萬葉集古義首卷、吉川半七発行者、國書刊行會発行、明治31年7月31日初版大正3年3月25日再版
 
(1)  萬葉集古義
 
    緒言
 
一 萬葉集は、本朝最古の歌集にして、仁徳天皇より淳仁天皇の御宇に迄る、朝野の歌を輯蒐せるものにて、啻に往昔の文華詞藻を傳ふるのみならず、政法世體風俗言語地理品物等に就て、徴古の資に供するに足り、支那の詩經と稍其撰を同くし、國史實録に互して、尤も崇尚すべき一種の國典とも稱すべき名籍たり。
一 古來本集の解釋書は尠からざりしが、土佐の磧學鹿持雅澄翁博識洽閲の資を以て、篤く國典の闡明に志し、殆ど畢生の力を本集の註疏に黽め、編次竣りて萬葉集古義と題し家に藏せしが、曩に 明治天皇乙夜の御覽に供し、尋で宮内省官※[金+浸の旁]の光榮に與りたり。著者の小傳は別に收載せり。
(2)一 本會は、第三期の刊行を啓くに當り、本書流布本稀少にして卷帙浩瀚なれば、坊刻の容易ならざるを虞り、これを※[金+侵の旁]版に附し、分釘して拾册としたり。
一 本書原本には往々鼈頭の註書あれど、今は〔頭註〕の符合を以てこれを本文中に挿嵌し。又疑を闕くものには◎を施し、其他體裁は一に原本に從ひて排印したり。尚卷尾に本會新修の索引を附刷して、閲覽の便を裨けたり。
 大正三年三月
                  國書刊行會識
 
(1)鹿持雅澄翁傳
 
翁諱は雅澄、通稱を藤太といひ、古義軒また山齋と號す。飛鳥井氏の支流なり。遠祖權中納言雅量應仁の亂を避けて土佐國に來り、國司一條氏に寄寓し、幡多郡鹿持城に據る。子孫よりて氏と爲す。幾もなく國司家亡び、鹿持氏亦其城邑を失ふ。雅量の孫安春はじめて藩主山内氏に仕へ、禄二百石を食む。後ち家運漸く衰へ、降りて徒士となる。班、士格の下にあり。安春五世の孫を惟則といふ。翁は其長子にして、寛政三年四月廿日土佐郡福井村に生る。幼時學を好まず、遊戯にのみ耽りしが、十八九歳の折幡然志を改め、皇學を宮地仲枝に、漢學を中村某に、入木道を下元某に學ぶ。業漸く進むに及び、獨學古人を私淑し、廣く和漢の書を渉獵し、最も意を古典に注ぎて研鑽怠らず、夜を以て日に繼ぐ。翁微禄の家に生れ、生計豐ならず、固より書を購ふに資なし。加ふるに早く妻を喪ひ、自ら薪水の勞を(2)採りて父に事へ、傍ら二兒を鞠養し、艱難つぶさに到る。然れども修學の念は毫も衰へず、寸※[日/処の右がト/口]を倫みて書を繙きたり。藩老福岡氏其篤學を愛し、家藏の群籍を閲讀せしめ、なほ翁の請ふがまゝに、普ねく購ひ求めて之を助く。翁深く感激し、私に他日の大成を期す。萬葉集古義の大著は、實に此際の起稿に係る。既にして翁の名聲※[さんずい+乃]に揚り、教を受くるもの幾百人、藩主の公族連枝等また翁に師事す。清水濱臣、小山田與清、堀練誠の如きも、書を寄せて質疑せる事屡なり。彼ら擢られて藩黌教授館の師範に任じ、弘化三年三月特に士格に列す。安政五年九月五日逝く。享年六十八。福井村に葬る。墓石には、吾以後將生人者古事之吾墾道爾草勿生曾といへる遺詠を刻せり。
翁深く思ひを國學に致し、大義名分を説いて海南の子弟を教化せり。其國體并に皇道に關する自詠の和歌千餘首を輯めて千首操言と名く。「親の名を繼往くものと思へらば束の間も君を忘るな」「劔太刀研し心の(3)もらずは我皇神の道は惑はじ」などいへるは、其一例なり。翁また日本外史の文中、往々皇室に對して禮を失へるものあるを慨し、日本外史評を著はして之を論ず。以て翁が如何に、國體の尊嚴を發輝するに力めしかを見るべし。されば米船渡來の事あるや、慨然として詠じて曰く、「神風をなごめまつりて君の邊によくしてまいこ亞米利加やつこ」。かく翁が熱烈なる尊王愛國の精神は、上下に感孚して、爲に幕末に於ける土藩の興起を促したり。武市半平太小楯は翁の義姪なり。幼より翁の門に入りて其薫陶を受く。長ずるに及び、土佐勤王黨の領袖となり、薩長二藩士と策應し、同門の士吉村寅大郎重郷等と共に、尊王倒幕の計畫に從ひ、遂に君國の爲に殉ぜり。翁が皇學を提唱し、氣節を以て後進を導きたる功績また没す可からざるなり。
翁博學多識、最も古典に通ず。また和歌を善くし、文章に長じ、書に巧なり。著書頗る多し。就中萬葉集古義は、翁が畢生の精力を傾注せるものにし(4)て、考證正確、解説平允、先哲のいまだ説かざる所を闡明匡輔せり。明治の初年、事九重の上に聞して乙夜の覽に入り、尋で宮内省に於て上梓せらる。翁の名譽また大なりといふべし。
我が先人嚴水甞て、翁の門下にあり。古義上梓の大命下るに及び、遙かに郷里土佐より徴されて校訂の事に參與し、聊か先師の厚恩に報じたり。今や版を重ねて三たび世上に布く。思ふに師父在天の靈、また莞爾たるものあらむ。
  大正三年二月
                    井野邊茂雄識
 
(5)萬葉集古義總目
   首卷
一總論四卷
  題號 撰者 編次 三體【長歌、短歌、旋頭歌】
  集中歌數 集中年代 本句末句
  毎句名目 倭歌 東歌 反歌
  詩賦詠絶 古點次點 新點 諸本
  古萬集集 引用書目 題詞讀法
   以上第一
  匿名 略名 名氏書法 假字 正字
  義訓 戯書 具書 略書 省畫
  異訓異字 縮言 伸言 音通 韻通
  轉言 略言 古言 以上第二
  發言 枕詞 助辭 尊稱 美稱
  賛辭 親辭 嘆息辭 乞望辭 疊字
  複詞 天皇尊號辨 自(ト)云辭辨
  登(ト)云辭辨 美(ト)云辭辨 古學 以上第三
  舊本目録辨 三體辨 以上第四
一索引 本會新修
   第一冊
本編一卷之上中下 雜歌
二卷之上中 相聞 挽歌
   第二冊
二卷之下 挽歌
三卷之上中下 雜歌 譬喩歌 挽歌
四卷之上下 相聞
   第三冊
五卷之上下 雜歌 六卷之上下 雜歌
七卷之上下 雜歌 譬喩歌
八卷之上 春雜歌 春相聞 夏雜歌 夏相聞
   第四冊
八卷之下 秋雜歌 秋相聞 冬雜歌
 
 (6) 冬相聞
九卷之上下 雜歌 挽歌
十卷之上中下 春雜歌 春相聞、夏雜歌
  夏相聞 秋雜歌 秋相聞 冬雜歌 冬相聞
   第五冊
十一卷之上中下 古今相聞往來歌類上
十二卷之上中下 古今相聞往來歌類下
十三卷之上下 雜歌 相聞 挽歌
   第六冊
十四卷之上下 東歌 雜歌 相聞 譬喩歌 挽歌
十五卷之上中下 部類缺
十六卷之上下 有由縁并雜歌
十七卷之上下 部類缺
   第七冊
十八卷之上下 部類缺
十九番之上中下 部類缺
二十卷之上中下 部類缺
   第八冊
一萬葉集品物解四卷
  草竹一二 木三 鳥獣魚蟲四
一萬葉集人物傳三卷
  帝王 太子 皇后 皇子 皇女 諸王 女王 朝臣 眞人 宿禰 連 君 首 忌寸 臣 造 村主 使主 史 直 倉人 諸臣 女 僧尼 庶人
   等九冊
一萬葉集枕詞解五卷
一玉蜻考
一萬葉集名處國分一卷
一萬葉集名處考六卷
一萬葉集坐知佳境附録一卷
 
(1) 萬葉集古義總論其一
            土佐國  藤原雅澄撰
 
    題號
 
此集を、萬葉と名づけられたるにつきて、古來《ムカシヨリ》兩説《フタツノコトワリ》あり、一(ツ)には萬世《ヨロヅヨ》の義《コヽロ》とし、一(ツ)には萬辭《ヨロヅコトバ》の義《コヽロ》とせり、さて件《クダリ》の兩説、此も彼も共に所據《ヨシ》はあり、(からぶみ文選、顔延年が曲水詩序に、其宅2天衷1立2民極1、莫v不d崇2尚其道1、神2明其位1、拓v世貽v統、固2萬葉1而爲uv量者也、とありて、呂濟注に、葉代也と見え、また毛萇が詩傳にも、葉世也と見えて、葉(ノ)字を、世の義に用たること、なほ漢籍には往々見えたり、これ萬世の義とする據なり、釋名に、人聲曰v歌、歌柯也、如3草木有2柯葉1也と見えて、萬葉と連ねたる字は、淮南子に、夫道有2經紀條貫1、得2一之道1、連2千枝萬葉1、また從v本引v之、千枝萬葉、莫2得不1v隨也、といひ、劉禹錫が秋風賦に、百蟲迎v暮兮、萬葉吟v秋、ともありて、これ萬(ノ)辭の義とする據なり、又文粹十卷に、冷泉院者、萬葉之仙宮、百花之一洞也、とも見えたり、(其中に近世の學者、みな後の義に心よせて、萬辭の義とせり、(契冲僧、岡部氏など皆しかり、)しかれども、余は後の義を諾はず、(但し古今集序に、倭歌《ヤマトウタ》は人の心を種として、萬の言の葉とぞなれりける、といひ、又後の勅撰に、金葉集、玉葉集、南朝に撰ばれし集を、新葉集と名づけられたるなど、みな葉を辭の義にとれゝば、一わたりは理ありて聞ゆれど、やゝ後世の例をもて、古を證《アカ》すべきに非ず、そも/\許登乃波《コトノハ》(2)といふ言、此集の頃の詞に、見えたることなし、たゞ古登婆《コトバ》といふ言、四卷に、百千遍戀跡云友諸《》茅等之練乃言羽志吾者不信《モヽチタビコフトイフトモモロチラガオリノコトバシアレハタノマジ》、とあると、廿卷東歌に、伊比之古度婆曾《イヒシコトバソ》とあるのみにて、いまだ言(ノ)葉の義に兼用たる如きことはなかりき、されば辭を、葉の義にあつることは、貫之の筆端に出たりともいふべきことなり、かゝれば、此集に名づけし人の、萬(ノ)辭の謂に充たるに非ること著し、さて又古今集よりこなたの撰集には、みな倭歌集とあるを、この集に、倭歌の字を加へられざりしは、葉は歌の義なるが故なりなど云は、一(ト)きはをさなき論にて、いふにも足ず、)萬世の義にてこそあらめ、(つら/\當時の人の熟字を用《ツカ》へる樣を考るに、萬世の義にとりたること決《ウツナ》し、)其證は、仁明天皇令義解を、天下に施行《ホドコラ》したまへる詔に、宜d頒2天下1、普使c遵2用畫一之訓1、垂u2於萬葉1、と見え、又古本日本後紀五卷に、延暦十六年二月己巳、云々等、續日本紀を撰成《エラバ》れたる上表に、傳2萬葉1而作v鑒、と云、齋部廣成が古語拾遺には、隨v時垂v制、流2萬葉之英風1、興v廢(タルヲノ)繼v絶(タルヲ)、補2千載之闕典1、(朝野群載阿闍梨齊朝が灌頂歎徳文に、結縁灌頂之秘法者、是累代萬葉之御願、群類入聖之玄門也、菅原陳經朝臣の菅家御傳記に、爾來土部氏萬葉居2菅原伏見邑1、とも見ゆ、又元享釋書廿二資治表に、延暦二年七月、左官右僕射藤魚名薨、甞於2平城1建2萬葉寺1とある、この寺(ノ)名も同義と見ゆ、)など見えて、此等はみな、此集よりやゝ後のことなるすら、み掟萬世の義にのみ用たるを考合べし、(又續紀天平八年十一月、葛城王、佐爲王上表の終に、萬歳無v窮、千葉相傳とあるも、千世の義なるを思(ヒ)合すべし、そも/\此集撰ばれし頃は、かの文選てふからぶみを、もはらこのみ翫びしことなれば、かの顔延年が曲水詩序に本據《ヨリ》たること、さらに疑なし、)されば長く萬世の後ま(3)で朽せず傳はれとて、しか名づけられたるにぞありける、(後の勅撰に、千載倭歌集と名付られたるも、この同じ意旨なりけり、後冷泉天皇、後三條天皇、白河天皇、堀河天皇、鳥羽天皇、五代の歌を集めて、五葉集と名づけたるよし、八雲御抄にも載させ給へり、これも葉を代の義にとられたり、(げに萬世の末まで傳りて、歌集《ウタブミ》の祖《オヤ》とおほぞらの月を見る如くに、仰き尊み、よみあぢはふべきは、この萬葉集になむありける、
   撰者
此集を撰べる人のこと、古來説々ありといへども、みな信《ウク》るに足ず、(いでその謂をことわらむに、まづ古今集雜下に、貞觀の御時、萬葉集は、いつばかりつくれるぞと問せ賜ひければ、よみて奉りける、文屋有季《ブムヤノアリスヱ》、神無月《カミナヅキ》しぐれ降おけるならの葉の名に負(フ)宮の古言ぞこれ、とあり、これ其頃はやく此集を閲る人なく、又たま/\見る人ありても、つくり人を知ばかりの人、はたなかりしことしられたり、さりければこそ、清和天皇も、此集作りたりし時代をしろしめさずして、かく問せ賜ひけれ、又有季が、ならの葉の名に負(フ)宮と答へ奉りしも、あまりにおぼろげなる奏言にこそありけれ、抑々寧樂朝は、元明天皇より光仁天皇まで、凡《スベテ》七世《ナヽヨ》の間の皇居《オホミヤ》なるを、汎く寧樂宮とのみ奏して、いづれの天皇の御時とかは、きこしめしわき賜ふべき、又平城天皇をさして申せりとせば、いよ/\かたはらいたきことなり、さるはまづ此集の撰者《ツクリビト》を、家持卿と定めむに、天平寶字三年までの歌を集められ、其後二十六七年を歴て、桓武天皇延暦四年に、彼卿薨られたれば、平城天皇の御時に、編《ツク》れるものとすべき據はさらになし、然れども、漢文序に平城(4)天子とあるは、大同帝の御事と見ゆれば、有季も其定にて、寧樂(ノ)宮とは奏せるにや、後拾遺集序に、寧樂の帝は、萬葉集を撰て、帝の翫物としたまへり云々、とあるも、右の定に、大同帝の御事ときこゆ、さて新續古今集漢文序に、平城天子、詔2侍臣1撰2萬葉1已來、集更二十、祀逾2六百1、とあるは、大同年中より、新續古今集の成(レ)る永享年中までに、勅撰の集二十部成て、年は六百年を逾たる旨に云たれば、後々はまさしく、大同帝の御時の編集、と一決《サダメ》たるにもやあらむ、さて次に、古今集序に、かく傳はるうちにも、寧樂の御時よりぞひろまりにける、かの御代や、歌の心をしろしめしたりけん、かのおほむ時に、正き三(ツ)の位柿本人丸なむ歌の聖なりける、これは君も人も、身をあはせたりといふなるべし、秋の夕、龍田川に流るゝ紅葉をば、みかどのおほむ目に錦と見たまひ、春の朝、吉野の山の櫻は、人丸が心には雲かとのみなむおぼえける、又山のべの赤人と云人ありけり、歌に奇しく妙なりけり、人丸は、赤人が上にはたゝむことかたく、赤人は、人丸が下にたゝむことかたくなむありける云々、これよりさきの歌をあつめてなむ、萬葉集となづけられたりける云々、かの御時よりこのかた、年は百年餘《モヽトセアマリ》、世は十世《トツギ》になむなりにける云々、などある、まづこの寧樂の御時とさせる、百年にあまり、十世を經たりといへると、漢文序とを合(セ)考(フ)れば、平城天皇大同年中を、させるものといふべけれど、こゝはその大數をのみあげいへるにて、彼寧樂(ノ)朝七世の間をさせるものと姑定めむ、しかしても人麻呂は文武天皇の末より、元明天皇のはじめつかたまでに、身まかれる趣《サマ》なれば、寧樂(ノ)朝の人とはいふべきにあらず、無稽の説といふべし、又正三位といへるも、何を據としていへることなるにかずべて證無ことなり、さ(5)て君臣合體を云むとて、吉野山の櫻を、人丸が心に雲かとのみなむおぼえける、といへること何事ぞや、抑々彼朝臣の歌、戀化自在《トリ/”\サマ/”\》なりとはいへど、花を雲にまがへ、紅葉を錦と見たてしやうのことやはある、つぎに赤人は、元正天皇の御代より、聖武天皇の御代の中間まで存在《アリ》ける人とおぼゆれば、これは寧樂(ノ)朝の人といはむには、たがはねども、人麻呂と同時の人と心得たる趣なるは、又ひがことなり、此こと、契沖も、はやくさだせることなり、さしも名たゝりし貫之の、ことに心を用ひて書る勅撰の序にすら、かくまでかた/”\誤れるにて、なべて其代の人の、此集に暗かりしことしるべし、さはあれど、むげに見ざりしとにはあらざめれど、ひたすらによみわきまふることは、かたきわざにぞありけむ、同序に、萬葉集にいらぬ古き歌、みづからのをも奉らしめ賜ひてなむ、といひながら、此集の歌の、彼集にあまた收《イリ》たるにて、こと/”\に得よみはてざりしほどしられたり、同集漢文序に、普平城天子詔2侍臣1、令v撰2萬葉集1、自v爾已來時歴2十代1、數過2百年1、其後倭歌棄不v被v採、雖d風流如2野宰相1、雅情如c在納言u、而皆以2他才1聞、不d以2斯道1顯u、といひ、續日本後紀十九卷に、仁明天皇嘉祥二年三月庚辰、興福寺大法師等、爲《タメ》v奉3賀《コトホキマヲス》天皇寶算滿2l于四十1に、よめる長歌を載て、季世陵遲、斯道已墜、今至2僧中1頗存2古語1、可v謂3禮失則求2之於野1、故採而載之、と見えて、やゝ中絶たりしなり、いかにとなれば、寶字より景雲のころまでは、朝廷に事多くありて、人の心穩ならざりければ、歌の聲もおのづから息るならむ、次に光仁天皇は、もとより歌のことを、好ませたまはざりしとおぼえたれば、諸臣も是に隨て、歌よむ事を物うくしけるならむ、さて桓武天皇より後數朝、此事棄れたるが如し、中にも嵯峨天皇は、から歌を好ませた(6)まひけるが故に、皇女に至るまで、詩をのみ作らせたまひて、吾古のてぶりの、かく久しく絶たりしによりて、夕月夜曉やみの、おぼつかながらせたまへればこそ、貞觀のみかども、かくのごと、とはせたまひけるなれ、かくて延喜の勅撰より、歌よむわざの再昌になれりしかども、なほ古風に立復ることはなくして、此集などには、いよ/\暗かりしことしられたり、さて後に源順など、此集に訓點を加へられしことありけれど、はか/”\しきことはたえてなく、ましてなみ/\の人などは、思ひもよらぬことなり、其次に清輔朝臣、顯昭法師などいひし人出で、かづかづうかゞひしことはありけれども、つひに開き得しことはなかりき、かくまで古學に暗き代なりければ、其間の人どもの、此集につきて、なにくれのこと、また撰者のさだなどせしことも、みなたゞ闇夜《ヤミノヨ》の心あてなりければ、今更とりたてゝ、其|是否《ヨシアシ》を論辨《アゲツラフ》べきにあらず、たゞ近(キ)世に、難波の契冲僧出てよりぞ、やう/\古風をうかゞふことには、なれりける、)
契冲云、今此集の前後を見て、ひそかにこれを思ふに、中納言大伴家持卿、若年より古記類聚歌林、家々の集まで、殘らずこれを見て撰び取りその外むかし今の歌、見聞にしたがひ、或は人に尋問て、漸々にこれを記し集めて天平寶字三年までしるされたるが、その後とかく紛れて、部類もよくとゝのへられぬ草案のまゝにて世に傳はりけるなり、と云り、實に此説の如くなるべし、(詔2侍臣1令v撰2萬葉集1、とあるは、さらに論にも足ぬことにて、勅撰ならぬよしは既《ハヤ》く識者等の論(ヒ)置たることなれば、今更かにかくいふべきふしなし、岡部氏(ノ)説に、世繼物語に、萬葉集は、高野帝の勅によりて、橘右大臣の撰ばれたるよし、かけるによりて、諸兄大臣の撰として云るや(7)う、諸兄大臣は、天平寶字元年正月に薨賜へるに、廿卷末に、同三年正月までの歌を載しかば、しからず、といふ説あれど、萬葉集といふは、今の一卷二卷十三卷十一卷十二卷十四卷の六卷《ムマキ》にて、これぞ此大臣の、上(ツ)代より奈良(ノ)宮の始までの歌を、載られしものにて、餘の十四卷《トウマリヨマキ》は、家々の歌集にて、萬葉にあらずと云り、此説(ノ)眞に理あるに似たることながら、しか忝き勅を奉て、彼大臣の撰ばれたるものならば、きはごとに傳へ來べきことなるに、纔の間に、さまで錯簡《マギル》べきにあらざるをや、もとよりうるはしく撰べる集にあらざればこそ、かく編次の正しからざるままにて、傳はり來ぬるなれ、されば契冲説の如く、家持卿の草案《シタガキ》のまゝにて、傳はれりといふこと穩なり、さて家持卿の集められしと云證は、契冲又云、家持の私に撰ばれたりと見ゆれば、家持歌にかぎりて拙歌といひて謙下《クダ》れり、人のかたるを聞てしるし、人にたづねてしるす、みな家持の詞なり、大納言大伴旅人卿、いまだ微官の時より名をしるさず、おほよそ大納言已上には、此集名をしるさず、たゞ氏姓と官位をもて顯はせり、旅人は、天平二年十月に大納言に任《メ》され、三年七月に薨られぬ、その間の歌にこそ、名はしるさざらめ、それよりさきのあまたの歌に一所も名をかゝず、凡(ソ)廿卷の中、つひに旅人といへることなし、たとへ家持撰者なりとも、勅撰ならば、ひとり父にわたくしせむや、是(レ)家に撰ひて、父をうやまへるがゆゑなり、又家持の妻の、母におくれる歌を、家持にあつらへてよませける、その詞書に尊母といへり、これわたくしの家のことにあらずや、これに准へて知べし又第十九家持の歌に、白雪《》能布里之久山乎越由可牟《シラユキノフリシクヤマヲコエテユカム》、君乎曾母等奈伊吉能乎爾念《キミヲソモトナイキノヲニモフ》、此(ノ)歌に注していはく、左大臣換v尾(ヲ)云、伊伎能乎爾須流《イキノヲニスル》、然猶喩曰、(8)如v前(ノ)誦之也、この左大臣といへるは諸兄なり、これ家持の詞なり、又左大臣を壽とて作るといふ歌も有(リ)、集を見む人は、家持の私に撰べるといふこと、みづから信ずべし、といへり、但し五卷に大伴|淡等《タビト》と見えたるは、旅人のことなれど、其は彼卿の書牘の文面を、そのまゝ載たるなれば、名ばかりを省くべきにあらず、又集中微官の人にも、官位氏姓等のみを記して、名を略けること往々あるを、ひとり家持にいたりて、名を記さゞるところ一處もなし、これ又|自《ミヅカラ》筆《カケ》る一證なり、)
    編次
卷々の編次を立られたること、さらに謂なし、(歌の風體と、年序とによりて、推考るときは、實に岡部氏が、萬葉考に改めたる如く、第一第二は本の如く、本の第十三を第三とし、本の第十一を第四とし、本の第十二を第五とし、本の第十四を第六とし、本の第十を第七とし、本の第七を第八とし、本の第五を第九とし、本の第九を第十とし、本の第十五を第十一とし、本の第八を第十二とし、本の第四を第十三とし、本の第三を第十四とし、本の第六を第十五とし、第十六第十七第十八第十九第廿の五卷は、本のまゝとせむぞ、大概正しからむ、然れどもしか改めむは、中々の私事なり、)さるは、もときよく撰べる集ならず、唯よりくるにしたがひて、寫し留められたるまゝに、隨筆など云ものゝ如く、假に一二を記しつゝ、更に改め正すこともなくして、やがてそのまゝに、遺《ノコ》しおかれたるものと見ゆればなり、(さればさてありなむこそ穩ならめ、こを今更に改め正さむは、中々に強たるわざなるのみならず、舊本の順次に目なれたる心には、かへり(9)てまどはしきことぞおほからむ、)
    六部
卷別につきて部をたつること、いさゝか差異たりといへども、集中に大抵《オホムネ》六種《ムクサ》をもて部を分たり、一(ツ)には雜歌、二には相聞、三には挽歌、四には譬喩歌、五には四季雜歌、六には四季相聞なり、○雜歌はクサ/”\ノウタと訓て、種々の歌を載たるを云、(雜字につきて、猥雜の義とのみは思ふべからず、)雜(ノ)字古書にクサ/”\と訓たり、延喜式祝詞に、雜物雜幣帛雜々罪《クサ/”\ノモノクサ/”\ノミテクラクサ/”\ノツミ》など見え、江家次第九卷、和奏之度結詞條に、雜稻とありで、雜(ノ)字の下に、久佐久佐乃《クサクサノ》と注し、又古事記に、種々味物《クサ/”\ノタメツモノ》、日本書紀神代(ノ)卷に、品物《クサ/”\ノモノ》、また祝詞式に、種々《クサ/”\ノ》色物などもあるにて、クサ/”\といへる意を合(セ)考(フ)べし、久佐具佐乃歌《クサグサノウタ》といへるは、古今集序に、あるは春夏秋冬にもいらぬ、くさ/”\の歌をなむえらばせ賜ひけるとあるは、正《マサ》しく雜(ノ)歌(ノ)部にあたれり、さて此集なるは、後々の歌集に、雜部あるよりは今少し汎《ヒロ》くて、行幸肆宴※[覊の馬が奇]旅問答、其餘品々の歌の、相聞挽歌譬喩歌の部に屬《ツケ》がたきを、雜歌の部内に收載たり、又四季に屬をば、四季雜歌の部を立たり、若まれ/\雜歌の部内に、四季相聞等に屬べきがまじはれらむ、其はいまだ部類をも、よくとゝのへられず、草案《シタガキ》のままにて傳はれるが故なり、と知べし、○相聞は、字は、からぶみ文選、曹植が、呉季重に與《オク》れる書に、適對2嘉賓1、口授不v悉(サ)、往來數相聞、とありて、呂向が注に、聞問也といへるに全《モハラ》よりたるものなり、其故は、十一十二の兩卷を、古今相聞往來歌類の上下と別たる、相聞往來の四字、みながら、かの文選に出たるにてしるし、さて相聞は、相問といふに同じきこと、かの書の注にて明けし、即四(10)卷相聞部に、大伴宿禰駿河麻呂歌一首、不相見而《アヒミズテ》云々、大伴坂上女郎歌一首、夏葛之《ナツクズノ》云々とありて、右坂上郎女者、佐保大納言卿女也、駿河麻呂者、高市大卿之孫也、兩卿兄弟之女孫姑姪之族。是以題v歌送答、相2問起居1、とある相問に、全(ラ)同じければなり、さてこれは後々の歌集に、戀(ノ)部とあるに似て、それよりはやゝ汎く、男女の間よりはじめて、親族兄弟朋友にいたるまで、彼方此方往來して、起居を相問よしの稱なり、さて必相贈らねど、戀る情を述たるも多くあれど、親族朋友或は男が女に贈り、女が男に贈りなどして、安否を相問を主としていへるなり、かくて相聞の字をば、いかにとも訓べきやうなければ、次の挽歌に同じく、字をはなれてシタシミウタと訓つ、即四卷相聞歌の左注に、右大伴坂上郎女之母、石川内命婦、與2安倍朝臣蟲滿之母、安曇外命婦1、同居姉妹、同氣之|親《シタシミアリ》焉、縁v此(ニ)郎女蟲滿、相見(テ)不v疎(カラ)、相談既密云々、と見えて、親《シタシミ》をむねと、かなたこなた相問よしなればなり、さて相聞にて四季に屬《ツク》をば、四季相聞の部を立たり、○挽歌は、これも字は文選注に、李周翰曰、横(齊(ノ)田横也、)自殺、從者不2敢哭1而不v勝v哀(ニ)、故爲2悲歌1以寄v情(ヲ)、後廣v之、爲2薤露蒿里歌1以送v終、至2李延年1、分爲2二等1、薤露(ハ)送2王公貴人1、蒿里(ハ)送2士大夫庶人1、挽v柩者歌1v之、因呼爲2挽歌1、捜神記に、挽歌者喪家之樂、執v※[糸+弗]者相和聲、(注に、※[糸+弗]引v柩索也、)など見えて、もと漢國にて、棺の※[糸+弗]を引者のうたふ歌をいふことなるを、此方にては、たゞ哀傷歌の名目に假たるのみなり、(しかるを二卷挽歌部、山上臣憶良、追2和結松1歌の左注に、右件歌等、雖v不2挽v柩之時所1v作、唯擬2歌意1、故以載2于挽歌類1焉、とあるは、決《ウツナ》く最後人の手に出たる加注とはしるけれど、あまりにをさなき論に非ずや、たゞ名目のみをかり用たることは、いちじるきことなれば、今更こと新しく、柩をひき(11)挽ずなど、いふべきことかは、)さてこれは後々の歌集に、哀傷歌部あるに、全(ラ)同じければカナシミウタと訓べし、○譬喩歌はタトヘウタと訓べし、古今集序に、歌體《ウタノサマ》六種《ムツ》のことを云るところに、四にはたとへうたとありて、その古注に、これは萬の草木鳥獣につけて心を見するなり、とある如し、故(レ)七卷譬喩歌部内に、寄v衣(ニ)寄v絲(ニ)などやうにしるして、類を分たり、十一卷十三卷には相聞部内に、問答歌譬喩歌などしるして、假に類を分たり、さて譬喩は、萬に亘(リ)てある事なれど、此集にいへるは、男女のなからひの事にかぎれり、かくて件の六部の外、※[覊の馬が奇]旅悲別問答等の類あれど、別に總部をたてず、右の六種の部内に收て、類別せるのみなり、かくて卷によりて、部分のさま、いさゝかづゝ差別あること、左に云るが如し、(思ひ出るまに/\、ついでにおどろかしおくべし、古今集序に、たとへうたとある名目はよし、そも/\歌のさま六ありといへるは、から詩に、風賦比興雅頌と云六義ありといへるに、しひてなぞらへたるものにて、彼序中の第一の疵と云べし、しかるを近き世に、古今集を解(ク)人の説に、これは詩の六義によりていへれど、それをしらぬよそごとにいへるは、上手の筆つきなりといへるは何事ぞや、そも/\六(ノ)種《サマ》といへるは、全《モハヲ》詩の六義に本づけること論なきを、此方の歌の體に、もとよりさる六種《ムクサ》あるごといひ、さて次に、からのうたにもと、詩のことをよそ/\しくいへるは、いとも/\あるまじく、そこぎたなき心ならずや、まことには歌に六義といふことは、さだなきことなるを、強て漢風をひとへにうらやみて、詩に擬(ヘ)て六義の説をたてむとならば直に擬(ヘ)て見るときは、かくありとやうに表《アラハ》にいひてあるべきを、かくいへるは、うはべをつくろひかくす、あしきよの風俗をま(12)ねきたるものといふべし、然るを上手の筆つきぞと云ときは、陽《ウハベ》をかざりて、陰《シタ》に實意をかくすことの巧なるを、競ひ學ぶことゝなりて、吾(カ)皇神の道に大《イタ》く害あることぞかし、わが古學のすぢは、さるたぐひのことには非ず、よく/\思察《オモフ》べし、○一卷は、雜歌部をたて、某(ノ)宮(ニ)御宇(シヽ)天皇(ノ)代としるし、泊瀬(ノ)朝倉(ノ)宮より、寧樂(ノ)宮まで、次第々々《ヅギテ/\》に代を標して卷を終たり、○二卷は、始に相聞(ノ)部をたてゝ、一卷のごとく、難波(ノ)高津(ノ)宮より、藤原(ノ)宮まで次第々々に代を標して、後に挽歌(ノ)部をたてゝ、後(ノ)岡本(ノ)宮より、寧樂(ノ)宮まで次第々々に代を標して卷を終たり、凡てこの一二卷は同列にて、時代も明に、歌主もしるく、編法《トヽノヘサマ》もきはめて正し、○三卷は、始に雜歌(ノ)部をたてゝ、持統天皇(ノ)代より、聖武天皇(ノ)代までのを部内に收たり、但時代年月に繋たるにはあらず、中間に譬喩歌(ノ)部をたてゝ紀皇女の御歌より、家持卿の、いまだ内舍人にてありけむとおぼしきまでのを、部内に收たり、後に挽歌(ノ)部をたてゝ、聖徳太子(ノ)御歌よりはじめて、年紀のたしかならぬ、やゝ古き歌どもをまじへ載(ケ)順次《ツギテ》て、次に和銅四年より、天平十六年までの歌を載て卷を終たり、(此卷の編法を考るに、實に四卷に次べき物なり、)○四卷は、相聞部をたてゝ、仁徳天皇より、聖武天皇(ノ)代までのを載て卷を終たり、但時代年月等に、かけたるにはあらず、○五卷は、雜歌(ノ)部をたてゝ、始に太宰帥大伴卿報2凶問1歌といふより、憶良の戀2男子名古日1歌と云まで、神龜初年より、天平五六年にいたるまでの歌を載て卷を終たり、其内大伴熊凝をよめる歌までは、憶良の筑紫府に居《ヲ》れし時の作《ウタ》、貧窮問答より終までは、京師に上られたる後の作と見ゆ、憶良家に、自(ラ)集め置れたるものなるべし、中には書牘詩文などもまじれり、後に家持卿のいさゝか筆を加へられ(13)し、とおぼしき處もあり、さて件の部内に、春雜歌としるすべく、挽歌としるすべき類もあれど、ことに部をたてず、首に雜歌とあるにて※[手偏+總の旁](ヘ)たり、大かた憶良家集のまゝを、とれるが故なるべし、○六卷は、雜歌(ノ)部をたてゝ、養老七年より、天平十六年までの歌を載て、卷を終たり、凡て年序によりて次第をたてたること、日記と云ものゝ如し、○七卷は、始に雜歌(ノ)部をたてゝ其中に、詠v天(ヲ)詠v月(ヲ)、あるは※[覊の馬が奇]旅問答など、類を分て載《ケ》、中間に譬喩歌(ノ)部をたてゝ、其中に寄v衣(ニ)寄v絲(ニ)など、類を分て載(ケ)、終には挽歌(ノ)部をたてゝ卷を終たり、舊本、終に類を離れて、※[覊の馬が奇]旅歌一首あり、雜歌(ノ)部内に、※[覊の馬が奇]旅(ノ)作多ければ、其中に載べきを、落せる故に、後に卷末に、書加へたるものにても有むか、今改めて雜歌部内に收つ、此卷は、時代も作者も、すべて分明ならざるを集めたり、○八卷は、始に春(ノ)雜歌(ノ)部をたて、次に春(ノ)相聞(ノ)部をたて、次に夏(ノ)雜歌(ノ)部をたて、次に夏相聞(ノ)部をたて、次に秋(ノ)雜歌(ノ)部をたて、次に秋(ノ)相聞(ノ)部をたて、次に冬(ノ)雜歌(ノ)部をたて、次に冬(ノ)相聞(ノ)部をたてゝ卷を終たり、すべて此卷は、四季にて部を分てること、上件のごとし、さて各々部内の首の方に、やゝ古き歌を載て、次次に新歌を載たり、新古ともに作者をしるせり、○九卷は始に雜歌(ノ)部をたてゝ、大抵やゝ古き代よりの歌を順次《ツイ》で載て、天平(ノ)年に及べり、終に挽歌(ノ)部をたてゝ、大抵やゝ古き代よりの歌を順次《ヅギ/”\》に載て、卷を終たり、すべて此卷は多くは作者の名、簡約に記して、分明なりがたきを載たり、○十卷は、四季にて、雜歌相聞の部をたてたるさま、八卷に全(ラ)同じ、但し此卷には、作者をもらせるのみ、彼卷と異《カハ》れり、○十一卷は、古今相聞往來歌類之上と部をたてゝ、卷を終たり、これは十二卷に古今相聞往來歌類之下、とあるに對へり、「相聞往來は、他(ノ)卷に相聞とあるに同じ、さて(14)この部内にて、問答歌譬喩歌など、類を分てしるせり、但し此卷には作者なし、○十二卷は、上に云る如し、この部内には、※[覊の馬が奇]旅發v思(ヲ)歌、悲別歌など、類を分てしるせるさまも、十一卷なるに同じ、此卷にも作者なきこと、十一に同じ、○十三卷は、始に雜歌(ノ)部をたて、中間に相聞部をたてゝ、其部内に問答譬喩歌としるして、類を分てり、終に挽歌(ノ)部をたてたり、此卷すべて古代の歌の體にて、長歌旋頭歌のかぎりを載て、卷を終たり、此卷にも作者なし、○十四卷は、全《モハラ》東歌なり、始に雜歌相聞譬喩歌の部をたてゝ各々國を分て載(ケ)、中間に再《マタ》雜歌相聞譬喩歌挽歌の部をたてゝ、未勘國(ノ)歌を載て卷を終たり、○十五卷は部をたてず、天平八年丙子夏六月遣2新羅(ニ)1使人等の、往還のほどに作たると、誦たる古歌と共に、百四十五首と、中臣朝臣宅守が、越前國に配るゝ時、狹野茅上娘子と贈答せる歌、共に六十三首と、通計二百八首を載て卷を終たり、○十六卷は、有由縁并雜歌(ノ)部をたてゝ、新古の歌をまじへ載て卷を終たり、○十七卷より以下の卷々は、部をたてず、家持卿のもとより、此四卷は、自(ラ)の家に集めおかれたるものと見えたれば、いまだ部類をも立られざりしまゝとおぼゆ、さて此卷には天平二年より、同廿年正月までの歌を載たる中、二年十一月の歌より、十六年四月五日までの歌は、十六卷以前の卷々に遺《オチ》て載《アゲ》ざるを家持卿の、※[手偏+庶]て後々集められたるなるべし、其故は、二年より十六年までのあひだ、次第連綿せず、はじめに二年の歌十首を載て、やがて十年七月七夕の歌にうつり、十三年の歌より又絶て、十六年四月の歌あるが如きは、遺たるを拾はれけるが故なり、かくて十八年七月、家持卿、越中守にて下られけるより、廿年までは日記のやうに、相續てしるされ、さて次の三卷も、其|順《ナミ》に記(サ)れて卷を(15)終たり、○十八卷は、天平二十年より、天平勝寶二年二月までの歌を、家持卿任國中にてしるされたるなり、○十九卷は、天平勝寶二年より、同三年八月までは、越中にてしるされ、京師にかへりて後、同五年二月までの歌を載られたり、其中に時の王臣の作《ヨメ》る、また古歌の中にも、いまだ聞およばれざるを、人の傳誦るを聞て、誰某々々が傳ふるまゝに、こゝにしるすなどやうに注《コトワ》られたり、○廿卷は、天平勝寶五年より、天平寶字二年七月、家持卿因幡守となりて下られ、同三年正月一日因幡國廳賀宴の歌を、卷軸として、筆をとゞめられたるなり、さて此卷には、諸國防人部領使の進れる東歌をも、多く載たり、かくて上件にいへるごとく、卷別に部分の異同ありて一(ト)しなみならず、すべて編次のうるはしく、きはやかならざるは、題號を命《オホ》せながら、とかく紛れて、本意の如く、部類を正しとゝのふることあたはず、草案のまゝに傳へたるがゆゑなるべし、
    三 體
上古にも、歌(ノ)體の名目《ナ》を云ること、くさ/”\ありといへども、集中には三體を以て別たり、一には長歌、二には短歌、三には旋頭歌なり、○長歌は、一卷二卷三卷四卷六卷八卷九卷十卷十五卷十六卷十七卷十八卷十九卷廿卷に載たるには、長歌の名目はしるさず、さるは殊更に名目を出してことわらでも、よく別りたることなれば、しるさゞるなり、たゞ五卷題詞に、老身重病經v年辛苦、及思2兒等1歌七首と出して、其下に、長一首短六首、戀2男子名(ハ)古日(ヲ)1歌三首、と出して、其下に、長一首短二首としるし、十三卷題詞に雜歌と出して、其下に、此中長歌十六首相聞と出して、其(16)下に此中長歌二十九首と見えたるのみなり、○短歌は、十七卷大伴宿禰家持、久邇(ノ)京より、弟書持の奈良(ノ)宅なるがもとへ、報送る歌の小序に、因《カレ》作2三首短歌(ヲ)1以散2欝結之緒(ヲ)1耳、と見え、家持より池主へ報る書牘に、詩を出して、次に短歌二者とあり、廿卷に、冬十一月五日夜少雷起鳴云々、聊作2短歌一首1としるし、五卷梅花(ノ)歌(ノ)序に、宜d賦2園梅1聊成c短歌uと見えたる類は、長歌につきていへるには非ず、常の體なる歌をいへるなり、(いはゆる三十字餘一字《ミソモジアマリヒトモジ》の歌なり、)其餘一二卷に、長歌の後に、短歌と往々書るは、長歌の反歌にて、反歌としるすべきを、短歌と書るなり、又二卷三卷四卷五卷六卷八卷九卷十五卷十六卷十七卷十八卷十九卷廿卷などの題詞に、云々歌一首并短歌歌としるせること多し、これらも長歌につきていへるなり、○旋頭歌は、五七七五七七の六句の歌なり、この體なるは、集中おほくは名目を出せり、さるは右の長歌短歌は、名目なくても、まがふことなきがゆゑに、をりにふれて、長短をことわれるのみなるを、この旋頭歌は、豫《かね》てしか意得おきて、一首を讀ざれば、まぎるゝことのある、所由《ユヱ》に、理れるなるべし、さてこの體の濫觴《ハジマリ》をたづぬるに、まづ古事記神武天皇條に、伊須氣余埋比賣の、阿米都々知杼埋麻斯登々那杼佐祁流斗米《アメツヽチドリマシトヽナドサケルトメ》、といへるに、大久米命の、袁登賣爾多陀爾阿波牟登和賀佐祁流斗米《ヲトメニタヾニアハムトワガサケルトメ》、と答へたまひ、景行天皇條に、倭建命の、邇比婆埋都久波袁須疑弖伊久用加泥都流《ニヒバリツクバヲスギテイクヨカネツル》、と詔へるに、御火燒老人の、加賀那倍弖用邇波許々能用比邇波登袁加袁《カヾナベテヨニハコヽノヨヒニハトヲカヲ》、と答へまつり(書紀にも見ゆ、清寧天皇條に、志毘臣が、意富美夜能袁登都波多傳須美加多夫祁理《オホミヤノヲトツハタデスミカタブケリ》、といへるに、袁祁命の、意富多久美袁遲那美許曾須美加多夫祁禮《オホダクミヲヂナミコソスミカタブケレ》、と詔ひたるも同じ、)たる類、おのづから旋頭歌の體をなしたれども、なほ二(17)人して問答たるなるに、まさしく一人して此體に作たるは、同記雄略天皇大御歌に、須々許理賀迦美斯美岐邇和禮惠比邇祁理許登那具志惠具志爾和禮惠比邇祁理《スヽコリガカミシミキニワレヱヒニケリコトナグシヱグシニワレヱヒニケリ》、と見えたるこれなり、又仁徳天皇條、八田若郎女歌、書紀雄略天皇卷、繼體天皇卷などにはこの體なる見えたり、しかれども.いかにともいまだ名目は出さず、かくて此集に旋頭歌を載たるは、通計六十二首あり、其中に、藤原朝よりあなたの作とおぼゆるにも、端に旋頭歌としるしあるあれど、其は後に、歌體をわかちしらしめむがために、しるしたるものにて、もとよりの名目にはあらじ、旋頭と云るは、かの相聞挽歌の類に、奈良人の癖として、こちたき名目の字を、設けたるなるべし、(旋頭の字につきてカウベニメグラスウタと訓、或はカミニカヘルウタと訓べきよしなどいへるは、うるさし、旋は、旋転の義にて書る字ならむか、頭は頭《モトノ》句の意にいへるか、頭(ノ)句は、古へさま/”\にいへる中に、まづは上三句を、頭とすることゝきこえたれば、頭《モトノ》句を旋覆《ウチカヘ》して、一首をとヽのへたる歌の謂にていへるか、)この體なるを、濱成式に雙本歌《フタモトノウタ》と云、古今集に旋頭歌と標して、其中に、泊瀬川《ハツセガハ》古川《フルカハ》の邊《ベ》に雙本《フタモト》ある※[木+温の旁]《スギ》年を經て又も相見むふたもとあるすぎとあるは、即旋頭歌のことを、※[木+温の旁]になずらへてよめりと見ゆるに、そのときふと思ひよれるにはあらずて、もとより雙本歌《フタモトウタ》と云|名目《ナ》のありしによりて、彼序に、古をあふぎて今を戀ざらめかもといふ意を、ほのめかしおもはせていへるなり、かゝれば旋頭の字はいかにまれ、其にはかゝはらずして、フタモトノウタと唱べきことなり、猶この體の歌の委しきことは、余が永言格にいひおきつれば、さまでは筆を費ずしてとゞめつ
(18)   集中歌數
長歌二百六十二首、  十五首(一卷)十七首(二卷)二十二首(三卷)七首(四卷)十首(五卷)二十七首(六卷)六首(八卷)二十二首(九卷)三首(十卷)六十六首(十三)五首(十五)九首(十六)十四首(十七)十首(十八)二十三皆(十九)六首(二十)
短歌四千百七十三者首、  六十七首(一卷)百二十一首(二卷)二百二十五首(三卷)三百一首(四卷)百四首(五卷)百三十二首(六卷)三百二十三首(七卷)二百三十七首(八卷)百二十五首(九卷)五百三十首(十卷)四百七十三首(十一)三百八十一首(十二)六十首(十三)二百三十首(十四)二百首(十五)九十一首(十六)百二十七首(十七)九十七首(十八)百三十二首(十九)二百十八首(二十)
旋頭歌六十一首、  一首(四卷)一首(六卷)二十六首(七卷)三首(八卷)一首(九卷)四首(十卷)十七首(十一)一首(十三)三首(十五)三首(十六)一首(十七)
    件三體合四千四百九十六首
   集中年代
二卷に、難波高津宮(ニ)御宇(シ)天皇(ノ)代、(仁徳天皇なり、)皇后思2天皇1御作歌四首とあるに始りて、二十卷終に、寶字(廢帝年號なり、)三年春正月一日於2因幡國廳1賜2饗(ヲ)國郡司等1之宴歌、とあるに終れり、仁徳天皇元年より廢帝寶字三年まで、凡て四百四十六年になれり、
   本(ノ)句末(ノ)句
後(ノ)世上(ノ)句下(ノ)句といふをば、古より本(ノ)句末(ノ)句とのみいへり、八卷(五十三丁、すべて集中の他處の(19)歌等を引に、幾丁としるせるは、舊印本のまゝの丁《ヒラ》のしるしなり、さるは多く舊印本に目なれたるが故に、是を見出さむに便よからむがためぞ、本條にいたりても、みな其定に意得べし)に、尼作2頭《モトノ》句(ヲ)1并大伴宿禰家持所v誂v尼(ニ)續2末《スヱノ》句(ヲ)1等和歌とありて、佐保河之水乎塞上而上之田乎《サホガハノミヅヲセキアゲテウヱシタヲ》(尼作)苅流早飯者獨奈流倍思《カルワサイヒハヒトリナルベシ》(家持續)とある、頭(ノ)句とあるは、本(ノ)句と云に同じ、書紀景行天皇卷に、日本武尊云々、是夜以歌之問2侍者1曰、珥此麼利菟玖波塢須疑?異玖用加禰菟流《ニヒバリツクバヲスギテイクヨカネツル》云々、時有2秉燭者1續2王歌之未1而歌曰、俄餓奈倍?用珥波虚々能用比珥波苔塢伽塢《カナナベテヨニハコヽノヨヒニハトヲカヲ》、子事記清寧天皇條に、於是志毘臣歌曰、意富美夜能袁登都波多傳須美加多夫祁理《オホミヤノヲトツハタデスミカタブケリ》、如v是歌而乞2其歌末1之時、袁祁命歌曰、意富多《》久美袁遲那美許曾須美加多夫祁禮《オホタクミヲヂナミコソスミカタブケレ》、などあるも、後世下の句と云べき所をかくいへるなり、十四に、宇倍兒波和奴爾故布奈毛多刀都久能奴賀奈敝由家婆故布思可流奈母《ウベコナハワヌニコフナモタドツクノヌガナヘユケバコフシカルナモ》、とありて、左に或本(ノ)歌末(ノ)句曰、努我奈敝由家杼和奴賀由乃敝波《ヌガナヘユケドワヌガユノヘバ》、とも注せり、(同卷に安思我良能波姑禰乃夜麻爾《アシガラノハコネノヤマニ》云々とありで、左に或本歌未(ノ)句云、波布久受能比可利與利已禰思多句保那爾《ハフクズノヒカリヨリコネシタナホナホニ》、とあるは、第三句以下を未(ノ)句とし、十二に、若乃浦爾袖左倍沾而《ワカノウラニソデサヘヌレテ》云々とありて、左に或本(ノ)歌末(ノ)句云、忘可禰都母《ワスレカネツモ》とあるは第五句のみを末(ノ)句といへるなり、これらは仙覺などが校合たるときに、かりにしるせるのみにて、さらに證とするにはたらず、)後撰集六卷に、秋の頃ほひ、ある所に、女どものあまた、すのうちに侍けるに、男の歌の本をいひいれて、侍ければ、末は内より作者《ヨミビト》しらず、しら露のおくにあまたの,聲すれば花の色々ありとしらなん、伊勢物語に、かち人の、わたれどぬれぬえにしあれば、とかきて末はなし、そのさかづきのうらに、つい松のすみして、歌の本をかき(20)つぐ、又、あふさかのせきはこえなむ、枕册子に、古今の雙紙を御前におかせ給ひて、歌どもの本をおほせられて、これが末はいかにとおほせらるゝに、すべてよるひる、心にかゝりておぼゆるもあり云々、源氏物語早蕨に、はかなきことをも、本末をとりていひかはし云々などあるも、みな上(ノ)句下(ノ)句と云ことを、本末といへるなり、大和物語に、このひがきのご、歌なむよむといひて、すきものどもあつまりて、よみがたかるべき末をつけさせむとて、かくいひけり、わだつみの中にそだてるさをしかは、又同物語に、奈良帝の、いはでおもふぞいふにまされる、とのたまはせたる御歌のことを云る所に、これをなむ、世中の人本をばとかくつけたる、本はかくのみなむありける云々、なども見えたり、古事談に、秋風の吹たびごとにあなめ/\とあるを上(ノ)句といひ、小野とはいはじ薄生(ヒ)たりとあるを下(ノ)句といへり、かの頃よりや、上(ノ)句下(ノ)句といひけん、
   毎句名目
集中古注に、毎句の名目をしるせるやう、いとまぎらはし、まづ頭句といへると、發句と、いへると、差異《カハリ》なしとおぼゆ、其中に十二に、江管二毛今見牡鹿夢耳手本纏宿登見者辛苦毛《ウツヽニモイマモミテシカイメノミニタモトマキヌトミレバクルシモ》、とありて、左に或本(ノ)歌發句(ニ)云、吾林兒乎《ワギモコヲ》と注せる、これは第一句をさして發句といへるなり、一卷に、吾欲之野島波見世追底深伎阿胡觀根能浦乃珠曾不拾《アガホリシヌシマハミセツソコフカキアコネノウラノタマソヒリハヌ》、とありて、左に、或頭(ニ)云、吾飲子島羽見遠《アガホリシコシマハミシヲ》と注し、三卷に、今日可聞明日香河乃夕不離川津鳴瀬之清有良武《ケフモカモアスカノカハノユフサラズカハヅナクセノサヤケカルラム》、とありて、或本歌發句云、明日香川今毛可毛等奈《アスカガハイマモカモトナ》と注し、十二に、人見而言害目不爲夢谷不止見與我戀將息《ヒトノミテコトヽガメセヌイメニダニヤマズミエコソアガコヒヤマム》とありて、左に或本歌頭(21)云、人目多直者不相《ヒトメオホミタヾニハアハズ》、と注し、十四に、比呂波之乎宇馬古思我禰?已許呂能未伊母我理夜里?和波己許爾思天《ヒロハシヲウマコシカネテコヽロノミイモガリヤリテワハコニヽシテ》、とありて、左に或本歌發旬(ニ)曰|乎波夜之爾古麻乎波左佐氣《ヲハヤシニコマヲハサヽケ》、と注せる類は、第一二句をさして、頭句とも發句ともいへるなり、十三長歌に、見渡爾妹等者立志是方爾吾者立而思虚不安國嘆處不安國左丹漆之小舟毛鴨玉纏之小※[楫+戈]毛鴨※[手偏+旁]渡乍毛相語妻遠《ミワタシニイモラハタヽシコノカタニアレハタチテオモフソラヤスカラナクニナゲクソラヤスカラナクニサニヌリノヲフネモガモタママキノヲカヂモガモコギワタリツヽモアヒカタラハマシヲ》、とありて、或本歌頭句云、己母埋久乃波都世乃加波乃乎知可多爾伊母良波多々志已乃加多爾和禮波多知?《コモリクノハツセノカハノヲチカタニイモラハタヽシコノカタニワレハタチテ》、とあるは、長歌にては中間より以上を、頭句といへりときこえたり、此等はおほくは仙覺などが、校合《カムガヘアハセ》たるときに注せるなるべぐ、又それよりやゝさきの人の、注せる所もあるべし、此集編る時に、注せるものにはあらず、さて上に引るごとく、八卷に、尼作2頭(ノ)句(ヲ)1家持續2末(ノ)句1とあるは、此集編る時にしるせるものなれば、當時《ソノカミ》は、後世にいふ上句を、頭句といひしならむ、さてその次に、十九に、白雪能布里之久山乎越由可牟君乎曾母等奈伊吉能乎爾念《シラユキノフリシクヤマヲコエユカムキミヲソモトナイキノヲニモフ》とありて、左に、左大臣換v尾云、伊伎能乎爾須流《イキノヲニスル》、然猶喩曰、如v前誦之也、とあるは、第五句のみを尾句と云るなり、十六に、橘寺之長屋爾吾率宿之童女波奈理波髪上都良武可《タチバナノテラノナガヤニアガヰネシウナヰハナリハカミアゲツラムカ》とありて、左に右(ノ)歌椎野連長年説曰、夫寺家之屋者、不v有2俗人寢處1亦※[人偏+稱の旁]若冠女曰2放髪丱1矣、然則腰(ノ)句已云2放髪丱1者、尾句不v可3重云2著冠之辭1也、改曰云々(腰字、舊本には腹と作《カケ》り、今は古寫小本拾穗本等に從つ、)とある、この長年が説には、かた/”\いかゞしきこと多けれども、長年は最後人とは思はれず、此集の當時《ソノカミ》の人にあらずとも、其世にいたく遠き頃の人にはあらじ、さてこれにも、第四句を腰(ノ)句とし、第五句を尾句といへるにて、家持卿の時おへるに異《カハ》らず、四卷に、君爾因言之繁乎古郷之明日香乃河爾潔身(22)爲爾去《キミニヨリコトノシゲキヲフルサトノアスカノカハニミソギシニユク》、とありて、左に、一尾云、龍田超三津之濱邊爾潔身四二由久《タツタコエミツノハマベニミソギシニユク》と注し、十二に、待君常庭耳居者打靡吾黒髪爾霜曾置爾家類《キミマツトニハニシヲレバウチナビクアガクロカミニシモソオキニケル》とありて、左に或本歌尾句(ニ)云、白細之吾衣手爾露曾置爾家留《シロタヘノアガコロモテニツユゾオキニケル》、と注せる類は、第三句以下をさして、尾句といへるなり、これも仙覺などが校合たるときに、注したるものと見ゆ、上に云るところを合(セ)考(フ)るに、おほかた第一二句を、頭句とも發句ともいひ、第三四五句を、尾句とむ末句とも云たるにや、(第三句以下をさして末句と云ること、上條にいへり、)おほよそ毎句の名目をしるせるやう、古よりいとまぎらはしきことなり、うるはしくは、契沖もいひしごとく、第一句を頭とし、第二句を胸とし、第三句を腹とし、第四句を腰とし、第五句を尾《シリ》といはむぞ正しかるべき、
   倭歌
歌を、うちまかせて倭歌《ヤマトウタ》といへること、此集の頃まではをさ/\なし、和歌とあるは、答歌報歌などあるに同じ、みな答ふる歌なり、(廿卷に、先太上天皇詔2陪從王臣1曰、夫諸王卿等宜d賦2和歌1而奏u、即御口號曰云々、とある和歌も答歌の謂なり、其次に舍人親王應v詔奉和御歌とあるにてもしるべし、然るを本居氏國號考に今の文を引て、倭を和(ノ)字に改めて、倭歌といふべきを、和歌と書る證にいへるは、ふと思ひ誤れるなり、)續日本後紀十九に、嘉祥二年三月庚辰、興福寺大法師等、爲v奉《マヲス》v賀《コトホギ》3天皇(ノ)寶算《ミヨ》滿2于四十1獻れる長歌をしるして、夫|倭歌之體《ヤマトウタノスガタハ》、比興(ヲ)爲v先、感2動(スルコト)人情1最《モハラ》在v茲矣、とある、これらや、倭歌とうけはりていへることの始ならむ、その後古今集の頃よりは、倭歌と云ることめづらしからぬことなり、たゞ此集五卷に、天平二年十二月、太宰帥大伴卿大納言(23)に任《メサ》れて、京へ上られむとするとき、憶良の書殿餞酒日《フミドノニテウマノハナムケセルヒノ》倭歌四首とあるのみは、この前後に、送別の詩《カラウタ》ありしならむによりて、それに對して故《コトサラ》にことわれるものなるべし、その前に、山上臣憶良悲2傷亡妻1詩并序ありて、其次に日本挽歌《ヤマトノカナシミウタ》とことわれると、同じ意旨なり、さらではたゞに歌を倭歌といへること、かの頃まではなきことなればなり、そも/\すべて倭某《ヤマトナニ》と云ことは、異國《アダシクニ》の道を學ぶをのみ、學問と意得、異國《アダシクニ》を主《アルジ》とたてゝ吾をかへりて客《ヨソビト》になして、異國のものに、かたさりたるいひざまにて、大《イタ》くひがことなるを、中古より此方、華夷の分をとりうしなひてより、さることにも心つかずして、平常《ツネ》にしかのみいふべきものゝ如《ゴト》、世人もおぼえたるこそあさましけれ、(唐衣、呉皷、高麗錦、百濟琴、新羅斧など云は、異國のものなれば、眞にさることなり、)
   東歌
東歌《アヅマウタ》とは、東國風《アヅマノクニブリノ》歌なり、阿豆麻《アヅマ》といふ名の起《ハジマ》れる由縁《ヨシ》は、古事記書紀、倭建命の御故事《ミフルゴト》に委く見えたり、さて古は東國は、人の風俗《フルマヒ》言語《コトヾヒ》よりはじめて、何事もさま異《カハ》りたりければ、殊に束某《アヅマナニ》とことわれること多し、東語、東人、東男、東女、東豎子、東屋、東琴などの類なり、十四卷は全《モハラ》東歌を載て、始に雜歌相聞など部をたて、其部内に、某國歌某國歌と、各々國を分ちて收れ、中間より再び、雜歌相聞など部をたて、其部内には、未勘國(ノ)歌を收たり、此卷なるには、すべて作者《ヨミビト》の名を出さず、其中に、たま/\柿本朝臣人麿歌集に出たる歌なるよし注せるは、もと東歌にあらざるが、まぎれて東歌に收たる謂には非ず、東歌を人の傳誦たるを聞て、彼朝臣の集に載たるなり、廿(24)卷には、大かた筑紫(ノ)諸國《クニ/”\》の防人《サキモリ》に、差遣さるゝ東人どものよめる歌を、各々東國の司《ツカサ》の、防人部領使《サキモリコトリヅカサ》なりしが、取(リ)集(メ)て、朝家《オホヤケ》に進《タテマヅ》りし歌どもなり、其には各々作者の名をあらはし、又作者知ざる防人等の歌をも、後にいさゝか出せり、さて東(ノ)國は自然《オノヅカラ》の風俗にて、其言語の異《カハ》れるにこそあれ、故《コトサラ》に設て、東風に作るには非ず、東人といへども、歌よむには、力(ラ)のかぎり雅言《ミヤビゴト》をまねびて、華人《ミヤコビト》のに似べくつとめしなり、しかまねびても、東國の風土の癖ののぞこらず、ひたすら其國の俗言のみにて、しらべとゝのへて、華人には、いかなる意とも通えがたきをば省きすてゝ、後世に傳へざりしこと、かの防人部領便の進れる歌の中に、拙く劣りたるをばすてゝ、取載ざりしよししるせるにて思ふべし、かくて數首《アマタ》の東歌の中に、まれ/\華人の作るにも、をさ/\おとらざるがあるにつきて、此集を釋者《トクヒト》の、東歌の中に、まれ/\雅歌《ミヤビウタ》のまじれるは、京人の東(ノ)國の司《ツカサ》などにて下りたるが、よめるものなるべしと云るは、甚偏なる論なり、いかにといふに、凡て古に東人の裁歌《ウタヨミ》することは、たとへて云ば、今(ノ)世に琉球人などの、歌よむごとくにぞ有けむ、さるは彼國人の、皇朝學に未熟《イマダシ》きが、ひたすら彼國語にてよみとゝのへたるは、むげにつたなくして、其意通えがたきが多かるを、そが中に皇朝學にやゝ長《タケ》たるがよめるは、皇朝人の作《ヨメ》るに、おほかたおとらざるも多きが如し、古の東人も、雅言をよく學び得たるは、よき歌をもよめりしなり、殊に廿卷、防人等の名をあらはせるが中にも、詞雅びて、たけたかく秀たるがあるをも思ふべし、されば東人にも、學《マナビ》の長《タケ》たると短《シカラザ》る、又|性《ウマレツキ》の勝れたる、劣りたる、くさ/”\ありて、一方ならざれば、必東語をもてとゝのへざれば、東歌にあらじと思ふは、あらぬことなりけり、
(25)  反歌
長歌の後に並載たるを、反歌といふことなり、さて一二卷には、反歌としるすべき所を、短歌と書るも往々あれども、その短歌も即(チ)長歌の反歌なり、三卷より以下は、題詞に短歌としるせるをも、長歌の後には、すべて反歌とのみしるせり、十七卷には、長歌の後に短歌を並載て、必反歌としるすべき所を、其字を省けるは、略てもまがふことなければなるべし、さて又十九卷に、反歌とあるべき處を、反詠と書ることあり、但し官本には反謌と作り、反詠にても同じことなり、さて此は長歌の意を總《スベ》ても、又は長歌にいひのこせることをも、短歌もて、うち反してうたふが故に、反歌とは云るなり、(中山嚴水云、古事記書紀を見るに、上(ツ)代にも歌に長短は有けれど、長歌反歌と並(ヘ)て、歌の義とせることはあらず、此集にては、初て一卷、高市岡本宮御宇天皇代の標中の歌に見えたれば、彼舒明天皇の御代の頃よりぞ始りけむ、思ふに推古天皇の御代の頃よりして、漢國の往反《ユキカヒ》いよ/\しげくなり、諸々の事、彼國の風俗をまねびうつせるより、これも彼漢國の賦てふ歌を、まねびうつされしと見えて、集中にも長歌をたゞちに賦と書る所も多く見え、十七に、大伴家持卿、同じ池主に贈り賜ひし詩の後には、既に式擬亂として、其反歌を出されしなど、いよ/\賦てふから歌を、學び移されし事しられたり、さてその賦の亂辭を、荀子には反辭とありて、反辭は其小歌也と自(ラ)注しおきぬれば、こゝの反歌の名、かの反辭に本づきて、其歌のさまも、かの意を旨として長歌の意を約めて、打返しうたふことゝはなせりと云り、此考おもしろし、○伴蒿蹊が閑田次筆と言ふものに、或人の考に、反歌は短歌といふに同じく、反(26)は短(ノ)字の義なるべし、といひしよしいひて、又加茂祐之が著せる日本逸史を見るに、延暦十五年夏四月丙寅、宴2掖庭1酒酣、上《スメラミコト》反歌曰、氣左乃阿沙氣奈呼登以非都留保登々擬須伊萬毛奈可奴伽比登能騎久倍久《ケサノアサケナクトイヒツルホトヽギスイマモナカヌカヒトノキクベク》、類聚國史遊宴御製也とあり、この前に長歌なければ、カヘシウタとはいはれず、ミジカウタとよむべし、これにて、他の例引書にも及ばずといへど、右の處を類聚國史、并《マタ》流布《ヨニオコナハルヽ》本の日本後紀にも、上乃歌曰云々とあり、必然なくては文格もとゝのはず、もし反歌ならば、作2反歌1曰などゝこそあるべけれ、かつは他の例にもたがへるをや、諸々の國史のうち、短歌を多く載たれども、反歌といふ名見えたることなし、其は長歌に並載たるときの名にかぎれるがゆゑなり、又近頃度會弘訓が、海士のしわざと云ものに、これも反歌短歌を、同義とする説をうべなひて、集中の反歌の字は、カヘシウタと訓ては、和歌《コタヘ》にもまぎらはしければ、ミジカウタと訓むかた穩なるべし、と云るも論ふに足ず、今世にこそカヘシウタとよみては、答(ヘ)歌にまぎるゝこともあるなれ、古(ヘ)報贈《コタフ》る歌を、かへしうたといひし例なければ、和歌に混ふべき謂なし、古今集眞字序に、逮3于素盞嗚尊到2出雲國1、始有2三十一字之詠1、今反歌之作也、とあるを引て、反歌は即短歌なる證とすべしといへれど、彼序は長歌につきたる反歌の體作といへる義か、又はすべで短歌を、反歌ともいふことゝ心得たるか、かにかくに證と信《タノ》むに足ざるものなるをや、然るを祐之は、類聚國史の誤字本に据て、逸史に取載しものなり、然る所由をも知(ラ)で、唯一(ト)偏《ムキ》にのみ就て、かゝる謾言いふは、あまりにかたはらいたきわざなりかし、又古事記下卷仁徳天皇條に、志都歌之返歌《シヅウタノカヘシウタ》、神樂譜に、此歌爲2御前(ノ)返歌1、江次第石清水臨時祭儀に、舞人出畢、陪從|返(27)歌《カヘシウタシテ》退出などあるは、歌ふ調の事にて、其は別のことなり、まどふべからず、)
  詩 詩詠 賦 詠 絶
五卷遊2於松浦河贈答歌八首の中に、因贈2詠歌1曰云々、答詩曰云々、(これ漁女の報答なり、詩(ノ)字、舊本に待と作るは誤なること著し、類聚抄古寫一本等に詩とあるぞよき、又古寫本には謌、古寫小本拾穗本等に歌とあるに從(ヘ)ば、こともなけれども、他にも詩といへることあれば、なほ詩ならむ、)とありて、その八首の次に、後人追和之詩三首、(都帥老)云々、(この詩(ノ)字も、古寫小本古寫一本拾穗本等には歌、官本には謌と作(ケ)り)、又同卷帥大伴卿、梧桐(ノ)日本琴《ヤマトコトヲ》贈2中衛大將《ナカノマモリノツカサノカミ》藤原卿1歌二首の中に、僕報2詩詠1曰云々、(この詩も一本には歌、古寫小本拾穗本等には歌と作り、)などある詩、また詩詠は、たゞ歌のことなり、(からうたにはあらず、)十七卷に、二上山賦一首、又遊2覽布勢水海1賦一首、又敬和d遊2覽布勢水海1賦一首、又立山賦一首、又敬和2立山賦1一首などある賦は、長歌のことなり、十六卷に、乞食者詠とあるは、長歌なれど、詠はたゞ歌と云に同じかるべし、短歌を短詠とも書、反歌を反詠とも書る處あるを思ふべし、十七卷に敬和1v遊2覽布勢水海1賦u一首并一絶、又敬和2立山賦1一首并二絶、又入v京漸近悲情難v撥述v懷一首并一絶、又云々聊奉2所心1一首并二絶、などある一絶二絶は、短歌一首短歌二首と書るに同じ、十八卷に、云々仍作v雲歌一首并短歌一絶、とあるも同じこゝろばえなり、これらみな寧樂人の癖として、漢國の文章風にまねて、故《コトサラ》に書るものなり、
   古點 次點 新點
(28)一に古點といひしは、村上天皇天暦年中に、廣幡の女御のすゝめ申させ給ひけるによりて、梨壺五人(源順、大中臣能宣、清原元輔、坂上望城、紀時文)に詔し給ひて、梨壺(昭陽舍)に於て、萬葉集に訓點を加へしめ給ふこれなり、(この事十訓抄に見えたり、源順家集に、天暦五年宣旨ありて、初てやまと歌撰ぶ所を、梨壺におかせ給ひ、古萬葉よみとき撰はしめ給ふなり、召をかうふるは、河内掾清原元輔、近江掾紀時文、讃岐掾大中臣能宣、學生源順、御書所預坂上望城なり云々、そもそも順、梨壺には、奈良の都の古歌讀とき撰び奉りし時には云々、舊本廿卷、仙覺が奧書に、天暦御宇、源順等奉v勅初奉v和之剋、定於2漢字之傍1付2進假名1歟、仍慕2往昔之本1、故先度愚本、於2漢字之右1付2假名1畢、とあり、又仙覺が萬葉抄に、天暦五年十月晦日、梨壺の五人に勅して、萬葉集の歌に點を付しむ、しかるに、一卷なる白浪乃浜松之枝乃手向草幾代左右二賀年乃經去良武と云歌の、第四句にいたりて、訓むやうをしらず、これによりて、源順、石山に參籠して、いかで訓むやうをさとしたまはれ、と觀音にねむごろに祈請《イノリマヲ》しけるに、七日七夜を經ても、その示現《サトシ》なかりければ、力おとして、今は京宅に歸らむと思ひて、その夜大津の邊に旅宿す、曉にいたりて、隣の家の旅人の出たつを見れば、其旅人の主とおぼしきもの、馬荷を付るに、一《ヒトリ》の卑夫《シモベ》ありて、片手にてこれを抑ふるに、その主の云けるは、まてをもて抑ふべしといひけるに、源順心づきて、この句をイクヨマテニカと訓るよし、古老の物がたりにきけり、となむしるせる、これはあまりしき物がたりにてはあれども、其頃此集、なべて世に埋れたりしかば、さしも名を得し源順のぬしすら、いたく訓うむじたるさま、おもひやられたり、)二(ツ)に次點といひしは、大江佐國、藤原孝言、大(29)江匡房、源國信、源師頼、藤原基俊、各訓點を加へられしこれなり、(くはしく詞林采葉に見えたり、舊本廿卷、仙覺が奧書に、以2孝言朝臣本1校畢とあるは、この次點の本なるべし、)三(ツ)に新點といひしは、仙覺が訓點を加へしこれなり、(即今世に流布《ホドコ》れる印本これなり。舊本一卷仙覺が奧書に、去今兩年二箇度書寫本者、不v論2古點新點1、取2捨其正誤1、於2漢字右1一筋所2點下1也、其内古次兩點詞者、撰2其秀逸1同以v墨點之、次雖v有2古次兩點1、而爲2心詞參差1句者、以2紺青1點之、所謂不v勘2古語1之點、并手爾乎波之字相違等、皆以2紺青1令2點直1之也、是則先顯v有2古次兩點1、且示3編非2新點1也、次新點謌并訓中補闕之句、又雖v爲2一字1、而漏2古點1之字、以v朱點之、偏是爲2自身所1v見點之、爲2他人所1v用不v點之而已、とあり、)已上三等の訓點は、みな字の右傍に付たるなるべし、舊本廿卷奧書に云々、其後聞2古老傳説1云、天暦御宇、源順奉勅宣1、令v付2假名於漢字之傍1畢云々とあり、其外はおほくは本文一首を右に書て、其左に假名をならべ書たりしとおぼえて、舊本一卷奧書に、今此萬葉集假名、他本皆漢字歌一首書畢、假名歌更書之常儀也といひ、又藤原重家卿自筆本奧書を引て、件本以2二條院御本1書寫本也、他本假名別書之、而起v自2叡慮1、被v付2假名於眞名1、珍重々々、可2秘藏1可2秘藏1、とも見えて、たま/\重家卿本に、字の右側に訓點を付たるを、いたく賞たり、又官本奧書に、抑々萬葉集、和字出來之後者、漢字歌一首書了、又更書2假名歌1事常習也、是者不v知2漢字1男女等、爲v令2見安1歟、今慕2往昔之本1、故一向(ニ)以2漢字1書寫之、而後漢字之傍點2付其和1耳也、又有2多徳1故也云々とも記し、又舊本奧書に、法成寺入道殿下、爲v令v獻2上東門院1、仰2藤原家經朝臣1、被v書2寫萬葉集1之時、假名歌別令v書之畢とも、道風手跡本假名歌別(ニ)書之、とも見えて、彼頃もはらせしことゝおぼゆ、しかれども、漢(30)字の右傍に、假字にて訓點を付たるは、和漢相並べて見合するに、煩なきを、漢字と假名とを別ち書するときは、短歌すらあるに、况て長歌には、いよ/\校勘《カムカフ》るに煩多しとて、くさ/”\其勝劣あることを仙覺論へり、まことにしかることなり、(近き世に加藤千蔭が略解に、漢字歌一首書畢、假名歌更書之、とあるに本づきて、今も古きによれりとて、本文を書をへて、字の左に平假字にて書たれど、まことに煩はしくてわろし、又しか書るを、ひとへに古きことゝはいひがたし、かの源順の古點といひしものも、傍訓なるをや、かの往昔(ノ)本の傍訓の便なるを賞て、先度愚本於2漢字之右1付2假字1畢云々、と仙覺云り、即今の印本これなり、かの道風手跡本も、古點よりは後に出來しとこをおぼえたれ、其故は、萬葉集に訓點を付しことは、源順等に始れるよし、かたがたに見えたること、前に云るごとくなればなり、上東門院にまゐらせられし本などは、又後なることさらなり。
   諸本
二條院御本○平三品(經盛)本 經盛は、平忠盛の子、修理大夫正三位と見えたり、高倉天皇承安元年六月十五日、平經盛卿本をもて、藤原重家卿手づから寫されたる由、件の經盛卿本は、もと二條院の御本をもて寫されたるとぞ、かの二條院御本は、清輔朝臣の點せるよし、重家卿手筆本の奧書に見えたる趣、下に云る如し、○讃州本○江家本○梁園御本○孝言朝臣本 肥後大進忠兼が本は、讃州本を以て寫し、江家本、梁園御本、孝言朝臣本を校合せたる趣、件本表紙にしるせしよし見えて、下に云り、○左金吾本○中務大輔本○宇治殿御本○通俊本 舊本廿卷奧(31)書に校本を引て、その本は左金吾本を以て寫し、數本又中務大輔本をもて校、さて又件本の表紙に、宇治殿御本道俊本をもて校たる由見えて、下に云り、○源親行本 舊本一卷奧書に、此本者、正二位前大納言征夷大將軍藤原卿、始v自2寛元々年初秋之頃1仰2付李部大夫源親行1、※[手偏+交]2調萬葉集一部1爲2令v書本1、以2三箇證本1令v比2校親行本1了とあり、親行は正五位下右馬允源光遠の孫、正五位下民部丞先行の子なり、藤原卿は、鎌倉四代頼經卿にて、後京極攝政良經公の孫、光明峯寺攝政道家公の四男なり、○松殿御本 同奧書に、寛元四年正月、仙覺又請2取親行本并三箇本1重校合畢、三箇證本者、松殿入道殿下御本、(帥中納言伊房卿手跡也、)光明峯寺入道前攝政左大臣家御本、鎌倉右大臣家御本也云々、弘長元年夏頃、又以2松殿御本并兩本1遂2再校1、糺2文理訛謬1畢とあり、松殿は、攝政關白太政大臣基房公にて、知足院攝政忠實公の孫、法性寺攝政忠道公の二男なり、伊房は、權大納言行成卿の孫、參議兵部卿行經卿の子なり、○光明峯寺殿御本 前に引り、光明峯寺殿は、攝政關白太政大臣兼實公の孫、道家公の子なり、○鎌倉右大臣家本 前に引り、右大臣は實朝公なり、按に、建保元年十一月藤原定家秘本の萬葉集を、實朝卿に贈られたるよし、東鑑に見えたり、其本にや、○治定本 同奧書に、寛元四年十二月二十二日、於2相州比企谷新釋迦堂僧坊1、以2治定本1書寫畢、とあり、○眞觀本 同奧書に、弘長元年夏頃、又以2松殿御本并兩本1、(尚書禅門眞觀本、基長中納言本也、)、遂2再校1糺2文理訛謬1畢云々、舊本廿卷奧書に、尚書禅門眞觀本(元家隆卿本也)とあり、眞觀は、葉室大納言藤原光頼卿より四世、右大辨右衛門佐正四位下光俊、出家して眞觀と云り、○基長本 前に引り、基長は、正二位堀河右大臣頼宗公の孫、正二位内大臣能(32)長公の子なり、○六條家本 同奧書に、弘長二年正月以2六條家本1比校畢、此本異v他、其徳甚多、珍重々々、○重家本 同奧書に、彼本(從三位行備中權守藤原重家卿自筆本、)奧書云、承安元年六月十五日、以2平三品(經盛)本1手自書寫畢、件本以2二條院御本1書寫本也、他本假名別書v之、而起v自2叡慮1、被v付2假名於眞名1、珍重々々、可2秘藏1々2々々1、彼御本清輔朝臣點之云々、舊本廿卷奧書に、弘長二年初春之頃、以2太宰大貳重家卿自筆本1令2校合1云々などあり、重家は修理大夫顯李の孫、左京大夫顯輔の子、清輔の弟なり、○忠定卿本 舊本一卷奧書に、弘長三年十一月、又以2忠定卿本1比校畢、凡此集既以2十本1遂2校合1畢、とあり、忠定卿は傳未詳ならず、或説に、中山忠親の孫、大納言兼宗の男なりといへり、猶考(フ)べし、十本は、親行本より忠定卿まで十箇本をさせり、二條院御本より通俊本までの數本は、仙覺も親校たる趣にあらざれば、十本の内には非ず、○左京兆本 同奧書に、又文永二年閏四月之頃、以左京兆本1(伊房卿手跡也)令2比校1畢、而後同年五六兩月之間、終2書寫之功1、初秋一月之内令2校點1之畢、となり、左京兆は傳未詳ならず、○忠兼本 舊本廿卷奧書に、斯本者肥後大進忠兼之書也、件本表紙書云、以2讃州本1書寫畢、以2江家本1校畢、又以2梁園御本1校畢、又以2孝言朝臣本1校畢者、可v謂2證本1者歟、といへり、○校本 同奧書に、又校本云、以2前左金吾本1書寫畢、保安二年七月、以2數本1比校畢、又以2中務大輔本1校畢、件本表紙書云、以2宇治殿御本通俊本1校畢者、とあり、宇治殿は、法成寺道長公の子、攝政關白太政大臣准三后頼通公なり、○法性寺殿御自筆御本 同奧書に、次歌詞高下不v同者、如2光明峯寺入道前攝政家御本、鎌倉右大臣家本、忠兼本1者、歌高詞下、先度愚本移之畢、法性寺殿御自筆御本又同之也、とあり、法性寺殿は、關白内大臣師(33)通公の孫、攝政關白太政大臣准三后忠實公の子、攝政關白太政大臣忠通公なり、○道風手跡本 同奧書に、道風行成等手跡本、同以詞擧(ケ)歌|下(ケタリ)、仍去今兩年二箇度、書寫本移之畢、とあり、又下に然而道風手跡本假名歌別書之、とも見ゆ、○行成自筆本 前に引る如し、按に年歴はしらず、伊勢國なる商人の家に、萬葉集の古き寫本もたりしとぞ其(レ)に行成卿の自筆も交りたるよし、其後同國富山喜左街門傳へ得たりしを、又後に攝津國神戸なる、田原屋某と云もの傳へたるよし、田原屋は富山がうまれし家の兄弟なりとぞ、但し闕本なるか、そのかたへは、熊本侯の臣、淺山斎宮助京都なるがもとにありといへり、此(レ)かの行成卿自筆本と云ものゝ片はしなどにもやあらむ、上(ノ)件、左京兆本より行成自筆本まで六箇本は、仙覺が彼十箇本を、比校たる後に、見たるなどにやあらむ、○月輪殿御本 官本奧書に、三箇本者松殿入道殿下御本、藁穗包紙、紫表紙、黒木軸、後御本不慮之外、備後守三善康時被v給云々、鎌倉右大臣家本、厚樣表紙、赤太軸、貝(ノ)尾長鳥(ノ)丸、月輪入道殿下御本、(青羅表紙草子十帖、)一帖複二卷とあり、○擇然本 同奧書に、上文につゞきて、又以2擇然上人本1校之、而依2自本1直2付損字1、書2入落字1了、とあり、以上數十本はいと古き本《マキ》どもにして、後世に傳はりたることを聞及ばず、今此注釋の中に校合(セ)たる本どもに、○官本としるせるは、もと官庫の御本を以て、八條智仁親王校合したまひ、朱を寫し、奧書を加へたまふ本なり、これより下、六條本といふまで水戸侯の校たまへる八通異本の内なり、千賀眞恒が校合(セ)たる本、契冲が代匠紀に 校合(セ)たる、其他から/\に校へ傳へたるに今はよれり、○幽齋本としるせるは、幽齋玄旨法印 所藏《モタ》りし本のよしなり、○中御門本とし(34)るせるは、宣胤卿自筆の本を以寫したまへるよしなり、○阿野本としるせるは、阿野季信卿より傳はれる本なりとあり、○紀州本としるせるは、紀伊大納言光友卿|所藏《モタマヘ》る本なりとあり、○飛鳥井本としるせるは、飛鳥井雅親卿奧書を加へられし本なりとあり、○六條本としるせるは、六條有親卿の所持《モタマヘ》る奧書ありし古本なりといへり、已上、官本より六條本まで七箇本に、舊印本を加へて、八通異本といへり、此六條本とあるは、かの弘長二年に仙覺が比校たりしよしいへる、六條家本といへるものと同流か、重て尋ぬべし、○元暦本としるせるは、後鳥羽天皇元暦元年六月九日、右近權少將なる人の校合たるよし、奧書せる寫本なるを、伊勢國人なるがもてるよし、其(レ)を今はかた/”\に校へて傳へたり、○類聚抄としるせるは、古葉略類聚抄と題《シル》せるを、後深草天皇、建長年中に春日(ノ)若宮の神主の先祖、祐茂と云人の書寫したるよし奧書したるを、天明元年、難波なる木村孔恭が寫(シ)得たるを、今はこゝかしこに傳(ヘ)寫たり、○古葉略要と擧たるは、羽倉東麻呂翁の僻案抄に、春日若宮神主大中臣祐宗、物學に來て、彼家に傳へし古葉略要集を持來て見せし時、此集の文字のたがひども、校合せしよしありて、後に岡部氏が萬葉考には、此東麻呂の本もて、異同をしるしたるものとぞ、これはかの類聚抄と同じきか異なるか、其詳なることを知ず、今引ところはもはら岡部氏萬葉考によりつ、○道晃親王御本としるせるは、聖護院宮照高院道晃親王の御本を、風早公長卿の寫したまひしを、柏村直條と云者、公長卿に乞て得たりしを、直條が子眞直と云ものゝこへるまゝに、風早三位實積卿、延享元年十月に奧書を加へられしを、近き頃本國の※[翳ノ羽が巫]人《クスシ》葛西某と云ものが、得てもたる本なり、○正安本と(35)シルセルハ、後伏見天皇正安三年、治部丞頼直と云人、鎌倉に於て書寫校合せるよし奧書したる寫本なり、○拾穗本としるせるは、北村季吟が拾穗抄の本なり、○活本としるせるは、今世に傳はりたる活字本なり、○水戸本としるせるは、水戸侯だ|藏《モタマヘル》本にて、千賀眞恒が校合(セ)たる本と、契冲が代匠記とに校合たるとによれり、○大須本としるせるは、後醍醐天皇正中二年に、藤大納言爲世卿本を以て書寫せるよし、奧書せる本なり、○古寫小本としるせるは、本國高岡都人吉川文水と云が家に藏《モタリ》し本にて、やゝ古き時に寫せるものと見えたり、拾穗本に似て、又異なる所多し、一流の本と見ゆ、○中院家本としるすは、加藤千蔭が略解に引るをとりつ、○一本としるせるは、千賀眞恒が校本に引るをとりつ、○校異本と云は、近き世に椅本肥後守橘經亮と吉田社公文所藤原以文とが校たる本なり、其中に、古寫本二條院御本中院本などは、全書名を擧(ケ)、また略きて飛としるしたるは、飛鳥井家本なるべし、阿としるしたるは阿野家本なるべし、紀としるしたるは、紀州本なるべし、林としるしたるは、林氏本か、菅としるしたるは菅家本か、なほ尋ぬべし、○右の餘、人麿勘文、清輔朝臣袋草子、顯昭袖中抄、一條禅閤歌林良材集、頓阿井蛙抄、紀氏古今六帖、古來風體抄の類に出せるもの、資とすべきものはみな合せ校つ、
   古萬葉集
此集を、中音の書どもに、古萬葉集と記せること多し、源氏物語梅枝卷に、嵯峨の帝の古萬葉集をえらぴかゝせ給へる四卷《ヨマキ》、枕册子に、集は古萬葉集古今後撰など見え、清輔(ノ)袋册子に、此集末代之人稱2古萬葉集1、源(ノ)順集にも、古萬葉の中にと云こと見えたり、明衡(ノ)新猿樂記に、古萬葉集、(36)新萬葉集、古今後撰拾遺抄、諸家集等、盡以見了云々、これ菅原大臣の新撰萬葉集を撰ばせ給ひしより、共に世王行はるゝ故に、それに分ちていふ稱なり、(たゞ古代の集なるが故に、いへるにはあらず、)
   引用書目
古事紀 日本書紀 古歌集 柿本人麻呂集 笠(ノ)金村集 高橋蟲麻呂集 田邊麻呂集 山上憶良類聚歌林 以上八部の書は、此集編るとき家持卿などの、引用られしものとおぼゆ、中には此集より後の人の、書加へしとおぼゆる處もあり、此餘に或本(ニ)曰、一書(ニ)曰、などあるは、おほくはかの仙覺などが諸本を校しとき、書注したるものと見ゆ、さて世に人麻呂集とて、平假名にかける集あるは、此集より遙に後に作れるものにして、古のに非ず、かくてかの人麻呂集といへるもの、みづからの歌のみにあらず、ひろく諸人のをも、聞にしたがひ見るにつけて、集め載たれたるなり、されば人麻呂集に出たりとて、彼朝臣の歌にあらざるが多きこと、其證かたがたに見えたり、笠(ノ)金村、高橋(ノ)蟲麻呂、田邊(ノ)福麻呂などの集、みな此(レ)に准へて知べし、
   題詞讀法
此集の題詞《ハシヅクリ》に、御宇とあるをば、アメノシタシロシメシヽと訓(ミ)、天皇とあるをば、いつもスメラミコトと訓申すことの類は、大かた此集讀者も、然意得てたがふことなきを、なべての漢字の讀ぎまあしくして、あさましきこと多し、但し此集は、歌詞を主とせる書なれば、題詞はいかにまれ、其意だに通《キコ》ゆれば、さてあるべきことにしあれば、大かた音讀にしても、事は闕まじきに(37)似たれども、讀《フミ》書《ヨム》ことの古法なれば、古言のまゝに、よまるゝかぎりは訓べきことなり、中にも官位の稱、氏姓の號の類は、さらにもいはず、いづれもみな、當時の人の讀しやうを、考へたづねて物すべきことにぞありける、
卷第一卷第二とあるをば、ヒトマキニアタルマキ、フタマキニアタルマキ、卷第十はトマキニアタルマキ、卷第十一はトヲマリヒトマキニアタルマキと訓べきことなり、(これも直《タヽ》に卷(ノ)第一卷(ノ)第二と音讀にするときはこともなけれども、古法にならひて、うるはしくよむには、さはいひがたきことなり、又ヒトツノマキ、フタツノマキなどやうにいはむは、ことのさまたがふことなり、同じことながら一の卷二の卷といはむは、ことのさまたがふことなきゆゑ、今少しまされることなり、第一皇子、第二皇子などをも、ヒトハシラニアタリタマフミコ、フタハシラニアタリタマフミコと訓申し、後には直に一《イチ》の宮|二《ニ》の宮など申すも、ことのさまたがはぬことなるを、ヒトツノ宮、フタツノ宮などは申すまじきを考(ヘ)合(ス)べし、しかるを本居氏(ノ)古事記傳卷首に、卷第一をヒトマキニアタルマキと訓むは、御國の物言ざまにうとしといへれどいかゞ)元年は、ハジメノトシ、、二年三年はフタトセトイフトシ、ミトセトイフトシと訓べし、四年以下は、此定に准へて知べし、(本居氏(ノ)玉霰(ニ)云、今の人、文のしりに、其時の年號をしるして、元年をはじめのとしとかくはこともなし、二年三年などを、ふたつのとし、みつのとしなどかくことは、中昔の文にも例はあれど、皇國の物いひざまにあらず、ひがことなり、さやうにいひては、年の二(ツ)三(ツ)あることになるなり、たとへば、二(ツ)の目五(ツ)の指といへば、目二(ツ)指五(ツ)のことにあらずや、又寛政(38)の三(ツ)のとしといへば、寛政といふ人の、三歳の時とも聞ゆるをや、されば二年三年など、みなふたとせと云とし、みとせといふとしとやうにかくべし、もし又むかしのことならば、いつのふたとせといひし年、みとせと云しとしなど書べし、かゝるぞ御國のものいひなる、とある如し、)十一年廿一年などはトヽセマリヒトヽセト云トシ、ハタトセマリヒトヽセト云トシと訓べし、餘はみなこれに傚ふべし、但しこれらはトヲマリヒトヽセト云トシ、ハタチマリヒトヽセト云トシとやうにいひてもよろしけれども、古今集序にも、みそぢあまりひともじとは云ずして、みそもじあまりひともじとあるに准ふときは、なほトヽセマリ、ハタトセマリとぞ云べき、マリは餘《アマリ》なり、續後紀十五卷、尾張連濱主歌に、那々都義乃美與爾萬和倍留毛々知萬利止遠乃於支奈能萬飛多天萬川流《ナヽツギノミヨニマワヘルモヽチマリトヲノオキナノマヒタテマツル》とありて、古語には、餘《アマり》を上より連ね言ときは、萬利《マリ》と云り、常陸國風土記に、茨城郡東十里桑原岳、昔倭武天皇停2留岳上1、進2奉御膳1時、令3水部(ニ)新堀2清井1、出泉淨香、飲喫尤好、勅2云《ノリタマヒキ》能停水哉《ヨクタマレルミヅカモト》1、由是《カレ》里(ノ)名(ヲ)今謂2田餘《タマリト》1、これも餘をマリと云に借用たり、(但し近き頃の人の文などに、時代のわきまへなくして、中昔のさまなる文にも、とをまりはたちまりなどやうにかくは、心づきなきことなり、古今集序にも、みそもじあまり、もゝとせあまりなどあれば、文の體によりては、なほあまりと云ぞよろしき、ひとへにあを省きて、まりと云べきことゝ意得ては、たがふことあり、佛足石碑御歌にも、彌蘇知阿麻利布多都乃加多知《ミソチアマリフタツノカタチ》云々と見えたれば、阿麻利《アマリ》とふるく云ることもあるをや、此はことのついでにおどろかしおくなり、)○正月は、いづくにてもムツキと訓べし、言(ノ)義は身月《ムツキ》なり、身《ミ》を牟《ム》と云は、(身根《ムネ》身實《ムサネ》などいひ、武藏をも古書(39)どなに身刺《ムサシ》とあり、これは五十音の第二位を連(ネ)言(フ)とき、第三位に轉す格にて、月《ツキ》をツクヨ、神をカムサビなどいふに全同じ、)舍屋の中に主とある處を身屋《ムヤ》と云が如し、(これを後には訛りて母屋《モヤ》とも云るに就て、表屋《オモヤ》の略言ぞと思ふはあらぬことなり、古くは身屋《ムヤ》とのみ云り、)かくて正月は、十有二月の中の本元《モトヰ》なれば、身月とはいふなり、人にとりて云ば、身ありて後に言も葉もあるが如し、(木草の實と云も同じこゝろなり、然るを古より此意を得たる人なくして、睦月の意なりなど云は、さらにいふに足ず、岡部氏が、本つ月の約なりと云るもあらぬことなり、凡て月々の名の義、昔來説々あれど、大かたあたらぬことなり、)二月はキサラキと訓(ム)、言義は未考(ヘ)得ず、(古來説ありといへどもあたらず、岡部氏が草木張《クサキハリ》月の約れるなりと云るは、いとわづらはし、谷川氏が氣更來《キサラギ》なりといへるもいかゞ、)三月はヤヨヒと訓(ム)、言(ノ)義は草木彌生《クサキヤオヒ》の意なりと昔來いへり、(オ〔右○〕とヨ〔右○〕と韻通へり、)これはさもあらむ、四月はウツキと訓、ツは清て唱べし、すべて月々の名の中、今世にも、正月《ムツキ》五月《サツキ》八月《ハツキ》十一月《シモツキ》はツを清て唱ふれども、四月《ウツキ》六月《ミナツキ》七月《フミツキ》九月《ナガツキ》十月《カミナツキ》は、ツを濁(リ)て唱ふることなれど、此等は假字書も見えざれば、しばらく清て唱べし、正月《ムツキ》五月《サツキ》は、五(ノ)卷に武都紀《ムツキ》、十七(ノ)卷に佐都奇《サツキ》と見えたり、言(ノ)義は未考得ず、(谷川氏が種月《ウヽツキ》なりといへるはいかゞ、)五月はサツキと訓(ム)、言(ノ)義は本居氏云、佐《サ》とは田植る農業を凡て、佐《サ》と云(ヘ)ば、田植る月といふ意なりといへり、(早苗月《サナヘツキ》なりと云は論に足ず、いはゆるさなへのさも五月《サツキ》のさに同じ、うるはしくは五月苗《サナヘ》と書べし、早(ノ)字の意にはあらず、)六月はミナツキと訓(ム)、言(ノ)義は未考得ず、(岡部氏が雷鳴月《カミナリツキ》なりといへるはわろし、谷川氏が水月《ミナツキ》也、言(ハ)田皆引2苗代水1也、といへるもいかゞ、)七月は(40)フミツキと訓(ム)、言(ノ)義は岡部氏が、穗含月《ホフヽミツキ》の約れるなりといへり、これはさることもあらむ、八月はハツキと訓(ム)、言(ノ)義は穗垂月《ホタリツキ》なるべし、ホタはハと切れり、リは活用く言にて、省きて云例多し、穂垂《ほたり》は稻穗の靡《シナ》ひ垂《タル》る意なり、新撰萬葉に、幾之間丹秋穂垂濫草砥見芝程幾裳未歴無國《イツノマニアキホタルラムクサトミシホトイクバクモイマダヘナクニ》とあり、(岡部氏が穗發月《ホハリツキ》なりといへるは、今少しいかゞ、)九月はナガツキと訓(ム)、言(ノ)義は熟饒月《ニギツキ》なるべし、ニギとナガとは音親く通へり、凡て饒《ニギ》は那藝《ナギ》那胡《ナゴ》爾胡《ニゴ》などゝ通はし云て、本同言なり、(又キとカは常通へり、)さてこれに兩説あるべし、まづ一(ツ)には、この月はなべて稻穗の登熟《ミノリニギ》ふれば、其意にて云なるべし、稻穗の熟《ウル》を爾藝《ニギ》と云は、かしこけれども番能爾々藝《ホノニヽギノ》尊と申す御名も、穗之丹熟《ホノニニギ》てふ義にて、稻によりたるものなるべきを思ふべし、(これに依ば丹熟《ニニギ》月にてもあるべし、ニヽの切ニとなれり、)又熟田津《ニギダツ》と云も、もと穗の熟《ニギ》ふる田の謂の地名なるべし、二(ツ)には此(ノ)月はもはら、熟稻を刈收(レ)て、天下の人民ゆたに飽《タラ》ひて、相饒《アヒニギハ》ふ謂にもあるべし、崇神天皇紀に、五穀既成百姓饒之《タナツモノスデニナリテオホミタカラニギハヒヌ》、字鏡に※[人偏+如](ハ)豐也饒也爾支波々志《ニギハヽシ》と見えたるをも思ふべし、(夜長月といふ説は云に足ず、拾遺集に、夜を長月といふにやあるらむとよめるは、たゞ時の興にて云るのみにこそあれ、又岡部氏が稻刈月なりといひ、本居氏の稻熟《イナアカリ》月なるべしと云るも、みなわろし、)十月はカミナツキと訓(ム)、言(ノ)義は、大神景井が釀成月《カミナシツキ》の義なるべし、九月に稻を刈收て、此月にさかりに酒を釀(ミ)成(ス)故に云なるべし、十六卷に味飯《ウマイヒ》を水に釀成《カミナシ》吾(カ)待しといへりと云り、(谷川氏は神甞月《カミナベツキ》なりと云れどもいかゞ、)十一月はシモツキと訓(ム)、言(ノ)義は凋月《シボミツキ》の意なるべし、(ホの濁音モと通ふこと常なり、)そは木草の凋枯《シボミカル》る月なれば、しかいふなるべし、冬草などにしもかるゝと常によむ(41)も、霜に枯る意にあらで、凋枯る義なるべし、もし霜に枯る謂ならば、霜にとにの言なくては足はぬこゝちす、十二月はシハスと訓(ム)、言(ノ)義は未考(ヘ)得ず、古事記傳明(ノ)宮段上卷に、志波邇《シハニ》は、底なる土と云ことにて、志波《シハ》とは、物の終を云と聞えたり、年の終の月を志波須《シハス》と云て、極月と書(ク)これ其例なり、萬葉十一に、師齒迫山責而雖問汝名者不告《シハセヤマセメテトフトモナガナハノラジ》と云るも、志波世《シハセ》を、究極終《キハメヲ》へて責る意に取て、責《セメテ》の序とはせりと聞ゆ、といへり、まことに志波は極の意なるべし、須の言はいかゞあらむ、なほ考(フ)べし(年《トシ》極《ハツ》の意といふはあたらず、凡て上(ノ)件月々の名の謂《ヨシ》ども、昔の人もさだせる中に、ムツキを睦月《ムツマシツキ》の意とし、シハスを師走《シハス》の義なりなどゝいへるは、ことにをさなき考どもにして、更に辨ふるにも足ぬことゞもなるを、近世になりて、古學みさかりに行はれてより、岡部氏が語意考、谷川氏が書紀通證などに、この月々の名の謂《ヨシ》ども、種々《クサ/”\》に考へ説《イヘ》るは、そのをちつかたの説《コト》どもにくらべては、こよなくすぐれて、古の意に協へること多かれども、それはたなほいかゞしきこと多し、一(ツ)二(ツ)いはば、ナガツキを稻刈《イナカリ》月の意とするは、稻の上略、シハスを年《トシ》極《ハツ》の意とするは、年の上略とせる類なれど、稻のイ年のトの言などは、もとより主《アルジ》とある言なれば略きていふべき謂なし、たとへば成《ナシ》のシ垂《タリ》のリの言などは、サシスセラリルレなどやうに活用く言にて、伴《カタヘ》なれば省きて云も例多きことなり、このわきだめを定めおきて、さてのちに考ふべきことなるに、近き頃の古學の徒も、なほこの處までわきまへたる人なくして、みだりに略言のさだもて、古語を解むとする故に、大《イタ》くたがへること多し、もしこの規《サダメ》もなく、私に思ふまゝに略きもし、轉《ウツ》し通(ハ)しなどもしつゝもて行ば、はて/\はいづれの言か、原は同言となら(42)ざるべき、すべて言語の省畧轉通伸縮のうへには、くさ/”\の軌則《ノリ》ありて、みだりならざること、別に余が雅言成法と云ものに委(ク)辨云り、披(キ)考べし、)閏正月、閏二月などは、ノチノムツキ、ノチノキサラキなどゝ訓べし、安閑天皇紀に、閏《ノチノ》十二月とあり、但し處によりては、直にウルフツキと訓(ム)、もあしからず、今古集にも、三月《ヤヨヒ》にうるふ月ありける年、とかけり、○朔日は、ツキタチノヒと訓べし、月立《ツキタチ》なり、天智天皇妃には、朔を月立《ツキタチ》と書れたり、(ツイタチと云は後の音便なり、)二日はフツカノヒ、三日はミカノヒ、四日はヨカノヒ、五日はイツカノヒ、六日はムカノヒ、(ムユカ、ムイカなどいふは、八日《ヤカ》をヤウカと云類に、やゝ後の音便にムウカといへるを、又轉して云るなり、古言にあらず、)七日はナヌカノヒ、八日はヤカノヒ、(ヤウカと云はやゝ後なり、)九日はコヽノカノヒ、(コヽヌカといへることも、中音にはあれど、そはやゝ後なり、)十日はトヲカノヒ、十一日はトヲカマリヒトヒ、十二日はトヲカマリフツカノヒ、二十日は、ハツカノヒ、二十一日はハツカマリヒトヒ、二十二日はハツカマリフツカノヒ、三十日はミソカノヒ、と訓べし、これみないにしへのものいひざまなり、又十二日二十三日などを、トヲカフツカノヒ、ハツカミカノヒとやうにもいふべし、(源順家集に、伊勢の齋の宮、秋野の宮にわたり給ひて後、冬の山風寒くなりてのち、はじめはつかなぬかのよ庚申にあたれり、蜻蛉日記安和二年條に、はつかみかのほどに、みたけにとていそぎたつ、などあり、かやうにいふも古の一のいひざまなるべし、)甲子乙丑などは、キノエネ、キノトウシ、などやうに訓(ム)古よりのことなるべし、(キノエノネ、キノトノウシなどやうに、ノの言をつけては、訓ざりしなり、)
(43)太上天皇はオホキスメラミコト、大行天皇はサキノスメラミコト、大皇太后はオホキオホミオヤ、皇太后はオホミオヤ、皇后大后は共にオホキサキ、皇太子はヒツギノミコ、某皇子尊は某《ソレ》ノミコノミコト、皇子はミコ、大兄はオホエ、皇女はヒメミコ、親王はミコ、皇兄はイロセノミコ、皇弟はイロドノミコ、某夫人は某《ソレ》ノオホトジ、某王某女王は共に某ノオホキミ、卿大夫はマヘツキミタチ、某卿は某ノマヘツキミ、某大卿は某ノオホマヘツキミ、某少卿は某ノオトマヘツキミ、某大夫は某ノマヘツキミ、某嫗は某ノオミナ、娘子はヲトメ、又ヲミナ、某大孃某大娘は共に某ノオホイラツメ、某二孃は某ノオトイラツメ、某氏娘子某氏郎女某氏女郎は共に某氏《ソレ》ノイラツメ、某地娘子某地處女(清江娘子、草屋處女の類)は某《ソレ》ヲトメ(某ノとノの言を添るはわろし)婦人はメシヲミナ、又はミヤヲミナ、侍女はマカタチと訓べし、これらみな古に確なる證據あることなり、猶委き事は、本編に至りて、その條々にことわるべし、
太政大臣はオホマツリゴトノオホマヘツキミ左大臣はヒダリノオホマヘツキミ、右大臣はミギノオホマヘツキミ、と訓べし、(本居氏古事記に、左右とあるを、こと/”\にヒダリミギリと訓(ミ)新刻令義解にも、左右大臣などの右にミギリと點をつけたる、そのよるところをしらず、和名抄に、左右京職左右馬寮などの右を、みな美妓《ミギ》とある、これ古(ヘ)にて正しき稱とこそおもはるれ、但し伊勢が亭子院歌合日記に、上達部は、階のひだりみぎりに皆わかれて侍らひ給ふと、あれば、みぎりといひたるも、甚後にはあらず、しかれども、ひだりと云に對へむがために、彼頃の女などの、ことさらにいひたりしことには非るか、うるはしくは美岐《ミギ》といふべくぞ思はるゝ、(44)假字はカリナなるを、殘雪をノコンノユキ、と云ふごとく、音便にリをンに轉じてカンナと云たる、それにならべて眞字をマンナと云たること、源氏物語に見えたり、眞字はもとマンナと云べきよしはなけれども、カンナと云に對へむがために、ことさらに女詞にしかいへるなるべし、からぶみ毛詩にて、南をミンナミ、と訓るも、ヒンガシ、と對へむがために、えせ博士などのいひ出たるにや、)大納言はオホキモノマヲスツカサ、中納言はナカノモノマヲスツカサ、參議はオホマブリゴトヒト、少納言はスナキモノマヲスツカサ、又スナキモノマヲシ、大辨はオホキオホトモヒ、中辨はナカノオホトモヒ、少辨はスナキオホトモヒ、中務省はナカノマツリゴトノツカサ、式部省はノリノツカサ、治部省はヲサムルツカサ、民部省はタミノツカサ、兵部省はツハモノヽツカサ、刑部省はウタヘノツカサ、と訓べし、(但しこれは和名抄に、職員令云、刑部省字多倍多々須都加佐《ウタヘタヾスツカサ》、令義解訓にウタヘサダムルノツカサ、などありて、まことにしか訓べき理にてはあれども、此集の頃は、ウタヘノ司《ツカサ》と唱しなれば、なほ然訓べきことなり、その所由は、三代實録十卷に、貞觀七年三月七日、先v是刑部省奏言、承前之例、訓2刑部省1號2訴訟《ウタヘ》之|司《ツカサト》1、夫名不v正則事不v從、又名以召v實、事以放v象、何以2判斷之司1可v謂2訴訟之司1、望請訓2刑部省三字1將v號2判法《ウタヘコトワル》之|司《ツカサト》1、至v是有v勅云、宜v號2定訟《ウタヘサダムル》之|司《ツカサ》1、とあれば、貞觀七年以往は、ウタヘノ司と唱へしなり、天武天皇紀に刑官《ウタヘノ》事と訓たるも、本の稱のまゝによめるものなり、)大藏省はオホクラノツカサ、彈正臺はタヾスヅカサ、大膳職はオホカシハデノツカサ、左京職はヒダリノミサト司、右京職はミギノミサト司、齋宮寮はイツキノミヤノツカサ、大舍人寮はオホトネリノツカサ、内匠寮はウチ(45)ノタクミノツカサ、散位寮はトネノツカサ、兵庫寮はツハモノヽクラノツカサ、左右馬寮はヒダリミギノウマノツカサ、防人司はサキモリノツカサ、造酒司は、サケノツカサ、内禮司はウチノヰヤノツカサ、典鑄司はイモノシノツカサ、中衛府はナカノマモリノツカサ、兵衛府はツハモノトネリノツカサ、衝門府はユケヒノツカサ、太宰府はオホミコトモチノツカサ、侍從はオモト人マヘツキミ、内舍人はウチトネリ、監物はオロシモノ、神司はカムツカサ、主鈴はスヾノツカサ、判事はコトワル司人、陰陽師はウラノシ、算師はカゾヘノシ、藥師は、クスリシ、國司はクニノミコトモチ、郡司はコホリノツカサ、と訓べし、
卿《カミ》(省)尹《カミ》(弾正)大夫《カミ》(職)頭《カミ》(寮)正《カミ》(司)大將《カミ》(中衛府)督《カミ》(兵衛府、衛門府)帥《カミ》(太宰府)守《カミ》長官《カミ》(國)大領《カミ》(郡)輔《スケ》(省)助《スケ》(寮)貳《スケ》(太宰府)介《スケ》次官《スケ》(國)丞《マツリゴト人》(省)進《マツリゴト人》(職)佑《マツリゴト人》(司)尉《マツリゴト人》(兵箱府、衛門府)監《マツリゴト人》(太宰府)掾《マツリゴト人》判官《マツリゴト人》(國)録《フミヒト》(省)屬《フミヒト》(職)令史《フミヒト》(司)典《フミヒト》(太宰府)目《フミヒト》主典《フミヒト》(國)主帳《フミヒト》(郡)これら集中に出たる諾官の四分(長官、次官、判官、主典、)にで、省寮によりて字こそかはれ、いづれも古はカミ、スケ、マツリゴト人、フミヒト、と唱へしなり、(さて弾正にて尹《カミ》弼《スケ》忠《マツルゴト人》踈《フミヒト》といふ類を、尹《カミ》のみを此に出して、自餘の三分を載ざるは、此集に易えたるのみを出して、見えざるをば除きて載ざればなり、他みなこれに准(フ)べし、諸官の四分の字を漏さず載たらば、便よきことにもあるべけれど、所せければもらしつ、)然るにこれを、後世はなべてカミ、スケ、ジヨウ、サクワンと呼は、長官《カミ》次官《スケ》にのみ、古の稱のこりて、判官主典の二は、ほど/”\古の稱の失ぬるごとくなりぬるは、あさましきことなり、(但しカミスケは唱ふるに便宜しけれども、諸官の判官主典を、こと/”\にマツリゴト人、フミヒトと訓むは、まこ(46)とにわづらはしきによりて、丞《ジヨウ》佐官《サクワン》と唱(ヘ)かへしことなれば、これらはあながちに、古に立かへらずして、後世の稱《トナヘ》のまゝに呼《イハ》むこそ便宜(シ)けれ、ともいふべけれども、其はその稱《ナ》の出來し後の書ならばこそ、さてもあるべきことなれ、その稱の出來ぬ以往《アナタ》の書をば、然訓むべきことにあらざれば、當時《ソノカミ》の人の讀しやうをたづね考へて、物すべきことなりとはいふなり、さはいへど此集などは、歌詞を主《ムネ》とする書なれば、題詞をよまむやうは、其意だに達《キゴ》ゆれば、宜しきことなれば、あながちに拘り泥むべきにあらず、といふ人もあらむ、しかいはゞいへ、丞佐官などいはむは、後世人の耳なれたることなれば、ことさらにあやしむ人もあるべからざれども、もし寧樂朝の人のかたはらなどに在て聞たらむには、いかにわづらはしきを厭へるわざぞとて、その世にいまだありもせぬ詞を設て、字音まじりなどに讀まば、いかばかり笑はれなまし、とかたはらいたきことなり、源方弘と云人が、むくろごめに、といふべきことを、五體こめにといひて、いたくわらはれたること、枕册子に見えたりこれは彼《ソノ》頃、世に人の未いはざることにてはなきだに、いひざまのつたなきを、いやしめられたるにあらずや、ましてその世に、いまだ人のいはざることをいひたらむには、いかばかりにか、)さて諸官の判官をジヨウと呼(フ)は、省の丞の字音よりうつれるなり、と本居氏いへり、(其はいつの頃よりジヨウとは云初けむ、)和名抄にも、諸官の判官を皆|萬豆利古止比止《マツリゴトヒト》、とあれば、彼頃までは、なほ古のまゝに呼しことしるし、諾官の主典を佐官といふは、いかなるよしにていへるにや、本居氏も既くうたがひおけり、さて佐官の稱は、やゝ古くより呼《イヘ》ることゝ思はれて、續後紀に、承和九年七月詔に、品官乃《ツカサ/”\ノ》佐官以上、(47)とありて、其時に設けられたる稱とはおもはれねば、なほそれより前に出來しなるべし、和名抄にも、諸官の主典を皆佐官とありて、其比は古稱はたえて失ぬることなり、(又これを古今集序に、前甲斐のさう官、とありて、其他にも、サウ官といへることかた/”\おほかるは、佐《サ》を音便にサウと卜ひたるものなり、女御《ニヨゴ》をニヨウゴ、牡丹をボウタン、といへると同例なり、)
此他大將軍はオホキイクサノキミ、國造はクニノミヤツコ、遣唐使はモロコシニツカハスツカヒ、遣新羅使人はシラキニツカハスツカヒ、大使はカミ、副使はスケ、朝集使はマヰウゴナハルツカヒ、驛使はハユマツカヒ、相撲使はスマヒノツカヒ、部領使はコトリツカヒ、丁はヨホロ、資人はツカヘヒト、竪子はワラハ、命婦はヒメトネ、采女はウネベ、と訓、此(ノ)たぐひも多し、みな古をたづね考へで、物すべきことなり、
正三位、從四位など云正從は、オホキ、ヒロキと訓べし、和名抄に、位階の正は於保伊《オホイ》、從は比呂伊《ヒロイ》とあるは、伎《キ》を後の音便に、伊《イ》と云たるものにして、古今集序に、おほきみつのくらゐ云々、とかきたるは、古(ヘ)の稱のまゝに物したるにて正しきことなり、さてオホキヒロキと云は、天武天皇の十四年に、定め給へりし位階に、毎v階有2大(ト)廣(ト)1とある、この大廣の訓を取て、正從の訓とせられたるなり、と本居氏云るごとし、四位上五位下など云上下は、和名抄に、上は加美豆之奈《カミツシナ》、下は之毛豆之奈《シモツシナ》、とあるに從べし、さて和名抄に、四位は與豆乃久良井《ヨツノクラヰ》、八位は夜豆乃久良井《ヤツノクラヰ》、とある。これ古の唱のまゝなるにや、そも/\四位五位などは、二年三年を、フタトセト云トシミトセト云トシ、卷第一卷第二を、ヒトマキニアタルマキフタマキニアタルマキ、第一皇子第二皇子を(48)セトハシラニアタリタマフミコ、フタハシラニアタリタマフミコ、など呼《トナ》ふる例に准ふるに、ヨクラヰニアタルクラヰ、イツクラヰニアタルクラヰ、などやうに唱べきことわりにこそあれ、四(ツ)の位五(ツ)の位といひては、たゞ四あるもの、五あるものを、指ていふ稱とこそ聞ゆれ、(天智天皇紀に、從2大藏省第三倉1出、とある第三倉をミツニアタルクラ、と訓り、これもミツノクラ、と訓たらむには、三宇の倉といふことにきこゆるが如し、)然れどもはやくかく唱へきつることなれば、今は何とかせむ、しばらく古今集序、和名抄等に從て訓むより外なし、
御歌は、天皇皇后皇太子皇子皇女の御に渉りて書る漢字なれば、天皇のにはオホミウタ、と訓申し、皇后より皇女までのをばミウタと訓申て分つべし、古事記に、天皇のを大御歌《オホミウタ》とかける、これ古の稱のまゝにしるされたるなり、すべて天皇の御うへの事をば、至《イタク》尊みて木御代大御身大御手大御琴などいふ例なり、(しかるを後の注者等、天皇のをば御製歌と書て、オホミウタと訓、皇子等には御歌と書て、ミウタと訓て、分てることゝ心得て、天皇に御歌とあるをば、製(ノ)字の後に脱たるものとおもひて、謾に補へることゞも多きは、委しく考へざりしものなり、)すべてうたよみすると云ことを、天皇の御うへにては御製とかき、皇后より皇女までには御作と書(キ)、諸王より庶人に至るまでをば作と書り、この故に皇子等に御作と書(キ)、諸王より庶人までに、作と書べき處ならずしては、天皇のにも御製と書る處は一(ツ)もなし、二卷に、天皇賜2鏡女王1御歌、又天皇賜2藤原夫人1御歌、三卷に、天皇賜2志斐(ノ)嫗1御歌、四卷に、天皇賜2海上(ノ)女王1御歌、六卷に、天皇賜2酒(ヲ)節度使(ノ)卿等1御歌、八卷に、天皇賜2報和《ミコタヘ》1御歌、十九卷に、勅v某遣2於難波1賜2酒肴某等1御歌・、太上天(49)皇御歌などある、これ某《ソレ》ニタマヘルオホミウタ、と訓申てあるべき處なればなり、(これら製(ノ)字を補《クハ》へては、中々にまぎらはし、)一卷に、天皇御製歌、天皇登(リマシテ)2香具山1國望《クニミシタマフ》之時御製歌、又天皇幸2于吉野宮1時御製歌、四卷に、岳本天皇御製、又天皇思2酒人女王1御製歌、六卷に、葛城王等賜2姓橘氏1之時御製歌、又即御2製(シ)賀v橘之歌1、又天皇御製歌、八卷に、崗本天皇御製歌、又天皇御製歌、又太上天皇御製歌、九卷に、泊潮朝倉宮御宇天皇御製歌、十八卷に、御製歌云々、(左注に)件歌者御船泝v江遊宴之日左大臣奏(并)御製、などある、これみなミヨミマセルオホミウタ、と訓申すべき處にて、必製(ノ)字なくては協はねことなり、これにて製(ノ)字あるとなきとの分を知べし、字書に製(ハ)作也とも裁也ともありて、同じく裁歌《ウタヨミ》することを、天皇には御製、皇子等には御作、諸王よりは作とのみ書て分てるなれば、訓にも其心してミヨミマセル、ヨミマセル、ヨメル、など分つべし、常人のうへにて作《ヨメル》と云べき處ならでは、御製《ミヨミマセル》とは云まじきこと、上に云る如し、さて皇后皇太子皇子皇女親王など申せるには、御歌、あるは御作歌とありて、たゞ歌とも、作歌とも書るはなし、たまたま御(ノ)宇なき處あるは、决《ウツナ》く後に脱たるものなり、諸王以下は歌、あるは作歌、とのみありて、御(ノ)字を書たるは一處もあることなし、さて又御製と書るを、ミヨミマセル、とよむことは、天皇|及《マタ》さるべき神祇《カミタチ》の御うへには、至て尊みて、用言にも、御《ミ》と申す言を蒙らして、御佩《ミハカス》御娶坐《ミアヒマス》御立《ミタス》御寢坐《ミネマス》、などいふ言の、吉富に許多《コヽラ》あるを思ひて、古の讀法《ヨミサマ》をも知べきことなり、
一首二首などあるは、ヒトウタ、フタウタ、あるはヒトツ、フタツとも、處に應《ヨリ》ては訓べし、古事記に、二歌《フタウタ》三歌《ミウタ》四歌《ヨウタ》など書り、書紀神代卷にも、此|兩首歌辭《フタウタハ》云々、皇極天皇卷に、謠歌|三首《ミウタ》、古今集序(50)に、此ふたうたは云々、ちうたはたまき云々、又ひとつふたつとやうにいへるは、土佐日記に、ひとうたにことのあかねば今ひとつ、枕册子に、双紙に歌ひとつかけと、殿上人におほせもれけるを云々、又さらば題出さむ、歌たみたまへ、といふに、いとよきこと、ひとつはなにせむ、おなじうはあまたをつかうまつらむ、などいふほどに云々、などあり、
幸2于某1、とある幸は、天皇あるは太上天皇にかぎりて申すことにて、イデマシヽ、あるはイデマセル、と訓べし、(幸(ノ)字の義は本編にことわらむ、さてミユキと申すことも、古言にてはあれど、ミユキセシ、あるはミユキセル、とやうに訓むはわろし、さて又天皇に行幸と申し、太上天皇に御幸と申して分つ類は、後のことなり、)遊2獵于某1、とあるは、天皇より皇子までに申すことにて、ともにミカリシタマヘルと訓べし、詔勅などあるは、ミコトノリシタマフ、あるはノリタマハク、あるはノリゴチタマハク、など訓べし、遊宴肆宴はトヨノアカリキコシメス、行宮はカリミヤ、離宮はトツミヤ、御在所はオホミモト、聖躬はオホミヽ、不豫はオホミヤマヒ、崩、崩御はカムアカリマス、大殯はオホアラキ、と訓たぐか多けれど、今はその一(ツ)二(ツ)を擧つ、これらは至《イタ》く尊みて申す言なれば、いづくも此等に准へて、其心しらひして大かたに訓べからず、さてその次に、天皇にも登2香具山1、とやうに記し、常人にも登2神岳1、とやうに記して、同じ登(ノ)字をノボリマシテとも、ノボリテ、とも訓(ミ)皇子などにも、往2于紀伊1、とやうに記し、常人にも、往2于伊勢1、とやうに記して、同じ往(ノ)字をイマセルとも、ユケルとも訓て、尊卑の差異《ケヂメ》を分る類もあり、中には又崩薨卒死など、字によりてきはやかに、その階級の分るゝこともあれど、ひとへに字をたのみにして訓て(51)は、誤つことあること、上にいへる如し、さて又カナシムといふ一(ツ)ことを、字には感傷哀傷慟傷悲歎悲傷流涕、あるは泣血哀慟とも、悲傷流涕とも、四字に書る處もありて、彼方にてこそ、字によりて輕重淺深の意の分(チ)のあることなれ、此集など讀に、さのみ字に泥むべきことに非ず、此集は歌詞こそあれ、題詞の中にては、年號に大寶慶雲などいひ、人名にも久米(ノ)禅師、刀理(ノ)宣命、或は僧尼の名に通觀、理願、官に紫徴といひ、使に按察使とあるたぐひの、もとより音讀にすべくさだまれるもあり、或は各號のたぐひには、もとは音讀ならぬが、其訓むやうの、後世には傳(ハ)らぬも多くあれば、さるたぐひは、ひたすら推なべて訓讀にしがたけれど、其(ノ)他の語次は、書よむことの古法なれば、古言のまゝに、よまるゝかぎりは訓べきことにて、古事記日本書紀はさらにもいはず、古語拾遺、内宮外宮儀式帳、諸國風土記、現報靈異記の類の書籍、みな漢文風の記しざまにならひたれど、なほ古言のまゝによみて、今世の儒士《ハカセ》などの漢籍よむとは、いたくさまかはりたることなり、いで皇朝の古書はさらにもいはず、漢籍にても、周易、毛詩、尚書、禮記、論語、漢書、文選、遊仙窟などの類、みな往昔の博士は、訓讀にすることをつとめ學びて、今世のごと字音がちに訓ことはせざりし中にも、毛詩文選遊仙窟などは、今世にても、儒者は中々にわづらはしくこそ思ふらめ、訓讀にせし書は、後世までもそのまゝ傳はれるにて、昔のなべてのやうを思(フ)べし、さるは後世の如く字音がちに讀ては、ことざまにきこゆるのみにあらず、その義も通達《キコエ》がたかりし故に、當時《ソノカミ》の書よむ、常(ノ)儀《ワザ》なりしこと知べし、さらずばしかばかり訓讀にすることを、何が故につとめ學び重みじて傳ふべしや、よく/\思量(ル)べし、さてその訓讀の師傳(52)を、大切《ネモゴロ》にして傳へし證は、和名抄に、泊※[さんずい+狛](ハ)唐韻云、淺水(ノ)貌也、文選師説(ニ)、左々良奈三《サヽラナミ》、また爾雅注云、梁上謂2之※[木+而]1、文選師説(ニ)多々利加太《タヽリガタ》、また、説文云、閻閭(ハ)里(ノ)中門也、文選師説(ニ)佐度乃加止《サトノカド》、また六韜云、叉(ハ)兩岐(ノ)鐵、柄長六尺、文選叉※[竹冠/族](ノ)讀|比之《ヒシ》、同抄(大須本)に、文選云、※[山/ノ/一/虫]2眩邊鄙1、師説(ニ)邊鄙(ハ)阿豆末豆《アヅマヅ》、※[山/ノ/一/虫]眩(ハ)阿佐旡岐加ケ夜賀須《アザムキカヾヤカス》、同抄に文選蕪城賦云、寒鴟嚇v※[雛の隹が鳥]、師説(ニ)寒鴟(ノ)讀|古々伊太流止比《コヽイタルトビ》、嚇(ノ)讀|加々奈久《カヽナク》などいへる類多し、これ文選を讀傳へて授けたる師説に云々といふ意なり、又同抄に、遊仙窟云、面子、師説(ニ)加保波世《カホバs》、一云、保々豆岐《ホヽツキ》、また遊仙窟云、細腰支、師説(ニ)古之波勢《コシハセ》、また遊仙窟云、手子、師説云、太奈須惠《タナスヱ》、また遊仙窟云、雉※[月+翠](ハ)師説(ニ)比太禮《ヒタレ》、また遊仙窟云、東海(ノ)※[魚+緇の旁]條、※[魚+緇の旁]條(ノ)讀|須波夜利《スハヤリ》、などあるも、遊仙窟を讀傳へて、授けたる師説に云々といふ意なり、この類なほ多きにて、文選遊仙窟をば、中にも讀を重みじて傳へもし授かりもしたることを思ふべし、(後世儒者の、讀ざまはいかにまれ、義《コヽロ》さへ通ゆれば泥むべきにあらず、といひて、いとあさましきよみざまするとは、いたくさまかはれり、)又同抄に、漢書陳勝傳云、夜篝v火、師説云、比乎加々利邇須《ヒヲカガリニス》、顔氏家訓云、注連章斷、師説(ニ)注連(ハ)之利久倍奈波《シリクベナハ》、章斷(ハ)之度太智《シトタチ》、また唐韻云、※[禾+魯](ハ)自生稻也、後漢書、※[禾+魯](ノ)讀|於呂賀於比《オロカオヒ》、また周易説卦云、其於v木也爲v堅多v心、師説(ニ)多心(ノ)讀|奈賀古可遲《ナカコガチ》、などあるも、上の文選遊仙窟を引て云ると、同じこゝろばえなり、これにて周易漢書顔氏家訓の類をも、讀をたやすくせざりしことしられたり、ことに多心を奈賀古可遲《ナカコガチ》とあるこそおもしろけれ、これを中音の季よりの儒者に、新に訓せたらむには、いづれも多v心とのみ訓べきを、往昔の博士の、古言の隨に讀て傳へ持來たるを、源順も授りて、かくしるされたるなり、土佐日記に、樟穿2波上月1、舟襲2海中天1、と云こと(53)を引て、うべもむかしのをとこは、さをはうがつなみのうへのつき、ふねはおそふうみの中のそらと云けむと、御國語にてしるして載たるが故に、さばかりなだらかなる日記の中にても、耳立て聞えず、東行西行雲眇々、二月三月日遲々、といふ詩のよめがたかりしによりて、北野菅神の教《ミサトシ》を請しに、トザマニユキカウザマニユキクモハル/”\、キサラギヤヨヒヒウラ/\、とよむべしと教《サト》し給ひしと云こと、江談抄に載たり、これを字音まじりに讀て意を通《キカ》むとならば、何の難きすぢかあらむ、御國語にうるはしくよまむやうは、いかにといぶかり思ふが故に、管神の教を請しことを思ふべし、これにて其頃までも、讀ことを、後世のごと、たやすく心得て物せざりしを知べし、さて又源氏物語、枕册子をはじめ、彼頃の物語書に、漢の詩文を引て誦《トナヘ》たること多きを見て、その詩文を讀しやうを思ふべし、いづれもみな、かの文選遊仙窟などの古の讀ざまに髣髴《サモニ》たるをや、(嵯峨天皇の御文庫に、遊仙窟ありて輙《タヤス》くよむことあたはざりしを、文章生伊時、ふかく歎きたりしに、木島の宮林に一人の老翁ありて、常に此書を暗記《オボエヰ》たるを、自(ラ)ゆきて、切《ネモゴロ》に請受《コヒ》て其訓を得たるよし、文保年中大江英房記されたり、これ今世の如く、文字の上を見て、其義を曉るのみのことならば、誰かはさのみかたきことにせむ、昔の博士の讀傳へたる、其古訓の存《ノコ》れるを、ひとへに慕ひて、大切《ネモゴロ》にせしことなればかゝるをや、)さてこれらはいかにまれ、天皇の神祇《カミタチ》に宣祈《ノラシ》給へる大御詔の類と、王臣天(ノ)下(ノ)公民に宣教《ノリサトシ》給へる大御詔の類は、上古より歌詞にまさりて麗しくめでたく文《カザ》り給ひて、物せさせ給ふことは、かの古語に、言靈のたすくる國、言靈のさきはふ國、とある意ばえにて、もとその言のうるはしく文あるに、神祇《カミ》(54)も感《カマケ》てうづなひ給ひ、人民もめでゝまつろひしたがはむがための、御しわざの傳りたるものなり、この故に朝廷にて行はるゝ大儀式の時は、琴笛相和と云ことを、詞云、美許止爾布江安波世《ミコトニフエアハセ》、任申を、詞云、萬乎世留萬爾々々《マヲセルマニマニ》、あるは御體を、詞云、放保美麻《オホミマ》、參集を讀曰2末爲宇古那汲禮留《マヰウゴナハレル》1、また造酒童女を神語(ニ)佐可都古《サカツコ》、拍手を神語所v謂|八開手《ヤヒラテ》是(ナリ)也、など儀式の文にしるし、或は大鞆火官《オホトモヒノツカサ》、式省《ノリノツカサ》、兵名簿《ツハモノツカサニナフタ》給(ヒ)令v候多留毛登《サモラハシメタルヒトモト》將參來宣、或は次將仰云、火掻團《ヒカヽゲヨ》、或は大殿保賀比供奉牟止神祇官《オホトノホカヒツカヘマツラムトカムツカサ》姓名|候申《サモラフトマヲス》、或は比女刀禰秋冬《ヒメトネアキフユ》馬料可賜事上|申賜申《マヲシタマヘトマヲス》、或は大夫達《マチキムタチ》|御酒給《ミキタマハ》或は左右衛門府申其月《ヒダリミギノユケヒノツカサマヲサクソレノツキノ》上番|可《ベ》2仕奉《ツカヘマツル》1《キ》伴御奴名簿《トモノミヤツコノナフタ》|簡進樂申給久度申《フミタテマツラクヲマヲシタマハクトマヲス》、などやうに定りて、宣(リ)もしたまひ、奏(シ)もすること、朝廷にて行はるゝ恒例の大《イミ》じき儀式には、上古の御制のまゝを用らるゝことにて、貞觀儀式、延喜式、政事要略、江家次第、などの書に見えたるを思ふべし、さて然《シカ》恒例の儀式に、定りて行はるゝことこそあれ、其他漢文樣に書る書は、いかにまれ、其義だに通ゆれば、さてあるべきことにもあれど、今(ノ)世に儒者どもの、から書よむをきくに、いたく文字に拘り過て、讀法のつたなく、理にそむけること多くて、物いひざまにたがへるすぢのすくなからねば、心あらむ人は、少し考へて讀まほしきことなり(其讀べきやうの一(ツ)二(ツ)をつみ出ておどろかしおくべし、まづ漢文に、是(ノ)故(ニ)、あるは何(カ)故(ニ)、などある故(ノ)字をユヱニといふは、常のことにて、云々故とあるを云々《シカ/\》ナルガユヱニと訓はこともなし、云々《シカ/\》ナリ、ユヱニ云云《シカシカ》とはいふまじきことなり、ナリと上なる語をしばらく絶《キリ》て、次に語を發して訓ときは、上(ツ)世はみなカレと訓り、たとへば神代紀に、是吾物也、故(レ)彼《ソノ》五(ノ)男(ノ)神、とある類の故を、悉くカレと訓た(55)るが如し、しかれども皇朝の古典は、しるしざまこそ漢ぶりなれ、すべて語は古言のまゝに訓來りたれば、常に漢籍よむとはこと異りたることなり、とも云べけれども、いかに漢籍なればとて、もとより語にいふべからぬことを、書籍のうへにほどこして訓べき理にあらざれば、からぶみに、君子之事v親孝、故忠可v移2於君1、とある類の故をユヱニとは訓がたきからに、昔の博士はカルガユヱニと訓來れり、然るを近年のえせ博士の類は、カルガユヱニと云ことをづらはしがりて.しひてことずくなにせむとて、これらの故を、すべてユヱニと訓は、あるまじきことなり、昔は博士たちもかゝる處に心を用ひて、近世のごとくみだりにはあらざりしなり、是以、あるは何以、あるは以v禮、以v義、などある以(ノ)字をモテといふは、常のことにて云べきすぢもなきを、からぶにに、子帥(テ)以正(サハ)孰(カ)敢(テ)不v正、とある類は帥(テ)のテの言に、以(ノ)字の意はこもりてあることなれば、昔の博士はすてゝ訓ざりしを、近世の儒者は、いづくにても、以字あれば、訓ずてはあるまじき理と心得て、モテと訓なるは、甚かたはらいたきことなり、すべて儒者は、文字よくよむ人も、只かの異國の文章のうへにのみ、くはしきのみにて、すべて此方のものいひざまをば、得しらぬがゆゑなり、たま/\釋如(タリ)也以成(ル)、などやうにある、以(ノ)字のよまずしてえあるまじきをば、此一字をコヽヲモテと訓べきことなり、而謀v動2于戈於邦内1とやうにいへる、而字をシカシテ、あるはシカルニ、などいふは、常のことにて云べきすぢなきを、學而時習之、とあるは、學(テ)のテの言に、而字の意はこもりてあることなれば、すてゝ訓(ム)まじきことなるに、學(テ)而《シカウシテ》とよみ、和(シテ)而不v同、とあるを、和(シテ)而《シカウシテ》とよむ類は、またことにかたはらいたきわざなり、シカウシテは、然《シカ》して(56)と訓言なれば、云々《シカ/\》して然《シカ》して、とかへして云言語はあるまじければなり、因v何仍v此などある因仍等の字を、ヨツテとよむは、つねのことにていふべきすぢなきを、因以2所曳之杖1微(ク)撃2其脛1、あるは仍以2前語1爲v是、などやうにある因仍を、ヨツテとよむは、いとわろし、昔の博士のよめるに、かやうなることはかつてなし、かくざまの處にては、因仍等の一字をも、コレニヨリテと訓り、これ古の語づかひのさまにて、正しきいひざまなればなり、國之大事、あるは寡人(カ)之身などいふときは、之(ノ)字、ノと云、ガと云にあたりたれば、常のことにて論なきを、事v親之謂也、あるは終v食之間、などいふ類の之字、文章にこそ必なくてあらぬことなれ、ツカフルノ、あるはヲフルノ、といふ言語《モノイヒ》ざまなきことなれば、之(ノ)字は訓まじきことなるに、いづくにありても、必よまではあるまじきことゝ心得て、此等の之(ノ)字をも、ノとよむは可笑《ヲカシキ》ことならずや、大凡用言の下に屬て、ノと云は、古語には將絶乃心《タエムノコヽロ》、あるは戀良久乃多《コフラクノオホキ》、などやうに云る他に、つけていへることさらになし、また謂2之悖徳1、謂2之悖禮1、などいふ類の之(ノ)字も、すてゝよむまじきことなるを、必よまではあるまじきことゝ心得て、此等の之字をも、コレヲと訓は無用《イタヅラ》ごとなり、孝之始也、孝之終也、などやうにある處を、ハジメナリ、ヲハリチリと訓はたがはざれども、也をすなはちナリとよむ字なりと思ふはあらぬことなり、回(ヤ)也其心、あ各は夫子至(ルヤ)2於是邦(ニ)1也、など句の中間にあるは、助辭なれば、すてゝ訓ざることなるを、語の終に用たるをば、漢國にても決定之辭と云て、皇朝の古語に、音爲奈利《オトスナリ》、千鳥鳴奈利《チドリナクナリ》、など云|奈利《ナリ》も、決定る意にて、おのづから通ふことなるから、つひに也はナリとよむ字ぞと心得て、中昔よりこなたのものしり人などは、さらにうたがふ(57)こともなけれども、そのもとに、爾阿《ニアノ》切|那《ナ》にて、に在《アリ》、と云ことを縮めて云ることなれば、古の人は、もとの所由《ユヱ》をよく知たるが故に、古き世は、歌などに、鳴也《ナクナリ》とやうに、奈利といふべき處に、也字を填《アテ》たることは一もなし、もとよりの漢文に、始也終也などやうにある處を、ナリと訓は、おのづからたがはざることなり、これらをも、一(ト)わたりは心得おくべきことなり、及2十有五年1、とやうにある、及字は、古はマテと訓たるを、中昔よりこなたは、オヨビテと訓る、それはさして難《トガ》むべきことにあらず、生2甫〔傍線〕及申〔傍線〕1などやうにある及字を、オヨビといふは、皇朝人のものいひざまにあらず、これも甫〔傍線〕また申〔傍線〕マデヲ生《ウメ》リ、と訓べき理なり、しかれども、ことごとにしか訓むも、中々にわづらはしきが故に、漢籍讀のうへばかりに、中昔の博士などの、まうけたることなるべきを、もとよりかくいふべきものとおもふは、いとをさなきことなり、神代紀に、壹岐島及|處處小島《トコロドコロノコシマ》、とある類の及字はマタとか、又は壹岐島ヨリ處々小島《トコロ/”\ノコシマ》マデ、とか訓てあるべきことなり、有2澹臺滅明者1、とある類を、トイフと云ことを讀付たるはよし、すべて有2某者1とあるを、某〔傍線〕ト云者といふは、正しきものいひざまにかなひたるを、近世の儒者の、某〔傍線〕ナル者とよむを、よきことのやうに心得て、ナルモノと讀を付たるはあらぬことなり、ナルはニアルのつゞまりたる詞なる故に、束《アヅマ》なる人、或は筑紫なる人、など云は、東に在(ル)る人、筑紫に在(ル)人、といふことにて論なきを、紀貫之なる人、壬生忠岑なる人、などやうに云ては、紀貫之といふ處に在(ル)人、壬生忠岑といふ地に在(ル)人、といふ意になるを、さることにも心つかざるは、きはめて愚なることなるを、そのひが訓に目なれて、近き頃某なる人有(リ)、某なる者の云々など、此方の文にもかくなるは、いみじ(58)きひがことなるよし、はやく本居氏もいへり、からぶみに、某曰|云々《シカ/\》と其語の終にトと點を附ること、これも近きころのことにこそあれ、古き訓點にはトイヘリとよみ付たり、これ古の語の格によれるものなり、漢文の序の經終などに、云爾と多くあるを、昔よりイフコトシカリ、とよみたれど、此訓あたらず、云爾は、二字ともに助辭なれば、然よむべきにあらず、とこれらも同人云り、これらの辨別は、漢籍よむうへには、いと多かることなるを、具に辨へむは、文長くなれば、たゞその一二を云て止めつ、さて右にいへることゞもの類は、よく心して讀べきことなるに、すべて漢學者流は、訓語はともあれ、たゞ文章の格と、字面を分辨することのみ、つとめて、いよいよます/\たゞひたすらに、ことずくなに讀を、使宜きことゝして、昔の博士の讀ざまは、あとかたなくなりぬるのみならず、すべて物いひざまにあらぬことを、書籍のうへにほどこすなるは、漢籍のうへにてすら、うるさくかたはらいたきことなるを、まして皇朝の古典を讀に、たとひみながらは訓讀にしがたくとも、皇朝のものいひざまを思ひて、あるまじくいふまじきことをば、書籍にても、讀べからぬことなるを曉るべし、そも/\そのもと上代に、漢文字の皇朝にわたりしとき、より/\に、その漢籍を、皇朝のものいひざまに譯して、誰が耳にも聞ゆるやうに、讀ならひしことなれば、漢籍讀なればとて、此方のもとよりの、ものいひざまに異《カハ》りて、きこゆまじき讀ざまの、あるべからぬ理をもさとるべし、かく漢學者流の人どもの、つねに書籍を讀さまの、きくたびにかたはらいたく思はるゝことなれば、いかで漢籍讀法と云ものをかき著して、昔の博士のよみざまを、示さまくおもへど、いとまなき身のさがにて、いまだ其(59)事に得及ばずなむ、
 
