、反正、允恭の、三天皇が、順次、皇位を伝え給いし以後、その例多きことにして、先帝の皇子御幼少なりければ、皇弟代りて立ち給いしなり。しかるに崇峻天皇非命に崩じ給いて敏達の皇后なる推古天皇の立ち給いしは、その間の事情、ほぼ推測すべきものなり。当時、敏達、用明、崇峻の三天皇の皇子、あまたましまししかば、その中について皇嗣を求むべかりしならんも、群臣は、蘇我馬子の姉妹なる堅塩媛の所生の推古天皇を奉戴せしなり。しかして、馬子とともに物部氏を滅ぼすに尽力し、馬子とともに仏法興隆に熱心なる厩戸皇子は皇太子となりて、万機をことごとく委ねられ給えるなり。かくのごとくにして女帝の皇位継承の例は開かれたり、しかしてその結果は如何。皇太子は実地に政事を執りて、多年の経験を重ぬることを得るのみならず、みずから天位にあるにあらざるがゆえに、その行うところについても、おのずから責任軽く、万一失政あるも、これがために累を天位に及ぼすの虞なく、したがって、英断をもって改革を行うことを得るの利益ある実例を示したり。後年、天智天皇の御代に大友皇子が太政大臣となり、持統天皇の御代に高市皇子が太政大臣となり、その後天武天皇の皇子が、相次いで知太政官事となりしものは、いずれも、聖徳太子の例にならい、実地に政事を経験せしむるの意味に出でしものならん。また、蘇我氏滅亡の後、天智天皇は立ち給わずして、孝徳、斉明両天皇の蔭に、皇太子として大化の大改革を遂げられたりしものは、また聖徳太子の例にならわれたるものならん。
すでに推古天皇立ちて、女帝の先例を開かれたるうえは、舒明天皇の崩後において、祖廟に八※[人偏+(八/月)]《はちいつ》の舞を演じ、父子の墓を大陵、小陵と呼び、父子の家を宮門と称し、その子女を王子と唱え、自家の役に聖徳太子の部民を駆使し、ついには太子の子孫を族滅するがごとき暴虐をもあえてする、蘇我の大臣父子が、先例にならいて、先帝の皇后を擁立したるは、あえて怪しむに足らざるなり。されば蘇我氏の滅亡後、その擁立にかかる皇極天皇の、皇位を去り給うに至りしは、引き続き御在位し給うことの、不可なる事情ありしによるならん。天皇の位を去り給いし後は、必ず、改(188)革の主動者たる中大兄皇子の立ち給うべき順序なりしが、しかも、皇子は、鎌足の意見に従いて、皇位を孝徳天皇に奉り、みずから皇太子として改革に従事し給えり。
大化の改革は孝徳天皇の御代に成りしも、しかもこれを成ししは、もとより皇太子なり。孝徳天皇は、『書紀』にも、その御性質を、人となり柔仁と記したるほどにて、きわめて温和なる御方なりしかば、万事皇太子のなすがままに委任し給い、皇太子が、これに対する行は、やや不遜に亘るがごときこともありしがごとし。白雉四年に、皇太子奏請して、難波より倭の京に透らんとし給いしに、天皇許し給わざりしかば、皇太子は、皇祖母尊(すなわち皇極天皇)および皇后間人皇女(すなわち天智の皇妹)、その他諸皇弟を率いて、倭の飛鳥河辺の行宮に遷り給い、公卿大夫百官ことごとくこれに従えり。皇太子の権力の盛んなりし状を見るべし。ここにおいて、天皇は痛く憤怨し給い、皇位を去らんとさえし給いしが、翌年病んでついに崩じ給えり。
天皇の崩後は皇太子立ち給うべきはずなり。しかるに当時の事情を考うるに、天皇には有間皇子あり、年なお幼なれども皇太子に対して心平ならざるものありしならん、その他にも、皇太子のなせる改革に対して不平を抱けるものも多かりしならん、ことにその改革も、いまだ十分固定せざるさいなりければ、皇太子は、このさいみずから皇位に即かるるの、なお早きを察し給いしにや、再び皇祖母尊を推して、皇位に即け奉れり、ここにおいて女帝の例は三たび繰り返され、重祚の例さえ開かれたり。しかしてこの後の皇太子の地位は聖徳太子の推古天皇におけると、全く等しかりしなり。
有間皇子のようやく長ずるや、皇太子が腹心の士なる蘇我赤兄ほ、皇子に向いて、当世の失政をかぞえ、ともに反を謀り、しかもみずからこれを捕えて皇太子に送れり。かくて有間皇子ほ、皇太子の問に対して、「天と赤兄と知るのみ、われは全く知らず」と、弁解せしにもかかわらず、ついに絞殺せられて、孝徳天皇の統はここに亡びたり。こ(189)こにおいてもはや、他に皇位を企望するものもなくなりたれば、斉明天皇の崩後には、もちろん皇太子ただちに立ち給うべきはずなり。しかも、皇太子は、ただちに立ち給わず、素服して制を称すること、前後六年の久しきに及び、七年にして始めて、即位し給えり、人これを解して曰く、皇太子至孝にして、三年の喪に服し、さらにまた三年の喪に服し給いしなりと。実にしかりしならん。しかれども、当時、皇太子の果断なる行為に対して、不平を抱けるもの多かりしは、理のまさにしかるべきところなり、その即位を躊躇し給いしもの、あるいはここに顧みるところありしや、いまだ知るべからざるなり。さればその即位の後に、辺要の地に城塞を築きて、外敵に備うるのほか、河内に高安城を築かれしがごときは、後年、近江軍が、これによりて、吉野軍に対せし跡より考うるも、あるいは、これをもって、みずから衛るの意に出でしや、これ、また、いまだ知るべからざるなり。都を近江の大津に遷し給い、しかして、その北方には、三尾城のこれを護るあり、あるいは、大いに兵を菟道に閲し、あるいは、大いに蒲生野に縦猟《しようりよう》し、あるいは、山科の野に縦猟し、あるいは、宮門内に射を試み、あるいは、百済の遺民を蒲生郡に移し、その、兵法に閑えるものらに官位を授け、あるいは、さらに蒲生郡に宮地を求め給いしがごときは、これ、また、あるいは、自衛の意志に出でしものにあらざるか。その崩御の前のごとき、深く、後事を懸念し給いて、皇太弟に後事を嘱し給い、左右大臣以下、腹心の五臣をして、大友皇子とともに、一度は仏前に忠誠を盟わしめ、一度は天皇の前に、大友皇子を奉じて宣誓せしむる等、全く秀吉が薨去のさいにおけるがごとき有様あり、心中の憂苦実に察し奉るに余りあるなり。しかしてこのさいにおける皇太弟の皇位辞退の条件は如何。『日本紀』は記して曰く、皇太弟再拝して、病と称して固辞して曰く、「請ふ、洪業を奉じて大后に付属し、大友王をして諸政を宣せしめ奉らん」と。天皇これを許し、この条件をもって、皇太弟は出家得道したまい、かくのごとくにして大臣以下の五臣は大友皇子とともに仏前に、天皇の命に背かざるべきを盟い、次いで五臣は、天皇の前に、再び皇子を奉じて宣誓せるなり。
(190) もしこの条件にして実行せられたらんには、皇后は帝位に即き給い、大友皇子は皇太子として、政を執ること、なお、聖徳太子が、推古女帝の時におけるがごとく、天智天皇が、斉明女帝の時におけるがごとくなりて、ここに皇后即位の例を四たび繰り返ししならん。しかるに間もなく壬申の変ありて、近江朝廷敗れたれば、その間の事情明かならず。しかれども、天皇の崩後、皇后即位して、皇太子政を執るの一事は、推古天皇以後、動かざる慣例となりて、代ごとに繰り返され、もしくは繰り返されんとするを見るなり。 壬申の変後天武天皇立ち給い、天武天皇の崩後は、年長の皇子おわすにもかかわらず、先例により、皇后朝にのぞんで制を称し、皇太子草壁皇子薨ずるに及んでいよいよ即位し給えり。これを持統天皇となす。しかして次の皇太子高市皇子は太政大臣として、政治の経験を重ね給えり。されば、持統天皇の次には、高市皇子は立ち給うべかりしに、皇子は天皇に先だって薨去したれば、草壁皇太子の子、文武天皇は立ち給えり。これ順序なり。次に、文武天皇の崩後には、もし皇后ましましたらんには、また先例によりて必ず立ち給うべかりしも、文武天皇には皇后おわさず、藤原不比等の女たる、宮子夫人あるのみなりしかば、ただちに、先例のそのままを追う能わず。よりてその生母、すなわち草壁皇太子の妃阿閇皇女は、なお旧慣に従いて、即位し給えり。これを元明天皇となす。天武の皇子穂積親王は、知太政官事たり、皇太子(聖武)の長ぜらるるを俟てるなり。しかるに、元明天皇病あり、位を禅らんとするに当り、皇太子なお幼なり。よって、文武の皇妹氷高内親王立ち給う、これを元正天皇となす。皇太子ようやく長じて政を聴き給う。これ順序なり。すでに皇太子ありて、その成長し給うを俟つの間さらに他の男子の天皇を立つべきにあらず。ことに女帝の習慣根底すこぶる深く、世またあえて、これを怪しまざるの時代なれば、ここに、皇妹即位という一新例は開かれたるなり。かくて、皇太子ようやく政に馴れて、すなわち禅を受け給う、これを聖武天皇となす。聖武天皇の皇后は藤原氏の出なり、もって皇位を伝うべからず、ここに至りて。百五十年来の皇后皇位継承の習慣はここに(191)破れたり。
皇后皇位継承の習慣はここに被れたりといえども、女帝の習慣は根底すこぶる深く、いまだにわかに破れ難し。されば聖武天皇は、その皇子の薨後、他に皇子ましまさぬにより、女帝の習慣を追い、元正天皇が処女として即位し給いし例にならい、さらに処女たる孝謙天皇を皇太子とし次いで位を禅り給えり。皇女を立てて皇太子となすがごときは、きわめて異様の感あるも、女帝は普通のこととして、毫も怪しまざりし当時にありては、先例に、ただ、一歩をすすめしのみ、深く怪しむにも足らざりしなり。孝謙天皇立って、天武の皇孫道祖王皇太子たりしが、後に廃せられて、権臣藤原仲麻呂の関係者なる、大炊王これに代り、次いで位をつぎ給う、これを淳仁天皇とす。しかるに、仲麻呂敗死して、天皇また位を失い、孝謙天皇重祚し給う、これを称徳天皇となす。斉明天皇の先例を追われたるたり。
称徳天皇の崩後、道鏡失敗して、政治の局面ここに一変し、壬申乱後約一百年間、全く排斥せられたりし天智の皇統は、再びここに天位に即くに至れり(持統、元明の二帝は天智の皇女なれども、配偶の関係上全く天武の統なり)。この変革に関しては、藤原氏その功最も多かりき。藤原氏は、さきに、天平九年に不比等の四子相踵いで痘瘡のために死し、広嗣は叛をもって死し、豊成は敗せられ、仲麻呂また敗死して、一時政治上に権を失いたりしが、ここに至りて、再び勢いを得、これより平安朝に至りては、聖武の皇后の例を追いて、后妃多くこの氏より出ずることとなれり。ここに至りては、皇后の皇位を継承するの先例を追うべくもあらず。ことに、幼主を立てて、外戚権を弄するに至りては、また女帝の先例を繰り返すの要なく、ついに奈良朝末の政変とともに称徳天皇以後八百六十年間、女帝の継承は、全くその跡を絶つに至れり。
徳川氏政権を得るに至りて、秀忠の女は、入って後水尾天皇の中宮となり、その所生の興子内親王は、絶えて久しき女帝の例を繰り返して、位に即き給えり、これを明正天皇となす。その後また後桜町天皇あり、実にわが国におけ(192)る最後の女帝にまします。
以上述べたるところを概括するに、最後の二天皇は徳川氏全盛の時代にして、前代とその関係を異にするをもって、しばらくこれを措き、推古天皇より、称徳天皇に至るまで、八代六天皇についてこれを考うるに、男帝の次には、ほとんど毎代必ず女帝の立つべき習慣ありて、女帝は普通のこととして、少しも怪しまざりしを見る。「継嗣令」に、皇兄弟皇子を親王となすべきことを定め、特に、「女帝の子もまた同じ」と付記したるがごときは、後世よりこれを見るにすこぶる異様の感あるも、当時にありては普通のことにて、また、女帝に関するこの規定の必要ありしならん。
右の見解にして誤らずば、余輩はさらに惑い思うことあり、なんぞや。聖徳太子の時に、推古天皇立ち、舒明天皇の次に皇極天皇立ち、天智天皇がなお皇太子たりし時に、斉明天皇立ち、天武天皇の次に、持統天皇立ち、文武天皇の次に、元明天皇立ち給うなど、前後少しもその習慣を乱さざるに、独り、その中間にありて、天智天皇の次に(その皇太弟辞退のさいの条件として、天皇崩後は皇后即位し、大友皇子皇太子となり、先例によりて万機を摂すべきよしの、約ありしにもかかわらず)、前後の習慣に背き、ことに皇太弟辞退のさいの約にも背き、皇后を措きて、大友皇子ただちに即位し給えりということの、やや自然に違えるがごとき観あることこれなり。けだし当時やむを得ざる事情ありてしかりしならん。しかも、『日本紀』これを記せず、従来の史また多くこれを認めざるに当りて、特に、旧説を排して、新説を立てんには、すべからく、確然動かすべからざる証左を提供すること、これ学者の義務なるべし。水戸の義公『大日本史』を撰して、「大友天皇本紀」を立て、後の学者、その卓見を称す。余輩、あえて大友皇子の即位を疑わんとする者にあらず。また、あえて好んで異議を試みんとする者にもあらず。ただ『大日本史』の、記してもって証とするところ、やや不十分なるの恨みあるを思う。けだし、行文簡潔にして、その要を尽さざるものあるか。
(193) 二
余輩が前節において論述せしところは、「蘇我氏執政のころより奈良朝へかけて頻繁に起り、しかも、その前後においては(八百六十年を経たる徳川幕府のさいにおける明正、後桜町二天皇のほかには)、ほとんどその例を見ざる女帝の皇位継承は、いかなる事情のもとにおいて行われしか」の問題にあり。しかして、余輩のこれに関する所見は、「専横なる蘇我馬子、推古天皇を擁立して(推古天皇はもと敏達天皇の皇后)、皇后即位の先例を開きてより以来、歴朝これに傚いしが、文武天皇には藤原夫人(不比等の女宮子媛)のほか、皇后なかりしによりて、やや、先例を変じて、その次には、母后の即位を見るに至り、聖武天皇、光明子を立てて、人臣より皇后を出だすに及びては、もはや、皇后即位の先例は、全く、行うべからざることとなりしかども、なお女帝即位の先例をつぎて、位を皇女に譲り(もっともこの時には皇子なかりしによりてなり)、平安朝に至りて、ようやくその例を絶つことになれり」というにありき。余輩の所論、ここにつく。以下論及するところは、ただ、その余論として、『大日本史』の「天皇大友紀」の挙証に関し、いささか、識者の高教を乞わんとするにあるのみ。
皇后即位の例が、その前後において、常に、正しく繰り返されながら、ひとり、その中間において、『日本紀』には、天智天皇崩御の後には、皇后即位し、大友皇子は執政たるべき条件のもとに、皇太弟大海人皇子儲位より去りたる由を明記せるにもかかわらず、ついにその事の行われざりしは何故ぞや。史の伝うるところによれば、間もなく、壬申乱起りて、皇統天武に移りしがためなり。果してしからば、もし壬申乱にして起ることなかりしならんには、天智の次には必ず、皇后即位の例を繰り返し、次いで皇位は、大友皇太子に及びしものならんと仮想すること、これ、普通の見解なるべし。古来の史、皆、天武天皇をもって、ただちに、天智天皇の次に列す、その間に、天皇大友の一(194)帝紀を設けたるは、実に、『大日本史』をもって始めとなすなり。当時、水戸の史官の、これに関して、意気きわめて盛んなりしことは、安積澹泊の『帝大友紀議』に、「今、懐風藻、水鏡の二書によるに、書して、立て皇太子となるといひ、天皇の位に即くといふ。その正大明白、凛として犯すべからず。天武の簒奪、ここに於てか、つひにあらはる。乱臣賊子、以て心を寒うし、胆を破るべし」とあるにても、想像し得べし。『大日本史』の論賛に曰く、「是を是とし、非を非とするは天下の公論なり。壬申の事に至りては、則ち挙世、能く其是非を弁ずるなし。云々。世、徒らに、成敗を以て、之を論ず。故に是非混淆し、順逆倒置す。亦、旧史の、大友を以て統に係けずして、天武を以て緒に接ぐが故に、この紛紜を致すのみ。然れども、天武の舎人親王に於ける、君父なり。直筆之を書する能はざるは固より亦宜なり、天智登遐より以て天武志を得るに至る迄、凡そ書する所の機務政令、帝にあらずして、誰にか出でん。其、近江朝廷と書する者、豈、蓋はんと欲して、之を章にするの謂にあらずや、観者就て之を繹ねなば、則、其是非曲直、自ら掩ふ能はず、云々」。また曰く、「逆取順守は、蓋し、陸賈権時の語、聖人の大経にあらず。遂に姦雄をして、口を湯武にかりて、もって、其私をなさしむ。後世、見て、以て、常となし、恬として怪むを知らず。嗚呼之を取る固より逆なるべからず、況や、骨肉の間に於てをや」と。その筆鋒の鋭利なる、ほとんど近よるべからず。この意気をもってして、始めて、天智、天武両帝紀の間に、新たに、一帝紀を立てしなり。
今、『大日本史』の引用書を見るに、大海人皇子儲位を辞するに及びて、大友皇子が、立って皇太子となり給いしことは、『水鏡』により、天智の崩後二日にして、皇太子の即位し給いしの記事は、『水鏡』および『立坊次第』によれり。しかして、『大鏡』の、「太政大臣となり、其年に帝となる」との記事を付記して、考証に備えたり。『大日本史』の挙証これのみ。単にこれのみ。しかして、古来の慣例に反して、新たに、一帝紀を立つ。卓見はすなわち卓見なるべけれども、また、すこぶる、大胆なるの感なき能わざるなり。
(195) 余輩は、あえて大友皇子の、立って皇太子となり、次いで、即位し給いし事実を否定せず。しかれども、従来の一切の史の体に反して、新たに一帝紀を設け、天武天皇に簒奪の文字を与え、これをもって、乱臣賊子の戒たるを公言せんには(『大日本史』の文中にこの文字はなきも)、挙証やや薄弱に過ぐるものなきか。
『大日本史』以前の書にして、大友皇子の立ちて皇太子となり、次いで即位し給いしことを記するもの、左のごとし。
一、『懐風藻』
年廿三立て皇太子となる。云々。壬申の年の乱に会ひ、天命遂げず。時に年廿五。
二、『扶桑略記』
天智天皇十年辛未正月五日、大友皇子を以て太政大臣となす。年廿五歳。十月、大友太政大臣を立てて皇太子となす。十二月三日天皇崩ず。同月五日、大友皇太子即ち帝位と為る。
三、『水鏡』
十年と申しし正月五日、御門の御子に大伴の皇子と申ししを、太政大臣に成し奉り給ひき。二十五にぞ成り給ひし。云々。さて、其年の十月にぞ、大伴の太政大臣は東宮に立ち給ひし。云々。天智天皇、十二月三日失させ給ひしかば、同き其五日、大伴の皇子、位に付き給ひて、云々。
四、『大鏡』
(一)天智天皇こそは、はじめて、太政大臣をばなし給へりけれ。それは、やがて、我が第二の王子(『懐風藻』には長子)におはしける大友王子なり。云々。持統天皇、又、太政大臣に高市の王子をなし給へり。天武天皇の皇子なり。此二人の太政大臣は、やがてみかどとなり給へり。
(二)太政大臣になり給ひぬる人は、うせ給ひて後、必ず、いみなと申ものありけり。然りと雖、大友皇子、やがて、(196)御門に立ち給へり(御門ながら失せ給ひぬれば、いみななし)。
(三)天智天皇の御皇子大友の皇子と申ししが、太政大臣の位にて、次には、やがて、同じ年の中に、みかどとなり給ひて云々。
五、『立坊次第』
大友皇子。天智天皇十年辛未十月立太子。元太政大臣。今年正月五日任v之。同年十二月五日即2帝位1。
六、『年中行事秘抄』
天智天皇十年春正月己亥朔庚子、大友皇子始めて太政大臣となる。天皇の男なり。後、皇太子となり、帝位に即く。
このほかにも、なお、伴信友の『長良の山風』に、「京人若槻幾斉が見たる承和元年藤原長良公の裏書を書き加へたる日本紀の古写本に(中略)天智紀に大友皇子受禅の事見えたりと云へり」といえど、確かならず。また、日下部勝美の『疑斎』に、大友天皇のことを論じたる中に、「大鏡裏書引2西宮記1云。天智十年、任2太政大臣1、十二月即2帝位1」とありといえれど、信友自身にさえ、「おのれが見たる本ども、何れも欠ありげにて、件の文あるを見ず」といえるによりてみれば、これも、証となすに足らず(むかしの学者の中には、故意に(時には不用意に)、証拠を作為し、あるいは変造して自家の論拠とし、あるいは、好んで珍本を見たることを自慢する類の者もあれば、原書に遡り、あるいはみずからその珍書を見るにあらねば、その所説に盲従し難きところ多し)。
されば、『大日本史』以前の書にして、大友皇子の立太子、即位を記するものは、まず、指を、右の六書に屈すべし。しかして、そのうち、『大日本史』は、わずかに、『水鏡』と『立坊次第』とのみを(参考として『大鏡』中の一節を)取れるなり。しかも、御年齢の点に至りては、『水鏡』と『立坊次第』とを排して、『懐風藻』に従い、立太子の年月は、『懐風藻』を排して、『水鏡』と『立坊次第』に従えるなど、すこぶる都合よく取捨採択せり。
(197) 今、『大日本史」が引用せる史料の価値について考うるに、『水鏡』は、余輩がかつて論じたるごとく(『史学雑誌』第一四巻第二号、明治三六年二月発行)、その大部分は、『扶桑略記』の翻訳にして、しかも往々誤訳に陥り、そのしからざるところは、著者の好奇心に任せて、つとめて突飛なる異説を集めたるものなれば、すでに、『扶桑略記』ある以上は、『水鏡』は、ほとんど、史料としては価値なきものなり。しかして、『水鏡』の、この大友皇子に関する条は、全く、『扶桑略記』の翻訳なれば、『扶桑略記』のこれに関する記事以上には、なんらの価値なし。また、『立坊次第』は、その奥書にも、「予引2勘扶桑記以下旧記1抄v之」とありて、この大友皇子に関する記事は、全く、『扶桑略記』の書き抜きなり。しかるに『大日本史』は、『扶桑略記』を引用せずして、この二書を引用す。これ、実体を省みずして、その陰影の、所々に映れるを追うがごときものなり。けだし、『扶桑略記』は、天台の僧皇円阿闇梨の編するところなれば、著者が、仏法を嫌うのあまり、ついに、僧徒の著書を直接に引用するを憚かりしものか。そは、ともかくもあれ、『扶桑略記』のこの記事にして、信憑すべくば、本家より借ると、分家より借るとに論なく、『大日本史』の論結において、間然するところなきも、余輩は、さらに、この『扶桑略記』の記事を信ずるにおいて、躊躇せざるを得ざるものあり。
『扶桑略記』の著者皇円は、決して史眼の明かなるものにあらず。ただ、好んで、異説を採用せんとするの癖あり。こは、『扶桑略記』を精読する人の、必ず首肯すべきところ。しかして、その異説を採用するについては、必ずしも、信否を研究して後、しかりしにはあらざるなり。されば、『扶桑略記』に大友皇子皇太子となり、次いで即位し給いしとの記事ありとても、これ、以前より、さる一異説の存在せしことを示すに足るのみにて、これのみによりて、ただちに、従来の一切の史の体を排せんは、いささか、軽佻の感なき能わざるなり。ことに、本書の、この、天智の条には、「十二月三日に天皇崩ず」といいながら、一に、「天皇馬に駕して山階郷に幸し、更に還御なし、永く山林に交(198)りて、崩所を知らず、只、履沓の落ちたる処を以て、其山陵となす」との異説をさえ、併せ記せり。この後説も、また、確かに、皇円以前より存在したる一異説なるべし。要するに、壬申の変は、一大事変に相違なく、彼此の間に、秘密の存在せしこともありしなるぺければ、従って、これに関して、種々の異説の、世に伝わるものあるは、止むを得ざるところ、これを識別して、取捨選択よろしきを得るは、これ、史家の任務なり。猥りに、異説を綜合して、説をなさんには、ついに、誤りたる論結に陥るを免れ難かるべし。今、試みに、『扶桑略記』の記する、天智天皇崩御と、大友皇子即位との両説を綜合せんか、天皇の失踪して、永く山中に交るという、いよいよ、その崩御を確かむるには、短時日の、よくなすべきにあらず。しかも、十二月三日に失踪し、その五日までに、これを崩御と認定して、皇太子の即位あること、とうてい常識の信ずべきにあらざるなり(しかるに『水鏡』には、明かに、「十二月三日ぞ、御門は御馬に奉て、山科へ御座して、林の中に入て、うせ給ひぬ。いづくに御はすと云事を知らず。只、御履の落ちしを陵には籠め奉りしなり。云々。同き其五日、大伴の皇子位に即き、云々」とせり。すなわち、『扶桑略記』中の異説をのみ綜合して文をなせるなり。『水鏡』の価値、これにて推測すべし)。(三日に先帝崩じて五日に後帝即任すとは、この前後に、例なきことなり。この一事、また、この説の信ずべからざるを示すに似たり)。次に、考うべきは、『扶桑略記』の著者が、果して、心中、大友皇子の即位を認めしか、否かの問題なり。『扶桑略記』には、第四十代天智天皇の条に、「十二月五日大友皇太子即ち帝位と為る」と記しながら、別に、そのために、帝紀を立てざるはもちろん、第四十一代天武天皇の条には、「大友皇子既に執政に及び、左右大臣等、相共に兵を発して、吉野宮を襲はんとす。云々。近江朝廷、美濃尾張両国司に宣して曰く、云々」と記せり。すなわち、前には「帝位と為る」といい、後には「執政」という。矛盾を免れざるなり。今この、後の記事を信ぜんには、(一)、当時近江に朝廷ありて、政治ここより出で、大友皇子は、なお天智天皇が、斉明天皇の崩後に、皇太子のままにて、制を称し給いしがごとき有様にておわしきとも、(二)、あるいは、予定のごとく、天(199)智の皇后即位したまい(もしくはいまだ即位式を挙ぐるに至らざりしとするも)、大友皇子は、摂政にておわしきとも解するを得べし。いずれにしても、同書中の前説、すなわち、「十二月五日大友皇子天位に即けり」との記事と両立せざるなり。『扶桑略記』のこの条の記事の価値、知るべきなり。しかも、『大日本史』は、この『扶桑略記』の記事を、二箇の抄本、訳本より引用し、「天武志を得るに至る迄の機務政令、大友天皇を措きて、他に出る所あるべからず」との唯一の論拠によりて、「天皇大友本紀」を立つ。挙証の不備なるを惜しまざるを得ざるなり。なんとなれば、一時近江朝廷より、政令出でしは事実なりとするも、必ずしも、その間、天皇なかるべからざるにもあらず。すでに、近く、天智天皇が、六年の間、皇太子として、制を称せし先例あり。『日本紀』には、この六年間をも、天皇の治世に算入し、称制六年と、即位後の四年とを通じて、天智天皇の治世十年と算したれども、『大日本史』にありては、しからず。天皇の治世を、戊辰、即位の元年より始め、その以前の称制六年間を、空位とせり。その記述の体裁は、一に、『日本紀』に、神武天皇崩後、綏靖天皇即位前の出来事を、記述すると同じく、各、その本紀紀年の前に列記せり。されば、今、かりに、某の国に某の皇太子ありて、先帝の崩後、ゆえありて、いまだ即位せず(後世のごとくいまだ践祚即位の別なき以前のことと仮定す)、儲位のままにて、制を称するうちに、不幸にして、薨じ給いしことありきとせんか。『大日本史』の筆法にては、その称制の期間をもって、一本紀を立つべきか、あるいは、次の帝紀の前紀としていその期間の事件を記述すべきか。余輩は、必ずその後者なるべきを信ず。果してしからば、機務政令他に出るところなしとの理由のみをもって、一本紀を立つべきにあらず。また、もし、かりに、天武以前に、果して帝位に登りし御方ありて、政令、ここに出でしと定むるも、その御方は、前後の例と、当時の行懸りとによりて、大友皇子にあらずして、天智の皇后倭姫王なりしやも知れずとの推測を下すべき、十分の余地あり。ゆえに、天智、天武、両帝紀聞に、一帝紀を立つるとせば、さらに、まず、この疑問を決するの要もあり。この疑問にして決せずば、しばらく、(200)旧来の史の体に従うにしかざるなり。されば、要するに、『大日本史』は、今いっそう精確に、大友皇子即位の事実を立証する義務あるものなり。余輩は再言す。余輩は、あえて、大友皇子の即位を否定せんとするにあらず。ただ、これを確定し、一帝紀を立てんには、今いっそうの研究を積み、確証を掲示するの要あるをいうのみ。しかれども、『大日本史』は、もと、これ、記事の簡潔を尚び、編者の正当と認定したる事実を、編年体に列記せしものにして、考証の書にあらねば、記して委曲を尽くさざるものあらん。よりて、さらに、これを、澹泊の史論について見るを要す。
澹泊の『帝大友紀義』は、収めて、「甘雨亭叢書」中にあり、これを見るに、その引用するところの史料は、『懐風藻』『水鏡』の外に出でずといえども、その取捨については、詳細の意見を述べたり。その大要に曰く、
舎人親王の天武紀を作る、事に当りて隠諱し、曲筆多し。懐風藻に曰く、年二十三、立て皇太子となると。之によれば、実は天智帝の三年なり。天智紀に曰く、十年正月太政大臣に拝すと。所謂十年は即ち四年なり。三年已に儲位に定まり、明年又此命あるべからず。懐風藻には、年甫めて弱冠、太政大臣に拝すとなす。すでに弱冠と云へば、応に二十左右なるべし。天智元年、大友年二十一(この年齢は『懐風藻』による)。然らば、則ち、元年に太政大臣となるか。水鏡載する所、其太政大臣となるは、則ち日本紀に同じく、皇太子と為るは、即ち、懐風藻と異なり。曰く、十年九月帝疾病あり、十月、大友皇子を立てて、皇太子と為すと。この時、天武すでに、吉野に遁る。之が時勢を揆るに、それ或は然らん。故に、その太政大臣と為るは日本紀に従ひ、皇太子となるは水鏡に従ふに如かず。云々。
しかして、『日本紀』の記事を曲筆の二字に排して、大友皇子の即位に関しては、『水鏡』(実は『扶桑略記』なれど)に盲従するのほか、あえて、一言をも費さざるなり。されば、澹泊の史論、また、いまだもって、『大日本史』の、(201)説いて及はざるところを補うに足らざるを覚ゆ。
余輩の余論とするところ、またここにつく。しかれども、『大日本史』「大友紀」の挙証の不備をいうもの、決して余輩をもって始めとするにあらず、早くすでに伴信友は、『長等の山風』を著して曰く、
今、其史(『大日本史』のこと)の徴に引き給へる本書どもを立ちかへり読み見るに、省《ことそ》ぎて採り給へるにかと思はるる事のあるが上に、なほ、他書どもの中にも、徴とせまはしき事の見えたるを考へあはせ、云々、ひそかに、論ひ試みんとてするなり。
と。信友、すでに、『大日本史』の憑拠の不十分なるを感じ、さらにその足らざるを補いて、『長等の山風』を著ししなり。よりて、余輩は、さらに、余論の余論として、ここに、その所説をも観察せんとす。
信友が考証の結果は、『大日本史』の記するところに同じ。しかして、その証として、『懐風藻』『水鏡』等、『大日本史』所引の書のほかに、『扶桑略記』『年中行事秘抄』『大鏡』等を引用し、さらに薬師寺の塔擦の銘の文、および、『日本紀』第二十八、九の巻(「天武紀」)の記事体裁の、他と異なるものあるなどとによりて、壬申の年は、もとは、天武天皇の治世とはせずして、大友天皇の治世とせしものなりと論じ、『日本紀』も、もと、その壬申の年の巻は、「大友天皇紀」なりしを、奏上の期となりて、急に改刪せしか、もしくは、その後に改められたるにてもあるべしとまで論結せり。『長等の山風』は『大日本史』の後に出で、いまだ、『大日本史』の言わざるところをいいて、竿頭さらに歩を進めたるものあるなり。
果してしからば、『長等の山風』は、論じて、もはや、余蘊なきに至れるものなりや。余輩の見るところをもってすれば、これまた、いまだ尽さざるところあるに似たり。
『長等の山風』の論ずる主要の点、大略、左のごとし(『扶桑略記』に関する説はすでに述べたれは、今、これを省く)。
(202)一、『懐風藻』は、大友天皇の曾孫淡海三船が、『日本紀』奏上より三十年ばかり後、天平勝宝三年をもって、撰せるものにて、その曾祖父たる天皇の事蹟の、世に隠れたるを悲しみ、しかも、当世を憚り、この詩集を作りて、ひそかにその事実を記し、文には娩曲に、あるいは隠語を用いて、自然にそれと知らるるようになせるなり。その序に、「淡海《おうみ》より、ここに平都《ならのみやこ》におよびて、凡そ一百二十篇、勒して一巻を成す」といいて、巻首に大友皇太子の詩二首を載せたるは、淡海宮の天皇すなわち大友天皇なることを示したるなり。そは、この天皇を除きては、淡海朝の人の詩は、一首もあることなきをもって察すべし。
また、序に、「宸翰垂文」とある宸翰も、まさに、大友天皇の御事なり。
また、序に、「作者六十四人、具さに姓名を題し、并に、爵里を顕して、篇首に冠す」とありながら、実際は大友皇子より、その皇子葛野王まで、わずかに六人の伝を記し、他には、四人のほか、ことごとくこれを略したるは、祖先の事蹟を明かにする目的なれば、他は、措いて、心を用いざりしなり。云々。
二、『大鏡』、六十八代の帝の段の末に、「天智天皇、十年十二月三日うせ給ひて後、大友の皇子、我位につかんとてし給ひしに、明る年の七月廿六日、此皇子をおろして、おほあまの皇子、位につき給ひて、天武天皇と申し給ひき」と見え、また、「太政大臣になり給ひぬる人は、うせ給ひて後、必ずいみなと申すものありけり。然りと雖、大友皇子は、やがて、帝に立ち給へり。みかどながら、失せ給ひぬれば、いみななし」。また、鎌足大臣の子のことをいえる条に、「その姫君は、天智天皇のみこ、大友皇子と申しし時、みめに奉り給ひけり。この皇子、太政大臣の位にて、つぎには、やがて、同じ年の中に、みかどとなり給ひにき」など見えたり。これら、皆、そのかみ、正しき古記録のありけるによりて、採りたるものなること決《うつな》し。
三、『年中行事秘抄』に、「天智天皇十年春正月、己亥朔庚子、大友皇子、始為2太政大臣1天皇男也、後為2皇太子1、即2(203)帝位1。」
四、舎人親王題書し給えりとて、現《いま》も存《のこれ》る奈良の薬師寺の塔の露盤の擦銘、「維、清原宮《キヨミハラノミヤ》馭宇皇即位八年庚辰之歳、建子之月、云々」とあり。八年を庚辰といえば、天武天皇の元年は癸酉なること明かなり、この塔は、『扶桑略記』に、「天武九年庚辰十一月、因2皇后病1、造2薬師寺1、云々」「為憲記云、薬師寺、云々、宝塔二基、云々、持統天皇奉造座者也」とあるものにて、持統天皇の造られしものなれば、この御代までは、癸酉を天武天皇の元年とし、壬申の年は、なお、大友天皇の御世に立てられしこと明かなり。
五、『古事記』の序に、「歳次大梁、月踵來鐘、清原《キヨミハラ》大宮、昇即2天位1」とあるは、天武天皇が酉の歳の二月即位し給える由にて、『書紀』の年月に合えり。これまた、そのかみ、癸酉を元年と立てられたりし趣なり。
六、『日本紀』も、始めは、壬申の年をもって、「大友天皇紀」と立てしものなりしならん。しかるに、奏上の期となり、その紀を除きたるか、また、後の世に、改刪して、現今のごときものとなりしならん。その証は、紀の例として、代々の元年の条の終りに、必ず、大歳干支を記するものなるに、ひとり、「天武紀」に限りて、二年の条に、大歳癸酉とあり。こは、この年が、もと、「天武紀」の元年の条なりけるを、「大友紀」の元年を除きて、天武の元年に改刪する時、大歳をもその下に遷し改めて、壬申と改め記するべきを、遺れたるものなること決し。
『長等の山風』の論拠の主なるものは、大略右のごとし。なお、些末に亘り、あるいは単に推測を下せるがごときの類は、これを挙げず。読者幸いに、本書について、その詳細を知らるべし。
さて、右の六ケ条について、一々、精読するに、種々の弱点あるを認む。
(一)
『懐風藻』をもって淡海三船の著ということすでに、その証に乏し。けだし、この説は、その初め、林鵞峰が、天平(204)勝宝のころにこれほどの著述をなすもの、淡海三船を措きて他にあるべからずと推測せし〔26〕が本となりしものなりという。しかして、「ナラン」が、ついに「ナリ」となり、『大日本史』には三船の著としてこれを引用し、これを論述せり。さらに伴信友は、「普通の本朝書籍目録の印本又一本には之を脱したれども、嘗て見たる一写本には、淡海三船撰と明記しありたり」とさえ付加せり。ここにおいて、何人も『懐風藻』が三船の撰なることを疑わざるようなれど、実は疑問中のものたるべし。すでに三船の著にあらずとすれば、信友の、この書に関する種々の推論は、全く、無意味のものとなり、『大日本史』論賛の「淡海三船、其の天命遂げざるを嘆じ云々」の語も、取り消さざるを得ざることとなるべし。よしや、これをもって三船の著なりとするも、もって大友皇子即位の証となすに足らず。なんとなれば大友皇太子のことを、「天命遂げず」といえるは、「天寿を保たず」との意にあらずして、天の命を受けて、天子となるには至らざりきとの意なるべければなり。この命の字は、本書の序の中に、「淡海先帝の命を受くるに至るに及んで」とある命と同意義なり。果してしからば『懐風藻』は、大友皇子が、皇太子とまではなり給いしも、壬申乱のために、ついに、天子にはなるに及ばざりしとの、反証を提供するものななるかも、知れざるなり。
次に、「淡海《おうみ》より平《なら》朝」すなわち、近江朝より奈良朝までというをもって、淡海朝を大友天皇に擬せんとするは僻見なり。大友皇子は近江朝すなわち天智天皇の御世の人として、淡海朝といえるに、毫も、不当なし。
次に、「宸翰」とあるは、疑いもなく、天智天皇の宸翰なり。これを大友皇子にかけんとするは、無理なり。
信友が、『懐風藻』についていえる、その他のことはいずれも推測に止まるのみ。これらよりも、むしろ信友の引ける谷森種松の説に、「懐風藻の序に、淡海先帝と天智天皇の事を云へるは、後帝即ち大友天皇あるを示すの隠語なり」といえることかえって、有力なるに似たり。されど、つらつら思うに、『懐風藻』のなれる天平勝宝三年より四、五年まで、聖武天皇は、都を近江の紫香楽《しがらき》宮に移されて、そこにましましたれば、この、後の淡海の朝廷と区別せ(205)んがために、淡海先帝といいしものなるべし。もし、しからずして、天武前に、近江後帝ありとの意を含めるものなりと仮定するも、これ、倭姫皇后を指せるものなるか、これまた、知るべからず。いずれにしても、「淡海先帝」の文字をもって、確証となすに足らざるなり。
(二)
『大鏡』の記事は、信友が引けるところのみを見れば、すこぶる拠となすに足るがごときも、さすがに、『大日本史』の、これを採用せず。わずかに、その一をもって、備考となすに止めしほどありて、一も信用するに足らざるなり。
まず第一の、「天智天皇十年十二月三日うせ給ひて、云々」の文を見よ。余輩が、前に引用せるごとく、その次に、高市皇子の太政大臣となりしことを記して、「この二人の太政大臣は、やがて、みかどとなり給へり」とあるにあらずや。この文を信ぜんには、持統、文武両天皇の問に、高市皇子の即位をも認めざるを得ざるなり。要するに、このあたりの記事、支離滅裂、前後矛盾をもって充さる。証となすに足らざるなり。
次に、「太政大臣になり給ひぬる人は、云々」の文を見よ。ここには、明かに、「大友皇子、やがて御門に立ち給へり」と記したれども、これを前後の記事と対照するに、彼此混淆、いずれをいずれと識別し難きまでの度に達し、ほとんど信憑するに足らざるなり。思うに、『大鏡』の成れる当時には、壬申前後の事情藤原氏の祖先などに関して、現今の史家が、これを明かにするがごとき比にあらずして、多数の世人はもとより、学者といわるるほどの人にても、これを明かにせるもの、はなはだ少かりしならん。今日よりこれを見れば、信じ難きがごときも、史学の開けざるはもちろん、「六国史」のごときも、秘庫に蔵して、容易に窺い知り難き世にありては、さもあるべきことなり。されば、当時、最も時めける藤原氏の祖先の系図に関しても、世間には、はなはだしき誤謬を重ねたり。その著しきものを挙げんに、
(206)一、最も名高かるべき鎌足と不比等とを、しばしば、取り違えたり。
これは、『大鏡』に、「鎌足の大臣は、天智天皇の徹時、藤原姓たまはりて、其年ぞ失せ給へりける。内大臣の位にて、廿三年おはしましける。太政大臣きはめ給はねど、藤原の御いではじめの、やんごとなきによりて、うせ給へる後のいみな、淡海公と申しけり」とあるを始めとして、はては、その墓をまでも取違うるに至れり。そは、『三代実録』に、「贈太政大臣正一位藤原朝臣鎌足多武峯墓」とあるを、『延喜式』には、贈太政大臣正一位淡海公藤原朝臣多武峯墓とし、『政治要略』に至りては、さらに、間違いに念を入れて、「多武峯墓、贈太政大臣正一位、淡海公藤原朝臣、云々。淡海公は内大臣鎌足の長子なり。藤氏の先たるに依て、他墓多しと雖、別に注する所なり」とさえ付記したり。されば、『大鏡』のみならず、鎌足を淡海公と間違え、ついに鎌足の墓を不比等の墓と混同するは、当時一般の誤認なりしものというべし(なおこのことは、「※[口+幼]々斎雑話」の中にて詳説すべし〔27〕)。
二、鎌足の孫、すなわち不比等の子なる、宇合、ふぢ麻呂(これは武智麻呂のことを別人と誤り伝えしなり)を鎌足の子となし、不比等を天智の落胤とはせり。これは、『大鏡』の所伝にして、試みに『大鏡』によりて、系図を作らば、左のごときものとなるべし。
――意美麻呂
――武智麻呂(南家)
――不比等《天智の落胤》――
――房 前(北家)
鎌足――
――宇 合《母同不比等》(式家)
――ふぢ麻呂《母同不比等》(京家)
(207) 噴飯の至りならずや。
すでに、『大鏡』のみならず、一般世間にてすら(はなはだしきは政府にてすら)、かかる間違いをなすくらいなれば、『大鏡』に、はなはだしき誤謬多く、ついには誤りて、大友皇子の即位を説くに至れるも、あえて怪しむに足らず。こは、ある場合において、『大鏡』が大友皇子を、大海人皇子と混同せるに起因せる誤謬なればなり。『大鏡』の、信友が引ける第三の条に、
その姫君(鎌足の女)天智天皇の御皇子おほともの皇子と申ししが、太政大臣の位にて、次には、やがて、同じ年の中に、みかどとなり給ひて、天武天皇と申ける御門の御時の女御にて、二所ながら、さしつづきおはしけり。
とあり、前半のみを見ば、いかにも、信友の説のごときも、後半を見れば、その姫君を奉りしは、大友皇子にはあらずして、大海人皇子なりしなり。従って、即位し給いLは、大友皇子にあらずして、大海人皇子のことを混同していえるものと解せざるべからず。ことに、その後の条に、
内大臣鎌足の大臣の御女二所、やがて、皆、天武天皇に奉り給へり。おとこ、女、御子だちおはしけれど、みかど、とうぐうに、立たせ給はざめり。
とあるを合せ見ば、多数決によりてもその姫君二所を奉りしという大友皇子は、すなわち大海人皇子のことにて(事実においても、鎌足の二人の女は天武天皇に奉れるなり)、やがて御門となり給えりとは天武天皇の御上をいえるものと、解せざるべからず。
大友皇子と、大海人皇子とを混ずるは、実に、敵味方、黒白の混同にて、ほとんど言語に絶したることなれども、『大鏡』には、大海人皇子のことを大海《おおみ》皇子(『扶桑略記』にもまた、大海皇子とせり)となし大海《おおみ》、淡海《おうみ》、音相近きより、淡海朝の皇子と混ぜしものなりしかも、また知るべからざるなり(『大鏡』の誤謬混同、このほかにもなお多し、他日機会(208)あらばさらに、詳述すべし)。その誤謬原因はともかくもあれ、事実において、鎌足と不比等とを混じ、鎌足の子と、不比等の子とを混じ、大友皇子と大海人皇子とさえをも混じたる『大鏡』の記事中の、ある文句のみをもって、大友皇子即位の証となさんとするは、とうてい賛成し難きのことに属す。『大日本史』が、これを採らずして、わずかに、備考となせるもの、炯眼というべし。
なおいわば、『大鏡』には、天智天皇を三十九代とし、天武天皇を四十代とし、その間に一代を置かざるなり。
(三)
『年中行事秘抄』の記事は、もと、『扶桑略記』に出でたるものなるぺければ、『扶桑略記』以上の価値なし。この書、永仁より嘉暦の間に成れるものにて、『立坊次第』と、ほぼ時を同じうす。思うに、このころ、『扶桑略記』世に行われて(もちろん一部分にてのことなるべけれど)、これより、種々に抄出せしものならん。ただし、本書の「己亥朔庚子」とあるは『日本紀』の本文の誤写なり。『日本紀』には、「庚子云々。癸卯云々。是日以2大友皇子1拝2太政大臣1」とあるを、『年中行事秘抄』著者が抄出する場合に、「癸卯云々」を見落し、「是日」を「庚子」のことと思い誤りしなり。軽率というべし。
(四)
薬師寺塔擦の銘に、天武即位八年庚辰とあるによりて、『日本紀』に、九年を庚辰とせるは、改刪なるべしとは、はなはだしき僻説なり。そは、『日本紀』天智天皇の条を見れば明かなることなり。天智天皇は称制六年の後即位し給えり。しかも、『日本紀』には、称制の初め、すなわち、斉明天皇崩御の翌年をもって、天智天皇の元年とせるにあらずや。これをもって、天智天皇即位の元年といわば不可ならん。天智天皇の治世の元年となすには、毫も、妨げなきことなり。今もし、かりに天智治世の十年辛未歳のことを、「天智即位四年辛未歳」として記したる金石文を発(209)見したりとせんには、信友は、天智の治世は戊辰に始まる、壬戌より丁卯まで六年間は、もと、他の某帝の紀なりけんを、後に、『書紀』の本文を改刪せるものなりといわんとするや。『日本紀』には、明かに、癸酉年天武即位すと記せり。癸酉より数えて、庚辰が、即位の八年に当ること、毫末の疑いを挟むの余地なきなり(ただし、『大日本史』が、天智の治世を戊辰より数えて四年間とする筆法をもって天武の治世を癸酉より算するは可なり。『日本紀』に称制六年間を天智の治世に数えたることを認めながら壬申の年を天武の治世に算入するを許さざるは不通の論なり)。
(五)
『古事記』の序のこと、右、同断。
(六)
『日本紀』巻二十九、天武天皇二年の終りに大歳干支を記すること、いかにも他に例なく、不審を起すももっともの次第なり。しかれども、つらつら、『日本紀』を検するに、大歳干支を記するもの、必ずしも元年の条にのみ限らず。「神武紀」「綏靖紀」「神功紀」、各二ケ所ずつ、大歳干支を記せり〔28〕。信友は、「これ皆理由あり、別に弁ぜり」といえり。余輩、まだ、そのいわゆる、別に弁じたるものを見ざれども、思うに、『日本紀』の大歳干支は、深き理由ありて記したるにはあらで、ただ、各天皇の治世の年紀を知らしむるが第一の目的なるべし。ゆえに必ずしも、一治世に一回を限りて記するとは定まらざるなり。今、『日本紀』巻二十九は、天武天皇治世の二年をもって始めたり。ゆえに、もし、その巻の初年において、干支を記入するなくんば、この巻を繙くもの、さらに、他巻を繙いて、年次を計算するにあらずば、その年紀を知り難からん。ゆえに、特に、二年の終りに、干支を記して、これを知らしめたるものなるべく、むしろ、著者の用意周到を謝すべきものならん。今日のごとく、一冊に数巻の記事を込むるものにありては、この必要なきも、一巻ずつ軸をなすものにありては、実際、この必要あるべきなり。
(210) しからば、天武の元年の条には、何故に、干支を記入せざりしか。この弁解については、いまだ、満足なる答を考え得ず。しかれども、試みにいわば、この元年の条、すなわち、『日本紀』巻二十八は、単に、壬申一ケ年間の記事に止まるをもって、別に、わざわざ干支を記入するの必要を認めざりしものかとも解せらる。
