萬葉集古義首卷、吉川半七発行者、國書刊行會発行、明治31年7月31日初版大正3年3月25日再版
 
(1)  萬葉集古義
 
    緒言
 
一 萬葉集は、本朝最古の歌集にして、仁徳天皇より淳仁天皇の御宇に迄る、朝野の歌を輯蒐せるものにて、啻に往昔の文華詞藻を傳ふるのみならず、政法世體風俗言語地理品物等に就て、徴古の資に供するに足り、支那の詩經と稍其撰を同くし、國史實録に互して、尤も崇尚すべき一種の國典とも稱すべき名籍たり。
一 古來本集の解釋書は尠からざりしが、土佐の磧學鹿持雅澄翁博識洽閲の資を以て、篤く國典の闡明に志し、殆ど畢生の力を本集の註疏に黽め、編次竣りて萬葉集古義と題し家に藏せしが、曩に 明治天皇乙夜の御覽に供し、尋で宮内省官※[金+浸の旁]の光榮に與りたり。著者の小傳は別に收載せり。
(2)一 本會は、第三期の刊行を啓くに當り、本書流布本稀少にして卷帙浩瀚なれば、坊刻の容易ならざるを虞り、これを※[金+侵の旁]版に附し、分釘して拾册としたり。
一 本書原本には往々鼈頭の註書あれど、今は〔頭註〕の符合を以てこれを本文中に挿嵌し。又疑を闕くものには◎を施し、其他體裁は一に原本に從ひて排印したり。尚卷尾に本會新修の索引を附刷して、閲覽の便を裨けたり。
 大正三年三月
                  國書刊行會識
 
(1)鹿持雅澄翁傳
 
翁諱は雅澄、通稱を藤太といひ、古義軒また山齋と號す。飛鳥井氏の支流なり。遠祖權中納言雅量應仁の亂を避けて土佐國に來り、國司一條氏に寄寓し、幡多郡鹿持城に據る。子孫よりて氏と爲す。幾もなく國司家亡び、鹿持氏亦其城邑を失ふ。雅量の孫安春はじめて藩主山内氏に仕へ、禄二百石を食む。後ち家運漸く衰へ、降りて徒士となる。班、士格の下にあり。安春五世の孫を惟則といふ。翁は其長子にして、寛政三年四月廿日土佐郡福井村に生る。幼時學を好まず、遊戯にのみ耽りしが、十八九歳の折幡然志を改め、皇學を宮地仲枝に、漢學を中村某に、入木道を下元某に學ぶ。業漸く進むに及び、獨學古人を私淑し、廣く和漢の書を渉獵し、最も意を古典に注ぎて研鑽怠らず、夜を以て日に繼ぐ。翁微禄の家に生れ、生計豐ならず、固より書を購ふに資なし。加ふるに早く妻を喪ひ、自ら薪水の勞を(2)採りて父に事へ、傍ら二兒を鞠養し、艱難つぶさに到る。然れども修學の念は毫も衰へず、寸※[日/処の右がト/口]を倫みて書を繙きたり。藩老福岡氏其篤學を愛し、家藏の群籍を閲讀せしめ、なほ翁の請ふがまゝに、普ねく購ひ求めて之を助く。翁深く感激し、私に他日の大成を期す。萬葉集古義の大著は、實に此際の起稿に係る。既にして翁の名聲※[さんずい+乃]に揚り、教を受くるもの幾百人、藩主の公族連枝等また翁に師事す。清水濱臣、小山田與清、堀練誠の如きも、書を寄せて質疑せる事屡なり。彼ら擢られて藩黌教授館の師範に任じ、弘化三年三月特に士格に列す。安政五年九月五日逝く。享年六十八。福井村に葬る。墓石には、吾以後將生人者古事之吾墾道爾草勿生曾といへる遺詠を刻せり。
翁深く思ひを國學に致し、大義名分を説いて海南の子弟を教化せり。其國體并に皇道に關する自詠の和歌千餘首を輯めて千首操言と名く。「親の名を繼往くものと思へらば束の間も君を忘るな」「劔太刀研し心の(3)もらずは我皇神の道は惑はじ」などいへるは、其一例なり。翁また日本外史の文中、往々皇室に對して禮を失へるものあるを慨し、日本外史評を著はして之を論ず。以て翁が如何に、國體の尊嚴を發輝するに力めしかを見るべし。されば米船渡來の事あるや、慨然として詠じて曰く、「神風をなごめまつりて君の邊によくしてまいこ亞米利加やつこ」。かく翁が熱烈なる尊王愛國の精神は、上下に感孚して、爲に幕末に於ける土藩の興起を促したり。武市半平太小楯は翁の義姪なり。幼より翁の門に入りて其薫陶を受く。長ずるに及び、土佐勤王黨の領袖となり、薩長二藩士と策應し、同門の士吉村寅大郎重郷等と共に、尊王倒幕の計畫に從ひ、遂に君國の爲に殉ぜり。翁が皇學を提唱し、氣節を以て後進を導きたる功績また没す可からざるなり。
翁博學多識、最も古典に通ず。また和歌を善くし、文章に長じ、書に巧なり。著書頗る多し。就中萬葉集古義は、翁が畢生の精力を傾注せるものにし(4)て、考證正確、解説平允、先哲のいまだ説かざる所を闡明匡輔せり。明治の初年、事九重の上に聞して乙夜の覽に入り、尋で宮内省に於て上梓せらる。翁の名譽また大なりといふべし。
我が先人嚴水甞て、翁の門下にあり。古義上梓の大命下るに及び、遙かに郷里土佐より徴されて校訂の事に參與し、聊か先師の厚恩に報じたり。今や版を重ねて三たび世上に布く。思ふに師父在天の靈、また莞爾たるものあらむ。
  大正三年二月
                    井野邊茂雄識
 
(5)萬葉集古義總目
   首卷
一總論四卷
  題號 撰者 編次 三體【長歌、短歌、旋頭歌】
  集中歌數 集中年代 本句末句
  毎句名目 倭歌 東歌 反歌
  詩賦詠絶 古點次點 新點 諸本
  古萬集集 引用書目 題詞讀法
   以上第一
  匿名 略名 名氏書法 假字 正字
  義訓 戯書 具書 略書 省畫
  異訓異字 縮言 伸言 音通 韻通
  轉言 略言 古言 以上第二
  發言 枕詞 助辭 尊稱 美稱
  賛辭 親辭 嘆息辭 乞望辭 疊字
  複詞 天皇尊號辨 自(ト)云辭辨
  登(ト)云辭辨 美(ト)云辭辨 古學 以上第三
  舊本目録辨 三體辨 以上第四
一索引 本會新修
   第一冊
本編一卷之上中下 雜歌
二卷之上中 相聞 挽歌
   第二冊
二卷之下 挽歌
三卷之上中下 雜歌 譬喩歌 挽歌
四卷之上下 相聞
   第三冊
五卷之上下 雜歌 六卷之上下 雜歌
七卷之上下 雜歌 譬喩歌
八卷之上 春雜歌 春相聞 夏雜歌 夏相聞
   第四冊
八卷之下 秋雜歌 秋相聞 冬雜歌
 
 (6) 冬相聞
九卷之上下 雜歌 挽歌
十卷之上中下 春雜歌 春相聞、夏雜歌
  夏相聞 秋雜歌 秋相聞 冬雜歌 冬相聞
   第五冊
十一卷之上中下 古今相聞往來歌類上
十二卷之上中下 古今相聞往來歌類下
十三卷之上下 雜歌 相聞 挽歌
   第六冊
十四卷之上下 東歌 雜歌 相聞 譬喩歌 挽歌
十五卷之上中下 部類缺
十六卷之上下 有由縁并雜歌
十七卷之上下 部類缺
   第七冊
十八卷之上下 部類缺
十九番之上中下 部類缺
二十卷之上中下 部類缺
   第八冊
一萬葉集品物解四卷
  草竹一二 木三 鳥獣魚蟲四
一萬葉集人物傳三卷
  帝王 太子 皇后 皇子 皇女 諸王 女王 朝臣 眞人 宿禰 連 君 首 忌寸 臣 造 村主 使主 史 直 倉人 諸臣 女 僧尼 庶人
   等九冊
一萬葉集枕詞解五卷
一玉蜻考
一萬葉集名處國分一卷
一萬葉集名處考六卷
一萬葉集坐知佳境附録一卷
 
(1) 萬葉集古義總論其一
            土佐國  藤原雅澄撰
 
    題號
 
此集を、萬葉と名づけられたるにつきて、古來《ムカシヨリ》兩説《フタツノコトワリ》あり、一(ツ)には萬世《ヨロヅヨ》の義《コヽロ》とし、一(ツ)には萬辭《ヨロヅコトバ》の義《コヽロ》とせり、さて件《クダリ》の兩説、此も彼も共に所據《ヨシ》はあり、(からぶみ文選、顔延年が曲水詩序に、其宅2天衷1立2民極1、莫v不d崇2尚其道1、神2明其位1、拓v世貽v統、固2萬葉1而爲uv量者也、とありて、呂濟注に、葉代也と見え、また毛萇が詩傳にも、葉世也と見えて、葉(ノ)字を、世の義に用たること、なほ漢籍には往々見えたり、これ萬世の義とする據なり、釋名に、人聲曰v歌、歌柯也、如3草木有2柯葉1也と見えて、萬葉と連ねたる字は、淮南子に、夫道有2經紀條貫1、得2一之道1、連2千枝萬葉1、また從v本引v之、千枝萬葉、莫2得不1v隨也、といひ、劉禹錫が秋風賦に、百蟲迎v暮兮、萬葉吟v秋、ともありて、これ萬(ノ)辭の義とする據なり、又文粹十卷に、冷泉院者、萬葉之仙宮、百花之一洞也、とも見えたり、(其中に近世の學者、みな後の義に心よせて、萬辭の義とせり、(契冲僧、岡部氏など皆しかり、)しかれども、余は後の義を諾はず、(但し古今集序に、倭歌《ヤマトウタ》は人の心を種として、萬の言の葉とぞなれりける、といひ、又後の勅撰に、金葉集、玉葉集、南朝に撰ばれし集を、新葉集と名づけられたるなど、みな葉を辭の義にとれゝば、一わたりは理ありて聞ゆれど、やゝ後世の例をもて、古を證《アカ》すべきに非ず、そも/\許登乃波《コトノハ》(2)といふ言、此集の頃の詞に、見えたることなし、たゞ古登婆《コトバ》といふ言、四卷に、百千遍戀跡云友諸《》茅等之練乃言羽志吾者不信《モヽチタビコフトイフトモモロチラガオリノコトバシアレハタノマジ》、とあると、廿卷東歌に、伊比之古度婆曾《イヒシコトバソ》とあるのみにて、いまだ言(ノ)葉の義に兼用たる如きことはなかりき、されば辭を、葉の義にあつることは、貫之の筆端に出たりともいふべきことなり、かゝれば、此集に名づけし人の、萬(ノ)辭の謂に充たるに非ること著し、さて又古今集よりこなたの撰集には、みな倭歌集とあるを、この集に、倭歌の字を加へられざりしは、葉は歌の義なるが故なりなど云は、一(ト)きはをさなき論にて、いふにも足ず、)萬世の義にてこそあらめ、(つら/\當時の人の熟字を用《ツカ》へる樣を考るに、萬世の義にとりたること決《ウツナ》し、)其證は、仁明天皇令義解を、天下に施行《ホドコラ》したまへる詔に、宜d頒2天下1、普使c遵2用畫一之訓1、垂u2於萬葉1、と見え、又古本日本後紀五卷に、延暦十六年二月己巳、云々等、續日本紀を撰成《エラバ》れたる上表に、傳2萬葉1而作v鑒、と云、齋部廣成が古語拾遺には、隨v時垂v制、流2萬葉之英風1、興v廢(タルヲノ)繼v絶(タルヲ)、補2千載之闕典1、(朝野群載阿闍梨齊朝が灌頂歎徳文に、結縁灌頂之秘法者、是累代萬葉之御願、群類入聖之玄門也、菅原陳經朝臣の菅家御傳記に、爾來土部氏萬葉居2菅原伏見邑1、とも見ゆ、又元享釋書廿二資治表に、延暦二年七月、左官右僕射藤魚名薨、甞於2平城1建2萬葉寺1とある、この寺(ノ)名も同義と見ゆ、)など見えて、此等はみな、此集よりやゝ後のことなるすら、み掟萬世の義にのみ用たるを考合べし、(又續紀天平八年十一月、葛城王、佐爲王上表の終に、萬歳無v窮、千葉相傳とあるも、千世の義なるを思(ヒ)合すべし、そも/\此集撰ばれし頃は、かの文選てふからぶみを、もはらこのみ翫びしことなれば、かの顔延年が曲水詩序に本據《ヨリ》たること、さらに疑なし、)されば長く萬世の後ま(3)で朽せず傳はれとて、しか名づけられたるにぞありける、(後の勅撰に、千載倭歌集と名付られたるも、この同じ意旨なりけり、後冷泉天皇、後三條天皇、白河天皇、堀河天皇、鳥羽天皇、五代の歌を集めて、五葉集と名づけたるよし、八雲御抄にも載させ給へり、これも葉を代の義にとられたり、(げに萬世の末まで傳りて、歌集《ウタブミ》の祖《オヤ》とおほぞらの月を見る如くに、仰き尊み、よみあぢはふべきは、この萬葉集になむありける、
   撰者
此集を撰べる人のこと、古來説々ありといへども、みな信《ウク》るに足ず、(いでその謂をことわらむに、まづ古今集雜下に、貞觀の御時、萬葉集は、いつばかりつくれるぞと問せ賜ひければ、よみて奉りける、文屋有季《ブムヤノアリスヱ》、神無月《カミナヅキ》しぐれ降おけるならの葉の名に負(フ)宮の古言ぞこれ、とあり、これ其頃はやく此集を閲る人なく、又たま/\見る人ありても、つくり人を知ばかりの人、はたなかりしことしられたり、さりければこそ、清和天皇も、此集作りたりし時代をしろしめさずして、かく問せ賜ひけれ、又有季が、ならの葉の名に負(フ)宮と答へ奉りしも、あまりにおぼろげなる奏言にこそありけれ、抑々寧樂朝は、元明天皇より光仁天皇まで、凡《スベテ》七世《ナヽヨ》の間の皇居《オホミヤ》なるを、汎く寧樂宮とのみ奏して、いづれの天皇の御時とかは、きこしめしわき賜ふべき、又平城天皇をさして申せりとせば、いよ/\かたはらいたきことなり、さるはまづ此集の撰者《ツクリビト》を、家持卿と定めむに、天平寶字三年までの歌を集められ、其後二十六七年を歴て、桓武天皇延暦四年に、彼卿薨られたれば、平城天皇の御時に、編《ツク》れるものとすべき據はさらになし、然れども、漢文序に平城(4)天子とあるは、大同帝の御事と見ゆれば、有季も其定にて、寧樂(ノ)宮とは奏せるにや、後拾遺集序に、寧樂の帝は、萬葉集を撰て、帝の翫物としたまへり云々、とあるも、右の定に、大同帝の御事ときこゆ、さて新續古今集漢文序に、平城天子、詔2侍臣1撰2萬葉1已來、集更二十、祀逾2六百1、とあるは、大同年中より、新續古今集の成(レ)る永享年中までに、勅撰の集二十部成て、年は六百年を逾たる旨に云たれば、後々はまさしく、大同帝の御時の編集、と一決《サダメ》たるにもやあらむ、さて次に、古今集序に、かく傳はるうちにも、寧樂の御時よりぞひろまりにける、かの御代や、歌の心をしろしめしたりけん、かのおほむ時に、正き三(ツ)の位柿本人丸なむ歌の聖なりける、これは君も人も、身をあはせたりといふなるべし、秋の夕、龍田川に流るゝ紅葉をば、みかどのおほむ目に錦と見たまひ、春の朝、吉野の山の櫻は、人丸が心には雲かとのみなむおぼえける、又山のべの赤人と云人ありけり、歌に奇しく妙なりけり、人丸は、赤人が上にはたゝむことかたく、赤人は、人丸が下にたゝむことかたくなむありける云々、これよりさきの歌をあつめてなむ、萬葉集となづけられたりける云々、かの御時よりこのかた、年は百年餘《モヽトセアマリ》、世は十世《トツギ》になむなりにける云々、などある、まづこの寧樂の御時とさせる、百年にあまり、十世を經たりといへると、漢文序とを合(セ)考(フ)れば、平城天皇大同年中を、させるものといふべけれど、こゝはその大數をのみあげいへるにて、彼寧樂(ノ)朝七世の間をさせるものと姑定めむ、しかしても人麻呂は文武天皇の末より、元明天皇のはじめつかたまでに、身まかれる趣《サマ》なれば、寧樂(ノ)朝の人とはいふべきにあらず、無稽の説といふべし、又正三位といへるも、何を據としていへることなるにかずべて證無ことなり、さ(5)て君臣合體を云むとて、吉野山の櫻を、人丸が心に雲かとのみなむおぼえける、といへること何事ぞや、抑々彼朝臣の歌、戀化自在《トリ/”\サマ/”\》なりとはいへど、花を雲にまがへ、紅葉を錦と見たてしやうのことやはある、つぎに赤人は、元正天皇の御代より、聖武天皇の御代の中間まで存在《アリ》ける人とおぼゆれば、これは寧樂(ノ)朝の人といはむには、たがはねども、人麻呂と同時の人と心得たる趣なるは、又ひがことなり、此こと、契沖も、はやくさだせることなり、さしも名たゝりし貫之の、ことに心を用ひて書る勅撰の序にすら、かくまでかた/”\誤れるにて、なべて其代の人の、此集に暗かりしことしるべし、さはあれど、むげに見ざりしとにはあらざめれど、ひたすらによみわきまふることは、かたきわざにぞありけむ、同序に、萬葉集にいらぬ古き歌、みづからのをも奉らしめ賜ひてなむ、といひながら、此集の歌の、彼集にあまた收《イリ》たるにて、こと/”\に得よみはてざりしほどしられたり、同集漢文序に、普平城天子詔2侍臣1、令v撰2萬葉集1、自v爾已來時歴2十代1、數過2百年1、其後倭歌棄不v被v採、雖d風流如2野宰相1、雅情如c在納言u、而皆以2他才1聞、不d以2斯道1顯u、といひ、續日本後紀十九卷に、仁明天皇嘉祥二年三月庚辰、興福寺大法師等、爲《タメ》v奉3賀《コトホキマヲス》天皇寶算滿2l于四十1に、よめる長歌を載て、季世陵遲、斯道已墜、今至2僧中1頗存2古語1、可v謂3禮失則求2之於野1、故採而載之、と見えて、やゝ中絶たりしなり、いかにとなれば、寶字より景雲のころまでは、朝廷に事多くありて、人の心穩ならざりければ、歌の聲もおのづから息るならむ、次に光仁天皇は、もとより歌のことを、好ませたまはざりしとおぼえたれば、諸臣も是に隨て、歌よむ事を物うくしけるならむ、さて桓武天皇より後數朝、此事棄れたるが如し、中にも嵯峨天皇は、から歌を好ませた(6)まひけるが故に、皇女に至るまで、詩をのみ作らせたまひて、吾古のてぶりの、かく久しく絶たりしによりて、夕月夜曉やみの、おぼつかながらせたまへればこそ、貞觀のみかども、かくのごと、とはせたまひけるなれ、かくて延喜の勅撰より、歌よむわざの再昌になれりしかども、なほ古風に立復ることはなくして、此集などには、いよ/\暗かりしことしられたり、さて後に源順など、此集に訓點を加へられしことありけれど、はか/”\しきことはたえてなく、ましてなみ/\の人などは、思ひもよらぬことなり、其次に清輔朝臣、顯昭法師などいひし人出で、かづかづうかゞひしことはありけれども、つひに開き得しことはなかりき、かくまで古學に暗き代なりければ、其間の人どもの、此集につきて、なにくれのこと、また撰者のさだなどせしことも、みなたゞ闇夜《ヤミノヨ》の心あてなりければ、今更とりたてゝ、其|是否《ヨシアシ》を論辨《アゲツラフ》べきにあらず、たゞ近(キ)世に、難波の契冲僧出てよりぞ、やう/\古風をうかゞふことには、なれりける、)
契冲云、今此集の前後を見て、ひそかにこれを思ふに、中納言大伴家持卿、若年より古記類聚歌林、家々の集まで、殘らずこれを見て撰び取りその外むかし今の歌、見聞にしたがひ、或は人に尋問て、漸々にこれを記し集めて天平寶字三年までしるされたるが、その後とかく紛れて、部類もよくとゝのへられぬ草案のまゝにて世に傳はりけるなり、と云り、實に此説の如くなるべし、(詔2侍臣1令v撰2萬葉集1、とあるは、さらに論にも足ぬことにて、勅撰ならぬよしは既《ハヤ》く識者等の論(ヒ)置たることなれば、今更かにかくいふべきふしなし、岡部氏(ノ)説に、世繼物語に、萬葉集は、高野帝の勅によりて、橘右大臣の撰ばれたるよし、かけるによりて、諸兄大臣の撰として云るや(7)う、諸兄大臣は、天平寶字元年正月に薨賜へるに、廿卷末に、同三年正月までの歌を載しかば、しからず、といふ説あれど、萬葉集といふは、今の一卷二卷十三卷十一卷十二卷十四卷の六卷《ムマキ》にて、これぞ此大臣の、上(ツ)代より奈良(ノ)宮の始までの歌を、載られしものにて、餘の十四卷《トウマリヨマキ》は、家々の歌集にて、萬葉にあらずと云り、此説(ノ)眞に理あるに似たることながら、しか忝き勅を奉て、彼大臣の撰ばれたるものならば、きはごとに傳へ來べきことなるに、纔の間に、さまで錯簡《マギル》べきにあらざるをや、もとよりうるはしく撰べる集にあらざればこそ、かく編次の正しからざるままにて、傳はり來ぬるなれ、されば契冲説の如く、家持卿の草案《シタガキ》のまゝにて、傳はれりといふこと穩なり、さて家持卿の集められしと云證は、契冲又云、家持の私に撰ばれたりと見ゆれば、家持歌にかぎりて拙歌といひて謙下《クダ》れり、人のかたるを聞てしるし、人にたづねてしるす、みな家持の詞なり、大納言大伴旅人卿、いまだ微官の時より名をしるさず、おほよそ大納言已上には、此集名をしるさず、たゞ氏姓と官位をもて顯はせり、旅人は、天平二年十月に大納言に任《メ》され、三年七月に薨られぬ、その間の歌にこそ、名はしるさざらめ、それよりさきのあまたの歌に一所も名をかゝず、凡(ソ)廿卷の中、つひに旅人といへることなし、たとへ家持撰者なりとも、勅撰ならば、ひとり父にわたくしせむや、是(レ)家に撰ひて、父をうやまへるがゆゑなり、又家持の妻の、母におくれる歌を、家持にあつらへてよませける、その詞書に尊母といへり、これわたくしの家のことにあらずや、これに准へて知べし又第十九家持の歌に、白雪《》能布里之久山乎越由可牟《シラユキノフリシクヤマヲコエテユカム》、君乎曾母等奈伊吉能乎爾念《キミヲソモトナイキノヲニモフ》、此(ノ)歌に注していはく、左大臣換v尾(ヲ)云、伊伎能乎爾須流《イキノヲニスル》、然猶喩曰、(8)如v前(ノ)誦之也、この左大臣といへるは諸兄なり、これ家持の詞なり、又左大臣を壽とて作るといふ歌も有(リ)、集を見む人は、家持の私に撰べるといふこと、みづから信ずべし、といへり、但し五卷に大伴|淡等《タビト》と見えたるは、旅人のことなれど、其は彼卿の書牘の文面を、そのまゝ載たるなれば、名ばかりを省くべきにあらず、又集中微官の人にも、官位氏姓等のみを記して、名を略けること往々あるを、ひとり家持にいたりて、名を記さゞるところ一處もなし、これ又|自《ミヅカラ》筆《カケ》る一證なり、)
    編次
卷々の編次を立られたること、さらに謂なし、(歌の風體と、年序とによりて、推考るときは、實に岡部氏が、萬葉考に改めたる如く、第一第二は本の如く、本の第十三を第三とし、本の第十一を第四とし、本の第十二を第五とし、本の第十四を第六とし、本の第十を第七とし、本の第七を第八とし、本の第五を第九とし、本の第九を第十とし、本の第十五を第十一とし、本の第八を第十二とし、本の第四を第十三とし、本の第三を第十四とし、本の第六を第十五とし、第十六第十七第十八第十九第廿の五卷は、本のまゝとせむぞ、大概正しからむ、然れどもしか改めむは、中々の私事なり、)さるは、もときよく撰べる集ならず、唯よりくるにしたがひて、寫し留められたるまゝに、隨筆など云ものゝ如く、假に一二を記しつゝ、更に改め正すこともなくして、やがてそのまゝに、遺《ノコ》しおかれたるものと見ゆればなり、(さればさてありなむこそ穩ならめ、こを今更に改め正さむは、中々に強たるわざなるのみならず、舊本の順次に目なれたる心には、かへり(9)てまどはしきことぞおほからむ、)
    六部
卷別につきて部をたつること、いさゝか差異たりといへども、集中に大抵《オホムネ》六種《ムクサ》をもて部を分たり、一(ツ)には雜歌、二には相聞、三には挽歌、四には譬喩歌、五には四季雜歌、六には四季相聞なり、○雜歌はクサ/”\ノウタと訓て、種々の歌を載たるを云、(雜字につきて、猥雜の義とのみは思ふべからず、)雜(ノ)字古書にクサ/”\と訓たり、延喜式祝詞に、雜物雜幣帛雜々罪《クサ/”\ノモノクサ/”\ノミテクラクサ/”\ノツミ》など見え、江家次第九卷、和奏之度結詞條に、雜稻とありで、雜(ノ)字の下に、久佐久佐乃《クサクサノ》と注し、又古事記に、種々味物《クサ/”\ノタメツモノ》、日本書紀神代(ノ)卷に、品物《クサ/”\ノモノ》、また祝詞式に、種々《クサ/”\ノ》色物などもあるにて、クサ/”\といへる意を合(セ)考(フ)べし、久佐具佐乃歌《クサグサノウタ》といへるは、古今集序に、あるは春夏秋冬にもいらぬ、くさ/”\の歌をなむえらばせ賜ひけるとあるは、正《マサ》しく雜(ノ)歌(ノ)部にあたれり、さて此集なるは、後々の歌集に、雜部あるよりは今少し汎《ヒロ》くて、行幸肆宴※[覊の馬が奇]旅問答、其餘品々の歌の、相聞挽歌譬喩歌の部に屬《ツケ》がたきを、雜歌の部内に收載たり、又四季に屬をば、四季雜歌の部を立たり、若まれ/\雜歌の部内に、四季相聞等に屬べきがまじはれらむ、其はいまだ部類をも、よくとゝのへられず、草案《シタガキ》のままにて傳はれるが故なり、と知べし、○相聞は、字は、からぶみ文選、曹植が、呉季重に與《オク》れる書に、適對2嘉賓1、口授不v悉(サ)、往來數相聞、とありて、呂向が注に、聞問也といへるに全《モハラ》よりたるものなり、其故は、十一十二の兩卷を、古今相聞往來歌類の上下と別たる、相聞往來の四字、みながら、かの文選に出たるにてしるし、さて相聞は、相問といふに同じきこと、かの書の注にて明けし、即四(10)卷相聞部に、大伴宿禰駿河麻呂歌一首、不相見而《アヒミズテ》云々、大伴坂上女郎歌一首、夏葛之《ナツクズノ》云々とありて、右坂上郎女者、佐保大納言卿女也、駿河麻呂者、高市大卿之孫也、兩卿兄弟之女孫姑姪之族。是以題v歌送答、相2問起居1、とある相問に、全(ラ)同じければなり、さてこれは後々の歌集に、戀(ノ)部とあるに似て、それよりはやゝ汎く、男女の間よりはじめて、親族兄弟朋友にいたるまで、彼方此方往來して、起居を相問よしの稱なり、さて必相贈らねど、戀る情を述たるも多くあれど、親族朋友或は男が女に贈り、女が男に贈りなどして、安否を相問を主としていへるなり、かくて相聞の字をば、いかにとも訓べきやうなければ、次の挽歌に同じく、字をはなれてシタシミウタと訓つ、即四卷相聞歌の左注に、右大伴坂上郎女之母、石川内命婦、與2安倍朝臣蟲滿之母、安曇外命婦1、同居姉妹、同氣之|親《シタシミアリ》焉、縁v此(ニ)郎女蟲滿、相見(テ)不v疎(カラ)、相談既密云々、と見えて、親《シタシミ》をむねと、かなたこなた相問よしなればなり、さて相聞にて四季に屬《ツク》をば、四季相聞の部を立たり、○挽歌は、これも字は文選注に、李周翰曰、横(齊(ノ)田横也、)自殺、從者不2敢哭1而不v勝v哀(ニ)、故爲2悲歌1以寄v情(ヲ)、後廣v之、爲2薤露蒿里歌1以送v終、至2李延年1、分爲2二等1、薤露(ハ)送2王公貴人1、蒿里(ハ)送2士大夫庶人1、挽v柩者歌1v之、因呼爲2挽歌1、捜神記に、挽歌者喪家之樂、執v※[糸+弗]者相和聲、(注に、※[糸+弗]引v柩索也、)など見えて、もと漢國にて、棺の※[糸+弗]を引者のうたふ歌をいふことなるを、此方にては、たゞ哀傷歌の名目に假たるのみなり、(しかるを二卷挽歌部、山上臣憶良、追2和結松1歌の左注に、右件歌等、雖v不2挽v柩之時所1v作、唯擬2歌意1、故以載2于挽歌類1焉、とあるは、決《ウツナ》く最後人の手に出たる加注とはしるけれど、あまりにをさなき論に非ずや、たゞ名目のみをかり用たることは、いちじるきことなれば、今更こと新しく、柩をひき(11)挽ずなど、いふべきことかは、)さてこれは後々の歌集に、哀傷歌部あるに、全(ラ)同じければカナシミウタと訓べし、○譬喩歌はタトヘウタと訓べし、古今集序に、歌體《ウタノサマ》六種《ムツ》のことを云るところに、四にはたとへうたとありて、その古注に、これは萬の草木鳥獣につけて心を見するなり、とある如し、故(レ)七卷譬喩歌部内に、寄v衣(ニ)寄v絲(ニ)などやうにしるして、類を分たり、十一卷十三卷には相聞部内に、問答歌譬喩歌などしるして、假に類を分たり、さて譬喩は、萬に亘(リ)てある事なれど、此集にいへるは、男女のなからひの事にかぎれり、かくて件の六部の外、※[覊の馬が奇]旅悲別問答等の類あれど、別に總部をたてず、右の六種の部内に收て、類別せるのみなり、かくて卷によりて、部分のさま、いさゝかづゝ差別あること、左に云るが如し、(思ひ出るまに/\、ついでにおどろかしおくべし、古今集序に、たとへうたとある名目はよし、そも/\歌のさま六ありといへるは、から詩に、風賦比興雅頌と云六義ありといへるに、しひてなぞらへたるものにて、彼序中の第一の疵と云べし、しかるを近き世に、古今集を解(ク)人の説に、これは詩の六義によりていへれど、それをしらぬよそごとにいへるは、上手の筆つきなりといへるは何事ぞや、そも/\六(ノ)種《サマ》といへるは、全《モハヲ》詩の六義に本づけること論なきを、此方の歌の體に、もとよりさる六種《ムクサ》あるごといひ、さて次に、からのうたにもと、詩のことをよそ/\しくいへるは、いとも/\あるまじく、そこぎたなき心ならずや、まことには歌に六義といふことは、さだなきことなるを、強て漢風をひとへにうらやみて、詩に擬(ヘ)て六義の説をたてむとならば直に擬(ヘ)て見るときは、かくありとやうに表《アラハ》にいひてあるべきを、かくいへるは、うはべをつくろひかくす、あしきよの風俗をま(12)ねきたるものといふべし、然るを上手の筆つきぞと云ときは、陽《ウハベ》をかざりて、陰《シタ》に實意をかくすことの巧なるを、競ひ學ぶことゝなりて、吾(カ)皇神の道に大《イタ》く害あることぞかし、わが古學のすぢは、さるたぐひのことには非ず、よく/\思察《オモフ》べし、○一卷は、雜歌部をたて、某(ノ)宮(ニ)御宇(シヽ)天皇(ノ)代としるし、泊瀬(ノ)朝倉(ノ)宮より、寧樂(ノ)宮まで、次第々々《ヅギテ/\》に代を標して卷を終たり、○二卷は、始に相聞(ノ)部をたてゝ、一卷のごとく、難波(ノ)高津(ノ)宮より、藤原(ノ)宮まで次第々々に代を標して、後に挽歌(ノ)部をたてゝ、後(ノ)岡本(ノ)宮より、寧樂(ノ)宮まで次第々々に代を標して卷を終たり、凡てこの一二卷は同列にて、時代も明に、歌主もしるく、編法《トヽノヘサマ》もきはめて正し、○三卷は、始に雜歌(ノ)部をたてゝ、持統天皇(ノ)代より、聖武天皇(ノ)代までのを部内に收たり、但時代年月に繋たるにはあらず、中間に譬喩歌(ノ)部をたてゝ紀皇女の御歌より、家持卿の、いまだ内舍人にてありけむとおぼしきまでのを、部内に收たり、後に挽歌(ノ)部をたてゝ、聖徳太子(ノ)御歌よりはじめて、年紀のたしかならぬ、やゝ古き歌どもをまじへ載(ケ)順次《ツギテ》て、次に和銅四年より、天平十六年までの歌を載て卷を終たり、(此卷の編法を考るに、實に四卷に次べき物なり、)○四卷は、相聞部をたてゝ、仁徳天皇より、聖武天皇(ノ)代までのを載て卷を終たり、但時代年月等に、かけたるにはあらず、○五卷は、雜歌(ノ)部をたてゝ、始に太宰帥大伴卿報2凶問1歌といふより、憶良の戀2男子名古日1歌と云まで、神龜初年より、天平五六年にいたるまでの歌を載て卷を終たり、其内大伴熊凝をよめる歌までは、憶良の筑紫府に居《ヲ》れし時の作《ウタ》、貧窮問答より終までは、京師に上られたる後の作と見ゆ、憶良家に、自(ラ)集め置れたるものなるべし、中には書牘詩文などもまじれり、後に家持卿のいさゝか筆を加へられ(13)し、とおぼしき處もあり、さて件の部内に、春雜歌としるすべく、挽歌としるすべき類もあれど、ことに部をたてず、首に雜歌とあるにて※[手偏+總の旁](ヘ)たり、大かた憶良家集のまゝを、とれるが故なるべし、○六卷は、雜歌(ノ)部をたてゝ、養老七年より、天平十六年までの歌を載て、卷を終たり、凡て年序によりて次第をたてたること、日記と云ものゝ如し、○七卷は、始に雜歌(ノ)部をたてゝ其中に、詠v天(ヲ)詠v月(ヲ)、あるは※[覊の馬が奇]旅問答など、類を分て載《ケ》、中間に譬喩歌(ノ)部をたてゝ、其中に寄v衣(ニ)寄v絲(ニ)など、類を分て載(ケ)、終には挽歌(ノ)部をたてゝ卷を終たり、舊本、終に類を離れて、※[覊の馬が奇]旅歌一首あり、雜歌(ノ)部内に、※[覊の馬が奇]旅(ノ)作多ければ、其中に載べきを、落せる故に、後に卷末に、書加へたるものにても有むか、今改めて雜歌部内に收つ、此卷は、時代も作者も、すべて分明ならざるを集めたり、○八卷は、始に春(ノ)雜歌(ノ)部をたて、次に春(ノ)相聞(ノ)部をたて、次に夏(ノ)雜歌(ノ)部をたて、次に夏相聞(ノ)部をたて、次に秋(ノ)雜歌(ノ)部をたて、次に秋(ノ)相聞(ノ)部をたて、次に冬(ノ)雜歌(ノ)部をたて、次に冬(ノ)相聞(ノ)部をたてゝ卷を終たり、すべて此卷は、四季にて部を分てること、上件のごとし、さて各々部内の首の方に、やゝ古き歌を載て、次次に新歌を載たり、新古ともに作者をしるせり、○九卷は始に雜歌(ノ)部をたてゝ、大抵やゝ古き代よりの歌を順次《ツイ》で載て、天平(ノ)年に及べり、終に挽歌(ノ)部をたてゝ、大抵やゝ古き代よりの歌を順次《ヅギ/”\》に載て、卷を終たり、すべて此卷は多くは作者の名、簡約に記して、分明なりがたきを載たり、○十卷は、四季にて、雜歌相聞の部をたてたるさま、八卷に全(ラ)同じ、但し此卷には、作者をもらせるのみ、彼卷と異《カハ》れり、○十一卷は、古今相聞往來歌類之上と部をたてゝ、卷を終たり、これは十二卷に古今相聞往來歌類之下、とあるに對へり、「相聞往來は、他(ノ)卷に相聞とあるに同じ、さて(14)この部内にて、問答歌譬喩歌など、類を分てしるせり、但し此卷には作者なし、○十二卷は、上に云る如し、この部内には、※[覊の馬が奇]旅發v思(ヲ)歌、悲別歌など、類を分てしるせるさまも、十一卷なるに同じ、此卷にも作者なきこと、十一に同じ、○十三卷は、始に雜歌(ノ)部をたて、中間に相聞部をたてゝ、其部内に問答譬喩歌としるして、類を分てり、終に挽歌(ノ)部をたてたり、此卷すべて古代の歌の體にて、長歌旋頭歌のかぎりを載て、卷を終たり、此卷にも作者なし、○十四卷は、全《モハラ》東歌なり、始に雜歌相聞譬喩歌の部をたてゝ各々國を分て載(ケ)、中間に再《マタ》雜歌相聞譬喩歌挽歌の部をたてゝ、未勘國(ノ)歌を載て卷を終たり、○十五卷は部をたてず、天平八年丙子夏六月遣2新羅(ニ)1使人等の、往還のほどに作たると、誦たる古歌と共に、百四十五首と、中臣朝臣宅守が、越前國に配るゝ時、狹野茅上娘子と贈答せる歌、共に六十三首と、通計二百八首を載て卷を終たり、○十六卷は、有由縁并雜歌(ノ)部をたてゝ、新古の歌をまじへ載て卷を終たり、○十七卷より以下の卷々は、部をたてず、家持卿のもとより、此四卷は、自(ラ)の家に集めおかれたるものと見えたれば、いまだ部類をも立られざりしまゝとおぼゆ、さて此卷には天平二年より、同廿年正月までの歌を載たる中、二年十一月の歌より、十六年四月五日までの歌は、十六卷以前の卷々に遺《オチ》て載《アゲ》ざるを家持卿の、※[手偏+庶]て後々集められたるなるべし、其故は、二年より十六年までのあひだ、次第連綿せず、はじめに二年の歌十首を載て、やがて十年七月七夕の歌にうつり、十三年の歌より又絶て、十六年四月の歌あるが如きは、遺たるを拾はれけるが故なり、かくて十八年七月、家持卿、越中守にて下られけるより、廿年までは日記のやうに、相續てしるされ、さて次の三卷も、其|順《ナミ》に記(サ)れて卷を(15)終たり、○十八卷は、天平二十年より、天平勝寶二年二月までの歌を、家持卿任國中にてしるされたるなり、○十九卷は、天平勝寶二年より、同三年八月までは、越中にてしるされ、京師にかへりて後、同五年二月までの歌を載られたり、其中に時の王臣の作《ヨメ》る、また古歌の中にも、いまだ聞およばれざるを、人の傳誦るを聞て、誰某々々が傳ふるまゝに、こゝにしるすなどやうに注《コトワ》られたり、○廿卷は、天平勝寶五年より、天平寶字二年七月、家持卿因幡守となりて下られ、同三年正月一日因幡國廳賀宴の歌を、卷軸として、筆をとゞめられたるなり、さて此卷には、諸國防人部領使の進れる東歌をも、多く載たり、かくて上件にいへるごとく、卷別に部分の異同ありて一(ト)しなみならず、すべて編次のうるはしく、きはやかならざるは、題號を命《オホ》せながら、とかく紛れて、本意の如く、部類を正しとゝのふることあたはず、草案のまゝに傳へたるがゆゑなるべし、
    三 體
上古にも、歌(ノ)體の名目《ナ》を云ること、くさ/”\ありといへども、集中には三體を以て別たり、一には長歌、二には短歌、三には旋頭歌なり、○長歌は、一卷二卷三卷四卷六卷八卷九卷十卷十五卷十六卷十七卷十八卷十九卷廿卷に載たるには、長歌の名目はしるさず、さるは殊更に名目を出してことわらでも、よく別りたることなれば、しるさゞるなり、たゞ五卷題詞に、老身重病經v年辛苦、及思2兒等1歌七首と出して、其下に、長一首短六首、戀2男子名(ハ)古日(ヲ)1歌三首、と出して、其下に、長一首短二首としるし、十三卷題詞に雜歌と出して、其下に、此中長歌十六首相聞と出して、其(16)下に此中長歌二十九首と見えたるのみなり、○短歌は、十七卷大伴宿禰家持、久邇(ノ)京より、弟書持の奈良(ノ)宅なるがもとへ、報送る歌の小序に、因《カレ》作2三首短歌(ヲ)1以散2欝結之緒(ヲ)1耳、と見え、家持より池主へ報る書牘に、詩を出して、次に短歌二者とあり、廿卷に、冬十一月五日夜少雷起鳴云々、聊作2短歌一首1としるし、五卷梅花(ノ)歌(ノ)序に、宜d賦2園梅1聊成c短歌uと見えたる類は、長歌につきていへるには非ず、常の體なる歌をいへるなり、(いはゆる三十字餘一字《ミソモジアマリヒトモジ》の歌なり、)其餘一二卷に、長歌の後に、短歌と往々書るは、長歌の反歌にて、反歌としるすべきを、短歌と書るなり、又二卷三卷四卷五卷六卷八卷九卷十五卷十六卷十七卷十八卷十九卷廿卷などの題詞に、云々歌一首并短歌歌としるせること多し、これらも長歌につきていへるなり、○旋頭歌は、五七七五七七の六句の歌なり、この體なるは、集中おほくは名目を出せり、さるは右の長歌短歌は、名目なくても、まがふことなきがゆゑに、をりにふれて、長短をことわれるのみなるを、この旋頭歌は、豫《かね》てしか意得おきて、一首を讀ざれば、まぎるゝことのある、所由《ユヱ》に、理れるなるべし、さてこの體の濫觴《ハジマリ》をたづぬるに、まづ古事記神武天皇條に、伊須氣余埋比賣の、阿米都々知杼埋麻斯登々那杼佐祁流斗米《アメツヽチドリマシトヽナドサケルトメ》、といへるに、大久米命の、袁登賣爾多陀爾阿波牟登和賀佐祁流斗米《ヲトメニタヾニアハムトワガサケルトメ》、と答へたまひ、景行天皇條に、倭建命の、邇比婆埋都久波袁須疑弖伊久用加泥都流《ニヒバリツクバヲスギテイクヨカネツル》、と詔へるに、御火燒老人の、加賀那倍弖用邇波許々能用比邇波登袁加袁《カヾナベテヨニハコヽノヨヒニハトヲカヲ》、と答へまつり(書紀にも見ゆ、清寧天皇條に、志毘臣が、意富美夜能袁登都波多傳須美加多夫祁理《オホミヤノヲトツハタデスミカタブケリ》、といへるに、袁祁命の、意富多久美袁遲那美許曾須美加多夫祁禮《オホダクミヲヂナミコソスミカタブケレ》、と詔ひたるも同じ、)たる類、おのづから旋頭歌の體をなしたれども、なほ二(17)人して問答たるなるに、まさしく一人して此體に作たるは、同記雄略天皇大御歌に、須々許理賀迦美斯美岐邇和禮惠比邇祁理許登那具志惠具志爾和禮惠比邇祁理《スヽコリガカミシミキニワレヱヒニケリコトナグシヱグシニワレヱヒニケリ》、と見えたるこれなり、又仁徳天皇條、八田若郎女歌、書紀雄略天皇卷、繼體天皇卷などにはこの體なる見えたり、しかれども.いかにともいまだ名目は出さず、かくて此集に旋頭歌を載たるは、通計六十二首あり、其中に、藤原朝よりあなたの作とおぼゆるにも、端に旋頭歌としるしあるあれど、其は後に、歌體をわかちしらしめむがために、しるしたるものにて、もとよりの名目にはあらじ、旋頭と云るは、かの相聞挽歌の類に、奈良人の癖として、こちたき名目の字を、設けたるなるべし、(旋頭の字につきてカウベニメグラスウタと訓、或はカミニカヘルウタと訓べきよしなどいへるは、うるさし、旋は、旋転の義にて書る字ならむか、頭は頭《モトノ》句の意にいへるか、頭(ノ)句は、古へさま/”\にいへる中に、まづは上三句を、頭とすることゝきこえたれば、頭《モトノ》句を旋覆《ウチカヘ》して、一首をとヽのへたる歌の謂にていへるか、)この體なるを、濱成式に雙本歌《フタモトノウタ》と云、古今集に旋頭歌と標して、其中に、泊瀬川《ハツセガハ》古川《フルカハ》の邊《ベ》に雙本《フタモト》ある※[木+温の旁]《スギ》年を經て又も相見むふたもとあるすぎとあるは、即旋頭歌のことを、※[木+温の旁]になずらへてよめりと見ゆるに、そのときふと思ひよれるにはあらずて、もとより雙本歌《フタモトウタ》と云|名目《ナ》のありしによりて、彼序に、古をあふぎて今を戀ざらめかもといふ意を、ほのめかしおもはせていへるなり、かゝれば旋頭の字はいかにまれ、其にはかゝはらずして、フタモトノウタと唱べきことなり、猶この體の歌の委しきことは、余が永言格にいひおきつれば、さまでは筆を費ずしてとゞめつ
(18)   集中歌數
長歌二百六十二首、  十五首(一卷)十七首(二卷)二十二首(三卷)七首(四卷)十首(五卷)二十七首(六卷)六首(八卷)二十二首(九卷)三首(十卷)六十六首(十三)五首(十五)九首(十六)十四首(十七)十首(十八)二十三皆(十九)六首(二十)
短歌四千百七十三者首、  六十七首(一卷)百二十一首(二卷)二百二十五首(三卷)三百一首(四卷)百四首(五卷)百三十二首(六卷)三百二十三首(七卷)二百三十七首(八卷)百二十五首(九卷)五百三十首(十卷)四百七十三首(十一)三百八十一首(十二)六十首(十三)二百三十首(十四)二百首(十五)九十一首(十六)百二十七首(十七)九十七首(十八)百三十二首(十九)二百十八首(二十)
旋頭歌六十一首、  一首(四卷)一首(六卷)二十六首(七卷)三首(八卷)一首(九卷)四首(十卷)十七首(十一)一首(十三)三首(十五)三首(十六)一首(十七)
    件三體合四千四百九十六首
   集中年代
二卷に、難波高津宮(ニ)御宇(シ)天皇(ノ)代、(仁徳天皇なり、)皇后思2天皇1御作歌四首とあるに始りて、二十卷終に、寶字(廢帝年號なり、)三年春正月一日於2因幡國廳1賜2饗(ヲ)國郡司等1之宴歌、とあるに終れり、仁徳天皇元年より廢帝寶字三年まで、凡て四百四十六年になれり、
   本(ノ)句末(ノ)句
後(ノ)世上(ノ)句下(ノ)句といふをば、古より本(ノ)句末(ノ)句とのみいへり、八卷(五十三丁、すべて集中の他處の(19)歌等を引に、幾丁としるせるは、舊印本のまゝの丁《ヒラ》のしるしなり、さるは多く舊印本に目なれたるが故に、是を見出さむに便よからむがためぞ、本條にいたりても、みな其定に意得べし)に、尼作2頭《モトノ》句(ヲ)1并大伴宿禰家持所v誂v尼(ニ)續2末《スヱノ》句(ヲ)1等和歌とありて、佐保河之水乎塞上而上之田乎《サホガハノミヅヲセキアゲテウヱシタヲ》(尼作)苅流早飯者獨奈流倍思《カルワサイヒハヒトリナルベシ》(家持續)とある、頭(ノ)句とあるは、本(ノ)句と云に同じ、書紀景行天皇卷に、日本武尊云々、是夜以歌之問2侍者1曰、珥此麼利菟玖波塢須疑?異玖用加禰菟流《ニヒバリツクバヲスギテイクヨカネツル》云々、時有2秉燭者1續2王歌之未1而歌曰、俄餓奈倍?用珥波虚々能用比珥波苔塢伽塢《カナナベテヨニハコヽノヨヒニハトヲカヲ》、子事記清寧天皇條に、於是志毘臣歌曰、意富美夜能袁登都波多傳須美加多夫祁理《オホミヤノヲトツハタデスミカタブケリ》、如v是歌而乞2其歌末1之時、袁祁命歌曰、意富多《》久美袁遲那美許曾須美加多夫祁禮《オホタクミヲヂナミコソスミカタブケレ》、などあるも、後世下の句と云べき所をかくいへるなり、十四に、宇倍兒波和奴爾故布奈毛多刀都久能奴賀奈敝由家婆故布思可流奈母《ウベコナハワヌニコフナモタドツクノヌガナヘユケバコフシカルナモ》、とありて、左に或本(ノ)歌末(ノ)句曰、努我奈敝由家杼和奴賀由乃敝波《ヌガナヘユケドワヌガユノヘバ》、とも注せり、(同卷に安思我良能波姑禰乃夜麻爾《アシガラノハコネノヤマニ》云々とありで、左に或本歌未(ノ)句云、波布久受能比可利與利已禰思多句保那爾《ハフクズノヒカリヨリコネシタナホナホニ》、とあるは、第三句以下を未(ノ)句とし、十二に、若乃浦爾袖左倍沾而《ワカノウラニソデサヘヌレテ》云々とありて、左に或本(ノ)歌末(ノ)句云、忘可禰都母《ワスレカネツモ》とあるは第五句のみを末(ノ)句といへるなり、これらは仙覺などが校合たるときに、かりにしるせるのみにて、さらに證とするにはたらず、)後撰集六卷に、秋の頃ほひ、ある所に、女どものあまた、すのうちに侍けるに、男の歌の本をいひいれて、侍ければ、末は内より作者《ヨミビト》しらず、しら露のおくにあまたの,聲すれば花の色々ありとしらなん、伊勢物語に、かち人の、わたれどぬれぬえにしあれば、とかきて末はなし、そのさかづきのうらに、つい松のすみして、歌の本をかき(20)つぐ、又、あふさかのせきはこえなむ、枕册子に、古今の雙紙を御前におかせ給ひて、歌どもの本をおほせられて、これが末はいかにとおほせらるゝに、すべてよるひる、心にかゝりておぼゆるもあり云々、源氏物語早蕨に、はかなきことをも、本末をとりていひかはし云々などあるも、みな上(ノ)句下(ノ)句と云ことを、本末といへるなり、大和物語に、このひがきのご、歌なむよむといひて、すきものどもあつまりて、よみがたかるべき末をつけさせむとて、かくいひけり、わだつみの中にそだてるさをしかは、又同物語に、奈良帝の、いはでおもふぞいふにまされる、とのたまはせたる御歌のことを云る所に、これをなむ、世中の人本をばとかくつけたる、本はかくのみなむありける云々、なども見えたり、古事談に、秋風の吹たびごとにあなめ/\とあるを上(ノ)句といひ、小野とはいはじ薄生(ヒ)たりとあるを下(ノ)句といへり、かの頃よりや、上(ノ)句下(ノ)句といひけん、
   毎句名目
集中古注に、毎句の名目をしるせるやう、いとまぎらはし、まづ頭句といへると、發句と、いへると、差異《カハリ》なしとおぼゆ、其中に十二に、江管二毛今見牡鹿夢耳手本纏宿登見者辛苦毛《ウツヽニモイマモミテシカイメノミニタモトマキヌトミレバクルシモ》、とありて、左に或本(ノ)歌發句(ニ)云、吾林兒乎《ワギモコヲ》と注せる、これは第一句をさして發句といへるなり、一卷に、吾欲之野島波見世追底深伎阿胡觀根能浦乃珠曾不拾《アガホリシヌシマハミセツソコフカキアコネノウラノタマソヒリハヌ》、とありて、左に、或頭(ニ)云、吾飲子島羽見遠《アガホリシコシマハミシヲ》と注し、三卷に、今日可聞明日香河乃夕不離川津鳴瀬之清有良武《ケフモカモアスカノカハノユフサラズカハヅナクセノサヤケカルラム》、とありて、或本歌發句云、明日香川今毛可毛等奈《アスカガハイマモカモトナ》と注し、十二に、人見而言害目不爲夢谷不止見與我戀將息《ヒトノミテコトヽガメセヌイメニダニヤマズミエコソアガコヒヤマム》とありて、左に或本歌頭(21)云、人目多直者不相《ヒトメオホミタヾニハアハズ》、と注し、十四に、比呂波之乎宇馬古思我禰?已許呂能未伊母我理夜里?和波己許爾思天《ヒロハシヲウマコシカネテコヽロノミイモガリヤリテワハコニヽシテ》、とありて、左に或本歌發旬(ニ)曰|乎波夜之爾古麻乎波左佐氣《ヲハヤシニコマヲハサヽケ》、と注せる類は、第一二句をさして、頭句とも發句ともいへるなり、十三長歌に、見渡爾妹等者立志是方爾吾者立而思虚不安國嘆處不安國左丹漆之小舟毛鴨玉纏之小※[楫+戈]毛鴨※[手偏+旁]渡乍毛相語妻遠《ミワタシニイモラハタヽシコノカタニアレハタチテオモフソラヤスカラナクニナゲクソラヤスカラナクニサニヌリノヲフネモガモタママキノヲカヂモガモコギワタリツヽモアヒカタラハマシヲ》、とありて、或本歌頭句云、己母埋久乃波都世乃加波乃乎知可多爾伊母良波多々志已乃加多爾和禮波多知?《コモリクノハツセノカハノヲチカタニイモラハタヽシコノカタニワレハタチテ》、とあるは、長歌にては中間より以上を、頭句といへりときこえたり、此等はおほくは仙覺などが、校合《カムガヘアハセ》たるときに注せるなるべぐ、又それよりやゝさきの人の、注せる所もあるべし、此集編る時に、注せるものにはあらず、さて上に引るごとく、八卷に、尼作2頭(ノ)句(ヲ)1家持續2末(ノ)句1とあるは、此集編る時にしるせるものなれば、當時《ソノカミ》は、後世にいふ上句を、頭句といひしならむ、さてその次に、十九に、白雪能布里之久山乎越由可牟君乎曾母等奈伊吉能乎爾念《シラユキノフリシクヤマヲコエユカムキミヲソモトナイキノヲニモフ》とありて、左に、左大臣換v尾云、伊伎能乎爾須流《イキノヲニスル》、然猶喩曰、如v前誦之也、とあるは、第五句のみを尾句と云るなり、十六に、橘寺之長屋爾吾率宿之童女波奈理波髪上都良武可《タチバナノテラノナガヤニアガヰネシウナヰハナリハカミアゲツラムカ》とありて、左に右(ノ)歌椎野連長年説曰、夫寺家之屋者、不v有2俗人寢處1亦※[人偏+稱の旁]若冠女曰2放髪丱1矣、然則腰(ノ)句已云2放髪丱1者、尾句不v可3重云2著冠之辭1也、改曰云々(腰字、舊本には腹と作《カケ》り、今は古寫小本拾穗本等に從つ、)とある、この長年が説には、かた/”\いかゞしきこと多けれども、長年は最後人とは思はれず、此集の當時《ソノカミ》の人にあらずとも、其世にいたく遠き頃の人にはあらじ、さてこれにも、第四句を腰(ノ)句とし、第五句を尾句といへるにて、家持卿の時おへるに異《カハ》らず、四卷に、君爾因言之繁乎古郷之明日香乃河爾潔身(22)爲爾去《キミニヨリコトノシゲキヲフルサトノアスカノカハニミソギシニユク》、とありて、左に、一尾云、龍田超三津之濱邊爾潔身四二由久《タツタコエミツノハマベニミソギシニユク》と注し、十二に、待君常庭耳居者打靡吾黒髪爾霜曾置爾家類《キミマツトニハニシヲレバウチナビクアガクロカミニシモソオキニケル》とありて、左に或本歌尾句(ニ)云、白細之吾衣手爾露曾置爾家留《シロタヘノアガコロモテニツユゾオキニケル》、と注せる類は、第三句以下をさして、尾句といへるなり、これも仙覺などが校合たるときに、注したるものと見ゆ、上に云るところを合(セ)考(フ)るに、おほかた第一二句を、頭句とも發句ともいひ、第三四五句を、尾句とむ末句とも云たるにや、(第三句以下をさして末句と云ること、上條にいへり、)おほよそ毎句の名目をしるせるやう、古よりいとまぎらはしきことなり、うるはしくは、契沖もいひしごとく、第一句を頭とし、第二句を胸とし、第三句を腹とし、第四句を腰とし、第五句を尾《シリ》といはむぞ正しかるべき、
   倭歌
歌を、うちまかせて倭歌《ヤマトウタ》といへること、此集の頃まではをさ/\なし、和歌とあるは、答歌報歌などあるに同じ、みな答ふる歌なり、(廿卷に、先太上天皇詔2陪從王臣1曰、夫諸王卿等宜d賦2和歌1而奏u、即御口號曰云々、とある和歌も答歌の謂なり、其次に舍人親王應v詔奉和御歌とあるにてもしるべし、然るを本居氏國號考に今の文を引て、倭を和(ノ)字に改めて、倭歌といふべきを、和歌と書る證にいへるは、ふと思ひ誤れるなり、)續日本後紀十九に、嘉祥二年三月庚辰、興福寺大法師等、爲v奉《マヲス》v賀《コトホギ》3天皇(ノ)寶算《ミヨ》滿2于四十1獻れる長歌をしるして、夫|倭歌之體《ヤマトウタノスガタハ》、比興(ヲ)爲v先、感2動(スルコト)人情1最《モハラ》在v茲矣、とある、これらや、倭歌とうけはりていへることの始ならむ、その後古今集の頃よりは、倭歌と云ることめづらしからぬことなり、たゞ此集五卷に、天平二年十二月、太宰帥大伴卿大納言(23)に任《メサ》れて、京へ上られむとするとき、憶良の書殿餞酒日《フミドノニテウマノハナムケセルヒノ》倭歌四首とあるのみは、この前後に、送別の詩《カラウタ》ありしならむによりて、それに對して故《コトサラ》にことわれるものなるべし、その前に、山上臣憶良悲2傷亡妻1詩并序ありて、其次に日本挽歌《ヤマトノカナシミウタ》とことわれると、同じ意旨なり、さらではたゞに歌を倭歌といへること、かの頃まではなきことなればなり、そも/\すべて倭某《ヤマトナニ》と云ことは、異國《アダシクニ》の道を學ぶをのみ、學問と意得、異國《アダシクニ》を主《アルジ》とたてゝ吾をかへりて客《ヨソビト》になして、異國のものに、かたさりたるいひざまにて、大《イタ》くひがことなるを、中古より此方、華夷の分をとりうしなひてより、さることにも心つかずして、平常《ツネ》にしかのみいふべきものゝ如《ゴト》、世人もおぼえたるこそあさましけれ、(唐衣、呉皷、高麗錦、百濟琴、新羅斧など云は、異國のものなれば、眞にさることなり、)
   東歌
東歌《アヅマウタ》とは、東國風《アヅマノクニブリノ》歌なり、阿豆麻《アヅマ》といふ名の起《ハジマ》れる由縁《ヨシ》は、古事記書紀、倭建命の御故事《ミフルゴト》に委く見えたり、さて古は東國は、人の風俗《フルマヒ》言語《コトヾヒ》よりはじめて、何事もさま異《カハ》りたりければ、殊に束某《アヅマナニ》とことわれること多し、東語、東人、東男、東女、東豎子、東屋、東琴などの類なり、十四卷は全《モハラ》東歌を載て、始に雜歌相聞など部をたて、其部内に、某國歌某國歌と、各々國を分ちて收れ、中間より再び、雜歌相聞など部をたて、其部内には、未勘國(ノ)歌を收たり、此卷なるには、すべて作者《ヨミビト》の名を出さず、其中に、たま/\柿本朝臣人麿歌集に出たる歌なるよし注せるは、もと東歌にあらざるが、まぎれて東歌に收たる謂には非ず、東歌を人の傳誦たるを聞て、彼朝臣の集に載たるなり、廿(24)卷には、大かた筑紫(ノ)諸國《クニ/”\》の防人《サキモリ》に、差遣さるゝ東人どものよめる歌を、各々東國の司《ツカサ》の、防人部領使《サキモリコトリヅカサ》なりしが、取(リ)集(メ)て、朝家《オホヤケ》に進《タテマヅ》りし歌どもなり、其には各々作者の名をあらはし、又作者知ざる防人等の歌をも、後にいさゝか出せり、さて東(ノ)國は自然《オノヅカラ》の風俗にて、其言語の異《カハ》れるにこそあれ、故《コトサラ》に設て、東風に作るには非ず、東人といへども、歌よむには、力(ラ)のかぎり雅言《ミヤビゴト》をまねびて、華人《ミヤコビト》のに似べくつとめしなり、しかまねびても、東國の風土の癖ののぞこらず、ひたすら其國の俗言のみにて、しらべとゝのへて、華人には、いかなる意とも通えがたきをば省きすてゝ、後世に傳へざりしこと、かの防人部領便の進れる歌の中に、拙く劣りたるをばすてゝ、取載ざりしよししるせるにて思ふべし、かくて數首《アマタ》の東歌の中に、まれ/\華人の作るにも、をさ/\おとらざるがあるにつきて、此集を釋者《トクヒト》の、東歌の中に、まれ/\雅歌《ミヤビウタ》のまじれるは、京人の東(ノ)國の司《ツカサ》などにて下りたるが、よめるものなるべしと云るは、甚偏なる論なり、いかにといふに、凡て古に東人の裁歌《ウタヨミ》することは、たとへて云ば、今(ノ)世に琉球人などの、歌よむごとくにぞ有けむ、さるは彼國人の、皇朝學に未熟《イマダシ》きが、ひたすら彼國語にてよみとゝのへたるは、むげにつたなくして、其意通えがたきが多かるを、そが中に皇朝學にやゝ長《タケ》たるがよめるは、皇朝人の作《ヨメ》るに、おほかたおとらざるも多きが如し、古の東人も、雅言をよく學び得たるは、よき歌をもよめりしなり、殊に廿卷、防人等の名をあらはせるが中にも、詞雅びて、たけたかく秀たるがあるをも思ふべし、されば東人にも、學《マナビ》の長《タケ》たると短《シカラザ》る、又|性《ウマレツキ》の勝れたる、劣りたる、くさ/”\ありて、一方ならざれば、必東語をもてとゝのへざれば、東歌にあらじと思ふは、あらぬことなりけり、
(25)  反歌
長歌の後に並載たるを、反歌といふことなり、さて一二卷には、反歌としるすべき所を、短歌と書るも往々あれども、その短歌も即(チ)長歌の反歌なり、三卷より以下は、題詞に短歌としるせるをも、長歌の後には、すべて反歌とのみしるせり、十七卷には、長歌の後に短歌を並載て、必反歌としるすべき所を、其字を省けるは、略てもまがふことなければなるべし、さて又十九卷に、反歌とあるべき處を、反詠と書ることあり、但し官本には反謌と作り、反詠にても同じことなり、さて此は長歌の意を總《スベ》ても、又は長歌にいひのこせることをも、短歌もて、うち反してうたふが故に、反歌とは云るなり、(中山嚴水云、古事記書紀を見るに、上(ツ)代にも歌に長短は有けれど、長歌反歌と並(ヘ)て、歌の義とせることはあらず、此集にては、初て一卷、高市岡本宮御宇天皇代の標中の歌に見えたれば、彼舒明天皇の御代の頃よりぞ始りけむ、思ふに推古天皇の御代の頃よりして、漢國の往反《ユキカヒ》いよ/\しげくなり、諸々の事、彼國の風俗をまねびうつせるより、これも彼漢國の賦てふ歌を、まねびうつされしと見えて、集中にも長歌をたゞちに賦と書る所も多く見え、十七に、大伴家持卿、同じ池主に贈り賜ひし詩の後には、既に式擬亂として、其反歌を出されしなど、いよ/\賦てふから歌を、學び移されし事しられたり、さてその賦の亂辭を、荀子には反辭とありて、反辭は其小歌也と自(ラ)注しおきぬれば、こゝの反歌の名、かの反辭に本づきて、其歌のさまも、かの意を旨として長歌の意を約めて、打返しうたふことゝはなせりと云り、此考おもしろし、○伴蒿蹊が閑田次筆と言ふものに、或人の考に、反歌は短歌といふに同じく、反(26)は短(ノ)字の義なるべし、といひしよしいひて、又加茂祐之が著せる日本逸史を見るに、延暦十五年夏四月丙寅、宴2掖庭1酒酣、上《スメラミコト》反歌曰、氣左乃阿沙氣奈呼登以非都留保登々擬須伊萬毛奈可奴伽比登能騎久倍久《ケサノアサケナクトイヒツルホトヽギスイマモナカヌカヒトノキクベク》、類聚國史遊宴御製也とあり、この前に長歌なければ、カヘシウタとはいはれず、ミジカウタとよむべし、これにて、他の例引書にも及ばずといへど、右の處を類聚國史、并《マタ》流布《ヨニオコナハルヽ》本の日本後紀にも、上乃歌曰云々とあり、必然なくては文格もとゝのはず、もし反歌ならば、作2反歌1曰などゝこそあるべけれ、かつは他の例にもたがへるをや、諸々の國史のうち、短歌を多く載たれども、反歌といふ名見えたることなし、其は長歌に並載たるときの名にかぎれるがゆゑなり、又近頃度會弘訓が、海士のしわざと云ものに、これも反歌短歌を、同義とする説をうべなひて、集中の反歌の字は、カヘシウタと訓ては、和歌《コタヘ》にもまぎらはしければ、ミジカウタと訓むかた穩なるべし、と云るも論ふに足ず、今世にこそカヘシウタとよみては、答(ヘ)歌にまぎるゝこともあるなれ、古(ヘ)報贈《コタフ》る歌を、かへしうたといひし例なければ、和歌に混ふべき謂なし、古今集眞字序に、逮3于素盞嗚尊到2出雲國1、始有2三十一字之詠1、今反歌之作也、とあるを引て、反歌は即短歌なる證とすべしといへれど、彼序は長歌につきたる反歌の體作といへる義か、又はすべで短歌を、反歌ともいふことゝ心得たるか、かにかくに證と信《タノ》むに足ざるものなるをや、然るを祐之は、類聚國史の誤字本に据て、逸史に取載しものなり、然る所由をも知(ラ)で、唯一(ト)偏《ムキ》にのみ就て、かゝる謾言いふは、あまりにかたはらいたきわざなりかし、又古事記下卷仁徳天皇條に、志都歌之返歌《シヅウタノカヘシウタ》、神樂譜に、此歌爲2御前(ノ)返歌1、江次第石清水臨時祭儀に、舞人出畢、陪從|返(27)歌《カヘシウタシテ》退出などあるは、歌ふ調の事にて、其は別のことなり、まどふべからず、)
  詩 詩詠 賦 詠 絶
五卷遊2於松浦河贈答歌八首の中に、因贈2詠歌1曰云々、答詩曰云々、(これ漁女の報答なり、詩(ノ)字、舊本に待と作るは誤なること著し、類聚抄古寫一本等に詩とあるぞよき、又古寫本には謌、古寫小本拾穗本等に歌とあるに從(ヘ)ば、こともなけれども、他にも詩といへることあれば、なほ詩ならむ、)とありて、その八首の次に、後人追和之詩三首、(都帥老)云々、(この詩(ノ)字も、古寫小本古寫一本拾穗本等には歌、官本には謌と作(ケ)り)、又同卷帥大伴卿、梧桐(ノ)日本琴《ヤマトコトヲ》贈2中衛大將《ナカノマモリノツカサノカミ》藤原卿1歌二首の中に、僕報2詩詠1曰云々、(この詩も一本には歌、古寫小本拾穗本等には歌と作り、)などある詩、また詩詠は、たゞ歌のことなり、(からうたにはあらず、)十七卷に、二上山賦一首、又遊2覽布勢水海1賦一首、又敬和d遊2覽布勢水海1賦一首、又立山賦一首、又敬和2立山賦1一首などある賦は、長歌のことなり、十六卷に、乞食者詠とあるは、長歌なれど、詠はたゞ歌と云に同じかるべし、短歌を短詠とも書、反歌を反詠とも書る處あるを思ふべし、十七卷に敬和1v遊2覽布勢水海1賦u一首并一絶、又敬和2立山賦1一首并二絶、又入v京漸近悲情難v撥述v懷一首并一絶、又云々聊奉2所心1一首并二絶、などある一絶二絶は、短歌一首短歌二首と書るに同じ、十八卷に、云々仍作v雲歌一首并短歌一絶、とあるも同じこゝろばえなり、これらみな寧樂人の癖として、漢國の文章風にまねて、故《コトサラ》に書るものなり、
   古點 次點 新點
(28)一に古點といひしは、村上天皇天暦年中に、廣幡の女御のすゝめ申させ給ひけるによりて、梨壺五人(源順、大中臣能宣、清原元輔、坂上望城、紀時文)に詔し給ひて、梨壺(昭陽舍)に於て、萬葉集に訓點を加へしめ給ふこれなり、(この事十訓抄に見えたり、源順家集に、天暦五年宣旨ありて、初てやまと歌撰ぶ所を、梨壺におかせ給ひ、古萬葉よみとき撰はしめ給ふなり、召をかうふるは、河内掾清原元輔、近江掾紀時文、讃岐掾大中臣能宣、學生源順、御書所預坂上望城なり云々、そもそも順、梨壺には、奈良の都の古歌讀とき撰び奉りし時には云々、舊本廿卷、仙覺が奧書に、天暦御宇、源順等奉v勅初奉v和之剋、定於2漢字之傍1付2進假名1歟、仍慕2往昔之本1、故先度愚本、於2漢字之右1付2假名1畢、とあり、又仙覺が萬葉抄に、天暦五年十月晦日、梨壺の五人に勅して、萬葉集の歌に點を付しむ、しかるに、一卷なる白浪乃浜松之枝乃手向草幾代左右二賀年乃經去良武と云歌の、第四句にいたりて、訓むやうをしらず、これによりて、源順、石山に參籠して、いかで訓むやうをさとしたまはれ、と觀音にねむごろに祈請《イノリマヲ》しけるに、七日七夜を經ても、その示現《サトシ》なかりければ、力おとして、今は京宅に歸らむと思ひて、その夜大津の邊に旅宿す、曉にいたりて、隣の家の旅人の出たつを見れば、其旅人の主とおぼしきもの、馬荷を付るに、一《ヒトリ》の卑夫《シモベ》ありて、片手にてこれを抑ふるに、その主の云けるは、まてをもて抑ふべしといひけるに、源順心づきて、この句をイクヨマテニカと訓るよし、古老の物がたりにきけり、となむしるせる、これはあまりしき物がたりにてはあれども、其頃此集、なべて世に埋れたりしかば、さしも名を得し源順のぬしすら、いたく訓うむじたるさま、おもひやられたり、)二(ツ)に次點といひしは、大江佐國、藤原孝言、大(29)江匡房、源國信、源師頼、藤原基俊、各訓點を加へられしこれなり、(くはしく詞林采葉に見えたり、舊本廿卷、仙覺が奧書に、以2孝言朝臣本1校畢とあるは、この次點の本なるべし、)三(ツ)に新點といひしは、仙覺が訓點を加へしこれなり、(即今世に流布《ホドコ》れる印本これなり。舊本一卷仙覺が奧書に、去今兩年二箇度書寫本者、不v論2古點新點1、取2捨其正誤1、於2漢字右1一筋所2點下1也、其内古次兩點詞者、撰2其秀逸1同以v墨點之、次雖v有2古次兩點1、而爲2心詞參差1句者、以2紺青1點之、所謂不v勘2古語1之點、并手爾乎波之字相違等、皆以2紺青1令2點直1之也、是則先顯v有2古次兩點1、且示3編非2新點1也、次新點謌并訓中補闕之句、又雖v爲2一字1、而漏2古點1之字、以v朱點之、偏是爲2自身所1v見點之、爲2他人所1v用不v點之而已、とあり、)已上三等の訓點は、みな字の右傍に付たるなるべし、舊本廿卷奧書に云々、其後聞2古老傳説1云、天暦御宇、源順奉勅宣1、令v付2假名於漢字之傍1畢云々とあり、其外はおほくは本文一首を右に書て、其左に假名をならべ書たりしとおぼえて、舊本一卷奧書に、今此萬葉集假名、他本皆漢字歌一首書畢、假名歌更書之常儀也といひ、又藤原重家卿自筆本奧書を引て、件本以2二條院御本1書寫本也、他本假名別書之、而起v自2叡慮1、被v付2假名於眞名1、珍重々々、可2秘藏1可2秘藏1、とも見えて、たま/\重家卿本に、字の右側に訓點を付たるを、いたく賞たり、又官本奧書に、抑々萬葉集、和字出來之後者、漢字歌一首書了、又更書2假名歌1事常習也、是者不v知2漢字1男女等、爲v令2見安1歟、今慕2往昔之本1、故一向(ニ)以2漢字1書寫之、而後漢字之傍點2付其和1耳也、又有2多徳1故也云々とも記し、又舊本奧書に、法成寺入道殿下、爲v令v獻2上東門院1、仰2藤原家經朝臣1、被v書2寫萬葉集1之時、假名歌別令v書之畢とも、道風手跡本假名歌別(ニ)書之、とも見えて、彼頃もはらせしことゝおぼゆ、しかれども、漢(30)字の右傍に、假字にて訓點を付たるは、和漢相並べて見合するに、煩なきを、漢字と假名とを別ち書するときは、短歌すらあるに、况て長歌には、いよ/\校勘《カムカフ》るに煩多しとて、くさ/”\其勝劣あることを仙覺論へり、まことにしかることなり、(近き世に加藤千蔭が略解に、漢字歌一首書畢、假名歌更書之、とあるに本づきて、今も古きによれりとて、本文を書をへて、字の左に平假字にて書たれど、まことに煩はしくてわろし、又しか書るを、ひとへに古きことゝはいひがたし、かの源順の古點といひしものも、傍訓なるをや、かの往昔(ノ)本の傍訓の便なるを賞て、先度愚本於2漢字之右1付2假字1畢云々、と仙覺云り、即今の印本これなり、かの道風手跡本も、古點よりは後に出來しとこをおぼえたれ、其故は、萬葉集に訓點を付しことは、源順等に始れるよし、かたがたに見えたること、前に云るごとくなればなり、上東門院にまゐらせられし本などは、又後なることさらなり。
   諸本
二條院御本○平三品(經盛)本 經盛は、平忠盛の子、修理大夫正三位と見えたり、高倉天皇承安元年六月十五日、平經盛卿本をもて、藤原重家卿手づから寫されたる由、件の經盛卿本は、もと二條院の御本をもて寫されたるとぞ、かの二條院御本は、清輔朝臣の點せるよし、重家卿手筆本の奧書に見えたる趣、下に云る如し、○讃州本○江家本○梁園御本○孝言朝臣本 肥後大進忠兼が本は、讃州本を以て寫し、江家本、梁園御本、孝言朝臣本を校合せたる趣、件本表紙にしるせしよし見えて、下に云り、○左金吾本○中務大輔本○宇治殿御本○通俊本 舊本廿卷奧(31)書に校本を引て、その本は左金吾本を以て寫し、數本又中務大輔本をもて校、さて又件本の表紙に、宇治殿御本道俊本をもて校たる由見えて、下に云り、○源親行本 舊本一卷奧書に、此本者、正二位前大納言征夷大將軍藤原卿、始v自2寛元々年初秋之頃1仰2付李部大夫源親行1、※[手偏+交]2調萬葉集一部1爲2令v書本1、以2三箇證本1令v比2校親行本1了とあり、親行は正五位下右馬允源光遠の孫、正五位下民部丞先行の子なり、藤原卿は、鎌倉四代頼經卿にて、後京極攝政良經公の孫、光明峯寺攝政道家公の四男なり、○松殿御本 同奧書に、寛元四年正月、仙覺又請2取親行本并三箇本1重校合畢、三箇證本者、松殿入道殿下御本、(帥中納言伊房卿手跡也、)光明峯寺入道前攝政左大臣家御本、鎌倉右大臣家御本也云々、弘長元年夏頃、又以2松殿御本并兩本1遂2再校1、糺2文理訛謬1畢とあり、松殿は、攝政關白太政大臣基房公にて、知足院攝政忠實公の孫、法性寺攝政忠道公の二男なり、伊房は、權大納言行成卿の孫、參議兵部卿行經卿の子なり、○光明峯寺殿御本 前に引り、光明峯寺殿は、攝政關白太政大臣兼實公の孫、道家公の子なり、○鎌倉右大臣家本 前に引り、右大臣は實朝公なり、按に、建保元年十一月藤原定家秘本の萬葉集を、實朝卿に贈られたるよし、東鑑に見えたり、其本にや、○治定本 同奧書に、寛元四年十二月二十二日、於2相州比企谷新釋迦堂僧坊1、以2治定本1書寫畢、とあり、○眞觀本 同奧書に、弘長元年夏頃、又以2松殿御本并兩本1、(尚書禅門眞觀本、基長中納言本也、)、遂2再校1糺2文理訛謬1畢云々、舊本廿卷奧書に、尚書禅門眞觀本(元家隆卿本也)とあり、眞觀は、葉室大納言藤原光頼卿より四世、右大辨右衛門佐正四位下光俊、出家して眞觀と云り、○基長本 前に引り、基長は、正二位堀河右大臣頼宗公の孫、正二位内大臣能(32)長公の子なり、○六條家本 同奧書に、弘長二年正月以2六條家本1比校畢、此本異v他、其徳甚多、珍重々々、○重家本 同奧書に、彼本(從三位行備中權守藤原重家卿自筆本、)奧書云、承安元年六月十五日、以2平三品(經盛)本1手自書寫畢、件本以2二條院御本1書寫本也、他本假名別書v之、而起v自2叡慮1、被v付2假名於眞名1、珍重々々、可2秘藏1々2々々1、彼御本清輔朝臣點之云々、舊本廿卷奧書に、弘長二年初春之頃、以2太宰大貳重家卿自筆本1令2校合1云々などあり、重家は修理大夫顯李の孫、左京大夫顯輔の子、清輔の弟なり、○忠定卿本 舊本一卷奧書に、弘長三年十一月、又以2忠定卿本1比校畢、凡此集既以2十本1遂2校合1畢、とあり、忠定卿は傳未詳ならず、或説に、中山忠親の孫、大納言兼宗の男なりといへり、猶考(フ)べし、十本は、親行本より忠定卿まで十箇本をさせり、二條院御本より通俊本までの數本は、仙覺も親校たる趣にあらざれば、十本の内には非ず、○左京兆本 同奧書に、又文永二年閏四月之頃、以左京兆本1(伊房卿手跡也)令2比校1畢、而後同年五六兩月之間、終2書寫之功1、初秋一月之内令2校點1之畢、となり、左京兆は傳未詳ならず、○忠兼本 舊本廿卷奧書に、斯本者肥後大進忠兼之書也、件本表紙書云、以2讃州本1書寫畢、以2江家本1校畢、又以2梁園御本1校畢、又以2孝言朝臣本1校畢者、可v謂2證本1者歟、といへり、○校本 同奧書に、又校本云、以2前左金吾本1書寫畢、保安二年七月、以2數本1比校畢、又以2中務大輔本1校畢、件本表紙書云、以2宇治殿御本通俊本1校畢者、とあり、宇治殿は、法成寺道長公の子、攝政關白太政大臣准三后頼通公なり、○法性寺殿御自筆御本 同奧書に、次歌詞高下不v同者、如2光明峯寺入道前攝政家御本、鎌倉右大臣家本、忠兼本1者、歌高詞下、先度愚本移之畢、法性寺殿御自筆御本又同之也、とあり、法性寺殿は、關白内大臣師(33)通公の孫、攝政關白太政大臣准三后忠實公の子、攝政關白太政大臣忠通公なり、○道風手跡本 同奧書に、道風行成等手跡本、同以詞擧(ケ)歌|下(ケタリ)、仍去今兩年二箇度、書寫本移之畢、とあり、又下に然而道風手跡本假名歌別書之、とも見ゆ、○行成自筆本 前に引る如し、按に年歴はしらず、伊勢國なる商人の家に、萬葉集の古き寫本もたりしとぞ其(レ)に行成卿の自筆も交りたるよし、其後同國富山喜左街門傳へ得たりしを、又後に攝津國神戸なる、田原屋某と云もの傳へたるよし、田原屋は富山がうまれし家の兄弟なりとぞ、但し闕本なるか、そのかたへは、熊本侯の臣、淺山斎宮助京都なるがもとにありといへり、此(レ)かの行成卿自筆本と云ものゝ片はしなどにもやあらむ、上(ノ)件、左京兆本より行成自筆本まで六箇本は、仙覺が彼十箇本を、比校たる後に、見たるなどにやあらむ、○月輪殿御本 官本奧書に、三箇本者松殿入道殿下御本、藁穗包紙、紫表紙、黒木軸、後御本不慮之外、備後守三善康時被v給云々、鎌倉右大臣家本、厚樣表紙、赤太軸、貝(ノ)尾長鳥(ノ)丸、月輪入道殿下御本、(青羅表紙草子十帖、)一帖複二卷とあり、○擇然本 同奧書に、上文につゞきて、又以2擇然上人本1校之、而依2自本1直2付損字1、書2入落字1了、とあり、以上數十本はいと古き本《マキ》どもにして、後世に傳はりたることを聞及ばず、今此注釋の中に校合(セ)たる本どもに、○官本としるせるは、もと官庫の御本を以て、八條智仁親王校合したまひ、朱を寫し、奧書を加へたまふ本なり、これより下、六條本といふまで水戸侯の校たまへる八通異本の内なり、千賀眞恒が校合(セ)たる本、契冲が代匠紀に 校合(セ)たる、其他から/\に校へ傳へたるに今はよれり、○幽齋本としるせるは、幽齋玄旨法印 所藏《モタ》りし本のよしなり、○中御門本とし(34)るせるは、宣胤卿自筆の本を以寫したまへるよしなり、○阿野本としるせるは、阿野季信卿より傳はれる本なりとあり、○紀州本としるせるは、紀伊大納言光友卿|所藏《モタマヘ》る本なりとあり、○飛鳥井本としるせるは、飛鳥井雅親卿奧書を加へられし本なりとあり、○六條本としるせるは、六條有親卿の所持《モタマヘ》る奧書ありし古本なりといへり、已上、官本より六條本まで七箇本に、舊印本を加へて、八通異本といへり、此六條本とあるは、かの弘長二年に仙覺が比校たりしよしいへる、六條家本といへるものと同流か、重て尋ぬべし、○元暦本としるせるは、後鳥羽天皇元暦元年六月九日、右近權少將なる人の校合たるよし、奧書せる寫本なるを、伊勢國人なるがもてるよし、其(レ)を今はかた/”\に校へて傳へたり、○類聚抄としるせるは、古葉略類聚抄と題《シル》せるを、後深草天皇、建長年中に春日(ノ)若宮の神主の先祖、祐茂と云人の書寫したるよし奧書したるを、天明元年、難波なる木村孔恭が寫(シ)得たるを、今はこゝかしこに傳(ヘ)寫たり、○古葉略要と擧たるは、羽倉東麻呂翁の僻案抄に、春日若宮神主大中臣祐宗、物學に來て、彼家に傳へし古葉略要集を持來て見せし時、此集の文字のたがひども、校合せしよしありて、後に岡部氏が萬葉考には、此東麻呂の本もて、異同をしるしたるものとぞ、これはかの類聚抄と同じきか異なるか、其詳なることを知ず、今引ところはもはら岡部氏萬葉考によりつ、○道晃親王御本としるせるは、聖護院宮照高院道晃親王の御本を、風早公長卿の寫したまひしを、柏村直條と云者、公長卿に乞て得たりしを、直條が子眞直と云ものゝこへるまゝに、風早三位實積卿、延享元年十月に奧書を加へられしを、近き頃本國の※[翳ノ羽が巫]人《クスシ》葛西某と云ものが、得てもたる本なり、○正安本と(35)シルセルハ、後伏見天皇正安三年、治部丞頼直と云人、鎌倉に於て書寫校合せるよし奧書したる寫本なり、○拾穗本としるせるは、北村季吟が拾穗抄の本なり、○活本としるせるは、今世に傳はりたる活字本なり、○水戸本としるせるは、水戸侯だ|藏《モタマヘル》本にて、千賀眞恒が校合(セ)たる本と、契冲が代匠記とに校合たるとによれり、○大須本としるせるは、後醍醐天皇正中二年に、藤大納言爲世卿本を以て書寫せるよし、奧書せる本なり、○古寫小本としるせるは、本國高岡都人吉川文水と云が家に藏《モタリ》し本にて、やゝ古き時に寫せるものと見えたり、拾穗本に似て、又異なる所多し、一流の本と見ゆ、○中院家本としるすは、加藤千蔭が略解に引るをとりつ、○一本としるせるは、千賀眞恒が校本に引るをとりつ、○校異本と云は、近き世に椅本肥後守橘經亮と吉田社公文所藤原以文とが校たる本なり、其中に、古寫本二條院御本中院本などは、全書名を擧(ケ)、また略きて飛としるしたるは、飛鳥井家本なるべし、阿としるしたるは阿野家本なるべし、紀としるしたるは、紀州本なるべし、林としるしたるは、林氏本か、菅としるしたるは菅家本か、なほ尋ぬべし、○右の餘、人麿勘文、清輔朝臣袋草子、顯昭袖中抄、一條禅閤歌林良材集、頓阿井蛙抄、紀氏古今六帖、古來風體抄の類に出せるもの、資とすべきものはみな合せ校つ、
   古萬葉集
此集を、中音の書どもに、古萬葉集と記せること多し、源氏物語梅枝卷に、嵯峨の帝の古萬葉集をえらぴかゝせ給へる四卷《ヨマキ》、枕册子に、集は古萬葉集古今後撰など見え、清輔(ノ)袋册子に、此集末代之人稱2古萬葉集1、源(ノ)順集にも、古萬葉の中にと云こと見えたり、明衡(ノ)新猿樂記に、古萬葉集、(36)新萬葉集、古今後撰拾遺抄、諸家集等、盡以見了云々、これ菅原大臣の新撰萬葉集を撰ばせ給ひしより、共に世王行はるゝ故に、それに分ちていふ稱なり、(たゞ古代の集なるが故に、いへるにはあらず、)
   引用書目
古事紀 日本書紀 古歌集 柿本人麻呂集 笠(ノ)金村集 高橋蟲麻呂集 田邊麻呂集 山上憶良類聚歌林 以上八部の書は、此集編るとき家持卿などの、引用られしものとおぼゆ、中には此集より後の人の、書加へしとおぼゆる處もあり、此餘に或本(ニ)曰、一書(ニ)曰、などあるは、おほくはかの仙覺などが諸本を校しとき、書注したるものと見ゆ、さて世に人麻呂集とて、平假名にかける集あるは、此集より遙に後に作れるものにして、古のに非ず、かくてかの人麻呂集といへるもの、みづからの歌のみにあらず、ひろく諸人のをも、聞にしたがひ見るにつけて、集め載たれたるなり、されば人麻呂集に出たりとて、彼朝臣の歌にあらざるが多きこと、其證かたがたに見えたり、笠(ノ)金村、高橋(ノ)蟲麻呂、田邊(ノ)福麻呂などの集、みな此(レ)に准へて知べし、
   題詞讀法
此集の題詞《ハシヅクリ》に、御宇とあるをば、アメノシタシロシメシヽと訓(ミ)、天皇とあるをば、いつもスメラミコトと訓申すことの類は、大かた此集讀者も、然意得てたがふことなきを、なべての漢字の讀ぎまあしくして、あさましきこと多し、但し此集は、歌詞を主とせる書なれば、題詞はいかにまれ、其意だに通《キコ》ゆれば、さてあるべきことにしあれば、大かた音讀にしても、事は闕まじきに(37)似たれども、讀《フミ》書《ヨム》ことの古法なれば、古言のまゝに、よまるゝかぎりは訓べきことなり、中にも官位の稱、氏姓の號の類は、さらにもいはず、いづれもみな、當時の人の讀しやうを、考へたづねて物すべきことにぞありける、
卷第一卷第二とあるをば、ヒトマキニアタルマキ、フタマキニアタルマキ、卷第十はトマキニアタルマキ、卷第十一はトヲマリヒトマキニアタルマキと訓べきことなり、(これも直《タヽ》に卷(ノ)第一卷(ノ)第二と音讀にするときはこともなけれども、古法にならひて、うるはしくよむには、さはいひがたきことなり、又ヒトツノマキ、フタツノマキなどやうにいはむは、ことのさまたがふことなり、同じことながら一の卷二の卷といはむは、ことのさまたがふことなきゆゑ、今少しまされることなり、第一皇子、第二皇子などをも、ヒトハシラニアタリタマフミコ、フタハシラニアタリタマフミコと訓申し、後には直に一《イチ》の宮|二《ニ》の宮など申すも、ことのさまたがはぬことなるを、ヒトツノ宮、フタツノ宮などは申すまじきを考(ヘ)合(ス)べし、しかるを本居氏(ノ)古事記傳卷首に、卷第一をヒトマキニアタルマキと訓むは、御國の物言ざまにうとしといへれどいかゞ)元年は、ハジメノトシ、、二年三年はフタトセトイフトシ、ミトセトイフトシと訓べし、四年以下は、此定に准へて知べし、(本居氏(ノ)玉霰(ニ)云、今の人、文のしりに、其時の年號をしるして、元年をはじめのとしとかくはこともなし、二年三年などを、ふたつのとし、みつのとしなどかくことは、中昔の文にも例はあれど、皇國の物いひざまにあらず、ひがことなり、さやうにいひては、年の二(ツ)三(ツ)あることになるなり、たとへば、二(ツ)の目五(ツ)の指といへば、目二(ツ)指五(ツ)のことにあらずや、又寛政(38)の三(ツ)のとしといへば、寛政といふ人の、三歳の時とも聞ゆるをや、されば二年三年など、みなふたとせと云とし、みとせといふとしとやうにかくべし、もし又むかしのことならば、いつのふたとせといひし年、みとせと云しとしなど書べし、かゝるぞ御國のものいひなる、とある如し、)十一年廿一年などはトヽセマリヒトヽセト云トシ、ハタトセマリヒトヽセト云トシと訓べし、餘はみなこれに傚ふべし、但しこれらはトヲマリヒトヽセト云トシ、ハタチマリヒトヽセト云トシとやうにいひてもよろしけれども、古今集序にも、みそぢあまりひともじとは云ずして、みそもじあまりひともじとあるに准ふときは、なほトヽセマリ、ハタトセマリとぞ云べき、マリは餘《アマリ》なり、續後紀十五卷、尾張連濱主歌に、那々都義乃美與爾萬和倍留毛々知萬利止遠乃於支奈能萬飛多天萬川流《ナヽツギノミヨニマワヘルモヽチマリトヲノオキナノマヒタテマツル》とありて、古語には、餘《アマり》を上より連ね言ときは、萬利《マリ》と云り、常陸國風土記に、茨城郡東十里桑原岳、昔倭武天皇停2留岳上1、進2奉御膳1時、令3水部(ニ)新堀2清井1、出泉淨香、飲喫尤好、勅2云《ノリタマヒキ》能停水哉《ヨクタマレルミヅカモト》1、由是《カレ》里(ノ)名(ヲ)今謂2田餘《タマリト》1、これも餘をマリと云に借用たり、(但し近き頃の人の文などに、時代のわきまへなくして、中昔のさまなる文にも、とをまりはたちまりなどやうにかくは、心づきなきことなり、古今集序にも、みそもじあまり、もゝとせあまりなどあれば、文の體によりては、なほあまりと云ぞよろしき、ひとへにあを省きて、まりと云べきことゝ意得ては、たがふことあり、佛足石碑御歌にも、彌蘇知阿麻利布多都乃加多知《ミソチアマリフタツノカタチ》云々と見えたれば、阿麻利《アマリ》とふるく云ることもあるをや、此はことのついでにおどろかしおくなり、)○正月は、いづくにてもムツキと訓べし、言(ノ)義は身月《ムツキ》なり、身《ミ》を牟《ム》と云は、(身根《ムネ》身實《ムサネ》などいひ、武藏をも古書(39)どなに身刺《ムサシ》とあり、これは五十音の第二位を連(ネ)言(フ)とき、第三位に轉す格にて、月《ツキ》をツクヨ、神をカムサビなどいふに全同じ、)舍屋の中に主とある處を身屋《ムヤ》と云が如し、(これを後には訛りて母屋《モヤ》とも云るに就て、表屋《オモヤ》の略言ぞと思ふはあらぬことなり、古くは身屋《ムヤ》とのみ云り、)かくて正月は、十有二月の中の本元《モトヰ》なれば、身月とはいふなり、人にとりて云ば、身ありて後に言も葉もあるが如し、(木草の實と云も同じこゝろなり、然るを古より此意を得たる人なくして、睦月の意なりなど云は、さらにいふに足ず、岡部氏が、本つ月の約なりと云るもあらぬことなり、凡て月々の名の義、昔來説々あれど、大かたあたらぬことなり、)二月はキサラキと訓(ム)、言義は未考(ヘ)得ず、(古來説ありといへどもあたらず、岡部氏が草木張《クサキハリ》月の約れるなりと云るは、いとわづらはし、谷川氏が氣更來《キサラギ》なりといへるもいかゞ、)三月はヤヨヒと訓(ム)、言(ノ)義は草木彌生《クサキヤオヒ》の意なりと昔來いへり、(オ〔右○〕とヨ〔右○〕と韻通へり、)これはさもあらむ、四月はウツキと訓、ツは清て唱べし、すべて月々の名の中、今世にも、正月《ムツキ》五月《サツキ》八月《ハツキ》十一月《シモツキ》はツを清て唱ふれども、四月《ウツキ》六月《ミナツキ》七月《フミツキ》九月《ナガツキ》十月《カミナツキ》は、ツを濁(リ)て唱ふることなれど、此等は假字書も見えざれば、しばらく清て唱べし、正月《ムツキ》五月《サツキ》は、五(ノ)卷に武都紀《ムツキ》、十七(ノ)卷に佐都奇《サツキ》と見えたり、言(ノ)義は未考得ず、(谷川氏が種月《ウヽツキ》なりといへるはいかゞ、)五月はサツキと訓(ム)、言(ノ)義は本居氏云、佐《サ》とは田植る農業を凡て、佐《サ》と云(ヘ)ば、田植る月といふ意なりといへり、(早苗月《サナヘツキ》なりと云は論に足ず、いはゆるさなへのさも五月《サツキ》のさに同じ、うるはしくは五月苗《サナヘ》と書べし、早(ノ)字の意にはあらず、)六月はミナツキと訓(ム)、言(ノ)義は未考得ず、(岡部氏が雷鳴月《カミナリツキ》なりといへるはわろし、谷川氏が水月《ミナツキ》也、言(ハ)田皆引2苗代水1也、といへるもいかゞ、)七月は(40)フミツキと訓(ム)、言(ノ)義は岡部氏が、穗含月《ホフヽミツキ》の約れるなりといへり、これはさることもあらむ、八月はハツキと訓(ム)、言(ノ)義は穗垂月《ホタリツキ》なるべし、ホタはハと切れり、リは活用く言にて、省きて云例多し、穂垂《ほたり》は稻穗の靡《シナ》ひ垂《タル》る意なり、新撰萬葉に、幾之間丹秋穂垂濫草砥見芝程幾裳未歴無國《イツノマニアキホタルラムクサトミシホトイクバクモイマダヘナクニ》とあり、(岡部氏が穗發月《ホハリツキ》なりといへるは、今少しいかゞ、)九月はナガツキと訓(ム)、言(ノ)義は熟饒月《ニギツキ》なるべし、ニギとナガとは音親く通へり、凡て饒《ニギ》は那藝《ナギ》那胡《ナゴ》爾胡《ニゴ》などゝ通はし云て、本同言なり、(又キとカは常通へり、)さてこれに兩説あるべし、まづ一(ツ)には、この月はなべて稻穗の登熟《ミノリニギ》ふれば、其意にて云なるべし、稻穗の熟《ウル》を爾藝《ニギ》と云は、かしこけれども番能爾々藝《ホノニヽギノ》尊と申す御名も、穗之丹熟《ホノニニギ》てふ義にて、稻によりたるものなるべきを思ふべし、(これに依ば丹熟《ニニギ》月にてもあるべし、ニヽの切ニとなれり、)又熟田津《ニギダツ》と云も、もと穗の熟《ニギ》ふる田の謂の地名なるべし、二(ツ)には此(ノ)月はもはら、熟稻を刈收(レ)て、天下の人民ゆたに飽《タラ》ひて、相饒《アヒニギハ》ふ謂にもあるべし、崇神天皇紀に、五穀既成百姓饒之《タナツモノスデニナリテオホミタカラニギハヒヌ》、字鏡に※[人偏+如](ハ)豐也饒也爾支波々志《ニギハヽシ》と見えたるをも思ふべし、(夜長月といふ説は云に足ず、拾遺集に、夜を長月といふにやあるらむとよめるは、たゞ時の興にて云るのみにこそあれ、又岡部氏が稻刈月なりといひ、本居氏の稻熟《イナアカリ》月なるべしと云るも、みなわろし、)十月はカミナツキと訓(ム)、言(ノ)義は、大神景井が釀成月《カミナシツキ》の義なるべし、九月に稻を刈收て、此月にさかりに酒を釀(ミ)成(ス)故に云なるべし、十六卷に味飯《ウマイヒ》を水に釀成《カミナシ》吾(カ)待しといへりと云り、(谷川氏は神甞月《カミナベツキ》なりと云れどもいかゞ、)十一月はシモツキと訓(ム)、言(ノ)義は凋月《シボミツキ》の意なるべし、(ホの濁音モと通ふこと常なり、)そは木草の凋枯《シボミカル》る月なれば、しかいふなるべし、冬草などにしもかるゝと常によむ(41)も、霜に枯る意にあらで、凋枯る義なるべし、もし霜に枯る謂ならば、霜にとにの言なくては足はぬこゝちす、十二月はシハスと訓(ム)、言(ノ)義は未考(ヘ)得ず、古事記傳明(ノ)宮段上卷に、志波邇《シハニ》は、底なる土と云ことにて、志波《シハ》とは、物の終を云と聞えたり、年の終の月を志波須《シハス》と云て、極月と書(ク)これ其例なり、萬葉十一に、師齒迫山責而雖問汝名者不告《シハセヤマセメテトフトモナガナハノラジ》と云るも、志波世《シハセ》を、究極終《キハメヲ》へて責る意に取て、責《セメテ》の序とはせりと聞ゆ、といへり、まことに志波は極の意なるべし、須の言はいかゞあらむ、なほ考(フ)べし(年《トシ》極《ハツ》の意といふはあたらず、凡て上(ノ)件月々の名の謂《ヨシ》ども、昔の人もさだせる中に、ムツキを睦月《ムツマシツキ》の意とし、シハスを師走《シハス》の義なりなどゝいへるは、ことにをさなき考どもにして、更に辨ふるにも足ぬことゞもなるを、近世になりて、古學みさかりに行はれてより、岡部氏が語意考、谷川氏が書紀通證などに、この月々の名の謂《ヨシ》ども、種々《クサ/”\》に考へ説《イヘ》るは、そのをちつかたの説《コト》どもにくらべては、こよなくすぐれて、古の意に協へること多かれども、それはたなほいかゞしきこと多し、一(ツ)二(ツ)いはば、ナガツキを稻刈《イナカリ》月の意とするは、稻の上略、シハスを年《トシ》極《ハツ》の意とするは、年の上略とせる類なれど、稻のイ年のトの言などは、もとより主《アルジ》とある言なれば略きていふべき謂なし、たとへば成《ナシ》のシ垂《タリ》のリの言などは、サシスセラリルレなどやうに活用く言にて、伴《カタヘ》なれば省きて云も例多きことなり、このわきだめを定めおきて、さてのちに考ふべきことなるに、近き頃の古學の徒も、なほこの處までわきまへたる人なくして、みだりに略言のさだもて、古語を解むとする故に、大《イタ》くたがへること多し、もしこの規《サダメ》もなく、私に思ふまゝに略きもし、轉《ウツ》し通(ハ)しなどもしつゝもて行ば、はて/\はいづれの言か、原は同言となら(42)ざるべき、すべて言語の省畧轉通伸縮のうへには、くさ/”\の軌則《ノリ》ありて、みだりならざること、別に余が雅言成法と云ものに委(ク)辨云り、披(キ)考べし、)閏正月、閏二月などは、ノチノムツキ、ノチノキサラキなどゝ訓べし、安閑天皇紀に、閏《ノチノ》十二月とあり、但し處によりては、直にウルフツキと訓(ム)、もあしからず、今古集にも、三月《ヤヨヒ》にうるふ月ありける年、とかけり、○朔日は、ツキタチノヒと訓べし、月立《ツキタチ》なり、天智天皇妃には、朔を月立《ツキタチ》と書れたり、(ツイタチと云は後の音便なり、)二日はフツカノヒ、三日はミカノヒ、四日はヨカノヒ、五日はイツカノヒ、六日はムカノヒ、(ムユカ、ムイカなどいふは、八日《ヤカ》をヤウカと云類に、やゝ後の音便にムウカといへるを、又轉して云るなり、古言にあらず、)七日はナヌカノヒ、八日はヤカノヒ、(ヤウカと云はやゝ後なり、)九日はコヽノカノヒ、(コヽヌカといへることも、中音にはあれど、そはやゝ後なり、)十日はトヲカノヒ、十一日はトヲカマリヒトヒ、十二日はトヲカマリフツカノヒ、二十日は、ハツカノヒ、二十一日はハツカマリヒトヒ、二十二日はハツカマリフツカノヒ、三十日はミソカノヒ、と訓べし、これみないにしへのものいひざまなり、又十二日二十三日などを、トヲカフツカノヒ、ハツカミカノヒとやうにもいふべし、(源順家集に、伊勢の齋の宮、秋野の宮にわたり給ひて後、冬の山風寒くなりてのち、はじめはつかなぬかのよ庚申にあたれり、蜻蛉日記安和二年條に、はつかみかのほどに、みたけにとていそぎたつ、などあり、かやうにいふも古の一のいひざまなるべし、)甲子乙丑などは、キノエネ、キノトウシ、などやうに訓(ム)古よりのことなるべし、(キノエノネ、キノトノウシなどやうに、ノの言をつけては、訓ざりしなり、)
(43)太上天皇はオホキスメラミコト、大行天皇はサキノスメラミコト、大皇太后はオホキオホミオヤ、皇太后はオホミオヤ、皇后大后は共にオホキサキ、皇太子はヒツギノミコ、某皇子尊は某《ソレ》ノミコノミコト、皇子はミコ、大兄はオホエ、皇女はヒメミコ、親王はミコ、皇兄はイロセノミコ、皇弟はイロドノミコ、某夫人は某《ソレ》ノオホトジ、某王某女王は共に某ノオホキミ、卿大夫はマヘツキミタチ、某卿は某ノマヘツキミ、某大卿は某ノオホマヘツキミ、某少卿は某ノオトマヘツキミ、某大夫は某ノマヘツキミ、某嫗は某ノオミナ、娘子はヲトメ、又ヲミナ、某大孃某大娘は共に某ノオホイラツメ、某二孃は某ノオトイラツメ、某氏娘子某氏郎女某氏女郎は共に某氏《ソレ》ノイラツメ、某地娘子某地處女(清江娘子、草屋處女の類)は某《ソレ》ヲトメ(某ノとノの言を添るはわろし)婦人はメシヲミナ、又はミヤヲミナ、侍女はマカタチと訓べし、これらみな古に確なる證據あることなり、猶委き事は、本編に至りて、その條々にことわるべし、
太政大臣はオホマツリゴトノオホマヘツキミ左大臣はヒダリノオホマヘツキミ、右大臣はミギノオホマヘツキミ、と訓べし、(本居氏古事記に、左右とあるを、こと/”\にヒダリミギリと訓(ミ)新刻令義解にも、左右大臣などの右にミギリと點をつけたる、そのよるところをしらず、和名抄に、左右京職左右馬寮などの右を、みな美妓《ミギ》とある、これ古(ヘ)にて正しき稱とこそおもはるれ、但し伊勢が亭子院歌合日記に、上達部は、階のひだりみぎりに皆わかれて侍らひ給ふと、あれば、みぎりといひたるも、甚後にはあらず、しかれども、ひだりと云に對へむがために、彼頃の女などの、ことさらにいひたりしことには非るか、うるはしくは美岐《ミギ》といふべくぞ思はるゝ、(44)假字はカリナなるを、殘雪をノコンノユキ、と云ふごとく、音便にリをンに轉じてカンナと云たる、それにならべて眞字をマンナと云たること、源氏物語に見えたり、眞字はもとマンナと云べきよしはなけれども、カンナと云に對へむがために、ことさらに女詞にしかいへるなるべし、からぶみ毛詩にて、南をミンナミ、と訓るも、ヒンガシ、と對へむがために、えせ博士などのいひ出たるにや、)大納言はオホキモノマヲスツカサ、中納言はナカノモノマヲスツカサ、參議はオホマブリゴトヒト、少納言はスナキモノマヲスツカサ、又スナキモノマヲシ、大辨はオホキオホトモヒ、中辨はナカノオホトモヒ、少辨はスナキオホトモヒ、中務省はナカノマツリゴトノツカサ、式部省はノリノツカサ、治部省はヲサムルツカサ、民部省はタミノツカサ、兵部省はツハモノヽツカサ、刑部省はウタヘノツカサ、と訓べし、(但しこれは和名抄に、職員令云、刑部省字多倍多々須都加佐《ウタヘタヾスツカサ》、令義解訓にウタヘサダムルノツカサ、などありて、まことにしか訓べき理にてはあれども、此集の頃は、ウタヘノ司《ツカサ》と唱しなれば、なほ然訓べきことなり、その所由は、三代實録十卷に、貞觀七年三月七日、先v是刑部省奏言、承前之例、訓2刑部省1號2訴訟《ウタヘ》之|司《ツカサト》1、夫名不v正則事不v從、又名以召v實、事以放v象、何以2判斷之司1可v謂2訴訟之司1、望請訓2刑部省三字1將v號2判法《ウタヘコトワル》之|司《ツカサト》1、至v是有v勅云、宜v號2定訟《ウタヘサダムル》之|司《ツカサ》1、とあれば、貞觀七年以往は、ウタヘノ司と唱へしなり、天武天皇紀に刑官《ウタヘノ》事と訓たるも、本の稱のまゝによめるものなり、)大藏省はオホクラノツカサ、彈正臺はタヾスヅカサ、大膳職はオホカシハデノツカサ、左京職はヒダリノミサト司、右京職はミギノミサト司、齋宮寮はイツキノミヤノツカサ、大舍人寮はオホトネリノツカサ、内匠寮はウチ(45)ノタクミノツカサ、散位寮はトネノツカサ、兵庫寮はツハモノヽクラノツカサ、左右馬寮はヒダリミギノウマノツカサ、防人司はサキモリノツカサ、造酒司は、サケノツカサ、内禮司はウチノヰヤノツカサ、典鑄司はイモノシノツカサ、中衛府はナカノマモリノツカサ、兵衛府はツハモノトネリノツカサ、衝門府はユケヒノツカサ、太宰府はオホミコトモチノツカサ、侍從はオモト人マヘツキミ、内舍人はウチトネリ、監物はオロシモノ、神司はカムツカサ、主鈴はスヾノツカサ、判事はコトワル司人、陰陽師はウラノシ、算師はカゾヘノシ、藥師は、クスリシ、國司はクニノミコトモチ、郡司はコホリノツカサ、と訓べし、
卿《カミ》(省)尹《カミ》(弾正)大夫《カミ》(職)頭《カミ》(寮)正《カミ》(司)大將《カミ》(中衛府)督《カミ》(兵衛府、衛門府)帥《カミ》(太宰府)守《カミ》長官《カミ》(國)大領《カミ》(郡)輔《スケ》(省)助《スケ》(寮)貳《スケ》(太宰府)介《スケ》次官《スケ》(國)丞《マツリゴト人》(省)進《マツリゴト人》(職)佑《マツリゴト人》(司)尉《マツリゴト人》(兵箱府、衛門府)監《マツリゴト人》(太宰府)掾《マツリゴト人》判官《マツリゴト人》(國)録《フミヒト》(省)屬《フミヒト》(職)令史《フミヒト》(司)典《フミヒト》(太宰府)目《フミヒト》主典《フミヒト》(國)主帳《フミヒト》(郡)これら集中に出たる諾官の四分(長官、次官、判官、主典、)にで、省寮によりて字こそかはれ、いづれも古はカミ、スケ、マツリゴト人、フミヒト、と唱へしなり、(さて弾正にて尹《カミ》弼《スケ》忠《マツルゴト人》踈《フミヒト》といふ類を、尹《カミ》のみを此に出して、自餘の三分を載ざるは、此集に易えたるのみを出して、見えざるをば除きて載ざればなり、他みなこれに准(フ)べし、諸官の四分の字を漏さず載たらば、便よきことにもあるべけれど、所せければもらしつ、)然るにこれを、後世はなべてカミ、スケ、ジヨウ、サクワンと呼は、長官《カミ》次官《スケ》にのみ、古の稱のこりて、判官主典の二は、ほど/”\古の稱の失ぬるごとくなりぬるは、あさましきことなり、(但しカミスケは唱ふるに便宜しけれども、諸官の判官主典を、こと/”\にマツリゴト人、フミヒトと訓むは、まこ(46)とにわづらはしきによりて、丞《ジヨウ》佐官《サクワン》と唱(ヘ)かへしことなれば、これらはあながちに、古に立かへらずして、後世の稱《トナヘ》のまゝに呼《イハ》むこそ便宜(シ)けれ、ともいふべけれども、其はその稱《ナ》の出來し後の書ならばこそ、さてもあるべきことなれ、その稱の出來ぬ以往《アナタ》の書をば、然訓むべきことにあらざれば、當時《ソノカミ》の人の讀しやうをたづね考へて、物すべきことなりとはいふなり、さはいへど此集などは、歌詞を主《ムネ》とする書なれば、題詞をよまむやうは、其意だに達《キゴ》ゆれば、宜しきことなれば、あながちに拘り泥むべきにあらず、といふ人もあらむ、しかいはゞいへ、丞佐官などいはむは、後世人の耳なれたることなれば、ことさらにあやしむ人もあるべからざれども、もし寧樂朝の人のかたはらなどに在て聞たらむには、いかにわづらはしきを厭へるわざぞとて、その世にいまだありもせぬ詞を設て、字音まじりなどに讀まば、いかばかり笑はれなまし、とかたはらいたきことなり、源方弘と云人が、むくろごめに、といふべきことを、五體こめにといひて、いたくわらはれたること、枕册子に見えたりこれは彼《ソノ》頃、世に人の未いはざることにてはなきだに、いひざまのつたなきを、いやしめられたるにあらずや、ましてその世に、いまだ人のいはざることをいひたらむには、いかばかりにか、)さて諸官の判官をジヨウと呼(フ)は、省の丞の字音よりうつれるなり、と本居氏いへり、(其はいつの頃よりジヨウとは云初けむ、)和名抄にも、諸官の判官を皆|萬豆利古止比止《マツリゴトヒト》、とあれば、彼頃までは、なほ古のまゝに呼しことしるし、諾官の主典を佐官といふは、いかなるよしにていへるにや、本居氏も既くうたがひおけり、さて佐官の稱は、やゝ古くより呼《イヘ》ることゝ思はれて、續後紀に、承和九年七月詔に、品官乃《ツカサ/”\ノ》佐官以上、(47)とありて、其時に設けられたる稱とはおもはれねば、なほそれより前に出來しなるべし、和名抄にも、諸官の主典を皆佐官とありて、其比は古稱はたえて失ぬることなり、(又これを古今集序に、前甲斐のさう官、とありて、其他にも、サウ官といへることかた/”\おほかるは、佐《サ》を音便にサウと卜ひたるものなり、女御《ニヨゴ》をニヨウゴ、牡丹をボウタン、といへると同例なり、)
此他大將軍はオホキイクサノキミ、國造はクニノミヤツコ、遣唐使はモロコシニツカハスツカヒ、遣新羅使人はシラキニツカハスツカヒ、大使はカミ、副使はスケ、朝集使はマヰウゴナハルツカヒ、驛使はハユマツカヒ、相撲使はスマヒノツカヒ、部領使はコトリツカヒ、丁はヨホロ、資人はツカヘヒト、竪子はワラハ、命婦はヒメトネ、采女はウネベ、と訓、此(ノ)たぐひも多し、みな古をたづね考へで、物すべきことなり、
正三位、從四位など云正從は、オホキ、ヒロキと訓べし、和名抄に、位階の正は於保伊《オホイ》、從は比呂伊《ヒロイ》とあるは、伎《キ》を後の音便に、伊《イ》と云たるものにして、古今集序に、おほきみつのくらゐ云々、とかきたるは、古(ヘ)の稱のまゝに物したるにて正しきことなり、さてオホキヒロキと云は、天武天皇の十四年に、定め給へりし位階に、毎v階有2大(ト)廣(ト)1とある、この大廣の訓を取て、正從の訓とせられたるなり、と本居氏云るごとし、四位上五位下など云上下は、和名抄に、上は加美豆之奈《カミツシナ》、下は之毛豆之奈《シモツシナ》、とあるに從べし、さて和名抄に、四位は與豆乃久良井《ヨツノクラヰ》、八位は夜豆乃久良井《ヤツノクラヰ》、とある。これ古の唱のまゝなるにや、そも/\四位五位などは、二年三年を、フタトセト云トシミトセト云トシ、卷第一卷第二を、ヒトマキニアタルマキフタマキニアタルマキ、第一皇子第二皇子を(48)セトハシラニアタリタマフミコ、フタハシラニアタリタマフミコ、など呼《トナ》ふる例に准ふるに、ヨクラヰニアタルクラヰ、イツクラヰニアタルクラヰ、などやうに唱べきことわりにこそあれ、四(ツ)の位五(ツ)の位といひては、たゞ四あるもの、五あるものを、指ていふ稱とこそ聞ゆれ、(天智天皇紀に、從2大藏省第三倉1出、とある第三倉をミツニアタルクラ、と訓り、これもミツノクラ、と訓たらむには、三宇の倉といふことにきこゆるが如し、)然れどもはやくかく唱へきつることなれば、今は何とかせむ、しばらく古今集序、和名抄等に從て訓むより外なし、
御歌は、天皇皇后皇太子皇子皇女の御に渉りて書る漢字なれば、天皇のにはオホミウタ、と訓申し、皇后より皇女までのをばミウタと訓申て分つべし、古事記に、天皇のを大御歌《オホミウタ》とかける、これ古の稱のまゝにしるされたるなり、すべて天皇の御うへの事をば、至《イタク》尊みて木御代大御身大御手大御琴などいふ例なり、(しかるを後の注者等、天皇のをば御製歌と書て、オホミウタと訓、皇子等には御歌と書て、ミウタと訓て、分てることゝ心得て、天皇に御歌とあるをば、製(ノ)字の後に脱たるものとおもひて、謾に補へることゞも多きは、委しく考へざりしものなり、)すべてうたよみすると云ことを、天皇の御うへにては御製とかき、皇后より皇女までには御作と書(キ)、諸王より庶人に至るまでをば作と書り、この故に皇子等に御作と書(キ)、諸王より庶人までに、作と書べき處ならずしては、天皇のにも御製と書る處は一(ツ)もなし、二卷に、天皇賜2鏡女王1御歌、又天皇賜2藤原夫人1御歌、三卷に、天皇賜2志斐(ノ)嫗1御歌、四卷に、天皇賜2海上(ノ)女王1御歌、六卷に、天皇賜2酒(ヲ)節度使(ノ)卿等1御歌、八卷に、天皇賜2報和《ミコタヘ》1御歌、十九卷に、勅v某遣2於難波1賜2酒肴某等1御歌・、太上天(49)皇御歌などある、これ某《ソレ》ニタマヘルオホミウタ、と訓申てあるべき處なればなり、(これら製(ノ)字を補《クハ》へては、中々にまぎらはし、)一卷に、天皇御製歌、天皇登(リマシテ)2香具山1國望《クニミシタマフ》之時御製歌、又天皇幸2于吉野宮1時御製歌、四卷に、岳本天皇御製、又天皇思2酒人女王1御製歌、六卷に、葛城王等賜2姓橘氏1之時御製歌、又即御2製(シ)賀v橘之歌1、又天皇御製歌、八卷に、崗本天皇御製歌、又天皇御製歌、又太上天皇御製歌、九卷に、泊潮朝倉宮御宇天皇御製歌、十八卷に、御製歌云々、(左注に)件歌者御船泝v江遊宴之日左大臣奏(并)御製、などある、これみなミヨミマセルオホミウタ、と訓申すべき處にて、必製(ノ)字なくては協はねことなり、これにて製(ノ)字あるとなきとの分を知べし、字書に製(ハ)作也とも裁也ともありて、同じく裁歌《ウタヨミ》することを、天皇には御製、皇子等には御作、諸王よりは作とのみ書て分てるなれば、訓にも其心してミヨミマセル、ヨミマセル、ヨメル、など分つべし、常人のうへにて作《ヨメル》と云べき處ならでは、御製《ミヨミマセル》とは云まじきこと、上に云る如し、さて皇后皇太子皇子皇女親王など申せるには、御歌、あるは御作歌とありて、たゞ歌とも、作歌とも書るはなし、たまたま御(ノ)宇なき處あるは、决《ウツナ》く後に脱たるものなり、諸王以下は歌、あるは作歌、とのみありて、御(ノ)字を書たるは一處もあることなし、さて又御製と書るを、ミヨミマセル、とよむことは、天皇|及《マタ》さるべき神祇《カミタチ》の御うへには、至て尊みて、用言にも、御《ミ》と申す言を蒙らして、御佩《ミハカス》御娶坐《ミアヒマス》御立《ミタス》御寢坐《ミネマス》、などいふ言の、吉富に許多《コヽラ》あるを思ひて、古の讀法《ヨミサマ》をも知べきことなり、
一首二首などあるは、ヒトウタ、フタウタ、あるはヒトツ、フタツとも、處に應《ヨリ》ては訓べし、古事記に、二歌《フタウタ》三歌《ミウタ》四歌《ヨウタ》など書り、書紀神代卷にも、此|兩首歌辭《フタウタハ》云々、皇極天皇卷に、謠歌|三首《ミウタ》、古今集序(50)に、此ふたうたは云々、ちうたはたまき云々、又ひとつふたつとやうにいへるは、土佐日記に、ひとうたにことのあかねば今ひとつ、枕册子に、双紙に歌ひとつかけと、殿上人におほせもれけるを云々、又さらば題出さむ、歌たみたまへ、といふに、いとよきこと、ひとつはなにせむ、おなじうはあまたをつかうまつらむ、などいふほどに云々、などあり、
幸2于某1、とある幸は、天皇あるは太上天皇にかぎりて申すことにて、イデマシヽ、あるはイデマセル、と訓べし、(幸(ノ)字の義は本編にことわらむ、さてミユキと申すことも、古言にてはあれど、ミユキセシ、あるはミユキセル、とやうに訓むはわろし、さて又天皇に行幸と申し、太上天皇に御幸と申して分つ類は、後のことなり、)遊2獵于某1、とあるは、天皇より皇子までに申すことにて、ともにミカリシタマヘルと訓べし、詔勅などあるは、ミコトノリシタマフ、あるはノリタマハク、あるはノリゴチタマハク、など訓べし、遊宴肆宴はトヨノアカリキコシメス、行宮はカリミヤ、離宮はトツミヤ、御在所はオホミモト、聖躬はオホミヽ、不豫はオホミヤマヒ、崩、崩御はカムアカリマス、大殯はオホアラキ、と訓たぐか多けれど、今はその一(ツ)二(ツ)を擧つ、これらは至《イタ》く尊みて申す言なれば、いづくも此等に准へて、其心しらひして大かたに訓べからず、さてその次に、天皇にも登2香具山1、とやうに記し、常人にも登2神岳1、とやうに記して、同じ登(ノ)字をノボリマシテとも、ノボリテ、とも訓(ミ)皇子などにも、往2于紀伊1、とやうに記し、常人にも、往2于伊勢1、とやうに記して、同じ往(ノ)字をイマセルとも、ユケルとも訓て、尊卑の差異《ケヂメ》を分る類もあり、中には又崩薨卒死など、字によりてきはやかに、その階級の分るゝこともあれど、ひとへに字をたのみにして訓て(51)は、誤つことあること、上にいへる如し、さて又カナシムといふ一(ツ)ことを、字には感傷哀傷慟傷悲歎悲傷流涕、あるは泣血哀慟とも、悲傷流涕とも、四字に書る處もありて、彼方にてこそ、字によりて輕重淺深の意の分(チ)のあることなれ、此集など讀に、さのみ字に泥むべきことに非ず、此集は歌詞こそあれ、題詞の中にては、年號に大寶慶雲などいひ、人名にも久米(ノ)禅師、刀理(ノ)宣命、或は僧尼の名に通觀、理願、官に紫徴といひ、使に按察使とあるたぐひの、もとより音讀にすべくさだまれるもあり、或は各號のたぐひには、もとは音讀ならぬが、其訓むやうの、後世には傳(ハ)らぬも多くあれば、さるたぐひは、ひたすら推なべて訓讀にしがたけれど、其(ノ)他の語次は、書よむことの古法なれば、古言のまゝに、よまるゝかぎりは訓べきことにて、古事記日本書紀はさらにもいはず、古語拾遺、内宮外宮儀式帳、諸國風土記、現報靈異記の類の書籍、みな漢文風の記しざまにならひたれど、なほ古言のまゝによみて、今世の儒士《ハカセ》などの漢籍よむとは、いたくさまかはりたることなり、いで皇朝の古書はさらにもいはず、漢籍にても、周易、毛詩、尚書、禮記、論語、漢書、文選、遊仙窟などの類、みな往昔の博士は、訓讀にすることをつとめ學びて、今世のごと字音がちに訓ことはせざりし中にも、毛詩文選遊仙窟などは、今世にても、儒者は中々にわづらはしくこそ思ふらめ、訓讀にせし書は、後世までもそのまゝ傳はれるにて、昔のなべてのやうを思(フ)べし、さるは後世の如く字音がちに讀ては、ことざまにきこゆるのみにあらず、その義も通達《キコエ》がたかりし故に、當時《ソノカミ》の書よむ、常(ノ)儀《ワザ》なりしこと知べし、さらずばしかばかり訓讀にすることを、何が故につとめ學び重みじて傳ふべしや、よく/\思量(ル)べし、さてその訓讀の師傳(52)を、大切《ネモゴロ》にして傳へし證は、和名抄に、泊※[さんずい+狛](ハ)唐韻云、淺水(ノ)貌也、文選師説(ニ)、左々良奈三《サヽラナミ》、また爾雅注云、梁上謂2之※[木+而]1、文選師説(ニ)多々利加太《タヽリガタ》、また、説文云、閻閭(ハ)里(ノ)中門也、文選師説(ニ)佐度乃加止《サトノカド》、また六韜云、叉(ハ)兩岐(ノ)鐵、柄長六尺、文選叉※[竹冠/族](ノ)讀|比之《ヒシ》、同抄(大須本)に、文選云、※[山/ノ/一/虫]2眩邊鄙1、師説(ニ)邊鄙(ハ)阿豆末豆《アヅマヅ》、※[山/ノ/一/虫]眩(ハ)阿佐旡岐加ケ夜賀須《アザムキカヾヤカス》、同抄に文選蕪城賦云、寒鴟嚇v※[雛の隹が鳥]、師説(ニ)寒鴟(ノ)讀|古々伊太流止比《コヽイタルトビ》、嚇(ノ)讀|加々奈久《カヽナク》などいへる類多し、これ文選を讀傳へて授けたる師説に云々といふ意なり、又同抄に、遊仙窟云、面子、師説(ニ)加保波世《カホバs》、一云、保々豆岐《ホヽツキ》、また遊仙窟云、細腰支、師説(ニ)古之波勢《コシハセ》、また遊仙窟云、手子、師説云、太奈須惠《タナスヱ》、また遊仙窟云、雉※[月+翠](ハ)師説(ニ)比太禮《ヒタレ》、また遊仙窟云、東海(ノ)※[魚+緇の旁]條、※[魚+緇の旁]條(ノ)讀|須波夜利《スハヤリ》、などあるも、遊仙窟を讀傳へて、授けたる師説に云々といふ意なり、この類なほ多きにて、文選遊仙窟をば、中にも讀を重みじて傳へもし授かりもしたることを思ふべし、(後世儒者の、讀ざまはいかにまれ、義《コヽロ》さへ通ゆれば泥むべきにあらず、といひて、いとあさましきよみざまするとは、いたくさまかはれり、)又同抄に、漢書陳勝傳云、夜篝v火、師説云、比乎加々利邇須《ヒヲカガリニス》、顔氏家訓云、注連章斷、師説(ニ)注連(ハ)之利久倍奈波《シリクベナハ》、章斷(ハ)之度太智《シトタチ》、また唐韻云、※[禾+魯](ハ)自生稻也、後漢書、※[禾+魯](ノ)讀|於呂賀於比《オロカオヒ》、また周易説卦云、其於v木也爲v堅多v心、師説(ニ)多心(ノ)讀|奈賀古可遲《ナカコガチ》、などあるも、上の文選遊仙窟を引て云ると、同じこゝろばえなり、これにて周易漢書顔氏家訓の類をも、讀をたやすくせざりしことしられたり、ことに多心を奈賀古可遲《ナカコガチ》とあるこそおもしろけれ、これを中音の季よりの儒者に、新に訓せたらむには、いづれも多v心とのみ訓べきを、往昔の博士の、古言の隨に讀て傳へ持來たるを、源順も授りて、かくしるされたるなり、土佐日記に、樟穿2波上月1、舟襲2海中天1、と云こと(53)を引て、うべもむかしのをとこは、さをはうがつなみのうへのつき、ふねはおそふうみの中のそらと云けむと、御國語にてしるして載たるが故に、さばかりなだらかなる日記の中にても、耳立て聞えず、東行西行雲眇々、二月三月日遲々、といふ詩のよめがたかりしによりて、北野菅神の教《ミサトシ》を請しに、トザマニユキカウザマニユキクモハル/”\、キサラギヤヨヒヒウラ/\、とよむべしと教《サト》し給ひしと云こと、江談抄に載たり、これを字音まじりに讀て意を通《キカ》むとならば、何の難きすぢかあらむ、御國語にうるはしくよまむやうは、いかにといぶかり思ふが故に、管神の教を請しことを思ふべし、これにて其頃までも、讀ことを、後世のごと、たやすく心得て物せざりしを知べし、さて又源氏物語、枕册子をはじめ、彼頃の物語書に、漢の詩文を引て誦《トナヘ》たること多きを見て、その詩文を讀しやうを思ふべし、いづれもみな、かの文選遊仙窟などの古の讀ざまに髣髴《サモニ》たるをや、(嵯峨天皇の御文庫に、遊仙窟ありて輙《タヤス》くよむことあたはざりしを、文章生伊時、ふかく歎きたりしに、木島の宮林に一人の老翁ありて、常に此書を暗記《オボエヰ》たるを、自(ラ)ゆきて、切《ネモゴロ》に請受《コヒ》て其訓を得たるよし、文保年中大江英房記されたり、これ今世の如く、文字の上を見て、其義を曉るのみのことならば、誰かはさのみかたきことにせむ、昔の博士の讀傳へたる、其古訓の存《ノコ》れるを、ひとへに慕ひて、大切《ネモゴロ》にせしことなればかゝるをや、)さてこれらはいかにまれ、天皇の神祇《カミタチ》に宣祈《ノラシ》給へる大御詔の類と、王臣天(ノ)下(ノ)公民に宣教《ノリサトシ》給へる大御詔の類は、上古より歌詞にまさりて麗しくめでたく文《カザ》り給ひて、物せさせ給ふことは、かの古語に、言靈のたすくる國、言靈のさきはふ國、とある意ばえにて、もとその言のうるはしく文あるに、神祇《カミ》(54)も感《カマケ》てうづなひ給ひ、人民もめでゝまつろひしたがはむがための、御しわざの傳りたるものなり、この故に朝廷にて行はるゝ大儀式の時は、琴笛相和と云ことを、詞云、美許止爾布江安波世《ミコトニフエアハセ》、任申を、詞云、萬乎世留萬爾々々《マヲセルマニマニ》、あるは御體を、詞云、放保美麻《オホミマ》、參集を讀曰2末爲宇古那汲禮留《マヰウゴナハレル》1、また造酒童女を神語(ニ)佐可都古《サカツコ》、拍手を神語所v謂|八開手《ヤヒラテ》是(ナリ)也、など儀式の文にしるし、或は大鞆火官《オホトモヒノツカサ》、式省《ノリノツカサ》、兵名簿《ツハモノツカサニナフタ》給(ヒ)令v候多留毛登《サモラハシメタルヒトモト》將參來宣、或は次將仰云、火掻團《ヒカヽゲヨ》、或は大殿保賀比供奉牟止神祇官《オホトノホカヒツカヘマツラムトカムツカサ》姓名|候申《サモラフトマヲス》、或は比女刀禰秋冬《ヒメトネアキフユ》馬料可賜事上|申賜申《マヲシタマヘトマヲス》、或は大夫達《マチキムタチ》|御酒給《ミキタマハ》或は左右衛門府申其月《ヒダリミギノユケヒノツカサマヲサクソレノツキノ》上番|可《ベ》2仕奉《ツカヘマツル》1《キ》伴御奴名簿《トモノミヤツコノナフタ》|簡進樂申給久度申《フミタテマツラクヲマヲシタマハクトマヲス》、などやうに定りて、宣(リ)もしたまひ、奏(シ)もすること、朝廷にて行はるゝ恒例の大《イミ》じき儀式には、上古の御制のまゝを用らるゝことにて、貞觀儀式、延喜式、政事要略、江家次第、などの書に見えたるを思ふべし、さて然《シカ》恒例の儀式に、定りて行はるゝことこそあれ、其他漢文樣に書る書は、いかにまれ、其義だに通ゆれば、さてあるべきことにもあれど、今(ノ)世に儒者どもの、から書よむをきくに、いたく文字に拘り過て、讀法のつたなく、理にそむけること多くて、物いひざまにたがへるすぢのすくなからねば、心あらむ人は、少し考へて讀まほしきことなり(其讀べきやうの一(ツ)二(ツ)をつみ出ておどろかしおくべし、まづ漢文に、是(ノ)故(ニ)、あるは何(カ)故(ニ)、などある故(ノ)字をユヱニといふは、常のことにて、云々故とあるを云々《シカ/\》ナルガユヱニと訓はこともなし、云々《シカ/\》ナリ、ユヱニ云云《シカシカ》とはいふまじきことなり、ナリと上なる語をしばらく絶《キリ》て、次に語を發して訓ときは、上(ツ)世はみなカレと訓り、たとへば神代紀に、是吾物也、故(レ)彼《ソノ》五(ノ)男(ノ)神、とある類の故を、悉くカレと訓た(55)るが如し、しかれども皇朝の古典は、しるしざまこそ漢ぶりなれ、すべて語は古言のまゝに訓來りたれば、常に漢籍よむとはこと異りたることなり、とも云べけれども、いかに漢籍なればとて、もとより語にいふべからぬことを、書籍のうへにほどこして訓べき理にあらざれば、からぶみに、君子之事v親孝、故忠可v移2於君1、とある類の故をユヱニとは訓がたきからに、昔の博士はカルガユヱニと訓來れり、然るを近年のえせ博士の類は、カルガユヱニと云ことをづらはしがりて.しひてことずくなにせむとて、これらの故を、すべてユヱニと訓は、あるまじきことなり、昔は博士たちもかゝる處に心を用ひて、近世のごとくみだりにはあらざりしなり、是以、あるは何以、あるは以v禮、以v義、などある以(ノ)字をモテといふは、常のことにて云べきすぢもなきを、からぶにに、子帥(テ)以正(サハ)孰(カ)敢(テ)不v正、とある類は帥(テ)のテの言に、以(ノ)字の意はこもりてあることなれば、昔の博士はすてゝ訓ざりしを、近世の儒者は、いづくにても、以字あれば、訓ずてはあるまじき理と心得て、モテと訓なるは、甚かたはらいたきことなり、すべて儒者は、文字よくよむ人も、只かの異國の文章のうへにのみ、くはしきのみにて、すべて此方のものいひざまをば、得しらぬがゆゑなり、たま/\釋如(タリ)也以成(ル)、などやうにある、以(ノ)字のよまずしてえあるまじきをば、此一字をコヽヲモテと訓べきことなり、而謀v動2于戈於邦内1とやうにいへる、而字をシカシテ、あるはシカルニ、などいふは、常のことにて云べきすぢなきを、學而時習之、とあるは、學(テ)のテの言に、而字の意はこもりてあることなれば、すてゝ訓(ム)まじきことなるに、學(テ)而《シカウシテ》とよみ、和(シテ)而不v同、とあるを、和(シテ)而《シカウシテ》とよむ類は、またことにかたはらいたきわざなり、シカウシテは、然《シカ》して(56)と訓言なれば、云々《シカ/\》して然《シカ》して、とかへして云言語はあるまじければなり、因v何仍v此などある因仍等の字を、ヨツテとよむは、つねのことにていふべきすぢなきを、因以2所曳之杖1微(ク)撃2其脛1、あるは仍以2前語1爲v是、などやうにある因仍を、ヨツテとよむは、いとわろし、昔の博士のよめるに、かやうなることはかつてなし、かくざまの處にては、因仍等の一字をも、コレニヨリテと訓り、これ古の語づかひのさまにて、正しきいひざまなればなり、國之大事、あるは寡人(カ)之身などいふときは、之(ノ)字、ノと云、ガと云にあたりたれば、常のことにて論なきを、事v親之謂也、あるは終v食之間、などいふ類の之字、文章にこそ必なくてあらぬことなれ、ツカフルノ、あるはヲフルノ、といふ言語《モノイヒ》ざまなきことなれば、之(ノ)字は訓まじきことなるに、いづくにありても、必よまではあるまじきことゝ心得て、此等の之(ノ)字をも、ノとよむは可笑《ヲカシキ》ことならずや、大凡用言の下に屬て、ノと云は、古語には將絶乃心《タエムノコヽロ》、あるは戀良久乃多《コフラクノオホキ》、などやうに云る他に、つけていへることさらになし、また謂2之悖徳1、謂2之悖禮1、などいふ類の之(ノ)字も、すてゝよむまじきことなるを、必よまではあるまじきことゝ心得て、此等の之字をも、コレヲと訓は無用《イタヅラ》ごとなり、孝之始也、孝之終也、などやうにある處を、ハジメナリ、ヲハリチリと訓はたがはざれども、也をすなはちナリとよむ字なりと思ふはあらぬことなり、回(ヤ)也其心、あ各は夫子至(ルヤ)2於是邦(ニ)1也、など句の中間にあるは、助辭なれば、すてゝ訓ざることなるを、語の終に用たるをば、漢國にても決定之辭と云て、皇朝の古語に、音爲奈利《オトスナリ》、千鳥鳴奈利《チドリナクナリ》、など云|奈利《ナリ》も、決定る意にて、おのづから通ふことなるから、つひに也はナリとよむ字ぞと心得て、中昔よりこなたのものしり人などは、さらにうたがふ(57)こともなけれども、そのもとに、爾阿《ニアノ》切|那《ナ》にて、に在《アリ》、と云ことを縮めて云ることなれば、古の人は、もとの所由《ユヱ》をよく知たるが故に、古き世は、歌などに、鳴也《ナクナリ》とやうに、奈利といふべき處に、也字を填《アテ》たることは一もなし、もとよりの漢文に、始也終也などやうにある處を、ナリと訓は、おのづからたがはざることなり、これらをも、一(ト)わたりは心得おくべきことなり、及2十有五年1、とやうにある、及字は、古はマテと訓たるを、中昔よりこなたは、オヨビテと訓る、それはさして難《トガ》むべきことにあらず、生2甫〔傍線〕及申〔傍線〕1などやうにある及字を、オヨビといふは、皇朝人のものいひざまにあらず、これも甫〔傍線〕また申〔傍線〕マデヲ生《ウメ》リ、と訓べき理なり、しかれども、ことごとにしか訓むも、中々にわづらはしきが故に、漢籍讀のうへばかりに、中昔の博士などの、まうけたることなるべきを、もとよりかくいふべきものとおもふは、いとをさなきことなり、神代紀に、壹岐島及|處處小島《トコロドコロノコシマ》、とある類の及字はマタとか、又は壹岐島ヨリ處々小島《トコロ/”\ノコシマ》マデ、とか訓てあるべきことなり、有2澹臺滅明者1、とある類を、トイフと云ことを讀付たるはよし、すべて有2某者1とあるを、某〔傍線〕ト云者といふは、正しきものいひざまにかなひたるを、近世の儒者の、某〔傍線〕ナル者とよむを、よきことのやうに心得て、ナルモノと讀を付たるはあらぬことなり、ナルはニアルのつゞまりたる詞なる故に、束《アヅマ》なる人、或は筑紫なる人、など云は、東に在(ル)る人、筑紫に在(ル)人、といふことにて論なきを、紀貫之なる人、壬生忠岑なる人、などやうに云ては、紀貫之といふ處に在(ル)人、壬生忠岑といふ地に在(ル)人、といふ意になるを、さることにも心つかざるは、きはめて愚なることなるを、そのひが訓に目なれて、近き頃某なる人有(リ)、某なる者の云々など、此方の文にもかくなるは、いみじ(58)きひがことなるよし、はやく本居氏もいへり、からぶみに、某曰|云々《シカ/\》と其語の終にトと點を附ること、これも近きころのことにこそあれ、古き訓點にはトイヘリとよみ付たり、これ古の語の格によれるものなり、漢文の序の經終などに、云爾と多くあるを、昔よりイフコトシカリ、とよみたれど、此訓あたらず、云爾は、二字ともに助辭なれば、然よむべきにあらず、とこれらも同人云り、これらの辨別は、漢籍よむうへには、いと多かることなるを、具に辨へむは、文長くなれば、たゞその一二を云て止めつ、さて右にいへることゞもの類は、よく心して讀べきことなるに、すべて漢學者流は、訓語はともあれ、たゞ文章の格と、字面を分辨することのみ、つとめて、いよいよます/\たゞひたすらに、ことずくなに讀を、使宜きことゝして、昔の博士の讀ざまは、あとかたなくなりぬるのみならず、すべて物いひざまにあらぬことを、書籍のうへにほどこすなるは、漢籍のうへにてすら、うるさくかたはらいたきことなるを、まして皇朝の古典を讀に、たとひみながらは訓讀にしがたくとも、皇朝のものいひざまを思ひて、あるまじくいふまじきことをば、書籍にても、讀べからぬことなるを曉るべし、そも/\そのもと上代に、漢文字の皇朝にわたりしとき、より/\に、その漢籍を、皇朝のものいひざまに譯して、誰が耳にも聞ゆるやうに、讀ならひしことなれば、漢籍讀なればとて、此方のもとよりの、ものいひざまに異《カハ》りて、きこゆまじき讀ざまの、あるべからぬ理をもさとるべし、かく漢學者流の人どもの、つねに書籍を讀さまの、きくたびにかたはらいたく思はるゝことなれば、いかで漢籍讀法と云ものをかき著して、昔の博士のよみざまを、示さまくおもへど、いとまなき身のさがにて、いまだ其(59)事に得及ばずなむ、
 