萬葉集古義總論 其一終
 
(60)萬葉集古義總論 其二
 
   匿名
集中に、名を匿して記さゞるやう二あり、一には大納言以上の人をば、憚りて名を顯さず、二には大納言に至らざる人といへどの、由縁《ユヱ》ありて其人をたふとみて、名を顯さゞるもあり、一に大納言以上の人の名を匿せるは、十九卷に、太政大臣藤原家、(三卷にも見ゆ、不比等公なり、)十七、十八、十九、二十の卷々に、左大臣橘卿、十七、十八の卷々に、左大臣橘宿禰、十九卷に、左大臣橘朝臣、九卷、十八卷に、左大臣橘家、十八、十九、二十の卷々に、左大臣、(これら諸兄公なり、)十九卷に、贈左大臣藤原北卿、房前公なり、)六卷に、右大臣橘家、(諸兄公なり、)十九卷に、南右大臣家藤原、(豐成公なり、)大將軍贈右大臣大伴卿、(御行公なり、)一卷に、内大臣藤原朝臣、二卷に、内大臣藤原卿、(これら鎌足公なり、)廿卷に、内相藤原朝臣、十九卷に、大納言藤原家、大納言藤原卿、(仲麻呂なり、)大納言巨勢朝臣、(奈?麻呂卿なり、)四卷に、佐保大納言卿、大納言兼大將軍大伴卿、(安麻呂卿なり、)三四六(ノ)卷々に、大納言大伴卿、三卷に、大納言大將軍大伴卿、(これら旅人卿なり、)此餘にもなほあり、これら皆大納言以上の人の名を憚りて顯さゞる例なり、しかるに十七卷に、たゞ一處、大納言藤原豐成朝臣、とあるのみは疑はしきにつきて、續紀を檢(フ)るに、豐成卿は、天平廿年三月に、大納言に至られて、此時は天平十八年にて、)いまだ中納言なりければ、大字は、中の誤寫なること决《ウツナ》け(61)れば、中に改作べし、さて大納言に至らざれば、三位といへども名を憚らざりしと見えて、三六八の卷々に、中納言安倍廣庭卿、(當時從三位なり、)十九卷に、從三位文屋智奴麻呂眞人なども記したり、二に大納言に至らざる人の名を匿るは、二卷に、大伴宿禰、(安麻呂卿にて、いまだ微官にてありしほどなり、)三卷に、中納言大伴卿、三四五六八十七の卷々に、太宰帥大伴卿、三六の卷卷に、帥大伴卿、(これら旅人卿なり」九卷に、檢税使大伴卿、(御行公なり、)これらみな、いまだ大納言に至らざるほどのことなれども、旅人卿は家持の父、安麻呂卿は親父《オホヂ》、御行卿は大小父《オホヲヂ》なれば、家持卿よりたふとみて名を除けるなり、此餘にもいまだ大納言になられざりし人の名を、匿せることあり、其人をたふとむべき由縁《ユヱ》ありて、名を憚れりしと見ゆ、
   略名
集中に、貴人の名を憚りて匿せるにはあらで、官あるは氏姓のみ記して、名を略きて載ざるやう、これも大抵二あり、一には名をいはざれども、皆氏姓等のみにて、其人と云こと誰にも著《シル》かりければ、名までを載ざりしもありと見ゆ、二には、此集にしるす時に、作者の氏姓はたしかに聞たれども、其名を詳に傳得ずして、止ことなく名を漏せるもありとおぼゆ、まづ一に、名をいはざれども、官氏姓のみにて、當時其人と云ことしるかりければ、名を賂きたりと思はるゝは、因卷に、京職大夫、藤原大夫とあるは麻呂卿にて、京職大夫たりしから、後に京家と呼なして、いはゆる藤原四門の一なりければ、他の人にまがふべくもなき故に、名を略けるならむ、九卷に、大神大夫とあるは高市麻呂なること、石河大夫とあるは君子なること、當時《ソノカミ》他の人にまがふ(62)ことなかりしゆゑに、名を略けるにて、これらも同例ならむか、さらばこれらには、自《オノヅカラ》たふとみて名をいはざる意もあり、なほこの類あり、十五卷に、天平八年遣2新羅國1使人の中、大使、(阿倍繼麻呂なり、)副使、(大伴三中なり、)大判官、(壬生宇太麻呂なり、)小判官(大藏麻呂なり、)などある、これももみな當時に記せるものにて、これらには貴みたる意はなけれど、名はかくれもなきことなれば、官のみ記してありしが、後に書(キ)補《クハフ》ることもせずして、そのまゝ傳はりたるなり、五卷太宰帥の家にてよめる、梅花歌三十二首の作者の中に、大貳紀卿、少貳小野大夫、少貳粟田大夫、筑前守山上大夫、豐後守大伴大夫、筑後守葛井大夫とある、大監以下の人には各々名を記したれども、大貳少貳國守などは、他の人にまがふべくもなく、著《イチジル》しかりしが故に名をば略けるにて、これはその一擧にては、自《オノヅカラ》たふとみたる意もあるなるべし、二に、作者の氏姓のみ傳(ヘ)聞て、名をば詳に知ざりしから、闕《モラ》せりと思はるゝは、八卷に、尾張連、九卷に、間人宿禰などある類なり、猶かくさまなるこれかれあり、其中には、上の麻呂卿の例に同じく、當時は名のしるくて、他人にまがふべくもなかりし故に、氏姓のみしるしたるもあるべく思へど、今詳《サダカ》には决《キハ》めて云がたし、
   名氏書法一 (官氏名卿 官氏卿 氏卿 氏名卿 官卿)
集中に、官氏名の下に卿をそへて稱るやう、これも二あり、一には、三位にのぼれる人の大納言に至らざるを云、大納言に至りたれば、憚りて名を匿す例なること前に云るが如し、然れどもなほ三位の重きにのぼれるがゆゑに、卿をもて稱《ヨベ》るなり、二には三位に至らざれども、由縁《ユヱ》ありて其人をたふとみて、卿をもて、稱るなり、一に三位にのぼれる人をいへるは、三六八の卷々(63)に、中納言安倍廣庭卿、三卷に、式部卿藤原宇合卿などあるは、當時三位に至られたるゆゑにいへるにて、かの中納言大伴卿太宰帥大伴卿などあると、名をいはざるのみこそ異りたれ、三位に至れる人を卿をもて稱《イヘ》るは同じことなり、二には、三位に至らざれども、由縁ありて、其人をたふとみて、官氏名の下に卿そをへていへるは、四卷(神龜五年の條)に、大貳丹比縣守卿とどありて、其頃正四位上中務卿なりければ、卿をもて稱べき本式にはあらざれども、其人をたふとむべき由縁《ユヱ》ありて、云るにやあらむ、但し此人も天平九年六月に、中納言|正《二本》三位にて薨《スギ》られたれば、前にめぐらして、たふとみ書るにもあらむ、同卷に、右大辨大伴宿奈麻呂卿とあるを按に、右大辨に任《メサ》れしこと、紀文に見えざるは漏たるものならむ、さて此人、神龜元年に、從四位下にまで至れるよし續紀に見えて、前にめぐらすべきよしなし、そのうへ當時右大辨なれば四位相當なり、しかるに此は安麻呂卿の第二子にて、家持卿の爲には小父《ヲヂ》なれば、三位ならねど、たふとみて卿といへるなり、六卷(天平十年條)に、右大辨高橋安麻呂卿とあるにつきて、續紀を按に、天平四年九月乙巳爲2右中辨1云々、十年正月壬午從四位下云々とありて、此時右中辨なりけるを、右大辨とあるは寫誤か、又は續紀に、右大辨となれることの漏たるものか、そはいかにまれ、此人もつひに四位にて、世を終たりと思はるゝうへ、此時辨官なりければ、其人をたふとむべき由縁のありて卿としるせるなるべし、以上官氏名の下に、卿をそへていへる例どもなり、大納言以上の人の名を憚りて顯はさずして、官氏のみに卿をそへていへるは、左大臣橋卿、右大臣大伴卿、内大臣藤原卿、大納言大伴卿などしるせる例、上にいへる如し、其次に大納言に至ら(64)ざれども、大約言以上の人に准て、名を隠して、官氏のみに卿をそへて、中納言大伴卿、太宰帥大伴卿、檢税使大伴卿などしるせるにて、これも上にいへるがごとし、さて又五卷太宰帥の家にてよめる、梅花歌三十二首の作者の中に、大貳紀卿とあるは、集中なべての例どもとは異にして、其時大貳より國守までは名をいはず、大監より以下は、名を書《カケ》るしるしざまにて、かくしるせるものなり、さて此人の傳はしられねど、太宰大貳なるからは、其頃は皆四位なり、これも當昔《ソノカミ》にしるしたるまゝなれば、後に、三位に至れる人なりとも、前にめぐらして書りとは云べからず、其人をたふとみて卿としるせるなるべし、六卷に、石上乙麿卿とある、其頃從四位下|左《右歟》大辨なりければ、これも卿をもて稱べき本式にはあらざれども、其人をたふとむべき由縁ありて、云るにやあらむ、但し此人、勝寶二年九月に、中納言從三位兼中務卿にて薨られたれば、前にめぐらして、たふとみ書たるものなりとも云べけれど、四位已下の人に、卿をもて稱る例あれば、めぐらしたるにはあらじ、五卷に、天平五年三月一日、山上憶良謹2上大唐大使卿記室1とある、この大使卿は多治眞人廣成にて、續紀を按に、天平五年三月戊午、遣唐大使從四位上多治眞人廣成等拜朝云々とある、其時のことにて、これは憶良より、直に其人をあてゝ贈れるなれば、三位ならねど對《サキ》を貴て卿といへるものなり、但し此人も、後には三位中納言に至られたれども、これは其|當昔《カミ》にかけるまゝなれば、前にめぐらしたるものなりとは云べからず、六卷に、天平九年春正月橘少卿とありて、(少は、諸兄公の弟なるが故にいへり、)續紀を按に、同じ年二月戊午、從四位上橘宿禰佐爲授2正四位上1と見え、同じ八月壬寅、中宮大夫兼右兵衛率正四位上橘宿禰(65)佐爲卒とありて、つひに三位にのぼられざりし人なれば、前にめぐらして、たふとみ書りとはいふべからず、諸兄大臣の弟なるが故に、たふとみて卿といへるなり、三卷に、幸2志賀1時石上卿作歌とある、この幸は續紀を按るに、養老元年九月のことゝ思はるゝに、乙麿卿の父麻呂大臣は、既く同年三月に薨給へれば、乙麿ならむか、さらばこの時未わかくて、六位の官人にて、從駕《ミトモツカ》へしなるべければ、これは前にめぐらして書るにや、かくまで三位に昇らざる人を、卿をもて稱《イヘ》ること數多見えたれど、後々には四位以下の人を、卿といへることたえてなきゆゑに、うたがひ思ふことなれど、そも/\卿と云こと攝政關白及三公乃稱v公、散一位及三位以上稱v卿、任2參議1者皆卿也、あるは三位以上爲2月卿1、或謂2上達部1、位四五位爲2雲客1、或謂2殿上人1、如v任2參議1則雖2四位1爲v卿などいひて、四位にても參議に任《メサ》れたる人こそあれ、自餘は三位以上ならでは、公私ともに、决《キハ》めて卿とは稱れぬことになれゝども、公式令過所式に、度2其關1往2其國1云々、三位以上稱v卿云々と見え、續紀に、養老四年十月癸未、太政官處分(スラク)、唱考之日、三位稱v卿、四位稱v姓、五位先v名後v姓、自今以去永爲2恒例1とありて、彼(ノ)頃までも關を度るとき、或は唱考の日、其餘も官廳のはれやかなる所にてこそ、其例に准らへたることならめ、私家の歌集記録及墓碑の類には、或は其人の徳を貴み、或は其人の齡《ヨハヒ》を稱《タヽヘ》て、四位五位なる人をも某卿某卿と、古くは云りしことゝおぼへたり、かく思ひ定めて後又一證を得たり、慶雲年中猪名大村が古碑に題して、少納言正五位下威奈卿墓誌銘(并)序とあり、(源松苗國史略に出、)これにて四位五位の人をも、私には貴みて卿と稱しこと著し、さて又ついでに云む、後には三位以上書v卿、三大臣書v公也といひて、師通(66)公、師實公などしるし、或は後よりめぐらして、鎌足公、諸兄公などいふ類、定りたることになれれども、古はおしなべて卿とのみ云て、公といへることなし、たゞ淡海公など謚號に公といへるのみなり、たま/\雄略天皇紀に、大伴公と書ること見えたれど、其は大伴談連を、從人《ヤツコ》より吾主を尊みて云ることにて、いはゆる三公の公にはあらず、
   名氏書法二(官氏大夫 氏大夫 氏名大夫)
集中に、氏大夫としるせるは四位五位の人を云、氏名大夫は、五位の人にかぎりて云りしと見ゆ、公式令義解に、凡授v位任v官之日喚辭云々、唯於2太政官1三位稱2大夫1、四位稱v姓、五位先v名後v姓、其於2衰以上1(謂辨官以下也、)四位稱2大夫1、五位稱v姓、六位以下稱2姓名1、司及中國以下五位稱2大夫1、(謂一位以下通2用此稱1、)とありて、各々其官府につきて、三位より五位まで、大夫と稱ことに定められたりと見ゆるに、此集にはその、差別はなしと見えて、三位に大夫といへるは、もとよりあることなけれども、四位五位に通《ワタ》りてはいへりしなり、(しかるを略解に、大夫とは、五位にかぎりて云稱のごとく、いへるは何事ぞや、無稽説といふべし、)六位以下を大夫といへることは、此集にも何にも見えたることなきは勿論《サラ》なり、さて四位に、官氏の下に大夫をそへて云るは、四卷に、京職大夫、藤原大夫とある、此は前にも云たるごとく麻呂卿にて、續紀に、養老五年六月、從四位上藤原朝臣麻呂爲2右京大夫1とありて、これ四位の人に云る證なり、五位に、官氏の下に大夫をそへて云るは、五卷天平二年正月、太宰帥の家にてよめる、梅花三十二首歌の作者の中に、少貳小野大夫とあるは老がことにて、當時《ソノカミ》從五位上なるよし續紀lこ見え、その次下に、少貳粟田大(67)夫とあるは、人上がことならば、これも當時正五位上なるよし續紀に見え、その次下に、筑前守山上大夫とある、これも其時從五位下なれば、これみな五位の人にいへる證なり、その次下に、豐後守大伴大夫とあるは詳ならねど、これも豐後守なるからは五位なるべし、その次下に、筑後守葛井大夫とあるは大成がことにて、これも當時《ソノカミ》從五位下なり、これらもみな五位に云る證なり、四位に、氏の下に、大夫をそへて云るは、九卷に、大神大夫任2長門守1時云々とあるは高市麻呂にて、續紀に、大寶二年正月乙酉、從四位上大神朝臣高市麻呂爲2長門守1とあれば、これも四位に云ること勿論《サラ》なり、三卷に、長田王被v遣2筑紫1渡2水島1之時歌二首云々とありて、石川大夫和歌一首と見えたる、これを類聚抄には、從四位下石川宮麻呂朝臣和歌としるして、續紀を按に、慶雲二年十一月、從四位下石川朝臣宮麻呂爲2太宰大貳1と見えて、大貳にて、筑紫に下れるときに、長田王の歌に和へたるなるべし、(但し長田王は、和銅四年に、始めて正五位下を授へるよし續紀にしるされて、それより以往の事は見えざれども、ゆゑありて、筑紫に遣され給へるにやあらむ、)さらばこれも四位に云る證なり、五位に氏の下に大夫をそへて云るは、九卷に、石河大夫遷任上v京時、播磨娘子贈歌とあるは君子のことにて、當時從五位下なるよし續紀にしるせり、これは五位に云る證なり、其他に大神大夫、石上大夫、阿倍大夫、丹比大夫などしるせることあれど、詳に其人と云こと决《キハ》めがたきもあり、又其時四位にてありしと云ことも、五位にてありしと云ことも、知がたきもあれば定めがたし、氏名大夫は、五位の人にかぎりて云りしと思はるゝは、三卷に、田口益人大夫とあるは、續紀を按に、慶雲元年春正月に從五位下を授りて、靈(68)龜元年四月、正五位上にまでなれるよし見えたれば、其間のことなるべし、四卷に、藤原宇合大夫遷任上v京時、常陸娘子贈歌とありて、當時正五位上なり、十六卷に、消奈(ノ)行文(ノ)大夫とあるは、續紀に、神龜四年十三月に從五位下を授へるよし見えたり、其後のことなるべし、四卷に、當麻麻呂大夫とあるは詳ならねど、これも五位の官人なるべし、此餘一卷古注に、山上憶良大夫と見ゆ、此人も從五位下にてありしなり、
   名氏書法三(官氏姓 氏姓)
官氏姓のみをしるしたるは、左大臣橘(ノ)宿禰、内大臣藤原(ノ)朝臣などある類にて、既く匿名の條に出せる如し、さて某卿(藤原卿、橘卿の類、)といふと、某姓(藤原朝臣、橘宿禰の類、)といふとは、いさゝか差等あたことになれりしは、公武令に、過所式云、云々、三位以上稱v卿、云々、凡授v位任v官之日喚辭、云々、以外三位以上直稱v姓と分たるに、此集には同じ文の列にも、又一(ツ)事にも、諸兄大臣を、左大臣橋卿とも、左大臣橘宿禰とも、左大臣橘朝臣とも、(天平勝寶二年に、朝臣姓を賜へるが故に、其後はかくしるせり、)鎌足大臣を、内大臣藤原卿とも、内大臣藤原朝臣とも記して、すべてその分等《ケヂメ》をばせざりしなり、又此餘にも、安麻呂卿を、大伴卿とも、大伴宿禰ともしるし、又石上乙麻呂卿をも、石上乙麻呂朝臣とも、大伴宿奈麿卿とも、大伴宿奈麻呂宿禰ともしるせる類ありて、すべて此にも彼にも書し例あり、又氏姓のみを記せるに、二(ツ)のやうあり、一には、高官に至らざる人といへども、由縁《ユヱ》ありて其人をたふとみて、名を憚りて氏姓のみをしるせるは、二卷に、大伴宿禰とあるは安麻呂卿にて、いまだ微官にてありしほどなれど、たふとみて氏姓のみをし(69)るせり三卷に、高橋朝臣とあるは安麻呂をいふか、もし此人ならば、六卷に、右大辨高橋安麿卿ともありて、三位ならねど當時由縁ありて、其人をたふとみて、あるは氏姓のみをしるし、あるは名を書すときは、卿をもて稱《タヽ》へたりとおぼえたり、二に、作者の氏姓のみは傳(ヘ)聞たれども、名をば詳に聞得ざりしによりて、闕《モラシ》たりしと思はるゝは、八卷に、尾張連、九卷に、間人宿禰などの類、かた/”\見えたり、其中には、當時《ソノカミ》は名のしるくて、他人《アダシヒト》にまがふべくもなかりしゆゑに、ただ何となく、氏姓のみしるしておきつるが、そのまゝに傳はりたるもあるべく思はるゝも多けれど、今詳に決めては云がたし、
   名氏書法四(官氏名姓 氏名姓)
集中に、官氏名姓また官を除て、氏名姓のみをしるせるも同じさまにて、大抵三位より五位に通《ワタ》りて、いへりしことゝおぼゆ、その三位にいへりしは、十七卷に、中納言藤原豐成朝臣(中字、舊本大に誤れり、)とあるは、續紀に天平十五年五月癸亥、授2從三位1爲2中納言1と見えて、これは三位にいへる例なり、四位にいへりしは、(六卷天平二年條)に、擢駿馬使大伴道足宿禰とありて、續紀を按に、此時正四位下なるよし見ゆ、十九卷(勝寶三年の條)に、左大辨紀飯麻呂朝臣とあるは、續紀を按に、此時從四位上なるよし見えて、これらは四位にいへる例なり、四卷(神龜五年の條)に、太宰少貳石川足人朝臣とあるは、續紀を按に、此時從五位上なるよし見え、八卷(神龜五年の條)に、式部大輔石上堅魚朝臣とありて、續紀を按に、此時從五位上なるよし見え、廿卷(寶字二年二月條)に、渤海大使小野田守朝臣とありて、續紀を按に、此時從五位下なるよし見え、同卷(寶字元(70)年條)に、治部少輔大原今城眞人とありて、續紀を按に、此時從五位下なるよし見えて、これらはみな五位にいへる例なり、又官をいはざるは、十九卷に、從三位文屋智奴麻呂眞人とありて、續紀にも、此時中納言從三位なるよし見えたれば、これは三位に云る例なり、廿卷(勝寶七年條)に、大原櫻井眞人とありて、續紀を按に、はやく天平十六年條に、大藏卿從四位下と見えて、これは四位にいへる例なり、六卷(天平十二年條)に、丹比屋主眞人とありて、續紀を按に、天平十二年十一月に、從五位上を授へるよし見えて、これは五位にいへる例なり、官をしるせると、しるさゞると差別《ケヂメ》はなけれども、おほくは顯職なるかたにしるして、微官なるは省けり、さて件に引るごとく、官氏名姓また氏名姓をかけるには、三位より五位までにわたりてしるせること、なほ右の餘にもこれかれありて、六位以下の人をいへることは見えず、さて公式義解に、凡授v位任v官之日喚辭、云々、以外三位以上直稱v姓、(謂直稱2奏宿禰1之類也、)四位先v名後v姓、五位先v姓後v名、(謂喚云2秦宿禰麻呂1之類也、)六位以下去v姓稱v名、(謂直言2秦麻呂1不v稱2宿禰1一也、即授任之日及以外竝皆通稱也、)云々とあれど、此集は此|制《サダメ》によらず、三位より四位に通《ワタ》りて、先v名後v姓して稱ること、上に擧たるごとし、但し十七卷に、天平十八年正月(某)(日)、白雪多零積v地數寸也、於時左大臣橘卿、率2中納言藤原豐成朝臣(中字、舊本大に誤、)及諸王諸臣等1、參2入太上天皇御在所1、(中宮兩院、)供奉掃v雪、於是降v詔、大臣參議并諸王者、令v侍2于大殿上1、諸卿大夫等令v侍2于南細殿1、而則賜v酒肆宴、勅曰、汝諸王卿等、聊賦2此雪1、各奏2其詞1とありて、某々應v詔歌ありて、其次に人々の名を列ねしるして、三位四位の人をば、藤原豐成朝臣、巨勢奈底麿朝臣、大伴牛養宿禰、(已上當時三位なり、)藤原仲麿朝臣(71)(當時四位なり、)と先v名後v姓してしるし、五位の人を、穗積朝臣老、小田朝臣諸人、小重朝臣綱手、(已上當時五位なり、なほあれど略きてしるさず、)先v姓後v名にしてしるして、その下に、右件王卿等、應v詔作歌、依v次奏之、登時不v記2其歌漏失1、云々とありて、これは當時上に奏せしまゝを記し、此餘にもこの時と同じ例に、當時奏せしまゝを記したりとおぼゆるあり、これはかの公式令の制のごとく、四位以上なると、五位とを顯《キハヤ》かに分てしるせるにて、此集のなべての例にはあらず、その中令の制には、三位以上直稱v姓とあれど、たゞ藤原朝臣、大伴宿禰としるしては誰とも分らねば、これは四位の人と同じさまに、藤原豐成朝臣などゝ、先v名後v姓してしるせるにて、例多きことなり、
   氏名書法五(官氏姓名 氏姓名)
集中に、官氏姓名、また官を除て、氏姓名のみをしるせるも同じさまにて、大抵四位より以下の人を、なべて云りしことゝおぼゆ、その四位にいへりと思はるゝは、十九卷に、入唐大使藤原朝臣清河とありて、此時從四位下にて、これは四位にいへる例なり、六卷に、豐前守宇努首男人とありて、豐前守は相當從五位下なり、同卷(天平二年條)に、驛使葛井連廣成とありて、天平三年正月に、外從五位下を授へれば、當時正六位上なり、四卷に、筑前掾門部連石足とあるは、傳詳ならねど、官位令を考るに、大國の掾は相當從七位上なり、同卷に、少典山口忌寸若麻呂とあるも傳詳ならねど、太宰府少典は相當正八位上なり、又官をいはざるは、十九卷に、從四位上高麗朝臣福信、また八卷(天平十年條)に、文忌寸馬養とありて、これら當時外從五位上なりしよし見ゆ、柿(72)本朝臣人磨、山部宿禰赤人なども五位にてぞありけむ、六卷天平五年條)に、紀朝臣鹿人とありて、天平九年九月に外從五位下を授《タマ》はりて、當時正六位上なりしとおぼゆ、此餘笠朝臣金村、車持朝臣千年、阿倍朝臣老人、坂本朝臣人上、大伴宿禰千室、高市連黒人、高橋連蟲麻呂、鴨君足人、大伴君熊凝などの類、官位の詳ならぬ人々いと多くして、擧つくしがたし、皆六位より八位までの人なりしとおぼゆ、中には无位の人もありしなるべし、ことに大伴君熊凝などは肥後國益城郡人にて、相撲使某國司官位姓名の從人《ヤツコ》となりて、京都に參向とありて、賤者なり、公式令義解に、六位以下去v姓稱v名(謂直言2秦萬呂1不v稱2宿禰1也、即授任之日、及以外竝皆通稱也、)とある制にはこれもたがへり、廿卷に、天平勝寶の年中に、上總國防人部領使少目從七位下茨田連沙彌麿、常陸國部領防人使大目正七位上息長眞人國島などあるはさらにて、その防人部領使が、朝家に進りし東歌の作者の中に、國造丁日下部使主三中、助丁刑部直三野、上丁丸子連大歳などやうにしるせる類、あまた見えたれば、なほその頃は上へ獻るにも、卑位の人はさるものにて、丁の類の賤者にいたるまで、姓を稱に憚らざりしことゝ見えたり、(但し六位已下の賤き者どもの姓を書るは、御制《ミサダメ》を犯したるしわざなりとも云べけれど、さらば私家の物ならばこそあらめ、これらは朝家に進りしそのまゝを書したれば、其頃までは憚らざりしことしるし、但彼頃も、朝臣宿禰などの姓をかくことは憚りて、其餘の直連などは、憚らざりしかとも思へど、なほ彼頃のさまにあらず、いづれの姓にても、憚らざりしなり、天平勝寶元年、束大寺奴婢籍帳に、大和國添上郡大宅卿戸主を、散位寮散位欠初位上大宅朝臣可是麻呂、謹解申貢進賤事としるし、(73)同二年奴婢籍帳の奧に、參議從四位上守卿紫微中臺大弼勲十二等石川朝臣年足より、つぎつぎにしるして、正七位上行少録馬(ノ)史吉成、正七位下少録士師(ノ)宿禰山萬里など書るをも思ふべし、中ごろよりこなたは、六位以下の人は朝臣の姓にても、朝臣とかくことを、堅く制められしと見ゆ、さるは後に朝臣の字、朝家の臣と云意になれば、五位に至(ラ)ざれば、かくことをゆるされざりしなり、)さて又位の卑かりし人を、土理(ノ)宣令など、姓をいはざりしもあれど、必去v姓稱v名といふ制心よりての、しわざにはあらざりしと思はるゝは、上に出せる例にて知べし、その餘諸臣の列に、坂門(ノ)人足高安(ノ)大島、久米(ノ)禅師、日置(ノ)少老などの類、姓をいはずて氏名のみしるせるも多し、もとよりこれらの人は、品の下れる人と思はるれば、姓のなきもさることなれど、必姓を去て、名ばかりを稱りしといふ證にはなりがたし、又高安、槐本、元仁、島足、麻呂、伊保麻呂、など氏のみをしるし、名のみをしるせりと思はるゝ類は、人品の賤しくして、あるは氏ばかり、あるは名ばかり傳はりしにもあるべく、又當時ことさらに、略きたるゆゑのありしなどもあらむか、その詳なることは决にもかし、
   名氏書法六(女)
女(ノ)名を稱《イヘ》るやうにくさ/”\あり、藤原夫人、石川夫人、石川命婦、縣犬養命婦、安曇外命婦、山田御母など氏官もてしるし、あるは内侍佐々貴山(ノ)君、と官氏姓をもてしるし、あるは吉備津采女、(吉備は志我の誤なりといへり、地名なり、)豐島采女(豐島は地名なり、)などしるし、あるは采女|安見兒《ヤスミコ》(安見兒は字なり、)ともしるし、あるは車持氏娘子、平群氏女郎、舍人娘子、石川郎女、巨勢郎女、依(74)羅娘子、笠女郎、土形娘子、安部女郎、大伴女郎、大神女郎、紀女郎、中臣女郎、粟田娘子、藤原郎女、久米女郎、縣犬養娘子、(舍人より縣犬養までみな氏なり、)あるは河内百枝娘子、(河内は氏、百枝は字ならむ、)巫部麻蘇娘子、(巫部は氏、麻蘇は字ならむ、)安都扉娘子、(安都は氏、扉は字ならむ、)丹波大女娘子、(丹波は氏、大女は字ならむ、)日置長枝娘子、(日置は氏、長枝は字ならむ、)池田廣津娘子、(池田は氏、廣津は字ならむ、)などしるし、あるは石川朝臣邑婆と氏姓各むしるし、あるは吹黄刀自、大伴眞足女、椋椅部刀自賣、宇遲部皇女、椋椅部弟女、服部呰女、物部刀自賣など、氏名をしるし、あるは清江娘子、(清江は地名、)常陸娘子、(常陸は國名ならむ、葦屋處女、妄(葦屋は地名、)などしるし、あるは末珠名娘子、(末は地名、珠名は字なり、)あるは園臣生羽之女、園臣は氏姓なるべし、生羽は父名か、又は直に女名か、)あるは長忌寸娘、あるは大伴坂上郎女、又は田村大孃、坂上大孃、又は.坂上家之大孃、坂上家之二孃などもしるせり、あるは娘子兒島、遊行女郎土師、あるは大宅女、櫻兒、縵兒などもしるして、一(ト)しへならざるは、もと清く撰みたる集にあらざるがゆゑなるべし、
   假字
此注書の中に、假名といへるは、いはゆる平假名片假名などをいふにあらず、古の假字書をいへり、(世に萬葉書と云これなり、)さてその假字に大抵三種あり、一には字音假字にて、天を安米《アメ》、地を都知《ツチ》と書る類なり、二には字訓の假字にて、得田直《ウタテ》、千羽日《チハヒ》など書る類なり、三には字音二合假字にて、還金《カヘリコム》、知三《シラサム》など書る金三の類なり、そも/\皇朝には、もとより文字なかりしかば、上(ツ)代の歌は、直に人の口に言傳へ、耳に聽傳へ來ぬるを、後に異國より文字わたり來しにより(75)て、其字音を借て書傳へしものにて、古事記書紀に載たる歌みなしかり、此集にも其さまに書る、これかれ多し、(五卷十五卷などは、おほくはかの記紀の歌をしるせるごとし、又十四卷と廿卷なる東歌は、みな假字書にせり、これは東歌は、京人のとは語異りたるがゆゑに、其を字義を填て書むには誦《ヨミ》ざまの雅書に混るべく、又字義のみ填ては、書がたき語も多くあれば、つとめて假字のかぎりにて書るものなり、)此は字音のみに書て、誦《トナ》へ擧打うたふにも、古語を一語も違へじとつとめたれば、まどふふしもなくて、有が中にも正しきを、藤原寧樂朝に至りては、やうやう漢學さかりになりしかば、其字の義理をとり得て、此方にても、種々に用ふことを好む風俗となりしより、言辭を文字もて心々に装飾《カザ》れることの多きによりて、其用ひたる樣をくはしくわきまへずしては、まぎるゝこと多し、かくて中には、其字義の正しく相當れるもあり、或は正しく相當らねども、其字の義を得て填たるも、或はその字の訓を借(リ)て用たるも、或は字を略きて其(レ)と知せたるも、又ことさらに戯れて書たるも種々あり、まづ假字書にも大抵三くさあること、右に云るが如し、○一に字音の假字と云は、いはゆる安米《アメ》都知《ツチ》と書る類にて、其字は左のごとし、
 〔ア〕阿安
 〔イ〕伊已異移印
 〔ウ〕宇于※[さんずい+于]有烏羽雲
 〔エ〕衣依叡曳要延愛
 〔オ〕於者憶飫應
 〔カ〕加可歌迦架嘉箇清音)何河荷我蛾餓賀(濁音)
 〔キ〕伎妓文吉奇綺騎寄枳貴企紀棄忌(清音)疑義宜藝祇(濁音)
(76) 〔ク〕久玖苦君口九丘鳩(清音)求具隅遇(濁音)
 〔ケ〕氣家既介價計奚鷄谿結祁(清音)夏牙雅宜礙(濁音)
 〔コ〕古己胡故枯姑居巨孤許去虚庫興※[示+古]高(清音)呉吾後其期碁虞(濁音)
 〔サ〕左佐沙紗作散柴草積(清音)者社射※[身+矢]謝邪(濁音) 
 〔シ〕志思之四師斯新進信子指此紫司詩死侍旨次式趾詞偲事水(清音)緇盡自慈寺士時(濁音)
 〔ス〕須寸周酒清洲殊珠數(清音)受授(濁音)
 〔セ〕世勢西施齊(清音)暫是(濁音)
 〔ソ〕曾蘇素祖宗僧増憎則賊所(清音)俗叙序(濁音)
 〔タ〕多他丹(清音)陀駄太(濁音)
 〔チ〕知暫陳耻(清音)遲治地(濁音)
 〔ツ〕都通追(清音)豆頭(濁音)
 〔テ〕?帝底堤提庭天(清音)※[人偏+※弖]尼泥※[泥/土]田代(濁音)
 〔ト〕登澄等刀斗得土(清音)渡度騰藤晦杼(濁音)
 〔ナ〕奈那難南男
 〔ニ〕爾二仁邇耳尼人柔而
 〔ヌ〕奴努怒弩農濃
 〔ネ〕年禰尼※[泥/土]
 〔ノ〕乃能
 〔ハ〕波破播幡※[白+番]方芳房把伴半盤薄泊※[草冠/貌]八(清音)婆馬伐(濁音)
 〔ヒ〕比非悲斐飛卑必臂賓嬪(清音)婢妣※[田+比]尾備鼻(濁音)
 〔フ〕不布敷粉副負否府(清音)夫扶(濁音)
 〔ヘ〕敝弊幣反返遍閇※[覊の馬が奇]陛平(清音)辨部倍陪便別(濁音)
 〔ホ〕保倍本朋凡寶抱方富(清音)煩(濁音)
 〔マ〕麻摩未滿馬
(77) 〔ミ〕美媚未味尾微民
 〔ム〕武鵡牟無謀夢務
 〔メ〕賣馬梅※[口+羊]面免米迷昧
 〔モ〕母茂文問間門蒙目物勿木毛忘※[人偏+舞]
 〔ヤ〕夜也耶野楊移
 〔ユ〕由遊喩
 〔ヨ〕與余餘用容欲
 〔ラ〕良浪羅樂
 〔リ〕利梨里理裡隣
 〔ル〕留流類
 〔レ〕禮例列烈連
 〔ロ〕呂侶路漏
 〔ワ〕和
 〔ヰ〕爲位謂
 〔ヱ〕惠畫囘
 〔ヲ〕遠袁乎越烏惡怨呼叫など見えて、此(ノ)集に字音假字の用たるさま大略かくのごとし、○二(ツ)に字訓假字と云は、いはゆる得田直《ウタヂ》千羽日《チハヒ》と書る類にて、其(ノ)字は左のごとし、
 〔ア〕余足嗚呼
 〔イ〕射五十馬聲
 〔ウ〕得卯免
 〔エ〕得榎江
 〔オ〕見あたらず)
 〔カ〕鹿蚊香日
 (キ〕木寸杵割刻
 〔ク〕(見あたらず)
 〔ケ〕異毛食殊
 〔コ〕籠粉兒木子
 〔サ〕狹猿
 〔シ〕磯羊蹄爲石
 〔ス〕爲酢渚簀
 〔セ〕背湍瀬迫石花
(78) 〔ソ〕十衣其麻苑
 〔タ〕田手
 〔チ〕乳千血市
 〔ツ〕川津
 〔テ〕直手
 〔ト〕砥利礪外常止速跡十鳥飛迹
 〔ナ〕菜名魚莫
 〔ニ〕※[者/火]煎丹荷似負
 〔ヌ〕沼寐宿
 〔ネ〕根
 〔ノ〕笶箆野
 〔ハ〕歯羽葉者
 〔ヒ〕日氷乾負
 〔フ〕歴經蜂音
 〔ヘ〕甕※[缶+瓦]重經家戸
 〔ホ〕帆穗太
 〔マ〕間眞
 〔ミ〕箕見三御身水
 〔ム〕六牛鳴
 〔メ〕女目眼海藻
 〔モ〕喪裳藻面
 〔ヤ〕八矢屋
 〔ユ〕湯結
 〔ヨ〕四世
 〔ラ〕等
 〔リ〕見あたらず、但し朝入《アサリ》、廬入《イホリ》など書れば、入をりの假字とも云べし、
 〔ル〕見あたらず
 〔レ〕村
 〔ロ〕見あたらず
 〔ワ〕見あたらず
 〔ヰ〕井居藍猪
 〔ヱ〕咲
(79)〔ヲ〕尾士男麻緒少小、など見えて、此集宇訓の假字を用たるさま、大略かくのごとし、その中、上に云るごとく、得田直《ウタテ》、千羽日《チハヒ》、あるは八間跡《ヤマト》、丹穗葉寐《ニホハヌ》、者田爲々寸《ハタスヽキ》など、みながら字訓の假字をも用ひ、或は端寸八爲《ハシキヤシ》、三名之綿《ミナノワタ》、結經方衣《ユフカタキヌ》、男爲鳥《ヲシトリ》などやうにも書(ク)、或は又於保伎見《オホキミ》、阿跡念《アドモフ》、名津匝《ナヅサヒ》など、字音假字に交ても用ひて種々なり、こゝに一(ツ)の論あり、妹乘良武可《イモノルラムカ》、また浪乃鹽左爲《ナミノシホサヰ》などに、可爲等の字を用ふるごときは、正しき假字なるを、乘良武鹿《ノルラムカ》、また鹽左猪《シホサヰ》など書類は、もと獣名の鹿猪を借て用たるものにて、此は相見つるかもなど云に、鳥名を借て相見鶴鴨、と書たるに全(ラ)同じければ、此は假字とは云べからず、借字と云べし、もし辭のつるかもに、鶴鴨と書(ク)類をもおしこめて、假字と云ばさもあるべし、假字と借字とを分て、目《ナ》を立るときは、いかゞなりと難むる人もあるべし、まことに然いはゞ、これらを假字と云むは、理にたがひたることなり、されば古事記にも、書紀にも、歌詞又訓注などに、字訓を用たること一もなし、其《ソ》は正しき假字の例に非るが故なり、されば彼二典などにては、字音なるを假字、字訓なるを借字と、其目を定(メ)別て讀わたりゆくに、きはやかにわかれて宜しけれども、はやく此集には、於保伎見《オホキミ》、また四寶三都良武香《シホミツラムカ》などやうに、字訓をも、字音の假字とひとつものにして用ひ、其後靈異記延喜式新撰字鏡和名抄等の類にいたりては、江木千止丹三女井《エキチトニミメヰ》など、字訓を訓注等の假字に用ひたることめづらしからず、又平假字にもえとみめゐ〔五字右○〕片假字にもエチトネミメヰ〔七字右○〕など、字訓の暇字の、なべて行はるゝことに定りたる、其は右に云如く、寧樂人よりはじまれることなれば、今は音訓をいはず、一音の言に用たる字をば、此集にては(80)姑假字と决めつるなり○三に字音二合の假字と云は、いはゆる金《コム》三《サム》と書る類にて、其字は左の如し、
 〔ウツ〕欝(欝瞻《ウツセミ》の類)
 〔カニ〕干漢(湯鞍《ユクラ》(干《カニ》、爾故余漢《ニコヨカニ》の類)
 〔カム〕甘敢(甘嘗備《カムナビ》、僧半甘《ホウシナカラカム》、歎敢《ナゲカム》の類)
 〔カク〕各(各鑿《カクノミ》の類)
 〔カホ〕※[日/木](見※[日/木]石《ミカホシ》※[日/木]鳥《カホトリ》の類、※[日/木]のウをホに轉用たり)
 〔クニ〕郡君(郡問跡《クニトヘド》、不有君《アラナクニ》の類)
 〔ケム〕兼險監(苅兼《カリケム》、有險《アリケム》、見監《ミケム》の類)
 〔コヾ〕極(極此疑《コヾシカモ》の類、極《コク》のクをコに轉用たり)
 〔コチ〕乞(乞痛《コチタキ》、越乞《ヲチコチ》の類、乞《コツ》をコチと云は、一《イチ》日《ニチ》吉《キチ》八《ハチ》などの例なり)
 〔コム〕金今(還金《カヘリコム》、亂今《ミダレコム》の類)
 〔サニ〕散雜(散釣相《サニヅラフ》、雜豆臘《サニヅラフ》の類) 〔サン〕三(知三《シラサム》の類)
 〔サツ〕薩(薩雄《サツヲ》の類)
 〔サク〕作(作樂《サクラ》の類)
 〔サフ〕颯(名豆颯《ナヅサフ》の類)
 〔サヒ〕匝(名津匝《ナヅサヒ》、匝《サフ》のフをヒに轉用たり)
 〔シキ〕拭式色(悔拭《クヤシキ》、式島《シキシマ》、色天《シキテ》の類)
 〔シク〕鐘(鐘禮《シケレ》、鐘《シウ》のウをクに轉用たるなるべし)
 〔タウ〕塔(絶塔浪《タユタフナミ》の類)
 〔タニ〕彈(今夜彈《コヨイダニ》)
 〔タキ〕當「落當知足《オチタギチタル》の類、當《タフ》のウをキに轉用たり)
 〔チヌ〕珍(珍海《チヌノウミ》、珍《チン》のンをヌに轉用たり)
 〔テム〕點(著點《キセテム》)
 〔トコ〕徳(烏徳《ヲトコ》の類、徳《トク》をトコと云こと常なり)
 〔ナニ〕難(難可將嘆《ナニカナゲカム》)
 〔ナム〕南(去別南《ユキワカレナム》)
 〔フニ〕紛(黄土紛《ハニフニ》、粉《フン》のンをニに轉用たり) 〔フク〕福(福路《フクロ》)
 〔ヘリ〕篇(思篇來師《オモヘリケラシ》、篇《ヘン》のンをリに轉用たり)
 〔マニ〕萬(往乃萬々《ユキノマニ/\》、萬《マン》のンをニに轉用たり)
 〔ミヌ〕敏(敏馬《ミヌメ》、敏《ミン》のンをヌに轉用たり)
(81) 〔ラム〕濫藍覽(戀奴濫《コヒヌラム》、見欲賀藍《ミカホシカラム》、求覽《モトムラム》の類)
 〔ラク〕樂落(相樂《アヘラク》、戀落《コフラク》の類)
 〔レム)廉(有廉叙《ウレムゾ》)
 〔ヲチ〕越(越乞《ヲチコチ》、越《ヲツ》をヲチと云は、乞《コチ》の例なり、)
 〔ヲト〕越(越女《ヲトメ》、越《ヲツ》のツをトに轉用たり、)など見えて、此集に二合假字を用たるさま、大略かくのごとし、(盡(ク)もらさず載たるにはあらず、餘はこれらに准(ヘ)知べし、)その中に、遷金《カヘリコム》、知三《シラサム》、とやうに訓音交へても用ひ、或は欝瞻《ウツセミ》、越乞《ヲチコチ》など、みながら二合假字をも用ひ、又|※[日/木]鳥《カホトリ》、各鑿《カクノミ》、などやうにも、さま/”\に用たること、上に擧たるが如し、
   借字
借字《カリモジ》と云ものも、云もてゆくときは、假字と云に差別はなきがごとくなれども、細にいふ時は、右に云る假字とは異なり、さるは文字の音《コヱ》を用ひず義《コヽロ》をとらず、其訓を異意《アダシゴヽロ》に借て書るを云、たとへば知さむなどいふさむを、佐牟《サム》と書も三《サム》と書も共に假字なるを、寒《サム》と書は、暑寒《アツサム》の寒を借持來て、辭の佐牟《サム》に用たるにて、これらの類をば、すべて借字としるせり、古事記、書紀などにも、神名人名地名等には、この借字を用たること殊に多く、其餘たゞの言にも、まれに用ひたり、かの古事記序に、因v訓述者詞不v逮v心とある是なり、さて集中などには、此借字に書る種々ありて、めづらしからぬことなるを、後世になりては、たゞ文字にのみ心をつくる故に、いかにぞや、かたぶかるゝこともあめるを、古は言を主《ムネ》として字には拘らざりしかば、いかさまにも借て書ること多し、其字は左のごとし、
〔ア〕朝(麻の借字)蟻(有の借字)秋(飽の借字)阿白《アシロ》(網代の借字)飽田《アクタ》(芥の借宇)足利思代《アドモヒテ》(率而《アドモヒテ》の借字)
(82)〔イ〕慍《イカリ》(碇の借字)稻(寐の借字)言惜《イフカリ》(欝悒《イブカリ》の借字)市白《イチシロ》(灼然《イチシロ》の借字)石相《イハヒ》(齋《イハヒ》の借字)
〔ウ〕浦《ウラ》(心《ウラ》の借字)占《ウラ》(裏の借字)牛(大人《ウシ》の借字)寫(顯《ウツシ》の借字)打乍《ウツヽ》(現の借字)受日《ウケヒ》(祈誓《ウケヒ》の借字)菟楯《ウタテ》(轉の借宇)得干《ウカレ》(所《レ》v浮《ウカ》の借字)
〔オ〕息《オキ》(奧の借宇)押日《オスヒ》(襲覆《オスヒ》の借字)大欲《オホヽシ》(欝悒《オホヽシ》の借字)
〔カ〕辛《カラ》(韓の借字)柄《カラ》(故《カラ》の借字)肩(片の借字)固《カタク》(難の借字)闕(如比《カク》の借字)刈(假《カリ》、また鴈の借字)金(之根《ガネ》の借字)兼(不根《カネ》の借字)氈《カモ》、※[毛三つ]《カモ》、鳧《カモ》、鴨《カモ》(哉《カモ》の辭の借字)※[金+施の旁]染《カナシミ》(悲の借字)
〔ク〕熊(隈《クマ》の借字)鞍四《クラシ》(令《シ》v暮《クラ》の借字)蜘※[虫+厨]《クモ》(辭のクモの借字)钁《クハ》(辭のクハの借字)
〔コ〕言(事、また毎《コト》の借字)粉枯《コガレ》(所《レ》v焦《コガ》の借字)
〔サ〕酒(避《サケ》の借字)障《サヘ》、塞《サヘ》、禁《サヘ》(副《サヘ》の辭の借字)
〔シ〕霜《シモ》、下《シモ》(辭のシモの借字)然、牡鹿《シカ》(辭のシカの借字)胡粉《シラニ》(不知《シラニ》の借字)白鳴《シラナク》(無《ナク》v知《シラ》の借字)小※[竹/條]生《シヌハユ》(所《ユ》v慕《シヌハ》の借字)
〔ス〕摺(爲《スル》の借字)鈴寸《スヾキ》(鱸の借字)酢堅《スガタ》(形容《スガタ》の借字)簀竹跡《スダケド》(雖《ド》2參集《スダケ》1の借字)
〔セ〕責(將《ム》v爲《セ》の借字)
〔タ〕玉(魂《タマ》の借字)谷(辭のダニの借字)足《タル》(辭のタルの借字)鶴寸《タヅキ》(手著《タヅキ》の借字)
〔チ〕塵(散《チリ》の借字)
〔ツ〕筒《ツヽ》(乍《ツヽ》の借字)舂《ツキ》(附の借字)鶴《ツル》(辭のツルの借字)管士《ツヽジ》(躑躅《ツヽジ》の借字)
〔ト〕年《トシ》(辭のトシの借宇)友《トモ》、伴《トモ》、侶《トモ》、鞆《トモ》(雖《ドモ》の借字)
(83)〔ナ〕薙《ナギ》、水葱《ナギ》(和《ナギ》の借字)嘗《ナム》、味試《ナム》(辭のナムの借字)苗《ナヘ》(辭のナヘの借字)梨《ナシ》、哭《ナク》(無《ナシ》の借字)名積《ナヅミ》(苦惱《ナヅミ》の借字)名鴈《ナカリ》(無《ナカ》リの借字)成《ナス》、鳴《ナス》、生《ナス》(如《ナス》の借字)夏樫《ナツカシ》、夏借《ナツカシ》(昵懷《ナツカシ》の借字)長柄《ナガラ》(乍《ナガラ》の借字)
〔ニ〕庭(辭のニハの借字)西(辭のニシの借字)
〔ヌ〕塗《ヌル》、漆《ヌル》、水《ヌ》【◎少カ】熱《ル》(辭のヌルの借字)額《ヌカ》、糠《ヌカ》、粳《ヌカ》(辭のヌカの借字)
〔ノ〕乘《ノリ》(苔《ノリ》の借字)
〔ハ〕蠅《ハヘ》(延《ハヘ》の借宇)羽計《ハヾカリ》(憚の借字)秦《ハダ》(膚の借宇)二十《ハタ》(機の借字)食《ハム》(辭のハムの借字)墓(辭のハカの借字)椅《ハシ》、橋(辭のハシの借字)匍匐《ハヒ》(辭のハヒの借字)
〔ヒ〕一《ヒト》(人《ヒト》の借字)櫃《ヒツ》(辭のヒツの借字)※[泥/土]打《ヒヅチ》(濕《ヒヅチ》の借字)
〔ヘ〕蛇(可《ベミ》の借字)
〔マ〕待(松《マツ》の借字)猿《マシ》、申《マシ》、増《マシ》、益《マシ》〔辭のマシの借字)纏《マク》、卷《マク》(辭のマクの借字)
〔ム〕六倉《ムグラ》(葎《ムグラ》の借字)
〔モ〕本欲《モトホリ》(廻《モトホリ》の借字)
〔ユ〕湯龜《ユカメ》(將《メ》v行《ユカ》の借字)湯谷絶谷《ユタニタユタニ》(猶豫《ユタ》ニ猶豫《タユタ》ニの借字)
〔ワ〕綿《ワタ》(海《ワタ》、また腸《ワタ》の借字)
〔ヲ〕鴛鴦《ヲシ》(辭のヲシの借字)など見えて、此集に借字を用ひたるさま、大略かくのごとし、(なほ多くあれど、みながら載むは、中々にわづらはしければ、今は其目なれたるのみを引出づ、餘は右に准(ヘ)知べし、)その中に、言借《イフカリ》白成る鳴《シラナク》など、みながら借字をも用ひ、また鶴《ツル》、鴨《カモ》などやうに、はなちても(84)かけること多く、又|管士《ツヽジ》鞍四《クラシ》などやうに假字まじりにも書(キ)、なほくさ/”\に用ること、これかれ多くあれど、みな上に擧たるに准(ヘ)知べし、その用ひたるすべての心ばえは、假字と同じく文字には拘はらず、たゞその訓を借用たるのみなり、故(レ)吾夫を云|都麻《ツマ》に、夫字を填たるは正しく、吾妻を云|都麻《ヅマ》に、妻字をあてたるは正しきを、夫と書べき處に妻と書(キ)、妻と書べき處に夫とかける類は、たゞその訓の同じきを借たるのみにて、これも借字なり、されば夫妻の字を、彼にも此にも用たることの多きにて、その訓だに同じければ、強て字には泥まざりしことを思ふべし、
   正字
正字《マサモジ》と云は、安米都知《アメツチ》と云に、天地の字を填たる類なり、しかるに處によりては天は阿麻《アマ》とも曾良《ソラ》とも訓べく、地は久爾《クニ》とも登許呂《トコロ》とも訓べきが故に、假字書の正しきには及《シカ》ざることもあり、されど言の意を具るかたには、假字書にまされることあり、夜麻可波《ヤマカハ》と云に山川の字、比牟加之《ヒムカシ》爾之《ニシ》と云に東西の字を填たるも、阿米都知《アメツチ》と云に天地の字を填たるに同じ、しかるに、東國を云|阿豆麻《アヅマ》に東字を填たるは、阿米都知《アメツチ》と云に天地の字を填たる類にはあらで、阿豆麻と云と云|名號《ナ》起りて後に、外にあつべき字なき故に、姑(ク)填たる字にて、もとよりの正字ならず、吾妻、吾嬬と書も、その名の由縁に本づきて填たる字なれば、假字借字の類とはたがひたれども、これももとよりの正字にはあらず、阿爾於等《アニオト》と云に兄弟、阿禰伊毛《アネイモ》と云に姉妹の字を填たるは、かの天地の類にて正字なるを、皇朝の上古に伊毛と云しは、夫婦にまれ、兄弟にまれ、他人にま(85)れ男と女と雙ぶときに、其女をさして云稱なれば、阿禰伊毛と云伊毛に、姉字を填たるは正しきことながら、ひろく女をさしていふ時の伊毛には妹字あたらねども、姑姉妹の間の妹に就て填たるものにて、かたへは正字、かたへは借字なるがごとし、比那《ヒナ》と云に夷字を書るは、正しく當れる字にはあらざれども、外に填べき字なきゆゑに、しばらく此字を書るにて、これももとよりの正字にはあらず、可須美《カスミ》には靄字を填べきを、古より霞字をかき、烏名の宇《ウ》に※[盧+鳥]※[茲+鳥]の字を填べきを、古より鵜字をかける類も多くして、これらの類を精(ク)論ふときは、長きことにて、たやすく盡すべきにあらず、本條に其字の出るにつきて、いはではえあるまじきをば、よりよりにさだすべし、
   義訓
義《コヽロ》に就て訓たる字にもさま/”\あり、玄黄は安米都知《アメツチ》の正字にはあらざれども、天地の義に相當れる文字なるがゆゑに、義を得て安米都知と訓せたるなり、これは彼方の文字のあるがまゝを、取持來て訓るものにて、父母を於夜《オヤ》と訓(ミ)、あるは暖を波流《ハル》、寒を布由《フユ》、あるは供養《タムケ》、任意《ヨシ》、委曲《ヨク》、尋常《ヨノツネ》など訓も同じ類なり、丸雪を阿良禮《アラレ》と訓は、かの玄黄《アメツチ》の類とはいさゝか異りて、此方にて、其物のあるかたちを考へて、ことさらに字を連ねなして訓せたるものなり、冬風《アラシ》、水鳥《ウ》、不顔面《シヌフ》、親々《チヽハヽ》、戀水《ナミダ》、不行《ヨド》、西渡《カタブク》不遠《マヂカキ》、得物矢《サツヤ》、耳言《サヽメク》、重石《イカリ》、青頭鷄《カモ》、雪穗《タヘノホ》、礒人《アマ》などある同類なるべし、此餘|鹿猪《シシ》、鶉雉《トリ》、不樂《サブシ》、不怜《サブシ》、求食《アサル》、止息《ヨドム》、不通《ヨドム》、不逝《ヨドム》、火氣《ケブリ》、白氣《キリ》、不數見而《カレテ》、不清《オホヽシク》、不明《オホヽシク》、開木代《ヤマシロ》、角髪《ミヅラ》、戯奴《ワゲ》、登時《スナハチ》、面羞《オモナミ》、希將見《メヅラシ》、最末枝《ホツエ》、丁子《ヲトコ》、丁女《ヲトメ》、建怒《タケビ》、輕引《タナビク》、不穢《キヨク》、若末《ウレ》、不得《カネ》、無怠《タエズ》、東細布《ヨコグモ》、非不飽《アケドモ》、八頭《ヤツ》、平生《ハフコ》、痛念《ナゲク》、鷹獵《トガリ》など書る類(86)には、かの玄黄《アメツチ》に同じくて、彼方にて、もとより熟ねたる字のあるがまゝを、とり來てよめりと思はるゝも、又かの丸雪《アラレ》に同じく、此方にて、其物のあるかたちを考へて、ことさらに字を連ねなして、訓せたるもありと見ゆ、金厩《ニシノマヤ》、角厩《ヒムガシノマヤ》の金角《ニシヒムガシ》、白風《アキカゼ》の白《アキ》、若月《ミカヅキ》の若《ミカ》などの類は義訓にて、厩風月などは正字なり、又一種|神樂聲浪《ササナミ》、跡位浪《シキナミ》など書る類あり、これは神樂聲は、義を得て佐々《サヽ》と訓べく、跡位は義を得て志伎《シキ》と訓べき字なれば、かの戀水《ナミダ》、西渡《カタブク》など書に理は同じけれども、即その義を得て訓る字をとり來て、再び借字のごとくに用へるなり、しからば神樂聲《ササ》、跡位《シキ》などは、かの借字の條に、收べきことともいふべけれども、海《ワタ》を綿《ワタ》、澳《オキ》を息《オキ》と書る類の、一わたりの借字には非ず、もと義を得て訓る字なるから、此間に載てことわりつ、和《ナギ》ぬると云に水葱少熱《ナギヌル》と書るは、水葱《ナギ》は全(ラ)借字、少熱《ヌル》はもと義を得て訓る字なるを、ふたゝび借字に用たるにて、今と同例なり、なほ此外にも精く別て云ときは、くさ/”\の義もあれど、わづらはしければもらしつ、又一(ツ)義を得てかける類あり、石走垂水之水能早敷八師《イハバシルタルミノミヅノハシキヤシ》の早《ハ》、妹目乎見卷欲江《イモガメヲミマクホリエ》の欲《ホリ》、霍公鳥飛幡之浦《ホトヽギストバタノウラ》、白鳥能飛羽山松《シラトリノトバヤママツ》などの飛《ト》、登能登入雨零河《トノグモリアメフルカハ》の零《フル》、我心盡之山《アガコヽロツクシノヤマ》の盡《ツクシ》、吾紐乎妹手以而結八河《アガヒモヲイモガテモチテユフヤガハ》の結《ユフ》、吾妹兒爾衣借香《ワギモコニコロモカスガ》の借《カス》、韓衣裁田之山《カラコロモタツタノヤマ》の裁《タツ》、橡之衣解洗又打山《ツルバミノキヌトキアラヒマツチヤマ》の又打《マツチ》、眞鏡蓋上山《マソカヾミフタガミヤマ》の蓋《フタ》、眞十鏡見宿女乃浦《マソカヾミミヌメノウラ》、眞十鏡見名淵山《マソカヾミミナフチヤマ》などの見《ミ》、落雪之消長戀師《フルユキノケナガクコヒシ》の消《ケ》、明日依者將行乃河《アスヨリハイナミノカハ》の將行《イナミ》、四長鳥居名之湖《シナガトリヰナノミナト》の居《ヰ》、物部能八十氏河《モノヽフノヤソウヂガハ》の氏《ウヂ》などの類多し、これらは何となく、其物に縁《チナミ》てかけるもあれど、字によりて、其義を思ひ得せしむるが料に書るもあり、又中には字に泥て、義を混へあやまつもあるべし、なほその歌のいづるに隨ていはむ、すべて文字は假借《カリモノ》と見すぐして、訓(87)るうへの言語をだに精嚴《オゴソカ》にすれば、誤つことなしと知るべし、
   戯書
志《シ》と云ことを二二、重二、竝二、登遠《トヲ》と云に二五、久々《クヽ》と云に八十一とある類も、義を得て訓せて、さて假字《カナ》借字《カリモヂ》には用ひながら、ことさらに戯て書るものなれば、一わたりの假字借字の類にはあらず、三五月《モチヅキ》、また色二山上復有山者《イロニイデバ》などあるは、既く彼方にて書ることにて、即(チ)義訓の類なり、折木四哭《カリガネ》、切木四之泣《カリガネ》、(四はともに、器の誤ならむといへり、)三伏一向夜《ツクヨ》、中一伏三起《ナカコロ》、根毛一伏三向《ネモゴロ》などあるは、折木器《カリ》、切木器《カリ》などを、義を得て可里《カリ》と訓、三伏一向を、義を得て都久《ツク》と訓(ミ)、一伏三起、一伏三向などを、義を得て許呂《コロ》と訓る字等をとり來て、ふたゝび借字に用ひたるなり、辭のツヽ〔二字右○〕に喚鷄と書るも、義を得て訓る字をとり來て、ふたゝび借字に用たるなり、喚犬追馬鏡《マソカヾミ》、追馬喚犬《ソマ》などあるもこれに同し、所聞多禰《カシマネ》、向南山《キタヤマ》。毛人髪三《コチタミ》、羲之《テシ》、大王《テシ》、毛無乃丘《ナラシノヲカ》、二手《マテ》、諸手《マテ》、左右手《マテ》、目不醉草《メサマシグサ》など書る類は、上の戀水《ナミダ》、西渡《カタブキ》などやうに書ると同じく、義を得て訓せたるものにて、かの義訓(ノ)條に收べきことながら、いづれも、ことさらに戯れて書るにて、漢人のいはゆる隱語の類なれば、分てしるしつ、奠器圓隣《ミモロ》など書るも、右と同じ心ばえにて、いよ/\たくみなるものなり、なほ本條に至りて、そのをぢ/\にくはしくことわらむ、
   具書
阿良曾布《アラソフ》と云に、競字にてことたれるを諍競とかき、可治《カヂ》と云に、櫂字にてことたれるを、櫂合と書る類あり、那爾《ナニ》と云に、何字にてことたれるを、何物と書るも同じ、これらはそのもとの義(88)を思ひて書るにて、たゞ徒に添たるのみには非じと思はるゝなり、戀許曾増焉《コヒコソマサレ》、戀許曾益也《コヒコソマサレ》、鶯鳴烏《ウグヒスナクモ》、吾毛悲烏《アレモカナシモ》、君乎社待也《キミヲコソマテ》、妻之眼乎欲《ツマノメヲホリ》焉(鳥は焉に通(シ)用(ヒ)たり、)など焉也等の字を句末にそへて書たるは、例のからざまの助字にならひて書るのみにて、あるもなきも異《カハリ》なし、所偲由《シヌハユ》、雖干跡《ホセト》など書る類は、所(ノ)字|由《ユ》の言にあたり、雖(ノ)字|跡《ト》の言にあたりたれば、由跡等の字はいたづらものなれど、所偲はシヌバユともシヌバエとも活(キ)、雖干はホセドともホストモとも活(ク)言にて、そをまがはせじがために、ことさらに添て書るものなり、又|不《ネ》2相志思《アヒシモハ》1者《バ》など、てにをはの字を中にはさみ、將《ム》2若異《ワカケ》1など下にてにをはの字をおきてもかけり、又|誰名將有裳《タガナニカラモ》、檜橋從來許武《ヒハシヨリコム》などある類も、ことさらに添て書るものかと思はる、なほ本條に云べし、又續紀宣命、新撰萬葉には、ことに添てかける所多し、續後紀(ノ)十九興福寺(ノ)僧等(カ)長歌詞には、いよ/\そへてかける所多し、
   略書
八卷、十三卷に、山下《アラシ》とあるは、山下(ヨリ)出(ル)風也といふ意なるを略きて書りと見ゆ、一卷、十卷に、下風《アラシ》とあるも、右と同じ意なるを略けるなるべし、又十三に、阿下《アラシ》とあるも、山阿下風の意を略けるにや、二卷に、神樂浪《サヽナミ》とあるは、神樂聲浪とも書るところあれば、聲字を略きたるならむ、又一卷、三卷に、樂浪とあるは、又神字をさへも略きたるならむ、一卷、二卷などに、左右《マデ》とあるは、他所に左右手《マデ》と書たる手を略きて書たるならむ、十一十二卷に、犬馬鏡《マソカヾミ》とあるは、十三卷に、喚犬追馬鏡《マソカヾミ》と見え、又|追馬喚犬《ソマ》(杣なり、)と書る處もあれば、喚追の字を略きてかけるなり、十三に、清鏡《マソカヾミ》とあるは、眞清鏡を略き書たるか、八卷に、銅鏡《マソカヾミ》とあるは、十二卷に、白銅鏡とあるに同しければ、白(89)字を略きたるか、十一卷に、眞鏡《マソカヾミ》とあるは、同卷に眞十鏡《マソカヾミ》、眞祖鏡《マソカヾミ》、眞素鏡《マソカヾミ》などあるに同じければ、略(キ)書るならむ、餘は准へて知べきなり、
   省畫
凡字畫を省くは、漢國の書どもに、韵を※[韵の旁]と書(キ)、掃を帚とかき、蛇を它と書(キ)、※[匹+鳥]を匹【〔頭註備考、孟子集註、匹字本作※[匹+鳥]、鴨也、從省作匹、〕】とかくたぐひ、いと多かるにならひて、皇朝にても、古より便宜にまかせて、畫を省きて作《カケ》りとおもはれて、古書等に、※[虫+呉]蚣を呉公、健を建、弦を玄、他を也と作、(此等古事記に見ゆ、)村を寸と作(キ)、(石寸《イハレ》、寸主《スグリ》の類、古事記、書紀、延喜式等に見ゆ、)醜を鬼、枳を只、伎を支、倭を委、(委文《シヅリ》、大委《オホヤマトノ》國の類)波を皮、倍を※[倍の旁]、趾を止、盛を成、(冬木成《フユゴモリ》、百木成《モヽキモル》の類なり、已上古事記に出たるも、此集に出たるも、又靈異記に見えたるも、其他古書に見えたるもあり、又橘免勢と作ること性靈集にも見ゆ、免は逸の省畫なり、此集に獻を※[獻の左]と作るも省畫なるべし、なほいと多し、(等由氣宮(ノ)儀式帳に、衣若干令、袴若干要など多くかけるも領腰の省畫なり、又元享釋書に、境を竟と書(キ)、今昔物語に、滋岳川人を茲岳川人と書り、みな省畫なり
   異訓 異字
川《ツ》(字書に、津《ツ》などの字通ふ義は見えず、されど古(ヘ)皇朝にて、都《ツ》の假字に用ひし字なり、)○※[女+后]《ユヱ》(字書に、故などの字に通ふ義は見えず、されど集中に、ユヱと訓べき處に用たること往々《トコロ/\》見ゆ、)○前《クマ》(字書に、阿隈などに通ふ義は見えず、されど此方にて、クマと訓べき處に用たること多し、)○梶《ガヂ》(字書に、※[楫+戈]柁などに通ふ義は見えず、されど※[楫+戈]に通(ハシ)用(ヒ)たること古書に多し、或説には、もと柁(90)字を誤れるならむといへり、)○椋《クラ》(字書に、鞍或は倉などに通ふ義は見えず、されど古(ヘ)皇朝に、クラと訓べき處に用ひたること多し、)○椅《ハシ》(これも字書に、橋階などに通ふ義は見えず、されど古皇朝にて、ハシと訓べき處に用ひしこと多し、)○椿《ツバキ》漢籍に見えたる椿《チン》は、藥木にて、都婆木《ヅバキ》とは異物なり、都婆木に此字を用ふるは、此方にて、春木二字を一字に合せて製れる字にて、萩と同例ならむ、又槇榊などの類も同じ、和名抄に、唐韻云、椿勅倫反、和名豆波木《ツバキ》、木名とあり、これも漢籍を直に引たれど、此方の都婆木には當らぬことなり、カツヲに唐韻の鰹字を引れたると同じき順の誤なり、しかるに、からぶみ草木藥方雜記と云ものに、山茶、日本其國名曰v椿と見えたるからは、彼土にても、此方にて古くより、都婆木を椿と書なれたることを知たるなり、)○榎《エ》(字書に衣乃木《エノキ》にあつべき義は見えず、此方にて、夏木二字を一字に合せて製れる字にて、椿と同例ならむ、)○與《コソ》(希望靜の許曾《コソ》に用たり、されど字書にしか用ふべき義見えず、先輩の説に、乞の草書より誤れるならむと云へれど、いかゞ、蒙求に、前漢朱買臣云々、買臣乞2其夫(ニ)錢1令v葬、注に與亦曰v乞とあれば、與乞は彼方にても通(ハシ)用(ヒ)たることありとおぼゆ、○※[木+求]《ウチ》(※[手偏+求]と作る本もあり、共にウチと訓べき義をしらず、但し字彙に、一曰鑿首とあれば、此意をとれるか、詳ならず、)○湖《ミナト》(ミナトと訓べき義をしらず、事文類聚に、群書要語、湖都也、流涜四面所2隈都1也とあれば、この意によれるものか、考べし、)○摺《スル》(玉篇に、摺敗也折也、とありてスルと訓べき義見えず、同書に、榻手打也とあれば榻字か、又摺摩拭也、字彙に、摩也擦也、とあれは揩字か、)○粳《ヌカ》(糠などに通ふ義は見えず、書紀にも此集にも他の古書にも、多くヌカに用ひたり、)○?《ツマ》(妻などに通(ハシ)用(ヒ)たる據をしら(91)ず、但し字彙に?※[女+臣]、史晋獻公所v獲驪戎女又美也とあり、これらによりて用來たるか、なほ考べし、上件の字ども、ひたすら字書になきにはあらず、字體はからぶみに出たるものから、しか訓べき義の見えざるも、又詳ならぬもあり、そも/\皇朝の古書は、もはらもろこし唐と云し世より、あなたの書によれるを、今世に流布《ホドコ》れる字書どもは、かの唐と云しよりあなた用ひし字を漏し、又字は傳へながら、其音義をおとせることもおほしとおぼゆれば、中々に皇朝の古書の字の、彼方の今の字書より古くて、正しきもありとおもはるれば、前《クマ》椋《クラ》椅《ハシ》などもしが訓べき義を、彼方にては遺失《ウシナ》ひたるが、此方の古書に傳りたるもあるべく、又椿榎などは、※[木+香]《カツラ》鰹《カツヲ》の類にて、もと二字を一字に合せて、そのかみ此方にて成れる字なるべければ、もろこしの書どもに、その字體は出といへども、意義の合ざるはさるこななれば、漢國の書によりて、とかく論ふべきにあらざるもあり、これらの類のみにあらず、すべて皇朝の古(ヘ)、此方にて製れる字ども、これかれありとおもはるゝ謂《ヨシ》、次下にいはむ、和名抄(ノ)序に、其餘漢語抄不v知2何人撰1云々、其所2撰録1、音義不v見、浮僞相交、海蛸爲v※[虫+瓜]、河魚爲v※[魚+(非/連)]、祭樹爲v榊、※[さんずい+操の旁]器爲v樣等是也、云々、とある榊※[木+泉]の類は、此方にて製れる字なるから、からぶみにその音義不v見と云はさらなり、順は、異國の書に出ざる字のかぎりは、おしこめて浮僞相交と評《イハ》れつれど、文字の國こそあれ、皇朝は言靈のたすくる國、言靈のさきはふ國と古語にもいひて、言語を主《ムネ》として文字をば從《ヤツコ》とかろしめきつれば、字はかのから國に出たるにもあれ、此方にて製れるにもあれ、言語を傳ふるための、かりの目じるしなれば、さのみ極めて論べきにあらず、抑々皇朝の古書に交(ヘ)用られたる字に、漢籍によりて求る(92)に、其音義詳ならざる字ども多く、ことに新撰宇鏡などに至りては、漢國の字書に合がたき字をあまた載たること、世の學者のよく識(レ)ることなり、其は古より、此方にて製れる字の、普く世に行はれしをまじへ載たるがゆゑなり、弘仁十四年、修理算師山田福吉と云人の撰びて上りし、功程式の中に見えたる杣字は、福吉が作りし字なるよし、江談抄にもしるされたり、この杣字のたぐひ、古今許多あるべし、然るを和名抄に、この功程式を引て、杣字を所v出未v詳と注《イヘ》れど、福吉が作れる字なるからは、漢國の書にて出る所の見えざるは、いふまでもなきことなるをや、書紀に、天武天皇十一年三年丙午、命2境部連石積等1、更肇俾v造2新字《ニヒナ》一部四十四卷1と見えて、私記に、此書今在2圖書寮1、體頗在2梵字1(頗在の在は、似の誤ならむ、)とあり、これ皇朝にて、新に製りて行はれける字等を編められたるものにや、さらばこの境部氏の新字に出たるも、そのかみ多くありしならむ、又肥人書と云物、釋記に、其字皆用2假名1、或其字不v明、或乃川等明見之と見えて、この肥人書といふものは、肥前肥後の國中にて行はれし當昔一體の文字なりしとかや、これらの流れ來て、交り用られしことのありし類もあらむ、しかるを漢國の書に出ざるは、ひとへに誤誤なりと思はむは、いと淺見のわざなるべし、雫《シヅク》畠《ハタケ》伽《トキ》※[門/山]《ツカフル》扨《サテ》槇《マキ》※[木+色]《モミチ》籾《モミ》糀《カウヂ》鱈《タラ》鰆《サハラ》鰤《カマス》※[虫+夜]《タヒラギ》など、後世に普く行はるゝ字なるを、俗謬なりとて、ひたすらにすつるときは、ことによりては、かへりて便なきことありなむをや、○鞆《トモ》(字書に見あたらず、古より此方にて、射具のトモに用(ヒ)來れり、)これからぶみに見えざるは、かのもろこし唐と云し世よりあなたに行はれし字なるが、後に彼方の字書どもには脱たるか、又は境部氏が新字の類なるか、その詳なることは决めがたし、(93)○麿これは麻呂の二字を一字に合せたるものにて、白水郎を泉郎と作るに全同じ、眞木を槇、神木を榊、堅魚を鰹と作るもこれに近し、)○坏《ヅキ》(字書には見えたれども、酒器の義は見えず、杯の木偏を土に代たるものなり、)○※[木+安]《クラ》(字書に※[木+安]同v案と見えて、几案の義にて、鞍と通ふ義はなし、革偏を、木に代たるなり、)○桙《ホコ》(鉾字の金偏を、木に換て作るものなり、)○堵《ミヤコ》(玉篇に、垣也五版爲v堵、と見えて、都に通ふ義はなし、※[おおざと]旁を土偏に換て作るものなり、)これらは字偏をことさらに換て作《カケ》るものにて、寫誤にはあらず、(埼も崎字の山偏を、土に換たるものかとも思はるれども、字書に埼同v碕と見えて、崎埼碕とも彼方にても行はれし字なるべし、字鏡にも、碕(ハ)石之出太留佐伎《イハノイデタルサキ》とあり、)○完《シヽ》(玉篇に完全也保守也とありて、肉に通ふ義なし、字書に、宍は肉の古宇なるよし見えたれば、もとは宍を誤れるなり、されど集中のみならず、皇朝にては古書に宍とあるべきを完と作ること多し、)○芽《ハギ》(和名抄萩條に、辨色立成新撰萬葉集等用2※[草冠/〓]字1、唐韻※[草冠/〓]音胡誤反草名也と見え、字書に、※[草冠/〓]候誤切草名とあれば、※[草冠/〓]なるべきを、字形の甚ちかきによりて、昔より誤れるなるべし、芽は玉篇に、語家切萠芽とあればなり、)○牧《ヒラ》(字書を考るに、音も義も枚と通ふ義は見えず、枚を誤れるなるべし、)○※[弓+族の旁](族とあるべきを※[弓+族の旁]と作り、方偏と弓偏と通(ハシ)用たること古書に多し、)○隅《クマ》(字書に、阿隈に通ふ義は見えず、隈を誤れるなるべし、)○※[しんにょう+至]《フル》(逕字を字書に至也と注して、逕を※[しんにょう+至]とも作《カク》ゆゑ、※[しんよう+経の旁]を※[しんにょう+至]に誤りしものならむ、)○※[人偏+(云/丹)](※[人偏+稱の旁]と通(ハシ)書り、※[のづめ]を云と作ることは見あたらず、冉を丹と作ことは、干禄字書に、〓衰上通下正、※[身+冉]※[耳+丹]上通下正とあり、)○烏(焉字と通用ひたり、但和名抄装束部、烏帽の注に、俗訛烏爲v焉、今按烏焉或通、見2文選注玉篇等1とあれば、古は彼(94)方にて、もとより通はし書る字なりしか、今の玉篇にも、烏(ハ)語(ノ)聲(ナリ)とは見えたり、)○※[片+守](將字なり、後世此方にて淳を※[さんずい+字]とかけることあり、同類なり、)○釼《クシロ》(釵字なり、釵は釧と同じ、遊仙窟にも、金釧とも、金釵とも交(ヘ)書たり、叉を此方の古書に、刃と作ること、次の靱字に相照(ス)べし、)○靱《ユキ》(靫字なり、歌は盛v箭室と字書に見えたり、)○※[麁の異体字]《アラ》(※[鹿三つ]の通字麁字なり、)○※[就/火]《ニギ》(熟字なり、)これらは、その本字を誤來れることしらるといへども、久しく世に用なれたる字を、容易《タヤス》く改め作《カヽ》むは、中々にまどふこともあるべし、和名抄序にも、故復有d俗人知2其訛謬1不v能2改易1者u、※[魚+生]訛爲v鮭、※[木+温の旁]讀爲v杉、云々等是也、と見えたる、この※[魚+生]を鮭とかける類なるべし、○※[示篇+刀](初字なるべし、王逸少が書の佛遺教經に、※[示篇+刀]被等の體あれば、彼方にても、古くはネ※[衣偏]通(ハシ)用(ヒ)たることありしならむ、)○※[仰の旁]《シメ》(印字の減畫なり、干禄字書に、迎※[しんにょう+印]上通下正とあるに准ふべし、)○※[良+おおざと](郎字の減畫なるべし、)○※[寧の異体字](寧字の減畫なり、)○〓(篋字の減畫なり、)○〓(饌字の減畫なり、)○〓(懸字の減畫なり、但し智果心成頌に、繁則減除とある注に、王書懸字去2下一點1とあるより來れるか、○〓《ラム》(濫字の減畫なり、濫を※[濫の異体字]と作こと、字書には見えざれども、※[さんずい+東]を凍、※[さんずい+令]を冷、涼を凉、潔を※[にすい+潔の旁]とかくに同類なり、)○串《クシ》(※[串の異体字](ノ)字の減畫なるべし、)○〓《ヒモ》(紐字の減畫なり、)○〓《カヘル・コフ》(眷字の減畫なり、)○〓(免字の減畫なり、)○〓(挽字の減畫なり、)○〓《ヤド》(宿字の減畫なり、)○〓《キル》(殺字なり、干禄字書に、※[殺の異体字]※[殺のもう一つの異体字]殺上俗中通下正とあれば、※[殺の異体字]の減畫なり、)○〓(載字の減畫なり)○〓(磐字の減畫なるべし)、○豊(豊字の減畫なり、)○〓《カスミ》(霞字の減畫なり、)○〓《コヒ》(戀字の減畫なり、集中悉く※[戀の異体字]と作り、)○※[攣の手が十](※[攣の手が十]字の減畫なり、※[攣の手が十]古率字と見えたり」○※[?]の異体字](?字の減畫か、)○〓(鬢字の減畫なるべし、)これら、から人のいはゆる減畫の類ながら、彼方の書にて、今はを(95)さ/\見及ばざるが如くなれども、古は彼方にても、かくざまに書しもしるべからず、もろこし孫虔禮が書譜に、眞虧2點畫1猶可v記v文と見えて、書家《テカキ》の書に、眞を※[眞の異体字]、贋を※[贋の異体字]、點を※[點の異体字]、畫を※[畫の異体字]と作《カク》類をいふとそ、又智果が心成頌に、繁則減除、疎當2補續1とも見え、歐陽三十六法と云ものゝ中に、増減の法を出して、増は新を※[新の異体字]、建を※[建の異体字]、減は曹を※[曹の異体字]、美を※[美の異体字]とかく類とせり、○苅《カル》(字書に見えず、刈の増畫なるべし、延喜式にも、苅安草とあり、)○※[しんにょう+更]《クシゲ》(匣字の増畫なるべし、※[神の異体字]※[虔の異体字]などの類に、匣に一點を加へて※[匣の異体字]と作るが、つひに※[匣のもう一つの異体字]となれるなるべし、)○※[匣のもう一つの異体字]《クシゲ》(匣字の増畫なること上のごとし、Lを※[しんにょう]と作ことは、干禄字書に、※[しんにょう+甲]匣上通下正とあり、)○〓(〓字の増畫なり、王逸少が書の佛遺教經に、仰を※[仰]の異体字]と作るに同じ、)○※[御の異体字](御字の増畫なり、説上に同じ、)○〓(削字の増畫なるべし、)○〓(宣字の増畫なるべし、耆を※[耆の異体字]、喩を諭と作こと干禄字書に見えたり、同類なり、)○※[時の異体字](時字の増畫なり、上に准べし、)○※[晩の異体字](晩字の増畫なり、上に准べし、)○※[樂の異体字](樂字の増畫なるべし、上に准べし、)○※[振の異体字]《フル》(振字の増畫なるべし、)○※[欲の異体字](欲字の増畫なり、益に一畫を増て※[益の異体字]と作よし、干禄字書に見えたると同例也、)○詫(託字の増畫なり、但詫字、玉篇に見えたれど、託とは音義別なり、)○※[感の異体字](感字の増畫なるべし、)○※[敝の異体字](敝字の増畫なり、干禄字書に、〓弊上俗下正、とあるに准ふるときは、敝に通(ハシ)用ひしならむ、)○〓(〓字の増畫なるべし、)○〓《シメ》(標字の増畫なるべし、)○〓(誂字の増畫なり、)○〓(鴈字の増畫なるべし、〉○〓(幹字の増畫なるべし、)○〓(橿字の増畫なり、)○〓(隴字の増畫なり、)これら唐人のいはゆる増畫の類ながら、彼方の書にて、今はをさ/\見及ばざるがごとくなれゝども、古は彼方にてもかくざまに書しもしるべからず、上にいへる如く、疎當2補續1とありて、王逸少(96)が書に、神に一點を加へて〓と作《カキ》、處に一點を加へて〓と作、又却字從v※[おおざと]なども云ことありて、かしこにても、點畫を増て作ることの多ければ、今世の字書に合ずとて、たやすくは改めがたきことなるべし、さて前にもいへるごとく、字彙玉篇等の字書に、某字は某字と不v同、音義もとより異なりとて別てる字を、かの唐と云し世までの書家《テカキ》の説には、なほ然いはず、古の通字なりなど云て、字書と齟齬《クヒチガ》ふことの多きは、當時なべての文學者のいふところによらず、ひたすら漢魏晋の名家どもの、眞蹟を據として、いひたることなればなり、そもそも今(ノ)世に行はるゝ字書は、もろこし魏晋と云(ヒシ)世よりあなたの書家どもの書る字體に、さま/”\ありしことを、深くたづねずしてかけるものなるを、今の字彙玉篇等のみを點※[手偏+僉]《カムガヘ》て、古の書家は正字を知ずして書るものなりと思ふは、いと可笑しきことなりと、さきに廣譯知慎もいひおきたりき、○※[大/十](玉篇に、※[大/十]《タウハ》丑高切、徃來(シテ)見(ル)貌也、説文進趣也と見え、字彙にも※[大/十]从大从v十與2根本字1不v同とありて、本とは音義ともに、各別なりしとしたるを、もろこし晋唐の書家、多くは本を※[大/十]とかき、干禄字書にも※[大/十]本上通下正とあるからは、彼方にても同義の字とせること、さらに疑ふべからず、しかるを字書どもには、古の書家の書る字體を、深く考ることなくして、世に行はれ來つる字體のみを、編集たるがゆゑに、其説どもの合ざること、これかれ多し、)○※[大/十](干禄字書に、※[大/十]夭上通下正とあり、)○※[女+※[大/十]](上に准べし、同書に、※[さんずい+※[大/十]]沃上俗下正とあり、※[食+※[大/十]]飫もこれに准べし、)○※[直の異体字]《タヾ》(干禄字書に、〓〓上俗下正とあり、)○児(干禄字書に、児兒上俗下正とあり、)○※[置の異体字]《オク》(干禄字書に、〓〓上俗下正とあり、)○〓(廻字と同じ、すべて※[えんにょう]を、※[しんにょう]と作ること、干禄字書に、〓延上通下正、〓庭上俗下正、〓廷(97)上通下正、〓建上通下正、とあるに准べし、)○柏《カシハ・カヘ》(干禄字書に、栢柏上俗下正とあり、字彙にも、柏俗字栢字あり、))、○〓《ハラ》(干禄字書に、〓原上俗下正とあり、)○〓《ワスレ》(干禄字書に、〓佞上俗下正、字彙に、〓(ハ)※[手偏+旁](ノ)本字とあるなどに准るに、忘をも〓と作《カキ》しにや、)○〓(干禄字書に、〓等上通下正とあり、すべて竹冠を艸冠に換て、〓〓〓〓など作ること、もろこしの書家の書に例多し、)○〓(筥と同じ、上に准べし、)○栲《タヘ》(干禄字書に、〓考上俗下正とあり、但し玉篇補に、〓與v栲同とあるからは論なし、)○〓(干禄字書に、〓〓劉上俗中通下正とあるに准ふべし、柳を〓と作るも同例なり、字彙に、卿从v夕(ニ)誤とあるも、通(ハシ)書ることのありしがゆゑなり、)○〓《ハサム》挿と同じ、(干禄字書に、巣〓上通下正、〓嫂〓上俗中通下正などあるに准ふべし、)【〔頭注、字彙に挿俗挿字、秉燭談續字彙補〓字註曰、音〓日本有2甲〓州1見2平攘録1亦作2甲〓1とあり、和爾雅にこれを引て作2〓〓1者竝非なり、〓是なりと見ゆ、〓の草書を見誤り遂に〓字と覺えたるなり、今は多く〓の字をかく、これも無字なり、〕】○〓(干禄字書に、〓矜上通下正とあり、)○〓《ケチ》(干禄字書に、〓滅上俗下正とあり、)○〓(干禄字書に、〓苑上藥名、下園苑とあれど、字書に與v苑通と見ゆ、)○〓(干禄字書に、〓羨上俗下正とあり、)○〓(干禄字書に、〓蒙上通下正とあり)、○〓〓と同じ、干禄字書に、〓變上俗下正とあるに准ふべし、但し〓は攵に从、斐は文に从て、もと異なれども相類(フ)べきか、また〓雙上俗下正ともあり、考食べし、)○〓《シホ》(干禄字書に〓鹽上通下正とあり、字彙に鹽俗作v塩とあり、つれ/”\草に、しほと云文字を土偏なりと云て、わらはれたるよし見えたれど、彼方にても塩〓等とかき、此方にても古より〓とかきならひたれば、さのみわらふべき事にもあらざるをや、)○〓《シホ》字(彙に、左傳成公六年、沃饒而迄v〓、註〓鹽也と見えたり、)○竪(干禄字書に竪竪上通下正とあり、)○〓(干禄字書に、潔〓上通下正とあり、しかるを字彙に(98)は、此俗字也、从v水者爲v正とあり、)○〓(干禄字書に、〓啓〓禰竝上通下正とあり、)○〓《シメ》(干禄字書に、標〓、上標記字必遙反、下〓梅字、頻小反とあれば、標なるべく思ふに、字彙に、〓掲也〓記也と見え、標表也立v木繋2綵於上1爲2標記1也とあれば、〓標別字なれども、共に標記する義あれば、通はし用ひたるか、)○〓(干禄字書に、〓〓上通下正とあるに准ふるに、〓字をかくかけるならむ、)○〓(干禄字書に、嗣〓上俗下正とあり、)○〓(干禄字書に、〓蒜上俗下正とあり、)○盤《イハ》(干禄字書に、磐盤、上磐石下盤器とあれば、伊波《イハ》に盤字を書は非なり、然るに事文類聚に、宋之問嵩山天門歌、登2天門1兮坐2盤石之※[石+憐の旁]1云々とあるは、磐字を誤寫せるものか、但し續字彙補に、盤與v磐同、漢文帝紀、盤石之宗、荀子、國安2于盤石1、また康煕字典に、成公綏嘯賦坐2盤石1、注盤大石也とあるからは、漢國にても後世は、盤磐通(ハシ)用(ヒ)たるにやあらむ、されど彼方にても、もとは磐を誤て盤と作るよりのことなるべし、)○〓(干禄字書に、〓顧上通下正とあり、)○?《カリ》(玉篇に、?古曷切、?狙獣名、獵力渉切、犬取v獣とありて、音義各別なりとせるを、干禄字書に、?獵上俗下正とあれば通し書るなり、)○縵《カヅラ》(續字彙補に、與v蔓同延也とあるによりて、カヅラと訓るか、)○※[草冠/〓]《カヅラ》(もしは※[草冠/縵]字の誤寫か、されど集中こと/”\く、※[草冠/縵]字なるからは、所據あるべし、〓字に准考べし、※[草冠/縵]は字彙玉篇に、莫半切、草名とあり、)○〓(玉篇増續に、〓漫本字とあり、)○〓(玉篇増續に、〓同v慢とあり、)○〓《フヂ》(集中藤を悉〓と作り、干禄字書に、恭泰上俗下正とあり、これに准ふべし、)○羈《タビ》(干禄字書に、羈〓、上羈勒下〓旅、とあるによれば別義なり、されど玉篇に、羈居〓切旅也とあるからは、彼方にても通(ハシ)書るなり」、)これら、前に云る減畫の類と思はるゝも、増畫の類と思はるゝもありて、各々字の下に注せる(99)ごとく、おほくは彼方の書に、その通はし書るよし見えたり。中に藤字を〓と作がごときは、正しく其字には、さるよし見えずといへども、これ又准ふべき例あることなれば、通はし用ひけむことしらるかし、)○〓(縣の轉換なり、県を貝と作ことは、懸を〓と作に同じ、上に出(ツ)、)○〓《ソム》(染の轉換なるべし、)○〓《ツヽム》(〓の轉換なるべし、)○〓《ミチ》(滿の轉換なるべし、滿从v〓俗从v〓誤と字彙にあれば、雨と兩とは通(ハシ)書るこことありしなり、)これら、今世の字書にて見及ばずといへども、もろこしの書家者《テカキビト》の、いはゆる轉換にて、和を〓とかき、柳を〓とかけるに同じ類なれば、もとより彼方にても、かくざまに作りけむ、)○薩(薩の借換なるべし、)これも今の字書にては、見及ばずといへども、もろこしの書家のいはゆる借換にて、窮桃響の類に、もとより彼方の人も作《カケ》りけむ、)○大夫《マスラヲ》(これは、もとは丈夫とありしを誤寫せるか、されど集中おほくは、大夫とあるにより、大丈夫の丈字を略けるものならむ、といふ説もあり、但し四卷には、多く丈夫と作り、)○無乏《スベナシ》(スベナシと訓る義詳ならず、しかれども集中こゝかしこ、かく訓べき處に用ひたれば、所據あらむ、)○泉郎《アマ》(泉は、白水の二字を合て作るにて、麻呂を麿と作に同じ)、○與具《コソ》」(かく連ね書て、希望辭に用ふること未(ダ)詳ならず、與は既くいへり、)○※[立心偏+可]怜《ウマシ・オモシロシ・アハレ》(※[立心偏+可]字、今は字書に見えず、故可字に偏を加へたるものなりなど云説あり、書紀其他の古書にもかく書り、これはからぶみ遊仙窟に見えて、かく連ね書り、今の字書は、たゞあり來つる字書にのみ因循《ヨリ》たるものにて、ひろく他の書を※[手偏+僉]《カムガ》へわたすこともなくして、編たるものゆゑ、かくざまのめなれぬ字を、漏せること多し、)○芽子《ハギ》(芽字のことは既くいへり、芽子と連ね書ること未(タ)詳ならず、)○所心(題詞に所思といふ意の處に、かく(100)かけり、かく連ねたる字の出る處は未(ダ)考へず、)これらの連字のさま、おはくはその所據の詳ならざるも、又所據の詳なるも、世に目なれざるがゆゑに、疑ふことあること各々字の下に註せるが如し、なほ本編に至りて、すべて上件に出す異訓異字等は、其字の出るごとに、委くことわらむを、考見べし、
   縮言
古に言を縮《ツヾ》めて云たるやう、大抵二種あり、一には、言を縮めて體言をなせるなり、天降《アメオリ》を安母理《アモリ》(米於《メオノ》切|母《モ》」荒磯《アライソ》を阿理蘇《アリソ》(良伊《ライノ》切|理《リ》、)河内《カハウチ》を可布知《カフチ》(波宇《ハウノ》切|布《フ》、)呉藍《クレノアヰ》を久禮奈爲《クレナヰ》(乃阿《ノアノ》切|奈《ナ》、)木末《コノウレ》を許奴禮《コヌレ》(乃宇《ノウノ》切|奴《ヌ》、)國内《クニウチ》を久奴知《クヌチ》(爾宇《ニウノ》切|奴《ヌ》、)屋内《ヤノウチ》を夜奴如《ヤヌチ》(乃宇《ノウノ》切|奴《ヌ》、)荒海《アラウミ》を安流美《アルミ》(良宇《ラウノ》切|流《ル》、)吾家《ワガイヘ》を和藝敝《ワギヘ》(我伊《ガイノ》切|藝《ギ》、)吾妹《ワガイモ》を和藝母《ワギモ》(我伊《ガイノ》切|藝《ギ》、)太馬《フトウマ》を布都麻《フツマ》(等宇《トウノ》切|都《ツ》、)來經《キヘ》を氣《ケ》(朝爾氣爾《アサニケニ》、比爾氣爾《ヒニケニ》、氣長戀之《ケナガクコヒシ》、氣乃許能其呂波《ケノコノゴロハ》などいへる類なり、)これらの類は、古の成言を後に心として、縮めたるにはあらず、されど、その縮めたる原を、たづね辨へずしては、古言を解べからず、まことにかく縮めずしては、かへりて手づゝに、耳だちてわろし、今縮を伸して荒磯吾妹などその本に立かへりて、唱へこゝろむるに、そは中々に、ことさらめきてふさはしからず、廿卷に、ただ一首東歌に、和我伊母故《ワガイモコ》とあるは、かへりて耳に立て聞ゆるにて知べし、それも異本には、和我伊母等《ワガイモラ》とあるは、平穩《オダヒ》なるが如し、後世やゝもすれば古言を伸縮して、ことわることなれと、古人も伸すべき言、縮むべき言ならずて、たやすく伸縮はせざりしことなれば、謾に反切のさだもてことわるは、かたはらいたきことならずや、二には、用言を縮めたるなり、在2于倭1を倭那流《ヤマトナル》)(爾阿《ニアノ》(101)切|那《ナ》下なる皆同じ、)在2于吉野1を吉野那流《ヨシヌナル》、在2于松浦1を松浦那流《マツラナル》、在2于春日1を春日那流《カスガナル》、在2于天1を天那流《アメナル》、在2于葦邊1を葦邊那流《アシベナル》、在2于家1を家那流《イヘナル》など石へる類は、爾阿流《ニアル》と云と、那流《ナル》と云とに、ことなることわりはなけれども、短急《ニハカ》に云て宜しき處を、必(ス)縮めて云るにて、みだりに心として、縮めたるにはあらず、今試に唱へ見べし、倭那流、家那流など云は、人の解説をまたずして、在2于倭1在2于家1と自聞ゆることにて、もとよりしか云べき語勢なれば、然云たるにて、心まかせにいへるにはあらず、さて又、この用言を縮めたる中に、少づゝの異あり、音爲《オトス》にありを音爲那利《オトスナリ》と云、花に有ましをを花那良麻志乎《ハナナタマシヲ》、常磐にあるを常磐那流《トキハナル》などいへることあり、これも上の倭那流家那流など云と、反切は同理なれども、用《ツカ》へるやういさゝか異れり、音爲那利は、音爲るにてありと云意、(俗に音するでありと云むが如し、)花那良麻志乎は、花にて有ましをと云意、)俗に花であらう物ぢやにと云むがごとし、)常磐那流は、常磐にてあると云意(俗に常磐であると云むが如し、)にきこゆることなり、又花の有(ル)時にを花那流時爾《ハナナルトキニ》と云ることもあり、(八卷に、花乃有時爾《ハナナルトキニ》と書るは、其意なればなり、後に、色なる浪に月やどりけり、とよめるも、色のある浪にの意なり、)又、春之有者《ハルシアレバ》を春佐禮者《ハルサレバ》、(之安《シアノ》切|佐《サ》、)有之有而《アリシアリテ》を有佐理而《アリサリテ》など云、又|不《ズ》v鳴《ナカ》ありしを鳴射理之《ナカザリシ》、(受阿《ズアノ》切|射《ザ》、)高く有(ル)らしを高可良之《タカカラシ》、(久安《クアノ》切|可《カ》、)言痛《コチタ》くありともを言痛可理等母《コチタカリトモ》、霞みて有らむを霞多流良牟《カスミタルラム》、(?阿《テアノ》切|多《タ》、)など云る類もあり、又|行《ユク》と云《イフ》を行知布《ユクチフ》、(等伊《トイノ》切|知《チ》、)零《フル》と云を零知布《フルチフ》、潜《カヅ》くと云を潜知布《カヅクチフ》など云る類もあり、(この知布《チフ》を、今(ノ)京よりこの方は?布《テフ》と云り、?布《テフ》は知布《チフ》の轉訛《アヤマ》れるなり、)又|手折來《タヲリキ》けるを手折家流《タヲリケル》、(伎氣《キケノ》切|氣《ケ》、)使の來《キ》ければを使乃家禮婆《ツカヒノケレバ》と云ることもあり、(102)此事は其處の語勢に應《ヨル》ことにて、あながちに縮めて云るには非ず、又|消《キユ》を久《ク》、消《キエ》を氣《ケ》、召上《メシアゲ》、を賣佐宜《メサゲ》、(志安《シアノ》切|佐《サ》、)掻上《カキアゲ》を可々宜《カヽゲ》(伎安《キアノ》切|可《カ》、)など云る類も多し、上件に引る例ども、皆短急に云て宜しき處を縮めて云るにて、此等こと/”\に、然云てはあらずと云には非ず、たとへば、由久智布比等波《ユクチフヒトハ》とあるは必(ス)知布《チフ》(等布《トフ》に換云ても同じ、)といはでは宜しからぬを、水鳥乃可毛能羽能伊呂乃青馬乎家布美流比等波可藝利奈之等伊布《ミヅトリノカモノハノイロノアヲウマヲケフミルヒトハカギリナシトイフ》、とある歌の、等伊布《トイフ》を知布《チフ》(或は等布《トフ》)と云ては宜しからず、又吉跡云物曾とあるをば、吉跡伊布物曾《ヨシトイフモノゾ》と云ても、吉知布物曾《ヨシチフモノゾ》と云ても、苦しからざるが如し、いづれも此例に准へて意得べし、又|召上《メサゲ》、掻上《カヽゲ》などは、縮めていひなれたりと思はるれば、伸云ては、かへりて宜しからずきこゆるもあり、(つれ/”\草に、古は車もたげよ火かゝげよと云しを、今は車もてあげよ、火かきあげよと云はいと口をしといへるも、古縮めて云なれたることを、わすれたるを歎きたるなるべし、阿の音を、諸音の下になして唱へたるを、うれたみたるにはあらじ、)いづれ其處の語勢、其言のいひならはしなどに應《ヨリ》て、斟酌《ミハカラヒ》あることゝ知べし、
   伸言
流を那我良布《ナガラフ》、(良布《ラフノ》切|留《ル》、流《ナガレ》を那我良敝《ナガラヘ》と云も同じ、良敝《ラヘノ》切|禮《レ》となる、下々なるみな同じ、)散を知良布《チラフ》、更を可波良布《カハラフ》、語を可多良布《カタラフ》、(語《カタリ》を可多良比《カタラヒ》と云も同じ、良比《ラヒノ》切|理《リ》となる、下々なるも同じ、)渡を和多良布《ワタラフ》、守を、麻母良布《マモラフ》、隱を可久良布《カクラフ》、還を可敝良布《カヘラフ》、霧を伎良布《キラフ》、繼を都我布《ツガフ》、(我布《ガフノ》切|具《グ》、繼《ツギ》を都我比《ツガヒ》と云も同じ、我比《ガヒノ》切|藝《ギ》、繼《ツゲ》を都我敝《ツガヘ》と云も同じ、我敝《ガヘノ》切|宜《ギ・マヽ》、)呼を與婆布《ヨバフ》、(婆布《バフノ》切|夫《フ》、)咲《ヱミ》を惠(103)萬比《ヱマヒ》、(萬比《マヒノ》切|美《ミ》)など云類多し、すべてこの伸縮の説、世におこなはれて、識者等も此等を伸云なりと云ことは、意得ためれど、その伸たるゆゑよしのさだを、具くことわらざるは、歌句の言の數のたらねば伸て云、又言の數のあまれば縮て云るにて、實は縮めたるも、伸たるも同じことなるを、心にまかせて、ともかくもいふことゝ思へるにや、そは後世の俗意もて、古人の雅意をうかゞふわざにて、さらにさやうのすぢにではなかりしことぞかし、もし心にまかせて伸縮て云しとならば、上古歌に、三言四言六言などの句はよむまじき理なるをもて、ゆゑなくして伸縮は、爲ざりしことを思ふべし、故(レ)流《ナガル》は、その流ることを直《タヾ》にいひ、那我良布《ナガラフ》はその流ることの引つゞきて、絶ず長緩《ノド/\》しき意味あるときに、いふことなりと知べし、たとへば迦多良比袁禮騰《カタラヒヲレド》とある句に就ていはむに、もし迦多理《カタリ》と云ても、可多良比《カタラヒ》と云ても、伸と縮とのわざのみの異りにて、其實は、おつるところ同じことなりと云ば、右の句を、假に迦多理袁禮騰母《カタリヲレドモ》と換て唱へこゝろみよ、迦多理遠禮騰母《カタリヲレドモ》と云ても句をなす故に、異別《タガヒ》はあるまじきに、然云ては、何とやらむいひたらはぬこゝちするなり、いかにと云に、いづれにしても語ることに違はなけれども、哥多流《カタル》は、直語《タダガタリ》にさしあてゝ、人に物を告ることにいひ、可多良比《カタラヒ》は、人に對ひて彼方の言をも此方に聞入、此方の言をも彼方に告知せ、(可多良布《カタラフ》と訓べき處には、相語とかきたること、古書に多きも此故なり、)さま/”\語ることの引つゞきて、絶ず長緩《ノド/\》しき意味あることなれば、可多良比《カタラヒ》と云るにてこそ物語することの、數々ありで盡せぬさまにきこえて、げにふさはしく思はるゝことならずや、其餘は、この一に准て知べきことなり、又移を宇都呂布《ウツロフ》、(呂布《ロフノ》切|留《ル》とな(104)る、さてこの言を、たゞ宇都流《ウツル》と云ときには、移字變字など、おほくは一字にかけるを、宇都呂布《ウツロフ》と云處には、おほくは移徙《ウツロフ》、移變《ウツロフ》など二字にかきたるも、其同じ言を直《タヾ》言にいふと、伸て長緩《ノド/\》しくいふとに、少|異《カハリ》あることを思ひて書るにもあるべし、これは必さだまりて、しか書ると云には非ず、より/\書《シル》す人の心したるものと思はるゝなり、此外にも、この同じ心にて書りと思はるゝここと間《マヽ》あり、)※[口+幾]《ツヾシル》を都豆之呂布《ツヾシロフ》、啜《スヽル》を須々呂布《スヽロフ》、誇《ホコル》を保己呂布《ホコロフ》など云る類も上に云るに同じ、又住を須麻布《スマフ》、(麻布《マフノ》切|牟《ム》、)靡を那妣可布《ナビカフ》、(可布《カフノ》切|久《ク》、黄變《モミチ》を毛美多比《モミタヒ》、(多比《タヒノ》切|知《チ》、)嘆を那宜可布《ナゲカフ》(可布《カフノ》切|久《ク》)となる、さて嘆合《ナゲカフ》、靡相《ナビカフ》、霧合《キラフ》、語合《カタラフ》、散相《チラフ》、流相《ナガラフ》など多く書たるによりて、流良布《ナガラフ》は流れ合ふ意、嘆可布《ナゲカフ》は嘆《ナゲ》き合ふ意とせば、又一理あるに似たれば、さも云べけれども、これらはしかにはあらず、相合等の字は、たゞ伸云ことを知せて書るのみにて、字意までにはあづからぬことなり、)など云るも同じ、また隱(ス)を可久佐布《カクサフ》、(佐布《サフノ》切|須《ス》、)と云ることもあり、此は上の可久良布《カクラフ》と云とは、自他の差別あるのみにて、伸云理は同じことなり、また隱(ル)を可久良久《カクラク》、(良久《ラクノ》切|留《ル》、)戀《コフル》を故布良久《コフラク》、散《チル》を知良久《チラク》、過《スグル》を須具良久《スグラク》、在を阿良久《アラク》、見を美良久《ミラク》、逢を阿敝良久《アヘラク》、荒《アルヽ》を阿流良久《アルラク》、老《オユル》を於由良久《オユラク》、立《タテル》を多?良久《タテラク》、居《ヲル》を袁良久《ヲラク》、告《ツグル》を都具良久《ツグラク》、來《クル》を,久良久《クラク》、取を等良久《トラク》、辭の氣流《ケル》を氣良久《ケラク》、都流《ツル》を都良久《ツラク》など云、又祈《ノム》を能麻久《ノマク》、(麻久《マクノ》切|牟《ム》、)通《カヨフ》を可欲波久《カヨハク》、慕《シヌフ》を志奴波久《シヌハク》、(波久《ハクノ》切|布《フ》、)言《イフ》を伊波久《イハク》など云る類も多し、これも上の、隱《カクル》を(可久良布《カクラフ》と云例と、反切は同理なれども、その用《ツカ》へるやう異りたり、此は可久良久《カクラク》は隱るゝ事のと云意なり、見良久少戀良久乃多《ミラクスクナクコフラクノオホキ》と云歌は、見る事の少く戀る事の多きと云意なるにて、其餘は准て知べし、(此他にも、少《イサヽカ》づつ異りてきこゆる所もあり、今(105)盡さず、委くは後に云べし、今はその大旨をいへるのみなり、)故(レ)たとへば、花知良布秋津之野邊《ハナチラフアキヅノヌヘ》とはいへど、(これは絶ず花の散(リ)居《ヲ》る秋津の野邊と云意なれば、ふさはしきことなり、)花知良久秋津之野邊《ハナチラクアキヅノヌヘ》とは云まじく、(花散(ル)事の秋津の野邊とは、云まじきことわりなればなり、)梅花知良久波何處《ウメノハナチラクハイヅク》とはいへど、梅花知良布波何處《ウメノハナチラフハイヅク》とは云がたきにて、その差異《ケヂメ》を辨べし、さてすべて用言の下には、之《ノ》の言をそへていはぬ例にて、戀留乃《コフルノ》、居留乃《ヲルノ》、立留乃《タテルノ》などいはぬことなるに、良久《ラク》、麻久《マク》などゝいふときは、各別《コト/\》にて、居久乃奧香母不知《ヲラクノオクカモシラズ》、立良久乃田時母不知《タテラクノタドキモシラズ》とも、問卷乃欲寸吾妹之《トハマクノホシキワギモガ》などもいへることありて、その伸たると縮たるとに差《ケヂメ》あるを知べし、又|將v荒《アレム》を阿禮麻久《アレマク》(麻久《マクノ》切|牟《ム》、將v散《チラム》を知良麻久《チラマク》、將v戀《コヒム》を許比麻久《コヒマク》、將v見《ミム》を美麻久《ミマク》、將v問《トハム》を等波麻久《トハマク》、將v置《オカム》を於可麻久《オカマク》、辭の氣牟《ケム》を氣麻久《ケマク》など云る類も多し、たとへば、荒麻久惜母《アレマクヲシモ》と云は、荒む事の惜もと云意、(荒良久惜母《アルラクヲシモ》と云は、荒る事のと云意にて、流《ル》は良久《ラク》と伸り、牟《ム》は麻久《マク》と伸りたるにて、もとよりその差異あることさらなり、)通比氣麻久波《カヨヒケマクハ》と云は、通ひけむやうはと云意になるにて、牟《ム》と云と麻久《マク》と云とは、その伸りたると縮たるとによりて、いさゝか差異あることを辨べし、又照《テル》を?良須《テラス》、(良須《ラスノ》切|留《ル》、)知《シル》を志良須《シラス》、作《ツクル》を都久良須《ツクラス》、取《トル》を等良須《トラス》、釣《ツル》を都良須《ツラス》、振《フル》を布良須《フラス》、忘《ワスル》を和須良須《ワスラス》、守《モル》を毛良須《モラス》、採《ツム》を都麻須《ツマス》、(麻須《マスノ》切|牟《ム》、)咲《ヱム》を惠麻須《ヱマス》、踏《フム》を布麻須《フマス》、立《タツ》を多々須《タヽス》、(多須《タスノ》切|都《ツ》、立《タチ》を多々志《タヽシ》と云も同じ、多志《タシノ》切|知《チ》、下々なるも皆同じ、)持《モツ》を母多須《モタス》、待《マツ》を麻多須《マタス》、帶《オブ》を於婆須《オバス》、(婆須《バスノ》切|夫《フ》、)問《トフ》を等波須《トハス》、通《カヨフ》を可與波須《カヨハス》、逢《アフ》を阿波須《アハス》、置《オク》を於可須《オカス》、(可須《カスノ》切|久《ク》、)嘆《ナゲク》を那宜可須《ナゲカス》、聞《キク》を伎可須《キカス》、寢《ヌ》を那須《ナス》、(那須《ナスノ》切|奴《ヌ》、)以上五十音の第三位を、第一位に伸はたらかす格なり、)爲《ス》を世須《セス》、(世須《セスノ》切|須《ス》、神佐備世須登《カムサビセスト》、旅屋取(106)世須《タビヤドリセス》など云類なり、)見《ム》を賣須《メス》、(賣須《メスノ》切|牟《ム》なり)、以上五十音の第三位を、第四位に伸はたらかす格なり、爲倍吉《シベキ》、爲良牟《シラム》など志《シ》とはいはず、須倍吉《スベキ》、須良牟《スラム》と第三位の言に云に准ふるに、見倍吉《ミベキ》、見良牟《ミラム》などの見《ミ》も、牟《ム》と訓て、牟倍吉《ムベキ》、牟艮牟《ムラム》と第三位の言に云ふべき理なり、心爲倍之《コヽロスベシ》と云をも、心志倍之《コヽロシベシ》とは云ず、心鬼見倍之《コヽロムベシ》と云をも、心美倍之《コヽロミベシ》とは云がたきに同じ、然るを見を牟と云ふは、たゞ、恨《ウラム》、試《コヽロム》、後見《ウシロム》を牟《ム》と云こと、今世までもしかるを、其他に見を牟と云ことはをさ/\きかず、昔よりゐながらに美《ミ》と云なれたり、可v似、可v※[者/火]などをも、奴倍吉《ヌベキ》とはいはず、爾倍吉《ニベキ》といひ、可v著をも久倍吉《クベキ》とはいはず伎倍吉《キベキ》と云、可v乾をも布倍吉《フベキ》とはいはず比倍吉《ヒベキ》といひ、可v射をも宇倍吉《ウベキ》とはいはず伊倍吉《イベキ》といへる類にて、單音《ヒトコヱ》の言は、二音三音等の言とは各別あることなり、しかれども、今はその本の理につきて、姑(ク)見を牟《ム》と訓るなり、さて賣須《メス》と云は、賣之賜者《メシタマハバ》、賣之明牟流《メシアキラムル》など云類なり、この類の賣之を、多く見之《メシ》と書たるをミシと訓たるによりて、今までの識者等も、たゞ古言に見を美之《ミシ》と云ることぞと意得て、其定に解來れり、しかれどもこれを然訓ては、美之の之《シ》の言いはゆる過去辭となれば、さきにありしことをいふときならでは、美之といひてはとゝのはぬことなり、一卷に、食國《ヲスクニ》を賣之《メシ》たまはむと、二卷に、夕されば召《メシ》たまふらし云々、明日もかも召たまはまし、六卷に、おほきみの賣之し野邊には、十八に、吉野の宮をありがよひ賣須《メス》、廿卷に、賣之たまひ明らめたまひ、又かくしこそ賣之あきらめゝ、又おほきみの賣之し野邊には、又おほきみのつぎて賣須らしなどある、これメシメスと訓べき證明なり、又集中に、所聞見爲とある一を、假字書には伎己之米須《キコシメス》と見え、祝詞式に、所知看、古語云、志呂志女須《シロシメス》など(107)あるをも思ふべし、)聞を伎許須《キコス》、(許須《コスノ》切|久《ク》、)居《ウ》を乎須《ヲス》、(乎須《ヲスノ》切|宇《ウ》、)以上五十音の第三位を、第五位に伸はたらかす格なり、さて乎須《ヲス》と云は所聞食《キコシヲス》などの食《ヲス》にて、もと居《ウ》を敬ひて伸はたらかしたるなり、さて食字をミヲシスとよみ、食物をヲシモノと云、集中に、所聞食《キコシヲス》とかき、またヲシの假字に食字を書るなどは、すべて食ふ物は、他物を身に居位《ヰトヾマ》らするより、やがて食字をヲスとよめるにて、食字の本義にはあらず、居ることを單《タヾ》には宇《ウ》といひ、敬ひては乎須《ヲス》と云ことなれば、本は居字の義にあたれり、されば天皇の食國と云も、食字は、末(ノ)義にて、ヲスと云より書るのみにて、其地に永く住《トヾマ》りて、治め有《タモ》ち居たまふ意にて居國《ヲスクニ》とはいへるぞかし、)といふ、此等の都麻須《ツマス》、多々須《タヽス》などは、「令《ス》v零《フラ》、令《ス》v散《チラ》、令《ス》v還《カヘ》、令《ス》v視《ミ》、令《ス》v腐《クタ》などいふは令《オホ》する辭にて、常の伸いふ言とはたがへり、混ふべからず、)採(ミ)給ふ、立(チ)給ふと云意なり、(俗に御採《オツミ》被《レ》v成《ナサ》、御立《オタチ》被《レ》v成《ナサ》と云に全同じ、)餘はいづれもこれに准(フ)べし、さて引つゞきて、絶ず物する意味に云ときは、前に云たる如く、更良比《カハラヒ》、更良布《カハラフ》、語良比《カタラヒ》、語良布《カタラフ》など波《ハノ》行の言に伸はたらかし、用《ワザ》を帶《モタ》せたる方には、前にいひたるごとく、隱良久《カクラク》、懷良久《コフラク》など、可《カノ》行の言に伸はたらかし、尊む方に云ときは、採志《ツマシ》、採須《ツマス》、立志《タヽシ》、立須《タヽス》など佐行の言に伸はたらかす格にて、集中に御知《シラス》、御問《トハス》、御見《メス》などかける即其意なり、(この御見《メス》とかける一にても、賣須《メス》は見給ふと云意にて、俗に御覽被v成といふ義なること明なり、余が説のたがはざること知べし、)さてその引つゞきて、絶す物する意味なる方にも、用を帶せたる方にも、尊む方にも、言を伸て長《ノド》けく緩《ユルヤカ》にいふは、同理ながらも、波《ハ》行の言に伸はたらかすと、可《カ》行の言に伸はたらかすと、佐行の言に伸はたらかす差異を、なほ云ば、同じ嘆くと云言を、引つゞきて絶ず(108)嘆く意ばえには、那宜可布《ナゲカフ》、と伸いひ、用を帶せたるときには、那宜可久《ナゲカク》と伸云、尊て云方には那宜可須《ナゲカス》と伸云たるをくらべ見て、其餘はいづれも此定に意得て曉るべし、かくて前にも説《イヒ》たる如く、直語に人に物を告るには加多留《カタル》と云、人に對ひて彼方の言をも、此方に聞入(レ)、此方の言をも、彼方に告云(ヒ)、互にさまざまと語り交《カハ》すには、伸て可多良布《カタラフ》と云、さて又その語る言の用は、云々なりと云意をもたせたるには、可多良久《カタラク》と云、尊者の語り給ふことを、長《ノド》けく緩《ユルヤ》かに伸て可多良志《カタラシ》、可多良須《カタラス》など云は、もと短《セマ》らず急《イソ》がず、慇懃《ネモゴロ》に云より、ことおこれるにて、今俗にも尊者の上を云には、語《カタ》らせらる、立《タヽ》せらるなど云も、古言のもとの趣を遺せるものと知べし、これにて伸と縮との差異、又伸たるさまによりて、各別あるをわきまふべし、
   音通
音通とは、戀を許比之伎《コヒシキ》とも許保之伎《コホシキ》とも、現身《ウツシキミ》を宇都世美《ウツセミ》とも宇都曾美《ウツソミ》とも、便り附ことを多豆伎《タヅキ》とも多騰伎《タドキ》とも、至(リ)極れる處を曾伎敝《ソキヘ》とも曾久敝《ソクヘ》とも、如《ゴトク》の意なる那須《ナス》を能須《ノス》とも、木枝などの撓み靡く貌を多和々《タワヽ》とも登遠々《トヲヽ》とも云る類なり、野をば奴《ヌ》とのみいひしを能《ノ》といひ、申をは麻袁須《マヲス》と云しを麻宇須《マウス》と云、夢をば伊米《イメ》と云しを由米《ユメ》と云、芋をば宇毛《ウモ》と云しを伊毛《イモ》と云、又|大御をオホンと云、女《ヲミナ》をヲンナと云、臣《オミ》をオン、涙《ナミダ》をナンダと云類なども、音通にてはあれど、通音によりて後に訛り、音便に頽れなどしたるものにて、常の音通にはあらず、又|天《アメ》を阿麻《アマ》、上《ウヘ》を宇波《ウハ》などいふ類も、音の通(ヒ)にてはあれども、これは然るべき謂ありて、五十音の第四位を、第一位に轉したたるのにて、常の通とは別なり、此註書に云る通音は、古言に、彼にも此に(109)も。互に音を通はしていへる類を云て、始にいへる例どものごとし
   韻通
韻通とは、汝を伊麻斯《イマシ》とも美麻斯《ミマシ》とも、棄を宇都《ウツ》とも須都《スツ》とも、〓〓を爾保杼理《ニホドリ》とも美本杼理《ミホドリ》とも、(古事記に美本杼理とあり、蓑を美乃《ミノ》とも爾乃《ニノ》とも云なども同例か、)丹色の映《ハユ》るを爾都良布《ニツラフ》とも爾都可布《ニツカフ》とも、出雲國の地名の伊射佐《イザサ》を伊太佐《イダサ》とも、(神代紀に、五十狹狹之小汀《イザサノヲハマ》とも五十田狹之小汀《イアダサノヲハマ》ともあり、)内宮外宮の御屋根に建る木を、知岐《チギ》とも比岐《ヒギ》とも云る類なり、朔日《ツキタチ》をツイタチと云、先頃《サキツコロ》をサイツコロと云、蔑《ナキガシロ》をナイガシロ、少《スナキ》をスナイ后《キサキ》をキサイ、垣間見《カキマミ》をカイマミ、築垣《ツキガキ》をツイガキ、可《ベク》をベウ、斯《カク》をカウ、襪子《シタクツ》をシタウツ、香細《カグハシ》をカウバシなどいふ類も、韻の通にてはあれども、韻通によりて、後に訛りたるものにて、上の音通の條に云るにひとしく、古の常の韻通とはさま異《カハ》れり、
   轉言
轉と云に大抵二種あり、一には、自然に轉《ウツロ》ひ訛りたるなり、二にはことさらに轉し換たるなり、一に轉訛《ウツロヒ》と云は、書紀神武天皇卷に、因改2號其津1曰2盾津1、今云2蓼津1訛也とあるは、?《テ》の清音の、後自然に、傳《デ》の濁音に訛り轉ひたるなり、騷動をば佐和久《サワク》と必|久《ク》の言を清て唱べきことなるに、後世|佐和具《サワグ》と具《グ》を濁りて唱ふる、これも同じ、又同紀に、時人因號2其地1曰2母木《オモノキノ》邑(ト)1、今云2飫悶廼奇《オボノキト》1訛也、云々、時人仍號2※[烏+至]邑1、今云2鳥見《トミト》1是訛也とあるは、母《モ》の悶《ボ》に、毘《ビ》の美《ミ》に訛り轉ひたるなり、神南備《カムナビ》を後に神南美《カムナミ》、煙《ケブリ》を後に氣牟利《ケムリ》、浮《ウカブ》を後に宇可牟《ウカム》、趣《オモブク》を後に於母牟久《オモムク》、傾《カタブク》を後に可多牟久《カタムク》、燈《トモシ》を(110)後に等煩之《トボシ》、嘯《ウソムク》を後に宇曾夫久《ウソブク》など云る類、古く二(タ)かたに通はしいへることを、見あたらざれ
ば、此も轉訛《ウツロヒ》なるべし、これらにて、清濁の分差のみだりならざりしこと、又麻美牟米毛《マミムメモ》と婆※[田+比]夫倍煩《バビブベボ》は、親(ク)通ふ古例なれども、それもたやすく通はしいへることなくして、たま/\麻《マ》行を婆《バ》行に轉し、婆《バ》行を麻《マ》行に轉しいへることあれば、訛也とことわれりと見ゆ、然れども又中には、腕を多古牟良《タコムラ》(古事記)とも、多古夫良《タコフラ》(書紀)とも、隱を森麻流《ナマル》とも奈婆流《ナバル》とも、天飛《アマトブ》を阿麻陀牟《アマダム》とも、悲《カナシミ》を可那志備《カナシビ》とも、稻見《イナミ》を伊那備《イナビ》とも云類は、古く二(タ)方にいひなれしと見ゆるもあれば、一概に云がたきもあり、蝉を世※[田+比]《セビ》とも世美《セミ》とも云も、もとより二(タ)方にいへるか、さて又古語拾遺に、美夜比登能於保與須我良爾伊佐登保志由伎能與呂志母於保與須我良爾《ミヤヒトノオホヨスガラニイザトホシユキノヨロシモオホヨスガラニ》、今俗歌、曰2美夜比止乃於保與曾許呂茂比佐止保志由伎乃與侶志茂於保與曾許侶茂《ミヤヒトノオホヨソコロモヒサトホシユキノヨロシモホヨソコロモト》1、詞之轉也としるせり、これ後世の音便に頽れたる類とは別《コトザマ》ながら、訛りて轉れるなり、又後世シをイに轉して、益而《マシテ》をマイテ、致而《イタシテ》をイタイタ、ニをンに轉して、何《ナニゾ》をナンゾ、如何《イカニゾ》をイカンゾ、國名の丹波《タニハ》をタンバ、地名の埴生《ハニフ》をハンフ、ヒをウに轉して、獵人《カリビト》をカリウド、旅人《タビビト》をタビウド、商人《アキビト》をアキウド、リをンに轉して、殘雪《ノコリノユキ》をノコンノユキ、如《ゴトシ》v件《クダリノ》をクダンノゴトシ、地名の度津《ワタリツ》をワタンツ、刈田《カリタ》をカンタ、ヰをウに轉して、詣《マヰヅ》をマウヅ、ハをウに轉して、河野《カハノ》をカウノ、又今一きは頽して、打而《ウチテ》をウツテ、祝詞《ノリト》をノツト、欲《ホリス》をホツスなど云たる類もいと多し、此等やゝ古きと、いと後なるとにて、少《イサヽカ》なると大《イミ》じきとの差別こそあれ、みな自然《オノヅカラ》の轉訛《ウツロヒ》なり、二に轉換《ウツシ》と云は、天を阿麻《アマ》、(天原《アマノハラ》、天河《アマノガハ》、)上を宇波《ウハ》、(上方《ウハヘ》、上天《ウハノソラ》」酒を佐可《サカ》、(酒杯《サカヅキ》、酒見附《サカミヅキ》、)竹を多可《タカ》、(竹取《タカトリ》、竹群《タカムラ》」船を布奈《フナ》、(船乘《フナノリ》、船出《フナデ》)胸を牟奈《ムナ》、(胸別《ムナワケ》、(111)高胸坂《タカムナザカ》、)手を多《タ》、(手上《タナスヱ》、手業《タワザ》、)菅を須賀《スガ》、(菅原《スガハラ》、菅疊《スガタヽミ》、)稻を伊奈《イナ》、(稻穗《イナホ》、稻幹《イナガラ》、)金《カネ》を可奈《カナ》、(金門《カナト》、金師《カナシ》、)枯《カレ》を可良《カラ》(枯山《カラヤマ》、枯野《カラヌ》、)爪を都麻《ツマ》、(爪櫛《ツマグシ》、瓜突《ツマヅク》、)風を可射《カザ》(風速《カザハヤ》、風招《カザヲキ》、)など云類は、五十音の第四位を、第一位に轉して云るなり、木を許《コ》、(木葉《コノハ》、木實《コノミ》、)火を保《ホ》、(火中《ホナカ》、火※[火+餡の旁]《ホノホ》、)荷を能《ノ》、(荷向《ノサキ》、荷持田《ノトリタ》、黄泉《ヨミ》を與母《ヨモ》(黄泉國《ヨモツクニ》、黄泉醜女《ヨモツシコメ》、)など云類は、第二位を第五位に轉して云るなり、身《ミ》を牟《ム》、(身實《ムザネ》、身體《ムクロ》、)月を都久《ツク》、(月讀《ツクヨミ》、月夜《ツクヨ》、)神を可牟《カム》、(皇祖神《カムロギ》、神佐備《カムサビ》、)など云類は、第二位を第三位に轉して云るなり、なほこの類多し、これらは必しか轉換《ウツシカヘ》ていふべき語勢によりて、故《コトサラ》に轉せるにて、自然の轉訛とはいたく異なり、
   略言
古言を解に大抵三樣あり、一には通言にて、多騰伎《タドキ》は手著《タヅキ》の義なるを、豆《ヅ》は騰《ド》に通ふゆゑに、多騰伎《タドキ》と云とする類是なり、二には縮言にて、安理蘇《アリソ》はもと荒磯なるを、良伊《ライノ》切|埋《リ》なるゆゑに、縮て安理蘇《アリソ》と云とする類これなり、三には伸言にて、?良須《テラス》はもと照《テル》なるを良須《ラスノ》切|留《ル》なるゆゑに、伸て?良須《テラス》と云とする類これなり、すべて言の由來れる本の義を解に、さま/”\ありて盡しがたしといへども、いひもて行ときは、この三樣に出ることなし、然るを昔より今にいたるまで、博洽の識者といへども、古言を解に、略言のさだをまぬかれたるは、さらになし、まづさきに難波の契冲僧出て、皇朝の古書をひろく見、あまねく考へて、古(ヘ)の假字づかひの正しかりしことを、始めて考へ出して、四方に示し諭せるより、おひすがひに古學の道いよ/\開けて、雅言を解(キ)ことわること、ことにさかしくなりぬるものから、なほかの岡部氏などが、きし方にまさりて、ひたすらに略言のさだもて、いよ/\ます/\むつかしくこしらへて、古言を解(キ)こと(112)われるは、一わたりに見たらむには、今さら古のまことに、立かへりしこゝちすることなめれど、よく見るときは、十にして七八は強たることのみにして、まことのなりに遠かりしは、をしむべきことなりけり、しかるを、本居氏つぎ出て、なほ深く考へひろくたづねて、すべて古書のうへをことわれること、かの岡部氏などより見れば、こよなく平穩《オダヒ》になりぬるのみならず、五十音の於乎《オヲ》の所屬《オキドコロ》の錯置《チガヒ》を改めて、字音假字用格を著してより、古言を解にも字音を辨ふるにも、つゆたがふことなくなりて、今は餘薀《テノゴリ》なきに似たれども、なほ略言のさだをはなれざりしは、あかぬことならずや、本居氏は、生涯このことに考へ至らずして、止ぬべき人にはあらざるを、くさ/”\の理に心を用(ヒ)たりしによりて、この一すぢを、深く考(フ)るいとまなかりしが故なるべし、そも/\略言といふは、かの天竺國の語を、漢國にて略きて唱ふること多し、そは天竺國にて佛陀と云を、漢國にて、さしあたりて譯すべき語なき故に、陀を略せて佛とのみしるし、菩提薩※[土+垂]と云を、提※[土+垂]を却《ノゾキ》て菩薩とのみしるせる類いと多し、これいはゆる略言なり、すべて天竺國の言語には長々しきが多かる故に、其をみながら漢籍にしるさむは、わづらはしく思ひて、ことさらに略けるにて、理のあることなり、皇朝の上(ツ)世に、浪速《ナミハヤ》と云しを後に那爾波《ナニハ》と呼る類は、これ自然の轉訛《ウツロヒ》にて、心として、ことさらに略けるものにあらざれば、この佛陀を略きて佛と云とは、いたくさまかはれり、皇朝の言語は、大初《カミヨ》の時より神のいひそめ給ひし言語を、後々にいひ傳へ來しことなれば、ことさらに心として、省略のさだを加へずしては通ゆまじき言を、あなかしこ神代に、神のいひそめ給ふべき理やはあるべき、たゞ上古中古近世と風俗(113)のうつろひ來しにつきて、人の言語も自然に頽れ訛りたることもあれば、譯注なくては通えがたきこともあるのみは、止(ム)事を得ぬことなり、しかれば古言を解うへに、たやすく略言のさだをほどこすべきにあらざるを、はやく古書を解に、から國にて、天竺國の語を釋たるにならへりと思はるゝに、かの漢籍に、梵語を略き言(ヘ)るなり、と云ことの多きになれたる目うつしに、皇朝の古言をも、それとひとしなみに心得て、解來れることの多きが、自然ら人の心にしみつきて、近來古學の道|大《イミ》しく開けて、心ある人は、そのあしきをばさとりて、儒佛の意を清く離れよと云ことを、常談にすることなれど、この略言のさだをまぬがれたる人は、ひとりだになかりしを、雅澄がはじめてこの處に心つきてより舊慣《シミツキ》たりし略言のさだをはなれて、古言を解こゝろむるに、一として規にかなはざることなし、但し五十音の阿行の音の、語中にあるとき、自《オノヅカラ》省かる例ありて、朝開《アサアケ》を阿佐氣《アサケ》・借廬《カリイホ》を可利保《カリホ》と云類は、又別に其謂あることなれば、さらになべての言に混淆《マギラハ》すべきことにあらず、なほ此等のことは、余が雅言成※[さんずい+〓]と云ものに委(ク)辨へてあれば、其につきて考べし、言長ければ、こゝには其大概をおどろかしいへるのみなり、
   古言
古と後世との差異ありて、言語のさまいみじく異なること多し、大略寧樂朝よりあなたに出來たるを、古言と定むべし、今(ノ)京となりて此方《コナタ》は、すべてのいひざまも古と變りたること多く、或は音を轉訛《ヨコナマ》り或は音便に頽れたるた多し、心すべし、但し古と後世と、もろ/\の言語こと/”\く異なるにはあらず、上古も中古も近世も全同じくて、かはらぬ言も多ければ、必しも後(114)世の言に同じとて、いやしめ惡《キラ》ふべきにあらず、かくで、その古と後世と言の異なると云は、野を奴《ヌ》、|能《ノ》、小竹を志奴《シヌ》、|志能《シノ》、凌を志奴久《シヌク》、|志能久《シノク》、慕を志奴布《シヌフ》、|志能布《シノフ》、楽を多奴志《タヌシ》、|多能志《タノシ》、申を麻袁志《マヲシ》、|麻宇須《マウス》、眉を麻與《マヨ》、|麻由《マユ》、夢を伊米《イメ》、|由米《ユメ》、魚を宇遠《ウヲ》、|伊遠《イヲ》、芋を宇毛《ウモ》、|伊毛《イモ》、葎を牟具良《ムグラ》、|毛具良《モグラ》、曉を阿加等伎《アカトキ》、|阿加都伎《アカツキ》、梢を許奴禮《コヌレ》、|許受惠《コズエ》、含を布々牟《フヽム》、|布久牟《フクム》、詣を麻爲豆《マヰヅ》、|麻宇豆《マウヅ》、不楽を佐夫之《サブシ》、|佐妣之《サビシ》、同を於夜自《オヤシ》、|於奈自《オナジ》、抱を宇太久《ウダク》、|伊太久《イダク》、等云を知布《チフ》、又|等布《トフ》、|?布《テフ》、紫陽花を阿治左爲《アヂサヰ》、|阿豆左爲《アヅサヰ》、歩行を阿流久《アルク》、阿理久《アリク》、圍を可久牟《カクム》、|可古牟《カコム》、侍を佐母良布《サモラフ》、|佐牟良布《サムラフ》、|帶《カネ》て物するを我弖里《ガテリ》、|我弖良《ガテラ》、婦女を多和夜賣《タワヤメ》、|多遠夜實《タヲヤメ》、拾を比理布《ヒリフ》、|比呂布《ヒロフ》、金を久我禰《クガネ》、|古我禰《コガネ》、育を波具久牟《ハグクム》、|波呉久牟《ハゴクム》、白銅鏡を麻蘇可我美《マソカヾミ》、|麻須可我美《マスカヾミ》、莪蒿を宇波疑《ウハギ》、|於波疑《オハギ》、蔓延を、保妣許流《ホビコル》、|波妣許流《ハビコル》、などいふ類、なほこれかれあるにて、古と後と言語の轉變《ウツロ》へたるしるべし、其中に、夢は寐所見《イメ》の義なれば必(ス)伊米《イメ》なるべきを、由米と云は後に訛れること、曉は明時《アカトキ》の義なれば必|阿加等伎《アカトキ》なるべきに、阿加都伎《アカツキ》と云は後に訛れること、育は羽裹《ハグクム》の義なれば必|汲具久牟《ハグクム》なるべきに、汲呉久牟《ハゴクム》と云は、後に訛れること著しきを、また必然る所由《ユヱ》にていへり、と思はれぬもあれど、いづれ古言の例證をたづねて、訓べきことなり、(まれ/\集中に野を能《ノ》、慕を志能布《シノフ》、楽を多能之《タノシ》といへることあれど、其はやゝ寧楽朝の、季つかたよりのことにて、なべての古言にあらざること、古事記書紀はさらなり、集中などをよく考へて知べきことなり、しかるを略解に、集中野を奴《ヌ》と假字書せれば、凡て奴《ヌ》とのみ訓べけれども、調によ(115)りて稀には能《ノ》ともよみたりと見ゆ、たとへば茜草指武良前《アカネサスムラサキ》野|行《ユキ》、標《シメ》野|行《ユキ》、野|守者不見哉《モリハミズヤ》、君之袖布流《キミガソデフル》など云御歌の、野を奴《ヌ》とは唱へがたければ。これらは能《ノ》とよめりといへるは、いとみだりなり、右の茜草指《アカネサス》の歌は大津(ノ)朝にて、彼御時には、いまだ野《ヌ》を能《ノ》、慕《シヌフ》を志能布《シノフ》などいひそめしことは、さらになかりしことなれば、調によりて、能《ノ》といふべき謂はさらになきことなるを、さるよしにていふことゝ、一わたりに思へるは、深く古を考へざるがゆゑなり、さて又後世の人聞には、調によりて野守などの野を、能《ノ》と訓ごときは、なだらかに聞えてふさはしげに思はれ、ひたすらに奴《ヌ》と云むは、強々《ココハ》しくきこえて、よからずと思ふは、ひとへに後世の言語にしみつきて古(ヘ)をわすれたるが故なり、なほ本條に至りて、くはしくいはむをまつべし、)さて又、所v知、所v慕、所v泣、所v摺、所v宿、所v惡、所v厭、所v忘、所v取などの類は、志良由《シラユ》、志良要《シラエ》、志奴波由《シヌハユ》、志奴波要《シヌハエ》、奈可由《ナカユ》、余可要《ナカエ》、須良由《スラユ》、須良要《スラエ》、禰良由《ネラユ》、禰良要《ネラエ》、爾久麻由《ニクマユ》、爾久麻要《ニクマエ》、伊等波由《イトハユ》、伊等波要《イトハエ》、和須良由《ワスラユ》、和須良要《ワスラエ》、等良由《トラユ》、等良要《トラエ》など由《ユ》要《エ》に用《ハタラ》かしいふこと、古(ヘ)のさだまりなりしを、志良流《シラル》、志良禮《シラレ》、志能波流《シノハル》、志能波禮《シノハレ》、伊等波流《イトハル》、伊等波禮《イトハレ》、奈可流《ナカル》、奈可禮《ナカレ》、須良流《スラル》、須良禮《スラレ》、禰良流《ネラル》、禰良禮《ネラレ》、爾久麻流《ニクマル》、爾久麻禮《ニクマレ》、和須良流《ワスラル》、和須良禮《ワスラレ》、等良流《トラル》、等良禮《トラレ》など、流《ル》禮《レ》に用《ハタラ》かしいふは後なり、又今世にして、まことに古をしのぶといふ人は、いと/\まれなることなれど、中にたま/\古言を好むといふ人のあるにいかなる處か、後(ノ)世にまさりて古言のこのましきぞと、その人の所爲《ワザ》をつら/\こゝろむるに、世にめづらかにして人のきゝなれぬ、一ふしある言をあながちにもとめ出て、人の耳をおどろかし、世にたけ/”\しきことに思はれむ、とかまへたるのみのことにて、げにこれぞ古は優りて、(116)後世は劣りたれば、古言をこのむといふことは、まことにことわりなりとうべなはるゝはいと稀なり、これは家のつくりざまより、もろ/\の器物にいたるまで、世に異なるものを好みて、これぞ古の風なるといひのゝしりて、婦女《ヲミナ》小子《ワラハベ》の目をおどろかして、よろこぶに異ならずや、すべて世中は時々のありさまにつれて、世に異ならぬこそよきを、古學などする人は、世間の今のさまをうれたみて、己が家の掟、身の行ひよりはじめて、よろづ古のふるまひにせむとかまふるは、かへりて皇神の御慮《ミコヽロ》にそむけることなるを、さとれる人少なし、余が古言を尊むは、その世に異なるが故に好む類にはあらず、まことに古の人の言語は、言廣く寛にして、心高くみやびたるがゆゑなり、一卷鶴田王歌に、熟田津爾船乘世武登月待者潮毛可奈比沼今者許藝弖菜《ニキタヅニフナノリセムトツキマテバシホモカナヒヌイマハコギテナ》、中皇命御歌に、君之齒母吾代毛所知武磐代乃岡之草根乎去來結手名《キミガヨモワガヨモシラムイハシロノヲカノクサネヲイザムスビテナ》など、語の尾《ハテ》に那《ナ》と云ること古の歌詞には多し、後世にては、これらをすべて牟《ム》とのみ云を、古に那《ナ》といへると、牟《ム》といへると共に差別ありて、その用《ツカ》へるさまもよく味(ヒ)見るときは、きはやかに、別りて聞ゆることなるに、古今集の頃よりこなたは、かゝる處もたゞ牟《ム》の一言のみにて、語を達《トヽノ》ふることになりて、那《ナ》の言の失ぬるより、言狹く心もよわくなりたるにて、古の言深く心高かりしほどを思ふべし、しかるを世の注者等の、牟《ム》と云べきを那《ナ》と云るは、古語の一格なり、とたやすく云たるによりて、萬葉讀者の、那《ナ》と牟《ム》は、たゞ通はしいへるのみをと意得てすぐすなるは、口をしくあさましきことならずや、なほ那《ナ》と云と、牟《ム》と云とに、緩急の意の異ありて、きよく別なること、本條に至りてくはしく辨ふべし、然るを、これらのことをばつゆわきまへずして、後世は言(117)廣くなりたるゆゑに、くさ/”\の理をいふに便(リ)宜(シ)く、古は言狹かりしがゆゑに、いはむと心に思ひても、いひたらはぬこと多しと思ふは、又一きはをさなくをかしきことならずや、さるは古人の歌は、心高くみやびたれど、言外に多くの意を含ませたるが故に、打きくには、をさなくはかなげに、いひさしたるやうにきこゆることなれど、よく見れば、まことにあはれに身にしみとほることなるを、後(ノ)人の歌は心あさびて、したにはくるしげなること多けれど、うへに理をつくして、くまなげに言巧にいひかなへたるに、目くれ心まよひて、後世を中々に言廣くはなりぬるとは思ふなるべし、これ古書を見ることのおろそかなるが所以なり、後世はたゞ世(ノ)間に補益《シルシ》なき、くさ/”\の物の理を究て、よろづこちたくさがしげにいふことこそ、古にまさりたれ、言語は狹く淺はかになりぬること、古書よく見む人は知べし、十卷に、梅花吾者不令落青丹吉平城在人管見之根《ウメノハナアレハチラサジアヲニヨシナラナルヒトノキツヽミムガネ》とあると、四卷に、吾屋戸之暮陰草乃白露之消蟹本名所念鴨《ワガヤドノユフカゲグサノシラツユノケヌガニモトナオモホユルカモ》とある類の、之根《ガネ》と蟹《ガニ》とは、首の似たるのみにこそあれ、よく味(ヒ)見れば、用《ツカ》へる樣きはやかに異れることなるを、古今集よりこの方は、我禰《ガネ》の言を失ひて、我禰《ガネ》とあるべき處をも、我爾《ガニ》と云べき處をも、たゞ我爾《ガニ》とのみ云て、言を達《トヽノ》へたるこそあさましけれ、そも/\我禰《ガネ》は之根《カネ》、我爾《ガニ》は之似《ガニ》にて、もとより言のもと異なればこそ、我禰《ガネ》と云も我禰《ガニ》と云も、共にありて行はれしなれ、かゝることの失ぬるはいと不便《カタワ》なることなるを、我爾《ガニ》と云は、我禰爾《ガネニ》の、禰爾《ネニ》を約めて爾《ニ》と云るにて、我爾《ガニ》も、我禰《ガネ》も、同言同意なる旨に識者等も云るによりて、世の古學者もさることゝうべなひをることなめれど、古今集よりこの方は、古にくはしき人のなきが故に、かゝる緊要の言を(118)おのづからに失ひて、我爾《ガニ》と我禰《ガネ》とを混淆《マギラハ》しぬることなれば、彼頃よりこなたの歌に、我爾《ガニ》とあるは、之根《ガネ》の意に見ても、之似《ガニ》の意に釋《キヽ》ても通《キコ》ゆることあれど、此集以往の歌に我禰《ガネ》とあると我爾《ガニ》といへるとを、一言《ヒトツ》にしては解がたき處多かるを、大かたに見すぐして、ふかく味ふることをせざるがゆゑに、その分差あることの見えぬなるべし、かゝることは、その本につきて末をばことわるべきことなるに、世人は本をわすれて未を解むとする故に、誤つこと多しとしるべし、さて又|我爾《ガニ》は我禰爾《ガネニ》のつゞまれる言なりといふ類は、いはゆる伸縮することに、さがしくなれるがゆゑに、やゝもすれば言を伸縮して解むとかまふること、古學者の常なれど、さるべき所由《ユヱ》なくしては、古たやすく伸縮はせざりしことなれば、今もその心して、古言を解べきことなること、前の條々に云るがごとし、さて右にいへる言のみにあらず、次而所見許曾《ツギテミユコソ》、眞幸有許曾《マサキクアリコソ》など云|許曾《コソ》の言、有乍本名《アリツヽモトナ》、鳴乍本名《ナキツヽモトナ》、などいふ本名《モトナ》の言、夜之不深刀爾《ヨノフケヌトニ》、吾歸流刀爾《アガカヘルトニ》など云|刀爾《トニ》の言、鴨須良《カモスラ》、木須良《キスラ》などいふ須良《スラ》の言の類の、物により、なくてかなはぬ言を、後世に失へるもいと多くあれど、言長くなればこゝにいはず、集中などを考て知べし、可《ベキ》、無《ナキ》、吉《ヨキ》、恐《ワロキ》、憂《ウキ》、概《ツラキ》、深《フカキ》、淺《アサキ》、暑《アツキ》、寒《サムキ》などの類は、上に詐曾《コソ》と云ても吉《キ》とのみうけて、氣禮《ケレ》と云ることは、萬葉以往の歌にはさらにあることなし、其證は、書紀仁徳天皇卷(ノ)皇后御歌に、虚呂望虚曾赴多弊茂豫耆《コロモコソフタヘモヨキ》云云、天智天皇卷童謠に、阿喩擧曾播施麻倍母曳岐《アユコソハシマヘモエキ》云々、集中にぬ十一に、最今社戀者爲便無寸《モハライマコソコヒハスベナキ》、又|加敝良末爾君社吾爾栲領巾之白濱浪乃縁時毛無《カヘラマニキミコソアレニタクヒレノシラハマナミノヨルトキモナシ》、十二に、玉釧卷宿妹母有者許曾夜之長毛歡有倍吉《タマクシロマキネシイモモアラバコソヨノナガケクモウレシカルベキ》、十七に、野乎比呂美玖佐許曾之既吉《ヌヲヒロミクサコソシゲキ》云々などある類なり、これらの吉《キ》を、古今集よりこ(119)なたは、心許曾《コヽロコソ》うたて惡氣禮《ニクケレ》とやうに、氣禮《ケレ》とのみ云事、常のさだまりになりて、吉と承たることは一もなし、これ古(ヘ)と後と、詞づかひの差異《タガヒ》なりといはゞ、なほゆるさるべきに、世の歌よみの思へるやう、後には詞づかひくはしくなれるを、古はよろづうひ/\しくわかびて、詞づかひのさだまりも、くはしからざりしが故に、氣禮《ケレ》と承《ウク》べき格の處をも、なほ吉《キ》といへることありと思ふは、いとあさましきことなり、そも/\可《ベキ》、無《ナキ》等の吉《キ》は、氣利《ケリ》、氣留《ケル》と活《ウゴ》くことはなき言なる故に、假令上に許曾《コソ》と云ても、吉《キ》とのみ承《ウケ》て、氣禮《ケレ》とは活動《ハタラカ》さぬぞ古(ノ)正格なりけるを、古今集よりこなたには、これらの吉《キ》をも、生《イキ》、行《ユキ》等の吉《キ》、また有吉《アリキ》、濕吉《ヌレキ》等の吉《キ》と一に混《マガ》へて、辭《テニヲハ》をとゝのふることになれるは、中々に古の詞づかひのくはしかりしを、後にうしなへるが故なり、生《イキ》、行《ユキ》等の吉《キ》、有吉《アリキ》、濕吉《ヌレキ》等の吉《キ》は、伊氣利《イケリ》、伊氣留《イケル》、由氣利《ユケリ》、由氣留《ユケル》、また阿理氣利《アリケリ》、阿理氣留《アリケル》、奴禮氣利《ヌレケリ》、奴禮氣留《ヌレケル》など活《ウゴ》く言なるがゆゑに、これらは上に許曾《コソ》と云て吉《キ》と承たることは一もあることなく、みな生禮《イケレ》、行禮《ユケレ》、また有氣禮《アリケレ》、濕氣禮《ヌレケレ》と承たること古(ヘ)よりの正格なり、かくもとより活《ウゴ》かぬ言をば、吉《キ》とのみいひ、活《ウゴ》く言をば氣禮《ケレ》とのみいひて、きよく差別《ケヂメ》を立て、いと正しかりしを、熟《クハシ》く古を考へず、おのが心のおろそかなるより、上に許曾《コソ》と云ても、萬葉よりあなたの歌には、吉《キ》とも氣禮《ケレ》とて承て、きはやかにさだまりたることもなし、と思ふはいとあらぬことなり、右のごとく活く言と活かぬ言とによりて、其承る言も正しくさだまりたることなるを、後には詞づかひおろそかになりて、この差別なく、活く言をも活ぬ言をもおしこめて、一に氣禮《ケレ》と承ることになりたるは、言靈のほと/\かくれゆきたるがゆゑにあらずや、又|喜之伎《ウレシキ》、悲之伎《カナシキ》、戀之(120)伎《コヒシキ》、樂之伎《タヌシキ》などの類をも、上に、許曾《コソ》と云ても之伎《シキ》とのみ承《ウケ》て、之氣禮《シケレ》と云ること古の歌にはなきこと、前に准へて知べし、なほ其證をいはゞ、十一に、難波人葦火燎屋之醉四手雖有己妻社常目頬次吉《ナニハビトアシビタクヤノスシテアレドオノガツマコソツネムヅラシキ》とあるこれなり、しかるをこれらの之伎《シキ》をも後には、今は聲許曾聞《コヱコソキカ》まほし氣禮《ケレ》とやうに、之氣禮《シケレ》とのみ云こと、常のさだまりになりたり、一卷に、古昔戸母然爾有許曾虚蝉毛嬬乎相挌良之吉《イニシヘモシカナレコソウツセミモツマヲアラソフラシキ》、六卷に、諾石社見人毎爾語嗣偲家良思吉《ウベシコソミルヒトゴトニカタリツギシヌビケラシキ》などの類も、右に准べし、なほくはしきことは、余が歌詞三格例に論たれば、其を披(キ)見て考べし、又そのなべてのいひざまの、古と後世との差異をいはゞ、たとへば天地の初發のことをいへるに、状如2葦芽1、便化爲v神とあるを、字のまゝに訓ときは全(ラ)漢文にて、古のものいひざまならぬを、古事記に、如2葦芽1因2萠騰《モエアガル》之|物《モノニ》1而成v神といへるは、上古のいひざまのまゝなり、そも/\古事記は、なべては漢文の格によりて、かけるものなれど、言語を主《ムネ》として、古言のまゝに讀しめむとしたるものなるが故に、なほ全(ラ)古のものいひざまを存《ツタ》へたり、今京となりて、古今集序に、此歌天地のひらけはじまりけるとき、よりぞ、いできにけるとある、比良久《ヒラク》と云言は、上古も今世も全(ラ)同じくてかはらぬ言なれど、古語には天坤のはじめの時、又天地のわかれしときなど云て、天地のはじめを比良久とはいはざりしを、天地開闢と云漢字の、やゝ久しく目なれ心にしみたる故に、おのづから上古のいひざまを失へるものなり、又千首廿卷名づけて古今倭歌集といふとあるも、古のものいひざまにあらず、古言のさまならば、千首廿卷古生倭歌集とぞ名づけゝる、などやうにあるべきを、これも漢文に目なれ口つきたるが故に、おぼえずその風にならへるものなり、そも/\彼序は漢文ぶ(121)りを避て、つとめて御國の物いひざまにかけるものとおぼゆれど、なほかゝる類のこれかれまじれるは、彼頃はなべて古のさまの轉變《ウツロヒ》なるが故なり、しかつとめても、なほ異國風ののぞこりがてなるを、歌詞にいたりては、なべてのいひざまの彼頃まで、しかまでうつろひはてしことはなほきこえざりしは、しかすがに言靈の徳用《サキハヒ》にこそ、いでやかくまで古のふりのうつろへることの多きは、そもいかなるよしぞと尋るに、古今集漢文序に、自3大津皇子之初作2詩賦1、詞人才子慕v風繼v塵、移2彼漢家之字1、化2我日域之俗1、民業一改、倭歌漸衰、とあるは、さもらしく思はるゝことなれど、これはたゞ事の跡につきて、一わたりにいへるものにしてくはしからず、さるはかへりて彼皇子の時より後も、いよ/\歌のさかりなりしを思ふべし、(上古は歌のみなりしを、詩といふを好み翫び給ひしによりて、漢風の病根のやゝきざしたる始なりとはいひもすべし、)彼大津皇子は朱鳥元年に賜死《ウシナハレ》まし/\けるに、柿本朝臣などは、なほ其後あまたの年を經て、文武天皇の末つ方より、元明天皇の始つ方までに、身まかれる趣に見え、其次に山部宿禰は、元正天皇の御時より、聖武天皇の御代の中間までありし人とおぼえ、はたその頃まで、名たゝる歌よみのすぐれ人もすくなからざりしこと、集中を見て知べし、さて又橘大臣(諸兄公)なども、其後年を經て、天平寶字元年に薨給ひしを、なほ其頃までさかりなりけるを、ほどなく同三年正月の歌までを此集に載て、家待卿の筆を留められしを、そのほどより朝廷にことしげくなりて、やう/\に衰へけるなるべし、然れども家持卿は、なほ其後年經て、桓武天皇延暦四年までながらへられたれども、廢帝の御時よりは、世間おだひならざりしかば、ことのま(122)ぎれによりて、此集に續て後世に書傳ふるいとまもなく、又おのづから古のみやび好む人も、すくなくなりぬるなるべし、さはあれど彼卿の生涯は、なほ後世のごと、古風を遺失ふことはなかりけむを、桓武天皇遷都の御事ありて、間無く彼卿薨られけるより後は、世に古風を唱ふる人もをさ/\なくなりけるなるべし、さて嵯峨天皇はひとへに詩文をのみ好ませ給ひ、皇女に至るまで、からうたつくらせ給ひなどしける程に、我古風を慕ふ人はかきたえてなく、ひたおとろへにおとろへはてしは、いみじき時世の移變になむありける、(しかるを紀貫之が新撰和歌集序に、抑夫上代之篇、義漸幽而文猶質、下流之作、文偏巧而義漸踈、故抽d始v自2弘仁1至2天長1、詞人之作花實相兼u而已、今所v撰玄又玄也云々とありて、弘仁のころほひより、文質を相兼て、よくなれるやうにいへるはなにことぞや、さばかり此道に名を得し貫之も、古風のすぐれてめでたかりしことをば、をさ/\知ざりしと見ゆ、)さてこそ仁明天皇四十の御賀に、興福寺の僧等が力を窮めて、作(ミ)て奉りしと見えたる長歌詞を見るに、古今集に載たる長歌などよりくらべ見れば、なほ風體は古に近き處もあれど、なべての古語を失ひたることは、その歌詞を此集にくらべ見て知べし、家持卿の薨《スギ》られしよりは纔六七十年の間なるに、世中はかくも移變ものかとあやしまるゝにあらずや、さてその歌の下文に、近年此道のすたれて、やう/\僧家に古語ののこれる故に、史典に採て載られたるよししるされたるにて、その頃なべての微衰しほど思ひやるべし、古今集漢文序に、令v撰2萬葉集1、自爾以來云々、其後倭歌棄不v被v採とあるはまことにて、纔の間世に古風をこのむ人もなく、とりあげらるゝこともなかりしがゆゑに、右件(123)にいへる如く、緊要の言のおのづからに湮覆《ウヅモレ》たるは、なげかしきことにあらずや、さて同序に、適遇2倭歌之中興1、以樂2吾道之再昌1といへるごとく、延暦弘仁の間より、ひたおとろへにおとろべはてしにくらべては、古今集撰ばれしころは、まことに中興といふべきことにはあれど、なほ古風に立かへることはかたかりしがゆゑに、此集などに心を盡して熟玩《ヨクミ》る人もなく、中にはたま/\讀者ありても、古語に疎かりしがゆゑに味得たる人もなく、はやく古今集序にも、柿本人麻呂なむ歌の聖なりける云々、又山部赤人と云人あり、歌に奇しく妙なりけりなど云、其後も人麻呂赤人などゝ齊名《ヒトツラネ》に稱へいひて、いみじく慕ふさまにいひたつることは、歌よみの常のことどひになりぬるより、おのづから婦人《ヲミナ》小子《ワラハベ》のともまでも、よくきゝしりてあやしむことなきは、既く寧樂人も山柿之歌泉などやうにいひて、かの二家をいたくあふぎ慕へることの、おのづから人(ノ)耳につたはり來て、口の端にかけては、誰もいふことにはあれど、實にそのすぐれてたふとくあやしく、妙なることを、うかゝひさとり得たる人、古今集の頃よりはをさ/\なくなりぬる趣なるは、口をしくなげかしきことにぞありける、このことは、前に古今集の序につきで委(ク)辨(ヘ)おけり、かのほの/”\と明石の浦のゝ歌などを、柿本朝臣の作ぞと意得て、(このほの/”\との歌などは、彼朝臣の歌とは、雲と泥との勝劣あること、此集をよく讀たる人は、おのづからしりぬべし、)さらに凝ふ人ひとりだになくして、遠く千載を過し來ぬるを、今に至りては、やう/\に古學ひらけわたりて、さることをも、かつがつわきまへ知べき時になりぬるは、さはいへどめでたき御代のさかえにぞありける、(かく古學開けし代となりては、こ(124)れは上古の氣調《シラベ》、これは後人の口風《クチツキ》といふことを、わきまへしることさがしくなりきぬるは、げに先哲等のいみじきいさをなれば、この泰平にうまれあひぬるをよろこびたふとみて、古のまことの道をつとめ學ぶべきことわりなるに、なほ外國にへつらひ、あるははかなきあだ技藝などたかゝづらひて、空しく年月をすぐすなるは、又なげかしきわざならずや、
 
萬葉集古義總論 其二終
 
(125)萬葉集古義總論 其三
 
   發言
發言《イヒオコスコト》を冠らするに、一言なると二言なるとあり、一言なるは伊徃《イユク》、伊歸《イカヘル》、伊隱《イカクル》、伊積《イツモル》、伊匍匐《イハヒ》、伊立爲《イタヽス》、伊渡爲《イワタラス》、伊取爲《イトラス》などの伊《イ》の言、可青《カアヲ》、可黒《カグロ》、可易《カヤスキ》、可縁《カヨリ》、可細《カグハシ》などの可《カ》の言の類なり、二言なるは取與呂布《トリヨロフ》、打撫《ウチナデ》、掻撫《カキナデ》、指陰《サシクモリ》など、の取《トリ》、打《ウチ》、掻《カキ》、指《サシ》の言の類なり、さてこれらの発言は、あるもなきも同じことなりと一わたりに見すぐすは、例の委しからざるが所由なり、各其承る語の勢によりて、発言を冠らせたると、しかせざるとの差異あることなり、此は其言の出る處につきて注《イフ》をまつべし、
   枕詞
天《アメ》と云むとて久堅之《ヒサカタノ》とおき、山といはむとて足引之《アシヒキノ》と冠らする類を、やゝ古くは矢田部氏日本紀私記に發語と書(キ)、仙覺律師萬葉註釋には諷詞としるせり、共によく協へりともなし、源氏物語よりはじめて、つぎ/”\に枕言といへることは、往々見えたれども久堅之、足引之などいふ類を、枕詞といひしことはきかず、今はあまねく世にいひなれたるまゝに、此註書には枕詞としるしつ、さるは語は古に出て、名はいづれも後に設けたるものなれば、名はいかにまれ、語の實を傷ふことしなくば、強て泥むべきに非ればなり、本居氏のいへらく、枕詞といふ名ふる(126)くは聞も及ばず、中昔の末よりいふことなめり、是を枕としもいふは、かしらにおくゆゑと誰も思ふめれど、さにはあらず、枕はかしらにおく物にはあらず、かしらをさゝふるものにこそあれ、さるはかしらのみにもあらず、すべて物のうきて間のあきたる所をさゝふる物を、何にもまくらとはいへば、名所を歌枕といふも、一句言葉のたらで、明たるところにおくよしの名と聞ゆれば、枕詞といふも其定にてぞいひそめけむかし、梅花それとも見えず久かたの云々、しのふれど戀しき時はあしひきの云々などの如し、そも/\これらは一のさまにこそあれ、なべて然るにはあらざるを、後の世人の心にて、さる一かたにつきてぞ名づけたりけむ、なべてはかしららにおく詞なれば、吾師の冠辭といはれたるぞ、ことわりかなひてはありける、しかはあれども、今はあまねく枕詞といひならひたれば、ことわりはいかにまれ、さてもありぬべくこそといへり、但し枕といふことのこゝろは、此説よくいはれたりとも定めがたし、さるはいかに後世人の心とても、なべて多かる方をおきて、さる一方につきて、名づけたりとせむこと、おぼつかなければなり、雅澄考るに、枕といふは保持《タスケタモ》つよしの名なるべし、さるは枕は、そのもと頭を保け持つための具《モノ》にて、又枕詞も語の頭を保け持つを緊要とする詞なるから、かたがたおもひよせて、たとへ云たるなるべし、歌枕の枕もこれに同じ意ならむ、(歌枕と云ことも源氏物語に出て、其後は往々物に見えたり、さて又かの枕言と云は、明暮わするゝ間なく、思ひ云ことを云るなれば、晝はさるものにて、夜寢ても得思ひはなたず、枕をつけはなれぬ言の意にいへるにて、常に寢言にもいふと云に似たる言なるべし、又枕册子と云は、枕もとの册子と(127)いふこゝろばえにて、常に帳内にのみ置て、他人に漏見《モラ》すことなく、夜も枕のもとさらずて、耳に聞(キ)心に思ふことを、何にまれ時々かきつくる料に、とぢ置る册子なれば、いへるなるべし、清少納言枕册子の奧に、此册子は、目に見えぬ心に思ふことを、人やは見むずると思ひて、つれづれなる里居の程にかきあつめたるを、あいなく人のため、びむなきいひすぐしなどしつべき所々もあれば、きようかくしたりとおもふを、涙せきあへずこそなりにけれとあるも、枕より外に、又知人もなき此册子なりと思ひしを、慮(ヒ)の外に世にもれしといふことを、古今集の歌によりて、涙せきあへずとをかしく書なしたるものなり、さてその次の文に、宮のおまへに内のおとゞの奉り給へりけるを、是に何をかゝまし、上のおまへには、史記といふふみをかゝせ給へるなどのたまはせしを、枕にこそはし侍らめと申しゝかば、さはえよとて給はせたりしを云々とある枕は、即(チ)枕册子と云ことなり、榮花物語に、衣のつまかさなりてうちいだしたるは、いろ/\のにしきを枕册子につくりて、打置たらむやうなりとあり、彼頃よりもはらいへる事ならむ、此はこゝにことに用なけれど、思ひ出るまに/\因に云るのみなり、
   助辭
助辭《タスケコトバ》とは、語實《コトザネ》を助くる料の辭なり、これにも一言なると二言なるとあり、一言なるは、京師之所念《ミヤコシオモホユ》、倭之所念《ヤマトシオモホユ》、神代之所念《カミヨシオモホユ》、家之所偲《イヘシシヌバユ》などの之《シ》の類なり、獨師?《ヒトリシテ》、旅爾之而《タビニシテ》、或は見津々々四《ミツミツシ》、伎良伎良之《キラキラシ》などの之《シ》は、助辭にあらず、混(フ)べからず、又|夜之夢爾遠《ヨルノイメニヲ》、樂乎有名《タヌシクヲアラナ》、或は八代爾乎《ヤツヨニヲ》などの乎《ヲ》も助辭なり、見管行武雄《ミツヽユカムヲ》、見放武八方雄《ミサカムヤマヲ》などの乎《ヲ》は、物乎《モノヲ》の意の乎《ヲ》にて、助辭にあらず、又|高知也《タカシルヤ》、(128)天知也《アメシルヤ》、恐也《カシコキヤ》、天飛也《アマトブヤ》、或は石見乃也《イハミノヤ》、淡海乃也《アフミノヤ》、或は喧也鶯《ナクヤウグヒス》などの也《ヤ》も助辭なリ、君也將來吾也將行之《キミヤコムアレヤユカムノ》など云、或は此也是《コレヤコノ》、蓋也喧之《ケダシヤナキシ》など云|也《ヤ》は、疑辭にて助辭にあらず、可苦佐布倍思哉《カクサフベシヤ》、過去計良受也《スギニケラズヤ》などいふ也《ヤ》も、也波《ヤハ》の意の也《ヤ》にて助辭にあらず、混《マガフ》べからず、強流志斐能我《シフルシヒノガ》、越之君能等《コシノキミノト》などの能《ノ》も助辭なり、兄名《セナ》、妹名根《イモナネ》などの名根《ナネ》等の親辭の、通ひたるにあらず、混べからズ、又|紀之關守伊《キノセキモリイ》、菟原壯士伊《ウナヒヲトコイ》などの伊《イ》も助辭なり、花待伊間爾《ハナマツイマニ》、移伊去者《ウツリイユケバ》、不絶射妹等《タエジイイモト》など用言の下にそへていへる、伊《イ》も同じ、これらの伊《イ》は、待伊《マツイ》、移伊《ウツリイ》、不絶伊《タエジイ》など、上の言の下に附て唱べし、吾者佐夫之惠《アレハサブシヱ》、吾者將待惠《アレハマタムヱ》などの惠《ヱ》も助辭なり、又|貴呂可母《タフトキロカモ》、乏吉呂賀聞《トモシキロカモ》などいふ呂《ロ》も助辭なり、又|夜者母《ヨルハモ》、晝者母《ヒルハモ》などいふ母《モ》も助辭なり、二言なるは、籠毛與《コモヨ》、不久思毛與《フクシモヨ》などの毛與《モヨ》、又|吾者毛也《アハモヤ》などいふ毛也《モヤ》も同じ、國者思毛《クニハシモ》、其乎之母《ソエオシモ》、此乎之母《コヽヲシモ》などの之母《シモ》、縱惠八師《ヨシヱヤシ》、愛寸八師《ハシキヤシ》などの八師《ヤシ》、麻裳吉《アサモヨシ》、玉藻吉《タマモヨシ》などの吉《ヨシ》なども同じ、いつの頃よりにかありけむ、この助辭を夜須米辭《ヤスメコトバ》と唱へて、一句に一言の足ずて、調ひがたき時に、其を補ふ料の具と意得て、實はあるも無も同じことなりと思ふは、いみじきひがこゝろえなり、古人の用へる助辭には、いたく力ありて、あると無とによりて、或は事を一すじに重く思はせたると、たゞ一わたりに輕くいひたると、或は言の急迫《セマレ》ると、緩優《ナダラカ》なるとの差異あることにて、たゞ言を補ひたるにはあらざること、なほ本條に至りてより/\に辨べし、たとへば倭之所念《ヤマトシオモホユ》といふと、たゞ倭所念と云むとをくらべて味(ヒ)見べし、この倭之といへる之の助辭の一にて、倭を戀しく思ふ意の、一すぢに重く思はるゝことかぎりなし、もしさる意にもあらず、たゞ言を補ふ料の具とのみせば、倭所念にて、七言にて一句(129)を調へたるなれば、なにゆゑに無用《イタヅラ》に之の辭を加へて、ことさらに八言にいふべきぞ、又|樂乎有名《タヌシクヲアラナ》と云と、たゞ樂有名と云むとをくらべで味(ヒ)見べし、この乎の助辭の一にて、言の緩優《ナダラカ》なるのみならず、調もたかくきこゆるに非ずや、これも樂有名《タヌシクアラナ》にて、七言一句をとゝのふればことたれるを、なlこゆゑに無用に乎の辭を加へて、ことさらに八言とすべきぞ、これらを合考て、古人のいたづらに助辭を用《ツカ》はざりしやうを知べし、餘はいづれも此に准へて知べし、(しかるを強《アナガチ》に、助辭は、言の足ざる處を補ふ料の具と意得て、自の歌にもよみたるゆゑ、辭に力なくきこえて甚拙きが多し、)
   尊辭
尊辭《タフトミコトバ》は、大御神、大御歌、大御代、大御身、大御手、大御屋、太御門、大御食、大御酒、太御船、大御馬など云類なり、御心、御子、御佩、御衣など、たゞ御《ミ》とのみ稱ることも多し、すべて尊辭と云は、美稱の中の一種《ヒトクサ》とすべきものなり、なほ次の美稱(ノ)條に云を見べし、さて又|御立坐《ミタヽシマス》、御寢坐《ミネマス》、御娶坐《ミアヒマス》、御佩《ミハカセル》など、用言の上にも、御《ミ》と云ことを冠せて云る例も多し、此外くさ/”\あれど、ことなることなければ載ず、
   美稱
美稱《タヽヘコトバ》にも、一言なると二言なるとあり、一言なるは、美《ミ》、麻《マ》、佐《サ》等の類これなり、二言なるは、於保《オホ》、布登《フト》、等余《トヨ》等の類これなり、さてこの美稱を用へる樣くさ/”\あり、一に尊み敬ふ方を美《タヽヘ》て稱るあり、二に勝秀《スグ》れたる方を美て稱るあり、三に偏《カタヨ》らず正中《タゞナカ》なる方を美て稱るあり、四に混なく(130)正物《タゞモノ》なるを美て稱るあり、五に全備《トヽノ》ひたる方を美て稱るあり、六に心にかなひて好を美て稱るあり、その一に尊み敬ふ方にいへるは、御心、御子、御名、御|在香《アラカ》、御門《ミカド》、御食《ミケ》、御酒《ミキ》、御行《ミユキ》、御手、御琴、御船など、すべて尊て御《ミ》の言をそへて云こと常なり、大神、大君、大殿、大宅《オホヤケ》、などの類も多し、この大と御とを連ねて、大御《オホミ》某といへることも多くて、其は上の尊辭(ノ)條に出せるに全(ラ)同じ、又今俗に、御船、御琴などいふべきを、於船《オフネ》、於琴《オゴト》など云於は大《オホ》の意なり、また俗に、いたく敬ひて、於美扇《オミアフギ》、於美帶《オミオビ》などいふ於美《オミ》も、大御《オホミ》なり、さて古くも大を於《オ》とのみ云たることあれば、於船、於美扇、などいふも、ひたふるの俗言にはあらで、中々に古言の遺れるなり、かしこけれども仁賢天皇を、意富祁《オホケノ》王と申しを、書紀に、億計《オケノ》王とある、これ意富《オホ》を意《オ》とのみ云る證にあらずや、其他、大身《オミ》、大人《オビト》など大と去べきを、於《オ》とのみ云ること古く見えたり、さてしからば於保《オホ》の保を略き除《ステ》て、於と云るなれば、前に、古に略言なしと論《アゲツラヘ》るにかなはずと難《トガ》むる人もあるべきなれど、古くも穴太部《アナホベ》、迹太川《トホカハ》、集中にも、爾太遙越賣《ニホエヲトメ》など、書たることの多きによりて考るに、大人《オヒト》などの大と太と二言を、そのもと合せていひ始たる言と思はるれば、於《オ》とのみ云に大の意を具《モチ》たれば、具にも略《コトスクナ》にも、彼此通《コレカレカヨハシ》云たるにて、打まかせたる略言にはあらず、なほこの事は、余が雅言成法に委(ク)辨(ヘ)おきつれば、こゝには略きつ、疑ひ思はむ人は、彼書に就て考べし、余が於保《オホ》を於とのみ云ることのある由を云るによりて、前に略言なしといへるに應はざるに似たるゆゑ、難《トガ》むる人のあらむがために、かつ/”\ことわりおくなり、さてこれ等の大《オホ》は巨《フト》き謂にはあらで、常に云|於船《オフネ》など云於に似て、敬ふ方にいへるなり、二に勝秀《スグ》れたる方にいへるは、御山、御谷、御碕、御坂、御(131)峰、御雪、御草、眞木、眞草、眞玉、眞弓、眞衣、狹霧、狹遠、狹小牡鹿などあるこれなり、大國、大土、大倭、大城、大空、大海、大山、大野、大河、大道、大久米、大船、大父《オホヂ》、大母《オホバ》など多くいふ大も、その勝秀《スグレ》たる方を稱《タヽ》へていへるなり、さて件に云るごとく、御船など云べきを、俗の於船《オフネ》と云、その御船《オフネ》と云は大船《オホフネ》と云ことなりとするときは、御船と云も大船と云も、差別《krヂメ》はなければ、尊む方につきていふと、勝れたる方につきて云との、差異はあるまじき理なるに、尊む方に云と、勝れたる方に云とを、別て云るはいかにといふに、其はその、本義を推窮めて云ときこそ、差別はなけれ、往々《ヨリヨリ》古人の用《ツカヘ》るうへに就て云ときは、少《イサヽカ》その異あるがゆゑに、今別て擧たるなり、かくてその形の巨《フト》きのみに就て、大といへるにあらざるは、父母の父母を、大父《オホヂ》大母《オホバ》と云、父母の兄弟を、小父《ヲヂ》小母《ヲバ》などいふにて知べし、これその長《スグ》れたると幼《オト》りたるとを、大《オホ》と小《ヲ》にて別てるにて、巨細《フトホソ》の謂にはあらざるをや、もしこれを、その形の巨細に就て云ことゝせば、巨父《フトチ》、巨母《フトハ》、細父《ホソチ》、細母《ホソハ》といふべき理なるを思ふべし、大山、大船など云も、世に勝れたる山は、形も巨《フト》く、世に勝れたる船は、状も巨きによりて、おのづから巨き謂《ヨシ》は、こもりてあれど、於保といへる言に、立かへりていふときは、形の巨細にかゝはりて云るにはあらで、たゞ其勝れたるを稱《タヽヘ》たるのみのことと知べし、すべて大小《オホヲ》と云ことは、本形状の巨細に就て、いふことにはあらざるを、大小の字にまよひて、巨細を云ことゝ思ふは末なり、小船、小野などいふは、その細きに就ていふごと思ふめれど、しからず、小牡鹿、小筑波、少床などいふ小《ヲ》に同じく、これらもそのもとは、其物を稱へていへる辭なり、さてこれらにて、大小《オホヲ》は、巨細につきて云ることには非ず、其|長《スグ》れたると、幼《オト》りたるとにつきて(132)いへる趣は、明にきこえたるを、小《ヲ》もそのもと其物を稱へていへる辭なり、といふこといかゞ、大は勝りたるを稱ていふことゝして、よくきこえたるを、小は劣りたるをいふことなれば、稱ていふことなりといふこと、甚あるまじきことなり、と云べけれど、今假に、勝劣の名目をたてていへるは、晝夜を勝劣りと云類にはあらず、即父母の父母も、父母の兄弟も、父母につぎて尊く勝れたるものにてはあれど、其勝秀れたる物の中にて、長幼《マサリオトリ》を別で云ときは、祖父母《チヽハヽノオヤ》は長《スグ》れ、叔伯《チヽハヽノハラカラ》は幼《オト》りたれど、祖父母に幼りたればとて、いやしむべきにはあらず、父母祖父母につぎて尊く勝れたる物なり、大船小船と連ね云ときは、大船は形も巨くまろづ勝れ、小船は形も細く、よろづ大船には劣りたれども、なほ勝れて美《ヨ》き物なれば、勝れたるものゝ中にての勝劣と知べし、されば、世に勝れて重く貴き物を大と稱へ、劣りて輕く賤きものを、小といひおとしたることは、昔よりなきことなり、大根などいふも、大は巨《フト》き謂にて負せたる名なり、と誰も思ふことなれど、巨きはおのづから、その中にこもりたるのみにて、大といへるは、形の巨《フト》きをも、味の美きをも、おしこめてひとつに稱へ云たるにて、巨き故に大といへるにはあらず、上古に人を稱て、大人《オビト》(首字を書、後に姓にも賜ひたり、)といへるも、その身體の巨きをいへるにはあらず、世に勝れたるを美《ホメ》ていへる稱なり、すべて大《オホ》といへること、此に准へて知べし、さでかく大も小も、その勝れたる物のうへにいふ勝劣りなれば、大《オホ》はさるものにて、小《ヲ》といふも稱《タヽ》へたる方なり、されば、大船小船、大峽小峽などやうに、大に對へて云のみにあらず、それはなしても小といへること多し、小筑波、小床、などいふ類これなり、これにで、小と云も、その美稱なることを(133)思ひわくべし、さて右にいへるごとく、大小は、巨細《フトホソ》をいふにもあらず、尊卑をいふにもあらず、同じ列《ナミ》にて、長幼を分けて、對へいふ言なるがゆゑに、御兄を大碓命と申し、御弟を小碓命と申し、又かしこけれども、御兄の仁賢天皇を意富祁《オホケノ》王と申し、御弟の顯宗天皇を袁祁《ヲケノ》王と申しゝなどをはじめて、すべて兄弟を大小《オホヲ》にて別たること常多し、又|小《スクナ》といふに對へて大といへることあり、これは、大は多き謂《ヨシ》にて小《ヲ》に對へ云には異りて、やゝその尊卑の分れたるもあり、大納言《オホキモノマヲスツカサ》、中納言《ナカノモノマヲスツカサ》、少納言《スクナキモノマヲスツカサ》、などいひ、また昔稱2皇子1爲2大兄1、又稱2近臣1爲2少兄《スクナエト》1と私記に見ゆ、これらも、やゝその尊卑によれるのみにて、たゞ巨細の謂にはあらず、又大那牟遲《オホナムヂノ》神、少彦名《スクナビコナノ》神と申すも、この二柱(ノ)神相(ヒ)並《ナラバ》して天下を經營《ツクラ》しゝ故にて、大小《オホスクナ》を對云て申せる御稱《ミナ》なるべし、さてまことに那牟遲《ナムヂノ》神は御體《ミミ》の巨くおはしますべく、彦名《ヒコナノ》神は御形《ミミ》の細くましますがゆゑに、大少にて、御名を分たりと思はるれども、これもたゞ御形體《ミスガタ》の巨細によりていへるにはあらで、御威徳《ミイキホヒ》より、御功業《ミイサヲ》の多少を主《ムネ》としていへるにて、御形體の巨細は、おのづから其中にこもりたるなるべし、かく大は小に對へいへるはさらにて、少《スクナ》にも對へ云たること多きに、もし大《オホ》と云が巨《フト》き謂ならば、保曾《ホソ》といへるに、對へたるもあるべきに、一もなきにて、大《オホ》は巨《フト》き謂ならざるを辨ふべし、大小《オホヲ》と巨細《フトホソ》といふとを、混淆《ヒトツ》に、世人の思ひ誤てるがゆゑに、言長くうるさけれど、おどろかしおくものなり、豐宴《トヨノアカリ》、豐御酒《トヨミキ》、豐旗雲《トヨハタクモ》、豐祝《トヨホキ》、豐泊瀬《トヨハツセ》などの豐も、大に同じく勝れたるを稱へたるなり、太知立《フトシリタテ》、太布座《フトシキマス》、大祝詞《フトノリトゴト》など云太も同じ、三に偏《カタヨ》らず、正中《タヾナカ》なる方にいへるは、御中《ミナカ》、御空《ミソラ》、(眞中《マンナカ》、眞空《マソラ》と云が如し、さてこの御中を毛那可《モナカ》とも云けらし、神武天皇紀に、六合(134)之中心《クニノモナカ》、天武天皇紀に、天中央《ソラノモナカ》、榮花物語に、御堂の御前の、毛那可に、舞臺ゆはせて云々、後々にも、秋のもなかとよめり、古事記上卷に、奴那登母母由良爾《ヌナトモモユラニ》とあるは、瓊音《ヌノト》も眞※[金+將]《マユラ》にといふことなれば、眞《マ》を母《モ》と云しも、後ならず、但し集中に眞《マ》を母《モ》といへること見えず、)眞日《マヒ》、眞言《マコト》、眞清《マサヤカ》などいふこれなり、(俗に眞正面《マシヤウメン》、眞直《マツスグ》など云|眞《マ》もこれなり、)四に、混《マジリ》なく、正物《タヾモノ》なる方にいへるは、眞金、(俗に贋物にあらず、正物の金といふことなり、)眞悲《マカナシ》、(心悲てかきて、麻可那之《マカナシ》と訓せたるも、僞て悲しきふるまひをするにはあらで、眞正に、心づから悲しき謂にてかきたるものなり、俗にほんにかなしいと云に同じ、)眞心悲《マウラガナシ》、眞幸《マサキク》、眞細《マグハシ》、眞杙《マグヒ》、眞白《マシロ》、佐寐《サネ》、佐寐處《サネド》、佐寐床《サネドコ》(俗に佐水《サミヅ》、佐湯《サユ》など云も、まじりなしの水湯と云ことにて、佐《サ》の言同じ、)など云これなり、五に、全備《トヽノ》ひたる方にいへるは、眞手、眞袖、(左右手《マテ》、諸手《マテ》、二手《マテ》などかきて、左右の手の全備《トヽノ》ひたるを眞手《マテ》と云、眞袖《マソデ》もこれに同じ、眞※[楫+戈]《マカヂ》(二梶《マカヂ》ともかきて、これも左右の※[楫+戈]の全備たるを云り、)など云これなり、六に、心にかなひて、好き方にいへるは、御吉野《ミヨシヌ》、御熊野《ミクマヌ》、眞熊野《マクマヌ》、小筑波、小岫《ヲグキ》、小里《ヲサト》、小林《ヲバヤシ》、小野《ヲヌ》、小峰《ヲミネ》、小牡鹿《ヲシカ》、小船《ヲブネ》など云るこれなり、小と云ことの義は、本條にことわらむ、すべて尊み敬ふ方には、御の言を多く用ひ、又|大《オホ》といへることも多くして、眞《マ》といへることなし、勝秀れたる方には、御《ミ》とも、眞《マ》とも、狹《サ》とも、大《オホ》とも、豐《トヨ》とも、太ともいへり、其中に、豐《トヨ》と云、太《フト》と云は、尊む方にいひたるが多けれど、さしあたりては、尊みて大御《オホミ》と連ねいひ、豐太《トヨフト》は、もと勝秀(レ)たる方に就て云たるが、自然尊む方にも通ひて、その差別なきがごときありしかれども、太玉串、豐葦原中國、豐秋津島など云るは、大八島、大倭などの大に同じく、そのもとは、さしあたりて、尊むを主《ムネ》としていへるにはあらで、勝秀れ(135)たるを美たる方なるべし、正中なる方には、御《ミ》とも、眞《マ》とも云、正物なる方には、眞《マ》とも佐《サ》とも云て、御《ミ》と云ることなし、又全備たる方には、眞《マ》とのみ云て、外に御《ミ》とも、某《ナニ》ともいへることなし、心にかなひて好き方には、御《ミ》とも眞《マ》ととも、小《ヲ》ともいへり、かく分ていふとき、少づつその差等《カハリ》ありといへども、いづれも此方より美稱《メデタヽ》へて云る意は、異ならぬが如くなれば、落るところはひとつなるがごとし、なほくはしきことは本條にいたりて、其言の出る處々にことわるべし、【〔頭註、按に、大凡、大方、大旨など云、又常に大積、大搏、大縛など云類あり、その大はすべて物を細密にえらばず、粗忽とさだめいふやうのことなり、この大に對へて小といふときは、物を細密にえらびて、精明にきはめていふ方にて物を稱る言なり、これ大峽小峽など、物の勝劣につきていふとはいさゝか異れり、西宮記、北山抄などを考るに、小忌、大忌といふもの、常にいふ大小とかはりて、小忌を重みし、大忌を輕しめたり、これ神祇に親き方を小忌といひ、疎き方を大忌といへるにて、親きは精き方、疎きは粗き方にいへるなり、これおのづから小を稱る言とすると同意なり、〕】
   賛辭
賛辭にも、二言なると、三言なるとあり、その二言なるは、玉裳、玉藻、玉葛、宇眞人《ウマヒト》、味寐《ウマイ》、味飯《ウマイヒ》、味酒《ウマサケ》、美豆山《ミヅヤマ》、美豆枝《ミヅエ》、美豆垣《ミヅカキ》、などの類なり、これらは、大倭、太祝詞《フトノリト》、豐旗雲《トヨハタクモ》などの、大《オホ》太《フト》豐《トヨ》の寐稱に差別なきが如し、しかれども彼等の美稱は、その物に、もとより就たるがごとくにいひ、玉《タマ》、味《ウマ》、美豆《ミズ》の類は、故《コトサラ》に言を設けて、其物を賛たりときこゆれば、姑其名目を別てり、三言なるは、※[立心偏+可]怜國《ウマシクニ》、麗妹《クハシイモ》の類なり、
   親辭
親辭《シタシミコトバ》とは、此方より彼方を親み愛みていふ辭なり、吾大王《ワガオホキミ》、吾君《ワガキミ》、我國《ワガクニ》、吾夫《ワガセ》、吾妹《ワギモ》、吾弟《アオト》、吾子《アゴ》の吾《ワ》、吾夫子《ワガセコ》、吾妹子《ワギモコ》の子《コ》、兄名《セナ》、名兄《ナセ、名姉《ナネ》、名妹《ナニモ》の名《ナ》、妹名根《イモナネ》の名根《ナネ》等の類なり、
(136)   嘆息辭
嘆息辭《ナゲキコトバ》とは、喜しきことにも、悲しきことにも、息をつそ聲の辭なり、痛醜《アナミニク》、痛多豆々々思《アナタヅタヅシ》、痛※[立心偏+可]怜《アナアハレ》、痛情無《アナコヽロナシ》、穴氣衝之《アナイキヅカシ》、阿奈干稻々々志《アナヒネヒネシ》などある、阿奈《アナ》は、みな事に觸て歎息《ナゲ》く聲なり、八卷に、櫻花能丹穗日波母安奈爾《サクラノハナノニホヒハモアナニ》とあるも、爾《ニ》は語辭にあらず、歎く聲に付たる言なり、しかるを近頃の古學徒、この阿奈《アナ》ト云詞と阿夜《アヤ》と云詞とを、混雜《ヒトツ》に解なして、いとみだりなること多きによりて、本條にくはしくわきまへいはむを待べし、木人乏母《キヒトトモシモ》、楯立良思母《タテタツラシモ》、吾名之惜毛《アガナシヲシモ》、行方不知毛《ユクヘシラズモ》、見者悲毛《ミレバカナシモ》、忘可禰津藻《ワスレカネツモ》、有勝麻之母《アリガテマシモ》などの母《モ》は、みな歎息く聲の辭なり、誰戀爾有目《タガコヒナラモ》、哭耳四泣裳《ネノミシナカモ》などの目《モ》は、牟《ム》の通へるにて別なり、混(フ)べからす、將戀名《コヒムナ》、家良志那《ケラシナ》、賀母那《ガモナ》などの那《ナ》、神左備居賀《カムサビマスカ》、零來雨可《フリクルアメカ》などの可《カ》も、歎息(ク)辭なり、山乎高可《ヤマヲタカミカ》、陰樹將比疑《カゲニナミムカ》などの疑辭と混(フ)べからず、見禮騰不飽可聞《ミレドアカヌカモ》、神乃御代鴨《カミノミヨカモ》、船出爲加母《フナデセスカモ》、愛寸香聞《ウツクシキカモ》、相見鶴鴨《アヒミツルカモ》、忌之伎鴨《ユヽシキカモ》などの可母《カモ》は、みな歎息の聲なり、三卷に、極此疑《コヾシカモ》とある疑《カモ》も歎息辭なり、しかるに、疑とかけるは、他所に疑ふ意の、可母《カモ》に疑字をかきなれたるがゆゑに、たゞ字訓を惜たるのみなり、此(ノ)字につきて、疑辭と思べからず、不所見香聞安良武《ミエズカモアラム》、一有加母《ヒトツナレカモ》などいふ香聞《カモ》は、香《カ》は歟《カ》にて疑辭、聞《モ》は歎息の辭なり、不飽可聞《アカヌカモ》などの可聞《カモ》と混べからず、月疑意君者《ツキカモキミハ》、零之雪疑意《フリシユキカモ》など可母《カモ》と云に、疑意とかけるも、疑ふ意なるがゆゑなり、但し此も可《カ》は疑辭、聞《モ》は歎息辭なれば、可聞《カモ》をおしこめて、疑意とは書まじき理なれども、字はたゞその重き一方につきてかけるのみなれば、字のうへにては盡ざるなり、しかるを、かゝる處の可聞《カモ》は、二言ながら、たゞ疑(ノ)辭なりと見すぐしてあらむは、やすらかなれど、古言にくはしから(137)ざるなり、歎息く意なきときには、たゞ白水郎跡香將見《アマトカミラム》など香《カ》の一言にいひ、歎息く意ある處には、不所見香聞安良武《ミエズカモアラム》とやうにいひて、必(ス)聞《モ》の言を加へたるなり、もし香《カ》と云も香聞《カモ》と云も、異《カハリ》なしとならば、不所見香安良武《ミエズカアラム》にて、七言一句をとゝのへたれば、ことたれるを、ことさらに、聞《モ》の言を加へて八言に云べき謂なし、これにて香《カ》とのみいふと、香聞《カモ》と云との差異を辨べし、又|家八方何處《イヘヤモイヅク》、色爾將出八方《イロニイデメヤモ》など云も、八《ヤ》は疑辭にて、方《モ》は歎息辭なり、これをも二言ながら、おしこめて疑辭と見すぐしてあらむは、くはしからざることなり、
   乞望辭
乞望辭《ホガヒコトバ》とは、しかあれと希望《ネガ》ふ意の辭なり、如是霜願跡《カクシモガモト》、常丹毛冀名《ツネニモガモナ》、雲爾毛欲成《クモニモガモ》、烏爾毛欲成《トリニモガモ》、手力毛欲得《タヂカラモガモ》、副而毛欲得《タグヒテモガモ》などある賀母《ガモ》は、みな乞望辭にて、願《ガモ》、冀《ガモ》、欲成《ガモ》、欲得《ガモ》など書る其意なり、又|花爾欲得《ハナニモガ》、岸爾家欲得《キシニイヘモガ》、山者無毛賀《ヤマハナクモガ》、千歳爾毛賀《チヨニモガ》などある賀《ガ》も同じ、又十一に、見之賀登念《ミシガトオモフ》とある賀《ガ》も乞望ふ辭なり、古今集に、甲斐が嶺《ネ》をさやにも見しがといへるも同じ、又|今毛得?之可《イマモエテシカ》、奈利?之可《ナリテシカ》など云も、云々あれと乞望ふ辭なり、得?之可母《エテシカモ》、伊禰?師可母《イネテシカモ》とあるも同じ、さて?之可《テシカ》とあるも、?之可母《テシカモ》とあるも、可《カ》はみな清音なり、上の毛賀《モガ》、母賀賀《モガモ》、之賀《シガ》と連ねたるはみな濁音なり、混べからず、又|名告沙根《ナノラサネ》、草乎刈核《カヤヲカラサネ》、飛反來年《トビカヘリコネ》、雨莫零所年《アメナフリソネ》、情示左禰《コヽロシメサネ》、奈何名能良佐禰《ナガナノラサネ》など多くある禰《ネ》もみな乞望ふ辭なり、さて禰《ネ》は佐禰《サネ》と連ねたるが多くあれども、佐禰《サネ》の二言のみながら、即乞望ふ意なるには非ず、佐《サ》は告勢《ノラセ》、刈勢《カラセ》などいふ勢《セ》を、連言の便によりて佐《サ》に轉したる耳《ノミ》なり、(略解に、名告沙根《ナノラサネ》は名を告よなり、能良佐禰《ノラサネ》をつゞむれば能禮《ノレ》となりて、名のれと云(138)に、同じといへれど、上にもいひたるごとく、古は無益《イタヅラ》に言を伸縮して云ることをさ/\なければ、此説はやすくてさならむとは聞ゆれど、古言の義にくはしからねば、通《キコ》えぬ所多し、右に引る例どもを考へ併せて曉べし、告沙根《ノラサネ》、また刈核《カラサネ》などの類は、能良勢《ノラセ》、また可良勢《カラセ》の伸りたるものぞといはむも、まづはさてあるべきを、來禰《コネ》、また零所年《フリソネ》どの禰《ネ》をば、さては何とかいはむ、)來禰《コネ》と云は、來《コ》は來《コ》よの意なるに、禰《ネ》の乞望辭のそはりたるなり、莫零所年《ナフリソネ》、と云は、莫零所《ナフリソ》は、勿行曾《ナユキソ》、勿散曾《ナチリソ》などいふごとく、零(ル)ことなかれの意なるに、禰《ネ》の乞望辭のそはりたるなり、禰《ネ》の辭は、いづくにありても、此定に意得べし、又|夢爾見乞《イメニミエコソ》、吾耳見乞《アレニミエコソ》、次而所見欲《ツギテミエコソ》、相所見欲《アフトミエコソ》、眞好去有欲得《マサキクアリコソ》など多くある許曾《コソ》もみな乞望辭なり、乞《コソ》、欲《コソ》、欲得《コソ》など書る、其(ノ)意なり、又|社《コソ》、與《コソ》、與具《コソ》などの字を書る處もあれど、其意未詳には決めがたし、さてこの許曾《コソ》といふ詞、上古にはもはいら用ひて、今京より以來はをさ/\きこえざるは、便なきことなり、たま/\伊勢物語に、秋風吹と鴈に告許勢《ツゲコセ》、催馬樂に、いで吾駒はやくゆき許勢《コセ》などあるのみなり、それも、許曾《コソ》を許勢《コセ》に訛《アヤマ》りたり、又|都麻余之許西禰《ツマヨシコセネ》、古事記八千矛神(ノ)御歌に、宇軍知夜米許世禰《ウチヤメコセネ》、聖徳太子傳暦謡に、相看社根《アヒミエコセネ》などあるは、許曾《コソ》と禰《ネ》との二の乞望辭を重ねて云るなり、さてこれも許曾《コソ》を、禰《ネ》の言に連ぬるにひかれて、曾を勢に轉したるにて、後世訛りて許曾を許勢《コセ》と云る類にはあらず、又|有與宿鴨《アリコセヌカモ》、續巨勢奴鴨《ツギコセヌカモ》などいふも、許曾と禰との二の乞望辭を重ねたるものなり、さてこれも哉《カモ》と云に連くにひかれて、禰《ネ》を奴《ヌ》に轉し、奴に連くにひかれて、曾を、勢に轉したるものなり、又|聞越名湯目《キヽコスナユメ》、有超名湯目《アリコスナユメ》、相與勿湯目《アヒコスナユメ》など云許須も、勿と云に連くにひかれて、曾を須に轉したるものなりと(139)知べし、又|常有奴可《ツネニアラヌカ》、雨毛落糠《アメモフラヌカ》、伊麻毛奈加奴香《イマモナカヌカ》、常有沼鴨《ツネニアラヌカモ》などいへる奴も、禰の乞望辭なるを、可《カ》の言に連くにひかれて、奴に轉したること上に同じ、可の一言に連くも、可母《カモ》の二言に連くにも異はなし、さて有奴可《アラヌカ》は有かしの意にきこゆるに、其餘も准へられて、おほかたの意旨は、たがふふしはなけれども、すべて世の學者等、この詞の本義をわきまへ得たる人、ひとりだに今までなきこそうれたけれ、(まづ契冲が、常にあらぬかは、常にあられぬ物か、當あれかしとねがふ意なりといへる、さる意にもきこゆることなれど、言の本をくはしくたどらざるなり、又荒木田久老が、この可を願の意と見て、常にもがもななどいふ賀母《ガモ》とひとつにまざらはして説なせるも、たがへることなり、又本居氏玉勝間に、七卷に、人相鴨《ヒトモアハヌカモ》、十卷に、妹相鴨《イモニアハヌカモ》、又同卷に、又鳴鴨《マタナカヌカモ》、十一に、人來鴨《ヒトモコヌカモ》、又、同卷に、有與鴨《アリコセヌカモ》、又同卷に、有鴨《アラヌカモ》、又同卷に、急明鴨《ハヤモアケヌカモ》などある、件の歌どもは、九卷に、雲隱鴈鳴時秋山黄葉片待時者雖過《クモガクリカリナクトキニアキヤマノモミチカタマツトキハスギネド》と有に同じく、みな不字を省きて書るものなりと云るも、元來|人相鴨《ヒトモアハヌカモ》など云は、契冲が説のごとく、人にも逢れぬものか、人にあへかしの意に見て、有奴可《アラヌカ》、鳴奴香《ナカヌカ》などの奴を、すべて不の意と思へるより、不字を省きて書たるものなりとはいへるなるべし、よく思見べし、不字は有と無と其意反對なれば、不字のあるべき處を、省きて書べき理やはあるべき、すべて那爾奴禰《ナニヌネ》の辭は、字の後に訓付る事多ければ、此等も奴《ヌ》の言にあたる字はなくても、然訓るゝ事なれば、不字を省きたるにはあらざるをさとるべし、九卷に、時者雖過とあるのみは、まことは不字あるべき處にて、其は右の例どもとは、さまたがひたれば、後に脱たるものなるべし、
(140)   疊辭
疊辭《カサネコトバ》とは、智智乃實乃父《チヽノミノチヽ》、波々蘇葉乃母《ハヽソハノハヽ》、淺茅原曲々《アサヂハラツバラ/\》、荒磯浪有毛《アリソナミアリテモ》、受理伎奴能安里?《アリキヌノアリテ》、佐由利花由理《サユリバナユリ》、霍公鳥保等穗跡《ホトヽギスホトホト》、水咫衝石心盡而《ミヲツクシコヽロツクシテ》、安之保夜麻安之可流《アシホヤマアシカル》、粟島之不相物故《アハシマノアハヌモノユヱ》、淡路島※[立心偏+可]怜登《アハヂシマアハレト》、霰打安良禮松原《アラレウチアラレマツバラ》、在間菅有管《アリマスゲアリツヽ》、在千方在名草目而《アリチカタアリナクサメテ》、不知也河不知《イサヤカハイサ》、左太能浦之此左太過而《サダノウラノコノサダスギテ》、司馬乃野之數《シバノヌノシバ/\》、白管自不知《シラツヽジシラヌ》、須加能夜麻須可奈久《スガノヤマスカナク》、龍田山立而毛居而毛《タツタヤマタチテモヰテモ》、樛木乃彌繼嗣爾《ツガノキノイヤツギ/\ニ》、飛鶴乃多頭々々思鴨《トブタヅノタヅタヅシカモ》、名乘藻乃吉名者告世《ナノリソノヨシナハノラセ》、後湍山後《ノチセヤマノチ》、能登河乃後《ノトガハノノチ》、濱久木久《ハマヒサキヒサシク》、深海松乃深目手思騰《フカミルノフカメテモヘド》、亦打山將待《マツチヤママツラム》、母々余具佐母々與《モヽヨグサモヽヨ》など云る類にて、なほ多し、これらはみな、疊ね下したる辭を、承たる方に語實はありて、上はたゞ、下のうくる辭を疊ねむがために、おほくは虚辭を設けていへるのみなり、さて右に引るは、みな五言七言と疊云たるに、又|列々椿都良々々爾《ツラ/\ツバキツラツラニ》、瀧乃白浪雖不知《タキノシラナミシラネドモ》、志我能韓埼幸有者《シガノカラサキサキクアラバ》、鮎矣令咋麗妹爾《アユヲクハシメクハシイモニ》、左良須?豆久利佐良左良爾《サラステヅクリサラサラニ》など、七言五言と重ね云たるもあり、又|御津乃濱松待戀奴良武《ミツノハママツマチコヒヌラム》とやうにも疊ねたり、
   複詞
複詞《ウチカヘコトバ》とは、神集々座而《カムツドヒ/\イマシテ》、神分々之時爾《カムアガチ/\シトキニ》、神葬々奉者《カムハフリ/\マツレバ》、殿隱々在者《トノゴモリ/\イマセバ》などいへる類なり、これらは二句ながら、語實を打かへしいひたるにて、智智乃實乃父《チヽノミノチヽ》などの疊辭は、父《チヽ》を云むがために、虚辭を設けて、連下したるにて、其類とは異なり、(神樂歌に諸擧《モロアゲ》と云ことあり、たとへば、せかゐやせかゐやせかゐのみづを、いたゐやいたゐや板井のしみづをなど複《ウチカヘ》してうたふを云り、但し是は歌ふに、その同じ物を複ねて擧たるにて、今と似たるのみなり、)さてこれらも多くは五言七(141)と連けたるに、又|赤曾朋舟々々々爾《アケノソホブネソホブネニ》と七言五言を連たるもあり、これも左良須手作佐良佐良爾《サラステヅクリサラサラニ》といふ類の疊辭と異《カハ》りたること上の如し、又|籠毛與美籠韓母乳布久思毛與美夫君志持《コモヨミコモチフクシモヨミフクシモチ》とあるは、神集々座而《カムツドヒ/\イマシテ》とある類とは、少《イサヽカ》異《カハ》りたれども知智乃實乃父《チヽノミノチヽ》などいふ類の、虚辭を設たる疊辭とはかはりて、二句とも語實なれば複詞に屬べし、又|船木伐樹爾伐歸都《フナキキリキニキリユキツ》、百千鳥千鳥者雖來《モヽチドリチドリハクレド》、茅草苅草苅婆可爾《チガヤカリカタカリバカニ》などやうに云るも、神集々座而《カムツドヒ/\イマシテ》といへる類に同じければ、複詞なり、しかれども、これは、舟材伐舟材爾伐歸《フナキキリフナキニキリユキ》つ、百千鳥百千鳥《モヽチドリモヽチドリ》はくれど、茅草刈茅草刈婆可《チガヤカリチガヤカリバカ》に、と必いふべきことなれど、然はいひがたきによりて、省きていへるものなれば、打まかせたる複詞とは少《イサヽカ》異《カハ》れり、複詞の中の一種と云べし、後に月夜よし夜よし、東屋のまやなどよめるも、これによりていへるなるべし
   天皇尊號辭
集中題詞にては、天皇とあるを、すべて須賣良美許等《スメラミコト》と稱《マヲス》なるよしは、卷初にことわるべし、さて歌詞に、須賣良美許等と稱せること、一もなきは、いかなるゆゑにかあらむ、かくて須賣呂伎《スメロキ》と稱すは、字には、皇御祖、皇祖、皇祖神、皇神祖、天皇など書て、正しく皇祖の天皇の御事をさして稱すはさらにて、皇祖より御代々々の、天皇、當代までを兼て稱せることも多し、意保伎美《オホキミ》と稱すは、字には皇、王、大皇、大王、大君など書て、正しく當代天皇を指奉りて、(意保伎美《オホキミ》と申す御稱《ミナ》は、天皇より皇子諸王までにわたりて、ひろく稱すことなれど、こゝには天皇の御上につきてさだすべし、)皇祖の天皇等を、申せることさらになし、さて天皇の字は、皇祖にも當代にも通《ワタ》るこ(142)となれば、天皇の字を、處によりては意保伎美《オホキミ》とも訓申すべく、又皇字も處によりては須賣呂伎《スメロキ》とも訓申べきことなるに、いづくにありても、天皇の字は、須賣呂伎《スメロキ》とのみ訓申て、意保伎美《オホキミ》とは訓がたく、皇字は、意保伎美《オホキミ》とのみ訓申て、須賣呂伎《スメロキ》とは訓がたき、集中の一(ノ)制《サダメ》のごとくなるは、いかなる理にて然るにや、そのもとの所據《ヨシ》は、詳《サダカ》には知がたし、天皇とかけるをば、すべて須賣呂伎《スメロキ》と訓ことなれば、それにまぎれじがために、意保伎美《オホキミ》と申すには、字を書かへたるにもやあらむ、(しかるを處によりては、天皇をも意保伎美《オホキミ》とよみ申し、皇をも須賣呂伎《スメロキ》とよみ申すべきことゝ思ひて、謬てること多し、理はいかにまれ、此集は此集の例によりて檢《カムガフ》べきことなるに、すべておろそかに讀て、一わたりに考るより、くはしからざるなり、)凡て、此集には、意保伎美《オホキミ》と申すに、天皇とは書ぬ例なる證ないはむに、まづ吾皇と連書たる凡四處、(六卷、四十四丁、四十五丁、十九三十九丁、四十二丁、)吾王と連書たる凡九處、(二卷、廿七丁、三十二丁、三十三丁、又同丁、三十六丁、三卷、三十丁、五十七丁、五十八十、又同丁、)我王と連書たる凡二處、(二卷、三十六丁、三卷、二十三丁、)吾大皇と連書たる、凡三處、(十九、三十九丁、四十二丁、四十四丁、)吾大王と連書たる、凡十九處、(一卷、十八丁、十九丁、廿一丁、廿二丁、二卷、廿六丁、三十四丁、三十五丁、又同丁、又同丁、三卷、十三丁、十七丁、四十五丁、六卷、十八丁、廿二丁、四十五丁、又同丁、四十七丁、十八、廿丁、十九、四十丁)我大王と連書たる凡五處、(一卷、七丁、二卷、廿五丁、三卷、十三丁、六卷、三十三丁、十三、廿八丁、)吾期大王と連書たる凡二處、(二卷、廿三丁、廿四丁、)和期大王と連書たる凡五處、(一卷、廿三丁、六卷、十三丁、十四丁、十五丁、十七T、)和期於保伎美と書たる、一處、(六卷、二十三丁、)吾於富吉美と書たる一處、(三卷、(143)十三丁、)和我於保伎美と書たる一處(十八、十一丁、)見えて、かくあまた處に、くさ/”\に書るが中に、吾天皇とも、我天皇とも、吾期天皇とも、和期天皇とも書る處はたえて一處もあることなきは、天皇訓書ては、於保伎美《オホキミ》とはよまざりしがゆゑなり、)もし天皇と書て於保伎美《オホキミ》とも訓しならば、かくあまた處の中には、吾天皇とやうにも書べからぬことかは、)須賣呂伎《スメロキ》と申すに、皇の一字をば書ぬ例なる證は、右に出せるごとく、吾皇とこゝかしこに連ね書(キ)、三卷に、皇者神二四座者《オホキミハカミニシマセバ》、十九に、皇者神爾之座者《オホキミハカミニシマセバ》、六卷に、皇之引乃眞爾眞荷《オホキミノヒキノマニマニ》、八卷に、皇之御笠乃山乃《オホキミノミカサノヤマノ》、十三に、懸有雲者皇可聞《カヽレルクモハオホキミロカモ》(この一首は、高市皇子尊を指りとおぼゆ、)など見えたる中に、皇祖より代々の天皇をかけて申せるは、一もなきにて、須賣呂伎《スメロキ》とは訓まじきを知べし、もしこれをも須賣呂伎とよみしこどのありしならば、皇之とて、神之御代自《カミノミヨヨリ》、或は遠御代爾毛《トホキミヨニモ》などやうに續云たるがあるべきに、さる趣なるが、ひとつもあることなきは、皇の一字にては須賣呂伎と訓ざりしがゆゑなり、さて須賣呂伎と申す御名伎は、いかなる所由《ヨシ》ならむ詳に辨(ヘ)がたし、大祓詞に、高天腹神留坐、皇親|神漏岐《カムロキ》神漏美《カムロミ》乃命以?、八百萬神等乎集(ヘ)集(ヘ)賜比、神議(リ)々賜?、(神漏岐《カムロキ》は高御産巣日神を指し、神漏美《カムロミ》は天照大御神を指奉れり、)出雲國造神賀詞に、加夫呂伎熊野《カブロキクマヌノ》大神、(加夫呂伎《カブロキ》は神漏岐《カムロキ》にて、須佐之男命なり、大穴牟遲神の御祖なるがゆゑに申せり、)書紀孝徳天皇卷詔に、我親神祖之所知穴戸國《アガムツカムロキノシラシヽアナトノクニ》(こは仲哀天皇の、穴戸豐浦宮御宇めしゝを申したまへるなり、)又續後紀十九に載られたる長歌に、賀美侶伎能宿那毘古那《カミロキノスクナビコナ》とあり(こは少名彦那神も、此國を作堅めたまひし祖《ミオヤ》なれば、かく由すまじきにもあらず、と本居氏云り、)て、古語に、皇祖神の、男神女神相並ば(144)し坐るを後より尊て、神漏岐《カムロギ》神漏美《カムロミ》と申も、又|御一神《ミヒトハシラ》をさしては、神漏岐《カムロキ》といへりしときこえたり、(岡部氏祝詞考に、神漏岐《カムロキ》は神須倍良袁伎美《カムスベラヲキミ》、神漏美《カムロミ》は神巣倍良米伎美《カムスベラメキミ》なりとあれど、例のむつかし、本居氏古事記傳説に、神漏岐《カムロキ》は神生祖君《カムアレオヤキミ》なり、神漏美《カムロミ》は神生祖女君《カムアレオヤメキミ》なり、阿《ア》と夜《ヤ》とを上下を略きて、禮淤《レオ》を切て漏《ロ》と云り、生祖《アレオヤ》とは、人にまれ物にまれ、生出る始の御祖なる由なり、さて又|女君《メキ》は美《ミ》と切れりとあるごとく、まことに理はざることなれど、言を多く略き縮などしたりと云ること、穩ならざること、上に既く辨へたるが如し)伊邪那岐伊那那美の神等よりはじめて、岐《キ》と美《ミ》とにて、男女の神名を、別たること多ければ、漏岐《ロキ》も漏美《ロミ》も其定にて、いと上古の名目にて、日子《ヒコ》女子《メコ》と申すと相類《アヒニ》たる言と見ておかむ方、平穩《オダヤカ》なるべし、さてこの神漏岐《カムロキ》と申す稱《ミナ》と、皇漏岐《スメロキ》と申す稱《ミナ》と、いづれ先に出し言ならむ、詳ならねど、神《カム》と云と皇《スメ》と云と、異《カハ》れるのみにて、同義の言とは思はるゝを、他の古書には神漏岐《カムロキ》といひ、集中には皇呂岐《スメロキ》とのみよみたり、文辭と歌詞とにて、もとよりかはれるにもあらむ、かくて須賣呂伎《スメロキ》の須賣《スメ》も、至《イタ》く尊みていへる辭とは思はるれども、いかなる義にていひ始けむ、これも詳には知がたし、(岡部氏は、皇《スベ》は統《スベ》といふことにて、天を統知《スベシリ》國を統知《スベシリ》坐意にていへろよしいへる、これはさることもあらむか、猶考べし、)いかにまれ須賣呂伎《スメロキ》は、皇祖神など書るごとく、皇祖の天皇をさして申すが、もとの御稱《ミナ》にて、それより轉りては、皇祖より當代までをかけて廣くも稱せしを、正しく當代御一人をさし奉りて、申せしことはさらになし、(古今集の頃より、須倍良伎《スベラギ》と申て、當代天皇のことをいへるは、又一轉したるものにて、古にはさらに例なきことなり、)さてその皇祖の天皇を(145)さして稱せる例をまづいはむに、十八に、皇御祖乃御靈多須氣?《スメロキノミタマタスケテ》、(これ皇祖の天皇等の、御神靈のたすけ賜ひてといふ意なり、)六巻に、八隅知之吾大王乃高敷爲日本國者皇祖乃神之御代自敷座流國爾之有者《ヤスミシヽワガオホキミノタカシカスヤマトノクニハスメロキノカミノミヨヨリシキマセルクニニシアレバ》、(これは神武天皇の御代をさせり、)十一に、皇祖乃神御門乎懼見等侍従時爾相流公鴫《スメロキノカミノミカドヲカシコミトサモロフトキニアヘルキミカモ》、(これは當代をさして申せるごときこゆれども、皇祖より敷座(ス)皇居のよしにて、皇祖を主《ムネ》として申せるがゆゑに、字にも皇祖とかけるなり)三卷に、皇祖神之御門爾《スメロキノカミノミカドニ》云々、七巻に、皇祖神之神宮人《スメロキノカミノミヤヒト》云々、(これらも上のごとし、皇祖を主として申せるがゆゑに、字にも皇祖、皇祖神など書たり、)三卷に、皇祖神之神乃御言乃敷座國之盡《スメロキノカミノミコトノシキマセルクニノコト/”\》云々、(これも皇祖の天皇の御代より、敷座謂なり、皇祖を主としていへるがゆゑに、皇祖神と書り、)十八に、皇神祖能可見能大御世爾田道間守常世爾和多利《スメロキノカミノオホミヨニタヂマモリトコヨニワタリ》、(是は垂仁天皇の御代を指し申せり、)これらはみな皇御祖、皇祖、皇祖神、皇神祖など書たるごとく、遠皇祖《トホツミオヤ》の天皇等を主《ムネ》として申せること、さらに論なし、又一巻上、楽浪乃大津宮爾天下所知食兼天皇之祖之御言乃《サヾナミノオホツノミヤニアメノシタシロシメシケムスメロキノカミノミコトノ》云々、(これは藤原宮より、天智天皇を指て申せり、)二卷に、天皇之敷座國等天原石門乎開神上上座奴《スメロキノシキマスクニトアマノハライハトヲヒラキカムノボリノボリイマシヌ》、(これは天武天皇の崩りましゝことを、藤原朝にして申せることなるうへ、なほこの天皇とさせるは、皇祖の天皇たちの敷ます國と云意にきこえたり、)同卷に、天皇之神之御子之《スメロキノカミノミコノ》、(是は志貴親王を申て、ひろく皇祖神の御子孫と云意にもあるべく、又天智天皇の皇子にますがゆゑに、天皇は即正しく、天智天皇をさして申せりとしても、寧樂朝より申せることなれば、皇祖の意なり、)廿卷に、天皇乃等保伎美與爾毛《スメロキノトホキミヨニモ》云々、(是は仁徳天皇の、難波宮に御宇《アメノシタシロ》しめしゝを申せり、)これら天皇と書たれど、みな皇祖の天皇と申せ(146)るなり、十八に、葦原能美豆保國乎安麻久太利之良之賣之家流須賣呂伎能神能美許登能可之古久母波自米多麻比?《アシハラノミヅホノクニヲアマクダリシロシメシケルスメロキノカミノミコトノカシコクモハジメタマヒテ》、(是は雄略天皇の、吉野(ノ)離宮を始賜ひしを申せり、)廿卷に、多可知保乃多氣爾阿毛理之須賣呂伎能可未能御代欲利《タカチホノタケニアモリシスメロキノカミノミヨヨリ》云々、(是は爾々藝命をさして申せり、)可之婆良能宇禰備乃宮爾美也婆之良布刀之利多弖々安米能之多之良志賣之祁流須賣呂伎能安麻能日繼等《カシバラノウネビノミヤニミヤバシラフトシリタテヽアメノシタシロシメシケルスメロキノアマノヒツギト》(神武天皇を指り、)など見えたる、是等は正しく皇祖を指て申せるなり、十八に、須賣呂伎能御代佐可延牟等《スメロギノミヨサカエムト》、(是は皇祖より繼座る御代の意にて、ひろく申せるなり、)十九に、須賣呂伎能御代萬代爾《スメロギノミヨヨロヅヨニ》、(是も上なるに意同じ、)十八に、須米呂伎能可未能美許登能伎己之乎須久爾能麻保良爾《スメロキノカミノミコトノキコシヲスクニノマホラニ》、(是も皇祖よりきこしめす意に云て、當代天皇の御事もこもれり、)これら當代の御うへの御事にきこゆるも、皇祖を主《ムネ》として、當代を兼て申せるにて、正しく當代御一人を申せることなし、かくて十七に、須米呂伎能乎須久爾奈禮婆《スメロキノヲスクニナレバ》、又|須賣呂伎能之伎麻須久爾能《スメロキノシキマスクニノ》などあるは、皇祖より、御代々々の天皇の兼て食(シ)敷(ク)意にして、又當代のみの御上にかゝりてもきこゆるが中に、三卷に、太皇之敷座國《オホキミノシキマスクニ》、(荒木田久老が、是を天皇の誤にて、須賣呂伎《スメロキ》と訓べきなりといへるは甚偏《カタオチ》なり、十九に、大王之敷座國者《オホキミノシキマスクニハ》、又|吾大皇之伎座婆可母《ワガオホキミノシキマセバカモ》などあるに、全同じいひざまなれば、件の須賣呂伎《スメロキ》は大王《オホキミ》と申すに同じく、當代天皇のみをさして申せることなりとも云べけれど、其は皇祖より御代々々敷座(ス)意に云ても、當代天皇にかぎりて云ても通《キコ》ゆることなるゆゑに、同意なる處を二方にいへるのみにこそあれ、須賣呂伎《スメロキ》とあるは、なほ皇祖を主としていへることなり、さて其次に、廿卷に、天皇乃等保能朝廷《スメロキノトホノミカド》とあると、三卷に、大王之遠乃朝廷跡《オホキミノトホノミカドト》、五卷に、大王(147)能等保乃朝廷等《オホキミノトホノミカドト》、十七に、大王乃等保能美可度曾《オホキミノトホノミカドゾ》、十五に於保伎美能等保能美可度登《オホキミノトホノミカドト》、十八に、於保伎見能等保能美可等々《オホキミノトホノミカドト》などある類に照(シ)考るときは、右の天皇は、於保伎見《オホキミ》と訓申(ス)かた、かなふべしとも思ふべけれど、十五に、須賣呂伎能等保能朝廷等《スメロキノトホノミカドト》と假字書も見えたれば、なほ天皇とあるは須賣呂伎《スメロキ》と訓べきことなり、さてこれらのみを見て、大王《オホキミ》と申すも須賣呂伎《スメロキ》と申すも、同じことぞと意得る人もあるべけれど、それもたがへることなり、さるは遠之朝廷《トホノミカド》と云には、大王《オホキミ》と(當代天皇御一人をさして、)申ても、須賣呂伎《スメロキ》と(皇祖より御代々々を兼て、)申ても妨(ケ)なきがゆゑに、かくかれにもこれにもいへるにで、大王と申すも須賣呂伎《スメロキ》と申すも、同じことなるがゆゑに、いへるにはあらざることを思べし、上件に説《イヘ》るを見て、意保伎美《オホキミ》と申すと、須賣呂伎《スメロキ》と申すとは清く異れること、又天皇の字をば、意保伎美《オホキミ》とは、訓申べからざることをも辨知べし、他事《コト/\》はさばれ、これは至尊《イトモカシコ》き御うへの事なれば、謹考へて、あなかしこつゆ誤ちそこなふことなかれ、しかるに一卷に、天皇乃|命畏美《ミコトカシコミ》、六卷に、天皇之|御命恐《ミコトカシコミ》、廿卷に、天皇乃|美許登可之古美《ミコトカシコミ》、十九に、天皇之|命恐《ミコトカシコミ》などある、是等は正しく、當代天皇のみの御事をさして申せるなれば、須賣呂伎《スメロキ》とは訓がたく、そのうへ三卷に、王之命恐《オホキミノカシコミ》、六卷に、大王之命恐《オホキミノミコトカシコミ》、又|大王之御命恐《オホキミノミコトカシコミ》、九卷に、大王之御命恐《オホキミノミコトカシコミ》、又|大王之命恐彌《オホキミノミコトカシコミ》、十七に、大王能美許登加之古美《オホキミノミコトカシコミ》、廿卷に、大王乃美許等能麻爾末《オホキミノミコトノマニマ》、又|大王乃美己等可之古美《オホキミノミコトカシコミ》、三卷に、大皇之命恐《オホキミノミコトカシコミ》、十四に、於保伎美乃美己等可思古美《オホキミノミコトカシコミ》、十五に、於保伎美能美許等可之古美《オホキミノミコトカシコミ》、十七に、憶保枳美乃彌許等可之古美《オホキミノミコトカシコミ》、又|於保伎美乃美許等可之古美《オホキミノミコトカシコミ》、廿卷に、於保伎美乃美古等可之古美《オホキミノミコトカシコミ》、又|於保伎美乃美許等爾作例波《オホキミノミコトニサレバ》、又|意保伎美乃美事等可之古美《オホキミノミコトカシコミ》、(148)又|於保伎美乃美己等可之古美《オホキミノミコトカシコミ》、又|於保吉美乃美許等加之古美《オホキミノミコトカシコミ》など多くあるに、須賣呂伎乃美許等《スメロキノミコト》云々といふ假字書は、一も見えたることなきを考るに、古の天皇とあるのみは、なほ意保伎美《オホキミ》と訓べく思ふめれど、天皇の字を、ば意保伎美《オホキミ》とは訓ぬ例なること、前に委(ク)辨たるがごとし、これによりて思ふに、右の天皇の天は、大字の誤寫なること著《シル》し、大皇と書たる例は、集中に凡《オヨソ》十處あればなり、(三卷、五十丁五十四丁、十七、十三丁、十八、十丁十二丁廿一丁又同丁、十九、三十九丁四十四丁又同丁に見ゆ、)さて又十三に、天皇之|遣之萬々《マケノマニマニ》とある、これも右に同じく、正しく當代天皇のみの御事を申せるなれば、是を舊本に、或本に王命恐《オホキミノミコトカシコミ》とあるによらば、こともなけむ、本文の天皇は、大皇を後に誤寫したること決《ウツナ》し、十七に、大王能麻氣能麻爾未爾《オホキミノマケノマニマニ》、又|大王乃麻氣能麻爾麻爾《オホキミノマケノマニマニ》、十八に、大王乃麻氣能麻久麻久《オホキミノマケノマニマニ》、廿卷に、大王乃麻氣乃麻爾麻爾《オホキミノマケノマニマニ》、十七に、於保吉民能麻氣乃麻爾麻爾《オホキミノマケノマニマニ》、十八に、於保伎見能未伎能末爾末爾《オホキミノマキノマニマニ》などあるをも考(ヘ)合すべし、又四卷に、天皇之|行幸乃隨意《イデマシノマニ》、六卷に、天皇之|行幸之隨《イデマシノマニ》などあるも、正しく當代天皇を指て申せるなれば、これも大皇を寫誤れるものならむ、六卷に、皇之引乃眞爾眞爾《オホキミノヒキノマニマニ》とあるをも思ふべし、(しかるを、荒木田久老が、右の一卷、六卷、十九、廿卷、又四卷、六卷などの天皇をば、オホキミ〔四字右○〕と訓べしと云る、詞のうへは、さて當れることなれども、字の誤をしも思はざりしは凡てオホキミ〔四字右○〕といふには、此集天皇とは書ぬ例なること、上に證を引て委辨(ヘ)たるがごとくなるを、いまだふかくたどらざりしがゆゑなり、
 
   自《ヨリト》云辭(ノ)辨
 
(149)自を用理《ヨリ》とも由理《ユリ》とも、用《ヨ》とも由《ユ》ともいへるこ、すべて古言にいと多し、其中に用理《ヨリ》と云るは、古事紀、書紀、此集等より今世まで、常云ことにてめづらしか∴ず、由理《ユリ》といへるは、古事記、書紀には見えず、集中にも稀なり、續紀宣命にはこれかれあり、さて一言にいひて宜しき處を用《ヨ》とも由《ユ》とも云たること、集中にはめづらしからず、古事記には用《ヨ》とのみ云て由《ユ》といへることなし、書紀には由《ユ》とのみ云て用《ヨ》といへることなし、(古今集よりこの方は用理《ヨリ》とのみ云て、餘の三種にいへること絶たり、)さて件の四稱(用理《ヨリ》、用《ヨ》、由理《ユリ》、由《ユ》)いづれに云ても同じことなるを、その用《ツカ》へる様によりて、くさ/”\にわかりてきこゆることありて、或は袁《ヲ》の辭の如く、或は爾《ニ》の辭の如く、或は敝《ヘ》の如く、或は爾?《ニテ》といふに通ひてきこゆる處もありて、ようせざるときは、一首の意をさへ思誤つことのあれば、よくその用へる樣を味見て、差別《ケヂメ》あることを辨(フ)べし、○二卷に、石見乃也高角山之本際從我振袖乎妹見都良武香《イハミノヤタカツヌヤマノコノマヨリアガフルソデヲイモミツラムカ》、四巻に、神代從生繼來者《カミヨヨリアレツギクレバ》云々などある從は、ヨリ〔二字右○〕と訓てカラ〔二字右○〕と云に同じ、木際から、神代からの意なり、十四に、武藏野乃乎具奇我吉藝志多知和可禮伊爾之與比欲利世呂爾安波奈布與《ムサシヌノヲグキガキヾシタチワカレイニシヨヒヨリセロニアハナウヨ》、十八に、安須余里波都藝?伎許要牟保登等藝須比登欲能可良爾古非和多流加母《アスヨリハツギテキコエムホトヽギスヒトヨノカラニコヒワタルカモ》などあるは、去《イニ》し夜《ヨヒ》から、明日からはの意なり、廿卷(東歌)に、可之古伎夜美許等加我布理阿須由利也加曳我伊牟多禰乎伊牟奈之爾志?《カシコキヤミコトカヾフリアスユリヤカエガイムタネヲイムナシニシテ》、又(東歌)於之?流夜奈爾波能津由利布余與曾比阿例波許藝奴等伊母爾都岐許曾《オシテルヤナニハニツユリフナヨソヒアレハコギヌトイモニツギコソ》(由(ノ)字、舊本には與と作り、今は元暦本に從て引り、)などあるは、明日からは、難波の津からの意なり、一巻に、橿原乃日知之御世從阿禮座師神之盡《カシハラノヒジリノミヨヨアレマシシカミノコト/”\》云々、三卷に、葦北乃野坂乃浦從船出爲而水嶋爾將去浪立莫勤《アシキタノヌサカノウラヨフナデシテミヅシマニユカムナミタツナユメ》などある從(150)は、ヨ〔右○〕ともユ〔右○〕とも訓べし、日知の御世から、野坂の浦からの意なり、六卷に、三芳野之眞木立山湯見降者川之瀬毎《ミヨシヌノマキタツヤマユミクダセバカハノセゴトニ》云々、又|左日鹿野由背上爾所見奧島清波瀲爾《サヒカヌユソガヒニミユルオキツシマキヨキナギサニ》云々などあるは、正《マサ》しく由《ユ》といへる例なり、眞木立山から、左日鹿野からの意なり、十七に、和我勢兒乎安我松原欲見度婆安麻乎等女登母多麻藻可流美由《ワガセコヲアガマツハラヨミワタセバアマヲトメドモタマモカルミユ》、十八に、伊爾之敝欲伊麻乃乎追通爾《イニシヘヨイマノヲツヽニ》云々などあるは、正しく用《ヨ》といへる例なり、松原から、古からの意なり、すべて上件に引る用理《ヨリ》も由理《ユリ》も、用《ヨ》も由《ユ》も、みな尋常の用樣にて、世の人の意得たるに違ふことなきゆゑに、證どもをくはしく引ず、○二卷に、古爾戀流鳥鴨弓弦葉乃三井能上從鳴渡遊久《イニシヘニコフルトリカモユヅルハノミヰノウヘヨリナキワタリユク》、又|自雲間渡相月乃《クモマヨリワタラフツキノ》云々、十一に、雲間從狹徑月乃《クモマヨリサワタルツキノ》、又|山從來世波《ヤマヨリキセバ》、又|小墾田之坂田乃橋之壞者從桁將去獏戀吾妹《ヲハリタノサカタノハシノクヅレナバケタヨリユカムナコヒソワギモ》、十六に、刺名倍爾湯和可世子等櫟津乃檜橋從來許武狐爾安牟佐武《サシベニユワカセコドモイチヒツノヒハシヨリコムキツニアムサム》などあるは、三井の上を鳴わたる、雲間をわたる、山を來りせば、桁を行む、檜橋を來むの意なり、此餘にも此意なる多し、准へて知べし、古事記に、降2出雲國之肥川上1、在2鳥髪地1、此時箸從2其河1流下、又倭建命御詞に吾心《アガコヽロ》恒(ハ)念(ヒ)2自(リ)v虚翔行(ムト)1然《シヲ》、今吾(カ)足不2得歩1云々、姓氏録佐伯直(ノ)條に、于時青菜葉自2岡邊川1流下、天皇詔(タマハク)、應(シ)2川上(ニ)有1v人也、云々、書紀神武天皇卷に、遡流而上《カハヨリサカノボリテ》、仁徳天皇卷に、沂《サカノボリ》v江《カハヨリ》、祈年祭祝詞に自v陸往道者荷(ノ)緒結(ヒ)堅(メ)?、古今集春下、清原深養父歌の端詞に、山川より花の流れけるを作《ヨメ》る、又源氏物語須磨卷に、おきより舟|等《ドモ》のうたひのゝしりてこぎゆく(庭槐抄に、近衛司等或|自《ヨリ》v水《カハ》渡或過v橋(ヲ)、)など見えたるみな同じ、二卷に三笠山野邊從遊久道《ミカサヤマヌヘヨユクミチ》、三卷に、天籬夷之長路從戀來者自明門倭島所見《アマサカルヒナノナガヂヨコヒクレバアカシノトヨリヤマチソマミユ》、四巻に、敷細乃枕從久々流涙二曾浮宿乎思家類戀乃繁爾《シキタヘノマクラヨクヽルナミタニゾウキネヲシケルコヒノシゲキニ》、八卷に、霍公鳥從此間鳴度《ホトヽギスコヨナキワタル》、(かく云る詞、其下にも、十卷、十八卷などにも、こ(151)れかれあり、)九巻に、馬咋山自越來奈流《ウマクヒヤマヨコエクナル》、又|河副乃丘邊道從昨日己曾吾越來牡鹿《カハソヒノヲカヘノミチヨキノフコソアガコエキシカ》、十卷に、從蒼天往來吾等須良《オホソラヨカヨフアレスラ》、十一に、石根從毛遠而念《イハネヨモトホシテオモフ》、又|從此川船可行雖在《コノカハヨフネハユクベクアリトイヘド》、十九に、我門從喧過度霍公鳥《アガカドヨナキスギワタルホトヽギス》などある從、自は、ユ〔右○〕ともヨ〔右○〕とも訓べし、夷の長道を、枕をくゝる、此間《コヽ》を鳴わたる、馬咋山を越來なる、丘邊の道を吾(カ)越來しか、蒼天をかよふ、石根をも透して念ふ、此(ノ)河を船は行(ク)べく、吾(カ)門を鳴(キ)すぎわたるの意なり、七卷に、卷向之病足之川由往水之絶事無又反將見《マキムクノアナシノカハユユクミヅノタユルコトナクマタカヘリミム》、十四に、蘇良由登伎奴與《ソラユトキヌヨ》、又|久毛能宇倍由奈伎由久多豆乃《クモノウヘユナキユクタヅノ》、十八に、曾能倍由母伊由伎和多良之《ソノヘユモイユキワタラシ》、十五に、奈美能宇倍由奈豆佐比伎爾?《ナミノウヘユナヅサヒキニテ》云々などあるは、正しく由《ユ》といへる例なり、痛足の川を、空を、雲の上を、その上を、浪上をの意なり、繼體天皇紀歌に、簸都細能※[加/可]婆※[まだれ/叟]那峨例倶屡《ハツセノカハユナガレクル》とあるも同じ、十四に、乎都久波乃之氣吉許能麻欲多都登利能目由可汝乎見牟左禰射良奈久爾《ヲツクバノシゲキコノマヨタツトリノメユカナヲミムサネザラナクニ》、十八に、保等登藝須許欲奈枳和多禮登毛之備乎都久欲爾余蘇倍曾能可氣母見牟《ホトトギスコヨナキワタレトモシビヲツクヨニナソヘソノカゲモミム》などあるは、正しく用《ヨ》と云る例なり、繁き木間を、此間《コヽ》を鳴渡れの意なり、許欲奈枳和多流《コヨナキワタル》と云詞なほ多し、○四卷に、從芦邊滿來鹽乃彌益荷念歟君之忘金鶴《アシベヨリミチクルシホノイヤマシオモヘカキミガワスレカネツル》、廿卷に、保理江欲利安佐之保美知爾與流許都美可比爾安里世婆都刀爾勢麻之乎《ホリエヨリアサシホミチニヨルコツミカヒニアリセバツトニセマシヲ》などあるは、芦邊に、或は芦邊へと云意にもきこえ、堀江に、或は堀江へと云意にもきこゆ、(保理江欲利云々は、潮の滿につれて、澳の方より、堀江に木糞のよる謂なるべし、堀江から潮の滿につれて、岸側に木糞のよる謂にはあらじ、即題詞に、獨見(テ)2江水(ニ)浮漂《ウカベル》糞1、怨2恨《ウラミテ》貝玉(ノ)不(ルヲ)1v依作(ル)歌とあるをも思(フ)べし、)七卷に、木國之狹日鹿乃浦爾出見者海人之燈火浪間從所見《キノクニノサヒカノウラニイデミレバアマアマノトモシビナミノマヨミユ》、又|吾船者從奧莫離向舟片待香光從浦榜將會《アガフネハオキヨナサカリムカヘブネカタマチガテリウラヨコキアハム》、又|掻上栲島波間從所見《カヽゲタクシマナミノマヨミユ》、又|井上從直爾道者雖有《ヰノヘヨタヾニミチハアレド》、又、從何方君吾(152)率隱《イヅコヨキミガアヲヰカクレム》又|殊放者奧從酒甞湊自邊着經時爾《コトサカバオキヨサカナムミナトヨリヘツカフトキニ》、八卷に、波上從所見兒島之《ナミノヘユミユルコジマノ》、九卷に、宇能花乃開有野邊從飛翻來鳴會響《ウノハナノサキタルヌヘヨトビカケリキナキトヨモシ》、十卷に、咲落岳從審公鳥鳴而沙渡《サキチルヲカヨホトヽギスナキテサワタル》、十一に、東細布從空延越遠見社《ヨコグモノソラヨヒキコシトホミコソ》、又|伊勢能海從鳴來鶴乃音杼侶毛君之所聞者吾將戀八方《イセノウミヨナキクルタヅノオトドロモキミガキコエバアレコヒメヤモ》などある從は、ヨ〔右○〕ともユ〔右○〕とも訓べし、浪(ノ)間に、井(ノ)上に、何方に、或は何方へ、奧に、或は奧へ、浪(ノ)上に、野邊に、或は野邊へとも、野邊をとも、丘に、或は丘へとも、丘をとも、空に、伊勢海に、或は伊勢海へと云意にもきこゆ、七卷に、年月毛未經爾明日香河湍瀬由渡之石走無《トシツキモイマダヘナクニアスカガハセゼユワタシヽイハバシモナシ》、十四に、多都登利能目由可汝乎見牟《タツトリノメユカナヲミム》、十五に、安麻能都里船奈美乃宇倍由見由《アマノツリフネナミノウヘユミユ》、又|伊蘇乃麻由多藝都山河多延受安良婆麻多母安比見牟秋加多麻氣?《イソノマユタギツヤマガハタエズアラバマタモアヒミムアキカタマケテ》、廿卷に、多久頭怒能之良比氣乃宇倍由奈美太多利奈氣伎乃多婆久《タクヅヌノシラヒゲノウヘユナミダタリナゲキノタバク》云々、などあるは、正しく由《ユ》といへる例なり、瀬瀬に、目に、浪(ノ)上に、石間《イソノマ》に、白髭の上にの意にきこゆ、さてこのにと云意、へと云意なる自《ヨリ》に、用《ヨ》と假字書にせる處の見えざるは、たゞおのづからのことなり、さて又四卷に、從情毛吾者不念寸《コヽロユモアハオモハズキ》、五卷に、許々呂由母於母波奴阿比陀爾《コヽロユモオモハヌアヒダニ》、七卷に、從心毛不想人之《コヽロユモオモハヌヒトノ》、又|心從毛不念君之《コヽロユモオモハヌキミガ》と見えたるを始めて、從心毛《コヽロユモ》と云ることこれかれ見えたり、これも心にもの意にきこえたり、又十一に、數多不有名乎霜惜三理木之下從其戀去方不知而《アマタアラヌナヲシモヲシミウモレギノシタヨソコフルユクヘシラズテ》とあるをはじめて、かくざまに下從《シタヨ》といへること、十二にも十七などにもこれかれあり、これも下從《シタヨ》は、したにの意にきこえたり、○十一に、山科強田山馬雖在歩吾來汝念不得《ヤマシナノコハダノヤマヲウマハアレドカチヨリアガコシナヲモヒカネテ》、十三に、人都未乃馬從行爾己夫之歩從行者《ヒトツマノウマヨリユクニオノヅマノカチヨリユケバ》云々などある、これらは馬にて行、歩にて行と云意なり、古事記中(ツ)卷垂仁天皇條に、光2海原1自《ヨリ》v船《フネ》追來、下卷安康天皇條に、倏忽之間《タチマチ》自(リ)v馬《ウマ》往雙《ユキナラバシテ》、書紀應神天皇卷に、浮海《フネヨリシテ》、仁徳天皇卷に、浮江《カハフネヨリ》幸2山背(ニ)1、(庭槐鈔に、此(153)所自v舟參(リ)着云々、)詞花集端詞に、播磨守に侍ける時、三月ばかり舟よりのぼり侍けるに、云々、などあるみな同じ、又七卷に、吾舟者從奧莫離向舟片待香光從浦榜將會《アガフネハオキヨナサカリムカヘブネカタマチガテリウラヨコギアハム》とある從浦は、ウラヨ〔三字右○〕ともウラユ〔三字右○〕とも訓べし、これは上の馬自《ウマヨリ》、歩自《カチヨリ》といふとは、いさゝか異《カハ》りたれども、これも從はにての意にて、浦にて榜會むと云ことゝきこゆ、古事記景行天皇條歌に、蘇良波由賀受阿斯用由久那《ソラハユカズアシヨユクナ》、(推古天皇紀に、泛海往《フネカラニユク》とあるも、船にて往(ク)と云意の訓なり、)十四に、須受我禰乃波由馬宇馬夜能都々美井乃美都乎多麻倍奈伊毛我多太手欲《スヾガネノハユマウマヤノツヽミヰノミヅヲタマヘナイモガタヾテヨ》などあるは、正しく用《ヨ》といへる例なり、足にて、直手《タヾテ》にて、と云意にきこえたり、○五卷に、和禮欲利母貧人乃父母波飢寒良牟《ワレヨリモマヅシキヒトノチヽハヽハウヱサムカラム》云々、十卷に、難相君爾逢有夜霍公烏地時從者今社鳴目《アヒガタキキミニアヘルヨホトヽギスコトコトトキヨリハイマコソナカメ》、十一に、中々不見有從相見戀心益念《ナカ/\ニミザリシヨリモアヒミテハコヒシキコヽロイヨヽオモホユ》などあるは、吾よりも益りて、他時よりは益りて、見ざりしよりも益りてと云意なり、これら物二を比へて、勝劣を云一格なり、他所に、自花者實成而許曾戀益家禮《ハナヨリハミニナリテコソコヒマサリケレ》、或は從君毛吾曾益而《キミヨリモアレゾマサリテ》などやうに、益而《マサリテ》と云ことを云たるはたしかなるを、右の歌どもは、益《マサル》と云意を含ませて省きたるものなり、五卷に、久毛爾得失久須利波牟用波美也古彌婆伊夜之吉阿何微麻多越知奴倍之《クモニトブクスリハムヨハミヤコミバイヤシキアガミマタヲチヌベシ》とあるは、正しく用《ヨ》といへる例なり、藥喫よりはまさりての意ときこゆ、○十一に、眞葛延小野之淺茅乎自心毛人引目l八方吾莫名國《マクヅハフヲヌノアサヂヲコヽロヨモヒトヒカメヤモアレナケナクニ》とあるは、心まかせにもと云意にきこゆ、前に引る吾屋前爾生土針從心毛《ワガヤドニオフルツチハリコヽロヨモ》云々とある、從心毛《コヽロヨモ》とは異ざまにきこえたり、又十卷に、眞氣長戀心自白風妹音所聽紐解枉名《マケナガクコフルコヽロヨアキカゼニイモガオトヒモトキマケナ》とあるは、心につれてと云意にきこえたり、なほよく考べし、凡|自《ヨリ》と云ことに用樣にさまざま異《カハリ》あること、大抵上件に云るがごとく辨へおきて、なほその條々《トコロ/”\》に註ることゞもを照し考(154)へて、一偏《ヒトカタ》に拘《ナヅ》まず、集中を讀味ひ、其意を解るべし、
 