そは、ともかくもあれ、信友の説のごとく、「二年の条に、大歳癸酉とあり、こは、はじめ、天武紀の元年の条なりけるを、大友紀の元年を除きて、天武の元年に改刪せらるる時、大歳をも、其年の下に、遷改て、壬申と改記さるべきを遺れたるものなる事決し」とは、いずれにしても、従い難きものなり。なんとなれば、もし、元年の条が、始めに、大友帝の本紀なりしならんには、その終りに(信友の説によれば)、必ず、始めより、「大歳壬申」とありしなるべし。しからば、二年の条の「大歳癸酉」を削りて、ここへ、新たに、「壬申」と遷すの要もなきことならずや。信友は、『日本紀』改刪の時、不必要なる「大歳癸酉」の文字を削ることを忘れて、必要なる「大歳壬申」の文字を削りたりという意にや。いかに不用意なる者の手に改刪したりとて、不必要なるものを存し、必要なるものを削るの愚をなすべきや。なお『日本紀』の例によれば、各帝の本紀は、必ず、天皇崩御、もしくは禅位の時をもって記事を終り、その後のことは、次の天皇即位前の出来事たりとも、必ず、次帝の本紀の初めに記するなり。しからば、壬申年七月大友天皇崩御とすれば、その以後のことは、巻二十九の初めに記せざるべからず。しかるに、本書には、癸酉の年の初めをもって巻を改む。けだし、初めよりかかりしものならん。舎人親王が、父天皇のために曲筆を用いたりとのことは、あるいは、想像するを得ん。しかれども、現行の『日本紀』のこの条をもって、いったん成りたる『日本紀』を、不用意に改刪したるものなりとは、考え難きなり。されど、百歩を譲りて、改刪し、一帝紀を抹殺したるものなりと仮定せんも、その抹殺せられたる本紀は、あるいは、倭姫王皇后の治世に属したるものなりしや、また、知るべからざるにあらずや。これを要するに、『長等の山風』の論ずるところ、また、一も、余輩をして首肯せしむるに足(211)らず。大友皇子の即位を証せんには、なお、いっそうの研鑽を要するものあり。識者の指導を俟って有力なる新証を提供し、『大日本史』の卓見を完成するは、後進史家の任務なるべし。
付言。余かつて、某の席において、この説の大要を談ず。ある人の曰く、汝が説は、大友皇子の即位説を抹殺して、倭姫王皇后の即位を是認せんとするか、あるいは、天武をもってただちに、天智の統を承けたりという旧説を主張せんとするか、と。余曰く、なんぞしからん。ただ、『日本紀』の記事のみに拠りて想像を下さは、天智天皇の次には、倭姫王皇后立ち給うべき順序なり。もし、壬申の変以前に、近江朝廷にて、帝位に即き給いし御方ありとすれば、そは倭姫王皇后なりと答うること、至当の見解なり。しかるに、皇后立ち給わずして、皇子立ち給えるは何故ぞや。余が女帝皇位継承の先例を研究したるについて、ふと、この疑問を生じたれば、あえて識者の教えを乞わんとするのみ、なんぞ抹殺をいわん。
ある人また注意して曰く、『大日本史』は勅撰に准ぜらるるの書なり。大友皇子の即位については、今や、人、あえてこれを疑わんとせず。しかも、汝、その是非を論ず、言、あるいは、不敬に亘ることなきやと。余曰く、余輩、また、あえてこれを疑わんとせず、ただその説の完からんことを求むるのみ。しかれども、不敬云云のことに至りては、乞う、意を労するなかれ。『大日本史』に、「長慶天皇本紀」を立つ。しかも、世に、これを否定する論者少からず。しかして、いまだ、これをもって、不敬となさざるなり。いわんや、余、これを否定せんとするにあらざるにおいてをや、万々一、史家が、さらに研究の歩を進むるの結果、天智天皇崩御の後、天武天皇即位以前に、いまだ帝位に登りたる御方なく、ただ、『扶桑略記』の記するがごとく、大友皇子が近江朝廷にありて、執政たりし間に、壬申乱起り、ついに天武天皇の即位を見るに至りしものなること、すなわち、『日本紀』の明記するとこ(212)ろが、疑いもなき事実なることを発見確定したらんには、壬申乱は、皇室の一内事となり、天武天皇は、簒奪の名を免るることとならん。これ、列聖の誤り受けたる瑕瑾の名を除くものにして、勅撰の『日本紀』の記事を否定し、至尊に纂奪の名を与え、その曲直を明かにしたりとて、これをもって、世の乱臣賊子の戒めとなさんとし、しかもその裏面においては、いわゆる、曲者の成効を説くの結果に陥れるものと、いずれぞや。
論者あるいはいわん。もし万々一、汝がいうごとき、研究の結果に論結したらんには、さきに、追贈し奉れる弘文天皇の御名を如何せん。むしろ、始めより研究せざるにしかずと。これ、思わざるのはなはだしきものなり、皇位を踏まずして、ただちに太上天皇となり給えるもの、あるいは、後に、天皇の尊号を贈られ給えるもの、古来その例はなはだ多し。謚号を贈る、なんぞ治世を有し給うとしからざるとを問わん。これ、また、乞う、意を労するなかれ。
女帝皇位継承の先例について
女帝皇位継承の先例は、馬子の専横より、蘇我氏の出たる、炊屋姫皇后を推立して、推古天皇となすに始れりとは、余輩が前に論じたるところ。しかれども、いかに馬子が専横なればとて、突然、皇后擁立の事を思い付きたりとは、あまりに不自然にて、しかも、ただちにこれを実行したりとは、あまりに果断なるやの疑いなき能わざりき。しかるに、その後、『日本紀』を繰り返すうちに、皇后即位の思想の、その前より存在せしことを発見せり。ただ、その当時、これを決行するに至らざりしのみ。馬子は、その思想をついで、これを決行せしものなり。かくてこそ、新例を起す自然的順序なりというぺけれ。
さて、その以前にありし皇后即位の思想とは、第一の女帝たる推古天皇の御父欽明天皇御即位のさいの時のことな(213)り。「日本紀」に曰く、
四年冬十月、武小広国押盾天皇(宣化)崩ず。皇子天国排開広庭天皇(欽明)群臣に令して曰く、余幼年浅識、未だ政事にならはず。山田皇后明に百揆にならひ給へり。請ふ就て決せよ。山田皇后、怖み謝して曰く、妾、恩寵を蒙る山海もなんぞ同じからん。万機の難き、婦女いづくんぞ預らん。今、皇子は、老を敬し、少を慈み、云々。請ふ、諸臣等早く登位《たかみくらい》に臨みて、天下に光《て》り臨《のぞ》みまつらしめよ。冬十二月庚辰朔甲申、天国排開広庭皇子、天皇の位に即く、云々。
この時、すでに、皇子の意中皇后即位し給わば、都合よからんくらいの思想ありしを知る。決して、先例にもなきことを、お世辞に言うて見たるにはあらざるべし。ただ、この思想いまだ確定せず、実行に至らざりしのみ。専横なる馬子に至りて、先代のこの思想を大成せしものなるべし。
記して、第六巻第十号中の、皇后即位の先例に関する論に補う。
〔入力者注、初出は、『歴史地理』第六巻第一〇、一一号、明治三七年一〇、一一月、付録「女帝皇位継承の先例について」は『歴史地理』第七巻第一号、明治三八年一月〕
(214) 中天皇考
奈良朝ころの記録に往々「中天皇」と称することあり。そのうちつとに先輩の注意に上れるものは、『続日本紀』所収、神護景雲三年十月の「宣命」中に見ゆるものなり。文に曰く、
掛まくも畏き新城《にいき》の大宮に天下治め給ひし中つ天皇の、臣等《おみたち》を召して後の御命《おおみこと》に勅《の》りたまひしく、汝等《いましたち》を召しつる事は、朝廷《みかど》に侍《つか》へまつらん状《さま》教へたまはんとぞ召しつる……。
ここに中天皇として指し奉れる御方は、次に聖武天皇の御事を「朕《あ》が天《あめ》の御門《みかど》帝皇《すめら》」と申し奉られたることと併せ考えて、元正天皇にましますこと明かなり。しからば、何故にこれを中天皇と申し奉れるか。本居翁はその『歴朝詔詞解』〔【第五巻】〕において解して曰く、
平城《なら》は元明天皇より宮敷きまして、元正天皇は第二世に坐ますが故に、中つとは申し給へるなり。中昔に人の女子あまたある中にも、第二にあたるを中の君といへると同じ。
と。この解すこぶる理由あり、後人多くこれに依拠して、あえて異説を試みたるものあるを見ず。中天皇の称の先輩の注意に上れるもの、このほかになお二ケ所あり。『万葉集』巻一に見えて、一は、
(215) 天皇遊2猟内野1時、中皇命使2間人連老1献v歌
とあるもの、他は、
中皇命往2于紀温泉1之時御歌
とあるものなり、ともに「ナカツスメラミコト」と訓むべく、前者は舒明天皇朝、後者は斉明天皇朝として、集中に採録せられたり。「スメラミコト」は申すまでもなく天皇の義にして、中皇命は、中天皇とあると同一なるは言うまでもなし。しかるに、従来これを解するもの「命」をもつて「女」の誤写とし、いわゆる「中皇命」をもつて「中皇女」となす。かくて時代と情況とを案じて、舒明天皇の皇女として、孝徳天皇の后に立ち給える、間人皇女なりと解し、爾来また多くこれを疑わんともせざるなり。
称徳天皇「宣命」中の中天皇は事実元正天皇にましますぺければ、これを御父なる聖武天皇と、奈良宮最初の君なる元明天皇との中間の天皇として、中天皇と称し奉りたりとの解はさてもあるべし。『万葉集』また往々誤写あれば、その中皇命は中皇女なりとして看過せんこと、また止むを得ざらん。されど、ここに今一個、従来いまだ多く先輩の注意に上らず、また右のごとき筆法にては解し難き中天皇の称号が、奈良朝の古文書によりて伝えらるるなり。天平十九年、大安寺三綱言上の『伽藍縁起并流記資財帳』に大安寺の由来を記し、この寺が聖徳太子によりて基を開かれ、代々の天皇付託を受けて斉明天皇に及び、なお完成せざることを述べて曰く、
天皇(斉明)筑志朝倉宮に行幸《みゆき》し、まさに崩じたまはんとする時、甚《いた》く痛み憂ひ勅りたまはく、此寺を誰にか授けて参来《まいり》つと先帝の待ち問ひたまはば、いかが答へ申さんと憂ひたまひき。時に近江宮御字天皇《おうみのみやにあめがしたしろしめすすめらみこと》奏したまはく、開い髻に墨※[夾+立刀]を※[夾+立刀]し、肩に※[金+立]を負ひ、腰に斧を※[夾+立刀]みて為し奉らんと奏しき。仲天皇奏したまはく、妾も我※[女+夫]と、炊女として造り奉らんと奏しき。時に手を拍ち慶びたまひて、崩じたまひき。……
(216)と。ここに「開」とは天命開別《あめみことひらかすわけ》天皇すなわち天智天皇にましますことは、近江宮御宇天皇とあるによりても明かにして、開別の御名を略してみずから呼び給いしものなり。しかして、これに対してこの天皇を「我※[女+夫]」と呼び、みずから妾と称し、炊女となりても大安寺を造り奉らんと斉明天皇に対し受け合い奉りし御方は、そも何人におわすやらん。『群書類従』にはこの縁起を収めて、「仲天皇」を「件《くだんの》天皇」となす。けだし斉明天皇に擬するなり。しかれども、件の天皇にては文意通ぜず、「妾」といい「我※[女+夫]」といい、「奏」ということ、一も解すべからざるのみならず、また原文にも明かに「仲」とあれば、これは問題となすの価値なし。『大日本古文書』またこの縁起を収めて、仲天皇に注するに持統天皇の御名をもってす。しかれども、斉明天皇崩御のさいには、持統天皇は御年十七歳にて、新羅親征の軍旅中にましましきとは思われず、また御父に対して、「我※[女+夫]」と仰せ給うべくもあらねば、これまた問題とはならず。「※[女+夫]」とは普通の場合妻としてその配偶者を呼ぶの称なり。『日本紀』に仁賢天皇朝におけるある女人の「母《おも》にも兄《せ》、吾にも兄《せ》、弱草《わかくさ》の吾《わが》夫《つま》はや」と号泣せし語を注して、「古者不v言2兄弟長幼1女以v男称v兄《せ》、男以v女称vレ妹《いも》」とあり、しかれども、こは『日本紀』編纂当時より見て「古者」のことなり。『大安寺縁起』の筆者は必ずこれをもって天智天皇すなわち中大兄皇太子の御配偶のこととして執筆せしものならん。また事実上、天皇の皇姉妹中にこれに擬し奉るべき御方あるを見ず。されば、ここに仲天皇とは、古人大兄皇子の女にして、天智天皇即位し給うに及びて、立って皇后となり給える、倭姫女王その人ならざるべからず。果してしからば、何がゆえに倭姫女王を大安寺にて仲天皇と申し奉りしか。これ史上の一大疑問なりといわざるべからず。このことにつきては、余かつて女帝の皇位継承に関する先例を『歴史地理』第六巻第十、十一号において論じ《〔29〕》、また「天智天皇の皇后倭姫は果して即位し給ひしか」の題において一文を同誌第七巻第四号に掲載したることありき。その大要は、まず『日本紀』の大海人皇子皇儲辞退のさいの条件に、天智天皇万歳の後には、皇后即位して大友皇子諸政を宣すべきはずなりしこ(217)と、当時前後の例、推古、皇極・斉明、持統、元明ら女帝はほとんど一代おきに即位し給い、しかその御方には、皇后もしくは母后なりしこと、また天智天皇崩御の後、依然淡海朝廷存在せし事実ありて、もしさきの大海人皇子皇儲辞退のさいの条件にして変更せられずば、名義上のみにもせよ、倭姫皇后は当然天子となり給うべきはずなりしことなどを説き、大安寺にこれを天皇と称し奉りしこと、また必ずしもゆえなきにあらざるべき次第を論じたるものなりき。精しくは本編に譲りて、ここにこれを再説せざるべけれど、要するに倭姫皇后が、後より天皇として公に尊敬を受けたる場合ありしことは、右『大安寺縁起』が、一の私の記録にあらずして、政府の命によりて録上し、公に提出せしものなるによりても認めざるべからず。その後、余さらに『懐風藻』を精読するに際し、新たに意外なる記事を発見せり。その「智蔵伝」に曰く、
智蔵師は、俗姓禾田氏、淡海帝の世唐国に遣学す。時に呉越の間に高学の尼あり、法師尼に就いて業を受け、六七年中にして学業頴秀す。同伴の僧等頗る忌害の心あり、法師之を察し、躯を全うするの方を計り、遂に髪を被り陽《いつわ》り狂して道路に奔蕩す(云々)。太后天皇の世、師本朝に向ふ。同伴陸に登りて経書を曝涼す、法師襟を開いて風に対して曰く、我亦経典の奥義を曝涼すと。衆皆嗤笑し、以て妖言となす。試業に臨みて座に昇り敷演するに、辞義峻遠、音詞雅麗にして、論蜂起すると雖も応対流るるが如く、皆屈服して、驚駭せざるなし。帝之を嘉し、僧正に拝す。時に年七十三。
と。ここに淡海天皇とは言うまでもなく天智天皇なり。智蔵、天智天皇朝に唐に留学し、在留六、七年、学大いに進む。その後の滞留何ケ年なりしか、もとより今にしてこれを知るべからざるも、思うに、久しからざりしなるべく、しかして天武天皇二年において彼が僧正に任ぜられたりしことは『僧綱補任』これを記し、一切の僧伝仏事史これを認むるによりてみれば、彼の帰朝は、必ずや天武天皇二年以前ならざるべからず。天智天皇朝入唐し、在唐六、七年、(218)学大いに進み、天武天皇二年以前なる太后天皇の世に帰朝したりとせば、そのいわゆる太后天皇には何帝を擬し奉るべきか。従来これを解するもの、もって持統天皇となす。もし果してしからば彼は学成りて後なお十余年問佯狂して唐に在留し、しかもその佯狂在留中遥かに僧正に任ぜられたりといわざるべからず。当時如何ぞ僧正遥任のことあらんや、いわんや『懐風藻』には帰朝の後僧正に任ぜらるることを明記せるをや。『懐風藻』は奈良朝の書なり。その当時と距ること遠からず、智蔵の記事信ぜざるべからず。しかして太后天皇の世という。太后天皇とは皇太后にして天子となり給える御方の称なり。『日本紀』天智天皇条に、天皇の「詔」を録して、中に斉明天皇の御事を皇太后天皇と申し奉れり。もって証とすべし。さて天智天皇以後、天武天皇以前に、太后天皇を求むれば、実に『大安寺縁起』において、天智天皇とともに「妾も吾※[女+夫]と」と仰せられたりし仲天皇その御方を擬せざるべからず。果してしからば倭姫皇后は実に天智天皇崩後予定の条件通りに、淡海朝廷の元首となり給いしものか、少くとも後より、天皇の敬称をもって尊ばれ給うべき御身分の方なりしことを信ぜざるべからざるなり。
すでに倭姫皇后天子として尊ばれ、これを仲天皇と称し奉りたりとの確乎たる証左ありとすれば、『万葉集』なる中皇命もまた必ずしも誤写なりとのみ断定すべきにあらず、称徳天皇「宣命」中の中天皇また『詔詞解』の言うごとく、平城第二代の女主なるがゆえに、かく申したりとのみにて満足すべからざるなり。『万葉集』の中皇命をもって中皇女の誤写なりとすることにつきては、毫もその証あることなし。また、かりに、誤写なりとしても、これが間人皇女なるべしとのことに至りては、もとよりなんらの拠あるべからず。いわんや後者「中島命往2于紀温泉1之時御歌」のごとき、山上憶良の『類聚歌林』には、「天皇御製歌」として伝うるあるをや。中皇命は中皇女の誤写にあらずして、その文字のごとく、「ナカツスメラミコト」すなわち中天皇なるべく、少くも余はこの後者をもって、『大安寺縁起』の仲天皇、『懐風藻』の太后天皇と同じく、倭姫皇后にましますなりと解せんと(219)するなり。
中皇命が間人連老をして歌を献ぜしめ給えるは舒明天皇が内野(大和宇智郡なるぺし)に遊猟し給いしさいなり。このこと『日本紀』に記せずといえども、年代より推すに倭姫女王誕生前か、もしくは御幼年のさいのことなるぺければ、今しばらく措く。後者斉明天皇朝に紀伊温泉に赴かれたるの時代を案ずるに、『日本紀』に天皇四年十月紀温湯に行幸のことあり。翌月有間皇子謀叛の事ありて皇子を捕えて紀温湯に送り、皇太子ここに親しくこれを鞠問し給う。しからば皇太子は天皇の行幸に陪従し給いしなり。妃倭姫女王がまたこれに従いて紀伊温泉に往き給い、磐代の岡に事よせて、夫《おつと》の皇太子なる君が齢《よ》と、その配偶たるわが齢《よ》とを祝うの詠ある、まことにその理由あり、しからば憶良の歌集が、後の尊称よりしてこれを天皇御製となすも、またそのゆえなきにあらず。しかるにこれを旧説のごとく中皇女の誤写なりとし問人皇后の御歌なりと解せんには、前者の舒明天皇御宇ならばさてもあるべし、後者斉明天皇の御宇にては、すでに先帝の皇后たる御身分の方なれば、これを中皇女と言わんこと当らず、いわんや先帝の皇后が、当時天皇に従いて紀伊温泉にありしとのことを想像すべきなんらの理由なく、また天皇と御自分との齢をかけて、磐代の岡の草根を結ばんと希うことも似つかわしからざるをや。ことにその第二詠のごとき、「我が※[女+夫]子《せこ》」とはいずれの御方を指給いしか、とうていこれに擬すべき御方なきを如何せん。いわゆる中皇命の御歌に曰く、
君がよも吾がよも知らむ磐代の 岡の草根をいざ帯びてな
吾がせこは借廬《かりほ》作らす草《かや》なくは 小松が下の草《かや》を苅らさね(第三首略)
これ余が中皇命をもって誤字にあらず、『大安寺縁起』にいわゆる仲天皇にして、当時中大兄皇太子の妃たりし倭姫女王なりとなすゆえんなり。
論じてここに至り、余はいわゆる中天皇なる語につきて一考する要を生じたり。元正天皇を中天皇と申すこと、宣(220)長翁のごとく、「平城宮にて第二世にましますが故に中つとは申すなり」にても、いちおうは聞こゆれども、かくては、倭姫皇后の場合には当らざるなり。翁も言われつるごとく、中昔に人の女子あまたある中に、第二にあたる方を中の君といえること、その例あり。しかもこは必ずしも女子とのみには限らず。今も俗用において現にこれを見る場合多し。例えばここに男子もしくは女子二人の子ありとせんに、長を「大きい坊っちゃん」「大きい嬢さん」といい、幼を「小さい坊っちゃん」「小さい嬢さん」と称す。しかるに、さらに第三の男子もしくは女子生じたらんには、さきに「小さい坊っちゃん」「小さい嬢さん」たりしものが、変じて「中の坊っちゃん」「中の嬢さん」となり、その後さらに幾多の男女子生ずるとも、この「中の坊っちゃん」「中の嬢さん」の称呼は、依然として保存せらるる場合多きなり。遠く他を求むるに及ばず、近く問題に上れる倭姫女王の御夫君中大兄皇子は、本名を葛城皇子と申す。しかるにこれを中大兄として申し奉るは、舒明天皇四皇子中の第二皇子なればなり。『日本紀』には、この皇子、皇后所生の長子なれば第一に列し、普通の皇室系図またこれを最初に列し奉れども、鎌足の言に「古人大兄は殿下の兄なり」とあれば、葛城皇子が第二皇子たりしことは明かなり。しかして中大兄の称あり。この例をもって申さば、元正天皇は平城宮において、孝謙天皇より御覧じて、最初の君は元明天皇最近の君は聖武天皇なれば、元正天皇がその中の君たることにより(「宣命」の時代は称徳天皇の御代なれども、淳仁天皇はいわゆる廃帝にして、御代は孝謙朝より引続き同一天皇にましませば)、元正天皇がその中の天皇なるは、しかるべきところなりとも解すべきに似たり。しかれども、かくては依然倭姫皇后の場合には適せざるなり。
これを古えに考うるに、清寧天皇崩じて顕宗・仁賢両帝相譲りて立たず、皇位空しきがためにしばらく飯豊青皇女朝に臨み給う。よりてあるいはこれを天皇と称し奉る。天位は当然清寧天皇より顕宗天皇に伝わりたれども、ここに両者の中の天皇として、暫時ながらも飯豊天皇の御代はありしなり。中天皇の義かくは解すべからざるか。
(221) 崇峻天皇崩じて皇嗣定らず、順序より申さば先帝の嫡長皇子たる厩戸皇子立ち給うべきなれども、当時御年十九いまだ大政を親くし給うにおいて経験多からず。すなわち敏達天皇の皇后即位し給う。これ推古天皇なり。わが朝の例、古代は皇子年長じてみずから政治を視そなわすに適するに至りて始めて即位す。ゆえに幼帝あることなく、先帝崩じて皇子あるも年幼なれば、兄弟相及ぼして位に即く。履中、反正、允恭相つぎ、安閑、宣化、欽明相つぎ、敏達、用明、崇峻相つぐ。皆あるいはかかる理由ありしならんか。しかれども、かくては後日皇儲につき問題を生ずべし。これを弟に及ぼさんよりは、皇后しばらく即位して皇儲の長を侯たんにはしかず。宣化天皇崩じて欽明天皇即位す。御年三十、齢においてあえて不足なりとせず。しかも幼年浅識、政事にならわざるの理由をもって、いったん位を山田皇后に避け奉らんとす。ここに幼年というは疑問なり。あるいは『日本紀』編者の舞文なるかも知れず。しからばこれ編纂当時の思想を露わせるものといわざるべからず。皇嗣幼年浅識、政事にならわず。ゆえに先帝の皇后即位するのこと、最も事宜に適す。ゆえに推古天皇より後常にこれを繰り返し、もって持統天皇に至る。文武天皇には皇后ましまさず、崩じて皇嗣幼なり。ゆえに御生母即位す、元明天皇これなり。天皇ようやく政治に倦み、しかも皇嗣御年なおわずかに十五歳なり。ここにおいて元正天皇立つ。果してしからば、推古、皇極・斉明、持統、元明、元正らの諸帝、その形式においては相違あれども、精神においては飯豊天皇と同じく、先帝と後帝との間を取りつぐ、中の天皇にましますなり。中天皇の称もって解すべからずや。近時中継内閣の語しばしば新聞紙上に散見す、けだし同義なり。
中天皇の義果して右のごとくんば、『万葉集』に舒明天皇内野に遊猟し給いしさい、間人連老をして歌を奉らしめ給える中皇命は、皇極天皇と解すべきか。天皇は舒明天皇の皇后なれば、この時陪従し給いしものなるべし。
一説に中天皇は中宮天皇の義なるべしと言う。いかにもその女帝にましますことといい、太后天皇の称あるより見(222)れば、この説また一理あれど、かくては元正天皇を中天皇と申す理由解すべからず。
中天皇の考ここに終る。その説すこぶる多岐に渉りたれば、左にこれを約言すべし。
一、称徳天皇の「宣命」中に中天皇の語あり、元正天皇を指す。
二、天平十九年言上『大安寺縁起』に仲天皇の語あり。天智天皇の皇后倭姫女王を指す。
三、倭姫女王は後より天皇と称せられ給いし種々の証拠あり。
四、『万葉集』中の斉明天皇朝なる中皇命は、ナカツスメラミコトにして、中天皇の義なるべく、倭姫皇后を指し奉れるなるべし。
五、中天皇とは先帝と後帝との中間を取りつぐ天皇の義なるべし。
六、しからば『万葉集』中の舒明天皇朝における中皇命は皇極天皇の御事なるべし。
〔入力者注、初出は、『芸文』第六年第一号、大正四年一月、1915年〕
(223) 河内野中寺金銅仏造像記の「中宮天皇」につきて
I
一 緒 言
岩井雍南氏によりて始めて学界に紹介せられたる河内野中寺蔵四十八体仏式小金銅像の造像銘は、近来快心の一新発見なり。中に「中宮天皇」の語あり。余かねて女帝のことを調査し、古えこれを中天皇または太后天皇と称し奉りし例を尋ね、天智天皇の皇后倭姫女王が、また太后天皇あるいは中皇命あるいは中天皇の御称号を有し給いしことによりて、かつて天皇として認められ給いしものなることを立証せしことありき。さればたまたまこの銘文を読みて、たちまちこれに連想し、その旨を岩井氏に語りしに、はからずもその説は氏の筆によりて、余が談として大阪毎日新聞紙上に掲げられ、かれこれの学術雑誌にまで転載せらるるに至れり。しかるに、後これを熟考するに及びて、その誤解なりしことを発見し、ために大いに初心の徒を誤るべきを思いて、慚愧に堪えざるものあり。されば早晩、一般中宮天皇に関する詳説を発表して、これが誤解を訂正し、かねて識者の高見を聴かんとせしに、たまたま木崎愛吉氏の銘文研究の、本誌上に発表せられたるを見たり。中にまた余が説を引用せられたるあり。すなわち取り敢えず本誌余(224)白の割愛を請い、単に右銘文に関するもののみを記述して、いささか現時の余の見解を明かにせんとす。
二 中宮の意義とその沿革
「大宝令」に皇后宮を中宮と称す。太皇大后、皇大后宮またおのずから中宮なりとあり。その中宮職において、三后を合せて御扱い奉りしなり。されば皇后をも、皇大后をも、太皇大后をも、単独に中宮と申し上げたるや論なし。平安朝において、皇后、中宮並立の場合にも、正しくはその中宮たる御方をも皇后と申し上げ、冊立の「宣命」には、皇后と記し給うを例とするなり。奈良朝において、聖武天皇その御生母藤原宮子娘を尊みて皇大夫人とし、ために中宮職を置き給う。しかして別に藤原光明子を皇后となし給う。ここにおいて別に皇后宮職あり。中宮と皇后宮と相並立す。桓武天皇の時、御生母高野皇大夫人を中宮とし、別に皇后宮職を置き給えるまた同じ。しかれどもこは令制の変態にして、古くは皇大后をも、太皇大后をも、ともに中宮職にて御扱い申しあげ、これを中宮と称し奉りしことは明かなり。
中宮とはもと東宮に対する宮殿の位置上の名なり。中宮がその宮殿の名称なることは、『続日本紀』に、天平勝宝六年七月、大皇大后中宮に崩ずとあるによりて知らる。ここに大皇大后とは、さきの宮子皇大夫人のことにして、孝謙天皇即位後、その尊号を奉りしものなり。
中宮の名称がいつのころより始まりしかは明かならず。されど『日本紀』天智天皇の条に、すでに東宮の名称多く見ゆれば、近江朝廷の令において、東宮・中宮の規定ありしことと察せらる。「大宝令」は『続日本紀』にも、ほぼ浄御原《きよみはら》朝廷をもって准正となすとありて、その浄御原朝廷の令なるものは、すなわち近江朝廷の令を完成せるものなれば、「大宝令」の東宮、中宮の名は、畢竟天智朝の規定をそのままに蹈襲せしものにてもあるべきなり。
(225) 果してしからば、この銘文に中宮天皇とは、中宮にして天皇となり給える御方を指し奉れるものなるや論なし。天智天皇の皇后倭姫女王は、『懐風藻』に太后天皇と申し、『万葉集』に中皇命と称し、天平十九年の、『大安寺資財帳』には仲天皇とも見えたれば、余は当初該銘文を見たる時、ただちにここに思い及びしものなりしが、かくては銘文を記載せる年が、天智天皇崩御の後ならざるべからざるの不都合あり。当時余いまだ「開記」の二字を考え得ず、丙寅年すなわち天智天皇五年の四月八日は、中宮天皇のために誓願せし日時を示せるものにして、その誓願の仏像成り、銘文を刻せるはいわゆる中宮天皇の代、すなわち倭姫皇后称制の年ならんかとも考えしが、そは明かに誤解にてありき。されば木崎氏は、余が誤解の説を引用して、紀年の書き方と合わざるを指摘し、「此の場合たとひ皇后の称制前に当りても、天皇の尊称を上りしものらしく看做し置くべきか」とお茶を濁されたるが、こほ余の顔を丸潰しになし給うまじき用意の記事なるべく、余をおいてかえっていっそう慚愧の感あり。けだしここに中宮天皇とは、明かに斉明天皇を指し奉れるなり。
ある人の説に、ここに中宮とは天智天皇すなわち中大兄皇子の宮を指し奉れるものにして、これただちに天智天皇の御事なるべしと。
また他のある人の説に、ここに中宮とは聖徳太子を上宮太子と申す類にして、当時天智天皇はなお皇太子のままに制を称し給いたれば、いまだ正殿には入り給わず、中の宮にましましたるより申したるならんと。
両説ともに理あるがごとしといえども、しかもなおいまだ完からざるなり。中大兄皇子とは第二の皇子の称なり。今時俗間においても、長男一人の時は単に「坊っちゃん」の称をもっぱらにし、次男生るれば長男は「大きい坊っちゃん」となり、次男を「小さい坊っちゃん」と称す。さらに三男生るるに至れば、長男の称はもとのままにて、次男は「中の坊っちゃん」となり、かくて四男・五男生るるに至るも、「中の坊っちゃん」の称は往々にして永く保存せ(226)らるるなり。天智天皇が古人大兄皇子の次に生れ給い、第二の皇子にてましますによりて、中大兄の称ある、またこの例なるべし。しかもすでに立ちて皇太子となり、さらに親しく制を称して、天子の実務を執らせ給うに及びてまでも、なんぞこの幼時の通称をもって宮号に呼び奉るのことあるぺけんや、いわんや当時すでに皇后宮を中宮と称したることの推測せらるるをや。
第二の説に至りては、むしろ牽強の憾みなき能わざるなり。天皇もし当時皇太子として、正殿に遷り給うを憚らせ給うならば、依然東宮にましますべし。したがってもと皇后にも天皇となれる御方に、大后天皇の称あるがごとく、これを東宮天皇とも申し奉るべし。なんぞこれに対して、天皇と皇太子との中間の意をもって、三后の称号たる中宮の名を用い奉るぺけんや。
三 銘文の中宮天皇は斉明天皇なるべきの論
斉明天皇はもと舒明天皇の皇后にして、後に天位に就き給う、実に中宮天皇にましますなり。されば天皇崩じてこれを越智の陵に葬り奉るや、天智天皇群臣に謂《かた》ってのたまわく、
我れ皇太后天皇の勅する所を奉じて、万民を憂へ恤むの故に、石槨の役を起さず。冀ふ所は、永代に以て鏡誡とせよ。(『日本紀』天智天皇六年二月条)
と。ここに「皇太后天皇」とは明かに斉明天皇にてますなり。旧説あるいは皇太后と天皇とを別視す。しからば皇太后とは孝徳天皇の皇后間人皇女にますか。しかも皇后はすでに天智天皇の四年に崩じ給い、六年斉明天皇を葬り奉るに当り、その越智陵に被葬せられ給えるなり。なんぞここに天皇の勅とともに、皇太后の令旨を言わん。かりに皇太后また薄葬の御遺志あり、その令旨をも天皇と並べ説くの便宜上「勅」の一字に籠めたりとせんも、今天皇の遺勅に(227)より、その葬を薄くし給うことを述べ給うに当り、ここのこれを援引するの要あらざるべきならずや。されどなおかりに百歩を譲りてこれを援引すと言わんも、かくては天皇、皇太后と序すべく、皇太后を天皇の上位に置くべからざるにあらずや。いわんや他方において、太后天皇の御称号の、他にもその例少からざるをや。かの『懐風藻』に倭姫皇后を太后天皇と申し奉れることはすでに言えり。ただし、こは天皇なるの御資格において問題あるがゆえに例とすべからずとの説もあらん。しからば『霊異記』に、二ケ所までも持統天皇を大后天皇もしくは大皇后天皇と呼び奉れるは如何に。該書上巻「忠臣少v欲足2諸天見1v感、得2現報1示2奇事1縁第廿五」に、
故中納言従三位大神高市万侶卿者、大后天皇時忠臣也。
とあり。こは明かにもと天武天皇の皇后にておわしし持統天皇を指し奉れるなり。また同巻「持戒比丘修2浄行1、而得2奇験力1縁第廿六」に、
大皇后天皇之代有2百済禅師1、名曰2多常1。
とある大皇后天皇も、また同じく持統天皇にてましますなり。こは本書の例、ほぼ年代をもって序するによりても察せらるるなり。しからば天智天皇の群臣に語り給いし皇太后天皇が、斉明天皇にてましますは明かなりといわざるべからず。しかしてその皇太后天皇は、これただちに中宮天皇にてますべきなり。天智天皇五年において、開眼せる仏像に、中宮天皇御不予の節に誓願してその像を作ると銘せるもの、斉明天皇を措き奉りて、なんぞ他にこれを求むぺけんや。
およそ仏像の成るは、必ずしもその誓願の時なるを要せざるなり。推古天皇十三年四月に、天皇・皇太子・大臣および諸王諸臣共同誓願して作れる銅繍丈六仏像は満一ケ年を費して翌年四月に成れり。奈良薬師寺金堂に今も存する丈六薬師三尊は、おそらく持統天皇がなお天武天皇の皇后にてましし時、天皇の即位八年庚辰の歳建子の月、すなわ(228)ち『日本紀』紀年の九年十一月の誓願にして、その始めて成れるは持統天皇の十一年六月なれば、その間実に十七年七ケ月を費したり。さればこの野中寺の仏像も、斉明天皇七年五月、朝倉社の神の崇りありて、七月に天皇崩じ給いしものなれば、このさい某寺の知識らが誓願して、人数一百十八人を催し、天智天皇五年四月八日の聖日を期とし、この銘を刻して開眼供養せしものと解すべきものならんなり。
四 余談三則
一、 銘文の「知識」の上の寺名明かならず。木崎氏はこれを「暫く橘寺」と読まれ、「橘の字にてあれかしと念ずるの外あるべからず」と言わる。他にもこれを「橘」と読まんとする人なきにあらざるも、字体いかにもおぼつかなし。いわんや斉明天皇の御ためにとならば、御関係深き川原寺などにこそこれを納むべきに、御因縁薄き橘寺の知識らが誓願を起すということの、やや適切ならざる感あるをや。しばらく疑いを闕きて、古代寺名の研究を俟つべきものか。
二、「開記」の「開」の字、余いまだ考え及ばざりき。あるいは他にも例ある「開白」の「開」と同意かとも思い、はては『大安寺資財帳』に、天智天皇皇太子たりし時の御語を録して、みずから御名を「開」と仰せられたりし例により、当時皇太子またみずから「開」と呼び拾い、天皇の御名にもこれを記し給いしにあらざるかとまで、苦しき考案をめぐらせしもいまだ暦の中段にまで考え及ばざりしは、かえすがえすも愚なりき。木崎氏が山田孝雄氏の『妙心寺鐘銘考』より、具注暦にこれを求められたるは敬服に堪えず。鉄案動かすべからざるなり。
三、この仏像あるいは仕入物にて、従前作られたりしものを購求して、天智天皇五年に銘文を刻したりとも思われざるにあらねど、斉明天皇御代の末年に誓願して、満五ケ年に近き日子を費したる後の開眼なりきとすれば、やはり(229)その銘文のころに新たに作られたりと解するを至当とせん。さればこの仏像は、御物四十八体仏中の高屋大夫誓願の銘ある弥勒像とともに、このころ行われたりし様式の好標本とすべきものならんか。 (大正七年九月二一日記)
〔入力者注、初出『考古学雑誌』第九巻第二号、大正七年一〇月、1918年〕
(230) 皇后宮と中宮との御称号について
一 はしがき
皇后宮と中宮との区別については、われらしばしば初心の人々から質問を受ける。中には皇后宮のみが万乗の君の和正配で、皇后宮なき場合は中宮が当然御正配であらせられるけれども、雙方相並んで御立ちの場合には、中宮は一段お身分のお低い方のように心得ているものもある。中にはかなり歴史に通じておらるるはずの人でも、はなはだ不敬な申分ではあるが、皇后宮はきわめて尊い御身分ながら、下様《しもざま》で申す床の間のお飾りという御次第で、別に御親愛あるべき中宮をお立てになるのであるというように、自然尊卑の意をその間に寓して解する人もないではない。
皇后宮と中宮との御関係は、実は今さらわざわざここに自分の筆を要とするには、あまりに明瞭なる問題である。少しく実例について調査を試みたならば、何人も容易にその沿革を知るを得べきもので、またすでにこれを調査し、明かに会得された先輩も少くはない。ことに故井上頼圀博士のごときは、後宮に関する論文をもって学位を受けられたほどであって、この方の研究には、十分徹底されているはずである。その関係論文も、しばしば諸種の雑誌(?)(231)に発表されたそうである。自分は今、子供の病気看護の枕頭にこの筆を執りつつ、これら先輩の研究を渉猟するの暇を有せず、ただ手近にあり合せの少数の史料から、これが沿革を記述するのであるから、中にはすでに先輩の説きつくされたところがあるかも知れぬ。わかり切ったところに徒労を重ねているのも少くなかろう。大切なことを落しているのもまた多かろう。しかし自分は、自分の主宰の『民族と歴史』三月号に、「嫡妻と本妻・妾妻」の題下において、臣下における一夫多妻の状態を論じたちなみに、一言皇后宮と中宮との御関係に説き及んでおいたので、この機会をもって本誌の余白を藉り、その沿革を略叙して、しばしば繰り返される質問者の答弁にも代えてみたいと思う。昨年河内野中寺から発見せられた中宮天皇の御称号ある銘文について、その斉明天皇にて坐すべきことを『考古学雑誌』上で発表した後においても、なおあれこれ世間に異議のある今日において、余輩のこの発表も、必ずしも徒労ではあるまいと信ずる。
二 中宮必ずしも天子の御配偶にあらず
「大宝令」の規定では、中宮とはもと三后の御称号で、皇后でも、皇太后でも、大皇太后でも、皆中宮と申し上ぐべき訳である。『日本紀』天智天皇の「詔」に、斉明天皇の御事を皇太后天皇と申してあるのに対して、前記河内野中寺の銅仏像の銘には中宮天皇とある。ここでは明かに皇太后すなわち中宮でいらせられる。中務《なかつかさ》省に中宮職という役所があって、そこで三后の御方々に関する事務をともどもにお扱い申すというのが、「大宝令」の規定であった。したがって皇后のみで、皇太后も大皇太后もおわさぬ場合には、皇后がただちに中宮でいらせられるはずであるが、皇后おわさぬ場合には、皇太后や大皇太后がまた中宮でいらせられるのである。
文武天皇は御一代皇后をお立てにならなかった。またこの御代には皇太后も大皇太后もおわさなんだ。したがって(232)この御代には、中宮職は官名のみで実際には空《あき》であったはずである。しかるに夫人藤原宮子のお腹の皇子、すなわち聖武天皇の御即位の後に、その御生母を尊んで皇太夫人と申しあげ、皇太后に准じて、ために中宮職をお置きになった。この場合中宮は御生母でいらせられる。その後天平元年に至って、藤原光明子を皇后にお立てになったについて、令制のままならばこの皇后の御事務をも、宮子皇太夫人の御事務とともに、その中宮職にてお扱い申すべきはずであったが、特に御都合のあったものと見えて、この時令制以外に別に皇后宮職を置かれ、中宮職・皇后官職并び存するの実際となった。この場合中宮と皇后宮との問に判然区別が出来て、中宮は天子の御生母、皇后は天子の御配偶ということになった。『続日本紀』天平九年十二月条に、皇太夫人藤原氏が皇后宮について僧正玄※[日+方]法師の看病をお受けになり、多年の御幽憂の御病も恵然開悟されたので、天下慶賀せざるなく、天皇ために法師に恩賜あり、中宮亮|下道《しもつみち》真備(吉備真備)に従五位上の位を授け、また中宮職の官人六人にも位を授け給うたとのことがある。当時中宮・皇后並存の事実はこれによっても察せられる。さらに『正倉院文書』天平十年「駿河国正税帳」には、
中宮職交易※[糸+施の旁]直並運担夫庸稲玖阡参伯捌拾束
皇后宮交易雑物直並運担夫庸稲壱阡玖伯捌拾束
と並べ掲げてあるので、いっそうそれが裏書される訳である。
桓武天皇の御代にも同じことがあった。天皇は御生母高野皇太夫人のために中宮職を置かれ、皇后藤原乙牟漏のために皇后宮職を置かれた。延暦二年四月二十日、左大弁従三位佐伯今毛人を兼皇后宮大夫とし、延暦三年七月十三日、近衛中将正四位上紀船守を兼中宮大夫に任ぜられたとあるのはこれだ。
三 皇后宮・中宮は官衙の名
(233) 右の如き次第で、中宮と申し、皇后と申すも、実はその事務をお扱い申し上げる役所の名と一致することであって、実は何天皇の中宮と申すべきではなく、何天皇の御代の中宮と申すべきほどのものになった。されば、実際には中宮であって天皇の御配偶の場合もあれば、時としては皇后と申しても、当今の御配偶でない場合もあるというような奇現象も起った。ことに平安朝もやや年を経たころになっては、政務がますます繁褥になったうえに、天子御譲位の場合が多く、皇后以外、皇太后・大皇太后并びおわする場合が多かったがために、単に中宮職というではなく、皇后宮・皇太后宮・大皇太后宮に対して、それぞれに別の役所をお置きになるような風潮になって来た。それでも足らぬ場合には、さらにその以外に、「大宝令」の官制をついで、同じ名前の中宮職をも置かれることになった。
寛平九年七月醍醐天皇御即位の後、先帝宇多天皇の女御藤原温子を尊んで皇太夫人とし、これを中宮と申し奉った。皇太夫人のために中宮職を置いたので、この場合中宮は天皇には御継母の御間柄である。この時清和天皇の御生母藤原明子は大皇太后、宇多天皇の御生母班子女王、すなわち醍醐天皇には御祖母で当然大皇太后と申すべき御方が、やむなく皇太后のままであらせられ、両宮とも塞がりてあったから、実いえば御継母は皇太后と申すべきはずながら、さらにそのうえにこれを皇太后と申す訳にはまいらなかったのである。しかしてその中宮の御事を、『扶桑略記』には、延喜七年六月八日、皇后藤原温子崩ずとも書いてある。中宮と申さばその実皇后同等に御待遇申した訳で、温子は宇多天皇の皇后と尊まれたのであった。次に円融天皇は、天延元年七月に先帝冷泉天皇の皇后昌子内親王を皇太后とし、女御藤原※[女+皇]子を皇后とせられた。これは当然の順序であるが、この皇后を世には堀河中宮と申している。この場合皇后・中宮同一であることを示したものといってよい。この堀河中宮天元二年に崩ぜられて、天元五年に女御藤原遵子を皇后とせられた。このお方をも中宮と申し上げている。
ところが寛和二年七月に一条天皇は、円融天皇の御代の皇太后昌子内親王を大皇太后とし、御生母なる円融天皇の(234)女御藤原詮子を皇太后と尊称せられたについて、同じ円融天皇の皇后たる中宮藤原遵子をお置き申す場所がない。そこで当然皇太后たるべきはずの遵子は依然として一条天皇の御代にも中宮の御名前のままにましましたが、正暦元年に天皇は女御藤原定子を中宮になさるるについて、中宮お二人を生ずる訳となった。そこでやむを得ず従前の中宮、すなわち先帝の皇后遵子を皇后と申し、定子を中宮と申すこととなった。この場合中宮は天皇の御配偶で、皇后は先帝の衝配偶すなわち今上には御継母の御間柄である。翌正暦二年九月に、皇太后詮子落飾せられたので、皇太后宮職を停め、尊号を奉って東三条院と申した。ここにおいて皇太后のお場所は空《あき》になった訳であるが、遵子はなお依然として、皇后の御称号のままで継続せられた。『日本紀略』長徳元年四月二十一日条に、
賀茂祭也。大皇太后宮・皇后宮・中宮・東宮等、依v穢不v被v立v使。
とある皇后は円融天皇の皇后遵子で、中宮は今上の御配偶なる定子でいらせられる。かつて誰かの書いたものに、藤原遵子は円融天皇の皇后であって、さらに一条天皇の皇后となられたと解し、二代の后の例に引いたのを見たことがあった。もとより無稽の説ではあるが、素人には間違いそうなことだ。
四 天子御両妻の新例
長徳三年皇后遵子落飾せられたが、しかもなお依然皇后の御称号は御継続になった。長保元年大皇太后昌子内親王崩ぜられ、大皇太后宮は皇太后宮とともに空になった。残るところは皇后宮と中宮とのみである。ところへ翌長保二年二月、女御藤原彰子冊立の問題が起った。すなわち皇后遵子を皇太后とし、中宮定子を皇后とし、彰子を中宮とせられた。この場合皇后・中宮並び立つの状態は従前通りであるが、事実は御両宮ともに天皇の御配偶であった。しかして中宮彰子はやはり明かに皇后で、ただ皇后定子と区別するために、その宮名を中宮と申したに過ぎない。『日本(235)紀略』に、
以2女御従三位藤原朝臣彰子1為2皇后1【号2之中宮1】即任2宮司1。以2元中宮職1為2皇后宮職1。
とあるのは、真を得たものだ。かくて皇后・中宮相並んで天皇の御配偶たる例は、ここに開かれたのである。これ全く藤原道長専横の結果ではあるが、皇后・中宮並び存するの前例が、その形を存して実質を改めたに過ぎないのである。
五 皇后宮と中宮との別
右述べたような次第で、中宮と申し、皇后と申しても、実はそのお役所たる中宮職・皇后宮職に伴っている御名前で、先帝の御配偶すなわち正しく申さば皇太后たるべき御方で、あるいは中宮と申され、あるいは皇后と呼ばれ給うたこともあったのである。したがってそれがともに当今の御配偶の場合には、いずれに軽重のないのは無論のことで、同じく皇后であらせられる。
しかしもし強いて皇后と中宮との間に区別を求めるならば、普通の場合皇后は御年長で、中宮は御年少、皇后は御先輩で、中宮は御後輩というような事実がないでもない。したがって尊貴は皇后の方に多く認められ、御寵愛は自然中宮の方へ傾かれるというようにも考えられぬこともない。歴史に初心の人々が、往々にして中宮と皇后との間に多少の軽重のありそうな感じがすると言われるのは、ここのことであろう。事実その当時において、皇后をもって中宮よりも上位におわすべく考えられたこともないではなかったようである。三条天皇はまだ東宮にましましたころ、左大臣藤原道長の第二女妍子を妃と遊ばされ、寛弘八年践祚、これを女御となし、長和元年中宮に冊立された。この中宮冊立についても、実はすこぶる面倒な事情があった。天皇が妍子を東宮妃とされたのは寛弘七年妍子十七歳の時(236)(一説に六年とも三年ともあるが、今七年説に従う)であるが、まだお子がおわさない。しかるに天皇はまた、まだ東宮でおわした正暦二年に、大納言藤原済時の女の十九歳になる※[女+戎]子を容れて、皇子女を多く儲けになっておられた。そこで天皇登極の後、※[女+戎]子は研子とともに女御となった。この時妍子十八歳、※[女+戎]子三十九歳、天皇三十六歳であらせられた。天皇は妍子を皇后に立て給わんのお思召を道長に諭されたが、道長は表面※[女+戎]子を勧めて御辞退を申す。かくて長和元年二月に至り、始めて妍子中宮冊立となったのである。しかしそのままでは世間が治まらぬ。道長は外議を恐れ、本意に反して天皇に勧め奉り、同年四月※[女+戎]子を皇后に冊立することになった。このさいの事情は『小右記』に詳しく出ている。道長は表面立后を御勧めしたが、内々は妨害を試みている。公卿ら道長の威を憚って皆中宮に集り、式に参列するものが少い。冊立の「宣命」の文句についても、妍子冊立の時の文と同一にすべきか否かの問題も起った。中宮妍子を尊んで皇后となし、※[女+戎]子を中宮とすべきかの問題もあったが、結局妍子はもとのままで中宮、※[女+戎]子は新たに皇后と称せられるということで納りがついた。この場合御年齢においても、また東宮時代の御関係においても、、※[女+戎]子の方が御先輩の訳ではあるが、后位においてはむしろ妍子の方が御先輩と言わねばならぬ。しかして妍子は現に時めいた道長を父に有し、※[女+戎]子の父済時はようやく大納言で、それもつとに故人になっているのであったから、皇后※[女+戎]子が中宮妍子よりも尊いというような事実があるべきではない。
後一条天皇は寛仁二年十月、女御威子を皇后に冊立せられた。しかしてこれがために中宮職を置かれ、藤原斉信は中宮大夫、能信は中宮権大夫に任ぜられた。かくてその後の記録、いつも中宮の御名称をもってこの御方のことを表わしている。すなわち御配偶が御一方の場合には、明かに皇后すなわち中宮である。両者尊敬においても、地位においても、その別なきことを示したものと言わねばならぬ。
(237) 六 結 論
これを要するに、中宮とはもと三后の総称、皇后とは三后中特に当今天皇の御嫡后の称であったが、後にそれが官衙の名に呼ぼるることとなって、中宮職以外皇后宮職・皇太后宮職等を置くようになり、平安朝以来天皇御譲位の例が始まって、遜位の君の御配偶多くまします場合には、往々その官衙が塞がりになるがために、空《あき》を求めて時にあるいは先帝の后を中宮と申し、あるいは依然皇后と申すというがごとき、はなはだ奇態なる現象を生じて来た。ことに天子両嫡后を有し給うの例始まって、ますます混雑を生じて来た。かくてその両嫡后については、一を皇后と申し、一を中宮と申すの例となったが、後にはそのお一方の場合に、あるいは中宮とも、あるいは皇后とも申し、さらに後には、中宮の名称が普通になるに至ったのである。