萬葉集古義總論 其一終
 
(60)萬葉集古義總論 其二
 
   匿名
集中に、名を匿して記さゞるやう二あり、一には大納言以上の人をば、憚りて名を顯さず、二には大納言に至らざる人といへどの、由縁《ユヱ》ありて其人をたふとみて、名を顯さゞるもあり、一に大納言以上の人の名を匿せるは、十九卷に、太政大臣藤原家、(三卷にも見ゆ、不比等公なり、)十七、十八、十九、二十の卷々に、左大臣橘卿、十七、十八の卷々に、左大臣橘宿禰、十九卷に、左大臣橘朝臣、九卷、十八卷に、左大臣橘家、十八、十九、二十の卷々に、左大臣、(これら諸兄公なり、)十九卷に、贈左大臣藤原北卿、房前公なり、)六卷に、右大臣橘家、(諸兄公なり、)十九卷に、南右大臣家藤原、(豐成公なり、)大將軍贈右大臣大伴卿、(御行公なり、)一卷に、内大臣藤原朝臣、二卷に、内大臣藤原卿、(これら鎌足公なり、)廿卷に、内相藤原朝臣、十九卷に、大納言藤原家、大納言藤原卿、(仲麻呂なり、)大納言巨勢朝臣、(奈?麻呂卿なり、)四卷に、佐保大納言卿、大納言兼大將軍大伴卿、(安麻呂卿なり、)三四六(ノ)卷々に、大納言大伴卿、三卷に、大納言大將軍大伴卿、(これら旅人卿なり、)此餘にもなほあり、これら皆大納言以上の人の名を憚りて顯さゞる例なり、しかるに十七卷に、たゞ一處、大納言藤原豐成朝臣、とあるのみは疑はしきにつきて、續紀を檢(フ)るに、豐成卿は、天平廿年三月に、大納言に至られて、此時は天平十八年にて、)いまだ中納言なりければ、大字は、中の誤寫なること决《ウツナ》け(61)れば、中に改作べし、さて大納言に至らざれば、三位といへども名を憚らざりしと見えて、三六八の卷々に、中納言安倍廣庭卿、(當時從三位なり、)十九卷に、從三位文屋智奴麻呂眞人なども記したり、二に大納言に至らざる人の名を匿るは、二卷に、大伴宿禰、(安麻呂卿にて、いまだ微官にてありしほどなり、)三卷に、中納言大伴卿、三四五六八十七の卷々に、太宰帥大伴卿、三六の卷卷に、帥大伴卿、(これら旅人卿なり」九卷に、檢税使大伴卿、(御行公なり、)これらみな、いまだ大納言に至らざるほどのことなれども、旅人卿は家持の父、安麻呂卿は親父《オホヂ》、御行卿は大小父《オホヲヂ》なれば、家持卿よりたふとみて名を除けるなり、此餘にもいまだ大納言になられざりし人の名を、匿せることあり、其人をたふとむべき由縁《ユヱ》ありて、名を憚れりしと見ゆ、
   略名
集中に、貴人の名を憚りて匿せるにはあらで、官あるは氏姓のみ記して、名を略きて載ざるやう、これも大抵二あり、一には名をいはざれども、皆氏姓等のみにて、其人と云こと誰にも著《シル》かりければ、名までを載ざりしもありと見ゆ、二には、此集にしるす時に、作者の氏姓はたしかに聞たれども、其名を詳に傳得ずして、止ことなく名を漏せるもありとおぼゆ、まづ一に、名をいはざれども、官氏姓のみにて、當時其人と云ことしるかりければ、名を賂きたりと思はるゝは、因卷に、京職大夫、藤原大夫とあるは麻呂卿にて、京職大夫たりしから、後に京家と呼なして、いはゆる藤原四門の一なりければ、他の人にまがふべくもなき故に、名を略けるならむ、九卷に、大神大夫とあるは高市麻呂なること、石河大夫とあるは君子なること、當時《ソノカミ》他の人にまがふ(62)ことなかりしゆゑに、名を略けるにて、これらも同例ならむか、さらばこれらには、自《オノヅカラ》たふとみて名をいはざる意もあり、なほこの類あり、十五卷に、天平八年遣2新羅國1使人の中、大使、(阿倍繼麻呂なり、)副使、(大伴三中なり、)大判官、(壬生宇太麻呂なり、)小判官(大藏麻呂なり、)などある、これももみな當時に記せるものにて、これらには貴みたる意はなけれど、名はかくれもなきことなれば、官のみ記してありしが、後に書(キ)補《クハフ》ることもせずして、そのまゝ傳はりたるなり、五卷太宰帥の家にてよめる、梅花歌三十二首の作者の中に、大貳紀卿、少貳小野大夫、少貳粟田大夫、筑前守山上大夫、豐後守大伴大夫、筑後守葛井大夫とある、大監以下の人には各々名を記したれども、大貳少貳國守などは、他の人にまがふべくもなく、著《イチジル》しかりしが故に名をば略けるにて、これはその一擧にては、自《オノヅカラ》たふとみたる意もあるなるべし、二に、作者の氏姓のみ傳(ヘ)聞て、名をば詳に知ざりしから、闕《モラ》せりと思はるゝは、八卷に、尾張連、九卷に、間人宿禰などある類なり、猶かくさまなるこれかれあり、其中には、上の麻呂卿の例に同じく、當時は名のしるくて、他人にまがふべくもなかりし故に、氏姓のみしるしたるもあるべく思へど、今詳《サダカ》には决《キハ》めて云がたし、
   名氏書法一 (官氏名卿 官氏卿 氏卿 氏名卿 官卿)
集中に、官氏名の下に卿をそへて稱るやう、これも二あり、一には、三位にのぼれる人の大納言に至らざるを云、大納言に至りたれば、憚りて名を匿す例なること前に云るが如し、然れどもなほ三位の重きにのぼれるがゆゑに、卿をもて稱《ヨベ》るなり、二には三位に至らざれども、由縁《ユヱ》ありて其人をたふとみて、卿をもて、稱るなり、一に三位にのぼれる人をいへるは、三六八の卷々(63)に、中納言安倍廣庭卿、三卷に、式部卿藤原宇合卿などあるは、當時三位に至られたるゆゑにいへるにて、かの中納言大伴卿太宰帥大伴卿などあると、名をいはざるのみこそ異りたれ、三位に至れる人を卿をもて稱《イヘ》るは同じことなり、二には、三位に至らざれども、由縁ありて、其人をたふとみて、官氏名の下に卿そをへていへるは、四卷(神龜五年の條)に、大貳丹比縣守卿とどありて、其頃正四位上中務卿なりければ、卿をもて稱べき本式にはあらざれども、其人をたふとむべき由縁《ユヱ》ありて、云るにやあらむ、但し此人も天平九年六月に、中納言|正《二本》三位にて薨《スギ》られたれば、前にめぐらして、たふとみ書るにもあらむ、同卷に、右大辨大伴宿奈麻呂卿とあるを按に、右大辨に任《メサ》れしこと、紀文に見えざるは漏たるものならむ、さて此人、神龜元年に、從四位下にまで至れるよし續紀に見えて、前にめぐらすべきよしなし、そのうへ當時右大辨なれば四位相當なり、しかるに此は安麻呂卿の第二子にて、家持卿の爲には小父《ヲヂ》なれば、三位ならねど、たふとみて卿といへるなり、六卷(天平十年條)に、右大辨高橋安麻呂卿とあるにつきて、續紀を按に、天平四年九月乙巳爲2右中辨1云々、十年正月壬午從四位下云々とありて、此時右中辨なりけるを、右大辨とあるは寫誤か、又は續紀に、右大辨となれることの漏たるものか、そはいかにまれ、此人もつひに四位にて、世を終たりと思はるゝうへ、此時辨官なりければ、其人をたふとむべき由縁のありて卿としるせるなるべし、以上官氏名の下に、卿をそへていへる例どもなり、大納言以上の人の名を憚りて顯はさずして、官氏のみに卿をそへていへるは、左大臣橋卿、右大臣大伴卿、内大臣藤原卿、大納言大伴卿などしるせる例、上にいへる如し、其次に大納言に至ら(64)ざれども、大約言以上の人に准て、名を隠して、官氏のみに卿をそへて、中納言大伴卿、太宰帥大伴卿、檢税使大伴卿などしるせるにて、これも上にいへるがごとし、さて又五卷太宰帥の家にてよめる、梅花歌三十二首の作者の中に、大貳紀卿とあるは、集中なべての例どもとは異にして、其時大貳より國守までは名をいはず、大監より以下は、名を書《カケ》るしるしざまにて、かくしるせるものなり、さて此人の傳はしられねど、太宰大貳なるからは、其頃は皆四位なり、これも當昔《ソノカミ》にしるしたるまゝなれば、後に、三位に至れる人なりとも、前にめぐらして書りとは云べからず、其人をたふとみて卿としるせるなるべし、六卷に、石上乙麿卿とある、其頃從四位下|左《右歟》大辨なりければ、これも卿をもて稱べき本式にはあらざれども、其人をたふとむべき由縁ありて、云るにやあらむ、但し此人、勝寶二年九月に、中納言從三位兼中務卿にて薨られたれば、前にめぐらして、たふとみ書たるものなりとも云べけれど、四位已下の人に、卿をもて稱る例あれば、めぐらしたるにはあらじ、五卷に、天平五年三月一日、山上憶良謹2上大唐大使卿記室1とある、この大使卿は多治眞人廣成にて、續紀を按に、天平五年三月戊午、遣唐大使從四位上多治眞人廣成等拜朝云々とある、其時のことにて、これは憶良より、直に其人をあてゝ贈れるなれば、三位ならねど對《サキ》を貴て卿といへるものなり、但し此人も、後には三位中納言に至られたれども、これは其|當昔《カミ》にかけるまゝなれば、前にめぐらしたるものなりとは云べからず、六卷に、天平九年春正月橘少卿とありて、(少は、諸兄公の弟なるが故にいへり、)續紀を按に、同じ年二月戊午、從四位上橘宿禰佐爲授2正四位上1と見え、同じ八月壬寅、中宮大夫兼右兵衛率正四位上橘宿禰(65)佐爲卒とありて、つひに三位にのぼられざりし人なれば、前にめぐらして、たふとみ書りとはいふべからず、諸兄大臣の弟なるが故に、たふとみて卿といへるなり、三卷に、幸2志賀1時石上卿作歌とある、この幸は續紀を按るに、養老元年九月のことゝ思はるゝに、乙麿卿の父麻呂大臣は、既く同年三月に薨給へれば、乙麿ならむか、さらばこの時未わかくて、六位の官人にて、從駕《ミトモツカ》へしなるべければ、これは前にめぐらして書るにや、かくまで三位に昇らざる人を、卿をもて稱《イヘ》ること數多見えたれど、後々には四位以下の人を、卿といへることたえてなきゆゑに、うたがひ思ふことなれど、そも/\卿と云こと攝政關白及三公乃稱v公、散一位及三位以上稱v卿、任2參議1者皆卿也、あるは三位以上爲2月卿1、或謂2上達部1、位四五位爲2雲客1、或謂2殿上人1、如v任2參議1則雖2四位1爲v卿などいひて、四位にても參議に任《メサ》れたる人こそあれ、自餘は三位以上ならでは、公私ともに、决《キハ》めて卿とは稱れぬことになれゝども、公式令過所式に、度2其關1往2其國1云々、三位以上稱v卿云々と見え、續紀に、養老四年十月癸未、太政官處分(スラク)、唱考之日、三位稱v卿、四位稱v姓、五位先v名後v姓、自今以去永爲2恒例1とありて、彼(ノ)頃までも關を度るとき、或は唱考の日、其餘も官廳のはれやかなる所にてこそ、其例に准らへたることならめ、私家の歌集記録及墓碑の類には、或は其人の徳を貴み、或は其人の齡《ヨハヒ》を稱《タヽヘ》て、四位五位なる人をも某卿某卿と、古くは云りしことゝおぼへたり、かく思ひ定めて後又一證を得たり、慶雲年中猪名大村が古碑に題して、少納言正五位下威奈卿墓誌銘(并)序とあり、(源松苗國史略に出、)これにて四位五位の人をも、私には貴みて卿と稱しこと著し、さて又ついでに云む、後には三位以上書v卿、三大臣書v公也といひて、師通(66)公、師實公などしるし、或は後よりめぐらして、鎌足公、諸兄公などいふ類、定りたることになれれども、古はおしなべて卿とのみ云て、公といへることなし、たゞ淡海公など謚號に公といへるのみなり、たま/\雄略天皇紀に、大伴公と書ること見えたれど、其は大伴談連を、從人《ヤツコ》より吾主を尊みて云ることにて、いはゆる三公の公にはあらず、
   名氏書法二(官氏大夫 氏大夫 氏名大夫)
集中に、氏大夫としるせるは四位五位の人を云、氏名大夫は、五位の人にかぎりて云りしと見ゆ、公式令義解に、凡授v位任v官之日喚辭云々、唯於2太政官1三位稱2大夫1、四位稱v姓、五位先v名後v姓、其於2衰以上1(謂辨官以下也、)四位稱2大夫1、五位稱v姓、六位以下稱2姓名1、司及中國以下五位稱2大夫1、(謂一位以下通2用此稱1、)とありて、各々其官府につきて、三位より五位まで、大夫と稱ことに定められたりと見ゆるに、此集にはその、差別はなしと見えて、三位に大夫といへるは、もとよりあることなけれども、四位五位に通《ワタ》りてはいへりしなり、(しかるを略解に、大夫とは、五位にかぎりて云稱のごとく、いへるは何事ぞや、無稽説といふべし、)六位以下を大夫といへることは、此集にも何にも見えたることなきは勿論《サラ》なり、さて四位に、官氏の下に大夫をそへて云るは、四卷に、京職大夫、藤原大夫とある、此は前にも云たるごとく麻呂卿にて、續紀に、養老五年六月、從四位上藤原朝臣麻呂爲2右京大夫1とありて、これ四位の人に云る證なり、五位に、官氏の下に大夫をそへて云るは、五卷天平二年正月、太宰帥の家にてよめる、梅花三十二首歌の作者の中に、少貳小野大夫とあるは老がことにて、當時《ソノカミ》從五位上なるよし續紀lこ見え、その次下に、少貳粟田大(67)夫とあるは、人上がことならば、これも當時正五位上なるよし續紀に見え、その次下に、筑前守山上大夫とある、これも其時從五位下なれば、これみな五位の人にいへる證なり、その次下に、豐後守大伴大夫とあるは詳ならねど、これも豐後守なるからは五位なるべし、その次下に、筑後守葛井大夫とあるは大成がことにて、これも當時《ソノカミ》從五位下なり、これらもみな五位に云る證なり、四位に、氏の下に、大夫をそへて云るは、九卷に、大神大夫任2長門守1時云々とあるは高市麻呂にて、續紀に、大寶二年正月乙酉、從四位上大神朝臣高市麻呂爲2長門守1とあれば、これも四位に云ること勿論《サラ》なり、三卷に、長田王被v遣2筑紫1渡2水島1之時歌二首云々とありて、石川大夫和歌一首と見えたる、これを類聚抄には、從四位下石川宮麻呂朝臣和歌としるして、續紀を按に、慶雲二年十一月、從四位下石川朝臣宮麻呂爲2太宰大貳1と見えて、大貳にて、筑紫に下れるときに、長田王の歌に和へたるなるべし、(但し長田王は、和銅四年に、始めて正五位下を授へるよし續紀にしるされて、それより以往の事は見えざれども、ゆゑありて、筑紫に遣され給へるにやあらむ、)さらばこれも四位に云る證なり、五位に氏の下に大夫をそへて云るは、九卷に、石河大夫遷任上v京時、播磨娘子贈歌とあるは君子のことにて、當時從五位下なるよし續紀にしるせり、これは五位に云る證なり、其他に大神大夫、石上大夫、阿倍大夫、丹比大夫などしるせることあれど、詳に其人と云こと决《キハ》めがたきもあり、又其時四位にてありしと云ことも、五位にてありしと云ことも、知がたきもあれば定めがたし、氏名大夫は、五位の人にかぎりて云りしと思はるゝは、三卷に、田口益人大夫とあるは、續紀を按に、慶雲元年春正月に從五位下を授りて、靈(68)龜元年四月、正五位上にまでなれるよし見えたれば、其間のことなるべし、四卷に、藤原宇合大夫遷任上v京時、常陸娘子贈歌とありて、當時正五位上なり、十六卷に、消奈(ノ)行文(ノ)大夫とあるは、續紀に、神龜四年十三月に從五位下を授へるよし見えたり、其後のことなるべし、四卷に、當麻麻呂大夫とあるは詳ならねど、これも五位の官人なるべし、此餘一卷古注に、山上憶良大夫と見ゆ、此人も從五位下にてありしなり、
   名氏書法三(官氏姓 氏姓)
官氏姓のみをしるしたるは、左大臣橘(ノ)宿禰、内大臣藤原(ノ)朝臣などある類にて、既く匿名の條に出せる如し、さて某卿(藤原卿、橘卿の類、)といふと、某姓(藤原朝臣、橘宿禰の類、)といふとは、いさゝか差等あたことになれりしは、公武令に、過所式云、云々、三位以上稱v卿、云々、凡授v位任v官之日喚辭、云々、以外三位以上直稱v姓と分たるに、此集には同じ文の列にも、又一(ツ)事にも、諸兄大臣を、左大臣橋卿とも、左大臣橘宿禰とも、左大臣橘朝臣とも、(天平勝寶二年に、朝臣姓を賜へるが故に、其後はかくしるせり、)鎌足大臣を、内大臣藤原卿とも、内大臣藤原朝臣とも記して、すべてその分等《ケヂメ》をばせざりしなり、又此餘にも、安麻呂卿を、大伴卿とも、大伴宿禰ともしるし、又石上乙麻呂卿をも、石上乙麻呂朝臣とも、大伴宿奈麿卿とも、大伴宿奈麻呂宿禰ともしるせる類ありて、すべて此にも彼にも書し例あり、又氏姓のみを記せるに、二(ツ)のやうあり、一には、高官に至らざる人といへども、由縁《ユヱ》ありて其人をたふとみて、名を憚りて氏姓のみをしるせるは、二卷に、大伴宿禰とあるは安麻呂卿にて、いまだ微官にてありしほどなれど、たふとみて氏姓のみをし(69)るせり三卷に、高橋朝臣とあるは安麻呂をいふか、もし此人ならば、六卷に、右大辨高橋安麿卿ともありて、三位ならねど當時由縁ありて、其人をたふとみて、あるは氏姓のみをしるし、あるは名を書すときは、卿をもて稱《タヽ》へたりとおぼえたり、二に、作者の氏姓のみは傳(ヘ)聞たれども、名をば詳に聞得ざりしによりて、闕《モラシ》たりしと思はるゝは、八卷に、尾張連、九卷に、間人宿禰などの類、かた/”\見えたり、其中には、當時《ソノカミ》は名のしるくて、他人《アダシヒト》にまがふべくもなかりしゆゑに、ただ何となく、氏姓のみしるしておきつるが、そのまゝに傳はりたるもあるべく思はるゝも多けれど、今詳に決めては云がたし、
   名氏書法四(官氏名姓 氏名姓)
集中に、官氏名姓また官を除て、氏名姓のみをしるせるも同じさまにて、大抵三位より五位に通《ワタ》りて、いへりしことゝおぼゆ、その三位にいへりしは、十七卷に、中納言藤原豐成朝臣(中字、舊本大に誤れり、)とあるは、續紀に天平十五年五月癸亥、授2從三位1爲2中納言1と見えて、これは三位にいへる例なり、四位にいへりしは、(六卷天平二年條)に、擢駿馬使大伴道足宿禰とありて、續紀を按に、此時正四位下なるよし見ゆ、十九卷(勝寶三年の條)に、左大辨紀飯麻呂朝臣とあるは、續紀を按に、此時從四位上なるよし見えて、これらは四位にいへる例なり、四卷(神龜五年の條)に、太宰少貳石川足人朝臣とあるは、續紀を按に、此時從五位上なるよし見え、八卷(神龜五年の條)に、式部大輔石上堅魚朝臣とありて、續紀を按に、此時從五位上なるよし見え、廿卷(寶字二年二月條)に、渤海大使小野田守朝臣とありて、續紀を按に、此時從五位下なるよし見え、同卷(寶字元(70)年條)に、治部少輔大原今城眞人とありて、續紀を按に、此時從五位下なるよし見えて、これらはみな五位にいへる例なり、又官をいはざるは、十九卷に、從三位文屋智奴麻呂眞人とありて、續紀にも、此時中納言從三位なるよし見えたれば、これは三位に云る例なり、廿卷(勝寶七年條)に、大原櫻井眞人とありて、續紀を按に、はやく天平十六年條に、大藏卿從四位下と見えて、これは四位にいへる例なり、六卷(天平十二年條)に、丹比屋主眞人とありて、續紀を按に、天平十二年十一月に、從五位上を授へるよし見えて、これは五位にいへる例なり、官をしるせると、しるさゞると差別《ケヂメ》はなけれども、おほくは顯職なるかたにしるして、微官なるは省けり、さて件に引るごとく、官氏名姓また氏名姓をかけるには、三位より五位までにわたりてしるせること、なほ右の餘にもこれかれありて、六位以下の人をいへることは見えず、さて公式義解に、凡授v位任v官之日喚辭、云々、以外三位以上直稱v姓、(謂直稱2奏宿禰1之類也、)四位先v名後v姓、五位先v姓後v名、(謂喚云2秦宿禰麻呂1之類也、)六位以下去v姓稱v名、(謂直言2秦麻呂1不v稱2宿禰1一也、即授任之日及以外竝皆通稱也、)云々とあれど、此集は此|制《サダメ》によらず、三位より四位に通《ワタ》りて、先v名後v姓して稱ること、上に擧たるごとし、但し十七卷に、天平十八年正月(某)(日)、白雪多零積v地數寸也、於時左大臣橘卿、率2中納言藤原豐成朝臣(中字、舊本大に誤、)及諸王諸臣等1、參2入太上天皇御在所1、(中宮兩院、)供奉掃v雪、於是降v詔、大臣參議并諸王者、令v侍2于大殿上1、諸卿大夫等令v侍2于南細殿1、而則賜v酒肆宴、勅曰、汝諸王卿等、聊賦2此雪1、各奏2其詞1とありて、某々應v詔歌ありて、其次に人々の名を列ねしるして、三位四位の人をば、藤原豐成朝臣、巨勢奈底麿朝臣、大伴牛養宿禰、(已上當時三位なり、)藤原仲麿朝臣(71)(當時四位なり、)と先v名後v姓してしるし、五位の人を、穗積朝臣老、小田朝臣諸人、小重朝臣綱手、(已上當時五位なり、なほあれど略きてしるさず、)先v姓後v名にしてしるして、その下に、右件王卿等、應v詔作歌、依v次奏之、登時不v記2其歌漏失1、云々とありて、これは當時上に奏せしまゝを記し、此餘にもこの時と同じ例に、當時奏せしまゝを記したりとおぼゆるあり、これはかの公式令の制のごとく、四位以上なると、五位とを顯《キハヤ》かに分てしるせるにて、此集のなべての例にはあらず、その中令の制には、三位以上直稱v姓とあれど、たゞ藤原朝臣、大伴宿禰としるしては誰とも分らねば、これは四位の人と同じさまに、藤原豐成朝臣などゝ、先v名後v姓してしるせるにて、例多きことなり、
   氏名書法五(官氏姓名 氏姓名)
集中に、官氏姓名、また官を除て、氏姓名のみをしるせるも同じさまにて、大抵四位より以下の人を、なべて云りしことゝおぼゆ、その四位にいへりと思はるゝは、十九卷に、入唐大使藤原朝臣清河とありて、此時從四位下にて、これは四位にいへる例なり、六卷に、豐前守宇努首男人とありて、豐前守は相當從五位下なり、同卷(天平二年條)に、驛使葛井連廣成とありて、天平三年正月に、外從五位下を授へれば、當時正六位上なり、四卷に、筑前掾門部連石足とあるは、傳詳ならねど、官位令を考るに、大國の掾は相當從七位上なり、同卷に、少典山口忌寸若麻呂とあるも傳詳ならねど、太宰府少典は相當正八位上なり、又官をいはざるは、十九卷に、從四位上高麗朝臣福信、また八卷(天平十年條)に、文忌寸馬養とありて、これら當時外從五位上なりしよし見ゆ、柿(72)本朝臣人磨、山部宿禰赤人なども五位にてぞありけむ、六卷天平五年條)に、紀朝臣鹿人とありて、天平九年九月に外從五位下を授《タマ》はりて、當時正六位上なりしとおぼゆ、此餘笠朝臣金村、車持朝臣千年、阿倍朝臣老人、坂本朝臣人上、大伴宿禰千室、高市連黒人、高橋連蟲麻呂、鴨君足人、大伴君熊凝などの類、官位の詳ならぬ人々いと多くして、擧つくしがたし、皆六位より八位までの人なりしとおぼゆ、中には无位の人もありしなるべし、ことに大伴君熊凝などは肥後國益城郡人にて、相撲使某國司官位姓名の從人《ヤツコ》となりて、京都に參向とありて、賤者なり、公式令義解に、六位以下去v姓稱v名(謂直言2秦萬呂1不v稱2宿禰1也、即授任之日、及以外竝皆通稱也、)とある制にはこれもたがへり、廿卷に、天平勝寶の年中に、上總國防人部領使少目從七位下茨田連沙彌麿、常陸國部領防人使大目正七位上息長眞人國島などあるはさらにて、その防人部領使が、朝家に進りし東歌の作者の中に、國造丁日下部使主三中、助丁刑部直三野、上丁丸子連大歳などやうにしるせる類、あまた見えたれば、なほその頃は上へ獻るにも、卑位の人はさるものにて、丁の類の賤者にいたるまで、姓を稱に憚らざりしことゝ見えたり、(但し六位已下の賤き者どもの姓を書るは、御制《ミサダメ》を犯したるしわざなりとも云べけれど、さらば私家の物ならばこそあらめ、これらは朝家に進りしそのまゝを書したれば、其頃までは憚らざりしことしるし、但彼頃も、朝臣宿禰などの姓をかくことは憚りて、其餘の直連などは、憚らざりしかとも思へど、なほ彼頃のさまにあらず、いづれの姓にても、憚らざりしなり、天平勝寶元年、束大寺奴婢籍帳に、大和國添上郡大宅卿戸主を、散位寮散位欠初位上大宅朝臣可是麻呂、謹解申貢進賤事としるし、(73)同二年奴婢籍帳の奧に、參議從四位上守卿紫微中臺大弼勲十二等石川朝臣年足より、つぎつぎにしるして、正七位上行少録馬(ノ)史吉成、正七位下少録士師(ノ)宿禰山萬里など書るをも思ふべし、中ごろよりこなたは、六位以下の人は朝臣の姓にても、朝臣とかくことを、堅く制められしと見ゆ、さるは後に朝臣の字、朝家の臣と云意になれば、五位に至(ラ)ざれば、かくことをゆるされざりしなり、)さて又位の卑かりし人を、土理(ノ)宣令など、姓をいはざりしもあれど、必去v姓稱v名といふ制心よりての、しわざにはあらざりしと思はるゝは、上に出せる例にて知べし、その餘諸臣の列に、坂門(ノ)人足高安(ノ)大島、久米(ノ)禅師、日置(ノ)少老などの類、姓をいはずて氏名のみしるせるも多し、もとよりこれらの人は、品の下れる人と思はるれば、姓のなきもさることなれど、必姓を去て、名ばかりを稱りしといふ證にはなりがたし、又高安、槐本、元仁、島足、麻呂、伊保麻呂、など氏のみをしるし、名のみをしるせりと思はるゝ類は、人品の賤しくして、あるは氏ばかり、あるは名ばかり傳はりしにもあるべく、又當時ことさらに、略きたるゆゑのありしなどもあらむか、その詳なることは决にもかし、
   名氏書法六(女)
女(ノ)名を稱《イヘ》るやうにくさ/”\あり、藤原夫人、石川夫人、石川命婦、縣犬養命婦、安曇外命婦、山田御母など氏官もてしるし、あるは内侍佐々貴山(ノ)君、と官氏姓をもてしるし、あるは吉備津采女、(吉備は志我の誤なりといへり、地名なり、)豐島采女(豐島は地名なり、)などしるし、あるは采女|安見兒《ヤスミコ》(安見兒は字なり、)ともしるし、あるは車持氏娘子、平群氏女郎、舍人娘子、石川郎女、巨勢郎女、依(74)羅娘子、笠女郎、土形娘子、安部女郎、大伴女郎、大神女郎、紀女郎、中臣女郎、粟田娘子、藤原郎女、久米女郎、縣犬養娘子、(舍人より縣犬養までみな氏なり、)あるは河内百枝娘子、(河内は氏、百枝は字ならむ、)巫部麻蘇娘子、(巫部は氏、麻蘇は字ならむ、)安都扉娘子、(安都は氏、扉は字ならむ、)丹波大女娘子、(丹波は氏、大女は字ならむ、)日置長枝娘子、(日置は氏、長枝は字ならむ、)池田廣津娘子、(池田は氏、廣津は字ならむ、)などしるし、あるは石川朝臣邑婆と氏姓各むしるし、あるは吹黄刀自、大伴眞足女、椋椅部刀自賣、宇遲部皇女、椋椅部弟女、服部呰女、物部刀自賣など、氏名をしるし、あるは清江娘子、(清江は地名、)常陸娘子、(常陸は國名ならむ、葦屋處女、妄(葦屋は地名、)などしるし、あるは末珠名娘子、(末は地名、珠名は字なり、)あるは園臣生羽之女、園臣は氏姓なるべし、生羽は父名か、又は直に女名か、)あるは長忌寸娘、あるは大伴坂上郎女、又は田村大孃、坂上大孃、又は.坂上家之大孃、坂上家之二孃などもしるせり、あるは娘子兒島、遊行女郎土師、あるは大宅女、櫻兒、縵兒などもしるして、一(ト)しへならざるは、もと清く撰みたる集にあらざるがゆゑなるべし、
   假字
此注書の中に、假名といへるは、いはゆる平假名片假名などをいふにあらず、古の假字書をいへり、(世に萬葉書と云これなり、)さてその假字に大抵三種あり、一には字音假字にて、天を安米《アメ》、地を都知《ツチ》と書る類なり、二には字訓の假字にて、得田直《ウタテ》、千羽日《チハヒ》など書る類なり、三には字音二合假字にて、還金《カヘリコム》、知三《シラサム》など書る金三の類なり、そも/\皇朝には、もとより文字なかりしかば、上(ツ)代の歌は、直に人の口に言傳へ、耳に聽傳へ來ぬるを、後に異國より文字わたり來しにより(75)て、其字音を借て書傳へしものにて、古事記書紀に載たる歌みなしかり、此集にも其さまに書る、これかれ多し、(五卷十五卷などは、おほくはかの記紀の歌をしるせるごとし、又十四卷と廿卷なる東歌は、みな假字書にせり、これは東歌は、京人のとは語異りたるがゆゑに、其を字義を填て書むには誦《ヨミ》ざまの雅書に混るべく、又字義のみ填ては、書がたき語も多くあれば、つとめて假字のかぎりにて書るものなり、)此は字音のみに書て、誦《トナ》へ擧打うたふにも、古語を一語も違へじとつとめたれば、まどふふしもなくて、有が中にも正しきを、藤原寧樂朝に至りては、やうやう漢學さかりになりしかば、其字の義理をとり得て、此方にても、種々に用ふことを好む風俗となりしより、言辭を文字もて心々に装飾《カザ》れることの多きによりて、其用ひたる樣をくはしくわきまへずしては、まぎるゝこと多し、かくて中には、其字義の正しく相當れるもあり、或は正しく相當らねども、其字の義を得て填たるも、或はその字の訓を借(リ)て用たるも、或は字を略きて其(レ)と知せたるも、又ことさらに戯れて書たるも種々あり、まづ假字書にも大抵三くさあること、右に云るが如し、○一に字音の假字と云は、いはゆる安米《アメ》都知《ツチ》と書る類にて、其字は左のごとし、
 〔ア〕阿安
 〔イ〕伊已異移印
 〔ウ〕宇于※[さんずい+于]有烏羽雲
 〔エ〕衣依叡曳要延愛
 〔オ〕於者憶飫應
 〔カ〕加可歌迦架嘉箇清音)何河荷我蛾餓賀(濁音)
 〔キ〕伎妓文吉奇綺騎寄枳貴企紀棄忌(清音)疑義宜藝祇(濁音)
(76) 〔ク〕久玖苦君口九丘鳩(清音)求具隅遇(濁音)
 〔ケ〕氣家既介價計奚鷄谿結祁(清音)夏牙雅宜礙(濁音)
 〔コ〕古己胡故枯姑居巨孤許去虚庫興※[示+古]高(清音)呉吾後其期碁虞(濁音)
 〔サ〕左佐沙紗作散柴草積(清音)者社射※[身+矢]謝邪(濁音) 
 〔シ〕志思之四師斯新進信子指此紫司詩死侍旨次式趾詞偲事水(清音)緇盡自慈寺士時(濁音)
 〔ス〕須寸周酒清洲殊珠數(清音)受授(濁音)
 〔セ〕世勢西施齊(清音)暫是(濁音)
 〔ソ〕曾蘇素祖宗僧増憎則賊所(清音)俗叙序(濁音)
 〔タ〕多他丹(清音)陀駄太(濁音)
 〔チ〕知暫陳耻(清音)遲治地(濁音)
 〔ツ〕都通追(清音)豆頭(濁音)
 〔テ〕?帝底堤提庭天(清音)※[人偏+※弖]尼泥※[泥/土]田代(濁音)
 〔ト〕登澄等刀斗得土(清音)渡度騰藤晦杼(濁音)
 〔ナ〕奈那難南男
 〔ニ〕爾二仁邇耳尼人柔而
 〔ヌ〕奴努怒弩農濃
 〔ネ〕年禰尼※[泥/土]
 〔ノ〕乃能
 〔ハ〕波破播幡※[白+番]方芳房把伴半盤薄泊※[草冠/貌]八(清音)婆馬伐(濁音)
 〔ヒ〕比非悲斐飛卑必臂賓嬪(清音)婢妣※[田+比]尾備鼻(濁音)
 〔フ〕不布敷粉副負否府(清音)夫扶(濁音)
 〔ヘ〕敝弊幣反返遍閇※[覊の馬が奇]陛平(清音)辨部倍陪便別(濁音)
 〔ホ〕保倍本朋凡寶抱方富(清音)煩(濁音)
 〔マ〕麻摩未滿馬
(77) 〔ミ〕美媚未味尾微民
 〔ム〕武鵡牟無謀夢務
 〔メ〕賣馬梅※[口+羊]面免米迷昧
 〔モ〕母茂文問間門蒙目物勿木毛忘※[人偏+舞]
 〔ヤ〕夜也耶野楊移
 〔ユ〕由遊喩
 〔ヨ〕與余餘用容欲
 〔ラ〕良浪羅樂
 〔リ〕利梨里理裡隣
 〔ル〕留流類
 〔レ〕禮例列烈連
 〔ロ〕呂侶路漏
 〔ワ〕和
 〔ヰ〕爲位謂
 〔ヱ〕惠畫囘
 〔ヲ〕遠袁乎越烏惡怨呼叫など見えて、此(ノ)集に字音假字の用たるさま大略かくのごとし、○二(ツ)に字訓假字と云は、いはゆる得田直《ウタヂ》千羽日《チハヒ》と書る類にて、其(ノ)字は左のごとし、
 〔ア〕余足嗚呼
 〔イ〕射五十馬聲
 〔ウ〕得卯免
 〔エ〕得榎江
 〔オ〕見あたらず)
 〔カ〕鹿蚊香日
 (キ〕木寸杵割刻
 〔ク〕(見あたらず)
 〔ケ〕異毛食殊
 〔コ〕籠粉兒木子
 〔サ〕狹猿
 〔シ〕磯羊蹄爲石
 〔ス〕爲酢渚簀
 〔セ〕背湍瀬迫石花
(78) 〔ソ〕十衣其麻苑
 〔タ〕田手
 〔チ〕乳千血市
 〔ツ〕川津
 〔テ〕直手
 〔ト〕砥利礪外常止速跡十鳥飛迹
 〔ナ〕菜名魚莫
 〔ニ〕※[者/火]煎丹荷似負
 〔ヌ〕沼寐宿
 〔ネ〕根
 〔ノ〕笶箆野
 〔ハ〕歯羽葉者
 〔ヒ〕日氷乾負
 〔フ〕歴經蜂音
 〔ヘ〕甕※[缶+瓦]重經家戸
 〔ホ〕帆穗太
 〔マ〕間眞
 〔ミ〕箕見三御身水
 〔ム〕六牛鳴
 〔メ〕女目眼海藻
 〔モ〕喪裳藻面
 〔ヤ〕八矢屋
 〔ユ〕湯結
 〔ヨ〕四世
 〔ラ〕等
 〔リ〕見あたらず、但し朝入《アサリ》、廬入《イホリ》など書れば、入をりの假字とも云べし、
 〔ル〕見あたらず
 〔レ〕村
 〔ロ〕見あたらず
 〔ワ〕見あたらず
 〔ヰ〕井居藍猪
 〔ヱ〕咲
(79)〔ヲ〕尾士男麻緒少小、など見えて、此集宇訓の假字を用たるさま、大略かくのごとし、その中、上に云るごとく、得田直《ウタテ》、千羽日《チハヒ》、あるは八間跡《ヤマト》、丹穗葉寐《ニホハヌ》、者田爲々寸《ハタスヽキ》など、みながら字訓の假字をも用ひ、或は端寸八爲《ハシキヤシ》、三名之綿《ミナノワタ》、結經方衣《ユフカタキヌ》、男爲鳥《ヲシトリ》などやうにも書(ク)、或は又於保伎見《オホキミ》、阿跡念《アドモフ》、名津匝《ナヅサヒ》など、字音假字に交ても用ひて種々なり、こゝに一(ツ)の論あり、妹乘良武可《イモノルラムカ》、また浪乃鹽左爲《ナミノシホサヰ》などに、可爲等の字を用ふるごときは、正しき假字なるを、乘良武鹿《ノルラムカ》、また鹽左猪《シホサヰ》など書類は、もと獣名の鹿猪を借て用たるものにて、此は相見つるかもなど云に、鳥名を借て相見鶴鴨、と書たるに全(ラ)同じければ、此は假字とは云べからず、借字と云べし、もし辭のつるかもに、鶴鴨と書(ク)類をもおしこめて、假字と云ばさもあるべし、假字と借字とを分て、目《ナ》を立るときは、いかゞなりと難むる人もあるべし、まことに然いはゞ、これらを假字と云むは、理にたがひたることなり、されば古事記にも、書紀にも、歌詞又訓注などに、字訓を用たること一もなし、其《ソ》は正しき假字の例に非るが故なり、されば彼二典などにては、字音なるを假字、字訓なるを借字と、其目を定(メ)別て讀わたりゆくに、きはやかにわかれて宜しけれども、はやく此集には、於保伎見《オホキミ》、また四寶三都良武香《シホミツラムカ》などやうに、字訓をも、字音の假字とひとつものにして用ひ、其後靈異記延喜式新撰字鏡和名抄等の類にいたりては、江木千止丹三女井《エキチトニミメヰ》など、字訓を訓注等の假字に用ひたることめづらしからず、又平假字にもえとみめゐ〔五字右○〕片假字にもエチトネミメヰ〔七字右○〕など、字訓の暇字の、なべて行はるゝことに定りたる、其は右に云如く、寧樂人よりはじまれることなれば、今は音訓をいはず、一音の言に用たる字をば、此集にては(80)姑假字と决めつるなり○三に字音二合の假字と云は、いはゆる金《コム》三《サム》と書る類にて、其字は左の如し、
 〔ウツ〕欝(欝瞻《ウツセミ》の類)
 〔カニ〕干漢(湯鞍《ユクラ》(干《カニ》、爾故余漢《ニコヨカニ》の類)
 〔カム〕甘敢(甘嘗備《カムナビ》、僧半甘《ホウシナカラカム》、歎敢《ナゲカム》の類)
 〔カク〕各(各鑿《カクノミ》の類)
 〔カホ〕※[日/木](見※[日/木]石《ミカホシ》※[日/木]鳥《カホトリ》の類、※[日/木]のウをホに轉用たり)
 〔クニ〕郡君(郡問跡《クニトヘド》、不有君《アラナクニ》の類)
 〔ケム〕兼險監(苅兼《カリケム》、有險《アリケム》、見監《ミケム》の類)
 〔コヾ〕極(極此疑《コヾシカモ》の類、極《コク》のクをコに轉用たり)
 〔コチ〕乞(乞痛《コチタキ》、越乞《ヲチコチ》の類、乞《コツ》をコチと云は、一《イチ》日《ニチ》吉《キチ》八《ハチ》などの例なり)
 〔コム〕金今(還金《カヘリコム》、亂今《ミダレコム》の類)
 〔サニ〕散雜(散釣相《サニヅラフ》、雜豆臘《サニヅラフ》の類) 〔サン〕三(知三《シラサム》の類)
 〔サツ〕薩(薩雄《サツヲ》の類)
 〔サク〕作(作樂《サクラ》の類)
 〔サフ〕颯(名豆颯《ナヅサフ》の類)
 〔サヒ〕匝(名津匝《ナヅサヒ》、匝《サフ》のフをヒに轉用たり)
 〔シキ〕拭式色(悔拭《クヤシキ》、式島《シキシマ》、色天《シキテ》の類)
 〔シク〕鐘(鐘禮《シケレ》、鐘《シウ》のウをクに轉用たるなるべし)
 〔タウ〕塔(絶塔浪《タユタフナミ》の類)
 〔タニ〕彈(今夜彈《コヨイダニ》)
 〔タキ〕當「落當知足《オチタギチタル》の類、當《タフ》のウをキに轉用たり)
 〔チヌ〕珍(珍海《チヌノウミ》、珍《チン》のンをヌに轉用たり)
 〔テム〕點(著點《キセテム》)
 〔トコ〕徳(烏徳《ヲトコ》の類、徳《トク》をトコと云こと常なり)
 〔ナニ〕難(難可將嘆《ナニカナゲカム》)
 〔ナム〕南(去別南《ユキワカレナム》)
 〔フニ〕紛(黄土紛《ハニフニ》、粉《フン》のンをニに轉用たり) 〔フク〕福(福路《フクロ》)
 〔ヘリ〕篇(思篇來師《オモヘリケラシ》、篇《ヘン》のンをリに轉用たり)
 〔マニ〕萬(往乃萬々《ユキノマニ/\》、萬《マン》のンをニに轉用たり)
 〔ミヌ〕敏(敏馬《ミヌメ》、敏《ミン》のンをヌに轉用たり)
(81) 〔ラム〕濫藍覽(戀奴濫《コヒヌラム》、見欲賀藍《ミカホシカラム》、求覽《モトムラム》の類)
 〔ラク〕樂落(相樂《アヘラク》、戀落《コフラク》の類)
 〔レム)廉(有廉叙《ウレムゾ》)
 〔ヲチ〕越(越乞《ヲチコチ》、越《ヲツ》をヲチと云は、乞《コチ》の例なり、)
 〔ヲト〕越(越女《ヲトメ》、越《ヲツ》のツをトに轉用たり、)など見えて、此集に二合假字を用たるさま、大略かくのごとし、(盡(ク)もらさず載たるにはあらず、餘はこれらに准(ヘ)知べし、)その中に、遷金《カヘリコム》、知三《シラサム》、とやうに訓音交へても用ひ、或は欝瞻《ウツセミ》、越乞《ヲチコチ》など、みながら二合假字をも用ひ、又|※[日/木]鳥《カホトリ》、各鑿《カクノミ》、などやうにも、さま/”\に用たること、上に擧たるが如し、
   借字
借字《カリモジ》と云ものも、云もてゆくときは、假字と云に差別はなきがごとくなれども、細にいふ時は、右に云る假字とは異なり、さるは文字の音《コヱ》を用ひず義《コヽロ》をとらず、其訓を異意《アダシゴヽロ》に借て書るを云、たとへば知さむなどいふさむを、佐牟《サム》と書も三《サム》と書も共に假字なるを、寒《サム》と書は、暑寒《アツサム》の寒を借持來て、辭の佐牟《サム》に用たるにて、これらの類をば、すべて借字としるせり、古事記、書紀などにも、神名人名地名等には、この借字を用たること殊に多く、其餘たゞの言にも、まれに用ひたり、かの古事記序に、因v訓述者詞不v逮v心とある是なり、さて集中などには、此借字に書る種々ありて、めづらしからぬことなるを、後世になりては、たゞ文字にのみ心をつくる故に、いかにぞや、かたぶかるゝこともあめるを、古は言を主《ムネ》として字には拘らざりしかば、いかさまにも借て書ること多し、其字は左のごとし、
〔ア〕朝(麻の借字)蟻(有の借字)秋(飽の借字)阿白《アシロ》(網代の借字)飽田《アクタ》(芥の借宇)足利思代《アドモヒテ》(率而《アドモヒテ》の借字)
(82)〔イ〕慍《イカリ》(碇の借字)稻(寐の借字)言惜《イフカリ》(欝悒《イブカリ》の借字)市白《イチシロ》(灼然《イチシロ》の借字)石相《イハヒ》(齋《イハヒ》の借字)
〔ウ〕浦《ウラ》(心《ウラ》の借字)占《ウラ》(裏の借字)牛(大人《ウシ》の借字)寫(顯《ウツシ》の借字)打乍《ウツヽ》(現の借字)受日《ウケヒ》(祈誓《ウケヒ》の借字)菟楯《ウタテ》(轉の借宇)得干《ウカレ》(所《レ》v浮《ウカ》の借字)
〔オ〕息《オキ》(奧の借宇)押日《オスヒ》(襲覆《オスヒ》の借字)大欲《オホヽシ》(欝悒《オホヽシ》の借字)
〔カ〕辛《カラ》(韓の借字)柄《カラ》(故《カラ》の借字)肩(片の借字)固《カタク》(難の借字)闕(如比《カク》の借字)刈(假《カリ》、また鴈の借字)金(之根《ガネ》の借字)兼(不根《カネ》の借字)氈《カモ》、※[毛三つ]《カモ》、鳧《カモ》、鴨《カモ》(哉《カモ》の辭の借字)※[金+施の旁]染《カナシミ》(悲の借字)
〔ク〕熊(隈《クマ》の借字)鞍四《クラシ》(令《シ》v暮《クラ》の借字)蜘※[虫+厨]《クモ》(辭のクモの借字)钁《クハ》(辭のクハの借字)
〔コ〕言(事、また毎《コト》の借字)粉枯《コガレ》(所《レ》v焦《コガ》の借字)
〔サ〕酒(避《サケ》の借字)障《サヘ》、塞《サヘ》、禁《サヘ》(副《サヘ》の辭の借字)
〔シ〕霜《シモ》、下《シモ》(辭のシモの借字)然、牡鹿《シカ》(辭のシカの借字)胡粉《シラニ》(不知《シラニ》の借字)白鳴《シラナク》(無《ナク》v知《シラ》の借字)小※[竹/條]生《シヌハユ》(所《ユ》v慕《シヌハ》の借字)
〔ス〕摺(爲《スル》の借字)鈴寸《スヾキ》(鱸の借字)酢堅《スガタ》(形容《スガタ》の借字)簀竹跡《スダケド》(雖《ド》2參集《スダケ》1の借字)
〔セ〕責(將《ム》v爲《セ》の借字)
〔タ〕玉(魂《タマ》の借字)谷(辭のダニの借字)足《タル》(辭のタルの借字)鶴寸《タヅキ》(手著《タヅキ》の借字)
〔チ〕塵(散《チリ》の借字)
〔ツ〕筒《ツヽ》(乍《ツヽ》の借字)舂《ツキ》(附の借字)鶴《ツル》(辭のツルの借字)管士《ツヽジ》(躑躅《ツヽジ》の借字)
〔ト〕年《トシ》(辭のトシの借宇)友《トモ》、伴《トモ》、侶《トモ》、鞆《トモ》(雖《ドモ》の借字)
(83)〔ナ〕薙《ナギ》、水葱《ナギ》(和《ナギ》の借字)嘗《ナム》、味試《ナム》(辭のナムの借字)苗《ナヘ》(辭のナヘの借字)梨《ナシ》、哭《ナク》(無《ナシ》の借字)名積《ナヅミ》(苦惱《ナヅミ》の借字)名鴈《ナカリ》(無《ナカ》リの借字)成《ナス》、鳴《ナス》、生《ナス》(如《ナス》の借字)夏樫《ナツカシ》、夏借《ナツカシ》(昵懷《ナツカシ》の借字)長柄《ナガラ》(乍《ナガラ》の借字)
〔ニ〕庭(辭のニハの借字)西(辭のニシの借字)
〔ヌ〕塗《ヌル》、漆《ヌル》、水《ヌ》【◎少カ】熱《ル》(辭のヌルの借字)額《ヌカ》、糠《ヌカ》、粳《ヌカ》(辭のヌカの借字)
〔ノ〕乘《ノリ》(苔《ノリ》の借字)
〔ハ〕蠅《ハヘ》(延《ハヘ》の借宇)羽計《ハヾカリ》(憚の借字)秦《ハダ》(膚の借宇)二十《ハタ》(機の借字)食《ハム》(辭のハムの借字)墓(辭のハカの借字)椅《ハシ》、橋(辭のハシの借字)匍匐《ハヒ》(辭のハヒの借字)
〔ヒ〕一《ヒト》(人《ヒト》の借字)櫃《ヒツ》(辭のヒツの借字)※[泥/土]打《ヒヅチ》(濕《ヒヅチ》の借字)
〔ヘ〕蛇(可《ベミ》の借字)
〔マ〕待(松《マツ》の借字)猿《マシ》、申《マシ》、増《マシ》、益《マシ》〔辭のマシの借字)纏《マク》、卷《マク》(辭のマクの借字)
〔ム〕六倉《ムグラ》(葎《ムグラ》の借字)
〔モ〕本欲《モトホリ》(廻《モトホリ》の借字)
〔ユ〕湯龜《ユカメ》(將《メ》v行《ユカ》の借字)湯谷絶谷《ユタニタユタニ》(猶豫《ユタ》ニ猶豫《タユタ》ニの借字)
〔ワ〕綿《ワタ》(海《ワタ》、また腸《ワタ》の借字)
〔ヲ〕鴛鴦《ヲシ》(辭のヲシの借字)など見えて、此集に借字を用ひたるさま、大略かくのごとし、(なほ多くあれど、みながら載むは、中々にわづらはしければ、今は其目なれたるのみを引出づ、餘は右に准(ヘ)知べし、)その中に、言借《イフカリ》白成る鳴《シラナク》など、みながら借字をも用ひ、また鶴《ツル》、鴨《カモ》などやうに、はなちても(84)かけること多く、又|管士《ツヽジ》鞍四《クラシ》などやうに假字まじりにも書(キ)、なほくさ/”\に用ること、これかれ多くあれど、みな上に擧たるに准(ヘ)知べし、その用ひたるすべての心ばえは、假字と同じく文字には拘はらず、たゞその訓を借用たるのみなり、故(レ)吾夫を云|都麻《ツマ》に、夫字を填たるは正しく、吾妻を云|都麻《ヅマ》に、妻字をあてたるは正しきを、夫と書べき處に妻と書(キ)、妻と書べき處に夫とかける類は、たゞその訓の同じきを借たるのみにて、これも借字なり、されば夫妻の字を、彼にも此にも用たることの多きにて、その訓だに同じければ、強て字には泥まざりしことを思ふべし、
   正字
正字《マサモジ》と云は、安米都知《アメツチ》と云に、天地の字を填たる類なり、しかるに處によりては天は阿麻《アマ》とも曾良《ソラ》とも訓べく、地は久爾《クニ》とも登許呂《トコロ》とも訓べきが故に、假字書の正しきには及《シカ》ざることもあり、されど言の意を具るかたには、假字書にまされることあり、夜麻可波《ヤマカハ》と云に山川の字、比牟加之《ヒムカシ》爾之《ニシ》と云に東西の字を填たるも、阿米都知《アメツチ》と云に天地の字を填たるに同じ、しかるに、東國を云|阿豆麻《アヅマ》に東字を填たるは、阿米都知《アメツチ》と云に天地の字を填たる類にはあらで、阿豆麻と云と云|名號《ナ》起りて後に、外にあつべき字なき故に、姑(ク)填たる字にて、もとよりの正字ならず、吾妻、吾嬬と書も、その名の由縁に本づきて填たる字なれば、假字借字の類とはたがひたれども、これももとよりの正字にはあらず、阿爾於等《アニオト》と云に兄弟、阿禰伊毛《アネイモ》と云に姉妹の字を填たるは、かの天地の類にて正字なるを、皇朝の上古に伊毛と云しは、夫婦にまれ、兄弟にまれ、他人にま(85)れ男と女と雙ぶときに、其女をさして云稱なれば、阿禰伊毛と云伊毛に、姉字を填たるは正しきことながら、ひろく女をさしていふ時の伊毛には妹字あたらねども、姑姉妹の間の妹に就て填たるものにて、かたへは正字、かたへは借字なるがごとし、比那《ヒナ》と云に夷字を書るは、正しく當れる字にはあらざれども、外に填べき字なきゆゑに、しばらく此字を書るにて、これももとよりの正字にはあらず、可須美《カスミ》には靄字を填べきを、古より霞字をかき、烏名の宇《ウ》に※[盧+鳥]※[茲+鳥]の字を填べきを、古より鵜字をかける類も多くして、これらの類を精(ク)論ふときは、長きことにて、たやすく盡すべきにあらず、本條に其字の出るにつきて、いはではえあるまじきをば、よりよりにさだすべし、
   義訓
義《コヽロ》に就て訓たる字にもさま/”\あり、玄黄は安米都知《アメツチ》の正字にはあらざれども、天地の義に相當れる文字なるがゆゑに、義を得て安米都知と訓せたるなり、これは彼方の文字のあるがまゝを、取持來て訓るものにて、父母を於夜《オヤ》と訓(ミ)、あるは暖を波流《ハル》、寒を布由《フユ》、あるは供養《タムケ》、任意《ヨシ》、委曲《ヨク》、尋常《ヨノツネ》など訓も同じ類なり、丸雪を阿良禮《アラレ》と訓は、かの玄黄《アメツチ》の類とはいさゝか異りて、此方にて、其物のあるかたちを考へて、ことさらに字を連ねなして訓せたるものなり、冬風《アラシ》、水鳥《ウ》、不顔面《シヌフ》、親々《チヽハヽ》、戀水《ナミダ》、不行《ヨド》、西渡《カタブク》不遠《マヂカキ》、得物矢《サツヤ》、耳言《サヽメク》、重石《イカリ》、青頭鷄《カモ》、雪穗《タヘノホ》、礒人《アマ》などある同類なるべし、此餘|鹿猪《シシ》、鶉雉《トリ》、不樂《サブシ》、不怜《サブシ》、求食《アサル》、止息《ヨドム》、不通《ヨドム》、不逝《ヨドム》、火氣《ケブリ》、白氣《キリ》、不數見而《カレテ》、不清《オホヽシク》、不明《オホヽシク》、開木代《ヤマシロ》、角髪《ミヅラ》、戯奴《ワゲ》、登時《スナハチ》、面羞《オモナミ》、希將見《メヅラシ》、最末枝《ホツエ》、丁子《ヲトコ》、丁女《ヲトメ》、建怒《タケビ》、輕引《タナビク》、不穢《キヨク》、若末《ウレ》、不得《カネ》、無怠《タエズ》、東細布《ヨコグモ》、非不飽《アケドモ》、八頭《ヤツ》、平生《ハフコ》、痛念《ナゲク》、鷹獵《トガリ》など書る類(86)には、かの玄黄《アメツチ》に同じくて、彼方にて、もとより熟ねたる字のあるがまゝを、とり來てよめりと思はるゝも、又かの丸雪《アラレ》に同じく、此方にて、其物のあるかたちを考へて、ことさらに字を連ねなして、訓せたるもありと見ゆ、金厩《ニシノマヤ》、角厩《ヒムガシノマヤ》の金角《ニシヒムガシ》、白風《アキカゼ》の白《アキ》、若月《ミカヅキ》の若《ミカ》などの類は義訓にて、厩風月などは正字なり、又一種|神樂聲浪《ササナミ》、跡位浪《シキナミ》など書る類あり、これは神樂聲は、義を得て佐々《サヽ》と訓べく、跡位は義を得て志伎《シキ》と訓べき字なれば、かの戀水《ナミダ》、西渡《カタブク》など書に理は同じけれども、即その義を得て訓る字をとり來て、再び借字のごとくに用へるなり、しからば神樂聲《ササ》、跡位《シキ》などは、かの借字の條に、收べきことともいふべけれども、海《ワタ》を綿《ワタ》、澳《オキ》を息《オキ》と書る類の、一わたりの借字には非ず、もと義を得て訓る字なるから、此間に載てことわりつ、和《ナギ》ぬると云に水葱少熱《ナギヌル》と書るは、水葱《ナギ》は全(ラ)借字、少熱《ヌル》はもと義を得て訓る字なるを、ふたゝび借字に用たるにて、今と同例なり、なほ此外にも精く別て云ときは、くさ/”\の義もあれど、わづらはしければもらしつ、又一(ツ)義を得てかける類あり、石走垂水之水能早敷八師《イハバシルタルミノミヅノハシキヤシ》の早《ハ》、妹目乎見卷欲江《イモガメヲミマクホリエ》の欲《ホリ》、霍公鳥飛幡之浦《ホトヽギストバタノウラ》、白鳥能飛羽山松《シラトリノトバヤママツ》などの飛《ト》、登能登入雨零河《トノグモリアメフルカハ》の零《フル》、我心盡之山《アガコヽロツクシノヤマ》の盡《ツクシ》、吾紐乎妹手以而結八河《アガヒモヲイモガテモチテユフヤガハ》の結《ユフ》、吾妹兒爾衣借香《ワギモコニコロモカスガ》の借《カス》、韓衣裁田之山《カラコロモタツタノヤマ》の裁《タツ》、橡之衣解洗又打山《ツルバミノキヌトキアラヒマツチヤマ》の又打《マツチ》、眞鏡蓋上山《マソカヾミフタガミヤマ》の蓋《フタ》、眞十鏡見宿女乃浦《マソカヾミミヌメノウラ》、眞十鏡見名淵山《マソカヾミミナフチヤマ》などの見《ミ》、落雪之消長戀師《フルユキノケナガクコヒシ》の消《ケ》、明日依者將行乃河《アスヨリハイナミノカハ》の將行《イナミ》、四長鳥居名之湖《シナガトリヰナノミナト》の居《ヰ》、物部能八十氏河《モノヽフノヤソウヂガハ》の氏《ウヂ》などの類多し、これらは何となく、其物に縁《チナミ》てかけるもあれど、字によりて、其義を思ひ得せしむるが料に書るもあり、又中には字に泥て、義を混へあやまつもあるべし、なほその歌のいづるに隨ていはむ、すべて文字は假借《カリモノ》と見すぐして、訓(87)るうへの言語をだに精嚴《オゴソカ》にすれば、誤つことなしと知るべし、
   戯書
志《シ》と云ことを二二、重二、竝二、登遠《トヲ》と云に二五、久々《クヽ》と云に八十一とある類も、義を得て訓せて、さて假字《カナ》借字《カリモヂ》には用ひながら、ことさらに戯て書るものなれば、一わたりの假字借字の類にはあらず、三五月《モチヅキ》、また色二山上復有山者《イロニイデバ》などあるは、既く彼方にて書ることにて、即(チ)義訓の類なり、折木四哭《カリガネ》、切木四之泣《カリガネ》、(四はともに、器の誤ならむといへり、)三伏一向夜《ツクヨ》、中一伏三起《ナカコロ》、根毛一伏三向《ネモゴロ》などあるは、折木器《カリ》、切木器《カリ》などを、義を得て可里《カリ》と訓、三伏一向を、義を得て都久《ツク》と訓(ミ)、一伏三起、一伏三向などを、義を得て許呂《コロ》と訓る字等をとり來て、ふたゝび借字に用ひたるなり、辭のツヽ〔二字右○〕に喚鷄と書るも、義を得て訓る字をとり來て、ふたゝび借字に用たるなり、喚犬追馬鏡《マソカヾミ》、追馬喚犬《ソマ》などあるもこれに同し、所聞多禰《カシマネ》、向南山《キタヤマ》。毛人髪三《コチタミ》、羲之《テシ》、大王《テシ》、毛無乃丘《ナラシノヲカ》、二手《マテ》、諸手《マテ》、左右手《マテ》、目不醉草《メサマシグサ》など書る類は、上の戀水《ナミダ》、西渡《カタブキ》などやうに書ると同じく、義を得て訓せたるものにて、かの義訓(ノ)條に收べきことながら、いづれも、ことさらに戯れて書るにて、漢人のいはゆる隱語の類なれば、分てしるしつ、奠器圓隣《ミモロ》など書るも、右と同じ心ばえにて、いよ/\たくみなるものなり、なほ本條に至りて、そのをぢ/\にくはしくことわらむ、
   具書
阿良曾布《アラソフ》と云に、競字にてことたれるを諍競とかき、可治《カヂ》と云に、櫂字にてことたれるを、櫂合と書る類あり、那爾《ナニ》と云に、何字にてことたれるを、何物と書るも同じ、これらはそのもとの義(88)を思ひて書るにて、たゞ徒に添たるのみには非じと思はるゝなり、戀許曾増焉《コヒコソマサレ》、戀許曾益也《コヒコソマサレ》、鶯鳴烏《ウグヒスナクモ》、吾毛悲烏《アレモカナシモ》、君乎社待也《キミヲコソマテ》、妻之眼乎欲《ツマノメヲホリ》焉(鳥は焉に通(シ)用(ヒ)たり、)など焉也等の字を句末にそへて書たるは、例のからざまの助字にならひて書るのみにて、あるもなきも異《カハリ》なし、所偲由《シヌハユ》、雖干跡《ホセト》など書る類は、所(ノ)字|由《ユ》の言にあたり、雖(ノ)字|跡《ト》の言にあたりたれば、由跡等の字はいたづらものなれど、所偲はシヌバユともシヌバエとも活(キ)、雖干はホセドともホストモとも活(ク)言にて、そをまがはせじがために、ことさらに添て書るものなり、又|不《ネ》2相志思《アヒシモハ》1者《バ》など、てにをはの字を中にはさみ、將《ム》2若異《ワカケ》1など下にてにをはの字をおきてもかけり、又|誰名將有裳《タガナニカラモ》、檜橋從來許武《ヒハシヨリコム》などある類も、ことさらに添て書るものかと思はる、なほ本條に云べし、又續紀宣命、新撰萬葉には、ことに添てかける所多し、續後紀(ノ)十九興福寺(ノ)僧等(カ)長歌詞には、いよ/\そへてかける所多し、
   略書
八卷、十三卷に、山下《アラシ》とあるは、山下(ヨリ)出(ル)風也といふ意なるを略きて書りと見ゆ、一卷、十卷に、下風《アラシ》とあるも、右と同じ意なるを略けるなるべし、又十三に、阿下《アラシ》とあるも、山阿下風の意を略けるにや、二卷に、神樂浪《サヽナミ》とあるは、神樂聲浪とも書るところあれば、聲字を略きたるならむ、又一卷、三卷に、樂浪とあるは、又神字をさへも略きたるならむ、一卷、二卷などに、左右《マデ》とあるは、他所に左右手《マデ》と書たる手を略きて書たるならむ、十一十二卷に、犬馬鏡《マソカヾミ》とあるは、十三卷に、喚犬追馬鏡《マソカヾミ》と見え、又|追馬喚犬《ソマ》(杣なり、)と書る處もあれば、喚追の字を略きてかけるなり、十三に、清鏡《マソカヾミ》とあるは、眞清鏡を略き書たるか、八卷に、銅鏡《マソカヾミ》とあるは、十二卷に、白銅鏡とあるに同しければ、白(89)字を略きたるか、十一卷に、眞鏡《マソカヾミ》とあるは、同卷に眞十鏡《マソカヾミ》、眞祖鏡《マソカヾミ》、眞素鏡《マソカヾミ》などあるに同じければ、略(キ)書るならむ、餘は准へて知べきなり、
   省畫
凡字畫を省くは、漢國の書どもに、韵を※[韵の旁]と書(キ)、掃を帚とかき、蛇を它と書(キ)、※[匹+鳥]を匹【〔頭註備考、孟子集註、匹字本作※[匹+鳥]、鴨也、從省作匹、〕】とかくたぐひ、いと多かるにならひて、皇朝にても、古より便宜にまかせて、畫を省きて作《カケ》りとおもはれて、古書等に、※[虫+呉]蚣を呉公、健を建、弦を玄、他を也と作、(此等古事記に見ゆ、)村を寸と作(キ)、(石寸《イハレ》、寸主《スグリ》の類、古事記、書紀、延喜式等に見ゆ、)醜を鬼、枳を只、伎を支、倭を委、(委文《シヅリ》、大委《オホヤマトノ》國の類)波を皮、倍を※[倍の旁]、趾を止、盛を成、(冬木成《フユゴモリ》、百木成《モヽキモル》の類なり、已上古事記に出たるも、此集に出たるも、又靈異記に見えたるも、其他古書に見えたるもあり、又橘免勢と作ること性靈集にも見ゆ、免は逸の省畫なり、此集に獻を※[獻の左]と作るも省畫なるべし、なほいと多し、(等由氣宮(ノ)儀式帳に、衣若干令、袴若干要など多くかけるも領腰の省畫なり、又元享釋書に、境を竟と書(キ)、今昔物語に、滋岳川人を茲岳川人と書り、みな省畫なり
   異訓 異字
川《ツ》(字書に、津《ツ》などの字通ふ義は見えず、されど古(ヘ)皇朝にて、都《ツ》の假字に用ひし字なり、)○※[女+后]《ユヱ》(字書に、故などの字に通ふ義は見えず、されど集中に、ユヱと訓べき處に用たること往々《トコロ/\》見ゆ、)○前《クマ》(字書に、阿隈などに通ふ義は見えず、されど此方にて、クマと訓べき處に用たること多し、)○梶《ガヂ》(字書に、※[楫+戈]柁などに通ふ義は見えず、されど※[楫+戈]に通(ハシ)用(ヒ)たること古書に多し、或説には、もと柁(90)字を誤れるならむといへり、)○椋《クラ》(字書に、鞍或は倉などに通ふ義は見えず、されど古(ヘ)皇朝に、クラと訓べき處に用ひたること多し、)○椅《ハシ》(これも字書に、橋階などに通ふ義は見えず、されど古皇朝にて、ハシと訓べき處に用ひしこと多し、)○椿《ツバキ》漢籍に見えたる椿《チン》は、藥木にて、都婆木《ヅバキ》とは異物なり、都婆木に此字を用ふるは、此方にて、春木二字を一字に合せて製れる字にて、萩と同例ならむ、又槇榊などの類も同じ、和名抄に、唐韻云、椿勅倫反、和名豆波木《ツバキ》、木名とあり、これも漢籍を直に引たれど、此方の都婆木には當らぬことなり、カツヲに唐韻の鰹字を引れたると同じき順の誤なり、しかるに、からぶみ草木藥方雜記と云ものに、山茶、日本其國名曰v椿と見えたるからは、彼土にても、此方にて古くより、都婆木を椿と書なれたることを知たるなり、)○榎《エ》(字書に衣乃木《エノキ》にあつべき義は見えず、此方にて、夏木二字を一字に合せて製れる字にて、椿と同例ならむ、)○與《コソ》(希望靜の許曾《コソ》に用たり、されど字書にしか用ふべき義見えず、先輩の説に、乞の草書より誤れるならむと云へれど、いかゞ、蒙求に、前漢朱買臣云々、買臣乞2其夫(ニ)錢1令v葬、注に與亦曰v乞とあれば、與乞は彼方にても通(ハシ)用(ヒ)たることありとおぼゆ、○※[木+求]《ウチ》(※[手偏+求]と作る本もあり、共にウチと訓べき義をしらず、但し字彙に、一曰鑿首とあれば、此意をとれるか、詳ならず、)○湖《ミナト》(ミナトと訓べき義をしらず、事文類聚に、群書要語、湖都也、流涜四面所2隈都1也とあれば、この意によれるものか、考べし、)○摺《スル》(玉篇に、摺敗也折也、とありてスルと訓べき義見えず、同書に、榻手打也とあれば榻字か、又摺摩拭也、字彙に、摩也擦也、とあれは揩字か、)○粳《ヌカ》(糠などに通ふ義は見えず、書紀にも此集にも他の古書にも、多くヌカに用ひたり、)○?《ツマ》(妻などに通(ハシ)用(ヒ)たる據をしら(91)ず、但し字彙に?※[女+臣]、史晋獻公所v獲驪戎女又美也とあり、これらによりて用來たるか、なほ考べし、上件の字ども、ひたすら字書になきにはあらず、字體はからぶみに出たるものから、しか訓べき義の見えざるも、又詳ならぬもあり、そも/\皇朝の古書は、もはらもろこし唐と云し世より、あなたの書によれるを、今世に流布《ホドコ》れる字書どもは、かの唐と云しよりあなた用ひし字を漏し、又字は傳へながら、其音義をおとせることもおほしとおぼゆれば、中々に皇朝の古書の字の、彼方の今の字書より古くて、正しきもありとおもはるれば、前《クマ》椋《クラ》椅《ハシ》などもしが訓べき義を、彼方にては遺失《ウシナ》ひたるが、此方の古書に傳りたるもあるべく、又椿榎などは、※[木+香]《カツラ》鰹《カツヲ》の類にて、もと二字を一字に合せて、そのかみ此方にて成れる字なるべければ、もろこしの書どもに、その字體は出といへども、意義の合ざるはさるこななれば、漢國の書によりて、とかく論ふべきにあらざるもあり、これらの類のみにあらず、すべて皇朝の古(ヘ)、此方にて製れる字ども、これかれありとおもはるゝ謂《ヨシ》、次下にいはむ、和名抄(ノ)序に、其餘漢語抄不v知2何人撰1云々、其所2撰録1、音義不v見、浮僞相交、海蛸爲v※[虫+瓜]、河魚爲v※[魚+(非/連)]、祭樹爲v榊、※[さんずい+操の旁]器爲v樣等是也、云々、とある榊※[木+泉]の類は、此方にて製れる字なるから、からぶみにその音義不v見と云はさらなり、順は、異國の書に出ざる字のかぎりは、おしこめて浮僞相交と評《イハ》れつれど、文字の國こそあれ、皇朝は言靈のたすくる國、言靈のさきはふ國と古語にもいひて、言語を主《ムネ》として文字をば從《ヤツコ》とかろしめきつれば、字はかのから國に出たるにもあれ、此方にて製れるにもあれ、言語を傳ふるための、かりの目じるしなれば、さのみ極めて論べきにあらず、抑々皇朝の古書に交(ヘ)用られたる字に、漢籍によりて求る(92)に、其音義詳ならざる字ども多く、ことに新撰宇鏡などに至りては、漢國の字書に合がたき字をあまた載たること、世の學者のよく識(レ)ることなり、其は古より、此方にて製れる字の、普く世に行はれしをまじへ載たるがゆゑなり、弘仁十四年、修理算師山田福吉と云人の撰びて上りし、功程式の中に見えたる杣字は、福吉が作りし字なるよし、江談抄にもしるされたり、この杣字のたぐひ、古今許多あるべし、然るを和名抄に、この功程式を引て、杣字を所v出未v詳と注《イヘ》れど、福吉が作れる字なるからは、漢國の書にて出る所の見えざるは、いふまでもなきことなるをや、書紀に、天武天皇十一年三年丙午、命2境部連石積等1、更肇俾v造2新字《ニヒナ》一部四十四卷1と見えて、私記に、此書今在2圖書寮1、體頗在2梵字1(頗在の在は、似の誤ならむ、)とあり、これ皇朝にて、新に製りて行はれける字等を編められたるものにや、さらばこの境部氏の新字に出たるも、そのかみ多くありしならむ、又肥人書と云物、釋記に、其字皆用2假名1、或其字不v明、或乃川等明見之と見えて、この肥人書といふものは、肥前肥後の國中にて行はれし當昔一體の文字なりしとかや、これらの流れ來て、交り用られしことのありし類もあらむ、しかるを漢國の書に出ざるは、ひとへに誤誤なりと思はむは、いと淺見のわざなるべし、雫《シヅク》畠《ハタケ》伽《トキ》※[門/山]《ツカフル》扨《サテ》槇《マキ》※[木+色]《モミチ》籾《モミ》糀《カウヂ》鱈《タラ》鰆《サハラ》鰤《カマス》※[虫+夜]《タヒラギ》など、後世に普く行はるゝ字なるを、俗謬なりとて、ひたすらにすつるときは、ことによりては、かへりて便なきことありなむをや、○鞆《トモ》(字書に見あたらず、古より此方にて、射具のトモに用(ヒ)來れり、)これからぶみに見えざるは、かのもろこし唐と云し世よりあなたに行はれし字なるが、後に彼方の字書どもには脱たるか、又は境部氏が新字の類なるか、その詳なることは决めがたし、(93)○麿これは麻呂の二字を一字に合せたるものにて、白水郎を泉郎と作るに全同じ、眞木を槇、神木を榊、堅魚を鰹と作るもこれに近し、)○坏《ヅキ》(字書には見えたれども、酒器の義は見えず、杯の木偏を土に代たるものなり、)○※[木+安]《クラ》(字書に※[木+安]同v案と見えて、几案の義にて、鞍と通ふ義はなし、革偏を、木に代たるなり、)○桙《ホコ》(鉾字の金偏を、木に換て作るものなり、)○堵《ミヤコ》(玉篇に、垣也五版爲v堵、と見えて、都に通ふ義はなし、※[おおざと]旁を土偏に換て作るものなり、)これらは字偏をことさらに換て作《カケ》るものにて、寫誤にはあらず、(埼も崎字の山偏を、土に換たるものかとも思はるれども、字書に埼同v碕と見えて、崎埼碕とも彼方にても行はれし字なるべし、字鏡にも、碕(ハ)石之出太留佐伎《イハノイデタルサキ》とあり、)○完《シヽ》(玉篇に完全也保守也とありて、肉に通ふ義なし、字書に、宍は肉の古宇なるよし見えたれば、もとは宍を誤れるなり、されど集中のみならず、皇朝にては古書に宍とあるべきを完と作ること多し、)○芽《ハギ》(和名抄萩條に、辨色立成新撰萬葉集等用2※[草冠/〓]字1、唐韻※[草冠/〓]音胡誤反草名也と見え、字書に、※[草冠/〓]候誤切草名とあれば、※[草冠/〓]なるべきを、字形の甚ちかきによりて、昔より誤れるなるべし、芽は玉篇に、語家切萠芽とあればなり、)○牧《ヒラ》(字書を考るに、音も義も枚と通ふ義は見えず、枚を誤れるなるべし、)○※[弓+族の旁](族とあるべきを※[弓+族の旁]と作り、方偏と弓偏と通(ハシ)用たること古書に多し、)○隅《クマ》(字書に、阿隈に通ふ義は見えず、隈を誤れるなるべし、)○※[しんにょう+至]《フル》(逕字を字書に至也と注して、逕を※[しんにょう+至]とも作《カク》ゆゑ、※[しんよう+経の旁]を※[しんにょう+至]に誤りしものならむ、)○※[人偏+(云/丹)](※[人偏+稱の旁]と通(ハシ)書り、※[のづめ]を云と作ることは見あたらず、冉を丹と作ことは、干禄字書に、〓衰上通下正、※[身+冉]※[耳+丹]上通下正とあり、)○烏(焉字と通用ひたり、但和名抄装束部、烏帽の注に、俗訛烏爲v焉、今按烏焉或通、見2文選注玉篇等1とあれば、古は彼(94)方にて、もとより通はし書る字なりしか、今の玉篇にも、烏(ハ)語(ノ)聲(ナリ)とは見えたり、)○※[片+守](將字なり、後世此方にて淳を※[さんずい+字]とかけることあり、同類なり、)○釼《クシロ》(釵字なり、釵は釧と同じ、遊仙窟にも、金釧とも、金釵とも交(ヘ)書たり、叉を此方の古書に、刃と作ること、次の靱字に相照(ス)べし、)○靱《ユキ》(靫字なり、歌は盛v箭室と字書に見えたり、)○※[麁の異体字]《アラ》(※[鹿三つ]の通字麁字なり、)○※[就/火]《ニギ》(熟字なり、)これらは、その本字を誤來れることしらるといへども、久しく世に用なれたる字を、容易《タヤス》く改め作《カヽ》むは、中々にまどふこともあるべし、和名抄序にも、故復有d俗人知2其訛謬1不v能2改易1者u、※[魚+生]訛爲v鮭、※[木+温の旁]讀爲v杉、云々等是也、と見えたる、この※[魚+生]を鮭とかける類なるべし、○※[示篇+刀](初字なるべし、王逸少が書の佛遺教經に、※[示篇+刀]被等の體あれば、彼方にても、古くはネ※[衣偏]通(ハシ)用(ヒ)たることありしならむ、)○※[仰の旁]《シメ》(印字の減畫なり、干禄字書に、迎※[しんにょう+印]上通下正とあるに准ふべし、)○※[良+おおざと](郎字の減畫なるべし、)○※[寧の異体字](寧字の減畫なり、)○〓(篋字の減畫なり、)○〓(饌字の減畫なり、)○〓(懸字の減畫なり、但し智果心成頌に、繁則減除とある注に、王書懸字去2下一點1とあるより來れるか、○〓《ラム》(濫字の減畫なり、濫を※[濫の異体字]と作こと、字書には見えざれども、※[さんずい+東]を凍、※[さんずい+令]を冷、涼を凉、潔を※[にすい+潔の旁]とかくに同類なり、)○串《クシ》(※[串の異体字](ノ)字の減畫なるべし、)○〓《ヒモ》(紐字の減畫なり、)○〓《カヘル・コフ》(眷字の減畫なり、)○〓(免字の減畫なり、)○〓(挽字の減畫なり、)○〓《ヤド》(宿字の減畫なり、)○〓《キル》(殺字なり、干禄字書に、※[殺の異体字]※[殺のもう一つの異体字]殺上俗中通下正とあれば、※[殺の異体字]の減畫なり、)○〓(載字の減畫なり)○〓(磐字の減畫なるべし)、○豊(豊字の減畫なり、)○〓《カスミ》(霞字の減畫なり、)○〓《コヒ》(戀字の減畫なり、集中悉く※[戀の異体字]と作り、)○※[攣の手が十](※[攣の手が十]字の減畫なり、※[攣の手が十]古率字と見えたり」○※[?]の異体字](?字の減畫か、)○〓(鬢字の減畫なるべし、)これら、から人のいはゆる減畫の類ながら、彼方の書にて、今はを(95)さ/\見及ばざるが如くなれども、古は彼方にても、かくざまに書しもしるべからず、もろこし孫虔禮が書譜に、眞虧2點畫1猶可v記v文と見えて、書家《テカキ》の書に、眞を※[眞の異体字]、贋を※[贋の異体字]、點を※[點の異体字]、畫を※[畫の異体字]と作《カク》類をいふとそ、又智果が心成頌に、繁則減除、疎當2補續1とも見え、歐陽三十六法と云ものゝ中に、増減の法を出して、増は新を※[新の異体字]、建を※[建の異体字]、減は曹を※[曹の異体字]、美を※[美の異体字]とかく類とせり、○苅《カル》(字書に見えず、刈の増畫なるべし、延喜式にも、苅安草とあり、)○※[しんにょう+更]《クシゲ》(匣字の増畫なるべし、※[神の異体字]※[虔の異体字]などの類に、匣に一點を加へて※[匣の異体字]と作るが、つひに※[匣のもう一つの異体字]となれるなるべし、)○※[匣のもう一つの異体字]《クシゲ》(匣字の増畫なること上のごとし、Lを※[しんにょう]と作ことは、干禄字書に、※[しんにょう+甲]匣上通下正とあり、)○〓(〓字の増畫なり、王逸少が書の佛遺教經に、仰を※[仰]の異体字]と作るに同じ、)○※[御の異体字](御字の増畫なり、説上に同じ、)○〓(削字の増畫なるべし、)○〓(宣字の増畫なるべし、耆を※[耆の異体字]、喩を諭と作こと干禄字書に見えたり、同類なり、)○※[時の異体字](時字の増畫なり、上に准べし、)○※[晩の異体字](晩字の増畫なり、上に准べし、)○※[樂の異体字](樂字の増畫なるべし、上に准べし、)○※[振の異体字]《フル》(振字の増畫なるべし、)○※[欲の異体字](欲字の増畫なり、益に一畫を増て※[益の異体字]と作よし、干禄字書に見えたると同例也、)○詫(託字の増畫なり、但詫字、玉篇に見えたれど、託とは音義別なり、)○※[感の異体字](感字の増畫なるべし、)○※[敝の異体字](敝字の増畫なり、干禄字書に、〓弊上俗下正、とあるに准ふるときは、敝に通(ハシ)用ひしならむ、)○〓(〓字の増畫なるべし、)○〓《シメ》(標字の増畫なるべし、)○〓(誂字の増畫なり、)○〓(鴈字の増畫なるべし、〉○〓(幹字の増畫なるべし、)○〓(橿字の増畫なり、)○〓(隴字の増畫なり、)これら唐人のいはゆる増畫の類ながら、彼方の書にて、今はをさ/\見及ばざるがごとくなれゝども、古は彼方にてもかくざまに書しもしるべからず、上にいへる如く、疎當2補續1とありて、王逸少(96)が書に、神に一點を加へて〓と作《カキ》、處に一點を加へて〓と作、又却字從v※[おおざと]なども云ことありて、かしこにても、點畫を増て作ることの多ければ、今世の字書に合ずとて、たやすくは改めがたきことなるべし、さて前にもいへるごとく、字彙玉篇等の字書に、某字は某字と不v同、音義もとより異なりとて別てる字を、かの唐と云し世までの書家《テカキ》の説には、なほ然いはず、古の通字なりなど云て、字書と齟齬《クヒチガ》ふことの多きは、當時なべての文學者のいふところによらず、ひたすら漢魏晋の名家どもの、眞蹟を據として、いひたることなればなり、そもそも今(ノ)世に行はるゝ字書は、もろこし魏晋と云(ヒシ)世よりあなたの書家どもの書る字體に、さま/”\ありしことを、深くたづねずしてかけるものなるを、今の字彙玉篇等のみを點※[手偏+僉]《カムガヘ》て、古の書家は正字を知ずして書るものなりと思ふは、いと可笑しきことなりと、さきに廣譯知慎もいひおきたりき、○※[大/十](玉篇に、※[大/十]《タウハ》丑高切、徃來(シテ)見(ル)貌也、説文進趣也と見え、字彙にも※[大/十]从大从v十與2根本字1不v同とありて、本とは音義ともに、各別なりしとしたるを、もろこし晋唐の書家、多くは本を※[大/十]とかき、干禄字書にも※[大/十]本上通下正とあるからは、彼方にても同義の字とせること、さらに疑ふべからず、しかるを字書どもには、古の書家の書る字體を、深く考ることなくして、世に行はれ來つる字體のみを、編集たるがゆゑに、其説どもの合ざること、これかれ多し、)○※[大/十](干禄字書に、※[大/十]夭上通下正とあり、)○※[女+※[大/十]](上に准べし、同書に、※[さんずい+※[大/十]]沃上俗下正とあり、※[食+※[大/十]]飫もこれに准べし、)○※[直の異体字]《タヾ》(干禄字書に、〓〓上俗下正とあり、)○児(干禄字書に、児兒上俗下正とあり、)○※[置の異体字]《オク》(干禄字書に、〓〓上俗下正とあり、)○〓(廻字と同じ、すべて※[えんにょう]を、※[しんにょう]と作ること、干禄字書に、〓延上通下正、〓庭上俗下正、〓廷(97)上通下正、〓建上通下正、とあるに准べし、)○柏《カシハ・カヘ》(干禄字書に、栢柏上俗下正とあり、字彙にも、柏俗字栢字あり、))、○〓《ハラ》(干禄字書に、〓原上俗下正とあり、)○〓《ワスレ》(干禄字書に、〓佞上俗下正、字彙に、〓(ハ)※[手偏+旁](ノ)本字とあるなどに准るに、忘をも〓と作《カキ》しにや、)○〓(干禄字書に、〓等上通下正とあり、すべて竹冠を艸冠に換て、〓〓〓〓など作ること、もろこしの書家の書に例多し、)○〓(筥と同じ、上に准べし、)○栲《タヘ》(干禄字書に、〓考上俗下正とあり、但し玉篇補に、〓與v栲同とあるからは論なし、)○〓(干禄字書に、〓〓劉上俗中通下正とあるに准ふべし、柳を〓と作るも同例なり、字彙に、卿从v夕(ニ)誤とあるも、通(ハシ)書ることのありしがゆゑなり、)○〓《ハサム》挿と同じ、(干禄字書に、巣〓上通下正、〓嫂〓上俗中通下正などあるに准ふべし、)【〔頭注、字彙に挿俗挿字、秉燭談續字彙補〓字註曰、音〓日本有2甲〓州1見2平攘録1亦作2甲〓1とあり、和爾雅にこれを引て作2〓〓1者竝非なり、〓是なりと見ゆ、〓の草書を見誤り遂に〓字と覺えたるなり、今は多く〓の字をかく、これも無字なり、〕】○〓(干禄字書に、〓矜上通下正とあり、)○〓《ケチ》(干禄字書に、〓滅上俗下正とあり、)○〓(干禄字書に、〓苑上藥名、下園苑とあれど、字書に與v苑通と見ゆ、)○〓(干禄字書に、〓羨上俗下正とあり、)○〓(干禄字書に、〓蒙上通下正とあり)、○〓〓と同じ、干禄字書に、〓變上俗下正とあるに准ふべし、但し〓は攵に从、斐は文に从て、もと異なれども相類(フ)べきか、また〓雙上俗下正ともあり、考食べし、)○〓《シホ》(干禄字書に〓鹽上通下正とあり、字彙に鹽俗作v塩とあり、つれ/”\草に、しほと云文字を土偏なりと云て、わらはれたるよし見えたれど、彼方にても塩〓等とかき、此方にても古より〓とかきならひたれば、さのみわらふべき事にもあらざるをや、)○〓《シホ》字(彙に、左傳成公六年、沃饒而迄v〓、註〓鹽也と見えたり、)○竪(干禄字書に竪竪上通下正とあり、)○〓(干禄字書に、潔〓上通下正とあり、しかるを字彙に(98)は、此俗字也、从v水者爲v正とあり、)○〓(干禄字書に、〓啓〓禰竝上通下正とあり、)○〓《シメ》(干禄字書に、標〓、上標記字必遙反、下〓梅字、頻小反とあれば、標なるべく思ふに、字彙に、〓掲也〓記也と見え、標表也立v木繋2綵於上1爲2標記1也とあれば、〓標別字なれども、共に標記する義あれば、通はし用ひたるか、)○〓(干禄字書に、〓〓上通下正とあるに准ふるに、〓字をかくかけるならむ、)○〓(干禄字書に、嗣〓上俗下正とあり、)○〓(干禄字書に、〓蒜上俗下正とあり、)○盤《イハ》(干禄字書に、磐盤、上磐石下盤器とあれば、伊波《イハ》に盤字を書は非なり、然るに事文類聚に、宋之問嵩山天門歌、登2天門1兮坐2盤石之※[石+憐の旁]1云々とあるは、磐字を誤寫せるものか、但し續字彙補に、盤與v磐同、漢文帝紀、盤石之宗、荀子、國安2于盤石1、また康煕字典に、成公綏嘯賦坐2盤石1、注盤大石也とあるからは、漢國にても後世は、盤磐通(ハシ)用(ヒ)たるにやあらむ、されど彼方にても、もとは磐を誤て盤と作るよりのことなるべし、)○〓(干禄字書に、〓顧上通下正とあり、)○?《カリ》(玉篇に、?古曷切、?狙獣名、獵力渉切、犬取v獣とありて、音義各別なりとせるを、干禄字書に、?獵上俗下正とあれば通し書るなり、)○縵《カヅラ》(續字彙補に、與v蔓同延也とあるによりて、カヅラと訓るか、)○※[草冠/〓]《カヅラ》(もしは※[草冠/縵]字の誤寫か、されど集中こと/”\く、※[草冠/縵]字なるからは、所據あるべし、〓字に准考べし、※[草冠/縵]は字彙玉篇に、莫半切、草名とあり、)○〓(玉篇増續に、〓漫本字とあり、)○〓(玉篇増續に、〓同v慢とあり、)○〓《フヂ》(集中藤を悉〓と作り、干禄字書に、恭泰上俗下正とあり、これに准ふべし、)○羈《タビ》(干禄字書に、羈〓、上羈勒下〓旅、とあるによれば別義なり、されど玉篇に、羈居〓切旅也とあるからは、彼方にても通(ハシ)書るなり」、)これら、前に云る減畫の類と思はるゝも、増畫の類と思はるゝもありて、各々字の下に注せる(99)ごとく、おほくは彼方の書に、その通はし書るよし見えたり。中に藤字を〓と作がごときは、正しく其字には、さるよし見えずといへども、これ又准ふべき例あることなれば、通はし用ひけむことしらるかし、)○〓(縣の轉換なり、県を貝と作ことは、懸を〓と作に同じ、上に出(ツ)、)○〓《ソム》(染の轉換なるべし、)○〓《ツヽム》(〓の轉換なるべし、)○〓《ミチ》(滿の轉換なるべし、滿从v〓俗从v〓誤と字彙にあれば、雨と兩とは通(ハシ)書るこことありしなり、)これら、今世の字書にて見及ばずといへども、もろこしの書家者《テカキビト》の、いはゆる轉換にて、和を〓とかき、柳を〓とかけるに同じ類なれば、もとより彼方にても、かくざまに作りけむ、)○薩(薩の借換なるべし、)これも今の字書にては、見及ばずといへども、もろこしの書家のいはゆる借換にて、窮桃響の類に、もとより彼方の人も作《カケ》りけむ、)○大夫《マスラヲ》(これは、もとは丈夫とありしを誤寫せるか、されど集中おほくは、大夫とあるにより、大丈夫の丈字を略けるものならむ、といふ説もあり、但し四卷には、多く丈夫と作り、)○無乏《スベナシ》(スベナシと訓る義詳ならず、しかれども集中こゝかしこ、かく訓べき處に用ひたれば、所據あらむ、)○泉郎《アマ》(泉は、白水の二字を合て作るにて、麻呂を麿と作に同じ)、○與具《コソ》」(かく連ね書て、希望辭に用ふること未(ダ)詳ならず、與は既くいへり、)○※[立心偏+可]怜《ウマシ・オモシロシ・アハレ》(※[立心偏+可]字、今は字書に見えず、故可字に偏を加へたるものなりなど云説あり、書紀其他の古書にもかく書り、これはからぶみ遊仙窟に見えて、かく連ね書り、今の字書は、たゞあり來つる字書にのみ因循《ヨリ》たるものにて、ひろく他の書を※[手偏+僉]《カムガ》へわたすこともなくして、編たるものゆゑ、かくざまのめなれぬ字を、漏せること多し、)○芽子《ハギ》(芽字のことは既くいへり、芽子と連ね書ること未(タ)詳ならず、)○所心(題詞に所思といふ意の處に、かく(100)かけり、かく連ねたる字の出る處は未(ダ)考へず、)これらの連字のさま、おはくはその所據の詳ならざるも、又所據の詳なるも、世に目なれざるがゆゑに、疑ふことあること各々字の下に註せるが如し、なほ本編に至りて、すべて上件に出す異訓異字等は、其字の出るごとに、委くことわらむを、考見べし、
   縮言
古に言を縮《ツヾ》めて云たるやう、大抵二種あり、一には、言を縮めて體言をなせるなり、天降《アメオリ》を安母理《アモリ》(米於《メオノ》切|母《モ》」荒磯《アライソ》を阿理蘇《アリソ》(良伊《ライノ》切|理《リ》、)河内《カハウチ》を可布知《カフチ》(波宇《ハウノ》切|布《フ》、)呉藍《クレノアヰ》を久禮奈爲《クレナヰ》(乃阿《ノアノ》切|奈《ナ》、)木末《コノウレ》を許奴禮《コヌレ》(乃宇《ノウノ》切|奴《ヌ》、)國内《クニウチ》を久奴知《クヌチ》(爾宇《ニウノ》切|奴《ヌ》、)屋内《ヤノウチ》を夜奴如《ヤヌチ》(乃宇《ノウノ》切|奴《ヌ》、)荒海《アラウミ》を安流美《アルミ》(良宇《ラウノ》切|流《ル》、)吾家《ワガイヘ》を和藝敝《ワギヘ》(我伊《ガイノ》切|藝《ギ》、)吾妹《ワガイモ》を和藝母《ワギモ》(我伊《ガイノ》切|藝《ギ》、)太馬《フトウマ》を布都麻《フツマ》(等宇《トウノ》切|都《ツ》、)來經《キヘ》を氣《ケ》(朝爾氣爾《アサニケニ》、比爾氣爾《ヒニケニ》、氣長戀之《ケナガクコヒシ》、氣乃許能其呂波《ケノコノゴロハ》などいへる類なり、)これらの類は、古の成言を後に心として、縮めたるにはあらず、されど、その縮めたる原を、たづね辨へずしては、古言を解べからず、まことにかく縮めずしては、かへりて手づゝに、耳だちてわろし、今縮を伸して荒磯吾妹などその本に立かへりて、唱へこゝろむるに、そは中々に、ことさらめきてふさはしからず、廿卷に、ただ一首東歌に、和我伊母故《ワガイモコ》とあるは、かへりて耳に立て聞ゆるにて知べし、それも異本には、和我伊母等《ワガイモラ》とあるは、平穩《オダヒ》なるが如し、後世やゝもすれば古言を伸縮して、ことわることなれと、古人も伸すべき言、縮むべき言ならずて、たやすく伸縮はせざりしことなれば、謾に反切のさだもてことわるは、かたはらいたきことならずや、二には、用言を縮めたるなり、在2于倭1を倭那流《ヤマトナル》)(爾阿《ニアノ》(101)切|那《ナ》下なる皆同じ、)在2于吉野1を吉野那流《ヨシヌナル》、在2于松浦1を松浦那流《マツラナル》、在2于春日1を春日那流《カスガナル》、在2于天1を天那流《アメナル》、在2于葦邊1を葦邊那流《アシベナル》、在2于家1を家那流《イヘナル》など石へる類は、爾阿流《ニアル》と云と、那流《ナル》と云とに、ことなることわりはなけれども、短急《ニハカ》に云て宜しき處を、必(ス)縮めて云るにて、みだりに心として、縮めたるにはあらず、今試に唱へ見べし、倭那流、家那流など云は、人の解説をまたずして、在2于倭1在2于家1と自聞ゆることにて、もとよりしか云べき語勢なれば、然云たるにて、心まかせにいへるにはあらず、さて又、この用言を縮めたる中に、少づゝの異あり、音爲《オトス》にありを音爲那利《オトスナリ》と云、花に有ましをを花那良麻志乎《ハナナタマシヲ》、常磐にあるを常磐那流《トキハナル》などいへることあり、これも上の倭那流家那流など云と、反切は同理なれども、用《ツカ》へるやういさゝか異れり、音爲那利は、音爲るにてありと云意、(俗に音するでありと云むが如し、)花那良麻志乎は、花にて有ましをと云意、)俗に花であらう物ぢやにと云むがごとし、)常磐那流は、常磐にてあると云意(俗に常磐であると云むが如し、)にきこゆることなり、又花の有(ル)時にを花那流時爾《ハナナルトキニ》と云ることもあり、(八卷に、花乃有時爾《ハナナルトキニ》と書るは、其意なればなり、後に、色なる浪に月やどりけり、とよめるも、色のある浪にの意なり、)又、春之有者《ハルシアレバ》を春佐禮者《ハルサレバ》、(之安《シアノ》切|佐《サ》、)有之有而《アリシアリテ》を有佐理而《アリサリテ》など云、又|不《ズ》v鳴《ナカ》ありしを鳴射理之《ナカザリシ》、(受阿《ズアノ》切|射《ザ》、)高く有(ル)らしを高可良之《タカカラシ》、(久安《クアノ》切|可《カ》、)言痛《コチタ》くありともを言痛可理等母《コチタカリトモ》、霞みて有らむを霞多流良牟《カスミタルラム》、(?阿《テアノ》切|多《タ》、)など云る類もあり、又|行《ユク》と云《イフ》を行知布《ユクチフ》、(等伊《トイノ》切|知《チ》、)零《フル》と云を零知布《フルチフ》、潜《カヅ》くと云を潜知布《カヅクチフ》など云る類もあり、(この知布《チフ》を、今(ノ)京よりこの方は?布《テフ》と云り、?布《テフ》は知布《チフ》の轉訛《アヤマ》れるなり、)又|手折來《タヲリキ》けるを手折家流《タヲリケル》、(伎氣《キケノ》切|氣《ケ》、)使の來《キ》ければを使乃家禮婆《ツカヒノケレバ》と云ることもあり、(102)此事は其處の語勢に應《ヨル》ことにて、あながちに縮めて云るには非ず、又|消《キユ》を久《ク》、消《キエ》を氣《ケ》、召上《メシアゲ》、を賣佐宜《メサゲ》、(志安《シアノ》切|佐《サ》、)掻上《カキアゲ》を可々宜《カヽゲ》(伎安《キアノ》切|可《カ》、)など云る類も多し、上件に引る例ども、皆短急に云て宜しき處を縮めて云るにて、此等こと/”\に、然云てはあらずと云には非ず、たとへば、由久智布比等波《ユクチフヒトハ》とあるは必(ス)知布《チフ》(等布《トフ》に換云ても同じ、)といはでは宜しからぬを、水鳥乃可毛能羽能伊呂乃青馬乎家布美流比等波可藝利奈之等伊布《ミヅトリノカモノハノイロノアヲウマヲケフミルヒトハカギリナシトイフ》、とある歌の、等伊布《トイフ》を知布《チフ》(或は等布《トフ》)と云ては宜しからず、又吉跡云物曾とあるをば、吉跡伊布物曾《ヨシトイフモノゾ》と云ても、吉知布物曾《ヨシチフモノゾ》と云ても、苦しからざるが如し、いづれも此例に准へて意得べし、又|召上《メサゲ》、掻上《カヽゲ》などは、縮めていひなれたりと思はるれば、伸云ては、かへりて宜しからずきこゆるもあり、(つれ/”\草に、古は車もたげよ火かゝげよと云しを、今は車もてあげよ、火かきあげよと云はいと口をしといへるも、古縮めて云なれたることを、わすれたるを歎きたるなるべし、阿の音を、諸音の下になして唱へたるを、うれたみたるにはあらじ、)いづれ其處の語勢、其言のいひならはしなどに應《ヨリ》て、斟酌《ミハカラヒ》あることゝ知べし、
   伸言
流を那我良布《ナガラフ》、(良布《ラフノ》切|留《ル》、流《ナガレ》を那我良敝《ナガラヘ》と云も同じ、良敝《ラヘノ》切|禮《レ》となる、下々なるみな同じ、)散を知良布《チラフ》、更を可波良布《カハラフ》、語を可多良布《カタラフ》、(語《カタリ》を可多良比《カタラヒ》と云も同じ、良比《ラヒノ》切|理《リ》となる、下々なるも同じ、)渡を和多良布《ワタラフ》、守を、麻母良布《マモラフ》、隱を可久良布《カクラフ》、還を可敝良布《カヘラフ》、霧を伎良布《キラフ》、繼を都我布《ツガフ》、(我布《ガフノ》切|具《グ》、繼《ツギ》を都我比《ツガヒ》と云も同じ、我比《ガヒノ》切|藝《ギ》、繼《ツゲ》を都我敝《ツガヘ》と云も同じ、我敝《ガヘノ》切|宜《ギ・マヽ》、)呼を與婆布《ヨバフ》、(婆布《バフノ》切|夫《フ》、)咲《ヱミ》を惠(103)萬比《ヱマヒ》、(萬比《マヒノ》切|美《ミ》)など云類多し、すべてこの伸縮の説、世におこなはれて、識者等も此等を伸云なりと云ことは、意得ためれど、その伸たるゆゑよしのさだを、具くことわらざるは、歌句の言の數のたらねば伸て云、又言の數のあまれば縮て云るにて、實は縮めたるも、伸たるも同じことなるを、心にまかせて、ともかくもいふことゝ思へるにや、そは後世の俗意もて、古人の雅意をうかゞふわざにて、さらにさやうのすぢにではなかりしことぞかし、もし心にまかせて伸縮て云しとならば、上古歌に、三言四言六言などの句はよむまじき理なるをもて、ゆゑなくして伸縮は、爲ざりしことを思ふべし、故(レ)流《ナガル》は、その流ることを直《タヾ》にいひ、那我良布《ナガラフ》はその流ることの引つゞきて、絶ず長緩《ノド/\》しき意味あるときに、いふことなりと知べし、たとへば迦多良比袁禮騰《カタラヒヲレド》とある句に就ていはむに、もし迦多理《カタリ》と云ても、可多良比《カタラヒ》と云ても、伸と縮とのわざのみの異りにて、其實は、おつるところ同じことなりと云ば、右の句を、假に迦多理袁禮騰母《カタリヲレドモ》と換て唱へこゝろみよ、迦多理遠禮騰母《カタリヲレドモ》と云ても句をなす故に、異別《タガヒ》はあるまじきに、然云ては、何とやらむいひたらはぬこゝちするなり、いかにと云に、いづれにしても語ることに違はなけれども、哥多流《カタル》は、直語《タダガタリ》にさしあてゝ、人に物を告ることにいひ、可多良比《カタラヒ》は、人に對ひて彼方の言をも此方に聞入、此方の言をも彼方に告知せ、(可多良布《カタラフ》と訓べき處には、相語とかきたること、古書に多きも此故なり、)さま/”\語ることの引つゞきて、絶ず長緩《ノド/\》しき意味あることなれば、可多良比《カタラヒ》と云るにてこそ物語することの、數々ありで盡せぬさまにきこえて、げにふさはしく思はるゝことならずや、其餘は、この一に准て知べきことなり、又移を宇都呂布《ウツロフ》、(呂布《ロフノ》切|留《ル》とな(104)る、さてこの言を、たゞ宇都流《ウツル》と云ときには、移字變字など、おほくは一字にかけるを、宇都呂布《ウツロフ》と云處には、おほくは移徙《ウツロフ》、移變《ウツロフ》など二字にかきたるも、其同じ言を直《タヾ》言にいふと、伸て長緩《ノド/\》しくいふとに、少|異《カハリ》あることを思ひて書るにもあるべし、これは必さだまりて、しか書ると云には非ず、より/\書《シル》す人の心したるものと思はるゝなり、此外にも、この同じ心にて書りと思はるゝここと間《マヽ》あり、)※[口+幾]《ツヾシル》を都豆之呂布《ツヾシロフ》、啜《スヽル》を須々呂布《スヽロフ》、誇《ホコル》を保己呂布《ホコロフ》など云る類も上に云るに同じ、又住を須麻布《スマフ》、(麻布《マフノ》切|牟《ム》、)靡を那妣可布《ナビカフ》、(可布《カフノ》切|久《ク》、黄變《モミチ》を毛美多比《モミタヒ》、(多比《タヒノ》切|知《チ》、)嘆を那宜可布《ナゲカフ》(可布《カフノ》切|久《ク》)となる、さて嘆合《ナゲカフ》、靡相《ナビカフ》、霧合《キラフ》、語合《カタラフ》、散相《チラフ》、流相《ナガラフ》など多く書たるによりて、流良布《ナガラフ》は流れ合ふ意、嘆可布《ナゲカフ》は嘆《ナゲ》き合ふ意とせば、又一理あるに似たれば、さも云べけれども、これらはしかにはあらず、相合等の字は、たゞ伸云ことを知せて書るのみにて、字意までにはあづからぬことなり、)など云るも同じ、また隱(ス)を可久佐布《カクサフ》、(佐布《サフノ》切|須《ス》、)と云ることもあり、此は上の可久良布《カクラフ》と云とは、自他の差別あるのみにて、伸云理は同じことなり、また隱(ル)を可久良久《カクラク》、(良久《ラクノ》切|留《ル》、)戀《コフル》を故布良久《コフラク》、散《チル》を知良久《チラク》、過《スグル》を須具良久《スグラク》、在を阿良久《アラク》、見を美良久《ミラク》、逢を阿敝良久《アヘラク》、荒《アルヽ》を阿流良久《アルラク》、老《オユル》を於由良久《オユラク》、立《タテル》を多?良久《タテラク》、居《ヲル》を袁良久《ヲラク》、告《ツグル》を都具良久《ツグラク》、來《クル》を,久良久《クラク》、取を等良久《トラク》、辭の氣流《ケル》を氣良久《ケラク》、都流《ツル》を都良久《ツラク》など云、又祈《ノム》を能麻久《ノマク》、(麻久《マクノ》切|牟《ム》、)通《カヨフ》を可欲波久《カヨハク》、慕《シヌフ》を志奴波久《シヌハク》、(波久《ハクノ》切|布《フ》、)言《イフ》を伊波久《イハク》など云る類も多し、これも上の、隱《カクル》を(可久良布《カクラフ》と云例と、反切は同理なれども、その用《ツカ》へるやう異りたり、此は可久良久《カクラク》は隱るゝ事のと云意なり、見良久少戀良久乃多《ミラクスクナクコフラクノオホキ》と云歌は、見る事の少く戀る事の多きと云意なるにて、其餘は准て知べし、(此他にも、少《イサヽカ》づつ異りてきこゆる所もあり、今(105)盡さず、委くは後に云べし、今はその大旨をいへるのみなり、)故(レ)たとへば、花知良布秋津之野邊《ハナチラフアキヅノヌヘ》とはいへど、(これは絶ず花の散(リ)居《ヲ》る秋津の野邊と云意なれば、ふさはしきことなり、)花知良久秋津之野邊《ハナチラクアキヅノヌヘ》とは云まじく、(花散(ル)事の秋津の野邊とは、云まじきことわりなればなり、)梅花知良久波何處《ウメノハナチラクハイヅク》とはいへど、梅花知良布波何處《ウメノハナチラフハイヅク》とは云がたきにて、その差異《ケヂメ》を辨べし、さてすべて用言の下には、之《ノ》の言をそへていはぬ例にて、戀留乃《コフルノ》、居留乃《ヲルノ》、立留乃《タテルノ》などいはぬことなるに、良久《ラク》、麻久《マク》などゝいふときは、各別《コト/\》にて、居久乃奧香母不知《ヲラクノオクカモシラズ》、立良久乃田時母不知《タテラクノタドキモシラズ》とも、問卷乃欲寸吾妹之《トハマクノホシキワギモガ》などもいへることありて、その伸たると縮たるとに差《ケヂメ》あるを知べし、又|將v荒《アレム》を阿禮麻久《アレマク》(麻久《マクノ》切|牟《ム》、將v散《チラム》を知良麻久《チラマク》、將v戀《コヒム》を許比麻久《コヒマク》、將v見《ミム》を美麻久《ミマク》、將v問《トハム》を等波麻久《トハマク》、將v置《オカム》を於可麻久《オカマク》、辭の氣牟《ケム》を氣麻久《ケマク》など云る類も多し、たとへば、荒麻久惜母《アレマクヲシモ》と云は、荒む事の惜もと云意、(荒良久惜母《アルラクヲシモ》と云は、荒る事のと云意にて、流《ル》は良久《ラク》と伸り、牟《ム》は麻久《マク》と伸りたるにて、もとよりその差異あることさらなり、)通比氣麻久波《カヨヒケマクハ》と云は、通ひけむやうはと云意になるにて、牟《ム》と云と麻久《マク》と云とは、その伸りたると縮たるとによりて、いさゝか差異あることを辨べし、又照《テル》を?良須《テラス》、(良須《ラスノ》切|留《ル》、)知《シル》を志良須《シラス》、作《ツクル》を都久良須《ツクラス》、取《トル》を等良須《トラス》、釣《ツル》を都良須《ツラス》、振《フル》を布良須《フラス》、忘《ワスル》を和須良須《ワスラス》、守《モル》を毛良須《モラス》、採《ツム》を都麻須《ツマス》、(麻須《マスノ》切|牟《ム》、)咲《ヱム》を惠麻須《ヱマス》、踏《フム》を布麻須《フマス》、立《タツ》を多々須《タヽス》、(多須《タスノ》切|都《ツ》、立《タチ》を多々志《タヽシ》と云も同じ、多志《タシノ》切|知《チ》、下々なるも皆同じ、)持《モツ》を母多須《モタス》、待《マツ》を麻多須《マタス》、帶《オブ》を於婆須《オバス》、(婆須《バスノ》切|夫《フ》、)問《トフ》を等波須《トハス》、通《カヨフ》を可與波須《カヨハス》、逢《アフ》を阿波須《アハス》、置《オク》を於可須《オカス》、(可須《カスノ》切|久《ク》、)嘆《ナゲク》を那宜可須《ナゲカス》、聞《キク》を伎可須《キカス》、寢《ヌ》を那須《ナス》、(那須《ナスノ》切|奴《ヌ》、)以上五十音の第三位を、第一位に伸はたらかす格なり、)爲《ス》を世須《セス》、(世須《セスノ》切|須《ス》、神佐備世須登《カムサビセスト》、旅屋取(106)世須《タビヤドリセス》など云類なり、)見《ム》を賣須《メス》、(賣須《メスノ》切|牟《ム》なり)、以上五十音の第三位を、第四位に伸はたらかす格なり、爲倍吉《シベキ》、爲良牟《シラム》など志《シ》とはいはず、須倍吉《スベキ》、須良牟《スラム》と第三位の言に云に准ふるに、見倍吉《ミベキ》、見良牟《ミラム》などの見《ミ》も、牟《ム》と訓て、牟倍吉《ムベキ》、牟艮牟《ムラム》と第三位の言に云ふべき理なり、心爲倍之《コヽロスベシ》と云をも、心志倍之《コヽロシベシ》とは云ず、心鬼見倍之《コヽロムベシ》と云をも、心美倍之《コヽロミベシ》とは云がたきに同じ、然るを見を牟と云ふは、たゞ、恨《ウラム》、試《コヽロム》、後見《ウシロム》を牟《ム》と云こと、今世までもしかるを、其他に見を牟と云ことはをさ/\きかず、昔よりゐながらに美《ミ》と云なれたり、可v似、可v※[者/火]などをも、奴倍吉《ヌベキ》とはいはず、爾倍吉《ニベキ》といひ、可v著をも久倍吉《クベキ》とはいはず伎倍吉《キベキ》と云、可v乾をも布倍吉《フベキ》とはいはず比倍吉《ヒベキ》といひ、可v射をも宇倍吉《ウベキ》とはいはず伊倍吉《イベキ》といへる類にて、單音《ヒトコヱ》の言は、二音三音等の言とは各別あることなり、しかれども、今はその本の理につきて、姑(ク)見を牟《ム》と訓るなり、さて賣須《メス》と云は、賣之賜者《メシタマハバ》、賣之明牟流《メシアキラムル》など云類なり、この類の賣之を、多く見之《メシ》と書たるをミシと訓たるによりて、今までの識者等も、たゞ古言に見を美之《ミシ》と云ることぞと意得て、其定に解來れり、しかれどもこれを然訓ては、美之の之《シ》の言いはゆる過去辭となれば、さきにありしことをいふときならでは、美之といひてはとゝのはぬことなり、一卷に、食國《ヲスクニ》を賣之《メシ》たまはむと、二卷に、夕されば召《メシ》たまふらし云々、明日もかも召たまはまし、六卷に、おほきみの賣之し野邊には、十八に、吉野の宮をありがよひ賣須《メス》、廿卷に、賣之たまひ明らめたまひ、又かくしこそ賣之あきらめゝ、又おほきみの賣之し野邊には、又おほきみのつぎて賣須らしなどある、これメシメスと訓べき證明なり、又集中に、所聞見爲とある一を、假字書には伎己之米須《キコシメス》と見え、祝詞式に、所知看、古語云、志呂志女須《シロシメス》など(107)あるをも思ふべし、)聞を伎許須《キコス》、(許須《コスノ》切|久《ク》、)居《ウ》を乎須《ヲス》、(乎須《ヲスノ》切|宇《ウ》、)以上五十音の第三位を、第五位に伸はたらかす格なり、さて乎須《ヲス》と云は所聞食《キコシヲス》などの食《ヲス》にて、もと居《ウ》を敬ひて伸はたらかしたるなり、さて食字をミヲシスとよみ、食物をヲシモノと云、集中に、所聞食《キコシヲス》とかき、またヲシの假字に食字を書るなどは、すべて食ふ物は、他物を身に居位《ヰトヾマ》らするより、やがて食字をヲスとよめるにて、食字の本義にはあらず、居ることを單《タヾ》には宇《ウ》といひ、敬ひては乎須《ヲス》と云ことなれば、本は居字の義にあたれり、されば天皇の食國と云も、食字は、末(ノ)義にて、ヲスと云より書るのみにて、其地に永く住《トヾマ》りて、治め有《タモ》ち居たまふ意にて居國《ヲスクニ》とはいへるぞかし、)といふ、此等の都麻須《ツマス》、多々須《タヽス》などは、「令《ス》v零《フラ》、令《ス》v散《チラ》、令《ス》v還《カヘ》、令《ス》v視《ミ》、令《ス》v腐《クタ》などいふは令《オホ》する辭にて、常の伸いふ言とはたがへり、混ふべからず、)採(ミ)給ふ、立(チ)給ふと云意なり、(俗に御採《オツミ》被《レ》v成《ナサ》、御立《オタチ》被《レ》v成《ナサ》と云に全同じ、)餘はいづれもこれに准(フ)べし、さて引つゞきて、絶ず物する意味に云ときは、前に云たる如く、更良比《カハラヒ》、更良布《カハラフ》、語良比《カタラヒ》、語良布《カタラフ》など波《ハノ》行の言に伸はたらかし、用《ワザ》を帶《モタ》せたる方には、前にいひたるごとく、隱良久《カクラク》、懷良久《コフラク》など、可《カノ》行の言に伸はたらかし、尊む方に云ときは、採志《ツマシ》、採須《ツマス》、立志《タヽシ》、立須《タヽス》など佐行の言に伸はたらかす格にて、集中に御知《シラス》、御問《トハス》、御見《メス》などかける即其意なり、(この御見《メス》とかける一にても、賣須《メス》は見給ふと云意にて、俗に御覽被v成といふ義なること明なり、余が説のたがはざること知べし、)さてその引つゞきて、絶す物する意味なる方にも、用を帶せたる方にも、尊む方にも、言を伸て長《ノド》けく緩《ユルヤカ》にいふは、同理ながらも、波《ハ》行の言に伸はたらかすと、可《カ》行の言に伸はたらかすと、佐行の言に伸はたらかす差異を、なほ云ば、同じ嘆くと云言を、引つゞきて絶ず(108)嘆く意ばえには、那宜可布《ナゲカフ》、と伸いひ、用を帶せたるときには、那宜可久《ナゲカク》と伸云、尊て云方には那宜可須《ナゲカス》と伸云たるをくらべ見て、其餘はいづれも此定に意得て曉るべし、かくて前にも説《イヒ》たる如く、直語に人に物を告るには加多留《カタル》と云、人に對ひて彼方の言をも、此方に聞入(レ)、此方の言をも、彼方に告云(ヒ)、互にさまざまと語り交《カハ》すには、伸て可多良布《カタラフ》と云、さて又その語る言の用は、云々なりと云意をもたせたるには、可多良久《カタラク》と云、尊者の語り給ふことを、長《ノド》けく緩《ユルヤ》かに伸て可多良志《カタラシ》、可多良須《カタラス》など云は、もと短《セマ》らず急《イソ》がず、慇懃《ネモゴロ》に云より、ことおこれるにて、今俗にも尊者の上を云には、語《カタ》らせらる、立《タヽ》せらるなど云も、古言のもとの趣を遺せるものと知べし、これにて伸と縮との差異、又伸たるさまによりて、各別あるをわきまふべし、
   音通
音通とは、戀を許比之伎《コヒシキ》とも許保之伎《コホシキ》とも、現身《ウツシキミ》を宇都世美《ウツセミ》とも宇都曾美《ウツソミ》とも、便り附ことを多豆伎《タヅキ》とも多騰伎《タドキ》とも、至(リ)極れる處を曾伎敝《ソキヘ》とも曾久敝《ソクヘ》とも、如《ゴトク》の意なる那須《ナス》を能須《ノス》とも、木枝などの撓み靡く貌を多和々《タワヽ》とも登遠々《トヲヽ》とも云る類なり、野をば奴《ヌ》とのみいひしを能《ノ》といひ、申をは麻袁須《マヲス》と云しを麻宇須《マウス》と云、夢をば伊米《イメ》と云しを由米《ユメ》と云、芋をば宇毛《ウモ》と云しを伊毛《イモ》と云、又|大御をオホンと云、女《ヲミナ》をヲンナと云、臣《オミ》をオン、涙《ナミダ》をナンダと云類なども、音通にてはあれど、通音によりて後に訛り、音便に頽れなどしたるものにて、常の音通にはあらず、又|天《アメ》を阿麻《アマ》、上《ウヘ》を宇波《ウハ》などいふ類も、音の通(ヒ)にてはあれども、これは然るべき謂ありて、五十音の第四位を、第一位に轉したたるのにて、常の通とは別なり、此註書に云る通音は、古言に、彼にも此に(109)も。互に音を通はしていへる類を云て、始にいへる例どものごとし
   韻通
韻通とは、汝を伊麻斯《イマシ》とも美麻斯《ミマシ》とも、棄を宇都《ウツ》とも須都《スツ》とも、〓〓を爾保杼理《ニホドリ》とも美本杼理《ミホドリ》とも、(古事記に美本杼理とあり、蓑を美乃《ミノ》とも爾乃《ニノ》とも云なども同例か、)丹色の映《ハユ》るを爾都良布《ニツラフ》とも爾都可布《ニツカフ》とも、出雲國の地名の伊射佐《イザサ》を伊太佐《イダサ》とも、(神代紀に、五十狹狹之小汀《イザサノヲハマ》とも五十田狹之小汀《イアダサノヲハマ》ともあり、)内宮外宮の御屋根に建る木を、知岐《チギ》とも比岐《ヒギ》とも云る類なり、朔日《ツキタチ》をツイタチと云、先頃《サキツコロ》をサイツコロと云、蔑《ナキガシロ》をナイガシロ、少《スナキ》をスナイ后《キサキ》をキサイ、垣間見《カキマミ》をカイマミ、築垣《ツキガキ》をツイガキ、可《ベク》をベウ、斯《カク》をカウ、襪子《シタクツ》をシタウツ、香細《カグハシ》をカウバシなどいふ類も、韻の通にてはあれども、韻通によりて、後に訛りたるものにて、上の音通の條に云るにひとしく、古の常の韻通とはさま異《カハ》れり、
   轉言
轉と云に大抵二種あり、一には、自然に轉《ウツロ》ひ訛りたるなり、二にはことさらに轉し換たるなり、一に轉訛《ウツロヒ》と云は、書紀神武天皇卷に、因改2號其津1曰2盾津1、今云2蓼津1訛也とあるは、?《テ》の清音の、後自然に、傳《デ》の濁音に訛り轉ひたるなり、騷動をば佐和久《サワク》と必|久《ク》の言を清て唱べきことなるに、後世|佐和具《サワグ》と具《グ》を濁りて唱ふる、これも同じ、又同紀に、時人因號2其地1曰2母木《オモノキノ》邑(ト)1、今云2飫悶廼奇《オボノキト》1訛也、云々、時人仍號2※[烏+至]邑1、今云2鳥見《トミト》1是訛也とあるは、母《モ》の悶《ボ》に、毘《ビ》の美《ミ》に訛り轉ひたるなり、神南備《カムナビ》を後に神南美《カムナミ》、煙《ケブリ》を後に氣牟利《ケムリ》、浮《ウカブ》を後に宇可牟《ウカム》、趣《オモブク》を後に於母牟久《オモムク》、傾《カタブク》を後に可多牟久《カタムク》、燈《トモシ》を(110)後に等煩之《トボシ》、嘯《ウソムク》を後に宇曾夫久《ウソブク》など云る類、古く二(タ)かたに通はしいへることを、見あたらざれ
ば、此も轉訛《ウツロヒ》なるべし、これらにて、清濁の分差のみだりならざりしこと、又麻美牟米毛《マミムメモ》と婆※[田+比]夫倍煩《バビブベボ》は、親(ク)通ふ古例なれども、それもたやすく通はしいへることなくして、たま/\麻《マ》行を婆《バ》行に轉し、婆《バ》行を麻《マ》行に轉しいへることあれば、訛也とことわれりと見ゆ、然れども又中には、腕を多古牟良《タコムラ》(古事記)とも、多古夫良《タコフラ》(書紀)とも、隱を森麻流《ナマル》とも奈婆流《ナバル》とも、天飛《アマトブ》を阿麻陀牟《アマダム》とも、悲《カナシミ》を可那志備《カナシビ》とも、稻見《イナミ》を伊那備《イナビ》とも云類は、古く二(タ)方にいひなれしと見ゆるもあれば、一概に云がたきもあり、蝉を世※[田+比]《セビ》とも世美《セミ》とも云も、もとより二(タ)方にいへるか、さて又古語拾遺に、美夜比登能於保與須我良爾伊佐登保志由伎能與呂志母於保與須我良爾《ミヤヒトノオホヨスガラニイザトホシユキノヨロシモオホヨスガラニ》、今俗歌、曰2美夜比止乃於保與曾許呂茂比佐止保志由伎乃與侶志茂於保與曾許侶茂《ミヤヒトノオホヨソコロモヒサトホシユキノヨロシモホヨソコロモト》1、詞之轉也としるせり、これ後世の音便に頽れたる類とは別《コトザマ》ながら、訛りて轉れるなり、又後世シをイに轉して、益而《マシテ》をマイテ、致而《イタシテ》をイタイタ、ニをンに轉して、何《ナニゾ》をナンゾ、如何《イカニゾ》をイカンゾ、國名の丹波《タニハ》をタンバ、地名の埴生《ハニフ》をハンフ、ヒをウに轉して、獵人《カリビト》をカリウド、旅人《タビビト》をタビウド、商人《アキビト》をアキウド、リをンに轉して、殘雪《ノコリノユキ》をノコンノユキ、如《ゴトシ》v件《クダリノ》をクダンノゴトシ、地名の度津《ワタリツ》をワタンツ、刈田《カリタ》をカンタ、ヰをウに轉して、詣《マヰヅ》をマウヅ、ハをウに轉して、河野《カハノ》をカウノ、又今一きは頽して、打而《ウチテ》をウツテ、祝詞《ノリト》をノツト、欲《ホリス》をホツスなど云たる類もいと多し、此等やゝ古きと、いと後なるとにて、少《イサヽカ》なると大《イミ》じきとの差別こそあれ、みな自然《オノヅカラ》の轉訛《ウツロヒ》なり、二に轉換《ウツシ》と云は、天を阿麻《アマ》、(天原《アマノハラ》、天河《アマノガハ》、)上を宇波《ウハ》、(上方《ウハヘ》、上天《ウハノソラ》」酒を佐可《サカ》、(酒杯《サカヅキ》、酒見附《サカミヅキ》、)竹を多可《タカ》、(竹取《タカトリ》、竹群《タカムラ》」船を布奈《フナ》、(船乘《フナノリ》、船出《フナデ》)胸を牟奈《ムナ》、(胸別《ムナワケ》、(111)高胸坂《タカムナザカ》、)手を多《タ》、(手上《タナスヱ》、手業《タワザ》、)菅を須賀《スガ》、(菅原《スガハラ》、菅疊《スガタヽミ》、)稻を伊奈《イナ》、(稻穗《イナホ》、稻幹《イナガラ》、)金《カネ》を可奈《カナ》、(金門《カナト》、金師《カナシ》、)枯《カレ》を可良《カラ》(枯山《カラヤマ》、枯野《カラヌ》、)爪を都麻《ツマ》、(爪櫛《ツマグシ》、瓜突《ツマヅク》、)風を可射《カザ》(風速《カザハヤ》、風招《カザヲキ》、)など云類は、五十音の第四位を、第一位に轉して云るなり、木を許《コ》、(木葉《コノハ》、木實《コノミ》、)火を保《ホ》、(火中《ホナカ》、火※[火+餡の旁]《ホノホ》、)荷を能《ノ》、(荷向《ノサキ》、荷持田《ノトリタ》、黄泉《ヨミ》を與母《ヨモ》(黄泉國《ヨモツクニ》、黄泉醜女《ヨモツシコメ》、)など云類は、第二位を第五位に轉して云るなり、身《ミ》を牟《ム》、(身實《ムザネ》、身體《ムクロ》、)月を都久《ツク》、(月讀《ツクヨミ》、月夜《ツクヨ》、)神を可牟《カム》、(皇祖神《カムロギ》、神佐備《カムサビ》、)など云類は、第二位を第三位に轉して云るなり、なほこの類多し、これらは必しか轉換《ウツシカヘ》ていふべき語勢によりて、故《コトサラ》に轉せるにて、自然の轉訛とはいたく異なり、
   略言
古言を解に大抵三樣あり、一には通言にて、多騰伎《タドキ》は手著《タヅキ》の義なるを、豆《ヅ》は騰《ド》に通ふゆゑに、多騰伎《タドキ》と云とする類是なり、二には縮言にて、安理蘇《アリソ》はもと荒磯なるを、良伊《ライノ》切|埋《リ》なるゆゑに、縮て安理蘇《アリソ》と云とする類これなり、三には伸言にて、?良須《テラス》はもと照《テル》なるを良須《ラスノ》切|留《ル》なるゆゑに、伸て?良須《テラス》と云とする類これなり、すべて言の由來れる本の義を解に、さま/”\ありて盡しがたしといへども、いひもて行ときは、この三樣に出ることなし、然るを昔より今にいたるまで、博洽の識者といへども、古言を解に、略言のさだをまぬかれたるは、さらになし、まづさきに難波の契冲僧出て、皇朝の古書をひろく見、あまねく考へて、古(ヘ)の假字づかひの正しかりしことを、始めて考へ出して、四方に示し諭せるより、おひすがひに古學の道いよ/\開けて、雅言を解(キ)ことわること、ことにさかしくなりぬるものから、なほかの岡部氏などが、きし方にまさりて、ひたすらに略言のさだもて、いよ/\ます/\むつかしくこしらへて、古言を解(キ)こと(112)われるは、一わたりに見たらむには、今さら古のまことに、立かへりしこゝちすることなめれど、よく見るときは、十にして七八は強たることのみにして、まことのなりに遠かりしは、をしむべきことなりけり、しかるを、本居氏つぎ出て、なほ深く考へひろくたづねて、すべて古書のうへをことわれること、かの岡部氏などより見れば、こよなく平穩《オダヒ》になりぬるのみならず、五十音の於乎《オヲ》の所屬《オキドコロ》の錯置《チガヒ》を改めて、字音假字用格を著してより、古言を解にも字音を辨ふるにも、つゆたがふことなくなりて、今は餘薀《テノゴリ》なきに似たれども、なほ略言のさだをはなれざりしは、あかぬことならずや、本居氏は、生涯このことに考へ至らずして、止ぬべき人にはあらざるを、くさ/”\の理に心を用(ヒ)たりしによりて、この一すぢを、深く考(フ)るいとまなかりしが故なるべし、そも/\略言といふは、かの天竺國の語を、漢國にて略きて唱ふること多し、そは天竺國にて佛陀と云を、漢國にて、さしあたりて譯すべき語なき故に、陀を略せて佛とのみしるし、菩提薩※[土+垂]と云を、提※[土+垂]を却《ノゾキ》て菩薩とのみしるせる類いと多し、これいはゆる略言なり、すべて天竺國の言語には長々しきが多かる故に、其をみながら漢籍にしるさむは、わづらはしく思ひて、ことさらに略けるにて、理のあることなり、皇朝の上(ツ)世に、浪速《ナミハヤ》と云しを後に那爾波《ナニハ》と呼る類は、これ自然の轉訛《ウツロヒ》にて、心として、ことさらに略けるものにあらざれば、この佛陀を略きて佛と云とは、いたくさまかはれり、皇朝の言語は、大初《カミヨ》の時より神のいひそめ給ひし言語を、後々にいひ傳へ來しことなれば、ことさらに心として、省略のさだを加へずしては通ゆまじき言を、あなかしこ神代に、神のいひそめ給ふべき理やはあるべき、たゞ上古中古近世と風俗(113)のうつろひ來しにつきて、人の言語も自然に頽れ訛りたることもあれば、譯注なくては通えがたきこともあるのみは、止(ム)事を得ぬことなり、しかれば古言を解うへに、たやすく略言のさだをほどこすべきにあらざるを、はやく古書を解に、から國にて、天竺國の語を釋たるにならへりと思はるゝに、かの漢籍に、梵語を略き言(ヘ)るなり、と云ことの多きになれたる目うつしに、皇朝の古言をも、それとひとしなみに心得て、解來れることの多きが、自然ら人の心にしみつきて、近來古學の道|大《イミ》しく開けて、心ある人は、そのあしきをばさとりて、儒佛の意を清く離れよと云ことを、常談にすることなれど、この略言のさだをまぬがれたる人は、ひとりだになかりしを、雅澄がはじめてこの處に心つきてより舊慣《シミツキ》たりし略言のさだをはなれて、古言を解こゝろむるに、一として規にかなはざることなし、但し五十音の阿行の音の、語中にあるとき、自《オノヅカラ》省かる例ありて、朝開《アサアケ》を阿佐氣《アサケ》・借廬《カリイホ》を可利保《カリホ》と云類は、又別に其謂あることなれば、さらになべての言に混淆《マギラハ》すべきことにあらず、なほ此等のことは、余が雅言成※[さんずい+〓]と云ものに委(ク)辨へてあれば、其につきて考べし、言長ければ、こゝには其大概をおどろかしいへるのみなり、
   古言
古と後世との差異ありて、言語のさまいみじく異なること多し、大略寧樂朝よりあなたに出來たるを、古言と定むべし、今(ノ)京となりて此方《コナタ》は、すべてのいひざまも古と變りたること多く、或は音を轉訛《ヨコナマ》り或は音便に頽れたるた多し、心すべし、但し古と後世と、もろ/\の言語こと/”\く異なるにはあらず、上古も中古も近世も全同じくて、かはらぬ言も多ければ、必しも後(114)世の言に同じとて、いやしめ惡《キラ》ふべきにあらず、かくで、その古と後世と言の異なると云は、野を奴《ヌ》、|能《ノ》、小竹を志奴《シヌ》、|志能《シノ》、凌を志奴久《シヌク》、|志能久《シノク》、慕を志奴布《シヌフ》、|志能布《シノフ》、楽を多奴志《タヌシ》、|多能志《タノシ》、申を麻袁志《マヲシ》、|麻宇須《マウス》、眉を麻與《マヨ》、|麻由《マユ》、夢を伊米《イメ》、|由米《ユメ》、魚を宇遠《ウヲ》、|伊遠《イヲ》、芋を宇毛《ウモ》、|伊毛《イモ》、葎を牟具良《ムグラ》、|毛具良《モグラ》、曉を阿加等伎《アカトキ》、|阿加都伎《アカツキ》、梢を許奴禮《コヌレ》、|許受惠《コズエ》、含を布々牟《フヽム》、|布久牟《フクム》、詣を麻爲豆《マヰヅ》、|麻宇豆《マウヅ》、不楽を佐夫之《サブシ》、|佐妣之《サビシ》、同を於夜自《オヤシ》、|於奈自《オナジ》、抱を宇太久《ウダク》、|伊太久《イダク》、等云を知布《チフ》、又|等布《トフ》、|?布《テフ》、紫陽花を阿治左爲《アヂサヰ》、|阿豆左爲《アヅサヰ》、歩行を阿流久《アルク》、阿理久《アリク》、圍を可久牟《カクム》、|可古牟《カコム》、侍を佐母良布《サモラフ》、|佐牟良布《サムラフ》、|帶《カネ》て物するを我弖里《ガテリ》、|我弖良《ガテラ》、婦女を多和夜賣《タワヤメ》、|多遠夜實《タヲヤメ》、拾を比理布《ヒリフ》、|比呂布《ヒロフ》、金を久我禰《クガネ》、|古我禰《コガネ》、育を波具久牟《ハグクム》、|波呉久牟《ハゴクム》、白銅鏡を麻蘇可我美《マソカヾミ》、|麻須可我美《マスカヾミ》、莪蒿を宇波疑《ウハギ》、|於波疑《オハギ》、蔓延を、保妣許流《ホビコル》、|波妣許流《ハビコル》、などいふ類、なほこれかれあるにて、古と後と言語の轉變《ウツロ》へたるしるべし、其中に、夢は寐所見《イメ》の義なれば必(ス)伊米《イメ》なるべきを、由米と云は後に訛れること、曉は明時《アカトキ》の義なれば必|阿加等伎《アカトキ》なるべきに、阿加都伎《アカツキ》と云は後に訛れること、育は羽裹《ハグクム》の義なれば必|汲具久牟《ハグクム》なるべきに、汲呉久牟《ハゴクム》と云は、後に訛れること著しきを、また必然る所由《ユヱ》にていへり、と思はれぬもあれど、いづれ古言の例證をたづねて、訓べきことなり、(まれ/\集中に野を能《ノ》、慕を志能布《シノフ》、楽を多能之《タノシ》といへることあれど、其はやゝ寧楽朝の、季つかたよりのことにて、なべての古言にあらざること、古事記書紀はさらなり、集中などをよく考へて知べきことなり、しかるを略解に、集中野を奴《ヌ》と假字書せれば、凡て奴《ヌ》とのみ訓べけれども、調によ(115)りて稀には能《ノ》ともよみたりと見ゆ、たとへば茜草指武良前《アカネサスムラサキ》野|行《ユキ》、標《シメ》野|行《ユキ》、野|守者不見哉《モリハミズヤ》、君之袖布流《キミガソデフル》など云御歌の、野を奴《ヌ》とは唱へがたければ。これらは能《ノ》とよめりといへるは、いとみだりなり、右の茜草指《アカネサス》の歌は大津(ノ)朝にて、彼御時には、いまだ野《ヌ》を能《ノ》、慕《シヌフ》を志能布《シノフ》などいひそめしことは、さらになかりしことなれば、調によりて、能《ノ》といふべき謂はさらになきことなるを、さるよしにていふことゝ、一わたりに思へるは、深く古を考へざるがゆゑなり、さて又後世の人聞には、調によりて野守などの野を、能《ノ》と訓ごときは、なだらかに聞えてふさはしげに思はれ、ひたすらに奴《ヌ》と云むは、強々《ココハ》しくきこえて、よからずと思ふは、ひとへに後世の言語にしみつきて古(ヘ)をわすれたるが故なり、なほ本條に至りて、くはしくいはむをまつべし、)さて又、所v知、所v慕、所v泣、所v摺、所v宿、所v惡、所v厭、所v忘、所v取などの類は、志良由《シラユ》、志良要《シラエ》、志奴波由《シヌハユ》、志奴波要《シヌハエ》、奈可由《ナカユ》、余可要《ナカエ》、須良由《スラユ》、須良要《スラエ》、禰良由《ネラユ》、禰良要《ネラエ》、爾久麻由《ニクマユ》、爾久麻要《ニクマエ》、伊等波由《イトハユ》、伊等波要《イトハエ》、和須良由《ワスラユ》、和須良要《ワスラエ》、等良由《トラユ》、等良要《トラエ》など由《ユ》要《エ》に用《ハタラ》かしいふこと、古(ヘ)のさだまりなりしを、志良流《シラル》、志良禮《シラレ》、志能波流《シノハル》、志能波禮《シノハレ》、伊等波流《イトハル》、伊等波禮《イトハレ》、奈可流《ナカル》、奈可禮《ナカレ》、須良流《スラル》、須良禮《スラレ》、禰良流《ネラル》、禰良禮《ネラレ》、爾久麻流《ニクマル》、爾久麻禮《ニクマレ》、和須良流《ワスラル》、和須良禮《ワスラレ》、等良流《トラル》、等良禮《トラレ》など、流《ル》禮《レ》に用《ハタラ》かしいふは後なり、又今世にして、まことに古をしのぶといふ人は、いと/\まれなることなれど、中にたま/\古言を好むといふ人のあるにいかなる處か、後(ノ)世にまさりて古言のこのましきぞと、その人の所爲《ワザ》をつら/\こゝろむるに、世にめづらかにして人のきゝなれぬ、一ふしある言をあながちにもとめ出て、人の耳をおどろかし、世にたけ/”\しきことに思はれむ、とかまへたるのみのことにて、げにこれぞ古は優りて、(116)後世は劣りたれば、古言をこのむといふことは、まことにことわりなりとうべなはるゝはいと稀なり、これは家のつくりざまより、もろ/\の器物にいたるまで、世に異なるものを好みて、これぞ古の風なるといひのゝしりて、婦女《ヲミナ》小子《ワラハベ》の目をおどろかして、よろこぶに異ならずや、すべて世中は時々のありさまにつれて、世に異ならぬこそよきを、古學などする人は、世間の今のさまをうれたみて、己が家の掟、身の行ひよりはじめて、よろづ古のふるまひにせむとかまふるは、かへりて皇神の御慮《ミコヽロ》にそむけることなるを、さとれる人少なし、余が古言を尊むは、その世に異なるが故に好む類にはあらず、まことに古の人の言語は、言廣く寛にして、心高くみやびたるがゆゑなり、一卷鶴田王歌に、熟田津爾船乘世武登月待者潮毛可奈比沼今者許藝弖菜《ニキタヅニフナノリセムトツキマテバシホモカナヒヌイマハコギテナ》、中皇命御歌に、君之齒母吾代毛所知武磐代乃岡之草根乎去來結手名《キミガヨモワガヨモシラムイハシロノヲカノクサネヲイザムスビテナ》など、語の尾《ハテ》に那《ナ》と云ること古の歌詞には多し、後世にては、これらをすべて牟《ム》とのみ云を、古に那《ナ》といへると、牟《ム》といへると共に差別ありて、その用《ツカ》へるさまもよく味(ヒ)見るときは、きはやかに、別りて聞ゆることなるに、古今集の頃よりこなたは、かゝる處もたゞ牟《ム》の一言のみにて、語を達《トヽノ》ふることになりて、那《ナ》の言の失ぬるより、言狹く心もよわくなりたるにて、古の言深く心高かりしほどを思ふべし、しかるを世の注者等の、牟《ム》と云べきを那《ナ》と云るは、古語の一格なり、とたやすく云たるによりて、萬葉讀者の、那《ナ》と牟《ム》は、たゞ通はしいへるのみをと意得てすぐすなるは、口をしくあさましきことならずや、なほ那《ナ》と云と、牟《ム》と云とに、緩急の意の異ありて、きよく別なること、本條に至りてくはしく辨ふべし、然るを、これらのことをばつゆわきまへずして、後世は言(117)廣くなりたるゆゑに、くさ/”\の理をいふに便(リ)宜(シ)く、古は言狹かりしがゆゑに、いはむと心に思ひても、いひたらはぬこと多しと思ふは、又一きはをさなくをかしきことならずや、さるは古人の歌は、心高くみやびたれど、言外に多くの意を含ませたるが故に、打きくには、をさなくはかなげに、いひさしたるやうにきこゆることなれど、よく見れば、まことにあはれに身にしみとほることなるを、後(ノ)人の歌は心あさびて、したにはくるしげなること多けれど、うへに理をつくして、くまなげに言巧にいひかなへたるに、目くれ心まよひて、後世を中々に言廣くはなりぬるとは思ふなるべし、これ古書を見ることのおろそかなるが所以なり、後世はたゞ世(ノ)間に補益《シルシ》なき、くさ/”\の物の理を究て、よろづこちたくさがしげにいふことこそ、古にまさりたれ、言語は狹く淺はかになりぬること、古書よく見む人は知べし、十卷に、梅花吾者不令落青丹吉平城在人管見之根《ウメノハナアレハチラサジアヲニヨシナラナルヒトノキツヽミムガネ》とあると、四卷に、吾屋戸之暮陰草乃白露之消蟹本名所念鴨《ワガヤドノユフカゲグサノシラツユノケヌガニモトナオモホユルカモ》とある類の、之根《ガネ》と蟹《ガニ》とは、首の似たるのみにこそあれ、よく味(ヒ)見れば、用《ツカ》へる樣きはやかに異れることなるを、古今集よりこの方は、我禰《ガネ》の言を失ひて、我禰《ガネ》とあるべき處をも、我爾《ガニ》と云べき處をも、たゞ我爾《ガニ》とのみ云て、言を達《トヽノ》へたるこそあさましけれ、そも/\我禰《ガネ》は之根《カネ》、我爾《ガニ》は之似《ガニ》にて、もとより言のもと異なればこそ、我禰《ガネ》と云も我禰《ガニ》と云も、共にありて行はれしなれ、かゝることの失ぬるはいと不便《カタワ》なることなるを、我爾《ガニ》と云は、我禰爾《ガネニ》の、禰爾《ネニ》を約めて爾《ニ》と云るにて、我爾《ガニ》も、我禰《ガネ》も、同言同意なる旨に識者等も云るによりて、世の古學者もさることゝうべなひをることなめれど、古今集よりこの方は、古にくはしき人のなきが故に、かゝる緊要の言を(118)おのづからに失ひて、我爾《ガニ》と我禰《ガネ》とを混淆《マギラハ》しぬることなれば、彼頃よりこなたの歌に、我爾《ガニ》とあるは、之根《ガネ》の意に見ても、之似《ガニ》の意に釋《キヽ》ても通《キコ》ゆることあれど、此集以往の歌に我禰《ガネ》とあると我爾《ガニ》といへるとを、一言《ヒトツ》にしては解がたき處多かるを、大かたに見すぐして、ふかく味ふることをせざるがゆゑに、その分差あることの見えぬなるべし、かゝることは、その本につきて末をばことわるべきことなるに、世人は本をわすれて未を解むとする故に、誤つこと多しとしるべし、さて又|我爾《ガニ》は我禰爾《ガネニ》のつゞまれる言なりといふ類は、いはゆる伸縮することに、さがしくなれるがゆゑに、やゝもすれば言を伸縮して解むとかまふること、古學者の常なれど、さるべき所由《ユヱ》なくしては、古たやすく伸縮はせざりしことなれば、今もその心して、古言を解べきことなること、前の條々に云るがごとし、さて右にいへる言のみにあらず、次而所見許曾《ツギテミユコソ》、眞幸有許曾《マサキクアリコソ》など云|許曾《コソ》の言、有乍本名《アリツヽモトナ》、鳴乍本名《ナキツヽモトナ》、などいふ本名《モトナ》の言、夜之不深刀爾《ヨノフケヌトニ》、吾歸流刀爾《アガカヘルトニ》など云|刀爾《トニ》の言、鴨須良《カモスラ》、木須良《キスラ》などいふ須良《スラ》の言の類の、物により、なくてかなはぬ言を、後世に失へるもいと多くあれど、言長くなればこゝにいはず、集中などを考て知べし、可《ベキ》、無《ナキ》、吉《ヨキ》、恐《ワロキ》、憂《ウキ》、概《ツラキ》、深《フカキ》、淺《アサキ》、暑《アツキ》、寒《サムキ》などの類は、上に詐曾《コソ》と云ても吉《キ》とのみうけて、氣禮《ケレ》と云ることは、萬葉以往の歌にはさらにあることなし、其證は、書紀仁徳天皇卷(ノ)皇后御歌に、虚呂望虚曾赴多弊茂豫耆《コロモコソフタヘモヨキ》云云、天智天皇卷童謠に、阿喩擧曾播施麻倍母曳岐《アユコソハシマヘモエキ》云々、集中にぬ十一に、最今社戀者爲便無寸《モハライマコソコヒハスベナキ》、又|加敝良末爾君社吾爾栲領巾之白濱浪乃縁時毛無《カヘラマニキミコソアレニタクヒレノシラハマナミノヨルトキモナシ》、十二に、玉釧卷宿妹母有者許曾夜之長毛歡有倍吉《タマクシロマキネシイモモアラバコソヨノナガケクモウレシカルベキ》、十七に、野乎比呂美玖佐許曾之既吉《ヌヲヒロミクサコソシゲキ》云々などある類なり、これらの吉《キ》を、古今集よりこ(119)なたは、心許曾《コヽロコソ》うたて惡氣禮《ニクケレ》とやうに、氣禮《ケレ》とのみ云事、常のさだまりになりて、吉と承たることは一もなし、これ古(ヘ)と後と、詞づかひの差異《タガヒ》なりといはゞ、なほゆるさるべきに、世の歌よみの思へるやう、後には詞づかひくはしくなれるを、古はよろづうひ/\しくわかびて、詞づかひのさだまりも、くはしからざりしが故に、氣禮《ケレ》と承《ウク》べき格の處をも、なほ吉《キ》といへることありと思ふは、いとあさましきことなり、そも/\可《ベキ》、無《ナキ》等の吉《キ》は、氣利《ケリ》、氣留《ケル》と活《ウゴ》くことはなき言なる故に、假令上に許曾《コソ》と云ても、吉《キ》とのみ承《ウケ》て、氣禮《ケレ》とは活動《ハタラカ》さぬぞ古(ノ)正格なりけるを、古今集よりこなたには、これらの吉《キ》をも、生《イキ》、行《ユキ》等の吉《キ》、また有吉《アリキ》、濕吉《ヌレキ》等の吉《キ》と一に混《マガ》へて、辭《テニヲハ》をとゝのふることになれるは、中々に古の詞づかひのくはしかりしを、後にうしなへるが故なり、生《イキ》、行《ユキ》等の吉《キ》、有吉《アリキ》、濕吉《ヌレキ》等の吉《キ》は、伊氣利《イケリ》、伊氣留《イケル》、由氣利《ユケリ》、由氣留《ユケル》、また阿理氣利《アリケリ》、阿理氣留《アリケル》、奴禮氣利《ヌレケリ》、奴禮氣留《ヌレケル》など活《ウゴ》く言なるがゆゑに、これらは上に許曾《コソ》と云て吉《キ》と承たることは一もあることなく、みな生禮《イケレ》、行禮《ユケレ》、また有氣禮《アリケレ》、濕氣禮《ヌレケレ》と承たること古(ヘ)よりの正格なり、かくもとより活《ウゴ》かぬ言をば、吉《キ》とのみいひ、活《ウゴ》く言をば氣禮《ケレ》とのみいひて、きよく差別《ケヂメ》を立て、いと正しかりしを、熟《クハシ》く古を考へず、おのが心のおろそかなるより、上に許曾《コソ》と云ても、萬葉よりあなたの歌には、吉《キ》とも氣禮《ケレ》とて承て、きはやかにさだまりたることもなし、と思ふはいとあらぬことなり、右のごとく活く言と活かぬ言とによりて、其承る言も正しくさだまりたることなるを、後には詞づかひおろそかになりて、この差別なく、活く言をも活ぬ言をもおしこめて、一に氣禮《ケレ》と承ることになりたるは、言靈のほと/\かくれゆきたるがゆゑにあらずや、又|喜之伎《ウレシキ》、悲之伎《カナシキ》、戀之(120)伎《コヒシキ》、樂之伎《タヌシキ》などの類をも、上に、許曾《コソ》と云ても之伎《シキ》とのみ承《ウケ》て、之氣禮《シケレ》と云ること古の歌にはなきこと、前に准へて知べし、なほ其證をいはゞ、十一に、難波人葦火燎屋之醉四手雖有己妻社常目頬次吉《ナニハビトアシビタクヤノスシテアレドオノガツマコソツネムヅラシキ》とあるこれなり、しかるをこれらの之伎《シキ》をも後には、今は聲許曾聞《コヱコソキカ》まほし氣禮《ケレ》とやうに、之氣禮《シケレ》とのみ云こと、常のさだまりになりたり、一卷に、古昔戸母然爾有許曾虚蝉毛嬬乎相挌良之吉《イニシヘモシカナレコソウツセミモツマヲアラソフラシキ》、六卷に、諾石社見人毎爾語嗣偲家良思吉《ウベシコソミルヒトゴトニカタリツギシヌビケラシキ》などの類も、右に准べし、なほくはしきことは、余が歌詞三格例に論たれば、其を披(キ)見て考べし、又そのなべてのいひざまの、古と後世との差異をいはゞ、たとへば天地の初發のことをいへるに、状如2葦芽1、便化爲v神とあるを、字のまゝに訓ときは全(ラ)漢文にて、古のものいひざまならぬを、古事記に、如2葦芽1因2萠騰《モエアガル》之|物《モノニ》1而成v神といへるは、上古のいひざまのまゝなり、そも/\古事記は、なべては漢文の格によりて、かけるものなれど、言語を主《ムネ》として、古言のまゝに讀しめむとしたるものなるが故に、なほ全(ラ)古のものいひざまを存《ツタ》へたり、今京となりて、古今集序に、此歌天地のひらけはじまりけるとき、よりぞ、いできにけるとある、比良久《ヒラク》と云言は、上古も今世も全(ラ)同じくてかはらぬ言なれど、古語には天坤のはじめの時、又天地のわかれしときなど云て、天地のはじめを比良久とはいはざりしを、天地開闢と云漢字の、やゝ久しく目なれ心にしみたる故に、おのづから上古のいひざまを失へるものなり、又千首廿卷名づけて古今倭歌集といふとあるも、古のものいひざまにあらず、古言のさまならば、千首廿卷古生倭歌集とぞ名づけゝる、などやうにあるべきを、これも漢文に目なれ口つきたるが故に、おぼえずその風にならへるものなり、そも/\彼序は漢文ぶ(121)りを避て、つとめて御國の物いひざまにかけるものとおぼゆれど、なほかゝる類のこれかれまじれるは、彼頃はなべて古のさまの轉變《ウツロヒ》なるが故なり、しかつとめても、なほ異國風ののぞこりがてなるを、歌詞にいたりては、なべてのいひざまの彼頃まで、しかまでうつろひはてしことはなほきこえざりしは、しかすがに言靈の徳用《サキハヒ》にこそ、いでやかくまで古のふりのうつろへることの多きは、そもいかなるよしぞと尋るに、古今集漢文序に、自3大津皇子之初作2詩賦1、詞人才子慕v風繼v塵、移2彼漢家之字1、化2我日域之俗1、民業一改、倭歌漸衰、とあるは、さもらしく思はるゝことなれど、これはたゞ事の跡につきて、一わたりにいへるものにしてくはしからず、さるはかへりて彼皇子の時より後も、いよ/\歌のさかりなりしを思ふべし、(上古は歌のみなりしを、詩といふを好み翫び給ひしによりて、漢風の病根のやゝきざしたる始なりとはいひもすべし、)彼大津皇子は朱鳥元年に賜死《ウシナハレ》まし/\けるに、柿本朝臣などは、なほ其後あまたの年を經て、文武天皇の末つ方より、元明天皇の始つ方までに、身まかれる趣に見え、其次に山部宿禰は、元正天皇の御時より、聖武天皇の御代の中間までありし人とおぼえ、はたその頃まで、名たゝる歌よみのすぐれ人もすくなからざりしこと、集中を見て知べし、さて又橘大臣(諸兄公)なども、其後年を經て、天平寶字元年に薨給ひしを、なほ其頃までさかりなりけるを、ほどなく同三年正月の歌までを此集に載て、家待卿の筆を留められしを、そのほどより朝廷にことしげくなりて、やう/\に衰へけるなるべし、然れども家持卿は、なほ其後年經て、桓武天皇延暦四年までながらへられたれども、廢帝の御時よりは、世間おだひならざりしかば、ことのま(122)ぎれによりて、此集に續て後世に書傳ふるいとまもなく、又おのづから古のみやび好む人も、すくなくなりぬるなるべし、さはあれど彼卿の生涯は、なほ後世のごと、古風を遺失ふことはなかりけむを、桓武天皇遷都の御事ありて、間無く彼卿薨られけるより後は、世に古風を唱ふる人もをさ/\なくなりけるなるべし、さて嵯峨天皇はひとへに詩文をのみ好ませ給ひ、皇女に至るまで、からうたつくらせ給ひなどしける程に、我古風を慕ふ人はかきたえてなく、ひたおとろへにおとろへはてしは、いみじき時世の移變になむありける、(しかるを紀貫之が新撰和歌集序に、抑夫上代之篇、義漸幽而文猶質、下流之作、文偏巧而義漸踈、故抽d始v自2弘仁1至2天長1、詞人之作花實相兼u而已、今所v撰玄又玄也云々とありて、弘仁のころほひより、文質を相兼て、よくなれるやうにいへるはなにことぞや、さばかり此道に名を得し貫之も、古風のすぐれてめでたかりしことをば、をさ/\知ざりしと見ゆ、)さてこそ仁明天皇四十の御賀に、興福寺の僧等が力を窮めて、作(ミ)て奉りしと見えたる長歌詞を見るに、古今集に載たる長歌などよりくらべ見れば、なほ風體は古に近き處もあれど、なべての古語を失ひたることは、その歌詞を此集にくらべ見て知べし、家持卿の薨《スギ》られしよりは纔六七十年の間なるに、世中はかくも移變ものかとあやしまるゝにあらずや、さてその歌の下文に、近年此道のすたれて、やう/\僧家に古語ののこれる故に、史典に採て載られたるよししるされたるにて、その頃なべての微衰しほど思ひやるべし、古今集漢文序に、令v撰2萬葉集1、自爾以來云々、其後倭歌棄不v被v採とあるはまことにて、纔の間世に古風をこのむ人もなく、とりあげらるゝこともなかりしがゆゑに、右件(123)にいへる如く、緊要の言のおのづからに湮覆《ウヅモレ》たるは、なげかしきことにあらずや、さて同序に、適遇2倭歌之中興1、以樂2吾道之再昌1といへるごとく、延暦弘仁の間より、ひたおとろへにおとろべはてしにくらべては、古今集撰ばれしころは、まことに中興といふべきことにはあれど、なほ古風に立かへることはかたかりしがゆゑに、此集などに心を盡して熟玩《ヨクミ》る人もなく、中にはたま/\讀者ありても、古語に疎かりしがゆゑに味得たる人もなく、はやく古今集序にも、柿本人麻呂なむ歌の聖なりける云々、又山部赤人と云人あり、歌に奇しく妙なりけりなど云、其後も人麻呂赤人などゝ齊名《ヒトツラネ》に稱へいひて、いみじく慕ふさまにいひたつることは、歌よみの常のことどひになりぬるより、おのづから婦人《ヲミナ》小子《ワラハベ》のともまでも、よくきゝしりてあやしむことなきは、既く寧樂人も山柿之歌泉などやうにいひて、かの二家をいたくあふぎ慕へることの、おのづから人(ノ)耳につたはり來て、口の端にかけては、誰もいふことにはあれど、實にそのすぐれてたふとくあやしく、妙なることを、うかゝひさとり得たる人、古今集の頃よりはをさ/\なくなりぬる趣なるは、口をしくなげかしきことにぞありける、このことは、前に古今集の序につきで委(ク)辨(ヘ)おけり、かのほの/”\と明石の浦のゝ歌などを、柿本朝臣の作ぞと意得て、(このほの/”\との歌などは、彼朝臣の歌とは、雲と泥との勝劣あること、此集をよく讀たる人は、おのづからしりぬべし、)さらに凝ふ人ひとりだになくして、遠く千載を過し來ぬるを、今に至りては、やう/\に古學ひらけわたりて、さることをも、かつがつわきまへ知べき時になりぬるは、さはいへどめでたき御代のさかえにぞありける、(かく古學開けし代となりては、こ(124)れは上古の氣調《シラベ》、これは後人の口風《クチツキ》といふことを、わきまへしることさがしくなりきぬるは、げに先哲等のいみじきいさをなれば、この泰平にうまれあひぬるをよろこびたふとみて、古のまことの道をつとめ學ぶべきことわりなるに、なほ外國にへつらひ、あるははかなきあだ技藝などたかゝづらひて、空しく年月をすぐすなるは、又なげかしきわざならずや、
 
萬葉集古義總論 其二終
 
(125)萬葉集古義總論 其三
 
   發言
發言《イヒオコスコト》を冠らするに、一言なると二言なるとあり、一言なるは伊徃《イユク》、伊歸《イカヘル》、伊隱《イカクル》、伊積《イツモル》、伊匍匐《イハヒ》、伊立爲《イタヽス》、伊渡爲《イワタラス》、伊取爲《イトラス》などの伊《イ》の言、可青《カアヲ》、可黒《カグロ》、可易《カヤスキ》、可縁《カヨリ》、可細《カグハシ》などの可《カ》の言の類なり、二言なるは取與呂布《トリヨロフ》、打撫《ウチナデ》、掻撫《カキナデ》、指陰《サシクモリ》など、の取《トリ》、打《ウチ》、掻《カキ》、指《サシ》の言の類なり、さてこれらの発言は、あるもなきも同じことなりと一わたりに見すぐすは、例の委しからざるが所由なり、各其承る語の勢によりて、発言を冠らせたると、しかせざるとの差異あることなり、此は其言の出る處につきて注《イフ》をまつべし、
   枕詞
天《アメ》と云むとて久堅之《ヒサカタノ》とおき、山といはむとて足引之《アシヒキノ》と冠らする類を、やゝ古くは矢田部氏日本紀私記に發語と書(キ)、仙覺律師萬葉註釋には諷詞としるせり、共によく協へりともなし、源氏物語よりはじめて、つぎ/”\に枕言といへることは、往々見えたれども久堅之、足引之などいふ類を、枕詞といひしことはきかず、今はあまねく世にいひなれたるまゝに、此註書には枕詞としるしつ、さるは語は古に出て、名はいづれも後に設けたるものなれば、名はいかにまれ、語の實を傷ふことしなくば、強て泥むべきに非ればなり、本居氏のいへらく、枕詞といふ名ふる(126)くは聞も及ばず、中昔の末よりいふことなめり、是を枕としもいふは、かしらにおくゆゑと誰も思ふめれど、さにはあらず、枕はかしらにおく物にはあらず、かしらをさゝふるものにこそあれ、さるはかしらのみにもあらず、すべて物のうきて間のあきたる所をさゝふる物を、何にもまくらとはいへば、名所を歌枕といふも、一句言葉のたらで、明たるところにおくよしの名と聞ゆれば、枕詞といふも其定にてぞいひそめけむかし、梅花それとも見えず久かたの云々、しのふれど戀しき時はあしひきの云々などの如し、そも/\これらは一のさまにこそあれ、なべて然るにはあらざるを、後の世人の心にて、さる一かたにつきてぞ名づけたりけむ、なべてはかしららにおく詞なれば、吾師の冠辭といはれたるぞ、ことわりかなひてはありける、しかはあれども、今はあまねく枕詞といひならひたれば、ことわりはいかにまれ、さてもありぬべくこそといへり、但し枕といふことのこゝろは、此説よくいはれたりとも定めがたし、さるはいかに後世人の心とても、なべて多かる方をおきて、さる一方につきて、名づけたりとせむこと、おぼつかなければなり、雅澄考るに、枕といふは保持《タスケタモ》つよしの名なるべし、さるは枕は、そのもと頭を保け持つための具《モノ》にて、又枕詞も語の頭を保け持つを緊要とする詞なるから、かたがたおもひよせて、たとへ云たるなるべし、歌枕の枕もこれに同じ意ならむ、(歌枕と云ことも源氏物語に出て、其後は往々物に見えたり、さて又かの枕言と云は、明暮わするゝ間なく、思ひ云ことを云るなれば、晝はさるものにて、夜寢ても得思ひはなたず、枕をつけはなれぬ言の意にいへるにて、常に寢言にもいふと云に似たる言なるべし、又枕册子と云は、枕もとの册子と(127)いふこゝろばえにて、常に帳内にのみ置て、他人に漏見《モラ》すことなく、夜も枕のもとさらずて、耳に聞(キ)心に思ふことを、何にまれ時々かきつくる料に、とぢ置る册子なれば、いへるなるべし、清少納言枕册子の奧に、此册子は、目に見えぬ心に思ふことを、人やは見むずると思ひて、つれづれなる里居の程にかきあつめたるを、あいなく人のため、びむなきいひすぐしなどしつべき所々もあれば、きようかくしたりとおもふを、涙せきあへずこそなりにけれとあるも、枕より外に、又知人もなき此册子なりと思ひしを、慮(ヒ)の外に世にもれしといふことを、古今集の歌によりて、涙せきあへずとをかしく書なしたるものなり、さてその次の文に、宮のおまへに内のおとゞの奉り給へりけるを、是に何をかゝまし、上のおまへには、史記といふふみをかゝせ給へるなどのたまはせしを、枕にこそはし侍らめと申しゝかば、さはえよとて給はせたりしを云々とある枕は、即(チ)枕册子と云ことなり、榮花物語に、衣のつまかさなりてうちいだしたるは、いろ/\のにしきを枕册子につくりて、打置たらむやうなりとあり、彼頃よりもはらいへる事ならむ、此はこゝにことに用なけれど、思ひ出るまに/\因に云るのみなり、
   助辭
助辭《タスケコトバ》とは、語實《コトザネ》を助くる料の辭なり、これにも一言なると二言なるとあり、一言なるは、京師之所念《ミヤコシオモホユ》、倭之所念《ヤマトシオモホユ》、神代之所念《カミヨシオモホユ》、家之所偲《イヘシシヌバユ》などの之《シ》の類なり、獨師?《ヒトリシテ》、旅爾之而《タビニシテ》、或は見津々々四《ミツミツシ》、伎良伎良之《キラキラシ》などの之《シ》は、助辭にあらず、混(フ)べからず、又|夜之夢爾遠《ヨルノイメニヲ》、樂乎有名《タヌシクヲアラナ》、或は八代爾乎《ヤツヨニヲ》などの乎《ヲ》も助辭なり、見管行武雄《ミツヽユカムヲ》、見放武八方雄《ミサカムヤマヲ》などの乎《ヲ》は、物乎《モノヲ》の意の乎《ヲ》にて、助辭にあらず、又|高知也《タカシルヤ》、(128)天知也《アメシルヤ》、恐也《カシコキヤ》、天飛也《アマトブヤ》、或は石見乃也《イハミノヤ》、淡海乃也《アフミノヤ》、或は喧也鶯《ナクヤウグヒス》などの也《ヤ》も助辭なリ、君也將來吾也將行之《キミヤコムアレヤユカムノ》など云、或は此也是《コレヤコノ》、蓋也喧之《ケダシヤナキシ》など云|也《ヤ》は、疑辭にて助辭にあらず、可苦佐布倍思哉《カクサフベシヤ》、過去計良受也《スギニケラズヤ》などいふ也《ヤ》も、也波《ヤハ》の意の也《ヤ》にて助辭にあらず、混《マガフ》べからず、強流志斐能我《シフルシヒノガ》、越之君能等《コシノキミノト》などの能《ノ》も助辭なり、兄名《セナ》、妹名根《イモナネ》などの名根《ナネ》等の親辭の、通ひたるにあらず、混べからズ、又|紀之關守伊《キノセキモリイ》、菟原壯士伊《ウナヒヲトコイ》などの伊《イ》も助辭なり、花待伊間爾《ハナマツイマニ》、移伊去者《ウツリイユケバ》、不絶射妹等《タエジイイモト》など用言の下にそへていへる、伊《イ》も同じ、これらの伊《イ》は、待伊《マツイ》、移伊《ウツリイ》、不絶伊《タエジイ》など、上の言の下に附て唱べし、吾者佐夫之惠《アレハサブシヱ》、吾者將待惠《アレハマタムヱ》などの惠《ヱ》も助辭なり、又|貴呂可母《タフトキロカモ》、乏吉呂賀聞《トモシキロカモ》などいふ呂《ロ》も助辭なり、又|夜者母《ヨルハモ》、晝者母《ヒルハモ》などいふ母《モ》も助辭なり、二言なるは、籠毛與《コモヨ》、不久思毛與《フクシモヨ》などの毛與《モヨ》、又|吾者毛也《アハモヤ》などいふ毛也《モヤ》も同じ、國者思毛《クニハシモ》、其乎之母《ソエオシモ》、此乎之母《コヽヲシモ》などの之母《シモ》、縱惠八師《ヨシヱヤシ》、愛寸八師《ハシキヤシ》などの八師《ヤシ》、麻裳吉《アサモヨシ》、玉藻吉《タマモヨシ》などの吉《ヨシ》なども同じ、いつの頃よりにかありけむ、この助辭を夜須米辭《ヤスメコトバ》と唱へて、一句に一言の足ずて、調ひがたき時に、其を補ふ料の具と意得て、實はあるも無も同じことなりと思ふは、いみじきひがこゝろえなり、古人の用へる助辭には、いたく力ありて、あると無とによりて、或は事を一すじに重く思はせたると、たゞ一わたりに輕くいひたると、或は言の急迫《セマレ》ると、緩優《ナダラカ》なるとの差異あることにて、たゞ言を補ひたるにはあらざること、なほ本條に至りてより/\に辨べし、たとへば倭之所念《ヤマトシオモホユ》といふと、たゞ倭所念と云むとをくらべて味(ヒ)見べし、この倭之といへる之の助辭の一にて、倭を戀しく思ふ意の、一すぢに重く思はるゝことかぎりなし、もしさる意にもあらず、たゞ言を補ふ料の具とのみせば、倭所念にて、七言にて一句(129)を調へたるなれば、なにゆゑに無用《イタヅラ》に之の辭を加へて、ことさらに八言にいふべきぞ、又|樂乎有名《タヌシクヲアラナ》と云と、たゞ樂有名と云むとをくらべで味(ヒ)見べし、この乎の助辭の一にて、言の緩優《ナダラカ》なるのみならず、調もたかくきこゆるに非ずや、これも樂有名《タヌシクアラナ》にて、七言一句をとゝのふればことたれるを、なlこゆゑに無用に乎の辭を加へて、ことさらに八言とすべきぞ、これらを合考て、古人のいたづらに助辭を用《ツカ》はざりしやうを知べし、餘はいづれも此に准へて知べし、(しかるを強《アナガチ》に、助辭は、言の足ざる處を補ふ料の具と意得て、自の歌にもよみたるゆゑ、辭に力なくきこえて甚拙きが多し、)
   尊辭
尊辭《タフトミコトバ》は、大御神、大御歌、大御代、大御身、大御手、大御屋、太御門、大御食、大御酒、太御船、大御馬など云類なり、御心、御子、御佩、御衣など、たゞ御《ミ》とのみ稱ることも多し、すべて尊辭と云は、美稱の中の一種《ヒトクサ》とすべきものなり、なほ次の美稱(ノ)條に云を見べし、さて又|御立坐《ミタヽシマス》、御寢坐《ミネマス》、御娶坐《ミアヒマス》、御佩《ミハカセル》など、用言の上にも、御《ミ》と云ことを冠せて云る例も多し、此外くさ/”\あれど、ことなることなければ載ず、
   美稱
美稱《タヽヘコトバ》にも、一言なると二言なるとあり、一言なるは、美《ミ》、麻《マ》、佐《サ》等の類これなり、二言なるは、於保《オホ》、布登《フト》、等余《トヨ》等の類これなり、さてこの美稱を用へる樣くさ/”\あり、一に尊み敬ふ方を美《タヽヘ》て稱るあり、二に勝秀《スグ》れたる方を美て稱るあり、三に偏《カタヨ》らず正中《タゞナカ》なる方を美て稱るあり、四に混なく(130)正物《タゞモノ》なるを美て稱るあり、五に全備《トヽノ》ひたる方を美て稱るあり、六に心にかなひて好を美て稱るあり、その一に尊み敬ふ方にいへるは、御心、御子、御名、御|在香《アラカ》、御門《ミカド》、御食《ミケ》、御酒《ミキ》、御行《ミユキ》、御手、御琴、御船など、すべて尊て御《ミ》の言をそへて云こと常なり、大神、大君、大殿、大宅《オホヤケ》、などの類も多し、この大と御とを連ねて、大御《オホミ》某といへることも多くて、其は上の尊辭(ノ)條に出せるに全(ラ)同じ、又今俗に、御船、御琴などいふべきを、於船《オフネ》、於琴《オゴト》など云於は大《オホ》の意なり、また俗に、いたく敬ひて、於美扇《オミアフギ》、於美帶《オミオビ》などいふ於美《オミ》も、大御《オホミ》なり、さて古くも大を於《オ》とのみ云たることあれば、於船、於美扇、などいふも、ひたふるの俗言にはあらで、中々に古言の遺れるなり、かしこけれども仁賢天皇を、意富祁《オホケノ》王と申しを、書紀に、億計《オケノ》王とある、これ意富《オホ》を意《オ》とのみ云る證にあらずや、其他、大身《オミ》、大人《オビト》など大と去べきを、於《オ》とのみ云ること古く見えたり、さてしからば於保《オホ》の保を略き除《ステ》て、於と云るなれば、前に、古に略言なしと論《アゲツラヘ》るにかなはずと難《トガ》むる人もあるべきなれど、古くも穴太部《アナホベ》、迹太川《トホカハ》、集中にも、爾太遙越賣《ニホエヲトメ》など、書たることの多きによりて考るに、大人《オヒト》などの大と太と二言を、そのもと合せていひ始たる言と思はるれば、於《オ》とのみ云に大の意を具《モチ》たれば、具にも略《コトスクナ》にも、彼此通《コレカレカヨハシ》云たるにて、打まかせたる略言にはあらず、なほこの事は、余が雅言成法に委(ク)辨(ヘ)おきつれば、こゝには略きつ、疑ひ思はむ人は、彼書に就て考べし、余が於保《オホ》を於とのみ云ることのある由を云るによりて、前に略言なしといへるに應はざるに似たるゆゑ、難《トガ》むる人のあらむがために、かつ/”\ことわりおくなり、さてこれ等の大《オホ》は巨《フト》き謂にはあらで、常に云|於船《オフネ》など云於に似て、敬ふ方にいへるなり、二に勝秀《スグ》れたる方にいへるは、御山、御谷、御碕、御坂、御(131)峰、御雪、御草、眞木、眞草、眞玉、眞弓、眞衣、狹霧、狹遠、狹小牡鹿などあるこれなり、大國、大土、大倭、大城、大空、大海、大山、大野、大河、大道、大久米、大船、大父《オホヂ》、大母《オホバ》など多くいふ大も、その勝秀《スグレ》たる方を稱《タヽ》へていへるなり、さて件に云るごとく、御船など云べきを、俗の於船《オフネ》と云、その御船《オフネ》と云は大船《オホフネ》と云ことなりとするときは、御船と云も大船と云も、差別《krヂメ》はなければ、尊む方につきていふと、勝れたる方につきて云との、差異はあるまじき理なるに、尊む方に云と、勝れたる方に云とを、別て云るはいかにといふに、其はその、本義を推窮めて云ときこそ、差別はなけれ、往々《ヨリヨリ》古人の用《ツカヘ》るうへに就て云ときは、少《イサヽカ》その異あるがゆゑに、今別て擧たるなり、かくてその形の巨《フト》きのみに就て、大といへるにあらざるは、父母の父母を、大父《オホヂ》大母《オホバ》と云、父母の兄弟を、小父《ヲヂ》小母《ヲバ》などいふにて知べし、これその長《スグ》れたると幼《オト》りたるとを、大《オホ》と小《ヲ》にて別てるにて、巨細《フトホソ》の謂にはあらざるをや、もしこれを、その形の巨細に就て云ことゝせば、巨父《フトチ》、巨母《フトハ》、細父《ホソチ》、細母《ホソハ》といふべき理なるを思ふべし、大山、大船など云も、世に勝れたる山は、形も巨《フト》く、世に勝れたる船は、状も巨きによりて、おのづから巨き謂《ヨシ》は、こもりてあれど、於保といへる言に、立かへりていふときは、形の巨細にかゝはりて云るにはあらで、たゞ其勝れたるを稱《タヽヘ》たるのみのことと知べし、すべて大小《オホヲ》と云ことは、本形状の巨細に就て、いふことにはあらざるを、大小の字にまよひて、巨細を云ことゝ思ふは末なり、小船、小野などいふは、その細きに就ていふごと思ふめれど、しからず、小牡鹿、小筑波、少床などいふ小《ヲ》に同じく、これらもそのもとは、其物を稱へていへる辭なり、さてこれらにて、大小《オホヲ》は、巨細につきて云ることには非ず、其|長《スグ》れたると、幼《オト》りたるとにつきて(132)いへる趣は、明にきこえたるを、小《ヲ》もそのもと其物を稱へていへる辭なり、といふこといかゞ、大は勝りたるを稱ていふことゝして、よくきこえたるを、小は劣りたるをいふことなれば、稱ていふことなりといふこと、甚あるまじきことなり、と云べけれど、今假に、勝劣の名目をたてていへるは、晝夜を勝劣りと云類にはあらず、即父母の父母も、父母の兄弟も、父母につぎて尊く勝れたるものにてはあれど、其勝秀れたる物の中にて、長幼《マサリオトリ》を別で云ときは、祖父母《チヽハヽノオヤ》は長《スグ》れ、叔伯《チヽハヽノハラカラ》は幼《オト》りたれど、祖父母に幼りたればとて、いやしむべきにはあらず、父母祖父母につぎて尊く勝れたる物なり、大船小船と連ね云ときは、大船は形も巨くまろづ勝れ、小船は形も細く、よろづ大船には劣りたれども、なほ勝れて美《ヨ》き物なれば、勝れたるものゝ中にての勝劣と知べし、されば、世に勝れて重く貴き物を大と稱へ、劣りて輕く賤きものを、小といひおとしたることは、昔よりなきことなり、大根などいふも、大は巨《フト》き謂にて負せたる名なり、と誰も思ふことなれど、巨きはおのづから、その中にこもりたるのみにて、大といへるは、形の巨《フト》きをも、味の美きをも、おしこめてひとつに稱へ云たるにて、巨き故に大といへるにはあらず、上古に人を稱て、大人《オビト》(首字を書、後に姓にも賜ひたり、)といへるも、その身體の巨きをいへるにはあらず、世に勝れたるを美《ホメ》ていへる稱なり、すべて大《オホ》といへること、此に准へて知べし、さでかく大も小も、その勝れたる物のうへにいふ勝劣りなれば、大《オホ》はさるものにて、小《ヲ》といふも稱《タヽ》へたる方なり、されば、大船小船、大峽小峽などやうに、大に對へて云のみにあらず、それはなしても小といへること多し、小筑波、小床、などいふ類これなり、これにで、小と云も、その美稱なることを(133)思ひわくべし、さて右にいへるごとく、大小は、巨細《フトホソ》をいふにもあらず、尊卑をいふにもあらず、同じ列《ナミ》にて、長幼を分けて、對へいふ言なるがゆゑに、御兄を大碓命と申し、御弟を小碓命と申し、又かしこけれども、御兄の仁賢天皇を意富祁《オホケノ》王と申し、御弟の顯宗天皇を袁祁《ヲケノ》王と申しゝなどをはじめて、すべて兄弟を大小《オホヲ》にて別たること常多し、又|小《スクナ》といふに對へて大といへることあり、これは、大は多き謂《ヨシ》にて小《ヲ》に對へ云には異りて、やゝその尊卑の分れたるもあり、大納言《オホキモノマヲスツカサ》、中納言《ナカノモノマヲスツカサ》、少納言《スクナキモノマヲスツカサ》、などいひ、また昔稱2皇子1爲2大兄1、又稱2近臣1爲2少兄《スクナエト》1と私記に見ゆ、これらも、やゝその尊卑によれるのみにて、たゞ巨細の謂にはあらず、又大那牟遲《オホナムヂノ》神、少彦名《スクナビコナノ》神と申すも、この二柱(ノ)神相(ヒ)並《ナラバ》して天下を經營《ツクラ》しゝ故にて、大小《オホスクナ》を對云て申せる御稱《ミナ》なるべし、さてまことに那牟遲《ナムヂノ》神は御體《ミミ》の巨くおはしますべく、彦名《ヒコナノ》神は御形《ミミ》の細くましますがゆゑに、大少にて、御名を分たりと思はるれども、これもたゞ御形體《ミスガタ》の巨細によりていへるにはあらで、御威徳《ミイキホヒ》より、御功業《ミイサヲ》の多少を主《ムネ》としていへるにて、御形體の巨細は、おのづから其中にこもりたるなるべし、かく大は小に對へいへるはさらにて、少《スクナ》にも對へ云たること多きに、もし大《オホ》と云が巨《フト》き謂ならば、保曾《ホソ》といへるに、對へたるもあるべきに、一もなきにて、大《オホ》は巨《フト》き謂ならざるを辨ふべし、大小《オホヲ》と巨細《フトホソ》といふとを、混淆《ヒトツ》に、世人の思ひ誤てるがゆゑに、言長くうるさけれど、おどろかしおくものなり、豐宴《トヨノアカリ》、豐御酒《トヨミキ》、豐旗雲《トヨハタクモ》、豐祝《トヨホキ》、豐泊瀬《トヨハツセ》などの豐も、大に同じく勝れたるを稱へたるなり、太知立《フトシリタテ》、太布座《フトシキマス》、大祝詞《フトノリトゴト》など云太も同じ、三に偏《カタヨ》らず、正中《タヾナカ》なる方にいへるは、御中《ミナカ》、御空《ミソラ》、(眞中《マンナカ》、眞空《マソラ》と云が如し、さてこの御中を毛那可《モナカ》とも云けらし、神武天皇紀に、六合(134)之中心《クニノモナカ》、天武天皇紀に、天中央《ソラノモナカ》、榮花物語に、御堂の御前の、毛那可に、舞臺ゆはせて云々、後々にも、秋のもなかとよめり、古事記上卷に、奴那登母母由良爾《ヌナトモモユラニ》とあるは、瓊音《ヌノト》も眞※[金+將]《マユラ》にといふことなれば、眞《マ》を母《モ》と云しも、後ならず、但し集中に眞《マ》を母《モ》といへること見えず、)眞日《マヒ》、眞言《マコト》、眞清《マサヤカ》などいふこれなり、(俗に眞正面《マシヤウメン》、眞直《マツスグ》など云|眞《マ》もこれなり、)四に、混《マジリ》なく、正物《タヾモノ》なる方にいへるは、眞金、(俗に贋物にあらず、正物の金といふことなり、)眞悲《マカナシ》、(心悲てかきて、麻可那之《マカナシ》と訓せたるも、僞て悲しきふるまひをするにはあらで、眞正に、心づから悲しき謂にてかきたるものなり、俗にほんにかなしいと云に同じ、)眞心悲《マウラガナシ》、眞幸《マサキク》、眞細《マグハシ》、眞杙《マグヒ》、眞白《マシロ》、佐寐《サネ》、佐寐處《サネド》、佐寐床《サネドコ》(俗に佐水《サミヅ》、佐湯《サユ》など云も、まじりなしの水湯と云ことにて、佐《サ》の言同じ、)など云これなり、五に、全備《トヽノ》ひたる方にいへるは、眞手、眞袖、(左右手《マテ》、諸手《マテ》、二手《マテ》などかきて、左右の手の全備《トヽノ》ひたるを眞手《マテ》と云、眞袖《マソデ》もこれに同じ、眞※[楫+戈]《マカヂ》(二梶《マカヂ》ともかきて、これも左右の※[楫+戈]の全備たるを云り、)など云これなり、六に、心にかなひて、好き方にいへるは、御吉野《ミヨシヌ》、御熊野《ミクマヌ》、眞熊野《マクマヌ》、小筑波、小岫《ヲグキ》、小里《ヲサト》、小林《ヲバヤシ》、小野《ヲヌ》、小峰《ヲミネ》、小牡鹿《ヲシカ》、小船《ヲブネ》など云るこれなり、小と云ことの義は、本條にことわらむ、すべて尊み敬ふ方には、御の言を多く用ひ、又|大《オホ》といへることも多くして、眞《マ》といへることなし、勝秀れたる方には、御《ミ》とも、眞《マ》とも、狹《サ》とも、大《オホ》とも、豐《トヨ》とも、太ともいへり、其中に、豐《トヨ》と云、太《フト》と云は、尊む方にいひたるが多けれど、さしあたりては、尊みて大御《オホミ》と連ねいひ、豐太《トヨフト》は、もと勝秀(レ)たる方に就て云たるが、自然尊む方にも通ひて、その差別なきがごときありしかれども、太玉串、豐葦原中國、豐秋津島など云るは、大八島、大倭などの大に同じく、そのもとは、さしあたりて、尊むを主《ムネ》としていへるにはあらで、勝秀れ(135)たるを美たる方なるべし、正中なる方には、御《ミ》とも、眞《マ》とも云、正物なる方には、眞《マ》とも佐《サ》とも云て、御《ミ》と云ることなし、又全備たる方には、眞《マ》とのみ云て、外に御《ミ》とも、某《ナニ》ともいへることなし、心にかなひて好き方には、御《ミ》とも眞《マ》ととも、小《ヲ》ともいへり、かく分ていふとき、少づつその差等《カハリ》ありといへども、いづれも此方より美稱《メデタヽ》へて云る意は、異ならぬが如くなれば、落るところはひとつなるがごとし、なほくはしきことは本條にいたりて、其言の出る處々にことわるべし、【〔頭註、按に、大凡、大方、大旨など云、又常に大積、大搏、大縛など云類あり、その大はすべて物を細密にえらばず、粗忽とさだめいふやうのことなり、この大に對へて小といふときは、物を細密にえらびて、精明にきはめていふ方にて物を稱る言なり、これ大峽小峽など、物の勝劣につきていふとはいさゝか異れり、西宮記、北山抄などを考るに、小忌、大忌といふもの、常にいふ大小とかはりて、小忌を重みし、大忌を輕しめたり、これ神祇に親き方を小忌といひ、疎き方を大忌といへるにて、親きは精き方、疎きは粗き方にいへるなり、これおのづから小を稱る言とすると同意なり、〕】
   賛辭
賛辭にも、二言なると、三言なるとあり、その二言なるは、玉裳、玉藻、玉葛、宇眞人《ウマヒト》、味寐《ウマイ》、味飯《ウマイヒ》、味酒《ウマサケ》、美豆山《ミヅヤマ》、美豆枝《ミヅエ》、美豆垣《ミヅカキ》、などの類なり、これらは、大倭、太祝詞《フトノリト》、豐旗雲《トヨハタクモ》などの、大《オホ》太《フト》豐《トヨ》の寐稱に差別なきが如し、しかれども彼等の美稱は、その物に、もとより就たるがごとくにいひ、玉《タマ》、味《ウマ》、美豆《ミズ》の類は、故《コトサラ》に言を設けて、其物を賛たりときこゆれば、姑其名目を別てり、三言なるは、※[立心偏+可]怜國《ウマシクニ》、麗妹《クハシイモ》の類なり、
   親辭
親辭《シタシミコトバ》とは、此方より彼方を親み愛みていふ辭なり、吾大王《ワガオホキミ》、吾君《ワガキミ》、我國《ワガクニ》、吾夫《ワガセ》、吾妹《ワギモ》、吾弟《アオト》、吾子《アゴ》の吾《ワ》、吾夫子《ワガセコ》、吾妹子《ワギモコ》の子《コ》、兄名《セナ》、名兄《ナセ、名姉《ナネ》、名妹《ナニモ》の名《ナ》、妹名根《イモナネ》の名根《ナネ》等の類なり、
(136)   嘆息辭
嘆息辭《ナゲキコトバ》とは、喜しきことにも、悲しきことにも、息をつそ聲の辭なり、痛醜《アナミニク》、痛多豆々々思《アナタヅタヅシ》、痛※[立心偏+可]怜《アナアハレ》、痛情無《アナコヽロナシ》、穴氣衝之《アナイキヅカシ》、阿奈干稻々々志《アナヒネヒネシ》などある、阿奈《アナ》は、みな事に觸て歎息《ナゲ》く聲なり、八卷に、櫻花能丹穗日波母安奈爾《サクラノハナノニホヒハモアナニ》とあるも、爾《ニ》は語辭にあらず、歎く聲に付たる言なり、しかるを近頃の古學徒、この阿奈《アナ》ト云詞と阿夜《アヤ》と云詞とを、混雜《ヒトツ》に解なして、いとみだりなること多きによりて、本條にくはしくわきまへいはむを待べし、木人乏母《キヒトトモシモ》、楯立良思母《タテタツラシモ》、吾名之惜毛《アガナシヲシモ》、行方不知毛《ユクヘシラズモ》、見者悲毛《ミレバカナシモ》、忘可禰津藻《ワスレカネツモ》、有勝麻之母《アリガテマシモ》などの母《モ》は、みな歎息く聲の辭なり、誰戀爾有目《タガコヒナラモ》、哭耳四泣裳《ネノミシナカモ》などの目《モ》は、牟《ム》の通へるにて別なり、混(フ)べからす、將戀名《コヒムナ》、家良志那《ケラシナ》、賀母那《ガモナ》などの那《ナ》、神左備居賀《カムサビマスカ》、零來雨可《フリクルアメカ》などの可《カ》も、歎息(ク)辭なり、山乎高可《ヤマヲタカミカ》、陰樹將比疑《カゲニナミムカ》などの疑辭と混(フ)べからず、見禮騰不飽可聞《ミレドアカヌカモ》、神乃御代鴨《カミノミヨカモ》、船出爲加母《フナデセスカモ》、愛寸香聞《ウツクシキカモ》、相見鶴鴨《アヒミツルカモ》、忌之伎鴨《ユヽシキカモ》などの可母《カモ》は、みな歎息の聲なり、三卷に、極此疑《コヾシカモ》とある疑《カモ》も歎息辭なり、しかるに、疑とかけるは、他所に疑ふ意の、可母《カモ》に疑字をかきなれたるがゆゑに、たゞ字訓を惜たるのみなり、此(ノ)字につきて、疑辭と思べからず、不所見香聞安良武《ミエズカモアラム》、一有加母《ヒトツナレカモ》などいふ香聞《カモ》は、香《カ》は歟《カ》にて疑辭、聞《モ》は歎息の辭なり、不飽可聞《アカヌカモ》などの可聞《カモ》と混べからず、月疑意君者《ツキカモキミハ》、零之雪疑意《フリシユキカモ》など可母《カモ》と云に、疑意とかけるも、疑ふ意なるがゆゑなり、但し此も可《カ》は疑辭、聞《モ》は歎息辭なれば、可聞《カモ》をおしこめて、疑意とは書まじき理なれども、字はたゞその重き一方につきてかけるのみなれば、字のうへにては盡ざるなり、しかるを、かゝる處の可聞《カモ》は、二言ながら、たゞ疑(ノ)辭なりと見すぐしてあらむは、やすらかなれど、古言にくはしから(137)ざるなり、歎息く意なきときには、たゞ白水郎跡香將見《アマトカミラム》など香《カ》の一言にいひ、歎息く意ある處には、不所見香聞安良武《ミエズカモアラム》とやうにいひて、必(ス)聞《モ》の言を加へたるなり、もし香《カ》と云も香聞《カモ》と云も、異《カハリ》なしとならば、不所見香安良武《ミエズカアラム》にて、七言一句をとゝのへたれば、ことたれるを、ことさらに、聞《モ》の言を加へて八言に云べき謂なし、これにて香《カ》とのみいふと、香聞《カモ》と云との差異を辨べし、又|家八方何處《イヘヤモイヅク》、色爾將出八方《イロニイデメヤモ》など云も、八《ヤ》は疑辭にて、方《モ》は歎息辭なり、これをも二言ながら、おしこめて疑辭と見すぐしてあらむは、くはしからざることなり、
   乞望辭
乞望辭《ホガヒコトバ》とは、しかあれと希望《ネガ》ふ意の辭なり、如是霜願跡《カクシモガモト》、常丹毛冀名《ツネニモガモナ》、雲爾毛欲成《クモニモガモ》、烏爾毛欲成《トリニモガモ》、手力毛欲得《タヂカラモガモ》、副而毛欲得《タグヒテモガモ》などある賀母《ガモ》は、みな乞望辭にて、願《ガモ》、冀《ガモ》、欲成《ガモ》、欲得《ガモ》など書る其意なり、又|花爾欲得《ハナニモガ》、岸爾家欲得《キシニイヘモガ》、山者無毛賀《ヤマハナクモガ》、千歳爾毛賀《チヨニモガ》などある賀《ガ》も同じ、又十一に、見之賀登念《ミシガトオモフ》とある賀《ガ》も乞望ふ辭なり、古今集に、甲斐が嶺《ネ》をさやにも見しがといへるも同じ、又|今毛得?之可《イマモエテシカ》、奈利?之可《ナリテシカ》など云も、云々あれと乞望ふ辭なり、得?之可母《エテシカモ》、伊禰?師可母《イネテシカモ》とあるも同じ、さて?之可《テシカ》とあるも、?之可母《テシカモ》とあるも、可《カ》はみな清音なり、上の毛賀《モガ》、母賀賀《モガモ》、之賀《シガ》と連ねたるはみな濁音なり、混べからず、又|名告沙根《ナノラサネ》、草乎刈核《カヤヲカラサネ》、飛反來年《トビカヘリコネ》、雨莫零所年《アメナフリソネ》、情示左禰《コヽロシメサネ》、奈何名能良佐禰《ナガナノラサネ》など多くある禰《ネ》もみな乞望ふ辭なり、さて禰《ネ》は佐禰《サネ》と連ねたるが多くあれども、佐禰《サネ》の二言のみながら、即乞望ふ意なるには非ず、佐《サ》は告勢《ノラセ》、刈勢《カラセ》などいふ勢《セ》を、連言の便によりて佐《サ》に轉したる耳《ノミ》なり、(略解に、名告沙根《ナノラサネ》は名を告よなり、能良佐禰《ノラサネ》をつゞむれば能禮《ノレ》となりて、名のれと云(138)に、同じといへれど、上にもいひたるごとく、古は無益《イタヅラ》に言を伸縮して云ることをさ/\なければ、此説はやすくてさならむとは聞ゆれど、古言の義にくはしからねば、通《キコ》えぬ所多し、右に引る例どもを考へ併せて曉べし、告沙根《ノラサネ》、また刈核《カラサネ》などの類は、能良勢《ノラセ》、また可良勢《カラセ》の伸りたるものぞといはむも、まづはさてあるべきを、來禰《コネ》、また零所年《フリソネ》どの禰《ネ》をば、さては何とかいはむ、)來禰《コネ》と云は、來《コ》は來《コ》よの意なるに、禰《ネ》の乞望辭のそはりたるなり、莫零所年《ナフリソネ》、と云は、莫零所《ナフリソ》は、勿行曾《ナユキソ》、勿散曾《ナチリソ》などいふごとく、零(ル)ことなかれの意なるに、禰《ネ》の乞望辭のそはりたるなり、禰《ネ》の辭は、いづくにありても、此定に意得べし、又|夢爾見乞《イメニミエコソ》、吾耳見乞《アレニミエコソ》、次而所見欲《ツギテミエコソ》、相所見欲《アフトミエコソ》、眞好去有欲得《マサキクアリコソ》など多くある許曾《コソ》もみな乞望辭なり、乞《コソ》、欲《コソ》、欲得《コソ》など書る、其(ノ)意なり、又|社《コソ》、與《コソ》、與具《コソ》などの字を書る處もあれど、其意未詳には決めがたし、さてこの許曾《コソ》といふ詞、上古にはもはいら用ひて、今京より以來はをさ/\きこえざるは、便なきことなり、たま/\伊勢物語に、秋風吹と鴈に告許勢《ツゲコセ》、催馬樂に、いで吾駒はやくゆき許勢《コセ》などあるのみなり、それも、許曾《コソ》を許勢《コセ》に訛《アヤマ》りたり、又|都麻余之許西禰《ツマヨシコセネ》、古事記八千矛神(ノ)御歌に、宇軍知夜米許世禰《ウチヤメコセネ》、聖徳太子傳暦謡に、相看社根《アヒミエコセネ》などあるは、許曾《コソ》と禰《ネ》との二の乞望辭を重ねて云るなり、さてこれも許曾《コソ》を、禰《ネ》の言に連ぬるにひかれて、曾を勢に轉したるにて、後世訛りて許曾を許勢《コセ》と云る類にはあらず、又|有與宿鴨《アリコセヌカモ》、續巨勢奴鴨《ツギコセヌカモ》などいふも、許曾と禰との二の乞望辭を重ねたるものなり、さてこれも哉《カモ》と云に連くにひかれて、禰《ネ》を奴《ヌ》に轉し、奴に連くにひかれて、曾を、勢に轉したるものなり、又|聞越名湯目《キヽコスナユメ》、有超名湯目《アリコスナユメ》、相與勿湯目《アヒコスナユメ》など云許須も、勿と云に連くにひかれて、曾を須に轉したるものなりと(139)知べし、又|常有奴可《ツネニアラヌカ》、雨毛落糠《アメモフラヌカ》、伊麻毛奈加奴香《イマモナカヌカ》、常有沼鴨《ツネニアラヌカモ》などいへる奴も、禰の乞望辭なるを、可《カ》の言に連くにひかれて、奴に轉したること上に同じ、可の一言に連くも、可母《カモ》の二言に連くにも異はなし、さて有奴可《アラヌカ》は有かしの意にきこゆるに、其餘も准へられて、おほかたの意旨は、たがふふしはなけれども、すべて世の學者等、この詞の本義をわきまへ得たる人、ひとりだに今までなきこそうれたけれ、(まづ契冲が、常にあらぬかは、常にあられぬ物か、當あれかしとねがふ意なりといへる、さる意にもきこゆることなれど、言の本をくはしくたどらざるなり、又荒木田久老が、この可を願の意と見て、常にもがもななどいふ賀母《ガモ》とひとつにまざらはして説なせるも、たがへることなり、又本居氏玉勝間に、七卷に、人相鴨《ヒトモアハヌカモ》、十卷に、妹相鴨《イモニアハヌカモ》、又同卷に、又鳴鴨《マタナカヌカモ》、十一に、人來鴨《ヒトモコヌカモ》、又、同卷に、有與鴨《アリコセヌカモ》、又同卷に、有鴨《アラヌカモ》、又同卷に、急明鴨《ハヤモアケヌカモ》などある、件の歌どもは、九卷に、雲隱鴈鳴時秋山黄葉片待時者雖過《クモガクリカリナクトキニアキヤマノモミチカタマツトキハスギネド》と有に同じく、みな不字を省きて書るものなりと云るも、元來|人相鴨《ヒトモアハヌカモ》など云は、契冲が説のごとく、人にも逢れぬものか、人にあへかしの意に見て、有奴可《アラヌカ》、鳴奴香《ナカヌカ》などの奴を、すべて不の意と思へるより、不字を省きて書たるものなりとはいへるなるべし、よく思見べし、不字は有と無と其意反對なれば、不字のあるべき處を、省きて書べき理やはあるべき、すべて那爾奴禰《ナニヌネ》の辭は、字の後に訓付る事多ければ、此等も奴《ヌ》の言にあたる字はなくても、然訓るゝ事なれば、不字を省きたるにはあらざるをさとるべし、九卷に、時者雖過とあるのみは、まことは不字あるべき處にて、其は右の例どもとは、さまたがひたれば、後に脱たるものなるべし、
(140)   疊辭
疊辭《カサネコトバ》とは、智智乃實乃父《チヽノミノチヽ》、波々蘇葉乃母《ハヽソハノハヽ》、淺茅原曲々《アサヂハラツバラ/\》、荒磯浪有毛《アリソナミアリテモ》、受理伎奴能安里?《アリキヌノアリテ》、佐由利花由理《サユリバナユリ》、霍公鳥保等穗跡《ホトヽギスホトホト》、水咫衝石心盡而《ミヲツクシコヽロツクシテ》、安之保夜麻安之可流《アシホヤマアシカル》、粟島之不相物故《アハシマノアハヌモノユヱ》、淡路島※[立心偏+可]怜登《アハヂシマアハレト》、霰打安良禮松原《アラレウチアラレマツバラ》、在間菅有管《アリマスゲアリツヽ》、在千方在名草目而《アリチカタアリナクサメテ》、不知也河不知《イサヤカハイサ》、左太能浦之此左太過而《サダノウラノコノサダスギテ》、司馬乃野之數《シバノヌノシバ/\》、白管自不知《シラツヽジシラヌ》、須加能夜麻須可奈久《スガノヤマスカナク》、龍田山立而毛居而毛《タツタヤマタチテモヰテモ》、樛木乃彌繼嗣爾《ツガノキノイヤツギ/\ニ》、飛鶴乃多頭々々思鴨《トブタヅノタヅタヅシカモ》、名乘藻乃吉名者告世《ナノリソノヨシナハノラセ》、後湍山後《ノチセヤマノチ》、能登河乃後《ノトガハノノチ》、濱久木久《ハマヒサキヒサシク》、深海松乃深目手思騰《フカミルノフカメテモヘド》、亦打山將待《マツチヤママツラム》、母々余具佐母々與《モヽヨグサモヽヨ》など云る類にて、なほ多し、これらはみな、疊ね下したる辭を、承たる方に語實はありて、上はたゞ、下のうくる辭を疊ねむがために、おほくは虚辭を設けていへるのみなり、さて右に引るは、みな五言七言と疊云たるに、又|列々椿都良々々爾《ツラ/\ツバキツラツラニ》、瀧乃白浪雖不知《タキノシラナミシラネドモ》、志我能韓埼幸有者《シガノカラサキサキクアラバ》、鮎矣令咋麗妹爾《アユヲクハシメクハシイモニ》、左良須?豆久利佐良左良爾《サラステヅクリサラサラニ》など、七言五言と重ね云たるもあり、又|御津乃濱松待戀奴良武《ミツノハママツマチコヒヌラム》とやうにも疊ねたり、
   複詞
複詞《ウチカヘコトバ》とは、神集々座而《カムツドヒ/\イマシテ》、神分々之時爾《カムアガチ/\シトキニ》、神葬々奉者《カムハフリ/\マツレバ》、殿隱々在者《トノゴモリ/\イマセバ》などいへる類なり、これらは二句ながら、語實を打かへしいひたるにて、智智乃實乃父《チヽノミノチヽ》などの疊辭は、父《チヽ》を云むがために、虚辭を設けて、連下したるにて、其類とは異なり、(神樂歌に諸擧《モロアゲ》と云ことあり、たとへば、せかゐやせかゐやせかゐのみづを、いたゐやいたゐや板井のしみづをなど複《ウチカヘ》してうたふを云り、但し是は歌ふに、その同じ物を複ねて擧たるにて、今と似たるのみなり、)さてこれらも多くは五言七(141)と連けたるに、又|赤曾朋舟々々々爾《アケノソホブネソホブネニ》と七言五言を連たるもあり、これも左良須手作佐良佐良爾《サラステヅクリサラサラニ》といふ類の疊辭と異《カハ》りたること上の如し、又|籠毛與美籠韓母乳布久思毛與美夫君志持《コモヨミコモチフクシモヨミフクシモチ》とあるは、神集々座而《カムツドヒ/\イマシテ》とある類とは、少《イサヽカ》異《カハ》りたれども知智乃實乃父《チヽノミノチヽ》などいふ類の、虚辭を設たる疊辭とはかはりて、二句とも語實なれば複詞に屬べし、又|船木伐樹爾伐歸都《フナキキリキニキリユキツ》、百千鳥千鳥者雖來《モヽチドリチドリハクレド》、茅草苅草苅婆可爾《チガヤカリカタカリバカニ》などやうに云るも、神集々座而《カムツドヒ/\イマシテ》といへる類に同じければ、複詞なり、しかれども、これは、舟材伐舟材爾伐歸《フナキキリフナキニキリユキ》つ、百千鳥百千鳥《モヽチドリモヽチドリ》はくれど、茅草刈茅草刈婆可《チガヤカリチガヤカリバカ》に、と必いふべきことなれど、然はいひがたきによりて、省きていへるものなれば、打まかせたる複詞とは少《イサヽカ》異《カハ》れり、複詞の中の一種と云べし、後に月夜よし夜よし、東屋のまやなどよめるも、これによりていへるなるべし
   天皇尊號辭
集中題詞にては、天皇とあるを、すべて須賣良美許等《スメラミコト》と稱《マヲス》なるよしは、卷初にことわるべし、さて歌詞に、須賣良美許等と稱せること、一もなきは、いかなるゆゑにかあらむ、かくて須賣呂伎《スメロキ》と稱すは、字には、皇御祖、皇祖、皇祖神、皇神祖、天皇など書て、正しく皇祖の天皇の御事をさして稱すはさらにて、皇祖より御代々々の、天皇、當代までを兼て稱せることも多し、意保伎美《オホキミ》と稱すは、字には皇、王、大皇、大王、大君など書て、正しく當代天皇を指奉りて、(意保伎美《オホキミ》と申す御稱《ミナ》は、天皇より皇子諸王までにわたりて、ひろく稱すことなれど、こゝには天皇の御上につきてさだすべし、)皇祖の天皇等を、申せることさらになし、さて天皇の字は、皇祖にも當代にも通《ワタ》るこ(142)となれば、天皇の字を、處によりては意保伎美《オホキミ》とも訓申すべく、又皇字も處によりては須賣呂伎《スメロキ》とも訓申べきことなるに、いづくにありても、天皇の字は、須賣呂伎《スメロキ》とのみ訓申て、意保伎美《オホキミ》とは訓がたく、皇字は、意保伎美《オホキミ》とのみ訓申て、須賣呂伎《スメロキ》とは訓がたき、集中の一(ノ)制《サダメ》のごとくなるは、いかなる理にて然るにや、そのもとの所據《ヨシ》は、詳《サダカ》には知がたし、天皇とかけるをば、すべて須賣呂伎《スメロキ》と訓ことなれば、それにまぎれじがために、意保伎美《オホキミ》と申すには、字を書かへたるにもやあらむ、(しかるを處によりては、天皇をも意保伎美《オホキミ》とよみ申し、皇をも須賣呂伎《スメロキ》とよみ申すべきことゝ思ひて、謬てること多し、理はいかにまれ、此集は此集の例によりて檢《カムガフ》べきことなるに、すべておろそかに讀て、一わたりに考るより、くはしからざるなり、)凡て、此集には、意保伎美《オホキミ》と申すに、天皇とは書ぬ例なる證ないはむに、まづ吾皇と連書たる凡四處、(六卷、四十四丁、四十五丁、十九三十九丁、四十二丁、)吾王と連書たる凡九處、(二卷、廿七丁、三十二丁、三十三丁、又同丁、三十六丁、三卷、三十丁、五十七丁、五十八十、又同丁、)我王と連書たる凡二處、(二卷、三十六丁、三卷、二十三丁、)吾大皇と連書たる、凡三處、(十九、三十九丁、四十二丁、四十四丁、)吾大王と連書たる、凡十九處、(一卷、十八丁、十九丁、廿一丁、廿二丁、二卷、廿六丁、三十四丁、三十五丁、又同丁、又同丁、三卷、十三丁、十七丁、四十五丁、六卷、十八丁、廿二丁、四十五丁、又同丁、四十七丁、十八、廿丁、十九、四十丁)我大王と連書たる凡五處、(一卷、七丁、二卷、廿五丁、三卷、十三丁、六卷、三十三丁、十三、廿八丁、)吾期大王と連書たる凡二處、(二卷、廿三丁、廿四丁、)和期大王と連書たる凡五處、(一卷、廿三丁、六卷、十三丁、十四丁、十五丁、十七T、)和期於保伎美と書たる、一處、(六卷、二十三丁、)吾於富吉美と書たる一處、(三卷、(143)十三丁、)和我於保伎美と書たる一處(十八、十一丁、)見えて、かくあまた處に、くさ/”\に書るが中に、吾天皇とも、我天皇とも、吾期天皇とも、和期天皇とも書る處はたえて一處もあることなきは、天皇訓書ては、於保伎美《オホキミ》とはよまざりしがゆゑなり、)もし天皇と書て於保伎美《オホキミ》とも訓しならば、かくあまた處の中には、吾天皇とやうにも書べからぬことかは、)須賣呂伎《スメロキ》と申すに、皇の一字をば書ぬ例なる證は、右に出せるごとく、吾皇とこゝかしこに連ね書(キ)、三卷に、皇者神二四座者《オホキミハカミニシマセバ》、十九に、皇者神爾之座者《オホキミハカミニシマセバ》、六卷に、皇之引乃眞爾眞荷《オホキミノヒキノマニマニ》、八卷に、皇之御笠乃山乃《オホキミノミカサノヤマノ》、十三に、懸有雲者皇可聞《カヽレルクモハオホキミロカモ》(この一首は、高市皇子尊を指りとおぼゆ、)など見えたる中に、皇祖より代々の天皇をかけて申せるは、一もなきにて、須賣呂伎《スメロキ》とは訓まじきを知べし、もしこれをも須賣呂伎とよみしこどのありしならば、皇之とて、神之御代自《カミノミヨヨリ》、或は遠御代爾毛《トホキミヨニモ》などやうに續云たるがあるべきに、さる趣なるが、ひとつもあることなきは、皇の一字にては須賣呂伎と訓ざりしがゆゑなり、さて須賣呂伎と申す御名伎は、いかなる所由《ヨシ》ならむ詳に辨(ヘ)がたし、大祓詞に、高天腹神留坐、皇親|神漏岐《カムロキ》神漏美《カムロミ》乃命以?、八百萬神等乎集(ヘ)集(ヘ)賜比、神議(リ)々賜?、(神漏岐《カムロキ》は高御産巣日神を指し、神漏美《カムロミ》は天照大御神を指奉れり、)出雲國造神賀詞に、加夫呂伎熊野《カブロキクマヌノ》大神、(加夫呂伎《カブロキ》は神漏岐《カムロキ》にて、須佐之男命なり、大穴牟遲神の御祖なるがゆゑに申せり、)書紀孝徳天皇卷詔に、我親神祖之所知穴戸國《アガムツカムロキノシラシヽアナトノクニ》(こは仲哀天皇の、穴戸豐浦宮御宇めしゝを申したまへるなり、)又續後紀十九に載られたる長歌に、賀美侶伎能宿那毘古那《カミロキノスクナビコナ》とあり(こは少名彦那神も、此國を作堅めたまひし祖《ミオヤ》なれば、かく由すまじきにもあらず、と本居氏云り、)て、古語に、皇祖神の、男神女神相並ば(144)し坐るを後より尊て、神漏岐《カムロギ》神漏美《カムロミ》と申も、又|御一神《ミヒトハシラ》をさしては、神漏岐《カムロキ》といへりしときこえたり、(岡部氏祝詞考に、神漏岐《カムロキ》は神須倍良袁伎美《カムスベラヲキミ》、神漏美《カムロミ》は神巣倍良米伎美《カムスベラメキミ》なりとあれど、例のむつかし、本居氏古事記傳説に、神漏岐《カムロキ》は神生祖君《カムアレオヤキミ》なり、神漏美《カムロミ》は神生祖女君《カムアレオヤメキミ》なり、阿《ア》と夜《ヤ》とを上下を略きて、禮淤《レオ》を切て漏《ロ》と云り、生祖《アレオヤ》とは、人にまれ物にまれ、生出る始の御祖なる由なり、さて又|女君《メキ》は美《ミ》と切れりとあるごとく、まことに理はざることなれど、言を多く略き縮などしたりと云ること、穩ならざること、上に既く辨へたるが如し)伊邪那岐伊那那美の神等よりはじめて、岐《キ》と美《ミ》とにて、男女の神名を、別たること多ければ、漏岐《ロキ》も漏美《ロミ》も其定にて、いと上古の名目にて、日子《ヒコ》女子《メコ》と申すと相類《アヒニ》たる言と見ておかむ方、平穩《オダヤカ》なるべし、さてこの神漏岐《カムロキ》と申す稱《ミナ》と、皇漏岐《スメロキ》と申す稱《ミナ》と、いづれ先に出し言ならむ、詳ならねど、神《カム》と云と皇《スメ》と云と、異《カハ》れるのみにて、同義の言とは思はるゝを、他の古書には神漏岐《カムロキ》といひ、集中には皇呂岐《スメロキ》とのみよみたり、文辭と歌詞とにて、もとよりかはれるにもあらむ、かくて須賣呂伎《スメロキ》の須賣《スメ》も、至《イタ》く尊みていへる辭とは思はるれども、いかなる義にていひ始けむ、これも詳には知がたし、(岡部氏は、皇《スベ》は統《スベ》といふことにて、天を統知《スベシリ》國を統知《スベシリ》坐意にていへろよしいへる、これはさることもあらむか、猶考べし、)いかにまれ須賣呂伎《スメロキ》は、皇祖神など書るごとく、皇祖の天皇をさして申すが、もとの御稱《ミナ》にて、それより轉りては、皇祖より當代までをかけて廣くも稱せしを、正しく當代御一人をさし奉りて、申せしことはさらになし、(古今集の頃より、須倍良伎《スベラギ》と申て、當代天皇のことをいへるは、又一轉したるものにて、古にはさらに例なきことなり、)さてその皇祖の天皇を(145)さして稱せる例をまづいはむに、十八に、皇御祖乃御靈多須氣?《スメロキノミタマタスケテ》、(これ皇祖の天皇等の、御神靈のたすけ賜ひてといふ意なり、)六巻に、八隅知之吾大王乃高敷爲日本國者皇祖乃神之御代自敷座流國爾之有者《ヤスミシヽワガオホキミノタカシカスヤマトノクニハスメロキノカミノミヨヨリシキマセルクニニシアレバ》、(これは神武天皇の御代をさせり、)十一に、皇祖乃神御門乎懼見等侍従時爾相流公鴫《スメロキノカミノミカドヲカシコミトサモロフトキニアヘルキミカモ》、(これは當代をさして申せるごときこゆれども、皇祖より敷座(ス)皇居のよしにて、皇祖を主《ムネ》として申せるがゆゑに、字にも皇祖とかけるなり)三卷に、皇祖神之御門爾《スメロキノカミノミカドニ》云々、七巻に、皇祖神之神宮人《スメロキノカミノミヤヒト》云々、(これらも上のごとし、皇祖を主として申せるがゆゑに、字にも皇祖、皇祖神など書たり、)三卷に、皇祖神之神乃御言乃敷座國之盡《スメロキノカミノミコトノシキマセルクニノコト/”\》云々、(これも皇祖の天皇の御代より、敷座謂なり、皇祖を主としていへるがゆゑに、皇祖神と書り、)十八に、皇神祖能可見能大御世爾田道間守常世爾和多利《スメロキノカミノオホミヨニタヂマモリトコヨニワタリ》、(是は垂仁天皇の御代を指し申せり、)これらはみな皇御祖、皇祖、皇祖神、皇神祖など書たるごとく、遠皇祖《トホツミオヤ》の天皇等を主《ムネ》として申せること、さらに論なし、又一巻上、楽浪乃大津宮爾天下所知食兼天皇之祖之御言乃《サヾナミノオホツノミヤニアメノシタシロシメシケムスメロキノカミノミコトノ》云々、(これは藤原宮より、天智天皇を指て申せり、)二卷に、天皇之敷座國等天原石門乎開神上上座奴《スメロキノシキマスクニトアマノハライハトヲヒラキカムノボリノボリイマシヌ》、(これは天武天皇の崩りましゝことを、藤原朝にして申せることなるうへ、なほこの天皇とさせるは、皇祖の天皇たちの敷ます國と云意にきこえたり、)同卷に、天皇之神之御子之《スメロキノカミノミコノ》、(是は志貴親王を申て、ひろく皇祖神の御子孫と云意にもあるべく、又天智天皇の皇子にますがゆゑに、天皇は即正しく、天智天皇をさして申せりとしても、寧樂朝より申せることなれば、皇祖の意なり、)廿卷に、天皇乃等保伎美與爾毛《スメロキノトホキミヨニモ》云々、(是は仁徳天皇の、難波宮に御宇《アメノシタシロ》しめしゝを申せり、)これら天皇と書たれど、みな皇祖の天皇と申せ(146)るなり、十八に、葦原能美豆保國乎安麻久太利之良之賣之家流須賣呂伎能神能美許登能可之古久母波自米多麻比?《アシハラノミヅホノクニヲアマクダリシロシメシケルスメロキノカミノミコトノカシコクモハジメタマヒテ》、(是は雄略天皇の、吉野(ノ)離宮を始賜ひしを申せり、)廿卷に、多可知保乃多氣爾阿毛理之須賣呂伎能可未能御代欲利《タカチホノタケニアモリシスメロキノカミノミヨヨリ》云々、(是は爾々藝命をさして申せり、)可之婆良能宇禰備乃宮爾美也婆之良布刀之利多弖々安米能之多之良志賣之祁流須賣呂伎能安麻能日繼等《カシバラノウネビノミヤニミヤバシラフトシリタテヽアメノシタシロシメシケルスメロキノアマノヒツギト》(神武天皇を指り、)など見えたる、是等は正しく皇祖を指て申せるなり、十八に、須賣呂伎能御代佐可延牟等《スメロギノミヨサカエムト》、(是は皇祖より繼座る御代の意にて、ひろく申せるなり、)十九に、須賣呂伎能御代萬代爾《スメロギノミヨヨロヅヨニ》、(是も上なるに意同じ、)十八に、須米呂伎能可未能美許登能伎己之乎須久爾能麻保良爾《スメロキノカミノミコトノキコシヲスクニノマホラニ》、(是も皇祖よりきこしめす意に云て、當代天皇の御事もこもれり、)これら當代の御うへの御事にきこゆるも、皇祖を主《ムネ》として、當代を兼て申せるにて、正しく當代御一人を申せることなし、かくて十七に、須米呂伎能乎須久爾奈禮婆《スメロキノヲスクニナレバ》、又|須賣呂伎能之伎麻須久爾能《スメロキノシキマスクニノ》などあるは、皇祖より、御代々々の天皇の兼て食(シ)敷(ク)意にして、又當代のみの御上にかゝりてもきこゆるが中に、三卷に、太皇之敷座國《オホキミノシキマスクニ》、(荒木田久老が、是を天皇の誤にて、須賣呂伎《スメロキ》と訓べきなりといへるは甚偏《カタオチ》なり、十九に、大王之敷座國者《オホキミノシキマスクニハ》、又|吾大皇之伎座婆可母《ワガオホキミノシキマセバカモ》などあるに、全同じいひざまなれば、件の須賣呂伎《スメロキ》は大王《オホキミ》と申すに同じく、當代天皇のみをさして申せることなりとも云べけれど、其は皇祖より御代々々敷座(ス)意に云ても、當代天皇にかぎりて云ても通《キコ》ゆることなるゆゑに、同意なる處を二方にいへるのみにこそあれ、須賣呂伎《スメロキ》とあるは、なほ皇祖を主としていへることなり、さて其次に、廿卷に、天皇乃等保能朝廷《スメロキノトホノミカド》とあると、三卷に、大王之遠乃朝廷跡《オホキミノトホノミカドト》、五卷に、大王(147)能等保乃朝廷等《オホキミノトホノミカドト》、十七に、大王乃等保能美可度曾《オホキミノトホノミカドゾ》、十五に於保伎美能等保能美可度登《オホキミノトホノミカドト》、十八に、於保伎見能等保能美可等々《オホキミノトホノミカドト》などある類に照(シ)考るときは、右の天皇は、於保伎見《オホキミ》と訓申(ス)かた、かなふべしとも思ふべけれど、十五に、須賣呂伎能等保能朝廷等《スメロキノトホノミカドト》と假字書も見えたれば、なほ天皇とあるは須賣呂伎《スメロキ》と訓べきことなり、さてこれらのみを見て、大王《オホキミ》と申すも須賣呂伎《スメロキ》と申すも、同じことぞと意得る人もあるべけれど、それもたがへることなり、さるは遠之朝廷《トホノミカド》と云には、大王《オホキミ》と(當代天皇御一人をさして、)申ても、須賣呂伎《スメロキ》と(皇祖より御代々々を兼て、)申ても妨(ケ)なきがゆゑに、かくかれにもこれにもいへるにで、大王と申すも須賣呂伎《スメロキ》と申すも、同じことなるがゆゑに、いへるにはあらざることを思べし、上件に説《イヘ》るを見て、意保伎美《オホキミ》と申すと、須賣呂伎《スメロキ》と申すとは清く異れること、又天皇の字をば、意保伎美《オホキミ》とは、訓申べからざることをも辨知べし、他事《コト/\》はさばれ、これは至尊《イトモカシコ》き御うへの事なれば、謹考へて、あなかしこつゆ誤ちそこなふことなかれ、しかるに一卷に、天皇乃|命畏美《ミコトカシコミ》、六卷に、天皇之|御命恐《ミコトカシコミ》、廿卷に、天皇乃|美許登可之古美《ミコトカシコミ》、十九に、天皇之|命恐《ミコトカシコミ》などある、是等は正しく、當代天皇のみの御事をさして申せるなれば、須賣呂伎《スメロキ》とは訓がたく、そのうへ三卷に、王之命恐《オホキミノカシコミ》、六卷に、大王之命恐《オホキミノミコトカシコミ》、又|大王之御命恐《オホキミノミコトカシコミ》、九卷に、大王之御命恐《オホキミノミコトカシコミ》、又|大王之命恐彌《オホキミノミコトカシコミ》、十七に、大王能美許登加之古美《オホキミノミコトカシコミ》、廿卷に、大王乃美許等能麻爾末《オホキミノミコトノマニマ》、又|大王乃美己等可之古美《オホキミノミコトカシコミ》、三卷に、大皇之命恐《オホキミノミコトカシコミ》、十四に、於保伎美乃美己等可思古美《オホキミノミコトカシコミ》、十五に、於保伎美能美許等可之古美《オホキミノミコトカシコミ》、十七に、憶保枳美乃彌許等可之古美《オホキミノミコトカシコミ》、又|於保伎美乃美許等可之古美《オホキミノミコトカシコミ》、廿卷に、於保伎美乃美古等可之古美《オホキミノミコトカシコミ》、又|於保伎美乃美許等爾作例波《オホキミノミコトニサレバ》、又|意保伎美乃美事等可之古美《オホキミノミコトカシコミ》、(148)又|於保伎美乃美己等可之古美《オホキミノミコトカシコミ》、又|於保吉美乃美許等加之古美《オホキミノミコトカシコミ》など多くあるに、須賣呂伎乃美許等《スメロキノミコト》云々といふ假字書は、一も見えたることなきを考るに、古の天皇とあるのみは、なほ意保伎美《オホキミ》と訓べく思ふめれど、天皇の字を、ば意保伎美《オホキミ》とは訓ぬ例なること、前に委(ク)辨たるがごとし、これによりて思ふに、右の天皇の天は、大字の誤寫なること著《シル》し、大皇と書たる例は、集中に凡《オヨソ》十處あればなり、(三卷、五十丁五十四丁、十七、十三丁、十八、十丁十二丁廿一丁又同丁、十九、三十九丁四十四丁又同丁に見ゆ、)さて又十三に、天皇之|遣之萬々《マケノマニマニ》とある、これも右に同じく、正しく當代天皇のみの御事を申せるなれば、是を舊本に、或本に王命恐《オホキミノミコトカシコミ》とあるによらば、こともなけむ、本文の天皇は、大皇を後に誤寫したること決《ウツナ》し、十七に、大王能麻氣能麻爾未爾《オホキミノマケノマニマニ》、又|大王乃麻氣能麻爾麻爾《オホキミノマケノマニマニ》、十八に、大王乃麻氣能麻久麻久《オホキミノマケノマニマニ》、廿卷に、大王乃麻氣乃麻爾麻爾《オホキミノマケノマニマニ》、十七に、於保吉民能麻氣乃麻爾麻爾《オホキミノマケノマニマニ》、十八に、於保伎見能未伎能末爾末爾《オホキミノマキノマニマニ》などあるをも考(ヘ)合すべし、又四卷に、天皇之|行幸乃隨意《イデマシノマニ》、六卷に、天皇之|行幸之隨《イデマシノマニ》などあるも、正しく當代天皇を指て申せるなれば、これも大皇を寫誤れるものならむ、六卷に、皇之引乃眞爾眞爾《オホキミノヒキノマニマニ》とあるをも思ふべし、(しかるを、荒木田久老が、右の一卷、六卷、十九、廿卷、又四卷、六卷などの天皇をば、オホキミ〔四字右○〕と訓べしと云る、詞のうへは、さて當れることなれども、字の誤をしも思はざりしは凡てオホキミ〔四字右○〕といふには、此集天皇とは書ぬ例なること、上に證を引て委辨(ヘ)たるがごとくなるを、いまだふかくたどらざりしがゆゑなり、
 
   自《ヨリト》云辭(ノ)辨
 
(149)自を用理《ヨリ》とも由理《ユリ》とも、用《ヨ》とも由《ユ》ともいへるこ、すべて古言にいと多し、其中に用理《ヨリ》と云るは、古事紀、書紀、此集等より今世まで、常云ことにてめづらしか∴ず、由理《ユリ》といへるは、古事記、書紀には見えず、集中にも稀なり、續紀宣命にはこれかれあり、さて一言にいひて宜しき處を用《ヨ》とも由《ユ》とも云たること、集中にはめづらしからず、古事記には用《ヨ》とのみ云て由《ユ》といへることなし、書紀には由《ユ》とのみ云て用《ヨ》といへることなし、(古今集よりこの方は用理《ヨリ》とのみ云て、餘の三種にいへること絶たり、)さて件の四稱(用理《ヨリ》、用《ヨ》、由理《ユリ》、由《ユ》)いづれに云ても同じことなるを、その用《ツカ》へる様によりて、くさ/”\にわかりてきこゆることありて、或は袁《ヲ》の辭の如く、或は爾《ニ》の辭の如く、或は敝《ヘ》の如く、或は爾?《ニテ》といふに通ひてきこゆる處もありて、ようせざるときは、一首の意をさへ思誤つことのあれば、よくその用へる樣を味見て、差別《ケヂメ》あることを辨(フ)べし、○二卷に、石見乃也高角山之本際從我振袖乎妹見都良武香《イハミノヤタカツヌヤマノコノマヨリアガフルソデヲイモミツラムカ》、四巻に、神代從生繼來者《カミヨヨリアレツギクレバ》云々などある從は、ヨリ〔二字右○〕と訓てカラ〔二字右○〕と云に同じ、木際から、神代からの意なり、十四に、武藏野乃乎具奇我吉藝志多知和可禮伊爾之與比欲利世呂爾安波奈布與《ムサシヌノヲグキガキヾシタチワカレイニシヨヒヨリセロニアハナウヨ》、十八に、安須余里波都藝?伎許要牟保登等藝須比登欲能可良爾古非和多流加母《アスヨリハツギテキコエムホトヽギスヒトヨノカラニコヒワタルカモ》などあるは、去《イニ》し夜《ヨヒ》から、明日からはの意なり、廿卷(東歌)に、可之古伎夜美許等加我布理阿須由利也加曳我伊牟多禰乎伊牟奈之爾志?《カシコキヤミコトカヾフリアスユリヤカエガイムタネヲイムナシニシテ》、又(東歌)於之?流夜奈爾波能津由利布余與曾比阿例波許藝奴等伊母爾都岐許曾《オシテルヤナニハニツユリフナヨソヒアレハコギヌトイモニツギコソ》(由(ノ)字、舊本には與と作り、今は元暦本に從て引り、)などあるは、明日からは、難波の津からの意なり、一巻に、橿原乃日知之御世從阿禮座師神之盡《カシハラノヒジリノミヨヨアレマシシカミノコト/”\》云々、三卷に、葦北乃野坂乃浦從船出爲而水嶋爾將去浪立莫勤《アシキタノヌサカノウラヨフナデシテミヅシマニユカムナミタツナユメ》などある從(150)は、ヨ〔右○〕ともユ〔右○〕とも訓べし、日知の御世から、野坂の浦からの意なり、六卷に、三芳野之眞木立山湯見降者川之瀬毎《ミヨシヌノマキタツヤマユミクダセバカハノセゴトニ》云々、又|左日鹿野由背上爾所見奧島清波瀲爾《サヒカヌユソガヒニミユルオキツシマキヨキナギサニ》云々などあるは、正《マサ》しく由《ユ》といへる例なり、眞木立山から、左日鹿野からの意なり、十七に、和我勢兒乎安我松原欲見度婆安麻乎等女登母多麻藻可流美由《ワガセコヲアガマツハラヨミワタセバアマヲトメドモタマモカルミユ》、十八に、伊爾之敝欲伊麻乃乎追通爾《イニシヘヨイマノヲツヽニ》云々などあるは、正しく用《ヨ》といへる例なり、松原から、古からの意なり、すべて上件に引る用理《ヨリ》も由理《ユリ》も、用《ヨ》も由《ユ》も、みな尋常の用樣にて、世の人の意得たるに違ふことなきゆゑに、證どもをくはしく引ず、○二卷に、古爾戀流鳥鴨弓弦葉乃三井能上從鳴渡遊久《イニシヘニコフルトリカモユヅルハノミヰノウヘヨリナキワタリユク》、又|自雲間渡相月乃《クモマヨリワタラフツキノ》云々、十一に、雲間從狹徑月乃《クモマヨリサワタルツキノ》、又|山從來世波《ヤマヨリキセバ》、又|小墾田之坂田乃橋之壞者從桁將去獏戀吾妹《ヲハリタノサカタノハシノクヅレナバケタヨリユカムナコヒソワギモ》、十六に、刺名倍爾湯和可世子等櫟津乃檜橋從來許武狐爾安牟佐武《サシベニユワカセコドモイチヒツノヒハシヨリコムキツニアムサム》などあるは、三井の上を鳴わたる、雲間をわたる、山を來りせば、桁を行む、檜橋を來むの意なり、此餘にも此意なる多し、准へて知べし、古事記に、降2出雲國之肥川上1、在2鳥髪地1、此時箸從2其河1流下、又倭建命御詞に吾心《アガコヽロ》恒(ハ)念(ヒ)2自(リ)v虚翔行(ムト)1然《シヲ》、今吾(カ)足不2得歩1云々、姓氏録佐伯直(ノ)條に、于時青菜葉自2岡邊川1流下、天皇詔(タマハク)、應(シ)2川上(ニ)有1v人也、云々、書紀神武天皇卷に、遡流而上《カハヨリサカノボリテ》、仁徳天皇卷に、沂《サカノボリ》v江《カハヨリ》、祈年祭祝詞に自v陸往道者荷(ノ)緒結(ヒ)堅(メ)?、古今集春下、清原深養父歌の端詞に、山川より花の流れけるを作《ヨメ》る、又源氏物語須磨卷に、おきより舟|等《ドモ》のうたひのゝしりてこぎゆく(庭槐抄に、近衛司等或|自《ヨリ》v水《カハ》渡或過v橋(ヲ)、)など見えたるみな同じ、二卷に三笠山野邊從遊久道《ミカサヤマヌヘヨユクミチ》、三卷に、天籬夷之長路從戀來者自明門倭島所見《アマサカルヒナノナガヂヨコヒクレバアカシノトヨリヤマチソマミユ》、四巻に、敷細乃枕從久々流涙二曾浮宿乎思家類戀乃繁爾《シキタヘノマクラヨクヽルナミタニゾウキネヲシケルコヒノシゲキニ》、八卷に、霍公鳥從此間鳴度《ホトヽギスコヨナキワタル》、(かく云る詞、其下にも、十卷、十八卷などにも、こ(151)れかれあり、)九巻に、馬咋山自越來奈流《ウマクヒヤマヨコエクナル》、又|河副乃丘邊道從昨日己曾吾越來牡鹿《カハソヒノヲカヘノミチヨキノフコソアガコエキシカ》、十卷に、從蒼天往來吾等須良《オホソラヨカヨフアレスラ》、十一に、石根從毛遠而念《イハネヨモトホシテオモフ》、又|從此川船可行雖在《コノカハヨフネハユクベクアリトイヘド》、十九に、我門從喧過度霍公鳥《アガカドヨナキスギワタルホトヽギス》などある從、自は、ユ〔右○〕ともヨ〔右○〕とも訓べし、夷の長道を、枕をくゝる、此間《コヽ》を鳴わたる、馬咋山を越來なる、丘邊の道を吾(カ)越來しか、蒼天をかよふ、石根をも透して念ふ、此(ノ)河を船は行(ク)べく、吾(カ)門を鳴(キ)すぎわたるの意なり、七卷に、卷向之病足之川由往水之絶事無又反將見《マキムクノアナシノカハユユクミヅノタユルコトナクマタカヘリミム》、十四に、蘇良由登伎奴與《ソラユトキヌヨ》、又|久毛能宇倍由奈伎由久多豆乃《クモノウヘユナキユクタヅノ》、十八に、曾能倍由母伊由伎和多良之《ソノヘユモイユキワタラシ》、十五に、奈美能宇倍由奈豆佐比伎爾?《ナミノウヘユナヅサヒキニテ》云々などあるは、正しく由《ユ》といへる例なり、痛足の川を、空を、雲の上を、その上を、浪上をの意なり、繼體天皇紀歌に、簸都細能※[加/可]婆※[まだれ/叟]那峨例倶屡《ハツセノカハユナガレクル》とあるも同じ、十四に、乎都久波乃之氣吉許能麻欲多都登利能目由可汝乎見牟左禰射良奈久爾《ヲツクバノシゲキコノマヨタツトリノメユカナヲミムサネザラナクニ》、十八に、保等登藝須許欲奈枳和多禮登毛之備乎都久欲爾余蘇倍曾能可氣母見牟《ホトトギスコヨナキワタレトモシビヲツクヨニナソヘソノカゲモミム》などあるは、正しく用《ヨ》と云る例なり、繁き木間を、此間《コヽ》を鳴渡れの意なり、許欲奈枳和多流《コヨナキワタル》と云詞なほ多し、○四卷に、從芦邊滿來鹽乃彌益荷念歟君之忘金鶴《アシベヨリミチクルシホノイヤマシオモヘカキミガワスレカネツル》、廿卷に、保理江欲利安佐之保美知爾與流許都美可比爾安里世婆都刀爾勢麻之乎《ホリエヨリアサシホミチニヨルコツミカヒニアリセバツトニセマシヲ》などあるは、芦邊に、或は芦邊へと云意にもきこえ、堀江に、或は堀江へと云意にもきこゆ、(保理江欲利云々は、潮の滿につれて、澳の方より、堀江に木糞のよる謂なるべし、堀江から潮の滿につれて、岸側に木糞のよる謂にはあらじ、即題詞に、獨見(テ)2江水(ニ)浮漂《ウカベル》糞1、怨2恨《ウラミテ》貝玉(ノ)不(ルヲ)1v依作(ル)歌とあるをも思(フ)べし、)七卷に、木國之狹日鹿乃浦爾出見者海人之燈火浪間從所見《キノクニノサヒカノウラニイデミレバアマアマノトモシビナミノマヨミユ》、又|吾船者從奧莫離向舟片待香光從浦榜將會《アガフネハオキヨナサカリムカヘブネカタマチガテリウラヨコキアハム》、又|掻上栲島波間從所見《カヽゲタクシマナミノマヨミユ》、又|井上從直爾道者雖有《ヰノヘヨタヾニミチハアレド》、又、從何方君吾(152)率隱《イヅコヨキミガアヲヰカクレム》又|殊放者奧從酒甞湊自邊着經時爾《コトサカバオキヨサカナムミナトヨリヘツカフトキニ》、八卷に、波上從所見兒島之《ナミノヘユミユルコジマノ》、九卷に、宇能花乃開有野邊從飛翻來鳴會響《ウノハナノサキタルヌヘヨトビカケリキナキトヨモシ》、十卷に、咲落岳從審公鳥鳴而沙渡《サキチルヲカヨホトヽギスナキテサワタル》、十一に、東細布從空延越遠見社《ヨコグモノソラヨヒキコシトホミコソ》、又|伊勢能海從鳴來鶴乃音杼侶毛君之所聞者吾將戀八方《イセノウミヨナキクルタヅノオトドロモキミガキコエバアレコヒメヤモ》などある從は、ヨ〔右○〕ともユ〔右○〕とも訓べし、浪(ノ)間に、井(ノ)上に、何方に、或は何方へ、奧に、或は奧へ、浪(ノ)上に、野邊に、或は野邊へとも、野邊をとも、丘に、或は丘へとも、丘をとも、空に、伊勢海に、或は伊勢海へと云意にもきこゆ、七卷に、年月毛未經爾明日香河湍瀬由渡之石走無《トシツキモイマダヘナクニアスカガハセゼユワタシヽイハバシモナシ》、十四に、多都登利能目由可汝乎見牟《タツトリノメユカナヲミム》、十五に、安麻能都里船奈美乃宇倍由見由《アマノツリフネナミノウヘユミユ》、又|伊蘇乃麻由多藝都山河多延受安良婆麻多母安比見牟秋加多麻氣?《イソノマユタギツヤマガハタエズアラバマタモアヒミムアキカタマケテ》、廿卷に、多久頭怒能之良比氣乃宇倍由奈美太多利奈氣伎乃多婆久《タクヅヌノシラヒゲノウヘユナミダタリナゲキノタバク》云々、などあるは、正しく由《ユ》といへる例なり、瀬瀬に、目に、浪(ノ)上に、石間《イソノマ》に、白髭の上にの意にきこゆ、さてこのにと云意、へと云意なる自《ヨリ》に、用《ヨ》と假字書にせる處の見えざるは、たゞおのづからのことなり、さて又四卷に、從情毛吾者不念寸《コヽロユモアハオモハズキ》、五卷に、許々呂由母於母波奴阿比陀爾《コヽロユモオモハヌアヒダニ》、七卷に、從心毛不想人之《コヽロユモオモハヌヒトノ》、又|心從毛不念君之《コヽロユモオモハヌキミガ》と見えたるを始めて、從心毛《コヽロユモ》と云ることこれかれ見えたり、これも心にもの意にきこえたり、又十一に、數多不有名乎霜惜三理木之下從其戀去方不知而《アマタアラヌナヲシモヲシミウモレギノシタヨソコフルユクヘシラズテ》とあるをはじめて、かくざまに下從《シタヨ》といへること、十二にも十七などにもこれかれあり、これも下從《シタヨ》は、したにの意にきこえたり、○十一に、山科強田山馬雖在歩吾來汝念不得《ヤマシナノコハダノヤマヲウマハアレドカチヨリアガコシナヲモヒカネテ》、十三に、人都未乃馬從行爾己夫之歩從行者《ヒトツマノウマヨリユクニオノヅマノカチヨリユケバ》云々などある、これらは馬にて行、歩にて行と云意なり、古事記中(ツ)卷垂仁天皇條に、光2海原1自《ヨリ》v船《フネ》追來、下卷安康天皇條に、倏忽之間《タチマチ》自(リ)v馬《ウマ》往雙《ユキナラバシテ》、書紀應神天皇卷に、浮海《フネヨリシテ》、仁徳天皇卷に、浮江《カハフネヨリ》幸2山背(ニ)1、(庭槐鈔に、此(153)所自v舟參(リ)着云々、)詞花集端詞に、播磨守に侍ける時、三月ばかり舟よりのぼり侍けるに、云々、などあるみな同じ、又七卷に、吾舟者從奧莫離向舟片待香光從浦榜將會《アガフネハオキヨナサカリムカヘブネカタマチガテリウラヨコギアハム》とある從浦は、ウラヨ〔三字右○〕ともウラユ〔三字右○〕とも訓べし、これは上の馬自《ウマヨリ》、歩自《カチヨリ》といふとは、いさゝか異《カハ》りたれども、これも從はにての意にて、浦にて榜會むと云ことゝきこゆ、古事記景行天皇條歌に、蘇良波由賀受阿斯用由久那《ソラハユカズアシヨユクナ》、(推古天皇紀に、泛海往《フネカラニユク》とあるも、船にて往(ク)と云意の訓なり、)十四に、須受我禰乃波由馬宇馬夜能都々美井乃美都乎多麻倍奈伊毛我多太手欲《スヾガネノハユマウマヤノツヽミヰノミヅヲタマヘナイモガタヾテヨ》などあるは、正しく用《ヨ》といへる例なり、足にて、直手《タヾテ》にて、と云意にきこえたり、○五卷に、和禮欲利母貧人乃父母波飢寒良牟《ワレヨリモマヅシキヒトノチヽハヽハウヱサムカラム》云々、十卷に、難相君爾逢有夜霍公烏地時從者今社鳴目《アヒガタキキミニアヘルヨホトヽギスコトコトトキヨリハイマコソナカメ》、十一に、中々不見有從相見戀心益念《ナカ/\ニミザリシヨリモアヒミテハコヒシキコヽロイヨヽオモホユ》などあるは、吾よりも益りて、他時よりは益りて、見ざりしよりも益りてと云意なり、これら物二を比へて、勝劣を云一格なり、他所に、自花者實成而許曾戀益家禮《ハナヨリハミニナリテコソコヒマサリケレ》、或は從君毛吾曾益而《キミヨリモアレゾマサリテ》などやうに、益而《マサリテ》と云ことを云たるはたしかなるを、右の歌どもは、益《マサル》と云意を含ませて省きたるものなり、五卷に、久毛爾得失久須利波牟用波美也古彌婆伊夜之吉阿何微麻多越知奴倍之《クモニトブクスリハムヨハミヤコミバイヤシキアガミマタヲチヌベシ》とあるは、正しく用《ヨ》といへる例なり、藥喫よりはまさりての意ときこゆ、○十一に、眞葛延小野之淺茅乎自心毛人引目l八方吾莫名國《マクヅハフヲヌノアサヂヲコヽロヨモヒトヒカメヤモアレナケナクニ》とあるは、心まかせにもと云意にきこゆ、前に引る吾屋前爾生土針從心毛《ワガヤドニオフルツチハリコヽロヨモ》云々とある、從心毛《コヽロヨモ》とは異ざまにきこえたり、又十卷に、眞氣長戀心自白風妹音所聽紐解枉名《マケナガクコフルコヽロヨアキカゼニイモガオトヒモトキマケナ》とあるは、心につれてと云意にきこえたり、なほよく考べし、凡|自《ヨリ》と云ことに用樣にさまざま異《カハリ》あること、大抵上件に云るがごとく辨へおきて、なほその條々《トコロ/”\》に註ることゞもを照し考(154)へて、一偏《ヒトカタ》に拘《ナヅ》まず、集中を讀味ひ、其意を解るべし、
 