   登《トト》云辭(ノ)辨
 
登《ト》と云辭を、いづくにありても、たゞ一意なりとたやすく意得ることなれど、處によりて、或は、登之?《トシテ》の意なるあり、或は登那理?《トナリテ》の意なるあり、或は登?《トテ》の意なる、或は登々母爾《トトモニ》と云意なる、さま/”\異《カハリ》あることなれば、よく古人の用《ツカ》へる樣を味(ヒ)見べし、大方に意得るときは、大意をとりちがふることありと知べし、さればこれも、その用へる樣の異《カハリ》を、いさゝかこゝにつみ出て辨(ヘ)おかむとす、○一卷に、我許曾背《アヲコソセ》(跡《ト》)齒告目家乎呼名雄母《ハノラメイヘヲモナヲモ》、二卷に、宇都曾見乃人爾有吾哉從明日者二上山乎弟世登吾將見《ウツソミノヒトナルアレヤアスヨリハフタガミヤマヲワガセトアガミム》、又|御立爲之島乎母家跡住鳥毛荒備勿行年替左右《ミタヽシシシマヲモイヘトスムトリモアラビナユキソトシカハルマデ》などあるは、夫《セ》としては告《ノラ》め、吾兄《アガセ》として吾(ガ)見む、家として住(ム)鳥もの意なり、いづれも皆、其(レ)ならぬ物をそれとするを謂り、又同卷に、奧波來依荒磯乎色妙乃枕等卷而奈世流君香聞《オキツナミキヨルアリソヲシキタヘノマクラトマクラトマキテナセルキミカモ》、六卷に、刺竹之大宮人乃家跡任佐保能山乎者思哉毛君《サスタケノオホミヤヒトノイヘトスムサホノヤマヲハオモフヤモキミ》、十四に、信濃奈流知具麻能河泊能左射禮思母伎彌之布美?婆多麻等比呂波牟《シナヌナルチクマノカハノサザレシモキミシフミテバタマトヒロハム》などある、これらもみな同意なり、○一卷に、栲乃穗爾夜之霜落磐床等川之氷凝《タヘノホニヨルノシモフリイハトコトカハノヒコホリ》云々、二卷に、久竪乃天宮爾神隨神等座者《ヒサカタノアマツミヤニカムナガラカミトイマセバ》云々、三卷に、足氷木乃山邊乎指而晩闇跡隱益去禮《アシヒキノヤマヘヲサシテクラヤミトカクリマシヌレ》云々などあるは、磐床《イハトコ》となりて、神となりて座ば、晩闇となりての意なり、いづれも皆其ならぬ物のそれと變《ナ》り、或は此物の彼物に化《ナ》るを謂り、十七に、烏梅乃花美夜萬等之美爾安里登母也如此乃未君波見禮登安可爾氣牟《ウメノハナミヤマトシミニアリトモヤカクノミキミハミレドアカニケム》、古事記中卷神武天皇條に、宇泥備夜麻比流波久毛登韋由布佐禮婆加是布加牟登曾許能波佐夜牙流《ウネビヤマヒルハクモトヰユフサレバカゼフカムトゾコノハサヤゲル》、古今集に、今日來ずは明日は雪とぞふりなましな(155)どある、これらもみな同意なり、○一卷に、熟田津爾船乘世武登月侍者潮毛可奈比沼今者《ニキタヅニフナノリセムトツキマテバシホモカナヒヌイマハ》、許藝弖菜《コギテナ》、同卷に、神佐備世須登《カムサビセスト》云々山神乃奉御調等春部者花挿頭持《ヤマツミノマツルミツギトハルヘハハナカザシモチ》云々、大御食爾仕奉等上瀬爾《》鵜川乎立《オホミケニツカヘマツルトカミツセニウカハヲタテ》云々などあるは、船乘爲《フナノリセ》むとて、神佐備爲《カムサビセ》すとて、奉《マツ》る御調《ミツキ》とて、仕奉《ツカヘマツル》るとての意なり、又同卷に、其乎取登散和久御民毛《ソヲトルトサワグミタミモ》云々、又|朝毛吉木人乏母亦打山《アサモヨシキヒトトモシモマツチヤマユキクトミラム》行來跡見良武樹人友師母《アサモヨシキヒトトモシモマツチヤマユキクトミラムキヒトトモシモ》、二卷に、吾勢枯乎倭邊遣登佐夜深而鷄鳴露爾吾立所霑之《ワガセコヲヤマトヘヤルトサヨフケテアカトキツユニアガタチヌレシ》などみな同じ、なほ卷々にいと多し、さてすべて古言には登?《トテ》といへることなし、(今京よりこなたには、いと多き詞なり、)かくざまに登《ト》とのみ云たるに、登?《トテ》の意を具《モチ》たればなり、(やゝ古くは、延喜式鎭火祭(ノ)祝詞にたゞ一(ツ)ある、それを除て古言に登?《トテ》と云ることなし、)○一巻に、高山與耳梨山與和之時立見爾來之伊奈美國波良《カグヤマトミヽナシヤマトアヒシトキタチテミニコシイナミクニハラ》、又|霰打安良禮松原住吉之弟日娘與見禮常不飽香聞《アラレウチアラレマツハラスミノエノオトヒヲトメトミレドアカヌカモ》などあるは、高山《カグヤマ》と耳梨山《ミヽナシヤマ》と共に、弟日娘《オトヒヲトメ》と共にの意なり、二卷に、君與時々幸而《キミトトキ/”\イデマシテ》、三卷に、人不榜有雲知之潜爲鴦與高部共船上住《ヒトコガスアラクモシルシカヅキスルヲシトタカベトフネノウヘニスム》、五巻に、余知古良等手多豆佐波利提《ヨチコラトテタヅサハリテ》云々などあるみな同じ、卷々に多し、○五卷に、大王能等保乃朝廷等斯良農比筑紫國爾《オホキミノトホノミカドトシラヌヒツクシノクニニ》云々、十五に、須賣呂伎能等保能朝廷等可良國爾《スメロキノトホノミカドトカラクニニ》云々、十八に、於保伎見能等保能美可等々《オホキミノトホノミカドト》云々|古之爾久太利來《コシニクダリキ》云々などあるは、遠の朝廷とあると謂《イフ》ことゝきこゆ、○十八に、高御座安麻能日繼登須賣呂伎能可未能美許登能伎己之乎須《タカミクラアマノヒツギトスメロキノカミノミコトノキコシヲス》云々、又|天乃日嗣等之良志久流伎美能御代々々《アマノヒツギトシラシクルキミノミヨミヨ》云々、又|多可美久良安麻能日嗣等天下志良之賣師家流《タカミクラアマノヒツギトアメノシタシラシメシケル》云々、十九に、天之日繼等神奈我良吾皇乃天下治賜者《アマノヒツギトカムナガラワガオホキミノアメノシタヲサメタマヘバ》、廿巻に、須賣呂伎能安麻能日繼等都藝弖久流伎美能御代々々《スメロキノマノヒツギトツギテクルキミノミヨミヨ》云々、これらみな天《アマ》の日繼《ヒツギ》とありての謂《ヨシ》ときこゆ、○三卷に、逆言之枉言等可聞(156)高山之石穗乃上爾君之臥有《オヨヅレノタハゴトトカモタカヤマノイハホノウヘニキミガコヤセル》、同卷に、逆言之狂言登可聞白細爾舍人装束而《オヨヅレノタハコトトカモシロタヘニトネリヨソヒテ》云々、十七に、於餘豆禮能多婆許登等可毛波《》之伎余思奈弟乃美許等《オヨヅレノヤハコトヽカモハシキヨシナオトノミコト》云々などある登《ト》は、續紀宣命に、天皇詔旨止勅スメラガオホミコトトノリタマフ大命《スメラガオホミコトトノリタマフオホミコト》と多くある止《ト》に同じく、爾?《ニテ》といふ意にきこゆ、されば狂言にてあればにやならむ、高山の云々に、君が臥せると云意なるに、いづれも准べし、又これらの言等《コトト》はたゞ言とのみいふに同じと云説あり、十九に、玉梓之道爾出立徃吾者公之事跡乎負而之將去《タマホコノミチニイデタチユクアレハキミガコトトヲオヒテシユカム》とあるは、言《コト》を言跡《コトヽ》といへりときこえたり、なほ本條にいふべし、○十六に、左耳通良布君之三言等玉梓之使毛不來者《サニヅラフキミガミコトトタマヅサノツカヒモコネバ》云々とあるは、君が御言をもちての謂ときこえたり、○十九に、住吉爾伊都久祝之神言等行得毛來等毛舶波早家無《スミノエニイツクハルリガカムコトヽユクトモクトモフネハハヤケム》とあるは、神言《カムコト》に因《ヨリ》てと云ほどの意ときこえたり、○十四に、志母都氣努安素乃河泊良欲伊之布麻受蘇良由登伎奴與奈我己許呂納禮《シモツケヌアソノカハラヨイシフマズソラユトキヌヨナガコヽロノレ》、又|可奈刀田乎安良我伎麻由美比賀刀禮婆阿米乎萬刀能須伎美乎等麻刀母《カナトタヲアラガキマユミヒガトレバアメヲマトノスキミヲトマトモ》、廿卷に、由古作枳爾奈美奈等惠良比志流敝爾波古乎等都麻乎等於枳弖等母枳奴《ユコサキニナミナトヱラビシルヘニハコヲトツマヲトオキテトモキヌ》、又|阿良之乎乃伊乎佐太波佐美牟可比多知可奈流麻之都美伊※[泥/土]弖登阿我久流《アラシヲノイヲサダハサミムカヒタチカナルマシヅミイデテトアガクル》などある、これらの登《ト》は正しく曾《ゾ》に通はしいへりとおもはるゝも、また曾《ソ》の辭に似て輕きもあり、かやうにいへること東歌にのみ見えたれば、東語にかぎりていへりしことなるべし、十四に、イカホロニアマクモイツギ伊香保呂爾安麻久母伊都藝可奴麻豆久比等登於多波布伊射禰志米刀羅《カヌマヅクヒトヽオタハフイザネシメトラ》とある歌を、その下相聞部に再《マタ》出せるには、比等曾於多波布《ヒトゾオタハフ》とあり、これは正しく曾《ゾ》に通はしたるなり、○二卷に、鴨山之磐根之卷有吾乎鴨不知等妹之待乍將有《カモヤマノイハネシマケルアレヲカモシラニトイモガマチツヽアラム》、四卷に、爲便乎不知跡立而爪衝《スベヲシラニトタチテツマヅク》、これら不《ズ》v知《シラ》にと云意にて、等《ト》にことに意なし、凡て不知《シラニ》といふ言の下にある等《ト》は(157)みな助辭にて、たゞ語勢を助けたるのみにて、意には關らぬことゝ知べし、古事記崇神天皇(ノ)條(ノ)歌に、伊由岐多賀比宇迦々波久斯良爾登美麻紀伊理毘古波夜《イユキタガヒウカヽハクシラニトミマキイリイリビコハヤ》とあるを、書紀に載たるには、登字なし、これあるも、なきも意は大かた同じことなるを知るべし、しかれども、今こゝろみによくこれを誦へ味ふるに、等《ト》の言ある方調ぞまされる、○二卷に、人皆者今波長跡多計登雖言君之見師髪亂有等母《ヒトミナハイマハナガミトタケトイヘドキミガミシカミミダリタリトモ》とある長跡《ナガミト》は、俗に長さにと云むが如し、跡《ト》は助辭なり、凡て美《ミ》の辭の下にある等《ト》は皆助辭の例なり、三卷に、者在跡《コフレドモ雖戀効矣無跡辭不問物爾シルシヲナミトコトトハヌモノニハアレド》とあると、十三卷に、雖思印乎無見《オモヘドモシルシヲナミ》云々|言不問木雖在《コトトハヌキニハアレドモ》とあると同趣なるにて、跡《ト》の助辭にことに意なく、あるもなきも大かた異なることなきを知るべし、されどこゝもよく誦へ味ひこゝろむるに、等《ト》の辭ある方調まされり、さて又語勢を助けたもつ爲には、今の二卷の歌のごとく、必この助辭なくてはわろき處多し、(たゞ助辭を、いたづらのものとのみは思ふべからず、)三卷に、恐等仕奉而《カシコミトツカヘマツリテ》云々、又|賢跡物言從者酒飲而醉哭爲師益有良師《サカシミトモノイハムヨハサケノミテヱヒナキスルシマサリタルラシ》、又|足日木能石根許其思美菅根乎引者難三等標耳曾結烏《アシヒキノイハネコヾシミスガノネヲヒカバカタミトシメノミゾユフ》、四卷に、獨宿而絶西紐緒忌見跡世武爲便不知哭耳之曾泣《ヒトリネテタエニシヒモヲユヽシミトセムスベシラニネノミシゾナク》などある、恐等《カシコミト》、賢等《サカシミト》、難三等《カタミト》、忌見跡《ユヽシミト》などの等《ト》の辭に、ことに意はなけれども、いづれも必なくでかなはぬことなり、此餘、險跡《サガシミト》、清跡《サヤケミト》、恠常《アヤシミト》、歡登《ウレシミト》、繁跡《シゲミト》、戀美等《コヒシミト》、深美等《フカミト》、多美等《オホミト》、厚美等《アツミト》、乏美等《トモシミト》、移布勢美等《イフセミト》などある等《ト》の辭、みな今と全同じ、准知るべし、
 
   美《ミト》云辭(ノ)辨
 
語《コト》の尾に屬《ツケ》ていふ美《ミ》の辭は、多くは四段に麻美牟米《マミムメ》と活用《ハタラ》く言にて、其は愛美《ウツクシミ》、懽美《ウレシミ》、痛美《イタミ》、憐美《アハレミ》、(158)悲美《カナシミ》、惜美《ヲシミ》、苦美《クルシミ》などの類に、即五十音の第二位に活《ハタラ》けるなり、(四段とは、愛《ウツクシ》マム〔二字右○〕、愛《ウツクシ》ミ〔右○〕、愛《ウツクシ》ム〔右○〕、愛《ウツクシ》メ〔右○〕などいふに、餘は准へて知るべし、)又中二段にて、同じさまに活《ハタラ》く言もあれど、(中二段とは、恨《ウラ》ミ〔右○〕、恨《ウラ》ム〔右○〕などの類なり、)其はこゝに出せる、語の尾に屬て云ると一例なるは見えず、又|廣美《ヒロミ》、厚美《アツミ》、高美《タカミ》、遠美《トホミ》、好美《ヨミ》、多美《オホミ》、無美《ナミ》、難美《カタシミ》、可美《ベミ》、或は、希見美《メヅラシミ》、不樂美《サブシミ》、欝美《イブカシミ》、侘美《ワビシミ》、凝々美《コゞシミ》、險美《サカシミ》などいへる類は、又上件の二種(四段と中二段と、)の活用の他なり、各々言の起れる理は其れりといへども、その本義を明めて解むとするときは、かへりて用ひたる末の意を誤りて、一首のうへを聞ひがむることあるによりて、今は混へ解て、其意をさとせること左の如し、又|引美《ヒキミ》、弛美《ユルベミ》などいふ美《ミ》のみは、別《マタ》の一格にて、上の例どもとは、きよく樣異れること、又末に云る如し、思ひまどふべからず、かくて同じ美《ミ》の辭と云ども、前後の調練《シラベ》によりては、用ひたる意の、猶くさ/”\に聞ゆる處おほくして、まぎらはしきによりて、集中の歌をこれかれつみ出て、そのおほかたの意をしるして、讀者《ヨムヒト》の手著《タヅキ》とす、○一卷に、空蝉之命乎惜美浪爾所濕伊良虞能島之玉藻刈食《ウツセミノイノチヲヲシミナミニヒデイラゴノシマノタマモカリハム》とある惜美《オシミ》は、本居氏の説の如く、俗に惜《ヲシ》さにといふ意にきくときは、甚《イト》捷徑《ヤスラカ》なり、二巻に、青駒之足掻乎速雲居曾妹之當乎過而來計類《アオコマノアガキヲハヤミクモヰニゾイモガアタリヲスギテキニケル》とあるは、足掻《アガキ》が速《ハヤ》さにの意なり、又爲便乎無見妹之各喚ス而《ベヲナミイモガナヨビテ》云々とあるは、爲便《スベ》が無《ナ》さにの意なり、この類は集中にことに多くして、こと/”\に擧むもわづらはしければ、その 一(ツ)二(ツ)を出して止つ、餘は准(ヘ)て知べし、又上に乎《ヲ》と云辭のなきも同じことなり、一卷に、暮相而朝面無美隱爾加氣長妹之廬利爲里計武《ヨヒニアヒテアシタオモナミナバリニカケナガキイモガイホリセリケム》とあるは、朝に面無《オモナ》さにの意なり、二卷に、眞根久往者人應知見《マネクユカバヒトシリヌベミ》、三卷に、越海乃手結之浦矣客爲而見者乏見日本思櫃《コシノウミノタユヒノウラヲタビニシテミレバトモシミヤマトシヌヒツ》などあるみな同じ、これも(159)集中に許多《ソコバク》あり、(其中一卷に、芳野河逝瀬之早見須臾毛不通事無有巨勢濃香毛《ヨシヌカハユクセノハヤミシマシクモヨドムコトナクアリコセヌカモ》とあるのみは、甚めづらし、この例は外に未見あたらず。逝瀬乎早見《ユクセヲハヤミ》と云べき例なり、もしは之は乎(ノ)字などの誤にあらざるか、又思ふに、見は借字にて、急水《ハヤミ》の意にてもあらむ、もしさらば、こゝの例には相あづからねことなり、)又|云々美等《シカ/”\ミト》とつゞけたるも甚多し、三卷に、雖戀効矣無跡《コフレドモシルシヲナミト》とあるは、効《シルシ》が無《ナ》さにの意なり、四卷に、獨宿而絶西紐緒忌見跡世武爲便不知哭耳曾泣《ヒトリネテタエニシヒモヲユヽシミトセムスベシラニネノミシゾナク》とあるは、忌《ユヽ》しさにの意なり、六卷に、凡者左毛右毛將爲乎恐跡振痛袖乎忍而有香聞《オホナラバカモカモセムヲカシコミトフリタキソデヲシヌヒタルカモ》とあるは恐《カシコ》さにの意なり、叉|百磯城乃太宮人者今日毛鴨暇無無跡里爾不去將有《モヽシキノオホミヤヒトハケフモカモイトマヲナミトサトニユカザラム》とあるは、暇がなさにの意なり、七卷に泊瀬川白木綿花爾惰多藝都瀬清跡見爾來之吾乎《ハツセカハシラユフハナニオチタギツセヲサヤケミトミニコシアレヲ》とあるは、瀬が清《サヤケ》さにの意なり、十三卷に、嘆友記乎無見跡何所鹿君之將座跡《ナゲケドモシルシヲナミトイヅクニカキミガマサム》とあるは、しるしがなさにの意なり、十七に、多麻豆佐乃使刀家禮婆宇禮之美登安我麻知刀敷爾《タマヅサノツカヒノケレバウレシミトアガマチトフニ》とあるは、懽《ウレ》しさにの意なり、又|曾己乎之母宇良胡悲之美等於毛布度知宇麻宇知牟禮底《ソコヲシモウラコヒシミトオモフドチウマウチムレテ》とあるは、心戀《ウラコヒ》しさにの意なり、此等の等《ト》はみな助辭にて、あるもなきも同じことにて、異なる義あるにあらず、上にもいへり、これらの等の辭を、例の等?《トテ》、また等之?《トシテ》といふ意にきゝては通《キコ》えぬことなり、又|云々美可《シカ/”\ミカ》、また云々美也《シカ/”\ミヤ》、また云々美許曾《シカ/”\ミコソ》、また云々美叙《シカ/”\ミゾ》など種々《クサ/”\》にも連ね云たり、(唯|恐美?《カシコミテ》、歡美?《ウレシミテ》などやうに、美?《ミテ》と連云たること、集中に見えざるは、いかなることにか、推古天皇紀(ノ)歌に、※[言+可]之胡彌?兎伽陪摩都羅武烏呂餓彌?兎伽陪摩都羅武《カシコミテツカヘマツラムヲロガミテツカヘマツラム》とあれば、かやうに美?《ミテ》と連ね云たることは古し、)皆|美《ミ》てふ辭の意は異ならず、一卷に、吾妹子乎去來見乃山乎高三香裳日本能不所見國遠見可聞《ワギモコヲイザミノヤマヲタカミカモヤマトノミエヌクニトホミカモ》、六卷に、田跡河之瀧乎清美香從古(160)宮仕兼多藝乃野之上爾《タドカハノタキヲキヨミカイニシヘヨミヤツカヘケムタギノヌノヘニ》、また廿卷に、之麻可氣爾和我布禰波底々都氣也良牟都可比乎奈美也古非都々由加牟《シマケゲニワガフネハテヽツゲヤラムツカヒヲナミヤコヒツヽユカム》、また六卷に、三日原布當乃野邊清社大宮處定異等霜《ミカノハラフタギノヌヘヲキヨミコソオホミヤトコロサダメケラシモ》、七卷に、木綿懸而祭三諸乃神佐備而齋爾波不在人目多見許増《ユフカケテマツルミモロノカムサビテイムニハアラズヒトメオホミコソ》、また六卷に、如是爲管在久乎好叙靈尅短命乎長欲爲流《カクシツヽアラクヲヨミゾタマキハルミジカキイノチヲナガクホリスル》などある類なり、なほいと多し、○一卷に、天皇乃御命畏美柔備爾之家乎擇《オホキミノミコトカシコミニキビニシイヘヲオキ》云々とあるは、上に云る美《ミ》に似て、かの美《ミ》の辭よりは意輕し、混べからず、故(レ)畏美《カシコミ》は、俗に畏まつて、また畏《カシコマ》り奉《タテマツリ》てなどいはむが如し、(但しこれらももとは、御命《ミコト》の畏《カシコ》さに承諾《ウベナヒ》て、と云意より來れる言なりと見るときは、上にいへる美《ミ》の辭と、同意に落めり、)このつゞけ集中卷々に甚多し、皆同意なり、また畏美等《カシコミト》といへるも同意なり、等《ト》は例の助辭なり、三卷に、恐等仕奉而《カシコミトツカヘマツリテ》云々とあるも、畏まつての意なり、十一に、皇祖乃神御門乎懼見等侍從時爾相流公鴨《スメロキノカミノミカドヲカシコミトサモラフトキニアヘルキミカモ》とあるも、畏まつての意なり、これを上に云るに同じく、畏《カシコ》さにの意としては、美《ミ》の言重くなる故に、侍從《サモラフ》と云へのつゞき宜しからず、畏まつての意とするときは、美《ミ》の言輕きが故に、侍從《サモラフ》と云へのつゞき宜し、(但しこれももとは、御命の恐《カシコ》さに、任《ヨザシ》たまふまに/\承諾《ウベナヒ》ひて、神(ノ)御門を護《マモ》り侍從《サモラフ》と云意より來れるならむ、しかれども、其言の起《ハジマ》れる原《モト》を、ふかくたどらむとするときは、中々に用へる樣をあやまつことのあれば、畏美《カシコミ》は、たゞ畏まつての意ときくべし、)すべてこの例に准べし、○二卷に、三五月之益目頬染所念之君與時々《モチツキノイヤメヅラシミオモホシシキミトトキ/”\》とある目頬染《メヅラシミ》は、俗にめづらしうといはむがごとし、同卷に、若草是嬬子者不怜彌可念而寢良武《ワカクサノソノツマノコハサブシミカオモヒテヌラム》とあるは、不怜《サブ》しうかの意なり、三卷に、賢跡物言從者《サカシミトモノイハムヨハ》とあるは、さかしうなり、跡《ト》は例の助辭なり、四巻に、吾妹兒矣相令知人乎許曾戀之益者恨三念《ワギモコヲアヒシラシメシヒトヲコソコヒノマサレバウラメシミオモヘ》とあるは、う(161)らめしう念《オモ》への意なり、七巻に、雖見不飽人國山木葉巳心名著念《ミレドアカヌヒトクニヤマノコノハヲシシタノコヽロニナツカシミオモフ》とあるは、なつかしう念《オモ》ふの意なり、三卷に、山高三河登保志呂之《ヤマダカミカハトホシロシ》とあるは、山高うの意なり、十七に山高美河登保之呂思《ヤマダカミカハトホシロシ》とあるも同じ、十一に、眉根掻下言借見思有爾去家人乎相見鶴鴨《マヨネカキシタイフカシミオモヘルニイニシヘヒトヲアヒミツルカモ》とあるは、裏《シタ》いふかしうの意なり、又|安太人乃八名打度瀬速意者雖念直不相鴨《アダヒトノヤナウチワタスセヲハヤミコヽハモヘドタヾニアハヌカモ》とあるは、瀬が速うの意なり、又|今日有者鼻之々々火眉可由見思之言者君西在來《ケフシアレバハナビシハナビマヨカユミオモヒシコトハキミニシアリケリ》とあるは、眉癢《マユカヨ》うの意なり、十二に、淺茅原茅生足蹈意具美吾念兒等之家當見津《アサヂハラチフニアシフミコヽログミアガモフコラガイヘノアタリミツ》、とあるは、意《コヽロ》ぐうの意なり、十四に、可美都家野安蘇夜麻都豆良野乎比呂美波比爾思物能乎安是加多延世武《カミツケヌアソヤマツヾラヌヲヒロミハヒニシモノヲアゼカタエセム》とあるは、野を廣うの意なり、又|佐射禮伊思爾古馬乎波佐世弖己許呂伊外美安我毛布伊毛我伊敝乃安多里可聞《サヾレイシニコマヲハサセテコヽロイタミアガモフイモガイヘノアタリカモ》とあるは、心痛《コヽロイタ》うの意なり、廿卷に、宇流波之美安我毛布伎美波奈弖之故我波奈爾奈曾倍弖美體杼安可奴香母《ウルハシミアガモフキミハナデシコガハナニナゾヘテミレドアカヌカモ》とあるは、愛《ウルハ》しうの意なり、十六に、春避而野邊尾回者面白見我矣思經蚊《ハルサリテヌヘヲメグレバオモシロミアレヲオモヘカ》とあるは、面白うの意なり、廿卷に、知波乃奴乃古乃弖加之波能保々麻例等阿夜爾加奈之美於枳弖他加枳奴《チハノヌノコノテカシハノホヽマレドアヤニカナシミオキテタチキヌ》(加は知の誤にて、立來《タチキ》ぬか、)とあるは、あやに悲しうの意なり、四卷に、松葉爾月者由移去黄葉乃過哉君之不相夜多焉《マツノハニツキハユツリヌモミチバノスギヌヤキミガアハヌヨオホミ》とあるは、相ぬ夜|多《オホ》うの意なり、十卷に、零雪虚空可消雖戀相縁無月經在《フルユキノソラニケヌベクコフレドモアフヨシヲナミツキゾヘニケル》とあるは、相縁《アフヨシ》が無うの意なり、古事記中卷應神天皇條太子御歌に、美知能斯埋古波陀袁登賣波阿良蘇波受泥斯久袁斯叙母宇流波志美意母布《ミチノシリコハダヲトメハアラソハズネシクヲシゾモウルハシミオモフ》とあるは、うるはしう思ふの意なり、(金槐集に、聲高み蝦鳴なり井手の川岸の山振今は咲らむ、聲高み林にさけぶ猿よりも我ぞ物念ふ秋の夕は、月清み秋の夜いたく更ぬらし佐保の川原に千鳥鳴なり、山寒み衣手薄し更級や姥捨の月に秋更しかば、月清み(162)さ夜更行ば伊勢島や壹師の浦に千鳥啼なり、風寒み夜の更行ば妹が島形見の浦に千鳥啼なりなどよめるは、少いかゞなれど、右の格によりて、よまれしものとこそおもはるれ、)○四卷に、絶常云者和備染責跡燒太刀乃隔付經事者幸也吾君《タユトイハバワビシミセムトヤキタチノヘツカフコトハカラシヤワギミ》(幸は苛の誤か)とあるは、俗にわびしんぜむとゝいふ意なり、十二に、相見欲爲者從君毛吾曾益而伊布可思美爲也《アヒミマクホリスルコトハキミヨリモアレゾマサリテイブカシミスル》とあるは、いふかしんずると云意なり、十二に、白妙乃袖之別乎難見爲而荒津之濱屋取爲鴨《シロタヘノソデノワカレヲカタミシテアラツノハマニヤドリスルカモ》とあるは、難《カタン》じてと云意なり、(この難見爲而《カタミシテ》を、本居氏の、續紀三卷詔に勞彌重彌所念坐《イトホシミイカシミオモホシマス》とあるに同じ用ひさまなるよし云れど、其とは異なり、勞彌重美は、いとほしういかしうと云意なればなり、重美志?《オモミシテ》と云ときは、重《オモン》じてと云意にて、難見爲而《カタミシテ》と云に全同じ用ひざまなればなり、)すべて後世言に、重《オモ》んずる輕《カロ》んずるなどいふは、重みする、輕みすると云言の頽れたるものにて、右の歌どもの美《ミ》に用ひざま全同じことなり、十八に、を左由理波奈由利毛安波牟等於毛倍許曾伊末能麻左可母宇流波之美須禮《サユリハナユリモアハムトオモヘコソイマノマサカモウルハシミスレ》とあるも、愛はしんずれと云意なり、土左日記に、心ち惡みして云々とあるも美《ミ》の用ひ樣全同じ、西行僧撰集抄に、清凉紫宸の間にやすみし給ひ、百官にいつかれさせ云々、(このやすみの言を、本居氏の、安見知之《ヤスミシヽ》の枕詞の例に引合せたるは、たがへることなり、)またいづくにやすみする人にかと尋ね給ふに云々とかける、やすみも同じ用樣にて、安んじてと云意なり、(西行は、かゝる古言をとりて書ることをり/\あり、○三卷に、不見而徃者益而戀石見《ミズテユカバマシテコヒシミ》云々|名積叙吾來並二《ナヅミゾワガコシ》とあるは、益《マシ》て戀しからむとての意なり、同卷に、足日木能石根許其思美菅根乎引者難三等標耳曾結焉《アシヒキノイハネコヾシミスガノネヲヒカバカタミトシメノミソユフ》とあるは、引ば難からむとてと云意なり、四卷に、今夜之早開者(163)爲便乎無美秋百夜乎願鶴鴨《コノヨラノハヤクアケナバスベヲナミアキノモヽヨヲネガヒツルカモ》とあるは、爲便《スベ》が無からむとてと云意なり、十五に、伊毛爾安波受安良婆須敝奈美伊波禰布牟伊故麻乃山乎故延弖曾安我久流《イモニアハズアラバスベナミイハネフムイコマノヤマヲコエテゾアガクル》、廿卷に、之良奈美乃與曾流波麻倍爾和可例奈波伊刀毛須倍奈美夜多妣蘇弖布流《シラナミノヨソルハマヘニワカレナバイトモスベナミヤタビソテフル》などあるも、爲便が無からむとての意なり、十卷に、天漢湍瀬爾白浪雖高直渡來沼待者苦彌《アマノガハセヽニシラナミタカクトモタヾワタリキヌマタバクルシミ》とあるは、待《マタ》ば苦《クル》しからむとての意なり、十七に、和我夜度能花橘乎波奈其米爾多麻爾曾安我奴久麻多婆苦流之美《ワガヤドノハナタチバナヲハナゴメニタマニソアガヌクマタバクルシミ》とあるも上に同じ、十一に、如此耳戀者可死足乳根之母毛告都不止通爲《カクノミニコヒバシヌベシタラチネノハヽニモノリツヤマズカヨハセ》とあるは、こひば死ぬべからむとての意なり、又|妹之名毛吾名毛立者惜社布仕能高嶺之燒乍渡《イモガナモワガナモタヽバヲシミコソフジノタカネノモエツワタレ》とあるは、惜《ヲシ》からむとてこその意なり、十七に遊内乃多努之吉庭爾梅柳乎理加射思庭婆意毛比奈美可毛《アソブヒノタヌシキニハニウメヤナギヲリカザシテバオモヒナミカモ》とあるは、思ひなからむかの意なり、十一に、言出云忌々山川之當津心塞耐在《コトニデヽイハヾユヽシミヤマガハノタキツコヽロヲセカヘタリケリ》とあるは、いはゞ忌々しからむとての意なり、十七に、安佐疑埋能美太流々許己呂許登爾伊泥底伊波婆由遊思美刀奈美夜麻多牟氣能可未爾奴佐麻都里安我許比能麻久《アサギリノミダルヽココロコトニイデヽイハヾユヽシミトナミヤマタムケノカミニヌサマツリアガコヒノマク》云々とあるも上に同じ、十九に、吾屋戸之芽子開爾家理秋風之將吹乎待者伊等遠彌可母《ワガヤドノハギサキニケリアキカゼノフカムヲマタバイトトホミカモ》とあるは、甚《イト》遠《トホ》からむとてかの意なり、此類は、古はいとめづらしき用ひ樣にてははあらざれども、後世この用ひ樣を辨へたる人なくして、一首の意を解盡さゞりしこと多し、今京よりこなたにも、かくさまに用ひたることあり、古今集に、花すゝき穗に出て戀ば名を惜み下ゆふ紐の結ぼゝれつゝとあるも、名が惜からむとての意なり、後撰集に、しぐれふり零なば人に見せもあへず散なば惜みをれる秋芽子とあるは、散なば惜からむとての意なり、これら戀ば散なばなどいふは、未來をかけていふ詞なれば、惜みを、惜さにの意としては(164)應《カナ》ひがたし、もし惜(シ)さにの意とするときは、上を戀るは散はと云ではかなはず、(しかるを後世の註者等、この處に心つかずして、かの命乎惜美《イノチヲオシミ》などの惜美《オシミ》と、一(ツ)に混淆《マガヘ》て釋《トキ》たる故に、一首の意を得解(キ)盡さゞりしなり、俗言に譯しても、その俗言に言を貫かずしては、かなはぬことなるに、さることをもさとらざりしは、古言にくはしからざるがゆゑなり、)○八卷に、夏野乃繁見丹開有姫由理乃《ナツノヌノシゲミニサケルヒメユリノ》とあるは、繁美盛而《シゲミサカエテ》など云へるとは異にて、繁美《シゲミ》を體言にいひすゑたるにて、(すべて用言を、五十音の第二位にいひすうるときは、體言になる例なり、有《アル》は良利流禮《ラリルレ》と活用《ハタラ》く言なるを、たとへば、有等聞而《アリトキヽテ》とやうにいふときは、なほ用言なるを、有之盡《アリノコト/”\》などいふときは、體言になると全(ラ)同(シ)例なり、)俗に繁んである間にといはんがごとし、十七に、波流乃野能之氣美登妣久々鶯《ハルノヌニシゲミトビクヽウグヒスノ》、十九に、暮左禮婆藤之繁美丹《ユフサレバフヂノシゲミニ》どあるみな同じ、(思宜理《シゲリ》といふに似て異れり、志宜理《シゲリ》は、十九に、敷治奈美乃志氣里波須疑奴《フヂナミノシゲリハスギヌ》とあり、盛《サカリ》といはむがごとし、)○十一に、泊瀬川速見早湍乎結上而《ハツセガハハヤミハヤセヲムスビアゲテ》とある、この速見《ハヤミ》は、俗に速《ハヤ》いといはむが如し、この例は、集中に他に見えたる處なし、尤《イト》めづらしき用ひ樣なり、金槐集に、君が代に猶ながらへて月清み秋の御空の影を待らむとある美《ミ》は、用ひざま同じことなり、○三卷に、雄自毛能負見抱見《ヲトコジモノオヒミイダキミ》とあるは、或は負もし或は抱もしといはむがごとし、十一に、波禰※[草冠/縵]今爲妹之浦若見咲美慍見著四紐解《ハネカヅライマスルイモガウラワカミヱミミイカリミツケシヒモトク》とあるは、或は咲《ヱミ》もし或は慍《イカリ》もしと云むが如し、又|梓弓引見弛見《アヅサユミヒキミユルベミ》云々、十二に、梓弓引見縱見《アヅサユミヒキミユルベミ》云々などあるは、或は引もし或は弛べもしといはむが如し、十六に、三名之綿蚊黒爲髪尾信櫛持於是蚊寸垂取束擧而裳纏見《ミナノワタカグロシカミヲマクシモチクビニカキタリトリツカネアゲテアゲテモマキミ》云々(於是は、於首の誤なるべし、)とあるは、或は首にかきたれ、或は擧て纏《マキ》もしと云むが(165)如し、十八に、波之吉余之曾能都末能古等安沙余比爾惠美々惠末須毛《ハシキヤシソノツマノコトアサヨヒニヱミヽヱマズモ》云々とあるは、或は咲《ヱミ》もし或は咲《ヱマ》ずともいはむが如し、又|乎登女良爾都刀爾母夜里美之路多倍能蘇泥爾毛古伎禮香具播之美於枳弖可良之美《ヲトメラニツトニモヤリミシロタヘノソデニモコキレカグハシミオキテカラシミ》とあるは、或は裹《ツト》に遣(リ)もし、或は袖にも扱(キ)入(レ)、或は置(キ)て枯しもしといはむが如し、(香具播之美《カグハシミ》は、香細《カグハ》しさにの意にて、始にいへる美《ミ》に同じ、)これらの美《ミ》は一格にて、上件にいへる美《ミ》どもとは、きよく樣|異《カハ》れり、新撰萬葉に、不飽芝等君緒戀鶴涙許曾浮杵見沈箕手有亘都禮《アカズシテキミヲコヒツルナミダコソウキミシヅミテアリワタリツレ》、古今六帖に、逢事はなにしの池の水なれや絶み絶ずみ年の經ぬらむ、後撰集八卷に、十月零み零ずみさだめなきしぐれぞ冬の初なりける、千載集十三に、滿鹽の末葉をあらふ流蘆の君をぞ思ふ浮み沈みゝ、後拾遺集一卷に、難波がた浦吹風に浪立ばつのぐむ蘆の見えみ見えずみ、住吉物語に、泣み咲ひみあかし暮すなどあり、後々も甚多き詞なり、(但し古くは、上にいへるごとく、咲《ヱミ》み晩《ヱマ》ずもなどやうにもいへること多きを、後には絶み絶ずみとやうに、美《ミ》を必二(ツ)云て對偶《ムカフ》ること、定りたることのやうになれり、)
   古學
或人問けらく、應神天皇十六年と云に、百濟國より王仁と云ものを參渡《マゐワタ》し、漢字《カラモジ》をつたへて、其を學び讀ことはじまりて後、その國のてぶりを習ひて、やゝ萬のうへにまじへ用らるゝこととなりしを、其後又二百五十年ばかりを歴て、百濟國より佛道をつたへしを、聖徳皇子、蘇我馬子をかたららはせ給ひて、ふかく尊み信《ウケガ》ひたまひしより、つぎ/\に佛の教もはびこり來にしを、難波長柄(ノ)朝、近江大津(ノ)朝のほどにいたりて、なべて世の風俗、外(ツ)國ざまにうつろひかはり、天(166)下の御制度《ミサダメ》まで、すべて異國《アダシクニ》ぶりを用らるゝことゝなりて、それよりおひすがひ、藤原朝、寧樂朝まで、歌よむことこそ、來し方にもまさりてさかしくなり、名だたる人等《ヒトタチ》も出來にけれど、皇神の道をとなへて、儒佛の意をしりぞけし人をば、をさ/\きかず、表をば儒道をもてかざり、裏には佛の教をしたふこと、いよ/\ます/\さかりなりしことは、史典にも見えてかくれなし、かゝれば藤原朝寧樂朝にいたりて、歌よむすべのさかしくなりしは、中々に外(ツ)國の教どもを、數百年來《ヤホトセコノカタ》まねびとりたりし功績《チカラ》とも云べし、されば裁歌《ウタ》の風體《スガタ》は、藤原寧樂朝の頃を規《ノリ》として、したふはさることなり、かの頃は、外(ツ)國の教どもの世にみさかりなりし、其眞中より出たるかことなれば、なほかの頃のてぶりを習はむには、外(ツ)國の意をば離れがたからむ、もし儒佛の意をきよくはなれて、皇神の道の眞をあきらめむとならば、外(ツ)國の教どもの、はびこらざりしさきのことを慕ひて、まねばむこそさもあるべきことなれ、然るになほかの頃までを、ひとへに古風《イニシヘザマ》と唱へて、やゝもすれば、皇神の道を主とたてゝいへること多きは、いかにと云に答へけらく、余が萬葉集をよく/\よみあぢはひて、一には皇神の道義《ミチ》をあきらめ、一には言靈の風雅《ミヤビ》をしたへと常にいふは、ことに所見《コヽロ》ありていふことなれば、今くはしくわきまへむ、そも/\皇神の道の尊きことをば、一日一夜もわするゝ間なく、あふぎ尊み敬ひまつるべき理なるに、既く寧樂人も華夷《ミクニトツクニ》の分《ケヂメ》をとりうしなひて、戎國をさして、大唐とさへいへることのあるは、かの國に諂ふとはなけれど、おのづから外(ツ)國の道に溺れ惑ひて心の附ざりしものなり、しかれば寧樂朝の頃は、ひたぶるに人の意《コヽロ》も事《ワザ》も外(ツ)國ざまにしみつきたることにて、今よろ(167)づをこれになずらふるときは、歌の風體のみのことならばこそあれ、道にとりてはかの頃は、さのみしたふにたらぬことわりならむとも、いふべけれども、其は見る人の心にあることにて、精く擇て、あしきをすてゝ、よきをとらば何《ナ》でふことかあらむ、こと/”\に書《フミ》を信《ウケ》がはゞ、書なきにしもしかずと、漢人《カラヒト》もいひたるにあらずや、かくまで外(ツ)國の教どもの、いやはびこりにはびこりたる世中なるに、なほ神代のみてぶりは、もろ/\の神事《カムウザ》と歌詞には、正しく傳はり來れりしなり、かけまくもかしこけれども、神御祖《カムロキ》天照大御神、大御手《オホミテ》に大御鏡《オホミカヾミ》をさゝげもたして、皇御孫《スメミマノ》尊に、みことおほせてたまへりつらくは、この豐葦原の千五百秋《チイホアキ》の長五百秋《ナガイホアキ》の水穗國は、吾御子のしろしめさむ國なり、かれあもりいましてしろしめせ、高御座天の日嗣のさかえまさむこと、天壤《アメツチ》のむた窮なかるべしと、ことよざしたまへりしまに/\、天地のよりあひのきはみ、ときはにかきはに、皇御孫(ノ)尊のをす國とさだまりて、神ながら四方の國を、安國と平けくしろしめし大まします、高ひかる日の大朝廷《オホミカド》に、道ははやくそなはりてあれば、たとひ時うつり事さるまに/\、からざまにまれ、ほとけざまにまれ、なべてのふるまひはうつろふこともこそあれ、皇神の道は、八百萬千萬御代《ヤホヨロヅチヨロヅミヨ》まで、たかみくら天の日嗣のうごくことなく、かはることなく、神代も今も、一日のごとく、天地にてりたらはして、しろしめしきぬるがゆゑに、かたじけなくも神事と歌詞には、神代のてぶりのたがふ三となく、あやまつことなく、遺れることなれば、皇神のいつくしき國、言靈のさきはふ國とはいへるぞかし、かれその言靈のさきはひによりてぞ、皇神のいつくしき道もうかゞはれける、されば皇神の道をうかゞふには、ま(168)づ言靈のさきはひによらずしては得あるまじく、言靈のさきはふ由縁《ヨシ》をさとるべきは、この萬葉集こそ又なきものにはあれ、から國に心よするともがらの、聖の道を大ろかにして、詩文をむねと學ぶをいやしむとは、いたくさまかはりたることなり、いでや寧樂人の、まことに外(ツ)國の道にあひまじこりたりしことは、かの名だたる山上大夫が、漢ざまにならひて作《カケ》る文にも、所以禮2拜三寶1無2日不1v勤といひ、孔子臼、受2之於天1不v可2變易1者形也、などやうにいひたるを思へば、心のそこより外(ツ)國にしみつき、その道々を信服《ウベナ》ひ居たりしことなれば、そのよみいだせる歌どもにも、眞如佛性、或は陰陽五行の理などの、こち/”\しきことのみあるべきに、かへらまに、それとは引かへて、神代欲狸云傳介良久虚見通倭國者皇神能伊都久志吉國言靈能佐吉播布國等加多理繼伊比都賀比計理今世能人母許等期等目前爾見在知在《カミヨヨリイヒツテケラクソラミツヤマトノクニハスメカミノイツクシキクニコトタマノサキハフクニトカタリツギイヒツガヒケリイマノヨノヒトモコトゴトメノマヘニミタリシリタ》云々などいへるは、さはいへどありがたきことにあらずや、もしこの山上大夫が、後世の神道者流など云者のごとく、外(ツ)國の道を屏《サケ》て、ひとへに神道を唱へし人の詞ならば、故《コトサラ》に装飾《カザ》りて、神代の故事を述たるものなりといふべきに、さばかり外(ツ)國の道々をのみ信服《ウケガ》ひをりし人にしあれば、みづからの私の心一にてよみたらむには、さはいふまじきことゝ思はるれば、これはまことに、神代より世間にもいひつたへ、又其世までは、さるたぐひの古語も、くさ/”\つたはりてもありけらし、又|當時《ソノカミ》には大かたの世の心も、神代の古語をうけつぎつゝ、うべなひをりしさまなど、今世の人も盡《コト/”\》目前に見たり知たり、と云るにてしるきこと、おむかしくしたはしきことゞもにこそ、既《ハヤ》く難波長柄(ノ)朝、近江大津(ノ)朝の頃より、世間の事業と文辭とのみは、とく外(ツ)國ざまになりぬ(169)るものからなほ歌詞には、上古のまゝの傳りしなりと云るしるしなり、これは教のために、よみ喩したるものとはなけれど、尊み仰ぎて、大かたに見すぐすべからざる處なり、又同じ大夫が令v反2惑情1歌に、阿米弊由迦婆奈何麻爾麻爾都智奈良婆大王伊麻周許能提羅周日月能斯多波阿麻久毛能牟迦夫周伎波美多爾具久能佐和多流伎波美企許斯遠周久爾能麻保良叙可爾迦久爾保志伎麻爾麻爾斯可爾奈美阿羅慈迦《アメヘユカバナガマニマニツチナラバオホキミイマスコノテラスヒツキノシタハマクモノムカフスキハミタニグクノサワタルキハミキコシヲスクニノマホラゾカニカクニホシキマニマニシカニハアラジカ》、とあるこそことにたふとけれ、これは父母妻子をわすれて、心のうかれゆく、世人のまどひをさとせるのみのことを、主《ムネ》としてよめるなれば、すべて君臣《キミヤツコ》の義《スヂ》に關りたることにはあらねど、詞の表《ウヘ》は、おのづから、君臣の義を主としていへるごとならずや、まことに此歌にいひたることのごとく、このてらす日月の下にあらむほどは、天雲の向伏きはみ、谷蟆《タニグヽ》のさわたるかぎり、かしこくも吾《カ》皇|天皇尊《スメラミコト》のきこしめす國なれば、去て遁るべき地は、天下にはさらになし、もし天上《アメ》にのぼらむとならば、心まかせにすべけれど、さることはかなふまじければ、さる浮華《ウカレ》たる心を鎭め、本心《モトツゴヽロ》に立歸りて、吾(カ)皇(カ)朝廷をゐやまひまつりかしこみまつりて、いさゝかも御おもむけに、たがふことなくそむくことなく、まつろひまつりしたがひまつり、ふかくあつく尊み重みして、さて己が父母妻子を撫(テ)愛しみて、世中の産業《ナリハヒ》をつとめよといへるなり、さばかり外(ツ)國の道々をのみしたへる人の、ことに父母妻子を養ふことのすぢのみいへる歌にすら、かくいへるは、かの家持卿の、天地之初時從宇都曾美能八十伴男者大王爾麻都呂布物跡定有《アメツチノハジメノトキヨウツソミノヤソトモノヲハオホキミニマツロフモノトサダメタル》と云たるごとく、時の天皇の大御おもむけのよさあしさをばいはず、束の間も天皇尊にひたまつろひにまつろはずしては、このてらす日月の(170)下には、一日も在經ることのかなはぬものぞど、天地の初發《ハジメ》の時より、よりあひのきはみ、うごくことなくかはることなく、君臣《キミヤツコ》の位階《シナ》かたく定りて、臣連八十伴緒、天下四方八方の百姓《オホミタカラ》に至るまで、つゆうたがふことなき心に、事あらむ時は、古語に云るごとく、海行者美都久屍山行者草牟須屍大皇乃敝爾許曾死米《ウミユカバミヅクカバネヤマユカバハクサムスカバネオホキミノヘニコソシナメ》と、唯|一道《ヒトスヂ》に思ひ定めたるより、すべて天皇尊のありがたきすぢを、主として云としもなけれど、かく主として云るごとくにいはれしものなり、しかるにかのから國は、臣より君を諫むること、三度にしてきかざるときは去(レ)と云、子より父を諫むること三度にしてきかざるときは、なく/\從へとかいへるよし、これ父に從ふはよろしけれども、君をすてゝされと云こと、皇朝とはいたくさまかはりたる風俗《ナラハシ》にあらずや、かしこと、こことさまかはりたることの多き中にも、漢國は君臣《キミヤツコ》上下《タカキミジカ》き分、定めても足りがたき國がらなれば、君を諫むること三度四度にして聽れざるに、なほ止ことなく從ひをらむは、おれ/\しきことゝやすらむ、其は彼國の風俗にてはさもこそあらめ、吾皇朝にては、君をいくたびいさめまつりても、聽したまはず、從にしのびあへず去むとならば、天上《アメ》へのぼりゆかばさもあれ、なほ日の下にあらむとならば、吾皇の食國なれば、從ふより外にせむすべなきもの、と天地のはじめより常に人皆意得たるなり、さばかり外(ツ)國の道をしたふ世の風俗《ナラヒ》にても、この君臣の大義をば、誤りたる人なかりしがゆゑに、皇朝のもとよりのさまに合ず、ふさはしからぬ異國《アダシクニ》の惡き風俗《ナヲハシ》をば、よろづとりあげざりしこと、この一にても思ひわきまふべし、【〔頭注、〕禮記曲禮爲2人臣1之禮不2顯諫1、三諫而不v聽則逃v之、子之事v親地、三諫而不v聽、則號泣而隨v之、史記、薇子曰、父子有2骨肉1、而臣主以v義屬、故父有v過、三諫而不v聽、即隨號之、人臣三諫不v聽、則其義可2以去1矣、於v是遂行」論語、所謂大臣者、以v道事v君、不(171)v可則止、(朱熹曰、不v可則止、謂不v合v則去、)或人問けらく、君を諫ること三度にしてゆるされざるときは去、親を諫ること三度にしてきかざるときは、なく/\隨ふといふは、から國のさだめなり、しかるにかの國のいにしへ、殷の紂王と云しかしらを諫めて、その臣に箕子と云しものは囚はれ、比干といひしものは殺され、微子といひしものは去りといへることは、漢學する人のをさ/\しらぬはなし、もし微子がごとく、父子は骨肉のしたしみあれば、諫を用ひずとて隨ふより他にすべきやうなし、君臣は義を以て合ものなれば、三たび諫てゆるされざれば、去べきことわりなりと云て遂に行るを、義にかなひたりとするときは、比干が如く諫をきかずとて、去て君の過惡を世にあらはすにしのぶべしや、爭ひ死ずしてはさらに人臣の義たつぺからずと、思ひきはめてつひに殺されしは、國に益なきのみにあらず、諫臣を失へる君の惡名をあらはせし、ひがことなりとや云べからむ、もし爭ひ死たるを人臣の義なりといはば、去るをば義にかけたりとやいふべからむ、しかるを後等を殷に三仁ありと孔子もいひて共にこれをもかれをもことわりにかなへることなりとせるは、いかにといふに答へけらく、まことには諫死たるは義なり、去るは義にあらず、しかのみにあらず、微子は後に周武王につかへて、其位に復されたるなど、吾道より見るときはきたなしともきたなし、しかれども孔丘もたび/\その君をかへてつかへし中にも、魯の定公をすて己が父母の國を去りしに非ずや、そをひがことゝせざればこそ、大臣者以v道事v君、不v可則止と論語にも云たれ、みづからも、然思ひ定めてしか行へるものゝ、微子が去るを非なりとはいかでかいふべき、さればかしこにてもむかしより孔丘がごとく、その君を諫むるに至らずして去るも、又去るべきに去ずして、比干が如く諫死たるたぐひをも皆、義にかなひたることゝするを、はやく人の疑ひて、とかくいふことなめれど、落ろところは、事の輕重、勢の可否によることにて、その事の迹は同じからざるも、其趨は一すぢにして、かの微子は殷帝乙が元子紂が庶兄なれば、宗祀を重じて去べく、比干は少師の官にをりしなれば、諫をきかじとはしれゝど、なほ力(メ)諫めてつひに死たり、これら地を替ばその所爲皆同じからむなど、とかくたすけいひたるは、もと異國には一定の義なきが故なりと知べし、〕】しかるを其後時うつり事さりて、みだれりし世などには異國《アダシクニ》の風俗《ナラハシ》の、皇朝に合ずふさはしからず、あしくきたなきことをも、えさとらずしてたぶれたるしこの臣等《ヤツコラ》が、たはわざなども出來にしことのあるは、いみじき世の變《ウツロヒ》にて、いとも/\あさましくうれたきことにぞありける、しかはあれども、あなかしこ皇神の道の眞は、天津御璽《アマツミシルシ》の神寶と共に、たかひかる日の大朝廷のうごきたまふことなくして、つひには(172)上世のみさかりなりしに、ほと/\おもぶきたまふこのめでたき大御代にしあれば、皇神の道を明らむべき時いたりぬるぞ、さはいへどたふときことなりける、さてその皇神の道は、言靈のさきはひによりてうかゞふべく、言靈の八十言靈は、寧樂人までの古事にとゞまりてあれば、此集を重みしてよみあぢはふべく、そのよみあぢはふるこゝろばえは、上の件にいひたるごとく、既《ハヤ》く其世は、外(ツ)國ざまにうつろひぬとはいへども、うつろはぬがごとく、君臣の大義を、つゆあやまつことなかりしなれば、その處にふかく心をとゞめて、大かたに心得すぐすべからぬことなり、さてこのたゞよはぬ心をもて見るときは、教のためとはなけれども、學び得つべきこと、すくなからずなむありける、大皇者神爾之座者《オホキミハカミニシマセバ》とよめることも、ところ/\に多く見え、或は遠神吾大皇《トホツカミワガオホキミ》と申し、或は明津神吾太皇《アキツカミワガオホキミ》とも申し、或は吾大皇神命《ワガオホキミカミノミコト》とも申し、或は天皇の爲行《ナシオコナ》はせ給ふことをば、いつも神在隨《カムナガラ》と申たるごとく、天皇尊《スメラミコト》は人倫《ヒトノカギリ》とは、きはことに尊き神にましますものにしあれば、かの外(ツ)國の首領《カシラ》の、もと凡人《タヾヒト》なりしが、徳《イキホヒ》と業との世にすぐれたりしにより、天子とあふがれし類とは、かりにも同日のものがたりに爲むは、まことにゆゆしくかたじけなきことなりけり、又|物部乃臣之壯士者大王任乃隨意聞跡云物曾《モノヽフノオミノヲトコハオホキミノマケノマニ/\キクチフモノソ》、又|皇之命畏美《オホキミノミコトカシコミ》といふことの常多かるなどをも考へて、皇(カ)朝廷をかしこみまつりし、古の風儀《ナラハシ》をも思ふべく、又|天雲之向伏國武士登所云人者皇祖神之御門爾外重爾立候内重爾任奉玉葛彌遠長祖名文繼往物跡母父爾妻爾子等爾語而立西日從《アマグモノムカフスクニノマスラヲトイハレシヒトハスメロキノカミノミカドニトノヘニタチサモラヒウチノヘニツカヘマツリタマカヅライヤトホナガクオヤノナモツギユクモノトオモチヽニツマニコドモニカタラヒテタチニシヒヨリ》といへるは、天皇をかしこみまつりしのみならず、かの家持卿の人子者祖名不絶《ヒトノコハオヤノナタヽズ》とも、牟奈許等母於夜乃名多都奈《ムナゴトモオヤノナタツナ》ともよまれしごとく、子(173)孫《ウミノコ》の八十連屬《ヤソツヾキ》。その家の祖先《モトツオヤ》を重みしたることをも思ふべく、又孝謙天皇の虚見都山跡乃國波水上波地徃如久船上波床座如大神乃鎭在國曾《ソラミツヤマトノクニハミヅノヘハツチユクゴトクフナノヘハトコニヲルゴトオホカミノイハヘルクニゾ》と御製《ミヨミ》ませるにて、神祇をひとへにたのみし古(ヘ)の風俗など、あふぎてもなほあまりあり、かくて又近江大津朝よりは、くさ/”\世間の事業しげくなりぬるから、彼此につき議論《コトアゲ》せずてはあられぬことなるを、なほ物言むとては、葦原水穗國者神在隨事擧不爲國雖然辭擧叙吾爲《アシハラノミヅホノクニハカムナガラコトアゲセヌクニシカレドモコトアゲゾアガスル》といひて、ことさらに、そのことあげするよしをことわり、又|志貴島倭國者事靈之所佐國叙眞福在與具《シキシマノヤマトノクニハコトタマノタスクルクニゾマサキクアリコソ》などいへるも、上古よりありこし風《サマ》をつたへて、大津朝藤原朝の人のよめるなるをも思見べし、さて又朝廷のため、天下のためはいふもさらなり、事にふれて福《ヨゴト》をもとめ、禍《マガコト》をさけむがために、佛菩薩にむかひていのりごとすることは、はやくのときより、神祇にはまさりていみじかりしこと、國史にも往往《コレカレ》見え、集中にもさる趣なること、山上大夫などが作文にも見えたるを、歌詞にさる趣なるはをさ/\見えず、或は旅行の平安《サキカラ》むことをいのり、或は夫婦《イモセ》の中らひのことを、こひのみたることにいたるまで、ひとへに天神地神《アマツカミクニツカミ》をふかくゐやまひいつきまつりしこと、こゝかしこにあまた見え、又人の身の病にかゝりて惱むときに、良醫《クスリシ》をたのみ餌藥《クスリ》を服《ハミ》しことは、其頃めづらしからぬことなるに、それもの趣も歌によめることなく、たゞ天(ツ)神地(ツ)神にこひのみしことのみよみたるは、大事《イミジキコト》より小事《イサヽケキコト》にいたるまで、何によらず、神祇《カミタチ》のみをたのみまつりて、ゐやまひまつりいつきまつりし、上古の風儀をつたへて、歌詞にはよみきたりしがゆゑに、或は佛にいのり僧にかたらひ、或は醫人《クスリシ》にたよりて病を除《イヤ》しなど、すべて上代にもはら行なはれざりしことを(174)ば、もはら行はるゝ世となりても、よろず神々《カウ/”\》しく、古めかしからず、ふさはしからざることゝして、かりにもよまざりしからに、上古のてぶりの、もろ/\の神事と歌詞にのこりたりと云るは、そのゆゑなり、今世とても、田舍のかたほとりなどにては、病などに犯されたるには、藥よりはまづ神祇《カミ》にいのることまさりたるは、なほ上古の遺風《ナゴリ》なるに、そせかへりて、をぢなくつたなきことのやうに思ふめるは、中々にあさましきことなり、さて此他に、すべて陰陽乾坤の理などを、歌にいへることも中にはあるべきに、さる趣なるは一もまじはらず、たま/\天地毛縁而有許曾《アメツチモヨリテアレコソ》など云ることもあれど、それは柿本朝臣の吉野にてよめる長歌に、山神《ヤマツミ》川神《カハノカミ》とよみて、その終にも反歌にも、神と云ことを、ことさらに省きて、山川毛因而奉流《ヤマカハモヨリテツカフル》とよめるに同じく、天神《アメノカミ》地祇《ツチノカミ》と云ことを省きて、天地《アメツチ》といへるにて、古語に證例あること、本條になほいふべし、さればこれは異國人《アダシクニヒト》のいはゆる天地にはあらずと知べし、たま/\佛籍のいはゆる天堂、或は來世、又本性清淨の理などを思ひて、よめりと思はるゝ類も、たえてなきにしもあらねど、其は阡陌《モヽチ》にして什一《トヲヒトツ》もあることまれなるうへ、たゞ一時の戯言に、いひすてたることもありと思はるれば、さる類は除《オキ》てよまずとても事かくることなく、またたゞ歌の風調《シラベ》のみをとりて、意をだにうけがはすば、何の害《サマタゲ》にかはなるべき、其餘からくにの席穀と云し人の、故事、莊子が自然の理などをよめるもあれど、これも俳諧《タハブレ》の類なれば、右にいへるに同意なり、柿本朝臣山部宿禰などのにいたりては、かりにも外(ツ)國の故事などに、まざらはしきことを一もいへることなく、みないとも/\古き神代の故事のみによりてよめるは、たふときことにあらずや、(175)その分差《ケヂメ》は思誤つことなければ、ことあたらしきことなれど、なほいはむ、なみ/\の世の儒者どもこそ、堯舜の禅讓を又なくいみじきことにおもふことなれ、はやくもろこしにても、さかしだつ人は、堯が徳《イキホヒ》衰るにいたりて、舜これをとらへ、其(ノ)子をもおしこめて、みづから帝位に登りたる物なりといひ、又舜禹がしわざも、實は後世の玉莽曹操に、何《ナド》か異《カハ》りたることあらむなどもいへりしとぞ、しかれども舜は當時こそ民間にしづみ居たるなれ、實は黄帝といひし人の、八世《ヤツギ》の孫とかいひ傳へしごとくならば、まぎれもなき王統なり、されば大かたの世の人の意得來つるごとくに、禅を受て嗣たりしものにもせよ、又は莽操がごとく、實は奮ひて天下をとりたるものにもせよ、其はいかにまれ、王統なりとせば、なほつみゆるさるゝ方もあらむ、さればはるけき末の代まで、天下の人に、朽せずうすらがずあふぎしたはるゝは、さはいへど、あはれ其人のすぐれたりし大徳《イミジキイキホヒ》とぞ云つべき、しかれどもから國にては、舜何人也予何人也といひ、舜人也我亦人也などやうにいへるごとく、その人の胤《スヂ》にも姓《ウヂ》にもかゝはらず、たゞその徳のすぐれたると、しからざるとのみの異《カハリ》にて、聖人とあふがるゝと、庶人にてあるとにこそあれ、才と徳を尊むことはさもあるべきを、系統《スヂウヂ》をばつゆおもはざることよ、さはいへどあだし國のならはしこそ、げにたのもしげなくあさましきことなれ、されば後つひにはちりひぢのかずにもいれず、いやしめあなづりし者どもに、國を奪ひとられてもせむすべなく、かたさりをるよしは、もと其|系統《スヂ》によることにはあらず、舜も人なり我も人なり、たゞその徳威《イキホヒ》(176)こそいみじき物にはあるなれと、おぢかしこまり、かゞまりたることなればなにとかせむ、かゝればあだし國にては、君臣上下分《キミヤツコタカキミジカキケヂメ》のみだりなることは、はやくより、その基をきざしたるにあらずや、あなかしこ/\、【〔頭注、竹書云昔堯徳衰爲v舜所v囚也、又云、舜囚v堯、複偃2塞丹朱1使v不2與v父相見1也」王世貞云、堯崩舜避2堯之子1舜崩禹避2撮之子1、禹崩益避2禹之子1、而天下有v與、有v不v與也、是上下相狙以詐也、何異2莽丕1哉、故孟氏者得2聖人心1、而舛2其跡1者也」虞舜者名曰2重華1、重華父曰2瞽叟1、瞽叟父曰2橋牛1、橋牛父曰2句望1、句望父曰2敬康1、敬康父曰2窮蝉1、窮蝉父曰2帝※[瑞の旁+頁]※[王+頁]2、※[瑞の旁+頁]※[王+頁]父曰2昌意1、以至v舜七世矣(昌意は黄帝の二男なり)〕】吾天皇尊は、現神とも遠神とも申せるごとく、まことの神にしましませば、人倫とははるかに遠くすぐれまし/\て、千萬御代の御末まで、只一御代のごとく、稜威の尊く奇く靈く大座すことは他ならず、天津日大御神の大御裔《オホミスヱ》の御子尊に大座すことなれば、微《イヤ》しき外(ツ)國の王どもとは、かけてもひとしなみに論ふべきにあらず、さて又湯王が桀を征て國をとり、武王が紂を伐て天下を得したぐひも、ゆづりをうけたるにこそあらね、その人のいたくすぐれたりし徳によりて、天命に配《カナ》ひ、天下のためになりしことゝて、四方の人ども、ほめどよみて、末世にいたるまでも、ありがたきためしにいひ傳へたるは、かの國の風俗にてはげにさもこそあらめ、吾より見ればいともけがらはし、まして其より後々はさらなり、さて又國の首領《カシラ》だにかくあれば、きのふまで賤山賤なりしものも、徳だにあれば、今日は俄にとりあげられて、高位《タカキクラヰ》にのぼりて國政をとり行ひ、いみじくさかえおごりし類はめづらしからぬを、吾皇朝は、はやく上古に、君臣《キミヤツコ》と上下《タカキミジカキ》との分かたく定りて、臣連八十伴緒にいたるまで、氏かばねを重みして、子孫《ウミノコ》の八十連屬《ヤソツヾキ》、その家のわざをうけつがひつゝ、祖神たちに異ならず、只一世のごとくにして、神代のまゝに、皇朝廷に仕へ奉れるよりくらべ見れば、すべてかの國の高官《タカキツカサ》な(177)るものどもゝ、禽《トリ》蟲《ムシ》の列《ツラ》といはむにも、何でふことあらじとこそおもはるれ、さて又もろこしにては、その國の首の領《シラ》せるかぎりを中國と名け、みづからを天子と稱《ナノ》り、その餘何事もこれになずらへて、すべてきはごとに、われだけくいかめしく、高ぶりをるに似ず、みづから寡人不穀などゝ、謙下《ヘリクダ》りていへるこそ、いぶかしと思ふに、天子となのりをるものも、もと人の國を得て、位につきをる人なれば、しばしも徳と云ものを失ひて、天下の人のなつくべくかまへざれば、たちまちかたへの人に、國をとられなむと思ふ心しらひより、さもなきことにも心をおきて、人に謙遜《ヘリクダ》りへつらひて、眞の心をばあらはさず、それにつれて高官にのぼりをるものも、その種姓《スヂ》にはよらず、たゞ僥倖《カリノサキハヒ》にて、微賤《イヤシ》きものも才と徳とによりて、とりあげられたるなれば、上よりもそねみ、下よりもいきどぼるときは、間もなくおひのけられ、身も亡びなむと思ふことの、下おそろしさに、よろづ卑下《ヘリクダ》り、人の心をとりて、ものいふことをば、常わすれぬより、おのづから風俗のごとくなれるものなるべし、しかれども、これはそのもと理のあることなれば、かの國にては、げにさもあるべきことゝこそ思はるゝことなるに、かしこきや吾皇天皇尊は、大御皇祖神《オホミオヤカミ》たちの大御前を、いつき祭りたまふにこそ、敬禮《ヰヤ》のかぎりを盡させ給ふことならめ、其を除て、誰しの人にかへつらはせたまはむ、何(レ)の國にかおもねらせたまはむ、しかるを書紀などに、天皇等の御自《ミミヅカラ》謙下りたまひて、朕不才豈敢宣(ヘ)2揚(ムヤ)徳業(ヲ)1などやうに、のたまへりしこと往往《コレカレ》あれど、其はたゞ文辭のうへを、漢籍にならひて書たまへるのみゆゑにこそあれ、實にさやうにはのたまはざりしこと、集中大御歌詞にて知べし、さばかり異國の道を信《ウベナ》はせ給ひし、(178)聖武天皇の、節度使に御酒を賜へる大御歌にすら、手抱而我者將御在天皇朕宇頭乃御手以掻撫曾禰宜賜打撫曾禰宜賜《テウダキテアレハイマサムスメラワガウヅノミテモチカキナデソネギタマフウチナデゾネギタマフ》云々とよませ給ひ、それより以往《ヲチツカタ》には、さるさまに詔へること多く見えたり、これことさらに、臣下に、皇威《ミヒカリ》をかゞやかさせ給はむために、御自《ミミヅカラ》宇頭乃御手《ウヅノミテ》など詔へるにはあらず、神代よりいやつぎ/”\に、天皇はかくざまにのたまふこと、さだまりたる常のことなるゆゑに、しかのたまへるにて、かのから國の首領《カシラ》どもまで、自(ラ)謙下《ヘリクダリ》て寡人などいひたるとは、炭と雪とのかはりあることにて、ありがたきことにあらずや、もし何事もひたぶるに外(ツ)國ざまをまねびたまへりしとならば、書紀などの文辭のごとく、御自謙下りてのたまふべきことなるに、さもなきは、すべて歌詞には神代のまゝをつたへて、外(ツ)國意をばまじへざりしがゆゑなり、さてそれより臣民の列にいたるまで、すべてから人のごとく、へりくだりていへることのなきは、外(ツ)國をまねぶといへども、まねばざるごとく、大《イタ》くさま異りたることなり、しかるを自をへりくだりていふことは、君子の體なりと心得、さもなきを無敬《ナメゲ》なりと思ふは、もとうはべのへつらひより事おこれるには心つかず、ひとへに外(ツ)國意にしみつきたるがゆゑなり、○或人又問けらく、世の迂儒《エセハカセ》のともがら、もろこしを中國と云華夏と云、其外の國々をばみな夷狄と心得て、吾をも東夷と云などは大《イミ》じきまどひにて、孔子の春秋と云書に、もろこしを中國とし、もろこしの政のとゞかぬ國を、夷狄とあしらへる、これ内を尊み外を卑しむ萬世の教なり、【〔頭注、劉煕云、帝王所v都爲v中、故曰2中國1、〕】されば神世にも、はやく吾日本を葦原中國と稱《イヘ》るも私言《ワタクシ》に非ず、其後諸夷に對へなどして、吾を中國と云中朝と云、或は神國とも聖朝とも、華夏とも云るこ(179)と、古き書にをり/\見え、その他外(ツ)國の人に對ひて、我(ガ)使を皇華使と云、我人を王人と書、すべて外(ツ)國をば諸蕃とあしらはれたり、これ孔子の旨にかなひたることにて、當然理《サルベキコトワリ》にあらずやといへるに、答へけらく、葦原中國とは、かのもろこしにて中國と云る類にはあらず、葦原の其中にある國と云ことなり、されば彼方にて中國と云とは、後に文字にうつせる上にては、自に通へるにこそあれ、その本義はいたくかはりたり、しかるにこれをも、萬國の中央《モナカ》なる國の意ばえにて名づけたるものとし、又、日本と云は、日の大御神の本つ御國の意と云ことぞとするたぐひ、古學する人の心には、誰もさもあらせまほしく思ふことなれば、枉てしかいはゞ、しかいはるまじきにもあらねど、そはなほ私説とぞ云べからむ、〔頭注【月清集、藤原良經公、我國は天照神の末なれば日本としもいふにぞ有ける、これを武家ざまの、權威強(リ)て、皇朝廷の御衰へましますを憤りて、日(ノ)本といふ稱に託て皇威のかたじけなきほどを示されたるにて、名の本義をまで思ひてよみ給へるにはあらず、】〕すべて上古《カミツヨ》には、たゞあるがまゝにて、後世のごとかまへて、皇朝のことに尊きよしを故《コトサラ》に稱《タヽ》へしやうの趣は一もあることなければなり、すべて何ごとも、尊卑《タカキミジカキ》大小《フトキホソキ》たぐひを、外にくらぶる方のあるによりて、それにはまけじおとらじと思ふより、かまへてわれだけく云ことのあるならひなるに、吾皇朝は天地のはじめより、萬國にすぐれて比なく尊きことは、まがふことなきことなれば、すべてわれだけくいへることのなきは、かへりて萬國にすぐれて尊かりししるしなり、しかれば大八島國豐葦原中國などいふ大豐も、たゞ上古の美稱にて外(ツ)國に抗《アタ》りて設けたるにはあらず、かの大漢大唐など云にならひたることにはあらざるなり、さてやゝ後に、外(ツ)國に行かひしげき世となりて後は、もろ/\の異國《アダシクニ》に對ひては、からざまに吾を中國中朝(180)などやうにいはむことは、もとよりさることなれど、春秋の旨にかなひて、當然《サルベキ》理なりと思ふはあかぬことなり、おのづから春秋の旨にかなひたるところもあり、とやうにいはば、なほゆるすべし、いかにとなれば、すべてかのから國のならはしとして、みづから領《シラ》せる國を中國といひ、みづからを天子となのり、己にまつろふ國々をばしたがへなつけ、さらぬ外の國々をいやしめあなづりて、首領《カシラ》の威をかがやかすことなれど、徳衰ふれば人に國を奪はれ、首領《カシラ》の系統はあとかたなく絶はつること、漢と云し代よりこのかた、おほくはしかりしを、つひにはかの人のごともおもへらず、かろしめあなづりし夷狄に、國を奪ひとられなどしたるにて見れば、中國華夏など云も、もとより尊卑《タカキミジカキ》分あることにしあらねば、たゞかの内を尊み外をいやしむ、當然理とするに過たることはなし、あなかしこ吾皇朝はさるたぐひに非ず、實に天地のはじめより、萬國にすぐれて、二なく尊きこといちじるければ、かの孔子などがさだめをも待ず、中國華夏などいはむに何をかははゞからむ、中ごろのすゑより逆臣《シコオミ》賊夫《タブレヲ》など出來て、たはわざしけることはあれど、あなかしこ、つひに天の日繼はうごきましまさず、まして外(ツ)國の王どもよりは、いむかふことだにかなはざること、かの弘安の年の故事などにていちじるし、さればかの春秋と云書を規としていはむは、かの外(ツ)國々ならばこそさもあらめ、孔孫の旨はいかにまれ、吾皇朝にかけていはむは、あきたらず、かたじけなきことゝ知べし、さて又ことのついでにいはむ、古に葦原之水穗國と云たるこそ、ことに尊とけれ、水は借字にて物のうるはしきをほめたる辭にて、穗は稻穗をいへるなり、そも/\かく名づけたるは、神代より今にいた(181)るまで、稻の萬國に比なくはるかにすぐれて、いと美味《メデタ》きがゆゑに、皇朝の國號には負來にしものなり、すべてもろ/\の異國《アダシクニ》は、皇朝にかはりてこの稻のともしきによりて、かなたこなたの國々に、ゆきかひすることの多く、さてそのゆきかひするにつきて、或は威しもし、或はなつけもし、のちつひには國のみだれをもまねくことなるに、それとはきよくかはりて、外(ツ)國の人をなつけむためにもあらず、まして威さむためにもあらず、みづ/\とうるはしき稻穗のめでたきを、たゞあるがまゝに負せたる號にて、これぞ上古のまことゝ云物にはありける、そも/\高きもみじかきも、さかしきもおろかなるも、命ばかり重みせらるゝものはさらになきを、それつぎていきながらふることは、全《モハラ》稻の功《チカラ》にしあれば、古語にも萬調まつる長《ツカサ》と稱へ云て、世にこればかり貴き寶はなきを、その稻の、かばかりすぐれてめでたきことは、いふまでもなく、天下四方の人のよくしれることなるに、蓼くふ虫の辛きをしらざるがごとく、この水穗國にうまれ出て、かゝるめでたき稻をしも朝夕に給《タウ》べながら、そのたらひてうまきことをわすれて、なほ何をあかぬことにや思ふらむ、外(ツ)國に心よせて、かの首領を天子といひ、かの國を中華と云、吾をかへりて東夷ぞなどゝいふたぐひの人あるは、あさましくうれたきことなり、わくらばに人となりて、この國にうまれ出たるきはは、はじめより神恩《カミノミメグミ》のふかきすぢを思ふべきことなるに、其を忘れたる人は、つひには神の御意にもれて、おもはずも凶事《マガゴト》の出來たらむことこそおそろしけれ、そも/\貴きも賤きも、神ろき神ろみ諸の御恩賚《ミタマノフユ》をば、立ても居てもわすれては、ありふることのかなはざる理なるをしらずや、まづいきとし生る萬物の(182)中に、人と生たることも、ありとしある萬國の中に、神國に生れたることも、又皇統の天地と長く久しきあひだには、或は治り或は亂るゝこともあるならひなるに、この四方の海浪靜なるときにうまれあひて、あくまでくらひ、あたゝかに着、雨露をおほひ、安く住、うまくいね、王臣百官人天下の公民《オホミタカラ》にいたるまで、已が家々の職業《ワザ》をつとめ、君につかへ父母にしたがひ、妻子やつこらにいたるまで、あはれみうつくしみてやしなふことも、己がちからもてしかするに非ず、みな皇神たちの御恩賚《ミタマノフユ》にもるゝことなければ、百姓《オホミタカラ》のわがちからにて身を養ふ者も、己がちからのみと思ふは大《イミ》じきまどひなり、もし皇神たちのうらさびて、惡(キ)風荒(キ)水をいだして稻殻《トシ》あらせず、農夫《タヒト》の耕作《イタヅキ》もいたづらになりなむときは、貢すらとゞこほるべきことなるに、もろ/\の工人《テビト》商人《アキビト》のともは、何をたうべてかいのちつぐべき、されば上中下身のほど/\につけて、君につかへおやにしたがふいとまのひまには、古きふみよみ古をしのび、歌よみふみつくり、或は花をもちあそび月をめで、或は琴ひき笛ふきうたひまひて、心をのばふることも何かは神の御蔭にあらざらむ、しかれども下ざまの無學文旨《カタクナ》にして、さとしがたききはは何とかはせむ、古學するきはは、その御思賚のよりくるところのよしを思はずやはあるべき、そも/\天下の公民《オホミタカラ》の作りとつくるなりはひは、皇御孫尊の長御食《ナガミケ》の遠御食《トホミケ》と、赤丹穗《アカニノホ》に聞しめさむがために、八束穗《ヤツカホ》のいかし穗になしさきはへたまひて、皇神たちの寄《ヨザ》し奉れる奧津御稻穀《オキツトシ》の、そののこりを、臣連八十伴緒天下のあを人草にいたるまでに、あがちたまへるものにしあれば、たれしの人か皇神の大御恩《オホミウツクシミ》にもるべき、いづれの人か皇神の大御惠をかゞふら(183)ざるべき、さればその本の理をたづね察《オモ》ひて、尊み重みすべきことぞとはいへるなり、眼前の君父の恩はもとよりさることにはあれど、たゞ眼に見えたることのみ思ひて、目に見えぬことわりをえたづねしらぬは、あさはかなる心にあらずや、されば眼前の君父をさしこえて、ひとへに皇神の御恩賚《ミタマノフユ》をだに、敬ひまつらばよけむかと、思ふは、又いと/\あらぬことにて、君に忠心《マメゴヽロ》をつくしてつかへ、親に孝道《シタガフミチ》をきはめてやしなふことは、人々しきゝはの理會《コヽロエシラ》ぬはなければ、今更こと新しく云までもなきことなり、その皇神の御蔭を尊むは、君につかふるこゝろのふかきにより、祖先の恩惠を敬ふは、父母にしたがふこゝろの厚きによれる事ならずや、【〔頭註、防人(ノ)歌に、祁布與利波可敝里見奈久弖意富伎美乃之許乃美多弖等伊※[泥/土]多都和例波《ケフヨリハカヘリミナクテオホキミノシコノミタテトイデタツワレハ》とよみ、知波夜布留賀美乃美佐賀爾奴佐麻都里伊波負伊能知波意毛知々我多米《チハヤブルカミノミサカニヌサマツリイハフイノチハオモチヽガタメ》といへるなどにて、古東人の忠孝の實心、思ひうありて貴むべし、からぶみ管子に、思之思之重思之、思之不通、鬼神將通之、非2鬼神之力1、精氣之極也とあり、思ひ得たることもみな神のたすけにあらずて、己が精の力によることなりと思ふは、例のから人のくせにてめづらしからぬことなり、さてまづ已く此世に人と生れ出たるをも、神のみぐみなることまでを思はざりしこそはかなけれ、〕】幼童のためになほいはむ、天皇は高ひかる白の御子と申してかしこくも大御神の御皇子孫《オホミマノ》尊に大ましませば、王卿百官人たちの大(キ)朝廷をかしこみつかへまつるは、やがて皇神の御思賚を、あふぎ尊みまつるこころなれば、天下の百姓《オホミタカラ》にいたるまで、己(レ)々(レ)が主君をゐやまひつかへまつるも、やがて皇神のみたまのふゆ、天皇のみうつくしみを、かしこみまつるこゝろにこそあれ、そのゆゑは、已(レ)が主者も、天皇尊《スメラミコト》のことよざしたまふまに/\、一國にまれ、一郡にまれ、大御神の御民をさづかりてやしなへることなれば、その主君よりは、土民を人の親の己がわくごをうつくしむがご(184)とく、心のかぎりなでをさめ、かなしくめぐゝ思ひて、いかなる凶年《トシナキ》ときありても、士民のすゑにいたるまで、あまさずもらさず賑はし救ひて、領内にあらむかぎりは、飢寒《ウヱコヾエ》にたへずて、死《ヌ》ばかりこのことにはあはせじものをと、常々心かくることなれば、その處をうれしみ思ひて、それによそりをるものは、いさゝかもけしき心をもたず、みどり子の己が母の乳乞がごとくにしたひまつりて、己(レ)々(レ)が家|職《ワザ》産業《ナリハヒ》をいそしみつとめては、事しあらば火にも入水にも入て、うつくしみの百が一にも、むくいまゐらせむと思ふこそ、君につかふる本意なるべけれ、かゝれば、君の禄《タマモノ》を食《ウケ》をる者のかぎりのみならず、工人《テビト》商人《アキビト》のたぐひにいたるまでも、たゞわが私のちからのみにて、世間のわたらるゝものにしあらざれば、君恩のたふときすぢのみは、理會《コヽロエ》てをらしめまほしきものなり、しかるを、いさゝかにても禄《タマモノ》を食《ウケ》をる者のかぎりは、世にわれよりも貧しき人多くして、糟湯酒《カスユサケ》にもあくことなく、或はうゑこゞいて、ほと/\いのちをつぎかぬるもあるに、この美飯《ウマイヒ》をあくまでたうべて、君につかふるいとまのひまには、古き代の書よみ、古のたふときすべをしることも、もとさきはひの多くして、君にたすけられて居るゆゑなればぞと、古こと學する人などは、一きは敬の心も深かるべきに、かへりて、世の人の長短《マサリオトリ》をかりそめに議《サダ》し、或は政を執人の得失《ヨキアシキ》をみだりに論《アゲツラ》ひなど、たゞ何事も當世を昔の書に引くらべて、今をあざけりそしり、昔をしたふ口さきのみのいひぐさとするやうの人も、中にはありときこゆるは、もと君臣の情のふかゝらぬ、惡きくせにしみつきたるがゆゑなりと、かたはらいたきことなり、前にもいひたるごどく、かのもろこしにてはすべて君臣の義うすき風儀《ナラハシ》にて、(185)己が利《ミタメ》を得むと思ふ心の一すぢなるより、時勢《トキノサマ》をもふかくたどらず、君をいさめて、己が志の行ひ用ひられざるときは、すみやかに辭去《イトママヲシ》など、すべて世に浪《ウカ》れをる者多くて、わがすぐれたる才能《チカラ》の時にあはざることを、ひとへにふかくいきどほり、われだけくさかしだちて、政法《ヲサメカタ》の是非《ヨキアシキ》を評《イ》ひのゝしりありくことの多かるは、いとよからぬならはしなるを、書よむ人は、中々にさるさまなるを、心たかく思ひあがりて、すぐれたることのやうに思ふことなめれど、あらぬことなり、かくいはゞ、なほたゞ時世におもねり諂ひて、實は快からず思ふことをも、心にかなひたるさまにいふと思ふ人もあるべけれど、しからず、すべて朝廷の皇威《ミイキホヒ》おとろへさせ給ひては、世は治りがたき古昔よりのありさまを考へてもしるべし、しかるを今の東の遠(ノ)朝廷には御政を申したまへる世となりては、いよ/\ます/\皇(カ)朝廷を崇び奉り敬ひまつりて、つぎ/\に諸士萬民をも撫をさめたまへること、皇神の大御心にかなはせ給ふによりて、かくのごとく御代はめでたく永く久しく治まれることなれば、其處に心をつけて、國家《アメノシタ》の大恩《フカキミメグミ》をば、ゆめにもわするべからざることなり、もろこし五代といひし時の末、後周の恭帝と云し王を、其臣に趙匡胤と云しものが叛きて、恭帝を打ほろぼし、みづから天子となのりて、つひに宋の太祖といはれしそ、その恭帝が時の宰相なりし范質と云ものが、恭帝の亡さるゝを、眼前に見ながら、おめ/\と趙匡胤に降りて、又宰相になりたるが、もとより輕からぬものにはあれど、一たび降人になりしことの下おそろしさに、我は本※[覊の馬が奇]旅の臣といひ、後周の讓を宋が受たるやうにいひまぎらはかして、堯舜のめでたき代に生れ逢たりなどいへる類は、實に快から(186)ぬことのかぎりなれど、せむすべなく自《ミ》の耻辱をおほひかくし、つくろひかざりて、心にかなひたることのやうに云たる、これらこそ、いみじく時世に阿り諂たることにはあるなれ、すべてかのもろこしには、かくざまの類、代かはるときにはことに多し、しかるを今(ノ)世にして、今の世のなかを稱《ホム》るを、これらとひとしなみに思ふは、いとも/\あらねことなりとしるべし、さてかく皇神の御恩賚によりて、東照神君の天下の御政申したまひしほどより、弓矢鞆の音きこえず、天下おだひにをさまれるにつきで、すたれりしのろ/の古のみち/\も、たえたりし萬(ツ)のふりにしわざ/\も、つぎ/\におこるめる中に、古こと學びのいやましにおこなはるゝことをおもふに、そのはじめは難波の契冲あざり、古き代の書を見あきらめて、すぐれたる書どもを、みづからもかきあらはしたるを、そのかみ大かたの世にはしれる人もなかめりしを、水戸の殿のさとくきこしめして、代匠記をかゝしめ給ひたるなどをぞ、にひはり道とは云きべき、それよりすぐれたる人も、おひすがひに世に出て、いにしへをしたひ、いにしへぶりの歌よむ人も、これかれといできにつゝ、をぢなきわれらまで、皇神の道のたふときすぢを、さとり得たることは、ひとへにかのあざりのことさきだてゝ、世(ノ)人をいざなへるより、より/\にすぐれひとたちの出來て、さとせるしをりをたづきとして、わけのぼるにこそあれ、しかるにいにしへをしたふ人々、さき/”\のすぐれ人|先師《シルベヒト》などのをしへによりて、さとりたりとはいはで、たれも/\おのれひとりのこゝろよりおもひ得たることのやうにいひなし、かへりては前人の説をばもどきいふ人のおほかめるは、かたはらいたきことならずや、其はまけじた(187)ましひなる心のさかりなるより、うはべには前人をおとしめそしりてしたにはひそかにその説をよしとうべなひてまねぶこそ、そこぎたなくうらはづかしきことにはありけれ、それが中にも、前人の論とおなじからぬやうにたくみて、しひて一(ツ)の門をはりてものいはむとする人もあめれど、其はもと世にたけきものに思はせて、はやく人にしられほまれをとりて、時にほこらむとかまへたる事量《コトバカリ》にて、まことのすぢには非ず、すべて志をたつることの高からず、きたなき心のきよまらず、一時の名譽《ホマレ》を欲《オモ》ふがゆゑに、さる類はあるものぞかし、但しから人も大《イタ》く欲《モノホシミ》するは、欲《モノホシミ》せぬに似たりといへるごとく、たゞひとへに名利《ホマレ》を思はずと云のゝしるは、世にたけきものに思はせて、かへりて名利をねがふこゝろの深きものにて、あらはに名利《ホマレ》をねがふよりは、中々に心きたなし、されば丈夫は名をし立べしなど云て、古の人も名を立ることを思はざりしにはあらず、されど志の高くて、天下の鑒戒《カヾミ》となり、四方の人の模範《カタギ》となるべくかまへたるがゆゑに、後代にきゝつぐ人もかたりつぎて、祖先の名と共に斷《タエ》ざるなり、もし古の人のごとく、まことのすぢをのみ思ひおこしてまねばむには、つひに古の事もあきらかにしらるべきことなるに、さる人の世に乏しきは、志の高からず、學の力のともしきがゆゑなり、柿本朝臣の、石見國より妻に別れて上らるゝ時の長歌の終に、丈夫跡念有吾毛敷妙乃衣袖者通而沾奴《マスラヲトオモヘルアレモシキタヘノコロモノソデハトホリテヌレヌ》とあるは、心あさきに似てふかきところあり、いかにと云に、相《アフ》も別るゝも、かしこき皇帝《オホミコト》によりてすることなれば、女によりて心を動かすことはせじと、いかばかり思ひたけびても、誰もしたには、めゝしくはかなき心おこりて、別をかなしむ旅情には、たへられ(188)ぬならひなるに、しひてさるこゝろをつゝみかくして、さるめゝしきことは思はずと、うはべに丈夫つくりて、人にをゝしく思はせむとかまふるは、うつはりにて、まことの心にあらず、さればそのまことの心のあるがまゝをつくろはず、丈夫と思へる吾なれど、なほしのぴあへず、袖とほるばかりに泣ぬらしつといへるをば、たれかはあはれと思はざらむ、古今集に、あかずして別るゝ袖の白玉は君が形見とつゝみてぞゆくとあるは、心ふかきに似てあさきところあり、いかにと云に、夫婦にまれ親子にまれ、離別《ワカル》るときに臨《ナリ》て、涙の玉と見ゆばかりに落むは、なほさることもあるならひなりといふべけれど、其をまことの玉のごとくに裹みて持行むといふは、幾倍《イクヘ》かまさりていみじき涙なれば、あはれもいよ/\ふかゝるべきに、實にさもあらむとは誰も思ふことならねば、かの袖のとほりて沾るよし、たゞあるがまゝを云るにはたがひて、かへりて心あさし、かくざまたいふことになれるより、われおとらじと、或は涙によりて川水のまさる趣にいひ、或は身さへながるゝよしに巧み設けて、競ひいへること多けれども、みなたゞ口さきのふかさくらべのみにて、心には深しや淺しやしられねば、今よみ擧味ふるに、すべて身にしみ通りてかなしまるることなし、古今集すら、彼朝臣などの歌にくらぶればかくの如し、ましてそれよりこの方はいふまでもなきことなり、すべてかの朝臣等の歌に、花紅葉を雲錦に見なし、涙を玉にまがへたるやうのことは、なきことなるを、はやくさることにも心つかずであるは、志の高からず、學の力のともしきが故ならずや、たゞ柿本山部の大夫たちを歌のひじりなりといふことも、うはのそらなるむかしがたりのやうに、人のいひ(189)つたふるをうけつぎたるのみにて、實にそのきはことにすぐれたるをばえさとらぬは、いふかひなきことゝやいふべからむ、かくて今雅澄が松(ノ)花かずならぬ身にして、遠祖のことをいはむは、かつはやさしく、かつはかたじけなきものから、神の御蔭君の御惠、前人の恩賚まで、つぎ/\にいひのべたるに、ひとり祖先の厚恩をのみもだりてをらむも、本意にしあらねばかつ/”\いふべし、雅澄が八世《ヤツギ》の祖、飛鳥井少將藤原(雅量)朝臣ときこえしは、かたじけなくも内大臣藤原(鎌足)卿の後裔にして、土御門天皇御宇正治元年と云に、かけまくもかしこき、後鳥羽太上天皇のみことのりをうけたまはりて、新古今集をえらばせ給ひし、從三位參議藤原(雅經)卿よりは十世に、後花園天皇御宇、永享十年と云に、みことのりをうけたまはりて、新續古今集を撰ばせたまひし、正二位中納言藤原(雅世)卿よりは四世になむあたり給へる、そのほど土佐國しらしゝ一條の殿をたよらせ給ひ、幡多郡入野郷をしる所に給りて、鹿持城に居給ひしより、この國にて世々を重ねられけるなり、さてかの君の此國にて歌よみしたまひ、くさ/”\みやびわざどものありしことなどは、物にもしるしとゞめかたりもつたへて、世にしるところなり、かくて雅澄があまたの年月、この萬葉集の註解を思ひおこしてより、くさ/”\とけがたきふしどもにいたりて、思ひうむじたることのありしほど、やゝもすれば、たれさとすともなく、さとりえしことなどの多くありしは、かたじけなくも遠祖神たちの御靈のとし給へること、又そのほかにもとりどり奇異《クシビ》なること思合するに、これみなひとへに、世々の祖神たちの御靈のたすけ給へるがゆゑなりと、たふとくうれしさをつゝむとすれど、たもとにあまり(190)てかくなむあなかしこ、
 
萬葉集古義總論 其三終
 
(191)萬葉集古義總論 其四
   舊本目録(ノ)辨
舊本卷々にしるせる目録は、此集|撰《カケ》るときにしるせるものにはあらず、されど仙覺などが校合《カムガヘ》て、新に記せる物にはあらず、彼律師などよりは、やゝ古(キ)ときにかけるものと見えて、仙覺が奧書に、如2松殿御本、左京兆本、忠兼等本1、廿卷皆卷々端(ニ)目六在之、但目六之詞各有2少異1云々とあるにて著《シル》し、かの松殿本といへる松殿は、攝政關白太政大臣基房公にて、高倉天皇承安の年間に出し御本とおぼゆ、仙覺が校《カムガヘ》し弘長文永の年間よりは、凡八九十年、あなたなり、左京兆本、忠兼本などいへるものも、其年間の近きあたりになれりしものと見ゆ、さて其は固有《モトヨリ》のものにはあらで、各私本の目じるしにくはへたるものにて、題詞のまゝをひろひ取、或は左註により、或は自己《ミヅカラ》の勘辨《カムガヘ》を以て、よきほどに斟酌《ハカラヒ》てしるせるがゆゑに、各本ごとに目録のさままちまちにて、一同《ヒトシナミ》ならざりしはさる故なりけり、されば目録之詞各有2少異1とはいへるなり、又彼奧書の次に、如2二條院御本之流、并基長中納言本之流、尚書禅門眞觀本1者、至2于第十五卷1目六在之、第十六卷以下五卷無2目六1、自v本如v此本一流有之歟、とあるも、かの二條院御本、また基長中納言本などを以て寫し流《ツタ》へし本に、十五卷まで目録をしるしたりしを、其業を卒ずして、十六卷よより下(ツ)かたは、なほもとのまゝにて傳はれるを、眞觀などが本も、そのまゝを寫しつたへたるも(192)のならむ、さるは十五卷までは目録なくてはかなはず、十六卷以下は目録なくてことゆくべし、と云ことわりの、さらにあるまじければなり、眞觀は、右大辨右衛門佐正四位下光俊の出家して後の名にて、光俊は、四條天皇嘉禎の頃出家せし人なりければ、なほ彼頃までも、卷々|全《ミナ》がら目録のなき本もありしなり、かくて又彼奧書の其次に、或又有d都無2目六1本u也とあるは、よりよりに目録をくはへざりし古のまゝの本なるべし、きて今傳はれる本どもには、多く目録のあるは、かの仙覺が校合《カムガヘ》たるとき、その目録に異同のありしを、是《ヨシ》と思はるゝにより、非《アシ》と思はるゝをばすて撰《エリ》しるせるものなるべし、今傳はる本どもの中にも、すべて目録のなき本なるは、古の本をそのまゝ寫し傳へたるものにもあるべし、かくて右にいふごとく、今傳はれる本どもの目録は、やゝ古(キ)ときにかけるを、仙覺などが校合せし時、訂ししるせる物とは思はるれども、なほいたく意得ぬさまなるところの多かるは、かたのごとく校合などには勞《イタツ》きしこと、大かたならざりしかど、なほ此集をとり見る人も、さとり得ることはかたきわざにて、歌詞の本意を了解《サトリエ》ずして誤れること多かりしなり、中にも十卷の目録秋雜歌の條に、詠鴈三首遊群十首としるしたるは、本條に出たる歌に、吾屋戸爾鳴之鴈哭雲上爾今夜喧成國方可聞遊群《ワガヤドニナキシカリガネクモノヘニコヨヒナクナリクニヘカモユク》とありて、遊群は行の假字なるを、舊く國方可聞を、クニツカタカモと訓て、遊群の二字を、次の十首の歌どもの題と意得て、放ち書たるを訂しあへず、其まゝにかぞへて、詠鴈とあるより下十三首は全《ミナガ》ら詠v鴈歌なるを、取分て詠鴈を三首とし、遊群を十首と意得て、目六にしるしたるは、あまりにかたはらいたきことなり、十六卷の目録に、戀2夫君1歌一首並短歌、時娘子戀2夫君1、沈(193)臥痾痩、喚2其夫1逝没時、口號歌一首とあるは、本條に戀2夫君1歌一首並短歌と題して、長歌一首反歌一首ありて、その左に、右傳云、時有2娘子1、性車持氏也、其夫久逕2年序1、不v作2往來1、于時娘子、係戀傷v心沈2臥痾※[病垂/尓]1、痩羸日異、忽臨2泉路1、於是遣v使、喚2其夫君1、來而乃歔欷流涕、口2號斯歌1、登時逝没也とあるを、いかでさばかり見誤りて、題詞と意得けむといとかたはらいたし、又その下の目録に、椎野連長年歌一首、又和歌一首とあるは、本條に古歌曰、橘寺之長屋爾《タチバナノテラノナガヤニ》云々、右歌椎野連長年説曰云々とありて、古歌をことわりたる椎野連長年が説を、左註に擧たるにこそあれ、いかで長年がよめる歌とまでは見誤りけむ、さて又和歌一首とあるも、長年が説中にて、决曰とあるを放ち書たるにまよひぞ、和(フル)歌と心得たるならむ、又十七卷目録に、守大伴家持贈2掾大伴池主1悲歌二首とある次に、同二十年二月二十九日、守大伴宿禰家持作歌二首と記したるは、右の悲歌につきたる書牘ありて、その歌の下に月日をしるして贈れることなるを、左の歌の題詞と見誤りたるものなり、さて其次に、姑洗二日掾大伴池主更贈一首並短歌三首と記せるは三月二火掾池主より、守家持に贈れる書牘ありて、夜麻可比爾《ヤマカヒニ》云々、宇具比須能《ウグヒスノ》云々といへる歌二首ある、其書牘と歌の下に、月日をしるして贈れることなるを、左の家持より更贈歌一首並短歌とあるに引連ねて、左の歌の題詞とかた/”\見誤りたるものなり、又その次に、三月三日大伴家持、送2掾大伴池主1七言詩一首並序と記せるも、右の家持より更贈歌につきたる書牘ありて、その歌の下に、月日をしるして贈れることなるを、左の七言詩の題詞と心得、はた七言詩は、池主より家持へ贈れることなるを、あしく見て、家持より地主へ送りとしたるも、かた/”\あ(194)やまりなり、その次に、四日大伴池主、奉v和2守家持1詩歌二首並短歌としるせるも、右の池主より家持へ贈れる詩につきたる書牘ありて、その詩の下に月日を記して贈れることなるを、左の歌の題詞と心得あやまりたるなり、その次に、五日掾大伴宿禰池主、答2守家持1詩一首並序、としるせるも、右の池主の更贈歌につきたる書牘ありて、その歌の下に、月日をしるして贈れることなるを、左の詩と歌との題詞と心得、はた左の詩と歌とは、家持より池主へ贈れることなるを、池主より家持へ答へたるものと心得たるも、かた/”\誤りなり、その次に、四月大伴家持、未v聞2霍公鳥1歌二首としるせるは、本條に、立夏四月、既經2累日1、而由未v聞2霍公鳥喧1、因作歌二首とありて、歌の後に三月二十九日としるせれば、三月によめる歌なるを、題詞をあしく見て誤りたるなり、その次に、三月二十九日、大伴家持二上山賦一首としるせるも、三月二十九日は、右の霍公鳥を恨て作る歌につきたることにて、二上山賦の後には、三月三十日依v興作之とあれば、これも左註をあしく見て誤りたるなり、その次に、三十日大伴家持依v興作歌一首と記せるは、全く右の左註を見誤りたるものにて、謂もなく贅《アマ》りたる題詞なり、其次に、二十日守大伴家持、遊2覽布勢水海1賦一首並短歌としるせるも、二十日は、次上の大目秦忌寸八千島之館宴歌につきたることにて、遊2覽布勢水海1賦の後には、二十四日としるしたれば、これも左註をあしく見て誤りたるなり、その次に、二十四日掾大伴池主、敬d和遊2覽布勢水海1賦u一首並一絶としるせるも、二十四日は、次上の歌につきたることにて、池上敬和たる歌の後には、四月二十六日とあれば、これも左註と見誤りたるなり、十八卷に、十七日大伴家持先妻、不v待2夫君之使1、自來時歌一首と(195)あるは、少咋先妻、不v待2夫君之喚使1自來時、大伴家持作歌とあるべきを、あしく見て誤りたるものなり、又末に、二月十一日、守大伴家持、忽起2風雨1不v得2辭去1作歌一首とあるは、何の謂とも通《キコ》えがたし、本條によるに、二月十八日、縁d檢2察墾田地1事u、宿2礪波郡主帳多治比部北里之家1、于時忽起2風雨1不v得2辭去1、大伴家持作歌とあるべきを、略過たる題《シル》しざまなり、十九卷の目録に、三形沙彌左大臣歌二首としるせるは、本條に、長歌一首反歌一首ありて、其左註に、右二首歌者三形抄彌、承2贈左大臣藤原北卿之語1作誦之也、云々とあれば、其さまにあるべきを見誤りで、三形沙彌と云が、左大臣の姓名のごと思はれて、何ともきこえぬ題詞になれるなり、其次に、七月十七日越中守家持、時遷2任少納言1作2悲別歌1、贈2貽朝集使掾久米廣繩館1二首としるせるは、本條に、以2七月十七日1、遷2任少納言1仍作2悲別歌1、贈2貽朝集使掾久米朝臣廣繩之館1二首としるし、小序ありて二首の歌を載(ケ)、後に八月四日贈之とあれば、そのさまにしるすべきを、やがて七月十七日に贈りたるごときこゆるかきざまなり、廿卷の目録に、陳2防人悲別之情1歌一首並短歌、同二十三日兵武少輔大伴宿禰家持三首としるしたるは、本條に、陳2防人悲別之情1歌一首並短歌と題《シル》して、左に長歌一首短歌四首を載(ケ)て、その後に二月二十三日、兵部少輔大伴宿禰家持と記したるをあしく見て、短歌、四首の中、一首は長歌の反歌、三首は二月二十三日によめるものと心得たるより、かく題《シル》せるなり、されば陳2防人云々1歌一首並短歌にて事たれるを、同二十三日云々の目録は、いたづらに衍《アマ》れるなり、その下に、防人等の歌を載たるに、上丁那珂郡檜前舍人石前之妻、大伴部眞足女一首と云より、妻物部刀自賣一首と云まで、十二人の名をしるして、其次に、二月二(196)十日、武藏國部領防人使、掾正六位上安曇宿禰三國進歌數二十首とあるは誤なり、上の檜前舍人石前之妻より、物部刀自賣が歌まで十二首は、三國が造れる歌の中なれば、別に擧べきよしなきを、左の昔年防人歌の題をしるさずして、歌の左に註せるゆゑに見まがひて、二月二十日武藏國云々とあるを、昔年防人歌の題と心得たるより、かく記せるなり、かゝる類の混亂なほ許多なり、細に云ときはかぎりもなし、其は熟《ヨク》本條の意を得たらむ人は、引合(セ)見て知べきことなり、かくて今卷々の目録のさまを考(ヘ)わたすに、十五卷までは、いみじき混雜はすくなきかたにて、十六卷より下はなほ許多なり、さるは上にも云たるごとく、眞觀本などには、十五卷まで目録ありて、十六卷より下はなしとある、其は十五卷まで物して、十六卷以下は業を卒ざりしとおぼゆるに、その十五卷までは、やゝ委く本條を考(ヘ)合(セ)てしるせるが、いさゝか正しき方なりけむからに、仙覺などが校へ正してしるせるに、そのよしとおもふをうつし、十六卷より下は、いづれもをさなくつたなかりしを、委く訂しあへずして、うつしつたへしゆゑにも有べし、さはいへど今傳はる目録も、仙覺などよりは前に出たるものにて、中には本條の題詞に考(ヘ)合すべきことの、たえてなきにしもあらねば、其は時として考(ヘ)合すべきたづきとなることは、其處に引合(セ)おきつるを、なべては今傳るところの目録は、固有のものにあらざれば、すべてたのみがたきことがちなれば、捨てとらずして、今新に本條を合(セ)考(ヘ)て、目録を造りつるなり、なほ余がつくれる目録に疑あらむ人は、本條を照し考へて、其みだりならざることを知べし、
 
(197)○萬葉集卷第一、歌數八十二首(長十五、短六十七)
  雜歌(長十五、短六十七)
泊瀬朝倉宮御宇天皇代
 天皇御製歌(長一)
高市崗本宮御宇天皇代
 天皇登香具山望國之時御製歌(長一)
 天皇遊獵内野之時中皇命使間人連老獻歌(長一、短一)
 幸讃岐國安益郡之時軍王見山作歌(長一、短一)
明日香川原宮御宇天皇代
 額田王歌(短一)
後崗本宮御宇天皇代
 額田王歌(短一)
 幸于紀温泉之時額田王作歌(短一)
 中皇命往于紀伊温泉之時御歌(短三)
 中大兄三山御歌(長一、短二)
 
〔以下省略〕
 
(247)   三體(ノ)辨
歌詞三體のことは、既《ナキ》にことわりたれど、なほまがふこともあらむかとて、こゝにもいへり、○長歌とは、七句以上にてとゝのへて、五七五七五七七、四十三言餘に位するを以て長歌とす、○短歌とは、五句にてとゝのへて、五七五七七、三十一言に位するを以て短歌とすること、人の心得たるごとし、○旋頭歌とは、六句にて調へて、五七七五七七、三十八言に位するを以て旋頭歌とす、
長歌、四十三言餘に位するとは、たとへば古事記倭建命御歌に、夜麻登波《ヤマトハ》(五言位)久爾能麻本呂婆《クニノマホロバ》(七言)多多那豆久《タヽナヅク》(五言)阿袁加岐夜麻《アヲカキヤマ》(七言位)碁母禮流《コモレル》(五言位)夜麻登志《ヤマトシ》(七言位)宇流波斯《ウルハシ》(七言位)とあるは、三十四言なれども、五七五七五七七の七句の格にいひのべて、四十三言に位するがゆゑに、なほ長歌の體をそなへたり、集中にては、十六に、飯喫騰《イヒハメド》、味母不在《ウマクモアラズ》、雖行程《アルケドモ》、安久毛不有《ヤスクモアラズ》、アカネサスキミガコヽロシワスレカネツモ
とある、これ集中長歌の短き限りなり、されど七句にて全(ラ)四十三言に云のべたれば、長歌の體をそなへたることはさらなり、其餘はなずらへ知べし、短歌、三十一音に位するとは、たどへば古事記倭建命御歌に、袁登賣能《ヲトメノ》(五言位)登許能辨爾《トココノベニ》(七言位)和賀淤岐斯《ワガオキシ》(五言)都流岐能多知《ツルギノタチ》(七言位)曾能多知波夜《ソノタチハヤ》(七言位)とあるは、二十六言なれども、五七五七(248)七の五句の格にいひのべて、三十一言に位するがゆゑに、なほ短歌の體をそなへたり、履中天皇御歌に、波邇布邪迦《ハニフザカ》(五言)和賀多知美禮婆《ワガタチミレバ》(七言)迦藝漏肥能《カギロヒノ》(五言)毛由流伊弊牟良《モユルイヘムラ》(七言)都麻賀伊弊能阿多理《ツマガイヘノアタリ》(七旨位)とあるは、三十三言なれども、五七五七七の五句の格にいひふせ賜ひて、三十一言に位するがゆゑに、なほ短歌の體をそなへたり、集中これに准(フ)べし、旋頭歌、三十八言に位するとは、たとひ言の餘れるも足ざるも、中にはたま/\あることなれど、五七七五七七の六句の格にいひふせて、三十八言に位するを、みな旋頭歌とすること、長歌短歌になずらへて知べし、此餘五七五七七七の六句の格にいひのべて、三十八言に位する歌あり、言(ノ)數は旋頭歌に異《タガ》はざれども、これは常の短歌に、一句を贅《アマ》したる體にて、旋頭歌にあらず、別に一體なり、これを贅句《フシアマリノ》歌とす、集中には見えず、其は古事記清寧天皇(ノ)條志毘臣(ガ)歌に、意富岐美與《オホキミノ》(五言)美古能志婆加岐《ミコノシバカキ》(七言)夜布志麻理《ヤフジマリ》(五言)斯麻埋母登本斯《シマリモトホシ》(七言)岐禮牟志婆加岐《キレムシバカキ》(七言)夜氣牟志婆加岐《ヤケムシバカキ》(七言)とあるをはじめて、古歌に往々あり、別に論《アゲツラ》へり、思ひ混ふべからず、
 
萬葉集古義總論 其四終
 
(1)萬葉集古義索引
     凡例
一、本索引は、萬葉集古義本集中に註釋せられたる各語句を抽出し、之を類聚して五十音順に排列せること、一般索引の體例に准へり。
一、地名人名、その他の固有名詞、及び本集中特に抽出して註せられたるものゝ外、多くは本歌の各句に準據して類聚せり。
一、同一語句にして屡々註せられたるは、その精細なるものを主とし、その餘は、精麁なると同意なるとに拘らず、等しく之を列出附載せり。
一、枕詞、序言等にして同項に屬せるは、同一語句を聯載するの煩と、抽出の不便とを避けて、本辭を最初に於て掲出せる外、各本辭を略して縦線を措き、承詞は片假字として其の下に附記し五十音順に據れること、本辭に同じ。
一、掲出せる語句にして、下語句と連續して意味を完整せるもの、及び類句多くして見易からざるは、特に下語句を片假字にて附載し、之を抽出するに便せり。
一、古義本集に於て音訓の註せられざる語句は、多く舊訓に據り、舊訓亦察し難きは、便宜上(2)音讀に據りて掲出し、その左側に傍線を施して之を判別せり。
一、 本集所載の人名にして屡々註せられたるは、所載本姓名の下に聚收し、官位姓氏のみの所載には、特に名字を細註して其の抽出に便せり。
一、 本索引中、掲出語句の下「一、」「五、」等とあるは、本會刊行本の册序を示し、次下「二一五」「四五二」等とあるは、其の頁數を指すものとす。且つ其の最後に括弧内に顯はせる數字は、萬葉集の卷序にして、本集參閲の際に便せむ爲め、之を附載し置けり。
一、 古義註釋の索引は、既く鹿持翁門下なる松本弘蔭氏の手に仍りて、各部門類別法の下に編せられたるものありと雖も、その抽出するに煩瑣にして不便なると、直に本會刊行本に適用する能はざるとを以て、今之れを採らず、唯だ本索引纂輯の參考に資せるに止め、新に本會に於て、幾何の手數と日子とを要するを厭はず、本索引を編してその闕を補填することとせり。
                  國書刊行會
(3)萬葉集古義索引〔省略〕
 
萬葉集古義第一 明治31年7月1日発行、明治45年6月30日再版発行
 
(1)萬葉集古義一卷之上
                土佐國 藤原雅澄撰
 
雜歌《クサ/”\ノウタ》
 
雜歌は、クサ/”\ノウタ〔六字右○〕と訓なり、かく稱《イフ》ゆゑは首(ノ)卷に委(ク)云り、さてこの標中には、行幸王臣遊宴※[羈の馬が奇]旅、其(ノ)餘《ホカ》數種《クサグサノ》歌を雜《マジ》へ載《アゲ》たれば、かくしるせり、
 
泊瀬朝倉宮御宇天皇代《ハツセノアサクラノミヤニアメノシタシロシメシヽスメラミコトノミヨ》
 
泊瀬(ノ)朝倉(ノ)宮、泊瀬は和名抄に大和(ノ)國城上(ノ)郡長谷(波都勢《ハツセ》)とあり、朝倉(ノ)宮は、帝王編年記に、大和(ノ)國城上(ノ)郡磐坂谷也とあり、大和志に、在2城上(ノ)郡黒崎岩坂二村(ノ)間(ニ)1と云り、古事記下卷に、大長谷(ノ)若建(ノ)命(ハ)坐(テ)2長谷(ノ)朝倉(ノ)宮(ニ)1治(シキ)2天(ノ)下1也、日本書紀雄略天皇(ノ)卷に、大泊瀬(ノ)幼武(ノ)天皇(ハ)雄朝津問稚子宿禰(ノ)天皇(ノ)第五子也、云々、三年(穴穗天皇六月、云々、穴穗天皇枕(キテ)2皇后(ノ)膝(ヲ)1晝醉(テ)眼臥《ミネマセリ》、於是眉輪(ノ)王伺(テ)2其|熟睡《ヨクミネマセルヲ》1而|刺殺《サシコロシマツリキ》之、十一月王子朔甲子、天皇|命《オホセテ》2有司《ツカサ/”\ニ》1設(テ)2壇《タカミクラヲ》於泊瀬(ノ)朝倉(ニ)1即天皇位《アマツヒツギシロシメス》遂(ニ)定v宮(ヲ)焉、云々、二十三年(幼武天皇)八月庚午朔丙子、天皇|疾《オホミヤマヒ》彌甚《イヨヽオモシ》、與2百寮1辭訣《ワカレ》握(テ)v手(ヲ)歔欷《ナゲキタマヒ》崩(ヒマシキ)2于大殿(ニ)1、云々とあり○御宇は(玉篇に、御(ハ)治也、宇(ハ)四方上下(ナリ)とあり、天下を治《ヲサム》るをいふから文字なり、)アメノシタシロシメ(2)シヽ〔アメ〜右○〕と訓べし、(現報善惡靈異記に、輕島(ノ)豐明宮御宇譽田天皇(ノ)代云々、御(ハ)乎左女多比之《ヲサメタビシ》、宇(ハ)阿米乃志多《アメノシタ》、續紀卅(ノ)卷(ノ)詔に、掛麻久毛畏岐新城乃大宮爾《カケマクモカシコキヒニキノオホミヤニ》、天下治給之中都天皇《アメノシタヲサメタマヒシ》とあれば、アメノシタヲサメタマヒシ〔アメ〜右○〕とも訓べけれども、)此(ノ)下人麻呂(ノ)歌に、樂浪乃大津宮爾天下所知兼天皇之神之御言能《サヽナミノオホツノミヤニアメノシタシロシメシケムスメロキノカミノミコトノ》とある、これそ古言なる○天皇代は、スメラミコトノミヨ〔スメ〜右○〕と訓ぺし、古事記|及《マタ》諸(ノ)宣命祝詞等に、天皇命と書る、これしか訓べき例なり、又儀制令(ノ)義解に、至(テハ)2風俗(ノ)所(ニ)1v稱(ル)別(ニ)不v依2文字(ニ)1假令(ハ)如2皇孫(ノ)命及|須明樂美御徳《スメラミコト》之類(ノ)1也と見え、日本書紀竟宴(ノ)歌に、數女良美己度《スメラミコト》とあり、但し歌には皆|須賣呂伎《スメロキ》とよむ例なれど、文辭《フミコトバ》にては、いづれもスメラミコト〔六字右○〕と訓べきことなり、かくてこの天皇崩(リ)坐て、明年河内(ノ)國丹比(ノ)高鷲(ノ)陵に葬奉れり、書紀清寧天皇(ノ)卷に、元年冬十月癸巳朔辛丑、葬(リマツリキ)2大泊瀬(ノ)天皇(ヲ)于丹比(ノ)高鷲(ノ)原(ノ)陵1と見ゆ、今多治比村の西黒山村の東にあたりて陵あり、これなるべしと契冲代匠紀にいへり、諸陵式に、丹比(ノ)高鷲(ノ)原(ノ)陵、泊瀬(ノ)朝倉(ノ)宮(ニ)御宇(シ)雄略天皇在2河内(ノ)國丹比(ノ)郡(ニ)1、兆域東西三町南北三町陵戸四烟とあり、黒山は和名抄に、河内(ノ)國丹比(ノ)郡黒山とあり○代の下、舊本に、大泊瀬稚武天皇と大字にて書り、官本其(ノ)餘諸本等には小字に注《シル》せり、(大(ノ)字、舊本古葉略壘聚鈔等に太と作るはわろし、書紀に大と作るそよき、皇(ノ)字、古寫本には王と作り、古事記にも、天皇を天王と書る處のある本どもゝ有《アレ》ど皆わろし、さて拾穗本には、天皇謚曰2雄略天皇1と云注もあり、日本紀私記に、神武等(ノ)謚名者、淡海御船奉v勅撰(3)也とあり)いづれも後人のしわざなり、六條本にすべて無そよき、(其(ノ)よしは下に藤原(ノ)宮(ニ)御宇(シ)天皇(ノ)代と標《シル》して、其(ノ)下に高天(ノ)原廣野姫天皇と書る藤原(ノ)宮は、持統天皇文武天皇二御代の宮なるを、持統天皇の御名のみしるせるは、一御代のみの標とこゝろ得たる非なり、いづれも其(レ)に准へて、後人のしわざなるを知べし、)かくてこの御名の字《モジ》、書紀には稚を幼と作、古事記には大長谷(ノ)若建(ノ)命とかけり、
 
天皇御製歌《スメラミコトノヨミマセルオホミオウタ》
 
御製歌(拾穗本には歌(ノ)字なし、下なるも皆御製とのみあり、さる本もありしなるべけれど、歌(ノ)字はあるそまされる、)は、ミヨミセルオホミウタ〔ミヨ〜右○〕と訓べし、玉篇に、製(ハ)作也裁也とあり、凡集中をおし渡して考(フ)るに、歌よみすることを、天皇の御上には御製としるし、皇子には御作としるし、諸王より庶人に至るまでを作と書り、かくてヨム〔二字右○〕と云言は、古事記上卷に、爾|吾《アレ》蹈(テ)2其(ノ)
上(ヲ)1走(リ)乍《ツヽ》讀度《ヨミワタラム》、集中四(ノ)卷に、月日乎數而《ツキヒヲヨミテ》、七(ノ)卷に、浪不數爲而《ナミヨマズシテ》、十一に、打鳴皷數見者《ウチナスツヾミヨミミレバ》、十三長歌に、吾睡夜等呼讀文將敢鴨《《アガネシヨラヲヨミモアヘムカモ》、(反歌に、一眠夜算跡雖思《ヒトリヌルヨヲカゾヘムトオモヘドモ、)又|吾寢夜等者數物不敢鴨《アガヌルヨラハヨミモアヘヌカモ》、十七に、月日餘美都追《ツキヒヨミツツ》などありて、物を數計《カゾ》ふることなり、歌を餘牟《ヨム》も、心に懷《オモ》ふ數《コト》を條々《ヲヂ/”\》と計へ擧るものなれば云なり、また、古事記輕(ノ)太子(ノ)御歌の下に、故(レ)此(ノ)二歌者|讀歌也《ヨミウタナリ》とも見えて、本居氏、讀歌は樂府にて、他の歌曲の如く、聲を詠めあやなしては歌はずして、直誦《タヾヨミ》に讀擧(グ)る如唱へたる故の名(4)なるべし、凡て余牟《ヨム》と云は、物を數ふる如くに、つぶ/\と唱ふることなりと云り、又|書《フミ》を餘牟《ヨム》、又|他《ヒトノ》歌を誦《トナフ》るをも餘牟《ヨム》と云など、文言を數ふる謂にて皆同じ、さて天皇及さるべき神等の御うへには、用言にも御《ミ》と云言を冠らする例、御佩《ミハカセル》、御娶《ミアヒマス》、御立《ミタヽス》、御寢坐《ミネマスなどあり、かくて古事記に、天皇の御製を大御歌《オホミウタ》と書り、これ然訓べき證《アカシ》なり、總て天皇の御うへの事をば尊みて、大御代《オホミヨ》、大御身《オホミヽ》、大御手《オホミテ》、大御琴《オホミコト》などいふ例なり○凡(ソ)題詞《ハシツクリ》の類は、もとからぶみざまに書るなれば、其《ソ》をこと/”\古(ヘ)ざまに正《タヾ》して訓むことも、中々のいたづきに似たり、さるはこの注書は、歌詞を主《ムネ》として、釋《トキ》たるものなれればなり、しかれども神(ノ)名、人(ノ)名などの類はさるものにて、官(ノ)名、地(ノ)名などくさ/”\の稱號《ナ》、古(ヘ)と今との差異《カハリ》あることにて、其《ソ》を唱へたがへたらむは、古學《フルコトマナビ》する緊要《ムネ》にもとりて、いと心づきなきものなれば、わづらはしきが如くなれども、さるたぐひはやむこと得ずして、かつ/”\證どもを擧てことわれること、既《ハヤ》く首(ノ)卷にも論《アゲツラ》へる如し、後々其(ノ)心して見べし、
 
1 籠毛與《コモヨ》。美籠母乳《ミコモチ》。布久思毛與《フクシモヨ》。美夫君志持《ミフクシモチ》。此岳爾菜採須兒《コノヲカニナツマスコ》。家告閑《イヘノラセ》。名告沙根《ナノラサネ》。虚見津《ソラミツ》。山跡乃國者《ヤマトノクニハ》。押奈戸手《オシナベテ》。吾許曾居《アレコソオレ》。師吉名倍手《シキナベテ》。吾己曾座《アレコソマセ》。我(乎)許曾《アヲコソ》。背(迹)齒告目《セトハノラメ》。家乎毛名雄母《イヘヲモナヲモ》。
 
籠毛與《コモヨ》、(毛(ノ)字、拾穗本には母と作り、)籠《コ》は十四卷に、伎波都久乃乎加能久君美良和禮都賣杼故(5)爾毛民《キハツクノヲカノクヽミラワレツメドコニモミ》(舊本乃に誤る、)多奈布西奈等都麻佐禰《タナフセナトツマサネ》(籠《コ》にも無《ナフ》v滿《ミタ》夫名共摘《セナトツマ》さねなり、)とも作《ヨ》み、和名抄に、唐韻(ニ)云、籠(ハ)竹籠也、和名|古《コ》と見えて、いまもつね世に用ふる器《モノ》なり、さて土左日記爲家卿本に、若菜|籠《コ》に入て雉など花につけたり云々、六帖に、結(ヒ)置しかたみの籠だになかりせば何にしのぶの草をつまゝし(後撰集に、種もなき花だにちらぬ宿もあるになどかかたみのこだになからむ、)拾遺集物(ノ)名に、こにやく、野を見れば春めきにけり青葛籠《アヲツヾラコ》にや組まし若菜《ワカナ》採《ツム》べく、(うつほ物語俊蔭(ノ)卷に、青つゞらを大(キ)なる籠《コ》にくみて云々、惠慶法師(カ)集に人の許に青葛《アヲツヾラ》を籠に組て、棗栗などを花にまぜてやるとて、)源氏物語早蕨に、蕨つく/”\しをかしき籠《コ》に入て、是はわらはべのくやうして侍る、はつほなりとて奉れり、手習に、若菜をおろそかなる籠に入て、人のもてきたりけるをなどみえたる、これらは皆若菜の類を入たるよしなり、此(ノ)餘鳥を納(ル)る籠《コ》は、書紀皇極天皇(ノ)卷に、以《ヲ》2白雀1納(レ)v籠《コニ》、和名抄に、説文(ニ)云※[竹/奴](ハ)鳥籠也和名|度利古《トリコ》、金葉集題詞に、鳥を籠《コ》に入て侍りけるが、赤染(ノ)衛門集に、身はこゝに心は空に飛鳥の籠《コ》にこもりたる心ちこそすれ、源氏物語若紫に、すゞめの子を犬君《イヌキ》が※[しんにょう+外]《ニガ》しつる、ふせこの内にこめたりつるものを、云々など見えたり、蟲を納(ル)る籠《コ》は、源氏物語野分に、わらはべおろさせ給ひて、蟲の籠《コ》どもに露かはせ給(フ)なりけり、貝を納(ル)る籠《コ》は、清原(ノ)元輔(ノ)集に、中づかさあるところにまかりたりしに、貝を籠《コ》にいれて侍りしに、浪間分見るかひしなし伊勢(ノ)海の何れこがたのなご(6)りなるらむ」續古事談に、頭(ノ)中將の一種物は、はまぐりをこに入てうすやうをたて、紅葉を結びてかざしたり云々、なほ其(ノ)他|大目麁籠《オホマアラコ》、(書紀神代卷に見ゆ」八目《ヤツメ》之荒籠《アラコ》、(古事記應神天皇(ノ)條に見ゆ、竹取物語にも荒籠見えたり、)※[竹冠/兒](ハ)牛馬(ノ)口上(ノ)籠也、和名|久豆古《クツコ》、火籠(ハ)今(ノ)薫籠也、多岐毛乃々古《タキモノヽコ》、※[竹冠/〓](ハ)飼v馬(ヲ)籠也、漢語抄(ニ)云|波太古《ハタコ》、俗(ニ)用(フ)2旅籠(ノ)二字(ヲ)1、(並和名抄に見ゆ)※[竹冠/差](ハ)籠也、炭籠也、阿良須彌乃古《アラスミノコ》、(新撰字鏡に見ゆ、三善(ノ)爲康(ノ)童蒙頌韻には、即(チ)※[竹冠/差](ノ)字をコ〔右○〕と訓り、)また食籠《ケコ》、(伊勢物語にけことあるこれなり、舊説皆誤れり、體源抄にもけこ見ゆ、)花籠《ハナコ》、(榮花物語に見ゆ、〉猿龍《サルコ》、(今昔物語に見ゆ、)また※[誇の旁+包]《ナリヒサゴ》、輦籠《コシコ》、灑籠《シタミコ》、(延喜式に見ゆ)また破寵《ワリコ》、髭籠《ヒゲコ》、尻寵《シコ》、(この類物に往々《トコロ/”\》見ゆ、)又|箱《ハコ》、※[木+夕]《ヒサコ》、皮子《カハコ》、懸子《カケゴ》、畚《フゴ》、持籠《モツコ》、駕籠《カゴ》、(これら物にも見え、今(ノ)世にも常いふことなり、コ〔右○〕は何(レ)も籠なり、駕籠は舁籠《カキコ》の義なるべし、キコ〔二字右○〕はコ〔右○》に切る、駕(ノ)字の音と思ふべからず、こはことの次にいふのみ、又駕籠といふ名目、鹿苑院殿嚴島詣(ノ)記に見えたり、)さて又人(ノ)名に籠(ノ)字をかけるは、吾子籠《アコヽ》、(仁徳天皇(ノ)紀、)荒籠《アラコ》、(繼體天皇(ノ)紀」大籠《オホコ》、(推古天皇紀、)鹽籠《シホコ》(天武天皇(ノ)紀、)など見え、神(ノ)名には、丹後(ノ)國|籠《コノ》神(後紀並神名帳に出つ、)と見えたり、又籠(ノ)字をコ〔右○〕の假字に用ひたること、集中にも他の古書にも例あり、(此(ノ)下に、射等籠荷四間《イラコガシマ》、二(ノ)卷に、八多籠良《ハタコラ》、十二に、田籠之浦《タコノウラ》、四(ノ)卷、十一、又書紀天武天皇(ノ)卷に、鳥籠山《トコノヤマ》見え、又齊明天皇(ノ)卷に、肉入籠此云2之々梨姑《シヽリコ》1、)又書紀應神天皇(ノ)卷には、五百籠《イホコノ》鹽と見え、仁徳天皇(ノ)卷には、簀(ノ)字をコと訓たり、(此(ノ)他|籠《コ》と云ること、諸の歌集|及《マタ》物語書等にくさ/”\見えたれ(7)ど、あまりにわづらはしければ引ず、古(ヘ)より後まで眞(ノ)物にも假字にも、籠(ノ)字をばコ〔右○〕と訓より他なし、かくまで籠を故《コ》と訓べき所以《コトハリ》は決《ウツナ》きを、契冲僧が、加多麻《カタマ》と訓しをよしとおもひて、誰も誰もしかよみ來れるこそ、いともいとも意得ね、今《イマ》按《オモフ》に、こはコ〔右○〕とよみては、初(ノ)二句三言四言なれば、例の耳なれざる後(ノ)世意から、書紀神代(ノ)卷に、無目堅間《マナシカツマ》てふものゝ見えたるに本《ヨリ》て、しひて五言七言とはなしたるなるべし、されど初句三言四言なるは、はやく神武天皇(ノ)大御歌に、宇陀能多加紀爾志藝和那波留《ウダノタカキニシギワナハル》云々、とあるに本づきたまへることにて、古學《フルコトマナビ》するばかりの人は、皆よく曉《シル》べきことなるを、今まで此(ノ)論《サダ》せし人の無はいかにそも、カツマ〔三字右○〕といふには、古くは堅間勝間など借(リ)て書(キ)、後には※[竹/令]※[竹/青]の字をも用ふめれど、籠(ノ)字を用ひたることは一(ツ)もあることなく、籠はコ〔右○〕と訓より他なきこと、上に例どもをあまた擧たるが如し、近來《チカキコロ》古學《フルコトマナビ》はみさかりに行なはれて、天(ノ)下(ノ)人なべて古風《イニシヘブリ》をとなふめるは、甚《イト》も甚《イト》も可歡《メデタ》きわざながら、此(ノ)萬葉集は微《クハシ》く精力《チカラ》を用ひて、古義を明《サダカ》に辨得《ワキマヘエ》たる人の獨だになかりしこと、嗚呼《アナ》可歎《アハレ》むべし、又※[竹/令]※[竹/青]を古くはカツマ〔三字右○〕といひ、後には訛りてカタミ〔三字右○〕とこそいひたれ、カタマ〔三字右○〕と云ることは、古(ヘ)にも後にも聞及ばぬことなるをや、かの書紀に堅間と書るもカツマ〔三字右○〕にこそあれ、※[竹/令]※[竹/青]のことはこゝに用なければ、下にいたりて云べし、そもそも此(ノ)集などを讀《ヨマ》まく欲《オモ》はむ人は、まづ舊(キ)證《アカシ》のみを深く※[手偏+交]《カムカ》へくはしく尋(ネ)て、私の後(ノ)世意を清く除《サル》べし、私(ノ)意のさらざらむ(8)かぎりは、古(ヘ)人の心辭をうかがふべきことにあらずとしるべし、これそ凡て古書をよむ一大要《オホムネ》にはありける、)毛與《モヨ》は毛夜《モヤ》といふに同じく助(ケ)辭《コトバ》とて、すべて語の勢(ヒ)を助けたもつものなり、ここは次の美籠《ミコ》の御詞を呼出さむが爲に、此(ノ)御助辭をおかせ給へるなり、古事記上卷に、、阿波母與賣爾斯阿禮婆《アハモヨメニシアレバ》、此(ノ)集二(ノ)卷に、吾者毛也安見兒得有《アハモヤヤスミコエタリ》、また古事記下卷に、意岐米母夜《オキメモヤ》とあるを、書紀には於岐毎慕與《オキメモヨ》と作《ア》り、又此(ノ)集五(ノ)卷に、等利爾母賀母夜《トリニモガモヤ》、十四に、水都爾母我毛與《ミヅニモガモヨ》など猶多し○美籠母乳《ミコモチ》、(母の字、類聚抄になきはわろし、)美《ミ》は美稱《タヽヘナ》とて、物の心にかなひて美好《ヨキ》を賛稱《ホメタヽ》へたる辭なり、又|麻《マ》とも毛《モ》とも通はしいへるが中に、美《ミ》といふ時は、尊む方に附ていふは更にもいはず、勝秀《スグレ》たる方にも、(御山《ミヤマ》、御谷《ミタニ》、御埼《ミサキ》などいふ類、)また偏《カタヨ》らず正中《タヾナカ》なる方にも(御中《ミナカ》、御空《ミソラ》など云類、)わたりて通《キコ》え、又|眞《マ》といふに同じく唯|美稱《ホム》る方にもいひ、(御雪《ミユキ》、御草《ミクサ》、御吉野《ミヨシヌ》、御熊野《ミクマヌ》など云類、)眞《マ》といふときは、美稱《ホム》る方と全備《トヽノ》ひたる方(眞手《マテ》、眞袖《マソデ》、眞楫《マカヂ》などいふ類、)とに用ひて、尊む方に云るは凡てなし、(されど尊むも勝秀《スグレ》たるも正中《タヾナカ》なるも全備《トヽノ》ひたるも、此方より美稱《メデタヽフ》る意は異ならねば、落る所は同意なり、)又|毛《モ》と云は、美稱《ホム》る方と正中《タヾナカ》なる方とに云り、古事記上卷に、奴那登母々由良爾《ヌナトモヽユラニ》とある、上の母《モ》は語辭《カタリヨトバ》にて、下の母《モ》は眞《マ》に同じく美稱《ホム》る方なり、また神武天皇(ノ)紀に、六合之中心《クニノモナカ》、天武天皇(ノ)紀に、天中央《ソラノモナカ》、後々秋の毛那加《モナカ》などよみ、榮花物語に、御堂の御前の毛那加《モナカ》は舞臺ゆはせてとあり、これらみな御《ミ》に同じく正中《タヾナカ》な(9)る方なり、但し毛《モ》と云ること集中には見えず、母乳《モチ》は持《モチ》なり、今(ノ)世ならば母底《モテ》といふべきを、かくのたまへるは古言なり、十七に、美許登母知多知和可禮奈婆《ミコトモチタチワカレナバ》、十八に、夜保許毛知麻爲泥許之《ヤホヨモチマヰデコシ》、二十(ノ)卷に、麻蘇泥毛知奈美太乎能其比《マソデモチナミダヲノゴヒ》などあり、また古事記中卷(ノ)歌に「伊斯都々伊母知宇知弖斯夜麻牟《イシツヽイモチウチテシヤマム》、また岐許志母知袁勢《キコシモチヲセ》、下卷(ノ)歌に、許久波母知宇知斯淤富涅《コクハモチウチシオホネ》、また加徴能美弖母知比久許登爾《カミノミテモチヒクコトニ》、また多都碁母々々知弖許麻志母能《タツゴモヽヽチテコマシモノ》、續紀卅六後紀十四續後紀一(ノ)卷(ノ)詔に、清(キ)直(キ)心乎毛知《コヽロチモチ》、また續後紀同卷に、天之日嗣乎戴荷知《アマノヒツギヲイタヾキモチ》などある、みな古風なり、(此(ノ)集十八に、宇万爾布都麻爾於保世母天《ウマ》ニフツマニオホセモテ》、とあるは別なり、そも/\母知《モチ》と母底《モテ》との差異《ケヂメ》をいふに、母知《モチ》は自(ラ)然する詞、母底《モテ》は他に然せしむるをいふ詞にて、美籠持《ミコモチ》、眞袖持《マソデモチ》などいふは自(ラ)持(ツ)ことなれば、いづくにありても母知《モチ》と云ひ、於保世母天《オホセモテ》といふは、他に持することなれば母底《モテ》と云るにて、これ古言の定なり、元來《ソノモト》母底《モテ》は、令《セ》v持《モタ》の約りたる言なればなり、タセ〔二字右○〕はテ〔右○〕と切るにて意得べし、この例は滿《ミツ》を美知《ミチ》といふと、美底《ミテ》といふとの差異《タガヒ》のごとし、美知《ミチ》は自(ラ)滿ることにいひ、美底《ミテ》は令《セ》v滿の約りたる言にて、然せしむる意となるに同じ、しかるを十五に、和伎毛故我可多美能許呂母奈可里世婆奈爾毛能母底加伊能知都我麻之《ワギモコガカ》タミノコロモナカリセバナニモノモテカイノチツガマシ》、とあるは自(ラ)持(ツ)ことなれば、母知加《モチカ》とあるべきを、後(ノ)世の詞づかひにのみ耳なれたるより、ふと寫し誤れるにもあるべし、但し奈良朝の季つかたまりは、かゝる詞づかひの、やゝ混亂《ミダリ》になりそめたりとおぼゆること、(10)他にも例あれば、これはもとより母?加《モテカ》といへるにてもあるべし、いかにまれこの一首のみをもて、母知《モチ》と云|母底《モテ》と云も同じことなり、と思ふことなかれ、然るに今(ノ)京となりては、自他の差別みだれて、必(ズ)母知《モチ》といふべきをも、母底《モテ》とのみ云ことになれり、すべて第二言を、後に第四言に轉しいふ事の例多し、其は隱《カクル》、留《トヾム》の如きをもカクリ、トヾミ〔六字右○〕といひしを、カクレ、トドメ〔六字右○〕とのみ云る類なり、然のみならず母弖《モテ》といふに、持而《モチテ》の意を帶《モタセ》たるものとおもへるにや、そのこゝろばえにて用ひたること多し、又|母弖《モテ》は母知弖《モチテ》の略語ぞといふ説は非なり、打まかせて言を略くといふこと、古言にはすべてなし、十(ノ)卷に、手折以而とあれど、そはタヲリモチ〔五字右○〕テとよむべし、)現報靈異記に、※[口+周](ハ)母知阿曾比弖《モチアソビテ》、字鏡に、※[〓/金](ハ)奈波乃波志爾銅乎毛知天加佐禮留曾《ナハノハシニアカガネヲモチテカザレ《ルソ》とあり、(是も後(ノ)世ならば母弖阿曾比弖《モテアソビテ》、また銅|乎毛天《ヲモテ》などいふべきを、かくいへるは猶古言を存せるものなり、)○布久思《フクシ》は、名義《ナノコヽロ》は掘串《ホリクシ》なり、(今(ノ)世農具の※[金+插の旁]《スキ》の類に、布受伎《フズキ》といふあり、これも掘※[金+插の旁]《ホリスキ》の義《コヽロ》なるべし、)布《フ》と保《ホ》は親《チカク》通《カヨ》ふ、さて布里久思《フリクシ》といはず、布《フ》とのみ云て掘《ホリ》の意に通《キコ》ゆる所以《ユヱ》は、保里《ホリ》の里《リ》は良理留禮《ラリルレ》の活用《ハタラキ》にて、(保良武《ホラム》、保里《ホリ》、保留《ホル》、保禮《ホレ》、)保《ホ》の一言に掘《ホリ》の意あるが故なり、この例は、井光《ヰビカ》、佃《ツクダ》(井※[田+比]可利《ヰビカリ》、都久利田《ツクリダ》の意、)などいふが如し、(是等を打まかせたる略言と意得るは、言の本をわきまへざるなり、)さてこの具《モノ》は今も土佐(ノ)國などにて、即(チ)フグシ〔三字右○〕ともホグシ〔三字右○〕ともいへり、(豐後(ノ)國にてふぐしといふもの、今もありて用ふるなりと、彼(ノ)國(11)人のかたりけるよし、本居氏(ノ)玉勝間にもしるせり、今越(ノ)國にては、海人のかづきにもつものを布具世《フグセ》といふとぞ、契冲、常にはふぐせといへり、しとせと五音通ずれば、ふぐせといへるなりといへり、袖中抄に、海人のまてかたとは、あまのまてと云かひつものとることなり云云、上手はふぐせにても砂をかけば、しるをばはき出すといへり云々としるせり、又松岡玄達が※[贍の旁]々言に、或田舍人のふぐしと云(ヘ)るを問しに、木にて作りさきを尖らし、地へさしこみ物を掘る棒の如き物なりと書(ケ)り、是にて見れば、今も國によりふぐしとも云なるべし、)今はク〔右○〕を濁れども古(ヘ)は清しなり、和名抄に、唐韵(ニ)云、※[金+讒の旁](ハ)犂※[金+截](ナリ)又土具也、漢語抄云、加奈布久之《カナフクシ》とあるも是類なり、(常の布久思《フグシ》は木竹などして造るを、※[金+截]にてつくれるを、ことに金布久之《カナフクシ》とはいへるなり、塵添※[土+蓋]嚢抄に、土をほる物をふぐせと云、ヌついふぐせといふ、ついは土《ツチ》なり、字にはこれを土掘子と書なりといへり、)○美夫君志《ミフクシ》、凡て御《ミ》某と連くに濁音なるはなし、古書等を考へ併せて知べし、(一二《カツ/”\擧て云ば、美祁斯《ミケシ》、彌蘇羅《ミソラ》、彌許意呂《ミコヽロ》、美佐可《ミサカ》、美多爾《ミタニ》、美布禰《ミフネ》などの類、猶いと多かれども、皆清音(ノ)字のみ用ひたり、近(キ)世に出たる古言清濁考併見べし、)然るを此所のみに、美夫君志と夫の濁音の假字を用ひたるは、いと疑はし、もしは後に寫し誤《ヒガ》めたるにも有べし、但し集中十八に多流比女能宇良乎許具夫禰《タルヒメノウラヲコグフネ》、又|末呂宿乎須禮波移夫勢美等《マロネヲスレバイフセミト》など、夫(ノ)字を清音の假字にも用たることもあれば、舊《モト》より清濁通(ハ)して書たるにもあらむか、續紀(12)宣命には、夫(ノ)字を清濁通(ハシ)用たり、(かにかくに濁るべき所由《ヨシ》なし、然るを加藤(ノ)千蔭(ガ)略解に、岡部氏(ノ)考(ノ)説を用ひて、美の言よりつづけとなふるときは、夫を濁るべき例なれば、濁音の夫(ノ)字を用ひたりといへるは、いかなる書の例なるにや、いとおぼつかなきことなり、、)○岳《ヲカ》は、高土《タカキトコロ》の稱《ナ》なり、和名抄に、周禮注(ニ)云、土(ノ)高(キヲ)曰v丘(ト)、和名|乎加《ヲカ》、字鏡に、※[土+丘](ハ)小陵(ヲ)曰v岳、乎加《ヲカ》、また陵(ハ)大阜(ヲ)曰v陵(ト)、乎加《ヲカ》とあり、ヲカ〔二字右○〕はもと丘處《ヲカ》の謂《ヨシ》なり、丘をヲ〔右○〕とのみいへるは、古事記上(ツ)卷に、香山之畝尾《カグヤマノウネヲ》とあるを、書紀には畝丘《ウネヲ》と作《カキ》、又|谿八谷峽八尾《タニヤタニヲヤヲ》とあるをも、書紀には八丘八谷《ヤヲヤタニ》と作《カケ》り、又書紀に、頓丘此(ヲ)云2毘陀烏《ヒタヲ》1などあるをも考(フ)べし、なほ乎《ヲ》と云ること古書に多くみゆ、(元亨釋書に、山梺(ヲ)云|尾《ヲト》、また歌に、峯にも尾にもなどあるは異なり、混(フ)べからず、)處をカ〔右○〕と云例は下にいふべし○菜珠須兒《ナツマスコ》は、菜採兒《ナツムコ》の伸《ノバ》りたるなり、菜採(ミ)賜ふ兒と云むが如し、十七に、乎登賣良我春菜都麻須等《ヲトメラガハルナツマスト》云々とあるに同じ、是は懸《カク》を加々須《カヽス》とも、蹈《フム》を布麻須《フマス》とも、立《タツ》を多々須《タヽス》とも、刈《カル》を加良須《カラス》とも、渡《ワタル》を和多良須《ワタラス》とも、守《モル》を毛良須《モラス》とも、いふと同格の古言なり、すべて言を伸るは、長《ノド》けく緩《ユルヤ》かにいふ時に用(フ)ることにて、その長(ケク)緩(カ)なるは即(チ)尊みていふ方なれば、採須《ツマス》の採賜ふといふ意になるに準へて、其(ノ)餘をも意得べし、(今(ノ)世の俗言に、サセラル〔四字右○〕といふ詞の本にて、採須は俗に採させらるゝといふにおなじ、しかるをたゞ無益《イタヅラ》に伸縮して、或は言の足ざる處を伸ていひ、餘れる處を縮めていふことゝおもふは、あらぬことなり、)さて天皇よりしてさる菜採(13)女をさして、しかあがめのたまはむは、ふさはしからず思ふ人もあるべけれど、中々に後(ノ)世意なり、すべて貴賤にかゝはらず、人をあがむるは上古のふりなること、集中また中昔までもなほ歌詞に其(ノ)風の遺りたること、往々見えたるをや、さてまたこの菜採女を、昔來《ムカシヨリ》賤しき女とのみ意得たるもいかゞ、さるは菜つみ水くむは、ひとへに賤しき者のするわざとおもへるにや、(但しこの御一句をナツムスコと訓て、須兒《スコ》は賤兒《シヅコ》のつゞまりたるにて、賤女をいふと解る目うつしに、なほナツマスコ〔五字右○〕と訓ても、賤女のことゝのみおもへるにもあるべし、古今集に、仁和のみかどみこにおまし/\ける時に、人に若菜賜ひける御歌、君がため春の野に出て若菜つむ吾(ガ)衣手に雪はふりつゝとあり、もし菜つむをよき人のせぬ業ぞといはば、大御位にのぼらせ賜ふ皇子の、かくのたまはむや、ましてそれよりも上つ代はさらなり、よく/\おもふべし、)今おもふに、下ざまの者をもうやまひてのたまふは、上古のふりなれば、あるまじき事にはあらねど、猶この女は、良(キ)家のよしある人の女にぞ有けむ、(すべて大御歌のやうをおもふに、たゞ賤女とはきこえず、)さるやむごなき女の、春の野に出て若菜など採つゝ遊び賜ひけむに、御目とまらせ賜ひてとひよらせ給ひ、且《マタ》大御歌などあそばしけるにこそとぞおぼゆる、兒《コ》はこゝにては女をさせり、兒とは男女《メヲ》にわたりていふことなれど、もとは女《メ》といふに對《ムカ》へて男《ヲ》をいふ稱《ナ》(比古《ヒコ》比賣《ヒメ》、また袁登古《ヲトコ》袁登賣《ヲトメ》、)なるを、又|男女《メヲ》にわたり(14)ていへることも、いと上(ツ)代よりの事と見ゆるが中に、漸(ク)女の方に多くいふことゝはなれりき、(さるは男を古《コ》といふに對へて、女を賣《メ》といふことは後までも然なるを、總ては子といふものは、父母に愛《ウツクシ》まるゝ物の極(ミ)なれば、父母の子を思ふが如く愛みては、男女をいはず子といふ中に、女はことに賞愛《ウツクシ》まるゝ情ふかき物なれば、自(ラ)女をさして云るが、いと多くなれるものなり、縵(ノ)兒櫻(ノ)兒など、やがて女(ノ)名に付たるも其(ノ)意なるべし、)○家告閑、(告(ノ)字、舊本誤(リ)て吉と作《カケ》るを、今は一本によりつ、告吉相誤れる例集中にあり、)閑は誤字《ヒガモジ》なることは疑なけれども、其(ノ)字は未(ダ)思得ず、勢などの誤にも有べし、(勢の草書※[勢の草書]と書ときは、閑の草書※[閑の草書]に混《マギ》るべし、)さて此(ノ)御一句はイヘノラセ〔五字右○〕と訓べし、告《ノル》を伸(ベ)言(フ)時は、佐斯須勢《サシスセ》(能良佐禰《ノラサネ》、能良斯《ノラシ》、能良須《ノラス》、能良勢《ノラセ》、)と活用《ハタラク》例なれば、必(ズ)ノラセ〔三字右○〕となくてはかなはず、則(チ)三(ノ)卷に、吉名者告世父母者知友《ヨシナハノラセオヤハシルトモ》とあり、(岡部氏は、閑(ノ)字を閇に改めて、イヘノラヘ〔五字右○〕とよめれど、凡《スベテ》告《ノル》を能良波禰《ノラハネ》、能良比《ノラヒ》、能良布《ノラフ》、能良閇《ノラヘ》など、波比布閇《ハヒフヘ》と活用《ハタラカ》すべき處ならねば、此(ノ)説は 決《カナラズ》非《ヒガコト》なり、)さて告勢《ノラセ》は乃禮《ノレ》の伸りたるにて、伸てのたまへるは、即(チ)あがめてのたまふ方なること、上に云るがごとし、かくて告勢《ノラセ》も乃禮《ノレ》も、勢《セ》と禮《レ》は令《オホ》する辭にて、云々|命《セシ》めたまへ、云々|令《セシ》めよといふ意なり、○名告沙根《ナノラサネ》、沙《サ》は勢《セ》の轉れるにて、名告勢《ナノラセ》とのたまふに、根《ネ》の辭のそはりたるなり、さてその根《ネ》の辭のそふまゝに、勢《セ》を沙《サ》に轉して云々|沙根《サネ》といふこと、古(ヘ)の證みなしかり、根《ネ》は希望《コヒネガヒノ》辭とて、しかを/\せよか(15)し、あるはしか/\あれかしと、物を希望ふときにいふ辭なり、かくてこの根《ネ》の辭は、二句を兼て詔へるにて、くはしくいふときは、家告沙根《イヘノラサネ》、名告沙根《ナノラサネ》の義なるを、この一(ツ)の根にこめてのたまへるなり、(後撰集に、松もひきわかなもつまずとあるは、松も引ず、若菜も摘ずといふ義となるにおなじ、)さて根の希望辭をおける例は、古事記上(ツ)卷八千矛(ノ)神(ノ)御歌に、宇知夜米許世禰《ウチヤメコ》《セネ》、下(ツ)卷女鳥(ノ)王(ノ)御歌に、佐邪岐登良佐禰《サヾキトラサネ》、穴穗(ノ)御子(ノ)御歌に、加久余理許泥《カクヨリコネ》、また輕(ノ)太子(ノ)御歌に、和賀那斗波佐泥《ワガナトハサネ》、書紀神代(ノ)下卷に、豫嗣豫利據禰《ヨシヨリコネ》、聖徳(ノ)太子(ノ)傳暦(ノ)謡に、相看社根《アヒミエコセネ》、此(ノ)卷(ノ)下に、草乎刈核《カヤヲカリサネ》、二(ノ)卷に飛反來年《トビカヘリコネ》、三(ノ)卷に、雨莫零所年《アメナフリソネ》、四(ノ)卷に、情示左禰《コヽロシメサネ》などかぞへもあへず、さて五(ノ)卷に奈何名能良佐頑《ナガナノラサネ》、九(ノ)卷に、汝名告左禰《ナガナノラサネ》などあるは、もはらこゝとおなじ、(中昔以來の詞に、名告れと乞ふを名のりね、刈れと乞ふをかりねなどいへる類も、禰《ネ》の言は全同じことながら、用格《ツカヒザマ》後(ノ)世にて古(ヘ)にあらず、さて略解に、名告沙根は名を告《ノレ》よなり、ノラサネ〔四字右○〕をつゞむればノレ〔二字右○〕となりて、名のれと云と同じといへれど、上にもいへるごとく、古(ヘ)は無益《イタヅラ》に言を伸縮して云ること、かつてなければ、此(ノ)説はやすくてさならむとは聞ゆれど、古言の義に委しからねば通《キコ》えぬ所多し、右に引る例どもを考(ヘ)併せて曉《シル》べし、告沙根《ノラサネ》また刈核《カラサネ》などの類は、ノレ〔二字右○〕またカレ〔二字右○〕の延りたるものぞといはむも、まづはさてあるべきを、許世禰《コセネ》又|來禰《コネ》又|零所年《フリソネ》などの禰《ネ》をば、さては何とかいはむ、)○虚見津《ソラミツ》は、枕辭なり、古事記下(ツ)卷仁徳天皇(ノ)大御歌に、蘇良美都夜(16)麻登能久邇爾《ソラミツヤマトノクニニ》、集中には此(ノ)下に、處見倭乎置《ソラミツヤマトヲオキ》、五(ノ)卷に、虚見通倭國者《ソラミツヤマトノクニハ》、十三に、空見津倭國《ソラミツヤマトノクニ》、十九に、虚見都山跡乃國《ソラミツヤマトノクニ》、續紀七(ノ)卷天武天皇(ノ)御製(ノ)歌に、蘇良美都夜麻止乃久爾波《ソラミツヤマトノクニハ》(和名抄曲調(ノ)類に、蘇羅蜜《ソラミツ》など見えたり、(延喜六年書紀竟宴(ノ)歌に、藤原(ノ)忠紀、蘇朗美都邇阿麻能伊婆布然玖陀斯志波《ソラミツニアマノイハフネクダシヽハ》云々とあるは、即(チ)虚見(ツ)を倭のことゝしてよめるなり、)此(ノ)詞の起《ハジマリ》は、書紀神武天皇(ノ)卷に、及至|饒速日《ニギハヤビノ》命、乘《ノリ》2天磐船《アマノイハブネ》1而《テ》、翔2行《カケリユカストキニ》大虚《オホソラヲ》1也、睨《ミサケ》2是郷《コノクニヲ》1而《テ》降之《アモリマシキ》、故《カレ》因|目《ナヅケタリキ》2之曰|虚空見日本國《ソラミツヤヤトノクニト》1矣とあり、(此(ノ)文に據て、舊來《ムカシヨリ》人皆|虚空《ソラ》より見つといふ意とのみ意得て、ことさらにたどらむものともおもひたらざめり、しかれども余《オノレ》ひそかに疑ふことあり、そのよしは、もし虚空より見つる意ならむには、虚從《ソラヨ》見しとこそいふべきを、直《タヾ》に虚見《ソラミ》といひては、此方より虚空《ソヲ》を見る意になるはいかにぞや、たとへば天見《アメミル》、山見《ヤマミル》などいふも、此方より天を見山を見る意にて、天より見山より見ることには、きこえざるごとくなるをや、縱《ヨ》といふべきを省《ハブ》けり、などいはむは、甚《イタ》く古語のさまにそむけることぞ、そのうへ見津《ミツ》の津《ツ》は、過去《スギニ》しことをいひ終《トヂム》る辭にて、凡て下へ連屬《ツヾ》く辭にしもあらず、夢《イメ》に見津《ミツ》、裳《モ》の裾《スソ》濕津《ヌレツ》、玉《タマ》を拾津《ヒロヒツ》などある津《ツ》にて意得べし、かゝる津《ツ》の辭より下へ連屬く例は、さらになきことなり、古語の格を熟(ク)味(ヒ)得たらむ人は、余が辨をまたずとも心づきなむことなるに、今まで此(ノ)さだせし人の、ひとりだになかりしはいかにぞや、)今つら/\書紀の文意を考(フ)るに、(睨2是郷(ヲ)1云々、曰2昌虚空見云々(ト)1としるされたるは、いかさま(17)にも虚空より見つといふ意に、いとも/\まぎらはしき書《シル》しざまなれど、よくおもへぼ、見は借(リ)字にて見(ル)意にはあらず、埴安《ハニヤス》といふ地(ノ)名は、もと埴黏《ハニネヤス》といふ意より負せたる名なるを、書紀(ノ)神武天皇(ノ)卷にしるされたるやう、前年(ノ)秋九月、潜(ニ)取(テ)2天(ノ)香山之埴土(ヲ)1以造2八十平瓮(ヲ)1、躬自|齋戒《ユマハリテ》祭(タマヒテ)2諸神(ヲ)1、遂(ニ)得(タマヒキ)3安2定(ルコトヲ)區宇(ヲ)1、故(レ)號2取v土(ヲ)之處1曰2埴安(ト)1、云々とあるは、安(ク)2定(メ)區宇(ヲ)1しより、埴安と地(ノ)名にも負せたりといふに、いと/\まぎらはしきがごとく、今も虚空見とかゝれたるは、たゞ文字のうへの、おのづからさる意にまぎらはしきことにこそあれ、立かへりてよく古(ヘ)の意を求むるときは、さらに文字には拘泥《カヽハ》るべきにあらず、埴安のことはこゝに用なけれど、文字によりてまぎるゝことの似たることなれば、言長けれどおどろかしおくのみ、)虚見津は虚御津《ソラミツ》なり、御津《ミツ》の御《ミ》は美稱にて、眞《マ》津といはむがごとし、かくいふ所由《ユヱ》は、まづかの饒速日(ノ)命の、天(ノ)磐船に乘《ノラ》して、大虚《オホソラ》を榜廻《コギメグ》らしゝとき、遂にこの山跡(ノ)國を見《メ》し給ひて天降《アモ》りまし、其(ノ)磐船を泊給ひし津なる謂《ヨシ》にて、虚御津山跡乃國《ソラミツヤヤトノクニ》とは云るなりけり、○山跡乃國《ヤマトノクニ》は、今の畿内大和(ノ)國をさせり、本居氏(ノ)國號考に詳《クハ》しくいへるを考(フ)べし、大和(ノ)國をしろしめすよし詔ひて、おのづから天(ノ)下を所治《シロシメ》すことにわたりてきこゆるなり、さて夜麻登の名(ノ)義|未詳《サダカナラズ》、(すべて山の謂《ヨシ》もて解たる説はうけがたきよし有(リ)、荒木由久老(カ)考に、夜麻登《ヤマト》は家庭處《ヤニハト》の略轉なるべし、といへりしは當れりや當らずや、なほ後《ソノ》説には論《イフ》べきことあり、伊與人出内(ノ)秀眞(ガ)説に、饒速日(ノ)(18)命倭(ノ)洲に降り、宮造《ミヤツクリ》しろしめし賜ふ故に、虚見津屋見立國《ソラミツヤミタツクニ》といふ意にて、この倭てふ名は起《ハジマ》れるなるべし、さては倭は屋見立なり、かくいふ故は、古事記に天《アメ》のみはしらを見立《ミタツ》、八尋殿を見立とあり、凡て尊(キ)神のしろしめすを、見とも立ともいへりと久老いへり、此(ノ)説しばらく據《ヨリドコロ》ありげにはおぼゆ、)○押奈戸手《オシナベテ》は、押《オシ》令《セ》v靡《ナビカ》而《テ》なり、(ビカ〔二字右○〕はバ〔右○〕と切り、バセ〔二字右○〕はベ〔右○〕と切れり、)押は多かる物におしわたす辭にて、大和(ノ)國内郡郷のこる方なく、おしわたしてしろしめし賜ふよしなり、月のてるを、押照と集中によみたる押におなじ、下に、禁樹押靡《シモトオシナベ》云々|四能乎押靡《シヌニオシナベ》六(ノ)卷に、淺茅押靡《アサヂオシナべ》、十七に、須々吉於之奈倍《スヽキオシナベ》などあり、(かげろふ日記に、さきにやけにし處、此《コ》たみはおしなぶるなりけりとあるもおなじ、)さて天(ノ)下を所治《シロシメ》す事にいへるは、古事記下(ツ)卷顯宗天皇(ノ)御詠《ミナガメゴト》に、山三尾之竹笶《ヤマミヲノタケヲ》、※[言+可]岐苅《カキカリ》、末押靡魚簀《スヱオシナビクナス》、如《ゴト》v調《シラベタル》2八弦琴《ヤツヲノコトヲ》1、所2治賜《ヲサメタマヒシ》天下《アメノシタ》1、伊邪本和氣天皇《イザホワケノスメラミコト》、云々とあり、○吾許曾居《アレコソヲレ》、許曾《コソ》は他にむかへて、その物をとりわきてたしかにいふときの詞なり、大和(ノ)國中に人多くあるが中にも、吾こそ主として大坐(シ)坐(ス)なれ、他はしからずとの御意なり、次(ノ)御句の師《シ》を此(ノ)御句につけて、ヲラシ〔三字右○〕とよみ來れるはひがことなり、なほ次(ノ)條にいふ、○師吉名倍手は、本居氏、居師《ヲラシ》と師(ノ)字を上(ノ)句へつけて訓るは誤なり、師の下の吉(ノ)字、舊本告と作《カケ》るは誤なり、さて師を下へつけて、シキナベテ〔五字右○〕とよむべしといへり、まことに然《サ》なくては通《キコ》えぬことなり、さて師吉は太敷坐《フトシキマス》などの敷と同じ、(崇神天皇紀に、流《シク》2至徳《イタレルウツクシミヲ》1とある、此(ノ)流(ノ)字をシク〔二字右○〕(19)と訓るに意同じ、)なほ此(ノ)ことは、下人麻呂の吉野(ノ)長歌の下《トコロ》にいはむを考(フ)べし、名倍手《ナベテ》は上に同じ、かくて此《コヽ》と次と御二句、大方は上(ノ)御句におなじきを、いさゝか御詞を換てのたまふのみなり、かくかさねていふこと古歌に例多し、すべてかく詞をかさぬるは、そのことをかへす/”\ねもごろにいふときのことなり、○吾己曾座《アレコソマセ》、(座を拾穗本に居師とあるは、上の居師を見まがへて寫誤れるなり、)座はマセ〔二字右○〕と訓べし、御みづからしか詔むは、いかゞとおもふは後(ノ)世意なり、(から國にこそ、高貴人もみづからを謙退《クダリ》て、寡人不穀などやうにぃへること常なれど、そはうはべのへつらひなり、皇朝の古(ヘ)にさる趣なるはひとつもあることなし、)同じ天皇(ノ)大御歌に、阿具良韋能迦微能美弖母知比久許登爾《アグラヰノカミノミテモチヒクゴトニ》、と御自(ラ)の御事をよませ賜ひ、既《ハヤ》く須佐之男(ノ)命御みづから、吾(ガ)御心|須賀々々斯《スガスガシ》と詔ひ、八千矛(ノ)神御みづから、夜知富許能迦微能美許登波《ヤチホコノカミノミコトハ》云々、とよませ賜ひし類いと多く、此(ノ)集六(ノ)卷聖武天皇の、節度使に御酒を賜へる大御歌にも、手抱而我者將御在天皇朕宇頭乃御手以掻撫曾禰宜賜打撫曾禰宜賜《テウダキテアレハイマサムスメラアガウヅノミテモチカキナデソネギタマフタチナデソネギタマフ》云々、とよませ賜へり、(さばかり佛を信服《ウベナ》ひ賜ひし御代にすら、なほ御みづからかく詔へるにて、あなかしこ天皇の稜威は、天下に又たぐひなく、尊く大坐(シ)坐(ス)ことをおもふべし、)そも/\皇御孫(ノ)命の御天降りましゝ時、天照大御神、大御手に天《アマ》つ璽《シルシ》の神寶《カムタカラ》をさゝげもたして、豐葦原の水穗(ノ)國は、萬千秋《ヨロヅチアキ》の長五百秋《ナガイホアキ》に、吾(ガ)御子のしろしめすべき國なり、故(レ)皇御孫(ノ)命|天降坐《アモリイマシ》てしろしめせ、(20)天つ日嗣の隆《サカ》えましまさむこと、天壤《アメツチ》のむた無窮《トコトハ》ならむと、ことよざし賜へりし、神勅《オホミコト》のまに/\、神代より今のをつゝに、かけまくもかたじけなくも、御世々々《ミヨミヨ》の天皇命の、この食國《ヲスクニ》天(ノ)下を、天雲のむかふすかぎり、谷蟆《タニグク》のさわたるきはみ、おしなべてをさめ賜ひ、しきなべてしろしめしましませば、天(ノ)下にたれしの人か、わが大君天皇の、大御惠《オホミメグミ》をかゞふらざるべき、かゝれば古ごと學する徒は、かりにも後(ノ)世の邪説《ヨコシマゴト》どもにまどはずして、御世々々の天皇は、やがて大御神の御子(ノ)命にましまして、現御神《アキツミカミ》と大八島國《オホヤシマグニ》しろしめすことなれば、高御座天の日嗣の、又たぐひなく尊くかしこくましますことを、束《ツカ》の間も忘るべきにあらず、されば此(ノ)大御歌を開卷《マキノハジメ》に載て、皇大朝廷《スメラガオホミカド》の大御威徳《オホミヒカリ》をまづ示《シメ》したること、撰者の微意《コヽロ》あるに似たり、あなかしこ、(因に云む、からくに周の代のはじめつかた、成王と云しが時に、叔父の周公旦と云ものが、成王に告たりしと云傳へたる詩、毛詩大雅に載て人皆知たるが如し、其(ノ)中に、無(ンヤ)v念(コト)2爾祖(ヲ)1、聿《コヽニ》修(メ)2厥徳(ヲ)1、永(ク)言(ニ)配《カナヒ》v命(ニ)、自求(ヨ)2多福(ヲ)1、殷之未v喪v師(ヲ)、克(ク)配(フ)2上帝(ニ)1、宜|鑒《カヾミ2于殷(ニ)1、駿命不v易《ヤスカラ》、といへり、これ成王の祖父文王を法として其(ノ)徳を修め、萬民をなづけしたがへて、子孫末永く天命に配ひ福を求めよ、もし徳を修むる心一日片時も間斷《ヒマ》あらば、祖先にもとり天命にそむきて、つひに國を亡さむぞ、ちかく殷の代の興亡を鑒戒《カヾミ》とすべし、天の駿命不v易(カラ)甚難きわざぞ、ようせずばあやふかりなむをと、いと深切《ネモゴロ》に反覆《ウチカヘ》し戒たり、さしも名を得し周公旦なればこそ、武(21)王がからうじて取得たりし天(ノ)下なれば、いつまでも能して人に奪れぬやうにせよと、下おそろしくそゞろ寒さに、天命に託《コトヨセ》て深く戒めたるなれ、異國の風俗《ナラハシ》にてはまことにさもあるべし、あなかしこ/\わが天皇命をさる王どもと、かりにもひとしなみに申すべき事かは、天壤無窮と事依し賜ひて、天照大御神の御自さづけ賜へる皇統《アマツヒツギ》にまし/\て、天地のより合のきはみときはにかきはに、いく萬代を經ても動き坐ぬ大君に大坐ませば、御代御代の天皇は、善(ク)もましませ惡(ク)もましませ其(ノ)論をばすてゝ、ひたぶるに尊み敬ひ畏み拜みて、かりにも側よりうかゞひ奉る事あたはず、たとひたま/\この理に背きて、畏くも皇(ガ)朝廷に射向《イムカヒ》奉れる穢惡《キタナ》き賊奴《ヤツコ》ありても、其はいくほどなくつひに神代の古事のまに/\、皇朝の稜威をかゞやかして、たちまちにあとかたなくうち滅し賜へる事、前々の蹤跡《アト》に付て見べし、さればこそ異國にては、天子と稱《イヒ》てほこりをるものすら、僥倖《カリノサキハヒ》なれば、しばしも徳と云ものを失ひて、人のなづくべくかまへざれば、たちまち傍の人に、天(ノ)下を奪はれとられなむとおもふ心より、さもなきことにも心ならず、人に謙下《ヘリクダ》りへつらひて、眞の心をばあらはさず、うはべをつくろひかざる風俗なるを、その風俗とは、雪と炭との如くきよくかはりて、此(ノ)大御歌に、押奈戸手吾許曾居師吉名倍手吾己曾座《オシナベテアレコソヲレシキナベテアレコソマセ》と、又たぐひなく尊く大坐すことを、つくろひ賜はずかざり賜はず、ありのまゝにのたまへること、讀たびにかへす/”\ありがたくも(22)たふとくもおぼゆるを、此所に心をとゞめて、おほろかに誦過し申さずして、いよ/\ますます、天壤無窮皇統のかたじけなく、又なくかしこきことを思ひ奉りて、皇朝をふかく厚く尊み重み敬ひ奉り崇へ奉りて、かりにも異國の風俗などゝは似もよらずはるかにすぐれて、いみじきほどを思ふべし、あなかしこ/\、)○我乎許曾は、アヲコソ〔四字右○〕と訓べし、(我字、アヲ〔二字右○〕とを〔右○〕の語辭《カタリコナバ》をよみつけむも、さることながら、猶此(ノ)前後《アトサキ》の例を考《オモフ》に、我乎と有けむが、此(ノ)上に吾許曾、又吾己曾などあるより、まぎれて脱せしなるべし、曾字、舊本者に誤る、紀州本に曾者とある曾はよし、者は衍字なるべし)○背跡齒告目《セトハノラメ》、(跡字、舊本には脱せり、紀州本六條本には尓と作り、そは跡(ノ)字の扁滅て、遂に尓と誤れるなるべし、さて跡(ノ)字なきに就て、背にト〔右○〕の語辭《カタリコトバ》をよみつけて、セトハ〔三字右○〕とよまむも然《サ》る事ながら、猶こゝの前後の例を考るに、跡字のありしことうたがひなし、舊《モト》のまゝにたすけたる説どもは皆しひごとなり、こはたゞ夫《セ》と告《ノラ》めと云とは異にて、我をこそ夫として、家をも名をも告めと云意なり、跡《ト》はとしての意なり、すべて彼(ノ)物を此物と化《シ》て、此物の彼(ノ)物と化《ナリ》てといふ意を、跡《ト》とのみ云は古言の一(ノ)格なり、例は此(ノ)下に、栲乃穗爾夜之霜落磐床等《タヘノホニヨルノシモフリイハトコト》(磐床と化《シ》ての意、)川之氷凝《カハノヒコホリ》云々、二(ノ)卷に、宇都曾見乃人爾有吾哉從明日者二上山乎弟世登吾將見《ウツソミノヒトナルアレヤアスヨリハフタガミヤマヲワガセトワガミム》、(わがせと化《シ》ての意、)同卷に、御律爲之島乎母家跡《ミタヽシシシマヲモイヘト》(家と化《シ》ての意、)住鳥毛荒備勿行年替左右《スムトリモアラビナユキソトシカハルマデ》、又|久堅乃天宮爾神隨神等座者《ヒサカタノアマツミヤニカムナガラカミトイマセバ》、(神と化《ナリ》て座せばの意、又|奧波(23)來依荒磯乎色妙乃枕等卷而《オキツナミキヨルアリソヲシキタヘノマクラトマキテ》(枕と化《シ》ての意、)奈世流君香聞《ナセルキミカモ》、三(ノ)卷に、足氷木乃山邊乎指而晩闇跡《アシヒキノヤマベヲサシテクラヤミト》(晩闇と化《ナリ》ての意、)隱益去禮《カクリマシヌレ》云々、六(ノ)卷に、刺竹之大宮人乃家跡住《サスタケノオホミヤビトノイヘトスム》(家と化《シ》て住の意、)佐保能山乎者思哉毛君《サホノヤマヲバオモフヤモキミ》、十四に、信濃奈流知具麻能河泊能左射禮思母伎彌之布美?婆多麻等比呂波牟《シナヌナルチグマノカハノサヾレシモキミシフミテバタマトヒロハム》、(玉と化《シ》ての意、)十七に、烏梅乃花美夜萬等之美爾《ウメノハナミヤマトシミニ》(み山と化《ナリ》て繁にの意、)安里登母也如此乃未君波見禮登安可爾氣牟《アリトモヤカクノミキミハミレドアカニケム》、二十卷に、於保伎美能美許等爾作例波知々波々乎以波比弊等於枳弖《オホキミノミコトニサレバチヽハヽヲイハヒベトオキテ》(齋※[分/瓦]《イハヒベ》と化《シ》ての意、)麻爲弖枳麻之乎《マヰテキマシヲ》、又|久佐麻久良多妣乃麻流禰乃比毛多要婆安我弖等都氣呂《クサマクラタビノマルネノヒモタエバアガテトツケロ》(吾(ガ)手と化《シ》ての意、)許禮乃波流母志《コレノハルモシ》、又古事記中(ツ)卷神武天皇(ノ)條に、宇涅備夜麻比流波久毛登葦《ウネビヤマヒルハクモトヰ》(雲と化《ナリ》て居の意、)由布佐禮婆加是布加牟登曾許能波佐夜牙流《ユフサレバカゼフカムトソコノハサヤゲル》、古今集に、今日來《ケフコ》ずば明日《アス》は雪登曾落《ユキトゾフリ》なまし(雪と化《ナリ》てぞの意、)などある、登《ト》と同意なり、○家乎毛名雄母《イヘヲモナヲモ》は、上に家告爲《イヘノラセ》、名告沙根《ナノラサネ》とのたまひ置て、又我をこそ夫として、家をも名をものるべきことなれと、反覆《カヘサ》ひ詔ふなり、古(ヘ)女のうけひきて、夫《セ》とおもひ許《ユル》す人にあらずては、家をも名をもあらはさぬ例にて、神代紀に、天津彦火(ノ)瓊々杵(ノ)尊、云々、遊2幸《イデマセルニ》海濱《ウミベタニ》1見《アヘリ》2美人《ヲトメニ》1皇孫問(ヒ)曰《タマハク》、汝(シハ)是誰(ガ)之|子《ガムスメゾ》耶、對(ヘ)曰《マウサク》、妾《アレハ》是大山祇(ノ)神之|子《ムスメ》、名(ハ)神吾田鹿葦津姫、亦(ノ)名(ハ)木(ノ)花(ノ)開耶姫(ト申す)、云々とあるをはじめて、古代の歌どもに多く其(ノ)趣なるが見えて、娉《ツマドヒ》するには、まつ其(ノ)種姓《ウヂノスヂ》を問ことにぞありける、さて古(ヘ)に名を告《ノル》といへるは、たゞ一わたりに某と名ばかりいふにはあらで、其(ノ)種姓《ウヂノスヂ》のよりくるところま(24)でを、あらはすをいふことなり、古事記に、足名椎手名椎が許にて、須佐之男(ノ)命の其(ノ)御名を問れ給ひしとき、爾|答詔《コタヘタマハク》、吾者《アハ》天照大御神之伊呂勢者|也《ナリ》、とあるを思ふべし、(其(ノ)御名を問奉りしに、御種姓《ミスヂ》をあらはし賜へるゆゑ、おのづから御名は告賜はずても著かるべく、又御名を問奉りしは、其(ノ)御種姓を問奉りし意趣なるをしるべし、)○大御歌(ノ)意は、うるはしき籠《コ》や掘串《フクシ》を持て、此(ノ)丘處《ヲカ》に菜を採給ふ美女兒《ヲトメコ》よ、家はいづくのほどにかある、名は何とか申す、汝が家をも名をも、朕《ワレ》に告知し賜へ、此(ノ)大倭の國は、おしなべてわが治坐《シキマス》國なるぞ、朕をこそ夫《セ》として、家をも名をもつゝまはず、告(リ)知すべきことなれとなり、これは御狩などせさせ賜ふとて、春の野に出させ給へるに、けはひふるまひにくからぬ女の、岡邊に菜採あそびたまへるを御覽して、とひよらせ給ひて大御歌をもあそばしゝなり、此(ノ)天皇さばかりたけくをゝしく、大まし/\けるにも事かはりて、かゝる大御歌をあそばしける事、かしこけれども、有がたくもたふとくもあるかな、この大御歌をうけ給りけむ女のこゝろいかにあはれにかたじけなきものにおもひ奉りけむ、とおもひやらるかしし、
 
高市崗本宮御字天皇代《タケチノヲカモトノミヤニアメノシタシロシメシスメラミコトノミヨ》
 
高市(ノ)崗本(ノ)宮、(崗(ノ)字、拾穗本類聚抄又袋册子に引るにも岡とあり、○和名抄に、岡(ハ)丘也、正作v崗、)高市は和名抄に、大和(ノ)國高知(ノ)郡(多介知《タケチ》)とあり、崗本は飛鳥にあり、書紀舒明天皇(ノ)卷に、息長足日(25)廣額(ノ)天皇、渟中倉太珠敷(ノ)天皇(ノ)孫、彦人大兄(ノ)皇子之子(ナリ)也、母曰2糠手姫(ノ)皇女(ト)1云々、元年春正月癸卯朔丙午云々、即日即天皇位《ソノヒアマツヒツギシロシメス》、二年冬十月壬辰朔癸卯、天皇遷(リマス)2於飛鳥(ノ)岡傍(ニ)1是(ヲ)謂2岡本宮(ト)1、十三年冬十月己丑朔丁酉、天皇崩(リマシキ)2于百濟(ノ)宮(ニ)1とあり、この天皇子(ノ)御陵は、大和(ノ)國城上(ノ)郡にあり、書紀皇極天皇(ノ)卷に、元年十二月壬午朔壬寅、葬(リマツル)2息長足日廣額(ノ)天皇(ヲ)于|滑谷《ナメハサマノ》崗(ニ)1、二年九月丁丑朔壬午、葬(リマツル)2息長足日廣額(ノ)天皇(ヲ)于押坂(ノ)陵1と見ゆ、諸陵式に、押坂(ノ)内(ノ)陵、(高市(ノ)崗本(ノ)宮(ニ)御宇(シ)舒明天皇在2大和(ノ)國城上(ノ)郡(ニ)1、兆域東西九町南北六町陵戸三烟、)忍坂《オシサカ》村の上にありて、後に段々《ダン/”\》塚といふ、高(サ)十七間廻百三十六間ありと云り、○天皇代の下に、息長足日廣額天皇とある本どもは、後人のしわざなること既く云る如し、(拾穗本には、天皇謚曰2舒明天皇(ト)1云注もあり、)
 