されば中宮と申し皇后宮と申しても、時代によって御名称の用い方に相違があって、一概にこれを説くことが出来ないが、大体として両者とも、至尊の御配偶者として、尊敬の度において軽重なきは前後とも変らぬところである。
(大正八・二・二五)
〔入力者注、初出『歴史地理』第三三巻第四号大正八年四月、1919年〕
(238) 道鐘皇胤論
一 緒 言
奈良朝末期における史上の一大疑問として道鏡皇位|覬覦《きゆ》の一件は、古来幾多の史家の頭を悩ましたところであるが、まだ十分の解決を得ていない。だいたい道鏡その人についてのみならず、和気清麻呂にしても、その姉の法均にしても、また習宜阿曾麻呂にしても、藤原百川にしても、ないしは吉備真備にしても、いやしくも道鏡に関係して舞台に現われた人々の事蹟はいずれも疑問の黒雲に蔽われているところが多いのである。後世から清麻呂や法均は忠誠無二の偉人で、阿曾麻呂は権勢阿附の小人であったと認められてはいるが、道鏡排斥後の新政府の論功行賞においては、道鏡に阿附して大問題を惹起した元凶とも認められる大罪人阿曾麻呂はなんらの処分を受けなかったのみならず、宝亀元年八月二十一日、すなわち道鏡の下野に流されたと同時に、太宰主神という低い地位から多※[衣+陸の旁+丸]島守《たねがしまのかみ》に任ぜられ、その後わずかに一年九ケ月を経て、道鏡の死後間もなく、同三年六月六日というにさらに大隅守に栄転し、かなり重い恩賞に預った観があるにかかわらず、忌憚なき神教を復奏して除名せられ、流謫《るたく》の刑に処せられて、具さに辛酸を(239)嘗めた清麻呂と法均とは、新政府からあまり顧みられた形迹が見えぬ。清麻呂は神教復奏の後に称徳天皇の逆鱗に触れて、従五位下近衛将藍からいったん因幡員外介に左遷せられ、それでもなお不足とあって、さらに除名のうえ、姓名をまで別部穢麻呂《わけべのきたなまろ》と改められ、大隅のごとき僻陬の地に流されたのであるから、天皇崩じ道鏡仆れて後の新政府からは、慰労の意味からでも厚く賞せられなければならぬはずである。しかるにもかかわらず道鏡|貶謫《んたく》の翌九月六日になって、彼はやっと召し返されただけで、しかも半年以上もそのままに打ちやられて、翌宝亀二年三月二十九日に始めて本位従五位下に復せられたに過ぎなかった。しかもなお前に授けられていた皇別真人の栄爵は返されずして、当時田舎者の姓《かばね》として、夷姓とまで言われたもとの和気公のままで置かれているのである。かくて彼が宿禰姓となったのはその後のことで、さらに半年を経た九月十六日に至って、わずかに播磨員外介に任ぜられたに過ぎなかった。またその姉法均尼は、称徳天皇に仕えてつとに従四位下に准ぜられ、それ相当の位封をも受けていたのであったが、これも神教一件で清麻呂貶謫と同時に還俗させられ、その名も別部狭虫《わけべのさむし》と改めて備後に流され、清麻呂と同時に召し返されはしたが、やっと五十日後にもとよりは四階も下の従五位下に叙せられたに過ぎなかった。これ果して道鏡排斥の新政府が、皇位のためには身命を顧みざる誠忠無二の清麻呂・法均を待ち、権勢阿附の元凶として唾棄せらるる阿曾麻呂を遇するの途であろうか。これは必ず表面にあらわれた事実以外に、隠れたる事情の潜めるものなることを示すものではあるまいか。かの道鏡が始めて天位を覬覦するの志を起したのは、阿曾麻呂の奏上した詐りの神教を信じたからのことだとは、明かに新政府編纂の『続日本紀』の記するところである。しからば阿曾麻呂は明かに教唆者として、少くも同罪人なるべきものである。しかしてこれがために天皇は欺かれ給いて、ために種々の事件が持ち上り、危く神器は妖僧道鏡の手に帰したかも知れぬというほどの大問題を引き出したのである。しからば道鏡を排斥した後の新政府の目からしてこれを見れば、阿曾麻呂は死もなお償うに足らざる大罪人でなければならぬ。しかしてこれに(240)対して清麻呂らは身命を賭して王位を守護し奉ったのであってみれば、新政府からは必ず非常の恩賞あってしかるべきで、護王大明神として祭られることは、近く嘉永四年を待つべきではなかったはずでほあるまいか。
藤原百川の暗中飛躍は、今やほとんどすべての史家の認むるところで、その道鏡排斥に対する活動は、ほとんど疑うの余地がない。しかして左大臣藤原永手らもおそらくこれに関係していたのであろうが、『続日本紀』の表面には少しもそれが見えていない。『日本紀略』引『百川伝』には、道鏡のことに関して飛んでもないことまで露骨に書いてあるにかかわらず、『続日本紀』「百川伝」には、光仁天皇のこれを重んじ給いしことはかなり委しく見えていながら、一言その道鏡関係のことに及んでいないのはどうしたことであろうか。
吉備真備は道鏡の栄達と相伴いて急激な栄達を遂げ、もと備前の田舎者の子が門閥家の人々を凌駕して一躍大臣の地位にまで陞ったのであった。しかして彼は光仁天皇の御即位とともに骸骨を乞うたのである。そこで彼は後世の学者から、あるいは道鏡の参謀であったかのごとく、あるいはその腰巾着であったかのごとく悪しざまに言われているのである。しかし彼の出所進退も、実は『続日本紀』の表面のみでははなはだ明瞭を欠いている。
ことに奇態なのは道鏡その人で、清麻呂の忌憚なき神教復奏の弾劾のために少しは閉口したかと思えば全然そんな模様はなく、ますます天皇の御親任を厚うして、忌憚なき横暴を極めたのであった。その郷里なる河内の弓削に由義宮《ゆげのみや》を営んでこれを西の京となし、ためにその河内国を河内職に陞せ、天皇この宮に行幸あって、ここで盛んな歌垣が催うされ、内実道鏡排斥の張本人とまで認められる百川は、その河内職の大夫に任ぜられて、おそらく道鏡の秘書官くらいの顔をなし、みずから立ってその前に倭※[人偏+舞]《わぷ》を奏したり、さらに造由義大宮司が任命されたり、由義寺《ゆげでら》に塔を作ったり、弓削氏の一族がそれぞれ恩賜に預ったり、またその一族が多く高い姓を賜わったりしたのは、皆この神教一件の後のことであった。すなわちこのことがあったがために道鏡の勢力が挫かれたのではなくて、彼はその後ますま(241)す得意の域に達したのである。ただに彼の勢威が挫かれなかったのみならず、彼が阿曾麻呂の教唆によって起した天位覬覦の野心は、天皇崩御の後までもなお継続したのであった。すなわち清麻呂の忌憚なき復奏は、単に清麻呂と法均とが神教を詐って天皇を欺き奉ったという罪に落ちたのが結局で、道鏡の非望に対しては、天皇の御心にもまた道鏡の行動にも、なんらの影響を与えなかったのである。
最も解し難いのは天皇の崩後における道鏡の挙止である。天皇は彼にとってほとんど唯一無二の擁護者にましますくらいのことは、いかに時勢に暗く、調子に乗り過ぎた彼においても、つとに理解されたはずである。しかるにもかかわらずその唯一の擁護者を失った後の彼は、なんら自衛の策に出ずることなく、しおらしくも高野陵下に盧を結んで念仏三昧に日を送り、しかもなお心非望を捨てずして、群臣どもに自己を擁立するならんとの僥倖を待ち受けておったなどいうに至っては、その愚笑うに堪えたりくらいの批評ではすまぬ大疑問であらねばならぬ。
これらの疑問については、さきに『中央史壇』「国史上疑問の人物号」において、「習宜阿曾麿〔36〕」の題下にその一部を解釈しておいたが、なおここに道鏡その人の身分について、一大疑問が遺されているのである。
道鏡は俗姓弓削氏河内の人と『続日本紀』にある。しかも彼は法王となり、ついに天子となろうとまで非望を抱くに至ったのである。道鏡いかに天皇の御親任を得たからとて、彼が単に河内の弓削氏所出の一比丘であったならば、天皇がこれに法王位を授け給い、載するに鸞輿をもってし、衣服飲食一に供御に擬し、政巨細となく決をこれに取るなどいうことがあり得べきはずではない。シナでほ戦国以来臣籍のもの王号を僭称し、あるいは皇帝より王爵を臣下に授けるの例も開けたけれども、本朝においてはかつて皇族以外に王号を有するものはないのである。これは道鏡という一個人に授けたのではなくて、仏法の師たる道鏡に授けたのだから例外だという説明も出ているけれども、しかし苦しい弁解である。またよしや天皇これを授け給うとも、藤原氏以下の卿相が相率いてこれを甘受し、平(242)然としてその前に羅拝するなどは滑稽千万であるといわねばならぬ。ことに当時は帝権のはなはだ盛んな時代であった。皇族以外のものも立って天子となり得るとの思想はとうてい何人の脳裏にもあり得ないのである。清麻呂の復奏にも「開闢以来君臣定まる」とある。しかるにもかかわらず、いかに神教に仮托したとはいえ、阿曾麻呂が道鏡を天位に即けたならばなどとの奏上が、どうしてこのさい出て来得たであろう。しかして天皇がこれにお迷いになることが、どうしてあり得たであろう。ことに最後までも道鏡がその非望を捨てずして、卓然として僥倖を期待していることが出来たであろう。これ実にわが国体上より、また国民の思想上より、とうていあり得ない事実といわねばならぬ。
ここにおいてか古来道鏡皇胤説が世に行われているのである。道鏡が果して皇胤であるならば、彼が法王位を授けられたり、天子としてはとの説が提出せられたり、それを聞いて彼が野心を起したりしてみても、いくらか説明がつく訳である。しかるに『続日本紀』毫もこれを言わぬのみならず、かえって見ようによってはその反証らしく解せられる文句が少からず見えているのである。ここにおいてか道鏡皇胤説は、とかくこれまでの史家の間に看過せられることになっている。去る明治二十四、五年ころに『史海』誌上でこの問題が論ぜられた時、故田口博士〔37〕はやや皇胤説に傾いたかのごとき態度を示されたが、当時の論客たる久米博士、故吉田博士、故平山鏗二郎氏らは皆反対で、田口博士も皇胤説の評判の悪いのには閉口するといわれて、あまりこれを主張されないで終ったのであった。その後の史家の発表また皇胤説否定の説こそあれ、これに左袒されたものあるを聞かぬ。かくてこの疑問は今なお遺されているのである。しかもこれ永久に疑問として放任すべきものであろうか。わが万世一系の皇統は、たとえそれがとうてい実現さるべきものではないまでも、なおかつ時にはこれを他姓に革めてほとの大それた説を容れてみるの余地があり得るものであろうか。わが天壌無窮の皇運はもちろん万代かけて動きなきものであるとはいえども、なおかつ時には動揺を来すの虞れがあるほどに薄弱なものであろうか。これ余が幾多論客のすでに論じつくした問題であ(243)るにかかわらず、さらにこゝに再びこれを蒸し返してみんとするゆえんである。
二 道鏡皇胤説の出所
道鏡が皇胤であるとの説は、近世ではとかく史家の間に不評判であるけれども、かつてはかなり世に信ぜられていたものであった。平安朝から室町時代に渉っての書類多くこれを認めている。応永十五年五月足利義満薨じて、太上法皇の尊号を追贈せんかの義が起ったことがあったが、道鏡は皇胤であるという理由をもってその前例にも引かれなかった。『東寺執行日記』に、
贈太上法皇号可v被v給之由雖v有2宣下1、昔ヨリ此例依v無v之、勘解由小路禅門申留。云々。
とある。また『文禄清談』には、「北山殿義満公をば後小松院御猶子になぞらへ給てより、将軍家を公方と称し、剰へ太上皇帝の贈号を勅許あり」と書いて、御猶子たるがゆえにと弁じているが、それでもなお『翰林※[草冠/胡]蘆集』には、「法皇は乃ち吾朝帝王の称なり、台霊に謚するに此の徽号を以てす、栄の又栄、嗣君之を辞す、其の恭謙の心尚ぶべし」とあって、たとい御猶子でもなお法皇の号は不適当であることが認められたのだ。このさい大外記師胤は権中納言山科教言に向って、弓削道鏡の先例いかんと質問に及んだところが、教言はこれに答えて、「道鏡は天智帝の孫なり」と一言のもとにこれを排斥している。これは義満のことに関してたまたま問題になったのだが、道鏡が天智天皇の皇胤であったとの説が、当時有識家の間に認められていたことは明かである。
道鏡皇胤説の最も古く物に見えているのは『七大寺年表』である。
天平宝字七年【癸卯】小僧都道鏡【九月四日任、法相宗東大寺或西大寺】河内国人弓削氏、天智天皇孫、志貴親王第六子也。義淵僧正弟子。初籠2葛木山1修2如意輪法1、苦行無極。高野天皇聞2食之1。於2近江保良宮1有2御藥1。仍召2道鏡1被v修2宿曜秘法1、殊(244)有v験。御疲平復。仍被v任2少僧都1
『僧綱補任抄出』記するところまたこれに同じい。けだし『七大寺年表』とはもと『僧綱補任』で、両者けだし同一出典といってよい。元来この書は平安朝もあまり降らぬ時代の編纂で、おそらく後に書き継いだものらしく、したがって南都の寺院では、古くから道鏡の皇胤であることを認めておったことが知られるのである。
降って室町時代になっても、『本朝皇胤紹運録』には明かに左のごとく記してある。
光仁天皇
湯原親王−壱志濃王
海上王
榎井親王
施基皇子 春日王
壱志王
弓削清人 【大納言、正二位、太宰帥】
道鏡禅師 【大禅師位、太政大臣、法皇位、初少僧都、薬師寺別当、天平神護元年三月任2太政大臣1、同二年十月授2法皇之位1、禅護景雲三年配2下野国1】
この系図によると、道鏡は施基親王第八子で、『僧綱補任』の第六子というには合わぬが、その皇胤なることを認めた点においては一である。しかして『続日本紀』に弓削浄人(系図に清人とあるに同じ)は道鏡の弟とあれば、この点においても右の系図には明かに誤りがあることが知られるが、『公卿補任』頭書引用の帝王系図なるものには、
施基皇子 光仁天皇 湯原親王 春日王 海上王【女王】 榎井親王 【弓削】道鏡法王 浄人朝臣
(245)とあって、まさしく彼が施基皇子の第六子というに当り、「七大寺年表』の説に一致している。この帝王系図なるものの年代は不明であるが、いずれ室町以前のものであると察せられる。また『公卿補任』の本文には、
河内国人、俗姓弓削宿禰、大納言清人之舎弟(兄歟)也。
と書いて、だいたい 『続日本紀』の文によっているが、しかもさらに、
或本云、天智天皇孫、施基王子之子也。法相宗西大寺、義淵僧正門流、常侍2禁掖1甚被2寵愛1。
と付記して、その皇胤なることを述べてある。この或本なるものが何であるかはまた明かでない。しかし古くかかる説が一般に認められ、この種の記事ある書籍がいろいろあったものと解せられるのである。
かく諸本記するところ多少の異同があるとしても、これを施基皇子の子、光仁天皇の弟とする点においては、いずれもその揆を一にしたものであって、平安朝から室町時代に至るまで、世間あえてこれを疑わんとはしなかったものらしい。
しからばこの説はただちにもって信ずべきものであろうか。『続日本紀』の記事は果してこれに対して矛盾するところがないのであろうか。
三 道鏡皇胤説の難関
道鏡の皇胤なること、古来右のごとく諸本の記事一致して、他に一もこれと違った系図が伝わらぬとすれば、その説もはや疑いを容れざるものと見てしかるべきであろう。しかるに一方においては、道鏡の当時を拒る僅々二十余年後の『続日本紀』が毫もこれを言わざるのみならず、かえって往々それを否定すべきかのごとき記事の繰り返されているのはどうしたものか。これ実に道鏡皇胤説にとって一大難関というべきもので、多くの史家がその皇胤たるを信(246)ずるを難ずるゆえんのものは、また実にここにあるのである。
『続日本紀』の「道鏡伝」(死去の条下の記事)には、単にこれを「俗姓弓削連、河内人」とあるのみで、もちろん彼と施基皇子との関係は見えておらぬ。また、「其の弟浄人布衣より、八年の中に従二位大納言に至る。一門五位の者男女十人」などいってあるところを見ると、編者が決して彼ら兄弟の皇族なることを認めておらぬのは明かである。否、皇胤なることをも示さぬ筆法といわねばならぬ。また同書所載、称徳天皇が天平宝字八年九月二十日に、恵美押勝を擯斥し給うた時の「宣命」にも、
之(押勝を指す)が奏ししく、此の禅師(道鏡)の昼夜朝庭を護り仕へ奉るを見るに、先祖の大臣として仕へ奉りし位名《くらいな》を継むと念ひてある人なりと云ひて、退け給へと奏ししかども、此の禅師の行を見るに、至りて浄く仏の御法を継ぎ隆《ひろ》めんと念行《おもほし》まし、朕をも導き護りますおのが師をや、たやすく退けまつらんと念ひてありつ。
とある。これは押勝が道鏡の野心あるを看破し、これを退け給わんことを天皇に奏請し奉ったのに対する譴責の御辞である。したがって少くも天平宝字八年のころには、彼は弓削大臣なるものの後裔として認められていたのである。弓削大臣の後裔なんぞ皇胤なることを得ようや。
弓削大臣とはいうまでもなく物部大連守屋のことであろう。守屋は河内の弓削にいて、物部弓削大連と呼ばれた。その大連という姓《かばね》は、連家《むらじけ》の首長として朝政に参与するもので、後の大臣というに当る。ゆえに『日本紀』にも、大連、大臣を併称して両大臣などと呼び、ことに守屋滅亡後は大連の称号がなくなり、大化の新政府には連家の出たる大伴長徳をも、大臣の官名に据えられたのであってみれば、その後百余年を経たる天平宝字のころに、これをただちに弓削大臣といったとて毫も不思議はない。今も俗称には、往々守屋の大臣などといっているのである。一説にこの先祖の大臣とは、物部守屋のことではなくて、蘇我入鹿の弟で物部氏の名を継ぎ、その財産を承けて、物部大臣と称(247)したと『日本紀』にある人のことであろうとあるが、この人は本名も後に伝わらぬほどで、あまり権勢を有したらしくもなく、またそれでは道鏡が先祖の大臣の位名を継がんとするの野心があるといわれたに対しても、不適当と思われる。弓削は河内国旧若江郡の地名で、実に道鏡の郷里であった。しかしてここに由義宮が設けられ、由義寺が営まれたのであった。しかもこれ実に守屋の縁故地であったのである。道鏡はけだし物部守屋の後裔と認められたもので、『続日本紀』に「俗姓弓削連、河内の人」とあるのは、決して偽ではない。ことに和気清麻呂の宇佐から帰って復奏した神教なるものを見るに、「我が国家開闢以来君臣定まれり、臣を以て君とすることは未だこれあらざるなり。天之日嗣《あまのひつぎ》は必ず皇緒を立てよ。無道の人は早く掃除すべし」とある。この神教なるものは当時清麻呂、法均らの偽作と認められて、ためにこの両人は神教を詐りて天皇を欺き奉ったという罪状のもとに、除名の上流謫の刑に処せられたのみで、ためになんら道鏡の非望を挫くの結果を生じなかったのであるけれども、このいわゆる神教なるものの内容を案ずるに、道鏡は明かに臣籍の者であって、開闢以来君臣の分の定まれるわが國の習慣に照らして、決して天子たるべき資格なきものであったことを示したものである。この意味からして彼はまた、その皇胤なることを認定せられ得ないこととなっているのである。
しからば道鏡は果して真に物部氏の血統をうけた後裔で、『僧綱補任』以下の諸書いうところことごとく妄誕信ずべからざるものとして捨つべきであろうか。
四 皇族と皇胤、道鏡と弓削氏
道鏡が俗姓弓削氏河内の人で、その祖先には大臣の位名を有したものがあり、その後裔なる彼がその位名をつがんとするの野心を有すと疑われたことは『続日本紀』の記事毫末の疑いを容れぬ。また彼が皇位を継承すべき資格なき(248)臣籍の者として、当時の憂国の志士から排斥せられたこともまた毫末の疑いを容れないのである。しかしながら一方には、彼を天子としたならば如何であろうとの説も提出されている。天皇もこれには迷いになった。道鏡自身も当初はそんな野心はなかったが、このことを聞いてなるほどと合点したものと見えて、始めてここに皇位覬覦の心を起し、清麻呂が神教復奏の弾劾に遇っても、ためにその野心を捨てることなく、天皇崩御の後までもなお群臣の迎立を夢想していたのであった。しかして一切の系図は前述のごとく彼を天智天皇の皇孫で、施基皇子の王子だといっているのである。ここにおいてこの一見矛盾したるがごとき二種の所伝は、とうてい両立し得ないものであろうか否かを一考せねばならぬ。
言うまでもなく『続日本紀』は、道鏡反対の新政府の手によって編纂せられた勅撰の国史である。その奏上は延暦十六年であるが、実はその後半はその前年に脱稿奏上したものであった。したがって道鏡に対してよしやそう偏頗な記事はなかったとしても、少くも新政府にとって不利益なことは書かれるはずがない。光仁天皇は同じく天智天皇の皇孫で、施基皇子の王子であっても、これは当初から白壁王として、立派な皇族にましましたのである。されば天武天皇の皇統を受け給うた称徳天皇の御代においては、かつて皇嗣としての問題に上ったことはなかったけれども、その崩後群臣の推戴するところとなって、天子となり給うたになんら不思議のあるべきところはない。
しかるに道鏡は、同じく天智天皇の皇孫で、施基皇子の王子であったとしても、その身分は明かに皇族ではなかった。ここに、皇族と皇胤との区別あることを考えねばならぬ。古くは阿倍・蘇我・紀・平群らの諸氏を始めとして、源・平・橘・清らの諸氏はいずれも明かに皇胤である。しかし何人かこれを皇族であるというであろう。道鏡の出自が如何にもあれ、すでに弓削氏を冒した河内の住人であってみれば、むろん皇族ではない。したがって道鏡反対の新政府が編纂の書にこれを皇族と認めず、ことにその不利益の点を隠して、彼が皇胤として現代の皇統に関係深いもの(249)であったことにも言及しなかったとて、あえて不思議はなかったであろう。また和気清麻呂が彼の臣籍にあるのゆえをもって、開闢以来君臣定まるとしてこれを弾劾排斥したに不思議はなかったであろう。しかしながら、それがたとい臣籍に下っていたとしても、もと果して天智天皇の皇孫であってみれば、一方にそれを法王として尊敬してみたり、ある目的のもとにこれを天子と推戴してはなどとの議を起してみたり、あるいは道鏡自身にしても、あわよくば天子になってみようとの野心を起したりしたことがあっても、そこにはまた幾分の説明はつくべき訳である。
皇族が臣籍に下る場合には、普通は新たに一戸を創立されるのであるが、時には母家の姓をつぐという例もある。そのほか後世にあっては近衛信尋公のごとく、全く普通の養子の形式によって、臣籍の家をつがれた場合もないではないが、古代にはそんな例は見当らない。皇族が母家の姓を冒した著しい例には橘氏がある。敏達天皇の皇玄孫美努王と橘三千代との間に生れた葛城王および佐為王の同胞は、天平八年奏請して生母橘氏の姓を冒し、橘諸兄および橘佐為となられたのである。橘三千代は本姓|県犬養宿禰《あがたのいぬかいのすくね》で、もちろん臣籍の出である。彼の女は内命婦としてつとに宮中に仕え、和銅元年特に橘宿禰の姓を賜わったのであった。すなわち県犬養氏から出て新たに一家を創立したのである。彼の女は美努王の妃として葛城・佐為の二王を生んだ後に、さらに藤原不比等に嫁して光明皇后を生み、死後従一位を贈られたほどの人である。しかるに男系相続のわが邦俗にあっては、この名家も彼の死とともに一代限りで絶つべき次第であったので、葛城王ら請うてこれを継承した訳であるが、内実には母家の遺産を相続し、同母妹たる光明皇后の歓心を買うことが出来て、名実ともに大いに己を利したものであったと察せられる。だいたいこのころは皇族繁延の結果として、自存する能わざるほどの窮乏の諸王がはなはだ多く、ためにみずから臣連の姓を願って臣籍に列し、朝廷に供奉せんことを請うたものが少くなかった。しかしてこれらの諸家はたいてい新たに一家を創立せられたこととは思われるが、中には橘諸兄のごとく、母家の姓を継いだものもなかったとは言えぬ。天平勝宝八年には、(250)天武天皇の皇孫山背王が、これも母家の姓を冒して藤原弟貞となった。これは安宿王・黄文王らの謀反を密告した賞だとある。山背王は左大臣長屋王の王子で、母は藤原不比等の女である。しかしてそれが恩賞によって臣籍に列したのだとあってみれば、かかる場合なまじ諸王でいるよりは、富裕な臣籍に列した方が、その方々にとって幸福であったのである。右は皇族の他姓を冒された例であるが、臣籍同士の間にもこれがあったに相違ない。前記蘇我入鹿の弟が祖母の氏をついで物部大臣といい、物部氏の財産を襲いだごときはその著しいものである。しかして余輩は、弓削氏と皇胤道鏡との関係をもって、またこれらと同一事情のもとにあったものだと解せんとするのである。
弓削氏は言うまでもなく物部守屋の後裔で、弓削の名はその所領たる河内の地名に起因したものである。守屋の殺さるるや、その児息眷属あるいは葦原に逃れ匿れ、姓を改め名を換えたもの、あるいは逃亡して向う所を知らざるものありとある。しかしてその遺産は、奴の半と宅とをもって大寺の奴と田荘となし田一万頃をもって迹見首赤檮《とみのおぴといちい》に賜うとある(ただしこの一万頃は、果して守屋の遺産のうちか否かは明かでない)。しかしこれらはもちろん守屋の遺産の一部分たるに過ぎぬ。その大部は守屋の妹で馬子の妻たる人の縁故をもって、おそらく蘇我氏の手に落ちたものであろう。『日本紀』に、守屋の殺さるるや時の人相語りて、「蘇我大臣【馬子】の妻は是れ物部守屋大連の妹なり。大臣妄りに妻の計を用ひて大連を殺す」といったとある。しかして馬子の子蝦夷の大臣は、病によって朝せずひそかに紫冠を子の入鹿に授けて大臣の位に擬し、またその弟(入鹿の弟なり)を呼んで物部大臣といった。この物部大臣の祖母は物部弓削守屋の妹であるがゆえに、蝦夷の大臣は母の財によって威を世に取るともある。しからば守屋の遺産の大部は、死後その妹なる馬子の妻に伝わり、蝦夷は母の財によって威を当世に振い、母の死後はその次男某に物部の姓を冒さしめて、その財を継承せしめたものであったことが判る。しかるにこの物部大臣なるものは、その後七、八十年ばかりを経たるに過ぎざる『日本紀』編纂のころにおいて、すでにその本名すら明かならざるほどであったことをもって(251)察すれば、蘇我大臣誅戮とともにその財は没収せられて、守屋の後裔の手に復し、ここに守屋旧領の河内弓削の地に、弓削氏の存在を見るに至ったものであろう。かくて守屋の遺産を継承せる弓削氏の女が施基皇子に聘せられて、ここに道鏡と浄人とを生み、なお葛城王と佐為王とがなしたと同じ状態のもとに、兄弟相ともに母の姓を冒して、河内の一臣民たる皇胤弓削氏を見るに至れりと解せんは、必ずしも牽強附会とのみいうことが出来ぬ。
五 皇嗣と皇緒と皇胤
以上述ぶるところ果して誤りなからんには、道鏡は一方よりこれを見れば河内の一臣民たる弓削氏に過ぎないけれども、他方よりこれを見れば明かに天智天皇の皇孫である。したがってこれに授くるに法王位をもってし、さらにこれを天子としてはとの議の起るに至れるも、必ずしもその理由なしとのみはいえぬ。要はこれを一臣民なる天孫系弓削氏の人と見るか、あるいはこれを皇胤たる弓削道鏡と見るかの見解の相違にある。橘諸兄は生母三千代の姓を冒してその家を継いだのである。しかも世は橘氏をもって敏達天皇の皇胤とし、皇別としてこれを認めているではないか。しからば河内の神別弓削氏をついだ道鏡をもって、その身柄についてこれを天智天皇の皇孫となさんもまた一の見解である。もちろん皇胤は皇族ではなく、皇別諸氏もとより皇位を継承すべきものではない。しかれども平安朝には、いったん臣籍に降れる源定省を親王に復して、さらに天子と推戴し奉った例もある。遠くこれを後に求めずとも、近く称徳天皇の崩後において、天武天皇の皇孫にしてすでに臣籍に降れる文屋浄三《ぶんやのきよみ》、ならびにその弟大市は、右大臣吉備真備によってともかくも皇嗣として、いったん推戴せられたのであった。しからば道鏡の皇嗣としての適否は別問題として、もし果して彼が天智天皇の皇孫であったならば、ある策略家が適当の皇嗣なき当世において、これを天子と推戴してはとの議を起してみても、なお後に真備が臣籍の浄三や大市を推戴しようとしたのに比して、はなはだし(252)い相違はなかるべきである。『続日本紀』が道鏡反対の新政府の手になって、道鏡の皇胤たるを現わさぬ筆法を採っていることは疑いない。本書は彼がすでに臣籍弓削氏を継承した以上、もはや疑いもない河内の一臣民で、皇嗣たるを得ざるの見解を採っているのである。かの清麻呂の復奏にわが国開闢以来君臣定まって、臣をもって君となすことはいまだかつてこれあらずといったのも、また一にこの見解から出たのであった。『続日本紀』は臣籍のものはたとえ皇胤たりとも天子たるを得ざるの見解を採ったがゆえに、称徳天皇崩御の後吉備右大臣が文室浄三や大市を推戴したがごとき重大なる事件についても、全く秘して噫《おくぴ》にもこれを現わしておらぬのである。しかしながら『日本紀略』所引の『百川伝』に見ゆるこの記事は、とうてい事実として認めざるを得ぬ。しかしてこのさい百川が浄三を排斥した理由が、彼がすでに臣籍に降った人であるというためではなくして、浄三真人には十三人も子があって、後の始末が面倒だというがためであったのは注意すべきことだ。百川はもとより白壁王を推戴せんの下心があったのであるから、右の排斥理由は単に表面の口実たるに過ぎなかろうが、しかしながら彼のこの言い分によれば、彼もまたいったん臣籍に降ったものが立って皇嗣たり得ることを認めたものと言わねばならぬ。もちろん同じく臣籍に降ったと言っても、新たに一家を創立した浄三や大市と、他家の名を冒した道鏡との間に相違のあることは明白であるが、それにしても言わば五十歩百歩の差である。したがって道鏡の野心を排斥した新政府の『続日本紀』が、浄三・大市推戴の事実を一言せぬのは至当のことといわねばならぬ。
さればこのさいの問題としては、道鏡が皇胤であるがゆえに皇嗣として推戴すべきか否かというよりも、むしろ彼が皇緒たりや否やの点に重きを置かれたことと解せられる。『続日本紀』に記する清麻呂の復奏には、「天之日嗣《あまつひつぎ》は必ず皇緒を立てよ」とある。また『日本後紀』「清麻呂伝」記するところによれば、「天之日嗣は必ず皇緒を続げよ」とある。「立てよ」と「続げよ」とは多少意味が違うが、主とある所は「皇緒」の二字である。「緒」は糸の(253)端の義で、転じては序次の義となる。したがって皇緒とは、今の皇室典範に御規定あるがごとく、天皇に御血縁最も近き御方の意味でなければならぬ。壬申乱後天智天皇の御系統は久しく皇位から遠ざかって、天武天皇の御系統のみが引続き天が下を知ろしめし、百年にも近い年代を経過しているのである(持統天皇は天武天皇の皇后、元明天皇は岡宮御宇天皇御在世の王妃にませば、やはり天武天皇の御流れにおわすと解する)。しからばこのさいにおける皇緒とは天智天皇の御後ではなくして、天武天皇の徹後であることは申すまでもない。また同じく天武天皇の御後と申す中にも、文武天皇以後は草壁皇太子すなわち岡宮御宇天皇の衛流れが代々天位を継承し給うて、称徳天皇にまで及んだのであったから、特にこの御系統を皇緒と申さねはならぬのであった。しかるに不幸にしてこの御流れは称徳天皇に至って断絶することとなった。天皇が御婦人の御身をもって即位し給うたにつきて、聖武天皇の「詔」に、「岡宮御字天皇の日継は斯くて絶えなんとす。女子の継ぎにはあれども嗣がしめん」と仰せられたのを見ても、もしこの皇統の御方あらばまず第一にこれを皇嗣と定むべき訳ではあるが、それが断絶したがために、孝謙天皇の御代以後の代々の皇位継承の問題は、常に天武天皇の他の諸皇子の御系統から皇嗣を選択し給うたのであった。しかもこの思想はこの時になって始まったのではなく、さきに天武天皇の御子高市皇子の薨去に際して、他の諸皇子の間に皇嗣の議の決し兼ねた時、葛野王は敢然として議を献じて、「我が国家神代以降子孫相承けて以て天位を襲ぐ。若し兄弟相及ぼさば則ち乱是より興らん。仰いで天の心を論ぜんに焉んぞ能く測るを得ん。之を人事に推すに聖嗣自から定まれり、誰か敢て間然せんや」と言われたので、皇嗣はたちまち草壁皇太子の御子文武天皇と定まったのであった。この思想は実に葛野王の言われたごとく、神代以来わが国の不文律として変らざるところである。されば聖武天皇唯一の皇子夭折し給い、皇女皇位を継承し給いて後、皇嗣の問題がしばしば繰り返さるるに当っても、天智天皇の皇統は一度も問題に上ったことはなかったのである。しかるに道鏡が天智天皇の皇胤をもってこれを天子と推戴してはとの神教なるものを(254)奏上するものがあって、天皇これにお迷いになり道鏡またその気になったについて、これを排斥すべく天之日嗣は必ず皇緒を続げよとの神託が復奏されたのは、時にとって適当のことであったといわねはならぬ。けだしこの神託の意味は、「わが国は開闢以来君臣の分定まっている。臣籍の道鏡をもって天子となさんなどはもってのほかである。皇嗣は必ず皇緒より選び給え」というにある。藤原百川らが天智天皇の皇統より白壁王を推戴し奉ったについては、別に深い意味のあったことと察せられる。しかもこれは最後の時まで策士らの胸中にのみ秘せられて、吉備右大臣のごとき人すら少しもこれを覚知せず、やはり皇緒を尋ねて他に適当なる皇族がなかったがために、いったん臣籍に降った文室浄三や大市をも推戴せんとしたのであった。しかして百川らが突然先帝の遺詔と称して天智天皇の皇孫白壁王の皇太子たるべき「宣命」の文を朗読せしめたので、真備は唖然として如何ともするなかったと『百川伝』にあるのは、けだし当時の真相を伝えたものであろう。 神教にいわゆる皇緒の意味はかくのごとく解すべきものである。したがって『日本後紀』に「皇緒を続げよ」とある方は、ことによくこの場合に相当する語で、けだしその真を伝えたものなるべく、『続日本紀』の「皇緒を立てよ」とある方は、やや通じ難い感がないでもない。何故に『続日本紀』がかく改めたかは不審である(なお言わば、『続日本紀』には、「臣を以て君となす未だこれあらざるなり」とあるが、『日本後紀』にはこの語がない。これは光仁天皇以後年序を経る多からざる時の新政府の筆として、道鏡が白壁王と同じく天智の皇孫としても、いったん臣籍に降り、もはや皇嗣たるの資格なきことを特に有力にいい現わす必要があったのではあるまいか)。が、そはともかくも、世間時に皇緒を皇胤の義に解し、清麻呂復奏の神託は道鏡が皇胤ならざる確証だと論ずるものがないでもないのは、はなはだしい見当違いといわねはならぬ。道鏡は臣籍には降っていたが、もとは実に皇胤である。しかしながら彼は皇胤ではあったが皇緒ではない。したがって「我が国開闢以来君臣定まる、臣を以て君となすは未だこれあらず。天之日嗣は必ず皇緒を立て(続げ)よ」と(255)の神託は、道鏡が皇嗣の候補に擬せられたさいにおける、最も適当なる排斥の語でなければならぬ。しかもそれは彼が皇胤たらざる証とはならぬものである。
六 結 論
道鏡に関して世に伝えられる歴史上の事情は、はなはだ多く疑問の黒雲をもって被われている。これは『続日本紀』が、申訳までに表面に現われた事実をのみ概叙して、その真相を没却しているからである。ことにかの神教一件のごときは、中についても最も曖昧なるもので、『続日本紀』の記するところによれば、道鏡を立てよとの神託は阿曾麻呂これを奏し、清麻呂の受けた神託は彼が復奏した「皇緒を立てよ云々」のただ一回のみのようであるが、阿曾麻呂の伝えた神託もその実清麻呂・法均によって奏上されたもので、ことに『日本後紀』の記する処では、清麻呂の受けた神託は前後の二回あって、その最初のものは本文省略されてはいるが、なんでも清麻呂の意に反したものとして、彼がこれに抗弁した趣に見えているのである。しかしてその本書に略されたところのものは、『扶桑略記』に明記されていて、それによると、実に阿曾麻呂奏上の神教なるものと同一であって、道鏡を天子とすることを宣べられたものであったのである。しかるに天長年間和気真綱が奏上したところによると、清麻呂の受けた神託というものはまたさらにこれらとはすこぶる趣の違ったものであった。要するにこの間よほど曖昧な事情が伏在していて、真相を没却していることは疑いを容れないのである。しかも結局は道鏡の皇嗣たることを排斥するにあるので、その皇緒にあらざることと、彼が臣籍の身分たることとは力説しているが、その皇胤にあらざることについては一言もいっておらぬ。これはいうべき必要がなかったためではあるが、もし強いてこれを穿って考えてみれば、実はすでに開闢以来君臣の分定まることを言った以上、彼が果して皇胤でないならば、さらにわざわざ皇緒を立てよとのことは言わなくともそ(256)れで十分なはずである。しかるに特にこれを力説したゆえんのものは、彼がその天皇胤であって、見方によってはかかる場合、皇位を望んでも幾分の理由はあるとの説をなす懸念があったからだとも見られぬことはない。
もちろん道鏡が河内の一臣民弓削氏の一員であることは疑いない。したがって彼が先祖の弓削大臣、すなわち物部弓削守屋の位名を継がんとするの野心を有するものとして指斥されたに無理はない。しかしながらこれあるがために彼が諸種の系図の伝うるごとく、天智天皇の皇孫であることと矛盾するとは言い得ない。さればもし彼がもと皇胤であって、弓削氏を冒したのであったとしてみれば、彼が僧正義淵の弟子としてほぼ梵文に通ずるほどの学才を有し、ことに葛城山に寵って如意輪法を修し、苦行極まりなく、世に禅行の聞えが高かったので、ついに称徳天皇の叡聞に達し、宮中に召されて宿曜秘法を修して功験多く、篤く天皇の御親任を得るに及びて、皇族のほかにかつて例なき法王位を授けられ、鸞輿に乗り衣服飲食一に供御に准ぜらるるに至ったのも、その身柄上から全然ゆえなしということは出来ぬ。しかして藤氏の大臣以下が、ともかくこれを甘受し、平気な顔してその前に羅拝したのについても、また幾分か首肯せらるるところがある。ことに開闢以来君臣の分定まれるわが国において、別してこの思想の最も顕著なる当代において、いかに神教に托したとはいえ、道鏡を天子としてはとの議が提出せられたについても、その間幾分の乗ずべきところがあった事情が解せられるのである。
しかるに世あるいは道鏡の凶悪を憎むのあまり、史実の如何を穿鑿することなくして、ただちにその皇胤たることを信ぜざらんとするものが少くない。さらにはなはだしきに至っては清麻呂の誠忠を嘉するあまり、もしこのさい清麻呂なかりせば、万世一系の皇統もここにいったん中絶したかも知れなかったなどというものも、時にはまんざらないでもない。わが天壌無窮の皇運は果してかくのごとく脆弱なものであろうか。もちろん清麻呂なくとも道鏡が天位を践むような事実は万々なかったことと信ぜられるが、それにしても彼が果して真に河内の一臣民たる弓削氏の子で(257)物部氏の一族であるに過ぎなかたならば、いかに天皇の御信任篤きとはいえ、またその陰にいかなる計策が潜んでいたとはいえ、かりにもこれを天子としてはというような飛んでもない議が提出せられ、天皇もこれには迷いになり、ことにこのさい路真人豊永が心配したように、清麻呂の復奏一つで彼が天位に登ったかも知れぬという懸念があったほどにも、わが帝位の根柢は動揺するものであるであろうか。万世一系の皇統、天壌無窮の皇運は、上下のひとしく確信するところであり、特に奈良朝の『古事記』『日本紀』には、これに関する天祖の神勅を掲記して、祖先以来の信念を明かにしているのである。ことに臣をもって君となすことはいまだかつてこれあらずとのことは、このさいにおける清麻呂復奏の神教にも明かにこれを述べて、古往今来何人もかつて疑わざるところなのである。したがって神武天皇以来二千数百年、時に多少皇威の隆替はあったとしても、今問題になれるこの道鏡の場合を除いては、かつて臣下にして天位を希望し、もしくは臣籍のものを擁して天位に即かしめんなどと大それた考えを起したものはないのである。もし強いてこれに近い例を求むるならば、わずかに平将門があるばかりであるが、しかも彼はその実、地方政治紊乱のさいにおいて、騎虎の勢いに乗じて東国に割拠独立を図ったに過ぎないのであった。藤原氏権をもっぱらにして皇威を軽しめ、天下の衰弊人民の塗炭を馴致したのに対して、みずから独立の政府を作らんとするに過ぎないのであった。彼あるいは東国を根拠としてついには天位をも奪わんとしたともいわれてはいるが、それにしても彼はみずから桓武天皇五代の孫として、王家を出でて遠からぬの自信を有し、それを公言しているのであるから、あえて万世一系の皇統を無視せんとしたのではない。もちろん単に臣籍のものが帝権のきわめて隆昌なるさいに、天位を覬覦するものと比すべき次第ではないのである。しかもそれすらもとより天人ともに与《くみ》せざるところであった。しかるにもかかわらず単に河内の臣民なる一比丘について、どうしてかくのごとき大それた問題が起り得るであろう。
故田口博士のすでに言われたごとく、道鏡皇胤説はとかく史家の間に評判がよくない。したがって『史海』誌上論(258)争の当時にも、この問題はほとんど省みられずして葬り去られたのであった。されば余輩が今ここにこれを主張するにおいては、人あるいは余輩がことさらに異説を提出して、凶悪道鏡を擁護し、誠忠清麻呂の価値を少からしめるものだとの批難をするものがあるかも知れぬ。しかしながら余輩は決して道鏡を擁護せんとするものでない。また清麻呂の価値をことさらに減ぜんとするものでもない。清麻呂の功績は別にあって、少くもその復奏がその当時において直接道鏡の野心を挫くの結果を来さなかったことは、清麻呂全盛時代の編纂の『続日本紀』の明記するところである。ことにその道鏡の非望は、もと阿曾麻呂がこれを伝え、清麻呂・法均を経て称徳天皇に奏上した八幡神教の結果だとは、これまた『続日本紀』の明記するところであるにかかわらず、しかもその阿曾麻呂が、道鏡没落後清麻呂・法均のいまだほとんどなんら恩賞に浴したることなき問に、ズンズンと栄達した事情から察しても、この間よほど複雑した情実のあったことは明かである。この時清麻呂が恩賞に預らなかったことは、さきに「習宜阿曾麿」(『中央史壇』所載)に述べたごとく、もともとこの神教一件が、道鏡の凶悪を見るに見かねた百川・永手ら一派の画策であって、阿曾麻呂・清麻呂・法均らはそれを実演する舞台上の役者であったところが、清麻呂らの所作拙にして馬脚を露わしかけたがために、累を巨頭にまで及ぼさぬ前に、これを処罰して全責任を負わしめたのであったに相違ない。称徳天皇の御代における道鏡の暴虐は、憂国の人々のとうてい看過しかねたところである。しかもその道鏡の暴虐は、ことごとく天皇の御意思となって現われるのであるから、彼らもこれを如何ともすることが出来ないのであった。そこで策略家の百川のごときは、後に道鏡のための河内職の大夫に任ぜられたほどにも、表面道鏡方の人なるかのごとく粧いて、ひそかにこれが排斥の計を廻らし、道鏡が調子に乗り過ぎているのに乗じて、皇位覬覦の野心を起さしめ、その理由をもってこれを陥れんとしたものらしい。しかるに計策甘く行われず、危く馬脚を露わしかけたので、早く清麻呂らに全責任を負わせて、これを処分したのであろう。そは清麻呂ら貶謫の天皇の「宣命」に、清麻呂らと心を合(259)わせるもの他にも一両人あることを知ろしめしてあれども、「慈《いつくしみ》」をもって天下の政治は行い給うものなれば、慈しみ愍れみ給うて免じ給うとの寛大なるお言葉のあることによって察せられるのである。思うにこの処分案も、おそらく道鏡方を粧いたる百川らに出でたもので、仁恕の名のもとに表面に現われたもののみを罰し、罪の巨頭に及ばぬ前にこれをもって打ち切りとして、深く他を穿鑿せぬこととしたものと解せられる。いずれにしてもこの神教一件は、道鏡がすでに臣籍に降っているとはいえ、もと彼が皇胤であるというところに乗ずべき間隙を求めて仕組まれた狂言であった。しかして理非の弁別に乏しく、時勢を見るの明なく、暴慢その極に達した道鏡は、やはり自分が皇胤であるという自信あるがために、ついこれに乗ぜられて天位を覬覦するの念を起し、その自信の厚き、唯一の擁護者とます称徳天皇崩御の後にも、なおその僥倖を夢想して、なんら自衛の策を講ずることもせず、なんら運動がましき挙にも出でず、天皇の陵下に盧を結んで念仏三昧に耽っていることが出来たのであった。
道鏡の周囲を取巻ける史上幾多の疑団は、多くの系図の示すがごとく彼が皇胤であるということによって始めて解釈し得るのである。わが万世一系の皇統、天壌無窮の皇道は、開闢以来いかなる場合においても動揺したためしはないのである。道鏡がかりにも皇嗣たるべく提議せられ、彼自身またそれによって天子たるべき野心を起すに至ったというのも、畢竟彼が皇胤であったがためにほかならぬ。道鏡の凶悪を憎むのあまり、史実の如何を省みずしてその皇胤たることを聞くを快しとせぬものは、ために皇位の尊厳を冒涜するゆえんを知らざるものといわねばならぬ。
(263) 藤原鎌足および不比等墓所考
一 緒 言(両公の墳墓に関する諸説)
別格官幣社談山神社は大和多武峯にあり、藤原氏の祖先たる大織冠鎌足公の霊を祀る。けだし、公の墓所たるによりてなり。もと妙楽寺あり、公の廟所として上下の崇敬厚く、寺に大織冠像あり、国家大事あればその像破裂し、公の墓また鳴動すという。世の伝称するところ疑いを容るべからざるなり。しかるに、『延喜式』諸陵寮の条には、
多武岑墓【贈太政大臣正一位淡海公藤原朝臣、在大和国十市郡、兆域東西十二町南北十二町、無守戸】
とありて、この墓を淡海公となす。よりて世あるいは鎌足の墓のこの山にあるを否定せんとするものあり。『考古学雑誌』第四巻第八、九両号に渉れる谷井済一氏の「摂津に於ける藤原鎌足阿威山墓を否定し併せて其大和多武峯改葬説をも否認す」と題する文のごとき、その大成せるものというべし。氏の所説は、『大織冠伝』によりて鎌足の墓は後までも山城山科に存すとなし、いわゆる多武峯墓は、その子不比等を葬れるものなりとするにあり。言うまでもなく贈太政大臣正一位淡海公は不比等のことなり。天平宝字四年八月、藤原恵美押勝の奏により、その祖父不比(264)等を淡海国に封ず。「勅」に曰く、
子は祖を以て尊と為し、祖は子を以て亦貴とす。此れ則ち不易の彜式、聖主の善行なり。其の先朝の太政大臣藤原朝臣は、たゞに功天下に高きのみにあらず、是れ復皇家の外戚なり。是を以て先朝正一位太政大臣を贈る。斯れ実に我が令により、已に官位を極むと雖、而も周礼に准ずれば猶不足あり。竊に思ふに勲績宇宙に蓋ひて、朝賞未だ人望に允ならず。宜しく斉の大公の故事に依り、追て近江国十二郡を以て封じ、淡海公と為すべし。余官故の如し。
と。ここに藤原朝臣とはその不比等たること論なし。不比等すでに近江十二郡に封ぜられて淡海公となる。その父鎌足また淡海公たるべからざるや明かなり。いわんや的確採りてもって第一史料となすべきものの、一も鎌足を多武峯に改葬せることを記述するなきにおいてをや。されば、谷井氏が古来の伝称と上下の尊信とを排し、『延喜式』のこの記事によりて断然多武峯墓をもって不比等のなりとし、鎌足の墓所の他の地にあるべきを唱道せらるるもの、いちおうその所由ありといわざるべからず。