   登《トト》云辭(ノ)辨
 
登《ト》と云辭を、いづくにありても、たゞ一意なりとたやすく意得ることなれど、處によりて、或は、登之?《トシテ》の意なるあり、或は登那理?《トナリテ》の意なるあり、或は登?《トテ》の意なる、或は登々母爾《トトモニ》と云意なる、さま/”\異《カハリ》あることなれば、よく古人の用《ツカ》へる樣を味(ヒ)見べし、大方に意得るときは、大意をとりちがふることありと知べし、さればこれも、その用へる樣の異《カハリ》を、いさゝかこゝにつみ出て辨(ヘ)おかむとす、○一卷に、我許曾背《アヲコソセ》(跡《ト》)齒告目家乎呼名雄母《ハノラメイヘヲモナヲモ》、二卷に、宇都曾見乃人爾有吾哉從明日者二上山乎弟世登吾將見《ウツソミノヒトナルアレヤアスヨリハフタガミヤマヲワガセトアガミム》、又|御立爲之島乎母家跡住鳥毛荒備勿行年替左右《ミタヽシシシマヲモイヘトスムトリモアラビナユキソトシカハルマデ》などあるは、夫《セ》としては告《ノラ》め、吾兄《アガセ》として吾(ガ)見む、家として住(ム)鳥もの意なり、いづれも皆、其(レ)ならぬ物をそれとするを謂り、又同卷に、奧波來依荒磯乎色妙乃枕等卷而奈世流君香聞《オキツナミキヨルアリソヲシキタヘノマクラトマクラトマキテナセルキミカモ》、六卷に、刺竹之大宮人乃家跡任佐保能山乎者思哉毛君《サスタケノオホミヤヒトノイヘトスムサホノヤマヲハオモフヤモキミ》、十四に、信濃奈流知具麻能河泊能左射禮思母伎彌之布美?婆多麻等比呂波牟《シナヌナルチクマノカハノサザレシモキミシフミテバタマトヒロハム》などある、これらもみな同意なり、○一卷に、栲乃穗爾夜之霜落磐床等川之氷凝《タヘノホニヨルノシモフリイハトコトカハノヒコホリ》云々、二卷に、久竪乃天宮爾神隨神等座者《ヒサカタノアマツミヤニカムナガラカミトイマセバ》云々、三卷に、足氷木乃山邊乎指而晩闇跡隱益去禮《アシヒキノヤマヘヲサシテクラヤミトカクリマシヌレ》云々などあるは、磐床《イハトコ》となりて、神となりて座ば、晩闇となりての意なり、いづれも皆其ならぬ物のそれと變《ナ》り、或は此物の彼物に化《ナ》るを謂り、十七に、烏梅乃花美夜萬等之美爾安里登母也如此乃未君波見禮登安可爾氣牟《ウメノハナミヤマトシミニアリトモヤカクノミキミハミレドアカニケム》、古事記中卷神武天皇條に、宇泥備夜麻比流波久毛登韋由布佐禮婆加是布加牟登曾許能波佐夜牙流《ウネビヤマヒルハクモトヰユフサレバカゼフカムトゾコノハサヤゲル》、古今集に、今日來ずは明日は雪とぞふりなましな(155)どある、これらもみな同意なり、○一卷に、熟田津爾船乘世武登月侍者潮毛可奈比沼今者《ニキタヅニフナノリセムトツキマテバシホモカナヒヌイマハ》、許藝弖菜《コギテナ》、同卷に、神佐備世須登《カムサビセスト》云々山神乃奉御調等春部者花挿頭持《ヤマツミノマツルミツギトハルヘハハナカザシモチ》云々、大御食爾仕奉等上瀬爾《》鵜川乎立《オホミケニツカヘマツルトカミツセニウカハヲタテ》云々などあるは、船乘爲《フナノリセ》むとて、神佐備爲《カムサビセ》すとて、奉《マツ》る御調《ミツキ》とて、仕奉《ツカヘマツル》るとての意なり、又同卷に、其乎取登散和久御民毛《ソヲトルトサワグミタミモ》云々、又|朝毛吉木人乏母亦打山《アサモヨシキヒトトモシモマツチヤマユキクトミラム》行來跡見良武樹人友師母《アサモヨシキヒトトモシモマツチヤマユキクトミラムキヒトトモシモ》、二卷に、吾勢枯乎倭邊遣登佐夜深而鷄鳴露爾吾立所霑之《ワガセコヲヤマトヘヤルトサヨフケテアカトキツユニアガタチヌレシ》などみな同じ、なほ卷々にいと多し、さてすべて古言には登?《トテ》といへることなし、(今京よりこなたには、いと多き詞なり、)かくざまに登《ト》とのみ云たるに、登?《トテ》の意を具《モチ》たればなり、(やゝ古くは、延喜式鎭火祭(ノ)祝詞にたゞ一(ツ)ある、それを除て古言に登?《トテ》と云ることなし、)○一巻に、高山與耳梨山與和之時立見爾來之伊奈美國波良《カグヤマトミヽナシヤマトアヒシトキタチテミニコシイナミクニハラ》、又|霰打安良禮松原住吉之弟日娘與見禮常不飽香聞《アラレウチアラレマツハラスミノエノオトヒヲトメトミレドアカヌカモ》などあるは、高山《カグヤマ》と耳梨山《ミヽナシヤマ》と共に、弟日娘《オトヒヲトメ》と共にの意なり、二卷に、君與時々幸而《キミトトキ/”\イデマシテ》、三卷に、人不榜有雲知之潜爲鴦與高部共船上住《ヒトコガスアラクモシルシカヅキスルヲシトタカベトフネノウヘニスム》、五巻に、余知古良等手多豆佐波利提《ヨチコラトテタヅサハリテ》云々などあるみな同じ、卷々に多し、○五卷に、大王能等保乃朝廷等斯良農比筑紫國爾《オホキミノトホノミカドトシラヌヒツクシノクニニ》云々、十五に、須賣呂伎能等保能朝廷等可良國爾《スメロキノトホノミカドトカラクニニ》云々、十八に、於保伎見能等保能美可等々《オホキミノトホノミカドト》云々|古之爾久太利來《コシニクダリキ》云々などあるは、遠の朝廷とあると謂《イフ》ことゝきこゆ、○十八に、高御座安麻能日繼登須賣呂伎能可未能美許登能伎己之乎須《タカミクラアマノヒツギトスメロキノカミノミコトノキコシヲス》云々、又|天乃日嗣等之良志久流伎美能御代々々《アマノヒツギトシラシクルキミノミヨミヨ》云々、又|多可美久良安麻能日嗣等天下志良之賣師家流《タカミクラアマノヒツギトアメノシタシラシメシケル》云々、十九に、天之日繼等神奈我良吾皇乃天下治賜者《アマノヒツギトカムナガラワガオホキミノアメノシタヲサメタマヘバ》、廿巻に、須賣呂伎能安麻能日繼等都藝弖久流伎美能御代々々《スメロキノマノヒツギトツギテクルキミノミヨミヨ》云々、これらみな天《アマ》の日繼《ヒツギ》とありての謂《ヨシ》ときこゆ、○三卷に、逆言之枉言等可聞(156)高山之石穗乃上爾君之臥有《オヨヅレノタハゴトトカモタカヤマノイハホノウヘニキミガコヤセル》、同卷に、逆言之狂言登可聞白細爾舍人装束而《オヨヅレノタハコトトカモシロタヘニトネリヨソヒテ》云々、十七に、於餘豆禮能多婆許登等可毛波《》之伎余思奈弟乃美許等《オヨヅレノヤハコトヽカモハシキヨシナオトノミコト》云々などある登《ト》は、續紀宣命に、天皇詔旨止勅スメラガオホミコトトノリタマフ大命《スメラガオホミコトトノリタマフオホミコト》と多くある止《ト》に同じく、爾?《ニテ》といふ意にきこゆ、されば狂言にてあればにやならむ、高山の云々に、君が臥せると云意なるに、いづれも准べし、又これらの言等《コトト》はたゞ言とのみいふに同じと云説あり、十九に、玉梓之道爾出立徃吾者公之事跡乎負而之將去《タマホコノミチニイデタチユクアレハキミガコトトヲオヒテシユカム》とあるは、言《コト》を言跡《コトヽ》といへりときこえたり、なほ本條にいふべし、○十六に、左耳通良布君之三言等玉梓之使毛不來者《サニヅラフキミガミコトトタマヅサノツカヒモコネバ》云々とあるは、君が御言をもちての謂ときこえたり、○十九に、住吉爾伊都久祝之神言等行得毛來等毛舶波早家無《スミノエニイツクハルリガカムコトヽユクトモクトモフネハハヤケム》とあるは、神言《カムコト》に因《ヨリ》てと云ほどの意ときこえたり、○十四に、志母都氣努安素乃河泊良欲伊之布麻受蘇良由登伎奴與奈我己許呂納禮《シモツケヌアソノカハラヨイシフマズソラユトキヌヨナガコヽロノレ》、又|可奈刀田乎安良我伎麻由美比賀刀禮婆阿米乎萬刀能須伎美乎等麻刀母《カナトタヲアラガキマユミヒガトレバアメヲマトノスキミヲトマトモ》、廿卷に、由古作枳爾奈美奈等惠良比志流敝爾波古乎等都麻乎等於枳弖等母枳奴《ユコサキニナミナトヱラビシルヘニハコヲトツマヲトオキテトモキヌ》、又|阿良之乎乃伊乎佐太波佐美牟可比多知可奈流麻之都美伊※[泥/土]弖登阿我久流《アラシヲノイヲサダハサミムカヒタチカナルマシヅミイデテトアガクル》などある、これらの登《ト》は正しく曾《ゾ》に通はしいへりとおもはるゝも、また曾《ソ》の辭に似て輕きもあり、かやうにいへること東歌にのみ見えたれば、東語にかぎりていへりしことなるべし、十四に、イカホロニアマクモイツギ伊香保呂爾安麻久母伊都藝可奴麻豆久比等登於多波布伊射禰志米刀羅《カヌマヅクヒトヽオタハフイザネシメトラ》とある歌を、その下相聞部に再《マタ》出せるには、比等曾於多波布《ヒトゾオタハフ》とあり、これは正しく曾《ゾ》に通はしたるなり、○二卷に、鴨山之磐根之卷有吾乎鴨不知等妹之待乍將有《カモヤマノイハネシマケルアレヲカモシラニトイモガマチツヽアラム》、四卷に、爲便乎不知跡立而爪衝《スベヲシラニトタチテツマヅク》、これら不《ズ》v知《シラ》にと云意にて、等《ト》にことに意なし、凡て不知《シラニ》といふ言の下にある等《ト》は(157)みな助辭にて、たゞ語勢を助けたるのみにて、意には關らぬことゝ知べし、古事記崇神天皇(ノ)條(ノ)歌に、伊由岐多賀比宇迦々波久斯良爾登美麻紀伊理毘古波夜《イユキタガヒウカヽハクシラニトミマキイリイリビコハヤ》とあるを、書紀に載たるには、登字なし、これあるも、なきも意は大かた同じことなるを知るべし、しかれども、今こゝろみによくこれを誦へ味ふるに、等《ト》の言ある方調ぞまされる、○二卷に、人皆者今波長跡多計登雖言君之見師髪亂有等母《ヒトミナハイマハナガミトタケトイヘドキミガミシカミミダリタリトモ》とある長跡《ナガミト》は、俗に長さにと云むが如し、跡《ト》は助辭なり、凡て美《ミ》の辭の下にある等《ト》は皆助辭の例なり、三卷に、者在跡《コフレドモ雖戀効矣無跡辭不問物爾シルシヲナミトコトトハヌモノニハアレド》とあると、十三卷に、雖思印乎無見《オモヘドモシルシヲナミ》云々|言不問木雖在《コトトハヌキニハアレドモ》とあると同趣なるにて、跡《ト》の助辭にことに意なく、あるもなきも大かた異なることなきを知るべし、されどこゝもよく誦へ味ひこゝろむるに、等《ト》の辭ある方調まされり、さて又語勢を助けたもつ爲には、今の二卷の歌のごとく、必この助辭なくてはわろき處多し、(たゞ助辭を、いたづらのものとのみは思ふべからず、)三卷に、恐等仕奉而《カシコミトツカヘマツリテ》云々、又|賢跡物言從者酒飲而醉哭爲師益有良師《サカシミトモノイハムヨハサケノミテヱヒナキスルシマサリタルラシ》、又|足日木能石根許其思美菅根乎引者難三等標耳曾結烏《アシヒキノイハネコヾシミスガノネヲヒカバカタミトシメノミゾユフ》、四卷に、獨宿而絶西紐緒忌見跡世武爲便不知哭耳之曾泣《ヒトリネテタエニシヒモヲユヽシミトセムスベシラニネノミシゾナク》などある、恐等《カシコミト》、賢等《サカシミト》、難三等《カタミト》、忌見跡《ユヽシミト》などの等《ト》の辭に、ことに意はなけれども、いづれも必なくでかなはぬことなり、此餘、險跡《サガシミト》、清跡《サヤケミト》、恠常《アヤシミト》、歡登《ウレシミト》、繁跡《シゲミト》、戀美等《コヒシミト》、深美等《フカミト》、多美等《オホミト》、厚美等《アツミト》、乏美等《トモシミト》、移布勢美等《イフセミト》などある等《ト》の辭、みな今と全同じ、准知るべし、
 
   美《ミト》云辭(ノ)辨
 
語《コト》の尾に屬《ツケ》ていふ美《ミ》の辭は、多くは四段に麻美牟米《マミムメ》と活用《ハタラ》く言にて、其は愛美《ウツクシミ》、懽美《ウレシミ》、痛美《イタミ》、憐美《アハレミ》、(158)悲美《カナシミ》、惜美《ヲシミ》、苦美《クルシミ》などの類に、即五十音の第二位に活《ハタラ》けるなり、(四段とは、愛《ウツクシ》マム〔二字右○〕、愛《ウツクシ》ミ〔右○〕、愛《ウツクシ》ム〔右○〕、愛《ウツクシ》メ〔右○〕などいふに、餘は准へて知るべし、)又中二段にて、同じさまに活《ハタラ》く言もあれど、(中二段とは、恨《ウラ》ミ〔右○〕、恨《ウラ》ム〔右○〕などの類なり、)其はこゝに出せる、語の尾に屬て云ると一例なるは見えず、又|廣美《ヒロミ》、厚美《アツミ》、高美《タカミ》、遠美《トホミ》、好美《ヨミ》、多美《オホミ》、無美《ナミ》、難美《カタシミ》、可美《ベミ》、或は、希見美《メヅラシミ》、不樂美《サブシミ》、欝美《イブカシミ》、侘美《ワビシミ》、凝々美《コゞシミ》、險美《サカシミ》などいへる類は、又上件の二種(四段と中二段と、)の活用の他なり、各々言の起れる理は其れりといへども、その本義を明めて解むとするときは、かへりて用ひたる末の意を誤りて、一首のうへを聞ひがむることあるによりて、今は混へ解て、其意をさとせること左の如し、又|引美《ヒキミ》、弛美《ユルベミ》などいふ美《ミ》のみは、別《マタ》の一格にて、上の例どもとは、きよく樣異れること、又末に云る如し、思ひまどふべからず、かくて同じ美《ミ》の辭と云ども、前後の調練《シラベ》によりては、用ひたる意の、猶くさ/”\に聞ゆる處おほくして、まぎらはしきによりて、集中の歌をこれかれつみ出て、そのおほかたの意をしるして、讀者《ヨムヒト》の手著《タヅキ》とす、○一卷に、空蝉之命乎惜美浪爾所濕伊良虞能島之玉藻刈食《ウツセミノイノチヲヲシミナミニヒデイラゴノシマノタマモカリハム》とある惜美《オシミ》は、本居氏の説の如く、俗に惜《ヲシ》さにといふ意にきくときは、甚《イト》捷徑《ヤスラカ》なり、二巻に、青駒之足掻乎速雲居曾妹之當乎過而來計類《アオコマノアガキヲハヤミクモヰニゾイモガアタリヲスギテキニケル》とあるは、足掻《アガキ》が速《ハヤ》さにの意なり、又爲便乎無見妹之各喚ス而《ベヲナミイモガナヨビテ》云々とあるは、爲便《スベ》が無《ナ》さにの意なり、この類は集中にことに多くして、こと/”\に擧むもわづらはしければ、その 一(ツ)二(ツ)を出して止つ、餘は准(ヘ)て知べし、又上に乎《ヲ》と云辭のなきも同じことなり、一卷に、暮相而朝面無美隱爾加氣長妹之廬利爲里計武《ヨヒニアヒテアシタオモナミナバリニカケナガキイモガイホリセリケム》とあるは、朝に面無《オモナ》さにの意なり、二卷に、眞根久往者人應知見《マネクユカバヒトシリヌベミ》、三卷に、越海乃手結之浦矣客爲而見者乏見日本思櫃《コシノウミノタユヒノウラヲタビニシテミレバトモシミヤマトシヌヒツ》などあるみな同じ、これも(159)集中に許多《ソコバク》あり、(其中一卷に、芳野河逝瀬之早見須臾毛不通事無有巨勢濃香毛《ヨシヌカハユクセノハヤミシマシクモヨドムコトナクアリコセヌカモ》とあるのみは、甚めづらし、この例は外に未見あたらず。逝瀬乎早見《ユクセヲハヤミ》と云べき例なり、もしは之は乎(ノ)字などの誤にあらざるか、又思ふに、見は借字にて、急水《ハヤミ》の意にてもあらむ、もしさらば、こゝの例には相あづからねことなり、)又|云々美等《シカ/”\ミト》とつゞけたるも甚多し、三卷に、雖戀効矣無跡《コフレドモシルシヲナミト》とあるは、効《シルシ》が無《ナ》さにの意なり、四卷に、獨宿而絶西紐緒忌見跡世武爲便不知哭耳曾泣《ヒトリネテタエニシヒモヲユヽシミトセムスベシラニネノミシゾナク》とあるは、忌《ユヽ》しさにの意なり、六卷に、凡者左毛右毛將爲乎恐跡振痛袖乎忍而有香聞《オホナラバカモカモセムヲカシコミトフリタキソデヲシヌヒタルカモ》とあるは恐《カシコ》さにの意なり、叉|百磯城乃太宮人者今日毛鴨暇無無跡里爾不去將有《モヽシキノオホミヤヒトハケフモカモイトマヲナミトサトニユカザラム》とあるは、暇がなさにの意なり、七卷に泊瀬川白木綿花爾惰多藝都瀬清跡見爾來之吾乎《ハツセカハシラユフハナニオチタギツセヲサヤケミトミニコシアレヲ》とあるは、瀬が清《サヤケ》さにの意なり、十三卷に、嘆友記乎無見跡何所鹿君之將座跡《ナゲケドモシルシヲナミトイヅクニカキミガマサム》とあるは、しるしがなさにの意なり、十七に、多麻豆佐乃使刀家禮婆宇禮之美登安我麻知刀敷爾《タマヅサノツカヒノケレバウレシミトアガマチトフニ》とあるは、懽《ウレ》しさにの意なり、又|曾己乎之母宇良胡悲之美等於毛布度知宇麻宇知牟禮底《ソコヲシモウラコヒシミトオモフドチウマウチムレテ》とあるは、心戀《ウラコヒ》しさにの意なり、此等の等《ト》はみな助辭にて、あるもなきも同じことにて、異なる義あるにあらず、上にもいへり、これらの等の辭を、例の等?《トテ》、また等之?《トシテ》といふ意にきゝては通《キコ》えぬことなり、又|云々美可《シカ/”\ミカ》、また云々美也《シカ/”\ミヤ》、また云々美許曾《シカ/”\ミコソ》、また云々美叙《シカ/”\ミゾ》など種々《クサ/”\》にも連ね云たり、(唯|恐美?《カシコミテ》、歡美?《ウレシミテ》などやうに、美?《ミテ》と連云たること、集中に見えざるは、いかなることにか、推古天皇紀(ノ)歌に、※[言+可]之胡彌?兎伽陪摩都羅武烏呂餓彌?兎伽陪摩都羅武《カシコミテツカヘマツラムヲロガミテツカヘマツラム》とあれば、かやうに美?《ミテ》と連ね云たることは古し、)皆|美《ミ》てふ辭の意は異ならず、一卷に、吾妹子乎去來見乃山乎高三香裳日本能不所見國遠見可聞《ワギモコヲイザミノヤマヲタカミカモヤマトノミエヌクニトホミカモ》、六卷に、田跡河之瀧乎清美香從古(160)宮仕兼多藝乃野之上爾《タドカハノタキヲキヨミカイニシヘヨミヤツカヘケムタギノヌノヘニ》、また廿卷に、之麻可氣爾和我布禰波底々都氣也良牟都可比乎奈美也古非都々由加牟《シマケゲニワガフネハテヽツゲヤラムツカヒヲナミヤコヒツヽユカム》、また六卷に、三日原布當乃野邊清社大宮處定異等霜《ミカノハラフタギノヌヘヲキヨミコソオホミヤトコロサダメケラシモ》、七卷に、木綿懸而祭三諸乃神佐備而齋爾波不在人目多見許増《ユフカケテマツルミモロノカムサビテイムニハアラズヒトメオホミコソ》、また六卷に、如是爲管在久乎好叙靈尅短命乎長欲爲流《カクシツヽアラクヲヨミゾタマキハルミジカキイノチヲナガクホリスル》などある類なり、なほいと多し、○一卷に、天皇乃御命畏美柔備爾之家乎擇《オホキミノミコトカシコミニキビニシイヘヲオキ》云々とあるは、上に云る美《ミ》に似て、かの美《ミ》の辭よりは意輕し、混べからず、故(レ)畏美《カシコミ》は、俗に畏まつて、また畏《カシコマ》り奉《タテマツリ》てなどいはむが如し、(但しこれらももとは、御命《ミコト》の畏《カシコ》さに承諾《ウベナヒ》て、と云意より來れる言なりと見るときは、上にいへる美《ミ》の辭と、同意に落めり、)このつゞけ集中卷々に甚多し、皆同意なり、また畏美等《カシコミト》といへるも同意なり、等《ト》は例の助辭なり、三卷に、恐等仕奉而《カシコミトツカヘマツリテ》云々とあるも、畏まつての意なり、十一に、皇祖乃神御門乎懼見等侍從時爾相流公鴨《スメロキノカミノミカドヲカシコミトサモラフトキニアヘルキミカモ》とあるも、畏まつての意なり、これを上に云るに同じく、畏《カシコ》さにの意としては、美《ミ》の言重くなる故に、侍從《サモラフ》と云へのつゞき宜しからず、畏まつての意とするときは、美《ミ》の言輕きが故に、侍從《サモラフ》と云へのつゞき宜し、(但しこれももとは、御命の恐《カシコ》さに、任《ヨザシ》たまふまに/\承諾《ウベナヒ》ひて、神(ノ)御門を護《マモ》り侍從《サモラフ》と云意より來れるならむ、しかれども、其言の起《ハジマ》れる原《モト》を、ふかくたどらむとするときは、中々に用へる樣をあやまつことのあれば、畏美《カシコミ》は、たゞ畏まつての意ときくべし、)すべてこの例に准べし、○二卷に、三五月之益目頬染所念之君與時々《モチツキノイヤメヅラシミオモホシシキミトトキ/”\》とある目頬染《メヅラシミ》は、俗にめづらしうといはむがごとし、同卷に、若草是嬬子者不怜彌可念而寢良武《ワカクサノソノツマノコハサブシミカオモヒテヌラム》とあるは、不怜《サブ》しうかの意なり、三卷に、賢跡物言從者《サカシミトモノイハムヨハ》とあるは、さかしうなり、跡《ト》は例の助辭なり、四巻に、吾妹兒矣相令知人乎許曾戀之益者恨三念《ワギモコヲアヒシラシメシヒトヲコソコヒノマサレバウラメシミオモヘ》とあるは、う(161)らめしう念《オモ》への意なり、七巻に、雖見不飽人國山木葉巳心名著念《ミレドアカヌヒトクニヤマノコノハヲシシタノコヽロニナツカシミオモフ》とあるは、なつかしう念《オモ》ふの意なり、三卷に、山高三河登保志呂之《ヤマダカミカハトホシロシ》とあるは、山高うの意なり、十七に山高美河登保之呂思《ヤマダカミカハトホシロシ》とあるも同じ、十一に、眉根掻下言借見思有爾去家人乎相見鶴鴨《マヨネカキシタイフカシミオモヘルニイニシヘヒトヲアヒミツルカモ》とあるは、裏《シタ》いふかしうの意なり、又|安太人乃八名打度瀬速意者雖念直不相鴨《アダヒトノヤナウチワタスセヲハヤミコヽハモヘドタヾニアハヌカモ》とあるは、瀬が速うの意なり、又|今日有者鼻之々々火眉可由見思之言者君西在來《ケフシアレバハナビシハナビマヨカユミオモヒシコトハキミニシアリケリ》とあるは、眉癢《マユカヨ》うの意なり、十二に、淺茅原茅生足蹈意具美吾念兒等之家當見津《アサヂハラチフニアシフミコヽログミアガモフコラガイヘノアタリミツ》、とあるは、意《コヽロ》ぐうの意なり、十四に、可美都家野安蘇夜麻都豆良野乎比呂美波比爾思物能乎安是加多延世武《カミツケヌアソヤマツヾラヌヲヒロミハヒニシモノヲアゼカタエセム》とあるは、野を廣うの意なり、又|佐射禮伊思爾古馬乎波佐世弖己許呂伊外美安我毛布伊毛我伊敝乃安多里可聞《サヾレイシニコマヲハサセテコヽロイタミアガモフイモガイヘノアタリカモ》とあるは、心痛《コヽロイタ》うの意なり、廿卷に、宇流波之美安我毛布伎美波奈弖之故我波奈爾奈曾倍弖美體杼安可奴香母《ウルハシミアガモフキミハナデシコガハナニナゾヘテミレドアカヌカモ》とあるは、愛《ウルハ》しうの意なり、十六に、春避而野邊尾回者面白見我矣思經蚊《ハルサリテヌヘヲメグレバオモシロミアレヲオモヘカ》とあるは、面白うの意なり、廿卷に、知波乃奴乃古乃弖加之波能保々麻例等阿夜爾加奈之美於枳弖他加枳奴《チハノヌノコノテカシハノホヽマレドアヤニカナシミオキテタチキヌ》(加は知の誤にて、立來《タチキ》ぬか、)とあるは、あやに悲しうの意なり、四卷に、松葉爾月者由移去黄葉乃過哉君之不相夜多焉《マツノハニツキハユツリヌモミチバノスギヌヤキミガアハヌヨオホミ》とあるは、相ぬ夜|多《オホ》うの意なり、十卷に、零雪虚空可消雖戀相縁無月經在《フルユキノソラニケヌベクコフレドモアフヨシヲナミツキゾヘニケル》とあるは、相縁《アフヨシ》が無うの意なり、古事記中卷應神天皇條太子御歌に、美知能斯埋古波陀袁登賣波阿良蘇波受泥斯久袁斯叙母宇流波志美意母布《ミチノシリコハダヲトメハアラソハズネシクヲシゾモウルハシミオモフ》とあるは、うるはしう思ふの意なり、(金槐集に、聲高み蝦鳴なり井手の川岸の山振今は咲らむ、聲高み林にさけぶ猿よりも我ぞ物念ふ秋の夕は、月清み秋の夜いたく更ぬらし佐保の川原に千鳥鳴なり、山寒み衣手薄し更級や姥捨の月に秋更しかば、月清み(162)さ夜更行ば伊勢島や壹師の浦に千鳥啼なり、風寒み夜の更行ば妹が島形見の浦に千鳥啼なりなどよめるは、少いかゞなれど、右の格によりて、よまれしものとこそおもはるれ、)○四卷に、絶常云者和備染責跡燒太刀乃隔付經事者幸也吾君《タユトイハバワビシミセムトヤキタチノヘツカフコトハカラシヤワギミ》(幸は苛の誤か)とあるは、俗にわびしんぜむとゝいふ意なり、十二に、相見欲爲者從君毛吾曾益而伊布可思美爲也《アヒミマクホリスルコトハキミヨリモアレゾマサリテイブカシミスル》とあるは、いふかしんずると云意なり、十二に、白妙乃袖之別乎難見爲而荒津之濱屋取爲鴨《シロタヘノソデノワカレヲカタミシテアラツノハマニヤドリスルカモ》とあるは、難《カタン》じてと云意なり、(この難見爲而《カタミシテ》を、本居氏の、續紀三卷詔に勞彌重彌所念坐《イトホシミイカシミオモホシマス》とあるに同じ用ひさまなるよし云れど、其とは異なり、勞彌重美は、いとほしういかしうと云意なればなり、重美志?《オモミシテ》と云ときは、重《オモン》じてと云意にて、難見爲而《カタミシテ》と云に全同じ用ひざまなればなり、)すべて後世言に、重《オモ》んずる輕《カロ》んずるなどいふは、重みする、輕みすると云言の頽れたるものにて、右の歌どもの美《ミ》に用ひざま全同じことなり、十八に、を左由理波奈由利毛安波牟等於毛倍許曾伊末能麻左可母宇流波之美須禮《サユリハナユリモアハムトオモヘコソイマノマサカモウルハシミスレ》とあるも、愛はしんずれと云意なり、土左日記に、心ち惡みして云々とあるも美《ミ》の用ひ樣全同じ、西行僧撰集抄に、清凉紫宸の間にやすみし給ひ、百官にいつかれさせ云々、(このやすみの言を、本居氏の、安見知之《ヤスミシヽ》の枕詞の例に引合せたるは、たがへることなり、)またいづくにやすみする人にかと尋ね給ふに云々とかける、やすみも同じ用樣にて、安んじてと云意なり、(西行は、かゝる古言をとりて書ることをり/\あり、○三卷に、不見而徃者益而戀石見《ミズテユカバマシテコヒシミ》云々|名積叙吾來並二《ナヅミゾワガコシ》とあるは、益《マシ》て戀しからむとての意なり、同卷に、足日木能石根許其思美菅根乎引者難三等標耳曾結焉《アシヒキノイハネコヾシミスガノネヲヒカバカタミトシメノミソユフ》とあるは、引ば難からむとてと云意なり、四卷に、今夜之早開者(163)爲便乎無美秋百夜乎願鶴鴨《コノヨラノハヤクアケナバスベヲナミアキノモヽヨヲネガヒツルカモ》とあるは、爲便《スベ》が無からむとてと云意なり、十五に、伊毛爾安波受安良婆須敝奈美伊波禰布牟伊故麻乃山乎故延弖曾安我久流《イモニアハズアラバスベナミイハネフムイコマノヤマヲコエテゾアガクル》、廿卷に、之良奈美乃與曾流波麻倍爾和可例奈波伊刀毛須倍奈美夜多妣蘇弖布流《シラナミノヨソルハマヘニワカレナバイトモスベナミヤタビソテフル》などあるも、爲便が無からむとての意なり、十卷に、天漢湍瀬爾白浪雖高直渡來沼待者苦彌《アマノガハセヽニシラナミタカクトモタヾワタリキヌマタバクルシミ》とあるは、待《マタ》ば苦《クル》しからむとての意なり、十七に、和我夜度能花橘乎波奈其米爾多麻爾曾安我奴久麻多婆苦流之美《ワガヤドノハナタチバナヲハナゴメニタマニソアガヌクマタバクルシミ》とあるも上に同じ、十一に、如此耳戀者可死足乳根之母毛告都不止通爲《カクノミニコヒバシヌベシタラチネノハヽニモノリツヤマズカヨハセ》とあるは、こひば死ぬべからむとての意なり、又|妹之名毛吾名毛立者惜社布仕能高嶺之燒乍渡《イモガナモワガナモタヽバヲシミコソフジノタカネノモエツワタレ》とあるは、惜《ヲシ》からむとてこその意なり、十七に遊内乃多努之吉庭爾梅柳乎理加射思庭婆意毛比奈美可毛《アソブヒノタヌシキニハニウメヤナギヲリカザシテバオモヒナミカモ》とあるは、思ひなからむかの意なり、十一に、言出云忌々山川之當津心塞耐在《コトニデヽイハヾユヽシミヤマガハノタキツコヽロヲセカヘタリケリ》とあるは、いはゞ忌々しからむとての意なり、十七に、安佐疑埋能美太流々許己呂許登爾伊泥底伊波婆由遊思美刀奈美夜麻多牟氣能可未爾奴佐麻都里安我許比能麻久《アサギリノミダルヽココロコトニイデヽイハヾユヽシミトナミヤマタムケノカミニヌサマツリアガコヒノマク》云々とあるも上に同じ、十九に、吾屋戸之芽子開爾家理秋風之將吹乎待者伊等遠彌可母《ワガヤドノハギサキニケリアキカゼノフカムヲマタバイトトホミカモ》とあるは、甚《イト》遠《トホ》からむとてかの意なり、此類は、古はいとめづらしき用ひ樣にてははあらざれども、後世この用ひ樣を辨へたる人なくして、一首の意を解盡さゞりしこと多し、今京よりこなたにも、かくさまに用ひたることあり、古今集に、花すゝき穗に出て戀ば名を惜み下ゆふ紐の結ぼゝれつゝとあるも、名が惜からむとての意なり、後撰集に、しぐれふり零なば人に見せもあへず散なば惜みをれる秋芽子とあるは、散なば惜からむとての意なり、これら戀ば散なばなどいふは、未來をかけていふ詞なれば、惜みを、惜さにの意としては(164)應《カナ》ひがたし、もし惜(シ)さにの意とするときは、上を戀るは散はと云ではかなはず、(しかるを後世の註者等、この處に心つかずして、かの命乎惜美《イノチヲオシミ》などの惜美《オシミ》と、一(ツ)に混淆《マガヘ》て釋《トキ》たる故に、一首の意を得解(キ)盡さゞりしなり、俗言に譯しても、その俗言に言を貫かずしては、かなはぬことなるに、さることをもさとらざりしは、古言にくはしからざるがゆゑなり、)○八卷に、夏野乃繁見丹開有姫由理乃《ナツノヌノシゲミニサケルヒメユリノ》とあるは、繁美盛而《シゲミサカエテ》など云へるとは異にて、繁美《シゲミ》を體言にいひすゑたるにて、(すべて用言を、五十音の第二位にいひすうるときは、體言になる例なり、有《アル》は良利流禮《ラリルレ》と活用《ハタラ》く言なるを、たとへば、有等聞而《アリトキヽテ》とやうにいふときは、なほ用言なるを、有之盡《アリノコト/”\》などいふときは、體言になると全(ラ)同(シ)例なり、)俗に繁んである間にといはんがごとし、十七に、波流乃野能之氣美登妣久々鶯《ハルノヌニシゲミトビクヽウグヒスノ》、十九に、暮左禮婆藤之繁美丹《ユフサレバフヂノシゲミニ》どあるみな同じ、(思宜理《シゲリ》といふに似て異れり、志宜理《シゲリ》は、十九に、敷治奈美乃志氣里波須疑奴《フヂナミノシゲリハスギヌ》とあり、盛《サカリ》といはむがごとし、)○十一に、泊瀬川速見早湍乎結上而《ハツセガハハヤミハヤセヲムスビアゲテ》とある、この速見《ハヤミ》は、俗に速《ハヤ》いといはむが如し、この例は、集中に他に見えたる處なし、尤《イト》めづらしき用ひ樣なり、金槐集に、君が代に猶ながらへて月清み秋の御空の影を待らむとある美《ミ》は、用ひざま同じことなり、○三卷に、雄自毛能負見抱見《ヲトコジモノオヒミイダキミ》とあるは、或は負もし或は抱もしといはむがごとし、十一に、波禰※[草冠/縵]今爲妹之浦若見咲美慍見著四紐解《ハネカヅライマスルイモガウラワカミヱミミイカリミツケシヒモトク》とあるは、或は咲《ヱミ》もし或は慍《イカリ》もしと云むが如し、又|梓弓引見弛見《アヅサユミヒキミユルベミ》云々、十二に、梓弓引見縱見《アヅサユミヒキミユルベミ》云々などあるは、或は引もし或は弛べもしといはむが如し、十六に、三名之綿蚊黒爲髪尾信櫛持於是蚊寸垂取束擧而裳纏見《ミナノワタカグロシカミヲマクシモチクビニカキタリトリツカネアゲテアゲテモマキミ》云々(於是は、於首の誤なるべし、)とあるは、或は首にかきたれ、或は擧て纏《マキ》もしと云むが(165)如し、十八に、波之吉余之曾能都末能古等安沙余比爾惠美々惠末須毛《ハシキヤシソノツマノコトアサヨヒニヱミヽヱマズモ》云々とあるは、或は咲《ヱミ》もし或は咲《ヱマ》ずともいはむが如し、又|乎登女良爾都刀爾母夜里美之路多倍能蘇泥爾毛古伎禮香具播之美於枳弖可良之美《ヲトメラニツトニモヤリミシロタヘノソデニモコキレカグハシミオキテカラシミ》とあるは、或は裹《ツト》に遣(リ)もし、或は袖にも扱(キ)入(レ)、或は置(キ)て枯しもしといはむが如し、(香具播之美《カグハシミ》は、香細《カグハ》しさにの意にて、始にいへる美《ミ》に同じ、)これらの美《ミ》は一格にて、上件にいへる美《ミ》どもとは、きよく樣|異《カハ》れり、新撰萬葉に、不飽芝等君緒戀鶴涙許曾浮杵見沈箕手有亘都禮《アカズシテキミヲコヒツルナミダコソウキミシヅミテアリワタリツレ》、古今六帖に、逢事はなにしの池の水なれや絶み絶ずみ年の經ぬらむ、後撰集八卷に、十月零み零ずみさだめなきしぐれぞ冬の初なりける、千載集十三に、滿鹽の末葉をあらふ流蘆の君をぞ思ふ浮み沈みゝ、後拾遺集一卷に、難波がた浦吹風に浪立ばつのぐむ蘆の見えみ見えずみ、住吉物語に、泣み咲ひみあかし暮すなどあり、後々も甚多き詞なり、(但し古くは、上にいへるごとく、咲《ヱミ》み晩《ヱマ》ずもなどやうにもいへること多きを、後には絶み絶ずみとやうに、美《ミ》を必二(ツ)云て對偶《ムカフ》ること、定りたることのやうになれり、)
   古學
或人問けらく、應神天皇十六年と云に、百濟國より王仁と云ものを參渡《マゐワタ》し、漢字《カラモジ》をつたへて、其を學び讀ことはじまりて後、その國のてぶりを習ひて、やゝ萬のうへにまじへ用らるゝこととなりしを、其後又二百五十年ばかりを歴て、百濟國より佛道をつたへしを、聖徳皇子、蘇我馬子をかたららはせ給ひて、ふかく尊み信《ウケガ》ひたまひしより、つぎ/\に佛の教もはびこり來にしを、難波長柄(ノ)朝、近江大津(ノ)朝のほどにいたりて、なべて世の風俗、外(ツ)國ざまにうつろひかはり、天(166)下の御制度《ミサダメ》まで、すべて異國《アダシクニ》ぶりを用らるゝことゝなりて、それよりおひすがひ、藤原朝、寧樂朝まで、歌よむことこそ、來し方にもまさりてさかしくなり、名だたる人等《ヒトタチ》も出來にけれど、皇神の道をとなへて、儒佛の意をしりぞけし人をば、をさ/\きかず、表をば儒道をもてかざり、裏には佛の教をしたふこと、いよ/\ます/\さかりなりしことは、史典にも見えてかくれなし、かゝれば藤原朝寧樂朝にいたりて、歌よむすべのさかしくなりしは、中々に外(ツ)國の教どもを、數百年來《ヤホトセコノカタ》まねびとりたりし功績《チカラ》とも云べし、されば裁歌《ウタ》の風體《スガタ》は、藤原寧樂朝の頃を規《ノリ》として、したふはさることなり、かの頃は、外(ツ)國の教どもの世にみさかりなりし、其眞中より出たるかことなれば、なほかの頃のてぶりを習はむには、外(ツ)國の意をば離れがたからむ、もし儒佛の意をきよくはなれて、皇神の道の眞をあきらめむとならば、外(ツ)國の教どもの、はびこらざりしさきのことを慕ひて、まねばむこそさもあるべきことなれ、然るになほかの頃までを、ひとへに古風《イニシヘザマ》と唱へて、やゝもすれば、皇神の道を主とたてゝいへること多きは、いかにと云に答へけらく、余が萬葉集をよく/\よみあぢはひて、一には皇神の道義《ミチ》をあきらめ、一には言靈の風雅《ミヤビ》をしたへと常にいふは、ことに所見《コヽロ》ありていふことなれば、今くはしくわきまへむ、そも/\皇神の道の尊きことをば、一日一夜もわするゝ間なく、あふぎ尊み敬ひまつるべき理なるに、既く寧樂人も華夷《ミクニトツクニ》の分《ケヂメ》をとりうしなひて、戎國をさして、大唐とさへいへることのあるは、かの國に諂ふとはなけれど、おのづから外(ツ)國の道に溺れ惑ひて心の附ざりしものなり、しかれば寧樂朝の頃は、ひたぶるに人の意《コヽロ》も事《ワザ》も外(ツ)國ざまにしみつきたることにて、今よろ(167)づをこれになずらふるときは、歌の風體のみのことならばこそあれ、道にとりてはかの頃は、さのみしたふにたらぬことわりならむとも、いふべけれども、其は見る人の心にあることにて、精く擇て、あしきをすてゝ、よきをとらば何《ナ》でふことかあらむ、こと/”\に書《フミ》を信《ウケ》がはゞ、書なきにしもしかずと、漢人《カラヒト》もいひたるにあらずや、かくまで外(ツ)國の教どもの、いやはびこりにはびこりたる世中なるに、なほ神代のみてぶりは、もろ/\の神事《カムウザ》と歌詞には、正しく傳はり來れりしなり、かけまくもかしこけれども、神御祖《カムロキ》天照大御神、大御手《オホミテ》に大御鏡《オホミカヾミ》をさゝげもたして、皇御孫《スメミマノ》尊に、みことおほせてたまへりつらくは、この豐葦原の千五百秋《チイホアキ》の長五百秋《ナガイホアキ》の水穗國は、吾御子のしろしめさむ國なり、かれあもりいましてしろしめせ、高御座天の日嗣のさかえまさむこと、天壤《アメツチ》のむた窮なかるべしと、ことよざしたまへりしまに/\、天地のよりあひのきはみ、ときはにかきはに、皇御孫(ノ)尊のをす國とさだまりて、神ながら四方の國を、安國と平けくしろしめし大まします、高ひかる日の大朝廷《オホミカド》に、道ははやくそなはりてあれば、たとひ時うつり事さるまに/\、からざまにまれ、ほとけざまにまれ、なべてのふるまひはうつろふこともこそあれ、皇神の道は、八百萬千萬御代《ヤホヨロヅチヨロヅミヨ》まで、たかみくら天の日嗣のうごくことなく、かはることなく、神代も今も、一日のごとく、天地にてりたらはして、しろしめしきぬるがゆゑに、かたじけなくも神事と歌詞には、神代のてぶりのたがふ三となく、あやまつことなく、遺れることなれば、皇神のいつくしき國、言靈のさきはふ國とはいへるぞかし、かれその言靈のさきはひによりてぞ、皇神のいつくしき道もうかゞはれける、されば皇神の道をうかゞふには、ま(168)づ言靈のさきはひによらずしては得あるまじく、言靈のさきはふ由縁《ヨシ》をさとるべきは、この萬葉集こそ又なきものにはあれ、から國に心よするともがらの、聖の道を大ろかにして、詩文をむねと學ぶをいやしむとは、いたくさまかはりたることなり、いでや寧樂人の、まことに外(ツ)國の道にあひまじこりたりしことは、かの名だたる山上大夫が、漢ざまにならひて作《カケ》る文にも、所以禮2拜三寶1無2日不1v勤といひ、孔子臼、受2之於天1不v可2變易1者形也、などやうにいひたるを思へば、心のそこより外(ツ)國にしみつき、その道々を信服《ウベナ》ひ居たりしことなれば、そのよみいだせる歌どもにも、眞如佛性、或は陰陽五行の理などの、こち/”\しきことのみあるべきに、かへらまに、それとは引かへて、神代欲狸云傳介良久虚見通倭國者皇神能伊都久志吉國言靈能佐吉播布國等加多理繼伊比都賀比計理今世能人母許等期等目前爾見在知在《カミヨヨリイヒツテケラクソラミツヤマトノクニハスメカミノイツクシキクニコトタマノサキハフクニトカタリツギイヒツガヒケリイマノヨノヒトモコトゴトメノマヘニミタリシリタ》云々などいへるは、さはいへどありがたきことにあらずや、もしこの山上大夫が、後世の神道者流など云者のごとく、外(ツ)國の道を屏《サケ》て、ひとへに神道を唱へし人の詞ならば、故《コトサラ》に装飾《カザ》りて、神代の故事を述たるものなりといふべきに、さばかり外(ツ)國の道々をのみ信服《ウケガ》ひをりし人にしあれば、みづからの私の心一にてよみたらむには、さはいふまじきことゝ思はるれば、これはまことに、神代より世間にもいひつたへ、又其世までは、さるたぐひの古語も、くさ/”\つたはりてもありけらし、又|當時《ソノカミ》には大かたの世の心も、神代の古語をうけつぎつゝ、うべなひをりしさまなど、今世の人も盡《コト/”\》目前に見たり知たり、と云るにてしるきこと、おむかしくしたはしきことゞもにこそ、既《ハヤ》く難波長柄(ノ)朝、近江大津(ノ)朝の頃より、世間の事業と文辭とのみは、とく外(ツ)國ざまになりぬ(169)るものからなほ歌詞には、上古のまゝの傳りしなりと云るしるしなり、これは教のために、よみ喩したるものとはなけれど、尊み仰ぎて、大かたに見すぐすべからざる處なり、又同じ大夫が令v反2惑情1歌に、阿米弊由迦婆奈何麻爾麻爾都智奈良婆大王伊麻周許能提羅周日月能斯多波阿麻久毛能牟迦夫周伎波美多爾具久能佐和多流伎波美企許斯遠周久爾能麻保良叙可爾迦久爾保志伎麻爾麻爾斯可爾奈美阿羅慈迦《アメヘユカバナガマニマニツチナラバオホキミイマスコノテラスヒツキノシタハマクモノムカフスキハミタニグクノサワタルキハミキコシヲスクニノマホラゾカニカクニホシキマニマニシカニハアラジカ》、とあるこそことにたふとけれ、これは父母妻子をわすれて、心のうかれゆく、世人のまどひをさとせるのみのことを、主《ムネ》としてよめるなれば、すべて君臣《キミヤツコ》の義《スヂ》に關りたることにはあらねど、詞の表《ウヘ》は、おのづから、君臣の義を主としていへるごとならずや、まことに此歌にいひたることのごとく、このてらす日月の下にあらむほどは、天雲の向伏きはみ、谷蟆《タニグヽ》のさわたるかぎり、かしこくも吾《カ》皇|天皇尊《スメラミコト》のきこしめす國なれば、去て遁るべき地は、天下にはさらになし、もし天上《アメ》にのぼらむとならば、心まかせにすべけれど、さることはかなふまじければ、さる浮華《ウカレ》たる心を鎭め、本心《モトツゴヽロ》に立歸りて、吾(カ)皇(カ)朝廷をゐやまひまつりかしこみまつりて、いさゝかも御おもむけに、たがふことなくそむくことなく、まつろひまつりしたがひまつり、ふかくあつく尊み重みして、さて己が父母妻子を撫(テ)愛しみて、世中の産業《ナリハヒ》をつとめよといへるなり、さばかり外(ツ)國の道々をのみしたへる人の、ことに父母妻子を養ふことのすぢのみいへる歌にすら、かくいへるは、かの家持卿の、天地之初時從宇都曾美能八十伴男者大王爾麻都呂布物跡定有《アメツチノハジメノトキヨウツソミノヤソトモノヲハオホキミニマツロフモノトサダメタル》と云たるごとく、時の天皇の大御おもむけのよさあしさをばいはず、束の間も天皇尊にひたまつろひにまつろはずしては、このてらす日月の(170)下には、一日も在經ることのかなはぬものぞど、天地の初發《ハジメ》の時より、よりあひのきはみ、うごくことなくかはることなく、君臣《キミヤツコ》の位階《シナ》かたく定りて、臣連八十伴緒、天下四方八方の百姓《オホミタカラ》に至るまで、つゆうたがふことなき心に、事あらむ時は、古語に云るごとく、海行者美都久屍山行者草牟須屍大皇乃敝爾許曾死米《ウミユカバミヅクカバネヤマユカバハクサムスカバネオホキミノヘニコソシナメ》と、唯|一道《ヒトスヂ》に思ひ定めたるより、すべて天皇尊のありがたきすぢを、主として云としもなけれど、かく主として云るごとくにいはれしものなり、しかるにかのから國は、臣より君を諫むること、三度にしてきかざるときは去(レ)と云、子より父を諫むること三度にしてきかざるときは、なく/\從へとかいへるよし、これ父に從ふはよろしけれども、君をすてゝされと云こと、皇朝とはいたくさまかはりたる風俗《ナラハシ》にあらずや、かしこと、こことさまかはりたることの多き中にも、漢國は君臣《キミヤツコ》上下《タカキミジカ》き分、定めても足りがたき國がらなれば、君を諫むること三度四度にして聽れざるに、なほ止ことなく從ひをらむは、おれ/\しきことゝやすらむ、其は彼國の風俗にてはさもこそあらめ、吾皇朝にては、君をいくたびいさめまつりても、聽したまはず、從にしのびあへず去むとならば、天上《アメ》へのぼりゆかばさもあれ、なほ日の下にあらむとならば、吾皇の食國なれば、從ふより外にせむすべなきもの、と天地のはじめより常に人皆意得たるなり、さばかり外(ツ)國の道をしたふ世の風俗《ナラヒ》にても、この君臣の大義をば、誤りたる人なかりしがゆゑに、皇朝のもとよりのさまに合ず、ふさはしからぬ異國《アダシクニ》の惡き風俗《ナヲハシ》をば、よろづとりあげざりしこと、この一にても思ひわきまふべし、【〔頭注、〕禮記曲禮爲2人臣1之禮不2顯諫1、三諫而不v聽則逃v之、子之事v親地、三諫而不v聽、則號泣而隨v之、史記、薇子曰、父子有2骨肉1、而臣主以v義屬、故父有v過、三諫而不v聽、即隨號之、人臣三諫不v聽、則其義可2以去1矣、於v是遂行」論語、所謂大臣者、以v道事v君、不(171)v可則止、(朱熹曰、不v可則止、謂不v合v則去、)或人問けらく、君を諫ること三度にしてゆるされざるときは去、親を諫ること三度にしてきかざるときは、なく/\隨ふといふは、から國のさだめなり、しかるにかの國のいにしへ、殷の紂王と云しかしらを諫めて、その臣に箕子と云しものは囚はれ、比干といひしものは殺され、微子といひしものは去りといへることは、漢學する人のをさ/\しらぬはなし、もし微子がごとく、父子は骨肉のしたしみあれば、諫を用ひずとて隨ふより他にすべきやうなし、君臣は義を以て合ものなれば、三たび諫てゆるされざれば、去べきことわりなりと云て遂に行るを、義にかなひたりとするときは、比干が如く諫をきかずとて、去て君の過惡を世にあらはすにしのぶべしや、爭ひ死ずしてはさらに人臣の義たつぺからずと、思ひきはめてつひに殺されしは、國に益なきのみにあらず、諫臣を失へる君の惡名をあらはせし、ひがことなりとや云べからむ、もし爭ひ死たるを人臣の義なりといはば、去るをば義にかけたりとやいふべからむ、しかるを後等を殷に三仁ありと孔子もいひて共にこれをもかれをもことわりにかなへることなりとせるは、いかにといふに答へけらく、まことには諫死たるは義なり、去るは義にあらず、しかのみにあらず、微子は後に周武王につかへて、其位に復されたるなど、吾道より見るときはきたなしともきたなし、しかれども孔丘もたび/\その君をかへてつかへし中にも、魯の定公をすて己が父母の國を去りしに非ずや、そをひがことゝせざればこそ、大臣者以v道事v君、不v可則止と論語にも云たれ、みづからも、然思ひ定めてしか行へるものゝ、微子が去るを非なりとはいかでかいふべき、さればかしこにてもむかしより孔丘がごとく、その君を諫むるに至らずして去るも、又去るべきに去ずして、比干が如く諫死たるたぐひをも皆、義にかなひたることゝするを、はやく人の疑ひて、とかくいふことなめれど、落ろところは、事の輕重、勢の可否によることにて、その事の迹は同じからざるも、其趨は一すぢにして、かの微子は殷帝乙が元子紂が庶兄なれば、宗祀を重じて去べく、比干は少師の官にをりしなれば、諫をきかじとはしれゝど、なほ力(メ)諫めてつひに死たり、これら地を替ばその所爲皆同じからむなど、とかくたすけいひたるは、もと異國には一定の義なきが故なりと知べし、〕】しかるを其後時うつり事さりて、みだれりし世などには異國《アダシクニ》の風俗《ナラハシ》の、皇朝に合ずふさはしからず、あしくきたなきことをも、えさとらずしてたぶれたるしこの臣等《ヤツコラ》が、たはわざなども出來にしことのあるは、いみじき世の變《ウツロヒ》にて、いとも/\あさましくうれたきことにぞありける、しかはあれども、あなかしこ皇神の道の眞は、天津御璽《アマツミシルシ》の神寶と共に、たかひかる日の大朝廷のうごきたまふことなくして、つひには(172)上世のみさかりなりしに、ほと/\おもぶきたまふこのめでたき大御代にしあれば、皇神の道を明らむべき時いたりぬるぞ、さはいへどたふときことなりける、さてその皇神の道は、言靈のさきはひによりてうかゞふべく、言靈の八十言靈は、寧樂人までの古事にとゞまりてあれば、此集を重みしてよみあぢはふべく、そのよみあぢはふるこゝろばえは、上の件にいひたるごとく、既《ハヤ》く其世は、外(ツ)國ざまにうつろひぬとはいへども、うつろはぬがごとく、君臣の大義を、つゆあやまつことなかりしなれば、その處にふかく心をとゞめて、大かたに心得すぐすべからぬことなり、さてこのたゞよはぬ心をもて見るときは、教のためとはなけれども、學び得つべきこと、すくなからずなむありける、大皇者神爾之座者《オホキミハカミニシマセバ》とよめることも、ところ/\に多く見え、或は遠神吾大皇《トホツカミワガオホキミ》と申し、或は明津神吾太皇《アキツカミワガオホキミ》とも申し、或は吾大皇神命《ワガオホキミカミノミコト》とも申し、或は天皇の爲行《ナシオコナ》はせ給ふことをば、いつも神在隨《カムナガラ》と申たるごとく、天皇尊《スメラミコト》は人倫《ヒトノカギリ》とは、きはことに尊き神にましますものにしあれば、かの外(ツ)國の首領《カシラ》の、もと凡人《タヾヒト》なりしが、徳《イキホヒ》と業との世にすぐれたりしにより、天子とあふがれし類とは、かりにも同日のものがたりに爲むは、まことにゆゆしくかたじけなきことなりけり、又|物部乃臣之壯士者大王任乃隨意聞跡云物曾《モノヽフノオミノヲトコハオホキミノマケノマニ/\キクチフモノソ》、又|皇之命畏美《オホキミノミコトカシコミ》といふことの常多かるなどをも考へて、皇(カ)朝廷をかしこみまつりし、古の風儀《ナラハシ》をも思ふべく、又|天雲之向伏國武士登所云人者皇祖神之御門爾外重爾立候内重爾任奉玉葛彌遠長祖名文繼往物跡母父爾妻爾子等爾語而立西日從《アマグモノムカフスクニノマスラヲトイハレシヒトハスメロキノカミノミカドニトノヘニタチサモラヒウチノヘニツカヘマツリタマカヅライヤトホナガクオヤノナモツギユクモノトオモチヽニツマニコドモニカタラヒテタチニシヒヨリ》といへるは、天皇をかしこみまつりしのみならず、かの家持卿の人子者祖名不絶《ヒトノコハオヤノナタヽズ》とも、牟奈許等母於夜乃名多都奈《ムナゴトモオヤノナタツナ》ともよまれしごとく、子(173)孫《ウミノコ》の八十連屬《ヤソツヾキ》。その家の祖先《モトツオヤ》を重みしたることをも思ふべく、又孝謙天皇の虚見都山跡乃國波水上波地徃如久船上波床座如大神乃鎭在國曾《ソラミツヤマトノクニハミヅノヘハツチユクゴトクフナノヘハトコニヲルゴトオホカミノイハヘルクニゾ》と御製《ミヨミ》ませるにて、神祇をひとへにたのみし古(ヘ)の風俗など、あふぎてもなほあまりあり、かくて又近江大津朝よりは、くさ/”\世間の事業しげくなりぬるから、彼此につき議論《コトアゲ》せずてはあられぬことなるを、なほ物言むとては、葦原水穗國者神在隨事擧不爲國雖然辭擧叙吾爲《アシハラノミヅホノクニハカムナガラコトアゲセヌクニシカレドモコトアゲゾアガスル》といひて、ことさらに、そのことあげするよしをことわり、又|志貴島倭國者事靈之所佐國叙眞福在與具《シキシマノヤマトノクニハコトタマノタスクルクニゾマサキクアリコソ》などいへるも、上古よりありこし風《サマ》をつたへて、大津朝藤原朝の人のよめるなるをも思見べし、さて又朝廷のため、天下のためはいふもさらなり、事にふれて福《ヨゴト》をもとめ、禍《マガコト》をさけむがために、佛菩薩にむかひていのりごとすることは、はやくのときより、神祇にはまさりていみじかりしこと、國史にも往往《コレカレ》見え、集中にもさる趣なること、山上大夫などが作文にも見えたるを、歌詞にさる趣なるはをさ/\見えず、或は旅行の平安《サキカラ》むことをいのり、或は夫婦《イモセ》の中らひのことを、こひのみたることにいたるまで、ひとへに天神地神《アマツカミクニツカミ》をふかくゐやまひいつきまつりしこと、こゝかしこにあまた見え、又人の身の病にかゝりて惱むときに、良醫《クスリシ》をたのみ餌藥《クスリ》を服《ハミ》しことは、其頃めづらしからぬことなるに、それもの趣も歌によめることなく、たゞ天(ツ)神地(ツ)神にこひのみしことのみよみたるは、大事《イミジキコト》より小事《イサヽケキコト》にいたるまで、何によらず、神祇《カミタチ》のみをたのみまつりて、ゐやまひまつりいつきまつりし、上古の風儀をつたへて、歌詞にはよみきたりしがゆゑに、或は佛にいのり僧にかたらひ、或は醫人《クスリシ》にたよりて病を除《イヤ》しなど、すべて上代にもはら行なはれざりしことを(174)ば、もはら行はるゝ世となりても、よろず神々《カウ/”\》しく、古めかしからず、ふさはしからざることゝして、かりにもよまざりしからに、上古のてぶりの、もろ/\の神事と歌詞にのこりたりと云るは、そのゆゑなり、今世とても、田舍のかたほとりなどにては、病などに犯されたるには、藥よりはまづ神祇《カミ》にいのることまさりたるは、なほ上古の遺風《ナゴリ》なるに、そせかへりて、をぢなくつたなきことのやうに思ふめるは、中々にあさましきことなり、さて此他に、すべて陰陽乾坤の理などを、歌にいへることも中にはあるべきに、さる趣なるは一もまじはらず、たま/\天地毛縁而有許曾《アメツチモヨリテアレコソ》など云ることもあれど、それは柿本朝臣の吉野にてよめる長歌に、山神《ヤマツミ》川神《カハノカミ》とよみて、その終にも反歌にも、神と云ことを、ことさらに省きて、山川毛因而奉流《ヤマカハモヨリテツカフル》とよめるに同じく、天神《アメノカミ》地祇《ツチノカミ》と云ことを省きて、天地《アメツチ》といへるにて、古語に證例あること、本條になほいふべし、さればこれは異國人《アダシクニヒト》のいはゆる天地にはあらずと知べし、たま/\佛籍のいはゆる天堂、或は來世、又本性清淨の理などを思ひて、よめりと思はるゝ類も、たえてなきにしもあらねど、其は阡陌《モヽチ》にして什一《トヲヒトツ》もあることまれなるうへ、たゞ一時の戯言に、いひすてたることもありと思はるれば、さる類は除《オキ》てよまずとても事かくることなく、またたゞ歌の風調《シラベ》のみをとりて、意をだにうけがはすば、何の害《サマタゲ》にかはなるべき、其餘からくにの席穀と云し人の、故事、莊子が自然の理などをよめるもあれど、これも俳諧《タハブレ》の類なれば、右にいへるに同意なり、柿本朝臣山部宿禰などのにいたりては、かりにも外(ツ)國の故事などに、まざらはしきことを一もいへることなく、みないとも/\古き神代の故事のみによりてよめるは、たふときことにあらずや、(175)その分差《ケヂメ》は思誤つことなければ、ことあたらしきことなれど、なほいはむ、なみ/\の世の儒者どもこそ、堯舜の禅讓を又なくいみじきことにおもふことなれ、はやくもろこしにても、さかしだつ人は、堯が徳《イキホヒ》衰るにいたりて、舜これをとらへ、其(ノ)子をもおしこめて、みづから帝位に登りたる物なりといひ、又舜禹がしわざも、實は後世の玉莽曹操に、何《ナド》か異《カハ》りたることあらむなどもいへりしとぞ、しかれども舜は當時こそ民間にしづみ居たるなれ、實は黄帝といひし人の、八世《ヤツギ》の孫とかいひ傳へしごとくならば、まぎれもなき王統なり、されば大かたの世の人の意得來つるごとくに、禅を受て嗣たりしものにもせよ、又は莽操がごとく、實は奮ひて天下をとりたるものにもせよ、其はいかにまれ、王統なりとせば、なほつみゆるさるゝ方もあらむ、さればはるけき末の代まで、天下の人に、朽せずうすらがずあふぎしたはるゝは、さはいへど、あはれ其人のすぐれたりし大徳《イミジキイキホヒ》とぞ云つべき、しかれどもから國にては、舜何人也予何人也といひ、舜人也我亦人也などやうにいへるごとく、その人の胤《スヂ》にも姓《ウヂ》にもかゝはらず、たゞその徳のすぐれたると、しからざるとのみの異《カハリ》にて、聖人とあふがるゝと、庶人にてあるとにこそあれ、才と徳を尊むことはさもあるべきを、系統《スヂウヂ》をばつゆおもはざることよ、さはいへどあだし國のならはしこそ、げにたのもしげなくあさましきことなれ、されば後つひにはちりひぢのかずにもいれず、いやしめあなづりし者どもに、國を奪ひとられてもせむすべなく、かたさりをるよしは、もと其|系統《スヂ》によることにはあらず、舜も人なり我も人なり、たゞその徳威《イキホヒ》(176)こそいみじき物にはあるなれと、おぢかしこまり、かゞまりたることなればなにとかせむ、かゝればあだし國にては、君臣上下分《キミヤツコタカキミジカキケヂメ》のみだりなることは、はやくより、その基をきざしたるにあらずや、あなかしこ/\、【〔頭注、竹書云昔堯徳衰爲v舜所v囚也、又云、舜囚v堯、複偃2塞丹朱1使v不2與v父相見1也」王世貞云、堯崩舜避2堯之子1舜崩禹避2撮之子1、禹崩益避2禹之子1、而天下有v與、有v不v與也、是上下相狙以詐也、何異2莽丕1哉、故孟氏者得2聖人心1、而舛2其跡1者也」虞舜者名曰2重華1、重華父曰2瞽叟1、瞽叟父曰2橋牛1、橋牛父曰2句望1、句望父曰2敬康1、敬康父曰2窮蝉1、窮蝉父曰2帝※[瑞の旁+頁]※[王+頁]2、※[瑞の旁+頁]※[王+頁]父曰2昌意1、以至v舜七世矣(昌意は黄帝の二男なり)〕】吾天皇尊は、現神とも遠神とも申せるごとく、まことの神にしましませば、人倫とははるかに遠くすぐれまし/\て、千萬御代の御末まで、只一御代のごとく、稜威の尊く奇く靈く大座すことは他ならず、天津日大御神の大御裔《オホミスヱ》の御子尊に大座すことなれば、微《イヤ》しき外(ツ)國の王どもとは、かけてもひとしなみに論ふべきにあらず、さて又湯王が桀を征て國をとり、武王が紂を伐て天下を得したぐひも、ゆづりをうけたるにこそあらね、その人のいたくすぐれたりし徳によりて、天命に配《カナ》ひ、天下のためになりしことゝて、四方の人ども、ほめどよみて、末世にいたるまでも、ありがたきためしにいひ傳へたるは、かの國の風俗にてはげにさもこそあらめ、吾より見ればいともけがらはし、まして其より後々はさらなり、さて又國の首領《カシラ》だにかくあれば、きのふまで賤山賤なりしものも、徳だにあれば、今日は俄にとりあげられて、高位《タカキクラヰ》にのぼりて國政をとり行ひ、いみじくさかえおごりし類はめづらしからぬを、吾皇朝は、はやく上古に、君臣《キミヤツコ》と上下《タカキミジカキ》との分かたく定りて、臣連八十伴緒にいたるまで、氏かばねを重みして、子孫《ウミノコ》の八十連屬《ヤソツヾキ》、その家のわざをうけつがひつゝ、祖神たちに異ならず、只一世のごとくにして、神代のまゝに、皇朝廷に仕へ奉れるよりくらべ見れば、すべてかの國の高官《タカキツカサ》な(177)るものどもゝ、禽《トリ》蟲《ムシ》の列《ツラ》といはむにも、何でふことあらじとこそおもはるれ、さて又もろこしにては、その國の首の領《シラ》せるかぎりを中國と名け、みづからを天子と稱《ナノ》り、その餘何事もこれになずらへて、すべてきはごとに、われだけくいかめしく、高ぶりをるに似ず、みづから寡人不穀などゝ、謙下《ヘリクダ》りていへるこそ、いぶかしと思ふに、天子となのりをるものも、もと人の國を得て、位につきをる人なれば、しばしも徳と云ものを失ひて、天下の人のなつくべくかまへざれば、たちまちかたへの人に、國をとられなむと思ふ心しらひより、さもなきことにも心をおきて、人に謙遜《ヘリクダ》りへつらひて、眞の心をばあらはさず、それにつれて高官にのぼりをるものも、その種姓《スヂ》にはよらず、たゞ僥倖《カリノサキハヒ》にて、微賤《イヤシ》きものも才と徳とによりて、とりあげられたるなれば、上よりもそねみ、下よりもいきどぼるときは、間もなくおひのけられ、身も亡びなむと思ふことの、下おそろしさに、よろづ卑下《ヘリクダ》り、人の心をとりて、ものいふことをば、常わすれぬより、おのづから風俗のごとくなれるものなるべし、しかれども、これはそのもと理のあることなれば、かの國にては、げにさもあるべきことゝこそ思はるゝことなるに、かしこきや吾皇天皇尊は、大御皇祖神《オホミオヤカミ》たちの大御前を、いつき祭りたまふにこそ、敬禮《ヰヤ》のかぎりを盡させ給ふことならめ、其を除て、誰しの人にかへつらはせたまはむ、何(レ)の國にかおもねらせたまはむ、しかるを書紀などに、天皇等の御自《ミミヅカラ》謙下りたまひて、朕不才豈敢宣(ヘ)2揚(ムヤ)徳業(ヲ)1などやうに、のたまへりしこと往往《コレカレ》あれど、其はたゞ文辭のうへを、漢籍にならひて書たまへるのみゆゑにこそあれ、實にさやうにはのたまはざりしこと、集中大御歌詞にて知べし、さばかり異國の道を信《ウベナ》はせ給ひし、(178)聖武天皇の、節度使に御酒を賜へる大御歌にすら、手抱而我者將御在天皇朕宇頭乃御手以掻撫曾禰宜賜打撫曾禰宜賜《テウダキテアレハイマサムスメラワガウヅノミテモチカキナデソネギタマフウチナデゾネギタマフ》云々とよませ給ひ、それより以往《ヲチツカタ》には、さるさまに詔へること多く見えたり、これことさらに、臣下に、皇威《ミヒカリ》をかゞやかさせ給はむために、御自《ミミヅカラ》宇頭乃御手《ウヅノミテ》など詔へるにはあらず、神代よりいやつぎ/”\に、天皇はかくざまにのたまふこと、さだまりたる常のことなるゆゑに、しかのたまへるにて、かのから國の首領《カシラ》どもまで、自(ラ)謙下《ヘリクダリ》て寡人などいひたるとは、炭と雪とのかはりあることにて、ありがたきことにあらずや、もし何事もひたぶるに外(ツ)國ざまをまねびたまへりしとならば、書紀などの文辭のごとく、御自謙下りてのたまふべきことなるに、さもなきは、すべて歌詞には神代のまゝをつたへて、外(ツ)國意をばまじへざりしがゆゑなり、さてそれより臣民の列にいたるまで、すべてから人のごとく、へりくだりていへることのなきは、外(ツ)國をまねぶといへども、まねばざるごとく、大《イタ》くさま異りたることなり、しかるを自をへりくだりていふことは、君子の體なりと心得、さもなきを無敬《ナメゲ》なりと思ふは、もとうはべのへつらひより事おこれるには心つかず、ひとへに外(ツ)國意にしみつきたるがゆゑなり、○或人又問けらく、世の迂儒《エセハカセ》のともがら、もろこしを中國と云華夏と云、其外の國々をばみな夷狄と心得て、吾をも東夷と云などは大《イミ》じきまどひにて、孔子の春秋と云書に、もろこしを中國とし、もろこしの政のとゞかぬ國を、夷狄とあしらへる、これ内を尊み外を卑しむ萬世の教なり、【〔頭注、劉煕云、帝王所v都爲v中、故曰2中國1、〕】されば神世にも、はやく吾日本を葦原中國と稱《イヘ》るも私言《ワタクシ》に非ず、其後諸夷に對へなどして、吾を中國と云中朝と云、或は神國とも聖朝とも、華夏とも云るこ(179)と、古き書にをり/\見え、その他外(ツ)國の人に對ひて、我(ガ)使を皇華使と云、我人を王人と書、すべて外(ツ)國をば諸蕃とあしらはれたり、これ孔子の旨にかなひたることにて、當然理《サルベキコトワリ》にあらずやといへるに、答へけらく、葦原中國とは、かのもろこしにて中國と云る類にはあらず、葦原の其中にある國と云ことなり、されば彼方にて中國と云とは、後に文字にうつせる上にては、自に通へるにこそあれ、その本義はいたくかはりたり、しかるにこれをも、萬國の中央《モナカ》なる國の意ばえにて名づけたるものとし、又、日本と云は、日の大御神の本つ御國の意と云ことぞとするたぐひ、古學する人の心には、誰もさもあらせまほしく思ふことなれば、枉てしかいはゞ、しかいはるまじきにもあらねど、そはなほ私説とぞ云べからむ、〔頭注【月清集、藤原良經公、我國は天照神の末なれば日本としもいふにぞ有ける、これを武家ざまの、權威強(リ)て、皇朝廷の御衰へましますを憤りて、日(ノ)本といふ稱に託て皇威のかたじけなきほどを示されたるにて、名の本義をまで思ひてよみ給へるにはあらず、】〕すべて上古《カミツヨ》には、たゞあるがまゝにて、後世のごとかまへて、皇朝のことに尊きよしを故《コトサラ》に稱《タヽ》へしやうの趣は一もあることなければなり、すべて何ごとも、尊卑《タカキミジカキ》大小《フトキホソキ》たぐひを、外にくらぶる方のあるによりて、それにはまけじおとらじと思ふより、かまへてわれだけく云ことのあるならひなるに、吾皇朝は天地のはじめより、萬國にすぐれて比なく尊きことは、まがふことなきことなれば、すべてわれだけくいへることのなきは、かへりて萬國にすぐれて尊かりししるしなり、しかれば大八島國豐葦原中國などいふ大豐も、たゞ上古の美稱にて外(ツ)國に抗《アタ》りて設けたるにはあらず、かの大漢大唐など云にならひたることにはあらざるなり、さてやゝ後に、外(ツ)國に行かひしげき世となりて後は、もろ/\の異國《アダシクニ》に對ひては、からざまに吾を中國中朝(180)などやうにいはむことは、もとよりさることなれど、春秋の旨にかなひて、當然《サルベキ》理なりと思ふはあかぬことなり、おのづから春秋の旨にかなひたるところもあり、とやうにいはば、なほゆるすべし、いかにとなれば、すべてかのから國のならはしとして、みづから領《シラ》せる國を中國といひ、みづからを天子となのり、己にまつろふ國々をばしたがへなつけ、さらぬ外の國々をいやしめあなづりて、首領《カシラ》の威をかがやかすことなれど、徳衰ふれば人に國を奪はれ、首領《カシラ》の系統はあとかたなく絶はつること、漢と云し代よりこのかた、おほくはしかりしを、つひにはかの人のごともおもへらず、かろしめあなづりし夷狄に、國を奪ひとられなどしたるにて見れば、中國華夏など云も、もとより尊卑《タカキミジカキ》分あることにしあらねば、たゞかの内を尊み外をいやしむ、當然理とするに過たることはなし、あなかしこ吾皇朝はさるたぐひに非ず、實に天地のはじめより、萬國にすぐれて、二なく尊きこといちじるければ、かの孔子などがさだめをも待ず、中國華夏などいはむに何をかははゞからむ、中ごろのすゑより逆臣《シコオミ》賊夫《タブレヲ》など出來て、たはわざしけることはあれど、あなかしこ、つひに天の日繼はうごきましまさず、まして外(ツ)國の王どもよりは、いむかふことだにかなはざること、かの弘安の年の故事などにていちじるし、さればかの春秋と云書を規としていはむは、かの外(ツ)國々ならばこそさもあらめ、孔孫の旨はいかにまれ、吾皇朝にかけていはむは、あきたらず、かたじけなきことゝ知べし、さて又ことのついでにいはむ、古に葦原之水穗國と云たるこそ、ことに尊とけれ、水は借字にて物のうるはしきをほめたる辭にて、穗は稻穗をいへるなり、そも/\かく名づけたるは、神代より今にいた(181)るまで、稻の萬國に比なくはるかにすぐれて、いと美味《メデタ》きがゆゑに、皇朝の國號には負來にしものなり、すべてもろ/\の異國《アダシクニ》は、皇朝にかはりてこの稻のともしきによりて、かなたこなたの國々に、ゆきかひすることの多く、さてそのゆきかひするにつきて、或は威しもし、或はなつけもし、のちつひには國のみだれをもまねくことなるに、それとはきよくかはりて、外(ツ)國の人をなつけむためにもあらず、まして威さむためにもあらず、みづ/\とうるはしき稻穗のめでたきを、たゞあるがまゝに負せたる號にて、これぞ上古のまことゝ云物にはありける、そも/\高きもみじかきも、さかしきもおろかなるも、命ばかり重みせらるゝものはさらになきを、それつぎていきながらふることは、全《モハラ》稻の功《チカラ》にしあれば、古語にも萬調まつる長《ツカサ》と稱へ云て、世にこればかり貴き寶はなきを、その稻の、かばかりすぐれてめでたきことは、いふまでもなく、天下四方の人のよくしれることなるに、蓼くふ虫の辛きをしらざるがごとく、この水穗國にうまれ出て、かゝるめでたき稻をしも朝夕に給《タウ》べながら、そのたらひてうまきことをわすれて、なほ何をあかぬことにや思ふらむ、外(ツ)國に心よせて、かの首領を天子といひ、かの國を中華と云、吾をかへりて東夷ぞなどゝいふたぐひの人あるは、あさましくうれたきことなり、わくらばに人となりて、この國にうまれ出たるきはは、はじめより神恩《カミノミメグミ》のふかきすぢを思ふべきことなるに、其を忘れたる人は、つひには神の御意にもれて、おもはずも凶事《マガゴト》の出來たらむことこそおそろしけれ、そも/\貴きも賤きも、神ろき神ろみ諸の御恩賚《ミタマノフユ》をば、立ても居てもわすれては、ありふることのかなはざる理なるをしらずや、まづいきとし生る萬物の(182)中に、人と生たることも、ありとしある萬國の中に、神國に生れたることも、又皇統の天地と長く久しきあひだには、或は治り或は亂るゝこともあるならひなるに、この四方の海浪靜なるときにうまれあひて、あくまでくらひ、あたゝかに着、雨露をおほひ、安く住、うまくいね、王臣百官人天下の公民《オホミタカラ》にいたるまで、已が家々の職業《ワザ》をつとめ、君につかへ父母にしたがひ、妻子やつこらにいたるまで、あはれみうつくしみてやしなふことも、己がちからもてしかするに非ず、みな皇神たちの御恩賚《ミタマノフユ》にもるゝことなければ、百姓《オホミタカラ》のわがちからにて身を養ふ者も、己がちからのみと思ふは大《イミ》じきまどひなり、もし皇神たちのうらさびて、惡(キ)風荒(キ)水をいだして稻殻《トシ》あらせず、農夫《タヒト》の耕作《イタヅキ》もいたづらになりなむときは、貢すらとゞこほるべきことなるに、もろ/\の工人《テビト》商人《アキビト》のともは、何をたうべてかいのちつぐべき、されば上中下身のほど/\につけて、君につかへおやにしたがふいとまのひまには、古きふみよみ古をしのび、歌よみふみつくり、或は花をもちあそび月をめで、或は琴ひき笛ふきうたひまひて、心をのばふることも何かは神の御蔭にあらざらむ、しかれども下ざまの無學文旨《カタクナ》にして、さとしがたききはは何とかはせむ、古學するきはは、その御思賚のよりくるところのよしを思はずやはあるべき、そも/\天下の公民《オホミタカラ》の作りとつくるなりはひは、皇御孫尊の長御食《ナガミケ》の遠御食《トホミケ》と、赤丹穗《アカニノホ》に聞しめさむがために、八束穗《ヤツカホ》のいかし穗になしさきはへたまひて、皇神たちの寄《ヨザ》し奉れる奧津御稻穀《オキツトシ》の、そののこりを、臣連八十伴緒天下のあを人草にいたるまでに、あがちたまへるものにしあれば、たれしの人か皇神の大御恩《オホミウツクシミ》にもるべき、いづれの人か皇神の大御惠をかゞふら(183)ざるべき、さればその本の理をたづね察《オモ》ひて、尊み重みすべきことぞとはいへるなり、眼前の君父の恩はもとよりさることにはあれど、たゞ眼に見えたることのみ思ひて、目に見えぬことわりをえたづねしらぬは、あさはかなる心にあらずや、されば眼前の君父をさしこえて、ひとへに皇神の御恩賚《ミタマノフユ》をだに、敬ひまつらばよけむかと、思ふは、又いと/\あらぬことにて、君に忠心《マメゴヽロ》をつくしてつかへ、親に孝道《シタガフミチ》をきはめてやしなふことは、人々しきゝはの理會《コヽロエシラ》ぬはなければ、今更こと新しく云までもなきことなり、その皇神の御蔭を尊むは、君につかふるこゝろのふかきにより、祖先の恩惠を敬ふは、父母にしたがふこゝろの厚きによれる事ならずや、【〔頭註、防人(ノ)歌に、祁布與利波可敝里見奈久弖意富伎美乃之許乃美多弖等伊※[泥/土]多都和例波《ケフヨリハカヘリミナクテオホキミノシコノミタテトイデタツワレハ》とよみ、知波夜布留賀美乃美佐賀爾奴佐麻都里伊波負伊能知波意毛知々我多米《チハヤブルカミノミサカニヌサマツリイハフイノチハオモチヽガタメ》といへるなどにて、古東人の忠孝の實心、思ひうありて貴むべし、からぶみ管子に、思之思之重思之、思之不通、鬼神將通之、非2鬼神之力1、精氣之極也とあり、思ひ得たることもみな神のたすけにあらずて、己が精の力によることなりと思ふは、例のから人のくせにてめづらしからぬことなり、さてまづ已く此世に人と生れ出たるをも、神のみぐみなることまでを思はざりしこそはかなけれ、〕】幼童のためになほいはむ、天皇は高ひかる白の御子と申してかしこくも大御神の御皇子孫《オホミマノ》尊に大ましませば、王卿百官人たちの大(キ)朝廷をかしこみつかへまつるは、やがて皇神の御思賚を、あふぎ尊みまつるこころなれば、天下の百姓《オホミタカラ》にいたるまで、己(レ)々(レ)が主君をゐやまひつかへまつるも、やがて皇神のみたまのふゆ、天皇のみうつくしみを、かしこみまつるこゝろにこそあれ、そのゆゑは、已(レ)が主者も、天皇尊《スメラミコト》のことよざしたまふまに/\、一國にまれ、一郡にまれ、大御神の御民をさづかりてやしなへることなれば、その主君よりは、土民を人の親の己がわくごをうつくしむがご(184)とく、心のかぎりなでをさめ、かなしくめぐゝ思ひて、いかなる凶年《トシナキ》ときありても、士民のすゑにいたるまで、あまさずもらさず賑はし救ひて、領内にあらむかぎりは、飢寒《ウヱコヾエ》にたへずて、死《ヌ》ばかりこのことにはあはせじものをと、常々心かくることなれば、その處をうれしみ思ひて、それによそりをるものは、いさゝかもけしき心をもたず、みどり子の己が母の乳乞がごとくにしたひまつりて、己(レ)々(レ)が家|職《ワザ》産業《ナリハヒ》をいそしみつとめては、事しあらば火にも入水にも入て、うつくしみの百が一にも、むくいまゐらせむと思ふこそ、君につかふる本意なるべけれ、かゝれば、君の禄《タマモノ》を食《ウケ》をる者のかぎりのみならず、工人《テビト》商人《アキビト》のたぐひにいたるまでも、たゞわが私のちからのみにて、世間のわたらるゝものにしあらざれば、君恩のたふときすぢのみは、理會《コヽロエ》てをらしめまほしきものなり、しかるを、いさゝかにても禄《タマモノ》を食《ウケ》をる者のかぎりは、世にわれよりも貧しき人多くして、糟湯酒《カスユサケ》にもあくことなく、或はうゑこゞいて、ほと/\いのちをつぎかぬるもあるに、この美飯《ウマイヒ》をあくまでたうべて、君につかふるいとまのひまには、古き代の書よみ、古のたふときすべをしることも、もとさきはひの多くして、君にたすけられて居るゆゑなればぞと、古こと學する人などは、一きは敬の心も深かるべきに、かへりて、世の人の長短《マサリオトリ》をかりそめに議《サダ》し、或は政を執人の得失《ヨキアシキ》をみだりに論《アゲツラ》ひなど、たゞ何事も當世を昔の書に引くらべて、今をあざけりそしり、昔をしたふ口さきのみのいひぐさとするやうの人も、中にはありときこゆるは、もと君臣の情のふかゝらぬ、惡きくせにしみつきたるがゆゑなりと、かたはらいたきことなり、前にもいひたるごどく、かのもろこしにてはすべて君臣の義うすき風儀《ナラハシ》にて、(185)己が利《ミタメ》を得むと思ふ心の一すぢなるより、時勢《トキノサマ》をもふかくたどらず、君をいさめて、己が志の行ひ用ひられざるときは、すみやかに辭去《イトママヲシ》など、すべて世に浪《ウカ》れをる者多くて、わがすぐれたる才能《チカラ》の時にあはざることを、ひとへにふかくいきどほり、われだけくさかしだちて、政法《ヲサメカタ》の是非《ヨキアシキ》を評《イ》ひのゝしりありくことの多かるは、いとよからぬならはしなるを、書よむ人は、中々にさるさまなるを、心たかく思ひあがりて、すぐれたることのやうに思ふことなめれど、あらぬことなり、かくいはゞ、なほたゞ時世におもねり諂ひて、實は快からず思ふことをも、心にかなひたるさまにいふと思ふ人もあるべけれど、しからず、すべて朝廷の皇威《ミイキホヒ》おとろへさせ給ひては、世は治りがたき古昔よりのありさまを考へてもしるべし、しかるを今の東の遠(ノ)朝廷には御政を申したまへる世となりては、いよ/\ます/\皇(カ)朝廷を崇び奉り敬ひまつりて、つぎ/\に諸士萬民をも撫をさめたまへること、皇神の大御心にかなはせ給ふによりて、かくのごとく御代はめでたく永く久しく治まれることなれば、其處に心をつけて、國家《アメノシタ》の大恩《フカキミメグミ》をば、ゆめにもわするべからざることなり、もろこし五代といひし時の末、後周の恭帝と云し王を、其臣に趙匡胤と云しものが叛きて、恭帝を打ほろぼし、みづから天子となのりて、つひに宋の太祖といはれしそ、その恭帝が時の宰相なりし范質と云ものが、恭帝の亡さるゝを、眼前に見ながら、おめ/\と趙匡胤に降りて、又宰相になりたるが、もとより輕からぬものにはあれど、一たび降人になりしことの下おそろしさに、我は本※[覊の馬が奇]旅の臣といひ、後周の讓を宋が受たるやうにいひまぎらはかして、堯舜のめでたき代に生れ逢たりなどいへる類は、實に快から(186)ぬことのかぎりなれど、せむすべなく自《ミ》の耻辱をおほひかくし、つくろひかざりて、心にかなひたることのやうに云たる、これらこそ、いみじく時世に阿り諂たることにはあるなれ、すべてかのもろこしには、かくざまの類、代かはるときにはことに多し、しかるを今(ノ)世にして、今の世のなかを稱《ホム》るを、これらとひとしなみに思ふは、いとも/\あらねことなりとしるべし、さてかく皇神の御恩賚によりて、東照神君の天下の御政申したまひしほどより、弓矢鞆の音きこえず、天下おだひにをさまれるにつきで、すたれりしのろ/の古のみち/\も、たえたりし萬(ツ)のふりにしわざ/\も、つぎ/\におこるめる中に、古こと學びのいやましにおこなはるゝことをおもふに、そのはじめは難波の契冲あざり、古き代の書を見あきらめて、すぐれたる書どもを、みづからもかきあらはしたるを、そのかみ大かたの世にはしれる人もなかめりしを、水戸の殿のさとくきこしめして、代匠記をかゝしめ給ひたるなどをぞ、にひはり道とは云きべき、それよりすぐれたる人も、おひすがひに世に出て、いにしへをしたひ、いにしへぶりの歌よむ人も、これかれといできにつゝ、をぢなきわれらまで、皇神の道のたふときすぢを、さとり得たることは、ひとへにかのあざりのことさきだてゝ、世(ノ)人をいざなへるより、より/\にすぐれひとたちの出來て、さとせるしをりをたづきとして、わけのぼるにこそあれ、しかるにいにしへをしたふ人々、さき/”\のすぐれ人|先師《シルベヒト》などのをしへによりて、さとりたりとはいはで、たれも/\おのれひとりのこゝろよりおもひ得たることのやうにいひなし、かへりては前人の説をばもどきいふ人のおほかめるは、かたはらいたきことならずや、其はまけじた(187)ましひなる心のさかりなるより、うはべには前人をおとしめそしりてしたにはひそかにその説をよしとうべなひてまねぶこそ、そこぎたなくうらはづかしきことにはありけれ、それが中にも、前人の論とおなじからぬやうにたくみて、しひて一(ツ)の門をはりてものいはむとする人もあめれど、其はもと世にたけきものに思はせて、はやく人にしられほまれをとりて、時にほこらむとかまへたる事量《コトバカリ》にて、まことのすぢには非ず、すべて志をたつることの高からず、きたなき心のきよまらず、一時の名譽《ホマレ》を欲《オモ》ふがゆゑに、さる類はあるものぞかし、但しから人も大《イタ》く欲《モノホシミ》するは、欲《モノホシミ》せぬに似たりといへるごとく、たゞひとへに名利《ホマレ》を思はずと云のゝしるは、世にたけきものに思はせて、かへりて名利をねがふこゝろの深きものにて、あらはに名利《ホマレ》をねがふよりは、中々に心きたなし、されば丈夫は名をし立べしなど云て、古の人も名を立ることを思はざりしにはあらず、されど志の高くて、天下の鑒戒《カヾミ》となり、四方の人の模範《カタギ》となるべくかまへたるがゆゑに、後代にきゝつぐ人もかたりつぎて、祖先の名と共に斷《タエ》ざるなり、もし古の人のごとく、まことのすぢをのみ思ひおこしてまねばむには、つひに古の事もあきらかにしらるべきことなるに、さる人の世に乏しきは、志の高からず、學の力のともしきがゆゑなり、柿本朝臣の、石見國より妻に別れて上らるゝ時の長歌の終に、丈夫跡念有吾毛敷妙乃衣袖者通而沾奴《マスラヲトオモヘルアレモシキタヘノコロモノソデハトホリテヌレヌ》とあるは、心あさきに似てふかきところあり、いかにと云に、相《アフ》も別るゝも、かしこき皇帝《オホミコト》によりてすることなれば、女によりて心を動かすことはせじと、いかばかり思ひたけびても、誰もしたには、めゝしくはかなき心おこりて、別をかなしむ旅情には、たへられ(188)ぬならひなるに、しひてさるこゝろをつゝみかくして、さるめゝしきことは思はずと、うはべに丈夫つくりて、人にをゝしく思はせむとかまふるは、うつはりにて、まことの心にあらず、さればそのまことの心のあるがまゝをつくろはず、丈夫と思へる吾なれど、なほしのぴあへず、袖とほるばかりに泣ぬらしつといへるをば、たれかはあはれと思はざらむ、古今集に、あかずして別るゝ袖の白玉は君が形見とつゝみてぞゆくとあるは、心ふかきに似てあさきところあり、いかにと云に、夫婦にまれ親子にまれ、離別《ワカル》るときに臨《ナリ》て、涙の玉と見ゆばかりに落むは、なほさることもあるならひなりといふべけれど、其をまことの玉のごとくに裹みて持行むといふは、幾倍《イクヘ》かまさりていみじき涙なれば、あはれもいよ/\ふかゝるべきに、實にさもあらむとは誰も思ふことならねば、かの袖のとほりて沾るよし、たゞあるがまゝを云るにはたがひて、かへりて心あさし、かくざまたいふことになれるより、われおとらじと、或は涙によりて川水のまさる趣にいひ、或は身さへながるゝよしに巧み設けて、競ひいへること多けれども、みなたゞ口さきのふかさくらべのみにて、心には深しや淺しやしられねば、今よみ擧味ふるに、すべて身にしみ通りてかなしまるることなし、古今集すら、彼朝臣などの歌にくらぶればかくの如し、ましてそれよりこの方はいふまでもなきことなり、すべてかの朝臣等の歌に、花紅葉を雲錦に見なし、涙を玉にまがへたるやうのことは、なきことなるを、はやくさることにも心つかずであるは、志の高からず、學の力のともしきが故ならずや、たゞ柿本山部の大夫たちを歌のひじりなりといふことも、うはのそらなるむかしがたりのやうに、人のいひ(189)つたふるをうけつぎたるのみにて、實にそのきはことにすぐれたるをばえさとらぬは、いふかひなきことゝやいふべからむ、かくて今雅澄が松(ノ)花かずならぬ身にして、遠祖のことをいはむは、かつはやさしく、かつはかたじけなきものから、神の御蔭君の御惠、前人の恩賚まで、つぎ/\にいひのべたるに、ひとり祖先の厚恩をのみもだりてをらむも、本意にしあらねばかつ/”\いふべし、雅澄が八世《ヤツギ》の祖、飛鳥井少將藤原(雅量)朝臣ときこえしは、かたじけなくも内大臣藤原(鎌足)卿の後裔にして、土御門天皇御宇正治元年と云に、かけまくもかしこき、後鳥羽太上天皇のみことのりをうけたまはりて、新古今集をえらばせ給ひし、從三位參議藤原(雅經)卿よりは十世に、後花園天皇御宇、永享十年と云に、みことのりをうけたまはりて、新續古今集を撰ばせたまひし、正二位中納言藤原(雅世)卿よりは四世になむあたり給へる、そのほど土佐國しらしゝ一條の殿をたよらせ給ひ、幡多郡入野郷をしる所に給りて、鹿持城に居給ひしより、この國にて世々を重ねられけるなり、さてかの君の此國にて歌よみしたまひ、くさ/”\みやびわざどものありしことなどは、物にもしるしとゞめかたりもつたへて、世にしるところなり、かくて雅澄があまたの年月、この萬葉集の註解を思ひおこしてより、くさ/”\とけがたきふしどもにいたりて、思ひうむじたることのありしほど、やゝもすれば、たれさとすともなく、さとりえしことなどの多くありしは、かたじけなくも遠祖神たちの御靈のとし給へること、又そのほかにもとりどり奇異《クシビ》なること思合するに、これみなひとへに、世々の祖神たちの御靈のたすけ給へるがゆゑなりと、たふとくうれしさをつゝむとすれど、たもとにあまり(190)てかくなむあなかしこ、
 
萬葉集古義總論 其三終
 
(191)萬葉集古義總論 其四
   舊本目録(ノ)辨
舊本卷々にしるせる目録は、此集|撰《カケ》るときにしるせるものにはあらず、されど仙覺などが校合《カムガヘ》て、新に記せる物にはあらず、彼律師などよりは、やゝ古(キ)ときにかけるものと見えて、仙覺が奧書に、如2松殿御本、左京兆本、忠兼等本1、廿卷皆卷々端(ニ)目六在之、但目六之詞各有2少異1云々とあるにて著《シル》し、かの松殿本といへる松殿は、攝政關白太政大臣基房公にて、高倉天皇承安の年間に出し御本とおぼゆ、仙覺が校《カムガヘ》し弘長文永の年間よりは、凡八九十年、あなたなり、左京兆本、忠兼本などいへるものも、其年間の近きあたりになれりしものと見ゆ、さて其は固有《モトヨリ》のものにはあらで、各私本の目じるしにくはへたるものにて、題詞のまゝをひろひ取、或は左註により、或は自己《ミヅカラ》の勘辨《カムガヘ》を以て、よきほどに斟酌《ハカラヒ》てしるせるがゆゑに、各本ごとに目録のさままちまちにて、一同《ヒトシナミ》ならざりしはさる故なりけり、されば目録之詞各有2少異1とはいへるなり、又彼奧書の次に、如2二條院御本之流、并基長中納言本之流、尚書禅門眞觀本1者、至2于第十五卷1目六在之、第十六卷以下五卷無2目六1、自v本如v此本一流有之歟、とあるも、かの二條院御本、また基長中納言本などを以て寫し流《ツタ》へし本に、十五卷まで目録をしるしたりしを、其業を卒ずして、十六卷よより下(ツ)かたは、なほもとのまゝにて傳はれるを、眞觀などが本も、そのまゝを寫しつたへたるも(192)のならむ、さるは十五卷までは目録なくてはかなはず、十六卷以下は目録なくてことゆくべし、と云ことわりの、さらにあるまじければなり、眞觀は、右大辨右衛門佐正四位下光俊の出家して後の名にて、光俊は、四條天皇嘉禎の頃出家せし人なりければ、なほ彼頃までも、卷々|全《ミナ》がら目録のなき本もありしなり、かくて又彼奧書の其次に、或又有d都無2目六1本u也とあるは、よりよりに目録をくはへざりし古のまゝの本なるべし、きて今傳はれる本どもには、多く目録のあるは、かの仙覺が校合《カムガヘ》たるとき、その目録に異同のありしを、是《ヨシ》と思はるゝにより、非《アシ》と思はるゝをばすて撰《エリ》しるせるものなるべし、今傳はる本どもの中にも、すべて目録のなき本なるは、古の本をそのまゝ寫し傳へたるものにもあるべし、かくて右にいふごとく、今傳はれる本どもの目録は、やゝ古(キ)ときにかけるを、仙覺などが校合せし時、訂ししるせる物とは思はるれども、なほいたく意得ぬさまなるところの多かるは、かたのごとく校合などには勞《イタツ》きしこと、大かたならざりしかど、なほ此集をとり見る人も、さとり得ることはかたきわざにて、歌詞の本意を了解《サトリエ》ずして誤れること多かりしなり、中にも十卷の目録秋雜歌の條に、詠鴈三首遊群十首としるしたるは、本條に出たる歌に、吾屋戸爾鳴之鴈哭雲上爾今夜喧成國方可聞遊群《ワガヤドニナキシカリガネクモノヘニコヨヒナクナリクニヘカモユク》とありて、遊群は行の假字なるを、舊く國方可聞を、クニツカタカモと訓て、遊群の二字を、次の十首の歌どもの題と意得て、放ち書たるを訂しあへず、其まゝにかぞへて、詠鴈とあるより下十三首は全《ミナガ》ら詠v鴈歌なるを、取分て詠鴈を三首とし、遊群を十首と意得て、目六にしるしたるは、あまりにかたはらいたきことなり、十六卷の目録に、戀2夫君1歌一首並短歌、時娘子戀2夫君1、沈(193)臥痾痩、喚2其夫1逝没時、口號歌一首とあるは、本條に戀2夫君1歌一首並短歌と題して、長歌一首反歌一首ありて、その左に、右傳云、時有2娘子1、性車持氏也、其夫久逕2年序1、不v作2往來1、于時娘子、係戀傷v心沈2臥痾※[病垂/尓]1、痩羸日異、忽臨2泉路1、於是遣v使、喚2其夫君1、來而乃歔欷流涕、口2號斯歌1、登時逝没也とあるを、いかでさばかり見誤りて、題詞と意得けむといとかたはらいたし、又その下の目録に、椎野連長年歌一首、又和歌一首とあるは、本條に古歌曰、橘寺之長屋爾《タチバナノテラノナガヤニ》云々、右歌椎野連長年説曰云々とありて、古歌をことわりたる椎野連長年が説を、左註に擧たるにこそあれ、いかで長年がよめる歌とまでは見誤りけむ、さて又和歌一首とあるも、長年が説中にて、决曰とあるを放ち書たるにまよひぞ、和(フル)歌と心得たるならむ、又十七卷目録に、守大伴家持贈2掾大伴池主1悲歌二首とある次に、同二十年二月二十九日、守大伴宿禰家持作歌二首と記したるは、右の悲歌につきたる書牘ありて、その歌の下に月日をしるして贈れることなるを、左の歌の題詞と見誤りたるものなり、さて其次に、姑洗二日掾大伴池主更贈一首並短歌三首と記せるは三月二火掾池主より、守家持に贈れる書牘ありて、夜麻可比爾《ヤマカヒニ》云々、宇具比須能《ウグヒスノ》云々といへる歌二首ある、其書牘と歌の下に、月日をしるして贈れることなるを、左の家持より更贈歌一首並短歌とあるに引連ねて、左の歌の題詞とかた/”\見誤りたるものなり、又その次に、三月三日大伴家持、送2掾大伴池主1七言詩一首並序と記せるも、右の家持より更贈歌につきたる書牘ありて、その歌の下に、月日をしるして贈れることなるを、左の七言詩の題詞と心得、はた七言詩は、池主より家持へ贈れることなるを、あしく見て、家持より地主へ送りとしたるも、かた/”\あ(194)やまりなり、その次に、四日大伴池主、奉v和2守家持1詩歌二首並短歌としるせるも、右の池主より家持へ贈れる詩につきたる書牘ありて、その詩の下に月日を記して贈れることなるを、左の歌の題詞と心得あやまりたるなり、その次に、五日掾大伴宿禰池主、答2守家持1詩一首並序、としるせるも、右の池主の更贈歌につきたる書牘ありて、その歌の下に、月日をしるして贈れることなるを、左の詩と歌との題詞と心得、はた左の詩と歌とは、家持より池主へ贈れることなるを、池主より家持へ答へたるものと心得たるも、かた/”\誤りなり、その次に、四月大伴家持、未v聞2霍公鳥1歌二首としるせるは、本條に、立夏四月、既經2累日1、而由未v聞2霍公鳥喧1、因作歌二首とありて、歌の後に三月二十九日としるせれば、三月によめる歌なるを、題詞をあしく見て誤りたるなり、その次に、三月二十九日、大伴家持二上山賦一首としるせるも、三月二十九日は、右の霍公鳥を恨て作る歌につきたることにて、二上山賦の後には、三月三十日依v興作之とあれば、これも左註をあしく見て誤りたるなり、その次に、三十日大伴家持依v興作歌一首と記せるは、全く右の左註を見誤りたるものにて、謂もなく贅《アマ》りたる題詞なり、其次に、二十日守大伴家持、遊2覽布勢水海1賦一首並短歌としるせるも、二十日は、次上の大目秦忌寸八千島之館宴歌につきたることにて、遊2覽布勢水海1賦の後には、二十四日としるしたれば、これも左註をあしく見て誤りたるなり、その次に、二十四日掾大伴池主、敬d和遊2覽布勢水海1賦u一首並一絶としるせるも、二十四日は、次上の歌につきたることにて、池上敬和たる歌の後には、四月二十六日とあれば、これも左註と見誤りたるなり、十八卷に、十七日大伴家持先妻、不v待2夫君之使1、自來時歌一首と(195)あるは、少咋先妻、不v待2夫君之喚使1自來時、大伴家持作歌とあるべきを、あしく見て誤りたるものなり、又末に、二月十一日、守大伴家持、忽起2風雨1不v得2辭去1作歌一首とあるは、何の謂とも通《キコ》えがたし、本條によるに、二月十八日、縁d檢2察墾田地1事u、宿2礪波郡主帳多治比部北里之家1、于時忽起2風雨1不v得2辭去1、大伴家持作歌とあるべきを、略過たる題《シル》しざまなり、十九卷の目録に、三形沙彌左大臣歌二首としるせるは、本條に、長歌一首反歌一首ありて、其左註に、右二首歌者三形抄彌、承2贈左大臣藤原北卿之語1作誦之也、云々とあれば、其さまにあるべきを見誤りで、三形沙彌と云が、左大臣の姓名のごと思はれて、何ともきこえぬ題詞になれるなり、其次に、七月十七日越中守家持、時遷2任少納言1作2悲別歌1、贈2貽朝集使掾久米廣繩館1二首としるせるは、本條に、以2七月十七日1、遷2任少納言1仍作2悲別歌1、贈2貽朝集使掾久米朝臣廣繩之館1二首としるし、小序ありて二首の歌を載(ケ)、後に八月四日贈之とあれば、そのさまにしるすべきを、やがて七月十七日に贈りたるごときこゆるかきざまなり、廿卷の目録に、陳2防人悲別之情1歌一首並短歌、同二十三日兵武少輔大伴宿禰家持三首としるしたるは、本條に、陳2防人悲別之情1歌一首並短歌と題《シル》して、左に長歌一首短歌四首を載(ケ)て、その後に二月二十三日、兵部少輔大伴宿禰家持と記したるをあしく見て、短歌、四首の中、一首は長歌の反歌、三首は二月二十三日によめるものと心得たるより、かく題《シル》せるなり、されば陳2防人云々1歌一首並短歌にて事たれるを、同二十三日云々の目録は、いたづらに衍《アマ》れるなり、その下に、防人等の歌を載たるに、上丁那珂郡檜前舍人石前之妻、大伴部眞足女一首と云より、妻物部刀自賣一首と云まで、十二人の名をしるして、其次に、二月二(196)十日、武藏國部領防人使、掾正六位上安曇宿禰三國進歌數二十首とあるは誤なり、上の檜前舍人石前之妻より、物部刀自賣が歌まで十二首は、三國が造れる歌の中なれば、別に擧べきよしなきを、左の昔年防人歌の題をしるさずして、歌の左に註せるゆゑに見まがひて、二月二十日武藏國云々とあるを、昔年防人歌の題と心得たるより、かく記せるなり、かゝる類の混亂なほ許多なり、細に云ときはかぎりもなし、其は熟《ヨク》本條の意を得たらむ人は、引合(セ)見て知べきことなり、かくて今卷々の目録のさまを考(ヘ)わたすに、十五卷までは、いみじき混雜はすくなきかたにて、十六卷より下はなほ許多なり、さるは上にも云たるごとく、眞觀本などには、十五卷まで目録ありて、十六卷より下はなしとある、其は十五卷まで物して、十六卷以下は業を卒ざりしとおぼゆるに、その十五卷までは、やゝ委く本條を考(ヘ)合(セ)てしるせるが、いさゝか正しき方なりけむからに、仙覺などが校へ正してしるせるに、そのよしとおもふをうつし、十六卷より下は、いづれもをさなくつたなかりしを、委く訂しあへずして、うつしつたへしゆゑにも有べし、さはいへど今傳はる目録も、仙覺などよりは前に出たるものにて、中には本條の題詞に考(ヘ)合すべきことの、たえてなきにしもあらねば、其は時として考(ヘ)合すべきたづきとなることは、其處に引合(セ)おきつるを、なべては今傳るところの目録は、固有のものにあらざれば、すべてたのみがたきことがちなれば、捨てとらずして、今新に本條を合(セ)考(ヘ)て、目録を造りつるなり、なほ余がつくれる目録に疑あらむ人は、本條を照し考へて、其みだりならざることを知べし、
 
(197)○萬葉集卷第一、歌數八十二首(長十五、短六十七)
  雜歌(長十五、短六十七)
泊瀬朝倉宮御宇天皇代
 天皇御製歌(長一)
高市崗本宮御宇天皇代
 天皇登香具山望國之時御製歌(長一)
 天皇遊獵内野之時中皇命使間人連老獻歌(長一、短一)
 幸讃岐國安益郡之時軍王見山作歌(長一、短一)
明日香川原宮御宇天皇代
 額田王歌(短一)
後崗本宮御宇天皇代
 額田王歌(短一)
 幸于紀温泉之時額田王作歌(短一)
 中皇命往于紀伊温泉之時御歌(短三)
 中大兄三山御歌(長一、短二)
 
〔以下省略〕
 
(247)   三體(ノ)辨
歌詞三體のことは、既《ナキ》にことわりたれど、なほまがふこともあらむかとて、こゝにもいへり、○長歌とは、七句以上にてとゝのへて、五七五七五七七、四十三言餘に位するを以て長歌とす、○短歌とは、五句にてとゝのへて、五七五七七、三十一言に位するを以て短歌とすること、人の心得たるごとし、○旋頭歌とは、六句にて調へて、五七七五七七、三十八言に位するを以て旋頭歌とす、
長歌、四十三言餘に位するとは、たとへば古事記倭建命御歌に、夜麻登波《ヤマトハ》(五言位)久爾能麻本呂婆《クニノマホロバ》(七言)多多那豆久《タヽナヅク》(五言)阿袁加岐夜麻《アヲカキヤマ》(七言位)碁母禮流《コモレル》(五言位)夜麻登志《ヤマトシ》(七言位)宇流波斯《ウルハシ》(七言位)とあるは、三十四言なれども、五七五七五七七の七句の格にいひのべて、四十三言に位するがゆゑに、なほ長歌の體をそなへたり、集中にては、十六に、飯喫騰《イヒハメド》、味母不在《ウマクモアラズ》、雖行程《アルケドモ》、安久毛不有《ヤスクモアラズ》、アカネサスキミガコヽロシワスレカネツモ
とある、これ集中長歌の短き限りなり、されど七句にて全(ラ)四十三言に云のべたれば、長歌の體をそなへたることはさらなり、其餘はなずらへ知べし、短歌、三十一音に位するとは、たどへば古事記倭建命御歌に、袁登賣能《ヲトメノ》(五言位)登許能辨爾《トココノベニ》(七言位)和賀淤岐斯《ワガオキシ》(五言)都流岐能多知《ツルギノタチ》(七言位)曾能多知波夜《ソノタチハヤ》(七言位)とあるは、二十六言なれども、五七五七(248)七の五句の格にいひのべて、三十一言に位するがゆゑに、なほ短歌の體をそなへたり、履中天皇御歌に、波邇布邪迦《ハニフザカ》(五言)和賀多知美禮婆《ワガタチミレバ》(七言)迦藝漏肥能《カギロヒノ》(五言)毛由流伊弊牟良《モユルイヘムラ》(七言)都麻賀伊弊能阿多理《ツマガイヘノアタリ》(七旨位)とあるは、三十三言なれども、五七五七七の五句の格にいひふせ賜ひて、三十一言に位するがゆゑに、なほ短歌の體をそなへたり、集中これに准(フ)べし、旋頭歌、三十八言に位するとは、たとひ言の餘れるも足ざるも、中にはたま/\あることなれど、五七七五七七の六句の格にいひふせて、三十八言に位するを、みな旋頭歌とすること、長歌短歌になずらへて知べし、此餘五七五七七七の六句の格にいひのべて、三十八言に位する歌あり、言(ノ)數は旋頭歌に異《タガ》はざれども、これは常の短歌に、一句を贅《アマ》したる體にて、旋頭歌にあらず、別に一體なり、これを贅句《フシアマリノ》歌とす、集中には見えず、其は古事記清寧天皇(ノ)條志毘臣(ガ)歌に、意富岐美與《オホキミノ》(五言)美古能志婆加岐《ミコノシバカキ》(七言)夜布志麻理《ヤフジマリ》(五言)斯麻埋母登本斯《シマリモトホシ》(七言)岐禮牟志婆加岐《キレムシバカキ》(七言)夜氣牟志婆加岐《ヤケムシバカキ》(七言)とあるをはじめて、古歌に往々あり、別に論《アゲツラ》へり、思ひ混ふべからず、
 
萬葉集古義總論 其四終
 
(1)萬葉集古義索引
     凡例
一、本索引は、萬葉集古義本集中に註釋せられたる各語句を抽出し、之を類聚して五十音順に排列せること、一般索引の體例に准へり。
一、地名人名、その他の固有名詞、及び本集中特に抽出して註せられたるものゝ外、多くは本歌の各句に準據して類聚せり。
一、同一語句にして屡々註せられたるは、その精細なるものを主とし、その餘は、精麁なると同意なるとに拘らず、等しく之を列出附載せり。
一、枕詞、序言等にして同項に屬せるは、同一語句を聯載するの煩と、抽出の不便とを避けて、本辭を最初に於て掲出せる外、各本辭を略して縦線を措き、承詞は片假字として其の下に附記し五十音順に據れること、本辭に同じ。
一、掲出せる語句にして、下語句と連續して意味を完整せるもの、及び類句多くして見易からざるは、特に下語句を片假字にて附載し、之を抽出するに便せり。
一、古義本集に於て音訓の註せられざる語句は、多く舊訓に據り、舊訓亦察し難きは、便宜上(2)音讀に據りて掲出し、その左側に傍線を施して之を判別せり。
一、 本集所載の人名にして屡々註せられたるは、所載本姓名の下に聚收し、官位姓氏のみの所載には、特に名字を細註して其の抽出に便せり。
一、 本索引中、掲出語句の下「一、」「五、」等とあるは、本會刊行本の册序を示し、次下「二一五」「四五二」等とあるは、其の頁數を指すものとす。且つ其の最後に括弧内に顯はせる數字は、萬葉集の卷序にして、本集參閲の際に便せむ爲め、之を附載し置けり。
一、 古義註釋の索引は、既く鹿持翁門下なる松本弘蔭氏の手に仍りて、各部門類別法の下に編せられたるものありと雖も、その抽出するに煩瑣にして不便なると、直に本會刊行本に適用する能はざるとを以て、今之れを採らず、唯だ本索引纂輯の參考に資せるに止め、新に本會に於て、幾何の手數と日子とを要するを厭はず、本索引を編してその闕を補填することとせり。
                  國書刊行會
(3)萬葉集古義索引〔省略〕
 
萬葉集古義第一 明治31年7月1日発行、明治45年6月30日再版発行
 
(1)萬葉集古義一卷之上
                土佐國 藤原雅澄撰
 
雜歌《クサ/”\ノウタ》
 
雜歌は、クサ/”\ノウタ〔六字右○〕と訓なり、かく稱《イフ》ゆゑは首(ノ)卷に委(ク)云り、さてこの標中には、行幸王臣遊宴※[羈の馬が奇]旅、其(ノ)餘《ホカ》數種《クサグサノ》歌を雜《マジ》へ載《アゲ》たれば、かくしるせり、
 
泊瀬朝倉宮御宇天皇代《ハツセノアサクラノミヤニアメノシタシロシメシヽスメラミコトノミヨ》
 
泊瀬(ノ)朝倉(ノ)宮、泊瀬は和名抄に大和(ノ)國城上(ノ)郡長谷(波都勢《ハツセ》)とあり、朝倉(ノ)宮は、帝王編年記に、大和(ノ)國城上(ノ)郡磐坂谷也とあり、大和志に、在2城上(ノ)郡黒崎岩坂二村(ノ)間(ニ)1と云り、古事記下卷に、大長谷(ノ)若建(ノ)命(ハ)坐(テ)2長谷(ノ)朝倉(ノ)宮(ニ)1治(シキ)2天(ノ)下1也、日本書紀雄略天皇(ノ)卷に、大泊瀬(ノ)幼武(ノ)天皇(ハ)雄朝津問稚子宿禰(ノ)天皇(ノ)第五子也、云々、三年(穴穗天皇六月、云々、穴穗天皇枕(キテ)2皇后(ノ)膝(ヲ)1晝醉(テ)眼臥《ミネマセリ》、於是眉輪(ノ)王伺(テ)2其|熟睡《ヨクミネマセルヲ》1而|刺殺《サシコロシマツリキ》之、十一月王子朔甲子、天皇|命《オホセテ》2有司《ツカサ/”\ニ》1設(テ)2壇《タカミクラヲ》於泊瀬(ノ)朝倉(ニ)1即天皇位《アマツヒツギシロシメス》遂(ニ)定v宮(ヲ)焉、云々、二十三年(幼武天皇)八月庚午朔丙子、天皇|疾《オホミヤマヒ》彌甚《イヨヽオモシ》、與2百寮1辭訣《ワカレ》握(テ)v手(ヲ)歔欷《ナゲキタマヒ》崩(ヒマシキ)2于大殿(ニ)1、云々とあり○御宇は(玉篇に、御(ハ)治也、宇(ハ)四方上下(ナリ)とあり、天下を治《ヲサム》るをいふから文字なり、)アメノシタシロシメ(2)シヽ〔アメ〜右○〕と訓べし、(現報善惡靈異記に、輕島(ノ)豐明宮御宇譽田天皇(ノ)代云々、御(ハ)乎左女多比之《ヲサメタビシ》、宇(ハ)阿米乃志多《アメノシタ》、續紀卅(ノ)卷(ノ)詔に、掛麻久毛畏岐新城乃大宮爾《カケマクモカシコキヒニキノオホミヤニ》、天下治給之中都天皇《アメノシタヲサメタマヒシ》とあれば、アメノシタヲサメタマヒシ〔アメ〜右○〕とも訓べけれども、)此(ノ)下人麻呂(ノ)歌に、樂浪乃大津宮爾天下所知兼天皇之神之御言能《サヽナミノオホツノミヤニアメノシタシロシメシケムスメロキノカミノミコトノ》とある、これそ古言なる○天皇代は、スメラミコトノミヨ〔スメ〜右○〕と訓ぺし、古事記|及《マタ》諸(ノ)宣命祝詞等に、天皇命と書る、これしか訓べき例なり、又儀制令(ノ)義解に、至(テハ)2風俗(ノ)所(ニ)1v稱(ル)別(ニ)不v依2文字(ニ)1假令(ハ)如2皇孫(ノ)命及|須明樂美御徳《スメラミコト》之類(ノ)1也と見え、日本書紀竟宴(ノ)歌に、數女良美己度《スメラミコト》とあり、但し歌には皆|須賣呂伎《スメロキ》とよむ例なれど、文辭《フミコトバ》にては、いづれもスメラミコト〔六字右○〕と訓べきことなり、かくてこの天皇崩(リ)坐て、明年河内(ノ)國丹比(ノ)高鷲(ノ)陵に葬奉れり、書紀清寧天皇(ノ)卷に、元年冬十月癸巳朔辛丑、葬(リマツリキ)2大泊瀬(ノ)天皇(ヲ)于丹比(ノ)高鷲(ノ)原(ノ)陵1と見ゆ、今多治比村の西黒山村の東にあたりて陵あり、これなるべしと契冲代匠紀にいへり、諸陵式に、丹比(ノ)高鷲(ノ)原(ノ)陵、泊瀬(ノ)朝倉(ノ)宮(ニ)御宇(シ)雄略天皇在2河内(ノ)國丹比(ノ)郡(ニ)1、兆域東西三町南北三町陵戸四烟とあり、黒山は和名抄に、河内(ノ)國丹比(ノ)郡黒山とあり○代の下、舊本に、大泊瀬稚武天皇と大字にて書り、官本其(ノ)餘諸本等には小字に注《シル》せり、(大(ノ)字、舊本古葉略壘聚鈔等に太と作るはわろし、書紀に大と作るそよき、皇(ノ)字、古寫本には王と作り、古事記にも、天皇を天王と書る處のある本どもゝ有《アレ》ど皆わろし、さて拾穗本には、天皇謚曰2雄略天皇1と云注もあり、日本紀私記に、神武等(ノ)謚名者、淡海御船奉v勅撰(3)也とあり)いづれも後人のしわざなり、六條本にすべて無そよき、(其(ノ)よしは下に藤原(ノ)宮(ニ)御宇(シ)天皇(ノ)代と標《シル》して、其(ノ)下に高天(ノ)原廣野姫天皇と書る藤原(ノ)宮は、持統天皇文武天皇二御代の宮なるを、持統天皇の御名のみしるせるは、一御代のみの標とこゝろ得たる非なり、いづれも其(レ)に准へて、後人のしわざなるを知べし、)かくてこの御名の字《モジ》、書紀には稚を幼と作、古事記には大長谷(ノ)若建(ノ)命とかけり、
 
天皇御製歌《スメラミコトノヨミマセルオホミオウタ》
 
御製歌(拾穗本には歌(ノ)字なし、下なるも皆御製とのみあり、さる本もありしなるべけれど、歌(ノ)字はあるそまされる、)は、ミヨミセルオホミウタ〔ミヨ〜右○〕と訓べし、玉篇に、製(ハ)作也裁也とあり、凡集中をおし渡して考(フ)るに、歌よみすることを、天皇の御上には御製としるし、皇子には御作としるし、諸王より庶人に至るまでを作と書り、かくてヨム〔二字右○〕と云言は、古事記上卷に、爾|吾《アレ》蹈(テ)2其(ノ)
上(ヲ)1走(リ)乍《ツヽ》讀度《ヨミワタラム》、集中四(ノ)卷に、月日乎數而《ツキヒヲヨミテ》、七(ノ)卷に、浪不數爲而《ナミヨマズシテ》、十一に、打鳴皷數見者《ウチナスツヾミヨミミレバ》、十三長歌に、吾睡夜等呼讀文將敢鴨《《アガネシヨラヲヨミモアヘムカモ》、(反歌に、一眠夜算跡雖思《ヒトリヌルヨヲカゾヘムトオモヘドモ、)又|吾寢夜等者數物不敢鴨《アガヌルヨラハヨミモアヘヌカモ》、十七に、月日餘美都追《ツキヒヨミツツ》などありて、物を數計《カゾ》ふることなり、歌を餘牟《ヨム》も、心に懷《オモ》ふ數《コト》を條々《ヲヂ/”\》と計へ擧るものなれば云なり、また、古事記輕(ノ)太子(ノ)御歌の下に、故(レ)此(ノ)二歌者|讀歌也《ヨミウタナリ》とも見えて、本居氏、讀歌は樂府にて、他の歌曲の如く、聲を詠めあやなしては歌はずして、直誦《タヾヨミ》に讀擧(グ)る如唱へたる故の名(4)なるべし、凡て余牟《ヨム》と云は、物を數ふる如くに、つぶ/\と唱ふることなりと云り、又|書《フミ》を餘牟《ヨム》、又|他《ヒトノ》歌を誦《トナフ》るをも餘牟《ヨム》と云など、文言を數ふる謂にて皆同じ、さて天皇及さるべき神等の御うへには、用言にも御《ミ》と云言を冠らする例、御佩《ミハカセル》、御娶《ミアヒマス》、御立《ミタヽス》、御寢坐《ミネマスなどあり、かくて古事記に、天皇の御製を大御歌《オホミウタ》と書り、これ然訓べき證《アカシ》なり、總て天皇の御うへの事をば尊みて、大御代《オホミヨ》、大御身《オホミヽ》、大御手《オホミテ》、大御琴《オホミコト》などいふ例なり○凡(ソ)題詞《ハシツクリ》の類は、もとからぶみざまに書るなれば、其《ソ》をこと/”\古(ヘ)ざまに正《タヾ》して訓むことも、中々のいたづきに似たり、さるはこの注書は、歌詞を主《ムネ》として、釋《トキ》たるものなれればなり、しかれども神(ノ)名、人(ノ)名などの類はさるものにて、官(ノ)名、地(ノ)名などくさ/”\の稱號《ナ》、古(ヘ)と今との差異《カハリ》あることにて、其《ソ》を唱へたがへたらむは、古學《フルコトマナビ》する緊要《ムネ》にもとりて、いと心づきなきものなれば、わづらはしきが如くなれども、さるたぐひはやむこと得ずして、かつ/”\證どもを擧てことわれること、既《ハヤ》く首(ノ)卷にも論《アゲツラ》へる如し、後々其(ノ)心して見べし、
 
1 籠毛與《コモヨ》。美籠母乳《ミコモチ》。布久思毛與《フクシモヨ》。美夫君志持《ミフクシモチ》。此岳爾菜採須兒《コノヲカニナツマスコ》。家告閑《イヘノラセ》。名告沙根《ナノラサネ》。虚見津《ソラミツ》。山跡乃國者《ヤマトノクニハ》。押奈戸手《オシナベテ》。吾許曾居《アレコソオレ》。師吉名倍手《シキナベテ》。吾己曾座《アレコソマセ》。我(乎)許曾《アヲコソ》。背(迹)齒告目《セトハノラメ》。家乎毛名雄母《イヘヲモナヲモ》。
 
籠毛與《コモヨ》、(毛(ノ)字、拾穗本には母と作り、)籠《コ》は十四卷に、伎波都久乃乎加能久君美良和禮都賣杼故(5)爾毛民《キハツクノヲカノクヽミラワレツメドコニモミ》(舊本乃に誤る、)多奈布西奈等都麻佐禰《タナフセナトツマサネ》(籠《コ》にも無《ナフ》v滿《ミタ》夫名共摘《セナトツマ》さねなり、)とも作《ヨ》み、和名抄に、唐韻(ニ)云、籠(ハ)竹籠也、和名|古《コ》と見えて、いまもつね世に用ふる器《モノ》なり、さて土左日記爲家卿本に、若菜|籠《コ》に入て雉など花につけたり云々、六帖に、結(ヒ)置しかたみの籠だになかりせば何にしのぶの草をつまゝし(後撰集に、種もなき花だにちらぬ宿もあるになどかかたみのこだになからむ、)拾遺集物(ノ)名に、こにやく、野を見れば春めきにけり青葛籠《アヲツヾラコ》にや組まし若菜《ワカナ》採《ツム》べく、(うつほ物語俊蔭(ノ)卷に、青つゞらを大(キ)なる籠《コ》にくみて云々、惠慶法師(カ)集に人の許に青葛《アヲツヾラ》を籠に組て、棗栗などを花にまぜてやるとて、)源氏物語早蕨に、蕨つく/”\しをかしき籠《コ》に入て、是はわらはべのくやうして侍る、はつほなりとて奉れり、手習に、若菜をおろそかなる籠に入て、人のもてきたりけるをなどみえたる、これらは皆若菜の類を入たるよしなり、此(ノ)餘鳥を納(ル)る籠《コ》は、書紀皇極天皇(ノ)卷に、以《ヲ》2白雀1納(レ)v籠《コニ》、和名抄に、説文(ニ)云※[竹/奴](ハ)鳥籠也和名|度利古《トリコ》、金葉集題詞に、鳥を籠《コ》に入て侍りけるが、赤染(ノ)衛門集に、身はこゝに心は空に飛鳥の籠《コ》にこもりたる心ちこそすれ、源氏物語若紫に、すゞめの子を犬君《イヌキ》が※[しんにょう+外]《ニガ》しつる、ふせこの内にこめたりつるものを、云々など見えたり、蟲を納(ル)る籠《コ》は、源氏物語野分に、わらはべおろさせ給ひて、蟲の籠《コ》どもに露かはせ給(フ)なりけり、貝を納(ル)る籠《コ》は、清原(ノ)元輔(ノ)集に、中づかさあるところにまかりたりしに、貝を籠《コ》にいれて侍りしに、浪間分見るかひしなし伊勢(ノ)海の何れこがたのなご(6)りなるらむ」續古事談に、頭(ノ)中將の一種物は、はまぐりをこに入てうすやうをたて、紅葉を結びてかざしたり云々、なほ其(ノ)他|大目麁籠《オホマアラコ》、(書紀神代卷に見ゆ」八目《ヤツメ》之荒籠《アラコ》、(古事記應神天皇(ノ)條に見ゆ、竹取物語にも荒籠見えたり、)※[竹冠/兒](ハ)牛馬(ノ)口上(ノ)籠也、和名|久豆古《クツコ》、火籠(ハ)今(ノ)薫籠也、多岐毛乃々古《タキモノヽコ》、※[竹冠/〓](ハ)飼v馬(ヲ)籠也、漢語抄(ニ)云|波太古《ハタコ》、俗(ニ)用(フ)2旅籠(ノ)二字(ヲ)1、(並和名抄に見ゆ)※[竹冠/差](ハ)籠也、炭籠也、阿良須彌乃古《アラスミノコ》、(新撰字鏡に見ゆ、三善(ノ)爲康(ノ)童蒙頌韻には、即(チ)※[竹冠/差](ノ)字をコ〔右○〕と訓り、)また食籠《ケコ》、(伊勢物語にけことあるこれなり、舊説皆誤れり、體源抄にもけこ見ゆ、)花籠《ハナコ》、(榮花物語に見ゆ、〉猿龍《サルコ》、(今昔物語に見ゆ、)また※[誇の旁+包]《ナリヒサゴ》、輦籠《コシコ》、灑籠《シタミコ》、(延喜式に見ゆ)また破寵《ワリコ》、髭籠《ヒゲコ》、尻寵《シコ》、(この類物に往々《トコロ/”\》見ゆ、)又|箱《ハコ》、※[木+夕]《ヒサコ》、皮子《カハコ》、懸子《カケゴ》、畚《フゴ》、持籠《モツコ》、駕籠《カゴ》、(これら物にも見え、今(ノ)世にも常いふことなり、コ〔右○〕は何(レ)も籠なり、駕籠は舁籠《カキコ》の義なるべし、キコ〔二字右○〕はコ〔右○》に切る、駕(ノ)字の音と思ふべからず、こはことの次にいふのみ、又駕籠といふ名目、鹿苑院殿嚴島詣(ノ)記に見えたり、)さて又人(ノ)名に籠(ノ)字をかけるは、吾子籠《アコヽ》、(仁徳天皇(ノ)紀、)荒籠《アラコ》、(繼體天皇(ノ)紀」大籠《オホコ》、(推古天皇紀、)鹽籠《シホコ》(天武天皇(ノ)紀、)など見え、神(ノ)名には、丹後(ノ)國|籠《コノ》神(後紀並神名帳に出つ、)と見えたり、又籠(ノ)字をコ〔右○〕の假字に用ひたること、集中にも他の古書にも例あり、(此(ノ)下に、射等籠荷四間《イラコガシマ》、二(ノ)卷に、八多籠良《ハタコラ》、十二に、田籠之浦《タコノウラ》、四(ノ)卷、十一、又書紀天武天皇(ノ)卷に、鳥籠山《トコノヤマ》見え、又齊明天皇(ノ)卷に、肉入籠此云2之々梨姑《シヽリコ》1、)又書紀應神天皇(ノ)卷には、五百籠《イホコノ》鹽と見え、仁徳天皇(ノ)卷には、簀(ノ)字をコと訓たり、(此(ノ)他|籠《コ》と云ること、諸の歌集|及《マタ》物語書等にくさ/”\見えたれ(7)ど、あまりにわづらはしければ引ず、古(ヘ)より後まで眞(ノ)物にも假字にも、籠(ノ)字をばコ〔右○〕と訓より他なし、かくまで籠を故《コ》と訓べき所以《コトハリ》は決《ウツナ》きを、契冲僧が、加多麻《カタマ》と訓しをよしとおもひて、誰も誰もしかよみ來れるこそ、いともいとも意得ね、今《イマ》按《オモフ》に、こはコ〔右○〕とよみては、初(ノ)二句三言四言なれば、例の耳なれざる後(ノ)世意から、書紀神代(ノ)卷に、無目堅間《マナシカツマ》てふものゝ見えたるに本《ヨリ》て、しひて五言七言とはなしたるなるべし、されど初句三言四言なるは、はやく神武天皇(ノ)大御歌に、宇陀能多加紀爾志藝和那波留《ウダノタカキニシギワナハル》云々、とあるに本づきたまへることにて、古學《フルコトマナビ》するばかりの人は、皆よく曉《シル》べきことなるを、今まで此(ノ)論《サダ》せし人の無はいかにそも、カツマ〔三字右○〕といふには、古くは堅間勝間など借(リ)て書(キ)、後には※[竹/令]※[竹/青]の字をも用ふめれど、籠(ノ)字を用ひたることは一(ツ)もあることなく、籠はコ〔右○〕と訓より他なきこと、上に例どもをあまた擧たるが如し、近來《チカキコロ》古學《フルコトマナビ》はみさかりに行なはれて、天(ノ)下(ノ)人なべて古風《イニシヘブリ》をとなふめるは、甚《イト》も甚《イト》も可歡《メデタ》きわざながら、此(ノ)萬葉集は微《クハシ》く精力《チカラ》を用ひて、古義を明《サダカ》に辨得《ワキマヘエ》たる人の獨だになかりしこと、嗚呼《アナ》可歎《アハレ》むべし、又※[竹/令]※[竹/青]を古くはカツマ〔三字右○〕といひ、後には訛りてカタミ〔三字右○〕とこそいひたれ、カタマ〔三字右○〕と云ることは、古(ヘ)にも後にも聞及ばぬことなるをや、かの書紀に堅間と書るもカツマ〔三字右○〕にこそあれ、※[竹/令]※[竹/青]のことはこゝに用なければ、下にいたりて云べし、そもそも此(ノ)集などを讀《ヨマ》まく欲《オモ》はむ人は、まづ舊(キ)證《アカシ》のみを深く※[手偏+交]《カムカ》へくはしく尋(ネ)て、私の後(ノ)世意を清く除《サル》べし、私(ノ)意のさらざらむ(8)かぎりは、古(ヘ)人の心辭をうかがふべきことにあらずとしるべし、これそ凡て古書をよむ一大要《オホムネ》にはありける、)毛與《モヨ》は毛夜《モヤ》といふに同じく助(ケ)辭《コトバ》とて、すべて語の勢(ヒ)を助けたもつものなり、ここは次の美籠《ミコ》の御詞を呼出さむが爲に、此(ノ)御助辭をおかせ給へるなり、古事記上卷に、、阿波母與賣爾斯阿禮婆《アハモヨメニシアレバ》、此(ノ)集二(ノ)卷に、吾者毛也安見兒得有《アハモヤヤスミコエタリ》、また古事記下卷に、意岐米母夜《オキメモヤ》とあるを、書紀には於岐毎慕與《オキメモヨ》と作《ア》り、又此(ノ)集五(ノ)卷に、等利爾母賀母夜《トリニモガモヤ》、十四に、水都爾母我毛與《ミヅニモガモヨ》など猶多し○美籠母乳《ミコモチ》、(母の字、類聚抄になきはわろし、)美《ミ》は美稱《タヽヘナ》とて、物の心にかなひて美好《ヨキ》を賛稱《ホメタヽ》へたる辭なり、又|麻《マ》とも毛《モ》とも通はしいへるが中に、美《ミ》といふ時は、尊む方に附ていふは更にもいはず、勝秀《スグレ》たる方にも、(御山《ミヤマ》、御谷《ミタニ》、御埼《ミサキ》などいふ類、)また偏《カタヨ》らず正中《タヾナカ》なる方にも(御中《ミナカ》、御空《ミソラ》など云類、)わたりて通《キコ》え、又|眞《マ》といふに同じく唯|美稱《ホム》る方にもいひ、(御雪《ミユキ》、御草《ミクサ》、御吉野《ミヨシヌ》、御熊野《ミクマヌ》など云類、)眞《マ》といふときは、美稱《ホム》る方と全備《トヽノ》ひたる方(眞手《マテ》、眞袖《マソデ》、眞楫《マカヂ》などいふ類、)とに用ひて、尊む方に云るは凡てなし、(されど尊むも勝秀《スグレ》たるも正中《タヾナカ》なるも全備《トヽノ》ひたるも、此方より美稱《メデタヽフ》る意は異ならねば、落る所は同意なり、)又|毛《モ》と云は、美稱《ホム》る方と正中《タヾナカ》なる方とに云り、古事記上卷に、奴那登母々由良爾《ヌナトモヽユラニ》とある、上の母《モ》は語辭《カタリヨトバ》にて、下の母《モ》は眞《マ》に同じく美稱《ホム》る方なり、また神武天皇(ノ)紀に、六合之中心《クニノモナカ》、天武天皇(ノ)紀に、天中央《ソラノモナカ》、後々秋の毛那加《モナカ》などよみ、榮花物語に、御堂の御前の毛那加《モナカ》は舞臺ゆはせてとあり、これらみな御《ミ》に同じく正中《タヾナカ》な(9)る方なり、但し毛《モ》と云ること集中には見えず、母乳《モチ》は持《モチ》なり、今(ノ)世ならば母底《モテ》といふべきを、かくのたまへるは古言なり、十七に、美許登母知多知和可禮奈婆《ミコトモチタチワカレナバ》、十八に、夜保許毛知麻爲泥許之《ヤホヨモチマヰデコシ》、二十(ノ)卷に、麻蘇泥毛知奈美太乎能其比《マソデモチナミダヲノゴヒ》などあり、また古事記中卷(ノ)歌に「伊斯都々伊母知宇知弖斯夜麻牟《イシツヽイモチウチテシヤマム》、また岐許志母知袁勢《キコシモチヲセ》、下卷(ノ)歌に、許久波母知宇知斯淤富涅《コクハモチウチシオホネ》、また加徴能美弖母知比久許登爾《カミノミテモチヒクコトニ》、また多都碁母々々知弖許麻志母能《タツゴモヽヽチテコマシモノ》、續紀卅六後紀十四續後紀一(ノ)卷(ノ)詔に、清(キ)直(キ)心乎毛知《コヽロチモチ》、また續後紀同卷に、天之日嗣乎戴荷知《アマノヒツギヲイタヾキモチ》などある、みな古風なり、(此(ノ)集十八に、宇万爾布都麻爾於保世母天《ウマ》ニフツマニオホセモテ》、とあるは別なり、そも/\母知《モチ》と母底《モテ》との差異《ケヂメ》をいふに、母知《モチ》は自(ラ)然する詞、母底《モテ》は他に然せしむるをいふ詞にて、美籠持《ミコモチ》、眞袖持《マソデモチ》などいふは自(ラ)持(ツ)ことなれば、いづくにありても母知《モチ》と云ひ、於保世母天《オホセモテ》といふは、他に持することなれば母底《モテ》と云るにて、これ古言の定なり、元來《ソノモト》母底《モテ》は、令《セ》v持《モタ》の約りたる言なればなり、タセ〔二字右○〕はテ〔右○〕と切るにて意得べし、この例は滿《ミツ》を美知《ミチ》といふと、美底《ミテ》といふとの差異《タガヒ》のごとし、美知《ミチ》は自(ラ)滿ることにいひ、美底《ミテ》は令《セ》v滿の約りたる言にて、然せしむる意となるに同じ、しかるを十五に、和伎毛故我可多美能許呂母奈可里世婆奈爾毛能母底加伊能知都我麻之《ワギモコガカ》タミノコロモナカリセバナニモノモテカイノチツガマシ》、とあるは自(ラ)持(ツ)ことなれば、母知加《モチカ》とあるべきを、後(ノ)世の詞づかひにのみ耳なれたるより、ふと寫し誤れるにもあるべし、但し奈良朝の季つかたまりは、かゝる詞づかひの、やゝ混亂《ミダリ》になりそめたりとおぼゆること、(10)他にも例あれば、これはもとより母?加《モテカ》といへるにてもあるべし、いかにまれこの一首のみをもて、母知《モチ》と云|母底《モテ》と云も同じことなり、と思ふことなかれ、然るに今(ノ)京となりては、自他の差別みだれて、必(ズ)母知《モチ》といふべきをも、母底《モテ》とのみ云ことになれり、すべて第二言を、後に第四言に轉しいふ事の例多し、其は隱《カクル》、留《トヾム》の如きをもカクリ、トヾミ〔六字右○〕といひしを、カクレ、トドメ〔六字右○〕とのみ云る類なり、然のみならず母弖《モテ》といふに、持而《モチテ》の意を帶《モタセ》たるものとおもへるにや、そのこゝろばえにて用ひたること多し、又|母弖《モテ》は母知弖《モチテ》の略語ぞといふ説は非なり、打まかせて言を略くといふこと、古言にはすべてなし、十(ノ)卷に、手折以而とあれど、そはタヲリモチ〔五字右○〕テとよむべし、)現報靈異記に、※[口+周](ハ)母知阿曾比弖《モチアソビテ》、字鏡に、※[〓/金](ハ)奈波乃波志爾銅乎毛知天加佐禮留曾《ナハノハシニアカガネヲモチテカザレ《ルソ》とあり、(是も後(ノ)世ならば母弖阿曾比弖《モテアソビテ》、また銅|乎毛天《ヲモテ》などいふべきを、かくいへるは猶古言を存せるものなり、)○布久思《フクシ》は、名義《ナノコヽロ》は掘串《ホリクシ》なり、(今(ノ)世農具の※[金+插の旁]《スキ》の類に、布受伎《フズキ》といふあり、これも掘※[金+插の旁]《ホリスキ》の義《コヽロ》なるべし、)布《フ》と保《ホ》は親《チカク》通《カヨ》ふ、さて布里久思《フリクシ》といはず、布《フ》とのみ云て掘《ホリ》の意に通《キコ》ゆる所以《ユヱ》は、保里《ホリ》の里《リ》は良理留禮《ラリルレ》の活用《ハタラキ》にて、(保良武《ホラム》、保里《ホリ》、保留《ホル》、保禮《ホレ》、)保《ホ》の一言に掘《ホリ》の意あるが故なり、この例は、井光《ヰビカ》、佃《ツクダ》(井※[田+比]可利《ヰビカリ》、都久利田《ツクリダ》の意、)などいふが如し、(是等を打まかせたる略言と意得るは、言の本をわきまへざるなり、)さてこの具《モノ》は今も土佐(ノ)國などにて、即(チ)フグシ〔三字右○〕ともホグシ〔三字右○〕ともいへり、(豐後(ノ)國にてふぐしといふもの、今もありて用ふるなりと、彼(ノ)國(11)人のかたりけるよし、本居氏(ノ)玉勝間にもしるせり、今越(ノ)國にては、海人のかづきにもつものを布具世《フグセ》といふとぞ、契冲、常にはふぐせといへり、しとせと五音通ずれば、ふぐせといへるなりといへり、袖中抄に、海人のまてかたとは、あまのまてと云かひつものとることなり云云、上手はふぐせにても砂をかけば、しるをばはき出すといへり云々としるせり、又松岡玄達が※[贍の旁]々言に、或田舍人のふぐしと云(ヘ)るを問しに、木にて作りさきを尖らし、地へさしこみ物を掘る棒の如き物なりと書(ケ)り、是にて見れば、今も國によりふぐしとも云なるべし、)今はク〔右○〕を濁れども古(ヘ)は清しなり、和名抄に、唐韵(ニ)云、※[金+讒の旁](ハ)犂※[金+截](ナリ)又土具也、漢語抄云、加奈布久之《カナフクシ》とあるも是類なり、(常の布久思《フグシ》は木竹などして造るを、※[金+截]にてつくれるを、ことに金布久之《カナフクシ》とはいへるなり、塵添※[土+蓋]嚢抄に、土をほる物をふぐせと云、ヌついふぐせといふ、ついは土《ツチ》なり、字にはこれを土掘子と書なりといへり、)○美夫君志《ミフクシ》、凡て御《ミ》某と連くに濁音なるはなし、古書等を考へ併せて知べし、(一二《カツ/”\擧て云ば、美祁斯《ミケシ》、彌蘇羅《ミソラ》、彌許意呂《ミコヽロ》、美佐可《ミサカ》、美多爾《ミタニ》、美布禰《ミフネ》などの類、猶いと多かれども、皆清音(ノ)字のみ用ひたり、近(キ)世に出たる古言清濁考併見べし、)然るを此所のみに、美夫君志と夫の濁音の假字を用ひたるは、いと疑はし、もしは後に寫し誤《ヒガ》めたるにも有べし、但し集中十八に多流比女能宇良乎許具夫禰《タルヒメノウラヲコグフネ》、又|末呂宿乎須禮波移夫勢美等《マロネヲスレバイフセミト》など、夫(ノ)字を清音の假字にも用たることもあれば、舊《モト》より清濁通(ハ)して書たるにもあらむか、續紀(12)宣命には、夫(ノ)字を清濁通(ハシ)用たり、(かにかくに濁るべき所由《ヨシ》なし、然るを加藤(ノ)千蔭(ガ)略解に、岡部氏(ノ)考(ノ)説を用ひて、美の言よりつづけとなふるときは、夫を濁るべき例なれば、濁音の夫(ノ)字を用ひたりといへるは、いかなる書の例なるにや、いとおぼつかなきことなり、、)○岳《ヲカ》は、高土《タカキトコロ》の稱《ナ》なり、和名抄に、周禮注(ニ)云、土(ノ)高(キヲ)曰v丘(ト)、和名|乎加《ヲカ》、字鏡に、※[土+丘](ハ)小陵(ヲ)曰v岳、乎加《ヲカ》、また陵(ハ)大阜(ヲ)曰v陵(ト)、乎加《ヲカ》とあり、ヲカ〔二字右○〕はもと丘處《ヲカ》の謂《ヨシ》なり、丘をヲ〔右○〕とのみいへるは、古事記上(ツ)卷に、香山之畝尾《カグヤマノウネヲ》とあるを、書紀には畝丘《ウネヲ》と作《カキ》、又|谿八谷峽八尾《タニヤタニヲヤヲ》とあるをも、書紀には八丘八谷《ヤヲヤタニ》と作《カケ》り、又書紀に、頓丘此(ヲ)云2毘陀烏《ヒタヲ》1などあるをも考(フ)べし、なほ乎《ヲ》と云ること古書に多くみゆ、(元亨釋書に、山梺(ヲ)云|尾《ヲト》、また歌に、峯にも尾にもなどあるは異なり、混(フ)べからず、)處をカ〔右○〕と云例は下にいふべし○菜珠須兒《ナツマスコ》は、菜採兒《ナツムコ》の伸《ノバ》りたるなり、菜採(ミ)賜ふ兒と云むが如し、十七に、乎登賣良我春菜都麻須等《ヲトメラガハルナツマスト》云々とあるに同じ、是は懸《カク》を加々須《カヽス》とも、蹈《フム》を布麻須《フマス》とも、立《タツ》を多々須《タヽス》とも、刈《カル》を加良須《カラス》とも、渡《ワタル》を和多良須《ワタラス》とも、守《モル》を毛良須《モラス》とも、いふと同格の古言なり、すべて言を伸るは、長《ノド》けく緩《ユルヤ》かにいふ時に用(フ)ることにて、その長(ケク)緩(カ)なるは即(チ)尊みていふ方なれば、採須《ツマス》の採賜ふといふ意になるに準へて、其(ノ)餘をも意得べし、(今(ノ)世の俗言に、サセラル〔四字右○〕といふ詞の本にて、採須は俗に採させらるゝといふにおなじ、しかるをたゞ無益《イタヅラ》に伸縮して、或は言の足ざる處を伸ていひ、餘れる處を縮めていふことゝおもふは、あらぬことなり、)さて天皇よりしてさる菜採(13)女をさして、しかあがめのたまはむは、ふさはしからず思ふ人もあるべけれど、中々に後(ノ)世意なり、すべて貴賤にかゝはらず、人をあがむるは上古のふりなること、集中また中昔までもなほ歌詞に其(ノ)風の遺りたること、往々見えたるをや、さてまたこの菜採女を、昔來《ムカシヨリ》賤しき女とのみ意得たるもいかゞ、さるは菜つみ水くむは、ひとへに賤しき者のするわざとおもへるにや、(但しこの御一句をナツムスコと訓て、須兒《スコ》は賤兒《シヅコ》のつゞまりたるにて、賤女をいふと解る目うつしに、なほナツマスコ〔五字右○〕と訓ても、賤女のことゝのみおもへるにもあるべし、古今集に、仁和のみかどみこにおまし/\ける時に、人に若菜賜ひける御歌、君がため春の野に出て若菜つむ吾(ガ)衣手に雪はふりつゝとあり、もし菜つむをよき人のせぬ業ぞといはば、大御位にのぼらせ賜ふ皇子の、かくのたまはむや、ましてそれよりも上つ代はさらなり、よく/\おもふべし、)今おもふに、下ざまの者をもうやまひてのたまふは、上古のふりなれば、あるまじき事にはあらねど、猶この女は、良(キ)家のよしある人の女にぞ有けむ、(すべて大御歌のやうをおもふに、たゞ賤女とはきこえず、)さるやむごなき女の、春の野に出て若菜など採つゝ遊び賜ひけむに、御目とまらせ賜ひてとひよらせ給ひ、且《マタ》大御歌などあそばしけるにこそとぞおぼゆる、兒《コ》はこゝにては女をさせり、兒とは男女《メヲ》にわたりていふことなれど、もとは女《メ》といふに對《ムカ》へて男《ヲ》をいふ稱《ナ》(比古《ヒコ》比賣《ヒメ》、また袁登古《ヲトコ》袁登賣《ヲトメ》、)なるを、又|男女《メヲ》にわたり(14)ていへることも、いと上(ツ)代よりの事と見ゆるが中に、漸(ク)女の方に多くいふことゝはなれりき、(さるは男を古《コ》といふに對へて、女を賣《メ》といふことは後までも然なるを、總ては子といふものは、父母に愛《ウツクシ》まるゝ物の極(ミ)なれば、父母の子を思ふが如く愛みては、男女をいはず子といふ中に、女はことに賞愛《ウツクシ》まるゝ情ふかき物なれば、自(ラ)女をさして云るが、いと多くなれるものなり、縵(ノ)兒櫻(ノ)兒など、やがて女(ノ)名に付たるも其(ノ)意なるべし、)○家告閑、(告(ノ)字、舊本誤(リ)て吉と作《カケ》るを、今は一本によりつ、告吉相誤れる例集中にあり、)閑は誤字《ヒガモジ》なることは疑なけれども、其(ノ)字は未(ダ)思得ず、勢などの誤にも有べし、(勢の草書※[勢の草書]と書ときは、閑の草書※[閑の草書]に混《マギ》るべし、)さて此(ノ)御一句はイヘノラセ〔五字右○〕と訓べし、告《ノル》を伸(ベ)言(フ)時は、佐斯須勢《サシスセ》(能良佐禰《ノラサネ》、能良斯《ノラシ》、能良須《ノラス》、能良勢《ノラセ》、)と活用《ハタラク》例なれば、必(ズ)ノラセ〔三字右○〕となくてはかなはず、則(チ)三(ノ)卷に、吉名者告世父母者知友《ヨシナハノラセオヤハシルトモ》とあり、(岡部氏は、閑(ノ)字を閇に改めて、イヘノラヘ〔五字右○〕とよめれど、凡《スベテ》告《ノル》を能良波禰《ノラハネ》、能良比《ノラヒ》、能良布《ノラフ》、能良閇《ノラヘ》など、波比布閇《ハヒフヘ》と活用《ハタラカ》すべき處ならねば、此(ノ)説は 決《カナラズ》非《ヒガコト》なり、)さて告勢《ノラセ》は乃禮《ノレ》の伸りたるにて、伸てのたまへるは、即(チ)あがめてのたまふ方なること、上に云るがごとし、かくて告勢《ノラセ》も乃禮《ノレ》も、勢《セ》と禮《レ》は令《オホ》する辭にて、云々|命《セシ》めたまへ、云々|令《セシ》めよといふ意なり、○名告沙根《ナノラサネ》、沙《サ》は勢《セ》の轉れるにて、名告勢《ナノラセ》とのたまふに、根《ネ》の辭のそはりたるなり、さてその根《ネ》の辭のそふまゝに、勢《セ》を沙《サ》に轉して云々|沙根《サネ》といふこと、古(ヘ)の證みなしかり、根《ネ》は希望《コヒネガヒノ》辭とて、しかを/\せよか(15)し、あるはしか/\あれかしと、物を希望ふときにいふ辭なり、かくてこの根《ネ》の辭は、二句を兼て詔へるにて、くはしくいふときは、家告沙根《イヘノラサネ》、名告沙根《ナノラサネ》の義なるを、この一(ツ)の根にこめてのたまへるなり、(後撰集に、松もひきわかなもつまずとあるは、松も引ず、若菜も摘ずといふ義となるにおなじ、)さて根の希望辭をおける例は、古事記上(ツ)卷八千矛(ノ)神(ノ)御歌に、宇知夜米許世禰《ウチヤメコ》《セネ》、下(ツ)卷女鳥(ノ)王(ノ)御歌に、佐邪岐登良佐禰《サヾキトラサネ》、穴穗(ノ)御子(ノ)御歌に、加久余理許泥《カクヨリコネ》、また輕(ノ)太子(ノ)御歌に、和賀那斗波佐泥《ワガナトハサネ》、書紀神代(ノ)下卷に、豫嗣豫利據禰《ヨシヨリコネ》、聖徳(ノ)太子(ノ)傳暦(ノ)謡に、相看社根《アヒミエコセネ》、此(ノ)卷(ノ)下に、草乎刈核《カヤヲカリサネ》、二(ノ)卷に飛反來年《トビカヘリコネ》、三(ノ)卷に、雨莫零所年《アメナフリソネ》、四(ノ)卷に、情示左禰《コヽロシメサネ》などかぞへもあへず、さて五(ノ)卷に奈何名能良佐頑《ナガナノラサネ》、九(ノ)卷に、汝名告左禰《ナガナノラサネ》などあるは、もはらこゝとおなじ、(中昔以來の詞に、名告れと乞ふを名のりね、刈れと乞ふをかりねなどいへる類も、禰《ネ》の言は全同じことながら、用格《ツカヒザマ》後(ノ)世にて古(ヘ)にあらず、さて略解に、名告沙根は名を告《ノレ》よなり、ノラサネ〔四字右○〕をつゞむればノレ〔二字右○〕となりて、名のれと云と同じといへれど、上にもいへるごとく、古(ヘ)は無益《イタヅラ》に言を伸縮して云ること、かつてなければ、此(ノ)説はやすくてさならむとは聞ゆれど、古言の義に委しからねば通《キコ》えぬ所多し、右に引る例どもを考(ヘ)併せて曉《シル》べし、告沙根《ノラサネ》また刈核《カラサネ》などの類は、ノレ〔二字右○〕またカレ〔二字右○〕の延りたるものぞといはむも、まづはさてあるべきを、許世禰《コセネ》又|來禰《コネ》又|零所年《フリソネ》などの禰《ネ》をば、さては何とかいはむ、)○虚見津《ソラミツ》は、枕辭なり、古事記下(ツ)卷仁徳天皇(ノ)大御歌に、蘇良美都夜(16)麻登能久邇爾《ソラミツヤマトノクニニ》、集中には此(ノ)下に、處見倭乎置《ソラミツヤマトヲオキ》、五(ノ)卷に、虚見通倭國者《ソラミツヤマトノクニハ》、十三に、空見津倭國《ソラミツヤマトノクニ》、十九に、虚見都山跡乃國《ソラミツヤマトノクニ》、續紀七(ノ)卷天武天皇(ノ)御製(ノ)歌に、蘇良美都夜麻止乃久爾波《ソラミツヤマトノクニハ》(和名抄曲調(ノ)類に、蘇羅蜜《ソラミツ》など見えたり、(延喜六年書紀竟宴(ノ)歌に、藤原(ノ)忠紀、蘇朗美都邇阿麻能伊婆布然玖陀斯志波《ソラミツニアマノイハフネクダシヽハ》云々とあるは、即(チ)虚見(ツ)を倭のことゝしてよめるなり、)此(ノ)詞の起《ハジマリ》は、書紀神武天皇(ノ)卷に、及至|饒速日《ニギハヤビノ》命、乘《ノリ》2天磐船《アマノイハブネ》1而《テ》、翔2行《カケリユカストキニ》大虚《オホソラヲ》1也、睨《ミサケ》2是郷《コノクニヲ》1而《テ》降之《アモリマシキ》、故《カレ》因|目《ナヅケタリキ》2之曰|虚空見日本國《ソラミツヤヤトノクニト》1矣とあり、(此(ノ)文に據て、舊來《ムカシヨリ》人皆|虚空《ソラ》より見つといふ意とのみ意得て、ことさらにたどらむものともおもひたらざめり、しかれども余《オノレ》ひそかに疑ふことあり、そのよしは、もし虚空より見つる意ならむには、虚從《ソラヨ》見しとこそいふべきを、直《タヾ》に虚見《ソラミ》といひては、此方より虚空《ソヲ》を見る意になるはいかにぞや、たとへば天見《アメミル》、山見《ヤマミル》などいふも、此方より天を見山を見る意にて、天より見山より見ることには、きこえざるごとくなるをや、縱《ヨ》といふべきを省《ハブ》けり、などいはむは、甚《イタ》く古語のさまにそむけることぞ、そのうへ見津《ミツ》の津《ツ》は、過去《スギニ》しことをいひ終《トヂム》る辭にて、凡て下へ連屬《ツヾ》く辭にしもあらず、夢《イメ》に見津《ミツ》、裳《モ》の裾《スソ》濕津《ヌレツ》、玉《タマ》を拾津《ヒロヒツ》などある津《ツ》にて意得べし、かゝる津《ツ》の辭より下へ連屬く例は、さらになきことなり、古語の格を熟(ク)味(ヒ)得たらむ人は、余が辨をまたずとも心づきなむことなるに、今まで此(ノ)さだせし人の、ひとりだになかりしはいかにぞや、)今つら/\書紀の文意を考(フ)るに、(睨2是郷(ヲ)1云々、曰2昌虚空見云々(ト)1としるされたるは、いかさま(17)にも虚空より見つといふ意に、いとも/\まぎらはしき書《シル》しざまなれど、よくおもへぼ、見は借(リ)字にて見(ル)意にはあらず、埴安《ハニヤス》といふ地(ノ)名は、もと埴黏《ハニネヤス》といふ意より負せたる名なるを、書紀(ノ)神武天皇(ノ)卷にしるされたるやう、前年(ノ)秋九月、潜(ニ)取(テ)2天(ノ)香山之埴土(ヲ)1以造2八十平瓮(ヲ)1、躬自|齋戒《ユマハリテ》祭(タマヒテ)2諸神(ヲ)1、遂(ニ)得(タマヒキ)3安2定(ルコトヲ)區宇(ヲ)1、故(レ)號2取v土(ヲ)之處1曰2埴安(ト)1、云々とあるは、安(ク)2定(メ)區宇(ヲ)1しより、埴安と地(ノ)名にも負せたりといふに、いと/\まぎらはしきがごとく、今も虚空見とかゝれたるは、たゞ文字のうへの、おのづからさる意にまぎらはしきことにこそあれ、立かへりてよく古(ヘ)の意を求むるときは、さらに文字には拘泥《カヽハ》るべきにあらず、埴安のことはこゝに用なけれど、文字によりてまぎるゝことの似たることなれば、言長けれどおどろかしおくのみ、)虚見津は虚御津《ソラミツ》なり、御津《ミツ》の御《ミ》は美稱にて、眞《マ》津といはむがごとし、かくいふ所由《ユヱ》は、まづかの饒速日(ノ)命の、天(ノ)磐船に乘《ノラ》して、大虚《オホソラ》を榜廻《コギメグ》らしゝとき、遂にこの山跡(ノ)國を見《メ》し給ひて天降《アモ》りまし、其(ノ)磐船を泊給ひし津なる謂《ヨシ》にて、虚御津山跡乃國《ソラミツヤヤトノクニ》とは云るなりけり、○山跡乃國《ヤマトノクニ》は、今の畿内大和(ノ)國をさせり、本居氏(ノ)國號考に詳《クハ》しくいへるを考(フ)べし、大和(ノ)國をしろしめすよし詔ひて、おのづから天(ノ)下を所治《シロシメ》すことにわたりてきこゆるなり、さて夜麻登の名(ノ)義|未詳《サダカナラズ》、(すべて山の謂《ヨシ》もて解たる説はうけがたきよし有(リ)、荒木由久老(カ)考に、夜麻登《ヤマト》は家庭處《ヤニハト》の略轉なるべし、といへりしは當れりや當らずや、なほ後《ソノ》説には論《イフ》べきことあり、伊與人出内(ノ)秀眞(ガ)説に、饒速日(ノ)(18)命倭(ノ)洲に降り、宮造《ミヤツクリ》しろしめし賜ふ故に、虚見津屋見立國《ソラミツヤミタツクニ》といふ意にて、この倭てふ名は起《ハジマ》れるなるべし、さては倭は屋見立なり、かくいふ故は、古事記に天《アメ》のみはしらを見立《ミタツ》、八尋殿を見立とあり、凡て尊(キ)神のしろしめすを、見とも立ともいへりと久老いへり、此(ノ)説しばらく據《ヨリドコロ》ありげにはおぼゆ、)○押奈戸手《オシナベテ》は、押《オシ》令《セ》v靡《ナビカ》而《テ》なり、(ビカ〔二字右○〕はバ〔右○〕と切り、バセ〔二字右○〕はベ〔右○〕と切れり、)押は多かる物におしわたす辭にて、大和(ノ)國内郡郷のこる方なく、おしわたしてしろしめし賜ふよしなり、月のてるを、押照と集中によみたる押におなじ、下に、禁樹押靡《シモトオシナベ》云々|四能乎押靡《シヌニオシナベ》六(ノ)卷に、淺茅押靡《アサヂオシナべ》、十七に、須々吉於之奈倍《スヽキオシナベ》などあり、(かげろふ日記に、さきにやけにし處、此《コ》たみはおしなぶるなりけりとあるもおなじ、)さて天(ノ)下を所治《シロシメ》す事にいへるは、古事記下(ツ)卷顯宗天皇(ノ)御詠《ミナガメゴト》に、山三尾之竹笶《ヤマミヲノタケヲ》、※[言+可]岐苅《カキカリ》、末押靡魚簀《スヱオシナビクナス》、如《ゴト》v調《シラベタル》2八弦琴《ヤツヲノコトヲ》1、所2治賜《ヲサメタマヒシ》天下《アメノシタ》1、伊邪本和氣天皇《イザホワケノスメラミコト》、云々とあり、○吾許曾居《アレコソヲレ》、許曾《コソ》は他にむかへて、その物をとりわきてたしかにいふときの詞なり、大和(ノ)國中に人多くあるが中にも、吾こそ主として大坐(シ)坐(ス)なれ、他はしからずとの御意なり、次(ノ)御句の師《シ》を此(ノ)御句につけて、ヲラシ〔三字右○〕とよみ來れるはひがことなり、なほ次(ノ)條にいふ、○師吉名倍手は、本居氏、居師《ヲラシ》と師(ノ)字を上(ノ)句へつけて訓るは誤なり、師の下の吉(ノ)字、舊本告と作《カケ》るは誤なり、さて師を下へつけて、シキナベテ〔五字右○〕とよむべしといへり、まことに然《サ》なくては通《キコ》えぬことなり、さて師吉は太敷坐《フトシキマス》などの敷と同じ、(崇神天皇紀に、流《シク》2至徳《イタレルウツクシミヲ》1とある、此(ノ)流(ノ)字をシク〔二字右○〕(19)と訓るに意同じ、)なほ此(ノ)ことは、下人麻呂の吉野(ノ)長歌の下《トコロ》にいはむを考(フ)べし、名倍手《ナベテ》は上に同じ、かくて此《コヽ》と次と御二句、大方は上(ノ)御句におなじきを、いさゝか御詞を換てのたまふのみなり、かくかさねていふこと古歌に例多し、すべてかく詞をかさぬるは、そのことをかへす/”\ねもごろにいふときのことなり、○吾己曾座《アレコソマセ》、(座を拾穗本に居師とあるは、上の居師を見まがへて寫誤れるなり、)座はマセ〔二字右○〕と訓べし、御みづからしか詔むは、いかゞとおもふは後(ノ)世意なり、(から國にこそ、高貴人もみづからを謙退《クダリ》て、寡人不穀などやうにぃへること常なれど、そはうはべのへつらひなり、皇朝の古(ヘ)にさる趣なるはひとつもあることなし、)同じ天皇(ノ)大御歌に、阿具良韋能迦微能美弖母知比久許登爾《アグラヰノカミノミテモチヒクゴトニ》、と御自(ラ)の御事をよませ賜ひ、既《ハヤ》く須佐之男(ノ)命御みづから、吾(ガ)御心|須賀々々斯《スガスガシ》と詔ひ、八千矛(ノ)神御みづから、夜知富許能迦微能美許登波《ヤチホコノカミノミコトハ》云々、とよませ賜ひし類いと多く、此(ノ)集六(ノ)卷聖武天皇の、節度使に御酒を賜へる大御歌にも、手抱而我者將御在天皇朕宇頭乃御手以掻撫曾禰宜賜打撫曾禰宜賜《テウダキテアレハイマサムスメラアガウヅノミテモチカキナデソネギタマフタチナデソネギタマフ》云々、とよませ賜へり、(さばかり佛を信服《ウベナ》ひ賜ひし御代にすら、なほ御みづからかく詔へるにて、あなかしこ天皇の稜威は、天下に又たぐひなく、尊く大坐(シ)坐(ス)ことをおもふべし、)そも/\皇御孫(ノ)命の御天降りましゝ時、天照大御神、大御手に天《アマ》つ璽《シルシ》の神寶《カムタカラ》をさゝげもたして、豐葦原の水穗(ノ)國は、萬千秋《ヨロヅチアキ》の長五百秋《ナガイホアキ》に、吾(ガ)御子のしろしめすべき國なり、故(レ)皇御孫(ノ)命|天降坐《アモリイマシ》てしろしめせ、(20)天つ日嗣の隆《サカ》えましまさむこと、天壤《アメツチ》のむた無窮《トコトハ》ならむと、ことよざし賜へりし、神勅《オホミコト》のまに/\、神代より今のをつゝに、かけまくもかたじけなくも、御世々々《ミヨミヨ》の天皇命の、この食國《ヲスクニ》天(ノ)下を、天雲のむかふすかぎり、谷蟆《タニグク》のさわたるきはみ、おしなべてをさめ賜ひ、しきなべてしろしめしましませば、天(ノ)下にたれしの人か、わが大君天皇の、大御惠《オホミメグミ》をかゞふらざるべき、かゝれば古ごと學する徒は、かりにも後(ノ)世の邪説《ヨコシマゴト》どもにまどはずして、御世々々の天皇は、やがて大御神の御子(ノ)命にましまして、現御神《アキツミカミ》と大八島國《オホヤシマグニ》しろしめすことなれば、高御座天の日嗣の、又たぐひなく尊くかしこくましますことを、束《ツカ》の間も忘るべきにあらず、されば此(ノ)大御歌を開卷《マキノハジメ》に載て、皇大朝廷《スメラガオホミカド》の大御威徳《オホミヒカリ》をまづ示《シメ》したること、撰者の微意《コヽロ》あるに似たり、あなかしこ、(因に云む、からくに周の代のはじめつかた、成王と云しが時に、叔父の周公旦と云ものが、成王に告たりしと云傳へたる詩、毛詩大雅に載て人皆知たるが如し、其(ノ)中に、無(ンヤ)v念(コト)2爾祖(ヲ)1、聿《コヽニ》修(メ)2厥徳(ヲ)1、永(ク)言(ニ)配《カナヒ》v命(ニ)、自求(ヨ)2多福(ヲ)1、殷之未v喪v師(ヲ)、克(ク)配(フ)2上帝(ニ)1、宜|鑒《カヾミ2于殷(ニ)1、駿命不v易《ヤスカラ》、といへり、これ成王の祖父文王を法として其(ノ)徳を修め、萬民をなづけしたがへて、子孫末永く天命に配ひ福を求めよ、もし徳を修むる心一日片時も間斷《ヒマ》あらば、祖先にもとり天命にそむきて、つひに國を亡さむぞ、ちかく殷の代の興亡を鑒戒《カヾミ》とすべし、天の駿命不v易(カラ)甚難きわざぞ、ようせずばあやふかりなむをと、いと深切《ネモゴロ》に反覆《ウチカヘ》し戒たり、さしも名を得し周公旦なればこそ、武(21)王がからうじて取得たりし天(ノ)下なれば、いつまでも能して人に奪れぬやうにせよと、下おそろしくそゞろ寒さに、天命に託《コトヨセ》て深く戒めたるなれ、異國の風俗《ナラハシ》にてはまことにさもあるべし、あなかしこ/\わが天皇命をさる王どもと、かりにもひとしなみに申すべき事かは、天壤無窮と事依し賜ひて、天照大御神の御自さづけ賜へる皇統《アマツヒツギ》にまし/\て、天地のより合のきはみときはにかきはに、いく萬代を經ても動き坐ぬ大君に大坐ませば、御代御代の天皇は、善(ク)もましませ惡(ク)もましませ其(ノ)論をばすてゝ、ひたぶるに尊み敬ひ畏み拜みて、かりにも側よりうかゞひ奉る事あたはず、たとひたま/\この理に背きて、畏くも皇(ガ)朝廷に射向《イムカヒ》奉れる穢惡《キタナ》き賊奴《ヤツコ》ありても、其はいくほどなくつひに神代の古事のまに/\、皇朝の稜威をかゞやかして、たちまちにあとかたなくうち滅し賜へる事、前々の蹤跡《アト》に付て見べし、さればこそ異國にては、天子と稱《イヒ》てほこりをるものすら、僥倖《カリノサキハヒ》なれば、しばしも徳と云ものを失ひて、人のなづくべくかまへざれば、たちまち傍の人に、天(ノ)下を奪はれとられなむとおもふ心より、さもなきことにも心ならず、人に謙下《ヘリクダ》りへつらひて、眞の心をばあらはさず、うはべをつくろひかざる風俗なるを、その風俗とは、雪と炭との如くきよくかはりて、此(ノ)大御歌に、押奈戸手吾許曾居師吉名倍手吾己曾座《オシナベテアレコソヲレシキナベテアレコソマセ》と、又たぐひなく尊く大坐すことを、つくろひ賜はずかざり賜はず、ありのまゝにのたまへること、讀たびにかへす/”\ありがたくも(22)たふとくもおぼゆるを、此所に心をとゞめて、おほろかに誦過し申さずして、いよ/\ますます、天壤無窮皇統のかたじけなく、又なくかしこきことを思ひ奉りて、皇朝をふかく厚く尊み重み敬ひ奉り崇へ奉りて、かりにも異國の風俗などゝは似もよらずはるかにすぐれて、いみじきほどを思ふべし、あなかしこ/\、)○我乎許曾は、アヲコソ〔四字右○〕と訓べし、(我字、アヲ〔二字右○〕とを〔右○〕の語辭《カタリコナバ》をよみつけむも、さることながら、猶此(ノ)前後《アトサキ》の例を考《オモフ》に、我乎と有けむが、此(ノ)上に吾許曾、又吾己曾などあるより、まぎれて脱せしなるべし、曾字、舊本者に誤る、紀州本に曾者とある曾はよし、者は衍字なるべし)○背跡齒告目《セトハノラメ》、(跡字、舊本には脱せり、紀州本六條本には尓と作り、そは跡(ノ)字の扁滅て、遂に尓と誤れるなるべし、さて跡(ノ)字なきに就て、背にト〔右○〕の語辭《カタリコトバ》をよみつけて、セトハ〔三字右○〕とよまむも然《サ》る事ながら、猶こゝの前後の例を考るに、跡字のありしことうたがひなし、舊《モト》のまゝにたすけたる説どもは皆しひごとなり、こはたゞ夫《セ》と告《ノラ》めと云とは異にて、我をこそ夫として、家をも名をも告めと云意なり、跡《ト》はとしての意なり、すべて彼(ノ)物を此物と化《シ》て、此物の彼(ノ)物と化《ナリ》てといふ意を、跡《ト》とのみ云は古言の一(ノ)格なり、例は此(ノ)下に、栲乃穗爾夜之霜落磐床等《タヘノホニヨルノシモフリイハトコト》(磐床と化《シ》ての意、)川之氷凝《カハノヒコホリ》云々、二(ノ)卷に、宇都曾見乃人爾有吾哉從明日者二上山乎弟世登吾將見《ウツソミノヒトナルアレヤアスヨリハフタガミヤマヲワガセトワガミム》、(わがせと化《シ》ての意、)同卷に、御律爲之島乎母家跡《ミタヽシシシマヲモイヘト》(家と化《シ》ての意、)住鳥毛荒備勿行年替左右《スムトリモアラビナユキソトシカハルマデ》、又|久堅乃天宮爾神隨神等座者《ヒサカタノアマツミヤニカムナガラカミトイマセバ》、(神と化《ナリ》て座せばの意、又|奧波(23)來依荒磯乎色妙乃枕等卷而《オキツナミキヨルアリソヲシキタヘノマクラトマキテ》(枕と化《シ》ての意、)奈世流君香聞《ナセルキミカモ》、三(ノ)卷に、足氷木乃山邊乎指而晩闇跡《アシヒキノヤマベヲサシテクラヤミト》(晩闇と化《ナリ》ての意、)隱益去禮《カクリマシヌレ》云々、六(ノ)卷に、刺竹之大宮人乃家跡住《サスタケノオホミヤビトノイヘトスム》(家と化《シ》て住の意、)佐保能山乎者思哉毛君《サホノヤマヲバオモフヤモキミ》、十四に、信濃奈流知具麻能河泊能左射禮思母伎彌之布美?婆多麻等比呂波牟《シナヌナルチグマノカハノサヾレシモキミシフミテバタマトヒロハム》、(玉と化《シ》ての意、)十七に、烏梅乃花美夜萬等之美爾《ウメノハナミヤマトシミニ》(み山と化《ナリ》て繁にの意、)安里登母也如此乃未君波見禮登安可爾氣牟《アリトモヤカクノミキミハミレドアカニケム》、二十卷に、於保伎美能美許等爾作例波知々波々乎以波比弊等於枳弖《オホキミノミコトニサレバチヽハヽヲイハヒベトオキテ》(齋※[分/瓦]《イハヒベ》と化《シ》ての意、)麻爲弖枳麻之乎《マヰテキマシヲ》、又|久佐麻久良多妣乃麻流禰乃比毛多要婆安我弖等都氣呂《クサマクラタビノマルネノヒモタエバアガテトツケロ》(吾(ガ)手と化《シ》ての意、)許禮乃波流母志《コレノハルモシ》、又古事記中(ツ)卷神武天皇(ノ)條に、宇涅備夜麻比流波久毛登葦《ウネビヤマヒルハクモトヰ》(雲と化《ナリ》て居の意、)由布佐禮婆加是布加牟登曾許能波佐夜牙流《ユフサレバカゼフカムトソコノハサヤゲル》、古今集に、今日來《ケフコ》ずば明日《アス》は雪登曾落《ユキトゾフリ》なまし(雪と化《ナリ》てぞの意、)などある、登《ト》と同意なり、○家乎毛名雄母《イヘヲモナヲモ》は、上に家告爲《イヘノラセ》、名告沙根《ナノラサネ》とのたまひ置て、又我をこそ夫として、家をも名をものるべきことなれと、反覆《カヘサ》ひ詔ふなり、古(ヘ)女のうけひきて、夫《セ》とおもひ許《ユル》す人にあらずては、家をも名をもあらはさぬ例にて、神代紀に、天津彦火(ノ)瓊々杵(ノ)尊、云々、遊2幸《イデマセルニ》海濱《ウミベタニ》1見《アヘリ》2美人《ヲトメニ》1皇孫問(ヒ)曰《タマハク》、汝(シハ)是誰(ガ)之|子《ガムスメゾ》耶、對(ヘ)曰《マウサク》、妾《アレハ》是大山祇(ノ)神之|子《ムスメ》、名(ハ)神吾田鹿葦津姫、亦(ノ)名(ハ)木(ノ)花(ノ)開耶姫(ト申す)、云々とあるをはじめて、古代の歌どもに多く其(ノ)趣なるが見えて、娉《ツマドヒ》するには、まつ其(ノ)種姓《ウヂノスヂ》を問ことにぞありける、さて古(ヘ)に名を告《ノル》といへるは、たゞ一わたりに某と名ばかりいふにはあらで、其(ノ)種姓《ウヂノスヂ》のよりくるところま(24)でを、あらはすをいふことなり、古事記に、足名椎手名椎が許にて、須佐之男(ノ)命の其(ノ)御名を問れ給ひしとき、爾|答詔《コタヘタマハク》、吾者《アハ》天照大御神之伊呂勢者|也《ナリ》、とあるを思ふべし、(其(ノ)御名を問奉りしに、御種姓《ミスヂ》をあらはし賜へるゆゑ、おのづから御名は告賜はずても著かるべく、又御名を問奉りしは、其(ノ)御種姓を問奉りし意趣なるをしるべし、)○大御歌(ノ)意は、うるはしき籠《コ》や掘串《フクシ》を持て、此(ノ)丘處《ヲカ》に菜を採給ふ美女兒《ヲトメコ》よ、家はいづくのほどにかある、名は何とか申す、汝が家をも名をも、朕《ワレ》に告知し賜へ、此(ノ)大倭の國は、おしなべてわが治坐《シキマス》國なるぞ、朕をこそ夫《セ》として、家をも名をもつゝまはず、告(リ)知すべきことなれとなり、これは御狩などせさせ賜ふとて、春の野に出させ給へるに、けはひふるまひにくからぬ女の、岡邊に菜採あそびたまへるを御覽して、とひよらせ給ひて大御歌をもあそばしゝなり、此(ノ)天皇さばかりたけくをゝしく、大まし/\けるにも事かはりて、かゝる大御歌をあそばしける事、かしこけれども、有がたくもたふとくもあるかな、この大御歌をうけ給りけむ女のこゝろいかにあはれにかたじけなきものにおもひ奉りけむ、とおもひやらるかしし、
 
高市崗本宮御字天皇代《タケチノヲカモトノミヤニアメノシタシロシメシスメラミコトノミヨ》
 
高市(ノ)崗本(ノ)宮、(崗(ノ)字、拾穗本類聚抄又袋册子に引るにも岡とあり、○和名抄に、岡(ハ)丘也、正作v崗、)高市は和名抄に、大和(ノ)國高知(ノ)郡(多介知《タケチ》)とあり、崗本は飛鳥にあり、書紀舒明天皇(ノ)卷に、息長足日(25)廣額(ノ)天皇、渟中倉太珠敷(ノ)天皇(ノ)孫、彦人大兄(ノ)皇子之子(ナリ)也、母曰2糠手姫(ノ)皇女(ト)1云々、元年春正月癸卯朔丙午云々、即日即天皇位《ソノヒアマツヒツギシロシメス》、二年冬十月壬辰朔癸卯、天皇遷(リマス)2於飛鳥(ノ)岡傍(ニ)1是(ヲ)謂2岡本宮(ト)1、十三年冬十月己丑朔丁酉、天皇崩(リマシキ)2于百濟(ノ)宮(ニ)1とあり、この天皇子(ノ)御陵は、大和(ノ)國城上(ノ)郡にあり、書紀皇極天皇(ノ)卷に、元年十二月壬午朔壬寅、葬(リマツル)2息長足日廣額(ノ)天皇(ヲ)于|滑谷《ナメハサマノ》崗(ニ)1、二年九月丁丑朔壬午、葬(リマツル)2息長足日廣額(ノ)天皇(ヲ)于押坂(ノ)陵1と見ゆ、諸陵式に、押坂(ノ)内(ノ)陵、(高市(ノ)崗本(ノ)宮(ニ)御宇(シ)舒明天皇在2大和(ノ)國城上(ノ)郡(ニ)1、兆域東西九町南北六町陵戸三烟、)忍坂《オシサカ》村の上にありて、後に段々《ダン/”\》塚といふ、高(サ)十七間廻百三十六間ありと云り、○天皇代の下に、息長足日廣額天皇とある本どもは、後人のしわざなること既く云る如し、(拾穗本には、天皇謚曰2舒明天皇(ト)1云注もあり、)
 
天皇《スメラミコトノ》登《ノボリマシテ》2香具山《カグヤマニ》1望國之時御製歌《クニミシタマヘルトキニミヨミマセルオホミウタ》
 
香具山は、延喜式神名帳に、大和(ノ)國十市(ノ)郡天(ノ)香山(ニ)坐云々、書紀神武天皇(ノ)卷に、香山此云2介遇夜縻《カグヤマ》1とあり、山の南の麓に今香山村と云ありて、土人は山をも村をも具を清て呼《イ》ふといへり、
 
2 山常庭《ヤマトニハ》。村山有等《ムラヤマアレド》。取與呂布《トリヨロフ》。天乃香具山《アメノカグヤマ》。騰立《ノボリタチ》。國見乎爲者《クニミヲスレバ》。國原波《クニハラハ》。煙立龍《ケブリタチタツ》。海原波《ウナハラハ》。加萬目立多都《カマメタチタツ》。※[立心偏+可]怜國曾《ウマシクニゾ》。蜻島《アキツシマ》。八間跡能國者《ヤマトノクニハ》。
 
山常庭《ヤマトニハ》は、山常は借字《カリモジ》にて大和(ノ)國なり、庭は爾波《ニハ》の借字《カリモジ》、爾波《ニハ》とは他《ヨソ》の國にむかへていふ詞なり、○村山有等《ムラヤマアレド》は、群りたる數々の山は有どもと詔ふなり、等《ド》は雖《ド》なり、(大和(ノ)國には群山あ(26)り、雖v然の意なり、有等をアリト〔三字右○〕と訓て、有とての意とするはわろし、)三(ノ)卷に、鶏之鳴東國爾高山者左波爾雖有朋神之貴山乃《トリガナクアヅマノクニニタカヤマハサハニアレドモフタカミノタフトキヤマノ》云々(下に引)とある、雖有《アレドモ》に意同じ、○取與呂布《トリヨロフ》、(與(ノ)字、類聚抄には輿と作《カケ》り、)取《トリ》はいひおこす詞とて、打撫《ウチナデ》掻撫《カキナデ》などいふ打掻に同じ、そは手して物することに、多くはそへていふ詞なり、今も山の形容《カタチ》の全備《トヽノヒ》たるを、手して物したるごとくに見なし給ひて、詔へるなるべし、與呂布《ヨロフ》は此(ノ)山の形の具足《タリトヽノ》へるを稱《ホメ》賜ふなり、形のとゝのふとは、峯谷石木にいたるまで、なに一(ツ)あかぬところなく、たらひて具足《ソナハリ》たるをいふなるべし、下に青香山《アヲカグヤマ》とあるも、草木のうるはしく生しげりて、山の形の宜しきよりいへるなるべし、與呂布《ヨロフ》といふ詞は、書紀齊明天皇(ノ)卷に、弓矢|二具《フタヨロヒ》、また源氏物語梅枝に、まだかゝぬ雙紙どもつくりくはへ、※[衣+票]紙紐などいみじうせさせ給ふ云々、みづから一(ト)興呂比《ヨロヒ》は書べし、若葉に、螺細の御厨子二(タ)與呂比云々、置物の御厨子二(タ)與呂比云々、したむの筥一(ト)與呂比、東屋に、たかきたなづし一(ト)與呂比、蜻蛉に、くの匣一(ト)與呂比、衣匣一(ト)興呂比、紫式部日記にも御屏風一(ト)興呂比、しろきみづし一(ト)與呂比、大(キ)なる厨子一(ト)與呂比、手匣一(ト)與呂比、はこ一(ト)與呂比、枕冊子に、三尺の御几帳一(ト)與呂比、うつぼ物語に、からひつ一(ト)與呂比、落窪物語に、ころも筥一(ト)與呂比などあり、此(ノ)餘榮花物語、住吉物語などにも見えたれど、わづらはしければ引ず、且《マタ》鎧《ヨロヒ》てふも、與呂布は具足《タリトヽノ》へる謂《ヨシ》の詞なるを、體言になして名づけたるをも考(ヘ)合(ス)べし、(契冲、俗語に鎧《ヨロヒ》を具足といふも、(27)小等すねあてまで、取備て着るものなればいふにやと云り、即(チ)その意なり、)○天乃香具山は、アメノカグヤマ〔七字右○〕と訓べし、(アマノ〔三字右○〕と云は後なり、)古事記中(ツ)卷倭建(ノ)命(ノ)御歌に、比佐迦多能阿米能迦具夜麻《ヒサカタノアメノカグヤマ》とあり、(天を阿米《アメ》といひ、阿麻《アマ》と云(ヒ)、阿麻都《アマツ》といふことおのれ考あり、)そも/\此(ノ)山は、もと天上《アメ》にありし故、天之香山といひけるを、此(ノ)國土に天降て後も、なほもとの存《マヽ》に天之香山とは稱《イヒ》けるなり、さてその天上よりあまくだりしと云は、集中にも天降付天之芳來山《アモリツクアメノカグヤマ》などよみたるうへ、正しくは伊豫(ノ)國風土記に、伊豫(ノ)郡自2郡家1以東北(ニ)在2天山1、所《ル》v名《イヘ》2天山(ト)1由《ヨシ》者、倭(ニ)在2天(ノ)加具山1自v天天降時、二(ニ)分(レテ)而|以《ヲ》2片端1者《バ》天2降(シ)於倭(ノ)國(ニ)1、以2片端1者天2(シ)降於此(ノ)土(ニ)1、因《カレ》謂(フ)2天山(トソ)1也と見えたり、(仙覺(ガ)註には、阿波(ノ)國風土記にありと此(ノ)事をいへり、)かくてこの迦具山の天降しなど云類は、いかにぞや思ふ人もあらむ、そは古學の非熟《イマダシキ》うへのさだにて、さとすに足ざれば今ことさらにいはず、(岡部氏(ノ)考に、天上の迦具山に擬《ナズラ》へて崇《タフト》み賜ふ故に、天乃迦具山とも云といへるこそ、いと意得ね、そは天上《アメ》のと國土《クニ》のと、迦具山の二(ツ)あるごとおもひしにや、中々に人のまどふわざぞかし、)○騰立《ノボリタチ》云々、下持統天皇(ノ)吉野に幸《イデマ》し給へる時人麿のよめる歌にも、上立國見乎爲波《ノボリタチクニミヲスレバ》とあり、○國見乎爲者《クニミヲスレバ》は、高き處に登りまして、國のありさまを看察賜《ミタマ》ふよしなり、神武天皇(ノ)紀に、陟(リマシテ)2彼(ノ)菟田(ノ)高倉山之巓《ミネニ》1瞻2望《ミサケタマフニ》域中《クニハラヲ》1云々、また因登2腋上※[口+兼]間《ワキノカミノホヽマノ》丘(ニ)1而|廻2望《ミワタシタマヒ》國状(ヲ)1曰、云々(下に引(ク))などあるや、天皇の國見し賜ふことの、物に見えたるはじめと申べからむ、(28)(即(チ)※[口+兼]間(ノ)丘を國見山ともいへり、今本馬村といふ處の南にありて、本馬は即(チ)※[口+兼]間の轉れるなり、)凡(ソ)國見は國状の勝れる劣れる、また國民の盛なると衰(フ)とを、天皇の見そなはし給ふを主として、また意をはるかしやるがために、高き處に上りて、常人もすることなり三(ノ)卷登(リテ)2筑波ニノカ岳(ニ)1、丹比(ノ)眞人國人(カ)作歌に、朋神之貴山乃儕立乃見※[日/木]石山跡神代從人之言嗣國見爲筑羽乃山矣《フタガミノタフトキヤマノナミタチノミガホシヤマトカミヨヨリヒトノイヒツギクニミスルツクバノヤマヲ》云々、十卷に、雨間開而國見毛將爲乎故郷之花橘者散家牟可聞《アマヽアケテクニミモセムヲフルサトノハナタチバナハチリニケムカモ》などあれば、つね人もせしことおもふべし、さて神武天皇(ノ)紀に、撃2八十梟帥(ヲ)於國見(ノ)丘(ニ)1(大和(ノ)國なり、)と見え、今も諸國《クニ/”\》に、遠く見はるかさるゝ山を國見といふは、みなその國見する處なる故にいへるなるべし、○國原者《クニハラハ》、國は大小にかゝはらず、凡て人の境をたてゝ往《ヲル》處をいふ稱《ナ》なり、原は其(ノ)群り多きをいふ稱《ナ》なり、國原とは其(ノ)人の往《ヲル》處の群り多きを云り、海原《ウナハラ》、天原《アマノハラ》、野原《ヌハラ》、河原《カハラ》、檜原《ヒハラ》、葦原《アシハラ》、草原《カヤハラ》などの原と同じ、(檜原とは檜の群り多き地を云、葦原とは葦の群り多き地を云に准ふべし、後(ノ)世|奴原《ヤツバラ》、法師原《ホウシバラ》などいふ原も、其一人をいふことならねば同言なり、しかるを原(ノ)字になづみて、たひらかにひろき處をいふ稱とのみ思ふはひがことなり、字彙に、説文(ニ)高平(ナルヲ)曰v原(ト)、人所v登也、李巡(ガ)曰、土地寛博(ニシテ)而平正(ナルヲ)、名(テ)之曰v原(ト)、即(チ)今(ノ)所謂曠野也、と見えて、古言に波良《ハラ》といふとは異《カハ》りたれど、其(ノ)物の群り多き地は、おしなべて平らかに見なさるゝより、原(ノ)字は填《アテ》たるなり、ゆめ字に泥みて言の源《モト》を混《アヤマ》ることなかれ、)さて原は清て唱ふべし、(濁るは非なり、)下に、伊奈美國波良《イナミクニハラ》(29)とあり、是その證なり、○煙立龍《ケブリタチタツ》、(龍(ノ)字、舊本に籠と作《カケ》るはわろけれど、タツ〔二字右○〕と訓たるはなほ古(ヘ)を存《ノコ》せるなり、今は古寫本拾穗本類聚抄等に從《ヨリ》つ、略解に籠とあるを用ひて、コメ〔二字右○〕と訓たれども、コム〔二字右○〕にはいつも隱(ノ)字をかきて、籠字をコム〔二字右○〕と訓ること、古書等に凡て例なきうへ、詞つき後世意めきてきこゆるをや、)煙は舊本にケブリ〔三字右○〕と訓るよろし、(岡部氏(ノ)考に、ケムリ〔三字右○〕とよめるは同じやうのことながら非《ワロ》し、)和名抄に、四聲字苑(ニ)云、烟(ハ)火燒2艸木(ヲ)1黒氣也、和名|介夫利《ケブリ》、字鏡に、※[火+需]※[火+需](ハ)同|介夫利《ケブリ》、元慶六年書紀竟宴(ノ)歌に、氣不利奈岐也度遠女玖美之《ケブリナキヤドヲメグミシ》とよめり、名(ノ)義ケ〔右○〕は氣《ケ》、ブリ〔二字右○〕は荒振《アラブル》、和振《ニギブル》などの振《フル》と同言にて、その形容をいふ詞なり、(さてこゝのケブリ〔三字右○〕は火(ノ)氣をいへど、古(ヘ)は何にても氣の立のぼるをいへり、十三に、煙立春日暮《ケブリタツハルノヒクラシ》とあるも、霞のことゝ聞えたるをや、又源氏物語若紫に」後(ロ)の山に立出て京の方を見賜ふ、遙に霞わたりて、四方の梢そこはかと無うけぶり渡れるほど、畫に能も似たる哉、柏木に、御前の木立いたうけぶりて、花は時を忘れぬけしきなるをながめつゝ云々、などあるけぶるも、霞みたる景《サマ》をいへるを思(フ)べし、こはこゝにいはでもあるべけれど、一偏《ヒトカタ》になづめる、後(ノ)世の耳をおどろかしおくのみなり、)立龍《タチタツ》は、(龍は借(リ)字にて立(チ)に立(ツ)の意にて、立(ツ)ことの絶ざるをいふ、古語に、神集集《カムツドヒツドヒ》神議々《カムハカリ/\》を、神集爾集《カムツツドヒニツドヒ》神議爾議《カムハカリニハカリ》とも云るにて意得べし、七(ノ)卷に、雖追雖追《オヘドオヘド》、十(ノ)卷に、聲伊續伊繼《コエイツギイツギ》、二十に、余曾比余曾比弖《ヨソヒヨソヒテ》なども云り、さてこゝは人家のかまどにたつ烟の、にぎはゝしきを御覽して詔(30)はせたるなるべし、書紀竟宴に、仁徳天皇を得て、時平(ノ)大臣の、たかどのにのぼりて見ればあめのしたよもにけぶりていまぞとみぬる、とよみ給へるは、今の大御歌をまねばれたるなるべし、(かくよみ給ふは、仁徳天皇(ノ)紀に、四年春二月己未朔甲子、詔2群臣(ニ)1曰、朕(レ)登(リテ)2高登《タカドノニ》1以|遠望《ミサクルニ》之、烟氣《ケブリ》不v起2於|域中《クニハラニ》1、以2爲《オモフ》百姓既貧而、家無炊者《オホミタカラマヅシクテイヒカシクコトナケムトソ》1云々、七年夏四月辛末朔、天皇|居《ノボリマシテ》2臺上《タカドノニ》1而遠望之《ミサケタマフニ》、烟氣多起《ケブリタチタツ》、是日語2皇后(ニ)1曰朕既富(メリ)矣、豈《ナソ》有(ム)v愁《イフセムコト》乎、とあるをのたまへるなり、)さて今の大御歌、烟氣のにぎはゝしきを見をそなはして、國民の富(ミ)豐(カ)なるをしろしめして深くよろこび給へるさま、御詞のうへにいちじるし、○海原《ウナハラ》、集中假字には、宇奈波良《ウナハラ》とあるによりて波を清て訓べし、奈《ナ》は之《ノ》に通ふ詞にて海之原《ウノハラ》なり、即(チ)二十卷には、伊蘇爾布理宇乃波良和多流《イソニフリウノハラワタル》ともよめり、さてこの海原とさすものは、香山の※[林/下]埴安の池をいへり、古(ヘ)は凡て潮《シホ》にも水《ミヅ》にも海と云り、(契冲は、かの山のいたゞきよりは、難波の方まで見ゆるにやといへり、香具山の峯より、難波の海の見ゆることもあるかしらねど、なほこゝにいへるは埴安の池なり、)三(ノ)卷獵路(ノ)池にて人麻呂の、皇者神爾之坐者眞木之立荒山中爾海成可聞《オホキミハカミニシマセバマキノタツアラヤマナカニウミヲナスカモ》、同卷不盡(ノ)山の歌に、石花海路名付而有毛彼山之堤有海曾《セノウミトナヅケテアルモソノヤマノツゝメルウミソ》、と云るなども水を海といへるなり、(土佐(ノ)國長岡(ノ)郡池(ノ)村の池を、土《トニコロノ》人は海と云り、)かく水池などを海とよめること、古歌に、まゝあれば、ことさらに池を海に見なして、作《ヨミ》ませりといふはあらぬことなり、(又略解に、三(ノ)卷香山(ノ)歌に、池浪※[風+炎]奧邊波云々とあるを引(31)たれども、彼(ノ)歌に奧といへるは、池の奧をいへるにて、こゝにあづからず、詳しくは彼(ノ)卷に云べし、)○加萬目立多都《カマメタチタツ》、(目(ノ)字、拾穂本に月とあるはわろし、)加萬目《カマメ》は鳥(ノ)名なり、凡て鳥獣艸木魚蟲の類は、別につみ出で注《シル》して、見る人にたよりよからしむ、委しきことは別《コト》に付る卷を考べし、さて此(ノ)鳥古(ヘ)は加萬米《カマメ》といひしを、今(ノ)京の比よりぞ加毛米《カモメ》とはいひけむ、(土左日記に、今しかもめむれゐてあそぶ所あり云々、とあるを思ふべし、又三(ノ)卷に、鴨妻喚とあるを、カモメヨバヒ〔六字右○〕とよみたれども非《ヒガコト》にて、かれはカモツマヨバヒ〔七字右○〕とよむなるよし、彼處に云べし、まがふべからず、)立多都《タチタツ》は上に同じ、ゆきかよふ舟のひまなければ、かもめもしづかに居るほどなくて、しば/\たつなりと契冲が云る、さも有べし、三(ノ)卷鴨(ノ)君足人(ガ)香具山(ノ)歌に、天降付天之芳來山《アモリツクアメノカグヤマ》云々|松風爾池浪立而《マツカゼニイケナミタチテ》云々|奧邊波鴨妻喚邊津方爾味村左和伎百磯城之大宮人乃退出而遊船爾波梶棹毛無而不樂毛己具人奈四二《オキベハカモツマヨバヒヘツベニアヂムラサワギモヽシキノオホミヤビトノマカリデテアソブフネニハカヂサヲモナクテサブシモコグヒトナシニ》、その反歌に、人不榜有雲知之潜爲鴦與高部共船上住《ヒトコガズアラクモシルシカヅキスルヲシトタカベトフネノヘニヲリ》、これ埴安の池にて、そのかみ盛なりし世には船のゆきかひしげく、又水鳥の集居《ムレヰル》處なりしをもしるべし、○※[立心偏+可]怜國曾《ウマシクニゾ》、※[立心偏+可]怜は舊本下上に誤れるを、例に据(リ)て改つ、宇麻志《ウマシ》は後(ノ)世はたゞ食物の味にのみつきていへど、古(ヘ)は然のみならず、心にも耳にも目にも口にも、美《ウルハ》きをば皆賛ていへり、さて※[立心偏+可]怜をウマシ〔三字右○〕と訓は、書紀神代(ノ)卷に、可怜小汀《ウマシヲバマ》と書《ア》る注に、可怜此云2于麻師《ウマシト》1とも、また可怜御路《ウマシミチ》、可怜國《ウマシクニ》などもあり、但し可怜とあるは、字書に、憐俗(ニ)作v怜(ニ)愛(ナリ)也と(32)見《ア》れば、可愛とかきて、エ〔右○〕とよめると同じ類なれば論《コト》もなし、※[立心偏+可]怜の字は集中に、ウマシ〔三字右○〕又タヌシ〔三字右○〕又アハレ〔三字右○〕又オモシロシ〔五字右○〕など訓べき所にあまた用ひ、書紀仁賢天皇卷に、吾夫※[立心偏+可]怜《アヅマハヤ》、新撰字鏡に、※[言+慈](ハ)※[立心偏+可]怜也、於毛志呂志《オモシロシ》などあれども、凡て字書どもに※[立心偏+可](ノ)字あることなし、(されば本居氏も、※[立心偏+可]は皇國にて※[立心偏]扁を加《ソヘ》たるにて、書紀に可怜と書るぞ正字《マサモジ》なるべき、といへるよし略解に見えたるも、一(ト)わたりはさることゝきこゆれども、昔より扁を略《ハブキ》し例《アト》こそ多けれ、扁を加《ソヘ》たることをさ/\なければ、猶從ひがたし、)こは漢籍《カラプミ》遊仙窟に、※[立心偏+可]怜嬌裏面可愛語(ノ)中(ノ)聲と見えたる字《モジ》なりけり、彼(ノ)書はいと古(ヘ)より皇朝に渡(リ)來て、人皆讀もてあそびしと見えたれば、此方の書に※[立心偏+可]怜と見《ア》るかぎりは、みな彼(ノ)書によれるものなりけり、さて曾《ソ》の御辭に力(ラ)あり、この御辭に心を付て聞べし、此(ノ)大和(ノ)國を、此(レ)までは、かばかりよき國ともおもはざりしを、今此(ノ)香具山に登(リ)て國見を爲れば、尤《ゲニ》※[立心偏+可]怜國なるぞと詔へるなり、大和(ノ)國のよろづの國にすぐれたることはいふもさらなれど、神武天皇紀に、この國のことを、抑又《マタ》聞《キヽ》2於鹽土(ノ)老翁(ニ)1曰《シク》、東(ニ)有2美地《ウマシクニ》服1青山四周《アヲガキヤマコモレリ》云々古事記倭建(ノ)命(ノ)御歌に、夜麻登波久爾能麻本呂婆多々那豆久阿袁加岐夜麻碁母禮流夜麻登志宇流波斯《ヤマトハクニノマホロバタヽナヅクアヲガキヤマゴモレルヤマトシウルハシ》、(書紀にも見ゆ、)などあるをも思(ヒ)合(ス)べし、○蜻島《アキツシマ》は、書紀に、神武天皇三十有一年夏四月乙酉朔、皇與巡幸因《スメラミコトイデマシノチナミニ》登(リマシテ)2腋(ノ)上(ノ)〓間(ノ)丘(ニ)1、而|廻2望《ミワタシマシテ》國状(ヲ)1曰、妍哉《アナニヤ》乎、國之獲矣《クニヲエツ》、雖《ナレドモ》2内木綿之|眞〓《マサ》國1猶《ゴトシ》2蜻蛉之臀〓《アキヅノトナメセルガ》1焉、由(テ)v是(ニ)始2有《ハジマレリ》秋津洲(ノ)之|號《ナハ》1也、と見えたるより起《ハジマ》れる名にて、大和(ノ)(33)國葛上(ノ)郡にある地なりしが、孝安天皇の此處に、百餘年《モヽトセアマリ》久しく宮敷|坐《マセ》りしより、蜻島倭とつづけていひならへり、猶本居氏(ノ)國號考に甚詳しきを併(セ)考べし、さてこの二句は、もと※[立心偏+可]怜國曾《ウマクニゾ》の上にあるべきを、かく倒置《オキカヘ》てのたまへるは古語の常なり、○八間跡能國者《ヤマトノクニハ》、かくのたまふにふかくよろこばせ賜ひて、御歎息《ミナゲキ》し賜ふ御意あらはれたり、○大御歌(ノ)意は、大和(ノ)國には、あまたの山々群りておほくあるが中にも、峯谷石木にいたるまでよろづたりとゝのひて、あかずおもしろき香具山に登りて國内を見わたすに、里のみならず水(ノ)上までもにぎはひて、さて/\大和(ノ)國は、あるが中にも※[立心偏+可]怜國にてあるぞと詔へるにて、ふかくよろこばせ賜なり、
 