天皇《スメラミコトノ》登《ノボリマシテ》2香具山《カグヤマニ》1望國之時御製歌《クニミシタマヘルトキニミヨミマセルオホミウタ》
 
香具山は、延喜式神名帳に、大和(ノ)國十市(ノ)郡天(ノ)香山(ニ)坐云々、書紀神武天皇(ノ)卷に、香山此云2介遇夜縻《カグヤマ》1とあり、山の南の麓に今香山村と云ありて、土人は山をも村をも具を清て呼《イ》ふといへり、
 
2 山常庭《ヤマトニハ》。村山有等《ムラヤマアレド》。取與呂布《トリヨロフ》。天乃香具山《アメノカグヤマ》。騰立《ノボリタチ》。國見乎爲者《クニミヲスレバ》。國原波《クニハラハ》。煙立龍《ケブリタチタツ》。海原波《ウナハラハ》。加萬目立多都《カマメタチタツ》。※[立心偏+可]怜國曾《ウマシクニゾ》。蜻島《アキツシマ》。八間跡能國者《ヤマトノクニハ》。
 
山常庭《ヤマトニハ》は、山常は借字《カリモジ》にて大和(ノ)國なり、庭は爾波《ニハ》の借字《カリモジ》、爾波《ニハ》とは他《ヨソ》の國にむかへていふ詞なり、○村山有等《ムラヤマアレド》は、群りたる數々の山は有どもと詔ふなり、等《ド》は雖《ド》なり、(大和(ノ)國には群山あ(26)り、雖v然の意なり、有等をアリト〔三字右○〕と訓て、有とての意とするはわろし、)三(ノ)卷に、鶏之鳴東國爾高山者左波爾雖有朋神之貴山乃《トリガナクアヅマノクニニタカヤマハサハニアレドモフタカミノタフトキヤマノ》云々(下に引)とある、雖有《アレドモ》に意同じ、○取與呂布《トリヨロフ》、(與(ノ)字、類聚抄には輿と作《カケ》り、)取《トリ》はいひおこす詞とて、打撫《ウチナデ》掻撫《カキナデ》などいふ打掻に同じ、そは手して物することに、多くはそへていふ詞なり、今も山の形容《カタチ》の全備《トヽノヒ》たるを、手して物したるごとくに見なし給ひて、詔へるなるべし、與呂布《ヨロフ》は此(ノ)山の形の具足《タリトヽノ》へるを稱《ホメ》賜ふなり、形のとゝのふとは、峯谷石木にいたるまで、なに一(ツ)あかぬところなく、たらひて具足《ソナハリ》たるをいふなるべし、下に青香山《アヲカグヤマ》とあるも、草木のうるはしく生しげりて、山の形の宜しきよりいへるなるべし、與呂布《ヨロフ》といふ詞は、書紀齊明天皇(ノ)卷に、弓矢|二具《フタヨロヒ》、また源氏物語梅枝に、まだかゝぬ雙紙どもつくりくはへ、※[衣+票]紙紐などいみじうせさせ給ふ云々、みづから一(ト)興呂比《ヨロヒ》は書べし、若葉に、螺細の御厨子二(タ)與呂比云々、置物の御厨子二(タ)與呂比云々、したむの筥一(ト)與呂比、東屋に、たかきたなづし一(ト)與呂比、蜻蛉に、くの匣一(ト)與呂比、衣匣一(ト)興呂比、紫式部日記にも御屏風一(ト)興呂比、しろきみづし一(ト)與呂比、大(キ)なる厨子一(ト)與呂比、手匣一(ト)與呂比、はこ一(ト)與呂比、枕冊子に、三尺の御几帳一(ト)與呂比、うつぼ物語に、からひつ一(ト)與呂比、落窪物語に、ころも筥一(ト)與呂比などあり、此(ノ)餘榮花物語、住吉物語などにも見えたれど、わづらはしければ引ず、且《マタ》鎧《ヨロヒ》てふも、與呂布は具足《タリトヽノ》へる謂《ヨシ》の詞なるを、體言になして名づけたるをも考(ヘ)合(ス)べし、(契冲、俗語に鎧《ヨロヒ》を具足といふも、(27)小等すねあてまで、取備て着るものなればいふにやと云り、即(チ)その意なり、)○天乃香具山は、アメノカグヤマ〔七字右○〕と訓べし、(アマノ〔三字右○〕と云は後なり、)古事記中(ツ)卷倭建(ノ)命(ノ)御歌に、比佐迦多能阿米能迦具夜麻《ヒサカタノアメノカグヤマ》とあり、(天を阿米《アメ》といひ、阿麻《アマ》と云(ヒ)、阿麻都《アマツ》といふことおのれ考あり、)そも/\此(ノ)山は、もと天上《アメ》にありし故、天之香山といひけるを、此(ノ)國土に天降て後も、なほもとの存《マヽ》に天之香山とは稱《イヒ》けるなり、さてその天上よりあまくだりしと云は、集中にも天降付天之芳來山《アモリツクアメノカグヤマ》などよみたるうへ、正しくは伊豫(ノ)國風土記に、伊豫(ノ)郡自2郡家1以東北(ニ)在2天山1、所《ル》v名《イヘ》2天山(ト)1由《ヨシ》者、倭(ニ)在2天(ノ)加具山1自v天天降時、二(ニ)分(レテ)而|以《ヲ》2片端1者《バ》天2降(シ)於倭(ノ)國(ニ)1、以2片端1者天2(シ)降於此(ノ)土(ニ)1、因《カレ》謂(フ)2天山(トソ)1也と見えたり、(仙覺(ガ)註には、阿波(ノ)國風土記にありと此(ノ)事をいへり、)かくてこの迦具山の天降しなど云類は、いかにぞや思ふ人もあらむ、そは古學の非熟《イマダシキ》うへのさだにて、さとすに足ざれば今ことさらにいはず、(岡部氏(ノ)考に、天上の迦具山に擬《ナズラ》へて崇《タフト》み賜ふ故に、天乃迦具山とも云といへるこそ、いと意得ね、そは天上《アメ》のと國土《クニ》のと、迦具山の二(ツ)あるごとおもひしにや、中々に人のまどふわざぞかし、)○騰立《ノボリタチ》云々、下持統天皇(ノ)吉野に幸《イデマ》し給へる時人麿のよめる歌にも、上立國見乎爲波《ノボリタチクニミヲスレバ》とあり、○國見乎爲者《クニミヲスレバ》は、高き處に登りまして、國のありさまを看察賜《ミタマ》ふよしなり、神武天皇(ノ)紀に、陟(リマシテ)2彼(ノ)菟田(ノ)高倉山之巓《ミネニ》1瞻2望《ミサケタマフニ》域中《クニハラヲ》1云々、また因登2腋上※[口+兼]間《ワキノカミノホヽマノ》丘(ニ)1而|廻2望《ミワタシタマヒ》國状(ヲ)1曰、云々(下に引(ク))などあるや、天皇の國見し賜ふことの、物に見えたるはじめと申べからむ、(28)(即(チ)※[口+兼]間(ノ)丘を國見山ともいへり、今本馬村といふ處の南にありて、本馬は即(チ)※[口+兼]間の轉れるなり、)凡(ソ)國見は國状の勝れる劣れる、また國民の盛なると衰(フ)とを、天皇の見そなはし給ふを主として、また意をはるかしやるがために、高き處に上りて、常人もすることなり三(ノ)卷登(リテ)2筑波ニノカ岳(ニ)1、丹比(ノ)眞人國人(カ)作歌に、朋神之貴山乃儕立乃見※[日/木]石山跡神代從人之言嗣國見爲筑羽乃山矣《フタガミノタフトキヤマノナミタチノミガホシヤマトカミヨヨリヒトノイヒツギクニミスルツクバノヤマヲ》云々、十卷に、雨間開而國見毛將爲乎故郷之花橘者散家牟可聞《アマヽアケテクニミモセムヲフルサトノハナタチバナハチリニケムカモ》などあれば、つね人もせしことおもふべし、さて神武天皇(ノ)紀に、撃2八十梟帥(ヲ)於國見(ノ)丘(ニ)1(大和(ノ)國なり、)と見え、今も諸國《クニ/”\》に、遠く見はるかさるゝ山を國見といふは、みなその國見する處なる故にいへるなるべし、○國原者《クニハラハ》、國は大小にかゝはらず、凡て人の境をたてゝ往《ヲル》處をいふ稱《ナ》なり、原は其(ノ)群り多きをいふ稱《ナ》なり、國原とは其(ノ)人の往《ヲル》處の群り多きを云り、海原《ウナハラ》、天原《アマノハラ》、野原《ヌハラ》、河原《カハラ》、檜原《ヒハラ》、葦原《アシハラ》、草原《カヤハラ》などの原と同じ、(檜原とは檜の群り多き地を云、葦原とは葦の群り多き地を云に准ふべし、後(ノ)世|奴原《ヤツバラ》、法師原《ホウシバラ》などいふ原も、其一人をいふことならねば同言なり、しかるを原(ノ)字になづみて、たひらかにひろき處をいふ稱とのみ思ふはひがことなり、字彙に、説文(ニ)高平(ナルヲ)曰v原(ト)、人所v登也、李巡(ガ)曰、土地寛博(ニシテ)而平正(ナルヲ)、名(テ)之曰v原(ト)、即(チ)今(ノ)所謂曠野也、と見えて、古言に波良《ハラ》といふとは異《カハ》りたれど、其(ノ)物の群り多き地は、おしなべて平らかに見なさるゝより、原(ノ)字は填《アテ》たるなり、ゆめ字に泥みて言の源《モト》を混《アヤマ》ることなかれ、)さて原は清て唱ふべし、(濁るは非なり、)下に、伊奈美國波良《イナミクニハラ》(29)とあり、是その證なり、○煙立龍《ケブリタチタツ》、(龍(ノ)字、舊本に籠と作《カケ》るはわろけれど、タツ〔二字右○〕と訓たるはなほ古(ヘ)を存《ノコ》せるなり、今は古寫本拾穗本類聚抄等に從《ヨリ》つ、略解に籠とあるを用ひて、コメ〔二字右○〕と訓たれども、コム〔二字右○〕にはいつも隱(ノ)字をかきて、籠字をコム〔二字右○〕と訓ること、古書等に凡て例なきうへ、詞つき後世意めきてきこゆるをや、)煙は舊本にケブリ〔三字右○〕と訓るよろし、(岡部氏(ノ)考に、ケムリ〔三字右○〕とよめるは同じやうのことながら非《ワロ》し、)和名抄に、四聲字苑(ニ)云、烟(ハ)火燒2艸木(ヲ)1黒氣也、和名|介夫利《ケブリ》、字鏡に、※[火+需]※[火+需](ハ)同|介夫利《ケブリ》、元慶六年書紀竟宴(ノ)歌に、氣不利奈岐也度遠女玖美之《ケブリナキヤドヲメグミシ》とよめり、名(ノ)義ケ〔右○〕は氣《ケ》、ブリ〔二字右○〕は荒振《アラブル》、和振《ニギブル》などの振《フル》と同言にて、その形容をいふ詞なり、(さてこゝのケブリ〔三字右○〕は火(ノ)氣をいへど、古(ヘ)は何にても氣の立のぼるをいへり、十三に、煙立春日暮《ケブリタツハルノヒクラシ》とあるも、霞のことゝ聞えたるをや、又源氏物語若紫に」後(ロ)の山に立出て京の方を見賜ふ、遙に霞わたりて、四方の梢そこはかと無うけぶり渡れるほど、畫に能も似たる哉、柏木に、御前の木立いたうけぶりて、花は時を忘れぬけしきなるをながめつゝ云々、などあるけぶるも、霞みたる景《サマ》をいへるを思(フ)べし、こはこゝにいはでもあるべけれど、一偏《ヒトカタ》になづめる、後(ノ)世の耳をおどろかしおくのみなり、)立龍《タチタツ》は、(龍は借(リ)字にて立(チ)に立(ツ)の意にて、立(ツ)ことの絶ざるをいふ、古語に、神集集《カムツドヒツドヒ》神議々《カムハカリ/\》を、神集爾集《カムツツドヒニツドヒ》神議爾議《カムハカリニハカリ》とも云るにて意得べし、七(ノ)卷に、雖追雖追《オヘドオヘド》、十(ノ)卷に、聲伊續伊繼《コエイツギイツギ》、二十に、余曾比余曾比弖《ヨソヒヨソヒテ》なども云り、さてこゝは人家のかまどにたつ烟の、にぎはゝしきを御覽して詔(30)はせたるなるべし、書紀竟宴に、仁徳天皇を得て、時平(ノ)大臣の、たかどのにのぼりて見ればあめのしたよもにけぶりていまぞとみぬる、とよみ給へるは、今の大御歌をまねばれたるなるべし、(かくよみ給ふは、仁徳天皇(ノ)紀に、四年春二月己未朔甲子、詔2群臣(ニ)1曰、朕(レ)登(リテ)2高登《タカドノニ》1以|遠望《ミサクルニ》之、烟氣《ケブリ》不v起2於|域中《クニハラニ》1、以2爲《オモフ》百姓既貧而、家無炊者《オホミタカラマヅシクテイヒカシクコトナケムトソ》1云々、七年夏四月辛末朔、天皇|居《ノボリマシテ》2臺上《タカドノニ》1而遠望之《ミサケタマフニ》、烟氣多起《ケブリタチタツ》、是日語2皇后(ニ)1曰朕既富(メリ)矣、豈《ナソ》有(ム)v愁《イフセムコト》乎、とあるをのたまへるなり、)さて今の大御歌、烟氣のにぎはゝしきを見をそなはして、國民の富(ミ)豐(カ)なるをしろしめして深くよろこび給へるさま、御詞のうへにいちじるし、○海原《ウナハラ》、集中假字には、宇奈波良《ウナハラ》とあるによりて波を清て訓べし、奈《ナ》は之《ノ》に通ふ詞にて海之原《ウノハラ》なり、即(チ)二十卷には、伊蘇爾布理宇乃波良和多流《イソニフリウノハラワタル》ともよめり、さてこの海原とさすものは、香山の※[林/下]埴安の池をいへり、古(ヘ)は凡て潮《シホ》にも水《ミヅ》にも海と云り、(契冲は、かの山のいたゞきよりは、難波の方まで見ゆるにやといへり、香具山の峯より、難波の海の見ゆることもあるかしらねど、なほこゝにいへるは埴安の池なり、)三(ノ)卷獵路(ノ)池にて人麻呂の、皇者神爾之坐者眞木之立荒山中爾海成可聞《オホキミハカミニシマセバマキノタツアラヤマナカニウミヲナスカモ》、同卷不盡(ノ)山の歌に、石花海路名付而有毛彼山之堤有海曾《セノウミトナヅケテアルモソノヤマノツゝメルウミソ》、と云るなども水を海といへるなり、(土佐(ノ)國長岡(ノ)郡池(ノ)村の池を、土《トニコロノ》人は海と云り、)かく水池などを海とよめること、古歌に、まゝあれば、ことさらに池を海に見なして、作《ヨミ》ませりといふはあらぬことなり、(又略解に、三(ノ)卷香山(ノ)歌に、池浪※[風+炎]奧邊波云々とあるを引(31)たれども、彼(ノ)歌に奧といへるは、池の奧をいへるにて、こゝにあづからず、詳しくは彼(ノ)卷に云べし、)○加萬目立多都《カマメタチタツ》、(目(ノ)字、拾穂本に月とあるはわろし、)加萬目《カマメ》は鳥(ノ)名なり、凡て鳥獣艸木魚蟲の類は、別につみ出で注《シル》して、見る人にたよりよからしむ、委しきことは別《コト》に付る卷を考べし、さて此(ノ)鳥古(ヘ)は加萬米《カマメ》といひしを、今(ノ)京の比よりぞ加毛米《カモメ》とはいひけむ、(土左日記に、今しかもめむれゐてあそぶ所あり云々、とあるを思ふべし、又三(ノ)卷に、鴨妻喚とあるを、カモメヨバヒ〔六字右○〕とよみたれども非《ヒガコト》にて、かれはカモツマヨバヒ〔七字右○〕とよむなるよし、彼處に云べし、まがふべからず、)立多都《タチタツ》は上に同じ、ゆきかよふ舟のひまなければ、かもめもしづかに居るほどなくて、しば/\たつなりと契冲が云る、さも有べし、三(ノ)卷鴨(ノ)君足人(ガ)香具山(ノ)歌に、天降付天之芳來山《アモリツクアメノカグヤマ》云々|松風爾池浪立而《マツカゼニイケナミタチテ》云々|奧邊波鴨妻喚邊津方爾味村左和伎百磯城之大宮人乃退出而遊船爾波梶棹毛無而不樂毛己具人奈四二《オキベハカモツマヨバヒヘツベニアヂムラサワギモヽシキノオホミヤビトノマカリデテアソブフネニハカヂサヲモナクテサブシモコグヒトナシニ》、その反歌に、人不榜有雲知之潜爲鴦與高部共船上住《ヒトコガズアラクモシルシカヅキスルヲシトタカベトフネノヘニヲリ》、これ埴安の池にて、そのかみ盛なりし世には船のゆきかひしげく、又水鳥の集居《ムレヰル》處なりしをもしるべし、○※[立心偏+可]怜國曾《ウマシクニゾ》、※[立心偏+可]怜は舊本下上に誤れるを、例に据(リ)て改つ、宇麻志《ウマシ》は後(ノ)世はたゞ食物の味にのみつきていへど、古(ヘ)は然のみならず、心にも耳にも目にも口にも、美《ウルハ》きをば皆賛ていへり、さて※[立心偏+可]怜をウマシ〔三字右○〕と訓は、書紀神代(ノ)卷に、可怜小汀《ウマシヲバマ》と書《ア》る注に、可怜此云2于麻師《ウマシト》1とも、また可怜御路《ウマシミチ》、可怜國《ウマシクニ》などもあり、但し可怜とあるは、字書に、憐俗(ニ)作v怜(ニ)愛(ナリ)也と(32)見《ア》れば、可愛とかきて、エ〔右○〕とよめると同じ類なれば論《コト》もなし、※[立心偏+可]怜の字は集中に、ウマシ〔三字右○〕又タヌシ〔三字右○〕又アハレ〔三字右○〕又オモシロシ〔五字右○〕など訓べき所にあまた用ひ、書紀仁賢天皇卷に、吾夫※[立心偏+可]怜《アヅマハヤ》、新撰字鏡に、※[言+慈](ハ)※[立心偏+可]怜也、於毛志呂志《オモシロシ》などあれども、凡て字書どもに※[立心偏+可](ノ)字あることなし、(されば本居氏も、※[立心偏+可]は皇國にて※[立心偏]扁を加《ソヘ》たるにて、書紀に可怜と書るぞ正字《マサモジ》なるべき、といへるよし略解に見えたるも、一(ト)わたりはさることゝきこゆれども、昔より扁を略《ハブキ》し例《アト》こそ多けれ、扁を加《ソヘ》たることをさ/\なければ、猶從ひがたし、)こは漢籍《カラプミ》遊仙窟に、※[立心偏+可]怜嬌裏面可愛語(ノ)中(ノ)聲と見えたる字《モジ》なりけり、彼(ノ)書はいと古(ヘ)より皇朝に渡(リ)來て、人皆讀もてあそびしと見えたれば、此方の書に※[立心偏+可]怜と見《ア》るかぎりは、みな彼(ノ)書によれるものなりけり、さて曾《ソ》の御辭に力(ラ)あり、この御辭に心を付て聞べし、此(ノ)大和(ノ)國を、此(レ)までは、かばかりよき國ともおもはざりしを、今此(ノ)香具山に登(リ)て國見を爲れば、尤《ゲニ》※[立心偏+可]怜國なるぞと詔へるなり、大和(ノ)國のよろづの國にすぐれたることはいふもさらなれど、神武天皇紀に、この國のことを、抑又《マタ》聞《キヽ》2於鹽土(ノ)老翁(ニ)1曰《シク》、東(ニ)有2美地《ウマシクニ》服1青山四周《アヲガキヤマコモレリ》云々古事記倭建(ノ)命(ノ)御歌に、夜麻登波久爾能麻本呂婆多々那豆久阿袁加岐夜麻碁母禮流夜麻登志宇流波斯《ヤマトハクニノマホロバタヽナヅクアヲガキヤマゴモレルヤマトシウルハシ》、(書紀にも見ゆ、)などあるをも思(ヒ)合(ス)べし、○蜻島《アキツシマ》は、書紀に、神武天皇三十有一年夏四月乙酉朔、皇與巡幸因《スメラミコトイデマシノチナミニ》登(リマシテ)2腋(ノ)上(ノ)〓間(ノ)丘(ニ)1、而|廻2望《ミワタシマシテ》國状(ヲ)1曰、妍哉《アナニヤ》乎、國之獲矣《クニヲエツ》、雖《ナレドモ》2内木綿之|眞〓《マサ》國1猶《ゴトシ》2蜻蛉之臀〓《アキヅノトナメセルガ》1焉、由(テ)v是(ニ)始2有《ハジマレリ》秋津洲(ノ)之|號《ナハ》1也、と見えたるより起《ハジマ》れる名にて、大和(ノ)(33)國葛上(ノ)郡にある地なりしが、孝安天皇の此處に、百餘年《モヽトセアマリ》久しく宮敷|坐《マセ》りしより、蜻島倭とつづけていひならへり、猶本居氏(ノ)國號考に甚詳しきを併(セ)考べし、さてこの二句は、もと※[立心偏+可]怜國曾《ウマクニゾ》の上にあるべきを、かく倒置《オキカヘ》てのたまへるは古語の常なり、○八間跡能國者《ヤマトノクニハ》、かくのたまふにふかくよろこばせ賜ひて、御歎息《ミナゲキ》し賜ふ御意あらはれたり、○大御歌(ノ)意は、大和(ノ)國には、あまたの山々群りておほくあるが中にも、峯谷石木にいたるまでよろづたりとゝのひて、あかずおもしろき香具山に登りて國内を見わたすに、里のみならず水(ノ)上までもにぎはひて、さて/\大和(ノ)國は、あるが中にも※[立心偏+可]怜國にてあるぞと詔へるにて、ふかくよろこばせ賜なり、
 
天皇《スメラミコトノ》遊2獵《ミカリシタマヘル》内野《ウチノヌニ》1之時《トキ》。中皇命《ナカチヒメミコノ》。使《セタマフ》1間人連老獻《ハシヒトノムラジオユヲシテタテマツラ》1歌《ウタ》〔頭注【備考使間人連老、かゝるところをば、ハシヒトノムラジオユシテ〔ハシ〜右○〕とよむ雅言の用樣たり、オユヲシテ〔五字右○〕と云は、後の漢籍の訓樣なりと或人いへり、按に、此説却てしかるべからず、續紀廿五詔に、精兵乎之天《トキイクサヲシテ》押之非天〔四字右○〕壞亂天罰滅止云家利《ヤブリミダリテウトホロボサムトイヒケリ》ともありて、某をしてと云ること古語にをり/\ある辭なり、】〕
 
獵(ノ)字、類聚抄には?と作《カケ》り、(干禄字書に、?獵上俗下正とあれば、獵の俗字なり、谷川氏云、顔氏家訓に獵化爲v?(ト)と見ゆ、されば國史記録に獵と通(ハシ)用ひたりと云れど、其(レ)までもなし、)○内(ノ)野は、大和(ノ)國宇智(ノ)郡に在(ル)野なり、○中皇命《ナカチヒメミコ》、(書紀を考ふるに、舒明天皇のころより齊明天皇までに、中皇命と申(ス)べき皇子見えず、舊本皇の下に女(ノ)字を脱せるにて、中皇女(ノ)命は間人皇后のこ(34)となりと、岡部氏もはやく説《イヘ》り、今この考(ヘ)によりてさらに、)集中の例を謹て案(フ)るに、某(ノ)美許等《ミコト》と尊みて申す稱《ナ》ならば、尊(ノ)字なるべし、高市(ノ)皇子(ノ)尊、日並(ノ)皇子(ノ)尊などあるを考(フ)べし、されど皇后皇女の類に、某(ノ)尊としるせること他に例なし、因《カレ》考《オモ》ふに、命は女(ノ)字の寫誤なるべし、中皇女《「ナカチヒメ》は間人(ノ)皇女の更名《マタノミナ》なるべし、舒明天皇(ノ)紀に、二年春正月丁卯朔戊寅、立(テ)2寶(ノ)皇女(ヲ)1爲2皇后(ト)1、后生(マセリ)2男一(ノ)女(ヲ)1、一(ヲ)曰2葛城(ノ)皇子(ト)1、(近江(ノ)大津(ノ)宮(ニ)御宇(シ)天皇1、)二(ヲ)曰2間人(ノ)皇女(ト)1、三曰2大海(ノ)皇子(ト)1、(淨御原(ノ)宮(ニ)御宇(シ)天皇、)云々、孝徳天皇大化元年秋七月丁卯朔戊辰、立2息長足日廣額(ノ)天皇(ノ)女《ムスメ》間人(ノ)皇女(ヲ)1爲2皇后(ト)1、天智天皇四年春二月癸酉朔丁酉、間人(ノ)太后薨云々、三月癸卯朔、爲《ミタメニ》2間人(ノ)太后(ノ)1度《イヘデセシム》2三百三十人(ヲ)1とあり、さてこの間人(ノ)皇女を中皇女と申せる故は、后腹にて中にますうへ、第二女にあたり賜ふ御子なるから、中とは申せるなるべし、(御兄葛城(ノ)皇子の一《マタ》の御名を中(チ)大兄と申せるも、御庶兄古人(ノ)皇子より、第二にあたり賜ふ御子なるがゆゑなり、孝徳天皇(ノ)紀(ノ)初に、鎌子連の中(チ)大兄に申す詞に、古人(ノ)大兄(ハ)殿下之兄也とあるにて、古人(ノ)大兄の御弟なることしるべし、)中昔の書に、人のむすめあまたある中にも、第二にあたるを中の君といへること多し、これ古(ヘ)の稱《ナ》の中昔までも殘れるなり、(又續紀(ノ)詔に、中都天皇とあるも元正天皇にて、平城は元明天皇より宮敷坐て、元正天皇はその第二世に坐ますが故に、中都とは申賜へるなりと本居氏云り、)さて中をナカチ〔三字右○〕とよむは、書紀雄略天皇(ノ)卷、顯宗天皇(ノ)卷、舒明天皇(ノ)卷に、仲子《ナカチコ》、繼體天皇(ノ)卷に、仲《ナカチ》、應神天(35)皇(ノ)卷に、中子《ナカツコ》、續紀三十(ノ)卷(ノ)詔に、新城乃大宮爾天下治給之中都天皇乃《ニヒキノオホミヤニアメノシタヲサメタマヒシナカツスメラミコトノ》云々、神名帳に、壹岐(ノ)島壹岐(ノ)郡|中津《ナカツ》神社、(ツ〔右○〕はチ〔右○〕と云に同じ、)集中十四に、等能乃奈可知《トノヽナカチ》(殿之仲子《トノヽナカチ》なり、)などあり、(又中山(ノ)嚴水は、中(ノ)皇女は、御兄を中(ノ)大兄と申せるによりて按ふに、中は地(ノ)名なるべし、御弟大海(ノ)皇子と申も、大海は地(ノ)名とおぼえたりと云り、もし此(ノ)説の如くならば、中皇女はナカノヒメミコ〔七字右○〕と訓べけれど、なほおぼつかなし、)○間人(ノ)連老は、間人はハシヒト〔四字右○〕と訓べし、(略解にハシウト〔四字右○〕とよめるはいかゞ、凡(ソ)商人をアキウド〔四字右○〕、旅人をタビウド〔四字右○〕などいふたぐひは、いと後(ノ)世の音便にて、古(ヘ)は曾てもなき事なるを、略解などにそのわきためをだにせざるは、あまりしき事ぞかし、)孝徳天皇(ノ)紀五年二月、遣唐使の判官の中に、小乙下中臣(ノ)間人(ノ)老(老此云2於喩《オユト》1、)とあり、即(チ)中皇女の御乳母方なるべし、(御乳母の姓に依て、中皇女を間人(ノ)皇女と申せるならむ、文徳天皇實録に、其後未v幾天皇誕生、有2乳母1、姓(ハ)神野、先朝之制、毎(ニ)2皇子生(タマフ)1、以2乳母(ノ)姓(ヲ)1爲2之名1焉、故以2神野(ヲ)1爲2天皇(ノ)諱(ト)1、とあるを思(ヒ)合(ス)べし、)○此間に、目録には並短歌の三字あり、すべてこの一(ノ)卷(ノ)中、長歌の後に、反歌を添たる十首ばかりあるに、こと/”\く本文の端には並短歌の字なければ、もとよりしるさゞりけむ、○此|題詞《ハシツクリ》のこゝろは、契冲も云るごとく、中皇女のおほせによりて、間人(ノ)連老が作(ミ)てたてまつれるなるべし、されど意はなほ皇女の御意を承(リ)て、天皇に聞えあげたるなるべし、もし又皇女のよませ給ひて、間人(ノ)連をもて奏しめ賜へるとならば、御歌と(36)あるべきが御(ノ)字の脱たるか、下に中皇命往2于紀伊(ノ)温泉(ニ)1之時御歌、とあるをもおもふべし、されどその傳奏《ヅタヘマヲ》せる人(ノ)名まで、こと/”\しく載たらむこともいかゞしければ、なほ間人(ノ)連が中皇女のおほせにりて、作(ミ)て獻れるなるべし、
 
3 八隅知之《ヤスミシシ》。我大王乃《ワガオホキミノ》。朝庭《アシタニハ》。取撫賜《トリナデタマヒ》。夕庭《ユフヘニハ》。伊縁立之《イヨリタヽシシ》。御執乃《ミトラシノ》。梓弓之《アヅサノユミノ》。奈加弭乃《ナリハズノ》。音爲奈利《オトスナリ》。朝獵〔二字左○〕爾《アサガリニ》。今立須良之《イマタタスラシ》。暮獵〔二字左○〕爾《ユフガリニ》。今他田渚良之《イマタタスラシ》。御執能《ミトラシノ》。梓弓之《アヅサノユミノ》。奈加弭乃《ナリハズノ》。音爲奈里《オトスナリ》。
 
八隅知之《ヤスミシシ》は、枕詞なり、古事記景行天皇(ノ)條に、夜須美斯志和賀意富岐美《ヤスミシシワガオホキミ》、書紀仁徳天皇(ノ)卷に、夜輸瀰始之和我於朋枳瀰波《ヤスミシシワゴオホキミハ》、續紀七(ノ)卷に、夜須美斯志和己於保支美波《ヤスミシシワゴオホキミハ》などあり、集中には此處の如く、八隅知之とも、又|安見知之《ヤスミシシ》ともあるが中に、八隅知之と書るは借(リ)字にて、安《ヤス》み知《シラ》すてふ義《コヽロ》なり、知《シラ》すは知賜ふといふに同じきこと、上に云るが如し、さてその安美《ヤスミ》の美《ミ》は、麻美牟米《マミムメ》の活用《ハタラキ》にて、難美《カタミ》、懽美《ウレシミ》、悲美《カナシミ》などいふ類の美《ミ》と全(ラ)同じ、かくて安美《ヤスミ》と云るは、欽明天皇(ノ)紀に安2玄室1とあるを、クラキヤニヤスミマサム〔クラ〜右○〕とよみ、續紀三十四、續後紀五(ノ)卷(ノ)詔に、其人等乃和美安美應爲久相言部《カノヒトタチノニギミヤスミスベクアヒイヘ》、(後紀天長八年十二月(ノ)詔に、皇大神乃阿禮乎止賣爾《スメオホカミノアレヲトメニ》、内親王齡毛老身乃安美毛有爾依弖《ヒメミコヨハヒモオイミノヤスミモアルニヨリテ》とあるも、かの忌詞に病を夜須美《ヤスミ》と云るに同じく、病の反《ウラ》を云るにて同言なり、)西行が、撰集抄に、清涼紫宸殿の間に也須美《ヤスミ》し給ひて云々、又いづくに也須美《ヤスミ》する人に(37)かと尋ね給ふに云々、などある安美《ヤスミ》なり、即(チ)今(ノ)世にもやすんずるといひ、漢籍にても安(ノ)字を常にしか訓來れるなど、やがて安みするといふことの、音便にくづれたるものなり、(さて今(ノ)世にもやすみ、やすむとはいへども、そは休息する意にのみ云て、安んずるといふとは異《カハ》れるごとなれるは、轉れるものなり、」)さて知之《シシ》を知《シラ》す意と云むは、いかゞなるごとくなれども、足《タ》らすを多須《タス》、借《カ》らすを可須《カス》、減《ヘ》らすを閇須《ヘス》、交《カハ》らすを可波須《カハス》、登《ノボ》らすを能煩須《ノボス》、餘《アマ》らすを阿麻須《アマス》、致《イタ》らすを伊多須《イタス》、渡《ワタ》らすを和多須《ワタス》、返《カヘ》らすを可敝須《カヘス》などいふを思へば、知《シ》らすをも斯須《シス》といひけむこと知《シ》るべし、もし其(ノ)意ならざらむには、爲之《シヽ》などゝこそ書べきに、必(ズ)知之《シシ》とのみ書るはさる意にこそあれ、さてしからば、安美知須《ヤスミシス》といふべきに、之《シ》としも云るは、歌(ヒ)絶《キ》る語の一(ノ)格にて、青丹余之奈良《アヲニヨシナラ》、鯨魚等利海《イサナトリウミ》とつゞくると同例なり、(然るを冠辭考に、安らけく見そなはししろしめし給ふてふ語をつゞめて、安見知爲といひて冠らしめたるにや云々、且知之とは立せ給ふをたゝしゝ、御座ますをおはしゝなどいふ類にて、天皇の御事につけてあがめ申(ス)語なり、と云るはいかにぞや、まづ語をつゞむるといふことも通《キコ》えがたく、そのうへ立しゝ、御座しゝなどいふ下のしは、いはゆる過去(ノ)の辭にて、唯立せ給ふ、御座賜ふなどいふとは、いたく云樣の異なる詞なるをや、又古事記傳に、夜須美斯志《ヤスミシヽ》は安けく見賜ふなり、天武天皇(ノ)紀、續紀などに、安殿とあるも夜須美杼能《ヤスミドノ》にて、天皇の安見爲賜殿といふ意の名なり、(38)大安殿とあるは大極殿のことぞ、さて夜須美斯志《ヤスミシシ》の志《シ》は爲の意にて、萬葉十九に、豐宴見爲今日者《トヨノアカリミシセスケフハ》云々、また國看之勢志弖《クニミシセシテ》などあると同じ云ざまなり、といへるもいかゞ、安殿を引て説《イヘ》るはよけれども、安けく見ることを、たゞに安見といはむこと古語めかず、剰《マシ》て安美斯《ヤスミシ》とはいよ/\いふべからねばなり、然ればなほかの夜須美杼能《ヤスミドノ》の美も麻美牟米の活用の美なり、又十九の見爲今日者はメスケフノヒハ〔七字右○〕なり、國看之勢志弖は、之は助辭にて國見爲《クニミセ》しての意なり、これらは昔より訓誤り意得たがへることゞもなり、又|見《ミ》を美斯《ミシ》といふは、知《シリ》をシロシ〔三字右○〕、聞をキコシ〔三字右○〕いふ類の格なり、と云るもいみじきひがことなり、知《シリ》をシリシ〔三字右○〕、聞をキキシ〔三字右○〕といへらばこそ、見《ミ》を美斯《ミシ》といふと同じ格ならめ、しかれども然《サ》云ては、斯《シ》の言皆いはゆる過去(ノ)辭になれば、いかでさはいはむやは、唯|昔見之《ムカシミシ》などやうにこそいへれ、そをおきてたゞに見を美斯《ミシ》といへることかつてなし、皆|賣斯《メシ》とのみ云り、賣斯《メシ》は美《ミ》と切《ツヾマ》れば、知《シリ》をシロシ〔三字右○〕、聞《キヽ》をキコシ〔三字右○〕》などいふ格に全(ラ)同じ、シロシ〔三字右○〕はシリ〔二字右○〕、キコシ〔三字右○〕はキヽ〔二字右○〕と切まるにて、其(ノ)ゆゑをさとるべし、猶このことは、下の、藤原(ノ)宮役民の歌の下にいはむをも、合(セ)見て考(フ)べし、しかれば安見斯志といはむに、一(ツ)の斯は無用言《イタヅラゴト》になれゝば、かにかくにこの説もひがことならじやは、)○我大王は、ワガオホキミ〔六字右○〕と訓べし、我は親《シタシ》みていふ辭なり、(凡我を和と云(ヒ)阿といふこと、おのれ考(ヘ)ありて別に記せり、さて荒木田氏云、古事記、書紀には倭我於朋枳美《ワガオホキミ》とあれど、集中假(39)字書には總て和期於保伎美《ワゴオホキミ》とあれば、集にてはいづくもワゴと訓例なりと云り、然れども十八に、和我於保伎美可母《ワガオホキミカモ》、又二十(ノ)卷に、和我於保伎美加母《ワガオホキミカモ》などあれば、猶我大王と書《ア》るは、ワガオホキミ〔六字右○〕と訓べきにこそ、)○朝庭《アシタニハ》、朝の假字は十五、十八には安之多《アシタ》と書き、十九には安志太《アシダ》と書たれば、古(ヘ)は多の言清濁|不定《オボツカナキ》に似たれども、まづ清て唱ふべし、(今も安之多《アシタ》と清て唱へ、且《マタ》安志太《アシダ》と濁音の字を書たるは、唯一所のみなれば、清音と定むべきことか、)然れども、しばらく濁音の字を書るかたに依ていはゞ、安之太《アシダ》は、明時《アクシダ》の義なるべし、志太《シダ》は舊説《フルキコト》(仙覺註)に間の古語《イニシヘコトバ》ぞといへり、故(レ)考(フ)るに、肥前國風土記松浦(ノ)郡(ノ)條に、褶振(リ)峯の蛇の篠原《シヌハラノ》村の弟日姫《オトヒメノ》子を娉《ツマド》ふ時、彼(ノ)蛇の歌に、志努波羅能意登比賣能古袁佐比登由母爲禰弖牟志太夜伊幣爾久太佐牟《シヌハラノオトヒメノコヲサヒトユモヰネテムシダヤイヘニクダサム》、又集中十四に、安是登伊敝可佐宿爾安波奈久爾眞日久禮?與比奈波許奈爾安家奴思太久流《アゼトイヘカサネニアハナクニマヒクレテヨヒナヘコナニアケヌシダクル》、又|等保期等布故奈乃思良禰爾阿抱思太毛安波乃敝思太毛奈爾己曾與佐禮《トホシトフコナノシラネニアホシダモハノヘシダモナニコソヨサレ》、又|阿我於毛乃和須禮牟之太波久爾波布利禰爾多都久毛乎見都追之努波西《アガオモノワスレムシダハクニハフリネニタツクモヲミツヽシヌバセ》、又|於毛可多能和須禮牟之太波於抱野呂爾多奈婢久君母乎見都追思努波牟《オモカタノワスレムシダハオホヌロニタナビククモヲミツヽシヌバム》、又|比登乃兒乃可奈思家之太波波麻渚杼里安奈由牟古麻能乎之家口母奈思《ヒトノコノカナシケシダハハマスドリアナユムコマノヲシケクモナシ》、又二十(ノ)卷に、阿我母弖能和須例母之太波都久波涅乎布利佐氣美都都伊母波之奴波涅《アガモテノワスレムシダハツクバネヲフリサケミツヽイモハシヌバネ》、などある志太《シダ》は皆時の意なり、又十一に、奧浪邊浪之來縁左太能浦之此左太過而後將戀可聞《オキツナミヘナミノキヨルサダノウラノコノサダスギテノチコヒムカモ》てふ歌の左太《サダ》も同言なるべし、又|朝《アシタ》を安左《アサ》といふ(40)も、もと安志太《アシダ》の切(マリ)たるなり、(志太《シダ》の切|左《サ》、)又|往左《ユクサ》來左《クサ》還左《カヘルサ》などの左《サ》も志太《シダ》の切りたる言にて、往時《ユクトキ》來時《クトキ》還時《カヘルトキ》てふ謂《ヨシ》なり、今土佐(ノ)國の方言《クニコトバ》にも、往志太《ユキシダ》來志太《キシダ》など云は、おのづから古語の遺れるなり、(京都あたりにては往志那《ユキシナ》來志那《キシナ》といへり、これも言はかよへり、)但し集中などに安久流安之多《アクルアシタ》てふことのあれば、朝《アシタ》を明時《アクシダ》の意とせむに、明《アクル》てふ言|無用《イタヅラ》に重なれば、いかにぞやおもふ人もあるべけれども、そは明《アクル》時を安之太《アシダ》と體に云すゑて後の事なれば、明《アク》る朝《アシタ》と云も害《サマタゲ》なし、さる例多し、推わたして知べし、庭《ニハ》は借(リ)字、むかふものある時にいふ詞なり、下なるも同じ、さて朝庭《アシタニハ》云々|夕庭《ユフヘニハ》云々と、朝夕のうへばかりいひて、終日終夜のさまを思はせたるなり、日々に撫愛み大切に爲賜ふよしなり、○取撫賜《トリソデタマヒ》取はいひおこす詞とて、手して物することに多くいへり、こゝは撫愛賜《ナデウツクシミタマ》ふさまなり、弓矢は天皇を始奉りて、上(ツ)代より貴み愛來《メデコ》しものなればなり、(すべて男は弓を寶とし、女は鏡を寶とすること、古(ヘ)よりのならはしなるべし、されば拾遺集神樂歌にも、よも山の人の寶とする弓を神の御前にけふたてまつるとあり、)○夕庭《ユフヘニハ》、夕の假字は、五(ノ)卷二十(ノ)卷に、由布敝《ユフヘ》、十九、十四に、由布敝《ユフヘ》とあり、由布《ユフ》と云義は未(ダ)思得す、敝《ヘ》は方《ヘ》なり、清て唱べし、((今(ノ)世濁りて唱るは非なり、其(ノ)由下につばらに解《イフ》べし、)○伊縁立之は、イヨリタヽシヽ〔七字右○〕と訓べし、(奮本にイヨセタテヽシ〔七字右○〕と訓るによりて、注者等これを、弓を立置賜ふことゝ解來れるはひがごとなり、さて又天皇の立置せ賜ふことを、たてゝ(41)しと云むはいと不敬《ナメゲ》にて、あるまじきことなるを、さることに心のつかざりしはいかにぞや、)伊《イ》はそへ言《コトバ》とて物をいひ出す頭におく言なり、書紀神代(ノ)卷(ノ)歌に、以和多羅須《イワタラス》、集中に、伊隱《イカクル》、伊積《イツモル》、伊行《イユク》、伊歸《イカヘル》などの類擧てかぞへがたし、(又詞の下に付て木乃關守伊《キノセキモリイ》、蒐原壯士伊《ウナヒヲトコイ》などいへる伊《イ》もあり、そは下にいふべし、)倚立賜ひしといふ意なり、タヽシ〔三字右○〕はタチ〔二字右○〕の伸りたる辭にて、立賜ひといふ意になること、上に云るが如し、下の之《シ》は過去《スギニ》し方のことをいふ辭なり、御親《ミミヅカラ》その弓の邊(リ)に倚立給ひしよしなり、夕毎に御手をはなたせ腸ふにもいたづらに捨置せ賜はず、なほそのほとりに倚立せ賜ふは、その御弓をふかく愛《ウツクシ》み賜ふよしなり、上の取撫賜とあるにむかへて意得べし、○御執乃《ミトラシノ》、御《ミ》は尊稱とて、こは天皇の大御手に執(リ)賜ふ弓といふよしにていへり、執之《トラシ》は執《トリ》の伸りたる辭にて、執(リ)賜ふといふに同じきこと、上に云るが如し、釼《ツルギ》を御佩之釼《ミハカシノツルギ》といふが如し、(御衣をミケシ〔三字右○〕といふも同じ、)雄略天皇(ノ)紀に、弓《ミタラシ》とあるは、(等《ト》と多《タ》とは親《チカ》く通ふが故に、トラシ〔三字右○〕をタラシ〔三字右○〕といへるなるべし、多羅枝《タラシ》のことゝいふは、後(ノ)世の牽強説にていふにたらず、)やがて御弓のことゝせるなり、これも御佩《ミハカシ》といふを即(チ)御釼の事とせると全同じ、かくいふこともいと古きことゝ見えたり、さるは景行天皇(ノ)紀に、御刀媛といふありて、注に御刀此云2彌波加志《ミハカシト》1と有を思へ、○梓弓之《アヅサノユミノ》、弓はくさ/”\の木もて作れゝど、兵庫寮式に、凡(ソ)御梓弓一張(以2寮庫弓1充之、脩造功五人、)とあるを思(ヘ)ば、古(ヘ)より大御弓は梓なりけ(42)む、(梓の木のことは、附卷品物解にいへり、)○奈加弭は本居氏、一説《アルコト》に中筈なり、古(ヘ)の弓に此(ノ)製ありと云れど未決《イブカシ》、もしは加は利の誤にて奈利弭《ナリハズ》ならむか、加利相似たりと云り、今は姑くこれによりて訓つ、(石原(ノ)正明が、奈利弦にやといへるなどはいふにたらず、)弭は和名抄に釋名(ニ)云、弓(ノ)末(ヲ)曰v※[弓+肅]、和名|由美波數《ユミハズ》、二(ノ)卷、十六に、弓波受《ユハズ》とあり、さて奈利弭《ナリハズ》とするときは、古(ヘノ)弓に、射る時殊に音高く弭の鳴るがありしなるべし、そは二(ノ)卷に、取持流弓波受乃驟《トリモタルユハズノサワギ》云々|聞之恐久《キヽノカシコク》、とあるにてもさとるべし、さておしなべて古(ヘ)弓弭の然ありしにはあらで、又さのみは鳴ざるも有しなるべければ、其(ノ)ことに鳴べく製《ツク》れるをぞ、奈利弭とはいひけむ、(今の弓にも音はあれども、さのみ高くはならず、)○音爲奈利《オトスナリ》とは、御かりに出賜はむとて、御弓とりしらべ賜ふが、弓弭の鳴さわぐ音の後宮へきこゆるなり、奈利は決定《イヒサダムル》辭とて、(もと爾安利《ニアリ》の縮りたる詞なり、音爲奈利《オトスナリ》は音爲るにて有といふと同じことなり、、)目に見耳に聞ことをそのまゝにいふ詞なり、○朝獵爾《アサガリニ》云々|暮獵爾《ユフガリニ》(獵(ノ)字、二(ツ)ながら類聚抄には?と作り、)は、(十四に、安佐我里能伎美俄由美爾母《アサガリノキミガユミニモ》云々と假字書あれば、安佐我里由布我里《アサガリユフガリ》と我《ガ》を濁るべし、)朝獵、と云るは、朝に御かりに出賜ふを云(ヘ)ば論なきを、朝獵暮獵とならべ云るは、上の朝庭夕庭をうけて文《アヤ》なせるのみなり、反歌に朝布麻須等六《アサフマスラム》とあるにて、實は朝獵に出賜ふをきこしめしてよませ賜ふなり、さてこゝは、六(ノ)卷赤人(ノ)歌に、安見知之和期大王波《ヤスミシシワゴオホキミハ》云々|朝獵爾十六履起之夕狩爾十(43)里※[足+搨の旁]立馬並而御?曾立爲春之茂野爾《アサガリニシシフミオコシユフガリニトリフミタテウマナメテミカリゾタヽスハルノシゲヌニ》、とあると似たる云樣《イヒザマ》なり、○今立須良思《イマタヽスラシ》は、今立賜ふらしと云が如し、立須《タヽス》は立《タツ》の伸りたる詞にて、尊みたる方にいふこと、此(ノ)上に云るが如し、良思《ラシ》、はさだかにしかりとは知られねど、十に七八はそれならむとおぼゆるをいふ詞なり、(俗にそうなといふにあたれり、)○御執能梓弓之《ミトラシノアヅサノユミノ》、(能梓(ノ)二字は、舊本下上に誤れり、今は元暦本によりつ、上にも御執能梓弓《ミトラシノアヅサユミ》とあるをおもへ、そも/\集中に、字の顛倒《イリチガヒ》のいと多有《オホカル》は、活本より誤れるなるぺし、)この以下四句は、上に云たることをかさねたるなり、一(ト)たびいひてあかねば今一(ト)たびいひて、その所思《コヽロ》の切《フカ》きをあらはしたるなり、これらは後(ノ)世の及ばざる處なりかし、○歌(ノ)意は、天皇の終日終夜に、御もとさらずて撫愛み、大切にせさせ賜ふ御弓の弭音すなるは、今や朝獵に出立賜ふらし、女の身なれば、かゝる折にも御供つかうまつらで、遺居《オクレヲル》がうらやましきことゝ、老《オユ》して奏し賜ふなるべし、
 
反歌《カヘシウタ》
 
カヘシウタ〔五字右○〕と訓べし、こは上の長歌の意を總《スベ》ても、又は長歌にいひのこせる事をも、短歌にうち反してうたふ故に反歌とはいへり、しかいふ由縁《ヨシ》は首(ノ)卷に委(ク)云り、
 
4 玉刻春《タマキハル》。内乃大野爾《ウチノオホヌニ》。馬數而《ウマナメテ》。朝布麻須等六《アサフマスラム》。其草深野〔三字左○〕《ソノクサフカヌ》。
 
玉刻春《タマキハル》(刻(ノ)字拾穗本類聚抄等には尅と作り、)は枕詞なり、古事記下下(ツ)卷仁徳天皇の建内(ノ)宿禰に(44)賜ふ大御歌に、多麻岐波流宇知能阿曾《タマキハルウチノアソ》、集中五(ノ)卷に、靈尅内限者《タマキハルウチノカギリハ》などあり、又|命《イノチ》とも代《ヨ》とも續けたり、四(ノ)卷に、靈尅命向《タマキハルイノチニムカフ》、五(ノ)卷に、多摩枳波流伊能知遠志家騰《タマキハルイノチヲシケド》、十一に、玉切命者棄《タマキハルイノチハステツ》、十五に、多麻吉波流美自可伎伊能知毛《タマキハルミジカキイノチモ》、十九に、玉尅壽毛須底?《タマキハルイノチモステテ》、十七に、多未伎波流伊久代經爾家牟《タマキハルイクヨヘニケム》など猶多し、(又十(ノ)卷に。靈寸春吾山之於爾《タマキハルアガヤマノヘニ》とよめるはいかゞあらむ、)さてこの詞の意、まづ多麻岐《タマキ》は(玉靈など書るはみな借(リ)字、)手纏《タマキ》にて、上(ツ)世に手腕《ウテ》の装《カザリ》に佩《ハキ》しものなり、古事記に、投棄左御手之手纏《ナゲウツルヒダリノミテノタマキ》、此(ノ)集十五に、和多都美能多麻岐能多麻《ワタツミノタマキノタマ》、現報靈異記に、環(ノ)字、字鏡に、釧(ノ)字、みな多萬岐《タマキ》とよめり、波流《ハル》は波久《ハク》と同じ、流《ル》と久《ク》とは韻通へり、集中に、振(ノ)字を布流《フル》とも布久《フク》とも訓せ、神代紀に、背揮此云2志理弊提爾布倶《シリヘデニフクト》1とと有(ル)などをもて、その親(ク)通ふ例を知べし、さて宇智《ウチ》とつゞくは、腕《ウテ》の義なるべし、智《チ》と?《テ》と音通へり、集中に、長道《ナガチ》を長手《ナガテ》と云るなど其(ノ)餘例多し、腕は和名抄に、陸詞(ガ)切韻云、腕(ハ)手腕也、和名|太々無岐《タヾムキ》、一云|宇天《ウテ》とあり、さて手纏は手腕《ウテ》に佩具《ハクモノ》なるから手纏佩腕《タマキハクウテ》といふ意に、宇知《ウチ》といふ言に云係たる枕詞なるべし、(また大神(ノ)景井(ガ)考あり、めづらしければあぐ、其(ノ)考に云、多麻岐波流《タマキハル》は靈久美波流《タマクミハル》なるべし、人の生涯《ウチノカギリ》は靈《タマ》の久美張《クミハル》て絶ぬ意にて、靈久美張現《タマクミハルウツ》と續くなるべし、久美《クミ》とは角久牟《ツノグム》、芽久牟《メグム》などの久牟《クム》に同じく、張《ハル》は木(ノ)芽の張(ル)といふ張(ル)に同じといへり、猶考べし、舊來《ムカシヨリ》魂極《タマキハル》として解(ケ)る説などは論ふに足ず、古事記傳に、多麻岐波流《タマキハル》は、阿良多麻能《アラタマノ》と云と同意なり、阿良多麻《アラタマ》は、中(ツ)卷倭建(ノ)命(ノ)段(ノ)歌に見えて、年(45)月日時の移りもてゆくを云言なり、さて多麻岐波流は阿良多麻來經《アラタマキフ》るにて、阿良《アラ》を省き經《フ》を通音にて波《ハ》と云なり、彼(ノ)倭建(ノ)命(ノ)段(ノ)歌に、阿良多麻能登斯賀岐布禮婆阿良多麻能都紀波岐閇由久《アラタマノトシガキフレパアラタマノツキハキヘユク》とある是なり、されば此も年月日時の經行ことにて、宇知とつゞく意は顯現《ウツ》なり、そは現身《ウツシミ》、現世《ウツシヨ》など云を、人の此(ノ)世に生てあるほどを云り、故萬葉に多麻岐波流命《タマキハルイノチ》と多くつゞけ、世《ヨ》ともつゞけ、又|内限《ウチノカギリ》とよめるも、現世の限なり、又たゞ世のことを阿多良世《アタラヨ》と云るも、阿良多麻乃世《アラタマノヨ》、多麻岐波流世《タマキハルヨ》と云と同じことにて、世と云、命と云、現《ウツ》と云、皆年月日時を經行間のことなる故に、多麻岐波流とは云なりといへり、此(ノ)説詞の趣はさもときこえながら、阿良多麻《アラタマ》の阿良《アラ》を省けりといふこと、あまりしきことなり、凡て言を省くといふことも公論にあらず、余が雅言成法を合(セ)考(ヘ)て知べし、又荒木田(ノ)久老(ノ)考には、多麻岐波流は程來經《タマキフル》にて、多麻《タマ》は十八(ノ)家持(ノ)卿の放逸鷹歌に、知加久安良婆伊麻布都可太末《チカクアラバイマフツカタマ》とある、末を未とかけるは誤にて、この太末《タマ》は、年月日夜の來經行間をいふ古言と見えて、奴婆多麻《ヌバタマ》、阿良多麻《アラタマ》、多麻佐可《タマサカ》などいふ多麻《タマ》も同じ意なりと云り、此(ノ)考面白くはあれど、程を多末《タマ》といふこと猶おぼつかなし、)かくて多麻岐波流現《タマキハルウチ》といふ意につゞけなれたる、其(ノ)現《ウチ》は現世《ウツシヨ》のことにてそれよりうつりて、壽は現(シ)世の中のものなる故につゞけ、又世ともつゞけたり、○内乃大野《ウチノオホヌ》は、即(チ)宇智(ノ)郡の野なり、大《オホ》は大虚《オホゾラ》、大海《オホウミ》、大道《オホヂ》などの大《オホ》と同じ、野は凡て努《ヌ》と訓ぺし、その所由は、軋(ノ)下|茜草指武良(46)前野逝《アカネサスムラサキヌユキ》云々の歌の下に委しく云べし、○馬數而は、ウマナメテ〔五字右○〕と訓べし、御馬を從者等とならべ賜ふよしなり、數(ノ)字は意を得て書るなり、數あるものはならぶゆゑなり、十七に、宇麻奈米底《ウマナメテ》、六(ノ)卷に、友名目而遊物尾馬名目而往益里乎《トモナメテアソバムモノヲウマナメテユカマシサトヲ》、古事記中(ツ)卷神武天皇(ノ)大御歌に、多々那米弖《タヽナメテ》などあり、馬は書紀にも集中にも、假字には皆|宇麻《ウマ》とあり、(廿(ノ)卷に、牟麻《ムマ》とあるは宇麻《ウマ》の誤寫《ヒガウツシ》なるべし、牟麻《ムマ》といふは後(ノ)世の誤なり、凡て宇を牟《ム》に後に誤れる事の多き故は、宇と牟と字形の似たる故ぞと云事なれど、然にはあらず、是(レ)は麻(ノ)行の音と、婆《ハノ》行の濁音とにて承るとき、宇をん〔右○〕と後の音便に唱ふる事の多きによりて、遂に假字をも書誤れるなり、其は生《ウマル》をンマル〔三字右○〕、甘味《ウマシ》をンマシ〔三字右○〕、梅《ウメ》をンメ〔二字右○〕、埋《ウモル》をンモル〔三字右○〕、薔薇《ウバラ》をンバラ〔三字右○〕、奪《ウバフ》をンバフ〔三字右○〕、諾《ウベ》、郁子《ウベ》をンベ〔二字右○〕と呼類なり、其(ノ)中|海《ウミ》、生《ウミ》などをばンミ〔二字右○〕とは今も云ず、されば馬を牟麻《ムマ》とかくも、彼(ノ)生《ウマル》をンマル〔三字右○〕といふ定なり、かくて馬を牟麻《ムマ》と誤れるは、何《イツ》の時よりのことぞといふに、まづ和名抄に、馬(ハ)和名|無萬《ムマ》、※[馬+旱]馬(ハ)今按、此間(ニ)云|波禰無萬《ハネムマ》、戴星馬(ハ)和名|宇比太非能無麻《ウヒダヒノムマ》、駁馬(ハ)俗(ニ)云|布知無萬《ブチムマ》、驢騾(ハ)和名|宇佐妓無麻《ウサギムマ》、また右馬寮(ハ)美岐乃牟萬乃豆加佐《ミギノムマノツカサ》、左馬寮(ハ)比多里乃牟萬乃豆加佐《ヒダリノムマノツカサ》、主馬寮(ハ)美古乃美夜乃牟萬乃豆加佐《ミコノミヤノムマノツカサ》また驛(ハ)和名|無未夜《ムマヤ》、また牧(ハ)尚書(ニ)云、莱夷(フ)爲v牧(ト)、無萬岐《ムマキ》、また左傳注(ニ)云、馬褐(ハ)馬被也、和名|無麻岐沼《ムマギヌ》、また馬※[虫+周](ハ)和名|無末世美《ムマセミ》、また上總(ノ)國海上(ノ)郡馬野(ハ)無萬乃《ムマノ》、筑前(ノ)國嘉麻(ノ)郡馬見(ハ)牟萬美《ムマミ》、同下座乃郡馬田(ハ)無萬田《ムマダ》など、源(ノ)順の記されたるには、いづれも無麻《ムマ》と見え、さて又駿馬(ハ)漢語(47)抄(ニ)云、土岐宇萬《トキウマ》、日本紀私紀(ニ)云、須久禮太留宇萬《スグレタルウマ》、駑馬(ハ)漢語抄(ニ)云、於曾岐宇萬《オソキウマ》、※[馬+總の旁]馬(ハ)日本紀私記(ニ)云、美太良乎乃宇萬《ミダラヲノウマ》、漢語抄(ニ)云、鐵※[馬+總の旁]馬(ハ)久路美度利能宇麻《クロミドリノウマ》、楊氏漢語抄云、落星馬(ハ)保之豆岐乃宇萬《ホシヅキノウマ》、※[馬+良]馬(ハ)漢語抄(ニ)云、乎之路能宇麻《ヲシロノウマ》、漢語抄(ニ)云、馬射(ハ)和名|宇末由美《ウマユミ》、本朝武(ニ)云、五月五日競馬、和名|久良閇宇麻《クラベウマ》、辨色立成(ニ)云、馬杷(ハ)宇麻久波《ハウマクハ》、漢語抄(ニ)云、馬刷(ハ)于麻波太氣《ウマハタケ》、楊氏抄(ニ)云、馬齒草(ハ)宇萬比由《ウマヒユ》、また紫貝(ハ)和名|宇萬乃久保加比《ウマノクボカヒ》見2本草1、この本草は和名本草なり、和名(ノ)二字寫脱せるものなるべし、さて今和名本草を見るに、牟末乃久保加比《ムマノクボカヒ》とあるは、宇《ウ》を牟に誤《ヒガ》寫(シ)せるものなり、源(ノ)順の引たる時は、正しき本によられしこと著く、かく混雜《クサグサ》に無萬《ムマ》とも宇萬《ウマ》とも書たるが中に、よく思へば、漢語抄、日本紀私記、本朝式、辨色立成、和名本草等の書を引たるには、いつれも宇麻《ウマ》と見えて、無麻《ムマ》と書るはなく、かの深江(ノ)輔仁(ノ)和名本草にも、驢を和名|宇佐岐宇麻《ウサギウマ》、と見えたるなどを合せ考《オモフ》に、その前《サキ》みな宇麻《ウマ》なりしを、天暦の頃に至りては、既《ハヤ》く誤りて無麻《ムマ》となりしか、同抄に、駱駝(ハ)良久太乃宇萬《ラクダノウマ》、食槽(ハ)和名|宇麻乃岐保禰《ウマノキホネ》とあるのみは、舊き書をも引ざるに、なほ宇麻《ウマ》とせるは疑はしけれど、これらも漢語抄等に出たるまゝを載られけむを、たまたまその引書は脱せるものならむ、但し宇《ウ》を牟《ム》とせることは、傳寫の誤其(ノ)例少からぬことなれば、古本の和名抄はなべて宇麻《ウマ》なりけむを、後より/\に誤寫せるにもあるべし、しかれども右に云如く、順の自注せる方には無《ム》とのみ見え、舊き書を引たる方には宇《ウ》とのみありて、(48)きはやかに別りたれば、なほ傳寫の誤とも定めがたし、拾遺集七(ノ)卷物(ノ)名に、むまひつじさるとりいぬゐを、生《ムマ》れよりひつしつくれば山にさるひとりいぬるに人ゐていませ、とあるも宇麻を唱へ誤りしものにはあらて、彼《ソノ》此は既く午をも牟麻《ムマ》、生をも牟麻留《ムマル》とせるにこそあらめ、○朝布麻須等六《アサフマスラム》は、朝獵に蹈賜ふらむといふなり、蹈は上に引る六卷(ノ)歌に、十六履起之《シシフミオコシ》云々、十里※[足+搨の旁]立《トリフミタテ》云々、とある※[足+搨の旁]におなじく、草にかくれふせる多くの鳥獣を、ふみ立おどろかし賜ひて、御狩獵《ミカリ》し賜ふなり、○其草深野は、ソノクサフカヌ〔七字右○〕と訓べし、其《ソノ》とは人のしりたるものを正しくさす詞なり、されば上なる内野即(チ)その野なり、草深野は草深く生たる野といふなり、集中に草深百合と云るも、草深き野に生たる百合を云、考(ヘ)合(ス)べし、(舊本にクサフケヌ〔五字右○〕とよめるは甚《イミジキ》誤《ヒガゴト》なり、其(ノ)訓に從て略解に、深きを約轉して下へつゞくる時、夜のふけ行といひ、田の泥深きをふけ田と云が如く、草深き野なりと云(ヘ)れど、まづ深きを約轉してと云こと甚《イト》も意得ず、深野《フカヌ》は體語《ヰコトバ》にて、高山《タカヤマ》、長道《ナガチ》など云がごとし、そをたけ山、なげ道など云たる例なきことなり、たとひ例ありとも、其を約轉して云かけたるなりと云ては、通《キコ》ゆべからぬをや、又夜のふけ行てふ詞を、いかに意得|誤《タガ》ひてか此處には引出たる、夜のふけ行は、俗語に夜の深う成行てふ意にて、固《モトヨリ》ことなる言格《イヒザマ》なるをや、又田の泥深きをふけ田と云るも、古書どもにたしかなる據も見えざれば、猶|證《アカシ》にはなりがたきをや、凡て古書をよくも讀ざるから、(49)さるひがことはいふものぞ、)○歌(ノ)意は、從者等と御馬をならべ賜ひて、朝獵にふみおこし賜ふらむに、その内の野は草深くて、鳥しゝなどもいとおほくかくれたるべければ、けふの御かり御獲物多くして、御興盡ざるべしとおぼしやりたるよしなり、(夫木集に、霜さやぐ内の大野の冬枯にあさふませ行駒なづむなり、とあるは今の歌に本づきたるなり、
 
幸《イデマセル》2讃岐國安益郡《サヌキノクニアヤノコホリニ》1之時《トキ》。軍王《イクサノオホキミノ》見《ミテ》v山《ヤマヲ》作歌《ヨミタマヘルウタ》
 
幸2讃岐(ノ)國云々1は、書紀舒明天皇(ノ)卷に、十一年十二月己巳朔壬午、幸2于伊豫(ノ)温湯《ユノ》宮(ニ)1、十二年夏四月丁卯朔壬午、天皇至(リマシテ)v自2伊豫1便(チ)居(マス)2厩坂(ノ)宮(ニ)1と見ゆ、此(ノ)春ついでに讃岐へも幸有けむことしるし、幸は(契冲が蔡※[災の火が邑]獨斷(ニ)曰、天子車駕所v至以爲2※[人偏+堯]倖1、故曰v幸云々といへり、)イデマス〔四字右○〕と訓、(ミユキ〔三字右○〕といふことも古言にてはあれども、なべてはイデマス〔四字右○〕といへり、)かくいふ言(ノ)意は後にいふべし、(天皇には行幸といひ、太上天皇には御幸といひてわかつは、字のうへのさだにて後のことなり、(讃岐は、和名抄に、讃岐(ノ)國|佐奴岐《サヌキ》とあり、岐(ノ)字は、古事記をはじめ清濁通(ハシ)用(ヒ)たり、讃岐は今も岐《キ》を清て唱へ、古(ヘ)よりも清しなり、(古事記傳に、岐を濁音と定めて、讃岐とあるをばことごとく濁りて唱へしはひがことなり、又讃岐は竿調《サヲノツギノ》國かと云るもおぼつかなし、)書紀天智天皇(ノ)卷に、讃吉(ノ)國山田(ノ)郡、持統天皇(ノ)卷に、讃吉(ノ)國御城(ノ)郡などかけり、(これ岐を濁るまじき證なり、)又續紀には紗拔《サヌキ》とも書り、(延暦十年九月、讃岐(ノ)國寒川(ノ)郡(ノ)人五六位上凡直千繼等言、千(50)繼等先賜2紗拔(ノ)大押(ノ)直之姓(ヲ)1云々と見ゆ、)名(ノ)義はいかにかあらむ未(タ)詳ならず、○安益《アヤノ》郡は、和名抄に、讃岐(ノ)國阿野(ノ)(綾)郡(國府)とあり、後拾遺集に、としつなの朝臣の讃岐にて、あや川の千鳥をよみ侍けるによめる、藤原(ノ)孝善、きり晴ぬあやの川原に鳴千鳥聲にや友の行方をしるとあり、○軍王《イクサノオホキミ》は、考ふる所なし、王はオホキミ〔四字右○〕と訓べし、抑々上(ツ)代には、某(ノ)王と御名の下にある王は、みな美古《ミコ》と唱へ來しを、やゝ後に親王といふ號出來てより、親王を美古と唱へ、親王ならぬを王と書て、其をば於保伎美《オホキミ》と唱へ分ることゝなれり、さてその親王といふ號、天武天皇(ノ)紀四年の條に始めて見えたれども、なほそれより前に親王の號は起《ハジマ》りつらむ、さて彼(ノ)頃は既く親王を美古《ミコ》と申し、其に分て諸王をば、某乃於保伎美《ソレノオホキミ》と唱ふる定(リ)にはなれるなるべし、集中にも此(ノ)卷(ノ)下に、麻績(ノ)王《オホキミ》、十三に、三野(ノ)王《オホキミ》など歌にもよみたり、これ皆オホキミ〔四字右○〕と、申せる證なり、猶古事記傳二十二にいへることを合(セ)考(フ)べし、○作歌は、ヨミタマヘルウタ〔八字右○〕と訓べし、(作をツクレル〔四字右○〕とよまむは、字に泥みて古言を忘失《ウシナ》ふわざぞ、)餘无《ヨム》と云言の義は前に云り、○此間に、目録には並短歌(ノ)三字あり、本文にはもとよりなかりしなるべし、此(ノ)上に云り、
 
5 霞立《カスミタツ》。長春日乃《ナガキハルヒノ》。晩家流《クレニケル》。和《ワ》(豆)肝之良受《キモシラズ》。村肝乃《ムラキモノ》。心乎痛見《コヽロヲイタミ》。奴要子鳥《ヌエコトリ》。卜歎居者《ウラナゲヲレバ》。球手次《タマタスキ》。懸乃宜久《カケノヨロシク》。遠神《トホツカミ》。吾大王乃《ワガオホキミノ》。行幸能《イデマシノ》。山越乃風《ヤマコシノカゼ》。獨座《ヒトリヲル》。吾衣手爾《アガコロモテニ》。朝夕爾《アサヨヒニ》。還此奴禮婆《カヘラヒヌレバ》。大夫登《マスラヲト》。念有我母《オモヘルアレモ》。草枕《クサマクラ》。客爾之有者《タビニシアレバ》。思遣《オモヒヤル》。鶴寸乎白土《タヅキヲシラニ》。綱能浦之《ツナノウラノ》。海(51)處女等之《アマヲトメラガ》。燒塩乃《ヤクシホノ》。念曾所燒《オモヒゾヤクル》。吾下情《アガシタゴコロ》。
 
霞立《カスミタツ》は、春日のうらゝかなるさまをいはむとておきたる詞なり、此(ノ)つゞけ集中に多し、蝦鳴神南備《カハヅナクカムナビ》、千鳥鳴佐保《チドリナクサホ》などやうにいふも似たることなり、霞は名(ノ)義、可須《カス》は幽《カス》か微《カス》けきなどいふ可須にて、春《ハルノ》時|生氣《ケ》の立のぼり氣《ケ》ぶりわたり、幽微《カスカ》にして明らかならざるをいへり、(或説に、唐韻に霞(ハ)日邊(ノ)赤雲也、とあるを引て、赤染《アカソミ》の義なりと云るは、字にのみ惑ひて、古義をばわすれたる説なり、)美《ミ》はその形容を活動《ハタラ》かし云詞にて、加須美《カスミ》、可須無《カスム》と活用《ハタラク》、即(チ)それを體言になして可須美《カスミ》とはいふなり、たとへば霞渡《カスミワタル》などいふ時は美《ミ》の言なほ用なるを、朝霞《アサカスミ》、霞棚曳《カスミタナビク》などいふ時は、即(チ)體言になれるなり、今の霞立《カスミタツ》やがてそれなり、(たとへば遣悶《ナグサミ》てふ言を、遊び遣悶《ナグサミ》などいふ時は、美《ミ》の言用なるを遣悶《ナグサミ》を爲《スル》といふ時は體言になり、苦《クルシミ》てふ言を、苦歎《クルシミナゲ》くといふ時は、美《ミ》の言用なるを、苦《クルシミ》を爲《スル》といふ時は體言になり、進《スヽミ》てふ言を、進競《スヽミキホ》ひといふ時は、美《ミ》の言用なるを、行《ユキ》の進《スヽミ》などいふ時は、體言になるがごとし、)○長春日乃《ナガキハルヒノ》、十(ノ)卷にも、霞發春永日戀暮夜深去妹相鴨《カスミタツハルノナガヒヲコヒクラシヨノフケユカバイモニアハムカモ》とあり、(今の歌によりて考るに、これも永春日《ナガキハルヒ》とありしを倒置《オキタガヘ》しなるべし、)日の言清て唱(フ)べし、(例は古言清濁考に詳なり、)○和豆肝之良受、ワヅキモ〔四字右○〕てふ詞他に例なし、(ワヅキ〔三字右○〕は分ち著なり、手著《タヅキ》といふに似て少し異なりといふ説は信がたし、今按(フ)に、和(ノ)字は草書の※[手の草書]を誤れるにて、手豆肝なるべきか、然るに、クレニケルタヅキモシラズ〔クレ〜右○〕てふ語のか(52)かり、かにかくに思ひめぐらせども、いかにとも通えがたく、またこの歌の下に、鶴寸乎白土《タヅキヲシラニ》とあれば、わづらはしくこゝにたづきとあらむもいかゞ、もしは誤字脱字など有にや、)契冲は和豆肝之良受《ワヅキモシラズ》は、わきもしらずといふに、中に豆《ヅ》もじのそはれるにや、十二に、中々にしなばやすけむ出る日のいるわきしらずわれしくるしも、とよめるごとく、旅に久しくありて、故郷を戀しく思ひくらして、ながき春日なれど、くるゝわきもしらずとなるべしといへり、されどわきを和豆伎《ワヅキ》とはいふべくもあらねば、なほ豆は衍文と見て、姑(ク)ワキモシラズ〔六字右○〕と六言に訓てあるべし、和伎《ワキ》と云る例は、四(ノ)卷に、夜晝云別不知《ヨルヒルトイフワキシラニ》、十一に、月之有者明覽別裳不知而《ツキシアレバアクラムワキモシラズシテ》、卷に春雨之零別不知《ハルサメノフルワキシラズ》、十一に、年月之往覽別毛不所念鳧《トシツキノユクラムワモモオモホエヌカモ》などあり、○村肝乃《ムラキモノ》、こは心といはむ料の枕詞なり、四(ノ)卷に、村肝之情摧而《ムラキモノコヽロクダケテ》云々、十(ノ)卷に、村肝心不欲《ムラキモノコヽロイサヨヒ》云々、十六に、村肝乃心碎而《ムラキモノコヽロクダケテ》云云などよめり、其(ノ)義は、本居氏、五臓おの/\名あれども、其は後に設けたるものにて、古言には臓腑の類をみなキモ〔二字右○〕と云り、後(ノ)世に肝をも膽をもキモ〔二字右○〕と云は、古言ののこれるなり、されば腹の内に臓腑の凝《コリ》ある意にて、群臓腑《ムラキモ》の凝《コリ》なり、肝向心《キモムカフコヽロ》と云も同じことなりと云り、(冠辭考の説は用ふべからず、)○心乎痛見《コヽロヲイタミ》は、心が痛さにの意なり、本居氏、凡て風を痛み、瀬を早み、春を淺み、山高み、秋ふかみなどいふは、風が痛さに、瀬が早さに、春が淺さに、山が高さに、秋がふかさにの意なり、上にをと云ると、をの言なきとあり、あるもなきも同意なり、といはれし(53)によりて、こゝもその意に心得べし、集中にて且々《カツガツ》いはゞ、此(ノ)下に、空蝉之命乎惜美《ウツセミノイノチヲヲシミ》云々、二(ノ)卷に、爲便乎無美妹之名喚而《スベヲナミイモガナヨビテ》云々、又上に乎《ヲ》と云辭のなきは、此(ノ)下に、暮相而朝面無美隱爾加《ヨヒニアヒテアシタオモナミナバリニカ》云云、三(ノ)卷に、見者乏見日本思櫃《ミレバトモシミヤマトシヌビツ》などの類なり、但し又此(ノ)例に意得がたきもこれかれ多かり、くはしくは既く首(ノ)卷總論に論《アゲツラ》へり、(岡部氏(ノ)考(ノ)別記に、痛見《イタミ》は痛萬利《イタマリ》の意なりとして、こちたきまで論ひ、又略解には、痛見は痛くしての意ぞと云るなどは、ともにいふにもたらず、)痛は本郷思《クニシヌビ》の情の堪忍《タヘ》がたくて、痛み苦しむをいふ、○奴要子鳥《ヌエコトリ》は、鳥(ノ)名なり、附卷品物解に詳くいへり、こは裏歎《ウラナゲ》といはむ料の枕詞にて、其(ノ)意は、岡部氏(ノ)考に、※[空+鳥]が鳴音は恨(ミ)哭《オラブ》が如し、人の裏歎《ウラナゲ》は下(タ)になげくにて、忍(ヒ)音をいへり、然れば※[空+鳥]よりは恨(ミ)鳴(ク)といひ、受る言は下(タ)歎なりといへり、さることなるべくおぼゆ、○卜歎居者《ウラナゲヲレバ》、十(ノ)卷に、奴延鳥之裏歎座津《ヌエトリノウラナゲマシツ》、又|奴延鳥浦歎居《ヌエトリノウラナゲヲルト》などあり、卜歎、浦歎など書るはともに私借(リ)字、裏歎と書るゼ正字《マサモジ》にて、裏《シノビ》に歎《ナゲ》きて表《アラ》はさぬを云り、此は供奉のをりなれば、はゞかりて表《ウヘ》にあらはさぬ意もあるべし、裏は裏悲《ウラガナ》し、裏細《ウラグハ》しなどの裏《ウラ》と同意《ヒトツコヽロ》なり、歎は字(ノ)意の如し、されば宜《ゲ》の言濁(リ)て唱(フ)べし、(但し十七に、奴要鳥能宇良奈氣之都追《ヌエトリノウラナゲシツツ》と、氣の清音の假字を用ひたるは正《マサ》しからじ、)○珠手次《タマタスキ》は、懸《カケ》といはむ料の枕詞なり、さてこの珠は、(珠裳などいふ珠《タマ》と同じく、)美稱ともいふべけれど、よくおもふに、珠は借(リ)字にて、把手次《タバタスキ》といふことなるべし、婆《バ》と末《マ》は親(ク)通へり、さてその結法《カケヤウ》は、左右の袖口より背へ貫通《トホシ》て、(54)後《ウシロ》の方に引|縮《シヾメ》て結ぶを、今(ノ)俗《ヨ》にたまたすきと云り、古(ヘ)のもしかせしをぞ云しならむ、嵯峨野物語に、内々の鷹をつかふ時は、大をゝとりて、たまたすきをあぐるなり、東齋隨筆に、延久善政には、先器物を作られけり、資仲(ノ)卿藏人(ノ)頭にてこれを奉行せり、升を召よせてとり/”\御覽じて、簾を折て寸法などさゝせ給けり、米をば穀倉院よりめしよせて、殿上小庭にて、貫首以下藏人出納など檢知して、小舍人玉たすきして量(リ)けりなどあるも、今(ノ)俗に云と同じかるべし、美稱にいへる玉にはあらず、さるは常に兩(ノ)端《ハシ》を相繋《アハセツナ》ぎて、左右の袖をかゝげ、肩にかくるたすきとはいさゝか異《カハ》りて、袖を甚く引しゞめ把《タバ》ぬる故、把手次《タマタスキ》といふなるべし、(かく見るときは、今(ノ)俗にたまたすきといふも、其(ノ)義|明《ヨク》辨《キコ》ゆるなり、たゞ美稱としては、今(ノ)俗にすべてかゝる物に、さる美稱をそへいふことなければいかゞなり、且《マタ》たすきの中に、差別《トリワキ》てしかいへるも、いよ/\きこえがたきことなるをや、○或考に、古(ヘ)のたすきは、珠を貫連《ヌキツラネ》てかけしがありしならむと云れど、古(ヘ)たすきに珠を貫連しといふことも見えざれば、是亦|臆度説《オシハカリゴト》にて用ふるに足ざりけり、)手次《タスキ》は、書紀神代(ノ)卷に、以《ヲ》v蘿《ヒカケ》爲2手襁(ト)1(手襁此(ヲ)云2多須枳《タスキ》1)とありて、字鏡に、襁(ハ)負v兒帶也、須支《スキ》、(今(ノ)俗には須氣《スケ》と云り、)とあるを思へば、兒を負帶をいふが本にて、衣袖《ソデ》をかゝぐる帶《ヒモ》をば、手よりかくる故に、手須伎《タスキ》とはいふならむ、○懸乃宜久《カケノヨロシク》は、言に懸て云もよろしうの意なり、十(ノ)卷に、子等名丹闕之宜朝妻之《コラガナニカケノヨロシキアサヅマノ》とあり、懸《カク》とは、すべてこなたかなたをかくるこ(55)とにもいひ、又たゞ心に思ひ言に出すをもいふことなり、されば心にも詞にもいふなる中に、こゝは詞に出していふ意なり、(源氏物語夕霧に、花や蝶やとかけばこそあらめ、とあるも言に出すかたに云るなり、)宜久《ヨロシク》は、今(ノ)世に宜しうといふがごとし、(この宜久を、次の大王と云に續けて意得るは甚わろし、岡部氏(ノ)考に、宜久は宜かるてふ辭を約めたるなり、と云るはよろしからず、さては前後貫きて通えぬことなり、)宜《ヨロシ》とは、たゞよき事をいふとはたがひて、打あひ相應じたる意なり、家に還るといふにかけていふに打あひ相應して、よろしう風の吹還りぬればの意なり、○遠神《トホツカミ》は、天皇は即(チ)神とも神と申て、人倫の境界に遙に遠きよしにてかくはいへり、此一(ノ)言にても、古(ヘ)人の天皇をゐやまひまつり、尊み奉りし意おもひやるべし、さて以下四句、こと/”\しく行幸をいへるは、私の旅ならましかば、ともかくも心にまかすべきを、供奉なればさることもせられず、いよ/\本郷思《クニシヌヒ》の情に、堪がたきよしをいへるなるべし、○行幸、集中かくかけるは、皆イデマシ〔四字右○〕と訓べし、天智天皇(ノ)紀(ノ)童謡《ワザウタ》に、于知波志能都梅能阿素弭爾伊堤麻栖古《ウチハシノツメノアソビニイデマセコ》云々、伊提麻志能倶伊播阿羅珥茹《イヂマシノクイハアラニゾ》云々、延喜六年書紀竟宴(ノ)歌に、美可利須留幾見加弊留止天久女加波仁比度古止奴之曾以天末世利介留《ミカリスルキミカヘルトテクメカハニヒトコトヌシゾイデマセリケル》とあり、出座《イデマシ》の義なり、(行幸をミユキ〔三字右○〕といふことも、九(ノ)卷に、君之三行者《キミガミユキハ》、字鏡に、馳(ハ)幸也行也、於保三由支《オホミユキ》などあれば、古言とはしるけれども、なほいづれもイデマシ〔四字右○〕とよむかたぞふさはしき、)○山越風乃《ヤマコシノカセノ》は、山(56)を吹越風のといふなり、古今集に、根こし山こし吹風とよめるにおなじ、あるが中にも山吹越風は、ことに身にしみて寒さにたへがたければ、いよ/\、本郷思《クニシヌヒ》の情をますさまなり、さてこの詞にておもへば、春もいまだ初春なりけるにや、二月もなほ寒き年多ければ二月にや、○獨座《ヒトリヲル》、(座(ノ)字、拾穗本には居と作り、)妻とふたり宿《ネ》ば、かゝる山越の風もさのみ寒からじ、と思ふより云るがいとあはれなり、○朝夕爾、アサヨヒニ〔五字右○〕と訓る宜し、(アサユフ〔四字右○〕といふは古言にあらず、○還比奴禮婆《カヘラヒヌレバ》(禮(ノ)字、類聚抄に無は脱せるなり、)は、還比《カヘラヒ》は加閇里《カヘリ》の伸りたる詞なり、花散相《ハナチラフ》、天霧相《アマギラフ》などの例に同じく、その物の緩なるをいふ詞なり、(のぶるも、つゞむるも、よしなくてすべきにあらざれば、たゞ伸たるのみなり、と見てあらむはおろそかなり、)すべて還《カヘル》は、加閇良須《カヘラス》とも、(上の都麻須《ツマス》の例、)加閇良布《カヘラフ》とも伸る中に、加閇良須《カヘラス》は、(還り賜ふと云に同じく、)あがむる方にいひ、加閇良布《カヘラフ》は緩なる方に云て、差別あることなり、これにても古(ヘ)人の詞の精微《クハシ》きことをおもふべし、さて還とは、岡部氏(ノ)考に、十(ノ)卷に、吾衣手爾秋風之吹反者立坐多土伎乎不知村肝心不欲《アガコロモデニアキカゼノフキカヘラヘバタチヰルタドキヲシラニムラキモノココロイサヨヒ》、とあるに同じくて、幾度となく吹過れば又吹來るを云(フ)といへり、今按(フ)に、集中に、往還見《ユキカヘリミ》ともあかめやと云るも、往還《ユキカヘリ》往(キ)還(リ)幾度《イクタビ》見ともの意、又夢に夢にし見え還るらむと云るも、幾度も夢に見え見えするを云るにて、還てふ意はひとし、考(ヘ)併(ス)べし、○大夫登《マスラヲト》、(大夫と書てマスラヲ〔四字右○〕と訓は集中の例なり、但し拾穗本には大(ノ)字を丈と書り、丈夫なれば(57)こともなし、大夫とあるは大丈夫の略なりとも云り、)名(ノ)義は、正荒雄《マサアラヲ》の意ぞと冠辭考に云り、その意なるべし、(略解に益荒雄の意とせるは誤《タガ》へり、集中などにしか書るも多けれど、そは借(リ)字のみ、)登《ト》は常の語《カタ》り辭の登《ト》なり、○念有我母《オモヘルアレモ》は、かねて事なかりし時は、何事にもさやりあへぬ、たけき大丈夫とおもひほこりてありしわれさへもの意なり、丈夫ならぬ人ならばさもあるべきに、かくめゝしく本郷思の情に堪ずして、おめ/\と心を痛め苦むることよとなり、母《モ》の辭ふかく味ふべし、六(ノ)卷大伴(ノ)卿(ノ)歌にも、大夫跡念在吾哉水莖之水城之上爾泣將拭《マスラヲトオモヘルアレヤミヅクキノミヅキノウヘニナミダノゴハム》とあり、○草枕《クサマクラ》は、旅のまくら詞なり、草枕とは菰菅の類はさらにて、何にまれすべて草もてつくれる枕を云るにて、(新古今集題詞に、草を結びて枕にせよとて、人のたび侍りければ、)多毘《タビ》とつゞくは、把《タバ》ぬてふ意にいひつゞけしならむか、さるは草を把《タバ》ね結びて造る故、しかいへるにやあらむ、(此(ノ)枕詞、昔來旅には草引結びて枕とする故、草枕する旅といふ意のつゞけなり、と意得來れるは甚あらぬことなり、もし其(ノ)意ならば、さるべき語なくては言足はず、よく古言の格を考へて曉るべし、古義を得たらむほどの人は、おのが辨を待ずしても知べきことなり、)十四上野(ノ)歌に、安我古非波麻左香毛可奈思久佐麻久良多胡能伊利野乃於久母可奈思母《アガコヒハマサカモカナシクサマクラタコノイリヌノオクモカナシモ》とあるは、猶彼(ノ)卷にいふべし、○客之有者《タビニシアレバ》、この之《シ》の助辭に力(ラ)あり、すべて之《シ》の助詞は、その一(ト)すぢとりたてゝ、おもく思はする處におく辭なり、(しかるを、詞のたらずてあき(58)たる處におく辭なり、と思ふはひがことなり、)○思遣《オモヒヤル》は(遣悶、遣情などの字(ノ)意、)思(ヒ)をやり失ふなり、此(ノ)本郷思の情をはるけやる意なり、(心遣(ル)といふに同じ、字鏡に、跳※[足+肖]遊意之貌|心也留《コヽロヤル》とあり、今(ノ)京の頃よりうつりて、想像するをおもひやるといへど、古(ヘ)は心の愁思《ウレヒ》をやり失ふことのみにいへり、古今集に、我戀はむなしき空にみちぬらし思ひやれども行方もなし、とあるは此と同じ、(同集題詞に、昔を思ひやりてよみける、後撰集に、おもひやる心は常にかよへども逢坂の關越ずも有哉、などあるは皆後なり、)○鶴寸乎白土《タヅキヲシラニ》は、皆借(リ)字にて、(鶴はタヅ〔二字右○〕の借(リ)字、寸は一寸二寸をヒトキフタキ〔六字右○〕といふキ〔右○〕なり、白土は土をふるくはニ〔右○〕といへば、不知《シラニ》に借たるなり、)手著《タヅキ》を不知《シラニ》なり、手《タ》は、易《ヤス》きを手易《タヤス》き、太《フト》きを手太《タフト》きなどいふ手《タ》にて、そへたる詞なり、著は寄付《ヨリツキ》なり、古今集に、人にあはむつきのなきには、とあるつきと同言なるべし、さて此《コ》は、いづれのすぢに便りて寄著(カ)ば、おもひをはるけやられむともしらぬを云、不知をシラニ〔三字右○〕といふは、爾《ニ》は不爾《ズニ》といふ意を合める古言なり、(今(ノ)京よりこのかたは、絶ていはぬ詞となれり、抑々爾と云は、そのもとは自《ジ》と云に同じく、書紀(ノ)歌に、和素邏珥《ワスラニ》、また阿羅珥《アラニ》など云るは不《ジ》v怠《ワスラ》、不《ジ》v有《アラ》といふ意にて、珥《ニ》も自《ジ》も共に第二位の言にて、將《スル》v然(ムト)ときにいふ詞づかひのさだまりなりしを、後に那行の第二位の言を、佐行の第二位の言の濁音に通(ハ)して、自《ジ》とのみ云て珥《ニ》と云ことは失はてたり、さて不v知を志良爾《シラニ》、不v飽を阿可爾《アカニ》など云も、其(ノ)定に志良自《シラジ》、阿可自《アカジ》といふ(59)意なるべきに、其(レ)とは又異にて、不《ズ》v知《シラ》爾《ニ》、不《ズ》v飽《アカ》爾《ニ》といふ意を含みたる、古(ヘ)のひとつのいひざまとなれり、しかるに、今(ノ)京となりては絶失て、必(ズ)志良爾《シラニ》、阿可爾《アカニ》などいふべき勢の處をも、なべて知ず、飽ずとのみいふことゝなれるは、不便なることなり、かくいはではかなはぬ處多かるをや、しかるを、上古は詞づかひ狹かりしを、後(ノ)世になりて詞ひらけたり、と思ふはいとかたはらいたきわざなりかし、)○綱能浦(綱(ノ)字、拾穗本類聚抄等に網と作るは誤なり、)は、ツナノウラ〔五字右○〕と訓べし、(舊本に、アミノウラ〔五字右○〕と訓るは、もと字を誤れる本につきたる訓なればいふに足ず、)こは和名抄に、讃岐(ノ)國鵜足(ノ)郡津町(都乃《ツノ》)と有、そこの浦なるべし、さてこゝに綱と書るを思へば、津野と書るをも、もとは都奈《ツナ》といひしか、さらば繼體天皇(ノ)紀(ノ)歌に、毛|野(ノ)若子を、※[立心偏+豈]那能倭倶吾《ケナノワクゴ》とよみ、(是毛野をケナ〔二字右○〕と訓しこと著《シル》し、)和名抄に、信濃(ノ)國水内(ノ)郡古野(ハ)布無奈《フムナ》、とある類なるべし、またはそれとは表裏《ウラウヘ》にて、綱と書るをも都怒《ツヌ》といひしか、綱を都忍《ツヌ》ともいひしは、栲綱を古事記上(ツ)卷(ノ)歌に、多久豆奴《タクヅヌ》、集中二十(ノ)卷に、多久頭怒《タクヅヌ》、三(ノ)卷に、栲角《タクヅヌ》と書るなどその證なり、但しもとより都奈《ツナ》とも、都怒《ツヌ》とも二(タ)しへに通はしいひしか、今たしかには定めがたし、(又古事記に、御|綱柏《ツナカシハ》、延喜式に三津野柏《ミツヌカシハ》、大神宮儀式帳に、三角柏《ミツヌカシハ》などあるこれらは、御鋼、三津野、三角、皆ともに、ミツヌ〔三字右○〕と唱へしか、はたミツナ〔三字右○〕とも。ミツヌ〔三字右○〕とも通はし云たるか、いづれにてもあるべし、そはいかにまれ、略解などに都能《ツノ》とよめるは甚誤なり、凡て怒《ヌ》といふべきを能《ノ》(60)といふは、後の訛なるよし下にいふべし、さて神祇式に、讃岐(ノ)國鋼丁といふものゝあるを、岡部氏(ノ)考に、こゝの證に引出たるは、綱といふ地の丁《ヨホロ》と意得たるなるべし、鋼丁とは、丁の中にしかいふがありて、三代實録二十八にも、肥後(ノ)國綱丁といふあり、鋼丁のこと別に考あり、)さて三(ノ)卷山部(ノ)赤人(ノ)歌に、繩浦從背向爾所見奧島《ナハノウウユソガヒニミユルオキツシマ》、とよめる繩(ノ)字は綱の誤にて、此(ノ)歌の鋼の浦と同處なるべきよしの考あり、猶彼處にいはむことを引合せ見て考べし、又大町(ノ)稻城は、鋼はもと、綾なりしを寫しひがめたるなるべし、アヤノウラ〔五字右○〕と訓べしと云り、(その説(ニ)云(ク)、題詞に、幸2讃岐(ノ)國安益(ノ)郡1之時云々と見え、また和名抄に、讃岐(ノ)國阿野(ノ)郡(ハ)綾、景行天皇(ノ)紀に、武卵(ノ)王(ハ)是讃岐(ノ)綾(ノ)君之始祖也、天武天皇(ノ)紀に、十三年十一月、綾(ノ)君賜v姓(ヲ)曰2朝臣(ト)1、續紀四十に、讃岐(ノ)國阿野(ノ)郡(ノ)人綾(ノ)公菅麻呂等言云々、續後紀十九に、讃岐(ノ)國阿野(ノ)郡(ノ)人綾(ノ)公姑繼綾公武主等、改2本居(ヲ)1貫2附(ス)左京六條三坊(ニ)1、など見えたるも、郡(ノ)名より出たる姓なり、これらその據なり、今は綾の北條、綾の南條とて二郡にわかてり、さて、今も安益(ノ)郡は海を帶たれば、かの郡の内の海邊にて、綾の浦とはよみたまへるなるべしと云り、)此(ノ)説も然べし、主計式諸國輸調を記せる中に、讃岐國(ノ)調云々、阿野(ノ)郡喩2熬鹽(ヲ)1、とあるをも考(ヘ)合すれば、綾能浦之《アヤノウラノ》云々燒鹽乃《ヤクシホノ》、と有むこと實にさもあるべし、○海處女等之《アマオトメラガ》云々、すべて鹽を汲(ミ)燒(ク)業は、海人の中に、もはら壯(リ)なる女のする業なれば云り、(處女は嫁せぬ間の女をいふから文字なり、)乎登賣《ヲトメ》は壯なる女を多くいへり、(なほ處女のこ(61)とは、古事記傳四(ノ)卷(ニ)云、袁登賣《ヲトメ》は、袁登古《ヲトコ》に對(ヘ)て若く盛なる女を云稱なり、萬葉には、處女、未通女など書れば、未(ダ)夫嫁《ヲトコセ》ぬを云に似たれど然らず、既に嫁たるをも云、倭建(ノ)命の御歌に、袁登賣能登許能辨爾和賀淤岐新都流岐能多知《ヲトメノトコノベニワガオキシツルギノタチ》云々、とある此(ノ)袁登賣《ヲトメ》は、美夜受比賣《ミヤズヒメ》にて、既に御合坐て、御刀《ミハカシ》を其(ノ)許に置給ひしことなり、又輕(ノ)太子の、輕(ノ)大郎女に※[(女/女)+干]て後の御歌にも、加流乃袁登賣《カルノオトメ》とよみ給へり、是等嫁て後をいへり、又童なるをも云ること多し、袁登古《ヲトコ》とは童なるをばいはず、中昔にも元服するを壯士《ヲトコ》になると云るにても知べし、然るに、女は童なるをも袁登賣《ヲトメ》と云は、女はひたすらに、少(カ)きを賞る故にやあらむといへり、此説のごとく、既く嫁たるをもいふことなれど、大やうは未嫁せぬ若き女をいふが故に、集中に多くは處女、未通女などとは書たるなり、)等《ヲ》は、そのひとりしてする業ならねばいへるなり、○燒塩乃《ヤクシホノ》、(塩(ノ)字、拾穗本に鹽と作り、)これまで三句は、念曾所燒《オモヒゾヤクル》といはむ爲に、即(チ)その所の形容《サマ》もて、一首の中の序《ハシコトバ》とせり、○念曾所燒《オモヒゾヤクル》とは、おもひいられてむねのこがるゝを云、五卷に、心波母延農《コヽロハモエヌ》、十三に、我情燒毛吾有《アガコヽロヤクモアレナリ》、十七に、心爾波火佐倍毛要都追《コヽロニハヒサヘモエツツ》などよめる類なり、榮花物語に、あさましう心うき事をいひ出て、人の御むねをやきこがし、なげきをおふ云々とも見え、古今集に、むねはしり火に心やけをり、とよめるなどに同じ、(遊仙窟に、未2曾(テ)飲1v炭(ヲ)腹熱(コト)如v燒とあり、)さてこの句下へ直に續ては聞べからず、吾(ガ)下情《シタゴコロ》の念ぞ所燒《ヤクル》といふ意なるを、かく倒置《オキカヘ》ていへるは、古語のめ(62)でたきなり、○下情は、シタゴコロ〔五字右○〕と訓る宜し、シタ〔二字右○〕は、下戀《シタコヒ》、下問《シタトヒ》、下延《シタバヘ》などいふ下に同じく、裏《シタ》に隱《コメ》て表《ウヘ》にあらはさぬを云り、(岡部氏(ノ)考に、シヅゴコロ〔五字右○〕と訓るは甚誤なり、其(ノ)説に、シヅゴコロ〔五字右○〕と云は、シヅ〔二字右○〕枝、シヅ〔二字右○〕鞍など云がごとしと云れども、しづ枝、しづ鞍などのしづは、たゞに下をいふことにあらざるをや、しづ枝は沈枝《シヅエ》、しづ鞍は倭文鞍《シヅクラ》にて、共に下にいふべし、)上の裏歎《ウラナゲ》と合(セ)考(フ)べし、これうはべにはしひて丈夫づくりてをれども、實は下情に堪がたくて、おもひこがるゝよしなり、○歌(ノ)意、客中《タビノホド》敷月に及びて、本郷思のたへがたきよしをよみ給へるにて、かくれたるすぢなし、
 
反歌《カヘシウタ》
 
6 山越乃《ヤマコシノ》。風乎時自見《カゼヲトキジミ》。寐夜不落《ヌルヨオチズ》。家在妹乎《イヘナルイモヲ》。懸而小竹櫃《カケテシヌヒツ》。
 
風乎時自見《カゼヲトキジミ》は、風が時ならず寒さにの意なり、(長歌に、朝夕爾還比奴禮婆《アサヨヒニヌレバ》とあるごとく、朝と夕となく、時ならず吹來る風の、身に寒くて堪がたきよしなり、)時自見《トキジミ》は、此(ノ)下に三芳野之耳我嶺爾時自久曾雪者落等言《ミヨシヌノミガネノタケニトキジクゾユキハフルチフ》、三(ノ)卷不盡山(ノ)歌に、時自久曾雪者落家流《トキジクゾユキハフリケル》、又筑波山(ノ)歌に、冬木成時敷時跡不見而往者《フユコモリトキジクトキトミズテユカバ》、(此は登りて見べき時にあらずとてと云意なり、)四(ノ)卷に、何時何時來益我背子時自異目八方《イツモイツモキマセワガセコトキジケメヤモ》、十八に、等枳自家米也母《トキジケメヤモ》、(何時とても時ならずと云ことあらめやはなり、)八(ノ)卷に、非時藤之目頬布《トキジクフヂノメヅラシキ》、(六月の歌なり、)十三に、小治田之年魚道水乎《ヲハリダノアユチノミヅヲ》云々、時自久曾人者(63)飲云《トキジクゾヒトハノムチフ》、(暑くして水飲べき時に非るを云、)などあるにて意得べし、古事記傳に、登岐士玖能迦玖能木實《トキジクノカクノコノミ》は、書紀に、非時香菓《トキジクノカクノミ》と書る字の如く、登岐士玖《トキジク》は、其(ノ)時ならぬを何物にても云、然るを時分ず常に變らぬ意に見るは、いさゝか違へり、其も時ならずと云が、おのづから然も聞ゆるにこそ、さて橘(ノ)子《ミ》を然云故は、此(ノ)菓は夏よりなりて、秋を經て冬の霜雪にもよく堪へ、又採て後も久しく堪て腐敗れず、時ならぬころにも、何時もある物なればなり、と云るを考(ヘ)合(ス)べし、○寐夜不落《ヌルヨオチズ》は連夜の意なり、不落は漏ずと云が如し、吉事記上(ツ)卷須勢理毘賣(ノ)命(ノ)御歌に、伊蘇能佐岐淤知受《イソノサキオチズ》、祈年祭祝詞に、島之八十島墜事无《シマノヤソシマオツルコトナク》、續紀三十四(ノ)詔に、年緒《トシノヲ》不《ズ》v落《オチ》此(ノ)卷(ノ)下に、川隈之八十阿不落《コノカハノヤソクマオチズ》、四(ノ)卷に、盖世流衣之針目不落《ケセルコロモノハリメオチズ》など猶多かり、○家在妹乎《イヘナルイモヲ》は、家に在妹をなり、妹は妻をいへり、本居氏|伊毛《イモ》とは、古(ヘ)夫婦にまれ、兄弟にまれ、他人にまれ、男と女と双ぶときに、其(ノ)女をさして云稱なり、然るをやゝ後には、女どちの間にても稱《イフ》ことゝなれりき、さて妹(ノ)字をしも書は、此(ノ)稱に正しく當れる字のなき故に、姑(ク)兄弟の間の伊毛《イモ》に就て當たるものなり、ゆめ此(ノ)字に泥みて、言の本義を勿誤りそといへり、猶古事記傳三(ノ)卷に詳なるをひらき考べし、○懸而小竹櫃《カケテシヌヒツ》は、心に懸て慕ひつなり、(略解に、吾をる處より、遠く妹が家を懸て慕ふと云るなり、といへるはいさゝかまぎらはし、心に思ひ言に出すをも、懸といふこと上に云るがごとし、さればこゝは、たゞ心に思ふことなり、)長歌に、珠手次懸乃宜久《タマタスキカケノヨロシク》とあるは、言に出るを(64)いひ、今は心に思ふを云るにて、懸の言は一(ツ)ぞ、小竹櫃《シヌヒツ》は、慕《シヌ》びつの借(リ)字なり、之奴布《シヌフ》とは戀慕《コヒシタ》ふことをも、賞愛《メデウツクシ》むことをも、密隱《ヒソミカク》るゝをも、堪忍《タヘコタフ》るをもいふ中に、こゝは戀慕ふ意なり、戀慕ふ意に用ひたること、此(ノ)集ことに多し、自餘はまれなる方なり、今(ノ)京よりこなたの歌また文にも、密隱る意なると堪忍ふる意なるとを、志乃布《シノフ》と云ること多かり、さて慕ふ意なると愛む意なるとは近くして、相通ひて聞ゆること多し、何乎可別?之奴波無《イヅレヲカワキテシヌハム》、とやうに云るは愛む意ながら、慕ふ意にもわたりてきこゆるが如し、すべて愛《ウツクシ》まるゝものをば慕ふものなれば、落るところはひとつなり、さて又隱る意なると堪る意なるとは近くして、此(レ)も相通ひて聞ゆること多し、志奴比不得《シヌヒカネ》など云は、隱れかぬる意にも、堪かぬる意にもわたりて聞ゆるがごとし、されば隱るゝ方は堪忍るより轉れるものなるべし、其は顯にせまほしき事をも、強て堪忍ひて押へつゝむ意より、隱すことにもなれるなり、さてこの二(ツ)と、慕ふ意なると愛む意なるとの二(ツ)には、意いと遠くして、本より別言のごと聞ゆれども、これもよくおもへば、もとは同言なるべし、さればそれとうはべには色に顯はさず、おさへつゝみて、心の裏に慕ひ愛む意より云るにて、われも堪忍ふ方よりり出たることなるべし、さて比《ヒ》の言清て唱べし、(後に濁るはわろし、古言清濁考に委し、都《ツ》は、夢爾見津《イメニミツ》、裳裾湿津《モノスソヌレツ》の都《ツ》に同じ、(俗にタ〔右○〕と云と同じことなり、)○歌(ノ)意は、朝となく夕(ヘ)となく、時ならず吹來る山越風の寒さに、一夜ももらさず、(65)家(ノ)妻を心にかけて戀慕つとなり、長歌には、朝暮のさまをいひ、反歌には、連夜のさまをいひて、いよ/\あはれをふかめしめたるなり、
 
右檢(ルニ)2日本書紀(ヲ)1、無v幸2於讃岐國1、亦軍(ノ)王未v詳也、但山上(ノ)憶良(ノ)大夫(カ)類聚歌林(ニ)曰(ク)、紀曰、 天皇十一年己亥冬十二月己巳朔壬午、幸2于伊豫(ノ)温湯(ノ)宮(ニ)1云々、一書云、是(ノ)時宮(ノ)前在2二樹木1、此之二樹斑鳩此米二鳥大集、時 勅多掛2稻穂(ヲ)1而養之、乃作歌云々、若疑從2此便1幸之歟、〕紀曰云々、(紀(ノ)字、誤て記と作り、)上題詞の下に書紀を引て云る如し、かくて十二年四月に伊豫より還らせ賜ひて、便居2厩坂(ノ)宮(ニ)1とlあるは、崗本(ノ)宮の天災に燒たる故に、十二年に還らせ賜ひても、厩坂(ノ)宮におはしまし賜ふなるべし、八年六月、災2崗本(ノ)宮(ニ)天皇遷2居而中(ノ)宮(ニ)1、とあるを思べし、○豫(ノ)字、類聚抄には與と作り、○一書は、伊豫(ノ)國風土記なり、三(ノ)卷赤人の伊豫の湯にてよめる歌の處に引べし、○鳥(ノ)字、舊本誤て烏と作《カケ》り、○乃(ノ)字、元暦本に仍と作り、○作歌、歌字、類聚抄に之と作り、
 
明日香川原宮御宇天皇代《アスカノカハラノミヤニアメノシタシロシメシヽスメラミコトノミヨ
 
明日香(ノ)川原(ノ)宮、明日香は大和(ノ)國高市(ノ)郡|飛鳥《アスカ》なり、下にいふ、川原(ノ)宮は、同郡岡本、飛鳥、二村の間にあり、○天皇は、皇極天皇なり、但し書紀には、皇極天皇元年十二月壬午朔壬寅、天皇|遷2移《ウツリマス》小治田(ノ)宮(ニ)1二年夏四月庚辰朔丁未、自2權(ノ)宮1移2幸飛鳥(ノ)板蓋(ノ)新宮(ニ)1と見えて、川原(ノ)宮に大坐しことは(66)見えざれども、其は脱漏《モレ》たるものにて、二年の未より四年までの間に、川原(ノ)宮へ遷り坐しなり、其は諸陵式に、越智(ノ)崗(ノ)上(ノ)陵、(飛鳥(ノ)川原(ノ)宮(ニ)御宇(シ)皇極天皇、大和(ノ)國高市(ノ)郡、兆域東西五町南北五町、陵戸五煙、)とあるにて灼然《イチジル》し、神皇正統記に、壬寅の年即位、大倭の明日香(ノ)河原の宮にましますとあり、其(ノ)餘、皇代紀、如是院年代記、皇年代略記、神明鏡、時代難事等にも、皇極天皇明日香(ノ)川原(ノ)宮に御宇しよし記せるを併(セ)考(フ)べし、(岡部氏は、書紀に、齊明天皇元年正月、飛鳥(ノ)板盖(ノ)宮にて即位し、其(ノ)冬板盖(ノ)宮災しによりて、俄に飛鳥(ノ)川原(ノ)宮へ遷坐し、其(ノ)明年の冬、又崗本(ノ)宮に遷りたまへるよし見えたれば、齊明天皇川原(ノ)宮におはしけるほどのことゝせれど誤なり、さるは此の次に、齊明天皇(ノ)代を標して、後(ノ)崗本(ノ)宮と記したればなり、齊明天皇川原(ノ)宮には、たゞしばし權《カリ》におはしたれば、かくことさらに標を分つべきよしなし、又或説に、孝徳天皇の宮號と云るはさらに云にも足ず、)○代の下に天豐財重日足姫天皇とある本どもは、後人のしわざなること、既くいへる如し、(拾穗本には、謚曰2皇極天皇1と云註もあり、)
 
額田王歌《ヌカタノオホキミノウタ》
 
額田(ノ)王は、天武天皇(ノ)紀に、天皇初娶2鏡(ノ)王(ノ)女(從2類史1加2女(ノ)字1)額田(ノ)媛王(ヲ)1、生2十市(ノ)皇女(ヲ)1とありて、鏡(ノ)王といひし人の女にて、鏡(ノ)女王の妹なるべし、かくて姉の鏡(ノ)女王は、大和(ノ)國平群(ノ)郡額田(ノ)郷に住居はれし趣、二(ノ)卷に見えたれば、この女王も姉に從ひ給ひて、額田(ノ)郷に居られし故に、やがて(67)名にも負せられたるなるべし、本居氏、古(ヘ)は女王をも分て某(ノ)女王とはいはず、男王と同じくたゞ某(ノ)王といへり、かくて萬葉のころにいたりては、女王をば皆女王と記せるに、此(ノ)額田(ノ)王に女(ノ)字のなきは、古き物に記せりしまゝに記せるなるべし、鏡(ノ)女王は父の名とまぎるゝ故に、ふるくも女王と記せるなるべし、さて右の二女王ともに鏡(ノ)王といひし人の女にて、鏡(ノ)女王は姉、額田(ノ)王は弟《オトウト》と聞えたり、父王は、近江(ノ)國野洲(ノ)郡の鏡の里に住居はれしによりて、鏡(ノ)王といへりと見ゆ、此(ノ)ほども居住を以て呼る名の例多し、かくて其(ノ)女子も、もと父の郷に住居はれしによりて、同じく鏡(ノ)王と呼るなり、すべて地の名をもてよべるは、父子兄妹など同じ名なる多し、そは事にふれてまぎるゝをりなどは、女子の方をば鏡(ノ)女王とかきてわかち、つね口には、京人などはたゞ鏡(ノ)王といひしなり、これ古(ヘ)のなべての、例なりと云り、なほ鏡(ノ)女王のことは、二(ノ)卷にいふべし、(中山(ノ)嚴水云、此(ノ)額田《ノ)王は、始(メ)天武天皇にめされ給ひて、十市(ノ)皇女をさへうみましながら、四(ノ)卷をみれば、額田(ノ)王思2近江(ノ)天皇1作歌とて、君待登吾戀居者我屋戸之簾動秋風吹《キミマツトアガコヒヲレバワガヤドノスダレウゴカシアキノカゼフク》と有て、この時は、天智天皇のめし給ひしと見えたり、既《サキ》に天武天皇のめし給ひて、皇女さへましますに、又しも天智天皇のめし給はむこと、おぼつかなしと思ふに、そは天武天皇(ノ)紀、天皇即位の條に、正妃夫人、また生ましゝ皇子等をもあまねく擧て、さて其(ノ)終に、天皇初娶2鏡(ノ)王(ノ)女額田姫王(ニ)1生2十市(ノ)皇女(ヲ)1とありて、此(ノ)女王をば妃夫人の列にもつらねいはぬを(68)思へば、天武天皇のいと若くおはしましゝ時に、住わたり給ひし事のかれ行給ひし後に、天智天皇のめし給ひて、夫人などにておはしましゝなるべし、今よりして見れば、あるべきことゝもおもほえねど、ふるき代にはすくなからぬためしなり、されば下の、蒲生野の遊獵の時の御歌にも、人妻故爾《ヒトヅマユヱニ》とはよみ給ひしなり、さるを本居氏(ノ)説に、額田(ノ)王もはじめは、天智天皇にめされたりしこと、四(ノ)卷に、思2近江天皇(ヲ)1歌とある、これその證なり、其(ノ)次に、鏡(ノ)女王の歌有、是又此(ノ)女王も天智天皇に娶れたる證にて、妹王と共に思ひ奉れるなり、さて天武天皇皇太子におはしましゝほどより、額田(ノ)王に御心をかけられたりし事、この下の御歌にてしらる、其(ノ)御歌に、人づまゆゑにとよみ給へるは、天智天皇の妃なるが故なり、さて此(ノ)御歌の此(ノ)御詞にても、額田(ノ)王もはじめには、天智天皇のめしたりし事しるべし、かくて天智天皇かくれさせ給ひて後に、天武天皇にはめされて、十市(ノ)皇女をうみ奉られしなりと云るはいかにぞや、此(ノ)十市(ノ)皇女は、大友(ノ)皇子の妃にして、葛野(ノ)王はその長子にておはしますよし、懷風藻に記せり、この大友(ノ)皇子は、天智天皇の崩後、打つゞきてほろび給ひぬるを、僅の間に、天智天皇の夫人にて有し額田(ノ)女王を、又天武天皇のめし賜ひて、十市(ノ)皇女をうみまし、その皇女また大友(ノ)皇子にめされて、葛野(ノ)王をさへ生ますべしや、ことに葛野(ノ)王は長子なれば、つぎ/\の御子等、はたおはしけむものをやと云り、此(ノ)説さることなり、)○王の下、舊本に未詳(ノ)二字あるは、後(69)人の註なることしるければ削つ、
 
7 金野乃《アキノヌノ》。美草苅葺《ミクサカリフキ》。屋杼禮里之《ヤドレリシ》。兎道乃宮子能《ウヂノミヤコノ》。借五百磯所念《カリイホシオモホユ》。
 
金野《アキノヌ》は、秋(ノ)野なり、集中秋と書べきを金とかける處あり、金芽子《アキハギ》、金風《アキカゼ》など有(ル)類なり、四時と土用とを五行に配《アツ》る時、秋は金にあたる故に然書り、○美草苅葺《ミクサカリフキ》、(苅(ノ)字、拾穗本には刈と作り、苅はから國の字書に見えず、刈字のみなり、刈に通(ハシ)書るなるべし、此(ノ)集多くは苅と書り、延喜式にも苅安草と書たり、)美草《ミクサ》は、美《ミ》は例の眞《マ》に通ふ美稱《タヽヘナ》にて、此(ノ)下に、眞草刈荒野《マクサカルアラヌ》とある眞草《マクサ》におなじ、さて眞艸は即(チ)薄《スヽキ》の事にて、檜《ヒ》を眞木《マキ》といへるに全《モハラ》同《ヒトシ》しく、薄《スヽキ》は百艸《モヽクサ》の長《ツカサ》なる謂《ヨシ》にて、しかいへるなり、そも/\體にては薄《スヽキ》と云ひ美稱《ホメ》ては眞艸《マクサ》といひ、花にては尾花《ヲバナ》と云(ヒ)、屋《ヤネ》葺《フク》料にては加夜《カヤ》といへり、されど又眞艸といひ、尾花といひ加夜といひて、やがて薄といふにもかよへり、されば加夜てふ所由《ユヱ》をまづことわらむに、古事記上(ツ)卷に、鵜羽(ヲ)爲2葺艸(ト)1云々、訓2葺艸1云2加夜《カヤ》1とあるごとく、本は何にても屋葺料の物をいふ稱にぞ有ける、かくて薄を加夜と云も、薄ぞ即《ヤガテ》もはら屋ふく料に用ふる艸なれば然《シカ》云、その加夜《カヤ》やがて百艸の長なれば、即事(ノ)字をぞ加夜とは訓なりける、(たとへば、葛はかづらのことにて、さてかづらの長たるものは藤にて、やがて葛(ノ)字をフデ〔二字右○〕と訓、又|可抱《カホ》といふほ一體のうへの容貌《サマ》をいふことなるが、その容貌の長たるものは顔面《オモ》にて、可抱とのみ云ぞやがて顔面のことゝきこえ、また花の長た(70)るものは櫻にて、花とのみいふぞやがて櫻のことゝきこゆるがごとし、)そは上古は、借廬などのみならず、大御舍《オホミヤ》を始奉り、凡て薄もて葺つればなりけり、(仁徳天皇(ノ)紀元年春正月、云々、都2難波(ニ)1是謂2高津(ノ)宮(ト)1、云々、茅茨之盖《カヤノヤネ》弗《ズ》2剖齊《キリトヽノヘ》1也、これも薄もて御盖を葺たるよしなり、茅(ノ)字によりて、加夜を茅《チガヤ》のことゝな思ひ誤《タガヘ》そ、唐書東夷列傳にも御國のことをいへる處に、以v草(ヲ)茨v屋(ヲ)とあり、これもいにしへ、もはら薄にて屋を葺つるがゆゑなり、)さて草(ノ)字を加夜と訓る例をいはむに、まづ古事記野(ノ)神の御名に、鹿屋野比賣《カヤヌヒメノ》神とあるを、書紀には、草野姫《カヤヌヒメ》と書、且《マタ》神代紀降臨(ノ)條に、盤根《イハネ》木株《コノモト》草葉《カヤノカキハ》、また海宮(ノ)條に、以2眞床覆(フ)衾|及《ト》草《カヤヲ》1裹其(ノ)兒(ヲ)1と見え、顯宗天皇(ノ)紀室壽(ノ)大御詞に、取(リ)〓(ル)草葉者《カヤハ》、此(ノ)家長(ノ)御富之餘也、欽明天皇(ノ)紀に、藉《マクラニス》v草《カヤヲ》、又延喜式大殿祭(ノ)祝詞に、取(リ)〓計魯草乃噪無久《フケルカヤノソヽギナク》、云々などあるをはじめて、集中二(ノ)卷に、大名兒彼方野邊爾刈艸乃《オホナコヲチカタヌヘニカルカヤノ》、三(ノ)卷に、陸奧之眞野乃草原《ミチノクノマヌノカヤハラ》、四(ノ)卷に、黒樹取草毛刈乍《クロキトリカヤモカリツヽ》、七(ノ)卷に、葛城乃高間草野《カツラギノタカマノカヤヌ》、十一に、紅之洩淺乃野良爾刈草乃《クレナヰノアサハノヌラニカルカヤノ》、十二に、三吉野之蜻乃小野爾刈草之《ミヨシヌノアキツノヲヌニカルカヤノ》など見え、倭名抄に、因幡(ノ)國佐美(ノ)郡大草(ハ)於保加也、武藏(ノ)國埼玉(ノ)郡草原(ハ)加也波良《カヤハラ》、などあるを考(ヘ)併せて、草(ノ)字を加夜《カヤ》と訓べきを曉るべし、これらのみならず、集中にヲバナ〔三字右○〕を草花と書るも、草《カヤ》の花てふ意もて書るにても、いよ/\薄《スヽキ》を眞草といふべき理(リ)徴《シル》きをや、然ればミクサ〔三字右○〕と訓來れるは、おのづから當れり、(夫木集に、秋の野の花の盛は過がてに美久佐《ミクサ》刈ふく宿や借ましとあるは、今の歌をとりてよめるにてよし、但し岡(71)部氏(ノ)考に、美草は眞草と云に同じく、秋の百草をかね云といへるはいさゝかたがへり、又元暦本に、この美草をヲバナ〔三字右○〕とよめるは、薄を、眞草といふべき理を、あさまへかねたるなかなかのさかしらなりけり、本居氏は、ヲバナ〔三字右○〕と訓るに從て、貞觀儀式大嘗祭(ノ)條に、黒酒十缶云々、以2美草(ヲ)1餝之、また倉代十輿云々、餝(ルニ)以2美草(ヲ)1と見えて、延喜式にも同じく見ゆ、然れば必(ズ)一種の艸(ノ)名なり、古(ヘ)薄を美草と書ならへるなるべし、眞草の意ならむには、式などに、美草と美(ノ)字を假字に書べきよしなしと云へり、されど、式に、美草とあるは眞草の意ならじ、同條に召2市人1令v2調獻物1料絹以2美木(ヲ)1爲v軸云々、とあるを考合るに、美草美木は、たゞ美《ウルハ》しき草木を云りと思はるれば、こゝにはあづからぬことなるべし、)苅葺は、眞草を刈て屋に葺なり、○屋杼禮里之《ヤドレリシ》は、宿而有之《ヤドリテアリシ》なり、(取而有之《トリテアリシ》をトレリシ〔四字右○〕、知而有之《シリテアリシ》をシレリシ〔四字右○〕といふに同例なり、)さて此は過去し方のことをいへるにて、當昔《ソノカミ》兎道に從駕《ミトモツカ》へし人々の宿りて有しを云、○兎道乃宮子《ウヂノミヤコ》は、山城(ノ)國宇治(ノ)郡に造らしたる行宮所《カリミヤコ》の地を云、宇治は大和(ノ)國より近江へ行|路次《ミチナミ》なれば、近江に行幸ありし度、こゝに行宮をたてゝ、一夜とまらせ給ひしなるべし、その時に從駕《ミトモ》つかへたりしことを、後に額田(ノ)王のよみ給へるなるべし、書紀に、應神天皇六年、輕島(ノ)明(ノ)宮より近江(ノ)國に、幸し時も、宇治野にて御歌よませ給ひ、又天武天皇近江(ノ)宮にて出家し給ひて、吉野へ入せ給ふとて、大和の島(ノ)宮へ歸らせ給ふ時も、諸臣兎道まで送り奉りけるよし見えたれば、(72)その路次のほどをおもふべし、宮子《ミヤコ》と書る古《コ》は、借(リ)字にて所《コ》の意なり、彼處《ソコ》、此處《コヽ》などいふがごとし、又|何處《イヅク》のク〔右○〕の言、また在所《アリカ》、隱處《カクレガ》、奧處《オクカ》などのカ〔右○〕の言も同音にてひとつぞ、かくて宮處《ミヤコ》とは、かりそめにも天皇命の大坐(シ)賜ふ處をいふ稱なり、)岡部氏考に、離宮處《トツミヤコ》をも行宮處《カリミヤコ》をも、略きては宮處といふぞといへるは本末の誤《タガヒ》あり、宮處は天皇命の大坐(ス)處の總稱にて、離宮處また行宮處など云は、本宮處《モトツミヤコ》に別たむための名目《ナ》ぞ、たとへば歌てふが總稱にて、長歌短歌などいふなるは、その種類をわかたむための名目《ナ》なるがごとし、長歌短歌てふを略きて、たゞ歌とのみ云るにはあらざるをも思べし、)そは書紀景行天皇(ノ)卷に、十二年九月甲子朔戊辰、天皇遂(ニ)幸2筑紫(ニ)1到2豐前(ノ)國(ニ)1、長峽(ノ)縣(ニ)興2行宮(ヲ)1而居(シキ)、故(レ)號2其處1曰v京(ト)也、また豐後(ノ)國風土記に、宮處野《ミヤコヌハ》朽網(ノ)郷(ニ)所在之野(ナリ)、起2行宮(ヲ)於此野(ニ)1因名(ク)、また肥前(ノ)國風土記に、神埼(ノ)郡|宮處《ミヤコノ》郷、纏向(ノ)日代(ノ)宮(ニ)御宇(シ)天皇行幸之時、於2此村1奉v造2行宮1、因《カレ》曰2宮處(ノ)郷(ト)1、など見えたるごとく、此處もかりに天皇命の宿らせ賜ふより、兎道の宮所とは云けるなり、(兎道(ノ)稚郎子の宮をたてゝ住せ給ふ故に、宇治の都といふとおもへるは非ぬことなり、後の人の宇治の都とよめるは、さ心得たるにも有べし、今は行宮につきてよめるなり、)さて兎道を過ましけむ時は、左註に、類聚歌林また書記を引るは誤にて、皇極天皇(ノ)代より前にありけむを、その御事跡は書紀などにも漏たるなるべし、
○借五百磯所念《カリイホシオモホユ》(磯《(ノ)》字、舊本※[火+幾]に誤れり、今は官本に從つ、五百は借(リ)字、)は、假廬《カリイホ》し所念《オモホユ》なり、こは(73)從駕の人々の借廬を云り、(凡て以前《イママデ》の諸註者《フミトキビトヾモ》みな、天皇命の大坐しゝ借廬と意得しより、歌の大概を誤れり、もし天皇命の借廬ならむには、尊みて屋杼良之斯《ヤドラシシ》などこそあるべきを、あな可畏《カシコ》、屋杼禮里之《ヤドレリシ》などいふべしやは、君上《カミ》を厚《フカ》く尊崇《タフトミヰヤマヒ》まつりし、古(ヘ)人の意をも熟かむがへ念ひてよ、これにてもいよ/\、自共《ミヅカラドチ》の借廬をいへること疑ふべからず、)磯《シ》の助辭に力(ラ)あり、心して聞べし、すべて磯《シ》の助辭は、その一(ト)すぢをとりたてゝ、おもく思はする處におく辭なること、上に云るが如し、所念《オモホユ》は、おもはるといふ意なり、○歌意は兎道に行幸の有しほど、御草かりふきて、從駕の人々の旅やどりをせしその所がらの、なか/\やうかはりてをかしかりしかば、立出て來し名ごりの、今に忘れがたくおもはるゝよとなり、
 
右※[手偏+僉](ルニ)2山上(ノ)憶良(ノ)大夫(カ)類聚歌林(ヲ)1曰、一書曰、戊申年幸2比良(ノ)宮1大御歌、但紀曰、五年春正月己卯朔辛巳、天皇至自2紀(ノ)温湯1、三月戊寅朔、天皇幸2吉野宮1而肆宴焉、庚辰、天皇幸2近江之平浦1、
 
右の註中、(一書の下曰(ノ)字、舊本無(シ)、一本によりつ、但し拾穗本には、一書曰(ノ)三字共になし、三月戊寅、戊(ノ)字、舊本誤て戍と作り、焉(ノ)字、拾穗本には也と作り、庚辰の下、舊本日(ノ)字有は衍文なり、書紀に無による、)一書の戊申は、孝徳天皇大化四年なり、紀曰五年は、齊明天皇五年なり、かくて此(ノ)兩度の幸の中、いづれにしても皇極天皇代より後にあたれば、上にも云る如く此(ノ)註は誤なり、
 
(74)後崗本宮御宇天皇代《ノチノヲカモトノミヤニアメノシタシロシメシヽスメラミコトノミヨ》
 
後(ノ)崗本(ノ)宮(崗(ノ)字、類聚抄拾穗本|并《マタ》袋冊子に引るにも岡と作り、)は、高市(ノ)郡岡村にありて、今も飛鳥(ノ)岡といふ、かの川原宮の東北の方なりとぞ、書紀(ニ)云、齊明天皇元年春正月壬申朔甲戌、皇祖母《オホミオヤノ》尊|即2天皇位《アマツヒツギシロシメス》於飛鳥(ノ)板蓋《イタブキノ》宮(ニ)1、云々、是冬、災《ヒツケリ》2飛鳥(ノ)板蓋《イタブキノ》宮(ニ)1故(レ)遷2居《ウツリマシヌ》飛鳥(ノ)川原(ノ)宮(ニ)1、二年云々、是歳於2飛
 
鳥(ノ)岡本(ニ)1更《マタ》定2宮地《ミヤトコロヲ》1、云々、遂(ニ)起《タテヽ》2宮室《オホミヤヲ》1天皇乃遷《ウツリマシキ》、號《コヲ》曰2後(ノ)飛鳥(ノ)崗本(ノ)宮(ト)1○代の下、舊本に、天豐財重日足姫天皇とありて、その下に位後即位後崗本宮と註せるは、共に最後人のしわざなり、拾穗本には、謚曰2齊明天皇1とも註せり、
 
額田王歌《ヌカタノオホキミノウタ》
 
8 ※[就/火]田津爾《ニキタヅニ》。船乘世武登《フナノリセムト》。月待者《ツキマテバ》。潮毛可奈比沼《シホモカナヒヌ》。今者許藝弖菜《イマハコキテナ》。
 
※[就/火]田津《ニキタヅ》(※[就/火](ノ)字、拾穗本には熟と作り、類聚抄に就《ナリ》と作るは誤なり、熟を※[就/火]と書ることは古書に例多し、三(ノ)卷にも人乎※[就/火]見者《ヒトヲヨクミバ》とあり、)は、伊豫(ノ)國温泉(ノ)郡の地(ノ)名なり、書紀齊明天皇(ノ)卷に、伊豫國云々、熟田津此云2爾枳陀豆《ニギタヅト》1と有(リ)、さて爾枳《ニキ》とあるによりて、枳《キ》の言清て唱べし、(常に此(ノ)言を濁るは非なり、)○船乘世武登《フナノリセムト》は、御船に乘(リ)賜はむとての意なり、登《ト》はとての意の登《ト》なり、常(ネ)の語(リ)辭の登《ト》と異なり、すべて古言には登?《トテ》と云る言なし、(今(ノ)京よりこなたにはいと多き言なり、やゝ古くは、延喜式鎭火祭(ノ)祝詞に、たゞ一(ツ)ある、これを除て古言にあることなし、)登《ト》とのみ云(75 に、登?《トテ》の意を具《モチ》たればなり、此(ノ)下に、神佐備世須登《カムサビセスト》云々、高殿乎高知座而《タカトノヲタカシリマシテ》云々、山神乃奉御調等春部者花挿頭持《ヤマツミノマツルミツギトハルヘハハナカザシモチ》云々、大御食爾仕奉等上瀬爾鵜川乎立《オホミケニツカヘマツルトカミツセニウカハヲタチ》云々、又|其乎取登散和久御民毛《ソヲトルトサワグミタミモ》云云、又|亦打山行來跡見良武《マツチヤマユキクトミヲム》、二(ノ)卷に、倭邊遣登佐夜深而《ヤマトヘヤルトサヨフケテ》、又|妹待跡吾立所沾《イモマツトアガタチヌレヌ》などかぞへがたし、これらの登《ト》は、みな登?《トテ》の意にて今と同じ、○月待者《ツキマテバ》は、海路くらくてはたづきなければ、月出てとて、御舟とゞめさせ賜ひ待賜ふを云、これ實には潮待爲賜ひしなるべきを、月を主としてのたまへるがをかしきなり、○潮毛可奈比沼《シホモカナヒヌ》といふに、潮も滿て月出ぬといふ意あり、(宣化天皇(ノ)紀に、是以海表之國、俟(テ)2海水《シホ》1以|來賓《マヰケリ》といへり、現存六帖に、伊勢(ノ)海や潮もかなひぬ浦人のあさこぐ舟はつりに出らし、)月いづるときは、潮みつるものなればぞかし、この毛《モ》の詞にてわざと月を主とし、潮をかたはらとし賜へること、上に云るがごとし、可奈此奴《カナヒヌ》とは御船出さむに叶ひたるを云、この詞に心を着て聞べし、くだ/\しく御船出さむに叶ふと云(ハ)で、さる意ときこゆること、古(ヘ)人ならではえいふまじき詞なり、○今者許藝弖菜《イマハコギテナ》、(弖(ノ)字、舊本に乞と作《カケ》るは誤なり、こは田中(ノ)道萬呂(ガ)考によりて改つ、)今とは古語にさま/”\につかへる中に、こゝは即今の今にて、まち/\て其(ノ)時をまち得たるよしなり、許藝弖菜《コギテナ》は許藝弖牟《コギテム》といふに、まづは同じきが如くきこゆれど、いさゝか意味ある辭なり、たとへば行奈《ユカナ》といへば、一向《ヒタスラ》に行《ユカ》むと急ぎ進める意あり、來那《コナ》といへば、一向に來《コ》むと急ぎ進める意あり、(これにて急(76)と緩との差別あることをわきまふべし、然るをこれらは、牟《ム》といふべきを那《ナ》と云る古(ノ)語の一(ノ)格なり、といふ説はいとおろそかなり、牟《ム》といふと那《ナ》といふと、いさゝか異なるよしは、左に引る例どもを味見ば自(ラ)知らるべし、猶その差別をいはゞ、たとへば行む時、來む時などいふを、行那時《ユカナトキ》、來那時《コナトキ》と通(ハ)しいふべからざるにて知べし、これ語の緩にして急ぎ進める意なき時には、いふまじき言なればなり、)こゝも其(ノ)如く、一向に※[手偏+旁]てむといそぎすゝめる意なり、集中の例をかつ/”\いはゞ、此(ノ)下に、去來結手名《イザムスビテナ》、二(ノ)卷に、君爾因奈名《キミニヨリナナ》、三(ノ)卷に、樂乎有名《タヌシクヲアラナ》、四(ノ)卷に、行而早見奈《ユキテハヤミナ》、五(ノ)卷に、斯奈奈等思騰《シナナトモヘド》、又|伊奈奈等思騰《イナナトモヘド》、六(ノ)卷に、二寶比天由香名《ニホヒテユカナ》、七(ノ)卷に、吾共所沾名《アレサヘヌレナ》、八(ノ)卷に、率所沾名《イザヌレナ》、九卷に、家者夜良奈《イヘニハヤラナ》、十(ノ)卷に、爾寶比爾往奈《ニホヒニユカナ》、十一に、絶天亂名《タエテミダレナ》、十二に、紐解設名《ヒモトキマケナ》、十三に、懸而思名《カケテシヌバナ》、十四に、蘇提婆布利?奈《ソデハフリテナ》、十五に、比利比弖由賀奈《ヒリヒテユカナ》、十七に、美奈宇良波倍底奈《ミナウラハヘテナ》、十九に、獲而奈都氣奈《トリテナツケナ》、二十(ノ)卷に、都刀爾通彌許奈《ツトニツミコナ》など猶あげつくしがたし、皆右にいへる如き意味なること、おし准へて知べし、(後(ノ)世忘れじな、又かはらじななどよむ、奈に同じ、といふ説はくはしからず、)但し古今集の比よりこなた、那《ナ》といふべきをも、なべて牟《ム》といふこととなれるはあさまし、(古書をよみこゝろむるときは、牟《ム》と云べきところと、奈《ナ》といふべき處と、きはやかにわかれたること、おのづからしらるゝことなるをや、)○歌(ノ)意は、海路くらければ、月の出るを待と、て、御船とゞめてあるに、月のみならず潮もみち來て、御船出せむに時叶(77)ひぬれば、即(チ)今はとく漕出むと、月出潮みちたるをよろこび賜へるなり、書紀に、齊明天皇七年春正月丁酉朔壬寅、御船西征(テ)始(テ)就2于海路1、甲辰、御船到2于大伯《オホケノ》海(ニ)1、庚戌、御船泊(リマシキ)2于伊豫(ノ)熟田津(ノ)石湯(ノ)行宮(ニ)1と見えて、外蕃の亂をしづめ賜はむとて、筑紫に幸の有けるなり、此(ノ)時額田(ノ)王も御ともにて、此(ノ)歌はよみ賜しなるべし、
〔右※[手偏+僉](ルニ)2山上(ノ)憶良(ノ)大夫(カ)類聚歌林(ヲ)1曰、飛鳥(ノ)岡本(ノ)宮(ニ)御宇(シヽ)天皇元年己丑、九年丁酉十二月己巳朔壬午、天皇太后幸(ス)2于伊豫湯宮(ニ)1、後(ノ)岡本(ノ)宮(ニ)馭宇(シヽ)天皇七年辛酉春正月丁酉朔壬寅、御船西(ニ)征(テ)、始(テ)就2于海路(ニ)1庚戌、御船泊2于伊豫(ノ)※[就/火]田津(ノ)石湯(ノ)行宮(ニ)1、天皇御2覽(シ)昔日猶存之物(ヲ)1、當時忽起(シタマヒキ)2漢愛之情(ヲ)1、所以因製(マシテ)2歌詠(ヲ)1爲(メニ)之哀傷(ミタマフ)也、即(チ)此(ノ)歌(ハ)、天皇(ノ)御製焉、但額田(ノ)王(ノ)歌(ハ)者、別(ニ)有2四首1、〕
飛鳥(ノ)岡本(ノ)宮(岡(ノ)字、拾穗本には岳と作り、)より、伊豫湯宮まで三十五字は、舒明天皇の時の事にて、今齊明天皇の伊豫行幸の證に引るは、たがへることなり、○九年丁酉は、十一年己亥を誤れるなり、上軍(ノ)王(ノ)歌の左註に書紀を引て、十一年十二月己巳朔壬午とあると、月日の支千全(ラ)同きを思ふべし、九年と十一年と、たゞ一年へだてたるのみにて、月日の支干の同じかるべきことなきをもおもふべし、○後岡本宮馭宇天皇(岡(ノ)字、拾穗本に岳、馭(ノ)字、同本に御と作り、)の八字は、山上(ノ)大夫のくはへられ、七年より下行宮までは、書紀(ノ)文をそのまゝ載られたるにて、上に引るが如し、天皇御覽より下は、山上(ノ)大夫の詞なり、○西(ノ)字、舊本而に誤れり、古寫本に從(78)つ、○※[就/火](ノ)字、拾穗本には熟と作り、○二(ツ)の歌者の者(ノ)字、また焉※[人偏+且](ノ)二字、拾穗本になし、○此(ノ)左註の次の異説によりて、齊明天皇の大御歌とするときは、又意かはるべし、昔日こゝにて御覽じける物の存《ノコ》れるを見そなはして、昔のことをおぼしめし出して、しばし月待出るほどだにとおぼしめせども、潮時にもよほされ賜ひて、今はこぎ出て筑紫の方に幸したまはむが、名殘もあかず口をしとのたまへるなるべし、御2覽覽昔日猶存之物1といふこと、書紀にも據なけれど、即位以前こゝにおはしましける事なしとも定めがたければ、そのをりのことをさしてのたまへるなるべし、されど左註は、すべてをさなくうけがたき事ども多ければ、なほ本文額田(ノ)王(ノ)歌とあるを用べし、
 
幸《イデマセル》2于|紀温泉《キノユニ》1之時《トキ》。額田王作歌《ヌカタノオホキミノヨミタマヘルウタ》
 
幸は、齊明天皇(ノ)紀に、三年九月、有間(ノ)皇子、往2牟婁(ノ)温湯(ニ)1、僞v療v病來、讃2國(ノ)體勢(ヲ)1曰、纔觀(ルニ)2彼地(ヲ)1、病自|鎰消《ノゾコリヌ》、天皇聞悦、思2欲往觀1、四年冬十月庚戌朔甲子、幸2紀(ノ)温湯(ニ)1とあり、今も紀伊(ノ)國牟婁(ノ)郡熊野に温泉ありて、湯(ノ)峯湯(ノ)川など云ふとぞ、○紀は紀伊(ノ)國なり、もとは紀なりしを、和銅の制にて、國郡郷村等の名、二字にさだめられしより、韻字をそへて紀伊と書るなり、名(ノ)義は即(チ)木(ノ)國にて、書紀神代(ノ)卷に見えたり、
 
9 奠器圓隣〔四字左○〕之《ミモロノ》。大相土〔三字左○〕見乍湯氣《ヤマミツヽユケ》。吾瀬子之《ワガセコガ》。射立爲兼《イタヽシケム》。五可新何本《イヅカシガモト》。
 
(79)奠器圓隣之、(奠器、舊本《モトノマキ》には莫囂、元暦(ノ)本《マキ》には草囂、又|一本《アルマキ》には莫器と作《カケ》り、今は古葉略要集によれり、圓は六條本には圖、古本には國と作《カケ》り、今は舊本のまゝを用《トリ》つ、)此(ノ)一句はミモロノ〔四字右○〕と訓べし、ミモロ〔三字右○〕とは御室《ミムロ》にて、神祇《カミ》を安置奉《マセマツ》る室をいふなること、三(ノ)卷に、吾屋戸爾御諸乎立而枕邊爾齋藤戸乎居《ワガヤドニミモロヲタテテマクラベニイハヒヘヲスヱ》、六(ノ)卷に三諸着鹿背山際爾《ミモロツクカセヤマノマニ》、七(ノ)卷に三諸就三輪山見者《ミモロツクミワヤマミレバ》、又|木線懸而祭三諸乃神佐備而《ユフカケテイツクミモロノカムサビテ》、十九に、春日野爾伊都久三諸乃《カスガヌニイツクミモロノ》、などあるにて知べし、(梁塵秘抄(ノ)歌に、賢木葉に木綿採垂《ユフトリシデ》て誰(ガ)世にか神の御室と齋(ヒ)初けむ、)さてその神の御室の近隣には、常に奠(ノ)器をおき圓《メグ》らしてあれば、こゝはその義《コヽロ》もて、奠(ノ)器|圓《メグラス》v隣(ニ)と書て、ミモロ〔三字右○〕とは訓せたるなるべし、(又思ふに、もしは圓は圍(ノ)字の寫(シ)誤にてもあらむか、圍《カコム》v隣(ヲ)とするときはましてさらなり、)かくてこゝのミモロ〔三字右○〕は、即(チ)三輪山のことなり、三輪山を、三室山といへること、二(ノ)卷に、三諸之神之神須疑《ミモロノカミノカムスギ》、七(ノ)卷に三毛侶之其山奈美爾《ミモロノソノヤマナミニ》、また味酒三室山《ウマサケミムロノヤマノ》、九(ノ)卷に、三諸乃神能於婆勢流泊瀬河《ミモロノカミノオバセルハツセガハ》などよめり、猶古事記にも書紀にも、往往《コレカレ》其(ノ)例見えたり、(かくて古來《コシカタ》の諸註者《フミトキビトヾモ》、まづ此(ノ)一句を舊本に、莫囂とあるに据《ツキ》て説來《トキキタ》れる故、解《サトリ》得たる人なし、)こは必(ズ)ミモロ〔三字右○〕なるべく思ふよしは、古事記下(ツ)卷雄略天皇、引田部(ノ)赤猪子に賜へる大御歌に、美母呂能伊都加斯賀母登《ミモロノイツカシガモト》とあるは、三輪山の嚴橿之本《イヅカシガモト》のことにて、即(チ)此《コヽ》の五可新何本も、其(レ)と同じかるべければなり、又書紀垂仁天皇(ノ)卷に、天照大神鎭(リ)2坐(ス)磯城(ノ)嚴橿之本(ニ)1、(倭姫(ノ)世紀に、倭(ノ)國伊豆加志(カ)本(ノ)宮(ニ)八箇歳奉(ル)v齋(キ)、)とあるも同じ、三輪(80)山のあたりの嚴橿なるべきをも思へ、○大相土見乍湯氣、(土(ノ)字、舊本には七、古本には云と作り、拾穗本にはなし、今は古葉略要集に從(レ)り、見(ノ)字、舊本には兄、一本には※[凹/儿]と作り、今は又一本に從(レ)り、乍(ノ)字、舊本に爪と作るは、乍の誤寫なるべければ今改(メ)つ、湯(ノ)字、舊本には謁、一本には竭と作《アリ》、今は古葉略要集によれり、)大相土は、山の義《コヽロ》にとりて書りとおもはるれば、大和土見乍湯氣は、ヤマミツヽユケ〔七字右○〕と訓べし、(この一句は、既《ハヤ》く平(ノ)春海もしかよみつ、)○吾瀬子之《ワガセコガ》(子(ノ)字、元暦本になきはわろし、)は、瀬《セ》は借(リ)字、吾夫子之《ワガセコガ》なり、此《コ》は大海《オホアマノ》皇子(ノ)尊か、(天智天皇は此(ノ)時皇太子にて、從駕《ミトモツカ》へ賜へる趣書紀に見ゆ、大海(ノ)皇子(ノ)尊は京師に留(リ)坐しか、)又は孰(レ)にても此(ノ)女王の親《シタシ》みおもほし賜ふ人をさしてのたまへるなるべし、○射立爲兼は、イタヽシケム〔六字右○〕と訓べし、古事記上(ツ)卷に、二柱(ノ)神立2天(ノ)浮橋(ニ)1而云々、訓v立(ヲ)云2多々志《タヽシト》1、此(ノ)集五(ノ)卷に、奈都良須等美多々志世利斯《ナツラストミタヽシセリシ》、などあり、イ〔右○〕はそへ言にて、物をいひ出す頭におく辭なり、此(ノ)上天皇遊獵の時の歌に委(ク)云り、
タヽシ〔三字右○〕はタチ〔二字右○〕の伸りたる言にて、(タシ〔二字右○〕の切チ〔右○〕、)あがめていふ言なり、即(チ)こゝは立賜ひけむといふ意になれり、○五可新何本は、イヅカシガモト〔七字右○〕と訓べし、嚴橿之本《イヅカシガモト》なり、さて書紀(上に引り、)に、嚴橿の字を書るをおもへば、清淨なる橿といふ義《コヽロ》なるべければ、伊豆《イヅ》と濁るべし、さてこゝに五(ノ)字をしも書るは、いかにぞや思ふ人もあるべけれども、凡て借(リ)字には、清濁かたみにまじへ用ふる例《アト》ありて、集中に、可豆思加《カヅシカ》を勝牡鹿、また幡《ハタ》すゝきを皮すゝき、又並の意の(81)奈倍《ナベ》てふ詞に、苗(ノ)字をあまたところに書(キ)、七卷に、庭多豆水《ニハタヅミ》を庭立水と書(キ)、十一には、夕片設《ユフカタマケ》を夕方枉と書り、又出雲(ノ)國(ノ)造(ノ)神賀(ノ)詞、同國風土記、延喜式(ノ)神名帳などに、大穴牟遲《オホナムヂ》を大穴持と書る類、猶多かるべし、(神功皇后(ノ)紀細事に、一(ニ)云云、且重曰(ク)、吾(カ)名(ハ)向※[櫃の旁]男聞襲大歴五御魂速狹騰《ムカヒツノヲキソオホノイヅノミタマハヤサノボリ》尊也、とあるは嚴御魂《イヅノミタマ》てふ事ときこえたり、されば嚴を五と書しことも、古(ク)よりの事なるべし、)されど又一(ツ)には古事記に、伊都如斯《イツカシ》と書るを正しとせば異義《コトコヽロ》なり、そのことは下にいたりていふべきついであれば、さらに云べし、○歌(ノ)意は、親(シ)みおもほし賜(フ)夫《セノ》君の、豫《カネ》て三諸の嚴橿が本に立賜はむのよし有しなるべし、さて此(ノ)度の行幸に供奉《ミトモツカヘ》賜ふにつきて相別《ワカレ》の悲しさに、夫(ノ)君を今一(ト)度|髣髴《ホノカ》にも見まくおもほして、今や嚴橿が本に立し賜ひけむほどなるぞ、暫(ク)三諸の山見つゝ行(ケ)と、自《ミヅカラ》の從者等《トモビトドモ》に令《オホ》せ賜へるなるべし、○此(ノ)歌の書樣、謎《ナゾ》といふものゝ如くにして、甚く解《サト》り易《ヤス》からぬがゆゑに、諸説《トキゴトヾモ》多けれども、共に全《モハラ》從《ウケ》がたかりしを、おのれやう/\に考出しつ、(此(ノ)歌舊説もあれど、訓るやうも解るやうも、すべてをさなければ、今わづらはしくいはず、近(キ)世にいたりて、水戸侯(ノ)釋に、莫囂圓隣之の圓(ノ)字は、圖とある本に從てマガヅリノ〔五字右○〕と訓(ミ)、曲鉤《マガヅリ》の義として、曲鉤は初月をたとへたる名なりとのたまひ、大相七兄爪謁氣の謁(ノ)字を靄の誤とし、靄氣の二字を雲と釋《ミ》て、オホヒナセソクモ〔八字右○〕と訓(ミ)、覆莫爲雲《オホヒナセソクモ》の義とし、さて末(ノ)句をイタヽセリケムイヅカシガモト〔イタ〜右○〕、と訓給へるは大抵よし、されどすべての趣、強た(82)る説にして古意ならず、こは古學に未(ダ)熟《クハシ》からざりし世のほどなれば、かく解《トカ》れしもうべなりけり、岡武氏(ノ)考には、莫囂國隣之大相古兄?湯氣として、キノクニノヤマコエテユケ〔キノ〜右○〕と訓り、莫v囂《サヤギ》國は無2風塵1と云る意にて大和(ノ)國なり、其(ノ)隣は紀伊(ノ)國なり、と云るは謂あり、大相の字をヤマ〔二字右○〕と訓しは、いかなる義にや甚意得がたし、この説を平(ノ)春海が助け直して、大相土見乍湯氣として、ヤマミツヽユケ〔七字右○〕と訓しは、さもあるべきことなりかし、されど其(レ)までもあらじ、こは紀(ノ)國の行幸なるに、紀(ノ)國の山超て行(ケ)と云むこといかに、紀(ノ)國の山を超て何處《イヅク》に行とすべけむや、無用説《イタヅラゴト》といふべし、本居氏(ノ)説に、莫囂國隣之は、カマヤマノ〔五字右○〕と訓べし、莫囂をカマ〔二字右○〕と訓(ム)故は、古(ヘ)に人の物云を制して、あなかまと云ること多く見ゆ、それを今の俗言には、やかましと云り、然ればかまとばかりいひて、莫(レ)v囂(キコト)といふ意なり、國隣は、山は隣(ノ)國の境にあるものなれば、かくも書べし、大相は霜(ノ)字の誤、七は木(ノ)字の誤、爪は?(ノ)字の誤、謁は湯とある本に據て、シモキエテユケ〔七字右○〕なり、此(ノ)幸は十月にて、十一月までも彼(ノ)國に留(リ)坐る趣なれば、霜の深くおくころなり、吾瀬子は天智天皇を指奉る、此(ノ)時皇太子にて供奉したまへる趣、書紀に見えたり、射立爲兼は、イタヽスガネ〔六字右○〕と訓べし、五可新何本は、即(チ)龜竈(ノ)神社の嚴橿之本なり、此(ノ)女王も皇太子に從ひ奉りて行賜へるにて、竈山に詣賜はむとする日の朝など、霜のふかくおけるにつきて、よみ賜へるさまなりと云り、莫囂國隣をカマヤマ〔四字右○〕と訓しは、さもあるべき理なれど(83)も、山の霜とはいふべくもなし、また兄(ノ)字をエ〔右○〕の假字に用ひたることも、集中に例なし、また射立爲兼をイタヽスガネ〔六字右○〕とよみたるも、理は通ゆるに似たれども、賀禰《ガネ》てふ詞かゝるところにありては、下への連も聞惡くして、古(ヘ)人の風調《クチツキ》ともおもはれず、そは一首(ノ)歌を誦《トナ》へ擧てよく玩味《アヂハヒミ》ば、おのづからしらるべし、ことに此(ノ)女王は作歌《ヨミウタ》に秀群《スグレ》て、さしも世に聲《キコ》えたる人なるに、しか調(ヘ)のわるき歌よみ出賜はむや、さてまた嚴橿は上に云るごとく、三輪山のあたりにのみありて、さばかり名だゝるを、おして紀(ノ)國にありとせしもいかにぞや、強説といふべし、かゝれば此(レ)等の説を、人のあまなはざるもうべにぞありける、又或本に由中(ノ)道萬呂が説とて書入たるに、莫囂圓隣之を、舊訓にユフツキノ〔五字右○〕とあるを用べし、其(ノ)謂は晝にくらぶれば、夜はしづかなる意にて莫囂と書るなり、圓は滿月の形、その隣は夕月の意なりといへり、こは強て考へたる説なるうへ、一首の意を、いかにとも解竟《トキヲ》へざれば、さておくべし、又荒木田(ノ)久老が病床漫筆といふものに云、囂《カマビスシキ》ことなきは耳无なり、圓は山の形にて、倭姫(ノ)世記に、圓奈留《ツブラナル》有2小山1支《キ》、其所|乎《ヲ》都不良止《ツブラト》號(ケ)支《キ》と見えたり、しかれば莫囂圓は耳無山なり、耳無山に隣れるは香山なれば、莫囂圓隣之は、カグヤマノ〔五字右○〕と訓べし、大相土は、續紀四(ノ)卷に、相v土建2帝王之邑(ヲ)1とあるによるに、大に相《ミル》v土(ヲ)は國見なるべし、兄は一本无に作れば、爪謁の二字は、靄の一字を誤れるものにて、無2靄氣1はさやけきなれば、第二句はクニミサヤケミ〔七字右○〕と訓べきなり、第四(84)句は本居氏が訓にしたがひて、イタヽスガネ〔六字右○〕とよむべし、ガネ〔二字右○〕はいたゝすであらむといふ意、第五句は古寫の一本に、五可期何本とあれば、イツカアハナモ〔七字右○〕と訓べしと云り、此(ノ)考は甚《イト》めづらしげにはきこゆれど、まづ圓は山の形と云ることいかゞ、すべて山は圓なるものに
しもあらず、いはゆる圓(ラ)奈留《ナル》小山も、尋常《ヨノツネ》の山どもの形《サマ》とは異《カハ》りて、圓なる由にて、其所を都不良《ツブラ》とも號《ナヅケ》しといふ意にこそあれ、なべての山の形の圓ならむには、しかこと/”\しく其所乎都不良止號支などいふべきことかは、又迦具山の國見といはむも、あまりに打まかせたるいひ樣《ザマ》にて、古(ヘ)人の口氣《コトバ》ともおもはれず、いでやそはいかにまれ、イタヽスガネ〔六字右○〕といひて、いたゝすであらむといふ意とするも、古語の格《サマ》にたがひ、また何本をナモ〔二字右○〕とよまむことも、いかにぞや、かくては一首の意も通《キコ》えかねたれば、とにかくに此(ノ)説も用ふるにたらず、
 
中皇命《ナカチヒメミコノ》往《イマセル》2于|紀伊温泉《キノユニ》1之時御歌《ノトキノミウタ》
 
中皇命、命は女(ノ)字の寫誤にて、中皇女《ナカチヒメミコ》なるべし、上に委(ク)云り、(其は上に云たる如く、中皇女は、高市崗本(ノ)宮に御宇し舒明天皇の皇女、間人(ノ)皇女の更名《マタノミナ》とおもはるれば、かの崗本(ノ)宮(ノ)標中に、中皇女としるしたるは論なし、さてこの皇女は、孝徳天皇の皇后になり賜ひたれば、それより後は間人(ノ)大后と申せり、故(レ)天智天皇(ノ)紀にも間人(ノ)大后薨と記されたり、かくてもし難波(ノ)長柄(ノ)豐碕(ノ)宮(ニ)御宇(シヽ)天皇(ノ)代と申す總標《オホシメ》ありて、その標中に收《イリ》たる御歌ならむには、御名をば省きて(85)大后とか、皇后とかしるしてあるべし、しかるに孝徳天皇ははやく崩り坐て、此は後(ノ)崗本(ノ)宮(ニ)御宇し齊明天皇の御代の標中に收《イリ》たれば、大后とはしるし申すべくもあらず、況《シ》て皇太后《オホミオヤ》とは中すべくもあらねば、なほもとのまゝに、間人(ノ)大后とあらば混ふべくはなけれども、后にのぼりましゝを、御名を憚らず記すべくもなければ、こゝには難波(ノ)長柄(ノ)豐碕(ノ)宮(ニ)御宇(シヽ)天皇(ノ)大后、とあらば然るべきことなれど、しかこと/”\しくきはやかに記さむは、此(ノ)集の例にあらず、故(レ)此(ノ)御代のほどまでも、前にいまだ皇女にてまし/\し時の、更(ノ)名の中皇女と申せるが、やがて通稱《トホリミナ》の如く世に稱《マヲ》しならへるまゝに、歌集《ウタブミ》などにもしかしるし申せるによりて、此(ノ)標中にはかくしるしたるにこそあらめ、)○伊(ノ)字、類聚抄、拾穗本にはなし、
 
10 君之齒母《キミガヨモ》。苦代毛所知武《ワガヨモシラム》。磐代乃《イハシロノ》。岡之草根乎《ヲカノクサネヲ》。去來結手名《イザムスビテナ》。
 
君之齒母《キミガヨモ》、君は次の御歌に、吾勢子《ワガセコ》とよみ給へるを見れば、御兄中(チ)大兄にいざなはれてやおはしけむ、さらばかの中大兄をさし賜へるなるべし、齒はよはひを云、次の吾代も同じ、母《モ》は物二(ツ)を兼ていふ詞なり、次(ノ)句なるも同じ、君がよはひをも、吾(ガ)よはひをも兼て知むの意なり、○吾代毛所知武、(武(ノ)字、舊本に哉と作るは誤なり、本居氏(ノ)考によりて改つ、)ワガヨモシラム〔七字右○〕と訓べし、○磐代《イハシロ》は、紀伊(ノ)國日高(ノ)郡の地(ノ)名なり、○岡之草根乎《ヲカノクサネヲ》、草根はクサネ〔三字右○〕と訓て、たゞ草の事なり、(カヤネ〔三字右○〕と訓てもたがはねども、次の御歌は屋葺かたにつきて詔ひ、こゝは草結(ヒ)のこと(86)に詔へれば、なほクサネ〔三字右○〕なるべし、契沖は、武子内親王の此(ノ)御歌をとりて、岩代のをかのかやねにとよませ給ひぬれば、かやねと訓べしといへれど、すべて後のことをもて、古(ヘ)の證とはしがたし、)月夜《ツクヨ》といふは、たゞ月のことなるに同じ、○去來結手名《イザムスビテナ》は、去來《イザ》はさそふ詞なり、手名《テナ》は?牟《テム》を急に云るなり、(すべで牟《ム》は緩なることにいひ、那《ナ》は急なることに云て、緩急のたがひありと知べし、此(ノ)上にくはしく辨(ヘ)たり、手名《テナ》は、?牟奈《テムナ》の略なりといふはおろそかなり、)いざ/\急《トク》この岡の草を結びてむと、二念なくおもふよしなり、さて結(フ)とは、其(ノ)岡の草根を結びて、齡を契らむと爲《シ》たまふなり、(この結を次の御歌へかけて、草枕に結ぶことゝする説は非なり、次に借廬作良須云々とあるは、旅(ノ)宿をつくり賜ふよしなれば、その御歌より前に、草枕結ばむとのたまふべきよしなし、)草|及《マタ》松(ガ)枝など結びて契をかくるは、古(ヘ)のならはしなり、さるは二(ノ)卷に、磐代乃岸之松枝將結《イハシロノキシノマツガエスビケム》云々、又|磐代乃野中爾立有結松《イハシロノヌナカニタテルムスビマツ》云々、又|後將見跡君之結有磐代乃子松之宇禮乎《ノチミムトキミガムスベルイハシロノコマツガウレヲ》云々、六(ノ)卷に、靈剋壽者不知松之枝結情者長等曾念《タマキハイノチハシラズマツガエヲムスブコヽロハナガクトゾモフ》、七(ノ)卷に、近江之海湖者八十何爾可君之舟泊草結兼《アフミノミミナトヤソアリイヅクニカキミガフネハテクサムスビケム》、八(ノ)卷に、秋草乃結之紐乎解者悲哭《アキクサノムスビシヒモヲトクハカナシモ》、二十(ノ)卷に、夜知久佐能波奈波宇都呂布等伎波奈流麻都能左要太乎和禮波牟須波奈《ヤチクサノハナハウツロフトキハナルマツノサエダヲワレハムスバナ》、十二に、妹門去過不得而草結風吹解勿又將顧《イモガカドユキスギカネテクサムスブカゼフクトクナマタカヘリミム》、(伊勢物語に、わか草を人のむすばむとよめるも、古く草結といふことのあるにもとづきて云るなり、拾遺集十二に、ある男の松を結びて遣(ハ)したりければ、作者知ず、何(87)せむに結び初けむ岩代の松は久しき物と知(ル)々、後拾遺集十七に、友だちのもとなりける人の、松を結びておこせて侍ければ云々、)などあるを考(ヘ)合せて、古(ヘ)のならはしにせしやうおもひやるべし、たとへば若き松(カ)枝などを結(ビ)合せておきて、長(ク)久しき後、又かへり見む時まで、結びたるまゝにてあれといひて、契(リ)をかくるなり、(岡部氏(ノ)考に、松を結びて齡をちぎるにひとしければ、此(ノ)草は山菅をさしてよみ賜ふならむ、そは十二に、山草とあるをヤマスゲ〔四字右○〕と訓に據て、こゝの草も山菅の事ぞと知べし、と云るはひがことなり、十二に、山草とある草(ノ)字は、菅の誤なるよしは、彼處にいふべきを考へ見べし、)○御歌(ノ)意は、君がよはひの長きほどをも、吾よはひの久しきほどをも知べきは、めでたき此(ノ)岡の草なれば、いざ/\急《トク》結びて、長(キ)壽を契らむとのたまへるなり、
 
11 吾勢子波《ワガセコハ》。借廬作良須《カリホツクラス》。草無者《カヤナクバ》。小松下乃《コマツガモトノ》。草乎苅核《カヤヲカラサネ》。
 
吾勢子《ワガセコ》は、中(チ)大兄をさしてのたまふなるべし、上に云り、○借廬作良須《カリホツクラス》は、借廬《カリホ》は旅のやどりなり、前に兎道乃宮子能借五百《ウヂノミヤコノカリイホ》とありしに同じ、作良須《ツクラス》は作り賜ふといふ意なり、これも上に云り、○草無者《クサナクバ》は、草は可也《カヤ》にて、屋葺料の草をいふ稱にて、薄をいふ名となれること、上に云るが如し、無者《ナクバ》とは、草もとむとてこゝかしこたづねありきて、もしもとめ得賜はずてあらばとの意なり、されどこれはさきの御心をさぐりてかくのたまへるにて、實はたづねた(88)まひて勞し賜はぬさきに、こなたよりのたまへるなり、○小松下乃《コマツガシタノ》、とのたまへるは、小松はおひさきこもれる物なれば、その下なる草をふかば、あやかりもせむとてかくのたまへるか、またさらずとも、おのづから小松の下にふさはしき草おほかるを、見出賜ひてのたまへるにも有べし、○草乎苅核《カヤヲカラサネ》(核(ノ)字、類聚抄には椀と作り、)は、草を苅せといふに、根《ネ》の希望辭の添りたるなり、さて根の辭のそふにひかれて勢《セ》を佐《サ》に轉して核といへること、上に名告沙根《ナノラサネ》とあるところにいへるが如し、さてこゝはからせ賜はねといふが如し、(此を本居氏のカヤナクバ〔五字右○〕云々、クサヲカラサネ〔七字右○〕と別てよまれたる、一(ト)わたりは實に然どと思はるれども、薄をやがて加夜《カヤ》といふ所由《ヨシ》は、前註にことわれるごとくなれば、草は兩(ツ)ながら加夜《カヤ》とままむぞよろしき、)○御歌(ノ)意は、借廬にふくべき草を、もしもとめかね給はゞ、小松の下にふさはしき草のおほく見ゆるを、かりてふき賜はね、さらば小松にあやかりて、ともにおひさきも久しからむぞとのたまへるなり、十(ノ)卷に、※[虫+廷]野之尾花苅副秋芽子之花乎葺核君之借廬《アキヅヌノヲバナカリソヘアキハギノハナヲフカサネキミガカリホニ》、とあるは趣(キ)似たる歌なり、
 
12 吾欲之《アガホリシ》。子島羽見世追《コシマハミシヲ》。底深伎《ソコフカキ》。阿胡根能浦乃《アコネノウラノ》。珠曾不拾《タマゾヒリハヌ》。
 
吾欲之《アガホリシ》は、かねて吾(ガ)見まほしく思ひしといふなり、○子島羽見遠《コシマハミシヲ》、(舊本に野島波見世追とありて、或頭(ニ)云、吾欲《アガホル》子島羽見遠、と註せるを今は擇び取用つ、吾欲とあるはよろしからねば、舊(89)本に從つるなり、)子島《コシマ》は、紀伊(ノ)國名草(ノ)郡和歌山(ノ)城府より、今道三里ばかり北に兒島と云あり、今人家千五六百戸許ありて、往來の船の泊る處なりと其(ノ)國人云り、是なるべし、さてかねて見まほしく思ひし子島は見しものを、こゝをだに見たらば、思ひのこす事はさらにあるまじきにの意にて、次の句をのたまはむ下形なり、(野島は次にいふ、)○底深伎《ソコフカキ》は、(略解にソコキヨキ〔五字右○〕とよめるはいかに、もしは清(ノ)字の誤と見たるか、又深(ノ)字の心を得てよみたるにや、意得がたし、)珠のひろひがたきは、もと底の深きがゆゑなれば、かくのたまへり、○阿胡根能浦《アコネノウラ》は、日高(ノ)郡鹽屋浦の南に野島(ノ)里といふありて、其處《ソコ》の海邊を阿胡禰浦《アネウラ》と云て、貝の多くより集る所なりとぞ、○珠曾不拾《タマゾヒリハヌ》(拾(ノ)字舊本捨と作るは誤なり、元暦本、類聚抄古寫本、拾穗本等に從つ、)珠はいはゆる眞珠をも、又石にまじれる玉をもいへり、曾の辭力(ラ)あり、珠ひろはざる一(ト)すぢのみあかぬ事なるよし、つよく思はせむがための辭なり、不拾をヒリハヌ〔四字右○〕と訓(舊來これをヒロハヌ〔四字右○〕とよめるは後なり、)例は、十五に、於伎都白玉比利比弖由賀奈《オキツシラタマヒリヒテユカナ》、又|和多都美能多麻伎能多麻乎伊敝都刀爾伊毛爾也良牟等比里比等里《ワタツミノタマキノタマヲイヘヅトニイモニヤラムトヒリヒトリ》、又|多麻能宇良能於伎都之良多麻比利敝禮杼《タマノウラノオキツシラタマヒリヘレド》、又|伊敝豆刀爾可比乎比里布等《イヘヅトニカヒヲヒリフト》、十八に、多麻母比利波牟《タマモヒリハム》、二十(ノ)卷に、可比曹比里弊流《カヒゾヒリヘル》など、いづれも假字書にはかくあり、(多麻等比呂波牟《タマトヒロハム》と見《ア》れども、彼は東歌なれば、なべての例證《アカシ》にはなりがたし、)○御歌(ノ)意は、かねてみまほしく思ひし兒島をば見しかば、おもひのこす(90)ことあるまじき事なるに、なほこの阿胡根の浦の底深くて、珠のひろはれねば、都人になにの裹《ツト》もなくてあらむのみ、口をしきことゝのたまへるなり、さてこの御歌上二首と連續《ツヾケ》るにはあらず見ゆ、此(ノ)ついてに此(ノ)阿胡根のあたりへもおはして、よませ給へるなれば、ひとつにつらねられたるなるべし、
〔右※[手偏+僉](ルニ)2山上(ノ)憶良(ノ)大夫(カ)類聚歌林(ヲ)1曰、天皇御製歌云々、〕
契沖、此(ノ)説ならば君が代とは、御供の皇子大臣をのたまふべし、仁和のみかど、僧正遍昭に七十(ノ)賀給ひける御歌に、君が八千代とよませ給へりといへり、但し右幾首となきからは、歌林の説は吾欲之の一首をさせるにや、
 
中大兄《ナカチオホエノ》【近江(ノ)宮(ニ)御宇(シ)天皇】三山御歌《ミツヤマノミウタ》
 
中大兄は、近江(ノ)宮荷御宇(シ)天智天皇の、まだ皇子にておはします時の御名、ナカチオホエ〔六字右○〕と讀べし、中をナカチ〔三字右○〕とよむべきよしは上に云り、(略解に、中大兄(ノ)命とあるべきなりといひ、既《ハヤ》く契沖も中大兄(ノ)尊とか、中大兄(ノ)皇子とかあるべきが脱たるなるべしと云り、皆非なり、)大兄《オホエ》は、皇子と申すと同(ジ)ことなり、(そも/\此(ノ)目録にも、且《マタ》異本等にも、又書紀にも中(チ)大兄とのみ書て、皇子とも命ともなきは、大兄と申(ス)と、皇子と申すと同じきが故ぞ、然るを聖徳太子傳暦、磯原(91)抄などに、中大兄(ノ)皇子、元亨釋書に、中大兄(ノ)王子など書《ア》るはかへりて後なり、)其(ノ)據は、書紀孝徳天皇(ノ)卷に、古人(ノ)皇子を古人(ノ)大兄ともかたみに多く書て、古人(ノ)大兄(ノ)皇子とは連書ざるにて知べし、(皇極天皇(ノ)紀に唯一(ト)ところのみ、古人(ノ)大兄(ノ)皇子とあるは、却りていかゞにおぼゆるなる、又舒明天皇(ノ)紀に、法提(ノ)郎媛生2古人(ノ)皇子(ヲ)1、註に更(ノ)名大兄(ノ)皇子とあるも甚疑はし、後人の書加へしものとこそおもはるれ、孝徳天皇(ノ)紀には、古人(ノ)大兄とある註に、更(ノ)名古人(ノ)大市(ノ)皇子とあるをや、)私記に、昔稱2皇子(ヲ)1爲2大兄(ト)1、鉈稱2近臣(ヲ)1爲2少兄(ト)1也、と見えたるが如し、但し集の例にて、日並(ノ)皇子(ノ)尊、高市(ノ)皇子(ノ)尊などある例なれば、こゝも中(チ)大兄(ノ)尊とあるべきものならむとも思ふべけれども、こゝは未(ダ)皇太子に立給はぬ間に作(ミ)給へる御歌なれば、猶もとのまゝに記せるならむ、なほこの大兄の御傳は下に委(ク)云べし、○三山は、高山《カグヤマ》、雲根火山《ウネビヤマ》、耳梨山《ミヽナシヤマ》をさす、【〔頭註〕古本後紀十三延暦廿四年十二月丁巳、勅大和國畝火香山耳梨等山、百姓任意伐損、國更寛容不加禁制、自今以後莫令更然、】さてこれは此(ノ)三山を見ましてよみませる御歌にあらず下に引(ク)播磨風土記に見えたる故事を聞まして、播磨にてよみ給へるなり、その故事といふは、むかしいづれの代にか有けむ、此(ノ)三山の相闘て、なりとよめきけるを、出雲(ノ)國|阿菩《アホ》と申す大神の聞給ひて、諫めてその闘をやめしめむとて、播磨(ノ)國までおはしけるほどに、山の闘止ぬと聞て、乘(リ)給ひし船をうちうつぶせて、それに座《オハ》して本(ツ)國へはかへらで、播磨にとどまり給ふ、これを三山の闘といふそれなり、○御歌の御(ノ)字、舊本脱せり、目録によりて補へ(92)り、○歌(ノ)下、舊本一首の二字あり、今は頻聚抄、元暦本等に無に從つ、凡この一(ノ)卷題詞には、首數をしるさゞる例と見えたればなり、
 
13 高山波《カグヤマハ》。雲根火雄男志等《ウネビヲエシト》。耳梨與《ミヽナシト》。相諍競伎《アヒアラソヒキ》。神代從《カミヨヨリ》。如此爾有良之《カクナルラシ》。古昔母《イニシヘモ》。然爾有許曾《シカナレコソ》。虚蝉毛《ウツセミモ》。嬬乎《ツマヲ》。相挌良思吉《アラソフラシキ》。
 
高山波《カグヤマハ》、高山を迦具山《カグヤマ》と云に用ひたるは、カウ〔二字右○〕の音のウ〔右○〕をグ〔右○〕に轉(シ)用(ヒ)たるなり、香山と書るも全(ラ)同義なり、香も高も共にカウ〔二字右○〕の音なればなり、波《ハ》は耳梨與《ミヽナシト》とある與《ト》の言にむかへて意得べし、(しかるを古來註者等、かぐ山をばといふ意に見たるはひがことなり、これかぐ山を女山とするよりの説なれど、かぐ山は女山にあらず、)なほ次に云べし、○雲根火雄男志等、この訓は次にいふべし、雲根火《ウネビ》は、高市(ノ)郡八木村の南一里ばかりにありて、今俗に慈明寺山と稱とぞ、そも/\此御歌|舊説《フルキトキゴト》は皆誤なり、故(レ)まづ初句より四句までの意をこゝにいはむ、大神(ノ)眞潮(ノ)翁(ノ)説に、雲根火は女山《メヤマ》、高山、耳梨の二は男山《ヲヤマ》、然《サ》て雲根火雄男志の雄は辭《テニヲハ》、男志は愛《ヲシ》の意にて高山と耳梨と、雲根火山を愛《ヲシ》とて互《カタミ》に諍ふなり、且《マタ》反歌の相之時《アヒシトキ》と有も、高山と耳梨山と相戰し時といふ意ぞといへり、かく見るときは高山波といへる、波《ハ》の語辭《カタリコトバ》穩に聞ゆれば、まことにいはれたりといふべし、雲根火を女山とする事の證を云(ハ)ば、古事記安寧天皇(ノ)條に、畝火山之美富登《ウネビヤマノミホト》とあるは御女陰《ミホト》にて、これ女山なるが故なり、さるはすべて古事記、書紀を(93)考へわたすに、當登《ホト》といへるは大抵《ヲサ/\》女陰ならぬはなきが如くなるを思(フ)べし、(其(ノ)中古事記に、迦具土(ノ)神之於v陰|所成神《ナリマセルカミ》とある陰はミホト〔三字右○〕と訓べきか、又他に訓べきやうあるか、もしこれをミホト〔三字右○〕と訓ときは、富登は男女にわたりて云し稱とすべきか、これひとつにて男女に云稱とは決《サダ》めがたし、又草(ノ)類の百部をホトツラ〔四字右○〕といふは、陰葛《ホトツラ》にて、其は男陰に形どりていへる稱にてもあるべきか、さらばなほ男女にわたりて、いひし稱にてもあるべからむか、もしはもとは、男女にかぎらず云る稱とするときは、女の陰門はその成出る元(ノ)處なるが故に、人はさらにて、萬(ノ)物女陰によりて心動(キ)すること、そのもとふかきゆゑあることにて、たやすくつくしがたし、かく心動(キ)せらるゝが故に、そのもと男女にわたりし稱なるが、おのづから女にかぎりていふ稱のごとくになれるにも有べし、さlればもと實は畝火山の御女陰《ミホト》に心動(キ)せしよりことおこりて、つひに二山の會戰《アラソヒ》はありしなれど、あだし國などの如く、さまで物をあらはにあさましくいひたりしことのなきは、神代よりのみやびてぶりなりとしるべし、)然るにかの翁(ノ)説に、男志を愛《ヲシ》の意ぞといへるは、なほ俗意なり、(愛を古(ヘ)乎思《ヲシ》と云る例なきことなり、孝徳天皇(ノ)紀に、大臣謂2長子與志1曰、汝|愛《ヲシキ》v身乎とあるは、ヲシキ〔三字右○〕とよめる言のうへにては惜《オシキ》意なり、愛(ノ)字の本義にはあらず、混ふことなかれ、)故(レ)按(フ)るに、男は曳(ノ)字を寫誤れるものにぞありけむ、さらばウネビヲエシト〔七字右○〕と訓べし、(曳(ノ)字をエ〔右○〕の假字に用ひたる例、此(ノ)集の未に(94)多し、)曳志《エシ》は善《ヨ》しなり、善《ヨ》を曳《エ》と云ること、集中にも書紀にもこれかれ例あり、又吉野をも古(ヘ)は延斯努《エシヌ》といひしこと、又|住吉《スミノエ》、日吉《ヒエ》などいふ類をも考(ヘ)合(ス)べし、さてこゝは畝火を善《ヨ》しと愛憐《ウツクシ》むなり、愛憐は善《ヨ》しとする事の最一《イヤサキ》なれば、やがて曳志《エシ》とのみ云て、愛憐む意になれり、されば古事記上卷に、阿那邇夜志愛袁登古袁《アナニヤシエヲトコヲ》とあるも、延《エ》を體に可愛男《エヲトコ》とのたまへるなり、即(チ)書紀には、妍哉可愛少男歟《アナニエヤエヲトコヲ》とあるにてしるべし、又古事記中(ツ)卷神武天皇大御歌に、加都賀都母伊夜佐岐陀弖流延袁斯麻加牟《カツガツモイヤサキダテルエヲシマカム》、とある延《エ》も可愛《エ》の意なるを思ふべし、等《ト》はとての意なり、○耳梨與《ミヽナシト》は、耳梨は大和志に、在2十市(ノ)郡木原村(ノ)上方(ニ)1、四面田野、孤峯森然(タリ)、山中梔樹多(シ)矣、因又呼2梔子《クチナシ》山(ト)1とあり、【〔頭註〕 古今集誹諧、耳なしの山のくちなしえてしかな思ひの色のしたそめlこせむ、東遊草天神山(耳梨山なり、)】與《ト》は與共《トトモ》にの意なり、○相諍競伎《アヒアラソヒキ》は、雲根火を得むとて、高山と耳梨と、相共にあれさきにと諍《アラソ》ふよしなり、伎《キ》はさきにありしことを今かたるてにをはなり、○神代從《カミヨヨリ》、神代(ノ)といふは、大かた上(ツ)古をひろくさしていふ辭なり、人(ノ)代にむかへていふ神代にはあらず、こゝは即(チ)かの播磨風土記に見えたる、故事の有し時をさす、從《ヨリ》とあるは、今はじまりたるにはあらざるよしを宣へるなり、○如此爾有良之は、カクナルラシ〔六字右○〕と六言に訓るよろし、如此とさし給へるは、今の人の嬬あらそふ事をさし給へるなり、それを神代へかへして、今新にはじまれるにはあらず、神代よりしてかやうにあるらしとなり、良之《ラシ》は大かたたしかにはしられねど、大概《オホムネ》その事の察知《ハカリシラ》るゝをいふ辭(95)なり、(今の、俗に、サウナ〔三字右○〕といふに同じ、)○古昔母《イニシヘモ》、伊爾之閇《イニシヘ》とは往(シ)方といふにて、今より以往《ヲチツカタ》をひろくさす詞なり、母《モ》は現在にむかへたるなり、○然爾有許曾は、シカナレコソ〔六字右○〕と六言に訓る宜し、然とはさやうにといふ意なり、ナレ〔二字右○〕はニアレ〔三字右○〕の約まれるなり、ナレコソ〔四字右○〕はナレバコソ〔五字右○〕の意なり、(これを、婆《バ》を略けるなりとおもふはわろし、古言には、婆《バ》はなくても其(ノ)意に聞えたることにて、もとより有べきものを略きたるにはあらず、)かくざまにいへること古言に例多し、上には今の世のありさまをもて如此とのたまひ、こゝには古昔の事をさして然とはのたまへるなり、許曾は上に註るが如し、この辭一首の眼なり、こゝろをつけて聞べし、上には良之とおしはかりて宣ひ、こゝには許曾と決めて宣へるなり、神代のむかしよりかやうのことは、あるならひにてあるらし、さやうにあればこそ現在の身もとつゞく意なり、○虚蝉毛《ウツセミモ》は、現在の身もといふが如し、毛《モ》は古昔にむかへてのたまふなり、さて虚蝉は、集中借(リ)字には空蝉とも、打背見とも、又假字には鬱瞻《ウツセミ》、宇都曾臣《ウツソミ》、字都世美《ウツセミ》などかけり、さてこは顯身《ウツシミ》てふことぞとは、たれもしかおもひよれる事にて、實に其(ノ)義なることは、論を待ずて明らかなり、然るを文字は右に載る如く種々に書たれども、宇都思美《ウツシミ》と書るは一(ツ)もなくて、皆|宇都曾美《ウツソミ》、宇都世美《ウツセミ》とのみ書れば、宇都世《ウツセ》、宇都曾《ウツソ》は、宇都思《ウツシ》の思《シ》の語を轉したるにはあらで、いささか意味ある語なるべし、もし宇都思《ウツシ》の思《シ》を轉したりとせむには、宇都思伎《ウツシキ》、また宇都思伊(90)波比《ウツシイハヒ》、また宇都思情《ウツシコヽロ》、宇都之眞子《ウツシマコ》、などいふ宇都思《ウツシ》をも、宇都世《ウツセ》とか宇都曾《ウツソ》とかいひたるがあるべきに、しかいへるはをさ/\見えざるを思ふべし、又|打背貝《ウツセガヒ》といへるも、只|空《ウツ》し貝てふことにはあらで、空石花貝《ウツセガヒ》てふことなれば別《コト》なり、そのうへかゝる詞の思《シ》と曾《ソ》世《セ》とは通(ハ)し言る古(キ)證《アト》をも、見及ばざることなれば、かにかくに直に顯し身てふ意にはあらじとぞ思ふ、されど其(ノ)義は未(タ)思得ず、古事記に、雄略天皇の葛木山にて、一言主大神の御ありさまを顯《ウツ》しく見《メ》し賜ひて、のりたまふ大御詞に、恐我大神《カシコシアガオホカミ》、有《アリト》2宇都志意美《ウツシオミ》1者《ハ》、不《ザリキト》v覺《オモホエ》白而《ノリタマヒテ》、云々とある、この宇都志意美《ウツシオミ》は現大身《ウツシオミ》と聞えて、大神を敬ひて詔ふことゝはおぼゆれど、そのもとは宇都曾身《ウツソミ》と云と一(ツ)か別か、字都志意美《ウツシオミ》を切れば、宇都曾美《ウツソミ》となればなり。(志意《シオ》の切|曾《ソ》、)猶考(フ)べし、○嬬乎《ツマヲ》、三言一句なり。此は七言の位の句を三言に詔へるなり。此(ノ)格の例は余が永言格に委(ク)云り、彼(ノ)書に就て考(フ)べし、さて嬬とは、夫よりも婦よりもいふ稱なり、集中に例多し、○相挌良思吉《アラソフラシキ》、(挌(ノ)字、舊本に格、類聚抄に恪と作《カケ》るはわろし、元暦本、官本等に從つ、字彙に、挌(ハ)撃也|闘《タヽカフ》也とあり、)相挌をアラソフ〔四字右○〕と訓は、二(ノ)卷に相競、十(ノ)卷に相爭など、アラソフ〔四字右○〕と訓處に皆相(ノ)字をそへて書り、カタラフ〔四字右○〕といふに相語とかけるに同例なり、又挌(ノ)字を用ひしは、十六(ノ)詞書に有2二壯士1、共(ニ)誂2此娘(ヲ)1而、捐v生挌競と書り、良思《ラシ》は上にいへるが如し、吉《キ》は今(ノ)世に伊《イ》といふに同じ、(今(ノ)俗にラシイ〔三字右○〕といふこれなり、)良思吉《ラシキ》とつゞきたるは、書紀推古天皇(ノ)大御歌に、於朋枳彌能菟伽破須羅(97)志枳《オホキミノツカハスラシキ》とあるをはじめてかた/\に見えたり、さてこゝの吉《キ》は、上の然爾有許曾《シカナレコソ》を結めたり、許曾といひて吉《キ》ととぢむる例、天智天皇(ノ)紀童謠に、阿喩擧曾播施麻倍母曳岐《アユユソハシマヘモエキ》、仁徳天皇(ノ)紀皇后(ノ)御歌に、虚呂望虚曾赴多弊茂豫耆《コロモコソフタヘモヨキ》、集中十一に、難波人葦火燎屋之酢四手雖有己妻社常目頬次吉《ナニハヒトアシビタクヤノスシテアレドオノガツマコソツネメヅラシキ》、又|最今社戀者無爲無寸《モハライマコソコヒハスベナキ》、又|加敝良未爾君社吾爾栲領巾之白濱浪乃縁時毛無《カヘラマニキミコソアレニタクヒレノシラハマナミノヨルトキモナキ》、十二に、玉釧卷宿妹母有者許曾夜之長毛勘有倍吉《タマクシロマキネシイモヽアラバコソヨノナガケクモウレシカルベキ》、十七に、野乎比呂美久佐許曾之既吉《ヌヲヒロミクサコソシゲキ》、などある此(レ)等その例なり、又|許曾《コソ》と云て良思吉《ラシキ》と結めたるは、六(ノ)卷に、諸石社見人毎爾語嗣偲家良思吉《ウベシコソミルヒトゴトニカタリツギシヌビケラシキ》とあり、(中昔にもコソ〔二字右○〕をキ〔右○〕と結めたる例あり、古本枕草紙に、紅《クレナヰ》のは月|夜《ヨ》こそ惡《ワロ》き、榮花物語に、さやうの事こそかはをべき、落窪物語に、しられ奉らんこそくるしきとのたまへば、今昔物語に、行着で道にてこを落申べきなどあり、又かげろふの日記に、たびかさなりけるそあやしきなど、もろともにこそわらひてき、大鏡に、宣旨かうふらせ給ひて、あるき給ひしありさまこそ、落居てもおぼえ侍らざりき、梁塵秘抄口傳集に、土佐(ノ)守盛長が甲斐へ具してまかりたりしに、ならひたりしをこそ、おや申候きなどもみゆ、猶多かるべし、今は姑(ク)記得《オボエ》たる耳《ノミ》を擧つ、)○御歌(ノ)意は、播磨におはしまして、かの阿菩《アホノ》大神のとゞまり給ひし處にて、三山のあらそひの事をおぼしいでられ、神代以來さる例ある故に、今(ノ)人も嬬をあらそふならし、しかれば今(ノ)人のおとなしからぬにしもあらず、いにしへよりのならひにこそあれと、今(ノ)人つま(98)あらそひするを、あらぬことにおぼしめせるに、その大古よりはじまれることに御心つきて、今までの御疑をはるけ給ひしよしなり、
 