『延喜式』によりて多武峯墓を不比等のなりと定むるはひとり谷井氏に始まれるにあらず。すでに本居翁はその『古事記伝』神武天皇陵の条の下に、清和天皇貞観二年十二月所定の十陵四墓のことを記して、
四墓は贈太政大臣正一位藤原朝臣多武峯墓・藤原朝臣冬嗣墓・尚侍藤原朝臣美都子墓・源朝臣潔姫墓これなり。冬嗣公は文徳天皇の御外祖、美都子は同御外祖母、潔姫は当代の御外祖母なればなり。然るに多武峯墓は不比等公にて、聖武・孝謙の御外祖にこそあれ、清和の御代に殊に祭らるべき由はなきに、此の内に置かれたるは、此の時天皇は未だ幼くましませば、凡て良房の大臣の御心より出でたる故なるべし。
と言われたり。かくて翁はさらに、『三代実録』天安二年条に、
(265) 贈太政大臣正一位藤原朝臣鎌足多武峯墓。在大和国十市郡。
とある鎌足の二字をも衍なりとして、
さて三代実録今の本に、右の多武峯墓鎌足とあるは、後人のなまさかしらに改めつるものなり。古本には此名なし。多武峯は不比等公と諸陵式にも見え、贈太政大臣正一位も、鎌足公にてはかなはぬものをや。
と断言せられたりしなり。
飯田武郷氏の『日本書紀通釈』また同説を採る。同書引くところによれば、菅政友氏も同説なり。
さればこの説は、本居翁以来、広く行われしものにて、谷井学士はこれを祖述し、その完きを求めたりしもののごとし。
しかれども、少くも平安朝中ごろ以後において、多武峯墓をもって不比等のなりと言うものはほとんどこれあるを見ず。否、その前においても、『延喜式』以外的確にこれを不比等のなりと解すべき一の史料だもあらざるなり。寺院のみずから称するところ、世俗の一般に伝唱するところ、はた朝廷のよりて崇祭し給うゆえんのもの、ことごとくこれをもって鎌足として、もしくは藤原氏の祖先として、にあらざるはなし。しかして明治・大正の今日における談山神社にまで及べるなり。かくのごときのことが、もし藤原氏のはなはだしく衰頽せる時代において起れるか、もしくは多武峯にしていったん荒廃し、後、年久しくして再興せられたるものならんには、あるいはその間に真の古伝を逸し、ここに誤解を生じたりきとも解するを得ん。しかも時は藤原氏全盛の際にあり。多武峯衆徒はまた最も盛んなる勢いを有して、僧兵界一方の雄者たるを失わざりし時代において、藤原氏にとりては祖先たり、多武峯にとりては主神たるべき人の名を取り違えたりと想像せんは、とうてい普通にあらざるなり。ここにおいてか世あるいはまた、多武峯に鎌足・不比等父子の墓ありとし、もって旧来伝称するところをも保存し、『延喜式』の記事をもそのままに(266)活かさんと試むるものあり。かの『古事類苑』に、鎌足の官位内大臣大織冠は、後の太政大臣正一位に当れば、『三代実録』には太政大臣正一位と書けるなるべく、多武峯には鎌足と不比等と両人の墓ありて、始めには荷前《のざき》に鎌足を祭り、後には不比等を祭れるより、『三代実録』と、『延喜式』と、同じ藤原太政大臣多武峯の墓にして、その人を異にするに至りしならんかとせるがごときこれなり。かくて奈良女子高師教授水木要太郎氏が、明治三十六年中に公にせられたるその『大和巡』において、
鎌足公墓は談山の後方にして、御破裂山と称し、天下事変ある時は基山鳴動し、神像破裂すると云ふ。其の南方に不比等墳といふ十三重石塔婆あり。
と言われたるものに至りては、さらにこれを実地にあてて、墳墓そのものを指定せるものなり。
近ごろ宮内省諸陵寮考証課長増田于信氏、また多武峯において不比等公の墓を発見されたりとのことにて、その記事は数多の新聞紙上に表われたり(その東京朝日の分は本誌前号にも転載せり)。しかして余の初めこれを見たるは、本年八月十日発行の『太陽新聞』と称する月刊新聞の紙上なりき。該紙には「学界驚倒の大発見」いう仰山なる題目の下に、「藤原不比等の墳墓多武峯に表はる」「増田宮内省御用係の卓見」などの見出しを設け、
大和国多武峯は大織冠藤原鎌足公の墳墓所在地として、将又公を祭神とする談山神社の所在地として、天下に鳴り渡つて居る。其処で談山神社は官幣社として堂々たるに、尚立派に百円紙幣にまで登載されて偉燦を放つて居る(中略)。処が近頃学界では多武峯の古墳は鎌足公の墳墓ぢやないなどと、仰々しい議論に鼻蠢かす学者先生が飛び出して、大騒ぎ大紛糾の種を蒔き、所謂甲論乙駁、何れとも定め難しと云つた様な事になつて居る。が、然るに記録の上から見ると、多武峯には鎌足公と不比等公との雙方の御墓がなくてはならぬ。即ち鎌足公のは記紀に伝はり、不比等公のは延喜式に伝はつて居るのである。処で鎌足公の墳墓は今に残つて居るが、不比等公のは見当らぬ。其(267)処で異説を好む学者は得たりや応と云つた如な工合に、説を立て論を起して、ヤレ記録を主とする考証は危嶮だなどと云ふ命題の下に、多武峯の古墳は鎌足公の墳墓でないと結論して、得意がつて居るのである。而も此の時に当つて、愉快至極の大発見があつた。正に学界を驚倒すべき大発見があつた。宮内省御用掛増田于信先生の調査によつて、多武峯に藤原不比等公の墳墓が発見された。
増田先生の談話によると、近頃多武峯に鎌足公の墳墓を調査したが、尚此の山には公の男たる不比等公の御墓が無くてはならぬ。それで其の事に就いていろいろ宮司さんに尋ねた処が、由来神社で神蹟地として、誰の足蹟をも容さぬ霊地が、神社と鎌足公の墳墓との中間にあるといふ。其霊地といふのは何うやら不比等公の墳墓の様な気がしてならぬ。それで其の霊地を調べて見ると、驚くぢやないか環溝附円墳が儼然として居る。而も鎌足公の墳墓と殆ど一対の墳墓である。正に是れ不比等公の墳墓なのだ。茲に於て学界未定の難問題は立派に解決されたのである。(下略)
と記載せり。右は陽洲散史という人の筆にして、増田氏自身の執筆ならねば、「いわゆる文責在記者」で、これをもってただちに増田氏の責任ある所説なりと認定するを得ざれど、由来『太陽新聞』は増田氏賛成員として署名され、ことに主幹の告白によれば、本紙の発行を見るに至りたる動機は、増田氏に従いて史蹟を踏査し、これに私淑したるがためなりとあるほどなれば、この記事また氏において満更知らぬものにてはあらざるぺく、俗間にはこれをもって諸陵寮の認定なりとまで、持て囃しおれるなり。
増田氏の両公項墓なりと指す所は、水木氏の言う所と同じからざれども、多武峯において両者並存すというに至りては『古事類苑』に同じ。しかしてそのかくのごとき説あるは、陽洲散史君のいわゆる、「記録の上からして見ると多武峯にほ鎌足公と不比等公との雙方の御墓がなくてはならぬ」という前提より来れるものなるや論なし。しかれども、(268)こは記録をことごとくそのままに解し、別に研究を加うることをなさざるがためにして、根本においてその前提に誤りあるにあらざるか。余輩の見るところによれば、記録の教うるところ、果してこの山に両公の墳墓なかるべからずというの結論に達するを要せず、また『延喜式』の記する淡海公の多武峯墓は、必ずしも不比等のならざるべからずと窮屈に解するにも及ばざるべきものと思う。否、ただに然かく解するに及ばずというのみならず、余輩は実に多武峯墓をもって、世の伝称するごとく依然これを鎌足のものなりとし、不比等の墓は他にその所あり、となさんとするものなり。この説につきては、十数年前すでにしばしば本誌上に記したることありしが〔38〕、今なお種々の新説の学界に紹介さるるがために、この機をもって更に稿を新たにし、その後の研究を加えて余が旧説を完からしめんとす。請う、以下節を逐うて、そのしかるゆえんを明かにせん。
二 多武峯に鎌足・不比等両公の墓ありとの説は信ずるに足らず
多武峯に両公の墳墓ありとの説は、前記のごとくこれを大織冠のなりとする普通の説軽々しく捨て難く、さりとてこれを淡海公のなりとする『延喜式』の記事また最も重んずべきものなるがゆえに、その取捨に迷いて、結局両者を並存せんとするものなり。されば学説としては最も穏かなるに似たれども、しかも牽強の譏りあるを免れざるなり。なんとなれば、余輩の寡聞なる、今に至りてなお記録上この山に両公の墳墓の並存することを認むるに足るべき史料あるを知らざればなり。ここにおいて、余輩はまず、この点よりして右の説に疑いを挿まざるを得ず。多武峯墓をもって淡海公のなりとなすものは、決してこの山中別に鎌足の墓あることを言わざるなり。またこれを大織冠のなりとなすものは、かつてまたここにその以外不比等の墓あることを認めざるなり。されば、もしかりにここに両公の墓あるものなりとせんか、『延喜式』がその鎌足の墓をもって、当時諸陵寮の与るところならざるのゆえをもってこれを(269)載せざりきと言わんは、あるいは首肯せらるべけんも、延喜を距る多く遠からざる藤氏全盛の時代において、引続き勢力の盛んなる寺の大衆を始めとして、上は朝廷より、下は一般庶民に至るまで、『延喜式』にも見えざる鎌足の方をのみ仰々しく唱道し、藤氏四家の祖として、かつ二代の外祖なる贈太政大臣正一位たる不比等公の方のことは、全然措いて顧みずというがごときことあるべしと想像し得べきか。余輩はこの見地よりして、また、この山に両公の墓ありとの説を疑う。鎌足の説を採らんには、不比等を捨てざるべからず、不比等の説を執らんには、鎌足を棄てざるべからず。これ記録の余輩に示すところなり。『太陽新聞』の陽洲散史氏の説のごとく、「鎌足公のは記紀に伝はり、不比等公のは延喜式に伝はつて居る」くらいのことにて、手っ取早くその説を片付け、他の説をなすものを罵倒してもって事おわれりとなさんには、解決きわめて容易なりといえども、不幸にして鎌足の墓の多武峯にあることは、『日本紀』において毫も所見なく、『古事記』においてもまたもとよりこれあるべくもあらぬなり。ことに本居翁および谷井氏のごとく、記録上より鎌足説を排して不比等説を唱うるものをもって、「記録を主とする考証は危嶮だなどと云ふ命題の下に云々して得意がつて居るのである」など放言するに至りては、事実の穿鑿を怠られたるものとして、一とまず撤回を希望せざるを得ず(散史氏の言うところ、その指すところを知らねど、「近頃学界では云々」との書き出しにては、本居翁と同説なる谷井氏のほかにこれあるを見ねば、しばらく氏の説を指したるものと認む)。しかしてその紹介にかかれる増田氏の説と称するものをも、またその誤聞ならんことを希望するものなり。『大和巡』が両者をこの山に求めんとするまた然かなり。相容れざる両説をともに保有せんは不可能のことならざるべからず。なお以下説くところを見られよ。
(270) 三 多武峯墓は不比等にして鎌足にあらずとの説は穿鑿不備なり
多武峯墓をもって不比等のにして鎌足のにあらずとの説は、前記本居翁のと谷井氏のとをもってしばらくその代表とすべし。本居翁の説はきわめて簡単にして、その基づくところ一に『延喜式』および『三代実録』の記事にあり。すなわちこれを淡海公といい、贈太政大臣正一位というは必ず不比等にして鎌足なるべからずというにあるなり。かくて『三代実録』天安二年条の贈太政大臣正一位藤原朝臣鎌足とあるものをも古本に鎌足の二字なしとて、「後人のなまさかしらに改めつるものなり」とまで断言せらるるなり。しかれども、すでに内藤広前翁も指摘せられたるごとく、小槻家の『類聚符宣抄』にもこの通りにあれば、必ずしも後人の加筆と定め難く、あるいは翁の見られたる古本と称するもの、かえって『延喜式』淡海公の記事によりて、反対になまさかしくせしものなりや、また図り難かるべし。なんとなればこれと並記せる他の三墓いずれもその人名を記するに、ひとり多武峯墓のみ人名を略したりとは思われざればなり。されば、平安朝において、鎌足のことを贈太政大臣正一位淡海公と誤り伝えたることがあり得べしとの事実だに明かにするを得ば、翁の説はおのずから撤回さるべきものなりとす。
谷井氏の説は翁のに比してさらに詳細を加えたり。その説すこぶる多岐に渉れるがゆえに、氏みずから最後にその要領を摘記せられたるものによりて、いささか評言を試みんとす。
一、摂津国三島郡阿威村なる藤原鎌足阿威山墓と伝うる古墳は、その構造上より観て鎌足の墳墓とは認むる能わず。
二、正確なる記録に徴して鎌足は山城国宇治郡山科の地に葬られしこと明かにして、少くとも天平宝字四、五年のころまでは他に改葬せられしことなし。
三、理論上より見るも鎌足の墓を天智天皇山科陵に近き地より他に移すがごときは死者の本意にあらず。
(271) 四、『延喜式』等に見ゆる多武峯墓は不比等の墓なること正確なる記録の徴証あり。
五、鎌足は生前すでに極官極位を授けられ、これを贈られしは不比等にして、淡海公に封ぜられしものはまた不比等なり。
六、不比等は薨後佐保山に火葬せられしも、その地に葬られしにはあらで、一時その遺骨は彼の邸に安置せられたるがごとし。その後彼の遺骨が多武峯に葬られしなるべし。
七、平安時代後期に入って、不比等の多武峯墓は鎌足のものと誤認せらるるに至りしがごとし。かつ世俗には鎌足は最初より多武峯に葬られしものと考えられおりしがごとし。
八、その後世俗には淡海公を鎌足と思うもの多くなり、この説勢力ありしがごとし。
九、多武峯の草創に関しては多武峯にも正確なる記録または所伝なく、『多武峯略記』所引『荷西記』の言うところ信ずるに足らず。
十、『多武峯縁起』はその史的価値最劣等にして世を誤るもの多く、これによりて立説したるものは信ずるに足らざるなり。
右の(一)の説は余において全然同感なり。現在阿威村にありて鎌足公墳墓なりと称する横壙式古墳墓は、実に鎌足よりは古き時代のものなるべし。されど、これあるがために鎌足の墓がかつてこの地方にありきとの説をまでも否定するを得ざるなり。鎌足を山科より阿威に改葬したりとのことにつきては、不幸にして的確なる証拠を提出するを得ざれども、鎌足の別業もとこの地方にありたるの事実疑うべからざる以上、よしや定恵がこの地より多武峯に改葬したりとの説信じ難しとて、また俚伝に称する古墳が鎌足のにあらずとて、さる簡単なる理由をもって、その墓かつてこの地方にありきとの旧説をまでも全然没却せしめんは、材料なおやや不備の感なきにあらず。
(272) (二)の説はまた大体において同感なり。その当初山科の地に葬られたりとのことは、記録の徴証動かすべからず。しかれども『大織冠伝』に改葬のことなしとて、少くもその書のなれる天平宝字ころまではその地にありきと断言せんは、証拠やや薄弱の嫌いあり。なんとなれば、『大織冠伝』は鎌足公の伝なれば、その記事は死の結末を叙するに止め、その後のことに及ばずとも、体において妨げなかるべければなり。いわんや多武峯墓が、当時一族の崇敬最も厚かりしものならんには、必ずしも伝にこれを付記して後に遺すの要なかりしなるべきをや。されどかりに氏の説を認むとするも、氏もすでに予想せらるるごとく、宝字以後其の時代において、これを多武峯に改葬せしならんとの説は、今なおこれを唱道すべく、十分の余地を存するなり。
(三)の説はあるいは然らんなり。しかれども、山科なる墓は実に山階精舎すなわち興福寺の前身なる山階寺にありしなり。しかしてこの山階寺大和に遷さるるに及んで、その取り残されたる墳墓が、また他日他の地に遷さるることあるべきは、想像しやすきことならざるべからず。
(四)『延喜式』『三代実録』等に見ゆる多武峯の墓が、果して不比等のなりや否や。これ余輩が大いに研究せんとするところの骨子なり。これらの書の記事、他の解釈を容るるの余地あり。単にこれらのみをもって正確なる記録の徴証なりとして、容易に然かく断定すべきものにあらず。こは後節説くところを見られたし。
(五)の説は全然事実なり。しかれども、すでにかつて論じたるごとく〔39〕(本誌第二〇巻第五号、六号)、現存の『続日本紀』は、記事はなはだしく不備にして、脱漏きわめて多きものなれば、まずあらかじめ思いをここに致すを要す。また鎌足が生前すでに極官、極位を有したりとて、その官位は後の太政大臣正一位というものとはおのずから別物なれば、新官位制定めらるるに及びて、さらにこれを贈らるることなかりきと断定せんは、また十分の考慮を要す。またかりにこのことなかりしとするも、その官位が後の太政大臣正一位に相当するがゆえに、便宜上しか呼び做し、後人(273)ついにこれを誤り解して、贈官位ありしむののごとく伝称せし事実を認め得ざるにもあらず。こは淡海公のこととともに、さらに後に詳論すべし。
(六)不比等が佐保山椎岡に火葬せられ、いったん自邸に遺骨をうつし、後に多武峯に葬られしなるべしとは、とうてい一の仮定説たるに過ぎず。『延喜式』の「多武峯なる淡海公墓」の疑義だに解決するを得ば、この仮定説はおのずから消滅せんなり。いわんや延喜以後において、不比等の墓なお佐保山に現存せし確証あるをや。こはまた後に詳論すべし。
(七)(八)はいずれも氏の解せらる通りにて異議なし。しかもそのこれを鎌足となす、必ずしも誤認と言い難く、これを誤って淡海公となすに至りしには、またそれぞれにしかるべき道筋あり。また後に言うべし。
(九)(十)の記録が価値なきことについては、また全然氏と同感なり。されど、これもと多武峯墓が鎌足のなりという寺伝を説明せんがために成れるもの。これがために墳墓そのものをまでも疑わざるべからざるにはあらじ。
要するに、谷井氏の所説いずれもいちおうの所由あれども、さらに詳細にこれを観察するにおいては、その穿鑿にやや不備の点あるを遺憾とせざるを得ず。氏の所説は、実にその以外に解釈を容るるの余地を遺されたりしなり。
四 十陵四墓の一として選定せられし多武峯墓は必ず鎌足のなるべきこと
清和天皇即位の後、始めて荷前《のざき》の奉幣に預るべき陵墓を選定せられたり。これすなわちいわゆる十陵四墓にして、その陵墓名および当代との関係左のごとし。
天智天皇山階陵
春日宮天皇田原陵
(274) 光仁天皇後田原陵
高野贈大皇太后新笠大枝陵
桓武天皇柏原陵
藤原贈大皇太后乙牟漏長岡陵
崇道天皇八島陵
平城天皇楊梅陵
仁明天皇深草陵
文徳天皇田村陵
贈太政大臣正一位藤原朝臣鎌足多武峯墓
贈太政大臣正一位藤原朝臣冬嗣宇治墓
贈正一位藤原美都子次宇治墓
贈正一位源朝臣潔姫愛宕墓
すなわち当時の十陵四墓は、左の系図において一見明かなるがごとく、皇室にありては、いずれも直系尊族の近き御方のみを選び給い、外戚においても、また問題に上れる多武峯墓以外にありては、順次その近きものを採らせ給えるなり。その中に崇道天皇の加わりたるは、本居翁もすでに言われたるごとく、当時崇りありと畏れられたるがためにして、嵯峨・淳和両天皇の加わらざるは、遺命して山陵を起し給わざりしがためなり。されば摂政藤原良房薨ずるや、さらにその「後愛宕墓」を加え、大皇太后藤原順子の崩ずるや、高野氏の「大枝陵」を除きてその「後山階陵」を加うるなど、代を逐うて加除あり、だいたいに古きを除きて新しきを加うるを法とするなり。しかるにその中にお(275)いてただ天智天皇の「山階陵」と、この「多武峯墓」とのみは、永世除かざるを法とせり。
天安二年所定十陵四墓一覧系図 ――印は十陵 ……印は四墓
○天智天皇〔有傍線〕‐春日宮天皇‐光仁天皇〔有傍線〕 桓武天皇〔有傍線〕 平城天皇〔有傍線〕
(施基皇子)
高野新笠〔有傍線〕 崇道天皇 嵯峨天皇‐仁明天皇〔有傍線〕
(早良皇太子)
藤原乙牟漏〔有傍線〕 淳和天皇〔40〕
文徳天皇〔有傍線〕
〇藤原鎌足〔有波線〕《?》‐不比等〔有波線〕《?》−房前−真楯−内麿−冬嗣〔有波線〕順子(生存)
藤原美都子〔有波線〕 良房(生存)
源潔姫 明子(生存)
清和天皇(当代)〔入力者注、到底正確には表現出来ないので正しくは底本をご覧ください。〕
何がゆえに天智天皇の「山階陵」は永世不除の制となれるか。解するものは曰く、天皇大化の改新を成就し、中興の祖なるがゆえなりと。実にしかり。天皇の政は「天地と共に長く、日月と共に渝らざる万世の規範」として、歴代天皇の依拠し給うところ。その山陵が、また永世不除の国忌の典に預る、まことにゆえありというべし。しかれども、この以外、なおさらに考うべきものありて存す。天皇の崩ずるや間もなく壬申乱あり、弘文天皇は崩じて、皇弟天武天皇立ち、これより持統・文武・元明・元正・聖武・孝謙・淳仁の諸帝を経て称徳天皇に至るまで九代間、天智天皇(276)の御血統は、全く皇位より遠ざかり給いしなり(持統・元明両帝は天智天皇の皇女なれども、天武、岡宮(草壁太子)両天皇の后妃として、依然天武系の御方々なりし)。しかるに、光仁天皇に至り、突然皇位は再び天智の系にうつる。ここにおいてか天智天皇は、現在の皇室において、近き御先祖となり給えり。これまた特に天皇の陵が永世不除の制に預り給える一大理由として見るべきなり。されば年代において天皇よりも近く、ことに法典を完成し、仏法を興隆し給いし、文武・聖武のごとき諸帝は、ついに国忌の典に預り給わざりしなり。果してしからば、この天智天皇と相並びて荷前の奉幣を受け、永世不除の制に入れる多武峯の墓が、天皇を授けて大化に大功を樹て、藤原氏の祖先と仰がるる鎌足なるべきか、はたその子の不比等なるべきかは、単に常識をもってしても、容易に判断し得べきところならずや。これを不比等のなりとなすことについては、そのきわめて不自然なる、すでに本居翁の疑われたるところ。翁はこれをもって、清和天皇の幼少にましますに乗じ、良房大臣のほしいままにせるところなるべしと、すこぶる苦しき弁解を試みられたれども、とうていそのみずから言わるるごとく、「聖武・孝謙の御外祖にこそあれ、清和の御代に殊に祭らるべき由なきもの」なり。またこれを良房一家の事情より見んか。鎌足は藤家一族に祖として、永世これを国忌の列に置くに当るべきも、不比等に至りては、なんら直接の深き関係を有せざるなり。不比等の四子分れて四家となる。しかして良房は北家房前の流なり。されば房前をもって自家の近き祖として祭らんは、あるいはその理由なきにあらねど、不比等においては無意味なり。藤氏一族の祖たる鎌足と、北家一統の祖たる房前とを措きて、その中間なる不比等を祭らんは、これを皇家外戚の関係より見るも、またこれを藤原氏一家の事情より見るも、とうていあり得べからざることなり・。天安二年に四墓の筆頭に置かれたる多武峯の墓は、『三代実録』ならびに『類聚符宣抄』の明記するごとく、とうてい鎌足ならざるべからず。谷井氏が、「之を理論上より見るも、不比等は聖武・孝謙二代の外祖として荷前の幣帛を受くるは寧ろ当然」といわれたるは、余においてその理解に苦しまずんばあらず。その年代遠く、(277)卸系銃をも異にする浄見原流涜の統)の聖武・孝謙両帝の外祖が、清和の当代になんぞ相関せん。もしかかる理由にて不比等を加えんか、まずもって聖武・孝謙の両帝、ないし宮子夫人・光明皇后をも加え、藤原百川らまた国忌の典に預らざるべからざるにあらずや。
なお、さらに多武峯墓が不比等のなるべからざることの確証は、延喜以後において、彼の墓がなお椎岡(佐保山)にありし事実によりて、的確に証明せらるべきものなり。不比等死して遺教により佐保山椎岡に火葬せられしことは、『公卿補任』の頭書これを伝え、疑いを容るるの要なし。しかして当時の火葬なるものは、今日の火葬のごとく、その火葬所は単に屍体を焼く竃のみの用に供し、遺骨は他の任意の墓地に葬るというがごとき類にあらず。持統・文武両帝のごとく、飛鳥岡に火葬して他に陵を営むの例はあれども、普通には火葬所すなわち葬地たりしもののごとし。火葬とは単に屍を焼くの謂にあらずして、いわゆるその地に火葬するの義ならざるべからず。ことに不比等の場合にありては、後までもその墓が火葬の地たる椎岡に存するにおいて、最も適切にこれを証するなり。谷井氏は勅使がその邸につきて贈位を宣せしとて、遺骨は火葬場より持帰られおりしならんと解せられたれども、さる窮屈なる穿鑿は無用なるべし。
その椎岡に墓のありたることは、永承二年左大臣藤原頼通の「告文」に見ゆ。曰く、
維永承二年歳次丁亥、二月十四日己未吉日良辰【爾】大日本国関白従一位行左大臣藤原朝臣掛【毛】畏【支】佐保山椎崗廟【乃】広前【爾】恐美恐【美毛】申賜【八久止】申【久】、興福寺【波】霊廟【乃】所2建立1也。其後【知】次々【乃】皇后・丞相【乃】加作【礼留】堂塔【毛】有2其数1【利】。帰依年久【久】霊験日新【奈利】。帝王・皇后、補佐【乃】大臣、出v自2一門1【太留】者、不v知2幾許1【須】。爰去年十二月廿四日夜、不慮【爾】有v火【天】、数宇乃堂舎一時【爾】為v灰【太利】。忽聞2此告1【天】、氏【乃】卿相等【乎】引率【之天】、参詣【世留】処【爾】、堂宇雖v為v燼【毛】、仏像【波】免v煙【多麻江利】、不覚之涙各下【天】、不v知v所v裁【須】。若是才【毛】無【久】行【毛】無【之天】、久知2行民事1【比】、為2王室【遠】補佐【之】奉【加】所1v致歟。就v中年来之間、旱災(278)頻起【天】人民【之】費弊【世礼止】、累祖【乃】賢跡不v可2黙止1【爾】依【天】、去七日【爾】始2造営1【天】、七月十八日柱【乎】立、棟【遠】上【久辺支奈利】。凡始v自v2公家1【女】奉【利】、一門【乃】尊卑【毛】莫2不v営事1【之】。何況近日之間【波】、憂念恥歎【久止】、夜【毛】昼【毛】限無【久】、量無【久】、霊廟此状【乎】聞食【天】無v事無v故【久之天】令2作畢1給【辺】。又身上【爾】可v来【加良牟】不祥【遠毛】、未v萌【爾】払退給【比天】安平【爾】護賜【比】、矜賜【辺止】、恐【美】恐【美】申賜【波久止】申。
右の文に興福寺を建立せる霊廟とは、言うまでもなく不比等にして、しかしてその廟は天安二年を拒る百九十年後の永承二年において、なおその火葬の地たる佐保山椎岡に現存するなり。如何ぞその天安の多武峯墓をもって、これ必ず不比等のなりとするを得んや。しからば『延喜式』における多武峯墓また必ず不比等なるべからず。しかしてその鎌足の墓なるべきことは、問題に上れる『三代実録』の文をしばらく忌避すとするも、『扶桑略記』に明かに鎌足の下に「大和国十市郡倉橋山多武峯是其墓所也」とありて、当時その説の認められしこと疑うべからず。多武峯墓鎌足を措いて、とうてい他にこれに擬すべきものあらざるなり。なお言わば、『三代実録』貞観五年二月の文にも、藤原氏先祖贈太政大臣多武峯墓とあり。贈太政大臣の弁は次節にゆずる。藤原氏先祖と指すものが鎌足なるべきは、言うまでもなかるべし。『続日本紀』文武天皇二年の「詔」にも、藤原朝臣に賜うところの姓は、よろしくその子不比等をしてこれを承けしむべし。ただし意美麻呂らは神事に供うるによって、よろしく旧姓に復すべしとあり。もって鎌足が藤原氏の先祖として認められたりしを見るべきなり。しかして多武峯墓は、実に藤原氏先祖なる人の墓として信ぜられたりしなり。
五 鎌足を贈太政大臣正一位淡海公ということの弁
多武峯墓すでに鎌足たること明かなる以上は、国史に贈太政大臣正一位といい、『延喜式』にさらに淡海公の謚を加えて記するところのものが、外形はともかく、実質において鎌足を指せるものなることは争うべからず。その淡海公(279)というはしばらく措く。正一位太政大臣というはひとり天安二年の四墓の記事において始まれるにあらず、実に天平十三年聖武天皇の勅書中、すでに彼をもって太政大臣と宣し給えるなり。文に曰く、
朕以2薄徳1恭承2重任1、未v弘2政化1、寤寐多v慙。(中略)
一、毎国僧寺尼寺、各可v施2水田一十町1。
一、毎国造2僧寺1、必令v有2廿僧1。其寺名為2金光明四天王護国之寺1。尼寺一十尼。其寺名為2法華滅罪之寺1。(中略)
一、願天神地祇共相和順、恒将2福慶1、水護2国家1。
一、願開闢已降先帝尊霊、長幸2珠林1、同遊2宝刹1。
一、願太上天皇、太夫人藤原氏、及皇后藤原氏、皇太子已下親王、及正二位右大臣橘宿禰諸兄等、同資2此福1、倶向2彼岸1。
一、願藤原氏先後太政大臣、及皇后先妣従一位橘氏大夫人霊識、恒奉2先帝1而陪2遊浄土1。(下略)
右は『類聚三代格』録するところ。ここに藤原氏先後太政大臣とは、明かに鎌足と不比等とを指す。なんとなれば、武智麻呂・房前らが太政大臣を贈られたるは、天平宝字四年なればなり。ただしこの詔書の文、後半は『続日本紀』抄略して録せず。ゆえにあるいは疑いを挿むの余地あらん。東大寺所伝のもの、平安朝時代よりしてすでに往々偽作のものあれば、これまたさる警戒を加うるを鄭重なる研究法とす。されどかりにこれを偽作なりとしても、平安朝において早く鎌足をもって不比等と並べ、先後太政大臣といいしことは明かなれば、この間題の解決には妨げなし。なんとなれば、橘三千代と並びて、先後太政大臣といえるものが、贈太政大臣たる不比等と、その先すなわち父鎌足とならざるべからざるは明かなればなり。すなわち知る。鎌足が太政大臣として認められたりしことの由来の古きを。彼は実に生前において左右大臣の上にある内大臣に任ぜられき。これを後の令制に宛つるに太政大臣に当れり。(280)されば奈良朝においてすでにこの内大臣を呼ぶに、これに相当する太政大臣の名をもってするに慣れたりしか、あるいは真に太政大臣を贈られしことありて、史にこれを逸せしか、今これをつまびらかにするを要せず。ともかく彼を呼ぶに古えより太政大臣の語をもってすることのありしは、これを認めざるべからず。すでにその太政大臣たることを認む。これと同一順序において、その正一位をも認めざるべからず。しかして事実これが贈官位なりしや、また擬官位なりしやは明かならずとするも、後人がこれを贈太政大臣正一位として呼びしことは、必ずこれを認めざるべからざるなり。かくて『三代実録』ならびに『類聚符宣抄』に、天安二年の四墓を叙して、贈太政大臣正一位藤原朝臣鎌足多武峯墓とあるものが、後人の生さかしらより鎌足の二字を加えたるものならぬことは、またこれを認めざるべからざるなり。いわんやこの天安二年の記事の体たる、すでに記したるごとく、他の人々にはいずれもその実名を記する例なるをや。しかもひとりこの多武峯墓にのみ「鎌足」の二字を衍なりとして除き、単に藤原朝臣とのみありきと言わんは、きわめて不可ならざるべからず。本居翁が見られたりという古本と称するものに、果して鎌足の二字なくば、それこそ後人の生さかしらにて削除したりと解すべきものなるべきなれ。多武峯墓はとうてい鎌足のならざるべからず。
さらに『延喜式』がこれを淡海公というに至りては、無知識なる後人の加筆、もしくは当局者の蒙昧より生じたる錯誤なりと解するのほかなし。淡海公が不比等なるべきことは、今日においてはもちろん疑いを挿むものあらざるべきも、平安朝の人士は、往々にしてこれを混同せしなり。そはことに藤原氏のことに精通せるはずの『大鏡』の著者のごときすらが、これを取り違えたるにて察すべし。同書に曰く、
鎌足の大臣《おとど》は、天智天皇の御時藤原姓給はりて、その年ぞ失せさせ給へりける。内大臣の位にて廿三年おはしましける。太政大臣きはめ給はねど、藤原氏の御出で初のやむごとなきによりて、失せ給へる後の諱淡海公と申けり。(281)此の繁樹が云ふやう、大織冠をばいかで淡海公と申させ給ふぞ云々。長暦四年六月伊勢大神宮司に下したる「弁宮下文」中にも、
抑淡海公賜2藤原姓1之日、中臣氏人等皆悉為2藤原1。爰為v不v失2神代根元1、以2中納言意美麻呂卿1命復2旧姓1、供2奉神事1云々。
ここに藤原姓を賜わり、氏人皆ことごとく藤原になりたりとは、明かに鎌足賜姓の時のことにあらずや。しかもこの公文書にはこれを淡海公と明記す。当時政府の吏員らが、淡海公をもって藤原氏祖先なりと解せしこと疑いを容るべからず。『政事要略』が『延喜式』多武峯墓の記事に注して、
淡海公者内大臣鎌足之長子也、依v為2藤氏之先1雖v多2他墓1、別所v注也。
といえるは、たまたまもって著者が淡海公の不比等たることを知りしがためなれども、しかもなおこれをもって藤氏の先とし、多武峯をもって藤原氏先祖の墓なりと見做す点においては正し。当時藤氏の先祖を淡海公なりといいし俗説は、この著者の頭脳をも支配せしを見るべきなり。
これらは実に谷井氏が「平安朝後期に入りて後、世俗には淡海公を鎌足と思ふもの多くなり、此説勢力ありしが如し」と言われたるゆえんのものなり。当時の人士の歴史に暗きは、実に驚くべきものあり。かの『大鏡』の著者のごときは、ただに大織冠と淡海公とを取り違えたるのみならず、時には大友皇子と大海人皇子とをも取り違え、不比等の子宇合・麻呂の二人をその弟なりと誤り、不比等の男子は、武智麻呂・房前の二人のみなりとせるなど、多くのはなはだしき誤謬を重ねたり。ここにおいてある説に『大鏡』の著者ほどの識者が、かかる馬鹿馬鹿しき誤謬を多く重ねたるは、世に憚るところありてその書の取るに足らざるものなることを示さんがために、ことさらにかかる何人にも明かなる誤謬を加えたるなりという。しかれども、当時の事情を察するに必ずしも然らず。官の秘庫には「六国史」(282)はありしならんも、これを見るを得しものはきわめて稀にして、後世の者が自由に古史を繙き、事実を穿鑿するがごとき類にはあらざりしなり。されば、稀にこれを抄録し得しものは、あるいは『先代旧事本紀』となり、あるいは『扶桑略記』ともなりて世に伝わりしものなるべく、菅公の『類聚国史』を編してより、世の学者と言わるるほどのものも、ようやくこれによりて故事を知るを得たりしなり。歴史といえば『史記』『漢書』のみと思い、歌をよみ、詩を作り、漢土の故事をひねくり、管絃の遊びに堪能なるものははなはだ多かりしも、しかもわが古史を明かにせるものは、実にはなはだしく乏しかりしなり。かくておそらく当時藤原氏の人々にても、己が祖先を忘却するに至りしものなるべし。かの大江匡房ほどの碩学も、実は「六国史」を通覧せしことなかりしがごとし。『江談抄』に、
日本紀撰者事
被v談云、日本紀被v見哉。答云、少々見v之、未v及v広。
とあるはもって他を推すに足らん。江師の碩学にしてわずかに『日本紀』を少々見たるのみなりとは驚くべきことにあらずや。世人が史実を忘却する、まことにゆえなきにあらず。しかして『大鏡』の著者が、大友皇子と大海人皇子すなわち天武天皇とを混同せるは、かつて本誌第六巻第十一号、女帝論〔41〕中において論ぜしがごとく、大海人《おおあま》皇子を大海《おおみ》皇子と誤り、淡海《おうみ》朝廷の皇子と混同せし結果なるべく、このことまた移してただちに鎌足を淡海公となすの場合に適用すべきなり。鎌足は近江朝廷の大臣なりき。さればこれを淡海《おうみ》の大臣と呼ばんは、最も適当なる称呼なり。このことはすでに黒川真道氏が、その「淡海公の説」(『史学雑誌』第八巻第三号)において言われたるところにして、余においてもとより同感なり。されば、淡海公が不比等たることを知らざるものが、卒然その名を聞いて、これを鎌足に擬せんか、不比等に擬せんかという立場にありとせんには、必ずまず淡海朝廷の大臣たる鎌足なりとするの説を採るを至当とすべし。かくのごとくにして無知識なる後人が、淡海公の三字を『延喜式』多武峯墓の下に加え、もし(283)くは蒙昧なる当局者によりて、この著しき錯誤を生じたりけんことを想像せんは、これ最も普通のことなるぺし。諸陵寮の調査の杜撰なることは、必ずしもこの時に始まりたるにあらず。早くすでに承和十年において、神功皇后陵と成務天皇陵とを取り違えたることすらありき。当時奇瑞多く、最も上下に畏敬せられし神功皇后陵についてすらこのことあり。この時官の図録のままに北陵をもって神功陵と定めたりしも、けだし、いわゆる図録の方誤りなりしに似たり(「皇陵」所載「上古の陵墓〔42〕」二三頁参照)。されば、『延喜式』これを淡海公と明記したりとて、必ずしもこれを不比等なりと解するを要せず。延喜のころの施政の乱脈を極めたりしことは、少しく史を解するもののひとしく認むるところなり。史上の淡海公は明かに不比等なれども、淡海公の多武峯墓と『延喜式』にあるものは、『大鏡』等に見ゆる俗説にいわゆる淡海公と同じく、明かに鎌足その人の墳墓ならざるべからざるなり。
六 藤原不比等椎岡墓の所在
多武峯塞が鎌足のにして不比等のにあらず、不比等の墓は少くも永承年間まで、依然その火葬の地たる奈良佐保山椎岡にありしことは前節すでにその委曲を悉くしたり。しからばそのいわゆる椎岡なる地は如何《いかん》。
佐保とは今の奈良市西北の地方の称なり。新町村名を佐保村という。東大寺転害門(あるいは輾※[車+豈]門とも手貝門ともあり)より西に向って字《あざ》法蓮を過ぎ、正しく法華寺に通ずる道路あり、一条街道と称す。実に平城京の一条南大路にして、京城が左京京外に拡張するに当り、この道路以南は京内に編入されたり。今の奈良市は実にこの拡張されたる京城の一部の残存せるものとす。しかして天平勝宝八歳の東大寺図には、今の転害門をもって佐保路門と記す。されば『万葉集』に、
智努女王卒後、円方女王悲傷作歌
(284) 夕霧に千鳥のなきし佐保路をば 荒しやしてん見るよしをなみ
とある佐保路は実にこの一条街道なりしなり。細流あり、今は法蓮の東にてこの街道を横ぎり、西南流す。『万葉集』平城遷都の時の歌に、「奈良の都の佐保川」とあるものこれなり。もってほぼ古えの佐保の地点を明らむべし。しかしていわゆる佐保山は、けだしその北部山地の称なるべし。『延喜式』に聖武天皇陵を佐保山南陵、その御生母藤原宮子夫人の陵を佐保山西陵、光明皇后を佐保山東陵と称す。今南陵・東陵の両者は宮内省において修築崇祭す。西陵その所在を逸して、保存の典に預らず。しかれども、その陵名より考うるに、東・南両陵の西にあるべし。兆域東西十二町、南北十二町とあれば、法蓮の地方より、興福院の地をかね、西は佐保田の西方、不退寺の東に及び、南は佐保路すなわち一条街道より、北は今の大山守皇子の墓と定まれる塚の北方を東に通ずる道路附近にも及び、ほとんど佐保山の大部はその域内に取込められたりしものなるべし。山中古墳墓多し。けだしもと平城朝貴紳の墓地たりしものか。『万葉集』の中大伴家持亡妾を悲しむ歌に、
佐保山に棚引く霞見る毎に 妹を思ひ出でゝ泣かぬ日はなし
むかしこそ余所にも見しか吾妹子が 奥槨《おくつき》と思へばはしき佐保山
とあるも佐保山に墓ありしためなり。元明天皇は遺詔して添上郡|蔵宝《さほ》山|雍良《よら》岑に竈を作り、ここに火葬して他処に改むることなかれと命じ給えり。しかしてその崩じ給うや、『続日本紀』にこれを椎山陵に葬り奉るとあり。蔵宝山は言うまでもなく佐保山にして、椎山実に不比等を火葬したる椎岡ならざるべからず。しからば不比等の墓は、これを元明天皇陵附近に求むべきに似たり。しかも天皇陵は式に奈保山東陵東西三町、南北五町とあり。元正天皇の奈保山西陵と相並べるもののごとし。天平二十年元正天皇の崩ずるや、またこれを佐保山に火葬し、後天平勝宝二年に至り、さらに奈保山に改葬し奉る。しからば元明天皇陵も、またいつのころか火葬の佐保山より、後の陵所たる奈保山に改(285)葬ありしものか。爾後久しく所在を失い、俚伝今の大那閉・小那閉の両大古墳をもってこれに擬せしが、今は奈良坂村の西北方に定まりたり。その拠るところを明かにせず。しかして不比等の椎岡墓はもとより今の元明陵の附近に求むべきにあらざるなり。今は廃線となりたれども、もと興福院の東を過ぎ、奈良駅より山城加茂駅に通じたりし旧大阪鉄道線路の東側に接して、三個の溜池の相並べるあり。その南池の東なる丘陵は、引いて聖武陵の所在地に連れるものにして、その西部の高地に松樹の数本並び立てる所あり。法蓮の西北に当る。俚伝これを三本松といい、また淡海公と称すという。これあるいは淡海公椎岡廟を語り伝うるものにあらざるか。その地は宮子夫人佐保山西陵兆域内に当る。けだし、不比等は夫人の父なれば、その廟所をもこめて、これを西陵の兆域内に編入したりしものと解すべきに似たり。いまだ考古学的調査を経ざれども、不比等の墓が多武峯にあらずして、佐保山なること明かなる以上、この俚伝に従いて、いわゆる三本松淡海公の地をこれに擬するを穏当とすべし。
七 鎌足最初の墳墓とその改葬の疑問
鎌足の薨ずるやこれを山階精舎に葬る。事は曾孫押勝の『大織冠伝』にありて疑うべからず。山階寺はもと鎌足が陶原の宅にして、旧地は『山城志』に、東野村にありという。鎌足の臨終の地は『日本紀』に『日本世記』を引きて、内大臣春秋五十、私第に薨ず。遷して山南に殯すとあり。私第とは『大織冠伝』に淡海之第とあるものにして、実に大津京にありしなり。その殯斂《ひんれん》の地の何地なりしかは、今これをつまびらかにせざれども、これより山科に向うべき葬列が、途に闕下を経、天皇親しく素服を御して歩臨し給うとあれば、宮城以北にありしもののごとく、おそらくは崇福寺所在の山の南麓地方なりしなるべし。天智八年十月十六日薨じ、翌年閏九月六日をもって山階精舎に葬る。殯斂約一ケ年なり。もって葬儀の準備の鄭重なりしを察すべし。しかしてその山階精舎は、天武天皇朝に大和高市郡軽(286)の地なる厩坂に移りて厩坂寺と号し、後さらに平城の興福寺となれり。しからば、その取り残されたる墳墓は、依然永く旧地にあるべしと想像せんよりも、このさいもしくはその後ある時代においては、また他の便宜の地に遷りたるべしと想像するをもって妥当なりとせん。しかしてその遷りたる地が摂津三島の阿威なりしか、はた多武峯なりしかは明かならざれども、すでにいえるごとく、三島も鎌足別業の地なれば、旧説のごとくいったんここに移り、再び多武峯に移りたりとせんも必ずしも不可ならず。縁起の説もって確証とし難きこと無論なるも、全然承くるところなきものならんにほ、何がためにことさらに阿威をここに点出すべきかの解釈に苦しまざるべからず。さればその説正確なりというを得ざるまでも、他に反証なき限り、この旧説また必ずしも軽々しく排すべからざるなり。ただしこれを定恵の改葬とすることは疑いあり。『貞慧伝』を信ずれば、彼は父鎌足に先だちて死去せしなり。しかれどもこれあるがために改葬その事実をまでも否定すべきにあらず、しばらく山階寺の厩坂に移りしさいか、もしくはその後年代不詳の時において、山科よりいったん阿威に移り、さらに多武峯に移りしものとして、さらに他日の研究を俟たん。
八 約 説
以上説くところすこぶる多岐かつ長文に渉れるがゆえに、左にこれを約説して、見やすからしめんとす。
一、最も信ずべき史料なる『大織冠伝』によるに、鎌足は死後山階精舎に葬らる。しかも後の史料はその墓多武峯にありとす。しかるに、『延喜式』には多武峯の墓をもって贈正一位太政大臣淡海公すなわち不比等の墓なりとするがゆえに、多武峯に鎌足の墓ありとするは誤りなりとの説と、多武峯にほ両方存在すとの説とあり。
二、しかるに永承二年の左大臣頼通の「告文」によるに、当時不比等の墓は、彼の火葬地なる奈良佐保山椎岡にありき。しからばその前に多武峯にその墓ありとするは誤りならざるべからず。前説ともに不可なり。
(287) 三、鎌足は内大臣大織冠にして、贈太政大臣正一位となりたる証なし。ゆえに『三代実録』に多武峯墓を贈太政大臣正一位藤原朝臣鎌足墓とある鎌足は後人の加筆なりとの説あり。
四、しかれども鎌足の内大臣大織冠は後の太政大臣正一位に当る。されば、新官制によりてこれを追贈せしか、あるいはこれを呼びかえたるかは知らねど、すでに聖武天皇の「詔書」には鎌足を太政大臣と呼び給えり。しからば正一位と呼ぶも不可にあらず。また鎌足の二字後の加筆なるべからず、列挙せる他の墓については、ことごとく実名を記載したれば、これのみ名を略すべきにあらざるなり。
五、淡海公はもちろん不比等なり。しかれども、平安朝の人古史に暗く、淡海公の名を聞きて、しかもその不比等なることを忘れ、鎌足が淡海朝廷の大臣たりしがゆえに、これすなわち淡海公と早合点し、ために両者を混同せり。鎌足を淡海公と呼べる例は『延喜式』以外他にも往々これあるがゆえに、『延喜式』の淡海公も、当然鎌足のことを言えるものなりと解すべし。
六、されば鎌足の墓はそのもとの所在なる山階精舎すなわち後の興福寺が他に移転したるさい、もしくはその後に、いったん摂津三島の阿威に移り、それよりさらに多武峯に移れるか、もしくは直接に山科より多武峯に遷れるものにてもあるべし。しかして不比等の墓は、永承二年後他に遷るの徴証なき以上、依然佐保山椎岡にあるものとすべく、その所在ほ、実にその女たる宮子夫人の佐保山西陵兆域内にして、今の三本松の地なるべし。
以上ほぼその要項を摘記したり。その詳細はもとより本編について視られんことを望む。
(十月七日記)
(288) 藤原鎌足および不比等墓所考の追考
一 緒 言
余さきに「藤原鎌足および不比等墓所考」一編を著して、本誌前巻第五号(大正四年二月発行)に掲げたり。本編もと匆卒のさいの起稿にして、ただ、古来しばしば学界の問題に上りていまだ解決を得ざる多武峯墓が鎌足のにして、不比等の墓は別に奈良佐保山椎岡にありとのことを証すれば足れりとし、当時あたかも宮内省諸陵寮考証課長増田于信君が、多武峯に不比等の墳墓を発見せりとの説の、広く各地の新聞雑誌上において紹介せられたるを機として、単に学界の注意を請わんがために、その考証も特に必要なる程度に止め、早急に発表せしものなりき。されば後にこれを見るに、調査ならびに説明のやや不備なるものあり、その後に発見せし新史料、ならびに学友和田英松君・八代国治君より、『興福寺縁起』および『猪隈関白記』に有力なる証左あることを注意せられたることなどもありて、さらに博引旁証、これが追考を公にせんと欲せしが、たまたま宮内省図書寮編纂課長にして、増田君と同じく、諸陵寮に勤務せらるる本多辰二郎君、該論文について反対意見を有せられ、これを本誌に寄せらるべき約成りたれば、(289)むしろその後に譲るを便宜と考えへこれが発表を差控えき。果して氏の論文は、「多武峯墓に就て」と題し、本誌前卷弟六号(大正四年一二月発行)の誌上に掲げられたり。すなわちついてこれを読むに、該編は氏がかねて有せられたりし意見に加うるに、さらに増田氏の研究をも加えられたるものにして、要するに両氏の反対意見を纏められたるがごときものなり。あたかもよし、谷井済一君また氏のかつて発表せられし論文が、余の論文に触るるととろ多かりしのゆえをもって、別に『考古学雑誌』第六巻第四号(大正四年一二月発行)の誌上において、「再び藤原鎌足の及び藤原不比等の墓所に就いて」と題し、氏の旧説の不備を補われたり。余の前章ある、もとより単独に余の意見を発表せしに過ぎざれども、その動機は、多武峯墓が単に不比等のなりとし、または多武峯に鎌足・不比等両者の墓ありとするの旧説が、さらに変りたる形式方法のもとに、谷井・増田の二氏によりて、繰り返されたるにあるものなりき。されば、今期せずしてここに両氏の精細なる説明と、第三者たる本多氏の意見とを聞き、つまびらかにその反対説の根拠のあるところを知り、ますます余が前説の誤らざりし確信を得たるものあり。すなわち予定に従い、ここにこれが追考を発表して、普く学界の意見を問い、特に本多・増田・谷井三君の示教を仰がんとす。
二 重ねて荷前の奉幣に預りし多武峯墓が鎌足の墳墓なることを証す(上)