天皇《スメラミコトノ》遊2獵《ミカリシタマヘル》内野《ウチノヌニ》1之時《トキ》。中皇命《ナカチヒメミコノ》。使《セタマフ》1間人連老獻《ハシヒトノムラジオユヲシテタテマツラ》1歌《ウタ》〔頭注【備考使間人連老、かゝるところをば、ハシヒトノムラジオユシテ〔ハシ〜右○〕とよむ雅言の用樣たり、オユヲシテ〔五字右○〕と云は、後の漢籍の訓樣なりと或人いへり、按に、此説却てしかるべからず、續紀廿五詔に、精兵乎之天《トキイクサヲシテ》押之非天〔四字右○〕壞亂天罰滅止云家利《ヤブリミダリテウトホロボサムトイヒケリ》ともありて、某をしてと云ること古語にをり/\ある辭なり、】〕
 
獵(ノ)字、類聚抄には?と作《カケ》り、(干禄字書に、?獵上俗下正とあれば、獵の俗字なり、谷川氏云、顔氏家訓に獵化爲v?(ト)と見ゆ、されば國史記録に獵と通(ハシ)用ひたりと云れど、其(レ)までもなし、)○内(ノ)野は、大和(ノ)國宇智(ノ)郡に在(ル)野なり、○中皇命《ナカチヒメミコ》、(書紀を考ふるに、舒明天皇のころより齊明天皇までに、中皇命と申(ス)べき皇子見えず、舊本皇の下に女(ノ)字を脱せるにて、中皇女(ノ)命は間人皇后のこ(34)となりと、岡部氏もはやく説《イヘ》り、今この考(ヘ)によりてさらに、)集中の例を謹て案(フ)るに、某(ノ)美許等《ミコト》と尊みて申す稱《ナ》ならば、尊(ノ)字なるべし、高市(ノ)皇子(ノ)尊、日並(ノ)皇子(ノ)尊などあるを考(フ)べし、されど皇后皇女の類に、某(ノ)尊としるせること他に例なし、因《カレ》考《オモ》ふに、命は女(ノ)字の寫誤なるべし、中皇女《「ナカチヒメ》は間人(ノ)皇女の更名《マタノミナ》なるべし、舒明天皇(ノ)紀に、二年春正月丁卯朔戊寅、立(テ)2寶(ノ)皇女(ヲ)1爲2皇后(ト)1、后生(マセリ)2男一(ノ)女(ヲ)1、一(ヲ)曰2葛城(ノ)皇子(ト)1、(近江(ノ)大津(ノ)宮(ニ)御宇(シ)天皇1、)二(ヲ)曰2間人(ノ)皇女(ト)1、三曰2大海(ノ)皇子(ト)1、(淨御原(ノ)宮(ニ)御宇(シ)天皇、)云々、孝徳天皇大化元年秋七月丁卯朔戊辰、立2息長足日廣額(ノ)天皇(ノ)女《ムスメ》間人(ノ)皇女(ヲ)1爲2皇后(ト)1、天智天皇四年春二月癸酉朔丁酉、間人(ノ)太后薨云々、三月癸卯朔、爲《ミタメニ》2間人(ノ)太后(ノ)1度《イヘデセシム》2三百三十人(ヲ)1とあり、さてこの間人(ノ)皇女を中皇女と申せる故は、后腹にて中にますうへ、第二女にあたり賜ふ御子なるから、中とは申せるなるべし、(御兄葛城(ノ)皇子の一《マタ》の御名を中(チ)大兄と申せるも、御庶兄古人(ノ)皇子より、第二にあたり賜ふ御子なるがゆゑなり、孝徳天皇(ノ)紀(ノ)初に、鎌子連の中(チ)大兄に申す詞に、古人(ノ)大兄(ハ)殿下之兄也とあるにて、古人(ノ)大兄の御弟なることしるべし、)中昔の書に、人のむすめあまたある中にも、第二にあたるを中の君といへること多し、これ古(ヘ)の稱《ナ》の中昔までも殘れるなり、(又續紀(ノ)詔に、中都天皇とあるも元正天皇にて、平城は元明天皇より宮敷坐て、元正天皇はその第二世に坐ますが故に、中都とは申賜へるなりと本居氏云り、)さて中をナカチ〔三字右○〕とよむは、書紀雄略天皇(ノ)卷、顯宗天皇(ノ)卷、舒明天皇(ノ)卷に、仲子《ナカチコ》、繼體天皇(ノ)卷に、仲《ナカチ》、應神天(35)皇(ノ)卷に、中子《ナカツコ》、續紀三十(ノ)卷(ノ)詔に、新城乃大宮爾天下治給之中都天皇乃《ニヒキノオホミヤニアメノシタヲサメタマヒシナカツスメラミコトノ》云々、神名帳に、壹岐(ノ)島壹岐(ノ)郡|中津《ナカツ》神社、(ツ〔右○〕はチ〔右○〕と云に同じ、)集中十四に、等能乃奈可知《トノヽナカチ》(殿之仲子《トノヽナカチ》なり、)などあり、(又中山(ノ)嚴水は、中(ノ)皇女は、御兄を中(ノ)大兄と申せるによりて按ふに、中は地(ノ)名なるべし、御弟大海(ノ)皇子と申も、大海は地(ノ)名とおぼえたりと云り、もし此(ノ)説の如くならば、中皇女はナカノヒメミコ〔七字右○〕と訓べけれど、なほおぼつかなし、)○間人(ノ)連老は、間人はハシヒト〔四字右○〕と訓べし、(略解にハシウト〔四字右○〕とよめるはいかゞ、凡(ソ)商人をアキウド〔四字右○〕、旅人をタビウド〔四字右○〕などいふたぐひは、いと後(ノ)世の音便にて、古(ヘ)は曾てもなき事なるを、略解などにそのわきためをだにせざるは、あまりしき事ぞかし、)孝徳天皇(ノ)紀五年二月、遣唐使の判官の中に、小乙下中臣(ノ)間人(ノ)老(老此云2於喩《オユト》1、)とあり、即(チ)中皇女の御乳母方なるべし、(御乳母の姓に依て、中皇女を間人(ノ)皇女と申せるならむ、文徳天皇實録に、其後未v幾天皇誕生、有2乳母1、姓(ハ)神野、先朝之制、毎(ニ)2皇子生(タマフ)1、以2乳母(ノ)姓(ヲ)1爲2之名1焉、故以2神野(ヲ)1爲2天皇(ノ)諱(ト)1、とあるを思(ヒ)合(ス)べし、)○此間に、目録には並短歌の三字あり、すべてこの一(ノ)卷(ノ)中、長歌の後に、反歌を添たる十首ばかりあるに、こと/”\く本文の端には並短歌の字なければ、もとよりしるさゞりけむ、○此|題詞《ハシツクリ》のこゝろは、契冲も云るごとく、中皇女のおほせによりて、間人(ノ)連老が作(ミ)てたてまつれるなるべし、されど意はなほ皇女の御意を承(リ)て、天皇に聞えあげたるなるべし、もし又皇女のよませ給ひて、間人(ノ)連をもて奏しめ賜へるとならば、御歌と(36)あるべきが御(ノ)字の脱たるか、下に中皇命往2于紀伊(ノ)温泉(ニ)1之時御歌、とあるをもおもふべし、されどその傳奏《ヅタヘマヲ》せる人(ノ)名まで、こと/”\しく載たらむこともいかゞしければ、なほ間人(ノ)連が中皇女のおほせにりて、作(ミ)て獻れるなるべし、
 
3 八隅知之《ヤスミシシ》。我大王乃《ワガオホキミノ》。朝庭《アシタニハ》。取撫賜《トリナデタマヒ》。夕庭《ユフヘニハ》。伊縁立之《イヨリタヽシシ》。御執乃《ミトラシノ》。梓弓之《アヅサノユミノ》。奈加弭乃《ナリハズノ》。音爲奈利《オトスナリ》。朝獵〔二字左○〕爾《アサガリニ》。今立須良之《イマタタスラシ》。暮獵〔二字左○〕爾《ユフガリニ》。今他田渚良之《イマタタスラシ》。御執能《ミトラシノ》。梓弓之《アヅサノユミノ》。奈加弭乃《ナリハズノ》。音爲奈里《オトスナリ》。
 
八隅知之《ヤスミシシ》は、枕詞なり、古事記景行天皇(ノ)條に、夜須美斯志和賀意富岐美《ヤスミシシワガオホキミ》、書紀仁徳天皇(ノ)卷に、夜輸瀰始之和我於朋枳瀰波《ヤスミシシワゴオホキミハ》、續紀七(ノ)卷に、夜須美斯志和己於保支美波《ヤスミシシワゴオホキミハ》などあり、集中には此處の如く、八隅知之とも、又|安見知之《ヤスミシシ》ともあるが中に、八隅知之と書るは借(リ)字にて、安《ヤス》み知《シラ》すてふ義《コヽロ》なり、知《シラ》すは知賜ふといふに同じきこと、上に云るが如し、さてその安美《ヤスミ》の美《ミ》は、麻美牟米《マミムメ》の活用《ハタラキ》にて、難美《カタミ》、懽美《ウレシミ》、悲美《カナシミ》などいふ類の美《ミ》と全(ラ)同じ、かくて安美《ヤスミ》と云るは、欽明天皇(ノ)紀に安2玄室1とあるを、クラキヤニヤスミマサム〔クラ〜右○〕とよみ、續紀三十四、續後紀五(ノ)卷(ノ)詔に、其人等乃和美安美應爲久相言部《カノヒトタチノニギミヤスミスベクアヒイヘ》、(後紀天長八年十二月(ノ)詔に、皇大神乃阿禮乎止賣爾《スメオホカミノアレヲトメニ》、内親王齡毛老身乃安美毛有爾依弖《ヒメミコヨハヒモオイミノヤスミモアルニヨリテ》とあるも、かの忌詞に病を夜須美《ヤスミ》と云るに同じく、病の反《ウラ》を云るにて同言なり、)西行が、撰集抄に、清涼紫宸殿の間に也須美《ヤスミ》し給ひて云々、又いづくに也須美《ヤスミ》する人に(37)かと尋ね給ふに云々、などある安美《ヤスミ》なり、即(チ)今(ノ)世にもやすんずるといひ、漢籍にても安(ノ)字を常にしか訓來れるなど、やがて安みするといふことの、音便にくづれたるものなり、(さて今(ノ)世にもやすみ、やすむとはいへども、そは休息する意にのみ云て、安んずるといふとは異《カハ》れるごとなれるは、轉れるものなり、」)さて知之《シシ》を知《シラ》す意と云むは、いかゞなるごとくなれども、足《タ》らすを多須《タス》、借《カ》らすを可須《カス》、減《ヘ》らすを閇須《ヘス》、交《カハ》らすを可波須《カハス》、登《ノボ》らすを能煩須《ノボス》、餘《アマ》らすを阿麻須《アマス》、致《イタ》らすを伊多須《イタス》、渡《ワタ》らすを和多須《ワタス》、返《カヘ》らすを可敝須《カヘス》などいふを思へば、知《シ》らすをも斯須《シス》といひけむこと知《シ》るべし、もし其(ノ)意ならざらむには、爲之《シヽ》などゝこそ書べきに、必(ズ)知之《シシ》とのみ書るはさる意にこそあれ、さてしからば、安美知須《ヤスミシス》といふべきに、之《シ》としも云るは、歌(ヒ)絶《キ》る語の一(ノ)格にて、青丹余之奈良《アヲニヨシナラ》、鯨魚等利海《イサナトリウミ》とつゞくると同例なり、(然るを冠辭考に、安らけく見そなはししろしめし給ふてふ語をつゞめて、安見知爲といひて冠らしめたるにや云々、且知之とは立せ給ふをたゝしゝ、御座ますをおはしゝなどいふ類にて、天皇の御事につけてあがめ申(ス)語なり、と云るはいかにぞや、まづ語をつゞむるといふことも通《キコ》えがたく、そのうへ立しゝ、御座しゝなどいふ下のしは、いはゆる過去(ノ)の辭にて、唯立せ給ふ、御座賜ふなどいふとは、いたく云樣の異なる詞なるをや、又古事記傳に、夜須美斯志《ヤスミシヽ》は安けく見賜ふなり、天武天皇(ノ)紀、續紀などに、安殿とあるも夜須美杼能《ヤスミドノ》にて、天皇の安見爲賜殿といふ意の名なり、(38)大安殿とあるは大極殿のことぞ、さて夜須美斯志《ヤスミシシ》の志《シ》は爲の意にて、萬葉十九に、豐宴見爲今日者《トヨノアカリミシセスケフハ》云々、また國看之勢志弖《クニミシセシテ》などあると同じ云ざまなり、といへるもいかゞ、安殿を引て説《イヘ》るはよけれども、安けく見ることを、たゞに安見といはむこと古語めかず、剰《マシ》て安美斯《ヤスミシ》とはいよ/\いふべからねばなり、然ればなほかの夜須美杼能《ヤスミドノ》の美も麻美牟米の活用の美なり、又十九の見爲今日者はメスケフノヒハ〔七字右○〕なり、國看之勢志弖は、之は助辭にて國見爲《クニミセ》しての意なり、これらは昔より訓誤り意得たがへることゞもなり、又|見《ミ》を美斯《ミシ》といふは、知《シリ》をシロシ〔三字右○〕、聞をキコシ〔三字右○〕いふ類の格なり、と云るもいみじきひがことなり、知《シリ》をシリシ〔三字右○〕、聞をキキシ〔三字右○〕といへらばこそ、見《ミ》を美斯《ミシ》といふと同じ格ならめ、しかれども然《サ》云ては、斯《シ》の言皆いはゆる過去(ノ)辭になれば、いかでさはいはむやは、唯|昔見之《ムカシミシ》などやうにこそいへれ、そをおきてたゞに見を美斯《ミシ》といへることかつてなし、皆|賣斯《メシ》とのみ云り、賣斯《メシ》は美《ミ》と切《ツヾマ》れば、知《シリ》をシロシ〔三字右○〕、聞《キヽ》をキコシ〔三字右○〕》などいふ格に全(ラ)同じ、シロシ〔三字右○〕はシリ〔二字右○〕、キコシ〔三字右○〕はキヽ〔二字右○〕と切まるにて、其(ノ)ゆゑをさとるべし、猶このことは、下の、藤原(ノ)宮役民の歌の下にいはむをも、合(セ)見て考(フ)べし、しかれば安見斯志といはむに、一(ツ)の斯は無用言《イタヅラゴト》になれゝば、かにかくにこの説もひがことならじやは、)○我大王は、ワガオホキミ〔六字右○〕と訓べし、我は親《シタシ》みていふ辭なり、(凡我を和と云(ヒ)阿といふこと、おのれ考(ヘ)ありて別に記せり、さて荒木田氏云、古事記、書紀には倭我於朋枳美《ワガオホキミ》とあれど、集中假(39)字書には總て和期於保伎美《ワゴオホキミ》とあれば、集にてはいづくもワゴと訓例なりと云り、然れども十八に、和我於保伎美可母《ワガオホキミカモ》、又二十(ノ)卷に、和我於保伎美加母《ワガオホキミカモ》などあれば、猶我大王と書《ア》るは、ワガオホキミ〔六字右○〕と訓べきにこそ、)○朝庭《アシタニハ》、朝の假字は十五、十八には安之多《アシタ》と書き、十九には安志太《アシダ》と書たれば、古(ヘ)は多の言清濁|不定《オボツカナキ》に似たれども、まづ清て唱ふべし、(今も安之多《アシタ》と清て唱へ、且《マタ》安志太《アシダ》と濁音の字を書たるは、唯一所のみなれば、清音と定むべきことか、)然れども、しばらく濁音の字を書るかたに依ていはゞ、安之太《アシダ》は、明時《アクシダ》の義なるべし、志太《シダ》は舊説《フルキコト》(仙覺註)に間の古語《イニシヘコトバ》ぞといへり、故(レ)考(フ)るに、肥前國風土記松浦(ノ)郡(ノ)條に、褶振(リ)峯の蛇の篠原《シヌハラノ》村の弟日姫《オトヒメノ》子を娉《ツマド》ふ時、彼(ノ)蛇の歌に、志努波羅能意登比賣能古袁佐比登由母爲禰弖牟志太夜伊幣爾久太佐牟《シヌハラノオトヒメノコヲサヒトユモヰネテムシダヤイヘニクダサム》、又集中十四に、安是登伊敝可佐宿爾安波奈久爾眞日久禮?與比奈波許奈爾安家奴思太久流《アゼトイヘカサネニアハナクニマヒクレテヨヒナヘコナニアケヌシダクル》、又|等保期等布故奈乃思良禰爾阿抱思太毛安波乃敝思太毛奈爾己曾與佐禮《トホシトフコナノシラネニアホシダモハノヘシダモナニコソヨサレ》、又|阿我於毛乃和須禮牟之太波久爾波布利禰爾多都久毛乎見都追之努波西《アガオモノワスレムシダハクニハフリネニタツクモヲミツヽシヌバセ》、又|於毛可多能和須禮牟之太波於抱野呂爾多奈婢久君母乎見都追思努波牟《オモカタノワスレムシダハオホヌロニタナビククモヲミツヽシヌバム》、又|比登乃兒乃可奈思家之太波波麻渚杼里安奈由牟古麻能乎之家口母奈思《ヒトノコノカナシケシダハハマスドリアナユムコマノヲシケクモナシ》、又二十(ノ)卷に、阿我母弖能和須例母之太波都久波涅乎布利佐氣美都都伊母波之奴波涅《アガモテノワスレムシダハツクバネヲフリサケミツヽイモハシヌバネ》、などある志太《シダ》は皆時の意なり、又十一に、奧浪邊浪之來縁左太能浦之此左太過而後將戀可聞《オキツナミヘナミノキヨルサダノウラノコノサダスギテノチコヒムカモ》てふ歌の左太《サダ》も同言なるべし、又|朝《アシタ》を安左《アサ》といふ(40)も、もと安志太《アシダ》の切(マリ)たるなり、(志太《シダ》の切|左《サ》、)又|往左《ユクサ》來左《クサ》還左《カヘルサ》などの左《サ》も志太《シダ》の切りたる言にて、往時《ユクトキ》來時《クトキ》還時《カヘルトキ》てふ謂《ヨシ》なり、今土佐(ノ)國の方言《クニコトバ》にも、往志太《ユキシダ》來志太《キシダ》など云は、おのづから古語の遺れるなり、(京都あたりにては往志那《ユキシナ》來志那《キシナ》といへり、これも言はかよへり、)但し集中などに安久流安之多《アクルアシタ》てふことのあれば、朝《アシタ》を明時《アクシダ》の意とせむに、明《アクル》てふ言|無用《イタヅラ》に重なれば、いかにぞやおもふ人もあるべけれども、そは明《アクル》時を安之太《アシダ》と體に云すゑて後の事なれば、明《アク》る朝《アシタ》と云も害《サマタゲ》なし、さる例多し、推わたして知べし、庭《ニハ》は借(リ)字、むかふものある時にいふ詞なり、下なるも同じ、さて朝庭《アシタニハ》云々|夕庭《ユフヘニハ》云々と、朝夕のうへばかりいひて、終日終夜のさまを思はせたるなり、日々に撫愛み大切に爲賜ふよしなり、○取撫賜《トリソデタマヒ》取はいひおこす詞とて、手して物することに多くいへり、こゝは撫愛賜《ナデウツクシミタマ》ふさまなり、弓矢は天皇を始奉りて、上(ツ)代より貴み愛來《メデコ》しものなればなり、(すべて男は弓を寶とし、女は鏡を寶とすること、古(ヘ)よりのならはしなるべし、されば拾遺集神樂歌にも、よも山の人の寶とする弓を神の御前にけふたてまつるとあり、)○夕庭《ユフヘニハ》、夕の假字は、五(ノ)卷二十(ノ)卷に、由布敝《ユフヘ》、十九、十四に、由布敝《ユフヘ》とあり、由布《ユフ》と云義は未(ダ)思得す、敝《ヘ》は方《ヘ》なり、清て唱べし、((今(ノ)世濁りて唱るは非なり、其(ノ)由下につばらに解《イフ》べし、)○伊縁立之は、イヨリタヽシヽ〔七字右○〕と訓べし、(奮本にイヨセタテヽシ〔七字右○〕と訓るによりて、注者等これを、弓を立置賜ふことゝ解來れるはひがごとなり、さて又天皇の立置せ賜ふことを、たてゝ(41)しと云むはいと不敬《ナメゲ》にて、あるまじきことなるを、さることに心のつかざりしはいかにぞや、)伊《イ》はそへ言《コトバ》とて物をいひ出す頭におく言なり、書紀神代(ノ)卷(ノ)歌に、以和多羅須《イワタラス》、集中に、伊隱《イカクル》、伊積《イツモル》、伊行《イユク》、伊歸《イカヘル》などの類擧てかぞへがたし、(又詞の下に付て木乃關守伊《キノセキモリイ》、蒐原壯士伊《ウナヒヲトコイ》などいへる伊《イ》もあり、そは下にいふべし、)倚立賜ひしといふ意なり、タヽシ〔三字右○〕はタチ〔二字右○〕の伸りたる辭にて、立賜ひといふ意になること、上に云るが如し、下の之《シ》は過去《スギニ》し方のことをいふ辭なり、御親《ミミヅカラ》その弓の邊(リ)に倚立給ひしよしなり、夕毎に御手をはなたせ腸ふにもいたづらに捨置せ賜はず、なほそのほとりに倚立せ賜ふは、その御弓をふかく愛《ウツクシ》み賜ふよしなり、上の取撫賜とあるにむかへて意得べし、○御執乃《ミトラシノ》、御《ミ》は尊稱とて、こは天皇の大御手に執(リ)賜ふ弓といふよしにていへり、執之《トラシ》は執《トリ》の伸りたる辭にて、執(リ)賜ふといふに同じきこと、上に云るが如し、釼《ツルギ》を御佩之釼《ミハカシノツルギ》といふが如し、(御衣をミケシ〔三字右○〕といふも同じ、)雄略天皇(ノ)紀に、弓《ミタラシ》とあるは、(等《ト》と多《タ》とは親《チカ》く通ふが故に、トラシ〔三字右○〕をタラシ〔三字右○〕といへるなるべし、多羅枝《タラシ》のことゝいふは、後(ノ)世の牽強説にていふにたらず、)やがて御弓のことゝせるなり、これも御佩《ミハカシ》といふを即(チ)御釼の事とせると全同じ、かくいふこともいと古きことゝ見えたり、さるは景行天皇(ノ)紀に、御刀媛といふありて、注に御刀此云2彌波加志《ミハカシト》1と有を思へ、○梓弓之《アヅサノユミノ》、弓はくさ/”\の木もて作れゝど、兵庫寮式に、凡(ソ)御梓弓一張(以2寮庫弓1充之、脩造功五人、)とあるを思(ヘ)ば、古(ヘ)より大御弓は梓なりけ(42)む、(梓の木のことは、附卷品物解にいへり、)○奈加弭は本居氏、一説《アルコト》に中筈なり、古(ヘ)の弓に此(ノ)製ありと云れど未決《イブカシ》、もしは加は利の誤にて奈利弭《ナリハズ》ならむか、加利相似たりと云り、今は姑くこれによりて訓つ、(石原(ノ)正明が、奈利弦にやといへるなどはいふにたらず、)弭は和名抄に釋名(ニ)云、弓(ノ)末(ヲ)曰v※[弓+肅]、和名|由美波數《ユミハズ》、二(ノ)卷、十六に、弓波受《ユハズ》とあり、さて奈利弭《ナリハズ》とするときは、古(ヘノ)弓に、射る時殊に音高く弭の鳴るがありしなるべし、そは二(ノ)卷に、取持流弓波受乃驟《トリモタルユハズノサワギ》云々|聞之恐久《キヽノカシコク》、とあるにてもさとるべし、さておしなべて古(ヘ)弓弭の然ありしにはあらで、又さのみは鳴ざるも有しなるべければ、其(ノ)ことに鳴べく製《ツク》れるをぞ、奈利弭とはいひけむ、(今の弓にも音はあれども、さのみ高くはならず、)○音爲奈利《オトスナリ》とは、御かりに出賜はむとて、御弓とりしらべ賜ふが、弓弭の鳴さわぐ音の後宮へきこゆるなり、奈利は決定《イヒサダムル》辭とて、(もと爾安利《ニアリ》の縮りたる詞なり、音爲奈利《オトスナリ》は音爲るにて有といふと同じことなり、、)目に見耳に聞ことをそのまゝにいふ詞なり、○朝獵爾《アサガリニ》云々|暮獵爾《ユフガリニ》(獵(ノ)字、二(ツ)ながら類聚抄には?と作り、)は、(十四に、安佐我里能伎美俄由美爾母《アサガリノキミガユミニモ》云々と假字書あれば、安佐我里由布我里《アサガリユフガリ》と我《ガ》を濁るべし、)朝獵、と云るは、朝に御かりに出賜ふを云(ヘ)ば論なきを、朝獵暮獵とならべ云るは、上の朝庭夕庭をうけて文《アヤ》なせるのみなり、反歌に朝布麻須等六《アサフマスラム》とあるにて、實は朝獵に出賜ふをきこしめしてよませ賜ふなり、さてこゝは、六(ノ)卷赤人(ノ)歌に、安見知之和期大王波《ヤスミシシワゴオホキミハ》云々|朝獵爾十六履起之夕狩爾十(43)里※[足+搨の旁]立馬並而御?曾立爲春之茂野爾《アサガリニシシフミオコシユフガリニトリフミタテウマナメテミカリゾタヽスハルノシゲヌニ》、とあると似たる云樣《イヒザマ》なり、○今立須良思《イマタヽスラシ》は、今立賜ふらしと云が如し、立須《タヽス》は立《タツ》の伸りたる詞にて、尊みたる方にいふこと、此(ノ)上に云るが如し、良思《ラシ》、はさだかにしかりとは知られねど、十に七八はそれならむとおぼゆるをいふ詞なり、(俗にそうなといふにあたれり、)○御執能梓弓之《ミトラシノアヅサノユミノ》、(能梓(ノ)二字は、舊本下上に誤れり、今は元暦本によりつ、上にも御執能梓弓《ミトラシノアヅサユミ》とあるをおもへ、そも/\集中に、字の顛倒《イリチガヒ》のいと多有《オホカル》は、活本より誤れるなるぺし、)この以下四句は、上に云たることをかさねたるなり、一(ト)たびいひてあかねば今一(ト)たびいひて、その所思《コヽロ》の切《フカ》きをあらはしたるなり、これらは後(ノ)世の及ばざる處なりかし、○歌(ノ)意は、天皇の終日終夜に、御もとさらずて撫愛み、大切にせさせ賜ふ御弓の弭音すなるは、今や朝獵に出立賜ふらし、女の身なれば、かゝる折にも御供つかうまつらで、遺居《オクレヲル》がうらやましきことゝ、老《オユ》して奏し賜ふなるべし、
 
反歌《カヘシウタ》
 
カヘシウタ〔五字右○〕と訓べし、こは上の長歌の意を總《スベ》ても、又は長歌にいひのこせる事をも、短歌にうち反してうたふ故に反歌とはいへり、しかいふ由縁《ヨシ》は首(ノ)卷に委(ク)云り、
 
4 玉刻春《タマキハル》。内乃大野爾《ウチノオホヌニ》。馬數而《ウマナメテ》。朝布麻須等六《アサフマスラム》。其草深野〔三字左○〕《ソノクサフカヌ》。
 
玉刻春《タマキハル》(刻(ノ)字拾穗本類聚抄等には尅と作り、)は枕詞なり、古事記下下(ツ)卷仁徳天皇の建内(ノ)宿禰に(44)賜ふ大御歌に、多麻岐波流宇知能阿曾《タマキハルウチノアソ》、集中五(ノ)卷に、靈尅内限者《タマキハルウチノカギリハ》などあり、又|命《イノチ》とも代《ヨ》とも續けたり、四(ノ)卷に、靈尅命向《タマキハルイノチニムカフ》、五(ノ)卷に、多摩枳波流伊能知遠志家騰《タマキハルイノチヲシケド》、十一に、玉切命者棄《タマキハルイノチハステツ》、十五に、多麻吉波流美自可伎伊能知毛《タマキハルミジカキイノチモ》、十九に、玉尅壽毛須底?《タマキハルイノチモステテ》、十七に、多未伎波流伊久代經爾家牟《タマキハルイクヨヘニケム》など猶多し、(又十(ノ)卷に。靈寸春吾山之於爾《タマキハルアガヤマノヘニ》とよめるはいかゞあらむ、)さてこの詞の意、まづ多麻岐《タマキ》は(玉靈など書るはみな借(リ)字、)手纏《タマキ》にて、上(ツ)世に手腕《ウテ》の装《カザリ》に佩《ハキ》しものなり、古事記に、投棄左御手之手纏《ナゲウツルヒダリノミテノタマキ》、此(ノ)集十五に、和多都美能多麻岐能多麻《ワタツミノタマキノタマ》、現報靈異記に、環(ノ)字、字鏡に、釧(ノ)字、みな多萬岐《タマキ》とよめり、波流《ハル》は波久《ハク》と同じ、流《ル》と久《ク》とは韻通へり、集中に、振(ノ)字を布流《フル》とも布久《フク》とも訓せ、神代紀に、背揮此云2志理弊提爾布倶《シリヘデニフクト》1とと有(ル)などをもて、その親(ク)通ふ例を知べし、さて宇智《ウチ》とつゞくは、腕《ウテ》の義なるべし、智《チ》と?《テ》と音通へり、集中に、長道《ナガチ》を長手《ナガテ》と云るなど其(ノ)餘例多し、腕は和名抄に、陸詞(ガ)切韻云、腕(ハ)手腕也、和名|太々無岐《タヾムキ》、一云|宇天《ウテ》とあり、さて手纏は手腕《ウテ》に佩具《ハクモノ》なるから手纏佩腕《タマキハクウテ》といふ意に、宇知《ウチ》といふ言に云係たる枕詞なるべし、(また大神(ノ)景井(ガ)考あり、めづらしければあぐ、其(ノ)考に云、多麻岐波流《タマキハル》は靈久美波流《タマクミハル》なるべし、人の生涯《ウチノカギリ》は靈《タマ》の久美張《クミハル》て絶ぬ意にて、靈久美張現《タマクミハルウツ》と續くなるべし、久美《クミ》とは角久牟《ツノグム》、芽久牟《メグム》などの久牟《クム》に同じく、張《ハル》は木(ノ)芽の張(ル)といふ張(ル)に同じといへり、猶考べし、舊來《ムカシヨリ》魂極《タマキハル》として解(ケ)る説などは論ふに足ず、古事記傳に、多麻岐波流《タマキハル》は、阿良多麻能《アラタマノ》と云と同意なり、阿良多麻《アラタマ》は、中(ツ)卷倭建(ノ)命(ノ)段(ノ)歌に見えて、年(45)月日時の移りもてゆくを云言なり、さて多麻岐波流は阿良多麻來經《アラタマキフ》るにて、阿良《アラ》を省き經《フ》を通音にて波《ハ》と云なり、彼(ノ)倭建(ノ)命(ノ)段(ノ)歌に、阿良多麻能登斯賀岐布禮婆阿良多麻能都紀波岐閇由久《アラタマノトシガキフレパアラタマノツキハキヘユク》とある是なり、されば此も年月日時の經行ことにて、宇知とつゞく意は顯現《ウツ》なり、そは現身《ウツシミ》、現世《ウツシヨ》など云を、人の此(ノ)世に生てあるほどを云り、故萬葉に多麻岐波流命《タマキハルイノチ》と多くつゞけ、世《ヨ》ともつゞけ、又|内限《ウチノカギリ》とよめるも、現世の限なり、又たゞ世のことを阿多良世《アタラヨ》と云るも、阿良多麻乃世《アラタマノヨ》、多麻岐波流世《タマキハルヨ》と云と同じことにて、世と云、命と云、現《ウツ》と云、皆年月日時を經行間のことなる故に、多麻岐波流とは云なりといへり、此(ノ)説詞の趣はさもときこえながら、阿良多麻《アラタマ》の阿良《アラ》を省けりといふこと、あまりしきことなり、凡て言を省くといふことも公論にあらず、余が雅言成法を合(セ)考(ヘ)て知べし、又荒木田(ノ)久老(ノ)考には、多麻岐波流は程來經《タマキフル》にて、多麻《タマ》は十八(ノ)家持(ノ)卿の放逸鷹歌に、知加久安良婆伊麻布都可太末《チカクアラバイマフツカタマ》とある、末を未とかけるは誤にて、この太末《タマ》は、年月日夜の來經行間をいふ古言と見えて、奴婆多麻《ヌバタマ》、阿良多麻《アラタマ》、多麻佐可《タマサカ》などいふ多麻《タマ》も同じ意なりと云り、此(ノ)考面白くはあれど、程を多末《タマ》といふこと猶おぼつかなし、)かくて多麻岐波流現《タマキハルウチ》といふ意につゞけなれたる、其(ノ)現《ウチ》は現世《ウツシヨ》のことにてそれよりうつりて、壽は現(シ)世の中のものなる故につゞけ、又世ともつゞけたり、○内乃大野《ウチノオホヌ》は、即(チ)宇智(ノ)郡の野なり、大《オホ》は大虚《オホゾラ》、大海《オホウミ》、大道《オホヂ》などの大《オホ》と同じ、野は凡て努《ヌ》と訓ぺし、その所由は、軋(ノ)下|茜草指武良(46)前野逝《アカネサスムラサキヌユキ》云々の歌の下に委しく云べし、○馬數而は、ウマナメテ〔五字右○〕と訓べし、御馬を從者等とならべ賜ふよしなり、數(ノ)字は意を得て書るなり、數あるものはならぶゆゑなり、十七に、宇麻奈米底《ウマナメテ》、六(ノ)卷に、友名目而遊物尾馬名目而往益里乎《トモナメテアソバムモノヲウマナメテユカマシサトヲ》、古事記中(ツ)卷神武天皇(ノ)大御歌に、多々那米弖《タヽナメテ》などあり、馬は書紀にも集中にも、假字には皆|宇麻《ウマ》とあり、(廿(ノ)卷に、牟麻《ムマ》とあるは宇麻《ウマ》の誤寫《ヒガウツシ》なるべし、牟麻《ムマ》といふは後(ノ)世の誤なり、凡て宇を牟《ム》に後に誤れる事の多き故は、宇と牟と字形の似たる故ぞと云事なれど、然にはあらず、是(レ)は麻(ノ)行の音と、婆《ハノ》行の濁音とにて承るとき、宇をん〔右○〕と後の音便に唱ふる事の多きによりて、遂に假字をも書誤れるなり、其は生《ウマル》をンマル〔三字右○〕、甘味《ウマシ》をンマシ〔三字右○〕、梅《ウメ》をンメ〔二字右○〕、埋《ウモル》をンモル〔三字右○〕、薔薇《ウバラ》をンバラ〔三字右○〕、奪《ウバフ》をンバフ〔三字右○〕、諾《ウベ》、郁子《ウベ》をンベ〔二字右○〕と呼類なり、其(ノ)中|海《ウミ》、生《ウミ》などをばンミ〔二字右○〕とは今も云ず、されば馬を牟麻《ムマ》とかくも、彼(ノ)生《ウマル》をンマル〔三字右○〕といふ定なり、かくて馬を牟麻《ムマ》と誤れるは、何《イツ》の時よりのことぞといふに、まづ和名抄に、馬(ハ)和名|無萬《ムマ》、※[馬+旱]馬(ハ)今按、此間(ニ)云|波禰無萬《ハネムマ》、戴星馬(ハ)和名|宇比太非能無麻《ウヒダヒノムマ》、駁馬(ハ)俗(ニ)云|布知無萬《ブチムマ》、驢騾(ハ)和名|宇佐妓無麻《ウサギムマ》、また右馬寮(ハ)美岐乃牟萬乃豆加佐《ミギノムマノツカサ》、左馬寮(ハ)比多里乃牟萬乃豆加佐《ヒダリノムマノツカサ》、主馬寮(ハ)美古乃美夜乃牟萬乃豆加佐《ミコノミヤノムマノツカサ》また驛(ハ)和名|無未夜《ムマヤ》、また牧(ハ)尚書(ニ)云、莱夷(フ)爲v牧(ト)、無萬岐《ムマキ》、また左傳注(ニ)云、馬褐(ハ)馬被也、和名|無麻岐沼《ムマギヌ》、また馬※[虫+周](ハ)和名|無末世美《ムマセミ》、また上總(ノ)國海上(ノ)郡馬野(ハ)無萬乃《ムマノ》、筑前(ノ)國嘉麻(ノ)郡馬見(ハ)牟萬美《ムマミ》、同下座乃郡馬田(ハ)無萬田《ムマダ》など、源(ノ)順の記されたるには、いづれも無麻《ムマ》と見え、さて又駿馬(ハ)漢語(47)抄(ニ)云、土岐宇萬《トキウマ》、日本紀私紀(ニ)云、須久禮太留宇萬《スグレタルウマ》、駑馬(ハ)漢語抄(ニ)云、於曾岐宇萬《オソキウマ》、※[馬+總の旁]馬(ハ)日本紀私記(ニ)云、美太良乎乃宇萬《ミダラヲノウマ》、漢語抄(ニ)云、鐵※[馬+總の旁]馬(ハ)久路美度利能宇麻《クロミドリノウマ》、楊氏漢語抄云、落星馬(ハ)保之豆岐乃宇萬《ホシヅキノウマ》、※[馬+良]馬(ハ)漢語抄(ニ)云、乎之路能宇麻《ヲシロノウマ》、漢語抄(ニ)云、馬射(ハ)和名|宇末由美《ウマユミ》、本朝武(ニ)云、五月五日競馬、和名|久良閇宇麻《クラベウマ》、辨色立成(ニ)云、馬杷(ハ)宇麻久波《ハウマクハ》、漢語抄(ニ)云、馬刷(ハ)于麻波太氣《ウマハタケ》、楊氏抄(ニ)云、馬齒草(ハ)宇萬比由《ウマヒユ》、また紫貝(ハ)和名|宇萬乃久保加比《ウマノクボカヒ》見2本草1、この本草は和名本草なり、和名(ノ)二字寫脱せるものなるべし、さて今和名本草を見るに、牟末乃久保加比《ムマノクボカヒ》とあるは、宇《ウ》を牟に誤《ヒガ》寫(シ)せるものなり、源(ノ)順の引たる時は、正しき本によられしこと著く、かく混雜《クサグサ》に無萬《ムマ》とも宇萬《ウマ》とも書たるが中に、よく思へば、漢語抄、日本紀私記、本朝式、辨色立成、和名本草等の書を引たるには、いつれも宇麻《ウマ》と見えて、無麻《ムマ》と書るはなく、かの深江(ノ)輔仁(ノ)和名本草にも、驢を和名|宇佐岐宇麻《ウサギウマ》、と見えたるなどを合せ考《オモフ》に、その前《サキ》みな宇麻《ウマ》なりしを、天暦の頃に至りては、既《ハヤ》く誤りて無麻《ムマ》となりしか、同抄に、駱駝(ハ)良久太乃宇萬《ラクダノウマ》、食槽(ハ)和名|宇麻乃岐保禰《ウマノキホネ》とあるのみは、舊き書をも引ざるに、なほ宇麻《ウマ》とせるは疑はしけれど、これらも漢語抄等に出たるまゝを載られけむを、たまたまその引書は脱せるものならむ、但し宇《ウ》を牟《ム》とせることは、傳寫の誤其(ノ)例少からぬことなれば、古本の和名抄はなべて宇麻《ウマ》なりけむを、後より/\に誤寫せるにもあるべし、しかれども右に云如く、順の自注せる方には無《ム》とのみ見え、舊き書を引たる方には宇《ウ》とのみありて、(48)きはやかに別りたれば、なほ傳寫の誤とも定めがたし、拾遺集七(ノ)卷物(ノ)名に、むまひつじさるとりいぬゐを、生《ムマ》れよりひつしつくれば山にさるひとりいぬるに人ゐていませ、とあるも宇麻を唱へ誤りしものにはあらて、彼《ソノ》此は既く午をも牟麻《ムマ》、生をも牟麻留《ムマル》とせるにこそあらめ、○朝布麻須等六《アサフマスラム》は、朝獵に蹈賜ふらむといふなり、蹈は上に引る六卷(ノ)歌に、十六履起之《シシフミオコシ》云々、十里※[足+搨の旁]立《トリフミタテ》云々、とある※[足+搨の旁]におなじく、草にかくれふせる多くの鳥獣を、ふみ立おどろかし賜ひて、御狩獵《ミカリ》し賜ふなり、○其草深野は、ソノクサフカヌ〔七字右○〕と訓べし、其《ソノ》とは人のしりたるものを正しくさす詞なり、されば上なる内野即(チ)その野なり、草深野は草深く生たる野といふなり、集中に草深百合と云るも、草深き野に生たる百合を云、考(ヘ)合(ス)べし、(舊本にクサフケヌ〔五字右○〕とよめるは甚《イミジキ》誤《ヒガゴト》なり、其(ノ)訓に從て略解に、深きを約轉して下へつゞくる時、夜のふけ行といひ、田の泥深きをふけ田と云が如く、草深き野なりと云(ヘ)れど、まづ深きを約轉してと云こと甚《イト》も意得ず、深野《フカヌ》は體語《ヰコトバ》にて、高山《タカヤマ》、長道《ナガチ》など云がごとし、そをたけ山、なげ道など云たる例なきことなり、たとひ例ありとも、其を約轉して云かけたるなりと云ては、通《キコ》ゆべからぬをや、又夜のふけ行てふ詞を、いかに意得|誤《タガ》ひてか此處には引出たる、夜のふけ行は、俗語に夜の深う成行てふ意にて、固《モトヨリ》ことなる言格《イヒザマ》なるをや、又田の泥深きをふけ田と云るも、古書どもにたしかなる據も見えざれば、猶|證《アカシ》にはなりがたきをや、凡て古書をよくも讀ざるから、(49)さるひがことはいふものぞ、)○歌(ノ)意は、從者等と御馬をならべ賜ひて、朝獵にふみおこし賜ふらむに、その内の野は草深くて、鳥しゝなどもいとおほくかくれたるべければ、けふの御かり御獲物多くして、御興盡ざるべしとおぼしやりたるよしなり、(夫木集に、霜さやぐ内の大野の冬枯にあさふませ行駒なづむなり、とあるは今の歌に本づきたるなり、
 
幸《イデマセル》2讃岐國安益郡《サヌキノクニアヤノコホリニ》1之時《トキ》。軍王《イクサノオホキミノ》見《ミテ》v山《ヤマヲ》作歌《ヨミタマヘルウタ》
 
幸2讃岐(ノ)國云々1は、書紀舒明天皇(ノ)卷に、十一年十二月己巳朔壬午、幸2于伊豫(ノ)温湯《ユノ》宮(ニ)1、十二年夏四月丁卯朔壬午、天皇至(リマシテ)v自2伊豫1便(チ)居(マス)2厩坂(ノ)宮(ニ)1と見ゆ、此(ノ)春ついでに讃岐へも幸有けむことしるし、幸は(契冲が蔡※[災の火が邑]獨斷(ニ)曰、天子車駕所v至以爲2※[人偏+堯]倖1、故曰v幸云々といへり、)イデマス〔四字右○〕と訓、(ミユキ〔三字右○〕といふことも古言にてはあれども、なべてはイデマス〔四字右○〕といへり、)かくいふ言(ノ)意は後にいふべし、(天皇には行幸といひ、太上天皇には御幸といひてわかつは、字のうへのさだにて後のことなり、(讃岐は、和名抄に、讃岐(ノ)國|佐奴岐《サヌキ》とあり、岐(ノ)字は、古事記をはじめ清濁通(ハシ)用(ヒ)たり、讃岐は今も岐《キ》を清て唱へ、古(ヘ)よりも清しなり、(古事記傳に、岐を濁音と定めて、讃岐とあるをばことごとく濁りて唱へしはひがことなり、又讃岐は竿調《サヲノツギノ》國かと云るもおぼつかなし、)書紀天智天皇(ノ)卷に、讃吉(ノ)國山田(ノ)郡、持統天皇(ノ)卷に、讃吉(ノ)國御城(ノ)郡などかけり、(これ岐を濁るまじき證なり、)又續紀には紗拔《サヌキ》とも書り、(延暦十年九月、讃岐(ノ)國寒川(ノ)郡(ノ)人五六位上凡直千繼等言、千(50)繼等先賜2紗拔(ノ)大押(ノ)直之姓(ヲ)1云々と見ゆ、)名(ノ)義はいかにかあらむ未(タ)詳ならず、○安益《アヤノ》郡は、和名抄に、讃岐(ノ)國阿野(ノ)(綾)郡(國府)とあり、後拾遺集に、としつなの朝臣の讃岐にて、あや川の千鳥をよみ侍けるによめる、藤原(ノ)孝善、きり晴ぬあやの川原に鳴千鳥聲にや友の行方をしるとあり、○軍王《イクサノオホキミ》は、考ふる所なし、王はオホキミ〔四字右○〕と訓べし、抑々上(ツ)代には、某(ノ)王と御名の下にある王は、みな美古《ミコ》と唱へ來しを、やゝ後に親王といふ號出來てより、親王を美古と唱へ、親王ならぬを王と書て、其をば於保伎美《オホキミ》と唱へ分ることゝなれり、さてその親王といふ號、天武天皇(ノ)紀四年の條に始めて見えたれども、なほそれより前に親王の號は起《ハジマ》りつらむ、さて彼(ノ)頃は既く親王を美古《ミコ》と申し、其に分て諸王をば、某乃於保伎美《ソレノオホキミ》と唱ふる定(リ)にはなれるなるべし、集中にも此(ノ)卷(ノ)下に、麻績(ノ)王《オホキミ》、十三に、三野(ノ)王《オホキミ》など歌にもよみたり、これ皆オホキミ〔四字右○〕と、申せる證なり、猶古事記傳二十二にいへることを合(セ)考(フ)べし、○作歌は、ヨミタマヘルウタ〔八字右○〕と訓べし、(作をツクレル〔四字右○〕とよまむは、字に泥みて古言を忘失《ウシナ》ふわざぞ、)餘无《ヨム》と云言の義は前に云り、○此間に、目録には並短歌(ノ)三字あり、本文にはもとよりなかりしなるべし、此(ノ)上に云り、
 
5 霞立《カスミタツ》。長春日乃《ナガキハルヒノ》。晩家流《クレニケル》。和《ワ》(豆)肝之良受《キモシラズ》。村肝乃《ムラキモノ》。心乎痛見《コヽロヲイタミ》。奴要子鳥《ヌエコトリ》。卜歎居者《ウラナゲヲレバ》。球手次《タマタスキ》。懸乃宜久《カケノヨロシク》。遠神《トホツカミ》。吾大王乃《ワガオホキミノ》。行幸能《イデマシノ》。山越乃風《ヤマコシノカゼ》。獨座《ヒトリヲル》。吾衣手爾《アガコロモテニ》。朝夕爾《アサヨヒニ》。還此奴禮婆《カヘラヒヌレバ》。大夫登《マスラヲト》。念有我母《オモヘルアレモ》。草枕《クサマクラ》。客爾之有者《タビニシアレバ》。思遣《オモヒヤル》。鶴寸乎白土《タヅキヲシラニ》。綱能浦之《ツナノウラノ》。海(51)處女等之《アマヲトメラガ》。燒塩乃《ヤクシホノ》。念曾所燒《オモヒゾヤクル》。吾下情《アガシタゴコロ》。
 
霞立《カスミタツ》は、春日のうらゝかなるさまをいはむとておきたる詞なり、此(ノ)つゞけ集中に多し、蝦鳴神南備《カハヅナクカムナビ》、千鳥鳴佐保《チドリナクサホ》などやうにいふも似たることなり、霞は名(ノ)義、可須《カス》は幽《カス》か微《カス》けきなどいふ可須にて、春《ハルノ》時|生氣《ケ》の立のぼり氣《ケ》ぶりわたり、幽微《カスカ》にして明らかならざるをいへり、(或説に、唐韻に霞(ハ)日邊(ノ)赤雲也、とあるを引て、赤染《アカソミ》の義なりと云るは、字にのみ惑ひて、古義をばわすれたる説なり、)美《ミ》はその形容を活動《ハタラ》かし云詞にて、加須美《カスミ》、可須無《カスム》と活用《ハタラク》、即(チ)それを體言になして可須美《カスミ》とはいふなり、たとへば霞渡《カスミワタル》などいふ時は美《ミ》の言なほ用なるを、朝霞《アサカスミ》、霞棚曳《カスミタナビク》などいふ時は、即(チ)體言になれるなり、今の霞立《カスミタツ》やがてそれなり、(たとへば遣悶《ナグサミ》てふ言を、遊び遣悶《ナグサミ》などいふ時は、美《ミ》の言用なるを遣悶《ナグサミ》を爲《スル》といふ時は體言になり、苦《クルシミ》てふ言を、苦歎《クルシミナゲ》くといふ時は、美《ミ》の言用なるを、苦《クルシミ》を爲《スル》といふ時は體言になり、進《スヽミ》てふ言を、進競《スヽミキホ》ひといふ時は、美《ミ》の言用なるを、行《ユキ》の進《スヽミ》などいふ時は、體言になるがごとし、)○長春日乃《ナガキハルヒノ》、十(ノ)卷にも、霞發春永日戀暮夜深去妹相鴨《カスミタツハルノナガヒヲコヒクラシヨノフケユカバイモニアハムカモ》とあり、(今の歌によりて考るに、これも永春日《ナガキハルヒ》とありしを倒置《オキタガヘ》しなるべし、)日の言清て唱(フ)べし、(例は古言清濁考に詳なり、)○和豆肝之良受、ワヅキモ〔四字右○〕てふ詞他に例なし、(ワヅキ〔三字右○〕は分ち著なり、手著《タヅキ》といふに似て少し異なりといふ説は信がたし、今按(フ)に、和(ノ)字は草書の※[手の草書]を誤れるにて、手豆肝なるべきか、然るに、クレニケルタヅキモシラズ〔クレ〜右○〕てふ語のか(52)かり、かにかくに思ひめぐらせども、いかにとも通えがたく、またこの歌の下に、鶴寸乎白土《タヅキヲシラニ》とあれば、わづらはしくこゝにたづきとあらむもいかゞ、もしは誤字脱字など有にや、)契冲は和豆肝之良受《ワヅキモシラズ》は、わきもしらずといふに、中に豆《ヅ》もじのそはれるにや、十二に、中々にしなばやすけむ出る日のいるわきしらずわれしくるしも、とよめるごとく、旅に久しくありて、故郷を戀しく思ひくらして、ながき春日なれど、くるゝわきもしらずとなるべしといへり、されどわきを和豆伎《ワヅキ》とはいふべくもあらねば、なほ豆は衍文と見て、姑(ク)ワキモシラズ〔六字右○〕と六言に訓てあるべし、和伎《ワキ》と云る例は、四(ノ)卷に、夜晝云別不知《ヨルヒルトイフワキシラニ》、十一に、月之有者明覽別裳不知而《ツキシアレバアクラムワキモシラズシテ》、卷に春雨之零別不知《ハルサメノフルワキシラズ》、十一に、年月之往覽別毛不所念鳧《トシツキノユクラムワモモオモホエヌカモ》などあり、○村肝乃《ムラキモノ》、こは心といはむ料の枕詞なり、四(ノ)卷に、村肝之情摧而《ムラキモノコヽロクダケテ》云々、十(ノ)卷に、村肝心不欲《ムラキモノコヽロイサヨヒ》云々、十六に、村肝乃心碎而《ムラキモノコヽロクダケテ》云云などよめり、其(ノ)義は、本居氏、五臓おの/\名あれども、其は後に設けたるものにて、古言には臓腑の類をみなキモ〔二字右○〕と云り、後(ノ)世に肝をも膽をもキモ〔二字右○〕と云は、古言ののこれるなり、されば腹の内に臓腑の凝《コリ》ある意にて、群臓腑《ムラキモ》の凝《コリ》なり、肝向心《キモムカフコヽロ》と云も同じことなりと云り、(冠辭考の説は用ふべからず、)○心乎痛見《コヽロヲイタミ》は、心が痛さにの意なり、本居氏、凡て風を痛み、瀬を早み、春を淺み、山高み、秋ふかみなどいふは、風が痛さに、瀬が早さに、春が淺さに、山が高さに、秋がふかさにの意なり、上にをと云ると、をの言なきとあり、あるもなきも同意なり、といはれし(53)によりて、こゝもその意に心得べし、集中にて且々《カツガツ》いはゞ、此(ノ)下に、空蝉之命乎惜美《ウツセミノイノチヲヲシミ》云々、二(ノ)卷に、爲便乎無美妹之名喚而《スベヲナミイモガナヨビテ》云々、又上に乎《ヲ》と云辭のなきは、此(ノ)下に、暮相而朝面無美隱爾加《ヨヒニアヒテアシタオモナミナバリニカ》云云、三(ノ)卷に、見者乏見日本思櫃《ミレバトモシミヤマトシヌビツ》などの類なり、但し又此(ノ)例に意得がたきもこれかれ多かり、くはしくは既く首(ノ)卷總論に論《アゲツラ》へり、(岡部氏(ノ)考(ノ)別記に、痛見《イタミ》は痛萬利《イタマリ》の意なりとして、こちたきまで論ひ、又略解には、痛見は痛くしての意ぞと云るなどは、ともにいふにもたらず、)痛は本郷思《クニシヌビ》の情の堪忍《タヘ》がたくて、痛み苦しむをいふ、○奴要子鳥《ヌエコトリ》は、鳥(ノ)名なり、附卷品物解に詳くいへり、こは裏歎《ウラナゲ》といはむ料の枕詞にて、其(ノ)意は、岡部氏(ノ)考に、※[空+鳥]が鳴音は恨(ミ)哭《オラブ》が如し、人の裏歎《ウラナゲ》は下(タ)になげくにて、忍(ヒ)音をいへり、然れば※[空+鳥]よりは恨(ミ)鳴(ク)といひ、受る言は下(タ)歎なりといへり、さることなるべくおぼゆ、○卜歎居者《ウラナゲヲレバ》、十(ノ)卷に、奴延鳥之裏歎座津《ヌエトリノウラナゲマシツ》、又|奴延鳥浦歎居《ヌエトリノウラナゲヲルト》などあり、卜歎、浦歎など書るはともに私借(リ)字、裏歎と書るゼ正字《マサモジ》にて、裏《シノビ》に歎《ナゲ》きて表《アラ》はさぬを云り、此は供奉のをりなれば、はゞかりて表《ウヘ》にあらはさぬ意もあるべし、裏は裏悲《ウラガナ》し、裏細《ウラグハ》しなどの裏《ウラ》と同意《ヒトツコヽロ》なり、歎は字(ノ)意の如し、されば宜《ゲ》の言濁(リ)て唱(フ)べし、(但し十七に、奴要鳥能宇良奈氣之都追《ヌエトリノウラナゲシツツ》と、氣の清音の假字を用ひたるは正《マサ》しからじ、)○珠手次《タマタスキ》は、懸《カケ》といはむ料の枕詞なり、さてこの珠は、(珠裳などいふ珠《タマ》と同じく、)美稱ともいふべけれど、よくおもふに、珠は借(リ)字にて、把手次《タバタスキ》といふことなるべし、婆《バ》と末《マ》は親(ク)通へり、さてその結法《カケヤウ》は、左右の袖口より背へ貫通《トホシ》て、(54)後《ウシロ》の方に引|縮《シヾメ》て結ぶを、今(ノ)俗《ヨ》にたまたすきと云り、古(ヘ)のもしかせしをぞ云しならむ、嵯峨野物語に、内々の鷹をつかふ時は、大をゝとりて、たまたすきをあぐるなり、東齋隨筆に、延久善政には、先器物を作られけり、資仲(ノ)卿藏人(ノ)頭にてこれを奉行せり、升を召よせてとり/”\御覽じて、簾を折て寸法などさゝせ給けり、米をば穀倉院よりめしよせて、殿上小庭にて、貫首以下藏人出納など檢知して、小舍人玉たすきして量(リ)けりなどあるも、今(ノ)俗に云と同じかるべし、美稱にいへる玉にはあらず、さるは常に兩(ノ)端《ハシ》を相繋《アハセツナ》ぎて、左右の袖をかゝげ、肩にかくるたすきとはいさゝか異《カハ》りて、袖を甚く引しゞめ把《タバ》ぬる故、把手次《タマタスキ》といふなるべし、(かく見るときは、今(ノ)俗にたまたすきといふも、其(ノ)義|明《ヨク》辨《キコ》ゆるなり、たゞ美稱としては、今(ノ)俗にすべてかゝる物に、さる美稱をそへいふことなければいかゞなり、且《マタ》たすきの中に、差別《トリワキ》てしかいへるも、いよ/\きこえがたきことなるをや、○或考に、古(ヘ)のたすきは、珠を貫連《ヌキツラネ》てかけしがありしならむと云れど、古(ヘ)たすきに珠を貫連しといふことも見えざれば、是亦|臆度説《オシハカリゴト》にて用ふるに足ざりけり、)手次《タスキ》は、書紀神代(ノ)卷に、以《ヲ》v蘿《ヒカケ》爲2手襁(ト)1(手襁此(ヲ)云2多須枳《タスキ》1)とありて、字鏡に、襁(ハ)負v兒帶也、須支《スキ》、(今(ノ)俗には須氣《スケ》と云り、)とあるを思へば、兒を負帶をいふが本にて、衣袖《ソデ》をかゝぐる帶《ヒモ》をば、手よりかくる故に、手須伎《タスキ》とはいふならむ、○懸乃宜久《カケノヨロシク》は、言に懸て云もよろしうの意なり、十(ノ)卷に、子等名丹闕之宜朝妻之《コラガナニカケノヨロシキアサヅマノ》とあり、懸《カク》とは、すべてこなたかなたをかくるこ(55)とにもいひ、又たゞ心に思ひ言に出すをもいふことなり、されば心にも詞にもいふなる中に、こゝは詞に出していふ意なり、(源氏物語夕霧に、花や蝶やとかけばこそあらめ、とあるも言に出すかたに云るなり、)宜久《ヨロシク》は、今(ノ)世に宜しうといふがごとし、(この宜久を、次の大王と云に續けて意得るは甚わろし、岡部氏(ノ)考に、宜久は宜かるてふ辭を約めたるなり、と云るはよろしからず、さては前後貫きて通えぬことなり、)宜《ヨロシ》とは、たゞよき事をいふとはたがひて、打あひ相應じたる意なり、家に還るといふにかけていふに打あひ相應して、よろしう風の吹還りぬればの意なり、○遠神《トホツカミ》は、天皇は即(チ)神とも神と申て、人倫の境界に遙に遠きよしにてかくはいへり、此一(ノ)言にても、古(ヘ)人の天皇をゐやまひまつり、尊み奉りし意おもひやるべし、さて以下四句、こと/”\しく行幸をいへるは、私の旅ならましかば、ともかくも心にまかすべきを、供奉なればさることもせられず、いよ/\本郷思《クニシヌヒ》の情に、堪がたきよしをいへるなるべし、○行幸、集中かくかけるは、皆イデマシ〔四字右○〕と訓べし、天智天皇(ノ)紀(ノ)童謡《ワザウタ》に、于知波志能都梅能阿素弭爾伊堤麻栖古《ウチハシノツメノアソビニイデマセコ》云々、伊提麻志能倶伊播阿羅珥茹《イヂマシノクイハアラニゾ》云々、延喜六年書紀竟宴(ノ)歌に、美可利須留幾見加弊留止天久女加波仁比度古止奴之曾以天末世利介留《ミカリスルキミカヘルトテクメカハニヒトコトヌシゾイデマセリケル》とあり、出座《イデマシ》の義なり、(行幸をミユキ〔三字右○〕といふことも、九(ノ)卷に、君之三行者《キミガミユキハ》、字鏡に、馳(ハ)幸也行也、於保三由支《オホミユキ》などあれば、古言とはしるけれども、なほいづれもイデマシ〔四字右○〕とよむかたぞふさはしき、)○山越風乃《ヤマコシノカセノ》は、山(56)を吹越風のといふなり、古今集に、根こし山こし吹風とよめるにおなじ、あるが中にも山吹越風は、ことに身にしみて寒さにたへがたければ、いよ/\、本郷思《クニシヌヒ》の情をますさまなり、さてこの詞にておもへば、春もいまだ初春なりけるにや、二月もなほ寒き年多ければ二月にや、○獨座《ヒトリヲル》、(座(ノ)字、拾穗本には居と作り、)妻とふたり宿《ネ》ば、かゝる山越の風もさのみ寒からじ、と思ふより云るがいとあはれなり、○朝夕爾、アサヨヒニ〔五字右○〕と訓る宜し、(アサユフ〔四字右○〕といふは古言にあらず、○還比奴禮婆《カヘラヒヌレバ》(禮(ノ)字、類聚抄に無は脱せるなり、)は、還比《カヘラヒ》は加閇里《カヘリ》の伸りたる詞なり、花散相《ハナチラフ》、天霧相《アマギラフ》などの例に同じく、その物の緩なるをいふ詞なり、(のぶるも、つゞむるも、よしなくてすべきにあらざれば、たゞ伸たるのみなり、と見てあらむはおろそかなり、)すべて還《カヘル》は、加閇良須《カヘラス》とも、(上の都麻須《ツマス》の例、)加閇良布《カヘラフ》とも伸る中に、加閇良須《カヘラス》は、(還り賜ふと云に同じく、)あがむる方にいひ、加閇良布《カヘラフ》は緩なる方に云て、差別あることなり、これにても古(ヘ)人の詞の精微《クハシ》きことをおもふべし、さて還とは、岡部氏(ノ)考に、十(ノ)卷に、吾衣手爾秋風之吹反者立坐多土伎乎不知村肝心不欲《アガコロモデニアキカゼノフキカヘラヘバタチヰルタドキヲシラニムラキモノココロイサヨヒ》、とあるに同じくて、幾度となく吹過れば又吹來るを云(フ)といへり、今按(フ)に、集中に、往還見《ユキカヘリミ》ともあかめやと云るも、往還《ユキカヘリ》往(キ)還(リ)幾度《イクタビ》見ともの意、又夢に夢にし見え還るらむと云るも、幾度も夢に見え見えするを云るにて、還てふ意はひとし、考(ヘ)併(ス)べし、○大夫登《マスラヲト》、(大夫と書てマスラヲ〔四字右○〕と訓は集中の例なり、但し拾穗本には大(ノ)字を丈と書り、丈夫なれば(57)こともなし、大夫とあるは大丈夫の略なりとも云り、)名(ノ)義は、正荒雄《マサアラヲ》の意ぞと冠辭考に云り、その意なるべし、(略解に益荒雄の意とせるは誤《タガ》へり、集中などにしか書るも多けれど、そは借(リ)字のみ、)登《ト》は常の語《カタ》り辭の登《ト》なり、○念有我母《オモヘルアレモ》は、かねて事なかりし時は、何事にもさやりあへぬ、たけき大丈夫とおもひほこりてありしわれさへもの意なり、丈夫ならぬ人ならばさもあるべきに、かくめゝしく本郷思の情に堪ずして、おめ/\と心を痛め苦むることよとなり、母《モ》の辭ふかく味ふべし、六(ノ)卷大伴(ノ)卿(ノ)歌にも、大夫跡念在吾哉水莖之水城之上爾泣將拭《マスラヲトオモヘルアレヤミヅクキノミヅキノウヘニナミダノゴハム》とあり、○草枕《クサマクラ》は、旅のまくら詞なり、草枕とは菰菅の類はさらにて、何にまれすべて草もてつくれる枕を云るにて、(新古今集題詞に、草を結びて枕にせよとて、人のたび侍りければ、)多毘《タビ》とつゞくは、把《タバ》ぬてふ意にいひつゞけしならむか、さるは草を把《タバ》ね結びて造る故、しかいへるにやあらむ、(此(ノ)枕詞、昔來旅には草引結びて枕とする故、草枕する旅といふ意のつゞけなり、と意得來れるは甚あらぬことなり、もし其(ノ)意ならば、さるべき語なくては言足はず、よく古言の格を考へて曉るべし、古義を得たらむほどの人は、おのが辨を待ずしても知べきことなり、)十四上野(ノ)歌に、安我古非波麻左香毛可奈思久佐麻久良多胡能伊利野乃於久母可奈思母《アガコヒハマサカモカナシクサマクラタコノイリヌノオクモカナシモ》とあるは、猶彼(ノ)卷にいふべし、○客之有者《タビニシアレバ》、この之《シ》の助辭に力(ラ)あり、すべて之《シ》の助詞は、その一(ト)すぢとりたてゝ、おもく思はする處におく辭なり、(しかるを、詞のたらずてあき(58)たる處におく辭なり、と思ふはひがことなり、)○思遣《オモヒヤル》は(遣悶、遣情などの字(ノ)意、)思(ヒ)をやり失ふなり、此(ノ)本郷思の情をはるけやる意なり、(心遣(ル)といふに同じ、字鏡に、跳※[足+肖]遊意之貌|心也留《コヽロヤル》とあり、今(ノ)京の頃よりうつりて、想像するをおもひやるといへど、古(ヘ)は心の愁思《ウレヒ》をやり失ふことのみにいへり、古今集に、我戀はむなしき空にみちぬらし思ひやれども行方もなし、とあるは此と同じ、(同集題詞に、昔を思ひやりてよみける、後撰集に、おもひやる心は常にかよへども逢坂の關越ずも有哉、などあるは皆後なり、)○鶴寸乎白土《タヅキヲシラニ》は、皆借(リ)字にて、(鶴はタヅ〔二字右○〕の借(リ)字、寸は一寸二寸をヒトキフタキ〔六字右○〕といふキ〔右○〕なり、白土は土をふるくはニ〔右○〕といへば、不知《シラニ》に借たるなり、)手著《タヅキ》を不知《シラニ》なり、手《タ》は、易《ヤス》きを手易《タヤス》き、太《フト》きを手太《タフト》きなどいふ手《タ》にて、そへたる詞なり、著は寄付《ヨリツキ》なり、古今集に、人にあはむつきのなきには、とあるつきと同言なるべし、さて此《コ》は、いづれのすぢに便りて寄著(カ)ば、おもひをはるけやられむともしらぬを云、不知をシラニ〔三字右○〕といふは、爾《ニ》は不爾《ズニ》といふ意を合める古言なり、(今(ノ)京よりこのかたは、絶ていはぬ詞となれり、抑々爾と云は、そのもとは自《ジ》と云に同じく、書紀(ノ)歌に、和素邏珥《ワスラニ》、また阿羅珥《アラニ》など云るは不《ジ》v怠《ワスラ》、不《ジ》v有《アラ》といふ意にて、珥《ニ》も自《ジ》も共に第二位の言にて、將《スル》v然(ムト)ときにいふ詞づかひのさだまりなりしを、後に那行の第二位の言を、佐行の第二位の言の濁音に通(ハ)して、自《ジ》とのみ云て珥《ニ》と云ことは失はてたり、さて不v知を志良爾《シラニ》、不v飽を阿可爾《アカニ》など云も、其(ノ)定に志良自《シラジ》、阿可自《アカジ》といふ(59)意なるべきに、其(レ)とは又異にて、不《ズ》v知《シラ》爾《ニ》、不《ズ》v飽《アカ》爾《ニ》といふ意を含みたる、古(ヘ)のひとつのいひざまとなれり、しかるに、今(ノ)京となりては絶失て、必(ズ)志良爾《シラニ》、阿可爾《アカニ》などいふべき勢の處をも、なべて知ず、飽ずとのみいふことゝなれるは、不便なることなり、かくいはではかなはぬ處多かるをや、しかるを、上古は詞づかひ狹かりしを、後(ノ)世になりて詞ひらけたり、と思ふはいとかたはらいたきわざなりかし、)○綱能浦(綱(ノ)字、拾穗本類聚抄等に網と作るは誤なり、)は、ツナノウラ〔五字右○〕と訓べし、(舊本に、アミノウラ〔五字右○〕と訓るは、もと字を誤れる本につきたる訓なればいふに足ず、)こは和名抄に、讃岐(ノ)國鵜足(ノ)郡津町(都乃《ツノ》)と有、そこの浦なるべし、さてこゝに綱と書るを思へば、津野と書るをも、もとは都奈《ツナ》といひしか、さらば繼體天皇(ノ)紀(ノ)歌に、毛|野(ノ)若子を、※[立心偏+豈]那能倭倶吾《ケナノワクゴ》とよみ、(是毛野をケナ〔二字右○〕と訓しこと著《シル》し、)和名抄に、信濃(ノ)國水内(ノ)郡古野(ハ)布無奈《フムナ》、とある類なるべし、またはそれとは表裏《ウラウヘ》にて、綱と書るをも都怒《ツヌ》といひしか、綱を都忍《ツヌ》ともいひしは、栲綱を古事記上(ツ)卷(ノ)歌に、多久豆奴《タクヅヌ》、集中二十(ノ)卷に、多久頭怒《タクヅヌ》、三(ノ)卷に、栲角《タクヅヌ》と書るなどその證なり、但しもとより都奈《ツナ》とも、都怒《ツヌ》とも二(タ)しへに通はしいひしか、今たしかには定めがたし、(又古事記に、御|綱柏《ツナカシハ》、延喜式に三津野柏《ミツヌカシハ》、大神宮儀式帳に、三角柏《ミツヌカシハ》などあるこれらは、御鋼、三津野、三角、皆ともに、ミツヌ〔三字右○〕と唱へしか、はたミツナ〔三字右○〕とも。ミツヌ〔三字右○〕とも通はし云たるか、いづれにてもあるべし、そはいかにまれ、略解などに都能《ツノ》とよめるは甚誤なり、凡て怒《ヌ》といふべきを能《ノ》(60)といふは、後の訛なるよし下にいふべし、さて神祇式に、讃岐(ノ)國鋼丁といふものゝあるを、岡部氏(ノ)考に、こゝの證に引出たるは、綱といふ地の丁《ヨホロ》と意得たるなるべし、鋼丁とは、丁の中にしかいふがありて、三代實録二十八にも、肥後(ノ)國綱丁といふあり、鋼丁のこと別に考あり、)さて三(ノ)卷山部(ノ)赤人(ノ)歌に、繩浦從背向爾所見奧島《ナハノウウユソガヒニミユルオキツシマ》、とよめる繩(ノ)字は綱の誤にて、此(ノ)歌の鋼の浦と同處なるべきよしの考あり、猶彼處にいはむことを引合せ見て考べし、又大町(ノ)稻城は、鋼はもと、綾なりしを寫しひがめたるなるべし、アヤノウラ〔五字右○〕と訓べしと云り、(その説(ニ)云(ク)、題詞に、幸2讃岐(ノ)國安益(ノ)郡1之時云々と見え、また和名抄に、讃岐(ノ)國阿野(ノ)郡(ハ)綾、景行天皇(ノ)紀に、武卵(ノ)王(ハ)是讃岐(ノ)綾(ノ)君之始祖也、天武天皇(ノ)紀に、十三年十一月、綾(ノ)君賜v姓(ヲ)曰2朝臣(ト)1、續紀四十に、讃岐(ノ)國阿野(ノ)郡(ノ)人綾(ノ)公菅麻呂等言云々、續後紀十九に、讃岐(ノ)國阿野(ノ)郡(ノ)人綾(ノ)公姑繼綾公武主等、改2本居(ヲ)1貫2附(ス)左京六條三坊(ニ)1、など見えたるも、郡(ノ)名より出たる姓なり、これらその據なり、今は綾の北條、綾の南條とて二郡にわかてり、さて、今も安益(ノ)郡は海を帶たれば、かの郡の内の海邊にて、綾の浦とはよみたまへるなるべしと云り、)此(ノ)説も然べし、主計式諸國輸調を記せる中に、讃岐國(ノ)調云々、阿野(ノ)郡喩2熬鹽(ヲ)1、とあるをも考(ヘ)合すれば、綾能浦之《アヤノウラノ》云々燒鹽乃《ヤクシホノ》、と有むこと實にさもあるべし、○海處女等之《アマオトメラガ》云々、すべて鹽を汲(ミ)燒(ク)業は、海人の中に、もはら壯(リ)なる女のする業なれば云り、(處女は嫁せぬ間の女をいふから文字なり、)乎登賣《ヲトメ》は壯なる女を多くいへり、(なほ處女のこ(61)とは、古事記傳四(ノ)卷(ニ)云、袁登賣《ヲトメ》は、袁登古《ヲトコ》に對(ヘ)て若く盛なる女を云稱なり、萬葉には、處女、未通女など書れば、未(ダ)夫嫁《ヲトコセ》ぬを云に似たれど然らず、既に嫁たるをも云、倭建(ノ)命の御歌に、袁登賣能登許能辨爾和賀淤岐新都流岐能多知《ヲトメノトコノベニワガオキシツルギノタチ》云々、とある此(ノ)袁登賣《ヲトメ》は、美夜受比賣《ミヤズヒメ》にて、既に御合坐て、御刀《ミハカシ》を其(ノ)許に置給ひしことなり、又輕(ノ)太子の、輕(ノ)大郎女に※[(女/女)+干]て後の御歌にも、加流乃袁登賣《カルノオトメ》とよみ給へり、是等嫁て後をいへり、又童なるをも云ること多し、袁登古《ヲトコ》とは童なるをばいはず、中昔にも元服するを壯士《ヲトコ》になると云るにても知べし、然るに、女は童なるをも袁登賣《ヲトメ》と云は、女はひたすらに、少(カ)きを賞る故にやあらむといへり、此説のごとく、既く嫁たるをもいふことなれど、大やうは未嫁せぬ若き女をいふが故に、集中に多くは處女、未通女などとは書たるなり、)等《ヲ》は、そのひとりしてする業ならねばいへるなり、○燒塩乃《ヤクシホノ》、(塩(ノ)字、拾穗本に鹽と作り、)これまで三句は、念曾所燒《オモヒゾヤクル》といはむ爲に、即(チ)その所の形容《サマ》もて、一首の中の序《ハシコトバ》とせり、○念曾所燒《オモヒゾヤクル》とは、おもひいられてむねのこがるゝを云、五卷に、心波母延農《コヽロハモエヌ》、十三に、我情燒毛吾有《アガコヽロヤクモアレナリ》、十七に、心爾波火佐倍毛要都追《コヽロニハヒサヘモエツツ》などよめる類なり、榮花物語に、あさましう心うき事をいひ出て、人の御むねをやきこがし、なげきをおふ云々とも見え、古今集に、むねはしり火に心やけをり、とよめるなどに同じ、(遊仙窟に、未2曾(テ)飲1v炭(ヲ)腹熱(コト)如v燒とあり、)さてこの句下へ直に續ては聞べからず、吾(ガ)下情《シタゴコロ》の念ぞ所燒《ヤクル》といふ意なるを、かく倒置《オキカヘ》ていへるは、古語のめ(62)でたきなり、○下情は、シタゴコロ〔五字右○〕と訓る宜し、シタ〔二字右○〕は、下戀《シタコヒ》、下問《シタトヒ》、下延《シタバヘ》などいふ下に同じく、裏《シタ》に隱《コメ》て表《ウヘ》にあらはさぬを云り、(岡部氏(ノ)考に、シヅゴコロ〔五字右○〕と訓るは甚誤なり、其(ノ)説に、シヅゴコロ〔五字右○〕と云は、シヅ〔二字右○〕枝、シヅ〔二字右○〕鞍など云がごとしと云れども、しづ枝、しづ鞍などのしづは、たゞに下をいふことにあらざるをや、しづ枝は沈枝《シヅエ》、しづ鞍は倭文鞍《シヅクラ》にて、共に下にいふべし、)上の裏歎《ウラナゲ》と合(セ)考(フ)べし、これうはべにはしひて丈夫づくりてをれども、實は下情に堪がたくて、おもひこがるゝよしなり、○歌(ノ)意、客中《タビノホド》敷月に及びて、本郷思のたへがたきよしをよみ給へるにて、かくれたるすぢなし、
 
反歌《カヘシウタ》
 
6 山越乃《ヤマコシノ》。風乎時自見《カゼヲトキジミ》。寐夜不落《ヌルヨオチズ》。家在妹乎《イヘナルイモヲ》。懸而小竹櫃《カケテシヌヒツ》。
 
風乎時自見《カゼヲトキジミ》は、風が時ならず寒さにの意なり、(長歌に、朝夕爾還比奴禮婆《アサヨヒニヌレバ》とあるごとく、朝と夕となく、時ならず吹來る風の、身に寒くて堪がたきよしなり、)時自見《トキジミ》は、此(ノ)下に三芳野之耳我嶺爾時自久曾雪者落等言《ミヨシヌノミガネノタケニトキジクゾユキハフルチフ》、三(ノ)卷不盡山(ノ)歌に、時自久曾雪者落家流《トキジクゾユキハフリケル》、又筑波山(ノ)歌に、冬木成時敷時跡不見而往者《フユコモリトキジクトキトミズテユカバ》、(此は登りて見べき時にあらずとてと云意なり、)四(ノ)卷に、何時何時來益我背子時自異目八方《イツモイツモキマセワガセコトキジケメヤモ》、十八に、等枳自家米也母《トキジケメヤモ》、(何時とても時ならずと云ことあらめやはなり、)八(ノ)卷に、非時藤之目頬布《トキジクフヂノメヅラシキ》、(六月の歌なり、)十三に、小治田之年魚道水乎《ヲハリダノアユチノミヅヲ》云々、時自久曾人者(63)飲云《トキジクゾヒトハノムチフ》、(暑くして水飲べき時に非るを云、)などあるにて意得べし、古事記傳に、登岐士玖能迦玖能木實《トキジクノカクノコノミ》は、書紀に、非時香菓《トキジクノカクノミ》と書る字の如く、登岐士玖《トキジク》は、其(ノ)時ならぬを何物にても云、然るを時分ず常に變らぬ意に見るは、いさゝか違へり、其も時ならずと云が、おのづから然も聞ゆるにこそ、さて橘(ノ)子《ミ》を然云故は、此(ノ)菓は夏よりなりて、秋を經て冬の霜雪にもよく堪へ、又採て後も久しく堪て腐敗れず、時ならぬころにも、何時もある物なればなり、と云るを考(ヘ)合(ス)べし、○寐夜不落《ヌルヨオチズ》は連夜の意なり、不落は漏ずと云が如し、吉事記上(ツ)卷須勢理毘賣(ノ)命(ノ)御歌に、伊蘇能佐岐淤知受《イソノサキオチズ》、祈年祭祝詞に、島之八十島墜事无《シマノヤソシマオツルコトナク》、續紀三十四(ノ)詔に、年緒《トシノヲ》不《ズ》v落《オチ》此(ノ)卷(ノ)下に、川隈之八十阿不落《コノカハノヤソクマオチズ》、四(ノ)卷に、盖世流衣之針目不落《ケセルコロモノハリメオチズ》など猶多かり、○家在妹乎《イヘナルイモヲ》は、家に在妹をなり、妹は妻をいへり、本居氏|伊毛《イモ》とは、古(ヘ)夫婦にまれ、兄弟にまれ、他人にまれ、男と女と双ぶときに、其(ノ)女をさして云稱なり、然るをやゝ後には、女どちの間にても稱《イフ》ことゝなれりき、さて妹(ノ)字をしも書は、此(ノ)稱に正しく當れる字のなき故に、姑(ク)兄弟の間の伊毛《イモ》に就て當たるものなり、ゆめ此(ノ)字に泥みて、言の本義を勿誤りそといへり、猶古事記傳三(ノ)卷に詳なるをひらき考べし、○懸而小竹櫃《カケテシヌヒツ》は、心に懸て慕ひつなり、(略解に、吾をる處より、遠く妹が家を懸て慕ふと云るなり、といへるはいさゝかまぎらはし、心に思ひ言に出すをも、懸といふこと上に云るがごとし、さればこゝは、たゞ心に思ふことなり、)長歌に、珠手次懸乃宜久《タマタスキカケノヨロシク》とあるは、言に出るを(64)いひ、今は心に思ふを云るにて、懸の言は一(ツ)ぞ、小竹櫃《シヌヒツ》は、慕《シヌ》びつの借(リ)字なり、之奴布《シヌフ》とは戀慕《コヒシタ》ふことをも、賞愛《メデウツクシ》むことをも、密隱《ヒソミカク》るゝをも、堪忍《タヘコタフ》るをもいふ中に、こゝは戀慕ふ意なり、戀慕ふ意に用ひたること、此(ノ)集ことに多し、自餘はまれなる方なり、今(ノ)京よりこなたの歌また文にも、密隱る意なると堪忍ふる意なるとを、志乃布《シノフ》と云ること多かり、さて慕ふ意なると愛む意なるとは近くして、相通ひて聞ゆること多し、何乎可別?之奴波無《イヅレヲカワキテシヌハム》、とやうに云るは愛む意ながら、慕ふ意にもわたりてきこゆるが如し、すべて愛《ウツクシ》まるゝものをば慕ふものなれば、落るところはひとつなり、さて又隱る意なると堪る意なるとは近くして、此(レ)も相通ひて聞ゆること多し、志奴比不得《シヌヒカネ》など云は、隱れかぬる意にも、堪かぬる意にもわたりて聞ゆるがごとし、されば隱るゝ方は堪忍るより轉れるものなるべし、其は顯にせまほしき事をも、強て堪忍ひて押へつゝむ意より、隱すことにもなれるなり、さてこの二(ツ)と、慕ふ意なると愛む意なるとの二(ツ)には、意いと遠くして、本より別言のごと聞ゆれども、これもよくおもへば、もとは同言なるべし、さればそれとうはべには色に顯はさず、おさへつゝみて、心の裏に慕ひ愛む意より云るにて、われも堪忍ふ方よりり出たることなるべし、さて比《ヒ》の言清て唱べし、(後に濁るはわろし、古言清濁考に委し、都《ツ》は、夢爾見津《イメニミツ》、裳裾湿津《モノスソヌレツ》の都《ツ》に同じ、(俗にタ〔右○〕と云と同じことなり、)○歌(ノ)意は、朝となく夕(ヘ)となく、時ならず吹來る山越風の寒さに、一夜ももらさず、(65)家(ノ)妻を心にかけて戀慕つとなり、長歌には、朝暮のさまをいひ、反歌には、連夜のさまをいひて、いよ/\あはれをふかめしめたるなり、
 
右檢(ルニ)2日本書紀(ヲ)1、無v幸2於讃岐國1、亦軍(ノ)王未v詳也、但山上(ノ)憶良(ノ)大夫(カ)類聚歌林(ニ)曰(ク)、紀曰、 天皇十一年己亥冬十二月己巳朔壬午、幸2于伊豫(ノ)温湯(ノ)宮(ニ)1云々、一書云、是(ノ)時宮(ノ)前在2二樹木1、此之二樹斑鳩此米二鳥大集、時 勅多掛2稻穂(ヲ)1而養之、乃作歌云々、若疑從2此便1幸之歟、〕紀曰云々、(紀(ノ)字、誤て記と作り、)上題詞の下に書紀を引て云る如し、かくて十二年四月に伊豫より還らせ賜ひて、便居2厩坂(ノ)宮(ニ)1とlあるは、崗本(ノ)宮の天災に燒たる故に、十二年に還らせ賜ひても、厩坂(ノ)宮におはしまし賜ふなるべし、八年六月、災2崗本(ノ)宮(ニ)天皇遷2居而中(ノ)宮(ニ)1、とあるを思べし、○豫(ノ)字、類聚抄には與と作り、○一書は、伊豫(ノ)國風土記なり、三(ノ)卷赤人の伊豫の湯にてよめる歌の處に引べし、○鳥(ノ)字、舊本誤て烏と作《カケ》り、○乃(ノ)字、元暦本に仍と作り、○作歌、歌字、類聚抄に之と作り、
 
明日香川原宮御宇天皇代《アスカノカハラノミヤニアメノシタシロシメシヽスメラミコトノミヨ
 
明日香(ノ)川原(ノ)宮、明日香は大和(ノ)國高市(ノ)郡|飛鳥《アスカ》なり、下にいふ、川原(ノ)宮は、同郡岡本、飛鳥、二村の間にあり、○天皇は、皇極天皇なり、但し書紀には、皇極天皇元年十二月壬午朔壬寅、天皇|遷2移《ウツリマス》小治田(ノ)宮(ニ)1二年夏四月庚辰朔丁未、自2權(ノ)宮1移2幸飛鳥(ノ)板蓋(ノ)新宮(ニ)1と見えて、川原(ノ)宮に大坐しことは(66)見えざれども、其は脱漏《モレ》たるものにて、二年の未より四年までの間に、川原(ノ)宮へ遷り坐しなり、其は諸陵式に、越智(ノ)崗(ノ)上(ノ)陵、(飛鳥(ノ)川原(ノ)宮(ニ)御宇(シ)皇極天皇、大和(ノ)國高市(ノ)郡、兆域東西五町南北五町、陵戸五煙、)とあるにて灼然《イチジル》し、神皇正統記に、壬寅の年即位、大倭の明日香(ノ)河原の宮にましますとあり、其(ノ)餘、皇代紀、如是院年代記、皇年代略記、神明鏡、時代難事等にも、皇極天皇明日香(ノ)川原(ノ)宮に御宇しよし記せるを併(セ)考(フ)べし、(岡部氏は、書紀に、齊明天皇元年正月、飛鳥(ノ)板盖(ノ)宮にて即位し、其(ノ)冬板盖(ノ)宮災しによりて、俄に飛鳥(ノ)川原(ノ)宮へ遷坐し、其(ノ)明年の冬、又崗本(ノ)宮に遷りたまへるよし見えたれば、齊明天皇川原(ノ)宮におはしけるほどのことゝせれど誤なり、さるは此の次に、齊明天皇(ノ)代を標して、後(ノ)崗本(ノ)宮と記したればなり、齊明天皇川原(ノ)宮には、たゞしばし權《カリ》におはしたれば、かくことさらに標を分つべきよしなし、又或説に、孝徳天皇の宮號と云るはさらに云にも足ず、)○代の下に天豐財重日足姫天皇とある本どもは、後人のしわざなること、既くいへる如し、(拾穗本には、謚曰2皇極天皇1と云註もあり、)
 
額田王歌《ヌカタノオホキミノウタ》
 
額田(ノ)王は、天武天皇(ノ)紀に、天皇初娶2鏡(ノ)王(ノ)女(從2類史1加2女(ノ)字1)額田(ノ)媛王(ヲ)1、生2十市(ノ)皇女(ヲ)1とありて、鏡(ノ)王といひし人の女にて、鏡(ノ)女王の妹なるべし、かくて姉の鏡(ノ)女王は、大和(ノ)國平群(ノ)郡額田(ノ)郷に住居はれし趣、二(ノ)卷に見えたれば、この女王も姉に從ひ給ひて、額田(ノ)郷に居られし故に、やがて(67)名にも負せられたるなるべし、本居氏、古(ヘ)は女王をも分て某(ノ)女王とはいはず、男王と同じくたゞ某(ノ)王といへり、かくて萬葉のころにいたりては、女王をば皆女王と記せるに、此(ノ)額田(ノ)王に女(ノ)字のなきは、古き物に記せりしまゝに記せるなるべし、鏡(ノ)女王は父の名とまぎるゝ故に、ふるくも女王と記せるなるべし、さて右の二女王ともに鏡(ノ)王といひし人の女にて、鏡(ノ)女王は姉、額田(ノ)王は弟《オトウト》と聞えたり、父王は、近江(ノ)國野洲(ノ)郡の鏡の里に住居はれしによりて、鏡(ノ)王といへりと見ゆ、此(ノ)ほども居住を以て呼る名の例多し、かくて其(ノ)女子も、もと父の郷に住居はれしによりて、同じく鏡(ノ)王と呼るなり、すべて地の名をもてよべるは、父子兄妹など同じ名なる多し、そは事にふれてまぎるゝをりなどは、女子の方をば鏡(ノ)女王とかきてわかち、つね口には、京人などはたゞ鏡(ノ)王といひしなり、これ古(ヘ)のなべての、例なりと云り、なほ鏡(ノ)女王のことは、二(ノ)卷にいふべし、(中山(ノ)嚴水云、此(ノ)額田《ノ)王は、始(メ)天武天皇にめされ給ひて、十市(ノ)皇女をさへうみましながら、四(ノ)卷をみれば、額田(ノ)王思2近江(ノ)天皇1作歌とて、君待登吾戀居者我屋戸之簾動秋風吹《キミマツトアガコヒヲレバワガヤドノスダレウゴカシアキノカゼフク》と有て、この時は、天智天皇のめし給ひしと見えたり、既《サキ》に天武天皇のめし給ひて、皇女さへましますに、又しも天智天皇のめし給はむこと、おぼつかなしと思ふに、そは天武天皇(ノ)紀、天皇即位の條に、正妃夫人、また生ましゝ皇子等をもあまねく擧て、さて其(ノ)終に、天皇初娶2鏡(ノ)王(ノ)女額田姫王(ニ)1生2十市(ノ)皇女(ヲ)1とありて、此(ノ)女王をば妃夫人の列にもつらねいはぬを(68)思へば、天武天皇のいと若くおはしましゝ時に、住わたり給ひし事のかれ行給ひし後に、天智天皇のめし給ひて、夫人などにておはしましゝなるべし、今よりして見れば、あるべきことゝもおもほえねど、ふるき代にはすくなからぬためしなり、されば下の、蒲生野の遊獵の時の御歌にも、人妻故爾《ヒトヅマユヱニ》とはよみ給ひしなり、さるを本居氏(ノ)説に、額田(ノ)王もはじめは、天智天皇にめされたりしこと、四(ノ)卷に、思2近江天皇(ヲ)1歌とある、これその證なり、其(ノ)次に、鏡(ノ)女王の歌有、是又此(ノ)女王も天智天皇に娶れたる證にて、妹王と共に思ひ奉れるなり、さて天武天皇皇太子におはしましゝほどより、額田(ノ)王に御心をかけられたりし事、この下の御歌にてしらる、其(ノ)御歌に、人づまゆゑにとよみ給へるは、天智天皇の妃なるが故なり、さて此(ノ)御歌の此(ノ)御詞にても、額田(ノ)王もはじめには、天智天皇のめしたりし事しるべし、かくて天智天皇かくれさせ給ひて後に、天武天皇にはめされて、十市(ノ)皇女をうみ奉られしなりと云るはいかにぞや、此(ノ)十市(ノ)皇女は、大友(ノ)皇子の妃にして、葛野(ノ)王はその長子にておはしますよし、懷風藻に記せり、この大友(ノ)皇子は、天智天皇の崩後、打つゞきてほろび給ひぬるを、僅の間に、天智天皇の夫人にて有し額田(ノ)女王を、又天武天皇のめし賜ひて、十市(ノ)皇女をうみまし、その皇女また大友(ノ)皇子にめされて、葛野(ノ)王をさへ生ますべしや、ことに葛野(ノ)王は長子なれば、つぎ/\の御子等、はたおはしけむものをやと云り、此(ノ)説さることなり、)○王の下、舊本に未詳(ノ)二字あるは、後(69)人の註なることしるければ削つ、
 
7 金野乃《アキノヌノ》。美草苅葺《ミクサカリフキ》。屋杼禮里之《ヤドレリシ》。兎道乃宮子能《ウヂノミヤコノ》。借五百磯所念《カリイホシオモホユ》。
 
金野《アキノヌ》は、秋(ノ)野なり、集中秋と書べきを金とかける處あり、金芽子《アキハギ》、金風《アキカゼ》など有(ル)類なり、四時と土用とを五行に配《アツ》る時、秋は金にあたる故に然書り、○美草苅葺《ミクサカリフキ》、(苅(ノ)字、拾穗本には刈と作り、苅はから國の字書に見えず、刈字のみなり、刈に通(ハシ)書るなるべし、此(ノ)集多くは苅と書り、延喜式にも苅安草と書たり、)美草《ミクサ》は、美《ミ》は例の眞《マ》に通ふ美稱《タヽヘナ》にて、此(ノ)下に、眞草刈荒野《マクサカルアラヌ》とある眞草《マクサ》におなじ、さて眞艸は即(チ)薄《スヽキ》の事にて、檜《ヒ》を眞木《マキ》といへるに全《モハラ》同《ヒトシ》しく、薄《スヽキ》は百艸《モヽクサ》の長《ツカサ》なる謂《ヨシ》にて、しかいへるなり、そも/\體にては薄《スヽキ》と云ひ美稱《ホメ》ては眞艸《マクサ》といひ、花にては尾花《ヲバナ》と云(ヒ)、屋《ヤネ》葺《フク》料にては加夜《カヤ》といへり、されど又眞艸といひ、尾花といひ加夜といひて、やがて薄といふにもかよへり、されば加夜てふ所由《ユヱ》をまづことわらむに、古事記上(ツ)卷に、鵜羽(ヲ)爲2葺艸(ト)1云々、訓2葺艸1云2加夜《カヤ》1とあるごとく、本は何にても屋葺料の物をいふ稱にぞ有ける、かくて薄を加夜と云も、薄ぞ即《ヤガテ》もはら屋ふく料に用ふる艸なれば然《シカ》云、その加夜《カヤ》やがて百艸の長なれば、即事(ノ)字をぞ加夜とは訓なりける、(たとへば、葛はかづらのことにて、さてかづらの長たるものは藤にて、やがて葛(ノ)字をフデ〔二字右○〕と訓、又|可抱《カホ》といふほ一體のうへの容貌《サマ》をいふことなるが、その容貌の長たるものは顔面《オモ》にて、可抱とのみ云ぞやがて顔面のことゝきこえ、また花の長た(70)るものは櫻にて、花とのみいふぞやがて櫻のことゝきこゆるがごとし、)そは上古は、借廬などのみならず、大御舍《オホミヤ》を始奉り、凡て薄もて葺つればなりけり、(仁徳天皇(ノ)紀元年春正月、云々、都2難波(ニ)1是謂2高津(ノ)宮(ト)1、云々、茅茨之盖《カヤノヤネ》弗《ズ》2剖齊《キリトヽノヘ》1也、これも薄もて御盖を葺たるよしなり、茅(ノ)字によりて、加夜を茅《チガヤ》のことゝな思ひ誤《タガヘ》そ、唐書東夷列傳にも御國のことをいへる處に、以v草(ヲ)茨v屋(ヲ)とあり、これもいにしへ、もはら薄にて屋を葺つるがゆゑなり、)さて草(ノ)字を加夜と訓る例をいはむに、まづ古事記野(ノ)神の御名に、鹿屋野比賣《カヤヌヒメノ》神とあるを、書紀には、草野姫《カヤヌヒメ》と書、且《マタ》神代紀降臨(ノ)條に、盤根《イハネ》木株《コノモト》草葉《カヤノカキハ》、また海宮(ノ)條に、以2眞床覆(フ)衾|及《ト》草《カヤヲ》1裹其(ノ)兒(ヲ)1と見え、顯宗天皇(ノ)紀室壽(ノ)大御詞に、取(リ)〓(ル)草葉者《カヤハ》、此(ノ)家長(ノ)御富之餘也、欽明天皇(ノ)紀に、藉《マクラニス》v草《カヤヲ》、又延喜式大殿祭(ノ)祝詞に、取(リ)〓計魯草乃噪無久《フケルカヤノソヽギナク》、云々などあるをはじめて、集中二(ノ)卷に、大名兒彼方野邊爾刈艸乃《オホナコヲチカタヌヘニカルカヤノ》、三(ノ)卷に、陸奧之眞野乃草原《ミチノクノマヌノカヤハラ》、四(ノ)卷に、黒樹取草毛刈乍《クロキトリカヤモカリツヽ》、七(ノ)卷に、葛城乃高間草野《カツラギノタカマノカヤヌ》、十一に、紅之洩淺乃野良爾刈草乃《クレナヰノアサハノヌラニカルカヤノ》、十二に、三吉野之蜻乃小野爾刈草之《ミヨシヌノアキツノヲヌニカルカヤノ》など見え、倭名抄に、因幡(ノ)國佐美(ノ)郡大草(ハ)於保加也、武藏(ノ)國埼玉(ノ)郡草原(ハ)加也波良《カヤハラ》、などあるを考(ヘ)併せて、草(ノ)字を加夜《カヤ》と訓べきを曉るべし、これらのみならず、集中にヲバナ〔三字右○〕を草花と書るも、草《カヤ》の花てふ意もて書るにても、いよ/\薄《スヽキ》を眞草といふべき理(リ)徴《シル》きをや、然ればミクサ〔三字右○〕と訓來れるは、おのづから當れり、(夫木集に、秋の野の花の盛は過がてに美久佐《ミクサ》刈ふく宿や借ましとあるは、今の歌をとりてよめるにてよし、但し岡(71)部氏(ノ)考に、美草は眞草と云に同じく、秋の百草をかね云といへるはいさゝかたがへり、又元暦本に、この美草をヲバナ〔三字右○〕とよめるは、薄を、眞草といふべき理を、あさまへかねたるなかなかのさかしらなりけり、本居氏は、ヲバナ〔三字右○〕と訓るに從て、貞觀儀式大嘗祭(ノ)條に、黒酒十缶云々、以2美草(ヲ)1餝之、また倉代十輿云々、餝(ルニ)以2美草(ヲ)1と見えて、延喜式にも同じく見ゆ、然れば必(ズ)一種の艸(ノ)名なり、古(ヘ)薄を美草と書ならへるなるべし、眞草の意ならむには、式などに、美草と美(ノ)字を假字に書べきよしなしと云へり、されど、式に、美草とあるは眞草の意ならじ、同條に召2市人1令v2調獻物1料絹以2美木(ヲ)1爲v軸云々、とあるを考合るに、美草美木は、たゞ美《ウルハ》しき草木を云りと思はるれば、こゝにはあづからぬことなるべし、)苅葺は、眞草を刈て屋に葺なり、○屋杼禮里之《ヤドレリシ》は、宿而有之《ヤドリテアリシ》なり、(取而有之《トリテアリシ》をトレリシ〔四字右○〕、知而有之《シリテアリシ》をシレリシ〔四字右○〕といふに同例なり、)さて此は過去し方のことをいへるにて、當昔《ソノカミ》兎道に從駕《ミトモツカ》へし人々の宿りて有しを云、○兎道乃宮子《ウヂノミヤコ》は、山城(ノ)國宇治(ノ)郡に造らしたる行宮所《カリミヤコ》の地を云、宇治は大和(ノ)國より近江へ行|路次《ミチナミ》なれば、近江に行幸ありし度、こゝに行宮をたてゝ、一夜とまらせ給ひしなるべし、その時に從駕《ミトモ》つかへたりしことを、後に額田(ノ)王のよみ給へるなるべし、書紀に、應神天皇六年、輕島(ノ)明(ノ)宮より近江(ノ)國に、幸し時も、宇治野にて御歌よませ給ひ、又天武天皇近江(ノ)宮にて出家し給ひて、吉野へ入せ給ふとて、大和の島(ノ)宮へ歸らせ給ふ時も、諸臣兎道まで送り奉りけるよし見えたれば、(72)その路次のほどをおもふべし、宮子《ミヤコ》と書る古《コ》は、借(リ)字にて所《コ》の意なり、彼處《ソコ》、此處《コヽ》などいふがごとし、又|何處《イヅク》のク〔右○〕の言、また在所《アリカ》、隱處《カクレガ》、奧處《オクカ》などのカ〔右○〕の言も同音にてひとつぞ、かくて宮處《ミヤコ》とは、かりそめにも天皇命の大坐(シ)賜ふ處をいふ稱なり、)岡部氏考に、離宮處《トツミヤコ》をも行宮處《カリミヤコ》をも、略きては宮處といふぞといへるは本末の誤《タガヒ》あり、宮處は天皇命の大坐(ス)處の總稱にて、離宮處また行宮處など云は、本宮處《モトツミヤコ》に別たむための名目《ナ》ぞ、たとへば歌てふが總稱にて、長歌短歌などいふなるは、その種類をわかたむための名目《ナ》なるがごとし、長歌短歌てふを略きて、たゞ歌とのみ云るにはあらざるをも思べし、)そは書紀景行天皇(ノ)卷に、十二年九月甲子朔戊辰、天皇遂(ニ)幸2筑紫(ニ)1到2豐前(ノ)國(ニ)1、長峽(ノ)縣(ニ)興2行宮(ヲ)1而居(シキ)、故(レ)號2其處1曰v京(ト)也、また豐後(ノ)國風土記に、宮處野《ミヤコヌハ》朽網(ノ)郷(ニ)所在之野(ナリ)、起2行宮(ヲ)於此野(ニ)1因名(ク)、また肥前(ノ)國風土記に、神埼(ノ)郡|宮處《ミヤコノ》郷、纏向(ノ)日代(ノ)宮(ニ)御宇(シ)天皇行幸之時、於2此村1奉v造2行宮1、因《カレ》曰2宮處(ノ)郷(ト)1、など見えたるごとく、此處もかりに天皇命の宿らせ賜ふより、兎道の宮所とは云けるなり、(兎道(ノ)稚郎子の宮をたてゝ住せ給ふ故に、宇治の都といふとおもへるは非ぬことなり、後の人の宇治の都とよめるは、さ心得たるにも有べし、今は行宮につきてよめるなり、)さて兎道を過ましけむ時は、左註に、類聚歌林また書記を引るは誤にて、皇極天皇(ノ)代より前にありけむを、その御事跡は書紀などにも漏たるなるべし、
○借五百磯所念《カリイホシオモホユ》(磯《(ノ)》字、舊本※[火+幾]に誤れり、今は官本に從つ、五百は借(リ)字、)は、假廬《カリイホ》し所念《オモホユ》なり、こは(73)從駕の人々の借廬を云り、(凡て以前《イママデ》の諸註者《フミトキビトヾモ》みな、天皇命の大坐しゝ借廬と意得しより、歌の大概を誤れり、もし天皇命の借廬ならむには、尊みて屋杼良之斯《ヤドラシシ》などこそあるべきを、あな可畏《カシコ》、屋杼禮里之《ヤドレリシ》などいふべしやは、君上《カミ》を厚《フカ》く尊崇《タフトミヰヤマヒ》まつりし、古(ヘ)人の意をも熟かむがへ念ひてよ、これにてもいよ/\、自共《ミヅカラドチ》の借廬をいへること疑ふべからず、)磯《シ》の助辭に力(ラ)あり、心して聞べし、すべて磯《シ》の助辭は、その一(ト)すぢをとりたてゝ、おもく思はする處におく辭なること、上に云るが如し、所念《オモホユ》は、おもはるといふ意なり、○歌意は兎道に行幸の有しほど、御草かりふきて、從駕の人々の旅やどりをせしその所がらの、なか/\やうかはりてをかしかりしかば、立出て來し名ごりの、今に忘れがたくおもはるゝよとなり、
 
右※[手偏+僉](ルニ)2山上(ノ)憶良(ノ)大夫(カ)類聚歌林(ヲ)1曰、一書曰、戊申年幸2比良(ノ)宮1大御歌、但紀曰、五年春正月己卯朔辛巳、天皇至自2紀(ノ)温湯1、三月戊寅朔、天皇幸2吉野宮1而肆宴焉、庚辰、天皇幸2近江之平浦1、
 
右の註中、(一書の下曰(ノ)字、舊本無(シ)、一本によりつ、但し拾穗本には、一書曰(ノ)三字共になし、三月戊寅、戊(ノ)字、舊本誤て戍と作り、焉(ノ)字、拾穗本には也と作り、庚辰の下、舊本日(ノ)字有は衍文なり、書紀に無による、)一書の戊申は、孝徳天皇大化四年なり、紀曰五年は、齊明天皇五年なり、かくて此(ノ)兩度の幸の中、いづれにしても皇極天皇代より後にあたれば、上にも云る如く此(ノ)註は誤なり、
 
(74)後崗本宮御宇天皇代《ノチノヲカモトノミヤニアメノシタシロシメシヽスメラミコトノミヨ》
 
後(ノ)崗本(ノ)宮(崗(ノ)字、類聚抄拾穗本|并《マタ》袋冊子に引るにも岡と作り、)は、高市(ノ)郡岡村にありて、今も飛鳥(ノ)岡といふ、かの川原宮の東北の方なりとぞ、書紀(ニ)云、齊明天皇元年春正月壬申朔甲戌、皇祖母《オホミオヤノ》尊|即2天皇位《アマツヒツギシロシメス》於飛鳥(ノ)板蓋《イタブキノ》宮(ニ)1、云々、是冬、災《ヒツケリ》2飛鳥(ノ)板蓋《イタブキノ》宮(ニ)1故(レ)遷2居《ウツリマシヌ》飛鳥(ノ)川原(ノ)宮(ニ)1、二年云々、是歳於2飛
 
鳥(ノ)岡本(ニ)1更《マタ》定2宮地《ミヤトコロヲ》1、云々、遂(ニ)起《タテヽ》2宮室《オホミヤヲ》1天皇乃遷《ウツリマシキ》、號《コヲ》曰2後(ノ)飛鳥(ノ)崗本(ノ)宮(ト)1○代の下、舊本に、天豐財重日足姫天皇とありて、その下に位後即位後崗本宮と註せるは、共に最後人のしわざなり、拾穗本には、謚曰2齊明天皇1とも註せり、
 
額田王歌《ヌカタノオホキミノウタ》
 
8 ※[就/火]田津爾《ニキタヅニ》。船乘世武登《フナノリセムト》。月待者《ツキマテバ》。潮毛可奈比沼《シホモカナヒヌ》。今者許藝弖菜《イマハコキテナ》。
 
※[就/火]田津《ニキタヅ》(※[就/火](ノ)字、拾穗本には熟と作り、類聚抄に就《ナリ》と作るは誤なり、熟を※[就/火]と書ることは古書に例多し、三(ノ)卷にも人乎※[就/火]見者《ヒトヲヨクミバ》とあり、)は、伊豫(ノ)國温泉(ノ)郡の地(ノ)名なり、書紀齊明天皇(ノ)卷に、伊豫國云々、熟田津此云2爾枳陀豆《ニギタヅト》1と有(リ)、さて爾枳《ニキ》とあるによりて、枳《キ》の言清て唱べし、(常に此(ノ)言を濁るは非なり、)○船乘世武登《フナノリセムト》は、御船に乘(リ)賜はむとての意なり、登《ト》はとての意の登《ト》なり、常(ネ)の語(リ)辭の登《ト》と異なり、すべて古言には登?《トテ》と云る言なし、(今(ノ)京よりこなたにはいと多き言なり、やゝ古くは、延喜式鎭火祭(ノ)祝詞に、たゞ一(ツ)ある、これを除て古言にあることなし、)登《ト》とのみ云(75 に、登?《トテ》の意を具《モチ》たればなり、此(ノ)下に、神佐備世須登《カムサビセスト》云々、高殿乎高知座而《タカトノヲタカシリマシテ》云々、山神乃奉御調等春部者花挿頭持《ヤマツミノマツルミツギトハルヘハハナカザシモチ》云々、大御食爾仕奉等上瀬爾鵜川乎立《オホミケニツカヘマツルトカミツセニウカハヲタチ》云々、又|其乎取登散和久御民毛《ソヲトルトサワグミタミモ》云云、又|亦打山行來跡見良武《マツチヤマユキクトミヲム》、二(ノ)卷に、倭邊遣登佐夜深而《ヤマトヘヤルトサヨフケテ》、又|妹待跡吾立所沾《イモマツトアガタチヌレヌ》などかぞへがたし、これらの登《ト》は、みな登?《トテ》の意にて今と同じ、○月待者《ツキマテバ》は、海路くらくてはたづきなければ、月出てとて、御舟とゞめさせ賜ひ待賜ふを云、これ實には潮待爲賜ひしなるべきを、月を主としてのたまへるがをかしきなり、○潮毛可奈比沼《シホモカナヒヌ》といふに、潮も滿て月出ぬといふ意あり、(宣化天皇(ノ)紀に、是以海表之國、俟(テ)2海水《シホ》1以|來賓《マヰケリ》といへり、現存六帖に、伊勢(ノ)海や潮もかなひぬ浦人のあさこぐ舟はつりに出らし、)月いづるときは、潮みつるものなればぞかし、この毛《モ》の詞にてわざと月を主とし、潮をかたはらとし賜へること、上に云るがごとし、可奈此奴《カナヒヌ》とは御船出さむに叶ひたるを云、この詞に心を着て聞べし、くだ/\しく御船出さむに叶ふと云(ハ)で、さる意ときこゆること、古(ヘ)人ならではえいふまじき詞なり、○今者許藝弖菜《イマハコギテナ》、(弖(ノ)字、舊本に乞と作《カケ》るは誤なり、こは田中(ノ)道萬呂(ガ)考によりて改つ、)今とは古語にさま/”\につかへる中に、こゝは即今の今にて、まち/\て其(ノ)時をまち得たるよしなり、許藝弖菜《コギテナ》は許藝弖牟《コギテム》といふに、まづは同じきが如くきこゆれど、いさゝか意味ある辭なり、たとへば行奈《ユカナ》といへば、一向《ヒタスラ》に行《ユカ》むと急ぎ進める意あり、來那《コナ》といへば、一向に來《コ》むと急ぎ進める意あり、(これにて急(76)と緩との差別あることをわきまふべし、然るをこれらは、牟《ム》といふべきを那《ナ》と云る古(ノ)語の一(ノ)格なり、といふ説はいとおろそかなり、牟《ム》といふと那《ナ》といふと、いさゝか異なるよしは、左に引る例どもを味見ば自(ラ)知らるべし、猶その差別をいはゞ、たとへば行む時、來む時などいふを、行那時《ユカナトキ》、來那時《コナトキ》と通(ハ)しいふべからざるにて知べし、これ語の緩にして急ぎ進める意なき時には、いふまじき言なればなり、)こゝも其(ノ)如く、一向に※[手偏+旁]てむといそぎすゝめる意なり、集中の例をかつ/”\いはゞ、此(ノ)下に、去來結手名《イザムスビテナ》、二(ノ)卷に、君爾因奈名《キミニヨリナナ》、三(ノ)卷に、樂乎有名《タヌシクヲアラナ》、四(ノ)卷に、行而早見奈《ユキテハヤミナ》、五(ノ)卷に、斯奈奈等思騰《シナナトモヘド》、又|伊奈奈等思騰《イナナトモヘド》、六(ノ)卷に、二寶比天由香名《ニホヒテユカナ》、七(ノ)卷に、吾共所沾名《アレサヘヌレナ》、八(ノ)卷に、率所沾名《イザヌレナ》、九卷に、家者夜良奈《イヘニハヤラナ》、十(ノ)卷に、爾寶比爾往奈《ニホヒニユカナ》、十一に、絶天亂名《タエテミダレナ》、十二に、紐解設名《ヒモトキマケナ》、十三に、懸而思名《カケテシヌバナ》、十四に、蘇提婆布利?奈《ソデハフリテナ》、十五に、比利比弖由賀奈《ヒリヒテユカナ》、十七に、美奈宇良波倍底奈《ミナウラハヘテナ》、十九に、獲而奈都氣奈《トリテナツケナ》、二十(ノ)卷に、都刀爾通彌許奈《ツトニツミコナ》など猶あげつくしがたし、皆右にいへる如き意味なること、おし准へて知べし、(後(ノ)世忘れじな、又かはらじななどよむ、奈に同じ、といふ説はくはしからず、)但し古今集の比よりこなた、那《ナ》といふべきをも、なべて牟《ム》といふこととなれるはあさまし、(古書をよみこゝろむるときは、牟《ム》と云べきところと、奈《ナ》といふべき處と、きはやかにわかれたること、おのづからしらるゝことなるをや、)○歌(ノ)意は、海路くらければ、月の出るを待と、て、御船とゞめてあるに、月のみならず潮もみち來て、御船出せむに時叶(77)ひぬれば、即(チ)今はとく漕出むと、月出潮みちたるをよろこび賜へるなり、書紀に、齊明天皇七年春正月丁酉朔壬寅、御船西征(テ)始(テ)就2于海路1、甲辰、御船到2于大伯《オホケノ》海(ニ)1、庚戌、御船泊(リマシキ)2于伊豫(ノ)熟田津(ノ)石湯(ノ)行宮(ニ)1と見えて、外蕃の亂をしづめ賜はむとて、筑紫に幸の有けるなり、此(ノ)時額田(ノ)王も御ともにて、此(ノ)歌はよみ賜しなるべし、
〔右※[手偏+僉](ルニ)2山上(ノ)憶良(ノ)大夫(カ)類聚歌林(ヲ)1曰、飛鳥(ノ)岡本(ノ)宮(ニ)御宇(シヽ)天皇元年己丑、九年丁酉十二月己巳朔壬午、天皇太后幸(ス)2于伊豫湯宮(ニ)1、後(ノ)岡本(ノ)宮(ニ)馭宇(シヽ)天皇七年辛酉春正月丁酉朔壬寅、御船西(ニ)征(テ)、始(テ)就2于海路(ニ)1庚戌、御船泊2于伊豫(ノ)※[就/火]田津(ノ)石湯(ノ)行宮(ニ)1、天皇御2覽(シ)昔日猶存之物(ヲ)1、當時忽起(シタマヒキ)2漢愛之情(ヲ)1、所以因製(マシテ)2歌詠(ヲ)1爲(メニ)之哀傷(ミタマフ)也、即(チ)此(ノ)歌(ハ)、天皇(ノ)御製焉、但額田(ノ)王(ノ)歌(ハ)者、別(ニ)有2四首1、〕
飛鳥(ノ)岡本(ノ)宮(岡(ノ)字、拾穗本には岳と作り、)より、伊豫湯宮まで三十五字は、舒明天皇の時の事にて、今齊明天皇の伊豫行幸の證に引るは、たがへることなり、○九年丁酉は、十一年己亥を誤れるなり、上軍(ノ)王(ノ)歌の左註に書紀を引て、十一年十二月己巳朔壬午とあると、月日の支千全(ラ)同きを思ふべし、九年と十一年と、たゞ一年へだてたるのみにて、月日の支干の同じかるべきことなきをもおもふべし、○後岡本宮馭宇天皇(岡(ノ)字、拾穗本に岳、馭(ノ)字、同本に御と作り、)の八字は、山上(ノ)大夫のくはへられ、七年より下行宮までは、書紀(ノ)文をそのまゝ載られたるにて、上に引るが如し、天皇御覽より下は、山上(ノ)大夫の詞なり、○西(ノ)字、舊本而に誤れり、古寫本に從(78)つ、○※[就/火](ノ)字、拾穗本には熟と作り、○二(ツ)の歌者の者(ノ)字、また焉※[人偏+且](ノ)二字、拾穗本になし、○此(ノ)左註の次の異説によりて、齊明天皇の大御歌とするときは、又意かはるべし、昔日こゝにて御覽じける物の存《ノコ》れるを見そなはして、昔のことをおぼしめし出して、しばし月待出るほどだにとおぼしめせども、潮時にもよほされ賜ひて、今はこぎ出て筑紫の方に幸したまはむが、名殘もあかず口をしとのたまへるなるべし、御2覽覽昔日猶存之物1といふこと、書紀にも據なけれど、即位以前こゝにおはしましける事なしとも定めがたければ、そのをりのことをさしてのたまへるなるべし、されど左註は、すべてをさなくうけがたき事ども多ければ、なほ本文額田(ノ)王(ノ)歌とあるを用べし、
 
幸《イデマセル》2于|紀温泉《キノユニ》1之時《トキ》。額田王作歌《ヌカタノオホキミノヨミタマヘルウタ》
 
幸は、齊明天皇(ノ)紀に、三年九月、有間(ノ)皇子、往2牟婁(ノ)温湯(ニ)1、僞v療v病來、讃2國(ノ)體勢(ヲ)1曰、纔觀(ルニ)2彼地(ヲ)1、病自|鎰消《ノゾコリヌ》、天皇聞悦、思2欲往觀1、四年冬十月庚戌朔甲子、幸2紀(ノ)温湯(ニ)1とあり、今も紀伊(ノ)國牟婁(ノ)郡熊野に温泉ありて、湯(ノ)峯湯(ノ)川など云ふとぞ、○紀は紀伊(ノ)國なり、もとは紀なりしを、和銅の制にて、國郡郷村等の名、二字にさだめられしより、韻字をそへて紀伊と書るなり、名(ノ)義は即(チ)木(ノ)國にて、書紀神代(ノ)卷に見えたり、
 
9 奠器圓隣〔四字左○〕之《ミモロノ》。大相土〔三字左○〕見乍湯氣《ヤマミツヽユケ》。吾瀬子之《ワガセコガ》。射立爲兼《イタヽシケム》。五可新何本《イヅカシガモト》。
 
(79)奠器圓隣之、(奠器、舊本《モトノマキ》には莫囂、元暦(ノ)本《マキ》には草囂、又|一本《アルマキ》には莫器と作《カケ》り、今は古葉略要集によれり、圓は六條本には圖、古本には國と作《カケ》り、今は舊本のまゝを用《トリ》つ、)此(ノ)一句はミモロノ〔四字右○〕と訓べし、ミモロ〔三字右○〕とは御室《ミムロ》にて、神祇《カミ》を安置奉《マセマツ》る室をいふなること、三(ノ)卷に、吾屋戸爾御諸乎立而枕邊爾齋藤戸乎居《ワガヤドニミモロヲタテテマクラベニイハヒヘヲスヱ》、六(ノ)卷に三諸着鹿背山際爾《ミモロツクカセヤマノマニ》、七(ノ)卷に三諸就三輪山見者《ミモロツクミワヤマミレバ》、又|木線懸而祭三諸乃神佐備而《ユフカケテイツクミモロノカムサビテ》、十九に、春日野爾伊都久三諸乃《カスガヌニイツクミモロノ》、などあるにて知べし、(梁塵秘抄(ノ)歌に、賢木葉に木綿採垂《ユフトリシデ》て誰(ガ)世にか神の御室と齋(ヒ)初けむ、)さてその神の御室の近隣には、常に奠(ノ)器をおき圓《メグ》らしてあれば、こゝはその義《コヽロ》もて、奠(ノ)器|圓《メグラス》v隣(ニ)と書て、ミモロ〔三字右○〕とは訓せたるなるべし、(又思ふに、もしは圓は圍(ノ)字の寫(シ)誤にてもあらむか、圍《カコム》v隣(ヲ)とするときはましてさらなり、)かくてこゝのミモロ〔三字右○〕は、即(チ)三輪山のことなり、三輪山を、三室山といへること、二(ノ)卷に、三諸之神之神須疑《ミモロノカミノカムスギ》、七(ノ)卷に三毛侶之其山奈美爾《ミモロノソノヤマナミニ》、また味酒三室山《ウマサケミムロノヤマノ》、九(ノ)卷に、三諸乃神能於婆勢流泊瀬河《ミモロノカミノオバセルハツセガハ》などよめり、猶古事記にも書紀にも、往往《コレカレ》其(ノ)例見えたり、(かくて古來《コシカタ》の諸註者《フミトキビトヾモ》、まづ此(ノ)一句を舊本に、莫囂とあるに据《ツキ》て説來《トキキタ》れる故、解《サトリ》得たる人なし、)こは必(ズ)ミモロ〔三字右○〕なるべく思ふよしは、古事記下(ツ)卷雄略天皇、引田部(ノ)赤猪子に賜へる大御歌に、美母呂能伊都加斯賀母登《ミモロノイツカシガモト》とあるは、三輪山の嚴橿之本《イヅカシガモト》のことにて、即(チ)此《コヽ》の五可新何本も、其(レ)と同じかるべければなり、又書紀垂仁天皇(ノ)卷に、天照大神鎭(リ)2坐(ス)磯城(ノ)嚴橿之本(ニ)1、(倭姫(ノ)世紀に、倭(ノ)國伊豆加志(カ)本(ノ)宮(ニ)八箇歳奉(ル)v齋(キ)、)とあるも同じ、三輪(80)山のあたりの嚴橿なるべきをも思へ、○大相土見乍湯氣、(土(ノ)字、舊本には七、古本には云と作り、拾穗本にはなし、今は古葉略要集に從(レ)り、見(ノ)字、舊本には兄、一本には※[凹/儿]と作り、今は又一本に從(レ)り、乍(ノ)字、舊本に爪と作るは、乍の誤寫なるべければ今改(メ)つ、湯(ノ)字、舊本には謁、一本には竭と作《アリ》、今は古葉略要集によれり、)大相土は、山の義《コヽロ》にとりて書りとおもはるれば、大和土見乍湯氣は、ヤマミツヽユケ〔七字右○〕と訓べし、(この一句は、既《ハヤ》く平(ノ)春海もしかよみつ、)○吾瀬子之《ワガセコガ》(子(ノ)字、元暦本になきはわろし、)は、瀬《セ》は借(リ)字、吾夫子之《ワガセコガ》なり、此《コ》は大海《オホアマノ》皇子(ノ)尊か、(天智天皇は此(ノ)時皇太子にて、從駕《ミトモツカ》へ賜へる趣書紀に見ゆ、大海(ノ)皇子(ノ)尊は京師に留(リ)坐しか、)又は孰(レ)にても此(ノ)女王の親《シタシ》みおもほし賜ふ人をさしてのたまへるなるべし、○射立爲兼は、イタヽシケム〔六字右○〕と訓べし、古事記上(ツ)卷に、二柱(ノ)神立2天(ノ)浮橋(ニ)1而云々、訓v立(ヲ)云2多々志《タヽシト》1、此(ノ)集五(ノ)卷に、奈都良須等美多々志世利斯《ナツラストミタヽシセリシ》、などあり、イ〔右○〕はそへ言にて、物をいひ出す頭におく辭なり、此(ノ)上天皇遊獵の時の歌に委(ク)云り、
タヽシ〔三字右○〕はタチ〔二字右○〕の伸りたる言にて、(タシ〔二字右○〕の切チ〔右○〕、)あがめていふ言なり、即(チ)こゝは立賜ひけむといふ意になれり、○五可新何本は、イヅカシガモト〔七字右○〕と訓べし、嚴橿之本《イヅカシガモト》なり、さて書紀(上に引り、)に、嚴橿の字を書るをおもへば、清淨なる橿といふ義《コヽロ》なるべければ、伊豆《イヅ》と濁るべし、さてこゝに五(ノ)字をしも書るは、いかにぞや思ふ人もあるべけれども、凡て借(リ)字には、清濁かたみにまじへ用ふる例《アト》ありて、集中に、可豆思加《カヅシカ》を勝牡鹿、また幡《ハタ》すゝきを皮すゝき、又並の意の(81)奈倍《ナベ》てふ詞に、苗(ノ)字をあまたところに書(キ)、七卷に、庭多豆水《ニハタヅミ》を庭立水と書(キ)、十一には、夕片設《ユフカタマケ》を夕方枉と書り、又出雲(ノ)國(ノ)造(ノ)神賀(ノ)詞、同國風土記、延喜式(ノ)神名帳などに、大穴牟遲《オホナムヂ》を大穴持と書る類、猶多かるべし、(神功皇后(ノ)紀細事に、一(ニ)云云、且重曰(ク)、吾(カ)名(ハ)向※[櫃の旁]男聞襲大歴五御魂速狹騰《ムカヒツノヲキソオホノイヅノミタマハヤサノボリ》尊也、とあるは嚴御魂《イヅノミタマ》てふ事ときこえたり、されば嚴を五と書しことも、古(ク)よりの事なるべし、)されど又一(ツ)には古事記に、伊都如斯《イツカシ》と書るを正しとせば異義《コトコヽロ》なり、そのことは下にいたりていふべきついであれば、さらに云べし、○歌(ノ)意は、親(シ)みおもほし賜(フ)夫《セノ》君の、豫《カネ》て三諸の嚴橿が本に立賜はむのよし有しなるべし、さて此(ノ)度の行幸に供奉《ミトモツカヘ》賜ふにつきて相別《ワカレ》の悲しさに、夫(ノ)君を今一(ト)度|髣髴《ホノカ》にも見まくおもほして、今や嚴橿が本に立し賜ひけむほどなるぞ、暫(ク)三諸の山見つゝ行(ケ)と、自《ミヅカラ》の從者等《トモビトドモ》に令《オホ》せ賜へるなるべし、○此(ノ)歌の書樣、謎《ナゾ》といふものゝ如くにして、甚く解《サト》り易《ヤス》からぬがゆゑに、諸説《トキゴトヾモ》多けれども、共に全《モハラ》從《ウケ》がたかりしを、おのれやう/\に考出しつ、(此(ノ)歌舊説もあれど、訓るやうも解るやうも、すべてをさなければ、今わづらはしくいはず、近(キ)世にいたりて、水戸侯(ノ)釋に、莫囂圓隣之の圓(ノ)字は、圖とある本に從てマガヅリノ〔五字右○〕と訓(ミ)、曲鉤《マガヅリ》の義として、曲鉤は初月をたとへたる名なりとのたまひ、大相七兄爪謁氣の謁(ノ)字を靄の誤とし、靄氣の二字を雲と釋《ミ》て、オホヒナセソクモ〔八字右○〕と訓(ミ)、覆莫爲雲《オホヒナセソクモ》の義とし、さて末(ノ)句をイタヽセリケムイヅカシガモト〔イタ〜右○〕、と訓給へるは大抵よし、されどすべての趣、強た(82)る説にして古意ならず、こは古學に未(ダ)熟《クハシ》からざりし世のほどなれば、かく解《トカ》れしもうべなりけり、岡武氏(ノ)考には、莫囂國隣之大相古兄?湯氣として、キノクニノヤマコエテユケ〔キノ〜右○〕と訓り、莫v囂《サヤギ》國は無2風塵1と云る意にて大和(ノ)國なり、其(ノ)隣は紀伊(ノ)國なり、と云るは謂あり、大相の字をヤマ〔二字右○〕と訓しは、いかなる義にや甚意得がたし、この説を平(ノ)春海が助け直して、大相土見乍湯氣として、ヤマミツヽユケ〔七字右○〕と訓しは、さもあるべきことなりかし、されど其(レ)までもあらじ、こは紀(ノ)國の行幸なるに、紀(ノ)國の山超て行(ケ)と云むこといかに、紀(ノ)國の山を超て何處《イヅク》に行とすべけむや、無用説《イタヅラゴト》といふべし、本居氏(ノ)説に、莫囂國隣之は、カマヤマノ〔五字右○〕と訓べし、莫囂をカマ〔二字右○〕と訓(ム)故は、古(ヘ)に人の物云を制して、あなかまと云ること多く見ゆ、それを今の俗言には、やかましと云り、然ればかまとばかりいひて、莫(レ)v囂(キコト)といふ意なり、國隣は、山は隣(ノ)國の境にあるものなれば、かくも書べし、大相は霜(ノ)字の誤、七は木(ノ)字の誤、爪は?(ノ)字の誤、謁は湯とある本に據て、シモキエテユケ〔七字右○〕なり、此(ノ)幸は十月にて、十一月までも彼(ノ)國に留(リ)坐る趣なれば、霜の深くおくころなり、吾瀬子は天智天皇を指奉る、此(ノ)時皇太子にて供奉したまへる趣、書紀に見えたり、射立爲兼は、イタヽスガネ〔六字右○〕と訓べし、五可新何本は、即(チ)龜竈(ノ)神社の嚴橿之本なり、此(ノ)女王も皇太子に從ひ奉りて行賜へるにて、竈山に詣賜はむとする日の朝など、霜のふかくおけるにつきて、よみ賜へるさまなりと云り、莫囂國隣をカマヤマ〔四字右○〕と訓しは、さもあるべき理なれど(83)も、山の霜とはいふべくもなし、また兄(ノ)字をエ〔右○〕の假字に用ひたることも、集中に例なし、また射立爲兼をイタヽスガネ〔六字右○〕とよみたるも、理は通ゆるに似たれども、賀禰《ガネ》てふ詞かゝるところにありては、下への連も聞惡くして、古(ヘ)人の風調《クチツキ》ともおもはれず、そは一首(ノ)歌を誦《トナ》へ擧てよく玩味《アヂハヒミ》ば、おのづからしらるべし、ことに此(ノ)女王は作歌《ヨミウタ》に秀群《スグレ》て、さしも世に聲《キコ》えたる人なるに、しか調(ヘ)のわるき歌よみ出賜はむや、さてまた嚴橿は上に云るごとく、三輪山のあたりにのみありて、さばかり名だゝるを、おして紀(ノ)國にありとせしもいかにぞや、強説といふべし、かゝれば此(レ)等の説を、人のあまなはざるもうべにぞありける、又或本に由中(ノ)道萬呂が説とて書入たるに、莫囂圓隣之を、舊訓にユフツキノ〔五字右○〕とあるを用べし、其(ノ)謂は晝にくらぶれば、夜はしづかなる意にて莫囂と書るなり、圓は滿月の形、その隣は夕月の意なりといへり、こは強て考へたる説なるうへ、一首の意を、いかにとも解竟《トキヲ》へざれば、さておくべし、又荒木田(ノ)久老が病床漫筆といふものに云、囂《カマビスシキ》ことなきは耳无なり、圓は山の形にて、倭姫(ノ)世記に、圓奈留《ツブラナル》有2小山1支《キ》、其所|乎《ヲ》都不良止《ツブラト》號(ケ)支《キ》と見えたり、しかれば莫囂圓は耳無山なり、耳無山に隣れるは香山なれば、莫囂圓隣之は、カグヤマノ〔五字右○〕と訓べし、大相土は、續紀四(ノ)卷に、相v土建2帝王之邑(ヲ)1とあるによるに、大に相《ミル》v土(ヲ)は國見なるべし、兄は一本无に作れば、爪謁の二字は、靄の一字を誤れるものにて、無2靄氣1はさやけきなれば、第二句はクニミサヤケミ〔七字右○〕と訓べきなり、第四(84)句は本居氏が訓にしたがひて、イタヽスガネ〔六字右○〕とよむべし、ガネ〔二字右○〕はいたゝすであらむといふ意、第五句は古寫の一本に、五可期何本とあれば、イツカアハナモ〔七字右○〕と訓べしと云り、此(ノ)考は甚《イト》めづらしげにはきこゆれど、まづ圓は山の形と云ることいかゞ、すべて山は圓なるものに
しもあらず、いはゆる圓(ラ)奈留《ナル》小山も、尋常《ヨノツネ》の山どもの形《サマ》とは異《カハ》りて、圓なる由にて、其所を都不良《ツブラ》とも號《ナヅケ》しといふ意にこそあれ、なべての山の形の圓ならむには、しかこと/”\しく其所乎都不良止號支などいふべきことかは、又迦具山の國見といはむも、あまりに打まかせたるいひ樣《ザマ》にて、古(ヘ)人の口氣《コトバ》ともおもはれず、いでやそはいかにまれ、イタヽスガネ〔六字右○〕といひて、いたゝすであらむといふ意とするも、古語の格《サマ》にたがひ、また何本をナモ〔二字右○〕とよまむことも、いかにぞや、かくては一首の意も通《キコ》えかねたれば、とにかくに此(ノ)説も用ふるにたらず、
 
中皇命《ナカチヒメミコノ》往《イマセル》2于|紀伊温泉《キノユニ》1之時御歌《ノトキノミウタ》
 
中皇命、命は女(ノ)字の寫誤にて、中皇女《ナカチヒメミコ》なるべし、上に委(ク)云り、(其は上に云たる如く、中皇女は、高市崗本(ノ)宮に御宇し舒明天皇の皇女、間人(ノ)皇女の更名《マタノミナ》とおもはるれば、かの崗本(ノ)宮(ノ)標中に、中皇女としるしたるは論なし、さてこの皇女は、孝徳天皇の皇后になり賜ひたれば、それより後は間人(ノ)大后と申せり、故(レ)天智天皇(ノ)紀にも間人(ノ)大后薨と記されたり、かくてもし難波(ノ)長柄(ノ)豐碕(ノ)宮(ニ)御宇(シヽ)天皇(ノ)代と申す總標《オホシメ》ありて、その標中に收《イリ》たる御歌ならむには、御名をば省きて(85)大后とか、皇后とかしるしてあるべし、しかるに孝徳天皇ははやく崩り坐て、此は後(ノ)崗本(ノ)宮(ニ)御宇し齊明天皇の御代の標中に收《イリ》たれば、大后とはしるし申すべくもあらず、況《シ》て皇太后《オホミオヤ》とは中すべくもあらねば、なほもとのまゝに、間人(ノ)大后とあらば混ふべくはなけれども、后にのぼりましゝを、御名を憚らず記すべくもなければ、こゝには難波(ノ)長柄(ノ)豐碕(ノ)宮(ニ)御宇(シヽ)天皇(ノ)大后、とあらば然るべきことなれど、しかこと/”\しくきはやかに記さむは、此(ノ)集の例にあらず、故(レ)此(ノ)御代のほどまでも、前にいまだ皇女にてまし/\し時の、更(ノ)名の中皇女と申せるが、やがて通稱《トホリミナ》の如く世に稱《マヲ》しならへるまゝに、歌集《ウタブミ》などにもしかしるし申せるによりて、此(ノ)標中にはかくしるしたるにこそあらめ、)○伊(ノ)字、類聚抄、拾穗本にはなし、
 
10 君之齒母《キミガヨモ》。苦代毛所知武《ワガヨモシラム》。磐代乃《イハシロノ》。岡之草根乎《ヲカノクサネヲ》。去來結手名《イザムスビテナ》。
 
君之齒母《キミガヨモ》、君は次の御歌に、吾勢子《ワガセコ》とよみ給へるを見れば、御兄中(チ)大兄にいざなはれてやおはしけむ、さらばかの中大兄をさし賜へるなるべし、齒はよはひを云、次の吾代も同じ、母《モ》は物二(ツ)を兼ていふ詞なり、次(ノ)句なるも同じ、君がよはひをも、吾(ガ)よはひをも兼て知むの意なり、○吾代毛所知武、(武(ノ)字、舊本に哉と作るは誤なり、本居氏(ノ)考によりて改つ、)ワガヨモシラム〔七字右○〕と訓べし、○磐代《イハシロ》は、紀伊(ノ)國日高(ノ)郡の地(ノ)名なり、○岡之草根乎《ヲカノクサネヲ》、草根はクサネ〔三字右○〕と訓て、たゞ草の事なり、(カヤネ〔三字右○〕と訓てもたがはねども、次の御歌は屋葺かたにつきて詔ひ、こゝは草結(ヒ)のこと(86)に詔へれば、なほクサネ〔三字右○〕なるべし、契沖は、武子内親王の此(ノ)御歌をとりて、岩代のをかのかやねにとよませ給ひぬれば、かやねと訓べしといへれど、すべて後のことをもて、古(ヘ)の證とはしがたし、)月夜《ツクヨ》といふは、たゞ月のことなるに同じ、○去來結手名《イザムスビテナ》は、去來《イザ》はさそふ詞なり、手名《テナ》は?牟《テム》を急に云るなり、(すべで牟《ム》は緩なることにいひ、那《ナ》は急なることに云て、緩急のたがひありと知べし、此(ノ)上にくはしく辨(ヘ)たり、手名《テナ》は、?牟奈《テムナ》の略なりといふはおろそかなり、)いざ/\急《トク》この岡の草を結びてむと、二念なくおもふよしなり、さて結(フ)とは、其(ノ)岡の草根を結びて、齡を契らむと爲《シ》たまふなり、(この結を次の御歌へかけて、草枕に結ぶことゝする説は非なり、次に借廬作良須云々とあるは、旅(ノ)宿をつくり賜ふよしなれば、その御歌より前に、草枕結ばむとのたまふべきよしなし、)草|及《マタ》松(ガ)枝など結びて契をかくるは、古(ヘ)のならはしなり、さるは二(ノ)卷に、磐代乃岸之松枝將結《イハシロノキシノマツガエスビケム》云々、又|磐代乃野中爾立有結松《イハシロノヌナカニタテルムスビマツ》云々、又|後將見跡君之結有磐代乃子松之宇禮乎《ノチミムトキミガムスベルイハシロノコマツガウレヲ》云々、六(ノ)卷に、靈剋壽者不知松之枝結情者長等曾念《タマキハイノチハシラズマツガエヲムスブコヽロハナガクトゾモフ》、七(ノ)卷に、近江之海湖者八十何爾可君之舟泊草結兼《アフミノミミナトヤソアリイヅクニカキミガフネハテクサムスビケム》、八(ノ)卷に、秋草乃結之紐乎解者悲哭《アキクサノムスビシヒモヲトクハカナシモ》、二十(ノ)卷に、夜知久佐能波奈波宇都呂布等伎波奈流麻都能左要太乎和禮波牟須波奈《ヤチクサノハナハウツロフトキハナルマツノサエダヲワレハムスバナ》、十二に、妹門去過不得而草結風吹解勿又將顧《イモガカドユキスギカネテクサムスブカゼフクトクナマタカヘリミム》、(伊勢物語に、わか草を人のむすばむとよめるも、古く草結といふことのあるにもとづきて云るなり、拾遺集十二に、ある男の松を結びて遣(ハ)したりければ、作者知ず、何(87)せむに結び初けむ岩代の松は久しき物と知(ル)々、後拾遺集十七に、友だちのもとなりける人の、松を結びておこせて侍ければ云々、)などあるを考(ヘ)合せて、古(ヘ)のならはしにせしやうおもひやるべし、たとへば若き松(カ)枝などを結(ビ)合せておきて、長(ク)久しき後、又かへり見む時まで、結びたるまゝにてあれといひて、契(リ)をかくるなり、(岡部氏(ノ)考に、松を結びて齡をちぎるにひとしければ、此(ノ)草は山菅をさしてよみ賜ふならむ、そは十二に、山草とあるをヤマスゲ〔四字右○〕と訓に據て、こゝの草も山菅の事ぞと知べし、と云るはひがことなり、十二に、山草とある草(ノ)字は、菅の誤なるよしは、彼處にいふべきを考へ見べし、)○御歌(ノ)意は、君がよはひの長きほどをも、吾よはひの久しきほどをも知べきは、めでたき此(ノ)岡の草なれば、いざ/\急《トク》結びて、長(キ)壽を契らむとのたまへるなり、
 
11 吾勢子波《ワガセコハ》。借廬作良須《カリホツクラス》。草無者《カヤナクバ》。小松下乃《コマツガモトノ》。草乎苅核《カヤヲカラサネ》。
 
吾勢子《ワガセコ》は、中(チ)大兄をさしてのたまふなるべし、上に云り、○借廬作良須《カリホツクラス》は、借廬《カリホ》は旅のやどりなり、前に兎道乃宮子能借五百《ウヂノミヤコノカリイホ》とありしに同じ、作良須《ツクラス》は作り賜ふといふ意なり、これも上に云り、○草無者《クサナクバ》は、草は可也《カヤ》にて、屋葺料の草をいふ稱にて、薄をいふ名となれること、上に云るが如し、無者《ナクバ》とは、草もとむとてこゝかしこたづねありきて、もしもとめ得賜はずてあらばとの意なり、されどこれはさきの御心をさぐりてかくのたまへるにて、實はたづねた(88)まひて勞し賜はぬさきに、こなたよりのたまへるなり、○小松下乃《コマツガシタノ》、とのたまへるは、小松はおひさきこもれる物なれば、その下なる草をふかば、あやかりもせむとてかくのたまへるか、またさらずとも、おのづから小松の下にふさはしき草おほかるを、見出賜ひてのたまへるにも有べし、○草乎苅核《カヤヲカラサネ》(核(ノ)字、類聚抄には椀と作り、)は、草を苅せといふに、根《ネ》の希望辭の添りたるなり、さて根の辭のそふにひかれて勢《セ》を佐《サ》に轉して核といへること、上に名告沙根《ナノラサネ》とあるところにいへるが如し、さてこゝはからせ賜はねといふが如し、(此を本居氏のカヤナクバ〔五字右○〕云々、クサヲカラサネ〔七字右○〕と別てよまれたる、一(ト)わたりは實に然どと思はるれども、薄をやがて加夜《カヤ》といふ所由《ヨシ》は、前註にことわれるごとくなれば、草は兩(ツ)ながら加夜《カヤ》とままむぞよろしき、)○御歌(ノ)意は、借廬にふくべき草を、もしもとめかね給はゞ、小松の下にふさはしき草のおほく見ゆるを、かりてふき賜はね、さらば小松にあやかりて、ともにおひさきも久しからむぞとのたまへるなり、十(ノ)卷に、※[虫+廷]野之尾花苅副秋芽子之花乎葺核君之借廬《アキヅヌノヲバナカリソヘアキハギノハナヲフカサネキミガカリホニ》、とあるは趣(キ)似たる歌なり、
 
12 吾欲之《アガホリシ》。子島羽見世追《コシマハミシヲ》。底深伎《ソコフカキ》。阿胡根能浦乃《アコネノウラノ》。珠曾不拾《タマゾヒリハヌ》。
 
吾欲之《アガホリシ》は、かねて吾(ガ)見まほしく思ひしといふなり、○子島羽見遠《コシマハミシヲ》、(舊本に野島波見世追とありて、或頭(ニ)云、吾欲《アガホル》子島羽見遠、と註せるを今は擇び取用つ、吾欲とあるはよろしからねば、舊(89)本に從つるなり、)子島《コシマ》は、紀伊(ノ)國名草(ノ)郡和歌山(ノ)城府より、今道三里ばかり北に兒島と云あり、今人家千五六百戸許ありて、往來の船の泊る處なりと其(ノ)國人云り、是なるべし、さてかねて見まほしく思ひし子島は見しものを、こゝをだに見たらば、思ひのこす事はさらにあるまじきにの意にて、次の句をのたまはむ下形なり、(野島は次にいふ、)○底深伎《ソコフカキ》は、(略解にソコキヨキ〔五字右○〕とよめるはいかに、もしは清(ノ)字の誤と見たるか、又深(ノ)字の心を得てよみたるにや、意得がたし、)珠のひろひがたきは、もと底の深きがゆゑなれば、かくのたまへり、○阿胡根能浦《アコネノウラ》は、日高(ノ)郡鹽屋浦の南に野島(ノ)里といふありて、其處《ソコ》の海邊を阿胡禰浦《アネウラ》と云て、貝の多くより集る所なりとぞ、○珠曾不拾《タマゾヒリハヌ》(拾(ノ)字舊本捨と作るは誤なり、元暦本、類聚抄古寫本、拾穗本等に從つ、)珠はいはゆる眞珠をも、又石にまじれる玉をもいへり、曾の辭力(ラ)あり、珠ひろはざる一(ト)すぢのみあかぬ事なるよし、つよく思はせむがための辭なり、不拾をヒリハヌ〔四字右○〕と訓(舊來これをヒロハヌ〔四字右○〕とよめるは後なり、)例は、十五に、於伎都白玉比利比弖由賀奈《オキツシラタマヒリヒテユカナ》、又|和多都美能多麻伎能多麻乎伊敝都刀爾伊毛爾也良牟等比里比等里《ワタツミノタマキノタマヲイヘヅトニイモニヤラムトヒリヒトリ》、又|多麻能宇良能於伎都之良多麻比利敝禮杼《タマノウラノオキツシラタマヒリヘレド》、又|伊敝豆刀爾可比乎比里布等《イヘヅトニカヒヲヒリフト》、十八に、多麻母比利波牟《タマモヒリハム》、二十(ノ)卷に、可比曹比里弊流《カヒゾヒリヘル》など、いづれも假字書にはかくあり、(多麻等比呂波牟《タマトヒロハム》と見《ア》れども、彼は東歌なれば、なべての例證《アカシ》にはなりがたし、)○御歌(ノ)意は、かねてみまほしく思ひし兒島をば見しかば、おもひのこす(90)ことあるまじき事なるに、なほこの阿胡根の浦の底深くて、珠のひろはれねば、都人になにの裹《ツト》もなくてあらむのみ、口をしきことゝのたまへるなり、さてこの御歌上二首と連續《ツヾケ》るにはあらず見ゆ、此(ノ)ついてに此(ノ)阿胡根のあたりへもおはして、よませ給へるなれば、ひとつにつらねられたるなるべし、
〔右※[手偏+僉](ルニ)2山上(ノ)憶良(ノ)大夫(カ)類聚歌林(ヲ)1曰、天皇御製歌云々、〕
契沖、此(ノ)説ならば君が代とは、御供の皇子大臣をのたまふべし、仁和のみかど、僧正遍昭に七十(ノ)賀給ひける御歌に、君が八千代とよませ給へりといへり、但し右幾首となきからは、歌林の説は吾欲之の一首をさせるにや、
 
中大兄《ナカチオホエノ》【近江(ノ)宮(ニ)御宇(シ)天皇】三山御歌《ミツヤマノミウタ》
 
中大兄は、近江(ノ)宮荷御宇(シ)天智天皇の、まだ皇子にておはします時の御名、ナカチオホエ〔六字右○〕と讀べし、中をナカチ〔三字右○〕とよむべきよしは上に云り、(略解に、中大兄(ノ)命とあるべきなりといひ、既《ハヤ》く契沖も中大兄(ノ)尊とか、中大兄(ノ)皇子とかあるべきが脱たるなるべしと云り、皆非なり、)大兄《オホエ》は、皇子と申すと同(ジ)ことなり、(そも/\此(ノ)目録にも、且《マタ》異本等にも、又書紀にも中(チ)大兄とのみ書て、皇子とも命ともなきは、大兄と申(ス)と、皇子と申すと同じきが故ぞ、然るを聖徳太子傳暦、磯原(91)抄などに、中大兄(ノ)皇子、元亨釋書に、中大兄(ノ)王子など書《ア》るはかへりて後なり、)其(ノ)據は、書紀孝徳天皇(ノ)卷に、古人(ノ)皇子を古人(ノ)大兄ともかたみに多く書て、古人(ノ)大兄(ノ)皇子とは連書ざるにて知べし、(皇極天皇(ノ)紀に唯一(ト)ところのみ、古人(ノ)大兄(ノ)皇子とあるは、却りていかゞにおぼゆるなる、又舒明天皇(ノ)紀に、法提(ノ)郎媛生2古人(ノ)皇子(ヲ)1、註に更(ノ)名大兄(ノ)皇子とあるも甚疑はし、後人の書加へしものとこそおもはるれ、孝徳天皇(ノ)紀には、古人(ノ)大兄とある註に、更(ノ)名古人(ノ)大市(ノ)皇子とあるをや、)私記に、昔稱2皇子(ヲ)1爲2大兄(ト)1、鉈稱2近臣(ヲ)1爲2少兄(ト)1也、と見えたるが如し、但し集の例にて、日並(ノ)皇子(ノ)尊、高市(ノ)皇子(ノ)尊などある例なれば、こゝも中(チ)大兄(ノ)尊とあるべきものならむとも思ふべけれども、こゝは未(ダ)皇太子に立給はぬ間に作(ミ)給へる御歌なれば、猶もとのまゝに記せるならむ、なほこの大兄の御傳は下に委(ク)云べし、○三山は、高山《カグヤマ》、雲根火山《ウネビヤマ》、耳梨山《ミヽナシヤマ》をさす、【〔頭註〕古本後紀十三延暦廿四年十二月丁巳、勅大和國畝火香山耳梨等山、百姓任意伐損、國更寛容不加禁制、自今以後莫令更然、】さてこれは此(ノ)三山を見ましてよみませる御歌にあらず下に引(ク)播磨風土記に見えたる故事を聞まして、播磨にてよみ給へるなり、その故事といふは、むかしいづれの代にか有けむ、此(ノ)三山の相闘て、なりとよめきけるを、出雲(ノ)國|阿菩《アホ》と申す大神の聞給ひて、諫めてその闘をやめしめむとて、播磨(ノ)國までおはしけるほどに、山の闘止ぬと聞て、乘(リ)給ひし船をうちうつぶせて、それに座《オハ》して本(ツ)國へはかへらで、播磨にとどまり給ふ、これを三山の闘といふそれなり、○御歌の御(ノ)字、舊本脱せり、目録によりて補へ(92)り、○歌(ノ)下、舊本一首の二字あり、今は頻聚抄、元暦本等に無に從つ、凡この一(ノ)卷題詞には、首數をしるさゞる例と見えたればなり、
 
13 高山波《カグヤマハ》。雲根火雄男志等《ウネビヲエシト》。耳梨與《ミヽナシト》。相諍競伎《アヒアラソヒキ》。神代從《カミヨヨリ》。如此爾有良之《カクナルラシ》。古昔母《イニシヘモ》。然爾有許曾《シカナレコソ》。虚蝉毛《ウツセミモ》。嬬乎《ツマヲ》。相挌良思吉《アラソフラシキ》。
 
高山波《カグヤマハ》、高山を迦具山《カグヤマ》と云に用ひたるは、カウ〔二字右○〕の音のウ〔右○〕をグ〔右○〕に轉(シ)用(ヒ)たるなり、香山と書るも全(ラ)同義なり、香も高も共にカウ〔二字右○〕の音なればなり、波《ハ》は耳梨與《ミヽナシト》とある與《ト》の言にむかへて意得べし、(しかるを古來註者等、かぐ山をばといふ意に見たるはひがことなり、これかぐ山を女山とするよりの説なれど、かぐ山は女山にあらず、)なほ次に云べし、○雲根火雄男志等、この訓は次にいふべし、雲根火《ウネビ》は、高市(ノ)郡八木村の南一里ばかりにありて、今俗に慈明寺山と稱とぞ、そも/\此御歌|舊説《フルキトキゴト》は皆誤なり、故(レ)まづ初句より四句までの意をこゝにいはむ、大神(ノ)眞潮(ノ)翁(ノ)説に、雲根火は女山《メヤマ》、高山、耳梨の二は男山《ヲヤマ》、然《サ》て雲根火雄男志の雄は辭《テニヲハ》、男志は愛《ヲシ》の意にて高山と耳梨と、雲根火山を愛《ヲシ》とて互《カタミ》に諍ふなり、且《マタ》反歌の相之時《アヒシトキ》と有も、高山と耳梨山と相戰し時といふ意ぞといへり、かく見るときは高山波といへる、波《ハ》の語辭《カタリコトバ》穩に聞ゆれば、まことにいはれたりといふべし、雲根火を女山とする事の證を云(ハ)ば、古事記安寧天皇(ノ)條に、畝火山之美富登《ウネビヤマノミホト》とあるは御女陰《ミホト》にて、これ女山なるが故なり、さるはすべて古事記、書紀を(93)考へわたすに、當登《ホト》といへるは大抵《ヲサ/\》女陰ならぬはなきが如くなるを思(フ)べし、(其(ノ)中古事記に、迦具土(ノ)神之於v陰|所成神《ナリマセルカミ》とある陰はミホト〔三字右○〕と訓べきか、又他に訓べきやうあるか、もしこれをミホト〔三字右○〕と訓ときは、富登は男女にわたりて云し稱とすべきか、これひとつにて男女に云稱とは決《サダ》めがたし、又草(ノ)類の百部をホトツラ〔四字右○〕といふは、陰葛《ホトツラ》にて、其は男陰に形どりていへる稱にてもあるべきか、さらばなほ男女にわたりて、いひし稱にてもあるべからむか、もしはもとは、男女にかぎらず云る稱とするときは、女の陰門はその成出る元(ノ)處なるが故に、人はさらにて、萬(ノ)物女陰によりて心動(キ)すること、そのもとふかきゆゑあることにて、たやすくつくしがたし、かく心動(キ)せらるゝが故に、そのもと男女にわたりし稱なるが、おのづから女にかぎりていふ稱のごとくになれるにも有べし、さlればもと實は畝火山の御女陰《ミホト》に心動(キ)せしよりことおこりて、つひに二山の會戰《アラソヒ》はありしなれど、あだし國などの如く、さまで物をあらはにあさましくいひたりしことのなきは、神代よりのみやびてぶりなりとしるべし、)然るにかの翁(ノ)説に、男志を愛《ヲシ》の意ぞといへるは、なほ俗意なり、(愛を古(ヘ)乎思《ヲシ》と云る例なきことなり、孝徳天皇(ノ)紀に、大臣謂2長子與志1曰、汝|愛《ヲシキ》v身乎とあるは、ヲシキ〔三字右○〕とよめる言のうへにては惜《オシキ》意なり、愛(ノ)字の本義にはあらず、混ふことなかれ、)故(レ)按(フ)るに、男は曳(ノ)字を寫誤れるものにぞありけむ、さらばウネビヲエシト〔七字右○〕と訓べし、(曳(ノ)字をエ〔右○〕の假字に用ひたる例、此(ノ)集の未に(94)多し、)曳志《エシ》は善《ヨ》しなり、善《ヨ》を曳《エ》と云ること、集中にも書紀にもこれかれ例あり、又吉野をも古(ヘ)は延斯努《エシヌ》といひしこと、又|住吉《スミノエ》、日吉《ヒエ》などいふ類をも考(ヘ)合(ス)べし、さてこゝは畝火を善《ヨ》しと愛憐《ウツクシ》むなり、愛憐は善《ヨ》しとする事の最一《イヤサキ》なれば、やがて曳志《エシ》とのみ云て、愛憐む意になれり、されば古事記上卷に、阿那邇夜志愛袁登古袁《アナニヤシエヲトコヲ》とあるも、延《エ》を體に可愛男《エヲトコ》とのたまへるなり、即(チ)書紀には、妍哉可愛少男歟《アナニエヤエヲトコヲ》とあるにてしるべし、又古事記中(ツ)卷神武天皇大御歌に、加都賀都母伊夜佐岐陀弖流延袁斯麻加牟《カツガツモイヤサキダテルエヲシマカム》、とある延《エ》も可愛《エ》の意なるを思ふべし、等《ト》はとての意なり、○耳梨與《ミヽナシト》は、耳梨は大和志に、在2十市(ノ)郡木原村(ノ)上方(ニ)1、四面田野、孤峯森然(タリ)、山中梔樹多(シ)矣、因又呼2梔子《クチナシ》山(ト)1とあり、【〔頭註〕 古今集誹諧、耳なしの山のくちなしえてしかな思ひの色のしたそめlこせむ、東遊草天神山(耳梨山なり、)】與《ト》は與共《トトモ》にの意なり、○相諍競伎《アヒアラソヒキ》は、雲根火を得むとて、高山と耳梨と、相共にあれさきにと諍《アラソ》ふよしなり、伎《キ》はさきにありしことを今かたるてにをはなり、○神代從《カミヨヨリ》、神代(ノ)といふは、大かた上(ツ)古をひろくさしていふ辭なり、人(ノ)代にむかへていふ神代にはあらず、こゝは即(チ)かの播磨風土記に見えたる、故事の有し時をさす、從《ヨリ》とあるは、今はじまりたるにはあらざるよしを宣へるなり、○如此爾有良之は、カクナルラシ〔六字右○〕と六言に訓るよろし、如此とさし給へるは、今の人の嬬あらそふ事をさし給へるなり、それを神代へかへして、今新にはじまれるにはあらず、神代よりしてかやうにあるらしとなり、良之《ラシ》は大かたたしかにはしられねど、大概《オホムネ》その事の察知《ハカリシラ》るゝをいふ辭(95)なり、(今の、俗に、サウナ〔三字右○〕といふに同じ、)○古昔母《イニシヘモ》、伊爾之閇《イニシヘ》とは往(シ)方といふにて、今より以往《ヲチツカタ》をひろくさす詞なり、母《モ》は現在にむかへたるなり、○然爾有許曾は、シカナレコソ〔六字右○〕と六言に訓る宜し、然とはさやうにといふ意なり、ナレ〔二字右○〕はニアレ〔三字右○〕の約まれるなり、ナレコソ〔四字右○〕はナレバコソ〔五字右○〕の意なり、(これを、婆《バ》を略けるなりとおもふはわろし、古言には、婆《バ》はなくても其(ノ)意に聞えたることにて、もとより有べきものを略きたるにはあらず、)かくざまにいへること古言に例多し、上には今の世のありさまをもて如此とのたまひ、こゝには古昔の事をさして然とはのたまへるなり、許曾は上に註るが如し、この辭一首の眼なり、こゝろをつけて聞べし、上には良之とおしはかりて宣ひ、こゝには許曾と決めて宣へるなり、神代のむかしよりかやうのことは、あるならひにてあるらし、さやうにあればこそ現在の身もとつゞく意なり、○虚蝉毛《ウツセミモ》は、現在の身もといふが如し、毛《モ》は古昔にむかへてのたまふなり、さて虚蝉は、集中借(リ)字には空蝉とも、打背見とも、又假字には鬱瞻《ウツセミ》、宇都曾臣《ウツソミ》、字都世美《ウツセミ》などかけり、さてこは顯身《ウツシミ》てふことぞとは、たれもしかおもひよれる事にて、實に其(ノ)義なることは、論を待ずて明らかなり、然るを文字は右に載る如く種々に書たれども、宇都思美《ウツシミ》と書るは一(ツ)もなくて、皆|宇都曾美《ウツソミ》、宇都世美《ウツセミ》とのみ書れば、宇都世《ウツセ》、宇都曾《ウツソ》は、宇都思《ウツシ》の思《シ》の語を轉したるにはあらで、いささか意味ある語なるべし、もし宇都思《ウツシ》の思《シ》を轉したりとせむには、宇都思伎《ウツシキ》、また宇都思伊(90)波比《ウツシイハヒ》、また宇都思情《ウツシコヽロ》、宇都之眞子《ウツシマコ》、などいふ宇都思《ウツシ》をも、宇都世《ウツセ》とか宇都曾《ウツソ》とかいひたるがあるべきに、しかいへるはをさ/\見えざるを思ふべし、又|打背貝《ウツセガヒ》といへるも、只|空《ウツ》し貝てふことにはあらで、空石花貝《ウツセガヒ》てふことなれば別《コト》なり、そのうへかゝる詞の思《シ》と曾《ソ》世《セ》とは通(ハ)し言る古(キ)證《アト》をも、見及ばざることなれば、かにかくに直に顯し身てふ意にはあらじとぞ思ふ、されど其(ノ)義は未(タ)思得ず、古事記に、雄略天皇の葛木山にて、一言主大神の御ありさまを顯《ウツ》しく見《メ》し賜ひて、のりたまふ大御詞に、恐我大神《カシコシアガオホカミ》、有《アリト》2宇都志意美《ウツシオミ》1者《ハ》、不《ザリキト》v覺《オモホエ》白而《ノリタマヒテ》、云々とある、この宇都志意美《ウツシオミ》は現大身《ウツシオミ》と聞えて、大神を敬ひて詔ふことゝはおぼゆれど、そのもとは宇都曾身《ウツソミ》と云と一(ツ)か別か、字都志意美《ウツシオミ》を切れば、宇都曾美《ウツソミ》となればなり。(志意《シオ》の切|曾《ソ》、)猶考(フ)べし、○嬬乎《ツマヲ》、三言一句なり。此は七言の位の句を三言に詔へるなり。此(ノ)格の例は余が永言格に委(ク)云り、彼(ノ)書に就て考(フ)べし、さて嬬とは、夫よりも婦よりもいふ稱なり、集中に例多し、○相挌良思吉《アラソフラシキ》、(挌(ノ)字、舊本に格、類聚抄に恪と作《カケ》るはわろし、元暦本、官本等に從つ、字彙に、挌(ハ)撃也|闘《タヽカフ》也とあり、)相挌をアラソフ〔四字右○〕と訓は、二(ノ)卷に相競、十(ノ)卷に相爭など、アラソフ〔四字右○〕と訓處に皆相(ノ)字をそへて書り、カタラフ〔四字右○〕といふに相語とかけるに同例なり、又挌(ノ)字を用ひしは、十六(ノ)詞書に有2二壯士1、共(ニ)誂2此娘(ヲ)1而、捐v生挌競と書り、良思《ラシ》は上にいへるが如し、吉《キ》は今(ノ)世に伊《イ》といふに同じ、(今(ノ)俗にラシイ〔三字右○〕といふこれなり、)良思吉《ラシキ》とつゞきたるは、書紀推古天皇(ノ)大御歌に、於朋枳彌能菟伽破須羅(97)志枳《オホキミノツカハスラシキ》とあるをはじめてかた/\に見えたり、さてこゝの吉《キ》は、上の然爾有許曾《シカナレコソ》を結めたり、許曾といひて吉《キ》ととぢむる例、天智天皇(ノ)紀童謠に、阿喩擧曾播施麻倍母曳岐《アユユソハシマヘモエキ》、仁徳天皇(ノ)紀皇后(ノ)御歌に、虚呂望虚曾赴多弊茂豫耆《コロモコソフタヘモヨキ》、集中十一に、難波人葦火燎屋之酢四手雖有己妻社常目頬次吉《ナニハヒトアシビタクヤノスシテアレドオノガツマコソツネメヅラシキ》、又|最今社戀者無爲無寸《モハライマコソコヒハスベナキ》、又|加敝良未爾君社吾爾栲領巾之白濱浪乃縁時毛無《カヘラマニキミコソアレニタクヒレノシラハマナミノヨルトキモナキ》、十二に、玉釧卷宿妹母有者許曾夜之長毛勘有倍吉《タマクシロマキネシイモヽアラバコソヨノナガケクモウレシカルベキ》、十七に、野乎比呂美久佐許曾之既吉《ヌヲヒロミクサコソシゲキ》、などある此(レ)等その例なり、又|許曾《コソ》と云て良思吉《ラシキ》と結めたるは、六(ノ)卷に、諸石社見人毎爾語嗣偲家良思吉《ウベシコソミルヒトゴトニカタリツギシヌビケラシキ》とあり、(中昔にもコソ〔二字右○〕をキ〔右○〕と結めたる例あり、古本枕草紙に、紅《クレナヰ》のは月|夜《ヨ》こそ惡《ワロ》き、榮花物語に、さやうの事こそかはをべき、落窪物語に、しられ奉らんこそくるしきとのたまへば、今昔物語に、行着で道にてこを落申べきなどあり、又かげろふの日記に、たびかさなりけるそあやしきなど、もろともにこそわらひてき、大鏡に、宣旨かうふらせ給ひて、あるき給ひしありさまこそ、落居てもおぼえ侍らざりき、梁塵秘抄口傳集に、土佐(ノ)守盛長が甲斐へ具してまかりたりしに、ならひたりしをこそ、おや申候きなどもみゆ、猶多かるべし、今は姑(ク)記得《オボエ》たる耳《ノミ》を擧つ、)○御歌(ノ)意は、播磨におはしまして、かの阿菩《アホノ》大神のとゞまり給ひし處にて、三山のあらそひの事をおぼしいでられ、神代以來さる例ある故に、今(ノ)人も嬬をあらそふならし、しかれば今(ノ)人のおとなしからぬにしもあらず、いにしへよりのならひにこそあれと、今(ノ)人つま(98)あらそひするを、あらぬことにおぼしめせるに、その大古よりはじまれることに御心つきて、今までの御疑をはるけ給ひしよしなり、
 
反歌《カヘシウタ》
 
14 高山與《カグヤマト》。耳梨山與《ミヽナシヤマト》。相之時《アヒシトキ》。立見爾來之《タチテミニコシ》。伊奈美國波良《イナミクニハラ》。
 
相之時《アヒシトキ》は、高山《カグヤマ》と耳梨山《ミヽナシヤマ》とふたつの雄山《ヲヤマ》が、共に畝火の雌山《メヤマ》を得むとて、會戰《アヒタヽカヒ》し時の義なり、(これを高山と耳梨と婚合《アヒ》し時とするは、いたく齟齬《タガ》へること上に委(ク)辨(ヘ)たるがごとし、)書紀神功皇后(ノ)卷に、烏智箇多能阿邏々麼菟麼邏麼蒐麼邏珥和多利喩祗?蒐區喩彌珥未利椰塢多具陪宇摩比等破于摩譬苫奴知野伊徒姑播茂伊徒姑奴地伊装阿波那和例波《ヲチカタノアラヽマツバラマツバラニワタリユキテツクユミニマリヤヲタグヘウマヒトハウマヒトドチヤイツコハヤイツコドチイザアハナワレハ》、(去來《イザ》將《ナ》2會戰《アハ》1我者《ワレハ》なり、)又|多摩岐波屡于池能阿曾餓波羅濃知波異佐誤阿例椰伊装阿波那和例波《タマキハルウチノアソガハラヌチハイサゴアレヤイザアハナワレハ》、(上に同じ、)これら會(ヒ)戰ことを、會《アフ》とのみ云る證なりけり、(毛詩に、肆伐2大商(ヲ)1會《アヘル》朝《アシタ》清明(ナリ)、とありて、注に會朝(ハ)會戰之旦也といへり、かゝればから國にても、會(ヒ)戰(フ)ことを會とのみも云り、)○立見爾來之《タチテミニコシ》は、タチテミニコシ立とはかの阿菩(ノ)大神の、出雲(ノ)國を立てといふなり、見爾來之《ミニコシ》とは、大和(ノ)國にいたりて見むとて來給ひしをいふ、實はたゞ見そなはさむとてにはあらず三山の相闘を諫めむとて、上(リ)來給ひしをかくよみたまへるなり、(見とは單《タヾ》に見ることのみに非ず、見行(フ)ことをいへること多し、)さてこの印南まで來ましゝに、山の闘止ぬときこしめして、大和までのぼり給はずし(99)て、そこにとゞまり給ひしを、おほよそにのたまへるなり、播磨風土記に、出雲(ノ)國阿菩(ノ)大神、聞2大和國(ノ)畝火香山耳梨三山相闘(ト)1、以v此|欲《オモホシテ》v諫(ムト)v山(ヲ)上(リ)來(マセル)之時、到(リタマヒ)2於此處(ニ)1、乃l聞(テ)2闘止(ヌト)1、覆(シテ)2其所v乘之船(ヲ)1而坐(シキ)之、故(レ)號2神集之覆形《カムツメノフセカタト》1、あるは即(チ)その故事なり、(今も播磨(ノ)國鹿子川の西に、神詰《カムヅメ》といふ所ありとなむ、)さて此(ノ)御歌もその故事を聞坐て、播磨(ノ)國にて作(ミ)たまへるなり、○伊奈美國波良《イナミクニハラ》、(波良、拾穗本に原と作り、)伊奈美《イナミ》は和名抄に、播磨(ノ)國印南(ノ)(伊奈美《イナミ》)郡とあり、是(ノ)地なり、(續紀二十六に、播磨(ノ)國賀古(ノ)郡|印南野《イナミヌ》とあるは、此(ノ)野は印南(ノ)郡より、賀古(ノ)郡にも渉《カヽ》れる地なるべしといへり、)集中三(ノ)卷に、稻日野《イナビヌ》、又(二十四丁)稻見乃海《イナミノミ》、四(ノ)卷に、稻日都麻麻浦箕乎過而《イナビツマウラミヲスギテ》、六(ノ)卷(十七丁)に、神龜三年、幸2於播磨(ノ)國印南野(ニ)1時、云々、稻日野能大海乃原笶《イナビヌノオホウミノハラノ》、古事記中卷景行天皇(ノ)條に、天皇娶(テ)2針間之伊那毘能《ハリマノイナビノ》大郎女(ヲ)1、云々などありて古(ヘ)より伊奈美《イナミ》とも伊奈※[田+比]《イナビ》とも云りしなり、國と云るは初瀬(ノ)國、難波(ノ)國、吉野(ノ)國などいへる類にて、一郡一郷をも國といへり、原の事は上に云り、さてかくよみすてたまひて、印南の形状いかにありともことわりたまはざるが、中々に御餘意ふかくかぎりなくて、後(ノ)人のかけても及(ビ)奉らるべききはにはあらずかし、○御歌(ノ)意は、雲根火の女山を得むとて、かぐ山耳梨山の相戰し時に、その戰を諫めむとて、わざ/\出雲(ノ)國を立て阿菩(ノ)大神のおはしゝが、そのあらそひやみぬときこししめして、とまらせ賜ひし印南(ノ)國は、こゝそとのたまへるなり、○此(ノ)三山の相戰《タヽカヒ》の事を甚《イタ》く異《アヤシ》みて、山の燒しを相戰になずらへ(100)て、いひなせしものぞなどいふなるは、例の理を主とする徒《トモガラ》の言ぞ、近く長尾(ノ)謙信の、越後(ノ)國春日山の城内にて、大石の戰ひて碎け散しと云ことも聞侍れば、まして上古には、さる事も常有けむをや1
 
15 渡津海乃《ワタツミノ》。豐旗雲〔三字左○〕爾《トヨハタグモニ》。伊理比沙之《イリヒサシ》。今夜月夜《コヨヒノツクヨ》。清明己曾《キヨクテリコソ》。
 
渡津海乃《ワタツミノ》は、(借(リ)字)海神の御名を綿津見(ノ)神と申す、それより轉りて海をいふ、古事記傳に委くいへり、(さればこゝに海とかけるは、たゞ見《ミ》の假字なり、さるを後(ノ)人海はうみの義と心得て、わたつうみといふは非なりとしるべし、)○豐旗雲《トヨハタグモ》は、豐は稱辭とて、豐御酒《トヨミキ》、豐祝《トヨホキ》、豐葦原《トヨアシハラ》、豐秋津洲《トヨアキヅシマ》、豐泊瀬《トヨハツセ》などの豐のごとし、大《ヒロ》くゆたかなるかたちをたゞへていへるなり、旗雲は、旗《ハタ》の靡有《ナビケル》如く棚引たる雲を云、(道晃親王御本に、旗雲(ハ)、古語(ニ)海雲映2夕日(ニ)1、赤色似v旗(ニ)也、と注し給へり、)文徳天皇(ノ)實録に、天安二年六月庚子、有2白雲1竟v天(ニ)、自v艮亘v坤(ニ)1、時人謂2之旗雲(ト)1、同八月丁未、是夜有v雲竟v天、自v艮至(ル)v坤(ニ)、人謂2之旗雲(ト)1とあり、但し彼《ソ》は時人《ヨノヒト》のことさらにしか呼なせし物にて、今はただ十四に、由布佐禮婆美夜麻乎左良奴爾努具母能《ユフサレバミヤマヲサラヌニヌグモノ》、(布雲之《ヌノグモノ》なり、)とある類にいひなし賜(ヘ)るなり、(懷風藻大津(ノ)皇子(ノ)詩に、月(ノ)弓輝2谷裏(ニ)1雲(ノ)旗張2嶺前(ニ)1、)○伊理比沙之《イリヒサシ》、(沙、古寫本に禰と作り、又拾穗抄に、仙覺と由阿が本にも禰とあるよし云り、皆わろし、)は、入日指《イリヒサシ》なり、豐旗雲に入日さして、こよひの月のさやかならむことを、かねてよりのたまへるなり、(今入日のさすを見ておほ(101)せられたるにはあらず、混(フ)べからず、)○月夜は、ツクヨ〔三字右○〕と讀べし、古言には、月夜を都伎欲《ツキヨ》とはいはず、都久欲《ツクヨ》とのみいへり、(由布豆久欲《ユフヅクヨ》、二十(ノ)卷に、都久欲《ツクヨ》と假字書あり、)さて月夜はたゞ月をいふ、後々は月夜は、月の夜てふことのみにせれど古(ヘ)は然にあらず、古今集に、夕月夜《ユフヅクヨ》刺や岡邊の云々とあれば、彼(ノ)頃までも、たゞ月を月夜といひしことありしにこそ、又月夜よし夜よしとよめるも、たゞ月よしといへりとこそ聞えたれ、○清明己曾は、キヨクテリコソ〔七字右○〕と訓べし、(清明をアキラケク〔五字右○〕といふは古言にあらず、)さて明(ノ)字にても、テリ〔二字右○〕とはよむべきことなれども、集中に皆照(ノ)字をのみ用たるを思へば、こゝも明は照の誤寫にそ有べき、※[照の草書]と※[明の草書]と草書甚混(ヒ)易ければなり、(或説に、明は有(ノ)字の誤にて、キヨクアリコソ〔七字右○〕なるべし、と云るはあたらず、)清(ク)照(ル)とつゞけたる例は、四(ノ)卷に、月讀之光者清雖照有《ツクヨミノヒカリハキヨクテラセレド》、七(ノ)卷に、野邊副清照月夜可聞《ヌヘサヘキヨクテルツクヨカモ》、八(ノ)卷に、雨晴而清照有此月夜《アメハレテキヨクテリタルコノツクヨ》、十(ノ)卷に、暮三伏一向夜不穢照良武高松之野爾《ユフヅクヨキヨクテルラムタカマドノヌニ》などあり、己曾《コソ》は希望辭なり、いかで今夜の月さやかにあれかしと希望《ネガヒ》給ふなり、故(レ)集中に多く乞欲などの字を書り、いと多き詞なり、(又社、與、與具などの字を書るは、其(ノ)義未(タ)詳ならず、但し蒙求二(ノ)卷に、前漢(ノ)朱買臣、云々買臣、乞《アタヘテ》2其(ノ)夫(ニ)錢(ヲ)1令v葬、注に、與(ルモ)亦曰v乞(ト)とあり、これにて見れば、與乞彼方にても通(ハシ)用たる字にてありけむ、さてこの己曾といふ詞、上古にのみ用ひて、中昔より以來はをさ/\きこえず、たま/\伊勢物語に、秋風吹と雁に告己勢《ツゲコセ》、とあるのみなり、それも己曾を己勢と訛(102)りたり、催馬樂にも、いで吾駒はやくゆこき己勢とあり、)さてこゝをテレコソ〔四字右○〕と訓べきかとも思へど、五(ノ)卷に、左氣爾于可倍許曾《サケニウカベコソ》、二十(ノ)卷に、伊母爾都氣許曾《イモニツゲコソ》の類猶有、)なほ今は、五(ノ)卷に、知良須阿利許曾《チラズアリコソ》、十(ノ)卷に、爾保比與《ニホヒコソ》二十(ノ)卷に、伊母爾都岐許曾《イモニツギコソ》、などある(これらアレコソ〔四字右○〕、ニホヘコソ〔五字右○〕、ツゲコソ〔四字右○〕とは云ざれば、その)例に据て、テリコソ〔四字右○〕と訓つ、○御歌(ノ)意は、此(ノ)風景おもしろき海濱にして、今夜の月見むとおもふ時しも、入日の空に心なく雲の棚引よ、かくてはこよひの月もさやかならじを、いかでかの入日の影のこゝろよくてりて、雲もはれゆき、今夜の月しもさやかに有(レ)かしと作坐《ヨミマセ》るなり、又こよひこゝより、御船にめし給はむの御心ありて、いよいよ月のさやけからむことをねがひ給へるにも有べし、(略解の説は聞とりがたし、)夫木集に、法性寺入道關白、入日さす豐旗雲のけしきにてこよひの月は空に知にき、崇徳院御製、入日さす豐旗雲にわきかねつ高間の山の峯のもみぢば、○此(ノ)御歌は三山の反歌にあらざることはいふに及ばず、されど同じ度、此(ノ)印南の海邊にてよませ給ふなるべし、
〔右一首歌。今案不v似2反歌1也。但舊本以2此歌1載2於反歌1。故今猶載v此歟。亦紀曰。天豐財重日足姫天皇先四年乙巳。立2爲 天皇1爲2皇太子1。〕
也但を、拾穗本に然依と作(キ)、歌載の下に茲(ノ)字ありて、於反以下なし、○此歟、元暦本古寫本等には此次と作《カケ》り、○先四年とは、皇極天皇の四年なり、此(ノ)年乙巳にあたれり、先とはこの齊明天(103)皇(ノ)代の標下に、先の事を引たるが故、先後まざれじがためなり、皇極天皇(ノ)卷に、四年六月丁酉朔庚戌、讓2位於輕(ノ)皇子(ニ)1、立2中大兄(ヲ)1爲2皇太子(ト)1、と見えたり、○爲天皇、爲(ノ)字元暦本に無(シ)、此(ノ)三字中大兄に改べし、
 
近江大津宮御宇天皇代《アフミノオホツノミヤニアメノシタシロシメシヽスメラミコトノミヨ》
 
近江(ノ)大津(ノ)宮は、志賀(ノ)郡にあり、後紀に、延暦十三年十一月丁丑、詔曰、云々、近江(ノ)國滋賀(ノ)郡古津者、先帝(ノ)舊都(ナリ)、接2輦下(ニ)1可d追2昔號(ヲ)1改(テ)稱(ス)c大津(ト)u云々と見ゆ、即(チ)今も大津と呼《イヘ》り、書紀天智天皇(ノ)巻(ノ)初に、天命開別(ノ)天皇(ハ)、息長足日廣額天皇(ノ)太子1也、母曰(ス)2天豐財重日足姫(ノ)天皇(ト)1、天豐財重日足姫天皇四年、讓2位於天萬豐日(ノ)天皇(ニ)、立2天皇(ヲ)1爲2皇太子1、天萬豐日(ノ)天皇(ノ)後(ノ)五年十月崩、明年皇祖母(ノ)尊、即天皇位《アマツヒツギシロシメス》七年七月丁巳崩、云々、是月、云々、皇太子遷(テ)居(マス)2于長津(ノ)宮(ニ)1、云々、同卷に、六年三月辛酉朔己卯、遷2都(ヲ)于近江(ニ)1、十年十二月癸亥朔乙丑、天皇崩2于近江(ノ)宮(ニ)1、癸酉殯2于新宮(ニ)1とあり、御陵は山城(ノ)國山科にあり、諸陵式に、山科(ノ)陵(近江(ノ)大津(ノ)宮(ニ)御宇(シ)天智天皇在2山城(ノ)國宇治(ノ)郡1、兆域東西十四町南北十四町陵戸六烟、)と見ゆ、續紀に、文武天皇三年冬十月甲午詔赦2天下有v罪者(ヲ)1、云々、爲v欲v營2造越智山科二(ノ)山陵(ヲ)1也とあり、○代の下、舊本等に天命開別天皇とあるは、後人(ノ)しわざなる事|既《ハヤ》く云るが如し、(類聚抄古寫本拾穗本等には、謚曰2天智天皇(ト)1、と云注もあり、但し智を古寫本に知と作るはわろし、)
 
(104)天皇《スメラミコトノ》詔《ミコトノリシテ》2内大臣藤原朝臣《ウチノオホマヘツキミフヂハラノアソミニ》1。競2憐《アラソハシメタマフ》春山萬花之艶《ハルヤマノハナノイロ》。秋山千葉之彩《アキヤマノモミチノニホヒヲ》1時《トキ》〔春山〜左○〕。額田王《ヌカタノオホキミノ》以歌判之歌《ウタモチテコトワリタマヘルソノウタ》。
 
内(ノ)大臣藤原(ノ)朝臣は大織冠鎌足(ノ)公なり、内大臣はウチノオホマヘツツキミ〔ウチ〜右○〕と訓べし、まづ内とは、内(ツ)事を親《シタ》しく統領《アヅカリシレ》るよしの稱《ナ》にして、(下に引(ク)續紀の文併(セ)考(フ)べし、)建内(ノ)宿禰を内能阿曾《ウチノアソ》と云ると同義なり、(内能阿曾《ウチノアソ》と云ることは、古事記書紀の歌に見ゆ、即(チ)建内と云も、建は其(ノ)武く勇ましきを稱なれば、實は内(ノ)宿禰にて内(ツ)事を親くあづかり領《シ》れるゆゑの名なり、續紀文武天皇(ノ)詔に、難波(ノ)大宮(ニ)御宇(シ)掛母《カケマク》畏支天皇命|乃《ノ》、汝(カ)父藤原(ノ)大臣|乃(カ)仕奉賈流状乎婆《ツカヘマツラヘルサマヲバ》、建内(ノ)宿禰(ノ)命|乃《ノ》仕奉賈流事止《ツカヘマツラヘルコトト》、同事敍止勅而《オナシコトソトノリタマヒテ》、治(メ)賜(ヒ)慈(ミ)賜|賈利《ヘリ》、とある藤原(ノ)大臣は、即(チ)鎌足公にて、内(ツ)臣とましまししを、建内(ノ)宿禰の仕(ヘ)奉り賜へるに同じ事ぞ、と詔へる意なるを併考べし、)又藤原(ノ)朝臣仲麻呂を、内相と云しも同しこゝろばえなり、(續紀に、寶字元年五月、大納言從二位藤原(ノ)朝臣仲麻呂(ヲ)爲2紫微(ノ)内相(ト)1、と見えたり、但しこの内相と云ことは、唐鑑徳宗紀に、陸贄在(テ)2翰林(ニ)1、爲v帝所(ル)2親信(セ)1、居(テ)2艱難(ノ)中(ニ)1、雖v有2宰相1、大小之事、帝必與v贄(ト)謀(ル)之、故當時謂(フ)2之内相(ト)1、とあるによられたることにて、内と云ることは、此方の古(ヘ)に自《オノヅカラ》こゝろばえ通へり、さて又古(ヘ)百濟(ノ)國を内宮家《ウチノミヤケ》と云しことも、又内宮外宮に内人と云があるも、又續紀宣命に内兵《ウチノイクサ》また内都奴《ウチツヤツコ》など云ることの見えたるも、各々其(ノ)大小の差別こそあれ、内と云る意は皆相通へり、)かくて此は實には内(ツ)臣なりけるを、(105)下に書紀を引る如く、天智天皇八年十月、此(ノ)卿の今はのきはに、大臣(ノ)位と藤原氏とを授《タマ》へるを、前にめぐらして、書紀にも此(ノ)集にも凡て極官によりて、内(ノ)大臣としるされたるなり、(但し書紀の中に、天智天皇三年の條と、同七年の條とに内臣とあるは、正しく其(ノ)時のまゝにしるされたるものにして、其(ノ)餘はみな前へめぐらして、極官をしるされたり即(チ)藤原としるされたるもこれに同じ、)さて續紀に、元正天皇養老五年十一月戊戌、詔曰、凡(ソ)家(ニ)有2沈痼1、大小不v安、卒(ニ)發2事故(ヲ)1、汝卿房前、當作3内臣(ト)1、計2會内外(ヲ)1、准v勅(ニ)施行(シ)、輔2翼帝業(ヲ)1、永(ク)寧(セヨ)2國家(ヲ)1、とあるは、鎌足公の内(ノ)大臣になずらへ給へるなり、(又同紀に、寶龜八年九月丙寅、内(ノ)大臣從二位勲四等藤原(ノ)朝臣良繼薨、云々、寶龜二年、自2中納言1、拜(サレ)2内臣(ニ)1、賜2職封一千戸(ヲ)1專v政(ヲ)得v志(ヲ)、升降自由、八年、任2内大臣(ニ)1、また寶龜九年三月丙子、内臣從二位藤原(ノ)魚名、改爲2忠臣1、十年正月壬寅朔、以2忠臣從二位藤原(ノ)朝臣魚名1、爲2内大臣(ト)1、なども見えたり、)〔頭注【大鏡裏書内大臣十二人事。(十一人)ナリ不審、中臣鎌子連藤原良繼同魚名同高藤同兼道同道隆同道兼同伊周同公季同頼通同教通、】〕大臣をオホマヘツキミ〔七字右○〕と申すことは此(ノ)下御製歌に物部乃大臣《モノヽフノオホマヘツキミ》とある是(レ)なり、麻弊都伎美《マヘツキミ》は景行天皇(ノ)紀に、到2筑紫後(ノ)國御木(ニ)1、居2於高田(ノ)行宮(ニ)1時有2僵樹1、長九百七十丈焉、百寮蹈2其樹(ヲ)1往來(ス)、時人歌(ヒテ)曰|阿佐志毛能瀰概能佐烏麼志魔弊菟耆瀰伊和多羅秀暮瀰開能佐烏麼志《アサシモノミケノサヲバシマヘツキミイワタラスモミケノサヲバシ》と見えて前津公《マヘツキミ》の義《ヨシ》なり、天皇の前に候《サムラ》ふ公てふことにて、近臣のことなり、(常に群臣をマチキムタチ〔六字右○〕と訓も、前津公等といふことなるを思ふべし、)又和名抄に、本朝式職員令(ニ)云、太政大臣(ハ)、於保萬豆利(106)古止乃於保萬豆岐美《オホマツリゴトノオホマツキミ》、左右大臣(ハ)於保伊萬宇智岐美《オホイマウチキミ》と見え、古今集などにも、大臣を於保伊麻宇智伎美《オホイマウチキミ》とある、この萬豆岐美《マツキミ》も、萬宇智岐美《マウチキミ》も、麻弊都伎美《マヘツキミ》の訛(リ)略(カ)り、はた後の音便に頽れなどしたるものなり、(和名抄に、侍從(ハ)於毛止比止萬知岐美《オモトヒトマチキミ》、とある萬智岐美《マチキミ》もおなじ、)藤原(ノ)朝臣は、書紀に、天武天皇三年に、八姓を分(チ)、十三年冬十月に、五十二氏に姓を朝臣と賜ふと見ゆ、藤原もその隨一なり、(但し鎌足(ノ)公在世のほどは、中臣(ノ)連なりしかど、凡て後よりさかのぼらせてしるせること上にいふが如くなれば、此にもかくあり、)さて皇極天皇(ノ)紀に三年正月乙亥朔、以2中臣(ノ)鎌子(ノ)連(ヲ)1拜《メス》2神祇伯《カムツカサノカミニ》1、再三固辭《シキリニイナビテ》不《ズ》v就《ツカヘマツラ》、稱《マヲシテ》v疾(ト)退(キ)2居《ハヘリ》三島《ミシマニ》1、于時輕(ノ)皇子、患脚《ミアシノヤマヒシテ》不《ズ》v朝《マヰデタマハ》、中臣(ノ)鎌子(ノ)連、曾《イムサキヨリ》善《ウルハシ》2於輕(ノ)皇子(ト)1、故|詣《マヰデヽ》2彼(ノ)宮(ニ)1、而將2侍宿(セムト)1、輕(ノ)皇子、深(ク)識(シメシ)2中臣(ノ)鎌子(ノ)連之|意氣高逸容止《コヽロバエスグレテカタチ》難(キヲ)1v犯(シ)、敬重《ヰヤマヒタマフコト》特異《コトナリ》、中臣(ノ)鎌子(ノ)連、便|感《カマケテ》v所《ルヽニ》v遇《メグマ》而|語《イヒ》2舍人(ニ)1曰《》、殊(ニ)奉(ルコト)2恩澤《》1過(タリ)2前(ニ)所(ニ)1v望(フ)、誰(カ)能|不《ザラム》使《シメ》v王《シラサ》2天(ノ)下(ヲ)耶、舍人便以所(ヲ)v語陳(ス)2於皇子(ニ)1、皇子|大《イタク》悦(タマフ)、中臣(ノ)鎌子(ノ)連爲v人忠正《タヾシクシテ》、有2匡濟《タヾシクスクフ》心1、乃憤(リテ)d蘇我(ノ)臣入鹿(カ)失2君臣長幼之序(ヲ)1、挾《サシハサムヲ》※[門/規]※[門/兪]《ウカヽフ》社稷《アメノシタヲ》1之|權《ハカリコトヲ》u、歴試《コヽロミニ》接(リ)2王宗《キムタチ》之中(ニ)1而求(ム)d可v立(ツ)2功名(ヲ)1哲主《サカシキキミヲ》u。便附2心(ヲ)於中大兄(ニ)1、云々、四年六月丁酉朔甲辰、遂(ニ)陳(フ)d欲v斬(ムト)2入鹿(ヲ)1之謀(ヲ)u。戊申、中臣(ノ)鎌子(ノ)連、知(テ)2蘇我之入鹿(ノ)臣(カ)爲v人多(テ)v疑、晝夜《ヒルヨルハ》持(クヲ)1v釼(ヲ)而而(テ)教2俳優《ワザヲヒニ》1、方便《タバカリテ》令v解(カ)云々、佐伯(ノ)連子麻呂、稚犬養(ノ)連綱田、斬(ツ)2入鹿(ノ)臣(ヲ)1。孝徳天皇(ノ)紀(ノ)初に、天豐財重日足姫(ノ)天皇、四年六月庚戌、天皇|思3欲《オモホシテ》傳《タマハムト》2位(ヲ)於中大兄(ニ)1、而詔曰、云々、中大兄、中大兄退(テ)語(リタマフ)2於中臣(ノ)鎌子(ノ)連(ニ)1、中臣(ノ)鎌子(ノ)連議(リテ)曰(ラク)、古人(ノ)大兄(ハ)殿下《キミ》之兄也、輕皇子(ハ)殿下《キミ》之舅也、且立(チ)v舅(ヲ)以答2民望(ニ)1、不《ズ》2亦可(カラ)1乎《ヤ》、云々、是《ノ)日以2大錦《ダイキムノ》冠(ヲ)1、(107)授2中臣(ノ)鎌子(ノ)連(ニ)爲2内(ツ)臣(ト)1、増(スコト)v封《ヘヒトヲ》若干戸、云々、中臣(ノ)鎌子(ノ)連、懷(キ)2至忠之誠(ヲ)1、據(テ)2宰臣之勢(ニ)1、處(リ)2官司《ツカサツカサ》之上(ニ)1、故(レ)進退廢置計《ハカリコト》從(テ)v事立、云々、白雉五年正月戊申朔壬子、以2紫(ノ)冠(ヲ)1、授2中臣(ノ)鎌足(ノ)連(ニ)1、増(スコト)v封《ヘヒトヲ》若干戸、天智天皇(ノ)紀に、三年十月乙亥朔戊寅、是日中臣(ノ)内(ツ)臣、云々、七年五月五日、天皇|縱2獵《ミカリシタマフ》於蒲生野(ニ)1、于手時|大皇弟《ヒツギノミコ》諸王《オホキミタチ》内(ツ)臣|及《マタ》群臣|皆悉從《ミナオホミトモツカヘマツレリ》焉、八年五月戊寅朔壬午、天皇縱2獵(シタマフ)於山科(ノ)野(ニ)1、大皇弟藤原(ノ)内大臣及群臣皆悉從焉、八月云々、是秋|霹2※[石+歴]《カムトキセリ》於《》藤原(ノ)内大臣(ノ)家(ニ)1、十月丙午朔乙卯、天皇幸(テ)2藤原(ノ)内大臣(ノ)家(ニ)1、親(ラ)問(タマヒテ)2所患《ヤマヒヲ》1、而|憂悴極甚《イタクウレヒマシキ》、乃詔曰、云々、庚申、天皇遣(テ)2東宮大皇弟《ヒツギノミコタチヲ》於藤原(ノ)内(ノ)大臣(ノ)家(ニ)1、授2大織《ダイシキノ》冠|與《ト》大臣《オホマヘツキミノ》位(トヲ)1、仍賜(テ)v姓(ヲ)爲2藤原(ノ)氏(ト)1、自v此|以後《ノチ》通《ナベテ》曰2藤原(ノ)大臣(ト)1辛酉、藤原(ノ)内(ノ)大臣薨、(碑《イシフミニ》曰、春秋五十有六而薨、)甲子、天皇幸2藤原(ノ)内(ノ)大臣(ノ)家(ニ)1、命(テ)2大錦上蘇我(ノ)赤兄(ノ)臣(ニ)1、奉《シム》2宣《ノラ》2恩詔《ミメグミノミコトヲ》1、仍(レ)賜2金《クガネノ》香鑪(ヲ)1、(甲子の上、十一月(ノ)三字脱たるなるべし、)續紀に、天平寶字元年閏八目壬戌、紫微(ノ)内相藤原(ノ)朝臣仲麻呂等言、云々、尋2古記(ヲ)1、淡海(ノ)大津(ノ)宮(ニ)御宇(シ)皇帝、云々、于時功田一百町、賜2臣(カ)曾祖藤原(ノ)内大臣1、褒勵壹匡、宇内之績、世々不v絶、傳(テ)至2于今1、云々、今有2山階寺維摩會1者、是内大臣之所起也、云々、伏願以2此功田(ヲ)1、永(ク)施2其寺(ニ)1、助2維摩會(ヲ)1、彌令2興隆(セ)1、云々、姓氏録左京神別に、藤原(ノ)朝臣(ハ)出v自2津速魂命三世(ノ)孫、天兒屋根(ノ)命1也、二十三世(ノ)孫、内(ノ)大臣大織(ノ)冠中臣(ノ)連鎌子、古記(ニ)曰、鎌足、云々、天命開別(ノ)天皇八年、賜2藤原氏(ヲ)1、男正一位贈太政大臣不比等、天渟中原瀛(ノ)眞人(ノ)天皇(ノ)十三年、賜2朝臣(ノ)姓(ヲ)1と見ゆ、さてかく官《ツカサ》氏《ウヂ》姓《カバネ》のみを擧て名を書さゞるは、すべて此(ノ)集には、大納言以上には名をかゝざる例なればな(108)り、三(ノ)卷に、大納言巨勢(ノ)朝臣、甘(ノ)卷に、大納言藤原(ノ)朝臣、又内相藤原(ノ)朝臣など有類多し、さて二(ノ)卷此(ノ)同(シ)代の標内《シメノウチ》に、此(ノ)卿を内大臣藤原(ノ)卿とあれば、こゝも卿とあるべきことかとも思はるれど、なほさにあらず、さるは十七に、天平十八年正月、云々、於時左大臣橘(ノ)卿、(諸兄公のこと、)云々、賜酒肆宴、勅曰、汝諸王卿等、聊賦2此(ノ)雪(ヲ)1、各奏2其(ノ)詞(ヲ)1、左大臣橘(ノ)宿禰應v詔(ヲ)歌、云々、十八に、太上皇御2在於難波(ノ)宮(ニ)1之時歌七首、左大臣橘(ノ)宿禰(ノ)歌、云々、右件(ノ)歌者、在2於左大臣橋(ノ)卿之宅(ニ)1、肆宴御歌、並奏歌也、十九に、天平勝寶四年十一月八日、在2於左大臣橘(ノ)朝臣(ノ)宅(ニ)1、肆宴歌四首、云々、右一首、左大臣橋(ノ)卿、(天平勝寶二年に、朝臣(ノ)姓を賜へるが故にかくあり、)かく一章の詞の中にすら、卿とも宿禰また朝臣とも交へ書れば、もとよりしか彼此《コナタカナタ》に書しなり、かくさまに同じ人を、卿とも朝臣また宿禰とも書る例猶多し、其は三(ノ)卷に、石上(ノ)乙麻呂(ノ)朝臣とあるを、六(ノ)卷には、石上(ノ)乙麻呂(ノ)卿、四卷に、大伴(ノ)宿奈麻呂(ノ)宿禰とあるを、又同卷に、大伴(ノ)宿奈麻呂(ノ)卿、二(ノ)卷に、大伴(ノ)宿禰(安麻呂(ノ)卿のことなり、)とあるを四(ノ)卷には、大伴(ノ)卿と書るなどなり、(なほこのたぐひいと多かれど、わづらはしければこと/”\くはいはず、今は一(ツ)二(ツ)を、採出ていふのみそ、然るを岡部氏(ノ)考に、こゝに藤原(ノ)朝臣とあるを、此(ノ)集の例にたがへりとして、藤原(ノ)卿と推て改めしは、中々の物ぞこなひなるわざそかし、)○この題詞の意は、内(ノ)大臣に勅して、春山の花のいろと、秋山のもみぢのにほひと、いづれまさると人々にあらそはしめ給ふ時、額田(ノ)王秋山のまされるよしを判斷《コトワラ》せ(109)給へる歌なり、こは拾遺集九(ノ)卷に、ある所に春秋いづれかまさると、とはせ給ひけるに作《ヨミ》て奉りける、紀(ノ)貫之、春秋に思亂れて別不得《ワキカネ》つ時《ヲリ》に就(ケ)つゝ移る心は、又元良(ノ)親王承香殿のとしこに、春秋いづれか増るとゝひ侍《ハベリ》ければ、秋そをかしう侍るといひければ、おもしりき櫻を、これはいかゞといひて侍りければ、大方の秋に心は寄しかど花見る時は何れともなし、題しらず、作者不知、春は唯花の一重に咲ばかり物の隣(レ)は秋そ勝れる、新古今集春上に、祐子内親王藤壺に住侍けるに、女はらうへひとなど、さるべきかぎり物がたりして、春秋のあはれいづれにか心ひくなど、あらそひ侍りけるに、人々おほく秋に心をよせ侍りければ菅原(ノ)孝標《タカスヱ》女、あさ緑花も一(ツ)に霞みつゝ朧に見ゆる春(ノ)夜の月、(更科日記には、春秋の事などいひて云云、いづれにか御心とゞまると問(フ)に、秋の夜に心をよせてこたへ給ふを、さのみおなじさまにはいはじとて、あさ緑云々とこたへたれば、か へす/”\うち誦して、さは秋の夜はおほしすてつるなゝりな、こよひより後の命のもしもあらば、さは春の夜をかたみとおもはむといふに、秋にこゝろよせたる人々は、皆春に心をよせつめり、これのみやみむ秋の夜の月、とあるにいみしう興じ思ひわづらひけるけしきにて、もろこしなどにも、むかしより春秋のさだめはえし侍らざなるを、このかうおぼしわかせ賜ひけむ御心ども、思ふにゆゑ侍らむかしとあり、)源氏物語薄雲に、はか/”\しきかたののぞみはさるものにて、年のうちゆきか(110)はる時々の花紅葉、空のけしきにつけても、心の行ことにし侍りにしかな、春の花のはやし、秋の野のさかりをなむ、むかしよりとり/”\に人あらそひ侍りける、そのころのげにと心よるばかり、あらはなるさだめこそ侍らざなれ、もろこしには、春の花の錦にしくものなしといひはべるめり、やまとことの葉には、秋のあはれをとりたてゝ思へる、いづれも時々につけて見給ふに目うつりて、得こそ花鳥の色をも音をもわきまへ侍らね、せばき垣根の内なりとも、そのをり/\の心見しるばかり、春の花の木をもうゑわたし、秋の草をもほりうつして、いたづらなる野邊の蟲をもすませて、人に御覽ぜさせむと思給ふるを、いづかたにか御心よせ侍るべからむときこえ給ふに、いと聞えにくきことゝおほせど、むげにたえて、御いらへきこえざらむもうたてあれば、ましていかゞ思ひわき侍らむ、げにいつとなきなかに、あやしときゝしゆふべこそ、はかなうきえ給ひにし露のよすがにも、思たまへられぬぺけれと、しどけなげにの給ひけつも、いとらうたげなるに、えしの二び給はで、きみもさは哀をかはせ人しれず吾(カ)身にしむる秋の夕風、野分に、春秋のあらそひに、昔より秋に心よする人はかずまさりけるを、若菜に、女は春をあはれむと、ふるき人のいひおき侍りける、げにさなむ侍りける、なつかしくものゝとゝのほることは、春の夕暮こそことに侍りけれと申給へは、いなこのさだめよ、いにしへより人のわきかねたることを、末の世にくだれる人の、え(111)あきらめはつまじくこそ云々、(契沖代匠記に、彼(ノ)源氏物語抄に、樹下集を引て云、しかのとよぬし、大伴(ノ)くりぬしらが論議の歌、豐主とふ、おもしろのめでたきことをくらぶるに春と秋とはいづれまされる、くろぬしこたふ、春はたゞ花こそはちれ野邊ごとににしきをはれる秋は増れり、又謙徳公いまだ宰相中將のとき、應和三年七月二日、かのきんだち秋春の歌合のことあり、秋のかたより、花もみつもみぢをもみつ蟲の音も聲々おほく秋ぞ増れる、一條禅閤(ノ)小夜のねざめに云、唐國にはおほく春を愛し、我國の人は昔より秋に心をよするなるべし、されば光源氏も、我身にしむる秋の夕風とながめ給へり、萬葉集より代々の歌にも、此二(ツ)のあらそひ、未(タ)いづれと、定がたし、霞める空に花鳥のいまめかしう色なることは、わかき時のほこらしき心なれば、秋のうれへのみぞ、老の夕はげに忍がたく侍る、)などある類にて、古昔より春秋をあらそふことありと見えたる、今の判歌をぞ、そのはじめとはいふべき、
 