反歌《カヘシウタ》
 
14 高山與《カグヤマト》。耳梨山與《ミヽナシヤマト》。相之時《アヒシトキ》。立見爾來之《タチテミニコシ》。伊奈美國波良《イナミクニハラ》。
 
相之時《アヒシトキ》は、高山《カグヤマ》と耳梨山《ミヽナシヤマ》とふたつの雄山《ヲヤマ》が、共に畝火の雌山《メヤマ》を得むとて、會戰《アヒタヽカヒ》し時の義なり、(これを高山と耳梨と婚合《アヒ》し時とするは、いたく齟齬《タガ》へること上に委(ク)辨(ヘ)たるがごとし、)書紀神功皇后(ノ)卷に、烏智箇多能阿邏々麼菟麼邏麼蒐麼邏珥和多利喩祗?蒐區喩彌珥未利椰塢多具陪宇摩比等破于摩譬苫奴知野伊徒姑播茂伊徒姑奴地伊装阿波那和例波《ヲチカタノアラヽマツバラマツバラニワタリユキテツクユミニマリヤヲタグヘウマヒトハウマヒトドチヤイツコハヤイツコドチイザアハナワレハ》、(去來《イザ》將《ナ》2會戰《アハ》1我者《ワレハ》なり、)又|多摩岐波屡于池能阿曾餓波羅濃知波異佐誤阿例椰伊装阿波那和例波《タマキハルウチノアソガハラヌチハイサゴアレヤイザアハナワレハ》、(上に同じ、)これら會(ヒ)戰ことを、會《アフ》とのみ云る證なりけり、(毛詩に、肆伐2大商(ヲ)1會《アヘル》朝《アシタ》清明(ナリ)、とありて、注に會朝(ハ)會戰之旦也といへり、かゝればから國にても、會(ヒ)戰(フ)ことを會とのみも云り、)○立見爾來之《タチテミニコシ》は、タチテミニコシ立とはかの阿菩(ノ)大神の、出雲(ノ)國を立てといふなり、見爾來之《ミニコシ》とは、大和(ノ)國にいたりて見むとて來給ひしをいふ、實はたゞ見そなはさむとてにはあらず三山の相闘を諫めむとて、上(リ)來給ひしをかくよみたまへるなり、(見とは單《タヾ》に見ることのみに非ず、見行(フ)ことをいへること多し、)さてこの印南まで來ましゝに、山の闘止ぬときこしめして、大和までのぼり給はずし(99)て、そこにとゞまり給ひしを、おほよそにのたまへるなり、播磨風土記に、出雲(ノ)國阿菩(ノ)大神、聞2大和國(ノ)畝火香山耳梨三山相闘(ト)1、以v此|欲《オモホシテ》v諫(ムト)v山(ヲ)上(リ)來(マセル)之時、到(リタマヒ)2於此處(ニ)1、乃l聞(テ)2闘止(ヌト)1、覆(シテ)2其所v乘之船(ヲ)1而坐(シキ)之、故(レ)號2神集之覆形《カムツメノフセカタト》1、あるは即(チ)その故事なり、(今も播磨(ノ)國鹿子川の西に、神詰《カムヅメ》といふ所ありとなむ、)さて此(ノ)御歌もその故事を聞坐て、播磨(ノ)國にて作(ミ)たまへるなり、○伊奈美國波良《イナミクニハラ》、(波良、拾穗本に原と作り、)伊奈美《イナミ》は和名抄に、播磨(ノ)國印南(ノ)(伊奈美《イナミ》)郡とあり、是(ノ)地なり、(續紀二十六に、播磨(ノ)國賀古(ノ)郡|印南野《イナミヌ》とあるは、此(ノ)野は印南(ノ)郡より、賀古(ノ)郡にも渉《カヽ》れる地なるべしといへり、)集中三(ノ)卷に、稻日野《イナビヌ》、又(二十四丁)稻見乃海《イナミノミ》、四(ノ)卷に、稻日都麻麻浦箕乎過而《イナビツマウラミヲスギテ》、六(ノ)卷(十七丁)に、神龜三年、幸2於播磨(ノ)國印南野(ニ)1時、云々、稻日野能大海乃原笶《イナビヌノオホウミノハラノ》、古事記中卷景行天皇(ノ)條に、天皇娶(テ)2針間之伊那毘能《ハリマノイナビノ》大郎女(ヲ)1、云々などありて古(ヘ)より伊奈美《イナミ》とも伊奈※[田+比]《イナビ》とも云りしなり、國と云るは初瀬(ノ)國、難波(ノ)國、吉野(ノ)國などいへる類にて、一郡一郷をも國といへり、原の事は上に云り、さてかくよみすてたまひて、印南の形状いかにありともことわりたまはざるが、中々に御餘意ふかくかぎりなくて、後(ノ)人のかけても及(ビ)奉らるべききはにはあらずかし、○御歌(ノ)意は、雲根火の女山を得むとて、かぐ山耳梨山の相戰し時に、その戰を諫めむとて、わざ/\出雲(ノ)國を立て阿菩(ノ)大神のおはしゝが、そのあらそひやみぬときこししめして、とまらせ賜ひし印南(ノ)國は、こゝそとのたまへるなり、○此(ノ)三山の相戰《タヽカヒ》の事を甚《イタ》く異《アヤシ》みて、山の燒しを相戰になずらへ(100)て、いひなせしものぞなどいふなるは、例の理を主とする徒《トモガラ》の言ぞ、近く長尾(ノ)謙信の、越後(ノ)國春日山の城内にて、大石の戰ひて碎け散しと云ことも聞侍れば、まして上古には、さる事も常有けむをや1
 
15 渡津海乃《ワタツミノ》。豐旗雲〔三字左○〕爾《トヨハタグモニ》。伊理比沙之《イリヒサシ》。今夜月夜《コヨヒノツクヨ》。清明己曾《キヨクテリコソ》。
 
渡津海乃《ワタツミノ》は、(借(リ)字)海神の御名を綿津見(ノ)神と申す、それより轉りて海をいふ、古事記傳に委くいへり、(さればこゝに海とかけるは、たゞ見《ミ》の假字なり、さるを後(ノ)人海はうみの義と心得て、わたつうみといふは非なりとしるべし、)○豐旗雲《トヨハタグモ》は、豐は稱辭とて、豐御酒《トヨミキ》、豐祝《トヨホキ》、豐葦原《トヨアシハラ》、豐秋津洲《トヨアキヅシマ》、豐泊瀬《トヨハツセ》などの豐のごとし、大《ヒロ》くゆたかなるかたちをたゞへていへるなり、旗雲は、旗《ハタ》の靡有《ナビケル》如く棚引たる雲を云、(道晃親王御本に、旗雲(ハ)、古語(ニ)海雲映2夕日(ニ)1、赤色似v旗(ニ)也、と注し給へり、)文徳天皇(ノ)實録に、天安二年六月庚子、有2白雲1竟v天(ニ)、自v艮亘v坤(ニ)1、時人謂2之旗雲(ト)1、同八月丁未、是夜有v雲竟v天、自v艮至(ル)v坤(ニ)、人謂2之旗雲(ト)1とあり、但し彼《ソ》は時人《ヨノヒト》のことさらにしか呼なせし物にて、今はただ十四に、由布佐禮婆美夜麻乎左良奴爾努具母能《ユフサレバミヤマヲサラヌニヌグモノ》、(布雲之《ヌノグモノ》なり、)とある類にいひなし賜(ヘ)るなり、(懷風藻大津(ノ)皇子(ノ)詩に、月(ノ)弓輝2谷裏(ニ)1雲(ノ)旗張2嶺前(ニ)1、)○伊理比沙之《イリヒサシ》、(沙、古寫本に禰と作り、又拾穗抄に、仙覺と由阿が本にも禰とあるよし云り、皆わろし、)は、入日指《イリヒサシ》なり、豐旗雲に入日さして、こよひの月のさやかならむことを、かねてよりのたまへるなり、(今入日のさすを見ておほ(101)せられたるにはあらず、混(フ)べからず、)○月夜は、ツクヨ〔三字右○〕と讀べし、古言には、月夜を都伎欲《ツキヨ》とはいはず、都久欲《ツクヨ》とのみいへり、(由布豆久欲《ユフヅクヨ》、二十(ノ)卷に、都久欲《ツクヨ》と假字書あり、)さて月夜はたゞ月をいふ、後々は月夜は、月の夜てふことのみにせれど古(ヘ)は然にあらず、古今集に、夕月夜《ユフヅクヨ》刺や岡邊の云々とあれば、彼(ノ)頃までも、たゞ月を月夜といひしことありしにこそ、又月夜よし夜よしとよめるも、たゞ月よしといへりとこそ聞えたれ、○清明己曾は、キヨクテリコソ〔七字右○〕と訓べし、(清明をアキラケク〔五字右○〕といふは古言にあらず、)さて明(ノ)字にても、テリ〔二字右○〕とはよむべきことなれども、集中に皆照(ノ)字をのみ用たるを思へば、こゝも明は照の誤寫にそ有べき、※[照の草書]と※[明の草書]と草書甚混(ヒ)易ければなり、(或説に、明は有(ノ)字の誤にて、キヨクアリコソ〔七字右○〕なるべし、と云るはあたらず、)清(ク)照(ル)とつゞけたる例は、四(ノ)卷に、月讀之光者清雖照有《ツクヨミノヒカリハキヨクテラセレド》、七(ノ)卷に、野邊副清照月夜可聞《ヌヘサヘキヨクテルツクヨカモ》、八(ノ)卷に、雨晴而清照有此月夜《アメハレテキヨクテリタルコノツクヨ》、十(ノ)卷に、暮三伏一向夜不穢照良武高松之野爾《ユフヅクヨキヨクテルラムタカマドノヌニ》などあり、己曾《コソ》は希望辭なり、いかで今夜の月さやかにあれかしと希望《ネガヒ》給ふなり、故(レ)集中に多く乞欲などの字を書り、いと多き詞なり、(又社、與、與具などの字を書るは、其(ノ)義未(タ)詳ならず、但し蒙求二(ノ)卷に、前漢(ノ)朱買臣、云々買臣、乞《アタヘテ》2其(ノ)夫(ニ)錢(ヲ)1令v葬、注に、與(ルモ)亦曰v乞(ト)とあり、これにて見れば、與乞彼方にても通(ハシ)用たる字にてありけむ、さてこの己曾といふ詞、上古にのみ用ひて、中昔より以來はをさ/\きこえず、たま/\伊勢物語に、秋風吹と雁に告己勢《ツゲコセ》、とあるのみなり、それも己曾を己勢と訛(102)りたり、催馬樂にも、いで吾駒はやくゆこき己勢とあり、)さてこゝをテレコソ〔四字右○〕と訓べきかとも思へど、五(ノ)卷に、左氣爾于可倍許曾《サケニウカベコソ》、二十(ノ)卷に、伊母爾都氣許曾《イモニツゲコソ》の類猶有、)なほ今は、五(ノ)卷に、知良須阿利許曾《チラズアリコソ》、十(ノ)卷に、爾保比與《ニホヒコソ》二十(ノ)卷に、伊母爾都岐許曾《イモニツギコソ》、などある(これらアレコソ〔四字右○〕、ニホヘコソ〔五字右○〕、ツゲコソ〔四字右○〕とは云ざれば、その)例に据て、テリコソ〔四字右○〕と訓つ、○御歌(ノ)意は、此(ノ)風景おもしろき海濱にして、今夜の月見むとおもふ時しも、入日の空に心なく雲の棚引よ、かくてはこよひの月もさやかならじを、いかでかの入日の影のこゝろよくてりて、雲もはれゆき、今夜の月しもさやかに有(レ)かしと作坐《ヨミマセ》るなり、又こよひこゝより、御船にめし給はむの御心ありて、いよいよ月のさやけからむことをねがひ給へるにも有べし、(略解の説は聞とりがたし、)夫木集に、法性寺入道關白、入日さす豐旗雲のけしきにてこよひの月は空に知にき、崇徳院御製、入日さす豐旗雲にわきかねつ高間の山の峯のもみぢば、○此(ノ)御歌は三山の反歌にあらざることはいふに及ばず、されど同じ度、此(ノ)印南の海邊にてよませ給ふなるべし、
〔右一首歌。今案不v似2反歌1也。但舊本以2此歌1載2於反歌1。故今猶載v此歟。亦紀曰。天豐財重日足姫天皇先四年乙巳。立2爲 天皇1爲2皇太子1。〕
也但を、拾穗本に然依と作(キ)、歌載の下に茲(ノ)字ありて、於反以下なし、○此歟、元暦本古寫本等には此次と作《カケ》り、○先四年とは、皇極天皇の四年なり、此(ノ)年乙巳にあたれり、先とはこの齊明天(103)皇(ノ)代の標下に、先の事を引たるが故、先後まざれじがためなり、皇極天皇(ノ)卷に、四年六月丁酉朔庚戌、讓2位於輕(ノ)皇子(ニ)1、立2中大兄(ヲ)1爲2皇太子(ト)1、と見えたり、○爲天皇、爲(ノ)字元暦本に無(シ)、此(ノ)三字中大兄に改べし、
 
近江大津宮御宇天皇代《アフミノオホツノミヤニアメノシタシロシメシヽスメラミコトノミヨ》
 
近江(ノ)大津(ノ)宮は、志賀(ノ)郡にあり、後紀に、延暦十三年十一月丁丑、詔曰、云々、近江(ノ)國滋賀(ノ)郡古津者、先帝(ノ)舊都(ナリ)、接2輦下(ニ)1可d追2昔號(ヲ)1改(テ)稱(ス)c大津(ト)u云々と見ゆ、即(チ)今も大津と呼《イヘ》り、書紀天智天皇(ノ)巻(ノ)初に、天命開別(ノ)天皇(ハ)、息長足日廣額天皇(ノ)太子1也、母曰(ス)2天豐財重日足姫(ノ)天皇(ト)1、天豐財重日足姫天皇四年、讓2位於天萬豐日(ノ)天皇(ニ)、立2天皇(ヲ)1爲2皇太子1、天萬豐日(ノ)天皇(ノ)後(ノ)五年十月崩、明年皇祖母(ノ)尊、即天皇位《アマツヒツギシロシメス》七年七月丁巳崩、云々、是月、云々、皇太子遷(テ)居(マス)2于長津(ノ)宮(ニ)1、云々、同卷に、六年三月辛酉朔己卯、遷2都(ヲ)于近江(ニ)1、十年十二月癸亥朔乙丑、天皇崩2于近江(ノ)宮(ニ)1、癸酉殯2于新宮(ニ)1とあり、御陵は山城(ノ)國山科にあり、諸陵式に、山科(ノ)陵(近江(ノ)大津(ノ)宮(ニ)御宇(シ)天智天皇在2山城(ノ)國宇治(ノ)郡1、兆域東西十四町南北十四町陵戸六烟、)と見ゆ、續紀に、文武天皇三年冬十月甲午詔赦2天下有v罪者(ヲ)1、云々、爲v欲v營2造越智山科二(ノ)山陵(ヲ)1也とあり、○代の下、舊本等に天命開別天皇とあるは、後人(ノ)しわざなる事|既《ハヤ》く云るが如し、(類聚抄古寫本拾穗本等には、謚曰2天智天皇(ト)1、と云注もあり、但し智を古寫本に知と作るはわろし、)
 
(104)天皇《スメラミコトノ》詔《ミコトノリシテ》2内大臣藤原朝臣《ウチノオホマヘツキミフヂハラノアソミニ》1。競2憐《アラソハシメタマフ》春山萬花之艶《ハルヤマノハナノイロ》。秋山千葉之彩《アキヤマノモミチノニホヒヲ》1時《トキ》〔春山〜左○〕。額田王《ヌカタノオホキミノ》以歌判之歌《ウタモチテコトワリタマヘルソノウタ》。
 
内(ノ)大臣藤原(ノ)朝臣は大織冠鎌足(ノ)公なり、内大臣はウチノオホマヘツツキミ〔ウチ〜右○〕と訓べし、まづ内とは、内(ツ)事を親《シタ》しく統領《アヅカリシレ》るよしの稱《ナ》にして、(下に引(ク)續紀の文併(セ)考(フ)べし、)建内(ノ)宿禰を内能阿曾《ウチノアソ》と云ると同義なり、(内能阿曾《ウチノアソ》と云ることは、古事記書紀の歌に見ゆ、即(チ)建内と云も、建は其(ノ)武く勇ましきを稱なれば、實は内(ノ)宿禰にて内(ツ)事を親くあづかり領《シ》れるゆゑの名なり、續紀文武天皇(ノ)詔に、難波(ノ)大宮(ニ)御宇(シ)掛母《カケマク》畏支天皇命|乃《ノ》、汝(カ)父藤原(ノ)大臣|乃(カ)仕奉賈流状乎婆《ツカヘマツラヘルサマヲバ》、建内(ノ)宿禰(ノ)命|乃《ノ》仕奉賈流事止《ツカヘマツラヘルコトト》、同事敍止勅而《オナシコトソトノリタマヒテ》、治(メ)賜(ヒ)慈(ミ)賜|賈利《ヘリ》、とある藤原(ノ)大臣は、即(チ)鎌足公にて、内(ツ)臣とましまししを、建内(ノ)宿禰の仕(ヘ)奉り賜へるに同じ事ぞ、と詔へる意なるを併考べし、)又藤原(ノ)朝臣仲麻呂を、内相と云しも同しこゝろばえなり、(續紀に、寶字元年五月、大納言從二位藤原(ノ)朝臣仲麻呂(ヲ)爲2紫微(ノ)内相(ト)1、と見えたり、但しこの内相と云ことは、唐鑑徳宗紀に、陸贄在(テ)2翰林(ニ)1、爲v帝所(ル)2親信(セ)1、居(テ)2艱難(ノ)中(ニ)1、雖v有2宰相1、大小之事、帝必與v贄(ト)謀(ル)之、故當時謂(フ)2之内相(ト)1、とあるによられたることにて、内と云ることは、此方の古(ヘ)に自《オノヅカラ》こゝろばえ通へり、さて又古(ヘ)百濟(ノ)國を内宮家《ウチノミヤケ》と云しことも、又内宮外宮に内人と云があるも、又續紀宣命に内兵《ウチノイクサ》また内都奴《ウチツヤツコ》など云ることの見えたるも、各々其(ノ)大小の差別こそあれ、内と云る意は皆相通へり、)かくて此は實には内(ツ)臣なりけるを、(105)下に書紀を引る如く、天智天皇八年十月、此(ノ)卿の今はのきはに、大臣(ノ)位と藤原氏とを授《タマ》へるを、前にめぐらして、書紀にも此(ノ)集にも凡て極官によりて、内(ノ)大臣としるされたるなり、(但し書紀の中に、天智天皇三年の條と、同七年の條とに内臣とあるは、正しく其(ノ)時のまゝにしるされたるものにして、其(ノ)餘はみな前へめぐらして、極官をしるされたり即(チ)藤原としるされたるもこれに同じ、)さて續紀に、元正天皇養老五年十一月戊戌、詔曰、凡(ソ)家(ニ)有2沈痼1、大小不v安、卒(ニ)發2事故(ヲ)1、汝卿房前、當作3内臣(ト)1、計2會内外(ヲ)1、准v勅(ニ)施行(シ)、輔2翼帝業(ヲ)1、永(ク)寧(セヨ)2國家(ヲ)1、とあるは、鎌足公の内(ノ)大臣になずらへ給へるなり、(又同紀に、寶龜八年九月丙寅、内(ノ)大臣從二位勲四等藤原(ノ)朝臣良繼薨、云々、寶龜二年、自2中納言1、拜(サレ)2内臣(ニ)1、賜2職封一千戸(ヲ)1專v政(ヲ)得v志(ヲ)、升降自由、八年、任2内大臣(ニ)1、また寶龜九年三月丙子、内臣從二位藤原(ノ)魚名、改爲2忠臣1、十年正月壬寅朔、以2忠臣從二位藤原(ノ)朝臣魚名1、爲2内大臣(ト)1、なども見えたり、)〔頭注【大鏡裏書内大臣十二人事。(十一人)ナリ不審、中臣鎌子連藤原良繼同魚名同高藤同兼道同道隆同道兼同伊周同公季同頼通同教通、】〕大臣をオホマヘツキミ〔七字右○〕と申すことは此(ノ)下御製歌に物部乃大臣《モノヽフノオホマヘツキミ》とある是(レ)なり、麻弊都伎美《マヘツキミ》は景行天皇(ノ)紀に、到2筑紫後(ノ)國御木(ニ)1、居2於高田(ノ)行宮(ニ)1時有2僵樹1、長九百七十丈焉、百寮蹈2其樹(ヲ)1往來(ス)、時人歌(ヒテ)曰|阿佐志毛能瀰概能佐烏麼志魔弊菟耆瀰伊和多羅秀暮瀰開能佐烏麼志《アサシモノミケノサヲバシマヘツキミイワタラスモミケノサヲバシ》と見えて前津公《マヘツキミ》の義《ヨシ》なり、天皇の前に候《サムラ》ふ公てふことにて、近臣のことなり、(常に群臣をマチキムタチ〔六字右○〕と訓も、前津公等といふことなるを思ふべし、)又和名抄に、本朝式職員令(ニ)云、太政大臣(ハ)、於保萬豆利(106)古止乃於保萬豆岐美《オホマツリゴトノオホマツキミ》、左右大臣(ハ)於保伊萬宇智岐美《オホイマウチキミ》と見え、古今集などにも、大臣を於保伊麻宇智伎美《オホイマウチキミ》とある、この萬豆岐美《マツキミ》も、萬宇智岐美《マウチキミ》も、麻弊都伎美《マヘツキミ》の訛(リ)略(カ)り、はた後の音便に頽れなどしたるものなり、(和名抄に、侍從(ハ)於毛止比止萬知岐美《オモトヒトマチキミ》、とある萬智岐美《マチキミ》もおなじ、)藤原(ノ)朝臣は、書紀に、天武天皇三年に、八姓を分(チ)、十三年冬十月に、五十二氏に姓を朝臣と賜ふと見ゆ、藤原もその隨一なり、(但し鎌足(ノ)公在世のほどは、中臣(ノ)連なりしかど、凡て後よりさかのぼらせてしるせること上にいふが如くなれば、此にもかくあり、)さて皇極天皇(ノ)紀に三年正月乙亥朔、以2中臣(ノ)鎌子(ノ)連(ヲ)1拜《メス》2神祇伯《カムツカサノカミニ》1、再三固辭《シキリニイナビテ》不《ズ》v就《ツカヘマツラ》、稱《マヲシテ》v疾(ト)退(キ)2居《ハヘリ》三島《ミシマニ》1、于時輕(ノ)皇子、患脚《ミアシノヤマヒシテ》不《ズ》v朝《マヰデタマハ》、中臣(ノ)鎌子(ノ)連、曾《イムサキヨリ》善《ウルハシ》2於輕(ノ)皇子(ト)1、故|詣《マヰデヽ》2彼(ノ)宮(ニ)1、而將2侍宿(セムト)1、輕(ノ)皇子、深(ク)識(シメシ)2中臣(ノ)鎌子(ノ)連之|意氣高逸容止《コヽロバエスグレテカタチ》難(キヲ)1v犯(シ)、敬重《ヰヤマヒタマフコト》特異《コトナリ》、中臣(ノ)鎌子(ノ)連、便|感《カマケテ》v所《ルヽニ》v遇《メグマ》而|語《イヒ》2舍人(ニ)1曰《》、殊(ニ)奉(ルコト)2恩澤《》1過(タリ)2前(ニ)所(ニ)1v望(フ)、誰(カ)能|不《ザラム》使《シメ》v王《シラサ》2天(ノ)下(ヲ)耶、舍人便以所(ヲ)v語陳(ス)2於皇子(ニ)1、皇子|大《イタク》悦(タマフ)、中臣(ノ)鎌子(ノ)連爲v人忠正《タヾシクシテ》、有2匡濟《タヾシクスクフ》心1、乃憤(リテ)d蘇我(ノ)臣入鹿(カ)失2君臣長幼之序(ヲ)1、挾《サシハサムヲ》※[門/規]※[門/兪]《ウカヽフ》社稷《アメノシタヲ》1之|權《ハカリコトヲ》u、歴試《コヽロミニ》接(リ)2王宗《キムタチ》之中(ニ)1而求(ム)d可v立(ツ)2功名(ヲ)1哲主《サカシキキミヲ》u。便附2心(ヲ)於中大兄(ニ)1、云々、四年六月丁酉朔甲辰、遂(ニ)陳(フ)d欲v斬(ムト)2入鹿(ヲ)1之謀(ヲ)u。戊申、中臣(ノ)鎌子(ノ)連、知(テ)2蘇我之入鹿(ノ)臣(カ)爲v人多(テ)v疑、晝夜《ヒルヨルハ》持(クヲ)1v釼(ヲ)而而(テ)教2俳優《ワザヲヒニ》1、方便《タバカリテ》令v解(カ)云々、佐伯(ノ)連子麻呂、稚犬養(ノ)連綱田、斬(ツ)2入鹿(ノ)臣(ヲ)1。孝徳天皇(ノ)紀(ノ)初に、天豐財重日足姫(ノ)天皇、四年六月庚戌、天皇|思3欲《オモホシテ》傳《タマハムト》2位(ヲ)於中大兄(ニ)1、而詔曰、云々、中大兄、中大兄退(テ)語(リタマフ)2於中臣(ノ)鎌子(ノ)連(ニ)1、中臣(ノ)鎌子(ノ)連議(リテ)曰(ラク)、古人(ノ)大兄(ハ)殿下《キミ》之兄也、輕皇子(ハ)殿下《キミ》之舅也、且立(チ)v舅(ヲ)以答2民望(ニ)1、不《ズ》2亦可(カラ)1乎《ヤ》、云々、是《ノ)日以2大錦《ダイキムノ》冠(ヲ)1、(107)授2中臣(ノ)鎌子(ノ)連(ニ)爲2内(ツ)臣(ト)1、増(スコト)v封《ヘヒトヲ》若干戸、云々、中臣(ノ)鎌子(ノ)連、懷(キ)2至忠之誠(ヲ)1、據(テ)2宰臣之勢(ニ)1、處(リ)2官司《ツカサツカサ》之上(ニ)1、故(レ)進退廢置計《ハカリコト》從(テ)v事立、云々、白雉五年正月戊申朔壬子、以2紫(ノ)冠(ヲ)1、授2中臣(ノ)鎌足(ノ)連(ニ)1、増(スコト)v封《ヘヒトヲ》若干戸、天智天皇(ノ)紀に、三年十月乙亥朔戊寅、是日中臣(ノ)内(ツ)臣、云々、七年五月五日、天皇|縱2獵《ミカリシタマフ》於蒲生野(ニ)1、于手時|大皇弟《ヒツギノミコ》諸王《オホキミタチ》内(ツ)臣|及《マタ》群臣|皆悉從《ミナオホミトモツカヘマツレリ》焉、八年五月戊寅朔壬午、天皇縱2獵(シタマフ)於山科(ノ)野(ニ)1、大皇弟藤原(ノ)内大臣及群臣皆悉從焉、八月云々、是秋|霹2※[石+歴]《カムトキセリ》於《》藤原(ノ)内大臣(ノ)家(ニ)1、十月丙午朔乙卯、天皇幸(テ)2藤原(ノ)内大臣(ノ)家(ニ)1、親(ラ)問(タマヒテ)2所患《ヤマヒヲ》1、而|憂悴極甚《イタクウレヒマシキ》、乃詔曰、云々、庚申、天皇遣(テ)2東宮大皇弟《ヒツギノミコタチヲ》於藤原(ノ)内(ノ)大臣(ノ)家(ニ)1、授2大織《ダイシキノ》冠|與《ト》大臣《オホマヘツキミノ》位(トヲ)1、仍賜(テ)v姓(ヲ)爲2藤原(ノ)氏(ト)1、自v此|以後《ノチ》通《ナベテ》曰2藤原(ノ)大臣(ト)1辛酉、藤原(ノ)内(ノ)大臣薨、(碑《イシフミニ》曰、春秋五十有六而薨、)甲子、天皇幸2藤原(ノ)内(ノ)大臣(ノ)家(ニ)1、命(テ)2大錦上蘇我(ノ)赤兄(ノ)臣(ニ)1、奉《シム》2宣《ノラ》2恩詔《ミメグミノミコトヲ》1、仍(レ)賜2金《クガネノ》香鑪(ヲ)1、(甲子の上、十一月(ノ)三字脱たるなるべし、)續紀に、天平寶字元年閏八目壬戌、紫微(ノ)内相藤原(ノ)朝臣仲麻呂等言、云々、尋2古記(ヲ)1、淡海(ノ)大津(ノ)宮(ニ)御宇(シ)皇帝、云々、于時功田一百町、賜2臣(カ)曾祖藤原(ノ)内大臣1、褒勵壹匡、宇内之績、世々不v絶、傳(テ)至2于今1、云々、今有2山階寺維摩會1者、是内大臣之所起也、云々、伏願以2此功田(ヲ)1、永(ク)施2其寺(ニ)1、助2維摩會(ヲ)1、彌令2興隆(セ)1、云々、姓氏録左京神別に、藤原(ノ)朝臣(ハ)出v自2津速魂命三世(ノ)孫、天兒屋根(ノ)命1也、二十三世(ノ)孫、内(ノ)大臣大織(ノ)冠中臣(ノ)連鎌子、古記(ニ)曰、鎌足、云々、天命開別(ノ)天皇八年、賜2藤原氏(ヲ)1、男正一位贈太政大臣不比等、天渟中原瀛(ノ)眞人(ノ)天皇(ノ)十三年、賜2朝臣(ノ)姓(ヲ)1と見ゆ、さてかく官《ツカサ》氏《ウヂ》姓《カバネ》のみを擧て名を書さゞるは、すべて此(ノ)集には、大納言以上には名をかゝざる例なればな(108)り、三(ノ)卷に、大納言巨勢(ノ)朝臣、甘(ノ)卷に、大納言藤原(ノ)朝臣、又内相藤原(ノ)朝臣など有類多し、さて二(ノ)卷此(ノ)同(シ)代の標内《シメノウチ》に、此(ノ)卿を内大臣藤原(ノ)卿とあれば、こゝも卿とあるべきことかとも思はるれど、なほさにあらず、さるは十七に、天平十八年正月、云々、於時左大臣橘(ノ)卿、(諸兄公のこと、)云々、賜酒肆宴、勅曰、汝諸王卿等、聊賦2此(ノ)雪(ヲ)1、各奏2其(ノ)詞(ヲ)1、左大臣橘(ノ)宿禰應v詔(ヲ)歌、云々、十八に、太上皇御2在於難波(ノ)宮(ニ)1之時歌七首、左大臣橘(ノ)宿禰(ノ)歌、云々、右件(ノ)歌者、在2於左大臣橋(ノ)卿之宅(ニ)1、肆宴御歌、並奏歌也、十九に、天平勝寶四年十一月八日、在2於左大臣橘(ノ)朝臣(ノ)宅(ニ)1、肆宴歌四首、云々、右一首、左大臣橋(ノ)卿、(天平勝寶二年に、朝臣(ノ)姓を賜へるが故にかくあり、)かく一章の詞の中にすら、卿とも宿禰また朝臣とも交へ書れば、もとよりしか彼此《コナタカナタ》に書しなり、かくさまに同じ人を、卿とも朝臣また宿禰とも書る例猶多し、其は三(ノ)卷に、石上(ノ)乙麻呂(ノ)朝臣とあるを、六(ノ)卷には、石上(ノ)乙麻呂(ノ)卿、四卷に、大伴(ノ)宿奈麻呂(ノ)宿禰とあるを、又同卷に、大伴(ノ)宿奈麻呂(ノ)卿、二(ノ)卷に、大伴(ノ)宿禰(安麻呂(ノ)卿のことなり、)とあるを四(ノ)卷には、大伴(ノ)卿と書るなどなり、(なほこのたぐひいと多かれど、わづらはしければこと/”\くはいはず、今は一(ツ)二(ツ)を、採出ていふのみそ、然るを岡部氏(ノ)考に、こゝに藤原(ノ)朝臣とあるを、此(ノ)集の例にたがへりとして、藤原(ノ)卿と推て改めしは、中々の物ぞこなひなるわざそかし、)○この題詞の意は、内(ノ)大臣に勅して、春山の花のいろと、秋山のもみぢのにほひと、いづれまさると人々にあらそはしめ給ふ時、額田(ノ)王秋山のまされるよしを判斷《コトワラ》せ(109)給へる歌なり、こは拾遺集九(ノ)卷に、ある所に春秋いづれかまさると、とはせ給ひけるに作《ヨミ》て奉りける、紀(ノ)貫之、春秋に思亂れて別不得《ワキカネ》つ時《ヲリ》に就(ケ)つゝ移る心は、又元良(ノ)親王承香殿のとしこに、春秋いづれか増るとゝひ侍《ハベリ》ければ、秋そをかしう侍るといひければ、おもしりき櫻を、これはいかゞといひて侍りければ、大方の秋に心は寄しかど花見る時は何れともなし、題しらず、作者不知、春は唯花の一重に咲ばかり物の隣(レ)は秋そ勝れる、新古今集春上に、祐子内親王藤壺に住侍けるに、女はらうへひとなど、さるべきかぎり物がたりして、春秋のあはれいづれにか心ひくなど、あらそひ侍りけるに、人々おほく秋に心をよせ侍りければ菅原(ノ)孝標《タカスヱ》女、あさ緑花も一(ツ)に霞みつゝ朧に見ゆる春(ノ)夜の月、(更科日記には、春秋の事などいひて云云、いづれにか御心とゞまると問(フ)に、秋の夜に心をよせてこたへ給ふを、さのみおなじさまにはいはじとて、あさ緑云々とこたへたれば、か へす/”\うち誦して、さは秋の夜はおほしすてつるなゝりな、こよひより後の命のもしもあらば、さは春の夜をかたみとおもはむといふに、秋にこゝろよせたる人々は、皆春に心をよせつめり、これのみやみむ秋の夜の月、とあるにいみしう興じ思ひわづらひけるけしきにて、もろこしなどにも、むかしより春秋のさだめはえし侍らざなるを、このかうおぼしわかせ賜ひけむ御心ども、思ふにゆゑ侍らむかしとあり、)源氏物語薄雲に、はか/”\しきかたののぞみはさるものにて、年のうちゆきか(110)はる時々の花紅葉、空のけしきにつけても、心の行ことにし侍りにしかな、春の花のはやし、秋の野のさかりをなむ、むかしよりとり/”\に人あらそひ侍りける、そのころのげにと心よるばかり、あらはなるさだめこそ侍らざなれ、もろこしには、春の花の錦にしくものなしといひはべるめり、やまとことの葉には、秋のあはれをとりたてゝ思へる、いづれも時々につけて見給ふに目うつりて、得こそ花鳥の色をも音をもわきまへ侍らね、せばき垣根の内なりとも、そのをり/\の心見しるばかり、春の花の木をもうゑわたし、秋の草をもほりうつして、いたづらなる野邊の蟲をもすませて、人に御覽ぜさせむと思給ふるを、いづかたにか御心よせ侍るべからむときこえ給ふに、いと聞えにくきことゝおほせど、むげにたえて、御いらへきこえざらむもうたてあれば、ましていかゞ思ひわき侍らむ、げにいつとなきなかに、あやしときゝしゆふべこそ、はかなうきえ給ひにし露のよすがにも、思たまへられぬぺけれと、しどけなげにの給ひけつも、いとらうたげなるに、えしの二び給はで、きみもさは哀をかはせ人しれず吾(カ)身にしむる秋の夕風、野分に、春秋のあらそひに、昔より秋に心よする人はかずまさりけるを、若菜に、女は春をあはれむと、ふるき人のいひおき侍りける、げにさなむ侍りける、なつかしくものゝとゝのほることは、春の夕暮こそことに侍りけれと申給へは、いなこのさだめよ、いにしへより人のわきかねたることを、末の世にくだれる人の、え(111)あきらめはつまじくこそ云々、(契沖代匠記に、彼(ノ)源氏物語抄に、樹下集を引て云、しかのとよぬし、大伴(ノ)くりぬしらが論議の歌、豐主とふ、おもしろのめでたきことをくらぶるに春と秋とはいづれまされる、くろぬしこたふ、春はたゞ花こそはちれ野邊ごとににしきをはれる秋は増れり、又謙徳公いまだ宰相中將のとき、應和三年七月二日、かのきんだち秋春の歌合のことあり、秋のかたより、花もみつもみぢをもみつ蟲の音も聲々おほく秋ぞ増れる、一條禅閤(ノ)小夜のねざめに云、唐國にはおほく春を愛し、我國の人は昔より秋に心をよするなるべし、されば光源氏も、我身にしむる秋の夕風とながめ給へり、萬葉集より代々の歌にも、此二(ツ)のあらそひ、未(タ)いづれと、定がたし、霞める空に花鳥のいまめかしう色なることは、わかき時のほこらしき心なれば、秋のうれへのみぞ、老の夕はげに忍がたく侍る、)などある類にて、古昔より春秋をあらそふことありと見えたる、今の判歌をぞ、そのはじめとはいふべき、
 
16 冬木成《フユコモリ》。春去來者《ハルサリクレバ》。不喧有之《ナカザリシ》。鳥毛來鳴奴《トリモキナキヌ》。不開有之《サカザリシ》。花毛佐家禮杼《ハナモサケレド》。山乎茂《ヤマヲシミ》。入而毛不取《イリテモキカズ》。草深《クサフカミ》。執手母不見《トリテモミズ》。秋山乃《アキヤマノ》。木葉乎見而者《コノハヲミテハ》。黄葉乎婆《モミツヲバ》。取而曾思努布《トリテソシヌフ》。青乎者《アヲキヲバ》。置而曾歎久《オキテソナゲク》。曾許之恨之《ソコシタヌメシ》。秋山吾者《アキヤマアレハ》。
 
冬木成《フユコモリ》、成(ノ)字は盛の皿の畫を省きて書るにや、集中悉(ク)冬木成と書れば誤字にはあらじ、と高橋(ノ)正元云りき、此(ノ)説によるべし、おほよそ字畫を省くは、漢國《モロコシ》の書どもに、韵を※[韵の旁]と書(キ) 、掃を帚(112)とかき、蛇を它と書たぐひ、いと多有《オホカル》に本《ヨリ》て、(但しかしこのは、古文に畫を加《ソヘ》もし、省《ノケ》もしたるを、)御國にも古(ヘ)より便宜にまかせて、畫を、省きて作《カケ》りとおもはれて、古書等に健を建とかき、※[虫+呉]蚣を呉公と作(キ)弦を玄と作、(此等古事記に見ゆ、)村を寸と作、(石寸《イハレ》、寸主《スクリ》の類、古事記書紀延喜式等に見ゆ、)醜を鬼と作、枳を只とかき、伎を支と作(キ)、倭を委とかき、(委文《シヅリ》大委《オホヤマトノ》國の類、)波を皮とかき、倍を※[倍の旁]とかき、趾を止とかき、(これら古事記靈異記集中等に見ゆ、)逸を免と作(ケ)るたぐひ(橘(ノ)免勢と作ること性靈集に見ゆ、)なほいと多し、(等由氣宮儀式帳に、衣若干令、袴若干要など多くかけるも、領腰の省畫なり、又元亨釋書に、境を竟と作り、みな省畫なり、)かくてこの一句は、春といはむ料の枕詞にて、集中にいと多し、さて木成《コモリ》、隱《コモリ》など書たるは共に借(リ)字にて、生氣萠《フユケモリ》と云なるべし、フユ〔二字右○〕は恩頼《ミタマノフユ》など云フユ〔二字右○〕にて、物の利生ずるを云言なるべし、釼(ノ)名に、本つるぎ未ふゆと云が、古事記(ノ)歌に見えたるも、フユ〔二字右○〕は一(ツ)物を切(リ)て數々にふやす謂《ヨシ》の名にて、今のフユ〔二字右○〕と同言と見ゆ、氣《ケ》は音の親く通ふまゝに古《コ》と轉《ウツ》し云り、モリ〔二字右○〕は物の初(メ)て萠すをいふ言なり、霍公鳥の初音をもらすなどいふ、其(ノ)意なるべし、さて春に至れば、萬(ノ)物の生氣《フユケ》を萠《モラ》すゆゑに、この枕詞は有なるぺし、(岡部氏(ノ)考(ノ)説に、冬は萬(ノ)物に隱りて、春を得てはり出るより、此(ノ)詞はありと云るは、人皆|然《サ》思ふことなれど、例の理めきたる説にて古意にあらず、但し古今集貫之(ノ)歌に、冬隱り思ひかけぬを木の間より花と見るまで雪ぞ降けると見えて、その頃より(113)後は、冬の氣の内に隱《コモ》る意にとりて多くよめり、此は彼(ノ)宇都世美《ウツセミ》てふ言を、蝉(ノ)脱《モヌケ》のことゝおもひてよめると、同日の談にて、古(ヘ)にいへるとは、表裏の違(ヒ)有(ル)ことにそありける、抑々後(ノ)集の比に下りては、世(ノ)中の諸々の事のやゝ轉變《ウツロヘ》るにつれて、古語の本意を失へることゞも少なからねば、ゆめ後をもて古(ヘ)の證とすることなかれ、又荒木田(ノ)久老(ノ)説に、フユキナス〔五字右○〕と訓て、古事記(ノ)歌に、布由紀能須加良賀志多紀《フユキノスカラガシタキ》とあるは、冬木成枯之下木《フユキナスカラガシタキ》なるべし、さらば同義とすべし、さて春につゞくは、冬木の晴《ハル》といふ意に係れるまくら辭なるべし、と云るはおもしろくはきこゆれども、七(ノ)卷に冬隱春乃大野乎《フユコモリハルノオホヌヲ》、十(ノ)卷に、冬隱春去來之《フユコモリハルサリクラシ》、又|冬隱春開花《フユコモリハルサクハナ》などあるは、眞純《モハラ》ひとしきつゞけ樣なれば、猶冬木成は、フユコモリ〔五字右○〕とよむべきこと決《ウツナ》ければ、この説は從かたくなむ)さてしからば、布由許母留《フユコモル》とこそいふべきを、理(リ)としも云るは、いひ絶《キリ》て次を歌ふ語の一(ツ)の體にて、安見斯志大皇《ヤスミシヽオホキミ》、鯨魚等利海《イサナトリウミ》、とつゞくると同(シ)格なり、○春去來者《ハルサリクレバ》は、春になればといふ意なり、凡て春されば、秋されば、朝されば、夕さればなど云は、春し有(レ)ば、秋し有(レ)ば、朝し有(レ)ば、夕し有(レ)レ》ばてふ辭の切(マ)りたるにて、(シア〔二字右○〕の切サ〔右○〕となれり、十(ノ)卷に、春去爾來《ハルサリニケリ》とあるも、春し有にけりの意なり、)四(ノ)卷、十二、十七などに、阿里佐利底《アリサリテ》と云る詞のあるも、有し有てといふ詞の切(マ)りたるにて、同じ例と聞ゆるが中に、廿(ノ)卷に、於保伎美能美許等爾作例波《オホキミノミコトニサレバ》云々、(神樂歌に、いなのほのもろほにされば、)とよめるそ、正《マサ》しく之阿例婆《シアレバ》といふべきを切めて、佐例婆《サレバ》とい(114)へる例とは聞えたる、しかれば集中に、春去者《ハルサレバ》、春避者《ハルサレバ》など書るは皆借(リ)字にて、春之在者《ハルサレバ》と書るそ實なりける、(十(ノ)卷に、春之在者妻乎求等《ハルサレバツマヲモトムト》云々、また春之在者伯勞鳥之草具吉《ハルサレバモズノクサグキ》云々、また春之在者酢輕成野之《ハルサレバスガルナスヌノ》云々などあり、しかるを去を字(ノ)意と心得て、時々刻々わが眼(ノ)前を去(リ)ゆくが故そ、と思ふは後(ノ)の世心なり、)さて之在者《シアレパ》と伸るときは、その之《シ》は例の力(ラ)ある助辭なれば、たしかにその時になりたるよしを、一(ト)すぢにおもくおもはせたる意を含めり、○不喧有之《ナカザリシ》は、冬は鳴ず有しなり、冬よりまちしこゝろ此(ノ)詞にこもれり○鳥毛來鳴奴《トリモキナキヌ》とは、奴《ヌ》は己成《オチヰ》の奴にて、冬は鳴ず有し鳥もやはく來鳴て、春の憐むべき時になりぬるをいふ、○不開有之《サカザリシ》は、冬は開ず有しなり、上の不喧有之に同じ、○花毛佐家禮杼《ハナモサケレド》は、花も咲て有(レ)どもといふなり、花も咲て有(リ)雖v然といふが如し、禮《レ》の言に心を付べし、(たゞさけどゝ輕くいふには少《イサヽ》かたがへり、)上の奴の辭にてらしておもふべし、はやく鳥も來鳴てあり、花も咲て有、しかれどもといふなり、以上六句は、春の方人の、春のすぐれて賞《メデ》たきことをいひたつるを、とがめたる意なり、以下四句は、秋の方人、秋のまされるよしをいはむとて、春をいひおとすなり、さてかく春をいひおとさむとて、雖《ド》といひたるなり、○山乎茂《ヤマヲシミ》は、山が茂さにの意なり、(岡部氏(ノ)考も略解もわろし、)茂は木の茂きをいふ、山に入て鳥(ノ)音を聞むとすれど、木茂くて聞て賞《メデ》がたきを云、○入而毛不取は、高橋(ノ)正元云、略解に、取は見(ノ)字の誤にて、ミズ〔二字右○〕ならむかといへれども、不喧有(115)之鳥毛來鳴奴《ナカザリシトリモキナキヌ》と有に對《ムカ》へ見れば、取は聞(ノ)字の誤にて、キカズ〔三字右○〕なるべしといへり、大神(ノ)景井云、取は聽(ノ)字の誤なるべし、※[聽の草書]と※[取の草書]と草書よく似たりといへり、是然るべし、こは鳥毛來鳴奴《トリモキナキヌ》といふに對へていへり○草深《クサフカミ》は、草が深さにの意なり、上に木の茂をいへるにむかへて云り、花を折とらむとすれど、草深くてとり得がたきを云、○執手母不見は、トリテモミズ〔六字右○〕と訓べし、(略解にタヲリテモミズ〔七字右○〕とよめるは、強たりといふべし、タヲリ〔三字右○〕とよむべきならば、集の例執とは書ぬことそ、)こは花毛佐家禮杼《ハナモサケレド》、といへるに對へていへり、以上春山はさま/”\あはれなれど、なほその春のあかぬ所あるをよみたまへるなり、次以下は、秋山の事にうつるなり○黄葉乎婆はモミツヲバ〔五字右○〕と訓べし、毛美《モミ》は色の緋《アカ》きを※[手偏+總の旁]いふ稱《ナ》なり、さて毛美知《モミチ》、毛美都《モミツ》といふ知《チ》都《ツ》の辭は清べし、(例は古言清濁考に委し、)さてその知《チ》都《ツ》の辭は、その緋くなる貌をいふ語なり、瀧《タキ》を多藝知《タギチ》、多藝都《タギツ》、また濕《ヒヅ》を比豆知《ヒヅチ》、比豆都《ヒヅツ》といふに同じ概《オ》して曉べし、(岡部氏(ノ)考に、黄葉《モミヅ》は赤出《モミイヅル》の略語として、言痛きまであげつらへれども強説なり、その意にしては、清濁のたがひさへあるをや、知《チ》都《ツ》はその形貌をいふ語なれば、必(ズ)清むべき理なるを、濁りてのみ唱るは後(ノ)世の語なり、)乎婆《ヲバ》は、其(ノ)物をとりあげえらびて云辭なり、さらぬをばいかにもせむと委《ユダ》ね任《マカ》する意あり、○取而曾思奴布《トリテソシヌフ》は、折取てそ賞愛《メデウツクシ》むと云意なり、春山はさま/”\あはれなれど、なほあかぬ所ありて心ゆかざりしを、黄葉の頃は、草木もかれて入(リ)やすくて、心(116)のまゝに錦と見ゆる枝を折(リ)取(リ)て、愛翫《モテアソ》ぶとなり、(略解に、思奴布《シヌフ》は慕ふ意なり、と云るは例のおろそかなり、)そも/\思奴布《シヌフ》てふ辭は、古言にくさ/”\に用ひたれば、其(ノ)ところによりて其(ノ)意もかはれり、其(ノ)中に戀慕ふ意なると、賞愛む意なると、堪忍る意なると、密隱るゝ意なると、四種の異あることは、はやく此(ノ)上に辨へたり、こゝは賞愛《メデウツクシ》むを云るなり、其(ノ)例は七(ノ)卷に、墨吉之岸爾家欲得奧爾邊爾縁白浪見乍將思《スミノエノキシニイヘモガオキニヘニヨスルシラナミミツヽシヌハム》、十七に、布勢能宇美能意枳都之良奈美安利我欲比伊夜登偲能波爾見都追思努播牟《フセノウミノオキツシラナミアリガヨヒイヤトシノハニミツヽシヌハム》、又|曾己乎之毛安夜爾登母志美之怒比都追安蘇夫佐香理乎《ソコヲシモアヤニトモシミシヌヒツヽアソブサカリヲ》云々、十八に、百鳥能來居弖奈久許惠春佐禮婆伎吉能可奈之母伊豆禮乎可和枳弖之努波無《モヽトリノキヰテナクコヱハルサレバキヾノカナシモイヅレヲカワキテシヌハム》云々、又|由具敝奈久安里和多流登毛保等登藝須奈枳之和多良婆可久夜思努波牟《ユクヘナクアリワタルトモホトヽギスナキシワタラバカクヤシヌハム》、十九に、耳爾聞眼爾視其等爾宇知歎之奈要宇良夫禮之努比都追有爭波之爾《ミヽニキヽメニミルゴトニウチナゲキシナエウラブレシヌヒツヽアリクルハシニ》云々、又|毎年爾來喧毛能由惠霍公鳥聞婆之努波久不相日乎於保美《トシノハニキナクモノユヱホトヽギスキケバシヌハクアハヌヒヲオホミ》、又|霍公鳥《ホトヽキス》云々、里響鳴渡禮騰母尚之奴波由《サトトヨミナキワタレドモナホシシヌハユ》、又|安里我欲比見都追思努波米此布勢能海乎《アリガヨヒミツヽシヌハメコノフセノウミヲ》、廿(ノ)卷に、八千種爾久佐奇乎宇惠弖等伎其等爾左加牟波奈乎之見都追思努波奈《ヤチクサニクサキヲウヱテトキゴトニサカムハナヲシミツヽシヌハナ》、又|安治佐爲能夜敝佐久其等久夜都與爾乎伊麻世和我勢故美都々思努波牟《アヂサヰノヤヘサクゴトクヤツヨニヲイマセワガセコミツヽシヌハム》、これら皆眼(ノ)前に賞愛むをいへるなり、また許布流《コフル》といふ言も、常(ネ)には彼處のものを此處にて戀慕ふを云(ヘ)ど、三(ノ)卷に、石竹之其花爾毛我朝旦手取持而不戀日將無《ナデシコノソノハナニモガアサナサナテニトリモチテコヒヌヒナケム》、とある類は眼(ノ)前に賞るをいひて、今の之奴布《シヌフ》と意ばえ同じ、なほ許布流《コフル》てふ言の事は下にい(117)ふべし、この差別《ケヂメ》あることを辨《ワキタ》め置ずしては、まどふことありて、つひに古言の意を解得ること難しかし、(また岡部氏(ノ)考に、古歌に、花などに對ひてをしと思ふと云は、散を惜むにはあらで、見る/\愛る事なると意同じ、といへるはよしなし、古(ヘ)したふ辭は、惜む意にのみ云て、愛る意に云るはかつてなかりしことそかし、欽明天皇(ノ)紀に、闘將問2河邊(ノ)臣(ニ)1曰、汝(ノ)命(ヲ)與v婦|孰與尤愛《イヅレカハナハダヲシキ》とあるも、訓のうへにていはゞ、ヲシキ〔三字右○〕は愛(ノ)字の意にはあらで、惜《ヲシキ》の意なり、混《マド》ふことなかれ、既く上にもいへり、)○青乎婆《アヲキヲバ》は、未(タ)黄葉せぬをいふ、○置而曾歎久《オキテソナゲク》とは、枝におきて、折もとらずしてそ歎くといふなり、歎くとは、もと長息《ナガイキ》の約れる詞にて、歡《ウレ》しき事にも悲しき事にも、其(ノ)時にあたりて長息をつくをいふ、此はその既く黄葉したるをば折とりて賞愛《メデウツクシ》み、いまだ黄葉せぬをばそのまゝにおきて、もみちしてあらば折とらむと、黄葉せむ時を待てなげくなり○曾許之恨《ソコシタノシ》、曾許《ソコ》とは上の四句をさす、之は例のその一(ト)すぢなるよしを重く思はする助辭なり、恨は、怜(ノ)字の誤そと本居氏云り、かくてオモシロシ〔五字右○〕とよまれたれども、タヌシ〔三字右○〕とよまむそ此處には照應《カナヒ》たる、そは三(ノ)卷讃(ル)v酒歌に、世間之遊道爾怜者《ヨノナカノアソビノミチニタヌシキハ》(怜舊本に冷に誤る、)醉哭爲爾可有良師《ヱヒナキスルニアリヌベカラシ》、とある怜をタヌシ〔三字右○〕とよめるに同じ○秋山我吾者《アキヤマアレハ》、(山の下、官本六條本等には曾(ノ)字あり、)秋山をば春山よりもまさりて、吾はあはれと思ふそとのこゝろなり、これにてまさしく、秋のまされるよしを判《コトワ》り定めたるなり、曾(ノ)字ある本等に從(フ)は、※[立心偏+可]怜國曾《ウマシクニソ》の曾に(118)同じ、吾は秋山があはれなるそとの意なり、○歌(ノ)意は春山のかたもさま/”\をかしくはあれど、うら枯る秋は山に入やすければ、吾は秋山の黄葉に心ひかるゝそと、たをやめの情をもてことわり給へるなり、
 
額田王《ヌカタノオホキミノ》。下《クダリタマヘル》2近江國《アフミノクニヽ》1時作歌《トキヨミタマヘルウタ》。
 
額田(ノ)王云々は、天智天皇(ノ)の紀に、六年三月辛酉朔己卯、遷2都(ヲ)于近江(ニ)1とあれど、それよりは前にゆゑありて近江(ノ)國に下りたまへるほとのことなるべし、作歌の下、舊本に井戸王即和歌の六字あり、そは例にたがへれば今改めて、下の綜麻形の云々の歌の上に收《イレ》つ、
 
17 味酒《ウマサケ》。三輪乃山《ミワノヤマ》。青丹吉《アヲニヨシ》。奈良能山乃《ナラノヤマノ》。山際《ヤマノマユ》。伊隱萬代《イカクルマテ》。道隈《ミチノクマ》。伊積流萬代爾《イツモルマテニ》。委曲毛《ツバラカニ》。見管行武雄《ミツヽユカムヲ》。數數毛《シバシバモ》。見放武八萬雄《ミサカムヤマヲ》。情無《コヽロナク》。雲乃《クモノ》。隱障倍之也《カクサフベシヤ》。
 
味酒《ウマサケ》は、枕詞なり、崇神天皇(ノ)紀(ノ)歌に、宇磨佐開瀰和能等能能《ウマサケミワノトノノ》云々、此(ノ)集四(ノ)卷に、味酒呼三輪之祝我《ウマサケヲミワノハフリガ》云々などあり、味は味美《ウマ》しと賛る辭なり、酒と云名の意は、佐加延《サカエ》の切《ツヾマ》れるにて、(カエ〔二字右○〕の切ケ〔右○〕)是を飲めば、心意《コヽロ》も面色《カホ》も榮ゆる謂《ヨシ》なりと云り、さて三輪とつゞくる意は、供神酒《カミニソナフルサケ》を美和《ミワ》といふより、美酒之神酒《ウマサケノミワ》てふ意に、かくはつゞけたり、神酒を美和《ミワ》といへるは、書紀崇神天皇(ノ)卷、舒明天皇(ノ)卷に、神酒《ミワ》、和名抄に、日本紀私記云、神酒、和語(ニ)云|美和《ミウ》、集中二(ノ)卷に、穀澤之神社爾三輪須惠雖?祈《ナキサハノモリニミワスヱノマメドモ》、十三に五十串立神酒座奉神主部之《イクシタテミワスヱマツルカムヌシノ》、土佐(ノ)國風土記に、神河訓2三輪河(ト)1、源出2北山之(119)中(ヨリ)1屆(レリ)2于伊與國(ニ)1水清(キカ)故(ニ)爲2大神1釀(ニ)v酒(ヲ)也用(ヒキ)1此河(ノ)水(ヲ)1、故(レ)爲2河(ノ)名(ト)1(神酒河《ミワガハ》の義行なり、)などあり、(冠辭考の説の非なるよしをつみ出て、こゝにいはむとす、まづ十三に、味酒乎神名火山之《ウマサケヲカミナビヤマノ》、四(ノ)卷に味酒呼三輪《ウマサケヲミワ》など酒乎《サケヲ》とて、かみなびとつゞけしからは、美酒《ウマサケ》を釀《カミ》といひかけしにて、その釀《カミ》を略きて、三輪《ミワ》三室《ミムロ》などの三《ミ》の語にもつゞけしなりとあるは、味酒乎《ウマサケヲ》とある乎《ヲ》の辭にいたく泥めるものなり、そも/\之《ノ》といふべきを乎《ヲ》と通はし云るは、處女等之袖振山《ヲトメラガソデフルヤマ》を、處女等乎袖振山《ヲトメラヲソデフルヤマ》ともよめる類にて、猶そのことは下につばらかにいふべきを考(ヘ)見ば、明らかなるべし、それは然《サ》て措(キ)、釀《カミ》を略きて三《ミ》とつゞけしとはいかに、釀《カミ》のミ〔右○〕の言はカマム〔三字右○〕》、カミ〔二字右○〕、カム〔二字右○〕、カメル〔三字右○〕など、麻美牟米《マミムメ》の活轉にて、ミ〔右○〕の言はいと輕く、カ〔右○〕の言そ體にて重ければ、美酒乎可《ウマサケヲカ》某といへらむ時は、釀《カミ》とつゞけしともいひてむを、いかで可《カ》を略きて、美《ミ》の言にのみはいひかくることのあらむ、猶云(ハ)ば、玉匣《タマクシゲ》開《アキ》といふ意に、玉匣《タマクシゲ》惡木《アシキ》とはいへども、玉匣《タマクシゲ》伎《キ》とはつゞけられぬ理(リ)なるをも思合(ス)べし、味酒乎神名火《ウマサケヲカムナヒ》、味酒三室《ウマサケミムロ》とかゝるよしの考は下にいふべし、)○三輪乃山《ミワノヤマ》、こは三輪の山は、つばらかに見乍《ミツヽ》行むものなるを、しば/\も見さかむ山なるものをとかかりたれば、必(ス)三輪の山といひきるべき處なり、(略解に、三輪乃山乎《ミワノヤマヲ》と乎《ヲ》の辭ををへて見べし、と云るはいみじきひがごとなり、乎《ヲ》の語ををへては首尾《シリクチ》調はず、)さて三輪の名の由縁《ヨシ》は、古事記中卷崇神天皇(ノ)條に、活玉依毘賣《イクタマヨリビメ》、云々、答(ヘ)曰《ケラク》、有2麗美《ウルハシキ》壯夫1、不(カ)v知2其(ノ)姓名《ナヲ》1、毎夕到來《ヨゴトニキテ》、供住之間《スメルホドニ》、(120)自然懷姙《オノヅカラハラミヌト云》、是以其(ノ)父母、欲(テ)v知(マク)2其(ノ)人(ヲ)1、誨(ヘテ)2其女(ニ)1曰、以《ヲ》2赤土《ハニ》1散(シ)2床前《トコノベニ》2以《ヲ》2閇蘇紡麻《ヘソヲ》1、貫(テ)v針(ニ)刺(セト云)2其衣(ノ)襴《スソニ》1、故(レ)如(シ)v教(ヘシ)而(テ)旦時見者《アシタニミレバ》、所《タリシ》v著v針|麻者《ヲハ》自2戸之|鈎穴《カギアナ》1、控通《ヒキトホリ》而|出《デヽ》、唯遺(レル)麻《ヲ》者、三勾耳《ミワノミナリキ》、爾《カレ》即(チ)知d自2鈎穴1出之状(ヲ)u而|從《マニ/\》v糸(ノ)尋|行者(シカバ)、至2美和山(ニ)1而、留(マリキ)2神(ノ)社(ニ)1、云々故(レ)因2其(ノ)麻(ノ)之三勾遺(レルニ)1而、名(テ)2其地《ソコ》1謂(ル)2美和《ミワトソ》1也、と見えたるがごとし、さて飛鳥(ノ)岡本(ノ)宮より三輪へ二里ばかり、三輪より奈良へ四里餘ありて、その間たひらかなれば、奈良坂こゆる程までは、三輪山は見ゆるとそ○青丹吉《アヲニヨシ》は、枕詞なり、集中に甚多し、(丹吉は借(リ)字、)青土黏《アヲニネヤ》しといふ意なり、青土は賦役令に、青土《アヲニ》一合五勺、内匠寮式に、大寒(ノ)日、立2諸門1土偶人十二枚、土牛十二頭料(ノ)青《アヲニ》土二升、云々常陸(ノ)國風土記久慈(ノ)郡(ノ)條に、河内(ノ)里、云々、所有土色《ソコニアルニノイロ》如2青紺(ノ)1、用(ニ)v畫《ヱカクニ》麗之《ウルハシ》俗《ヨニ》云《イヒ》2阿乎爾《アヲニト》1、或《アルハ》云《イフ》2加支川爾《カキツニト》1と見えたり、阿乎爾《アヲニ》は即(チ)青土なり、(加支州爾《カキツニ》は、畫著土《カキツニ》なるべし、)爾《ニ》は土の※[手偏+總の旁]名にて、赤土《アカニ》、白土《シラニ》、赭《ソホ》、埴《ハニ》、又|八百土《ヤホニ》、また初土《ハツニ》、中土《ナカツニ》、極土《シハニ》(古事記應神天皇(ノ)御歌に見ゆ、)などもいへり、なほ青土は後にも源氏物語に、あをにゝ柳のかざみ、うつほの物語に、春日(ノ)祭の下づかへは、あをにゝ柳がさねきたり、(即(チ)青土《アヲニ》の義なり、東鑑に、紺|青丹《アヲニ》打(ノ)水干袴、又紺青丹(ノ)打上なども見えたり、)黏は、字鏡に、※[手偏+延](ハ)謂作2泥物(ヲ)1也、禰也須《ネヤス》とあり、さて土黏《ニネヤシ》の爾禰《ニネ》を切《ツヾ》めて爾《ニ》といひ、也《ヤ》を余《ヨ》に通《カヨハ》して阿乎爾余志《アヲニヨシ》とはいへるなり、神武天皇(ノ)紀に、天皇|前年秋九月《イニシトシノナガツキ》、潜2取《ヒソカニトリテ》天香山之埴土《アメノカグヤマノハニヲ》1、以(テ)造《ツクリ》2八十平瓮《ヤソヒラガヲ》1、云々、故|號《ヲ》2取《トリシ》v土《ハニヲ》處《トコロ》1曰《ナヅケキ》2埴安《ハニヤスト》1とあるも、埴黏《ハニネヤス》といふ由《ヨシ》なるをも思ひ合すべし、又|夜《ヤ》を余《ヨ》と通《カヨ》ふは、愛夜志《ハシキヤシ》とも、愛余志《ハシキヨシ》とも云類にて、常のことなり、(既く(121)上にも夜《ヤ》と余《ヨ》と通し云へる例を擧て云つ、)さて袖中抄に、奈良坂に昔は青(キ)土のありけるなり、それを取て繪かく丹につかひけるに、よかりけるなりといへるは、所据《ヨリドコロ》ありて云るものとこそおもはるれ、かゝれば、古(ヘ)奈良山には多く青土《アヲニ》有(リ)て、名産に《トコロノメデタキモノ》にそありけむ、(今も畫家に、奈良緑青とて用ふるものあるよしなり、但し今|緑青《ロクシヤウ》といふものは、土にはあらねど、自然《オノヅカラ》の土氣にて、後までも奈良にはよき緑青《ロクシヤウ》出るなるべし、十三に、緑青吉《アヲニヨシ》とかき、醫心方に、緑青、和名|安乎仁《アヲニ》とあるを見れば、ふるく緑青とかけるは即(チ)青土《アヲニ》にて、其は令抄に、青土者破v石(ヲ)取2其中(ニ)1也、2彩色(ニ)1也とあれば、銅より取るは後にて、もとは石中より、取しと見ゆ、さて齋院式に、畫2祭日(ノ)服并陪從女衣裳1料云々緑青三斤十三兩、とある緑青も其(レ)なるべし、)かくて眉畫《マヨカキ》繪畫《ヱカク》には、青土を黏《ネヤ》して用ふるゆゑに、其|青土《アヲニ》を黏《ネヤ》す奈良とはつゞけしなるべし、さてしからば、阿乎爾余須《アヲニヨス》とこそいふべきを、志《シ》としも云るは、いひ絶《キリ》て次を歌ふ語の一(ツ)の體にて、鯨魚等利《イサナトリ》海《ウミ》、安見斯志《ヤスミシヽ》大皇《オホキミ》とつゞくると同格なりけり、(この枕辭、すべて古來詳なる説なし、冠辭考の説の非《ヒガコト》なるよしは、前輩《ハヤクノヒトゞモ》も皆よく知て信用《ウケガハ》ぬことなれば、今ことさらにはいはず、古事記(ノ)傳に、崇神天皇の御世の故事によりて青土《アヲニ》を※[足+滴の旁]※[足+且]《フミナラ》せし地《トコロ》と云意につゞくよし云るも當らず、かの崇神天皇(ノ)紀には、※[足+滴の旁]2※[足+且]《フミナラス》草木《クサキヲ1と見えて、次に引るがごとくなるをや土を※[足+滴の旁]※[足+且]《フミナラ》せしよしにはあらず、然云(ハ)ば※[足+滴の旁]2※[足+且]草木(ヲ)1とあるは漢文にて、元《モト》は土をふみ平《ナラ》せしよしにてありしとも(122)いはむか、されど土をふみ平すは、宮《ミヤ》家《イヘ》を建《タテ》む料《タメ》の地《トコロ》などならばこそさもあらめ、唯に御軍士の屯聚《イハミ》たらむには、土を※[足+滴の旁]※[足+且]《フミナラ》さむこと何の由そや、しかればいよ/\草木ならでは似つかはしからぬをや、又荒木田(ノ)久老が、青丹吉は、阿那邇夜斯《アナニヤシ》と同言なり、と云るもたがへり、)○奈良能山《ナラノヤマ》は、大和(ノ)國添上(ノ)郡|那良《ナラ》より、山城(ノ)國相樂(ノ)郡へ越(ユ)る道にて、いはゆる那良坂是なり、この下に、青丹吉平山越而《アヲニヨシナラヤマコエテ》、三(ノ)卷に、佐保過而寧樂乃手祭爾置幣者《サホスギテナラノタムケニオクヌサハ》、(手祭は、借(リ)字のみにて今いふ峠《タウゲ》なり、)十三に、緑青吉平山過而《アヲニヨシナラヤマスギテ》、又|雖見不飽楢山越而《ミレドアカヌナラヤマコエテ》、十六に、奈良山乃兒手柏之《ナラヤマノコノテカシハノ》、十七に、青丹余之奈良夜麻《アヲニヨシナラヤマ》須疑底泉川《スギテイヅミカハ》などあり、名の由縁は、書紀崇神天皇(ノ)卷に、復遣2大彦與(ヲ)2和珥(ノ)臣(ノ)遠祖彦國|葺《フク》1、向《オモムキテ》2山背(ニ)1撃2埴安彦(ヲ)1、爰以2忌※[分/瓦]《イムヘ》1、鎭2坐《スウ》於和珥(ノ)武※[金+躁の旁]《タケスキ》坂(ノ)上(ニ)1、則率(テ)2精兵《トキイクサ》1進(テ)登(リ)2那羅山(ニ)1、而|軍之《イクサダテス》、時(ニ)官軍《イクサ》屯聚《イハミテ》而|※[足+滴の旁]2※[足+且]《フミナラシキ》草木(ヲ)1由《ヨリテ》v此《コレニ》號(テ)2其山《ヲ》1、曰2那羅山(ト)1、(※[足+滴の旁]※[足+且]、此云2布瀰那羅須《フミラスト》1、)とあるがごとし、○山際、岡部氏が、際の下從(ノ)字を脱せるか、と云るは實に然有《サル》ことなり、然らばヤマノマユ〔五字右○〕と訓べし、山際《ヤマノマ》は、十(ノ)の卷に足日木之山間照櫻花《アシヒキノヤマノマテラスサクラバナ》云々、とあるが如し、なほ際(ノ)字をマ〔右○〕と訓るは、二(ノ)卷に、木際從《コノマヨリ》、三(ノ)卷に、山際爾伊佐夜歴雲者《ヤマノマニイサヨフクモハ》、又|山際從出雲兒等者《ヤマノマヨリイヅモノコラハ》、又|山際往過奴禮婆《ヤマノマヲユキスギヌレバ》、六(ノ)卷に、象山際乃《キサヤマノマノ》、又|島際從《シマノマヨ》、又|鹿脊山際爾《カセヤマノマニ》、七(ノ)卷に、山際爾《ヤマノマニ》、八(ノ)卷に、山際遠木末乃《ヤマノマノトホキコヌレノ》、十(ノ)卷に、山際爾?喧而《ヤマノマニウグヒスナキテ》、又|山際爾雪者零管《ヤマノマニユキハフリツヽ》、又|山際之雪不消乎《ヤマノマノユキハケザルヲ》、又|山際最木末之《ヤマノマノトホキコヌレノ》、十七に、木際多知久吉《コノマタチクキ》などあり、(際は、玉篇に接|也《ナリ》壁會|也《ナリ》方|也《ナリ》合|也《ナリ》とあり、)續紀廿九に、文部(ノ)山際《ヤマノマ》といふ人(ノ)名もあり、(さきには四(ノ)卷に、山羽《ヤマノハ》、六(ノ)卷に、(123)山之葉《ヤマノハ》、また十一、十六に、山葉《ヤマノハ》、十五に、山乃波《ヤマノハ》とあるによりて、ヤマノハ〔四字右○〕とよみしはあしかりけり、ヤマノハ〔四字右○〕と、ヤマノマ〔四字右○〕とは、意味《コヽロハエ》いさゝか異なり、)○伊隱萬代《イカクルマテ》、伊《イ》はそへ言、上に云り、伊積《イツモル》の伊《イ》も同じ、加の言清て唱(フ)べし、古事記下卷雄略天皇(ノ)條(ノ)歌に例あり、萬代は何事にもあれ限あるをいふ、その限を過てのちは、いかに思ふとも見ゆべきよしのなければ、その限(リ)にいたるまでは、委曲に見つゝ行むものをとおもふよしなり、その限(リ)とは、奈良坂の境にて、こゝに則ち山際といへるそれなるべし、○道隈《ミチノクマ》とは、すべての物のかくれになれるを隈《クマ》と云、神代紀に、今我(レ)當於2百不足之八十隈《モヽタラズヤソクマデ》1、將隱去者《カクリナム》矣、(隈此云2矩磨※[泥/土]《クマデト》1、)こゝは道の曲りて此方よりは見えぬ處をいふ、その曲隈《クマ》のいたく重なれるを積(ル)とは云なり、○伊積流萬代爾は、イツモルマテニ〔七字右○〕と訓る宜し、(略解に、イサカル〔四字右○〕と訓るは通《キコ》えがたし、さて按(フ)に、都母流《ツモル》てふ詞に竪横の差別あり、たとへば雪などの降重る、又木(ノ)葉などの落重るを、都母流《ツモル》と云は竪なり、又月日の經行を、都母流《ツモル》と云は横なり、こゝに道隈伊積流とあるも、道の隈々の經重るを云るにて横なり、こはことのついでにいふのみ、)爾は、上の伊隱萬代をも、この爾《ニ》の辭にうけたるなり、○委曲毛《ツバラカニ》、毛は爾(ノ)字の誤なり、(こゝの句|爾《ニ》ならでは、下に數敷毛《シバシバモ》とある毛《モ》の言詮なし、下の毛《モ》の言に、委曲爾毛《ツバラカニモ》といふ毛《モ》の意を帶たるなり、)九(ノ)卷に、委曲爾示賜者《ツバラカニシメシタマヘバ》、又十九に、都婆良可爾今日者久良佐禰《ツバラカニケフハクラサネ》などあり、つばらかには、つまびらかにといふ意なり、三輪山を委曲に見むと思ふよ(124)しなり、たとひ雲は立(チ)覆(フ)とも、おろ/\は見ゆべきを、さては滿足《コヽロダラヒ》ならねば、委曲に見むことをねがはれたるなり○見管行武雄《ミツヽユカムヲ》は、見つゝ行むものをの意なり、管は(借(リ)字)乍《ツヽ》なり本居氏、都々《ツヽ》は此(レ)をも爲ながら彼(レ)をも爲るを云辭なり、且々《カツガツ》の約りたるかといへり、其(ノ)の意なり、(但し且々の約りとせむはいかゞ、都々《ツヽ》といふ辭と、且々《カツガツ》といふことばはおきどころいさゝか異なり、且々は常に言の頭に且々云々といひて、尾に云々且々とはいはず、都々は常に言の尾に付て云々都々と云つて、頭に都々云々とはいはず、かゝればもとより別なる言なるをや、)○數數毛《シバシバモ》は、數數とはたび/\の意なり、十七に、之婆之婆《シバシバ》とあり、(字鏡に※[木+羔]烝(ハ)志波志波《シバシバ》、)常に之婆《シバ》とばかりいふを、こゝなどには重(ネ)ていへるなり、(岡部氏(ノ)考に、一本を用ひて一(ツ)の數(ノ)字を省けり、されど十一に、吹風有數々應相物《フクカゼニアラバシバ/”\トフベキモノヲ》、十三に、數々丹不思人者《シバシバニオモハズヒトハ》、續紀廿二(ノ)詔に、數々辭備申多夫仁依弖《シバ/”\イナビマヲシタブニヨリテ》などあれば、數々とあるも難なし、)毛《モ》は、だにもといふほとのこゝろなり、これも上の委曲(ノ)爾を帶て、委曲にだにも云々、數々にだにも云々といふ意なり、心だらひなることはかなはずとも、せめてといふ意に、毛《モ》の辭を用ひたるなり、○見放武八萬雄は、ミサカムヤマヲ〔七字右○〕と訓べし、見放《ミサカ》む山なるものをの意なり、三(ノ)卷に、去左爾波二吾見之此埼乎獨過者見毛左可受伎濃《ユクサニハフタリアガミシコノサキヲヒトリスグレバミモサカズキヌ》、(これにょれば、ミサケム〔四字右○〕と訓はわろからむ、)さて放は遠く見やるを云、振放見《フリサケミ》るなど云るにて知べし、雄《ヲ》はふたつながら、しか欲《オモ》ふにそれに應《カナ》はぬをいふ詞なり、○情無、(125)一句《ヒトキリ》なり、コヽロナク〔五字右○〕と訓べし、雲が心せぬよしなり、雲が心せずしてかくすがゆゑに、見つつゆかむことも見放《ミサカ》むことも、かなふまじきをなげきたるなり、此(ノ)句より下は、上の三輪の山といふにつゞけて心得べし、○雲乃《クモノ》、三言一句なり、此(レ)も七言の位の句を三言にのたまへり、此(レ)等の例は余が永言格に委(ク)云り、披(キ)見べし、(略解に、情無雲乃をココロナクモノ〔七字右○〕と訓て、ココロナ〔四字右○〕は心なやの意と、本居氏(ノ)説にいへるよしあれども、いかでかさる拙き古語のあるべくもあらむ、且本居氏(ノ)説のよし云るも意得ず、凡て畧解に本居氏(ノ)説として載たるに、信用《ウケ》られぬ説どものいと多かるは、聞誤《キヽタガヘ》てあげたるにや、)○隱障倍之也《カクサフベシヤ》は、かくしてあるべしやはの意なり、カクサフ〔四字右○〕はカクス〔三字右○〕の伸たるなり、サフ〔二字右○〕はス〔右○〕と切れり、(障は借(リ)字のみなり、隱し障ふる意にはあらず、思ひ混ふべからず、)十一に、奧藻隱障浪五百重浪《オキツモヲカクサフナミノイホヘナミ》云々、この隱障《カクサフ》も同じ、さてかく伸て云は、その事の緩なるときにいふことなり、隱してあるべき事にはあらぬをといふほどの意なればなり、こは推《オス》をオソフ〔三字右○〕といふと同格の詞なり、弘仁式儺(ノ)祭の詞に、天地能諸御神等波《アメツチノモロ/\ノミカミタチハ》、平久於太比爾伊麻佐布倍志止申《タヒラケクオダヒニイマサフベシトマヲス》とあるも、座《イマス》を伸て緩に云るにて同じ、也《ヤ》は也波《ヤハ》の也《ヤ》なり、(すべて古言に也波《ヤハ》といふ言なし、也《ヤ》とのみいふに也波《ヤハ》の意を具《モチ》たればなり、)○歌(ノ)意は、奈良坂をこゆる程までは、遠ながらもかへり見しつゝ、なぐさまむとおもふ三輪山なるを、かく立かくしたるは情無《コヽロナ》の雲や、かくして有べき事にはあらぬをと、家路の遠ざか(126)るを此(ノ)山に負せて、ふかく惜み賜ふなり、又三輪山は、名高くて世にことにうるはしき山なれば、朝夕に御覽じてなぐさみ給ひしが、遠ざかりゆくををしみ給へるにも有べし、(契沖、大江(ノ)嘉言(ノ)歌を引て云、おもひ出もなき故郷の山なれどかくれ行はた哀なりけり、)此(ノ)歌は上にもいへるごとく、下2近江(ノ)國1時と題《シル》したれば、未(タ)近江へ遷都し給はぬ前、勅にまれ私にまれ、ゆゑありて下らるゝとて、飛鳥にありて面白く常に見馴し三輪山の、遠ざかるによりてよまれたるなり、
 
反歌《カヘシウタ》
 
18 三輪山乎《ミワヤマヲ》。然毛隱賀《シカモカクスカ》。雲谷裳《クモダニモ》。情有南畝《コヽロアラナム》。可苦佐布倍思哉《カクサフベシヤ》。
 
然毛隱賀《シカモカクスカ》は、さやうにも隱す哉の意なり、然《シカ》の義は上にいへり、賀《カ》は哉(ノ)字の意にて歎息(ノ)辭なり、(今(ノ)世に、さてさてそのやうにもきつう隱す哉といふが如し、)清て唱(フ)べし、(賀の濁音の字をかけるは正しからず、)かくすともをり/\は雲間もあるべきに、さて/\つらきかくしやうかなとおもふ心を、此(ノ)歎の辭にもたせたり、○雲谷裳《クモダニモ》、谷は借(リ)字なり、俗に雲なりともといはむがごとし、雲なりともせめて心あれとの意なり、○情有南畝《コヽロアラナム》、(情(ノ)字、類聚抄に心、畝字、官本に武と作《カケ》り、字彙に、※[畝の異体字](ハ)莫厚(ノ)切謀俗作(ルハ)v畝(ニ)非(ナリ)とあり畝謀呉音ム〔右○〕なり、謀叛《ムホン》などいふを思ふべし、)は、いかで心あれかしと希望ふ意なり、長歌には、雲の情なきをうらみたるのみをいひ、反歌(127)には、その雲だにも情あらむことをねがはれたるなり、わが心のほとを雲のおしはかりて、あはれまざるをふかくなげかれたるなり、○可苦佐布倍思哉《カクサフベシヤ》は、長歌なると同じ、○歌(ノ)意、長歌には雲の情なきをうらみ、その雲なりとも情ありて、かくまでをしむ三輪山なるを、いかでつまびらかに見せよかしといひて、今ひときは切なる心を述(ヘ)られたり、(古今集に、貫之、三輪山を然も隱すか春霞人に知られぬ花哉開らむ、とあるは此(ノ)歌をとりてよめり、
〔右二首(ノ)歌。山上(ノ)憶良(ノ)大夫(カ)類聚歌林(ニ)曰(ク)。遷(ス)2都(ヲ)近江(ノ)國(ニ)1時。御2覽(シテ)三輪山(ヲ)1御歌焉。日本書(ニ)紀曰(ク)。六年丙寅春三月辛酉朔己卯。遷(ス)2都(ヲ)于近江(ニ)1。〕
山上云々、例によるに山上の上、檢(ノ)字を脱せしか、○焉(ノ)字、類聚抄になし、拾穗本には也と作り、○この類聚歌林に依ときは、天智天皇の大御歌か、又は大海人(ノ)皇子(ノ)尊(天武天皇)の御歌なるべし、○紀(ノ)字、舊本、誤て記と作り、○己(ノ)字、類聚抄に乙と作り、誤なり、
 
井戸王即和歌《ヰトノオホキミノスナハチコタヘタマヘルウタ》
 
井戸(ノ)王は、考(フ)るものなし、(後(ノ)世大和(ノ)國の武士に、井戸若狹守覺弘と云人あり、由あるか、但しこの井戸氏は、武藏(ノ)國秩父(ノ)郡井戸村より出しとも云り、)はた和歌とあるも、既く左注に疑ひおきたるごとくいかゞおぼゆ、猶能(ク)考(フ)べし、
 
19 綜麻形乃《ヘソガタノ》。林始乃《ハヤシノサキノ》。狹野榛能《サヌハリノ》。衣爾著成《キヌニツクナス》。目爾都久和我勢《メニツクワガセ》。
 
(128)「綜麻形《ヘソガタ》は、地(ノ)名なるべし、崇神天皇紀に大綜麻杵《オホヘソキ》と云人(ノ)名あり、由あるか、形は左野方《サヌカタ》、山縣《ヤマガタ》など地(ノ)名に多し、そのこ縣《カタ》なるべきか、按(フ)に、此は三輪山の古(ヘ)の異名なるべきか、上に云るごとく、閇蘇麻《ヘソヲ》の三勾《ミワ》遺れるに因(リ)て、其(ノ)地を美和《ミワ》と名《ナヅ》けたるよし見えたる閇蘇《ヘソ》は即|綜麻《ヘソ》にて、其(ノ)麻の遺れる状《サマ》によりて、三輪《ミワ》といひそめたる地(ノ)名なるがゆゑに、やがて綜麻形《ヘソガタ》とはいひたるなるべし、さて彼(ノ)地の異名なりけるから、本(ノ)名の三輪と云るのみ世にひろく傳はりて、綜麻形《ヘソガタ》の稱《ナ》は、後には、きこえぬことゝなれるにやあらむ、(紗寐形《サヌカタ》の誤といふ説はいふにたらず、)○林始《ハヤシノサキ》、林《ハヤシ》は名(ノ)義|榮《ハイ》なり、(夜志《ヤシ》の切|伊《イ》となる、和名抄に、讃岐(ノ)國阿野(ノ)郡林田(ハ)波以多《ハイタ》とあり、)竹樹の殖《タチ》て茂榮《ハユ》たる謂なり、武庫《ムコ》の枕詞に、玉波夜須《タマハヤス》といふも、玉映《タマハユ》といふ意の伸りたる稱なるを考(ヘ)合(ス)べし、かくて波夜志《ハヤシ》てふことは、出雲(ノ)國風土記に、意宇(ノ)都|拜志《ハヤシノ》郷、云々、吾(カ)御心|之波夜志詔《ノハヤシトノリタマヒキ》、故云(ハ)v林《ハヤシト》、云々、書紀顯宗天皇(ノ)卷室壽(ノ)大御辭に、取擧棟染者《トリアグルムネウツハリハ》、此(ノ)家長(ノ)御心|之林《ノハヤシ》也など見えて、そのもとは心意《コヽロ》にまれ品吻《モノ》にまれ、一(ツ)物の數多く榮《ハ》え繁《シゲ》るをいふ稱なるが、後には竹樹のうへにのみ云ことの如くなれるなり、五卷十四に、波也之《ハヤシ》、同卷或本歌に、乎波夜之《ヲハヤシ》など假字書も見えて、みな竹木の林なり、林(ノ)字を書たるは更なり、(しかるを岡部氏(ノ)考に、林をシゲキ〔三字右○〕と訓たる、そは繁木《シゲキ》にて、大祓(ノ)祝詞にも見えたれば、さることにもあれど、集の例を考(フ)るにもしシゲキ〔三字右○〕と訓べきならば、林(ノ)字はかゝぬことそかし、集は集の例によりて訓こそ要とあるべ(129)き事なれ、おのが私の心もて謾に訓るは、理ありげに聞ゆるも、尚|熟《ヨク》心して見る時は、ひがことのみぞ多かる、さるは二(ノ)卷に、冬乃林《フユノハヤシ》、七(ノ)卷に、星之林《ホシノハヤシ》、又|江林《エハヤシ》、十(ノ)卷に、橘之林《タチバナノハヤシ》、十九に、竹林《タケノハヤシ》など、何處にても林(ノ)字はハヤシ〔三字右○〕と訓るにても、シゲキ〔三字右○〕ならぬをさとるべし、)始は、契冲のサキ〔二字右○〕とよめるによるべし、上に引たる古事記に伊夜佐岐陀弖流《イヤサキダテル》とあるも、始に立るをいへば、始をサキ〔二字右○〕と訓は理あるべし、さ始《サキ》はこゝは岬《サキ》なり、○狹野榛能《サヌハリノ》は、狹は眞《マ》に通ふ美稱にて、野榛《ヌハリ》とのみいふに同じ、古事記に、佐怒都登理岐藝斯《サヌツトリキヾシ》とあるを、此集には、野鳥雉《ヌツトリキヾシ》とあるにて意得べし、かくて此(ノ)物は、和名抄に、本草(ニ)云、王孫、一名黄孫、和名|沼波利久佐《ヌハリクサ》、此間(ニ)云|豆知波利《ツチハリ》、字鏡に、藥(ハ)豆知波利《ツチハリ》など見えたる物にて、波里《ハリ》といふ名(ノ)義こそは同じからめ、木類の榛《ハリ》とは別種《コトモノ》なるべし、七(ノ)卷に、吾屋前爾生土針從心毛不想人之衣爾須良由奈《ワガヤドニオフルツチハリコヽロヨモオモハヌヒトノキヌニスラユナ》、十六に墨之江之岸之野榛丹《スミノエノキシノヌハリニ》、(之野の二字舊本に顛倒《イリチガ》へり、こは荒木田氏の考(ヘ)に依(レ)り、)丹穗所經跡丹穗葉寐我八丹穗氷而將居《ニホフレドニホハヌアレヤニホヒテヲラム》、などある皆|同種《ヒトクサ》なるべし、(榛《ハリ》は野にも生る物なれば、野榛とも云べしといふ人もあれど、さらば、野之榛《ヌノハリ》とは云べき理なれども、たゞに野榛《ヌハリ》とはいふべくもなし、そのうへ土針《ツチハリ》とよめるも同種と見えたれば、いよ/\榛《ハリ》とは別なるをさとるべし、或人おのが此(ノ)説を見て云、榛《ハリ》は野にも山にも生るものなれば、たゞ榛とも野榛《ヌハリ》ともいふべし、藁本を和名抄に曾良之《ソラシ》とあるを、字鏡には乃曾良自《ノソラシ》とあるをおもふべしといへれど、此(ノ)考はあしかりけり、曾良自《ソラシ》と(130)野曾良自《ノソラシ》とは、是亦同類別種なるべし、そのよしは字鏡に、※[草冠/奴]また、※[草冠/文]を曾良自《ソラシ》とし、蒿莽また拔契を乃曾良自《ノソラシ》とせるにてもさとるべし、もし同種ならむには、かくことさらに擧べき謂なし、たま/\和名抄に蒿本を曾良自《ソラシ》とあるを字鏡に乃曾良之《ノソラシ》とあれど、彼(ノ)書どものならひにて、あながちに字をばたのむべきにあらず、)猶この草のこと、品物解にもいはむをむかへ見べし、○著成《ツクナス》は、如《ゴトク》v著《ツク》といふが如し、成《ナス》は借(リ)字|如《ナス》なり、那須《ナス》は期登久《ゴトク》といふ意の古語なり、能須《ノス》ともいへり、(さて此(ノ)語、後(ノ)世には聞なれぬ語なるを、たま/\續古今集に、思川逢瀬まてとや水沫那須《ミナワナス》もろき命もきえのこるらむ、とよめるはめづらし、○ことのついでにおどろかしおくべし此(ノ)那須《ナス》てふ語、古書等に千萬《アマタ》あれども、皆云々|那須《ナス》とのみ云て、那勢理《ナセリ》とも那斯多理《ナシタリ》とも、はたらかしいへるは一(ツ)もなし、然るに近(キ)世の古學(ノ)徒、古書のうへにても自《ミヅカラ》の歌文にても、たとへば花那勢理《ハナナセリ》、あるは紅葉那斯多理《モミヂナシタリ》、などやうによめるは奈何ぞや、また古事記傳に云、稱掛(ノ)大平が、那須《ナス》は似《ニ》すなるべしと云るはさもあるべし、那《ナ》と邇《ニ》とは通(フ)音なるうへに、那須《ナス》を能須《ノス》とも云る例あると、和名抄備中(ノ)郷(ノ)名に、近似(ハ)知加乃里《チカノリ》と見え、又似を漢籍にてノレリ〔三字右○〕と訓などとを合せて思へば、似すを那須《ナス》と云つべきものぞ、此(ノ)辭倭建(ノ)命の御言に、吾足|成《ナセリ》2當藝斯《タギシノ》形1とひ、云々といへれど、もしさる謂《ヨシ》ならむには、云々|爾那須《ニナス》とこそいふべきことなるに、爾《ニ》の辭はなくして、いつも云々|那須《ナス》とのみ云たれば、此(ノ)説はすべてうけられ(131)ぬことなり、また成2當藝斯形1とあるを、こゝの例に引るも非なり、如《ナス》の意ならばナセリ〔三字右○〕とはいふまじきこと、上にいへるごとし、されば成2當藝斯形1の成は、ナリヌ〔三字右○〕とよみて變化《ナリヌ》の意と見べし、集中にも此(ノ)まどひあり、六(ノ)卷に、廬爲而都《イホリシテミヤコ》成有とある、成有をナシタリ〔四字右○〕と訓て、如り意ぞと云めれど、これも必(ズ)ナレリ〔三字右○〕とよみて、變化《ナレリ》の意なる類、凡ていとおほかるを、おしわたしてさとるべし、)○目爾都久和我勢《メニツクワガセ》は、目爾都久《メニツク》とは、その人の愛《ウツク》しまるゝより見ぬふりしても常に目につき易きよしなり、七(ノ)卷に、今造斑衣服面就常爾所念未服友《イマツクルマダラノコロモメニツキテツネニオモホユイマダキネドモ》ともよめり、和我勢《ワガセ》は吾(カ)兄にて、さし賜へる人有しなるべし、○歌(ノ)意は、野榛の林《シゲミ》に入(リ)立(ツ)と、設て衣を染ねども、やがてその野榛の色の衣につきて染るとひとしくて、その人を見るとはなけれど、常に目につきて愛まるゝ吾(カ)兄ぞとなり、
〔右一首(ノ)歌。今按(ニ)不v似2和(スル)歌(ニ)1。但舊本載(ス)2于此(ノ)次(ニ)1。故(レ)以猶載(タリ)焉。〕
但舊云々已下を、拾穗本に然依舊本以載茲と作り、○按(フ)に、この左注のうたがひはさることなり、或説には、右の味酒云々の歌の端詞を、井戸(ノ)王下2近江(ノ)國(ニ)1時作歌、額田(ノ)王即和歌と改めて、かの長歌反歌は、井戸(ノ)王の額田(ノ)王を比《タトヘ》たる歌とし、綜麻形の云々の歌に和我勢《ウガセ》とあるからは、額田(ノ)王の和歌として、井戸(ノ)王をさしてのたまへりとせり、それも理ありげなれど、なほ右の長歌反歌は、舊本の如く額由(ノ)王のなるべくこそ思はるれ、さればこれも鑿説なるべし、
 
(132)天皇《スメラミコトノ》遊2獵《ミカリシタマヘル》蒲生野《カマフヌニ》1時《トキ》。額田王作歌《ヌカタノオホキミノヨミタマヘルウタ》。
 
遊獵、(獵(ノ)字、類聚抄に?と作り、)此の年月は、左注に書紀を引たるごとく、天智天皇七年五月五日なり、夏の獵は獣を獵なり、歌の左に委く注《シル》すべし、○蒲生野は、近江(ノ)國蒲生(ノ)郡の野なり、
 
20 茜草指《アカネサス》。武良前野逝《ムラサキヌユキ》。標野行《シメヌユキ》。野守者不見哉《ヌモリハミズヤ》。君之袖布流《キミガソデフル》。
 
茜草指《アカネサス》は、紫《ムラサキ》といはむための枕詞なり、日《ヒ》とつゞくるに同じ、紫は今の紫にあらず、から人のいはゆる朱《アケ》を奪ふ紫のことなり、集中に人の紅顔《ニホヘルオモ》を、紫にたとへたる歌多きにておもふべし、二(ノ)卷に、茜刺日者雖照有《アカネサスヒハテラセレド》、また茜指日之入去者《アカネサスヒノイリヌレバ》、(茜指を且覆に誤れり、)又||赤根刺日之盡《アカネサスヒノコト/”\》、六(ノ)卷に、茜刺日不並《アカネサスヒナラベナクニ》、十三に、赤根刺日者之彌爾《アカネサスヒルハシミラニ》、十五に、安可禰佐須比流波毛能母比《アカネサスヒルハモノモヒ》、四(ノ)卷に、赤根指照有月夜爾《アカネサシテレルツクヨニ》、十一に、赤根刺所光月夜爾《アカネサシテレルツクヨニ》、十六に、赤根佐須君之情志《アカネサスキミガコヽロシ》、續後紀十九興福寺僧(カ)長歌に、茜刺志天照國乃《アカネサシアマテルクニノ》などあり、按(フ)に、赤根《アカネ》の根《ネ》は、たゞにそへたる言にて、赤指《アカサス》といふなるべし、物は異なれど、島根《シマネ》、草根《クサネ》、眉根《マヨネ》など云と同じく、根《ネ》の言に意なし、指《サス》は篝火指《カヾリサス》などの指《サス》にて、光曜《テリカヾヤク》ことなり、又|日光《ヒカゲ》の指(ス)月影の指(ス)などいふ指(ス)も同し、(或説に、赤丹指《アカニサス》の義と云るは誤なり、又冠辭考の説も非《ワロ》し、○武良前野逝《ムラサキヌユキ》は、紫草の生る野を行(キ)の謂にて、紫野といふ地(ノ)名にはあらず、○標野行《シメヌユキ》(※[手偏+票](ノ)字、舊本標に誤、類聚抄に從つ、)は、遊獵し賜はむ料に、標おかせたまへる野を行(キ)なり、このふたつの逝(キ)行(キ)は下の君之袖布流《キミガソデフル》といふにつゞけて心得べし、野守《ヌモリ》といふへ(133)つゞけるにはあらず、○野守者不見哉《ヌモリハミズヤ》は、野守とは、今(ノ)俗にいふ野番《ノバム》なり、御遊獵《ミカリ》し腸ふ野へは、守護人《モリベ》を居(ヱ)置て、私に狩獵《カリ》することを禁《イサ》められしなり、持統天皇(ノ)紀に、朱鳥四年八月辛巳溯丙申、禁d斷《イマシム》漁c獵《スナドリカリスルコトヲ》於攝津(ノ)國武庫(ノ)海一千歩(ノ)内、紀伊(ノ)國阿提(ノ)郡那耆野二萬|頃《シロニ》u。置2守護人《モリベヲ》1、とあるをも思(フ)べし、さてこゝは、額田(ノ)王につきたる警衛《マモリ》の者を、野守にたとへて云、なほ下に云べし、さて武良前野、標野、野守の野は、皆|努《ヌ》と訓べし、(略解(ニ)云、野を集中|奴《ヌ》と假字書にせり、古事記にも三吉野を美延斯努《ミエシヌ》など書たれば、野は凡て奴《ヌ》とのみ訓べけれども、五(ノ)卷に、波流能能爾《ハルノノニ》、十八に、夏能能之《ナツノノノ》、十四に、須我能安良能《スガノアラノ》などもあれば、調(ヘ)によりて稀には能《ノ》ともよみたりと見ゆ、たとへば、茜草指武良前《アカネサスムラサキ》野|行《ユキ》標《シメ》野|行《ユキ》野|守者不見哉《モリハミズヤ》、など云御歌の野を、奴《ヌ》とは唱へがたければ、これらは乃《ノ)とせり、猶此(ノ)類ありと云るは意得ぬことなり、まづ調(ヘ)によりて、まれには能《ノ》ともよみたりと思へるこそいと頑愚《ヲコ》なれ、さる所由《ユヱ》ならむには、集中に、夜麻古要奴由伎《ヤマコエヌユキ》とも、奴都可佐《ヌツカサ》とも、努乃宇倍能美夜《ヌノウヘノミヤ》とも、奴敝《ヌヘ》ともいへる努《ヌ》をこそ、能《ノ》とはいふべきを、波流能能《ハルノノ》を波流能努《ハルノヌ》、須我能安良能《スガノアラノ》を須我能安良努《スガノアラヌ》、夏乃能《ナツノノ》を夏の奴《ヌ》といはむに、調(ヘ)のわろきことのあるべくもあらず、是にても略解のひがことなるはうつなければ、おのが考(ヘ)をあげてさらにことわらむ、)そも/\古(ヘ)は、すべて野を努《ヌ》といふのみならず、小竹を志奴《シヌ》、凌を志奴具《シヌグ》、偲を志奴布《シヌブ》、樂を多奴斯《タヌシ》など云て、奴《ヌ》といふべきを、能《ノ》といへることは曾《カツ》てなかりしを、奈良(ノ)朝の(134)ころより、かつ/”\奴《ヌ》を能《ノ》といひそめしと見えて、集中にも五(ノ)卷に、波流能能爾《ハルノノニ》とあるをはじめて、十七に、志乃備《シノビ》、十八に、多能之氣久《タノシケク》、又|夏能能之《ナツノノノ》、廿卷に、和乎之乃布思之《ワヲシノブラシ》などど見えたり、(さて十四に、須我能安良能爾《スガノアラノニ》、又|可美都氣乃《カミツケノ》とあるは東語にははやく野を能《ノ》ともいひしか、但し本居氏(ノ)説に、可美都氣乃《カミツケノ》の乃(ノ)字(ハ)は奴《ヌ》の誤なるべし、凡て此(ノ)國(ノ)名をよめる歌十二首ある中に、乃《ノ)といへるは只一(ツ)にて、餘はみな奴《ヌ》なるを思ふべし、といへり、)かくて又十八に、多流比賣野宇艮乎許藝都追《タルヒメノウラヲコギツヽ》、又|奈良野和藝敝乎《ナラノワギヘヲ》、又|安利蘇野米具利《アリソノメグリ》、又|伊都波多野佐加爾蘇泥布禮《イツハタノサカニソデフレ》、又|須久奈比古奈野神代欲里《スクナヒコナノカミヨヨリ》、廿(ノ)卷に、安伎野波疑波良《アキノハギハラ》など野(ノ)字を之(ノ)の意の假字にせるをおもへば、やゝ奈良(ノ)朝の季つかたよりは、野を能《ノ》といふことにはなれりけむ、(されど猶かの比までは、野を奴《ヌ》と假字書にせるも多し、かくて今(ノ)京より以後《コナタ》は、野を能とのみ云て、努《ヌ》と云ることは絶てなきごとなれども、たま/\土佐日記に、阿波の野島を、奴之麻《ヌシマ》としも、書ることもありかし、)かゝれば近江(ノ)朝の比には、野を能《ノ》といひしことなどは、かつても無りしことどかし、(されば一二(ノ)卷をはじめ、十三十一十二などにも、奴《ヌ》といふべきを能《ノ》と書る例なし、然るを調(ヘ)によりて、能《ノ》ともよみたりとおもふはいかにぞや、集中にも時代の差別《ケヂメ》あれば、おのおのその時代の語につきて考ふべきことなるを、大かたに意得をるこそいとほしけれ、)哉《ヤ》は也波《ヤハ》の也《ヤ》なり、○君之袖布流《キミガソデフル》、君とは皇太子をさす、袖布流は、諸注何の辨もなきは、たゞに(135)袖をふる事と心得たるにや、されど何のよしもなくて袖ふるべきやうなし、されば思ふに、六(ノ)卷(大伴(ノ)卿の京に上られし時、娘子のよめる歌)に、凡者左毛右毛將爲乎恐跡振痛袖乎忍而有香聞《オホナラバカモカモセムヲカシコミトフリタキソテヲシヌビタルカモ》、(これは凡人ならば袖振てさし招むを、貴人なればかしこみてさることもせず、忍てあると云意なり、思(ヒ)合(ス)べし、)十二に、八十梶懸島隱去者吾妹兒之留登將振袖不所見可聞《ヤソカカケシマカクリナパワギモコガトヾムトフラムソデモミエジカモ》などあるごとく、離別のときはさらにて、人を招く形容をすべていへるなり、領巾《ヒレ》ふるといふも同じ、さればこゝはけそうして、袖ふりさしまねくさまを云るなるべし、○歌(ノ)意は、中山(ノ)嚴水、(賂解に、外によそへたる意なしといへるは、皇太子の禁野《シメヌ》を犯し賜ふを、額田(ノ)王の禁め賜ふ意と心得たるにや、もしさる意ならむには、袖布流てふ詞かなふべくもあらず、かれおもふに、)こは然《サ》ばかりに、左《カ》ゆき右《カク》ゆき吾を招きて、懸想《ケサウ》の容貌《サマ》を勿爲《ナシ》賜ひそ、吾方の警衛《マモリ》の者等の見とがめむにと、恐(レ)憚りて作《ヨミ》て奉らせ賜ふなり、御答歌にておのづからその意|徴《シル》しといへり、實にさも有べし、
 
皇太子答御歌《ヒツギノミコノコタヘマセルミウタ》
 
明日香(ノ)宮(ニ)御宇(シ)天皇
 
皇太子は、大海人(ノ)の皇子にて天武天皇なり、御傳下にいふべし、○明日香(ノ)宮は、明日香(ノ)清御原(ノ)宮なり、(類聚抄古寫本等に、謚曰2天武天皇1と云注あり、さてこの天皇、皇年代略記に、推古帝三(136)十一年癸未降誕、天智帝七年戊辰二月戊寅、爲2皇太弟1、云々とあり、かくてこの遊獵は、即(チ)天智天皇七年なれば、四十六歳の御時なり、
 
21 紫草能《ムラサキノ》。爾保敝類妹乎《ニホヘルイモヲ》。爾苦久有者《ニクヽアラバ》。人嬬故爾《ヒトヅマユヱニ》。吾戀目八方《アレコヒメヤモ》。
 
紫草能《ムラサキノ》とは、右に紫野逝《ムラサキヌユキ》とあるをうけて、則(チ)かく詔て、艶有《ニホヘル》といはむむ料の枕詞と爲給へり、○爾保敝類妹乎《ニホヘルイモヲ》とは、爾保敝類《ニホヘル》は艶《ニホ》ひて有なり、爾保布《ニホフ》とは紅顔《ニノホノオモ》の光澤《ヒカリ》あるをいへるにて、上に引たる十六に、赤根佐須君《アカネサスキミ》とあるに同じ、香《カ》にのみにほふといふは後のことにて、古(ヘ)はもはら色のうへににほふといへり、三(ノ)卷に、茵花香君之《ツヽジハナニホヘルキミガ》、十三に、茵花香未通女《ツヽジハナニホヒヲトメ》などあるたぐひなり、妹乎《イモヲ》とは妹なるものをの意なり、下の吾戀目八方《アレコヒメヤモ》といふにつゞけて意得べし、爾苦久有者《ニククアラバ》といふに直に續けるにはあらず、さてこは額田(ノ)王をさして妹との賜へるなり、○爾苦久有者《ニククアラバ》とは惡《ニク》くは愛《ウツクシ》くの反對《ウラ》にて、愛く思へばこそ、かくわりなく戀るなれ、もし惡くばさもあるまじきをとの御意なり、十(ノ)卷に、吾社葉憎毛有目吾屋前之花橘乎見爾波不來鳥屋《アレコソハニクヽモアラメワガヤドノハナタチバナヲミニハコジトヤ》、○人嬬故爾《ヒトヅマヱニ》は人嬬なるものをの意なり、人嬬とは、もと他人の妻をいふことなれど、まことに人の妻に限らず、他に心をかよはして、われにつらきをいふ詞なり、額田(ノ)王は、天智天皇の妃なれば、實に人妻とのたまはむにたがはねども、しかさしあてゝのたまふべくもあらねば、たゞ大かたにわれにつらきをうらみて、人妻とはのたまへるなるべし、○吾戀目八方《ワレコヒメヤモ》は、(137)あはれ吾かく戀む事かはといふ意なり、目《メ》は牟《ム》のかよへるなり、八《ヤ》は也波《ヤハ》の也《ヤ》、方《モ》は歎息辭なり、○御歌の意は、もとそこを惡《ニク》く思はゞ、人妻なるを知ながら、かくわりなく戀まじき物を、大かたに愛《ウツクシ》く思はねばこそ、袖振など懸想《ケソウ》はすなれといふ御意なるべし、
〔紀(ニ)曰(ク)。天皇七年丁卯夏五月五日。縱2獵(シタマフ)於蒲生野(ニ)1。于時大皇弟諸王内臣及群臣皆悉從(ヘリ)焉。〕
紀は、天智天皇(ノ)の紀なり。丁卯は誤なり、戊辰に改むべし、(大神(ノ)景井云略解に、天智天皇七年は戊辰なり、六年の誤なりと云るは委しからず、則(チ)書紀を見るに、七年にして戊辰なり、こゝは丁卯に誤りしものなり、)○縱獵(縦(ノ)字、書紀に遊と作《カケ》り、)の上、天皇の二字有べし、推古天皇(ノ)紀に、十九年夏五月五日、藥2獵《クスリガリシタマフ》於兎田野(ニ)1、云々、二十年夏五月五日。藥獵之《クスリガリシタマフ》、集2于羽田1、云々、二十二年夏五月五日、藥獵也、これら同日なれば、この縱獵は藥獵と知(ラ)れたり、藥獵とは鹿(ノ)茸を取ためなり、和名抄藥(ノ)部に、鹿茸(ハ)、鹿(ノ)角初生也、和名|鹿乃和加豆乃《カノワカヅノ》とあり、さてまづは五月五日を主とすることなれど、四五月の間はする事とおもはれて、十六に、四月與五月間爾藥獵仕流時爾《ウツキトサツキノホトニクスリガリツカフルトキニ》云々とよみ、十七に、加吉都播多衣爾須里都氣麻須良雄乃服曾比獵須流月者伎爾家里《カキツバタキヌニスリツケマスラヲノキソヒガリスルツキハキニケリ》、と家持(ノ)卿のよまれたるも、四月五日なり、○大(ノ)字、舊本天に誤れり、元暦本によりつ、○皆悉、皆(ノ)字拾穗本になし、悉(ノ)字元暦本に無、
 
萬葉集古義一卷之上 終
 
(138)萬葉集古義一卷之中
 
明日香清御原宮御宇天皇代《アスカノキヨミハラノミヤニアメノシタシロシメシヽスメラミコトノミヨ》
 
明日香清御原宮《アスカノキヨミハラノミヤ》は、大和志に、在2高市(ノ)部上居村(ニ)1とありてかくれもなし、上居はもと淨御を字音に呼なせるより書るなるべし、書紀天武天皇(ノ)卷に、天(ノ)渟中原瀛(ノ)眞人(ノ)天皇(ハ)、天命開別(ノ)天皇同母(ノ)弟也、幼(ニシテ)曰2大海人(ノ)皇子(ト)1、生(マシヽヨリ)而有2岐※[山/疑]之姿1、及(テ)v壯(ニ)雄拔神武《ヲヽシクタケクマシ/\テ》能(シタマヒキ)2天文遁甲(ヲ)1、納(テ)2天命開別(ノ)天皇(ノ)女菟野(ノ)皇女(ヲ)1、(持統)爲《シタマフ》2正妃(ト)1、天命開別(ノ)天皇(ノ)元年、立(テ)爲2東宮(ト)1、云々、同卷に、元年、云々、是歳營2宮室於崗本(ノ)宮(ノ)南(ニ)1、即《ソノ》冬|遷以居《ウツリマシ/\キ》焉、是(ヲ)謂2飛鳥(ノ)淨御原(ノ)宮(ト)1、云々、二年二月丁巳朔癸未、天皇命2有司(ニ)1設《マケ》2壇場《タカミクラヲ》1、即2帝位《アマツヒツギシロシメス》於飛鳥(ノ)(ノ)淨御原宮(ニ)1、立(テ)2正妃(ヲ)1爲2皇后(ト)1、后生(マシキ)2草壁(ノ)皇子(ノ)尊(ヲ)1、云々、十年二月庚子朔甲子、立(テ)2草壁(ノ)皇子(ノ)尊(ヲ)1爲2皇太子1、朱鳥元年秋七月乙亥朔戊午、改v元(ヲ)曰2朱鳥《アカミトリノ》元年(ト)1、仍《カレ》名v宮(ヲ)曰2飛鳥(ノ)淨御原(ノ)宮(ト)1、九月戊戌朔丙午、天皇病遂不(テ)v差(タマハ)、崩(リマシ/\キ)2于|正宮《オホミヤニ》1とあり、○御宇(ノ)二字、舊本に脱せり、目録に據て禰ひつ、袋冊子に引るにも御宇とあり、○代(ノ)字、拾穗本に御宇とあるは、例に違ひてわろし、○天皇代の下、舊本等に天(ノ)渟中原瀛(ノ)眞人(ノ)天皇とあるは、後人のしわざなること既く云る如し、(古寫本拾穗本(139)等には、謚曰2天武天皇1と云注もあり、)この天皇御陵は、高市(ノ)郡檜隈にあり、舊紀に、持統天皇元年冬十月辛卯朔壬子、皇太子率(テ)2公卿百寮人等、並諸國(ノ)司國(ノ)造及百姓男女(ヲ)1、始(テ)築(キタマフ)2大内(ノ)陵(ヲ)1、二年冬十一月乙卯朔乙丑、葬(マツリキ)2于大内(ノ)陵(ニ)1、諸陵式に、檜隈(ノ)大内(ノ)陵(飛鳥(ノ)淨御原(ノ)宮(ニ)御宇天武天皇、在2大和國高市(ノ)郡(ニ)1、兆域東西五町南北四町陵戸五烟、)と見えたり、
 
十市皇女《トホチノヒメミコノ》。參2赴《マヰデタマヘル》於|伊勢神宮《イセノオホミガミノミヤニ》1時《トキ》。見《ミテ》2波多横山巖《ハタノヨコヤマノイハホヲ》1。吹黄刀自作歌《フキノトジガヨメルウタ》。
 
十市皇女《トホチノヒメミコ》は、天武天皇(ノ)紀に、二年云々、天皇初娶2鏡(ノ)王(ノ)女額田姫(ノ)王(ヲ)1、生2十市(ノ)皇女(ヲ)1、七年夏四月丁亥朔癸巳、十市皇女|卒然《ニハカニ》病發(テ)、薨(タマフ)2於宮(ノ)中(ニ)1、庚子、葬2十市(ノ)皇女(ヲ)於赤穗(ニ)1、天皇|臨之《ミソナハシテ》、降v恩以發v哀《メグヽオモホシテミネナキシタマヘリ》、懷風藻葛野王(ノ)傳に、王子者、淡海(ノ)帝之孫、大友(ノ)太子之長子也、母(ハ)淨見原之長女、十市(ノ)内親王(ナリ)とあり、十市は、和名抄に、大和(ノ)國十帝(ノ)都(ハ)止保知《トホチ》、(この郡(ノ)名によれる御名にやあらむ、)また新古今集に、暮ば速《ト》く往て語らむ會事《アフコト》の十市の里の住憂かりしをとあり、(これも會事の遠《トホ》といひかけたれば、登保《トホ》の假字なり、案に、十は登袁《トヲ》の假字なるを、登保《トホ》とあるは違へる如くなれど、本(ト)より通はし云るか、又は本は登袁知《トヲチ》なりけむを、後に訛りて登保知《トホチ》と唱へしか、今たしかには定め難し、然れども今は姑く、和名抄並(ニ)新古今集(ノ)歌に從《ヨリ》て訓つ、)○參赴云々は、書紀に、天武天皇四年二月、十市(ノ)皇女|阿閇《アヘノ》皇女、參2赴《マヰデマス》於伊勢(ノ)神宮(ニ)1とみゆ、さてこゝにこの皇女のみを擧しは、吹黄(ノ)刀自、此(ノ)皇女に仕(ヘ)まつれる女なればなるべし、○波多横山《ハタノヨユヤマ》は、(大和志に、山邊(ノ)郡仲峯山村、一(140)名波多(ノ)横山、云々、神波多(ノ)神社、在2仲峯山村(ニ)1、式(ニ)屬2添上(ノ)郡(ニ)1、とあるはおぼつかなし、)神名帳に、伊勢(ノ)國壹志(ノ)郡波多(ノ)神社、和名抄に、同郡八太(ノ)郷ありて、こは伊勢の松坂里より、泊瀬越して大和へ行道の伊勢の中に、今も八太(ノ)里ありて、其(ノ)一里ばかり彼方に、かいとうといふ村に横山ありて、そこに大なる巖ども川邊にも多ければ、其處なりと云り、○吹黄刀自《フキノトジ》は、傳未(タ)詳ならず、四(ノ)卷にも見ゆ、續紀天平七年の條に、富記(ノ)朝臣てふあり、こは同氏ならむかおぼつかなし、刀自は名なり、女(ノ)名にことに多し、(刀自といふことのよしは、四(ノ)卷坂上(ノ)郎女(ノ)歌の下に、くはしくいふべし、
 
22 河上乃《カハノヘノ》。湯都磐村二《ユツイハムラニ》。草武左受《クサムサズ》。常丹毛冀名《ツネニモガモナ》。常處女※[者/火]手《トコヲトメニテ》。
 
河上は、カハノヘ〔四字右○〕と訓べし、(本居氏(ノ)詞(ノ)瓊綸に此(ノ)歌を引るに、初句を加波良乃《カハラノ》と四言に書れたり、をは書紀齊明天皇(ノ)卷に、甘檮丘束之川上《ウマカシノヲカノヒムカシノカハラ》とある訓注に、川上此(ヲ)云2箇播羅《カハラト》1と見えて、據もたしかなれば、實に然よむべきことぞ宣おもひをりしに、猶集中の例を檢ふるに、必(ズ)たしかに加波良《カハラ》とよむべき所には、いづれも皆河原とのみ書て、河上とも、川上ともかきたるはかつてなし、故(レ)集中に、川上また河上とかきたるは、みなカハノヘ〔四字右○〕とよむべき例と定めて、こゝもしか訓つ、)上(ヘ)は山(ノ)上《ヘ》野(ノ)上《ヘ》、また藤原我宇倍《フヂハラガウヘ》、高野原之宇倍《タカヌハラガウヘ》などいへる類ひなり、(宇閇《ウヘ》を閇《ヘ》とのみ云は例多し、)さて閇《ヘ》は、必(ス)上(ヘ)をいふにもあらず、邊《アタリ》といふにちかし、河(ノ)上《ヘ》は河のあたり、山(ノ)上《ヘ》(141)は山のあたりと意得てあるべし、又按(フ)にカハカミ〔四字右○〕とよまむか、十四に、可波加美能禰自路多可我夜《カハカミノネジロタカガヤ》云々と見えたり、然する時は、上は上(ツ)瀬などいふ上にはあらず、たゞ河縁《カハバタ》などいふほどのことゝきこゆかし、○湯津磐村《ユツイハムラ》(磐(ノ)字、舊本には盤と作り、續字彙補に、盤與v磐同、漢(ノ)文帝紀(ニ)盤石之宗、荀子(ニ)、國安2宇盤石1、また康煕字典に、成公(カ)綏嘯賦(ニ)、坐2盤石(ニ)1、註(ニ)盤(ハ)大石也とあるからは、彼(ノ)國にても、後(ノ)世は磐盤通(ハシ)用ひけるなるべし、されどもとは、磐(ノ)字を誤れるものなるべし、顔眞卿(カ)干禄字書に、磐盤上(ハ)磐石下(ハ)盤器と有によれば、もとは別字なりしこと知れたり、故(レ)今は阿野家本幽齋本等に磐とあるに從つ、)は古事記に、湯津磐村《ユツイハムラ》、書紀には五百箇磐石《ユツイハムラ》と書り、又祝詞に、湯津盤村乃如塞座《ユツイハムラノゴトサヤリマス》と云語多し、五百箇磐群《イホツイハムラ》の謂なり、(岡部氏(ノ)説に、五百《イホ》を約て由《ユ》と云り、湯津桂《ユツカツラ》、湯津爪櫛《ユツツマクシ》なども、枝の多く齒の繁きを云、村は群の意なりと云り、但し五百《イホ》を約めて由《ユ》といふと云るは、くはしからぬ云樣なり、こは本居氏、伊富《イホ》を切れば與《ヨ》なれど、與《ヨ》と由《ユ》とは殊に近く通ふ音なり、自(リ)を古言に、由《ユ》とも與《ヨ》とも云たぐひなりと云るぞよき、)○草武左受《クサムサズ》は武須《ムス》とは生《ムス》なり、書紀に、皇産靈此云(フ)2美武須毘《ミムスビト》1とありて武須に産(ノ)字をあてつ、常に武須子《ムスコ》、武須女《ムスメ》などいふ武須も同じ、三(ノ)卷に、香山之鉾椙之本爾薛生左右二《カクヤマノホコスギガモトニコケムスマデニ》、(此(ノ)歌などによりて、後(ノ)世はたゞ苔のみにむすと云ことゝ思(フ)めれど、古(ヘ)はしからず、何にまれ自(ラ)生出るを云言なり、)さて上よりは、年ふり古びたる巖(ノ)上に、草の生たるをいへるにて、武左愛《ムサズ》の受《ズ》の言までは關らず、(142)布留《フル》の早田《ワサタ》の穗には出ずの例なり、(此(ノ)磐むらの草生ぬをいふなり、といふ説は、ひがことなり、年經たる巖(ノ)上に草の生ぬことやはあるべき、)草|武須《ムス》とは、古びたるたとへにいへるにて、古びず常にわかやかにのみあれかしといはむとて、まのあたり目にふれたるものをいへるなり、本(ノ)二句たゞ序にいへるのみぞ、○常丹毛冀名《ツネニモガモナ》は、いかで常にもがなあれかしと希ふ意なり、我《ガ》は乞望(ノ)の辭、下の毛那《モナ》は、歎(キ)を含める助辭なり、〔頭註|如是霜願跡《カクシモガモト》、常丹毛冀名《ツネニモガモナ》、雲爾毛欲成《クモニモガモ》、鳥爾毛欲得《トリニモガモ》、手力毛欲得《タヂカヲモガモ》、副而毛欲得《タグヒテモガモ》、などある賀母は、みな乞望辭にて、願《ガモ》冀《ガモ》欲成《ガモ》欲得《ガモ》など書る其(ノ)意なり、又|花爾欲得《ハナニモガ》、岸爾家欲得《キシニイヘモガ》、山者無毛賀《ヤマハナクモガ》、千歳爾毛賀《チヨニモガ》などある賀《ガ》も同じ、又十一に、見之賀登念《ミシガトオモウ》とある、賀《ガ》も乞望(フ)辭なり、古今集に甲斐《カヒ》が嶺《ネ》をさやにも見しがわいへるも同じ、又|今毛得?之可《イマモエテシカ》、奈利?之可《ナリテシカ》など云も、云々あれかしと乞望辭なり、得?之可母《エテシカモ》、伊禰?師可母《イネテシカモ》とあるも同じ、さて?之可《テシカ》とあるも?之可母《テシカモ》とあるも可《カ》はみな清音なり、上の毛賀《モガ》、毛賀母《モガモ》、之賀《シガ》と連きたるはみな濁音なり、混(フ)べからず、以上總論三、〕○常處女※[者/火]手《トコヲトメニテ》は、常《トコ》はとこしなへにしていつもかはらぬをいふ、常磐《トキハ》、常葉《トコハ》などの常《トコ》なり、處女は袁登古《ヲトコ》に對(ヘ)て若く盛なる女をいふ稱なること、此(ノ)上軍(ノ)王歌の下に注たるがごとし、さればこゝは、いつもかはらず、とこしへに若き女にてあらむものにもがなと乞望ふなり、六(ノ)卷笠(ノ)朝臣金村(ノ)歌に、人皆乃壽毛吾毛三吉野乃多吉能床磐乃常有沼鴨《ヒトミナノイノチモアレモミヨシヌノタギノトキハノツネナラヌカモ》、○歌(ノ)意はいかで古びずとこしなへに、年若き女(143)にてもがなあれかしと、わが身の年たけ、かたちおとろへゆくがなげかしさによめるにて、今此(ノ)波多(ノ)横山にてまのあたり、見たるものを以て序とせるなり、又按(フ)に題詞に波多(ノ)横山(ニテ)作歌とのみはかゝずして見v巖(ヲ)とあるをおもへば、潔く流るゝ川のほとりに、かずかず並びたてる巖のたゝずまひの、あかず而白ければ、とこしなへにわかき女にてあらましかば、いつもかよひ來て、かゝるおもしろき勝地を見つゝをるべきに、といふ意にてもあるべし、
〔吹黄(ノ)刀自未v詳也。但紀(ニ)曰。天皇四年乙亥春二月乙亥朔丁亥。十市(ノ)皇女。阿閇(ノ)皇女。參2赴於伊勢(ノ)神宮(ニ)1。〕
紀曰とは、天武天皇(ノ)紀なり、○阿閇を、書紀には阿倍と作り、
 
麻續王《オミノオホキミノ》。流《ハナタヘタマヒシ》2於|伊勢國伊良虞島《イセノクニイラゴノシマニ》1之時《トキ》。時人哀傷作歌《ヨノヒトノカナシミヨメルウタ》。
 
麻續王《ヲミノオホキミ》 續(ノ)字は、績にやとおもへど、書紀延喜式(ノ)此集其外の古書みな續(ノ)字をかけり、字注に、續與績同と見えたり、字彙に、績(ハ)續也とも見ゆ、麻續は、和名抄に、信濃(ノ)國伊奈(ノ)郡麻績(ハ)乎美《ヲミ》更級(ノ)郡麻績(ハ)乎美《ヲミ》、また伊勢(ノ)國多氣(ノ)郡麻續(ハ)、乎宇美《ヲウミ》とも見ゆ、かくあれば兩字通(ハシ)書りと見えたり、)は、書紀天武天皇(ノ)卷に見えて、左注の下に引る他《ホカ》、その傳考(フ)る處なし、○伊良處《イラゴノ》島、三河(ノ)國より志摩の答志(ノ)崎へむかひてさし出たるを、いらごが崎といふよし、土人いへりとぞ、太神宮參詣記に、海のさかひ國のさかひをながめやるに、伊良虞(ノ)島鳴海潟はかしこにやと思ひやり云(144)云、古今著聞集十二に、伊勢(ノ)國いらごのあたりなど有は、皆此(レ)なるべし、(千載集十六に、玉藻かるいらごが崎の岩根松幾代までにか年の經ぬらむとあるは、今の歌によれるなるべし、)志陽略志に、伊良湖(カ)崎、在2伊良湖村(ニ)1、此(ノ)地者三河(ノ)國渥美(ノ)郡也、此(ノ)地去2神島(ヲ)1一里、以v近混2志摩(ノ)國(ニ)1云々とあり、かゝれば三河(ノ)國なるが伊勢にも亙れる故に、昔より伊勢(ノ)國伊良虞(ノ)島と物にしるせるにや○流《ハナタヘ》は、獄令に、凡(ソ)流人應(クハ)v配者、依2罪(ノ)輕重(ニ)1各配(セヨ)2三流(ニ)1、謂2遠中近(ノ)處(ヲ)1、(謂其定(ムルコトハ)遠近(ヲ)1者、從v京計(フ)之、)刑部省式に、凡(ソ)流移(ノ)人者、省足(テ)2配所(ヲ)1申v官(ニ)、具(ニ)録(シテ)2犯状(ヲ)1下2符(ヲ)所在並(ニ)配所(ニ)1其路程者、從v京爲v計、伊豆(去v京七百七十里、)安房(一千一百九十里、)常陸(一千五百七十五里、)佐渡(一千三百二十五里、)隠岐(九百一十里、)土佐等(ノ)國(一千二百二十五里、)爲2遠流(ト)1、信濃(五百六十里)伊豫等(ノ)國(ヲ)(五百六十里、)爲2中流(ト)1、越前(三百一十五里、)安藝等(ノ)國(ヲ)(四百九十里、)爲2近流(ト)1、これらに准へて考(フ)べし、續紀にも同じさまに見えて、この事を神龜元年三月、足2諸(ノ)流配遠近之程(ヲ)1とあり、其に諏方伊豫(ヲ)爲v中(ト)と見えたる諏方は、信濃の諏方なり、そのかみ國に建られて有しほどなればなり○時人《ヨノヒト》の時(ノ)字、舊本に脱たり、今は理もて補ひつ○傷(ノ)字、目録には痛と作り、いづれにもあるべし○拾穗本に、作者未詳とあり、
 
23 打麻乎《ウツソヲ》。麻續王《ヲミノオホキミ》。白水郎有哉《アマナレヤ》。射等籠荷四間乃《イラゴガシマノ》。珠藻苅麻須《タマモカリマス》。
 
打麻乎《ウチソヲ》は、枕詞なり、人名(ノ)の上に枕詞をおくこと、鳥かよふ羽田のなにも、天ざかる向津媛な(145)どの類古(ヘ)よりあり、さて十六に、打十八爲麻續兒等《ウツソヤシヲミノコラ》と作《ヨメ》るはいまとおなじ、かくて打麻は、十 二に、※[女+感]嬬等之續麻之多田有打麻懸續時無二戀度鴨《ヲトメラガウミヲノタヽリウツソカケウムトキナシニコヒワタルカモ》とも見ゆ、いづれも打(ノ)字を書るによるに、麻を續《ウム》には、先(ツ)打和らげて用るものなれば即(チ)ウチソ〔三字右○〕と訓て、字の如く、打たの麻をいふにやともおもはるれども、神祇令(ノ)集解に、麻續(ノ)連等|麻續而《ヲウミテ》、敷和御衣織奉《シキニキノミソオリテタテマツル》、云々、敷和者、宇都波多也と見え、(袖中抄に、佐保姫のおりかけさらすうつはたのかすみたちよる春の野邊かな、)又十六に、打栲者經而織布《ウツタヘハヘテオルヌノ》とあるなどは、全織《ウツハタ》また全栲《ウツタヘ》と聞えたれば、(神代紀に、全剥《ウツハギ》と見ゆ、)打麻も猶借(リ)字にて全麻《ウツソ》なるべし、其は常は打和らげなど、人の功《テ》を施《ツケ》て續(ム)ことなるを、しかせずして、そのまゝ、紡績《ウミツムギ》せらるゝ好《ヨ》き麻《ソ》と賞て稱る意なるべし、(又常陸風土記久慈(ノ)郡(ノ)條に、郡(ノ)東七里大田(ノ)郷、長幡部之社、古老(ノ)曰、云々、及2美麻貴(ノ)天皇之世(ニ)1、長幡部(ノ)遠祖多弖(ノ)命、避v自2三野1、遷(リ)2于久慈(ニ)1、造2立機殿(ヲ)1、初(テ)織《ハタオラス》之、其|所《セル》v織《オラ》服《ハタ》、自(ラ)成(リキ)2衣装《キモノト》1、更(ニ)無(シ)2裁縫(フ)1、謂(フ)2之《コヲ》内幡《ウツハタト》1とある、これも裁縫(フ)こともせず、其(ノ)まゝに衣裳に用ふるを、全服《ウツハタ》といへるなるべし、)さて枕詞の義は、全麻《ウツソ》の麻續《ヲウミ》とかゝれるなり、乎《ヲ》は之《ノ》といふに通ふ言なり、八穂蓼乎穂積乃阿曾《ヤホタデヲホツミノアソ》、などいへるとおなじさまなり、(冠辭考の説は、あきたらざることあり、○麻績王《ヲミノオホキミ》、續(ノ)字、拾穂本には績と作り、)王(ノ)字、於保伎美《オホキミ》と唱ふること、まづ上(ツ)代には某(ノ)王某(ノ)王と書て、王はみな美古《ミコ》と唱(ヘ)來しを、やゝ後に親王といふ號《ナ》出來てより、親王を美古《ミコ》と唱へ、親王ならぬを王と書て、其をば於保伎美《オホキミ》と唱へ分ることゝ(146)なれり、さてその親王と云|號《ナ》、天武天皇紀四年の條に始めて見えたれども、彼(ノ)頃は既く親王を美古《ミコ》と申し、其に分て諸王をば、某(ノ)於保伎美《オホキミ》と唱(フ)る定まりにはなれりけむ、故(レ)此(ノ)麻續王も、又十三に、三野(ノ)王とあるなども、同時代の諸王にて、これらは於保伎美《オホキミ》と唱(フ)べし、(このこと既(ク)一上に云り、猶古事記傳廿二に云ることをも引合(セ)考(フ)べし、)さて天皇の御諱《オホミナ》は更にも申さず、高位高官の人(ノ)名をば避て、題詞にも書ざることなるに、却て皇太子皇子諸王の御名をば、いさゝかつゝましげなく、高市(ノ)皇子(ノ)尊、或は舍人(ノ)皇子、或は軍(ノ)王などやうに多く書(ル)し、まして歌詞にさへ、麻續(ノ)王三野(ノ)王などよみて、すべて忌避る事なきは、天皇の御諱にも、亦臣下の名にも、各別(チ)ある理なることなど、此(ノ)下日雙斯皇子(ノ)命と作(ミ)たる歌の下に委(ク)云べし、○白水郎有哉《アマナレヤ》、(白水(ノ)二字、類聚抄には泉と作り、こは白水(ノ)二字を一字に作るにて、麻呂を麿と作と同じ類なり、なは泉郎と作る例は、六(ノ)卷七(ノ)卷等に見えたり、)阿麻《アマ》を白水郎と書ること、書紀などにも多し、こは和名抄に、白水郎、日本紀私記(ニ)云、漁人|阿未《アマ》、辨色立成(ニ)云、白水郎、和名同v上(ニ)とあり、(谷川氏云、白水郎をあまとよめるは、白水はもと地(ノ)名、郎は漁郎のごとし、崑崙奴の類にて、水によく沈むよし代醉編に見えたり、元※[禾+眞](カ)詩に、黄家(ノ)賊用2※[金+竄]刀(ヲ)1利、白水郎行(コト)2旱地(ヲ)1稀とあり、)さて此(ノ)一句は、白水郎《アマ》に有(レ)ばにやといふほどの意なり、奈禮也《ナレヤ》は、爾安禮也《ニアレヤ》の約りたるなり、婆《バ》をいはざるは古言の常なり、哉《ヤ》は疑の也《ヤ》なり、〔頭註〕白水本地名、漢永平間、寶固出2※[火+毀]煌崑塞1、撃2破白水(147)齒于蒲類海上1、渝州記、※[門/良]白水東南流、三曲如2巴字1、故名2三巴1、代醉編曰、唐周邯自v蜀買v奴曰2水精1、善沈v水、乃崑崙白水之屬也、(通證)〕○珠藻苅麻須《タマモカリマス》、(麻須を異本には食と作るよし拾穗本にいへり、)珠とはほむる辭なり例多し、藻を稱て云るなり、(岡部氏(ノ)考に、藻の子《ミ》の白玉の如くなれば、珠藻といふよしいへるは例の甚《イト》偏《カタヨ》れり、)麻須《マス》はいますといふが如し、藻を刈おはしますの意なり、麻續(ノ)王を崇めていへるなり、)食とあるに從ばヲス〔二字右○〕と訓べし、きこしめすといふがごとし、○歌(ノ)意、麻續(ノ)王は、かねては、やごとなき人と聞つるに、さはなくて海人にてあればにや、今此(ノ)伊良虞島の玉藻を刈て、朝夕の食料をいとなみつゝおはしますらむといへるなり、罪こそありけめ、しか王とおしはしましゝ人の、海人と見ゆばかりにやつれて、さるわざし給はむことはあるべくもあらねど、配所のわびしきさまをいひて、ふかくいとほしめる心より、かくはよめるなり、題詞に時(ノ)人哀傷作歌とあるは即(チ)其(ノ)意なり、
 
麻續王聞之感傷和歌《ヲミノオホキモノコノウタヲキカシテカナシミコタヘタマヘルウタ》。
 
續(ノ)字、拾穗本に績と作り、
 
24 空蝉之《ウツセミノ》。命乎惜美《イノチヲヲシミ》。浪爾所濕《ナミニヒデ》。伊良虞能島之《イラゴノシマノ》。玉藻苅食《タマモカリハム》。
 
空蝉《ウツセミ》のことは既く出つ、○命乎惜美《イノチヲチシミ》(惜(ノ)字、舊本情に誤、元暦本類聚抄拾穗本等に從つ、)は、命が惜さにの意なり、○浪爾所濕は、ナミニヒデ〔五字右○〕と訓べし、浪《ナミ》は鳴水《ナルミ》の義にやと荒井氏(ノ)説にいへ(148)り、猶考(フ)べし、ヒデ〔二字右○〕はヒダサレ〔四字右○〕の意なり、(ヒヂ〔二字右○〕と訓ては、所(ノ)字あまればわろし、)濕《ヒヅ》は玉藻かるに袖裾などの濕(ル)るをいふ、そのぬるゝはいとわびしけれど、ひたすら命のをしさに、かゝるわびしきわざするぞとの意なり○玉藻苅食は、タマモカリハム〔七字右○〕と訓べし、(袖中抄にカリシク〔四字右○〕とありて、カリハム〔四字右○〕ともよめりと云り、)後(ノ)世には波牟《ハム》てふ語は、鳥獣のうへにのみいふごとくなれゝど、古(ヘ)は何にも云り、)後(ノ)世|久布《クフ》といふことを、古くはもはら波牟《ハム》と云り、つら/\古言のやうを思ふに、久布《クフ》と波牟《ハム》とは、いさゝか差別あることゝ見えたり、波牟《ハム》とは咽に下すにつきていひ、久布《クフ》とはもはらくはへ持(ツ)ことにいへりと見ゆ、十(ノ)卷に、枝啄持而《エダクヒモチテ》、十三に、年魚矣令咋《アユヲクハシメ》、十六に、桙啄持而《ホコクヒモチテ》古事記上に、鼠|咋2持《クヒモチ》其(ノ)鴨鏑(ヲ)1出來而奉(リキ)也などあるにて、其(ノ)用たるやうを考(フ)べし、)例は五(ノ)卷に、宇利波米波胡藤母意母保由久利波米婆麻斯提斯農波由《ウリハメバコドモオモホユクリハメバマシテシヌハユ》云々、又久毛爾得夫久須利波武等母《クモニトブクスリハムトモ》云々、などあり、又七(ノ)卷に、茅花乎雖喫《チバナヲハメド》、十(ノ)卷に、鳥者雖不喫《トリハハマネド》、十二に、麥咋駒乃《ムギハムコマノ》、十四に、久佐波牟古麻能《クサハムコマノ》、又十六に、屎鯉喫有《クソフナハメル》、又|作有流小田乎喫烏《ツクレルヲダヲハムカラス》、又|飯喫騰《イヒハメド》、又|榎實毛利喫《エノミモリハム》、古事記上卷に、乃(チ)生(リキ)2蒲子《エビカツラノミ》1、是(ヲ)※[手偏+庶]食之間《ヒリヒハムアヒダ》、云々、乃(チ)生(リキ)2v笋《タカムナ》、是(ヲ)拔食之間《ヌキハムノアヒダ》、云々、また毎年來喫《トシノハニキハムナリ》など、是らも皆しか訓べき所なり、(又按(フ)に、今(ノ)世に朝にくふ物を朝はん、夕にくふ物を夕はんと云、はんは食の轉れるにて、これも古言なるべし、はんは飯(ノ)の字音とおもへりしはあらざりけり、○歌(ノ)の意は、かく浪に所《サレ》v濕《ヒタ》て玉藻をかりつゝ、ならはぬ海人のわざすること、いとわびしく(149)かなしければ、かゝるくるしき目を見むより、死たらむこそ中々にまさらめとは思ふものから、さすがに命の捨がたさに、かゝる業するぞと、時(ノ)人の海人にやとおほめきて、ふかくあはれみたる意をうけて、ことわり給へるなり、これも配所のわびしきさまを、藻を刈に託《コトヨセ》て、上の歌に答へ給へるなり、
〔右案2日本紀(ヲ)1曰。 天皇四年乙亥夏四月戊述朔乙卯。三品麻續(ノ)王。有v罪流2于因幡(ニ)1。一子(ハ)流2伊豆(ノ)島(ニ)1。一子(ハ)流2血鹿(ノ)島1也。是云v配(スト)2于伊勢(ノ)國伊良虞(ノ)島(ニ)者。若疑後(ノ)人縁2歌辭1。而誤記乎。〕
日本紀曰云々、書紀を見るに、天武天皇四年夏四月甲戌朔辛卯三位麻續王云々と有、こゝに四年乙亥夏四月戊戌朔乙卯、三品とあるはかた/”\誤なり、品は、古寫本拾穗本等には位とあり、○若(ノ)字、拾穗本になし、○縁(ノ)字、拾穗本に依と作り、○此(ノ)左注に疑ひたる如く、麻續(ノ)王は、因幡(ノ)國に配《ハナ》され賜ひたりとする時は、伊良虞(ノ)島といふ地、因幡(ノ)國にもあるなるべし、然るを、伊勢(ノ)國なるが名たゝる故に、地(ノ)名によりて、伊勢(ノ)國と混ひ誤れるなるべし、さて又常陸(ノ)國風土記に、行方(ノ)郡、從v此南十里板來村、近、臨2海濱(ニ)1、安2置驛家(ヲ)1、此謂2板來之驛(ト)1、其西榎木成v林(ヲ)、飛鳥(ノ)淨御原(ノ)天皇之世、遣2流麻續王(ヲ)1之居處、云々(板來は、二所共に榎木を誤れるには非ざるか、)とあるは、時代も人(ノ)名も同じければ、外人とはおもはれぬを、常陸(ノ)國に流されたまへるよし語り傳へたるは、所以あるべし、後人たゞしてよ、
 
(150)天皇御製歌《スメラミコトノミヨミマセルオホミウタ》
 
25 三吉野之《ミヨシヌノ》。耳我嶺爾《ミカネノタケニ》。時無曾《トキナクソ》。雪者落家留《ユキハフリケル》。間無曾《マナクソ》。雨者零計類《アメハフリケル》。其雪乃《ソノユキノ》。時《トキ》。無如《ナキガゴト》。其雨乃《ソノアメノ》。間無如《マナキガゴト》。隈毛不v落《クマモオチズ》。念乍叙來《オモヒツヽゾクル》。 其山道乎《ソノヤマミチヲ》。
 
三吉野は、ミヨシヌ〔四字右○〕と訓べし、古事記雄略天皇(ノ)大御歌に、美延斯怒《ミエシヌ》、書紀天智天皇(ノ)卷(ノ)歌に、曳之弩《エシヌ》とあれば、こゝもミエシヌ〔四字右○〕と訓べきかと思へど、次の御製歌の吉野吉見與もヨシヌ〔三字右○〕と訓べければ、猶此(ノ)集にてはヨシヌ〔三字右○〕と訓べし、十八にも、余思怒《ヨシヌ》と見えたり、さて此(ノ)地は大和(ノ)國吉野(ノ)郡にてかくれなし、○耳我嶺と有は甚疑はし、美彌我《ミヽガ》てふ山(ノ)名、吉野にて古(ヘ)も今も聞及ばず、かつはかくいふ山(ノ)名あるべくもおもほえず、(八雲御抄に、耳我嶺は、吉野に近き山のよしかゝせ賜へるをはじめて、近來大和(ノ)國の名所の事書るものなどに、吉野山の一名といひ、また窪垣内《クボカイチ》村の上(ツ)方にある山ぞなど云るたぐひは、皆今の字に依ておしあてに説《イへ》るならむ、)、耳我と書る字も心ゆかず、誤字脱字などあらむと思はるれば、今は姑く下に引る十三の歌ぞ、風《サマ》も詞も大かた今のに似たれば、それによりて、ミカネノタケ〔六字右○〕と訓つ、御金嶺《ミカネノタケ》は靈異記中卷に、聖武天皇(ノ)代、廣達|入《イリ》2於|吉野金峯《ヨシヌノカネノタケニ》1、經2行《ヘユキ》樹下《コノモトヲ》1而《テ》求2佛道(ヲ)1、云々、僧尼令義解に、假如(ハ)山居在(テハ)2金(ノ)嶺(ニ)1者、判(テ)下(ス)2吉野郡(ニ)1之類(ヲ云)也、神名帳に、大和(ノ)國吉野(ノ)郡金峯(ノ)神社、文徳天皇實録四(ノ)卷五(ノ)卷六(ノ)卷、三代實録二(ノ)卷などにも、大和(ノ)國金峯(ノ)神(から書義楚六帖に、日本國金峯山有2松檜1と見え、又元亨釋書(151)拾芥抄宇治拾遺今昔物語など、其(ノ)餘の物にも金峯あまた見えて枚擧《アゲツクス》べからず、夫木集には、神の座こがねの峯ともよめり、)などゝ見えて、後世までも金嶽《カネノミタケ》とぞいふなる、御金峯と御の言をそへたるは、御吉野《ミヨシヌ》、御熊野《ミクマヌ》などいふ例の如し、(しかるを岡部氏(ノ)考に、耳我は御缶《ミミガ》てふ意にて、此(ノ)山の形の、大きなる甕《ミカ》に似たればいふならむといひ、且十三に、御金嵩とあるをさへに引出て、金は缶の誤にてミヽガノタケ〔六字右○〕ぞと、謾に推て定めしはいかにぞや、そもそも美加《ミカ》としもいふは、御※[瓦+肆の左]《ミカ》の意にて、御《ミ》は例の美稱にそへたるのみなれば、加《カ》とのみもいへる例多し、由加《ユカ》、比良加《ヒラカ》、多志良加《タシラカ》などいへるがごとし、しかればいかで御々※[瓦+肆の左]《ミヽミカ》、と御《ミ》の言を重ねてはいふべきぞ、そのうへ美加《ミカ》の加の言は清て唱(フ)る例なるを、耳我と濁音の字を書るをや、そもそも此(ノ)集などよまむには、まづ廣く古書を考わたしてこそ、字の誤などはさだすべきことなるを、みだりに私の心もてさだめむとするより、さるひがことはいでくるものぞかし、かかるを略解などにも、猶岡部氏(ノ)説によりていまだその誤《ヒガコト》なるを知れる人なかりしを、うれたみおもひておどろかしおくものぞ、○時無曾《トキナクソ》、或本に時自久曾とあるも同じ、何時と定りたる時もなく、常に雪雨のふるよしなり、これ高山の常なり、曾《ソ》は次なるとふたつながら、餘の山に對へてのたまへるなり、餘の山には、かばかり間無時わかず雨雪のふることなければなり、○間無曾は、(ヒマナクソ〔五字右○〕と訓たれども、ヒマ〔二字右○〕てふ言の證を未(タ)見ず、古語ともおもはれ(152)ねば、)マナクソ〔四字右○〕と訓べし、○其雪乃《ソノユキノ》云々、この四句は、上の四句を承て詔へるなり、其《ソノ》とは、上に出たる時無間無ふる其雪雨之なり、○隈毛不落《クマモオチズ》は、隈も漏ずの意なり、例は上にいひつ、隈とは道の隈々なり、下に其(ノ)山道乎とあるにて道の隈とはしるし、その道の隈を詔へるは、道程の長きしるしなり、おはします道多く隈ありて長けれど、ゆく/\しばしも忘れ給はぬよしなり、○思乍叙來(思(ノ)字、類聚抄に念と作り、)は、オモヒツヽゾクル〔八字右○〕》と訓べし、乍の言は上に注り、(略解に、モヒツヽゾクル〔七字右○〕とよみたれども、云々思《シカ/\モフ》などいふときこそオモヒ〔三字右○〕をモヒと〔三字右○〕いふ古語の例なれども、句の頭にて略ける例は、をさ/\見えたることなければひがことなるべし、)來《クル》とは、そのおはします道すがらなればなり、さて此(ノ)大御歌いかなるをりにあそばしゝとは、今さだかには知がたけれど、其所までおはします道すがらを、來《クル》とは詔へることしるし、されば今(ノ)世(ノ)人の心ならば、思乍叙行と云ふべきを、かく詔へるなるべし、そも/\行と來とは、彼(ヨリ)と此(ヨリ)との差別あることなるに、古人は、行と來とひとつに通はし云たるごときこゆれども、なほよく考れば其(ノ)別あることなり、さればこゝは、そのおはしますかたを内にして詔へるなり、かの倭には鳴てか來らむといへるも、行らむといふべき所と聞ゆれども、これも倭の方を内にして來といへるなり、かゝればいづれも内よりいふと、外よりいふとのけぢめありと心得べし、(又來をケル〔二字右○〕ともよむべし、しか訓ときは過にし方をのたまへること(153)となれり、その處までおはしましゝことの勞《イタツキ》をのたまへるなり、さてケル〔二字右○〕は、キケル〔三字右○〕の切(リ)たる辭にて古言なり、キケ〔二字右○〕はケ〔右○〕と切(マ)れり、三(ノ)卷に、名積來有鴫《ナヅミケルカモ》、十二に、來有人哉誰《ケルヒトヤタレ》などあり、十七に、使乃家禮婆《ツカヒノケレバ》と假字書も見えたり、またコシ〔二字右○〕と訓ても然るべし、)○其山道乎《ソノヤマミチヲ》、其《ソノ》とは上の三吉野之耳我嶺爾《ミヨシヌノミカネノタケニ》とよみませるをさして詔へるなり、此(ノ)御句は、上の隈毛不落《クマモオチズ》の上に置て心得べし、○大御歌(ノ)意は吉野のさがしき山路を長々と隈もおちず、行々おもひつづけらるゝ事のわりなき事と、御みづから歎き給へるよしなり、この大御歌は、いかなる時の御製ませりともわきまへがたきを、強て大御詞のさまをおもひめぐらすに、もしくははじめ天皇吉野(ノ)宮に大坐々ける間《ホド》、女の許に通ひ賜ひしことの有て、其(ノ)時によみたまへるにや、かにかくに戀の大御歌とは聞ゆるなり、凡て集中に此(ノ)大御歌の體なるがいと多有《オホカル》に、皆戀(ノ)歌なるにてもさとるべし、)諸説《ヒト/\ノコト》に、吉野(ノ)山を賞愛《メデ》ませる大御歌とせるは、甚《イタク》拘泥《ナヅ》めり、)さて十三相聞に、三吉野之御金高爾間無序雨者落云不時曾雪者落云其雨無間如彼雪不時加間不落吾者曾戀妹之正香乎《ミヨシヌノミカネノタケニマナクゾアメハフルチフソノアメノマナキガゴトソノユキノトキジクガゴトマモオチズアレハソコフルイモガタヾカヲ》(乎(ノ)字、舊本爾に誤、)とあるは、今の御製歌と大かた同じ、
〔或本歌 26 三芳野之《ミヨシヌノ》、耳我山爾《ミカネノヤマニ》。時自久曾《トキジクソ》。雪者落等言《ユキハフルチフ》。間無曾《マナクソ》。雨者落等言《アメハフルチフ》。其雪《ソノユキノ》。不時如《トキジクガゴト》。其雨《ソノアメノ》。間無如《マナキガゴト》。隈毛不墮《クマモオチズ》。念乍叙來《オモヒツヽゾクル》。 其山道乎《ソノヤマミチヲ》。〕
我(ノ)字、拾穗本に毛と作りいかゞ、○雪落等言《ユキハフルチフ》云々、雨者落等言《フメハフルチフ》云々の等言《チフ》は、人のしかいふ(154)よしうはさの辭なれば、こゝにかなはず、下に其山道乎とありて、吉野にての大御歌と見ゆれば、等言と軋のたまふべくもなし、また言(ノ)字、二(ツ)ながら類聚抄に、異本に之と有よしにてラシ〔二字右○〕とよめり、それもいかゞ、本章に落家留とあるぞ正しき、○不時如は、トキジクガゴト〔七字右○〕と訓べし、上の時自久をうちかへしのたまひたればなり、
〔右句々相換(レリ)。因(テ)v此(ニ)重(テ)載(タリ)焉。〕
 
天皇《スメラミコトノ》幸《イデマセル》2于|吉野宮《ヨシヌノミヤニ》1時御製歌《トキミヨマセルオホミウタ》。
 
天皇幸は、左注に書紀を引たる如く、八年五月なり、さて同天皇同吉野の大御歌なるに、かく此にふたゝび殊更に幸としも、題詞《ハシヅクリ》をわかてる故は、上の大御歌は既《ハヤ》くいへる如く、まだ皇太弟と申しゝ御時の事とおもほゆるを、この大御歌は大御位の後にて、幸の時節も著く定かなればなり、○吉野(ノ)宮は、應神天皇(ノ)紀に、十九年冬十月戊戌朔、幸2吉野宮(ニ)1と見え、さて齊明天皇(ノ)紀に、二年作2吉野(ノ)宮(ヲ)1と有は、改め造らしめ賜ふなり、
 
27 淑人乃《ヨキヒトノ》。良跡吉見而《ヨシトヨクミテ》。好常言師《ヨシトイヒシ》。芳野吉見與《ヨシヌヨクミヨ》。良人四來三《ヨキヒトヨクミ》。
 
淑人乃《ヨキヒト》は、九(ノ)卷に、妹等許今木乃嶺茂立嬬待木者吉人見祁牟《イモガリトイマキノミネニシミタテルツママツノキハヨキヒトミケム》、(吉(ノ)字、舊本古に誤れり、)とあるとおなじく、誰とはしられねど、古(ヘ)ありし良人を指てのたまへり、○良跡吉見而《ヨシトヨクミテ》は、跡《ト》はとての意なり、此所を勝地《ヨキトコロ》とて委見而《ヨクミテ》の謂なり、委見は、六(ノ)卷に、難波方潮干乃奈凝委曲見名在家妹之(155)待將問多米《ナニハガタシホヒノナゴリヨクミテナイヘナルイモガマチトハムタメ》、十(ノ)卷に、朝戸出之君之儀乎曲不見而長春日乎戀八九良三《アサトデノキミガスガタヲヨクミズテナガキハルヒヲコヒヤクラサム》、などある委曲見に同じ、下なる吉見與も同意なり、○好常言師《ヨシトイヒシ》は、委見てのちに、まことに勝地ぞとさだめいひしよしなり、○芳野吉見與《ヨシヌヨクミヨ》、(與(ノ)字、道晃親王御本拾穗本等には欲と作り、古寫本類聚抄等に多とあるはいかゞ、拾穗抄にも、異本に多とあるよししるせり、)この芳野は、上の三句を承て詔へるにて、良人の勝地ぞとて委見て、げによき地ぞとさだめいひし芳野をとつゞけ給へるなり、吉見與は、昔の良人の如くに、委見よと詔へるなり、○良人四來三《ヨキヒトヨクミ》は、良人とは今の良人なり、こは從駕の人の中に、さし賜ふ人ありしなるべし、四來三は、本居氏(ノ)玉(ノ)小琴に、或人のヨクミ〔三字右○〕とよめるを用ふべし、見とのみ云ても、見よと云意になる古言の例なり、と云る實にさもあるべし、(今按(フ)に、僻案抄にヨキヒトヨクミ〔七字右○〕とよめり、略解にヨキヒトヨキミ〔七字右○〕またヨキヒトヨクミツ〔八字右○〕などよめるはわろし、)○大御歌(ノ)意は、古(ヘ)ありし良人のよき地ぞとてよく見て、げによき地といひし芳野はこゝぞ、委曲《ヨク》見よ、大かたに見過すことなかれ、かへす/”\もよく見よ、今の良人よと詔へるなり、吉野を世にことなる所ぞとほめたる歌、集中に甚多き中に、七(ノ)卷に、妹之紐結八川内乎古之并人見等《イモガヒモユフヤカフチヲイニシヘノヨキヒトミツト》此乎誰知、(并は淑の誤寫か、結八川は吉野(ノ)川の内にあ
イニシヘノサカシキヒトノアソビケムヨシヌノカハラミレドアカヌカモ
り、)九(ノ)卷に、古之賢人之遊兼吉野川原雖見不飽鴨《》、と有などは、大かたこゝと同じく、上つ代に在し賢(シキ)人をいへるなるべし、○此(ノ)御製歌は、句(ノ)頭毎に同語ある體の一格にて、四(ノ)卷に、將來云(156)毛不來時有乎不來云乎將來常者不待不來云物乎《コムチフモコヌトキアルヲコジチフヲコムトハマタジコジチフモノヲ》、とあるに同じ、古今六帖に、心こそ心をはかる心なれ心のあたは心なりけり、又後に、思はじと思ふは物を思ふかな思はじとだに思はじや君、また思人思はぬ人の思ふ人思はざらなむ思ひ知べく、又さくらさく櫻の山のさくらばなさくさくらあればちる櫻あり、などいふ歌のきこゆるも、右の體によれるものなり、
〔紀(ニ)曰。八年己卯五月庚辰朔甲申。幸(ス)2于吉野宮(ニ)1。〕
 
藤原宮御宇天皇代《フヂハラノミヤニアメノシタシロシメシヽスメラミコトノミヨ》
 
藤原(ノ)宮は、高市(ノ)郡にて、香山の西、畝火山の東、耳梨山の南なること、此(ノ)下藤原(ノ)宮(ノ)御井をよめる長歌にてしられたり、今も大宮殿と云て、いさゝかの處を畑にすき殘して、松立てある地、其(ノ)跡なりとぞ、さて香具山は十市(ノ)郡なれども、宮地は其(ノ)西にて高市(ノ)郡に屬るなるべし、釋紀に氏族略記を引て、藤原(ノ)宮在高市(ノ)郡鷺栖坂(ノ)北地(ニ)1といへり、(しかるを大和志に、高市(ノ)郡大原村、持統天皇八年、遷2居於此(ニ)1、とあるはたがへり、其(ノ)大原即(チ)藤原と云て、同じ高市(ノ)郡なれば、人みな思ひ混ふことなれど、かの大原なるは、鎌足大臣の本居の地にして宮地の藤原とは同名異地なり、)此宮は、持統天皇文武天皇二御代の宮なり、持統天皇は、書紀持統天皇(ノ)卷(ノ)初に、高天原廣野姫(ノ)天皇(ハ)、少名(ハ)※[盧+鳥]野讃良《ウヌノサラヽノ》皇女、天命開別(ノ)天皇(ノ)第二(ノ)女也、母(ヲ)曰2遠智(ノ)娘(ト)1、天皇|深沈《シメヤカニシテ》有《マシ/\キ》2大度1、天豐財重日足姫(ノ)天皇(齊明)三年、適《ミアヒマシテノ》2天(ノ)渟中原瀛(ノ)眞人(ノ)天皇(ニ)1、(天武)爲(リタマフ)v妃(ト)、天渟中原瀛(ノ)眞人(ノ)天皇二年、立(テ)爲2(157)皇后(ト)1云々と見えて、四年正月戊虎朔、皇后|即天皇位、《アマツヒツギシロシメス》、十月甲辰朔壬申、高市(ノ)皇子|觀《ミソナハス》2藤原(ノ)宮地(ヲ)1、十二月癸卯朔辛酉、天皇幸(テ)2藤原(ニ)1觀2宮地(ヲ)1、六年十二月庚戌朔乙卯、遷(リマシ/\キ)居藤原(ノ)宮(ニ)1、十一年八月乙丑朔、天皇禅(リタマヒキ)2天皇位《オホミクラヰヲ》於皇太子(ニ)1と見ゆ、此よりして太上天皇と稱奉れり、續紀に、文武天皇大寶二年十二月甲寅、太上天皇崩(リマス)、三年十二月癸酉、火2葬(マツル)於飛鳥(ノ)岡1、壬午、合2葬(マツリキ)於大内山(ノ)陵(ニ)1とあり、諸陵式に、檜隈(ノ)大内陵藤原(ノ)宮御宇持統天皇合2葬檜前(ノ)大内1、陵戸更不2重充1、)と見ゆ、文武天皇は、續紀に、天之眞宗豐親父(ノ)天皇(ハ)、天渟中原瀛(ノ)眞人(ノ)天皇(天武)之孫、日並知(ノ)皇子(ノ)尊之第二子也、母(ハ)天命開別(ノ)天皇(天智)之第四女、日本根子天津御代豐國成姫(ノ)天皇(元明)是也、高天原廣野姫(ノ)天皇十一年立爲2皇太子1、八月甲子朔、受v禅(ヲ)即位、慶雲元年十一月壬寅、始定2藤原(ノ)宮(ノ)地宅(ヲ)1、四年六月辛巳、天皇崩、十一月丙午、謚曰2倭根子豐親父(ノ)天皇(ト)1、即日火2葬於飛鳥(ノ)岡1、甲寅、奉v葬2於檜(ノ)隈(ノ)安古山(ノ)陵1、諸陵式に、檜(ノ)前安古(ノ)岡(ノ)上(ノ)陵(藤原(ノ)宮御宇文武天皇、在2大和(ノ)國高市(ノ)郡(ニ)1、兆域東西三町南北三町、陵戸五烟、)とあり、御少名を輕(ノ)皇子と申したる事下に出、○天皇代の下、舊本等に、高天原廣野姫天皇と注し、拾穗本には、謚曰持統天皇、元年丁亥十一月、讓位輕太子、尊號曰太上天皇とあり、元年云々の詞、古寫本又類聚抄にも同くあり、是皆後人のしわざなり、上に云る如く、こは二御代の標なるを、持統天皇一御代のみの標と意得たること、かへす/\もかたはらいたし、
 
天皇御製歌《スメラミコトノミヨミマセルオホミウタ》。
 
(158)天皇(皇(ノ)字、舊本に良に誤、類聚抄古寫本等によりつ、)は、持統天皇なり、岡部氏考に云るは、こは持統天皇のいまだ清御原(ノ)宮におはしましゝほど、夏のはじめの頃、埴安の堤の上などに幸し給ふに、かぐ山のあたりの家どもに、衣を掛ほして有を、見をなはしてよませ給へるなり、と云る如し、されどこの天皇、やがて御代しろしめしてよりは、藤原(ノ)宮御宇天皇と稱す事なれば、清御原(ノ)宮の標中に入(レ)ず、こゝにこの代標を建て、その標中に收(レ)たるなるべし、
 
28 春過而《ハルスギテ》。夏來良之《ナツキタルラシ》。白妙能《シロタヘノ》。衣乾有《コロモホシタリ》。天之香來山《アメノカグヤマ》。
 
夏來良之は、ナツキタルラシ〔七字右○〕と訓べし、夏は、古事記傳夏高津日(ノ)神の名義を云る條に、夏は成立《ナリタツ》なり、理《リ》を省き多都《タツ》を切めたるにて、是も稻のことなり、四季の夏も、もと此(ノ)意にて、稻より云名なり、夏は暑《アツ》なりと云説はわろし、と云り、猶考(フ)べし、キタル〔三字右○〕は來而有《キテアル》なれば、(テア〔二字右○〕の切タ〔右○〕)こゝも來有良之《キタルラシ》などこそ書べきことなれど、既く來の一字をキタル〔三字右○〕と訓ことゝなれりと見えて、集中に來(ノ)字のみにて、キタ〔三字右○〕》と訓べき所多し、良之《ラシ》の言は上にくはしくいへり、夏來てある事の、十に七八しるき意なり、さてこのつゞけの體は、十九に、春過而夏來向者《ハルスギテナツキムカヘバ》、また十(ノ)卷に、寒過暖來良思《フユスギテハルキタルラシ》、十七に、民布由都藝《ミフユスギ》(都は、須(ノ)字の誤、)芳流波吉多禮登《ハルハキタレド》、(金塊集に、み冬つき春しきぬれば青柳のかづらぎ山に霞棚引とあるは、眞冬盡にて、意ばえは同じことながら、古風のいひざまにはいさゝかたがへり、)などいへる皆同じつゞけざまなり、○白妙《シロタヘ》は、妙は借(リ)(159)字にて、白布《シロタヘ》の義なるよしは、冠辭考にいへるが如し、此(ノ)の御歌にては、枕詞にあらず、たゞ白き衣のよしなり、○衣乾有は、コロモホシタリ〔七字右○〕と訓べし、飛鳥井本六條本等にもかくあるは、古訓のまゝなり、衣乾てありの意なり、○大御歌(ノ)意は、契沖、春までの衣は、たゝみおかむためにほし、去年より箱にいれおける衣をば、今著む料に濕氣などかわかさむとて、かぐ山のふもとかけてすむ家々に、取(リ)出てほせるが見ゆるにつけて、時節のいたれることをよませ賜へるなり、十四東歌に、筑波禰爾由伎可母布良留伊奈乎可母加奈思吉兒呂我爾努保佐流可母《ツクバネニユキカモフラルイナヲカモカナシキコロガニヌホサルカモ》とありて、山に布ほすこともあればこそ、かくはよみけめ、今の御歌、これに准へて心得べしと云り、(朗詠集更衣の詩に、開v箱衣帶(タリ)2隔v年(ヲ)香(ヲ)1、)猶春なりとおぼしめしゝを、かぐ山わたりに衣ほしたるをふと御覽じて、さてははや夏來てあるらしと、時のうつれるを驚きて歎き給へるなるべし、さて昔時は、此(ノ)山に人の家多く有ける故に、衣をも乾けるなり、かくて山家なるが故に、他所へも見えけるなるべし、
 
過《ユク》2近江荒都《アフミノアレタルミヤコヲ》1時《トキ》。柿本朝臣人麿作歌《カキノモトノアソミヒトマロガヨメルウタ》。
 
近江荒都云々、天智天皇六年、飛鳥(ノ)崗本(ノ)宮より、近江(ノ)大津(ノ)宮へうつりまし、十年十二月崩(リ)給ひ、明年の五月、大海人大友の二皇子の御軍有しに、事平らぎて大海人(ノ)皇子(ノ)尊は、飛鳥(ノ)清見原(ノ)宮に天(ノ)下如しめしぬれば、近江の宮は舊都となれるなり、さてここの朝臣の此(ノ)舊都を過《ユケ》りしは、(160)假の御使にて下りしをりか、又は近江を本居にて、衣暇田暇などにな下りしにもあるべし
○柿本(ノ)朝臣人麻呂(この七字、古本に過(ノ)字の上に有、)は、父祖は、考(フ)べきものなし、さて柿本氏の事は岡部氏(ノ)考(ノ)別記に委くいへり、考(フ)べし、
 
29 玉手次《タマタスキ》。畝火之山乃《ウネビノヤマノ》。橿原乃《カシハラノ》。日知之御世從《ヒシリノミヨヨ》阿禮座師《アレマシシ》。神之盡《カミノコト/”\》。樛木乃《ツガノキノ》。彌繼嗣爾《イヤツギツギニ》。天下《アメノシタ》。所知食之乎《シロシメシシヲ》。虚見《ソラミツ》。倭乎置而《ヤマトヲオキテ》。青丹吉《アヲニヨシ》。平山越而《ナラヤマコエテ》。何方所念計米可《イカサマニオモホシケメカ》。天離《アマサガル》。夷者雖不〔○で囲む〕有《ヒナニハアラネド》。石走《イハバシル》。淡海國乃《アフミノクニノ》。樂浪乃《サヽナミノ》。大津宮尓《オホツノミヤニ》。天下所知食兼《アメノシタシロシメシケム》。天皇之《スメロギノ》。神之御言能《カミノミコトノ》。大宮者《オホミヤハ》。此間等雖聞《ココトキケドモ》。大殿者《オホトノハ》。此間等雖云《ココトイヘドモ》。霞立《カスミタツ》。春日香霧流《ハルヒカキレル》。夏草香《ナツクサカ》。繁成奴留《シゲクナリヌル》。百磯城之《モヽシキノ》。大宮處《オホミヤドコロ》。見者悲毛《ミレバカナシモ》。
 