「十陵四墓の一として選定せられし多武峯墓が、必ず鎌足のなるべきこと」は、余すでに前章においてこれを論じたり。当時余は永承二年の右大臣藤原頼通の告文をもって、不比等の墓が別に奈良佐保山椎岡に存することを証し、さらにこれを理論上より観察して、左の意味の説をなしたり。曰く、 不比等は聖武・孝謙の朝においてこそ外戚なれ、天武天皇の御系は称徳天皇に至りて絶え、光仁天皇以来天智天皇の御統連綿として皇統を承けさせ給える時にありて、如何ぞこれを四墓の一として選定することあらんや。天智(290)天皇は中興の英主たるのみならず、実に当代の近き御先祖にわたらせらるれば、これを十陵の首に置きて、永世不除の制とし、しかしてこれと配して四墓の首に置き、ともに永世不除の制に預らしめらるべきものは、なんら当代と近き関係なき不比等にあらずして、その天智の功臣として、外戚藤原氏の祖先たる鎌足ならざるべからず。もし不比等が遠き過去において皇家の外戚たりしゆえをもって、なお荷前の奉幣に預るべしとせば、まずもって聖武・孝謙の両帝、ないし宮子夫人・光明皇后をも加え、藤原百川らまた国忌の典に預らざるべからざるにあらずや。
と。しかしてその文献上の証として、『三代実録』天安二年条に、「贈太政大臣正一位藤原朝臣鎌足多武峯墓」とあるものを提出し、その鎌足の二字が、本居翁の言わるるごとき衍字にあらざるべき理由を論じ、『扶桑略記』に明かに多武峯を鎌足の墓所なりと言えることに及び、さらに『三代実録』貞観五年条に、「藤原氏先祖贈太政大臣多武峯墓」とある先祖が、また鎌足ならざるべからざるゆえんを説き、『延喜式』に「贈太政大臣正一位淡海公藤原朝臣多武峯墓」とあるものが、また鎌足を指せるものなることを論述せり。しかして余はこれをもって、今なお鎌足・不比等両者の墳墓の問題を決するがためには、十分なりと信ずるなり。
しかるに、余が論旨はその行文の拙なりしがためか、不幸にして反対意見を有せらるる本多・谷井らの諸氏に徹底せざりしものと見え、両氏ともにこれに関して縷々述べらるるところあり。すなわちまず両氏の主張せらるる点につきて、余の解釈を異にする次第を論じ、さらに進んで前編挙証の不備を補わんとす。
まず本多氏は、「十陵四墓の一として選定せられし多武峯墓は必ず不比等の墓なるべし」と題して、大要左の意味の三条の理由を提出せられたり。
(イ)朝廷より勅使を受け、奉幣に預る墳墓となるには、必ず至尊の外戚たらざるべからず。然るに鎌足は功績偉大なるも、帝者の外戚にあらず。これに反して、不比等は聖武・孝謙二帝の外祖父にして、かつ人臣として帝者の(291)外戚たる者の嚆矢なれば、百世これを祀りて除かざるなり。
(ロ)十陵四墓の制の起原は奈良朝にあり、当時山陵のみならず、実に不比等の墳墓に勅使を派遣し報告祈請をなせしの例は、天平二年および天平勝宝七歳にあり。清和朝の十陵四墓の制は、これを拡張して毎年挙行すべき恒例としたるに過ぎざれば、如何ぞ既に祭祀奉幣を受くべき例に入れる不比等を捨てて、古来その例なき鎌足を代うることあらんや。
(ハ)天平勝宝九歳の勅書に、内大臣(鎌足)・太政大臣(不比等)の名は称するを得ずとありて爾後国史にその名を書する所なし。ひとり『三代実録』天安二年条に、十陵四墓の名を掲げ、鎌足の二字を明記せしは違式なり。これは本居翁の見られたりという古本のごとく、また、諸陵式の記事のごとく、鎌足とも不比等ともなきを正式の書法とす。しかして『続紀』を見るに、鎌足の事は常に内大臣とのみありて、太政大臣とは言わず。『延喜式』に贈正一位太政大臣淡海公とあるは、淡海公即ち不比等にして、鎌足なるべからず。
右三条いずれも一面の理由あるに似たりといえども、管見によれば、そのすべてがいまだもって多武峯墓に擬するに不比等をもってする証拠とはならざるもののみなりとす。
まず(イ)の理由とせらるるところは、余の前章においてすでに詳説弁明したることを繰り返されたるに過ぎず。余は切に余の所説の、氏によりて顧みらるるところとならざりしを悲しむ。言うまでもなく不比等は聖武・孝謙二代に外戚たり。しかもその外戚たりしことは、聖武・孝謙の御代においてこそ、特別に尊崇すべき理由はあれ、その後すでに朝を代うる十代に及べるのみならず、皇家においても光仁天皇以来天武と天智と、その系統をまでも異にせるこの清和の御代において、なんぞことさらに尊崇せらるべき謂あらんや。もしこれをしも特に祀るべくんば、その後の、さらにより近き関係の帝皇・外戚、ことごとくこれを祀らざるべからざるにあらずや。また氏が、荷前の奉幣に預るも(292)の、必ず至尊の外戚ならざるべからずとはなんの拠ありや。外戚祀るべくば大切なるその祖先を祀るまた可ならずとせざるなり。氏はまた不比等の勲功の特に顕著なることに重きを置かる。しかれどもこれを繁栄なる当時の藤氏の人人より見れば、その第一祖たる鎌足に比して軽重|如何《いかん》。またもし皇家に対する功績よりいわば、多年埋没せし天智系の平安朝帝統を起せる百川の、功大にして代近きに比して如何。これら皆もとより論議を容るべき余地なきものとす。ただ氏が不比等をもって人臣にして帝者の外戚なる嚆矢なれば、百世これを除かずと論ぜられたるは、確かに一新見識なり。よりていささかこれを弁ぜんか。『日本紀』に見ゆる上古のことはしばらく措き、人臣皇后の最初の例としては、ともかくも光明皇后を推すべきものなるべし。さればその父なる不比等をもって、人臣外戚の嚆矢とせんは、確かに一理あるに似たり。しかれどもこれあるがゆえに百世不除の典に浴したりとの理由は立つべからず。また単に文字通りに人臣外戚の例を尋ぬれば、元明天皇も、持統天皇も、崇峻天皇も、推古天皇も、用明天皇も、ともに蘇我氏をもって外戚とし給えるなり。されば、厳格に言えば必ずしも不比等をもって人臣外戚の嚆矢とも言い難かるべく、また、かかる理由をもって永世不除を説明せんは薄弱なりといわざるべからず。露骨にこれを評すれば、ただかかる説も立てなば立て得らるるというまでなり。要は鎌足が特に重んぜられたること、外戚藤氏の祖先たりということに帰すべく、その永世不除は、大化新政に大功あり、現在皇室の近き先祖に渡らせらるる天智天皇を、永世不除の例とせるに対して、その功臣にして外戚藤氏の祖たるものを配し、同じく永世不除となすとするを至当とせん。いわんやその多武峯の墓が鎌足たるの証は、後に示すがごとく、憑拠歴々たるものあるをや。想像説は無証拠の場合においてのみ一説として保留せらるべし。証拠の前にはなんらの権威をも有せざるものなり。
次に(ロ)の理由とせらるるところの弁解は、すでに右の説明にてほぼ尽きたりと信ず。不比等は天平および天平勝宝のころにおいては外戚なれば、当時においては特に重んぜられ、事あるに際してその墓に奉幣せらるることもある(293)ベし。しかも清和の御代には関するところなし。しかるに如何ぞ、既得の権利として、これむ永世に及ぼさざるぺからざることあらんや。
最後に(ハ)の理由とせらるるところは、前後の二段に分れ、しかもその最初に掲げられたる引用文の解説に至りては、全然誤解の上に組織せられたるものとして、撤回を求めざるを得ず。なるほど氏の引用せられたる文をのみ見れば、人あるいは鎌足・不比等の名をもって、いかなる場合において絶対に称するを得ざる定めのごとくにも解せん。しかれども、こはただ氏の説に必要なる部分のみを抄録せられたるがためなり。請う、試みにその全文を引用せんか。
大和国葛上郡人従八位上桑原史年足等男女九十六人、近江国神埼郡人正八位下桑原史人勝等男女一千一百五十五人間(ジク)言(シテ)曰(ク)、伏(ミテ)奉(ルニ)2去(ル)天平勝宝九歳五月廿六日(ノ)勅書(ヲ)1※[人偏+稱の旁]《イワク》、内大臣・太政大臣之名(ハ)不v得v称(ルヲ)者(ナリ)。今年足・人勝等先祖後漢苗裔劉言興並帝利等、於(テ)2難波高津宮御宇天皇之世1、転(ジテ)v自2高麗(ヨリ)1、帰2化(ス)聖境(ニ)1。本是(レ)同祖。今分(ル)2数姓(ニ)1。望(ミ)請(ウ)、
依(リ)v勅(ニ)一(ニ)改(メテ)2史(ノ)字(ヲ)1因(テ)蒙(ラン)2同姓(ニ)1。於(テ)v是(ニ)桑原史・大友桑原史・大友史・大友部史・桑原史戸・史戸(ノ)六氏(ニ)、同(ク)賜(ウ)2桑原直娃(ヲ)、船史(ニ)、船直姓(ヲ)1。
ここに内大臣・太政大臣の名を称うるを得ずとは、いわゆる避諱にして、その人ならぬものがこれを名に呼ぶを禁ずるの意なり。ゆえに史《ふひと》の姓《かばね》の不比等に触るるを避けて、他の姓に改めたるなり。避諱の制はシナに起り、わが国にもこの後その例多し。しかも如何ぞその人を指す場合にまでも、その名を書すべからずとのことならんや。「六国史」にその後鎌足・不比等の名なきは、これを書するを必要とする場合に遭遇せざりしがためなり。もし絶対にこれを書すべからずと言わば、延暦年問の編纂なる『続日本紀』に、その名を点出するもまた不可なりと言わざるべからず。しかも同書養老四年の条には、
右大臣正二位藤原朝臣不比等薨(ズ)、……大臣近江朝内大臣大織冠鎌足之第二子也。
(294)と明記せるなり。氏はこれをしもまた違式なりと言わんとせらるるか。もし厳格なる避諱の意義より絶対にこれを書すべからずと言わば、その記載せらるる事実が、これを禁じたるよりも前の年代に係る時は差支えなしとの道理はあるべからざるなり。しかも延暦年間編纂の国史がこれを記して憚らず。如何ぞ『三代実録』の記事をのみ咎めん。いわんや『大織冠伝』『武智麻呂伝』『万葉集』『懐風藻』以下、天平勝宝九歳以後のものと認めらるる書において、その名を直書して憚らざるもの多々あるにおいてをや。
右の理由によりて、余輩は、『三代実録』天安二年条の多武峯墓は、『類聚符宣抄』所収文書のつとに明記せるごとく、他の冬嗣・美都子・潔姫の名を記載するものと相並びて、必ず鎌足の名をも点出したりしものなることを断言して憚らず。しかしてこの理由よりして、当時鎌足が贈太政大臣正一位として認められたりしことをも証せんとはするなり。本居翁が見たる古書にこの二字なしとのことは信じ難し。余もとより翁の人格上よりして、これをもって翁の捏造なりと信ずるものにあらざるも、四墓中他の三墓が皆その名を記するに、ひとり多武峯墓のみこれを略したりとしては、その体をなさざるを如何せん。思うに、こは必ず後人のなまさかしらに省略したる悪本を見られたるならん。
次に氏が、『続日本紀』に常に鎌足のことを内大臣と記し、太政大臣と記したる所なしと言われたることはまさに事実として承認す。これ余が前章において、天平十三年の聖武天皇の勅書なるものを『三代格』より引用しながら、みずから「疑いを挿むの余地あらん」とせるゆえんなり。しかれども、すでにこの文『三代格』中に収めらるる以上、少くも延喜のころには、公においても、鎌足をもって太政大臣として信じたりしこと明かなれば、これをもって『延喜式』の記事を証するには、十分の権威あるものとして引用せしなり。しかるに氏はかえってこれを疑わず、「此の勅書は鎌足、不比等を併べ挙ぐるに当り、文勢上然か書かれしのみ」と解せられたるは、余にとりて案外とするところなり。実に奈良朝においては、鎌足は常に内大臣をもって呼ばれ、太政大臣と称せられたることなし。露骨に言わ(295)ばこの勅書の後半は確かに平安朝の偽作なり。もって奈良朝における証左とはなすぺからず。しかれども、鎌足の内大臣は、その実左右大臣の上にありて、後の太政大臣に相当す。奈良朝の末において、藤原良継が任ぜられたる内臣もしくは内大臣とは同じからざるなり。されば、名同じくしてその実異なる後の内大臣なる令外官の新設せられたる後は、もはや従前通りの内大臣なる語をもってしては、鎌足の栄官を示すに足らずなりて、ここに太政大臣の贈官ありしものか、もしくはその内大臣に相当する太政大臣の称をこれに及ぼしたりと解するを至当とすべし。大織冠を正一位というまた然かなり。実に平安朝においては、特に延喜の前後においては、たしかに鎌足を呼ぶに太政大臣正一位をもってしたりしなり。そは昌泰三年に左大臣藤原良世の撰びし『興福寺縁起』に、鎌足と不比等とを並べ記して、前者を先正一位太政大臣、後者を、後太政大臣と称するによりても明かなり。同書には別に鎌足の前官を内大臣とす。しかして、明かに贈官たる不比等をも単に太政大臣といえるによれば、あるいは内大臣鎌足が後に太政大臣を贈られたりしものと解せられたるもののごとし。しかしてこのことまさに『三代実録』および『延喜式』の記事に適合するなり。また『扶桑略記』には『家伝』を引きて、大織冠の下に注するに「正一位之号也」の六字をもってし、また太政大臣に任ぜらるるの事実を記す。しかしてその次に内大臣と太政大臣との称呼のことを弁じ、
私云、任2太政大臣1者、其旨未v詳。雖v出2家伝1、世全不v知v補2大相国1。若以v任2内大臣1、書誤云2太政大臣1歟。慥可2考訪1而已。
とあり。これまた当時たとい誤りにもせよ、明かに鎌足を呼ぶに太政大臣正一位をもってせし証とすべし。ことにその著者皇円が引ける『家伝』には、鎌足の内大臣を太政大臣とさえ書き改めたりしなり。されば、その由来は如何にもあれ、平安朝において鎌足を呼ぶに太政大臣正一位をもってせし事実は疑うべからず。余が前章において、
されば奈良朝においてすでにこの内大臣を呼ぶに、これに相当する太政大臣の名をもってするに慣れたりしか、(296)あるいは真に太政大臣を贈られしことありて、史にこれを逸せしか、今これをつまびらかにするを要せず。ともかく彼を呼ぶに古えより太政大臣の語をもってすることのありしは、これを認めざるべからず。すでにその太政大臣たることを認む。これと同一順序において、その正一位をも認めざるべからず。しかして事実これが贈官位なりしや、また授官位なりしやは明かならずとするも、後人がこれを贈太政大臣正一位として呼びしことは、必ずこれを認めざるべからざるなり。
と言えるもの実にこれなり。ただしここに「奈良朝において」とあるは狭かりき。「奈良朝末もしくは平安朝初世において」と改むべきものとす。その贈官位のことは事実なかりしとするも、すでに鎌足を呼ぶに太政大臣正一位をもってする以上、しかしてその官位が鎌足当時になかりしものなるをもって、これを贈官位なりと解せるは至当なりといわざるべからず。
ともかくも、『続日本紀』において、鎌足を呼ぶに内大臣の称をもってしたりとのゆえをもって、後にこれよりも低き内大臣のある時代にまでも、これを及ぼして、太政大臣と呼ばるるものは鎌足なるべからず、したがって『三代実録』に贈正一位太政大臣藤原朝臣鎌足と明記せるもの、また誤りなりとするの説は立ち難し。しかるに氏は余が説くところをもって、「想像に由りて、……之を然か称するも可なりとか、又は大鏡に鎌足を淡海公と記せりとかいふ間違の記事に過ぎずして、一向価値少きもの」なりと軽々に罵倒し去り、さらに避諱の制の解釈上より、また内大臣に前後軽重の相違あることとを無視せる想像上より、ただちに『三代実録』以下の証文を抹殺せんとす。遺憾ならずとせず。
氏はさらに「藤原氏の祖先といふ事」という標題の下に、藤原氏の先祖というもの必ずしも鎌足ならずとのことを力説して、同じ『三代実録』の、「藤原氏先祖贈太政大臣多武峯墓」とあるものをも、不比等に帰せしめん(297)と試みられたり。しかれども事実は如何ともすべからず。このことはすでにほぼ論じたれば、ここに繰り返すの要なし。ただ一言『大鏡』によりてこれを補わんに、同書には鎌足のことを記して、
三十九代にあたり給へる御門、天智天皇と申す。其の御門の御時にこそ、此の鎌足の大臣の御姓、藤原とあらたまり給ひたれ。されば、世の中の藤氏のはじめは、内大臣鎌足の大臣を為《し》奉れり。其の末々より、多くの御門・后・大臣・公卿、さまざまになりいで給へり。
とあり。これ明かに鎌足をもって、藤氏の祖とせるものならずや。さらにいわんや『玉葉』には、多武峯は氏の始祖なり、淡海公は我氏王胤出で来給う始めなり(全文後に引く)、とありて、氏祖と淡海公とを、明かに区別するあるをや。氏いかにこれを極説すとも、鎌足を措きてその不比等に冠するに藤原氏先祖の語をもってしたりとの説は立ち難かるべきなり。もしそれ氏が、氏神・氏寺の例もここに引かれたるに至りては、確かに氏神・氏寺そのものの性質を誤解せられたるものにして、もとよりもって証とするに足らず。またその弁明は、ここに要なければ論議の散浸に流るるを避け、あえて言及せず。要するに藤原氏の先祖とは、新たに藤原氏を賜わりてその家を起せる鎌足ならざるべからざるなり。
次に谷井氏は、また「十陵四墓の一として選定せられし多武峯墓は不比等の墳墓なるべき事」といえる、ほとんど同一なる標題の下に、五ケ条の理由を列挙して、その前説を敷衍せられたり。しかれどもその説いずれも想像説のみにして、ただかくのごとき説も立てなば立ち得るものなりとのことを示されたるに過ぎず。証拠の前にはいずれも権威なきもののみなれば、今弁明せず。
(298) 三 重ねて荷前の奉幣に預りし多武峯墓が鎌足の墳墓なることを証す(下)
すでに本多氏の提出せられたる三ケ条がことごとく従うべからず、谷井氏の五ケ条またいずれも顧慮するに足らず、しかして平安朝において鎌足を正一位太政大臣淡海公と称したりとの事実ありとせば、余が前章において提出せる『三代実録』の「贈太政大臣正一位藤原朝臣鎌足多武峯墓」といい、「藤原氏先祖贈太政大臣多武峯墓」と称することの証文、ならびに『扶桑略記』の多武峯をもって鎌足の墓所とせる挙証は、今もって厳然として存在し、多武峯妙楽寺がこれを鎌足なりとして伝称し、また上は皇帝より、下は藤原氏を始めとして、一般庶民に至るまで、古往今来またこれを鎌足なりとして尊信することと相俟って、多武峯墓が鎌足の墳墓なることの証明はすでに十分なりといわざるべからざるなり。しかれども、なおその他においても、適切にこれを証すべきもの多々存在するがゆえに、次にこれを掲げて、前説をしていっそう完からしめんとす。
『三代実録』と『扶桑略記』との以外に、平安朝の史料としては、『大鏡』『今昔物語』等あり。『大鏡』には、前章すでに引用せるごとく、鎌足のことを記して、
藤原氏の御出で初めのやむごとなきによりて、失せ給へる後の諱、淡海公と申けり。
とあり。この文最も適切に、当時鎌足を呼ぶに淡海公の称をもってせしことありしを証するなり。ただし余が前章に、「『大鏡』の著者のごときすらがこれを取り違えた。」といいしは粗漏なりき。『大鏡』の作者は世に鎌足を淡海公と申すとのことを記して、これを弁じたるものなり。記してその誤りを訂す。さてこの鎌足を淡海公ということは、ただに世俗のみならず、政府においても明かにこれを認めたるものにて、前章所引長暦の「弁宮下文」にこれをいえるほどなれば、それよりも八十年前の『延喜式』に、このことありとて、必ずしも怪しむに当らざるべきか。
(299) 却説、「大鏡』には、右引用せる文の後に、その鎌足の墓の、明かに多武峯にあるをいう。曰く、
鎌足大臣の御氏寺、大和国多武峯に造らしめ給ひて、其処に御骨を納め給ひて今に三昧を行ひ奉り給ふ。不比等大臣は山階寺を建立せしめ給へり。
と。かくて不比等の墓のここにあるをいわず。また『今昔物語』には、
峯(多武峯)には大織冠淡海公も御墓を為たるなり。其の御骨をば舂き※[竹/助]ひて蒔てけり。然れば馬牛に蹈ませじとて、廻には※[漸/土]を遠くして敢て人寄らしめず。其れに大織冠淡海公の御流れ国の一の大臣として、今に栄え給ふ。然るに天皇の御中と吉《よ》からぬ事出で来らんとては、其の大織冠の御墓必ず鳴り響くなり。然ればこれを怪まずと云ふ事なし。多武峯と云ふ所是れなりとなむ語り伝へたるとや。
とあり。またもって証とすべし。しかるに本多氏は、この『今昔物語』の大織冠淡海公とあるものについて、これを二人と見、多武峯に両者の墓併存する説の古くより存せし証とせられたり。しかれども、こは『今昔物語』の他の条に、大織冠と淡海公とを明かに別人と見たるもの多きがゆえに、しか解せられたるものなるべく、いちおう無理ならぬ見解のごときも、元来『今昔物語』は、系統的の著作にあらず、ただ時々の見聞をそのままに書きしるしたるものなれば、前後矛盾ある怪しむに足らず。すでに長暦の「弁官下文」がこれを認め、『大鏡』にもこれを明記せるごとく、当時すでに大織冠を淡海公と称したりとの説の存在せし以上、この話の主意は、その後文において、単に大織冠の御墓鳴動すといえるごとく、鎌足のことのみを言えるものなりと解せざるべからず。氏は「大織冠淡海公を一人と見るは、此の文章夫れ自身に於て無理なり」といわれたれども、この文は、多武峯に欽明天皇(元明天皇とあるは誤りなり)の御陵を点定せんとのことを主として記し、その筆の序に、「さて峯には大織冠淡海公も御墓を為《し》たるなり」と書けるものなれば、文章の勢い決して二人と見るを要せざるなり。されど、かりにこれを二人と見たりとて、そは淡海公が不(300)比等なりとのことを覚知せるものが、『延喜式』の記事を見てここに大織冠以外不比等の墓もありとの説をなすものありしことを示せるものにて、しかもその『延喜式』の淡海公が、その実不比等ならずして鎌足を指せるものなること明かなる以上、この記事またその実鎌足のみを意味するものと解すべきなり。
この『扶桑略記』『大鏡』『今昔物語』等の記事は、つとに谷井氏の引用せるところ。ここにおいて氏も、平安朝中ごろ以後には、世間には誤りて多武峯墓を鎌足のなりと思い、その鎌足を淡海公なりと信じたりとのことを認められたり。しかれども氏はこれをもって無稽の巷説俗話とし、荷前便の停廃と相俟って、ついにこの誤認を生じたるならんと解せられたるなり。しかれども、これ全然事実にあらず。これを鎌足のなりとすることは決して巷説俗話のみにあらず、荷前の奉幣また決して平安朝において停廃したるにあらざるなり。しかるに谷井氏が、軽々しくこれを断言する、不審ならずとせず。
まずその巷説俗語ならざることの証としては、『延喜式』と長暦の「弁官下文」とをしばらく措き、平安朝以来、多武峯自身がしばしば大織冠の御墓山鳴動もしくはその影像破裂のことを奏上するの事実のみによりても十分なるべし。多武峯は永保・天仁の両度兵火あり。ことに『中右記』によれば、天仁の度のごとき、「数代法文皆以紛失」などあれども、聖霊院・十三重塔・講堂等も、皆残存せるほどなれば、さして大事にもあらず、これがために旧記を逸し、寺伝を忘れ、その主神とするところを取り違うるがごときことあるべからず。承安の兵火はすこぶる猛烈なるものなりしも、ために寺門の衰頽を来すに至らず。もちろんその以前において、寺の荒廃したる事実なければ、その祀るところが鎌足なりや不比等なりやを誤るべきにあらざるなり。されど、なおさらにこれを確かめんがために、皇家ならびに藤氏の側について見んか。承元二年五月十二日、多武峯墓前に遣わされたる土御門天皇の「宣命」には、明かに、
(301) 天皇 我 詔旨 度 大織冠内大臣多武峯 乃 墳墓 爾 詔 度 勅命 乎 聞坐 度宣 布。
と仰せ給えるなり。また、二月十六日に、関白藤原家実が氏の三社すなわち春日・大原野・吉田に奉りたる「告文」にも、明かに、
抑多武峯 者 始祖大織冠内大臣衛墳墓 乃 地 奈利。其処 爾 留2御影像1 弖 累門相承 弖 歴代欽仰 世利。
と言えるなり。なおさらに最も適切にその鎌足の墓なることを言えるものは、『玉葉』文治五年十一月二十八日条の記事なりとす。同書には、藤氏三墓のことを述べて、
多武峯(ハ)氏之始祖也。万事可v祈v之。淡海公者我氏王胤出来給始也。其後継踵不v絶。御堂者累祖之中為2帝外祖1之人雖v多、繁華之栄、莫v過2彼公1。
とあり。その淡海公墓は椎岡にして、御堂の墓は木幡にあり。その椎岡のことは後節さらに詳説すべきも、ともかく多武峯が氏の始祖鎌足の墓にして、淡海公のは別に存すること、これによりて明々白々たらずや。
天皇これを鎌足の墳墓なりと仰せられ、藤氏の長者またその鎌足たることを明言し、累門相承け歴代欽仰せることを説く、如何ぞこれを巷説俗話なりとして却くべけんや。もしその間に、皇室式微・藤氏衰頽の事蹟にてもありし後ならばこそあれ、引き続きその繁栄を維持せる平安朝末葉・鎌倉時代初期において、皇家・藤氏ともにこれを認め、寺門また明かにこれを主張するに、如何ぞこれを中途にて誤りたりというを得んや。いわんや荷前の奉幣は、天安二年以降、その後に至るまでも引続き行われたるの事実厳存するものなるをや。
ここに至りて余輩は谷井氏が、何によりて軽々しく荷前奉幣のつとに停廃せることを明言せられたるかにつきて反問せざるを得ず、『江家次第』に、
荷前事【近代無2御出1亦不v行2晴儀1】
(302)とあり。その裏書に、
荷前。天皇行2幸建礼門前幄1、有2此事1。雨儀大臣以下向2承明門外1行v事。天皇出2御宜陽殿西廂1。近代又無2此出御1。
とあれば、あるいは氏これによりて然《し》か解せられたるかは知らねど、これは単に宮中における御儀式のみのことにて、その奉幣は平安朝を通じ、鎌倉・南北朝の初めころまでも、引続き行われたるなり。そは『玉葉』等、代々の日記を見れば明かなるのみならず、『建武年中行事』にも、当時戦乱のさいなるにかかわらずなお面影ばかりは残りたりと見え、誰も知る『徒然草』には、明かにその発遣のことども見ゆるなり。ことに『園太暦』によれば、観応元年の荷前に次官なかりしがゆえに、欠員のままに行わるべきか、はた停止すべきかとの議ありしに当り、著者公賢は、
荷前停止會不2承及1事也。
として、これに反対せしことを記せり。南北朝の初めにおいて、当時の博識者が、荷前の停止かつて承り及ばざることなりと明言す。如何ぞ平安朝においてすでに停廃し、その墓の主を忘るるのことあらんや。いわんや永世不除の多武峯墓においてをや。あるいは言う、『類聚符宣抄』に、延長・天暦・応和・康保等の時において、荷前使その所職を闕怠し、ために処分せられたることあるは、これ停廃の証ならずやと。しかれども余輩は、これをもってかえって引続きその実行せられたりし証とせんとはするなり。なんとなれば、その処分せられたるものは奉幣使中の一小部分にして、ことにその年次もきわめて僅少のものなれば、長年月の間、時に不心得なる少数者の闕怠ありしのみにて、他は恒例のごとく行われたりしことを示すものなればなり。
なおさらにその多武峯墓が、天安二年以来引続き鎌足墓として奉幣せられしものなることは、承元二年金峯山の僧が多武峯を焼き討ちて、鎌足の影像ために災に罹りしに当り、関白家実その善後策につきて衆議に問いし時、中納言(303)藤資実の議に、
自2天安之聖代1、預2年終之荷前1、以来尊崇異v他。
の語あるによりて最も明かに証せらるるものなり。中宮大夫藤公房の議にも、
預2荷前幣1、或臨時被v遣v使。而影像焼失尤足v驚。遽何無2謝遣之儀1哉。
とありて、鎌足が荷前に預れることを言えるなり。
天安以来かつて停止のことなく、引続き荷前奉幣に預れる多武峯墓が鎌足の墳なることは、毫末の疑いを存せざるなり。本居翁が鎌足の二字を衍なりとせられたるは千慮の一失というべく、『古事類苑』が多武峯に鎌足・不比等両者の墓ありて、初めには荷前に鎌足を祭り、後には改めて不比等を祭るというもの、また穿鑿不備の誤りなりといわざるべからず。
四 不比等の墓が多武峯にありとの説は誤解に基づけることを論ず
不比等の墓が佐保山椎岡にありて、多武峯にあるべからずとのことは、余輩の前章すでにその要をつくしたりと信ず。その多武峯に存在することを主張する説の由って起るところは、単に『延喜式』に、これを贈太政大臣正一位淡海公の墓となせるもののみにて、しかもその贈太政大臣正一位淡海公なるものが、また当時鎌足を指せるものなるべきことは、前章すでにこれを論じ、本章においてまたいささかこれを補説したり。しかるに本多氏は、さらに右の史料以外に、『今昔物語』の「大織冠淡海公」も多武峯に墓を営めりとの記事と、『玉葉』の、「多武峯本願・贈大相国墓所」等に告ぐべしとの記事とをもって、古来多武峯に不比等の墓所ありとの説ありたりし証とせられたり。その『今昔物語』の記事については、前章すでに論じたれば今言わず。『玉葉』の記事については、明かに氏の誤解として、(304)左にいささかこれを弁ぜざるべからず。
本多氏曰く、
九条兼実の玉葉安元三年五月廿八日丁卯の条に、
可v被v申2氏神三社、并多武峯本願、贈大相国墓所等1也。
とあり。此の多武峯本願とは、鎌足の長子、不比等の兄たる僧定恵の事なり。尊卑分脈定恵の条に、右肩に多武峯本願と明記してあり。且又玉葉承安三年六月二十三日の条に、
後聞多武峯之中、平等院一院并中之堂云云、堂一宇許焼残、自余坊舎堂等一切不v残。聖霊院十三重塔、悉以灰燼云云。件塔本願定恵和尚入唐帰朝之時、自2唐船1所v奉v渡云云。
とあるを見れば、安元三年の記事中多武峯本願とあるは、定志和尚なる事論なき所なり。然らば其の次に列記されたる贈大相国とは、父の鎌足にあらずして、弟の不比等と見るを穏当とせずや。果して然らば藤原宗家には、多武峯に不比等の墓所ありと伝へられしと見ゆ。此の伝説余輩之を信じて可ならずや。これ余が不比等の納骨の墳墓は、多武峯に在りと主張する文証なり。
と。余これを一読して、氏がかくのごとき記事をもってその唯一の文証とせられたる理由の那辺にあるかを知るに苦しまざるを得ざりき。かりに氏の説のごとく、多武峯本願とあるものを定恵と解し、したがってこれと連書せる贈大相国を不比等と解したりとて、何がゆえにその不比等の墓所が多武峯にありとの文証となるべきか。多武峯本願は多武峯本願なり。贈大相国は贈大相国なり。如何ぞこれをもって多武峯にある本願および贈大相国の墓所と解するを得んや。したがってこれをもって不比等の墓が多武峯にありとの文証に供せんは、いかに穿鑿するもとうてい得べからざる結論なり。しかるに氏はこれを理由として、かえって余輩の所説を評し、「不比等の墓は椎岡にありて多武峯に(305)あらずとは、聊穿鑿の足らざる恨なしとせんや〕と言わる。遺憾ならずどせず。いわんやここにいわゆる多武峯本願が、決して定恵なるべからず、贈大相国というもの、もとより不比等ならざるをや。
言うまでもなく定恵は鎌足の長子にして、多武峯の創立者として信ぜらるる人なり。したがってこれを多武峯本願と称する、もとより妨げず。しかれどもその本願と称するもの、必ずしも定恵のみに限らず、少くもこの条の記事は必ず定恵にあらずして、鎌足その人を指せるものならざるべからざるなり。『玉葉』同日の条のその記事の続きに曰く、
須d訴2謝氏社1、被uv待2彼感応1歟。縦難v有2本願之影像1、新造可v被2安置1之由、輙難2計申1歟。
と。ここに本願の影像とは、もちろん多武峯なる鎌足の像にして、これもって前文の証とすべし。なんぞ煩わしく、遠く離れたる承安三年の条の記事、または『尊卑分脈』等他書の例を引くを要せんや。『玉葉』の著者は、多武峯寺をもって不比等の建立とし、その十三重塔をもって定恵の唐より齎し帰れるものとし、しかして大織冠の影像は、大臣の造れるものと解せしなり。『多武峯略記』引『荷西記』には、
大臣安置霊像、造師近江国高男丸也矣。
とあり、これは大臣近江にありし時に、高男丸なる仏師をしてみずから造らしめたるものなりと解したりしものか。その塔の定恵に関することは本多氏すでに引用せり。寺と影像とのことは、『玉葉』承安三年七月二十一日条に、
所v崇之御寺者淡海公建立也。所v仰之本尊著大織冠之彫刻也。
とあるにて知らる。されば、鎌足・定恵・不比等ともに、多武峯本願と呼ばるべきなれども、特に右の条の本願は、同一の連続文中に、明かに鎌足を指せるによりて、またその鎌足のなることを認めざるべからず。鎌足を本願といえる例は『猪隈関白記』承元二年四月二十五日の条にもあり。またもって参考とすべきなり。いわんやその大事あるに(306)当り、これを定恵に告げたるのことかつて見えず、常に氏三社ならびに鎌足・不比等の墓所等に向うを例とするものをや。さらにいわんや、この氏三社ならびに多武峯本願・贈大相国墓所等に申さるべしとの儀の実行せられたる条の記事を見るに、その奉告使はまさに三社ならびに深草墓以外、この多武峯鎌足墓に向いし事実あるをや。同書七月十一日の条に、
今月関白家依2勧学院災1、被v発2遣氏三社奉幣使1、文章博士光範朝臣、【家司】草2進告文1。春日使、【敦綱朝臣】大原野使、【光輔、已上家司】吉田使。【家輔、職事云々】
また、十六日条に、
此日関白家被v立2多武峯・深草等使1、依2氏院火災事1也。【多武峯使季佐、職事、深草使、成光朝臣、家司也】有2告文1。【文章博士光範朝臣草也云々】
とあり。ここに三社は言うまでもなし。定恵の墓は宇治木幡にあり、ここにいわゆる多武峯墓が鎌足のにして、そのさきに本願と指せるものなるべきこと、また論なきにあらずや。
多武峯本願の問題はすでに決せり。次に論ずべきは贈大相国の何人なるかなり。普通の場合、藤氏に関する大事を告ぐるは、次節論ずべきがごとく、氏三社と鎌足の墓所たる多武峯と、不比等の墓所たる椎岡となり。しかして時としては、宇治木幡浄妙寺なる道長の墓に向うこともあるなり。しかれどもこの安元の使者の向う所は椎岡にも木幡にもあらずして、深草なりき。けだし贈大相国冬嗣の墓に向えるなり。冬嗣墓『三代実録』天安二年条に宇治墓とあり。『延喜式』には後宇治墓となし、宇治郡にありという。深草の地紀伊郡に属し、宇治郡に接す。冬嗣墓はその宇治郡に設けられしものなりしか、後に基経極楽寺を深草に設け、これを『菅家文草』に宇治郡とあるによれば、一時深草の地宇治・紀伊両郡に渉り、冬嗣の宇治墓またその氏寺極楽寺の関係より、深草墓と称せられしものか。その奉告の対手が冬嗣なることは、事件が冬嗣創立の勧学院の火災に係ることなればなり。しからば『玉葉』安元三年五月二十(307)八日条の記事は、毫も定恵と不比等とに関せざるなり。なんぞこれをもって不比等の墓多武峯にあるの証となすに足らん。しかるに本多氏が、これをもって有力なる文証とせられ、特に他の穿鑿の足らざるを云々せられたるは惜しむべし。
要するに不比等の墓多武峯にありとのことは、穿鑿不備の結果にして、言うまでもなく史料の誤解に基づけるものなり。不比等の墓断じてこの山にあるべからず。
五 重ねて不比等の墓が佐保山椎岡にあるべきことを証す
清和天皇天安二年、十陵四墓国忌の制の定められしより以降、引き続き荷前の奉幣に預りし多武峯墓が鎌足の墳墓たること明かにして、『延喜式』以外この山に不比等の墓あることを言える古史料なく、しかもその『延喜式』の記事また、鎌足のことを示せるものとして承認し得らるる以上、不比等の墓はその廟所として、もしくは墓所として、常に奉幣を受くるに慣れたる佐保山椎岡にあるべきことは、もはや明かなることなりといわざるべからず。しかれども、反対論者の側よりこれを観れば、火葬所必ずしも埋骨の地にあらず、しかも時としてこれを陵墓と称することあり、霊廟として崇敬せらるるもの、また常に必ずしも、その墳墓にあらずとの説もあれば、ここに煩を厭わず、その不比等火葬の地なる椎岡が、彼の墳墓の地として認められたりし事実を論究せんとす。
言うまでもなく火葬の地必ずしも常にその墓所なるにはあらず。しかれども、火葬の地必ずその墓所にあらずというべからざるは勿論なりとす。本多氏は武智麻呂の火葬所と墓所との例を引用して、ただちに不比等の場合を推測し、これ不比等の納骨所が椎岡以外の多武峯にあるべしと信ずる理証なりとせらる。その結論に達する、なんぞ然《し》かく簡単なるや。もしかくのごとき例をもって事足れりとせば、わざわざ武智麻呂を引くまでもなく、余がすでに提供せる、(308)文武・持統両帝の御場合のみをもってするもなお足れりとせずや。しかもこれをもって不比等の場合を推さんとならば、氏はすべからく、持統・文武両帝の御火葬所たる飛鳥岡、武智麻呂の火葬所たる佐保山が、他に真の陵墓の地あるにかかわらず、これを差し措きて、常にその廟所として、また墓所として、崇敬せられたるの事実を立証せざるべからず。しからずぽこの引例畢竟無意味なり。しかも事実はその反対を示す。持統・文武両帝の御場合は申すまでもなし。武智麻呂墓また常にその納骨の場所たる栄山寺にありとして、奉幣を受け、その火葬所たる佐保山は省せられざるなり。『玉葉』承安三年七月十日条に曰く、
或人云、去六日多武峯御墓鳴動、又武智麻呂墓同時鳴動云々。
と。ここに武智麻呂墓とは言うまでもなく栄山寺の墓なり。多武峯鎌足墓の鳴動するや、往々にして不比等・武智麻呂らの墓また鳴動すと伝えらる。『多武峯略記』御墓山鳴動の条に、
古老相伝云、椎岡《シヒガヲカ》・栄山《サカヘヤマ》・岩野辺、此三所墓所同有2鳴動1、其声聞v里矣。
とある、もって見るべし。ここに栄山は言うまでもなく武智麻呂の墓にして、これと並べる椎岡の墓所が不比等の墳墓なるべきは論なし。武智麻呂の火葬所と墳墓との例、もって不比等の椎岡の墓の場合に適用すべからざる、明かならずや。
本多氏また、朱雀・白河両帝の真陵以外、その御火葬所をも陵と称したる例あるを引き、不比等が椎岡廟の場合を類推せんとせらる。余諸陵のことに暗く、両帝の陵果していずれを主とし、いずれを従とすべきかを知らず。しかれどもしばらく諸陵寮の定めに従い、醍醐と菩提院とを主なる山陵とするものとせんか。この場合その仮陵ともいうべき御火葬所をのみ崇敬し、真の御納骨所たる山陵を閑却せし事実にても立証せらるれば格別、しからざるにおいては、この引例また畢竟無意味なりといわざるべからず。火葬所を墓となせる適切なる例は、内大臣藤原良通にあり。文治(309)四年二月二十日良通薨じ、二十八日これを嵯峨に火葬す。葬礼事おわりて慈徳寺法印以下その骨を拾いて二瓶に納め、その一を藤氏累代の菩提所たる木幡浄妙寺に渡す。けだし分骨にして、他の一はむろんその火葬の地たる嵯峨の墓に納めたるものなり。かくて三月十九日には女房三位殿その火葬所たる嵯峨において供養あり。二十五日故内府の侍らまた墓所において経を書写し供養す。事は『玉葉』につまびらかなり。しかしてその墓所は、同書四月五日条に、
今日女房三位局、於2嵯峨墓所1修2小仏事1。
とあるものにて、すなわち良通火葬の地たり。しかして分骨所の浄妙寺のことは見えざるなり。他へ分骨したる場合にも、なおその火葬所の墓を主とす。これ朱雀・白河両帝の御場合とは異なるものにて、一定の則をもって律し難し。その火葬所を墓とする例、後に良通にあり、前には元明天皇御遺詔の旨も存する以上、不比等の墓がまたその火葬所たる椎岡にありと想像せんこと、あながち無稽にあらず。いわんや藤氏相伝常にこれを崇敬して、あえて他に及ばず。これを廟と称し、これを墓と称するの例多々なるにおいてをや。廟はもと霊を安んずる所、必ずしも埋骨の墳墓の地とのみには限らず。現に仲哀天皇もしくは神功皇后の社を香椎廟と称することあるがごとき、決してその山陵の地にあらざるなり。しかれども、その陵墓をもってただちに神霊所在の地とし、これを廟と称せし例また多々これあり。檜隈大内陵すなわち天武・持統両天皇の阿不幾山陵をもって、青木御廟と称するの類これなり。さればこれを椎岡廟と称したりとて、あえて不比等の墓所にあらずというべからず。いわんや前引『多武峯略記』を始めとして、これを椎岡墓と称するの例多々なるをや。『玉葉』文治四年正月十九日条に曰く、
此日立2二墓使1。多武峯家司業実朝臣、椎岡職事対馬守親光也。【共藤氏也】式部大輔光範朝臣持2来告文草1、度々有2改直等事1。仰2貞親1令2清書1。宗頼朝臣参上覧2清書1。余着2束帯1於2庭中1【其座如2奉拝儀1】拝v之。【先奉v拝2春日1、依v有2所思1也。次拝2多武峯1、次拝2椎岡1也】云云。
同書文治五年十一月二十八日条に曰く、
(310) 此日入内祈、立2三墓使1。此事雖v無2先規1、殊有2所思1、所2告申1也。就v中於2木幡1者、雖2他事先規已希1、思2先年夢告1、所2祈申1也。(中略)多武峯(ハ)氏之始祖也。云云。淡海公者我氏王胤出来給始也。云云。御堂者累祖之中為2帝外祖1之人已v多、繁華之栄、莫v過2彼公1。(後半文すでにこれを引く。ゆえに今抄録す)
この後者椎岡の名なしといえども、淡海公の墓の椎岡たることは、右所引の文のみならず、恒例常にこれを証す。ただ木幡墓のみ先規なし。ゆえに『玉葉』のこの条特にこれを弁ずるのみ。
多武峯、椎岡相対して、大事を奉幣することの恒例たるは、同書治承五年七月二十日条に、
明後日依2造興福寺事1、可v立2多武峯・椎岡等告文使1。云云。
とあるを始めとして、他に所見多し。既記承元二年鎌足影像罹災に際し、関白家実その善後策を諮問せし時、春宮権大夫師経の議にも、
炎上騒動事、先度被2告申1、其後又御体焼失之由言上、仍猶被v申2氏社並多武峯・椎岡等1、可v宜歟。
とあり。先度告げ申さるとは、同年二月十六日、春日・大原野・吉田の三社に、また四月八日、多武峯と椎岡とに、各多武峯焼亡の告文を奉りたるをいえるなり。全文載せて『猪隈関白記』にあり。しかしてその氏社に告げたる文には、明かに「抑多武峯は始祖大織冠内大臣御墳墓の地なり」とあることすでに引けるがごとし。しからばこれに対する淡海公の椎岡が、またその墳墓の地なるべきことは単にこの一例のみにても首肯せざるべからざるにあらずや。また中宮大夫公房の議には、
重可v被v申2氏社并両墓1歟事
先度只被v申2回禄事1歟。 今御影焼失之由、争不v被v申哉。
とありて、これにも明かに多武峯と椎岡とを両墓といえるなり。いわゆる椎岡の廟が、淡海公墳墓たること、毫末の(311)疑いを容るべからざるなり。かくてこの衆議に基づき、三社ならびに両墓の奉告使は発遣せられたり。告文また載せて『猪隈関白記』にあり。
しかるに本多氏は、椎岡廟が崇敬され、奉幣されたるの事実あればとて、不比等の納骨所はなお別に多武峯にありとのことを言わんとて、「御火葬所と納骨所とは殆んど軽重なきものにして、祭祀等も必ず納骨所に於てするといふ厳制もなかりし如し」といい、その例として、『史官記』により、久安五年近衛天皇の皇太子に立たせ給うさいに、これを白河・堀河両帝の霊に告げ奉らんとて、御納骨所をさし置き、その霊牌を安置せる法勝寺・尊勝寺に告げられたることを引用せられたり。しかもこのことは、氏みずから引用せられたる『史官記』の文に、「大失錯也」として、改めて真の陵所に奉告せることを明記せるものにして、なんぞ両者の間に軽重なしといわんや。しかもなおこれをもって椎岡廟奉告のことを論ぜんとす。これあにまた氏の一大失錯ならずや。しかるにもかかわらず、氏は余が前章に引けるただ一個の例を捕えて、
永承中関白頼通が椎岡の廟に奉告せしも、畢竟不比等の火葬所に告げたるなり。是を以て決して多武峯に不比等の納骨の有無を判ずべからざるなり。
と弁ぜらる。余が前章に引用せしは実にただこの一例のみなりき。さればもし椎岡廟に奉告すること前後ただこの一度のみにして、他は常に多武峯に向いし事実あらんには、あるいは「大失錯也」としてこれを看過するを得ん。しかもその椎岡に向うは、鎌足の多武峯墓に向うものと相対して、これを恒例とするものなるを如何せん。いわんやこれをもって椎岡墓なりと明記するの実例多々なるをや。しかるに本多氏は、余が前章引けるただ一例のみをもって軽々に批評し去り、最後に余に諭すに、「真摯なる研究を為すべきは学者の責務」なるべきことをもってせらる。好意謝すべしといえども、余は今に至りてなお、余の前章発表せしところをもって、不真面目の研究なりきとは信ぜざるな(312)り。
要するに不比等の墓はその火葬の地なる奈良郊外佐保山椎岡の地にあり。ただ現時藤氏の人々、その地を忘れ、これが祭祀を怠れるのみ。始祖以来ますます隆盛の域に赴き、いまだかつて衰頽の悲運に遭遇せざりし藤氏宗家の相承せしところ俚人の今もって伝承するところ、断じて疑うべからざるなり。
ちなみにいう。谷井氏は余が前章において、椎岡墓は法蓮なる俚伝三本松また淡海公など称する地なるべしといえることにつき、臆測を下して、木村一郎氏の説〔43〕(『歴史地理』第三巻第五号)を採りたるものならんと記述せられたれども、この説決して木村氏によれるにあらず。すでに嘉永の『陵墓一隅抄』に、
奈良(ノ)岡墓【公卿補任曰、葬(ル)2佐保山椎(ノ)崗(ニ)1従(フ)2遺教(ニ)1也】
在2大和国添上郡佐保山之西南1。【今眉間寺坤方、在2老松五株1丘乎】
とありて、その説の存する近年のことにあらず。またこれを俚人淡海公と称すとのことは、久しく同地に住して同地方の陵墓を守りし故北浦義十郎(定政の養嗣子)氏より聞けることにて、これまた近年に起りたる俗伝にはあらず。けだし、眉間寺においてこれを承伝保管せしもの。『大日本地名辞書』がこれを疑うと否とは、余の関せざるところなり。
またいう。椎岡一にナラ岡と訓じ、『陵墓一隅抄』にはこれを奈良岡と改めたれども、『玉葉』『猪隈関白記』『朝野群載』『多武峯略記』等皆椎岡に作り、特に『略記』には、「シヒガヲカ」と訓す。奈良の名もと西方歌姫越の地に存し、椎岡は東方佐保の中にあり。さればこれをナラ岡というは如何あらん。
六 多武峯なる鎌足および不比等の墓と称するものにつきて
鎌足の墓が多武峯にあり、不比等の墓が椎岡にあるべきことの論証はすでに尽きたり。以下余論として多武峯なる、(313)俗に鎌足および不比等の墳と称するものにつき一言せんとす。
鎌足の墓と称するものは、世に御破裂壇もしくは御破裂山と称するものにて、談山神社の後方、その頂上にあり。その名義は天下事変あるに当り、墓山鳴動し、神像破裂すというに取れるものなるべけれど、その破裂するは神像にして、墳墓にあらず。墓を御破裂と称するは当らざるなり。けだし後世の訛伝のみ。ことに多武峯の古伝においては、鎌足の遺骨は十三重塔の下に埋められたりと信ぜられたるなり。『多武峯略記』引『荷西記』に曰く、
安3置遺骸於2十三重塔之底1矣。
同書引後記またいう、
或説云、云云。改2大織冠聖廟1移2倉橋山多武峯1、其上起2十三重塔1云云。
この十三重塔は、承安三年の火災に焼失せるものにして、『玉葉』に、
件塔(ハ)本願定恵和尚入唐帰朝之時、自v唐乗v船所v奉v渡云云。
とあるものなり。定恵の改葬ならびに塔婆将来のこと、その疑いありといえども、少くも平安朝当時において多武峯みずからこれを称し、藤氏またこれを認めたりしを知る。塔の心柱礎に舎利を蔵し、もしくは墳墓の上に塔を建つるは普通の例なれば、多武峯において古くこの説ある、怪しむに足らず。しかしてその塔の位置は、果して今の十三重塔の所在なりや否や明かならずといえども、『多武峯縁起』に、
経v年之後、塔南建2三間四面堂1。号2秒楽寺1、此乃定恵和尚之所v建也。今講堂是也。
といい、『略記』引『荷西記』にも、
塔南建2三問四面堂1号2妙楽寺1矣。三間四面堂者今講堂也。
とあり。前者はけだし後者によりて文をなせるものならん。
(314) また『略記』引『要記』によるに、
件塔以2栗木一株材木1皆悉作v之。建立年久、破壊日新。故天慶八年座主大法師直昇、加以2修理1矣。其後承安三年炎上之時、和尚将来之塔焼失了。其後治承元年十二月二日斧始。大工住僧観念、散位末永、散位行末、以上三人。願主大和国広瀬住人右馬允康教【右馬允康高三男】再2興之1。其後元暦二年三月五日巳時葺始。同四月三日申時葺了。同十一月二十五日供養云云。