16 冬木成《フユコモリ》。春去來者《ハルサリクレバ》。不喧有之《ナカザリシ》。鳥毛來鳴奴《トリモキナキヌ》。不開有之《サカザリシ》。花毛佐家禮杼《ハナモサケレド》。山乎茂《ヤマヲシミ》。入而毛不取《イリテモキカズ》。草深《クサフカミ》。執手母不見《トリテモミズ》。秋山乃《アキヤマノ》。木葉乎見而者《コノハヲミテハ》。黄葉乎婆《モミツヲバ》。取而曾思努布《トリテソシヌフ》。青乎者《アヲキヲバ》。置而曾歎久《オキテソナゲク》。曾許之恨之《ソコシタヌメシ》。秋山吾者《アキヤマアレハ》。
 
冬木成《フユコモリ》、成(ノ)字は盛の皿の畫を省きて書るにや、集中悉(ク)冬木成と書れば誤字にはあらじ、と高橋(ノ)正元云りき、此(ノ)説によるべし、おほよそ字畫を省くは、漢國《モロコシ》の書どもに、韵を※[韵の旁]と書(キ) 、掃を帚(112)とかき、蛇を它と書たぐひ、いと多有《オホカル》に本《ヨリ》て、(但しかしこのは、古文に畫を加《ソヘ》もし、省《ノケ》もしたるを、)御國にも古(ヘ)より便宜にまかせて、畫を、省きて作《カケ》りとおもはれて、古書等に健を建とかき、※[虫+呉]蚣を呉公と作(キ)弦を玄と作、(此等古事記に見ゆ、)村を寸と作、(石寸《イハレ》、寸主《スクリ》の類、古事記書紀延喜式等に見ゆ、)醜を鬼と作、枳を只とかき、伎を支と作(キ)、倭を委とかき、(委文《シヅリ》大委《オホヤマトノ》國の類、)波を皮とかき、倍を※[倍の旁]とかき、趾を止とかき、(これら古事記靈異記集中等に見ゆ、)逸を免と作(ケ)るたぐひ(橘(ノ)免勢と作ること性靈集に見ゆ、)なほいと多し、(等由氣宮儀式帳に、衣若干令、袴若干要など多くかけるも、領腰の省畫なり、又元亨釋書に、境を竟と作り、みな省畫なり、)かくてこの一句は、春といはむ料の枕詞にて、集中にいと多し、さて木成《コモリ》、隱《コモリ》など書たるは共に借(リ)字にて、生氣萠《フユケモリ》と云なるべし、フユ〔二字右○〕は恩頼《ミタマノフユ》など云フユ〔二字右○〕にて、物の利生ずるを云言なるべし、釼(ノ)名に、本つるぎ未ふゆと云が、古事記(ノ)歌に見えたるも、フユ〔二字右○〕は一(ツ)物を切(リ)て數々にふやす謂《ヨシ》の名にて、今のフユ〔二字右○〕と同言と見ゆ、氣《ケ》は音の親く通ふまゝに古《コ》と轉《ウツ》し云り、モリ〔二字右○〕は物の初(メ)て萠すをいふ言なり、霍公鳥の初音をもらすなどいふ、其(ノ)意なるべし、さて春に至れば、萬(ノ)物の生氣《フユケ》を萠《モラ》すゆゑに、この枕詞は有なるぺし、(岡部氏(ノ)考(ノ)説に、冬は萬(ノ)物に隱りて、春を得てはり出るより、此(ノ)詞はありと云るは、人皆|然《サ》思ふことなれど、例の理めきたる説にて古意にあらず、但し古今集貫之(ノ)歌に、冬隱り思ひかけぬを木の間より花と見るまで雪ぞ降けると見えて、その頃より(113)後は、冬の氣の内に隱《コモ》る意にとりて多くよめり、此は彼(ノ)宇都世美《ウツセミ》てふ言を、蝉(ノ)脱《モヌケ》のことゝおもひてよめると、同日の談にて、古(ヘ)にいへるとは、表裏の違(ヒ)有(ル)ことにそありける、抑々後(ノ)集の比に下りては、世(ノ)中の諸々の事のやゝ轉變《ウツロヘ》るにつれて、古語の本意を失へることゞも少なからねば、ゆめ後をもて古(ヘ)の證とすることなかれ、又荒木田(ノ)久老(ノ)説に、フユキナス〔五字右○〕と訓て、古事記(ノ)歌に、布由紀能須加良賀志多紀《フユキノスカラガシタキ》とあるは、冬木成枯之下木《フユキナスカラガシタキ》なるべし、さらば同義とすべし、さて春につゞくは、冬木の晴《ハル》といふ意に係れるまくら辭なるべし、と云るはおもしろくはきこゆれども、七(ノ)卷に冬隱春乃大野乎《フユコモリハルノオホヌヲ》、十(ノ)卷に、冬隱春去來之《フユコモリハルサリクラシ》、又|冬隱春開花《フユコモリハルサクハナ》などあるは、眞純《モハラ》ひとしきつゞけ樣なれば、猶冬木成は、フユコモリ〔五字右○〕とよむべきこと決《ウツナ》ければ、この説は從かたくなむ)さてしからば、布由許母留《フユコモル》とこそいふべきを、理(リ)としも云るは、いひ絶《キリ》て次を歌ふ語の一(ツ)の體にて、安見斯志大皇《ヤスミシヽオホキミ》、鯨魚等利海《イサナトリウミ》、とつゞくると同(シ)格なり、○春去來者《ハルサリクレバ》は、春になればといふ意なり、凡て春されば、秋されば、朝されば、夕さればなど云は、春し有(レ)ば、秋し有(レ)ば、朝し有(レ)ば、夕し有(レ)レ》ばてふ辭の切(マ)りたるにて、(シア〔二字右○〕の切サ〔右○〕となれり、十(ノ)卷に、春去爾來《ハルサリニケリ》とあるも、春し有にけりの意なり、)四(ノ)卷、十二、十七などに、阿里佐利底《アリサリテ》と云る詞のあるも、有し有てといふ詞の切(マ)りたるにて、同じ例と聞ゆるが中に、廿(ノ)卷に、於保伎美能美許等爾作例波《オホキミノミコトニサレバ》云々、(神樂歌に、いなのほのもろほにされば、)とよめるそ、正《マサ》しく之阿例婆《シアレバ》といふべきを切めて、佐例婆《サレバ》とい(114)へる例とは聞えたる、しかれば集中に、春去者《ハルサレバ》、春避者《ハルサレバ》など書るは皆借(リ)字にて、春之在者《ハルサレバ》と書るそ實なりける、(十(ノ)卷に、春之在者妻乎求等《ハルサレバツマヲモトムト》云々、また春之在者伯勞鳥之草具吉《ハルサレバモズノクサグキ》云々、また春之在者酢輕成野之《ハルサレバスガルナスヌノ》云々などあり、しかるを去を字(ノ)意と心得て、時々刻々わが眼(ノ)前を去(リ)ゆくが故そ、と思ふは後(ノ)の世心なり、)さて之在者《シアレパ》と伸るときは、その之《シ》は例の力(ラ)ある助辭なれば、たしかにその時になりたるよしを、一(ト)すぢにおもくおもはせたる意を含めり、○不喧有之《ナカザリシ》は、冬は鳴ず有しなり、冬よりまちしこゝろ此(ノ)詞にこもれり○鳥毛來鳴奴《トリモキナキヌ》とは、奴《ヌ》は己成《オチヰ》の奴にて、冬は鳴ず有し鳥もやはく來鳴て、春の憐むべき時になりぬるをいふ、○不開有之《サカザリシ》は、冬は開ず有しなり、上の不喧有之に同じ、○花毛佐家禮杼《ハナモサケレド》は、花も咲て有(レ)どもといふなり、花も咲て有(リ)雖v然といふが如し、禮《レ》の言に心を付べし、(たゞさけどゝ輕くいふには少《イサヽ》かたがへり、)上の奴の辭にてらしておもふべし、はやく鳥も來鳴てあり、花も咲て有、しかれどもといふなり、以上六句は、春の方人の、春のすぐれて賞《メデ》たきことをいひたつるを、とがめたる意なり、以下四句は、秋の方人、秋のまされるよしをいはむとて、春をいひおとすなり、さてかく春をいひおとさむとて、雖《ド》といひたるなり、○山乎茂《ヤマヲシミ》は、山が茂さにの意なり、(岡部氏(ノ)考も略解もわろし、)茂は木の茂きをいふ、山に入て鳥(ノ)音を聞むとすれど、木茂くて聞て賞《メデ》がたきを云、○入而毛不取は、高橋(ノ)正元云、略解に、取は見(ノ)字の誤にて、ミズ〔二字右○〕ならむかといへれども、不喧有(115)之鳥毛來鳴奴《ナカザリシトリモキナキヌ》と有に對《ムカ》へ見れば、取は聞(ノ)字の誤にて、キカズ〔三字右○〕なるべしといへり、大神(ノ)景井云、取は聽(ノ)字の誤なるべし、※[聽の草書]と※[取の草書]と草書よく似たりといへり、是然るべし、こは鳥毛來鳴奴《トリモキナキヌ》といふに對へていへり○草深《クサフカミ》は、草が深さにの意なり、上に木の茂をいへるにむかへて云り、花を折とらむとすれど、草深くてとり得がたきを云、○執手母不見は、トリテモミズ〔六字右○〕と訓べし、(略解にタヲリテモミズ〔七字右○〕とよめるは、強たりといふべし、タヲリ〔三字右○〕とよむべきならば、集の例執とは書ぬことそ、)こは花毛佐家禮杼《ハナモサケレド》、といへるに對へていへり、以上春山はさま/”\あはれなれど、なほその春のあかぬ所あるをよみたまへるなり、次以下は、秋山の事にうつるなり○黄葉乎婆はモミツヲバ〔五字右○〕と訓べし、毛美《モミ》は色の緋《アカ》きを※[手偏+總の旁]いふ稱《ナ》なり、さて毛美知《モミチ》、毛美都《モミツ》といふ知《チ》都《ツ》の辭は清べし、(例は古言清濁考に委し、)さてその知《チ》都《ツ》の辭は、その緋くなる貌をいふ語なり、瀧《タキ》を多藝知《タギチ》、多藝都《タギツ》、また濕《ヒヅ》を比豆知《ヒヅチ》、比豆都《ヒヅツ》といふに同じ概《オ》して曉べし、(岡部氏(ノ)考に、黄葉《モミヅ》は赤出《モミイヅル》の略語として、言痛きまであげつらへれども強説なり、その意にしては、清濁のたがひさへあるをや、知《チ》都《ツ》はその形貌をいふ語なれば、必(ズ)清むべき理なるを、濁りてのみ唱るは後(ノ)世の語なり、)乎婆《ヲバ》は、其(ノ)物をとりあげえらびて云辭なり、さらぬをばいかにもせむと委《ユダ》ね任《マカ》する意あり、○取而曾思奴布《トリテソシヌフ》は、折取てそ賞愛《メデウツクシ》むと云意なり、春山はさま/”\あはれなれど、なほあかぬ所ありて心ゆかざりしを、黄葉の頃は、草木もかれて入(リ)やすくて、心(116)のまゝに錦と見ゆる枝を折(リ)取(リ)て、愛翫《モテアソ》ぶとなり、(略解に、思奴布《シヌフ》は慕ふ意なり、と云るは例のおろそかなり、)そも/\思奴布《シヌフ》てふ辭は、古言にくさ/”\に用ひたれば、其(ノ)ところによりて其(ノ)意もかはれり、其(ノ)中に戀慕ふ意なると、賞愛む意なると、堪忍る意なると、密隱るゝ意なると、四種の異あることは、はやく此(ノ)上に辨へたり、こゝは賞愛《メデウツクシ》むを云るなり、其(ノ)例は七(ノ)卷に、墨吉之岸爾家欲得奧爾邊爾縁白浪見乍將思《スミノエノキシニイヘモガオキニヘニヨスルシラナミミツヽシヌハム》、十七に、布勢能宇美能意枳都之良奈美安利我欲比伊夜登偲能波爾見都追思努播牟《フセノウミノオキツシラナミアリガヨヒイヤトシノハニミツヽシヌハム》、又|曾己乎之毛安夜爾登母志美之怒比都追安蘇夫佐香理乎《ソコヲシモアヤニトモシミシヌヒツヽアソブサカリヲ》云々、十八に、百鳥能來居弖奈久許惠春佐禮婆伎吉能可奈之母伊豆禮乎可和枳弖之努波無《モヽトリノキヰテナクコヱハルサレバキヾノカナシモイヅレヲカワキテシヌハム》云々、又|由具敝奈久安里和多流登毛保等登藝須奈枳之和多良婆可久夜思努波牟《ユクヘナクアリワタルトモホトヽギスナキシワタラバカクヤシヌハム》、十九に、耳爾聞眼爾視其等爾宇知歎之奈要宇良夫禮之努比都追有爭波之爾《ミヽニキヽメニミルゴトニウチナゲキシナエウラブレシヌヒツヽアリクルハシニ》云々、又|毎年爾來喧毛能由惠霍公鳥聞婆之努波久不相日乎於保美《トシノハニキナクモノユヱホトヽギスキケバシヌハクアハヌヒヲオホミ》、又|霍公鳥《ホトヽキス》云々、里響鳴渡禮騰母尚之奴波由《サトトヨミナキワタレドモナホシシヌハユ》、又|安里我欲比見都追思努波米此布勢能海乎《アリガヨヒミツヽシヌハメコノフセノウミヲ》、廿(ノ)卷に、八千種爾久佐奇乎宇惠弖等伎其等爾左加牟波奈乎之見都追思努波奈《ヤチクサニクサキヲウヱテトキゴトニサカムハナヲシミツヽシヌハナ》、又|安治佐爲能夜敝佐久其等久夜都與爾乎伊麻世和我勢故美都々思努波牟《アヂサヰノヤヘサクゴトクヤツヨニヲイマセワガセコミツヽシヌハム》、これら皆眼(ノ)前に賞愛むをいへるなり、また許布流《コフル》といふ言も、常(ネ)には彼處のものを此處にて戀慕ふを云(ヘ)ど、三(ノ)卷に、石竹之其花爾毛我朝旦手取持而不戀日將無《ナデシコノソノハナニモガアサナサナテニトリモチテコヒヌヒナケム》、とある類は眼(ノ)前に賞るをいひて、今の之奴布《シヌフ》と意ばえ同じ、なほ許布流《コフル》てふ言の事は下にい(117)ふべし、この差別《ケヂメ》あることを辨《ワキタ》め置ずしては、まどふことありて、つひに古言の意を解得ること難しかし、(また岡部氏(ノ)考に、古歌に、花などに對ひてをしと思ふと云は、散を惜むにはあらで、見る/\愛る事なると意同じ、といへるはよしなし、古(ヘ)したふ辭は、惜む意にのみ云て、愛る意に云るはかつてなかりしことそかし、欽明天皇(ノ)紀に、闘將問2河邊(ノ)臣(ニ)1曰、汝(ノ)命(ヲ)與v婦|孰與尤愛《イヅレカハナハダヲシキ》とあるも、訓のうへにていはゞ、ヲシキ〔三字右○〕は愛(ノ)字の意にはあらで、惜《ヲシキ》の意なり、混《マド》ふことなかれ、既く上にもいへり、)○青乎婆《アヲキヲバ》は、未(タ)黄葉せぬをいふ、○置而曾歎久《オキテソナゲク》とは、枝におきて、折もとらずしてそ歎くといふなり、歎くとは、もと長息《ナガイキ》の約れる詞にて、歡《ウレ》しき事にも悲しき事にも、其(ノ)時にあたりて長息をつくをいふ、此はその既く黄葉したるをば折とりて賞愛《メデウツクシ》み、いまだ黄葉せぬをばそのまゝにおきて、もみちしてあらば折とらむと、黄葉せむ時を待てなげくなり○曾許之恨《ソコシタノシ》、曾許《ソコ》とは上の四句をさす、之は例のその一(ト)すぢなるよしを重く思はする助辭なり、恨は、怜(ノ)字の誤そと本居氏云り、かくてオモシロシ〔五字右○〕とよまれたれども、タヌシ〔三字右○〕とよまむそ此處には照應《カナヒ》たる、そは三(ノ)卷讃(ル)v酒歌に、世間之遊道爾怜者《ヨノナカノアソビノミチニタヌシキハ》(怜舊本に冷に誤る、)醉哭爲爾可有良師《ヱヒナキスルニアリヌベカラシ》、とある怜をタヌシ〔三字右○〕とよめるに同じ○秋山我吾者《アキヤマアレハ》、(山の下、官本六條本等には曾(ノ)字あり、)秋山をば春山よりもまさりて、吾はあはれと思ふそとのこゝろなり、これにてまさしく、秋のまされるよしを判《コトワ》り定めたるなり、曾(ノ)字ある本等に從(フ)は、※[立心偏+可]怜國曾《ウマシクニソ》の曾に(118)同じ、吾は秋山があはれなるそとの意なり、○歌(ノ)意は春山のかたもさま/”\をかしくはあれど、うら枯る秋は山に入やすければ、吾は秋山の黄葉に心ひかるゝそと、たをやめの情をもてことわり給へるなり、
 
額田王《ヌカタノオホキミノ》。下《クダリタマヘル》2近江國《アフミノクニヽ》1時作歌《トキヨミタマヘルウタ》。
 
額田(ノ)王云々は、天智天皇(ノ)の紀に、六年三月辛酉朔己卯、遷2都(ヲ)于近江(ニ)1とあれど、それよりは前にゆゑありて近江(ノ)國に下りたまへるほとのことなるべし、作歌の下、舊本に井戸王即和歌の六字あり、そは例にたがへれば今改めて、下の綜麻形の云々の歌の上に收《イレ》つ、
 
17 味酒《ウマサケ》。三輪乃山《ミワノヤマ》。青丹吉《アヲニヨシ》。奈良能山乃《ナラノヤマノ》。山際《ヤマノマユ》。伊隱萬代《イカクルマテ》。道隈《ミチノクマ》。伊積流萬代爾《イツモルマテニ》。委曲毛《ツバラカニ》。見管行武雄《ミツヽユカムヲ》。數數毛《シバシバモ》。見放武八萬雄《ミサカムヤマヲ》。情無《コヽロナク》。雲乃《クモノ》。隱障倍之也《カクサフベシヤ》。
 
味酒《ウマサケ》は、枕詞なり、崇神天皇(ノ)紀(ノ)歌に、宇磨佐開瀰和能等能能《ウマサケミワノトノノ》云々、此(ノ)集四(ノ)卷に、味酒呼三輪之祝我《ウマサケヲミワノハフリガ》云々などあり、味は味美《ウマ》しと賛る辭なり、酒と云名の意は、佐加延《サカエ》の切《ツヾマ》れるにて、(カエ〔二字右○〕の切ケ〔右○〕)是を飲めば、心意《コヽロ》も面色《カホ》も榮ゆる謂《ヨシ》なりと云り、さて三輪とつゞくる意は、供神酒《カミニソナフルサケ》を美和《ミワ》といふより、美酒之神酒《ウマサケノミワ》てふ意に、かくはつゞけたり、神酒を美和《ミワ》といへるは、書紀崇神天皇(ノ)卷、舒明天皇(ノ)卷に、神酒《ミワ》、和名抄に、日本紀私記云、神酒、和語(ニ)云|美和《ミウ》、集中二(ノ)卷に、穀澤之神社爾三輪須惠雖?祈《ナキサハノモリニミワスヱノマメドモ》、十三に五十串立神酒座奉神主部之《イクシタテミワスヱマツルカムヌシノ》、土佐(ノ)國風土記に、神河訓2三輪河(ト)1、源出2北山之(119)中(ヨリ)1屆(レリ)2于伊與國(ニ)1水清(キカ)故(ニ)爲2大神1釀(ニ)v酒(ヲ)也用(ヒキ)1此河(ノ)水(ヲ)1、故(レ)爲2河(ノ)名(ト)1(神酒河《ミワガハ》の義行なり、)などあり、(冠辭考の説の非なるよしをつみ出て、こゝにいはむとす、まづ十三に、味酒乎神名火山之《ウマサケヲカミナビヤマノ》、四(ノ)卷に味酒呼三輪《ウマサケヲミワ》など酒乎《サケヲ》とて、かみなびとつゞけしからは、美酒《ウマサケ》を釀《カミ》といひかけしにて、その釀《カミ》を略きて、三輪《ミワ》三室《ミムロ》などの三《ミ》の語にもつゞけしなりとあるは、味酒乎《ウマサケヲ》とある乎《ヲ》の辭にいたく泥めるものなり、そも/\之《ノ》といふべきを乎《ヲ》と通はし云るは、處女等之袖振山《ヲトメラガソデフルヤマ》を、處女等乎袖振山《ヲトメラヲソデフルヤマ》ともよめる類にて、猶そのことは下につばらかにいふべきを考(ヘ)見ば、明らかなるべし、それは然《サ》て措(キ)、釀《カミ》を略きて三《ミ》とつゞけしとはいかに、釀《カミ》のミ〔右○〕の言はカマム〔三字右○〕》、カミ〔二字右○〕、カム〔二字右○〕、カメル〔三字右○〕など、麻美牟米《マミムメ》の活轉にて、ミ〔右○〕の言はいと輕く、カ〔右○〕の言そ體にて重ければ、美酒乎可《ウマサケヲカ》某といへらむ時は、釀《カミ》とつゞけしともいひてむを、いかで可《カ》を略きて、美《ミ》の言にのみはいひかくることのあらむ、猶云(ハ)ば、玉匣《タマクシゲ》開《アキ》といふ意に、玉匣《タマクシゲ》惡木《アシキ》とはいへども、玉匣《タマクシゲ》伎《キ》とはつゞけられぬ理(リ)なるをも思合(ス)べし、味酒乎神名火《ウマサケヲカムナヒ》、味酒三室《ウマサケミムロ》とかゝるよしの考は下にいふべし、)○三輪乃山《ミワノヤマ》、こは三輪の山は、つばらかに見乍《ミツヽ》行むものなるを、しば/\も見さかむ山なるものをとかかりたれば、必(ス)三輪の山といひきるべき處なり、(略解に、三輪乃山乎《ミワノヤマヲ》と乎《ヲ》の辭ををへて見べし、と云るはいみじきひがごとなり、乎《ヲ》の語ををへては首尾《シリクチ》調はず、)さて三輪の名の由縁《ヨシ》は、古事記中卷崇神天皇(ノ)條に、活玉依毘賣《イクタマヨリビメ》、云々、答(ヘ)曰《ケラク》、有2麗美《ウルハシキ》壯夫1、不(カ)v知2其(ノ)姓名《ナヲ》1、毎夕到來《ヨゴトニキテ》、供住之間《スメルホドニ》、(120)自然懷姙《オノヅカラハラミヌト云》、是以其(ノ)父母、欲(テ)v知(マク)2其(ノ)人(ヲ)1、誨(ヘテ)2其女(ニ)1曰、以《ヲ》2赤土《ハニ》1散(シ)2床前《トコノベニ》2以《ヲ》2閇蘇紡麻《ヘソヲ》1、貫(テ)v針(ニ)刺(セト云)2其衣(ノ)襴《スソニ》1、故(レ)如(シ)v教(ヘシ)而(テ)旦時見者《アシタニミレバ》、所《タリシ》v著v針|麻者《ヲハ》自2戸之|鈎穴《カギアナ》1、控通《ヒキトホリ》而|出《デヽ》、唯遺(レル)麻《ヲ》者、三勾耳《ミワノミナリキ》、爾《カレ》即(チ)知d自2鈎穴1出之状(ヲ)u而|從《マニ/\》v糸(ノ)尋|行者(シカバ)、至2美和山(ニ)1而、留(マリキ)2神(ノ)社(ニ)1、云々故(レ)因2其(ノ)麻(ノ)之三勾遺(レルニ)1而、名(テ)2其地《ソコ》1謂(ル)2美和《ミワトソ》1也、と見えたるがごとし、さて飛鳥(ノ)岡本(ノ)宮より三輪へ二里ばかり、三輪より奈良へ四里餘ありて、その間たひらかなれば、奈良坂こゆる程までは、三輪山は見ゆるとそ○青丹吉《アヲニヨシ》は、枕詞なり、集中に甚多し、(丹吉は借(リ)字、)青土黏《アヲニネヤ》しといふ意なり、青土は賦役令に、青土《アヲニ》一合五勺、内匠寮式に、大寒(ノ)日、立2諸門1土偶人十二枚、土牛十二頭料(ノ)青《アヲニ》土二升、云々常陸(ノ)國風土記久慈(ノ)郡(ノ)條に、河内(ノ)里、云々、所有土色《ソコニアルニノイロ》如2青紺(ノ)1、用(ニ)v畫《ヱカクニ》麗之《ウルハシ》俗《ヨニ》云《イヒ》2阿乎爾《アヲニト》1、或《アルハ》云《イフ》2加支川爾《カキツニト》1と見えたり、阿乎爾《アヲニ》は即(チ)青土なり、(加支州爾《カキツニ》は、畫著土《カキツニ》なるべし、)爾《ニ》は土の※[手偏+總の旁]名にて、赤土《アカニ》、白土《シラニ》、赭《ソホ》、埴《ハニ》、又|八百土《ヤホニ》、また初土《ハツニ》、中土《ナカツニ》、極土《シハニ》(古事記應神天皇(ノ)御歌に見ゆ、)などもいへり、なほ青土は後にも源氏物語に、あをにゝ柳のかざみ、うつほの物語に、春日(ノ)祭の下づかへは、あをにゝ柳がさねきたり、(即(チ)青土《アヲニ》の義なり、東鑑に、紺|青丹《アヲニ》打(ノ)水干袴、又紺青丹(ノ)打上なども見えたり、)黏は、字鏡に、※[手偏+延](ハ)謂作2泥物(ヲ)1也、禰也須《ネヤス》とあり、さて土黏《ニネヤシ》の爾禰《ニネ》を切《ツヾ》めて爾《ニ》といひ、也《ヤ》を余《ヨ》に通《カヨハ》して阿乎爾余志《アヲニヨシ》とはいへるなり、神武天皇(ノ)紀に、天皇|前年秋九月《イニシトシノナガツキ》、潜2取《ヒソカニトリテ》天香山之埴土《アメノカグヤマノハニヲ》1、以(テ)造《ツクリ》2八十平瓮《ヤソヒラガヲ》1、云々、故|號《ヲ》2取《トリシ》v土《ハニヲ》處《トコロ》1曰《ナヅケキ》2埴安《ハニヤスト》1とあるも、埴黏《ハニネヤス》といふ由《ヨシ》なるをも思ひ合すべし、又|夜《ヤ》を余《ヨ》と通《カヨ》ふは、愛夜志《ハシキヤシ》とも、愛余志《ハシキヨシ》とも云類にて、常のことなり、(既く(121)上にも夜《ヤ》と余《ヨ》と通し云へる例を擧て云つ、)さて袖中抄に、奈良坂に昔は青(キ)土のありけるなり、それを取て繪かく丹につかひけるに、よかりけるなりといへるは、所据《ヨリドコロ》ありて云るものとこそおもはるれ、かゝれば、古(ヘ)奈良山には多く青土《アヲニ》有(リ)て、名産に《トコロノメデタキモノ》にそありけむ、(今も畫家に、奈良緑青とて用ふるものあるよしなり、但し今|緑青《ロクシヤウ》といふものは、土にはあらねど、自然《オノヅカラ》の土氣にて、後までも奈良にはよき緑青《ロクシヤウ》出るなるべし、十三に、緑青吉《アヲニヨシ》とかき、醫心方に、緑青、和名|安乎仁《アヲニ》とあるを見れば、ふるく緑青とかけるは即(チ)青土《アヲニ》にて、其は令抄に、青土者破v石(ヲ)取2其中(ニ)1也、2彩色(ニ)1也とあれば、銅より取るは後にて、もとは石中より、取しと見ゆ、さて齋院式に、畫2祭日(ノ)服并陪從女衣裳1料云々緑青三斤十三兩、とある緑青も其(レ)なるべし、)かくて眉畫《マヨカキ》繪畫《ヱカク》には、青土を黏《ネヤ》して用ふるゆゑに、其|青土《アヲニ》を黏《ネヤ》す奈良とはつゞけしなるべし、さてしからば、阿乎爾余須《アヲニヨス》とこそいふべきを、志《シ》としも云るは、いひ絶《キリ》て次を歌ふ語の一(ツ)の體にて、鯨魚等利《イサナトリ》海《ウミ》、安見斯志《ヤスミシヽ》大皇《オホキミ》とつゞくると同格なりけり、(この枕辭、すべて古來詳なる説なし、冠辭考の説の非《ヒガコト》なるよしは、前輩《ハヤクノヒトゞモ》も皆よく知て信用《ウケガハ》ぬことなれば、今ことさらにはいはず、古事記(ノ)傳に、崇神天皇の御世の故事によりて青土《アヲニ》を※[足+滴の旁]※[足+且]《フミナラ》せし地《トコロ》と云意につゞくよし云るも當らず、かの崇神天皇(ノ)紀には、※[足+滴の旁]2※[足+且]《フミナラス》草木《クサキヲ1と見えて、次に引るがごとくなるをや土を※[足+滴の旁]※[足+且]《フミナラ》せしよしにはあらず、然云(ハ)ば※[足+滴の旁]2※[足+且]草木(ヲ)1とあるは漢文にて、元《モト》は土をふみ平《ナラ》せしよしにてありしとも(122)いはむか、されど土をふみ平すは、宮《ミヤ》家《イヘ》を建《タテ》む料《タメ》の地《トコロ》などならばこそさもあらめ、唯に御軍士の屯聚《イハミ》たらむには、土を※[足+滴の旁]※[足+且]《フミナラ》さむこと何の由そや、しかればいよ/\草木ならでは似つかはしからぬをや、又荒木田(ノ)久老が、青丹吉は、阿那邇夜斯《アナニヤシ》と同言なり、と云るもたがへり、)○奈良能山《ナラノヤマ》は、大和(ノ)國添上(ノ)郡|那良《ナラ》より、山城(ノ)國相樂(ノ)郡へ越(ユ)る道にて、いはゆる那良坂是なり、この下に、青丹吉平山越而《アヲニヨシナラヤマコエテ》、三(ノ)卷に、佐保過而寧樂乃手祭爾置幣者《サホスギテナラノタムケニオクヌサハ》、(手祭は、借(リ)字のみにて今いふ峠《タウゲ》なり、)十三に、緑青吉平山過而《アヲニヨシナラヤマスギテ》、又|雖見不飽楢山越而《ミレドアカヌナラヤマコエテ》、十六に、奈良山乃兒手柏之《ナラヤマノコノテカシハノ》、十七に、青丹余之奈良夜麻《アヲニヨシナラヤマ》須疑底泉川《スギテイヅミカハ》などあり、名の由縁は、書紀崇神天皇(ノ)卷に、復遣2大彦與(ヲ)2和珥(ノ)臣(ノ)遠祖彦國|葺《フク》1、向《オモムキテ》2山背(ニ)1撃2埴安彦(ヲ)1、爰以2忌※[分/瓦]《イムヘ》1、鎭2坐《スウ》於和珥(ノ)武※[金+躁の旁]《タケスキ》坂(ノ)上(ニ)1、則率(テ)2精兵《トキイクサ》1進(テ)登(リ)2那羅山(ニ)1、而|軍之《イクサダテス》、時(ニ)官軍《イクサ》屯聚《イハミテ》而|※[足+滴の旁]2※[足+且]《フミナラシキ》草木(ヲ)1由《ヨリテ》v此《コレニ》號(テ)2其山《ヲ》1、曰2那羅山(ト)1、(※[足+滴の旁]※[足+且]、此云2布瀰那羅須《フミラスト》1、)とあるがごとし、○山際、岡部氏が、際の下從(ノ)字を脱せるか、と云るは實に然有《サル》ことなり、然らばヤマノマユ〔五字右○〕と訓べし、山際《ヤマノマ》は、十(ノ)の卷に足日木之山間照櫻花《アシヒキノヤマノマテラスサクラバナ》云々、とあるが如し、なほ際(ノ)字をマ〔右○〕と訓るは、二(ノ)卷に、木際從《コノマヨリ》、三(ノ)卷に、山際爾伊佐夜歴雲者《ヤマノマニイサヨフクモハ》、又|山際從出雲兒等者《ヤマノマヨリイヅモノコラハ》、又|山際往過奴禮婆《ヤマノマヲユキスギヌレバ》、六(ノ)卷に、象山際乃《キサヤマノマノ》、又|島際從《シマノマヨ》、又|鹿脊山際爾《カセヤマノマニ》、七(ノ)卷に、山際爾《ヤマノマニ》、八(ノ)卷に、山際遠木末乃《ヤマノマノトホキコヌレノ》、十(ノ)卷に、山際爾?喧而《ヤマノマニウグヒスナキテ》、又|山際爾雪者零管《ヤマノマニユキハフリツヽ》、又|山際之雪不消乎《ヤマノマノユキハケザルヲ》、又|山際最木末之《ヤマノマノトホキコヌレノ》、十七に、木際多知久吉《コノマタチクキ》などあり、(際は、玉篇に接|也《ナリ》壁會|也《ナリ》方|也《ナリ》合|也《ナリ》とあり、)續紀廿九に、文部(ノ)山際《ヤマノマ》といふ人(ノ)名もあり、(さきには四(ノ)卷に、山羽《ヤマノハ》、六(ノ)卷に、(123)山之葉《ヤマノハ》、また十一、十六に、山葉《ヤマノハ》、十五に、山乃波《ヤマノハ》とあるによりて、ヤマノハ〔四字右○〕とよみしはあしかりけり、ヤマノハ〔四字右○〕と、ヤマノマ〔四字右○〕とは、意味《コヽロハエ》いさゝか異なり、)○伊隱萬代《イカクルマテ》、伊《イ》はそへ言、上に云り、伊積《イツモル》の伊《イ》も同じ、加の言清て唱(フ)べし、古事記下卷雄略天皇(ノ)條(ノ)歌に例あり、萬代は何事にもあれ限あるをいふ、その限を過てのちは、いかに思ふとも見ゆべきよしのなければ、その限(リ)にいたるまでは、委曲に見つゝ行むものをとおもふよしなり、その限(リ)とは、奈良坂の境にて、こゝに則ち山際といへるそれなるべし、○道隈《ミチノクマ》とは、すべての物のかくれになれるを隈《クマ》と云、神代紀に、今我(レ)當於2百不足之八十隈《モヽタラズヤソクマデ》1、將隱去者《カクリナム》矣、(隈此云2矩磨※[泥/土]《クマデト》1、)こゝは道の曲りて此方よりは見えぬ處をいふ、その曲隈《クマ》のいたく重なれるを積(ル)とは云なり、○伊積流萬代爾は、イツモルマテニ〔七字右○〕と訓る宜し、(略解に、イサカル〔四字右○〕と訓るは通《キコ》えがたし、さて按(フ)に、都母流《ツモル》てふ詞に竪横の差別あり、たとへば雪などの降重る、又木(ノ)葉などの落重るを、都母流《ツモル》と云は竪なり、又月日の經行を、都母流《ツモル》と云は横なり、こゝに道隈伊積流とあるも、道の隈々の經重るを云るにて横なり、こはことのついでにいふのみ、)爾は、上の伊隱萬代をも、この爾《ニ》の辭にうけたるなり、○委曲毛《ツバラカニ》、毛は爾(ノ)字の誤なり、(こゝの句|爾《ニ》ならでは、下に數敷毛《シバシバモ》とある毛《モ》の言詮なし、下の毛《モ》の言に、委曲爾毛《ツバラカニモ》といふ毛《モ》の意を帶たるなり、)九(ノ)卷に、委曲爾示賜者《ツバラカニシメシタマヘバ》、又十九に、都婆良可爾今日者久良佐禰《ツバラカニケフハクラサネ》などあり、つばらかには、つまびらかにといふ意なり、三輪山を委曲に見むと思ふよ(124)しなり、たとひ雲は立(チ)覆(フ)とも、おろ/\は見ゆべきを、さては滿足《コヽロダラヒ》ならねば、委曲に見むことをねがはれたるなり○見管行武雄《ミツヽユカムヲ》は、見つゝ行むものをの意なり、管は(借(リ)字)乍《ツヽ》なり本居氏、都々《ツヽ》は此(レ)をも爲ながら彼(レ)をも爲るを云辭なり、且々《カツガツ》の約りたるかといへり、其(ノ)の意なり、(但し且々の約りとせむはいかゞ、都々《ツヽ》といふ辭と、且々《カツガツ》といふことばはおきどころいさゝか異なり、且々は常に言の頭に且々云々といひて、尾に云々且々とはいはず、都々は常に言の尾に付て云々都々と云つて、頭に都々云々とはいはず、かゝればもとより別なる言なるをや、)○數數毛《シバシバモ》は、數數とはたび/\の意なり、十七に、之婆之婆《シバシバ》とあり、(字鏡に※[木+羔]烝(ハ)志波志波《シバシバ》、)常に之婆《シバ》とばかりいふを、こゝなどには重(ネ)ていへるなり、(岡部氏(ノ)考に、一本を用ひて一(ツ)の數(ノ)字を省けり、されど十一に、吹風有數々應相物《フクカゼニアラバシバ/”\トフベキモノヲ》、十三に、數々丹不思人者《シバシバニオモハズヒトハ》、續紀廿二(ノ)詔に、數々辭備申多夫仁依弖《シバ/”\イナビマヲシタブニヨリテ》などあれば、數々とあるも難なし、)毛《モ》は、だにもといふほとのこゝろなり、これも上の委曲(ノ)爾を帶て、委曲にだにも云々、數々にだにも云々といふ意なり、心だらひなることはかなはずとも、せめてといふ意に、毛《モ》の辭を用ひたるなり、○見放武八萬雄は、ミサカムヤマヲ〔七字右○〕と訓べし、見放《ミサカ》む山なるものをの意なり、三(ノ)卷に、去左爾波二吾見之此埼乎獨過者見毛左可受伎濃《ユクサニハフタリアガミシコノサキヲヒトリスグレバミモサカズキヌ》、(これにょれば、ミサケム〔四字右○〕と訓はわろからむ、)さて放は遠く見やるを云、振放見《フリサケミ》るなど云るにて知べし、雄《ヲ》はふたつながら、しか欲《オモ》ふにそれに應《カナ》はぬをいふ詞なり、○情無、(125)一句《ヒトキリ》なり、コヽロナク〔五字右○〕と訓べし、雲が心せぬよしなり、雲が心せずしてかくすがゆゑに、見つつゆかむことも見放《ミサカ》むことも、かなふまじきをなげきたるなり、此(ノ)句より下は、上の三輪の山といふにつゞけて心得べし、○雲乃《クモノ》、三言一句なり、此(レ)も七言の位の句を三言にのたまへり、此(レ)等の例は余が永言格に委(ク)云り、披(キ)見べし、(略解に、情無雲乃をココロナクモノ〔七字右○〕と訓て、ココロナ〔四字右○〕は心なやの意と、本居氏(ノ)説にいへるよしあれども、いかでかさる拙き古語のあるべくもあらむ、且本居氏(ノ)説のよし云るも意得ず、凡て畧解に本居氏(ノ)説として載たるに、信用《ウケ》られぬ説どものいと多かるは、聞誤《キヽタガヘ》てあげたるにや、)○隱障倍之也《カクサフベシヤ》は、かくしてあるべしやはの意なり、カクサフ〔四字右○〕はカクス〔三字右○〕の伸たるなり、サフ〔二字右○〕はス〔右○〕と切れり、(障は借(リ)字のみなり、隱し障ふる意にはあらず、思ひ混ふべからず、)十一に、奧藻隱障浪五百重浪《オキツモヲカクサフナミノイホヘナミ》云々、この隱障《カクサフ》も同じ、さてかく伸て云は、その事の緩なるときにいふことなり、隱してあるべき事にはあらぬをといふほどの意なればなり、こは推《オス》をオソフ〔三字右○〕といふと同格の詞なり、弘仁式儺(ノ)祭の詞に、天地能諸御神等波《アメツチノモロ/\ノミカミタチハ》、平久於太比爾伊麻佐布倍志止申《タヒラケクオダヒニイマサフベシトマヲス》とあるも、座《イマス》を伸て緩に云るにて同じ、也《ヤ》は也波《ヤハ》の也《ヤ》なり、(すべて古言に也波《ヤハ》といふ言なし、也《ヤ》とのみいふに也波《ヤハ》の意を具《モチ》たればなり、)○歌(ノ)意は、奈良坂をこゆる程までは、遠ながらもかへり見しつゝ、なぐさまむとおもふ三輪山なるを、かく立かくしたるは情無《コヽロナ》の雲や、かくして有べき事にはあらぬをと、家路の遠ざか(126)るを此(ノ)山に負せて、ふかく惜み賜ふなり、又三輪山は、名高くて世にことにうるはしき山なれば、朝夕に御覽じてなぐさみ給ひしが、遠ざかりゆくををしみ給へるにも有べし、(契沖、大江(ノ)嘉言(ノ)歌を引て云、おもひ出もなき故郷の山なれどかくれ行はた哀なりけり、)此(ノ)歌は上にもいへるごとく、下2近江(ノ)國1時と題《シル》したれば、未(タ)近江へ遷都し給はぬ前、勅にまれ私にまれ、ゆゑありて下らるゝとて、飛鳥にありて面白く常に見馴し三輪山の、遠ざかるによりてよまれたるなり、
 
反歌《カヘシウタ》
 
18 三輪山乎《ミワヤマヲ》。然毛隱賀《シカモカクスカ》。雲谷裳《クモダニモ》。情有南畝《コヽロアラナム》。可苦佐布倍思哉《カクサフベシヤ》。
 
然毛隱賀《シカモカクスカ》は、さやうにも隱す哉の意なり、然《シカ》の義は上にいへり、賀《カ》は哉(ノ)字の意にて歎息(ノ)辭なり、(今(ノ)世に、さてさてそのやうにもきつう隱す哉といふが如し、)清て唱(フ)べし、(賀の濁音の字をかけるは正しからず、)かくすともをり/\は雲間もあるべきに、さて/\つらきかくしやうかなとおもふ心を、此(ノ)歎の辭にもたせたり、○雲谷裳《クモダニモ》、谷は借(リ)字なり、俗に雲なりともといはむがごとし、雲なりともせめて心あれとの意なり、○情有南畝《コヽロアラナム》、(情(ノ)字、類聚抄に心、畝字、官本に武と作《カケ》り、字彙に、※[畝の異体字](ハ)莫厚(ノ)切謀俗作(ルハ)v畝(ニ)非(ナリ)とあり畝謀呉音ム〔右○〕なり、謀叛《ムホン》などいふを思ふべし、)は、いかで心あれかしと希望ふ意なり、長歌には、雲の情なきをうらみたるのみをいひ、反歌(127)には、その雲だにも情あらむことをねがはれたるなり、わが心のほとを雲のおしはかりて、あはれまざるをふかくなげかれたるなり、○可苦佐布倍思哉《カクサフベシヤ》は、長歌なると同じ、○歌(ノ)意、長歌には雲の情なきをうらみ、その雲なりとも情ありて、かくまでをしむ三輪山なるを、いかでつまびらかに見せよかしといひて、今ひときは切なる心を述(ヘ)られたり、(古今集に、貫之、三輪山を然も隱すか春霞人に知られぬ花哉開らむ、とあるは此(ノ)歌をとりてよめり、
〔右二首(ノ)歌。山上(ノ)憶良(ノ)大夫(カ)類聚歌林(ニ)曰(ク)。遷(ス)2都(ヲ)近江(ノ)國(ニ)1時。御2覽(シテ)三輪山(ヲ)1御歌焉。日本書(ニ)紀曰(ク)。六年丙寅春三月辛酉朔己卯。遷(ス)2都(ヲ)于近江(ニ)1。〕
山上云々、例によるに山上の上、檢(ノ)字を脱せしか、○焉(ノ)字、類聚抄になし、拾穗本には也と作り、○この類聚歌林に依ときは、天智天皇の大御歌か、又は大海人(ノ)皇子(ノ)尊(天武天皇)の御歌なるべし、○紀(ノ)字、舊本、誤て記と作り、○己(ノ)字、類聚抄に乙と作り、誤なり、
 
井戸王即和歌《ヰトノオホキミノスナハチコタヘタマヘルウタ》
 
井戸(ノ)王は、考(フ)るものなし、(後(ノ)世大和(ノ)國の武士に、井戸若狹守覺弘と云人あり、由あるか、但しこの井戸氏は、武藏(ノ)國秩父(ノ)郡井戸村より出しとも云り、)はた和歌とあるも、既く左注に疑ひおきたるごとくいかゞおぼゆ、猶能(ク)考(フ)べし、
 
19 綜麻形乃《ヘソガタノ》。林始乃《ハヤシノサキノ》。狹野榛能《サヌハリノ》。衣爾著成《キヌニツクナス》。目爾都久和我勢《メニツクワガセ》。
 
(128)「綜麻形《ヘソガタ》は、地(ノ)名なるべし、崇神天皇紀に大綜麻杵《オホヘソキ》と云人(ノ)名あり、由あるか、形は左野方《サヌカタ》、山縣《ヤマガタ》など地(ノ)名に多し、そのこ縣《カタ》なるべきか、按(フ)に、此は三輪山の古(ヘ)の異名なるべきか、上に云るごとく、閇蘇麻《ヘソヲ》の三勾《ミワ》遺れるに因(リ)て、其(ノ)地を美和《ミワ》と名《ナヅ》けたるよし見えたる閇蘇《ヘソ》は即|綜麻《ヘソ》にて、其(ノ)麻の遺れる状《サマ》によりて、三輪《ミワ》といひそめたる地(ノ)名なるがゆゑに、やがて綜麻形《ヘソガタ》とはいひたるなるべし、さて彼(ノ)地の異名なりけるから、本(ノ)名の三輪と云るのみ世にひろく傳はりて、綜麻形《ヘソガタ》の稱《ナ》は、後には、きこえぬことゝなれるにやあらむ、(紗寐形《サヌカタ》の誤といふ説はいふにたらず、)○林始《ハヤシノサキ》、林《ハヤシ》は名(ノ)義|榮《ハイ》なり、(夜志《ヤシ》の切|伊《イ》となる、和名抄に、讃岐(ノ)國阿野(ノ)郡林田(ハ)波以多《ハイタ》とあり、)竹樹の殖《タチ》て茂榮《ハユ》たる謂なり、武庫《ムコ》の枕詞に、玉波夜須《タマハヤス》といふも、玉映《タマハユ》といふ意の伸りたる稱なるを考(ヘ)合(ス)べし、かくて波夜志《ハヤシ》てふことは、出雲(ノ)國風土記に、意宇(ノ)都|拜志《ハヤシノ》郷、云々、吾(カ)御心|之波夜志詔《ノハヤシトノリタマヒキ》、故云(ハ)v林《ハヤシト》、云々、書紀顯宗天皇(ノ)卷室壽(ノ)大御辭に、取擧棟染者《トリアグルムネウツハリハ》、此(ノ)家長(ノ)御心|之林《ノハヤシ》也など見えて、そのもとは心意《コヽロ》にまれ品吻《モノ》にまれ、一(ツ)物の數多く榮《ハ》え繁《シゲ》るをいふ稱なるが、後には竹樹のうへにのみ云ことの如くなれるなり、五卷十四に、波也之《ハヤシ》、同卷或本歌に、乎波夜之《ヲハヤシ》など假字書も見えて、みな竹木の林なり、林(ノ)字を書たるは更なり、(しかるを岡部氏(ノ)考に、林をシゲキ〔三字右○〕と訓たる、そは繁木《シゲキ》にて、大祓(ノ)祝詞にも見えたれば、さることにもあれど、集の例を考(フ)るにもしシゲキ〔三字右○〕と訓べきならば、林(ノ)字はかゝぬことそかし、集は集の例によりて訓こそ要とあるべ(129)き事なれ、おのが私の心もて謾に訓るは、理ありげに聞ゆるも、尚|熟《ヨク》心して見る時は、ひがことのみぞ多かる、さるは二(ノ)卷に、冬乃林《フユノハヤシ》、七(ノ)卷に、星之林《ホシノハヤシ》、又|江林《エハヤシ》、十(ノ)卷に、橘之林《タチバナノハヤシ》、十九に、竹林《タケノハヤシ》など、何處にても林(ノ)字はハヤシ〔三字右○〕と訓るにても、シゲキ〔三字右○〕ならぬをさとるべし、)始は、契冲のサキ〔二字右○〕とよめるによるべし、上に引たる古事記に伊夜佐岐陀弖流《イヤサキダテル》とあるも、始に立るをいへば、始をサキ〔二字右○〕と訓は理あるべし、さ始《サキ》はこゝは岬《サキ》なり、○狹野榛能《サヌハリノ》は、狹は眞《マ》に通ふ美稱にて、野榛《ヌハリ》とのみいふに同じ、古事記に、佐怒都登理岐藝斯《サヌツトリキヾシ》とあるを、此集には、野鳥雉《ヌツトリキヾシ》とあるにて意得べし、かくて此(ノ)物は、和名抄に、本草(ニ)云、王孫、一名黄孫、和名|沼波利久佐《ヌハリクサ》、此間(ニ)云|豆知波利《ツチハリ》、字鏡に、藥(ハ)豆知波利《ツチハリ》など見えたる物にて、波里《ハリ》といふ名(ノ)義こそは同じからめ、木類の榛《ハリ》とは別種《コトモノ》なるべし、七(ノ)卷に、吾屋前爾生土針從心毛不想人之衣爾須良由奈《ワガヤドニオフルツチハリコヽロヨモオモハヌヒトノキヌニスラユナ》、十六に墨之江之岸之野榛丹《スミノエノキシノヌハリニ》、(之野の二字舊本に顛倒《イリチガ》へり、こは荒木田氏の考(ヘ)に依(レ)り、)丹穗所經跡丹穗葉寐我八丹穗氷而將居《ニホフレドニホハヌアレヤニホヒテヲラム》、などある皆|同種《ヒトクサ》なるべし、(榛《ハリ》は野にも生る物なれば、野榛とも云べしといふ人もあれど、さらば、野之榛《ヌノハリ》とは云べき理なれども、たゞに野榛《ヌハリ》とはいふべくもなし、そのうへ土針《ツチハリ》とよめるも同種と見えたれば、いよ/\榛《ハリ》とは別なるをさとるべし、或人おのが此(ノ)説を見て云、榛《ハリ》は野にも山にも生るものなれば、たゞ榛とも野榛《ヌハリ》ともいふべし、藁本を和名抄に曾良之《ソラシ》とあるを、字鏡には乃曾良自《ノソラシ》とあるをおもふべしといへれど、此(ノ)考はあしかりけり、曾良自《ソラシ》と(130)野曾良自《ノソラシ》とは、是亦同類別種なるべし、そのよしは字鏡に、※[草冠/奴]また、※[草冠/文]を曾良自《ソラシ》とし、蒿莽また拔契を乃曾良自《ノソラシ》とせるにてもさとるべし、もし同種ならむには、かくことさらに擧べき謂なし、たま/\和名抄に蒿本を曾良自《ソラシ》とあるを字鏡に乃曾良之《ノソラシ》とあれど、彼(ノ)書どものならひにて、あながちに字をばたのむべきにあらず、)猶この草のこと、品物解にもいはむをむかへ見べし、○著成《ツクナス》は、如《ゴトク》v著《ツク》といふが如し、成《ナス》は借(リ)字|如《ナス》なり、那須《ナス》は期登久《ゴトク》といふ意の古語なり、能須《ノス》ともいへり、(さて此(ノ)語、後(ノ)世には聞なれぬ語なるを、たま/\續古今集に、思川逢瀬まてとや水沫那須《ミナワナス》もろき命もきえのこるらむ、とよめるはめづらし、○ことのついでにおどろかしおくべし此(ノ)那須《ナス》てふ語、古書等に千萬《アマタ》あれども、皆云々|那須《ナス》とのみ云て、那勢理《ナセリ》とも那斯多理《ナシタリ》とも、はたらかしいへるは一(ツ)もなし、然るに近(キ)世の古學(ノ)徒、古書のうへにても自《ミヅカラ》の歌文にても、たとへば花那勢理《ハナナセリ》、あるは紅葉那斯多理《モミヂナシタリ》、などやうによめるは奈何ぞや、また古事記傳に云、稱掛(ノ)大平が、那須《ナス》は似《ニ》すなるべしと云るはさもあるべし、那《ナ》と邇《ニ》とは通(フ)音なるうへに、那須《ナス》を能須《ノス》とも云る例あると、和名抄備中(ノ)郷(ノ)名に、近似(ハ)知加乃里《チカノリ》と見え、又似を漢籍にてノレリ〔三字右○〕と訓などとを合せて思へば、似すを那須《ナス》と云つべきものぞ、此(ノ)辭倭建(ノ)命の御言に、吾足|成《ナセリ》2當藝斯《タギシノ》形1とひ、云々といへれど、もしさる謂《ヨシ》ならむには、云々|爾那須《ニナス》とこそいふべきことなるに、爾《ニ》の辭はなくして、いつも云々|那須《ナス》とのみ云たれば、此(ノ)説はすべてうけられ(131)ぬことなり、また成2當藝斯形1とあるを、こゝの例に引るも非なり、如《ナス》の意ならばナセリ〔三字右○〕とはいふまじきこと、上にいへるごとし、されば成2當藝斯形1の成は、ナリヌ〔三字右○〕とよみて變化《ナリヌ》の意と見べし、集中にも此(ノ)まどひあり、六(ノ)卷に、廬爲而都《イホリシテミヤコ》成有とある、成有をナシタリ〔四字右○〕と訓て、如り意ぞと云めれど、これも必(ズ)ナレリ〔三字右○〕とよみて、變化《ナレリ》の意なる類、凡ていとおほかるを、おしわたしてさとるべし、)○目爾都久和我勢《メニツクワガセ》は、目爾都久《メニツク》とは、その人の愛《ウツク》しまるゝより見ぬふりしても常に目につき易きよしなり、七(ノ)卷に、今造斑衣服面就常爾所念未服友《イマツクルマダラノコロモメニツキテツネニオモホユイマダキネドモ》ともよめり、和我勢《ワガセ》は吾(カ)兄にて、さし賜へる人有しなるべし、○歌(ノ)意は、野榛の林《シゲミ》に入(リ)立(ツ)と、設て衣を染ねども、やがてその野榛の色の衣につきて染るとひとしくて、その人を見るとはなけれど、常に目につきて愛まるゝ吾(カ)兄ぞとなり、
〔右一首(ノ)歌。今按(ニ)不v似2和(スル)歌(ニ)1。但舊本載(ス)2于此(ノ)次(ニ)1。故(レ)以猶載(タリ)焉。〕
但舊云々已下を、拾穗本に然依舊本以載茲と作り、○按(フ)に、この左注のうたがひはさることなり、或説には、右の味酒云々の歌の端詞を、井戸(ノ)王下2近江(ノ)國(ニ)1時作歌、額田(ノ)王即和歌と改めて、かの長歌反歌は、井戸(ノ)王の額田(ノ)王を比《タトヘ》たる歌とし、綜麻形の云々の歌に和我勢《ウガセ》とあるからは、額田(ノ)王の和歌として、井戸(ノ)王をさしてのたまへりとせり、それも理ありげなれど、なほ右の長歌反歌は、舊本の如く額由(ノ)王のなるべくこそ思はるれ、さればこれも鑿説なるべし、
 
(132)天皇《スメラミコトノ》遊2獵《ミカリシタマヘル》蒲生野《カマフヌニ》1時《トキ》。額田王作歌《ヌカタノオホキミノヨミタマヘルウタ》。
 
遊獵、(獵(ノ)字、類聚抄に?と作り、)此の年月は、左注に書紀を引たるごとく、天智天皇七年五月五日なり、夏の獵は獣を獵なり、歌の左に委く注《シル》すべし、○蒲生野は、近江(ノ)國蒲生(ノ)郡の野なり、
 
20 茜草指《アカネサス》。武良前野逝《ムラサキヌユキ》。標野行《シメヌユキ》。野守者不見哉《ヌモリハミズヤ》。君之袖布流《キミガソデフル》。
 
茜草指《アカネサス》は、紫《ムラサキ》といはむための枕詞なり、日《ヒ》とつゞくるに同じ、紫は今の紫にあらず、から人のいはゆる朱《アケ》を奪ふ紫のことなり、集中に人の紅顔《ニホヘルオモ》を、紫にたとへたる歌多きにておもふべし、二(ノ)卷に、茜刺日者雖照有《アカネサスヒハテラセレド》、また茜指日之入去者《アカネサスヒノイリヌレバ》、(茜指を且覆に誤れり、)又||赤根刺日之盡《アカネサスヒノコト/”\》、六(ノ)卷に、茜刺日不並《アカネサスヒナラベナクニ》、十三に、赤根刺日者之彌爾《アカネサスヒルハシミラニ》、十五に、安可禰佐須比流波毛能母比《アカネサスヒルハモノモヒ》、四(ノ)卷に、赤根指照有月夜爾《アカネサシテレルツクヨニ》、十一に、赤根刺所光月夜爾《アカネサシテレルツクヨニ》、十六に、赤根佐須君之情志《アカネサスキミガコヽロシ》、續後紀十九興福寺僧(カ)長歌に、茜刺志天照國乃《アカネサシアマテルクニノ》などあり、按(フ)に、赤根《アカネ》の根《ネ》は、たゞにそへたる言にて、赤指《アカサス》といふなるべし、物は異なれど、島根《シマネ》、草根《クサネ》、眉根《マヨネ》など云と同じく、根《ネ》の言に意なし、指《サス》は篝火指《カヾリサス》などの指《サス》にて、光曜《テリカヾヤク》ことなり、又|日光《ヒカゲ》の指(ス)月影の指(ス)などいふ指(ス)も同し、(或説に、赤丹指《アカニサス》の義と云るは誤なり、又冠辭考の説も非《ワロ》し、○武良前野逝《ムラサキヌユキ》は、紫草の生る野を行(キ)の謂にて、紫野といふ地(ノ)名にはあらず、○標野行《シメヌユキ》(※[手偏+票](ノ)字、舊本標に誤、類聚抄に從つ、)は、遊獵し賜はむ料に、標おかせたまへる野を行(キ)なり、このふたつの逝(キ)行(キ)は下の君之袖布流《キミガソデフル》といふにつゞけて心得べし、野守《ヌモリ》といふへ(133)つゞけるにはあらず、○野守者不見哉《ヌモリハミズヤ》は、野守とは、今(ノ)俗にいふ野番《ノバム》なり、御遊獵《ミカリ》し腸ふ野へは、守護人《モリベ》を居(ヱ)置て、私に狩獵《カリ》することを禁《イサ》められしなり、持統天皇(ノ)紀に、朱鳥四年八月辛巳溯丙申、禁d斷《イマシム》漁c獵《スナドリカリスルコトヲ》於攝津(ノ)國武庫(ノ)海一千歩(ノ)内、紀伊(ノ)國阿提(ノ)郡那耆野二萬|頃《シロニ》u。置2守護人《モリベヲ》1、とあるをも思(フ)べし、さてこゝは、額田(ノ)王につきたる警衛《マモリ》の者を、野守にたとへて云、なほ下に云べし、さて武良前野、標野、野守の野は、皆|努《ヌ》と訓べし、(略解(ニ)云、野を集中|奴《ヌ》と假字書にせり、古事記にも三吉野を美延斯努《ミエシヌ》など書たれば、野は凡て奴《ヌ》とのみ訓べけれども、五(ノ)卷に、波流能能爾《ハルノノニ》、十八に、夏能能之《ナツノノノ》、十四に、須我能安良能《スガノアラノ》などもあれば、調(ヘ)によりて稀には能《ノ》ともよみたりと見ゆ、たとへば、茜草指武良前《アカネサスムラサキ》野|行《ユキ》標《シメ》野|行《ユキ》野|守者不見哉《モリハミズヤ》、など云御歌の野を、奴《ヌ》とは唱へがたければ、これらは乃《ノ)とせり、猶此(ノ)類ありと云るは意得ぬことなり、まづ調(ヘ)によりて、まれには能《ノ》ともよみたりと思へるこそいと頑愚《ヲコ》なれ、さる所由《ユヱ》ならむには、集中に、夜麻古要奴由伎《ヤマコエヌユキ》とも、奴都可佐《ヌツカサ》とも、努乃宇倍能美夜《ヌノウヘノミヤ》とも、奴敝《ヌヘ》ともいへる努《ヌ》をこそ、能《ノ》とはいふべきを、波流能能《ハルノノ》を波流能努《ハルノヌ》、須我能安良能《スガノアラノ》を須我能安良努《スガノアラヌ》、夏乃能《ナツノノ》を夏の奴《ヌ》といはむに、調(ヘ)のわろきことのあるべくもあらず、是にても略解のひがことなるはうつなければ、おのが考(ヘ)をあげてさらにことわらむ、)そも/\古(ヘ)は、すべて野を努《ヌ》といふのみならず、小竹を志奴《シヌ》、凌を志奴具《シヌグ》、偲を志奴布《シヌブ》、樂を多奴斯《タヌシ》など云て、奴《ヌ》といふべきを、能《ノ》といへることは曾《カツ》てなかりしを、奈良(ノ)朝の(134)ころより、かつ/”\奴《ヌ》を能《ノ》といひそめしと見えて、集中にも五(ノ)卷に、波流能能爾《ハルノノニ》とあるをはじめて、十七に、志乃備《シノビ》、十八に、多能之氣久《タノシケク》、又|夏能能之《ナツノノノ》、廿卷に、和乎之乃布思之《ワヲシノブラシ》などど見えたり、(さて十四に、須我能安良能爾《スガノアラノニ》、又|可美都氣乃《カミツケノ》とあるは東語にははやく野を能《ノ》ともいひしか、但し本居氏(ノ)説に、可美都氣乃《カミツケノ》の乃(ノ)字(ハ)は奴《ヌ》の誤なるべし、凡て此(ノ)國(ノ)名をよめる歌十二首ある中に、乃《ノ)といへるは只一(ツ)にて、餘はみな奴《ヌ》なるを思ふべし、といへり、)かくて又十八に、多流比賣野宇艮乎許藝都追《タルヒメノウラヲコギツヽ》、又|奈良野和藝敝乎《ナラノワギヘヲ》、又|安利蘇野米具利《アリソノメグリ》、又|伊都波多野佐加爾蘇泥布禮《イツハタノサカニソデフレ》、又|須久奈比古奈野神代欲里《スクナヒコナノカミヨヨリ》、廿(ノ)卷に、安伎野波疑波良《アキノハギハラ》など野(ノ)字を之(ノ)の意の假字にせるをおもへば、やゝ奈良(ノ)朝の季つかたよりは、野を能《ノ》といふことにはなれりけむ、(されど猶かの比までは、野を奴《ヌ》と假字書にせるも多し、かくて今(ノ)京より以後《コナタ》は、野を能とのみ云て、努《ヌ》と云ることは絶てなきごとなれども、たま/\土佐日記に、阿波の野島を、奴之麻《ヌシマ》としも、書ることもありかし、)かゝれば近江(ノ)朝の比には、野を能《ノ》といひしことなどは、かつても無りしことどかし、(されば一二(ノ)卷をはじめ、十三十一十二などにも、奴《ヌ》といふべきを能《ノ》と書る例なし、然るを調(ヘ)によりて、能《ノ》ともよみたりとおもふはいかにぞや、集中にも時代の差別《ケヂメ》あれば、おのおのその時代の語につきて考ふべきことなるを、大かたに意得をるこそいとほしけれ、)哉《ヤ》は也波《ヤハ》の也《ヤ》なり、○君之袖布流《キミガソデフル》、君とは皇太子をさす、袖布流は、諸注何の辨もなきは、たゞに(135)袖をふる事と心得たるにや、されど何のよしもなくて袖ふるべきやうなし、されば思ふに、六(ノ)卷(大伴(ノ)卿の京に上られし時、娘子のよめる歌)に、凡者左毛右毛將爲乎恐跡振痛袖乎忍而有香聞《オホナラバカモカモセムヲカシコミトフリタキソテヲシヌビタルカモ》、(これは凡人ならば袖振てさし招むを、貴人なればかしこみてさることもせず、忍てあると云意なり、思(ヒ)合(ス)べし、)十二に、八十梶懸島隱去者吾妹兒之留登將振袖不所見可聞《ヤソカカケシマカクリナパワギモコガトヾムトフラムソデモミエジカモ》などあるごとく、離別のときはさらにて、人を招く形容をすべていへるなり、領巾《ヒレ》ふるといふも同じ、さればこゝはけそうして、袖ふりさしまねくさまを云るなるべし、○歌(ノ)意は、中山(ノ)嚴水、(賂解に、外によそへたる意なしといへるは、皇太子の禁野《シメヌ》を犯し賜ふを、額田(ノ)王の禁め賜ふ意と心得たるにや、もしさる意ならむには、袖布流てふ詞かなふべくもあらず、かれおもふに、)こは然《サ》ばかりに、左《カ》ゆき右《カク》ゆき吾を招きて、懸想《ケサウ》の容貌《サマ》を勿爲《ナシ》賜ひそ、吾方の警衛《マモリ》の者等の見とがめむにと、恐(レ)憚りて作《ヨミ》て奉らせ賜ふなり、御答歌にておのづからその意|徴《シル》しといへり、實にさも有べし、
 
皇太子答御歌《ヒツギノミコノコタヘマセルミウタ》
 
明日香(ノ)宮(ニ)御宇(シ)天皇
 
皇太子は、大海人(ノ)の皇子にて天武天皇なり、御傳下にいふべし、○明日香(ノ)宮は、明日香(ノ)清御原(ノ)宮なり、(類聚抄古寫本等に、謚曰2天武天皇1と云注あり、さてこの天皇、皇年代略記に、推古帝三(136)十一年癸未降誕、天智帝七年戊辰二月戊寅、爲2皇太弟1、云々とあり、かくてこの遊獵は、即(チ)天智天皇七年なれば、四十六歳の御時なり、
 
21 紫草能《ムラサキノ》。爾保敝類妹乎《ニホヘルイモヲ》。爾苦久有者《ニクヽアラバ》。人嬬故爾《ヒトヅマユヱニ》。吾戀目八方《アレコヒメヤモ》。
 
紫草能《ムラサキノ》とは、右に紫野逝《ムラサキヌユキ》とあるをうけて、則(チ)かく詔て、艶有《ニホヘル》といはむむ料の枕詞と爲給へり、○爾保敝類妹乎《ニホヘルイモヲ》とは、爾保敝類《ニホヘル》は艶《ニホ》ひて有なり、爾保布《ニホフ》とは紅顔《ニノホノオモ》の光澤《ヒカリ》あるをいへるにて、上に引たる十六に、赤根佐須君《アカネサスキミ》とあるに同じ、香《カ》にのみにほふといふは後のことにて、古(ヘ)はもはら色のうへににほふといへり、三(ノ)卷に、茵花香君之《ツヽジハナニホヘルキミガ》、十三に、茵花香未通女《ツヽジハナニホヒヲトメ》などあるたぐひなり、妹乎《イモヲ》とは妹なるものをの意なり、下の吾戀目八方《アレコヒメヤモ》といふにつゞけて意得べし、爾苦久有者《ニククアラバ》といふに直に續けるにはあらず、さてこは額田(ノ)王をさして妹との賜へるなり、○爾苦久有者《ニククアラバ》とは惡《ニク》くは愛《ウツクシ》くの反對《ウラ》にて、愛く思へばこそ、かくわりなく戀るなれ、もし惡くばさもあるまじきをとの御意なり、十(ノ)卷に、吾社葉憎毛有目吾屋前之花橘乎見爾波不來鳥屋《アレコソハニクヽモアラメワガヤドノハナタチバナヲミニハコジトヤ》、○人嬬故爾《ヒトヅマヱニ》は人嬬なるものをの意なり、人嬬とは、もと他人の妻をいふことなれど、まことに人の妻に限らず、他に心をかよはして、われにつらきをいふ詞なり、額田(ノ)王は、天智天皇の妃なれば、實に人妻とのたまはむにたがはねども、しかさしあてゝのたまふべくもあらねば、たゞ大かたにわれにつらきをうらみて、人妻とはのたまへるなるべし、○吾戀目八方《ワレコヒメヤモ》は、(137)あはれ吾かく戀む事かはといふ意なり、目《メ》は牟《ム》のかよへるなり、八《ヤ》は也波《ヤハ》の也《ヤ》、方《モ》は歎息辭なり、○御歌の意は、もとそこを惡《ニク》く思はゞ、人妻なるを知ながら、かくわりなく戀まじき物を、大かたに愛《ウツクシ》く思はねばこそ、袖振など懸想《ケソウ》はすなれといふ御意なるべし、
〔紀(ニ)曰(ク)。天皇七年丁卯夏五月五日。縱2獵(シタマフ)於蒲生野(ニ)1。于時大皇弟諸王内臣及群臣皆悉從(ヘリ)焉。〕
紀は、天智天皇(ノ)の紀なり。丁卯は誤なり、戊辰に改むべし、(大神(ノ)景井云略解に、天智天皇七年は戊辰なり、六年の誤なりと云るは委しからず、則(チ)書紀を見るに、七年にして戊辰なり、こゝは丁卯に誤りしものなり、)○縱獵(縦(ノ)字、書紀に遊と作《カケ》り、)の上、天皇の二字有べし、推古天皇(ノ)紀に、十九年夏五月五日、藥2獵《クスリガリシタマフ》於兎田野(ニ)1、云々、二十年夏五月五日。藥獵之《クスリガリシタマフ》、集2于羽田1、云々、二十二年夏五月五日、藥獵也、これら同日なれば、この縱獵は藥獵と知(ラ)れたり、藥獵とは鹿(ノ)茸を取ためなり、和名抄藥(ノ)部に、鹿茸(ハ)、鹿(ノ)角初生也、和名|鹿乃和加豆乃《カノワカヅノ》とあり、さてまづは五月五日を主とすることなれど、四五月の間はする事とおもはれて、十六に、四月與五月間爾藥獵仕流時爾《ウツキトサツキノホトニクスリガリツカフルトキニ》云々とよみ、十七に、加吉都播多衣爾須里都氣麻須良雄乃服曾比獵須流月者伎爾家里《カキツバタキヌニスリツケマスラヲノキソヒガリスルツキハキニケリ》、と家持(ノ)卿のよまれたるも、四月五日なり、○大(ノ)字、舊本天に誤れり、元暦本によりつ、○皆悉、皆(ノ)字拾穗本になし、悉(ノ)字元暦本に無、
 
萬葉集古義一卷之上 終
 
(138)萬葉集古義一卷之中
 
明日香清御原宮御宇天皇代《アスカノキヨミハラノミヤニアメノシタシロシメシヽスメラミコトノミヨ》
 
明日香清御原宮《アスカノキヨミハラノミヤ》は、大和志に、在2高市(ノ)部上居村(ニ)1とありてかくれもなし、上居はもと淨御を字音に呼なせるより書るなるべし、書紀天武天皇(ノ)卷に、天(ノ)渟中原瀛(ノ)眞人(ノ)天皇(ハ)、天命開別(ノ)天皇同母(ノ)弟也、幼(ニシテ)曰2大海人(ノ)皇子(ト)1、生(マシヽヨリ)而有2岐※[山/疑]之姿1、及(テ)v壯(ニ)雄拔神武《ヲヽシクタケクマシ/\テ》能(シタマヒキ)2天文遁甲(ヲ)1、納(テ)2天命開別(ノ)天皇(ノ)女菟野(ノ)皇女(ヲ)1、(持統)爲《シタマフ》2正妃(ト)1、天命開別(ノ)天皇(ノ)元年、立(テ)爲2東宮(ト)1、云々、同卷に、元年、云々、是歳營2宮室於崗本(ノ)宮(ノ)南(ニ)1、即《ソノ》冬|遷以居《ウツリマシ/\キ》焉、是(ヲ)謂2飛鳥(ノ)淨御原(ノ)宮(ト)1、云々、二年二月丁巳朔癸未、天皇命2有司(ニ)1設《マケ》2壇場《タカミクラヲ》1、即2帝位《アマツヒツギシロシメス》於飛鳥(ノ)(ノ)淨御原宮(ニ)1、立(テ)2正妃(ヲ)1爲2皇后(ト)1、后生(マシキ)2草壁(ノ)皇子(ノ)尊(ヲ)1、云々、十年二月庚子朔甲子、立(テ)2草壁(ノ)皇子(ノ)尊(ヲ)1爲2皇太子1、朱鳥元年秋七月乙亥朔戊午、改v元(ヲ)曰2朱鳥《アカミトリノ》元年(ト)1、仍《カレ》名v宮(ヲ)曰2飛鳥(ノ)淨御原(ノ)宮(ト)1、九月戊戌朔丙午、天皇病遂不(テ)v差(タマハ)、崩(リマシ/\キ)2于|正宮《オホミヤニ》1とあり、○御宇(ノ)二字、舊本に脱せり、目録に據て禰ひつ、袋冊子に引るにも御宇とあり、○代(ノ)字、拾穗本に御宇とあるは、例に違ひてわろし、○天皇代の下、舊本等に天(ノ)渟中原瀛(ノ)眞人(ノ)天皇とあるは、後人のしわざなること既く云る如し、(古寫本拾穗本(139)等には、謚曰2天武天皇1と云注もあり、)この天皇御陵は、高市(ノ)郡檜隈にあり、舊紀に、持統天皇元年冬十月辛卯朔壬子、皇太子率(テ)2公卿百寮人等、並諸國(ノ)司國(ノ)造及百姓男女(ヲ)1、始(テ)築(キタマフ)2大内(ノ)陵(ヲ)1、二年冬十一月乙卯朔乙丑、葬(マツリキ)2于大内(ノ)陵(ニ)1、諸陵式に、檜隈(ノ)大内(ノ)陵(飛鳥(ノ)淨御原(ノ)宮(ニ)御宇天武天皇、在2大和國高市(ノ)郡(ニ)1、兆域東西五町南北四町陵戸五烟、)と見えたり、
 
十市皇女《トホチノヒメミコノ》。參2赴《マヰデタマヘル》於|伊勢神宮《イセノオホミガミノミヤニ》1時《トキ》。見《ミテ》2波多横山巖《ハタノヨコヤマノイハホヲ》1。吹黄刀自作歌《フキノトジガヨメルウタ》。
 
十市皇女《トホチノヒメミコ》は、天武天皇(ノ)紀に、二年云々、天皇初娶2鏡(ノ)王(ノ)女額田姫(ノ)王(ヲ)1、生2十市(ノ)皇女(ヲ)1、七年夏四月丁亥朔癸巳、十市皇女|卒然《ニハカニ》病發(テ)、薨(タマフ)2於宮(ノ)中(ニ)1、庚子、葬2十市(ノ)皇女(ヲ)於赤穗(ニ)1、天皇|臨之《ミソナハシテ》、降v恩以發v哀《メグヽオモホシテミネナキシタマヘリ》、懷風藻葛野王(ノ)傳に、王子者、淡海(ノ)帝之孫、大友(ノ)太子之長子也、母(ハ)淨見原之長女、十市(ノ)内親王(ナリ)とあり、十市は、和名抄に、大和(ノ)國十帝(ノ)都(ハ)止保知《トホチ》、(この郡(ノ)名によれる御名にやあらむ、)また新古今集に、暮ば速《ト》く往て語らむ會事《アフコト》の十市の里の住憂かりしをとあり、(これも會事の遠《トホ》といひかけたれば、登保《トホ》の假字なり、案に、十は登袁《トヲ》の假字なるを、登保《トホ》とあるは違へる如くなれど、本(ト)より通はし云るか、又は本は登袁知《トヲチ》なりけむを、後に訛りて登保知《トホチ》と唱へしか、今たしかには定め難し、然れども今は姑く、和名抄並(ニ)新古今集(ノ)歌に從《ヨリ》て訓つ、)○參赴云々は、書紀に、天武天皇四年二月、十市(ノ)皇女|阿閇《アヘノ》皇女、參2赴《マヰデマス》於伊勢(ノ)神宮(ニ)1とみゆ、さてこゝにこの皇女のみを擧しは、吹黄(ノ)刀自、此(ノ)皇女に仕(ヘ)まつれる女なればなるべし、○波多横山《ハタノヨユヤマ》は、(大和志に、山邊(ノ)郡仲峯山村、一(140)名波多(ノ)横山、云々、神波多(ノ)神社、在2仲峯山村(ニ)1、式(ニ)屬2添上(ノ)郡(ニ)1、とあるはおぼつかなし、)神名帳に、伊勢(ノ)國壹志(ノ)郡波多(ノ)神社、和名抄に、同郡八太(ノ)郷ありて、こは伊勢の松坂里より、泊瀬越して大和へ行道の伊勢の中に、今も八太(ノ)里ありて、其(ノ)一里ばかり彼方に、かいとうといふ村に横山ありて、そこに大なる巖ども川邊にも多ければ、其處なりと云り、○吹黄刀自《フキノトジ》は、傳未(タ)詳ならず、四(ノ)卷にも見ゆ、續紀天平七年の條に、富記(ノ)朝臣てふあり、こは同氏ならむかおぼつかなし、刀自は名なり、女(ノ)名にことに多し、(刀自といふことのよしは、四(ノ)卷坂上(ノ)郎女(ノ)歌の下に、くはしくいふべし、
 
22 河上乃《カハノヘノ》。湯都磐村二《ユツイハムラニ》。草武左受《クサムサズ》。常丹毛冀名《ツネニモガモナ》。常處女※[者/火]手《トコヲトメニテ》。
 
河上は、カハノヘ〔四字右○〕と訓べし、(本居氏(ノ)詞(ノ)瓊綸に此(ノ)歌を引るに、初句を加波良乃《カハラノ》と四言に書れたり、をは書紀齊明天皇(ノ)卷に、甘檮丘束之川上《ウマカシノヲカノヒムカシノカハラ》とある訓注に、川上此(ヲ)云2箇播羅《カハラト》1と見えて、據もたしかなれば、實に然よむべきことぞ宣おもひをりしに、猶集中の例を檢ふるに、必(ズ)たしかに加波良《カハラ》とよむべき所には、いづれも皆河原とのみ書て、河上とも、川上ともかきたるはかつてなし、故(レ)集中に、川上また河上とかきたるは、みなカハノヘ〔四字右○〕とよむべき例と定めて、こゝもしか訓つ、)上(ヘ)は山(ノ)上《ヘ》野(ノ)上《ヘ》、また藤原我宇倍《フヂハラガウヘ》、高野原之宇倍《タカヌハラガウヘ》などいへる類ひなり、(宇閇《ウヘ》を閇《ヘ》とのみ云は例多し、)さて閇《ヘ》は、必(ス)上(ヘ)をいふにもあらず、邊《アタリ》といふにちかし、河(ノ)上《ヘ》は河のあたり、山(ノ)上《ヘ》(141)は山のあたりと意得てあるべし、又按(フ)にカハカミ〔四字右○〕とよまむか、十四に、可波加美能禰自路多可我夜《カハカミノネジロタカガヤ》云々と見えたり、然する時は、上は上(ツ)瀬などいふ上にはあらず、たゞ河縁《カハバタ》などいふほどのことゝきこゆかし、○湯津磐村《ユツイハムラ》(磐(ノ)字、舊本には盤と作り、續字彙補に、盤與v磐同、漢(ノ)文帝紀(ニ)盤石之宗、荀子(ニ)、國安2宇盤石1、また康煕字典に、成公(カ)綏嘯賦(ニ)、坐2盤石(ニ)1、註(ニ)盤(ハ)大石也とあるからは、彼(ノ)國にても、後(ノ)世は磐盤通(ハシ)用ひけるなるべし、されどもとは、磐(ノ)字を誤れるものなるべし、顔眞卿(カ)干禄字書に、磐盤上(ハ)磐石下(ハ)盤器と有によれば、もとは別字なりしこと知れたり、故(レ)今は阿野家本幽齋本等に磐とあるに從つ、)は古事記に、湯津磐村《ユツイハムラ》、書紀には五百箇磐石《ユツイハムラ》と書り、又祝詞に、湯津盤村乃如塞座《ユツイハムラノゴトサヤリマス》と云語多し、五百箇磐群《イホツイハムラ》の謂なり、(岡部氏(ノ)説に、五百《イホ》を約て由《ユ》と云り、湯津桂《ユツカツラ》、湯津爪櫛《ユツツマクシ》なども、枝の多く齒の繁きを云、村は群の意なりと云り、但し五百《イホ》を約めて由《ユ》といふと云るは、くはしからぬ云樣なり、こは本居氏、伊富《イホ》を切れば與《ヨ》なれど、與《ヨ》と由《ユ》とは殊に近く通ふ音なり、自(リ)を古言に、由《ユ》とも與《ヨ》とも云たぐひなりと云るぞよき、)○草武左受《クサムサズ》は武須《ムス》とは生《ムス》なり、書紀に、皇産靈此云(フ)2美武須毘《ミムスビト》1とありて武須に産(ノ)字をあてつ、常に武須子《ムスコ》、武須女《ムスメ》などいふ武須も同じ、三(ノ)卷に、香山之鉾椙之本爾薛生左右二《カクヤマノホコスギガモトニコケムスマデニ》、(此(ノ)歌などによりて、後(ノ)世はたゞ苔のみにむすと云ことゝ思(フ)めれど、古(ヘ)はしからず、何にまれ自(ラ)生出るを云言なり、)さて上よりは、年ふり古びたる巖(ノ)上に、草の生たるをいへるにて、武左愛《ムサズ》の受《ズ》の言までは關らず、(142)布留《フル》の早田《ワサタ》の穗には出ずの例なり、(此(ノ)磐むらの草生ぬをいふなり、といふ説は、ひがことなり、年經たる巖(ノ)上に草の生ぬことやはあるべき、)草|武須《ムス》とは、古びたるたとへにいへるにて、古びず常にわかやかにのみあれかしといはむとて、まのあたり目にふれたるものをいへるなり、本(ノ)二句たゞ序にいへるのみぞ、○常丹毛冀名《ツネニモガモナ》は、いかで常にもがなあれかしと希ふ意なり、我《ガ》は乞望(ノ)の辭、下の毛那《モナ》は、歎(キ)を含める助辭なり、〔頭註|如是霜願跡《カクシモガモト》、常丹毛冀名《ツネニモガモナ》、雲爾毛欲成《クモニモガモ》、鳥爾毛欲得《トリニモガモ》、手力毛欲得《タヂカヲモガモ》、副而毛欲得《タグヒテモガモ》、などある賀母は、みな乞望辭にて、願《ガモ》冀《ガモ》欲成《ガモ》欲得《ガモ》など書る其(ノ)意なり、又|花爾欲得《ハナニモガ》、岸爾家欲得《キシニイヘモガ》、山者無毛賀《ヤマハナクモガ》、千歳爾毛賀《チヨニモガ》などある賀《ガ》も同じ、又十一に、見之賀登念《ミシガトオモウ》とある、賀《ガ》も乞望(フ)辭なり、古今集に甲斐《カヒ》が嶺《ネ》をさやにも見しがわいへるも同じ、又|今毛得?之可《イマモエテシカ》、奈利?之可《ナリテシカ》など云も、云々あれかしと乞望辭なり、得?之可母《エテシカモ》、伊禰?師可母《イネテシカモ》とあるも同じ、さて?之可《テシカ》とあるも?之可母《テシカモ》とあるも可《カ》はみな清音なり、上の毛賀《モガ》、毛賀母《モガモ》、之賀《シガ》と連きたるはみな濁音なり、混(フ)べからず、以上總論三、〕○常處女※[者/火]手《トコヲトメニテ》は、常《トコ》はとこしなへにしていつもかはらぬをいふ、常磐《トキハ》、常葉《トコハ》などの常《トコ》なり、處女は袁登古《ヲトコ》に對(ヘ)て若く盛なる女をいふ稱なること、此(ノ)上軍(ノ)王歌の下に注たるがごとし、さればこゝは、いつもかはらず、とこしへに若き女にてあらむものにもがなと乞望ふなり、六(ノ)卷笠(ノ)朝臣金村(ノ)歌に、人皆乃壽毛吾毛三吉野乃多吉能床磐乃常有沼鴨《ヒトミナノイノチモアレモミヨシヌノタギノトキハノツネナラヌカモ》、○歌(ノ)意はいかで古びずとこしなへに、年若き女(143)にてもがなあれかしと、わが身の年たけ、かたちおとろへゆくがなげかしさによめるにて、今此(ノ)波多(ノ)横山にてまのあたり、見たるものを以て序とせるなり、又按(フ)に題詞に波多(ノ)横山(ニテ)作歌とのみはかゝずして見v巖(ヲ)とあるをおもへば、潔く流るゝ川のほとりに、かずかず並びたてる巖のたゝずまひの、あかず而白ければ、とこしなへにわかき女にてあらましかば、いつもかよひ來て、かゝるおもしろき勝地を見つゝをるべきに、といふ意にてもあるべし、
〔吹黄(ノ)刀自未v詳也。但紀(ニ)曰。天皇四年乙亥春二月乙亥朔丁亥。十市(ノ)皇女。阿閇(ノ)皇女。參2赴於伊勢(ノ)神宮(ニ)1。〕
紀曰とは、天武天皇(ノ)紀なり、○阿閇を、書紀には阿倍と作り、
 
麻續王《オミノオホキミノ》。流《ハナタヘタマヒシ》2於|伊勢國伊良虞島《イセノクニイラゴノシマニ》1之時《トキ》。時人哀傷作歌《ヨノヒトノカナシミヨメルウタ》。
 
麻續王《ヲミノオホキミ》 續(ノ)字は、績にやとおもへど、書紀延喜式(ノ)此集其外の古書みな續(ノ)字をかけり、字注に、續與績同と見えたり、字彙に、績(ハ)續也とも見ゆ、麻續は、和名抄に、信濃(ノ)國伊奈(ノ)郡麻績(ハ)乎美《ヲミ》更級(ノ)郡麻績(ハ)乎美《ヲミ》、また伊勢(ノ)國多氣(ノ)郡麻續(ハ)、乎宇美《ヲウミ》とも見ゆ、かくあれば兩字通(ハシ)書りと見えたり、)は、書紀天武天皇(ノ)卷に見えて、左注の下に引る他《ホカ》、その傳考(フ)る處なし、○伊良處《イラゴノ》島、三河(ノ)國より志摩の答志(ノ)崎へむかひてさし出たるを、いらごが崎といふよし、土人いへりとぞ、太神宮參詣記に、海のさかひ國のさかひをながめやるに、伊良虞(ノ)島鳴海潟はかしこにやと思ひやり云(144)云、古今著聞集十二に、伊勢(ノ)國いらごのあたりなど有は、皆此(レ)なるべし、(千載集十六に、玉藻かるいらごが崎の岩根松幾代までにか年の經ぬらむとあるは、今の歌によれるなるべし、)志陽略志に、伊良湖(カ)崎、在2伊良湖村(ニ)1、此(ノ)地者三河(ノ)國渥美(ノ)郡也、此(ノ)地去2神島(ヲ)1一里、以v近混2志摩(ノ)國(ニ)1云々とあり、かゝれば三河(ノ)國なるが伊勢にも亙れる故に、昔より伊勢(ノ)國伊良虞(ノ)島と物にしるせるにや○流《ハナタヘ》は、獄令に、凡(ソ)流人應(クハ)v配者、依2罪(ノ)輕重(ニ)1各配(セヨ)2三流(ニ)1、謂2遠中近(ノ)處(ヲ)1、(謂其定(ムルコトハ)遠近(ヲ)1者、從v京計(フ)之、)刑部省式に、凡(ソ)流移(ノ)人者、省足(テ)2配所(ヲ)1申v官(ニ)、具(ニ)録(シテ)2犯状(ヲ)1下2符(ヲ)所在並(ニ)配所(ニ)1其路程者、從v京爲v計、伊豆(去v京七百七十里、)安房(一千一百九十里、)常陸(一千五百七十五里、)佐渡(一千三百二十五里、)隠岐(九百一十里、)土佐等(ノ)國(一千二百二十五里、)爲2遠流(ト)1、信濃(五百六十里)伊豫等(ノ)國(ヲ)(五百六十里、)爲2中流(ト)1、越前(三百一十五里、)安藝等(ノ)國(ヲ)(四百九十里、)爲2近流(ト)1、これらに准へて考(フ)べし、續紀にも同じさまに見えて、この事を神龜元年三月、足2諸(ノ)流配遠近之程(ヲ)1とあり、其に諏方伊豫(ヲ)爲v中(ト)と見えたる諏方は、信濃の諏方なり、そのかみ國に建られて有しほどなればなり○時人《ヨノヒト》の時(ノ)字、舊本に脱たり、今は理もて補ひつ○傷(ノ)字、目録には痛と作り、いづれにもあるべし○拾穗本に、作者未詳とあり、
 
23 打麻乎《ウツソヲ》。麻續王《ヲミノオホキミ》。白水郎有哉《アマナレヤ》。射等籠荷四間乃《イラゴガシマノ》。珠藻苅麻須《タマモカリマス》。
 
打麻乎《ウチソヲ》は、枕詞なり、人名(ノ)の上に枕詞をおくこと、鳥かよふ羽田のなにも、天ざかる向津媛な(145)どの類古(ヘ)よりあり、さて十六に、打十八爲麻續兒等《ウツソヤシヲミノコラ》と作《ヨメ》るはいまとおなじ、かくて打麻は、十 二に、※[女+感]嬬等之續麻之多田有打麻懸續時無二戀度鴨《ヲトメラガウミヲノタヽリウツソカケウムトキナシニコヒワタルカモ》とも見ゆ、いづれも打(ノ)字を書るによるに、麻を續《ウム》には、先(ツ)打和らげて用るものなれば即(チ)ウチソ〔三字右○〕と訓て、字の如く、打たの麻をいふにやともおもはるれども、神祇令(ノ)集解に、麻續(ノ)連等|麻續而《ヲウミテ》、敷和御衣織奉《シキニキノミソオリテタテマツル》、云々、敷和者、宇都波多也と見え、(袖中抄に、佐保姫のおりかけさらすうつはたのかすみたちよる春の野邊かな、)又十六に、打栲者經而織布《ウツタヘハヘテオルヌノ》とあるなどは、全織《ウツハタ》また全栲《ウツタヘ》と聞えたれば、(神代紀に、全剥《ウツハギ》と見ゆ、)打麻も猶借(リ)字にて全麻《ウツソ》なるべし、其は常は打和らげなど、人の功《テ》を施《ツケ》て續(ム)ことなるを、しかせずして、そのまゝ、紡績《ウミツムギ》せらるゝ好《ヨ》き麻《ソ》と賞て稱る意なるべし、(又常陸風土記久慈(ノ)郡(ノ)條に、郡(ノ)東七里大田(ノ)郷、長幡部之社、古老(ノ)曰、云々、及2美麻貴(ノ)天皇之世(ニ)1、長幡部(ノ)遠祖多弖(ノ)命、避v自2三野1、遷(リ)2于久慈(ニ)1、造2立機殿(ヲ)1、初(テ)織《ハタオラス》之、其|所《セル》v織《オラ》服《ハタ》、自(ラ)成(リキ)2衣装《キモノト》1、更(ニ)無(シ)2裁縫(フ)1、謂(フ)2之《コヲ》内幡《ウツハタト》1とある、これも裁縫(フ)こともせず、其(ノ)まゝに衣裳に用ふるを、全服《ウツハタ》といへるなるべし、)さて枕詞の義は、全麻《ウツソ》の麻續《ヲウミ》とかゝれるなり、乎《ヲ》は之《ノ》といふに通ふ言なり、八穂蓼乎穂積乃阿曾《ヤホタデヲホツミノアソ》、などいへるとおなじさまなり、(冠辭考の説は、あきたらざることあり、○麻績王《ヲミノオホキミ》、續(ノ)字、拾穂本には績と作り、)王(ノ)字、於保伎美《オホキミ》と唱ふること、まづ上(ツ)代には某(ノ)王某(ノ)王と書て、王はみな美古《ミコ》と唱(ヘ)來しを、やゝ後に親王といふ號《ナ》出來てより、親王を美古《ミコ》と唱へ、親王ならぬを王と書て、其をば於保伎美《オホキミ》と唱へ分ることゝ(146)なれり、さてその親王と云|號《ナ》、天武天皇紀四年の條に始めて見えたれども、彼(ノ)頃は既く親王を美古《ミコ》と申し、其に分て諸王をば、某(ノ)於保伎美《オホキミ》と唱(フ)る定まりにはなれりけむ、故(レ)此(ノ)麻續王も、又十三に、三野(ノ)王とあるなども、同時代の諸王にて、これらは於保伎美《オホキミ》と唱(フ)べし、(このこと既(ク)一上に云り、猶古事記傳廿二に云ることをも引合(セ)考(フ)べし、)さて天皇の御諱《オホミナ》は更にも申さず、高位高官の人(ノ)名をば避て、題詞にも書ざることなるに、却て皇太子皇子諸王の御名をば、いさゝかつゝましげなく、高市(ノ)皇子(ノ)尊、或は舍人(ノ)皇子、或は軍(ノ)王などやうに多く書(ル)し、まして歌詞にさへ、麻續(ノ)王三野(ノ)王などよみて、すべて忌避る事なきは、天皇の御諱にも、亦臣下の名にも、各別(チ)ある理なることなど、此(ノ)下日雙斯皇子(ノ)命と作(ミ)たる歌の下に委(ク)云べし、○白水郎有哉《アマナレヤ》、(白水(ノ)二字、類聚抄には泉と作り、こは白水(ノ)二字を一字に作るにて、麻呂を麿と作と同じ類なり、なは泉郎と作る例は、六(ノ)卷七(ノ)卷等に見えたり、)阿麻《アマ》を白水郎と書ること、書紀などにも多し、こは和名抄に、白水郎、日本紀私記(ニ)云、漁人|阿未《アマ》、辨色立成(ニ)云、白水郎、和名同v上(ニ)とあり、(谷川氏云、白水郎をあまとよめるは、白水はもと地(ノ)名、郎は漁郎のごとし、崑崙奴の類にて、水によく沈むよし代醉編に見えたり、元※[禾+眞](カ)詩に、黄家(ノ)賊用2※[金+竄]刀(ヲ)1利、白水郎行(コト)2旱地(ヲ)1稀とあり、)さて此(ノ)一句は、白水郎《アマ》に有(レ)ばにやといふほどの意なり、奈禮也《ナレヤ》は、爾安禮也《ニアレヤ》の約りたるなり、婆《バ》をいはざるは古言の常なり、哉《ヤ》は疑の也《ヤ》なり、〔頭註〕白水本地名、漢永平間、寶固出2※[火+毀]煌崑塞1、撃2破白水(147)齒于蒲類海上1、渝州記、※[門/良]白水東南流、三曲如2巴字1、故名2三巴1、代醉編曰、唐周邯自v蜀買v奴曰2水精1、善沈v水、乃崑崙白水之屬也、(通證)〕○珠藻苅麻須《タマモカリマス》、(麻須を異本には食と作るよし拾穗本にいへり、)珠とはほむる辭なり例多し、藻を稱て云るなり、(岡部氏(ノ)考に、藻の子《ミ》の白玉の如くなれば、珠藻といふよしいへるは例の甚《イト》偏《カタヨ》れり、)麻須《マス》はいますといふが如し、藻を刈おはしますの意なり、麻續(ノ)王を崇めていへるなり、)食とあるに從ばヲス〔二字右○〕と訓べし、きこしめすといふがごとし、○歌(ノ)意、麻續(ノ)王は、かねては、やごとなき人と聞つるに、さはなくて海人にてあればにや、今此(ノ)伊良虞島の玉藻を刈て、朝夕の食料をいとなみつゝおはしますらむといへるなり、罪こそありけめ、しか王とおしはしましゝ人の、海人と見ゆばかりにやつれて、さるわざし給はむことはあるべくもあらねど、配所のわびしきさまをいひて、ふかくいとほしめる心より、かくはよめるなり、題詞に時(ノ)人哀傷作歌とあるは即(チ)其(ノ)意なり、
 
麻續王聞之感傷和歌《ヲミノオホキモノコノウタヲキカシテカナシミコタヘタマヘルウタ》。
 
續(ノ)字、拾穗本に績と作り、
 
24 空蝉之《ウツセミノ》。命乎惜美《イノチヲヲシミ》。浪爾所濕《ナミニヒデ》。伊良虞能島之《イラゴノシマノ》。玉藻苅食《タマモカリハム》。
 
空蝉《ウツセミ》のことは既く出つ、○命乎惜美《イノチヲチシミ》(惜(ノ)字、舊本情に誤、元暦本類聚抄拾穗本等に從つ、)は、命が惜さにの意なり、○浪爾所濕は、ナミニヒデ〔五字右○〕と訓べし、浪《ナミ》は鳴水《ナルミ》の義にやと荒井氏(ノ)説にいへ(148)り、猶考(フ)べし、ヒデ〔二字右○〕はヒダサレ〔四字右○〕の意なり、(ヒヂ〔二字右○〕と訓ては、所(ノ)字あまればわろし、)濕《ヒヅ》は玉藻かるに袖裾などの濕(ル)るをいふ、そのぬるゝはいとわびしけれど、ひたすら命のをしさに、かゝるわびしきわざするぞとの意なり○玉藻苅食は、タマモカリハム〔七字右○〕と訓べし、(袖中抄にカリシク〔四字右○〕とありて、カリハム〔四字右○〕ともよめりと云り、)後(ノ)世には波牟《ハム》てふ語は、鳥獣のうへにのみいふごとくなれゝど、古(ヘ)は何にも云り、)後(ノ)世|久布《クフ》といふことを、古くはもはら波牟《ハム》と云り、つら/\古言のやうを思ふに、久布《クフ》と波牟《ハム》とは、いさゝか差別あることゝ見えたり、波牟《ハム》とは咽に下すにつきていひ、久布《クフ》とはもはらくはへ持(ツ)ことにいへりと見ゆ、十(ノ)卷に、枝啄持而《エダクヒモチテ》、十三に、年魚矣令咋《アユヲクハシメ》、十六に、桙啄持而《ホコクヒモチテ》古事記上に、鼠|咋2持《クヒモチ》其(ノ)鴨鏑(ヲ)1出來而奉(リキ)也などあるにて、其(ノ)用たるやうを考(フ)べし、)例は五(ノ)卷に、宇利波米波胡藤母意母保由久利波米婆麻斯提斯農波由《ウリハメバコドモオモホユクリハメバマシテシヌハユ》云々、又久毛爾得夫久須利波武等母《クモニトブクスリハムトモ》云々、などあり、又七(ノ)卷に、茅花乎雖喫《チバナヲハメド》、十(ノ)卷に、鳥者雖不喫《トリハハマネド》、十二に、麥咋駒乃《ムギハムコマノ》、十四に、久佐波牟古麻能《クサハムコマノ》、又十六に、屎鯉喫有《クソフナハメル》、又|作有流小田乎喫烏《ツクレルヲダヲハムカラス》、又|飯喫騰《イヒハメド》、又|榎實毛利喫《エノミモリハム》、古事記上卷に、乃(チ)生(リキ)2蒲子《エビカツラノミ》1、是(ヲ)※[手偏+庶]食之間《ヒリヒハムアヒダ》、云々、乃(チ)生(リキ)2v笋《タカムナ》、是(ヲ)拔食之間《ヌキハムノアヒダ》、云々、また毎年來喫《トシノハニキハムナリ》など、是らも皆しか訓べき所なり、(又按(フ)に、今(ノ)世に朝にくふ物を朝はん、夕にくふ物を夕はんと云、はんは食の轉れるにて、これも古言なるべし、はんは飯(ノ)の字音とおもへりしはあらざりけり、○歌(ノ)の意は、かく浪に所《サレ》v濕《ヒタ》て玉藻をかりつゝ、ならはぬ海人のわざすること、いとわびしく(149)かなしければ、かゝるくるしき目を見むより、死たらむこそ中々にまさらめとは思ふものから、さすがに命の捨がたさに、かゝる業するぞと、時(ノ)人の海人にやとおほめきて、ふかくあはれみたる意をうけて、ことわり給へるなり、これも配所のわびしきさまを、藻を刈に託《コトヨセ》て、上の歌に答へ給へるなり、
〔右案2日本紀(ヲ)1曰。 天皇四年乙亥夏四月戊述朔乙卯。三品麻續(ノ)王。有v罪流2于因幡(ニ)1。一子(ハ)流2伊豆(ノ)島(ニ)1。一子(ハ)流2血鹿(ノ)島1也。是云v配(スト)2于伊勢(ノ)國伊良虞(ノ)島(ニ)者。若疑後(ノ)人縁2歌辭1。而誤記乎。〕
日本紀曰云々、書紀を見るに、天武天皇四年夏四月甲戌朔辛卯三位麻續王云々と有、こゝに四年乙亥夏四月戊戌朔乙卯、三品とあるはかた/”\誤なり、品は、古寫本拾穗本等には位とあり、○若(ノ)字、拾穗本になし、○縁(ノ)字、拾穗本に依と作り、○此(ノ)左注に疑ひたる如く、麻續(ノ)王は、因幡(ノ)國に配《ハナ》され賜ひたりとする時は、伊良虞(ノ)島といふ地、因幡(ノ)國にもあるなるべし、然るを、伊勢(ノ)國なるが名たゝる故に、地(ノ)名によりて、伊勢(ノ)國と混ひ誤れるなるべし、さて又常陸(ノ)國風土記に、行方(ノ)郡、從v此南十里板來村、近、臨2海濱(ニ)1、安2置驛家(ヲ)1、此謂2板來之驛(ト)1、其西榎木成v林(ヲ)、飛鳥(ノ)淨御原(ノ)天皇之世、遣2流麻續王(ヲ)1之居處、云々(板來は、二所共に榎木を誤れるには非ざるか、)とあるは、時代も人(ノ)名も同じければ、外人とはおもはれぬを、常陸(ノ)國に流されたまへるよし語り傳へたるは、所以あるべし、後人たゞしてよ、
 
(150)天皇御製歌《スメラミコトノミヨミマセルオホミウタ》
 
25 三吉野之《ミヨシヌノ》。耳我嶺爾《ミカネノタケニ》。時無曾《トキナクソ》。雪者落家留《ユキハフリケル》。間無曾《マナクソ》。雨者零計類《アメハフリケル》。其雪乃《ソノユキノ》。時《トキ》。無如《ナキガゴト》。其雨乃《ソノアメノ》。間無如《マナキガゴト》。隈毛不v落《クマモオチズ》。念乍叙來《オモヒツヽゾクル》。 其山道乎《ソノヤマミチヲ》。
 
三吉野は、ミヨシヌ〔四字右○〕と訓べし、古事記雄略天皇(ノ)大御歌に、美延斯怒《ミエシヌ》、書紀天智天皇(ノ)卷(ノ)歌に、曳之弩《エシヌ》とあれば、こゝもミエシヌ〔四字右○〕と訓べきかと思へど、次の御製歌の吉野吉見與もヨシヌ〔三字右○〕と訓べければ、猶此(ノ)集にてはヨシヌ〔三字右○〕と訓べし、十八にも、余思怒《ヨシヌ》と見えたり、さて此(ノ)地は大和(ノ)國吉野(ノ)郡にてかくれなし、○耳我嶺と有は甚疑はし、美彌我《ミヽガ》てふ山(ノ)名、吉野にて古(ヘ)も今も聞及ばず、かつはかくいふ山(ノ)名あるべくもおもほえず、(八雲御抄に、耳我嶺は、吉野に近き山のよしかゝせ賜へるをはじめて、近來大和(ノ)國の名所の事書るものなどに、吉野山の一名といひ、また窪垣内《クボカイチ》村の上(ツ)方にある山ぞなど云るたぐひは、皆今の字に依ておしあてに説《イへ》るならむ、)、耳我と書る字も心ゆかず、誤字脱字などあらむと思はるれば、今は姑く下に引る十三の歌ぞ、風《サマ》も詞も大かた今のに似たれば、それによりて、ミカネノタケ〔六字右○〕と訓つ、御金嶺《ミカネノタケ》は靈異記中卷に、聖武天皇(ノ)代、廣達|入《イリ》2於|吉野金峯《ヨシヌノカネノタケニ》1、經2行《ヘユキ》樹下《コノモトヲ》1而《テ》求2佛道(ヲ)1、云々、僧尼令義解に、假如(ハ)山居在(テハ)2金(ノ)嶺(ニ)1者、判(テ)下(ス)2吉野郡(ニ)1之類(ヲ云)也、神名帳に、大和(ノ)國吉野(ノ)郡金峯(ノ)神社、文徳天皇實録四(ノ)卷五(ノ)卷六(ノ)卷、三代實録二(ノ)卷などにも、大和(ノ)國金峯(ノ)神(から書義楚六帖に、日本國金峯山有2松檜1と見え、又元亨釋書(151)拾芥抄宇治拾遺今昔物語など、其(ノ)餘の物にも金峯あまた見えて枚擧《アゲツクス》べからず、夫木集には、神の座こがねの峯ともよめり、)などゝ見えて、後世までも金嶽《カネノミタケ》とぞいふなる、御金峯と御の言をそへたるは、御吉野《ミヨシヌ》、御熊野《ミクマヌ》などいふ例の如し、(しかるを岡部氏(ノ)考に、耳我は御缶《ミミガ》てふ意にて、此(ノ)山の形の、大きなる甕《ミカ》に似たればいふならむといひ、且十三に、御金嵩とあるをさへに引出て、金は缶の誤にてミヽガノタケ〔六字右○〕ぞと、謾に推て定めしはいかにぞや、そもそも美加《ミカ》としもいふは、御※[瓦+肆の左]《ミカ》の意にて、御《ミ》は例の美稱にそへたるのみなれば、加《カ》とのみもいへる例多し、由加《ユカ》、比良加《ヒラカ》、多志良加《タシラカ》などいへるがごとし、しかればいかで御々※[瓦+肆の左]《ミヽミカ》、と御《ミ》の言を重ねてはいふべきぞ、そのうへ美加《ミカ》の加の言は清て唱(フ)る例なるを、耳我と濁音の字を書るをや、そもそも此(ノ)集などよまむには、まづ廣く古書を考わたしてこそ、字の誤などはさだすべきことなるを、みだりに私の心もてさだめむとするより、さるひがことはいでくるものぞかし、かかるを略解などにも、猶岡部氏(ノ)説によりていまだその誤《ヒガコト》なるを知れる人なかりしを、うれたみおもひておどろかしおくものぞ、○時無曾《トキナクソ》、或本に時自久曾とあるも同じ、何時と定りたる時もなく、常に雪雨のふるよしなり、これ高山の常なり、曾《ソ》は次なるとふたつながら、餘の山に對へてのたまへるなり、餘の山には、かばかり間無時わかず雨雪のふることなければなり、○間無曾は、(ヒマナクソ〔五字右○〕と訓たれども、ヒマ〔二字右○〕てふ言の證を未(タ)見ず、古語ともおもはれ(152)ねば、)マナクソ〔四字右○〕と訓べし、○其雪乃《ソノユキノ》云々、この四句は、上の四句を承て詔へるなり、其《ソノ》とは、上に出たる時無間無ふる其雪雨之なり、○隈毛不落《クマモオチズ》は、隈も漏ずの意なり、例は上にいひつ、隈とは道の隈々なり、下に其(ノ)山道乎とあるにて道の隈とはしるし、その道の隈を詔へるは、道程の長きしるしなり、おはします道多く隈ありて長けれど、ゆく/\しばしも忘れ給はぬよしなり、○思乍叙來(思(ノ)字、類聚抄に念と作り、)は、オモヒツヽゾクル〔八字右○〕》と訓べし、乍の言は上に注り、(略解に、モヒツヽゾクル〔七字右○〕とよみたれども、云々思《シカ/\モフ》などいふときこそオモヒ〔三字右○〕をモヒと〔三字右○〕いふ古語の例なれども、句の頭にて略ける例は、をさ/\見えたることなければひがことなるべし、)來《クル》とは、そのおはします道すがらなればなり、さて此(ノ)大御歌いかなるをりにあそばしゝとは、今さだかには知がたけれど、其所までおはします道すがらを、來《クル》とは詔へることしるし、されば今(ノ)世(ノ)人の心ならば、思乍叙行と云ふべきを、かく詔へるなるべし、そも/\行と來とは、彼(ヨリ)と此(ヨリ)との差別あることなるに、古人は、行と來とひとつに通はし云たるごときこゆれども、なほよく考れば其(ノ)別あることなり、さればこゝは、そのおはしますかたを内にして詔へるなり、かの倭には鳴てか來らむといへるも、行らむといふべき所と聞ゆれども、これも倭の方を内にして來といへるなり、かゝればいづれも内よりいふと、外よりいふとのけぢめありと心得べし、(又來をケル〔二字右○〕ともよむべし、しか訓ときは過にし方をのたまへること(153)となれり、その處までおはしましゝことの勞《イタツキ》をのたまへるなり、さてケル〔二字右○〕は、キケル〔三字右○〕の切(リ)たる辭にて古言なり、キケ〔二字右○〕はケ〔右○〕と切(マ)れり、三(ノ)卷に、名積來有鴫《ナヅミケルカモ》、十二に、來有人哉誰《ケルヒトヤタレ》などあり、十七に、使乃家禮婆《ツカヒノケレバ》と假字書も見えたり、またコシ〔二字右○〕と訓ても然るべし、)○其山道乎《ソノヤマミチヲ》、其《ソノ》とは上の三吉野之耳我嶺爾《ミヨシヌノミカネノタケニ》とよみませるをさして詔へるなり、此(ノ)御句は、上の隈毛不落《クマモオチズ》の上に置て心得べし、○大御歌(ノ)意は吉野のさがしき山路を長々と隈もおちず、行々おもひつづけらるゝ事のわりなき事と、御みづから歎き給へるよしなり、この大御歌は、いかなる時の御製ませりともわきまへがたきを、強て大御詞のさまをおもひめぐらすに、もしくははじめ天皇吉野(ノ)宮に大坐々ける間《ホド》、女の許に通ひ賜ひしことの有て、其(ノ)時によみたまへるにや、かにかくに戀の大御歌とは聞ゆるなり、凡て集中に此(ノ)大御歌の體なるがいと多有《オホカル》に、皆戀(ノ)歌なるにてもさとるべし、)諸説《ヒト/\ノコト》に、吉野(ノ)山を賞愛《メデ》ませる大御歌とせるは、甚《イタク》拘泥《ナヅ》めり、)さて十三相聞に、三吉野之御金高爾間無序雨者落云不時曾雪者落云其雨無間如彼雪不時加間不落吾者曾戀妹之正香乎《ミヨシヌノミカネノタケニマナクゾアメハフルチフソノアメノマナキガゴトソノユキノトキジクガゴトマモオチズアレハソコフルイモガタヾカヲ》(乎(ノ)字、舊本爾に誤、)とあるは、今の御製歌と大かた同じ、
〔或本歌 26 三芳野之《ミヨシヌノ》、耳我山爾《ミカネノヤマニ》。時自久曾《トキジクソ》。雪者落等言《ユキハフルチフ》。間無曾《マナクソ》。雨者落等言《アメハフルチフ》。其雪《ソノユキノ》。不時如《トキジクガゴト》。其雨《ソノアメノ》。間無如《マナキガゴト》。隈毛不墮《クマモオチズ》。念乍叙來《オモヒツヽゾクル》。 其山道乎《ソノヤマミチヲ》。〕
我(ノ)字、拾穗本に毛と作りいかゞ、○雪落等言《ユキハフルチフ》云々、雨者落等言《フメハフルチフ》云々の等言《チフ》は、人のしかいふ(154)よしうはさの辭なれば、こゝにかなはず、下に其山道乎とありて、吉野にての大御歌と見ゆれば、等言と軋のたまふべくもなし、また言(ノ)字、二(ツ)ながら類聚抄に、異本に之と有よしにてラシ〔二字右○〕とよめり、それもいかゞ、本章に落家留とあるぞ正しき、○不時如は、トキジクガゴト〔七字右○〕と訓べし、上の時自久をうちかへしのたまひたればなり、
〔右句々相換(レリ)。因(テ)v此(ニ)重(テ)載(タリ)焉。〕
 
天皇《スメラミコトノ》幸《イデマセル》2于|吉野宮《ヨシヌノミヤニ》1時御製歌《トキミヨマセルオホミウタ》。
 
天皇幸は、左注に書紀を引たる如く、八年五月なり、さて同天皇同吉野の大御歌なるに、かく此にふたゝび殊更に幸としも、題詞《ハシヅクリ》をわかてる故は、上の大御歌は既《ハヤ》くいへる如く、まだ皇太弟と申しゝ御時の事とおもほゆるを、この大御歌は大御位の後にて、幸の時節も著く定かなればなり、○吉野(ノ)宮は、應神天皇(ノ)紀に、十九年冬十月戊戌朔、幸2吉野宮(ニ)1と見え、さて齊明天皇(ノ)紀に、二年作2吉野(ノ)宮(ヲ)1と有は、改め造らしめ賜ふなり、
 
27 淑人乃《ヨキヒトノ》。良跡吉見而《ヨシトヨクミテ》。好常言師《ヨシトイヒシ》。芳野吉見與《ヨシヌヨクミヨ》。良人四來三《ヨキヒトヨクミ》。
 
淑人乃《ヨキヒト》は、九(ノ)卷に、妹等許今木乃嶺茂立嬬待木者吉人見祁牟《イモガリトイマキノミネニシミタテルツママツノキハヨキヒトミケム》、(吉(ノ)字、舊本古に誤れり、)とあるとおなじく、誰とはしられねど、古(ヘ)ありし良人を指てのたまへり、○良跡吉見而《ヨシトヨクミテ》は、跡《ト》はとての意なり、此所を勝地《ヨキトコロ》とて委見而《ヨクミテ》の謂なり、委見は、六(ノ)卷に、難波方潮干乃奈凝委曲見名在家妹之(155)待將問多米《ナニハガタシホヒノナゴリヨクミテナイヘナルイモガマチトハムタメ》、十(ノ)卷に、朝戸出之君之儀乎曲不見而長春日乎戀八九良三《アサトデノキミガスガタヲヨクミズテナガキハルヒヲコヒヤクラサム》、などある委曲見に同じ、下なる吉見與も同意なり、○好常言師《ヨシトイヒシ》は、委見てのちに、まことに勝地ぞとさだめいひしよしなり、○芳野吉見與《ヨシヌヨクミヨ》、(與(ノ)字、道晃親王御本拾穗本等には欲と作り、古寫本類聚抄等に多とあるはいかゞ、拾穗抄にも、異本に多とあるよししるせり、)この芳野は、上の三句を承て詔へるにて、良人の勝地ぞとて委見て、げによき地ぞとさだめいひし芳野をとつゞけ給へるなり、吉見與は、昔の良人の如くに、委見よと詔へるなり、○良人四來三《ヨキヒトヨクミ》は、良人とは今の良人なり、こは從駕の人の中に、さし賜ふ人ありしなるべし、四來三は、本居氏(ノ)玉(ノ)小琴に、或人のヨクミ〔三字右○〕とよめるを用ふべし、見とのみ云ても、見よと云意になる古言の例なり、と云る實にさもあるべし、(今按(フ)に、僻案抄にヨキヒトヨクミ〔七字右○〕とよめり、略解にヨキヒトヨキミ〔七字右○〕またヨキヒトヨクミツ〔八字右○〕などよめるはわろし、)○大御歌(ノ)意は、古(ヘ)ありし良人のよき地ぞとてよく見て、げによき地といひし芳野はこゝぞ、委曲《ヨク》見よ、大かたに見過すことなかれ、かへす/”\もよく見よ、今の良人よと詔へるなり、吉野を世にことなる所ぞとほめたる歌、集中に甚多き中に、七(ノ)卷に、妹之紐結八川内乎古之并人見等《イモガヒモユフヤカフチヲイニシヘノヨキヒトミツト》此乎誰知、(并は淑の誤寫か、結八川は吉野(ノ)川の内にあ
イニシヘノサカシキヒトノアソビケムヨシヌノカハラミレドアカヌカモ
り、)九(ノ)卷に、古之賢人之遊兼吉野川原雖見不飽鴨《》、と有などは、大かたこゝと同じく、上つ代に在し賢(シキ)人をいへるなるべし、○此(ノ)御製歌は、句(ノ)頭毎に同語ある體の一格にて、四(ノ)卷に、將來云(156)毛不來時有乎不來云乎將來常者不待不來云物乎《コムチフモコヌトキアルヲコジチフヲコムトハマタジコジチフモノヲ》、とあるに同じ、古今六帖に、心こそ心をはかる心なれ心のあたは心なりけり、又後に、思はじと思ふは物を思ふかな思はじとだに思はじや君、また思人思はぬ人の思ふ人思はざらなむ思ひ知べく、又さくらさく櫻の山のさくらばなさくさくらあればちる櫻あり、などいふ歌のきこゆるも、右の體によれるものなり、
〔紀(ニ)曰。八年己卯五月庚辰朔甲申。幸(ス)2于吉野宮(ニ)1。〕
 
藤原宮御宇天皇代《フヂハラノミヤニアメノシタシロシメシヽスメラミコトノミヨ》
 
藤原(ノ)宮は、高市(ノ)郡にて、香山の西、畝火山の東、耳梨山の南なること、此(ノ)下藤原(ノ)宮(ノ)御井をよめる長歌にてしられたり、今も大宮殿と云て、いさゝかの處を畑にすき殘して、松立てある地、其(ノ)跡なりとぞ、さて香具山は十市(ノ)郡なれども、宮地は其(ノ)西にて高市(ノ)郡に屬るなるべし、釋紀に氏族略記を引て、藤原(ノ)宮在高市(ノ)郡鷺栖坂(ノ)北地(ニ)1といへり、(しかるを大和志に、高市(ノ)郡大原村、持統天皇八年、遷2居於此(ニ)1、とあるはたがへり、其(ノ)大原即(チ)藤原と云て、同じ高市(ノ)郡なれば、人みな思ひ混ふことなれど、かの大原なるは、鎌足大臣の本居の地にして宮地の藤原とは同名異地なり、)此宮は、持統天皇文武天皇二御代の宮なり、持統天皇は、書紀持統天皇(ノ)卷(ノ)初に、高天原廣野姫(ノ)天皇(ハ)、少名(ハ)※[盧+鳥]野讃良《ウヌノサラヽノ》皇女、天命開別(ノ)天皇(ノ)第二(ノ)女也、母(ヲ)曰2遠智(ノ)娘(ト)1、天皇|深沈《シメヤカニシテ》有《マシ/\キ》2大度1、天豐財重日足姫(ノ)天皇(齊明)三年、適《ミアヒマシテノ》2天(ノ)渟中原瀛(ノ)眞人(ノ)天皇(ニ)1、(天武)爲(リタマフ)v妃(ト)、天渟中原瀛(ノ)眞人(ノ)天皇二年、立(テ)爲2(157)皇后(ト)1云々と見えて、四年正月戊虎朔、皇后|即天皇位、《アマツヒツギシロシメス》、十月甲辰朔壬申、高市(ノ)皇子|觀《ミソナハス》2藤原(ノ)宮地(ヲ)1、十二月癸卯朔辛酉、天皇幸(テ)2藤原(ニ)1觀2宮地(ヲ)1、六年十二月庚戌朔乙卯、遷(リマシ/\キ)居藤原(ノ)宮(ニ)1、十一年八月乙丑朔、天皇禅(リタマヒキ)2天皇位《オホミクラヰヲ》於皇太子(ニ)1と見ゆ、此よりして太上天皇と稱奉れり、續紀に、文武天皇大寶二年十二月甲寅、太上天皇崩(リマス)、三年十二月癸酉、火2葬(マツル)於飛鳥(ノ)岡1、壬午、合2葬(マツリキ)於大内山(ノ)陵(ニ)1とあり、諸陵式に、檜隈(ノ)大内陵藤原(ノ)宮御宇持統天皇合2葬檜前(ノ)大内1、陵戸更不2重充1、)と見ゆ、文武天皇は、續紀に、天之眞宗豐親父(ノ)天皇(ハ)、天渟中原瀛(ノ)眞人(ノ)天皇(天武)之孫、日並知(ノ)皇子(ノ)尊之第二子也、母(ハ)天命開別(ノ)天皇(天智)之第四女、日本根子天津御代豐國成姫(ノ)天皇(元明)是也、高天原廣野姫(ノ)天皇十一年立爲2皇太子1、八月甲子朔、受v禅(ヲ)即位、慶雲元年十一月壬寅、始定2藤原(ノ)宮(ノ)地宅(ヲ)1、四年六月辛巳、天皇崩、十一月丙午、謚曰2倭根子豐親父(ノ)天皇(ト)1、即日火2葬於飛鳥(ノ)岡1、甲寅、奉v葬2於檜(ノ)隈(ノ)安古山(ノ)陵1、諸陵式に、檜(ノ)前安古(ノ)岡(ノ)上(ノ)陵(藤原(ノ)宮御宇文武天皇、在2大和(ノ)國高市(ノ)郡(ニ)1、兆域東西三町南北三町、陵戸五烟、)とあり、御少名を輕(ノ)皇子と申したる事下に出、○天皇代の下、舊本等に、高天原廣野姫天皇と注し、拾穗本には、謚曰持統天皇、元年丁亥十一月、讓位輕太子、尊號曰太上天皇とあり、元年云々の詞、古寫本又類聚抄にも同くあり、是皆後人のしわざなり、上に云る如く、こは二御代の標なるを、持統天皇一御代のみの標と意得たること、かへす/\もかたはらいたし、
 
天皇御製歌《スメラミコトノミヨミマセルオホミウタ》。
 
(158)天皇(皇(ノ)字、舊本に良に誤、類聚抄古寫本等によりつ、)は、持統天皇なり、岡部氏考に云るは、こは持統天皇のいまだ清御原(ノ)宮におはしましゝほど、夏のはじめの頃、埴安の堤の上などに幸し給ふに、かぐ山のあたりの家どもに、衣を掛ほして有を、見をなはしてよませ給へるなり、と云る如し、されどこの天皇、やがて御代しろしめしてよりは、藤原(ノ)宮御宇天皇と稱す事なれば、清御原(ノ)宮の標中に入(レ)ず、こゝにこの代標を建て、その標中に收(レ)たるなるべし、
 
28 春過而《ハルスギテ》。夏來良之《ナツキタルラシ》。白妙能《シロタヘノ》。衣乾有《コロモホシタリ》。天之香來山《アメノカグヤマ》。
 
夏來良之は、ナツキタルラシ〔七字右○〕と訓べし、夏は、古事記傳夏高津日(ノ)神の名義を云る條に、夏は成立《ナリタツ》なり、理《リ》を省き多都《タツ》を切めたるにて、是も稻のことなり、四季の夏も、もと此(ノ)意にて、稻より云名なり、夏は暑《アツ》なりと云説はわろし、と云り、猶考(フ)べし、キタル〔三字右○〕は來而有《キテアル》なれば、(テア〔二字右○〕の切タ〔右○〕)こゝも來有良之《キタルラシ》などこそ書べきことなれど、既く來の一字をキタル〔三字右○〕と訓ことゝなれりと見えて、集中に來(ノ)字のみにて、キタ〔三字右○〕》と訓べき所多し、良之《ラシ》の言は上にくはしくいへり、夏來てある事の、十に七八しるき意なり、さてこのつゞけの體は、十九に、春過而夏來向者《ハルスギテナツキムカヘバ》、また十(ノ)卷に、寒過暖來良思《フユスギテハルキタルラシ》、十七に、民布由都藝《ミフユスギ》(都は、須(ノ)字の誤、)芳流波吉多禮登《ハルハキタレド》、(金塊集に、み冬つき春しきぬれば青柳のかづらぎ山に霞棚引とあるは、眞冬盡にて、意ばえは同じことながら、古風のいひざまにはいさゝかたがへり、)などいへる皆同じつゞけざまなり、○白妙《シロタヘ》は、妙は借(リ)(159)字にて、白布《シロタヘ》の義なるよしは、冠辭考にいへるが如し、此(ノ)の御歌にては、枕詞にあらず、たゞ白き衣のよしなり、○衣乾有は、コロモホシタリ〔七字右○〕と訓べし、飛鳥井本六條本等にもかくあるは、古訓のまゝなり、衣乾てありの意なり、○大御歌(ノ)意は、契沖、春までの衣は、たゝみおかむためにほし、去年より箱にいれおける衣をば、今著む料に濕氣などかわかさむとて、かぐ山のふもとかけてすむ家々に、取(リ)出てほせるが見ゆるにつけて、時節のいたれることをよませ賜へるなり、十四東歌に、筑波禰爾由伎可母布良留伊奈乎可母加奈思吉兒呂我爾努保佐流可母《ツクバネニユキカモフラルイナヲカモカナシキコロガニヌホサルカモ》とありて、山に布ほすこともあればこそ、かくはよみけめ、今の御歌、これに准へて心得べしと云り、(朗詠集更衣の詩に、開v箱衣帶(タリ)2隔v年(ヲ)香(ヲ)1、)猶春なりとおぼしめしゝを、かぐ山わたりに衣ほしたるをふと御覽じて、さてははや夏來てあるらしと、時のうつれるを驚きて歎き給へるなるべし、さて昔時は、此(ノ)山に人の家多く有ける故に、衣をも乾けるなり、かくて山家なるが故に、他所へも見えけるなるべし、
 
過《ユク》2近江荒都《アフミノアレタルミヤコヲ》1時《トキ》。柿本朝臣人麿作歌《カキノモトノアソミヒトマロガヨメルウタ》。
 
近江荒都云々、天智天皇六年、飛鳥(ノ)崗本(ノ)宮より、近江(ノ)大津(ノ)宮へうつりまし、十年十二月崩(リ)給ひ、明年の五月、大海人大友の二皇子の御軍有しに、事平らぎて大海人(ノ)皇子(ノ)尊は、飛鳥(ノ)清見原(ノ)宮に天(ノ)下如しめしぬれば、近江の宮は舊都となれるなり、さてここの朝臣の此(ノ)舊都を過《ユケ》りしは、(160)假の御使にて下りしをりか、又は近江を本居にて、衣暇田暇などにな下りしにもあるべし
○柿本(ノ)朝臣人麻呂(この七字、古本に過(ノ)字の上に有、)は、父祖は、考(フ)べきものなし、さて柿本氏の事は岡部氏(ノ)考(ノ)別記に委くいへり、考(フ)べし、
 
29 玉手次《タマタスキ》。畝火之山乃《ウネビノヤマノ》。橿原乃《カシハラノ》。日知之御世從《ヒシリノミヨヨ》阿禮座師《アレマシシ》。神之盡《カミノコト/”\》。樛木乃《ツガノキノ》。彌繼嗣爾《イヤツギツギニ》。天下《アメノシタ》。所知食之乎《シロシメシシヲ》。虚見《ソラミツ》。倭乎置而《ヤマトヲオキテ》。青丹吉《アヲニヨシ》。平山越而《ナラヤマコエテ》。何方所念計米可《イカサマニオモホシケメカ》。天離《アマサガル》。夷者雖不〔○で囲む〕有《ヒナニハアラネド》。石走《イハバシル》。淡海國乃《アフミノクニノ》。樂浪乃《サヽナミノ》。大津宮尓《オホツノミヤニ》。天下所知食兼《アメノシタシロシメシケム》。天皇之《スメロギノ》。神之御言能《カミノミコトノ》。大宮者《オホミヤハ》。此間等雖聞《ココトキケドモ》。大殿者《オホトノハ》。此間等雖云《ココトイヘドモ》。霞立《カスミタツ》。春日香霧流《ハルヒカキレル》。夏草香《ナツクサカ》。繁成奴留《シゲクナリヌル》。百磯城之《モヽシキノ》。大宮處《オホミヤドコロ》。見者悲毛《ミレバカナシモ》。
 
玉手次《タマタスキ》は、畝火《ウネビ》と云む料の枕詞なり、此(ノ)つゞけ四(ノ)卷七(ノ)卷にも見えたり、さてかくいひかけたる義は、玉手次は把襷《タバタスキ》といふなるべし、さて把襷といふは、まづその結法《カケザマ》、左右の袖口より背へ貫通《トホ》して、兩(ノ)肩の正中《タゞナカ》、頸の下《モト》に把《タバ》ね縮めて結ぶを、今(ノ)世に玉襷《タマタスキ》と呼り、古(ヘ)のも、しかせしをぞ云しならむ、此(ノ)義は既く上軍(ノ)王(ノ)歌の注にことわれり、さて畝火とかゝれるは、いと/\辨へがたきを、せめて思へば、把襷頸根結《タバタスキウナネムスビ》と云ならむ、頸根《ウナネ》は、延喜式祝詞等に、宇事物頸根衝拔《ウジモノウナネツキヌキ》と見えて、詞の下《モト》を云言なるを知べし、さて宇奈禰《ウナネ》を約れば宇禰《ウネ》となり、(奈禰《ナネ》の切|禰《ネ》、)武須妣《ムスビ》を約れば美《ミ》となれり、(武須《ムス》の切|武《ム》、武美《ムミ》の切|美《ミ》なり、)美《ミ》と妣《ビ》の濁音とは親く通へば、うねみう(161)ねびは全(ラ)同言なり、さてその頸根にて結ぶよしは、上に云るが如し、(冠辭考に、荷田(ノ)在滿(カ)説を擧て、襷を嬰《ウナゲ》ると續けつらむ、神代紀に、其|頸所嬰五百箇御統之瓊《ミウナジコウナゲルユツミスマルノニ》、また乙登多奈婆多廼※[さんずい+于]奈餓勢屡多磨廼彌素磨屡廼《オトタナバタノウナガセルタマノミスマルノ》云々、ともあればなりと見えて、此(ノ)説古事記傳にも引り、抑々古言に宇奈雅流《ウナゲル》また宇奈我勢流《ウナガセル》など云るは、全《モハラ》頸に嬰るをいふ言にて、其は頸玉《クビタマ》、あるは領巾《ヒレ》など著るを云るにて知べし、襷は主と肩にかけて、袖をかゝぐる料のものにこそあれ、其を頸に嬰《カケ》て何の用にかはせむ、されば右の説はいふがひなき論なるを、世の古學のともがら、冠辭考の説にゆだねて、ことさらに考(ヘ)出べきものともせざめるはいかにぎや、)○畝火之山《ウネビノヤマ》は既く出、○橿原《カシハラ》は、畝火山にあり、○日知之御世從《ヒシリノミヨヨ》、(舊本に、或云自宮と注せり、それもあしからねど本章に隨べし、)こは神武天皇の御世をさして申せり、古事記中卷(ニ)云、神倭伊波禮毘古命、與2其(ノ)伊呂兄五瀬(ノ)命1、二柱|坐《マシ/\》2高千穗(ノ)宮(ニ)1而議(リタマハク)云、坐2何(ノ)地(ニ)1、平2聞看《タヒラケクキコシメサム》天(ノ)下之政(ヲ)1、猶思(シテ)2東(ノ方ニ)行(ムト)1、即(チ)自2日向1發幸《タヽシテ》、御《イデマシキ》2筑紫(ニ)1、云々、故(レ)如v此(ノ)言2向平和《コトムケヤハシ》荒夫琉神(ヲ)1、退2撥《ハラヒタヒラゲ》不伏《マツロハヌ》人等(ヲ)1而、坐(シテ)2畝火之|白檮原宮《カシハラノミヤニ》1、治《シロシメシ》2天下1也云々、書紀(ニ)云、觀(レバ)2夫(ノ)畝傍山(ノ)東南橿原(ノ)地(ヲ)1者、蓋|國之墺區乎《クニノモナカナラムカ》、可v治之《コヽニミヤコシキマサム》、是(ノ)月即命(テ)2有司(ニ)1、經2始《ツカヘマツラシキ》帝宅《オホミヤ》1云々、辛酉年春正月庚辰朔、天皇|即2帝位《アマツヒツギシロシメス》於橿原(ノ)宮(ニ)1、是歳(ヲ)爲2天皇(ノ)元年(ト)1、尊(テ)2正妃(ヲ)1爲2皇后(ト)1、生2皇子神八井(ノ)命、神渟名川耳(ノ)尊(ヲ)1、故(レ)古語(ニ)稱d之曰《タヽヘマヲシキ》、於畝傍之橿原(ニ)也、大2立宮柱《ミヤハシラフトシキタテ》於|底磐之根《ソコツイハネ》1、峻2峙搏風《ヒギタカシリテ》於高天(ノ)之原(ニ)1、而|始馭天下之天皇《ハツクニシラススメラミコトヽ》u。號2曰《オホミナタテマツレリ》神日本磐余彦火々出見(ノ)天皇(ト)1焉とあり、日知は、岡部(162)氏(ノ)考(ニ)云、日知《ヒシリ》てふ言は、先(ツ)月讀(ノ)命は、夜之食國を知しめせと有に對て、日之食國を知ますは、大日女の尊なり、これよりして天都日嗣しろしめす、御孫の命を、日知と申奉れり、書紀に、神聖など有は、から文體に字を添しにて、二字にてそれはかみと訓なり、聖(ノ)字に泥て、日知てふ言を誤る説多かりとあり、從は用《ヨ》とも由《ユ》とも訓べし抑々この辭、古(ヘ)は用理《ヨリ》とも由理《ユリ》とも用《ヨ》とも由《ユ》ともいへること、古事記書紀より、集中を推わたして考(ヘ)知べし、其(ノ)中に用《ヨ》と云るは、集中に五(ノ)卷に、久須利波牟用波《クスリハムヨハ》、十四に、之氣吉許能麻欲《シゲキコノマヨ》、又|與曾爾見之欲波《ヨソニミシヨハ》、又|伊加保世欲《イカホセヨ》、又|安素乃河泊良欲《アソノカハラヨ》、又|伊毛我多太手從《イモガタヾテヨ》、又|麻久良我從《マクラガヨ》、又|兒呂家可奈門從《コロガカナトヨ》、十七に、安我松原欲《アガマツバラヨ》、十八に、許欲奈枳和多禮《コヨナキワタレ》、又|伊爾之敝欲《イニシヘヨ》、又|和可禮之等吉欲《ワカレシトキヨ》、十九に、遠始欲《トホキハジメヨ》など有(リ)、由《ユ》といへるは、五(ノ)卷に、伊豆久由可《イヅクユカ》、又|阿麻能見虚喩《アマノミソラユ》、六(ノ)卷に、眞木立山湯《マキタツヤマユ》、又|左日鹿野由《サヒカヌユ》、十一に、久時由《ヒサシキトキユ》、十四に、目由可汝乎見牟《メユカナヲミム》、又|伊豆由可母《イヅユカモ》、又|倍由毛登毛由毛《ヘユモトモユモ》、十五に、伊素未乃宇良由《イソマノウラユ》、又|奈美能宇倍由見由《ナミノウヘユミユ》、又|伊蘇乃麻由《イソノマユ》、又|夜蘇之麻能宇倍由《ヤソシマノウヘユ》、十六に、中門由《ナカノミカドユ》、十七に、之多由孤悲安麻里《シタユコヒアマリ》、又|伊爾之弊由《イニシヘユ》、十八に、許由奈伎和多禮《コユナキワタレ》、十九に、平城京師由《ナラノミヤコユ》、廿(ノ)卷に、宇倍之神代由《ウベシカミヨユ》、又|之良比氣乃宇倍由《シラヒゲノウヘユ》など見えたり、(なほ古事記書紀などにも多かれど、そは略きて集中なるをのみ引つ、)但し一言にいひて宜しき處を古事記には、用《ヨ》とのみ云て、由《ユ》と云ることなく、書紀には、由《ユ》とのみ云て、用《ヨ》と云ることなし、集中にては、用《ヨ》とも由《ユ》ともかたみに云て、めづらしからぬこと、右に引る例どもの(163)如し、(由理《ユリ》と云るは、廿(ノ)卷に、阿須由利也《アスユリヤ》、又|奈爾波能津由利《ナニハノツユリ》、)(但し此(ノ)一首は、姑く元暦本に從(レ)り、)續紀四(ノ)卷詔に、高天原由利《タカマノハラユリ》、(由(ノ)字、流布本には與とあり、一本に從、)十(ノ)卷詔に、皇朕高御座爾坐初由利《スメラワガタカミクヲニイマシヽハジメユリ》、今年爾至麻弖《コトシニイタルマデ》云々、本由理行來迹事曾止《モトユリオコナヒコシアトゴトソト》などあり、用理《ヨリ》と云るは例を引までもなし、(古今集よりこの方は、用理《ヨリ》とのみ云て、餘の三種にいへること絶たり、)抑々此(ノ)辭はたとへば、古(ヘ)より今、今より後、彼(レ)より此(レ)、此(レ)より彼(レ)と云は尋常にて、今殊更に論ふに及ばず、こゝの從《ヨ》これなり、日知之御世より以來といふことなればなり、然るを或は袁《ヲ》の如く爾《ニ》の如くにも聞え、或は敝《ヘ》のごとく、又|爾弖《ニテ》といふにも通ひて聞ゆるなど種々あれば、凡ての例どもを引て首(ノ)卷にことわりおけり、合(セ)考(フ)べし、○阿禮座師《アレマシヽ》、古事記傳神武天皇(ノ)條に、安禮坐之御子《アレマシシミコ》とあるところに云(ク)、阿禮坐《アレマス》は生(レ)坐にて宇麻禮《ウマレ》賜へりと云ことなり、阿禮《アレ》てふ言の意は、新《アラ》現《アラ》と通へり、生るるは此(ノ)身の新に成なり、又現るゝなればなり、明(ノ)宮(ニ)御宇天皇の生坐るをも其(ノ)御子者阿禮坐とあり、續紀一に、天皇(ノ)御子之阿禮坐牟彌繼々爾《ミコノアレマサムイヤツギツギニ》と見え、月次(ノ)祭祝詞にも、阿禮坐皇子等乎毛惠給比《アレマスミコタチチモメグミタマヒ》と、見え、萬葉一(ノ)卷に云々、六(ノ)卷に、阿禮將座御子之嗣繼《アレマサムミコノツギ/\》など見ゆ、又書紀允恭天皇(ノ)卷に、皇后産2大泊瀬(ノ)天皇(ヲ)1とある産を、阿良志麻須《アラシマス》と訓るは、令《シメ》v生《アラ》坐《マス》なりとあり、(按に阿禮《アレ》は宇麻禮《ウマレ》を切めたる言なり、と云は誤なり、うまるゝは母に所《ルヽ》v生《ウマ》にて、母を主としていひ、阿禮《アレ》は現(ハ)るゝ義にて、子を主として云、故(レ)其(ノ)言はもと別なり、)師《シ》は、過去し方の事をいふ辭なり、○神之盡《カミノコト/”\》(盡(ノ)(164)字、舊本に書と作《カケ》るは非なり、今は一本によりつ、)は、日知之御世より生(レ)繼(キ)座し神々|悉皆《コト/\ク》といふなり、神とは御世御世の天皇等を申す。盡《コト/”\》といふことは古言に多し、(こゝは今(ノ)俗に、夫(レ)々と云むが如し、中昔までもまれ/\云る詞なり、空穂物語藏開に、こと/”\には此(ノ)朝臣きこえさせ、うけ給はれよとなむ、國讓に、與一はあやしといそがれしかば、こと/”\ものせず、夢浮橋に、こと/”\にみづからさぶらひて申侍らむなど見えたり、但しこれらのこと/”\は、俗に委細と云むが如し、されどその言のもとは一(ツ)なり)○樛木乃《ツガノキノ》は、繼嗣といはむ料の枕詞なり、集中に多し、こは、山菅乃背向《ヤマスゲノソガヒ》と云係ると同(シ)格なり、都賀《ツガ》と都藝《ツギ》と音親く通ふ故に、疊ねつゞけたるにて、須宜《スゲ》と蘇我《ソガ》とつゞけたるも、亦同じことなり、樛木のことは、品物解にいふべし、○彌繼嗣爾《イヤツギツギニ》は御世御世御位をつがせ給ひしを云、こゝに倭爾而《ヤマトニテ》といふ事あるべきことなるに、上の從《ヨ》、下の倭乎置而《ヤマトヲオキテ》にしるければ、はぶけるなり、○天下は、アメノシタ〔五字右○〕と訓べし、十八廿(ノ)卷に、安米能之多《アメノシタ》、又|阿米能之多《アメノシタ》、靈異記に、宇、(阿米乃志多《アメノシタ》、)天慶六年書紀竟宴(ノ)歌に阿馬能芝多《アメノシタ》とあり、(後(ノ)世、阿米我之多《アメガシタ》といふはつたなし、)○所知食之乎《シロシメシシヲ》(舊本或云食來と注せり、用《トル》べからず、)は、しろしめしゝものをの意なり、しろしめしゝものを、いかさまにおもほしけめかと連下して意得べし、是そこの朝臣の句法の妙(ナル)處にはありける、(然るを略解に、或本の食來とあるかたまされりといへるは、くはしからずといふべし、此(ノ)集を熟讀玩味《ヨミアヂハヒ》たらむばかりの者《ヒト》は(165)論をまたずておのづからに曉るべし、)○虚見《ソラミツ》、(舊本に、天爾滿とありて、或云虚見と注せり、今は或本を用《トリ》つ、)この枕詞上に出、○倭乎置而《ヤマトヲオキテ》、(舊本に、或云倭乎置と注《シル》せるは、とるべからず、必(ス)而の辭なくてはわろし、但し拾穗本には、或云のかたにも而(ノ)字あり、)置はとゞめおく意なり、ともにゆかぬを云、此(ノ)末に飛鳥明日香能里乎置而伊奈婆《トブトリノアスカノサトヲオキテイナバ》、とある置に同じ、○青丹吉《アヲニヨシ》、この枕詞上に出つ、○年山越而《ナラヤマコエテ》、(越(ノ)字類聚抄古寫本給穗本等に超と作り、さて舊本に平山乎越とありて、或云平山越而と注せり、或本のかたよろしければ用つ、)平《ナラ》は、ならす義よりかけるなり、奈良山は近江への道路なり、○何方《イカサマニ》は、俗にどのやうにといふに同じ、凡慮のはかりがたきよしなり、(按(フ)に、天智天皇(ノ)紀に、六年三月己卯、遷2都(ヲ)于近江(ニ)1、是(ノ)時天下百姓、不v願v遷(コトヲ)v都、諷諫《イサムル》者者多(ク)、童謠(モ)亦衆(シ)云々、とあるを思ひ合すれば、總て都を遷すことは、古(ヘ)より民の嫌へる事なれば、裏《シタ》にはすこしそしれる意あるを、凡慮のはかり難きよしにいへるかとも聞ゆれど、この天皇は、大織冠大臣と共に謀(リ)まして蘇我(ノ)入鹿を誅《ツミナ》ひたまひ、凡中興の皇帝にてましませば、只叡慮のはかりがたきを云るならむ、)○所念計米可《オモホシケメカ》、(舊本に、御念食可とありて、或云所念計米可と注せり、もし舊本の方ならば、御念食計米可《オモホシメシケメカ》と云では、言足はず、されどさはいふべくもなし、この差別は、古語を熟鰺得たらむ人はしるべし、さればこれも或本のかたよろしければ用つ、)米《メ》は牟《ム》のかよへるなり、さてこの句の下に、今一つ詞を加て意得べし、此(レ)古格の一にて、近ご(166)ろ余がはじめて考(ヘ)出たるなり、さればこゝは、いか方《サマ》に念ほしけめか、云々《シカ》ありけむといふ意に見べし、しかせざれば、可《カ》の疑辭|結《トヂ》まらず、(古來此(ノ)集を讀人、下に所知食兼《シロシメシケン》とあれば、其(ノ)詞にて結めたりとおもへるなるべし、されど彼處にて結めては、一首の意貫かざるなり、)そもそもかく長歌の中間《ナカラ》にて、詞をそなへて意得る方格は、古事記仲哀天皇(ノ)條(ノ)歌に、許能美岐袁迦美祁牟比登波曾能都豆美宇須邇多弖々宇多比都々迦美郁禮加母麻比都々迦美祁禮迦禮迦母許能美岐能美岐能阿夜邇宇多陀怒斯佐々《コノミキヲカミケムヒトハソノツヾミウスニタテヽウタヒツヽカミケレカモマヒツヽカミケレカモコノミキノミキノアヤニウタダヌシサヽ》、((これも謠ひ乍《ツヽ》釀ければかも、舞つゝ釀ければかも、云々《シカ》有らむといふ意に、假に言を補(ヘ)て見ざれば、加母《カモ》の辭結むる所なし、)此(ノ)下藤原(ノ)宮役民(カ)歌に、天地毛縁而有許曾《アメツチモヨリテアレコソ》云々、伊蘇波久見者神隨爾有之《イソハクミレバカムナガラナラシ》、(これも天地も縁て有こそ、云々《シカ》有らめといふ意に、假に言を補(ヘ)て見ざれば、許曾《コソ》の辭結むべき所なし、)二(ノ)卷人麻呂(ノ)歌に、何方爾御念食可由縁母無眞弓乃崗爾宮柱太布座御在香乎高知座而明言爾御言不御問日月數多成塗《イカサマニオモホシメセカツレモナキマユミノヲカニミヤハシラフトシキイマシミアラカヲタカシリマシテアサゴトニミコトトハサズツキヒノマネクナリヌレ》(これもいかさまに念ほしめせか、云々《シカ》ありけむといふ意に、假に言を補(ヘ)て見べし、さなくては可《カ》の疑辭結むべき所なし、)又同卷同人(ノ)歌に、何方爾念居可栲紲之長命乎露己曾婆朝爾置而夕者消等言霧己曾婆夕立而明者失等言《イカサマニオモヒマセカタクナハノナガキイノチヲツユコソハアシタニオキテユフヘハキユトイヘキリコソハユフヘニタチテアシタハウストイヘ》云々、(是もいか方に念居か、長かるべき命を露霧の如く、はかなく消失けむと云意を、假に禰《ヘ》て見べし)三(ノ)卷坂上(ノ)郎女(ノ)歌に、何方爾念?目鴨都禮毛奈吉佐保乃山邊爾哭兒成慕來座而布細乃宅乎毛造荒玉乃年緒長住乍座之物乎《イカサマニオモヒケメカモツレモナキサホノヤマヘニナクコナスシタヒキマシテシキタヘノイヘヲモツクリアラタマノトシノヲナガクスマヒツヽイマシヽモノヲ》(167)云々、(これもいか方に念けめかも、云々ありけむといふ意に、假に言を補(ヘ)て見べし、)十三挽歌に、何方御念食可津禮毛無城上宮爾大殿乎都可倍奉而殿隱隱在者《イカサマニオモホシメセカツレモナキキノヘノミヤニオホトノヲツカヘマツリテトノゴモリコモリイマセバ》云々、(これも、上の如し、)三(ノ)卷家持(ノ)卿(ノ)歌に、逆言之狂言登加聞白細爾舍人装装束而和豆香山御輿立之而久堅乃天所知奴禮《オヨヅレノタハコトトカモシロタヘニトネリヨソヒテワヅカヤミコシタヽシテヒサカタノアメシラシヌレ》云々、(これも逆言の狂言にてかもあらむ、云々のことは、よもことにてはあらじといふ意に、假に言を補(ヘ)て見べし、)十七同卿(ノ)歌に、波之伎余思奈弟乃美許等奈爾之加毛時之波安良牟乎《ハシキヨシナオトノミコトナニシカモトキシハアヲムヲ》、(ここも時しは有むを何しかも、云々ありけむといふ意に、假に言を補(ヘ)て見べし、)波太須酒吉穗出秋乃芽子花爾保弊流屋戸乎安佐爾波爾伊泥多知奈良之暮庭爾敷美多比良氣受佐保能宇知乃里乎往過安之比紀乃山能許奴禮爾白雲爾多知多奈妣久等安禮爾都氣流《ハタスヽキホニヅルアキノハギガハナニホヘルヤドヲアサニハニイデタチナラシユフニハニフミタヒラゲズサホノウチノサトヲユキスギアシビキノヤマノコヌレニシラクモニタチタナビクトアレニツゲル》、又同卿(ノ)歌に、近在者加弊利爾太仁母宇知由吉底妹我多麻久良佐之加倍底禰天蒙許萬思乎多麻保己乃路波之騰保久關左開爾弊奈里底安禮許曾與思惠夜之餘志播安良武曾《チカアラバカヘリニダニモウチユキテイモガタマクラサシカヘテネテモコマシヲタマホコノミチハシトホクセキサヘニヘナリテアレコソヨシヱヤシヨシハアラムソ》云々、(これも關さへに隔て有ばこそ、云々も得爲ぬと云意に、假に言を補(ヘ)て見べし、)などある、これらみな其(ノ)例なり、(さるを今までの諸注者《フミトキヒトヾモ》、この論なくしてすぐしきたれるは、件(リ)の歌どもをば、いかゞ意得けむにや、)さて以上二句は、地をうつして、虚見倭乎置而《ソラミツヤマトヲオキテ》の上に置て見べし、○天離《アマザカル》は、夷《ヒナ》の枕詞なり、神代紀(夷曲)に見えたるをはじめて集中には彼此《コレカレ》おほし、高橋(ノ)正元、こは高光《タカヒカル》天傳《アマツタフ》天照《アマヲラス》などいへるたぐひにて、天に離る日といふ意に、比《ヒ》の一言にいひかけしのみにて、書紀(168)神功皇后(ノ)卷に(天踈向津媛《アマザカルムカツヒメノ》命とあるも、向津日の意にいひつゞけしをも併(セ)考(フ)べしと云り、凡(ソ)某|離《ザカル》と云詞に、某處《ソコ》に雖《サガ》る意なると、某處を離る意なるとの異あり、家放《イヘサカル》里離《サトサカル》國離《クニサカル》など云は、家を放り里を離り國を離る意なり、夷離《ヒナザカル》奧離《オキザカル》など云は、夷に離り奧に離る意なり、かゝれば(天離も天に離る意にて、)天に雛る日の意とはいはれたることなり、(然るを冠辭考に、都かたよりひなの國をのぞめば、天と共に遠放(リ)て見ゆるよしにて、天離るとは冠らせたり、さかるとは、こゝより避り離れて、遠きを云と云るはたがへり、)○夷者雖不有《ヒナニハアラネド》、比那《ヒナ》と云名は、神代紀下巻|夷曲《ヒナブリノ》歌に、阿磨佐箇屡避奈菟謎廼《アマザカルヒナツメノ》云々、(夷津女之《ヒナツメノ》なり、此(ノ)歌は傳なければ委くは知がたけれども、西方か北方かのこ國の女をいふなることは疑なし、さて古事記にも夷振《ヒナブリ》とて、阿米那流夜《アメナルヤ》云々といふ歌のみをのせて、此(ノ)歌は載ず、)と見えていとふるし、其(ノ)名(ノ)義は未(タ)思ひ得ず、(岡部氏(ノ)考(ノ)別記に、比那《ヒナ》は日之下《ヒノシタ》てふ言なり、何ぞといはゞ、神代紀に、避奈蒐謎《ヒナツメ》といへるは、天よりして下《シタ》つ國の女をいふなり、古事記に、毛毛陀流都紀加延波阿米袁淤幣理《モヽダルツキガエハアメヲオヘリ》、云々、志豆延波比那袁淤幣理《シヅエハヒナヲオヘリ》てふも、天に對へて下つ國を比那《ヒナ》といへり、さて其(ノ)天をば日ともいふは、神武天皇を、紀に天神子《フマツカミノミコ》とも、日神子孫《ヒノカミノミマゴ》とも申し、天皇をあめすべらきとも、日のみ子とも申し、御門を天つみかどとも、日の御門ともいひ、後(ノ)世、天の下てふ事を、日の下といふも、思ふに古言なり、かくて言を解に比那《ヒナ》の比《ヒ》は日なり、那《ナ》は乃志多《ノシタ》の三言を約めたるなり、數言を一言と(169)するには、上下の二言を約(ム)、仍て日の御子の敷ます宮所《ミヤコ》を天とし、外《ト》つ國を天の下として、比那《ヒナ》とはいふなりと云るは意得ず、そもそも神代紀の避奈菟謎《ヒナツメ》を、下つ國の女をいふとしも云は、何の據ありていへるぞや、又古事記の比那袁淤幣理《ヒナヲオヘリ》の比那《ヒナ》を、下つ國とせるは、天ばかりに對へていへらばこそ、まづ然いはむも、いさゝか似よりたることならめ、那迦都延波阿豆麻袁淤幣理《ナカツエハヅマヲオヘリ》としもあるはいかにとかせむ、東《アヅマ》は又下津國の外にありとせむか、又|那《ナ》は乃志多《ノシタ》の三言を約めたりと云るも、例のわたくしごとならずや、)さてこの比那《ヒナ》に、古(ヘ)より夷(ノ)字を書るは、正しくあたれる字にはあらざれども、外に填《アツ》べき字なければ、しばらく此字を書るなり、夷(ノ)字は、かの漢國にて、いはゆる中國といひて、みづからしる地の堺を離《サカ》りたる諸國《クニ/”\》をいふ名にて、比那《ヒナ》にあたれる字にはあらずかし、そも/\比那《ヒナ》とは、皇都をさかりたる地をなべていふ名にはあらずして、方土につきていひし名なり、その方土に就ていひしとは、畿内近國をさかりたる、西方北方の國を比那《ヒナ》といひ、東方の國をば阿豆麻《アヅマ》といひしことにぞありける、(しかるを比那《ヒナ》とは、皇都の地をさかりたる諸國《クニ/”\》を、なべていふ名と意得來れるは、夷(ノ)字にのみまどへる甚じき非《ヒガコト》なり、伊勢物語に、昔男|陸奧國《ミチノクニ》にすゞろに行至(リ)にけり、そこなる女、京の人はめづらかにやおぼえけむ、せちに思へる心なむ有ける、さてかの女、中々に戀に死ずは桑子にぞ成べかりける玉の緒ばかり、歌さへぞ比那備《ヒナビ》たりける、源氏物語末摘(170)花に、末つむ花の方のことを、侍從は齋院にまゐりかよふわか人にて、この頃はなかりけり、いよ/\あやしうひなびたるかぎりにて、見ならはぬ心ちぞする、常夏に、近江(ノ)君の事をただいとひなびあやしきしも人の中におひ出給へれば、物いふさまもしらず、東屋に、常陸(ノ)守の事を、いとあさましくひなびたるかみにて、うちゑみつゝきゝゐたり、浮舟のことを、いと物つゝましくて、まだひなびたる心に、いらへきこえむこともなくて、枕草枕に、比那比那《ヒナヒナ》しからぬけしき爲《シ》たるは云々、又受領の五節など出すをり、さりともいたうひなび見知ぬこと人に、問聞などはせじと心にくきものなり云々、家あるじいとわろくひなびたり云々、いときよげなれど、又ひなびあやしくげすもたえずよびよせ、ちご出しすゑなどするもあるぞかし、などあれば、彼(ノ)頃よりは、既《ハヤ》く皇都をさかりたる地をば、なべて比那《ヒナ》といふことにはなれりしか、但しこれらは方土には拘らず、すべて朝都《ミヤコ》めかず、物の野鄙《イヤ》しさをおとしめて云るなれば、方土をさして云る證にはなりがたし、されど又重之集に、陸奧(ノ)國子鶴の地の堤にて重之(ノ)父のよめる歌に、千年をばひなにてのみや過しけむ子鶴の池といひて久しき、とあるは、雛に夷の意を兼たりとおぼゆれば、既く彼(ノ)頃は混れたりしことも有しなるべし、源氏物語蓬生に、源氏(ノ)君の須磨(ノ)浦に物し給ひたりし事を、今のどかにぞ、ひなのわかれにおとろへし世の物がたりも聞えつくすべき、北院御室(ノ)御集に、和泉(ノ)國新家といふ所にて鹽湯浴《シホユアミ》し(171)に、云々、鹽湯あみはてゝ京都へ歸るとて、日數經し比那《ヒナ》の住ひを思ひ出ば戀しかるべき旅の空哉、鴨(ノ)長明(カ)海道記に、參河(ノ)國に至りぬ、云々、比那《ヒナ》の住處《スミカ》には、月より外にながめ馴たる物なし、云々、阿佛尼(カ)轉寢(ノ)記に近江(ノ)國野路といふ處より、云々、さすがならはぬ比那《ヒナ》の長道におとろへはつる身も、われかのこゝちのみして、美濃尾張の境にもなりぬ云々などあるにて思へば、中昔の季つかたよりは、正しく混亂《ミダレ》て、なべて皇都を離りし地をいふことゝ意得しなり、また安房(ノ)國に朝夷《アサヒナノ》郡あれど、すべて地(ノ)名は、何處もことに來由《ヨシ》ありて號ことなれば、常の例にはたがへり、さて書紀崇神天皇(ノ)卷に、四道將軍、以(テ)d平《ムケタル》2戎夷《ヒナヲ》1之状(ヲ)u奏(セリ)焉、景行天皇(ノ)卷に、東(ノ)夷《ヒナ》之中(ニ)、有2日高見(ノ)國1、應神天皇(ノ)卷に、東蝦夷《アヅマノヒナ》悉(ニ)朝貢《ミツギタテマツル》、允恭天皇(ノ)卷に、朝野《ミヤコヒナ》、また四夷《ヨモノヒナ》、顯宗天皇(ノ)卷に、華夷《ミヤコヒナ》、持統天皇(ノ)卷に、遣2某々等於多禰1、求2蠻所居《ヒナノヰドコロヲ》1どある、戎夷、蝦夷、夷、野、蠻などをヒナ〔二字右○〕と訓るは、皆古(ヘ)に昧《クラ》き後人のしわざなり、)そはまづ古事記下卷雄略天皇(ノ)條三重(ノ)※[女+采](カ)歌に、麻岐牟久能比志呂乃美夜波《マキムクノヒシロノミヤハ》云々、毛々陀流都紀賀延波阿米袁淤幣理那加都延波阿豆麻袁淤幣理志豆延波比那袁淤幣理《モヽダルツキガエハアメヲオヘリナカツエハアヅマヲオヘリシヅエハヒナヲオヘリ》云々とある、これ明證《サダカナルアカシ》なり、(もし皇都を離りたる地を、なべていふ名ならむには、かく阿麻豆《アヅマ》と比那《ヒナ》とを分ちいふべきことかは、)なほその舊例をいはむとするに、書紀景行天皇(ノ)卷に、十八年春三月、天皇巡2狩《メグリミソナハス》筑紫(ノ)國(ヲ)1、始到2夷守《ヒナモリニ》1、云々、乃遣(テ)2兄夷守《エヒナモリ》弟夷守《オトヒナモリ》二人(ヲ)1令(タマフ)v觀云々、集中には二(ノ)卷に、人麻呂の石見(ノ)國にて死れる時、丹比(ノ)眞人の人麻呂(ノ)妻の意に擬《ナラ》ひて(172)作《ヨメ》る歌に、天離夷之荒野爾君乎置而《アマザカルヒナノアラヌニキミヲオキテ》、三卷に、天離夷之長道從戀來者自明門倭島所見《アマザカルヒナノナガヂヲコヒクレバアカシノトヨリヤマトシマミユ》、(此(ノ)歌十五にも出(ツ)、是も播磨(ノ)國などよりは、西方をさして比那《ヒナ》と云ること、一首のうへにてしるし、)四(ノ)卷に、丹比(ノ)眞人笠麻呂下2筑紫(ノ)國(ニ)1時作(ル)歌とて、天佐我留夷乃國邊爾直向淡路乎過粟島乎背爾見管《アマザカルヒナノクニヘニタゞムカフアハヂヲスギテアハシマヲソガヒニミツヽ》、(是も四國あたりをさして比那《ヒナ》と云るなり、其(ノ)よしは波路より、直に向ふ比那《ヒナ》の意なればなり、且《マタ》淡路あたりまでは、比那《ヒナ》といはざりしこと、此一首にても思ひ定めつべし、)五(ノ)卷筑前國(ノ)司(ノ)山上憶良(ノ)歌に、阿麻社迦留比奈爾伊都等世周麻比都々《フマザカルヒナニイツトセスマヒツヽ》、六(ノ)卷石上(ノ)乙麻呂(ノ)卿配2土左(ノ)國(ニ)1之時(ノ)歌とて、王命恐天離夷部爾退《オホキミノミコトカシコミアマザカルヒナヘニマカル》、十五到2對馬島淺茅(ノ)浦(ニ)1舶泊之時云々作(ル)歌とて、安麻射可流比奈爾毛月波弖禮々杼母《アマザカルヒナニモツキハテレヽドモ》、又古今集十、八に、隱岐(ノ)國に流されて侍ける時によめる、篁(ノ)朝臣、思ひきや夷《ヒナ》の別(レ)に衰へて海人の繩たぎ漁《イザリ》爲《セ》むとはなどある、これら西方の國をいへる例なり、又十七十八十九などに。越中(ノ)國のことを天離夷《フマザカルヒナ》とも、(安麻射可流比奈《アマザカルヒナ》と多くかきたり、)夷放國《ヒナザカルクニ》ともいへるところ、凡て幾《ホト/\》二十首|計《バカリ》もありぬべし、これ北方の國を比那《ヒナ》と云る證なり、又九(ノ)卷長歌に、天離夷治爾登《アマザカルヒナヲサメニト》云々、(反歌に、三越道之雪零山乎將越日者《ミコシヂノユキフルヤマヲコエムヒハ》とあれば、是も越(ノ)國をさして夷《ヒナ》と云り、)又十三に、天皇之遣之萬々夷離國治爾登《オホキミノマケノマニ/\ヒナザカルクニヲサメニト》(或本云、天疎夷治爾等《アマザカルヒナヲサメニト》、)羣鳥之朝立行者《ムラトリノアサタチユケバ》、(是は傳知ざれども、筑前か越中かへ任らるゝ人に、贈れる歌なるべし、)など見えたり、(東方の國をば凡て、阿豆麻《アヅマ》とのみ云て比那《ヒナ》といへることは、此(ノ)集の頃まで一(ツ)もなきにて、(173)比那《ヒナ》とは、たゞに邊鄙をなべていふ名にはあらざりしことをも曉るべく、古人の語を精嚴《オゴソカ》にし、守をば粗忽《オホヨソ》にせることをもしるべし、かゝることをよく考(ヘ)おきて、古書をば讀べきことなるに、後(ノ)世人はたゞ字面にのみかゝづらひて、語の本をとかむともせずして、古書の表《ウヘ》にてもまた自《ミヅカラ》の歌文にても、たゞに邊鄙をばなべていひし名と意得てものすめるは、蒙昧《オロカ》なる至《キハミ》といふべし、しかるを此處を舊本《フルキマキ》に、夷者雖有とありて、ヒナニハアレド〔七字右○〕とよめるはいかにぞや、かくては近江(ノ)國あたりまでは、比那《ヒナ》と云しことの例もなく、よしや比那《ヒナ》といひしにもせよ、こゝは上に何方御念計米可《イカサマニオモホシケメカ》とあれば近江(ノ)國を御おとしめたる趣《オモムキ》なれば、夷爾之有乎《ヒナニシアルヲ》などやうにあらば、まづさもありなむか、夷者雖有《ヒナニハアレド》とては、近江(ノ)國をあげたる意にきこゆれば、首尾の意相貫ずして、かた/”\あまなひがたきことなるを、)大神(ノ)景井(カ)考に、こゝは夷者雖不有《ヒナニハアラネド》とありしが、不(ノ)字を脱せるなるべしと云るは、實にいはれたる事なりけり、さらば御代御代天(ノ)下しろしめしけるものを、その大和(ノ)國をさしおきて、比那《ヒナ》といふほどの國にはあらざれども、いかで近江(ノ)國には天下しろしめしけむ、といふ意になりて、一首の意もよく聞え、比那《ヒナ》といふことの例にもたがふことなくして、おもしろし、かゝれば今は姑く此(ノ)考に據て、不(ノ)字を補て、ヒナニハアラネド〔八字右○〕と訓つ、(高橋(ノ)正元が、夷者雖有をヒナハアレドモ〔七字右○〕とよみて、夷の國は多くあれどもといふ意とせる、是も比那《ヒナ》の名目《ナ》のことを、わきまへぬ人のさだ(174)なればとるにたらず、)○石走《イハバシル》は、淡海《アフミ》の枕辭なり、下藤原(ノ)宮之役民(ガ)歌にも、磐走淡海乃國之《イハバシルアフミノクニノ》、七(ノ)卷に、石走淡海縣《イハバシルアフミアガタ》とあり、(冠辭考(ノ)説に、石走をイハバシノ〔五字右○〕と訓て、石橋之|間《アハヒ》といひかけしなり、と云るはかなひがたし、但し十一に、明日香川明日文將渡石走遠心者不思鴨《アスカガハアスモワタラムイハバシノトホキコヽロハオモホヘヌカモ》、七(ノ)卷に、年月毛未經爾明日香河湍瀬由渡之石走無《トシツキモイマダヘナクニアスカガハセセユワタシシイハバシモナシ》、また橋立倉橋川石走者裳壯子我度爲石走者裳《ハシダテノクラハシガハノイハノハシハモヲサカリニアガワタセリシイハノハシハモ》などあるもイハヾシ〔四字右○〕とよみて、石橋の事なるべく、且七(ノ)卷に、瀧至八信井上爾《オチタギツハシヰノウヘニ》とありて、又其(ノ)下に隕田寸津走井水之《オチタギツハシヰノミヅノ》とある、これ走(ノ)字ハシ〔二字右○〕と訓べきたしかなる證なれば、今もイハバシノ〔五字右○〕とよむべくおもへど、七(ノ)卷に、石流垂水水乎《イハバシルタルミノミヅヲ》、八(ノ)卷に、石激垂見之上乃《イハバシルタルミノウヘノ》とある類は、決《キハメ》てイハバシル〔五字右○〕なるべくおもはるゝに、十二に石走垂水之水能《イハバシルタルミノミヅノ》と見えたる、走はハシル〔三字右○〕なること灼然《イチジロ》ければ、なほ今の歌をも、此になずらへて、イハバシル〔五字右○〕と訓べきなり、)按(フ)に、此は石を走る溢水《アフミ》といふ意につづけしなるべし、水の多く沸《タギ》ち流るゝは、石(ノ)上を溢るれば、溢水《アフミ》と云べし、さて阿布美《アフミ》てふ國(ノ)號の由來《モト》は、淡海《アハウミ》の義《ヨシ》なれど、枕詞よりの續きは、別意にとり成(シ)て、いひつゞくることもある例にて、かの水薦刈《ミコモカル》信濃《シナヌ》とつゞくると同例なり、猶二(ノ)卷にいふを照(シ)考(ヘ)て知べし、○淡海《アフミノ》國、名(ノ)義は字の如く、淡海《アハウミノ》國と示ふことの約まれるなり、猶古事記傳に出、○樂浪《サヽナミ》(浪(ノ)字、類聚抄に波と作り、)は、古事記仲哀天皇(ノ)條に、爾追迫《ニオヒセメ》敗(リテ)、出2沙々那美(ニ)1、悉(ニ)斬(ツ)2其軍(ヲ)1、云々、應神天皇(ノ)大御歌に、志那陀由布佐々那美遲袁《シナダユフサヽナミヂヲ》云々、書紀神功皇后(ノ)卷に、及(テ)2于|狹々浪栗林《サヽナミノクルスニ》1、云々、欽明天皇(ノ)卷に、發v(175)自2難波津1、控2引《ヒキコシテ》船(ヲ)於|狹々波《サヽナミ》山(ユ)1、云々、天武天皇(ノ)卷に、會(テ)2於|※[篠の異体字]《サヽ》(此云2佐々《サヽ》1、)浪《ナミニ》1、而|探2捕《トラヘツ》左右(ノ)大臣(ヲ)1云々、本居氏、志賀は古(ヘ)より廣き名にて郡(ノ)名にもなれるを、なほ古(ヘ)は、沙々那美《サヽナミ》は志賀よりも廣き名にやありけむ、萬葉の歌どもに、沙々那美《サヽナミ》の志賀と多くよみて、志賀の沙々那美《サヽナミ》とよめるはなし、又九(ノ)卷には、樂浪之平山《サヽナミノヒラヤマ》ともあれば、比良のあたりまでかけたる名にぞありけむと云り、(今按(フ)に、後には志賀(ノ)郡なる一處の名となれるなるべし、今昔物語十一に、志賀(ノ)郡篠波山、また篠波の長柄の山とも有(リ)、さてその頃まで、地(ノ)名なることをわきまへたりしを、後々は細浪のことと思ひ誤れること、往々《トコロ/\》に見えたり、)さて集中に、神樂聲浪とも神樂浪とも樂浪とも書、和名抄但馬(ノ)國氣多(ノ)郡郷(ノ)名に、樂前と書て佐々乃久萬《サヽノクマ》とよめるものあり、こは古事記傳(ニ)云、上卷石屋戸(ノ)段に、手2草結天香山之小竹葉(ヲ)1而、於2天之石屋戸1、伏2汗氣1而、踏登杼呂許志とある故事に因(レ)り、神樂には小竹葉を用ひ、其を打振音の佐阿佐阿《サアサア》と鳴に就て、人等も同(シ)く音を和《アハ》せて、佐阿佐阿《サアサア》と云ける故なるべし、猿樂の謠物に、サツ/\〔四字右○〕の聲ぞ樂むと云も、松風の颯々と云音より、是に云かけたるなり、又竹葉の名を佐々《サヽ》と負るも、此(ノ)音よりぞ出つらむ、細小の意以て名づけしには非ず、小竹と書る小(ノ)字は、幹の小きを云るにて別なり、神樂歌古本に、本方安以佐安以佐未方安以佐安以佐《モトハアイサアイサスヱハアイサアイサ》と云ことあり、こは佐々佐々と唱たるか、又は佐阿佐阿を如此書るか、何にまれ、かの小竹葉の音に和(ハ)せたる聲より出つることなるべしと云り、○大津宮《オホツノミヤ》は、上に出(176)たり、即(チ)今も大津といふ地なり、○所知食兼大宮者《シロシメシケムオホミヤハ》云々、大殿者《オホトノハ》云々とつゞけて意得べし、(この兼《ケム》の詞にて、上の御念計米可《オモホシケメカ》といふを結《トヂ》めたり、とおもふは、くはしからず、兼の言にて、上の可《カ》を結むるときは、次の天皇之《スメロキノ》云々は新になりて、上より屬かず、よく讀味て其(ノ)意をさとるべし、○天皇之は、スメロキノ〔五字右○〕と訓べし、天智天皇をさし奉れり、すべて集中に、天皇と書るは、皆|須賣呂伎《スメロキ》と訓べく、皇王大皇大王大君など書るは、皆|意富伎美《オホキミ》と訓べし、(しかるを所によりては、天皇をオホキミ〔四字右○〕ともよみ、皇をスメロキ〔四字右○〕ともよめる類の誤謬《アヤマリ》あれば、今これをここに正しおくぺし、)凡て此(ノ)集には、オホキミ〔四字右○〕を、天皇とは書ぬ例なる證をいはむに、まづ集中に、吾皇(凡四ところ、)吾王(凡九處、)我王(凡二處、)吾大皇(凡三處、)吾大王(凡十九處、)我大王(凡五處、)吾期大王(凡二處、)和期大王(凡五處、)和期於保伎美(一處、)吾於富吉見(一處、)和我於保伎美(一處、)など見えて、かくあまた所にくさ/”\に書るが中に、吾天皇とも、我天皇とも、吾期天皇とも、書る所は、かつて一(ト)ところもなきは、天皇と書て、オホキミ〔四字右○〕とはよまざりし明證《サダカナルアカシ》なり、(もし天皇と書て、オホキミ〔四字右○〕とも訓しならば、かくあまた所の中には、吾天皇とやうにも書べからぬことかは、)さて須賣呂伎《スメロキ》と申すは、御祖の天皇を申すことはさらにて、それよりまた轉りて、皇祖より當今天皇(ノ)代迄を兼て、廣くも申せりしなり、(正しく當今天皇御一人をさして申すことは、かつてなかりしを、古今集の頃より須倍良伎《スベラキ》と申(シ)て、當今天皇のことをいへるは、又(177)一轉したるものなり、)さてこゝに天智天皇を指て、天皇《スメロキ》と申せるを始て、六(ノ)卷に、八隅知之吾大王乃高敷爲日本國者皇祖乃神之代御自敷盛流國爾之有者《ヤスミシシワガオホキミノタカシカスヤマトノクニハスメロキノカミノミヨヨリシキマセルクニニシアレバ》、(神武天皇の御代をさせり、)十八に、皇御祖乃神靈多須氣弖《スメロキノミタマタスケテ》、(皇祖の天皇たちの、御靈たすけてといふ意、)又|皇神祖能可見能大御世爾田道間守常世爾和多利《スメロキノカミノオホミヨニタヂマモリトコヨニワタリ》、(是は垂仁天皇の御代を指り、)又|葦原能美豆保國乎安麻久太利之良之賣之家洗須賣呂伎能神能美許登能可之古久母波自米多麻比弖《アシハラノミヅホノクニヲアマクダリシラシメシケルスメロキノカミノミコトノカシコクモハジメタマヒテ》、(是は雄略天皇の吉野(ノ)離宮を始(メ)給ひしを申せり、)廿(ノ)卷に、天皇乃等保伎美與爾毛《スメロキノトホキミヨニモ》、(是は仁徳天皇の難波(ノ)宮に御宇(シ)しを申せり、)又|多可知保乃多氣爾阿毛理之須賣呂伎能可未能御代欲利《タカチホノタケニアモリシスメロキノカミノミヨヨリ》云々、(是は邇々藝(ノ)命をさして申せり、)可之婆良能宇禰備乃宮爾美也婆之良布刀之利多弖々安米能之多之良志賣之祁流須賣呂伎能安麻能日繼等《カシハラノウネビノミヤニミヤバシラフトシリタテヽアメノシタシラシメシケルスメロキノアマノヒツギト》、(神武天皇を指り、)などある、是らは正しく皇祖を申せる事の證なり、又二(ノ)卷に天皇之神之御子之《スメロキノカミノミコノ》、(是は志貴(ノ)親王を申(シ)て、皇祖神の御子孫といふ意、)十八に、須賣呂伎能御代佐可延牟等《スメロキノミヨサカエムト》、(是は皇祖より繼(キ)座る御代の意にて、ひろく申せるなり、)十九に、須賣呂伎能御代萬代爾《スメロキノミヨヨロヅヨニ》、(是も意は上に同じ、)三(ノ)卷に皇祖神之御門爾《スメロキノカミノミカドニ》、七(ノ)卷に、皇祖神之神宮人《スメロキノカミノミヤヒト》、十一に、皇祖乃神御門《スメロキノカミノミカド》、(是等皇祖より、皆今天皇までを兼てひろく申せるなり、)二(ノ)卷に、天皇之敷座國等《スメロキノシキマスクニト》、(是は御祖の天皇たちの、敷ます國といふ意なり、)十八に、須賣呂伎能可未能美許登能伎己之乎須久爾能麻保良爾《スメロキノカミノミコトノキコシヲスクニノマホラニ》、三(ノ)卷に、皇神祖之神乃敷座國之盡《スメロキノカミノシキマスクニノコト/”\》、(是ら皇祖の事を(178)申て、當今天皇の事もこもれり、さて十七に、須賣呂伎能乎須久爾奈禮婆《スメロキノヲスクニナレバ》、又|須賣呂伎能之伎麻須久爾能《スメロキノシキマスクニノ》などあるは、三(ノ)卷に、太皇之敷座國《オホキミノシキマスクニ》、荒木田(ノ)久老が、是を天皇の誤にて須賣呂伎《スメロキ》とよむべきなりといへるは、中々に甚《イト》偏《カタオチ》なり、)十九に、大王之敷座國者《オホキミノシキマスクニハ》、又|吾大皇之伎座婆可母《ワガオホキミシキマセバカモ》などあると同じさまながら、須賣呂伎《スメロキ》と申せるは、皇祖より御代御代の天皇の兼て食敷《シク》よしなり、又十五に、須賣呂伎能等保能朝廷等《スメロキノトホノミカドト》、廿(ノ)卷に、天皇乃等保能朝廷《スメロキノトホノミカド》などある、是等も皇祖より御代御代天皇の遠(ノ)朝廷と申せるにて意同じ、但(シ)五(ノ)卷に、大王能等保乃朝廷等《オホキミノトホノミカドト》、十七に、大王能等保能美可度曾《オホキミノトホノミカドソ》、十五に、於保伎美能等保能美可度登《オホキミノトホノミカドト》、十八に、於保伎見能等保能美可等等《オホキミノトホノミカドト》、三(ノ)卷に、大王之遠乃朝庭跡《オホキミノトホノミカドト》などあれば、意富伎美《オホキミ》も須賣呂伎《スメロキ》も、同じ事ぞと思ふ人もあるべけれど、しからず、されど是はオホキミ〔四字右○〕といひて(當今天皇御一代を申て)も、スメロキ〔四字右○〕といひて(皇祖よりの御代を兼て申して)も通《キコ》ゆれば、如此《カク》かれにもこれにもいへりけむ、かゝれば、天皇と書るをば、何處にてもスメロキ〔四字右○〕と訓申(シ)て、オホキミ〔四字右○〕とは訓まじく、且《マヤ》天皇《スメロキ》と申すと、大君《オホキミ》と申すとは、その差別《ケヂメ》明なること、上(ノ)件に云るなるを、たま/\集中に、必(ス)大君《オホギミ》と申すべき處を、天皇と書る處のある、其は天皇は決《ウツナ》く大皇の誤寫なるよし、なほ下遷2于寧樂(ノ)宮(ニ)1時の長歌に、天皇乃|御命畏美《ミコトカシコミ》とあるにつきていふべく、さて又|神漏岐神漏美《カムロギカムロミ》と申すより須賣呂伎《スメロキ》と申と、意富伎美《オホキミ》と申すとを、集中にわたりて、意得おくべき事のよしなど、合て首(ノ)卷に委(ク)(179)諭(ヘ)り、○神之御言《カミノミコト》は、神とは即(チ)天皇なり、御言は借(リ)字、尊《ミコト》にて尊稱なり、○大宮《オホミヤ》は、大《オホ》とは尊稱なり、宮《ミヤ》は、御屋《ミヤ》の義なり、○此間等雖聞《コヽトキケドモ》は、此間《コヽ》とは大津をさせるなり、雖聞《キケドモ》とは、大和にて、はるかに大津にありと聞たれどもといふなり○大殿《オホトノ》は、大《オホ》とはこれも尊稱なり、殿《トノ》は和名抄(ニ)云、唐令(ニ)云、殿(ハ)宮殿(ノ)名、和名|止乃《トノ》とあり、(按(フ)に、等能《トノ》は多那《タナ》と音通ふ、多那《タナ》とは、宮殿は常の家宅などとは異にして、その造法《タテザマ》棚閣《タナ》の如(ク)に高顯《タカ/”\》とつくりたつれば、しかいふなるべし、則|棚《タナ》といふ名も、板をたかだかと横(ヘ)てつくれる故にいふなるべし、さて等能《トノ》と多那《タナ》と通はせる例は、多那具毛利《タナグモリ》を等能具毛利《トノグモリ》ともいへる是なり、又廿(ノ)卷に、多奈妣久《タナビク》とあるを、元暦本には等能妣久《トノビク》と作り、)上に宮といひ、こゝに殿と云るはいひかへたるなり、かく同じやうの事を、二句いひかへてよめること古歌に多し、此は事を懇(ロ)にいはむとする時のわざなり、別て云ときは、※[手偏+總の旁]て禁裏を大宮と稱《マヲ》し、其中にある諸殿を大殿といふべけれど、それまではなくて、只いひかへたるのみなるべし、こゝもその宮殿のなき事はあらじと、懇(ロ)にもとむる心をおもはせたるなり、○此間等雖云《コヽトイヘドモ》、此間《コヽ》は上に云るが如し、雖云《イヘドモ》とは、大津に來て土人《トコロノヒト》のこゝなりと、いひをしふれどもと、いふ意なり、雖聞《キケドモ》雖云《イヘドモ》は、いひかへたるのみにはあらず、○霞立《カスミタツ》云々の四句、舊本に、春草之茂生有霞立春日之霧流とあれど、上に雖聞雖云とあるに引合ず、今は或云、霞立春日香霧洗夏草香繁成奴留、と注せるかたよろしければ用つ、○春日香霧流《ハルヒカキレル》は、春日の霧合《キラヒ》覆(ヒ)て、(180)明に見せぬかといふなり、霧流《キレル》は薫有《キレル》にて氣の立|薫《カヲ》れるを云、集中に、天霧合《アマギラフ》、水霧合《ミナギラフ》、またただ霧相《キラフ》ともいへり、即(チ)霧《キリ》と云も其(ノ)意の名そ、さてキリ〔二字右○〕はカヲリ〔三字右○〕なるべし、(カヲ〔二字右○〕の切コ〔右○〕なるを、キ〔右○〕に通はし云るなるべし、木を伐をコル〔二字右○〕ともキル〔二字右○〕ともいへるにて、コ〔右○〕とキ〔右○〕と親《チカ》く通ふを知べし、古事記傳に、佐閇岐流《サヘキル》の岐波《キル》は限《カギ》るにて、塞隔《セキヘダツ》るを云、霧《キリ》なども其(ノ)意の名なりと云れどいかゞ、又谷川氏が霧はいきるの義なりと云るはあらず、)神代紀に、有朝霧而薫滿之哉《アサギリノミカヲリミテルカモ》、とあるをも思ふべし、○繁成奴留《シゲクナリヌル》、以上八句の意は、さしも世に名高き此宮所はしも、はるかにこゝぞと聞たれども、正しくこゝぞと云ども、春霞の立かをりて見せぬか、夏草の生しげりて隠せるか、大宮殿のありしさまにもあらぬはと疑ふなり、春霞と夏草とをしも、とり合(セ)て云るは、春霞も、夏草も、物(ノ)形をよく覆ひ隠すものなれば云るなり、(しかるを或人、舊本に、春草之云々とあるかたを用ひて、さて春草之の之(ノ)字は略解に、歟の誤なるべしといへるによるべし、或本の霞立云々は、春日と夏草と、時節のたがへること、いと/\あるまじければ、とるべからずと云れど、こは此(ノ)宮の見えぬを、いかなることぞと思ひあやしみて、春霞の立ふさがりて見せぬか、夏草の生しげりて隠せるかと、をさなくいへるなれば、時節をも違へていへるこそ、誠に歎慨《ナゲキ》の餘に惑情《コヽロマドヒ》せるさまあらはれて、中々にあはれにかなしけれ、後ながら土佐日記に、春の海に、秋の木の葉しもちるらむやうに云々とある、これは春なるに秋の物(181)もてたとへたる、似たることなり、但しかれは物のたとへにいへるのみなるに、今の歌は現にさしあてゝ、霞立云々夏草香云々といへること、まことに後人のまねばるまじき詞つきなりかし、又本居氏(ノ)説に、春草之の之を助辭として、ハルクサシシゲクオヒタリ〔ハル〜右○〕と訓て、此(ノ)二句は、宮の荒たる事を歎き、次に霞立云々は、たゞ見たるけしきのみにて、荒たる意を云にあらず、ハルヒノキレルモモシキノ〔ハル〜右○〕、とつゞけて心得べしといはれしかど、さては此(ノ)大宮の荒たることをもしらぬさまに、をさなくよみなしたるにかなはねば、これもよろしからず、〉○百磯城之《モヽシキノ》は、大宮の枕辭なり、古事記雄略天皇(ノ)大御歌に、毛々志紀能淤富美夜比登波《モヽシキノオホミヤヒトハ》云々、とあるをはじめて、集中にはかた/”\多し、まづ百《モヽ》とは、古事記應神天皇(ノ)大御歌に、毛々知陀流夜邇波母美由《モヽチダルヤニハモミユ》、また雄略天皇(ノ)條(ノ)歌に、毛々陀流都紀賀延波《モヽダルツキガエハ》と見え、其(ノ)餘古言に、百船《モヽフネ》百鳥《モヽトリ》百木《モヽギ》百草《モヽクサ》など多くいふ類の百なり、磯城《シキ》とは、まづ書紀神武天皇(ノ)卷に、磯城《シキノ》邑と見えて、集中に百磯城と書たるその字(ノ)意なり、崇神天皇(ノ)卷に、以2天照大神1、託(テ)2豐鋤入姫命(ニ)1、祭(リタマヒキ)2倭(ノ)笠縫(ノ)邑(ニ)1、仍立2磯堅城《シキノ》神籬(ヲ)1、云々と見えたるをも思(ヒ)合すべし、されば百《モヽ》と多くの磯石《イシ》もて、堅く造れる城の大宮といふことなり、さて古事記應神天皇(ノ)條に、百師木伊呂辨《モヽシキイロベ》といふ人(ノ)名の見えたるも、百師木《モヽシキ》は百磯城《モヽシキ》の由もて負る名なるべし、冠辭考に、五百津磐城《イホツイハキ》といふべきを百磯城と約め云て冠辭とせしものなり、といへるは甚まぎらはし、上に云ることく、百某と云ること、古言に(182)いと多くあれば、五百津を約めたる言とはいふべからず、又磯城てふ言も磐城《イハキ》の約とは、さら/\いふべきことにあらぬをや)○見者悲毛《ミレバカナシモ》、舊本に、或云見者左夫思母、(思(ノ)字、類聚抄に之、母(ノ)字、道晃親王(ノ)御本に毛と作り、)と注せり、こはいづれにてもあるべし、加奈思《カナシ》てふ言は、(後(ノ)世はたゞ悲哀の字(ノ)意とのみ心得たれど古(ヘ)はしからず、)悲哀《カナシ》む事にも、愛憐《ウツクシ》む事にも、戀慕《シタ》ふ事にもいひて、ふかく心におかるゝをいふ言なり、さればこゝも、大宮處の荒たるを、ふかく哀憐《アハレ》み歎きたるなり、毛《モ》はかゝる處に用ひたるは、皆歎息の詞なり、嗚呼《アヽ》さてもかなしき事にてある哉といふ意なり、○歌(ノ)意は、神武天皇より以來御世御世、大和(ノ)國にのみ天(ノ)下しろしめしたれば、その古き御あとに、したがはせ給ふべきことなるを、いかやうにおぼしめしたればにか、ひなといふばかりの國にはあらねど、近江に遷都したまひけむ、凡慮のはかり知(リ)奉るべきにあらず、さてその大宮處のあとをだに見むとて來しかども、そのあと處の見えぬは、春霞の立覆ひて見せぬか、夏草の生しげりて隱せるか、いとも/\口をしき事ぞと、大宮處のいたく荒たるを見て、さはあるまじきをと、霞や草のわざにおほせてよみたるなり、
 