玉手次《タマタスキ》は、畝火《ウネビ》と云む料の枕詞なり、此(ノ)つゞけ四(ノ)卷七(ノ)卷にも見えたり、さてかくいひかけたる義は、玉手次は把襷《タバタスキ》といふなるべし、さて把襷といふは、まづその結法《カケザマ》、左右の袖口より背へ貫通《トホ》して、兩(ノ)肩の正中《タゞナカ》、頸の下《モト》に把《タバ》ね縮めて結ぶを、今(ノ)世に玉襷《タマタスキ》と呼り、古(ヘ)のも、しかせしをぞ云しならむ、此(ノ)義は既く上軍(ノ)王(ノ)歌の注にことわれり、さて畝火とかゝれるは、いと/\辨へがたきを、せめて思へば、把襷頸根結《タバタスキウナネムスビ》と云ならむ、頸根《ウナネ》は、延喜式祝詞等に、宇事物頸根衝拔《ウジモノウナネツキヌキ》と見えて、詞の下《モト》を云言なるを知べし、さて宇奈禰《ウナネ》を約れば宇禰《ウネ》となり、(奈禰《ナネ》の切|禰《ネ》、)武須妣《ムスビ》を約れば美《ミ》となれり、(武須《ムス》の切|武《ム》、武美《ムミ》の切|美《ミ》なり、)美《ミ》と妣《ビ》の濁音とは親く通へば、うねみう(161)ねびは全(ラ)同言なり、さてその頸根にて結ぶよしは、上に云るが如し、(冠辭考に、荷田(ノ)在滿(カ)説を擧て、襷を嬰《ウナゲ》ると續けつらむ、神代紀に、其|頸所嬰五百箇御統之瓊《ミウナジコウナゲルユツミスマルノニ》、また乙登多奈婆多廼※[さんずい+于]奈餓勢屡多磨廼彌素磨屡廼《オトタナバタノウナガセルタマノミスマルノ》云々、ともあればなりと見えて、此(ノ)説古事記傳にも引り、抑々古言に宇奈雅流《ウナゲル》また宇奈我勢流《ウナガセル》など云るは、全《モハラ》頸に嬰るをいふ言にて、其は頸玉《クビタマ》、あるは領巾《ヒレ》など著るを云るにて知べし、襷は主と肩にかけて、袖をかゝぐる料のものにこそあれ、其を頸に嬰《カケ》て何の用にかはせむ、されば右の説はいふがひなき論なるを、世の古學のともがら、冠辭考の説にゆだねて、ことさらに考(ヘ)出べきものともせざめるはいかにぎや、)○畝火之山《ウネビノヤマ》は既く出、○橿原《カシハラ》は、畝火山にあり、○日知之御世從《ヒシリノミヨヨ》、(舊本に、或云自宮と注せり、それもあしからねど本章に隨べし、)こは神武天皇の御世をさして申せり、古事記中卷(ニ)云、神倭伊波禮毘古命、與2其(ノ)伊呂兄五瀬(ノ)命1、二柱|坐《マシ/\》2高千穗(ノ)宮(ニ)1而議(リタマハク)云、坐2何(ノ)地(ニ)1、平2聞看《タヒラケクキコシメサム》天(ノ)下之政(ヲ)1、猶思(シテ)2東(ノ方ニ)行(ムト)1、即(チ)自2日向1發幸《タヽシテ》、御《イデマシキ》2筑紫(ニ)1、云々、故(レ)如v此(ノ)言2向平和《コトムケヤハシ》荒夫琉神(ヲ)1、退2撥《ハラヒタヒラゲ》不伏《マツロハヌ》人等(ヲ)1而、坐(シテ)2畝火之|白檮原宮《カシハラノミヤニ》1、治《シロシメシ》2天下1也云々、書紀(ニ)云、觀(レバ)2夫(ノ)畝傍山(ノ)東南橿原(ノ)地(ヲ)1者、蓋|國之墺區乎《クニノモナカナラムカ》、可v治之《コヽニミヤコシキマサム》、是(ノ)月即命(テ)2有司(ニ)1、經2始《ツカヘマツラシキ》帝宅《オホミヤ》1云々、辛酉年春正月庚辰朔、天皇|即2帝位《アマツヒツギシロシメス》於橿原(ノ)宮(ニ)1、是歳(ヲ)爲2天皇(ノ)元年(ト)1、尊(テ)2正妃(ヲ)1爲2皇后(ト)1、生2皇子神八井(ノ)命、神渟名川耳(ノ)尊(ヲ)1、故(レ)古語(ニ)稱d之曰《タヽヘマヲシキ》、於畝傍之橿原(ニ)也、大2立宮柱《ミヤハシラフトシキタテ》於|底磐之根《ソコツイハネ》1、峻2峙搏風《ヒギタカシリテ》於高天(ノ)之原(ニ)1、而|始馭天下之天皇《ハツクニシラススメラミコトヽ》u。號2曰《オホミナタテマツレリ》神日本磐余彦火々出見(ノ)天皇(ト)1焉とあり、日知は、岡部(162)氏(ノ)考(ニ)云、日知《ヒシリ》てふ言は、先(ツ)月讀(ノ)命は、夜之食國を知しめせと有に對て、日之食國を知ますは、大日女の尊なり、これよりして天都日嗣しろしめす、御孫の命を、日知と申奉れり、書紀に、神聖など有は、から文體に字を添しにて、二字にてそれはかみと訓なり、聖(ノ)字に泥て、日知てふ言を誤る説多かりとあり、從は用《ヨ》とも由《ユ》とも訓べし抑々この辭、古(ヘ)は用理《ヨリ》とも由理《ユリ》とも用《ヨ》とも由《ユ》ともいへること、古事記書紀より、集中を推わたして考(ヘ)知べし、其(ノ)中に用《ヨ》と云るは、集中に五(ノ)卷に、久須利波牟用波《クスリハムヨハ》、十四に、之氣吉許能麻欲《シゲキコノマヨ》、又|與曾爾見之欲波《ヨソニミシヨハ》、又|伊加保世欲《イカホセヨ》、又|安素乃河泊良欲《アソノカハラヨ》、又|伊毛我多太手從《イモガタヾテヨ》、又|麻久良我從《マクラガヨ》、又|兒呂家可奈門從《コロガカナトヨ》、十七に、安我松原欲《アガマツバラヨ》、十八に、許欲奈枳和多禮《コヨナキワタレ》、又|伊爾之敝欲《イニシヘヨ》、又|和可禮之等吉欲《ワカレシトキヨ》、十九に、遠始欲《トホキハジメヨ》など有(リ)、由《ユ》といへるは、五(ノ)卷に、伊豆久由可《イヅクユカ》、又|阿麻能見虚喩《アマノミソラユ》、六(ノ)卷に、眞木立山湯《マキタツヤマユ》、又|左日鹿野由《サヒカヌユ》、十一に、久時由《ヒサシキトキユ》、十四に、目由可汝乎見牟《メユカナヲミム》、又|伊豆由可母《イヅユカモ》、又|倍由毛登毛由毛《ヘユモトモユモ》、十五に、伊素未乃宇良由《イソマノウラユ》、又|奈美能宇倍由見由《ナミノウヘユミユ》、又|伊蘇乃麻由《イソノマユ》、又|夜蘇之麻能宇倍由《ヤソシマノウヘユ》、十六に、中門由《ナカノミカドユ》、十七に、之多由孤悲安麻里《シタユコヒアマリ》、又|伊爾之弊由《イニシヘユ》、十八に、許由奈伎和多禮《コユナキワタレ》、十九に、平城京師由《ナラノミヤコユ》、廿(ノ)卷に、宇倍之神代由《ウベシカミヨユ》、又|之良比氣乃宇倍由《シラヒゲノウヘユ》など見えたり、(なほ古事記書紀などにも多かれど、そは略きて集中なるをのみ引つ、)但し一言にいひて宜しき處を古事記には、用《ヨ》とのみ云て、由《ユ》と云ることなく、書紀には、由《ユ》とのみ云て、用《ヨ》と云ることなし、集中にては、用《ヨ》とも由《ユ》ともかたみに云て、めづらしからぬこと、右に引る例どもの(163)如し、(由理《ユリ》と云るは、廿(ノ)卷に、阿須由利也《アスユリヤ》、又|奈爾波能津由利《ナニハノツユリ》、)(但し此(ノ)一首は、姑く元暦本に從(レ)り、)續紀四(ノ)卷詔に、高天原由利《タカマノハラユリ》、(由(ノ)字、流布本には與とあり、一本に從、)十(ノ)卷詔に、皇朕高御座爾坐初由利《スメラワガタカミクヲニイマシヽハジメユリ》、今年爾至麻弖《コトシニイタルマデ》云々、本由理行來迹事曾止《モトユリオコナヒコシアトゴトソト》などあり、用理《ヨリ》と云るは例を引までもなし、(古今集よりこの方は、用理《ヨリ》とのみ云て、餘の三種にいへること絶たり、)抑々此(ノ)辭はたとへば、古(ヘ)より今、今より後、彼(レ)より此(レ)、此(レ)より彼(レ)と云は尋常にて、今殊更に論ふに及ばず、こゝの從《ヨ》これなり、日知之御世より以來といふことなればなり、然るを或は袁《ヲ》の如く爾《ニ》の如くにも聞え、或は敝《ヘ》のごとく、又|爾弖《ニテ》といふにも通ひて聞ゆるなど種々あれば、凡ての例どもを引て首(ノ)卷にことわりおけり、合(セ)考(フ)べし、○阿禮座師《アレマシヽ》、古事記傳神武天皇(ノ)條に、安禮坐之御子《アレマシシミコ》とあるところに云(ク)、阿禮坐《アレマス》は生(レ)坐にて宇麻禮《ウマレ》賜へりと云ことなり、阿禮《アレ》てふ言の意は、新《アラ》現《アラ》と通へり、生るるは此(ノ)身の新に成なり、又現るゝなればなり、明(ノ)宮(ニ)御宇天皇の生坐るをも其(ノ)御子者阿禮坐とあり、續紀一に、天皇(ノ)御子之阿禮坐牟彌繼々爾《ミコノアレマサムイヤツギツギニ》と見え、月次(ノ)祭祝詞にも、阿禮坐皇子等乎毛惠給比《アレマスミコタチチモメグミタマヒ》と、見え、萬葉一(ノ)卷に云々、六(ノ)卷に、阿禮將座御子之嗣繼《アレマサムミコノツギ/\》など見ゆ、又書紀允恭天皇(ノ)卷に、皇后産2大泊瀬(ノ)天皇(ヲ)1とある産を、阿良志麻須《アラシマス》と訓るは、令《シメ》v生《アラ》坐《マス》なりとあり、(按に阿禮《アレ》は宇麻禮《ウマレ》を切めたる言なり、と云は誤なり、うまるゝは母に所《ルヽ》v生《ウマ》にて、母を主としていひ、阿禮《アレ》は現(ハ)るゝ義にて、子を主として云、故(レ)其(ノ)言はもと別なり、)師《シ》は、過去し方の事をいふ辭なり、○神之盡《カミノコト/”\》(盡(ノ)(164)字、舊本に書と作《カケ》るは非なり、今は一本によりつ、)は、日知之御世より生(レ)繼(キ)座し神々|悉皆《コト/\ク》といふなり、神とは御世御世の天皇等を申す。盡《コト/”\》といふことは古言に多し、(こゝは今(ノ)俗に、夫(レ)々と云むが如し、中昔までもまれ/\云る詞なり、空穂物語藏開に、こと/”\には此(ノ)朝臣きこえさせ、うけ給はれよとなむ、國讓に、與一はあやしといそがれしかば、こと/”\ものせず、夢浮橋に、こと/”\にみづからさぶらひて申侍らむなど見えたり、但しこれらのこと/”\は、俗に委細と云むが如し、されどその言のもとは一(ツ)なり)○樛木乃《ツガノキノ》は、繼嗣といはむ料の枕詞なり、集中に多し、こは、山菅乃背向《ヤマスゲノソガヒ》と云係ると同(シ)格なり、都賀《ツガ》と都藝《ツギ》と音親く通ふ故に、疊ねつゞけたるにて、須宜《スゲ》と蘇我《ソガ》とつゞけたるも、亦同じことなり、樛木のことは、品物解にいふべし、○彌繼嗣爾《イヤツギツギニ》は御世御世御位をつがせ給ひしを云、こゝに倭爾而《ヤマトニテ》といふ事あるべきことなるに、上の從《ヨ》、下の倭乎置而《ヤマトヲオキテ》にしるければ、はぶけるなり、○天下は、アメノシタ〔五字右○〕と訓べし、十八廿(ノ)卷に、安米能之多《アメノシタ》、又|阿米能之多《アメノシタ》、靈異記に、宇、(阿米乃志多《アメノシタ》、)天慶六年書紀竟宴(ノ)歌に阿馬能芝多《アメノシタ》とあり、(後(ノ)世、阿米我之多《アメガシタ》といふはつたなし、)○所知食之乎《シロシメシシヲ》(舊本或云食來と注せり、用《トル》べからず、)は、しろしめしゝものをの意なり、しろしめしゝものを、いかさまにおもほしけめかと連下して意得べし、是そこの朝臣の句法の妙(ナル)處にはありける、(然るを略解に、或本の食來とあるかたまされりといへるは、くはしからずといふべし、此(ノ)集を熟讀玩味《ヨミアヂハヒ》たらむばかりの者《ヒト》は(165)論をまたずておのづからに曉るべし、)○虚見《ソラミツ》、(舊本に、天爾滿とありて、或云虚見と注せり、今は或本を用《トリ》つ、)この枕詞上に出、○倭乎置而《ヤマトヲオキテ》、(舊本に、或云倭乎置と注《シル》せるは、とるべからず、必(ス)而の辭なくてはわろし、但し拾穗本には、或云のかたにも而(ノ)字あり、)置はとゞめおく意なり、ともにゆかぬを云、此(ノ)末に飛鳥明日香能里乎置而伊奈婆《トブトリノアスカノサトヲオキテイナバ》、とある置に同じ、○青丹吉《アヲニヨシ》、この枕詞上に出つ、○年山越而《ナラヤマコエテ》、(越(ノ)字類聚抄古寫本給穗本等に超と作り、さて舊本に平山乎越とありて、或云平山越而と注せり、或本のかたよろしければ用つ、)平《ナラ》は、ならす義よりかけるなり、奈良山は近江への道路なり、○何方《イカサマニ》は、俗にどのやうにといふに同じ、凡慮のはかりがたきよしなり、(按(フ)に、天智天皇(ノ)紀に、六年三月己卯、遷2都(ヲ)于近江(ニ)1、是(ノ)時天下百姓、不v願v遷(コトヲ)v都、諷諫《イサムル》者者多(ク)、童謠(モ)亦衆(シ)云々、とあるを思ひ合すれば、總て都を遷すことは、古(ヘ)より民の嫌へる事なれば、裏《シタ》にはすこしそしれる意あるを、凡慮のはかり難きよしにいへるかとも聞ゆれど、この天皇は、大織冠大臣と共に謀(リ)まして蘇我(ノ)入鹿を誅《ツミナ》ひたまひ、凡中興の皇帝にてましませば、只叡慮のはかりがたきを云るならむ、)○所念計米可《オモホシケメカ》、(舊本に、御念食可とありて、或云所念計米可と注せり、もし舊本の方ならば、御念食計米可《オモホシメシケメカ》と云では、言足はず、されどさはいふべくもなし、この差別は、古語を熟鰺得たらむ人はしるべし、さればこれも或本のかたよろしければ用つ、)米《メ》は牟《ム》のかよへるなり、さてこの句の下に、今一つ詞を加て意得べし、此(レ)古格の一にて、近ご(166)ろ余がはじめて考(ヘ)出たるなり、さればこゝは、いか方《サマ》に念ほしけめか、云々《シカ》ありけむといふ意に見べし、しかせざれば、可《カ》の疑辭|結《トヂ》まらず、(古來此(ノ)集を讀人、下に所知食兼《シロシメシケン》とあれば、其(ノ)詞にて結めたりとおもへるなるべし、されど彼處にて結めては、一首の意貫かざるなり、)そもそもかく長歌の中間《ナカラ》にて、詞をそなへて意得る方格は、古事記仲哀天皇(ノ)條(ノ)歌に、許能美岐袁迦美祁牟比登波曾能都豆美宇須邇多弖々宇多比都々迦美郁禮加母麻比都々迦美祁禮迦禮迦母許能美岐能美岐能阿夜邇宇多陀怒斯佐々《コノミキヲカミケムヒトハソノツヾミウスニタテヽウタヒツヽカミケレカモマヒツヽカミケレカモコノミキノミキノアヤニウタダヌシサヽ》、((これも謠ひ乍《ツヽ》釀ければかも、舞つゝ釀ければかも、云々《シカ》有らむといふ意に、假に言を補(ヘ)て見ざれば、加母《カモ》の辭結むる所なし、)此(ノ)下藤原(ノ)宮役民(カ)歌に、天地毛縁而有許曾《アメツチモヨリテアレコソ》云々、伊蘇波久見者神隨爾有之《イソハクミレバカムナガラナラシ》、(これも天地も縁て有こそ、云々《シカ》有らめといふ意に、假に言を補(ヘ)て見ざれば、許曾《コソ》の辭結むべき所なし、)二(ノ)卷人麻呂(ノ)歌に、何方爾御念食可由縁母無眞弓乃崗爾宮柱太布座御在香乎高知座而明言爾御言不御問日月數多成塗《イカサマニオモホシメセカツレモナキマユミノヲカニミヤハシラフトシキイマシミアラカヲタカシリマシテアサゴトニミコトトハサズツキヒノマネクナリヌレ》(これもいかさまに念ほしめせか、云々《シカ》ありけむといふ意に、假に言を補(ヘ)て見べし、さなくては可《カ》の疑辭結むべき所なし、)又同卷同人(ノ)歌に、何方爾念居可栲紲之長命乎露己曾婆朝爾置而夕者消等言霧己曾婆夕立而明者失等言《イカサマニオモヒマセカタクナハノナガキイノチヲツユコソハアシタニオキテユフヘハキユトイヘキリコソハユフヘニタチテアシタハウストイヘ》云々、(是もいか方に念居か、長かるべき命を露霧の如く、はかなく消失けむと云意を、假に禰《ヘ》て見べし)三(ノ)卷坂上(ノ)郎女(ノ)歌に、何方爾念?目鴨都禮毛奈吉佐保乃山邊爾哭兒成慕來座而布細乃宅乎毛造荒玉乃年緒長住乍座之物乎《イカサマニオモヒケメカモツレモナキサホノヤマヘニナクコナスシタヒキマシテシキタヘノイヘヲモツクリアラタマノトシノヲナガクスマヒツヽイマシヽモノヲ》(167)云々、(これもいか方に念けめかも、云々ありけむといふ意に、假に言を補(ヘ)て見べし、)十三挽歌に、何方御念食可津禮毛無城上宮爾大殿乎都可倍奉而殿隱隱在者《イカサマニオモホシメセカツレモナキキノヘノミヤニオホトノヲツカヘマツリテトノゴモリコモリイマセバ》云々、(これも、上の如し、)三(ノ)卷家持(ノ)卿(ノ)歌に、逆言之狂言登加聞白細爾舍人装装束而和豆香山御輿立之而久堅乃天所知奴禮《オヨヅレノタハコトトカモシロタヘニトネリヨソヒテワヅカヤミコシタヽシテヒサカタノアメシラシヌレ》云々、(これも逆言の狂言にてかもあらむ、云々のことは、よもことにてはあらじといふ意に、假に言を補(ヘ)て見べし、)十七同卿(ノ)歌に、波之伎余思奈弟乃美許等奈爾之加毛時之波安良牟乎《ハシキヨシナオトノミコトナニシカモトキシハアヲムヲ》、(ここも時しは有むを何しかも、云々ありけむといふ意に、假に言を補(ヘ)て見べし、)波太須酒吉穗出秋乃芽子花爾保弊流屋戸乎安佐爾波爾伊泥多知奈良之暮庭爾敷美多比良氣受佐保能宇知乃里乎往過安之比紀乃山能許奴禮爾白雲爾多知多奈妣久等安禮爾都氣流《ハタスヽキホニヅルアキノハギガハナニホヘルヤドヲアサニハニイデタチナラシユフニハニフミタヒラゲズサホノウチノサトヲユキスギアシビキノヤマノコヌレニシラクモニタチタナビクトアレニツゲル》、又同卿(ノ)歌に、近在者加弊利爾太仁母宇知由吉底妹我多麻久良佐之加倍底禰天蒙許萬思乎多麻保己乃路波之騰保久關左開爾弊奈里底安禮許曾與思惠夜之餘志播安良武曾《チカアラバカヘリニダニモウチユキテイモガタマクラサシカヘテネテモコマシヲタマホコノミチハシトホクセキサヘニヘナリテアレコソヨシヱヤシヨシハアラムソ》云々、(これも關さへに隔て有ばこそ、云々も得爲ぬと云意に、假に言を補(ヘ)て見べし、)などある、これらみな其(ノ)例なり、(さるを今までの諸注者《フミトキヒトヾモ》、この論なくしてすぐしきたれるは、件(リ)の歌どもをば、いかゞ意得けむにや、)さて以上二句は、地をうつして、虚見倭乎置而《ソラミツヤマトヲオキテ》の上に置て見べし、○天離《アマザカル》は、夷《ヒナ》の枕詞なり、神代紀(夷曲)に見えたるをはじめて集中には彼此《コレカレ》おほし、高橋(ノ)正元、こは高光《タカヒカル》天傳《アマツタフ》天照《アマヲラス》などいへるたぐひにて、天に離る日といふ意に、比《ヒ》の一言にいひかけしのみにて、書紀(168)神功皇后(ノ)卷に(天踈向津媛《アマザカルムカツヒメノ》命とあるも、向津日の意にいひつゞけしをも併(セ)考(フ)べしと云り、凡(ソ)某|離《ザカル》と云詞に、某處《ソコ》に雖《サガ》る意なると、某處を離る意なるとの異あり、家放《イヘサカル》里離《サトサカル》國離《クニサカル》など云は、家を放り里を離り國を離る意なり、夷離《ヒナザカル》奧離《オキザカル》など云は、夷に離り奧に離る意なり、かゝれば(天離も天に離る意にて、)天に雛る日の意とはいはれたることなり、(然るを冠辭考に、都かたよりひなの國をのぞめば、天と共に遠放(リ)て見ゆるよしにて、天離るとは冠らせたり、さかるとは、こゝより避り離れて、遠きを云と云るはたがへり、)○夷者雖不有《ヒナニハアラネド》、比那《ヒナ》と云名は、神代紀下巻|夷曲《ヒナブリノ》歌に、阿磨佐箇屡避奈菟謎廼《アマザカルヒナツメノ》云々、(夷津女之《ヒナツメノ》なり、此(ノ)歌は傳なければ委くは知がたけれども、西方か北方かのこ國の女をいふなることは疑なし、さて古事記にも夷振《ヒナブリ》とて、阿米那流夜《アメナルヤ》云々といふ歌のみをのせて、此(ノ)歌は載ず、)と見えていとふるし、其(ノ)名(ノ)義は未(タ)思ひ得ず、(岡部氏(ノ)考(ノ)別記に、比那《ヒナ》は日之下《ヒノシタ》てふ言なり、何ぞといはゞ、神代紀に、避奈蒐謎《ヒナツメ》といへるは、天よりして下《シタ》つ國の女をいふなり、古事記に、毛毛陀流都紀加延波阿米袁淤幣理《モヽダルツキガエハアメヲオヘリ》、云々、志豆延波比那袁淤幣理《シヅエハヒナヲオヘリ》てふも、天に對へて下つ國を比那《ヒナ》といへり、さて其(ノ)天をば日ともいふは、神武天皇を、紀に天神子《フマツカミノミコ》とも、日神子孫《ヒノカミノミマゴ》とも申し、天皇をあめすべらきとも、日のみ子とも申し、御門を天つみかどとも、日の御門ともいひ、後(ノ)世、天の下てふ事を、日の下といふも、思ふに古言なり、かくて言を解に比那《ヒナ》の比《ヒ》は日なり、那《ナ》は乃志多《ノシタ》の三言を約めたるなり、數言を一言と(169)するには、上下の二言を約(ム)、仍て日の御子の敷ます宮所《ミヤコ》を天とし、外《ト》つ國を天の下として、比那《ヒナ》とはいふなりと云るは意得ず、そもそも神代紀の避奈菟謎《ヒナツメ》を、下つ國の女をいふとしも云は、何の據ありていへるぞや、又古事記の比那袁淤幣理《ヒナヲオヘリ》の比那《ヒナ》を、下つ國とせるは、天ばかりに對へていへらばこそ、まづ然いはむも、いさゝか似よりたることならめ、那迦都延波阿豆麻袁淤幣理《ナカツエハヅマヲオヘリ》としもあるはいかにとかせむ、東《アヅマ》は又下津國の外にありとせむか、又|那《ナ》は乃志多《ノシタ》の三言を約めたりと云るも、例のわたくしごとならずや、)さてこの比那《ヒナ》に、古(ヘ)より夷(ノ)字を書るは、正しくあたれる字にはあらざれども、外に填《アツ》べき字なければ、しばらく此字を書るなり、夷(ノ)字は、かの漢國にて、いはゆる中國といひて、みづからしる地の堺を離《サカ》りたる諸國《クニ/”\》をいふ名にて、比那《ヒナ》にあたれる字にはあらずかし、そも/\比那《ヒナ》とは、皇都をさかりたる地をなべていふ名にはあらずして、方土につきていひし名なり、その方土に就ていひしとは、畿内近國をさかりたる、西方北方の國を比那《ヒナ》といひ、東方の國をば阿豆麻《アヅマ》といひしことにぞありける、(しかるを比那《ヒナ》とは、皇都の地をさかりたる諸國《クニ/”\》を、なべていふ名と意得來れるは、夷(ノ)字にのみまどへる甚じき非《ヒガコト》なり、伊勢物語に、昔男|陸奧國《ミチノクニ》にすゞろに行至(リ)にけり、そこなる女、京の人はめづらかにやおぼえけむ、せちに思へる心なむ有ける、さてかの女、中々に戀に死ずは桑子にぞ成べかりける玉の緒ばかり、歌さへぞ比那備《ヒナビ》たりける、源氏物語末摘(170)花に、末つむ花の方のことを、侍從は齋院にまゐりかよふわか人にて、この頃はなかりけり、いよ/\あやしうひなびたるかぎりにて、見ならはぬ心ちぞする、常夏に、近江(ノ)君の事をただいとひなびあやしきしも人の中におひ出給へれば、物いふさまもしらず、東屋に、常陸(ノ)守の事を、いとあさましくひなびたるかみにて、うちゑみつゝきゝゐたり、浮舟のことを、いと物つゝましくて、まだひなびたる心に、いらへきこえむこともなくて、枕草枕に、比那比那《ヒナヒナ》しからぬけしき爲《シ》たるは云々、又受領の五節など出すをり、さりともいたうひなび見知ぬこと人に、問聞などはせじと心にくきものなり云々、家あるじいとわろくひなびたり云々、いときよげなれど、又ひなびあやしくげすもたえずよびよせ、ちご出しすゑなどするもあるぞかし、などあれば、彼(ノ)頃よりは、既《ハヤ》く皇都をさかりたる地をば、なべて比那《ヒナ》といふことにはなれりしか、但しこれらは方土には拘らず、すべて朝都《ミヤコ》めかず、物の野鄙《イヤ》しさをおとしめて云るなれば、方土をさして云る證にはなりがたし、されど又重之集に、陸奧(ノ)國子鶴の地の堤にて重之(ノ)父のよめる歌に、千年をばひなにてのみや過しけむ子鶴の池といひて久しき、とあるは、雛に夷の意を兼たりとおぼゆれば、既く彼(ノ)頃は混れたりしことも有しなるべし、源氏物語蓬生に、源氏(ノ)君の須磨(ノ)浦に物し給ひたりし事を、今のどかにぞ、ひなのわかれにおとろへし世の物がたりも聞えつくすべき、北院御室(ノ)御集に、和泉(ノ)國新家といふ所にて鹽湯浴《シホユアミ》し(171)に、云々、鹽湯あみはてゝ京都へ歸るとて、日數經し比那《ヒナ》の住ひを思ひ出ば戀しかるべき旅の空哉、鴨(ノ)長明(カ)海道記に、參河(ノ)國に至りぬ、云々、比那《ヒナ》の住處《スミカ》には、月より外にながめ馴たる物なし、云々、阿佛尼(カ)轉寢(ノ)記に近江(ノ)國野路といふ處より、云々、さすがならはぬ比那《ヒナ》の長道におとろへはつる身も、われかのこゝちのみして、美濃尾張の境にもなりぬ云々などあるにて思へば、中昔の季つかたよりは、正しく混亂《ミダレ》て、なべて皇都を離りし地をいふことゝ意得しなり、また安房(ノ)國に朝夷《アサヒナノ》郡あれど、すべて地(ノ)名は、何處もことに來由《ヨシ》ありて號ことなれば、常の例にはたがへり、さて書紀崇神天皇(ノ)卷に、四道將軍、以(テ)d平《ムケタル》2戎夷《ヒナヲ》1之状(ヲ)u奏(セリ)焉、景行天皇(ノ)卷に、東(ノ)夷《ヒナ》之中(ニ)、有2日高見(ノ)國1、應神天皇(ノ)卷に、東蝦夷《アヅマノヒナ》悉(ニ)朝貢《ミツギタテマツル》、允恭天皇(ノ)卷に、朝野《ミヤコヒナ》、また四夷《ヨモノヒナ》、顯宗天皇(ノ)卷に、華夷《ミヤコヒナ》、持統天皇(ノ)卷に、遣2某々等於多禰1、求2蠻所居《ヒナノヰドコロヲ》1どある、戎夷、蝦夷、夷、野、蠻などをヒナ〔二字右○〕と訓るは、皆古(ヘ)に昧《クラ》き後人のしわざなり、)そはまづ古事記下卷雄略天皇(ノ)條三重(ノ)※[女+采](カ)歌に、麻岐牟久能比志呂乃美夜波《マキムクノヒシロノミヤハ》云々、毛々陀流都紀賀延波阿米袁淤幣理那加都延波阿豆麻袁淤幣理志豆延波比那袁淤幣理《モヽダルツキガエハアメヲオヘリナカツエハアヅマヲオヘリシヅエハヒナヲオヘリ》云々とある、これ明證《サダカナルアカシ》なり、(もし皇都を離りたる地を、なべていふ名ならむには、かく阿麻豆《アヅマ》と比那《ヒナ》とを分ちいふべきことかは、)なほその舊例をいはむとするに、書紀景行天皇(ノ)卷に、十八年春三月、天皇巡2狩《メグリミソナハス》筑紫(ノ)國(ヲ)1、始到2夷守《ヒナモリニ》1、云々、乃遣(テ)2兄夷守《エヒナモリ》弟夷守《オトヒナモリ》二人(ヲ)1令(タマフ)v觀云々、集中には二(ノ)卷に、人麻呂の石見(ノ)國にて死れる時、丹比(ノ)眞人の人麻呂(ノ)妻の意に擬《ナラ》ひて(172)作《ヨメ》る歌に、天離夷之荒野爾君乎置而《アマザカルヒナノアラヌニキミヲオキテ》、三卷に、天離夷之長道從戀來者自明門倭島所見《アマザカルヒナノナガヂヲコヒクレバアカシノトヨリヤマトシマミユ》、(此(ノ)歌十五にも出(ツ)、是も播磨(ノ)國などよりは、西方をさして比那《ヒナ》と云ること、一首のうへにてしるし、)四(ノ)卷に、丹比(ノ)眞人笠麻呂下2筑紫(ノ)國(ニ)1時作(ル)歌とて、天佐我留夷乃國邊爾直向淡路乎過粟島乎背爾見管《アマザカルヒナノクニヘニタゞムカフアハヂヲスギテアハシマヲソガヒニミツヽ》、(是も四國あたりをさして比那《ヒナ》と云るなり、其(ノ)よしは波路より、直に向ふ比那《ヒナ》の意なればなり、且《マタ》淡路あたりまでは、比那《ヒナ》といはざりしこと、此一首にても思ひ定めつべし、)五(ノ)卷筑前國(ノ)司(ノ)山上憶良(ノ)歌に、阿麻社迦留比奈爾伊都等世周麻比都々《フマザカルヒナニイツトセスマヒツヽ》、六(ノ)卷石上(ノ)乙麻呂(ノ)卿配2土左(ノ)國(ニ)1之時(ノ)歌とて、王命恐天離夷部爾退《オホキミノミコトカシコミアマザカルヒナヘニマカル》、十五到2對馬島淺茅(ノ)浦(ニ)1舶泊之時云々作(ル)歌とて、安麻射可流比奈爾毛月波弖禮々杼母《アマザカルヒナニモツキハテレヽドモ》、又古今集十、八に、隱岐(ノ)國に流されて侍ける時によめる、篁(ノ)朝臣、思ひきや夷《ヒナ》の別(レ)に衰へて海人の繩たぎ漁《イザリ》爲《セ》むとはなどある、これら西方の國をいへる例なり、又十七十八十九などに。越中(ノ)國のことを天離夷《フマザカルヒナ》とも、(安麻射可流比奈《アマザカルヒナ》と多くかきたり、)夷放國《ヒナザカルクニ》ともいへるところ、凡て幾《ホト/\》二十首|計《バカリ》もありぬべし、これ北方の國を比那《ヒナ》と云る證なり、又九(ノ)卷長歌に、天離夷治爾登《アマザカルヒナヲサメニト》云々、(反歌に、三越道之雪零山乎將越日者《ミコシヂノユキフルヤマヲコエムヒハ》とあれば、是も越(ノ)國をさして夷《ヒナ》と云り、)又十三に、天皇之遣之萬々夷離國治爾登《オホキミノマケノマニ/\ヒナザカルクニヲサメニト》(或本云、天疎夷治爾等《アマザカルヒナヲサメニト》、)羣鳥之朝立行者《ムラトリノアサタチユケバ》、(是は傳知ざれども、筑前か越中かへ任らるゝ人に、贈れる歌なるべし、)など見えたり、(東方の國をば凡て、阿豆麻《アヅマ》とのみ云て比那《ヒナ》といへることは、此(ノ)集の頃まで一(ツ)もなきにて、(173)比那《ヒナ》とは、たゞに邊鄙をなべていふ名にはあらざりしことをも曉るべく、古人の語を精嚴《オゴソカ》にし、守をば粗忽《オホヨソ》にせることをもしるべし、かゝることをよく考(ヘ)おきて、古書をば讀べきことなるに、後(ノ)世人はたゞ字面にのみかゝづらひて、語の本をとかむともせずして、古書の表《ウヘ》にてもまた自《ミヅカラ》の歌文にても、たゞに邊鄙をばなべていひし名と意得てものすめるは、蒙昧《オロカ》なる至《キハミ》といふべし、しかるを此處を舊本《フルキマキ》に、夷者雖有とありて、ヒナニハアレド〔七字右○〕とよめるはいかにぞや、かくては近江(ノ)國あたりまでは、比那《ヒナ》と云しことの例もなく、よしや比那《ヒナ》といひしにもせよ、こゝは上に何方御念計米可《イカサマニオモホシケメカ》とあれば近江(ノ)國を御おとしめたる趣《オモムキ》なれば、夷爾之有乎《ヒナニシアルヲ》などやうにあらば、まづさもありなむか、夷者雖有《ヒナニハアレド》とては、近江(ノ)國をあげたる意にきこゆれば、首尾の意相貫ずして、かた/”\あまなひがたきことなるを、)大神(ノ)景井(カ)考に、こゝは夷者雖不有《ヒナニハアラネド》とありしが、不(ノ)字を脱せるなるべしと云るは、實にいはれたる事なりけり、さらば御代御代天(ノ)下しろしめしけるものを、その大和(ノ)國をさしおきて、比那《ヒナ》といふほどの國にはあらざれども、いかで近江(ノ)國には天下しろしめしけむ、といふ意になりて、一首の意もよく聞え、比那《ヒナ》といふことの例にもたがふことなくして、おもしろし、かゝれば今は姑く此(ノ)考に據て、不(ノ)字を補て、ヒナニハアラネド〔八字右○〕と訓つ、(高橋(ノ)正元が、夷者雖有をヒナハアレドモ〔七字右○〕とよみて、夷の國は多くあれどもといふ意とせる、是も比那《ヒナ》の名目《ナ》のことを、わきまへぬ人のさだ(174)なればとるにたらず、)○石走《イハバシル》は、淡海《アフミ》の枕辭なり、下藤原(ノ)宮之役民(ガ)歌にも、磐走淡海乃國之《イハバシルアフミノクニノ》、七(ノ)卷に、石走淡海縣《イハバシルアフミアガタ》とあり、(冠辭考(ノ)説に、石走をイハバシノ〔五字右○〕と訓て、石橋之|間《アハヒ》といひかけしなり、と云るはかなひがたし、但し十一に、明日香川明日文將渡石走遠心者不思鴨《アスカガハアスモワタラムイハバシノトホキコヽロハオモホヘヌカモ》、七(ノ)卷に、年月毛未經爾明日香河湍瀬由渡之石走無《トシツキモイマダヘナクニアスカガハセセユワタシシイハバシモナシ》、また橋立倉橋川石走者裳壯子我度爲石走者裳《ハシダテノクラハシガハノイハノハシハモヲサカリニアガワタセリシイハノハシハモ》などあるもイハヾシ〔四字右○〕とよみて、石橋の事なるべく、且七(ノ)卷に、瀧至八信井上爾《オチタギツハシヰノウヘニ》とありて、又其(ノ)下に隕田寸津走井水之《オチタギツハシヰノミヅノ》とある、これ走(ノ)字ハシ〔二字右○〕と訓べきたしかなる證なれば、今もイハバシノ〔五字右○〕とよむべくおもへど、七(ノ)卷に、石流垂水水乎《イハバシルタルミノミヅヲ》、八(ノ)卷に、石激垂見之上乃《イハバシルタルミノウヘノ》とある類は、決《キハメ》てイハバシル〔五字右○〕なるべくおもはるゝに、十二に石走垂水之水能《イハバシルタルミノミヅノ》と見えたる、走はハシル〔三字右○〕なること灼然《イチジロ》ければ、なほ今の歌をも、此になずらへて、イハバシル〔五字右○〕と訓べきなり、)按(フ)に、此は石を走る溢水《アフミ》といふ意につづけしなるべし、水の多く沸《タギ》ち流るゝは、石(ノ)上を溢るれば、溢水《アフミ》と云べし、さて阿布美《アフミ》てふ國(ノ)號の由來《モト》は、淡海《アハウミ》の義《ヨシ》なれど、枕詞よりの續きは、別意にとり成(シ)て、いひつゞくることもある例にて、かの水薦刈《ミコモカル》信濃《シナヌ》とつゞくると同例なり、猶二(ノ)卷にいふを照(シ)考(ヘ)て知べし、○淡海《アフミノ》國、名(ノ)義は字の如く、淡海《アハウミノ》國と示ふことの約まれるなり、猶古事記傳に出、○樂浪《サヽナミ》(浪(ノ)字、類聚抄に波と作り、)は、古事記仲哀天皇(ノ)條に、爾追迫《ニオヒセメ》敗(リテ)、出2沙々那美(ニ)1、悉(ニ)斬(ツ)2其軍(ヲ)1、云々、應神天皇(ノ)大御歌に、志那陀由布佐々那美遲袁《シナダユフサヽナミヂヲ》云々、書紀神功皇后(ノ)卷に、及(テ)2于|狹々浪栗林《サヽナミノクルスニ》1、云々、欽明天皇(ノ)卷に、發v(175)自2難波津1、控2引《ヒキコシテ》船(ヲ)於|狹々波《サヽナミ》山(ユ)1、云々、天武天皇(ノ)卷に、會(テ)2於|※[篠の異体字]《サヽ》(此云2佐々《サヽ》1、)浪《ナミニ》1、而|探2捕《トラヘツ》左右(ノ)大臣(ヲ)1云々、本居氏、志賀は古(ヘ)より廣き名にて郡(ノ)名にもなれるを、なほ古(ヘ)は、沙々那美《サヽナミ》は志賀よりも廣き名にやありけむ、萬葉の歌どもに、沙々那美《サヽナミ》の志賀と多くよみて、志賀の沙々那美《サヽナミ》とよめるはなし、又九(ノ)卷には、樂浪之平山《サヽナミノヒラヤマ》ともあれば、比良のあたりまでかけたる名にぞありけむと云り、(今按(フ)に、後には志賀(ノ)郡なる一處の名となれるなるべし、今昔物語十一に、志賀(ノ)郡篠波山、また篠波の長柄の山とも有(リ)、さてその頃まで、地(ノ)名なることをわきまへたりしを、後々は細浪のことと思ひ誤れること、往々《トコロ/\》に見えたり、)さて集中に、神樂聲浪とも神樂浪とも樂浪とも書、和名抄但馬(ノ)國氣多(ノ)郡郷(ノ)名に、樂前と書て佐々乃久萬《サヽノクマ》とよめるものあり、こは古事記傳(ニ)云、上卷石屋戸(ノ)段に、手2草結天香山之小竹葉(ヲ)1而、於2天之石屋戸1、伏2汗氣1而、踏登杼呂許志とある故事に因(レ)り、神樂には小竹葉を用ひ、其を打振音の佐阿佐阿《サアサア》と鳴に就て、人等も同(シ)く音を和《アハ》せて、佐阿佐阿《サアサア》と云ける故なるべし、猿樂の謠物に、サツ/\〔四字右○〕の聲ぞ樂むと云も、松風の颯々と云音より、是に云かけたるなり、又竹葉の名を佐々《サヽ》と負るも、此(ノ)音よりぞ出つらむ、細小の意以て名づけしには非ず、小竹と書る小(ノ)字は、幹の小きを云るにて別なり、神樂歌古本に、本方安以佐安以佐未方安以佐安以佐《モトハアイサアイサスヱハアイサアイサ》と云ことあり、こは佐々佐々と唱たるか、又は佐阿佐阿を如此書るか、何にまれ、かの小竹葉の音に和(ハ)せたる聲より出つることなるべしと云り、○大津宮《オホツノミヤ》は、上に出(176)たり、即(チ)今も大津といふ地なり、○所知食兼大宮者《シロシメシケムオホミヤハ》云々、大殿者《オホトノハ》云々とつゞけて意得べし、(この兼《ケム》の詞にて、上の御念計米可《オモホシケメカ》といふを結《トヂ》めたり、とおもふは、くはしからず、兼の言にて、上の可《カ》を結むるときは、次の天皇之《スメロキノ》云々は新になりて、上より屬かず、よく讀味て其(ノ)意をさとるべし、○天皇之は、スメロキノ〔五字右○〕と訓べし、天智天皇をさし奉れり、すべて集中に、天皇と書るは、皆|須賣呂伎《スメロキ》と訓べく、皇王大皇大王大君など書るは、皆|意富伎美《オホキミ》と訓べし、(しかるを所によりては、天皇をオホキミ〔四字右○〕ともよみ、皇をスメロキ〔四字右○〕ともよめる類の誤謬《アヤマリ》あれば、今これをここに正しおくぺし、)凡て此(ノ)集には、オホキミ〔四字右○〕を、天皇とは書ぬ例なる證をいはむに、まづ集中に、吾皇(凡四ところ、)吾王(凡九處、)我王(凡二處、)吾大皇(凡三處、)吾大王(凡十九處、)我大王(凡五處、)吾期大王(凡二處、)和期大王(凡五處、)和期於保伎美(一處、)吾於富吉見(一處、)和我於保伎美(一處、)など見えて、かくあまた所にくさ/”\に書るが中に、吾天皇とも、我天皇とも、吾期天皇とも、書る所は、かつて一(ト)ところもなきは、天皇と書て、オホキミ〔四字右○〕とはよまざりし明證《サダカナルアカシ》なり、(もし天皇と書て、オホキミ〔四字右○〕とも訓しならば、かくあまた所の中には、吾天皇とやうにも書べからぬことかは、)さて須賣呂伎《スメロキ》と申すは、御祖の天皇を申すことはさらにて、それよりまた轉りて、皇祖より當今天皇(ノ)代迄を兼て、廣くも申せりしなり、(正しく當今天皇御一人をさして申すことは、かつてなかりしを、古今集の頃より須倍良伎《スベラキ》と申(シ)て、當今天皇のことをいへるは、又(177)一轉したるものなり、)さてこゝに天智天皇を指て、天皇《スメロキ》と申せるを始て、六(ノ)卷に、八隅知之吾大王乃高敷爲日本國者皇祖乃神之代御自敷盛流國爾之有者《ヤスミシシワガオホキミノタカシカスヤマトノクニハスメロキノカミノミヨヨリシキマセルクニニシアレバ》、(神武天皇の御代をさせり、)十八に、皇御祖乃神靈多須氣弖《スメロキノミタマタスケテ》、(皇祖の天皇たちの、御靈たすけてといふ意、)又|皇神祖能可見能大御世爾田道間守常世爾和多利《スメロキノカミノオホミヨニタヂマモリトコヨニワタリ》、(是は垂仁天皇の御代を指り、)又|葦原能美豆保國乎安麻久太利之良之賣之家洗須賣呂伎能神能美許登能可之古久母波自米多麻比弖《アシハラノミヅホノクニヲアマクダリシラシメシケルスメロキノカミノミコトノカシコクモハジメタマヒテ》、(是は雄略天皇の吉野(ノ)離宮を始(メ)給ひしを申せり、)廿(ノ)卷に、天皇乃等保伎美與爾毛《スメロキノトホキミヨニモ》、(是は仁徳天皇の難波(ノ)宮に御宇(シ)しを申せり、)又|多可知保乃多氣爾阿毛理之須賣呂伎能可未能御代欲利《タカチホノタケニアモリシスメロキノカミノミヨヨリ》云々、(是は邇々藝(ノ)命をさして申せり、)可之婆良能宇禰備乃宮爾美也婆之良布刀之利多弖々安米能之多之良志賣之祁流須賣呂伎能安麻能日繼等《カシハラノウネビノミヤニミヤバシラフトシリタテヽアメノシタシラシメシケルスメロキノアマノヒツギト》、(神武天皇を指り、)などある、是らは正しく皇祖を申せる事の證なり、又二(ノ)卷に天皇之神之御子之《スメロキノカミノミコノ》、(是は志貴(ノ)親王を申(シ)て、皇祖神の御子孫といふ意、)十八に、須賣呂伎能御代佐可延牟等《スメロキノミヨサカエムト》、(是は皇祖より繼(キ)座る御代の意にて、ひろく申せるなり、)十九に、須賣呂伎能御代萬代爾《スメロキノミヨヨロヅヨニ》、(是も意は上に同じ、)三(ノ)卷に皇祖神之御門爾《スメロキノカミノミカドニ》、七(ノ)卷に、皇祖神之神宮人《スメロキノカミノミヤヒト》、十一に、皇祖乃神御門《スメロキノカミノミカド》、(是等皇祖より、皆今天皇までを兼てひろく申せるなり、)二(ノ)卷に、天皇之敷座國等《スメロキノシキマスクニト》、(是は御祖の天皇たちの、敷ます國といふ意なり、)十八に、須賣呂伎能可未能美許登能伎己之乎須久爾能麻保良爾《スメロキノカミノミコトノキコシヲスクニノマホラニ》、三(ノ)卷に、皇神祖之神乃敷座國之盡《スメロキノカミノシキマスクニノコト/”\》、(是ら皇祖の事を(178)申て、當今天皇の事もこもれり、さて十七に、須賣呂伎能乎須久爾奈禮婆《スメロキノヲスクニナレバ》、又|須賣呂伎能之伎麻須久爾能《スメロキノシキマスクニノ》などあるは、三(ノ)卷に、太皇之敷座國《オホキミノシキマスクニ》、荒木田(ノ)久老が、是を天皇の誤にて須賣呂伎《スメロキ》とよむべきなりといへるは、中々に甚《イト》偏《カタオチ》なり、)十九に、大王之敷座國者《オホキミノシキマスクニハ》、又|吾大皇之伎座婆可母《ワガオホキミシキマセバカモ》などあると同じさまながら、須賣呂伎《スメロキ》と申せるは、皇祖より御代御代の天皇の兼て食敷《シク》よしなり、又十五に、須賣呂伎能等保能朝廷等《スメロキノトホノミカドト》、廿(ノ)卷に、天皇乃等保能朝廷《スメロキノトホノミカド》などある、是等も皇祖より御代御代天皇の遠(ノ)朝廷と申せるにて意同じ、但(シ)五(ノ)卷に、大王能等保乃朝廷等《オホキミノトホノミカドト》、十七に、大王能等保能美可度曾《オホキミノトホノミカドソ》、十五に、於保伎美能等保能美可度登《オホキミノトホノミカドト》、十八に、於保伎見能等保能美可等等《オホキミノトホノミカドト》、三(ノ)卷に、大王之遠乃朝庭跡《オホキミノトホノミカドト》などあれば、意富伎美《オホキミ》も須賣呂伎《スメロキ》も、同じ事ぞと思ふ人もあるべけれど、しからず、されど是はオホキミ〔四字右○〕といひて(當今天皇御一代を申て)も、スメロキ〔四字右○〕といひて(皇祖よりの御代を兼て申して)も通《キコ》ゆれば、如此《カク》かれにもこれにもいへりけむ、かゝれば、天皇と書るをば、何處にてもスメロキ〔四字右○〕と訓申(シ)て、オホキミ〔四字右○〕とは訓まじく、且《マヤ》天皇《スメロキ》と申すと、大君《オホキミ》と申すとは、その差別《ケヂメ》明なること、上(ノ)件に云るなるを、たま/\集中に、必(ス)大君《オホギミ》と申すべき處を、天皇と書る處のある、其は天皇は決《ウツナ》く大皇の誤寫なるよし、なほ下遷2于寧樂(ノ)宮(ニ)1時の長歌に、天皇乃|御命畏美《ミコトカシコミ》とあるにつきていふべく、さて又|神漏岐神漏美《カムロギカムロミ》と申すより須賣呂伎《スメロキ》と申と、意富伎美《オホキミ》と申すとを、集中にわたりて、意得おくべき事のよしなど、合て首(ノ)卷に委(ク)(179)諭(ヘ)り、○神之御言《カミノミコト》は、神とは即(チ)天皇なり、御言は借(リ)字、尊《ミコト》にて尊稱なり、○大宮《オホミヤ》は、大《オホ》とは尊稱なり、宮《ミヤ》は、御屋《ミヤ》の義なり、○此間等雖聞《コヽトキケドモ》は、此間《コヽ》とは大津をさせるなり、雖聞《キケドモ》とは、大和にて、はるかに大津にありと聞たれどもといふなり○大殿《オホトノ》は、大《オホ》とはこれも尊稱なり、殿《トノ》は和名抄(ニ)云、唐令(ニ)云、殿(ハ)宮殿(ノ)名、和名|止乃《トノ》とあり、(按(フ)に、等能《トノ》は多那《タナ》と音通ふ、多那《タナ》とは、宮殿は常の家宅などとは異にして、その造法《タテザマ》棚閣《タナ》の如(ク)に高顯《タカ/”\》とつくりたつれば、しかいふなるべし、則|棚《タナ》といふ名も、板をたかだかと横(ヘ)てつくれる故にいふなるべし、さて等能《トノ》と多那《タナ》と通はせる例は、多那具毛利《タナグモリ》を等能具毛利《トノグモリ》ともいへる是なり、又廿(ノ)卷に、多奈妣久《タナビク》とあるを、元暦本には等能妣久《トノビク》と作り、)上に宮といひ、こゝに殿と云るはいひかへたるなり、かく同じやうの事を、二句いひかへてよめること古歌に多し、此は事を懇(ロ)にいはむとする時のわざなり、別て云ときは、※[手偏+總の旁]て禁裏を大宮と稱《マヲ》し、其中にある諸殿を大殿といふべけれど、それまではなくて、只いひかへたるのみなるべし、こゝもその宮殿のなき事はあらじと、懇(ロ)にもとむる心をおもはせたるなり、○此間等雖云《コヽトイヘドモ》、此間《コヽ》は上に云るが如し、雖云《イヘドモ》とは、大津に來て土人《トコロノヒト》のこゝなりと、いひをしふれどもと、いふ意なり、雖聞《キケドモ》雖云《イヘドモ》は、いひかへたるのみにはあらず、○霞立《カスミタツ》云々の四句、舊本に、春草之茂生有霞立春日之霧流とあれど、上に雖聞雖云とあるに引合ず、今は或云、霞立春日香霧洗夏草香繁成奴留、と注せるかたよろしければ用つ、○春日香霧流《ハルヒカキレル》は、春日の霧合《キラヒ》覆(ヒ)て、(180)明に見せぬかといふなり、霧流《キレル》は薫有《キレル》にて氣の立|薫《カヲ》れるを云、集中に、天霧合《アマギラフ》、水霧合《ミナギラフ》、またただ霧相《キラフ》ともいへり、即(チ)霧《キリ》と云も其(ノ)意の名そ、さてキリ〔二字右○〕はカヲリ〔三字右○〕なるべし、(カヲ〔二字右○〕の切コ〔右○〕なるを、キ〔右○〕に通はし云るなるべし、木を伐をコル〔二字右○〕ともキル〔二字右○〕ともいへるにて、コ〔右○〕とキ〔右○〕と親《チカ》く通ふを知べし、古事記傳に、佐閇岐流《サヘキル》の岐波《キル》は限《カギ》るにて、塞隔《セキヘダツ》るを云、霧《キリ》なども其(ノ)意の名なりと云れどいかゞ、又谷川氏が霧はいきるの義なりと云るはあらず、)神代紀に、有朝霧而薫滿之哉《アサギリノミカヲリミテルカモ》、とあるをも思ふべし、○繁成奴留《シゲクナリヌル》、以上八句の意は、さしも世に名高き此宮所はしも、はるかにこゝぞと聞たれども、正しくこゝぞと云ども、春霞の立かをりて見せぬか、夏草の生しげりて隠せるか、大宮殿のありしさまにもあらぬはと疑ふなり、春霞と夏草とをしも、とり合(セ)て云るは、春霞も、夏草も、物(ノ)形をよく覆ひ隠すものなれば云るなり、(しかるを或人、舊本に、春草之云々とあるかたを用ひて、さて春草之の之(ノ)字は略解に、歟の誤なるべしといへるによるべし、或本の霞立云々は、春日と夏草と、時節のたがへること、いと/\あるまじければ、とるべからずと云れど、こは此(ノ)宮の見えぬを、いかなることぞと思ひあやしみて、春霞の立ふさがりて見せぬか、夏草の生しげりて隠せるかと、をさなくいへるなれば、時節をも違へていへるこそ、誠に歎慨《ナゲキ》の餘に惑情《コヽロマドヒ》せるさまあらはれて、中々にあはれにかなしけれ、後ながら土佐日記に、春の海に、秋の木の葉しもちるらむやうに云々とある、これは春なるに秋の物(181)もてたとへたる、似たることなり、但しかれは物のたとへにいへるのみなるに、今の歌は現にさしあてゝ、霞立云々夏草香云々といへること、まことに後人のまねばるまじき詞つきなりかし、又本居氏(ノ)説に、春草之の之を助辭として、ハルクサシシゲクオヒタリ〔ハル〜右○〕と訓て、此(ノ)二句は、宮の荒たる事を歎き、次に霞立云々は、たゞ見たるけしきのみにて、荒たる意を云にあらず、ハルヒノキレルモモシキノ〔ハル〜右○〕、とつゞけて心得べしといはれしかど、さては此(ノ)大宮の荒たることをもしらぬさまに、をさなくよみなしたるにかなはねば、これもよろしからず、〉○百磯城之《モヽシキノ》は、大宮の枕辭なり、古事記雄略天皇(ノ)大御歌に、毛々志紀能淤富美夜比登波《モヽシキノオホミヤヒトハ》云々、とあるをはじめて、集中にはかた/”\多し、まづ百《モヽ》とは、古事記應神天皇(ノ)大御歌に、毛々知陀流夜邇波母美由《モヽチダルヤニハモミユ》、また雄略天皇(ノ)條(ノ)歌に、毛々陀流都紀賀延波《モヽダルツキガエハ》と見え、其(ノ)餘古言に、百船《モヽフネ》百鳥《モヽトリ》百木《モヽギ》百草《モヽクサ》など多くいふ類の百なり、磯城《シキ》とは、まづ書紀神武天皇(ノ)卷に、磯城《シキノ》邑と見えて、集中に百磯城と書たるその字(ノ)意なり、崇神天皇(ノ)卷に、以2天照大神1、託(テ)2豐鋤入姫命(ニ)1、祭(リタマヒキ)2倭(ノ)笠縫(ノ)邑(ニ)1、仍立2磯堅城《シキノ》神籬(ヲ)1、云々と見えたるをも思(ヒ)合すべし、されば百《モヽ》と多くの磯石《イシ》もて、堅く造れる城の大宮といふことなり、さて古事記應神天皇(ノ)條に、百師木伊呂辨《モヽシキイロベ》といふ人(ノ)名の見えたるも、百師木《モヽシキ》は百磯城《モヽシキ》の由もて負る名なるべし、冠辭考に、五百津磐城《イホツイハキ》といふべきを百磯城と約め云て冠辭とせしものなり、といへるは甚まぎらはし、上に云ることく、百某と云ること、古言に(182)いと多くあれば、五百津を約めたる言とはいふべからず、又磯城てふ言も磐城《イハキ》の約とは、さら/\いふべきことにあらぬをや)○見者悲毛《ミレバカナシモ》、舊本に、或云見者左夫思母、(思(ノ)字、類聚抄に之、母(ノ)字、道晃親王(ノ)御本に毛と作り、)と注せり、こはいづれにてもあるべし、加奈思《カナシ》てふ言は、(後(ノ)世はたゞ悲哀の字(ノ)意とのみ心得たれど古(ヘ)はしからず、)悲哀《カナシ》む事にも、愛憐《ウツクシ》む事にも、戀慕《シタ》ふ事にもいひて、ふかく心におかるゝをいふ言なり、さればこゝも、大宮處の荒たるを、ふかく哀憐《アハレ》み歎きたるなり、毛《モ》はかゝる處に用ひたるは、皆歎息の詞なり、嗚呼《アヽ》さてもかなしき事にてある哉といふ意なり、○歌(ノ)意は、神武天皇より以來御世御世、大和(ノ)國にのみ天(ノ)下しろしめしたれば、その古き御あとに、したがはせ給ふべきことなるを、いかやうにおぼしめしたればにか、ひなといふばかりの國にはあらねど、近江に遷都したまひけむ、凡慮のはかり知(リ)奉るべきにあらず、さてその大宮處のあとをだに見むとて來しかども、そのあと處の見えぬは、春霞の立覆ひて見せぬか、夏草の生しげりて隱せるか、いとも/\口をしき事ぞと、大宮處のいたく荒たるを見て、さはあるまじきをと、霞や草のわざにおほせてよみたるなり、
 
反歌《カヘシウタ》
 
30 樂浪之《サヽナミノ》。思賀乃辛崎《シガノカラサキ》。雖幸有《サキクアレド》。大大宮人之《オホミヤヒトノ》。船麻知兼津《フネマチカネツ》。
 
樂浪之《サヽナミノ》は、長歌にくはしくいへり、○思賀乃辛崎《シガノカラサキ》(崎(ノ)字、古寫本に碕と作り、)は、志賀(ノ)郡にある地(ノ)(183)名なり、○雖幸有《サキクアレド》、(拾穗本に、幸有を有幸とあるはわろし、)幸は、書紀に無恙平安など書てサキク〔三字右○〕とよめり、幸(ノ)字も心同じ、辛崎といふをうけて幸《サキク》と、つゞけたり、こゝは辛崎はさきくて、その御代のまゝにてあれどもといふなり、かの御世に宮人の舟遊つねにせし所なればいふなるべし、○大宮人之《オホミヤヒトノ》、これは大津(ノ)宮の宮人をいふ、比《ヒ》の言清て唱(フ)べし、(清濁考に委し、)○船麻知兼津《フネマチカネツ》は、船は大宮人の舟遊する船をいふ、麻知桑津《マチカネツ》とは、まてども/\待得ざるをいふ、兼《カネ》は集中に多く不得とかけり、しかあらむと心に欲《ネガ》ふことの、つひにその本意を得ざるをいふ、津《ツ》は上の軍(ノ)王の反歌にいへり、さてこゝは宮人の舟つねによせし處なれば、今もまつにこりずして、心の外に待不(ル)v得を云るなり、さて大宮の今もあるさまになしてよめるなり、○歌(ノ)意は、思賀の辛崎は、かくありし世のまゝに平安《サキ》くして、大宮人の船の泊るを待らむに、心の外に不《ザル》v得《エ》v待《マチ》は、いかにから崎の心さぶしからむと、から崎をふかくあはれみたるなり、情なきものを、情わるさまになしてよむこと多し、歌の心にはぢおもへどゝ云も其(ノ)意なり、九卷に、白埼者幸在待大船爾眞梶繁貫又將顧《シラサキハサキクアリマテオホフネニマカヂシヾヌキマタカヘリミム》、十三に、樂浪乃志我能韓埼幸有者又反見《サヽナミノシガノカラサキサキクアラバマタカヘリミム》云々などあり、
 
31 左散難彌乃《サヽナミノ》。志我能大和太《シガノオホワダ》。與杼六友《ヨドムトモ》昔人二《ムカシノヒトニ》。亦母相目八毛《マタモアハメヤモ》。
 
志我能大和太《シガノオホワダ》、(舊本に、一(ニ)云比良乃とあり、こはいづれにてもあるべし、)大は、その大(キク)廣きを稱(フ)(184)なるべし、六(ノ)卷に、濱清浦愛見神代自千船湊大和太乃濱《ハマキヨミウラウツクシミカミヨヨリチフネノハツルオホワダノハマ》、又|和太《ワダ》とのみ云るは、書紀神武天皇(ノ)卷に、釣2魚《ツリス》於|曲浦《ワダノウラニ》1、此(ノ)集三(ノ)卷に、吾行者久者不有夢乃和太湍者不成而淵有毛《アガユキハヒサニハアラジイメノワダセトハナラズテフチニアリコソ》、七(ノ)卷に、夢乃和太事西在來寤毛見而來物乎念四念者《イメノワタコトニシアリケリウツヽニモミテコシモノヲオモヒシモヘバ》、(これを懷風藻には、夢淵とかけり、)和太《ワダ》とは、わだかまり曲《マガ》るよしの名なるべし、(曲(ノ)字をよめるも即(チ)その意なるべし、七わだにまがれる玉などいふを思へば、もと曲れるをいふ稱なり、蛇などの蟠《ワダガマル》といふわだも此(ノ)意なり、さて和太《ワダ》と淀《ヨド》とはもと別なれど、しか水岸の曲れる處は、必(ス)水の淀むより、畢竟は淀も和太もひとつなるべし、千載集六(ノ)卷に、泉川水の美和太《ミワダ》のふしつけに岩間の氷る冬は來にけり、西行法師山家集に河和太《カハワダ》の淀みに留る流木の浮橋渡す五月雨の頃、などある和太も同じ、しかるに度會(ノ)弘訓と云人の説に、此(ノ)歌さはあるまじき事を、たとへにとり出ていへるにて、此(ノ)志賀の大和太は、淀むべき理はなき事なるに、其はたま/\淀む事ありとも、我(レ)昔の人に亦あふことはあらじといへるなり、鳥の子を十づゝ十はかさぬとも、など云ると同類なりと其(ノ)隨筆にしるせり、此(ノ)説すてがたきところあり、さはあるまじき事の、たとひさはありともと云こと古(ヘ)人の常にて、にほ鳥の息長川は絶ぬとも、など云類にて例皆然り、されば或説に、和太は、海を和太といふに同じく、渡の義なるべし、されば大和太は大渡なるべし、大和田といふ處、三代格にも見え、又山城(ノ)淀に大渡などもいふぞかし、曲《ワタノ》浦も、もとおのづからわたるに宜しきよりの(185)名にもやあるらむ、いづれにもあれ、この大和太の水は淀む世なく、勢多の方へ流るゝが故に、たとひ此(ノ)水のよどむ世はありともと、もとよりあるまじき事を設ていふなりといへり、此説さることながら、海をいふ和多は、多の言いづくも清音の字を用(ヒ)、曲浦をいふ和太は、太の言いづぐも濁音の字を用たるにて、もとより清濁の差別あれば、同言ならぬを知べし、さればなほ和太は、曲りて水の淀む處をいふ名なること、知(ラ)れたり、此等の説は皆|亦母相目八方《マタモアハメヤモ》と云を、作者の得あはじといふ意に、見たるよりの説なり、今次上の歌を合(セ)思ふに、これも思賀の大和太が、みづから昔の人に得あはぬよしに、よみなしたり、なほ次にいふを併(セ)考(フ)べし)○與杼六友《ヨドムトモ》は、雖《トモ》v淀《ヨドム》なり、思賀《シガ》の大和太《オホワダ》のありし世のまゝにて、淀むともと云なり、かくいふ故は、この大和太は曲り入たるところなれば、釣魚《ツリ》の遊などするには、風波の難をも避て、ことに便(リ)宜しき處なれば、昔(シ)大津(ノ)宮のありし世には、常に宮人の此處に舟を泊て、遊びし處と知(ラ)れたり、しかるに今は舊都となりて、昔(シ)盛なりし世の如くに、舟遊する人もたえてなければ、ありし世のまゝにかはらず、淀みてあれども、その詮なきをいへるなり、釣2魚於曲浦(ニ)1とあるにて、和太は釣魚のあそびどころに宜しき事思ふべし、○昔人二《ムカシノヒトニ》、此は大津(ノ)宮の時の人をさして云、かく大かたに昔の人といへること、詞のみやびなりと知べし○亦母相目八方《マタモアハメヤモ》、舊本に、一(ニ)云將會跡母戸八と注せり、こは本書のかたしらべまされり、目《メ》は牟《ム》のかよへるな(186)り、八《ヤ》は後(ノ)世の也波《ヤハ》と心得てあるべし、相むやは相(ハ)じといふ意なり、方《モ》は歎息を含める助辭なり、さて相は作者のあふにはあらで、思賀の大和太の、昔の人に又あはむやは、得あはじといへるなり、次上の歌に思賀乃乃辛崎雖幸有《シガノカラサキサキクアレド》云々といへるも、辛崎のありし世のまゝにさきくありて、大宮人の舟を待ども待得ぬよしにいへるも、辛崎を主とたてゝよめれば、今も一意にて、大和太のみづからのうへになして心得べし、○歌(ノ)意は、思賀の大和太の、ありし世のまゝに淀みてありとも、今は荒都となりぬれば、大宮人の舟遊(ヒ)すべきよしもなければ、昔(シ)の人に又も得あふべからねば、昔(シ)盛なりし世のまゝに淀みてあらむも、その詮なき事なるに、もしたほ昔(シ)の人にあふ事もあらむかとて、待つゝあるらむ心の、いかにさぶしかるらむと、大和太をふかくあはれみたるなり、
 
高市連黒人《タケチノムラジクロヒトガ》。感2傷《カナシミ》近江舊堵《アフミノミヤコノアレタルヲ》1作歌《ヨメルウタ》。
 
高市(ノ)連黒人(舊本に、高市古人とあり、さて其(ノ)下に、或書云、高市連黒人とあるによりて改(メ)つ、古人とあるは誤なり、こは歌の初句をよみあやまりて、後人のさかしらせしなるべし、)は、傳しられず、○舊堵(堵(ノ)字、拾穗本には都と作り、)は、三(ノ)卷に、難波(ノ)堵と書り、玉篇(ニ)云、堵(ハ)垣也、五版(ヲ)爲v堵(ト)とあり、(こゝは都(ノ)字と通(ハ)し用たるなるべし、)六(ノ)卷に、天皇遊2?高圓野(ニ)1之時、小獣泄走2堵里之中(ニ)1云々、十六に、新田部(ノ)親王、出2遊于堵裡(ニ)1、御2見勝間田之池(ヲ)1、三(ノ)卷にも、高市(ノ)連黒人近江(ノ)舊都(ノ)歌載た(187)り、
 
32 古《イニシヘノ》。人爾和禮有哉《ヒトニワレアレヤ》。樂浪乃《サヽナミノ》。故京乎《フルキミヤコヲ》。見者悲寸《ミレバカナシキ》。
 
古人爾和禮有哉《イニシヘノヒトニワレアレヤ》は、我(レ)は古(ヘ)の人にてあればにやの意なり、古(ヘノ)人とは大津(ノ)宮の予の人をいふなり、有哉《アレヤ》は安禮婆也《アレバヤ》の意なるを、婆《バ》をいはざるは古言のつねなり、哉《ヤ》は疑の也《ヤ》なり、○樂浪乃《サヽナミノ》上にいへり、○見者悲寸《ミレバカナシキ》、かくとぢめたるは、上の疑の也の結(ヒ)なり、○歌(ノ)意は、大津(ノ)宮の世の人にてあらば、みやこの荒たるが悲しかるべき理なり、されば我は、その京都の全盛《サカリ》なりし時にあへる、古(ヘノ)人にてあればにや、舊都を見(レ)ばかくまで悲傷《カナシキ》と云るにて、さて打かへして思ひみれば、われはその世の人にもあらぬに、かくまでいたくかなしきは、心得がたき事ぞと、みづから我(カ)心をあやしみたるに、ふかく此(ノ)荒都をかなしめる意あらはれたり、
 
33 樂浪乃《サヽナミノ》。國都美神乃《クニツミカミノ》、浦佐備而《ウラサビテ》。荒有京《アレタルミヤコ》。見者悲毛《ミレバカナシモ》。
 
樂浪乃國《サヽナミノクニ》といへるは、いはゆる吉野の國、泊瀬の國など云るにおなじ、○國都美神《クニツミカミ》は天(ツ)神にむかへて、地祇を久邇都神《クニツカミ》といふとはいさゝか異にて、こゝは樂浪の地をうしはきます御神なり、(國は、其(ノ)國(ノ)人を某國(ノ)人、其國(ノ)物を某(ノ)國津物といふ國に同じ、)美《ミ》は御《ミ》にて、たゝへまつりて、申せるなり、その土地をうしはきますをかく云は、十七に、美知乃奈加久邇都美可未波多妣由伎母之思良奴伎美乎米具美多麻波奈《ミチノナカクニツミカミハタビユキモシヽラヌキミヲメグミタマハナ》、ともあるに同じ、神名帳に、伊勢(ノ)國度會(ノ)郡度會(ノ)國(ツ)(188)御神(ノ)社、(等由氣(ノ)宮儀式帳にも、度會之國都御神(ノ)社と見えたり、)これも度會の地をうしはきますより呼るなるべし、○浦佐備《ウラサビ》は、浦は借(リ)字にて心《ウラ》なり、表《ウヘ》の反にて人目に見えず、心(ノ)裏にて物するを云、心を宇良《ウラ》といふは、宇良呉悲志《ウラゴヒシ》、宇良我奈志《ウラガナシ》、宇良毛登那志《ウラモトナシ》などの宇良《ウラ》と同じ、佐備《サビ》は、勝佐備《カチサビ》、宇麻人佐備《ウマヒトサビ》、壯夫佐備《ヲトコサビ》、壯女佐備《ヲトメサビ》、神佐備《カムサビ》、山佐備《ヤマサビ》、翁佐備《オキナサビ》などの佐備《サビ》に同じく、そのもとは然儀《シカブリ》の約れる言なるが、(たとへば翁佐備は、翁|然儀《シカブリ》の謂にて、翁とありて然《サ》る客儀《フルマヒ》をする意なり、備《ビ》は儀《ブリ》にて、俗にめくと云に意同じ、後撰集題詞に、事あり貌ならず何となき容《サマ》したるを、ことなしびと云るも、事無(シ)めくといふ意なり、)轉りては、たゝ荒ぶることにいふことゝなれり、こゝの佐備《サビ》も荒ぶるよしなり、(或説に、佐夫《サブ》といふは、銅鐵などのさびといふが如く、内なる物の、おのづから外にうかびいづるを云(フ)、さればこゝは國津御神の御心のうちにおぼす事の、おのづから、外にうかび出たるよしを云なりと云り、此(ノ)説さることながら、末によりて本を解むとするから、猶佐備の言の本義にあらざるなり、)此(ノ)卷の末に浦佐夫流情佐麻禰之《ウラサブルコヽロサマネシ》、二(ノ)卷に晝羽裳浦不樂晩之《ヒルハモウラサビクラシ》、四(ノ)卷に、旦夕爾佐備乍將居《アシタユフベニサビツヽヲラム》などの佐備《サビ》に同じ、こゝは樂浪の地を、うしはきます御神の、心の荒備によりて、遂に世の亂もおこりて、全盛なりし京都の荒たるよしなり、○荒有京《アレタルミヤコ》は、荒てある京なり、多流《タル》は、?安流《テアル》のつゞまれるなり、○悲毛《カナシモ》(毛(ノ)字、拾穗本に寸と作り、カナシキ〔四字右○〕にてはこゝはいかゞなり、必(ス)毛なるべし、)毛《モ》は歎息の詞なり、(189)上にいへり、○歌(ノ)意は、この大津に都し給ひしが、國津御神の御心にかなはずして、あらびます御心つひにやはしがたくて、此(ノ)都のあれたるが、すべなくかなしきことかなと、深く歎きたるなり、(千載集十六に、さゞ波や國津御神のうらさびてふるき都に月ひとりすむ、鶴岡(カ)放生會職人歌合に、とる棹の歌の聲まで浦さびて月のしほせに出る船人、
 
幸《イデマセル》2于|紀伊國《キノクニヽ》1時《トキ》。川島皇子御作歌《カハシマノミコノヨミマセルウタ》。【或云。山上巨憶良作。】
 
幸2于紀伊(ノ)國(ニ)1は、書紀に、持統天皇朱鳥五年九月乙亥朔丁亥、天皇幸2紀伊(ニ)1、戊戌、天皇至(リマス)v自2紀伊1とあり、○川島(ノ)皇子は、天智天皇の皇子なり、書紀天智天皇(ノ)卷に、七年云々、又有2宮女《メシヲミナ》1、生2男女者四人(ヲ)1、有2忍海(ノ)造|小龍《ヲツガ》女1、曰2色夫古《シコブコノ》娘(ト)1、生2一男二女(ヲ)1、其一(ヲ)曰2大江(ノ)皇女(ト)1、其二(ヲ)曰2川島(ノ)皇子(ト)1、其三(ヲ)曰2泉(ノ)皇女(ト)1、天武天皇(ノ)卷に、十四年春正月丁末朔丁卯、是(ノ)日川島(ノ)皇子、忍壁(ノ)皇子(ニ)、授2淨大參(ノ)位(ヲ)1、持統天皇(ノ)卷に、五年春正月癸酉朔乙酉、増2封(ヲ)淨大參川島1百戸、通(ハシテ)v前(ニ)五百戸、九月己巳朔丁丑、淨大參皇子川島薨(タマフ)、懷風藻に、川島(ノ)皇子一首、皇子者淡海(ノ)帝之第二子也、云々、位終2于淨大參(ニ)1、時年三十五など見えたり、泊瀬部(ノ)皇女を御妃と爲賜ひ、又高市(ノ)郡越智に葬り奉れる趣など二(ノ)卷(ノ)歌に見えたり、猶彼處にいふべし、
 
34 白浪乃《シラナミノ》。濱松之妓乃《ハママツガエノ》。手向草《タムケグサ》。幾代左右二賀《イクヨマデニカ》。年乃經去良武《トシノヘヌラム》。
 
白浪乃濱《シラナミノハマ》とつゞけたる意は、古事記傳に詳し、今按(フ)に、集中に、白菅之眞野《シラスゲノマヌ》とよめるも、白管《シラスゲ》の(190)生(フ)る眞野といふ意、又|炎乃春《カギロヒノハル》と作《ヨメ》るも、炎(ヒ)の燎《モユ》る春といふ意にて、皆同格なり、(略解に、白浪のよする濱といふべきを、言を略きてつゞけしものなりと云るは、同じやうの事ながら、いささかたがへり、これらは打まかせて、略言といふべきものにはあらず、)猶これらのこと下にくはしくいへり、又一(ツ)おもふに、白浪之《シラナミノ》は濱《ハマ》の枕辭にて、白浪の穗《ホ》といふ意にいひかけたるなるべし、倭姫世記にも、伊勢(ノ)國の事を敷浪七保國之吉國《シキナミナヽホクニノエクニ》とあるも、敷浪之穗《シキナミノホ》とかゝれる枕詞なるを併(セ)考べし、さて保《ホ》と波《ハ》とは親く通ふ語にて、波布理《ハフリ》を、出雲(ノ)國風土記に穗振《ホフリ》といひ、又古語に、波妣許里《ハビコリ》を、保妣許理《ホビコリ》と云(ヒ)、波太禮《ハダレ》を、保杼呂《ホドロ》と云(フ)など皆其(ノ)例なれば、こゝも浪《ナミ》の穗《ホ》といふ意に、濱の波《ハ》の言へ云かけたるをしるべし、かく語を轉していひかけたる例は、十二に、機上生小松名惜《イソノヘニオフルコマツノナヲヲシミ》とあるも、小松の根《ネ》と云を轉して、名といひかけたるなどなり、さて浪の穗《ホ》といふは、十四に、奈美乃保能伊多夫良思毛與《ナミノホノイタブラシモヨ》云々とある、彼處にくはしく云べし、(濱成式に、此(ノ)御歌の初句を、旨羅那美能《シラナミノ》と書たれば、岡部氏(ノ)考に、白浪の浪(ノ)字は、良か神かの誤にて、シララ〔三字右○〕か、またはシラカミ〔四字右○〕ならむと云るは、いみしき謾言なる事をおもひわきまふべし、)○濱松之枝乃《ハママツガエノ》(枝(ノ)字、略解に、古本に本と作とあり、千賀(ノ)眞恒校本に、古本根とあり、いかゞ)は、濱に生たる松の枝之なり、(岡部氏(ノ)考に、此(ノ)歌九(ノ)卷に、松之木と有て、古本には松之本とあり、これはまつがねとよむべし、こゝの松之枝は、根(ノ)字を誤れるなるべしとあれど、こは濱成式に、波麻々都我(191)延能《ハマヽツガエノ》と假字書にしたれば、松之枝なることは、うごくべからぎるをや)○手向草《タムケグサ》は、仙覺注に、たむけぐさとは、神にたてまつれるものなり、神に奉るものを松にかけおきたれば、濱松がえのたむけ草とよめるなりと云、この義常の事なり、あしからず、常陸風土記に、香島(ノ)郡の舊聞異事を注すところに、海上(ノ)安是之《アゼノ》孃子(ガ)歌(ニ)曰、伊夜是留乃阿是乃古麻都爾由布悉弖々和乎布利彌由母阿是古志麻波母《イヤゼルノアゼノコマツニユフシデヽワヲフリミユモアゼコシマハモ》云々、是は濱松が枝のたむけ草、などよめらむためし事と聞えたり、云々と云り、是(レ)によるべし、草は(借字にて)種なり、何にてもあれ手向の具をいふ、十三にあふ坂山に手向草ぬさとりおきてと有に同し、と岡部氏の云るが如し、(源(ノ)貞世が道ゆきぶりに、明石の浦は緑の松の年ふかくて、濱になびき馴たる枝に手向草打しげりつゝ、村々並立てとかけり、これは今の御歌の手向草を、女蘿《ヒカゲ》なりといふ舊説のあるによれるものなり、されどこの手向草は女蘿にはあらじ、)手向とは旅にゆく人の、山上にて神を祭りて、平安《サキカ》らむことをいのるに多くはいへり、されど然《サ》るところにもかぎるべからず、さて手向といふ言(ノ)意は、大神景井が、取向の切(マ)りたる詞なり、と云るぞよく叶へる、(取《トリ》はチ〔右○〕と切るを、タ〔右○〕に通はしたり、)集中に、幣取向《ヌサトリムケ》と多くいへるをも考(ヘ)合(ス)べし、○幾代左右二賀《イクヨマデニカ》云々は、濱松の枝にかゝれるその手向種《タムケグサ》は、今は幾代までにかなりぬらむとなり、賀は疑の加《カ》なり、清て唱(フ)べし、(賀(ノ)字をかけるは正しからず、)或説に、此(ノ)卷の上に、齊明天皇紀(ノ)温泉の幸あり、又中皇命紀温泉にお(192)はしての御歌あり、齊明天皇は、この川島(ノ)皇子の御祖母にまし/\、中皇女は御伯母なり、されば齊明天皇中皇女などの、紀(ノ)國におはしゝついで、此(ノ)濱松のあたりにて、たむけせさせ給ひし事を、よませ給へるにこそといへり、此(ノ)説しかるべし、さてそのかみたむけ給ひし具の、なほ存《アル》がごとく見そなはして、そのものは幾代を經ぬらむとよませ給へるなり、(岡部氏(ノ)考に、そのかみ幸有し時、こゝの濱松のもとにて、手向せさせ給ひし事を、傳へ云を聞給ひて、松は猶在たてるを、ありし手向種の事は、幾代經ぬらむとよみ給へるなりとあるはいかが、但しそのかみ手向給ひし具の、なほそのまゝに遺りて存《アラ》むことはあるまじけれど、なほこの御歌は、直に手向種を見そなはして、その手向種は、幾代經ぬらむとよみ給へる御詞つきなれば、手向種の事は幾代經ぬらむと解《イハ》むは、いとをこなることならずや、)○年乃經去良武《トシノヘヌラム》舊本に、一(ニ)云年者經爾計武と注せり、こはいづれにてもあるべし、○御歌(ノ)意は、この濱松の枝にかゝれる手向種は、今はいくよといふばかりまでにか年の經ぬらむと、その手向種にことよせ給ひて、古(ヘ)を懷ふ御意を述給へるなり、此(ノ)御歌濱成式には、旨羅那美能波麻々都我延能他牟氣倶佐伊倶與麻弖爾可等旨能倍爾計武《シラナミノハマヽツガエノタムケグサイクヨマデニカトシノヘニケム》とあり、又此(ノ)集九(ノ)卷に重出《フタヽビイデ》たるには、白那彌之濱松之木乃手酬草幾世左右二箇年薄經濫《シラナミノハママツノキノタムケグサイクヨマデニカトシハヘヌラム》とあり、(新古今集に、逢事を今日松が枝の手向草いく夜しをるゝ袖とかは知とあるは、もはらこの御歌によれるなり、
(193)〔日本紀(ニ)曰。朱鳥四年庚寅秋九月。 天皇幸(ス)2紀伊國(ニ)1也。〕
書紀に、持統天皇四年秋九月乙亥朔丁亥、天皇幸2紀伊1とあり、則朱鳥五年なり、こゝは誤れるなるべし、○也(ノ)字、拾穗本にはなし、
 
越《コエタマフ》2勢能山《セノヤマヲ》1時《トキ》、阿閉皇女御作歌《アベノヒメミコノミヨミマセルミウタ》。
 
越2勢能山(ヲ)1云々、右と同じ度なるべし、勢能山は紀伊(ノ)國那賀(ノ)郡にあり、集中に彼此《コレカレ》見ゆ、書紀に、孝徳天皇二年、詔曰、凡|畿内《ウチツクニハ》東(ハ)自2名墾(ノ)横河1以來、南(ハ)自2紀伊(ノ)兄(ノ)山1以來、(兄此云v制《セト》、)西(ハ)自2赤石(ノ)櫛淵1以來、北(ハ)自2近江(ノ)狹々波(ノ)合坂山1以來、爲2畿内國(ト)1あり、○阿閇(ノ)皇女は、天智天皇(ノ)紀に、七年二月丙辰朔戊寅云々、遂納(レタマフ)2四(ノ)嬪1、有2蘇我(ノ)山田(ノ)石川麿(ノ)大臣(ノ)女1、曰2遠智(ノ)娘(ト)1、云々、次(ニ)有2遠智(ノ)娘(ノ)弟1、曰2姪(ノ)娘(ト)1、生3御名部(ノ)皇女(ト)與(ヲ)2阿倍皇女1、續紀に、日本根子天津御代豐國成姫(ノ)天皇、(元明天皇、)小名阿閇(ノ)皇女、天命《天智》開別(ノ)天皇之第四皇女也、母(ヲ)曰2宗我(ノ)嬪(ト)1、蘇我(ノ)山田(ノ)石川麻呂(ノ)大臣之女也、適2日並知(ノ)皇子(ノ)尊1、生(ス)2天之眞宗豐祖父(ノ)天皇(ヲ)1、(文武天皇、)慶雲四年六月、豐祖父(ノ)天皇崩(リマシキ)秋七月|壬子《元明》、天皇即2位《アマツヒツキシロシメス》於大極殿(ニ)1、云々とあり、(宗我(ノ)嬪は姪(ノ)娘の更名なるべし、)即位し後の御傳は、一(ノ)下に委(ク)云べし、
 
35 此也是《コレヤコノ》。倭爾四手者《ヤマトニシテハ》。我戀流《ワガコフル》。木路爾有云《キヂニアリチフ》。名二負勢能山《ナニオフセノヤマ》。
 
此也是《コレヤコノ》は、本居氏、此也是の是は、かのといふ意なり、すべてかのといふべき事を、このと云る例多し、さて上の此《コレ》は、今現に見る物をさしていふ、かのとは、常に聞居る事、或は世に云習へ(194)る事などをさして云、これや、かの云々ならむといふ意なりと云り、此(ノ)説のごとし、但し彼《カノ》此《コノ》は、もとより差別《ケヂメ》あることなれば、たゞに通(ハ)し云べきにあらざれば、こゝもかの彼方此方《ヲチコチ》と云意の處を許知碁知《コチゴチ》と云る例の如く、彼《カノ》と云べき意なるを、其を内にして此《コノ》と云るなり、行《ユク》と云意なる處を來《ク》といひ、然《シカ》と云意なる處を如此《カク》と云へるなど、みな同じ例なり、さて也《ヤ》は疑の辭なれば、この也《ヤ》の辭は、一首の終までかけて心得べし、此也是《コレヤコノ》は、此(レ)が彼(ノ)云々の某歟《ソレカ》といふ意、此曾是《コレソコノ》は、此(レ)が彼(ノ)云々の某曾《ソレソ》といふ意に見べし、十五に、巨禮也己能名爾於布奈流門能宇頭之保爾多麻毛可流登布安麻乎等女杼毛《コレヤコノナニオフナルトノウヅシホニタマモカルトフアマヲトメドモ》、續後紀十九長歌に、皇之民浦島子加天女釣良禮來弖紫雲棚引弖片時爾將弖飛往天是曾此乃常世之國度語良比弖七日經志加良《キミノタミウラシマノコガアマツメニツラレキタリテムラサキクモタナビケテトキノマニヰテトビユキテコレソユノトコヨノクニトカタラヒテナヌカヘシカラ》云々、後撰集に是や、此(ノ)往も還るも別(レ)乍知も知ぬも相坂の關、夫木集に、是や此(ノ)音にきゝつる雲珠櫻鞍馬の山にさけるなるべしなどあり、○倭爾四手者《ヤマトニシテハ》は、俗に大和ではといふが如し、さてかく四手《シテ》と四《シ》の言をそへて云るは、大和にありて思へるやうを、つよく思はせむとてのことなり、かくて此(レ)は供奉の度にむかへてよませ給へるなり、倭にては戀奉りしを此(ノ)度の從駕には、おもひたえておはすさまによみなし給へり、○我戀流《アガコフル》、この御句は下の勢《セ》につゞけて聞べし、わがこふる所の夫《セ》の君といふ意なり、○、木路有云《キヂニアリチフ》、(路(ノ)字拾穗本には跡に誤れり、)木路は紀路なり、さて「紀路は假字書は見えねども五(ノ)卷に、麻都良遲《マツラヂ》、また奈良遲《ナラヂ》、十七に、奈良治《ナラヂ》、また伊弊(195)遲《イヘヂ》、十五に、伊敝治《イヘヂ》、十四に、夜麻治《ヤマヂ》、廿(ノ)卷に佐保治《サホヂ》、などあるに准へて、路を濁るべし、有云は、アリチフ〔四字右○〕ともアリトフ〔四字右○〕とも訓べし、チフ〔二字右○〕といひトフ〔二字右○〕といふ言の謂《ヨシ》は、下に委《ツバラ》にいふべし、○名二負勢能山《ナニオフセノヤマ》は、夫《セ》の君のその夫《セ》といふ名に負(フ)山の義なり、さて夫《セ》は則(チ)日並(ノ)皇子(ノ)尊を申すなるべし、名二負は三(ノ)卷に大伴之名負靭帶而《オホトモノナニオフユキオビテ》云々、五(ノ)卷に、得保都必等麻通良佐用比米都麻胡非爾比例布利之用利於返流夜麻能奈《トホツヒトマツラサヨヒメツマゴヒニヒレフリシシヨリオヘルヤマノナ》、十一に、早人名負夜音《ハヤヒトノナニオフヨコエ》云々、十五に、巨禮也己能名爾於布《コレヤコノナニオフ》、(上に引)六(ノ)卷に、名耳乎名兒山跡負而《ナノミヲナゴヤヤトオヒテ》云々、又|老人之變若云水曾名爾負瀧之瀬《オイヒトノヲツチフミヅソナニオフタギノセ》、九(ノ)卷に、打越而名二負有杜爾風祭爲奈《ウチコエテナニオヘルモリニカザマツリセナ》、十七に、可無奈我良彌奈爾於婆勢流之良久母能知邊乎於之和氣安麻皆々理多可吉多知夜麻《カムナガラミナニオバセルシラクモノチヘヲオシワケアマソヽリタカキタチヤマ》云々、廿(ノ)卷に、大伴乃宇治等名爾於敝流麻須良乎能等母《オホトモノウヂトナニオヘルマスラヲノトモ》、また之奇志麻乃夜末等能久爾々安  伎良氣伎名爾於布等毛能乎巳許呂都刀米與《シキシマノヤマトノクニヽアキラケキナニオフトモノヲコヽロツトメヨ》、また都流藝多知伊與餘刀具倍之伊爾之敝由佐夜氣久於比弖伎爾之曾乃名曾《ツルギタチイヨヽトグベシイニシヘユサヤケクオヒテキニシソノナソ》、新撰萬葉に、名西負者強手將恃女倍芝人之心丹秋這來鞆《ナニシオハバシヒテタノマムヲミナベシヒトノコヽロニアキハキヌトモ》、古今集に、名にし負ばいざ言問む都鳥我(カ)念人は有(リ)や無(シ)やと、後撰集に、名にし負ば逢坂山の核葛人に知(ラ)れで來(ル)縁もがな、千載集に、名にしおはば常はゆるぎの杜にしもいかでか鷺のいはやすくぬる、古今六帖に、宮の瀧の宜《ウベ》も名に負て聞えけり落る白泡の玉とひゞけばなどあり、○御歌(ノ)意は、此山が倭にては我(カ)戀奉る夫(ノ)君の、その夫《セ》といふ言を名に負る、かの紀路にありと、かねて聞居る勢《セ》の山歟となり、上にいふ如く初の也《ヤ》の(196)疑の詞は、山といふまでにかゝれる詞なり、さて既くも云るごとく、やまとにては戀たまひ、今この度の從駕には思ひ絶ておはすさまなれど、中々に夫(ノ)君のこひしさ堪がたき御心、この名に負(フ)勢《セ》とのたまへるにしるくて、あはれことにふかし、
 
幸《イデマセル》2于|吉野宮《ヨシヌノミヤニ》1之|時《トキ》。柿本朝臣人麿作歌《カキノモトノアソミヒトマロガヨメルウタ》
 
幸2于吉野宮1、これも持統天皇のなり、左注に書紀を引たる如く、持統天皇吉野(ノ)宮に幸《マシ》し事|數度《シバシバ》なれば、何れの度とも定(メ)がたし、○歌(ノ)字、舊本になし、類聚抄古寫本等に從つ、また人麻呂勘文にもあり
 
36 八隅知之《ヤスミシヽ》。吾大王之《ワガオホキミノ》。所聞食《キコシヲス》。天下爾《アメノシタニ》。國者思毛《クニハシモ》。澤二雖有《サハニアレドモ》。山川之《ヤマカハノ》。清河内跡《キヨキカフチト》。御心乎《ミコヽロヲ》。吉野乃國之《ヨシヌノクニノ》。花散相《ハナチラフ》。秋津乃野邊爾《アキツノヌヘニ》。宮柱《ミヤバシラ》。太敷座波《フトシキマセバ》。百磯城乃《モヽシキノ》。大宮人者《オホミヤヒトハ》。船並?《フネナメテ》。旦川渡《アサカハワタリ》。舟競《フナキホヒ》。夕河渡《ユフカハワタル》。此川乃《コノカハノ》。絶事奈久《タユルコトナク》。此山乃《コノヤマノ》。彌高良之《イヤタカヽラシ》。珠水激《オチタキツ》。瀧之宮子波《タキノミヤコハ》。 見禮跡不飽可聞《ミレドアカヌカモ》。
 
八隅知之《ヤスミシヽ》、上にいへり、○所聞食は、キコシヲス〔五字右○]と訓べし、(本居氏、食《ヲス》はもと物を食(フ)ことなり、書紀などに食をミヲシス〔四字右○〕とよみ、食物ををしものと云、十二にをしと云辭にも、食(ノ)字を借(リ)て書り、さて物を見も聞も知も食も、みな他物を身に受入るゝ意同じき故に、見《ミス》とも聞《キコス》ともl知《シラス》とも、相通はして云こと多くして、君の御國を治め有ち坐をも、知とも食とも聞看とも申すな(197)り、これ君の御國治め有(チ)坐は、物を見が如く知が如く食が如く、御身に受入有つ意あればなりと云り、意はさもあるべし、但しこれは食(ノ)字を訓るに就ていへる説にして、末の論なれば、其(ノ)意は、本より釋《トキ》ても末より釋ても、甚くたがふことなけれど、言の本義を原《タヅ》ねて釋ときはつきざることなり、)今按(フ)にヲス〔二字右○〕と云は、その言の本は居《ウ》の伸りたるものなり、居を宇《ウ》といふことは、書紀に證あることなり、聞《キク》のク〔右○〕伸りてコス〔二字右○〕となりて伎許須《キコス》と云(ヒ)、知《シル》のル〔右○〕伸りてロス〔二字右○〕となりて、志呂須《シロス》と云ごとく、もと敬《ウヤマ》ふときに伸云たるものなり、ヲス〔二字右○〕もコス〔二字右○〕もロス〔二字右○〕も、五十音の第三位を、第五位に伸(ヘ)はたらかしたるものにて、皆同格なり、かくて食ふ物は他物を身に居住らする物なれば、やがて食(ノ)字をヲス〔二字右○〕と訓るにて、食(ノ)字の本義にはあらず、居ることを單《タヾ》には宇《ウ》と云(ヒ)、敬ひては乎須《ヲス》と云こと、聞ことを單《タヾ》には伎久《キク》と云(ヒ)、敬ひては伎許須《キコス》と云と同じことなり、(されば食《ミヲシス》も食物《ヲシモノ》も食國《ヲスクニ》と云も所聞食《キコシヲス》と云も、みな敬ていへることにて、たゞに食《ク》ふことを云ることはをさ/\なし、食(ノ)字をヲシ〔二字右○〕の借(リ)字とせるは、論のかぎりにあらず、)五(ノ)卷に、大王伊麻周《オホキミイマス》云々、企許斯遠周久爾能麻保良叙《キコシヲスクニノマホラゾ》云々、十八に、高御座安麻能日繼登須賣呂伎能可未能美許登能伎己之乎須久爾能麻保良爾《タカミクラアマノヒツギトスメロキノカミノミコトノキコシヲスクニノマホラニ》云々、廿(ノ)卷に、伎己之米須四方乃久爾欲里《キコシメスヨモノクニヨリ》云々、このキコシヲスもキコシメスも、即(チ)知(シ)看(ス)と云と全(ラ)同意にて、天皇の天(ノ)下を知居賜ひて萬(ツ)の事を聞看《キコシメ》し、國民を治(メ)有ち賜ふを云古語なり、○國者思毛《クニハシモ》は、思毛《シモ》とは多かる物の中に、(198)その一(ト)すぢをとりたていふ助辭なり、こゝは諸國《クニ/”\》によき國多かる中に、吉野(ノ)國はことにすぐれて、よき國ぞとおもはせむがためなり、(から籍に、禮(ト)云禮(ト)云玉帛(ヲシモ)云(ム)乎《ヤ》、樂(ト)云樂(ト)云鐘鼓(ヲシモ)云(ム)乎《ヤ》哉とある、これに思毛《シモ》といふ詞をそへて訓來れるも、その物の多かる中に、玉帛の一すぢをとりたてゝ禮と云むや、鐘鼓の一(ト)》すぢをとりたてゝ樂といはむやとの意なり、)○澤(ハ)は、借(リ)字|多《サハ》なり、○山川《ヤマカハ》は、山と川となり、川を清て唱べし、七(ノ)卷に、皆人之戀三吉野今日見者諾母戀來山川清見《ヒトミナノコフルミヨシヌケフミレバウベモコヒケリヤマカハキヨミ》とある山川も同じ、○晴河内跡《キヨキカフチト》は、山と川の清くてめぐれる地なれば、よき地なりとての意なり、河内は字の如く可波宇知《カハウチ》にて、川の行囘れる裏をいふ、さてその波宇《ハウ》を切て敷《フ》といへるなり、神武天皇(ノ)紀に、東(ニ)有2美地1、青山|四周《ヨモニメグレリ》とあるも、山川のめぐれる地は、よき地なるが故なり、さてこれはたゞ地のをかしきを賞《メヅ》るのみにあらず、山川あたりに近ければ、山より材を出し川より魚を出しなど、よろづたよりよき地なればなり、跡《ト》はとての意なり、○御心乎《ミコヽロヲ》は、吉野の枕詞か、(冠辭考に、こほ天武天皇の良《ヨシ》と能《ヨク》見て吉(シ)といひしとよませ賜ひし如く、この吉野をよしと見そなはして、御心を慰め賜ふてふ意にていひかけたるなり、神功皇后(ノ)紀に御心《ミコヽロ》廣田(ノ)國てふは、神の此所にしづもりまして、遠く廣く見そなはしたまはむことをいひ、御心《ミコヽロ》長田(ノ)國とは、長く久しくこゝにまさむことを云りと云り、それも義は通《キコ》えたり、もしその義ならば、うけはりたる枕詞には非ず、されどなほ反復《ウチカヘ》して考(フ)るに、)天皇の大(199)御心よ、善《ヨシ》と稱(ヘ)奉れる謂《ヨシ》にて、つゞけたるならむか、さらば乎《ヲ》は余《ヨ》といはむがごとくなるべし、又例の之《ノ》に通ふ言にて、味酒乎《ウマサケヲ》、未通女等乎《ヲトメラヲ》など云|乎《ヲ》にてもあるべし、さて御心《ミコヽロ》廣田《ヒロタ》、御心《ミコヽロ》長田《ナガタ》たど書紀に見えたるも、大御心の廣く長きを稱奉る謂なるべきにや、○吉野乃國《ヨシヌノクニ》、此は吉野は郡(ノ)名にて國にはあらねど、郡郷などを國といふこと古(ヘ)の常なり、堺をたてゝ人のすむ地をば、なべて國といひしなり、○花散相《ハナチラフ》は、花散《ハナチル》なり、ラフ〔二字右○〕の切ル〔右○〕となる、(この良《ラ》は里阿《リア》の約りたるにて、知良布《チラ》は知里阿布《チリアフ》なりといふ説あり、それもしかるべし、さらばカタラフ〔四字右○〕も力タリアフ、キラフ〔八字右○]もキリアフ〔四字右○〕の約まれる言と見べし、延約の事義なくてはあるまじきことなればなり、されどかく二樣にきこゆるは、古言の妙理にて、延て云たるか約めていひたるか、そのもとは定めがたけれど、なほチル〔二字右○〕を延てチラフ〔三字右○〕といへりとぞおぼゆる、すべて言を延ていふは、長《ノド》かなるをいふことにて、チル〔二字右○〕はたゞにその散ことをいひ、チラフ〔三字右○〕はその散ことのたえず、長長《ノドノド》とある形容をいへることゝこそきこえたれ、)さてこは、吉野は眞純《モハラ》と花に名ある地なれば、即(チ)花散相《ハナチラフ》てふ詞もて、彼處の秋津野の枕詞とせるなり、十四に、波奈知良布己能牟可都乎乃乎那能乎能《ハナチラフコノムカツヲノヲナノヲノ》云々ともよめり、(岡部氏(ノ)考に、此(ノ)詞のみを握《オサ》へて、おして此幸をも春なりけむと云るは、例のなづめり、)○秋津乃野邊《アキツノヌヘ》は、吉野にある蜻蛉野なり、この野の名のはじめは、書紀雄略天皇に見えたり、邊は字注に岸也側也方也などある、其(ノ)意にて弊《ヘ》と(200)訓り、(或説に、某邊の邊は助辭ぞといへるは、いと/\あたらぬことこぞ、さらば目邊《マヘ》をたゞ目、尻邊《シリヘ》をたゞ尻《シリ》、行邊《イクヘ》をだゞ行、何邊《イヅヘ》をたゞ何、縁邊《ヨルヘ》をたゞ縁、往邊《イニシヘ》をたゞ往といはむか、是等は皆|某方《ナニカタ》てふ意とせずては、通《キコ》ゆべからぬをや、目邊《マヘ》は目方《メカタ》、尻邊《シリヘ》は尻方《シリカタ》、行邊《ユクヘ》は行方《ユクカタ》、縁邊《ヨルヘ》は縁方《ヨルカタ》の意なるに、餘も准(ヘ)て知べし、又|山邊《ヤマヘ》、河邊《カハヘ》、海邊《ウミヘ》、奧邊《オキヘ》などの邊も、本義《モトノコヽロ》は皆|方《カタ》の意なれども、はやく云なれて後は、唯山河海奧といふことにて、邊はたゞ何となき助辭のごとくもなれるなり、よく心すべし、かゝれば集中にも奧邊之方《オキヘノカタ》、何邊之方《イヅヘノカタ》などよめるなり、然有《サレ》ど是等のみにつきて、某邊の邊は、凡て助辭ぞとおもへるは、言の本(ノ)義を遺《ワス》れたる論《コト》なりけり、)さてこれらの邊を、某邊といふときは、皆|昔來《ムカシヨリ》濁《ニゴリ》て唱ふめれども、凡て清べき例なり、古事記中卷崇神天皇(ノ)條に、麻幣、(目邊《マヘ》なり、)應神天皇(ノ)條に、母登幣《モトヘ》、(本邊《モトヘ》なり、)須惠幣《スヱヘ》、(末邊《スヱヘ》なり、)下卷仁徳天皇(ノ)條に、夜麻登幣《ヤマトヘ》、(倭邊《ヤマトヘ》なり、)淤岐幣《オキヘ》、(奧邊《オキヘ》なり、)雄略天皇(ノ)條に、須惠幣《スヱヘ》、又|意富麻幣《オホマヘ》、(大目邊《オホマヘなり、)又書紀神代(ノ)卷に、頭邊此云2摩苦羅陛《マクラヘト》1、脚邊此云2阿度陛《アトヘト》1、亦背揮此云2志理幣提爾布倶《シリヘテニフクト》1、(尻邊手《シリヘテ》に揮《フク》なり、)景行天皇(ノ)卷に、麻幣菟耆瀰《マヘツキミ》、仁徳天皇(ノ)卷に、望苫弊須惠弊《モトヘスヱヘ》、顯宗天皇(ノ)卷に、野麻登陛《ヤマトヘ》、繼體天皇(ノ)卷に、漠等陛須衛陛《モトヘスヱヘ》、齊明天皇(ノ)卷に、何播杯《カハヘ》、集中には、廿(ノ)卷に、二ところ努敝《ヌヘ》、十四に、夜麻敝《ヤマヘ》、又|波流敝《ハルヘ》、廿(ノ)卷に、波流弊《ハルヘ》又|春敝《ハルヘ》、又此(ノ)卷に、奧敝《オキ〜》、四(ノ)卷に、奧弊《オキヘ》、十四に、於思敝《オシヘ》、十五に六ところ、十八に一處|於伎敝《オキヘ》、十五に、於吉敝《オキヘ》、又|於枳敝《オキヘ》、十七に、於伎弊《オキヘ》、十五に、久爾敝《クニヘ》、十九に、國敝《クニヘ》、廿(ノ)卷に、久爾弊《クニヘ》、三(201)卷に、曾久敝《ソクヘ》、十七十九に、曾伎敝《ソキヘ》、十四に、緒可敝《ヲカヘ》、十七に、美夜故弊《ミヤコヘ》、十八に、彌夜故敝《ミヤコヘ》、又|美夜敝《ミヤヘ》、十九に二ところ谿敝《タニヘ》、十五、に二ところ安之敝《アシヘ》、廿(ノ)卷に、安之弊《アシヘ》、十五に、由久敝《ユクヘ》、十八に、由具敝《ユクヘ》、十九に、伊頭敝《イヅヘ》、廿(ノ)卷に須賣良弊《スメラヘ》、又|都久之閇《ツクシヘ》、十八に、余留弊《ヨルヘ》、又|麻敝《マヘ》、廿(ノ)卷に、志利弊《シリヘ》、又|志流敝《シルヘ》、又|等許敝《トコヘ》、五(ノ)卷に一處、廿(ノ)卷に二ところ由布弊《ユフヘ》、十四に一處、十五に一處、十九に二ところ由布敝《ユフヘ》など、假字書にはいづれも、清音の字を用ひたるによりて、凡某邊、又其方と書るをも清べきをしれ、(かゝるを猶清音と決めむも、いかにぞやいふ人もあれば、かくこちたきまで例どもを引出て、今は證《アカ》しおくにぞ有ける、但(シ)十(ノ)卷に、山部《ヤマヘ》、六(ノ)卷、八(ノ)卷、九(ノ)卷、十(ノ)卷に、春部《ハルヘ》、三(ノ)卷、六(ノ)卷に、奧部《オキヘ》、又同卷に、國部《クニヘ》、九(ノ)卷に、退部《ソキヘ》、十(ノ)卷に、崗部《ヲカヘ》、六(ノ)卷に、夷部《ヒナヘ》、波萬部《ハマヘ》、六(ノ)卷に、葭部《アシヘ》、故事部《コシヘ》、古部《イニシヘ》など書る、部(ノ)字をヘ〔右○〕とよめるはムレ〔二字右○〕の切(マ)りたるにて、本居氏(ノ)説に、部《ヘ》はムレ〔二字右○〕の切なり、ムレ〔二字右○〕はメ〔右○〕と切(マ)るを、メ〔右○〕をヘ〔右○〕と轉しいへりと云るが如く、濁るべき理なれども、既《ハヤ》く云る如く、字(ノ)訓は清濁互にまじへ用ふること、古例あれば、集中にも、部《ヘ》字を多くは清(ム)例の處に用ひたり、其例を一二《カヅ/\》いはば、三(ノ)卷に、倭部早《ヤマトヘハヤク》、六(ノ)卷|倭部越《ヤマトヘコユル》、三(ノ)卷に、櫻田部鶴鳴渡《サクラダヘタヅナキワタル》、七(ノ)卷に、奧津浪部都藻纏持《オキツナミヘツモマモモチ》、また安太部去小食手乃山之《アダヘユクヲステノヤマノ》、吉野部登入座見者《ヨシヌヘトイリマスミレバ》、又|木部行君乎《キヘユクキミヲ》、この木部行の部も、倭部越、安太部去などの部と同言なり、これら清例に用ひたるにても、疑をはらすべし、かくて唯書紀天智天皇(ノ)卷に、施麻倍《シマヘ》、集中に安之辨《アシヘ》、八(ノ)卷に一(ニ)云|夕倍《ユフヘ》、廿(ノ)卷に波麻倍《ハマヘ》などあるのみは、正しからず、されど倍(ノ)字(202)は濁音ながら、清(ム)處にもおほく用ひたり、又或人右の十五に安之辨《アシヘ》とあるのみを見て、蘆邊の邊は濁べき例ぞといへるは、右に引出たる例どもをまでには、見ざりしものぞかし、又古事記雄略天皇(ノ)大御歌に、久佐加辨能《クサカベノ》とあるは、日下部《クサカベ》てふ地(ノ)名にて、日下邊の意にはあらず、思ひまどふべからず、但し今(ノ)世にも目邊《マヘ》、尻邊《シリヘ》、行邊《ユクヘ》、往邊《イニシヘ》などの邊は、古(ヘ)へのごと清て唱ふる事なるを、此(ノ)外某邊といふをば、をさ/\清て唱ふることはなくなれりき、)○宮柱《ミヤバシラ》、これは吉野の離宮なり、さて廿(ノ)卷に、美也婆之良《ミヤバシラ》とあり、婆を濁るべし、○太敷座波《フトシキヤセバ》は、古事記傳十(ノ)卷、於2底津石根1宮柱|布刀斯理《フトシリ》とある處に云、布刀斯理《フトシリ》は、祝詞等に太知立《フトシリタテ》とも大敷立《フトシキタテ》とも、又|廣知立《ヒロシリタテ》ともあり、そは師説に、萬葉二(ノ)卷に、天皇之敷座國《スメロキノシキマスクニ》と云、祈年祭(ノ)詞に、皇神能敷座島能八十島者《スメカミノシキマスシマノヤソシマハ》云々など、知(リ)坐を敷(キ)坐と云たれば、知と敷と同じと有、さて此(ノ)稱辭を、古來たゞ柱の上とのみ意得れど、さに非ず、今考るに、萬葉二(ノ)卷に、水穗之國乎神隨太敷座而《ミヅホノクニヲカムナガヲフトシキマシテ》云々、又一(ノ)卷に、太敷爲京乎置而《《フトシカス》ミヤコヲオキテ》云々又二(ノ)卷に、飛鳥之淨之宮爾神隨太布座而《アスカノキヨミノミヤニカムナガラフトシキマシテ》云々、などある例を思ふに宮|柱布刀斯理《バシラフトシリ》、も、其(ノ)主の其(ノ)宮を知(リ)坐を云なり、布刀《フト》も右の萬葉に柱ならで、國を知(リ)坐にも云れば、たゞ廣く大きにと云稱辭なり、布刀御幣《フトミテグラ》、布度詔戸《フトノリト》、太占《フトマニ》などもいへり、故(レ)廣知とも云るぞかし、かかれば此語は專(ラ)柱に係るには非ず、其(ノ)宮の主に係れる語なるを、布刀《フト》と云が柱に縁あるから、宮柱太とは云かけて、兼て其(ノ)宮をも祝たる物なり、神代紀下卷に、其(ノ)造宮之制者、柱(ハ)則高(ク)太(ク)(203)云々、萬葉二(ノ)卷に、眞木柱太心者《マキバシラフトキコヽロハ》云々など、柱は太(キ)を貴ぶなりといへり、なほ此《コヽ》の如くつゞけたるは、二(ノ)卷に眞弓乃崗爾宮柱太布座御在香乎高知座而《マユミノヲカニミヤバシラフトシキイマシミアラカヲタカシリマシテ》、六(ノ)卷に續麻成長柄之宮爾眞木柱太高敷而《ウミヲナスナガラノミヤニマキバシラフトタカシキテ》、又|山代乃鹿背山際爾宮柱太敷奉高知爲布當乃宮者《ヤマシロノカセヤマノマニミヤバシラフトシキマツリタカシラスフタギノミヤハ》、又廿(ノ)卷に、可之婆良能宇禰備乃宮爾美也婆之良布刀之利多弖々《カシハラノウネビノミヤニミヤバシラフトシリタテヽ》などもあり、○百磯城乃《モヽシキノ》、上にいへり、○大宮人《オホミヤビト》とは、すべて百官人を云、こゝは從駕の人々をいへり、天皇の幸につきて、宮人のいそしきさまをいふは、即(チ)天皇の御徳をたゝへ申せるなり、○船並?、(?(ノ)字、類聚抄に六と作て、フネナメム〔五字右○〕とよめるは、いみじきひがことなり、)はフネナメテ〔五字右○〕と訓べし、舟の多かるをいへり、友並而《トモナメテ》、馬並而《ウマナメテ》、などいふ語類なり、既く云り、○旦川渡は、アサカハワタリ〔七字右○〕と訓べし、旦にわたるを旦川《アサカハ》といひ夕(ヘ)に渡るを夕川《ユフカハ》と云り(十六夜日記に、廿七日明はなれて後ふじ川渡る、朝川いと寒しとあるも同じ、)○舟競は、フナギホヒ〔五字右○〕と訓、われさきにつかへむとするさまをいへり、並《ナメ》も競《キホヒ》もともにいそしきさまをいへるなり、廿(ノ)卷に、布奈藝保布保利江乃可波乃《フナギホフホリエノカハノ》とあり、○夕河渡は、ユフカハワタル〔七字右○〕と訓べし、こゝにて一段なり、旦夕をいへるは、川のかなたにやどれる人々の、川をわたり來て、旦となく夕となく、此(ノ)離宮へいそしくつかへまつるさまを云、○此川乃《コノカハノ》、此《コノ》とは、上に河のことをいへるをうけたり、絶事無《タユルコトナク》をいはむためなり、○絶事奈久《タユルコトナク》とは、此(ノ)離宮の此(ノ)後も絶る事なく、榮(エ)坐むといふなり、○此山乃《コノヤマノ》、此とは上に山のことをいへるをうけた(204)り、高をいはむためなり、○彌高良之《イヤタカヽラシ》、(之(ノ)字、古寫本に思と作り、類聚抄には高の下に思(ノ)字ありて、之(ノ)字はなし、さて珠(ノ)字を此(ノ)句へ屬て、イヤタカシラス〔七字右○〕とよめり、いかゞなり、)良は有(ノ)字の誤寫なるべし、(三卷に高有之《タカヽラシ》、深有之《フカヽラシ》、)本居氏云、高は隆盛なるをいふ、吉野(ノ)宮の御榮えを壽て、此(ノ)山のごとく高くといへるなり、續紀(ノ)九卷詔に、四方食國天下乃政乎《ヨモノヲスクニアメノシタノマツリゴトヲ》、彌高彌廣爾天日嗣止高御座爾坐而《イヤタカニイヤヒロニアマツヒツキトタカミクラニマシテ》、大八島國所知《オホヤシマクニシラサム》、卅六詔に、祖乃門不滅《オヤノカドホロボサズ》、彌高爾仕奉《イヤタカニツカヘマツリ》などあると同じ、さて此(ノ)川のといふより此(レ)まで四句は、山と川とによそへて、幸(シ)と宮とをことほぎ申せるなり、六(ノ)卷に芳野離宮者《ヨシヌノミヤハ》云々、其山之彌益々爾此河之絶事無百石木能大宮人者常將通《ソノヤマノイヤマス/\ニコノカハノタユルコトナクモヽシキノオホミヤヒトハツネニカヨハム》、又|芳野宮者《ヨシヌノミヤハ》云々、此山乃盡者耳社此河乃絶者耳社百師紀能大宮所止時裳有目《コノヤマノツキバノミコソコノカハノタエバノミコソモヽシキノオホミヤドコロヤムトキモアラメ》、などよみたり、○珠水激は、(イハバシル〔五字右○〕と訓たれども、珠水と書たる事おぼつかなし、)按(フ)に、珠は隕(ノ)字の誤寫なるべし、珠と隕と草書似たり、(七(ノ)卷に、隕田寸津走井《オチタギツハシヰ》とあり、)さらばオチタギツ〔五字右○〕と訓べし、水激はタキツ〔三字右○〕とよむべければなり、(十(ノ)卷に、水飯合|川之副者《カハノソヘレバ》とあるも飯は激(ノ)字の誤にて、タギチアフ〔五字右○〕とよむべきをも考(ヘ)合(ス)べし、)集中に、落多藝都瀧《オチタギツタギ》とも、芳野《ヨシヌ》とも、多くよみたるをおもへ、さてタギツ〔三字右○〕は激《タギ》ると云が如し、タギチ〔三字右○〕と云時は、激《タギ》りと云が如くなるを思ふべし、○瀧之宮子波《タギノミヤコハ》は、宮の前即(チ)瀧川なればかくいふ、子は借(リ)字にて、宮所《ミヤコ》のよし既く云り、(今夏箕川の下に、宮の瀧村といふ處あるは、この宮の跡ならむといふ説あり、猶よくたづぬべし、)○見禮跡不v飽可母《ミレドアカヌカモ》は、雖《ド》v見《ミレ》(205)不《ヌ》v飽《アカ》哉《カモ》なり、可母《カモ》は歎息の詞なり、いくたび見ても、さてもあかぬ事哉といふなり、この可母《カモ》は奈良(ノ)朝以往の詞にて、今(ノ)京よりこなたは可奈《カナ》とのみよみて、可母《カモ》は疑の詞とせり、○歌(ノ)意は、あるが中にも、この吉野にしも離宮をおかせ給ひて、行幸《ミユキ》せさせ給ふもげにことわりやと、よに絶《スグ》れて勝地なるが、いくたび見ても、あきたらずおもしろき事と、ふかく感《メデ》たるよしなり、
 
反歌《カヘシウタ》
 
37 雖見飽奴《ミレドアカヌ》。吉野乃河之《ヨシヌノカハノ》。常滑乃《トコナメノ》。絶事無久《タユルコトナク》。復還見牟《マタカヘリミム》。
 
雖見飽奴《ミレドアカヌ》、上に同じこゝの勝地なるを云、○常滑《トコナメ》は、十一に、豐泊瀬道者常滑乃恐道曾《トヨハツセチハトコナメノカシコキミチソ》云々、九(ノ)卷に、入出見河乃床奈馬爾三雪遺《イリイヅミカハノトコナメニミユキノコレリ》云々、など見えたるに同じ、さて常(ノ)字床(ノ)字など書るは、ともに借(リ)字にして底滑《ソコナメ》の義なり、(曾許《ソコ》と登許《トコ》と通ひて同じき所由《ヨシ》は、古事記傳三(ノ)卷に具なり、おのれ彼(ノ)傳によりて、常滑は底滑の義ぞとおもひよれるを、彼(ノ)傳の考證に、此(ノ)常滑を引れざりしは、たま/\考へもらせるなり、)そは水底の石などに生著たるものにして、(今俗に佐伊《サイ》と云ものにて、)いづれの河にもかならずあるものなり、かくて常滑のといふまでは、たゞ絶(ル)事|無《ナク》と示はむ料のみなり、さて實は、河の絶る事無といふ意なるを、河に生たる物もて文《アヤ》なしたり、常滑の絶ることなきは、則(チ)河の絶ることなきなり、○絶事無久《タユルコトナク》は、六(ノ)卷に、三吉野之秋津(206)乃川之萬世爾斷事無又還將見《ミヨシヌノアキヅノカハノヨロヅヨニタユルコトナクマタカヘリミム》又|石走多藝千流留泊瀬河絶事無亦毛來而將見《イハヾシリタギチナガルヽハツセガハタユルコトナクマタモキテミム》、十八に、物能乃有能夜蘇氏人毛與之努河波多由流許等奈久都可倍追通見牟《モノノフノヤソウヂヒトモヨシヌガハタユルコトナクツカヘツヽミム》、七(ノ)卷に、卷向之病足之川由往水之絶事無又反將見《マキムクノアナシノカハユユクミヅノタユルコトナクマタカヘリミム》、十七に、可多加比能可波能瀬伎欲久由久美豆能多由洗許登奈久安里我欲比見牟《カタカヒノカハノセキヨクユクミヅノタユルコトナクアリガヨヒミム》、などよめるに同じ、○復還見牟《マタカヘリミム》は、復とは二(タ)たびの事をいへど、上の絶事無久《タユルコトナク》にひかれて、いくたびもといふ意となれり、○歌(ノ)意は、かくのごとき勝地なれば、此(ノ)後も絶ず幸の有べければ、我も供奉《ミトモツカ》へて、絶ずこの勝地を見む事、天皇の御蔭なりと、ふかくよろこびたるなり、長歌には天皇の御うへをもはらよみ、此(ノ)反歌はみづからのうへをよめり、
 
38 安見知之《ヤスミシシ》。吾大王《ワガオホキミ》。神長柄《カムナガラ》。神佐備世須登《カムサビセスト》。芳野川《ヨシヌガハ》。多藝津河内爾《タギツカフチニ》。高殿乎《タカトノヲ》。高知座而《タカシリマシテ》。上立《ノボリタチ》。國見乎爲波《クニミヲセスレバ》。疊有《タヽナヅク》。青垣山《アヲガキヤマ》。山神乃《ヤマツミノ》。奉御調等《マツルミツキト》。春部者《ハルヘハ》。花挿頭持《ハナカザシモチ》。秋立者《アキタテバ》。黄葉頭刺理《モミヂバカザシ》。遊副川之《ユフカハノ》。神母《カミモ》。大御食爾《オホミケニ》。仕奉等《ツカヘマツルト》。上瀬爾《カミツセニ》。鵜川乎立《ウカハヲタテ》。下瀬爾《シモツセニ》。小網刺渡《サデサシワタシ》。山川母《ヤマカハモ》。依?奉流《ヨリテツカフル》。神乃御代鴨《カミノミヨカモ》。
 
安見知之《ヤスミシヽシ既くいへり、○神長柄《カムナガラ》は、(長柄は借(リ)字、)集中假字書には、可武奈何良《カムナガラ》とあるによりてよめり、奈我良《ナガラ》といふ詞は、俗言に、それなりにといふほどの意なり、(後(ノ)世にては意得あやまれり、伊勢物語に、紀(ノ)有常が事を、猶昔よかりし時の心ながら、よのつねの事もしらずとある、ながらの詞は古にかなへり、)こは大皇《オホキミ》は神にし座《マセ》ばと集中に云るごとく、天皇は即(チ)神にお(207)はするまゝにといふなり、書紀孝徳天皇卷に、惟神我子應治故寄《カムナカラアガミコノシラサムモノトヨザシキ》云々、とある古注に惟神者《カムナガラトハ》謂d隨《シタガヒタマヒテ》2神(ノ)道(ニ)1、亦自有神道《カミノミチアルヲ》u也、といへるをもて思ふべし、○神佐備世須登《カムサビセスト》は、佐備《サビ》とは、もと然貌《シカブリ》の約まれる言にて、神佐備《カムサビ》は神とまして、その神とますふるまひを爲給ふ詞なり、古事記に、勝佐備《カチサビ》とあるも、勝ほこりたるふるまひをし給ふをいふ、(靈異記に、窈窕を佐比《サビ》と訓せたるは、窈窕の字の本義にはあらじ、婦女とある其(ノ)ふるまひをして、窈窕《タワヤグ》を云より訓るならむ、)なほ此(ノ)上高市(ノ)連黒人(ノ)歌に、委しく注るを考(ヘ)合(ス)べし、此《コゝ》は神々《カウ/\》しく隆く尊く人倫《ヒトノカギリ》を離れおはしますを申せるなり、(榮花物語に、神さびて居たる面持けしき、繪に書たる心ちして云々、又陰陽師どもは、晴明みつよしなどいふ、神さびたりしものどもにて、いとしるしことなりし人人なりなどあるも、凡《タヾ》人の境界をはなれたるを云るにて、こゝろばえ今に似たり、岡部氏(ノ)考に、佐備は、心ずさみ手ずさみなどのすさみに同じく、なぐさみといはむがごとし、下の藤原宮造の所には、天(ノ)下治め賜ふ都の事なれば、食國乎賣之賜牟登とよみ、こゝは御心なぐさの爲故に、神佐備世須といへりといへるはたがへり、)世須《セス》は、爲《ス》の延りたる詞にて、爲給ふといはむがごとし、上に委くいへり、登《ト》はとての意なり、これ此(ノ)吉野に幸給ふ事をいへるなり、○芳野川《ヨシヌガハ》(芳(ノ)字、拾穗本には吉と作り、)は、十八に、與之努河波《ヨシヌガハ》とあり、河《ガ》の言濁るべし、○高殿《タカトノ》は、ただ高くつくれる殿のよしなり、(つねには樓を云ども、其(レ)には限らず、)神代(ノ)紀下に、(海宮のこと(208)を)雉※[土+牒の旁]整頓臺宇玲瓏《タカヽキヒメカキトヽノホリタカトノヤカズテリカヽヤケリ》とあり、○高知座而《タカシリマシテ》は、古事記傳に、於2高天(ノ)原1氷椽多迦斯理《ヒギタカシリ》とある處に云、多迦斯理もたゞ氷木《ヒギ》のことのみに非ず、主の其(ノ)宮を知(リ)坐を云、多迦《タカ》も布刀《フト》と同じく稱言なり、續紀聖武天皇|即位《アマツヒツギシロシメス》時の詔に、天下乃政乎彌高爾彌廣爾《アメノシタノマツリゴトヲイヤタカニイヤヒロニ》云々、萬葉六(ノ)卷に、吾大王乃神隨高所知流稻見野能《ワガオホキミノカムナガラタカシラセルイナミヌノ》云々、又|自神代芳野宮爾蟻通高所知流者山河乎吉三《カミヨヽリヨシヌノミヤニアリガヨヒタカシラセルハヤマカハヲヨミ》、此(ノ)歌以(テ)意得べし、宮爾《ミヤニ》といへれば宮《ミヤ》の高きを云に非ず、天皇の此(ノ)宮を高知(リ)坐なること明(ラケ)しと云り、○上立《ノボリタチ》は、山(ノ)上へ騰(リ)立(チ)なり、上舒明天皇(ノ)大御歌に、取與呂布天乃香具山騰立國見乎爲者《トリヨロフアメノカグヤマノボリタチクニミヲスレバ》とあり、○國見乎爲波は、國見《クニミ》は、上舒明天皇の大御歌に注るがごとし、(按(フ)に、かの大御歌に國見乎爲者《クニミヲスレバ》とあるは、御自(ラ)國見せさせ賜ふを詔へれば、さることなり、こゝは天皇の國見せさせ賜ふことを、他よりいへれば、國見爲賜へれば、といふ意に國見勢須禮婆《クニミセスレバ》などゝあるべし、そもそも言を精嚴にせし古(ヘ)人の語に、さる類の取はづしはなし、まして此朝臣の歌などには、いふもさらなり、さればこゝははやく亂れて、今のごとくにはなれるか、類聚抄に、爲の下に藝(ノ)字ありて、クニミヲシケバ〔七字右○]と訓たる、これもいかゞなれど、さる本も有しをおもへば、もとより字の亂れたりし一(ツ)の證にはなるべし、)上の詞に、神佐備世須登《カムサビセスト》といへると、反歌に、船出爲加母《フナデセスカモ》と云ると、(又類聚抄に、爲藝波と有などゝ、)これかれをあはせておもふに、此も本は國見勢爲波《クニミセスレバ》とありしを寫し誤れるか、(勢須《セス》は爲《ス》の伸りたる詞にて、爲給ふといふ意なること、(209)既くたび/\云たるがごとし、)○疊有は、(舊訓にタヽナハル〔五字右○]とあるによりて、誰もしか訓來れども、さては、有(ノ)字あまれゝば、然はよみがたければ、タヽナヘル〔五字右○]とよむべきことかとおもへど、猶心ゆかず、故(レ)考(フ)るに、)有は著(ノ)字の誤にて、タヽナヅク〔五字右○]にぞ有ける、しか云|所由《ユヱ》は、古事記中卷應神天皇(ノ)條倭建命の御歌に、夜麻登波久爾納麻本呂波多々那豆久阿袁加伎夜麻《ヤマトハクニノマホロハタヽナヅクアヲカキヤマ》、此(ノ)集六(ノ)卷に、高知爲芳野離宮者立名附青墻隱《タカシラスヨシヌノミヤハタヽナヅクアヲカキゴモリ》、十二に、田立名付青垣山之《タヽナヅクアヲカキヤマ》、二(ノ)卷に、多田名附柔膚尚乎《タヽナヅクニキハダスラヲ》ともよめり、)などある例によれるなり、さて古事記傳にいはく、多々那豆久《タヽナヅク》は、多々那波理那豆久《タヽナハリナヅク》なり、然らば多々那々豆久《タヽナヽヅク》と云べきに、多々那豆久《タヽナヅク》とては、今一(ツ)那《ナ》てふ言足(ラ)ぬに似たれども、凡て同音の重なる言は、多く一(ツ)をば省き約めて云るなり、旅人を多毘登《タビト》と云るが如し、(されば、豆久《ヅク》をたゞに附と心得て、たゝなはり附なりと云る説はことたらず、又楯名著、楯並附など云る説もわろし、)多々那波理《タヽナハリ》は、契沖が、禮記に、主(ノ)佩垂刷《ル寸ハ》臣(ノ)佩|委《タヽナハル》、と云るを引たる此(ノ)委の意なり、枕册子に、そばの方に、髪のうちたゝなはりてゆくらかなるとあるも同(シ)くて、長き物などの縮り倚(リ)合て疊《タヽ》まりたるを云、那豆久《ナヅク》は那豆伎田《ナヅキタ》とある、那豆岐《ナヅキ》と同くて靡附なり、人又鳥獣等の懷《ナツ》くと云も本同じ、されば多々那豆久青垣山隱《タヽナヅクアヲカキヤマゴモ》れるといふも、四面にたゝなはり周《メグ》れる山の、其(ノ)中なる國に靡附たるを云るなりといへり、(今云、狹衣に、ひたひの髪のゆら/\とかゝりこぼれ給へる、すそはやがてうしろなどひとしうひかれいきて、こちた(210)うたゝなはりたるすそのそぎすゑ、いくとせをかぎりにおひ行むとすらむと云々、空穗物語萬歳樂に、御くし御裳にすこしたらぬほどにて、やうしかけたるごとして、白き御衣に隙なくゆりかけられたり、よれたりし裳にうちたゝなはれたる、いとめでたしなどある、たゝなはる皆同じ意なり、)さて此(レ)より下|小網刺渡《サデサシワタス》といふまでは、此(ノ)高殿にましますにつけて、山河をうしはき給ふ神までも、より來てつかへ奉るさまを述たるなり、○青垣山は、(古事記(ノ)歌に、阿袁加伎《アヲカキ》と書るにょりて垣を清て唱ふべし、濁れるは誤なり、)古事記上卷に、大國主神曰(シタマハク)、然者治(メ)奉(ラム)之|状奈何《サマハイカニト申シタマヘリ》、答3言(タマヒキ)吾(ヲ)者《バ》伊2都伎奉《イツキマツレト》、于倭之青垣東(ノ)山(ノ)上(ニ)1、此者坐(ス)2御諸(ノ)山(ノ)上(ニ)1神(ナリ)也、云々、出雲風土記に、所2造《ツクラシヽ》天下1大神、大穴持(ノ)命(ノ)詔(タマハク)、云々、八雲立出雲(ノ)國者我(カ)坐(ム)國(ナリト)、青垣山廻(シ)賜(ヒテ)而云々など見えたるに同じ、(又山と云ずて唯青垣とのみも云り、上に引る六(ノ)卷の芳野離宮者立名附青垣隱《ヨシヌノミヤハタヽナヅクアヲカキゴモリ》、神賀詞に、出雲(ノ)國乃青垣内爾、下津石禰爾宮柱太數立弖、云々など云る是なり」こは樹木《コダチ》の掻圍《カキカコ》める山なる故に、青垣とは云るなり、さて本居氏、アヲカキヤマノ〔七字右○〕とノ〔右○〕の言を添るはわろし、アヲカキヤマ〔六字右○〕と六言に訓《ヨム》べし、青垣山者と云意なり、青垣山は花頭刺持とつゞく意なりと云り、(拾穗本に、山の下に乃(ノ)字あるは、さがしらに加へたるものならむ、)○山神《ヤマツミ》は、山を知(リ)坐神なり、(吉野には、山口(ノ)神社水分(ノ)神社金峯(ノ)神社等おはしますこと、神名帳に見えたれど、今はそれまでもあらず、ひろく山を知(リ)坐神等を指て云るなり、)名(ノ)義は古事記傳に委し、○(211)奉御調等《マツルミツキト》、奉は字(ノ)意の如くにして、常に獻上するといふと同じことなり、常に仕奉《ツカヘマツル》見奉《ミマツル》などいふ、奉とはいさゝか異《カハ》りて、何にてもやがて其(ノ)物を上へ獻上するを、古言に麻都流《マツル》と云り、(三(ノ)卷に、一手者和細布奉《ヒトテニハニギタヘマツリ》、四(ノ)卷に、余衣形見爾奉《アガコロモカタミニマツル》九(ノ)卷に鎰左倍奉《カキサヘマツル》、十(ノ)卷に、爾寶敝流衣《ニホヘルコロモ》云々、於君奉者夜爾毛著金《キミニマツラバヨニモキルガネ》、十一に、情左倍奉有君爾《コヽロサヘマツレルキミニ》、又|心乎之君爾奉跡《コヽロヲシキミニマツルト》、十二に、吾幣奉《アガヌサマツリ》、十三に、月夜見乃持有越水伊取來而公奉而《ツキヨミノモタルヲチミヅイトリキテキミニマツリテ》、十八に、萬調麻都流都可佐等《ヨロヅツキマツルツカサト》などある是なり、然るを多弖麻都流《タテマツル》といふ、多弖《タテ》を略けることなりとおもへるは、甚誤なり、多弖麻都流《タテマツル》は十六に、所聞多禰乃机《
之島能小螺乎伊拾持來而《カシマネノツクエノシマノシタヾミヲイヒリヒモチキテ》云々、高杯爾盛机爾立而母爾奉都也目豆兒刀負父爾獻都也身女兒乃負《タカツキニモリツクヱニタテテハヽニマツリツヤメツコノトジチヽニマツリツヤミメツコノトジ》、とある、この立《タテ》と云と奉《マツル》と云と、二言を重ねたるにて、古事記などには、即(チ)立奉と書たるにても知べし、かゝるを今(ノ)京より此方になりては、たゞ麻都流《マツル》といふべきをも、凡て多弖麻都流《タテマツル》とのみ云(ヒ)、それよりしてまたうつりては、仕多弖麻都流《ツカヘタテマツル》見多弖麻都流《ミタテマツル》などさへいふなるは、甚く訛れる事なれど、漸《ヤヽ》舊《ヒサシ》く云なれたることなれば、これらは何とかせむ、今更さして後(ノ)世の言は難《トガ》むべきにもあらざれども、古書を讀むには其(ノ)意得あるべきものなりかし、)又|服從《マツロフ》祭《マツル》などいふも、もと同言なり、(服從も己が身を上へ獻る意、祭も供具を上へ獻る意なればおなじ、)さて其(レ)よりうつりては、何にても上へむかひて物することには、麻都流《マツル》といふこと、仕奉《ツカヘマツル》見奉《ミマツル》などいふがことし、(集中に、宮柱太敷奉神下座奉之《ミヤバシラフトシキマツルカムクダシイマセマツリシ》などある、これらの奉も、た(212)だ尊崇《アガ》めて稱るのみなり、)御調は、古事記に調御調、書紀に調調物賦苞苴などを、ミツキ〔三字右○〕ともミツキモノ〔五字右○〕ともよめり、又朝貢脩貢※[身+織の旁]などをどミキタテマツル〔八字右○〕と訓り、さて廿(ノ)卷に、美都奇《ミツキ》と假字書せるに据て清て唱ふべし、名(ノ)義は未(タ)詳ならず(古事記傳(ニ)美都岐《ミツキ》は、美《ミ》は御、都岐《ツギ》は都具《ツグ》を體言になしたるにて、御供給《ミツギ》なり、給は相|足《タス》也とも供也とも備也上も注せり、此(ノ)字常にはタマフ〔三字右○〕と訓て、上より下に賜(フ)ことゝのみ心得めれども、然のみには非ず、されば俗言に、人に物を看給《ミツグ》と云、都具《ツグ》と同言にて、都具《ツグ》は續《ツヾ》くる意なれば、御調と云は、公《オホヤケ》に用ひ賜ふ諸の物を下より供給奉《ツヾケマツ》る意の名なりと云り、美都奇《ミツキ》は上に云る如く、廿(ノ)卷に清音の字を用ひ、又出雲(ノ)國意宇(ノ)郡|筑陽《ツキヤノ》郷を、風土記に調屋《ツギヤ》と書(キ)、又拾遺集に、調(ノ)絹を月の衣にいひかけしなどをもおもへば、決《ウツナ》く清て唱へしにこそ、然れば此(ノ)説はいかゞなり、猶よく考(ヘ)定めていふべし、)等《ト》はとての意なり、○春部《ハルヘ》は、春方《ハルヘ》の意なり、部(ノ)字は用ひたれども清て唱ふべし、其(ノ)謂は上に委しくいへるがごとし、(本居氏(ノ)説に、春部の部は、方《ヘ》の意と誰もおもふめれど、春にのみいひて、夏部《ナツヘ》秋部《アキヘ》冬部《フユヘ》といふことなければ、方の意にはあらず、春榮《ハルバエ》を約めたる言なりと云るは、しひことなるべし、春にのみ方といひて、夏方《ナツヘ》秋方《アキヘ》冬方《フユヘ》など云ざるは、たとへば冬をば御冬《ミフユ》とは云ども、御春《ミハル》御夏《ミナツ》御秋《ミアキ》とは云じ、又又|夕《ユフ》を由布由布幣《ユフヘ》とはいへども、朝《アサ》を朝幣《アサヘ》とは云ず、往《イニシ》を往方《イニシヘ》とは云ども、今を今方《イマヘ》とはいはぬ類、凡て小と多ければ、一(ト)はかりにはおして定めがたきをや、(213)但し八卷に、打上佐保能河原之青柳者今者春部登成爾?類鴨《ウチアゲルサホノカハラノアヲヤギ ハイマハハルヘトナリニケルカモ》、とある春部は、春榮《ハルバエ》なるべしとおもふ人も有べけれども、かれは柳の芽の萠《ハル》を、春にいひかけしのみにて、猶部の言までにはあづからず、)○花挿頭持《ハナカザシモチ》は、山(ノ)上に花のさきたるを山神の花をかざしたまへるに見なしていへるなり、嚴水云、岡部氏(ノ)考に、此(ノ)持は添たる言のみぞと云るは心得ず、手に取持ざれども身に著たらむをば持といふべし、されば頭に挿るをも持といふべきなりと云り、按(フ)に、古事記上卷に、鼠咋2持其(ノ)鳴鏑(ヲ)1、出來而奉(リキ)也、云々、集中十(ノ)卷に、青柳之枝啄持而鶯鳴毛《アヲヤギノエダクヒモチテウグヒスナクモ》、十六に、白鷺乃桙啄持而飛渡良武《シラサギノホコクヒモチテトビワタルラム》など、これらも手して取ずても、持といへる證なれば、嚴水が説はいはれたりといふべし、○黄葉加射之《モミヂバカザシ》、(舊本に、黄葉頭刺理とありて一(ニ)云黄葉加射之と註《シル》せり、一(ニ)云のかたよろしければ用つ、黄葉かざし小網さしわたすと結《トヂ》めり、語(ノ)勢味ふべし、)これも花に同じく意得べし、○遊副川之《ユフカハノ》、句なり、遊副川は、宮瀧の末に、今ゆ川てふ所ありとぞ、是か、又は七(ノ)卷に、結八川内《ユフヤカハチ》とよめる是ならむか考(フ)べし、○神母《カミモ》、三言一句なり、母《モ》は上の山(ノ)神に對へていへるなり、○大御食爾《オホミケニ》、(食(ノ)字、類聚抄に命と作るは誤なり、)大御はたゝへ奉れる辭なり、食《ケ》は食物をいふ、大御食物を取まかなふ事にといふほどの意なり○仕奉等《ツカヘマツルト》は、奉(ル)v仕(ヘ)とての意なり、○上瀬《カミツセ》は、古事記下卷允恭天皇(ノ)條(ノ)歌に、賀美都勢《カミツセ》とあり、清て唱ふべし、上(ツ)瀬下(ツ)瀬をいへるは、ことによしあるにはあらざるに似たれど、川のうち悉く、大御膳の料になし給ふさ(214)まをいはむ爲なり、中(ツ)瀬はおのづから上下の間にこもれり、○鵜川乎立《ウカハヲタテ》は、鵜川は十七に、宇加波《ウカハ》とあり、これも清て唱ふべし、さて立《タテ》は令《セ》v立《タヽ》の意なり、立は本居氏(ノ)説に御獵立《ミカリタヽ》す、又は射目立《イメタテ》てなどの立と同じくて、鵜に魚をとらする業を即(チ)鵜川といひ、其(ノ)鵜川をする人どもを立するを云なり、と云るがごとし、○小網刺渡《サデサシワタス》(網(ノ)字、舊本に綱に誤、類聚抄拾穂本等に從つ、刺(ノ)字、類聚抄に引と作るはわろし、)小網は、(左泥《サデ》と泥《デ》を濁りて唱ふべし、)和名抄に、※[糸+麗](ハ)(佐天《サデ》)網如2箕(ノ)形1、狹v後廣v前(ヲ)名也とあり、今もさる網をさで網《アミ》といへり、四(ノ)卷に、網兒之山五百重隱有佐提乃埼左手蠅師子之夢二四所見《アコノヤマイホヘカクセルサデノサキサデハヘシコガイメニシミユル》、九(ノ)卷に、三河之淵瀬物不落左提刺爾衣手濕干兒波無爾《ミツカハノフチセモオチズサデサスニコロモテヌレヌホスコハナシニ》、十九に、平瀬爾波左泥刺渡早湍爾波水烏乎潜都追《ヒラセニハサデサシワタシハヤセニハウヲカヅケツツ》などよめり、(後選集に、こもまくら高瀬のよどにさす小網《サデ》のさてや戀路にしをれはつべき、千載集に、是をみよむつたの淀にさでさしてしをれし賤のあさ衣かは、)刺渡は、サシワタス〔五字右○〕と訓べし、是にて一首の一段なり、(サシワタシ〔五字右○〕とよみて、下へつゞけて意得るはわろし、)さて鵜川をたて、小網さすは人のするわざなれど川(ノ)神の許して多くの魚をとらしむるを、やがて神の供御を取まかなふ事に、つかへまつると云るなり、○山川母は、ヤマカハモ〔五字右○〕と清て唱ふべし、さて山川は、たゞ山と川とを云るにはあらで、山神と川神とを云るなり、天神地祇をやがて天地《アメツチ》と云ると同格なり、猶この事は、下の藤原(ノ)宮役民(カ)歌の條下に、委くいはむを併(セ)考(フ)べし、こゝは上に青垣山山神《アヲカキヤマヤマツミノ》云々といひ、遊副川(215)之神母《ユフカハノカミモ》云々と云るを、反覆《カヘサ》ひやへるなり、母《モ》は山神も河神もといふにはあらず、臣民のいそしくつかへまつるに、臣民のみならず、山神河神もといふ意なり、○依弖奉流《ヨリテツカフル》(弖(ノ)字、類聚抄に立と作て、ヨリタテマツル〔七字右○〕とあるはわろし、)は皈依《ヨリキ》て仕(ヘ)奉るなり、臣民とひとつによりてつかふるといふなり、○神乃御代鴨《カミノミヨカモ》は、天皇の御代哉といふなり、天皇は即(チ)神にしましませば、かく云るなり、鴨は(借(リ)字)嘆息詞なり、上にいへり、○歌(ノ)意は、此(ノ)吉野にしも、かく天皇の大御舍《オホミヤ》高知(リ)大|坐《マシマ》すに就ても、山神は御調を奉上《タテマツ》るとて、春は花をもち秋は黄葉をかざし、河神は大御食の事に仕(ヘ)奉るとて、鵜川を立(テ)小網さしわたしなどする事よ、あはれ臣民のみならず、山河の神までも皈依《ヨリキ》て仕(ヘ)奉るは、たふとくめでたき神の御代哉といへるなり、上の長歌には、臣民の勞をわすれて、此(ノ)離宮につかへまつる事をいひ、此(ノ)長歌には、神までもいそしくつかへまりつり給ふ事をよめり、
 
反歌《カヘシウタ》
 
39 山川毛《ヤマカハモ》。因而奉流《ヨリテツカフル》。神長柄《カムナガラ》。多藝津河内爾《タギツカフチニ》。船出爲加母《フナデセスカモ》。
 
本(ノ)二句は、長歌なると同じ、さてこの二句は、神長柄《カムナガラ》の句へ直に續て意得べからず、第四句へつゞけて聞べし、山神河神までもより來てつかへ給ふ、その瀧つ河内にの意なり、○神長柄《カムナガラ》も、長歌なるに同じ、船出に、續けて意得べし、○船出爲加母は、フナデセスカモ〔七字右○〕と訓るよろし、(216)天皇の大御船出し遊び賜ふ哉と云なり、爲をセス〔二字右○〕といふは、長歌に神佐備世須登《カムサビセスト》とあるに同じく、爲《ス》の延りたる言にて、爲給ふといふに同じ意なり、加母《カモ》、は歎息の詞なり、○歌(ノ)意は、一二四三五と句を序《ツイ》でゝ意得べし、臣民のみならず、山川の神までも皈依《ヨリキ》て仕奉る、この瀧津河内に、神隨大御船出し賜ふを、見奉るが、あはれ貴き事にてある哉といふよしなり、
〔右日本紀(ニ)曰。三年己丑正月、天皇幸2吉野宮(ニ)1。八月。幸2吉野宮(ニ)1。四年庚寅二月。幸2吉野宮(ニ)1。五月幸2吉野宮(ニ)1。五年辛卯正月。幸2吉野宮(ニ)1四月幸(セリト)2吉野宮(ニ)1者《イヘリ》。未v詳(ニ)2知(ラ)何月(ノ)從駕(ニテ)作(ル)歌(ナルコトヲ)1。〕
 
者未云々以下を、拾穗本に未知何歳月とあり、○詳(ノ)字、類聚抄人麻呂勘文等にはなし、
 
幸《イデマセル》2于|伊勢國《イセノクニヽ》1時歌《トキノウタ》
 
幸2于伊勢國1は、これも持統天皇のなり、書紀に、持統天皇六年三月丙寅朔辛未、天皇不(テ)v從(ヒタマハ)v諫(ニ)、遂(ニ)幸2伊勢(ニ)1云々、甲申、賜2所過《スギマス》志摩(ノクニノ)百姓男女年八十以上(ニ)、稻人(コトニ)五十束(ヲ)1、と見えたれば、其(ノ)時阿胡の行宮にもおはせしなれば、左の歌はあるなり、左注は書紀を見誤れり、猶下にいふべし、(これを拾遺集に、題詞を伊勢の御ゆきにまかりてと有はいかに、左の歌どもは、京に留りてよめるにて、歌詞もその意にこそあれ、此(ノ)集をも見ずして、おしはかりに書るみだりわざぞかし、
 
40 嗚呼兒乃浦爾《アゴノウラニ》。船乘爲良武《フナノリスラム》。※[女+感]嬬等之《ヲトメラガ》。珠裳乃須十二《タマモノスソニ》。四寶三都良武香《シホミツラムカ》。
 
嗚呼兒乃浦爾《アゴノウラニ》は、(嗚呼を阿《ア》とよむは、歎息の音なり、今あゝといへり、靈異記に噫、新撰字鏡に嗟(217)を阿とよめるも同じ、)和名抄に、志摩(ノ)國英虞(ノ)郡とあり、そこの海邊なり、こゝに行宮あれば、京よりおしはかりてよめるなり、(兒(ノ)字、舊本見に誤りて、アミノウラ〔五字右○〕とよめるはよしなし、)十五に、安胡乃宇良爾布奈能里須良牟乎等女良我安可毛能須素爾之保美都良武香《アゴノウラニフナノリスラムヲトメラガアカモノスソニシホミツラムカ》、と有は即(チ)此(ノ)歌の重出なり、(其(ノ)歌の左に、柿本(ノ)朝臣人麻呂(ノ)歌(ニ)曰、安美能宇良《アミノウラ》と書るは、後人の書加(ヘ)しものにて取に足ず、)○船乘爲良武は、船乘をフナノリ〔四字右○〕と訓こと既く出つ、良武《ラム》は京よりおもひやりたるなり、※[女+感]嬬等之といふに直に續けてこゝろ得べし、○※[女+感]嬬等之《ヲトノラガ》とは、從駕の女房をさせるなり、※[女+感]嬬は乎登古《ヲトコ》に對ひたる稱にて年若き女をいふ稱なること上にいへり、等《ラ》とは數人をさしていふごとく聞ゆれども、猶心にさす女ありけるなるべし、一人をさして等《ト》といふこと、古語のつねなればなり、一人の妹を妹等《イモラ》といふにひとし、○珠裳乃須十二《タマモノスソニ》は、珠は美稱詞なり、裳は和名抄に、釋名(ニ)云、上(ヲ)曰v裙(ト)下(ヲ)曰v裳(ト)、和名|毛《モ》とあり、二(ノ)卷に、旦露爾玉藻《アサツユニタマモ》(玉裳なり、)者※[泥/土]打《ハヒヅチ》、十一に、此河瀬爾玉裳沾津《コノカハノセニタマモヌラシツ》、廿(ノ)卷に、乎等賣良我多麻毛須蘇婢久《ヲトメラガタマモスソビク》などあり、須十二《スソニ》は裾《スソ》になり、さてこゝに珠裳と美ていへるは、潮に沾(ル)らむくちをしさを思はせたる意もあるべし○四寶三都良武香《シホミツラムカ》は、潮に沾らむかといふ意なり、香《カ》は疑の詞なり、○歌(ノ)意は、女房はつねに簾中にこそ住ものなるに、たま/\御供奉《ミトモツカヘマツリ》て、心もとなき海邊に月日經て、あらき島囘に裳裙を潮にぬらしなど、なれぬ旅路やなにこゝちすらむと想像《オモヒヤリ》憐みてよめるなるべし、次(218)下の潮左爲二《シホサヰニ》の歌にて、おのづからその意と聞えたり、あらはにわびしかるらむと云ては、行幸をそしるやうにきこゆれば、ほのめかしたるなり、(略解に、海人處女ならで、御供の女房の裳に汐滿來らむはめづらしとよめるなり、と云るはいかが、)
 
41 ※[金+叉の横一なし]著《クシロマク》。手節乃崎二《タフシノサキニ》。今毛可母《イマモカモ》。大宮人之《オホミヤヒトノ》。玉藻苅良武《タマモカルラム》。
 
釵著、(釵(ノ)字、舊本劔と書るは誤なり、十二舊本四丁二十四丁に、玉釼とあるは玉釵なるべし、劔は釼を又誤寫せるなり、釵は釵釧とつらぬる字にて、即(チ)久志呂《クシロ》に用ひしなるべし、釼は人質(ノ)切、鈍也と見えて、音も義ももとより異なれば釵を寫誤れること決し、但し箭室をいふ由岐《ユキ》は靫なるを、此(ノ)集などに靱と作れば、又を刃と作《カケ》るも、やゝ舊きことには有なるべし、又九(ノ)卷に、玉※[金+爪]とある※[金+爪]は※[金+辰]の俗字とありて、※[金+辰]は和名抄に久之路《クシロ》と見えたれば、もとより字の誤にはあらず、)釵は久志呂《クシロ》と清て唱ふべし、(久自呂《クジロ》と濁るは非し、)九(ノ)卷に、吾妹兒者久志呂爾有奈武左手乃吾奧手爾纏而去麻師乎《ワギモコハクシロニアラナムヒダリテノアガオクノテニマキテイナマシヲ》、古事記下卷にも見え、和名抄備中郷(ノ)名に釧代(久志呂《クシロ》とあり、(この郷(ノ)名は、もとは釧(ノ)字のみにてありけむを、和銅の制にて二字になせる時に、代(ノ)字をばそへたるなるべし、)さて同書農耕(ノ)具に、※[金+辰](ハ)漢語抄(ニ)云|加奈加岐《カナカキ》、一(ニ)云|久之路《クシロ》、服玩(ノ)具に、釧(ハ)比知萬伎《ヒヂマキ》とあるは、其(ノ)比ははやく服玩(ノ)具には久志呂《クシロ》の稱《ナ》亡《ウセ》て、たま/\農耕(ノ)具に其(ノ)名稱の存《ノコ》れるなるべし、著は、もとのまゝにても通《キコ》ゆれど、尚熟考(フ)るに、卷の誤寫なるべきか、著卷草書は(219)混ひぬべし、しか云故はまづすべて同じく身に著ることをも、其(ノ)物によりて各々唱(ヘ)かはれりと見ゆ、其は帶《オビ》紐《ヒモノ》類には結《ユフ》とも著《ツク》ともいひ、刀《タチ》沓《クツノ》類には波久《ハク》と云、玉《タマ》鈴《スヾノ》類には麻久《マク》と云ならはしたるを思(フ)べし、且《ソノウヘ》右に引九(ノ)卷歌にも、久志呂《クシロ》に纏《マク》とよみ、又十二に、玉釵卷宿妹母《タマクシロマキネシイモモ》云々、また玉釵卷寢妹乎《タマクシロマキネシイモヲ》云々、また古事記に、女鳥(ノ)王所v纏2御手(ニ)1之|玉釧《タマクシロ》ともあるとおもへば、釧卷《クシロマク》とありしにやとこそ思はるれ、さてこの釵は臂に纏(ク)具にて、臂は即(チ)手節なれば、かく云て手節の枕詞とはせるなり、○手節乃崎《タフシノサキ》は、和名抄に、志摩(ノ)國|答志《タフシノ》郡|答志《タフシ》郷あり、續紀八(ノ)卷に、分2志摩(ノ)國塔志(ノ)郡五郷(ヲ)1、始(テ)置2佐藝(ノ)郡(ヲ)1、續後紀九(ノ)卷に、志摩(ノ)國答志(ノ)島など見えたり、(多夫志《タブシ》と濁るは誤なり、)清て唱(フ)べし、○今毛可母《イマモカモ》は、今|哉《カ》にて、二(ツ)の母は助辭なり、此詞集中に多し、○大宮人之《オホミヤヒトノ》は、これも從駕の人をさせり、これまたひろく大宮人をいふことなれど、このうちに、必(ズ)さす人ありてよめるなるべし、○玉藻苅良武《タマモカルラム》は、上の麻續(ノ)王の贈答によれば玉藻は食料に刈なり、されどもこゝは從駕なれば、さるわびしきわざすべきやうなければ、これはたゞならはぬ舟路の、わびしくやあるらむとおもふこゝろを、藻を苅に託ていへるなるべし、あらはにわびしかるらむといへば、從駕をいとふやうにきこゆれば、かく物に託て大かたに云るなるべし、○歌(ノ)意從駕の人の手節の崎にて、玉藻を今やかるらむ、海人こそ常に刈め、大宮人の刈らむは、思ひがけぬわざなれば、いかにわびしくやあるらむと、おもひやりたる意なり、                                    
(220)42 潮左爲二《シホサヰニ》。五十等兒乃島邊※[手偏+旁]船荷《イラゴノシマヘコグフネニ》。妹乘良六鹿《イモノルラムカ》。荒島囘乎《アラキシマミヲ》。
 
潮左爲《シホサヰ》(潮(ノ)字、拾穗本に湖と作るはわろし、)は、潮の動《サワ》ぐを云なるべし、爲《ヰ》は、和伎《ワキ》の約れるにて、潮動《シホサワギ》なるべきか、(今も肥前肥後のあたりはては、潮の滿るを。潮左爲《シホサヰ》といふよしなり、)三(ノ)卷に、鹽左爲能浪乎恐美《シホサヰノナミヲカシコミ》、十一に、牛窓之浪乃鹽左猪島響《ウシマドノナミノシホサヰシマトヨミ》、十五に、於伎都志保佐爲多可久多知伎奴《オキツシホサヰタカクタチキヌ》などあり、一説に、十四に、安利伎奴乃佐恵佐恵之豆美伊敝能伊母爾毛乃伊波受伎爾?於毛比具流之母《アリキヌノサヱサヱシヅミイヘノイモニモノイハズオモヒグルシモ》、古事記上卷に、口大之尾翼鱸佐和佐和邇控依騰而《クチフトノヲハタスヾキサワサワニヒキヨセアゲテ》云々、此(ノ)集二(ノ)卷に小竹之葉者三山毛清爾亂友吾者妹思別來禮婆《サヽガハハミヤマモサヤニミダレドモアレハイモオモフワカレキヌレバ》ともある、この佐惠《サエ》、佐和《サワ》、佐夜《サヤ》ともに佐爲《サヰ》に同じく、さやさやと鳴音をいふ詞なり、古事記上卷に、豐葦原之《トヨアシハラノ》、千秋長五百秋之水穂國者《チアキノナガイホアキノミヅホノクニハ》伊多久佐夜藝?有祁理《イタクサヤギテアリケリ》、書紀神武天皇(ノ)卷に、夫(レ)葦原(ノ)中(ツ)國、猶|聞喧擾之響焉《サヤゲリケリ》(聞喧擾之響焉、此云2左椰霓利奈離《サヤゲリナリト》1、)など。皆あしき神のさわぐ音をいへり、されば潮のみちくる時、さわ/\と鳴る音を、潮左爲《シホサヰ》とはいふなるべしと云り此(ノ)説もさることなり、○五十等兒乃島《イラゴノシマ》は、此(ノ)上にも云り、岡部氏(ノ)考に、參河(ノ)國の崎なり、其(ノ)崎いと長くさし出て、志摩の手節の崎と遙に向へり、其(ノ)間の海門《ウナト》に、神島大つゞみ小つゞみなどいふ島どもあり、それらかけて、古(ヘ)はいらごの島といひしか、されど此(ノ)島門あたりは、世に畏き波の立まゝに、常の船人すら、漸に渡る所なれば、官女などの船遊びする所ならず、こゝは京にて大よそを聞て、おしはかりによみしのみなりと云り、今按(フ)(221)に、これは船遊するさまを、おもひやりていへるにはあらず、さる恐き島門を乘らむ女房の、いかにかしこく、心ぼそく危かるらむとおもひやり、あはれみたるなり、されば下に荒(キ)島囘とも云るなり、しか恐き浪の立ところならでは、此(ノ)歌にかなひがたし、○妹乘良六鹿《イモノルラムカ》、この妹は、從駕の女房たちのうちをさすなり、鹿《カ》は疑の詞なり、この鹿《カ》は、上の潮左爲爾《シホサヰニ》をうけていへるにて、潮さゐの時しも、妹のるらむかといふ意なり、○荒島囘乎《アラキシマミヲ》、(囘(ノ)字古寫本拾穗本等に廻と作り、)島囘をシマミ〔三字右○〕とよむは、十七に之麻未《シマミ》とあればなり、囘《ミ》は毛登保里《モトホリ》の切りたるなり、毛登《モト》を切て毛《モ》となり、毛保《モホ》を切てまた毛《モ》となり、さて毛里《モリ》を切て美《ミ》となれり、毛登保里《モトホリ》は、十九に、大殿乃此母等保里能雪奈布美曾禰《オホトノヽコノモトホリノユキナフミソネ》とありて米具里《メグリ》といふに同じ意ばえの言なり、十八に、安利蘇野米具利《アリソノメグリ》とあり、さてかくいふ故は、集中に、行多毛登保里《ユキタモトホリ》、又|※[手偏+旁]多母等保里《コギタモトホリ》など往々《コレカレ》あるを、また行多味《ユキタミ》、また榜多味《コギタミ》と多く云るによりて、シマミ〔三字右○〕などのミ〔右○〕も、毛等保里《モトホリ》の切りたる言なり、と云るをさとるべし、さて凡て某囘と書《ア》る囘は、ミ〔右○〕と訓べきなり、その證は、集中に、浦囘と書るを、借(リ)字には、四(ノ)卷九(ノ)卷十一に、浦箕と書(キ)、又九(ノ)卷に、須蘇廻とあるを、假字には、十七廿(ノ)卷に、須蘇未《スソミ》と書り、又集中に隈囘とあるを、五(ノ)卷に、久麻尾《クマミ》と假字書にせり、是(レ)等にて凡《スベテ》某囘と書る囘は、尾《ミ》とよむべきを曉りてよ、(然るを、舊本九(ノ)卷三十二丁に、裏末、十四三丁十五十一丁十二丁十六丁十九丁二十七丁十八六丁八丁に、宇良末、十七十九丁廿二丁に、伊(222)蘇末(ノ)、十八十丁に、加敝流末などあるによりて、凡て某囘の囘を、マ〔右○〕と訓たれども、よしなし、これらの末は、皆未(ノ)字の誤にこそありけれ、凡て集中に、未末をかたみに誤れること、いと/\多かるを、そをこと/”\に改め正さずしては、解がたきふし多かるをや、又九卷に、遊磯麻見者悲裳《アソビシイソミレバカナシモ》とある磯麻を、イソマ〔三字右○〕とよめれども、彼《ソ》は麻をヲ〔右○〕の假字に用ひたるにて、イソヲ〔三字右○〕と訓べき理にこそ有けれ、イソマ〔三字右○〕とよみては、凡てかなはぬ事なりかし、又十五に、伊蘇乃麻由とあるは、磯之間從《イソノマユ》てふことにて、もとより異なり、又後撰集に、白浪の寄る伊蘇麻《イソマ》を榜船の、千載集に、藻くづ火の伊蘇麻《イソマ》を分るいざり舟などよめるも、磯間《イソマ》といふことなり、磯囘の意に非ず混ふべからず、又此(レ)等の例によりて、廿(ノ)卷に、之麻米とある米も、未(ノ)字の寫誤なることを知ぬ)さてこの島囘は、即(チ)五十良兒《イラゴ》の島のめぐりをさすなり、乎は物乎《モノヲ》の乎《ヲ》なり、をのこすら、かしこかるべきに、まして女は、いかにかしこくあやふかるらむ、女の乘(ラ)るべくもあらぬ、あらき島囘なるものをとの意なり、土佐日記に、まして女は船そこにひたひをつきあてゝ、ねをのみぞなく、とあるをも思(ヒ)合(ス)べし、○歌(ノ)意は、五十良兒の島は、常だにかしこき島のめぐりなるに、まして鹽さゐの時にしも、妹のるらむか、女の身にして、いかに心ぼそく、あやふくかしこかるらむと、ふかくいたはりおもひやりたるなり、
 
右三首《ミギノミウタハ》。柿本朝臣人麿《カキノモトノアソミヒトマロガ》留《トヽマリテ》v京《ミヤコニ》作《ヨメル》。
 
(223)43 吾勢枯波《ワガセコハ》。何所行良武《イヅクユクラム》。己津物《オキツモノ》。隱乃山乎《ナバリノヤマヲ》。今日香越等六《ケフカコユラム》。
 
吾勢枯波《ワガセコハ》は、吾夫子者《ワガセコハ》にて、おのが夫(ノ)君をさせるなり、○何所行良武《イヅクユクラム》は、夫(ノ)君の旅中をおもひやりて、いかなる處をかゆくらむと、夫(ノ)君のゆくらむ處の、しらまほしさにいふなり、何所は伊豆久《イヅク》と訓べし、(イヅコ〔三字右○〕といふは後なり、)古事記中卷應神天皇(ノ)大御歌に、かく假字書せり、○己津物《オキツモノ》は、己は字書に起也とあるによれり、さて己物ともにかりもじにて、枝津藻之《オキツモノ》なり、奧は底を云(フ)、水底の藻はかくれて見えねば、隱《ナバリ》の枕詞とせり、(冠辭考の説は、うべなひがたし、)○隱乃山《ナバリノヤマ》は、本居氏、伊賀(ノ)國名張(ノ)郡の山なり、大和より伊勢へ下るに、伊賀を經るは常なり、又大和の地(ノ)名に吉隱《ヨナバリ》もあれば、なばりの山なる事を思ひ定むべし、さてなばりは、即(チ)隱るゝことの古語なるべし、おきつものといふも、又此(ノ)卷(ノ)末に、朝(タ)面なみ隱《ナバリ》にかとよめるをみるに、皆隱るゝ意のつゞけなり、十六に難波乃小江爾廬作難麻理弖居葦河爾乎《ナニハノヲエニイホツクリナマリテヲルアシガニヲ》云々、是(レ)隱れて居る事を、なまりてをると云りよいへり、今按(フ)に、古事記中卷安寧天皇(ノ)條に、那婆理之《ナバリノ》稻置とあるも、名張(ノ)郡なるべし、○今日香越等六《ケフカコユラム》、この今日といふに心を付て聞べし、香《カ》は疑の詞なり、上はひろく、何所をかゆくらむとよめるにて、さて日をかぞへなどしてみれば、大抵今日ころは、名張の山を越もすらむかと、おもひやりたるなり、○歌(ノ)意は、夫(ノ)君は、いづくあたりをかゆくらむ、もし今日などは名張(ノ)山をこゆらむかと、夫(ノ)君の行程《ミチノホド》を、心のうちに、さま/”\に思ひや(224)りてよめるなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。當麻眞人麻呂妻《タギマノマヒトマロガメ》。
 
當麻(ノ)麻呂(カ)妻、傳詳ならず、此(ノ)姓の事、用明天皇(ノ)紀に、葛城(ノ)直磐村(カ)女廣子、生2一男一女(ヲ)1、男(ヲ)曰2麻呂子(ノ)皇子(ト)1、此當麻(ノ)公之先也、天武天皇(ノ)紀に、十三年冬十月己卯朔、詔曰、更2改《アラタメ》諸氏之族姓《ウヂ/\ノカバネヲ》1、作2八色之姓(ヲ)1、以|混《スブ》2天(ノ)下(ノ)萬(ノ)姓(ヲ)1、云々、當麻(ノ)公云々、十三氏(ニ)賜v姓(ヲ)曰2眞人(ト)1、姓氏録に、當麻(ノ)眞人(ハ)、用明(ノ)皇子麻呂古(ノ)王之後也と見えたり、四(ノ)卷に、幸2伊勢(ノ)國(ニ)1時、當麻(ノ)麻呂(ノ)大夫(カ)妻(ノ)作(ル)歌とて載たり、當麻はタギマ〔三字右○〕と訓べし、履中天皇(ノ)紀に、※[口+多]※[山+耆]麻《タギマ》とあり、(後(ノ)世タヘマ〔三字右○〕と云は訛なり、)さてこの當麻(ノ)眞人麻呂も、同じ行幸の從駕にて、京に留れる妻のよめるなり、大和より伊勢にくだるには、必、(ス)伊賀を經れば、伊賀(ノ)國名張山を越ますほどをおもひやりてよめるなり、
 
44 吾妹子乎《ワギモコヲ》、去來見乃山乎《イザミノヤマヲ》。高三香裳《タカミカモ》。日本能不所見《ヤマトノミエヌ》。國遠見可聞《クニトホミカモ》。
 
吾妹子乎《ワギモコヲ》とは、和我伊母《ワガイモ》の我伊《ガイ》を切めて、和藝母《ワキモ》といへり、子《コ》は親辭なり、さてこは妹を去來《イザ》見むといふへ係れる枕詞なり、此歌もと妹があたりだに見まほしき心よりおきたる枕詞にて、妹をいざ見むといふ意に、いひかけられたり、(本居氏は、妹をいざなふ由の枕詞なり、いざ見むと云つゞけにはあらずと云り、七(ノ)卷に、波禰※[草冠/縵]今爲妹乎浦若三去來率河之《ハネカヅライマセルイモヲウラワカミイザイザカハノ》ともあれば、さるべきことながら佐美《サミ》の山に云かけしとするときは、なほいざ見むの意なるべし、)○(225)去來見乃山乎《イザミノヤマヲ》は、荒木田氏、伊勢(ノ)國二見の浦なる、大夫の松と云る、大樹の生たる山なるべし、さるは倭姫世記に、佐見津彦佐見津姫《サミツヒコサミツヒメ》參(リ)相而、御鹽濱御鹽山奉支《ミシホハマミシホヤマタテマツリキ》と云るは、この二見が浦なるを、今猶彼(ノ)山の麓に流るゝ小川を、佐見《サミ》河といへば、これぞ佐見の山なるを、伊《イ》の發語をそへ、吾妹子といふまくら辭をおきて、去來見《イザミ》の山とはつゞけしならむ、この二見の浦より、阿胡《アゴ》にいたりまさむには、此(ノ)山の東より南に折(レ)て、鳥羽の御船はつべきなれば、二見が浦をいでます程は、大和(ノ)國より越ませし山々も、西のかたに遙に見放らるゝに、この山をしも榜(キ)廻りまして、東南に入(リ)ては、大和の方の見えずなりぬるをかなしみて、かくはよみ賜へるなるべしといへり、(坂士佛(カ)大神宮參詣記、二見の浦に、佐美明神とて古き神ましますと書るは、いはゆる佐美津彦佐美津姫をいふなるべし、○夫木集十五に、たつねつゝいざみの山のもみぢばのしぐれにあへる色のてこらさ、とあるは、去來見《イザミ》をやがて、山(ノ)名とおもへるよりよめるか、但し谷川氏、伊勢(ノ)國飯高(ノ)郡に、いざみの山ありと云り、猶尋ぬべし、)乎《ヲ》は、次の高三《タミ》をいはむためなり、○高三香裳《タカミカモ》は、高さにかの意なり、香《カ》は疑の詞、裳《モ》は歎く意をかねたる助辭なり、この香裳の詞は、次(ノ)句の下にうつして意得べし、○日本能不所見《ヤマトノミエヌ》は、佐美《サミ》の山の高さに、大和(ノ)國の見えぬかといふ意なり、日本とかけるは、大和(ノ)國のことなり、○國遠見可聞《クニトホミカモ》も、國が遠さにかの意なり、この聞《モ》も上の如し、○歌(ノ)意は、吾妹子があたりを、いざ見むとおもひて、大和(ノ)國(226)をみやれども見えぬは、佐美の山が高さにか、もししからずは、國の遠さにか、あはれいづれにもあれ、ゆゑなくては見えざらむやうなし、いかさま國の遠く隔りたる故なるべしと、人よりことわらしめむやうに、よみ給へるなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。石上大臣從駕作《イソノカミノオホマヘツキミノオホミトモツカヘマツリテヨメル》。
 
石上大臣は、石上(ノ)朝臣麻呂公なり、大臣はオホマヘツキミと〔八字右○〕訓べし、上内(ノ)大臣の下に委(ク)注るを考(ヘ)合すべし、さて和名抄に、左右大臣(ハ)於保伊萬宇智岐美《オホイマウチキミ》、古今集にも堀川のおほいまうちきみ、などあるによらば、(於保伊《オホイ》は於保岐《オホキ》なり、凡て岐《キ》を伊《イ》といふはやゝ後の頽(レ)にて、岐佐岐《キサキ》を伎佐伊《キサイ》、都岐垣《ツキカキ》を都伊垣《ツイカキ》、可岐麻美《カキマミ》を可伊麻美《カイマミ》、都岐立《ツキタチ》を都伊立《ツイタチ》など云は、弘仁以後のことにて、奈良朝の頃まではなきことなり、)。オホキマヘツキミ〔八字右○〕とも唱(ヘ)申べけれど、此(ノ)下元明天皇(ノ)大御歌に、物部乃大臣《モノヽフノオホマヘツキミ》とあれば、なほもとは然ぞ唱へけむ、敏達天皇紀に、以2蘇我(ノ)馬子(ヲ)1爲2大臣《オホマウチキミ》1とある、これも大をオホ〔二字右○〕とのみいへる證なり、さて又大臣をオホオミ〔四字右○〕と唱へしこともあれど、そは皇極天皇(ノ)紀、高麗(ノ)國の使人の諮言《マヲシコト》に、大臣伊利柯須彌《オホオミイリカスミ》(姓名)殺2大王(ヲ)1云々とありて、ことの樣《サマ》かはれり、(又中古以來の物には、大臣を於等騰《オトヾ》といへり、大殿の意なり、されど此(ノ)集などにては、凡てオホマヘツキミ〔七字右○〕と唱へしにこそ、)麻呂公は、慶雲元年に右大臣となり給ひて、この持統天皇の御時は、いまだ大臣ならねど、後よりめぐらしてしか書しなり、三(ノ)卷には、石(227)上卿とあり、書紀に、天武天皇朱鳥元年九月戊戌朔乙丑、諸僧尼亦哭2於殯宮(ニ)1、是日直廣參石上(ノ)朝臣麻呂、誄2法官(ノ)事(ヲ)1、持統天皇十年冬十月己巳朔庚寅、假2賜直廣壹石上(ノ)朝臣麻呂(ニ)資人五十人(ヲ)1、續紀に、文武天皇四年冬十月己未、以2直大壹石上(ノ)朝臣麻呂(ヲ)1爲2筑紫惣領1、大寶元年三月甲午、授2中納言直大壹石上(ノ)朝臣麻呂(ニ)正三位(ヲ)1云々爲2大納言(ト)1、是(ノ)日罷2中納言(ノ)官(ヲ)1、二年八月辛亥、以2正三位石(ノ)上朝臣麻呂1、爲2太宰(ノ)帥(ト)1、慶雲元年正月癸巳、詔以2大納言從二位石上(ノ)朝臣麻呂1、爲2右大臣1、丁酉、右大臣從二位石上(ノ)朝臣麻呂、益2封二千一百七十戸(ヲ)1、和銅元年春正月乙巳授2正二位(ヲ)1、三月丙午、爲2左大臣(ト)1、養老元年三月癸卯、左大臣正二位石上(ノ)朝臣麻呂薨(ス)、帝深(ク)悼惜《イタミタマフ》焉、爲之罷v朝(ヲ)、詔云々贈2從一位(ヲ)1、云々、大臣(ハ)泊瀬(ノ)朝倉(ノ)朝庭大連物部目之後、難波(ノ)朝衛部大華上宇麻呂之子也とあり、
 
〔右日本紀(ニ)曰(ク)。朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰。以2淨廣肆廣瀬(ノ)王等1。爲2留守官(ト)1。於是中納言三|輪《ワ》朝臣高市麻呂。脱(テ)2其(ノ)冠位《カヾフリヲ》1※[敬/手]2上《サヽゲテ》於朝(ニ)1重諫(テ)曰、農作《ナリハヒ》之前。車駕未v可2以動(ス)1。辛未。 天皇不(シテ)v從v諫(ニ)。遂幸(シタマフ)2伊勢(ニ)1。五月乙丑朔庚午、御(ス)2阿胡(ノ)行宮(ニ)1。〕
 
朱鳥六年は誤なり、持統天皇六年とあるべし、○肆(ノ)字、舊本には津と作り、拾穗本に肆とあるよろし、○五月乙丑以下は、書紀を見誤りたるものなり、書紀に、持統天皇六年五月乙丑朔庚午、御(ス)2阿胡(ノ)行宮(ニ)1時、進v贄者、紀伊(ノ)國牟婁(ノ)郡人、阿古志(ノ)海部河瀬麻呂等兄弟三戸、復《ユルシタマフ》2十年調?雜(ノ)※[人偏+搖の旁](ヲ)1、云々とありて、五月庚午に、阿胡(ノ)行宮におはしませるにはあらず、こゝは前に、此(ノ)行宮にお(228)はしましゝ時の事を五月庚午に、云々行ひ賜ひしことを記せるなればなり、
 
輕皇子《カルノミコノ》。宿《ヤドリマセル》2于安騎野《アキノヌニ》1時《トキ》。柿本朝臣人麿作歌《カキノモトノアソミヒトマロガヨメルウタ》。
 
輕(ノ)皇子は、文武天皇の御小字にまします、古本の傍注に、皇子枝別記を引て、文武(ノ)少名河瑠(ノ)皇子(ハ)、天武(ノ)皇太子草壁(ノ)皇子(ノ)尊之子也とあり、草壁(ノ)皇子は、日並所知《ヒナミシラスノ》皇子(ノ)尊の御事なり。さて御父日並所知(ノ)皇子(ノ)尊、前にこの野に御獵有し事、二(ノ)卷の歌にも見ゆ、又此(ノ)御時は、輕(ノ)皇子をばいまだ王と申せし時なるを、皇子と書るは、後よりたふとみて書しなるべし、御傳は此(ノ)上に委(ク)云り、○安騎(ノ)野は、大和(ノ)國宇陀(ノ)郡にあり、左(ノ)歌に、阿騎乃大野《アキノオホヌ》とよみ、書紀天武天皇(ノ)卷に、元年六月云々、即日《ソノヒ》到(リマス)2菟田(ノ)吾城《アキニ》1、とある地の野なり、其(ノ)下文に、到2大野(ニ)1ともあるにて、その曠野《ヌラ》のさま思ひやるべし、神名式に、宇陀(ノ)郡阿紀(ノ)神社とあるも其所なり、
 
45 八隅知之《ヤスミシヽ》。吾大王《ワガオホキミ》。高照《タカヒカル》。日之皇子《ヒノミコ》。神長柄《カムナガラ》。神佐備世須登《カムサビセスト》。太敷爲《フトシカス》。京乎置而《ミヤコヲオキテ》。隱口乃《コモリクノ》。泊瀬山者《ハツセノヤマハ》。眞木立《マキタツ》。荒山道乎《アラヤマミチヲ》。石根《イハガネノ》。禁樹押靡《シモトオシナベ》。坂鳥乃《サカトリノ》。朝越座而《アサコエマシテ》。玉限《カギロヒノ》。夕去來者《ユフサリクレバ》。三雪落《ミユキフル》。阿騎乃大野爾《アキノオホヌニ》。旗須爲寸《ハタスヽキ》。四能乎押靡《シヌニオシナベ》。草枕《クサマクラ》。多日夜取世須《タビヤドリセス》。古昔御※[御を○で囲む]念而《イニシヘオモホシテ》
 
八隅知之《ヤスミシシ》は、上にいへり、○吾大王《ワガオホキミ》は、この輕(ノ)皇子をさし奉れり、皇子をもかく申すことつねなり、○高照日之皇子《タカヒカルヒノミコ》は、古事記中卷景行天皇(ノ)條(ノ)歌に、多迦比迦流比能美古夜須美斯志和賀(229)意富岐美《タカヒカルヒノミコヤスミシヽワガオホキミ》云々、雄略天皇(ノ)條(ノ)歌にもあり、説は古事記傳に委し、○神長柄《カムナガラ》は、上にくはしくいへり、○神佐備世須登《カムサビセスト》は、神佐備爲給《カムサビシタマ》ふとてといふほどの意なり、こゝは此(ノ)安騎(ノ)野にいでますを申せり、已上二句は上に出て、くはしくそこに注り、○太敷爲《フトシカス》は、太敷《フトシキ》給ふといふほどの意なり、太敷は上に見えたり、○京乎置而《ミヤコヲオキテ》は、上に近江の遷都のことを、倭乎置而《ヤヤトヲオキテ》とある意に同じ、都を立出させ給ふ御あとに、おかせ給ひてといふなり、○隱口乃《コモリクノ》は、泊瀬のまくら詞なり、古事記下卷允恭天皇(ノ)條(ノ)歌に、許母理久能波都世能夜麻能《コモリクノハツセノヤマノ》云々、又|許母理久能波都勢能賀波能《コモリクノハツセノカハノ》云々、書紀にも此(ノ)枕詞あり、集中には此(ノ)詞多かる中に、隱口《コモリク》隱國《コモリク》隱久《コモリク》隱來《コモリク》などさま/”\に書たれども、隱國と書るぞ正しさ字にて、山ふところ弘くかこみたる所なれば、籠《コモ》り國の長谷《ハツセ》とはいへるなりと、冠辭考に云るはさることにてあるべけれど、なほおもふに、集中七(ノ)卷に、三諸就三輪山見者隱口乃始瀬之檜原所念鴨《ミモロツクミワヤマミレバコモリクノハツセノヒハラオモホユルカモ》、十一に、長谷弓槻下吾隱在妻《ハツセノユツキガモトニアガカクセルツマ》云々、(古事記雄略天皇(ノ)條に、坐2長谷之百枝槻(ノ)下(ニ)1爲2豐樂1云々、)などあると、今の歌に、眞木立荒山道乎《マキタツアラヤマミチヲ》云々とあるを合せて思ふに、此(ノ)山昔より、木立繁盛なりしことしるければ、隱と書たるは皆借(リ)字にして、木盛處之長谷《コモリクノハツセ》とは云なるべし、木高く盛えたるを木盛《コモリ》と云べきは、六(ノ)卷讃(ル)2久邇(ノ)新京(ヲ)1歌に布當乃宮者百樹成山者《》木高之《フタギノミヤハモヽキナルヤマハコダカシ》云々、とあるにて意得べし、(木立の繁りたるを、毛理《モリ》といふことは、古(ヘ)に例多し、)久《ク》は伊豆久《イヅク》何處)の久《ク》にて、處を云なり、彼處《カシコ》、此處《ココ》、宮處《ミヤコ》、また在所《アリカ》、隱所《カクレガ》、奧所《オクガ》な(230)どの許《コ》も可《カ》も、通ひて同言なり、(又或説に、隱口之と書る字(ノ)義にて、口に隱る齒《ハ》と云意に、泊瀬《ハツセ》に云かけたりと云るは古語の法則しらぬ人の論にて、辨(フ)に足ず、又荒木田氏が隱城之終《コモリキノハツ》といふ意にて、隱城は墓のことなり、と云るも當らぬことなり、)○泊瀬山者《ハツセノヤマハ》云々、泊瀬は和名抄に、大和(ノ)國城上(ノ)郡長谷(ハ)波都勢《ハツセ》、神名帳に同郡長谷山口神社と見ゆ、集中には此(ノ)地をよめる歌多く見え、後(ノ)世(ノ)歌にも甚多かり、古(ヘ)今に名所《ナタカキトコロ》なり、さて此地、中昔よりは波勢《ハセ》とも云て、今世にはもはら然云り、かくて名(ノ)義は、此(ノ)泊瀬川大和の國の眞中を流れたる、其(ノ)初の瀬の意か、川上はなほ遠けれども、國中《クニナカ》までは、此(ノ)地上(ツ)瀬なればなり、と古事記傳に云り、者《ハ》は、こと山に異なるよしを、しめしたる詞なり、○眞木立《マキタツ》は、眞木とは、集中に、眞木割檜《マキサクヒ》ともつゞけて、檜《ヒノキ》を美《ホメ》ていへる稱《ナ》なり、たとへば薄《スヽキ》を美て、眞草《マクサ》といふがごとし、されば檜を眞木といふは、歌(ノ)詞のみの事にて、品物の名を擧たる書には、皆檜とのみ云り、心をつけて考(フ)べし、(さてついでにいふべし、※[木+皮]をマキ〔二字右○〕と云は、檜を眞木といふとは固《モトヨリ》異《カハ》りて、書紀神代(ノ)卷一書に、素戔嗚(ノ)尊、云々、尻毛是成v※[木+皮]《マキト》云々、神武天皇(ノ)卷に、天皇、云々、祈之曰、吾(レ)今當(ニ)以2嚴※[分/瓦]1、沈(メムニ)2于丹生之川(ニ)1、如《モシ》魚無2大小(ト)1、悉(ニ)醉而流(ムコト)、譬猶(ナラバ)2※[木+皮]浮流《マキノウカベル》1者、吾(レ)必(ス)能定(メム)2此國(ヲ)1云々、注に、※[木+皮]此云2磨紀《マキト》1、又和名抄に玉篇(ニ)云、※[木+皮](ハ)木(ノ)名、作v柱(ニ)埋之能不v腐者也、日本紀私記(ニ)云、末木《マキ》、今按(ニ)、又杉(ノ)一名也、見2爾雅注(ニ)1、など見えたるものにして、いまも土佐などにては、常に磨紀《マキ》と云り、まどふべからず、但し和名抄に、杉(ノ)一名也と云るは、順の(231)誤なり、字書に、※[木+皮](ハ)杉(ノ)別名とは註せれども、そは彼土《カシコ》の事にこそあれ、須紀《スギ》と磨紀《マキ》は、もとより異種《コトクサ》なるをや、)○荒山道乎《アラヤマミチヲ》(道(ノ)字、拾穗本には路と作り、)は、荒山とは、荒野《アラヌ》、荒磯《アライソ》などいふに同じ、(本居氏の、こゝをアラキヤマヂ〔六字右○〕とよめるはわろし、)荒は荒《アラ》和《ニコ》と對へいふ和《ニコ》の反《ウラ》にて、人にうとき深《オク》山のよしなり、乎《ヲ》は、なるものをの意に意得べし、深山なれば、人もつねに通はずして、路いとわろく、皇子などおはしますべき、路にはあらぬものを、といふこゝろをこめたるなり、さればこの二句は、下の朝越座而《アサコエマシテ》といふにかけて意得べし、○禁樹押靡は、禁樹を(舊本にフセキ〔三字右○〕と訓るは、論の限にあらず、)シモト〔三字右○〕と訓るに依(ラ)ば、楚樹なるべきか、(眞恒校本にも、古本に楚樹と作《アル》よしあり、楚は五(ノ)卷にも見えて次に引り、)十四に、於布之毛等許乃母登夜麻乃《オフシモトコノモトヤマノ》、字鏡に、※[木+若]志毛止《ハシモト》、※[代/木]志毛止《ハシモト》とあり、樹の※[木+若]枝を云り、(又按(フ)に、樹(ノ)字は杖の誤なるべきか、樹杖草書いとよく似たり、さて禁杖の字は、外に見及ばざれども、五(ノ)卷にも、楚取五十戸長我許惠波寢屋度麻※[人偏+弖]來立呼此奴《シモトトルサトヲサガコヱハネヤドマデキタチヨバヒヌ》云々と見え、和名抄刑罰(ノ)具に、笞(ハ)和名|之毛度《シモト》、拾遺集に、老はてゝ雪の山をばいたゞけどしもとみるにぞ身はひえにける、これらも※[木+若]枝《シモト》もてすれば、やがて之毛等《シモト》とは云り、是は皆笞杖にて、さて人を制《トガ》め禁《イマシ》むる杖《ツエ》なる謂《ヨシ》にて、禁杖とも書べからざるにあらざればなり、)又思ふに、禁は繁(ノ)字の誤にて、繁樹《シゲキ》なるべきか、大祓(ノ)詞に、彼方之繋木本乎《ヲチカタノシゲキガモトヲ》、燒鎌乃敏鎌以?《ヤキカマノトカマモチテ》、打拂事之如久《ウチハラフコトノゴトク》とあり、押靡は、オシナベ〔四字右○〕と訓べし、令2押(シ)靡(カ)1の意なり、十七に、賣比能(232)野能須々吉於之奈倍布流由伎爾《メヒノヌノスヽキオシナベフルユキニ》とあり、此は崇神天皇(ノ)紀、那羅《ナラ》山の名の由縁を云る處に、官軍屯聚而《ミイクサイハミテ》、※[足+滴の旁]2※[足+且]《フミナラシキ》草木《キクサヲ》1と有(ル)其(ノ)意なり、○坂鳥乃《サカトリノ》は、朝越《アサコユ》といはむ料の枕詞なり、此は鴈鴨などの、朝(タ)に山の坂路を飛越て往來《カヨ》ふを、やがて坂鳥と云て、朝越とつゞけたるなり○玉限《カギロヒノ》は、限は蜻の誤なるべしと云り、蜻※[虫+廷]の吉名|加藝呂比《カギロヒ》といひし故、加藝呂比《カギロヒ》に玉蜻蜻※[虫+廷]など借(リ)て書り、和名抄に、蜻蛉(ハ)和名|加介呂布《カゲロフ》とあるは、加藝呂比《カギロヒ》を後に訛れるものなり、(玉蜻と書るは、博物志に、五月五日、埋2蜻※[虫+廷](ノ)頭(ヲ)於西向(ノ)戸(ノ)下(ニ)1、理(ルコト)至2三日(ニ)1不v食、則化(シテ)爲2青眞珠(ト)1とあれば、然《サ》るよしにて書るにやあらむ、)さて加藝呂比《カギロヒ》は、古事記下卷履中天皇(ノ)大御歌に、加藝漏肥能毛由流伊弊牟良都麻賀伊弊能阿多理《カギロヒノモユルイヘムラツマガイヘノアタリ》とありて、※[火+玄]《カギ》ろ火の意にて、即(チ)もゆる火にも云(ヒ)、後(ノ)歌に絲ゆふとよみて、漢文に陽炎といふ物などをも、すべていふ名なり、(古事記なるは燒火をの給ひ、今の歌なるは陽炎を云なりお、)さてこゝのつゞけの意、(冠辭考に、夕日はことに、火かげの如くなれば譬へつ、と云るはことたらはずて、いかにとも聞取がたし、)今按(フ)に、六(ノ)卷に、炎乃春爾之成者《カギロヒノハルニシナレバ》とあるは、十卷に、今更雪零目八方蜻火之燎留春部常成西物乎《イマサラニユキフラメヤモカギロヒノモユルハルヘトナリニシモノヲ》、とよめるごとく、陽炎《カギロヒ》の燎《モユ》る春てふことを炎《カギロヒ》の春とよめるにて、集中三(ノ)卷又七(ノ)卷に、白菅乃眞野之榛原《シラスゲノマヌノハリハラ》とよめるも、白菅の生る眞野の意、又此(ノ)上に白浪乃濱松之枝乃《シラナミノハママツガエノ》とよめるも、白浪のよする濱てふ意、又十(ノ)卷に、鶯之春去來良思《ウグヒスノハルサリクラシ》とよめるも、鶯の鳴春てふ意、又六(ノ)卷に、露霜乃秋去來者《ツユシモノアキサリクレバ》とあるも、露シモの降(ル)秋(233)てふ意、又二(ノ)卷に、大船之津守《オホブネノツモリ》とあるも、大船の泊る津といふ意なるを思ふべし、且《マタ》常の詞にも、人の家といふが自(ラ)人の住家といふ意に通《キコ》え、鳥の巣てふが、鳥の居る巣といふ意に通ゆるが如し、故(レ)こゝに玉蜻《カギロヒノ》夕《ユフ》とあるも、陽炎のもゆる夕てふ意と心得てあるべし、(或(人)問、炎のかがよふは、朝陽《フサヒ》こそ夕陽《ユフヒ》よりはことにまさりたれ、かゝれば、夕(ヘ)にのみつゞく詞とせむことは、いかゞと云り、答(フ)、こはまことにさることなり、但しこはもと朝にも夕(ヘ)にも、冠らせし詞なりけむを、そは朝のかたに冠らせし歌は、偶々もれて傳はらぬにやあらむ、)○夕去來者《ユフサリクレバ》は、(去は借(リ)字、)夕になればの意なり、上にくはしくいへり、○三雪落《ミユキフル》は、三とは(借(リ)字、)美稱なり、これも上にくはしく辨《トケ》り、これ此(ノ)野にやどり給ふ寒さのわびしさを、おもはせたるなり、○阿騎乃大野《アキノオホヌ》(大字、拾穗本に天とあるは誤なり、)は、阿騎の地の、廣く大きなる野をいふべし、書紀にも、この野のことを大野と云ること、上に引たるがごとし、さてさるひろき野は、ことに風などもさむきさまを、おもはせたるなり、上には山路の艱難をいひ、こゝには此(ノ)野のわびしきことをいはれたる、皆|都《ミヤコ》のうちにくらべて、おもはせむがためにて、荒山道《アラヤマミチ》云々|三雪落《ミユキフル》云々、などはよめるものなり、上の京乎置而《ミヤコヲオキテ》にむかへて、その意味を熟味ふべし、○旗須爲寸《ハタスヽキ》は、神功皇后(ノ)紀に、幡荻穂出吾也《ハタスヽキホニヅルアレヤ》と見えて、ともに旗(ノ)字幡(ノ)字を書る如く、薄は百草の中にも、殊に高《ホ》に顯れて、靡きひらめくものなれば、しか云るなり、雲に旗雲《ハタクモ》と云る類(ヒ)にて知べし、(八(ノ)卷に、波太須(234)珠寸《ハタススキ》、十四、十七に、波太須酒伎《ハタスヽキ》など、太(ノ)字を書るは正しからず、又集中借(リ)字に、ハタ〔二字右○〕を皮と書るところあるによりて、タ〔右○〕を濁るは非なり、凡て借(リ)字には、清濁まじへ用る例あること、前にいへり、)○四能乎押靡《シヌニオシナベ》、能乎は奴爾の誤なるべし、十(ノ)卷に、秋穗乎之努爾押靡置露消鴨死益戀乍不有者《アキノホヲシヌニオシナベオクツユノケカモシナマシコヒツヽアラズハ》、とあるをおもひ合(ス)べし、四奴《シヌ》は、裏《シタ》に押ふせ靡かする形容《サマ》をいふ詞なり、心の裏に思ふことを、心も四奴《シヌ》におもふといふ四奴《シヌ》に同じ、慕《シタ》ふといふも、此(ノ)四奴の詞のはたらきたるにて、心の裏より思ふをいふことなり、猶三(ノ)卷人麻呂(ノ)歌に、淡海乃海夕浪千鳥汝鳴者情毛思奴爾古所念《アフミノミユフナミチドリナガナケバコヽロモシヌニイニシヘオモホユ》とある所に委く云むを、併(セ)考(フ)べし、○草枕《クサマクラ》は、旅のまくら辭なり、上に出、○多日夜取世須《タビヤドリセス》は、旅宿(リ)爲給ふといふ意なり、世須《セス》は、神佐備世須登《カムサビセスト》といへる世須《セス》に同じく、爲《ス》の延りたる言にて、爲給ふといふに同じ、○古昔御念而《イニシヘオモホシテ》は、かの父尊を御念《オモホ》し慕ひ給ひてとなり、御(ノ)字、舊本になきは脱たる物なるべし、(或人は念而をオボシテ〔四字右○〕と訓たれど、古(ヘ)はオモホス〔四字右○〕とのみいひて、オボス〔三字右○〕といへることなし、)念《オモフ》は自のうへにいひ、御念《オモホス》は尊みていふ詞なり、されば、念而《オモヒテ》にては、上の世須《セス》に應《カナ》はず、必(ス)御念《オモホス》とあるべき處なり、父尊をしたひおもほし給ふ御心より、かゝる荒野に、放宿し給ふよといふこゝろなり、○歌(ノ)意、輕(ノ)皇子都にませば、宮中の榮華をきはめ給ふ御身にましますを、その榮華をわすれ給ひて、泊瀬のあら山をこえ、さむき阿騎(ノ)野に、旅やどりし給ふはひとへに父尊のむかしを、したひ給ふあまりなるべしと、その御(235)孝心を、深く感じ奉りたるなり、京乎置而云々とあるに、宮中の榮華をわすれまし/\て、艱難をしのがせ給ふ意あるに、心を附てよく味(ヒ)見べし、さらずは遷都などのごとく、京を置とまではいはじをや、
 
短歌《ミジカウタ》。
 
短(ノ)字、拾穗本には反と作り、集中多く反歌とあり、されど短歌と書まじきにもあらず、
 
46 阿騎乃野爾《アキノヌニ》。宿旅人《ヤドルタビト》。打靡《ウチナビキ》。寐毛宿良目八方《イモヌラメヤモ》。古部念爾《イニシヘオモフニ》。
 
阿騎乃野爾《アキノヌニ》、(野(ノ)字、舊本には脱せり、今は官本紀州本六條本等に從つ、)こゝも雪ふりて、さむき阿騎の野にといふ意得なれど、そは長歌にゆづりていはざるなり、○宿旅人は、ヤドレルタビト〔七字右○〕と訓べし、(推古天皇(ノ)紀に、多比等《タヒト》とあれど、旅のビ〔右○〕は濁音なれば、必(ス)多妣等《タビト》と濁るべきなり、)旅人とは從駕の人々をひろくさしていへるなり、この旅人を皇子の御事としては、下の古部念爾《イニシヘオモフニ》とあるにも引合ず、長歌には、皇子の御うへをもはらにいひ、この反歌には、從駕の人のことを云り、されど從駕の人々をひろくいふに、おのづから皇子の御事はこもれり、○打靡《ウチナビキ》とは、草などのかたへになびきふしたるさまに、うちとけてねたるさまを形容《オモハス》る詞なり、こゝは打とけて寐《イ》は宿られじといはむとてなり、○寐毛宿良目八方《イモヌラメヤモ》(目(ノ)字、舊本自に誤れり、今は官本紀州本六條本拾穗本人磨勘文等によれり、)寐《イ》とは寐《ネ》入(ル)ことなり、目《メ》は牟《ム》のかよ(236)へるなり、八《ヤ》は後(ノ)世の也波《ヤハ》に同じ、方《モ》は歎をふくみたる助辭なり、宿ても寐入られむやは、あはれ安くはねられじとのよしなり、○古部念爾《イニシヘオモフニ》は、日並(ノ)皇子(ノ)尊の、古昔をしたひおもふ心の堪ずして安くはねられじといふなり、○歌(ノ)意は、この阿騎(ノ)野にやどる人の、いにしへを思ふに堪ずして、あはれ安くはねられじをといふなり、さて上にもいへるごとく、旅人とあるは、從駕の人々を大かたにさして云る詞つきにて、これも實には、輕(ノ)皇子をさし奉れるなり、さて此(ノ)皇子、さばかりの辛苦をもわすれて、ひとへに、父尊のむかしを、しのばせ給ふ御孝心のほどを感じ奉れる事を長歌によみ、此(ノ)歌には、こよひこゝにやどらせ給ふ御心のうち、いかにおはしますらむとおもひやり奉りたるなり、
 
47 眞草苅《マクサカル》。荒野二者雖有《アラヌニハアレド》。黄葉《モミチバノ》。過去君之《スギニシキミガ》。形見跡曾來師《カタミトソコシ》。
 
苅《マクサカル》とは、眞草は薄をいふがもとにて、こゝはそれまでもなく、たゞ草と見てもあるべし、こゝは眞木立《マキタツ》荒山とつゞけたるに意全(ラ)同じく、人氣遠き野は、草も生繁りてあれば、さる荒野に行て、草を苅ゆゑにいへるなり、○荒野二者雖有《アラヌニハアレド》、(二(ノ)字、舊本脱たり、今は一本によりつ、)荒野は、和名抄に、曠野、日本紀私記(ニ)云、安良乃良《アラノラ》とあり、山に荒山といふごとく、人げ遠き野のよしなり、即(チ)この阿騎(ノ)野をさしていへり、曠野《アラヌ》にてはあり、雖(モ)v然(レ)それをも厭はずして、といふほどの意なり、○黄葉《モミチバノ》(黄(ノ)字、舊本脱たり、眞恒(カ)校本に一本黄葉とあるに從つ、黄葉は毛美知婆《モミチバ》と、(237)知《チ》を清|婆《バ》を濁りて唱(フ)べし、十五に例あり、)は、過去《スギニシ》といはむ料の枕辭《マクラコトバ》におけるなり、二(ノ)卷に、黄葉乃過伊去等《モミチバノスギテイニシト》云々、九(ノ)卷に、黄葉之過去子等《モミチバノスギニシコラ》云々、十三に、黄葉之散過去常《モミチバノチリスギニシト》云々、又|黄菜之過行跡《モミチバノスギテユキヌト》云々、○過去君《スギニシキミ》とは、日並皇子(ノ)尊をさし奉れり、○形見跡曾來師《カタミトソコシ》とは、跡《ト》はとての意なり、師《シ》は過去し方のことをいふ辭なり、九(ノ)卷に、鹽氣立荒磯丹者雖有往水之過去妹之方見等曾來《シホケタツアリソニハアレドユクミヅノスギニシイモガカタミトソコシ》、とあるに意同じ、○歌(ノ)意は、たゞ草かるをのこなどこそあれ、なべての人の來べき荒野にてはあらねど、日並(ノ)皇子(ノ)尊の御獵ありし所なれば、その御形見とてこそ來しなれと、おのがうへをのみいふがほにて、皇子の御うへをば、よそにしたるやうなる詞つきなれど、實は皇子の御うへを、いとほしみ奉れること上の歌のごとし、
 
48 東《ヒムカシノ》。野炎《ヌニカギロヒノ》。立所見而《タツミエテ》。反見爲者《カヘリミスレバ》。月西渡《ツキカタブキヌ》。
 
東は、ヒムカシノ〔五字右○〕と訓べし、日向《ヒムカ》しの義なり、さて此(ノ)言、集中に假字書は無れども、かならず比牟加斯《ヒムカシ》と、加《カ》を清て唱ふべき理なり、國(ノ)の名日向を、辟武伽《ヒムカ》とあるをも思ふべし、(比牟我志《ヒムガシ》と濁るは音便の訛なり、和名抄攝津(ノ)國の郡(ノ)名に比牟我志奈里《ヒムガシナリ》とあるは正しからず、又ム〔右○〕を省きてヒガシ〔三字右○〕といふは、いよ/\訛れるものなり、漢籍などにても、ヒンガシ〔四字右○〕と訓來れるは、中古迄ヒガシ〔三字右○〕とはいはざりし故なり、さてついでにいふべし、漢籍にて、東をヒンガシ〔四字右○〕とよむに對《ムカ》へて、南をミンナミ〔四字右○〕とよむは、いとをかしき事なり、南はもとよりミナミ〔三字右○〕なるをや、此(ノ)類(238)外にも有(リ)、假字はカリナ〔三字右○〕の義にて、をを音便にカンナ〔三字右○〕といふにつれて、眞字をマンナ〔三字右○〕とよみ、左をヒダリ〔三字右○〕といふにつれて、右をミギリ〔三字右○〕とよむたぐひ、これらすべて、蒙昧なる人のよみいだせることにて、いみじき可笑事《ヲコワザ》なり、)○野炎は、ヌニカギロヒノ〔七字右○〕とよめる宜し、炎《カギロヒ》は朝夕の陽炎《ヒノヒカリ》を云ことにて、こゝは曙に東(ノ)天の光るをいへり、(或説に、こゝの炎は、東野の民家などに、はやく起てたく火の、ほのかにみゆるをいふ、と云るは後(ノ)世(ノ)意なり、且《マタ》民家の火ならば、東には限るべからぎるをや、)○反見爲者《カヘリミスレバ》は、夜はいまだ明じと思ふに、東(ノ)天のしらみたるをふと見て、月はいかにと、西(ノ)方をかへり見したるなり、○月西渡は、ツキカタブキヌ〔七字右○〕とよめり、十五に、山乃波爾月可多夫氣婆《ヤマノハニツキカタブケバ》、古事記下卷清寧天皇(ノ)條(ノ)歌に、須美加多夫祁理《スミカタブケリ》、書紀欽明天皇(ノ)卷人(ノ)名に、傾子と云ありて、此(レヲ)云2※[舟+可]※[手偏+施の旁]部古《カタブコト》1、字鏡に、※[厄+支]〓〓崎(ハ)加太夫久《カタブク》、※[山/戯](ハ)加太不久《カタブク》とあり、(同じことながら、加多牟久《カタムク》といふはわろし、)西渡とあるは、義を得てかける一(ツ)の書樣にて、集中に、不清《オホホシク》不穢《キヨケク》止息《ヨドム》不遠《マヂカク》不樂《サブシク》奇將見《メヅラシク》不顔面《シヌフ》痛念《ナゲク》、などやうにかけるに同じ、○歌(ノ)意、いまだ夜明むには、程あるべくおもへりしに、東(ノ)天のしらみたるを見て、西(ノ)方をかへり見すれば、月さへかたぶきたるは、うたがひなく夜は明むとするよとおもひの外に、夜のはやく明るをおどろきたる意なり、いと曠(キ)野に、旅寐したる曉のさま、實《マコト》に目前《イマ》も見るがごとし、
 