とあり。その後も数次の炎上改造ありて、現時の塔に至るまで、沿革変遷はなはだ多く、その位置果して当初のままなりやを知らざれども、ともかくも当初墳墓の上に建てられたりと称する十三重塔が、講堂の北にありといい、その他の堂舎との位置の関係またほぼ指定し得べく、ことにその兵火に罹りてともに焼失せし事情等より案ずるに、いわゆる多武峯墓は断じて今のいわゆる御破裂壇なるべからず。これを鎌足の墓というは、けだしその名称とともに、後世の訛伝なるべし。
ただし、古え鳴動を伝うるものは、十三重塔下の墓にはあらずして、この山頂の地を指せるものか。古記往々記して御墓山と称するもの考うべし。天仁元年興福寺の焼打に遭うや、寺僧ら鎌足の影像を移して山頂に安置す。事は『中右記』にあり。けだしいわゆる御被裂壇か。その地がなんらかの神聖なる場所として保存されしはこれを認むべきも、断じて鎌足の墓にはあるべからざるなり。
この山中また不比等の墓と称するものあり、道案内の標石ありて「淡海公墓」と記す。不比等の墓のこの山にありと称すること、いつのころ、何人に起りたるやを知らず。本多氏引くところの、多武峯の明暦の日記の記事によれば、当時すでに『延喜式』の記事によりて、不比等の墓また当山にあるにあらずやと疑いしものありしがごときも、少くもこれを学界の問題となせるは、本居翁の説やその始めなるべき。これよりその説の崇拝者、似つかわしき古石塔の(315)ある場所を見て、これに擬定し、この石標を設けしものか。場所は現に鎌足墓と称する御破裂壇、および増田氏によりて不比等墓ならんと推せられたる談所の森などとは反対の方向にて、多武峯小学校の側後にあり、小高き杉森山をなせる古墳らしきものにして、上に塔婆あり、塔婆は下層の梵字ある分のみ原位置に存し、文字あり永承云云らしく見ゆ、その上層は仆れて叢中に埋もれたりという。水木氏の『大和巡』に、御破裂山の南方に、不比等墳という十三重石塔婆ありというものこれか。余いまだこれを見るに及ばねば、ここに詳細を語るを得ねど、本来不比等の墓が当山に存せざる以上、この石標の示せるものは、もとより問題とならざるものなり。
さらに増田氏によりて不比等の墓ならんと推定せらるる談所の森とは、俗説に鎌足かつてこの山にて中大兄皇子とともに入鹿誅伐の事を談じたりとのことより言い出でたる名なるべし。この説は、当山に鎌足を改葬したる後、その宿縁の地たることを言わんがために唱え出せる一の地名伝説にして、もとより信ずべきにあらず。この山は本名を「タム」と称し、『日本紀』には田身嶺《たむのみね》と書けり。これに字音「談《タム》」の文字を当て、次にその字義よりして、談合の俗説も生じたるものなりとす。しかれどもすでにその俗説あり。記念の聖地として、これを汚穢するを許さず、湟を繞らしてこれが保存を図ることは必ずこれあるべし。余いまだ親しくこの地をも見ねば、これが果して古墳なりや否やを明言するを得ざれど、その名称よりしてほぼ右のごとく解するを至当と信ず。よしやかりに古墳なりとするも、こは他の人のものなるべく、断じて不比等の墓なるべからざるなり。
七 結 論
多武峯墓につきては古書の伝うるところ疑義を容るるの余地ありて、ために古来種々の説あり。しかれどもすでに余が前章これを説き、本章さらにこれを補えるがごとく、これを不比等のなりとし、もしくは山に鎌足以外不比等の(316)墓また存すとするの説、ともに毫も顧慮するに足らず、不比等の墓別に佐保山椎岡に存在することが証せらるる以上、問題は既決と言わざるべからず。その鎌足の墓がこの山に移されたるの年時は明かならずといえども、少くも清和天皇天安二年に四墓の一と選定せられ、永世不除の特典に浴する多武峯墓が鎌足の墳墓なることは、断じて疑うべからず。しかしてその墓はもと十三重塔の下にありと言わる。今の塔果して当初のものの旧址に建てられたるか否かをつまびらかにせざれども、今のいわゆる御破裂壇がその地ならざるは疑いを容れざるなり。
次に不比等の墓が佐保山椎岡にあることは、常に多武峯なる鎌足墓と相並びて崇敬せらるることによりて、伝承毫も疑うべからず。その往時より多武峯にありて、石標をもって指示せらるるもの、もしくは談所の森と称する地のごとき、もとよりこれと没交渉のものならざるべからず。 (大正五年一月十日)
(付言)
本稿編者の手許に送付後芝葛盛君より故谷森善臣翁の「不比等椎山墓考」を送付せられ、谷森氏がすでにこれにつき、余とほぼ同意見なりしことを知るを得たり。余がかつて故北浦義十郎氏より聞きしことも、谷森翁の意見とほぼ同様なりき。あるいは出所を一にせるものか。他日、本稿の追加補正を要するの期あらんには、その節翁の意見をも紹介すべし。 (二月十一日追記、京都にて貞吉)
参照
「摂津に於ける藤原鎌足阿威山墓を否定し併せて其大和多武峯改葬説をも否認す」(谷井済一君)……『考古学雑誌』第四巻第八、九号
「藤原鎌足及不比等墓所考」(喜田貞吉)……『歴史地理』第二六巻第五号
「多武峯墓に就て」(本多辰二郎君)……『歴史地理』第二六巻第六号
(317)「多武峯墓」(喜田貞吉)……『歴史地理』第三巻第五号
「大和多武峯の名義及之に関する俗談」(喜田貞吉)……『歴史地理』第五巻第三号
(318) 再び鎌足および不比等の墓所について、付冬嗣および基経の墓所について
一 緒 言
藤原鎌足および不比等墳墓の所在については、すでに前後二回稿を重ねて、余が研究のあるところを明かにしたれば、今にしてほとんどこれに加うるの要あるを見ず。その後本多辰二郎君は、「再び多武峯墓に就て」と題し、依然として「多武峯墓は元来は不比等なりと思ふ」とか、「不比等と見たく思ふ」とかの説を固執せられたれども、その説多くは空想に基づき枝葉に走り、さらに誤解を重ねてしかも余が所論の肯綮に触るることきわめて少なし。されば、単に多武峯墓のことのみならんには、余が研究発表の方法の拙にして、ついに氏の満足なる理会を得る能わざりしことを恥じて、ひとりみずから沈黙してやまんのみなれども、氏の文中さらに冬嗣および基経らの墓所につきて、余にとりて案外千万なる考説を発表せられたるありて、諸陵寮にはかかる結論に到達すべき材料または研究ありやと、はなはだいぶかしく思わることもあれば、ここにその教えをも請いたく、かつはさきに発表せる「追考」の末尾に付記せし、故谷森翁の「椎山墓考証」をも、このさい世に紹介したければ、氏の駁論発表を好機として、再(319)び本稿を草することとせり。識者幸いに余をもって執拗なりとするなかれ。
二 谷森翁の『淡海公佐保山椎崗墓攷証』
淡海公の墓が奈良市外椎山にあることは、『陵墓一隅抄』つとにこれを説き、故北浦義十郎氏また余にこれを告げたりしこと、すでに記せるごとくなれば、もとより余の創見というにはあらず、余はただその所説につき、これを文献に徴し理論に訴えて、近時の異説に対し、詳細なる証明を与えたるのみなりき。その後、学友芝葛盛君は、わざわざ故谷森翁の『佐保山椎崗墓攷証〔44〕』一篇を謄写して、余に送付せられ、先覚のすでに同説なるものありしことを教えられたり。これによりて世の伝称するところ、余の考証するところと一致するを知るを得たるは、深く芝氏に謝するところなり。
谷森翁引くところの証文は、『続日本紀』『公卿補任』『尊卑分脈』『皇代暦』『歴代編年集成』『朝野群載』『玉海』養和元年七月および文治四年正月条、『多武峯略記』等にして、たいていは余がすでに引けるものの中に存するもののみなれども、その勘文中、この墓と眉間寺との関係、ならびにその位置等につきては、世の伝称するところを記してすこぶる詳細なるものあり。すなわち左にこれを抄録して、読者とともに慶を分たん。
謹で勘ふるに、贈太政大臣正一位淡海公藤原不比等大臣の佐保山椎崗墓は、大和国添上郡法蓮村領の山地、字御霊山の内にあり。聖武天皇佐保山南陵の西南に当りて立並べる二小丘あり。此東方なる一小丘は元正天皇の旧陵、天平勝宝二年十月十八日癸酉奈保山西陵に御改葬ありし後は廃陵となりし丘山なり。其の西方に立ち並べる一小丘ぞ、是淡海公の椎山岡墓なりける。
此椎崗墓は文久年間迄は眉間寺住僧の守護し奉れる所なりしも、諸陵御修理の時、陵上に堂塔を置かるまじき制(320)限によりて、眉間寺を陵下に退却せられし後は、堂塔も荒廃し、住僧も住持せずなりにしかば、明治維新の後は、淡海公椎崗墓には其正統御子孫なる旧摂関家より、守丁を定置せらるべき御事なるに、此御墓守を置かせらるとも聞えざるは、豈遺憾の極みならずや。
この椎山墓の位置ならびに眉間寺との関係は、かつて故北浦氏より聞きて、「追考」中に記したるところなれども、今さらに翁によりて、その詳細を聞くを得たるほ、最も愉快とするところなり。翁また曰く、
さて其廃陵の西に並び立たる小丘ほ、是即淡海公の佐保山椎崗墓なること、古書に証し、地理に考へて確然たるが上に、久安・仁平の頃より、文久三年に至る迄、佐保山南陵に旦夕仕奉たりし眉間寺歴代住持の口碑に伝へて誤らざる所にして、善臣は弘化・嘉永の往昔より、屡々諸陵を巡拝せし時にも、文久二三年にも、度々寺僧の案内を得て、拝瞻確聞せし実地なり。然れども帝陵御修理に就ては、堂塔を陵上に置かるゝ前例なく、殊に僧房を置きて陵上を汚穢すべきにあらざるを以て、眉間寺を陵下に移退けられ、古例に照して諸陵寮より守部を更に置かせられたれば、此寺自然に無用に属し、廃絶して後は、淡海公の墳墓を看護する人もなければ、此所を其御墓山なりとだに今は知る人もなくなり果たれども、善臣が耳底には、旧聞今なほ存在して、心中に忘るゝ日なく、之を其地理に勘へ、古書に徴して、正しく是れ藤原氏の曩祖淡海公の佐保山椎崗墓なる事を証明し得たれば云々。
翁の実歴譚傾聴すべし。
翁はまた、鎌足墓をもって多武峯にありとなす点においては余輩と一致すれども、その『延喜式』の文を解せらるる点において、別に一家言をなされたり。曰く、
延喜式諸陵式を検ふるに、
多武峯墓【贈太政大臣正一位淡海公藤原朝臣、在大和国十市郡、兆城東西十二町南北十二町、無守戸】
(321)とあるは、藤原鎌足大臣の多武峯墓の事を云へる文なるに、夙く何人か淡海公の三字を※[手偏+纔の旁]入したりしより、後人謬りて多武峯墓を淡海公不比等大臣の墳墓ならんと心得て、
佐保山椎崗墓在大和国添上郡兆域。云々。
の一条を写し脱したるものなるべし。
と。これまたおのずから一見解なれども、余はこの点において翁と所見を異にし、必ずしも『延喜式』に鎌足・不比等両者の墓を列べ挙げたりと想像するを要せずと信ずるなり。不比等椎岡墓は天安の四墓にも加わらざるのみならず、天智天皇山階陵と、鎌足多武峯墓とほ、大化創業の君臣として、また帝室および相家の祖先として、永世国忌の制より除かざるも、他は遠きを除くの例なれば、『延喜式』に不比等の墓なしとて、必ずしも怪しむを要せざらんか。『延喜式』収むるところの陵墓はいかなる標準によりて選定せられしか、中にはその理由を判するに苦しむものもあり。例えば武智麻呂宇智墓を加えて、北家の祖なる房前墓を脱せるがごとき、あるいは高市皇子墓を加えて、舎人親王すなわち崇道尽敬皇帝陵を除けるがごとき、このほかにも、不審なるもの少からず。これらもとはそれぞれの理由ありしことなるべけれども、今にして一々明確にこれを解説する能わざるなり。しかして、不比等の漏れたる、またこの程度の不審の一として解すべきものなるべし。なおいわば、史上にあまり著名ならざる鎌足の嫡妻鏡女王の押坂墓が延喜式内に列せられて、不比等の妻として、また光明皇后の生母として、後に正一位をさえも贈られ、史上最も著名なる橘三千代夫人が加わらざるごときも、鎌足夫妻に対する御扱いと、不比等夫妻に対する御扱いと、その間軽重ありしことにて、『延喜式』に不比等を加えざりしことの傍証とすべきものか。ともかくも不比等椎岡墓は、当初より『延喜式』に加わらざりしものと信じて差支えなかるべし。また「淡海公」の三字も、必ずしも後人の※[手偏+纔の旁]入と解するを要せず。こはすでに述べたるがごとく、長暦の「弁宮下文」に、鎌足を淡海公といい、『大鏡』にも、世俗この説あるこ(322)とを弁じたるほどなれば、間違いながらにも古く世に然《し》か信ぜられて、公文書にも記して疑わざりしこと明かなればなり。
しからば、すでに『延喜式』において顧みられざりし不比等墓が、何故に後に多武峯・椎岡と両々相対して、常にはなはだ重き崇敬を払わるるに至りしか。この疑問は当然起らざるべからず。すでに本多氏も、
奈良朝の末期平安朝の初期頃より、藤原氏は、武智麿・良継・冬嗣・百川等、多く皆班幣に与るに、惟り不比等与らず、藤氏の人々も別に不比等の墓を崇祀の事実見えず、而して永正〔右○〕(貞いう、承の誤りか)の頃より俄に思ひなしたるが如く、椎岡に屡々使を遣はして、崇祀せらるゝは頗る不審なり。(『歴史地理』第二七巻第四号三三二頁)
とて、多武峯墓をもと不比等のなりと言わんことの心証とせられんとするほどなれば、これに対しては次項に委細を弁明すべし。
三 中世に至り不比等椎岡墓が崇敬せらるるに至りし理由如何
鎌足が大化の功臣として、また藤家の祖先として、朝廷ならびに藤家一門より、特別の崇敬を受くべきことは言うまでもなし。不比等は奈良朝においてこそ皇家の外戚たれ、平安朝に至りてはその血縁も全く現在の皇室に伝わらず、また代も遠ざかりて、もはや国忌の典に与かる資格なきはもちろん、これを藤原氏よりいうも、大祖先としては鎌足あり、四家の祖としては武智麻呂・房前・宇合・麻呂あれば、あえてその間に不比等を取り出でて、特別に尊崇するの要なかりしなり。またもし藤氏一門を盛大に成したりとのことより言わば、第一にまた鎌足を推すべく、不比等の功、大はすなわち大なりしも、これは天平九年の疱瘡にその四子枕を並べて殪れたる時に中断したるなり。しかして皇室にとりて近き血縁を有し、藤氏にとりて家門隆盛の功労ありし者を数えんにほ、奈良朝末に百川あり、良継あり、(323)平安朝に冬嗣あり、良房あり、基経あり。百川は光仁・桓武の擁立者として、また淳和の外祖として、良継は平城・嵯峨の外祖として、ともに除くべからず。冬嗣・良房・基経らのことは言うまでもなし。これを皇室より見るも、藤家よりするも、もとより年代遠き不比等と同日に談ずべきにあらず。なんぞことさらに不比等を遠き祖先中より求めて、特に崇敬すべき理由あらんや。これ彼が天安の国忌に与らず、『延喜式』諸墓中に列せられざりしゆえんなるべし。ただここに不審なるは、南家の祖武智麻呂の加わりたることなれども、これは後にも武智麻呂栄山墓鳴動のことしばしば伝えらるるほどにて、なんらかの理由より、特別に威霊ありとして、畏敬せられしものにてもあるべきか。このことはなお後に論ずべきが、ともかくも本多氏の 「奈良朝の末期、平安朝の初期頃より、藤原氏は武智麿・良継・冬嗣・百川等、多く皆班幣に与るに、ひとり不比等与らず」として、特に不審がらるるは当らぬことなり。しかるに、平安朝中ごろ以後より、前に多く顧みられざりし不比等は、著しく崇敬せられ、その椎岡墓は、鎌足の多武峯墓と相並びて、しばしば記録に登され、本多氏をして疑惑を生ぜしむるに至れり。これそも何故ぞ。
不比等が鎌足と並びて、尊崇せらるるに至りし年代は明かならず。本多氏は「永承(永正とあるは誤りか)の頃より俄に思ひなしたるが如く、椎岡に屡々使を遣はして崇祀せらる」と言わるるも、これより先すでに四十余年前なる寛弘二年の、藤原道長が浄妙寺供養の「願文」に、「始祖内大臣宗廟を扶持して社稷を保安し、淡海公手づから詔勅を草して律令を筆削し、仏法を興し、帝範を詳にす」ともありて、当時すでに鎌足・不比等は、相対して崇敬せられしを見るなり。ただし、ここに道長が両者の功績を比較したるものを見るに、後者とうてい前者に及ばざること遠し。しかもその遠く及ばざるものをもって、強いて相並んで崇敬せしむるに至りしものはなんぞ。余輩はこれをもって、興福寺と多武峯との軋轢に帰して説明せんと欲するなり。
言うまでもなく多武峯は、藤氏の祖廟として、その氏寺たる興福寺とともに、藤氏一門の檀越なるべきところなり。(324)しかして多武峯にほ鎌足の墓あり、興福寺また鎌足の創立に係るものなれば、両者が鎌足を奉ずる、その間軽重あるべからず。しかるに、天暦年間より、多武峯は叡山無動寺の末寺となりしかば、南都北嶺相鬩ぐの極、興福寺は同じく藤氏の寺たるにかかわらず、常にこれを仇敵視し、永保元年には、大衆相率い多武峯を改めて、その民家を焼き、天仁元年および承安三年度のごときは、堂塔・経蔵をしてほとんどことごとく烏有に帰せしめて憚らざるほどの間となれり。勢いかくのごときをもって、興福寺は多武峯のわが物顔せる鎌足をその頭に戴かんこと、おのずから落ち付かぬ感じありて、やむを得ずその寺建立の不比等を担ぎあげ、多武峯なる鎌足墓に対して、付近なる椎岡墓を持ち出し、もってこれに対抗せしめしものならざるべからず。不比等が鎌足と並べて崇敬せらるるに至りしも、ほぼこのころよりのことなるは特に玩味すべし。しかして興福寺の縁起が、その寺当初鎌足の草創に係るにかかわらず、多く鎌足を言わずして、これを奈良に遷せる不比等をのみ喋々し、永承火災のさいのごときも、ひとりこれを椎岡墓に告げて、多武峯に及ばざるがごとき、もってこの間の消息を察すべきものに似たり。これらの理由によりて余輩は、不比等の尊崇を興福寺と多武峯との関係に帰せんとするなり。
四 中ごろ多武峯の墓の主換りたりということにつきて
本多・谷井の両氏は、中世以後において多武峯墓が、鎌足として世に信ぜられしことを承認しながら、なお『延喜式』のそれをもって、不比等のなりとなすがゆえに、その墓の主が中ごろ入れ換りたるものなりと解せられんとするなり。しかしてその理由として、谷井氏は荷前の奉幣中絶し、墓の主が忘れられたりとのことに重きを置かれしが、余輩の信ずるところによれば、すでに述べたるごとく、荷前の奉幣は決して中絶せず、忘却、失念などのことあるべき余地なきこと明かなるがうえに、藤原氏と多武峯とは、その間において決してその祖先の墓を忘るるほどに、衰え(325)たるの事実なきものなれば、これはもはや論なきものとす。しかるに本多氏は、依然としてこの重大なる理由につきなんら考慮せらるることなく、単に奈良朝末より平安朝初期において不比等を崇祀せずというは不審なりとの空想よりして、その入れ換り説を主張せられ、特にその転換時期をもって、『大鏡』著作のころならんとせられたり。しかれども、その不審とせらるるところが、あえて不審ならざることはすでに述べたるがごとし。ことにこれをもって『大鏡』時代に転換せりというに至りては、時勢を無視するのはなはだしきものなりといわざるべからず。実をいえば、余輩いまだ『大鏡』の成れる確かなる年代を知らず。しかれども、普通にこれを解して藤原為業の著とす。崇徳天皇ころの人なり。しからば本多氏は、鎌足・不比等転換の年代をもって、ほぼ崇徳天皇のころなりと認めらるるもののごとし。しかるにこのころは、藤原氏はいまだあえて衰えず、荷前の奉幣使は年々多武峯に向い、ことに多武峯は興福寺と鎬を削りて相敵視せるさいなれば、如何ぞこの間に藤氏が祖先の墓を忘却し、朝廷また国忌の何人に対して行わるるかを失念し、多武峯がその生命ともなすべき本尊の名を取り違うるがごときことありと想像するを得んや。証拠なき空想をもって、墓の主の転換を云為する前に、まずこれらの動かすべからざる事実について冷静一考せられんことを希望せざるを得ず。
五 雑事一束
『延喜式』にいわゆる多武峯塞が鎌足のならざるべからざること、もはや寸毫の疑いを容るるの余地なし。本多氏は『延喜式』をもって鎌足説を採るものの難関なりとせらるるも、すでに『三代実録』に藤原氏先祖多武峯墓といい、長暦の公文書に鎌足を淡海公といえる実証あり、『大鏡』になおその誤解の俗伝せらるることをいい、また鎌足を正一位太政大臣と称せし実例多々存し、これに加うるに前述のごとく、荷前の奉幣闕怠なく、藤氏と多武峯とともに衰(326)えず、その間また墓の主を忘却するの事情絶無なる以上、余輩にとりてはこれをもってなんら難関とすべきゆえんを見ず。本幹すでにかく明かに、大綱すでにかく動かざる以上、枝葉の細目あえて顧慮するを要せざるなり。しかるに本多君は、その「再び多武峯墓に就て」において、余輩の主眼とするところについては多く措いて問わず、単に種々瑣末の事実を揃え、余輩が傍証として掲げたるところに向って盛んに弁明を試みられ、依然として多武峯墓は本来不比等なりと思うとか、不比等なりと見たく思うとかの説を主張せらるるなり。かく事理明白なるものに向って、さらにその枝葉に渉り論弁を費さんは、編者と読者とのともに迷惑とせらるるところなるべきも、氏の説かるるところ往往余が真意を誤解し、およびさらにその上に誤解を重ねられたるものあれば、ここに一束して余白の割愛を求めんとす。
l 奈良朝の先例は平安朝に至りてことごとく廃棄せるかとのこと
氏は右の標題のもとに、余が奈良朝時代の行事は平安朝時代に至りては廃棄して用いられずと断言せりとして、奈良朝に行われたる謚号の制は平安朝にも行われたり、国史の撰修もしかり、譲位の例もしかり、陵墓の奉幣もしかり、帝都の制もしかり、仏教の興隆、寺塔の建立、シナ文化の輸入等皆しかりとして、長々しく論弁せられたり。しかり。このほか多くの恒例・臨時の年中行事なども、たいてい平安朝時代において踏襲せらるるなり。しかれども余の言うところはしからず。奈良朝にては不比等は外戚なれば、特に尊崇し、その墓に奉幣祈請することはありたるも、皇家の御系統も改まり、時代も遠くなりたる平安朝になりては、この不比等墓に奉幣するの行事は廃して行わずとのことをいえるなり。論争の弊としてかかる明白なる点にまで、多く氏を煩わしたるは、恐縮に堪えず。ただし氏が、
太夫人当麻氏淡路墓・大皇太后之先和氏牧野墓。高市皇子三立岡墓・鏡女王押坂墓・藤原朝臣武智麻呂後阿※[こざと+施の旁]墓等は明かに奈良朝時代に班幣の例に入りたるもの、今多武峯墓は何人の墓なりや、諸論区々なりと雖も、既に言へ(327)る如く、不比等の墓は帝陵に准じて、勅使を発遣して国家の大事を告げ、又聖窮不予を祈祷せられしを見れば、奈良朝時代に在りては牧野墓や後阿※[こざと+施の旁]墓と同じく班幣に与りしは殆ど疑なき所なり。然るに他の奈良朝時代制定の諸墓は、当時の朝廷若くは藤原氏と何等の関係なきも依然として班幣の礼に与るに、不比等の墓のみ延喜年間若くは其の以前天安頃に除却せられたりとは、如何にしても不自然に考へらるゝなり。(第二七巻第四号二五頁)
と言われたるは一理あるがごとくにしてしからず。もとよりすでに言えるごとく、『延喜式』収むるところの陵墓選定の標準、今これを知るに苦しむものあるがゆえに、一々理由を明かにし難きも、しかもこれあるがために、不比等の墓『延喜式』内になかるべからずとの結論には、いかにしても到達すべからず。かくのごときことを不審とし、式内に不比等の墓の存在を言われんとならば、武智麻呂ありて房前なきも不審なればとて、これも落ちたるにあらずやとも疑わざるべからざるにあらずや。ここにおいて試みに氏の不審とするところのものを解せんか、また多少の臆測を下し得ざるにあらず。まず、(一)高市皇子は「後皇子尊」として、『日本紀』にも特別に扱えるほどなれば、稚郎子・山背大兄王などと同列に見るべきか。(二)大皇太后之先和氏は桓武天皇外戚家なれば事奈良朝に関せず、平安朝においてこれを尊崇する、あえて異とするに足らざるなり。余輩は本多氏が、何によりてかかる明白なるものをも奈良朝班幣の中に列挙せられたるかを怪しまざるを得ず。(三)太夫人当麻氏は淳仁天皇の御母として、淡路の配所に辛酸をともにせられたる方なれば、これは世を恨めることなどより、ある特別の意味あるものなるべし。(四)鏡女王の押坂墓が「諸陵式」に列せらるるの一事は、大要すでに述べしごとく、これかえって適切に式内多武峯墓が、鎌足のにして、不比等のならぬことの傍証とすべきもの。余輩は本多氏がこの墓に着目せられながら、三千代夫人の加わらざるを怪しむに至らざりしを惜しまざるを得ず。言うまでもなく、女王は藤原氏の始祖鎌足の嫡妻なり。不比等の生母にもあらず、後の藤原氏に血縁の続くことなしといえども、その夫なる鎌足墓がすでに近墓として、永世不除の国(328)忌にすら与かれるものなればその妻なる女王の墓が、また選まれて斑幣の列に入りしもの、まことに当然なりというべし。すでにその妻斑幣に与る。その夫あに延喜式内より除かるべけんや。(五)もしそれ武智麻呂後阿※[こざと+施の旁]墓に至りては、これを房前と比較して、不審なきにあらねど、本多氏がこれをもって、奈良朝時代に班幣の例に入りたるものとして論ぜられんとするは疑いなきにあらず。天平九年武智麻呂薨じて佐保山に火葬す。しかもその後押勝盛時の天平宝字のころまでは、その遺骨はいまだ阿※[こざと+施の旁]に改葬せられざりしもののごとし。その阿※[こざと+施の旁]に改葬せられ、および班幣に与るに至れる年代は、今これを明かにせずといえども、思うに平城天皇以後のことなるべし。しからばこれまた奈良朝以来班幣の例に引くべからざるものとす。そのこれを平城以後ならんというは、天皇即位の初めに太政大臣正一位を贈られたる外戚良継の墓を阿※[こざと+施の旁]墓と称するに対し、これよりも遥かに古き武智麻呂の墓を、後阿※[こざと+施の旁]墓と称するによりて察せらるるなり。妻なる源潔姫愛宕墓に対して、後に班幣に入れる夫の良房の墓を後愛宕墓といえる例を思うべし。されば、強いて臆説を逞しうせんには、前記武智麻呂墓鳴動のことのしばしば伝えらるるごとく、なんらかの事情よりして特に威霊あるものと信ぜられ、その所縁の寺に改葬班幣のことあるに至りしものか。貞観八年十月贈太政大臣藤原朝臣墓大和宇智郡阿※[こざと+施の旁]郷にあり、詔して守家徭丁十二人を置くとあり。良継か、武智麻呂か明かならねど、当時の摂政良房の母美都子が武智麻呂の曾孫なれば、おそらく武智麻呂にして、特にこれを重んぜしにてもあらんか。
要するに氏が不審として列挙せられしところ、毫も不比等の墓が式内に列せられ、もしくはその墓が多武峯に存すべき証拠とはならざるのみならず、かえってその反証ともなるべき結果となれるなり。その天智天皇山科陵が、天武天皇以来特に崇敬せらるることは、大化新政の開創者として、中興の英主なればなり。天武以後の政治、常に近江朝廷を準拠とす。なんぞ血統|如何《いかん》の問題ならんや。しかも平安朝に至りては、皇位この御統に移りたれば、さらにいっ(329)そうの崇敬を加え、永世不除の国忌の典に置くに至りしもの。しかしてその功臣にして藤氏の始祖たる鎌足が、同じく永世不除の栄に浴する、あに恰当ならずや。
2 避諱のこと
氏はまた「諱弁」と題して、余が説を「初耳の新説」なりとし、漢土の例を引きて、わが古代をも律せんとせられたり。しかれども、氏において初耳なればとて、漢土の例如何なればとて、事実は曲ぐべからず。氏の言わるるところ、少くも今の問題には適合せざるなり。天長十年の制、天下諸国をして人民の姓名および郡郷山川等、号の諱に触るるものあらば、皆改易せしむとあり。しかして、鎌足・不比等の場合またまさにこれに当る。孝謙の「勅」、単に内大臣・太政大臣の名を称するを得ざれとあるのみにして、史にこれを記するを禁じ給わざるなり。現にその後の編纂なる『続日本紀』養老四年・天平九年条等に、容赦なくその名を直書すること、既記のごときあるのみならず、前回には気付かざりしも、孝謙天皇の「勅」ありし勝宝九歳に後るる四年なる、天平宝字四年の条には、
天平応真仁正皇太后崩、姓藤原氏、近江朝大織冠内大臣鎌足之孫、平城朝贈正一位太政大臣不比等之女也。
として、両者の名を最も明白に記載せらるるなり。氏は、いかにこれをしも解せんとせらるるか。いわんやその他の書、また多くこれを直書して憚らざること、既記のごときあるをや。しかれども、かりに百歩を譲りて、しばらく氏の説に従い、孝謙の「勅」、史筆またこれを記すべからずとの意なりとするも、多く年序を経て外戚の縁も遠く隔たりたる『三代実録』のころにまで、これが励行を想像するを要せざるなり。否、ただに『三代実録』を待つまでもなく、御系統の改まりたる桓武の御代において、すでにこれを直書して憚らざる実証右のごとく歴々として現存するにあらずや。氏は『大日本史』の文を引用して、氏の説の後援とせられんとせしがごときも、こは単に「勅」の文を録したるのみにて、もとより他意あるにあらず。また『延喜式』が忠仁・昭宣二公のごとき謚号ある人に対して、その本名(330)を書せざるを言わるるも、こはおのずから別問題なり。もし氏これをもって避諱の法を正したるものとなし、鎌足・不比等の場合また然かなりと言わるるならば、これ自縄自縛に陥るものといわざるべからず。なんとなれば、同じ延喜の『三代実録』を始めとし、他の国史にも、常に良房・基経の名を直書して、毫も憚るところなければなり。要するに、鎌足の名を天安の勅書および『三代実録』に直書する、なんら疑いを容るるの余地なきものとす。なんぞこれをもって後人の加筆と言わんや。
ちなみにいう。本邦避諱の制、必ずしもシナのごとくならず、また時代によりて同じからず。史筆多く天皇の諱を避け、特に『日本後紀』のごときは、詔勅の文を録する場合にも、その中なる天皇の諱に渉るものは、ことごとくこれを除きたれども、『続日本紀』および、『続日本後紀』以後の国史には、毫もこれを忌まざるなり。歴史は事実の上に立論すべし。シナの制をもって我を推し、後の例をもって古えを律すべからず。
3 『類聚符宜抄』の文につきて
氏は『類聚符宣抄』に鎌足墓(氏の引用文には「鎌足」および「冬嗣」の字を脱したり)の文字あるをもって不比等説者の難関とせらる。難関あにただにこれのみにあらねど、これまた確かに、絶対に通過を許さざるの難関の一なり。しかして氏は、その鎌足の名を著するをもって、孝謙天皇の勅諚に違背せるのみならず、国史の闕文中に、鎌足に贈太政大臣正一位の贈官位ありしことを確認せざるべからずとし、後に鎌足を呼ぶに、再び大織冠内大臣の称をもってするに至りしことについて、余の明答を要求せられたり。しかれども、これはなんら問題となすほどの価値なきものなり。署名のことが毫も孝謙天皇の「勅」に違わざるは前項述ぶるところのごとし。贈官位のことも、ただ当時に然《し》か信ぜられたりし事実を事実として解するまでなり。余もとより鎌足に果してこの贈官位ありしや否やを知らず。しかれども、天安・延喜ころの人は、確かに鎌足を贈太政大臣正一位なりと信ぜしなり。これあるいは、その大織冠内大(331)臣を呼ぶに正一位太政大臣をもってするに慣れたる後、その任官のことの物に見えぬがゆえに、他の多くの例に従いてただちに贈官位なりと誤解したるにてもあらんか。これが誤解に基けるか、実際贈官位ありしかは明かならずとするも、当時然か信ぜられたりしは明白なる事実なり。しかるに後に至りては、これを誤解なりとなし、『日本紀』の記するところに従い、改めて大織冠内大臣と書するに至りしものなり。この後の方かえって誤解なりや否やは明かならざるも、ともかく後の人が然か信ぜしはまた事実なり。こは「追考」中に引ける『扶桑略記』著者の弁明によりて、きわめて明白なりとす。しかしてこれを呼ぶに大織冠内大臣をもってするに至りしことは、すでに寛弘の道長の「供養願文」に、不比等を淡海公と呼ぶに対して、鎌足を内大臣と呼べるによりて、由来久しきを知るべく、その後のものには常にその称を用い、『扶桑略記』著者をして『家伝』に注して、「若以v任2内大臣1、書誤云2大政大臣1歟」の語をなさしむるに至りし事情、またもって明かにすべきなり。しかもなお世俗には鎌足を呼ぶに淡海公の称をもってするものあり、ついに『大鏡』著者をして、これが弁解をなさしむるに至りしものなりとす。
本多氏はまた、『類聚符宣抄』に、鎌足を贈太政大臣正一位というに対して、冬嗣を後贈太政大臣正一位とある点に注目し、これ『符宣抄』編纂のさいに改書せし傍証とすべく、明かに鎌足と書し、冬嗣と記するならば、前も後も必要なきにあらずやと言わる。いちおう御もっともの疑いなり。これを『延喜式』に徴するに、同名の陵墓に多く「後」または「次」「又」等の語を冠して区別す。単に宇治墓と称するものは稚郎子皇子の御墓なり。これに対して冬嗣の墓は後宇治墓、美都子墓は次宇治墓と称す。されば、『三代実録』および『類聚符宣抄』に「後贈太政大臣正一位冬嗣宇治墓」とある「後」の字はもと「宇治墓」の上にあるべきものを「贈太政大臣正一位」の号この文中に重複するがゆえに、後人生さかしらに、かく改めしか、もしくは無意識に誤りしにてもあるべし。『三代実録』にはその次の、藤原美都子の宇治墓を「次宇治墓〔45〕」とすること、『延喜式』に一致するによりて明かにすべし(『符宣抄』に美都子の墓(332)を後宇治墓とせるは、冬嗣墓を宇治墓と改めたる後に重ねし誤りなるべし。稚郎子墓すでに宇治墓なる以上、冬嗣のは「後」にして、美都子のは「次」なること、『三代実録』および『延喜式』のごとくならざるべからず)。しかれども、かりに天安の勅書果して『符宣抄』記する通りの文字なりきとすれば、同じ贈正一位太政大臣の名を重ぬる時、一を前といわずとも、その文中これに対して他を後と称したりと解して、また通ずべし。後宇治墓に対して前宇治墓といわず、後愛宕墓に対して前愛宕墓と言わざる、もって例とすべし。しかして当時冬嗣墓を単に宇治墓と称し、これに対して美都子のを後宇治墓と称せしを、延喜のころには古く稚郎子の宇治墓に対して冬嗣のを後宇治墓と改め、さらに美都子のを次宇治墓と改めしかば、『三代実録』編纂のさいには、その当時の制によりてこれを改め、『符宣抄』は「勅」の文のままを録せしものにてもあるべきか。この解説いずれにしても通ずべく、かかる些末の問題は、本幹大綱すでに明かなる以上、もはや顧慮するに及ばざることなりとす。
4 『玉葉』安元三年五月二十八日の文につきて
本多氏が前回引用されたる『玉葉』安元三年五月の記事の誤解なりしことを承認せられて、潔く撤回せられたるはきわめて可なり。これにてもはや問題は存せざるなり。しかるに氏は、余がこれに関して説くところを誤読、誤解なりとし、さらに縷々弁ぜらるるところあり。ために新たに一問題を生じ、余をして本章を起稿せしむるうえに一の動機を与えられたり。
氏がもって誤読、誤解とさるる所は前後二段に分る。前者は、
可v被v申2氏神三社並多武峯本願贈大相国墓所等1也。
の文句中、余が本願を多武峯に付けて、多武峯本願すなわち鎌足なりといえるを非とし、本願は勧学院建立の本願すなわち冬嗣にして、下の贈大相国に付けて読むべしと注意せらるるなり。好意謝すべしといえども、実は余が本願を(333)上に付くるの読み方は、軽忽に氏の前の読み方(第二六巻第六号一四頁)のままに従いしものなりき。しかして今、氏かえってみずからこれを叱正せらる。余また謹んで、これに従わん。したがって余が「追考」中に、本願影像を鎌足とせしことの誤りをも併せ訂正すべきなり。
次に冬嗣深草墓を『延喜式』等に宇治墓とあるをもって、深草は火葬所、宇治は墓所なりとし、その深草に奉告したるをもって、不比等椎山の火葬所に奉告したりとする氏の持論の例証に用いんとせらるるに至りては、案外千万といわざるべからず。ただしこのことはおのずから別途の大問題として、余が本章あるの上に一の動機を与えたるものにして、別に氏の詳説を聞かんことを希望するものなれば、さらに節を改めて論弁すべし。
5 『今昔物語』の文について
氏は依然『今昔物語』の、「峯(多武峯)には大織冠淡海公も御墓を為たるなり」の語をもって二人を指したるものと解し、不比等墓もまた多武峯にありとするの説に未練を残さる。このことすでに述べたれば今改めて論ぜざれども、かりに著者が二人のつもりにて書きたりと解するも、これが本論の上に何ほどの軽重をなすべきか。畢竟本幹立ちて後の枝葉の末なり。いわんやその枝葉の末たるものにおいてすら、必ずしも然《し》か解し難きものをや。
6 『大鏡』の鎌足墓は多武峯にありとの説につきて
本多氏は『大鏡』に「其処(多武峯)に御骨を納め給ひて」とあるをもって、火葬のごとく見ゆるがゆえに、その記事「あまり有力の証にはあらず」と言わる。しかり、あまり有力の証にはあらず。有力の証としては『類聚符宣抄』『三代実録』『延喜式』(これには長暦の「弁宮下文」と『大鏡』の淡海公云云の記事、『扶桑略記』の太政大臣の弁明を加えて)および代々の告文、日記の記事等にて十分なり。しかも『大鏡』に鎌足の骨を多武峯に納めたりとの記事は、当時その説ありし一傍証とすべきなり。著者が火葬と解したると否と問うところにあらず。ただし、この文あえて火葬と解(334)したりと見るの要なく、さりとてまた、改葬の場合に荼毘に付する例も少からざれば、然か解するとも差支えなし。いずれにしても本論には影響なきことなり。
六 冬嗣および基経の墓所について
多武峯および椎岡墓につきて論述すべきところはすでにおわれり。しかれども本多氏が、余の説くところをもって誤解なりとし、不比等椎岡の火葬は単に荼毘に付したるのみにて、真墓は多武峯にあり、しかもその火葬所をも墓と称し、真墓同様に崇敬したりとの氏の想像説を確かめんがために弁説せられたる、冬嗣および基経の墓所のことにつきては、責任ある本多氏の言として、軽々に看過し難き点あれば、左にそのゆえんを弁じて、氏の詳説を煩わさんとす。
言うまでもなく、冬嗣は薨じて深草に葬られたるなり。その葬が火葬なりや土葬なりやは問うところにあらず。けだしその別業深草にありて、その所縁をもって付近に葬りしものなるべし。『日本紀略』にはこれを愛宕郡深草に葬るとなす。天長のころには、この地愛宕郡に編入せられしものと見ゆ。しかしてその深草墓は後までも存し、安元三年勧学院火災のさいには、奉告使この地に向いしこと、余が「追考」中述ぶるところのごとし。しかるに、天安・延喜のさいには、その地宇治郡に属せしものにて、『三代実録』『延喜式』(『類聚符宣抄』収むるところまた同じ)等には、これをもって宇治墓となし、『延喜式』には特に注して宇治郡にありというなり。深草の地が当時宇治郡なりしことほ、すでに引けるごとく、『菅家文草』に菅原道真が時平に代りて、深草の極楽寺を定額寺となさんと請うの奏状に見ゆ。曰く、
右臣亡考昭宣公、占2山城国宇治郡地1、有v意v欲d建c立極楽寺u。云云。
(335) 極楽寺はもと深草郷内極楽寺村にあり。今稲荷神社の東南、宝塔寺の門前なりという。冬嗣が深草墓は後世その所在を失う。その極楽寺付近には、清和の皇后藤原高子後深草陵あり。さらにその東南には、仁明天皇の深草陵ありて、冬嗣墓の兆域東西十四町、南北十四町という広大なるものを容るべくもあらねば、いずれこれより南方に求むべきものならんか。しかもそのいわゆる深草の地たるは疑うべからず。しかるに、本多氏は、なんらの理由をも具せずして、
冬嗣の宇治墓とは即ち宇治郡木幡若くは宇治里辺(後には宇治町もしくは木幡辺ともあり)にあるべく、此の深草は即冬嗣の火葬所なり。……納骨所は宇治に在るなり。……而して安元年中勧学院焼失に際して使者を立てられしは、冬嗣の火葬所なりと解すべきなり。而してこれ頓て当時墓所として崇敬するは、納骨所と葬所何れとも確定せぬ例と見得べきなり。
と断ぜらる。もしこれが他人の説ならんには、単に妄説として、一笑に付すべきなれども、諸陵寮にありて陵墓のことに精通せらるる本多氏の口より、ことに余が説を誤解なりとして訂正さるべく唱出せられたるものなれば、十分責任あるものとして、敬意を表して、教えを請わざるべからざるなり。
まず試みに問わん、氏は何を拠として冬嗣の納骨所が深草の葬地にあらずして、木幡もしくは宇治里(宇治町ともあり)の地にありとせらるるかと。木幡の地が藤原氏の葬地となりたるは、いうまでもなく基経以後のことなり。従来は藤原氏の墓地鳥戸山にありしなり。しかるに元慶八年十二月、その地中尾山陵の域に編入せられしより、基経新たに木幡の地を点定す。しからばその以前たる冬嗣墓が木幡にありきと想像せんは、拠なきものといわざるべからず。いわんやその多数の陵墓の相接して設けられたるがごとき木幡の地において、一方に方十四町の兆域を除去することの困難なるをや。もしそれ氏がさらに遠くこれを宇治里(宇治郷の意か)もしくは宇治町にあらんとせらるるに至りては、余輩不敏、全然拠るところを知らず。請う、その説を聴かんかな。さらにその宇治町と言わるるもの、宇治河南(336)宇治町の地にありとの意ならんには、併せてその地がかつて宇治郡の内に編せられしの考証をも聴くを得んか。
次に基経の墓がまた深草の地にあるべきことは、氏もすでに引ける僧都勝延の歌、ならびに同じ『古今集』なる上毛野岑雄の歌によりて明かなり。勝延のは略しつ。岑雄の歌に曰く、
深草の野辺の桜し心あらば ことしばかりは墨染に咲け
このこと『大鏡』にも同様に見ゆ。今京阪電車墨染停留場付近墨染寺あり。必ずしも基経墓と関係あるものならざるべきも、その歌の詞書に、「深草の山におさめてける後よみける」とあるは、単に火葬の竃にて荼毘に付し、遺骨を他に移したる場合の語にあらざるのみならず、前記基経創建の極楽寺が、宇治郡深草の地にある、またもってその墓のこの地にある傍証とすべきにあらずや。基経この寺を創めていまだ完からざるに薨じ、時平遺志をついでこれを成就す。しかして父の屍をその深草におさむ。墓所がその寺と縁あるべきこと、単に空想というべからず。その地が当時また宇治郡の中なるべきことは、『日本紀略』および『公卿補任』に山城宇治郡に葬るとあるによりて明かなり。しかしてその後、なんら改葬のことを伝うる史料を見ざるなり。論者あるいはいわん、基経木幡の地を点定して藤氏一門の葬地とす、その墓またここにあるべしと。しかもこれはただ一門の人々のための葬地というのみにして、当初は大臣たるほどの人は、常に他に適当の地を点定するを例とせしなり。鳥戸野が藤氏一門の墓所たりしにかかわらず、冬嗣が深草に葬られ、良房夫妻が白河の地に葬られたる、もって例とすべし。木幡に浄妙寺ある、道長に至りて始まる。その以前は「古塚累々、幽隧寂々、仏儀不見、法音不問」の域なりき。しかるを如何ぞ自己創建の極楽寺ある深草の葬地を捨てて、さらにかくのごとき空寂の地に真墓を営みたりと想像すべけんや。もしまたここに移されたりきとせば、寛弘のころまで仏儀見えず法音聞えざるままに打ち捨てては相済まざるにあらずや。要するに木幡に基経の墓ありというもの、畢竟空想に出ずるもののごとし。いわんやこれを宇治里、もしくは宇治町に求められん(337)とするをや。こは新問題として、切に氏の詳説を請わんとす。余あに弁を好まんや。ただ陵墓のことに造詣深かるぺき本多氏なるがゆえにあえてこれを言う。妄言多罪。
付言。
谷森鎗の『佐保山椎崗墓攷証』には、椎岡をナラヲカと訓むべしとて、左の説をなされたり。
椎崗の椎の字は、今シヒとのみ読み馴れたれども、古代にはナラとも読みたりし事は、続日本紀第八養老五年十二月乙酉の条に、太上天皇葬於大和国添上郡|椎山《ナラヤマ》陵と見え、新撰字鏡に、椎【奈良乃木】と見えたれば、椎山・椎崗等の椎の字は、ナラと読むべき事分明なり。其の在地も亦|平城《ナラ》旧都の東北方にある連山中の一部分にて、惣名奈良山と呼ぷ。其の中に就いて五所の御陵号御在地等に拠るに、北に依れる連山を奈保山と云ひ、南によれる山々を佐保山と云へり。然れども一概には定め難くて、奈保山東陵を御遺詔の文には蔵宝山雍良岑とも見え、又久安五年十一月、山陵実検使の時に、東大寺所司の申状には、佐保山・奈保山是一所異名也といふ論も見えたり。さて其の文字も様々に書きて、奈保山を那富山とも直山ともかき、佐保を蔵宝とも作宝ともかき、奈良を椎とも、乃楽とも、寧楽とも、那羅とも、平城とも書きたる事、古書に多く見えたり。
この説余が「追考」にいうところと全く相反す。すこぶる有理なるに似たれども、余は依然これを「シヒヲカ」と読むの前説を主張せんとす。なるほど『新撰字鏡』にほ、「椎」字を「奈良乃木」と訓じたれども、『和名抄』以下多くの古書、皆「楢」をもってこれに当て、「椎」は常に「シヒ」と訓ずるなり。『本草和名』には、「椎子。和名之比」とあり。『和名抄』にも、「椎子。本草云椎子【上直追反和名之比】」とあり。『伊呂波字類抄』また、「椎【シヒノミ】椎子【シヒ見2本草1】」とあるなり。
また『日本紀』に椎田君とあるを、『古事記』には志比※[こざと+施の旁]君に作り、『日本紀』椎根津彦の名に注(338)して、「椎此云2辞毘《シヒ》1」となし、椎子にシヒと傍訓す。「椎」字をシヒと読むことの古くして、かつ普通なる見るべし。さてその椎岡の地は佐保山の一部にして、佐保山は平城《なら》北方の連山すなわちいわゆる奈良山の中なるべく、ことにその奈良山の名は、古の奈良坂すなわち今の歌姫越の地より起れりと思わるれば、かたがたその東方において、その奈良山中の一部なる佐保山のさらに一部の地に、これと同様の名あらんは、紛わしと言わざるべからず。また翁は『続日本紀』養老五年条椎山の傍訓にナラヤマとありと言わるれども、明暦の坂本を初めとして、多くこれを載せず。けだし後の攻究者の私意を加えたるものを見られたるならん。されば余は、依然『多武峯略記』の傍訓に従い、椎字の古来普通の読み方に基づき、これをシヒガヲカとなさんことを主張す。『陵墓一隅抄』が私意をもって、「奈良岡」とその文字をまで改めたるは、もってのほかなりとす。
(339) 弘法大師の入定説について
一 緒 言
弘法大師は死んだのではなくて、その実高野山の岩窟で入定して、生身のままに龍華三会の五十六億七千万歳の後を待っておられるのだとの説が古くからある。大江匡房の『本朝神仙伝』に、
弘法大師……後於2金剛峯寺1入2金剛定1、于v今存焉。初人皆見2鬢髪常生、形容不1v変。穿2山頂1、入v底半里許、為2禅定之室1。
とある。同じ人の『弘法大師讃』にも、
初証2三地1、後遺2全身1。入2金剛定1、昇2摩尼輪1。
とある。匡房は天永二年に七十一歳で死んだ人であるから、右のごとき入定説は、大師入滅後遅くも二百四、五十年のころには、すでに立派に成立していたものであることが知られる。さらに匡房よりもやや年長者であった経範(長治元年寂七十四)の『弘法大師御行状集記』を見ると、いっそう詳細の記事がある。
(340) 伝曰。告2弟子1曰、我有2却世之思1、欲v遂2本懐1。既明年三月之中也。汝等挑2法燈1、可v護2秘蔵1。是報2仏恩1、報2師恩1之計也。云々。
有v書曰、方今諸弟子諦聴諦聴。吾生期今不v幾、仁等好住、慎守2教法1。吾永擬2入定1者。今年三月廿一日寅尅。諸弟子等莫v為2悲泣1。吾則滅而帰2信両部三宝1。自然代v吾被2眷顧1。是亦定理也。吾生年六十二、法臘四十一。吾初思、及2千(一本千字ナシ)一百歳1住v世、奉v護2教法1。然而恃2諸弟子1、急永擬2即世1。云々。
或伝曰、然則従2大寺艮角1。入2三十六町1、卜2入定処1、従2兼日1営2修之1。其期兼2十日1。四時行v法。其間御弟子等、共唱2弥勒宝号1。至2時尅1止2言語1、結跏趺坐、住2大日定印1、奄然入v定。時年承和二年、乙卯三月廿一日丙寅之時也。雖v閇v目、自余宛如2生身1。及2七々御忌1、御弟子等皆以拝見。顔色不v変、鬢髪更生。因v之加2剃除1、懃2衣裳1、畳v石築v壇、覆2其上1、……。