反歌《カヘシウタ》
 
30 樂浪之《サヽナミノ》。思賀乃辛崎《シガノカラサキ》。雖幸有《サキクアレド》。大大宮人之《オホミヤヒトノ》。船麻知兼津《フネマチカネツ》。
 
樂浪之《サヽナミノ》は、長歌にくはしくいへり、○思賀乃辛崎《シガノカラサキ》(崎(ノ)字、古寫本に碕と作り、)は、志賀(ノ)郡にある地(ノ)(183)名なり、○雖幸有《サキクアレド》、(拾穗本に、幸有を有幸とあるはわろし、)幸は、書紀に無恙平安など書てサキク〔三字右○〕とよめり、幸(ノ)字も心同じ、辛崎といふをうけて幸《サキク》と、つゞけたり、こゝは辛崎はさきくて、その御代のまゝにてあれどもといふなり、かの御世に宮人の舟遊つねにせし所なればいふなるべし、○大宮人之《オホミヤヒトノ》、これは大津(ノ)宮の宮人をいふ、比《ヒ》の言清て唱(フ)べし、(清濁考に委し、)○船麻知兼津《フネマチカネツ》は、船は大宮人の舟遊する船をいふ、麻知桑津《マチカネツ》とは、まてども/\待得ざるをいふ、兼《カネ》は集中に多く不得とかけり、しかあらむと心に欲《ネガ》ふことの、つひにその本意を得ざるをいふ、津《ツ》は上の軍(ノ)王の反歌にいへり、さてこゝは宮人の舟つねによせし處なれば、今もまつにこりずして、心の外に待不(ル)v得を云るなり、さて大宮の今もあるさまになしてよめるなり、○歌(ノ)意は、思賀の辛崎は、かくありし世のまゝに平安《サキ》くして、大宮人の船の泊るを待らむに、心の外に不《ザル》v得《エ》v待《マチ》は、いかにから崎の心さぶしからむと、から崎をふかくあはれみたるなり、情なきものを、情わるさまになしてよむこと多し、歌の心にはぢおもへどゝ云も其(ノ)意なり、九卷に、白埼者幸在待大船爾眞梶繁貫又將顧《シラサキハサキクアリマテオホフネニマカヂシヾヌキマタカヘリミム》、十三に、樂浪乃志我能韓埼幸有者又反見《サヽナミノシガノカラサキサキクアラバマタカヘリミム》云々などあり、
 
31 左散難彌乃《サヽナミノ》。志我能大和太《シガノオホワダ》。與杼六友《ヨドムトモ》昔人二《ムカシノヒトニ》。亦母相目八毛《マタモアハメヤモ》。
 
志我能大和太《シガノオホワダ》、(舊本に、一(ニ)云比良乃とあり、こはいづれにてもあるべし、)大は、その大(キク)廣きを稱(フ)(184)なるべし、六(ノ)卷に、濱清浦愛見神代自千船湊大和太乃濱《ハマキヨミウラウツクシミカミヨヨリチフネノハツルオホワダノハマ》、又|和太《ワダ》とのみ云るは、書紀神武天皇(ノ)卷に、釣2魚《ツリス》於|曲浦《ワダノウラニ》1、此(ノ)集三(ノ)卷に、吾行者久者不有夢乃和太湍者不成而淵有毛《アガユキハヒサニハアラジイメノワダセトハナラズテフチニアリコソ》、七(ノ)卷に、夢乃和太事西在來寤毛見而來物乎念四念者《イメノワタコトニシアリケリウツヽニモミテコシモノヲオモヒシモヘバ》、(これを懷風藻には、夢淵とかけり、)和太《ワダ》とは、わだかまり曲《マガ》るよしの名なるべし、(曲(ノ)字をよめるも即(チ)その意なるべし、七わだにまがれる玉などいふを思へば、もと曲れるをいふ稱なり、蛇などの蟠《ワダガマル》といふわだも此(ノ)意なり、さて和太《ワダ》と淀《ヨド》とはもと別なれど、しか水岸の曲れる處は、必(ス)水の淀むより、畢竟は淀も和太もひとつなるべし、千載集六(ノ)卷に、泉川水の美和太《ミワダ》のふしつけに岩間の氷る冬は來にけり、西行法師山家集に河和太《カハワダ》の淀みに留る流木の浮橋渡す五月雨の頃、などある和太も同じ、しかるに度會(ノ)弘訓と云人の説に、此(ノ)歌さはあるまじき事を、たとへにとり出ていへるにて、此(ノ)志賀の大和太は、淀むべき理はなき事なるに、其はたま/\淀む事ありとも、我(レ)昔の人に亦あふことはあらじといへるなり、鳥の子を十づゝ十はかさぬとも、など云ると同類なりと其(ノ)隨筆にしるせり、此(ノ)説すてがたきところあり、さはあるまじき事の、たとひさはありともと云こと古(ヘ)人の常にて、にほ鳥の息長川は絶ぬとも、など云類にて例皆然り、されば或説に、和太は、海を和太といふに同じく、渡の義なるべし、されば大和太は大渡なるべし、大和田といふ處、三代格にも見え、又山城(ノ)淀に大渡などもいふぞかし、曲《ワタノ》浦も、もとおのづからわたるに宜しきよりの(185)名にもやあるらむ、いづれにもあれ、この大和太の水は淀む世なく、勢多の方へ流るゝが故に、たとひ此(ノ)水のよどむ世はありともと、もとよりあるまじき事を設ていふなりといへり、此説さることながら、海をいふ和多は、多の言いづくも清音の字を用(ヒ)、曲浦をいふ和太は、太の言いづぐも濁音の字を用たるにて、もとより清濁の差別あれば、同言ならぬを知べし、さればなほ和太は、曲りて水の淀む處をいふ名なること、知(ラ)れたり、此等の説は皆|亦母相目八方《マタモアハメヤモ》と云を、作者の得あはじといふ意に、見たるよりの説なり、今次上の歌を合(セ)思ふに、これも思賀の大和太が、みづから昔の人に得あはぬよしに、よみなしたり、なほ次にいふを併(セ)考(フ)べし)○與杼六友《ヨドムトモ》は、雖《トモ》v淀《ヨドム》なり、思賀《シガ》の大和太《オホワダ》のありし世のまゝにて、淀むともと云なり、かくいふ故は、この大和太は曲り入たるところなれば、釣魚《ツリ》の遊などするには、風波の難をも避て、ことに便(リ)宜しき處なれば、昔(シ)大津(ノ)宮のありし世には、常に宮人の此處に舟を泊て、遊びし處と知(ラ)れたり、しかるに今は舊都となりて、昔(シ)盛なりし世の如くに、舟遊する人もたえてなければ、ありし世のまゝにかはらず、淀みてあれども、その詮なきをいへるなり、釣2魚於曲浦(ニ)1とあるにて、和太は釣魚のあそびどころに宜しき事思ふべし、○昔人二《ムカシノヒトニ》、此は大津(ノ)宮の時の人をさして云、かく大かたに昔の人といへること、詞のみやびなりと知べし○亦母相目八方《マタモアハメヤモ》、舊本に、一(ニ)云將會跡母戸八と注せり、こは本書のかたしらべまされり、目《メ》は牟《ム》のかよへるな(186)り、八《ヤ》は後(ノ)世の也波《ヤハ》と心得てあるべし、相むやは相(ハ)じといふ意なり、方《モ》は歎息を含める助辭なり、さて相は作者のあふにはあらで、思賀の大和太の、昔の人に又あはむやは、得あはじといへるなり、次上の歌に思賀乃乃辛崎雖幸有《シガノカラサキサキクアレド》云々といへるも、辛崎のありし世のまゝにさきくありて、大宮人の舟を待ども待得ぬよしにいへるも、辛崎を主とたてゝよめれば、今も一意にて、大和太のみづからのうへになして心得べし、○歌(ノ)意は、思賀の大和太の、ありし世のまゝに淀みてありとも、今は荒都となりぬれば、大宮人の舟遊(ヒ)すべきよしもなければ、昔(シ)の人に又も得あふべからねば、昔(シ)盛なりし世のまゝに淀みてあらむも、その詮なき事なるに、もしたほ昔(シ)の人にあふ事もあらむかとて、待つゝあるらむ心の、いかにさぶしかるらむと、大和太をふかくあはれみたるなり、
 
高市連黒人《タケチノムラジクロヒトガ》。感2傷《カナシミ》近江舊堵《アフミノミヤコノアレタルヲ》1作歌《ヨメルウタ》。
 
高市(ノ)連黒人(舊本に、高市古人とあり、さて其(ノ)下に、或書云、高市連黒人とあるによりて改(メ)つ、古人とあるは誤なり、こは歌の初句をよみあやまりて、後人のさかしらせしなるべし、)は、傳しられず、○舊堵(堵(ノ)字、拾穗本には都と作り、)は、三(ノ)卷に、難波(ノ)堵と書り、玉篇(ニ)云、堵(ハ)垣也、五版(ヲ)爲v堵(ト)とあり、(こゝは都(ノ)字と通(ハ)し用たるなるべし、)六(ノ)卷に、天皇遊2?高圓野(ニ)1之時、小獣泄走2堵里之中(ニ)1云々、十六に、新田部(ノ)親王、出2遊于堵裡(ニ)1、御2見勝間田之池(ヲ)1、三(ノ)卷にも、高市(ノ)連黒人近江(ノ)舊都(ノ)歌載た(187)り、
 
32 古《イニシヘノ》。人爾和禮有哉《ヒトニワレアレヤ》。樂浪乃《サヽナミノ》。故京乎《フルキミヤコヲ》。見者悲寸《ミレバカナシキ》。
 
古人爾和禮有哉《イニシヘノヒトニワレアレヤ》は、我(レ)は古(ヘ)の人にてあればにやの意なり、古(ヘノ)人とは大津(ノ)宮の予の人をいふなり、有哉《アレヤ》は安禮婆也《アレバヤ》の意なるを、婆《バ》をいはざるは古言のつねなり、哉《ヤ》は疑の也《ヤ》なり、○樂浪乃《サヽナミノ》上にいへり、○見者悲寸《ミレバカナシキ》、かくとぢめたるは、上の疑の也の結(ヒ)なり、○歌(ノ)意は、大津(ノ)宮の世の人にてあらば、みやこの荒たるが悲しかるべき理なり、されば我は、その京都の全盛《サカリ》なりし時にあへる、古(ヘノ)人にてあればにや、舊都を見(レ)ばかくまで悲傷《カナシキ》と云るにて、さて打かへして思ひみれば、われはその世の人にもあらぬに、かくまでいたくかなしきは、心得がたき事ぞと、みづから我(カ)心をあやしみたるに、ふかく此(ノ)荒都をかなしめる意あらはれたり、
 
33 樂浪乃《サヽナミノ》。國都美神乃《クニツミカミノ》、浦佐備而《ウラサビテ》。荒有京《アレタルミヤコ》。見者悲毛《ミレバカナシモ》。
 
樂浪乃國《サヽナミノクニ》といへるは、いはゆる吉野の國、泊瀬の國など云るにおなじ、○國都美神《クニツミカミ》は天(ツ)神にむかへて、地祇を久邇都神《クニツカミ》といふとはいさゝか異にて、こゝは樂浪の地をうしはきます御神なり、(國は、其(ノ)國(ノ)人を某國(ノ)人、其國(ノ)物を某(ノ)國津物といふ國に同じ、)美《ミ》は御《ミ》にて、たゝへまつりて、申せるなり、その土地をうしはきますをかく云は、十七に、美知乃奈加久邇都美可未波多妣由伎母之思良奴伎美乎米具美多麻波奈《ミチノナカクニツミカミハタビユキモシヽラヌキミヲメグミタマハナ》、ともあるに同じ、神名帳に、伊勢(ノ)國度會(ノ)郡度會(ノ)國(ツ)(188)御神(ノ)社、(等由氣(ノ)宮儀式帳にも、度會之國都御神(ノ)社と見えたり、)これも度會の地をうしはきますより呼るなるべし、○浦佐備《ウラサビ》は、浦は借(リ)字にて心《ウラ》なり、表《ウヘ》の反にて人目に見えず、心(ノ)裏にて物するを云、心を宇良《ウラ》といふは、宇良呉悲志《ウラゴヒシ》、宇良我奈志《ウラガナシ》、宇良毛登那志《ウラモトナシ》などの宇良《ウラ》と同じ、佐備《サビ》は、勝佐備《カチサビ》、宇麻人佐備《ウマヒトサビ》、壯夫佐備《ヲトコサビ》、壯女佐備《ヲトメサビ》、神佐備《カムサビ》、山佐備《ヤマサビ》、翁佐備《オキナサビ》などの佐備《サビ》に同じく、そのもとは然儀《シカブリ》の約れる言なるが、(たとへば翁佐備は、翁|然儀《シカブリ》の謂にて、翁とありて然《サ》る客儀《フルマヒ》をする意なり、備《ビ》は儀《ブリ》にて、俗にめくと云に意同じ、後撰集題詞に、事あり貌ならず何となき容《サマ》したるを、ことなしびと云るも、事無(シ)めくといふ意なり、)轉りては、たゝ荒ぶることにいふことゝなれり、こゝの佐備《サビ》も荒ぶるよしなり、(或説に、佐夫《サブ》といふは、銅鐵などのさびといふが如く、内なる物の、おのづから外にうかびいづるを云(フ)、さればこゝは國津御神の御心のうちにおぼす事の、おのづから、外にうかび出たるよしを云なりと云り、此(ノ)説さることながら、末によりて本を解むとするから、猶佐備の言の本義にあらざるなり、)此(ノ)卷の末に浦佐夫流情佐麻禰之《ウラサブルコヽロサマネシ》、二(ノ)卷に晝羽裳浦不樂晩之《ヒルハモウラサビクラシ》、四(ノ)卷に、旦夕爾佐備乍將居《アシタユフベニサビツヽヲラム》などの佐備《サビ》に同じ、こゝは樂浪の地を、うしはきます御神の、心の荒備によりて、遂に世の亂もおこりて、全盛なりし京都の荒たるよしなり、○荒有京《アレタルミヤコ》は、荒てある京なり、多流《タル》は、?安流《テアル》のつゞまれるなり、○悲毛《カナシモ》(毛(ノ)字、拾穗本に寸と作り、カナシキ〔四字右○〕にてはこゝはいかゞなり、必(ス)毛なるべし、)毛《モ》は歎息の詞なり、(189)上にいへり、○歌(ノ)意は、この大津に都し給ひしが、國津御神の御心にかなはずして、あらびます御心つひにやはしがたくて、此(ノ)都のあれたるが、すべなくかなしきことかなと、深く歎きたるなり、(千載集十六に、さゞ波や國津御神のうらさびてふるき都に月ひとりすむ、鶴岡(カ)放生會職人歌合に、とる棹の歌の聲まで浦さびて月のしほせに出る船人、
 
幸《イデマセル》2于|紀伊國《キノクニヽ》1時《トキ》。川島皇子御作歌《カハシマノミコノヨミマセルウタ》。【或云。山上巨憶良作。】
 
幸2于紀伊(ノ)國(ニ)1は、書紀に、持統天皇朱鳥五年九月乙亥朔丁亥、天皇幸2紀伊(ニ)1、戊戌、天皇至(リマス)v自2紀伊1とあり、○川島(ノ)皇子は、天智天皇の皇子なり、書紀天智天皇(ノ)卷に、七年云々、又有2宮女《メシヲミナ》1、生2男女者四人(ヲ)1、有2忍海(ノ)造|小龍《ヲツガ》女1、曰2色夫古《シコブコノ》娘(ト)1、生2一男二女(ヲ)1、其一(ヲ)曰2大江(ノ)皇女(ト)1、其二(ヲ)曰2川島(ノ)皇子(ト)1、其三(ヲ)曰2泉(ノ)皇女(ト)1、天武天皇(ノ)卷に、十四年春正月丁末朔丁卯、是(ノ)日川島(ノ)皇子、忍壁(ノ)皇子(ニ)、授2淨大參(ノ)位(ヲ)1、持統天皇(ノ)卷に、五年春正月癸酉朔乙酉、増2封(ヲ)淨大參川島1百戸、通(ハシテ)v前(ニ)五百戸、九月己巳朔丁丑、淨大參皇子川島薨(タマフ)、懷風藻に、川島(ノ)皇子一首、皇子者淡海(ノ)帝之第二子也、云々、位終2于淨大參(ニ)1、時年三十五など見えたり、泊瀬部(ノ)皇女を御妃と爲賜ひ、又高市(ノ)郡越智に葬り奉れる趣など二(ノ)卷(ノ)歌に見えたり、猶彼處にいふべし、
 
34 白浪乃《シラナミノ》。濱松之妓乃《ハママツガエノ》。手向草《タムケグサ》。幾代左右二賀《イクヨマデニカ》。年乃經去良武《トシノヘヌラム》。
 
白浪乃濱《シラナミノハマ》とつゞけたる意は、古事記傳に詳し、今按(フ)に、集中に、白菅之眞野《シラスゲノマヌ》とよめるも、白管《シラスゲ》の(190)生(フ)る眞野といふ意、又|炎乃春《カギロヒノハル》と作《ヨメ》るも、炎(ヒ)の燎《モユ》る春といふ意にて、皆同格なり、(略解に、白浪のよする濱といふべきを、言を略きてつゞけしものなりと云るは、同じやうの事ながら、いささかたがへり、これらは打まかせて、略言といふべきものにはあらず、)猶これらのこと下にくはしくいへり、又一(ツ)おもふに、白浪之《シラナミノ》は濱《ハマ》の枕辭にて、白浪の穗《ホ》といふ意にいひかけたるなるべし、倭姫世記にも、伊勢(ノ)國の事を敷浪七保國之吉國《シキナミナヽホクニノエクニ》とあるも、敷浪之穗《シキナミノホ》とかゝれる枕詞なるを併(セ)考べし、さて保《ホ》と波《ハ》とは親く通ふ語にて、波布理《ハフリ》を、出雲(ノ)國風土記に穗振《ホフリ》といひ、又古語に、波妣許里《ハビコリ》を、保妣許理《ホビコリ》と云(ヒ)、波太禮《ハダレ》を、保杼呂《ホドロ》と云(フ)など皆其(ノ)例なれば、こゝも浪《ナミ》の穗《ホ》といふ意に、濱の波《ハ》の言へ云かけたるをしるべし、かく語を轉していひかけたる例は、十二に、機上生小松名惜《イソノヘニオフルコマツノナヲヲシミ》とあるも、小松の根《ネ》と云を轉して、名といひかけたるなどなり、さて浪の穗《ホ》といふは、十四に、奈美乃保能伊多夫良思毛與《ナミノホノイタブラシモヨ》云々とある、彼處にくはしく云べし、(濱成式に、此(ノ)御歌の初句を、旨羅那美能《シラナミノ》と書たれば、岡部氏(ノ)考に、白浪の浪(ノ)字は、良か神かの誤にて、シララ〔三字右○〕か、またはシラカミ〔四字右○〕ならむと云るは、いみしき謾言なる事をおもひわきまふべし、)○濱松之枝乃《ハママツガエノ》(枝(ノ)字、略解に、古本に本と作とあり、千賀(ノ)眞恒校本に、古本根とあり、いかゞ)は、濱に生たる松の枝之なり、(岡部氏(ノ)考に、此(ノ)歌九(ノ)卷に、松之木と有て、古本には松之本とあり、これはまつがねとよむべし、こゝの松之枝は、根(ノ)字を誤れるなるべしとあれど、こは濱成式に、波麻々都我(191)延能《ハマヽツガエノ》と假字書にしたれば、松之枝なることは、うごくべからぎるをや)○手向草《タムケグサ》は、仙覺注に、たむけぐさとは、神にたてまつれるものなり、神に奉るものを松にかけおきたれば、濱松がえのたむけ草とよめるなりと云、この義常の事なり、あしからず、常陸風土記に、香島(ノ)郡の舊聞異事を注すところに、海上(ノ)安是之《アゼノ》孃子(ガ)歌(ニ)曰、伊夜是留乃阿是乃古麻都爾由布悉弖々和乎布利彌由母阿是古志麻波母《イヤゼルノアゼノコマツニユフシデヽワヲフリミユモアゼコシマハモ》云々、是は濱松が枝のたむけ草、などよめらむためし事と聞えたり、云々と云り、是(レ)によるべし、草は(借字にて)種なり、何にてもあれ手向の具をいふ、十三にあふ坂山に手向草ぬさとりおきてと有に同し、と岡部氏の云るが如し、(源(ノ)貞世が道ゆきぶりに、明石の浦は緑の松の年ふかくて、濱になびき馴たる枝に手向草打しげりつゝ、村々並立てとかけり、これは今の御歌の手向草を、女蘿《ヒカゲ》なりといふ舊説のあるによれるものなり、されどこの手向草は女蘿にはあらじ、)手向とは旅にゆく人の、山上にて神を祭りて、平安《サキカ》らむことをいのるに多くはいへり、されど然《サ》るところにもかぎるべからず、さて手向といふ言(ノ)意は、大神景井が、取向の切(マ)りたる詞なり、と云るぞよく叶へる、(取《トリ》はチ〔右○〕と切るを、タ〔右○〕に通はしたり、)集中に、幣取向《ヌサトリムケ》と多くいへるをも考(ヘ)合(ス)べし、○幾代左右二賀《イクヨマデニカ》云々は、濱松の枝にかゝれるその手向種《タムケグサ》は、今は幾代までにかなりぬらむとなり、賀は疑の加《カ》なり、清て唱(フ)べし、(賀(ノ)字をかけるは正しからず、)或説に、此(ノ)卷の上に、齊明天皇紀(ノ)温泉の幸あり、又中皇命紀温泉にお(192)はしての御歌あり、齊明天皇は、この川島(ノ)皇子の御祖母にまし/\、中皇女は御伯母なり、されば齊明天皇中皇女などの、紀(ノ)國におはしゝついで、此(ノ)濱松のあたりにて、たむけせさせ給ひし事を、よませ給へるにこそといへり、此(ノ)説しかるべし、さてそのかみたむけ給ひし具の、なほ存《アル》がごとく見そなはして、そのものは幾代を經ぬらむとよませ給へるなり、(岡部氏(ノ)考に、そのかみ幸有し時、こゝの濱松のもとにて、手向せさせ給ひし事を、傳へ云を聞給ひて、松は猶在たてるを、ありし手向種の事は、幾代經ぬらむとよみ給へるなりとあるはいかが、但しそのかみ手向給ひし具の、なほそのまゝに遺りて存《アラ》むことはあるまじけれど、なほこの御歌は、直に手向種を見そなはして、その手向種は、幾代經ぬらむとよみ給へる御詞つきなれば、手向種の事は幾代經ぬらむと解《イハ》むは、いとをこなることならずや、)○年乃經去良武《トシノヘヌラム》舊本に、一(ニ)云年者經爾計武と注せり、こはいづれにてもあるべし、○御歌(ノ)意は、この濱松の枝にかゝれる手向種は、今はいくよといふばかりまでにか年の經ぬらむと、その手向種にことよせ給ひて、古(ヘ)を懷ふ御意を述給へるなり、此(ノ)御歌濱成式には、旨羅那美能波麻々都我延能他牟氣倶佐伊倶與麻弖爾可等旨能倍爾計武《シラナミノハマヽツガエノタムケグサイクヨマデニカトシノヘニケム》とあり、又此(ノ)集九(ノ)卷に重出《フタヽビイデ》たるには、白那彌之濱松之木乃手酬草幾世左右二箇年薄經濫《シラナミノハママツノキノタムケグサイクヨマデニカトシハヘヌラム》とあり、(新古今集に、逢事を今日松が枝の手向草いく夜しをるゝ袖とかは知とあるは、もはらこの御歌によれるなり、
(193)〔日本紀(ニ)曰。朱鳥四年庚寅秋九月。 天皇幸(ス)2紀伊國(ニ)1也。〕
書紀に、持統天皇四年秋九月乙亥朔丁亥、天皇幸2紀伊1とあり、則朱鳥五年なり、こゝは誤れるなるべし、○也(ノ)字、拾穗本にはなし、
 
越《コエタマフ》2勢能山《セノヤマヲ》1時《トキ》、阿閉皇女御作歌《アベノヒメミコノミヨミマセルミウタ》。
 
越2勢能山(ヲ)1云々、右と同じ度なるべし、勢能山は紀伊(ノ)國那賀(ノ)郡にあり、集中に彼此《コレカレ》見ゆ、書紀に、孝徳天皇二年、詔曰、凡|畿内《ウチツクニハ》東(ハ)自2名墾(ノ)横河1以來、南(ハ)自2紀伊(ノ)兄(ノ)山1以來、(兄此云v制《セト》、)西(ハ)自2赤石(ノ)櫛淵1以來、北(ハ)自2近江(ノ)狹々波(ノ)合坂山1以來、爲2畿内國(ト)1あり、○阿閇(ノ)皇女は、天智天皇(ノ)紀に、七年二月丙辰朔戊寅云々、遂納(レタマフ)2四(ノ)嬪1、有2蘇我(ノ)山田(ノ)石川麿(ノ)大臣(ノ)女1、曰2遠智(ノ)娘(ト)1、云々、次(ニ)有2遠智(ノ)娘(ノ)弟1、曰2姪(ノ)娘(ト)1、生3御名部(ノ)皇女(ト)與(ヲ)2阿倍皇女1、續紀に、日本根子天津御代豐國成姫(ノ)天皇、(元明天皇、)小名阿閇(ノ)皇女、天命《天智》開別(ノ)天皇之第四皇女也、母(ヲ)曰2宗我(ノ)嬪(ト)1、蘇我(ノ)山田(ノ)石川麻呂(ノ)大臣之女也、適2日並知(ノ)皇子(ノ)尊1、生(ス)2天之眞宗豐祖父(ノ)天皇(ヲ)1、(文武天皇、)慶雲四年六月、豐祖父(ノ)天皇崩(リマシキ)秋七月|壬子《元明》、天皇即2位《アマツヒツキシロシメス》於大極殿(ニ)1、云々とあり、(宗我(ノ)嬪は姪(ノ)娘の更名なるべし、)即位し後の御傳は、一(ノ)下に委(ク)云べし、
 
35 此也是《コレヤコノ》。倭爾四手者《ヤマトニシテハ》。我戀流《ワガコフル》。木路爾有云《キヂニアリチフ》。名二負勢能山《ナニオフセノヤマ》。
 
此也是《コレヤコノ》は、本居氏、此也是の是は、かのといふ意なり、すべてかのといふべき事を、このと云る例多し、さて上の此《コレ》は、今現に見る物をさしていふ、かのとは、常に聞居る事、或は世に云習へ(194)る事などをさして云、これや、かの云々ならむといふ意なりと云り、此(ノ)説のごとし、但し彼《カノ》此《コノ》は、もとより差別《ケヂメ》あることなれば、たゞに通(ハ)し云べきにあらざれば、こゝもかの彼方此方《ヲチコチ》と云意の處を許知碁知《コチゴチ》と云る例の如く、彼《カノ》と云べき意なるを、其を内にして此《コノ》と云るなり、行《ユク》と云意なる處を來《ク》といひ、然《シカ》と云意なる處を如此《カク》と云へるなど、みな同じ例なり、さて也《ヤ》は疑の辭なれば、この也《ヤ》の辭は、一首の終までかけて心得べし、此也是《コレヤコノ》は、此(レ)が彼(ノ)云々の某歟《ソレカ》といふ意、此曾是《コレソコノ》は、此(レ)が彼(ノ)云々の某曾《ソレソ》といふ意に見べし、十五に、巨禮也己能名爾於布奈流門能宇頭之保爾多麻毛可流登布安麻乎等女杼毛《コレヤコノナニオフナルトノウヅシホニタマモカルトフアマヲトメドモ》、續後紀十九長歌に、皇之民浦島子加天女釣良禮來弖紫雲棚引弖片時爾將弖飛往天是曾此乃常世之國度語良比弖七日經志加良《キミノタミウラシマノコガアマツメニツラレキタリテムラサキクモタナビケテトキノマニヰテトビユキテコレソユノトコヨノクニトカタラヒテナヌカヘシカラ》云々、後撰集に是や、此(ノ)往も還るも別(レ)乍知も知ぬも相坂の關、夫木集に、是や此(ノ)音にきゝつる雲珠櫻鞍馬の山にさけるなるべしなどあり、○倭爾四手者《ヤマトニシテハ》は、俗に大和ではといふが如し、さてかく四手《シテ》と四《シ》の言をそへて云るは、大和にありて思へるやうを、つよく思はせむとてのことなり、かくて此(レ)は供奉の度にむかへてよませ給へるなり、倭にては戀奉りしを此(ノ)度の從駕には、おもひたえておはすさまによみなし給へり、○我戀流《アガコフル》、この御句は下の勢《セ》につゞけて聞べし、わがこふる所の夫《セ》の君といふ意なり、○、木路有云《キヂニアリチフ》、(路(ノ)字拾穗本には跡に誤れり、)木路は紀路なり、さて「紀路は假字書は見えねども五(ノ)卷に、麻都良遲《マツラヂ》、また奈良遲《ナラヂ》、十七に、奈良治《ナラヂ》、また伊弊(195)遲《イヘヂ》、十五に、伊敝治《イヘヂ》、十四に、夜麻治《ヤマヂ》、廿(ノ)卷に佐保治《サホヂ》、などあるに准へて、路を濁るべし、有云は、アリチフ〔四字右○〕ともアリトフ〔四字右○〕とも訓べし、チフ〔二字右○〕といひトフ〔二字右○〕といふ言の謂《ヨシ》は、下に委《ツバラ》にいふべし、○名二負勢能山《ナニオフセノヤマ》は、夫《セ》の君のその夫《セ》といふ名に負(フ)山の義なり、さて夫《セ》は則(チ)日並(ノ)皇子(ノ)尊を申すなるべし、名二負は三(ノ)卷に大伴之名負靭帶而《オホトモノナニオフユキオビテ》云々、五(ノ)卷に、得保都必等麻通良佐用比米都麻胡非爾比例布利之用利於返流夜麻能奈《トホツヒトマツラサヨヒメツマゴヒニヒレフリシシヨリオヘルヤマノナ》、十一に、早人名負夜音《ハヤヒトノナニオフヨコエ》云々、十五に、巨禮也己能名爾於布《コレヤコノナニオフ》、(上に引)六(ノ)卷に、名耳乎名兒山跡負而《ナノミヲナゴヤヤトオヒテ》云々、又|老人之變若云水曾名爾負瀧之瀬《オイヒトノヲツチフミヅソナニオフタギノセ》、九(ノ)卷に、打越而名二負有杜爾風祭爲奈《ウチコエテナニオヘルモリニカザマツリセナ》、十七に、可無奈我良彌奈爾於婆勢流之良久母能知邊乎於之和氣安麻皆々理多可吉多知夜麻《カムナガラミナニオバセルシラクモノチヘヲオシワケアマソヽリタカキタチヤマ》云々、廿(ノ)卷に、大伴乃宇治等名爾於敝流麻須良乎能等母《オホトモノウヂトナニオヘルマスラヲノトモ》、また之奇志麻乃夜末等能久爾々安  伎良氣伎名爾於布等毛能乎巳許呂都刀米與《シキシマノヤマトノクニヽアキラケキナニオフトモノヲコヽロツトメヨ》、また都流藝多知伊與餘刀具倍之伊爾之敝由佐夜氣久於比弖伎爾之曾乃名曾《ツルギタチイヨヽトグベシイニシヘユサヤケクオヒテキニシソノナソ》、新撰萬葉に、名西負者強手將恃女倍芝人之心丹秋這來鞆《ナニシオハバシヒテタノマムヲミナベシヒトノコヽロニアキハキヌトモ》、古今集に、名にし負ばいざ言問む都鳥我(カ)念人は有(リ)や無(シ)やと、後撰集に、名にし負ば逢坂山の核葛人に知(ラ)れで來(ル)縁もがな、千載集に、名にしおはば常はゆるぎの杜にしもいかでか鷺のいはやすくぬる、古今六帖に、宮の瀧の宜《ウベ》も名に負て聞えけり落る白泡の玉とひゞけばなどあり、○御歌(ノ)意は、此山が倭にては我(カ)戀奉る夫(ノ)君の、その夫《セ》といふ言を名に負る、かの紀路にありと、かねて聞居る勢《セ》の山歟となり、上にいふ如く初の也《ヤ》の(196)疑の詞は、山といふまでにかゝれる詞なり、さて既くも云るごとく、やまとにては戀たまひ、今この度の從駕には思ひ絶ておはすさまなれど、中々に夫(ノ)君のこひしさ堪がたき御心、この名に負(フ)勢《セ》とのたまへるにしるくて、あはれことにふかし、
 
幸《イデマセル》2于|吉野宮《ヨシヌノミヤニ》1之|時《トキ》。柿本朝臣人麿作歌《カキノモトノアソミヒトマロガヨメルウタ》
 
幸2于吉野宮1、これも持統天皇のなり、左注に書紀を引たる如く、持統天皇吉野(ノ)宮に幸《マシ》し事|數度《シバシバ》なれば、何れの度とも定(メ)がたし、○歌(ノ)字、舊本になし、類聚抄古寫本等に從つ、また人麻呂勘文にもあり
 
36 八隅知之《ヤスミシヽ》。吾大王之《ワガオホキミノ》。所聞食《キコシヲス》。天下爾《アメノシタニ》。國者思毛《クニハシモ》。澤二雖有《サハニアレドモ》。山川之《ヤマカハノ》。清河内跡《キヨキカフチト》。御心乎《ミコヽロヲ》。吉野乃國之《ヨシヌノクニノ》。花散相《ハナチラフ》。秋津乃野邊爾《アキツノヌヘニ》。宮柱《ミヤバシラ》。太敷座波《フトシキマセバ》。百磯城乃《モヽシキノ》。大宮人者《オホミヤヒトハ》。船並?《フネナメテ》。旦川渡《アサカハワタリ》。舟競《フナキホヒ》。夕河渡《ユフカハワタル》。此川乃《コノカハノ》。絶事奈久《タユルコトナク》。此山乃《コノヤマノ》。彌高良之《イヤタカヽラシ》。珠水激《オチタキツ》。瀧之宮子波《タキノミヤコハ》。 見禮跡不飽可聞《ミレドアカヌカモ》。
 
八隅知之《ヤスミシヽ》、上にいへり、○所聞食は、キコシヲス〔五字右○]と訓べし、(本居氏、食《ヲス》はもと物を食(フ)ことなり、書紀などに食をミヲシス〔四字右○〕とよみ、食物ををしものと云、十二にをしと云辭にも、食(ノ)字を借(リ)て書り、さて物を見も聞も知も食も、みな他物を身に受入るゝ意同じき故に、見《ミス》とも聞《キコス》ともl知《シラス》とも、相通はして云こと多くして、君の御國を治め有ち坐をも、知とも食とも聞看とも申すな(197)り、これ君の御國治め有(チ)坐は、物を見が如く知が如く食が如く、御身に受入有つ意あればなりと云り、意はさもあるべし、但しこれは食(ノ)字を訓るに就ていへる説にして、末の論なれば、其(ノ)意は、本より釋《トキ》ても末より釋ても、甚くたがふことなけれど、言の本義を原《タヅ》ねて釋ときはつきざることなり、)今按(フ)にヲス〔二字右○〕と云は、その言の本は居《ウ》の伸りたるものなり、居を宇《ウ》といふことは、書紀に證あることなり、聞《キク》のク〔右○〕伸りてコス〔二字右○〕となりて伎許須《キコス》と云(ヒ)、知《シル》のル〔右○〕伸りてロス〔二字右○〕となりて、志呂須《シロス》と云ごとく、もと敬《ウヤマ》ふときに伸云たるものなり、ヲス〔二字右○〕もコス〔二字右○〕もロス〔二字右○〕も、五十音の第三位を、第五位に伸(ヘ)はたらかしたるものにて、皆同格なり、かくて食ふ物は他物を身に居住らする物なれば、やがて食(ノ)字をヲス〔二字右○〕と訓るにて、食(ノ)字の本義にはあらず、居ることを單《タヾ》には宇《ウ》と云(ヒ)、敬ひては乎須《ヲス》と云こと、聞ことを單《タヾ》には伎久《キク》と云(ヒ)、敬ひては伎許須《キコス》と云と同じことなり、(されば食《ミヲシス》も食物《ヲシモノ》も食國《ヲスクニ》と云も所聞食《キコシヲス》と云も、みな敬ていへることにて、たゞに食《ク》ふことを云ることはをさ/\なし、食(ノ)字をヲシ〔二字右○〕の借(リ)字とせるは、論のかぎりにあらず、)五(ノ)卷に、大王伊麻周《オホキミイマス》云々、企許斯遠周久爾能麻保良叙《キコシヲスクニノマホラゾ》云々、十八に、高御座安麻能日繼登須賣呂伎能可未能美許登能伎己之乎須久爾能麻保良爾《タカミクラアマノヒツギトスメロキノカミノミコトノキコシヲスクニノマホラニ》云々、廿(ノ)卷に、伎己之米須四方乃久爾欲里《キコシメスヨモノクニヨリ》云々、このキコシヲスもキコシメスも、即(チ)知(シ)看(ス)と云と全(ラ)同意にて、天皇の天(ノ)下を知居賜ひて萬(ツ)の事を聞看《キコシメ》し、國民を治(メ)有ち賜ふを云古語なり、○國者思毛《クニハシモ》は、思毛《シモ》とは多かる物の中に、(198)その一(ト)すぢをとりたていふ助辭なり、こゝは諸國《クニ/”\》によき國多かる中に、吉野(ノ)國はことにすぐれて、よき國ぞとおもはせむがためなり、(から籍に、禮(ト)云禮(ト)云玉帛(ヲシモ)云(ム)乎《ヤ》、樂(ト)云樂(ト)云鐘鼓(ヲシモ)云(ム)乎《ヤ》哉とある、これに思毛《シモ》といふ詞をそへて訓來れるも、その物の多かる中に、玉帛の一すぢをとりたてゝ禮と云むや、鐘鼓の一(ト)》すぢをとりたてゝ樂といはむやとの意なり、)○澤(ハ)は、借(リ)字|多《サハ》なり、○山川《ヤマカハ》は、山と川となり、川を清て唱べし、七(ノ)卷に、皆人之戀三吉野今日見者諾母戀來山川清見《ヒトミナノコフルミヨシヌケフミレバウベモコヒケリヤマカハキヨミ》とある山川も同じ、○晴河内跡《キヨキカフチト》は、山と川の清くてめぐれる地なれば、よき地なりとての意なり、河内は字の如く可波宇知《カハウチ》にて、川の行囘れる裏をいふ、さてその波宇《ハウ》を切て敷《フ》といへるなり、神武天皇(ノ)紀に、東(ニ)有2美地1、青山|四周《ヨモニメグレリ》とあるも、山川のめぐれる地は、よき地なるが故なり、さてこれはたゞ地のをかしきを賞《メヅ》るのみにあらず、山川あたりに近ければ、山より材を出し川より魚を出しなど、よろづたよりよき地なればなり、跡《ト》はとての意なり、○御心乎《ミコヽロヲ》は、吉野の枕詞か、(冠辭考に、こほ天武天皇の良《ヨシ》と能《ヨク》見て吉(シ)といひしとよませ賜ひし如く、この吉野をよしと見そなはして、御心を慰め賜ふてふ意にていひかけたるなり、神功皇后(ノ)紀に御心《ミコヽロ》廣田(ノ)國てふは、神の此所にしづもりまして、遠く廣く見そなはしたまはむことをいひ、御心《ミコヽロ》長田(ノ)國とは、長く久しくこゝにまさむことを云りと云り、それも義は通《キコ》えたり、もしその義ならば、うけはりたる枕詞には非ず、されどなほ反復《ウチカヘ》して考(フ)るに、)天皇の大(199)御心よ、善《ヨシ》と稱(ヘ)奉れる謂《ヨシ》にて、つゞけたるならむか、さらば乎《ヲ》は余《ヨ》といはむがごとくなるべし、又例の之《ノ》に通ふ言にて、味酒乎《ウマサケヲ》、未通女等乎《ヲトメラヲ》など云|乎《ヲ》にてもあるべし、さて御心《ミコヽロ》廣田《ヒロタ》、御心《ミコヽロ》長田《ナガタ》たど書紀に見えたるも、大御心の廣く長きを稱奉る謂なるべきにや、○吉野乃國《ヨシヌノクニ》、此は吉野は郡(ノ)名にて國にはあらねど、郡郷などを國といふこと古(ヘ)の常なり、堺をたてゝ人のすむ地をば、なべて國といひしなり、○花散相《ハナチラフ》は、花散《ハナチル》なり、ラフ〔二字右○〕の切ル〔右○〕となる、(この良《ラ》は里阿《リア》の約りたるにて、知良布《チラ》は知里阿布《チリアフ》なりといふ説あり、それもしかるべし、さらばカタラフ〔四字右○〕も力タリアフ、キラフ〔八字右○]もキリアフ〔四字右○〕の約まれる言と見べし、延約の事義なくてはあるまじきことなればなり、されどかく二樣にきこゆるは、古言の妙理にて、延て云たるか約めていひたるか、そのもとは定めがたけれど、なほチル〔二字右○〕を延てチラフ〔三字右○〕といへりとぞおぼゆる、すべて言を延ていふは、長《ノド》かなるをいふことにて、チル〔二字右○〕はたゞにその散ことをいひ、チラフ〔三字右○〕はその散ことのたえず、長長《ノドノド》とある形容をいへることゝこそきこえたれ、)さてこは、吉野は眞純《モハラ》と花に名ある地なれば、即(チ)花散相《ハナチラフ》てふ詞もて、彼處の秋津野の枕詞とせるなり、十四に、波奈知良布己能牟可都乎乃乎那能乎能《ハナチラフコノムカツヲノヲナノヲノ》云々ともよめり、(岡部氏(ノ)考に、此(ノ)詞のみを握《オサ》へて、おして此幸をも春なりけむと云るは、例のなづめり、)○秋津乃野邊《アキツノヌヘ》は、吉野にある蜻蛉野なり、この野の名のはじめは、書紀雄略天皇に見えたり、邊は字注に岸也側也方也などある、其(ノ)意にて弊《ヘ》と(200)訓り、(或説に、某邊の邊は助辭ぞといへるは、いと/\あたらぬことこぞ、さらば目邊《マヘ》をたゞ目、尻邊《シリヘ》をたゞ尻《シリ》、行邊《イクヘ》をだゞ行、何邊《イヅヘ》をたゞ何、縁邊《ヨルヘ》をたゞ縁、往邊《イニシヘ》をたゞ往といはむか、是等は皆|某方《ナニカタ》てふ意とせずては、通《キコ》ゆべからぬをや、目邊《マヘ》は目方《メカタ》、尻邊《シリヘ》は尻方《シリカタ》、行邊《ユクヘ》は行方《ユクカタ》、縁邊《ヨルヘ》は縁方《ヨルカタ》の意なるに、餘も准(ヘ)て知べし、又|山邊《ヤマヘ》、河邊《カハヘ》、海邊《ウミヘ》、奧邊《オキヘ》などの邊も、本義《モトノコヽロ》は皆|方《カタ》の意なれども、はやく云なれて後は、唯山河海奧といふことにて、邊はたゞ何となき助辭のごとくもなれるなり、よく心すべし、かゝれば集中にも奧邊之方《オキヘノカタ》、何邊之方《イヅヘノカタ》などよめるなり、然有《サレ》ど是等のみにつきて、某邊の邊は、凡て助辭ぞとおもへるは、言の本(ノ)義を遺《ワス》れたる論《コト》なりけり、)さてこれらの邊を、某邊といふときは、皆|昔來《ムカシヨリ》濁《ニゴリ》て唱ふめれども、凡て清べき例なり、古事記中卷崇神天皇(ノ)條に、麻幣、(目邊《マヘ》なり、)應神天皇(ノ)條に、母登幣《モトヘ》、(本邊《モトヘ》なり、)須惠幣《スヱヘ》、(末邊《スヱヘ》なり、)下卷仁徳天皇(ノ)條に、夜麻登幣《ヤマトヘ》、(倭邊《ヤマトヘ》なり、)淤岐幣《オキヘ》、(奧邊《オキヘ》なり、)雄略天皇(ノ)條に、須惠幣《スヱヘ》、又|意富麻幣《オホマヘ》、(大目邊《オホマヘなり、)又書紀神代(ノ)卷に、頭邊此云2摩苦羅陛《マクラヘト》1、脚邊此云2阿度陛《アトヘト》1、亦背揮此云2志理幣提爾布倶《シリヘテニフクト》1、(尻邊手《シリヘテ》に揮《フク》なり、)景行天皇(ノ)卷に、麻幣菟耆瀰《マヘツキミ》、仁徳天皇(ノ)卷に、望苫弊須惠弊《モトヘスヱヘ》、顯宗天皇(ノ)卷に、野麻登陛《ヤマトヘ》、繼體天皇(ノ)卷に、漠等陛須衛陛《モトヘスヱヘ》、齊明天皇(ノ)卷に、何播杯《カハヘ》、集中には、廿(ノ)卷に、二ところ努敝《ヌヘ》、十四に、夜麻敝《ヤマヘ》、又|波流敝《ハルヘ》、廿(ノ)卷に、波流弊《ハルヘ》又|春敝《ハルヘ》、又此(ノ)卷に、奧敝《オキ〜》、四(ノ)卷に、奧弊《オキヘ》、十四に、於思敝《オシヘ》、十五に六ところ、十八に一處|於伎敝《オキヘ》、十五に、於吉敝《オキヘ》、又|於枳敝《オキヘ》、十七に、於伎弊《オキヘ》、十五に、久爾敝《クニヘ》、十九に、國敝《クニヘ》、廿(ノ)卷に、久爾弊《クニヘ》、三(201)卷に、曾久敝《ソクヘ》、十七十九に、曾伎敝《ソキヘ》、十四に、緒可敝《ヲカヘ》、十七に、美夜故弊《ミヤコヘ》、十八に、彌夜故敝《ミヤコヘ》、又|美夜敝《ミヤヘ》、十九に二ところ谿敝《タニヘ》、十五、に二ところ安之敝《アシヘ》、廿(ノ)卷に、安之弊《アシヘ》、十五に、由久敝《ユクヘ》、十八に、由具敝《ユクヘ》、十九に、伊頭敝《イヅヘ》、廿(ノ)卷に須賣良弊《スメラヘ》、又|都久之閇《ツクシヘ》、十八に、余留弊《ヨルヘ》、又|麻敝《マヘ》、廿(ノ)卷に、志利弊《シリヘ》、又|志流敝《シルヘ》、又|等許敝《トコヘ》、五(ノ)卷に一處、廿(ノ)卷に二ところ由布弊《ユフヘ》、十四に一處、十五に一處、十九に二ところ由布敝《ユフヘ》など、假字書にはいづれも、清音の字を用ひたるによりて、凡某邊、又其方と書るをも清べきをしれ、(かゝるを猶清音と決めむも、いかにぞやいふ人もあれば、かくこちたきまで例どもを引出て、今は證《アカ》しおくにぞ有ける、但(シ)十(ノ)卷に、山部《ヤマヘ》、六(ノ)卷、八(ノ)卷、九(ノ)卷、十(ノ)卷に、春部《ハルヘ》、三(ノ)卷、六(ノ)卷に、奧部《オキヘ》、又同卷に、國部《クニヘ》、九(ノ)卷に、退部《ソキヘ》、十(ノ)卷に、崗部《ヲカヘ》、六(ノ)卷に、夷部《ヒナヘ》、波萬部《ハマヘ》、六(ノ)卷に、葭部《アシヘ》、故事部《コシヘ》、古部《イニシヘ》など書る、部(ノ)字をヘ〔右○〕とよめるはムレ〔二字右○〕の切(マ)りたるにて、本居氏(ノ)説に、部《ヘ》はムレ〔二字右○〕の切なり、ムレ〔二字右○〕はメ〔右○〕と切(マ)るを、メ〔右○〕をヘ〔右○〕と轉しいへりと云るが如く、濁るべき理なれども、既《ハヤ》く云る如く、字(ノ)訓は清濁互にまじへ用ふること、古例あれば、集中にも、部《ヘ》字を多くは清(ム)例の處に用ひたり、其例を一二《カヅ/\》いはば、三(ノ)卷に、倭部早《ヤマトヘハヤク》、六(ノ)卷|倭部越《ヤマトヘコユル》、三(ノ)卷に、櫻田部鶴鳴渡《サクラダヘタヅナキワタル》、七(ノ)卷に、奧津浪部都藻纏持《オキツナミヘツモマモモチ》、また安太部去小食手乃山之《アダヘユクヲステノヤマノ》、吉野部登入座見者《ヨシヌヘトイリマスミレバ》、又|木部行君乎《キヘユクキミヲ》、この木部行の部も、倭部越、安太部去などの部と同言なり、これら清例に用ひたるにても、疑をはらすべし、かくて唯書紀天智天皇(ノ)卷に、施麻倍《シマヘ》、集中に安之辨《アシヘ》、八(ノ)卷に一(ニ)云|夕倍《ユフヘ》、廿(ノ)卷に波麻倍《ハマヘ》などあるのみは、正しからず、されど倍(ノ)字(202)は濁音ながら、清(ム)處にもおほく用ひたり、又或人右の十五に安之辨《アシヘ》とあるのみを見て、蘆邊の邊は濁べき例ぞといへるは、右に引出たる例どもをまでには、見ざりしものぞかし、又古事記雄略天皇(ノ)大御歌に、久佐加辨能《クサカベノ》とあるは、日下部《クサカベ》てふ地(ノ)名にて、日下邊の意にはあらず、思ひまどふべからず、但し今(ノ)世にも目邊《マヘ》、尻邊《シリヘ》、行邊《ユクヘ》、往邊《イニシヘ》などの邊は、古(ヘ)へのごと清て唱ふる事なるを、此(ノ)外某邊といふをば、をさ/\清て唱ふることはなくなれりき、)○宮柱《ミヤバシラ》、これは吉野の離宮なり、さて廿(ノ)卷に、美也婆之良《ミヤバシラ》とあり、婆を濁るべし、○太敷座波《フトシキヤセバ》は、古事記傳十(ノ)卷、於2底津石根1宮柱|布刀斯理《フトシリ》とある處に云、布刀斯理《フトシリ》は、祝詞等に太知立《フトシリタテ》とも大敷立《フトシキタテ》とも、又|廣知立《ヒロシリタテ》ともあり、そは師説に、萬葉二(ノ)卷に、天皇之敷座國《スメロキノシキマスクニ》と云、祈年祭(ノ)詞に、皇神能敷座島能八十島者《スメカミノシキマスシマノヤソシマハ》云々など、知(リ)坐を敷(キ)坐と云たれば、知と敷と同じと有、さて此(ノ)稱辭を、古來たゞ柱の上とのみ意得れど、さに非ず、今考るに、萬葉二(ノ)卷に、水穗之國乎神隨太敷座而《ミヅホノクニヲカムナガヲフトシキマシテ》云々、又一(ノ)卷に、太敷爲京乎置而《《フトシカス》ミヤコヲオキテ》云々又二(ノ)卷に、飛鳥之淨之宮爾神隨太布座而《アスカノキヨミノミヤニカムナガラフトシキマシテ》云々、などある例を思ふに宮|柱布刀斯理《バシラフトシリ》、も、其(ノ)主の其(ノ)宮を知(リ)坐を云なり、布刀《フト》も右の萬葉に柱ならで、國を知(リ)坐にも云れば、たゞ廣く大きにと云稱辭なり、布刀御幣《フトミテグラ》、布度詔戸《フトノリト》、太占《フトマニ》などもいへり、故(レ)廣知とも云るぞかし、かかれば此語は專(ラ)柱に係るには非ず、其(ノ)宮の主に係れる語なるを、布刀《フト》と云が柱に縁あるから、宮柱太とは云かけて、兼て其(ノ)宮をも祝たる物なり、神代紀下卷に、其(ノ)造宮之制者、柱(ハ)則高(ク)太(ク)(203)云々、萬葉二(ノ)卷に、眞木柱太心者《マキバシラフトキコヽロハ》云々など、柱は太(キ)を貴ぶなりといへり、なほ此《コヽ》の如くつゞけたるは、二(ノ)卷に眞弓乃崗爾宮柱太布座御在香乎高知座而《マユミノヲカニミヤバシラフトシキイマシミアラカヲタカシリマシテ》、六(ノ)卷に續麻成長柄之宮爾眞木柱太高敷而《ウミヲナスナガラノミヤニマキバシラフトタカシキテ》、又|山代乃鹿背山際爾宮柱太敷奉高知爲布當乃宮者《ヤマシロノカセヤマノマニミヤバシラフトシキマツリタカシラスフタギノミヤハ》、又廿(ノ)卷に、可之婆良能宇禰備乃宮爾美也婆之良布刀之利多弖々《カシハラノウネビノミヤニミヤバシラフトシリタテヽ》などもあり、○百磯城乃《モヽシキノ》、上にいへり、○大宮人《オホミヤビト》とは、すべて百官人を云、こゝは從駕の人々をいへり、天皇の幸につきて、宮人のいそしきさまをいふは、即(チ)天皇の御徳をたゝへ申せるなり、○船並?、(?(ノ)字、類聚抄に六と作て、フネナメム〔五字右○〕とよめるは、いみじきひがことなり、)はフネナメテ〔五字右○〕と訓べし、舟の多かるをいへり、友並而《トモナメテ》、馬並而《ウマナメテ》、などいふ語類なり、既く云り、○旦川渡は、アサカハワタリ〔七字右○〕と訓べし、旦にわたるを旦川《アサカハ》といひ夕(ヘ)に渡るを夕川《ユフカハ》と云り(十六夜日記に、廿七日明はなれて後ふじ川渡る、朝川いと寒しとあるも同じ、)○舟競は、フナギホヒ〔五字右○〕と訓、われさきにつかへむとするさまをいへり、並《ナメ》も競《キホヒ》もともにいそしきさまをいへるなり、廿(ノ)卷に、布奈藝保布保利江乃可波乃《フナギホフホリエノカハノ》とあり、○夕河渡は、ユフカハワタル〔七字右○〕と訓べし、こゝにて一段なり、旦夕をいへるは、川のかなたにやどれる人々の、川をわたり來て、旦となく夕となく、此(ノ)離宮へいそしくつかへまつるさまを云、○此川乃《コノカハノ》、此《コノ》とは、上に河のことをいへるをうけたり、絶事無《タユルコトナク》をいはむためなり、○絶事奈久《タユルコトナク》とは、此(ノ)離宮の此(ノ)後も絶る事なく、榮(エ)坐むといふなり、○此山乃《コノヤマノ》、此とは上に山のことをいへるをうけた(204)り、高をいはむためなり、○彌高良之《イヤタカヽラシ》、(之(ノ)字、古寫本に思と作り、類聚抄には高の下に思(ノ)字ありて、之(ノ)字はなし、さて珠(ノ)字を此(ノ)句へ屬て、イヤタカシラス〔七字右○〕とよめり、いかゞなり、)良は有(ノ)字の誤寫なるべし、(三卷に高有之《タカヽラシ》、深有之《フカヽラシ》、)本居氏云、高は隆盛なるをいふ、吉野(ノ)宮の御榮えを壽て、此(ノ)山のごとく高くといへるなり、續紀(ノ)九卷詔に、四方食國天下乃政乎《ヨモノヲスクニアメノシタノマツリゴトヲ》、彌高彌廣爾天日嗣止高御座爾坐而《イヤタカニイヤヒロニアマツヒツキトタカミクラニマシテ》、大八島國所知《オホヤシマクニシラサム》、卅六詔に、祖乃門不滅《オヤノカドホロボサズ》、彌高爾仕奉《イヤタカニツカヘマツリ》などあると同じ、さて此(ノ)川のといふより此(レ)まで四句は、山と川とによそへて、幸(シ)と宮とをことほぎ申せるなり、六(ノ)卷に芳野離宮者《ヨシヌノミヤハ》云々、其山之彌益々爾此河之絶事無百石木能大宮人者常將通《ソノヤマノイヤマス/\ニコノカハノタユルコトナクモヽシキノオホミヤヒトハツネニカヨハム》、又|芳野宮者《ヨシヌノミヤハ》云々、此山乃盡者耳社此河乃絶者耳社百師紀能大宮所止時裳有目《コノヤマノツキバノミコソコノカハノタエバノミコソモヽシキノオホミヤドコロヤムトキモアラメ》、などよみたり、○珠水激は、(イハバシル〔五字右○〕と訓たれども、珠水と書たる事おぼつかなし、)按(フ)に、珠は隕(ノ)字の誤寫なるべし、珠と隕と草書似たり、(七(ノ)卷に、隕田寸津走井《オチタギツハシヰ》とあり、)さらばオチタギツ〔五字右○〕と訓べし、水激はタキツ〔三字右○〕とよむべければなり、(十(ノ)卷に、水飯合|川之副者《カハノソヘレバ》とあるも飯は激(ノ)字の誤にて、タギチアフ〔五字右○〕とよむべきをも考(ヘ)合(ス)べし、)集中に、落多藝都瀧《オチタギツタギ》とも、芳野《ヨシヌ》とも、多くよみたるをおもへ、さてタギツ〔三字右○〕は激《タギ》ると云が如し、タギチ〔三字右○〕と云時は、激《タギ》りと云が如くなるを思ふべし、○瀧之宮子波《タギノミヤコハ》は、宮の前即(チ)瀧川なればかくいふ、子は借(リ)字にて、宮所《ミヤコ》のよし既く云り、(今夏箕川の下に、宮の瀧村といふ處あるは、この宮の跡ならむといふ説あり、猶よくたづぬべし、)○見禮跡不v飽可母《ミレドアカヌカモ》は、雖《ド》v見《ミレ》(205)不《ヌ》v飽《アカ》哉《カモ》なり、可母《カモ》は歎息の詞なり、いくたび見ても、さてもあかぬ事哉といふなり、この可母《カモ》は奈良(ノ)朝以往の詞にて、今(ノ)京よりこなたは可奈《カナ》とのみよみて、可母《カモ》は疑の詞とせり、○歌(ノ)意は、あるが中にも、この吉野にしも離宮をおかせ給ひて、行幸《ミユキ》せさせ給ふもげにことわりやと、よに絶《スグ》れて勝地なるが、いくたび見ても、あきたらずおもしろき事と、ふかく感《メデ》たるよしなり、
 
反歌《カヘシウタ》
 
37 雖見飽奴《ミレドアカヌ》。吉野乃河之《ヨシヌノカハノ》。常滑乃《トコナメノ》。絶事無久《タユルコトナク》。復還見牟《マタカヘリミム》。
 
雖見飽奴《ミレドアカヌ》、上に同じこゝの勝地なるを云、○常滑《トコナメ》は、十一に、豐泊瀬道者常滑乃恐道曾《トヨハツセチハトコナメノカシコキミチソ》云々、九(ノ)卷に、入出見河乃床奈馬爾三雪遺《イリイヅミカハノトコナメニミユキノコレリ》云々、など見えたるに同じ、さて常(ノ)字床(ノ)字など書るは、ともに借(リ)字にして底滑《ソコナメ》の義なり、(曾許《ソコ》と登許《トコ》と通ひて同じき所由《ヨシ》は、古事記傳三(ノ)卷に具なり、おのれ彼(ノ)傳によりて、常滑は底滑の義ぞとおもひよれるを、彼(ノ)傳の考證に、此(ノ)常滑を引れざりしは、たま/\考へもらせるなり、)そは水底の石などに生著たるものにして、(今俗に佐伊《サイ》と云ものにて、)いづれの河にもかならずあるものなり、かくて常滑のといふまでは、たゞ絶(ル)事|無《ナク》と示はむ料のみなり、さて實は、河の絶る事無といふ意なるを、河に生たる物もて文《アヤ》なしたり、常滑の絶ることなきは、則(チ)河の絶ることなきなり、○絶事無久《タユルコトナク》は、六(ノ)卷に、三吉野之秋津(206)乃川之萬世爾斷事無又還將見《ミヨシヌノアキヅノカハノヨロヅヨニタユルコトナクマタカヘリミム》又|石走多藝千流留泊瀬河絶事無亦毛來而將見《イハヾシリタギチナガルヽハツセガハタユルコトナクマタモキテミム》、十八に、物能乃有能夜蘇氏人毛與之努河波多由流許等奈久都可倍追通見牟《モノノフノヤソウヂヒトモヨシヌガハタユルコトナクツカヘツヽミム》、七(ノ)卷に、卷向之病足之川由往水之絶事無又反將見《マキムクノアナシノカハユユクミヅノタユルコトナクマタカヘリミム》、十七に、可多加比能可波能瀬伎欲久由久美豆能多由洗許登奈久安里我欲比見牟《カタカヒノカハノセキヨクユクミヅノタユルコトナクアリガヨヒミム》、などよめるに同じ、○復還見牟《マタカヘリミム》は、復とは二(タ)たびの事をいへど、上の絶事無久《タユルコトナク》にひかれて、いくたびもといふ意となれり、○歌(ノ)意は、かくのごとき勝地なれば、此(ノ)後も絶ず幸の有べければ、我も供奉《ミトモツカ》へて、絶ずこの勝地を見む事、天皇の御蔭なりと、ふかくよろこびたるなり、長歌には天皇の御うへをもはらよみ、此(ノ)反歌はみづからのうへをよめり、
 
38 安見知之《ヤスミシシ》。吾大王《ワガオホキミ》。神長柄《カムナガラ》。神佐備世須登《カムサビセスト》。芳野川《ヨシヌガハ》。多藝津河内爾《タギツカフチニ》。高殿乎《タカトノヲ》。高知座而《タカシリマシテ》。上立《ノボリタチ》。國見乎爲波《クニミヲセスレバ》。疊有《タヽナヅク》。青垣山《アヲガキヤマ》。山神乃《ヤマツミノ》。奉御調等《マツルミツキト》。春部者《ハルヘハ》。花挿頭持《ハナカザシモチ》。秋立者《アキタテバ》。黄葉頭刺理《モミヂバカザシ》。遊副川之《ユフカハノ》。神母《カミモ》。大御食爾《オホミケニ》。仕奉等《ツカヘマツルト》。上瀬爾《カミツセニ》。鵜川乎立《ウカハヲタテ》。下瀬爾《シモツセニ》。小網刺渡《サデサシワタシ》。山川母《ヤマカハモ》。依?奉流《ヨリテツカフル》。神乃御代鴨《カミノミヨカモ》。
 
安見知之《ヤスミシヽシ既くいへり、○神長柄《カムナガラ》は、(長柄は借(リ)字、)集中假字書には、可武奈何良《カムナガラ》とあるによりてよめり、奈我良《ナガラ》といふ詞は、俗言に、それなりにといふほどの意なり、(後(ノ)世にては意得あやまれり、伊勢物語に、紀(ノ)有常が事を、猶昔よかりし時の心ながら、よのつねの事もしらずとある、ながらの詞は古にかなへり、)こは大皇《オホキミ》は神にし座《マセ》ばと集中に云るごとく、天皇は即(チ)神にお(207)はするまゝにといふなり、書紀孝徳天皇卷に、惟神我子應治故寄《カムナカラアガミコノシラサムモノトヨザシキ》云々、とある古注に惟神者《カムナガラトハ》謂d隨《シタガヒタマヒテ》2神(ノ)道(ニ)1、亦自有神道《カミノミチアルヲ》u也、といへるをもて思ふべし、○神佐備世須登《カムサビセスト》は、佐備《サビ》とは、もと然貌《シカブリ》の約まれる言にて、神佐備《カムサビ》は神とまして、その神とますふるまひを爲給ふ詞なり、古事記に、勝佐備《カチサビ》とあるも、勝ほこりたるふるまひをし給ふをいふ、(靈異記に、窈窕を佐比《サビ》と訓せたるは、窈窕の字の本義にはあらじ、婦女とある其(ノ)ふるまひをして、窈窕《タワヤグ》を云より訓るならむ、)なほ此(ノ)上高市(ノ)連黒人(ノ)歌に、委しく注るを考(ヘ)合(ス)べし、此《コゝ》は神々《カウ/\》しく隆く尊く人倫《ヒトノカギリ》を離れおはしますを申せるなり、(榮花物語に、神さびて居たる面持けしき、繪に書たる心ちして云々、又陰陽師どもは、晴明みつよしなどいふ、神さびたりしものどもにて、いとしるしことなりし人人なりなどあるも、凡《タヾ》人の境界をはなれたるを云るにて、こゝろばえ今に似たり、岡部氏(ノ)考に、佐備は、心ずさみ手ずさみなどのすさみに同じく、なぐさみといはむがごとし、下の藤原宮造の所には、天(ノ)下治め賜ふ都の事なれば、食國乎賣之賜牟登とよみ、こゝは御心なぐさの爲故に、神佐備世須といへりといへるはたがへり、)世須《セス》は、爲《ス》の延りたる詞にて、爲給ふといはむがごとし、上に委くいへり、登《ト》はとての意なり、これ此(ノ)吉野に幸給ふ事をいへるなり、○芳野川《ヨシヌガハ》(芳(ノ)字、拾穗本には吉と作り、)は、十八に、與之努河波《ヨシヌガハ》とあり、河《ガ》の言濁るべし、○高殿《タカトノ》は、ただ高くつくれる殿のよしなり、(つねには樓を云ども、其(レ)には限らず、)神代(ノ)紀下に、(海宮のこと(208)を)雉※[土+牒の旁]整頓臺宇玲瓏《タカヽキヒメカキトヽノホリタカトノヤカズテリカヽヤケリ》とあり、○高知座而《タカシリマシテ》は、古事記傳に、於2高天(ノ)原1氷椽多迦斯理《ヒギタカシリ》とある處に云、多迦斯理もたゞ氷木《ヒギ》のことのみに非ず、主の其(ノ)宮を知(リ)坐を云、多迦《タカ》も布刀《フト》と同じく稱言なり、續紀聖武天皇|即位《アマツヒツギシロシメス》時の詔に、天下乃政乎彌高爾彌廣爾《アメノシタノマツリゴトヲイヤタカニイヤヒロニ》云々、萬葉六(ノ)卷に、吾大王乃神隨高所知流稻見野能《ワガオホキミノカムナガラタカシラセルイナミヌノ》云々、又|自神代芳野宮爾蟻通高所知流者山河乎吉三《カミヨヽリヨシヌノミヤニアリガヨヒタカシラセルハヤマカハヲヨミ》、此(ノ)歌以(テ)意得べし、宮爾《ミヤニ》といへれば宮《ミヤ》の高きを云に非ず、天皇の此(ノ)宮を高知(リ)坐なること明(ラケ)しと云り、○上立《ノボリタチ》は、山(ノ)上へ騰(リ)立(チ)なり、上舒明天皇(ノ)大御歌に、取與呂布天乃香具山騰立國見乎爲者《トリヨロフアメノカグヤマノボリタチクニミヲスレバ》とあり、○國見乎爲波は、國見《クニミ》は、上舒明天皇の大御歌に注るがごとし、(按(フ)に、かの大御歌に國見乎爲者《クニミヲスレバ》とあるは、御自(ラ)國見せさせ賜ふを詔へれば、さることなり、こゝは天皇の國見せさせ賜ふことを、他よりいへれば、國見爲賜へれば、といふ意に國見勢須禮婆《クニミセスレバ》などゝあるべし、そもそも言を精嚴にせし古(ヘ)人の語に、さる類の取はづしはなし、まして此朝臣の歌などには、いふもさらなり、さればこゝははやく亂れて、今のごとくにはなれるか、類聚抄に、爲の下に藝(ノ)字ありて、クニミヲシケバ〔七字右○]と訓たる、これもいかゞなれど、さる本も有しをおもへば、もとより字の亂れたりし一(ツ)の證にはなるべし、)上の詞に、神佐備世須登《カムサビセスト》といへると、反歌に、船出爲加母《フナデセスカモ》と云ると、(又類聚抄に、爲藝波と有などゝ、)これかれをあはせておもふに、此も本は國見勢爲波《クニミセスレバ》とありしを寫し誤れるか、(勢須《セス》は爲《ス》の伸りたる詞にて、爲給ふといふ意なること、(209)既くたび/\云たるがごとし、)○疊有は、(舊訓にタヽナハル〔五字右○]とあるによりて、誰もしか訓來れども、さては、有(ノ)字あまれゝば、然はよみがたければ、タヽナヘル〔五字右○]とよむべきことかとおもへど、猶心ゆかず、故(レ)考(フ)るに、)有は著(ノ)字の誤にて、タヽナヅク〔五字右○]にぞ有ける、しか云|所由《ユヱ》は、古事記中卷應神天皇(ノ)條倭建命の御歌に、夜麻登波久爾納麻本呂波多々那豆久阿袁加伎夜麻《ヤマトハクニノマホロハタヽナヅクアヲカキヤマ》、此(ノ)集六(ノ)卷に、高知爲芳野離宮者立名附青墻隱《タカシラスヨシヌノミヤハタヽナヅクアヲカキゴモリ》、十二に、田立名付青垣山之《タヽナヅクアヲカキヤマ》、二(ノ)卷に、多田名附柔膚尚乎《タヽナヅクニキハダスラヲ》ともよめり、)などある例によれるなり、さて古事記傳にいはく、多々那豆久《タヽナヅク》は、多々那波理那豆久《タヽナハリナヅク》なり、然らば多々那々豆久《タヽナヽヅク》と云べきに、多々那豆久《タヽナヅク》とては、今一(ツ)那《ナ》てふ言足(ラ)ぬに似たれども、凡て同音の重なる言は、多く一(ツ)をば省き約めて云るなり、旅人を多毘登《タビト》と云るが如し、(されば、豆久《ヅク》をたゞに附と心得て、たゝなはり附なりと云る説はことたらず、又楯名著、楯並附など云る説もわろし、)多々那波理《タヽナハリ》は、契沖が、禮記に、主(ノ)佩垂刷《ル寸ハ》臣(ノ)佩|委《タヽナハル》、と云るを引たる此(ノ)委の意なり、枕册子に、そばの方に、髪のうちたゝなはりてゆくらかなるとあるも同(シ)くて、長き物などの縮り倚(リ)合て疊《タヽ》まりたるを云、那豆久《ナヅク》は那豆伎田《ナヅキタ》とある、那豆岐《ナヅキ》と同くて靡附なり、人又鳥獣等の懷《ナツ》くと云も本同じ、されば多々那豆久青垣山隱《タヽナヅクアヲカキヤマゴモ》れるといふも、四面にたゝなはり周《メグ》れる山の、其(ノ)中なる國に靡附たるを云るなりといへり、(今云、狹衣に、ひたひの髪のゆら/\とかゝりこぼれ給へる、すそはやがてうしろなどひとしうひかれいきて、こちた(210)うたゝなはりたるすそのそぎすゑ、いくとせをかぎりにおひ行むとすらむと云々、空穗物語萬歳樂に、御くし御裳にすこしたらぬほどにて、やうしかけたるごとして、白き御衣に隙なくゆりかけられたり、よれたりし裳にうちたゝなはれたる、いとめでたしなどある、たゝなはる皆同じ意なり、)さて此(レ)より下|小網刺渡《サデサシワタス》といふまでは、此(ノ)高殿にましますにつけて、山河をうしはき給ふ神までも、より來てつかへ奉るさまを述たるなり、○青垣山は、(古事記(ノ)歌に、阿袁加伎《アヲカキ》と書るにょりて垣を清て唱ふべし、濁れるは誤なり、)古事記上卷に、大國主神曰(シタマハク)、然者治(メ)奉(ラム)之|状奈何《サマハイカニト申シタマヘリ》、答3言(タマヒキ)吾(ヲ)者《バ》伊2都伎奉《イツキマツレト》、于倭之青垣東(ノ)山(ノ)上(ニ)1、此者坐(ス)2御諸(ノ)山(ノ)上(ニ)1神(ナリ)也、云々、出雲風土記に、所2造《ツクラシヽ》天下1大神、大穴持(ノ)命(ノ)詔(タマハク)、云々、八雲立出雲(ノ)國者我(カ)坐(ム)國(ナリト)、青垣山廻(シ)賜(ヒテ)而云々など見えたるに同じ、(又山と云ずて唯青垣とのみも云り、上に引る六(ノ)卷の芳野離宮者立名附青垣隱《ヨシヌノミヤハタヽナヅクアヲカキゴモリ》、神賀詞に、出雲(ノ)國乃青垣内爾、下津石禰爾宮柱太數立弖、云々など云る是なり」こは樹木《コダチ》の掻圍《カキカコ》める山なる故に、青垣とは云るなり、さて本居氏、アヲカキヤマノ〔七字右○〕とノ〔右○〕の言を添るはわろし、アヲカキヤマ〔六字右○〕と六言に訓《ヨム》べし、青垣山者と云意なり、青垣山は花頭刺持とつゞく意なりと云り、(拾穗本に、山の下に乃(ノ)字あるは、さがしらに加へたるものならむ、)○山神《ヤマツミ》は、山を知(リ)坐神なり、(吉野には、山口(ノ)神社水分(ノ)神社金峯(ノ)神社等おはしますこと、神名帳に見えたれど、今はそれまでもあらず、ひろく山を知(リ)坐神等を指て云るなり、)名(ノ)義は古事記傳に委し、○(211)奉御調等《マツルミツキト》、奉は字(ノ)意の如くにして、常に獻上するといふと同じことなり、常に仕奉《ツカヘマツル》見奉《ミマツル》などいふ、奉とはいさゝか異《カハ》りて、何にてもやがて其(ノ)物を上へ獻上するを、古言に麻都流《マツル》と云り、(三(ノ)卷に、一手者和細布奉《ヒトテニハニギタヘマツリ》、四(ノ)卷に、余衣形見爾奉《アガコロモカタミニマツル》九(ノ)卷に鎰左倍奉《カキサヘマツル》、十(ノ)卷に、爾寶敝流衣《ニホヘルコロモ》云々、於君奉者夜爾毛著金《キミニマツラバヨニモキルガネ》、十一に、情左倍奉有君爾《コヽロサヘマツレルキミニ》、又|心乎之君爾奉跡《コヽロヲシキミニマツルト》、十二に、吾幣奉《アガヌサマツリ》、十三に、月夜見乃持有越水伊取來而公奉而《ツキヨミノモタルヲチミヅイトリキテキミニマツリテ》、十八に、萬調麻都流都可佐等《ヨロヅツキマツルツカサト》などある是なり、然るを多弖麻都流《タテマツル》といふ、多弖《タテ》を略けることなりとおもへるは、甚誤なり、多弖麻都流《タテマツル》は十六に、所聞多禰乃机《
之島能小螺乎伊拾持來而《カシマネノツクエノシマノシタヾミヲイヒリヒモチキテ》云々、高杯爾盛机爾立而母爾奉都也目豆兒刀負父爾獻都也身女兒乃負《タカツキニモリツクヱニタテテハヽニマツリツヤメツコノトジチヽニマツリツヤミメツコノトジ》、とある、この立《タテ》と云と奉《マツル》と云と、二言を重ねたるにて、古事記などには、即(チ)立奉と書たるにても知べし、かゝるを今(ノ)京より此方になりては、たゞ麻都流《マツル》といふべきをも、凡て多弖麻都流《タテマツル》とのみ云(ヒ)、それよりしてまたうつりては、仕多弖麻都流《ツカヘタテマツル》見多弖麻都流《ミタテマツル》などさへいふなるは、甚く訛れる事なれど、漸《ヤヽ》舊《ヒサシ》く云なれたることなれば、これらは何とかせむ、今更さして後(ノ)世の言は難《トガ》むべきにもあらざれども、古書を讀むには其(ノ)意得あるべきものなりかし、)又|服從《マツロフ》祭《マツル》などいふも、もと同言なり、(服從も己が身を上へ獻る意、祭も供具を上へ獻る意なればおなじ、)さて其(レ)よりうつりては、何にても上へむかひて物することには、麻都流《マツル》といふこと、仕奉《ツカヘマツル》見奉《ミマツル》などいふがことし、(集中に、宮柱太敷奉神下座奉之《ミヤバシラフトシキマツルカムクダシイマセマツリシ》などある、これらの奉も、た(212)だ尊崇《アガ》めて稱るのみなり、)御調は、古事記に調御調、書紀に調調物賦苞苴などを、ミツキ〔三字右○〕ともミツキモノ〔五字右○〕ともよめり、又朝貢脩貢※[身+織の旁]などをどミキタテマツル〔八字右○〕と訓り、さて廿(ノ)卷に、美都奇《ミツキ》と假字書せるに据て清て唱ふべし、名(ノ)義は未(タ)詳ならず(古事記傳(ニ)美都岐《ミツキ》は、美《ミ》は御、都岐《ツギ》は都具《ツグ》を體言になしたるにて、御供給《ミツギ》なり、給は相|足《タス》也とも供也とも備也上も注せり、此(ノ)字常にはタマフ〔三字右○〕と訓て、上より下に賜(フ)ことゝのみ心得めれども、然のみには非ず、されば俗言に、人に物を看給《ミツグ》と云、都具《ツグ》と同言にて、都具《ツグ》は續《ツヾ》くる意なれば、御調と云は、公《オホヤケ》に用ひ賜ふ諸の物を下より供給奉《ツヾケマツ》る意の名なりと云り、美都奇《ミツキ》は上に云る如く、廿(ノ)卷に清音の字を用ひ、又出雲(ノ)國意宇(ノ)郡|筑陽《ツキヤノ》郷を、風土記に調屋《ツギヤ》と書(キ)、又拾遺集に、調(ノ)絹を月の衣にいひかけしなどをもおもへば、決《ウツナ》く清て唱へしにこそ、然れば此(ノ)説はいかゞなり、猶よく考(ヘ)定めていふべし、)等《ト》はとての意なり、○春部《ハルヘ》は、春方《ハルヘ》の意なり、部(ノ)字は用ひたれども清て唱ふべし、其(ノ)謂は上に委しくいへるがごとし、(本居氏(ノ)説に、春部の部は、方《ヘ》の意と誰もおもふめれど、春にのみいひて、夏部《ナツヘ》秋部《アキヘ》冬部《フユヘ》といふことなければ、方の意にはあらず、春榮《ハルバエ》を約めたる言なりと云るは、しひことなるべし、春にのみ方といひて、夏方《ナツヘ》秋方《アキヘ》冬方《フユヘ》など云ざるは、たとへば冬をば御冬《ミフユ》とは云ども、御春《ミハル》御夏《ミナツ》御秋《ミアキ》とは云じ、又又|夕《ユフ》を由布由布幣《ユフヘ》とはいへども、朝《アサ》を朝幣《アサヘ》とは云ず、往《イニシ》を往方《イニシヘ》とは云ども、今を今方《イマヘ》とはいはぬ類、凡て小と多ければ、一(ト)はかりにはおして定めがたきをや、(213)但し八卷に、打上佐保能河原之青柳者今者春部登成爾?類鴨《ウチアゲルサホノカハラノアヲヤギ ハイマハハルヘトナリニケルカモ》、とある春部は、春榮《ハルバエ》なるべしとおもふ人も有べけれども、かれは柳の芽の萠《ハル》を、春にいひかけしのみにて、猶部の言までにはあづからず、)○花挿頭持《ハナカザシモチ》は、山(ノ)上に花のさきたるを山神の花をかざしたまへるに見なしていへるなり、嚴水云、岡部氏(ノ)考に、此(ノ)持は添たる言のみぞと云るは心得ず、手に取持ざれども身に著たらむをば持といふべし、されば頭に挿るをも持といふべきなりと云り、按(フ)に、古事記上卷に、鼠咋2持其(ノ)鳴鏑(ヲ)1、出來而奉(リキ)也、云々、集中十(ノ)卷に、青柳之枝啄持而鶯鳴毛《アヲヤギノエダクヒモチテウグヒスナクモ》、十六に、白鷺乃桙啄持而飛渡良武《シラサギノホコクヒモチテトビワタルラム》など、これらも手して取ずても、持といへる證なれば、嚴水が説はいはれたりといふべし、○黄葉加射之《モミヂバカザシ》、(舊本に、黄葉頭刺理とありて一(ニ)云黄葉加射之と註《シル》せり、一(ニ)云のかたよろしければ用つ、黄葉かざし小網さしわたすと結《トヂ》めり、語(ノ)勢味ふべし、)これも花に同じく意得べし、○遊副川之《ユフカハノ》、句なり、遊副川は、宮瀧の末に、今ゆ川てふ所ありとぞ、是か、又は七(ノ)卷に、結八川内《ユフヤカハチ》とよめる是ならむか考(フ)べし、○神母《カミモ》、三言一句なり、母《モ》は上の山(ノ)神に對へていへるなり、○大御食爾《オホミケニ》、(食(ノ)字、類聚抄に命と作るは誤なり、)大御はたゝへ奉れる辭なり、食《ケ》は食物をいふ、大御食物を取まかなふ事にといふほどの意なり○仕奉等《ツカヘマツルト》は、奉(ル)v仕(ヘ)とての意なり、○上瀬《カミツセ》は、古事記下卷允恭天皇(ノ)條(ノ)歌に、賀美都勢《カミツセ》とあり、清て唱ふべし、上(ツ)瀬下(ツ)瀬をいへるは、ことによしあるにはあらざるに似たれど、川のうち悉く、大御膳の料になし給ふさ(214)まをいはむ爲なり、中(ツ)瀬はおのづから上下の間にこもれり、○鵜川乎立《ウカハヲタテ》は、鵜川は十七に、宇加波《ウカハ》とあり、これも清て唱ふべし、さて立《タテ》は令《セ》v立《タヽ》の意なり、立は本居氏(ノ)説に御獵立《ミカリタヽ》す、又は射目立《イメタテ》てなどの立と同じくて、鵜に魚をとらする業を即(チ)鵜川といひ、其(ノ)鵜川をする人どもを立するを云なり、と云るがごとし、○小網刺渡《サデサシワタス》(網(ノ)字、舊本に綱に誤、類聚抄拾穂本等に從つ、刺(ノ)字、類聚抄に引と作るはわろし、)小網は、(左泥《サデ》と泥《デ》を濁りて唱ふべし、)和名抄に、※[糸+麗](ハ)(佐天《サデ》)網如2箕(ノ)形1、狹v後廣v前(ヲ)名也とあり、今もさる網をさで網《アミ》といへり、四(ノ)卷に、網兒之山五百重隱有佐提乃埼左手蠅師子之夢二四所見《アコノヤマイホヘカクセルサデノサキサデハヘシコガイメニシミユル》、九(ノ)卷に、三河之淵瀬物不落左提刺爾衣手濕干兒波無爾《ミツカハノフチセモオチズサデサスニコロモテヌレヌホスコハナシニ》、十九に、平瀬爾波左泥刺渡早湍爾波水烏乎潜都追《ヒラセニハサデサシワタシハヤセニハウヲカヅケツツ》などよめり、(後選集に、こもまくら高瀬のよどにさす小網《サデ》のさてや戀路にしをれはつべき、千載集に、是をみよむつたの淀にさでさしてしをれし賤のあさ衣かは、)刺渡は、サシワタス〔五字右○〕と訓べし、是にて一首の一段なり、(サシワタシ〔五字右○〕とよみて、下へつゞけて意得るはわろし、)さて鵜川をたて、小網さすは人のするわざなれど川(ノ)神の許して多くの魚をとらしむるを、やがて神の供御を取まかなふ事に、つかへまつると云るなり、○山川母は、ヤマカハモ〔五字右○〕と清て唱ふべし、さて山川は、たゞ山と川とを云るにはあらで、山神と川神とを云るなり、天神地祇をやがて天地《アメツチ》と云ると同格なり、猶この事は、下の藤原(ノ)宮役民(カ)歌の條下に、委くいはむを併(セ)考(フ)べし、こゝは上に青垣山山神《アヲカキヤマヤマツミノ》云々といひ、遊副川(215)之神母《ユフカハノカミモ》云々と云るを、反覆《カヘサ》ひやへるなり、母《モ》は山神も河神もといふにはあらず、臣民のいそしくつかへまつるに、臣民のみならず、山神河神もといふ意なり、○依弖奉流《ヨリテツカフル》(弖(ノ)字、類聚抄に立と作て、ヨリタテマツル〔七字右○〕とあるはわろし、)は皈依《ヨリキ》て仕(ヘ)奉るなり、臣民とひとつによりてつかふるといふなり、○神乃御代鴨《カミノミヨカモ》は、天皇の御代哉といふなり、天皇は即(チ)神にしましませば、かく云るなり、鴨は(借(リ)字)嘆息詞なり、上にいへり、○歌(ノ)意は、此(ノ)吉野にしも、かく天皇の大御舍《オホミヤ》高知(リ)大|坐《マシマ》すに就ても、山神は御調を奉上《タテマツ》るとて、春は花をもち秋は黄葉をかざし、河神は大御食の事に仕(ヘ)奉るとて、鵜川を立(テ)小網さしわたしなどする事よ、あはれ臣民のみならず、山河の神までも皈依《ヨリキ》て仕(ヘ)奉るは、たふとくめでたき神の御代哉といへるなり、上の長歌には、臣民の勞をわすれて、此(ノ)離宮につかへまつる事をいひ、此(ノ)長歌には、神までもいそしくつかへまりつり給ふ事をよめり、
 
反歌《カヘシウタ》
 
39 山川毛《ヤマカハモ》。因而奉流《ヨリテツカフル》。神長柄《カムナガラ》。多藝津河内爾《タギツカフチニ》。船出爲加母《フナデセスカモ》。
 
本(ノ)二句は、長歌なると同じ、さてこの二句は、神長柄《カムナガラ》の句へ直に續て意得べからず、第四句へつゞけて聞べし、山神河神までもより來てつかへ給ふ、その瀧つ河内にの意なり、○神長柄《カムナガラ》も、長歌なるに同じ、船出に、續けて意得べし、○船出爲加母は、フナデセスカモ〔七字右○〕と訓るよろし、(216)天皇の大御船出し遊び賜ふ哉と云なり、爲をセス〔二字右○〕といふは、長歌に神佐備世須登《カムサビセスト》とあるに同じく、爲《ス》の延りたる言にて、爲給ふといふに同じ意なり、加母《カモ》、は歎息の詞なり、○歌(ノ)意は、一二四三五と句を序《ツイ》でゝ意得べし、臣民のみならず、山川の神までも皈依《ヨリキ》て仕奉る、この瀧津河内に、神隨大御船出し賜ふを、見奉るが、あはれ貴き事にてある哉といふよしなり、
〔右日本紀(ニ)曰。三年己丑正月、天皇幸2吉野宮(ニ)1。八月。幸2吉野宮(ニ)1。四年庚寅二月。幸2吉野宮(ニ)1。五月幸2吉野宮(ニ)1。五年辛卯正月。幸2吉野宮(ニ)1四月幸(セリト)2吉野宮(ニ)1者《イヘリ》。未v詳(ニ)2知(ラ)何月(ノ)從駕(ニテ)作(ル)歌(ナルコトヲ)1。〕
 
者未云々以下を、拾穗本に未知何歳月とあり、○詳(ノ)字、類聚抄人麻呂勘文等にはなし、
 
幸《イデマセル》2于|伊勢國《イセノクニヽ》1時歌《トキノウタ》
 
幸2于伊勢國1は、これも持統天皇のなり、書紀に、持統天皇六年三月丙寅朔辛未、天皇不(テ)v從(ヒタマハ)v諫(ニ)、遂(ニ)幸2伊勢(ニ)1云々、甲申、賜2所過《スギマス》志摩(ノクニノ)百姓男女年八十以上(ニ)、稻人(コトニ)五十束(ヲ)1、と見えたれば、其(ノ)時阿胡の行宮にもおはせしなれば、左の歌はあるなり、左注は書紀を見誤れり、猶下にいふべし、(これを拾遺集に、題詞を伊勢の御ゆきにまかりてと有はいかに、左の歌どもは、京に留りてよめるにて、歌詞もその意にこそあれ、此(ノ)集をも見ずして、おしはかりに書るみだりわざぞかし、
 
40 嗚呼兒乃浦爾《アゴノウラニ》。船乘爲良武《フナノリスラム》。※[女+感]嬬等之《ヲトメラガ》。珠裳乃須十二《タマモノスソニ》。四寶三都良武香《シホミツラムカ》。
 
嗚呼兒乃浦爾《アゴノウラニ》は、(嗚呼を阿《ア》とよむは、歎息の音なり、今あゝといへり、靈異記に噫、新撰字鏡に嗟(217)を阿とよめるも同じ、)和名抄に、志摩(ノ)國英虞(ノ)郡とあり、そこの海邊なり、こゝに行宮あれば、京よりおしはかりてよめるなり、(兒(ノ)字、舊本見に誤りて、アミノウラ〔五字右○〕とよめるはよしなし、)十五に、安胡乃宇良爾布奈能里須良牟乎等女良我安可毛能須素爾之保美都良武香《アゴノウラニフナノリスラムヲトメラガアカモノスソニシホミツラムカ》、と有は即(チ)此(ノ)歌の重出なり、(其(ノ)歌の左に、柿本(ノ)朝臣人麻呂(ノ)歌(ニ)曰、安美能宇良《アミノウラ》と書るは、後人の書加(ヘ)しものにて取に足ず、)○船乘爲良武は、船乘をフナノリ〔四字右○〕と訓こと既く出つ、良武《ラム》は京よりおもひやりたるなり、※[女+感]嬬等之といふに直に續けてこゝろ得べし、○※[女+感]嬬等之《ヲトノラガ》とは、從駕の女房をさせるなり、※[女+感]嬬は乎登古《ヲトコ》に對ひたる稱にて年若き女をいふ稱なること上にいへり、等《ラ》とは數人をさしていふごとく聞ゆれども、猶心にさす女ありけるなるべし、一人をさして等《ト》といふこと、古語のつねなればなり、一人の妹を妹等《イモラ》といふにひとし、○珠裳乃須十二《タマモノスソニ》は、珠は美稱詞なり、裳は和名抄に、釋名(ニ)云、上(ヲ)曰v裙(ト)下(ヲ)曰v裳(ト)、和名|毛《モ》とあり、二(ノ)卷に、旦露爾玉藻《アサツユニタマモ》(玉裳なり、)者※[泥/土]打《ハヒヅチ》、十一に、此河瀬爾玉裳沾津《コノカハノセニタマモヌラシツ》、廿(ノ)卷に、乎等賣良我多麻毛須蘇婢久《ヲトメラガタマモスソビク》などあり、須十二《スソニ》は裾《スソ》になり、さてこゝに珠裳と美ていへるは、潮に沾(ル)らむくちをしさを思はせたる意もあるべし○四寶三都良武香《シホミツラムカ》は、潮に沾らむかといふ意なり、香《カ》は疑の詞なり、○歌(ノ)意は、女房はつねに簾中にこそ住ものなるに、たま/\御供奉《ミトモツカヘマツリ》て、心もとなき海邊に月日經て、あらき島囘に裳裙を潮にぬらしなど、なれぬ旅路やなにこゝちすらむと想像《オモヒヤリ》憐みてよめるなるべし、次(218)下の潮左爲二《シホサヰニ》の歌にて、おのづからその意と聞えたり、あらはにわびしかるらむと云ては、行幸をそしるやうにきこゆれば、ほのめかしたるなり、(略解に、海人處女ならで、御供の女房の裳に汐滿來らむはめづらしとよめるなり、と云るはいかが、)
 
41 ※[金+叉の横一なし]著《クシロマク》。手節乃崎二《タフシノサキニ》。今毛可母《イマモカモ》。大宮人之《オホミヤヒトノ》。玉藻苅良武《タマモカルラム》。
 
釵著、(釵(ノ)字、舊本劔と書るは誤なり、十二舊本四丁二十四丁に、玉釼とあるは玉釵なるべし、劔は釼を又誤寫せるなり、釵は釵釧とつらぬる字にて、即(チ)久志呂《クシロ》に用ひしなるべし、釼は人質(ノ)切、鈍也と見えて、音も義ももとより異なれば釵を寫誤れること決し、但し箭室をいふ由岐《ユキ》は靫なるを、此(ノ)集などに靱と作れば、又を刃と作《カケ》るも、やゝ舊きことには有なるべし、又九(ノ)卷に、玉※[金+爪]とある※[金+爪]は※[金+辰]の俗字とありて、※[金+辰]は和名抄に久之路《クシロ》と見えたれば、もとより字の誤にはあらず、)釵は久志呂《クシロ》と清て唱ふべし、(久自呂《クジロ》と濁るは非し、)九(ノ)卷に、吾妹兒者久志呂爾有奈武左手乃吾奧手爾纏而去麻師乎《ワギモコハクシロニアラナムヒダリテノアガオクノテニマキテイナマシヲ》、古事記下卷にも見え、和名抄備中郷(ノ)名に釧代(久志呂《クシロ》とあり、(この郷(ノ)名は、もとは釧(ノ)字のみにてありけむを、和銅の制にて二字になせる時に、代(ノ)字をばそへたるなるべし、)さて同書農耕(ノ)具に、※[金+辰](ハ)漢語抄(ニ)云|加奈加岐《カナカキ》、一(ニ)云|久之路《クシロ》、服玩(ノ)具に、釧(ハ)比知萬伎《ヒヂマキ》とあるは、其(ノ)比ははやく服玩(ノ)具には久志呂《クシロ》の稱《ナ》亡《ウセ》て、たま/\農耕(ノ)具に其(ノ)名稱の存《ノコ》れるなるべし、著は、もとのまゝにても通《キコ》ゆれど、尚熟考(フ)るに、卷の誤寫なるべきか、著卷草書は(219)混ひぬべし、しか云故はまづすべて同じく身に著ることをも、其(ノ)物によりて各々唱(ヘ)かはれりと見ゆ、其は帶《オビ》紐《ヒモノ》類には結《ユフ》とも著《ツク》ともいひ、刀《タチ》沓《クツノ》類には波久《ハク》と云、玉《タマ》鈴《スヾノ》類には麻久《マク》と云ならはしたるを思(フ)べし、且《ソノウヘ》右に引九(ノ)卷歌にも、久志呂《クシロ》に纏《マク》とよみ、又十二に、玉釵卷宿妹母《タマクシロマキネシイモモ》云々、また玉釵卷寢妹乎《タマクシロマキネシイモヲ》云々、また古事記に、女鳥(ノ)王所v纏2御手(ニ)1之|玉釧《タマクシロ》ともあるとおもへば、釧卷《クシロマク》とありしにやとこそ思はるれ、さてこの釵は臂に纏(ク)具にて、臂は即(チ)手節なれば、かく云て手節の枕詞とはせるなり、○手節乃崎《タフシノサキ》は、和名抄に、志摩(ノ)國|答志《タフシノ》郡|答志《タフシ》郷あり、續紀八(ノ)卷に、分2志摩(ノ)國塔志(ノ)郡五郷(ヲ)1、始(テ)置2佐藝(ノ)郡(ヲ)1、續後紀九(ノ)卷に、志摩(ノ)國答志(ノ)島など見えたり、(多夫志《タブシ》と濁るは誤なり、)清て唱(フ)べし、○今毛可母《イマモカモ》は、今|哉《カ》にて、二(ツ)の母は助辭なり、此詞集中に多し、○大宮人之《オホミヤヒトノ》は、これも從駕の人をさせり、これまたひろく大宮人をいふことなれど、このうちに、必(ズ)さす人ありてよめるなるべし、○玉藻苅良武《タマモカルラム》は、上の麻續(ノ)王の贈答によれば玉藻は食料に刈なり、されどもこゝは從駕なれば、さるわびしきわざすべきやうなければ、これはたゞならはぬ舟路の、わびしくやあるらむとおもふこゝろを、藻を苅に託ていへるなるべし、あらはにわびしかるらむといへば、從駕をいとふやうにきこゆれば、かく物に託て大かたに云るなるべし、○歌(ノ)意從駕の人の手節の崎にて、玉藻を今やかるらむ、海人こそ常に刈め、大宮人の刈らむは、思ひがけぬわざなれば、いかにわびしくやあるらむと、おもひやりたる意なり、                                    
(220)42 潮左爲二《シホサヰニ》。五十等兒乃島邊※[手偏+旁]船荷《イラゴノシマヘコグフネニ》。妹乘良六鹿《イモノルラムカ》。荒島囘乎《アラキシマミヲ》。
 
潮左爲《シホサヰ》(潮(ノ)字、拾穗本に湖と作るはわろし、)は、潮の動《サワ》ぐを云なるべし、爲《ヰ》は、和伎《ワキ》の約れるにて、潮動《シホサワギ》なるべきか、(今も肥前肥後のあたりはては、潮の滿るを。潮左爲《シホサヰ》といふよしなり、)三(ノ)卷に、鹽左爲能浪乎恐美《シホサヰノナミヲカシコミ》、十一に、牛窓之浪乃鹽左猪島響《ウシマドノナミノシホサヰシマトヨミ》、十五に、於伎都志保佐爲多可久多知伎奴《オキツシホサヰタカクタチキヌ》などあり、一説に、十四に、安利伎奴乃佐恵佐恵之豆美伊敝能伊母爾毛乃伊波受伎爾?於毛比具流之母《アリキヌノサヱサヱシヅミイヘノイモニモノイハズオモヒグルシモ》、古事記上卷に、口大之尾翼鱸佐和佐和邇控依騰而《クチフトノヲハタスヾキサワサワニヒキヨセアゲテ》云々、此(ノ)集二(ノ)卷に小竹之葉者三山毛清爾亂友吾者妹思別來禮婆《サヽガハハミヤマモサヤニミダレドモアレハイモオモフワカレキヌレバ》ともある、この佐惠《サエ》、佐和《サワ》、佐夜《サヤ》ともに佐爲《サヰ》に同じく、さやさやと鳴音をいふ詞なり、古事記上卷に、豐葦原之《トヨアシハラノ》、千秋長五百秋之水穂國者《チアキノナガイホアキノミヅホノクニハ》伊多久佐夜藝?有祁理《イタクサヤギテアリケリ》、書紀神武天皇(ノ)卷に、夫(レ)葦原(ノ)中(ツ)國、猶|聞喧擾之響焉《サヤゲリケリ》(聞喧擾之響焉、此云2左椰霓利奈離《サヤゲリナリト》1、)など。皆あしき神のさわぐ音をいへり、されば潮のみちくる時、さわ/\と鳴る音を、潮左爲《シホサヰ》とはいふなるべしと云り此(ノ)説もさることなり、○五十等兒乃島《イラゴノシマ》は、此(ノ)上にも云り、岡部氏(ノ)考に、參河(ノ)國の崎なり、其(ノ)崎いと長くさし出て、志摩の手節の崎と遙に向へり、其(ノ)間の海門《ウナト》に、神島大つゞみ小つゞみなどいふ島どもあり、それらかけて、古(ヘ)はいらごの島といひしか、されど此(ノ)島門あたりは、世に畏き波の立まゝに、常の船人すら、漸に渡る所なれば、官女などの船遊びする所ならず、こゝは京にて大よそを聞て、おしはかりによみしのみなりと云り、今按(フ)(221)に、これは船遊するさまを、おもひやりていへるにはあらず、さる恐き島門を乘らむ女房の、いかにかしこく、心ぼそく危かるらむとおもひやり、あはれみたるなり、されば下に荒(キ)島囘とも云るなり、しか恐き浪の立ところならでは、此(ノ)歌にかなひがたし、○妹乘良六鹿《イモノルラムカ》、この妹は、從駕の女房たちのうちをさすなり、鹿《カ》は疑の詞なり、この鹿《カ》は、上の潮左爲爾《シホサヰニ》をうけていへるにて、潮さゐの時しも、妹のるらむかといふ意なり、○荒島囘乎《アラキシマミヲ》、(囘(ノ)字古寫本拾穗本等に廻と作り、)島囘をシマミ〔三字右○〕とよむは、十七に之麻未《シマミ》とあればなり、囘《ミ》は毛登保里《モトホリ》の切りたるなり、毛登《モト》を切て毛《モ》となり、毛保《モホ》を切てまた毛《モ》となり、さて毛里《モリ》を切て美《ミ》となれり、毛登保里《モトホリ》は、十九に、大殿乃此母等保里能雪奈布美曾禰《オホトノヽコノモトホリノユキナフミソネ》とありて米具里《メグリ》といふに同じ意ばえの言なり、十八に、安利蘇野米具利《アリソノメグリ》とあり、さてかくいふ故は、集中に、行多毛登保里《ユキタモトホリ》、又|※[手偏+旁]多母等保里《コギタモトホリ》など往々《コレカレ》あるを、また行多味《ユキタミ》、また榜多味《コギタミ》と多く云るによりて、シマミ〔三字右○〕などのミ〔右○〕も、毛等保里《モトホリ》の切りたる言なり、と云るをさとるべし、さて凡て某囘と書《ア》る囘は、ミ〔右○〕と訓べきなり、その證は、集中に、浦囘と書るを、借(リ)字には、四(ノ)卷九(ノ)卷十一に、浦箕と書(キ)、又九(ノ)卷に、須蘇廻とあるを、假字には、十七廿(ノ)卷に、須蘇未《スソミ》と書り、又集中に隈囘とあるを、五(ノ)卷に、久麻尾《クマミ》と假字書にせり、是(レ)等にて凡《スベテ》某囘と書る囘は、尾《ミ》とよむべきを曉りてよ、(然るを、舊本九(ノ)卷三十二丁に、裏末、十四三丁十五十一丁十二丁十六丁十九丁二十七丁十八六丁八丁に、宇良末、十七十九丁廿二丁に、伊(222)蘇末(ノ)、十八十丁に、加敝流末などあるによりて、凡て某囘の囘を、マ〔右○〕と訓たれども、よしなし、これらの末は、皆未(ノ)字の誤にこそありけれ、凡て集中に、未末をかたみに誤れること、いと/\多かるを、そをこと/”\に改め正さずしては、解がたきふし多かるをや、又九卷に、遊磯麻見者悲裳《アソビシイソミレバカナシモ》とある磯麻を、イソマ〔三字右○〕とよめれども、彼《ソ》は麻をヲ〔右○〕の假字に用ひたるにて、イソヲ〔三字右○〕と訓べき理にこそ有けれ、イソマ〔三字右○〕とよみては、凡てかなはぬ事なりかし、又十五に、伊蘇乃麻由とあるは、磯之間從《イソノマユ》てふことにて、もとより異なり、又後撰集に、白浪の寄る伊蘇麻《イソマ》を榜船の、千載集に、藻くづ火の伊蘇麻《イソマ》を分るいざり舟などよめるも、磯間《イソマ》といふことなり、磯囘の意に非ず混ふべからず、又此(レ)等の例によりて、廿(ノ)卷に、之麻米とある米も、未(ノ)字の寫誤なることを知ぬ)さてこの島囘は、即(チ)五十良兒《イラゴ》の島のめぐりをさすなり、乎は物乎《モノヲ》の乎《ヲ》なり、をのこすら、かしこかるべきに、まして女は、いかにかしこくあやふかるらむ、女の乘(ラ)るべくもあらぬ、あらき島囘なるものをとの意なり、土佐日記に、まして女は船そこにひたひをつきあてゝ、ねをのみぞなく、とあるをも思(ヒ)合(ス)べし、○歌(ノ)意は、五十良兒の島は、常だにかしこき島のめぐりなるに、まして鹽さゐの時にしも、妹のるらむか、女の身にして、いかに心ぼそく、あやふくかしこかるらむと、ふかくいたはりおもひやりたるなり、
 
右三首《ミギノミウタハ》。柿本朝臣人麿《カキノモトノアソミヒトマロガ》留《トヽマリテ》v京《ミヤコニ》作《ヨメル》。
 
(223)43 吾勢枯波《ワガセコハ》。何所行良武《イヅクユクラム》。己津物《オキツモノ》。隱乃山乎《ナバリノヤマヲ》。今日香越等六《ケフカコユラム》。
 
吾勢枯波《ワガセコハ》は、吾夫子者《ワガセコハ》にて、おのが夫(ノ)君をさせるなり、○何所行良武《イヅクユクラム》は、夫(ノ)君の旅中をおもひやりて、いかなる處をかゆくらむと、夫(ノ)君のゆくらむ處の、しらまほしさにいふなり、何所は伊豆久《イヅク》と訓べし、(イヅコ〔三字右○〕といふは後なり、)古事記中卷應神天皇(ノ)大御歌に、かく假字書せり、○己津物《オキツモノ》は、己は字書に起也とあるによれり、さて己物ともにかりもじにて、枝津藻之《オキツモノ》なり、奧は底を云(フ)、水底の藻はかくれて見えねば、隱《ナバリ》の枕詞とせり、(冠辭考の説は、うべなひがたし、)○隱乃山《ナバリノヤマ》は、本居氏、伊賀(ノ)國名張(ノ)郡の山なり、大和より伊勢へ下るに、伊賀を經るは常なり、又大和の地(ノ)名に吉隱《ヨナバリ》もあれば、なばりの山なる事を思ひ定むべし、さてなばりは、即(チ)隱るゝことの古語なるべし、おきつものといふも、又此(ノ)卷(ノ)末に、朝(タ)面なみ隱《ナバリ》にかとよめるをみるに、皆隱るゝ意のつゞけなり、十六に難波乃小江爾廬作難麻理弖居葦河爾乎《ナニハノヲエニイホツクリナマリテヲルアシガニヲ》云々、是(レ)隱れて居る事を、なまりてをると云りよいへり、今按(フ)に、古事記中卷安寧天皇(ノ)條に、那婆理之《ナバリノ》稻置とあるも、名張(ノ)郡なるべし、○今日香越等六《ケフカコユラム》、この今日といふに心を付て聞べし、香《カ》は疑の詞なり、上はひろく、何所をかゆくらむとよめるにて、さて日をかぞへなどしてみれば、大抵今日ころは、名張の山を越もすらむかと、おもひやりたるなり、○歌(ノ)意は、夫(ノ)君は、いづくあたりをかゆくらむ、もし今日などは名張(ノ)山をこゆらむかと、夫(ノ)君の行程《ミチノホド》を、心のうちに、さま/”\に思ひや(224)りてよめるなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。當麻眞人麻呂妻《タギマノマヒトマロガメ》。
 
當麻(ノ)麻呂(カ)妻、傳詳ならず、此(ノ)姓の事、用明天皇(ノ)紀に、葛城(ノ)直磐村(カ)女廣子、生2一男一女(ヲ)1、男(ヲ)曰2麻呂子(ノ)皇子(ト)1、此當麻(ノ)公之先也、天武天皇(ノ)紀に、十三年冬十月己卯朔、詔曰、更2改《アラタメ》諸氏之族姓《ウヂ/\ノカバネヲ》1、作2八色之姓(ヲ)1、以|混《スブ》2天(ノ)下(ノ)萬(ノ)姓(ヲ)1、云々、當麻(ノ)公云々、十三氏(ニ)賜v姓(ヲ)曰2眞人(ト)1、姓氏録に、當麻(ノ)眞人(ハ)、用明(ノ)皇子麻呂古(ノ)王之後也と見えたり、四(ノ)卷に、幸2伊勢(ノ)國(ニ)1時、當麻(ノ)麻呂(ノ)大夫(カ)妻(ノ)作(ル)歌とて載たり、當麻はタギマ〔三字右○〕と訓べし、履中天皇(ノ)紀に、※[口+多]※[山+耆]麻《タギマ》とあり、(後(ノ)世タヘマ〔三字右○〕と云は訛なり、)さてこの當麻(ノ)眞人麻呂も、同じ行幸の從駕にて、京に留れる妻のよめるなり、大和より伊勢にくだるには、必、(ス)伊賀を經れば、伊賀(ノ)國名張山を越ますほどをおもひやりてよめるなり、
 
44 吾妹子乎《ワギモコヲ》、去來見乃山乎《イザミノヤマヲ》。高三香裳《タカミカモ》。日本能不所見《ヤマトノミエヌ》。國遠見可聞《クニトホミカモ》。
 
吾妹子乎《ワギモコヲ》とは、和我伊母《ワガイモ》の我伊《ガイ》を切めて、和藝母《ワキモ》といへり、子《コ》は親辭なり、さてこは妹を去來《イザ》見むといふへ係れる枕詞なり、此歌もと妹があたりだに見まほしき心よりおきたる枕詞にて、妹をいざ見むといふ意に、いひかけられたり、(本居氏は、妹をいざなふ由の枕詞なり、いざ見むと云つゞけにはあらずと云り、七(ノ)卷に、波禰※[草冠/縵]今爲妹乎浦若三去來率河之《ハネカヅライマセルイモヲウラワカミイザイザカハノ》ともあれば、さるべきことながら佐美《サミ》の山に云かけしとするときは、なほいざ見むの意なるべし、)○(225)去來見乃山乎《イザミノヤマヲ》は、荒木田氏、伊勢(ノ)國二見の浦なる、大夫の松と云る、大樹の生たる山なるべし、さるは倭姫世記に、佐見津彦佐見津姫《サミツヒコサミツヒメ》參(リ)相而、御鹽濱御鹽山奉支《ミシホハマミシホヤマタテマツリキ》と云るは、この二見が浦なるを、今猶彼(ノ)山の麓に流るゝ小川を、佐見《サミ》河といへば、これぞ佐見の山なるを、伊《イ》の發語をそへ、吾妹子といふまくら辭をおきて、去來見《イザミ》の山とはつゞけしならむ、この二見の浦より、阿胡《アゴ》にいたりまさむには、此(ノ)山の東より南に折(レ)て、鳥羽の御船はつべきなれば、二見が浦をいでます程は、大和(ノ)國より越ませし山々も、西のかたに遙に見放らるゝに、この山をしも榜(キ)廻りまして、東南に入(リ)ては、大和の方の見えずなりぬるをかなしみて、かくはよみ賜へるなるべしといへり、(坂士佛(カ)大神宮參詣記、二見の浦に、佐美明神とて古き神ましますと書るは、いはゆる佐美津彦佐美津姫をいふなるべし、○夫木集十五に、たつねつゝいざみの山のもみぢばのしぐれにあへる色のてこらさ、とあるは、去來見《イザミ》をやがて、山(ノ)名とおもへるよりよめるか、但し谷川氏、伊勢(ノ)國飯高(ノ)郡に、いざみの山ありと云り、猶尋ぬべし、)乎《ヲ》は、次の高三《タミ》をいはむためなり、○高三香裳《タカミカモ》は、高さにかの意なり、香《カ》は疑の詞、裳《モ》は歎く意をかねたる助辭なり、この香裳の詞は、次(ノ)句の下にうつして意得べし、○日本能不所見《ヤマトノミエヌ》は、佐美《サミ》の山の高さに、大和(ノ)國の見えぬかといふ意なり、日本とかけるは、大和(ノ)國のことなり、○國遠見可聞《クニトホミカモ》も、國が遠さにかの意なり、この聞《モ》も上の如し、○歌(ノ)意は、吾妹子があたりを、いざ見むとおもひて、大和(ノ)國(226)をみやれども見えぬは、佐美の山が高さにか、もししからずは、國の遠さにか、あはれいづれにもあれ、ゆゑなくては見えざらむやうなし、いかさま國の遠く隔りたる故なるべしと、人よりことわらしめむやうに、よみ給へるなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。石上大臣從駕作《イソノカミノオホマヘツキミノオホミトモツカヘマツリテヨメル》。
 
石上大臣は、石上(ノ)朝臣麻呂公なり、大臣はオホマヘツキミと〔八字右○〕訓べし、上内(ノ)大臣の下に委(ク)注るを考(ヘ)合すべし、さて和名抄に、左右大臣(ハ)於保伊萬宇智岐美《オホイマウチキミ》、古今集にも堀川のおほいまうちきみ、などあるによらば、(於保伊《オホイ》は於保岐《オホキ》なり、凡て岐《キ》を伊《イ》といふはやゝ後の頽(レ)にて、岐佐岐《キサキ》を伎佐伊《キサイ》、都岐垣《ツキカキ》を都伊垣《ツイカキ》、可岐麻美《カキマミ》を可伊麻美《カイマミ》、都岐立《ツキタチ》を都伊立《ツイタチ》など云は、弘仁以後のことにて、奈良朝の頃まではなきことなり、)。オホキマヘツキミ〔八字右○〕とも唱(ヘ)申べけれど、此(ノ)下元明天皇(ノ)大御歌に、物部乃大臣《モノヽフノオホマヘツキミ》とあれば、なほもとは然ぞ唱へけむ、敏達天皇紀に、以2蘇我(ノ)馬子(ヲ)1爲2大臣《オホマウチキミ》1とある、これも大をオホ〔二字右○〕とのみいへる證なり、さて又大臣をオホオミ〔四字右○〕と唱へしこともあれど、そは皇極天皇(ノ)紀、高麗(ノ)國の使人の諮言《マヲシコト》に、大臣伊利柯須彌《オホオミイリカスミ》(姓名)殺2大王(ヲ)1云々とありて、ことの樣《サマ》かはれり、(又中古以來の物には、大臣を於等騰《オトヾ》といへり、大殿の意なり、されど此(ノ)集などにては、凡てオホマヘツキミ〔七字右○〕と唱へしにこそ、)麻呂公は、慶雲元年に右大臣となり給ひて、この持統天皇の御時は、いまだ大臣ならねど、後よりめぐらしてしか書しなり、三(ノ)卷には、石(227)上卿とあり、書紀に、天武天皇朱鳥元年九月戊戌朔乙丑、諸僧尼亦哭2於殯宮(ニ)1、是日直廣參石上(ノ)朝臣麻呂、誄2法官(ノ)事(ヲ)1、持統天皇十年冬十月己巳朔庚寅、假2賜直廣壹石上(ノ)朝臣麻呂(ニ)資人五十人(ヲ)1、續紀に、文武天皇四年冬十月己未、以2直大壹石上(ノ)朝臣麻呂(ヲ)1爲2筑紫惣領1、大寶元年三月甲午、授2中納言直大壹石上(ノ)朝臣麻呂(ニ)正三位(ヲ)1云々爲2大納言(ト)1、是(ノ)日罷2中納言(ノ)官(ヲ)1、二年八月辛亥、以2正三位石(ノ)上朝臣麻呂1、爲2太宰(ノ)帥(ト)1、慶雲元年正月癸巳、詔以2大納言從二位石上(ノ)朝臣麻呂1、爲2右大臣1、丁酉、右大臣從二位石上(ノ)朝臣麻呂、益2封二千一百七十戸(ヲ)1、和銅元年春正月乙巳授2正二位(ヲ)1、三月丙午、爲2左大臣(ト)1、養老元年三月癸卯、左大臣正二位石上(ノ)朝臣麻呂薨(ス)、帝深(ク)悼惜《イタミタマフ》焉、爲之罷v朝(ヲ)、詔云々贈2從一位(ヲ)1、云々、大臣(ハ)泊瀬(ノ)朝倉(ノ)朝庭大連物部目之後、難波(ノ)朝衛部大華上宇麻呂之子也とあり、
 
〔右日本紀(ニ)曰(ク)。朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰。以2淨廣肆廣瀬(ノ)王等1。爲2留守官(ト)1。於是中納言三|輪《ワ》朝臣高市麻呂。脱(テ)2其(ノ)冠位《カヾフリヲ》1※[敬/手]2上《サヽゲテ》於朝(ニ)1重諫(テ)曰、農作《ナリハヒ》之前。車駕未v可2以動(ス)1。辛未。 天皇不(シテ)v從v諫(ニ)。遂幸(シタマフ)2伊勢(ニ)1。五月乙丑朔庚午、御(ス)2阿胡(ノ)行宮(ニ)1。〕
 
朱鳥六年は誤なり、持統天皇六年とあるべし、○肆(ノ)字、舊本には津と作り、拾穗本に肆とあるよろし、○五月乙丑以下は、書紀を見誤りたるものなり、書紀に、持統天皇六年五月乙丑朔庚午、御(ス)2阿胡(ノ)行宮(ニ)1時、進v贄者、紀伊(ノ)國牟婁(ノ)郡人、阿古志(ノ)海部河瀬麻呂等兄弟三戸、復《ユルシタマフ》2十年調?雜(ノ)※[人偏+搖の旁](ヲ)1、云々とありて、五月庚午に、阿胡(ノ)行宮におはしませるにはあらず、こゝは前に、此(ノ)行宮にお(228)はしましゝ時の事を五月庚午に、云々行ひ賜ひしことを記せるなればなり、
 
輕皇子《カルノミコノ》。宿《ヤドリマセル》2于安騎野《アキノヌニ》1時《トキ》。柿本朝臣人麿作歌《カキノモトノアソミヒトマロガヨメルウタ》。
 
輕(ノ)皇子は、文武天皇の御小字にまします、古本の傍注に、皇子枝別記を引て、文武(ノ)少名河瑠(ノ)皇子(ハ)、天武(ノ)皇太子草壁(ノ)皇子(ノ)尊之子也とあり、草壁(ノ)皇子は、日並所知《ヒナミシラスノ》皇子(ノ)尊の御事なり。さて御父日並所知(ノ)皇子(ノ)尊、前にこの野に御獵有し事、二(ノ)卷の歌にも見ゆ、又此(ノ)御時は、輕(ノ)皇子をばいまだ王と申せし時なるを、皇子と書るは、後よりたふとみて書しなるべし、御傳は此(ノ)上に委(ク)云り、○安騎(ノ)野は、大和(ノ)國宇陀(ノ)郡にあり、左(ノ)歌に、阿騎乃大野《アキノオホヌ》とよみ、書紀天武天皇(ノ)卷に、元年六月云々、即日《ソノヒ》到(リマス)2菟田(ノ)吾城《アキニ》1、とある地の野なり、其(ノ)下文に、到2大野(ニ)1ともあるにて、その曠野《ヌラ》のさま思ひやるべし、神名式に、宇陀(ノ)郡阿紀(ノ)神社とあるも其所なり、
 
45 八隅知之《ヤスミシヽ》。吾大王《ワガオホキミ》。高照《タカヒカル》。日之皇子《ヒノミコ》。神長柄《カムナガラ》。神佐備世須登《カムサビセスト》。太敷爲《フトシカス》。京乎置而《ミヤコヲオキテ》。隱口乃《コモリクノ》。泊瀬山者《ハツセノヤマハ》。眞木立《マキタツ》。荒山道乎《アラヤマミチヲ》。石根《イハガネノ》。禁樹押靡《シモトオシナベ》。坂鳥乃《サカトリノ》。朝越座而《アサコエマシテ》。玉限《カギロヒノ》。夕去來者《ユフサリクレバ》。三雪落《ミユキフル》。阿騎乃大野爾《アキノオホヌニ》。旗須爲寸《ハタスヽキ》。四能乎押靡《シヌニオシナベ》。草枕《クサマクラ》。多日夜取世須《タビヤドリセス》。古昔御※[御を○で囲む]念而《イニシヘオモホシテ》
 
八隅知之《ヤスミシシ》は、上にいへり、○吾大王《ワガオホキミ》は、この輕(ノ)皇子をさし奉れり、皇子をもかく申すことつねなり、○高照日之皇子《タカヒカルヒノミコ》は、古事記中卷景行天皇(ノ)條(ノ)歌に、多迦比迦流比能美古夜須美斯志和賀(229)意富岐美《タカヒカルヒノミコヤスミシヽワガオホキミ》云々、雄略天皇(ノ)條(ノ)歌にもあり、説は古事記傳に委し、○神長柄《カムナガラ》は、上にくはしくいへり、○神佐備世須登《カムサビセスト》は、神佐備爲給《カムサビシタマ》ふとてといふほどの意なり、こゝは此(ノ)安騎(ノ)野にいでますを申せり、已上二句は上に出て、くはしくそこに注り、○太敷爲《フトシカス》は、太敷《フトシキ》給ふといふほどの意なり、太敷は上に見えたり、○京乎置而《ミヤコヲオキテ》は、上に近江の遷都のことを、倭乎置而《ヤヤトヲオキテ》とある意に同じ、都を立出させ給ふ御あとに、おかせ給ひてといふなり、○隱口乃《コモリクノ》は、泊瀬のまくら詞なり、古事記下卷允恭天皇(ノ)條(ノ)歌に、許母理久能波都世能夜麻能《コモリクノハツセノヤマノ》云々、又|許母理久能波都勢能賀波能《コモリクノハツセノカハノ》云々、書紀にも此(ノ)枕詞あり、集中には此(ノ)詞多かる中に、隱口《コモリク》隱國《コモリク》隱久《コモリク》隱來《コモリク》などさま/”\に書たれども、隱國と書るぞ正しさ字にて、山ふところ弘くかこみたる所なれば、籠《コモ》り國の長谷《ハツセ》とはいへるなりと、冠辭考に云るはさることにてあるべけれど、なほおもふに、集中七(ノ)卷に、三諸就三輪山見者隱口乃始瀬之檜原所念鴨《ミモロツクミワヤマミレバコモリクノハツセノヒハラオモホユルカモ》、十一に、長谷弓槻下吾隱在妻《ハツセノユツキガモトニアガカクセルツマ》云々、(古事記雄略天皇(ノ)條に、坐2長谷之百枝槻(ノ)下(ニ)1爲2豐樂1云々、)などあると、今の歌に、眞木立荒山道乎《マキタツアラヤマミチヲ》云々とあるを合せて思ふに、此(ノ)山昔より、木立繁盛なりしことしるければ、隱と書たるは皆借(リ)字にして、木盛處之長谷《コモリクノハツセ》とは云なるべし、木高く盛えたるを木盛《コモリ》と云べきは、六(ノ)卷讃(ル)2久邇(ノ)新京(ヲ)1歌に布當乃宮者百樹成山者《》木高之《フタギノミヤハモヽキナルヤマハコダカシ》云々、とあるにて意得べし、(木立の繁りたるを、毛理《モリ》といふことは、古(ヘ)に例多し、)久《ク》は伊豆久《イヅク》何處)の久《ク》にて、處を云なり、彼處《カシコ》、此處《ココ》、宮處《ミヤコ》、また在所《アリカ》、隱所《カクレガ》、奧所《オクガ》な(230)どの許《コ》も可《カ》も、通ひて同言なり、(又或説に、隱口之と書る字(ノ)義にて、口に隱る齒《ハ》と云意に、泊瀬《ハツセ》に云かけたりと云るは古語の法則しらぬ人の論にて、辨(フ)に足ず、又荒木田氏が隱城之終《コモリキノハツ》といふ意にて、隱城は墓のことなり、と云るも當らぬことなり、)○泊瀬山者《ハツセノヤマハ》云々、泊瀬は和名抄に、大和(ノ)國城上(ノ)郡長谷(ハ)波都勢《ハツセ》、神名帳に同郡長谷山口神社と見ゆ、集中には此(ノ)地をよめる歌多く見え、後(ノ)世(ノ)歌にも甚多かり、古(ヘ)今に名所《ナタカキトコロ》なり、さて此地、中昔よりは波勢《ハセ》とも云て、今世にはもはら然云り、かくて名(ノ)義は、此(ノ)泊瀬川大和の國の眞中を流れたる、其(ノ)初の瀬の意か、川上はなほ遠けれども、國中《クニナカ》までは、此(ノ)地上(ツ)瀬なればなり、と古事記傳に云り、者《ハ》は、こと山に異なるよしを、しめしたる詞なり、○眞木立《マキタツ》は、眞木とは、集中に、眞木割檜《マキサクヒ》ともつゞけて、檜《ヒノキ》を美《ホメ》ていへる稱《ナ》なり、たとへば薄《スヽキ》を美て、眞草《マクサ》といふがごとし、されば檜を眞木といふは、歌(ノ)詞のみの事にて、品物の名を擧たる書には、皆檜とのみ云り、心をつけて考(フ)べし、(さてついでにいふべし、※[木+皮]をマキ〔二字右○〕と云は、檜を眞木といふとは固《モトヨリ》異《カハ》りて、書紀神代(ノ)卷一書に、素戔嗚(ノ)尊、云々、尻毛是成v※[木+皮]《マキト》云々、神武天皇(ノ)卷に、天皇、云々、祈之曰、吾(レ)今當(ニ)以2嚴※[分/瓦]1、沈(メムニ)2于丹生之川(ニ)1、如《モシ》魚無2大小(ト)1、悉(ニ)醉而流(ムコト)、譬猶(ナラバ)2※[木+皮]浮流《マキノウカベル》1者、吾(レ)必(ス)能定(メム)2此國(ヲ)1云々、注に、※[木+皮]此云2磨紀《マキト》1、又和名抄に玉篇(ニ)云、※[木+皮](ハ)木(ノ)名、作v柱(ニ)埋之能不v腐者也、日本紀私記(ニ)云、末木《マキ》、今按(ニ)、又杉(ノ)一名也、見2爾雅注(ニ)1、など見えたるものにして、いまも土佐などにては、常に磨紀《マキ》と云り、まどふべからず、但し和名抄に、杉(ノ)一名也と云るは、順の(231)誤なり、字書に、※[木+皮](ハ)杉(ノ)別名とは註せれども、そは彼土《カシコ》の事にこそあれ、須紀《スギ》と磨紀《マキ》は、もとより異種《コトクサ》なるをや、)○荒山道乎《アラヤマミチヲ》(道(ノ)字、拾穗本には路と作り、)は、荒山とは、荒野《アラヌ》、荒磯《アライソ》などいふに同じ、(本居氏の、こゝをアラキヤマヂ〔六字右○〕とよめるはわろし、)荒は荒《アラ》和《ニコ》と對へいふ和《ニコ》の反《ウラ》にて、人にうとき深《オク》山のよしなり、乎《ヲ》は、なるものをの意に意得べし、深山なれば、人もつねに通はずして、路いとわろく、皇子などおはしますべき、路にはあらぬものを、といふこゝろをこめたるなり、さればこの二句は、下の朝越座而《アサコエマシテ》といふにかけて意得べし、○禁樹押靡は、禁樹を(舊本にフセキ〔三字右○〕と訓るは、論の限にあらず、)シモト〔三字右○〕と訓るに依(ラ)ば、楚樹なるべきか、(眞恒校本にも、古本に楚樹と作《アル》よしあり、楚は五(ノ)卷にも見えて次に引り、)十四に、於布之毛等許乃母登夜麻乃《オフシモトコノモトヤマノ》、字鏡に、※[木+若]志毛止《ハシモト》、※[代/木]志毛止《ハシモト》とあり、樹の※[木+若]枝を云り、(又按(フ)に、樹(ノ)字は杖の誤なるべきか、樹杖草書いとよく似たり、さて禁杖の字は、外に見及ばざれども、五(ノ)卷にも、楚取五十戸長我許惠波寢屋度麻※[人偏+弖]來立呼此奴《シモトトルサトヲサガコヱハネヤドマデキタチヨバヒヌ》云々と見え、和名抄刑罰(ノ)具に、笞(ハ)和名|之毛度《シモト》、拾遺集に、老はてゝ雪の山をばいたゞけどしもとみるにぞ身はひえにける、これらも※[木+若]枝《シモト》もてすれば、やがて之毛等《シモト》とは云り、是は皆笞杖にて、さて人を制《トガ》め禁《イマシ》むる杖《ツエ》なる謂《ヨシ》にて、禁杖とも書べからざるにあらざればなり、)又思ふに、禁は繁(ノ)字の誤にて、繁樹《シゲキ》なるべきか、大祓(ノ)詞に、彼方之繋木本乎《ヲチカタノシゲキガモトヲ》、燒鎌乃敏鎌以?《ヤキカマノトカマモチテ》、打拂事之如久《ウチハラフコトノゴトク》とあり、押靡は、オシナベ〔四字右○〕と訓べし、令2押(シ)靡(カ)1の意なり、十七に、賣比能(232)野能須々吉於之奈倍布流由伎爾《メヒノヌノスヽキオシナベフルユキニ》とあり、此は崇神天皇(ノ)紀、那羅《ナラ》山の名の由縁を云る處に、官軍屯聚而《ミイクサイハミテ》、※[足+滴の旁]2※[足+且]《フミナラシキ》草木《キクサヲ》1と有(ル)其(ノ)意なり、○坂鳥乃《サカトリノ》は、朝越《アサコユ》といはむ料の枕詞なり、此は鴈鴨などの、朝(タ)に山の坂路を飛越て往來《カヨ》ふを、やがて坂鳥と云て、朝越とつゞけたるなり○玉限《カギロヒノ》は、限は蜻の誤なるべしと云り、蜻※[虫+廷]の吉名|加藝呂比《カギロヒ》といひし故、加藝呂比《カギロヒ》に玉蜻蜻※[虫+廷]など借(リ)て書り、和名抄に、蜻蛉(ハ)和名|加介呂布《カゲロフ》とあるは、加藝呂比《カギロヒ》を後に訛れるものなり、(玉蜻と書るは、博物志に、五月五日、埋2蜻※[虫+廷](ノ)頭(ヲ)於西向(ノ)戸(ノ)下(ニ)1、理(ルコト)至2三日(ニ)1不v食、則化(シテ)爲2青眞珠(ト)1とあれば、然《サ》るよしにて書るにやあらむ、)さて加藝呂比《カギロヒ》は、古事記下卷履中天皇(ノ)大御歌に、加藝漏肥能毛由流伊弊牟良都麻賀伊弊能阿多理《カギロヒノモユルイヘムラツマガイヘノアタリ》とありて、※[火+玄]《カギ》ろ火の意にて、即(チ)もゆる火にも云(ヒ)、後(ノ)歌に絲ゆふとよみて、漢文に陽炎といふ物などをも、すべていふ名なり、(古事記なるは燒火をの給ひ、今の歌なるは陽炎を云なりお、)さてこゝのつゞけの意、(冠辭考に、夕日はことに、火かげの如くなれば譬へつ、と云るはことたらはずて、いかにとも聞取がたし、)今按(フ)に、六(ノ)卷に、炎乃春爾之成者《カギロヒノハルニシナレバ》とあるは、十卷に、今更雪零目八方蜻火之燎留春部常成西物乎《イマサラニユキフラメヤモカギロヒノモユルハルヘトナリニシモノヲ》、とよめるごとく、陽炎《カギロヒ》の燎《モユ》る春てふことを炎《カギロヒ》の春とよめるにて、集中三(ノ)卷又七(ノ)卷に、白菅乃眞野之榛原《シラスゲノマヌノハリハラ》とよめるも、白菅の生る眞野の意、又此(ノ)上に白浪乃濱松之枝乃《シラナミノハママツガエノ》とよめるも、白浪のよする濱てふ意、又十(ノ)卷に、鶯之春去來良思《ウグヒスノハルサリクラシ》とよめるも、鶯の鳴春てふ意、又六(ノ)卷に、露霜乃秋去來者《ツユシモノアキサリクレバ》とあるも、露シモの降(ル)秋(233)てふ意、又二(ノ)卷に、大船之津守《オホブネノツモリ》とあるも、大船の泊る津といふ意なるを思ふべし、且《マタ》常の詞にも、人の家といふが自(ラ)人の住家といふ意に通《キコ》え、鳥の巣てふが、鳥の居る巣といふ意に通ゆるが如し、故(レ)こゝに玉蜻《カギロヒノ》夕《ユフ》とあるも、陽炎のもゆる夕てふ意と心得てあるべし、(或(人)問、炎のかがよふは、朝陽《フサヒ》こそ夕陽《ユフヒ》よりはことにまさりたれ、かゝれば、夕(ヘ)にのみつゞく詞とせむことは、いかゞと云り、答(フ)、こはまことにさることなり、但しこはもと朝にも夕(ヘ)にも、冠らせし詞なりけむを、そは朝のかたに冠らせし歌は、偶々もれて傳はらぬにやあらむ、)○夕去來者《ユフサリクレバ》は、(去は借(リ)字、)夕になればの意なり、上にくはしくいへり、○三雪落《ミユキフル》は、三とは(借(リ)字、)美稱なり、これも上にくはしく辨《トケ》り、これ此(ノ)野にやどり給ふ寒さのわびしさを、おもはせたるなり、○阿騎乃大野《アキノオホヌ》(大字、拾穗本に天とあるは誤なり、)は、阿騎の地の、廣く大きなる野をいふべし、書紀にも、この野のことを大野と云ること、上に引たるがごとし、さてさるひろき野は、ことに風などもさむきさまを、おもはせたるなり、上には山路の艱難をいひ、こゝには此(ノ)野のわびしきことをいはれたる、皆|都《ミヤコ》のうちにくらべて、おもはせむがためにて、荒山道《アラヤマミチ》云々|三雪落《ミユキフル》云々、などはよめるものなり、上の京乎置而《ミヤコヲオキテ》にむかへて、その意味を熟味ふべし、○旗須爲寸《ハタスヽキ》は、神功皇后(ノ)紀に、幡荻穂出吾也《ハタスヽキホニヅルアレヤ》と見えて、ともに旗(ノ)字幡(ノ)字を書る如く、薄は百草の中にも、殊に高《ホ》に顯れて、靡きひらめくものなれば、しか云るなり、雲に旗雲《ハタクモ》と云る類(ヒ)にて知べし、(八(ノ)卷に、波太須(234)珠寸《ハタススキ》、十四、十七に、波太須酒伎《ハタスヽキ》など、太(ノ)字を書るは正しからず、又集中借(リ)字に、ハタ〔二字右○〕を皮と書るところあるによりて、タ〔右○〕を濁るは非なり、凡て借(リ)字には、清濁まじへ用る例あること、前にいへり、)○四能乎押靡《シヌニオシナベ》、能乎は奴爾の誤なるべし、十(ノ)卷に、秋穗乎之努爾押靡置露消鴨死益戀乍不有者《アキノホヲシヌニオシナベオクツユノケカモシナマシコヒツヽアラズハ》、とあるをおもひ合(ス)べし、四奴《シヌ》は、裏《シタ》に押ふせ靡かする形容《サマ》をいふ詞なり、心の裏に思ふことを、心も四奴《シヌ》におもふといふ四奴《シヌ》に同じ、慕《シタ》ふといふも、此(ノ)四奴の詞のはたらきたるにて、心の裏より思ふをいふことなり、猶三(ノ)卷人麻呂(ノ)歌に、淡海乃海夕浪千鳥汝鳴者情毛思奴爾古所念《アフミノミユフナミチドリナガナケバコヽロモシヌニイニシヘオモホユ》とある所に委く云むを、併(セ)考(フ)べし、○草枕《クサマクラ》は、旅のまくら辭なり、上に出、○多日夜取世須《タビヤドリセス》は、旅宿(リ)爲給ふといふ意なり、世須《セス》は、神佐備世須登《カムサビセスト》といへる世須《セス》に同じく、爲《ス》の延りたる言にて、爲給ふといふに同じ、○古昔御念而《イニシヘオモホシテ》は、かの父尊を御念《オモホ》し慕ひ給ひてとなり、御(ノ)字、舊本になきは脱たる物なるべし、(或人は念而をオボシテ〔四字右○〕と訓たれど、古(ヘ)はオモホス〔四字右○〕とのみいひて、オボス〔三字右○〕といへることなし、)念《オモフ》は自のうへにいひ、御念《オモホス》は尊みていふ詞なり、されば、念而《オモヒテ》にては、上の世須《セス》に應《カナ》はず、必(ス)御念《オモホス》とあるべき處なり、父尊をしたひおもほし給ふ御心より、かゝる荒野に、放宿し給ふよといふこゝろなり、○歌(ノ)意、輕(ノ)皇子都にませば、宮中の榮華をきはめ給ふ御身にましますを、その榮華をわすれ給ひて、泊瀬のあら山をこえ、さむき阿騎(ノ)野に、旅やどりし給ふはひとへに父尊のむかしを、したひ給ふあまりなるべしと、その御(235)孝心を、深く感じ奉りたるなり、京乎置而云々とあるに、宮中の榮華をわすれまし/\て、艱難をしのがせ給ふ意あるに、心を附てよく味(ヒ)見べし、さらずは遷都などのごとく、京を置とまではいはじをや、
 
短歌《ミジカウタ》。
 
短(ノ)字、拾穗本には反と作り、集中多く反歌とあり、されど短歌と書まじきにもあらず、
 
46 阿騎乃野爾《アキノヌニ》。宿旅人《ヤドルタビト》。打靡《ウチナビキ》。寐毛宿良目八方《イモヌラメヤモ》。古部念爾《イニシヘオモフニ》。
 
阿騎乃野爾《アキノヌニ》、(野(ノ)字、舊本には脱せり、今は官本紀州本六條本等に從つ、)こゝも雪ふりて、さむき阿騎の野にといふ意得なれど、そは長歌にゆづりていはざるなり、○宿旅人は、ヤドレルタビト〔七字右○〕と訓べし、(推古天皇(ノ)紀に、多比等《タヒト》とあれど、旅のビ〔右○〕は濁音なれば、必(ス)多妣等《タビト》と濁るべきなり、)旅人とは從駕の人々をひろくさしていへるなり、この旅人を皇子の御事としては、下の古部念爾《イニシヘオモフニ》とあるにも引合ず、長歌には、皇子の御うへをもはらにいひ、この反歌には、從駕の人のことを云り、されど從駕の人々をひろくいふに、おのづから皇子の御事はこもれり、○打靡《ウチナビキ》とは、草などのかたへになびきふしたるさまに、うちとけてねたるさまを形容《オモハス》る詞なり、こゝは打とけて寐《イ》は宿られじといはむとてなり、○寐毛宿良目八方《イモヌラメヤモ》(目(ノ)字、舊本自に誤れり、今は官本紀州本六條本拾穗本人磨勘文等によれり、)寐《イ》とは寐《ネ》入(ル)ことなり、目《メ》は牟《ム》のかよ(236)へるなり、八《ヤ》は後(ノ)世の也波《ヤハ》に同じ、方《モ》は歎をふくみたる助辭なり、宿ても寐入られむやは、あはれ安くはねられじとのよしなり、○古部念爾《イニシヘオモフニ》は、日並(ノ)皇子(ノ)尊の、古昔をしたひおもふ心の堪ずして安くはねられじといふなり、○歌(ノ)意は、この阿騎(ノ)野にやどる人の、いにしへを思ふに堪ずして、あはれ安くはねられじをといふなり、さて上にもいへるごとく、旅人とあるは、從駕の人々を大かたにさして云る詞つきにて、これも實には、輕(ノ)皇子をさし奉れるなり、さて此(ノ)皇子、さばかりの辛苦をもわすれて、ひとへに、父尊のむかしを、しのばせ給ふ御孝心のほどを感じ奉れる事を長歌によみ、此(ノ)歌には、こよひこゝにやどらせ給ふ御心のうち、いかにおはしますらむとおもひやり奉りたるなり、
 
47 眞草苅《マクサカル》。荒野二者雖有《アラヌニハアレド》。黄葉《モミチバノ》。過去君之《スギニシキミガ》。形見跡曾來師《カタミトソコシ》。
 
苅《マクサカル》とは、眞草は薄をいふがもとにて、こゝはそれまでもなく、たゞ草と見てもあるべし、こゝは眞木立《マキタツ》荒山とつゞけたるに意全(ラ)同じく、人氣遠き野は、草も生繁りてあれば、さる荒野に行て、草を苅ゆゑにいへるなり、○荒野二者雖有《アラヌニハアレド》、(二(ノ)字、舊本脱たり、今は一本によりつ、)荒野は、和名抄に、曠野、日本紀私記(ニ)云、安良乃良《アラノラ》とあり、山に荒山といふごとく、人げ遠き野のよしなり、即(チ)この阿騎(ノ)野をさしていへり、曠野《アラヌ》にてはあり、雖(モ)v然(レ)それをも厭はずして、といふほどの意なり、○黄葉《モミチバノ》(黄(ノ)字、舊本脱たり、眞恒(カ)校本に一本黄葉とあるに從つ、黄葉は毛美知婆《モミチバ》と、(237)知《チ》を清|婆《バ》を濁りて唱(フ)べし、十五に例あり、)は、過去《スギニシ》といはむ料の枕辭《マクラコトバ》におけるなり、二(ノ)卷に、黄葉乃過伊去等《モミチバノスギテイニシト》云々、九(ノ)卷に、黄葉之過去子等《モミチバノスギニシコラ》云々、十三に、黄葉之散過去常《モミチバノチリスギニシト》云々、又|黄菜之過行跡《モミチバノスギテユキヌト》云々、○過去君《スギニシキミ》とは、日並皇子(ノ)尊をさし奉れり、○形見跡曾來師《カタミトソコシ》とは、跡《ト》はとての意なり、師《シ》は過去し方のことをいふ辭なり、九(ノ)卷に、鹽氣立荒磯丹者雖有往水之過去妹之方見等曾來《シホケタツアリソニハアレドユクミヅノスギニシイモガカタミトソコシ》、とあるに意同じ、○歌(ノ)意は、たゞ草かるをのこなどこそあれ、なべての人の來べき荒野にてはあらねど、日並(ノ)皇子(ノ)尊の御獵ありし所なれば、その御形見とてこそ來しなれと、おのがうへをのみいふがほにて、皇子の御うへをば、よそにしたるやうなる詞つきなれど、實は皇子の御うへを、いとほしみ奉れること上の歌のごとし、
 
48 東《ヒムカシノ》。野炎《ヌニカギロヒノ》。立所見而《タツミエテ》。反見爲者《カヘリミスレバ》。月西渡《ツキカタブキヌ》。
 
東は、ヒムカシノ〔五字右○〕と訓べし、日向《ヒムカ》しの義なり、さて此(ノ)言、集中に假字書は無れども、かならず比牟加斯《ヒムカシ》と、加《カ》を清て唱ふべき理なり、國(ノ)の名日向を、辟武伽《ヒムカ》とあるをも思ふべし、(比牟我志《ヒムガシ》と濁るは音便の訛なり、和名抄攝津(ノ)國の郡(ノ)名に比牟我志奈里《ヒムガシナリ》とあるは正しからず、又ム〔右○〕を省きてヒガシ〔三字右○〕といふは、いよ/\訛れるものなり、漢籍などにても、ヒンガシ〔四字右○〕と訓來れるは、中古迄ヒガシ〔三字右○〕とはいはざりし故なり、さてついでにいふべし、漢籍にて、東をヒンガシ〔四字右○〕とよむに對《ムカ》へて、南をミンナミ〔四字右○〕とよむは、いとをかしき事なり、南はもとよりミナミ〔三字右○〕なるをや、此(ノ)類(238)外にも有(リ)、假字はカリナ〔三字右○〕の義にて、をを音便にカンナ〔三字右○〕といふにつれて、眞字をマンナ〔三字右○〕とよみ、左をヒダリ〔三字右○〕といふにつれて、右をミギリ〔三字右○〕とよむたぐひ、これらすべて、蒙昧なる人のよみいだせることにて、いみじき可笑事《ヲコワザ》なり、)○野炎は、ヌニカギロヒノ〔七字右○〕とよめる宜し、炎《カギロヒ》は朝夕の陽炎《ヒノヒカリ》を云ことにて、こゝは曙に東(ノ)天の光るをいへり、(或説に、こゝの炎は、東野の民家などに、はやく起てたく火の、ほのかにみゆるをいふ、と云るは後(ノ)世(ノ)意なり、且《マタ》民家の火ならば、東には限るべからぎるをや、)○反見爲者《カヘリミスレバ》は、夜はいまだ明じと思ふに、東(ノ)天のしらみたるをふと見て、月はいかにと、西(ノ)方をかへり見したるなり、○月西渡は、ツキカタブキヌ〔七字右○〕とよめり、十五に、山乃波爾月可多夫氣婆《ヤマノハニツキカタブケバ》、古事記下卷清寧天皇(ノ)條(ノ)歌に、須美加多夫祁理《スミカタブケリ》、書紀欽明天皇(ノ)卷人(ノ)名に、傾子と云ありて、此(レヲ)云2※[舟+可]※[手偏+施の旁]部古《カタブコト》1、字鏡に、※[厄+支]〓〓崎(ハ)加太夫久《カタブク》、※[山/戯](ハ)加太不久《カタブク》とあり、(同じことながら、加多牟久《カタムク》といふはわろし、)西渡とあるは、義を得てかける一(ツ)の書樣にて、集中に、不清《オホホシク》不穢《キヨケク》止息《ヨドム》不遠《マヂカク》不樂《サブシク》奇將見《メヅラシク》不顔面《シヌフ》痛念《ナゲク》、などやうにかけるに同じ、○歌(ノ)意、いまだ夜明むには、程あるべくおもへりしに、東(ノ)天のしらみたるを見て、西(ノ)方をかへり見すれば、月さへかたぶきたるは、うたがひなく夜は明むとするよとおもひの外に、夜のはやく明るをおどろきたる意なり、いと曠(キ)野に、旅寐したる曉のさま、實《マコト》に目前《イマ》も見るがごとし、
 
49 日雙斯《ヒナミノ》。皇子命《ミコノミコトノ》。馬副而《ウマナメテ》。御獵立師斯《ミカリタヽシ》。時者來向《トキハキムカフ》。
 
(239)日隻斯、斯(ノ)字は、(類聚抄には期と作り、それもわろし、)能の草書の※[能の草書]を※[斯の草書]と見て、寫し誤《ヒガ》めたるものなるべし、故(レ)今はヒナミノ〔四字右○〕と四言に訓つ、(此を舊《モト》の隨《マヽ》にて、ヒナメシノ〔五字右○]と訓たれど、二(ノ)卷題詞にも皆、日並(ノ)皇子(ノ)尊とあれば日雙斯《ヒナメシ》ならぬことをさとるべし、よしやはた、ヒナメシ〔四字右○〕と申せしにもせよ、こは御名なれば、しか音訓の字まじへ用ふべき謂なし、しかるを岡部氏(ノ)考に、こゝのみに斯(ノ)字あるによりて、二(ノ)卷なるをも、こと/”\く知(ノ)字を補て、日並知《ヒナメシ》とせるは、中中なるさがしらわざといひつべし、)さて草壁(ノ)皇子(ノ)尊の更(ノ)名《ミナ》を、日並所知皇子《ヒナミシラスノミコノ》尊と申せしを、歌はもとより常にも省きて、日並(ノ)皇子(ノ)尊と申せしなり、猶委くは二(ノ)卷にいふべし、さて天皇の御諱はさらにも申さず、高位高官の人(ノ)名をば、忌避て顯はさず、又貴からぬ列《ツラ》にても、其(ノ)人にさし對《ムカ》ひて名を呼をば、いたく不敬《ナメシ》とすることなど、其(ノ)例二(ノ)卷上石川(ノ)女郎字(ヲ)曰2大名兒(ト)1、とある下の注に委(ク)辨へたるが如し、されば天皇をば、泊瀬(ノ)朝倉(ノ)宮(ニ)御宇(シヽ)天皇高市(ノ)崗本(ノ)宮(ニ)御宇(シヽ)天皇など書《シル》し、歌詞にも、明日香能清御原乃宮爾天下所知食之八隅知之吾大王《アスカノキヨミハラノミヤニアメノシタシロシメシシヤスミシヽワガオホキミ》、とやうに申して、かりにも御名をば顯し申さず、さて又鎌足公を内(ノ)大臣藤原(ノ)卿、諸兄公を左(ノ)大臣橘(ノ)卿など書《シル》して名を出さず、然るを皇太子皇子諸王の列に至りては、却(リ)て御名を避し例さらになし、故(レ)題詞に、皇太子には高市(ノ)皇子(ノ)尊、日並(ノ)皇子(ノ)尊など書(ル)し、皇子には舍人(ノ)皇子、志貴(ノ)親王など見え、諸王には軍(ノ)王、麻讀(ノ)王とやうに多く書て、いさゝかつゝましげもなし、されば歌詞にも麻(240)續(ノ)王、三野(ノ)王などやうに作《ヨメ》りしなり、其(ノ)故いかにといふに、すべて皇太子の、天皇位に即(キ)給はぬほどと、諸王の、源橘などの氏を賜はらぬほどは、御名すなはち廣き御稱號にして、諱ことのさだなかりしなり、これ天皇(ノ)諱にも臣下の名にも、各別の理あるものにこそ、まことにさもなくては、書《シル》すべき氏姓あらざれば、いかにとも書べきやうなきことぞかし、さるが故にこゝにも日並能皇子命《ヒナミノミコノミコト》とは作(ミ)申せるなるべし、○皇子命《ミコノミコト》は、皇太子を尊稱(ス)事にて、即(チ)此(ノ)皇子を、題詞には皇子(ノ)尊と書(ル)し、高市(ノ)皇子(ノ)尊ともしるせり、推古天皇(ノ)紀に、厩戸(ノ)豐聽耳《ノ)皇子(ノ)命、天武天皇(ノ)紀に、高市(ノ)皇子(ノ)命、續紀一(ノ)卷に、即(チ)此(ノ)皇子を日並知《ヒナミシラスノ》皇子(ノ)尊とあり、○馬副而《ウマナメテ》は、從者と馬を並べさせ給ひてといふなり、副(ノ)字は物に物のそひたるかたちなれば其(ノ)意をえて書るなるべし、○御獵立師斯《ミカリタヽシヽ》(獵(ノ)字、類聚抄に?と作り、)は、御獵立(チ)給ひしといふが如し、立師《タヽシ》は立《タチ》の伸りたるにて、立(チ)給ふといふに同じ、斯《シ》は過去し方のことをいふ詞にて、上の來師《コシ》の師《シ》に同じ、○時者來向は、トキバキムカフ〔七字右○]と訓るよろし、十九に、春過而夏來向者《ハルスギテナツキムカヘバ》とあり、時とは或説に、上の東野《ヒムカシノヌニ》云々の歌より連續《ツヾ》けておもふに、この時とは、朝獵にたち出ましゝ時刻の來むかふといふなるべし、ほと/\夜あけむとする事を、前の歌にはよみ、此(ノ)歌は、やゝ朝となりてよめるなるべしといへり、此(ノ)説しかるべし、(此(ノ)》度の御獵は、父尊をしたひ給ひての御事なることは、もとよりいふもさらなれば、京を出ます時より、故尊の御獵ましゝ時節は、あきらか(241)なるべければ、こゝにておもひかけぬやうによみたること、そのかひなければ、時節の來向ふよしにはあらで、朝獵の時刻とせむ方尤然るべし、)○歌(ノ)意は、さきに日並(ノ)皇子(ノ)命、この野に朝がりに出立ましゝ、その時は今來むかふよと、その時刻の來むかふを驚きたるよしなり、さて時は來ながら、ありしにあらぬことを時者《トキハ》の者の辭におもはせたるなり、そのありしにあらぬは、實は此(ノ)皇子の、しかばかりに父尊をしたはせ給ひて、出立せ給ひながら、ふたゝび父尊にあひ奉り給はむよしなきを、皇子のいかにおぼすらむと、深く御心のほどを、いとほしみ奉れるなり、二(ノ)卷この日並皇子尊殯宮時歌に、毛許呂裳遠春冬片設而幸之《ケコロモヲハルフユカタマケテイデマシヽ》、宇陀乃大野者所念武鴨《ウダノオホヌハオモホエムカモ》、といへるは、即(チ)こゝの事なるべし、
 
萬葉集古義一卷之中 終
 
(242)萬葉集古義一卷之下
 
フヂハハラノミヤ》1之役民作歌《ニタテルタミノヨメルウタ》。
 
營2藤原(ノ)宮1(營字、舊本にはなし、道晃親王御本拾穗本等によりつ、)は、持統天皇(ノ)紀に、四年冬十月甲辰朔壬申、高市(ノ)皇子|觀《ミソナハス》2藤原(ノ)宮地(ヲ)1、公卿百(ノ)寮從焉《ミトモツカヘマツレリ》、十二月癸卯朔辛酉、天皇幸2藤原(ニ)1觀《ミソナハス》2宮地(ヲ)1、公卿百(ノ)寮皆|從焉《ミトモツカヘマツレリ》、六年五月乙丑朔丁亥、遣(テ)2淨廣肆灘波(ノ)王等(ヲ)1、鎭2祭(シメタマフ)藤原(ノ)宮地(ヲ)1、庚寅、遣2使者(ヲ)1、奉2幣《ヌサタテマツリ》于四所伊勢大倭住吉紀伊(ノ)大神(ニ)1、告(ルニ)以2新宮(ヲ)1、六月甲子朔癸巳、天皇觀(ス)2藤原(ノ)宮地(ヲ)1、七年八月戊午朔、幸(ス)2藤原(ノ)宮地(ニ)1、八年春正月乙酉朔乙巳、幸(ス)2藤原(ノ)宮(ニ)1、即日《ソノヒ》還(リマス)v宮(ニ)、十二月庚戌朔乙卯、遷(リ)2居(ス)藤原(ノ)宮(ニ)1と見ゆ、かゝればこの營宮《ミヤツクリ》は、持統天皇八年の冬までに仕(ヘ)奉りしなり、○役民を、タテルタミ〔五字右○〕、と訓は、十−に、宮材引泉之追馬喚犬二立民乃《ミヤキヒクイヅミノソマニタツタミノ》とあるに從つ、又エダチノタミ〔六字右○〕とも訓べし、(岡部氏(ノ)考に、役(ノ)字をエダチ〔三字右○〕とよめど、エ〔右○〕は役の字音《モジコエ》にて、古言《イニシヘコトバ》にあらずといへるは、例のいとかたよれる論なり、)十四に、於保伎美乃美己等可思古美可奈之伊毛我多麻乃良波奈禮欲太知伎努可母《オホキミノミコトカシコミカナシイモガタマクラハナレヨダチキヌカモ》とよめる、欲太知《ヨダチ》は役《エダチ》の東語なりといへり、しかればエダチ〔三字右○〕も古言なり、(本(243)居氏云、延陀知《エダチ》は、延《エ》は充《アテ》の約りたる言か、詳ならず、陀知《タチ》は民の其(ノ)事に發趣《タチオモム》くを云、)○本居氏云、此(ノ)歌のすべての趣は、田上山より伐(リ)出せる宮材を宇遲川へくだし、そを又泉川に持越て筏に作りて、その川より難波(ノ)海に出し、海より又紀の川を泝せて、巨勢の道より藤原(ノ)宮地へ運び來たるを、その宮造りに役《ツカ》はれ居る民の見て、よめるさまなりとあり、大かたの趣をば、まづしか心得置て、さて歌詞の條々に注る説を味ひ考べし、
 
50 八隅知之《ヤシミシヽ》。吾大王《ワガオホキミ》。高照《タカヒカル》。日之皇子《ヒノミコ》。荒妙乃《アラタヘノ》。藤原我字倍爾《フヂハラガウヘニ》。食國乎《ヲスクニヲ》。賣之賜牟登《メシタマハムト》。都宮者《オホミヤハ》。高所知武等《タカシラサムト》。神長柄《カムナガラ》。所念奈戸二《オモホスナベニ》。天地毛《アメツチモ》。縁而有許曾《ヨリテアレコソ》。磐走《イハバシル》。淡海乃國之《アフミノクニノ》。衣手能《コロモテノ》。田上山之《タナカミヤマノ》。眞木佐苦《マキサク》。檜乃爾手乎《ヒノツマテヲ》。物乃布能《モノノフノ》。八十氏河爾《ヤソウヂカハニ》。玉藻成《タマモナス》。浮倍流禮《ウカベナガセレ》。其乎取登《ソヲトルト》。散和久御民毛《サワクミタミモ》。家忘《イヘワスレ》。身毛多奈不知《ミモタナシラニ》。鴨自物《カモジモノ》。水爾浮居而《ミヅニウキヰテ》。吾作《アガツクル》。日之御門爾《ヒノミカドニ》。不知國《シラヌクニ》。依巨勢道從《ヨリコセヂヨリ》。我國者《ワガクニハ》。常世爾成牟《トコヨニナラム》。圖負留《フミオヘル》。神龜毛《アヤシキカメモ》。新代登《アラタヨト》。泉乃河爾《イヅミノカハニ》。持越流《モチコセル》。眞木乃都麻手乎《マキノツマテヲ》。百不足《モヽタラズ》。五十日太爾作《イカダニツクリ》。泝須良牟《ノボスラム》。伊蘇波久見者《イソハクミレバ》。神隨爾有之《カムナガラナラシ》。
 
荒妙乃《アラタヘノ》は、藤といはむ料の枕詞なり、此下にも見え、又三(ノ)卷六(ノ)卷等にも藤とつゞけたり、荒多閉《アラタヘ》は、古語に和多閉《ニギタヘ》とならべ云て、荒は麁《アラ》きよし、多閉《タヘ》は絹布《キヌヌノ》の類をすべいふ名なること、白布《シロタヘ》の布《タヘ》のごとし、さて古(ヘ)は同じ麻布にても、細《コマカ》にしてよきを和布《ニギタヘ》といひ、麁くてあしきを麁(244)布《アラタヘ》といひ、(絹《キヌ》を和布《ニギタヘ》とし布《ヌノ》を荒布《アラタヘ》とするはやゝ後のことなり、)また藤(ノ)皮して織れるはなべて麁くあしさものなれば、麁布とのみいへるなるべし、されば藤布のよしにて、麁布の藤衣といふ意に、藤につゞけ云たり、なほ荒布は二(ノ)卷五(ノ)卷にも見え、書紀に麁布《アラタヘ》、古語拾遺に織布、古語|阿良多倍《アラタヘ》、祝詞式に、荒多閇《アラタヘ》など見えたり、○藤原我宇倍《フヂハラガウヘ》とは、宇倍は上《ウヘ》なり、(倍の濁音(ノ)字を書るは正しからず、)さて上(ノ)は山(ノ)上、野上また高圓《タカマト》の上《ウヘ》、高野原《タカヌハラ》が上などいへる上に同じ、こは上下《ウヘシタ》をいふ上にはあらず、邊《ホトリ》といふ意に近しさればたゞ藤原の地のあたりと意得て有べし、(岡部氏(ノ)考に、古(ヘ)藤原は高き原なりけむ、今も此所畑とは成つれど他よりは高し、仍て上といふと云るは泥める説なり、)○食國乎《ヲスクニヲ》は、天(ノ)下をといふ意なり、天(ノ)下は即(チ)天皇の所聞食國《キコシヲスクニ》なれば云るなり、○賣之賜牟登《メシタマハムト》とは、賣之《メシ》は見《メシ》なり、見《ミ》の伸りたる詞にて見給ふといふ意なり、此は知《シリ》を伸て伎良志《シラシ》、聞を伸て伎己志《キコシ》といふと同格の古言なり、(そは上にもいへる如く、故なくしていたづらに、伸縮すべきよしなければ、見《ミ》を賣之《メシ》、知《シリ》を志良之《シラシ》といふは、即(チ)尊む方なり、されば賣之《メシ》は、見給ふといふ意になるなり、)さてこゝは、食《ヲス》といふにもはら同じ意にて、そは古語に所聞食《キコシメス》とも、所聞看《キコシメス》とも云るにて知べし、其(ノ)意は既《ハヤ》く云るがことし、○都宮者は、オホミヤハ〔五字右○〕と訓べし、皇極天皇(ノ)紀に、元年九月癸丑朔辛未、天皇詔2大臣(ニ)1曰、起《ヨリ》2是月1限(リ)2十二月|以來《マテヲ》1、欲《オモフ》v營《ツクラムト》2宮室《オホミヤヲ》1と有(リ)、又ミアラカハ〔五字右○〕とも訓べし、ミアラカ〔四字右○〕といふ義は下にいふべし、○所念(245)奈戸二《オモホスナベニ》、(所(ノ)字類聚抄に可と作るは誤なり、)奈戸は奈倍《ナベ》と濁るべし、並《ナベ》の義なり、こゝは所念《オモホス》につれてといふほどの意に見べし、○天地毛《アメツチモ》は、天神地祇《フメノカミツチノカミ》もといふことなり、こは上に山神《ヤマツミ》河神《カハノカミ》を山川と云ると全(ラ)同例なり、さて天神地祇を天地とばかり云たる例は、十三に、天地乎歎乞?《アメツチヲナゲキコヒノミ》云々、又|天土乎乙?嘆《アメツチヲコヒノミナゲキ》云々、(舊本大士乎太穗跡に誤れり、)廿(ノ)卷に、天地能加多米之久爾曾《アメツチノカタメシクニソ》とあるなど其(レ)なり、又續紀宣命に、天地乃心《アメツチノコヽロ》、また天地乃置賜比授賜布位《アメツチノオキタマヒサヅケタマフクラヰ》、また天地乃明伎奇岐徴《アメツチノアキラケキクスキシルシ》、また天地乃宇倍奈彌由流之天《アメツチノウベナミユルシテ》など多くあり、是も天神地祇を天地といへる例なり、(但し同じ宣命に、天乃不授所《アメノサヅケザルトコロ》云々、また天方萬物乎能覆養賜比《アメハヨロヅノモノヲヨクオホヒヤシナヒタマヒ》云々などあれば、彼(ノ)頃ははやく漢意にうつりて、直に天地の事をいふことにはなれりともいふべし、されども又稱徳天皇(ノ)紀宣命に、天地乃御心乎令感動末都流倍岐事波無止奈毛急行須《アメツチノミコヽロヲウゴカシメマツルベキコトハナシトナモオモホシメス》云々、天地乃神多知毛共爾示現賜幣流《アメツチノカミタチモトモニアラハシタマヘル》云々、天地乃御恩乎奉報倍之止奈毛念行止詔《アメツチノミウツクシミヲムクイマツルベシトナモオモホシメストノリタマフ》、また天神地祇現給比悟給爾己曾在禮《アマツカミクニツカミノアラハシタマヒサトシタマフニコソアレ》云々、必天地現之示給都留物曾《カナラズアメツチアラハシシメシタマヒツルモノソ》、又聖武天皇(ノ)紀宣命に、天地乃心遠勞彌重彌辱美恐美《アメツチノコヽロヲイトホシミイカシミカタジケナミカシコミ》云々、天坐神地坐祇乎祈?奉《アメニマスカミクニヽマスカミヲイノリマツリ》云々、天坐神地坐神乃相宇豆奈比奉《アメニマスカミクニヽマスカミノアヒウヅナヒマツリ》云々など、かく一章の中に同じ事を天地とも、天地乃神とも、天(ニ)坐(ス)神地(ニ)坐(ス)祇ともあるを思へば、なほこの古語は古意のまゝに、天地の神をいへるなり、但し上に引る如く、天の云々などもあれば、なべては漢意になりて、直に天地をいふことにもなりけむ、)毛《モ》は宮室《オホミヤ》を經營《ツクル》につきて、人民はいふも(246)さらなり、天(ツ)神地(ツ)祇までもといふ意なり、○縁而有許曾《ヨリテアレコソ》は、天(ツ)神地(ツ)祇も依(リ)賜ひて、有ばこそ云云《カク》あるらめといふ意なり、(云々《カク》とは、磐走《イハバシル》云々より、神隨爾有之《カムナガラナラシ》といふまでのことなり、)かく詞ををへて心得るは、古格の一(ツ)にて、其(ノ)例は上に既く云つ、(この許曾《コソ》を下の浮倍流禮《ウカベナガセレ》にて結《トヂ》めたるものとせむは非ず、さては宮材を浮べ流すことのみを、天(ツ)神地(ツ)祇のしろしめし給ふよしにて、宮室《オホみヤ》つくりのなべてのうへをば、神祇のしろしめさぬ意になれば協ひがたし、ここは一首のなべての意を貫ぬきて云るをや、)○磐走《イハバシル》、上にいへり、○衣手能《コロモテノ》は、田上《タナカミ》の枕詞なり、こは九(ノ)卷に衣手乃名木《コロモテノナキ》とつゞけたるに同じく、衣手の長《ナ》(長は袖の行《クダリ》の長きよしなり、装束の袖の行の長きことは、今とてもしかり、)とつゞけたるなり、(次にいふ如く、田上の加《カ》の言清言なれど枕詞よりは那《ナ》の言にのみかゝりて、加《カ》の言までは關からず、)多《タ》の言は、古語に手長乃大御世《タナガノオホミヨ》、手長乃御壽《タナガノミイノチ》など發言におけること多ければ、此(レ)も枕詞よりは、多《タ》の言をおきて長《ナ》と續くなり、(本居氏は、手長《タナガ》といふときは、手《タ》は足《タリ》の意なりと云り、)かくて長をナ〔右○〕とのみいふ例は、古事記上卷に、風(ノ)神|志那都比古《シナツヒコノ》神とあるを、書紀には、級長津彦《シナツヒコノ》命とある是(レ)なり、(又和名抄に、越前(ノ)國郷(ノ)名に、長畝(ハ)奈宇禰《ナウネ》とも見えたり、)○田上山《タナカミヤマ》は、近江(ノ)國栗本(ノ)郡にあり、神功皇后(ノ)紀(ノ)歌に、多那伽瀰《タナカミ》とあり、(多那我彌《タナガミ》と濁りて唱ふるは誤なり、清べし、)○眞木佐苦《マキサク》は、檜《ヒ》の枕詞なり、書紀繼體天皇(ノ)卷(ノ)歌に、莽紀佐具避能伊陀圖嗟《マキサクヒノイタドヲ》、古事記雄略天皇(ノ)條(ノ)歌に、麻紀佐久比能美(247)加度爾《マキサクヒノミカドニ》などあり、眞木とは、檜を美《ホメ》いふ稱なることは上に云るが如し、佐苦は幸《サク》にて、幸《サキ》はふと云に同じ、その幸《サキ》はふとは、言靈《コトタマ》の幸《サキ》はふなど云と同言にて、何にても其物の功用をなすを云言なり、故(レ)眞木の功用を成《シ》さきはふ檜之材《ヒノツマ》、また檜之板戸《ヒノイタド》などゝ云つゞけたり、(冠辭考に、佐苦《サク》とは、古へは木を斧もて拆《サキ》て、板とも何ともせればしか云て、ここは眞木を拆たる檜てふことなるを、用を冠辭として體にかけたるなり、と云るは叶がたし、もし眞木拆の謂なれば斧とか何そ、その眞木を割(リ)拆(ク)器へ云かくべき語例にこそあれ、檜とはつゞくべきにあらず、)○檜乃嬬手《ヒノツマテ》とは、(嬬は借(リ)字、)まづ麁木《アラキ》造りしたる材は、角※[木+瓜]《カドツマ》のあればいふなり、神代紀に、木(ノ)國に齋《イハ》へる三(ノ)神の中に、五十猛《イタケルノ》神は木種《コタネ》を蒔生《マキオホ》し、大屋津姫《オホヤツヒメ》は家造る幸《サキ》をなし、※[木+瓜]津姫《ツマツヒメ》はその材を守(リ)給ふなるべし、さてこゝに※[木+瓜]の字を用ひたるは、かのあら木造りして稜※[木+瓜]《カドヅマ》ある材の意なり、さる故に都萬《ツマ》と訓來れるを思へ、手《テ》は物に添いふ辭なりと岡部氏云り、○物乃布能《モノノフノ》は、枕詞なり、三(ノ)卷に、物乃部能八十氏河乃阿白木爾不知代經浪乃去邊白不母《モノノフノヤソウヂカハノアジロキニイザヨフナミノユクヘシラズモ》、十一に、物部乃八十氏川之急瀬立不得戀毛吾爲鴨《モノヽフノヤソウヂカハノハヤキセニタチエヌコヒモアレハスルカモ》などあり、古事記(ノ)傳十九云、物部《モノヽベ》は母能々布部《モノヽフベ》といふことにて、布辨《》を約めて母能々辨《モノヽベ》とはいふなり、さて其(ノ)母能々布《モノヽフ》といふは、總て武事職《タケキワザ》を以(テ)仕へ奉る建士《タテヲ》の稱にして、後(ノ)世までも武士《タケキヲ》を、ものゝふといへり、又朝廷に仕へ奉る人等を、凡ても母能々布《モノヽフ》と云は、上(ツ)代に武勇職を主とせられし世の、古言の遺れりしなり、八十氏(248)とつゞけ云るは、かの八十伴(ノ)緒と云ると同じく、武(キ)人のみならず、凡て朝廷に仕奉る人をも、皆|母能々布《モノヽフ》と云る、其(ノ)氏々の多き意にて、彼(ノ)八十といはずして、たゞものゝふのうぢといひ、又ちはやぶるうぢ、ちはや人うぢ、などゝ云るとは、つゞけの意異なり、彼(ノ)ちはやぶるちはや人などは、唯宇治とのみつゞけて八十宇治とはつゞけたる例なきを以て、此(ノ)差《ケヂメ》をさとるべし、母能々布之《モノヽフノ》と云る枕詞は、只宇治とつゞけたるは、彼(ノ)ちはや人などゝ同じくて、いちはやき意、八十宇治とつゞけるは、八十伴(ノ)緒の氏々の多き意にて、同枕詞同地名ながら、そのつゞけの意ことなり、よくせずば混(ヒ)ぬべし、さて又ものゝふの八十の※[女+感]嬬、ものゝふの八十の心などつゞけるも、八十氏とつゞくと同意にて、八十の枕詞なりと云り、荒木田久老、物乃部は、物とは彼物《ソノモノ》此物《コノモノ》などいふものにて、數ある中を取(リ)出ていふ言、布《フ》は邊《ベ》に通ふ言にて、邊《ベ》は牟禮《ムレ》の約の米《メ》に同じ、(今云、布《フ》を邊《ベ》に通ふといへることいかゞ群の意の辨《ベ》は濁る例なれば、そを布《フ》に通はさむには、夫《ブ》と濁るべきことゝこそおもはるれ、)さて朝廷に仕(ヘ)奉人等、をの職役の連ありて、八十の氏々多ければ、八十氏河ともつゞけ、また氏とのみもつゞけたり、また八十乃※[女+感]嬬《ヤソノヲトメ》、乎等古乎美奈《ヲトコヲミナ》とつゞけたるは、祝詞式に、襷掛伴緒領巾懸伴緒《タスキカクルトモノヲヒレカクルトモノヲ》と云る意にて、朝廷に仕(ヘ)奉る男女にかけて云るなり、猛人をものゝふといふは、一轉後の事にて、そは古(ヘ)御國は、專ら武き事をもて仕(ヘ)奉るを貴み、天武天皇(ノ)紀にも、政(ノ)要(ハ)者軍(ノ)事也、是以文武(ノ)官諸人《ツカサノヒト/”\》、務(テ)習(ヘ)2用v兵(249)及乘(コトヲ)1v馬(ニ)、と見えたる意にて、百官の人等皆猛かれば、後にものゝふを、武人のことゝもすめりと云り、○八十氏河《ヤソウヂカハ》は、八十《ヤソ》は、振山《フルヤマ》を袖振山《ソデフルヤマ》など云る類に、枕詞のつゞけにつれてそへたる詞にて、宇治川なり、(宇遲可波《ウヂカハ》と可《カ》の言清て唱ふべし、今(ノ)世|宇遲我波《ウヂガハ》と濁りて唱ふるは非なり、)山城(ノ)國宇治(ノ)郡にある川なり、○玉藻成《タマモナス》は、如2玉藻1なり、浮べ流せれといはむ料の枕詞なり、○浮倍流禮《ウカベナガセレ》は、浮べ流せればの意なり、婆《バ》といふ意なるに、婆《バ》をいはざる例は、集中に甚多し、(長歌にはことに多し、)三(ノ)卷に、離家伊麻須吾妹乎停不得山隱都禮情神毛奈思《イヘザカリイマスワギモヲトヾミカネヤマガクリツレコヽロドモナシ》、(山隱つればの意なり、短歌には、只此(ノ)一首のみなり、)續紀十七詔に、慈賜比福波倍賜物爾有止念閇《メグミタマヒサキハヘタマフモノニアリトオモヘ》云々、また不敢賜有禮《アヘタマハズアレ》云々、また負賜閉《オホセタマヘ》云々、廿一詔に、祈念坐世《オモホシマセ》云々などあるもみな同格にて、念へば、あれば、賜へば、ませばの意なり、○其乎取登《ソヲトルト》は、其(ノ)材《ツマテ》を取(リ)上るとての意なり、田上山の材を、その川より宇治まで流して、さて宇遲川より陸地に取(リ)上れば云り、登《ト》は登?《トテ》の登《ト》なり、○散和久御民毛《サワクミタミモ》、(久《ク》は清て唱ふべし、今(ノ)世|佐和具《サワグ》と濁りて唱ふるは非なり、集中皆清字を書り、古言清濁考に出(ヅ)、)散和久《サワク》はいそしみはたらくを云、御民《ミタミ》は宮材を運送《モチオクリ》する民を云り、すべて天(ノ)下の蒼生は、皇朝の大御寶なるが故に、尊みて御民といへり、六(ノ)卷に御民吾生有驗在《ミタミアレイケルシルシアリ》云々、續後紀十九長歌には、皇之民浦島子加《キミノタミウラシマノコガ》とあり、○家忘《イヘワスレ》は、大皇の御命恐み、家をも郷をも忘れりしなり、○身毛多不知《ミモタナシラニ》は、本居氏(ノ)説に、我身の事をも意得無(シ)に、打わすれてなりと云り、九(ノ)卷に、(250)金門爾之人之來立者夜中母身者田菜不知出曾相來《カナトニシヒトノキタテバヨナカニモミハタナシラズイデヽソアヒケル》、又|何爲跡歟身乎田名知而波音乃驟湊之奧津城爾妹之臥勢流《ナニストカミヲタナシリテナミノトノサワグミナトノオクツキニイモガコヤセル》などあり、又十三に葦垣之末掻別而君越跡人丹勿告事者棚知《アシカキノスエカキワキテキミコユトヒトニナツゲソコトハタナシレ》ともあり、又十七に、伊謝美爾由加奈許等波多奈《イザミニユカナコトハタナ》由比とある、由比も思禮《シレ》の誤にて、さて許等《コト》は、許等零者《コトフラバ》、許等放老《コトサカバ》などの許等《コト》にて、人に物を言(ヒ)付て、さやうに意得よといふ意なりとあり、○鴨自物《カモジモノ》は、水に浮居といはむ料の枕詞なり、十五に、可母自毛能宇伎禰乎須禮婆《カモジモノウキネヲスレバ》とあり、さてこの自物といふ言は、(言の本(ノ)義は未(タ)詳ならず、)別に云ばかりの意なし、鴨自物はたゞ鴨之《カモノ》といふほどに意得て、其(ノ)餘も此に准へて聞ゆることなり、そは古語に、鹿自吻膝折伏《シヽジモノヒザヲリフセ》とも、狭牡鹿乃膝折反《サヲシカノヒザヲリカヘシ》ともいへるにて知るべし、鴨之といふが自《オノヅカラ》鴨の如くといふ意にもきこゆるは、左牡鹿乃膝折反《サヲシカノヒザヲリカヘシ》といひて、左牡鹿の如くといふ意にもきこゆるが如し、)男自物《ヲトコジモノ》、鳥自物《トリジモノ》、鵜自物《ウジモノ》、馬自物《ウマジモノ》、鹿兒自物《カコジモノ》、狗自物《イヌジモノ》、雪自物《ユキジモノ》、床自物《トコジモノ》などの類、皆これに准ふべし、(又枕辭ならで、某自物と云るは、十一に、面形之忘而在者小豆鳴男士物屋戀乍將居《オモカタノワスレテアラバアヂキナクヲトコジモノヤコヒツヽヲラム》、續紀聖武天皇(ノ)詔に、太上天皇(ノ)大前爾恐古士物進退匍匐廻保理《オホマヘニカシコジモノシヾマヒハヒモトホリ》、また勅夫御命乎畏自物受賜理坐天《ノリタマフミコトヲカシコジモノウケタマハリマシテ》云々などあり、枕詞の某自物の自物は、如といふと同じ意ばえの詞かとも、思ひしかどもしからず、如くといふ意に見ても聞ゆる處もあれど、三(ノ)卷に、白雪仕物往來乍《ユキジモノユキカヨヒツヽ》とあるは、たゞ雪の言をかさね云たるのみと聞ゆるを、雪の如くといふ意にしては、いかゞなればなり、又詔に畏自物とあるも、畏む(251)如くといふ意にしては、實には畏まねども、うはべに畏まれる貌《フリ》することゝきこえて、甚いかゞなり、されば畏自物は、たゞ畏まりの意とのみきこえたるをや、かゝれば自物を如の意と見ては、おしわたして然聞えざれば、たゞ輕くそへたるのみにて、ことに意なき詞とおぼへたり、○本居氏云、稻掛(ノ)大平が考に、自物《ジモノ》は状之《ザマノ》なるべし、ざまとじもと音通へり、鹿自物《シヽジモノ》は鹿状之《シヽザマノ》にて、此(ノ)類皆同じと云るは、さもあるべしと云り、今案(フ)に、此(ノ)考も甚いかゞなり、其(ノ)意ならば、恐士物進退云々、畏自物受賜理云々などあるも、畏自麻爾となくては叶はず、其はとまれ畏状之としては、實には畏まざれども、畏まりたる状する意と聞ゆること、上に云るが如くなればいかゞなり、又白雪仕物往來乍も、雪状之といふ意とは、きこゆべからざるをや、)○水爾浮居而《ミヅニウキヰテ》、この句にて姑く絶て、下の泉乃河爾持越流《イヅミノカハニモチコセル》へつゞく詞なり、たゞに吾作《アガツクル》云々へはつゞかず、この句法人麻呂(ノ)主(ノ)歌に殊に多くあり、○吾作《アガツクル》(作(ノ)字、類聚秒に佐に誤れり、)は、役民の吾が造《ツクル》なり、役民は藤原(ノ)宮の地に役《エダ》つ民にて即(チ)此(ノ)》歌の作者《ヨミビト》なり、上の散和久御民毛《サワクミタミモ》とある民にはあらず、思ひまどふべからず、○日之御門爾《ヒノミカドニ》、即(チ)藤原の宮をいへり、五(ノ)卷に、高光日御朝庭《タカヒカルヒノミカド》、○不知國《シラヌクニ》は、外(ツ)國の義なり、名も不v知外(ツ)國々より、徳化を慕ひて依(リ)來ると云意にはつゞけたり、此は皇居をことほぐ歌なれば、ことに外(ツ)國の歸依《マツロフ》義を帶て、枕詞とせるなり、(岡部氏(ノ)考に、不知國は、中國《ミクニ》の内なる諸國のことゝせるは、ひがことなり、御國の内なるを、いかで不知(252)國とはいはむ、そのうへ次に、我國者《ワガクニハ》とあるにも對ひたる詞なれば、いよ/\外(ツ)國をいふなることはしるきをや、)崇神天皇(ノ)紀に、十一年云々、是歳|異俗多歸《アダシクニノヒトサハニマヰキテ》、國内安寧《クヌチヤスラケシ》とあるを併(セ)考(フ)べし、○依巨勢道從《ヨリコセヂヨリ》は、不知外(ツ)國の皇化に服《マツロヒ》て歸來《ヨリクル》よしもて、巨勢道へいひかけたるにて、依といふまでは、たゞ巨勢をいはむのみの料なり、處女等之袖振山《ヲトメラガソデフルヤマ》などいふ類なり、巨勢は藤原の南高市(ノ)郡にありて、古瀬《コセ》村と云り、從といへるは、即(チ)上の田上山の材を、巨勢道より宮道へ運ぶよしなり、又別に、巨勢道よりものぼすにはあらず、(上件の二句、不知國依《シヲヌクニヨリ》句|巨勢道從《コセヂヨリ》と絶て、依を從の意として、不知國よりも巨勢道よりも、材をのぼすといふ意に見るは甚誤なり、さては前後の意も連かず、句調もとゝのはざることなり、今は本居氏の訓にしたがへり、)○我國者《ワガクニハ》は、我は、我(カ)君吾(カ)兄などいふ我にて、親みていふ稱なり、國といふは御國内《ミクニウチ》の事をすべていふ、(後(ノ)世御國を打まかせて、我(カ)國といふとはいさゝか異なり、)此(ノ)句より以下|新代登《アラタヨト》といふまで五句は、壽詞をもて、泉といはむ料の序とせるなり、○常世爾成牟《トコヨニナラム》、こゝの常世は字の如く、常しへにして不《ヌ》v變《カハラ》ことを云り、古事記下卷雄略天皇(ノ)大御歌に、麻比須流袁美那登許余爾母加母《マヒスルヲミナトコヨニモカモ》、書紀垂仁天皇(ノ)卷に、伊勢(ノ)國(ハ)則、常世之浪重浪歸《トコヨノナミシキナミヨスル》國也、顯宗天皇(ノ)卷室壽(ノ)御詞に、拍上賜吾常世等《ウチアゲタマフアガトコヨタチ》などある、常世と義同じ、凡て常世《トコヨ》といふに三(ツ)の差別あり、(此《コヽ》に云る常世《トコヨ》と、常夜《トコヨ》の義と、底依國の義となり、)古事記傳に委し、○圖負留神龜《フミオヘルアヤシキカメ》は、いみじき瑞祥《シルシノモノ》にして、異國の(253)禹王といひしが時に、龜負(テ)v圖(ヲ)出2洛水(ニ)1、といふ事有などを、思ひよせたるなるべし、近くは天智天皇九年六月にも、神龍の出しこと、書紀に見えたり、今よりは我(カ)御國は常《トコ》とはにして、不v變めでたき常世(ノ)國と成なむ、その瑞祥《シルシ》に負(ル)v圖神(キ)龜も、新代とて出(ツ)といふ意にいひかけたり、○新代登《アラタヨト》(代(ノ)字、類聚抄に伐に誤れり、)は、新代とてなり、新代とは新京に御代しろしめすをいふ、克木田氏、新代の字をアタラヨ〔四字右○〕とよめるは非なり、新は阿良多《アラタ》にて、阿多良《アタラ》は惜の意、後(ノ)世混じて、新をも、惜をも阿多良《アタラ》といふことにはなれるなり、廿(ノ)卷の年月波安良多安良多《トシツキハアラタアラタ》の歌も、舊本に安多良安多良《アタラアタラ》とあるは誤にて、古本には皆|安良多安良多《フラタアラタ》とあり、又|新年乃波自米《アタラシキトシノハジメ》といふ歌も、古葉類聚抄にはアラタシキ〔五字右○]とよめりと云り、實に然(ル)事なり、廿(ノ)卷なる歌は、六帖にも安良多安良多《アラタアラタ》とあり、又十二に、新夜(ノ)一夜不落《ヒトヨモオチズ》とありて、其(ノ)下に、荒田麻之|全夜毛不落《ヒトヨモオチズ》とある麻は、夜(ノ)字の誤寫にて、アラタヨノ〔五字右○]なり、(アラタマノ〔五字右○]にては解べきすべなし、又集中にあらたまてふ言は甚多かれど、タマ〔二字右○〕を田麻と書る所一所だになし、且《マタ》音訓連(ネ)用(ヒ)て假字とせることも、むげになしとにはあらねど、其は大要用ひなれたる字あれば、かうやうに書べしとも思はれず、しかるを昔より、字の誤なることをしれる人、一人だになくして、荒田麻之全夜《アラタマノヒトヨ》とは、一年の間の、毎夜といふ意と心得來れるは、あらぬことにこそありけれ、)此(レ)にていよいよ新を阿良多《アラタ》といひしこと徴《イチジル》し、その餘古(キ)書に、新をアタラ〔三字右○〕といへることかつてなし、(古今(254)集大歌所御歌に、安多良《アタラ》しき年の始にとあれば、彼(ノ)頃よりぞ混ひつらむ、又後撰集に、春雨の世に舊にける心にも猶|安多良《アタラ》しく花をこそ思へ、拾遺集に、安多良《アタラ》しと何し命を思ひけむ忘れば舊く成ぬべき身を、などあるは、惜と新と二義を兼てさへ云り、)登は登?《チテ》の登《ト》なり、さて我國者といふより、これまで五句は、上に云る如く、泉の序にて出《イヅ》とつゞく意なり、○泉乃河《イヅミノカハ》は、山城(ノ)國相樂(ノ)郡にあり、今の木津川なり、○持越流《モチコセル》は、宇遲川より上りて、陸路を泉川まで持越て、さて又流すなり、本居氏、こは今の世の心を以て思へば、宇遲川より直に下すべき事なるに、泉川へ持越て下せるは、いかなるよしにか、古(ヘ)は然爲べき故有けむと云り、○眞木乃都麻手乎《マキノツマテヲ》、(手(ノ)字、類聚抄に木とありて、ツマキ〔三字右○〕とよめれど、上にも嬬手とあれば手なり、)上に眞木佐苦檜乃嬬手乎《マキサクヒノツマテヲ》と、精《クハシ》くいひたるにゆづりて、こゝは眞木乃都麻手と簡《ツゾ》めて云り、○百不足《モヽタラズ》は、五十《イ》の枕詞なり、十三に。百不足五十槻枝丹《モヽタラズイツキガエダニ》ともあり、此等は百に足(ラ)ぬ五十《イ》とつゞきたるな、不足を多羅奴《タラヌ》といはずて、多羅孺《タラズ》と云るは、歌ひ絶る枕詞の一(ノ)格なり、〇五十日太爾作《イカダニツクリ》、(爾(ノ)字、類聚抄になきはわろし、)五十日太は借(リ)字にて、桴筏《イカダ》なり、和名抄に、論語注(ニ)云、桴(ハ)編2竹木(ヲ)1、大(ナルヲ)曰v筏(ト)、小(ナルヲ)曰v桴(ト)、和名|以加太《イカダ》とあり、谷川氏(ノ)説に、以加太《イカダ》は烏賊手《イカデ》の義なるべしといへり、さることも有むか、○泝須良牟《ノボスラム》(泝(ノ)字、類聚抄に新に誤れり、)は、藤原の宮地より、おもひやりたるさまなり、本居氏(ノ)説に、海より紀の川へ入(レ)て、紀の川を泝すをいひて、さて巨勢路より、宮處に運(255)ぶまでを兼たり、さればこは、泉の河に持越る材を云々して、巨勢道より、吾(ガ)作日(ノ)御門爾泝すらむ、といふ語のつゞきにて、御門爾の爾と、巨勢道從の從とを、此(ノ)泝すらむにて結びたるものなり、辭《テニヲハ》のはこびを熟《ヨ》く尋(ネ)得てさとるべし、なほざりに見ばまがひぬべし、さて良牟《ラム》と疑ひたるは、此(ノ)作者は、宮造の地に在てよめるよしなれば、はじめ田上山より伐(リ)出せるより、巨勢道を運ぶまでは、皆よその事にて見ざる事なればなりと云り、○伊蘇波久見者《イソハクミレバ》は、御民どもの、勞《イタヅ》き動《イソ》はくやうを見ればといふなり、敏達天皇(ノ)紀に、勤をイソシキ〔四字右○〕と訓り、同言なり、本居氏、伊蘇波久見者《イソハクミレパ》とは、宮地へはこび來るを、目(ノ)前に見たるをいへり、上の良牟と、この見者とを相照して心得べし、さて難波(ノ)海に出し、紀の川をのぼすといふ事は見えざれども、巨勢道よりといへるにて、然聞えたり、巨勢道は、紀(ノ)國にゆきかふ道なればなり、又筏に造り泝すらむといへるにても、かの川をさかのぼらせたることしるし、然らざれば此(ノ)言聞えず、大かたそのかみ、近江山城などより伐(リ)出す材を、倭へのぼすには、必(ス)件のごとく、難波(ノ)海より紀の川に入(リ)て泝すが、定まれる事なりし故に其(ノ)事はいはでも、然聞えしなりけりと云り、○神隨爾有之《カムナガラナラシ》は、神隨にて有らしといふなり、神隨は即(チ)此上にも出たり、神にておはしますまゝといふ意なり、良之《ラシ》はさだかにしかりとは知(ラ)れねど、十に七八は、それならむとおぼゆるをいふ詞なり、(俗にそうなといふにあたれり、)臣民どもの家忘れ身もたな知ず宮造(リ)にかく勤《イソシ》み(256)仕(ヘ)奉るさまを見れば、げにも我(カ)天皇命は神にておはしますまゝに、百姓はいふもさらなり、天(ツ)神地(ツ)祇までも、相うづなひ助(ケ)奉りて、かやうに有らしとなり、○歌(ノ)意は、藤原の地に大宮つくりて、天(ノ)下をしろしめさむと、天皇命のおもほしめすにつれて、やがてその宮材を、近江(ノ)國田上山にて、良材をえちびて伐(リ)出し、其を山城(ノ)國宇治川に流し下し、川より取(リ)上て陸路を運び、泉川に持越て、さて筏に作りて、その川より難波(ノ)海に出し、海より又紀の川を泝せて其を巨勢の道より、吾(カ)造りつかへ奉る、藤原の宮地へ運び來つゝ、かくまで臣民の勞を忘れて、晝夜やすむ事なく、いそしみつかへ奉るを見れば、げにも我(カ)皇天皇命は、即(チ)神にておはしますまゝに、天(ツ)神地(ツ)祇までも、相うづなひ、助(ケ)奉りて、かやうに有らしとなり、そも/\此(ノ)歌巧のことに深切《フカ》く、句法のいとも奇妙《タヘナル》など、人麻呂(ノ)朝臣の長歌の口風《クチツキ》に、をさ/\立おくれたるすぢなきをおもへば、役民の意に擬へて、さばかり上手の作るなるべし、さてこそ詞のつゞきの、こよなくまぎらはしく、きこゆるふしの多かるを、よく閲玩《アヂハフ》れば、意味明白にして、まぎるるすぢなく、いともすぐれてめでたき歌になむ有ける、
〔右日本紀(ニ)曰(ク)。朱鳥七年癸巳秋八月。幸(ス)2ニ藤原(ノ)宮地(ニ)1。六年甲午春正月。幸(ス)2藤原(ノ)宮(ニ)1。十二月冬庚戌朔乙卯。遷(リ)2居(ス)藤原(ノ)宮(ニ)1。〕
朱鳥七年とあるは誤なり、持統天皇七年とあるべし、委くは上に書紀を引る如し、
 