49 日雙斯《ヒナミノ》。皇子命《ミコノミコトノ》。馬副而《ウマナメテ》。御獵立師斯《ミカリタヽシ》。時者來向《トキハキムカフ》。
 
(239)日隻斯、斯(ノ)字は、(類聚抄には期と作り、それもわろし、)能の草書の※[能の草書]を※[斯の草書]と見て、寫し誤《ヒガ》めたるものなるべし、故(レ)今はヒナミノ〔四字右○〕と四言に訓つ、(此を舊《モト》の隨《マヽ》にて、ヒナメシノ〔五字右○]と訓たれど、二(ノ)卷題詞にも皆、日並(ノ)皇子(ノ)尊とあれば日雙斯《ヒナメシ》ならぬことをさとるべし、よしやはた、ヒナメシ〔四字右○〕と申せしにもせよ、こは御名なれば、しか音訓の字まじへ用ふべき謂なし、しかるを岡部氏(ノ)考に、こゝのみに斯(ノ)字あるによりて、二(ノ)卷なるをも、こと/”\く知(ノ)字を補て、日並知《ヒナメシ》とせるは、中中なるさがしらわざといひつべし、)さて草壁(ノ)皇子(ノ)尊の更(ノ)名《ミナ》を、日並所知皇子《ヒナミシラスノミコノ》尊と申せしを、歌はもとより常にも省きて、日並(ノ)皇子(ノ)尊と申せしなり、猶委くは二(ノ)卷にいふべし、さて天皇の御諱はさらにも申さず、高位高官の人(ノ)名をば、忌避て顯はさず、又貴からぬ列《ツラ》にても、其(ノ)人にさし對《ムカ》ひて名を呼をば、いたく不敬《ナメシ》とすることなど、其(ノ)例二(ノ)卷上石川(ノ)女郎字(ヲ)曰2大名兒(ト)1、とある下の注に委(ク)辨へたるが如し、されば天皇をば、泊瀬(ノ)朝倉(ノ)宮(ニ)御宇(シヽ)天皇高市(ノ)崗本(ノ)宮(ニ)御宇(シヽ)天皇など書《シル》し、歌詞にも、明日香能清御原乃宮爾天下所知食之八隅知之吾大王《アスカノキヨミハラノミヤニアメノシタシロシメシシヤスミシヽワガオホキミ》、とやうに申して、かりにも御名をば顯し申さず、さて又鎌足公を内(ノ)大臣藤原(ノ)卿、諸兄公を左(ノ)大臣橘(ノ)卿など書《シル》して名を出さず、然るを皇太子皇子諸王の列に至りては、却(リ)て御名を避し例さらになし、故(レ)題詞に、皇太子には高市(ノ)皇子(ノ)尊、日並(ノ)皇子(ノ)尊など書(ル)し、皇子には舍人(ノ)皇子、志貴(ノ)親王など見え、諸王には軍(ノ)王、麻讀(ノ)王とやうに多く書て、いさゝかつゝましげもなし、されば歌詞にも麻(240)續(ノ)王、三野(ノ)王などやうに作《ヨメ》りしなり、其(ノ)故いかにといふに、すべて皇太子の、天皇位に即(キ)給はぬほどと、諸王の、源橘などの氏を賜はらぬほどは、御名すなはち廣き御稱號にして、諱ことのさだなかりしなり、これ天皇(ノ)諱にも臣下の名にも、各別の理あるものにこそ、まことにさもなくては、書《シル》すべき氏姓あらざれば、いかにとも書べきやうなきことぞかし、さるが故にこゝにも日並能皇子命《ヒナミノミコノミコト》とは作(ミ)申せるなるべし、○皇子命《ミコノミコト》は、皇太子を尊稱(ス)事にて、即(チ)此(ノ)皇子を、題詞には皇子(ノ)尊と書(ル)し、高市(ノ)皇子(ノ)尊ともしるせり、推古天皇(ノ)紀に、厩戸(ノ)豐聽耳《ノ)皇子(ノ)命、天武天皇(ノ)紀に、高市(ノ)皇子(ノ)命、續紀一(ノ)卷に、即(チ)此(ノ)皇子を日並知《ヒナミシラスノ》皇子(ノ)尊とあり、○馬副而《ウマナメテ》は、從者と馬を並べさせ給ひてといふなり、副(ノ)字は物に物のそひたるかたちなれば其(ノ)意をえて書るなるべし、○御獵立師斯《ミカリタヽシヽ》(獵(ノ)字、類聚抄に?と作り、)は、御獵立(チ)給ひしといふが如し、立師《タヽシ》は立《タチ》の伸りたるにて、立(チ)給ふといふに同じ、斯《シ》は過去し方のことをいふ詞にて、上の來師《コシ》の師《シ》に同じ、○時者來向は、トキバキムカフ〔七字右○]と訓るよろし、十九に、春過而夏來向者《ハルスギテナツキムカヘバ》とあり、時とは或説に、上の東野《ヒムカシノヌニ》云々の歌より連續《ツヾ》けておもふに、この時とは、朝獵にたち出ましゝ時刻の來むかふといふなるべし、ほと/\夜あけむとする事を、前の歌にはよみ、此(ノ)歌は、やゝ朝となりてよめるなるべしといへり、此(ノ)説しかるべし、(此(ノ)》度の御獵は、父尊をしたひ給ひての御事なることは、もとよりいふもさらなれば、京を出ます時より、故尊の御獵ましゝ時節は、あきらか(241)なるべければ、こゝにておもひかけぬやうによみたること、そのかひなければ、時節の來向ふよしにはあらで、朝獵の時刻とせむ方尤然るべし、)○歌(ノ)意は、さきに日並(ノ)皇子(ノ)命、この野に朝がりに出立ましゝ、その時は今來むかふよと、その時刻の來むかふを驚きたるよしなり、さて時は來ながら、ありしにあらぬことを時者《トキハ》の者の辭におもはせたるなり、そのありしにあらぬは、實は此(ノ)皇子の、しかばかりに父尊をしたはせ給ひて、出立せ給ひながら、ふたゝび父尊にあひ奉り給はむよしなきを、皇子のいかにおぼすらむと、深く御心のほどを、いとほしみ奉れるなり、二(ノ)卷この日並皇子尊殯宮時歌に、毛許呂裳遠春冬片設而幸之《ケコロモヲハルフユカタマケテイデマシヽ》、宇陀乃大野者所念武鴨《ウダノオホヌハオモホエムカモ》、といへるは、即(チ)こゝの事なるべし、
 
萬葉集古義一卷之中 終
 
(242)萬葉集古義一卷之下
 
フヂハハラノミヤ》1之役民作歌《ニタテルタミノヨメルウタ》。
 
營2藤原(ノ)宮1(營字、舊本にはなし、道晃親王御本拾穗本等によりつ、)は、持統天皇(ノ)紀に、四年冬十月甲辰朔壬申、高市(ノ)皇子|觀《ミソナハス》2藤原(ノ)宮地(ヲ)1、公卿百(ノ)寮從焉《ミトモツカヘマツレリ》、十二月癸卯朔辛酉、天皇幸2藤原(ニ)1觀《ミソナハス》2宮地(ヲ)1、公卿百(ノ)寮皆|從焉《ミトモツカヘマツレリ》、六年五月乙丑朔丁亥、遣(テ)2淨廣肆灘波(ノ)王等(ヲ)1、鎭2祭(シメタマフ)藤原(ノ)宮地(ヲ)1、庚寅、遣2使者(ヲ)1、奉2幣《ヌサタテマツリ》于四所伊勢大倭住吉紀伊(ノ)大神(ニ)1、告(ルニ)以2新宮(ヲ)1、六月甲子朔癸巳、天皇觀(ス)2藤原(ノ)宮地(ヲ)1、七年八月戊午朔、幸(ス)2藤原(ノ)宮地(ニ)1、八年春正月乙酉朔乙巳、幸(ス)2藤原(ノ)宮(ニ)1、即日《ソノヒ》還(リマス)v宮(ニ)、十二月庚戌朔乙卯、遷(リ)2居(ス)藤原(ノ)宮(ニ)1と見ゆ、かゝればこの營宮《ミヤツクリ》は、持統天皇八年の冬までに仕(ヘ)奉りしなり、○役民を、タテルタミ〔五字右○〕、と訓は、十−に、宮材引泉之追馬喚犬二立民乃《ミヤキヒクイヅミノソマニタツタミノ》とあるに從つ、又エダチノタミ〔六字右○〕とも訓べし、(岡部氏(ノ)考に、役(ノ)字をエダチ〔三字右○〕とよめど、エ〔右○〕は役の字音《モジコエ》にて、古言《イニシヘコトバ》にあらずといへるは、例のいとかたよれる論なり、)十四に、於保伎美乃美己等可思古美可奈之伊毛我多麻乃良波奈禮欲太知伎努可母《オホキミノミコトカシコミカナシイモガタマクラハナレヨダチキヌカモ》とよめる、欲太知《ヨダチ》は役《エダチ》の東語なりといへり、しかればエダチ〔三字右○〕も古言なり、(本(243)居氏云、延陀知《エダチ》は、延《エ》は充《アテ》の約りたる言か、詳ならず、陀知《タチ》は民の其(ノ)事に發趣《タチオモム》くを云、)○本居氏云、此(ノ)歌のすべての趣は、田上山より伐(リ)出せる宮材を宇遲川へくだし、そを又泉川に持越て筏に作りて、その川より難波(ノ)海に出し、海より又紀の川を泝せて、巨勢の道より藤原(ノ)宮地へ運び來たるを、その宮造りに役《ツカ》はれ居る民の見て、よめるさまなりとあり、大かたの趣をば、まづしか心得置て、さて歌詞の條々に注る説を味ひ考べし、
 
50 八隅知之《ヤシミシヽ》。吾大王《ワガオホキミ》。高照《タカヒカル》。日之皇子《ヒノミコ》。荒妙乃《アラタヘノ》。藤原我字倍爾《フヂハラガウヘニ》。食國乎《ヲスクニヲ》。賣之賜牟登《メシタマハムト》。都宮者《オホミヤハ》。高所知武等《タカシラサムト》。神長柄《カムナガラ》。所念奈戸二《オモホスナベニ》。天地毛《アメツチモ》。縁而有許曾《ヨリテアレコソ》。磐走《イハバシル》。淡海乃國之《アフミノクニノ》。衣手能《コロモテノ》。田上山之《タナカミヤマノ》。眞木佐苦《マキサク》。檜乃爾手乎《ヒノツマテヲ》。物乃布能《モノノフノ》。八十氏河爾《ヤソウヂカハニ》。玉藻成《タマモナス》。浮倍流禮《ウカベナガセレ》。其乎取登《ソヲトルト》。散和久御民毛《サワクミタミモ》。家忘《イヘワスレ》。身毛多奈不知《ミモタナシラニ》。鴨自物《カモジモノ》。水爾浮居而《ミヅニウキヰテ》。吾作《アガツクル》。日之御門爾《ヒノミカドニ》。不知國《シラヌクニ》。依巨勢道從《ヨリコセヂヨリ》。我國者《ワガクニハ》。常世爾成牟《トコヨニナラム》。圖負留《フミオヘル》。神龜毛《アヤシキカメモ》。新代登《アラタヨト》。泉乃河爾《イヅミノカハニ》。持越流《モチコセル》。眞木乃都麻手乎《マキノツマテヲ》。百不足《モヽタラズ》。五十日太爾作《イカダニツクリ》。泝須良牟《ノボスラム》。伊蘇波久見者《イソハクミレバ》。神隨爾有之《カムナガラナラシ》。
 
荒妙乃《アラタヘノ》は、藤といはむ料の枕詞なり、此下にも見え、又三(ノ)卷六(ノ)卷等にも藤とつゞけたり、荒多閉《アラタヘ》は、古語に和多閉《ニギタヘ》とならべ云て、荒は麁《アラ》きよし、多閉《タヘ》は絹布《キヌヌノ》の類をすべいふ名なること、白布《シロタヘ》の布《タヘ》のごとし、さて古(ヘ)は同じ麻布にても、細《コマカ》にしてよきを和布《ニギタヘ》といひ、麁くてあしきを麁(244)布《アラタヘ》といひ、(絹《キヌ》を和布《ニギタヘ》とし布《ヌノ》を荒布《アラタヘ》とするはやゝ後のことなり、)また藤(ノ)皮して織れるはなべて麁くあしさものなれば、麁布とのみいへるなるべし、されば藤布のよしにて、麁布の藤衣といふ意に、藤につゞけ云たり、なほ荒布は二(ノ)卷五(ノ)卷にも見え、書紀に麁布《アラタヘ》、古語拾遺に織布、古語|阿良多倍《アラタヘ》、祝詞式に、荒多閇《アラタヘ》など見えたり、○藤原我宇倍《フヂハラガウヘ》とは、宇倍は上《ウヘ》なり、(倍の濁音(ノ)字を書るは正しからず、)さて上(ノ)は山(ノ)上、野上また高圓《タカマト》の上《ウヘ》、高野原《タカヌハラ》が上などいへる上に同じ、こは上下《ウヘシタ》をいふ上にはあらず、邊《ホトリ》といふ意に近しさればたゞ藤原の地のあたりと意得て有べし、(岡部氏(ノ)考に、古(ヘ)藤原は高き原なりけむ、今も此所畑とは成つれど他よりは高し、仍て上といふと云るは泥める説なり、)○食國乎《ヲスクニヲ》は、天(ノ)下をといふ意なり、天(ノ)下は即(チ)天皇の所聞食國《キコシヲスクニ》なれば云るなり、○賣之賜牟登《メシタマハムト》とは、賣之《メシ》は見《メシ》なり、見《ミ》の伸りたる詞にて見給ふといふ意なり、此は知《シリ》を伸て伎良志《シラシ》、聞を伸て伎己志《キコシ》といふと同格の古言なり、(そは上にもいへる如く、故なくしていたづらに、伸縮すべきよしなければ、見《ミ》を賣之《メシ》、知《シリ》を志良之《シラシ》といふは、即(チ)尊む方なり、されば賣之《メシ》は、見給ふといふ意になるなり、)さてこゝは、食《ヲス》といふにもはら同じ意にて、そは古語に所聞食《キコシメス》とも、所聞看《キコシメス》とも云るにて知べし、其(ノ)意は既《ハヤ》く云るがことし、○都宮者は、オホミヤハ〔五字右○〕と訓べし、皇極天皇(ノ)紀に、元年九月癸丑朔辛未、天皇詔2大臣(ニ)1曰、起《ヨリ》2是月1限(リ)2十二月|以來《マテヲ》1、欲《オモフ》v營《ツクラムト》2宮室《オホミヤヲ》1と有(リ)、又ミアラカハ〔五字右○〕とも訓べし、ミアラカ〔四字右○〕といふ義は下にいふべし、○所念(245)奈戸二《オモホスナベニ》、(所(ノ)字類聚抄に可と作るは誤なり、)奈戸は奈倍《ナベ》と濁るべし、並《ナベ》の義なり、こゝは所念《オモホス》につれてといふほどの意に見べし、○天地毛《アメツチモ》は、天神地祇《フメノカミツチノカミ》もといふことなり、こは上に山神《ヤマツミ》河神《カハノカミ》を山川と云ると全(ラ)同例なり、さて天神地祇を天地とばかり云たる例は、十三に、天地乎歎乞?《アメツチヲナゲキコヒノミ》云々、又|天土乎乙?嘆《アメツチヲコヒノミナゲキ》云々、(舊本大士乎太穗跡に誤れり、)廿(ノ)卷に、天地能加多米之久爾曾《アメツチノカタメシクニソ》とあるなど其(レ)なり、又續紀宣命に、天地乃心《アメツチノコヽロ》、また天地乃置賜比授賜布位《アメツチノオキタマヒサヅケタマフクラヰ》、また天地乃明伎奇岐徴《アメツチノアキラケキクスキシルシ》、また天地乃宇倍奈彌由流之天《アメツチノウベナミユルシテ》など多くあり、是も天神地祇を天地といへる例なり、(但し同じ宣命に、天乃不授所《アメノサヅケザルトコロ》云々、また天方萬物乎能覆養賜比《アメハヨロヅノモノヲヨクオホヒヤシナヒタマヒ》云々などあれば、彼(ノ)頃ははやく漢意にうつりて、直に天地の事をいふことにはなれりともいふべし、されども又稱徳天皇(ノ)紀宣命に、天地乃御心乎令感動末都流倍岐事波無止奈毛急行須《アメツチノミコヽロヲウゴカシメマツルベキコトハナシトナモオモホシメス》云々、天地乃神多知毛共爾示現賜幣流《アメツチノカミタチモトモニアラハシタマヘル》云々、天地乃御恩乎奉報倍之止奈毛念行止詔《アメツチノミウツクシミヲムクイマツルベシトナモオモホシメストノリタマフ》、また天神地祇現給比悟給爾己曾在禮《アマツカミクニツカミノアラハシタマヒサトシタマフニコソアレ》云々、必天地現之示給都留物曾《カナラズアメツチアラハシシメシタマヒツルモノソ》、又聖武天皇(ノ)紀宣命に、天地乃心遠勞彌重彌辱美恐美《アメツチノコヽロヲイトホシミイカシミカタジケナミカシコミ》云々、天坐神地坐祇乎祈?奉《アメニマスカミクニヽマスカミヲイノリマツリ》云々、天坐神地坐神乃相宇豆奈比奉《アメニマスカミクニヽマスカミノアヒウヅナヒマツリ》云々など、かく一章の中に同じ事を天地とも、天地乃神とも、天(ニ)坐(ス)神地(ニ)坐(ス)祇ともあるを思へば、なほこの古語は古意のまゝに、天地の神をいへるなり、但し上に引る如く、天の云々などもあれば、なべては漢意になりて、直に天地をいふことにもなりけむ、)毛《モ》は宮室《オホミヤ》を經營《ツクル》につきて、人民はいふも(246)さらなり、天(ツ)神地(ツ)祇までもといふ意なり、○縁而有許曾《ヨリテアレコソ》は、天(ツ)神地(ツ)祇も依(リ)賜ひて、有ばこそ云云《カク》あるらめといふ意なり、(云々《カク》とは、磐走《イハバシル》云々より、神隨爾有之《カムナガラナラシ》といふまでのことなり、)かく詞ををへて心得るは、古格の一(ツ)にて、其(ノ)例は上に既く云つ、(この許曾《コソ》を下の浮倍流禮《ウカベナガセレ》にて結《トヂ》めたるものとせむは非ず、さては宮材を浮べ流すことのみを、天(ツ)神地(ツ)祇のしろしめし給ふよしにて、宮室《オホみヤ》つくりのなべてのうへをば、神祇のしろしめさぬ意になれば協ひがたし、ここは一首のなべての意を貫ぬきて云るをや、)○磐走《イハバシル》、上にいへり、○衣手能《コロモテノ》は、田上《タナカミ》の枕詞なり、こは九(ノ)卷に衣手乃名木《コロモテノナキ》とつゞけたるに同じく、衣手の長《ナ》(長は袖の行《クダリ》の長きよしなり、装束の袖の行の長きことは、今とてもしかり、)とつゞけたるなり、(次にいふ如く、田上の加《カ》の言清言なれど枕詞よりは那《ナ》の言にのみかゝりて、加《カ》の言までは關からず、)多《タ》の言は、古語に手長乃大御世《タナガノオホミヨ》、手長乃御壽《タナガノミイノチ》など發言におけること多ければ、此(レ)も枕詞よりは、多《タ》の言をおきて長《ナ》と續くなり、(本居氏は、手長《タナガ》といふときは、手《タ》は足《タリ》の意なりと云り、)かくて長をナ〔右○〕とのみいふ例は、古事記上卷に、風(ノ)神|志那都比古《シナツヒコノ》神とあるを、書紀には、級長津彦《シナツヒコノ》命とある是(レ)なり、(又和名抄に、越前(ノ)國郷(ノ)名に、長畝(ハ)奈宇禰《ナウネ》とも見えたり、)○田上山《タナカミヤマ》は、近江(ノ)國栗本(ノ)郡にあり、神功皇后(ノ)紀(ノ)歌に、多那伽瀰《タナカミ》とあり、(多那我彌《タナガミ》と濁りて唱ふるは誤なり、清べし、)○眞木佐苦《マキサク》は、檜《ヒ》の枕詞なり、書紀繼體天皇(ノ)卷(ノ)歌に、莽紀佐具避能伊陀圖嗟《マキサクヒノイタドヲ》、古事記雄略天皇(ノ)條(ノ)歌に、麻紀佐久比能美(247)加度爾《マキサクヒノミカドニ》などあり、眞木とは、檜を美《ホメ》いふ稱なることは上に云るが如し、佐苦は幸《サク》にて、幸《サキ》はふと云に同じ、その幸《サキ》はふとは、言靈《コトタマ》の幸《サキ》はふなど云と同言にて、何にても其物の功用をなすを云言なり、故(レ)眞木の功用を成《シ》さきはふ檜之材《ヒノツマ》、また檜之板戸《ヒノイタド》などゝ云つゞけたり、(冠辭考に、佐苦《サク》とは、古へは木を斧もて拆《サキ》て、板とも何ともせればしか云て、ここは眞木を拆たる檜てふことなるを、用を冠辭として體にかけたるなり、と云るは叶がたし、もし眞木拆の謂なれば斧とか何そ、その眞木を割(リ)拆(ク)器へ云かくべき語例にこそあれ、檜とはつゞくべきにあらず、)○檜乃嬬手《ヒノツマテ》とは、(嬬は借(リ)字、)まづ麁木《アラキ》造りしたる材は、角※[木+瓜]《カドツマ》のあればいふなり、神代紀に、木(ノ)國に齋《イハ》へる三(ノ)神の中に、五十猛《イタケルノ》神は木種《コタネ》を蒔生《マキオホ》し、大屋津姫《オホヤツヒメ》は家造る幸《サキ》をなし、※[木+瓜]津姫《ツマツヒメ》はその材を守(リ)給ふなるべし、さてこゝに※[木+瓜]の字を用ひたるは、かのあら木造りして稜※[木+瓜]《カドヅマ》ある材の意なり、さる故に都萬《ツマ》と訓來れるを思へ、手《テ》は物に添いふ辭なりと岡部氏云り、○物乃布能《モノノフノ》は、枕詞なり、三(ノ)卷に、物乃部能八十氏河乃阿白木爾不知代經浪乃去邊白不母《モノノフノヤソウヂカハノアジロキニイザヨフナミノユクヘシラズモ》、十一に、物部乃八十氏川之急瀬立不得戀毛吾爲鴨《モノヽフノヤソウヂカハノハヤキセニタチエヌコヒモアレハスルカモ》などあり、古事記(ノ)傳十九云、物部《モノヽベ》は母能々布部《モノヽフベ》といふことにて、布辨《》を約めて母能々辨《モノヽベ》とはいふなり、さて其(ノ)母能々布《モノヽフ》といふは、總て武事職《タケキワザ》を以(テ)仕へ奉る建士《タテヲ》の稱にして、後(ノ)世までも武士《タケキヲ》を、ものゝふといへり、又朝廷に仕へ奉る人等を、凡ても母能々布《モノヽフ》と云は、上(ツ)代に武勇職を主とせられし世の、古言の遺れりしなり、八十氏(248)とつゞけ云るは、かの八十伴(ノ)緒と云ると同じく、武(キ)人のみならず、凡て朝廷に仕奉る人をも、皆|母能々布《モノヽフ》と云る、其(ノ)氏々の多き意にて、彼(ノ)八十といはずして、たゞものゝふのうぢといひ、又ちはやぶるうぢ、ちはや人うぢ、などゝ云るとは、つゞけの意異なり、彼(ノ)ちはやぶるちはや人などは、唯宇治とのみつゞけて八十宇治とはつゞけたる例なきを以て、此(ノ)差《ケヂメ》をさとるべし、母能々布之《モノヽフノ》と云る枕詞は、只宇治とつゞけたるは、彼(ノ)ちはや人などゝ同じくて、いちはやき意、八十宇治とつゞけるは、八十伴(ノ)緒の氏々の多き意にて、同枕詞同地名ながら、そのつゞけの意ことなり、よくせずば混(ヒ)ぬべし、さて又ものゝふの八十の※[女+感]嬬、ものゝふの八十の心などつゞけるも、八十氏とつゞくと同意にて、八十の枕詞なりと云り、荒木田久老、物乃部は、物とは彼物《ソノモノ》此物《コノモノ》などいふものにて、數ある中を取(リ)出ていふ言、布《フ》は邊《ベ》に通ふ言にて、邊《ベ》は牟禮《ムレ》の約の米《メ》に同じ、(今云、布《フ》を邊《ベ》に通ふといへることいかゞ群の意の辨《ベ》は濁る例なれば、そを布《フ》に通はさむには、夫《ブ》と濁るべきことゝこそおもはるれ、)さて朝廷に仕(ヘ)奉人等、をの職役の連ありて、八十の氏々多ければ、八十氏河ともつゞけ、また氏とのみもつゞけたり、また八十乃※[女+感]嬬《ヤソノヲトメ》、乎等古乎美奈《ヲトコヲミナ》とつゞけたるは、祝詞式に、襷掛伴緒領巾懸伴緒《タスキカクルトモノヲヒレカクルトモノヲ》と云る意にて、朝廷に仕(ヘ)奉る男女にかけて云るなり、猛人をものゝふといふは、一轉後の事にて、そは古(ヘ)御國は、專ら武き事をもて仕(ヘ)奉るを貴み、天武天皇(ノ)紀にも、政(ノ)要(ハ)者軍(ノ)事也、是以文武(ノ)官諸人《ツカサノヒト/”\》、務(テ)習(ヘ)2用v兵(249)及乘(コトヲ)1v馬(ニ)、と見えたる意にて、百官の人等皆猛かれば、後にものゝふを、武人のことゝもすめりと云り、○八十氏河《ヤソウヂカハ》は、八十《ヤソ》は、振山《フルヤマ》を袖振山《ソデフルヤマ》など云る類に、枕詞のつゞけにつれてそへたる詞にて、宇治川なり、(宇遲可波《ウヂカハ》と可《カ》の言清て唱ふべし、今(ノ)世|宇遲我波《ウヂガハ》と濁りて唱ふるは非なり、)山城(ノ)國宇治(ノ)郡にある川なり、○玉藻成《タマモナス》は、如2玉藻1なり、浮べ流せれといはむ料の枕詞なり、○浮倍流禮《ウカベナガセレ》は、浮べ流せればの意なり、婆《バ》といふ意なるに、婆《バ》をいはざる例は、集中に甚多し、(長歌にはことに多し、)三(ノ)卷に、離家伊麻須吾妹乎停不得山隱都禮情神毛奈思《イヘザカリイマスワギモヲトヾミカネヤマガクリツレコヽロドモナシ》、(山隱つればの意なり、短歌には、只此(ノ)一首のみなり、)續紀十七詔に、慈賜比福波倍賜物爾有止念閇《メグミタマヒサキハヘタマフモノニアリトオモヘ》云々、また不敢賜有禮《アヘタマハズアレ》云々、また負賜閉《オホセタマヘ》云々、廿一詔に、祈念坐世《オモホシマセ》云々などあるもみな同格にて、念へば、あれば、賜へば、ませばの意なり、○其乎取登《ソヲトルト》は、其(ノ)材《ツマテ》を取(リ)上るとての意なり、田上山の材を、その川より宇治まで流して、さて宇遲川より陸地に取(リ)上れば云り、登《ト》は登?《トテ》の登《ト》なり、○散和久御民毛《サワクミタミモ》、(久《ク》は清て唱ふべし、今(ノ)世|佐和具《サワグ》と濁りて唱ふるは非なり、集中皆清字を書り、古言清濁考に出(ヅ)、)散和久《サワク》はいそしみはたらくを云、御民《ミタミ》は宮材を運送《モチオクリ》する民を云り、すべて天(ノ)下の蒼生は、皇朝の大御寶なるが故に、尊みて御民といへり、六(ノ)卷に御民吾生有驗在《ミタミアレイケルシルシアリ》云々、續後紀十九長歌には、皇之民浦島子加《キミノタミウラシマノコガ》とあり、○家忘《イヘワスレ》は、大皇の御命恐み、家をも郷をも忘れりしなり、○身毛多不知《ミモタナシラニ》は、本居氏(ノ)説に、我身の事をも意得無(シ)に、打わすれてなりと云り、九(ノ)卷に、(250)金門爾之人之來立者夜中母身者田菜不知出曾相來《カナトニシヒトノキタテバヨナカニモミハタナシラズイデヽソアヒケル》、又|何爲跡歟身乎田名知而波音乃驟湊之奧津城爾妹之臥勢流《ナニストカミヲタナシリテナミノトノサワグミナトノオクツキニイモガコヤセル》などあり、又十三に葦垣之末掻別而君越跡人丹勿告事者棚知《アシカキノスエカキワキテキミコユトヒトニナツゲソコトハタナシレ》ともあり、又十七に、伊謝美爾由加奈許等波多奈《イザミニユカナコトハタナ》由比とある、由比も思禮《シレ》の誤にて、さて許等《コト》は、許等零者《コトフラバ》、許等放老《コトサカバ》などの許等《コト》にて、人に物を言(ヒ)付て、さやうに意得よといふ意なりとあり、○鴨自物《カモジモノ》は、水に浮居といはむ料の枕詞なり、十五に、可母自毛能宇伎禰乎須禮婆《カモジモノウキネヲスレバ》とあり、さてこの自物といふ言は、(言の本(ノ)義は未(タ)詳ならず、)別に云ばかりの意なし、鴨自物はたゞ鴨之《カモノ》といふほどに意得て、其(ノ)餘も此に准へて聞ゆることなり、そは古語に、鹿自吻膝折伏《シヽジモノヒザヲリフセ》とも、狭牡鹿乃膝折反《サヲシカノヒザヲリカヘシ》ともいへるにて知るべし、鴨之といふが自《オノヅカラ》鴨の如くといふ意にもきこゆるは、左牡鹿乃膝折反《サヲシカノヒザヲリカヘシ》といひて、左牡鹿の如くといふ意にもきこゆるが如し、)男自物《ヲトコジモノ》、鳥自物《トリジモノ》、鵜自物《ウジモノ》、馬自物《ウマジモノ》、鹿兒自物《カコジモノ》、狗自物《イヌジモノ》、雪自物《ユキジモノ》、床自物《トコジモノ》などの類、皆これに准ふべし、(又枕辭ならで、某自物と云るは、十一に、面形之忘而在者小豆鳴男士物屋戀乍將居《オモカタノワスレテアラバアヂキナクヲトコジモノヤコヒツヽヲラム》、續紀聖武天皇(ノ)詔に、太上天皇(ノ)大前爾恐古士物進退匍匐廻保理《オホマヘニカシコジモノシヾマヒハヒモトホリ》、また勅夫御命乎畏自物受賜理坐天《ノリタマフミコトヲカシコジモノウケタマハリマシテ》云々などあり、枕詞の某自物の自物は、如といふと同じ意ばえの詞かとも、思ひしかどもしからず、如くといふ意に見ても聞ゆる處もあれど、三(ノ)卷に、白雪仕物往來乍《ユキジモノユキカヨヒツヽ》とあるは、たゞ雪の言をかさね云たるのみと聞ゆるを、雪の如くといふ意にしては、いかゞなればなり、又詔に畏自物とあるも、畏む(251)如くといふ意にしては、實には畏まねども、うはべに畏まれる貌《フリ》することゝきこえて、甚いかゞなり、されば畏自物は、たゞ畏まりの意とのみきこえたるをや、かゝれば自物を如の意と見ては、おしわたして然聞えざれば、たゞ輕くそへたるのみにて、ことに意なき詞とおぼへたり、○本居氏云、稻掛(ノ)大平が考に、自物《ジモノ》は状之《ザマノ》なるべし、ざまとじもと音通へり、鹿自物《シヽジモノ》は鹿状之《シヽザマノ》にて、此(ノ)類皆同じと云るは、さもあるべしと云り、今案(フ)に、此(ノ)考も甚いかゞなり、其(ノ)意ならば、恐士物進退云々、畏自物受賜理云々などあるも、畏自麻爾となくては叶はず、其はとまれ畏状之としては、實には畏まざれども、畏まりたる状する意と聞ゆること、上に云るが如くなればいかゞなり、又白雪仕物往來乍も、雪状之といふ意とは、きこゆべからざるをや、)○水爾浮居而《ミヅニウキヰテ》、この句にて姑く絶て、下の泉乃河爾持越流《イヅミノカハニモチコセル》へつゞく詞なり、たゞに吾作《アガツクル》云々へはつゞかず、この句法人麻呂(ノ)主(ノ)歌に殊に多くあり、○吾作《アガツクル》(作(ノ)字、類聚秒に佐に誤れり、)は、役民の吾が造《ツクル》なり、役民は藤原(ノ)宮の地に役《エダ》つ民にて即(チ)此(ノ)》歌の作者《ヨミビト》なり、上の散和久御民毛《サワクミタミモ》とある民にはあらず、思ひまどふべからず、○日之御門爾《ヒノミカドニ》、即(チ)藤原の宮をいへり、五(ノ)卷に、高光日御朝庭《タカヒカルヒノミカド》、○不知國《シラヌクニ》は、外(ツ)國の義なり、名も不v知外(ツ)國々より、徳化を慕ひて依(リ)來ると云意にはつゞけたり、此は皇居をことほぐ歌なれば、ことに外(ツ)國の歸依《マツロフ》義を帶て、枕詞とせるなり、(岡部氏(ノ)考に、不知國は、中國《ミクニ》の内なる諸國のことゝせるは、ひがことなり、御國の内なるを、いかで不知(252)國とはいはむ、そのうへ次に、我國者《ワガクニハ》とあるにも對ひたる詞なれば、いよ/\外(ツ)國をいふなることはしるきをや、)崇神天皇(ノ)紀に、十一年云々、是歳|異俗多歸《アダシクニノヒトサハニマヰキテ》、國内安寧《クヌチヤスラケシ》とあるを併(セ)考(フ)べし、○依巨勢道從《ヨリコセヂヨリ》は、不知外(ツ)國の皇化に服《マツロヒ》て歸來《ヨリクル》よしもて、巨勢道へいひかけたるにて、依といふまでは、たゞ巨勢をいはむのみの料なり、處女等之袖振山《ヲトメラガソデフルヤマ》などいふ類なり、巨勢は藤原の南高市(ノ)郡にありて、古瀬《コセ》村と云り、從といへるは、即(チ)上の田上山の材を、巨勢道より宮道へ運ぶよしなり、又別に、巨勢道よりものぼすにはあらず、(上件の二句、不知國依《シヲヌクニヨリ》句|巨勢道從《コセヂヨリ》と絶て、依を從の意として、不知國よりも巨勢道よりも、材をのぼすといふ意に見るは甚誤なり、さては前後の意も連かず、句調もとゝのはざることなり、今は本居氏の訓にしたがへり、)○我國者《ワガクニハ》は、我は、我(カ)君吾(カ)兄などいふ我にて、親みていふ稱なり、國といふは御國内《ミクニウチ》の事をすべていふ、(後(ノ)世御國を打まかせて、我(カ)國といふとはいさゝか異なり、)此(ノ)句より以下|新代登《アラタヨト》といふまで五句は、壽詞をもて、泉といはむ料の序とせるなり、○常世爾成牟《トコヨニナラム》、こゝの常世は字の如く、常しへにして不《ヌ》v變《カハラ》ことを云り、古事記下卷雄略天皇(ノ)大御歌に、麻比須流袁美那登許余爾母加母《マヒスルヲミナトコヨニモカモ》、書紀垂仁天皇(ノ)卷に、伊勢(ノ)國(ハ)則、常世之浪重浪歸《トコヨノナミシキナミヨスル》國也、顯宗天皇(ノ)卷室壽(ノ)御詞に、拍上賜吾常世等《ウチアゲタマフアガトコヨタチ》などある、常世と義同じ、凡て常世《トコヨ》といふに三(ツ)の差別あり、(此《コヽ》に云る常世《トコヨ》と、常夜《トコヨ》の義と、底依國の義となり、)古事記傳に委し、○圖負留神龜《フミオヘルアヤシキカメ》は、いみじき瑞祥《シルシノモノ》にして、異國の(253)禹王といひしが時に、龜負(テ)v圖(ヲ)出2洛水(ニ)1、といふ事有などを、思ひよせたるなるべし、近くは天智天皇九年六月にも、神龍の出しこと、書紀に見えたり、今よりは我(カ)御國は常《トコ》とはにして、不v變めでたき常世(ノ)國と成なむ、その瑞祥《シルシ》に負(ル)v圖神(キ)龜も、新代とて出(ツ)といふ意にいひかけたり、○新代登《アラタヨト》(代(ノ)字、類聚抄に伐に誤れり、)は、新代とてなり、新代とは新京に御代しろしめすをいふ、克木田氏、新代の字をアタラヨ〔四字右○〕とよめるは非なり、新は阿良多《アラタ》にて、阿多良《アタラ》は惜の意、後(ノ)世混じて、新をも、惜をも阿多良《アタラ》といふことにはなれるなり、廿(ノ)卷の年月波安良多安良多《トシツキハアラタアラタ》の歌も、舊本に安多良安多良《アタラアタラ》とあるは誤にて、古本には皆|安良多安良多《フラタアラタ》とあり、又|新年乃波自米《アタラシキトシノハジメ》といふ歌も、古葉類聚抄にはアラタシキ〔五字右○]とよめりと云り、實に然(ル)事なり、廿(ノ)卷なる歌は、六帖にも安良多安良多《アラタアラタ》とあり、又十二に、新夜(ノ)一夜不落《ヒトヨモオチズ》とありて、其(ノ)下に、荒田麻之|全夜毛不落《ヒトヨモオチズ》とある麻は、夜(ノ)字の誤寫にて、アラタヨノ〔五字右○]なり、(アラタマノ〔五字右○]にては解べきすべなし、又集中にあらたまてふ言は甚多かれど、タマ〔二字右○〕を田麻と書る所一所だになし、且《マタ》音訓連(ネ)用(ヒ)て假字とせることも、むげになしとにはあらねど、其は大要用ひなれたる字あれば、かうやうに書べしとも思はれず、しかるを昔より、字の誤なることをしれる人、一人だになくして、荒田麻之全夜《アラタマノヒトヨ》とは、一年の間の、毎夜といふ意と心得來れるは、あらぬことにこそありけれ、)此(レ)にていよいよ新を阿良多《アラタ》といひしこと徴《イチジル》し、その餘古(キ)書に、新をアタラ〔三字右○〕といへることかつてなし、(古今(254)集大歌所御歌に、安多良《アタラ》しき年の始にとあれば、彼(ノ)頃よりぞ混ひつらむ、又後撰集に、春雨の世に舊にける心にも猶|安多良《アタラ》しく花をこそ思へ、拾遺集に、安多良《アタラ》しと何し命を思ひけむ忘れば舊く成ぬべき身を、などあるは、惜と新と二義を兼てさへ云り、)登は登?《チテ》の登《ト》なり、さて我國者といふより、これまで五句は、上に云る如く、泉の序にて出《イヅ》とつゞく意なり、○泉乃河《イヅミノカハ》は、山城(ノ)國相樂(ノ)郡にあり、今の木津川なり、○持越流《モチコセル》は、宇遲川より上りて、陸路を泉川まで持越て、さて又流すなり、本居氏、こは今の世の心を以て思へば、宇遲川より直に下すべき事なるに、泉川へ持越て下せるは、いかなるよしにか、古(ヘ)は然爲べき故有けむと云り、○眞木乃都麻手乎《マキノツマテヲ》、(手(ノ)字、類聚抄に木とありて、ツマキ〔三字右○〕とよめれど、上にも嬬手とあれば手なり、)上に眞木佐苦檜乃嬬手乎《マキサクヒノツマテヲ》と、精《クハシ》くいひたるにゆづりて、こゝは眞木乃都麻手と簡《ツゾ》めて云り、○百不足《モヽタラズ》は、五十《イ》の枕詞なり、十三に。百不足五十槻枝丹《モヽタラズイツキガエダニ》ともあり、此等は百に足(ラ)ぬ五十《イ》とつゞきたるな、不足を多羅奴《タラヌ》といはずて、多羅孺《タラズ》と云るは、歌ひ絶る枕詞の一(ノ)格なり、〇五十日太爾作《イカダニツクリ》、(爾(ノ)字、類聚抄になきはわろし、)五十日太は借(リ)字にて、桴筏《イカダ》なり、和名抄に、論語注(ニ)云、桴(ハ)編2竹木(ヲ)1、大(ナルヲ)曰v筏(ト)、小(ナルヲ)曰v桴(ト)、和名|以加太《イカダ》とあり、谷川氏(ノ)説に、以加太《イカダ》は烏賊手《イカデ》の義なるべしといへり、さることも有むか、○泝須良牟《ノボスラム》(泝(ノ)字、類聚抄に新に誤れり、)は、藤原の宮地より、おもひやりたるさまなり、本居氏(ノ)説に、海より紀の川へ入(レ)て、紀の川を泝すをいひて、さて巨勢路より、宮處に運(255)ぶまでを兼たり、さればこは、泉の河に持越る材を云々して、巨勢道より、吾(ガ)作日(ノ)御門爾泝すらむ、といふ語のつゞきにて、御門爾の爾と、巨勢道從の從とを、此(ノ)泝すらむにて結びたるものなり、辭《テニヲハ》のはこびを熟《ヨ》く尋(ネ)得てさとるべし、なほざりに見ばまがひぬべし、さて良牟《ラム》と疑ひたるは、此(ノ)作者は、宮造の地に在てよめるよしなれば、はじめ田上山より伐(リ)出せるより、巨勢道を運ぶまでは、皆よその事にて見ざる事なればなりと云り、○伊蘇波久見者《イソハクミレバ》は、御民どもの、勞《イタヅ》き動《イソ》はくやうを見ればといふなり、敏達天皇(ノ)紀に、勤をイソシキ〔四字右○〕と訓り、同言なり、本居氏、伊蘇波久見者《イソハクミレパ》とは、宮地へはこび來るを、目(ノ)前に見たるをいへり、上の良牟と、この見者とを相照して心得べし、さて難波(ノ)海に出し、紀の川をのぼすといふ事は見えざれども、巨勢道よりといへるにて、然聞えたり、巨勢道は、紀(ノ)國にゆきかふ道なればなり、又筏に造り泝すらむといへるにても、かの川をさかのぼらせたることしるし、然らざれば此(ノ)言聞えず、大かたそのかみ、近江山城などより伐(リ)出す材を、倭へのぼすには、必(ス)件のごとく、難波(ノ)海より紀の川に入(リ)て泝すが、定まれる事なりし故に其(ノ)事はいはでも、然聞えしなりけりと云り、○神隨爾有之《カムナガラナラシ》は、神隨にて有らしといふなり、神隨は即(チ)此上にも出たり、神にておはしますまゝといふ意なり、良之《ラシ》はさだかにしかりとは知(ラ)れねど、十に七八は、それならむとおぼゆるをいふ詞なり、(俗にそうなといふにあたれり、)臣民どもの家忘れ身もたな知ず宮造(リ)にかく勤《イソシ》み(256)仕(ヘ)奉るさまを見れば、げにも我(カ)天皇命は神にておはしますまゝに、百姓はいふもさらなり、天(ツ)神地(ツ)祇までも、相うづなひ助(ケ)奉りて、かやうに有らしとなり、○歌(ノ)意は、藤原の地に大宮つくりて、天(ノ)下をしろしめさむと、天皇命のおもほしめすにつれて、やがてその宮材を、近江(ノ)國田上山にて、良材をえちびて伐(リ)出し、其を山城(ノ)國宇治川に流し下し、川より取(リ)上て陸路を運び、泉川に持越て、さて筏に作りて、その川より難波(ノ)海に出し、海より又紀の川を泝せて其を巨勢の道より、吾(カ)造りつかへ奉る、藤原の宮地へ運び來つゝ、かくまで臣民の勞を忘れて、晝夜やすむ事なく、いそしみつかへ奉るを見れば、げにも我(カ)皇天皇命は、即(チ)神にておはしますまゝに、天(ツ)神地(ツ)祇までも、相うづなひ、助(ケ)奉りて、かやうに有らしとなり、そも/\此(ノ)歌巧のことに深切《フカ》く、句法のいとも奇妙《タヘナル》など、人麻呂(ノ)朝臣の長歌の口風《クチツキ》に、をさ/\立おくれたるすぢなきをおもへば、役民の意に擬へて、さばかり上手の作るなるべし、さてこそ詞のつゞきの、こよなくまぎらはしく、きこゆるふしの多かるを、よく閲玩《アヂハフ》れば、意味明白にして、まぎるるすぢなく、いともすぐれてめでたき歌になむ有ける、
〔右日本紀(ニ)曰(ク)。朱鳥七年癸巳秋八月。幸(ス)2ニ藤原(ノ)宮地(ニ)1。六年甲午春正月。幸(ス)2藤原(ノ)宮(ニ)1。十二月冬庚戌朔乙卯。遷(リ)2居(ス)藤原(ノ)宮(ニ)1。〕
朱鳥七年とあるは誤なり、持統天皇七年とあるべし、委くは上に書紀を引る如し、
 
(257)從《ヨリ》2明日香宮《アスカノミヤ》1。遷2居《ウツリマシヽ》藤原宮《フヂハラノミヤニ》1之後《ノチ》。志貴皇子御作歌《シキノミコノヨミマセルミウタ》。
 
從2明日香(ノ)宮1云々の事は、前に出たるが如し、明日香は既《ハヤ》く一(ノ)上に出たり、なほ左の歌の下に委(ク)云、○遷居とは、此(ノ)皇子の遷り坐しをさして云、○志貴(ノ)皇子は、天智天皇の皇子、光仁天皇の大御父なり、天智天皇(ノ)紀に、七年二月云々、又有2道(ノ)君伊羅都賣1、生2施基(ノ)皇子(ヲ)1、天武天皇(ノ)紀に、朱鳥元年八月己巳朔癸未、芝基皇子、磯城皇子、各加2封二百戸(ヲ)1、持統天皇(ノ)紀に、三年六月壬午朔癸未、以2皇子施基云々等(ヲ)1、拜d撰2善言1司(ニ)u、續紀に、大寶三年九月辛卯、賜2四品志紀(ノ)親王(ニ)近江(ノ)國鐵穴(ヲ)1、慶雲元年正月丁酉、四品志紀(ノ)親王(ニ)益2封一百戸(ヲ)1、和銅元年正月乙巳、授2四品志貴(ノ)親王(ニ)》三品(ヲ)1、七年正月壬戌、益2封二百戸(ヲ)1、靈龜元年正月癸巳、授2三品志紀(ノ)親王(ニ)二品(ヲ)1、二年八月甲寅、二品志貴(ノ)親王薨(シタマフ)、親王天智天皇(ノ)第七之皇子也、寶龜元年、追尊稱d御2春日(ノ)宮(ニ)1天皇(ト)uと見ゆ、また二年五月甲寅、始設2田原(ノ)天皇(ノ)八月九日(ノ)忌斎(ヲ)於川原寺(ニ)1とも見えて、施基芝基志貴志紀など通(ハシ)書り、諸陵式に、田原(ノ)西陵、(春日(ノ)宮御宇天皇、在2大和(ノ)國添上(ノ)郡(ニ)1、兆域東西九町南北九町、守戸五烟、)とあり、
 
51 ※[女+采]女乃《ヲトメノ》。袖吹反《ソデフキカヘス》。明日香風《アスカカゼ》。京都乎遠見《ミヤコヲトホミ》。無用爾布久《イタヅラニフク》。
 
※[女+采]女は、※[女+采](ノ)字、(拾穗本に※[女+謠の旁]とあるはいかゞなり、)媛の寫誤か、古事記に、雄略天皇の幸2行(セル)乎春日1之時、媛女《ヲトメ》逢(リ)v道(ニ)、即(チ)見(テ)2幸行(ヲ)1而、逃2隱(リキ)岡邊(ニ)1、故(レ)作2御歌1曰、袁登賣能伊加久流袁加袁《ヲトメノイカクルヲカヲ》云々とあり、さらばヲトメ〔三字右○〕と訓べし、五(ノ)卷に、松浦(ノ)仙媛、六(ノ)卷に、蓬莱(ノ)仙媛など見えたり、字鏡に、媛(ハ)美女(ヲ)爲v媛(ト)、※[女+單]媛(ハ)(258)美麗之貌、爾保布《ニホフ》、又|字留和志《ウルハシ》などあり、又タワヤメ〔四字右○〕と訓ても然るべし、又一説には、※[女+委](ノ)字の寫誤なるべしといへり、(※[女+委]は、字書に弱好(ノ)貌とあり、)○袖吹反《ソデフキカヘス》は、袖を吹うら反すをいふ、袖は衣手《ソテ》なり、さて集中に、蘇田《ソデ》蘇泥《ソデ》蘇※[泥/土]《ソデ》など多く書たれば、泥《デ》を濁りても唱へしか、(今(ノ)世には、濁りてのみ唱ふれども、凡て古(ヘ)清し言を、後に濁りて唱ふること多ければ、證にはなりがたし、)然れども、提?等の字をも多く書たれば、兩《フタツナガラ》用《モチヒ》し言なるべし、さて此(ノ)一句は、袖を吹(キ)翻《カヘ》せしといふ意にきくべし、これ過去《スギニ》しことを、現在《イマ》の詞にて云る一(ツ)の格にて、七(ノ)卷に、音聞目者未見吉野河六田之與杼乎今日見鶴鴨《オトニキヽメニハイマダミヌヨシヌガハムツタノヨドヲケフミツルカモ》とあるも未(タ)見ざりしといふ意にきくと、同(シ)例なり、なほ此類をり/\あり、○明日香風《アスカカゼ》は、伊可保風《イカホカゼ》、佐保風《サホカゼ》などの類にて、其所《ソコ》に吹(ク)風をいふ、明日香《アスカ》は既《ハヤ》く一(ノ)上に明日香(ノ)川原(ノ)宮とあり、神名帳に、大和(ノ)國高市(ノ)郡飛鳥(ニ)座(ス)神社、飛鳥(ノ)山口(ニ)座(ス)神社、飛鳥(ノ)川上(ニ)座(ス)神社などある地なり、允恭天皇の遠(ツ)飛鳥(ノ)宮、又顯宗天皇舒明天皇皇極天皇齊明天皇天武天皇などの都も、皆此(ノ)地なり、名(ノ)義は、古事記履中天里(ノ)條に、水齒別(ノ)命云々、故率(テ)2曾婆※[言+可]理(ヲ)1、上2幸於倭(ニ)1之時、到2大坂(ノ)山口(ニ)1、云々、乃|明日《アス》上(リ)幸(ス)、故號2其地1謂2近(ツ)飛鳥(ト)1也、上2到于倭(ニ)1、詔之、今日(ハ)留2此間(ニ)1、爲2祓禊1而、明日《アス》參出(テ)、將v拜2神(ノ)宮(ヲ)1、故(レ)號2其地1謂2遠(ツ)飛鳥(ト)1也、と見えたり、○京都乎遠見《ミヤコヲトホミ》は、京都が遠さにといはむがごとし、○無用爾布久《イタヅヲニフク》は、その益《シルシ》なきをいふ、無用は、十五、十七に、伊多豆良《イタヅラ》と假字書あり、無用の字は、義を得て書るにて、集中に、不通《ヨドム》不明《オボヽシク》などある類なるべし、○御歌(ノ)意は、(259)盛なりし明日香(ノ)宮も故京となりて、京都が遠さに、美女《ヲトメ》の衣手吹翻せし風も、今はいたづらにのみ吹て其(ノ)益なきよと歎(キ)賜へり、
 
藤原宮御井歌《フヂハラノミヤノミヰノウタ》。
 
御井は、今も香山の西北に清水ありと云り、其ならむ歟、
 
52 八隅知之《ヤスミシヽ》。和期大王《ワゴオホキミ》。高照《タカヒカル》。日之皇子《ヒノミコ》。麁妙乃《アラタヘノ》。藤井我原爾《フヂヰガハラニ》。大御門《オホミカド》。始賜而《ハジメタマヒテ》。埴安乃《ハニヤスノ》。堤上爾《ツヽミノウヘニ》。在立之《アリタヽシ》。見之賜者《メシタマヘバ》。日本乃《ヤマトノ》。青香具山者《アヲカグヤマハ》。日經乃《ヒノタテノ》。大御門爾《オホミカドニ》。青山跡《アヲヤマト》。之美佐備立有《シミサビタテリ》。畝火乃《ウネビノ》。此美豆山者《コノミヅヤマハ》。日緯能《ヒノヨコノ》。大御門爾《オホミカドニ》。彌豆山跡《ミヅヤマト》。山佐備伊座《ヤマサビイマス》。耳高之《ミヽナシノ》。青菅山者《アヲスガヤマハ》。背友乃《ソトモノ》。大御門爾《オホミカドニ》。宜名倍《ヨロシナベ》。神佐備立有《カムサビタテリ》。名細《ナグハシ》。吉野乃山者《ヨシヌノヤマハ》。影友乃《カゲトモノ》。大御門從《オホミカドヨ》。雲居爾曾《クモヰニソ》。遠久有家留《トホクアリケル》。高知也《タカシルヤ》。天之御蔭《アメノミカゲ》。天知也《アメシルヤ》。日御影乃《ヒノミカゲノ》。水許曾波《ミヅコソハ》。常爾有米《トキハニアラメ》。御井之清水《ミヰノマシミヅ》。
 
和期大王《ワゴオホキミ》は、集中に多くかくいへり、本居氏、和期《ワゴ》は即(チ)我《ワガ》にて、下の大へつゞく故、おのづから和期と云(ハ)るゝなり、さればたゞに、我を和期といふことなしといへり、○日之皇子《ヒノミコ》、類聚抄に、日の下に知(ノ)字ありて、ヒシリノミコ〔六字右○]と訓るはいかゞ、○麁妙乃《アラタヘノ》(麁字、拾穗本に※[鹿三つ]と作り、玉篇に、麁踈也本作v※[鹿三つ](ニ)とあり、)は、藤の枕詞なり、上に出(ツ)、○藤井我原《フヂヰガハラ》は、藤原なる地(ノ)名なり、即(チ)御井ある故に、かく名を負るなるべし、○大御門《オホミカド》、かくいひて、即(チ)大御宮殿《オホミヤ》のことゝきこゆる、古語の(260)つねなり、○埴安乃堤上爾《ハニヤスノツヽミノウヘニ》(埴(ノ)字、類聚抄に填とあるはわろし、)は、香山の足長く、池の東北に廻(リ)て有し故、それに引つゞきて、西の方に堤の有しなるべし、二(ノ)卷に、埴安乃池之堤之隱沼乃《ハニヤスノイケノツヽミノコモリヌノ》云云とあり、神武天皇(ノ)紀に、前年《イニシトシ》秋九月、潜(ニ)取(テ)2天(ノ)香山之|埴土《ハニヲ》1、以造(リ)2八十平※[分/瓦]《ヤソヒラカヲ》1、躬自|齋戒《ユマハリ》祭(リタマヒ)2諸神《カミタチ》1、遂(ニ)得2安定《シヅメタマヘルガ》區宇《アメノシタヲ》1故(ニ)、號(テ)2取(リシ)v土(ヲ)之處1曰2埴安《ハニヤスト》1と見えて、埴安は、埴黏《ハニネヤス》といふ意より負たる名なりと云り、字鏡に、挺(ハ)謂v作2泥物1也、禰也須《ネヤス》とあり、(安を、書紀の安定の文へあてゝ見るは、古(ヘ)の義にたがへり、)○在立之《アリタヽシ》は、在は在通《アリカヨフ》年待《アリマツ》などある在《アリ》と同じく、在々て絶ざるをいふ詞なり、(古事記傳(ニ)云、然而在《サテアル》、然而《サテ》不v被v在、云々|而在《テアリ》などゝ常に云言なれども、在通(フ)在待(ツ)などゝ上に置ことは、後(ノ)世の語に無(キ)故に耳遠く聞ゆめり、)立之《タヽシ》は立の伸りたるなり、(タシ〔二字右○〕の切チ〔右○〕となる、)立給ひと云むが如し、こは往《ユキ》をユカシ〔三字右○〕、遊《アソビ》をアソバシ〔四字右○〕などいふ類にて、尊稱詞《タフトミイフコト》なり、既く云り、○見之賜者《メシタマヘバ》は、見之《メシ》とは志呂斯賣須《シロシメス》の賣須《メス》と同語にて、見を尊(ミ)稱(フ)詞なり、これも即(チ)立をタヽシ〔三字右○〕といふと同格の言なり、(メシ〔二字右○〕はミ〔右○〕と切る、)此(ノ)上にも云り、六(ノ)卷に、我大王之見給芳野宮者《ワガオホキミノメシタマフヨシヌノミヤハ》、十九に、見賜明米多麻比《メシタマヒアキラメタマヒ》、又|見之明良牟流《メシアキラムル》などあり、(これらの見之《メシ》をミシ〔二字右○〕とよめれど、然訓ては見之《ミシ》の之《シ》の言、いはゆる過去(ノ)辭となれば、語とゝのはず、古事記傳にも、賣之《メシ》は美之《ミシ》を通はし云るよし云るは、甚誤なり、立をタチシ〔三字右○〕といふときは、シ〔右○〕の言過去(ノ)辭となると同じきを、思ひ合すべし、)猶|賣之《メシ》と云る例をいはゞ、上に食國乎賣之賜牟登《ヲスクニヲメシタマハムト》、二(ノ)卷に、暮去者召賜良之《ユフサレバメシタマフラシ》云々、明日毛鴨召賜萬旨《アスモカモメシタマハマシ》、(261)六卷廿(ノ)卷に、於保吉美能賣之思野邊爾波《オホキミノメシシヌヘニハ》、十八に、余思努乃美夜乎安里我欲比賣須《ヨシヌノミヤヲアリガヨヒメスメ》、廿(ノ)卷に、賣之多麻比安伎良米多麻比《メシタマヒアキラメタマヒ》、又|可久之許曾賣之安伎良米晩《カクシコソメシアキラメヽ》、又|於保吉美能都藝弖賣須良之《オホキミノツギテメスラシ》などあり、(又集中に、所聞見爲《キコシメス》とあるを、假字書には伎古之米須《キコシメス》と見え、又祝詞式に、所知看、古語(ニ)云|志呂志女須《シロシメス》などありて、凡て如此樣の見之《メシ》見須《メス》を、美之《メシ》美須《ミス》と云ること、假字書にをさをさ例なきことなり、唯|昔見之《ムカシミシ》などいふ類に、過去し時の事にのみミシ〔二字右○〕とは云り、)○日本乃《ヤマトノ》、こは借(リ)字にて大和之なり、此下に、幸2吉野(ノ)宮(ニ)1時に、倭爾者鳴而歟來良武《ヤマトニハナキテカクラム》とよめるは、藤原(ノ)宮邊《ミヤノアタリ》を倭と云りと聞えたり、然れば香山をもしかいへる事知べし、○青香具山《アヲカグヤマ》は青とは木繁く榮えて、蒼々《アヲ/\》としたるをいふ、○日經乃《ヒノタテノ》は、成務天皇(ノ)紀に隨《マニ/\》2阡陌《タヽサノミチヨコサノミチノ》1以定2邑里1、因以2東西1爲2日縦《ヒノタヽシト》1、南北(ヲ)爲2日横《ヒノヨコシト》1、山(ノ)陽《ミナミヲ》曰2影面《カゲトモ》1、山(ノ)陰《キタヲ》曰2背面《ソトモト》1といへり、(説文に、路(ノ)東西(ヲ)爲v陌(ト)、南北(ヲ)爲v阡(ト)あるにつきて、タヽサノミチ〔六字右○〕を南北、ヨコサノミチ〔六字右○〕を東西と思ふことなかれ、彼(ノ)國にては南北を天地の經《タテ》とし、束西を天地の緯《ヨコ》とせれど、吾(カ)古(ヘ)はこれに異なれば、阡は横《ヨコサノ》道にあたり、陌は竪《タヽサノ》道にあたれども、阡陌と書るをタヽサノミチ〔六字右○〕、ヨコサノミチ〔六字右○〕と訓るは、山海と書てウミヤマ〔四字右○〕、晝夜と書てヨルヒル〔四字右○〕と訓ると同(シ)理とおもへ、)本朝月令に、高橋(ノ)氏文(ニ)云、云々|日竪《ヒノタテ》日横《ヒノヨコ》、陰面背面乃諸國人乎《クカゲトモソトモノニグニノヒトヲ》云々、(和名抄に、唐韻(ニ)云、道路、南北(ヲ)曰v阡(ト)、東西(ヲ)曰v陌(ト)云々とありて、私記を引て、阡を多知之乃美知《タチシノミチ》、陌を奧古之乃美知《ヨコシノミチ》と注せり、これ彼(ノ)國のさだめにはよくかなひたれど、吾(ガ)古(ヘ)に異(262)れり、東西を多知之乃美知《タチシノミチ》、南北を與古之乃美知《ヨコシノミチ》とこそいふべけれ、ゆめ此(レ)等の書によりて混ふことなかれ、さてこゝは、香山は、東の御門に向へる故に、かく云り、)○青山跡《アヲヤマト》、(舊本青を春に、跡を路に誤れり、又類聚抄に、山の上に日(ノ)字あるはいよ/\わろし、)本居氏、舊本春山とあるは、青山の誤なるべし、此(ノ)歌すべての詞どもを思ふに、分て春といはむこといかゞ、其(ノ)うへ畝火乃此美豆山者彌豆山跡《ウネビノコノミヅヤマハミヅヤマト》と云るに對へても、青香具山者青山跡《アヲカグヤマハアヲヤマト》、と有べき物なりと云り、實に然ることぞかし、故(レ)今は此(ノ)考によりて改めつ、跡は眞恒校本に古本跡とあるによりつ、○之美佐備立有《シミサビタテリ》とは、之美《シミ》は繁榮《シケミ》なり、佐備《サビ》は神佐備《カムサビ》の佐備に同じ、○此美豆山《コノミヅヤマ》は、美豆は賛辭《ホメコトバ》とて美豆枝《ミヅエ》、美豆垣《ミヅカキ》などの美豆と同じ語にて稚々《ミヅ/\》とうるはしきよしなり、○日緯能は、ヒノヨコノ〔五字右○〕と訓べし、そも/\香山は東(ノ)御門に向ひ、畝火山は西(ノ)御門に向ひ、吉野山は南(ノ)御門に向ひ、耳梨山は北(ノ)御門に向ひ立たれば、香山を日經《ヒノタテ》と云(ヒ)、吉野山を影面《カゲトモ》と云、耳梨山を背面《ソトモ》と云るはいつれも正しくあたれることなるを、畝火山も西(ノ)御門に向ひたれば、實はこれも日經《ヒノタテ》と云むぞ、正しくあたれる事なる、しかれども此(ノ)歌、日經《ヒノタテ》日緯《ヒノヨコ》山陽《カゲトモ》山陰《ソトモ》の四(ツ)をいひてしたてたるに、ひとり日緯《ヒノヨコ》をいひもらすべきにあらざれば日緯《ヒノヨコ》の言を西(ノ)御門にやとひたるものなり、かくては事の實にたがひたることなれど、歌は詞を主とするものなれば、強(チ)に拘るべきには非ず、しかるを此(ノ)理をしらでうたがふは、中々に古(ヘ)の歌詞の、理にのみ泥まざり(263)しことをしらざるが所以《ユエ》なり、(本居氏の畝火山は西(ノ)御門に當るべけれど、西面ながら、少しは南の方によれる山なれば、かくいへるよし云たるは、なほ理に泥める論なり、たとひ山は南の方によれりとも、西(ノ)門をいへる歌なれば、實には日(ノ)緯とはいはるまじきことなるをや、)○山佐備伊座《ヤマサビイマス》は、即(チ)畝火山を尊みて、山さびおはしますと云るなり、三(ノ)卷には富士(ノ)山を尊みて、日本之山跡國乃鎭十方座神可聞《ヒノモトノヤマトノクニノシヅメトモイマスカミカモ》とよめり、○耳無之《ミヽナシノ》、無(ノ)字、舊本高と作るは誤なり、十六に、無耳之池《ミヽナシノイケ》とあるに從て今改つ、○青菅山《アヲスガヤマ》は、別にしかいふ山(ノ)名には非ず、青は青香具山《アヲカクヤマ》の青と同じ、本居氏、菅は借(リ)字にて、清々《スガ/\》しき意にて、青清《アヲスガ》山といふなるべしといへり、○背友乃《ソトモノ》は、友は借(リ)字にて、背津面之《ソツオモノ》なり、(ツオ〔二字右○〕》の切ト〔右○〕となれり、)上に、成務天皇(ノ)紀を引る如く、山(ノ)陰《キタ》を背面といふ、耳無は北の御門に當ればかく云り、○宜名倍《ヨロシナベ》は、宜並《ヨロシナベ》にて宜しく滿足《タリトヽノヒ》たる意なり、三(ノ)卷六(ノ)卷十八(ノ)卷などにも見えたり○神佐備立有《カムサビタテリ》は、耳梨山をいへるなり、神佐備《カムサビ》は既く云り、○名細《ナグハシ》は、二(ノ)卷に、名細之狹岑之島之《ナグハシサミネノシマノ》、三(ノ)卷に、名細寸稻見乃海之《ナグハシキイナミノウミノ》などあり、此は、名の細《クハ》しく人(ノ)耳に觸たる由にて、地の名高きをいふならむ、細は、勇細《イスクハシ》花細《ハナグハシ》香細《カグハシ》心細《ウラグハシ》目細《マグハシ》などの細《クハシ》に同じ、倭姫世記大比古(ノ)命(ノ)詞に、奈其波志忍山《ナゴハシオシヤマ》と有も同意なるべし、○影友之《カゲトモノ》は、これも友は借(リ)字にて、影津南之《カゲツオモノ》なり、右に云り、○大御門從《オホミカドヨ》云々(從(ノ)字、拾穗本に徒と作るは誤なり、)は、南の御門にあたりて、遠く雲居に見放らるゝは吉野山なり、其(ノ)外にもあれども、專らなるをもて云るの(264)み、○高知也《タカシルサ》は、高く知ます天といふ意につゞけたり、天は高く知よしにてかくいへり、也《ヤ》は、のどめたる時におく助辭なり、○天之御蔭《アメノミカゲ》は、日之御影といはむがごとし、○天知也《アメシルヤ》は、天を知ます日といふ意につゞけたり、この也《ヤ》も上に同じき助辭なり、○日之御影乃《ヒノミカゲノ》云々(之字、舊本になきはわろし、天之御蔭ともあればなり、今は類聚抄に從つ、)は、天津日の御蔭の映照《ウツロ》ふ清水のよしなり、御影といふに、やがてうつろふ意はこもれり、十三に、天雲之影塞所見隱來笑長谷之河者《アマクモノカゲサヘミユルコモリクノハツセノカハハ》云々、とあるを併(セ)考(フ)べし、さてこゝは必竟《ムネ》とは、唯日の御影のうつろふよしなるを、高知也云々の四句をもて文なしたり、ことは異なれども、延喜式祝詞に、皇御孫命乃《スメミマノミコトノ》、瑞能御舍乎仕奉?《ミヅノミアラカヲツカヘマツリテ》、天御蔭日御蔭登隱坐?《アメノミカゲヒノミカゲトカクリマシテ》云々とあり、(こは日影を覆ひて隱坐よしにて、此(ノ)歌とは意|異《タガ》へり、されど唯日(ノ)御蔭を、かく文にいひなしたる語味は、同じことぞかし、)一説に、高知也云々の四句は、正しく云ば、此(ノ)天皇の天の御蔭日の御蔭と隱坐(ス)、此(ノ)美豆《ミヅ》の御舍《ミアラカ》の水こそはといふべきを、推古天皇(ノ)紀蘇我大臣(ノ)歌、并祝詞などの古言をいひなれて、唯|天之御蔭日之御《アメノミカゲヒノミカゲ》とのみ云て、やがて御舍のことゝはなしたるなり、祝詞式の中にも、遷2却祟神1祭(ノ)詞には、天之御蔭日之御蔭止仕奉弖《アメノミカゲヒノミカゲトツカヘマツリテ》と云を、句を隔て下に御舍の事をいひ、鎭2御魂1齋戸(ノ)祭(ノ)祝詞には、こゝと同じく、天之御蔭日之御蔭《アメノミカゲヒノミカゲ》とのみ云て、御舍の事をば略けるをも思ふべし、さて高知也《タカシルヤ》、天知也《アメシルヤ》てふ言をもて文なしたるも、彼(ノ)高天原爾千木高知弖《タカマノハラニチギタカシリテ》、天之御蔭日之御蔭止《アメノミカゲヒノミカゲト》云々、と(265)ある古語によるにたゞに、高く知ます天、天を知ます日とのみいへるにはあらで、御あらかの高知ます事をいへるなりと云り、○水許曾波《ミヅコソハ》、波(ノ)字類聚抄拾穗本等に、婆とあるはわろし○常磐爾有米《トキハニアラメ》、(磐(ノ)字、舊本に脱たるを、今は仙覺注本によりつ、但し彼(ノ)本には盤と作れど、磐なりしこと決ければ今は改て書つ、)常磐《トキハ》は、磐石《イハ》の常に不v變とこしへなるを、常磐《トコイハ》といふより出たる言にて、(等許伊波《トコイハ》を約めて等伎波《トキハ》といふ許伊《コイ》の切|伎《キ》なり、)何にても常に變らず、とこしなへなるを云り、さてかく眞清水こそ、常磐にあらめと云て、やがて此(ノ)の大宮の、長久《トコシヘ》に在なむことを祝《ホギ》たり、○御井之清水、常の例によりて、眞の言をそへてミヰノマシミヅ〔七字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、藤原の地に大宮仕へ奉りて、埴安の堤のうへに絶ず幸して、四方を見はるかさせ給ふに、近くは御門ごとに、めでたき山々立なちび、遠くは吉野山の絶景《ヒデタルトコロ》の、雲居遙に見えて、世にことに似なう、すぐれたるさへ有に、御井の眞清水又たぐひなく、きよらにして、天津日の御影の映照《ウツロ》ふさま、たとへむ方なく、めでたしともめでたし、かく山にも水にも、よろしく打あひたりとゝのひて、何ひとつあかぬところなき大宮地なれば、この眞清水のかはることなく、とこしなへなるがごとく、さてこそ此(ノ)大宮殿も、今よりして萬代に、とみさかえ行めとなり、始(メ)には、持統天皇の藤原に大宮をはじめ給ふことをいひ、中には、この天皇常々埴安の堤に幸上て、四方を見はるかさせ給ふに、山なみのよろしく、世に勝れたる地なるよしを(266)いひ、終には、御井の眞清水のたぐひなく、きよらなるよしをたゝへて、さて大宮地の、萬代にとみさかえむことを祝たり、此は御井の邊に、持統天皇の幸し時、大御供つかへ奉れる人のよめるなるべし、
 
短歌《ミジカウタ》
 
短(ノ)字、拾穗本には反と作り、
 
53 藤原之《フヂハラノ》。大宮都加倍《オホミヤツカヘ》。安禮衝哉《アレツクヤ》。處女之友者《ヲトメガトモハ》。乏吉呂賀聞《トモシキロカモ》。
 
大宮都加倍《オホミヤツカヘ》、(倍(ノ)字を書たるは正しからず、)都加閇《ツカヘ》と、清(ム)例なり、(宮仕は宮女の給仕することゝ解來れども非なり、)宮を造り奉(ル)をいふ古語の例なり、(今(ノ)世にも貴人の爲に、何にても物するを、ツカマツル〔五字右○〕と云も同じことなり、)宮造(リ)を宮仕《ミヤツカヘ》と云る例は、六(ノ)卷に、田跡河之瀧乎清美香從古宮仕兼多藝乃野上爾《タドカハノタギヲキヨミカイニシヘヨミヤツカヘケムタギノヌノヘニ》、十三に、山邊乃五十師乃原爾内日刺大宮都可倍朝日奈須目細毛暮日奈須《ヤマヘノイシノハラニウチヒサスオホミヤツカヘアサヒサスマグハシモユフヒナス》、浦細毛《ウラグハシモ》云々、又|津禮毛無城上宮爾大殿乎都可倍奉而殿隱隱在者《ツレモナキキノヘノミヤニオホトノヲツカヘマツリテトノゴモリコモリイマセバ》、十九に、天地與相左可延牟等大宮乎都可倍《アメツチトアヒサカエムトオホミヤヲツカヘ》麻都禮婆貴久宇《マツレバタフトクウ》禮之伎《レシキ》、(これら大殿乎云々、大宮乎云々、とあるにても、いよ/\造り奉る義なること明らけし、)祈年祭(ノ)祝詞に、皇御孫命能瑞能御舍仕奉?《スメミマノミコトノミヅノミアラカツカヘマツリテ》云々、遷2奉太神(ノ)宮(ヲ)1祝詞に、廿年爾一遍比《ハタトセニヒトタビ》、大宮新仕奉?《オホミヤアラタニツカヘマツリテ》云々など猶多し、皆同じことなり、○安禮衝哉《アレツクヤ》(哉《(ノ)》字、類聚抄には也と作り、)は安禮衝《フレツク》は、衝は借(リ)字にて、顯齋《アレツク》なるべし、顯《アレ》は顯露事《アラハニコト》現人神《アラヒトカミ》(267)などの顯現《アラ》と同言なるべし、齋《ツク》とは、神功皇后(ノ)紀に、撞賢木嚴之御魂《ツキサカキイヅノミタマ》、古事記雄略天皇(ノ)條(ノ)歌に、美母呂爾都久夜多麻加伎都岐阿麻斯《ミモロニツクヤタマカキツキアマシ》、(齋哉玉垣齋餘《ツクヤタマカキツキアマシ》なり、)集中七(ノ)卷に、三諸就三輪山《ミモロツクミワヤマ》、六(ノ)卷に三諸著鹿背山《ミモロツクカセヤマ》などある都久《ツク》にて敬齋《ヰヤマヒキヨマハリ》て奉仕《ツカヘマツ》ることなり、さて朝廷に奉仕《ツカフル》をば、顯露事《アラハニゴト》につきて顯齋《アレツク》と云、神祇《カミ》に奉仕《ツカフ》るをば、幽事《カムコト》につきて忌齋《イツク》とはいへるなるべし、伊都久《イツク》は即(チ)忌齋《イミツク》なり、幽事《カムコト》につきて忌齋《イツク》と云は、神祇にはことに、禁忌《モノイミ》を主として拜祭《マツル》ゆゑにいふなるべし、(神事ならでも、伊都久《イツク》と云ことのあるは、神に奉仕《ツカフ》るに擬《ナソラヘ》て敬ふをいふなるべし、)さて六(ノ)卷長歌に、八千年爾安禮衝之乍天下所知食跡《ヤチトセニアレツカシツヽアメノシタシロシメサムト》云々とあるも、百(ノ)官に令《シ》2顯齋《アレツカ》1乍《ツヽ》といへるにて、同言なり、(然るを、此(ノ)言を生繼《アレツグ》といふ意とするは、いみじきひがことなり、生繼と云こと、此(レ)等の歌に謂なし、さて集中借(リ)字には、清濁通(ハシ)用(ヒ)たる例もあれど、二處まで衝(ノ)字をかきたれば、久《ク》は清音にて、繼《ツグ》にはあらず、又本居氏は、類聚國史天長八年(ノ)條、三代實録貞觀十九年(ノ)條などに、賀茂(ノ)齋(ノ)内親王を、阿禮乎止賣《アレヲトメ》と申せる、その阿禮《アレ》は、奉仕《ツカヘマツ》る意なれば、此(ノ)歌の安禮衝《アレツク》は、奉仕りいつきまつる意なるべし、衝《ツク》は伊都久《イツク》の伊《イ》を省ける言なりといへり、按に、内藏寮式賀茂(ノ)祭の條に。下(ノ)社上(ノ)社松(ノ)尾(ノ)社、社別(ニ)阿禮(ノ)料(ノ)五色帛各六疋、盛2阿禮(ヲ)1料、筥八合云々、とある阿禮《アレ》は、貫之集に、阿禮引に引つれてこそ千早振賀茂の川浪立わたりけれ、とある其(レ)なるべし、又|御阿鹿《ミアレ》の注連《シメ》なども歌によめるは、その阿禮の帛を、注連にかくるならむ、又或書には、阿禮幡と云(268)ものも見えたり、又本朝月令に、秦氏本系帳を引て、松(ノ)尾(ノ)大神御社者云々、又田口(ノ)腹女秦(ノ)忌寸知麻留女、始立2御阿禮(ニ)1又高橋(ノ)氏文を引て、阿禮子孫といへることも見ゆ、これらは阿禮乎止賣《アレヲトメ》の阿禮ときこゆ、又歌に、御阿禮《ミアレ》山、御阿禮《ミアレ》野など云るも、賀茂の御生《ミアレ》祭につきていへることゝきこゆ、いづれもみな阿禮《アレ》は、賀茂社の事に云るのみにて、ひろく他の事のうへにいへりとおぼえざれば、今の歌の安禮と同意ならむこと、おぼつかなし、しかれどもこの安禮も、顯齋《アレツク》の安禮と、もと同意にてもあらむか、其は未(タ)詳ならず、なほ後に考(ヘ)得たらむほど、又もいふべし、かくて都久《ツク》は、伊都久《イツク》の伊を省けりと云ことは非なり、伊《イ》は忌《イミ》、都久《ツク》は齋《ツク》にて、もと二言を合せていへることなるをや、)かくてこの藤原の新宮にして持統天皇に奉仕《ツカヘマツ》る官女等を、顯齋《アレツク》や處女《ヲトメ》が徒《トモ》とはいへるなるべし、哉は高知也《タカシルヤ》、天知也《アメシルヤ》、天飛也《アマトブヤ》など云|也《ヤ》に同じく、のどめたる時におく助辭なり、○處女之友者《ヲトメガトモハ》(之(ノ)字、拾穗抄に、異本に乃とあるよし記せり、)は、官女のともがらはといふなり、○乏吉呂賀聞《トモシキロカモ》、(舊本に、乏を之に、呂を召に誤れり、類聚妙によりつ、)乏《トモシキ》はうらやましきなり、うらやましきを、古言に乏きといへる例は、此(ノ)下に、木人乏母《キヒトトモシモ》、三(ノ)卷に、武庫浦乎※[手偏+旁]轉小舟粟島矣背爾見乍乏小舟《ムコノウラコギタムヲブネアハシマヲソガヒニミツヽトモシキヲブネ》、四(ノ)卷に、家二四手雖見不飽乎草枕客毛妻與有之乏左《イヘニシテミトモアカジヲクサマクラタビニモツマトアルガトモシサ》、五卷に麻都良河波多麻斯麻能宇良爾和可由都流伊毛良遠美良牟比等能等母斯佐《マツラカハタマシマノウラニワカユツルイモラヲミラムヒトノトモシサ》、六(ノ)卷に、島隱吾※[手偏+旁]來者乏毳倭邊上眞熊野之船《シマガクリアガコギクレバトモシカモヤマトヘノボルマクマヌノフネ》、また、朝波海邊爾安在里爲暮去者倭部越雁四乏(269)母《アシタニハウミヘニアサリシユフサレバヤマトヘコユルカリシトモシモ》、七(ノ)卷に、足柄乃筥根飛超行鶴乃乏見者日本之所念《アシガラノハコネトビコエユクタヅノトモシキミレバヤマトシオモホユ》、また妹爾戀余越去者勢能山之妹爾不戀而有之乏左《イモニコヒアガコエユケバセノヤマノイモニコヒズテアルガトモシサ》、又|吾妹子爾吾戀行者芝雲並居鴨妹與勢能山《ワギモコニアガコヒユケバトモシクモナラビヲルカモイモトセノヤマ》、八(ノ)卷に、吉名張乃猪養山爾伏鹿之嬬呼音乎聞之登聞思佐《ヨナバリノヰカヒノヤマニフスシカノツマヨブコエヲキクガトモシサ》、十(ノ)卷に、久方之天漢原丹奴延鳥之裏歎座津乏諸手丹
《ヒサカタノアマノガハラニヌエトリノウラナゲマシツトモシキマデニ》、十五に、由布豆久欲可氣多知與里安比安麻能我波許具布奈妣等乎見流我等母之佐《ユフヅクヨカゲタチヨリアヒアマノガハコグフナビトヲミルガトモシサ》、十七に、夜麻扶枳能之氣美登※[田+比]久久?能許惠乎聞良牟伎美波登母之毛《ヤマブキノシゲミトビククウグヒスノコエヲキクラムキミハトモシモ》、また伊末太見奴比等爾母都氣牟於登能未毛名能未母伎吉底登母之夫流我禰《イマダミヌヒトニモツゲムオトノミモナノミモキヽテトモシブルガネ》、廿(ノ)卷に、佐伎母利爾由久波多我世登刀布比登乎美流我登毛之佐毛乃母比毛世受《サキモリニユクハタガセトトフヒトヲミルガトモシサモノモヒモセズ》、などあり、是なり、呂《ロ》は助辭なり、古語に例多し、(呂迦母《ロカモ》と云る例を云ば、三(ノ)卷に、悲呂可聞《カナシキロカモ》、五(ノ)卷に多布刀伎呂可※[人偏+舞]《タフトキロカモ》、古事記仁徳天皇(ノ)條に淤富伎美呂迦母《オホキミロカモ》、又|他賀多泥呂迦母《タガタネロカモ》、雄略天皇(ノ)條に、登母志伎呂加母《トモシキロカモ》、書紀仁徳天皇(ノ)卷に、箇辭古着呂箇茂《カシコキロカモ》などあり、)賀聞《カモ》は歎息の字なり、(賀(ノ)字を書るは正しからず、清て唱ふべきこと論なし、)○歌(ノ)意藤原(ノ)大宮殿新(ニ)造(リ)奉りて、さて顯齋《アレツ》き仕(ヘ)奉る宮女のともがらのうらやましきことかな、女の身ならば、さばかりめでたき大宮の内に、朝暮親くなれ仕(ヘ)奉るべきに、さることの叶はねば、猶あかずおもはるゝことゝなり、持統天皇は、女帝にておはしましゝかば、ことにみや女のたぐひは、親くつかへまつりしことおもふべし、(此(ノ)歌を岡部氏(ノ)考に、右の長歌の反歌ならずとして、右に短歌とあるをも削(リ)去て、さて云、是は別に端詞の有しが落たるか、又は亂れたる一本に、(270)短歌と有しを以て、この歌をみだりに、こゝに引付たるにも有べし、といへるはいかにそや、思ふに、こは右の長歌は御井(ノ)歌なるを、この短歌には御井の事をよまざれば、別歌とおもへるなるべし、端に御井(ノ)歌と題《カケ》るは、一首の大抵によりて、後にかけるものにこそあれ、主とはこの藤原(ノ)大宮處の、世に勝れたる地なるよしを賛奉り祝奉りて、さてその反歌に、かゝるめでたき大宮の内に、親くなれ仕(ヘ)奉る宮女のともがらをさへ、うらやみたる趣なれば、いかで右の反歌にあらずとはいはむ、おほかたに考ふべからず、讀者よくおもひ見よ
 
右歌《ミギノウタ》。作者未詳《ヨミヒトシラズ》。
 
太上天皇《オホキスメラミコトノ》。幸《イデマセル》2于|難波宮《ナニハノミヤニ》1時歌《トキノウタ》。
 
太上天皇は、持統天皇なり、書紀持統天皇十一年八月乙丑朔、天皇定(テ)2策(ヲ)禁中(ニ)1、禅(リタマヒキ)2天皇位《オホミクラヰヲ》於皇太子1とある、これよりして持統天皇を、太上天皇と稱奉《タヽヘマツ》れり、これ太上天皇の尊號《オホミナ》のはじまりなり、すべて太上天皇を、オホキスメラミコト〔九字右○〕と訓申せる、是(レ)然べし、その 大《オホキ》とは、祖《オヤ》なるかた兄《アニ》なる方をもいふ詞なり、祖な方に云るは、祖父を大父《オホチ》、祖母を大母《オホバ》、曾祖父を大大父《オホオホヂ》、曾祖母を大大母《オホオホバ》、祖父の兄弟を大小父《オホヲチ》、祖父の姉妹を大小母《オホヲバ》と云、又天皇命の御剋母の、后位に登《ノボ》りましゝを、大大御祖《オホオホミオヤ》と申す類、すべて祖なる方につきて大《オホキ》といひ、又兄なる方をも云るは、長子の三位已上なるを、大卿《オホマヘツキミ》、(少卿《オトマヘツキミ》に對へて云り、)又第一にあたる女を、大孃《オホイラツメ》、(二孃《オトイラツメ》(271)に、對へて云り、)又長子の妻を、大婦《オホヨメ》(季子の妻を、弟婦《オトヨメ》と云に對ひたり、)といふ類すべて兄なる方につきて大《オホ》と云るなり、故(レ)まことに、天皇命の大御父の天皇に大坐《オホマシ》ましゝをば、大《オホキ》と申す御稱を、冠らせ奉るべき理にぞありける、(但し中(ツ)世このかたは、おりゐのみかどゝ申せど、そは古稱にあらず、)○幸2于難波(ノ)宮1は、續紀に、文武天皇三年正月癸未、幸2難波宮(ニ)1、二月丁未、車駕至(リマス)自2難波(ノ)宮1、と見えたる、其(ノ)度に太上天皇も共に幸し給へるなるべし、もし續紀には、太上天皇の四字を脱せるものとする時は、此(ノ)集の如く、太上天皇のみの幸なるべし、○此題詞より、左の大伴乃《オホトモノ》云々、旅爾之而《タビニシテ》云々、大伴乃《オホトモノ》云々、草枕《クサマクラ》云々、又大寶元年云々、倭爾者《ヤマトニハ》云々、巨勢山乃《コセヤマノ》云云の六首(ノ)歌まで、必(ス)こゝに收《イル》べきを、舊本慶雲三年云々と題《シル》して、葦邊行《アシヘユク》云々、霞打《アラレウチ》云々の二首(ノ)歌をおきて、其(ノ)下に收たるは、錯亂《ミダレ》たるものなり、故(レ)今は正しつ、さるは此(ノ)太上天皇はおりゐまして六年、大寶二年の十二月に崩賜ひしを慶雲三年とあるより、下に載べきに非ざればなり、
 
66 大伴乃《オホトモノ》。高師能濱乃《タカシノハマノ》。松之根乎《マツガネヲ》。枕宿杼《マキテヌルヨハ》。家之所偲由《イヘシシヌハユ》。
 
大伴乃《オホトモノ》は、高師の枕詞なり、其(ノ)義次にいふべし、○高師能濱《タカシノハマ》は、垂仁天皇(ノ)紀に、高石《タカイシノ》池、持統天皇(ノ)紀に、河内(ノ)國大鳥(ノ)郡|高脚《タカシノ》海、神名帳に和泉(ノ)國大鳥(ノ)郡高石(ノ)神社、靈異記に和泉(ノ)國海中云々泊2于高脚(ノ)濱(ニ)1、今も高石《タカシ》村あり、(秋成云、高師の濱は、今高いしと里の名に呼り、其(ノ)わたり今は濱寺と(272)よびて、松村立はえしまさご路あり、いと清き濱邊なり、)さて難波へ幸《イデマ》しゝよしなれども、隣國へは幸もありけむ、又從駕の人の行到てよみし類も多し、(但し攝津志に、住吉(ノ)郡高師(ノ)濱、堺(ノ)北(ノ)莊、呼(テ)曰2高洲七度(ト)1即(チ)此とありて、即(チ)此(ノ)歌をも引り、されどおぼつかなし、叉後(ノ)世名處を集めたるものに、高師の濱を難波に在と云るは、この歌、難波に幸せる時のなるによりて、闇推にいへるにはあらざるか、されば高師てふ地は、難波の古き圖《カタ》かける物にも見えざるをや、もしまことに御津の邊《アタリ》などに高師てふがあらば、大伴の御津といふより轉して、高師ともつづけしなるべし、さらば八雲立出雲《ヤクモタツイヅモ》といふより、後の歌に、八雲立手間《ヤクモタツテマ》の關ともつゞけし類なるべし、)さて高師は、タカシ〔三字右○〕と訓來つれども、和名抄に、大和(ノ)國高市(ハ)、多介知《タケチ》、武藏(ノ)國横見(ノ)郡高生(ハ)、多介布《タケフ》、佐渡(ノ)國雜太(ノ)郡高家(ハ)、多介倍《タケヘ》(十(ノ)卷五丁に、弓月我高《ユツキガタケ》、十三に、吉野之高《ヨシヌノタケ》、)などあるを併(セ)思(ヘ)ば、古(ヘ)はタケシ〔三字右○〕と呼《イヒ》けむか、もししからば、これも大伴の健《タケ》しといひかけたるにて、此(ノ)下の大伴乃御津《オホトモノミツ》とつゞけたるに、其(ノ)意ひとしきことなり、もとよりタカシ〔三字右○〕と稱《イヒ》しにても、健《タケ》しと云意とせむに難なかるべし、こは猶よく考べし、大伴は大伴氏の事にて、其は下に委(ク)辨ふ、○枕宿杼は、杼は夜(ノ)字を誤寫せるにて、マキテヌルヨハ〔七字右○〕なりと本居氏の云るぞよき、枕をマキテ〔三字右○〕と訓は、マクラ〔三字右○〕と云も則纏(ク)よしの稱《ナ》なれば、はたらかしてマキ〔二字右○〕ともマク〔二字右○〕とも訓なり、十(ノ)卷にも、君之手毛未枕者《キミガテモイマダマカネバ》とあり、猶多し、神武天皇(ノ)紀に、又|賊衆戰死而《アタドモタヽカヒシニテ》、僵(シ)v屍|枕《マキ》v臂(ヲ)處(ヲ)、呼2爲《イフ》頬枕田《ツラマキタト》1とも(273)見えたり、○家之所偲由《イヘシシヌハユ》は、家とは、やまとなるおのが家をいふ、之《シ》は下の志貴(ノ)皇子の御歌に、倭之所念《ヤマトシオモホユ》とあるごとく、家の一(ト)すぢにしたはるゝをいふ助辭なり、所偲由はシヌハユ〔四字右○〕と訓(ム)、したふ意なり、上軍(ノ)王(ノ)歌に委(ク)注り、凡シヌハレ、シヌハル〔八字右○]などの類の、レ〔右○〕とル〔右○〕とは、古(ヘ)はエ〔右○〕と云(ヒ)ユ〔右○〕と云り、書紀齊明天皇(ノ)卷大御歌に、倭須羅※[まだれ/臾]麻自珥《ワスラユマジニ》、集中五(ノ)卷に、可由既婆比登爾伊等波延可久由既婆比登爾邇久麻延《カユケバヒトニイトハエカクユケバヒトニニクマエ》、又|禰能尾志奈可由《ネノミシナカユ》、七(ノ)卷に衣爾須良由奈《キヌニスラユナ》、十五に、伊能禰良延奴爾《イノネラエヌニ》などこの餘も甚多し、偲(ノ)字は、字書にシヌフ〔三字右○〕といふ義見えず、されど集中シヌフ〔三字右○〕といふ所に、多く此(ノ)字を書り、椅《ハシ》前《クマ》椋《クラ》などの類にて、是もいはゆる倭字なるべし、さて所偲の所(ノ)字はユ〔右○〕の言にあたれば、下の由(ノ)字は徒ことなれど、シヌハユ〔四字右○〕ともシヌハエ〔四字右○〕ともはたらく言なれば、シヌハユ〔四字右○〕とさだかによませむために、かく添て書る例、集中に甚多し、雖干跡《ホセド》、將有裳《アラモ》などの類皆同じ、また續紀四(ノ)卷詔に、先豆先豆《マヅマヅ》、廿五詔に、定不賜奴《サダメタマハヌ》、廿六詔に、如此久《カク》、また所率流《イザナハル》、九(ノ)卷詔に、不堪自《タヘジ》、廿九詔に、護助奉都流《マモリタスケマツル》、三十詔に、不蒙自《カヾフラジ》、また不載奴《ノセヌ》、後紀廿(ノ)卷詔に、雖2言不(ト)1v納|止毛《ドモ》、績後紀十一詔に、自《ヨ》v古(ヘ)利《リ》、また不《ジ》v得《エ》之、十四詔に、可《ベキ》2仕奉《ツカヘマツル》1倍支、十九興福寺僧等長歌(ノ)詞に、不《ジ》2御坐《オホマシマサ》1志云々、不《ズ》v過《スグサ》須|弖《テ》云々、非《アラネ》v數《カズニ》禰|度《ニド》云々、詞遠《コトバヲ》不《ズ》v假良《カラ》須云々、博士《ハカセ》不《ズ》v雇《ヤトハ》須、此(ノ)餘にもかく書る例多し、○歌(ノ)意は、此(ノ)高師の濱にやどりて、松が根を枕として宿る夜は、わびしさに堪がたくて、家のひたぶるにしたはるゝよとなり、從駕なれば、よく堪忍びて、つねはさはあらねど、松の嵐(274)浪の音などの、わびしき夜には、得堪やらで、したはるゝよしを、第四(ノ)句にておもはせたるなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。置始東人《オキソメノアヅマヒト》。
 
東人は、傳未(タ)考ず、書紀孝徳天皇(ノ)卷に、置始(ノ)連大伯、天武天皇(ノ)卷に、置始(ノ)連菟あり、此(ノ)人等の同族なるべし、
 
67 旅爾之而《タビニシテ》。物戀之伎乃《モノコホシキニ》。鳴事毛《イヘゴトモ》。不所聞有世者《キコエザリセバ》。孤悲而死萬思《コヒテシナマシ》。
 
旅爾之而《タビニシテ》は、旅にてといふ意(俗に旅でといふ、)を、かく之《シ》の言をそへてのみ云るは、旅のすぢを、つよくとりたてむがためなり、○物戀之伎乃《モノコホシキニ》、(官本に、伎|乃《ノ》兩字多本無之、但法性寺殿御自筆本有之とあり、)乃(ノ)字は爾の誤なるべし、(元來《モト》これは、之伎を〓《シギ》と意得たるより、爾を乃に誤れるなるべし、〓は古書みな志藝《シギ》とのみ書て、藝の言濁音なるをこゝにのみ、之伎とかゝむこともおぼつかなく、又此(ノ)歌〓なるべくもおもはれず、)こゝはかならず、爾とあるべきところなり、三(ノ)卷※[羈の馬が奇]旅歌に、客爲而物戀敷爾山下赤乃曾保船奧榜所見《タビニシテモノコホシキニヤマシタノアケノソホブネオキニコグミユ》とあるに、本(ノ)二句は同じきをも思(フ)べし、さて十(ノ)卷に、日倉足者時常雖鳴物戀《ヒグラシハトキトナケドモモノコフル》(物(ノ)字、舊本には我とあり、今は一本を用、)手弱女我者時不定哭《タワヤメアレハトキワカズナク》ともありて、物とは、物がなし物うし、又ものへまかりける、又ものらいひて、又ものしてなどいふ物にて、其(ノ)物と直《タヾ》にさしあてゝいはず、多事をひとつにしていふ詞な(275)り、こゝは見る物きく物につけて、本郷の方の戀しきことの多かるを、つかねて云るなり、○鳴事毛は、必(ス)誤字なり、(ナクコトモ〔五字右○]と云ては解べき樣なし、)かれ嘗(ミ)にいはゞ、家事毛とありけむを、家の草書を鳴と見て、寫し誤れるならむ、(これは之伎を〓《シキ》と意得、さて〓に家事はふさはしからねば、鳴に改めて今のごとくにはなせるならむ、)さらばイヘゴトモ〔五字右○]と訓べし、家事は家語《イヘゴト》の義にて、家人の語を、旅なる人へ使して告來ることなり、廿(ノ)卷に、伊倍加是波比爾比爾布氣等和伎母古賀伊倍其登母遲弖久流比等母奈之《イヘカゼハヒニヒニフケドワギモコガイヘゴトモチテクルヒトモナシ》とあり、○不所聞有世者《キコエザリセバ》は、もし聞えずありせばといふなり、射里《ザリ》は受阿里《ズアリ》の約れる詞なり、○孤悲而死萬志《コヒテシナマシ》は、物戀る心に堪ずして、死ましとなり、○歌(ノ)意は、この旅(ノ)館に、もし家の消息の聞えずあらば、戀死に死むより他事なし、家の消息の聞え來たればこそ、それを力(ラ)に戀もしなずてはあれと、家人の語を使して告來れるを、深くよるこびたるなり、此(ノ)歌舊來解得たる人なし、(岡部氏(ノ)考の説などは論にもたらねば、今わづらはしく辨へずとも有ぬべし、)
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。高安大島《タカヤスノオホシマ》。
 
高安(ノ)大島は、傳詳ならず、目録には作主未詳歌とありて、其(ノ)下に高安(ノ)大島とあり按(フ)に、もとは右一首作主未詳、或云高安(ノ)大島とありけむが、こゝには作主未詳或云の六字を脱し、目録には或云の二字を落せしにもあらむ、
 
(276) 68 大伴乃《オホトモノ》。美津能濱爾有《ミツノハマナル》。忘貝《ワスレガヒ》。家爾有《イヘナル》。妹乎《イモヲ》。忘而念哉《ワスレテオモヘヤ》。
 
大伴乃《オホトモノ》は、御津《ミツ》といはむ料の枕詞なり、このつゞけ集中に甚多し、まづかく云かけたる意は、御津は古事記中卷神武天皇(ノ)條(ノ)歌に、美都美都斯久米能古賀《ミツミツシクメノコガ》、(書紀にも見ゆ、)此(ノ)集三(ノ)春に、見津見津四久米能若子我《ミツミツシクメノワカコガ》、とある美都《ミツ》の義に取(リ)なして、かくはつゞけしなり、さてこの美都《ミツ》は、才徳《イキホヒ》勇威《カド》あるをいふ詞なり、そは書紀顯宗天皇(ノ)卷に、天皇|固辭曰《イナビタマハク》、僕(レ)不才《ミツナシ》、豈(ニ)敢(テ)宣2揚(ムヤ)徳業(ヲ)1、繼體天皇(ノ)卷に、寡人不宣《アレミツナシ》不v足2以稱(ニ)1、仁徳天皇(ノ)卷に、僕之不佞《アレミツナクシテ》、不v二2稱1、允恭天皇(ノ)卷に、三(ノ)才《ミツ》などある才佞、(字書に佞(ハ)才也とあり、)などの字を、共に美都《ミツ》と訓たると、右の美都美都斯《ミツミツシ》とあるとを合せて、其(ノ)意をさとるべし、(又おのがはじめおもひしは、美都《《ミツ》は伊都《イツ》に通ふ言にて、稜威之道別《イツノチワキ》などの稜威《イツ》と同言なるべし、さて美《ミ》と伊《イ》と通ふ例は、建御雷之男《タケミカツチノヲノ》神を建雷《タケイカツチノ》神、また汝を美麻思《ミマシ》とも、伊麻思《イマシ》とも云類なるべしとおもひし、それもよしはあれど、なは美都《ミツ》と伊都《イツとは、言はもとより二(ツ)ながら別なるべき所謂《ヨシ》あれば、そはすてつ、)かくて大伴氏は世々|武勇事《タケキウザ》もて、皇朝の御守衛《ミマモリ》とある職なれば、大伴氏の才徳《イキホヒ》勇威《カド》ある意もて美都《ミツ》にいひかけしものなり、さて大伴氏の、古(ヘ)より武勇《タケ》くて名高かりし事は、人皆能(ク)しれゝど、猶いはゞ、古事記上卷天降(ノ)條に、天(ノ)忍日(ノ)命、天津久米(ノ)命二人、取2負天之石靫(ヲ)1取2佩頭椎之大刀(ヲ)1、取2持天之波士弓(ヲ)1、手2挾天之眞鹿兒矢(ヲ)1、立2御前(ニ)1而仕奉(リキ)、故(レ)其天(ノ)忍日(ノ)命(此者大伴(ノ)連等之祖、)天津久米(ノ)命(此者久米(ノ)直等之祖也、)と見(277)え、(書紀には、大伴(ノ)連(ノ)遠祖天(ノ)忍日(ノ)命、帥2來目部(ノ)遠祖天※[木+患]津大來目(ヲ)1、背(ニ)負2天(ノ)磐靫(ヲ)1、臂(ニ)著2稜威(ノ)高鞆(ヲ)1、手(ニ)捉2天(ノ)梔弓天(ノ)羽羽矢(ヲ)1、及副2持八目鳴鏑(ヲ)1、又帶2頭槌(ノ)劔(ヲ)1、而立2天孫之前(ニ)1、遊行降來云々とあり、)また神武天皇(ノ)紀に、大伴氏之|遠祖《オヤ》日(ノ)臣(ノ)命、師(ヰ)2大來目(ヲ)1、督2將《スベ》元戎《ミイクサヲ》1、蹈《フミシ》v山《ヤマ》啓行、乃|尋《マニ/\》2鳥(ノ)所向《トビユク》1仰(キ)視而|追之《オヒシキテ》、遂|達《イタリマシキ》2于菟田(ノ)下(ツ)縣(ニ)1、云々、于時勅(シテ)譽(テ)2日(ノ)臣(ノ)命(ヲ)1曰、汝(シ)忠而且勇《イソシクテヲヽシキノミニアラス》、加能有2導之《ミチシルベノ》功1、是以改2汝(ガ)名(ヲ)1、爲2道(ノ)臣(ト)1、云々、(古語拾遺には、逮(テ)2于神武天皇東征之年(ニ)1、大伴氏(ノ)遠祖日(ノ)臣(ノ)命、帥2督將元戎(ヲ)1剪2除兇渠(ヲ)1、佐命之勲、無v有v比v肩(ヲ)云々とあり、)など見えたるをはじめて、景行天皇(ノ)紀日本武尊東征(ノ)條に、天皇則命《ミコトオホセタマヒテ》3吉備(ノ)武彦、與(ニ)2大伴(ノ)武日(ノ)連1、令v從2日本武尊(ニ)1、云々、至(リテ)2甲斐(ノ)國(ニ)1、居2于酒折(ノ)宮(ニ)1、云々、則居2此宮(ニ)1、以2靫部(ヲ)1、賜2大伴(ノ)連之遠祖武日(ニ)1也、云々、三代實録に、大伴(ノ)健日(ノ)蓮公、隨2倭健(ノ)命1、平2定東國(ヲ)1、功勲葢v世、賜2讃岐(ノ)國(ヲ)1、以爲2私宅(ト)1、とあり、)續紀天平勝寶元年(ノ)詔に、大伴佐伯《オホトモノサヘキノ》宿禰|波常母云久《ハツネモイハク》、天皇(カ)朝守(リ)仕(ヘ)奉事、顧奈伎人等爾阿禮波《カヘリミナキヒトタチニアレバ》、汝多知乃祖止母乃云來久《イマシタチノオヤドモノイヒケラク》、海行波美豆久屍《ウミユカバミヅクカバネ》、山行波草牟須屍《ヤマユカバクサムスカバネ》、王乃幣爾去曾死米《オホキミノヘニコソシナメ》、能杼爾波不死《ノドニハシナジ》、止云來流人等止奈母聞召須《トイヒクルヒトタチトナモキコシメス》、是以遠天皇《コヽモチテトホスメロキノ》御世(ヲ)始(メ)弖《テ》、今朕(カ)御世|爾當弖母《ニアタリテモ》、内兵止《ウチノイクサト》心中古止波|奈母遣須《ナモツカハス》、云々、また、天平寶字元年詔に、大伴佐伯(ノ)宿禰|等波《タチハ》、自(リ)2遠天皇御世《スメロキノミヨ》1内乃兵止《ウチノイクサト》爲而仕《》奉(リ)來《シテツカリキ》、云々、(雄略天皇(ノ)御世に、大伴氏より分れて、佐伯氏といふが出來たるよし、姓氏録に見ゆ、)又集中十八に、大伴等佐伯氏者《オホトモトサヘキノウヂハ》云々。梓弓手爾等里母知弖劔大刀許之爾等里波伎安佐麻毛利由布能麻毛利爾大王能三門乃麻毛利《アヅサユミヲトリモチテツルギタチコシニトリハキアサマモリユフノマモリニオホキミノミカドノマモリ》云々、また廿(ノ)卷に、波自由美乎多爾(278)藝利母多之麻可胡也乎多波左美蘇倍弖於保久米能麻須良多祁乎々佐吉爾多弖由伎登利於保世《ハジユミヲタニギリモタシマカコヤヲタバサミソヘテオホクメノマスラタケヲヽサキニタテユキトリオホセ》云々|宇美乃古能伊也都藝都岐爾美流比等乃可多里都藝弖々伎久比等能可我見爾世武乎安多良之伎吉用伎曾乃名曾於煩呂加爾己許呂於母比弖牟奈許等母於夜乃名多都奈大伴乃宇治等名爾於《ウミノコノイヤツギツギニミルヒトノカタリツギテヽキクヒトノカガミニセムヲアタラシキキ∃キソノナソオホロカニコヽロオモヒテムナコトモオヤノナタツナオホトモノウヂトナニオ》敝《》流《》麻《》須良乎能等母《ヘルマスラヲノトモ》など、家持(ノ)卿の歌にも見えたり、さて又古事記を考(フ)るに、上卷皇孫(ノ)命の天降坐し時、天(ノ)忍日(ノ)命と天津久米(ノ)命と相並して、御前に立し、(上に引り、)中卷神武天皇(ノ)條東征の時にも道(ノ)臣(ノ)命と大久米(ノ)命と相並(シ)て、大(ナル)功を立給へる事あるをもて、美都美都斯久米能古《ミツミツシクメノコ》と云るも、大伴乃美都《オホトモノミツ》といふも、共に同じ列《ツラ》に、武勇《タケ》き人のうへに關かれる言なるをもて、美都《ミツ》の言の同じきをも思ひわきまふべし、抑この枕詞の事、世の學者等種々|説《イフ》めれど、大伴《オホトモ》の三(ツ)が一(ツ)も、いはれたりと思ふはなかりき、(又四(ノ)卷賀茂(ノ)皇女(ノ)歌に、大伴乃見津跡者不云《オホトモノミツトハイハジ》云々とある、是も見《ミ》つと才徳の意の美都《ミツ》と、言の同じきからに、かくもつゞけしなり、さればつゞけの意は、御津の地(ノ)名に云かけたると全同じ、且《マタ》次上に、大伴乃高師乃《オホトモノタカシノ》とあるつゞけの意は、いまだたしかにはおもひ定めねど、もし大伴の健と云かけたるものならば、いよ/\大伴之美都《オホトモノミツ》といふに、かた/”\てりあひて聞ゆかし、然《サ》て冠辭考に、大伴の瀰都瀰都志《ミヅミヅシ》てふ意にて、御津の濱に冠らせたるにやと云るは、おのが右の考に似たれど、かの説は、先づ瀰都瀰都志《ミツミツシ》の都《ツ》を濁りて美豆垣《ミヅカキ》などいふ美豆《ミツ》と同言にて、若く健なる人を(279)ほめて云り、今も萬(ツ)の物のわかくうつくしきを、みづ/\しと云めりと云れど、物をほめて云みづは、古事記に、美豆能小佩《ミヅノヲヒモ》、又|水垣《ミヅカキ》、書紀にも、瑞穗之地《ミヅホノクニ》云々、瑞此云2瀰圖《ミヅト》1と見え、集中にも、水莖《ミヅクキ》水枝《ミヅエ》美豆山《ミヅヤマ》などゝ書て、豆《ヅ》はいづれも濁音なるを、此(ノ)瀰都瀰都志《ミツミツシ》も、さるこゝろならむには、瀰豆瀰豆志《ミヅミヅシ》とこそ書べきに、古事記にも書紀にも、都は皆清音の字をのみ書たれば、決て非なるをしるべし、又古事記傳に、美都美都志《ミツミツシ》は滿々しにて、圓々《マト/\》しといはむがごとし、此は目の大きなる貌を云るにて、久米の枕詞なり、大久米(ノ)命を黥(ル)利目とありて、目の圓に大きくありし故に、久米てふ名を負給へる、其(ノ)久米は久流目《クルメ》の約りたる言なり、故(レ)滿々し久流目《クルメ》と續けたるなりと云るも又誤なり、もしさる意ならむには、美知美知斯《ミチミチシ》とこそいふべけれ、なほ委く抜三(ノ)卷|見津見津四久米能君子我《ミツミツシクメノワクコガ》云々の歌の條下に云むを、併(セ)考へて曉るべし、)○美津能濱爾有《ミツノハマナル》は、美津は、古事記仁徳天皇(ノ)條に、於是大后、大恨怒《イタクウラミイカラシテ》、載(タル)2其御船(ニ)1之御綱柏者《ミツナガシハヲバ》、悉(ニ)投2棄《ナゲウチタマヒキ》於海(ニ)1、故(レ)號《ヲ》2其地《ソコ》1、謂2御津《ミツノ》前(ト)1也、仁賢天皇(ノ)紀に、難波(ノ)御津、齋明天皇(ノ)紀に、難波三津之浦など見ゆ、今|高津《カウヅ》の西(ノ)方、古(ヘ)の三津なりと云り、爾有をナル〔二字右○〕といふは、爾阿《ニア》をつゞむれば奈《ナ》なればなり、次の家爾有をイヘナル〔四字右○〕といふも同じく、みな其(ノ)處に在(ル)といふなり、○忘貝《ワスレガヒ》は、十五に、安伎左良婆和我布禰波弖牟和須禮我比與世伎弖於家禮於伎都之良奈美《アキサラバワガフネハテムワスレガヒヨセキテオケレオキツシラナミ》ともあり、猶此(ノ)貝の事は、品物解にいふべし、さて忘而念哉《ワスレテオモヘヤ》をいひ興さむとて、まづ眼前なる物をもて即(チ)序とせり、(280)○志而念哉《ワスレテオモヘヤ》は、(念はモヘ〔二字右○〕とも訓べし、集中其(ノ)餘古書に、オモフ〔三字右○〕をモフ〔二字右○〕と云る例多し、やゝくだりても、延喜六年書紀竟宴歌に、芦芽廼那微能幾佐斯裳度保迦羅須阿麻都比津機能波志米度母弊波《アシカビノナミノキザシモトホカラズアマツヒツギノハジメトモヘバ》、新撰萬葉に、戀芝砥者今者不思魂云不相見程丹成沼鞆倍者《コヒシトハイマハオモハズタマシヒノアヒミヌホドニナリヌトモヘバ》、土左日記に、いのりくる風間ともいふあやなくもかもめさへだになみとみゆらむなどあり、)唯忘むやといふことなり、哉《ヤ》は後(ノ)世の也波《ヤハ》の也《ヤ》なり、(俗に忘れうかやといふ意なり、)此(ノ)の類の詞のことは、既く上にいへり、○歌(ノ)意は、家にある妹がことをば、一日片時もわするゝ間あらむやはといへるにて、これは家の事は心にもかゝらずや、と問ける人にこたへたるか、又はひさしく、家に音づれもせざりしかば、忘れたるかとうらみおこせたるに、答へたるにも有べし、これは從駕のつかへに深く心を用ひて、うちみには家をも忘れたる如くに見ゆれども、懷土《クニシノビ》の心中のくるしさ思ひやれ、とよみ給へるなるべし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。身人部王《ムトベノオホキミ》。
 
身人部(ノ)王は、六人部(ノ)王とかけるに同じ、續紀に、和銅三年正月甲子、無位六人部(ノ)王(ニ)授2從四位下(ヲ)1、養老五年正月壬子、授2從四位上(ヲ)1、七年正月丙子、授2正四位下(ヲ)1、神龜元年二月壬子、授2正四位上(ヲ)1、天平元年正月壬寅、正四位上六人部(ノ)王卒と見えたり、
 
69 草枕《クサマクラ》。客去君跡《タビユクキミト》。知麻世婆《シラマセバ》。岸之埴布爾《キシノハニフニ》。仁寶播散麻思乎《ニホハサマシヲ》。
 
(281)草枕は、旅の枕詞なること上にいへり、○客去君《タビユクキミ》とは、長(ノ)皇子の、清江娘子《スミノエヲトメ》が許に住(ミ)度り給ひて、還御にしたがひて、京へ歸らせ賜ふ故、客行《タビユク》とは云るなるべし、客《タビ》とは他《ヨソ》に去《ユク》をいふことにて、娘子が許にやどらせ賜ふも、なほ旅なるに、ことさらに、こゝに客去《タビユク》としもいへるは、娘子が方を内にして、娘子がいへる詞にて、皇子の別れ行給ふを、をしみてかくはいへるなり、君とは皇子をさし奉れるなり、○知麻世婆《シラマセバ》は、知てありなばといはむが如し、もし程なく還御にしたがひて、京にかへりまさむと、かねて知てありなばとの意なり、さてかねて御別の斯《ホド》の、しられざるにもあるまじけれど、いつまでも皇子にめされて、つかへ奉るべきやうに、のどかにおもひしに、今別に臨《ナリ》て、わかれ奉るべきこゝちもせず、いとわびしくかなしき心を、告奉れるなるべし、○岸之埴布爾《キシノハニフニ》、(類聚抄に、岸字、崖と作り、又埴(ノ)字、填と作るは誤なり、)岸は住吉の岸なり、六(ノ)卷に、白浪之千重來袁流住吉能岸乃黄土粉二々寶比天由香名《シラナミノチヘニキヨスルスミノエノキシノハニフニヽホヒテユカナ》、又|馬之歩押止駐余住吉之岸乃黄土爾保比而將去《ウマノアユミオシテトヾメヨスミノエノキシノハニフニニホヒテユカム》などあり、今はこの娘子の己がすめる地なれば、かく云るもさらなり、埴布《ハニフ》は、和名抄に、埴(ハ)土黄(ニシテ)而細密(ナルヲ)曰v埴(ト)和名|波爾《ハニ》、字鏡に、埴(ハ)黏土也、波爾《ハニ》とあり、また河内(ノ)國丹南(ノ)郡に、埴生《ハニフ》と云地もあり、(古事記履中天皇(ノ)條に、到2波邇賦坂(ニ)1云々、天皇亦歌曰、波爾布邪迦《ハニフザカ》云々、書紀推古天皇(ノ)卷に、河内(ノ)埴生山などある、みな丹南(ノ)郡のなり、此(ノ)外の物にもみゆ、)これも黄土《ハニ》の産《アル》ゆゑに負(ヘ)る地(ノ)名なるべし、本居氏、波邇《ハニ》と云は色|美《ウルハ》しく艶《ニホ》ふ由の名に(282)て光映土《ハエニ》の義《コヽロ》にやあらむと云り、布《フ》は、茅生《チフ》麻生《ヲフ》粟生《アハフ》豆生《マメフ》などの生と同音にて、黄土の専ら有(ル)地をいへり、さて直に埴のことを埴生といふは、たゞ草を草根といひ、たゞ月を月夜といへる類にや、爾《ニ》は、にての意なり、(俗に埴でといふに同じ、)○仁寶播散麻思乎《ニホハサマシヲ》は、令《シメ》v染《ニホハ》ましものをの意なり、衣に摺りて染《イロ》どるを、仁寶布《ニホフ》といへり、さて古事記に、丹摺之《ニズリノ》袖とも有て、古(ヘ)は黄土また草木の花などにて、衣を摺《スリ》いろどりしなり、○歌意は、かねて皇子にわかれまゐらせむと知てありなば、御衣をだに、埴にて令《シメ》v染《ニホハ》ましものを、それだに得せぬが、いたく口をしきことゝよめるなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。清江娘子《スミノエノヲトメガ》。進《タテマツレルウタ》2長皇子《ナガノミコニ》1。【姓氏未詳】
 
清江娘子は、住吉に住る娘子なり、菟原娘子など地(ノ)名もて呼る例多し、清江は住吉と書るに同じ、これはかの弟日《オトヒ》娘と同人か、此(ノ)度の幸を、まづ文武天皇三年と見る時は、其(ノ)後慶雲三年の幸まで、七年八年といふ間のことなるを、同じ娘子の猶在て、長(ノ)皇子につかへ奉れるか、いとおぼつかなければ、別人にても有べし、
 
大寶元年辛丑《ダイハウハジメノトシカノトウシ》。太上天皇《オホキスメラミコトノ》。幸《イデマセル》2于|吉野宮《ヨシヌノミヤニ》1時歌《トキノウタ》。
 
大寶元年辛丑の六字、舊本此處には無て、太上天皇幸2于紀伊(ノ)國1時歌、とある上にあるは、錯亂《ミダレ》たるものなり、大寶元年は、文武天皇の天つ日嗣しろしめして、五年といふにあたりて、建《タテ》ら(283)れたる年號《ミヨノナ》なり、○幸2于吉野(ノ)宮(ニ)1は、續紀に、大寶元年二月癸亥、行2幸吉野(ノ)離宮(ニ)1、庚午、車駕至v自2吉野(ノ)宮1とありて、その一本に、癸亥の下に、太上天皇(ノ)四字あり、その度なるべし、
 
70 倭爾者《ヤマトニハ》。鳴而歟來良武《ナキテカクラム》。呼兒鳥《ヨブコトリ》。象乃中山《キサノナカヤマ》。呼曾越奈流《ヨビソコユナル》。
 
倭爾者《ヤマトニハ》は、同じ倭(ノ)國の出ながらも、殊に京師のあたりをさして、倭とはいへるなり、上藤原(ノ)御井歌に、日本乃青香具山《ヤマトノアヲカグヤマ》とあるも、香具山は藤原(ノ)都の東方にならびて、いと近ければ云るにて、同じ意なりと本居氏云り、但しこれは、わざと他國よりいふやうにいへるにも有べし、さるは本郷をいとはるかにわかれ來て、吉野を他國のごとおもふ心より、かくいへるなるべし、爾者《ニハ》の爾《ニ》は倭をさし、者《ハ》は他方にわかてる詞なり。○鳴而歟來良武《ナキテカクラム》。歟《カ》は疑の詞なり、良武の下にうつして意得べし、鳴て來らむか、又はさなきか、十に八九は鳴て來らむ、とおもひやれる意なり、さて來良武は、まつは行らむといふべぎ所なるべくおもはるれど、こは京師戀しくおもふをりしも、あはれ呼兒鳥の聲なつかしく、象の中山をよびつゝぞ越なる、おのが戀しく思ふ京師|邊《アタリ》には、今鳴て來らむかと、京師を内にしていへるなり、十(ノ)卷に、山跡庭啼而香將來霍公鳥汝鳴毎無人所念《ヤマトニハナキテカクラムホトヽギスナガナクゴトニナキヒトオモホユ》とあるも同じ、又十一に、霞立長春日乎奧香無不知山道乎戀乍可將來《カスミタツナガキハルヒヲオクカナクシラヌヤマヂヲコヒツヽカコム》、十四に、可須美爲流布時能夜麻備爾和我伎奈婆伊豆知武吉?加伊毛我奈氣可牟《カスミヰルフジノヤマビニワガキナバイヅチムキテカイモガナゲカム》、十五に、波夜久伎弖美牟等於毛比弖於保布禰乎許藝和我由氣婆《ハヤクキテミムトオモヒテオホブネヲコギワガユケバ》、十二に、湊入之葦別小船障(284)多來吾乎不通跡念莫《ミナトイリノアシワケヲブネサハリオホミイマコムアレヲヨドムトモフナ》、九(ノ)卷に、遠妻四其爾有世婆不知十方手綱乃濱能尋來名益《トホツマシソコニアリセバシラズトモタヅナノハマノタヅネキナマシ》これらみな、行(ク)ことを來と云るは、その行(ク)方を内にして云るなり、(よくせずは、行と來と、たゞに相通はしていふことゝ思ふべし、この意ならで、たゞ通はしいへることはなし、源氏物語夕霧に、かうすこし物おぼゆるひまに、わたらせ給(フ)べくきこえよ、そなたへ參り來べけれど、うごくべうもあらでなむ、浮舟に、參り來まはしきを、少將のかたの猶いと心もとなげに、ものゝけだちてなやみ侍れば、とあるなども、同じ意ばえに云るにこそ、略解に、來良武は、行らむと云に同じと云るは、いみじき荒凉なり、)○呼兒鳥《ヨブコドリ》は、いかなる鳥とも知がたし、(昔(シ)ありける鳥の、今をらぬことはあらじ、その鳥はあれども、名をうしなへるなるべし、岡部氏(ノ)考に、かつほう鳥といふ鳥のことゝせれど、それとも決ては云がたし、猶品物解に云べし、)○象乃中山《キサノナカヤマ》は、三(ノ)卷に象乃小川《キサノヲガハ》、六(ノ)卷に象山《キサヤマ》などあり、こは蜻蛉(ノ)離宮に近き處なり、今|喜佐谷《キサタニ》村と云とぞ、○呼曾越奈流《ヨビソコユナル》は、呼とはその鳴聲の、物を呼がごとくなる故にいへるなり、呼兒鳥のただには越ずて、鳴つゝこゆるをいへるなり、越とは象の中山を、本郷の方へこゆるなり、○歌(ノ)意は、呼兒鳥の聲なつかしく嶋つゝ、象の中山を本郷の方へ越なるは、おのが家のあたりには、今程來鳴らむか、とおもひやれるなり、又呼曾越奈流といへるは、われを呼つゝ、家のかたへさそふ心にや、と云るにも有べし又象の中心を呼つゝ越なるは、京師の方に鳴ども、折ふし行幸の程(285)にて人もなければ、此處に慕ひ來て、歸れと呼らむか、といへる意にも聞えたり、若(シ)此(ノ)意ならば來《ク》はつねの來なり、(京師の方に鳴て、さて此處に來らむかの意なり、しかれどもなほ前(ノ)意なるべし、)
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。高市連黒人《タケチノムラジクロヒト》。
 
○舊本、此處に大寶元年辛丑秋九月、太上天皇幸于紀伊國時歌と題せるは、甚く錯亂《ミダレ》たる物なり、大寶元年辛丑の六字は、上太上天皇幸2于吉野(ノ)宮1時(ノ)歌、とある上にありしが、混《マギレ》て此處に入しなるべし、又秋九月とあれど、左の歌春の景氣をよめれば、さらに此處によしなく、且《ソノウヘ》幸(シ)の季月を記さゞること、此(ノ)卷の例なるに、此處にのみかくあるは、如何と思はるゝに、此は次下に引(ク)續紀の文によりて、後に補入し事|决《ウツナ》し、さて太上天皇云々は、下の朝毛吉《アサモヨシ》云々の歌の題詞《ハシツクリ》なるが、亂れたるなるべし、故(レ)今は彼此《コレカレ》を考(ヘ)合(セ)て削(リ)正しつるなり、かくて左の巨勢山乃《コセヤマノ》云々の歌は、右の吉野(ノ)宮に幸せるは、前にいへるごとく、もし續紀によりて二月とするときは、其(ノ)同じ度に幸の道すがら、巨勢《コセ》の春山の風景を見て、從駕の人のよめるなり、
 
54 巨勢山乃《ユセヤマノ》。列列椿《ツラツラツバキ》。都良都良爾《ツラツラニ》。見乍思奈《ミツヽシヌハナ》。許湍乃春野乎《コセノハルヌヲ》。
 
巨勢山《コセヤマ》は、高市(ノ)郡古瀬村にあり、此(ノ)上又三(ノ)卷七(ノ)卷十(ノ)卷十二十三等にも出たり、按(フ)に、和名抄に、高市(ノ)郡|巨勢《コセ》、神名式に、高市(ノ)郡巨勢(ニ)坐石椋(ノ)神社、又|許世都比古《コセツヒコノ》命(ノ)神社など見えたるに、又式に、(286)葛上(ノ)郡巨勢(ノ)山口(ノ)神社とあれば、山は葛上(ノ)郡にもわたれるなるべし、○列々椿《ツラ/\ツバキ》は、枝葉の繋み連《ツラナ》りたる椿を云、さてこはその所にあるものもて、都良都良爾《ツラツラニ》といひおこさむために、先(ツ)かく云り、○都良都良爾《ツラツラニ》は、連々《ツラ/\》にて、絶ず打續くよしなり、廿(ノ)卷に、安之比奇能夜都乎乃都婆吉都良都良爾美等母安加米也宇惠弖家流伎美《アシヒキノヤツヲノツバキツラツラニミトモアカメヤウエテケルキミ》、字鏡に、※[目+鳥](ハ)熟視也、豆良谷良彌留《ツラツラミル》とあり、○見乍思奈は、ミツヽシヌハナ〔七字右○〕と訓べし、思(ノ)字シヌフ〔三字右○〕と訓例は二(ノ)卷に委(ク)注べし、シヌハナ〔四字右○〕は、將《ム》2賞愛《メデシスハ》1といふ意を急に謂るなり、めづるをシヌフ〔三字右○〕といふは、上額田(ノ)王の春山秋山の判歌に、葉葉乎婆取而曾思奴布《モミツヲバトリテソシヌフ》とある所に委(ク)云り、奈《ナ》は牟《ム》を急に云るなり、(シヌハム〔四字右○〕といふは緩なり、シヌハナ〔四字右○〕といふは急なり、その急にいふは、餘念なく一向に云々せむと思進む意なり、)將《ム》v逢《アハ》といふを阿波奈《アハナ》といふに同じ、既に委(ク)いへり、(この一句を、舊來ミツヽオモフナ〔七字右○]とよみたるによりて、奈《ナ》は語をいひおさふる辭とし、さて舊本の題詞によりて、九月なれば、花さかむ春を戀るよしにして、一首の趣を甚《イタク》解誤來れり、こは右の題詞の錯亂《ミダレ》あるをも考へず、歌の語意をも深く味へざるより、訓をも、義をも、共に意得たがへたるなり、)○許湍乃春野乎《コセノハルヌヲ》、此(ノ)一句は、第三(ノ)句の上に置て意得べし、巨勢の春野のおもしろきけしきを、熟々に見つゝ賞愛《メデシノ》ばむと思ふよしなればなり、○歌(ノ)意は、さらぬだにあるを、まして椿の花さへ咲にほひたる、巨勢の野の春のけしきの、あかずおもしろく思はるれば、つら/\に見つゝ、一向《ヒタスラ》に賞愛《メデシノビ》をらむとなり、
 
(287)右一首《ミギヒトウタハ》。坂門人足《サカドノヒトタリ》。
 
人足は、傳詳ならず、
 
〔或本歌。56 河上乃《カハカミノ》。列々椿《ツラ/\ツバキ》。都良都良爾《ツラツラニ》。雖見安可受《ミレドモアカズ》。巨勢能春野者《コセノハルヌハ》。右一首|春日藏首老《カスガノクラビトオユ》。〕
 
或本(ノ)歌、歌字、類聚抄にはなし、拾穗本には一云とありて、この三字なし、○河上は、能登勢(ノ)河上をいふなるべし、巨勢なる能登勢の河と見えたり、新續古今集に、雪もきえ氷も解て川上の許湍の春野は若菜採なり、今の歌によれり、○或本歌といふより、舊本はすべて錯亂《ミダレ》て、下の朝毛吉云々の歌の次に收《イ》れるを、今は道晃親王御本類聚抄拾穗本等によりて、此間に收《イレ》つ、はた拾穗本に小字とせるによれり、
 
三野連入唐時《ミヌノムラジガモロコシニツカハサルヽトキ》。春日藏首老作歌《カスガノクラビトオユルヨメルウタ》。
 
三野(ノ)連は、岡麻呂なり、官本中御門本阿野本等の勘物に、國史(ニ)曰、大寶元年正月、遣唐使民部(ノ)卿粟田(ノ)眞人(ノ)朝臣以下、百六十人、乘2船五※[舟+隻](ニ)(ニ)1、小商監從七位下中宮少進美奴(ノ)連岡麻呂云々とあり、(按(フ)に此(ノ)國史とさせるもの、いづれの書にや、略解に、此(ノ)ことを類聚國史に見えたり、と云るにつきて、類史を見しかども、この事なし、略解には右の國史といふものを、ふと類史のことゝ思ひて、云るのみにて、ふかくとがむるにたらず、しかれども、官本以下の勘物に、右の如くあるからは、浮たることにはあらず、)續紀を考るに、今度の遣唐使に、粟田(ノ)朝臣、其(ノ)餘の人は有て、(288)美奴(ノ)連岡麻呂は見えねど、續紀は後に誤(リ)て脱せしなるべし、岡麻呂は、靈龜二年正月壬午、授2正六位上美努(ノ)連岡麻呂從五位下(ヲ)1、と續紀に見えつ、(奮本連の下、名闕(ノ)二字あるは、後人の書加(ヘ)なるべし、凡て集中に、人の氏姓のみは書《シル》せるに、三(ツ)のやうあり、一(ツ)には氏姓のみは聞傳へたれども、名をば詳に聞得ざりしによりて、闕《モラ》したりと思はるゝ類もあり、二(ツ)には由縁《ユヱ》ありて、其人をたふとみて名を憚りて、氏姓のみをしるせりと見ゆるもあり、三(ツ)には當時は名のしるくて、他人《アダシヒト》にまがふべくもなかりしゆゑに、たゞ何となく名を除きて、氏姓のみしるしておきつるが、そのまゝに傳はりたりと思はるゝもあり、この三野(ノ)連の類は、大寶の頃にて、岡麻呂なることはいちじるかりければ、何となく、氏姓のみをしるしおきたるものなり、とおもはるれば、名の詳ならずて、闕《モラ》せる類にあらずと見ゆればなり、なほ委しく首(ノ)卷に論へり、)○入唐時云々は、續紀に、大寶元年正月丁酉、以2守民部(ノ)尚書直大貳粟田(ノ)朝臣眞人(ヲ)1、爲2遣唐執節使1、左大辨直廣參高橋(ノ)朝臣笠間(ヲ)爲2大使(ト)1、右兵衛(ノ)率直廣肆坂合部(ノ)宿禰大分(ヲ)爲2副使(ト)1、參河守務大肆許勢(ノ)朝臣祖父(ヲ)爲2大佑(ト)1、刑部判事進大壹鴨(ノ)朝臣吉備麻呂(ヲ)爲2中佑(ト)1、山代(ノ)國相樂(ノ)郡(ノ)令追廣肆掃守(ノ)宿禰阿賀流(ヲ)爲2小佑(ト)1、進大參錦部(ノ)連道麻呂(ヲ)爲2大録(ト)1、進大肆白猪(ノ)史阿麻留、无位山於(ノ)億良(ヲ)爲2少録(ト)1、云々、五月己卯、入唐使粟田(ノ)朝臣眞人授2節刀(ヲ)1と見えたるこれなり、さて入唐とは、大内へ参入るを、入といふにならひて、さらぬ宮などへも、あがめて入と書しとおぼしきこと、古(ヘ)多か(289)り、然るを戎國へ遣(ル)を、入といふは、いみじきひがことなり、凡(ソ)史式(ノ)類など、漢學せし人の書れば、みだりに、異國をたふとみて、入唐大唐なども書けむ、又入2渤海1使、入2新羅1使なども書しを思へば、入に心をつけざるにも有けむ、此(ノ)集の題文も、みだりに漢學する人の書し文にならひて、おのづからかく書しものなり、猶この事、岡部氏(ノ)考(ノ)別記に委(ク)論へり、○春日(ノ)藏首老は、三(ノ)卷に、弁基(カ)歌云々、古注に、或云、弁基者、春日(ノ)藏首老之法師(時(ノ)字脱か、)名也、續紀に、大寶元年三月壬辰、令2僧弁紀(ヲ)1還v俗(ニ)、代度2一人(ヲ)1、賜2姓(ヲ)春日(ノ)倉首名老(ト)1、授2追大壹(ヲ)1、和銅七年正月甲子、正六位上春日(ノ)倉首名老(ニ)授2從五位下(ヲ)1、懐風藻に、從五位下常陸(ノ)介春日(藏首脱か)老一絶(年五十二)とあり、藏首(ハ)尸《カバネ》なり、藏人《クラビト》倉人《クラビト》椋人《クラビト》藏毘登《クラビト》など書たるに同じ、クラビト〔四字右○〕と訓べし、なほ古事記傳四十四に委(ク)辨へたり、○此(ノ)歌は、かの大寶元年三月より、五月までによみしなれば、この題詞より、左の在根良《オホブネノ》云々、去來子等《イザコドモ》云々の二首歌まで、必(ス)こゝに收べきを、舊本に朝毛吉《フサモヨシ》云々、引馬野爾《ヒクマヌニ》云云、何所爾可《イヅクニカ》云々、流經《ナガラフル》云々、暮相而《ヨヒニアヒテ》云々、大夫之《マスラヲノ》云々の歌どもの下に收《イリ》たるは、錯亂《ミダレ》たるものなり、故(レ)今は正しつ、
 
62 在根良對馬乃渡《オホブネノツシマノワタリ》。渡中爾《ワタナカニ》。幣取向而《ヌサトリムケテ》。早還許年《ハヤカヘリコネ》。
 
在根良は、大夫根之とありしを、大夫の二字を在に誤り、之(ノ)字の草書《ウチトケガキ》を良に誤れるなるべし、大船之《オホブネノ》なり、此は大船の泊《ハツ》る津《ツ》といふ意に係れる枕詞なり、二(ノ)卷に、大船之津守之占爾《オホブネノツモリガウラニ》云々、(290)とあるに同じ、(本居氏は、在根良は、布根竟の誤にて、フネハツル〔五字右○〕なるべしといへり、其は、百船《モヽフネ》の泊《ハツ》る津島とよめるより、しひて思ひよれることなれど、此(ノ)歌にはいさゝか穩ならず、)○對馬乃渡《ツシマノワタリ》は、渡とは、常は河江などにいへど、古(ヘ)は海にも云りき、即(チ)海を和多《ワタ》といふも、渡《ワタリ》の謂なり、故(レ)こゝに渡《ワタリ》渡中《ワタナカ》、とあるにて心得べし、すべて渡は、浮び行《アリ》くをいふ語なり、さればもと、海も渡るべき處なれば、凡て和多《ワタ》といひしを、專《モハラ》人の往來《ユキカヒ》する處を、取分て渡《ワタリ》といひ、さてしか往來する處の、もはらと多(キ)によりて、河江に常に渡といふ稱のありて、海には聞なれぬこゝちすることにはなれり、○早還許年《ハヤカヘリコネ》は、早く還り來れかしといふなり、年《ネ》は希望辭なり、上に委(ク)注り、○歌(ノ)意は、戎國《モロコシ》の遠(キ)境に遣はさるゝことおぼろげのわざと思ふな、對馬の渡の海中行む日は、海神に手祭《タムケ》よくして、病《モ》なく災《コト》なからむことを祈?《コヒノミ》平にして一日も早く、本郷に歸り來れかしとなり、
 
山上臣憶良《ヤマノヘノオミオクラガ》。在《アリシ》2大唐《モロコシニ》1時《トキ》。憶《シヌヒテ》2本郷《クニ》1作歌《ヨメルウタ》。
 
山上(ノ)臣云々は、上に續紀を引たる如し、さてそのゝち憶良の履歴は、和銅七年正月甲子、授2正六位下山上(ノ)臣憶良(ニ)從五位下(ヲ)1、靈龜二年四月壬申、爲2伯耆(ノ)守(ト)1、養老五年正月庚午、詔云々、從五位下山上(ノ)憶良等、退朝之後、令v侍2東宮(ニ)1焉とあり、○大唐と書しは、理しらぬ人のあやまちなり、(荻生(ノ)茂卿は、いみじき漢意にてありしすら、入唐大唐など書しことは、吾を夷にしたるいひざ(291)まにて、あさましき事なり、と南留別志にいたくそしれり、)、作(ノ)字、舊本に脱せり、目録また古寫本拾穗本等にあるによりつ、
 
63 去來子等《イザコドモ》。早日本邊《ハヤヤマトヘニ》。大伴乃御津乃濱松《オホトモノミツノハママツ》。待戀奴良武《マツコヒヌラム》。
 
去來子等《イザコドモ》は、去來《イザ》とはいぎなひたつる詞なり、子等は諸人を云り、三(ノ)卷に「去來兒等倭部早白菅乃眞野乃榛原手折而將歸《イザコドモヤマトヘハヤクシラスケノマヌノハリハラタヲリテユカム》、六(ノ)卷に、去來兒等香椎乃滷爾白妙之袖左倍所沾而朝菜抹手六《イザコドモカシヒノカタニシロタヘノソデサヘヌレテアサナツミテム》、十(ノ)卷に、白露乎取者可消去來等子露爾爭而芽子之遊將爲《シラツユヲトラバケヌベシイザコドモツユニキホヒテハギノアソビセム》、廿(ノ)卷に、伊射子等毛多波和射奈世曾《イザコドモタハワザナセソ》云々、古事記中卷應神天皇(ノ)條(ノ)大御歌に、伊邪古杼母《イザコドモ》 怒毘流都美邇《ヌビルツミニ》云々などあり、○早日本邊は、(こゝの書法、邊(ノ)を用ひたるも正字にて、三(ノ)卷の倭部早《ヤマトヘハヤク》の部とは、異《カハ》れりと見えたり、舊本にハヤヒノモトヘ〔七字右○〕と訓るは、論の限にあらず、又岡部氏(ノ)考に、ハヤヤクヤマトヘと訓、又略解に、ハヤモヤマトヘ〔七字右○〕とよみたるも、ともにわろし、)古事記下卷仁徳天皇(ノ)條に、夜麻登幣邇由久波多賀都麻《ヤマトヘニユクハタガツマ》とあるによりて、ハヤヤマトヘニ〔七字右○〕と訓べし、日本《ヤマト》は大和(ノ)國をいふ、さて邊は正字なるから、邇《ニ》の辭をよみ附るに妨なし、例は三(ノ)卷に、燒津邊吾去鹿齒《ヤキツヘニアガユキシカバ》、又|春日之野邊粟種益乎《カスガノヌヘニアハマカマシヲ》、四(ノ)卷に、山跡邊君之立日乃《ヤマトヘニキミガタツヒノ》、又|邊去伊麻夜《ヘニユキイマヤ》、七(ノ)卷に、邊近著毛《ヘニチカヅクモ》、又|清山邊蒔散漆《キヨキヤマヘニマケバチリヌル》、八(ノ)卷に、佐保乃山邊來鳴令※[向/音]《サホノヤマニキナキトヨモス》、九(ノ)卷に、在衣邊著而榜尼《アリソヘニツキテコカサネ》、又|秋津邊來鳴度者《アキヅヘニキナキワタルハ》、十(ノ)卷に、棚引野邊足檜木乃《タナビクヌヘニアシヒキノ》、又|邊左男鹿者《サキタルヌヘニサヲシカハ》、又|咲有野邊日晩之乃《サキタルヌヘニヒグラシノ》、十一に、谷邊蔓《タニヘニハヘル》、十二に、京師邊君者去之乎《ミヤコヘニキミハイニシヲ》、十九に、可蘇氣伎(292)野邊《カソケキヌヘニ》遙々爾《ハロ/”\ニ》など猶甚多し、(但しこれらの邊は、ヘン〔二字右○〕の字音をヘニ〔二字右○〕に假たるにて、集中に黄土《ハニ》紛《フニ》、また爾故余漢《ニコヨカニ》、また、今夕彈《コヨヒダニ》、また湯鞍干《ユクラカニ》など書たる類なるべし、とおもひしはあらぎりけり、)○大伴乃《オホトモノ》、この枕詞の意、上にくはしくいへり、○御津乃濱松《ミツノハママツ》は、待といはむとて云るなり、十五に、奴婆多麻能欲安可之母布禰波許藝由可奈美都能波麻未都麻知故非奴良武《ヌバタマノヨアカシモフネハコギユカナミツノハママツマチコヒヌラム》とよめり、○歌(ノ)意は、本郷(ノ)人は、けふか/\と待々て、戀しく思ふらむぞ、事し竟らば、早く大和(ノ)國の方に向て歸らむ、いざ/\諸人等よとなり、
 
太上天皇《オホキスメラミコトノ》。幸《イデマセル》2于|紀伊國《キノクニヽ》時《トキ》。調首淡海作歌《ツキノオビトアフミガヨメルウタ》。
 
此處に、右の題詞なくして、上の巨勢山乃《コセヤマノ》云々の歌の前に、大寶元年辛丑秋九月、太上天皇幸2于紀伊國1時歌、と記せるは、甚《イタ》く錯亂《ミダレ》たるよし、上に委(ク)辨へたるが如し、故(レ)今は正しつ、○幸2于紀伊國(ニ)1は、續紀に、文武天皇大寶元年九月丁亥、天皇幸2紀伊國(ニ)1、冬十月丁未、車駕至(リマス)2武漏(ノ)温泉(ニ)1、戊午、車駕自2紀伊1至(リマス)とあり、九(ノ)卷に、大寶元年辛丑冬十月、太上天皇大行天皇、幸2紀伊國(ニ)1時歌云々と見ゆ、大行天皇は文武天皇の御事にて、其は崩(リ)坐て、未(タ)御謚名《ノチノミナ》奉らざりしほどに、其(ノ)幸《イデマシ》のことを記せるゆゑ、大行とは書るなるべし、さて九(ノ)卷に冬十月とあるは、既く紀伊(ノ)國に至らせ賜ひての歌どもなれば、季月たがへるに非ず、かくて九(ノ)卷によるに、持統天皇と文武天皇と、共に幸《イデマ》し賜へるを、此處には天皇を脱し、續紀には太上天皇を漏せるなるべし、○淡海は、(293)天武天皇(ノ)紀に、元年六月辛酉朔甲申、是日|發途《タチテ》入(リタマフ)2東國(ニ)1、是時元(ヨリ)從(ヘル)者《ヒト》云々、調(ノ)首淡海之|類《トモガラ》二十有餘人、云々、續紀に、和銅二年正月丙寅、五六位上調(ノ)連淡海(ニ)授2從五位下(ヲ)1、同六年四月乙卯、授2從五位上(ヲ)1、養老七年正月丙子、授2正五位上(ヲ)1などあり、續紀によれば、後に連の姓になれるを、未(タ)連(ノ)姓を賜はらぬ前なれば、首と書るなり、
 
55 朝毛吉《アサモヨシ》。木人乏母《キヒトトモシモ》、亦打山《マツチヤマ》。行來跡見良武《ユキクトミラム》。樹人友師母《キヒトトモシモ》。
 
朝毛吉《アサモヨシ》は、枕詞なり、二(ノ)卷四(ノ)卷九(ノ)卷十三等にも見えたり、宮地(ノ)春樹翁(ノ)説に、朝毛は麻裳《アサモ》、吉は助辭にて、麻裳を著《キ》とつゞけたる枕詞なるべし、と云るぞよき、已く谷川士清も、集中に麻衣きればなつかしとよめれば、四(ノ)卷に、麻裳吉《アサモヨシ》と書るが正義なるべしと云り、(冠辭考の説は謂れたらず、)九(ノ)卷に、直佐麻乎裳者織服而《ヒタサヲヲモニハオリキテ》云々、とあるをも考(ヘ)合(ス)べし、吉てふ助辭は、集中に玉藻吉《タマモヨシ》、眞管吉《マスゲヨシ》、愛伎與之《ハシキヨシ》など多く云る、吉と同じ、又|打麻八爲《ウチソヤシ》、縱惠八師《ヨシエヤシ》などいふ、八師《ヤシ》も同じ、(吉(ノ)字の意と思ふは甚惡し、)○木人乏母《キヒトトモシモ》、木人は(伐比等《キヒト》と清て唱ふべし、伐倍比等《キヘヒト》など清て唱(フ)例なればなり、)紀伊人なり、紀伊(ノ)國をも、本は木(ノ)國と書り、乏はうらやましなり、上に云り、母は歎く意の助語なり、○亦打山《マツチヤマ》(亦(ノ)字、舊本赤に誤、類聚妙古寫本等によりつ、)は、亦打と書るは、多宇《タウ》の切|都《ツ》なれば、戯てかく借(リ)て書るのみにて、實は眞土山《マツチヤマ》なり、この山は大和(ノ)國に在て(新古今集に、能宣(ノ)朝臣、大和(ノ)國眞土山近く住ける、女の許に云々とあり、)紀伊へ通ふ路にて、名高き山なり、(294)四(ノ)卷に、眞土山越良武公者黄葉乃散飛見乍《マツチヤマコユラムキミハモミヂバノチリトビミツヽ》、親吾者不念草枕客乎便宜常思乍公將有跡《シタシケクアヲバオモハズクサマクラタビヲヨロシトオモヒツヽキミハアラムト》とも見えて、其(ノ)山のけしきの、可賞《オモシロ》き事思ふべし、○好來跡見良武は、カヨフトミラム〔七字右○]とも訓べけれども、猶こゝはユキクトミラム〔七字右○]と訓べし、ユキク〔三字右○〕は行とても來とてもの義なり、跡《ト》は登?《トテ》の跡《ト》なり、○尾句は、第二句を反覆《カヘサヒ》いひて、その深切《フカ》き意を述たるなり、古歌に例多し、○歌(ノ)意は、幸《イデマシ》の大御供なれば、あくまで愛居る事も叶はねば、眞土山のけしきの、おもしろきを見捨て、過行ことの惜きにつけて、此(ノ)紀伊(ノ)國人の、常に行來に見らむが、さてもうらやましやとなり、
 
二年壬寅《フタトセト云トシミヅノエノトラ》。太上天皇《オホキスメラミコトノ》。幸《イデマセル》2于|參河國《ミカハノクニヽ》1時歌《トキノウタ》。
 
幸2于參河國(ニ)1の事、續記に、大寶二年冬十月乙未朔丁酉、鎭2祭諸神(ヲ)1、爲v將v幸(ント)2參河(ノ)國(ニ)1也、甲辰、太上天皇幸2參河(ノ)國(ニ)1、行々所2經過(スル)1、尾張美濃伊勢伊賀等(ノ)、國郡(ノ)司及百姓、敍v位(ヲ)賜v禄(ヲ)各有v差、十一月丙子朔戊子、車駕至v自2參河1と見ゆ、
 
57 引馬野爾仁保布榛原《ヒクマヌニニホフハリハラ》。入亂《イリミダレ》。衣爾保波勢《コロモニホハセ》。多鼻能知師爾《タビノシルシニ》。
 
引馬野《ヒクマヌ》は、遠江(ノ)國敷智(ノ)郡なり、阿佛尼(ノ)記に、今の濱松の驛を、引馬の驛といへり、此(ノ)野は今三方が原といふとぞ、金葉集に、春霞立隱せども姫小松引馬の野邊に吾は來にけり、さて此(ノ)度參河(ノ)國へ幸《イデマ》しゝ事なるに、遠江にてよめる歌を載たること、いぶかしかれど、集中に難波へ幸《イデマ》(295)せる時、河内和泉の歌もあるごとく、其(ノ)隣國へは、ついでに幸《イデマ》せる事もあり、又官人の行いたる事も有し故なり、今もその如く心得べきよし、はやく岡部氏云たる、さることなり、しかのみならず、此(ノ)度の參河(ノ)國行幸の行宮は、何處なりけむ詳ならねば、遠江(ノ)國近きあたりに、ありけむも知べからず、かくて引馬野は、東西廣くわたれる野にて、その西北は、參河に、さばかり遠からぬよしなれば、ついでに幸しゝも知べからず、又從駕の列《ツラ》なりし人の、しばしのいとまたまはりて、行て見て、よみしもはかるべきにあらずなむ、○仁寶布榛原《ニホフハリハラ》は、仁保布《ニホフ》とは、色の染りて光映《ハエ》あるをいふ、十(ノ)卷に、朝露爾染始秋山爾《アサツユニニホヒソメタルアキヤマニ》云々、榛原はハリハラ〔四字右○〕と訓べし、(且《マタ》十四に、波里波良《ハリハラ》と假字書あるによりて、清て唱ふべし、)榛の事は品物解にいふべし、○入亂《イリミダリ》は、入てまじはることなり、○衣爾保波勢《コロモニホハセ》は、衣にほはせよなり、衣にはほすとは、衣を摺(リ)て色に染《ソマ》するをいふ、十卷に、吾背兒我白細衣徃觸者應染毛黄變山可聞《ワガセコガシロタヘコロモユキフラバニホヒヌベクモモミツヤマカモ》とあり、さてこゝは、同じ旅行どちの人の中へ、いひ令《オホ》せたるなり、○多鼻能知師《タビノシルシ》は、旅を爲《セ》る補益《シルシ》にと云ことなり、(こゝは俗に、旅の得分にといはむがごとし、)垂仁天軋紀に何益《ナニノシルシカアラム》、三(ノ)卷に、獨爲而見知師無美《ヒトリシテミルシルシナミ》、又|後雖悔驗將有八方《ノチニクユトモシルシアラメヤモ》、又|雖戀效矣無跡《コフレドモシルシヲナミト》、四(ノ)卷に、雖嘆知師乎無三《ナゲケドモシルシヲナミ》、又|雖念知信裳無跡《オモヘドモシルシモナシト》、又|後雖云驗將在八方《ノチニイフトモシルシアラメヤモ》、十八に、安須古要牟夜麻爾奈久等母之流思安良米夜母《アスコエムヤマニナクトモシルシアラメヤモ》、などあるも皆同意なり、又|情毛志流久《コヽロモシルク》などもはたらけり、(たゞ印《シルシ》といふことゝ見ては、ことたらず、)○歌(ノ)意は、人の見て、旅(296)行せし益《シルシ》ありといはむばかりに、この引馬野に、染《ニホ》ふ榛原に入まじはりて、其方《ソコ》の白細衣を、色どり染《ソメ》よとなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。長忌寸奧麻呂《ナガノイミキオキマロ》。
 
奧麻呂は、紀中に見えず、傳考(フ)る所なし、二(ノ)卷三(ノ)卷に意寸麻呂、十六に、意吉麻呂とあり、
 
58 何所爾可《イヅクニカ》。船泊爲良武《フナハテスラム》。安禮乃崎《アレノサキ》。榜多味行之《コギタミユキシ》。棚無小舟《タナナシヲブネ》。
 
船泊《フナハテ》は、舟の行到(ル)をいふ、○安禮乃崎《アレノサキ》(崎(ノ)字、類聚抄古寫本等に埼と作り、)は、いづくにや、(和名抄に、美濃(ノ)國不破(ノ)郡荒崎見えたれば、それならむかといふ説あり、此(ノ)度の幸に、美濃(ノ)國を經賜へるよし、續紀に見えて、題の下に引たる如くなれば、さることにもあらむか、且《マタ》美濃は海なき國なれど、荒崎は江河に隣《トナ》れる地ならむには、其邊を、小舟の漕めぐれるさまを見て云るにて、大船ならねば、かならず海ならでもあるべしともいふべけれど、なほおぼつかなきことなり、その由は、荒崎は、アラサキ〔四字右○〕と呼《イヒ》しとおぼえ、安禮乃崎《アレノサキ》は、安禮《アレ》といふ地の岬なるべければなり、)猶よく尋ねべし、○榜多味《コギタミ》は、榜回なり、○棚無小舟《タナナシヲブネ》は、和名抄に、※[木+世](ハ)、大船(ノ)旁板也、不奈太那《フナダナ》とありて、小舟には、其(ノ)※[木+世]なければしかいふ、(古今顯注に、舟棚はせかいとて、舟の左右のそばに、縁の樣に板を打つけたるなり、それを蹈ても行なりとあり、小舟は、袁夫禰《ヲブネ》と濁りて唱(フ)例なり、)○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
(297)右一首《ミギノヒトウタハ》。高市連黒人《タケチノムラジクロヒト》。
 
黒(ノ)字、類聚抄に里と作るは誤なり、
 
59 流經《ナガラフル》。妻吹風之《ユキフクカゼノ》。寒夜爾《サムキヨニ》。吾勢能君者《ワガセノキミハ》。獨香宿良武《ヒトリカヌラム》。
 
流經は、ナガラフル〔五字右○]と調べし、流《ナガル》るの伸りたるなり、(經はフル〔二字右○〕の假字、)ラフル〔三字右○〕はルヽ〔二字右○〕と約れり、(ラフ〔二字右○〕の切ル〔右○〕となれり、)十(ノ)卷に、卷向之檜原毛未雲居者子松之末由沫雪流《マキムクノヒハラモイマダクモヰネバコマツガウレユアワユキナガル》とあり、流《ナガル》は、零《フル》ことなり、さて流《ナガル》を伸て流經《ナガラフル》といへるは、絶ず引つゞきて、長《ノドカ》に零(ル)よしなり、下に浦佐夫流情佐麻禰之久堅乃天之四具禮能流相見者《ウラサブルコヽロサマネシヒサカタノアメノシグレノナガラフミレバ》とあるに同じ、○妻は、雪(ノ)字の誤ならむと荒木田氏云り、さもあるべし、しかする時は、發句よりのつゞきもよくきこゆ、○歌(ノ)意かくれなし、十月にいでまして、十一月にかへらせ賜へば、その間女王の京に在て、夫(ノ)君の旅宿を、ふかく思《オホ》しやり賜ふ心あはれなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。譽謝女王《ヨサノオホキミ》。
 
譽謝(ノ)女王は、續紀に、慶雲三年六月丙申、從四位下與射(ノ)女王卒と見ゆ、本居氏、凡て某(ノ)女王と、名の下に着たる女王は、ヒメミコ〔四字右○〕とは訓べからず、さては内親王と別《ワキダメ》なし、又ヒメオホキミ〔六字右○]とはいふべくもあらず、さればたゞオホキミ〔四字右○〕と訓べし、古事記などには、男女共に某(ノ)王と記して、某(ノ)女王といへることなし、これ古(ヘ)なり、然るを女をば女王と書(ク)は、たゞ字面のうへの別《ワキダメ》に(298)こそあれ、奈良のころとても、なほ口語には、女王をもたゞ某|乃於保伎美《ノオホキミ》とぞいひつらむと云り、なほ上額田(ノ)王の下にも云るを考(ヘ)合(ス)べし、○右(ノ)歌は、女王の京に留りて作《ヨミ》たまへるなり
 
60 暮相而《ヨヒニアヒテ》。朝面無美《アシタオモナミ》。隱爾加《ナバリニカ》。氣長妹之《ケナガキイモガ》。廬利爲里計武《イホリセリケム》。
 
朝面無美《アシタオモナミ》は、俗に朝に面目の無さにといふがごとし、交接《アヒ》たるその朝《ツト》めて、羞《ハヂ》らひて面隱《オモガクシ》するよしもて、隱《ナバリ》の序とせり、隱《カク》るゝことを、古言に那婆流《ナバル》とも那麻流《ナマル》とも云ればなり、八(ノ)卷に、暮相而朝面羞隱野乃芽子者散去寸黄葉早續《ヨヒニアヒテアシタオモナミナバリヌノハギハチリニキモミチハヤツ》也とあり、○隱は、ナバリとよみて、伊賀(ノ)國名張(ノ)郡なり、既く出づ、此(ノ)度の幸に、伊賀(ノ)國を經賜ふよし續紀に見えたり、題の下に引る如し、○氣長妹之《ケナガキイモガ》は、日月《ツキヒ》久しく間《ヘダヽ》りて、逢ぬ妹がと云が如し、氣長《ケナガキ》とは日月《ツキヒ》久しき間を云り、この氣《ケ》は來經《キヘ》の切りたる言なるよしなど、古事記傳に甚詳なり、妹は此(ノ)度の幸の從駕の女房の中に、皇子のさし賜へる人にて、京より思ほしやり賜ふなり、○廬利《イホリ》は、即(チ)廬《イホ》にて、假に設け造りたる屋《ヤ》を云、もとは伊保《イホ》なるを、伊保利《イホリ》、伊保留《イホル》と活用して云るを、やがて又體に伊保利《イホリ》とも云るなり、(この廬利《イホリ》を、則(チ)行宮の事と解來れるは、甚非なり、行宮の傍に造れる廬のよしなり、あなかしこ、天皇命の大所坐《オホマシマス》宮をしも、伊保利《イホリ》などゝはいふべきことかは、)御歌(ノ)意は、旅に別れて、日月久しく相見ざる妹は、もしは今夜などは、伊賀(ノ)國名張の里に、廬造りて旅宿すらむか、いかに京のうちを戀しく思ふらむと、女房の行程をおぼしやり、さま/”\御心をくるしめ(299)給ふよしなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。長皇子《ナガノミコ》。
長(ノ)皇子は、天武天皇(ノ)紀に、二年正月、云々、次妃大江(ノ)皇女、生3長(ノ)皇子與(ヲ)2弓削(ノ)皇子1、持統天皇(ノ)紀に、七年正月辛卯朔壬辰、以2淨廣貳(ヲ)1、授3皇子長與(ニ)2皇子弓削1、續紀に、慶雲元年正月丁酉、二品長(ノ)親王、益2封二百戸(ヲ)1、和銅七年正月壬戌、益2封二百戸(ヲ)1、靈龜元年六月甲寅、一品長(ノ)親王薨、天武天皇第四之皇子也とあり、また神護元年十月庚辰、從三位廣瀬(ノ)女王薨、二品那我(ノ)親王之女也(二は一(ノ)字を誤れるか、)とあり、これ長をナガ〔二字右○〕とよむべき證なり、○右(ノ)御歌も、皇子の京に在てよみ賜ふなり、
 
61 大夫之《マスラヲガ》。得物矢手挿《サツヤダハサミ》。立向《タチムカヒ》。射圓方波《イルマトカタハ》。見爾清潔之《ミルニサヤケシ》。
 
大夫と書て、集中の例マスラヲ〔四字右○〕とよむことこと既くいへり、(大(ノ)字、類聚抄には丈と作り、さて原《モト》は皆丈なりけむなるべけれども、今こと/”\に然は改めがたし、また大夫とあるは、大丈夫の丈(ノ)字を略きて書るものなりとも云り、)○得物矢手挿はサツヤダハサミ〔七字右○]と訓べし、二(ノ)卷六(ノ)卷にも、得物矢《サツヤ》と書り、得物は義を得て書るなるべし、廿(ノ)卷に、佐都夜《サツヤ》、又五(ノ)卷に、佐都由美《サツユミ》あり、又三(ノ)卷に、山能佐都雄《ヤマノサツヲ》、十(ノ)卷に、薩雄《サツヲ》、又|佐豆人《サツヒト》などあり、佐都《サツ》といふ義は、古事記傳、海佐知毘古《ウミサチビコ》山佐知毘古《ヤマサチビコ》とある下《トコロ》に云、海佐知《ウミサチ》山佐知《ヤマサチ》は、書紀に、海幸《ウミサチ》山幸《ヤマサチ》と書て、幸此云2左知《サチト》1あれども、幸(300)の意のみには非ず、佐知《サチ》は幸取《サキトリ》にて、伎《キ》を省き登埋《トリ》を切めて知《チ》と云なり、さてまづ幸《サキ》とは、凡て身のために吉き事を云、此にては、海にて諸魚を得を海佐伎《ウミサキ》と云、山にて諸獣を得るを山佐伎《ヤマサキ》と云、凡て物を得るは、身のために吉事なる故に幸《サキ》と云なり、さて其(ノ)海山の佐伎《サキ》を取給ふを以て、幸取彦《サキトリヒコ》と申せるなり、次の文に、取2鰭(ノ)云々《ヲ》1取2毛(ノ)云々(ヲ)1、とある取を思ふべし、佐都矢《サツヤ》などの佐都《サツ》も、佐知《サチ》と同じとあり、手挿は、(十六に、梓弓八多婆佐彌比米加夫良八多婆左彌《アヅサユミヤツタバサミヒメカブラヤツタバサミ》と有は、つゞけ樣かはれり、(廿(ノ)卷に、伊乎佐太波佐美《イヲサタハサミ》とあるによりて(太《ダ》を濁り波《ハ》を清て)訓べし、太《ダ》を濁るは、多婆佐美《タバサミ》といふべきを、婆《バ》の濁音を上へうつして云古語の一(ノ)例にて、其は古事記傳(ニ)云、建日向日豐久士比泥別《タケヒムカヒトヨクジヒネワケ》、名(ノ)義は、云々、久志比《クジヒ》は奇靈《クシビ》なり、さて士比《ジヒ》の清濁のこと、士《シ》を清|比《ヒ》を濁りて、志備《シビ》と讀べき言なるに、士比《ジヒ》と書るは、彼(ノ)※[木+患]觸《クシブル》之峯をも、此記には久士布流多氣《クジフルタケ》と書るを合せて思ふに、奇《クシ》を久志備《クジビ》とも久志夫流《クシブル》ともいふときは、古(ヘ)は音便にて清濁互に變りて久志比《クシヒ》とも久士布流《クジフル》とも云しなるべし、かゝる例他にもあり、朝倉(ノ)宮(ノ)段の歌に、日影《ヒカゲ》るを比賀氣流《ヒガケル》とよみ、萬葉十九に、夜降爾《ヨクダチニ》を夜具多知爾《ヨグタチニ》とよみ、馬多藝行《ウマタギユキ》てを馬太伎由吉弖《ウマダキユキテ》、とよめるなど是なりとあり、こゝも其(ノ)例なり、又書紀神代下卷に、大葉刈《オホハガリ》とありて、訓註に、刈此云2我里《ガリト》1と見えたるを、古事記には大量《オホバカリ》と作り、(量は波我里《ハガリ》とはいふまじければ、これも我《ガ》の濁音を上へうつして、於保婆可里《オホバカリ》といへるなることしるし、)又書紀同卷に、大鈎《オホヂ》とあるを(301)古事記に淤煩鈎《オボチ》と書り、(これも同じ例なるべし)又里人は、佐刀妣等《サトビト》と妣《ビ》を濁る例なるを、(古事記書紀集中皆然なり、)十三に、散度人《サドヒト》、九(ノ)卷に、惑人《サドヒト》、十卷に、惑者《サドヒト》(古語に、惑《マドフ》を佐度布《サドフ》といふ故に借(リ)て書り、故(レ)佐度比等《サドヒト》と訓、)などあるも、妣《ビ》の濁音を上へうつしてかく云るなり、此(ノ)外にも意を付て見ば猶あるべし、○射流圓方波《イルマトカタハ》、(波(ノ)字、拾穗本には者と作り、)射流《イル》といふまでは的形《マトカタ》をいはむ爲の序辭なり、圓方は、伊勢(ノ)國風土記に、的形浦《マトカタノウラ》者、此(ノ)浦地形似(ガ)v的(ニ)故以《ユエニ》爲v名、今(ハ)已《ソノ》跡絶(テ)成(レリ)2江湖(ト)1也、天皇行2幸(シテ)浦邊(ニ)1歌云、麻須良遠能佐都夜多波佐美牟加比多知伊流夜麻度加多波麻乃佐夜氣佐《マスラヲノサツヤダハサミムカヒタチイルヤマトカタハマノサヤケサ》とあり、又神名帳に伊勢(ノ)國多氣(ノ)郡|服部麻刀方《ハトリマトカタノ》神社ともあり、○歌(ノ)意かくれなし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。舍人娘子從駕作《トネリノイラツメガオホミトモツカヘマツリテヨメル》。
 
舍人娘子は、傳詳ならず、舍人は氏なるべし、二(ノ)卷に、舍人皇子とよみかはせし歌あり、娘子は、こゝはイラツメ〔四字右○〕と訓べし、凡て氏の下に、娘子郎女女郎〔頭註、女郎、古者婦女通稱(三體詩注)孃子など有は、皆イラツメ〔四字右○〕と訓例なり、景行天皇(ノ)紀に、郎姫此云2異羅菟※[口+羊]《イラツメ》1、とあり、天智天皇(ノ)紀に、伊羅都賣《イラツメ》、古事記に、河上之麻須(ノ)郎女《イラツメ》、又同記に、長田(ノ)大郎女《オホイラツメ》、(書紀には、名形(ノ)大娘(ノ)皇女と書り、)又春日(ノ)大郎女、(書紀には、春日(ノ)娘子と書り、)續紀廿(ノ)卷に、藤原(ノ)伊良豆賣《イラツメ》などあり、(又舒明天皇(ノ)紀に、郎媛《イラツメ》、孝徳天皇(ノ)紀に、娘子《イラツメ》などあり、)さて男に郎子《イラツコ》、女に郎女《イラツメ》と云り、此(ノ)伊羅《イラ》は伊呂兄《イロセ》伊呂弟《イロト》などの伊呂《イロ》、又|入彦《イリヒコ》入姫《イリヒメ》などの入《イリ》と皆同言にして、親《ミ》愛しみて云稱なりと本居氏云り、都《ツ》は助(302)辭なり、(又末(ノ)珠名娘子《タマナヲトメ》、眞間娘子《マヽヲトメ》などの如く、字《アザナ》の下、處(ノ)名の下などにある娘子は、皆ヲトメ〔三字右○〕と訓例なり、猶そのことは下にいふべし、
 
慶雲三年丙午《キヤウウムミトセトイフトシヒノユウマ》。幸《イデマセル》2于|難波宮《ナニハノミヤニ》1時歌〔○で囲む〕《》トキノウタ。
 
幸2于難波(ノ)宮(ニ)1は、續紀に、慶雲三年九月丙寅、行2幸難波(ニ)1、十月壬午、還(リマス)v宮(ニ)と見えたり、○歌(ノ)字、舊本《モトツマキ》になし、目録によりて補《クハ》へつ、
 
 
64 葦邊行《アシヘユク》。鴨之羽我比爾《カモノハガヒニ》。霜零而《シモフリテ》。寒暮者《サムキユフヘハ》。倭之所念《ヤマトシオモホユ》。
 
葦邊《アシヘ》(邊の言清て唱(フ)べし、説委く上に出せり、但し十五に、安之辨《アシペ》と書るは正しからず、然るを石塚氏が古言清濁考に、濁る言に定めしは誤なり、)は、葦の生たる方を云、○鴨之羽我此爾《カモノハガヒニ》云云は、飛鳥の毛羽にさへ霜のふりて、いたく寒(キ)夜のさまなり、羽我比《ハガヒ》は羽衣《ハガヒ》にて、羽の打交ひたる所を云が本にて、こゝはなべての羽翼を謂(ヘ)り、○寒暮者(者(ノ)字、舊本に夕と作るは、者の誤なるよし、既く略解にも云り、今改めつ、)は、サムキユフヘハ〔七字右○〕なり、○倭之所念《ヤマトシオモホユ》、(倭(ノ)字、舊本《モトツマキ》に誤て和と作り、これも略解の考によりてかく改めつ、倭(ノ)字を和に寫し誤れること、古書に例多し、)七(ノ)卷に、若浦爾白浪立而奧風寒暮者山跡之所念《ワカノウラニシラナミタチテオキツカゼサムキユフヘハヤマトシオモホユ》、とあるを思(ヒ)合(ス)べし、之《シ》はその一すぢにおもはるゝをいふ助辭なり、三(ノ)卷にも、日本師所念《ヤヤトシオモオユ》とあり、○御歌(ノ)意は、難波江の葦方《アシヘ》をさして、飛わたる鴫の羽翼《ハガヒ》にさへ霜の降置て、いたく寒(キ)夜は、旅宿に堪がたくて、いとゞ本郷の方の、一(ト)(303)すぢに戀しくおもはるゝとなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。志貴皇子《シキノミコ》。
 
65 霰打《アラレウチ》。安良禮松原《アラレマツハラ》。住吉之《スミノエノ》。弟日娘與《オトヒオトメト》。見禮常《ミレド》。不飽香聞《アカヌカモ》。
 
霰打《アラレウチ》は、安良禮松原《アラレマツバラ》と疊云たる枕詞なり、(此(ノ)時九十月の頃なれば、御まのあたり霰のふりけるを、やがて枕詞におかせ給へるなるべし、)打《ウツ》とは、霰の降(ル)は物に打(チ)附るやうなれば云(ヘ)り、古事記輕(ノ)太子(ノ)御歌にも、佐々婆爾宇都夜阿良禮能《サヽバニウツヤアラレノ》云々とあり、○安良禮松原《アラレマツバラ》は、安良禮は、地(ノ)名にて、そこの松原なるべし、攝津志に、霰松原、在2住吉(ノ)安立町(ニ)1、林中有2豐浦(ノ)神社1と見えたり、(玄與日記に、慶長二年三月一日、伏見江より船に乘て、大阪へ着侍りぬ云々、三日、すみよしの鹽干を見物申侍るなり、住吉の行あひの間ほそ江あられ松原津寺遠里小野など見侍りぬ、と見えたり、)日本紀略に、延喜三年癸亥五月十九日、授2攝津(ノ)國荒々神(ニ)從五位下(ヲ)1とあるは、こゝの安良禮《アラレ》と同(シ)地なるべし、又姓氏録攝津(ノ)國諸蕃に、荒々《アラ/\ノ》公(ハ)、任那(ノ)國豐貴(ノ)王之後也とあるも、この地(ノ)名によれる姓なるべし、(書紀神功皇后卷に、鳥智簡多能阿邏々摩菟麼邏摩菟麼邏珥和多利喩祇弖《ヲチカタノアラヽマツバラマツバラニワタリユキテ》とあるは、地(ノ)名にはあらで、山城の宇遲川の彼方に、踈々《アラ/\》と立たる松原の事にて、こゝの安良禮松原《アラレマツバラ》とはたがへるなるべし、○住吉之は、スミノエノ〔五字右○〕と訓べし、和名抄に攝津(ノ)國住吉(ノ)郡|須三與之《スミヨシ》とあるは、文字につきて後に唱へ誤れるものにて、奈良(ノ)朝の比までは須美能(304)延《スミノエ》とのみいひしなり、(古今集に、住よしとあまはつぐともながゐすな、といふ歌あれば、その前後より住與之《スミヨシ》とは云そめしなるべし、)攝津風土記に、所3以《ヨシ》稱《イフ》2住吉《スミノエト》1者《ハ》、昔息長足比賣(ノ)天皇(ノ)世、住吉(ノ)大神現出而巡2行天(ノ)下(ヲ)1、覓2可v住國(ヲ)1時、到2沼名椋之長岡之《ヌナクラノナガヲノ》前(ニ)1、乃謂2》斯實可v住之國(ソト)1、遂(ニ)讃稱之、云2眞住吉之《マスミノエノ》國(ト)1、乃是定2神(ノ)社(ヲ)1、今俗略v之直稱2須美乃叡《スミノエト》1とあり、○弟日娘與《オトヒヲトメト》は、弟日《オトヒ》とは、娘子《ヲトメノ》の字《ナ》なるべし、(岡部(ノ)氏考に、弟日は、後(ノ)世に、兄弟のことを、おとゞいといふと同じくて、こゝも兄弟の遊行女婦がまゐりしをもて、かくよみ賜ふならむといへれど、兄弟をおとゞいといふは、弟與兄《オトトエ》といふことにて異《カハ》れり、且《マタ》書紀顯宗天皇(ノ)卷に倭者彼々茅原淺茅原弟曰僕《ヤマトハソヽチハラアサチハラオトヒヤツコ》是也とあるを引たれども、そはたゞ弟の義なるをや、其(ノ)故は天皇龍潜のむかし、播磨(ノ)國におはしまして、縮見(ノ)屯倉(ノ)首(カ)家に會《ツド》へる夜、天皇殊※[人偏+舞]《タツヽマヒ》を作《ナシ》たまふ時。詰之曰《タケビタマハク》、倭者云々とありて、顯宗天皇は、仁賢天皇の御弟にておはします故に、御みづから弟日僕とはのたまへるにて知べし、○今按(フ)に、兄弟をおとゞいと云ること阿佛尼が十六夜日記に見ゆ、そのころよりもはらいへる言か、中務内侍日記に、とくせむおとらぬおとゞい、平家物語に、京中に聞えたる白拍子の上手、岐王岐女とておとゞい有(リ)とも見ゆ乳母《メノト》のさうしに、御うはがきの事、昔(シ)は大かた吾(カ)身同輩にも、又はおとゞいなどにも、參とかき申候ともあり、)これは住吉人なるべし、即(チ)上に清江娘子《スミノエヲトメ》とあかと、同人にてもあるべし、與《ト》は七(ノ)卷に、佐保河之清河原爾鳴知鳥河津跡二忘金津毛《サホカハノキヨキカハラニナクチトリカハツトフタツワスレカネツモ》、(305)とある跡《ト》に同じく、松原とをとめと、ふたつならべてみれど、あかぬといふ意なり、○見禮常不飽香聞《ミレドアカヌカモ》は、松原の風景《タヽズマヒ》と、娘子の可愛《カナシキ》と並て見れども/\いつれ氣《ケ》おされずして、あき足ぬ事哉となり、香聞《カモ》は歎息の辭にて、上にたび/\出たり、○歌意は、大かたの松原のけしきにて、大かたのをとめのすがたならば、見るにあくよもあるべきに、見れども/\あきたらぬは、世にたぐひなき、松原とをとめとに有哉となり、をとめのすがたの世にすぐれたるを、この松原のけしきよきにたぐへてのたまへるなり、或説に、娘與《ヲトメト》の與《ト》は、とゝもにの意なるべし、娘と共に見れどもあかぬ事哉、とのたまへるなりと云り、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。長皇子《ナガノミコ》。
 
大行天皇《サキノスメラミコトノ》。幸《イデマセル》2于|難波宮《ナニハノミヤニ》1時歌《トキノウタ》。
 
大行天皇は、文武天皇なり、大行はサキと訓申べし、書紀持統天皇(ノ)卷に、大行《サキノ》天皇とあり、(續紀廿八詔に、御世御世乃先乃皇我御靈《ミヨミヨノサキノスメラガミタマ》云々とあるは、ひろく先代々《サキツミヨミヨ》の、天皇等をさして詔へるにて、今とは別なり、)さて大行とは、天皇崩(リ)まして、いまだ御謚《ノチノミナ》奉らぬ間に申す事なれば、(漢書音義に、大行(ハ)不v在之稱、天子崩未v有2謚號1、故稱2大行(ト)1、)大行天皇の幸と申ことはなき理なるを、ここにかく有は、慶雲四年六月、文武天皇崩(リ)まして、十一月に御謚奉りたるを、此(ノ)六月より十一月までの間に、前年の幸の時の歌を、傳聞《キヽツタ》へたる人の、かく録し置たるを其まゝこゝには載(306)しなり、次下に、大行天皇幸2吉野(ノ)宮(ニ)1と有(ル)も、これに准へて知べし、○幸2于難波(ノ)宮(ニ)1は、續紀に、文武天皇即位二年正月癸亥、是日幸2難波(ノ)宮(ニ)1、二月丁未、車駕至(リマス)v自2難波(ノ)宮1とあれど、慶雲三年九月丙寅、行2幸難波(ニ)1、十月壬午、還(リマス)v宮(ニ)と見えたる、この慶雲三年のなるべし、然れば前に慶雲三年丙午、幸2于難波宮1時歌と題《シル》せると同度なるに、かく別てしるせるはいかにといふに、前なるは當時《ソノカミ》に聞て書《シル》せるなるべく、後なるは崩(リ)坐て後、前年の幸の時の歌を、聞傳へてしるせるが故に、かく大行天皇と別て題《シル》せるにやあらむ、
 
71 倭戀《ヤマトコヒ》。寐之不所宿爾《イノネラエヌニ》。情無《コヽロナク》。此渚崎爾《コノスノサキニ》。多津鳴倍思哉《タヅナクベシヤ》。
 
倭戀《ヤマトコヒ》は、本郷の家を戀しく思ひての意なり、○寐之不所宿爾《イノネラエヌニ》は、宿《ネ》ても寐入(ラ)れぬものをの意なり、十五に、伊母乎於毛比伊能禰良延奴爾《イモヲオモヒイノネラエヌニ》云々と假字書あり、猶此(ノ)詞、集中にいとおほくして、擧つくしがたし、さて伊《イ》といふも禰《ネ》といふも、共に寢《ヌル》ことをいふ中に、伊《イ》は寢入(ル)こと、禰《ネ》は臥《ス》ことをひろく云り、されば伊《イ》といふは體語にのみ云て用《ハタラ》かず、(朝寐《アサイ》安寐《ヤスイ》長寐《ナガイ》味寐《ウマイ》などいふも皆體語なり、)禰《ネ》は那《ナ》とも奴《ヌ》とも多くはたらけり、(那須《ナス》、奴流《ヌル》など云たぐひなり、(故(レ)伊宿《イヌ》る、伊《イ》を宿《ネ》ず、伊《イ》を安く宿《ヌ》る、伊こそ宿《ネ》らえねなど多くいへり、○情無《コヽロナク》は、鶴の心せざるをいふ、上の三輪山の歌にあると同じ意なり、此(ノ)句は終の七言につゞけて心得べし、○此渚崎爾《コノスノサキニ》は、此《コノ》とは、この難波(ノ)宮に近きをいふ、渚(ノ)崎は難波江の渚のその崎を云、せめて此(ノ)宮より間遠き處(307)にてだに、なけかしと思ふ心なり、○多津鳴倍思哉《タヅナクベシヤ》とは多津《タヅ》は鶴なり、多豆《タヅ》といひ都流《ツル》と云も鳴(ク)聲によれる名なり、(後(ノ)世|多豆《タヅ》をば田鶴と書て、田に居る鶴のことゝ意得たるは非なり、)猶委しくは品物解に云べし、鳴倍思哉《ナクベシヤ》は、上の三輪山(ノ)歌に、數々毛見放武八萬雄情無雲乃隱障倍之也《シバ/\モミサカムヤマヲコヽロナククモノカクサフベシヤ》、といへるに語味同じ、哉《ヤ》は後(ノ)世の也波《ヤハ》の意なり、鶴のなくべき事かやといふこゝろなり、○歌(ノ)意は、さらぬだに家路の戀しくて、宿《ネ》ても寐入(ラ)れぬものを、此(ノ)近き渚の崎にて、斟酌もなく鶴のなくべき事かやとなり、鶴が音は物かなしくて、旅(ノ)愁をいとゞ催されて、いとはしさにかくはいへるなり、
 
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。忍坂部乙麻呂《オサカベノオトマロ》。
 
乙麻呂は、傳詳ならず、
 
72 玉藻苅《タマモカル》。奧敝波不榜《オキヘハコガジ》。敷妙之《シキタヘノ》。枕之邊《マクラノホトリ》。忘可禰津藻《ワスレカネツモ》。
 
玉藻苅《タマモカル》は、奧《オキ》といはむ料の枕詞なり、玉藻は上に出つ、さて奧《オキ》とは、上に對(ヘ)て底《ソコ》の方をも云(ヒ)、邊《ヘ》に對(ヘ)て遙なる方をも云ば、こゝは枕詞よりは、底(ノ)方につきていひかけ、うけたるうへにては邊をさかりたる澳の意なり、○奧敝波不榜《オキヘハコガシ》は、澳方《オキヘ》をば榜じの意なり、(奧敝《オキヘ》の敝《ヘ》は、此所《コヽ》へ行(ク)、彼處《カシコ》へ行のへにはあらずず、)波《ハ》は邊(ノ)方にわかちたる詞なり、不《ジ》とは未《ザル》v然《シカラ》をいふ詞なり、(俗言にまいといふに同じ、澳の方をばこぐまいといふことなり、)邊《ヘ》の方につきて、舟を榜むとおも(308)ふなり、舟ともいはで榜といふこと、古(ヘ)人のつねにて、咲《サク》とのみいひて花のこと、散《チル》とのみいひて紅葉のことゝなるにおなじ、○敷妙之《シキタヘノ》は、枕《マクラ》といはむ料の枕詞なり、集中に甚多し、敷妙は下(タ)に藉延《シキハフ》る布《タヘ》の義にて、寢衣《ヨルノコロモ》に多くいひかけたり、(なほ冠辭考にも説るがごとし、)さて其(レ)よりうつりて、袖とも枕とも床とも、夜具《ヨルノモノ》には多くつゞくるなり、(冠辭考に、敷は絹布の織目のしげき意なり、と云るはいさゝか違へり、○枕之邊《マクラノホトリ》(邊の下、古寫本拾穗本等に、人(ノ)字あるはいかゞあらむ、)は邊の方にたびねしたる、その枕のほとりといふなるべし、枕は古事記傳に、麻久良《マクラ》は纏座《マキクラ》なり、伎久《キク》の切|久《ク》なれば、、麻久良《マクラ》といへり、凡て何にまれ、物を居る具を座《クラ》と云、枕は物を纏て、頭を居る座《クラ》とせるよしの名なり、と云るがごとし、但し物を纏て云々と云るは、いかゞあらむ、纏は即(チ)頭を着るよしの名とこそおもほゆれ、されば枕と纏《マキ》てなども云り、凡て何にても身に着副《ツク》るを、麻久《マク》とはいふなるべし、手を麻久《マク》、袖を麻久《マク》などいふにても意得べし、邊はホトリ〔三字右○〕と訓べし、(舊來アタリ〔三字右○〕と訓るはわろし、邊(ノ)字アタリ〔三字右○〕と訓こと、集中に例なし、)其(ノ)近(キ)邊をいふ、○忘可禰津藻《ウスレカネツモ》は、忘れむとすれど、不《ズ》2得忘《エワスレ》1といふ意なり、可禰《カネ》は、すべてしかせむと思ふ心の勝(ヘ)ずして、つひにその本意を得ざるをいふ言なり、忘(レ)かね思(ヒ)かねなどのかねに、不得不勝などの字を書るも、其(ノ)意なり、津《ツ》は結《トヂ》むる詞なり、沾《ヌラ》し津《ツ》暮し津《ツ》などの津《ツ》と同じ、上軍(ノ)王(ノ)歌に委(ク)云り、藻《モ》はなげきの意をふくかる助辭《タスケコトバ》なり、○歌(ノ)意は、旅宿《タビネ》せし浦の邊の、あ(309)かずおもしろくして、忘れむと思へど、つひに得忘れられねば、遙なる澳の方をばこがじとなり、或説に、玉藻かる澳の方に榜(ケ)ば、その玉藻のなびけるさまに、妹がねたりし姿のおもひ出らるれば、その思ひ出る心、やがて從駕の妨となりぬべし、されば此(ノ)後澳の方はこがじと、つゝしみをむねとよめるなりと云り、しかするときは玉藻苅といふこと、末までにかゝりて、即(チ)玉藻をかる海の澳を云るなり、又或説に、本郷にて、妹と共寢せし、枕の邊のわすれ難ければ、澳方に船浮て、船遊せむ事をも吾は思はず、といふなるべし、さてこゝは人のいざ澳方に船遊せむと誘ひしに、答へてよめるなるべしといへり、猶考(フ)べし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。式部卿藤原宇合《ノリノツカサノカミフヂハラノウマカヒ》。
 
目録には、作主未詳歌とありて、其(ノ)下に、式部卿藤原宇合とあり、按(フ)に、こゝも高安大島とある所にいへる如く、もとは右一首作主未詳、或云、式部卿藤原宇合とありけむを、目録にもこゝにも、互に文字を脱せるならむか、○宇合(ノ)卿は、天平九年に薨られたるよし續紀に見え、懷風藻に、此人の詩を載て、題下に年五十四とあるにより、逆推《サカカゾヘ》すれば、天武天皇十三年に生れらる、さて此(ノ)幸を慶雲三年とするときは、廿三歳の時なり、其(ノ)後靈龜二年に、正六位下にて遣唐副使と爲れしこと、續紀に始て見えたり、此(ノ)時二十歳に餘りたれど、いまだかろき官人などにて從駕《ミトモツカヘ》しなるべし、猶此(ノ)人の傳は三(ノ)上にいふべし、
 
(310)73 吾妹子乎《ワギモコヲ》。早見濱風《ハヤミハマカゼ》。倭有《ヤマトナル》。吾松椿《アヲマツノキニ》。不吹有勿勤《フカザルナユメ》。
 
吾妹子乎《ワギモコヲ》は、妹を早見むといふ意に、いひかけたる枕詞なり、○早見濱《ハヤミハマ》は、攝津(ノ)國の地(ノ)名なるべし、(豐後(ノ)國に速見(ノ)郡あり、攝津(ノ)國にもさる處あるにや、尋ぬべし、又は此(ノ)御歌、豐後(ノ)國におはしける事ありて、その時よませ給ひしを、傳へあやまりて、この幸の時のとしたるにも有べし、〉本居氏は、見濱《ミハマ》は御濱《ミハマ》にて、たゞ濱の事なるべし、御津《ミツ》御浦《ミウラ》などいへば、御濱ともいふべきなり、それを妹を早見むといひかけたるなりといへり、なほかむがふべし、○倭有《ヤマトナル》は、倭に在(ル)にて、本郷の家に在(ル)松(ノ)樹と詔へるなり、次の吾の言は、中にはさみてのたまへるなり、○吾松椿は、椿は樹(ノ)字の寫誤なるべし、と大神(ノ)景井いへり、こは實に然有けむ、松《マツ》椿《ツバキ》とは連(ネ)言べきにあらず、吾乎松樹《アヲマツノキ》とつゞけたること、集中にこれかれあり、さて松樹爾とありけむが、樹を椿に誤りて、マツツバキ〔五字右○〕とよめるにひかれて、爾(ノ)字をも、さがしらに削(リ)しなるべし、故(レ)今はアヲマツノキニ〔七字右○〕と訓つ、京なる妹が、吾を待(ツ)といふ意に詔へるなり、○不吹有勿勤《フカザルナユメ》は、ゆめ/\吹ずあるな、つとめて吹(ケ)といふ意なり、不吹有勿《フカザルナ》とは、ふくべきを吹ずにをることなかれ、といふ意なり、勿《ナ》はその事をやめさせむとする詞なり、由米《ユメ》は忌《イメ》にて、その忌《イム》とは、母物《モノゴト》を忌憚りて、何にても純一《ヒタスラ》につとめて、其(ノ)事《ワザ》をなすをいふ言にて、落る所は、勤《ツト》めててふことに聞ゆるなり、故(レ)集中に勤努力謹忌など書て、由米《ユメ》と訓(マ)しつ、_(字鏡に、※[(力/加)+(力/加)](ハ)由女々々《ユメユメ》、)○御歌(ノ)意は、早見の濱(311)風にあつらへて、やまとなるおのが家の園にたてる、家(ノ)妻が吾を待(ツ)といふ、名に負たる松の樹をゆめ/\吹ずにをる事なかれと宣へるなり、さるはこの寒さを家人にしらせて、此(ノ)さむき濱風に、いかに懷土《クニシノビ》の情たへがたく有らむと、家人におしはからせむとの御心なり、松(ノ)樹に吹は、やがて家人に燭(ル)ることわりなれば、かく宣へるなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。長皇子《ナガノミコ》。
 
大行天皇《サキノスメラミコトノ》。幸《イデマセル》2于|吉野宮《ヨシヌノミヤニ》1時歌《トキノウタ》。
 
大行天皇は、上に出たるに同じく文武天皇なり、○幸2于吉野宮1は、續紀を考(フ)るに、大寶二年七月丙子、天皇幸2吉野(ノ)離宮(ニ)1とあれど、其(ノ)度にはあらじ、此は右に慶雲三年九月、行2幸難波1、とある時の歌をしるせれば、此(ノ)幸は其(レ)より後、明年の春までにありけむを、紀には記し漏《モラ》されたるにあらむ、
 