或書曰、御入定所為v令v造2築墓1、依v勅賜2営作料1。従(後の誤)太上天皇有2弔書1、曰、真言法匠、密教宗師、邦家憑2其護持1、動植荷2其摂念1。豈図奄慈父(未の誤)逼無常等云々。末代弟子竊以、月支迦葉、隠2形於鶏足1、受2応化付嘱1。期2慈尊出世1。日域吾師、蔵2身高野1、伝2法身秘教1、待2龍華三会1。云々。
大師告2示御弟子1曰、有v書曰、吾入定後必往2兜率他天1、可v待2弥勒慈尊出世1、五十六億余之後1、必慈尊下生之時、出v定祗候。可v問2吾先跡1。亦且未下之間、見2微雲管1、可v察2弟子信否1。是時有勤之者得v祐、不信之者不v幸。努力々々、勿v為2後跡1。云々。
すなわち大師はあらかじめ入定を覚悟し、生身のままに弥勒出世の暁を待っているのだと言うのである。したがって大師はむろんその肉身を保存し、顔色変ぜず鬢髪も成長するというのである。さらに同書にはこんなことまで見えている。
(341) 醍醐帝御宇延喜年中、……或説曰、依2帝皇御夢想1、以2僧正観賢1被2祈請1。重依v有2夢想1。随2其感応1、開2御入定巌窟1、奉v見2顔色1。只如2例人1。思2往昔色像如v此歟1。僧正観賢並勅使、凡可v奉v見之人、皆拝見。然加2剃除1、懃2御法服1、如v本奉2埋蔵1已了。具2子細1奏2聞公家1了。云々。
或説曰、延享年中、観賢僧正有2祈誓感応1。蒙2官裁1開2御入定巌窟1、欲v拝2見之1処、奥院降2満雲霧1、宛如2黒暗1。比肩列座之輩、纔雖v聞2音声1、無v見2体相1。上下道俗、成2怖畏1、奉v念2三宝1。爰僧正観賢、恥2罪障之深1、屡致2無量懺悔1。其後漸々散2雲霧1、既奉v拝2見御入定之宝体1。宛如2睡人1。無3敢衰2容色1。然勅使等皆奉2礼拝1、欣悦無v極。次奉v剃2御髪1、奉v着2法衣1。如v本奉2蔵収1畢。云々。
入定といえば死んだのではなく、肉身のままに禅定三昧に入ったのであって、たとえ百千万億年を経ようとも、その肉体は腐敗分解してはならぬ。したがって大師が、後までも結結跏趺坐のままで巌窟内に睡っているとの説の出るのも、無理のない次第で、大師はこの状態のままに弥勒の出世を待って、再び定を出でられるべきはずなのである。すなわちこの婆婆世界において、五十六億余歳の弥勒の出世を待っている訳で、弥勒浄土の兜率天に往生するのではない。この意味においてほ、前引『行状集記』の文に「吾入定後必往2兜率他天1、可v待2弥勒慈尊出世1」とあるのは、矛盾の感がないでもないが、これは肉体をそのままに高野山上に止めて、その本体なる霊魂は兜率天に往生し、弥勒出世のお伴をして、再びもとの肉体に戻り、定を出ずるという意味に解すべきものである。しかしてこの後に現われた伝記に至っては、いずれもこの入定説を祖述しないものはない。しかしてこの意味において、高野山は信徒のある特別の信仰を惹いているのである。
しかしながら弘法大師とても同じく人類である。人類としてあに死なからんやで、彼また普通の人類と同じく、病気によって往生を遂げ、ことに荼毘の儀によって葬式を行い、遺骨をあらかじめ点定しておいた場所に蔵めたのであ(342)った。このことは当時の史料明かにこれを証している。しかるにもかかわらず、後に入定不死の説の起るに至ったのは、大師が偉人として崇敬せられた結果であって、かくのごとき奇蹟談は他の高僧にも往々にして伝えられ、あえて不思議とするにも当らぬのではあるが、しかも特にこの大師入定説については、その説の由来変遷するところにすこぶる面白い沿革がないでもない。すなわちこれをもって奇蹟談発生の一例として、左にややつまびらかにその経路を観察してみたいと思う。
二 弘法大師の入寂
弘法大師が死んだのであるとか、あるいは死んだのでないとかいうことは、もとより史学上の問題ではない。また宗教上の信仰からして、その死を入定と信ずるに至った事実についても、もとよりこれを否定するに及ばぬ。しかしながら、大師死去当時においてはもちろん、少くも死後約六十年の後に至るまで、その死が遺弟同門の人々においても、立派に認識せられていたにかかわらず、後に至ってこの入定説を生ずるに至ったについては、すこぶる興味ある沿革を有するものである。
大師の死は立派に『続日本後紀』に見えている。曰く、
丙寅(承和二年三月二一日)大僧都伝燈大法師位空海、終2于紀伊国禅居1。庚午(同二五日)勅遣2内舎人一人1、弔2法師喪1、并施2喪料1……。
法師者讃岐国多度郡人、……七年(天長)転2大僧都1。自有2終焉之志1、隠2居紀伊国金剛峯寺1。化去之時年六十三。
すなわち大師は紀伊の禅居に終ったのであって、天子喪を弔し給い、喪料をも賜わったのである。ことにその葬式は火葬であって、大師の遺骸はたちまちもとの四大に還原されたのであった。淳和上皇の弔問の「勅」を記して、
(343) 後太上天皇有2弔書1、曰、真言洪匠、密教宗師。邦家憑2其護持1、動植荷2其摂念1。豈図※[山+奄]※[山+茲]未v逼、無常遽侵。仁舟廃v樟、弱喪失v帰。嗟呼哀哉。禅関僻在、凶聞晩伝、不v能3使者奔赴、相2助荼毘1。言之為v恨、悵悼曷已。思2忖旧窟1、悲涼可v料。今者遥寄2単書1、弔v之。著録弟子、入室桑門、悽愴如何。兼以達v旨。
とある。この御弔書によれば、大師が火葬によって葬られたのであったことが、明かに知られるのである。しかるに入定説を主張する側からいえば、右の文はすこぶるその説の妨害となるべきものであるから、前引『行状集記』のごときは、「無常遽侵」以下の全文を削って、「無常等云々」の五字に隠し、さらに「末代弟子」以下の文を付加してある。かの『元亨釈書』のごときも同じく入定説を伝えるがために、「仁船廃棹」以下の全文を削って、「速馳2草書1、弔2尉大定1」の八字に改めてある。これらは確かに悪意ある改作といわれても弁解の辞なかるべきものと思われる。
なおその火葬を裏書すべく、後までも廟堂の辺に炭灰などが残っておったという事実があったらしい。しかしてそれによって大師が火葬に付せられたという説も唱えられていたらしい。これについては『紀伊続風土記』高野山之部の、「開山伝譜」にこれを弁じて、
さても大師の御入定と云事、誠に小国末代に取つて比類なし。其に就て或俗生の申すには、「大師の入定と云は疑あるべし。外記の日記にも更に見えず、只世の常の人入滅せしよふ、火葬にし奉りたりや、御廟堂の辺炭灰など残れり。又公家より葬料を送らる」となん云とも、此事偽りにあらず。大師自吾入定すと註し置給ふ事明なり。外記日記などに見えぬ事さも侍らん。此は秘事にて、親き門徒の外は知ぬ事にて、世の常の入滅に擬して、御弟子達も其の由にもてなしければ、左も申しつらん。炭灰残りけるは、御入定の後暫くは番になりて、御廟院を守護し奉りけり。(『高野物語』『要集了引』『扶桑略記』『行化記』等。『御入定勘決記』にこれらの条詳明なり、今略す。)
と、かなり苦しい説明を試みている。右の引用書は、『行化記』以外はいまだ親しくこれを調査するの機を得ぬから、(344)いわゆる俗生の説がいつごろに唱えられたものかは不明であるが、いずれ入定説成立した後のもので、しかも炭灰などがなお存したとあれば、そう後のものではない。ここに『外記日記』とは、『続日本後紀』勅撰の材料となったもので、その時代のものは後世に伝えられておらぬ。しかるに右の説には、大師の入定を疑うについて、その根拠を流布の『続日本後紀』に求めず、さらにその根本史料たる『外記日記』を引いているのは、この俗生なるものの説が、まだ『続日本後紀』流布以前、おそらくはまだその材料なる『外記日記』が残っておったころに、これを見て言い出されたものらしく、相当古い時代の説であったことが知られるのである。もっとも古代の火葬は、臨時に竃を築いて、薪を積重ねて屍体を焼いたのであるから、比較的後までも炭灰は遺残し得べく、したがってやや下った世になっても、その存在を見て、入定説にとってはかなりの傷手たるべき右の説が起ったとしても無理はない。しかしてこれに対する弁明は、大師はその実入定せられたものなるも、便宜上普通の死のごとく装ってこれを世に発表したので、親しき門徒のほかはこれを知らなかったのだといっているのである。これしかしながら不自然千万のことであって、その祖師を顕彰せんとする弟子達の所行としては、きわめて受取り難いことだと言わねばならぬ。ことにその親しき弟子達も、その実明かに大師の死をいっているのであって、右の弁解はとうてい成立すべからざるものである。
遺弟真済が大師入滅の年の十月二日に書いたという『空海僧都伝』には、
承和元年五月晦日、召2請弟子等1語、生期今不v幾、汝等好住、慎守2仏法1、吾永帰v山。九月初自定2葬処1。二年正月以来、却絶2水漿1。或人諌v之曰、此身易v腐、更可2以v※[自/死]為1v養。天厨前|外列《(ママ)》、甘露日進。止乎止乎、不v用2人間味1。至2于三月二十一日後夜1、右脇唱滅。諸弟子等一二者悟揺v病。依2遺教1奉v斂2東峯1。生年六十二、夏臘四十一。
と書いてある。この文で見れば、大師は病床に安楽な往生を遂げたのであって、決して生きながら巌窟に入定せられたのではなく、葬儀もまた予定通りに行われているのである。当時の葬儀が普通火葬であったことは、『日本霊異記』(345)を見てもほぼその有様が察せられる。この書記するところ、時に土葬の例がないではないが、その場合には必ず特に土葬にした理由を書いてあるのを見ても、もって当時の風潮が察せられよう。かくて淳和上皇のごときに至っては、ただに御遺骸を荼毘に付せしめられたのみならず、その御遺骨をも粉砕してこれを山中に散布せしめ、山陵を起すことすらお止めになられたほどであった。このさいにおいて大師の葬儀が、また荼毘の法によって行われたであろうということは、淳和上皇の御弔書にたとい「荼毘」の文字がなく、廟堂の付近によしや炭灰が残っていなくとも、容易に推測し得られることであろう。
この年十月嵯峨上皇が「哭2海上人1」の御製の詩を賜わった。その中に、「化身在世何能久、塵界空留2恵遠名1、※[糸+留]侶古来以為v楽、凡夫徒自感2傷情1」とか、「従v此津梁長已矣、魂兮何処救2蒼生1」などいう御句がある。これ実に大師の死を悼まれたもので、これに対する遺弟実慧の謝恩の表にも、
今月七日伏奉2御製手札1。哭2先師1之詩、宸章高臨、照2曜下士1。生死栄寵、永伝2無窮1。悲幸々々。
の語があるのである。すなわち先師はその生前のみならず、死後の栄寵を辱うしたのであって、実慧はこれを謝し奉っているのである。さらに同人が翌承和三年五月に唐の青龍寺の門侶に遣わした書には、
和尚ト2地南山1、置2一伽藍1、為2終焉之地1。其名曰2金剛峯寺1。以2今上承和元1、去v都行住。二年季春、薪尽火滅。行年六十二。鳴呼哀哉。南山変v白、雲樹含v悲。一人傷悼、弔使馳※[馬/衣]。四輩鳴咽、如v哭2父母1。鳴呼哀哉。実慧等心同呑v火、眼若2沸泉1。不v能2死滅1、守v房終焉。……。
ともある。その当時において大師の死は、なんらの疑義なく公表せられ、入定のごとき説は少しもあらわれていなかったことは、とうてい疑いを容るべきではない。
さらに大師入滅後六十年の、寛平七年に書いた貞観寺座主の『贈大僧正空海和上伝記』のごときに至っては、露骨(346)にその病死のことを明記してある。
承和二年嬰v病、隠2居剛峯寺1。三年三月廿一日卒。【時年六十三臈四十三】
ここに承和二年病に嬰り、三年に卒したといい、年六十三というのには、年数に相違がある。けだし筆者記憶の誤謬であろう。しかもなお入定説のことは少しも見えず、最も露骨にその死を直書してあるところは、もって当時門徒の解しておったところを見るに足るのである。貞観寺は空海の肉弟にして、同時に法弟なる真雅僧正が第一代の座主になった寺で、この人元慶三年に入寂したのであるから、寛平七年の座主はおそらく真雅の遺弟であろうが、今その名を明かにすることが出来ない。しかしながらその伝うるところの大師末期の事情は、毫も疑いを容るべからざるものである。
かくのごとく毫頭疑うべからざる多くの史料の存するにかかわらず、大師滅後二百四五十年ころの、経範や匡房のころに至るまでの間に、入定説は立派に出来上っているのである。これはそもそもいかなる由来のものであろうか。
三 大師入定説の由来
弘法大師が高野山の巌窟内に入定して、生身のままに弥勒出世の暁を待っているという思想は、むろん大師の高徳を偲ぶのあまりに、いつとはなく作り上げられた説であろうが、それには種々の由来のあることであろうと思われる。
一、高野山は大師の入定処として定められた場所であるということ。
二、大師は死後龍華三会の暁を俟って、弥勒出世に遇いたいといっておられたということ。
三、自然の死を待たず、生きながら身を亡って、往生を遂ぐるという思想の行われたこと。
(347) この三つの条件が綜合せられて、大師は生きながら巌窟内に入定せられた、生身のままに弥勒出世を待っておられるのだという説は成立したものらしく考えられる。
第一に高野山が大師の入定処であるということは弘仁七年に大師が奏請して、入定処として高野山を賜わったという事実から唱えられる説である。これはもとより事実であるが、この事実からして、はてはその山における大師の入滅をも、ついには入定と呼ぶことになり、いつしか生身のままに止まっておられるという思想を生ずるにも至ったものと解せられる。『朝野群載』に、
弘法大師請2乞入定処於高野峯1表
沙門空海言。空海聞、山高則雲雨潤v物、水積則魚龍産v化。是故耆闍峻嶺、能仁之迹不v休、孤岸奇峯、観世之蹤相続。尋2其所1v由、地勢自爾。又有2台巓五寺禅客1、比2肩天仙1、一院定侶連v袂。是則国之宝、民之梁也。伏惟我朝歴代皇帝、留2心仏法1、金刹銀台櫛2比朝野1、談義龍象、毎寺成v林。法之興隆、於v是足矣。但恨高山深嶺、乏2四禅客1、幽薮窮巌。希2入定賓1。(中略)空海少年日、好渉2覧山水1。従2吉野南行一日、更向v西去両日程、有2平原幽地1、名曰2高野1。計当2紀伊国伊都郡南1。四面高嶺、人蹤絶v蹊。今思、上奉2為国家1、下為2諸修行者1、芟2夷荒薮1、聊建2立修禅一院1。経中有v誡、山河地水、悉是国主之有也。若比丘受2用地不v許物1、即犯2盗罪1者。加以法之興廃悉繋2天心1。若大、若少、不2敢自由1。望請蒙2賜彼空地1、早遂2小願1。然則四時勤念以答2雨露之施1。若天恩允許、請宣2付所司1、軽塵宸※[戸/衣]、伏深悚越。沙門空海誠惶誠恐謹言。
弘仁七年六月十九日 沙門空海上表
という文がある。すなわち大師はすでに年少時から高野山の静寂の幽境なるに着眼し、弘仁七年において、入定処としてこれを奏請し、許可を得たのであった。ここに入定とは、決して死去のことをいうのではない。いわゆる禅定三(348)昧に入って、静思黙考するの意で、大師はその後毎年入定処なるこの山へ来て、修禅の行を積まれ、さらに出定しては都に帰るのが例であった。真済の『空海僧都伝』に、
去弘仁七年、表2請紀国南山1、殊為2入定処1。作2一両草菴1、去2高雄旧居1、移入2南山1。……供養月余、亦居2高雄1。……雖v云2世事無1v隙、春秋之間必一往、看2其山中1。
とある。
入定があれば出定がある。入定・出定の語は古く相対して用いられたもので、『大師御行状集記』に引いた神泉苑祈雨の条のある記に、
大師勤修雖v経2七日1無雨。大師入v定思惟、守敏大徳駈2取諸龍1、既入2水瓶1、云々。即出v定延修二个日夜。……。
とあるがごときは、明かにその意義を示したものである。高野山が大師の入定処であるというのも、この意味においての入定処であって、決して終焉の地の意味ではない。しかるにこれを入定処といいならわしたことから、次のごとき種々の思想と混淆し、いつのころからか大師はここに入定せられて、龍華三会の期を待っておられるのだと言い出したのである。
第二に、大師が龍華三会の期を待たれたということは、当時において多く行われた思想で、あえて珍しいものではなかった。しかしてそれは、御遺告の文と称するものにも見えている。『弘法大師行化記』引遺文に、
東寺座主大阿闍梨耶者、吾末世後世弟子也。吾滅度以後、弟子数千万之間長者也。雖2門徒数千万1、併吾後世弟子也。雖v不v見2祖師吾顔1、有心之者必聞2吾名号1、知2恩徳之由1。是吾非v欲2自屍之上、更人之労護1。継2密教寿命1、可v令v開2龍華之庭謀1也。吾閇眼之後、必方往2生兜率陀天1、可v待2弥勒慈尊御前1。五十六億余之後、必慈尊御共下生祗候、可v問2吾先跡1。且未下之間、見2微雲管下1察2信否1。是時有v勤得v祐、不信之者不v幸。努力々々、勿v(349)為2後疎1。
とある。この御遺文なるものはもと秘密文書で、『御行状集記』には、
遺告、是大師作。廿五条縁起、付2代々大阿闍梨耶1、令v守2宗家1。然者密宗之肝心、門徒之眼目也。仍従2大阿闍梨1之外、不v可v披2見他人1。云云。
と見えているほどの貴重なものであった。したがってその当時において発表せられたものでなく、ために後に大師に仮托して作られたものではなかろうかとの疑いを挿むべき余地がないでもない。しかしながら余輩は、今ここにこの遺告なるものの真偽を論じ、これが年代を云々するの要はない。かりにこれを後の仮托としても、それはいまだ入定説の成立せぬ以前のものであって、普通の入寂を予期しての文面である。「吾滅度の後」といい、「自屍」といい、「閇眼の後に兜率陀天に往生す」というがごときは、いずれも死を意味したもので、決して入定して生身のままに弥勒出世を待つとの意味ではない。兜率天上に往生することは肉身のままでは出来ない。肉体は死屍となって四大に還原しても、よく兜率内院に往生して、弥勒に逢い奉り得られるとの考えは、当時において存在していたのである。『本朝法華験記』に、沙門仁鏡百二十七歳にして都率内院に往生して、弥勤に値遇したとの例話も見えている。しからばこの遺文なるものが、果して大師の親しく遺されたものか、あるいは後の仮托であるかを問わず、むしろ大師入定説の反証ともなるべきものであると言わねばならぬ。しかしながら、すでに大師が弥勒出世の暁において、都率天からともに下生するとのことを遺告したとあってみれば、いつしかそれが入定処たるの説と合致して、大師は入定して肉身を高野に止め、霊魂は兜率天に上って弥勒慈尊に侍し、龍華三会の時を待って再びこの世界に下り、さらにもとの肉身に戻って出定せられるものだとの、まわり遠い説ともなり得べきものである。
第三に、平安朝の中ごろにほ、生きながら身を焼いて浄土に往生するということがしばしば行われた。すでに康保(350)年中において、僧長明身を焼くのことが『元亨釈書』にある。『百錬抄』に長徳元年に、阿弥陀峯の身焼上人があったことを記して、「近年諸国焼v身者十一人」とあれば、よほど流行したものと見える。このほかにもかかる例話は、『元亨釈書』や『法華験記』に少からず見えている。シナにおいてはこのころには、岩窟中に隠れて往生を遂ぐるの思想もあった。わが長徳よりも十年ばかり後の宋の景徳年間に出来た『景徳伝燈録』を見ると、寒山拾得の二僧が、岩石の縫中に入り、その縫忽然として合して永く世から隠れたとのこともある。しかしながらこれらはともに往生の一種の方法であって、入定ではない。身を焼いたりあるいは岩窟中に隠れたりしたものをもって、入定と号した例は決して古くは見えないのである。しかしすでにかかる思想があり、ことに身を焼くがごときことが頻々と行われた以上は、高野山が大師の入定処であるということから、大師は巌窟中に入定せられたので、生身のままに弥勒の出世を待たれているのだとの説も、おのずから出で来り得べきではあるまいか。
四 結 語
後世には、生きながらみずから身を焼くものをもって火定に入ると称し、あるいは生きながら土中に埋められて、土定に入るという死の方法も物に見え出した。大隅国国分駅の付近には、真応上人と空順上人との入定の石棺というものが今に遺っている。これらは生きながら棺中に入りて、その中で弟子や信者の念仏に囲繞せられて、窒息して死を遂げたものであるが、これをも入定といっている。かくてついには、僧侶の死を入定と称するようにもなった。しかしながらこれらはいずれも入定ではなく、自殺と葬儀とを兼ねたものである。入定とは禅定三昧に入ることで、自殺の一の方法ではない。一定の期間飲食を絶ち、静思黙考するのであって、たといその期間に制限がないとはいえ、必ず生身のままに存ずるものでなくてはならぬ。されば弘法大師の入定説というものも、大師が生身のままに岩窟内(351)に結跏趺坐して、五十六億七千万歳の後を待っておられるというのであって、決してその死を意味したものではない。むろん火葬はこれを認めないのである。しかも大師はその実病気によって普通の死を遂げ、その遺骨は荼毘に付して、あらかじめ点定したる墓所に葬られたのであった。当時の記録文書はもとより、遺弟門徒の書いた大師の伝記にも、明かにこの趣は見えている。大師の御遺文と称するものにも、普通の死の意味は見えるがなんら入定のことはない。しかるに爾後二百四、五十年間に、かかる明白なる史料あるにかかわらず、大師の高徳はよくその入定説を完成せしめたのであった。
(付記)貞観寺座主の寛平七年の『空海和上伝記』に、大師年六十三法臈四十三とあるのは、すでに述べたごとく記憶の誤りであろうが、貞観十一年に出来た『続日本後紀』にも大師年六十三とあれば、このころではかく計算せられていたものかと思われる。あるいは前の数え方の誤りを正したのであったかも知れぬ。
(352) 善光寺草創考
一 緒 言
十月下旬に老母多年の宿願を果すべく信州善光寺に代参して、その信仰の盛んなことや、大本願と大勧進とが対立して互いに主張を争っていることなどを目撃し、さらに長野市史編纂委員某老人(名刺を頂戴しなかったのでついお名前を失念した)のお詁を承ったりしたりしたので、今さらのことながら本寺の沿革を調査してみたいとの念が勃起した。すなわち帰来これに関する史料をあれこれ繙いてみたところが、なるほど従来の研究者の中に種々雑多の臆説の出ているだけに、善光寺の沿革は古往近来疑問をもって充たされていることを知るを得た。あれだけ信仰の盛んな、あれだけ由緒の古い大寺において、その草創の由来からしてが全く不明瞭で、ことに肝腎の本尊が阿弥陀如来だか釈迦如来だかというようなことにまで問題があるというのは、いかにその所在が僻遠の地であって、いかにその記録が欠けているとはいえ、あまりとしてもはなはだしいと言わねばならぬ。善光寺に関する最近の研究は、言うまでもなく栗岩英治君の『善光寺物語』であろう。本書はいわゆる博引旁捜で、(353)ことにお名前通りの英断をもって、在来の僻説をことごとく排除したところ最も痛快である。その研究は多方面に渉っているが、特にその草創のことに関して、古今一切の所伝を斥け、斉明天皇朝百済国滅亡のさいに、わが国に帰化した百済王善光の護持仏を、孝謙天皇朝ころに名の見えた、同じ百済姓の余東人《あぐりのあずまぴと》が、おそらく延暦・大同ころに創立したものらしいという風に論結せられているのは最も面白い。その本尊が欽明天皇十三年に貢献したという、『日本紀』にいわゆる釈迦像なりとの説を苦もなく排斥し、難波堀江から拾い出したといういわれ因縁もきわめて手軽に否定し、推古天皇十年創立だという、寺にとっては大切な古い由緒をなんの未練もなく捨ててしまって、その創立者だと伝えられた秦人巨勢大夫の代りに、奇想天外的に新しく百済人を持ち込み、年代をズット二百年ばかりも引き下げられた英断に至っては、実に痛快極まるものである。しかしながら英断は英断として、惜しいことにはその英断に達する道筋において、多少の誤解もあれば無理なところもある。これを在来の諸説に比して、もちろん確かに一頭地を抽んでているとはいえ、まだこれだけでは秦氏に換えるに百済氏をもってし、渡来の年代を約百六十年(あるいは百十年)、創立の年代を約二百年も引き下げようとするには、証拠いささか薄弱で、善光寺様に対してお気の毒の感がないでもない。したがって少くもその草創については、本書の新説のかたわらに別に一異説を提供して、ある形式の下に旧説を保存するの余地あることを認めるのである。時も時、長野市においてはあたかも市史編纂中とのことでもあるから、ここにまずその事創に関する愚見を開陳して、広く識者の是正を請い、兼ねて善光寺研究者の参考に供してみたいと思うのである。
二 善光寺草創に関する旧説
中世以後の善光寺に関する縁起物語の類は、他の諸大寺の多くの傍例に漏れずして、相変らず付会誇張の辞をもっ(354)て充たされ、ほとんど取るに足らぬものが多い。ここにおいてかその本来の真面目を知ろうとするには、まずもってなるべく古縁起の文を捜索してみねばならぬ。
善光寺に関する現存縁起の文の最も古いものは、けだし『扶桑略記』引用のそれであろう。同書には欽明天皇十三年に、百済の聖明王が金銅釈迦像一体ならびに経論幡蓋等を献じた顛末を『日本紀』によって記した後に、
一云、同年壬申十月、百済明王献2阿弥陀仏像。【長一寸五尺。】観音勢至像1。【長一尺。】表云、臣聞万法之中仏法最善、世間之道仏法最上、天皇陛下亦応2修行1。故敬捧2仏像・経教・法師1、付v使貢献。宜2信行1者。【已上】
或記云、信濃国善光寺阿弥陀仏像則此仏也。小治田天皇(推古)御時、壬戌年四月八日、令d2秦巨勢大夫1奉uv請2送信乃国1。云云。
善光寺縁起云、天国排開広庭天皇(欽明)治十三年壬申十月十三日、従2百済国1阿弥陀三尊浮v浪来2着日本国摂津国難波津1。其後経2卅七箇年1、始知v有2仏法1。仍以2此三体1為2仏像之最初1。故俗人号v之悉曰2本師如来1。小墾田推古天皇十年壬戌四月八日、依2仏之託宣1忽下2綸言1、奉v移2信乃国水内郡1。仏像最初霊験掲焉。件仏像者元是釈尊在世之時、天竺※[田+比]沙離国月盖長者随2釈尊教1、正向2西方1、遥致2礼拝1、一心持2念弥陀如来・観音・勢至1。尓v時三尊促2身於一※[木偏+((丙+丙)/木)]手半1、現2住月盖門※[門/困]1。長者面見2一仏二菩薩1、忽以2金銅1所v奉2鋳d写1之u仏菩薩像也。月盖長者遷化之後、仏像騰v空飛2到百済国1、已経2一千余年1。其後浮2来本朝1。今7善光寺三尊是其仏像也。【已上出2彼寺本縁起之文1】
とある。言うまでもなく『扶桑略記』は阿闍梨皇円の著で、円光大師が久安五年に彼に師事したといえば、おそらく平安朝の末期、近衛天皇の御代のころの著作と見られる。しかしてこれと同じころか、もしくはやや後れたころの著というべき『伊呂波字類抄』(橘忠兼著、天養より治承に至る三十年間の輯録という)には、
斯《この》仏像日本国度至、経2歳積1并弐侶佰拾陸歳之中、京底流転年数五十歳。信濃国請降経2年員1一百六十六歳。仏(355)云云。
推古天皇十年壬戌四月八日、信濃国人若麻続東人上洛。下向日奉v伝2此仏1。自負而下時、京大和国之高市郡小治田宮路次宿々敢不v離v背。国々司々聞v之感、彼毎宿免v田、下2着本国麻続村1、道v寺奉v居、四十一|之《年歟》礼拝供養。曠(皇)極天皇元年壬寅時、京大和国高市郡明日香川原宮長老東人、水内宅庇奉v渡2此仏1。即作2草堂1【号2本善堂1是也(善一本作v尊)】奉v居。既畢夙奉v見v仏、不2見給1。驚而還2家宅1。儼然在v庇。万人流v涙随2喜霊験1。改v宅為v寺、善光寺是也。
とあって、前説とは大分違った説を伝えている。
次に南北朝ころ(延文元年)の『諏訪大明神絵詞』を見ると、また前両者とはさらに違った説が見えている。
抑本国水内の郡善光寺別社の事、日本紀第卅には、持統天皇五年遣2勅使1祭2諏訪水内神等1と見えたり。又延喜神祇式には、諏訪郡南方刀美神社二座、水内郡建御名方富命彦神別神社と云へり。当社の分座疑なし。是則当郡善光寺※[土+郭]内の当社なり。毎夜寅時大明神御入堂ありて、内陣の扉を閉て諸人三業しつめて法施祈念す。暫ありて本の扉きりきりと鳴りて聞けて御出の勢あり。厳重不思議の事なり。(中略)当寺は継体天皇御宇善記四年、本尊阿弥陀三尊百済国より波に浮びて日本国摂津難波津に来着し給ふ。貴賤故を知らず。其後卅七年を経て、欽明天皇十三年仏法伝来す。此時初めて仏像を知る。されば当寺本尊は本朝仏法の最初也。霊仏霊神寺社を一所に並べて、現世当来の求願を二世に充て給ふ。当州の規模他国に卓礫せる者をや。
これらの諸伝いずれも著しい相違点があって、どれが原形に近いものかちょっと判断に苦しむところもあるが、試みにあれこれを比較対照して熟読玩味してみると、その間ある一貫したる大綱の認められぬものでもない。まず善光寺如来が百済から本邦に渡来したということ、さらにそれを後に信濃に移したということにおいては、諸伝いずれもー致して、別にたいした反対説はないらしい(中には百済とか難波とかの名を顕わしておらぬものがあるが、それは記事を略(356)したものと解する)。その渡来の年代については、百済から来たのが継体天皇善記四年という『諏訪縁起』の説と、欽明天皇十三年という『扶桑略記』引『善光寺縁起』の説との二つに分れる。『略記』の著者皇円は、むろんこの後説を執っていたものらしく、また『伊呂波字類抄』引初段の文にも、この仏像我に伝わってより、信濃に移るまで五十歳とあってみれば、しばらくこれを推古天皇十年とすれば、逆算して欽明天皇十三年となる訳で、この説もすこぶる古いものと言わねばならぬ。が、さりとて善記四年説も捨て難く、試みにある誤解から生じた皮を剥いでみれば、両者の間に一致点が求められ得ぬでもない。次にその信濃に移った年代については、一般にこれを推古天皇の十年ということに対して別に異説はないらしい。さらにこれを移して善光寺を創めた人の名については、『扶桑略記』引或記の秦巨勢大夫説と、『伊呂波字類抄』の若麻続東人説との二つに分れ、さらに後にはこれが本田善光という名にもなって、彼是全く関係がないらしいが、これもさらに多少の説明を加えさえすれば、相連絡した事情がほぼ穿鑿されるように思われるのである。
これら『扶桑略記』『伊呂波芋類抄』等の平安朝の史料と、南北朝時代の『諏訪縁起』との中間において、別に『平家物語』『源平盛衰記』一類の書にも、この寺創立のことが見えている。この両書はもと一つの種本から分れ出たもので、ことにその『平家物語』と称せられるものにはその種類がすこぶる多く、彼此の記事の間またはなはだしい異同があって、どれが果して原形を伝えたものだか、あるいは原形に近いものだか、判断を下すことがすこぶる困難のようではあるが、まず流布の『平家物語』、すなわち『参考源平盛衰記』引くところの印本・鎌倉本・如白本・佐野本などの記事を抄録してみると、左の通りである。
其比(治承二年か)信濃の国善光寺炎上の事ありけり。彼如来は昔中天竺舎衛国に五種の悪病起て、人僧多く滅びし時、月盖長者が智性に依て、龍宮城より閻浮檀金を得て、仏・目連・長者心を一にして鋳顕し給へる、一※[木偏+((丙+丙)/木)]手半(357)の弥陀の三尊、三国無双の霊仏なり。仏滅度の後天竺に留らせ給ふ事五百余歳。されども仏法東漸の理《ことわり》にて、百済国に移らせ給うて一千歳の後百済の帝《みかど》斉《せい》(聖)明《めい》王、我朝の帝欽明天皇の御宇に及で、彼国より此国に移らせ給うて、摂津国難波の浦にして星霜を送らせおはします。常に金色の光を放たせ給ふ。是に依て年号をば金光と号す。同三年三月上旬(同三年云云如白本なし。ただ其比云云とあり)信濃国の住人大海(如白本麻続に作る)の本田善光都へ上り、如来に逢奉り、やがて誘ひ進《まい》らせて下りけるが、昼は善光如来を負奉り、夜は善光如来に負はれ奉て、信濃国へ下り、水内郡に安置し奉りしより以来、星霜は五百八十余歳(佐野本五百余歳)。されども炎上は是始とぞ承る。王法尽んとては仏法|先《まず》亡《ぼう》すと云へり。さればにやさしも止事《やんごと》なかりつる霊寺霊山の多く亡失する事は、王法の末になりぬる先表やらんとぞ人申しける。
けだしこれらは『平家物語』の中では、比較的旧形を伝えたものらしく思われるものである。同じ物語の中にも伊藤本・八阪本は、右に比して行文やや簡単ではあるが、右の「大海の本田善光」を「大海の東人本田善光」に作っているところ、やや新しい感じがある。さらに長門本のこの条の記事に至っては、行文きわめて繁縟で、後人の手の加わったことがことに多いものと認められるが、それにも「をうみの東人本太善光」に作ってある。さらに『源平盛衰記』の文を見ると、その天竺に関する部分はやや繁縟であるが、少くも本邦に渡来して以来の事柄については、記事最も要領を得ている。その文、
(上略)如来滅度の後天竺に留給ふ事五百歳。仏法東漸の理《ことわり》にて百済国に渡りおはしまして、一千年の其後、欽明天皇の御宇に浪に浮び、本朝に来り給ひたりしを、推古天皇の御宇に、信濃国水内郡住人本田善光と云者、遥に負下奉て我家を堂とし、我名を寺号に付けつゝ安置し奉りてより以降、日本最初の仏像、本師如来と仰いで貴賤頭を低《た》れ、道俗掌を合しつゝ既に六百歳に及べり。(下略)
(358)とある。これらの諸種の異本、果してどれが原形に近いかを定めることはむろん出来ぬ。いずれ琵琶法師らが語り物として伝えている間に、各自都合のよいように潤飾添削して、いわゆる流義流義によって異本を生じたのであって、現存各種の異本いずれも同一の祖先から分れ出た兄弟本、従兄弟本、再従兄弟本という類のものとはいえ、果してその共同の祖先というものがどれであるか、今日に遺っているか否かさえも不明である。しかしながらその各条についてこれをいえば、多少原形に対する遠近の見分けが出来ぬではなく、少くもこの条のことに関しては、『源平盛衰記』の文が最も古色を帯びていると察せられる。しかしてそれには秦巨勢大夫も若麻続の東人もなく、単に「本田善光」なる新しい名が現われているのみである。しかるに流布の『平家物語』には、前記のごとくそれが「大海(麻続とも)の本田善光」となり、さらに伊藤本以下には、「大海の東人本田善光」あるいは「をうみの東人本太善光」ともなっているのであるが、これらの変化は琵琶法師らによって勝手に作られたものとして、しばらくこれを除き、まず本田善光の名が、『扶桑略記』や『伊呂波芋類抄』以後、鎌倉時代において新たに加わったものと見てよいのであろうと思われる。されば今しばらくこの人名の問題を除いて考えてみると、『平家物語』一類の書の記事は、『扶桑略記』引善光寺青緑起類似の説を本として、『伊呂波字類抄』所引の説に似たものを参酌し、さらに他の俗説を加えて文をなしたものらしく、畢竟右両書の後に出た説なることは疑いを容れない。
しからば以上の諸説の区々たるがごとき外観を呈しているものについて、果してそのいずれに適従すべきものか。以下項を分って逐次考証を試みてみたいと思う。
三 善光寺如来渡来の年時について
善光寺本尊たる阿弥陀如来渡来の年時については、平安朝の所説すでに二様なることは右に述べた通りである。し(359)かしこれを『日本紀』記載の欽明天皇十三年十月において、百済王聖明によってわが朝に致されたる釈迦仏像と同一なりとする『扶桑略記』所引或記の説は、とうてい成立すべきものではない。もしこの説を認めるならば、この時伝来の仏像は、同書引一書の説のごとく、その実釈迦仏一躯ではなく、弥陀三尊であったのだとせねばならぬ。したがって『日本紀』の文を誤りだとして、改めねばならぬこととなるのである。しからざれば善光寺の本尊は、古来伝うるごとき弥陀三尊ではなくて、その実は釈迦像一体であるとせねばならぬことになる。しかしながらこの両説はともにとうてい成立し難いもので、聖明王が献じて蘇我の稲目に賜わった釈迦如来の像と、善光寺の本尊たる阿弥陀如来の像とは、当初から全然別のものだと解するを至当とする。けだしこの混同の起ったのは、この仏像をもって本朝仏像の最初のものだとすることから来た誤謬に相違ない。したがってこの誤謬の一と皮をさえ剥いでしまえば、問題ははなはだ簡単になるのである。しかしすでにいったんこの混同が起った上は、さらにそれから深入りして長門本『平家物語』の説のごとく、「逆臣守屋にあはせ給て、難波の堀に捨られて、光うづもれ給ひて後云云」の文をも生ずるに至ったのであるが、これらはいずれも枝葉の末として、一束して放棄すればよいのである。ともかくも『略記』引古縁起や『諏訪縁起』に、この像渡って後三十七年を経て、始めて仏法(『諏訪縁起』には仏像に作る)あるを知るとあるのによれば、聖明王によって仏像がわが朝に致されたよりも、三十七年前のこととして伝えておったものと解せられる。
欽明天皇十三年説すでに取るに足らずとすれば、『諏訪縁起』の継体天皇善記四年説果してそのままに信ずべきか否か。
この継体天皇朝渡来説を見るについては、何人もただちに『扶桑略記』引『日吉山藥恒法師法華験記』の、
延暦寺僧禅岑記云、第廿七代継体天皇即位十六年壬寅、大唐漢人|案部村主司馬達止《くらつくりべのすぐりしばたつと》、此年春二月入朝。即結2草(360)堂於大和国高市郡坂田原1、安2置本尊1、帰依礼拝。挙世皆云是大唐神也。出2縁起1。
の文を連想するところである。しかしながら継体天皇十六年はいわゆる善記四年ではない。また司馬達等の伝えた仏像は、坂田寺へ納まって善光寺へば来ておらぬはずである。善記の逸年号は『如是院年代記』と『二中歴』とに継体天皇十六年とある。これに従えば四年は天皇の十九年の訳である。ことにその善記は、他の一切の書には、ことごとく善化とあって、善記とはないのである。『茅窓漫録』にこれらの諸書を校合して、
善化 継体帝十六年壬寅紀元五年終。(中略)海東諸国記云、継体帝十六年壬寅始建2年号1為2善化1。五年丙午改元。春秋暦略年代記・皇代記・並皆四年終。如是院年代記善化作2善記1。四年終。
とある。また右引用以外『清白士集』にも、
善化 日本継体天皇【梁天監十年立。在位二十五年。改元三云云】
と書いてあるのによれば、おそらくそれは善記ではないらしい。しからばいわゆる善記四年に渡来したという仏像は、司馬達等のとは全く別物として解すべきである。仏像が百済王聖明によって公式にわが朝に致された前において、すでに仏教が帰化人らによって民間に伝わっていたのであろうとのことは、何人も容易に想像せられ得るところで、自分は司馬達等が前もって仏像を奉じて渡来していたことを信ずるものであるが、しかもこの類のことは必ずしも達等の一度限りの訳ではあるまい。それについて考え合すべきことは、『略記』引古縁起や、『諏訪縁起』の文に、善光寺如来渡来以来三十七年を経て、この時始めて仏法(『諏訪縁起』には仏像に作る)あるを知るとあることで、ここに三十七年とある数は、必ずなんらか承くるところあるものと解せられるのである。そこで今これを欽明天皇十三年壬申の歳から三十七年を逆算してみると、継体天皇十年丙申の歳となって、むろん善記四年でもなく、また善化四年の誤写でもなく、むろん継体天皇の十六年にもならぬのである。ところが、聖明王の仏像を伝えたのは、実は『日本紀』記す(361)るところの欽明天皇十三年壬申の歳ではなくて、これよりも十四年前の戊午の歳だとの旧説が別に伝わっている。『法王帝説』に、
志癸島天皇(欽明)御世戊午年十月十二日、百済国主明王始奉v度2仏像・経教并僧等1。勅授2蘇我稲目宿禰大臣1、令2興隆1也。
とあるのがこれだ。『日本紀』の紀年によると、この戊午は欽明天皇の御世ではなくて、宣化天皇の三年になるのであるが、しかも右の『法王帝説』には、
志帰島天皇治2天下1四十一年。【辛卯年四月崩】
とあって、『日本紀』では継体天皇崩御の辛亥の歳が、まさに欽明天皇元年となることになっているのである。だいたいこのあたりの『日本紀』の紀年はすこぶる曖昧なもので、『日本紀』自身においてもすでに、継体天皇の崩御を二十五年辛亥の歳と書いておきながら、さらに「或本云」として、天皇は二十八年甲寅に崩じ給うたとの異説を挙げ、二十五年説は『百済本紀』に拠ったものだが、その実いずれが是だか判断に苦しむから、「後の勘校者之を知らん」などと、すこぶる弱音を吐いているのである。しかのみならず、「安閑天皇紀」には、継体天皇は治世の二十五年辛亥の歳二月七日に安閑天皇を立てて、即日崩じ給うたことを明記しながら、しかもその後三年を経た甲寅の歳をもって、安閑天皇の元年となすなど、はなはだしく支離滅裂に陥っている。かくのごとき状態であるから、聖明王仏像貢献の年時のごときも、しばらく『日本紀』から離れて別に考えてみる必要がある。これいわゆる「後の勘校者之を知らん」で、後人にこれが研究の余地を遺しておいたものである。そこで『法王帝説』のこの記事を見ると、それは『日本紀』から独立した根本史料を収録したものとして、十分の価値あるものと認められるのである。なんとなれば、このことに関してはこのほかにおいて別に、『法王帝説』収録の欽明天皇戊午渡来説とは独立に、単に戊午年に仏法伝(362)来したとのことを記した史料の存したことを立証すべき記事があるからである。東大寺凝然の『三国仏法伝通縁起』に、
新羅学生大安寺審祥大徳記云、檜隈廬入野宮御宇宣化天皇即位三年歳次戊午年十二月十二日、従2百済国1仏法伝来。
とあるのがすなわちこれである。ここに十二月十二日とは、おそらく十月十二日の誤りであろうが、その戊午を『日本紀』の年立に従って宣化天皇三年としてあるのがかえって面白い。けだしこれは大安寺審祥が、単に戊午年伝来とある古い史料を取ってこれを『日本紀』の年立に合せ、その実『法王帝説』のごとく欽明天皇の御世なるべき戊午の年を、宣化天皇三年と誤解したものに相違ない。
されば仏法が公然わが邦に伝わり、邦人始めて仏像というを知ったという年をもって、しばらく戊午の歳と定めてみると、それより三十七年を逆算した本尊渡来の年は、『日本紀』の年立では武烈天皇の四年壬午の歳となる。しかしてこの年はまさに逸年号の善記四年に相当するのである。善記、一に喜記または嘉記に作る。しかしてその年は、『法王帝説』によって欽明天皇の治世を四十一年とし、その前に安閑・宣化の二代を置き、さらに継体天皇の治世を置く時は、まさにこの天皇の御世の中となるべきものである。しからば善光寺如来の百済より渡来したという年時は、『日本紀』の年立では武烈天皇四年壬午の歳で、その実継体天皇の善記四年であるというのが旧説であると言わねばならぬ。もちろんこの説が果して真事実を伝えたものか否かの問題になると、必ずしかりと答うるに躊躇せねばならぬが、少くも現存縁起の最古の説はこうであったと断言して差支えなかろうと思うのである。
ちなみにいう。『略記』引『善光寺縁起』に、欽明天皇十三年百済国より阿弥陀三尊浪に浮んで来り、日本国摂津国難波津に着き、その後三十七ケ年を経て始めて仏法あるを知るとあるのは、『善光寺物語』の著者のすでに看破し(363)たごとく、「其の後三十七年を経て欽明天皇十三年云々」とあるべきものである。これけだし当時すでに欽明天皇十三年説が行われていたがために、この錯簡を来したか、この錯簡あったがためにさらにその説を助けたか、いずれにしても原縁起の文ではないことは、「初めて仏法を知る」との内容から容易に推定し得べきところである。
四 善光寺の創立者について
善光寺本尊仏の渡来が、百済王聖明によって堂々と表玄関より、わが朝廷に向って釈迦像の伝えられたという年よりも、三十七年の前、すなわち善記四年壬午歳(『日本紀』の紀年にては武烈天皇四年なり)であったとしたならば、これ実にわが国最初の仏像(『扶桑略記』引古縁起)なるの栄誉を有し給うものと言わねばならぬ。しかしてまたその寺院の創立においても、善光寺はまた本邦において屈指の旧寺たる資格を有するものと言わねばならぬのである。
善光寺の創立者については、これを秦巨勢大夫といい、若麻績《わかおみ》(麻績とあるに同じ)東人《あずまぴと》といい、あるいは本田善光(あるいは大海の本田善光、あるいは大海の東人本田善光とも)ともいって、古説一定がないようであるが、その信州下向を推古天皇十年四月八日とする点においては、『扶桑略記』引古縁起、『伊呂波字類抄』引古縁起等、治承火災前の諸縁起を始めとして、以下諸書の記するところ毫も異説がない。しからば他にひどい差障りのない限り、これは古説として保存せねばならぬ。推古天皇三十二年に、日本国中の寺院四十六所とあるが、これは聖徳太子や蘇我馬子が盛んに仏法宣伝に努めた結果であって、天皇の十年のころには、まだそう多くはなかったほずである。『日本紀』に見えるところでは、わずかに向原寺・坂田寺・難波の某寺(大別王の寺)・四天王寺・元興寺(石川精舎・大野丘北塔等これ)・法興寺(飛鳥寺)のみである。むろん当時の存在寺院の全部が、この書に載っているのではないとしても、この以外にそう多くの寺院があったとは思われぬ。しかして善光寺は、実にこれら少数の寺院の次に列せらるべき縁起を有して(364)いるのである。
今善光寺に関する『扶桑略記』の諸説を取り合せて考えてみると、推古天皇十年までは善光寺の本尊は難波におられたが、この時秦巨勢大夫によって信濃へ移されたとある。それまでこの仏像が、難波のいかなる所にましましたかはむろん明かでない。それが物部守屋らによって難波堀江へ投げ込まれたのだという、百済聖明王献上の仏像でない以上、堀江の泥の中に沈んでおられたはずはなく、いずれどこかの寺に安置されていたのに相違ない。これを古史に尋ねると、難波には早く大別王の寺というのがあった。寺名不明で、おそらく名の定まる前に亡びてしまったものであろう。当初は寺には必ずしも別に定まった名があった訳ではなく、多くは坂田寺とか飛鳥寺とかいうように、その所在の土地の名をもって、ただちに寺に呼んでいたものらしい。特にこの難波の大別王の寺のごときは、間もなく同じ難波に四天王寺が出来たについて、それと区別すべく檀越の名を添えて呼んだもので、もとよりもって真の固有名詞と解すべきものではなく、四天王寺のごときも、実は四天王を祭った寺というだけの俗称で、あるいは所在によって難波大寺とも、三津寺とも、荒陵寺ともあるが、いずれも真の寺名ではない。『聖徳太子御手印縁起』と称するものには敬田院、『※[土+蓋]嚢抄』には敬田寺とあるが、それは果して本名か否かも疑わしい。けだし『日本紀』以来四天王寺の俗称で伝わって、本名は失われたものかも知れない。またかの元興寺の濫觴と見るべき蘇我馬子建立の堂塔も、『日本紀』には単に石川の宅の東の精舎だの、大野の丘の北の塔だのと呼ばれて、まだ本名が見えておらぬ。これらを見ても、もと寺に固有の寺名のなかったことが察せられよう。しかるに寺院の数が次第に増加するに及んで、これを区別せんがために寺名の必要が生ずる。天武天皇の八年四月に至って、一般に諸寺の名を定むということになった。しかしてこの大別王の寺のごときは、その後これに相当する寺を見出さぬのによって考えると、あるいは寺名の定まらぬ前に廃したのではなかったであろうか。後に難波に百済寺というのがある。あるいは変転してその寺になったの(365)かも知れぬ。この大別王の寺その草創の由来を知らぬ。その檀越たる大別王なる人の出所もまた不明である。しかし王が敏達天皇六年五月に百済国に使し、十一月帰るに及んで百済王は経論若干巻ならびに律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造仏工・造寺工らをこれに付けて貢したので、これを難波の大別王の寺に安置すと『日本紀』にあってみれば、その以前からあった寺に相違ない。あるいは数十年間難波にあったと言われる善光寺如来は、この寺に逗留しておられたのであったかも知れない。否、大別王この仏像を獲て、この寺を造ったのであったかも知れないのである。しかしてその寺が後に伝わらないとすれば、あるいはその本尊仏の信州移転とともに、廃したのだと想像しても辻褄が合いそうに思われるのである。