(257)從《ヨリ》2明日香宮《アスカノミヤ》1。遷2居《ウツリマシヽ》藤原宮《フヂハラノミヤニ》1之後《ノチ》。志貴皇子御作歌《シキノミコノヨミマセルミウタ》。
 
從2明日香(ノ)宮1云々の事は、前に出たるが如し、明日香は既《ハヤ》く一(ノ)上に出たり、なほ左の歌の下に委(ク)云、○遷居とは、此(ノ)皇子の遷り坐しをさして云、○志貴(ノ)皇子は、天智天皇の皇子、光仁天皇の大御父なり、天智天皇(ノ)紀に、七年二月云々、又有2道(ノ)君伊羅都賣1、生2施基(ノ)皇子(ヲ)1、天武天皇(ノ)紀に、朱鳥元年八月己巳朔癸未、芝基皇子、磯城皇子、各加2封二百戸(ヲ)1、持統天皇(ノ)紀に、三年六月壬午朔癸未、以2皇子施基云々等(ヲ)1、拜d撰2善言1司(ニ)u、續紀に、大寶三年九月辛卯、賜2四品志紀(ノ)親王(ニ)近江(ノ)國鐵穴(ヲ)1、慶雲元年正月丁酉、四品志紀(ノ)親王(ニ)益2封一百戸(ヲ)1、和銅元年正月乙巳、授2四品志貴(ノ)親王(ニ)》三品(ヲ)1、七年正月壬戌、益2封二百戸(ヲ)1、靈龜元年正月癸巳、授2三品志紀(ノ)親王(ニ)二品(ヲ)1、二年八月甲寅、二品志貴(ノ)親王薨(シタマフ)、親王天智天皇(ノ)第七之皇子也、寶龜元年、追尊稱d御2春日(ノ)宮(ニ)1天皇(ト)uと見ゆ、また二年五月甲寅、始設2田原(ノ)天皇(ノ)八月九日(ノ)忌斎(ヲ)於川原寺(ニ)1とも見えて、施基芝基志貴志紀など通(ハシ)書り、諸陵式に、田原(ノ)西陵、(春日(ノ)宮御宇天皇、在2大和(ノ)國添上(ノ)郡(ニ)1、兆域東西九町南北九町、守戸五烟、)とあり、
 
51 ※[女+采]女乃《ヲトメノ》。袖吹反《ソデフキカヘス》。明日香風《アスカカゼ》。京都乎遠見《ミヤコヲトホミ》。無用爾布久《イタヅラニフク》。
 
※[女+采]女は、※[女+采](ノ)字、(拾穗本に※[女+謠の旁]とあるはいかゞなり、)媛の寫誤か、古事記に、雄略天皇の幸2行(セル)乎春日1之時、媛女《ヲトメ》逢(リ)v道(ニ)、即(チ)見(テ)2幸行(ヲ)1而、逃2隱(リキ)岡邊(ニ)1、故(レ)作2御歌1曰、袁登賣能伊加久流袁加袁《ヲトメノイカクルヲカヲ》云々とあり、さらばヲトメ〔三字右○〕と訓べし、五(ノ)卷に、松浦(ノ)仙媛、六(ノ)卷に、蓬莱(ノ)仙媛など見えたり、字鏡に、媛(ハ)美女(ヲ)爲v媛(ト)、※[女+單]媛(ハ)(258)美麗之貌、爾保布《ニホフ》、又|字留和志《ウルハシ》などあり、又タワヤメ〔四字右○〕と訓ても然るべし、又一説には、※[女+委](ノ)字の寫誤なるべしといへり、(※[女+委]は、字書に弱好(ノ)貌とあり、)○袖吹反《ソデフキカヘス》は、袖を吹うら反すをいふ、袖は衣手《ソテ》なり、さて集中に、蘇田《ソデ》蘇泥《ソデ》蘇※[泥/土]《ソデ》など多く書たれば、泥《デ》を濁りても唱へしか、(今(ノ)世には、濁りてのみ唱ふれども、凡て古(ヘ)清し言を、後に濁りて唱ふること多ければ、證にはなりがたし、)然れども、提?等の字をも多く書たれば、兩《フタツナガラ》用《モチヒ》し言なるべし、さて此(ノ)一句は、袖を吹(キ)翻《カヘ》せしといふ意にきくべし、これ過去《スギニ》しことを、現在《イマ》の詞にて云る一(ツ)の格にて、七(ノ)卷に、音聞目者未見吉野河六田之與杼乎今日見鶴鴨《オトニキヽメニハイマダミヌヨシヌガハムツタノヨドヲケフミツルカモ》とあるも未(タ)見ざりしといふ意にきくと、同(シ)例なり、なほ此類をり/\あり、○明日香風《アスカカゼ》は、伊可保風《イカホカゼ》、佐保風《サホカゼ》などの類にて、其所《ソコ》に吹(ク)風をいふ、明日香《アスカ》は既《ハヤ》く一(ノ)上に明日香(ノ)川原(ノ)宮とあり、神名帳に、大和(ノ)國高市(ノ)郡飛鳥(ニ)座(ス)神社、飛鳥(ノ)山口(ニ)座(ス)神社、飛鳥(ノ)川上(ニ)座(ス)神社などある地なり、允恭天皇の遠(ツ)飛鳥(ノ)宮、又顯宗天皇舒明天皇皇極天皇齊明天皇天武天皇などの都も、皆此(ノ)地なり、名(ノ)義は、古事記履中天里(ノ)條に、水齒別(ノ)命云々、故率(テ)2曾婆※[言+可]理(ヲ)1、上2幸於倭(ニ)1之時、到2大坂(ノ)山口(ニ)1、云々、乃|明日《アス》上(リ)幸(ス)、故號2其地1謂2近(ツ)飛鳥(ト)1也、上2到于倭(ニ)1、詔之、今日(ハ)留2此間(ニ)1、爲2祓禊1而、明日《アス》參出(テ)、將v拜2神(ノ)宮(ヲ)1、故(レ)號2其地1謂2遠(ツ)飛鳥(ト)1也、と見えたり、○京都乎遠見《ミヤコヲトホミ》は、京都が遠さにといはむがごとし、○無用爾布久《イタヅヲニフク》は、その益《シルシ》なきをいふ、無用は、十五、十七に、伊多豆良《イタヅラ》と假字書あり、無用の字は、義を得て書るにて、集中に、不通《ヨドム》不明《オボヽシク》などある類なるべし、○御歌(ノ)意は、(259)盛なりし明日香(ノ)宮も故京となりて、京都が遠さに、美女《ヲトメ》の衣手吹翻せし風も、今はいたづらにのみ吹て其(ノ)益なきよと歎(キ)賜へり、
 
藤原宮御井歌《フヂハラノミヤノミヰノウタ》。
 
御井は、今も香山の西北に清水ありと云り、其ならむ歟、
 
52 八隅知之《ヤスミシヽ》。和期大王《ワゴオホキミ》。高照《タカヒカル》。日之皇子《ヒノミコ》。麁妙乃《アラタヘノ》。藤井我原爾《フヂヰガハラニ》。大御門《オホミカド》。始賜而《ハジメタマヒテ》。埴安乃《ハニヤスノ》。堤上爾《ツヽミノウヘニ》。在立之《アリタヽシ》。見之賜者《メシタマヘバ》。日本乃《ヤマトノ》。青香具山者《アヲカグヤマハ》。日經乃《ヒノタテノ》。大御門爾《オホミカドニ》。青山跡《アヲヤマト》。之美佐備立有《シミサビタテリ》。畝火乃《ウネビノ》。此美豆山者《コノミヅヤマハ》。日緯能《ヒノヨコノ》。大御門爾《オホミカドニ》。彌豆山跡《ミヅヤマト》。山佐備伊座《ヤマサビイマス》。耳高之《ミヽナシノ》。青菅山者《アヲスガヤマハ》。背友乃《ソトモノ》。大御門爾《オホミカドニ》。宜名倍《ヨロシナベ》。神佐備立有《カムサビタテリ》。名細《ナグハシ》。吉野乃山者《ヨシヌノヤマハ》。影友乃《カゲトモノ》。大御門從《オホミカドヨ》。雲居爾曾《クモヰニソ》。遠久有家留《トホクアリケル》。高知也《タカシルヤ》。天之御蔭《アメノミカゲ》。天知也《アメシルヤ》。日御影乃《ヒノミカゲノ》。水許曾波《ミヅコソハ》。常爾有米《トキハニアラメ》。御井之清水《ミヰノマシミヅ》。
 
和期大王《ワゴオホキミ》は、集中に多くかくいへり、本居氏、和期《ワゴ》は即(チ)我《ワガ》にて、下の大へつゞく故、おのづから和期と云(ハ)るゝなり、さればたゞに、我を和期といふことなしといへり、○日之皇子《ヒノミコ》、類聚抄に、日の下に知(ノ)字ありて、ヒシリノミコ〔六字右○]と訓るはいかゞ、○麁妙乃《アラタヘノ》(麁字、拾穗本に※[鹿三つ]と作り、玉篇に、麁踈也本作v※[鹿三つ](ニ)とあり、)は、藤の枕詞なり、上に出(ツ)、○藤井我原《フヂヰガハラ》は、藤原なる地(ノ)名なり、即(チ)御井ある故に、かく名を負るなるべし、○大御門《オホミカド》、かくいひて、即(チ)大御宮殿《オホミヤ》のことゝきこゆる、古語の(260)つねなり、○埴安乃堤上爾《ハニヤスノツヽミノウヘニ》(埴(ノ)字、類聚抄に填とあるはわろし、)は、香山の足長く、池の東北に廻(リ)て有し故、それに引つゞきて、西の方に堤の有しなるべし、二(ノ)卷に、埴安乃池之堤之隱沼乃《ハニヤスノイケノツヽミノコモリヌノ》云云とあり、神武天皇(ノ)紀に、前年《イニシトシ》秋九月、潜(ニ)取(テ)2天(ノ)香山之|埴土《ハニヲ》1、以造(リ)2八十平※[分/瓦]《ヤソヒラカヲ》1、躬自|齋戒《ユマハリ》祭(リタマヒ)2諸神《カミタチ》1、遂(ニ)得2安定《シヅメタマヘルガ》區宇《アメノシタヲ》1故(ニ)、號(テ)2取(リシ)v土(ヲ)之處1曰2埴安《ハニヤスト》1と見えて、埴安は、埴黏《ハニネヤス》といふ意より負たる名なりと云り、字鏡に、挺(ハ)謂v作2泥物1也、禰也須《ネヤス》とあり、(安を、書紀の安定の文へあてゝ見るは、古(ヘ)の義にたがへり、)○在立之《アリタヽシ》は、在は在通《アリカヨフ》年待《アリマツ》などある在《アリ》と同じく、在々て絶ざるをいふ詞なり、(古事記傳(ニ)云、然而在《サテアル》、然而《サテ》不v被v在、云々|而在《テアリ》などゝ常に云言なれども、在通(フ)在待(ツ)などゝ上に置ことは、後(ノ)世の語に無(キ)故に耳遠く聞ゆめり、)立之《タヽシ》は立の伸りたるなり、(タシ〔二字右○〕の切チ〔右○〕となる、)立給ひと云むが如し、こは往《ユキ》をユカシ〔三字右○〕、遊《アソビ》をアソバシ〔四字右○〕などいふ類にて、尊稱詞《タフトミイフコト》なり、既く云り、○見之賜者《メシタマヘバ》は、見之《メシ》とは志呂斯賣須《シロシメス》の賣須《メス》と同語にて、見を尊(ミ)稱(フ)詞なり、これも即(チ)立をタヽシ〔三字右○〕といふと同格の言なり、(メシ〔二字右○〕はミ〔右○〕と切る、)此(ノ)上にも云り、六(ノ)卷に、我大王之見給芳野宮者《ワガオホキミノメシタマフヨシヌノミヤハ》、十九に、見賜明米多麻比《メシタマヒアキラメタマヒ》、又|見之明良牟流《メシアキラムル》などあり、(これらの見之《メシ》をミシ〔二字右○〕とよめれど、然訓ては見之《ミシ》の之《シ》の言、いはゆる過去(ノ)辭となれば、語とゝのはず、古事記傳にも、賣之《メシ》は美之《ミシ》を通はし云るよし云るは、甚誤なり、立をタチシ〔三字右○〕といふときは、シ〔右○〕の言過去(ノ)辭となると同じきを、思ひ合すべし、)猶|賣之《メシ》と云る例をいはゞ、上に食國乎賣之賜牟登《ヲスクニヲメシタマハムト》、二(ノ)卷に、暮去者召賜良之《ユフサレバメシタマフラシ》云々、明日毛鴨召賜萬旨《アスモカモメシタマハマシ》、(261)六卷廿(ノ)卷に、於保吉美能賣之思野邊爾波《オホキミノメシシヌヘニハ》、十八に、余思努乃美夜乎安里我欲比賣須《ヨシヌノミヤヲアリガヨヒメスメ》、廿(ノ)卷に、賣之多麻比安伎良米多麻比《メシタマヒアキラメタマヒ》、又|可久之許曾賣之安伎良米晩《カクシコソメシアキラメヽ》、又|於保吉美能都藝弖賣須良之《オホキミノツギテメスラシ》などあり、(又集中に、所聞見爲《キコシメス》とあるを、假字書には伎古之米須《キコシメス》と見え、又祝詞式に、所知看、古語(ニ)云|志呂志女須《シロシメス》などありて、凡て如此樣の見之《メシ》見須《メス》を、美之《メシ》美須《ミス》と云ること、假字書にをさをさ例なきことなり、唯|昔見之《ムカシミシ》などいふ類に、過去し時の事にのみミシ〔二字右○〕とは云り、)○日本乃《ヤマトノ》、こは借(リ)字にて大和之なり、此下に、幸2吉野(ノ)宮(ニ)1時に、倭爾者鳴而歟來良武《ヤマトニハナキテカクラム》とよめるは、藤原(ノ)宮邊《ミヤノアタリ》を倭と云りと聞えたり、然れば香山をもしかいへる事知べし、○青香具山《アヲカグヤマ》は青とは木繁く榮えて、蒼々《アヲ/\》としたるをいふ、○日經乃《ヒノタテノ》は、成務天皇(ノ)紀に隨《マニ/\》2阡陌《タヽサノミチヨコサノミチノ》1以定2邑里1、因以2東西1爲2日縦《ヒノタヽシト》1、南北(ヲ)爲2日横《ヒノヨコシト》1、山(ノ)陽《ミナミヲ》曰2影面《カゲトモ》1、山(ノ)陰《キタヲ》曰2背面《ソトモト》1といへり、(説文に、路(ノ)東西(ヲ)爲v陌(ト)、南北(ヲ)爲v阡(ト)あるにつきて、タヽサノミチ〔六字右○〕を南北、ヨコサノミチ〔六字右○〕を東西と思ふことなかれ、彼(ノ)國にては南北を天地の經《タテ》とし、束西を天地の緯《ヨコ》とせれど、吾(カ)古(ヘ)はこれに異なれば、阡は横《ヨコサノ》道にあたり、陌は竪《タヽサノ》道にあたれども、阡陌と書るをタヽサノミチ〔六字右○〕、ヨコサノミチ〔六字右○〕と訓るは、山海と書てウミヤマ〔四字右○〕、晝夜と書てヨルヒル〔四字右○〕と訓ると同(シ)理とおもへ、)本朝月令に、高橋(ノ)氏文(ニ)云、云々|日竪《ヒノタテ》日横《ヒノヨコ》、陰面背面乃諸國人乎《クカゲトモソトモノニグニノヒトヲ》云々、(和名抄に、唐韻(ニ)云、道路、南北(ヲ)曰v阡(ト)、東西(ヲ)曰v陌(ト)云々とありて、私記を引て、阡を多知之乃美知《タチシノミチ》、陌を奧古之乃美知《ヨコシノミチ》と注せり、これ彼(ノ)國のさだめにはよくかなひたれど、吾(ガ)古(ヘ)に異(262)れり、東西を多知之乃美知《タチシノミチ》、南北を與古之乃美知《ヨコシノミチ》とこそいふべけれ、ゆめ此(レ)等の書によりて混ふことなかれ、さてこゝは、香山は、東の御門に向へる故に、かく云り、)○青山跡《アヲヤマト》、(舊本青を春に、跡を路に誤れり、又類聚抄に、山の上に日(ノ)字あるはいよ/\わろし、)本居氏、舊本春山とあるは、青山の誤なるべし、此(ノ)歌すべての詞どもを思ふに、分て春といはむこといかゞ、其(ノ)うへ畝火乃此美豆山者彌豆山跡《ウネビノコノミヅヤマハミヅヤマト》と云るに對へても、青香具山者青山跡《アヲカグヤマハアヲヤマト》、と有べき物なりと云り、實に然ることぞかし、故(レ)今は此(ノ)考によりて改めつ、跡は眞恒校本に古本跡とあるによりつ、○之美佐備立有《シミサビタテリ》とは、之美《シミ》は繁榮《シケミ》なり、佐備《サビ》は神佐備《カムサビ》の佐備に同じ、○此美豆山《コノミヅヤマ》は、美豆は賛辭《ホメコトバ》とて美豆枝《ミヅエ》、美豆垣《ミヅカキ》などの美豆と同じ語にて稚々《ミヅ/\》とうるはしきよしなり、○日緯能は、ヒノヨコノ〔五字右○〕と訓べし、そも/\香山は東(ノ)御門に向ひ、畝火山は西(ノ)御門に向ひ、吉野山は南(ノ)御門に向ひ、耳梨山は北(ノ)御門に向ひ立たれば、香山を日經《ヒノタテ》と云(ヒ)、吉野山を影面《カゲトモ》と云、耳梨山を背面《ソトモ》と云るはいつれも正しくあたれることなるを、畝火山も西(ノ)御門に向ひたれば、實はこれも日經《ヒノタテ》と云むぞ、正しくあたれる事なる、しかれども此(ノ)歌、日經《ヒノタテ》日緯《ヒノヨコ》山陽《カゲトモ》山陰《ソトモ》の四(ツ)をいひてしたてたるに、ひとり日緯《ヒノヨコ》をいひもらすべきにあらざれば日緯《ヒノヨコ》の言を西(ノ)御門にやとひたるものなり、かくては事の實にたがひたることなれど、歌は詞を主とするものなれば、強(チ)に拘るべきには非ず、しかるを此(ノ)理をしらでうたがふは、中々に古(ヘ)の歌詞の、理にのみ泥まざり(263)しことをしらざるが所以《ユエ》なり、(本居氏の畝火山は西(ノ)御門に當るべけれど、西面ながら、少しは南の方によれる山なれば、かくいへるよし云たるは、なほ理に泥める論なり、たとひ山は南の方によれりとも、西(ノ)門をいへる歌なれば、實には日(ノ)緯とはいはるまじきことなるをや、)○山佐備伊座《ヤマサビイマス》は、即(チ)畝火山を尊みて、山さびおはしますと云るなり、三(ノ)卷には富士(ノ)山を尊みて、日本之山跡國乃鎭十方座神可聞《ヒノモトノヤマトノクニノシヅメトモイマスカミカモ》とよめり、○耳無之《ミヽナシノ》、無(ノ)字、舊本高と作るは誤なり、十六に、無耳之池《ミヽナシノイケ》とあるに從て今改つ、○青菅山《アヲスガヤマ》は、別にしかいふ山(ノ)名には非ず、青は青香具山《アヲカクヤマ》の青と同じ、本居氏、菅は借(リ)字にて、清々《スガ/\》しき意にて、青清《アヲスガ》山といふなるべしといへり、○背友乃《ソトモノ》は、友は借(リ)字にて、背津面之《ソツオモノ》なり、(ツオ〔二字右○〕》の切ト〔右○〕となれり、)上に、成務天皇(ノ)紀を引る如く、山(ノ)陰《キタ》を背面といふ、耳無は北の御門に當ればかく云り、○宜名倍《ヨロシナベ》は、宜並《ヨロシナベ》にて宜しく滿足《タリトヽノヒ》たる意なり、三(ノ)卷六(ノ)卷十八(ノ)卷などにも見えたり○神佐備立有《カムサビタテリ》は、耳梨山をいへるなり、神佐備《カムサビ》は既く云り、○名細《ナグハシ》は、二(ノ)卷に、名細之狹岑之島之《ナグハシサミネノシマノ》、三(ノ)卷に、名細寸稻見乃海之《ナグハシキイナミノウミノ》などあり、此は、名の細《クハ》しく人(ノ)耳に觸たる由にて、地の名高きをいふならむ、細は、勇細《イスクハシ》花細《ハナグハシ》香細《カグハシ》心細《ウラグハシ》目細《マグハシ》などの細《クハシ》に同じ、倭姫世記大比古(ノ)命(ノ)詞に、奈其波志忍山《ナゴハシオシヤマ》と有も同意なるべし、○影友之《カゲトモノ》は、これも友は借(リ)字にて、影津南之《カゲツオモノ》なり、右に云り、○大御門從《オホミカドヨ》云々(從(ノ)字、拾穗本に徒と作るは誤なり、)は、南の御門にあたりて、遠く雲居に見放らるゝは吉野山なり、其(ノ)外にもあれども、專らなるをもて云るの(264)み、○高知也《タカシルサ》は、高く知ます天といふ意につゞけたり、天は高く知よしにてかくいへり、也《ヤ》は、のどめたる時におく助辭なり、○天之御蔭《アメノミカゲ》は、日之御影といはむがごとし、○天知也《アメシルヤ》は、天を知ます日といふ意につゞけたり、この也《ヤ》も上に同じき助辭なり、○日之御影乃《ヒノミカゲノ》云々(之字、舊本になきはわろし、天之御蔭ともあればなり、今は類聚抄に從つ、)は、天津日の御蔭の映照《ウツロ》ふ清水のよしなり、御影といふに、やがてうつろふ意はこもれり、十三に、天雲之影塞所見隱來笑長谷之河者《アマクモノカゲサヘミユルコモリクノハツセノカハハ》云々、とあるを併(セ)考(フ)べし、さてこゝは必竟《ムネ》とは、唯日の御影のうつろふよしなるを、高知也云々の四句をもて文なしたり、ことは異なれども、延喜式祝詞に、皇御孫命乃《スメミマノミコトノ》、瑞能御舍乎仕奉?《ミヅノミアラカヲツカヘマツリテ》、天御蔭日御蔭登隱坐?《アメノミカゲヒノミカゲトカクリマシテ》云々とあり、(こは日影を覆ひて隱坐よしにて、此(ノ)歌とは意|異《タガ》へり、されど唯日(ノ)御蔭を、かく文にいひなしたる語味は、同じことぞかし、)一説に、高知也云々の四句は、正しく云ば、此(ノ)天皇の天の御蔭日の御蔭と隱坐(ス)、此(ノ)美豆《ミヅ》の御舍《ミアラカ》の水こそはといふべきを、推古天皇(ノ)紀蘇我大臣(ノ)歌、并祝詞などの古言をいひなれて、唯|天之御蔭日之御《アメノミカゲヒノミカゲ》とのみ云て、やがて御舍のことゝはなしたるなり、祝詞式の中にも、遷2却祟神1祭(ノ)詞には、天之御蔭日之御蔭止仕奉弖《アメノミカゲヒノミカゲトツカヘマツリテ》と云を、句を隔て下に御舍の事をいひ、鎭2御魂1齋戸(ノ)祭(ノ)祝詞には、こゝと同じく、天之御蔭日之御蔭《アメノミカゲヒノミカゲ》とのみ云て、御舍の事をば略けるをも思ふべし、さて高知也《タカシルヤ》、天知也《アメシルヤ》てふ言をもて文なしたるも、彼(ノ)高天原爾千木高知弖《タカマノハラニチギタカシリテ》、天之御蔭日之御蔭止《アメノミカゲヒノミカゲト》云々、と(265)ある古語によるにたゞに、高く知ます天、天を知ます日とのみいへるにはあらで、御あらかの高知ます事をいへるなりと云り、○水許曾波《ミヅコソハ》、波(ノ)字類聚抄拾穗本等に、婆とあるはわろし○常磐爾有米《トキハニアラメ》、(磐(ノ)字、舊本に脱たるを、今は仙覺注本によりつ、但し彼(ノ)本には盤と作れど、磐なりしこと決ければ今は改て書つ、)常磐《トキハ》は、磐石《イハ》の常に不v變とこしへなるを、常磐《トコイハ》といふより出たる言にて、(等許伊波《トコイハ》を約めて等伎波《トキハ》といふ許伊《コイ》の切|伎《キ》なり、)何にても常に變らず、とこしなへなるを云り、さてかく眞清水こそ、常磐にあらめと云て、やがて此(ノ)の大宮の、長久《トコシヘ》に在なむことを祝《ホギ》たり、○御井之清水、常の例によりて、眞の言をそへてミヰノマシミヅ〔七字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、藤原の地に大宮仕へ奉りて、埴安の堤のうへに絶ず幸して、四方を見はるかさせ給ふに、近くは御門ごとに、めでたき山々立なちび、遠くは吉野山の絶景《ヒデタルトコロ》の、雲居遙に見えて、世にことに似なう、すぐれたるさへ有に、御井の眞清水又たぐひなく、きよらにして、天津日の御影の映照《ウツロ》ふさま、たとへむ方なく、めでたしともめでたし、かく山にも水にも、よろしく打あひたりとゝのひて、何ひとつあかぬところなき大宮地なれば、この眞清水のかはることなく、とこしなへなるがごとく、さてこそ此(ノ)大宮殿も、今よりして萬代に、とみさかえ行めとなり、始(メ)には、持統天皇の藤原に大宮をはじめ給ふことをいひ、中には、この天皇常々埴安の堤に幸上て、四方を見はるかさせ給ふに、山なみのよろしく、世に勝れたる地なるよしを(266)いひ、終には、御井の眞清水のたぐひなく、きよらなるよしをたゝへて、さて大宮地の、萬代にとみさかえむことを祝たり、此は御井の邊に、持統天皇の幸し時、大御供つかへ奉れる人のよめるなるべし、
 
短歌《ミジカウタ》
 
短(ノ)字、拾穗本には反と作り、
 
53 藤原之《フヂハラノ》。大宮都加倍《オホミヤツカヘ》。安禮衝哉《アレツクヤ》。處女之友者《ヲトメガトモハ》。乏吉呂賀聞《トモシキロカモ》。
 
大宮都加倍《オホミヤツカヘ》、(倍(ノ)字を書たるは正しからず、)都加閇《ツカヘ》と、清(ム)例なり、(宮仕は宮女の給仕することゝ解來れども非なり、)宮を造り奉(ル)をいふ古語の例なり、(今(ノ)世にも貴人の爲に、何にても物するを、ツカマツル〔五字右○〕と云も同じことなり、)宮造(リ)を宮仕《ミヤツカヘ》と云る例は、六(ノ)卷に、田跡河之瀧乎清美香從古宮仕兼多藝乃野上爾《タドカハノタギヲキヨミカイニシヘヨミヤツカヘケムタギノヌノヘニ》、十三に、山邊乃五十師乃原爾内日刺大宮都可倍朝日奈須目細毛暮日奈須《ヤマヘノイシノハラニウチヒサスオホミヤツカヘアサヒサスマグハシモユフヒナス》、浦細毛《ウラグハシモ》云々、又|津禮毛無城上宮爾大殿乎都可倍奉而殿隱隱在者《ツレモナキキノヘノミヤニオホトノヲツカヘマツリテトノゴモリコモリイマセバ》、十九に、天地與相左可延牟等大宮乎都可倍《アメツチトアヒサカエムトオホミヤヲツカヘ》麻都禮婆貴久宇《マツレバタフトクウ》禮之伎《レシキ》、(これら大殿乎云々、大宮乎云々、とあるにても、いよ/\造り奉る義なること明らけし、)祈年祭(ノ)祝詞に、皇御孫命能瑞能御舍仕奉?《スメミマノミコトノミヅノミアラカツカヘマツリテ》云々、遷2奉太神(ノ)宮(ヲ)1祝詞に、廿年爾一遍比《ハタトセニヒトタビ》、大宮新仕奉?《オホミヤアラタニツカヘマツリテ》云々など猶多し、皆同じことなり、○安禮衝哉《アレツクヤ》(哉《(ノ)》字、類聚抄には也と作り、)は安禮衝《フレツク》は、衝は借(リ)字にて、顯齋《アレツク》なるべし、顯《アレ》は顯露事《アラハニコト》現人神《アラヒトカミ》(267)などの顯現《アラ》と同言なるべし、齋《ツク》とは、神功皇后(ノ)紀に、撞賢木嚴之御魂《ツキサカキイヅノミタマ》、古事記雄略天皇(ノ)條(ノ)歌に、美母呂爾都久夜多麻加伎都岐阿麻斯《ミモロニツクヤタマカキツキアマシ》、(齋哉玉垣齋餘《ツクヤタマカキツキアマシ》なり、)集中七(ノ)卷に、三諸就三輪山《ミモロツクミワヤマ》、六(ノ)卷に三諸著鹿背山《ミモロツクカセヤマ》などある都久《ツク》にて敬齋《ヰヤマヒキヨマハリ》て奉仕《ツカヘマツ》ることなり、さて朝廷に奉仕《ツカフル》をば、顯露事《アラハニゴト》につきて顯齋《アレツク》と云、神祇《カミ》に奉仕《ツカフ》るをば、幽事《カムコト》につきて忌齋《イツク》とはいへるなるべし、伊都久《イツク》は即(チ)忌齋《イミツク》なり、幽事《カムコト》につきて忌齋《イツク》と云は、神祇にはことに、禁忌《モノイミ》を主として拜祭《マツル》ゆゑにいふなるべし、(神事ならでも、伊都久《イツク》と云ことのあるは、神に奉仕《ツカフ》るに擬《ナソラヘ》て敬ふをいふなるべし、)さて六(ノ)卷長歌に、八千年爾安禮衝之乍天下所知食跡《ヤチトセニアレツカシツヽアメノシタシロシメサムト》云々とあるも、百(ノ)官に令《シ》2顯齋《アレツカ》1乍《ツヽ》といへるにて、同言なり、(然るを、此(ノ)言を生繼《アレツグ》といふ意とするは、いみじきひがことなり、生繼と云こと、此(レ)等の歌に謂なし、さて集中借(リ)字には、清濁通(ハシ)用(ヒ)たる例もあれど、二處まで衝(ノ)字をかきたれば、久《ク》は清音にて、繼《ツグ》にはあらず、又本居氏は、類聚國史天長八年(ノ)條、三代實録貞觀十九年(ノ)條などに、賀茂(ノ)齋(ノ)内親王を、阿禮乎止賣《アレヲトメ》と申せる、その阿禮《アレ》は、奉仕《ツカヘマツ》る意なれば、此(ノ)歌の安禮衝《アレツク》は、奉仕りいつきまつる意なるべし、衝《ツク》は伊都久《イツク》の伊《イ》を省ける言なりといへり、按に、内藏寮式賀茂(ノ)祭の條に。下(ノ)社上(ノ)社松(ノ)尾(ノ)社、社別(ニ)阿禮(ノ)料(ノ)五色帛各六疋、盛2阿禮(ヲ)1料、筥八合云々、とある阿禮《アレ》は、貫之集に、阿禮引に引つれてこそ千早振賀茂の川浪立わたりけれ、とある其(レ)なるべし、又|御阿鹿《ミアレ》の注連《シメ》なども歌によめるは、その阿禮の帛を、注連にかくるならむ、又或書には、阿禮幡と云(268)ものも見えたり、又本朝月令に、秦氏本系帳を引て、松(ノ)尾(ノ)大神御社者云々、又田口(ノ)腹女秦(ノ)忌寸知麻留女、始立2御阿禮(ニ)1又高橋(ノ)氏文を引て、阿禮子孫といへることも見ゆ、これらは阿禮乎止賣《アレヲトメ》の阿禮ときこゆ、又歌に、御阿禮《ミアレ》山、御阿禮《ミアレ》野など云るも、賀茂の御生《ミアレ》祭につきていへることゝきこゆ、いづれもみな阿禮《アレ》は、賀茂社の事に云るのみにて、ひろく他の事のうへにいへりとおぼえざれば、今の歌の安禮と同意ならむこと、おぼつかなし、しかれどもこの安禮も、顯齋《アレツク》の安禮と、もと同意にてもあらむか、其は未(タ)詳ならず、なほ後に考(ヘ)得たらむほど、又もいふべし、かくて都久《ツク》は、伊都久《イツク》の伊を省けりと云ことは非なり、伊《イ》は忌《イミ》、都久《ツク》は齋《ツク》にて、もと二言を合せていへることなるをや、)かくてこの藤原の新宮にして持統天皇に奉仕《ツカヘマツ》る官女等を、顯齋《アレツク》や處女《ヲトメ》が徒《トモ》とはいへるなるべし、哉は高知也《タカシルヤ》、天知也《アメシルヤ》、天飛也《アマトブヤ》など云|也《ヤ》に同じく、のどめたる時におく助辭なり、○處女之友者《ヲトメガトモハ》(之(ノ)字、拾穗抄に、異本に乃とあるよし記せり、)は、官女のともがらはといふなり、○乏吉呂賀聞《トモシキロカモ》、(舊本に、乏を之に、呂を召に誤れり、類聚妙によりつ、)乏《トモシキ》はうらやましきなり、うらやましきを、古言に乏きといへる例は、此(ノ)下に、木人乏母《キヒトトモシモ》、三(ノ)卷に、武庫浦乎※[手偏+旁]轉小舟粟島矣背爾見乍乏小舟《ムコノウラコギタムヲブネアハシマヲソガヒニミツヽトモシキヲブネ》、四(ノ)卷に、家二四手雖見不飽乎草枕客毛妻與有之乏左《イヘニシテミトモアカジヲクサマクラタビニモツマトアルガトモシサ》、五卷に麻都良河波多麻斯麻能宇良爾和可由都流伊毛良遠美良牟比等能等母斯佐《マツラカハタマシマノウラニワカユツルイモラヲミラムヒトノトモシサ》、六(ノ)卷に、島隱吾※[手偏+旁]來者乏毳倭邊上眞熊野之船《シマガクリアガコギクレバトモシカモヤマトヘノボルマクマヌノフネ》、また、朝波海邊爾安在里爲暮去者倭部越雁四乏(269)母《アシタニハウミヘニアサリシユフサレバヤマトヘコユルカリシトモシモ》、七(ノ)卷に、足柄乃筥根飛超行鶴乃乏見者日本之所念《アシガラノハコネトビコエユクタヅノトモシキミレバヤマトシオモホユ》、また妹爾戀余越去者勢能山之妹爾不戀而有之乏左《イモニコヒアガコエユケバセノヤマノイモニコヒズテアルガトモシサ》、又|吾妹子爾吾戀行者芝雲並居鴨妹與勢能山《ワギモコニアガコヒユケバトモシクモナラビヲルカモイモトセノヤマ》、八(ノ)卷に、吉名張乃猪養山爾伏鹿之嬬呼音乎聞之登聞思佐《ヨナバリノヰカヒノヤマニフスシカノツマヨブコエヲキクガトモシサ》、十(ノ)卷に、久方之天漢原丹奴延鳥之裏歎座津乏諸手丹
《ヒサカタノアマノガハラニヌエトリノウラナゲマシツトモシキマデニ》、十五に、由布豆久欲可氣多知與里安比安麻能我波許具布奈妣等乎見流我等母之佐《ユフヅクヨカゲタチヨリアヒアマノガハコグフナビトヲミルガトモシサ》、十七に、夜麻扶枳能之氣美登※[田+比]久久?能許惠乎聞良牟伎美波登母之毛《ヤマブキノシゲミトビククウグヒスノコエヲキクラムキミハトモシモ》、また伊末太見奴比等爾母都氣牟於登能未毛名能未母伎吉底登母之夫流我禰《イマダミヌヒトニモツゲムオトノミモナノミモキヽテトモシブルガネ》、廿(ノ)卷に、佐伎母利爾由久波多我世登刀布比登乎美流我登毛之佐毛乃母比毛世受《サキモリニユクハタガセトトフヒトヲミルガトモシサモノモヒモセズ》、などあり、是なり、呂《ロ》は助辭なり、古語に例多し、(呂迦母《ロカモ》と云る例を云ば、三(ノ)卷に、悲呂可聞《カナシキロカモ》、五(ノ)卷に多布刀伎呂可※[人偏+舞]《タフトキロカモ》、古事記仁徳天皇(ノ)條に淤富伎美呂迦母《オホキミロカモ》、又|他賀多泥呂迦母《タガタネロカモ》、雄略天皇(ノ)條に、登母志伎呂加母《トモシキロカモ》、書紀仁徳天皇(ノ)卷に、箇辭古着呂箇茂《カシコキロカモ》などあり、)賀聞《カモ》は歎息の字なり、(賀(ノ)字を書るは正しからず、清て唱ふべきこと論なし、)○歌(ノ)意藤原(ノ)大宮殿新(ニ)造(リ)奉りて、さて顯齋《アレツ》き仕(ヘ)奉る宮女のともがらのうらやましきことかな、女の身ならば、さばかりめでたき大宮の内に、朝暮親くなれ仕(ヘ)奉るべきに、さることの叶はねば、猶あかずおもはるゝことゝなり、持統天皇は、女帝にておはしましゝかば、ことにみや女のたぐひは、親くつかへまつりしことおもふべし、(此(ノ)歌を岡部氏(ノ)考に、右の長歌の反歌ならずとして、右に短歌とあるをも削(リ)去て、さて云、是は別に端詞の有しが落たるか、又は亂れたる一本に、(270)短歌と有しを以て、この歌をみだりに、こゝに引付たるにも有べし、といへるはいかにそや、思ふに、こは右の長歌は御井(ノ)歌なるを、この短歌には御井の事をよまざれば、別歌とおもへるなるべし、端に御井(ノ)歌と題《カケ》るは、一首の大抵によりて、後にかけるものにこそあれ、主とはこの藤原(ノ)大宮處の、世に勝れたる地なるよしを賛奉り祝奉りて、さてその反歌に、かゝるめでたき大宮の内に、親くなれ仕(ヘ)奉る宮女のともがらをさへ、うらやみたる趣なれば、いかで右の反歌にあらずとはいはむ、おほかたに考ふべからず、讀者よくおもひ見よ
 
右歌《ミギノウタ》。作者未詳《ヨミヒトシラズ》。
 
太上天皇《オホキスメラミコトノ》。幸《イデマセル》2于|難波宮《ナニハノミヤニ》1時歌《トキノウタ》。
 
太上天皇は、持統天皇なり、書紀持統天皇十一年八月乙丑朔、天皇定(テ)2策(ヲ)禁中(ニ)1、禅(リタマヒキ)2天皇位《オホミクラヰヲ》於皇太子1とある、これよりして持統天皇を、太上天皇と稱奉《タヽヘマツ》れり、これ太上天皇の尊號《オホミナ》のはじまりなり、すべて太上天皇を、オホキスメラミコト〔九字右○〕と訓申せる、是(レ)然べし、その 大《オホキ》とは、祖《オヤ》なるかた兄《アニ》なる方をもいふ詞なり、祖な方に云るは、祖父を大父《オホチ》、祖母を大母《オホバ》、曾祖父を大大父《オホオホヂ》、曾祖母を大大母《オホオホバ》、祖父の兄弟を大小父《オホヲチ》、祖父の姉妹を大小母《オホヲバ》と云、又天皇命の御剋母の、后位に登《ノボ》りましゝを、大大御祖《オホオホミオヤ》と申す類、すべて祖なる方につきて大《オホキ》といひ、又兄なる方をも云るは、長子の三位已上なるを、大卿《オホマヘツキミ》、(少卿《オトマヘツキミ》に對へて云り、)又第一にあたる女を、大孃《オホイラツメ》、(二孃《オトイラツメ》(271)に、對へて云り、)又長子の妻を、大婦《オホヨメ》(季子の妻を、弟婦《オトヨメ》と云に對ひたり、)といふ類すべて兄なる方につきて大《オホ》と云るなり、故(レ)まことに、天皇命の大御父の天皇に大坐《オホマシ》ましゝをば、大《オホキ》と申す御稱を、冠らせ奉るべき理にぞありける、(但し中(ツ)世このかたは、おりゐのみかどゝ申せど、そは古稱にあらず、)○幸2于難波(ノ)宮1は、續紀に、文武天皇三年正月癸未、幸2難波宮(ニ)1、二月丁未、車駕至(リマス)自2難波(ノ)宮1、と見えたる、其(ノ)度に太上天皇も共に幸し給へるなるべし、もし續紀には、太上天皇の四字を脱せるものとする時は、此(ノ)集の如く、太上天皇のみの幸なるべし、○此題詞より、左の大伴乃《オホトモノ》云々、旅爾之而《タビニシテ》云々、大伴乃《オホトモノ》云々、草枕《クサマクラ》云々、又大寶元年云々、倭爾者《ヤマトニハ》云々、巨勢山乃《コセヤマノ》云云の六首(ノ)歌まで、必(ス)こゝに收《イル》べきを、舊本慶雲三年云々と題《シル》して、葦邊行《アシヘユク》云々、霞打《アラレウチ》云々の二首(ノ)歌をおきて、其(ノ)下に收たるは、錯亂《ミダレ》たるものなり、故(レ)今は正しつ、さるは此(ノ)太上天皇はおりゐまして六年、大寶二年の十二月に崩賜ひしを慶雲三年とあるより、下に載べきに非ざればなり、
 
66 大伴乃《オホトモノ》。高師能濱乃《タカシノハマノ》。松之根乎《マツガネヲ》。枕宿杼《マキテヌルヨハ》。家之所偲由《イヘシシヌハユ》。
 
大伴乃《オホトモノ》は、高師の枕詞なり、其(ノ)義次にいふべし、○高師能濱《タカシノハマ》は、垂仁天皇(ノ)紀に、高石《タカイシノ》池、持統天皇(ノ)紀に、河内(ノ)國大鳥(ノ)郡|高脚《タカシノ》海、神名帳に和泉(ノ)國大鳥(ノ)郡高石(ノ)神社、靈異記に和泉(ノ)國海中云々泊2于高脚(ノ)濱(ニ)1、今も高石《タカシ》村あり、(秋成云、高師の濱は、今高いしと里の名に呼り、其(ノ)わたり今は濱寺と(272)よびて、松村立はえしまさご路あり、いと清き濱邊なり、)さて難波へ幸《イデマ》しゝよしなれども、隣國へは幸もありけむ、又從駕の人の行到てよみし類も多し、(但し攝津志に、住吉(ノ)郡高師(ノ)濱、堺(ノ)北(ノ)莊、呼(テ)曰2高洲七度(ト)1即(チ)此とありて、即(チ)此(ノ)歌をも引り、されどおぼつかなし、叉後(ノ)世名處を集めたるものに、高師の濱を難波に在と云るは、この歌、難波に幸せる時のなるによりて、闇推にいへるにはあらざるか、されば高師てふ地は、難波の古き圖《カタ》かける物にも見えざるをや、もしまことに御津の邊《アタリ》などに高師てふがあらば、大伴の御津といふより轉して、高師ともつづけしなるべし、さらば八雲立出雲《ヤクモタツイヅモ》といふより、後の歌に、八雲立手間《ヤクモタツテマ》の關ともつゞけし類なるべし、)さて高師は、タカシ〔三字右○〕と訓來つれども、和名抄に、大和(ノ)國高市(ハ)、多介知《タケチ》、武藏(ノ)國横見(ノ)郡高生(ハ)、多介布《タケフ》、佐渡(ノ)國雜太(ノ)郡高家(ハ)、多介倍《タケヘ》(十(ノ)卷五丁に、弓月我高《ユツキガタケ》、十三に、吉野之高《ヨシヌノタケ》、)などあるを併(セ)思(ヘ)ば、古(ヘ)はタケシ〔三字右○〕と呼《イヒ》けむか、もししからば、これも大伴の健《タケ》しといひかけたるにて、此(ノ)下の大伴乃御津《オホトモノミツ》とつゞけたるに、其(ノ)意ひとしきことなり、もとよりタカシ〔三字右○〕と稱《イヒ》しにても、健《タケ》しと云意とせむに難なかるべし、こは猶よく考べし、大伴は大伴氏の事にて、其は下に委(ク)辨ふ、○枕宿杼は、杼は夜(ノ)字を誤寫せるにて、マキテヌルヨハ〔七字右○〕なりと本居氏の云るぞよき、枕をマキテ〔三字右○〕と訓は、マクラ〔三字右○〕と云も則纏(ク)よしの稱《ナ》なれば、はたらかしてマキ〔二字右○〕ともマク〔二字右○〕とも訓なり、十(ノ)卷にも、君之手毛未枕者《キミガテモイマダマカネバ》とあり、猶多し、神武天皇(ノ)紀に、又|賊衆戰死而《アタドモタヽカヒシニテ》、僵(シ)v屍|枕《マキ》v臂(ヲ)處(ヲ)、呼2爲《イフ》頬枕田《ツラマキタト》1とも(273)見えたり、○家之所偲由《イヘシシヌハユ》は、家とは、やまとなるおのが家をいふ、之《シ》は下の志貴(ノ)皇子の御歌に、倭之所念《ヤマトシオモホユ》とあるごとく、家の一(ト)すぢにしたはるゝをいふ助辭なり、所偲由はシヌハユ〔四字右○〕と訓(ム)、したふ意なり、上軍(ノ)王(ノ)歌に委(ク)注り、凡シヌハレ、シヌハル〔八字右○]などの類の、レ〔右○〕とル〔右○〕とは、古(ヘ)はエ〔右○〕と云(ヒ)ユ〔右○〕と云り、書紀齊明天皇(ノ)卷大御歌に、倭須羅※[まだれ/臾]麻自珥《ワスラユマジニ》、集中五(ノ)卷に、可由既婆比登爾伊等波延可久由既婆比登爾邇久麻延《カユケバヒトニイトハエカクユケバヒトニニクマエ》、又|禰能尾志奈可由《ネノミシナカユ》、七(ノ)卷に衣爾須良由奈《キヌニスラユナ》、十五に、伊能禰良延奴爾《イノネラエヌニ》などこの餘も甚多し、偲(ノ)字は、字書にシヌフ〔三字右○〕といふ義見えず、されど集中シヌフ〔三字右○〕といふ所に、多く此(ノ)字を書り、椅《ハシ》前《クマ》椋《クラ》などの類にて、是もいはゆる倭字なるべし、さて所偲の所(ノ)字はユ〔右○〕の言にあたれば、下の由(ノ)字は徒ことなれど、シヌハユ〔四字右○〕ともシヌハエ〔四字右○〕ともはたらく言なれば、シヌハユ〔四字右○〕とさだかによませむために、かく添て書る例、集中に甚多し、雖干跡《ホセド》、將有裳《アラモ》などの類皆同じ、また續紀四(ノ)卷詔に、先豆先豆《マヅマヅ》、廿五詔に、定不賜奴《サダメタマハヌ》、廿六詔に、如此久《カク》、また所率流《イザナハル》、九(ノ)卷詔に、不堪自《タヘジ》、廿九詔に、護助奉都流《マモリタスケマツル》、三十詔に、不蒙自《カヾフラジ》、また不載奴《ノセヌ》、後紀廿(ノ)卷詔に、雖2言不(ト)1v納|止毛《ドモ》、績後紀十一詔に、自《ヨ》v古(ヘ)利《リ》、また不《ジ》v得《エ》之、十四詔に、可《ベキ》2仕奉《ツカヘマツル》1倍支、十九興福寺僧等長歌(ノ)詞に、不《ジ》2御坐《オホマシマサ》1志云々、不《ズ》v過《スグサ》須|弖《テ》云々、非《アラネ》v數《カズニ》禰|度《ニド》云々、詞遠《コトバヲ》不《ズ》v假良《カラ》須云々、博士《ハカセ》不《ズ》v雇《ヤトハ》須、此(ノ)餘にもかく書る例多し、○歌(ノ)意は、此(ノ)高師の濱にやどりて、松が根を枕として宿る夜は、わびしさに堪がたくて、家のひたぶるにしたはるゝよとなり、從駕なれば、よく堪忍びて、つねはさはあらねど、松の嵐(274)浪の音などの、わびしき夜には、得堪やらで、したはるゝよしを、第四(ノ)句にておもはせたるなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。置始東人《オキソメノアヅマヒト》。
 
東人は、傳未(タ)考ず、書紀孝徳天皇(ノ)卷に、置始(ノ)連大伯、天武天皇(ノ)卷に、置始(ノ)連菟あり、此(ノ)人等の同族なるべし、
 
67 旅爾之而《タビニシテ》。物戀之伎乃《モノコホシキニ》。鳴事毛《イヘゴトモ》。不所聞有世者《キコエザリセバ》。孤悲而死萬思《コヒテシナマシ》。
 
旅爾之而《タビニシテ》は、旅にてといふ意(俗に旅でといふ、)を、かく之《シ》の言をそへてのみ云るは、旅のすぢを、つよくとりたてむがためなり、○物戀之伎乃《モノコホシキニ》、(官本に、伎|乃《ノ》兩字多本無之、但法性寺殿御自筆本有之とあり、)乃(ノ)字は爾の誤なるべし、(元來《モト》これは、之伎を〓《シギ》と意得たるより、爾を乃に誤れるなるべし、〓は古書みな志藝《シギ》とのみ書て、藝の言濁音なるをこゝにのみ、之伎とかゝむこともおぼつかなく、又此(ノ)歌〓なるべくもおもはれず、)こゝはかならず、爾とあるべきところなり、三(ノ)卷※[羈の馬が奇]旅歌に、客爲而物戀敷爾山下赤乃曾保船奧榜所見《タビニシテモノコホシキニヤマシタノアケノソホブネオキニコグミユ》とあるに、本(ノ)二句は同じきをも思(フ)べし、さて十(ノ)卷に、日倉足者時常雖鳴物戀《ヒグラシハトキトナケドモモノコフル》(物(ノ)字、舊本には我とあり、今は一本を用、)手弱女我者時不定哭《タワヤメアレハトキワカズナク》ともありて、物とは、物がなし物うし、又ものへまかりける、又ものらいひて、又ものしてなどいふ物にて、其(ノ)物と直《タヾ》にさしあてゝいはず、多事をひとつにしていふ詞な(275)り、こゝは見る物きく物につけて、本郷の方の戀しきことの多かるを、つかねて云るなり、○鳴事毛は、必(ス)誤字なり、(ナクコトモ〔五字右○]と云ては解べき樣なし、)かれ嘗(ミ)にいはゞ、家事毛とありけむを、家の草書を鳴と見て、寫し誤れるならむ、(これは之伎を〓《シキ》と意得、さて〓に家事はふさはしからねば、鳴に改めて今のごとくにはなせるならむ、)さらばイヘゴトモ〔五字右○]と訓べし、家事は家語《イヘゴト》の義にて、家人の語を、旅なる人へ使して告來ることなり、廿(ノ)卷に、伊倍加是波比爾比爾布氣等和伎母古賀伊倍其登母遲弖久流比等母奈之《イヘカゼハヒニヒニフケドワギモコガイヘゴトモチテクルヒトモナシ》とあり、○不所聞有世者《キコエザリセバ》は、もし聞えずありせばといふなり、射里《ザリ》は受阿里《ズアリ》の約れる詞なり、○孤悲而死萬志《コヒテシナマシ》は、物戀る心に堪ずして、死ましとなり、○歌(ノ)意は、この旅(ノ)館に、もし家の消息の聞えずあらば、戀死に死むより他事なし、家の消息の聞え來たればこそ、それを力(ラ)に戀もしなずてはあれと、家人の語を使して告來れるを、深くよるこびたるなり、此(ノ)歌舊來解得たる人なし、(岡部氏(ノ)考の説などは論にもたらねば、今わづらはしく辨へずとも有ぬべし、)
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。高安大島《タカヤスノオホシマ》。
 
高安(ノ)大島は、傳詳ならず、目録には作主未詳歌とありて、其(ノ)下に高安(ノ)大島とあり按(フ)に、もとは右一首作主未詳、或云高安(ノ)大島とありけむが、こゝには作主未詳或云の六字を脱し、目録には或云の二字を落せしにもあらむ、
 
(276) 68 大伴乃《オホトモノ》。美津能濱爾有《ミツノハマナル》。忘貝《ワスレガヒ》。家爾有《イヘナル》。妹乎《イモヲ》。忘而念哉《ワスレテオモヘヤ》。
 
大伴乃《オホトモノ》は、御津《ミツ》といはむ料の枕詞なり、このつゞけ集中に甚多し、まづかく云かけたる意は、御津は古事記中卷神武天皇(ノ)條(ノ)歌に、美都美都斯久米能古賀《ミツミツシクメノコガ》、(書紀にも見ゆ、)此(ノ)集三(ノ)春に、見津見津四久米能若子我《ミツミツシクメノワカコガ》、とある美都《ミツ》の義に取(リ)なして、かくはつゞけしなり、さてこの美都《ミツ》は、才徳《イキホヒ》勇威《カド》あるをいふ詞なり、そは書紀顯宗天皇(ノ)卷に、天皇|固辭曰《イナビタマハク》、僕(レ)不才《ミツナシ》、豈(ニ)敢(テ)宣2揚(ムヤ)徳業(ヲ)1、繼體天皇(ノ)卷に、寡人不宣《アレミツナシ》不v足2以稱(ニ)1、仁徳天皇(ノ)卷に、僕之不佞《アレミツナクシテ》、不v二2稱1、允恭天皇(ノ)卷に、三(ノ)才《ミツ》などある才佞、(字書に佞(ハ)才也とあり、)などの字を、共に美都《ミツ》と訓たると、右の美都美都斯《ミツミツシ》とあるとを合せて、其(ノ)意をさとるべし、(又おのがはじめおもひしは、美都《《ミツ》は伊都《イツ》に通ふ言にて、稜威之道別《イツノチワキ》などの稜威《イツ》と同言なるべし、さて美《ミ》と伊《イ》と通ふ例は、建御雷之男《タケミカツチノヲノ》神を建雷《タケイカツチノ》神、また汝を美麻思《ミマシ》とも、伊麻思《イマシ》とも云類なるべしとおもひし、それもよしはあれど、なは美都《ミツ》と伊都《イツとは、言はもとより二(ツ)ながら別なるべき所謂《ヨシ》あれば、そはすてつ、)かくて大伴氏は世々|武勇事《タケキウザ》もて、皇朝の御守衛《ミマモリ》とある職なれば、大伴氏の才徳《イキホヒ》勇威《カド》ある意もて美都《ミツ》にいひかけしものなり、さて大伴氏の、古(ヘ)より武勇《タケ》くて名高かりし事は、人皆能(ク)しれゝど、猶いはゞ、古事記上卷天降(ノ)條に、天(ノ)忍日(ノ)命、天津久米(ノ)命二人、取2負天之石靫(ヲ)1取2佩頭椎之大刀(ヲ)1、取2持天之波士弓(ヲ)1、手2挾天之眞鹿兒矢(ヲ)1、立2御前(ニ)1而仕奉(リキ)、故(レ)其天(ノ)忍日(ノ)命(此者大伴(ノ)連等之祖、)天津久米(ノ)命(此者久米(ノ)直等之祖也、)と見(277)え、(書紀には、大伴(ノ)連(ノ)遠祖天(ノ)忍日(ノ)命、帥2來目部(ノ)遠祖天※[木+患]津大來目(ヲ)1、背(ニ)負2天(ノ)磐靫(ヲ)1、臂(ニ)著2稜威(ノ)高鞆(ヲ)1、手(ニ)捉2天(ノ)梔弓天(ノ)羽羽矢(ヲ)1、及副2持八目鳴鏑(ヲ)1、又帶2頭槌(ノ)劔(ヲ)1、而立2天孫之前(ニ)1、遊行降來云々とあり、)また神武天皇(ノ)紀に、大伴氏之|遠祖《オヤ》日(ノ)臣(ノ)命、師(ヰ)2大來目(ヲ)1、督2將《スベ》元戎《ミイクサヲ》1、蹈《フミシ》v山《ヤマ》啓行、乃|尋《マニ/\》2鳥(ノ)所向《トビユク》1仰(キ)視而|追之《オヒシキテ》、遂|達《イタリマシキ》2于菟田(ノ)下(ツ)縣(ニ)1、云々、于時勅(シテ)譽(テ)2日(ノ)臣(ノ)命(ヲ)1曰、汝(シ)忠而且勇《イソシクテヲヽシキノミニアラス》、加能有2導之《ミチシルベノ》功1、是以改2汝(ガ)名(ヲ)1、爲2道(ノ)臣(ト)1、云々、(古語拾遺には、逮(テ)2于神武天皇東征之年(ニ)1、大伴氏(ノ)遠祖日(ノ)臣(ノ)命、帥2督將元戎(ヲ)1剪2除兇渠(ヲ)1、佐命之勲、無v有v比v肩(ヲ)云々とあり、)など見えたるをはじめて、景行天皇(ノ)紀日本武尊東征(ノ)條に、天皇則命《ミコトオホセタマヒテ》3吉備(ノ)武彦、與(ニ)2大伴(ノ)武日(ノ)連1、令v從2日本武尊(ニ)1、云々、至(リテ)2甲斐(ノ)國(ニ)1、居2于酒折(ノ)宮(ニ)1、云々、則居2此宮(ニ)1、以2靫部(ヲ)1、賜2大伴(ノ)連之遠祖武日(ニ)1也、云々、三代實録に、大伴(ノ)健日(ノ)蓮公、隨2倭健(ノ)命1、平2定東國(ヲ)1、功勲葢v世、賜2讃岐(ノ)國(ヲ)1、以爲2私宅(ト)1、とあり、)續紀天平勝寶元年(ノ)詔に、大伴佐伯《オホトモノサヘキノ》宿禰|波常母云久《ハツネモイハク》、天皇(カ)朝守(リ)仕(ヘ)奉事、顧奈伎人等爾阿禮波《カヘリミナキヒトタチニアレバ》、汝多知乃祖止母乃云來久《イマシタチノオヤドモノイヒケラク》、海行波美豆久屍《ウミユカバミヅクカバネ》、山行波草牟須屍《ヤマユカバクサムスカバネ》、王乃幣爾去曾死米《オホキミノヘニコソシナメ》、能杼爾波不死《ノドニハシナジ》、止云來流人等止奈母聞召須《トイヒクルヒトタチトナモキコシメス》、是以遠天皇《コヽモチテトホスメロキノ》御世(ヲ)始(メ)弖《テ》、今朕(カ)御世|爾當弖母《ニアタリテモ》、内兵止《ウチノイクサト》心中古止波|奈母遣須《ナモツカハス》、云々、また、天平寶字元年詔に、大伴佐伯(ノ)宿禰|等波《タチハ》、自(リ)2遠天皇御世《スメロキノミヨ》1内乃兵止《ウチノイクサト》爲而仕《》奉(リ)來《シテツカリキ》、云々、(雄略天皇(ノ)御世に、大伴氏より分れて、佐伯氏といふが出來たるよし、姓氏録に見ゆ、)又集中十八に、大伴等佐伯氏者《オホトモトサヘキノウヂハ》云々。梓弓手爾等里母知弖劔大刀許之爾等里波伎安佐麻毛利由布能麻毛利爾大王能三門乃麻毛利《アヅサユミヲトリモチテツルギタチコシニトリハキアサマモリユフノマモリニオホキミノミカドノマモリ》云々、また廿(ノ)卷に、波自由美乎多爾(278)藝利母多之麻可胡也乎多波左美蘇倍弖於保久米能麻須良多祁乎々佐吉爾多弖由伎登利於保世《ハジユミヲタニギリモタシマカコヤヲタバサミソヘテオホクメノマスラタケヲヽサキニタテユキトリオホセ》云々|宇美乃古能伊也都藝都岐爾美流比等乃可多里都藝弖々伎久比等能可我見爾世武乎安多良之伎吉用伎曾乃名曾於煩呂加爾己許呂於母比弖牟奈許等母於夜乃名多都奈大伴乃宇治等名爾於《ウミノコノイヤツギツギニミルヒトノカタリツギテヽキクヒトノカガミニセムヲアタラシキキ∃キソノナソオホロカニコヽロオモヒテムナコトモオヤノナタツナオホトモノウヂトナニオ》敝《》流《》麻《》須良乎能等母《ヘルマスラヲノトモ》など、家持(ノ)卿の歌にも見えたり、さて又古事記を考(フ)るに、上卷皇孫(ノ)命の天降坐し時、天(ノ)忍日(ノ)命と天津久米(ノ)命と相並して、御前に立し、(上に引り、)中卷神武天皇(ノ)條東征の時にも道(ノ)臣(ノ)命と大久米(ノ)命と相並(シ)て、大(ナル)功を立給へる事あるをもて、美都美都斯久米能古《ミツミツシクメノコ》と云るも、大伴乃美都《オホトモノミツ》といふも、共に同じ列《ツラ》に、武勇《タケ》き人のうへに關かれる言なるをもて、美都《ミツ》の言の同じきをも思ひわきまふべし、抑この枕詞の事、世の學者等種々|説《イフ》めれど、大伴《オホトモ》の三(ツ)が一(ツ)も、いはれたりと思ふはなかりき、(又四(ノ)卷賀茂(ノ)皇女(ノ)歌に、大伴乃見津跡者不云《オホトモノミツトハイハジ》云々とある、是も見《ミ》つと才徳の意の美都《ミツ》と、言の同じきからに、かくもつゞけしなり、さればつゞけの意は、御津の地(ノ)名に云かけたると全同じ、且《マタ》次上に、大伴乃高師乃《オホトモノタカシノ》とあるつゞけの意は、いまだたしかにはおもひ定めねど、もし大伴の健と云かけたるものならば、いよ/\大伴之美都《オホトモノミツ》といふに、かた/”\てりあひて聞ゆかし、然《サ》て冠辭考に、大伴の瀰都瀰都志《ミヅミヅシ》てふ意にて、御津の濱に冠らせたるにやと云るは、おのが右の考に似たれど、かの説は、先づ瀰都瀰都志《ミツミツシ》の都《ツ》を濁りて美豆垣《ミヅカキ》などいふ美豆《ミツ》と同言にて、若く健なる人を(279)ほめて云り、今も萬(ツ)の物のわかくうつくしきを、みづ/\しと云めりと云れど、物をほめて云みづは、古事記に、美豆能小佩《ミヅノヲヒモ》、又|水垣《ミヅカキ》、書紀にも、瑞穗之地《ミヅホノクニ》云々、瑞此云2瀰圖《ミヅト》1と見え、集中にも、水莖《ミヅクキ》水枝《ミヅエ》美豆山《ミヅヤマ》などゝ書て、豆《ヅ》はいづれも濁音なるを、此(ノ)瀰都瀰都志《ミツミツシ》も、さるこゝろならむには、瀰豆瀰豆志《ミヅミヅシ》とこそ書べきに、古事記にも書紀にも、都は皆清音の字をのみ書たれば、決て非なるをしるべし、又古事記傳に、美都美都志《ミツミツシ》は滿々しにて、圓々《マト/\》しといはむがごとし、此は目の大きなる貌を云るにて、久米の枕詞なり、大久米(ノ)命を黥(ル)利目とありて、目の圓に大きくありし故に、久米てふ名を負給へる、其(ノ)久米は久流目《クルメ》の約りたる言なり、故(レ)滿々し久流目《クルメ》と續けたるなりと云るも又誤なり、もしさる意ならむには、美知美知斯《ミチミチシ》とこそいふべけれ、なほ委く抜三(ノ)卷|見津見津四久米能君子我《ミツミツシクメノワクコガ》云々の歌の條下に云むを、併(セ)考へて曉るべし、)○美津能濱爾有《ミツノハマナル》は、美津は、古事記仁徳天皇(ノ)條に、於是大后、大恨怒《イタクウラミイカラシテ》、載(タル)2其御船(ニ)1之御綱柏者《ミツナガシハヲバ》、悉(ニ)投2棄《ナゲウチタマヒキ》於海(ニ)1、故(レ)號《ヲ》2其地《ソコ》1、謂2御津《ミツノ》前(ト)1也、仁賢天皇(ノ)紀に、難波(ノ)御津、齋明天皇(ノ)紀に、難波三津之浦など見ゆ、今|高津《カウヅ》の西(ノ)方、古(ヘ)の三津なりと云り、爾有をナル〔二字右○〕といふは、爾阿《ニア》をつゞむれば奈《ナ》なればなり、次の家爾有をイヘナル〔四字右○〕といふも同じく、みな其(ノ)處に在(ル)といふなり、○忘貝《ワスレガヒ》は、十五に、安伎左良婆和我布禰波弖牟和須禮我比與世伎弖於家禮於伎都之良奈美《アキサラバワガフネハテムワスレガヒヨセキテオケレオキツシラナミ》ともあり、猶此(ノ)貝の事は、品物解にいふべし、さて忘而念哉《ワスレテオモヘヤ》をいひ興さむとて、まづ眼前なる物をもて即(チ)序とせり、(280)○志而念哉《ワスレテオモヘヤ》は、(念はモヘ〔二字右○〕とも訓べし、集中其(ノ)餘古書に、オモフ〔三字右○〕をモフ〔二字右○〕と云る例多し、やゝくだりても、延喜六年書紀竟宴歌に、芦芽廼那微能幾佐斯裳度保迦羅須阿麻都比津機能波志米度母弊波《アシカビノナミノキザシモトホカラズアマツヒツギノハジメトモヘバ》、新撰萬葉に、戀芝砥者今者不思魂云不相見程丹成沼鞆倍者《コヒシトハイマハオモハズタマシヒノアヒミヌホドニナリヌトモヘバ》、土左日記に、いのりくる風間ともいふあやなくもかもめさへだになみとみゆらむなどあり、)唯忘むやといふことなり、哉《ヤ》は後(ノ)世の也波《ヤハ》の也《ヤ》なり、(俗に忘れうかやといふ意なり、)此(ノ)の類の詞のことは、既く上にいへり、○歌(ノ)意は、家にある妹がことをば、一日片時もわするゝ間あらむやはといへるにて、これは家の事は心にもかゝらずや、と問ける人にこたへたるか、又はひさしく、家に音づれもせざりしかば、忘れたるかとうらみおこせたるに、答へたるにも有べし、これは從駕のつかへに深く心を用ひて、うちみには家をも忘れたる如くに見ゆれども、懷土《クニシノビ》の心中のくるしさ思ひやれ、とよみ給へるなるべし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。身人部王《ムトベノオホキミ》。
 
身人部(ノ)王は、六人部(ノ)王とかけるに同じ、續紀に、和銅三年正月甲子、無位六人部(ノ)王(ニ)授2從四位下(ヲ)1、養老五年正月壬子、授2從四位上(ヲ)1、七年正月丙子、授2正四位下(ヲ)1、神龜元年二月壬子、授2正四位上(ヲ)1、天平元年正月壬寅、正四位上六人部(ノ)王卒と見えたり、
 
69 草枕《クサマクラ》。客去君跡《タビユクキミト》。知麻世婆《シラマセバ》。岸之埴布爾《キシノハニフニ》。仁寶播散麻思乎《ニホハサマシヲ》。
 
(281)草枕は、旅の枕詞なること上にいへり、○客去君《タビユクキミ》とは、長(ノ)皇子の、清江娘子《スミノエヲトメ》が許に住(ミ)度り給ひて、還御にしたがひて、京へ歸らせ賜ふ故、客行《タビユク》とは云るなるべし、客《タビ》とは他《ヨソ》に去《ユク》をいふことにて、娘子が許にやどらせ賜ふも、なほ旅なるに、ことさらに、こゝに客去《タビユク》としもいへるは、娘子が方を内にして、娘子がいへる詞にて、皇子の別れ行給ふを、をしみてかくはいへるなり、君とは皇子をさし奉れるなり、○知麻世婆《シラマセバ》は、知てありなばといはむが如し、もし程なく還御にしたがひて、京にかへりまさむと、かねて知てありなばとの意なり、さてかねて御別の斯《ホド》の、しられざるにもあるまじけれど、いつまでも皇子にめされて、つかへ奉るべきやうに、のどかにおもひしに、今別に臨《ナリ》て、わかれ奉るべきこゝちもせず、いとわびしくかなしき心を、告奉れるなるべし、○岸之埴布爾《キシノハニフニ》、(類聚抄に、岸字、崖と作り、又埴(ノ)字、填と作るは誤なり、)岸は住吉の岸なり、六(ノ)卷に、白浪之千重來袁流住吉能岸乃黄土粉二々寶比天由香名《シラナミノチヘニキヨスルスミノエノキシノハニフニヽホヒテユカナ》、又|馬之歩押止駐余住吉之岸乃黄土爾保比而將去《ウマノアユミオシテトヾメヨスミノエノキシノハニフニニホヒテユカム》などあり、今はこの娘子の己がすめる地なれば、かく云るもさらなり、埴布《ハニフ》は、和名抄に、埴(ハ)土黄(ニシテ)而細密(ナルヲ)曰v埴(ト)和名|波爾《ハニ》、字鏡に、埴(ハ)黏土也、波爾《ハニ》とあり、また河内(ノ)國丹南(ノ)郡に、埴生《ハニフ》と云地もあり、(古事記履中天皇(ノ)條に、到2波邇賦坂(ニ)1云々、天皇亦歌曰、波爾布邪迦《ハニフザカ》云々、書紀推古天皇(ノ)卷に、河内(ノ)埴生山などある、みな丹南(ノ)郡のなり、此(ノ)外の物にもみゆ、)これも黄土《ハニ》の産《アル》ゆゑに負(ヘ)る地(ノ)名なるべし、本居氏、波邇《ハニ》と云は色|美《ウルハ》しく艶《ニホ》ふ由の名に(282)て光映土《ハエニ》の義《コヽロ》にやあらむと云り、布《フ》は、茅生《チフ》麻生《ヲフ》粟生《アハフ》豆生《マメフ》などの生と同音にて、黄土の専ら有(ル)地をいへり、さて直に埴のことを埴生といふは、たゞ草を草根といひ、たゞ月を月夜といへる類にや、爾《ニ》は、にての意なり、(俗に埴でといふに同じ、)○仁寶播散麻思乎《ニホハサマシヲ》は、令《シメ》v染《ニホハ》ましものをの意なり、衣に摺りて染《イロ》どるを、仁寶布《ニホフ》といへり、さて古事記に、丹摺之《ニズリノ》袖とも有て、古(ヘ)は黄土また草木の花などにて、衣を摺《スリ》いろどりしなり、○歌意は、かねて皇子にわかれまゐらせむと知てありなば、御衣をだに、埴にて令《シメ》v染《ニホハ》ましものを、それだに得せぬが、いたく口をしきことゝよめるなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。清江娘子《スミノエノヲトメガ》。進《タテマツレルウタ》2長皇子《ナガノミコニ》1。【姓氏未詳】
 
清江娘子は、住吉に住る娘子なり、菟原娘子など地(ノ)名もて呼る例多し、清江は住吉と書るに同じ、これはかの弟日《オトヒ》娘と同人か、此(ノ)度の幸を、まづ文武天皇三年と見る時は、其(ノ)後慶雲三年の幸まで、七年八年といふ間のことなるを、同じ娘子の猶在て、長(ノ)皇子につかへ奉れるか、いとおぼつかなければ、別人にても有べし、
 
大寶元年辛丑《ダイハウハジメノトシカノトウシ》。太上天皇《オホキスメラミコトノ》。幸《イデマセル》2于|吉野宮《ヨシヌノミヤニ》1時歌《トキノウタ》。
 
大寶元年辛丑の六字、舊本此處には無て、太上天皇幸2于紀伊(ノ)國1時歌、とある上にあるは、錯亂《ミダレ》たるものなり、大寶元年は、文武天皇の天つ日嗣しろしめして、五年といふにあたりて、建《タテ》ら(283)れたる年號《ミヨノナ》なり、○幸2于吉野(ノ)宮(ニ)1は、續紀に、大寶元年二月癸亥、行2幸吉野(ノ)離宮(ニ)1、庚午、車駕至v自2吉野(ノ)宮1とありて、その一本に、癸亥の下に、太上天皇(ノ)四字あり、その度なるべし、
 
70 倭爾者《ヤマトニハ》。鳴而歟來良武《ナキテカクラム》。呼兒鳥《ヨブコトリ》。象乃中山《キサノナカヤマ》。呼曾越奈流《ヨビソコユナル》。
 
倭爾者《ヤマトニハ》は、同じ倭(ノ)國の出ながらも、殊に京師のあたりをさして、倭とはいへるなり、上藤原(ノ)御井歌に、日本乃青香具山《ヤマトノアヲカグヤマ》とあるも、香具山は藤原(ノ)都の東方にならびて、いと近ければ云るにて、同じ意なりと本居氏云り、但しこれは、わざと他國よりいふやうにいへるにも有べし、さるは本郷をいとはるかにわかれ來て、吉野を他國のごとおもふ心より、かくいへるなるべし、爾者《ニハ》の爾《ニ》は倭をさし、者《ハ》は他方にわかてる詞なり。○鳴而歟來良武《ナキテカクラム》。歟《カ》は疑の詞なり、良武の下にうつして意得べし、鳴て來らむか、又はさなきか、十に八九は鳴て來らむ、とおもひやれる意なり、さて來良武は、まつは行らむといふべぎ所なるべくおもはるれど、こは京師戀しくおもふをりしも、あはれ呼兒鳥の聲なつかしく、象の中山をよびつゝぞ越なる、おのが戀しく思ふ京師|邊《アタリ》には、今鳴て來らむかと、京師を内にしていへるなり、十(ノ)卷に、山跡庭啼而香將來霍公鳥汝鳴毎無人所念《ヤマトニハナキテカクラムホトヽギスナガナクゴトニナキヒトオモホユ》とあるも同じ、又十一に、霞立長春日乎奧香無不知山道乎戀乍可將來《カスミタツナガキハルヒヲオクカナクシラヌヤマヂヲコヒツヽカコム》、十四に、可須美爲流布時能夜麻備爾和我伎奈婆伊豆知武吉?加伊毛我奈氣可牟《カスミヰルフジノヤマビニワガキナバイヅチムキテカイモガナゲカム》、十五に、波夜久伎弖美牟等於毛比弖於保布禰乎許藝和我由氣婆《ハヤクキテミムトオモヒテオホブネヲコギワガユケバ》、十二に、湊入之葦別小船障(284)多來吾乎不通跡念莫《ミナトイリノアシワケヲブネサハリオホミイマコムアレヲヨドムトモフナ》、九(ノ)卷に、遠妻四其爾有世婆不知十方手綱乃濱能尋來名益《トホツマシソコニアリセバシラズトモタヅナノハマノタヅネキナマシ》これらみな、行(ク)ことを來と云るは、その行(ク)方を内にして云るなり、(よくせずは、行と來と、たゞに相通はしていふことゝ思ふべし、この意ならで、たゞ通はしいへることはなし、源氏物語夕霧に、かうすこし物おぼゆるひまに、わたらせ給(フ)べくきこえよ、そなたへ參り來べけれど、うごくべうもあらでなむ、浮舟に、參り來まはしきを、少將のかたの猶いと心もとなげに、ものゝけだちてなやみ侍れば、とあるなども、同じ意ばえに云るにこそ、略解に、來良武は、行らむと云に同じと云るは、いみじき荒凉なり、)○呼兒鳥《ヨブコドリ》は、いかなる鳥とも知がたし、(昔(シ)ありける鳥の、今をらぬことはあらじ、その鳥はあれども、名をうしなへるなるべし、岡部氏(ノ)考に、かつほう鳥といふ鳥のことゝせれど、それとも決ては云がたし、猶品物解に云べし、)○象乃中山《キサノナカヤマ》は、三(ノ)卷に象乃小川《キサノヲガハ》、六(ノ)卷に象山《キサヤマ》などあり、こは蜻蛉(ノ)離宮に近き處なり、今|喜佐谷《キサタニ》村と云とぞ、○呼曾越奈流《ヨビソコユナル》は、呼とはその鳴聲の、物を呼がごとくなる故にいへるなり、呼兒鳥のただには越ずて、鳴つゝこゆるをいへるなり、越とは象の中山を、本郷の方へこゆるなり、○歌(ノ)意は、呼兒鳥の聲なつかしく嶋つゝ、象の中山を本郷の方へ越なるは、おのが家のあたりには、今程來鳴らむか、とおもひやれるなり、又呼曾越奈流といへるは、われを呼つゝ、家のかたへさそふ心にや、と云るにも有べし又象の中心を呼つゝ越なるは、京師の方に鳴ども、折ふし行幸の程(285)にて人もなければ、此處に慕ひ來て、歸れと呼らむか、といへる意にも聞えたり、若(シ)此(ノ)意ならば來《ク》はつねの來なり、(京師の方に鳴て、さて此處に來らむかの意なり、しかれどもなほ前(ノ)意なるべし、)
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。高市連黒人《タケチノムラジクロヒト》。
 
○舊本、此處に大寶元年辛丑秋九月、太上天皇幸于紀伊國時歌と題せるは、甚く錯亂《ミダレ》たる物なり、大寶元年辛丑の六字は、上太上天皇幸2于吉野(ノ)宮1時(ノ)歌、とある上にありしが、混《マギレ》て此處に入しなるべし、又秋九月とあれど、左の歌春の景氣をよめれば、さらに此處によしなく、且《ソノウヘ》幸(シ)の季月を記さゞること、此(ノ)卷の例なるに、此處にのみかくあるは、如何と思はるゝに、此は次下に引(ク)續紀の文によりて、後に補入し事|决《ウツナ》し、さて太上天皇云々は、下の朝毛吉《アサモヨシ》云々の歌の題詞《ハシツクリ》なるが、亂れたるなるべし、故(レ)今は彼此《コレカレ》を考(ヘ)合(セ)て削(リ)正しつるなり、かくて左の巨勢山乃《コセヤマノ》云々の歌は、右の吉野(ノ)宮に幸せるは、前にいへるごとく、もし續紀によりて二月とするときは、其(ノ)同じ度に幸の道すがら、巨勢《コセ》の春山の風景を見て、從駕の人のよめるなり、
 
54 巨勢山乃《ユセヤマノ》。列列椿《ツラツラツバキ》。都良都良爾《ツラツラニ》。見乍思奈《ミツヽシヌハナ》。許湍乃春野乎《コセノハルヌヲ》。
 
巨勢山《コセヤマ》は、高市(ノ)郡古瀬村にあり、此(ノ)上又三(ノ)卷七(ノ)卷十(ノ)卷十二十三等にも出たり、按(フ)に、和名抄に、高市(ノ)郡|巨勢《コセ》、神名式に、高市(ノ)郡巨勢(ニ)坐石椋(ノ)神社、又|許世都比古《コセツヒコノ》命(ノ)神社など見えたるに、又式に、(286)葛上(ノ)郡巨勢(ノ)山口(ノ)神社とあれば、山は葛上(ノ)郡にもわたれるなるべし、○列々椿《ツラ/\ツバキ》は、枝葉の繋み連《ツラナ》りたる椿を云、さてこはその所にあるものもて、都良都良爾《ツラツラニ》といひおこさむために、先(ツ)かく云り、○都良都良爾《ツラツラニ》は、連々《ツラ/\》にて、絶ず打續くよしなり、廿(ノ)卷に、安之比奇能夜都乎乃都婆吉都良都良爾美等母安加米也宇惠弖家流伎美《アシヒキノヤツヲノツバキツラツラニミトモアカメヤウエテケルキミ》、字鏡に、※[目+鳥](ハ)熟視也、豆良谷良彌留《ツラツラミル》とあり、○見乍思奈は、ミツヽシヌハナ〔七字右○〕と訓べし、思(ノ)字シヌフ〔三字右○〕と訓例は二(ノ)卷に委(ク)注べし、シヌハナ〔四字右○〕は、將《ム》2賞愛《メデシスハ》1といふ意を急に謂るなり、めづるをシヌフ〔三字右○〕といふは、上額田(ノ)王の春山秋山の判歌に、葉葉乎婆取而曾思奴布《モミツヲバトリテソシヌフ》とある所に委(ク)云り、奈《ナ》は牟《ム》を急に云るなり、(シヌハム〔四字右○〕といふは緩なり、シヌハナ〔四字右○〕といふは急なり、その急にいふは、餘念なく一向に云々せむと思進む意なり、)將《ム》v逢《アハ》といふを阿波奈《アハナ》といふに同じ、既に委(ク)いへり、(この一句を、舊來ミツヽオモフナ〔七字右○]とよみたるによりて、奈《ナ》は語をいひおさふる辭とし、さて舊本の題詞によりて、九月なれば、花さかむ春を戀るよしにして、一首の趣を甚《イタク》解誤來れり、こは右の題詞の錯亂《ミダレ》あるをも考へず、歌の語意をも深く味へざるより、訓をも、義をも、共に意得たがへたるなり、)○許湍乃春野乎《コセノハルヌヲ》、此(ノ)一句は、第三(ノ)句の上に置て意得べし、巨勢の春野のおもしろきけしきを、熟々に見つゝ賞愛《メデシノ》ばむと思ふよしなればなり、○歌(ノ)意は、さらぬだにあるを、まして椿の花さへ咲にほひたる、巨勢の野の春のけしきの、あかずおもしろく思はるれば、つら/\に見つゝ、一向《ヒタスラ》に賞愛《メデシノビ》をらむとなり、
 
(287)右一首《ミギヒトウタハ》。坂門人足《サカドノヒトタリ》。
 
人足は、傳詳ならず、
 
〔或本歌。56 河上乃《カハカミノ》。列々椿《ツラ/\ツバキ》。都良都良爾《ツラツラニ》。雖見安可受《ミレドモアカズ》。巨勢能春野者《コセノハルヌハ》。右一首|春日藏首老《カスガノクラビトオユ》。〕
 
或本(ノ)歌、歌字、類聚抄にはなし、拾穗本には一云とありて、この三字なし、○河上は、能登勢(ノ)河上をいふなるべし、巨勢なる能登勢の河と見えたり、新續古今集に、雪もきえ氷も解て川上の許湍の春野は若菜採なり、今の歌によれり、○或本歌といふより、舊本はすべて錯亂《ミダレ》て、下の朝毛吉云々の歌の次に收《イ》れるを、今は道晃親王御本類聚抄拾穗本等によりて、此間に收《イレ》つ、はた拾穗本に小字とせるによれり、
 
三野連入唐時《ミヌノムラジガモロコシニツカハサルヽトキ》。春日藏首老作歌《カスガノクラビトオユルヨメルウタ》。
 
三野(ノ)連は、岡麻呂なり、官本中御門本阿野本等の勘物に、國史(ニ)曰、大寶元年正月、遣唐使民部(ノ)卿粟田(ノ)眞人(ノ)朝臣以下、百六十人、乘2船五※[舟+隻](ニ)(ニ)1、小商監從七位下中宮少進美奴(ノ)連岡麻呂云々とあり、(按(フ)に此(ノ)國史とさせるもの、いづれの書にや、略解に、此(ノ)ことを類聚國史に見えたり、と云るにつきて、類史を見しかども、この事なし、略解には右の國史といふものを、ふと類史のことゝ思ひて、云るのみにて、ふかくとがむるにたらず、しかれども、官本以下の勘物に、右の如くあるからは、浮たることにはあらず、)續紀を考るに、今度の遣唐使に、粟田(ノ)朝臣、其(ノ)餘の人は有て、(288)美奴(ノ)連岡麻呂は見えねど、續紀は後に誤(リ)て脱せしなるべし、岡麻呂は、靈龜二年正月壬午、授2正六位上美努(ノ)連岡麻呂從五位下(ヲ)1、と續紀に見えつ、(奮本連の下、名闕(ノ)二字あるは、後人の書加(ヘ)なるべし、凡て集中に、人の氏姓のみは書《シル》せるに、三(ツ)のやうあり、一(ツ)には氏姓のみは聞傳へたれども、名をば詳に聞得ざりしによりて、闕《モラ》したりと思はるゝ類もあり、二(ツ)には由縁《ユヱ》ありて、其人をたふとみて名を憚りて、氏姓のみをしるせりと見ゆるもあり、三(ツ)には當時は名のしるくて、他人《アダシヒト》にまがふべくもなかりしゆゑに、たゞ何となく名を除きて、氏姓のみしるしておきつるが、そのまゝに傳はりたりと思はるゝもあり、この三野(ノ)連の類は、大寶の頃にて、岡麻呂なることはいちじるかりければ、何となく、氏姓のみをしるしおきたるものなり、とおもはるれば、名の詳ならずて、闕《モラ》せる類にあらずと見ゆればなり、なほ委しく首(ノ)卷に論へり、)○入唐時云々は、續紀に、大寶元年正月丁酉、以2守民部(ノ)尚書直大貳粟田(ノ)朝臣眞人(ヲ)1、爲2遣唐執節使1、左大辨直廣參高橋(ノ)朝臣笠間(ヲ)爲2大使(ト)1、右兵衛(ノ)率直廣肆坂合部(ノ)宿禰大分(ヲ)爲2副使(ト)1、參河守務大肆許勢(ノ)朝臣祖父(ヲ)爲2大佑(ト)1、刑部判事進大壹鴨(ノ)朝臣吉備麻呂(ヲ)爲2中佑(ト)1、山代(ノ)國相樂(ノ)郡(ノ)令追廣肆掃守(ノ)宿禰阿賀流(ヲ)爲2小佑(ト)1、進大參錦部(ノ)連道麻呂(ヲ)爲2大録(ト)1、進大肆白猪(ノ)史阿麻留、无位山於(ノ)億良(ヲ)爲2少録(ト)1、云々、五月己卯、入唐使粟田(ノ)朝臣眞人授2節刀(ヲ)1と見えたるこれなり、さて入唐とは、大内へ参入るを、入といふにならひて、さらぬ宮などへも、あがめて入と書しとおぼしきこと、古(ヘ)多か(289)り、然るを戎國へ遣(ル)を、入といふは、いみじきひがことなり、凡(ソ)史式(ノ)類など、漢學せし人の書れば、みだりに、異國をたふとみて、入唐大唐なども書けむ、又入2渤海1使、入2新羅1使なども書しを思へば、入に心をつけざるにも有けむ、此(ノ)集の題文も、みだりに漢學する人の書し文にならひて、おのづからかく書しものなり、猶この事、岡部氏(ノ)考(ノ)別記に委(ク)論へり、○春日(ノ)藏首老は、三(ノ)卷に、弁基(カ)歌云々、古注に、或云、弁基者、春日(ノ)藏首老之法師(時(ノ)字脱か、)名也、續紀に、大寶元年三月壬辰、令2僧弁紀(ヲ)1還v俗(ニ)、代度2一人(ヲ)1、賜2姓(ヲ)春日(ノ)倉首名老(ト)1、授2追大壹(ヲ)1、和銅七年正月甲子、正六位上春日(ノ)倉首名老(ニ)授2從五位下(ヲ)1、懐風藻に、從五位下常陸(ノ)介春日(藏首脱か)老一絶(年五十二)とあり、藏首(ハ)尸《カバネ》なり、藏人《クラビト》倉人《クラビト》椋人《クラビト》藏毘登《クラビト》など書たるに同じ、クラビト〔四字右○〕と訓べし、なほ古事記傳四十四に委(ク)辨へたり、○此(ノ)歌は、かの大寶元年三月より、五月までによみしなれば、この題詞より、左の在根良《オホブネノ》云々、去來子等《イザコドモ》云々の二首歌まで、必(ス)こゝに收べきを、舊本に朝毛吉《フサモヨシ》云々、引馬野爾《ヒクマヌニ》云云、何所爾可《イヅクニカ》云々、流經《ナガラフル》云々、暮相而《ヨヒニアヒテ》云々、大夫之《マスラヲノ》云々の歌どもの下に收《イリ》たるは、錯亂《ミダレ》たるものなり、故(レ)今は正しつ、
 
62 在根良對馬乃渡《オホブネノツシマノワタリ》。渡中爾《ワタナカニ》。幣取向而《ヌサトリムケテ》。早還許年《ハヤカヘリコネ》。
 
在根良は、大夫根之とありしを、大夫の二字を在に誤り、之(ノ)字の草書《ウチトケガキ》を良に誤れるなるべし、大船之《オホブネノ》なり、此は大船の泊《ハツ》る津《ツ》といふ意に係れる枕詞なり、二(ノ)卷に、大船之津守之占爾《オホブネノツモリガウラニ》云々、(290)とあるに同じ、(本居氏は、在根良は、布根竟の誤にて、フネハツル〔五字右○〕なるべしといへり、其は、百船《モヽフネ》の泊《ハツ》る津島とよめるより、しひて思ひよれることなれど、此(ノ)歌にはいさゝか穩ならず、)○對馬乃渡《ツシマノワタリ》は、渡とは、常は河江などにいへど、古(ヘ)は海にも云りき、即(チ)海を和多《ワタ》といふも、渡《ワタリ》の謂なり、故(レ)こゝに渡《ワタリ》渡中《ワタナカ》、とあるにて心得べし、すべて渡は、浮び行《アリ》くをいふ語なり、さればもと、海も渡るべき處なれば、凡て和多《ワタ》といひしを、專《モハラ》人の往來《ユキカヒ》する處を、取分て渡《ワタリ》といひ、さてしか往來する處の、もはらと多(キ)によりて、河江に常に渡といふ稱のありて、海には聞なれぬこゝちすることにはなれり、○早還許年《ハヤカヘリコネ》は、早く還り來れかしといふなり、年《ネ》は希望辭なり、上に委(ク)注り、○歌(ノ)意は、戎國《モロコシ》の遠(キ)境に遣はさるゝことおぼろげのわざと思ふな、對馬の渡の海中行む日は、海神に手祭《タムケ》よくして、病《モ》なく災《コト》なからむことを祈?《コヒノミ》平にして一日も早く、本郷に歸り來れかしとなり、
 
山上臣憶良《ヤマノヘノオミオクラガ》。在《アリシ》2大唐《モロコシニ》1時《トキ》。憶《シヌヒテ》2本郷《クニ》1作歌《ヨメルウタ》。
 
山上(ノ)臣云々は、上に續紀を引たる如し、さてそのゝち憶良の履歴は、和銅七年正月甲子、授2正六位下山上(ノ)臣憶良(ニ)從五位下(ヲ)1、靈龜二年四月壬申、爲2伯耆(ノ)守(ト)1、養老五年正月庚午、詔云々、從五位下山上(ノ)憶良等、退朝之後、令v侍2東宮(ニ)1焉とあり、○大唐と書しは、理しらぬ人のあやまちなり、(荻生(ノ)茂卿は、いみじき漢意にてありしすら、入唐大唐など書しことは、吾を夷にしたるいひざ(291)まにて、あさましき事なり、と南留別志にいたくそしれり、)、作(ノ)字、舊本に脱せり、目録また古寫本拾穗本等にあるによりつ、
 
63 去來子等《イザコドモ》。早日本邊《ハヤヤマトヘニ》。大伴乃御津乃濱松《オホトモノミツノハママツ》。待戀奴良武《マツコヒヌラム》。
 
去來子等《イザコドモ》は、去來《イザ》とはいぎなひたつる詞なり、子等は諸人を云り、三(ノ)卷に「去來兒等倭部早白菅乃眞野乃榛原手折而將歸《イザコドモヤマトヘハヤクシラスケノマヌノハリハラタヲリテユカム》、六(ノ)卷に、去來兒等香椎乃滷爾白妙之袖左倍所沾而朝菜抹手六《イザコドモカシヒノカタニシロタヘノソデサヘヌレテアサナツミテム》、十(ノ)卷に、白露乎取者可消去來等子露爾爭而芽子之遊將爲《シラツユヲトラバケヌベシイザコドモツユニキホヒテハギノアソビセム》、廿(ノ)卷に、伊射子等毛多波和射奈世曾《イザコドモタハワザナセソ》云々、古事記中卷應神天皇(ノ)條(ノ)大御歌に、伊邪古杼母《イザコドモ》 怒毘流都美邇《ヌビルツミニ》云々などあり、○早日本邊は、(こゝの書法、邊(ノ)を用ひたるも正字にて、三(ノ)卷の倭部早《ヤマトヘハヤク》の部とは、異《カハ》れりと見えたり、舊本にハヤヒノモトヘ〔七字右○〕と訓るは、論の限にあらず、又岡部氏(ノ)考に、ハヤヤクヤマトヘと訓、又略解に、ハヤモヤマトヘ〔七字右○〕とよみたるも、ともにわろし、)古事記下卷仁徳天皇(ノ)條に、夜麻登幣邇由久波多賀都麻《ヤマトヘニユクハタガツマ》とあるによりて、ハヤヤマトヘニ〔七字右○〕と訓べし、日本《ヤマト》は大和(ノ)國をいふ、さて邊は正字なるから、邇《ニ》の辭をよみ附るに妨なし、例は三(ノ)卷に、燒津邊吾去鹿齒《ヤキツヘニアガユキシカバ》、又|春日之野邊粟種益乎《カスガノヌヘニアハマカマシヲ》、四(ノ)卷に、山跡邊君之立日乃《ヤマトヘニキミガタツヒノ》、又|邊去伊麻夜《ヘニユキイマヤ》、七(ノ)卷に、邊近著毛《ヘニチカヅクモ》、又|清山邊蒔散漆《キヨキヤマヘニマケバチリヌル》、八(ノ)卷に、佐保乃山邊來鳴令※[向/音]《サホノヤマニキナキトヨモス》、九(ノ)卷に、在衣邊著而榜尼《アリソヘニツキテコカサネ》、又|秋津邊來鳴度者《アキヅヘニキナキワタルハ》、十(ノ)卷に、棚引野邊足檜木乃《タナビクヌヘニアシヒキノ》、又|邊左男鹿者《サキタルヌヘニサヲシカハ》、又|咲有野邊日晩之乃《サキタルヌヘニヒグラシノ》、十一に、谷邊蔓《タニヘニハヘル》、十二に、京師邊君者去之乎《ミヤコヘニキミハイニシヲ》、十九に、可蘇氣伎(292)野邊《カソケキヌヘニ》遙々爾《ハロ/”\ニ》など猶甚多し、(但しこれらの邊は、ヘン〔二字右○〕の字音をヘニ〔二字右○〕に假たるにて、集中に黄土《ハニ》紛《フニ》、また爾故余漢《ニコヨカニ》、また、今夕彈《コヨヒダニ》、また湯鞍干《ユクラカニ》など書たる類なるべし、とおもひしはあらぎりけり、)○大伴乃《オホトモノ》、この枕詞の意、上にくはしくいへり、○御津乃濱松《ミツノハママツ》は、待といはむとて云るなり、十五に、奴婆多麻能欲安可之母布禰波許藝由可奈美都能波麻未都麻知故非奴良武《ヌバタマノヨアカシモフネハコギユカナミツノハママツマチコヒヌラム》とよめり、○歌(ノ)意は、本郷(ノ)人は、けふか/\と待々て、戀しく思ふらむぞ、事し竟らば、早く大和(ノ)國の方に向て歸らむ、いざ/\諸人等よとなり、
 
太上天皇《オホキスメラミコトノ》。幸《イデマセル》2于|紀伊國《キノクニヽ》時《トキ》。調首淡海作歌《ツキノオビトアフミガヨメルウタ》。
 
此處に、右の題詞なくして、上の巨勢山乃《コセヤマノ》云々の歌の前に、大寶元年辛丑秋九月、太上天皇幸2于紀伊國1時歌、と記せるは、甚《イタ》く錯亂《ミダレ》たるよし、上に委(ク)辨へたるが如し、故(レ)今は正しつ、○幸2于紀伊國(ニ)1は、續紀に、文武天皇大寶元年九月丁亥、天皇幸2紀伊國(ニ)1、冬十月丁未、車駕至(リマス)2武漏(ノ)温泉(ニ)1、戊午、車駕自2紀伊1至(リマス)とあり、九(ノ)卷に、大寶元年辛丑冬十月、太上天皇大行天皇、幸2紀伊國(ニ)1時歌云々と見ゆ、大行天皇は文武天皇の御事にて、其は崩(リ)坐て、未(タ)御謚名《ノチノミナ》奉らざりしほどに、其(ノ)幸《イデマシ》のことを記せるゆゑ、大行とは書るなるべし、さて九(ノ)卷に冬十月とあるは、既く紀伊(ノ)國に至らせ賜ひての歌どもなれば、季月たがへるに非ず、かくて九(ノ)卷によるに、持統天皇と文武天皇と、共に幸《イデマ》し賜へるを、此處には天皇を脱し、續紀には太上天皇を漏せるなるべし、○淡海は、(293)天武天皇(ノ)紀に、元年六月辛酉朔甲申、是日|發途《タチテ》入(リタマフ)2東國(ニ)1、是時元(ヨリ)從(ヘル)者《ヒト》云々、調(ノ)首淡海之|類《トモガラ》二十有餘人、云々、續紀に、和銅二年正月丙寅、五六位上調(ノ)連淡海(ニ)授2從五位下(ヲ)1、同六年四月乙卯、授2從五位上(ヲ)1、養老七年正月丙子、授2正五位上(ヲ)1などあり、續紀によれば、後に連の姓になれるを、未(タ)連(ノ)姓を賜はらぬ前なれば、首と書るなり、
 
55 朝毛吉《アサモヨシ》。木人乏母《キヒトトモシモ》、亦打山《マツチヤマ》。行來跡見良武《ユキクトミラム》。樹人友師母《キヒトトモシモ》。
 
朝毛吉《アサモヨシ》は、枕詞なり、二(ノ)卷四(ノ)卷九(ノ)卷十三等にも見えたり、宮地(ノ)春樹翁(ノ)説に、朝毛は麻裳《アサモ》、吉は助辭にて、麻裳を著《キ》とつゞけたる枕詞なるべし、と云るぞよき、已く谷川士清も、集中に麻衣きればなつかしとよめれば、四(ノ)卷に、麻裳吉《アサモヨシ》と書るが正義なるべしと云り、(冠辭考の説は謂れたらず、)九(ノ)卷に、直佐麻乎裳者織服而《ヒタサヲヲモニハオリキテ》云々、とあるをも考(ヘ)合(ス)べし、吉てふ助辭は、集中に玉藻吉《タマモヨシ》、眞管吉《マスゲヨシ》、愛伎與之《ハシキヨシ》など多く云る、吉と同じ、又|打麻八爲《ウチソヤシ》、縱惠八師《ヨシエヤシ》などいふ、八師《ヤシ》も同じ、(吉(ノ)字の意と思ふは甚惡し、)○木人乏母《キヒトトモシモ》、木人は(伐比等《キヒト》と清て唱ふべし、伐倍比等《キヘヒト》など清て唱(フ)例なればなり、)紀伊人なり、紀伊(ノ)國をも、本は木(ノ)國と書り、乏はうらやましなり、上に云り、母は歎く意の助語なり、○亦打山《マツチヤマ》(亦(ノ)字、舊本赤に誤、類聚妙古寫本等によりつ、)は、亦打と書るは、多宇《タウ》の切|都《ツ》なれば、戯てかく借(リ)て書るのみにて、實は眞土山《マツチヤマ》なり、この山は大和(ノ)國に在て(新古今集に、能宣(ノ)朝臣、大和(ノ)國眞土山近く住ける、女の許に云々とあり、)紀伊へ通ふ路にて、名高き山なり、(294)四(ノ)卷に、眞土山越良武公者黄葉乃散飛見乍《マツチヤマコユラムキミハモミヂバノチリトビミツヽ》、親吾者不念草枕客乎便宜常思乍公將有跡《シタシケクアヲバオモハズクサマクラタビヲヨロシトオモヒツヽキミハアラムト》とも見えて、其(ノ)山のけしきの、可賞《オモシロ》き事思ふべし、○好來跡見良武は、カヨフトミラム〔七字右○]とも訓べけれども、猶こゝはユキクトミラム〔七字右○]と訓べし、ユキク〔三字右○〕は行とても來とてもの義なり、跡《ト》は登?《トテ》の跡《ト》なり、○尾句は、第二句を反覆《カヘサヒ》いひて、その深切《フカ》き意を述たるなり、古歌に例多し、○歌(ノ)意は、幸《イデマシ》の大御供なれば、あくまで愛居る事も叶はねば、眞土山のけしきの、おもしろきを見捨て、過行ことの惜きにつけて、此(ノ)紀伊(ノ)國人の、常に行來に見らむが、さてもうらやましやとなり、
 
二年壬寅《フタトセト云トシミヅノエノトラ》。太上天皇《オホキスメラミコトノ》。幸《イデマセル》2于|參河國《ミカハノクニヽ》1時歌《トキノウタ》。
 
幸2于參河國(ニ)1の事、續記に、大寶二年冬十月乙未朔丁酉、鎭2祭諸神(ヲ)1、爲v將v幸(ント)2參河(ノ)國(ニ)1也、甲辰、太上天皇幸2參河(ノ)國(ニ)1、行々所2經過(スル)1、尾張美濃伊勢伊賀等(ノ)、國郡(ノ)司及百姓、敍v位(ヲ)賜v禄(ヲ)各有v差、十一月丙子朔戊子、車駕至v自2參河1と見ゆ、
 
57 引馬野爾仁保布榛原《ヒクマヌニニホフハリハラ》。入亂《イリミダレ》。衣爾保波勢《コロモニホハセ》。多鼻能知師爾《タビノシルシニ》。
 
引馬野《ヒクマヌ》は、遠江(ノ)國敷智(ノ)郡なり、阿佛尼(ノ)記に、今の濱松の驛を、引馬の驛といへり、此(ノ)野は今三方が原といふとぞ、金葉集に、春霞立隱せども姫小松引馬の野邊に吾は來にけり、さて此(ノ)度參河(ノ)國へ幸《イデマ》しゝ事なるに、遠江にてよめる歌を載たること、いぶかしかれど、集中に難波へ幸《イデマ》(295)せる時、河内和泉の歌もあるごとく、其(ノ)隣國へは、ついでに幸《イデマ》せる事もあり、又官人の行いたる事も有し故なり、今もその如く心得べきよし、はやく岡部氏云たる、さることなり、しかのみならず、此(ノ)度の參河(ノ)國行幸の行宮は、何處なりけむ詳ならねば、遠江(ノ)國近きあたりに、ありけむも知べからず、かくて引馬野は、東西廣くわたれる野にて、その西北は、參河に、さばかり遠からぬよしなれば、ついでに幸しゝも知べからず、又從駕の列《ツラ》なりし人の、しばしのいとまたまはりて、行て見て、よみしもはかるべきにあらずなむ、○仁寶布榛原《ニホフハリハラ》は、仁保布《ニホフ》とは、色の染りて光映《ハエ》あるをいふ、十(ノ)卷に、朝露爾染始秋山爾《アサツユニニホヒソメタルアキヤマニ》云々、榛原はハリハラ〔四字右○〕と訓べし、(且《マタ》十四に、波里波良《ハリハラ》と假字書あるによりて、清て唱ふべし、)榛の事は品物解にいふべし、○入亂《イリミダリ》は、入てまじはることなり、○衣爾保波勢《コロモニホハセ》は、衣にほはせよなり、衣にはほすとは、衣を摺(リ)て色に染《ソマ》するをいふ、十卷に、吾背兒我白細衣徃觸者應染毛黄變山可聞《ワガセコガシロタヘコロモユキフラバニホヒヌベクモモミツヤマカモ》とあり、さてこゝは、同じ旅行どちの人の中へ、いひ令《オホ》せたるなり、○多鼻能知師《タビノシルシ》は、旅を爲《セ》る補益《シルシ》にと云ことなり、(こゝは俗に、旅の得分にといはむがごとし、)垂仁天軋紀に何益《ナニノシルシカアラム》、三(ノ)卷に、獨爲而見知師無美《ヒトリシテミルシルシナミ》、又|後雖悔驗將有八方《ノチニクユトモシルシアラメヤモ》、又|雖戀效矣無跡《コフレドモシルシヲナミト》、四(ノ)卷に、雖嘆知師乎無三《ナゲケドモシルシヲナミ》、又|雖念知信裳無跡《オモヘドモシルシモナシト》、又|後雖云驗將在八方《ノチニイフトモシルシアラメヤモ》、十八に、安須古要牟夜麻爾奈久等母之流思安良米夜母《アスコエムヤマニナクトモシルシアラメヤモ》、などあるも皆同意なり、又|情毛志流久《コヽロモシルク》などもはたらけり、(たゞ印《シルシ》といふことゝ見ては、ことたらず、)○歌(ノ)意は、人の見て、旅(296)行せし益《シルシ》ありといはむばかりに、この引馬野に、染《ニホ》ふ榛原に入まじはりて、其方《ソコ》の白細衣を、色どり染《ソメ》よとなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。長忌寸奧麻呂《ナガノイミキオキマロ》。
 
奧麻呂は、紀中に見えず、傳考(フ)る所なし、二(ノ)卷三(ノ)卷に意寸麻呂、十六に、意吉麻呂とあり、
 
58 何所爾可《イヅクニカ》。船泊爲良武《フナハテスラム》。安禮乃崎《アレノサキ》。榜多味行之《コギタミユキシ》。棚無小舟《タナナシヲブネ》。
 
船泊《フナハテ》は、舟の行到(ル)をいふ、○安禮乃崎《アレノサキ》(崎(ノ)字、類聚抄古寫本等に埼と作り、)は、いづくにや、(和名抄に、美濃(ノ)國不破(ノ)郡荒崎見えたれば、それならむかといふ説あり、此(ノ)度の幸に、美濃(ノ)國を經賜へるよし、續紀に見えて、題の下に引たる如くなれば、さることにもあらむか、且《マタ》美濃は海なき國なれど、荒崎は江河に隣《トナ》れる地ならむには、其邊を、小舟の漕めぐれるさまを見て云るにて、大船ならねば、かならず海ならでもあるべしともいふべけれど、なほおぼつかなきことなり、その由は、荒崎は、アラサキ〔四字右○〕と呼《イヒ》しとおぼえ、安禮乃崎《アレノサキ》は、安禮《アレ》といふ地の岬なるべければなり、)猶よく尋ねべし、○榜多味《コギタミ》は、榜回なり、○棚無小舟《タナナシヲブネ》は、和名抄に、※[木+世](ハ)、大船(ノ)旁板也、不奈太那《フナダナ》とありて、小舟には、其(ノ)※[木+世]なければしかいふ、(古今顯注に、舟棚はせかいとて、舟の左右のそばに、縁の樣に板を打つけたるなり、それを蹈ても行なりとあり、小舟は、袁夫禰《ヲブネ》と濁りて唱(フ)例なり、)○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
(297)右一首《ミギノヒトウタハ》。高市連黒人《タケチノムラジクロヒト》。
 
黒(ノ)字、類聚抄に里と作るは誤なり、
 
59 流經《ナガラフル》。妻吹風之《ユキフクカゼノ》。寒夜爾《サムキヨニ》。吾勢能君者《ワガセノキミハ》。獨香宿良武《ヒトリカヌラム》。
 
流經は、ナガラフル〔五字右○]と調べし、流《ナガル》るの伸りたるなり、(經はフル〔二字右○〕の假字、)ラフル〔三字右○〕はルヽ〔二字右○〕と約れり、(ラフ〔二字右○〕の切ル〔右○〕となれり、)十(ノ)卷に、卷向之檜原毛未雲居者子松之末由沫雪流《マキムクノヒハラモイマダクモヰネバコマツガウレユアワユキナガル》とあり、流《ナガル》は、零《フル》ことなり、さて流《ナガル》を伸て流經《ナガラフル》といへるは、絶ず引つゞきて、長《ノドカ》に零(ル)よしなり、下に浦佐夫流情佐麻禰之久堅乃天之四具禮能流相見者《ウラサブルコヽロサマネシヒサカタノアメノシグレノナガラフミレバ》とあるに同じ、○妻は、雪(ノ)字の誤ならむと荒木田氏云り、さもあるべし、しかする時は、發句よりのつゞきもよくきこゆ、○歌(ノ)意かくれなし、十月にいでまして、十一月にかへらせ賜へば、その間女王の京に在て、夫(ノ)君の旅宿を、ふかく思《オホ》しやり賜ふ心あはれなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。譽謝女王《ヨサノオホキミ》。
 
譽謝(ノ)女王は、續紀に、慶雲三年六月丙申、從四位下與射(ノ)女王卒と見ゆ、本居氏、凡て某(ノ)女王と、名の下に着たる女王は、ヒメミコ〔四字右○〕とは訓べからず、さては内親王と別《ワキダメ》なし、又ヒメオホキミ〔六字右○]とはいふべくもあらず、さればたゞオホキミ〔四字右○〕と訓べし、古事記などには、男女共に某(ノ)王と記して、某(ノ)女王といへることなし、これ古(ヘ)なり、然るを女をば女王と書(ク)は、たゞ字面のうへの別《ワキダメ》に(298)こそあれ、奈良のころとても、なほ口語には、女王をもたゞ某|乃於保伎美《ノオホキミ》とぞいひつらむと云り、なほ上額田(ノ)王の下にも云るを考(ヘ)合(ス)べし、○右(ノ)歌は、女王の京に留りて作《ヨミ》たまへるなり
 
60 暮相而《ヨヒニアヒテ》。朝面無美《アシタオモナミ》。隱爾加《ナバリニカ》。氣長妹之《ケナガキイモガ》。廬利爲里計武《イホリセリケム》。
 
朝面無美《アシタオモナミ》は、俗に朝に面目の無さにといふがごとし、交接《アヒ》たるその朝《ツト》めて、羞《ハヂ》らひて面隱《オモガクシ》するよしもて、隱《ナバリ》の序とせり、隱《カク》るゝことを、古言に那婆流《ナバル》とも那麻流《ナマル》とも云ればなり、八(ノ)卷に、暮相而朝面羞隱野乃芽子者散去寸黄葉早續《ヨヒニアヒテアシタオモナミナバリヌノハギハチリニキモミチハヤツ》也とあり、○隱は、ナバリとよみて、伊賀(ノ)國名張(ノ)郡なり、既く出づ、此(ノ)度の幸に、伊賀(ノ)國を經賜ふよし續紀に見えたり、題の下に引る如し、○氣長妹之《ケナガキイモガ》は、日月《ツキヒ》久しく間《ヘダヽ》りて、逢ぬ妹がと云が如し、氣長《ケナガキ》とは日月《ツキヒ》久しき間を云り、この氣《ケ》は來經《キヘ》の切りたる言なるよしなど、古事記傳に甚詳なり、妹は此(ノ)度の幸の從駕の女房の中に、皇子のさし賜へる人にて、京より思ほしやり賜ふなり、○廬利《イホリ》は、即(チ)廬《イホ》にて、假に設け造りたる屋《ヤ》を云、もとは伊保《イホ》なるを、伊保利《イホリ》、伊保留《イホル》と活用して云るを、やがて又體に伊保利《イホリ》とも云るなり、(この廬利《イホリ》を、則(チ)行宮の事と解來れるは、甚非なり、行宮の傍に造れる廬のよしなり、あなかしこ、天皇命の大所坐《オホマシマス》宮をしも、伊保利《イホリ》などゝはいふべきことかは、)御歌(ノ)意は、旅に別れて、日月久しく相見ざる妹は、もしは今夜などは、伊賀(ノ)國名張の里に、廬造りて旅宿すらむか、いかに京のうちを戀しく思ふらむと、女房の行程をおぼしやり、さま/”\御心をくるしめ(299)給ふよしなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。長皇子《ナガノミコ》。
長(ノ)皇子は、天武天皇(ノ)紀に、二年正月、云々、次妃大江(ノ)皇女、生3長(ノ)皇子與(ヲ)2弓削(ノ)皇子1、持統天皇(ノ)紀に、七年正月辛卯朔壬辰、以2淨廣貳(ヲ)1、授3皇子長與(ニ)2皇子弓削1、續紀に、慶雲元年正月丁酉、二品長(ノ)親王、益2封二百戸(ヲ)1、和銅七年正月壬戌、益2封二百戸(ヲ)1、靈龜元年六月甲寅、一品長(ノ)親王薨、天武天皇第四之皇子也とあり、また神護元年十月庚辰、從三位廣瀬(ノ)女王薨、二品那我(ノ)親王之女也(二は一(ノ)字を誤れるか、)とあり、これ長をナガ〔二字右○〕とよむべき證なり、○右(ノ)御歌も、皇子の京に在てよみ賜ふなり、
 
61 大夫之《マスラヲガ》。得物矢手挿《サツヤダハサミ》。立向《タチムカヒ》。射圓方波《イルマトカタハ》。見爾清潔之《ミルニサヤケシ》。
 
大夫と書て、集中の例マスラヲ〔四字右○〕とよむことこと既くいへり、(大(ノ)字、類聚抄には丈と作り、さて原《モト》は皆丈なりけむなるべけれども、今こと/”\に然は改めがたし、また大夫とあるは、大丈夫の丈(ノ)字を略きて書るものなりとも云り、)○得物矢手挿はサツヤダハサミ〔七字右○]と訓べし、二(ノ)卷六(ノ)卷にも、得物矢《サツヤ》と書り、得物は義を得て書るなるべし、廿(ノ)卷に、佐都夜《サツヤ》、又五(ノ)卷に、佐都由美《サツユミ》あり、又三(ノ)卷に、山能佐都雄《ヤマノサツヲ》、十(ノ)卷に、薩雄《サツヲ》、又|佐豆人《サツヒト》などあり、佐都《サツ》といふ義は、古事記傳、海佐知毘古《ウミサチビコ》山佐知毘古《ヤマサチビコ》とある下《トコロ》に云、海佐知《ウミサチ》山佐知《ヤマサチ》は、書紀に、海幸《ウミサチ》山幸《ヤマサチ》と書て、幸此云2左知《サチト》1あれども、幸(300)の意のみには非ず、佐知《サチ》は幸取《サキトリ》にて、伎《キ》を省き登埋《トリ》を切めて知《チ》と云なり、さてまづ幸《サキ》とは、凡て身のために吉き事を云、此にては、海にて諸魚を得を海佐伎《ウミサキ》と云、山にて諸獣を得るを山佐伎《ヤマサキ》と云、凡て物を得るは、身のために吉事なる故に幸《サキ》と云なり、さて其(ノ)海山の佐伎《サキ》を取給ふを以て、幸取彦《サキトリヒコ》と申せるなり、次の文に、取2鰭(ノ)云々《ヲ》1取2毛(ノ)云々(ヲ)1、とある取を思ふべし、佐都矢《サツヤ》などの佐都《サツ》も、佐知《サチ》と同じとあり、手挿は、(十六に、梓弓八多婆佐彌比米加夫良八多婆左彌《アヅサユミヤツタバサミヒメカブラヤツタバサミ》と有は、つゞけ樣かはれり、(廿(ノ)卷に、伊乎佐太波佐美《イヲサタハサミ》とあるによりて(太《ダ》を濁り波《ハ》を清て)訓べし、太《ダ》を濁るは、多婆佐美《タバサミ》といふべきを、婆《バ》の濁音を上へうつして云古語の一(ノ)例にて、其は古事記傳(ニ)云、建日向日豐久士比泥別《タケヒムカヒトヨクジヒネワケ》、名(ノ)義は、云々、久志比《クジヒ》は奇靈《クシビ》なり、さて士比《ジヒ》の清濁のこと、士《シ》を清|比《ヒ》を濁りて、志備《シビ》と讀べき言なるに、士比《ジヒ》と書るは、彼(ノ)※[木+患]觸《クシブル》之峯をも、此記には久士布流多氣《クジフルタケ》と書るを合せて思ふに、奇《クシ》を久志備《クジビ》とも久志夫流《クシブル》ともいふときは、古(ヘ)は音便にて清濁互に變りて久志比《クシヒ》とも久士布流《クジフル》とも云しなるべし、かゝる例他にもあり、朝倉(ノ)宮(ノ)段の歌に、日影《ヒカゲ》るを比賀氣流《ヒガケル》とよみ、萬葉十九に、夜降爾《ヨクダチニ》を夜具多知爾《ヨグタチニ》とよみ、馬多藝行《ウマタギユキ》てを馬太伎由吉弖《ウマダキユキテ》、とよめるなど是なりとあり、こゝも其(ノ)例なり、又書紀神代下卷に、大葉刈《オホハガリ》とありて、訓註に、刈此云2我里《ガリト》1と見えたるを、古事記には大量《オホバカリ》と作り、(量は波我里《ハガリ》とはいふまじければ、これも我《ガ》の濁音を上へうつして、於保婆可里《オホバカリ》といへるなることしるし、)又書紀同卷に、大鈎《オホヂ》とあるを(301)古事記に淤煩鈎《オボチ》と書り、(これも同じ例なるべし)又里人は、佐刀妣等《サトビト》と妣《ビ》を濁る例なるを、(古事記書紀集中皆然なり、)十三に、散度人《サドヒト》、九(ノ)卷に、惑人《サドヒト》、十卷に、惑者《サドヒト》(古語に、惑《マドフ》を佐度布《サドフ》といふ故に借(リ)て書り、故(レ)佐度比等《サドヒト》と訓、)などあるも、妣《ビ》の濁音を上へうつしてかく云るなり、此(ノ)外にも意を付て見ば猶あるべし、○射流圓方波《イルマトカタハ》、(波(ノ)字、拾穗本には者と作り、)射流《イル》といふまでは的形《マトカタ》をいはむ爲の序辭なり、圓方は、伊勢(ノ)國風土記に、的形浦《マトカタノウラ》者、此(ノ)浦地形似(ガ)v的(ニ)故以《ユエニ》爲v名、今(ハ)已《ソノ》跡絶(テ)成(レリ)2江湖(ト)1也、天皇行2幸(シテ)浦邊(ニ)1歌云、麻須良遠能佐都夜多波佐美牟加比多知伊流夜麻度加多波麻乃佐夜氣佐《マスラヲノサツヤダハサミムカヒタチイルヤマトカタハマノサヤケサ》とあり、又神名帳に伊勢(ノ)國多氣(ノ)郡|服部麻刀方《ハトリマトカタノ》神社ともあり、○歌(ノ)意かくれなし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。舍人娘子從駕作《トネリノイラツメガオホミトモツカヘマツリテヨメル》。
 
舍人娘子は、傳詳ならず、舍人は氏なるべし、二(ノ)卷に、舍人皇子とよみかはせし歌あり、娘子は、こゝはイラツメ〔四字右○〕と訓べし、凡て氏の下に、娘子郎女女郎〔頭註、女郎、古者婦女通稱(三體詩注)孃子など有は、皆イラツメ〔四字右○〕と訓例なり、景行天皇(ノ)紀に、郎姫此云2異羅菟※[口+羊]《イラツメ》1、とあり、天智天皇(ノ)紀に、伊羅都賣《イラツメ》、古事記に、河上之麻須(ノ)郎女《イラツメ》、又同記に、長田(ノ)大郎女《オホイラツメ》、(書紀には、名形(ノ)大娘(ノ)皇女と書り、)又春日(ノ)大郎女、(書紀には、春日(ノ)娘子と書り、)續紀廿(ノ)卷に、藤原(ノ)伊良豆賣《イラツメ》などあり、(又舒明天皇(ノ)紀に、郎媛《イラツメ》、孝徳天皇(ノ)紀に、娘子《イラツメ》などあり、)さて男に郎子《イラツコ》、女に郎女《イラツメ》と云り、此(ノ)伊羅《イラ》は伊呂兄《イロセ》伊呂弟《イロト》などの伊呂《イロ》、又|入彦《イリヒコ》入姫《イリヒメ》などの入《イリ》と皆同言にして、親《ミ》愛しみて云稱なりと本居氏云り、都《ツ》は助(302)辭なり、(又末(ノ)珠名娘子《タマナヲトメ》、眞間娘子《マヽヲトメ》などの如く、字《アザナ》の下、處(ノ)名の下などにある娘子は、皆ヲトメ〔三字右○〕と訓例なり、猶そのことは下にいふべし、
 
慶雲三年丙午《キヤウウムミトセトイフトシヒノユウマ》。幸《イデマセル》2于|難波宮《ナニハノミヤニ》1時歌〔○で囲む〕《》トキノウタ。
 
幸2于難波(ノ)宮(ニ)1は、續紀に、慶雲三年九月丙寅、行2幸難波(ニ)1、十月壬午、還(リマス)v宮(ニ)と見えたり、○歌(ノ)字、舊本《モトツマキ》になし、目録によりて補《クハ》へつ、
 
 
64 葦邊行《アシヘユク》。鴨之羽我比爾《カモノハガヒニ》。霜零而《シモフリテ》。寒暮者《サムキユフヘハ》。倭之所念《ヤマトシオモホユ》。
 
葦邊《アシヘ》(邊の言清て唱(フ)べし、説委く上に出せり、但し十五に、安之辨《アシペ》と書るは正しからず、然るを石塚氏が古言清濁考に、濁る言に定めしは誤なり、)は、葦の生たる方を云、○鴨之羽我此爾《カモノハガヒニ》云云は、飛鳥の毛羽にさへ霜のふりて、いたく寒(キ)夜のさまなり、羽我比《ハガヒ》は羽衣《ハガヒ》にて、羽の打交ひたる所を云が本にて、こゝはなべての羽翼を謂(ヘ)り、○寒暮者(者(ノ)字、舊本に夕と作るは、者の誤なるよし、既く略解にも云り、今改めつ、)は、サムキユフヘハ〔七字右○〕なり、○倭之所念《ヤマトシオモホユ》、(倭(ノ)字、舊本《モトツマキ》に誤て和と作り、これも略解の考によりてかく改めつ、倭(ノ)字を和に寫し誤れること、古書に例多し、)七(ノ)卷に、若浦爾白浪立而奧風寒暮者山跡之所念《ワカノウラニシラナミタチテオキツカゼサムキユフヘハヤマトシオモホユ》、とあるを思(ヒ)合(ス)べし、之《シ》はその一すぢにおもはるゝをいふ助辭なり、三(ノ)卷にも、日本師所念《ヤヤトシオモオユ》とあり、○御歌(ノ)意は、難波江の葦方《アシヘ》をさして、飛わたる鴫の羽翼《ハガヒ》にさへ霜の降置て、いたく寒(キ)夜は、旅宿に堪がたくて、いとゞ本郷の方の、一(ト)(303)すぢに戀しくおもはるゝとなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。志貴皇子《シキノミコ》。
 
65 霰打《アラレウチ》。安良禮松原《アラレマツハラ》。住吉之《スミノエノ》。弟日娘與《オトヒオトメト》。見禮常《ミレド》。不飽香聞《アカヌカモ》。
 
霰打《アラレウチ》は、安良禮松原《アラレマツバラ》と疊云たる枕詞なり、(此(ノ)時九十月の頃なれば、御まのあたり霰のふりけるを、やがて枕詞におかせ給へるなるべし、)打《ウツ》とは、霰の降(ル)は物に打(チ)附るやうなれば云(ヘ)り、古事記輕(ノ)太子(ノ)御歌にも、佐々婆爾宇都夜阿良禮能《サヽバニウツヤアラレノ》云々とあり、○安良禮松原《アラレマツバラ》は、安良禮は、地(ノ)名にて、そこの松原なるべし、攝津志に、霰松原、在2住吉(ノ)安立町(ニ)1、林中有2豐浦(ノ)神社1と見えたり、(玄與日記に、慶長二年三月一日、伏見江より船に乘て、大阪へ着侍りぬ云々、三日、すみよしの鹽干を見物申侍るなり、住吉の行あひの間ほそ江あられ松原津寺遠里小野など見侍りぬ、と見えたり、)日本紀略に、延喜三年癸亥五月十九日、授2攝津(ノ)國荒々神(ニ)從五位下(ヲ)1とあるは、こゝの安良禮《アラレ》と同(シ)地なるべし、又姓氏録攝津(ノ)國諸蕃に、荒々《アラ/\ノ》公(ハ)、任那(ノ)國豐貴(ノ)王之後也とあるも、この地(ノ)名によれる姓なるべし、(書紀神功皇后卷に、鳥智簡多能阿邏々摩菟麼邏摩菟麼邏珥和多利喩祇弖《ヲチカタノアラヽマツバラマツバラニワタリユキテ》とあるは、地(ノ)名にはあらで、山城の宇遲川の彼方に、踈々《アラ/\》と立たる松原の事にて、こゝの安良禮松原《アラレマツバラ》とはたがへるなるべし、○住吉之は、スミノエノ〔五字右○〕と訓べし、和名抄に攝津(ノ)國住吉(ノ)郡|須三與之《スミヨシ》とあるは、文字につきて後に唱へ誤れるものにて、奈良(ノ)朝の比までは須美能(304)延《スミノエ》とのみいひしなり、(古今集に、住よしとあまはつぐともながゐすな、といふ歌あれば、その前後より住與之《スミヨシ》とは云そめしなるべし、)攝津風土記に、所3以《ヨシ》稱《イフ》2住吉《スミノエト》1者《ハ》、昔息長足比賣(ノ)天皇(ノ)世、住吉(ノ)大神現出而巡2行天(ノ)下(ヲ)1、覓2可v住國(ヲ)1時、到2沼名椋之長岡之《ヌナクラノナガヲノ》前(ニ)1、乃謂2》斯實可v住之國(ソト)1、遂(ニ)讃稱之、云2眞住吉之《マスミノエノ》國(ト)1、乃是定2神(ノ)社(ヲ)1、今俗略v之直稱2須美乃叡《スミノエト》1とあり、○弟日娘與《オトヒヲトメト》は、弟日《オトヒ》とは、娘子《ヲトメノ》の字《ナ》なるべし、(岡部(ノ)氏考に、弟日は、後(ノ)世に、兄弟のことを、おとゞいといふと同じくて、こゝも兄弟の遊行女婦がまゐりしをもて、かくよみ賜ふならむといへれど、兄弟をおとゞいといふは、弟與兄《オトトエ》といふことにて異《カハ》れり、且《マタ》書紀顯宗天皇(ノ)卷に倭者彼々茅原淺茅原弟曰僕《ヤマトハソヽチハラアサチハラオトヒヤツコ》是也とあるを引たれども、そはたゞ弟の義なるをや、其(ノ)故は天皇龍潜のむかし、播磨(ノ)國におはしまして、縮見(ノ)屯倉(ノ)首(カ)家に會《ツド》へる夜、天皇殊※[人偏+舞]《タツヽマヒ》を作《ナシ》たまふ時。詰之曰《タケビタマハク》、倭者云々とありて、顯宗天皇は、仁賢天皇の御弟にておはします故に、御みづから弟日僕とはのたまへるにて知べし、○今按(フ)に、兄弟をおとゞいと云ること阿佛尼が十六夜日記に見ゆ、そのころよりもはらいへる言か、中務内侍日記に、とくせむおとらぬおとゞい、平家物語に、京中に聞えたる白拍子の上手、岐王岐女とておとゞい有(リ)とも見ゆ乳母《メノト》のさうしに、御うはがきの事、昔(シ)は大かた吾(カ)身同輩にも、又はおとゞいなどにも、參とかき申候ともあり、)これは住吉人なるべし、即(チ)上に清江娘子《スミノエヲトメ》とあかと、同人にてもあるべし、與《ト》は七(ノ)卷に、佐保河之清河原爾鳴知鳥河津跡二忘金津毛《サホカハノキヨキカハラニナクチトリカハツトフタツワスレカネツモ》、(305)とある跡《ト》に同じく、松原とをとめと、ふたつならべてみれど、あかぬといふ意なり、○見禮常不飽香聞《ミレドアカヌカモ》は、松原の風景《タヽズマヒ》と、娘子の可愛《カナシキ》と並て見れども/\いつれ氣《ケ》おされずして、あき足ぬ事哉となり、香聞《カモ》は歎息の辭にて、上にたび/\出たり、○歌意は、大かたの松原のけしきにて、大かたのをとめのすがたならば、見るにあくよもあるべきに、見れども/\あきたらぬは、世にたぐひなき、松原とをとめとに有哉となり、をとめのすがたの世にすぐれたるを、この松原のけしきよきにたぐへてのたまへるなり、或説に、娘與《ヲトメト》の與《ト》は、とゝもにの意なるべし、娘と共に見れどもあかぬ事哉、とのたまへるなりと云り、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。長皇子《ナガノミコ》。
 
大行天皇《サキノスメラミコトノ》。幸《イデマセル》2于|難波宮《ナニハノミヤニ》1時歌《トキノウタ》。
 
大行天皇は、文武天皇なり、大行はサキと訓申べし、書紀持統天皇(ノ)卷に、大行《サキノ》天皇とあり、(續紀廿八詔に、御世御世乃先乃皇我御靈《ミヨミヨノサキノスメラガミタマ》云々とあるは、ひろく先代々《サキツミヨミヨ》の、天皇等をさして詔へるにて、今とは別なり、)さて大行とは、天皇崩(リ)まして、いまだ御謚《ノチノミナ》奉らぬ間に申す事なれば、(漢書音義に、大行(ハ)不v在之稱、天子崩未v有2謚號1、故稱2大行(ト)1、)大行天皇の幸と申ことはなき理なるを、ここにかく有は、慶雲四年六月、文武天皇崩(リ)まして、十一月に御謚奉りたるを、此(ノ)六月より十一月までの間に、前年の幸の時の歌を、傳聞《キヽツタ》へたる人の、かく録し置たるを其まゝこゝには載(306)しなり、次下に、大行天皇幸2吉野(ノ)宮(ニ)1と有(ル)も、これに准へて知べし、○幸2于難波(ノ)宮(ニ)1は、續紀に、文武天皇即位二年正月癸亥、是日幸2難波(ノ)宮(ニ)1、二月丁未、車駕至(リマス)v自2難波(ノ)宮1とあれど、慶雲三年九月丙寅、行2幸難波(ニ)1、十月壬午、還(リマス)v宮(ニ)と見えたる、この慶雲三年のなるべし、然れば前に慶雲三年丙午、幸2于難波宮1時歌と題《シル》せると同度なるに、かく別てしるせるはいかにといふに、前なるは當時《ソノカミ》に聞て書《シル》せるなるべく、後なるは崩(リ)坐て後、前年の幸の時の歌を、聞傳へてしるせるが故に、かく大行天皇と別て題《シル》せるにやあらむ、
 
71 倭戀《ヤマトコヒ》。寐之不所宿爾《イノネラエヌニ》。情無《コヽロナク》。此渚崎爾《コノスノサキニ》。多津鳴倍思哉《タヅナクベシヤ》。
 
倭戀《ヤマトコヒ》は、本郷の家を戀しく思ひての意なり、○寐之不所宿爾《イノネラエヌニ》は、宿《ネ》ても寐入(ラ)れぬものをの意なり、十五に、伊母乎於毛比伊能禰良延奴爾《イモヲオモヒイノネラエヌニ》云々と假字書あり、猶此(ノ)詞、集中にいとおほくして、擧つくしがたし、さて伊《イ》といふも禰《ネ》といふも、共に寢《ヌル》ことをいふ中に、伊《イ》は寢入(ル)こと、禰《ネ》は臥《ス》ことをひろく云り、されば伊《イ》といふは體語にのみ云て用《ハタラ》かず、(朝寐《アサイ》安寐《ヤスイ》長寐《ナガイ》味寐《ウマイ》などいふも皆體語なり、)禰《ネ》は那《ナ》とも奴《ヌ》とも多くはたらけり、(那須《ナス》、奴流《ヌル》など云たぐひなり、(故(レ)伊宿《イヌ》る、伊《イ》を宿《ネ》ず、伊《イ》を安く宿《ヌ》る、伊こそ宿《ネ》らえねなど多くいへり、○情無《コヽロナク》は、鶴の心せざるをいふ、上の三輪山の歌にあると同じ意なり、此(ノ)句は終の七言につゞけて心得べし、○此渚崎爾《コノスノサキニ》は、此《コノ》とは、この難波(ノ)宮に近きをいふ、渚(ノ)崎は難波江の渚のその崎を云、せめて此(ノ)宮より間遠き處(307)にてだに、なけかしと思ふ心なり、○多津鳴倍思哉《タヅナクベシヤ》とは多津《タヅ》は鶴なり、多豆《タヅ》といひ都流《ツル》と云も鳴(ク)聲によれる名なり、(後(ノ)世|多豆《タヅ》をば田鶴と書て、田に居る鶴のことゝ意得たるは非なり、)猶委しくは品物解に云べし、鳴倍思哉《ナクベシヤ》は、上の三輪山(ノ)歌に、數々毛見放武八萬雄情無雲乃隱障倍之也《シバ/\モミサカムヤマヲコヽロナククモノカクサフベシヤ》、といへるに語味同じ、哉《ヤ》は後(ノ)世の也波《ヤハ》の意なり、鶴のなくべき事かやといふこゝろなり、○歌(ノ)意は、さらぬだに家路の戀しくて、宿《ネ》ても寐入(ラ)れぬものを、此(ノ)近き渚の崎にて、斟酌もなく鶴のなくべき事かやとなり、鶴が音は物かなしくて、旅(ノ)愁をいとゞ催されて、いとはしさにかくはいへるなり、
 
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。忍坂部乙麻呂《オサカベノオトマロ》。
 
乙麻呂は、傳詳ならず、
 
72 玉藻苅《タマモカル》。奧敝波不榜《オキヘハコガジ》。敷妙之《シキタヘノ》。枕之邊《マクラノホトリ》。忘可禰津藻《ワスレカネツモ》。
 
玉藻苅《タマモカル》は、奧《オキ》といはむ料の枕詞なり、玉藻は上に出つ、さて奧《オキ》とは、上に對(ヘ)て底《ソコ》の方をも云(ヒ)、邊《ヘ》に對(ヘ)て遙なる方をも云ば、こゝは枕詞よりは、底(ノ)方につきていひかけ、うけたるうへにては邊をさかりたる澳の意なり、○奧敝波不榜《オキヘハコガシ》は、澳方《オキヘ》をば榜じの意なり、(奧敝《オキヘ》の敝《ヘ》は、此所《コヽ》へ行(ク)、彼處《カシコ》へ行のへにはあらずず、)波《ハ》は邊(ノ)方にわかちたる詞なり、不《ジ》とは未《ザル》v然《シカラ》をいふ詞なり、(俗言にまいといふに同じ、澳の方をばこぐまいといふことなり、)邊《ヘ》の方につきて、舟を榜むとおも(308)ふなり、舟ともいはで榜といふこと、古(ヘ)人のつねにて、咲《サク》とのみいひて花のこと、散《チル》とのみいひて紅葉のことゝなるにおなじ、○敷妙之《シキタヘノ》は、枕《マクラ》といはむ料の枕詞なり、集中に甚多し、敷妙は下(タ)に藉延《シキハフ》る布《タヘ》の義にて、寢衣《ヨルノコロモ》に多くいひかけたり、(なほ冠辭考にも説るがごとし、)さて其(レ)よりうつりて、袖とも枕とも床とも、夜具《ヨルノモノ》には多くつゞくるなり、(冠辭考に、敷は絹布の織目のしげき意なり、と云るはいさゝか違へり、○枕之邊《マクラノホトリ》(邊の下、古寫本拾穗本等に、人(ノ)字あるはいかゞあらむ、)は邊の方にたびねしたる、その枕のほとりといふなるべし、枕は古事記傳に、麻久良《マクラ》は纏座《マキクラ》なり、伎久《キク》の切|久《ク》なれば、、麻久良《マクラ》といへり、凡て何にまれ、物を居る具を座《クラ》と云、枕は物を纏て、頭を居る座《クラ》とせるよしの名なり、と云るがごとし、但し物を纏て云々と云るは、いかゞあらむ、纏は即(チ)頭を着るよしの名とこそおもほゆれ、されば枕と纏《マキ》てなども云り、凡て何にても身に着副《ツク》るを、麻久《マク》とはいふなるべし、手を麻久《マク》、袖を麻久《マク》などいふにても意得べし、邊はホトリ〔三字右○〕と訓べし、(舊來アタリ〔三字右○〕と訓るはわろし、邊(ノ)字アタリ〔三字右○〕と訓こと、集中に例なし、)其(ノ)近(キ)邊をいふ、○忘可禰津藻《ウスレカネツモ》は、忘れむとすれど、不《ズ》2得忘《エワスレ》1といふ意なり、可禰《カネ》は、すべてしかせむと思ふ心の勝(ヘ)ずして、つひにその本意を得ざるをいふ言なり、忘(レ)かね思(ヒ)かねなどのかねに、不得不勝などの字を書るも、其(ノ)意なり、津《ツ》は結《トヂ》むる詞なり、沾《ヌラ》し津《ツ》暮し津《ツ》などの津《ツ》と同じ、上軍(ノ)王(ノ)歌に委(ク)云り、藻《モ》はなげきの意をふくかる助辭《タスケコトバ》なり、○歌(ノ)意は、旅宿《タビネ》せし浦の邊の、あ(309)かずおもしろくして、忘れむと思へど、つひに得忘れられねば、遙なる澳の方をばこがじとなり、或説に、玉藻かる澳の方に榜(ケ)ば、その玉藻のなびけるさまに、妹がねたりし姿のおもひ出らるれば、その思ひ出る心、やがて從駕の妨となりぬべし、されば此(ノ)後澳の方はこがじと、つゝしみをむねとよめるなりと云り、しかするときは玉藻苅といふこと、末までにかゝりて、即(チ)玉藻をかる海の澳を云るなり、又或説に、本郷にて、妹と共寢せし、枕の邊のわすれ難ければ、澳方に船浮て、船遊せむ事をも吾は思はず、といふなるべし、さてこゝは人のいざ澳方に船遊せむと誘ひしに、答へてよめるなるべしといへり、猶考(フ)べし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。式部卿藤原宇合《ノリノツカサノカミフヂハラノウマカヒ》。
 
目録には、作主未詳歌とありて、其(ノ)下に、式部卿藤原宇合とあり、按(フ)に、こゝも高安大島とある所にいへる如く、もとは右一首作主未詳、或云、式部卿藤原宇合とありけむを、目録にもこゝにも、互に文字を脱せるならむか、○宇合(ノ)卿は、天平九年に薨られたるよし續紀に見え、懷風藻に、此人の詩を載て、題下に年五十四とあるにより、逆推《サカカゾヘ》すれば、天武天皇十三年に生れらる、さて此(ノ)幸を慶雲三年とするときは、廿三歳の時なり、其(ノ)後靈龜二年に、正六位下にて遣唐副使と爲れしこと、續紀に始て見えたり、此(ノ)時二十歳に餘りたれど、いまだかろき官人などにて從駕《ミトモツカヘ》しなるべし、猶此(ノ)人の傳は三(ノ)上にいふべし、
 
(310)73 吾妹子乎《ワギモコヲ》。早見濱風《ハヤミハマカゼ》。倭有《ヤマトナル》。吾松椿《アヲマツノキニ》。不吹有勿勤《フカザルナユメ》。
 
吾妹子乎《ワギモコヲ》は、妹を早見むといふ意に、いひかけたる枕詞なり、○早見濱《ハヤミハマ》は、攝津(ノ)國の地(ノ)名なるべし、(豐後(ノ)國に速見(ノ)郡あり、攝津(ノ)國にもさる處あるにや、尋ぬべし、又は此(ノ)御歌、豐後(ノ)國におはしける事ありて、その時よませ給ひしを、傳へあやまりて、この幸の時のとしたるにも有べし、〉本居氏は、見濱《ミハマ》は御濱《ミハマ》にて、たゞ濱の事なるべし、御津《ミツ》御浦《ミウラ》などいへば、御濱ともいふべきなり、それを妹を早見むといひかけたるなりといへり、なほかむがふべし、○倭有《ヤマトナル》は、倭に在(ル)にて、本郷の家に在(ル)松(ノ)樹と詔へるなり、次の吾の言は、中にはさみてのたまへるなり、○吾松椿は、椿は樹(ノ)字の寫誤なるべし、と大神(ノ)景井いへり、こは實に然有けむ、松《マツ》椿《ツバキ》とは連(ネ)言べきにあらず、吾乎松樹《アヲマツノキ》とつゞけたること、集中にこれかれあり、さて松樹爾とありけむが、樹を椿に誤りて、マツツバキ〔五字右○〕とよめるにひかれて、爾(ノ)字をも、さがしらに削(リ)しなるべし、故(レ)今はアヲマツノキニ〔七字右○〕と訓つ、京なる妹が、吾を待(ツ)といふ意に詔へるなり、○不吹有勿勤《フカザルナユメ》は、ゆめ/\吹ずあるな、つとめて吹(ケ)といふ意なり、不吹有勿《フカザルナ》とは、ふくべきを吹ずにをることなかれ、といふ意なり、勿《ナ》はその事をやめさせむとする詞なり、由米《ユメ》は忌《イメ》にて、その忌《イム》とは、母物《モノゴト》を忌憚りて、何にても純一《ヒタスラ》につとめて、其(ノ)事《ワザ》をなすをいふ言にて、落る所は、勤《ツト》めててふことに聞ゆるなり、故(レ)集中に勤努力謹忌など書て、由米《ユメ》と訓(マ)しつ、_(字鏡に、※[(力/加)+(力/加)](ハ)由女々々《ユメユメ》、)○御歌(ノ)意は、早見の濱(311)風にあつらへて、やまとなるおのが家の園にたてる、家(ノ)妻が吾を待(ツ)といふ、名に負たる松の樹をゆめ/\吹ずにをる事なかれと宣へるなり、さるはこの寒さを家人にしらせて、此(ノ)さむき濱風に、いかに懷土《クニシノビ》の情たへがたく有らむと、家人におしはからせむとの御心なり、松(ノ)樹に吹は、やがて家人に燭(ル)ることわりなれば、かく宣へるなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。長皇子《ナガノミコ》。
 
大行天皇《サキノスメラミコトノ》。幸《イデマセル》2于|吉野宮《ヨシヌノミヤニ》1時歌《トキノウタ》。
 
大行天皇は、上に出たるに同じく文武天皇なり、○幸2于吉野宮1は、續紀を考(フ)るに、大寶二年七月丙子、天皇幸2吉野(ノ)離宮(ニ)1とあれど、其(ノ)度にはあらじ、此は右に慶雲三年九月、行2幸難波1、とある時の歌をしるせれば、此(ノ)幸は其(レ)より後、明年の春までにありけむを、紀には記し漏《モラ》されたるにあらむ、
 
74 見吉野乃《ミヨシヌノ》。山下風之《ヤマノアラシノ》。寒久爾《サムケクニ》。爲當也今夜毛《ハタヤコヨヒモ》。我獨宿牟《》アガヒトリネム。
 
山下風之は、ヤマノアラシノ〔七字右○〕と訓べし、集中に、山下阿下下風(八(ノ)卷に、山下風爾《アラシノカゼニ》、十三に、阿下乃吹者《アラシノフケバ》、十一に、下風吹禮波《アラシフケレバ》、)など書て、阿良志《アラシ》と訓り、和名抄に、孫※[立心偏+面](カ)云、嵐(ハ)山下(ヨリ)出(ル)風也、和名|阿良之《アラシ》、とある意によりて書りと見えたり、名(ノ)義は荒風《アラシ》なり、(十三に、荒風《アラシ》と書り、七(ノ)卷に、荒足《アラシ》と書るは借(リ)字のみ、)風を志《シ》といふは、風(ノ)神の名を志那都比古《シナツヒコ》と申す志《シ》、また都牟志《ツムシ》、また東風《コチ》疾風《ハヤチ》な(312)どいへる知《チ》も同じ、(志《シ》と知《チ》と通はし云ることは、古言に甚多し、)○寒久爾《サムケクニ》は、寒《サムケ》くあるにといふほどの意なり、後(ノ)世の詞にては、寒伎爾《サムケキニ》といふべきを、かくいへるは古言なり、(此(ノ)歌を拾遺集に載たるに、寒けきにとあるは、おとれり、詞花集に、淺茅生に置白露の寒けくに枯にし人のなぞや戀しき、とあるはよし、)かくいはざれば、下のあはれうすきをおもふべし、四(ノ)卷に、栲繩之永命乎欲苦波不絶而人乎欲見社《タクナハノナガキイノチヲホシケクハタエズテヒトヲミマクホリコソ》、九(ノ)卷に、筑波嶺乃吉久乎見者《ツクハネノヨケクヲミレバ》とある、欲苦も吉久もここの例に同じ、(景井云(ク)。吉久《ヨケク》は、與氣久阿留《ヨケクアル》の切りたる言が久阿留《クアル》の切(メ)久《ク》となれりと云り、しかするときは、寒久爾《サムケクニ》も寒氣久有爾《サムケクアルニ》の意、欲苦波《ホシケクハ》も欲氣久有者《ホシケクアルハ》の意なることさらなり、)○爲當也今夜毛《ハタヤコヨヒモ》は、波多《ハタ》はそのもと心に欲《ネガ》はず、厭《イト》ひ惡《ニク》みてあることなれど、外にすべきすぢなくて、止ごとなくするをいふ詞なり、(爲當の字に泥むべからず、此(ノ)字の事は次にいふべし、)さればこゝも、山(ノ)下風《アラシ》の甚《イタ》く塞くして、獨(リ)宿せらるべき夜ならねど、外にすべきすぢなく、止ごとを得ざる謂なり、四(ノ)卷に、神左夫跡不欲者不有八多也八多《カムサブトイナニハアラズハタヤハタ》(八也多八に誤、)如是爲而後二佐夫之家牟可聞《カクシテノチニサブシケムカモ》、(これもさぶさぶしく、心苦しくてあらむは、そのもと心に欲《ネガ》はぬことなれど、末遂むことのおぼつかなければ、如此|會《アヒ》て後に、かへりて物思ふことのまさりて、不樂《サブ》しからむか、さらばはじめより、會《アハ》ずてあらむかた、まされりとの謂なり、)六(ノ)卷に、竿牡鹿之鳴奈流山乎越將去日谷八君當不相將有《サヲシカノナクナルヤマヲコエユカムヒダニヤキミニハタアハザラム》、(これも君にあはずてあるは、そのもと心に欲《ネガ》はぬことな(313)れど、あふべきすぢなければ、唯獨のみ越行むかといへるなり、)十一に、人事之繁間守而相十方八反《ヒトコトノシゲキマモリテアヘリトモハタ》(反は多(ノ)字の誤、)吾上爾事之將繋《アガウヘニコトノシゲヽム》、(これも、人言の、繋ければ、あはで止べきなれど、さては得あらで、その人言の隙をうかゞひてあひたりとも、なほその隙を、うまくうかゞひ得ること協はずして、人にとにかくいひさわがれなむか、そのもと人言の繁さをば、厭ひ惡むことなれど、外にのがるべきすぢなければ、止ごとかたしとの謂なり、)十五に、伊能知安良婆安布許登母安良牟和我由惠爾波太奈於毛比曾伊能知多爾敝波《イノチアラバアフコトモアラムワガユヱニハタナオモヒソイノチダニヘバ》、(これも、物思(ヒ)をするは、そのもと厭ひ惡むことなれど、外にすべきすぢなければ、吾(カ)身の故によりて、物思をするならむ、さのみ物思(ヒ)をする事なかれ、命だにながらへてあらば、又あふこともあらむぞといへるなり、)十六に、痩々母生有者將在乎波多也波多武奈伎乎漁取跡河爾流勿《ヤス/\モイケラバアラムヲハタヤハタムナギヲトルトカハニナガルナ》、(これも、漁業するは、そのもと心に欲《ネガ》はぬことなるべけれど、夏痩の藥の第一なれば、鰻《ムナギ》を漁食《トリメシ》たまへ、さりながら※[魚+壇の旁]《ムナギ》を漁《トル》とて、あしくして、河に流れたまふなといへるなり、)十八に、多胡乃佐伎許能久禮之氣爾保登等藝須伎奈伎等余末婆波太古非米夜母《タコノサキヨコノクレシゲニホトヽギスキナキトヨマバハタコヒメヤモ》、(これも、霍公鳥を戀しく思ふにつけて、かく物思(ヒ)をするは、そのもと心に欲《ネガ》はぬことなれども、堪難くして戀しく思ふに、いかで來鳴響めかし、さらばかく物思(ヒ)はすまじきをと云意なり、)古今集夏(ノ)部に、ほとゝぎす初聲聞ばあぢきなく主さだまらぬ戀せらる波多《ハタ》、(これも戀ごゝちのせらるゝは、そのもと心に欲《ネガ》はぬことな(314)れど、ほとゝぎすの初音をきけば、感情を催されて、止ごとなく、主さだまらぬ戀ごゝちがせらるゝとの謂なり、)なぞ見えて、皆同意の詞なり、さて書紀欽明天皇(ノ)卷に、於是許勢(ノ)臣、問(テ)2王子惠(ニ)1曰。爲當《ハタ》欲(フカ)v留(ムト)2此間(ニ)1、爲當《ハタ》欲v向(ムト)2本郷(ニ)1、とあるは、同言異意にて、(この意なるは、集中には見えず、)マタ〔二字右○〕と云にちかし、(または此間《コヽ》に留らむと欲《オモ》ふか、または本郷に向《カヘ》らむと欲ふかと云意なり、)後紀十八詔に、常(ノ)政有v闕(ルコト)波加《バカ》、爲當《ハタ》神(ノ)道有v妨(ルコト)波加《バカ》、職員令集解圖書(ノ)條に、穴云、問此(ノ)司、寫書以下造墨以上、爲當《ハタ》司(ノ)設歟、爲當《ハタ》分2給諸司(ニ)1歟、など見えたる、みな同義なり、(この後の物どもにも、爲當の字を用ひて、同意なる多し、)爲當の字は、左傳疏に、以v今觀v之、不v可(カラ)2一日(トシテ)而無(ハアル)1v律、爲當《ハタ》吏不v及(ハ)v古(ニ)、民僞2於昔(ヨリ)1、爲《ハタ》是聖人作v法、不v能2經遠(スルコト)1、古今之政、何以異乎、※[木+(四/方)]嚴經に、爲《ハタ》是燈色(カ)、爲當《ハタ》見(ノ)色(カ)、などあり、これ漢籍に將(ノ)字を用ひて、波多《ハタ》と訓來れると大抵同じ意ばえなり、(將《ハタ》爲2君子(ト)1焉、將《ハタ》爲2野人(ト)1焉と云は、または君子となるもあり、または野人となるもあり、と云意なるを思ふべし、)さてかく波多《ハタ》と云に、古(ヘ)より二(ツ)の意あるが中に、上にいへることく、集中なるは、爲當の字を用ひたるとは別意なれど、字はいづれも波多《ハタ》と訓るゝ故に、此(ノ)字を借(リ)用ひしなるべし、也《ヤ》は疑の也《ヤ》なり、此(ノ)詞は、終の牟《ム》の下にうつして意得べし、毛《モ》は前の連夜につけて云るなり、前の連夜は、今夜ばかり山風も寒からざりしを、かくいたく寒く堪がたかるに、今夜もひとり宿をせむかといへるなり、○歌(ノ)意は、この芳野の山もとに從駕して、連夜ひとり宿せしが、こよひこ(315)とに山(ノ)下風《アラシ》寒くして、ひとり宿せらるべき夜ならねど、外にすべきすぢなく、止事なければ、今夜もひとり宿むかといへるなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。或云《アルヒトノイハク》。 天皇御製歌《スメラミコトノミヨミマセルオホミウタ》。
 
天皇は、大行天皇なり、拾穗本には即大行天皇御製とあり、さて題詞に、幸2云々1時とある下に、御製歌となきは、皆從駕の人のなればなり、右(ノ)歌もその趣なるを、こは或人の説なれば、左にかく載たるなり
 
75 宇治間山《ウヂマヤマ》。朝風寒之《アサカゼサムシ》。旅爾師手《タビニシテ》。衣應借《コロモカスベキ》。妹毛有勿久爾《イモモアラナクニ》。
 
宇治間山《ウヂマヤマ》は、大和志に、在2吉野(ノ)郡池田|千俣《チマタ》村(ニ)1といへり、○朝風寒之《アサカゼサムシ》は、朝にふく風は、ことにさむきものなればなり、○旅爾師手《タビニシテ》は、上にありしに同じ、旅にてといふこゝろなるを、旅のすぢをつよくとりたてゝいはむとて、之《シ》の言をそへたるなり、○衣應借《コロモカスベキ》云々、京にては、妹に起わかれし朝などは、寒からむとて、妹が衣をかしなどしたることも有しが、さやうの妹もあらぬことなるものを、といふなり、すべて女の衣を男に借(シ)て著すること、古のならはしなり、十四に、比登豆麻等安是可曾乎伊波牟志可良婆加刀奈里乃伎奴乎可里?伎奈波毛《ヒトヅマトアゼカソヲイハムシカラバカトナリノキヌヲカリテキナハモ》、大和物語にも、をとこ女の衣をかり著て、今の妻のがりいきてさらに見えず、この衣をみな著やりて返しおこすとて、云々などあり、○妹毛有勿久爾《イモモアラナクニ》毛《モ》は、さる妹だにもの意なり、勿久爾《ナクニ》は奴(316)爾《ヌニ》に延りたるにて、ぬことなるをといふほどの意なり、さる妹だにもある事ならば、さむさもしのがるべきに、さやうの妹もあらぬことなるものをといふなり、○歌(ノ)意は、京にてこそあれ、寒しとて、衣かすべき妹もなき旅中なるに、宇治間山の朝風、かく寒くふくべき事にあらぬをと、朝風をうらみて宣へるなり夫木集に、白妙の衣手凉し宇治間山朝風吹て秋は來にけり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。長屋王《ナガヤノオホキミ》。
 
長屋(ノ)王は、續紀に、慶雲元年正月癸巳、无位長屋王(ニ)授2正四位上1、和銅二年十一月甲寅、以2從三位長屋(ノ)王(ヲ)1、爲2宮内(ノ)卿(ト)1、三年四月癸卯、爲2武部(ノ)卿(ト)1、七年正月壬戌、長屋(ノ)王益2封一百戸(ヲ)1、養老元年三月癸卯、石上(ノ)朝臣麻呂薨(ス)、云々、詔遣2正三位長屋(ノ)王(ヲ)1云々、吊賻之、二年三月乙巳、爲2大納言(ト)1、五年正月壬子、授2從二位(ヲ)1爲2右大臣(ト)1、神龜元年二月甲午、授2正二位(ヲ)1、又爲2左大臣(ト)1、天平元年二月辛未、云々等、告v密(ヲ)稱、長屋(ノ)王私(ニ)學2左道(ヲ)1、欲v傾(ムト)2國家(ヲ)1、其(ノ)夜云々、圍(ム)2長屋(ノ)王(ノ)宅(ヲ)1、壬申、巳(ノ)時云々、
就(テ)2長屋(ノ)王(ノ)宅(ニ)1、窮2問其(ノ)罪(ヲ)1、癸酉、令2王(ヲ)自盡(セ)1、庚戌、遣v使葬2長屋(ノ)王、吉備内親王(ノ)屍(ヲ)於生馬山(ニ)1、云々、長屋(ノ)王(ハ)、天皇(天武)之孫、高市(ノ)親王之子(ナリ)、靈異記中卷に、勝寶應眞太上天皇、以2天平元年春二月八日(ヲ)1、於2左京元興寺(ニ)1、修2大法會(ヲ)1、勅2左大臣正二位長屋(ノ)親王(ニ)1、而任d於供2衆僧1之司(ニ)u、時有2一沙彌1、濫(ニ)就d於※[飯/皿]2供養1之處(ニ)u、捧v鉢(ヲ)受v飯(ヲ)、親王見之、以2牙册(ヲ)1罸2沙彌之頭(ヲ)1、頭破流v血(ヲ)云々、經之八日、有2嫉妬人1讒2天皇(ニ)1懷風藻に、左大臣正二位長屋(ノ)王(317)三首、年五十四と見えたり、
 
寧樂宮御宇天皇代〔八字それぞれ○で囲む〕《ナラノミヤニアメノシタシロシメシヽスメラミコトノミヨ》
 
舊本に、此間に此《ノ)標なくして、和銅三年の歌どもありて、後に和銅五年と記せし下に、寧樂(ノ)宮とあるは、所由《ヨシ》もなきことなり、こは甚く錯亂《ミダレ》しものと見えたり、但し和銅三年に寧樂へ都を遷されたれば、それまでをば、藤原(ノ)宮に繋て云べき事ぞ、といふ説もあれど、然してもなほ和銅五年と記せし後に、寧樂(ノ)宮と標《シル》すべき謂なし、さて總標は、某(ノ)宮(ニ)御宇(シヽ)天皇(ノ)代と云を、主としていふことなれば、なほ元明天皇(ノ)代をば、即位元年より寧樂(ノ)宮の標(ノ)内に繋べき理にこそあれ、かれ今こゝにかくしるして、下に寧樂(ノ)宮とあるをば削(リ)去《ステ》つ、寧樂(ノ)宮(ニ)御宇しは、元明天皇より光仁天皇まで、凡七御代の皇朝なり、さて此(ノ)標中には、元明天皇和銅年中の歌を入(レ)しとおぼゆ、元明天皇は、御諱日本根子天津御代豐國成姫(ノ)天皇なり、續紀に、日本根子天津御代豐國成姫(ノ)天皇(ハ)、小名阿閇(ノ)皇女、天命開別(ノ)天皇(天智)之第四皇女也、母(ヲ)曰2宗我(ノ)嬪(ト)1、蘇我(ノ)山田石川麻呂(ノ)大臣之女也、適2日並知(ノ)皇子(ノ)尊(ニ)1、生2天之眞宗豐祖父(ノ)天皇(ヲ)1、(文武)慶雲四年六月、豐祖父(ノ)天皇崩(リマス)、七月壬子、天皇(元明)即2位於大極殿(ニ)1、和銅三年三月辛酉、始遷2都(ヲ)于|平城《ナラ》1、靈龜元年九月庚辰、天皇禅2位(ヲ)于氷高(ノ)内親王(ニ)1、(元正天皇)養老五年十二月己卯、太上天皇(元明)崩2于平城(ノ)宮中安殿(ニ)1、時春秋六十一、己酉、葬2於大和(ノ)國添上(ノ)郡椎山(ノ)陵(ニ)1、不v用2喪儀(ヲ)1、由2遺詔(ニ)1也、諸陵式に、奈保山(ノ)東陵(平城宮御宇元明(318)天皇、在2大和(ノ)國添上(ノ)郡(ニ)1、兆域東西三町南北五町、守戸五煙、)と見えたり
 
和銅元年戊申《ワドウハジメノトシツチノエサル》。天皇御製歌《スメラミコトノミヨミマセルオホミウタ》。
 
76 大夫之《マスラヲノ》。鞆乃音爲奈利《トモノトスナリ》。物部乃《モノヽフノ》。大臣《オホマヘツキミ》。楯立良思母《タテタツラシモ》。
 
大夫《マスラヲ》(大(ノ)字、類聚抄には丈と作り、)は、討手《ウテ》の使にさゝれたる、武夫どもをさして詔へるなるべし、○鞆乃音爲奈利《トモノトスナリ》は、鞆は七(ノ)卷にも、大夫乃手二巻持在鞆之浦回乎《マスラヲノテニマキモタルトモノウラミヲ》とよめり、古事記に、伊都之竹鞆《イツノタカトモ》、書紀に、稜威之高鞆《イツノタカトモ》、太神宮儀式帳に、弓矢鞆音不聞國《ユミヤトモノトキコエヌクニ》、兵庫寮式に、凡御梓弓一張、云々、鞆一枚、(功一人、)熊、(ノ)革一條、(鞆(ノ)料長九寸廣五寸、)牛(ノ)革一條、(鞆手(ノ)料長五寸廣二寸、)漆一合九勺こ撮、(漆2箭并鞆(ヲ)1料、)生絲小二兩一分、(纏v箭縫v鞆科、)鞆袋(ノ)料紫衣緋裏(ノ)帛各一條、(各長二尺三寸廣一尺一寸、)鞆(ノ)緒紫(ノ)組一條(長二尺五寸、)和名抄に、蒋魴(カ)切韻(ニ)云、※[旱+皮](ハ)、在v臂(ニ)避v弦具也、和名|止毛《トモ》、楊氏漢語抄日本紀等、用2鞆(ノ)字(ヲ)1、俗亦用之、本文未v詳也、江次第射場始の條に、其(ノ)上置2鞆并弓懸1、など見えたり、鞆(ノ)字は漢國の字書には无(シ)、御國にて造りし字なるべし、此(ノ)物後(ノ)世は絶て用る事なし、良基公の思ひのまゝの日記に、十八日には、のりゆみの事あり云々、公卿弓矢持鞆などつけてあるさま、近頃目なれぬ事なりとあり、其(ノ)頃も儀式などの餘《ホカ》には用ざりしと見ゆ、さて鞆は形丸く中は空虚《ウツホ》にて、鞠の如く、革にて縫括りたる物なり、松岡成章が結※[耳+毛]録に、備後(ノ)國の人、其(ノ)國鞆明神の神體の寫なりとて示せり、吉部秘訓と云書に、圖《カタ》かける所と全(ラ)同じとて、委しく(319)圖を出せり、さて其(ノ)鞆は明神の神體なりとも、或は神寶なりともいふよししるせり、さて本居氏、鞆は何の料に著る物ぞと云に、古歌などにも、鞆にはみな音を云るを思へば、此(ノ)物に、弓弦の觸て、鳴音を高からしめむためなり、音を以|威《オド》すこと、かの鳴鏑なども同じ、然るを師は、袂をおさへ弓弦を避る物なり、故に弦のあたる音あるなりと云れつる、己(レ)もさきにはさることなりと思ひしを、後によく思へばしかには非ず、近き頃伊勢貞丈も、音のためなりと云り、その考に、或以爲2鞆(ハ)是避v弦(ヲ)之具(ト)1也、是本2于和名抄※[旱+皮](ノ)字注(ニ)1者、而非也、夫弦觸v腕(ニ)者、拙射之一癖也、何(ソ)有v設2其具(ヲ)1乎と云り、まことにさることなり、抑々|鞆《トモ》は音物《オトモノ》の省りたる名にて、竹鞆《タカトモ》は高音物《タカトモ》なりと云り、(但(シ)音物の謂とせむは、其(ノ)義はよくきこえたれども、言を省くといふこと、古言になければいかゞなり、猶考ふべし、)奈利《ナリ》は決定辭にて、(もと爾阿理《ニアリ》の約りたる詞なり、音爲奈利《オトスナリ》は、音爲《オトス》るにて有りといふと同じことなり、(目に見耳に聞ことを、そのまゝにいふ詞なり、上の間人(ノ)連者が長歌に見えて委(ク)云り、こゝは調練《ナラシ》する弓の弦音の、鞆に觸てひゞくを聞《キコ》しめして、そのまゝに宣ふなり、○物部《モノヽフ》は、既《サキ》に本居氏(ノ)説を引て云るごとく、總て武事《タケキ》職を以任(ヘ)奉る建士《タケヲ》の稱なり○大臣《オホマヘツキミ》は、大前津公《オホマヘツキミ》にて、大《オホ》は美稱、前津公《マヘツキミ》は、天皇の前に候《サモラ》ふ公《キミ》てふことにて、ひろく侍臣をさしていふこと、既く云るが如し、(後(ノ)世大臣といふをのみいふにはたがへり、)こゝは、物部の大臣にて、官軍の大將を詔へるなるべし、○楯立良思母《タテタツラシモ》は、楯は和名(320)抄に兼名苑(ニ)云、楯一名※[木+鹵]、和名|太天《タテ》、釋名(ニ)云、狹而長(キヲ)曰2歩楯(ト)1、歩兵(ノ)所v持也、和名|天太天《テタテ》とあり、名(ノ)義は、敵より射る箭を、防がむがためにたつる物なれば、やがて令《テ》v立《タ》といふなるべし、さて立(ツ)とは、楯を立ならべて、軍の調練するさまなり、良思《ラシ》は、上にいへるが如く、推はかりていふ辭にて、俗にそうなといふこゝろなり、母《モ》は、歎息の辭にて上にいへり、鞆は音する物なるが故につねのおましより遠けれど、奈利《ナリ》と決(メ)て詔ひ、楯立(ツ)るは音もせねば、おしはかり給ひて、良思《ヲシ》とはおほせられしなり、岡部氏(ノ)考に、此は御軍の調練する時と見ゆれば、楯を立る事もとよりなり、さて此(ノ)御時、陸奧越後の蝦夷等が叛きぬれば、討手の使を遣(ハ)さる、その御軍の手ならし、京にてあるに、皷吹の聲鞆の音など、かしがましきを聞し召して、御位の初めに、事有をなげきおもほす御心より、かくはよみませしなるべし、此(ノ)大御歌に、さる事までは聞えねど、次の御和歌と合せてしるきなりと云り、陸奧越後の蝦夷の叛しかば、和銅二年三月、遠江駿河甲斐信濃上野越前越中等の、七國の兵士を立せられ、巨勢(ノ)麻呂佐伯(ノ)石湯二人を、大將軍にてつかはされし事續紀に見ゆ、然れば前年の冬、軍の手ならしせし時のことなれば、題詞に元年とは有(ル)なり、抑々諸國に軍團ありて、常にもならすことなれば、まして大將軍を立せ給ふには、京都にての事しるべし、岡部氏(ノ)考(ニ)又云、討手の使を遣されむに、北國は大雪にて、冬の軍はなしがたければ、明年三月に立せらるゝなりと云り、是|然《サ》も有べし、(○或人の考に、契冲の説(321)によりて、大嘗會の時の大御歌とせれど、大嘗會に、物部氏の大楯を立る事は、定れる職掌なれど、弓は射ねば、鞆の音をよませ賜はむよしなし、又次の御歌を、此時の御和歌にあらずと云るも、おしあてごとなり、)○大御歌(ノ)意は、弓弦の音の、鞆に觸てひゞくなるは、今や武夫どもの楯を立ならべて、軍の調練するならしと、遠くおましよりおしはかりまして、大御位につかせ給ひしはじめより、叛くものいで來し事を、ふかくなげきおぼしめし、さてこの武夫ども、天皇の御ことよざしをかしこみて、家をすてゝ命のほどもはかられず、此(ノ)度の役に遠くゆくらむ、心のうちをおぼしやりて、いかでこの寇ども、すみやかに服從《マツロヒ》て、討手の軍卒ども皆恙なくかへり、天(ノ)下しづかならむことをおぼす、大御心をよませ給ひしなるべし、女帝にさへおはしましければ、行末おぼつかなく、安からずおぼしなやみ給ひし、大御心のほど、いともかたじけなく、かしこしともかしこきことゞもなりかし、
 
御名部皇女《ミナベノヒメミコノ》。奉和御歌《コタヘマツレルミウタ》。
 
御名部(ノ)皇女は、天皇の御はらからの御姉なり、天智天皇(ノ)紀に、七年云々、次(ニ)有2遠智娘(ノ)弟1、曰2姪娘(ト)1、生3御名部(ノ)皇女與2阿部(ノ)皇女1、續紀に、慶雲元年正月壬寅、詔(シテ)御名部(ノ)内親王(ニ)、益2封一百戸(ヲ)1と見ゆ、
 
77 吾大王《ワガオホキミ》。物莫御念《モノナオモホシ》。須賣神乃《スメカミノ》。嗣而賜流《ツギテタマヘル》。吾莫勿久爾《キミナケナクニ》。
 
吾大王《ウガオホキミ》は、天皇をさし奉(リ)てのたまへるなり、○物莫御念は、モノナオモホシ〔七字右○〕と訓べし、(モノナ(322)オボシソ〔七字右○〕と訓は非なり、後(ノ)世こそあれ、奈良(ノ)朝以往は、オボス〔三字右○〕といふことを、みなオモホス〔四字右○〕とのみいへり、上にもいへり、)常に物莫御念曾《モノナオモホシソ》といふを、その曾《ソ》てふ辭のなきも、古語には例多し、古事記上卷沼河日賣(ノ)歌にも、阿夜爾那古斐伎許志《アヤニナコヒキコシ》とあり、(然るを、近(キ)世の歌どもには、下の曾《ソ》の辭を云て、上の那《ナ》をば略けるがまゝ多かるは、いみじきひがことぞ、那《ナ》はかならずいはではきこえぬ言なるをや、)物《モノ》とは、上にもいへる如く、其(ノ)ことゝさしあてゝ云ず、なに事をも、ひとつにつがねていふ詞なり、こゝは何事も、御心にかけておぼしめし給ふな、と申させ給へるなり、○須賣神《スメカミ》は、(神は清音、常に濁りて唱ふるは非なり、)ひろく皇御祖神等をさし奉りて申す中に、こゝは天照大御神高御産巣日(ノ)神なり、續紀二十(ノ)詔に、高天原神積坐須《タカマノハラニカムヅマリマス》、皇親神魯岐神魯彌命乃定賜來流天日嗣高御座次乎《スメヲガムツカムロギカムロミノミコトノサダメタマヒケルアマツヒツギタカミクラノツギテヲ》云々、かゝる類の詔、此(ノ)餘にもこれかれあり、これ天照大御神高御産巣日神の御議《ミハカリ》にて、事依し賜ひて皇統《アマツヒツギ》を定め賜へるよしにて、今と同じ、○嗣而賜流《ツギテタマヘル》は、皇統の繼嗣《ツギテ》に嗣て、皇神の言依(サ)し賜へるなり、(須賣神の嗣てとつゞけて意得べからず、皇神の御議《ミハカリ》にて、皇統の繼嗣に繼て、ことよざし賜へるよしなればなり、○吾|莫勿久爾《ナケナクニ》は、吾(ノ)字は君の誤なるべし、と本居氏の云る、眞に然り、(故(レ)今はキミ〔二字右○〕とよめり、)莫《ナケ》は四(ノ)卷に、吾背子波物莫念事之宥者火爾毛水爾毛吾莫七國《ワガセコハモノナオモヒソコトシアラバヒニモミヅニモアレナケナクニ》、十四に、多婢等伊部婆許等爾曾夜須伎須久奈久毛伊母爾戀都々須敝奈家奈久爾《タビトイヘバコトニソヤスキスクナクモイモニコヒツヽスベナケナクニ》、などある莫《ナケ》に同じ、さればこゝは、君にて莫《ナキ》にはあ(323)らぬことなるものを、といふ意なり、かく奈家《ナケ》といふは、莫からむを莫家牟《ナケム》、高からむを高家牟《タカケム》、深からむを深家牟《フカケム》といふに同じく、もと伎《キ》のはたらきたるにて、そは下のうくる言によりて、莫伎《ナキ》莫久《ナク》莫家牟《ナケム》莫可良牟《ナカラム》とも、可伎久家《カキクケ》の通音をもてはたらくに、其(ノ)餘をも准へて知べし、勿久《ナク》は上にもいへるごとく、奴《ヌ》の延りたるには、莫勿久爾《ナケナクニ》は、なからぬことなるにといふ意なり、さればこゝは、落る所は、君にてあるものをといふことになれり、○御歌の意は、あなかしこ皇神の御議《ミハカリ》によりて、皇統の繼嗣《ツギテ》に繼て、ことよざし賜へる大御位にましませば、なに事をか、大御心にかけてなげきおぼしめすべき、御心つよくおぼしめせと、なぐさめ奉(リ)給ひしなるべし、さるはやごとなき御徳澤によりて、此(ノ)度の※[人偏+役の旁]《イデタチ》勝利《サキハヒ》あらむこと、さらにうたがひなく、軍卒《イクサ》ども、つゝむことなく凱陣《カヘリマヰ》りて、天(ノ)下靜謐になり侍るべしと、大御代をほぎ奉りたまへる、御意なるべし、
 
三年庚戌春三月《ミトセトイフトシカノエイヌヤヨヒ》。從《ヨリ》2藤原宮《フヂハラノミヤ》1遷《ウツリマセル》2于|寧樂宮《ナラノミヤニ》1時《トキ》。御2輿停《ミコシトヾメテ》長屋原《ナガヤノハラニ》1。※[しんにょう+向]2望《カヘリミシタマヒテ》古郷《フルサトヲ》1。御作歌《ヨミマセルミウタ》。【一書云。從飛鳥宮遷于藤原宮時〔十字各○で囲む〕。太上天皇御製。】
 
三月、三(ノ)字舊本二に誤れり、拾穗本によりつ、續紀によるに、三月なればなり、○時の上、類聚抄に之(ノ)字あり、○停(ノ)字、拾穗本には御輿の上にあり、さも有べし、○長屋(ノ)原は、和名抄に、大和(ノ)國山邊(ノ)郡|長屋《ナガヤ》とある地なり、○※[しんにょう+向](ノ)字、類聚抄に廻、活本一本等に回と作《カケ》り、○この遷都は、和銅三年(324)三月辛酉、始遷2都(ヲ)于平城(ニ)1、と續紀に見えたり、○一書云云々、本居氏、此(ノ)歌を一書には持統天皇の御時に、飛鳥より藤原へうつり給へる時の、御製とするなるべし、然るを太上天皇と云るは、文武天皇の御代の人の書る詞なり、又和銅云々の詞に就て云(ハ)ば、和銅のころは、持統天皇既に崩(リ)賜へば、文武天皇の御時に申ならへるまゝに、太上天皇と書るなり、此(ノ)御歌のさまを思ふに、まことに飛鳥より、藤原(ノ)宮へうつり賜ふ時の御歌なるべし、然るを和銅三年云々といへるは、傳(ヘ)の誤なるべしといへり、
 
78 飛鳥《トブトリノ》。明日香能里乎《アスカノサトヲ》。置而伊奈婆《オキテイナバ》。君之當者《キミガアタリハ》。不所見香聞安良武《ミエズカモアラム》。
 
飛鳥《トブトリノ》は、明日香《アスカ》をいはむ料の枕詞なり、集中に甚多し、こは飛(ブ)鳥の足輕《アシガル》といふ意なるを、明日香にいひ屬《ツヾケ》たるものなり、斯《シ》と須《ス》は同音にて、相通(ハ)し云る例多し、古語に、神祇《カミ》の其(ノ)處を領坐《シリマス》を宇志波久《ウシハク》と云を、遷2却祟神(ヲ)1祝詞には、宇須波伎《ウスハキ》と云(ヒ)、又和名抄に、鹿尾菜(ハ)、比須木毛《ヒスキモ》とあるを、伊勢物語には比志伎毛《ヒシキモ》とありて、常にも然|呼《イヘ》り、これらその例なり、かくて正しく、足を安須《アス》といへりとおもはるゝは、和名抄に、越前(ノ)國足羽(ノ)郡足羽(ノ)郷、また越後(ノ)國沼垂(ノ)郡足羽(ノ)郷、などある足羽を、みな安須波《アスハ》と注せる是なり、又集中九(ノ)卷に、片足羽河とあるをも、カタアスハガハ〔七字右○〕とよめり、又今伊勢人は足結《アシグミ》するを阿受久美加久《フズクミカク》といふと云(ヘ)り、(阿受《アズ》と濁るは、俗言に訛れり、)さて輕《カル》を加《カ》とのみも云しと思はるゝは、和名抄に、近江(ノ)國愛智郡|蚊野《カノヽ》郷(古事記に、近淡海(325)蚊野之別《チカツフフミカヌノワケ》、)とありて、神名帳に、同郡に輕野(ノ)神社あるは、一(ツ)とおもはるれば、輕野をカヌ〔二字右○〕と唱しならむ、とおもはるゝなり、しからば、輕をカ〔右○〕とのみも云し證とすべきことなり、かくて足輕《アシカル》といへる言の例は、十四に、母々豆思麻安之我良乎夫禰安流吉於保美《モヽヅシマアシガラヲブネアルキオホミ》云々、とよめる安之我良《アシガラ》は、足輕《アシガロ》なり、又相模(ノ)國風土記にも、足柄山の杉をきりて、船に造れるに、その足のいと輕かりければ、山の名となれるよし見えたりといへり、(田氏家集に、足輕(ク)遊觀(シテ)到2巖邊(ニ)1、また履心安穩足初(テ)輕(シ)、)かくて鳥に、足輕としもいふべきよしは、集中に、奧鳥鴫云船《オキツトリカモチフフネ》と見え、又書紀神代(ノ)卷に、鳥磐※[木+豫]樟船《トリノイハクスフネ》と云も見え、又|天鳩船《アマノハトフネ》といふありて、その釋に、播磨(ノ)國風土記を引ていはく、明石(ノ)驛家駒手(ノ)御井者、難波(ノ)高津(ノ)宮(ノ)天皇之御世(ニ)、楠生(ヒタリ)2於井(ノ)口(ニ)1、朝日(ニハ)蔭《カゲサシ》2淡路島(ニ)1、夕日(ニハ)蔭(シキ)2大倭島根(ニ)1、仍(レ)伐(リテ)2其楠(ヲ)1造(ルニ)v船(ニ)、其迅(キコト)如(ニシテ)v飛(カ)、一楫《ヒトカヂニ》去2越《ユキコエキ》七浪《ナヽナミヲ》1、仍《カレ》號《ナヅケキ》2速鳥《ハヤトリト》1と云り、これによりて思ふに、右に引る鴨云船《カモチフフネ》、鳥磐※[木+豫]樟船《トリノイハクスフネ》、天鳩船《アマノハトフネ》などいへるも、その行ことのいと迅《トク》して、足輕きを鳥にかたどりたるにて、飛鳥の足輕といふべき理(リ)自らしるかりけり、(猶いはゞ、舟に足といふべきものはなけれども、疾《ト》く行を、足してかける物にたとへて、足輕としも云しなれば、鳥にはいよ/\足輕といふべきものぞかし、しかるを古來、この屬《ツヾケ》の意を解得たる人、ひとりだになくして、冠辭考に、いすかといふ鳥を、伊《イ》と阿《ア》を通して、あすかにいひかけたるよし云るなどは、さらさらあたらぬことなり、又本居氏(ノ)國號考に、飛鳥のあすかとは、書紀に、天武天皇の十五年、改(メテ)v元(ヲ)(326)曰2朱鳥《アカミトリノ》元年(ト)1、名(ケテ)v宮(ヲ)曰2飛鳥(ノ)淨御原(ノ)宮(ト)1とある、これ朱鳥の祥瑞《シルシ》の、出來つるをめでたまひて、年號をも然改たまひ、大宮の號をも、飛鳥云々とはつけ給ひしなり、さればこれは、とぶとりの淨御原(ノ)宮とよむべきなり、あすかの淨御原といはむは、本よりの地(ノ)名なれば、ことさらにこゝに、仍名v宮(ヲ)曰2云々(ト)1、などいふべきにあらざるをおもふべし、とぶ鳥とは、はふ蟲といふと同じくて、たゞ鳥のことなり、さて大宮の號を然いふから、その地(ノ)名にも冠らせて、飛鳥の明日香とはいへるなり、とあるは、いとおだやかにして、よろしき説ときこゆるを、荒木田(ノ)久老云(ク)、飛鳥とは、ひとつの鳥をいふことならねば、ひろく飛鳥といひて、朱鳥の事とせむは古意ならず、故書紀の文面を考(フ)るに、もとは名v宮曰2朱鳥(ノ)淨御原1とありけむを、明日香(ノ)淨御原と元來いへるに、明日香に飛鳥の字を書るを見なれたる、後人のこゝろに、朱鳥の字は、飛鳥を誤つるものと、ゆくりなくおもひて、書かへつるものならむ、かにかくにひとつの朱鳥を、ひろく飛鳥といはむこと、いかにぞやおぼゆれば、本居氏の考は從《ヨリ》がたしと云(ヘ)りしは、誠にさることにぞありける、但し同人(ノ)考に、飛立鳥はあわたゝしければ、阿和豆計伎《アワヅケキ》を略轉して、あすかとはつゞけたるなり、和《ワ》は阿《ア》の餘韻に含み、豆《ツ》と須《ス》とは常に通ふ例、計伎《ケキ》と加《カ》とは相通ふ言にて、靜《シヅカ》をしづけき、密《ヒソカ》をひそけき、幽《カスカ》をかそけき、などいへるがごとし、阿和豆計伎《アワツケキ》と云詞は、物語文に見ゆ、新撰字鏡に、惶恐を阿和豆《アワツ》とありて、俗に阿和弖流《アワテル》といふと同意の言なり、廿(ノ)卷
(327)に、美豆等利乃多知能伊蘇岐爾《ミヅトリノタチノイソギニ》、同卷に、安治牟良乃佐和伎伎保比弖《アヂムラノサワギキホヒテ》、六(ノ)卷に、村鳥乃旦立往者《ムラトリノアサタチユケバ》、など云る詞の意を併(セ)按(フ)べし、といへるは如何ぞや、そも/\和《ワ》は阿《ア》の餘韻に含むと云ることいかゞ、また阿和都《アワツ》てふ言を、佐和久《サワク》と全(ラ)同意のごと心得たりしにや、阿和都《アワツ》は、書紀欽明天皇(ノ)卷に、遑駭《アワツル》、余云(ク)、遑(ノ)字は惶の誤寫か、また雄略天皇(ノ)卷に、駭※[立心偏+宛]《イワケアワテ》、また漢籍文選に、※[目+條]《アワツル》などありて、みなおそれをのゝく意あるときにいふ言にて、新撰字鏡に、惶恐をよめるも其(ノ)意なるをや、俗言《ツネコトバ》に阿和弖流《アワテル》といふも、さる意にこそあれ、唯さわぎきほふとは意味|異《カハ》れるをや、よしやまた阿和都《アワツ》てふ言を、佐和久《サワク》といふと全(ラ)同じ意と見ても、さらば立鳥之《タツトリノ》、あるは群鳥之《ムラトリノ》などゝこそいはめ、たゞに飛鳥之《トブトリノ》とはいかでかいふべき、又詞草少苑といふ物に、是は飛鳥の幽《カスカ》と云つゞけなるを、あとかと相通はせるものぞ、といへるは論にもたらず、かく諸説等《クサ/”\コトドモ》甚多かれども、悉皆《ミナ》諾《ウベナ》ひがたきによりて、余《オノレ》つら/\考へて漸《ヤウヤク》に明辨《サダカニアキラカ》にはなりたるなりけり、)さて飛鳥の字を、やがてアスカ〔三字右○〕とも訓るは、カスガ〔三字右○〕を春日とも書如く、いひなれたるまくら詞の字をもて、やがてその地(ノ)名の字となせるものなり、そはかのあをによし、おしてるなどいふまくら詞を、やがて奈良難波の事にしていへると、心ばえ相似たる事なり、と國號考にいはれしがごとし、○明日香能里乎《アスカノサトヲ》、一書の説のごとく、明日香より、藤原にうつりましゝ時の、大御歌とする時は、論なかるべし、○置而伊奈婆《オキテイナバ》、置とはとゞめおくよしにて、ともに率(328)てゆかぬをいふ、上に倭乎置而《ヤマトヲオキテ》、また京乎置而《ミヤコヲオキテ》などある置に同じ、伊奈婆《イナバ》は去《イニ》なばといふに同じ、奈婆《ナバ》は未v然をかけていふ詞なり、伊奈《イナ》の奈《ナ》は、去《イニ》の爾《ニ》のかよへる言にて、下のつゞけによりて、奈爾怒禰《ナニヌネ》とはたらく詞なり、さて去《イヌ》とは、行と大かたは同じことに用ふ詞ながら、行とはひろくいひ、去《イヌ》は其處を立去て、外處へいぬるをいふ詞なり、こゝも明日香の里を内にして詔へるなり、○君之當者《キミガアタリハ》、この君とさし給へるは、誰とはしられねど、その里なる人を、さし給へる御詞なるを、君が見えずとは詔はずして、當《アタリ》としも詔へる、これ古風にて、急迫《セマラ》ざる御詞なり、者《ハ》は他方はたとひ見えずとも、よしやさてあらむ、君が當は見ずては、得あるまじきをとの御意なり、○不所見香聞安良武《ミエズカモアラム》、この香聞《カモ》は、疑ひて歎く詞なり、(分て云ば、香《カ》は疑、聞《モ》は歎なり、)さて明日香の里を置ておはしましなば、その人のあたりの見えざらむことは、いふもさらなれば、かく香聞《カモ》と、おぼつかなげには詔ふまじきことなるを、かくよませ給へるは、見ずては得あるまじきを、もし見えぬこともあらむかと、歎き給へるにて、その人のあたりを見ずては、得あるまじきよしを、つよく詔へるなり、すべて古(ヘ)人は、後(ノ)世のごとく、詞|急迫《セマ》らざるが故に、决(メ)ていふべき事がらをも、うたがひていへることおほし、よく/\心をとゞめて、古(ヘ)の詞の緩優なるさまをうかゞふべし、○舊本に、一(ニ)云、君之當乎不見而香毛安良牟《キミガアタリヲミズテカモアラム》とあり、こはいづれにてもあるべし、藤原にうつりまして後、君があたりを見ずして、常にこひ(329)しく思ひてあらむか、との御意なり、不所見《ミエズ》は、その物のおのづから、目に見ゆることなきをいひ、不見《ミズ》は、此方より設て見れども、見えざるよしなり、本章と一云とは、この差別あり、○大御歌の意は、この明日香の里を置て、藤原にいたりなば、君がすむあたりは、見えずあらむか、もし見えずては、一日も堪まじきわざなるを、いかゞすべきと、御歎きおもほしめす御情を、御道のほどより、その人のもとに告てつかはされし、大御歌なるべし、
 
或本〔二字□で囲む〕從《ヨリ》2藤原京《フヂハラノミヤコ》1遷《ウツリマセル》2于|寧樂宮《ナラノミヤニ》2時歌《トキノウタ》
 
或本二字、拾穗本には无(シ)、削去べし、(こは仙覺か、なほその前かに、誰その人校合せしとき、當昔《ソノカミ》の原本《モトツマキ》には無(ク)して、或本にありし歌なれば、かく記せるなるべし、されど集中の例を、推わたして考るに、上に出たる歌の、或本に載たるには異なるを、その下に或本云々としるせり、ここも上の飛鳥(ノ)云々の或本とならば、上は短歌にて、或本は長歌なるべき謂なし、そのうへ、上の歌の或本とならば、從2藤原京1以下は、あるべくもあらず、題詞は上にゆづるべき理なり、又此(ノ)歌は題詞のごとく、遷2于寧樂(ノ)宮(ニ)1時のなること疑なく、上のは藤原(ノ)宮へ遷りましゝ時のなり、されば此は、上の歌の或本にはあらざること决《ウツナ》し、いかにまれ、或本とあるはまぎらはしければ、除てあるべし)○藤原の下、拾穗本に宮(ノ)字あり、
 
79 天皇乃《オホキミノ》。御命畏美《ミコトカシコミ》。柔備爾之《ニキビニシ》。家乎擇《イヘヲオキ》。隱國乃《コモリクノ》。泊瀬乃川爾《ハツセノカハニ》。※[舟+共]浮而《フネウケテ》。吾行河乃《アガユクカハノ》。(330)川隈之《カハクマノ》。八十阿不落《ヤソクマオチズ》。萬段《ヨロヅタビ》。顧爲乍《カヘリミシツヽ》。玉桙乃《タマホコノ》。道行晩《ミチユキクラシ》。青丹吉《アヲニヨシ》。楢乃京師乃《ナラノミヤコノ》。佐保川爾《サホガハニ》。伊去至而《イユキイタリテ》。我宿有《アガネタル》。衣乃上從《コロモノウヘヨ》。朝月夜《アサヅクヨ》。清爾見者《サヤニミレバ》。栲乃穗爾《タヘノホニ》。夜之霜落《ヨルノシモフリ》。磐床等《イハトコト》。川之水凝《カハノヒコホリ》。冷夜乎《サユルヨヲ》。息言無久《ヤスムコトナク》。通乍《カヨヒツヽ》。作家爾《ツクレルイヘニ》。千代二手《チヨマテニ》。來座多公與《イマサムキミト》。吾毛通武《アレモカヨハム》。
 