74 見吉野乃《ミヨシヌノ》。山下風之《ヤマノアラシノ》。寒久爾《サムケクニ》。爲當也今夜毛《ハタヤコヨヒモ》。我獨宿牟《》アガヒトリネム。
 
山下風之は、ヤマノアラシノ〔七字右○〕と訓べし、集中に、山下阿下下風(八(ノ)卷に、山下風爾《アラシノカゼニ》、十三に、阿下乃吹者《アラシノフケバ》、十一に、下風吹禮波《アラシフケレバ》、)など書て、阿良志《アラシ》と訓り、和名抄に、孫※[立心偏+面](カ)云、嵐(ハ)山下(ヨリ)出(ル)風也、和名|阿良之《アラシ》、とある意によりて書りと見えたり、名(ノ)義は荒風《アラシ》なり、(十三に、荒風《アラシ》と書り、七(ノ)卷に、荒足《アラシ》と書るは借(リ)字のみ、)風を志《シ》といふは、風(ノ)神の名を志那都比古《シナツヒコ》と申す志《シ》、また都牟志《ツムシ》、また東風《コチ》疾風《ハヤチ》な(312)どいへる知《チ》も同じ、(志《シ》と知《チ》と通はし云ることは、古言に甚多し、)○寒久爾《サムケクニ》は、寒《サムケ》くあるにといふほどの意なり、後(ノ)世の詞にては、寒伎爾《サムケキニ》といふべきを、かくいへるは古言なり、(此(ノ)歌を拾遺集に載たるに、寒けきにとあるは、おとれり、詞花集に、淺茅生に置白露の寒けくに枯にし人のなぞや戀しき、とあるはよし、)かくいはざれば、下のあはれうすきをおもふべし、四(ノ)卷に、栲繩之永命乎欲苦波不絶而人乎欲見社《タクナハノナガキイノチヲホシケクハタエズテヒトヲミマクホリコソ》、九(ノ)卷に、筑波嶺乃吉久乎見者《ツクハネノヨケクヲミレバ》とある、欲苦も吉久もここの例に同じ、(景井云(ク)。吉久《ヨケク》は、與氣久阿留《ヨケクアル》の切りたる言が久阿留《クアル》の切(メ)久《ク》となれりと云り、しかするときは、寒久爾《サムケクニ》も寒氣久有爾《サムケクアルニ》の意、欲苦波《ホシケクハ》も欲氣久有者《ホシケクアルハ》の意なることさらなり、)○爲當也今夜毛《ハタヤコヨヒモ》は、波多《ハタ》はそのもと心に欲《ネガ》はず、厭《イト》ひ惡《ニク》みてあることなれど、外にすべきすぢなくて、止ごとなくするをいふ詞なり、(爲當の字に泥むべからず、此(ノ)字の事は次にいふべし、)さればこゝも、山(ノ)下風《アラシ》の甚《イタ》く塞くして、獨(リ)宿せらるべき夜ならねど、外にすべきすぢなく、止ごとを得ざる謂なり、四(ノ)卷に、神左夫跡不欲者不有八多也八多《カムサブトイナニハアラズハタヤハタ》(八也多八に誤、)如是爲而後二佐夫之家牟可聞《カクシテノチニサブシケムカモ》、(これもさぶさぶしく、心苦しくてあらむは、そのもと心に欲《ネガ》はぬことなれど、末遂むことのおぼつかなければ、如此|會《アヒ》て後に、かへりて物思ふことのまさりて、不樂《サブ》しからむか、さらばはじめより、會《アハ》ずてあらむかた、まされりとの謂なり、)六(ノ)卷に、竿牡鹿之鳴奈流山乎越將去日谷八君當不相將有《サヲシカノナクナルヤマヲコエユカムヒダニヤキミニハタアハザラム》、(これも君にあはずてあるは、そのもと心に欲《ネガ》はぬことな(313)れど、あふべきすぢなければ、唯獨のみ越行むかといへるなり、)十一に、人事之繁間守而相十方八反《ヒトコトノシゲキマモリテアヘリトモハタ》(反は多(ノ)字の誤、)吾上爾事之將繋《アガウヘニコトノシゲヽム》、(これも、人言の、繋ければ、あはで止べきなれど、さては得あらで、その人言の隙をうかゞひてあひたりとも、なほその隙を、うまくうかゞひ得ること協はずして、人にとにかくいひさわがれなむか、そのもと人言の繁さをば、厭ひ惡むことなれど、外にのがるべきすぢなければ、止ごとかたしとの謂なり、)十五に、伊能知安良婆安布許登母安良牟和我由惠爾波太奈於毛比曾伊能知多爾敝波《イノチアラバアフコトモアラムワガユヱニハタナオモヒソイノチダニヘバ》、(これも、物思(ヒ)をするは、そのもと厭ひ惡むことなれど、外にすべきすぢなければ、吾(カ)身の故によりて、物思をするならむ、さのみ物思(ヒ)をする事なかれ、命だにながらへてあらば、又あふこともあらむぞといへるなり、)十六に、痩々母生有者將在乎波多也波多武奈伎乎漁取跡河爾流勿《ヤス/\モイケラバアラムヲハタヤハタムナギヲトルトカハニナガルナ》、(これも、漁業するは、そのもと心に欲《ネガ》はぬことなるべけれど、夏痩の藥の第一なれば、鰻《ムナギ》を漁食《トリメシ》たまへ、さりながら※[魚+壇の旁]《ムナギ》を漁《トル》とて、あしくして、河に流れたまふなといへるなり、)十八に、多胡乃佐伎許能久禮之氣爾保登等藝須伎奈伎等余末婆波太古非米夜母《タコノサキヨコノクレシゲニホトヽギスキナキトヨマバハタコヒメヤモ》、(これも、霍公鳥を戀しく思ふにつけて、かく物思(ヒ)をするは、そのもと心に欲《ネガ》はぬことなれども、堪難くして戀しく思ふに、いかで來鳴響めかし、さらばかく物思(ヒ)はすまじきをと云意なり、)古今集夏(ノ)部に、ほとゝぎす初聲聞ばあぢきなく主さだまらぬ戀せらる波多《ハタ》、(これも戀ごゝちのせらるゝは、そのもと心に欲《ネガ》はぬことな(314)れど、ほとゝぎすの初音をきけば、感情を催されて、止ごとなく、主さだまらぬ戀ごゝちがせらるゝとの謂なり、)なぞ見えて、皆同意の詞なり、さて書紀欽明天皇(ノ)卷に、於是許勢(ノ)臣、問(テ)2王子惠(ニ)1曰。爲當《ハタ》欲(フカ)v留(ムト)2此間(ニ)1、爲當《ハタ》欲v向(ムト)2本郷(ニ)1、とあるは、同言異意にて、(この意なるは、集中には見えず、)マタ〔二字右○〕と云にちかし、(または此間《コヽ》に留らむと欲《オモ》ふか、または本郷に向《カヘ》らむと欲ふかと云意なり、)後紀十八詔に、常(ノ)政有v闕(ルコト)波加《バカ》、爲當《ハタ》神(ノ)道有v妨(ルコト)波加《バカ》、職員令集解圖書(ノ)條に、穴云、問此(ノ)司、寫書以下造墨以上、爲當《ハタ》司(ノ)設歟、爲當《ハタ》分2給諸司(ニ)1歟、など見えたる、みな同義なり、(この後の物どもにも、爲當の字を用ひて、同意なる多し、)爲當の字は、左傳疏に、以v今觀v之、不v可(カラ)2一日(トシテ)而無(ハアル)1v律、爲當《ハタ》吏不v及(ハ)v古(ニ)、民僞2於昔(ヨリ)1、爲《ハタ》是聖人作v法、不v能2經遠(スルコト)1、古今之政、何以異乎、※[木+(四/方)]嚴經に、爲《ハタ》是燈色(カ)、爲當《ハタ》見(ノ)色(カ)、などあり、これ漢籍に將(ノ)字を用ひて、波多《ハタ》と訓來れると大抵同じ意ばえなり、(將《ハタ》爲2君子(ト)1焉、將《ハタ》爲2野人(ト)1焉と云は、または君子となるもあり、または野人となるもあり、と云意なるを思ふべし、)さてかく波多《ハタ》と云に、古(ヘ)より二(ツ)の意あるが中に、上にいへることく、集中なるは、爲當の字を用ひたるとは別意なれど、字はいづれも波多《ハタ》と訓るゝ故に、此(ノ)字を借(リ)用ひしなるべし、也《ヤ》は疑の也《ヤ》なり、此(ノ)詞は、終の牟《ム》の下にうつして意得べし、毛《モ》は前の連夜につけて云るなり、前の連夜は、今夜ばかり山風も寒からざりしを、かくいたく寒く堪がたかるに、今夜もひとり宿をせむかといへるなり、○歌(ノ)意は、この芳野の山もとに從駕して、連夜ひとり宿せしが、こよひこ(315)とに山(ノ)下風《アラシ》寒くして、ひとり宿せらるべき夜ならねど、外にすべきすぢなく、止事なければ、今夜もひとり宿むかといへるなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。或云《アルヒトノイハク》。 天皇御製歌《スメラミコトノミヨミマセルオホミウタ》。
 
天皇は、大行天皇なり、拾穗本には即大行天皇御製とあり、さて題詞に、幸2云々1時とある下に、御製歌となきは、皆從駕の人のなればなり、右(ノ)歌もその趣なるを、こは或人の説なれば、左にかく載たるなり
 
75 宇治間山《ウヂマヤマ》。朝風寒之《アサカゼサムシ》。旅爾師手《タビニシテ》。衣應借《コロモカスベキ》。妹毛有勿久爾《イモモアラナクニ》。
 
宇治間山《ウヂマヤマ》は、大和志に、在2吉野(ノ)郡池田|千俣《チマタ》村(ニ)1といへり、○朝風寒之《アサカゼサムシ》は、朝にふく風は、ことにさむきものなればなり、○旅爾師手《タビニシテ》は、上にありしに同じ、旅にてといふこゝろなるを、旅のすぢをつよくとりたてゝいはむとて、之《シ》の言をそへたるなり、○衣應借《コロモカスベキ》云々、京にては、妹に起わかれし朝などは、寒からむとて、妹が衣をかしなどしたることも有しが、さやうの妹もあらぬことなるものを、といふなり、すべて女の衣を男に借(シ)て著すること、古のならはしなり、十四に、比登豆麻等安是可曾乎伊波牟志可良婆加刀奈里乃伎奴乎可里?伎奈波毛《ヒトヅマトアゼカソヲイハムシカラバカトナリノキヌヲカリテキナハモ》、大和物語にも、をとこ女の衣をかり著て、今の妻のがりいきてさらに見えず、この衣をみな著やりて返しおこすとて、云々などあり、○妹毛有勿久爾《イモモアラナクニ》毛《モ》は、さる妹だにもの意なり、勿久爾《ナクニ》は奴(316)爾《ヌニ》に延りたるにて、ぬことなるをといふほどの意なり、さる妹だにもある事ならば、さむさもしのがるべきに、さやうの妹もあらぬことなるものをといふなり、○歌(ノ)意は、京にてこそあれ、寒しとて、衣かすべき妹もなき旅中なるに、宇治間山の朝風、かく寒くふくべき事にあらぬをと、朝風をうらみて宣へるなり夫木集に、白妙の衣手凉し宇治間山朝風吹て秋は來にけり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。長屋王《ナガヤノオホキミ》。
 
長屋(ノ)王は、續紀に、慶雲元年正月癸巳、无位長屋王(ニ)授2正四位上1、和銅二年十一月甲寅、以2從三位長屋(ノ)王(ヲ)1、爲2宮内(ノ)卿(ト)1、三年四月癸卯、爲2武部(ノ)卿(ト)1、七年正月壬戌、長屋(ノ)王益2封一百戸(ヲ)1、養老元年三月癸卯、石上(ノ)朝臣麻呂薨(ス)、云々、詔遣2正三位長屋(ノ)王(ヲ)1云々、吊賻之、二年三月乙巳、爲2大納言(ト)1、五年正月壬子、授2從二位(ヲ)1爲2右大臣(ト)1、神龜元年二月甲午、授2正二位(ヲ)1、又爲2左大臣(ト)1、天平元年二月辛未、云々等、告v密(ヲ)稱、長屋(ノ)王私(ニ)學2左道(ヲ)1、欲v傾(ムト)2國家(ヲ)1、其(ノ)夜云々、圍(ム)2長屋(ノ)王(ノ)宅(ヲ)1、壬申、巳(ノ)時云々、
就(テ)2長屋(ノ)王(ノ)宅(ニ)1、窮2問其(ノ)罪(ヲ)1、癸酉、令2王(ヲ)自盡(セ)1、庚戌、遣v使葬2長屋(ノ)王、吉備内親王(ノ)屍(ヲ)於生馬山(ニ)1、云々、長屋(ノ)王(ハ)、天皇(天武)之孫、高市(ノ)親王之子(ナリ)、靈異記中卷に、勝寶應眞太上天皇、以2天平元年春二月八日(ヲ)1、於2左京元興寺(ニ)1、修2大法會(ヲ)1、勅2左大臣正二位長屋(ノ)親王(ニ)1、而任d於供2衆僧1之司(ニ)u、時有2一沙彌1、濫(ニ)就d於※[飯/皿]2供養1之處(ニ)u、捧v鉢(ヲ)受v飯(ヲ)、親王見之、以2牙册(ヲ)1罸2沙彌之頭(ヲ)1、頭破流v血(ヲ)云々、經之八日、有2嫉妬人1讒2天皇(ニ)1懷風藻に、左大臣正二位長屋(ノ)王(317)三首、年五十四と見えたり、
 
寧樂宮御宇天皇代〔八字それぞれ○で囲む〕《ナラノミヤニアメノシタシロシメシヽスメラミコトノミヨ》
 
舊本に、此間に此《ノ)標なくして、和銅三年の歌どもありて、後に和銅五年と記せし下に、寧樂(ノ)宮とあるは、所由《ヨシ》もなきことなり、こは甚く錯亂《ミダレ》しものと見えたり、但し和銅三年に寧樂へ都を遷されたれば、それまでをば、藤原(ノ)宮に繋て云べき事ぞ、といふ説もあれど、然してもなほ和銅五年と記せし後に、寧樂(ノ)宮と標《シル》すべき謂なし、さて總標は、某(ノ)宮(ニ)御宇(シヽ)天皇(ノ)代と云を、主としていふことなれば、なほ元明天皇(ノ)代をば、即位元年より寧樂(ノ)宮の標(ノ)内に繋べき理にこそあれ、かれ今こゝにかくしるして、下に寧樂(ノ)宮とあるをば削(リ)去《ステ》つ、寧樂(ノ)宮(ニ)御宇しは、元明天皇より光仁天皇まで、凡七御代の皇朝なり、さて此(ノ)標中には、元明天皇和銅年中の歌を入(レ)しとおぼゆ、元明天皇は、御諱日本根子天津御代豐國成姫(ノ)天皇なり、續紀に、日本根子天津御代豐國成姫(ノ)天皇(ハ)、小名阿閇(ノ)皇女、天命開別(ノ)天皇(天智)之第四皇女也、母(ヲ)曰2宗我(ノ)嬪(ト)1、蘇我(ノ)山田石川麻呂(ノ)大臣之女也、適2日並知(ノ)皇子(ノ)尊(ニ)1、生2天之眞宗豐祖父(ノ)天皇(ヲ)1、(文武)慶雲四年六月、豐祖父(ノ)天皇崩(リマス)、七月壬子、天皇(元明)即2位於大極殿(ニ)1、和銅三年三月辛酉、始遷2都(ヲ)于|平城《ナラ》1、靈龜元年九月庚辰、天皇禅2位(ヲ)于氷高(ノ)内親王(ニ)1、(元正天皇)養老五年十二月己卯、太上天皇(元明)崩2于平城(ノ)宮中安殿(ニ)1、時春秋六十一、己酉、葬2於大和(ノ)國添上(ノ)郡椎山(ノ)陵(ニ)1、不v用2喪儀(ヲ)1、由2遺詔(ニ)1也、諸陵式に、奈保山(ノ)東陵(平城宮御宇元明(318)天皇、在2大和(ノ)國添上(ノ)郡(ニ)1、兆域東西三町南北五町、守戸五煙、)と見えたり
 
和銅元年戊申《ワドウハジメノトシツチノエサル》。天皇御製歌《スメラミコトノミヨミマセルオホミウタ》。
 
76 大夫之《マスラヲノ》。鞆乃音爲奈利《トモノトスナリ》。物部乃《モノヽフノ》。大臣《オホマヘツキミ》。楯立良思母《タテタツラシモ》。
 
大夫《マスラヲ》(大(ノ)字、類聚抄には丈と作り、)は、討手《ウテ》の使にさゝれたる、武夫どもをさして詔へるなるべし、○鞆乃音爲奈利《トモノトスナリ》は、鞆は七(ノ)卷にも、大夫乃手二巻持在鞆之浦回乎《マスラヲノテニマキモタルトモノウラミヲ》とよめり、古事記に、伊都之竹鞆《イツノタカトモ》、書紀に、稜威之高鞆《イツノタカトモ》、太神宮儀式帳に、弓矢鞆音不聞國《ユミヤトモノトキコエヌクニ》、兵庫寮式に、凡御梓弓一張、云々、鞆一枚、(功一人、)熊、(ノ)革一條、(鞆(ノ)料長九寸廣五寸、)牛(ノ)革一條、(鞆手(ノ)料長五寸廣二寸、)漆一合九勺こ撮、(漆2箭并鞆(ヲ)1料、)生絲小二兩一分、(纏v箭縫v鞆科、)鞆袋(ノ)料紫衣緋裏(ノ)帛各一條、(各長二尺三寸廣一尺一寸、)鞆(ノ)緒紫(ノ)組一條(長二尺五寸、)和名抄に、蒋魴(カ)切韻(ニ)云、※[旱+皮](ハ)、在v臂(ニ)避v弦具也、和名|止毛《トモ》、楊氏漢語抄日本紀等、用2鞆(ノ)字(ヲ)1、俗亦用之、本文未v詳也、江次第射場始の條に、其(ノ)上置2鞆并弓懸1、など見えたり、鞆(ノ)字は漢國の字書には无(シ)、御國にて造りし字なるべし、此(ノ)物後(ノ)世は絶て用る事なし、良基公の思ひのまゝの日記に、十八日には、のりゆみの事あり云々、公卿弓矢持鞆などつけてあるさま、近頃目なれぬ事なりとあり、其(ノ)頃も儀式などの餘《ホカ》には用ざりしと見ゆ、さて鞆は形丸く中は空虚《ウツホ》にて、鞠の如く、革にて縫括りたる物なり、松岡成章が結※[耳+毛]録に、備後(ノ)國の人、其(ノ)國鞆明神の神體の寫なりとて示せり、吉部秘訓と云書に、圖《カタ》かける所と全(ラ)同じとて、委しく(319)圖を出せり、さて其(ノ)鞆は明神の神體なりとも、或は神寶なりともいふよししるせり、さて本居氏、鞆は何の料に著る物ぞと云に、古歌などにも、鞆にはみな音を云るを思へば、此(ノ)物に、弓弦の觸て、鳴音を高からしめむためなり、音を以|威《オド》すこと、かの鳴鏑なども同じ、然るを師は、袂をおさへ弓弦を避る物なり、故に弦のあたる音あるなりと云れつる、己(レ)もさきにはさることなりと思ひしを、後によく思へばしかには非ず、近き頃伊勢貞丈も、音のためなりと云り、その考に、或以爲2鞆(ハ)是避v弦(ヲ)之具(ト)1也、是本2于和名抄※[旱+皮](ノ)字注(ニ)1者、而非也、夫弦觸v腕(ニ)者、拙射之一癖也、何(ソ)有v設2其具(ヲ)1乎と云り、まことにさることなり、抑々|鞆《トモ》は音物《オトモノ》の省りたる名にて、竹鞆《タカトモ》は高音物《タカトモ》なりと云り、(但(シ)音物の謂とせむは、其(ノ)義はよくきこえたれども、言を省くといふこと、古言になければいかゞなり、猶考ふべし、)奈利《ナリ》は決定辭にて、(もと爾阿理《ニアリ》の約りたる詞なり、音爲奈利《オトスナリ》は、音爲《オトス》るにて有りといふと同じことなり、(目に見耳に聞ことを、そのまゝにいふ詞なり、上の間人(ノ)連者が長歌に見えて委(ク)云り、こゝは調練《ナラシ》する弓の弦音の、鞆に觸てひゞくを聞《キコ》しめして、そのまゝに宣ふなり、○物部《モノヽフ》は、既《サキ》に本居氏(ノ)説を引て云るごとく、總て武事《タケキ》職を以任(ヘ)奉る建士《タケヲ》の稱なり○大臣《オホマヘツキミ》は、大前津公《オホマヘツキミ》にて、大《オホ》は美稱、前津公《マヘツキミ》は、天皇の前に候《サモラ》ふ公《キミ》てふことにて、ひろく侍臣をさしていふこと、既く云るが如し、(後(ノ)世大臣といふをのみいふにはたがへり、)こゝは、物部の大臣にて、官軍の大將を詔へるなるべし、○楯立良思母《タテタツラシモ》は、楯は和名(320)抄に兼名苑(ニ)云、楯一名※[木+鹵]、和名|太天《タテ》、釋名(ニ)云、狹而長(キヲ)曰2歩楯(ト)1、歩兵(ノ)所v持也、和名|天太天《テタテ》とあり、名(ノ)義は、敵より射る箭を、防がむがためにたつる物なれば、やがて令《テ》v立《タ》といふなるべし、さて立(ツ)とは、楯を立ならべて、軍の調練するさまなり、良思《ラシ》は、上にいへるが如く、推はかりていふ辭にて、俗にそうなといふこゝろなり、母《モ》は、歎息の辭にて上にいへり、鞆は音する物なるが故につねのおましより遠けれど、奈利《ナリ》と決(メ)て詔ひ、楯立(ツ)るは音もせねば、おしはかり給ひて、良思《ヲシ》とはおほせられしなり、岡部氏(ノ)考に、此は御軍の調練する時と見ゆれば、楯を立る事もとよりなり、さて此(ノ)御時、陸奧越後の蝦夷等が叛きぬれば、討手の使を遣(ハ)さる、その御軍の手ならし、京にてあるに、皷吹の聲鞆の音など、かしがましきを聞し召して、御位の初めに、事有をなげきおもほす御心より、かくはよみませしなるべし、此(ノ)大御歌に、さる事までは聞えねど、次の御和歌と合せてしるきなりと云り、陸奧越後の蝦夷の叛しかば、和銅二年三月、遠江駿河甲斐信濃上野越前越中等の、七國の兵士を立せられ、巨勢(ノ)麻呂佐伯(ノ)石湯二人を、大將軍にてつかはされし事續紀に見ゆ、然れば前年の冬、軍の手ならしせし時のことなれば、題詞に元年とは有(ル)なり、抑々諸國に軍團ありて、常にもならすことなれば、まして大將軍を立せ給ふには、京都にての事しるべし、岡部氏(ノ)考(ニ)又云、討手の使を遣されむに、北國は大雪にて、冬の軍はなしがたければ、明年三月に立せらるゝなりと云り、是|然《サ》も有べし、(○或人の考に、契冲の説(321)によりて、大嘗會の時の大御歌とせれど、大嘗會に、物部氏の大楯を立る事は、定れる職掌なれど、弓は射ねば、鞆の音をよませ賜はむよしなし、又次の御歌を、此時の御和歌にあらずと云るも、おしあてごとなり、)○大御歌(ノ)意は、弓弦の音の、鞆に觸てひゞくなるは、今や武夫どもの楯を立ならべて、軍の調練するならしと、遠くおましよりおしはかりまして、大御位につかせ給ひしはじめより、叛くものいで來し事を、ふかくなげきおぼしめし、さてこの武夫ども、天皇の御ことよざしをかしこみて、家をすてゝ命のほどもはかられず、此(ノ)度の役に遠くゆくらむ、心のうちをおぼしやりて、いかでこの寇ども、すみやかに服從《マツロヒ》て、討手の軍卒ども皆恙なくかへり、天(ノ)下しづかならむことをおぼす、大御心をよませ給ひしなるべし、女帝にさへおはしましければ、行末おぼつかなく、安からずおぼしなやみ給ひし、大御心のほど、いともかたじけなく、かしこしともかしこきことゞもなりかし、
 
御名部皇女《ミナベノヒメミコノ》。奉和御歌《コタヘマツレルミウタ》。
 
御名部(ノ)皇女は、天皇の御はらからの御姉なり、天智天皇(ノ)紀に、七年云々、次(ニ)有2遠智娘(ノ)弟1、曰2姪娘(ト)1、生3御名部(ノ)皇女與2阿部(ノ)皇女1、續紀に、慶雲元年正月壬寅、詔(シテ)御名部(ノ)内親王(ニ)、益2封一百戸(ヲ)1と見ゆ、
 
77 吾大王《ワガオホキミ》。物莫御念《モノナオモホシ》。須賣神乃《スメカミノ》。嗣而賜流《ツギテタマヘル》。吾莫勿久爾《キミナケナクニ》。
 
吾大王《ウガオホキミ》は、天皇をさし奉(リ)てのたまへるなり、○物莫御念は、モノナオモホシ〔七字右○〕と訓べし、(モノナ(322)オボシソ〔七字右○〕と訓は非なり、後(ノ)世こそあれ、奈良(ノ)朝以往は、オボス〔三字右○〕といふことを、みなオモホス〔四字右○〕とのみいへり、上にもいへり、)常に物莫御念曾《モノナオモホシソ》といふを、その曾《ソ》てふ辭のなきも、古語には例多し、古事記上卷沼河日賣(ノ)歌にも、阿夜爾那古斐伎許志《アヤニナコヒキコシ》とあり、(然るを、近(キ)世の歌どもには、下の曾《ソ》の辭を云て、上の那《ナ》をば略けるがまゝ多かるは、いみじきひがことぞ、那《ナ》はかならずいはではきこえぬ言なるをや、)物《モノ》とは、上にもいへる如く、其(ノ)ことゝさしあてゝ云ず、なに事をも、ひとつにつがねていふ詞なり、こゝは何事も、御心にかけておぼしめし給ふな、と申させ給へるなり、○須賣神《スメカミ》は、(神は清音、常に濁りて唱ふるは非なり、)ひろく皇御祖神等をさし奉りて申す中に、こゝは天照大御神高御産巣日(ノ)神なり、續紀二十(ノ)詔に、高天原神積坐須《タカマノハラニカムヅマリマス》、皇親神魯岐神魯彌命乃定賜來流天日嗣高御座次乎《スメヲガムツカムロギカムロミノミコトノサダメタマヒケルアマツヒツギタカミクラノツギテヲ》云々、かゝる類の詔、此(ノ)餘にもこれかれあり、これ天照大御神高御産巣日神の御議《ミハカリ》にて、事依し賜ひて皇統《アマツヒツギ》を定め賜へるよしにて、今と同じ、○嗣而賜流《ツギテタマヘル》は、皇統の繼嗣《ツギテ》に嗣て、皇神の言依(サ)し賜へるなり、(須賣神の嗣てとつゞけて意得べからず、皇神の御議《ミハカリ》にて、皇統の繼嗣に繼て、ことよざし賜へるよしなればなり、○吾|莫勿久爾《ナケナクニ》は、吾(ノ)字は君の誤なるべし、と本居氏の云る、眞に然り、(故(レ)今はキミ〔二字右○〕とよめり、)莫《ナケ》は四(ノ)卷に、吾背子波物莫念事之宥者火爾毛水爾毛吾莫七國《ワガセコハモノナオモヒソコトシアラバヒニモミヅニモアレナケナクニ》、十四に、多婢等伊部婆許等爾曾夜須伎須久奈久毛伊母爾戀都々須敝奈家奈久爾《タビトイヘバコトニソヤスキスクナクモイモニコヒツヽスベナケナクニ》、などある莫《ナケ》に同じ、さればこゝは、君にて莫《ナキ》にはあ(323)らぬことなるものを、といふ意なり、かく奈家《ナケ》といふは、莫からむを莫家牟《ナケム》、高からむを高家牟《タカケム》、深からむを深家牟《フカケム》といふに同じく、もと伎《キ》のはたらきたるにて、そは下のうくる言によりて、莫伎《ナキ》莫久《ナク》莫家牟《ナケム》莫可良牟《ナカラム》とも、可伎久家《カキクケ》の通音をもてはたらくに、其(ノ)餘をも准へて知べし、勿久《ナク》は上にもいへるごとく、奴《ヌ》の延りたるには、莫勿久爾《ナケナクニ》は、なからぬことなるにといふ意なり、さればこゝは、落る所は、君にてあるものをといふことになれり、○御歌の意は、あなかしこ皇神の御議《ミハカリ》によりて、皇統の繼嗣《ツギテ》に繼て、ことよざし賜へる大御位にましませば、なに事をか、大御心にかけてなげきおぼしめすべき、御心つよくおぼしめせと、なぐさめ奉(リ)給ひしなるべし、さるはやごとなき御徳澤によりて、此(ノ)度の※[人偏+役の旁]《イデタチ》勝利《サキハヒ》あらむこと、さらにうたがひなく、軍卒《イクサ》ども、つゝむことなく凱陣《カヘリマヰ》りて、天(ノ)下靜謐になり侍るべしと、大御代をほぎ奉りたまへる、御意なるべし、
 
三年庚戌春三月《ミトセトイフトシカノエイヌヤヨヒ》。從《ヨリ》2藤原宮《フヂハラノミヤ》1遷《ウツリマセル》2于|寧樂宮《ナラノミヤニ》1時《トキ》。御2輿停《ミコシトヾメテ》長屋原《ナガヤノハラニ》1。※[しんにょう+向]2望《カヘリミシタマヒテ》古郷《フルサトヲ》1。御作歌《ヨミマセルミウタ》。【一書云。從飛鳥宮遷于藤原宮時〔十字各○で囲む〕。太上天皇御製。】
 
三月、三(ノ)字舊本二に誤れり、拾穗本によりつ、續紀によるに、三月なればなり、○時の上、類聚抄に之(ノ)字あり、○停(ノ)字、拾穗本には御輿の上にあり、さも有べし、○長屋(ノ)原は、和名抄に、大和(ノ)國山邊(ノ)郡|長屋《ナガヤ》とある地なり、○※[しんにょう+向](ノ)字、類聚抄に廻、活本一本等に回と作《カケ》り、○この遷都は、和銅三年(324)三月辛酉、始遷2都(ヲ)于平城(ニ)1、と續紀に見えたり、○一書云云々、本居氏、此(ノ)歌を一書には持統天皇の御時に、飛鳥より藤原へうつり給へる時の、御製とするなるべし、然るを太上天皇と云るは、文武天皇の御代の人の書る詞なり、又和銅云々の詞に就て云(ハ)ば、和銅のころは、持統天皇既に崩(リ)賜へば、文武天皇の御時に申ならへるまゝに、太上天皇と書るなり、此(ノ)御歌のさまを思ふに、まことに飛鳥より、藤原(ノ)宮へうつり賜ふ時の御歌なるべし、然るを和銅三年云々といへるは、傳(ヘ)の誤なるべしといへり、
 
78 飛鳥《トブトリノ》。明日香能里乎《アスカノサトヲ》。置而伊奈婆《オキテイナバ》。君之當者《キミガアタリハ》。不所見香聞安良武《ミエズカモアラム》。
 
飛鳥《トブトリノ》は、明日香《アスカ》をいはむ料の枕詞なり、集中に甚多し、こは飛(ブ)鳥の足輕《アシガル》といふ意なるを、明日香にいひ屬《ツヾケ》たるものなり、斯《シ》と須《ス》は同音にて、相通(ハ)し云る例多し、古語に、神祇《カミ》の其(ノ)處を領坐《シリマス》を宇志波久《ウシハク》と云を、遷2却祟神(ヲ)1祝詞には、宇須波伎《ウスハキ》と云(ヒ)、又和名抄に、鹿尾菜(ハ)、比須木毛《ヒスキモ》とあるを、伊勢物語には比志伎毛《ヒシキモ》とありて、常にも然|呼《イヘ》り、これらその例なり、かくて正しく、足を安須《アス》といへりとおもはるゝは、和名抄に、越前(ノ)國足羽(ノ)郡足羽(ノ)郷、また越後(ノ)國沼垂(ノ)郡足羽(ノ)郷、などある足羽を、みな安須波《アスハ》と注せる是なり、又集中九(ノ)卷に、片足羽河とあるをも、カタアスハガハ〔七字右○〕とよめり、又今伊勢人は足結《アシグミ》するを阿受久美加久《フズクミカク》といふと云(ヘ)り、(阿受《アズ》と濁るは、俗言に訛れり、)さて輕《カル》を加《カ》とのみも云しと思はるゝは、和名抄に、近江(ノ)國愛智郡|蚊野《カノヽ》郷(古事記に、近淡海(325)蚊野之別《チカツフフミカヌノワケ》、)とありて、神名帳に、同郡に輕野(ノ)神社あるは、一(ツ)とおもはるれば、輕野をカヌ〔二字右○〕と唱しならむ、とおもはるゝなり、しからば、輕をカ〔右○〕とのみも云し證とすべきことなり、かくて足輕《アシカル》といへる言の例は、十四に、母々豆思麻安之我良乎夫禰安流吉於保美《モヽヅシマアシガラヲブネアルキオホミ》云々、とよめる安之我良《アシガラ》は、足輕《アシガロ》なり、又相模(ノ)國風土記にも、足柄山の杉をきりて、船に造れるに、その足のいと輕かりければ、山の名となれるよし見えたりといへり、(田氏家集に、足輕(ク)遊觀(シテ)到2巖邊(ニ)1、また履心安穩足初(テ)輕(シ)、)かくて鳥に、足輕としもいふべきよしは、集中に、奧鳥鴫云船《オキツトリカモチフフネ》と見え、又書紀神代(ノ)卷に、鳥磐※[木+豫]樟船《トリノイハクスフネ》と云も見え、又|天鳩船《アマノハトフネ》といふありて、その釋に、播磨(ノ)國風土記を引ていはく、明石(ノ)驛家駒手(ノ)御井者、難波(ノ)高津(ノ)宮(ノ)天皇之御世(ニ)、楠生(ヒタリ)2於井(ノ)口(ニ)1、朝日(ニハ)蔭《カゲサシ》2淡路島(ニ)1、夕日(ニハ)蔭(シキ)2大倭島根(ニ)1、仍(レ)伐(リテ)2其楠(ヲ)1造(ルニ)v船(ニ)、其迅(キコト)如(ニシテ)v飛(カ)、一楫《ヒトカヂニ》去2越《ユキコエキ》七浪《ナヽナミヲ》1、仍《カレ》號《ナヅケキ》2速鳥《ハヤトリト》1と云り、これによりて思ふに、右に引る鴨云船《カモチフフネ》、鳥磐※[木+豫]樟船《トリノイハクスフネ》、天鳩船《アマノハトフネ》などいへるも、その行ことのいと迅《トク》して、足輕きを鳥にかたどりたるにて、飛鳥の足輕といふべき理(リ)自らしるかりけり、(猶いはゞ、舟に足といふべきものはなけれども、疾《ト》く行を、足してかける物にたとへて、足輕としも云しなれば、鳥にはいよ/\足輕といふべきものぞかし、しかるを古來、この屬《ツヾケ》の意を解得たる人、ひとりだになくして、冠辭考に、いすかといふ鳥を、伊《イ》と阿《ア》を通して、あすかにいひかけたるよし云るなどは、さらさらあたらぬことなり、又本居氏(ノ)國號考に、飛鳥のあすかとは、書紀に、天武天皇の十五年、改(メテ)v元(ヲ)(326)曰2朱鳥《アカミトリノ》元年(ト)1、名(ケテ)v宮(ヲ)曰2飛鳥(ノ)淨御原(ノ)宮(ト)1とある、これ朱鳥の祥瑞《シルシ》の、出來つるをめでたまひて、年號をも然改たまひ、大宮の號をも、飛鳥云々とはつけ給ひしなり、さればこれは、とぶとりの淨御原(ノ)宮とよむべきなり、あすかの淨御原といはむは、本よりの地(ノ)名なれば、ことさらにこゝに、仍名v宮(ヲ)曰2云々(ト)1、などいふべきにあらざるをおもふべし、とぶ鳥とは、はふ蟲といふと同じくて、たゞ鳥のことなり、さて大宮の號を然いふから、その地(ノ)名にも冠らせて、飛鳥の明日香とはいへるなり、とあるは、いとおだやかにして、よろしき説ときこゆるを、荒木田(ノ)久老云(ク)、飛鳥とは、ひとつの鳥をいふことならねば、ひろく飛鳥といひて、朱鳥の事とせむは古意ならず、故書紀の文面を考(フ)るに、もとは名v宮曰2朱鳥(ノ)淨御原1とありけむを、明日香(ノ)淨御原と元來いへるに、明日香に飛鳥の字を書るを見なれたる、後人のこゝろに、朱鳥の字は、飛鳥を誤つるものと、ゆくりなくおもひて、書かへつるものならむ、かにかくにひとつの朱鳥を、ひろく飛鳥といはむこと、いかにぞやおぼゆれば、本居氏の考は從《ヨリ》がたしと云(ヘ)りしは、誠にさることにぞありける、但し同人(ノ)考に、飛立鳥はあわたゝしければ、阿和豆計伎《アワヅケキ》を略轉して、あすかとはつゞけたるなり、和《ワ》は阿《ア》の餘韻に含み、豆《ツ》と須《ス》とは常に通ふ例、計伎《ケキ》と加《カ》とは相通ふ言にて、靜《シヅカ》をしづけき、密《ヒソカ》をひそけき、幽《カスカ》をかそけき、などいへるがごとし、阿和豆計伎《アワツケキ》と云詞は、物語文に見ゆ、新撰字鏡に、惶恐を阿和豆《アワツ》とありて、俗に阿和弖流《アワテル》といふと同意の言なり、廿(ノ)卷
(327)に、美豆等利乃多知能伊蘇岐爾《ミヅトリノタチノイソギニ》、同卷に、安治牟良乃佐和伎伎保比弖《アヂムラノサワギキホヒテ》、六(ノ)卷に、村鳥乃旦立往者《ムラトリノアサタチユケバ》、など云る詞の意を併(セ)按(フ)べし、といへるは如何ぞや、そも/\和《ワ》は阿《ア》の餘韻に含むと云ることいかゞ、また阿和都《アワツ》てふ言を、佐和久《サワク》と全(ラ)同意のごと心得たりしにや、阿和都《アワツ》は、書紀欽明天皇(ノ)卷に、遑駭《アワツル》、余云(ク)、遑(ノ)字は惶の誤寫か、また雄略天皇(ノ)卷に、駭※[立心偏+宛]《イワケアワテ》、また漢籍文選に、※[目+條]《アワツル》などありて、みなおそれをのゝく意あるときにいふ言にて、新撰字鏡に、惶恐をよめるも其(ノ)意なるをや、俗言《ツネコトバ》に阿和弖流《アワテル》といふも、さる意にこそあれ、唯さわぎきほふとは意味|異《カハ》れるをや、よしやまた阿和都《アワツ》てふ言を、佐和久《サワク》といふと全(ラ)同じ意と見ても、さらば立鳥之《タツトリノ》、あるは群鳥之《ムラトリノ》などゝこそいはめ、たゞに飛鳥之《トブトリノ》とはいかでかいふべき、又詞草少苑といふ物に、是は飛鳥の幽《カスカ》と云つゞけなるを、あとかと相通はせるものぞ、といへるは論にもたらず、かく諸説等《クサ/”\コトドモ》甚多かれども、悉皆《ミナ》諾《ウベナ》ひがたきによりて、余《オノレ》つら/\考へて漸《ヤウヤク》に明辨《サダカニアキラカ》にはなりたるなりけり、)さて飛鳥の字を、やがてアスカ〔三字右○〕とも訓るは、カスガ〔三字右○〕を春日とも書如く、いひなれたるまくら詞の字をもて、やがてその地(ノ)名の字となせるものなり、そはかのあをによし、おしてるなどいふまくら詞を、やがて奈良難波の事にしていへると、心ばえ相似たる事なり、と國號考にいはれしがごとし、○明日香能里乎《アスカノサトヲ》、一書の説のごとく、明日香より、藤原にうつりましゝ時の、大御歌とする時は、論なかるべし、○置而伊奈婆《オキテイナバ》、置とはとゞめおくよしにて、ともに率(328)てゆかぬをいふ、上に倭乎置而《ヤマトヲオキテ》、また京乎置而《ミヤコヲオキテ》などある置に同じ、伊奈婆《イナバ》は去《イニ》なばといふに同じ、奈婆《ナバ》は未v然をかけていふ詞なり、伊奈《イナ》の奈《ナ》は、去《イニ》の爾《ニ》のかよへる言にて、下のつゞけによりて、奈爾怒禰《ナニヌネ》とはたらく詞なり、さて去《イヌ》とは、行と大かたは同じことに用ふ詞ながら、行とはひろくいひ、去《イヌ》は其處を立去て、外處へいぬるをいふ詞なり、こゝも明日香の里を内にして詔へるなり、○君之當者《キミガアタリハ》、この君とさし給へるは、誰とはしられねど、その里なる人を、さし給へる御詞なるを、君が見えずとは詔はずして、當《アタリ》としも詔へる、これ古風にて、急迫《セマラ》ざる御詞なり、者《ハ》は他方はたとひ見えずとも、よしやさてあらむ、君が當は見ずては、得あるまじきをとの御意なり、○不所見香聞安良武《ミエズカモアラム》、この香聞《カモ》は、疑ひて歎く詞なり、(分て云ば、香《カ》は疑、聞《モ》は歎なり、)さて明日香の里を置ておはしましなば、その人のあたりの見えざらむことは、いふもさらなれば、かく香聞《カモ》と、おぼつかなげには詔ふまじきことなるを、かくよませ給へるは、見ずては得あるまじきを、もし見えぬこともあらむかと、歎き給へるにて、その人のあたりを見ずては、得あるまじきよしを、つよく詔へるなり、すべて古(ヘ)人は、後(ノ)世のごとく、詞|急迫《セマ》らざるが故に、决(メ)ていふべき事がらをも、うたがひていへることおほし、よく/\心をとゞめて、古(ヘ)の詞の緩優なるさまをうかゞふべし、○舊本に、一(ニ)云、君之當乎不見而香毛安良牟《キミガアタリヲミズテカモアラム》とあり、こはいづれにてもあるべし、藤原にうつりまして後、君があたりを見ずして、常にこひ(329)しく思ひてあらむか、との御意なり、不所見《ミエズ》は、その物のおのづから、目に見ゆることなきをいひ、不見《ミズ》は、此方より設て見れども、見えざるよしなり、本章と一云とは、この差別あり、○大御歌の意は、この明日香の里を置て、藤原にいたりなば、君がすむあたりは、見えずあらむか、もし見えずては、一日も堪まじきわざなるを、いかゞすべきと、御歎きおもほしめす御情を、御道のほどより、その人のもとに告てつかはされし、大御歌なるべし、
 
或本〔二字□で囲む〕從《ヨリ》2藤原京《フヂハラノミヤコ》1遷《ウツリマセル》2于|寧樂宮《ナラノミヤニ》2時歌《トキノウタ》
 
或本二字、拾穗本には无(シ)、削去べし、(こは仙覺か、なほその前かに、誰その人校合せしとき、當昔《ソノカミ》の原本《モトツマキ》には無(ク)して、或本にありし歌なれば、かく記せるなるべし、されど集中の例を、推わたして考るに、上に出たる歌の、或本に載たるには異なるを、その下に或本云々としるせり、ここも上の飛鳥(ノ)云々の或本とならば、上は短歌にて、或本は長歌なるべき謂なし、そのうへ、上の歌の或本とならば、從2藤原京1以下は、あるべくもあらず、題詞は上にゆづるべき理なり、又此(ノ)歌は題詞のごとく、遷2于寧樂(ノ)宮(ニ)1時のなること疑なく、上のは藤原(ノ)宮へ遷りましゝ時のなり、されば此は、上の歌の或本にはあらざること决《ウツナ》し、いかにまれ、或本とあるはまぎらはしければ、除てあるべし)○藤原の下、拾穗本に宮(ノ)字あり、
 
79 天皇乃《オホキミノ》。御命畏美《ミコトカシコミ》。柔備爾之《ニキビニシ》。家乎擇《イヘヲオキ》。隱國乃《コモリクノ》。泊瀬乃川爾《ハツセノカハニ》。※[舟+共]浮而《フネウケテ》。吾行河乃《アガユクカハノ》。(330)川隈之《カハクマノ》。八十阿不落《ヤソクマオチズ》。萬段《ヨロヅタビ》。顧爲乍《カヘリミシツヽ》。玉桙乃《タマホコノ》。道行晩《ミチユキクラシ》。青丹吉《アヲニヨシ》。楢乃京師乃《ナラノミヤコノ》。佐保川爾《サホガハニ》。伊去至而《イユキイタリテ》。我宿有《アガネタル》。衣乃上從《コロモノウヘヨ》。朝月夜《アサヅクヨ》。清爾見者《サヤニミレバ》。栲乃穗爾《タヘノホニ》。夜之霜落《ヨルノシモフリ》。磐床等《イハトコト》。川之水凝《カハノヒコホリ》。冷夜乎《サユルヨヲ》。息言無久《ヤスムコトナク》。通乍《カヨヒツヽ》。作家爾《ツクレルイヘニ》。千代二手《チヨマテニ》。來座多公與《イマサムキミト》。吾毛通武《アレモカヨハム》。
 
天皇乃は、オホキミノ〔五字右○〕と訓べし、さるは此(ノ)處、當今天皇のみうへのみをさして、申せる語なれば、須賣呂伎《スメロキ》とは申すまじき理《コト》なること、既く上の近江(ノ)荒都の歌の條下《クダリ》に、委しくいへることを照見て、其(ノ)所由をさとるべし、しかるに此(ノ)歌なると、六(ノ)巻に、天皇乃|御命恐《ミコトカシコミ》、廿(ノ)卷に、天皇乃|美許等可之古美《ミコトカシコミ》、十九に、天皇之|命恐《ミコトカシコミ》などある、是らは正しく、當今天皇の御うへのみをさして、申せる言なるに、天皇としも書るは、いかゞ、天皇と書るは、何處にてもスメロキ〔四字右○〕とのみ訓申(シ)て、オホキミ〔四字右○〕とは訓ぬ集中の例、明なること、既く云る如くなればなり、此(レ)等は必(ス)、大王之御命恐《オホキミノミコトカシコミ》といふ例にて其は三(ノ)卷に、王之命恐《オホキミノミコトカシコミ》、六(ノ)卷に二ところ大王之命恐《オホキミノミコトカシコミ》、又|大王之御命恐《オホキミノミコトカシコミ》、九(ノ)卷に、大王之御命恐《オホキミノミコトカシコミ》、又|大王之御命恐彌《オホキミノミコトカシコミ》、十七に、大王能美許登加之古美《オホキミノミコトカシコミ》、廿(ノ)卷に、大王乃美許等能麻爾未《オホキミノミコトノマニマ》、又|大王乃美巳等可之古美《オホキミノミコトカシコミ》、三(ノ)卷に、大皇之命恐《オホキミノミコトカシコミ》、十四に、於保伎美乃美巳等可思古美《オホキミノミコトカシコミ》、十五に、於保伎美能美許等可之故美《オホキミノミコトカシコミ》、十七に、憶保枳美能彌許等可之古美《オホキミノミコトカシコミ》、又|於保伎美乃美許等可之古美《オホキミノミコトカシコミ》、廿(ノ)卷に、於保伎美能美己等加之古美《オホキミノミコトカシコミ》、又於保伎美能美許等爾作例波《オホキミノミコトニサレバ》、又|意保伎(331)美能美己等可之古美《オホキミノミコトカシコミ》、又|或保伎美乃美己等可之古美《オホキミノミコトカシコミ》、又|於保吉美乃美許等加之古美《オホキミノミコトカシコミ》など見えて、須賣呂伎乃美許等《スメロキノミコト》云々といふ假字書は、一(ツ)もなきを考《オモフ》に、此(レ)等の天皇の天は、决《ウツナ》く大(ノ)字の誤寫なるべし、大皇と書る例は、集中三(ノ)卷に二ところ、十七に一ところ十八に四ところ十九に三所、見えたるなど其(レ)なり、又十三に、天皇之|遣之萬々《マケノマニ/\》(但(シ)是は、或本の王命恐《》とあるによらば、こともなけむ、〉とある、是も正しく、當今天皇をさせるなれば、大皇を寫し誤《ヒガ》めたるなるべし、十七に、大王訖麻氣乃麻爾末爾《オホキミノマケノマニマニ》、又|大王能麻氣能麻爾麻爾《オホキミノマケノマニマニ》、十八に、大王乃麻氣麻久麻久《オホキミノマケノマニマニ》、廿(ノ)巻に、大王乃麻氣乃麻爾麻爾《オホキミノマケノマニマニ》、十七に、於保吉民能麻氣乃麻爾麻爾《オホキミノマケノマニマニ》、十八に、於保伎見能未伎能未爾末爾《オホキミノマキノマニマニ》、などあるを思ふべし、又四(ノ)卷に、天皇之|行幸乃随意《イデマシノマニノ》、六(ノ)卷に、天皇之|行幸之随《イデマシノマニ》などあるも、正しく當今天皇を指て申せる處なれば、これも天皇を寫誤れるならむ、六(ノ)卷に、皇之引乃眞爾眞爾《オホキミノヒキノマニマニ》、とあるをも思(ヒ)合(ス)べし、(然るを荒木田久老が、右の今の歌、六(ノ)巻、十九、廿(ノ)巻、又四(ノ)卷、六(ノ)卷、などの天皇をば、オホキミ〔四字右○〕と訓べしと云る、訓はさて當れることなれども、字の誤をしも、おもはざりしは、くはしからず、さるは凡てオホキミ〔四字右○〕といふには、此(ノ)集天皇とは書ぬ例なること、はやく首(ノ)卷をはじめ、上の近江荒都の歌の條下にも、證どもを擧て、委く論へるがごとくなるをや、)○御命畏美《ミコトカシコミ》は、御命畏《ミコトカシ》こまりなり、このつゞけ集中に甚多し、皆同意なり、此は遷都の事を命令《ミコトヨザ》し給ふを、畏まり奉るよしなり、岡部氏(ノ)考に、上つ代より天皇を恐み奉(332)るぞ、此(ノ)御國の道なる、故(レ)此(ノ)言、集中にも他書にも多きなり、大かたに見過すことなかれと云り、眞に然なり、さてもとは此(ノ)詞、皇威を恐怖《オソ》るゝ意より出たることながら、それ即(チ)承諾《ウベナ》ふ意になれるより、こゝも畏まりてと云に同じく、俗言に奉v畏(リ)と云むが如し、古事記に、須佐之男(ノ)命の、櫛名田比賣を、吾に奉むやと詔へる御答に、足名椎の、恐奉《カシコミタテマツラム》といひ、續紀一(ノ)卷宣命に、貴支高支廣支厚支《タフトキタカキヒロキアツキ》、大命乎受賜利《オホミコトヲウケタマハリ》、恐坐弖《カシコミマシテ》、などあるみな同じ、(御命の恐怖《オソロ》しさにときゝては、いさゝかたがふことなり、恐怖《オソロ》しさに、承諾《ウベナ》ひまつりてと見るときは、いよ/\委し、)○柔備爾之《ニキビニシ》は、柔は(爾伎《ニキ》と清て唱ふべし、濁るはひがことなり、)字の如く、荒ぶの反にて、柔和《ニコヤカ》なる意、備《ビ》は荒備《アラビ》疎備《ウトビ》健備《タケビ》などの備《ビ》に同じくて、その形容をいふ言なり、賑《ニギ》はふといふも此(ノ)詞よりいふなり、(いと後に、人などの多きをいふも、末ながら、此(ノ)詞のうつれる物なり、)三(ノ)卷に、丹杵火爾之家從裳出而《ニキビニシイヘヨモイデテ》云々、績紀卅四詔に、其人等乃《カノヒトラノ》、和美安美應爲久相言部《ニキミヤスミスベクアヒイヘ》などあり、こゝはひさしくすみつきて、居心《ヰゴヽロ》よき家をいふ、○家乎擇《イヘヲオキ》は、家とは藤原の家をいふ、擇は釋(ノ)字の誤なるべし、といへる説しかるべし、オキ〔二字右○〕と訓べし、里を置《オキ》などいふ置に同じ、又眞恒(カ)校本に、古本、乎擇作2毛放1とあり、毛はわるし、放はさも有べし、擇を択と作ときは、放の草書に混ひやすければなり、然らばサカリ〔三字右○〕とよむべし、○隱國乃《コモリクノ》は、泊瀬の枕詞なり、上にくはしくいへり、○泊瀬乃川爾《ハツセノカハニ》云々、泊瀬川より舟にのりて、奈良にうつるさまなり、○※[舟+共]浮而《フネウケテ》は、今(ノ)人の心にはたゞ舟(333)うかべたるばかりにて、棹さしなどもせぬやうに聞ゆれど、しからず、棹さしなどして行ことを、※[舟+共]浮て行といふは、古(ヘ)風なり、古人詞の簡約なることおもふべし、※[舟+共]は和名抄に、釋名(ニ)曰艇、小而深(キ)者(ヲ)曰v※[舟+共](ト)、今按(ニ)、和名|太加世《タカセ》、世俗(ニ)用2高瀬舟(ヲ)1とあれど、こゝはそのさだまではあらずて、ただ船に通(ハ)し用ひしに耳《コソ》、○川隈《カハクマ》(川(ノ)字類聚抄に河と作り、)は、上に道隈《ミチノクマ》といへるに同じく、川の曲り入て、こなたより見えずなる處を云、(隈は清て唱べし、濁るは非なり、)書紀仁徳天皇(ノ)卷に、箇波區莽《カハクマ》とあり、○八十阿不落《ヤソクマオチズ》は、八十|阿《クマ》は、川くまのいと多かるを云、八十は物の多かるをいふ詞なり、さて此は、たゞ隈の多かるをいふにはあらで、川路のいと遠きさまを、思はせむがためなり、不落《オチズ》は、漏ず殘らずなどいふが如し、その川の隈ごとに、のこらずといふにて、いとねもごろに、かへり見するよしなり、故郷の名ごりのをしさにするわざなり、(この阿《クマ》も清て唱ふべし、廿(ノ)卷にも、夜蘇久爾《ヤソクニ》とありて、八十より屬(ク)も清て唱へしなり、)○萬段《ヨロヅタビ》は、いく度もする意なり、一萬度とかぎれるにあらず、上の八十隈の類に、數多きことをいへるなり、大かた滿數をいふは、その數の多きよしなり、百《モヽ》といひ千《チ》といふも同じ、段《タビ》は意を得てかける字なり、二(ノ)卷に、此道乃八十隈毎萬段顧爲騰《コノミチノヤソクマゴトニヨロヅタビカヘリミスレド》、○顧爲乍《カヘリミシツヽ》は、下の道行晩《ミチユキクラシ》にかけて意得べし、いくたびとなく、かへり見をするにいとま入て、日をくらしたるさまなり、○玉桙乃《タマホコノ》(桙(ノ)字、拾穗本に鉾とあるは、鉾(ノ)字は字書になければ、さがしらに改めたるものなるべし、されど集中、いづれ(334)も木に從れるをや、こは鞍を按と作(キ)、椀を鋺と書る類、古書に多ければ疑ふべきにあらず、さて桙は清て唱(フ)なり、濁るは非《ヒガコト》ぞ、假字書には、いづくも多麻保許《タマホコ》とあればなり、)は、道といはむ料の枕詞なり、此《コノ》屬《ツヾ》け集中に甚多し、玉桙は、舊事紀大己貴命の、幸魂《サキミタマ》奇魂《クシミタマ》のことを記せる處にも、神光照v海(ヲ)、忽以踊2出|消波末《ナミノホヲ》1、爲2素装束(ヲ)1持2天(ノ)〓槍《タマホコヲ》1、有2浮(ヒ)歸(リ)來者1、云々と見えたり、さて枕詞における意は、甚|解難《コヽロエカテ》なるを、嘗(ミ)にいはゞ、玉桙の圓《マト》と云ならむか、ミチ〔二字右○〕とマト〔二字右○〕は、もと通ひて同言なれば、ミチ〔二字右○〕と云にいひかけたるなるべし、かくて玉桙といふは、玉は例の美稱ともいふべけれど、なほさにはあらで、鋒《サキ》を圓く石劔などいひしものゝさまになして、さて木のかぎりして作れるがありけむ、その圓きを玉と云るにこそ、(上(ツ)代の桙は、もはら木のかぎりして作れりと見ゆ、桙(ノ)字木に從るも、さる所由なり、)故(レ)玉桙之圓《タマホコノミチ》とは云かけたるなるべし、(冠辭考に、玉桙の身と、ミ〔右○〕の一言にかゝれるなるべし、といへるは、いとをさなき論なり、古(ヘ)の桙は、もはら質木《キノカギリ》して作れるものなれば、身は、有まじきをや、又本居氏(ノ)國號考に、玉桙の道と云道は、美《ミ》は御《ミ》にて添たる言なれば、枕詞はかならず知《チ》へ係れり、さるは古(ヘ)戈の柄に知《チ》といふ處の有しなるべし、凡て手に取て、引擧べき料に付たる物を、知《チ》と云例多し、今幕などに、乳《チ》といふものこれなり、されば戈にても取(リ)持ところを然《サ》はいへるなるべしといへるは、さることながら、さらば知《チ》某といふ言へも、いひかけたるがあるべきに、美知《ミチ》といふにのみ、かぎりてい(335)ひかけたれば、なほ美知《ミチ》の二言にかゝれる言なるべくこそおもはるれ、且道と云に云かけたるには、嚴戈《イカシホコ》細戈《クハシホコ》などゝは、一(ツ)もいはずして、玉桙とのみ云るには、其意ありてのことなるべきをや、)○道行晩《ミチユキクヲシ》は、船より上りて、陸を行如も聞ゆれども、猶船にて行(ク)ことなり、(道といふを、陸のことゝのみ意得るは、いと後(ノ)世意なり、)常に船道《フナヂ》海道《ウミヂ》などもいへば、船にて行をも、道といはむこと、もとよりのことなり、(岡部氏(ノ)考に、人は陸にのぼりても行ゆゑ、かくいへるよし云るはあらじ、すべて船行のうへなるに、この一句のみ、陸のことをいふべき謂なし、よく思ふべし、)さて上に隱國乃《コモリクノ》云々といふより是(レ)迄は、はじめ泊瀬河より船にて三輪川を經て、廣瀬の河合まで榜下り、其(ノ)河合より、廣瀬川をさかのぼりて、佐保河へいたるまでのさまをいへり、○青丹吉《アヲニヨシ》は、上にいへり、○佐保川爾《サホガハニ》、(川(ノ)字、類聚抄に河と作り、)廿(ノ)卷に、佐保河波《サホガハ》とあり、(河《ガ》の言濁るべし、)○伊行至而《イユキイタリテ》は、伊《イ》は發語なり、速《ハヤ》く日の暮たれば、船にて寐ながら、佐保川に行至《ユキツキ》たるさまなり、○我宿有《アガネタル》云々は、船にて宿ながら、曉更《アケガタ》になりて、目のさめたるまゝに、打見たるさまをいへるなり、○衣乃上從《コロモノウヘヨ》は、引被りて寐たるながらに、曉月を見る貌なり、衣乃上はたゞ輕く見べし、宿《ネ》ながらに目のさめて、打見たるさまを云るなり、(岡部氏(ノ)考に、奈良の都の、假屋に寐たるさまを云りとして、衣を床の誤とせしは、中々にひがことなり、)○朝月夜《アサヅクヨ》は、(月夜は豆久欲《ヅクヨ》と、豆《ヅ》を濁るべし、十五に、由布豆久欲《ユフヅクヨ》とあり、)在明月にて朝まである月を云、(336)在明月には、物のさやかに見ゆるをいふ、又下に、夜之霜落《ヨルノシモフリ》云々冷夜乎《サユルヨヲ》とあれば、この一句は、清爾《サヤカニ》の枕詞にも有べし、されど夜之霜《ヨルノシモ》は、夜中に落(レ)る霜を、朝に見たるをいへれば、なほこゝは朝のさまなり、又下の冷夜《サユルヨ》は、今まで藤原の舊都より、奈良の新京へ、夜をかさねて通ふさまをいへるなれば、此(ノ)時のみのことにはあらず、○清爾見者は、サヤカニミレバ〔七字右○〕と訓る宜し、(岡部氏(ノ)考に、サヤニミユレバ〔七字右○〕とよめるは非なり、但し古言には、左夜氣久《サヤケク》とのみ云て、佐夜加《サヤカ》とはいはずと、疑ふ人も有べけれど、廿(ノ)卷に、左夜加爾伎吉都《サヤカニキヽツ》とあるうへは、古言にも佐夜加《サヤカ》と云ること、うたがふべきに非す、)しか訓ては、下へ連屬《ツヾカ》ず、熟《ヨク》味《アヂハヒ》見べし、(ミレバ〔三字右○〕は、此方より設て見ればといふ意、ミユレバ〔四字右○〕》は、彼方より自《オノヅカラ》に見ゆればといふ意なればなり、)そのわたりのけしきの、なごりなく見ゆるさまを云、○栲乃穗爾《タヘノホニ》は、栲は白布のこと、穗は秀《ホ》にて、物の色の、それと秀《アラハ》れてみゆるをいへり、丹《アカ》き色の、それと秀《アラハ》れてみゆるを、丹《ニ》の穗といふに同じ意ばえなり、さて栲乃穗爾《タヘノホニ》といひて、栲の穗の如(ク)にの意にきこゆるなり、白木綿花爾落多藝都《シラユフバナニオチタギツ》などいへるも同意なり、(是(レ)言靈の妙(ナル)處なり、然るを岡部氏(ノ)考に、加を略きたるものとせるは、同じやうのことながら、言を設て、略けるといふものにはあらず、)さてこれは、霜の白くふりたるさまの、白布のごとくに見ゆるをいへり、或説に、栲(ノ)字、古書に、多倍《タヘ》とも多久《タク》ともよめるが中に、多久《タク》は、栲衾《タクブスマ》栲綱《タクヅヌ》栲繩《タクナハ》栲領巾《タクヒレ》など、多久《タク》某と、やがて物につゞけて、多久乃《タクノ》某と、乃《ノ》の言(337)をおきていへる例なし、多倍《タヘ》は多倍乃《タヘノ》某とのみあるを思へば、同物ながら、多倍《タヘ》といひ多久《タク》といふには必(ス)別あり、されば多倍《タヘ》は、布に織りての名にて、この栲のもとの名は多久《タク》なれば、衾《フスマ》領巾《ヒレ》繩《ナハ》などの類につくれるは、多久《タク》とのみいふなるべし、多倍《タヘ》は布の名なるを、その布には、此(ノ)木の皮もて織るによりて、やがてこの木をも、多倍《タヘ》といふなるべしといへり、此(ノ)説しかるべし、○夜之霜落《ヨルノシモフリ》は、夜之霜とは、朝霜夕霜にならべていふ、そのわたりさやかに見ゆるが中に、霜の落たるさまの、いちじるく見ゆるをいへり、さらぬだに、船中の夜のさむさ、ことに堪がたかるべきに、夜中に霜のふりおきたらむは、いとゞ堪がたかるべし、とおもひやらるかし、○磐床等《イハトコト》は、河氷凝りて磐床となれるよしなり、磐床は、磐をもて臥具の床につくれるをいふ石坐《イハクラ》石船《イハフネ》などの類なり、みな上古のものなり、等《ト》は、と化《ナリ》ての意なり、此(ノ)卷の初にいへり、こゝは石床と化(リ)て、氷の凝たるさまをいへるなり、○川之氷凝《カハノヒコホリ》は、氷を比《ヒ》としもいふは古稱なり、後(ノ)世は、氷を直に、許保里《コホリ》と云ど、(古今集に、谷風にとくる許保里《コホリ》のひまごとに、とあるなどや、體にいへるはじめならむ、)許保里《コホリ》はもと用言にのみ云て、そをやがて名とせしことはあらざりき、凝はコホリ〔三字右○〕と訓べし、(コヾリとよまむもあしからじなれど、其(ノ)假字古き物に見えず、)廿(ノ)卷に、佐保河波爾許保里和多體流宇須良婢乃《サホガハニコホリワタレルウスラビノ》、とあるに据《リ》つ、抑々許保流《コホル》は、堅凝《コハコル》といふなり、(ハコ〔二字右○〕の切ホ〔右○〕、或説に、氷は水の誤にて、カハノミヅコリ〔七字右○〕なるべし、といへれどいかが、)○(339)冷夜乎は、サユルヨヲ〔五字右○〕とも、サムキヨヲ〔五字右○〕とも訓べし、乎《ヲ》は霜ふり氷《ヒ》凍て、寒さたへがたければ、かよふべきこゝちもなき、夜頃なるものを、といふ意なるべし、○息言無久は、ヤスムコトナク〔七字右○〕と訓べし、〈息はイコフ〔三字右○〕とも訓べし、神武天皇(ノ)紀に、息をイコフ〔三字右○〕と訓り、字鏡に、※[息+舌]※[立心偏+曷]※[食+牙](ハ)、三形同息也、伊己布《イコフ》、)言は借(リ)字|事《コト》なり、續紀十(ノ)卷詔に、夜半曉時止《ヨナカフカトキト》、休息無久《ヤスマフコトナク》、卅二詔に、暫之間母《シマシノマモ》、罷出而《マカリデテ》、休息安母布事無《ヤスモフコトナク》、また同詔に、天(ノ)下(ノ)公民之《オホミタカラノ》、息安麻流倍伎事乎《ヤスマルベキコトヲ》など見ゆ、こゝはこの遷都につきての、いたづきをいへり、○通乍《カヨヒツヽ》は、藤原の舊都より、寧樂の新京へ通ひつゝなり、乍の意上にいへり、これは新京に家造らむとて、敷度かよへるなり、その數度なるよしは、乍の言にて、しかきこえたり、○作家爾《ツクレルイヘニ》、この家は、誰人のなることはしられねど、下に公《キミ》とさしたる、その人の家なるべし、○千代二手來《チヨマテニ》は、二手は乃至《マテ》の借(リ)字なり、そも/\二手を麻提《マテ》と訓こと、凡《オホヨ》そ何にまれ、物の全備《トヽノ》ひたるを美稱《ホメ》て、眞《マ》といふ言をそふるから、集中に、二手兩手諸手左右左右手など書て、麻提《マテ》とよめり、船の楫は左右にあるものなる故、二楫と書て、麻加遲《マカチ》とよむがごとし、左右袖を眞袖《マソデ》といふも同じこゝろなり、來は爾(ノ)字の誤といへるによりて、ニ〔右○〕とよみつ、○座牟公與《イマサムキミト》、(牟(ノ)字舊本に多とあるは誤なり、こは古本に牟とあるに從つ、)公《キミ》とは此家の主人なるべし、與《ト》はとしての意なるべし、○吾毛通式《アレモカヨハム》、こゝに公とさしたる人を主とたてて、毛《モ》といへるは、吾を客《カタハラ》になしたるいひざまなり、○歌(ノ)意は、大皇の命令を畏まり奉りて、ひ(339)さしく住みなれし家をはなれ、泊瀬川よりとほく船路を經て、佐保川にいたり、霜氷いたくさゆる夜の、寒さ堪がたきをもいとはず、たび/\かの船路をかよひつゝ造れる家に、千代までに君はおはしますべければ、吾も常に通ひ來て、この家にやどらむと、この新京は、千世までに變るべからぬ大宮どころぞよ、末たのもしげによめるなり、さて此(ノ)歌は、貴人《ウマヒト》の家を、親しき人の助(ケ)け造りて、その助(ケ)造れる人の、後によめるなり、かくてその助(ケ)つくれる人は、長谷《ハツセ》か、又は、いづくにまれ、他《アダシ》處に住る故に、吾も通はむとしも云るならむ、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
80 青丹吉《アヲニヨシ》。寧樂乃家爾者《ナラノイヘニハ》。萬代爾《ヨロヅヨニ》。吾母將通《アレモカヨハム》。忘跡念勿《ワスルトモフナ》。
 
青丹吉《アヲニヨシ》は、上にいへり、○寧樂乃家爾者《ナラノイヘニハ》とは、新京の家を云、爾波《ニハ》は他方にむかへていふ詞なり、他方には行ずとも、此(ノ)家には、常に通はむとおもふよしなり、○萬代爾《ヨロヅヨニ》は、長歌に、千代《チヨ》とよめるに同じ心ばえにて、末久しき間のことをいふ、これにて千《チ》といふも萬《ヨロヅ》といふも、たゞその久しきこと、數多(キ)ことなどをいふ詞なるをしるべし、○吾母將通《フレモカヨハム》は、長歌にいへるに同じ、座牟公與《イマサムキミト》といふことは、長歌にゆづりたるなり、こゝもその意に見べし、○忘跡念勿は、ワスルトモフナ〔七字右○〕と訓べし、念《オモフ》を母布《モフ》と云る、此(ノ)集より以往《ヲチツカタ》にはめづらしかちず、延喜六年書紀竟宴(ノ)歌に、波志米度母幣波《ハジメトモヘバ》、土佐日記に、祈(リ)來る風間と母布遠《モフヲ》など見えたる、此(ノ)後はをさ/\聞(340)えず、(既く上、身入部(ノ)王(ノ)歌にも云り、)さて今こそあれ、末はいかゞと、主人はおもふべけれど、さらにさる心にあらず、千代萬代までもかはらず、こゝに通ひ來むとおもふぞ、忘ることありとおもひ給ふなとなり、○歌(ノ)意は、天皇の此(ノ)新京に、天(ノ)下しろしめさむかぎり、萬代までに、吾も此家にかよひ來むとおもふぞ、ゆめ/\わするとおもひ給ふことなかれとなり、
 
右歌《ミギノウタハ》。作主未詳《ヨミヒトシラズ》。
 
五年王子夏四月《イツトセトイフトシミヅノエネウツキ》。遣《ツカハサルヽ》2長田王《ナガタノオホキミヲ》于|伊勢齊宮《イセノイツキノミヤニ》1時《トキ》。山邊御井作歌《ヤマヘノミヰニテヨメルウタ》。
長田(ノ)王は、續記に、和銅四年四月壬午、從五位上長田(ノ)王(ニ)、授2正五位下(ヲ)1、靈龜元年四月丙子、授2正五位上(ヲ)1、二年正月壬午、授2從四位下(ヲ)1、十月壬戌、爲2近江(ノ)守(ト)1、神龜元年二月壬子、授2從四位上(ヲ)1、天平元年三月甲午、授2正四位下(ヲ)1、九月乙卯、爲2衛門(ノ)督(ト)1、四年十月丁亥、爲2攝津(ノ)大夫(ト)1、九年六月辛酉、散位正四位下長田(ノ)王卒、三代實録に、貞觀元年冬十月廿三日乙巳、尚侍從三位廣井(ノ)女王薨、廣井者、二品長親王之後也、曾祖二世從四位上長田(ノ)王云々、これに從ば、長(ノ)親王の御子なり、○齊(ノ)宮、(齊(ノ)字は、齋と通(ハシ)用(ヒ)たり、)古語拾遺に、※[さんずい+自]2于卷向(ノ)玉城(ノ)朝(ニ)1、令2皇女倭姫(ノ)命(ニ)、拳1v齋2天照大神(ヲ)1、仍|隨《マニ/\》神(ノ)教(ノ)1、立2其祠(ヲ)於伊勢(ノ)國五十鈴(ノ)川上(ニ)1、因興2齋宮《イツキノミヤヲ》1。令2倭姫(ノ)命(ヲ)居(ラ)1焉、と見えたる齋宮のはじまりにて、御世御世齋(ノ)王に立給ふ皇女の、坐ます宮をいへり、但(シ)書紀垂仁天皇(ノ)卷に、故隨2大神(ノ)教(ノ)1、其祠(ヲ)立2於伊勢國(ニ)1、因興2齋宮(ヲ)于五十鈴(ノ)川上(ニ)1、是(ヲ)謂2磯(ノ)宮(ト)1とあるは則(チ)大御神を齋奉れる宮といふことにて、齋(ノ)王の坐(ス)(341)宮といふ意にはあらず、故(レ)立は定(ノ)字の誤にて、祠(ヲ)定2於伊勢國(ニ)1なるべし、と本居氏云る如し、二(ノ)卷人麻呂の長歌に、渡會乃齋宮《ワタラヒノイハヒノミヤ》とあるも同じ、なほ委しくは二(ノ)卷に云べし、○山邊(ノ)御井は、本居氏(ノ)説に、伊勢に山邊村といふありて、そこに御井の跡なりとて、今も殘れりと云り、猶委くは、玉勝間三(ノ)卷に見えたり、十三に見えたる、山邊乃五十師乃御井《ヤマヘノイシノミヰ》は、即(チ)これなり、
 
81 山邊乃《ヤマヘノ》。御井乎見我?利《ミヰヲミガテリ》。神風乃《カムカゼノ》。伊勢處女等《イセヲトメドモ》。相見鶴鴨《アヒミツルカモ》。
 
山邊乃は、ヤマヘ〔三字右○〕ノと(ヘ〔右○〕を清て)四言に訓べし、今も此處をやまべ村といふとぞ、(山乃邊《ヤマノヘ》と、乃《ノ》
の言をそへてよむはわろし、)○見我?利《ミガテリ》は、見我弖良《ミガテラ》といふに同じ、七(ノ)卷に、吾舟者從奧莫離向舟片待香光從浦榜將會《アガフネハオキヨナサカリムカヘフネカタマチガテリウラヨコギアハム》、十七に、秋田乃穗牟伎見我底利和我勢古我布佐多乎里家洗乎美奈敝之香物《アキノタノホムキミガテリアガセコガフサタヲリケルヲミナヘシカモ》などあり、皆相兼る意の言なり、その相來るとは、一事にまた一事のそはるをいふことにて、こゝは御井を見るが主にて、それにそはりて、處女を見たるよしなり、或説に、がてりは、加《カツ》るといふことより、出たる詞なりといへり、さもあるべし、又|我底良《ガテラ》とも云るは、十八に、宇梅乃波奈佐伎知流曾能爾和禮由加牟伎美我都可比乎可多麻知我底良《ウメノハナサキチルソノニワレユカムキミガツカヒヲカタマチガテラ》、十九に、吾妹子我可多見我底良等紅之八鹽爾染而於已勢多洗服之襴毛《ワギモコガカタミガテラトクレナヰノヤシホニソメテオコセタルコロモノスソモ》、古今集に、花見がてらに、又心みがてら、好忠集に、すゞみがてらなどあり、後にはがてらとのみ云り、○神風乃《カムカゼノ》は、伊勢の枕詞なり、古事記中卷神武天皇(ノ)條に、加牟加是能伊勢能宇美能《カムカゼノイセノウミノ》、(書紀にも同じごと見えたり、又雄(342)略天皇(ノ)紀(ノ)歌に、柯武柯噬能伊制能《カムカゼノイセノ》、又書紀垂仁天皇(ノ)卷に見えたる、大御神の御誨言は下に引り、集中には、二(ノ)卷四(ノ)卷十三(ノ)卷などにも見えたり、此は二種に思はるゝことなり、まづ其(ノ)一(ツ)には、風は借(リ)字にて、神下瀬之《カムクダリゼノ》と云か、久太《クダノ》切|可《カ》なり、かく云|由縁《ユヱ》は、垂仁天皇(ノ)紀に、天照大神、誨2倭姫(ノ)命(ニ)1曰、是(ノ)神風(ノ)伊勢(ノ)國(ハ)、則常世之浪重浪|歸國《ヨスルクニ》也、傍國可怜國也《カタクニノウマシクニナリ》、欲v居2是(ノ)國(ニ)1、故(レ)隨《マヽニ》2大神(ノ)教(ノ)1、其(ノ)祠(ヲ)立2於伊勢(ノ)國(ニ)1、因(レ)興2齋宮(ヲ)于五十鈴(ノ)川上(ニ)1、是(ヲ)謂2磯(ノ)宮(ト)1、則(チ)天照大神、始自v天降之處也、と見えたるを思へば、神代に大御神の、彼處《カシコ》に天降り座しといふ、古傳説の有しならむ、故(レ)その古事に依て、神下(リ)瀬とは申すなるべし、(この天降の事他に見えず、たゞ右の如く、垂仁天皇(ノ)紀に、かつ/”\見えたると、古語拾遺に、卷向(ノ)玉城(ノ)朝、云々、立2其祠(ヲ)於伊勢(ノ)國五十鈴(ノ)川上(ニ)1、云々、始在2天上(ニ)1、豫結2幽契(ヲ)1とあるのみなり、但し鎭座傳記に、今歳猿田彦大神、參(テ)乃(チ)言壽覺白久《コトホキサトシマヲサク》、南大峯(ニ)有2美宮處1、佐古久志呂宇遲之五十鈴之河上者、大八洲之内|彌圖《ミヅ》之靈地也、隨2翁之出現1、二百八萬餘歳之前爾毛、未2視知(ラ)1有2靈物1、照耀如2大日輪(ノ)1也、惟|少縁《オホロケ》之物爾不v在、と見えて、山崎氏(ノ)説に、靈物(ハ)乃天照大神之靈體、猿田彦(ノ)所v護之寶物也、と云るは推當にて、大御神の、此處に天降座しことの有しを、其(ノ)傳の委曲なることは、漏たるにやあらむ、又神代紀皇孫降臨(ノ)條(ノ)一書に、皇孫、則到2筑紫(ノ)日向(ノ)高千穗(ノ)※[木+患]觸之峯(ニ)1、其猿田彦(ノ)神者、則到2伊勢之狹長田五十鈴(ノ)川上(ニ)1、云々、と見えたる古事に、神下(リ)瀬の言を係て見むも不可《アシカウ》ねど、なほ上に云如くなるべし、(神下《カミクダリ》といふ詞は、二(ノ)卷に、天地之初時之《アメツチノハジメノトキシ》云々(343)天雲之八重掻別而神下座奉之《アマクモノヘカキワケテカムクダリイマセマツリシ》と見えたり、さて神下瀬の瀬は、たゞ河瀬を云言ならず、今(ノ)世の言にせば、神下(リ)場《バ》と云むが如し、古事記上卷に、青人草之落2苦瀬(ニ)1而《テ》患惚時《クルシマムトキニ》、(苦き場《ハ》に落ての意なり、)又同記應神天皇(ノ)條(ノ)歌に、和多理是《ワタリゼ》、(渡(リ)場《バ》の意なり、)後の歌に、戀しき瀬、逢瀬、又こゝを瀬にせむ、(戀しき場合《バアヒ》、逢(フ)場合《バアヒ》、又こゝを居場《ヲリバ》にせむの意なり、平家物語に、命はいかにも大切のことなれば、たとひこの瀬にもれさせ給ふとも、終にはなどか、赦免なくて候べきと、云々、少將は情深き人なれば、よきやうに申事もやと頼(ミ)をかけて、その瀬に身をもなげざりし、心の裏《ウチ》こそはかなけれ、云々、僧都の御むすめの、忍うでおはしける所へ參て、この瀬にももれさせ給ひて、御上りも候はず、云々、こぞ少將や判官入道がむかひの時、その瀬に身をも投べかりしを云々、などある瀬も同じかるべし、)又後に、内裏樣御所樣などいふ樣も、本同言なり、(この事、余《オノレ》別に委(キ)論あり、)かくて伊勢《イセ》といふも五十鈴《イスヾ》も磯《イソ》も、(磯(ノ)宮と見ゆ、)本同言の轉變《ウツロヒ》にて、五十鈴河に依(レ)る名ならむ、とおもはるゝなり、さるはまづ五十鈴と云は、五十瀬々《イセヾ》の由ならむ、かの天之安河も、(古語拾遺には、天(ノ)八湍河原と見えて、)彌瀬《ヤセ》河の意なれば、勢《セ》と須《ス》と通ふ例をも思(ヒ)合(ス)べし、さて伊勢といふも、本彼(ノ)川によれる名にして、五十瀬《イセ》なるべければ、五十鈴と伊勢は同意なるを、(山崎氏(ノ)説にも、伊勢(ハ)五十瀬也、出v自2五十鈴川之名1也とあり、)漸後に河(ノ)名には五十鈴といひ、國(ノ)號には伊勢と呼(ビ)、齊(ノ)宮(ノ)名をば磯(ノ)宮と申せしならむ、かれ神下瀬之五十瀬《カムクダリセノイセ》と(344)いふ意に、つゞける詞ならむとは云なり、其(ノ)二(ニ)には神風は字(ノ)意にして、伊勢とうけたる意は、伊須氣之《イスケシ》と云なるべし、伊須氣《イスケ》は伊勢《イセ》と約ればなり、(須氣《スケノ》切|勢《セ》、〉さて伊須氣《イスケ》と云言は、古事記神武天皇(ノ)條に、爾其(ノ)美人驚而、立走(リ)伊須々岐伎《イスヽギヽ》、云々。即(チ)娶2其美人(ヲ)1、生(ル)子(ノ)名(ヲ)、謂2富登多々良伊須々岐比賣《ホトタヽライスヽギヒメノ》命(ト)1、亦(ノ)名、謂2比賣多々良伊須氣余理比賣《ヒメタヽライスケヨリヒメト》1、是者惡(テ)2其富登(ト)云事(ヲ)1、後(ニ)改v名(ヲ)者也と見えて、伊須須岐《イススギ》、伊須氣《イスケ》は全(ラ)同言にて、物の一平穩ならず、いみじきを云言なり、又續後紀興福寺僧徒(カ)長歌に、世中乃伊須賀志態遠添飾利申志《ヨノナカノイスカシワザヲソヘカザリマヲシ》曾上留云々、大殿祭(ノ)祝詞に、御床都比能佐夜伎《ミユカツヒノサヤギ》、夜女能伊須々伎《ヨメノイスヽギ》、伊豆都志伎事無久《イヅヽシキコトナク》云々などある、伊須賀志《イスカシ》、伊須々伎《イスヽギ》なども、皆同言にして、後(ノ)世言にいしきといふは、全(ラ)此言より出たるなるべし、さて神風とは、二(ノ)卷に、渡會乃齋宮從神風爾伊吹惑之天雲乎日之目毛不令見常闇爾覆賜而《ワタラヒノイハヒノミヤヨカムカゼニイプキマドハシアマクモヲヒノメモミセズトコヤミニオホヒタマヒテ》云々とある如く、尋常の風と異《タガ》ひて、平穩ならず、甚《イミ》じくはげしく吹風を云ことなれば、神風之伊須氣之《カムカゼノイスケシ》と云意に、伊勢に云係たるなるべし、(冠辭考に、風は神の御息なれば、神風のいきといふ意にて、イ〔右○〕の一言につゞけたりと云るは非ず、又荒木田氏が、神饌稻之飯稻《カムケシネノイヒシネ》と云意のつゞけなりと云るはをかし、神風のゼ〔右○〕の言は、古書皆濁音(ノ)字のみ用ひたれば、饌稻の意ならぬこと著きをや、)○伊勢處女等は、イセヲトメドモ〔七字右○〕とよめる宜し、(イセノヲトメラ〔七字右○〕と訓たるはわろし、すべて地(ノ)名の下にいふヲトメ〔三字右○〕は、某處女《ナニヲトメ》とのみいひて、某乃處女《ナニノヲナメ》と、乃《ノ》の言をおきてはいはぬ、古(ヘ)の例なり、次に引たる例どもを(345)見て考(フ)べし、)伊勢(ノ)國の處女等にて、こは勝貌《スグレ》し美女にぞありけむ、さてすべて地(ノ)名をもて、某處女と呼ことは、泊瀬處女《ハツセヲトメ》、菟原娘子《ウナヒヲトメ》、可刀利娘子《カトリヲトメ》、古波陀娘子《コハダヲトメ》などいふがごとし、等《ドモ》は一人のうへにもいふこと處女等《ヲトメラ》妹等《イモラ》などいふ良《ラ》の言に同し、○相見鶴鴨《アヒミツルカモ》、鶴《ツル》は、さきにまのあたりありしことを、今いふ詞なり、鴨《カモ》は、哉《カモ》にて歎息詞、上にいへり、こゝはもと、此(ノ)御井を見むとて來たるに、おもはず、美女を相見たるをなげきたる、歡喜《ウレシビ》の貌《サマ》、この一句《ヒトクサリ》に著れたり、○歌(ノ)意は、此(ノ)山邊の御井を見むとて來つるに、おもはず、伊勢處女どもさへあひ見つるかなと、この山邊の御井のあたりの、おもしろき處なるに、うるはしき美女をさへ見たるを、ふかくよろこびたまへるさまなり、
 
82 浦佐夫流《ウラサブル》。情佐麻禰之《コヽロサマネシ》。久堅乃《ヒサカタノ》。天之四具禮能《アメノシグレノ》。流相見者《ナガラフミレバ》。
 
流佐夫流《ウラサブル》は、浦は借(リ)字、心《ウラ》にて、心裏《コヽロノウチ》のさぶるよしなり、佐夫流《サブル》は荒《スサ》ふるにて、心の落居ずして、寂莫《サブ/\》しきよしなり、此(ノ)上に、國都美神乃浦佐備而《クニツミカミノウラサビテ》、とあるところにくはしくいへり、○情佐麻禰之《コヽロサネシ》、(禰(ノ)字、舊本に彌と作は誤なり、今は六條本に從つ、)佐《サ》は發語にて、狭筵《サムシロ》、佐小男鹿《サヲシカ》、佐夜《サヨ》、佐衣《サコロモ》の佐《サ》に同じ、本居氏、麻禰之《マネシ》は、物の多きこと、しげきことなり、こゝは、うらさびしき心のしげきなり、二(ノ)卷に、眞根久往者人應知《マネクユカバヒトリシヌベシ》、四(ノ)卷に、君之使乃麻禰久通者《キミガツカヒノマネクカヨヘバ》、是らはしげき意なり、十七に、歩麻保許乃美知爾伊泥多知和可禮奈婆見奴日佐麻禰美孤悲思家武可母《タマホコノミチニイデタチワカレナバミヌヒサマネミコヒシケムカモ》、又|失形尾能多加(346)乎手爾須惠美之麻野爾可良奴日麻禰久都奇曾倍爾家流《ヤカタヲノタカヲテニスヱミシマヌニカラヌヒマネクツキソヘニケル》、十八に、月可佐禰美奴日佐末禰美故敷流曾良夜須久之安良禰波《ツキカサネミヌヒサマネミコフルソラヤスクシアラネバ》、十九に、朝暮爾不聞日麻禰久安麻射可流夷爾之居者《アサヨヒニキカヌヒマネクアマザカルヒナニシヲレバ》、又|都禮母奈久可禮爾之毛能登人者雖云不相日麻禰美念曾吾爲流《ツレモナクカレニシモノトヒトハイヘドアハヌヒマネミオモフソアカスル》、是日數の多きをいへり、此(ノ)外數多と書るに、マネク〔三字右○〕とよみてよろしき所多し、此マネシ〔三字右○〕の言を間無《マナシ》の意とする時は、右の十七十八十九の歌どもにかなはず、續紀三十六の宣命に、氏人乎毛《ウヂヒトヲモ》、滅人等《ホロボスヒトドモ》、麻禰久在モマネクアリ》とも有と云り、續紀光仁天皇(ノ)宣命に、一二遍能味仁不在《ヒトタビフタヽビノミニアラズ》、遍麻年久《タビマネク》云々、祝詞式に、一年二年爾不在《ヒトトセフタトセニアラズ》、年眞尼久《トシマネク》云々などもあり、○久堅乃《ヒサカタノ》は、天《アメ》の枕詞なり、古事記倭建(ノ)命(ノ)御歌に、比佐迦多能阿米能迦具夜麻《ヒサカタノアメノカグヤマ》、書紀仁徳天皇(ノ)卷(ノ)歌に、比佐箇多能阿梅箇儺麼多《ヒサカタノアメカナバタ》とあり、集中にも往々見えて、又月雨|王都《ミヤコ》など屬けたるは、天といふより、一(ト)たび轉りたるものなり、さて此(ノ)詞の意は、字はくさぐさ書たれど、皆がら借(リ)字にて、提勝間之《ヒサカタノ》といふことなるべし、比佐久《ヒサク》といふは、風俗歌知々良良に、伊止古世乃加止仁天宇止乎比佐介天《イトコセノカドニテウドヲヒサケテ》とあるは、調度を提《ヒサゲ》てと云ことなり、古言なるべし、およそ提《ヒサ》ぐ器《モノ》をさして、比佐《ヒサ》某といふは、杓を提籠《ヒサコ》といひ、(和名抄に、杓、和名|比佐古《ヒサコ》、瓢、和名|奈利比佐古《ナリヒサコ》、)また比佐氣《ヒサケ》といふも、(枕冊子に、物まゐるほどにや、はしかひなどのとりまぜてなりたるひさけの柄のた忘れふすも、耳にこそとゞまれ、)提笥《ヒサケ》の意なるべくやあらむ、勝間をカタ〔二字右○〕といふは、マツ〔二字右○〕の切タ〔右○〕なれば約ねいへり、勝間は古事記書紀集中などに往々見えて、(347)間堅く編たる籠《コ》をいへり、さて天《アメ》を編目《アミメ》の意にとりなして、(ミメ〔二字右○〕の切メ〔右○〕)提勝間之編目《ヒサカタノアメ》といふ謂につゞけたるならむ、(大神(ノ)景井(カ)考に、ひさかたは日榮足《ヒサカタリ》の意にて、日とは照光る意、さて天はもと、たゞに大空をいふことにはあらで、天(ツ)神の御座す御國をいふ、さてその天(ツ)神の御國と申すは、やがて今現に見放(ク)る天津日にて、そはくすしくあやしく、いとも照光り榮え足れる謂にて、日榮足之天《ヒサカタリノアメ》とはいふならむと云り、猶考(フ)べし、久方久堅などの字(ノ)意とする説は、いふに足ず、又冠辭考に、※[袴の旁+包]形《ヒサカタ》の意といひ、また荒木田氏が、日刺方の義なりと云るも、共にひがことなり、)○天之四具禮能《アメノシグレノ》は、後(ノ)世は聞つかぬ詞なれど、※[雨/衆の皿が横になった日]雨はもと天より降ものなれば、いへるなり、されどたゞ四具禮《シグレ》にてまがひなきを、ことに天之《アメノ》といへるは、空といふにも、天といふことを冒《カウム》らせて、天之御空《アメノミソラ》といふと、同じことゝ意得べし、さて此(ノ)王を伊勢につかはされしは、四月と題詞にあり、四具禮《シグレ》は、長月のしぐれの雨と集中によめるが如く、九月より冬かけてふる雨をいへば、この歌は、四月より九月までも伊勢にありてよみ給へるにこそ、さてこの歌と次なるとの二首は、既く左注にうたがひ置たるごとく、この歌は四月とあるに時たがひ、次の歌は、立田山、伊勢より、の歸路ならねば、もし此(ノ)二首はこと人のにて、題詞の脱たるにや、されどこれは九月までも、伊勢におはしけむもしられず、今その實事をしらねば、さだめてはいひがたし、○流相見者《ナガラフミレバ》は、絶ず零(ル)を見ればといふ意なり、流相《ナガラフ》は那我流《ナガル》を長《ノベ》(348)たる詞なり、(良布《ラフ》の切|流《ル》となれり、さてこの延云なりといふ説、世におこなはれて、注者等その延云ゆゑのさだなきは、句の言の數のたらねば、留《ル》を延て良布《ラフ》といひ、又言の數のあまれば、良布《ラフ》を約めて留《ル》とも云るにて、實は留《ル》も良布《ラフ》も同じことなるを、心にまかせて、ともかうもいふとおもへるにや、そは後(ノ)世意にて、古(ヘ)人はさらにせざりしことぞかし、もししからば上古(ノ)歌に、四言六言などは、よむまじき理なるをもて、ゆゑなくして、延約はせざりしことをしるべし、されば差別有ことなり、)流《ナガル》はその流《ナガルヽ》ことを直にいひ、那我良布《ナガラフ》は、その流(ル)ことの引つゞきて、絶ず長緩《ノド/\》しきをいふことなり、としるべし、さればこゝは※[雨/衆の皿が横になった日]雨《シグレ》のたゞ一(ト)わたりにふることにはあらで長緩《ノド/\》と引つゞきて、絶ずふるよしなり、散《チル》を知良布《チラフ》、霧《キル》を伎良布《キラフ》、語《カタル》を加多良布《カタラフ》、足《タル》を多良布《タラフ》、取《トル》を等良布《トラフ》などいふ類も、みな其(ノ)定に意得べし、流相と書るは、ナガレアフ〔五字右○〕のレア〔二字右○〕を切むれば、ナガラフ〔四字右○〕となれば、借(リ)て書る字なり、(散相《チラフ》霧相《キラフ》語相《カタラフ》など書るも同意、)さて雨雪の類の零(ル)をも、流(ル)と云は古語にて、集中に例多し、上にも云り、(後(ノ)世は水にのみいへど、古(ヘ)はしからず、竪にも横にも、長くつゞくことには、那我流《ナガル》といへり、)されば零(ル)ことにも、(小松がうれゆ沫雪ながるなど云、)傳ふることにも、(妹が名は千代に流れむ、或は流(カ)さへるおやのみことなど云、)那我流《ナガル》と云て、みな同じこゝろばえなり、(又零ことを都多布《ツタフ》と云こともあり、天傳ひ來る雪じものなどいふ是なり、)見者《ミレバ》は、本の二句へかへしつゞけて意得べし、○歌(ノ)意(349)は、しぐれの絶ずふるを見れば、いとゞ旅中の、さぶ/\しき心のしげくなりぬ、情なのしぐれやと、※[雨/衆の皿が横になった日]雨《シグレ》を恨み給へるなり、
 
83 海底《ワタノソコ》。奧津白浪立田山《オキツシラナミタツタヤマ》。何時鹿越奈武《イツカコエナム》。妹之當見武《イモガアタリミム》。
 
海底《ワタノソコ》は、奧《オキ》といはむとての枕詞におけるなり、和多《ワタ》とは海をいふこと、上にいひたるが如し、底とは至り極りたる處をいふ稱にて、五(ノ)卷に、和多能曾許意枳都布可延乃《ワタノソコオキツフカエノ》云々、とあり、宮地(ノ)春樹(ノ)翁、先(ツ)奧《オキ》と云は、深き事をも遠きことをも云て、こゝの海(ノ)底と云も、下を興すかたにては、深きをもていひ、奧津とうけたるうへにては、遠きかたに用ひたるなり、と云るが如し、○奧津白浪《オキツシラナミ》と云るまでは序にて、立と屬《カヽ》るのみぞ、古今集に、風吹ば奧津白浪立田山とよめり、○立田山《タツタヤマ》は、大和(ノ)國平群(ノ)郡にて、河内の境なれば、伊勢よりかへり上りますには、甚く地違へれば、左に註せるごとく、誦せられたる古歌か、又はこと人の歌などにありけむが、題詞の脱たるにも有べし、されどこれは、或説にいへるごとく、伊勢よりの歸路、河内の方より大和にかへり給ふべき公用ありて、かくよませ給ひしもしるべからねば、今決めてはいひがたし、○何時鹿越奈武《イツカコエナム》、この奈《ナ》は、已成《オチヰ》の奴《ヌ》のはたらきたるにて、いつか已く越はつるときに成む、といふほどの意なり、これその時の、待とほなるをのたまへるなり、○妹之當見武《イモガアタリミム》、これは立田山を越はつる處より、妹が家のあたり見やらるればなるべし、○歌(ノ)意は、いつか立田山を越(350)はつる時にならむ、そのあたりよりは、妹が家のあたりの見やらるれば、待どほにおもはるるなり、とよみ給へるなり、
〔右二首。今案。不v似2御井所作1。若疑當時誦之古歌歟。〕
若疑云々、拾穗本には、疑當時吟詠古歌とあり、○歟(ノ)字、類聚抄にはなし、○この左註にうたがへるは、さることながら、なほ决てはいひがたきこと、上にいひたるがごとし、
 
長皇子《ナガノミコト》。與《ト》2志貴皇子《シキノミコ》1。於《ニテ》2佐紀宮《サキノミヤ》1倶宴歌《ウタゲシタマフトキノウタ》。
 
長(ノ)皇子の上、舊本に寧樂宮の三字あるは、既くいへるごとく、よしなければ削去つ、○於2佐紀(ノ)宮1(於(ノ)字、類聚抄に出と作るはいかゞ誤か、拾穗本には於を宴と作て、下の倶宴(ノ)二字なし、)は、和名抄に、大和(ノ)國添下(ノ)郡|佐紀《サキ》、神名帳に、大和(ノ)國添下(ノ)郡|佐紀《サキノ》神社、諸陵式に、狹城(ノ)盾列(ノ)池(ノ)後(ノ)陵、狹城(ノ)盾列(ノ)池(ノ)上(ノ)陵とありて、共に在2大和(ノ)國添下(ノ)郡1と見ゆ、古事記垂仁天皇(ノ)條に、此(ノ)后者、葬2狹木之寺問(ノ)陵(ニ)1也、書紀同卷に、三十五年、作2倭(ノ)狹城(ノ)池(ヲ)1、續紀に、大和(ノ)國添下(ノ)郡佐貴(ノ)郷高野山(ノ)陵、集中四(ノ)卷に、娘子部四咲澤二生流花勝見《ヲミナヘシサキサハニオフルハナカツミ》、十(ノ)卷に、春日在三笠乃山爾月母出奴可母佐紀山爾開有櫻之花乃可見《カスカナルミカサノヤマニツキモイデヌカモサキヤマニサケルサクラノハナノミユベク》などあり、今の超昇寺村常福寺村山陵村などのあたり、佐紀(ノ)郷の地なるべし、と本居氏云り、さてこの宮は、長(ノ)皇子のにて、こはあるじの皇子のよみ給ふなり、
 
84 秋去者《アキサラバ》。今毛見如《イマモミルゴト》。妻戀爾《ツマコヒニ》。鹿將鳴山曾《カナカムヤマソ》。高野原之宇倍《タカヌハラノウヘ》。
 
(351)秋去者はアキサラバ〔五字右○〕と訓べし、秋になりなばの意なり、此(ノ)宴せさせ給ふは、秋時なるべし、されば、又も秋になりなばの意とみべし、○今毛見如《イマモミルゴト》は、十七に、於母布度知可久思安蘇婆牟異麻母見流其等《オモフドチカクシアソバムイマモミルゴト》、(今眼(ノ)前に見る如く又も如此し遊ばむと云なり、)十八に、等許余物能已能多知婆奈能伊夜?里爾和期大皇波伊麻毛見流其登《トコヨモノコノタチバナノイヤテリニワゴオホキミハイマモミルゴト》、(今眼(ノ)前に見奉る如く、いつも照坐《テリイマ》せと云なり、)廿卷に、波之伎余之家布能安路自波伊蘇麻都能都禰爾伊麻佐禰伊麻母美流其等《ハシキヨシケフノアロシハイソマツノツネニイマサネイマモミルゴト》、(今眼(ノ)前に見る如くいつも榮えて坐さねと云なり、)などあるに同じ、毛《モ》は今を主とたてゝ、又の秋を客として詔へる詞なり、さればこの毛《モ》の辭は、如の下にうつして意得べし、かゝれば此(ノ)御二句の意は、畢竟は今眼(ノ)前に見る如く、又も秋になりなばと詔へるなり、○鹿將鳴山曾は、カナカムヤマソ〔七字右○〕と訓べし、(岡部氏(ノ)考|并《マタ》略解に、シカナカム〔五字右○〕とよめるはわろし、)本居氏(ノ)玉(ノ)小琴に、凡て集中にある鹿(ノ)字は、みなかと訓べし、しかと訓ては、いつれももじあまりて調惡し、しかには必ず牡鹿と、牡(ノ)字をそへてかけり、和名抄にも、鹿和名加とありと云る如く、集中に、數多處|左男牡鹿《サヲシカ》と書てシカ〔二字右○〕には多く牡鹿と書りと見えたり、(されど又鹿(ノ)字のみにて、シカ〔二字右○〕と訓ことも、集中はさらにて、他の古書にも少からねば、おしきはめて、本居氏(ノ)説のごとくにも、いひがたきことなり、そは四(ノ)卷に、野立鹿毛《ヌニタツシカモ》、六(ノ)卷に、左男鹿者《サヲシカハ》、又|左牡鹿之《サヲシカノ》、十(ノ)卷に二ところ、左小鹿之《サヲシカノ》、又|左小鹿者《サヲシカハ》、十六に、佐男鹿乃《サヲシカノ》、八(ノ)卷、又十(ノ)卷に、鳴鹿之《ナクシカノ》、八(ノ)卷に、鳴鹿毛《ナクシカモ》、又同卷に、伏鹿之《フスシカノ》、九(ノ)卷に、(352)臥鹿之《フスシカノ》、八(ノ)卷に、鳴奈流鹿之《ナクナルシカノ》、又|且往鹿之《アサユクシカノ》、又借(リ)字にも三(ノ)卷、九(ノ)卷の題詞に、勝鹿《カツシカ》、又三(ノ)卷に、吾去鹿齒《アガユキシカバ》、四(ノ)卷に、何時鹿跡《イツシカト》などあり、又古事記上卷石屋戸(ノ)條に、天(ノ)香山之眞男鹿《マヲシカ》云々、續後紀十九興福寺(ノ)僧の長歌に、狹牡鹿之《サヲシカノ》云々などあり、是等鹿(ノ)字のみにても、シカ〔二字右○〕と、よめる徴《アカシ》なり、こは此所には用無ことなれど、鹿(ノ)字はなべて、カ〔右○〕とのみ訓ことゝおもひ誤らむ人の爲に、あきらめおくものぞ、)今見る如くに、又の秋も妻戀すとて、鹿のなかむ山ぞやと、賓志貴(ノ)皇子にまをし給へるなり、曾《ソ》の辭に力(ラ)あり、心を付て聞べし、※[立心偏+可]怜國曾《ウマシクニソ》と詔へる曾《ソ》に同じ、又古事記に、阿治志貴多迦比古泥能迦微曾也《アヂシキタカヒコネノカミソヤ》、とあるも意味同し、○高野原之宇倍《タカヌハラノウヘ》は、高野は(或人九(ノ)卷に、黒玉夜霧立衣手高屋於霏※[雨/微]麻天爾《ヌバタマノヨギリソタテルコロモテノタカヤノウヘニタナビクマテニ》とあるを引て、タカヤと訓たれど、ひがことなり、必(ス)タカヌ〔三字右○〕なり、)上に引たるごとく、續紀に佐貴(ノ)郷高野と見えて、此(ノ)宮近き所なるべし、宇倍《ウヘ》は上《ウヘ》にて、そのあたりといふ意なること、既くいへるがごとし、○御歌(ノ)意は、今目(ノ)前にかくめで興ずるごとく、又の秋も此(ノ)高野原は、妻戀鹿の鳴(キ)など、いと面白からむぞ、止ずいでまして興じたまへ、とのたまへるなり、來ませと、賓におほせられたるにはあらざれども、今毛見如鹿將鳴山曾《イマモミルゴトカナカムヤマソ》、などのたまへるに、おのづからその御心あらはなり、梅さきたりと告やらば來ちふに似たりといふは、來ませといふに似たることぞと、自言をことわり、今はそのことわるを待ずして、來ませといふ御心を、しろしめさしめ給へり、こは秋の時、此(ノ)處に宴し遊び賜へるが、高野原(353)の風景のあかずて、甚|※[立心偏+可]怜《オモシロ》く見ゆるに附て、かく宣《ノタマハ》せるなり、(此(ノ)御歌、諸説解得ざりしはいかにぞや、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。長皇子《ナガノミコ》。
 
萬葉集古義一卷之下 終   終(ノ)字古寫本には无(シ)
 
              〔2009年12月10日、午後8時58分入力終了〕
 
(354)萬葉集古義二卷之上
 
相聞《シタシミウタ》
 
相聞は、字には拘らずして、シタシミウタ〔六字右○〕と稱《イ》ふ、其は挽歌と書るを、カナシミウタ〔六字右○〕と稱《イヘ》る類なり、さてかくいふ所以《ユエ》、又相聞の字の出處、且寧樂人のこの熟字をとり出て、歌の名目にしたる謂など、委しく首(ノ)卷にいへり、かくてこの標中には、男女の間よりはじめて、親族兄弟朋友のうへを、かなたこなた相したしめる歌どもを載たり、中古已來の歌集に、戀(ノ)部と云に似て、なほ甚廣き稱なり、(此(ノ)集には戀(ノ)部は分ず、戀(ノ)歌はみな相聞にこもれり、)
 
難波高津宮御宇天皇代《ナニハノタカツノミヤニアメノシタシロシメシヽスメヲミコトノミヨ》。
 
難波(ノ)高津宮は、攝津志に東生(ノ)郡大坂安國寺坂(ノ)北(ニ)有2小祠1、此其(ノ)古蹤、一名難波(ノ)宮、又大宮、又大郡(ノ)宮、又忍照宮と有(リ)、(但し一名を大郡(ノ)宮といへるは、みだり説《ゴト》なり、大郡は書紀にもかた/”\見えたれど、高津(ノ)宮と一(ツ)なるべき由はさらに見えず、と本居氏いへり、)難波の古圖、今の大坂より南へ住吉のあたりまで、長くつゞきたる岸ある、それ即(チ)難波津にて、岸の上なりけるによ(355)りて高津と云なるべく、宮は或人、今の大坂の内なりといへり、と古事記傳にいへり、金葉集に、古(ヘ)の難波の事を思ひ出て高津の宮に月の澄らむ、(今(ノ)世にかうづを高津《カウヅ》と書て、此(ノ)大宮を其處《ソコ》なりといへど、かうづは書紀にいはゆる蝦蟇《カハヅノ》行宮なり、と谷川氏云り、)古事記下卷(ニ)云、大雀(ノ)命(ハ)坐2難波(ノ)高津宮(ニ)1治2天(ノ)下1也、書紀仁徳天皇(ノ)卷(ニ)云、元年春正月、都2難波(ニ)1、是(ヲ)謂2高津(ノ)宮(ト)1云々、初《ムカシ》天皇生(マシ)日、木菟《ツク》入《イリキツ》2于|産殿《ウブドノニ》1、明旦(クルヒ)譽田(ノ)天皇、喚《メシテ》2大臣武内(ノ)宿禰(ヲ)1語之日《カタリタマハク》、是何(ノ)瑞《シルシナラン》也、大臣對(ヘ)言(ク)、吉祥《ヨキシルシニユソ》也、復當(リテ)2昨日臣(カ)妻(カ)産時《コウメルトキニ》1鷦鷯《サヽギ》入(リキツ)2于|産屋《ウブヤニ》1、是亦異《コレモアヤシトマヲシキ》焉、爰天皇曰(ク)、今朕之|子《ミコ》、與2大臣之子1同日共産《オナジヒニウマレテ》、兼《トモニ》有v瑞《シルシ》、是|天之表《カミノミコヽロナラム》焉、以d爲《オモフトノリタマヒ》取(テ)2其(ノ)鳥(ノ)名(ヲ)1、各相易(テ)名(テ)v子(ニ)、爲《セムト》c後(ノ)葉之|契《チギリニ》u也、則取2鷦鷯(ノ)名(ヲ)1、以名2太子(ニ)1、曰2大鷦鷯(ノ)皇子(ト)1、取2木菟(ノ)名(ヲ)1、號2大臣之子(ニ)1、曰2木菟宿禰(ト)1、○天皇代の下、舊本等に大鷦鷯天皇と註し、古寫本には、謚曰2仁徳天皇1、といふ註もあり、共に後人のしわざなること、既く云る如し、
 
磐姫〔二字□で囲む〕皇后《オホキサキノ》思《シヌバシテ》2天皇《スメラミコトヲ》1御作歌四首《ヨミマセルミウタヨツ》。
 
皇后は、古事記に大雀(ノ)命(ハ)娶2葛城之曾都毘古之女石之日賣(ノ)命(ヲ)1、(大后)書紀に、仁徳天皇二年春三月辛未朔戊寅、立2磐之媛(ノ)命(ヲ)1爲(タマフ)2皇后1、后|生《アレマセリ》2大兄(ノ)去來穗別(ノ)天皇(履仲)住吉(ノ)仲(ツ)皇子、瑞齒(ノ)別天皇(反正)雄朝津間稚子(ノ)宿禰天皇(ヲ)1、(允恭)三十年秋九月乙卯朔乙丑、皇后遊2行《イテマス》紀國(ニ)1云々、是日天皇伺(テ)2皇后不1v在(トキヲ)而娶(タマフ)2八田(ノ)皇女(ヲ)1、時皇后聞(シテ)而、大恨《イタクウラミタマフ》之云々、更還2山背(ニ)1興2宮室《オホミヤヲ》於筒城(ノ)岡(ノ)南(ニ)而|居《マシマシキ》之、三十五年夏六月、皇后磐之媛命、薨2於筒城宮(ニ)1、三十七年冬十一月甲戊朔乙酉、葬2皇后於那羅山1、諸陵式に、平(356)城《ナラ》坂(ノ)上墓(磐之媛(ノ)命、在2大和(ノ)國添上(ノ)郡(ニ)1、兆域東西一町南北一町、無2守戸1、令2楯列(ノ)池上(ノ)陵戸(ニ)兼守(ラ)1、)と見ゆ、續紀に、天平元年八月詔に、難波(ノ)高津(ノ)宮(ニ)御宇大鷦鷯(ノ)天皇、葛城(ノ)曾豆比古(ノ)女子、伊波乃比賣(ノ)命|皇后止《オホキサキト》御相坐(シ)而、食國天(ノ)下之政治(メ)賜(ヒ)行(ヒ)賜(ヒ)家利《ケリ》、云々とも見えたり、履中天皇(ノ)卷に、母曰2磐之媛(ノ)命(ト)1、葛城(ノ)襲津彦(ノ)女也と見ゆ、皇后の御名を書るは例にたがへり、後人のしわざなるべし、(近(キ)頃江戸人の説に、磐姫(ノ)命は臣の女なれば、實は彼御時には、皇后には立まさず、妃夫人の列にてありしなるべし、しかるを履中天皇反正天皇允恭天皇、三御世の天皇の大御母にましましつれば、其(ノ)三御世のほどに、尊み崇めて皇后と申しけるが、後より前に及してしか記しつれども、まことは皇后にまさゞりければ、その御世よりとなへつるまゝに、御名をもはゞからず、多く記し傳へたるなり、されば此(ノ)磐姫(ノ)二字を、ひがごとなりとて削去むは、中々に古(ヘ)を失へるわざなりと云り、此(ノ)説さることなるべくおぼゆ、しかれども皇后と記さむからに、御名をつゝましげなくしるさむはゆゝしければ、なほ後人のしわざにもあるべし、かにかく此(ノ)二字をば、姑く闕て置べし、)皇后は、(公式令義解(ニ)云、謂天子(ノ)嫡妻也、)下に大后とあるに同じく、オホキサキ〔五字右○〕と訓べし、すべて古(ヘ)は當代天皇の大御母の、后位に登りましゝを、字には皇太后と書て、大御祖《オホミオヤ》と申し、當代の嫡后を、字には皇后と書て、大后《オホキサキ》と申せり、これ古の定なり、(後(ノ)世|皇太后《オホミオヤ》を、於保伎佐伎《オホキサキ》と申し、當代の嫡后を伎佐伎《キサキ》とのみいふにならひて、古(ヘ)を誤るこ(357)となかれ、)されば當代の嫡后を、大后《オホキサキ》と申せること、古事記書紀にも往々見え、又風土記にも其(ノ)證見え、此(ノ)集にも下にかた/”\あり、なほ二(ノ)中に、委(ク)辨へたるを見て考べし、○四首は、此《コヽ》はヨツ〔二字右○〕と訓べし、凡て三首四首などあるをば、處によりてミウタヨウタ〔六字右○〕、或はミツヨツ〔四字右○〕と訓べし、幾宇多《イクウタ》と云るは、書紀神代(ノ)卷に、此兩首歌辭《コノフタウタハ》云々、皇極天皇(ノ)卷に、謠歌|三首《ミウタ》など見え、古事記には、總て二歌三歌四歌などのみ記されたり、古今集(ノ)序に、此ふたうたは云々とあり、伊久都《イクツ》と云るは、土佐日記に、一(ト)うたにことのあかねば今ひとつ、公忠集に、貫之が許よりおこせたりける歌ふたつ、貫之集に、亭子院の御門の歌合し給に、歌ひとつ奉れとあるに、枕冊子に、圓融院の御時、御前にてさうしに歌ひとつかけと、殿上人におほせられけるを云々、又歌よみ給へといふに、よきことひとつは何せむ、同じうはあまたをつかうまつらむなどいふほどに云々、榮花物語に、題ふたつを出させ給ひて、歌ふたつづゝたてまつらせ給ふ云々、など云る類多し、
 
85 君之行《キミガユキ》。気長成奴《ケナガクナリヌ》。山多都禰《ヤマタヅネ》。迎加將行《ムカヘカユカム》。待爾可將待《マチニカマタム》。
 
君之行《キミガユキ》とは、君は天皇を指て申賜へり、行《ユキ》は體言にして、(旅行《タビユキ》、道行《ミチユキ》、行之隨意《ユキノマニ/\》などの行に同じ、)行幸《イデマシ》のこと、即(チ)御幸《ミユキ》の由伎《ユキ》なり、(九(ノ)卷に、君之三行者《キミガミユキハ》とあり、美由伎《ミユキ》といふも古言なり、)五(ノ)卷に、
枳美可由伎氣那我久奈理努奈良遲那留志滿乃己太知母可牟佐飛仁家理《キミガユキゲナガクナリヌナナラヂナルシマノコタチモカムサビニケリ》、十九に、君之待若(358)久爾有婆《キミガユキモシヒサナラバ》、三(ノ)卷に、吾行者久者不有《ワガユキハヒサニハアラジ》、廿(ノ)卷に、和我由伎乃伊伎都久之可婆《ワガユキノイキツクシカバ》、などもあり、行《ユキ》の言皆同し、○氣長成奴《ケナガクナリヌ》は、已《ハヤ》く月日久しく成(リ)ぬといふなり、氣長は來經長《キヘナガク》にて、月日間ふるを云古言なり、既く一(ノ)卷に出(ツ)、奴《ヌ》は已成《ヲチヰ》の奴《ヌ》なり、○山多都禰《ヤヤタヅネ》は、(都の清音の字を書るは正しからず、廿(ノ)卷に、多豆禰《タヅネ》、十九に、多頭禰《タヅネ》とあり、濁るべし、)山尋《ヤヤタヅネ》にて、行幸《イデマシ》し山路をた豆《ヅ》ねてなり、○迎加將行《ムカヘカユカム》は、迎へ行むかの謂なり、加《カ》の言は將行《ユカム》の下にうつして意得べし、○待爾可將待《マチニカマタム》は、直待《タヾマチ》に待むかの謂なり、この可の言も、將待《マタム》の下にうつして意得べし、○御歌(ノ)意は、天皇の行幸しは、已く月日久しくなりぬ、今はかの山路を尋ねて、迎へに行べきか、又はかへりまさむを直待に待居べきか、いかさま待居るには得堪まじければ、いやむかへにこそ行めとの御意なるべし、但し磐姫(ノ)皇后の存座《ヨニイマシ》しほど、天皇の他所に行幸しこと見えず、君が行けながくなりぬ、と宣はむことおぼつかなし、此(ノ)一首は下に引る古事記(ノ)歌を誤り傳へたるべし、なほ下に載る古事記に就て云べし、
〔右一首歌。山上(ノ)憶良臣羸聚歌林(ニ)載焉。古事記(ニ)曰。輕(ノ)太子。奸2輕(ノ)大郎女《オホイラツメニ》1。故(レ)其(ノ)太子。流2於伊豫(ノ)湯(ニ)1也。此(ノ)時衣通(ノ)王。不v堪2戀慕(ニ)1而。追往時(ノ)歌曰。君之行《キミガユキ》。氣長久成奴《ケナガクナリヌ》。山多豆乃《ヤマタヅノ》。迎乎將往《ムカヘヲユカム》。待爾者不待《マツニハマタジ》。此(ニ)云2山多豆(ト)1者。是今造木者也。右一首(ノ)歌。古事記(ト)與2類聚歌林1。所v説不v同。歌主(モ)亦異(レリ)焉。因《カレ》※[手偏+僉](ルニ)2日本紀(ヲ)1曰(ク)。難波(ノ)高津(ノ)宮御宇大鷦鷯(ノ)天皇。廿二年春正月。天皇語2皇后(ニ)1曰。納《メシイレテ》2八田(ノ)皇女(ヲ)1。將v爲v妃(ト)。時(ニ)皇后不v聽。爰(ニ)天皇(359)歌以《ミタヨミシテ》。乞《コハシタマフ》2於皇后(ニ)1。云々。三十年秋九月乙卯朔乙丑。皇后。遊2行《イデマシテ》紀伊(ノ)國(ニ)1。到2熊野(ノ)岬《ミサキニ》1。取2其處之御綱葉(ヲ)1而還。於是《コヽニ》天皇。伺2皇后不(ヲ)1v在而。娶(テ)2八田(ノ)皇女(ヲ)1。納(レタマフ)2於宮中(ニ)1。時(ニ)皇后到2難波(ノ)濟(ニ)1。聞(タマヒテ)3天皇|合《メシツト》2八田皇女(ヲ)1。大恨之。云々。亦曰(ク)。遠(ツ)飛鳥(ノ)宮御宇雄朝嬬稚子宿禰(ノ)天皇。二十三年春正月甲午朔庚子。木梨(ノ)輕(ノ)皇子爲2太子1。容姿佳麗《カホキラ/\シ》。見者自感。同母妹。輕(ノ)大娘《オホイラツメノ》皇女(モ)亦艶妙也。云々。遂(ニ)竊|通《タハケヌ》。乃悒懷少(シ)息(ム)。廿四年夏六月。御羮《オモノヽ》汁凝以作v氷。天皇異之。卜2其|所由《ユエ》1。卜者曰。有2内亂1。蓋親親相姦乎。云々。仍移2大娘皇女於伊與1者。今案(ルニ)。二代二時不v見2此歌1也。〕
古事記曰云々の文歌共に、舊本下の或本歌曰|屈明而《ヰアカシテ》云々の下に、本文の列に載しは、誤れるものなるべし、故(レ)今改て此間に小書せり、さて此は彼(ノ)記をあしく見て引しものなり、其(ノ)ゆゑは、古事記云、天皇(允恭天皇)崩之後、定3木製之輕太子、所2知(ニ)日繼1、未2即位1之間、※[(女/女)+干]2其(ノ)伊呂妹輕(ノ)大郎女(ニ)1而、歌曰、云々、是以百官、及天下人等、背2輕太子(ニ)1而、歸2穴穗(ノ)御子(ニ)1、爾《カレ》輕(ノ)太子畏而逃2入大前小前宿禰(ノ)大臣之家(ニ)1而、備2作兵器(ヲ)1、云々、故其(ノ)輕(ノ)太子者、流2於伊余(ノ)湯(ニ)1也、亦將v流之時、歌曰、云々、其(ノ)衣通(ノ)王、獻v歌、其(ノ)歌曰、云々、故後亦不v堪2戀慕(ニ)1而、追往時、歌曰、岐美賀由岐氣那賀久那理奴夜麻多豆能牟加閇袁由加牟麻都爾波麻多士《キミガユキケナガクナリヌヤマタヅノムカヘヲユカムマツニハマタジ》(此云云々)と云り、そも/\此(ノ)太子の流《ハナタ》れ賜ふは、備2作兵器(ヲ)1云云、によりてのことにこそあれ、其(ノ)本縁は※[(女/女)+干](ケ)賜ひしよりのことなれども、たゞに※[(女/女)+干]賜ふ故に流れしにはあらざるをや、○奸(ノ)字、拾穗本には姦とかけり、○衣通(ノ)王は、輕(ノ)大郎女の亦(ノ)名なり、○(360)追往、追(ノ)字、舊本遣に誤れり、古寫本給穗本また古事記に從つ、○君之行《キミガユキ》は、君は太子を指(ス)、行《ユキ》の意は上に云る如し、○山多豆乃《ヤマタヅノ》は、本居氏云、山釿之《ヤマタヅノ》なるべし、迎《ムカヘ》の枕詞なり、さて迎とつゞく所由は、凡て釿《テヲノ》は、刃を吾(カ)方へ向へて用ふ物なればなり、大かた刃物の中に、刃を此方ざまに向けて用ふは、此物のみなり、故(レ)迎の枕詞となれるなり、〔頭註【杉本清蔭がいへるは、加納諸平が云けらく、枕詞に、山多豆之迎とつづけいへる山多豆は、木の名なり、古事記下卷衣通王の御歌に、夜麻多豆能牟加閇衣由加牟云々、(此云2山多豆1者、是今造木者也、)と見え、(古事記傳三十九卷に見えたる説は、太く異れり、其は今とらず、又字鏡に、女貞實の下に、比女豆波木又造木と註せり、又古き歌に、春さればめぐむ垣根のみやつこ木我こそさきに思ひそめしか、とよめることも何やらむにて見たりき、山多豆はこの造木にて、今國によりて、爾波等許とも多豆ともいへり、此木春の始諸木にさき立て、芽の出る木なるが、枝葉とも、他木の如く、片違には出ずして、對ひ合て出るによりて、山多豆の對と云意に云かけしならむ、とかたれりといへりき、今按に、爾波等許と云は、造を訛れる稱なるべし、さてその造木の古名を、山多豆と稱りとおぼえたれば、まことに所以あることにて、この考是れりと云ふべし、抑この木は漢名接骨木といふものに、其高さ一丈に餘れり、深山には自に生ひたるも多きよし、又人家に栽たるもそこばくなり、さてこれを、多豆乃木とも木多豆とも爾波等許とも云よし、小野博いへり、この木の葉も花も實も、漢名※[草冠/朔]※[草冠/霍]と云ものに似たるが、その※[草冠/朔]※[草冠/霍]と云ものを草多豆と云、それを即漢名接骨草とも云よし、くはしく本草啓蒙にしるせり、されば彼土にても接骨木接骨草と稱て、草木の種をわかち、此方にても木多豆草多豆と云て、草木の品を別たる、おのづからのことなるべし、かくてその木多豆の稱を、上古は山多豆といへりしによりて、古き歌にかくはよめるにぞあるべき、〕○迎乎將往《ムカヘヲユカム》は、本居氏、迎將行《ヌカヘユカム》なり、乎《ヲ》は助辭なり、迎行とは迎に行といふに同じと云り、六(ノ)卷に、山多豆能辿參出六公之來益者《ヤマタヅノムカヘマヰデムキミガキマサバ》とあり、○待爾者不待《マツニハマタジ》は、本居氏云師の待に不v堪なりと云れたる、上に不v堪2戀慕1とあると合せて思ふに、信に其(ノ)意なるべし、○歌意は、君が流《ハナ》たれ行まして、已く、月日間經ぬ、今は迎にこそ行め、待には得堪じをとなり、○是今造木者也は、本居氏、造(ノ)字は建を誤(361)れるものなるべし、イマノタツゲナリ〔八字右○〕と訓べし、建木は借(リ)字にて、立削《タツゲ》※[金+番]《タツギ》などある名なりと云り、そも/\上(ノ)件は、古事記傳(三十九(ノ)卷)にいと委曲に論へれば、其を披(キ)見て考(フ)べし、今はただ大かたの意を註しつるなり、○歌主(ノ)二字、拾穗本には作者と作り、○焉(ノ)字、拾穗本に也と作り、○因※[手偏+僉]2日本紀1曰云々と云よりは、また淺はかなる註どもなり、こは既くいひし如く、もとより此歌を誤り傳しなれば、とにかく論ふまでもなし、○語2皇后1曰の曰(ノ)字、舊本脱せり、書紀に据て補つ、○皇后の下云々の二字、舊本に之と作るは誤なり、今は古寫本元暦本拾穗本等に從つ、○岬(ノ)字、舊本※[山+(白/廾)]に誤、今書紀に從て改(ム)、拾穗本には崎と作り、○稚(ノ)字、舊本雅に誤、○羮汁凝の上、書紀に膳(ノ)字あり、羮凝の二字、舊本美疑に誤、古寫本拾穗本書紀等に從(レ)り、○姦(ノ)字、古寫本には※[(女/女)+干]と作り、○歌也の也字、拾穗本にはなし、
 
86 如此許《カクバカリ》。戀乍不有者《コヒツヽアラズハ》。高山之《タカヤマノ》。磐根四卷手《イハネシマキテ》。死奈麻死物乎《シナマシモノヲ》。
 
如此許《カクバカリ》(許(ノ)字を、拾穗本には計と作り、)は、集中に多き詞なり、五(ノ)卷に、可久婆可里須部奈伎物能可《カクバカリスベナキモノカ》、と假字にてもあり、○戀乍不有者《コヒツヽアラズハ》は、戀乍《コヒツヽ》有むよりはといふ意の古語なり、(岡部氏が説は、くだ/\しくしてまぎらはしきことなり、)此(ノ)下に、遺居而戀管不有者追及武道之阿囘爾標結吾勢《オクレヰテコヒツヽアラズハオヒシカムミチノクマミニシメユヘアガセ》、又|吾妹兒爾戀乍不有者秋芽之咲而散去流花爾有猿尾《ワギモコニコヒツヽアラズハアキハギノサキテチリヌルハナナラマシヲ》、四(ノ)卷に、後居而戀乍不有者木國乃妹背乃山爾有益物乎《オクレヰテコヒツヽアラズハキノクニノイモセノヤマニアラマシモノヲ》、又|如是許戀乍不有者石木二毛成益物乎物不思四手《カクバカリコヒツヽアラズハイハキニモナラマシモノヲモノモハズシテ》、又|外居而戀(362)乍不有者君之家乃池爾住云鴨二有益雄《ヨソニヰテコヒツヽアラズハキミガイヘノイケニスムテフカモナラマシヲ》、八(ノ)卷に、秋芽子之上爾置有白露乃消可毛思奈萬思戀管不有者《アキハギノウヘニオキタルシラツユノケカモシナマシコヒツヽアラズハ》、十一に、劔刀諸刃之於荷去觸而所殺鴨將死戀管不有者《ツルギタチモロハノウヘニユキフリテシセカモシナムコヒツヽアラズハ》、又|住吉乃津守綱引之浮笑緒乃得干蚊將去戀管不有者《スミノエノツモリアビキノウケノヲノウカレカユカムコヒツヽアラズハ》、又|如是許戀乍不有者朝爾日爾妹之將履地爾有申尾《カクバカリコヒツヽアラズハアサニヒニイモガフムラムツチナラマシヲ》、又|白浪之來縁島乃荒磯爾毛有申物尾戀乍不有者《シラナミノキヨスルシマノアリソニモアラマシモノヲコヒツヽアラズハ》、又|吾妹子爾戀乍不有者苅薦之思亂而可死鬼乎《ワギモコニコヒツヽアラズハカリコモノオモヒミダレテシヌベキモノヲ》、十二に、何時左右二將生命曾凡者戀乍不有者死上有《イツマデニイカムイノチソオホカタハコヒツヽアラズハシヌルマサレリ》、又|後居而戀乍不有者田籠之浦乃海部有申尾珠藻苅々《オクレヰテコヒツヽアラズハタコノウラノアマナラマシヲタマモカル/\》、(これらみな同じ、)また三(ノ)卷に、中々二人跡不有者酒坪二成而師鴨酒二染嘗《ナカ/\ニヒトトアラズハサカツボニナリテシカモサケニシミナム》、四(ノ)卷に、吾念如此而不有者玉二毛我眞毛殊之手二所纏矣《アガオモヒカクテアラズハタマニモガマコトモイモガテニマカレナム》、五(ノ)卷に、於久禮爲天那我古飛世殊波彌曾能不乃于梅能波奈爾母奈良麻之母能乎《オクレヰテナガコヒセズハミソノフノウメノハナニモナラマシモノヲ》、十一に、中々二君二不戀者枚浦乃白水郎有申尾玉藻苅管《ナカ/\ニキミニコヒズハヒラノウラノアマナラマシヲタマモカリツヽ》、十二に、中々二人跡不在者桑子爾毛成益物乎玉之緒許《ナカナカニヒトトアラズハクハコニモナラマシモノヲタマノヲバカリ》、古事記仲哀天皇(ノ)條忍熊(ノ)王(ノ)歌に、伊奢阿藝布流玖麻賀伊多弖淤波受波邇本杼理能阿布美能宇美邇迦豆岐勢那和《イザアギフルクマガイタテオハズハニホドリノアフミノウミニカヅキセナハ》、書紀允恭天皇(ノ)卷に、爰|以爲《オモホサク》、徒《イタヅラニ》非《ズ》v死《シナ》者《ハ》、雖v有v罪、何得v忍乎、(本居氏云、非《ズ》v死《シナ》者《ハ》は、死なむよりはと云意なり、)などある皆同じ語の格なり、猶本居氏詞(ノ)瓊綸七(ノ)卷に出て委し、○高山《タカヤマ》は、何處にまれたゞ山のことなり、高は輕く見べし、○磐根四卷手《イハネシマキテ》は、磐を枕としての意なり、根《ネ》は草根《クサネ》垣根《カキネ》などの根にて、そへいふ詞にてたゞ磐のことなり、四《シ》はその一(ト)すぢをとりたてゝいふ助辭なり、卷《マキ》は枕にするをいふなること、既く一(ノ)卷に云るが如し、○死奈麻死物乎《シナマシモノヲ》、凡て死をシ〔右○〕(363)といふは、須藝《スギ》の切にて、シナマシ〔四字右○〕はスギナマシ〔五字右○〕なり、書紀雄略天皇(ノ)卷に、伊能致志儺磨志《イノチシナマシ》(五(ノ)卷に、伊能知周疑南《イノチスギナム》、)とあり、集中には處々に多く見えたり、(さるを死(ノ)字音と意得るは、古言しらぬをこ人のわざぞかし、)○御歌(ノ)意は、かほどまでに、君を戀しく思ひつゝあらむよりは、中中に山の磐を枕として、死なましものをとなり、山の磐を枕として死るは、くるしきことのかぎりなるをさばかりくるしきことにあふも、君を戀しく思ふよりは、猶まされりとなり、磐を枕とするは、集中に多く旅などにありて「艱難《ナヅミ》て死ぬることに云(ヘ)ば、こゝは御思ひを甚しくの給はむとて、其を譬に取(リ)出給へりときこえたり、(然るを註どもに、磐根を卷(ク)は、葬るさまをいへるなり、とあるはいかにぞや、)
 
87 在管裳《アリツヽモ》、君乎者將待《キミヲバマタム》。打靡《ウチナビク》。吾黒髪爾《ワガクロカミニ》。霜置萬代日《シモオクマデニ》。
 
在管裳《アリツヽモ》は、在々乍《アリ/\ツヽ》もといはむがごとし、在《アリ》は在待《アリマツ》在通《アリガヨウ》などいふ在《アリ》にて、絶ぬさまをいふ辭なり、○打靡は、ウチナビク〔五字右○〕と訓べし、髪へかゝれる詞なり、(舊本にウチナビキ〔五字右○〕と訓るに從て、下の霜へ係て見むは非《ワロ》し、)○霜乃置萬代日《シモノオクマデニ》は、夜深て霜降置及にの意にて、左にあげたる或本歌、又十二に、待君常庭耳居者打靡吾黒髪爾霜曾置爾家類《キミマツトニハニハヲレバウチナビクワガクロカミニシモゾオキニケル》(耳(ノ)字は西の寫誤なり、草書はやゝ似たればなり、四(ノ)卷に、足引乃山二四居者風流無三《アシビキノヤマニシヲレバミサヲナミ》とある、これニシ〔二字右○〕と云る例なり、)などあるに同し、五(ノ)卷に、迦具漏伎可美爾伊都乃麻可新毛乃布利家武《カグロキカミニイツノマカシモノフリケム》とあるは、年老て髪の斑白《シラ》けた(364)るをたとへたるにて、今とは異れり、此(ノ)仁徳天皇の御時には、未(タ)さる譬ことはなかりしなり、○御歌(ノ)意は、在々つゝ夜深て、打靡く黒髪に、霜の降までも、内へ入ずして君の來坐むをば、待居むとなり、(これは上の御歌に、死なまし物をとのたまへるを、また思しめしかへして、よしや思(ヒ)によく堪て、在ながらへて待むとのたまへり、ともきこえたり、)
〔或本歌曰。89 居明而《ヰアカシテ》。君乎者將待《キミヲバマタム》。奴婆珠乃《ヌバタマノ》。吾黒髪爾《アガクロカミニ》。霜者零騰文《シモハフルトモ》。〕
こは件の在管裳《アリツヽモ》云々の歌の、或本に出たるなり、○居明而《ヰアカシテ》は、夜を起(キ)明しての意にて、集中に多き詞なり、十八に、乎里安加之許余比波能麻牟《ヲリアカシコヨヒハノマム》とあるも同じ、○奴婆珠乃《ヌバタマノ》は、黒《クロ》といはむとての枕詞にて、冠辭考に委し、(但しその説に、此を野眞玉《ヌマタマ》なりとあるはいかゞ、)本居氏云、或人の説に、烏扇《カラスアフギ》の葉は、羽に似たる故に、此(ノ)草を野羽《ヌバ》と名づけ、其實を野羽玉《ヌバタマ》とは云なりと云るぞよろしき、信に烏扇といひ、今(ノ)俗に檜扇といふも、葉の羽に似たるよしなり、○霜者零騰文は、シモハフルトモ〔七字右○〕と訓るよろし、騰(ノ)字を書るは正しからず、清て唱べし、
〔右一首。古歌集中出〕
右の或本歌、舊本には秋田之《アキノタノ》云々の歌の次にありて、本章の順に載たり、今は拾穗本に從てこゝに入(レ)、また小字とす、但し彼本には 一云とありて、或本歌曰はなし、
 
88 秋田之《アキノタノ》。穗上爾霧相《ホノヘニキラフ》。朝霞《アサカスミ》。何時邊乃方二《イヅヘノカタニ》。我戀將息《アガコヒヤマム》。
 
(365)秋田之《アキノタノ》を、舊本秋之田とあるは、例の下上に誤れりしなり、今は拾穗本に從つ、此(ノ)下に、秋田之穗向乃所縁《アキノタノホムキノヨレル》、四(ノ)卷に、秋田之穗田乃刈婆加《アキノタノホタノカリバカ》、八(ノ)卷に、秋田乃穗田乎鴈之鳴《アキノタノホタヲカリガネ》、十(ノ)卷に、秋田之穗上爾置《アキノタノホノヘニオケル》、十七に、秋田乃穗牟伎見我底利《アキノタノホムキミガテリ》などある例なり、○穗上爾霧相《ホノヘニキラフ》とは、穗《ホ》は稻穗《イナホ》を云、神代紀下卷に、以吾高天原所御齋庭之穗《アガタカマノハラニキコシヲスユニハノホ》云々、(この穗を、本にイナホ〔三字右○〕とよみしは非じ、さるは此處を古語拾遺に載て、是(レ)稻穗也と註せるをも思ふべし、もしイナホ〔三字右○〕とよまむには、しかことさらに註すべきにあらず、)新撰萬葉下卷に、幾之間丹秋穗垂濫《イツノマニアキノホタルラム》などあり、集中にはたゞ穗と云ること、こよなく多し、(十卷に、秋穗乎之努爾押靡《アキノホヲシヌニオシナベ》、)霧相《キラフ》は、キル〔二字右○〕の延(リ)たる言にて、(相(ノ)字は、落相《チラフ》流相《ナガラフ》など書ると同じく、キリアフ〔四字右○〕のリア〔二字右○〕の切ラ〔右○〕となれゝば、惜(リ)て書るのみなり、)雨疑流《アマギル》、水疑流《ミナギル》などのギル〔二字右○〕と同じくて、こゝは霞の立なびくさまを云るなり、(續拾遺集に、櫻花霞あまぎる山の端も、日もかげろふの夕暮の空、)霧《キリ》といふも、即(チ)キル〔二字右○〕の體言になれるものぞ、(岡部氏が、きらふは、くもりをいふと云るはいかゞ、きりとくもりとは、もとより別ごとなるをや、)既く一(ノ)卷(ノ)中、近江荒都歌の下に委(ク)云り、さてこゝにかく伸て云るは、その霞の立なびくさまの引つゞきて、絶ず長緩《ノド/\》としたる趣なり、○朝霞《アサガスミ》とは、朝はことに深く立ものなれば云るなり、さて霞は春、霧は秋の物とのみ定《ス》るは、後(ノ)世のことにして、古はいつも云る中に、八(ノ)卷七夕(ノ)歌に、霞立天河原爾《カスミタツアマノカハラニ》云々とよめると、こゝなるとは秋にいへり、(或人は、この八(ノ)卷なる霞立は、霧立《キリノタツ》の誤(366)ならむ、と云れどいかゞあらむ、霧の多都といはむは手つゝなり、讃岐典侍日記に、十二月朔日、まだ夜をこめて大極殿にまゐりぬ、云々、ほのぼのと明はなるゝほどに、かはろやどものむね、かすみわたりてあるをみるに云々、これは冬なるに霞を云り、)○何時邊乃方二は、イヅヘノカタニ〔七字右○〕と訓べし、(何時とは書たれども、頭《ヅ》と濁るべく、敝《ヘ》は清べきこと、次に引歌にて知べし、既く一(ノ)卷にも具《クハシ》く云つ、)何方《イヅカタ》といはむがごとし、十九に、吾幾許斯奴波久不知爾霍公鳥伊頭敝能山乎鳴可將超《アカコヽダシヌハクシラニホトヽギスイヅヘノヤマヲナキカコユラム》とあり、(岡部氏が、伊頭禮《イヅレ》の禮《レ》を邊《ヘ》に通はして、伊頭邊《イヅヘ》といふよし云るは、何時邊《イツヘ》乃方とある、方《カタ》の言にまよへる誤なり、凡て意は同じ事ながら、言さへ異なれば、重ねいふも常のことにて、集中に奧邊之方《オキヘノカタ》ともよめるを思ふべし、又|木未之於《コヌレガウヘ》とも、又|荒風之風《アラシノカゼ》とも云(ヒ)、又六(ノ)卷に、豫兼而知者《アラカジメカネテシリセバ》、又十(ノ)卷に、喧奈流聲之音乃遙左《ナクナルコヱノオトノハルケサ》などさへよめるをや、)○御歌(ノ)意は、秋の田の面に、立なびく朝霞は、何方となく消失るものなるを、我(カ)戀しく思ふ情のいぶせさは、何方にか消失なむものぞとなり、)
 
 
近江大津宮御宇天皇代《アフミノオホツノミヤニアメノシタシロシメシヽスメラミコトノミヨ》。
 
此(ノ)標は既く一(ノ)卷に出つ、○天皇代の下、舊本等に天命開別天皇と註し、古寫本には謚曰天智天皇とも註せり、共に後人のしわざなること、既く云るごとし、
 
天皇《スメラミコトノ》賜《タマヘル》2鏡女王《カヾミノオホキミニ》1御歌一首《オホミウタヒトツ》。
 
(367)鏡(ノ)女王(女王を、舊本に王女と作るは誤なり、今改めつ、下なるも同し、)は、天武天皇紀に、十二年秋七月己丑、天皇幸2鏡姫王之家(ニ)1訊v病(ヲ)、庚寅、鏡(ノ)姫王薨、諸陵式に、押坂(ノ)墓(鏡(ノ)女王、在2大和(ノ)國城上(ノ)郡押坂陵域内東南(ニ)1、)など見ゆ、こは鎌足(ノ)大臣(ノ)妻なり、さてこの女王は、鏡(ノ)王といふ人の女にて、額田(ノ)女王の妹にておはしけるなるべし、一(ノ)卷に委(ク)云るを考(ヘ)合(ス)べし、興福寺縁起に、至2於天命開別天皇即位二年歳次己巳冬十月(ニ)1、内大臣枕席不v安、嫡室鏡(ノ)女王請曰、云々と見ゆ、これ鎌足大臣の妻なりし證なり、さてこのほど、此(ノ)女王に天皇の御思をかけさせ給ひて、左の大御歌をば給へるなるべし、○御歌は、オホミウタ〔五字右○〕と訓申(ス)べし、(御の下、製(ノ)字脱たるかといふ説は、集中の例にたがへれば中々に非《ワロ》し、いづくにも御歌とのみ書たり、すべて庶人に作と書ところならでは、御製と書ることなし、今集中をことごとく檢ふるに、御製歌又は御製とのみもしるせる、共に二十四五所あるに、そは皆|御製作《ミヨミマセ》るよしにて、此《コヽ》のごとく、天皇賜2云々(ニ)1などある所に、御製としるせるはひとつもなし、又御歌としるせる共に凡十所あまりあるに、そは皆|此《コヽ》の如く、天皇賜2云々(ニ)1御歌とやうにありて、御製作《ミヨミマセ》るよしことわらでよき所なり、これにて御製としるせると、御歌としるせるとのけぢめ、さはやかにわかれたり、後(ノ)世の歌集に、天皇のをば、おしなべて御製としるせるとはたがへり、)
 
91 妹之當《イモガアタリ》。繼而毛見武爾《ツギテモミムニ》。山跡有《ヤマトナル》。大島嶺爾《オホシマノネニ》。家居麻之乎《イヘヲラマシヲ》。
 
(368)妹之當《イモガアタリ》は、妹(カ)家の邊と詔ふなり、舊本に、妹之家毛繼而見麻思乎云々、家母有猿尾とあり、かくては麻思《マシ》の辭重なるのみならず、家母有猿尾《イヘモアラマシヲ》とあるもいかゞなり、必(ス)家居麻之乎《イヘヲラマシヲ》とあるべき所なり、かゝれば舊本に、一云、妹之當繼而毛見式爾、一云、家居麻之乎と註せるを、今は全用(リ)つ、○繼而毛見武爾《ツギテモミムニ》は、つゞきても見む爲にの御意なり、○山跡有《ヤマトナル》、有は在(ノ)字の意にて、倭に在(ル)なり、在有集中、通(ハシ)用(ヒ)たり、○大島嶺《オホシマノネ》は、大和(ノ)國平群(ノ)郡にあるなるべし、後紀に、大同三年九月戊戌、幸2神泉苑(ニ)1、有v勅、令3從五位下平群(ノ)朝臣賀是麻呂(ニ)、作2和歌1曰、伊賀爾布久賀是爾阿禮婆可於保志萬乃乎波奈能須惠乎布岐牟須悲太留《イカニフクカゼニアレバカオホシマノヲバナノスエヲフキムスビタル》とあり、この於保志萬《オホシマ》も同處なるべし、この賀是麻呂《カゼマロ》は、本居平群(ノ)郡にて、自住地の大島と我(ノ)名とを、よみ入たるものなるべし、和名抄に、大和國平群(ノ)郡額田(ノ)(奴加多《ヌカタ》)郷(書紀雄略天皇(ノ)卷に、倭(ノ)國山邊(ノ)郡|額田《ヌカタノ》村云々とも見えたり、)ありて、此(ノ)程此(ノ)女王は、その額田(ノ)郷大島に住居賜ひしならむ、○家居麻之乎《イヘヲラマシヲ》は、家居してをらまし物をの御意なり、すべて家居してをることを、家居《イヘヲル》といふは古風なり、○大御歌(ノ)意は、妹が家のあたりつゞきて見つゝあるべき爲に、大和の大島(ノ)嶺に、家居してをらましものを、今はかく離れ居て、いとゞ戀しきに堪ずとなり、さて鎌足(ノ)大臣は、天智天皇八年といふに薨賜ひたれば、其後はこの女王は、大和(ノ)國に歸りて、本屬居居玉ひし故に、大津(ノ)宮にして、かくはよませたまひつらむ、かくて四(ノ)卷に、額田(ノ)王思2近江天皇(ヲ)1作歌ありて、其(ノ)次に、鏡(ノ)女王の歌あれば、その時は、右(369)の大御歌を賜はせたる後に、天皇の御心によりて、京に遷りましゝと知(ラ)れたり、かくて後、天武天皇の淨御原(ノ)宮に、遷らせ賜ふほども從ひて、姉妹の女王、ともにうつり住居《スマ》はれしとおぼえたり、されば上に引る如く、天武天皇の十二年といふに、この女王の病をとはせ賜ひしよしの、書紀に見えたるは、京の家なればなり、さてその薨をも記されたるは、父天皇の御おぼえのあさからざりしがゆゑなり、
 
鏡女王《カヾミノオホキミノ》奉《マツレル》v和《コタヘ》歌一首《ウタヒトツ》。
 
歌の上に、舊本阿野家本等に、御(ノ)字あるは例にたがへり、なき本宜し、目録にもなきぞよき、凡て天皇と后皇子皇女の他には、御(ノ)字を用ざる例なり、○舊本|此間《コヽ》に、鏡王女又曰額田姫王也、と註せるは、最後人のおしあてに註せること、决《ウツナ》ければ削去つ、鏡(ノ)女王と額田(ノ)女王と、同人なるべき謂さらになし、
 
92 秋山之《アキヤマノ》。樹下隱《コノシタガクリ》。逝水乃《ユクミヅノ》。吾許曾益目《アコソマサラメ》。御念從《オモホサムヨハ》。
 
樹下隱は、コノシタガクリ〔七字右○〕と訓べし、十七に、久母我久理《クモガクリ》、古事記顯宗天皇(ノ)大御歌に、美夜麻賀久理弖《ミヤマガクリテ》などあり、(これらによりて、舊本に、カクレ〔三字右○〕と訓るはあしきを知べし、又|我《ガ》の言も濁て唱ふ例なるをしれ、)○逝水乃《ユクミヅノ》、(逝(ノ)字、舊本遊に誤、今は元暦本拾穗本等によりつ、)これまでは、未(ノ)句の吾許曾益目《アコソマサラメ》をいはむための序なり、秋はことさらに水の増れば、山下水の増るとつゞ(370)きたり、○吾許曾益目は、アコソマサラメ〔七字右○〕と訓べし、○御念從者は、オモホサムヨハ〔七字右○〕と訓べし、自《ヨリ》v將《ム》2御念《オモホサ》1者《ハ》の意なり、(この二句、むかしより人皆訓誤れり、)○歌(ノ)意は、君は我を戀しくおぼしめすにつきて、大島(ノ)嶺に家をらましをと詔へるは、身に取て忝くはあれど、我(カ)君を念奉る心こそ、それよりはなほ増りたらめとなり、
 
内大臣藤原卿《ウチノオホマヘツキミフヂハラノマヘツキミノ》。娉《ツマドヒタマフ》2鏡女王《カヾミノオホキミヲ》1時《トキ》。鏡女王《カヾミノオホキミノ》贈《オクリタマヘル》2内大臣《ウチノオホマヘツキミニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
藤原(ノ)卿は、鎌足大臣なり、一(ノ)卷には、内大臣藤原(ノ)朝臣と載たり、卿はマヘツキミ〔五字右○〕と訓べし、欽明天皇(ノ)紀に、蘇我(ノ)卿《マヘツキミ》とあり、○鏡(ノ)女王は、上に云る如く、遂に内大臣の嫡室《ムカヒメ》となれりけむを、左の歌にて見れば、此(ノ)ほどは、いまだ竊に通ひ住給しなるべし、(されば此(ノ)時は、即位元年のほどか、よし又其(レ)より前のことゝしても、こゝは其歌を披誦《トナヘ》しほどによりて、この御代の標内に載しものならむ、)さて天皇即位八年に、鎌足大臣の薨賜ひしなれば、其(ノ)後大和國へは歸り住れしならむ、其(ノ)ほど天皇の懸想《ミコヽロカケ》させ賜ひて、右の妹之當《イモガアタリ》云々の、御贈答はありけむなるべし、(岡部氏が、この女王、此時天皇の寵おとろへたるを、鎌足公のよばひ賜ひしなるべし、といへれどいかゞ、此(ノ)女王を、天皇のさだかに娶し賜ひしといふことも見えず、そのうへ興福寺(ノ)縁
起によれば、はやく鎌足大臣の娶《メトナレ》りしと見えたるをや、)かゝれば、この鎌足大臣の贈答の歌は、右の天皇の御贈答よりは、前に入べき順なれども、天皇を敬ひて上に載たるか、又はこの(371)贈答の歌をば、かの御贈答よりは、後に聞たる故に、かくしるせるにもあらむ、かばかりのことには、強て泥むべきにあらず、
 
93 玉匣《タマクシゲ》。覆乎安美《カヘルヲイナミ》。開而行者《アケテユカバ》。君名者雖有《キミガナハアレド》。吾名之惜毛《アガナシヲシモ》。
 
玉匣《タマクシゲ》は、枕詞なり、玉は美稀、匣《クシゲ》は(十九に、久之宜《クシグ》とあるによりて、宜《ゲ》を濁るべし、)櫛笥《クシゲ》なり、笥《ケ》は下に、笥爾盛飯乎《ケニモルイヒヲ》とある笥《ケ》にて、(猶そこにも云べし、)凡てかゝる器の稱なり、さてこの一句は、句を隔て、第三(ノ)句の開《アケ》といふへ係れり、九(ノ)卷に、玉匣開卷惜《タマクシグアケマクヲシキ》、十二に、玉匣將開明日《タマクシゲアケムアスノヒ》、十五に、多麻久之氣安氣弖乎知《欲利《タマクシゲアケテヲチヨリ》、十八に、多麻久之氣伊都之可安氣牟《タマクシゲイツシカアケム》、古今集に、玉匣明は君が名立ぬべみなど、開とかゝれる例多し、○覆乎安美は、安の上に、不(ノ)字を脱せるものにて、カヘルヲイナミ〔七字右○〕と訓べし、と細木(ノ)瑞枝云り、覆をカヘル〔三字右○〕と訓は、四(ノ)卷にも覆者覆《カヘラバカヘレ》とあり、不安美《イナミ》は、俗にいやさにと云むが如し、こゝは女の家を出て、歸るが否《イヤ》さにのよしなり、○開而行者(而の下、類聚抄に者(ノ)字あるは衍文なり、)は、アケテユカバ(アケテイナバ〔十二字右○〕とも、)訓べし、夜明て後、出て歸り賜はゞの意なり、○君名者雖有《キミガナハアレド》云々は、君は男にませば、御名の立むもさることにはあれど、女の身にして、人に云さわがれむは、羞《ヤサ》しくわびしきわざぞと云り、是ぞ女意のまことなる、(さるを略解に、君吾二字相誤れるにて、ワガナハアレドキミガナシヲシモ〔ワガ〜右○〕と有べし、と云るは中々に非ず、又四(ノ)卷の吾名者毛千名之五百名爾雖立君之名立者惜社泣《アガナハモチナノイホナニタテレドモキミガナタテバヲシミコソナケ》の歌を引たれど(372)も、彼(ノ)歌は、今とは意味かはれゝば、相證しがたし、又按(フ)に、六帖に此歌を、吾(カ)名は有ども君が名惜もとあり、人を先にして、吾を後にするは禮なれば、實に本は上は吾、下は君なりけむを、相誤れるにやあらむ、と思ふ人もあるべし、其《ソ》は理にのみなづみて、古(ノ)のまことの心にはいよいよ遠し、)○歌(ノ)意は、出て歸るが否さに、もし夜明て後歸り給はゞ、人に見あらはされて、とやかくいひさわがれむ、そのとき君は男にましませば、さることも有るならひなれば、さてあるべきを、われは女の身にして、名の立むはいと羞《ヤサ》しきわざにあらずや、それによりて又逢がたきことの出來もぞすべければ、行末長くと、我をおぼしめしたまはゞ、別(レ)はいと悲しけれど、あけぐれの紛(レ)に歸り給ひて、又こそ來まさめとなり、こは鎌足(ノ)大臣の、此女王の許に通ひ給ひて、餘りに別を惜みて、夜更れども歸りがてに爲給ふを、人目をはゞかりおもほして、心ならねど、強てとく返り給はねとはげまし催しやりたまふなるべし、
 
内大臣藤原卿《ウチノオホマヘツキミフヂハラノマヘツキミノ》。報2贈《コタヘタマヘル》鏡女王《カヾミノオホキミニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
贈(ノ)字拾穗本にはなし
 
94 玉匣《タマクシゲ》。將見圓山乃《ミムロノヤマノ》。狭名葛《サナカヅラ》。佐不寝者遂爾《サネズハツヒニ》。有勝麻之《アリカテマシ》目。
 
玉匣《タマクシゲ》は、身《ミ》とかゝれる枕詞なり、笥類に、蓋懸《フタカケ》籠身《コミ》と常にもいへり、その身《ミ》なり、七(ノ)卷に、珠匣見諸戸山矣行之鹿齒面白四手古昔所念《タマクシゲミモロトヤマヲユキシカバオモシロクシテイニシヘオモホユ》、後撰集に、あけながら年ふることは玉くしげ身の徒(373)になればなりけり、これら皆|身《ミ》とつゞきたり、○將見圓山乃(山の下に、類聚抄に見(ノ)字あるは衍文なり、)は、岡部氏が、ミムロノヤマノ〔七字右○〕とよめるによるべし、(ミム〔二字右○〕を、將見と書るは、伊南《イナミ》を將行《イナミ》と書ると同じ、さて岡部氏が説に、圓はロ〔右○〕の假字に用るは、臣をみ、相をふ、麻をさに用ひし類にて、訓をば、多くは下の言を用ふと云るはいかゞ、臣《ミ》相《フ》麻《サ》などは、五十音の阿行の言にて、略きいへる例も多きを、まろのまを略くやうの例はなし、)是は本居氏、上に將見といふ、むとまと通(フ)音なる故に、おのづからみまろと云やうにもひゞくから、圓(ノ)字を書るなりといへるが如し、さて此は大和の三室山なり、舊本に、或本歌云、玉匣三室戸山乃と註せる戸(ノ)字は、之か乃(ノ)字の誤なるべし、(七(ノ)卷に、見諸戸山《ミモロトヤマ》と有は、旅の歌の中にありて、西國の歌どもの中に交れれば、備中(ノ)國のみむろどなるべし、山城(ノ)宇治に、三室戸といふがあれども、そは後の事と見ゆ、こゝは大和の都にて、備中のみむろとをよむべきにあらず古(ヘ)所由《ヨシ》なくして、他國の地(ノ)名を設けよむこと、なきことなればなり、と略解にいへり、)○狹名葛《サナカヅラ》(狹(ノ)字、舊本挾に誤、今は古寫本拾穗本等に從(レ)り、)は、集中に、核葛《サネカヅラ》とも狹根葛《サネカヅラ》ともあるに同じ、凡て禰《ネ》と那《ナ》は、殊に親く通はし云り、名(ノ)義は、(狹名狹根核、など書るは皆借(リ)字にて、)狹《サ》は例の眞《マ》に通ふ辭、萎葛《ナエカヅラ》なり、(ナエ〔右○〕はネに切、)この葛は、あるが中にも萎々《ナエ/\》としたるものなれば、しか名におへるなり、十四に、乎可爾與世和我可流加夜能佐禰加夜能《ヲカニヨセワガカルカヤノサネカヤノ》、麻許等奈其夜波禰呂等敝奈香母《マコトナゴヤハネロトヘナカモ》、とよめるも、眞萎草《サナエカヤ》の義に(374)して、佐禰《サネ》の言は今と全(ラ)同じ、又同卷に、宇奈波良乃根夜波良古須氣《ウナハラノネヤハラコスゲ》とあるも、萎和子菅《ナエヤハラコスゲ》の義なり、(こを契冲は、海際に生たる菅は、潮にあひて、根の和らかなるをいふといひ、略解に、催馬樂に、貫川のせゝのやはら手枕と云やはらは、泥の事を云と見ゆれば今もやはらは泥にて、其(ノ)泥に生たる菅なれば、寢和子菅と云なしてうるはしきやははだの妹を、そへたるかと云るも、ともにあたらず、猶彼處にいはむを、併(セ)考へてよ、)又|蓴《ヌナハ》も、萎繩《ナエナハ》のよしなるべし、(ヌ〔右○〕とナ〔右○〕は親く通ふ言、)又|夏草之《ナツクサノ》とて、野島《ヌシマ》、また阿比泥能波麻《アヒネノハマ》といふにつゞけたるも、夏草之萎《ナツクサノナエ》とかゝれるにて、(夏草之萎裏觸《ナツクサノシナヒウラブレ》、とつゞけたるがごとし、)禰《ネ》の言ひとし、又拾遺集に、猿澤の池に、采女の身を投たるを見て、吾妹子がねくたれかみを猿澤の池乃玉藻と見るそ悲しき、とあるをはじめて、ねくたれ髪といへることの、後々多きも、皆|萎腐《ナエクタレ》髪の義なるべし、(寢腐《ネククレ》の義にはあらじ、又岡部氏は、狹名《サナ》狹根《サネ》の名《ナ》と根《ネ》は、奴《ヌ》の言の轉にして、奴《ヌ》は、この葛には滑らけき汁のあればいふ、奴《ヌ》はぬる/\と滑らかなるよしなりといへり、猶考べし、)猶この葛のこと、品物解に云べし、さて此までは、佐寐《サネ》と云む料の序なり、大和物語(ノ)歌に、春の野に緑にはへるさねかづら、吾(カ)君さねとたのむいかにぞ、とあるも同じ、○佐不寐者遂爾《サネズハツヒニ》は、相寢せずしては遂にの意なり、佐寐《サネ》は本居氏、凡て寐るを、佐寐《サネ》と云は眞寐《マネ》にて、多く男女率て寐るを云り、古事記景行天皇(ノ)條倭建(ノ)命(ノ)御歌に、佐泥牟登波阿禮波意母閇杼《サネムトハアレハオモヘド》、允恭天皇(ノ)條輕(ノ)太子(ノ)御歌に、宇流波(375)斯登佐泥斯佐泥弖婆《ウルハシトサネシサネテバ》、此(ノ)下に、左宿夜者幾毛不有延都多乃別之來者《サネシヨハイクタモアラズハフツタノワカレシクレバ》、三(ノ)卷に、吾妹子跡左宿之妻屋爾《ワキモコトサネシツマヤニ》、十四に、佐奴良久波多麻乃緒婆可里《サヌラクハタマノヲバカリ》、などなほ多きがごとしといへり、(但(シ)十五に、於毛波受母麻許等安里衣牟也左奴流欲能伊米爾毛伊毛我美延射良奈久爾《オモハズモマコトアリエムヤサヌルヨノイメニモイモガミエザラナクニ》、又|左奴流欲波於保久安禮杼毛呼能毛波受夜須久奴流欲波佐禰奈伎母能乎《サヌルヨハオホクアレドモモノモハズヤスクヌルヨハサネナキモノヲ》、などもあれば、佐《サ》はたゞ發語のみにても有べし、)○有勝麻之目《アリカテマシモ》は、有に得堪ざらましものをの意なり、加弖《カテ》は、しかあらむと思ふことの、得堪ずして、しかし難きをいふ辭なり、本居氏|勝《カテ》は消難《キエカテ》、行難《ユキカテ》などの難《カテ》と同くて難き意なり、又|加泥《カネ》と云も通ひて聞ゆ、三(ノ)卷に、別不勝鶴《ワカレカネツル》この加泥《カネ》に不勝と書ると、加弖《カテ》にも多く同字を書るとを、思ふべしと云り、凡て加弖《》加泥《》加多久《カテカネカタク》は、皆其(ノ)意通へる事なり、(大和物語に、吾(カ)心なぐさめかねつ更科や姨捨山に照月を見て、云々なぐさめがたしとは、是がよしになむ云々と云り、是正しく、かねをかたくと釋たるなり、)なほ下に云べし、(本居氏又云、加弖《》を不勝と書るは、たへずと云意を取れるなるべし、たへぬは難きと同意なればなり、然るを其不(ノ)字を省きて、勝とのみ書るは、いさゝか意得がたけれど此(ノ)卷に後心乎知勝奴鴨《ノチノコヽロヲシリカテヌカモ》、大寸御門乎入不勝鴨《オホキミカドヲイリカテヌカモ》、又|宿不難爾《イネカテナクニ》、などある加弖奴《カテヌ》は、加弖《カテ》の反對《ウラ》なる詞なるを、同意によめり、さて其(ノ)字も、加弖《カテ》にも不勝と書るに、又|加弖奴《カテヌ》にも、不勝と書れば、不勝を勝とのみ書るも所以あるにや、又|宿不難爾《イネカテナクニ》とあるは、言も字も、宿がたからぬと云ことに聞ゆれども、猶いねかてと同(376)くて、いねがたき意なり、されば是も、不(ノ)字あると無は同意に落めりと云り、)四(ノ)卷に、妹爾戀乍宿不勝家牟《イモニコヒツヽイネカテニケム》、又|此月期呂毛有勝益士《コノツキゴロモアリカテマシヲ》、十一に、戀乃増者在勝申目《コヒノマサレバアリカテマシモ》、十四に、須宜可提爾伊伎豆久伎美乍《スギカテニイキヅクキミヲ》、廿(ノ)卷に、伊※[泥/土]多知加弖爾《イデタチカテニ》、又|和可禮加弖爾等比伎等騰米《ワカレカテニトヒキトヾメ》、崇神天皇(ノ)紀(ノ)歌に、多誤辭珥固佐麼固辭介?務介茂《タゴシニコサバコシカテムカモ》、(我弖《ガテ》と、我《ガ》を濁るは非《ワロ》し)、これらの加弖《カテ》は難き意にて、皆同じ、この加弖《カテ》に不勝と書るは、本居氏(ノ)説る如く、たへずといふ意を取(レ)るなり、(四(ノ)卷に、戀二不勝而《コヒニタヘズテ》とあるをも思べし、)勝とのみ書るは、不(ノ)字を略きたる如見ゆれども、よくおもへば、勝のかつの訓を轉用(ヒ)たるものにて、略けるにあらず、もとより理異なり、思紛ふべからす、(されば加弖《カテ》には、不勝とも勝とも書れども加泥《カネ》には、不勝と書て、勝とのみ書る例なきにて、勝は不勝の不(ノ)字を省きたるにはあらず、固(リ)理異なること著し、)五(ノ)卷に、比等國爾須疑加弖奴可母《ヒトクニニスギカテヌカモ》、十四に、遊吉須宜可提奴伊毛賀伊敝乃安多里《ユキスギカテヌイモガイヘノアタリ》、十九に、落雪之千重爾積許曾我立可弖禰《フルユキノチヘニツメコソアレタチカテネ》、廿(ノ)卷に、道乃長道波由伎加弖奴加毛《ミチノナガチハユキカテヌカモ》、これらは此(ノ)下に、知勝奴鴨《シリカテヌカモ》、入不勝鴨《イリカテヌカモ》などあるに同じく、加弖《カテ》の反對《ウラ》にて、加弖《カテ》奴《ヌ》は不《ヌ》2不勝《カテ》1といふことに聞ゆれども、つら/\思へば、奴《ヌ》は不(ノ)字の意にあらず、已成《オチヰ》の奴《ヌ》にて鳥毛來鳴奴《トリモキナキヌ》などいふ奴《ヌ》に同じ、さて加弖奴《カテヌ》は、加禰都《カネツ》に通ひて、行過加弖奴《ユキスキカテヌ》は、行過加禰都《ユキスギカネツ》といふ意に通ひて聞ゆる、其(ノ)餘も此(ノ)定をもて准ふるに、集中ひとつも疑ふことなし、(但し怪《ケ》しからぬと云ことある、其《ソ》は怪《ケ》しくあらずて、尋常《ヨノツネ》なることなる意ならば、さもあるべきを、(377)なほ怪《ケ》しかると云と同意になれば、この加弖《カテ》も其(ノ)定にて、加弖奴《カテヌ》とその反對《ウラ》を云て、加弖《カテ》と同意にきこゆる例なり、といはゞ、又其(ノ)説もすてられぬに似たり、しかれども、もし、加弖奴《カテヌ》は加弖《カテ》の反對なりといはゞ、奴《ヌ》は不(ノ)字の意とするより他なし、もしその意ならば、十四の遊吉須宜可提奴《ユキスギカテヌ》と云歌は、本(ノ)句|可美都氣奴伊可抱乃禰呂爾布路與伎能《カミツケヌイカホノネロニフロヨキノ》とあれば、遊吉須宜可提受《ユキスギカテズ》となくては、協はぬことなり、行過可禰都《ユキスギカネツ》の意にあらずは、可提奴《カテヌ》とはいふべきにあらざるをや、これにても、可弖奴《カテヌ》は、可禰都《カネツ》と云意に通ふことなり、といふ事のたがはざるをさとるべし、又こゝに今よりゆくさき、古言をくはしく味はひて、余が説を疑ひ思はむ人もいで來ぬべし、その人のために、なほ云さとしおくべし、その疑ひ思はむは、もし可弖奴《カテヌ》を可禰都《カネツ》に通ふとせば、知可弖奴鴨《シリカテヌカモ》入可弖奴鴨《イリカテヌカモ》など云むこといかゞ、たとへば可禰都留哉《カネツルカモ》と云て、可禰都哉《カネツカモ》とは云(ハ)るまじきにて知べし、しかるを可弖奴流哉《カテヌルカモ》と云ることはなくして、可弖奴鴨《カテヌカモ》とのみ連云たるはいかに、不(ノ)字の意の奴《ヌ》より哉《カモ》と連ねて、不哉《ヌカモ》と云は常なれば、なほ可弖奴《カテヌ》の奴《ヌ》をも、已成の奴《ヌ》とせむこと、おぼつかなしと思はむか、十四に、欲太知伎努可母《ヨダチキヌカモ》、又|於伎?伎努可母《オキテキヌカモ》、廿(ノ)卷に、伊波須伎奴可母《イハズキヌカモ》、又|古江弖伎怒加牟《コエテキヌカム》などある伎奴《キヌ》は、來都《キツ》と云に通ふ意なるを、其も來都留哉《キツルカモ》と云て、來都哉《キツカモ》とは云(ハ)るまじければ、置而來奴留哉《オキテキヌルカモ》、不言來奴留哉《イハズキヌルカモ》などいふべきに、奴可母《ヌカモ》とのみ云たるをや、加弖奴鴨《カテヌカモ》といへるも、これと同じ例なり、なほこの奴《ヌ》の(378)言には、こまかなる所以《ユヱ》あることにて、こゝにはつくしがたければ、別に委しく論ひさとしたるものあり、)しかるをこの言を委く辨(ヘ)たる人のなきは、大かたに意得居たりしにや、(其(ノ)中に上に云る如く、本居氏(ノ)説は委きに似たれど、なほ加弖《カテ》と加弖奴《カテヌ》とのゆゑよし、又不勝と書と勝と書とには、うるはしく差別あることをまで、思はざりしによりて、まぎらはしきこと多し、又|宿不難爾《イネカテナクニ》といふ言は、後に委しく云ふべし、)目《モ》は助辭なり、拾穗本に異本に、乎とあるよし云り、乎と云かた今少しまさりてきこゆ、○歌(ノ)意は、夜明て歸らば、人の見て名を立なむ、早かへれと、そこの諫めらるゝにまかせて、明はてぬ間に、出て行べきなれど、相宿ずしては、遂にかへるに得堪ざらましものをとなり、
 
内大臣藤原卿《ウチノオホマヘツキミフヂハラノマヘツキミ》娶《エタル》2釆女安兒兒《ウネベヤスミコヲ》1時作歌一首《トキヨミタマヘルウタヒトツ》。
 
娶は、ヨバヘル〔四字右○〕、またアヘル〔三字右○〕などもよむべけれども、 (岡部氏が、メトセル〔四字右○〕とよめるはいかゞなり、)歌詞によりて、こゝはエタル〔三字右○〕と訓つ、○采女は、書紀孝徳天皇(ノ)卷に、凡采女者、貢(レ)2郡少領以上、姉妹及子女、形容端正(ナル)者(ヲ)1、(從丁一人、從女一人)以2一百戸1、宛2采女一人(ノ)粮1、庸布庸米、皆准2次丁(ニ)1、後宮職員令に、凡諸氏氏別、云々、其貢2釆女(ヲ)1者、郡(ノ)少領以上、姉妹及女、形容端正者、皆申2中務省(ニ)1奏聞(セヨ)、など見ゆ、さて采女てふものゝ、ものに見えそめたるは、書紀仁徳天皇四十年に、采女磐坂媛てふ是なり、采女の字は、後漢書皇后紀に、入(テ)2掖庭(ニ)1爲(ル)2釆女(ト)1と有て、註に、采(ハ)擇也、以(テ)d因(テ)2采擇(ニ)1而立(ヲ)u名(ツク)と(379)見えたり、本居氏、采女は宇禰辨《ウネベ》と訓べし、辨《ベ》は部の意なり、女《メ》の意にはあらず、宇禰辨《ウネベ》と云名は、宇那宜辨《ウナゲベ》の切《ツヾマ》りたるなり、宇那宜《ウナゲ》とは、物を項《ウナジ》に掛(ク)るを云、采女は、主《ムネ》と御饌《ミケ》に仕(ヘ)奉るものにて、項《ウナジ》に領巾《ヒレ》を掛る故に、嬰部《ウナゲベ》とはいふなり、大祓詞に、比禮挂伴男《ヒレカクルトモノヲ》とあるも、主《ムネ》と采女などを云り、と師も云れたるが如しと云り、○安見兒《ヤスミコ》は、采女の字なり、
 
95 吾者毛也《アハモヤ》。安見兒得有《ヤスミコエタリ》。
皆人乃《ヒトミナノ》。得難爾爲云《エカテニストフ》。安見兒衣多利《ヤスミコエタリ》。
 
吾者毛也《アハモヤ》は、古事記上卷須勢理毘賣(ノ)御歌に、阿波母與賣邇斯阿禮波《アハモヨメニシアレハ》、とあるによりて訓つ、毛也《モヤ》は毛與《モヨ》といふに全《ラ》同じく、助辭なり、(既く委しく云つ、)○安見兒得有《ヤスミコエタリ》とは、安見兒は名ながら、こゝは容易《タヤス》く得たる意を帶《カネ》たり、悦て少し誇る意あり得難爾爲云《エカテニストフ》とあるに、應へるにても考べし、古事記應神天皇(ノ)條に、汝《イマシ》得《エテム》2此孃子《コノヲトメヲ》1乎《ヤトイヘバ》答2曰《イフ》易得《ヤスクエテムト》1也とあり、すべて女を娶を、得るといふは古言なり、伊勢物語にも、男は此(ノ)女をこそ得めと思ひ、女も此(ノ)男をこそと思ひつゝ云云、昔男五條わたりなりける女を、得々ず成にける事と、わびたりける人の云々とあり、後選集に、得難かりける女を、思ひかけてつかはしける云々、大和物語に、そのたゞみねが女ありと聞て、ある人なむ、得むといひけるを云々、故右京のかみ、人のむすめをしのびて得たりけるを云々、竹取物語に、いかでこの加久耶《カクヤ》姫を得てしがな、見てしがなと、音にきゝめでまどふ、などある皆同し、○皆人乃は、人皆乃とありしを下上に誤れるなり、かれヒトミナノ〔五字右○〕と訓(380)つ、こは皆人とも、人皆ともいふべき事と、誰も一(ト)わたりは、思ひをる事なれども、熟考(フ)るに、凡て皆てふ言は、某皆と、のみ云て、皆某といはむは、古語の體にあらずなむ、かれ集中の例を檢(フ)るに、五(ノ)卷に、比等未奈能美良武麻都良能《ヒトミナノミラムマツラノ》云々、十四に、比等未奈乃許等波多由登毛《ヒトミナノコトハタユトモ》云々、(これらは假字書なれば、さらに動くまじきなり、)又此(ノ)下に、人皆者今波長跡《ヒトミナハイマハナガミト》云々、五(ノ)卷に、人皆可吾耳也之可流《ヒトミナカアノミヤシカル》云々、六(ノ)卷に、人皆乃壽毛吾母《ヒトミナノイノチモアレモ》云々、又|人皆之念息而《ヒトミナノオモヒヤスミテ》云々、九(ノ)卷に、人乃皆《ヒトノミナ》(皆乃を下上に誤か、)如是迷有者《カクマドヘレバ》云々、十卷に、人皆者《ヒトミナハ》芽子乎秋云《ハギヲアキトイフ》云々、十一に二ところ、人皆知《ヒトミナシリヌ》云々、又|世人皆乃《ヨノヒトミナノ》云々、又|里人皆爾《サトヒトミナニ》云々、十二に、人皆如去見耶《ヒトミナノユクゴトミメヤ》云々、又|人皆之《ヒトミナノ》(皆舊本皆人之に誤、今は元暦本に據て引、)笠爾縫云《カサニヌフチフ》云々、又十(ノ)卷に、物皆者新吉《モノミナハアラタシキヨシ》云々、古事記に、國土皆震《クニツチミナユリキ》云々、高天原皆暗《タカマノハラミナクラク》、(上卷)國皆貧窮《クニミナマヅシ》、(下卷)書紀竟宴歌に、倶娑幾微儺擧都夜謎豫斗底《クサキミナコトヤメヨトテ》などある例なるを、(唯四卷に、皆人乎|宿與殿金者《ネヨトノカネハ》、七(ノ)卷に皆人之|戀三吉野《コフルミヨシヌ》、八(ノ)卷に、皆人之|待師宇能花《マチシウノハナ》などある皆人も、ともにみな、人皆とありしを、下上に誤れるなるをしるべし、且此(ノ)集には、字の顛倒《イリチガヒ》いと多かること、上にもいへるごとくなるを考てよ、)今までこの論せし人のなかりしは、いかにぞや、(但し古今集よりこなたのには、いづれも皆人とよみたれども、そはまづおきて、今は古きにつきていふのみぞ、)○安見兒衣多利《ヤスミコエタリ》は、反覆《カヘサヒ》いひて、その深切《フカ》くよろこべる意を、あらはし給へるなり、○歌意は、かくれたるところなし、
 
(381)久米禅師《クメノゼムシガ》。娉《ツマドフ》2石川郎女《イシカハノイラツメヲ》1時歌五首《トキノウタイツヽ》。
 
久米(ノ)禅師は、傳詳ならず、久米は氏、禅師は名なり、俗人にして、かゝる名をつけしこと、當昔《ソノカミ》のはやりごとなるべし、續紀に、阿彌陀、釋迦などいふ名も有しを禁《トヾ》められしこと見えたり、○石川(ノ)郎女、これも傳しりがたし、郎女はイラツメ〔四字右○〕と訓べし、既く(古義一卷下に出て)云つ、○時の下、拾穗本には、贈答の二字あり、
 
96 水薦苅《ミコモカル》。信濃乃眞弓《シナヌノマユミ》。吾引者《アガヒカバ》。宇眞人佐備而《ウマヒトサビテ》。不欲常將言可聞《イナトイハムカモ》。 禅師。
 
水薦苅《ミコモカル》(苅(ノ)字、類聚抄には※[草冠/列]、拾穗本には刈と作り、次なるも同じ、)は、枕詞なり、水薦は、水は借(リ)字にて、眞薦《マコモ》と云に同じ、草をも眞草《マクサ》とも美草《ミクサ》とも、集中によめる類なり、十一に、眞薦苅大野川原之《マコモカルオホヌカハラノ》云々とあり、さて信濃《シナヌ》は、國(ノ)名の由來は、級《シナ》ある野と云なるべけれども、枕詞よりのかゝりは、裏沼《シナヌ》とうけたるなるべし、シナ〔二字右○〕は書紀の、匿(ノ)字のシナス〔三字右○〕と訓たる、シナ〔二字右○〕と同言にして、シタ〔二字右○〕と相(ヒ)通へり、さてそのシタ〔二字右○〕は、集中に、隱沼《コモリヌ》のしたに通ふとも、隱沼のしたゆ戀るともよみ、又心もしぬに古(ヘ)所念など云(フ)シヌ〔二字右○〕も通ひて、隱《コモ》りかなるを云言なれば、裏沼《シナヌ》は隱沼《コモリヌ》と云に全同じ、されば眞薦《マコモ》を苅《カル》裏沼《シナヌ》、といふ意につゞけたるなり、(冠辭考に、薦(ノ)字を篶に改めて、ミスヾカル〔五字右○〕と訓しは甚謾ならずや、篶《スヾ》を御篶《ミスヾ》とも、眞篶《マスヾ》とも云たる例なきにて、其|非《ヒガコト》なるを知べし、)○信濃乃眞弓《シナヌノマユミ》は、古(ヘ)もはら、甲斐信濃の國の名物《ヨキモノ》にぞありつらむ、故(レ)かくいへるなるべし、續(382)紀に、大寶二年三月甲午、信濃(ノ)國、獻2梓弓一千二十張(ヲ)1、以充2太宰府(ニ)1、景雲元年四月庚午、以2l信濃(ノ)國獻2弓一千四百張(ヲ)1、充2太宰府(ニ)1、延喜式に、凡甲斐信濃兩國所v進、祈年祭(ノ)料、雜弓百八十張、(甲斐(ノ)國槻弓八十張、信濃(ノ)國梓弓百張、)並十二月以前、差v使(ヲ)進上など見えたり、さて此(レ)までは、引をいはむ料の序なり、○宇眞人佐備而《ウマヒトサビテ》とは、良人《ウマヒト》めきてと云が如し、宇眞人《ウマヒト》は、可美人《ウマヒト》の義にて高貴《タカ》き人を云、五(ノ)卷に、美流爾之良延奴有麻必等能古等《ミルニシラエヌウマヒトノコト》、神功后皇紀に、宇麻比等破宇麻譬苔奴知野伊徒姑播茂伊徒姑奴池《ウマヒトハウマヒトドチヤイツコハヤイツコドチ》云々、仁徳天皇(ノ)紀に、于磨譬苦能多菟屡虚等太?《ウマヒトノタツルコトダテ》、又書紀に、君子※[手偏+晉]紳(顯宗天皇(ノ)卷、)良家(欽明天皇卷、)などの字を、ウマヒト〔四字右○〕とよめり、佐備《サビ》は神佐備《カムサビ》の佐備《サビ》に同じ、さて此(ノ)詞は、自(ラ)そのふるまひをなすをいふことばなり、そも/\言(ノ)意は、然《シカ》ぶりなり、(しかの切さ、ぶりの切び、)ぶりは、荒《アラ》ぶり、和《ニキ》ぶり、都《ミヤコ》ぶり、鄙《ヒナ》ぶり、俗にも、利口ぶるなどいふ夫流《ブル》なり、これにて貴人佐備《ウマヒトサビ》は、貴人として、やがて然《サ》るふりをする意、神佐備《カムサビ》は神とありて、やがて然《サ》るふりをする意にて、今(ノ)世某めくと云に近し、これになずらへて、すべて某|佐備《サビ》といふ言(ノ)意をさとるべし、○不欲常將言可聞《イナトイハムカモ》(欲(ノ)字、舊本には言と作り、今は飛鳥井本元暦本類聚抄拾穗本等に從つ、古寫本に知る作るもいかゞなり、不知不言にては、イナ〔二字右○〕と訓むことおぼつかなければなり、故(レ)按(フ)に、言は許《コノ》字の畫の脱しものか、八(ノ)卷に、神佐夫等不許者不有《カムサブトイナニハアラズ》とあり、又思ふに、許(ノ)字の省作《ハブキカキ》にてもあらむか、十(ノ)卷には、許多を言多と書り、猶考べし、知は欲(ノ)字の誤寫なるべし、)(383)は、嗚呼否《アハレイナ》といひて、うけひかずあらむかといふなり、可《カ》は疑(ノ)辭、聞《モ》は歎息辭なり、○歌(ノ)意は、わが心よせはあさからねど、もし引いざなはゞ、郎女はうま人なれば、やがてそのうま人めきて、我をば適配《タグヒ》にあらずとて、嗚呼否《アヽイナ》といひて、うけ引ずあらむかとなり、禅師が身を謙りて、郎女をあがめいへるなり、此方より如此《カク》、人の心を量(リ)ていふは、不許《イナ》といはせじとの心がまへなり、後拾遺集に、しひてよもいふにもよらじみこもかるしなのゝまゆみひかぬ心は、全此(ノ)歌を取てよまれたり、
 
97 三薦苅《ミコモカル》。信濃乃眞弓《シナノノマユミ》。不引爲而《ヒカズシテ》。弦作留行事乎《ヲハクルワザヲ》。知跡言莫君二《シルトイハナクニ》。 郎女。
 
弦作留行事乎《ヲハクルワザヲ》、(弦(ノ)字、舊本に強、類聚抄に濕と作(ル)は共に誤なり、今改つ、作(ノ)字、類聚抄拾穗本等に佐と作るも誤なり、)弦《ヲ》は、次に都良絃《ツラヲ》とある即(チ)是にて、弓弦のことなり、作留《ハクル》とは、波久《ハク》は佩《ハク》v刀《タチヲ》著《ハク》v履《クツヲ》などいふ波久《ハク》にて、著《ツク》るをいへり、さて刀履などは、自《ミヅカ》ら身に著る故、常に波久《ハク》といふなるを、弦《ヲ》は弓に令《シムル》v著《ハカ》ゆゑに、波久留《ハクル》とも波氣《ハケ》とも云(フ)、されば波久《ハク》と波久留《ハクル》とは、言は一(ツ)なれども、自他の差別《ケヂメ》あることなり、古事記倭建(ノ)命(ノ)御歌に、比登都麻都比登爾阿理勢波多知波氣麻斯袁《ヒトツマツヒトニアリセバタチハケマシヲ》とあるは即(チ)令《シメ》v佩《ハカ》v刀《タチ》ましをと云るにて、波氣《ハケ》とのたまへるなり、是にても、波久《ハク》と同言なるをおもひ明(ラ)むべし、(さるよしをもしらずて、弦などには、波具留《ハグル》波宜《ハゲ》など、具《グ》宜《ゲ》を濁りて、刀履などを波久《ハク》と云とは、異言なりと意得たるは、いみじきひがことなり、)集中にも次の、梓弓(384)都良絃取波氣《アヅサユミツラヲトリハケ》、十四に、美知乃久能愛太多良未由美《ミチノクノアダヽラマユミ》云々|都良波可馬可毛《ツラハカメカモ》、十六に、牛爾己曾鼻繩波久例《ウシニコソハナナハハクレ》などあり、(假字書には、何れも清音の可久氣等(ノ)字をのみ用《カケ》り、)行事《ワザ》は字の如し、俗に爲道《シミチ》爲樣《シヤウ》など云がごとし、四(ノ)卷に、風流無三吾爲類和射乎害目賜名《ミサヲナミアガスルワザヲトガメタマフナ》とあり、○知跡言莫君二《シルトイハナクニ》(君(ノ)字、類聚抄にはなし、なくても同じことなり、)は、知《シル》と不《ヌ》v言《イハ》にの伸りたるにて、(ナク〔二字右○〕はヌ〔右○〕の切、)知といはぬことなるをと云が如し、○歌(ノ)意は、弓をば引がためにこそ、弦《ツル》著《ハク》る行事をも知といふなれ、引ぬ弓に弦はけて何にかせむ、其(ノ)如く、我をいざなふとはなくて、打つけに、わが否《イナ》といはむも諸《ヲ》といはむも、はかり知べきにあらざるをやとなり、戀しき心に堪ずして、逢むとはいはずして、良人めきて、うけひかじかといへば、君が方によらむと云べき由なしとの、下心なり、
 
98 梓弓《アヅサユミ》。引者隨意《ヒカバマニ/\》。依目友《ヨラメドモ》。後心乎《ノチノコヽロヲ》。知勝奴鴨《シリカテヌカモ》。 郎女。
 
引者隨意《ヒカバマニ/\》は、引ば引むまゝにの意なり、○知勝奴鴨《シリカテヌカモ》は、知難《シリカテ》ぬる哉《カナ》の意なり、鴨《カモ》は歎息(ノ)詞にて、後(ノ)世の哉《カナ》といふに同し、○歌(ノ)意は、實に我を引いざなふとならば、引のまゝにしたがひなむを、今より後、行すゑのほどおぼつかなしとなり、右の歌の下心をいひ顯して、行末をあやふむ意をのべたり、
 
99 梓弓《アヅサユミ》。都良絃取波氣《ツラヲトリハケ》。引人者《ヒクヒトハ》。後心乎《ノチノコヽロヲ》。知人曾引《シルヒトソヒク》。 禅師。
 
(385)都良絃取波氣《ツラヲトリハケ》は、弓弦を取て令《セ》v佩《ハカ》といふなり、都良《ツラ》は連《ツラ》なり、連續《ツヾク》意なり、(弦は弓の本より、末まで續く意なり、)草の蔓《ツル》、(肥前(ノ)國長崎人の詞に、草の蔓をもツラ〔二字右○〕と云よし、)其餘器物のつるなどいふも、皆ひとつなり、(さて十四にも、右に引如く都良《ツラ》とあれば、古(ヘ)は都良《ツラ》とのみいひしかとも思ふに、仁徳天皇紀大御歌に、于瑳由豆流《ウサユヅル》、又此(ノ)下に、弓弦葉《ユヅルハ》などあれば、もとより都留《ツル》とも都良《ツラ》ともいひしなり、和名抄に、弦(ハ)由美都流《ユミツル》とあり、)絃《ヲ》も續綿まる意の稱なり、年緒《トシノヲ》生緒《イキノヲ》などいへるにてしるべし、○歌(ノ)意は、かにかく心をつくして、人を引誘ふ人は、行末いつまでも、變らぬ心を思ひ定めてこそ引(ケ)、さるおぼつかなきことあらむやはとなり、
 
100 東人之《アヅマヒトノ》。荷向※[しんにょう+(竹がんむり/夾)]乃《ノサキノハコノ》。荷乃緒爾毛《ニノヲニモ》。妹情爾《イモガコヽロニ》。乘爾家留香聞《ノリニケルカモ》。 禅師。
 
東人之は、アヅマヒト