こはただ一の空想であって、もとよりもって重きを置くべき説ではないが、ともかく久しく難波の某処に留っていたこの如来像が、推古天皇十年に至って信州に移ったということだけは古説疑うべからざるものだといいたい。しからばこれを移し奉ったのは果して何人であったか。現存のこの寺最古の縁起と認むべき『扶桑略記』引或記には、前記のごとく秦巨勢大夫といい、『伊呂波芋類抄』の説には信濃国人若麻績東人とある。この両説果していずれに適従すべきであろうか。
『伊呂波字類抄』は平安朝末期の著ではあるけれども、その引用した文には案外に古いものがある。右の東人の記事ある文のごときまたその一で、みずからいうところによれば、奈良朝の末葉神護景雲元年のものだとなっているのである(信濃請降より一百六十六歳云云)。『字類抄』のころには善光寺はまだ焼けておらぬ。したがってその以前に盛衰隆替はあったとしても、そう極端に古い説が失われて、突飛な捏造説が採用されたと想像すべき理由を見出さぬ。しかしてこの『字類抄』の説のごときも、当時においてこの寺で認めていたところと解して差支えないのである。しかしてそれには、この仏像が欽明天皇十三年(この説は本邦最初の仏像ということから誤ったので、説明は前節に見えている)(366)渡来から二百十六歳のうち、推古天皇十年まで京底に流転すること五十歳、信濃に移ってから百六十六歳とあって、まさに神護景雲元年の記事なることを示している。よしやその紀年が後人の仮托であるとしても、その仮托が平安朝時代のものとして、もって当時の主張を見るには十分の価値あるものとせねばならぬ。しかしてそれには若麻績東人とあるのである。
ちなみにいう。『善光寺物語』の著者は、惜しいことにはこの『伊呂波字類抄』の本文を見ておられない。同書(二〇頁)に引用せられたものは不完全な抄録本で、仏像を移し奉ったという人の名も、麻績東人善光(四四頁)とあるなど、はなはだしい悪本から援引せられたらしい。ことにこの書をもって治承火災後の書だと解せられているのは、いかなるものであろうか。ともかくこの貴重なる資料を利用し得られなかったがために、往々見当違いな断論に達せられた場合の多いのは、惜しんでもなお余りありと言わねばならぬ。
若麻績姓は『姓氏録』には見えぬが、古く地方にはあった氏で、『万葉集』二十防人の歌の作者中に、若麻績部諸人だの、若麻績部羊だのという東国人すなわち東人《あずまびと》がある。この『善光寺縁起』に見える若麻績東人は、信濃の麻績郷あたりの人かも知れぬ。また東人という名が、推古天皇ころに不似合だなどいう説もあるようだが、これは奈良朝前後にはなはだ多い名で、余輩はかつて「東人考」(『歴史地理』第二三巻第六号)においてその名を有するもの五十九人を〔46〕列挙しておいた。その後心づいたものを合すと、実に一百八人の多きに達する。しかしてこの類の名は、むろん推古天皇ころにあって差支えないもので、現に『日本紀』には、推古天皇崩御のさい、山背大兄王を推戴せんとした人の中に、佐伯連東人という名を列しているのである。さればこの若麻績の東人が、いったんこれを信濃の麻績村に移したというも、あながちあるべからざることとして、排斥することは出来ぬ。しかして後皇極天皇元年に至り、これも明日香川原宮の長老なる東人という名の人が、これを水内の宅すなわち今の善光寺へ移したということになっ(367)ているのである。これ伊那郡麻績郷にいったん落ち付いたという説の出所である。「善光寺物語』にこれを見逃しておられるのは惜しいことだ。あるいはこの若麻績東人とは、東人(東国人の義)なる若麻績某ということが、ついに人名のように呼ばれたかも知れぬが、必ずしもこれを人名でないとして排斥すべき理由を見出さぬ。
しからば『扶桑略記』の秦巨勢大夫の名は、これをいかに解すべきであろうか。余輩はこれまた平安朝当時の旧説として、尊重すべきものと認めるのである。しかしてここに秦巨勢大夫とほ、『善光寺物語』の解せられたような、蘇我氏に仕えた外国人という謎の人物ではなく、秦河勝大夫のつもりで書いたものに相違ないと解する。河勝のことを秦大夫など書いた例は『村上天皇御記』にもある。『日本紀』にもこの人のことを大夫と書いてある。後世では河勝の名はこれをカワカツと訓んで、毫も疑わないように思ってはいるが、昔はあるいは音で読んだ場合があったかも知れぬ。しかしてこれを音読すればカセとなる(近江の金勝寺はコンゼ寺でもと金鐘寺の訛りである)。すでにカセとあってみれば、これをコセと訛るも転一歩で、『日本紀』などを見慣れた今日の学者らとは違って、平安朝ころの信濃人は、これを巨勢大夫などと書いたと見て不思議はない。古代にあっては人名の文字に一定がなく、その音をさえ現わすことが出来たなら、文字はなんと書いてもいっこうに差支えなかったのである。『日本紀』に鞍作鳥とあるのを、法隆寺の仏像銘には鞍首止利と書き、『日本紀』は穴穂部間人皇女とあるのを、天寿国量陀羅に孔部間人公主と書き、『日本紀』に蘇我稲目とあるのを、元興寺露盤銘に巷宜伊那米と書いたごとき類は、はなはだ多く発見せられるのである。しからば河勝《カセ》の代りに巨勢《コセ》と書いたからとて、必ずしも疑うには及ばぬことで、これむしろ古伝の真面目を現わしたものと解すべきであろう。また秦河勝が信濃に関係を有していたことは、『善光寺物語』にもつとにこれを認めているのであるから、推古天皇十年において、その領地に寺を建て霊仏を安置したと見て、はなはだしい牴触あるを見出さぬ。ことにその翌十一年には、この河勝が、聖徳太子から仏像を戴いて、これも自己の所領なる山背|太秦《うずまさ》に広隆寺(368)を建てたとあってみれば、信濃における建寺の事実の有無はしばらく別問題としても、後から善光寺の開創者として、この人を推戴するには最も適当なる資格を有した人であるといってもよい。近江の葦浦観音寺のごときも、この人の一建立だと伝えている。思うにこの偉大なる富豪は、諸国における秦氏の殖民地に、往々仏寺を起したくらいのことはあったと察せられるのである。否、少くも後からは、そう言われていたのであろう。
しからばこの秦巨勢大夫なる河勝と、若麻績東人との関係や如何。余輩はこの双方をもって、ともに古く善光寺開創者として伝えられた人物だとして信ぜんとするものである。あるいはこの若麻績東人の方は、同じ『伊呂波字類抄』に、皇極天皇元年に麻績村から今の水内郡長野の地へ移したという飛鳥宮の長老東人の名が紛れて、推古天皇十年の事に重出したのかとも疑われぬではない。しかももししかりとすれば、その長老東人なる人がこれただちに若麻績東人なるべき訳で、やはり善光寺草創者の一人としての栄誉を有すべき人である。しかしまず普通の見解に随って、推古十年にこの人が、仏像を信濃に移したとすれば、善光寺は、京人たる秦河勝と、信濃人たる若麻績東人と、この両人の協力によって草創されたと解してしかるべきものと思われる。ただしこの両人の功と労とが、あるいは五分五分であったか、あるいは七分三分であったかは明かでない。したがって後のこれを祖述するものが、秦氏を主としては『扶桑略記』の説となり、若麻績氏を主としては『伊呂波字類抄』の説となる。なお宇治橋の架設者が、碑銘によれば道登となり、『続日本紀』によれば道昭となっているようなものである。その実この橋は道登、道昭両人協力で出来たものではあるが、架橋当時には道登の方が長老で、道昭はその下に働いた若年僧であったから、碑銘には道登のみの名が録せられ、後には道昭の方が偉大になって、道登よりも有名であったから、その道昭伝には道登の名が隠れて、道昭一人の業のごとく伝えられたのである。しかも結局は、弘安年中叡尊が申し受けた「太政官符」に、両人の名が公平に並記されているのが事実であった。また大和長谷寺のごときも、川原寺の道明と沙弥徳道との(369)両人によって出来たものであったが、ある記には道明のみを説き、ある記には徳道のみを説き、しかして他のある記には道明・徳道両人の名を記してあるというのも、また同一関係である。善光寺の創立者として二人の人名の伝わっているのも、またこういうような関係のものであろう。しかしてその善光寺においては、平安朝以来実にこの秦党のものと、若麻績党のものとの両方が寺務にたずさわって、互いにその主張を異にしていたものだと解してみるのも面白かろう。さればとて余輩はこれをもって、ただちに後の大本願と大勧進との対立の現象を説明しようとするほどにも早計ではない。清僧派と帯妻派と各その主張を異にしたと言おうとするのでもない。いわゆる堂童子の由緒が、このいずれかに起原したと言わんとするのでもない。ただこれほどの大寺院にあっては、自然その開基の由緒を唱えて、寺務の管理上にある権利を主張するものがいろいろ現われるのは、あえて珍しくないことであって、平安朝においてすでに秦党・若麻績党の対立のあったことを想像してみたならば、この縁起の異説も、古来の寺務上の込み入った事情も、ある解釈の糸口を得られそうな気がするまでの試みに過ぎない。
さて秦説・若麻績説ともに存すべしとして、これと本田善光との関係はいかに見るべきものであろうか。
本田は言うまでもなく秦の訛音から起った新姓であろう。語り物にほ往々語呂のためにはねる音を添える場合がある。仁田《にた》四郎をニタンの四郎とか、難波《なにわ》次郎をナンバの次郎とかいう例は他にもあろう。かくて秦の場合にも、もしこれをハンダとでも発音したならば、ただちに本田となり得るのである。その本田が確かな姓ではないことは、『平家物語』に本田あるいは本太など、勝手な文字を用い、あるいは大海の本田善光とか、おうみの東人本田善光などと、まちまちになっているのを見ても、語り物の読み癖から起った名辞と解せられよう。しかしてその秦なる本田の姓の下へ、善光寺の寺名を取って善光という名を仮作したものかと思われる。善光寺の創立者が善光《よしみつ》だなどいうことは、平安朝の古縁起のかつていわぬところである。また古代には人名をもって寺名とした例は決してないのである。かの(370)難波の大別王の寺のごときは、前に述べたごとく決して寺名ではない。『霊異記』や『伊呂波字類抄』に出ている数百の古寺名を精査してみても、一も開基者の名を取って寺に名づけたと解すべき実例を見出さぬ。しかるにその中にあって、善光寺のみが例外であるとは思われない。善光の名は古書の少しも言わざるところである。しかるにもかかわらず、『盛衰記』以下の語り物の記事を信じて、ひとり異例に出でたと解するの必要いずこにありや(『善光寺物語』四四に『字類抄』に麻績東人善光とある由見ゆるも、本書には若麻績東人とあって、善光の名なし)。しかしてその本田善光が、さらに麻績なり東人なりと結び合って、複姓複名になったに至っては、偶然秦氏と若麻績氏と双方の名を伝えたものとして、弘安の宇治橋の「太政官符」と同じく、おのずから公平なところに落ちついたと言ってもよいのである。若麻績は氏であって、『善光寺物語』の言うごとく祭神当役の称ではない。またその若麻績東人は、それ自身で立派に氏名を連称したもので、『善光寺物語』のごとくわざわざ他姓から余東人《あぐりのあずまぴと》の名を借りて来るにも及ばぬのである。いわんや善光という名の単なる一致からして、古今の所伝をことごとく一掃し、なんらの由縁もない百済王善光を招致して、ために本尊像の渡来、寺院の草創の年代をまで、そう著しく引き下ぐるにも及ばぬことではあるまいか。
五 結 論
これを要するに善光寺では、平安朝ころからしてすでに草創について二説あって、一はこれを秦巨勢大夫に帰し、一はこれを若麻績東人に帰していたが、そはおそらくこれを祖述して寺院に対するある権利を主張する必要から起った異説であったであろう。しかしその草創の年代においては、両説とも推古天皇十年の草創というのに一致している。その仏像の渡来は古く欽明天皇十三年という説が認められているが、これはすでに述べたごとく、日本最初の仏像ということから起った混雑で、その実は百済王聖明によって仏像が奉られたという年よりも三十七年前において、すで(371)に難波に渡来していたのであった。しかしてその聖明王の献仏が、実は欽明天皇戊午年であって、この仏像の渡来はさらにそれよりも三十七年前なる善記四年だという『諏訪大明神絵詞』の説は捨て難い。これまたもって『日本紀』の仏教渡来年時を訂正するの料ともなるべき貴重なる遺文であると言わねばならぬ。もしそれ本田善光等の名に至っては、秦氏から思い付いて勝手に作り出した、否、語り物として転輾するうちに、自然に出来た名であって、もとより重きを置くに足らぬものであろうと思う。
六 付説 難波堀江投仏考
善光寺の如来が、日本最初の仏像だと言われたことから、ついに欽明天皇十三年百済国聖明王奉献の仏像と混同せられるに至ったことは、すでに平安朝からあったので、その顛末は上文すでに述べた通りである。これもとより採るに足らぬ妄説ではあるが、その説がだんだん深入して、長門本『平家物語』のごときは、
逆臣守屋にあはせ給ひて、難波の堀江に捨てられて、光埋もれ給ひて後、聖徳太子世に出で給ひて、逆臣守屋を討て、難波四天王寺に仏法を弘め給ふ時に、信濃国の民本太善光、年貢運上の為に難波の京へ登りける時、如来難波堀江を出で給ひて、十方へ光を放ちつゝ、言葉をあらはしてのたまひけるは、汝は我が三生の檀那なり、我は汝が三生の本尊なり、汝を待たんとて難波の堀江に光を理みて年久し。汝が過去の因を知らしめん。具さに聴け。天竺にしては月蓋長者と云ひき。百済国にて斉明(聖明王の誤り)とかしづかれ、日本国に渡りてほ、遠国の民本太善光といふ也と告げ給ふ。
などと、勝手なことまで書くに至った。しかしこのようなことは、『源平盛衰記』にもまた他の『平家物語』の諸本にもないことである。またその記事の内容を調べてみると、全く支離滅裂で、毫も信ずるに足らぬ。まず推古天皇の(372)十年ころに、難波の京というものがあろうはずがない。したがって年貢運上のために信濃の民が、難波へ行くべきはずもない。またその仏像が欽明天皇十三年の貢献のものとすれば、これを堀江に捨てたのは守屋ではなくしてその父尾輿であったはずである。要するに善光寺如来が、難波堀江から拾い出されたとのことは、それが欽明天皇十三年百済貢献のものだとの誤解から起って、後の無学なものがよい加減に付会した説なのに過ぎないのである。
しかるに先年大和飛鳥へ旅行したさいに、同地豊浦の広厳寺には、善光寺如来最初の安置の寺だとの意味の標札が寺門に懸っていた。これはさらに御念の入った深入説である。けだし広厳寺は向原寺だとのことからの付会であろう。
難波堀江投仏のことは、『日本紀』には欽明天皇十三年壬申の条と、敏達天皇十四年乙巳の条との二ケ所に見えて、前者は物部尾輿・中臣鎌子が、蘇我稲目の向原寺を焼いて、その仏像を投棄したこと、後者は物部守屋・中臣勝海が、蘇我馬子の石川精舎や大野丘北の塔を焼いて、その仏像を投棄したことに解せられている。しかしながらその記事が、前後いかにもよく似ているので、狩谷※[木+夜]斎つとに一事が二度に誤り伝えられたのであろうとのことを疑い(『法王帝説証注』)、平子尚氏またその「豊浦寺考」(『歴史地理』第七巻第二号)において、事実は『法王帝説』にある庚寅歳(欽明天皇三一年)の出来事を、前後の二度に書き出したのだと論じておられる。これより先、境野哲海君もたしか『仏教史林』か何かで、このことを論ぜられたように記憶している。『法王帝説』には、
庚寅年焼2滅仏殿1、仏像流2却於難波堀江1。
とある。さればもし『日本紀』の記事を正しとすれば、前後三回同一事があった訳になるが、これはもちろん境野・平子二氏の論ぜられたごとく、事実としては請取りにくい。ことに後者すなわち石川精舎の仏像なる弥勒の石仏や、大野丘北塔の司馬達等感得の舎利のごときは、後世までも元興寺に伝えられたと言われているのである。これをもっ(373)て見ても、この寺が焼かれたり、その仏像が難波堀江に投ぜられたりしたという事実の信ずべからざることは、明白だといわねばならぬ。『日本紀』にもすでに「或本云」として、
物部弓削守屋大連・大三輪逆君・中臣磐余連・倶謀v滅2仏法1、欲d焼2寺塔1、并棄c仏像u。馬子宿禰諍而不v従。
と録し、寺塔焼却仏像投棄のことに関して異説を伝えているのである。けだし事実はこの「或本」の説のごとく、守屋は父尾輿の先例に傚って、石川精舎や大野丘北塔を焼き、仏像を難波堀江に投じようと企てたが、それは馬子の抗争によって実行されず、その仏像なり舎利なりは、引続き無事に元興寺に伝わったと解すべきものである。
しからば、その先例なる尾輿等の寺を焼き仏像を投棄したのは果していつであったか。これは平子氏もすでに着目せられたごとく、『日本紀』の記事決して欽明天皇十三年のこととは解せられぬ。同書には、
於v後国行2疫気1、民致2夭残1。久而愈多、不v能2治療1。物部大連尾輿・中臣連鎌子同奏曰、昔日不v須2臣計1、致2斯病死1。今不v遠而復、必当v有v慶。宜3早投棄、懃求2後福1。天皇曰依v奏。有司乃以2仏像1流2棄難波堀江1、復縦2火於伽藍1、焼燼更無v余。於v是天無2風雲1、忽災2大殿1。
とある。すなわちこの事件は欽明天皇の十三年よりは「後年」のことで、尾輿等の奏上も、この十三年のことをもって「昔日」というほどにも時代を経過したのであった。しかしそれは単に「後」とあるのみで、十三年より何年後のことであるかは明かでない。けだし『日本紀』の編者は、その年時を明かにするの史料を得なかったがために、向原寺創立の記事の序にこの後日談を記したものであった。しかるに『法王帝説』には、『日本紀』著者の知らなかった史料を得て、庚寅の年のことだと書いているのである。すなわち欽明天皇の三十一年で、この年三月朔日向原寺創立者たる大臣蘇我稲目が死んだので、この機に乗じて即日反対者らは、廃仏毀釈のことを請願し、その月晦日に至ってこれを実行したものと解せられるのである。それは『日本紀』に、敏達天皇十四年条に見える難波堀江投棄のことが、(374)稲目の死んだ日と同じ三月朔日に請願して、天皇の許可を受け、晦日に至って実行したこととなっているのによって察せられる。
果してしからばその焼いた寺はもちろん稲目の向原寺で、投棄された仏像は百済伝来の釈迦像であったはずである。欽明天皇十四年にも仏像が造られて、どこかの寺院に安置されていたが、それは『日本紀』に「今吉野寺放光樟像也」とあれば、焼かれも棄てられもしなかったのである。その後向原寺は再興せられて、豊浦堂といい、敏達天皇の末年に焼失したが、本尊仏は無事であった趣が『霊異記』にあれば、これは守屋に焼かれたのでもなければ、難波堀江に捨てられたのでもなかった。しかるに『日本紀』に、敏達十四年にも守屋らの焼却投棄のことのあるのは、この豊浦堂の焼失と、庚寅年の事件とを混淆したものと察せられる。
要するに寺を焼き仏像を難波堀江に投じたのは、欽明天皇三十一年のただ一回で、それは物部尾輿らによって行われたのであった。しかしてその仏像は欽明天皇十三年百済王貢献のもので、むろん善光寺の如来ではない。善光寺如来も同じ百済から来て、久しく同じ難波の地におられたが、それは堀江の泥の中ではなかったのである。
ちなみにいう。『玉林抄』等の説に、仏像を投棄した難波堀江とは、摂津なる仁徳天皇朝開鑿の難波堀江ではなく、飛鳥豊浦の地にあるのだといい、今も豊浦の広厳寺の前の小さい堀をそれだと称しているのは、妄説もとより採るに足らぬ。
2006年7月22日(土) 10時10分、入力終了
(375)『教行信證』に関する疑問について――『親鸞聖人筆蹟之研究』に関聯して――
一 序 言
真宗の開祖親鸞聖人の著と称する『教行信證』は、申すまでもなく聖人立教開宗の本典と言われて、同宗にとって最も大切な経典である。しかるにこれについて古くから疑問を懐くものがないでもなかった。それは該書の末にある、いわゆる後序の文の中に、聖人が浄土宗の開祖源空上人の土佐に流されたに際して、これに連坐して諸州に流されたという弟子達の中の一人として、御自分で左のごとき記事をなしておられるからである。この文は自分が本編を草するについて最も重要なものであるから、今聖人自筆の稿本だと言われる浅草報恩寺蔵本の写真によって、文字の配置もほぼ原本のままに、その必要なだけを抄録しておく。
窺以聖道諸教行證久廢浄土眞宗證
道今盛然諸寺釋門昏教兮不知眞
(辨)
假門戸洛都儒林迷行兮無辯邪正
(548)編 注
〔1〕 喜田貞吉「倭奴国と倭面土国及び倭国とに就いて稲葉君に質す」(『考古学雑誌』第五巻第一一号、大正四年七月)。
〔2〕 稲葉君山「倭国名称の起源に就て喜田博士に答ふ」(『考古学雑誌』第六巻第一号、大正四年九月)。
〔3〕 三宅米吉「漢委奴国王印考」(『史学雑誌』第三編第三七号、明治二五年一二月)。
〔4〕 稲葉君山「漠委奴国王印考」(『考古学雑誌』第一巻第一二号、明治四四年八月)。
〔5〕 内藤湖南(虎次郎)「倭面土国」(『芸文』第二年第六号、明治四四年六月。のち『読史叢録』昭和四年八月に収む)。
〔6〕 天坊幸彦「摂津総持寺々領散在田畠目録」(『歴史地理』第四七巻第五号、大正一五年五月)。なおこの後「摂津三島郡の条里」(同第五四巻第三号、昭和四年九月)、「摂津三島藍野陵と今城」(同第五四巻第六号、昭和四年一二月)が発表されている。これらの研究は『上代浪華の歴史地理的研究』(昭和二二年五月、大八洲出版)にまとめられた。
〔7〕 平子鐸嶺「法隆寺草創考」(『国華』第一七七号、明治三八年二月)、「法隆寺草創考」(『歴史地理』第七巻第四、五号、明治三八年四、五月)等、法隆寺非再建説の一連の論考。
〔8〕 喜田貞吉「上古の陵墓」(『歴史地理』増刊号「皇陵」、大正二年一二月)。本著作集第二巻一五七−一九〇頁所収。
〔9〕 注〔6〕参照。
〔10〕 横山由清『田制私考』等。
〔11〕 持統八年九月紀には、筑紫大牢〔右○〕とある。
〔12〕 上野は新任ではなく、留任であり(「如v故」、『続日本紀』神護景雲二年二月癸巳条)、越前の員外介はこの年には見えない。
(549)〔13〕 小中村清矩「年官年爵并成功重任考」(『皇典講究所講演』二四、明治二三年二月)。
〔14〕 小中村清矩「年官年爵并成功重任考」(前掲)。
〔15〕 仁和二年五月はこの事件に対する断罪の時で、事件の起ったのほ天慶八年である。
〔16〕 伊東尾四郎「留守所考」(『史学雑誌』第八編第六、七号、明治三〇年六、七月)。
〔17〕 喜田貞吉「女帝の皇位継承に関する先例を論じて、大日本史の大友天皇本紀に及ぷ」(『歴史地理』第六巻第一〇、一一号、明治三七年一〇、一一月)。本巻一八四−二一三頁所収。
〔18〕 喜田貞吉「河内野中寺金銅仏造像記の「中宮天皇」に就きて」(『考古学雑誌』第九巻第二号、大正七年一〇月)。本巻二二三―二二九頁所収。
〔19〕 吉沢義則「書紀編纂千二百年記念陳列の日本書紀古抄本に就きて」(『史林』第四巻第三号、大正八年七月)。
〔20〕 喜田貞吉「水鏡と扶桑略記、水鏡の価値を論ず」(『史学雑誌』第一四編第二号、明治三六年二月)。
〔21〕 林鷲峰『本朝一人一首』。
〔22〕 喜田貞吉「藤原鎌足及不比等墓所考」(『歴史地理』第二六巻第五号、大正四年一一月)、「藤原鎌足及不比等墓所考の追考」(同第二七巻第二、三号、大正五年二、三月)、「再び鎌足及び不比等の墓所に就いて」(同第二七巻第六弓、大正五年六月)。本巻二六三−三三八頁所収。
〔23〕 大歳の記事は「神武紀」には一ケ所(即位前紀)、「神功紀」には三ケ所(元年、三九年、六九年)に見える。
〔24〕 喜田貞吉「前号所載の壬申乱に関する談話につき」(『歴史地理』第五巻第一号、明治三六年一月)。
〔25〕 黒川真頼、横山由清編、福羽美静閲『皇位継承篇』(明治一一年八月、松成堂須原屋、和六冊〈巻一−一〇・付録〉)巻一〇より引用。
〔26〕 注〔21〕参照。
(550)〔27〕 鎌足と不比等の墓についての考説は「※[口+幼]々斎雑話」としては書かれなかった。なお「※[口+幼]々斎雑話」は『歴史地理』誌上に連載された小論集。
〔28〕 注〔23〕参照。
〔29〕 喜田貞吉「女帝の皇位継承に関する先例を論じて、大日本史の大友天皇本紀に及ぷ」(前掲、本巻所収)。
〔30〕 大正七年五月二一日付大阪毎日新聞で報道された。
〔31〕 大正七年五月三一日付大阪毎日新聞。
〔32〕 木崎愛吉「野中寺の金銅弥勤菩薩」(『考古学雑誌』第八巻第一二号、大正七年八月)。
〔33〕 現在、「橘寺」のほかに、「栢寺」、「楢寺」などの読み方がある。
〔34〕 井上頼圀「後宮沿革略考」(『皇典講究所講演』一二七、一二八、二二〇、明治二七年五−七月)、「考証 後宮略考」(『明治会叢誌』第六九−七一号、明治二七年一〇−一二月)等。
〔35〕 喜田貞苫「河内野中寺金銅仏道像記の「中宮天皇」に就きて」(前掲、本巻所収)。
〔36〕 喜田貞吉「中臣習宜阿曾麿」(『中央史壇』第二巻第五号、大正一〇年五月)。
〔37〕 田口卯吉「孝謙天皇」(『史海』第八、九巻、明治二五年一二月、同二六年一月)。
〔38〕 喜田貞吉「荷前の奉幣に預る御陵墓の事」(『歴史地理』第三巻第三号、明治三四年三月)、「多武峯墓」(同第三巻第五号、同年五月)など。
〔39〕 喜田貞吉「石城石背両国建置沿革考」(『歴史地理』第二〇巻第五、六号、大正元年一一、一二月)。
〔40〕 浮和天皇の母は藤原旅子である。
〔41〕 喜田貞吉「女帝の皇位継承に関する先例を論じて、大日本史の大友天皇本紀に及ぷ」(前掲、本巻所収)。
〔42〕 喜田貞吉「上古の陵墓」(前掲)。本著作集第二巻一七五頁参照。
(551)〔43〕 喜田貞古「多武峯墓」(前掲)に引用した木村一郎氏の喜田宛書簡。
〔44〕 谷森善臣のこの著作は、現在宮内庁書陵部蔵の『谷森靖斎藁草』四に収められている。芝葛盛民が謄写したものの原本はこれであろう。表題は「淡海公佐保山|椎崗《ナラノヲカノ》墓攷証」であるが、本文の始めには「贈太政大臣正一位淡海公藤原不比等佐保山|椎崗《ナラノヲカ》墓攷証」とある。明治三四年一一月の稿である。引用文については、すべてこの宮内庁書陵部蔵本によって校訂した。
〔45〕 『類衆符宣抄』の美都子の墓の記載は、文政版本を底本とした旧『国史大系』(明治三五年)には、「後宇治墓」とあるが、本論考以後、保安二年古写本を底本として刊行された本には皆「次宇治墓」となっている。
〔46〕 喜田貞吉「東人考」(『歴史地理』第二三巻第六号、大正三年六月)。本著作集第九巻二二二頁を見よ。
〔47〕 藤原猶雪「親鸞門弟の地理的分布を概観し其郷土史料より聖人の影像並に墓標の原型を想ふ」(『図書館雑誌』第四四号、大正一〇年三月)。
〔48〕 長沼賢海「親鸞聖人論」(『史学雑誌』第二一編第三−九、一一、一二号、明治四三年三−九、一一、一二月)。
〔49〕 喜田貞吉「教行信證に関する疑問に就いて――親鸞聖人筆跡の研究に関聯して――」(『歴史地理』第四〇巻第二、三号、大正一一年八、九月。本巻所収)。
〔50〕 辻善之助「教行信證に関する疑問に就いて――書田博士に答ふ――」(『史学雑誌』第三三編第一一号、大正一一年一一月)。
〔51〕 注〔47〕参照。
〔52〕 注〔48〕参照。
〔53〕 喜田貞吾述、日本歴史地理学会編纂『国史の教育』(明治四三年六月、三省堂・六合館)。
〔54〕 寛文七年版『東国通鑑』に付せられた序文。
(553) 解 説
林屋辰三郎
一
本巻は、『国史と仏教史』と題して、喜田貞吉先生の歴史家としての本領ともいうべき研究をもって構成される形になった。もっともその他の巻に収録されたものも、歴史家としての先生の面目を伝えないものは一つもないのだが、多くは掲出するような特殊な課題を通して歴史の本質に迫るという形態をとっている。それが先生の研究に立向われる一定の姿勢といってもよいと思われる。その点、本巻の主題は国史の独自なテーマに向けられているように見えるが、あるいはそうした特殊なテーマのもとに一巻に分類できないものが集まったといった方がよいかも知れない。
そこで本巻の主題も、おのずから四つのテーマに区分されることになった。Tは、古代史に関してとくに中国文献を通した見解で、倭奴国や邪馬台国に関する研究のなかに、先生のお得意の論争を挑むという形をとって述べられている。先生の古代史研究は、どちらかといえば日本の文献的資料、さもなくば考古学的史料によることが多く、中国文献による研究は、比較的に少ないが、ここに採用した二篇は、先生の中国古代文献に対する態度をうかがわせるものといえよう。
Uは、古代史においても皇室史に関わる研究を中心に編集した。それに少しそれるが「国司制の変遷」という地方(553)制度に関する一文を加えて、九篇を数える。
Vは、国史のなかでもとくに仏教史に関わるものを主として編集し七篇を収めた。そのなかでも「藤原鎌足および不比等墓所考」に関する三篇はやや特殊だが、「弘法大師の入定説について」「善光寺草創考」の二篇および親鸞聖人の『数行信證』「愛女身売証文」に関する疑問の二篇は、いちおう仏教史に関わるものといえよう。
Wは、歴史家として先生が職を賭して立向われた南北朝論について、生前ついに出版されることなく筐底に秘められた明治四十二年の著作の原稿によって、初めて公刊されるものである。
以上四部を通観して、主題の『国史と仏教史』は、仏教史においてややバランスを失していることに気付いたが、それにもかかわらず先生は、寺院研究などを通じても仏教史家としての一面をも堅持しておられたので、この主題をそのままにしておいた。本巻の構成内容は、全篇、論文一八篇と未刊著書一部である。
つぎにそのうちから、さらに主要と思われる数点について解説を加えたい。
喜田貞吉先生の多彩なご活動のなかで、とくに歴史家としての面目を示されたのは、徹底的な文献的史料の操作によって、古代史の一大疑問を解明された論文、「継体天皇以下三天皇皇位継承に関する疑問」(本巻U部第2論文)であった。
先生のご研究はいつも疑問から出発する。昭和三年七月に発表されたこの一篇は、まず(1)『日本書紀』における継体天皇の崩年の取扱いについて、継体二十五年辛亥をとりながら、さらに二十八年甲寅の異説を注記し、つぎに(2)安閑天皇の即位については、父天皇の存生中に天皇となり、同日中に継体天皇崩じ給うとし、後世譲位の先例とされて(554)いるにかかわらず、二年後の甲寅をもって安閑天皇元年として、二ヵ年を空位としており、最後に(3)欽明天皇の御代については庚申の歳を元年として辛卯の歳まで三十二年の治世とするが、『上宮聖徳法王帝説』は庚申より二年前の戊午の歳を天皇の治世のうちとし、治世四十一年と数えるなどの矛盾があるというのである。さきにこの問題を解決するために試みた、平子鐸嶺氏の提案は、まず欽明天皇の御代を四十一年とするところから逆算して、壬子を欽明天皇元年、戊午を欽明天皇七年として確定し、『古事記』註記によって継体天皇二十一年丁未を継体天皇の崩年とし、その後の四年問に安閑・宣化の両天皇の在位二年ずつをあてはめたものであった。
喜田先生の疑問は、この平子説を批判する形で提出された。それは欽明天皇の治世は、平子氏の解釈にさらに傍証をそえてこれを認めたうえ、継体天皇の崩年については、二十五年辛亥が『百済本記』によって『日本書紀』に採用されたことを重視して、これも不動のものと考定されたので、継体の崩御と欽明の即位は年を接して行われたこととなり、ここに安閑・宣化朝は欽明朝と併行して存在したという事実が表出されることになったのである。要するに平子氏が継体・欽明朝の間におしこめようとした安閑・宣化朝を、喜田先生は欽明朝と対立したものとして位置づけたもので、論文の末尾に先生もふれられる通り、南北朝の対立という事実に関心をもたれた先生にしてはじめて可能となる発想であったといえよう。
先生はこの論文中に、『日本紀』を研究せんとするものは、まずもってどこまでもその記するところを尊重し、ことに「継体天皇紀」以下のごとき、やや降りたる時代のことについては、当時編纂者がその記事をなすに足るだけの、相当の史料を有したりしものなることの認定のうえに、もしその記事に過誤があるならば、その過誤の由って来ったところの道筋を考えて、始めてこれが改訂を試むべきものであると信ずる、と断言されている。この一句は、ひとりこの部分にとどまらず、先生の採られた慎重な研究態度の現われであって、同じころより記紀に対して流行した、は(555)じめより編纂時の思想にもとづく史料という不信感をもって臨み、充分な検討を加えずにその内容を改訂し又は仮託とする風潮に、つよい批判を投げかけられたものと考えられる。
さらに先生は『日本書紀』が敢えて辛亥年に『百済本記』の「日本天皇及太子倶崩薨」の十文字を採用した点を重視され、「推測を逞しうするならば」、「このさい皇室内になんらかの重大なる事変があった」とされながら、継体天皇の崩御直前に即位があった欽明天皇と、崩御の中二年を匿いて即位元年を迎える安閑天皇との間に、皇統の並列という事実以外には、陵墓について対比が行われた程度で、抗争・内乱の事実までは引き出されていない。解説者は、先生の京都帝国大学文学部における昭和十年度の講義「建国および皇室に関する諸問題」において、この一篇の内容を拝聴して深く感動するとともに、その後に考案を一歩進めて、昭和二十七年九月に「継体欽明朝内乱の史的分析」(【『立命館文学』八八号、のち『古代国家の解体』東京大学出版会発行に収録】)として公表した。それを機会に、学界から忘れられていた先生の論文はあらためて注目を浴びるようになった。
三
つぎに先生は、皇室史の問題として女帝の存在について深い関心をもたれた。とくに壬申の乱に当って天智天皇の淡海宮御宇天皇のあとをうけられた方として、一般に通用していた大友皇子の即位説に対して、天智皇后の倭姫王皇后の即位を主張された。この経緯を明らかにされたものが、論文「後淡海宮御宇天皇論」である。
この論文は、大正十一年七月・十月にわたり雑誌『史林』に登載されたが、この一篇のために、先生の発想は早く明治三十六年二月におこり、論文「女帝の皇位継承に関する先例を論じて、『大日本史』の 「大友天皇本紀」に及ぷ」と題し、「女帝皇位継承系図」をもそえて、明治三十七年十月・十一月に雑誌『歴史地理』に載せ、さらに論文「中(556)天皇考」を大正四年一月の雑誌『芸文』に、つぎに論文「河内野中寺金銅仏道像記の「中宮天皇」につきて」を大正七年十月の『考古学雑誌』に、最も近くは論文「皇后宮と中宮との御称号について」を大正八年四月『歴史地理』にのせられている。いわば後淡海宮御宇天皇の比定のために、一八年間にわたって四篇の基礎稿というべき小論文を書き重ねられているのである。このような一見慎重な発表経過は、皇室に関わる重要な問題であったというだけでなく、先生はつねに新しい発想の涌くごとに発表を試みて、基礎固めをされたからである。従って行文の重複も著しく目立つが、先生の研究の発想から完成までの経過を示す意味で、主題の論文一篇の前提となった四篇の論文をも、ここに併収しておいた。
ここで説かれたことは、女帝の役割として、先帝崩じてのち儲位の皇子の若年の場合に、先帝の皇后がまず帝位に即いて太子の成長を待つことがあり、これを中天皇、中皇命すなわちナカツスメラミコトと呼んだというのである。天智天皇の場合、太子大海人皇子が太子を辞した時、すでに倭姫王皇后の即位、大友皇子の太政大臣が大海人皇子から条件として進言されており、やがて天智天皇の崩御とともに即位したのは倭姫王のナカツスメラミコトであり、その後壬申の乱のおこるまでの六ヶ月問、女帝のもとに大友皇子が皇太子であったとするのである。このような例は奈良朝の女帝にも当てはまるとして傍証とし、また『大日本史』を中心とした大友皇子即位説を、史料にさかのぼって批判を加えられている。史実批判の考証論文として、最も典型的なスタイルをもち、現在もなお生きつづけているのである。
さらに先生の研究のなかで光彩を放つものに、論文「道鏡皇胤論」がある。これは大正十年十月、『史林』に発表された雄篇で、皇位を既視した逆臣として知られる弓削道鏡は、和気清麻呂による忌憚ない神教の復奏にもかかわらず、全く動揺することなく、却って清麻呂が神意を欺いたものとして処罰される結果となり、称徳天皇の崩後もその(557)態度をあらためなかった真の理由を、かれ自身が天智天皇の孫に当る皇胤であって、その専横も認められる立場にあったことを考証したものである。
先生がこの論文に着手された動機にも、やばり疑問ということがあった。それは今のべたように、道鏡が皇位覬覦という大それた野心をもった理由と同時に、いかに寵愛があったにせよ、天皇が皇位に準ずる法王をも授け、行粧もまたこれにしたがうような優遇を敢えてし、藤原氏一門もまた内心はともあれ表面は唯々諾々とこれに随従せざるを得なかった秘密が、一体どこにあったかという疑問である。その解決の鍵として古くには一部に信ぜられ、江戸時代においては無視されていた皇胤論が想起されたということであった。
ここにかかげた継体天皇以下三天皇、後淡海宮御宇天皇、道鏡、いずれも国史上の大問題であると同時に、皇位継承に関係する大問題でもあった。その点で発表当時においてもかなり執筆に勇気を必要とする課題でもあった。皇室史に関わりつつ、しかも批判的立場を失われなかった先生の面目が、いかにも躍如とする課題であった。
Vのうちには、本巻の主題の一つである仏教史というよりも、その関係の論文をとりまとめた。
最初にもことわったとおり、「藤原鎌足および不比等墓所考」以下の三篇は、先生の論争意欲のままに発表されたもので、仏教史とは言いにくいが、墓所に関わりのあることなので、敢えてここに収めた。その所論はまことに的確である。ことに最後には冬嗣・基経の墓所にも及んで、その場所を深草山と確定されている。これは藤原道長が宇治郡木幡に浄妙寺を建立するに当って、昭宣公(基経)の相地を積極的に主張してあたかも木幡山にあるごとく力説していたところで、その影響からか木幡山には冬嗣の墓所も存在するという説も現在行われている。先生がこの点にも、(558)早く正しい見解を出されていたことを知って、あらためて敬服した次第である。
この篇において注目されるのは、末尾に収めた『教行信證』「愛女身売証文」などへの疑問だが、真筆本の発見ということで批判が封ぜられることへの反撥がある。その点では辻善之助博士など古文書学の権威に対する批判をも含んでいて、たいへん興味がある。たとえば『教行信證』については、念仏者処刑の記事、土御門天皇を今上と書くことの疑惑、住蓮・安楽の処刑の問題などが質疑されているが、「愛女身売証文」についても、同様に個所を列挙して、とくに長沼賢海博士の「親鸞聖人論」に向けて疑問を投げかけていられる。まことにあくことのない真理探究の態度である。
この鎌足の墓所と親鸞の『教行信證』の二つのグルウプに挟んで、「弘法大師の入定説について」と「善光寺草創考」を収録したが、いずれも仏教史の最初を飾る問題で、先生一流の軽妙な筆致で見解を述べていられる。この二篇はいわゆる論争の形式ではないが、善光寺についてその草創の年時と人物について、きわめて注目すべき新説を提出されているのである。すなわち善光寺如来像の渡来は、古くから欽明天皇十三年説が認められているが、これは本邦最初の仏像ということから起った混雑で、実は百済聖明王の献仏の年よりも三十七年前に難波に渡来したこと、聖明王の献仏も実は欽明天皇戊午の歳であるから、この像の渡来はさらにそれより三十七年前という『諏訪大明神絵詞』(『扶桑略記』所引)の説を主張していられる。なお物部尾輿によって難波堀江に授ぜられたのは、善光寺如来ではなく、聖明王貢献のものであったという、仏教渡来の新説というべき提案を含んでいる。
五
Yの南北朝論は、さきにものぺたように未刊本の最初の上梓であるが、最初に明治四十四年三月四日付で、本書を(559)筐底に蔵し知己を千載に待つ趣旨をのべているのは、一旦発行を断念してこれを附載されたものにちがいなく、明治四十四年二月の「本書の発行に就いて」が、当初の刊行の序文というべきものに当るのである。ここに目次をかかげるとつぎのとおりである。
一 緒 言 本書四四〇頁
二 南北朝と国定教科書 四四二頁
三 南北朝正閏に関する諸説 四四六頁
四 光厳天皇の御位と南北南朝の関係 四七〇頁
五 光厳天皇と神器の所在 四七三頁
六 神器論の研究 四七五頁
七 南北南朝正閏論の由来 四七九頁
八 南北南朝合一の事情 四八五頁
九 合一後の朝廷に就いて 四九八頁
十 武家政治とは何ぞや 五一〇頁
十一 宮家武家方諸将の順逆に就いて 五二三頁
十二 江戸時代に於ける南北朝論と尊王論との関係 五三三頁
いうまでもなく、この南北朝問題の動機は国定教科書に対する政治的圧力から出発して、両朝に軽重なく併記するという最も公正な編纂方針が、突如として正閏論によって歪められたことに対して、先生が知己を千載にまつとして、事実を綴られたものであった。ことに両朝併記のことは、明治天皇の修史に対する基本方針でもあったにかかわらず、(560)これを無視して攻撃が加えられたのである。そのことは、当時としてはきわめて不遜な言動であったのだが、政治的圧力はそれをも押し切ってしまった。先生はこの未刊の著作をのこすことで、当時多くを語ろうとされなかったが、その無念さは本書のなかに凝集されている。現在また新しい形の教科書問題が論議されているとき、本書の公刊はまことに機を得たというべきであろう。
わたくしは、くりかえされる教科書問題に対して、本書は大きな教訓を垂れていられると思う。そして政治と教育との関係を考えさせ、歴史と現実との懸隔を感じさせるものであろう。南北朝問題のごときは、いわば歴史の真実を抜きにし、政治が教育を破壊するものといわねばならない。喜田先生は、つねに歴史の真実を追求して、その現実のままに叙述される方であった。その点でこの問題には我慢のできないものがあり、ついに職を賭されたものと考えられる。
先生は本書に当時の感懐のすべてを託されたが、この南北朝問題は先生の生涯の光と影になった。光とは自説を曲げられることのなかった誇りであり、影とはつねに先生につきまとう反体制的人間のイメージである。そしてそこに注意されるのは、反体制的姿勢が真理の探求につながるという、日本の学問の在り方であった。反体制的姿勢とは、要するに反骨の精神である。南北朝問題ばかりではない。先生の国史研究のすべてが反骨によって支えられていたことが、深く想い起される。
(561)書誌一覧
@原典の表記による標題
A掲載書誌および発行年月
H備考
1 倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反間に答う
@倭奴国と倭面土国及び倭国とに就いて稲葉君の反問に答ふ
A『考古学稚誌』第六巻第二号、大正四年一〇月
2 倭奴国および邪馬台国に関する誤解
@倭奴国及び邪馬台国に関する誤解
A『考古学雑誌』第二〇巻第三号、昭和五年三月
3 御名代・御子代考――穂積先生の「諱に関する疑」について――
@御名代・御子代考――穂積先生の「諱に関する疑」に就いて――
A『歴史地理』第三三巻第五、六号、第三四巻第一、四号、
大正八年五、六、七、一〇月
4 継体天皇以下三天皇皇位継承に関する疑問
@本標題に同じ。
A『歴史地理』第五二巻第一号、昭和三年七月
5 国司制の変遷
@国司制之変遷
A『史学雑誌』第八編第一、二、四、五号、明治三〇年一、二、四、五月
6 後淡海宮御宇天皇論
@本標題に同じ。
A『史林』第七巻第三、四号、大正一一年七、一〇月
7 女帝の皇位継承に関する先例を論じて、『大日本史』の「大友天皇本紀」に及ぷ
@女帝の皇位継承に関する先例を論じて、大日本史の大友天皇本紀に及ぷ
A『歴史地理』第六巻第一〇、一一号、明治三七年一〇、一一月
B付録として掲載した「女帝皇位継承の先例について」(原典表記「女帝皇位継承の先例に就て」)は、『歴史地理』第七巻第一号、明治三八年一月、所収。
8 中天皇考
@本標題に同じ。
(562) A『芸文』第六年第一号、大正四年一月
9 河内野中寺金銅仏道像記の「中宮天皇」につきて
@河内野中寺金銅仏道像記の「中宮天皇」に就きて
A『考古学雑誌』第九巻第二号、大正七年一〇月
10 皇后宮と中宮との御称号について
@皇后宮と中宮との御称号に就いて
A『歴史地理』第三三巻第四号、大正八年四月
11 道鏡皇胤論
@本標題に同じ。
A『史林』第六巻第四号、大正一〇年一〇月
12 藤原鎌足および不比等墓所考
@藤原鎌足及不比等墓所考
A『歴史地理』第二六巻第五号、大正四年一一月
13 藤原鎌足および不比等墓所考の追考
@藤原鎌足及不比等墓所考の追考
A『歴史地理』第二七巻第二、三号、大正五年二、三月
14 再び鎌足および不比等の墓所について、附冬嗣および基経の墓所について
@再び鎌足及び不比等の墓所に就いて 附冬嗣及び基経の墓所に就いて
A『歴史地理』第二七巻第六号、大正五年六月
15 弘法大師の入定説について
@弘法大師の入定説に就いて
A『史林』第五巻第二号、大正九年四月
16 善光寺草創考
@本標題に同じ。
A『歴史地理』第三四巻第六号、第三五巻第二号、大正八年一二月、大正九年二月
17 『教行信證』に関する疑問について1『親鸞聖人筆蹟之研究』に関聯して――
@教行信證に関する疑問に就いて――親鸞聖人筆跡の研究に関聯して――
A『歴史地理』第四〇巻第二、三号、大正一一年八、九月
18 親鸞聖人の愛女身売証文というものについて
@親鸞聖人の愛女身売證文といふものに就いて
A『歴史地理』第四〇巻第五号、大正一一年一一月
19 南北朝論
@本標題に同じ。
A未発表稿。「本書の発行に就いて」と題する文章の末尾には、「明治四十四年二月と」あり、「知己を千載に待たんのみ」と記した端書には、「明治四十四年三月四日識」とある。
喜田貞吉著作集(全14巻)
第三巻 国史と仏教史
定価 五、四〇〇円
昭和56年11月25日 初版第1刷発行
著 者 吉 田 貞 吉《きたさだきち》
発行者 下 中 邦 彦
発行所 【株式会社】 平 凡 社一