天皇乃は、オホキミノ〔五字右○〕と訓べし、さるは此(ノ)處、當今天皇のみうへのみをさして、申せる語なれば、須賣呂伎《スメロキ》とは申すまじき理《コト》なること、既く上の近江(ノ)荒都の歌の條下《クダリ》に、委しくいへることを照見て、其(ノ)所由をさとるべし、しかるに此(ノ)歌なると、六(ノ)巻に、天皇乃|御命恐《ミコトカシコミ》、廿(ノ)卷に、天皇乃|美許等可之古美《ミコトカシコミ》、十九に、天皇之|命恐《ミコトカシコミ》などある、是らは正しく、當今天皇の御うへのみをさして、申せる言なるに、天皇としも書るは、いかゞ、天皇と書るは、何處にてもスメロキ〔四字右○〕とのみ訓申(シ)て、オホキミ〔四字右○〕とは訓ぬ集中の例、明なること、既く云る如くなればなり、此(レ)等は必(ス)、大王之御命恐《オホキミノミコトカシコミ》といふ例にて其は三(ノ)卷に、王之命恐《オホキミノミコトカシコミ》、六(ノ)卷に二ところ大王之命恐《オホキミノミコトカシコミ》、又|大王之御命恐《オホキミノミコトカシコミ》、九(ノ)卷に、大王之御命恐《オホキミノミコトカシコミ》、又|大王之御命恐彌《オホキミノミコトカシコミ》、十七に、大王能美許登加之古美《オホキミノミコトカシコミ》、廿(ノ)卷に、大王乃美許等能麻爾未《オホキミノミコトノマニマ》、又|大王乃美巳等可之古美《オホキミノミコトカシコミ》、三(ノ)卷に、大皇之命恐《オホキミノミコトカシコミ》、十四に、於保伎美乃美巳等可思古美《オホキミノミコトカシコミ》、十五に、於保伎美能美許等可之故美《オホキミノミコトカシコミ》、十七に、憶保枳美能彌許等可之古美《オホキミノミコトカシコミ》、又|於保伎美乃美許等可之古美《オホキミノミコトカシコミ》、廿(ノ)卷に、於保伎美能美己等加之古美《オホキミノミコトカシコミ》、又於保伎美能美許等爾作例波《オホキミノミコトニサレバ》、又|意保伎(331)美能美己等可之古美《オホキミノミコトカシコミ》、又|或保伎美乃美己等可之古美《オホキミノミコトカシコミ》、又|於保吉美乃美許等加之古美《オホキミノミコトカシコミ》など見えて、須賣呂伎乃美許等《スメロキノミコト》云々といふ假字書は、一(ツ)もなきを考《オモフ》に、此(レ)等の天皇の天は、决《ウツナ》く大(ノ)字の誤寫なるべし、大皇と書る例は、集中三(ノ)卷に二ところ、十七に一ところ十八に四ところ十九に三所、見えたるなど其(レ)なり、又十三に、天皇之|遣之萬々《マケノマニ/\》(但(シ)是は、或本の王命恐《》とあるによらば、こともなけむ、〉とある、是も正しく、當今天皇をさせるなれば、大皇を寫し誤《ヒガ》めたるなるべし、十七に、大王訖麻氣乃麻爾末爾《オホキミノマケノマニマニ》、又|大王能麻氣能麻爾麻爾《オホキミノマケノマニマニ》、十八に、大王乃麻氣麻久麻久《オホキミノマケノマニマニ》、廿(ノ)巻に、大王乃麻氣乃麻爾麻爾《オホキミノマケノマニマニ》、十七に、於保吉民能麻氣乃麻爾麻爾《オホキミノマケノマニマニ》、十八に、於保伎見能未伎能未爾末爾《オホキミノマキノマニマニ》、などあるを思ふべし、又四(ノ)卷に、天皇之|行幸乃随意《イデマシノマニノ》、六(ノ)卷に、天皇之|行幸之随《イデマシノマニ》などあるも、正しく當今天皇を指て申せる處なれば、これも天皇を寫誤れるならむ、六(ノ)卷に、皇之引乃眞爾眞爾《オホキミノヒキノマニマニ》、とあるをも思(ヒ)合(ス)べし、(然るを荒木田久老が、右の今の歌、六(ノ)巻、十九、廿(ノ)巻、又四(ノ)卷、六(ノ)卷、などの天皇をば、オホキミ〔四字右○〕と訓べしと云る、訓はさて當れることなれども、字の誤をしも、おもはざりしは、くはしからず、さるは凡てオホキミ〔四字右○〕といふには、此(ノ)集天皇とは書ぬ例なること、はやく首(ノ)卷をはじめ、上の近江荒都の歌の條下にも、證どもを擧て、委く論へるがごとくなるをや、)○御命畏美《ミコトカシコミ》は、御命畏《ミコトカシ》こまりなり、このつゞけ集中に甚多し、皆同意なり、此は遷都の事を命令《ミコトヨザ》し給ふを、畏まり奉るよしなり、岡部氏(ノ)考に、上つ代より天皇を恐み奉(332)るぞ、此(ノ)御國の道なる、故(レ)此(ノ)言、集中にも他書にも多きなり、大かたに見過すことなかれと云り、眞に然なり、さてもとは此(ノ)詞、皇威を恐怖《オソ》るゝ意より出たることながら、それ即(チ)承諾《ウベナ》ふ意になれるより、こゝも畏まりてと云に同じく、俗言に奉v畏(リ)と云むが如し、古事記に、須佐之男(ノ)命の、櫛名田比賣を、吾に奉むやと詔へる御答に、足名椎の、恐奉《カシコミタテマツラム》といひ、續紀一(ノ)卷宣命に、貴支高支廣支厚支《タフトキタカキヒロキアツキ》、大命乎受賜利《オホミコトヲウケタマハリ》、恐坐弖《カシコミマシテ》、などあるみな同じ、(御命の恐怖《オソロ》しさにときゝては、いさゝかたがふことなり、恐怖《オソロ》しさに、承諾《ウベナ》ひまつりてと見るときは、いよ/\委し、)○柔備爾之《ニキビニシ》は、柔は(爾伎《ニキ》と清て唱ふべし、濁るはひがことなり、)字の如く、荒ぶの反にて、柔和《ニコヤカ》なる意、備《ビ》は荒備《アラビ》疎備《ウトビ》健備《タケビ》などの備《ビ》に同じくて、その形容をいふ言なり、賑《ニギ》はふといふも此(ノ)詞よりいふなり、(いと後に、人などの多きをいふも、末ながら、此(ノ)詞のうつれる物なり、)三(ノ)卷に、丹杵火爾之家從裳出而《ニキビニシイヘヨモイデテ》云々、績紀卅四詔に、其人等乃《カノヒトラノ》、和美安美應爲久相言部《ニキミヤスミスベクアヒイヘ》などあり、こゝはひさしくすみつきて、居心《ヰゴヽロ》よき家をいふ、○家乎擇《イヘヲオキ》は、家とは藤原の家をいふ、擇は釋(ノ)字の誤なるべし、といへる説しかるべし、オキ〔二字右○〕と訓べし、里を置《オキ》などいふ置に同じ、又眞恒(カ)校本に、古本、乎擇作2毛放1とあり、毛はわるし、放はさも有べし、擇を択と作ときは、放の草書に混ひやすければなり、然らばサカリ〔三字右○〕とよむべし、○隱國乃《コモリクノ》は、泊瀬の枕詞なり、上にくはしくいへり、○泊瀬乃川爾《ハツセノカハニ》云々、泊瀬川より舟にのりて、奈良にうつるさまなり、○※[舟+共]浮而《フネウケテ》は、今(ノ)人の心にはたゞ舟(333)うかべたるばかりにて、棹さしなどもせぬやうに聞ゆれど、しからず、棹さしなどして行ことを、※[舟+共]浮て行といふは、古(ヘ)風なり、古人詞の簡約なることおもふべし、※[舟+共]は和名抄に、釋名(ニ)曰艇、小而深(キ)者(ヲ)曰v※[舟+共](ト)、今按(ニ)、和名|太加世《タカセ》、世俗(ニ)用2高瀬舟(ヲ)1とあれど、こゝはそのさだまではあらずて、ただ船に通(ハ)し用ひしに耳《コソ》、○川隈《カハクマ》(川(ノ)字類聚抄に河と作り、)は、上に道隈《ミチノクマ》といへるに同じく、川の曲り入て、こなたより見えずなる處を云、(隈は清て唱べし、濁るは非なり、)書紀仁徳天皇(ノ)卷に、箇波區莽《カハクマ》とあり、○八十阿不落《ヤソクマオチズ》は、八十|阿《クマ》は、川くまのいと多かるを云、八十は物の多かるをいふ詞なり、さて此は、たゞ隈の多かるをいふにはあらで、川路のいと遠きさまを、思はせむがためなり、不落《オチズ》は、漏ず殘らずなどいふが如し、その川の隈ごとに、のこらずといふにて、いとねもごろに、かへり見するよしなり、故郷の名ごりのをしさにするわざなり、(この阿《クマ》も清て唱ふべし、廿(ノ)卷にも、夜蘇久爾《ヤソクニ》とありて、八十より屬(ク)も清て唱へしなり、)○萬段《ヨロヅタビ》は、いく度もする意なり、一萬度とかぎれるにあらず、上の八十隈の類に、數多きことをいへるなり、大かた滿數をいふは、その數の多きよしなり、百《モヽ》といひ千《チ》といふも同じ、段《タビ》は意を得てかける字なり、二(ノ)卷に、此道乃八十隈毎萬段顧爲騰《コノミチノヤソクマゴトニヨロヅタビカヘリミスレド》、○顧爲乍《カヘリミシツヽ》は、下の道行晩《ミチユキクラシ》にかけて意得べし、いくたびとなく、かへり見をするにいとま入て、日をくらしたるさまなり、○玉桙乃《タマホコノ》(桙(ノ)字、拾穗本に鉾とあるは、鉾(ノ)字は字書になければ、さがしらに改めたるものなるべし、されど集中、いづれ(334)も木に從れるをや、こは鞍を按と作(キ)、椀を鋺と書る類、古書に多ければ疑ふべきにあらず、さて桙は清て唱(フ)なり、濁るは非《ヒガコト》ぞ、假字書には、いづくも多麻保許《タマホコ》とあればなり、)は、道といはむ料の枕詞なり、此《コノ》屬《ツヾ》け集中に甚多し、玉桙は、舊事紀大己貴命の、幸魂《サキミタマ》奇魂《クシミタマ》のことを記せる處にも、神光照v海(ヲ)、忽以踊2出|消波末《ナミノホヲ》1、爲2素装束(ヲ)1持2天(ノ)〓槍《タマホコヲ》1、有2浮(ヒ)歸(リ)來者1、云々と見えたり、さて枕詞における意は、甚|解難《コヽロエカテ》なるを、嘗(ミ)にいはゞ、玉桙の圓《マト》と云ならむか、ミチ〔二字右○〕とマト〔二字右○〕は、もと通ひて同言なれば、ミチ〔二字右○〕と云にいひかけたるなるべし、かくて玉桙といふは、玉は例の美稱ともいふべけれど、なほさにはあらで、鋒《サキ》を圓く石劔などいひしものゝさまになして、さて木のかぎりして作れるがありけむ、その圓きを玉と云るにこそ、(上(ツ)代の桙は、もはら木のかぎりして作れりと見ゆ、桙(ノ)字木に從るも、さる所由なり、)故(レ)玉桙之圓《タマホコノミチ》とは云かけたるなるべし、(冠辭考に、玉桙の身と、ミ〔右○〕の一言にかゝれるなるべし、といへるは、いとをさなき論なり、古(ヘ)の桙は、もはら質木《キノカギリ》して作れるものなれば、身は、有まじきをや、又本居氏(ノ)國號考に、玉桙の道と云道は、美《ミ》は御《ミ》にて添たる言なれば、枕詞はかならず知《チ》へ係れり、さるは古(ヘ)戈の柄に知《チ》といふ處の有しなるべし、凡て手に取て、引擧べき料に付たる物を、知《チ》と云例多し、今幕などに、乳《チ》といふものこれなり、されば戈にても取(リ)持ところを然《サ》はいへるなるべしといへるは、さることながら、さらば知《チ》某といふ言へも、いひかけたるがあるべきに、美知《ミチ》といふにのみ、かぎりてい(335)ひかけたれば、なほ美知《ミチ》の二言にかゝれる言なるべくこそおもはるれ、且道と云に云かけたるには、嚴戈《イカシホコ》細戈《クハシホコ》などゝは、一(ツ)もいはずして、玉桙とのみ云るには、其意ありてのことなるべきをや、)○道行晩《ミチユキクヲシ》は、船より上りて、陸を行如も聞ゆれども、猶船にて行(ク)ことなり、(道といふを、陸のことゝのみ意得るは、いと後(ノ)世意なり、)常に船道《フナヂ》海道《ウミヂ》などもいへば、船にて行をも、道といはむこと、もとよりのことなり、(岡部氏(ノ)考に、人は陸にのぼりても行ゆゑ、かくいへるよし云るはあらじ、すべて船行のうへなるに、この一句のみ、陸のことをいふべき謂なし、よく思ふべし、)さて上に隱國乃《コモリクノ》云々といふより是(レ)迄は、はじめ泊瀬河より船にて三輪川を經て、廣瀬の河合まで榜下り、其(ノ)河合より、廣瀬川をさかのぼりて、佐保河へいたるまでのさまをいへり、○青丹吉《アヲニヨシ》は、上にいへり、○佐保川爾《サホガハニ》、(川(ノ)字、類聚抄に河と作り、)廿(ノ)卷に、佐保河波《サホガハ》とあり、(河《ガ》の言濁るべし、)○伊行至而《イユキイタリテ》は、伊《イ》は發語なり、速《ハヤ》く日の暮たれば、船にて寐ながら、佐保川に行至《ユキツキ》たるさまなり、○我宿有《アガネタル》云々は、船にて宿ながら、曉更《アケガタ》になりて、目のさめたるまゝに、打見たるさまをいへるなり、○衣乃上從《コロモノウヘヨ》は、引被りて寐たるながらに、曉月を見る貌なり、衣乃上はたゞ輕く見べし、宿《ネ》ながらに目のさめて、打見たるさまを云るなり、(岡部氏(ノ)考に、奈良の都の、假屋に寐たるさまを云りとして、衣を床の誤とせしは、中々にひがことなり、)○朝月夜《アサヅクヨ》は、(月夜は豆久欲《ヅクヨ》と、豆《ヅ》を濁るべし、十五に、由布豆久欲《ユフヅクヨ》とあり、)在明月にて朝まである月を云、(336)在明月には、物のさやかに見ゆるをいふ、又下に、夜之霜落《ヨルノシモフリ》云々冷夜乎《サユルヨヲ》とあれば、この一句は、清爾《サヤカニ》の枕詞にも有べし、されど夜之霜《ヨルノシモ》は、夜中に落(レ)る霜を、朝に見たるをいへれば、なほこゝは朝のさまなり、又下の冷夜《サユルヨ》は、今まで藤原の舊都より、奈良の新京へ、夜をかさねて通ふさまをいへるなれば、此(ノ)時のみのことにはあらず、○清爾見者は、サヤカニミレバ〔七字右○〕と訓る宜し、(岡部氏(ノ)考に、サヤニミユレバ〔七字右○〕とよめるは非なり、但し古言には、左夜氣久《サヤケク》とのみ云て、佐夜加《サヤカ》とはいはずと、疑ふ人も有べけれど、廿(ノ)卷に、左夜加爾伎吉都《サヤカニキヽツ》とあるうへは、古言にも佐夜加《サヤカ》と云ること、うたがふべきに非す、)しか訓ては、下へ連屬《ツヾカ》ず、熟《ヨク》味《アヂハヒ》見べし、(ミレバ〔三字右○〕は、此方より設て見ればといふ意、ミユレバ〔四字右○〕》は、彼方より自《オノヅカラ》に見ゆればといふ意なればなり、)そのわたりのけしきの、なごりなく見ゆるさまを云、○栲乃穗爾《タヘノホニ》は、栲は白布のこと、穗は秀《ホ》にて、物の色の、それと秀《アラハ》れてみゆるをいへり、丹《アカ》き色の、それと秀《アラハ》れてみゆるを、丹《ニ》の穗といふに同じ意ばえなり、さて栲乃穗爾《タヘノホニ》といひて、栲の穗の如(ク)にの意にきこゆるなり、白木綿花爾落多藝都《シラユフバナニオチタギツ》などいへるも同意なり、(是(レ)言靈の妙(ナル)處なり、然るを岡部氏(ノ)考に、加を略きたるものとせるは、同じやうのことながら、言を設て、略けるといふものにはあらず、)さてこれは、霜の白くふりたるさまの、白布のごとくに見ゆるをいへり、或説に、栲(ノ)字、古書に、多倍《タヘ》とも多久《タク》ともよめるが中に、多久《タク》は、栲衾《タクブスマ》栲綱《タクヅヌ》栲繩《タクナハ》栲領巾《タクヒレ》など、多久《タク》某と、やがて物につゞけて、多久乃《タクノ》某と、乃《ノ》の言(337)をおきていへる例なし、多倍《タヘ》は多倍乃《タヘノ》某とのみあるを思へば、同物ながら、多倍《タヘ》といひ多久《タク》といふには必(ス)別あり、されば多倍《タヘ》は、布に織りての名にて、この栲のもとの名は多久《タク》なれば、衾《フスマ》領巾《ヒレ》繩《ナハ》などの類につくれるは、多久《タク》とのみいふなるべし、多倍《タヘ》は布の名なるを、その布には、此(ノ)木の皮もて織るによりて、やがてこの木をも、多倍《タヘ》といふなるべしといへり、此(ノ)説しかるべし、○夜之霜落《ヨルノシモフリ》は、夜之霜とは、朝霜夕霜にならべていふ、そのわたりさやかに見ゆるが中に、霜の落たるさまの、いちじるく見ゆるをいへり、さらぬだに、船中の夜のさむさ、ことに堪がたかるべきに、夜中に霜のふりおきたらむは、いとゞ堪がたかるべし、とおもひやらるかし、○磐床等《イハトコト》は、河氷凝りて磐床となれるよしなり、磐床は、磐をもて臥具の床につくれるをいふ石坐《イハクラ》石船《イハフネ》などの類なり、みな上古のものなり、等《ト》は、と化《ナリ》ての意なり、此(ノ)卷の初にいへり、こゝは石床と化(リ)て、氷の凝たるさまをいへるなり、○川之氷凝《カハノヒコホリ》は、氷を比《ヒ》としもいふは古稱なり、後(ノ)世は、氷を直に、許保里《コホリ》と云ど、(古今集に、谷風にとくる許保里《コホリ》のひまごとに、とあるなどや、體にいへるはじめならむ、)許保里《コホリ》はもと用言にのみ云て、そをやがて名とせしことはあらざりき、凝はコホリ〔三字右○〕と訓べし、(コヾリとよまむもあしからじなれど、其(ノ)假字古き物に見えず、)廿(ノ)卷に、佐保河波爾許保里和多體流宇須良婢乃《サホガハニコホリワタレルウスラビノ》、とあるに据《リ》つ、抑々許保流《コホル》は、堅凝《コハコル》といふなり、(ハコ〔二字右○〕の切ホ〔右○〕、或説に、氷は水の誤にて、カハノミヅコリ〔七字右○〕なるべし、といへれどいかが、)○(339)冷夜乎は、サユルヨヲ〔五字右○〕とも、サムキヨヲ〔五字右○〕とも訓べし、乎《ヲ》は霜ふり氷《ヒ》凍て、寒さたへがたければ、かよふべきこゝちもなき、夜頃なるものを、といふ意なるべし、○息言無久は、ヤスムコトナク〔七字右○〕と訓べし、〈息はイコフ〔三字右○〕とも訓べし、神武天皇(ノ)紀に、息をイコフ〔三字右○〕と訓り、字鏡に、※[息+舌]※[立心偏+曷]※[食+牙](ハ)、三形同息也、伊己布《イコフ》、)言は借(リ)字|事《コト》なり、續紀十(ノ)卷詔に、夜半曉時止《ヨナカフカトキト》、休息無久《ヤスマフコトナク》、卅二詔に、暫之間母《シマシノマモ》、罷出而《マカリデテ》、休息安母布事無《ヤスモフコトナク》、また同詔に、天(ノ)下(ノ)公民之《オホミタカラノ》、息安麻流倍伎事乎《ヤスマルベキコトヲ》など見ゆ、こゝはこの遷都につきての、いたづきをいへり、○通乍《カヨヒツヽ》は、藤原の舊都より、寧樂の新京へ通ひつゝなり、乍の意上にいへり、これは新京に家造らむとて、敷度かよへるなり、その數度なるよしは、乍の言にて、しかきこえたり、○作家爾《ツクレルイヘニ》、この家は、誰人のなることはしられねど、下に公《キミ》とさしたる、その人の家なるべし、○千代二手來《チヨマテニ》は、二手は乃至《マテ》の借(リ)字なり、そも/\二手を麻提《マテ》と訓こと、凡《オホヨ》そ何にまれ、物の全備《トヽノ》ひたるを美稱《ホメ》て、眞《マ》といふ言をそふるから、集中に、二手兩手諸手左右左右手など書て、麻提《マテ》とよめり、船の楫は左右にあるものなる故、二楫と書て、麻加遲《マカチ》とよむがごとし、左右袖を眞袖《マソデ》といふも同じこゝろなり、來は爾(ノ)字の誤といへるによりて、ニ〔右○〕とよみつ、○座牟公與《イマサムキミト》、(牟(ノ)字舊本に多とあるは誤なり、こは古本に牟とあるに從つ、)公《キミ》とは此家の主人なるべし、與《ト》はとしての意なるべし、○吾毛通式《アレモカヨハム》、こゝに公とさしたる人を主とたてて、毛《モ》といへるは、吾を客《カタハラ》になしたるいひざまなり、○歌(ノ)意は、大皇の命令を畏まり奉りて、ひ(339)さしく住みなれし家をはなれ、泊瀬川よりとほく船路を經て、佐保川にいたり、霜氷いたくさゆる夜の、寒さ堪がたきをもいとはず、たび/\かの船路をかよひつゝ造れる家に、千代までに君はおはしますべければ、吾も常に通ひ來て、この家にやどらむと、この新京は、千世までに變るべからぬ大宮どころぞよ、末たのもしげによめるなり、さて此(ノ)歌は、貴人《ウマヒト》の家を、親しき人の助(ケ)け造りて、その助(ケ)造れる人の、後によめるなり、かくてその助(ケ)つくれる人は、長谷《ハツセ》か、又は、いづくにまれ、他《アダシ》處に住る故に、吾も通はむとしも云るならむ、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
80 青丹吉《アヲニヨシ》。寧樂乃家爾者《ナラノイヘニハ》。萬代爾《ヨロヅヨニ》。吾母將通《アレモカヨハム》。忘跡念勿《ワスルトモフナ》。
 
青丹吉《アヲニヨシ》は、上にいへり、○寧樂乃家爾者《ナラノイヘニハ》とは、新京の家を云、爾波《ニハ》は他方にむかへていふ詞なり、他方には行ずとも、此(ノ)家には、常に通はむとおもふよしなり、○萬代爾《ヨロヅヨニ》は、長歌に、千代《チヨ》とよめるに同じ心ばえにて、末久しき間のことをいふ、これにて千《チ》といふも萬《ヨロヅ》といふも、たゞその久しきこと、數多(キ)ことなどをいふ詞なるをしるべし、○吾母將通《フレモカヨハム》は、長歌にいへるに同じ、座牟公與《イマサムキミト》といふことは、長歌にゆづりたるなり、こゝもその意に見べし、○忘跡念勿は、ワスルトモフナ〔七字右○〕と訓べし、念《オモフ》を母布《モフ》と云る、此(ノ)集より以往《ヲチツカタ》にはめづらしかちず、延喜六年書紀竟宴(ノ)歌に、波志米度母幣波《ハジメトモヘバ》、土佐日記に、祈(リ)來る風間と母布遠《モフヲ》など見えたる、此(ノ)後はをさ/\聞(340)えず、(既く上、身入部(ノ)王(ノ)歌にも云り、)さて今こそあれ、末はいかゞと、主人はおもふべけれど、さらにさる心にあらず、千代萬代までもかはらず、こゝに通ひ來むとおもふぞ、忘ることありとおもひ給ふなとなり、○歌(ノ)意は、天皇の此(ノ)新京に、天(ノ)下しろしめさむかぎり、萬代までに、吾も此家にかよひ來むとおもふぞ、ゆめ/\わするとおもひ給ふことなかれとなり、
 
右歌《ミギノウタハ》。作主未詳《ヨミヒトシラズ》。
 
五年王子夏四月《イツトセトイフトシミヅノエネウツキ》。遣《ツカハサルヽ》2長田王《ナガタノオホキミヲ》于|伊勢齊宮《イセノイツキノミヤニ》1時《トキ》。山邊御井作歌《ヤマヘノミヰニテヨメルウタ》。
長田(ノ)王は、續記に、和銅四年四月壬午、從五位上長田(ノ)王(ニ)、授2正五位下(ヲ)1、靈龜元年四月丙子、授2正五位上(ヲ)1、二年正月壬午、授2從四位下(ヲ)1、十月壬戌、爲2近江(ノ)守(ト)1、神龜元年二月壬子、授2從四位上(ヲ)1、天平元年三月甲午、授2正四位下(ヲ)1、九月乙卯、爲2衛門(ノ)督(ト)1、四年十月丁亥、爲2攝津(ノ)大夫(ト)1、九年六月辛酉、散位正四位下長田(ノ)王卒、三代實録に、貞觀元年冬十月廿三日乙巳、尚侍從三位廣井(ノ)女王薨、廣井者、二品長親王之後也、曾祖二世從四位上長田(ノ)王云々、これに從ば、長(ノ)親王の御子なり、○齊(ノ)宮、(齊(ノ)字は、齋と通(ハシ)用(ヒ)たり、)古語拾遺に、※[さんずい+自]2于卷向(ノ)玉城(ノ)朝(ニ)1、令2皇女倭姫(ノ)命(ニ)、拳1v齋2天照大神(ヲ)1、仍|隨《マニ/\》神(ノ)教(ノ)1、立2其祠(ヲ)於伊勢(ノ)國五十鈴(ノ)川上(ニ)1、因興2齋宮《イツキノミヤヲ》1。令2倭姫(ノ)命(ヲ)居(ラ)1焉、と見えたる齋宮のはじまりにて、御世御世齋(ノ)王に立給ふ皇女の、坐ます宮をいへり、但(シ)書紀垂仁天皇(ノ)卷に、故隨2大神(ノ)教(ノ)1、其祠(ヲ)立2於伊勢國(ニ)1、因興2齋宮(ヲ)于五十鈴(ノ)川上(ニ)1、是(ヲ)謂2磯(ノ)宮(ト)1とあるは則(チ)大御神を齋奉れる宮といふことにて、齋(ノ)王の坐(ス)(341)宮といふ意にはあらず、故(レ)立は定(ノ)字の誤にて、祠(ヲ)定2於伊勢國(ニ)1なるべし、と本居氏云る如し、二(ノ)卷人麻呂の長歌に、渡會乃齋宮《ワタラヒノイハヒノミヤ》とあるも同じ、なほ委しくは二(ノ)卷に云べし、○山邊(ノ)御井は、本居氏(ノ)説に、伊勢に山邊村といふありて、そこに御井の跡なりとて、今も殘れりと云り、猶委くは、玉勝間三(ノ)卷に見えたり、十三に見えたる、山邊乃五十師乃御井《ヤマヘノイシノミヰ》は、即(チ)これなり、
 
81 山邊乃《ヤマヘノ》。御井乎見我?利《ミヰヲミガテリ》。神風乃《カムカゼノ》。伊勢處女等《イセヲトメドモ》。相見鶴鴨《アヒミツルカモ》。
 
山邊乃は、ヤマヘ〔三字右○〕ノと(ヘ〔右○〕を清て)四言に訓べし、今も此處をやまべ村といふとぞ、(山乃邊《ヤマノヘ》と、乃《ノ》
の言をそへてよむはわろし、)○見我?利《ミガテリ》は、見我弖良《ミガテラ》といふに同じ、七(ノ)卷に、吾舟者從奧莫離向舟片待香光從浦榜將會《アガフネハオキヨナサカリムカヘフネカタマチガテリウラヨコギアハム》、十七に、秋田乃穗牟伎見我底利和我勢古我布佐多乎里家洗乎美奈敝之香物《アキノタノホムキミガテリアガセコガフサタヲリケルヲミナヘシカモ》などあり、皆相兼る意の言なり、その相來るとは、一事にまた一事のそはるをいふことにて、こゝは御井を見るが主にて、それにそはりて、處女を見たるよしなり、或説に、がてりは、加《カツ》るといふことより、出たる詞なりといへり、さもあるべし、又|我底良《ガテラ》とも云るは、十八に、宇梅乃波奈佐伎知流曾能爾和禮由加牟伎美我都可比乎可多麻知我底良《ウメノハナサキチルソノニワレユカムキミガツカヒヲカタマチガテラ》、十九に、吾妹子我可多見我底良等紅之八鹽爾染而於已勢多洗服之襴毛《ワギモコガカタミガテラトクレナヰノヤシホニソメテオコセタルコロモノスソモ》、古今集に、花見がてらに、又心みがてら、好忠集に、すゞみがてらなどあり、後にはがてらとのみ云り、○神風乃《カムカゼノ》は、伊勢の枕詞なり、古事記中卷神武天皇(ノ)條に、加牟加是能伊勢能宇美能《カムカゼノイセノウミノ》、(書紀にも同じごと見えたり、又雄(342)略天皇(ノ)紀(ノ)歌に、柯武柯噬能伊制能《カムカゼノイセノ》、又書紀垂仁天皇(ノ)卷に見えたる、大御神の御誨言は下に引り、集中には、二(ノ)卷四(ノ)卷十三(ノ)卷などにも見えたり、此は二種に思はるゝことなり、まづ其(ノ)一(ツ)には、風は借(リ)字にて、神下瀬之《カムクダリゼノ》と云か、久太《クダノ》切|可《カ》なり、かく云|由縁《ユヱ》は、垂仁天皇(ノ)紀に、天照大神、誨2倭姫(ノ)命(ニ)1曰、是(ノ)神風(ノ)伊勢(ノ)國(ハ)、則常世之浪重浪|歸國《ヨスルクニ》也、傍國可怜國也《カタクニノウマシクニナリ》、欲v居2是(ノ)國(ニ)1、故(レ)隨《マヽニ》2大神(ノ)教(ノ)1、其(ノ)祠(ヲ)立2於伊勢(ノ)國(ニ)1、因(レ)興2齋宮(ヲ)于五十鈴(ノ)川上(ニ)1、是(ヲ)謂2磯(ノ)宮(ト)1、則(チ)天照大神、始自v天降之處也、と見えたるを思へば、神代に大御神の、彼處《カシコ》に天降り座しといふ、古傳説の有しならむ、故(レ)その古事に依て、神下(リ)瀬とは申すなるべし、(この天降の事他に見えず、たゞ右の如く、垂仁天皇(ノ)紀に、かつ/”\見えたると、古語拾遺に、卷向(ノ)玉城(ノ)朝、云々、立2其祠(ヲ)於伊勢(ノ)國五十鈴(ノ)川上(ニ)1、云々、始在2天上(ニ)1、豫結2幽契(ヲ)1とあるのみなり、但し鎭座傳記に、今歳猿田彦大神、參(テ)乃(チ)言壽覺白久《コトホキサトシマヲサク》、南大峯(ニ)有2美宮處1、佐古久志呂宇遲之五十鈴之河上者、大八洲之内|彌圖《ミヅ》之靈地也、隨2翁之出現1、二百八萬餘歳之前爾毛、未2視知(ラ)1有2靈物1、照耀如2大日輪(ノ)1也、惟|少縁《オホロケ》之物爾不v在、と見えて、山崎氏(ノ)説に、靈物(ハ)乃天照大神之靈體、猿田彦(ノ)所v護之寶物也、と云るは推當にて、大御神の、此處に天降座しことの有しを、其(ノ)傳の委曲なることは、漏たるにやあらむ、又神代紀皇孫降臨(ノ)條(ノ)一書に、皇孫、則到2筑紫(ノ)日向(ノ)高千穗(ノ)※[木+患]觸之峯(ニ)1、其猿田彦(ノ)神者、則到2伊勢之狹長田五十鈴(ノ)川上(ニ)1、云々、と見えたる古事に、神下(リ)瀬の言を係て見むも不可《アシカウ》ねど、なほ上に云如くなるべし、(神下《カミクダリ》といふ詞は、二(ノ)卷に、天地之初時之《アメツチノハジメノトキシ》云々(343)天雲之八重掻別而神下座奉之《アマクモノヘカキワケテカムクダリイマセマツリシ》と見えたり、さて神下瀬の瀬は、たゞ河瀬を云言ならず、今(ノ)世の言にせば、神下(リ)場《バ》と云むが如し、古事記上卷に、青人草之落2苦瀬(ニ)1而《テ》患惚時《クルシマムトキニ》、(苦き場《ハ》に落ての意なり、)又同記應神天皇(ノ)條(ノ)歌に、和多理是《ワタリゼ》、(渡(リ)場《バ》の意なり、)後の歌に、戀しき瀬、逢瀬、又こゝを瀬にせむ、(戀しき場合《バアヒ》、逢(フ)場合《バアヒ》、又こゝを居場《ヲリバ》にせむの意なり、平家物語に、命はいかにも大切のことなれば、たとひこの瀬にもれさせ給ふとも、終にはなどか、赦免なくて候べきと、云々、少將は情深き人なれば、よきやうに申事もやと頼(ミ)をかけて、その瀬に身をもなげざりし、心の裏《ウチ》こそはかなけれ、云々、僧都の御むすめの、忍うでおはしける所へ參て、この瀬にももれさせ給ひて、御上りも候はず、云々、こぞ少將や判官入道がむかひの時、その瀬に身をも投べかりしを云々、などある瀬も同じかるべし、)又後に、内裏樣御所樣などいふ樣も、本同言なり、(この事、余《オノレ》別に委(キ)論あり、)かくて伊勢《イセ》といふも五十鈴《イスヾ》も磯《イソ》も、(磯(ノ)宮と見ゆ、)本同言の轉變《ウツロヒ》にて、五十鈴河に依(レ)る名ならむ、とおもはるゝなり、さるはまづ五十鈴と云は、五十瀬々《イセヾ》の由ならむ、かの天之安河も、(古語拾遺には、天(ノ)八湍河原と見えて、)彌瀬《ヤセ》河の意なれば、勢《セ》と須《ス》と通ふ例をも思(ヒ)合(ス)べし、さて伊勢といふも、本彼(ノ)川によれる名にして、五十瀬《イセ》なるべければ、五十鈴と伊勢は同意なるを、(山崎氏(ノ)説にも、伊勢(ハ)五十瀬也、出v自2五十鈴川之名1也とあり、)漸後に河(ノ)名には五十鈴といひ、國(ノ)號には伊勢と呼(ビ)、齊(ノ)宮(ノ)名をば磯(ノ)宮と申せしならむ、かれ神下瀬之五十瀬《カムクダリセノイセ》と(344)いふ意に、つゞける詞ならむとは云なり、其(ノ)二(ニ)には神風は字(ノ)意にして、伊勢とうけたる意は、伊須氣之《イスケシ》と云なるべし、伊須氣《イスケ》は伊勢《イセ》と約ればなり、(須氣《スケノ》切|勢《セ》、〉さて伊須氣《イスケ》と云言は、古事記神武天皇(ノ)條に、爾其(ノ)美人驚而、立走(リ)伊須々岐伎《イスヽギヽ》、云々。即(チ)娶2其美人(ヲ)1、生(ル)子(ノ)名(ヲ)、謂2富登多々良伊須々岐比賣《ホトタヽライスヽギヒメノ》命(ト)1、亦(ノ)名、謂2比賣多々良伊須氣余理比賣《ヒメタヽライスケヨリヒメト》1、是者惡(テ)2其富登(ト)云事(ヲ)1、後(ニ)改v名(ヲ)者也と見えて、伊須須岐《イススギ》、伊須氣《イスケ》は全(ラ)同言にて、物の一平穩ならず、いみじきを云言なり、又續後紀興福寺僧徒(カ)長歌に、世中乃伊須賀志態遠添飾利申志《ヨノナカノイスカシワザヲソヘカザリマヲシ》曾上留云々、大殿祭(ノ)祝詞に、御床都比能佐夜伎《ミユカツヒノサヤギ》、夜女能伊須々伎《ヨメノイスヽギ》、伊豆都志伎事無久《イヅヽシキコトナク》云々などある、伊須賀志《イスカシ》、伊須々伎《イスヽギ》なども、皆同言にして、後(ノ)世言にいしきといふは、全(ラ)此言より出たるなるべし、さて神風とは、二(ノ)卷に、渡會乃齋宮從神風爾伊吹惑之天雲乎日之目毛不令見常闇爾覆賜而《ワタラヒノイハヒノミヤヨカムカゼニイプキマドハシアマクモヲヒノメモミセズトコヤミニオホヒタマヒテ》云々とある如く、尋常の風と異《タガ》ひて、平穩ならず、甚《イミ》じくはげしく吹風を云ことなれば、神風之伊須氣之《カムカゼノイスケシ》と云意に、伊勢に云係たるなるべし、(冠辭考に、風は神の御息なれば、神風のいきといふ意にて、イ〔右○〕の一言につゞけたりと云るは非ず、又荒木田氏が、神饌稻之飯稻《カムケシネノイヒシネ》と云意のつゞけなりと云るはをかし、神風のゼ〔右○〕の言は、古書皆濁音(ノ)字のみ用ひたれば、饌稻の意ならぬこと著きをや、)○伊勢處女等は、イセヲトメドモ〔七字右○〕とよめる宜し、(イセノヲトメラ〔七字右○〕と訓たるはわろし、すべて地(ノ)名の下にいふヲトメ〔三字右○〕は、某處女《ナニヲトメ》とのみいひて、某乃處女《ナニノヲナメ》と、乃《ノ》の言をおきてはいはぬ、古(ヘ)の例なり、次に引たる例どもを(345)見て考(フ)べし、)伊勢(ノ)國の處女等にて、こは勝貌《スグレ》し美女にぞありけむ、さてすべて地(ノ)名をもて、某處女と呼ことは、泊瀬處女《ハツセヲトメ》、菟原娘子《ウナヒヲトメ》、可刀利娘子《カトリヲトメ》、古波陀娘子《コハダヲトメ》などいふがごとし、等《ドモ》は一人のうへにもいふこと處女等《ヲトメラ》妹等《イモラ》などいふ良《ラ》の言に同し、○相見鶴鴨《アヒミツルカモ》、鶴《ツル》は、さきにまのあたりありしことを、今いふ詞なり、鴨《カモ》は、哉《カモ》にて歎息詞、上にいへり、こゝはもと、此(ノ)御井を見むとて來たるに、おもはず、美女を相見たるをなげきたる、歡喜《ウレシビ》の貌《サマ》、この一句《ヒトクサリ》に著れたり、○歌(ノ)意は、此(ノ)山邊の御井を見むとて來つるに、おもはず、伊勢處女どもさへあひ見つるかなと、この山邊の御井のあたりの、おもしろき處なるに、うるはしき美女をさへ見たるを、ふかくよろこびたまへるさまなり、
 
82 浦佐夫流《ウラサブル》。情佐麻禰之《コヽロサマネシ》。久堅乃《ヒサカタノ》。天之四具禮能《アメノシグレノ》。流相見者《ナガラフミレバ》。
 
流佐夫流《ウラサブル》は、浦は借(リ)字、心《ウラ》にて、心裏《コヽロノウチ》のさぶるよしなり、佐夫流《サブル》は荒《スサ》ふるにて、心の落居ずして、寂莫《サブ/\》しきよしなり、此(ノ)上に、國都美神乃浦佐備而《クニツミカミノウラサビテ》、とあるところにくはしくいへり、○情佐麻禰之《コヽロサネシ》、(禰(ノ)字、舊本に彌と作は誤なり、今は六條本に從つ、)佐《サ》は發語にて、狭筵《サムシロ》、佐小男鹿《サヲシカ》、佐夜《サヨ》、佐衣《サコロモ》の佐《サ》に同じ、本居氏、麻禰之《マネシ》は、物の多きこと、しげきことなり、こゝは、うらさびしき心のしげきなり、二(ノ)卷に、眞根久往者人應知《マネクユカバヒトリシヌベシ》、四(ノ)卷に、君之使乃麻禰久通者《キミガツカヒノマネクカヨヘバ》、是らはしげき意なり、十七に、歩麻保許乃美知爾伊泥多知和可禮奈婆見奴日佐麻禰美孤悲思家武可母《タマホコノミチニイデタチワカレナバミヌヒサマネミコヒシケムカモ》、又|失形尾能多加(346)乎手爾須惠美之麻野爾可良奴日麻禰久都奇曾倍爾家流《ヤカタヲノタカヲテニスヱミシマヌニカラヌヒマネクツキソヘニケル》、十八に、月可佐禰美奴日佐末禰美故敷流曾良夜須久之安良禰波《ツキカサネミヌヒサマネミコフルソラヤスクシアラネバ》、十九に、朝暮爾不聞日麻禰久安麻射可流夷爾之居者《アサヨヒニキカヌヒマネクアマザカルヒナニシヲレバ》、又|都禮母奈久可禮爾之毛能登人者雖云不相日麻禰美念曾吾爲流《ツレモナクカレニシモノトヒトハイヘドアハヌヒマネミオモフソアカスル》、是日數の多きをいへり、此(ノ)外數多と書るに、マネク〔三字右○〕とよみてよろしき所多し、此マネシ〔三字右○〕の言を間無《マナシ》の意とする時は、右の十七十八十九の歌どもにかなはず、續紀三十六の宣命に、氏人乎毛《ウヂヒトヲモ》、滅人等《ホロボスヒトドモ》、麻禰久在モマネクアリ》とも有と云り、續紀光仁天皇(ノ)宣命に、一二遍能味仁不在《ヒトタビフタヽビノミニアラズ》、遍麻年久《タビマネク》云々、祝詞式に、一年二年爾不在《ヒトトセフタトセニアラズ》、年眞尼久《トシマネク》云々などもあり、○久堅乃《ヒサカタノ》は、天《アメ》の枕詞なり、古事記倭建(ノ)命(ノ)御歌に、比佐迦多能阿米能迦具夜麻《ヒサカタノアメノカグヤマ》、書紀仁徳天皇(ノ)卷(ノ)歌に、比佐箇多能阿梅箇儺麼多《ヒサカタノアメカナバタ》とあり、集中にも往々見えて、又月雨|王都《ミヤコ》など屬けたるは、天といふより、一(ト)たび轉りたるものなり、さて此(ノ)詞の意は、字はくさぐさ書たれど、皆がら借(リ)字にて、提勝間之《ヒサカタノ》といふことなるべし、比佐久《ヒサク》といふは、風俗歌知々良良に、伊止古世乃加止仁天宇止乎比佐介天《イトコセノカドニテウドヲヒサケテ》とあるは、調度を提《ヒサゲ》てと云ことなり、古言なるべし、およそ提《ヒサ》ぐ器《モノ》をさして、比佐《ヒサ》某といふは、杓を提籠《ヒサコ》といひ、(和名抄に、杓、和名|比佐古《ヒサコ》、瓢、和名|奈利比佐古《ナリヒサコ》、)また比佐氣《ヒサケ》といふも、(枕冊子に、物まゐるほどにや、はしかひなどのとりまぜてなりたるひさけの柄のた忘れふすも、耳にこそとゞまれ、)提笥《ヒサケ》の意なるべくやあらむ、勝間をカタ〔二字右○〕といふは、マツ〔二字右○〕の切タ〔右○〕なれば約ねいへり、勝間は古事記書紀集中などに往々見えて、(347)間堅く編たる籠《コ》をいへり、さて天《アメ》を編目《アミメ》の意にとりなして、(ミメ〔二字右○〕の切メ〔右○〕)提勝間之編目《ヒサカタノアメ》といふ謂につゞけたるならむ、(大神(ノ)景井(カ)考に、ひさかたは日榮足《ヒサカタリ》の意にて、日とは照光る意、さて天はもと、たゞに大空をいふことにはあらで、天(ツ)神の御座す御國をいふ、さてその天(ツ)神の御國と申すは、やがて今現に見放(ク)る天津日にて、そはくすしくあやしく、いとも照光り榮え足れる謂にて、日榮足之天《ヒサカタリノアメ》とはいふならむと云り、猶考(フ)べし、久方久堅などの字(ノ)意とする説は、いふに足ず、又冠辭考に、※[袴の旁+包]形《ヒサカタ》の意といひ、また荒木田氏が、日刺方の義なりと云るも、共にひがことなり、)○天之四具禮能《アメノシグレノ》は、後(ノ)世は聞つかぬ詞なれど、※[雨/衆の皿が横になった日]雨はもと天より降ものなれば、いへるなり、されどたゞ四具禮《シグレ》にてまがひなきを、ことに天之《アメノ》といへるは、空といふにも、天といふことを冒《カウム》らせて、天之御空《アメノミソラ》といふと、同じことゝ意得べし、さて此(ノ)王を伊勢につかはされしは、四月と題詞にあり、四具禮《シグレ》は、長月のしぐれの雨と集中によめるが如く、九月より冬かけてふる雨をいへば、この歌は、四月より九月までも伊勢にありてよみ給へるにこそ、さてこの歌と次なるとの二首は、既く左注にうたがひ置たるごとく、この歌は四月とあるに時たがひ、次の歌は、立田山、伊勢より、の歸路ならねば、もし此(ノ)二首はこと人のにて、題詞の脱たるにや、されどこれは九月までも、伊勢におはしけむもしられず、今その實事をしらねば、さだめてはいひがたし、○流相見者《ナガラフミレバ》は、絶ず零(ル)を見ればといふ意なり、流相《ナガラフ》は那我流《ナガル》を長《ノベ》(348)たる詞なり、(良布《ラフ》の切|流《ル》となれり、さてこの延云なりといふ説、世におこなはれて、注者等その延云ゆゑのさだなきは、句の言の數のたらねば、留《ル》を延て良布《ラフ》といひ、又言の數のあまれば、良布《ラフ》を約めて留《ル》とも云るにて、實は留《ル》も良布《ラフ》も同じことなるを、心にまかせて、ともかうもいふとおもへるにや、そは後(ノ)世意にて、古(ヘ)人はさらにせざりしことぞかし、もししからば上古(ノ)歌に、四言六言などは、よむまじき理なるをもて、ゆゑなくして、延約はせざりしことをしるべし、されば差別有ことなり、)流《ナガル》はその流《ナガルヽ》ことを直にいひ、那我良布《ナガラフ》は、その流(ル)ことの引つゞきて、絶ず長緩《ノド/\》しきをいふことなり、としるべし、さればこゝは※[雨/衆の皿が横になった日]雨《シグレ》のたゞ一(ト)わたりにふることにはあらで長緩《ノド/\》と引つゞきて、絶ずふるよしなり、散《チル》を知良布《チラフ》、霧《キル》を伎良布《キラフ》、語《カタル》を加多良布《カタラフ》、足《タル》を多良布《タラフ》、取《トル》を等良布《トラフ》などいふ類も、みな其(ノ)定に意得べし、流相と書るは、ナガレアフ〔五字右○〕のレア〔二字右○〕を切むれば、ナガラフ〔四字右○〕となれば、借(リ)て書る字なり、(散相《チラフ》霧相《キラフ》語相《カタラフ》など書るも同意、)さて雨雪の類の零(ル)をも、流(ル)と云は古語にて、集中に例多し、上にも云り、(後(ノ)世は水にのみいへど、古(ヘ)はしからず、竪にも横にも、長くつゞくことには、那我流《ナガル》といへり、)されば零(ル)ことにも、(小松がうれゆ沫雪ながるなど云、)傳ふることにも、(妹が名は千代に流れむ、或は流(カ)さへるおやのみことなど云、)那我流《ナガル》と云て、みな同じこゝろばえなり、(又零ことを都多布《ツタフ》と云こともあり、天傳ひ來る雪じものなどいふ是なり、)見者《ミレバ》は、本の二句へかへしつゞけて意得べし、○歌(ノ)意(349)は、しぐれの絶ずふるを見れば、いとゞ旅中の、さぶ/\しき心のしげくなりぬ、情なのしぐれやと、※[雨/衆の皿が横になった日]雨《シグレ》を恨み給へるなり、
 
83 海底《ワタノソコ》。奧津白浪立田山《オキツシラナミタツタヤマ》。何時鹿越奈武《イツカコエナム》。妹之當見武《イモガアタリミム》。
 
海底《ワタノソコ》は、奧《オキ》といはむとての枕詞におけるなり、和多《ワタ》とは海をいふこと、上にいひたるが如し、底とは至り極りたる處をいふ稱にて、五(ノ)卷に、和多能曾許意枳都布可延乃《ワタノソコオキツフカエノ》云々、とあり、宮地(ノ)春樹(ノ)翁、先(ツ)奧《オキ》と云は、深き事をも遠きことをも云て、こゝの海(ノ)底と云も、下を興すかたにては、深きをもていひ、奧津とうけたるうへにては、遠きかたに用ひたるなり、と云るが如し、○奧津白浪《オキツシラナミ》と云るまでは序にて、立と屬《カヽ》るのみぞ、古今集に、風吹ば奧津白浪立田山とよめり、○立田山《タツタヤマ》は、大和(ノ)國平群(ノ)郡にて、河内の境なれば、伊勢よりかへり上りますには、甚く地違へれば、左に註せるごとく、誦せられたる古歌か、又はこと人の歌などにありけむが、題詞の脱たるにも有べし、されどこれは、或説にいへるごとく、伊勢よりの歸路、河内の方より大和にかへり給ふべき公用ありて、かくよませ給ひしもしるべからねば、今決めてはいひがたし、○何時鹿越奈武《イツカコエナム》、この奈《ナ》は、已成《オチヰ》の奴《ヌ》のはたらきたるにて、いつか已く越はつるときに成む、といふほどの意なり、これその時の、待とほなるをのたまへるなり、○妹之當見武《イモガアタリミム》、これは立田山を越はつる處より、妹が家のあたり見やらるればなるべし、○歌(ノ)意は、いつか立田山を越(350)はつる時にならむ、そのあたりよりは、妹が家のあたりの見やらるれば、待どほにおもはるるなり、とよみ給へるなり、
〔右二首。今案。不v似2御井所作1。若疑當時誦之古歌歟。〕
若疑云々、拾穗本には、疑當時吟詠古歌とあり、○歟(ノ)字、類聚抄にはなし、○この左註にうたがへるは、さることながら、なほ决てはいひがたきこと、上にいひたるがごとし、
 
長皇子《ナガノミコト》。與《ト》2志貴皇子《シキノミコ》1。於《ニテ》2佐紀宮《サキノミヤ》1倶宴歌《ウタゲシタマフトキノウタ》。
 
長(ノ)皇子の上、舊本に寧樂宮の三字あるは、既くいへるごとく、よしなければ削去つ、○於2佐紀(ノ)宮1(於(ノ)字、類聚抄に出と作るはいかゞ誤か、拾穗本には於を宴と作て、下の倶宴(ノ)二字なし、)は、和名抄に、大和(ノ)國添下(ノ)郡|佐紀《サキ》、神名帳に、大和(ノ)國添下(ノ)郡|佐紀《サキノ》神社、諸陵式に、狹城(ノ)盾列(ノ)池(ノ)後(ノ)陵、狹城(ノ)盾列(ノ)池(ノ)上(ノ)陵とありて、共に在2大和(ノ)國添下(ノ)郡1と見ゆ、古事記垂仁天皇(ノ)條に、此(ノ)后者、葬2狹木之寺問(ノ)陵(ニ)1也、書紀同卷に、三十五年、作2倭(ノ)狹城(ノ)池(ヲ)1、續紀に、大和(ノ)國添下(ノ)郡佐貴(ノ)郷高野山(ノ)陵、集中四(ノ)卷に、娘子部四咲澤二生流花勝見《ヲミナヘシサキサハニオフルハナカツミ》、十(ノ)卷に、春日在三笠乃山爾月母出奴可母佐紀山爾開有櫻之花乃可見《カスカナルミカサノヤマニツキモイデヌカモサキヤマニサケルサクラノハナノミユベク》などあり、今の超昇寺村常福寺村山陵村などのあたり、佐紀(ノ)郷の地なるべし、と本居氏云り、さてこの宮は、長(ノ)皇子のにて、こはあるじの皇子のよみ給ふなり、
 
84 秋去者《アキサラバ》。今毛見如《イマモミルゴト》。妻戀爾《ツマコヒニ》。鹿將鳴山曾《カナカムヤマソ》。高野原之宇倍《タカヌハラノウヘ》。
 
(351)秋去者はアキサラバ〔五字右○〕と訓べし、秋になりなばの意なり、此(ノ)宴せさせ給ふは、秋時なるべし、されば、又も秋になりなばの意とみべし、○今毛見如《イマモミルゴト》は、十七に、於母布度知可久思安蘇婆牟異麻母見流其等《オモフドチカクシアソバムイマモミルゴト》、(今眼(ノ)前に見る如く又も如此し遊ばむと云なり、)十八に、等許余物能已能多知婆奈能伊夜?里爾和期大皇波伊麻毛見流其登《トコヨモノコノタチバナノイヤテリニワゴオホキミハイマモミルゴト》、(今眼(ノ)前に見奉る如く、いつも照坐《テリイマ》せと云なり、)廿卷に、波之伎余之家布能安路自波伊蘇麻都能都禰爾伊麻佐禰伊麻母美流其等《ハシキヨシケフノアロシハイソマツノツネニイマサネイマモミルゴト》、(今眼(ノ)前に見る如くいつも榮えて坐さねと云なり、)などあるに同じ、毛《モ》は今を主とたてゝ、又の秋を客として詔へる詞なり、さればこの毛《モ》の辭は、如の下にうつして意得べし、かゝれば此(ノ)御二句の意は、畢竟は今眼(ノ)前に見る如く、又も秋になりなばと詔へるなり、○鹿將鳴山曾は、カナカムヤマソ〔七字右○〕と訓べし、(岡部氏(ノ)考|并《マタ》略解に、シカナカム〔五字右○〕とよめるはわろし、)本居氏(ノ)玉(ノ)小琴に、凡て集中にある鹿(ノ)字は、みなかと訓べし、しかと訓ては、いつれももじあまりて調惡し、しかには必ず牡鹿と、牡(ノ)字をそへてかけり、和名抄にも、鹿和名加とありと云る如く、集中に、數多處|左男牡鹿《サヲシカ》と書てシカ〔二字右○〕には多く牡鹿と書りと見えたり、(されど又鹿(ノ)字のみにて、シカ〔二字右○〕と訓ことも、集中はさらにて、他の古書にも少からねば、おしきはめて、本居氏(ノ)説のごとくにも、いひがたきことなり、そは四(ノ)卷に、野立鹿毛《ヌニタツシカモ》、六(ノ)卷に、左男鹿者《サヲシカハ》、又|左牡鹿之《サヲシカノ》、十(ノ)卷に二ところ、左小鹿之《サヲシカノ》、又|左小鹿者《サヲシカハ》、十六に、佐男鹿乃《サヲシカノ》、八(ノ)卷、又十(ノ)卷に、鳴鹿之《ナクシカノ》、八(ノ)卷に、鳴鹿毛《ナクシカモ》、又同卷に、伏鹿之《フスシカノ》、九(ノ)卷に、(352)臥鹿之《フスシカノ》、八(ノ)卷に、鳴奈流鹿之《ナクナルシカノ》、又|且往鹿之《アサユクシカノ》、又借(リ)字にも三(ノ)卷、九(ノ)卷の題詞に、勝鹿《カツシカ》、又三(ノ)卷に、吾去鹿齒《アガユキシカバ》、四(ノ)卷に、何時鹿跡《イツシカト》などあり、又古事記上卷石屋戸(ノ)條に、天(ノ)香山之眞男鹿《マヲシカ》云々、續後紀十九興福寺(ノ)僧の長歌に、狹牡鹿之《サヲシカノ》云々などあり、是等鹿(ノ)字のみにても、シカ〔二字右○〕と、よめる徴《アカシ》なり、こは此所には用無ことなれど、鹿(ノ)字はなべて、カ〔右○〕とのみ訓ことゝおもひ誤らむ人の爲に、あきらめおくものぞ、)今見る如くに、又の秋も妻戀すとて、鹿のなかむ山ぞやと、賓志貴(ノ)皇子にまをし給へるなり、曾《ソ》の辭に力(ラ)あり、心を付て聞べし、※[立心偏+可]怜國曾《ウマシクニソ》と詔へる曾《ソ》に同じ、又古事記に、阿治志貴多迦比古泥能迦微曾也《アヂシキタカヒコネノカミソヤ》、とあるも意味同し、○高野原之宇倍《タカヌハラノウヘ》は、高野は(或人九(ノ)卷に、黒玉夜霧立衣手高屋於霏※[雨/微]麻天爾《ヌバタマノヨギリソタテルコロモテノタカヤノウヘニタナビクマテニ》とあるを引て、タカヤと訓たれど、ひがことなり、必(ス)タカヌ〔三字右○〕なり、)上に引たるごとく、續紀に佐貴(ノ)郷高野と見えて、此(ノ)宮近き所なるべし、宇倍《ウヘ》は上《ウヘ》にて、そのあたりといふ意なること、既くいへるがごとし、○御歌(ノ)意は、今目(ノ)前にかくめで興ずるごとく、又の秋も此(ノ)高野原は、妻戀鹿の鳴(キ)など、いと面白からむぞ、止ずいでまして興じたまへ、とのたまへるなり、來ませと、賓におほせられたるにはあらざれども、今毛見如鹿將鳴山曾《イマモミルゴトカナカムヤマソ》、などのたまへるに、おのづからその御心あらはなり、梅さきたりと告やらば來ちふに似たりといふは、來ませといふに似たることぞと、自言をことわり、今はそのことわるを待ずして、來ませといふ御心を、しろしめさしめ給へり、こは秋の時、此(ノ)處に宴し遊び賜へるが、高野原(353)の風景のあかずて、甚|※[立心偏+可]怜《オモシロ》く見ゆるに附て、かく宣《ノタマハ》せるなり、(此(ノ)御歌、諸説解得ざりしはいかにぞや、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。長皇子《ナガノミコ》。
 
萬葉集古義一卷之下 終   終(ノ)字古寫本には无(シ)
 
              〔2009年12月10日、午後8時58分入力終了〕
 
(354)萬葉集古義二卷之上
 
相聞《シタシミウタ》
 
相聞は、字には拘らずして、シタシミウタ〔六字右○〕と稱《イ》ふ、其は挽歌と書るを、カナシミウタ〔六字右○〕と稱《イヘ》る類なり、さてかくいふ所以《ユエ》、又相聞の字の出處、且寧樂人のこの熟字をとり出て、歌の名目にしたる謂など、委しく首(ノ)卷にいへり、かくてこの標中には、男女の間よりはじめて、親族兄弟朋友のうへを、かなたこなた相したしめる歌どもを載たり、中古已來の歌集に、戀(ノ)部と云に似て、なほ甚廣き稱なり、(此(ノ)集には戀(ノ)部は分ず、戀(ノ)歌はみな相聞にこもれり、)
 
難波高津宮御宇天皇代《ナニハノタカツノミヤニアメノシタシロシメシヽスメヲミコトノミヨ》。
 
難波(ノ)高津宮は、攝津志に東生(ノ)郡大坂安國寺坂(ノ)北(ニ)有2小祠1、此其(ノ)古蹤、一名難波(ノ)宮、又大宮、又大郡(ノ)宮、又忍照宮と有(リ)、(但し一名を大郡(ノ)宮といへるは、みだり説《ゴト》なり、大郡は書紀にもかた/”\見えたれど、高津(ノ)宮と一(ツ)なるべき由はさらに見えず、と本居氏いへり、)難波の古圖、今の大坂より南へ住吉のあたりまで、長くつゞきたる岸ある、それ即(チ)難波津にて、岸の上なりけるによ(355)りて高津と云なるべく、宮は或人、今の大坂の内なりといへり、と古事記傳にいへり、金葉集に、古(ヘ)の難波の事を思ひ出て高津の宮に月の澄らむ、(今(ノ)世にかうづを高津《カウヅ》と書て、此(ノ)大宮を其處《ソコ》なりといへど、かうづは書紀にいはゆる蝦蟇《カハヅノ》行宮なり、と谷川氏云り、)古事記下卷(ニ)云、大雀(ノ)命(ハ)坐2難波(ノ)高津宮(ニ)1治2天(ノ)下1也、書紀仁徳天皇(ノ)卷(ニ)云、元年春正月、都2難波(ニ)1、是(ヲ)謂2高津(ノ)宮(ト)1云々、初《ムカシ》天皇生(マシ)日、木菟《ツク》入《イリキツ》2于|産殿《ウブドノニ》1、明旦(クルヒ)譽田(ノ)天皇、喚《メシテ》2大臣武内(ノ)宿禰(ヲ)1語之日《カタリタマハク》、是何(ノ)瑞《シルシナラン》也、大臣對(ヘ)言(ク)、吉祥《ヨキシルシニユソ》也、復當(リテ)2昨日臣(カ)妻(カ)産時《コウメルトキニ》1鷦鷯《サヽギ》入(リキツ)2于|産屋《ウブヤニ》1、是亦異《コレモアヤシトマヲシキ》焉、爰天皇曰(ク)、今朕之|子《ミコ》、與2大臣之子1同日共産《オナジヒニウマレテ》、兼《トモニ》有v瑞《シルシ》、是|天之表《カミノミコヽロナラム》焉、以d爲《オモフトノリタマヒ》取(テ)2其(ノ)鳥(ノ)名(ヲ)1、各相易(テ)名(テ)v子(ニ)、爲《セムト》c後(ノ)葉之|契《チギリニ》u也、則取2鷦鷯(ノ)名(ヲ)1、以名2太子(ニ)1、曰2大鷦鷯(ノ)皇子(ト)1、取2木菟(ノ)名(ヲ)1、號2大臣之子(ニ)1、曰2木菟宿禰(ト)1、○天皇代の下、舊本等に大鷦鷯天皇と註し、古寫本には、謚曰2仁徳天皇1、といふ註もあり、共に後人のしわざなること、既く云る如し、
 
磐姫〔二字□で囲む〕皇后《オホキサキノ》思《シヌバシテ》2天皇《スメラミコトヲ》1御作歌四首《ヨミマセルミウタヨツ》。
 
皇后は、古事記に大雀(ノ)命(ハ)娶2葛城之曾都毘古之女石之日賣(ノ)命(ヲ)1、(大后)書紀に、仁徳天皇二年春三月辛未朔戊寅、立2磐之媛(ノ)命(ヲ)1爲(タマフ)2皇后1、后|生《アレマセリ》2大兄(ノ)去來穗別(ノ)天皇(履仲)住吉(ノ)仲(ツ)皇子、瑞齒(ノ)別天皇(反正)雄朝津間稚子(ノ)宿禰天皇(ヲ)1、(允恭)三十年秋九月乙卯朔乙丑、皇后遊2行《イテマス》紀國(ニ)1云々、是日天皇伺(テ)2皇后不1v在(トキヲ)而娶(タマフ)2八田(ノ)皇女(ヲ)1、時皇后聞(シテ)而、大恨《イタクウラミタマフ》之云々、更還2山背(ニ)1興2宮室《オホミヤヲ》於筒城(ノ)岡(ノ)南(ニ)而|居《マシマシキ》之、三十五年夏六月、皇后磐之媛命、薨2於筒城宮(ニ)1、三十七年冬十一月甲戊朔乙酉、葬2皇后於那羅山1、諸陵式に、平(356)城《ナラ》坂(ノ)上墓(磐之媛(ノ)命、在2大和(ノ)國添上(ノ)郡(ニ)1、兆域東西一町南北一町、無2守戸1、令2楯列(ノ)池上(ノ)陵戸(ニ)兼守(ラ)1、)と見ゆ、續紀に、天平元年八月詔に、難波(ノ)高津(ノ)宮(ニ)御宇大鷦鷯(ノ)天皇、葛城(ノ)曾豆比古(ノ)女子、伊波乃比賣(ノ)命|皇后止《オホキサキト》御相坐(シ)而、食國天(ノ)下之政治(メ)賜(ヒ)行(ヒ)賜(ヒ)家利《ケリ》、云々とも見えたり、履中天皇(ノ)卷に、母曰2磐之媛(ノ)命(ト)1、葛城(ノ)襲津彦(ノ)女也と見ゆ、皇后の御名を書るは例にたがへり、後人のしわざなるべし、(近(キ)頃江戸人の説に、磐姫(ノ)命は臣の女なれば、實は彼御時には、皇后には立まさず、妃夫人の列にてありしなるべし、しかるを履中天皇反正天皇允恭天皇、三御世の天皇の大御母にましましつれば、其(ノ)三御世のほどに、尊み崇めて皇后と申しけるが、後より前に及してしか記しつれども、まことは皇后にまさゞりければ、その御世よりとなへつるまゝに、御名をもはゞからず、多く記し傳へたるなり、されば此(ノ)磐姫(ノ)二字を、ひがごとなりとて削去むは、中々に古(ヘ)を失へるわざなりと云り、此(ノ)説さることなるべくおぼゆ、しかれども皇后と記さむからに、御名をつゝましげなくしるさむはゆゝしければ、なほ後人のしわざにもあるべし、かにかく此(ノ)二字をば、姑く闕て置べし、)皇后は、(公式令義解(ニ)云、謂天子(ノ)嫡妻也、)下に大后とあるに同じく、オホキサキ〔五字右○〕と訓べし、すべて古(ヘ)は當代天皇の大御母の、后位に登りましゝを、字には皇太后と書て、大御祖《オホミオヤ》と申し、當代の嫡后を、字には皇后と書て、大后《オホキサキ》と申せり、これ古の定なり、(後(ノ)世|皇太后《オホミオヤ》を、於保伎佐伎《オホキサキ》と申し、當代の嫡后を伎佐伎《キサキ》とのみいふにならひて、古(ヘ)を誤るこ(357)となかれ、)されば當代の嫡后を、大后《オホキサキ》と申せること、古事記書紀にも往々見え、又風土記にも其(ノ)證見え、此(ノ)集にも下にかた/”\あり、なほ二(ノ)中に、委(ク)辨へたるを見て考べし、○四首は、此《コヽ》はヨツ〔二字右○〕と訓べし、凡て三首四首などあるをば、處によりてミウタヨウタ〔六字右○〕、或はミツヨツ〔四字右○〕と訓べし、幾宇多《イクウタ》と云るは、書紀神代(ノ)卷に、此兩首歌辭《コノフタウタハ》云々、皇極天皇(ノ)卷に、謠歌|三首《ミウタ》など見え、古事記には、總て二歌三歌四歌などのみ記されたり、古今集(ノ)序に、此ふたうたは云々とあり、伊久都《イクツ》と云るは、土佐日記に、一(ト)うたにことのあかねば今ひとつ、公忠集に、貫之が許よりおこせたりける歌ふたつ、貫之集に、亭子院の御門の歌合し給に、歌ひとつ奉れとあるに、枕冊子に、圓融院の御時、御前にてさうしに歌ひとつかけと、殿上人におほせられけるを云々、又歌よみ給へといふに、よきことひとつは何せむ、同じうはあまたをつかうまつらむなどいふほどに云々、榮花物語に、題ふたつを出させ給ひて、歌ふたつづゝたてまつらせ給ふ云々、など云る類多し、
 
85 君之行《キミガユキ》。気長成奴《ケナガクナリヌ》。山多都禰《ヤマタヅネ》。迎加將行《ムカヘカユカム》。待爾可將待《マチニカマタム》。
 
君之行《キミガユキ》とは、君は天皇を指て申賜へり、行《ユキ》は體言にして、(旅行《タビユキ》、道行《ミチユキ》、行之隨意《ユキノマニ/\》などの行に同じ、)行幸《イデマシ》のこと、即(チ)御幸《ミユキ》の由伎《ユキ》なり、(九(ノ)卷に、君之三行者《キミガミユキハ》とあり、美由伎《ミユキ》といふも古言なり、)五(ノ)卷に、
枳美可由伎氣那我久奈理努奈良遲那留志滿乃己太知母可牟佐飛仁家理《キミガユキゲナガクナリヌナナラヂナルシマノコタチモカムサビニケリ》、十九に、君之待若(358)久爾有婆《キミガユキモシヒサナラバ》、三(ノ)卷に、吾行者久者不有《ワガユキハヒサニハアラジ》、廿(ノ)卷に、和我由伎乃伊伎都久之可婆《ワガユキノイキツクシカバ》、などもあり、行《ユキ》の言皆同し、○氣長成奴《ケナガクナリヌ》は、已《ハヤ》く月日久しく成(リ)ぬといふなり、氣長は來經長《キヘナガク》にて、月日間ふるを云古言なり、既く一(ノ)卷に出(ツ)、奴《ヌ》は已成《ヲチヰ》の奴《ヌ》なり、○山多都禰《ヤヤタヅネ》は、(都の清音の字を書るは正しからず、廿(ノ)卷に、多豆禰《タヅネ》、十九に、多頭禰《タヅネ》とあり、濁るべし、)山尋《ヤヤタヅネ》にて、行幸《イデマシ》し山路をた豆《ヅ》ねてなり、○迎加將行《ムカヘカユカム》は、迎へ行むかの謂なり、加《カ》の言は將行《ユカム》の下にうつして意得べし、○待爾可將待《マチニカマタム》は、直待《タヾマチ》に待むかの謂なり、この可の言も、將待《マタム》の下にうつして意得べし、○御歌(ノ)意は、天皇の行幸しは、已く月日久しくなりぬ、今はかの山路を尋ねて、迎へに行べきか、又はかへりまさむを直待に待居べきか、いかさま待居るには得堪まじければ、いやむかへにこそ行めとの御意なるべし、但し磐姫(ノ)皇后の存座《ヨニイマシ》しほど、天皇の他所に行幸しこと見えず、君が行けながくなりぬ、と宣はむことおぼつかなし、此(ノ)一首は下に引る古事記(ノ)歌を誤り傳へたるべし、なほ下に載る古事記に就て云べし、
〔右一首歌。山上(ノ)憶良臣羸聚歌林(ニ)載焉。古事記(ニ)曰。輕(ノ)太子。奸2輕(ノ)大郎女《オホイラツメニ》1。故(レ)其(ノ)太子。流2於伊豫(ノ)湯(ニ)1也。此(ノ)時衣通(ノ)王。不v堪2戀慕(ニ)1而。追往時(ノ)歌曰。君之行《キミガユキ》。氣長久成奴《ケナガクナリヌ》。山多豆乃《ヤマタヅノ》。迎乎將往《ムカヘヲユカム》。待爾者不待《マツニハマタジ》。此(ニ)云2山多豆(ト)1者。是今造木者也。右一首(ノ)歌。古事記(ト)與2類聚歌林1。所v説不v同。歌主(モ)亦異(レリ)焉。因《カレ》※[手偏+僉](ルニ)2日本紀(ヲ)1曰(ク)。難波(ノ)高津(ノ)宮御宇大鷦鷯(ノ)天皇。廿二年春正月。天皇語2皇后(ニ)1曰。納《メシイレテ》2八田(ノ)皇女(ヲ)1。將v爲v妃(ト)。時(ニ)皇后不v聽。爰(ニ)天皇(359)歌以《ミタヨミシテ》。乞《コハシタマフ》2於皇后(ニ)1。云々。三十年秋九月乙卯朔乙丑。皇后。遊2行《イデマシテ》紀伊(ノ)國(ニ)1。到2熊野(ノ)岬《ミサキニ》1。取2其處之御綱葉(ヲ)1而還。於是《コヽニ》天皇。伺2皇后不(ヲ)1v在而。娶(テ)2八田(ノ)皇女(ヲ)1。納(レタマフ)2於宮中(ニ)1。時(ニ)皇后到2難波(ノ)濟(ニ)1。聞(タマヒテ)3天皇|合《メシツト》2八田皇女(ヲ)1。大恨之。云々。亦曰(ク)。遠(ツ)飛鳥(ノ)宮御宇雄朝嬬稚子宿禰(ノ)天皇。二十三年春正月甲午朔庚子。木梨(ノ)輕(ノ)皇子爲2太子1。容姿佳麗《カホキラ/\シ》。見者自感。同母妹。輕(ノ)大娘《オホイラツメノ》皇女(モ)亦艶妙也。云々。遂(ニ)竊|通《タハケヌ》。乃悒懷少(シ)息(ム)。廿四年夏六月。御羮《オモノヽ》汁凝以作v氷。天皇異之。卜2其|所由《ユエ》1。卜者曰。有2内亂1。蓋親親相姦乎。云々。仍移2大娘皇女於伊與1者。今案(ルニ)。二代二時不v見2此歌1也。〕
古事記曰云々の文歌共に、舊本下の或本歌曰|屈明而《ヰアカシテ》云々の下に、本文の列に載しは、誤れるものなるべし、故(レ)今改て此間に小書せり、さて此は彼(ノ)記をあしく見て引しものなり、其(ノ)ゆゑは、古事記云、天皇(允恭天皇)崩之後、定3木製之輕太子、所2知(ニ)日繼1、未2即位1之間、※[(女/女)+干]2其(ノ)伊呂妹輕(ノ)大郎女(ニ)1而、歌曰、云々、是以百官、及天下人等、背2輕太子(ニ)1而、歸2穴穗(ノ)御子(ニ)1、爾《カレ》輕(ノ)太子畏而逃2入大前小前宿禰(ノ)大臣之家(ニ)1而、備2作兵器(ヲ)1、云々、故其(ノ)輕(ノ)太子者、流2於伊余(ノ)湯(ニ)1也、亦將v流之時、歌曰、云々、其(ノ)衣通(ノ)王、獻v歌、其(ノ)歌曰、云々、故後亦不v堪2戀慕(ニ)1而、追往時、歌曰、岐美賀由岐氣那賀久那理奴夜麻多豆能牟加閇袁由加牟麻都爾波麻多士《キミガユキケナガクナリヌヤマタヅノムカヘヲユカムマツニハマタジ》(此云云々)と云り、そも/\此(ノ)太子の流《ハナタ》れ賜ふは、備2作兵器(ヲ)1云云、によりてのことにこそあれ、其(ノ)本縁は※[(女/女)+干](ケ)賜ひしよりのことなれども、たゞに※[(女/女)+干]賜ふ故に流れしにはあらざるをや、○奸(ノ)字、拾穗本には姦とかけり、○衣通(ノ)王は、輕(ノ)大郎女の亦(ノ)名なり、○(360)追往、追(ノ)字、舊本遣に誤れり、古寫本給穗本また古事記に從つ、○君之行《キミガユキ》は、君は太子を指(ス)、行《ユキ》の意は上に云る如し、○山多豆乃《ヤマタヅノ》は、本居氏云、山釿之《ヤマタヅノ》なるべし、迎《ムカヘ》の枕詞なり、さて迎とつゞく所由は、凡て釿《テヲノ》は、刃を吾(カ)方へ向へて用ふ物なればなり、大かた刃物の中に、刃を此方ざまに向けて用ふは、此物のみなり、故(レ)迎の枕詞となれるなり、〔頭註【杉本清蔭がいへるは、加納諸平が云けらく、枕詞に、山多豆之迎とつづけいへる山多豆は、木の名なり、古事記下卷衣通王の御歌に、夜麻多豆能牟加閇衣由加牟云々、(此云2山多豆1者、是今造木者也、)と見え、(古事記傳三十九卷に見えたる説は、太く異れり、其は今とらず、又字鏡に、女貞實の下に、比女豆波木又造木と註せり、又古き歌に、春さればめぐむ垣根のみやつこ木我こそさきに思ひそめしか、とよめることも何やらむにて見たりき、山多豆はこの造木にて、今國によりて、爾波等許とも多豆ともいへり、此木春の始諸木にさき立て、芽の出る木なるが、枝葉とも、他木の如く、片違には出ずして、對ひ合て出るによりて、山多豆の對と云意に云かけしならむ、とかたれりといへりき、今按に、爾波等許と云は、造を訛れる稱なるべし、さてその造木の古名を、山多豆と稱りとおぼえたれば、まことに所以あることにて、この考是れりと云ふべし、抑この木は漢名接骨木といふものに、其高さ一丈に餘れり、深山には自に生ひたるも多きよし、又人家に栽たるもそこばくなり、さてこれを、多豆乃木とも木多豆とも爾波等許とも云よし、小野博いへり、この木の葉も花も實も、漢名※[草冠/朔]※[草冠/霍]と云ものに似たるが、その※[草冠/朔]※[草冠/霍]と云ものを草多豆と云、それを即漢名接骨草とも云よし、くはしく本草啓蒙にしるせり、されば彼土にても接骨木接骨草と稱て、草木の種をわかち、此方にても木多豆草多豆と云て、草木の品を別たる、おのづからのことなるべし、かくてその木多豆の稱を、上古は山多豆といへりしによりて、古き歌にかくはよめるにぞあるべき、〕○迎乎將往《ムカヘヲユカム》は、本居氏、迎將行《ヌカヘユカム》なり、乎《ヲ》は助辭なり、迎行とは迎に行といふに同じと云り、六(ノ)卷に、山多豆能辿參出六公之來益者《ヤマタヅノムカヘマヰデムキミガキマサバ》とあり、○待爾者不待《マツニハマタジ》は、本居氏云師の待に不v堪なりと云れたる、上に不v堪2戀慕1とあると合せて思ふに、信に其(ノ)意なるべし、○歌意は、君が流《ハナ》たれ行まして、已く、月日間經ぬ、今は迎にこそ行め、待には得堪じをとなり、○是今造木者也は、本居氏、造(ノ)字は建を誤(361)れるものなるべし、イマノタツゲナリ〔八字右○〕と訓べし、建木は借(リ)字にて、立削《タツゲ》※[金+番]《タツギ》などある名なりと云り、そも/\上(ノ)件は、古事記傳(三十九(ノ)卷)にいと委曲に論へれば、其を披(キ)見て考(フ)べし、今はただ大かたの意を註しつるなり、○歌主(ノ)二字、拾穗本には作者と作り、○焉(ノ)字、拾穗本に也と作り、○因※[手偏+僉]2日本紀1曰云々と云よりは、また淺はかなる註どもなり、こは既くいひし如く、もとより此歌を誤り傳しなれば、とにかく論ふまでもなし、○語2皇后1曰の曰(ノ)字、舊本脱せり、書紀に据て補つ、○皇后の下云々の二字、舊本に之と作るは誤なり、今は古寫本元暦本拾穗本等に從つ、○岬(ノ)字、舊本※[山+(白/廾)]に誤、今書紀に從て改(ム)、拾穗本には崎と作り、○稚(ノ)字、舊本雅に誤、○羮汁凝の上、書紀に膳(ノ)字あり、羮凝の二字、舊本美疑に誤、古寫本拾穗本書紀等に從(レ)り、○姦(ノ)字、古寫本には※[(女/女)+干]と作り、○歌也の也字、拾穗本にはなし、
 
86 如此許《カクバカリ》。戀乍不有者《コヒツヽアラズハ》。高山之《タカヤマノ》。磐根四卷手《イハネシマキテ》。死奈麻死物乎《シナマシモノヲ》。
 
如此許《カクバカリ》(許(ノ)字を、拾穗本には計と作り、)は、集中に多き詞なり、五(ノ)卷に、可久婆可里須部奈伎物能可《カクバカリスベナキモノカ》、と假字にてもあり、○戀乍不有者《コヒツヽアラズハ》は、戀乍《コヒツヽ》有むよりはといふ意の古語なり、(岡部氏が説は、くだ/\しくしてまぎらはしきことなり、)此(ノ)下に、遺居而戀管不有者追及武道之阿囘爾標結吾勢《オクレヰテコヒツヽアラズハオヒシカムミチノクマミニシメユヘアガセ》、又|吾妹兒爾戀乍不有者秋芽之咲而散去流花爾有猿尾《ワギモコニコヒツヽアラズハアキハギノサキテチリヌルハナナラマシヲ》、四(ノ)卷に、後居而戀乍不有者木國乃妹背乃山爾有益物乎《オクレヰテコヒツヽアラズハキノクニノイモセノヤマニアラマシモノヲ》、又|如是許戀乍不有者石木二毛成益物乎物不思四手《カクバカリコヒツヽアラズハイハキニモナラマシモノヲモノモハズシテ》、又|外居而戀(362)乍不有者君之家乃池爾住云鴨二有益雄《ヨソニヰテコヒツヽアラズハキミガイヘノイケニスムテフカモナラマシヲ》、八(ノ)卷に、秋芽子之上爾置有白露乃消可毛思奈萬思戀管不有者《アキハギノウヘニオキタルシラツユノケカモシナマシコヒツヽアラズハ》、十一に、劔刀諸刃之於荷去觸而所殺鴨將死戀管不有者《ツルギタチモロハノウヘニユキフリテシセカモシナムコヒツヽアラズハ》、又|住吉乃津守綱引之浮笑緒乃得干蚊將去戀管不有者《スミノエノツモリアビキノウケノヲノウカレカユカムコヒツヽアラズハ》、又|如是許戀乍不有者朝爾日爾妹之將履地爾有申尾《カクバカリコヒツヽアラズハアサニヒニイモガフムラムツチナラマシヲ》、又|白浪之來縁島乃荒磯爾毛有申物尾戀乍不有者《シラナミノキヨスルシマノアリソニモアラマシモノヲコヒツヽアラズハ》、又|吾妹子爾戀乍不有者苅薦之思亂而可死鬼乎《ワギモコニコヒツヽアラズハカリコモノオモヒミダレテシヌベキモノヲ》、十二に、何時左右二將生命曾凡者戀乍不有者死上有《イツマデニイカムイノチソオホカタハコヒツヽアラズハシヌルマサレリ》、又|後居而戀乍不有者田籠之浦乃海部有申尾珠藻苅々《オクレヰテコヒツヽアラズハタコノウラノアマナラマシヲタマモカル/\》、(これらみな同じ、)また三(ノ)卷に、中々二人跡不有者酒坪二成而師鴨酒二染嘗《ナカ/\ニヒトトアラズハサカツボニナリテシカモサケニシミナム》、四(ノ)卷に、吾念如此而不有者玉二毛我眞毛殊之手二所纏矣《アガオモヒカクテアラズハタマニモガマコトモイモガテニマカレナム》、五(ノ)卷に、於久禮爲天那我古飛世殊波彌曾能不乃于梅能波奈爾母奈良麻之母能乎《オクレヰテナガコヒセズハミソノフノウメノハナニモナラマシモノヲ》、十一に、中々二君二不戀者枚浦乃白水郎有申尾玉藻苅管《ナカ/\ニキミニコヒズハヒラノウラノアマナラマシヲタマモカリツヽ》、十二に、中々二人跡不在者桑子爾毛成益物乎玉之緒許《ナカナカニヒトトアラズハクハコニモナラマシモノヲタマノヲバカリ》、古事記仲哀天皇(ノ)條忍熊(ノ)王(ノ)歌に、伊奢阿藝布流玖麻賀伊多弖淤波受波邇本杼理能阿布美能宇美邇迦豆岐勢那和《イザアギフルクマガイタテオハズハニホドリノアフミノウミニカヅキセナハ》、書紀允恭天皇(ノ)卷に、爰|以爲《オモホサク》、徒《イタヅラニ》非《ズ》v死《シナ》者《ハ》、雖v有v罪、何得v忍乎、(本居氏云、非《ズ》v死《シナ》者《ハ》は、死なむよりはと云意なり、)などある皆同じ語の格なり、猶本居氏詞(ノ)瓊綸七(ノ)卷に出て委し、○高山《タカヤマ》は、何處にまれたゞ山のことなり、高は輕く見べし、○磐根四卷手《イハネシマキテ》は、磐を枕としての意なり、根《ネ》は草根《クサネ》垣根《カキネ》などの根にて、そへいふ詞にてたゞ磐のことなり、四《シ》はその一(ト)すぢをとりたてゝいふ助辭なり、卷《マキ》は枕にするをいふなること、既く一(ノ)卷に云るが如し、○死奈麻死物乎《シナマシモノヲ》、凡て死をシ〔右○〕(363)といふは、須藝《スギ》の切にて、シナマシ〔四字右○〕はスギナマシ〔五字右○〕なり、書紀雄略天皇(ノ)卷に、伊能致志儺磨志《イノチシナマシ》(五(ノ)卷に、伊能知周疑南《イノチスギナム》、)とあり、集中には處々に多く見えたり、(さるを死(ノ)字音と意得るは、古言しらぬをこ人のわざぞかし、)○御歌(ノ)意は、かほどまでに、君を戀しく思ひつゝあらむよりは、中中に山の磐を枕として、死なましものをとなり、山の磐を枕として死るは、くるしきことのかぎりなるをさばかりくるしきことにあふも、君を戀しく思ふよりは、猶まされりとなり、磐を枕とするは、集中に多く旅などにありて「艱難《ナヅミ》て死ぬることに云(ヘ)ば、こゝは御思ひを甚しくの給はむとて、其を譬に取(リ)出給へりときこえたり、(然るを註どもに、磐根を卷(ク)は、葬るさまをいへるなり、とあるはいかにぞや、)
 
87 在管裳《アリツヽモ》、君乎者將待《キミヲバマタム》。打靡《ウチナビク》。吾黒髪爾《ワガクロカミニ》。霜置萬代日《シモオクマデニ》。
 
在管裳《アリツヽモ》は、在々乍《アリ/\ツヽ》もといはむがごとし、在《アリ》は在待《アリマツ》在通《アリガヨウ》などいふ在《アリ》にて、絶ぬさまをいふ辭なり、○打靡は、ウチナビク〔五字右○〕と訓べし、髪へかゝれる詞なり、(舊本にウチナビキ〔五字右○〕と訓るに從て、下の霜へ係て見むは非《ワロ》し、)○霜乃置萬代日《シモノオクマデニ》は、夜深て霜降置及にの意にて、左にあげたる或本歌、又十二に、待君常庭耳居者打靡吾黒髪爾霜曾置爾家類《キミマツトニハニハヲレバウチナビクワガクロカミニシモゾオキニケル》(耳(ノ)字は西の寫誤なり、草書はやゝ似たればなり、四(ノ)卷に、足引乃山二四居者風流無三《アシビキノヤマニシヲレバミサヲナミ》とある、これニシ〔二字右○〕と云る例なり、)などあるに同し、五(ノ)卷に、迦具漏伎可美爾伊都乃麻可新毛乃布利家武《カグロキカミニイツノマカシモノフリケム》とあるは、年老て髪の斑白《シラ》けた(364)るをたとへたるにて、今とは異れり、此(ノ)仁徳天皇の御時には、未(タ)さる譬ことはなかりしなり、○御歌(ノ)意は、在々つゝ夜深て、打靡く黒髪に、霜の降までも、内へ入ずして君の來坐むをば、待居むとなり、(これは上の御歌に、死なまし物をとのたまへるを、また思しめしかへして、よしや思(ヒ)によく堪て、在ながらへて待むとのたまへり、ともきこえたり、)
〔或本歌曰。89 居明而《ヰアカシテ》。君乎者將待《キミヲバマタム》。奴婆珠乃《ヌバタマノ》。吾黒髪爾《アガクロカミニ》。霜者零騰文《シモハフルトモ》。〕
こは件の在管裳《アリツヽモ》云々の歌の、或本に出たるなり、○居明而《ヰアカシテ》は、夜を起(キ)明しての意にて、集中に多き詞なり、十八に、乎里安加之許余比波能麻牟《ヲリアカシコヨヒハノマム》とあるも同じ、○奴婆珠乃《ヌバタマノ》は、黒《クロ》といはむとての枕詞にて、冠辭考に委し、(但しその説に、此を野眞玉《ヌマタマ》なりとあるはいかゞ、)本居氏云、或人の説に、烏扇《カラスアフギ》の葉は、羽に似たる故に、此(ノ)草を野羽《ヌバ》と名づけ、其實を野羽玉《ヌバタマ》とは云なりと云るぞよろしき、信に烏扇といひ、今(ノ)俗に檜扇といふも、葉の羽に似たるよしなり、○霜者零騰文は、シモハフルトモ〔七字右○〕と訓るよろし、騰(ノ)字を書るは正しからず、清て唱べし、
〔右一首。古歌集中出〕
右の或本歌、舊本には秋田之《アキノタノ》云々の歌の次にありて、本章の順に載たり、今は拾穗本に從てこゝに入(レ)、また小字とす、但し彼本には 一云とありて、或本歌曰はなし、
 
88 秋田之《アキノタノ》。穗上爾霧相《ホノヘニキラフ》。朝霞《アサカスミ》。何時邊乃方二《イヅヘノカタニ》。我戀將息《アガコヒヤマム》。
 
(365)秋田之《アキノタノ》を、舊本秋之田とあるは、例の下上に誤れりしなり、今は拾穗本に從つ、此(ノ)下に、秋田之穗向乃所縁《アキノタノホムキノヨレル》、四(ノ)卷に、秋田之穗田乃刈婆加《アキノタノホタノカリバカ》、八(ノ)卷に、秋田乃穗田乎鴈之鳴《アキノタノホタヲカリガネ》、十(ノ)卷に、秋田之穗上爾置《アキノタノホノヘニオケル》、十七に、秋田乃穗牟伎見我底利《アキノタノホムキミガテリ》などある例なり、○穗上爾霧相《ホノヘニキラフ》とは、穗《ホ》は稻穗《イナホ》を云、神代紀下卷に、以吾高天原所御齋庭之穗《アガタカマノハラニキコシヲスユニハノホ》云々、(この穗を、本にイナホ〔三字右○〕とよみしは非じ、さるは此處を古語拾遺に載て、是(レ)稻穗也と註せるをも思ふべし、もしイナホ〔三字右○〕とよまむには、しかことさらに註すべきにあらず、)新撰萬葉下卷に、幾之間丹秋穗垂濫《イツノマニアキノホタルラム》などあり、集中にはたゞ穗と云ること、こよなく多し、(十卷に、秋穗乎之努爾押靡《アキノホヲシヌニオシナベ》、)霧相《キラフ》は、キル〔二字右○〕の延(リ)たる言にて、(相(ノ)字は、落相《チラフ》流相《ナガラフ》など書ると同じく、キリアフ〔四字右○〕のリア〔二字右○〕の切ラ〔右○〕となれゝば、惜(リ)て書るのみなり、)雨疑流《アマギル》、水疑流《ミナギル》などのギル〔二字右○〕と同じくて、こゝは霞の立なびくさまを云るなり、(續拾遺集に、櫻花霞あまぎる山の端も、日もかげろふの夕暮の空、)霧《キリ》といふも、即(チ)キル〔二字右○〕の體言になれるものぞ、(岡部氏が、きらふは、くもりをいふと云るはいかゞ、きりとくもりとは、もとより別ごとなるをや、)既く一(ノ)卷(ノ)中、近江荒都歌の下に委(ク)云り、さてこゝにかく伸て云るは、その霞の立なびくさまの引つゞきて、絶ず長緩《ノド/\》としたる趣なり、○朝霞《アサガスミ》とは、朝はことに深く立ものなれば云るなり、さて霞は春、霧は秋の物とのみ定《ス》るは、後(ノ)世のことにして、古はいつも云る中に、八(ノ)卷七夕(ノ)歌に、霞立天河原爾《カスミタツアマノカハラニ》云々とよめると、こゝなるとは秋にいへり、(或人は、この八(ノ)卷なる霞立は、霧立《キリノタツ》の誤(366)ならむ、と云れどいかゞあらむ、霧の多都といはむは手つゝなり、讃岐典侍日記に、十二月朔日、まだ夜をこめて大極殿にまゐりぬ、云々、ほのぼのと明はなるゝほどに、かはろやどものむね、かすみわたりてあるをみるに云々、これは冬なるに霞を云り、)○何時邊乃方二は、イヅヘノカタニ〔七字右○〕と訓べし、(何時とは書たれども、頭《ヅ》と濁るべく、敝《ヘ》は清べきこと、次に引歌にて知べし、既く一(ノ)卷にも具《クハシ》く云つ、)何方《イヅカタ》といはむがごとし、十九に、吾幾許斯奴波久不知爾霍公鳥伊頭敝能山乎鳴可將超《アカコヽダシヌハクシラニホトヽギスイヅヘノヤマヲナキカコユラム》とあり、(岡部氏が、伊頭禮《イヅレ》の禮《レ》を邊《ヘ》に通はして、伊頭邊《イヅヘ》といふよし云るは、何時邊《イツヘ》乃方とある、方《カタ》の言にまよへる誤なり、凡て意は同じ事ながら、言さへ異なれば、重ねいふも常のことにて、集中に奧邊之方《オキヘノカタ》ともよめるを思ふべし、又|木未之於《コヌレガウヘ》とも、又|荒風之風《アラシノカゼ》とも云(ヒ)、又六(ノ)卷に、豫兼而知者《アラカジメカネテシリセバ》、又十(ノ)卷に、喧奈流聲之音乃遙左《ナクナルコヱノオトノハルケサ》などさへよめるをや、)○御歌(ノ)意は、秋の田の面に、立なびく朝霞は、何方となく消失るものなるを、我(カ)戀しく思ふ情のいぶせさは、何方にか消失なむものぞとなり、)
 
 
近江大津宮御宇天皇代《アフミノオホツノミヤニアメノシタシロシメシヽスメラミコトノミヨ》。
 
此(ノ)標は既く一(ノ)卷に出つ、○天皇代の下、舊本等に天命開別天皇と註し、古寫本には謚曰天智天皇とも註せり、共に後人のしわざなること、既く云るごとし、
 
天皇《スメラミコトノ》賜《タマヘル》2鏡女王《カヾミノオホキミニ》1御歌一首《オホミウタヒトツ》。
 
(367)鏡(ノ)女王(女王を、舊本に王女と作るは誤なり、今改めつ、下なるも同し、)は、天武天皇紀に、十二年秋七月己丑、天皇幸2鏡姫王之家(ニ)1訊v病(ヲ)、庚寅、鏡(ノ)姫王薨、諸陵式に、押坂(ノ)墓(鏡(ノ)女王、在2大和(ノ)國城上(ノ)郡押坂陵域内東南(ニ)1、)など見ゆ、こは鎌足(ノ)大臣(ノ)妻なり、さてこの女王は、鏡(ノ)王といふ人の女にて、額田(ノ)女王の妹にておはしけるなるべし、一(ノ)卷に委(ク)云るを考(ヘ)合(ス)べし、興福寺縁起に、至2於天命開別天皇即位二年歳次己巳冬十月(ニ)1、内大臣枕席不v安、嫡室鏡(ノ)女王請曰、云々と見ゆ、これ鎌足大臣の妻なりし證なり、さてこのほど、此(ノ)女王に天皇の御思をかけさせ給ひて、左の大御歌をば給へるなるべし、○御歌は、オホミウタ〔五字右○〕と訓申(ス)べし、(御の下、製(ノ)字脱たるかといふ説は、集中の例にたがへれば中々に非《ワロ》し、いづくにも御歌とのみ書たり、すべて庶人に作と書ところならでは、御製と書ることなし、今集中をことごとく檢ふるに、御製歌又は御製とのみもしるせる、共に二十四五所あるに、そは皆|御製作《ミヨミマセ》るよしにて、此《コヽ》のごとく、天皇賜2云々(ニ)1などある所に、御製としるせるはひとつもなし、又御歌としるせる共に凡十所あまりあるに、そは皆|此《コヽ》の如く、天皇賜2云々(ニ)1御歌とやうにありて、御製作《ミヨミマセ》るよしことわらでよき所なり、これにて御製としるせると、御歌としるせるとのけぢめ、さはやかにわかれたり、後(ノ)世の歌集に、天皇のをば、おしなべて御製としるせるとはたがへり、)
 
91 妹之當《イモガアタリ》。繼而毛見武爾《ツギテモミムニ》。山跡有《ヤマトナル》。大島嶺爾《オホシマノネニ》。家居麻之乎《イヘヲラマシヲ》。
 
(368)妹之當《イモガアタリ》は、妹(カ)家の邊と詔ふなり、舊本に、妹之家毛繼而見麻思乎云々、家母有猿尾とあり、かくては麻思《マシ》の辭重なるのみならず、家母有猿尾《イヘモアラマシヲ》とあるもいかゞなり、必(ス)家居麻之乎《イヘヲラマシヲ》とあるべき所なり、かゝれば舊本に、一云、妹之當繼而毛見式爾、一云、家居麻之乎と註せるを、今は全用(リ)つ、○繼而毛見武爾《ツギテモミムニ》は、つゞきても見む爲にの御意なり、○山跡有《ヤマトナル》、有は在(ノ)字の意にて、倭に在(ル)なり、在有集中、通(ハシ)用(ヒ)たり、○大島嶺《オホシマノネ》は、大和(ノ)國平群(ノ)郡にあるなるべし、後紀に、大同三年九月戊戌、幸2神泉苑(ニ)1、有v勅、令3從五位下平群(ノ)朝臣賀是麻呂(ニ)、作2和歌1曰、伊賀爾布久賀是爾阿禮婆可於保志萬乃乎波奈能須惠乎布岐牟須悲太留《イカニフクカゼニアレバカオホシマノヲバナノスエヲフキムスビタル》とあり、この於保志萬《オホシマ》も同處なるべし、この賀是麻呂《カゼマロ》は、本居平群(ノ)郡にて、自住地の大島と我(ノ)名とを、よみ入たるものなるべし、和名抄に、大和國平群(ノ)郡額田(ノ)(奴加多《ヌカタ》)郷(書紀雄略天皇(ノ)卷に、倭(ノ)國山邊(ノ)郡|額田《ヌカタノ》村云々とも見えたり、)ありて、此(ノ)程此(ノ)女王は、その額田(ノ)郷大島に住居賜ひしならむ、○家居麻之乎《イヘヲラマシヲ》は、家居してをらまし物をの御意なり、すべて家居してをることを、家居《イヘヲル》といふは古風なり、○大御歌(ノ)意は、妹が家のあたりつゞきて見つゝあるべき爲に、大和の大島(ノ)嶺に、家居してをらましものを、今はかく離れ居て、いとゞ戀しきに堪ずとなり、さて鎌足(ノ)大臣は、天智天皇八年といふに薨賜ひたれば、其後はこの女王は、大和(ノ)國に歸りて、本屬居居玉ひし故に、大津(ノ)宮にして、かくはよませたまひつらむ、かくて四(ノ)卷に、額田(ノ)王思2近江天皇(ヲ)1作歌ありて、其(ノ)次に、鏡(ノ)女王の歌あれば、その時は、右(369)の大御歌を賜はせたる後に、天皇の御心によりて、京に遷りましゝと知(ラ)れたり、かくて後、天武天皇の淨御原(ノ)宮に、遷らせ賜ふほども從ひて、姉妹の女王、ともにうつり住居《スマ》はれしとおぼえたり、されば上に引る如く、天武天皇の十二年といふに、この女王の病をとはせ賜ひしよしの、書紀に見えたるは、京の家なればなり、さてその薨をも記されたるは、父天皇の御おぼえのあさからざりしがゆゑなり、
 
鏡女王《カヾミノオホキミノ》奉《マツレル》v和《コタヘ》歌一首《ウタヒトツ》。
 
歌の上に、舊本阿野家本等に、御(ノ)字あるは例にたがへり、なき本宜し、目録にもなきぞよき、凡て天皇と后皇子皇女の他には、御(ノ)字を用ざる例なり、○舊本|此間《コヽ》に、鏡王女又曰額田姫王也、と註せるは、最後人のおしあてに註せること、决《ウツナ》ければ削去つ、鏡(ノ)女王と額田(ノ)女王と、同人なるべき謂さらになし、
 
92 秋山之《アキヤマノ》。樹下隱《コノシタガクリ》。逝水乃《ユクミヅノ》。吾許曾益目《アコソマサラメ》。御念從《オモホサムヨハ》。
 
樹下隱は、コノシタガクリ〔七字右○〕と訓べし、十七に、久母我久理《クモガクリ》、古事記顯宗天皇(ノ)大御歌に、美夜麻賀久理弖《ミヤマガクリテ》などあり、(これらによりて、舊本に、カクレ〔三字右○〕と訓るはあしきを知べし、又|我《ガ》の言も濁て唱ふ例なるをしれ、)○逝水乃《ユクミヅノ》、(逝(ノ)字、舊本遊に誤、今は元暦本拾穗本等によりつ、)これまでは、未(ノ)句の吾許曾益目《アコソマサラメ》をいはむための序なり、秋はことさらに水の増れば、山下水の増るとつゞ(370)きたり、○吾許曾益目は、アコソマサラメ〔七字右○〕と訓べし、○御念從者は、オモホサムヨハ〔七字右○〕と訓べし、自《ヨリ》v將《ム》2御念《オモホサ》1者《ハ》の意なり、(この二句、むかしより人皆訓誤れり、)○歌(ノ)意は、君は我を戀しくおぼしめすにつきて、大島(ノ)嶺に家をらましをと詔へるは、身に取て忝くはあれど、我(カ)君を念奉る心こそ、それよりはなほ増りたらめとなり、
 
内大臣藤原卿《ウチノオホマヘツキミフヂハラノマヘツキミノ》。娉《ツマドヒタマフ》2鏡女王《カヾミノオホキミヲ》1時《トキ》。鏡女王《カヾミノオホキミノ》贈《オクリタマヘル》2内大臣《ウチノオホマヘツキミニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
藤原(ノ)卿は、鎌足大臣なり、一(ノ)卷には、内大臣藤原(ノ)朝臣と載たり、卿はマヘツキミ〔五字右○〕と訓べし、欽明天皇(ノ)紀に、蘇我(ノ)卿《マヘツキミ》とあり、○鏡(ノ)女王は、上に云る如く、遂に内大臣の嫡室《ムカヒメ》となれりけむを、左の歌にて見れば、此(ノ)ほどは、いまだ竊に通ひ住給しなるべし、(されば此(ノ)時は、即位元年のほどか、よし又其(レ)より前のことゝしても、こゝは其歌を披誦《トナヘ》しほどによりて、この御代の標内に載しものならむ、)さて天皇即位八年に、鎌足大臣の薨賜ひしなれば、其(ノ)後大和國へは歸り住れしならむ、其(ノ)ほど天皇の懸想《ミコヽロカケ》させ賜ひて、右の妹之當《イモガアタリ》云々の、御贈答はありけむなるべし、(岡部氏が、この女王、此時天皇の寵おとろへたるを、鎌足公のよばひ賜ひしなるべし、といへれどいかゞ、此(ノ)女王を、天皇のさだかに娶し賜ひしといふことも見えず、そのうへ興福寺(ノ)縁
起によれば、はやく鎌足大臣の娶《メトナレ》りしと見えたるをや、)かゝれば、この鎌足大臣の贈答の歌は、右の天皇の御贈答よりは、前に入べき順なれども、天皇を敬ひて上に載たるか、又はこの(371)贈答の歌をば、かの御贈答よりは、後に聞たる故に、かくしるせるにもあらむ、かばかりのことには、強て泥むべきにあらず、
 
93 玉匣《タマクシゲ》。覆乎安美《カヘルヲイナミ》。開而行者《アケテユカバ》。君名者雖有《キミガナハアレド》。吾名之惜毛《アガナシヲシモ》。
 
玉匣《タマクシゲ》は、枕詞なり、玉は美稀、匣《クシゲ》は(十九に、久之宜《クシグ》とあるによりて、宜《ゲ》を濁るべし、)櫛笥《クシゲ》なり、笥《ケ》は下に、笥爾盛飯乎《ケニモルイヒヲ》とある笥《ケ》にて、(猶そこにも云べし、)凡てかゝる器の稱なり、さてこの一句は、句を隔て、第三(ノ)句の開《アケ》といふへ係れり、九(ノ)卷に、玉匣開卷惜《タマクシグアケマクヲシキ》、十二に、玉匣將開明日《タマクシゲアケムアスノヒ》、十五に、多麻久之氣安氣弖乎知《欲利《タマクシゲアケテヲチヨリ》、十八に、多麻久之氣伊都之可安氣牟《タマクシゲイツシカアケム》、古今集に、玉匣明は君が名立ぬべみなど、開とかゝれる例多し、○覆乎安美は、安の上に、不(ノ)字を脱せるものにて、カヘルヲイナミ〔七字右○〕と訓べし、と細木(ノ)瑞枝云り、覆をカヘル〔三字右○〕と訓は、四(ノ)卷にも覆者覆《カヘラバカヘレ》とあり、不安美《イナミ》は、俗にいやさにと云むが如し、こゝは女の家を出て、歸るが否《イヤ》さにのよしなり、○開而行者(而の下、類聚抄に者(ノ)字あるは衍文なり、)は、アケテユカバ(アケテイナバ〔十二字右○〕とも、)訓べし、夜明て後、出て歸り賜はゞの意なり、○君名者雖有《キミガナハアレド》云々は、君は男にませば、御名の立むもさることにはあれど、女の身にして、人に云さわがれむは、羞《ヤサ》しくわびしきわざぞと云り、是ぞ女意のまことなる、(さるを略解に、君吾二字相誤れるにて、ワガナハアレドキミガナシヲシモ〔ワガ〜右○〕と有べし、と云るは中々に非ず、又四(ノ)卷の吾名者毛千名之五百名爾雖立君之名立者惜社泣《アガナハモチナノイホナニタテレドモキミガナタテバヲシミコソナケ》の歌を引たれど(372)も、彼(ノ)歌は、今とは意味かはれゝば、相證しがたし、又按(フ)に、六帖に此歌を、吾(カ)名は有ども君が名惜もとあり、人を先にして、吾を後にするは禮なれば、實に本は上は吾、下は君なりけむを、相誤れるにやあらむ、と思ふ人もあるべし、其《ソ》は理にのみなづみて、古(ノ)のまことの心にはいよいよ遠し、)○歌(ノ)意は、出て歸るが否さに、もし夜明て後歸り給はゞ、人に見あらはされて、とやかくいひさわがれむ、そのとき君は男にましませば、さることも有るならひなれば、さてあるべきを、われは女の身にして、名の立むはいと羞《ヤサ》しきわざにあらずや、それによりて又逢がたきことの出來もぞすべければ、行末長くと、我をおぼしめしたまはゞ、別(レ)はいと悲しけれど、あけぐれの紛(レ)に歸り給ひて、又こそ來まさめとなり、こは鎌足(ノ)大臣の、此女王の許に通ひ給ひて、餘りに別を惜みて、夜更れども歸りがてに爲給ふを、人目をはゞかりおもほして、心ならねど、強てとく返り給はねとはげまし催しやりたまふなるべし、
 
内大臣藤原卿《ウチノオホマヘツキミフヂハラノマヘツキミノ》。報2贈《コタヘタマヘル》鏡女王《カヾミノオホキミニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
贈(ノ)字拾穗本にはなし
 
94 玉匣《タマクシゲ》。將見圓山乃《ミムロノヤマノ》。狭名葛《サナカヅラ》。佐不寝者遂爾《サネズハツヒニ》。有勝麻之《アリカテマシ》目。
 
玉匣《タマクシゲ》は、身《ミ》とかゝれる枕詞なり、笥類に、蓋懸《フタカケ》籠身《コミ》と常にもいへり、その身《ミ》なり、七(ノ)卷に、珠匣見諸戸山矣行之鹿齒面白四手古昔所念《タマクシゲミモロトヤマヲユキシカバオモシロクシテイニシヘオモホユ》、後撰集に、あけながら年ふることは玉くしげ身の徒(373)になればなりけり、これら皆|身《ミ》とつゞきたり、○將見圓山乃(山の下に、類聚抄に見(ノ)字あるは衍文なり、)は、岡部氏が、ミムロノヤマノ〔七字右○〕とよめるによるべし、(ミム〔二字右○〕を、將見と書るは、伊南《イナミ》を將行《イナミ》と書ると同じ、さて岡部氏が説に、圓はロ〔右○〕の假字に用るは、臣をみ、相をふ、麻をさに用ひし類にて、訓をば、多くは下の言を用ふと云るはいかゞ、臣《ミ》相《フ》麻《サ》などは、五十音の阿行の言にて、略きいへる例も多きを、まろのまを略くやうの例はなし、)是は本居氏、上に將見といふ、むとまと通(フ)音なる故に、おのづからみまろと云やうにもひゞくから、圓(ノ)字を書るなりといへるが如し、さて此は大和の三室山なり、舊本に、或本歌云、玉匣三室戸山乃と註せる戸(ノ)字は、之か乃(ノ)字の誤なるべし、(七(ノ)卷に、見諸戸山《ミモロトヤマ》と有は、旅の歌の中にありて、西國の歌どもの中に交れれば、備中(ノ)國のみむろどなるべし、山城(ノ)宇治に、三室戸といふがあれども、そは後の事と見ゆ、こゝは大和の都にて、備中のみむろとをよむべきにあらず古(ヘ)所由《ヨシ》なくして、他國の地(ノ)名を設けよむこと、なきことなればなり、と略解にいへり、)○狹名葛《サナカヅラ》(狹(ノ)字、舊本挾に誤、今は古寫本拾穗本等に從(レ)り、)は、集中に、核葛《サネカヅラ》とも狹根葛《サネカヅラ》ともあるに同じ、凡て禰《ネ》と那《ナ》は、殊に親く通はし云り、名(ノ)義は、(狹名狹根核、など書るは皆借(リ)字にて、)狹《サ》は例の眞《マ》に通ふ辭、萎葛《ナエカヅラ》なり、(ナエ〔右○〕はネに切、)この葛は、あるが中にも萎々《ナエ/\》としたるものなれば、しか名におへるなり、十四に、乎可爾與世和我可流加夜能佐禰加夜能《ヲカニヨセワガカルカヤノサネカヤノ》、麻許等奈其夜波禰呂等敝奈香母《マコトナゴヤハネロトヘナカモ》、とよめるも、眞萎草《サナエカヤ》の義に(374)して、佐禰《サネ》の言は今と全(ラ)同じ、又同卷に、宇奈波良乃根夜波良古須氣《ウナハラノネヤハラコスゲ》とあるも、萎和子菅《ナエヤハラコスゲ》の義なり、(こを契冲は、海際に生たる菅は、潮にあひて、根の和らかなるをいふといひ、略解に、催馬樂に、貫川のせゝのやはら手枕と云やはらは、泥の事を云と見ゆれば今もやはらは泥にて、其(ノ)泥に生たる菅なれば、寢和子菅と云なしてうるはしきやははだの妹を、そへたるかと云るも、ともにあたらず、猶彼處にいはむを、併(セ)考へてよ、)又|蓴《ヌナハ》も、萎繩《ナエナハ》のよしなるべし、(ヌ〔右○〕とナ〔右○〕は親く通ふ言、)又|夏草之《ナツクサノ》とて、野島《ヌシマ》、また阿比泥能波麻《アヒネノハマ》といふにつゞけたるも、夏草之萎《ナツクサノナエ》とかゝれるにて、(夏草之萎裏觸《ナツクサノシナヒウラブレ》、とつゞけたるがごとし、)禰《ネ》の言ひとし、又拾遺集に、猿澤の池に、采女の身を投たるを見て、吾妹子がねくたれかみを猿澤の池乃玉藻と見るそ悲しき、とあるをはじめて、ねくたれ髪といへることの、後々多きも、皆|萎腐《ナエクタレ》髪の義なるべし、(寢腐《ネククレ》の義にはあらじ、又岡部氏は、狹名《サナ》狹根《サネ》の名《ナ》と根《ネ》は、奴《ヌ》の言の轉にして、奴《ヌ》は、この葛には滑らけき汁のあればいふ、奴《ヌ》はぬる/\と滑らかなるよしなりといへり、猶考べし、)猶この葛のこと、品物解に云べし、さて此までは、佐寐《サネ》と云む料の序なり、大和物語(ノ)歌に、春の野に緑にはへるさねかづら、吾(カ)君さねとたのむいかにぞ、とあるも同じ、○佐不寐者遂爾《サネズハツヒニ》は、相寢せずしては遂にの意なり、佐寐《サネ》は本居氏、凡て寐るを、佐寐《サネ》と云は眞寐《マネ》にて、多く男女率て寐るを云り、古事記景行天皇(ノ)條倭建(ノ)命(ノ)御歌に、佐泥牟登波阿禮波意母閇杼《サネムトハアレハオモヘド》、允恭天皇(ノ)條輕(ノ)太子(ノ)御歌に、宇流波(375)斯登佐泥斯佐泥弖婆《ウルハシトサネシサネテバ》、此(ノ)下に、左宿夜者幾毛不有延都多乃別之來者《サネシヨハイクタモアラズハフツタノワカレシクレバ》、三(ノ)卷に、吾妹子跡左宿之妻屋爾《ワキモコトサネシツマヤニ》、十四に、佐奴良久波多麻乃緒婆可里《サヌラクハタマノヲバカリ》、などなほ多きがごとしといへり、(但(シ)十五に、於毛波受母麻許等安里衣牟也左奴流欲能伊米爾毛伊毛我美延射良奈久爾《オモハズモマコトアリエムヤサヌルヨノイメニモイモガミエザラナクニ》、又|左奴流欲波於保久安禮杼毛呼能毛波受夜須久奴流欲波佐禰奈伎母能乎《サヌルヨハオホクアレドモモノモハズヤスクヌルヨハサネナキモノヲ》、などもあれば、佐《サ》はたゞ發語のみにても有べし、)○有勝麻之目《アリカテマシモ》は、有に得堪ざらましものをの意なり、加弖《カテ》は、しかあらむと思ふことの、得堪ずして、しかし難きをいふ辭なり、本居氏|勝《カテ》は消難《キエカテ》、行難《ユキカテ》などの難《カテ》と同くて難き意なり、又|加泥《カネ》と云も通ひて聞ゆ、三(ノ)卷に、別不勝鶴《ワカレカネツル》この加泥《カネ》に不勝と書ると、加弖《カテ》にも多く同字を書るとを、思ふべしと云り、凡て加弖《》加泥《》加多久《カテカネカタク》は、皆其(ノ)意通へる事なり、(大和物語に、吾(カ)心なぐさめかねつ更科や姨捨山に照月を見て、云々なぐさめがたしとは、是がよしになむ云々と云り、是正しく、かねをかたくと釋たるなり、)なほ下に云べし、(本居氏又云、加弖《》を不勝と書るは、たへずと云意を取れるなるべし、たへぬは難きと同意なればなり、然るを其不(ノ)字を省きて、勝とのみ書るは、いさゝか意得がたけれど此(ノ)卷に後心乎知勝奴鴨《ノチノコヽロヲシリカテヌカモ》、大寸御門乎入不勝鴨《オホキミカドヲイリカテヌカモ》、又|宿不難爾《イネカテナクニ》、などある加弖奴《カテヌ》は、加弖《カテ》の反對《ウラ》なる詞なるを、同意によめり、さて其(ノ)字も、加弖《カテ》にも不勝と書るに、又|加弖奴《カテヌ》にも、不勝と書れば、不勝を勝とのみ書るも所以あるにや、又|宿不難爾《イネカテナクニ》とあるは、言も字も、宿がたからぬと云ことに聞ゆれども、猶いねかてと同(376)くて、いねがたき意なり、されば是も、不(ノ)字あると無は同意に落めりと云り、)四(ノ)卷に、妹爾戀乍宿不勝家牟《イモニコヒツヽイネカテニケム》、又|此月期呂毛有勝益士《コノツキゴロモアリカテマシヲ》、十一に、戀乃増者在勝申目《コヒノマサレバアリカテマシモ》、十四に、須宜可提爾伊伎豆久伎美乍《スギカテニイキヅクキミヲ》、廿(ノ)卷に、伊※[泥/土]多知加弖爾《イデタチカテニ》、又|和可禮加弖爾等比伎等騰米《ワカレカテニトヒキトヾメ》、崇神天皇(ノ)紀(ノ)歌に、多誤辭珥固佐麼固辭介?務介茂《タゴシニコサバコシカテムカモ》、(我弖《ガテ》と、我《ガ》を濁るは非《ワロ》し)、これらの加弖《カテ》は難き意にて、皆同じ、この加弖《カテ》に不勝と書るは、本居氏(ノ)説る如く、たへずといふ意を取(レ)るなり、(四(ノ)卷に、戀二不勝而《コヒニタヘズテ》とあるをも思べし、)勝とのみ書るは、不(ノ)字を略きたる如見ゆれども、よくおもへば、勝のかつの訓を轉用(ヒ)たるものにて、略けるにあらず、もとより理異なり、思紛ふべからす、(されば加弖《カテ》には、不勝とも勝とも書れども加泥《カネ》には、不勝と書て、勝とのみ書る例なきにて、勝は不勝の不(ノ)字を省きたるにはあらず、固(リ)理異なること著し、)五(ノ)卷に、比等國爾須疑加弖奴可母《ヒトクニニスギカテヌカモ》、十四に、遊吉須宜可提奴伊毛賀伊敝乃安多里《ユキスギカテヌイモガイヘノアタリ》、十九に、落雪之千重爾積許曾我立可弖禰《フルユキノチヘニツメコソアレタチカテネ》、廿(ノ)卷に、道乃長道波由伎加弖奴加毛《ミチノナガチハユキカテヌカモ》、これらは此(ノ)下に、知勝奴鴨《シリカテヌカモ》、入不勝鴨《イリカテヌカモ》などあるに同じく、加弖《カテ》の反對《ウラ》にて、加弖《カテ》奴《ヌ》は不《ヌ》2不勝《カテ》1といふことに聞ゆれども、つら/\思へば、奴《ヌ》は不(ノ)字の意にあらず、已成《オチヰ》の奴《ヌ》にて鳥毛來鳴奴《トリモキナキヌ》などいふ奴《ヌ》に同じ、さて加弖奴《カテヌ》は、加禰都《カネツ》に通ひて、行過加弖奴《ユキスキカテヌ》は、行過加禰都《ユキスギカネツ》といふ意に通ひて聞ゆる、其(ノ)餘も此(ノ)定をもて准ふるに、集中ひとつも疑ふことなし、(但し怪《ケ》しからぬと云ことある、其《ソ》は怪《ケ》しくあらずて、尋常《ヨノツネ》なることなる意ならば、さもあるべきを、(377)なほ怪《ケ》しかると云と同意になれば、この加弖《カテ》も其(ノ)定にて、加弖奴《カテヌ》とその反對《ウラ》を云て、加弖《カテ》と同意にきこゆる例なり、といはゞ、又其(ノ)説もすてられぬに似たり、しかれども、もし、加弖奴《カテヌ》は加弖《カテ》の反對なりといはゞ、奴《ヌ》は不(ノ)字の意とするより他なし、もしその意ならば、十四の遊吉須宜可提奴《ユキスギカテヌ》と云歌は、本(ノ)句|可美都氣奴伊可抱乃禰呂爾布路與伎能《カミツケヌイカホノネロニフロヨキノ》とあれば、遊吉須宜可提受《ユキスギカテズ》となくては、協はぬことなり、行過可禰都《ユキスギカネツ》の意にあらずは、可提奴《カテヌ》とはいふべきにあらざるをや、これにても、可弖奴《カテヌ》は、可禰都《カネツ》と云意に通ふことなり、といふ事のたがはざるをさとるべし、又こゝに今よりゆくさき、古言をくはしく味はひて、余が説を疑ひ思はむ人もいで來ぬべし、その人のために、なほ云さとしおくべし、その疑ひ思はむは、もし可弖奴《カテヌ》を可禰都《カネツ》に通ふとせば、知可弖奴鴨《シリカテヌカモ》入可弖奴鴨《イリカテヌカモ》など云むこといかゞ、たとへば可禰都留哉《カネツルカモ》と云て、可禰都哉《カネツカモ》とは云(ハ)るまじきにて知べし、しかるを可弖奴流哉《カテヌルカモ》と云ることはなくして、可弖奴鴨《カテヌカモ》とのみ連云たるはいかに、不(ノ)字の意の奴《ヌ》より哉《カモ》と連ねて、不哉《ヌカモ》と云は常なれば、なほ可弖奴《カテヌ》の奴《ヌ》をも、已成の奴《ヌ》とせむこと、おぼつかなしと思はむか、十四に、欲太知伎努可母《ヨダチキヌカモ》、又|於伎?伎努可母《オキテキヌカモ》、廿(ノ)卷に、伊波須伎奴可母《イハズキヌカモ》、又|古江弖伎怒加牟《コエテキヌカム》などある伎奴《キヌ》は、來都《キツ》と云に通ふ意なるを、其も來都留哉《キツルカモ》と云て、來都哉《キツカモ》とは云(ハ)るまじければ、置而來奴留哉《オキテキヌルカモ》、不言來奴留哉《イハズキヌルカモ》などいふべきに、奴可母《ヌカモ》とのみ云たるをや、加弖奴鴨《カテヌカモ》といへるも、これと同じ例なり、なほこの奴《ヌ》の(378)言には、こまかなる所以《ユヱ》あることにて、こゝにはつくしがたければ、別に委しく論ひさとしたるものあり、)しかるをこの言を委く辨(ヘ)たる人のなきは、大かたに意得居たりしにや、(其(ノ)中に上に云る如く、本居氏(ノ)説は委きに似たれど、なほ加弖《カテ》と加弖奴《カテヌ》とのゆゑよし、又不勝と書と勝と書とには、うるはしく差別あることをまで、思はざりしによりて、まぎらはしきこと多し、又|宿不難爾《イネカテナクニ》といふ言は、後に委しく云ふべし、)目《モ》は助辭なり、拾穗本に異本に、乎とあるよし云り、乎と云かた今少しまさりてきこゆ、○歌(ノ)意は、夜明て歸らば、人の見て名を立なむ、早かへれと、そこの諫めらるゝにまかせて、明はてぬ間に、出て行べきなれど、相宿ずしては、遂にかへるに得堪ざらましものをとなり、
 
内大臣藤原卿《ウチノオホマヘツキミフヂハラノマヘツキミ》娶《エタル》2釆女安兒兒《ウネベヤスミコヲ》1時作歌一首《トキヨミタマヘルウタヒトツ》。
 
娶は、ヨバヘル〔四字右○〕、またアヘル〔三字右○〕などもよむべけれども、 (岡部氏が、メトセル〔四字右○〕とよめるはいかゞなり、)歌詞によりて、こゝはエタル〔三字右○〕と訓つ、○采女は、書紀孝徳天皇(ノ)卷に、凡采女者、貢(レ)2郡少領以上、姉妹及子女、形容端正(ナル)者(ヲ)1、(從丁一人、從女一人)以2一百戸1、宛2采女一人(ノ)粮1、庸布庸米、皆准2次丁(ニ)1、後宮職員令に、凡諸氏氏別、云々、其貢2釆女(ヲ)1者、郡(ノ)少領以上、姉妹及女、形容端正者、皆申2中務省(ニ)1奏聞(セヨ)、など見ゆ、さて采女てふものゝ、ものに見えそめたるは、書紀仁徳天皇四十年に、采女磐坂媛てふ是なり、采女の字は、後漢書皇后紀に、入(テ)2掖庭(ニ)1爲(ル)2釆女(ト)1と有て、註に、采(ハ)擇也、以(テ)d因(テ)2采擇(ニ)1而立(ヲ)u名(ツク)と(379)見えたり、本居氏、采女は宇禰辨《ウネベ》と訓べし、辨《ベ》は部の意なり、女《メ》の意にはあらず、宇禰辨《ウネベ》と云名は、宇那宜辨《ウナゲベ》の切《ツヾマ》りたるなり、宇那宜《ウナゲ》とは、物を項《ウナジ》に掛(ク)るを云、采女は、主《ムネ》と御饌《ミケ》に仕(ヘ)奉るものにて、項《ウナジ》に領巾《ヒレ》を掛る故に、嬰部《ウナゲベ》とはいふなり、大祓詞に、比禮挂伴男《ヒレカクルトモノヲ》とあるも、主《ムネ》と采女などを云り、と師も云れたるが如しと云り、○安見兒《ヤスミコ》は、采女の字なり、
 
95 吾者毛也《アハモヤ》。安見兒得有《ヤスミコエタリ》。
皆人乃《ヒトミナノ》。得難爾爲云《エカテニストフ》。安見兒衣多利《ヤスミコエタリ》。
 
吾者毛也《アハモヤ》は、古事記上卷須勢理毘賣(ノ)御歌に、阿波母與賣邇斯阿禮波《アハモヨメニシアレハ》、とあるによりて訓つ、毛也《モヤ》は毛與《モヨ》といふに全《ラ》同じく、助辭なり、(既く委しく云つ、)○安見兒得有《ヤスミコエタリ》とは、安見兒は名ながら、こゝは容易《タヤス》く得たる意を帶《カネ》たり、悦て少し誇る意あり得難爾爲云《エカテニストフ》とあるに、應へるにても考べし、古事記應神天皇(ノ)條に、汝《イマシ》得《エテム》2此孃子《コノヲトメヲ》1乎《ヤトイヘバ》答2曰《イフ》易得《ヤスクエテムト》1也とあり、すべて女を娶を、得るといふは古言なり、伊勢物語にも、男は此(ノ)女をこそ得めと思ひ、女も此(ノ)男をこそと思ひつゝ云云、昔男五條わたりなりける女を、得々ず成にける事と、わびたりける人の云々とあり、後選集に、得難かりける女を、思ひかけてつかはしける云々、大和物語に、そのたゞみねが女ありと聞て、ある人なむ、得むといひけるを云々、故右京のかみ、人のむすめをしのびて得たりけるを云々、竹取物語に、いかでこの加久耶《カクヤ》姫を得てしがな、見てしがなと、音にきゝめでまどふ、などある皆同し、○皆人乃は、人皆乃とありしを下上に誤れるなり、かれヒトミナノ〔五字右○〕と訓(380)つ、こは皆人とも、人皆ともいふべき事と、誰も一(ト)わたりは、思ひをる事なれども、熟考(フ)るに、凡て皆てふ言は、某皆と、のみ云て、皆某といはむは、古語の體にあらずなむ、かれ集中の例を檢(フ)るに、五(ノ)卷に、比等未奈能美良武麻都良能《ヒトミナノミラムマツラノ》云々、十四に、比等未奈乃許等波多由登毛《ヒトミナノコトハタユトモ》云々、(これらは假字書なれば、さらに動くまじきなり、)又此(ノ)下に、人皆者今波長跡《ヒトミナハイマハナガミト》云々、五(ノ)卷に、人皆可吾耳也之可流《ヒトミナカアノミヤシカル》云々、六(ノ)卷に、人皆乃壽毛吾母《ヒトミナノイノチモアレモ》云々、又|人皆之念息而《ヒトミナノオモヒヤスミテ》云々、九(ノ)卷に、人乃皆《ヒトノミナ》(皆乃を下上に誤か、)如是迷有者《カクマドヘレバ》云々、十卷に、人皆者《ヒトミナハ》芽子乎秋云《ハギヲアキトイフ》云々、十一に二ところ、人皆知《ヒトミナシリヌ》云々、又|世人皆乃《ヨノヒトミナノ》云々、又|里人皆爾《サトヒトミナニ》云々、十二に、人皆如去見耶《ヒトミナノユクゴトミメヤ》云々、又|人皆之《ヒトミナノ》(皆舊本皆人之に誤、今は元暦本に據て引、)笠爾縫云《カサニヌフチフ》云々、又十(ノ)卷に、物皆者新吉《モノミナハアラタシキヨシ》云々、古事記に、國土皆震《クニツチミナユリキ》云々、高天原皆暗《タカマノハラミナクラク》、(上卷)國皆貧窮《クニミナマヅシ》、(下卷)書紀竟宴歌に、倶娑幾微儺擧都夜謎豫斗底《クサキミナコトヤメヨトテ》などある例なるを、(唯四卷に、皆人乎|宿與殿金者《ネヨトノカネハ》、七(ノ)卷に皆人之|戀三吉野《コフルミヨシヌ》、八(ノ)卷に、皆人之|待師宇能花《マチシウノハナ》などある皆人も、ともにみな、人皆とありしを、下上に誤れるなるをしるべし、且此(ノ)集には、字の顛倒《イリチガヒ》いと多かること、上にもいへるごとくなるを考てよ、)今までこの論せし人のなかりしは、いかにぞや、(但し古今集よりこなたのには、いづれも皆人とよみたれども、そはまづおきて、今は古きにつきていふのみぞ、)○安見兒衣多利《ヤスミコエタリ》は、反覆《カヘサヒ》いひて、その深切《フカ》くよろこべる意を、あらはし給へるなり、○歌意は、かくれたるところなし、
 
(381)久米禅師《クメノゼムシガ》。娉《ツマドフ》2石川郎女《イシカハノイラツメヲ》1時歌五首《トキノウタイツヽ》。
 
久米(ノ)禅師は、傳詳ならず、久米は氏、禅師は名なり、俗人にして、かゝる名をつけしこと、當昔《ソノカミ》のはやりごとなるべし、續紀に、阿彌陀、釋迦などいふ名も有しを禁《トヾ》められしこと見えたり、○石川(ノ)郎女、これも傳しりがたし、郎女はイラツメ〔四字右○〕と訓べし、既く(古義一卷下に出て)云つ、○時の下、拾穗本には、贈答の二字あり、
 
96 水薦苅《ミコモカル》。信濃乃眞弓《シナヌノマユミ》。吾引者《アガヒカバ》。宇眞人佐備而《ウマヒトサビテ》。不欲常將言可聞《イナトイハムカモ》。 禅師。
 
水薦苅《ミコモカル》(苅(ノ)字、類聚抄には※[草冠/列]、拾穗本には刈と作り、次なるも同じ、)は、枕詞なり、水薦は、水は借(リ)字にて、眞薦《マコモ》と云に同じ、草をも眞草《マクサ》とも美草《ミクサ》とも、集中によめる類なり、十一に、眞薦苅大野川原之《マコモカルオホヌカハラノ》云々とあり、さて信濃《シナヌ》は、國(ノ)名の由來は、級《シナ》ある野と云なるべけれども、枕詞よりのかゝりは、裏沼《シナヌ》とうけたるなるべし、シナ〔二字右○〕は書紀の、匿(ノ)字のシナス〔三字右○〕と訓たる、シナ〔二字右○〕と同言にして、シタ〔二字右○〕と相(ヒ)通へり、さてそのシタ〔二字右○〕は、集中に、隱沼《コモリヌ》のしたに通ふとも、隱沼のしたゆ戀るともよみ、又心もしぬに古(ヘ)所念など云(フ)シヌ〔二字右○〕も通ひて、隱《コモ》りかなるを云言なれば、裏沼《シナヌ》は隱沼《コモリヌ》と云に全同じ、されば眞薦《マコモ》を苅《カル》裏沼《シナヌ》、といふ意につゞけたるなり、(冠辭考に、薦(ノ)字を篶に改めて、ミスヾカル〔五字右○〕と訓しは甚謾ならずや、篶《スヾ》を御篶《ミスヾ》とも、眞篶《マスヾ》とも云たる例なきにて、其|非《ヒガコト》なるを知べし、)○信濃乃眞弓《シナヌノマユミ》は、古(ヘ)もはら、甲斐信濃の國の名物《ヨキモノ》にぞありつらむ、故(レ)かくいへるなるべし、續(382)紀に、大寶二年三月甲午、信濃(ノ)國、獻2梓弓一千二十張(ヲ)1、以充2太宰府(ニ)1、景雲元年四月庚午、以2l信濃(ノ)國獻2弓一千四百張(ヲ)1、充2太宰府(ニ)1、延喜式に、凡甲斐信濃兩國所v進、祈年祭(ノ)料、雜弓百八十張、(甲斐(ノ)國槻弓八十張、信濃(ノ)國梓弓百張、)並十二月以前、差v使(ヲ)進上など見えたり、さて此(レ)までは、引をいはむ料の序なり、○宇眞人佐備而《ウマヒトサビテ》とは、良人《ウマヒト》めきてと云が如し、宇眞人《ウマヒト》は、可美人《ウマヒト》の義にて高貴《タカ》き人を云、五(ノ)卷に、美流爾之良延奴有麻必等能古等《ミルニシラエヌウマヒトノコト》、神功后皇紀に、宇麻比等破宇麻譬苔奴知野伊徒姑播茂伊徒姑奴池《ウマヒトハウマヒトドチヤイツコハヤイツコドチ》云々、仁徳天皇(ノ)紀に、于磨譬苦能多菟屡虚等太?《ウマヒトノタツルコトダテ》、又書紀に、君子※[手偏+晉]紳(顯宗天皇(ノ)卷、)良家(欽明天皇卷、)などの字を、ウマヒト〔四字右○〕とよめり、佐備《サビ》は神佐備《カムサビ》の佐備《サビ》に同じ、さて此(ノ)詞は、自(ラ)そのふるまひをなすをいふことばなり、そも/\言(ノ)意は、然《シカ》ぶりなり、(しかの切さ、ぶりの切び、)ぶりは、荒《アラ》ぶり、和《ニキ》ぶり、都《ミヤコ》ぶり、鄙《ヒナ》ぶり、俗にも、利口ぶるなどいふ夫流《ブル》なり、これにて貴人佐備《ウマヒトサビ》は、貴人として、やがて然《サ》るふりをする意、神佐備《カムサビ》は神とありて、やがて然《サ》るふりをする意にて、今(ノ)世某めくと云に近し、これになずらへて、すべて某|佐備《サビ》といふ言(ノ)意をさとるべし、○不欲常將言可聞《イナトイハムカモ》(欲(ノ)字、舊本には言と作り、今は飛鳥井本元暦本類聚抄拾穗本等に從つ、古寫本に知る作るもいかゞなり、不知不言にては、イナ〔二字右○〕と訓むことおぼつかなければなり、故(レ)按(フ)に、言は許《コノ》字の畫の脱しものか、八(ノ)卷に、神佐夫等不許者不有《カムサブトイナニハアラズ》とあり、又思ふに、許(ノ)字の省作《ハブキカキ》にてもあらむか、十(ノ)卷には、許多を言多と書り、猶考べし、知は欲(ノ)字の誤寫なるべし、)(383)は、嗚呼否《アハレイナ》といひて、うけひかずあらむかといふなり、可《カ》は疑(ノ)辭、聞《モ》は歎息辭なり、○歌(ノ)意は、わが心よせはあさからねど、もし引いざなはゞ、郎女はうま人なれば、やがてそのうま人めきて、我をば適配《タグヒ》にあらずとて、嗚呼否《アヽイナ》といひて、うけ引ずあらむかとなり、禅師が身を謙りて、郎女をあがめいへるなり、此方より如此《カク》、人の心を量(リ)ていふは、不許《イナ》といはせじとの心がまへなり、後拾遺集に、しひてよもいふにもよらじみこもかるしなのゝまゆみひかぬ心は、全此(ノ)歌を取てよまれたり、
 
97 三薦苅《ミコモカル》。信濃乃眞弓《シナノノマユミ》。不引爲而《ヒカズシテ》。弦作留行事乎《ヲハクルワザヲ》。知跡言莫君二《シルトイハナクニ》。 郎女。
 
弦作留行事乎《ヲハクルワザヲ》、(弦(ノ)字、舊本に強、類聚抄に濕と作(ル)は共に誤なり、今改つ、作(ノ)字、類聚抄拾穗本等に佐と作るも誤なり、)弦《ヲ》は、次に都良絃《ツラヲ》とある即(チ)是にて、弓弦のことなり、作留《ハクル》とは、波久《ハク》は佩《ハク》v刀《タチヲ》著《ハク》v履《クツヲ》などいふ波久《ハク》にて、著《ツク》るをいへり、さて刀履などは、自《ミヅカ》ら身に著る故、常に波久《ハク》といふなるを、弦《ヲ》は弓に令《シムル》v著《ハカ》ゆゑに、波久留《ハクル》とも波氣《ハケ》とも云(フ)、されば波久《ハク》と波久留《ハクル》とは、言は一(ツ)なれども、自他の差別《ケヂメ》あることなり、古事記倭建(ノ)命(ノ)御歌に、比登都麻都比登爾阿理勢波多知波氣麻斯袁《ヒトツマツヒトニアリセバタチハケマシヲ》とあるは即(チ)令《シメ》v佩《ハカ》v刀《タチ》ましをと云るにて、波氣《ハケ》とのたまへるなり、是にても、波久《ハク》と同言なるをおもひ明(ラ)むべし、(さるよしをもしらずて、弦などには、波具留《ハグル》波宜《ハゲ》など、具《グ》宜《ゲ》を濁りて、刀履などを波久《ハク》と云とは、異言なりと意得たるは、いみじきひがことなり、)集中にも次の、梓弓(384)都良絃取波氣《アヅサユミツラヲトリハケ》、十四に、美知乃久能愛太多良未由美《ミチノクノアダヽラマユミ》云々|都良波可馬可毛《ツラハカメカモ》、十六に、牛爾己曾鼻繩波久例《ウシニコソハナナハハクレ》などあり、(假字書には、何れも清音の可久氣等(ノ)字をのみ用《カケ》り、)行事《ワザ》は字の如し、俗に爲道《シミチ》爲樣《シヤウ》など云がごとし、四(ノ)卷に、風流無三吾爲類和射乎害目賜名《ミサヲナミアガスルワザヲトガメタマフナ》とあり、○知跡言莫君二《シルトイハナクニ》(君(ノ)字、類聚抄にはなし、なくても同じことなり、)は、知《シル》と不《ヌ》v言《イハ》にの伸りたるにて、(ナク〔二字右○〕はヌ〔右○〕の切、)知といはぬことなるをと云が如し、○歌(ノ)意は、弓をば引がためにこそ、弦《ツル》著《ハク》る行事をも知といふなれ、引ぬ弓に弦はけて何にかせむ、其(ノ)如く、我をいざなふとはなくて、打つけに、わが否《イナ》といはむも諸《ヲ》といはむも、はかり知べきにあらざるをやとなり、戀しき心に堪ずして、逢むとはいはずして、良人めきて、うけひかじかといへば、君が方によらむと云べき由なしとの、下心なり、
 
98 梓弓《アヅサユミ》。引者隨意《ヒカバマニ/\》。依目友《ヨラメドモ》。後心乎《ノチノコヽロヲ》。知勝奴鴨《シリカテヌカモ》。 郎女。
 
引者隨意《ヒカバマニ/\》は、引ば引むまゝにの意なり、○知勝奴鴨《シリカテヌカモ》は、知難《シリカテ》ぬる哉《カナ》の意なり、鴨《カモ》は歎息(ノ)詞にて、後(ノ)世の哉《カナ》といふに同し、○歌(ノ)意は、實に我を引いざなふとならば、引のまゝにしたがひなむを、今より後、行すゑのほどおぼつかなしとなり、右の歌の下心をいひ顯して、行末をあやふむ意をのべたり、
 
99 梓弓《アヅサユミ》。都良絃取波氣《ツラヲトリハケ》。引人者《ヒクヒトハ》。後心乎《ノチノコヽロヲ》。知人曾引《シルヒトソヒク》。 禅師。
 
(385)都良絃取波氣《ツラヲトリハケ》は、弓弦を取て令《セ》v佩《ハカ》といふなり、都良《ツラ》は連《ツラ》なり、連續《ツヾク》意なり、(弦は弓の本より、末まで續く意なり、)草の蔓《ツル》、(肥前(ノ)國長崎人の詞に、草の蔓をもツラ〔二字右○〕と云よし、)其餘器物のつるなどいふも、皆ひとつなり、(さて十四にも、右に引如く都良《ツラ》とあれば、古(ヘ)は都良《ツラ》とのみいひしかとも思ふに、仁徳天皇紀大御歌に、于瑳由豆流《ウサユヅル》、又此(ノ)下に、弓弦葉《ユヅルハ》などあれば、もとより都留《ツル》とも都良《ツラ》ともいひしなり、和名抄に、弦(ハ)由美都流《ユミツル》とあり、)絃《ヲ》も續綿まる意の稱なり、年緒《トシノヲ》生緒《イキノヲ》などいへるにてしるべし、○歌(ノ)意は、かにかく心をつくして、人を引誘ふ人は、行末いつまでも、變らぬ心を思ひ定めてこそ引(ケ)、さるおぼつかなきことあらむやはとなり、
 
100 東人之《アヅマヒトノ》。荷向※[しんにょう+(竹がんむり/夾)]乃《ノサキノハコノ》。荷乃緒爾毛《ニノヲニモ》。妹情爾《イモガコヽロニ》。乘爾家留香聞《ノリニケルカモ》。 禅師。
 
東人之は、アヅマヒトノ〔六字右○〕と六言に訓べし、(アヅマド〔四字右○〕といふは、やゝ後の音便なり、其は音便にアヅマンド〔五字右○〕と云るを、又後に其(ノ)ンを省きて、アヅマド〔四字右○〕と云るに、ン〔右○〕を省きても、なほン〔右○〕をそへたるときの濁を殘して、ト〔右○〕を濁りて唱るなり、凡て音便のン〔右○〕の下は、清音なるをもみな濁る例なればなり、かくて人を、某人と連ね云とき、音便にンド〔二字右○〕いふは、商人《アキヒト》をアキンド〔四字右○〕、旅人をタビンド〔四字右○〕など云(ヒ)、和名抄に、丹波國郷(ノ)名に、川人(ハ)加波無止《カハンド》、備中國郷(ノ)名に、間人(ハ)万無止《マンド》などあるを思へば、この音便もやゝ舊きことなり、かくて和名抄大須本に、阿豆末豆《アヅマヅ》、今按、俗用2東人二字(ヲ)1、とあるは、もしは、阿豆末無豆《アヅマンヅ》とありしを、無(ノ)字を後に脱せるか、又は其(ノ)頃は、省きて唱へし(386)にもあるべし、袖中抄に載たる歌に、ひなへさそはむあづまづもがな、とあるは、後なれば證とするにたらず、さていかにまれ、アヅマンド、アヅマド、アヅマヅ〔十二字右○〕、など云は、後に訛れるものにて、古(ヘ)の正しき稱にはあらず、かくて等《ト》を豆《ヅ》と轉せるは、後に藏人をクラウヅ〔四字右○〕といふ類にて、これも訛なり、)中山(ノ)嚴水、荷前は國々より奉る中に、中國北國四國西國は、皆船にて難波につき、又夫(レ)より船にて、大和までも持はこび行を、東國にはみな馬にて、おびたゞしきまで多く引つゞくれば、殊に東人《アヅマヒト》の云々とはいへるなるべし、といへり、これ是《アタ》れるに近し、(岡部氏(ノ)考に、いづこはあれど、東の調をいふは、御代のはじめ、西の國々まつろひて、東の國々の平らぎしは後なるに、遂に東までも貢奉るを悦び賜ひて、神宮陵墓へも、奉り初め賜ひしよりの例ならむ、から國の貢物をも、先(ヅ)神宮などへ奉り賜ふと、同じ意なるべしといへれど、こゝはさるこゝろをまでおもひて、いふべきところにあらず、)○荷向※[しんにょう+(竹がんむり/夾)]乃《ノサキノハコノ》、(※[しんにょう+(竹がんむり/夾)は篋(ノ)字なり、すべて※[Lのような字]を※[しんにょう]に作こと古(ヘ)に例多し、※[Lのような字]※[しんにょう]通したる例、干禄字書に見えて首(ノ)卷に云り、古寫本拾穗本等には篋と作り、類聚抄には※[竹がんむり/匣]と作り、)荷向《ノサキ》は何れの國にまれ、年ごとに、當年はじめてなせる絹布を先として、木綿麻山海の物までも、公へ調貢るをいふことにて、荷前《ノサキ》は荷の初《ハジメ》といふ謂なるべし、(江家次第に、荷前(トハ)者、四方(ノ)國(ヨリ)進(ル)御調(ノ)荷(ノ)前(ヲ)取(テ)奉(ル)、故(ニ)曰2荷前(ト)1、)延喜式祈年祭祝詞に、荷前者《ノサキハ》、皇大御神能太前爾《スメオホミカミノオホマヘニ》、如《ゴト》2横山《ヨコヤマノ》1打積置?《ウチツミオキテ》云々、大神宮九月神嘗祭に、調(ノ)荷前(ノ)絹、一百十三疋一丈(387)二尺云々、絲綿布木綿麻※[月+昔]熬海鼠堅魚鰒鹽油海藻、已上諸國(ノ)封戸調荷前と見えたり、荷を能(ノ)とよむは、木を許《コ》、火を保《ホ》といふ類にて、下へ連く時に、第二位の言を、第五位の言に轉しいふ例なり、神功皇后(ノ)紀に、肥前(ノ)國の荷持田(ノ)村を、荷持、此云2能登利《ノトリト》1、とあり、○荷之緒爾毛《ニノヲニモ》、(緒(ノ)字、舊本結に誤れり、類衆抄拾穗本等に從つ、)これまでは乘《ノリ》といはむ料の序なり、さるは荷前を陸路より奉るには、篋に納め、緒もて馬につけ乘するが故なり、前に引る祝詞にも、荷前者《ノサキハ》云々、自v陸往(ク)道者、荷緒縛堅弖《ニノヲユヒカタメテ》とあり、○妹情爾は、イモガコヽロニ〔七字右○〕と訓べし、(イモハ〔三字右○〕と訓は、ハ〔右○〕の言おだやかならず、)我が心に妹が乘なり、必(ス)我といふべき語例なり、と本居氏云り、○乘爾家留香聞《ノリニケルカモ》(香(ノ)字、古寫本に家と作るは誤なり、家(ノ)字をカ〔右○〕の假字に用たること、集中に例なし、)は、妹が容儀の、常に吾(カ)心のうへにうかべる哉となり、四(ノ)卷に、百磯城之大宮人者雖多有情爾乘而所念妹《モヽシキノオホミヤヒトハオホカレドコヽロニノリテオモホユルイモ》、十(ノ)卷は、春去爲垂柳十緒妹心乘在鴨《ハルサレバシダルヤナギノトヲヽニモイモガコヽロニノリニケルカモ》、十一に、是川瀬二敷浪布々妹心乘在鴨《コノカハノセヽニシクナミシク/\ニイモガコヽロニノリニケルカモ》、又|驛路爾引舟渡直乘爾妹情爾乘家鴨《ウマヤヂニヒキフネワタシタヾノリニイモガコヽロニノリニケルカモ》、十二に、射去爲海部之楫音湯鞍干妹心二乘來鴨《イザリスルアマノカヂノトユクラカニイモガコヽロニノリニケルカモ》、十四に、思良久毛能多要爾之伊毛乎阿是西呂等許己呂爾能里底許己婆可那之家《シラクモノタエニシイモヲアゼセロトコヽロニノリテコヽバカナシケ》、伊勢集に、面かげは水にうきても見えずやは心に乘てこかれしものを、後撰集に、秋霧の立野の駒を引時は心に乘て君ぞ戀しきなどあり、○歌(ノ)意は、女の容儀の、常に吾心のうへにうかびて、忘るゝひまのなきことにも有哉となり、さて此(ノ)一首は、(岡部氏も云し如く、郎女に贈れる意とはきこえず、)禅(388)師が獨思ふよしなれど、(別に題詞のありしが、混れしにはあらじ、)その思ふ心中を、右の歌にそへて、郎女に告知せむために、贈れるなるべし、
 
大伴宿禰《オホトモノスクネノ》。娉《ツマドフ》2巨勢郎女《コセノイラツメヲ》1時歌一首《トキノウタヒトツ》。
 
大伴(ノ)宿禰は、安麻呂(ノ)卿なり、大納言兼大將軍にまでのぼられければ、名をば書《シル》さず、すべて大納言以上の人は、名を諱《イミ》て書《シル》さゞる、此(ノ)集の例なること、首(ノ)卷に云たるが如し、但し此(ノ)時は、安麻呂(ノ)卿いまだ微官にてありしほどなれど、家持(ノ)卿の父は旅人(ノ)卿、祖父は安麻呂(ノ)卿、大小父《オホヲヂ》は御行(ノ)卿にてありければ、此等の人々をば、微官にてありしほどのことをも、家持(ノ)卿よりたふとみて、名を除かれしなり、書紀天武天皇(ノ)卷に、元年六月己丑、遣2大伴(ノ)連安麻呂、云々等(ヲ)於不破(ノ)宮(ニ)1、令v奏2事(ノ)状(ヲ)1、十三年二月庚辰、遣2云云、小錦中大伴(ノ)連安麻呂等(ヲ)於畿内(ニ)1、令v視2占應v都之地(ヲ)1、朱鳥元年春正月、是月爲v饗2新羅金智淨(ヲ)1、遭2云々、大伴(ノ)宿禰安麻呂、云々等(ヲ)于筑紫(ニ)1、九月乙丑、諸僧尼亦哭2於殯(ノ)庭(ニ)1、云々、直廣參大伴(ノ)宿禰安麻呂、誄2大藏(ノ)事(ヲ)1、續紀に、文武天皇大寶元年三月甲午、始依2新令(ニ)1、改2制官名位號(ヲ)1、云々、直大壹大伴(ノ)宿禰安麻呂(ニ)授2正從三位(ヲ)1、」二年正月乙酉、以2從三位大伴(ノ)宿禰安麻呂(ヲ)1、爲2式部卿(ト)1、五月丁亥、令v參2議朝政(ニ)1、六月庚申、爲2兵部卿(ト)1、慶雲二年八月戊午、爲2納言(ト)1、十一月甲辰、爲2兼太宰帥(ト)1、元明天皇和銅元年三月丙午、正三位大伴(ノ)宿禰安麻呂(ヲ)爲2大納言(ト)1、(既く慶雲二年に、大納言と爲賜へりいかゞ、七年五月丁亥朔、大納言兼大將軍正三位大伴(ノ)宿禰安麻呂薨(389)帝深悼之、詔贈2從二位(ヲ)1、安麻呂(ハ)、難波(ノ)朝、右大臣大紫長徳(ノ)之第六子也、○元暦本官本等に、大伴宿禰、諱曰2安麻呂(ト)1也、難波(ノ)朝、右大臣大紫大伴(ノ)長徳卿之第六子、平城(ノ)朝、任2大納言兼大將軍(ニ)1薨也、と註せり、○巨勢(ノ)郎女の傳は、次に云べし、
 
101 玉葛《タマカヅラ》。實不成樹爾波《ミナラヌキニハ》。千磐破《チハヤブル》。神曾著常云《カミソツクチフ》。不成樹別爾《》。ナラヌキゴトニ
 
玉葛《タマカヅラ》は、實の成ものなるゆゑに、次の句をいはむ料にいへるなり、實の成てふまでにかゝりて、不v成の不《ヌ》まではかけて見べからず、布留《フル》の早田《ワサダ》の穗には出ずなど云類なり、玉葛のことは、品物解に云り、○實不成樹爾波《ミナラヌキニハ》は、何の樹にまれ、實のならぬ樹なり、某樹と定りたることはなし、上の玉葛《タマカヅラ》とは別なり、混(フ)べからず、爾波《ニハ》は、他の樹にむかへていふ辭なり、○千磐被《チハヤブル》は、神の枕詞なり、集中ことに多し、まづこの言は、古事記に、此(ノ)葦原(ノ)中國者、云々、故以爲、於2此國1道速振荒振國(ツ)神等之多(ク)在、云々、書紀に、慮(ニ)有2殘賊強暴横惡《チハヤブルアシキ》之|神者《カミ》1云々など見えたり、(この詞を冠辭考に、知《チ》は伊知《イチ》の略にて、伊知《イチ》は伊都《イツ》と通ひて、稜威の字を書(キ)、波夜《ハヤ》とは武く疾を云、夫波《ブル》は辭なり、且波(ハ)は言便にて、和《ワ》の如く唱(フ)るなり、と云るは非なり、まづ伊知《イチ》の伊《イ》を省く如きことは、上古の言に有ことなし、さて又|波《ハ》を和《ワ》のごとく唱ふと云るも、まだしき論なり、凡て上古には、音を正しく唱へしなれば、波比布閇保《ハヒフヘホ》を、和伊宇延乎《ワイウエヲ》の如く唱へしことなし、そは後(ノ)世の音便の例にて、正しからぬことにこそあれ、後(ノ)世の不正音を例として、上古の正音を論(390)ずべきことにあらず、)その知《チ》は、多藝《タギ》の縮れる言にて、多藝《タギ》は瀧《タキ》、また激《タギ》るなど云と同言にて、猛く烈くて驚慄《オドロ》しき意なり、古今集に、足引の山下水の木隱れて、激《タギ》つ心を塞どかねつるとあるも、激怒《タギ》る心の烈しくて、鎭めがたき意なり、波夜《ハヤ》は疾く強き意にて、夫流《ブル》は其(ノ)形容を云辭なり、神(ノ)名に甕速日《ミカハヤビ》、樋速日《ヒハヤビ》、勝速日《カチハヤビ》、饒速日《ニギハヤビ》などいふ速日《ハヤビ》も、速夫利《ハヤブリ》の意にて、皆同義なり、なほ速《ハヤ》てふ言は、速秋津日子《ハヤアキツヒコ》、速須佐之男《ハヤスサノヲ》、速總別《ハヤフサワケ》などいひ、垂仁天皇(ノ)紀に、當麻(ノ)邑(ニ)有2勇悍士1、曰2當麻(ノ)蹶速《クエハヤト》1、などある速《ハヤ》と同じくて、俗に早り男など云早りの言に同じ、神代紀に、殘賊強暴と書るは、事實の趣を想て書るのみにて、知波夜夫流《チハヤブル》の言の本義に、正(シク)當れる字にはあらず、知波夜夫流《チハヤブル》は右に云如く、たゞ猛く強めく謂にて、構惡《アラブ》る神を云はさらにて、不然《サヲヌ》神等のうへにも、つゞくることなり、たゞに殘賊強暴のみの意としては、たゞしき神にいひかくべきにあらず、下に千磐破人乎和爲趾跡《チハヤブルヒトヲヤハセト》とあるも、皇軍《ミイクサ》に不奉仕《ソムキ》て、猛く烈き人といふなり、上(ツ)代皇化に服從《マツロ》はざりし人を、八十建《ヤソタケル》、熊曾建《クマソタケル》などいひし建《タケル》と同類なり、これも書紀には梟帥と書れたれど、(梟帥は、賊將のことにて、)多氣流《タケル》は唯|猛勇《タケ》き意の言にて、梟帥にかぎりたることにはあらざれども、梟帥をたけると云には、妨なきがごとし、(又按(フ)に、知波夜《チハヤ》の知《チ》は風《チ》にて、風疾夫流《チハヤブル》といふにもあるべし、風疾《チハヤ》は強くいきほひあるをいふ、暴風《アラキカゼ》を疾風《ハヤチ》といふをも思ふべし、即(チ)風は神の御氣にて、もといきほひをいふことなればなり、或人問、風を千〔右○〕と云こと、東風《コチ》疾風《ハヤチ》(391)などいふ如く、某|知《チ》と下につゞけたり、知《チ》某と上に冠らせたる例ありやいかゞ、答(フ)、風(ノ)神の名を給長津彦《シナツヒコノ》命、級長戸邊《シナトベノ》命といふも、風長《シナガ》の意なり、さてその志《シ》は嵐《アラシ》の志《シ》にて、東風《コチ》の知《チ》と通ひて全同言なり、これ知《チ》某と上に云たる例なり、)○神曾著常云《カミソツクチフ》は、神そ著といふなり、常云はチフ〔二字右○〕と訓べし、(又トフ〔二字右○〕と訓むもあしからず、)そも/\凡て右《カ》といふ、左《カク》といふと云ことを、古語には、右智布《カチフ》左智布《カクチフ》ともいへること多し、そは等伊布《トイフ》を切めたる言にて、(等伊《トイ》は智《チ》と切る、)集中に五(ノ)卷に、布美奴伎提由久智布比等波《フミヌキテユクチフヒトハ》云々、七(ノ)卷に、雲居者雨曾零智否《クモヰレバアメソフルチフ》云々、八(ノ)卷に、誰人可毛手爾將卷《タレノヒトカモテニマカム》智《チ》布《フ》、十八に、可豆具知布安波妣多麻母我《カヅクチフアハビタマモガ》など、假字書も多かり、また是を等布《トフ》ともいふは、知《チ》を等《ト》に轉したるものなり、十四に、和禮爾余須等布《ワレニヨストフ》、十五に、左宿等布毛能乎《サヌトフモノヲ》、十九に、伊都久等布《イツクトフ》など、これも假字書いと多し、さて今も猶、土佐伊豫の奧山里にては、常に右《カ》ちふ左《カク》ちふなどいへり、これ古言の遺存《ノコレ》るなり、(土左幡多(ノ)郡下山と云あたりの俗に、もはら知布《チフ》といへり、)かくて今こゝの常云、又七(ノ)卷に、著常云物乎《キルチフモノヲ》、一(ノ)卷に、雪者落等言《ユキハフルチフ》、雨者落等言《アメハフルチフ》、十六に、吉跡云物曾《ヨシチフモノソ》、などある類の常云等言跡云を、凡てことことにチフ〔二字右○〕とよむは、集中の一(ツ)の書法にして、爾在と書てナル〔二字右○〕、(一(ノ)卷に、如是爾有良之《カクナルナシ》云々|然爾有許曾《シカナレコソ》、三(ノ)卷に、吉野爾有《ヨシヌナル》などある類、)而有と書てタル〔二字右○〕、七(ノ)卷に、散亂而有《チリマガヒタル》、七(ノ)卷に、塞敢而有鴨《セカヘタルカモ》、六(ノ)卷に、散動而在所見《ミダレタリミエ》などある類、)之在と書てサル〔二字右○〕、(十(ノ)卷に、春之在者《ハルサレバ》とある類、)乃有と書てナル〔二字右○〕(八(ノ)卷に、花乃有時爾《ハナナルトキニ》、)と訓たぐひ、(392)皆その例證なりけり、(○ことのついでにいふべきことあり、そも/\この智布《チフ》といふ詞を、古今集よりこのかた、?布《テフ》といへるは、その智《チ》を?《テ》に轉せるなり、かくて奈良(ノ)朝の頃までは、?布《テフ》と云ること、ひとつも見えたることさらになければ、此(ノ)集にては、凡てさはよむまじきを、舊本に多くテフ〔二字右○〕と訓しは、時代の詞をもわきまへしらきざ、をこわざなるよしなどは、ちかき代に、古學のみさかりに行はれてよりは、たれも皆さることはよくわきまへしりて、をさ/\あやまることなければ、今殊更に、あげつらひさとすにおよばずなむ有ける、しかるに、近(キ)世の古學(ノ)徒の文章などを見るに、凡(テ)右《カ》といふ左《カク》といふといふべき所をも、おしなべて右《カ》ちふ左《カク》ちふ、または右《カ》とふ左《カク》とふとのみ書るは、いかにぞや、凡て歌には、等伊布《トイフ》と云ては、言の緩なるに過る所あるから、約めて知布《チフ》とも等布《トフ》ともいへる多きこと、いにしへの歌どもを、よく考(ヘ)見て知べし、たゞ言を約むるのみを、いにしへざまと意得をるこそ、かへすがへすもかたはらいたきわざなりけれ、但(シ)文章詞の中にても、言の急《ニハカ》なるときには、ちふともとふとも云べきところあれど、そはなべてのことにはあらず、これのみならず從《ヨリ》v彼《カレ》從《ヨリ》v此《コレ》などいふべきをも、約めて彼用《カヨ》此用《コヨ》などいふ類、凡て歌には多かること、上の智布《チフ》に同じ、されば古とても、唯に言をつゞめのみして、いへることはなかりしなり、延喜式八卷なる諸(ノ)祝詞、又續紀に載る、御代御代の詔詞などをも考(ヘ)見よ、凡て文章などには、かゝる辭を、謾に約めてい(393)ひしことは、さらになかりき、)○不成樹別爾《ナラヌキゴトニ》は、實の不v成樹毎になり、○歌(ノ)意は、實のならぬ樹には、その樹ごとに、神の依て著賜ふといふ諺のあるを、君は何とやらむ花のみにして、實《マコト》のなきやうにおぼゆるを、もし實《マコト》のなからむには、かの實《ミ》ならぬ樹の如く、君にも神の著(キ)たまふことのあらむぞと、おどろかし問なるべし、かく見るときは、和歌に花耳開而不成有者《ハナノミサキテナラザルハ》と云るに、よく照應《カナヒ》てきこゆるなり、(岡部氏が、女のさるべき時に男せねば、神の依まして、遂に男を得ぬぞと譬ふと云るは、かなはぬことなりけり、但し此(ノ)説は、源氏物語總角に、總角(ノ)大(イ)君の、薫大將に心のうつらぬを見て、侍女の云所に、大かた例の見奉るに、しわのぶるこゝちして、めでたくあはれに、見まほしき御かたち有樣を、などていともてはなれては、聞えたまふらむ、何かこれは世の人のいふめる、おそろしき神ぞつきたてまつりたらむと、齒は打すぎて、愛形なげにいひなす女あり、とあるを、思(ヒ)よせていへるなるべし、されどこの意は、今の歌の意とはいさゝかたがへり、但しこの物語の説は、今の歌に本づきて、わざと事を轉して云るか、又もとより別の諺か、其は知がたし〔頭註【仙覺抄 女の男すべき程になりて、其男なければ、鬼魅に領せらるゝと云事あれば、それによそへて吾懸る思ば遂させずして、神に領ぜらるなととよめるなり、〕
 
巨勢郎女報贈歌一首《コセノイラツメガコタフルウタヒトツ》。
 
巨勢郎女は、元暦本官本類聚妙古寫本等に、即(チ)近江朝、(此間に類聚抄には臣(ノ)字あり、)大納言(三(394)字、官本になし、)巨勢人卿之女也と註せり、即(チ)安麻呂(ノ)卿の妻なり、元暦本等に、大伴宿禰田主(ハ)、則(チ)佐保大納言大伴(ノ)卿第二(ノ)子、母(ハ)曰2巨勢(ノ)朝臣(ト)1也、と見えて下に云り、巨勢(ノ)人(ノ)卿は、天智天皇紀に、十年己亥朔庚子、大錦下巨勢(ノ)人(ノ)臣、進2於殿前(ニ)1、奏2賀正事(ヲ)1、癸卯、巨勢(ノ)人(ノ)臣爲2御史大夫(ト)1、(御史、蓋(シ)今之大納言乎、)天武天皇紀に、元年七月庚寅朔辛卯、巨勢(ノ)臣比等、率2敷萬衆將(ヲ)1、襲2不破(ヲ)1而軍2犬上川(ノ)濱(ニ)1、八月庚申朔甲申、大納言巨勢(ノ)臣比等云々、悉配流など見えたり、
 
102 玉葛《タマカヅラ》。花耳開而《ハナノミサキテ》。不成有者《ナラザルハ》。誰戀爾有目《タガコヒナラモ》。吾孤悲念乎《アハコヒモフヲ》。
 
玉葛《タマカヅラ》、(葛(ノ)字、舊本萬に誤、類聚抄古寫本給穗本等に從(レ)り、)この一句は、右のかけ歌をうけて、第三(ノ)句の不v成の、成《ナル》の詞へかけていへるなり、○不成有者《ナラザルハ》は、實の成ざるはといふなり、○誰戀爾有目は、タガコヒナラモ〔七字右○〕と訓べし、(目をメ〔右○〕とよむはわろし、)誰が戀に有むといふなり、目は牟《ム》といふに同し、○歌(ノ)意は、花のみ開て實ならぬ樹には神ぞ著といふとのたまへども、しか花のみ開て、實ならぬなどいふごとき薄き事は、誰がうへの戀のさだにや、吾は信實《マメヤカ》に君をのみ戀しくおもふ事なるを、と云るなるべし、
 
明日香清御原宮御宇天皇代《アスカノキヨミハラノミヤニアメノシタシロメシヽスメラミコトノミヨ》。
 
此標は、既く一(ノ)卷に出づ、○天皇代の下、舊本等に、天渟名原瀛眞人天皇(渟(ノ)字、停に誤、)と註し、古寫本には、謚曰2天武天皇1と云註もあり、共に後人のしわざなること既く云るがごとし、
 
(395)天皇《スメラミコトノ》。賜《タマヘル》2藤原夫人《フチハラノキサキニ》1御歌一首《オホミウタヒトツ》。
 
藤原(ノ)夫人は、八(ノ)卷に、藤原夫人(ノ)歌とありて、註に、明日香清御原(ノ)宮(ニ)御宇天皇之夫人也、字(ヲ)曰2大原(ノ)大刀自(ト)1、即(チ)新田部(ノ)皇子之母也とありて、この夫人、大和(ノ)國大原(ノ)村に住はれし故に、大原(ノ)大刀自《オホトジ》と呼なせるなり、此は鎌足大臣の女にて、五百重(ノ)娘なり、天武天皇(ノ)紀に、次夫人氷上(ノ)娘(ノ)弟、五百重(ノ)娘、生2新田部(ノ)皇子(ヲ)1と見ゆ、又廿(ノ)卷藤原(ノ)夫人(ノ)歌とある註に、淨御原(ノ)宮(ニ)御宇天皇之夫人也、字(ヲ)曰2永上(ノ)大刀自(ト)1と見えたるは、此(ノ)夫人の姉なり、夫人はキサキ〔三字右○〕と訓べし、古(ヘ)は天皇の大御妻等《オホミメタチ》を后《キサキ》と申て、其(ノ)中の最上なる一柱を、殊に尊みて、大后《オホキサキ》と申し、其(ノ)餘後に妃夫人などゝ申す班《ツラ》までを、幾柱にても后と申せるなり、反正天皇(ノ)紀に、皇夫人《キサキ》、また夫人《キサキ》、敏達天皇(ノ)紀にも夫人《キサキ》、これらをキサキ〔三字右○〕と訓るは、古(ヘ)にかなへる訓なり、字鏡にも※[女+紀](ハ)、妃也、支佐支《キサキ》とあり、古事記傳に見えて、猶委く論へり、(岡部氏考(ノ)別記に、論へる説どもは、みな中々のひがごとどもなり、)〔頭註【後考、夫人をキサキ〔三字右○〕と訓るはわろし、八(ノ)上に委辨ず、〕
 
103 吾里爾《ワガサトニ》。大雪落有《オホユキフレリ》。大原乃《オホハラノ》。古爾之郷爾《フリニシサトニ》。落卷者後《フラマクハノチ》。
 
大雪は、(ミユキ〔三字右○〕とよまむは非《ワロ》し、)オホユキ〔四字右○〕と訓る宜し、此(ノ)下高市(ノ)皇子(ノ)尊(ノ)殯宮(ノ)時(ノ)歌に、大雪乃亂而來禮《オホユキノミダレテキタレ》、十九家持(ノ)卿(ノ)歌に、大宮能内爾毛外爾母米都良之久布禮留大雪驀蹈禰乎之《オホミヤノウチニモトニモメヅラシクフレルオホユキナフミソネヲシ》などあり、○大原《オホハラ》は、續紀に、天平神護元年十月己未朔辛未、行2幸紀伊(ノ)國(ニ)1、云々、是日到2大和(ノ)國高市(ノ)小治田(ノ)(396)宮1、壬申、車駕巡2歴大原長谷(ヲ)1、臨2明日香川(ニ)1而還と見えて、今も飛鳥の西北の方に、大原村といふありて、即(チ)藤原ともいふとなり、(皇居の藤原は異地なり、前に云る如し、然るを多武峯記に、藤原(ノ)宮は、大原也とあるは、たがへることなり、)鎌足大臣の本居にて、夫人の生(レ)給ひし處なればこのほどこゝに、夫人の下り居賜ひしなるべし、○古爾之郷《フリニシサト》とは、天皇|龍潜《ミコニオハシマシ》しむかし、此(ノ)大原(ノ)夫人の許へ、かよひ賜ひしゆゑに、のたまふなるべし凡てむかし通ひし女の家を、古郷《フルサト》と云こと多し、これは女の家にもかぎらず、凡てむかしかよひし處をば、然云ことにて、貫之の、人はいざ心も知ず故郷はとよめるは、昔(シ)時々やどりし家をいふなり、これにて意得べし、と本居氏説り、(一説に、大原は、後(ノ)飛鳥(ノ)岡本(ノ)宮の舊跡の、東北三四丁ばかりにあり、かゝれば、舊にし里とはよませ給へるなるべし、といへり、いかゞあらむ、(十一は、大原古郷妹置吉稻金津夢所見乞《オホハラノフリニシサトニイモヲオキテアレイネガネツイメニミエコソ》とあり、○落卷者後《フラマクハノチ》は、降むは降の伸れるにて、(マク〔二字右○〕の切ム、)降むことは後ぞ、と詔ふ御意なり、○大御歌(ノ)意は、朕(カ)すむ里に、いみじき大雪ふりたり、そこの住るゝ大原は古里なれば、かくて後にこそ降め、何事も朕(カ)大宮の方より始るなれば、雪もその如(ク)にあるべし、あはれかゝる折を見せばやと、都を羨ましめて詔ふなり、
 
藤原夫人《フヂハラノキサキノ》奉《マツレル》v和《コタヘ》歌一首《ウタヒトツ》。
 
104 吾崗之《ワガヲカノ》。於可美爾乞而《オカミニコヒテ》。令落《フラシメシ》。雪之摧之《ユキノクダケシ》。彼所爾塵家武《ソコニチリケム》。
 
(397)於可美爾乞而《オカミニコヒテ》とは、於可美《オカミ》は、古事記上卷に、於是伊邪那岐(ノ)命、拔d所2御佩1之十拳劔(ヲ)u、斬2其(ノ)子迦具土(ノ)神之頸(ヲ)1云々、次集2御刀之手上(ニ)1血、自2手俣1漏出(テ)所v成神(ノ)名、闇淤加美(ノ)神、云々、書紀には、高※[雨/龍]《タカオカミ》と闇※[雨/龍]《クラオカミ》と見ゆ、さて※[雨/龍]、此云2於箇美《オカミト》1とあり、神名帳に、諸國に意加美(ノ)神社あり、豐後風土記に、球※[潭の旁](ノ)郷、此(ノ)村有v泉、昔(シ)景行天皇行幸之時、奉膳之人、擬2於御飯1、禮令v汲2泉水(ヲ)1、即有2地※[雨/龍]1、(謂2於箇美《オカミト》1、)於是天皇勅云、必將v有v※[自/死]、莫v令2汲用1、因v而名曰2※[自/死]水《クサミ》1、因爲v名(ト)、今謂2球※[潭の旁]《クタミノ》郷(ト)1者訛也とあり、そもそも於可美《オカミノ》神と云は、雨雪を掌《シ》れる神なるが故に、かく析申せるなり、乞(ノ)字、舊本言とあるは、寫誤なることうつなければ、今改めつ、乞言草書いとよく似て混(ヒ)やすし、コヒテ〔三字右○〕とよむべし、十三に、天地之神乎曾吾乞《アメツチノカミヲソフガコフ》、十五に、安米都知能可未乎許比都都安禮麻多武《アメツチンノカミヲコヒツツアレマタム》などあるは、その證と云べし、なほ集中に、神に乞祈《コヒノミ》と云ることいと多かり、(言而《イヒテ》とありては通《キコ》えぬことなるを、いかでかも、今まで註者等の、心はつかざりけむ、)○令落は、フラシメシ〔五字右○〕とよむべし、(岡部氏が、フラセタル〔五字右○〕とよめるは、いたくおとれり、)○摧之《クダケシ》の之《シ》は、その一(ト)すぢをとりいでゝ、つよくいふ助辭なり、(岡部氏が、之を之毛《シモ》の略言といへるは意得ず、)○彼所爾塵家武《ソコニチリケム》は、其所に散けむなり、即|塵《チリ》と云も、散(ル)意の名なり、○歌(ノ)意は、そこの御里に、大雪降(レ)りと詔ふが、其大雪と見給ふは、わがすむ里の岡の、※[雨/龍](ノ)神に乞祈て、吾(カ)里に降しめし、その大雪の摧けし片端が、いさゝかそこに散たるにこそあらめ、と御戯言を應《ウケ》て、またたはれ和(ヘ)奉れるなり、その詞のをかしくすぐれて、奇々《アヤシク》妙(398)妙《タヘ》なるは、この夫人ならでは、誰かよくいはむ、
 
藤原宮御宇天皇代《フヂハラノミヤニアメノシタシロシメシヽスメラミコトノミヨ》。
 
此(ノ)標も既く一(ノ)卷に出づ、持統天皇文武天皇兩朝の宮號なり、○天皇代の下、元暦本に、高天原廣野姫天皇と註せり、此(ノ)字舊本には无て、天皇謚曰2持統天皇1と註せり、又古寫本には持統天皇の註に引續きて、元年丁亥十一年、讓2位輕太子1、尊號曰2太上天皇1也とあり、共に後人のしわざなり、既く云る如く、此は持統天皇文武天皇、兩朝の標なるを、一御代のみの標と意得たるひがことなり、
 
大津皇子《オホツノミコノ》。竊2下《シヌヒクダリテ》於|伊勢神宮《イセノカミノミヤニ》1上來時《ノボリマストキニ》。大伯皇女御作歌二首《オホクノヒメミコノヨミマセルミウタフタツ》。
 
大津(ノ)皇子は、書紀天武天皇(ノ)卷に、先納2皇后(ノ)姉大田(ノ)皇女(ヲ)1爲v妃(ト)、生3大來(ノ)皇女(ト)、與(ヲ)2大津(ノ)皇子1、同十二年二月己未朔、大津(ノ)皇子、始(テ)聽2朝政(ヲ)1、十四年正月丁未朔丁卯、授2淨大貳(ノ)位(ヲ)1持統天皇(ノ)卷に、朱鳥元年十月、皇子大津、謀反發覺《ミカドカタフケムトスルコトアラハレキ》、逮2捕《トラフ》皇子(ヲ)1、庚午、賜2死《ウシナヒタマフ》皇子大津(ヲ)於譯語田(ノ)舍(ニ)1、時年二十四、妃《ミメ》皇女|山邊《ヤマノベ》、(天智(ノ)皇女、)被《クダシテ》v髪(ヲ)徒跣奔赴殉《スアシニシテユキトモニウセタマヒキ》焉、見(ル)者皆|歔欷《ナゲキス》、大津(ハ)、天(ノ)渟中原瀛(ノ)眞人(ノ)天皇(ノ)第三子也、爲2天命開別(ノ)天皇1所愛《メグマレタマフ》、及長《ヒトヽナリテ》|辨有2才學《カド》1、尤|愛《コノミタマヘリ》2文筆《フミツクルコトヲ》1、詩賦之興自2大津1始(レリ)也、懷風藻に、幼年好v學(ヲ)、博覽而能屬v文(ヲ)及v壯(ニ)愛v武(ヲ)、多力而能撃v劔(ヲ)云々、時有2新羅僧行心1、解2天文卜筮(ヲ)1、語2皇子1曰、太子骨法、不2是人臣之相1、以v此久在2下位(ニ)1恐不v全v身(ヲ)、因進2逆謀(ヲ)1と見えて、大伯皇女とは、御同母兄弟なれば、こ(399)とにむつまじくおはしませり、〔頭註【古今眞名序、自大津皇子之初作詩賦、詞人才子慕風繼塵、移彼漢家之字、化我日域之俗、民業一改和歌漸衰、〕○竊下云々、天武天皇は、十五年九月九日|崩御《カムアガリマ》せるを、其(ノ)十月二日に、大津(ノ)皇子御謀叛のこと覺《アラ》ほれて、同三日に賜死《ウシナハレ》まし/\き、天武天皇大御病おはしますほどより、はやく御大事おぼし立して、其(ノ)七八月の間に、彼(ノ)大事の御祈、且は大伯(ノ)皇女にも相語賜はむとて、伊勢へは竊下り給ひつらむ、さらば清御原(ノ)宮の標内に載べきに、彼(ノ)天皇崩ましてより、後のことは、本よりにて、崩賜はぬ暫前のてとも、崩後にあらはれし故に、この御代に入しならむ、(このことは、はやく岡部氏(カ)考(ノ)別記にもいへり、)○大伯(ノ)皇女は、書紀齊明天皇(ノ)卷に、七年正月壬寅、御船西(ニ)征《ユキテ》、甲辰到2于|大伯《オホクノ》海(ニ)1、時大田姫(ノ)皇女|産女《ヒメミコアレマセリ》焉、仍(レ)名2是女1、曰2大伯《オホクノ》皇女1、(和名抄に、備前(ノ)國邑久(ノ)郡(ハ)於俗久《オホク》、邑久(ノ)郷(ハ)於保久《オホク》とあるこれなり、)天武天皇卷に、二年夏四月丙辰朔己巳、欲(シテ)v遣《シメムト》侍《サモラハ》大來(ノ)皇女(ヲ)于天照大神(ノ)宮(ニ)1、而|令《セキ》居(マ)2泊瀬(ノ)齋宮(ニ)1、是先|潔《サヤメテ》v身(ヲ)、稍近(ツク)v神(ニ)之所也、三年冬十月丁丑朔乙酉、大來皇女、自2泊瀬(ノ)齋宮1、向2伊勢(ノ)神宮1、(十四歳)持統天皇(ノ)卷に、朱鳥元年十一月丁酉朔壬子、奉《ツカヘマツリタマフ》2伊勢(ノ)神祠(ニ)1、皇女大來、還(テ)至2京師(ニ)1、續紀、大寶元年十二月、大伯内親王薨、天武天皇之皇女也など見えたり、十四歳にて齋(ノ)宮に立たまひ、十四年に當て、京師に還(リ)賜へるなり、○二首(ノ)二字、舊本に無は脱たるなり、古寫本拾穗本等に從つ、
 
105 吾勢枯乎《ワガセコヲ》。倭邊遣登《ヤマトヘヤルト》。佐夜深而《サヨフケテ》。鷄鳴露爾《アカトキツユニ》。吾立所霑之《アガタチヌレシ》。
 
(400)吾勢枯乎《ワガセコヲ》、(枯(ノ)字、古寫本拾穗本等には※[示+古]と作り、)勢枯《セコ》は兄子《セコ》の假書なり、大津(ノ)皇子は御弟なれども、女よりは兄《セ》といふ例にて、仁賢天皇(ノ)紀に、古昔不v言2兄弟長幼(ヲ)1、女(ハ)以v男稱v兄(ト)、男(ハ)以v女稱v妹(ト)、とあるがごとし、(なほ岡部氏考(ノ)別記にも論へり、但し後(ノ)説の中に、夫を勢《セ》、妻を伊毛《イモ》と云は、伊邪那岐伊邪那美(ノ)命の、御妹兄夫妻と成賜ひしより始りて、後に他人どちの夫妻となれるをもしかいひならへるなり、と云るは甚誤める論なり、さる由縁《ヨシ》はさらになし、}○倭邊遣登《ヤマトヘヤルト》は、大和(ノ)國へ遣とての意なり、邊《ヘ》は物へ行のへなり、登《ト》はとての登《ト》なり、○鷄鳴露爾は、アカトキツユニ〔七字右○〕と訓べし、)鷄鳴の字は、推古天皇紀にも、アカツキ〔四字右○〕とよめり、)阿可等伎《アカトキ》は明時《アカリトキ》の義なり、集中假字書には、みな安可等吉《アカトキ》とあり、(阿可都伎《アカツキ》といふは、後の訛言なり、)字鏡に、※[日+出]旭※[日/各]《賂歟》などを阿加止支《アカトキ》とよめり、又※[日+斤](ハ)晨也、於保安加止支《オホアカトキ》ともあり、○御歌(ノ)意、吾(カ)兄子の大和(ノ)國へ上(リ)ます、その別のかなしさに、見おくりまゐえあするとて、もはや夜も更行たるに、曉おきの露に立ぬれし、其(ノ)艱難はいふばかりなしとなり、
 
106 二人行杼《フタリユケド》。去過難寸《ユキスギガタキ》。秋山乎《アキヤマヲ》。如何君之《イカデカキミガ》。獨越武《ヒトリコエナム》。
 
御歌(ノ)意は、二人手携はりて行ども、鹿の音木葉の散みだれなどして、甚物さびしくて、行過がたき秋山なるを、いかにしてか、只獨君が越賜ひなむとなり、むつまじき御はらからの、めづらしき、御對面《ミタイメン》にて、ほどもなく歸らせ給ふ御別には、かくもよませたまふべき事ながら、身(401)にしむやうにきこゆるは、謀反のことをきこしめして、事のなりならずもおぼつかなければ、又の御對面もいかならむ、とおぼしける御むねより出ればなるべし、と契冲の云る、信に然ることなり、
 
大津皇子《オホツノミコノ》。贈《オクリタマヘル》2石川郎女《イシカハノイラツメニ》1御歌一首《ミウタヒトツ》。
 
石川(ノ)郎女は、傳詳ならず、此(ノ)下に、字曰2大名兒1とあるは、同氏別人なるべし、こゝなるは、かの山田(ノ)郎女なるべし、
 
107 足日木乃《アシヒキノ》。山之四付二《ヤマノシヅクニ》。妹待跡《イモマツト》。吾立所沾《アガタチヌレヌ》。山之四附二《ヤマノシヅクニ》。
 
足日木乃《アシヒキノ》(木(ノ)字、仙覺註本には來と作り、)は、山《ヤマ》の枕辭なり、(日の言清て唱(フ)べし、古言清濁考に委(ク)出(ツ)、)さてこの詞の意、昔來《ムカシヨリ》くさ/”\説あれど、皆あたらず、(それが中に、近(キ)頃本居氏古事記傳に、阿志比紀《アシヒキ》は足引城《アシヒキキ》にて、足《アシ》は山の脚《アシ》、引《ヒキ》は長(ク)引(キ)延たるを云、城《キ》とは凡て一構《ヒトカマヘ》なる地を云て、此(レ)は即(チ)山の平なる處を云、其は周(リ)に限ありて、自《オノヅカラ》一(ト)かまへなればなり、されば足を引たる城の山、といふつゞけなりと云るは、舊説どもより見れば、こよなくすぐれて、古意を得たるに似たれども、なほよく思ふに、山の周(リ)に限ありとて、一(ト)かまへのものとせむは、いさゝけなる小山などこそあらめ、千里《チヘ》百疊《モヽヘ》奧域《オクカ》も知ぬ大山をば、いかでか、一(ト)かまへのものとはすべからむ、狹小《チヒサ》く倚《カタヨ》りたる、思(ヒ)量(リ)をはなれて、考へ見ずは、廣大無偏《ヒロクオホキ》なる古(ヘ)人の心詞には、協ふべきこ(402)とにあらずなむ、かく今までの説どもの、信がたきによりて、余《オノレ》年月かにかくに、おもひめぐらして、今やう/\に、一(ノ)義を思ひ得たり、)まづ阿志《アシ》は伊加志《イカシ》にて、(伊加《イカ》の切|阿《ア》、)茂檜木之《イカシヒキノ》と云なるべし、茂《イカシ》とは茂穗《イカシホ》、茂彌木生《イカシヤクハエ》、また重日《イカシヒ》、嚴矛《イカシホコ》、伊加志御代《イカシミヨ》などの茂《イカシ》にて、此《コヽ》は檜の木の茂み榮えたるを稱美《ホメ》て、茂檜木《イカシヒキ》とは云るならむ、(地(ノ)名に葦城《》、葦穗山《アシキアシホヤマ》などいふも、もしは、茂城《イカシキ》、茂穗《イカシホ》の義にはあらざるにや、然る意ならば、伊加志《イカシ》を切て、阿志《アシ》と云る例ともなるべし、)かくて檜をば、今(ノ)世には檜之木《ヒノキ》とのみ呼《イヘ》ど、古(ヘ)は比伎《ヒキ》とそいひけむ、都婆伎《ツバキ》といふも、もとは都婆《ツバ》と云けむを、(都婆市《ツバイチ》を、海石榴市《ツバイチ》と書るをも思(ヒ)合(ス)べし、)其を都婆乃木《ツバノキ》と云(ハ)ずして、都婆伎《ツバキ》と云る例をも合(セ)思(ハ)べし、さるは集中に、この枕詞を、足檜木とも多く書るを、七(ノ)卷また十一に三處、十二に二處までに、足檜《アシヒキ》とも書たるを合(セ)思(フ)べし、(比伎《ヒキ》と呼しならずは、檜の一字を、かくあまた所に、ヒキ〔二字右○〕に用ふべき謂《ヨシ》なし、)かくて山に屬くは、茂檜木《イカシヒキ》の生樹《オヒタテ》る山、と云意にいひかけたるものなり、さてしからば、生《オフ》とか樹《タツ》とかいふ言なくては、足はぬごと思ふめれど、其は白浪之濱《シラナミノハマ》、白管之眞野《シラスゲノマヌ》、炎之春《カギロヒノハル》(これら白浪のよする濱、白管の生る眞野、炎の燎る春の意なり、)などやうに云ること、枕詞にはあまた見えたれば妨なし、かくて山には數種《クサ/”\》の木あれば、檜をのみ云むは、いとかたくなしとおもふ人もあるべけれど、しからず、さるは檜は、諸木《キヾ》の長上《ツカサ》にして、此を眞木《マキ》とも稱へ云て、その長上《ツカサ》なる檜を云(ヘ)ば、其餘《ソノホカ》の諸木《キヾ》は、皆|自《オノヅカラ》其(ノ)中にこもれることな(403)ればなり、(集中に、眞》木之立荒山《マキノタツアラヤヤ》とも、眞木立山《マキタツヤマ》ともよめるをも思(フ)べし、)○山之四付二《ヤマノシヅクニ》(之(ノ)字、拾穗本には乃と作り、)は、山の草木よりしただる滴《シヅク》になり、(金葉集に、戀しさを妹しるらめや旅宿して、山のしつくに袖ぬらすとは、)十九に、足日木之山黄葉爾四頭久相而將落山道乎公之越麻久《アシヒキノヤマノモミチニシヅクアヒテチラムヤマヂヲキミガコエマク》とあり、○妹待跡《イモマツト》は、妹を待とての意なり、跡《ト》はとての跡《ト》なり、○沾(ノ)字、仙覺註本に洽と作り、○山之四附二《ヤマノシヅクニ》、上にのたまへる詞を、ふたゝび反覆《ウチカヘシ》てのたまへるは、その深切《フカキ》意をあらはし給へるなり、○御歌(ノ)意は、郎女を立待とて、山の草木よりしたゞる滴に沾て、吾(ガ)待居し、その久しき間の艱難をば、いかばかりとか思ふぞや、とのたまへるなり、妹待と山のしづくに吾立沾ぬ、と句を打かへして聞べし、
 
石川郎女《イシカハノイラツメガ》奉《マツレル》v和《コタヘ》歌一首《ウタヒトツ》。
 
108 吾乎待跡《アヲマツト》。君之沾計武《キミガヌレケム》。足日木能《アシヒキノ》。山之四附二《ヤマノシヅクニ》。成益物乎《ナラマシモノヲ》。
 
吾乎待跡《アヲマツト》は、吾を待とての意なり、跡《ト》はとての跡《ト》なり、○歌(ノ)意は、吾を待賜ふとて、君が沾賜ひけむ、その草木の、滴《シヅク》にだにもなりてあらましものを、さらば疾(ク)君に配(ヒ)居て、とにかく障り多くて、すみやかに出合まゐらすることもえせずて、心の内にのみくるしみをりし、そのかなしみはせじをとなり、
 
大津皇子《オホツノミコ》。竊2婚《シヌヒアヒタマヘル》石川女郎《イシカハノイラツメニ》1時《トキ》。津守連通《ツモリノムラジトホルガ》占2露《ウラヒアラハセレバ》其事《ソノコトヲ》1。皇子御作歌一首 《ミコノヨミマセルミウタヒトツ》。
 
(404)女郎、拾穗本には郎女と作り、○津守(ノ)連通は、續紀に、和詞七年正月甲子、正七位上津守(ノ)連通授2從五位下(ヲ)1、十月丁卯、爲2美作(ノ)守(ト)1、養老五年正月甲戌、詔曰、宜(丙)擢d於百僚之内、優2遊(シ)學業(ニ)1、堪(タル)v爲(ルニ)2師範(ト)1者(ヲ)u、特(ニ)加(テ)2賞賜(ヲ)1、勸(メ)(乙)勵(ス)後生(ヲ)(甲)、因賜2陰陽從五位下津守(ノ)連通(ニ)、※[糸+施の旁]十疋、絲十※[糸+句]、布二十端、鍬二十口(ヲ)1、同七年正月丙子、從五位上など見ゆ、卜道に勝(レ)たりし人と見えたり、○其事の下、拾穗本に時(ノ)字あれど、上に時とあれば、わづらはしくつたなし、
 
109 大船之《オホブネノ》。津守之占爾《ツモリガウラニ》。將告登波《ノラムトハ》。益爲爾知而《カネテヲシリテ》。我二人宿之《ワガフタリネシ》。
 
大船之《オホブネノ》は、(十五に、於保夫禰《オホブネ》とあるによりて、夫《ブ》を濁て唱(フ)べし、)津《ツ》といはむとての枕詞なり、大船の泊る津のよしなり、百般の泊る津島《ツシマ》などもいへるに同し、○將告登波《ノラムトハ》は、十一に、事靈八十衢夕占問占正謂妹相依《コトタマヲヤソノチマタニユフケトフウラマサニノレイモニアハムヨシ》、玉鉾路往占占相妹逢我謂《タマホコノミテユキウラニウラナヘハイモニアハムトアレニノリニキ》、又|夕卜爾毛占爾毛告有今夜谷《ユフケニモウラニモノレルコヨヒダニ》、十三に、夕卜之吾爾告良久《ユフウラノアレニノラク》など見ゆ、心《ウラ》にあらはるゝを、告《ノル》といへり、又出るとも云り、十四に、武藏野爾宇良敝可多也伎麻麻左?爾毛乃良奴伎美我名宇良爾低爾家里《ムサシヌニウラヘカタヤキマサテニモノラヌキミガナウラニデニケリ》、又|於布之毛等許乃母登夜麻乃麻之波爾毛能良奴伊毛我名可多爾伊底牟可母《オフシモトコノモトヤマノマシハニモノラヌイモガナガダニイデムカモ》などもあり、○益爲爾知而は、益爲爾の三字は、必《キハメ》て誤字なり、(岡部氏が、益爲爾《マサシニ》は正《マサ》しになりといへれどいかゞ、さらば直に益爲久《マサシク》とこそいはめ、西行が立春の歌に、まさしに見えてかなふ初夢とよめるは、今の御歌の誤字によりてよめるなれば、證とするにたらず、又略解に、本居氏の説とて、爲《シ》は?の誤な(405)らむと云て、十四の卷に、武藏野のうらへかたやき麻左?《マサテ》にも、とあるを據とせれど、かの十四なる麻左?《マサテ》は、同卷に、可良須等布於保乎曾杼里能麻左低爾毛伎麻左奴伎美乎許呂久等曾奈久《カラストフオホヲソドリノマサテニモキマサヌキミヲコロクトソナク》ともありて、麻左?《マサテ》は眞實《マサネ》の意なり、略解に、まさては正定《マササダ》の意ならむ、と云るもあらず、麻左?《マサテ》に告《ノル》は、俗にあり樣《ヤウ》有體《アリテイ》に告《ノル》といふことにて、麻左?《マサテ》の詞皆然り、されば占に、眞實に告たることにこそいはめ、こゝはそれとは意かはりて、占に告むことを、豫心に知(リ)居たるよしなれば、さは云べからざるをや、かれ強て嘗試《コヽロミ》にいはゞ、)益は兼の誤、兼益草書似たり、爲は而の誤、爲而草書似たり、爾は乎の誤、乎を※[乎の草書]の草書に作ときは※[尓の草書]に混ひ易し、さらば兼而乎知而《カネテヲシリテ》なり、乎《ヲ》はことをおもく思はする助辭なり、○我二人宿之《ワガフタリネシ》、古事記中卷神武天皇(ノ)大御歌に、阿斯波良能志祁去岐袁夜爾須賀多多美伊夜佐夜斯岐?和賀布多理泥斯《アシハラノシケコキヲヤニスガタヽミイヤサヤシキテワガフタリネシ》、○御歌(ノ)意は、津守連が卜筮に、かくうらなひ、露顯《アラハ》されむとは、兼て心には知たれども、堪忍ぶことを得爲ずして、吾(カ)二人相宿してしとなり、
 
日並皇子尊《ヒナミノミコノミコトノ》贈2賜《オクリタマヘル》石川女郎《イシカハノイラツメニ》御歌一首《ミウタヒトツ》 【女郎。字曰2大名兒1。】
 
日並(ノ)皇子(ノ)尊は、天武天皇の皇子、草壁(ノ)皇子(ノ)尊の更名《マタノミナ》にて、御母は※[盧+鳥]野讃良皇女なり、持統天皇(ノ)紀(ニ)云、天命開別天皇元年、生2草壁(ノ)皇子(ノ)尊(ヲ)於大津(ノ)宮(ニ)1、天武天皇(ノ)紀(ニ)云、十年春二月庚子朔甲子、云々、是日立2草壁(ノ)皇子(ノ)尊(ヲ)1、爲2皇太子(ト)1、因以令v攝2萬機(ヲ)1、十四年春正月丁末朔丁卯、授2淨廣壹(ノ)位(ヲ)1、持統天皇(ノ)(406)紀(ニ)云、三年夏四月癸未朔乙未、皇太子草壁(ノ)皇子(ノ)尊薨、續紀(ニ)云、天平寶字二年八月、勅、日並知(ノ)皇子命、天下未v稱2天皇(ト)1、追2崇尊尊號1、古今恒典(ナリノ、自今以後、宜v奉v稱2岡(ノ)宮御宇天皇(ト)1とあり、同紀云、神護景雲四年夏四月庚辰、以2日並知(ノ)皇子(ノ)命薨日(ヲ)1、始入2國忌(ニ)1などあり、さて日並知は、ヒナミシラス〔六字右○〕と訓べし、そは日並所知とも書たるにて知べし、(ヒナメシ〔四字右○〕と訓むはいとわろし、さては所知と書るに叶はざるなり、)續紀四(ノ)卷詔に、日並知(ノ)皇子之嫡子とある處、一本には日並所知と書(キ)、又本朝月令五月五日節會(ノ)事條に、右官史記を引て云、太上天皇(日並所知(ノ)皇子(ノ)命之后也、)元年四月、勅云々などあり、かく思ひ定めて後、栗原寺の、塔の露盤の記文の寫しを見るに、此(ノ)栗原寺者、仲臣(ノ)朝臣大島、惶惶誓願、奉d爲大倭(ノ)國淨美原(ノ)宮(ニ)治2天下1天皇時、日並御宇東宮《ヒナミシラスノヒツギノミコノ》u敬造2迦藍(ヲ)1、云々とあり、これ日並御宇を、ヒナミシラス〔六字右○〕と訓ずして、何とか申さむ、己が考(ヘ)たがはざりけり、さて歌には、少彦名《スクナヒコナノ》神を省て少彦《スクナビコ》とも少御神《スクナミカミ》とも申せしごとく、日並所知《ヒナミシラス》を省て日並と作、又常語にもしか申せしから、集中には日並とのみ書るなり、一(ノ)卷にも日雙斯皇子命乃《ヒナミノミコノミコトノ》(斯は、能字の誤なり、)と見え、此(ノ)下にも日並と書き、且目録にも日並とのみ書たれば、もとより知(ノ)字を脱せるには、あらざることをさとるべし、○贈賜、贈(ノ)字、目録にはなし、賜(ノ)字、類聚抄にはなし、○石川(ノ)女郎は傳詳ならず、○字曰2大名兒1、(大名兒の三字、舊本に脱せり、目録又類聚妙古寫本等に從つ、)字は阿邪那《アザナ》と訓り、名(ノ)義は未(タ)詳ならず、(谷川(ノ)士清が倭訓栞に、あざなは、交名《アザナ》の義なり、人(407)に交るより、呼る名なればなりと云り、人に交るより呼とは、人と我と互に名をば諱《ハヾカ》りて、字を呼交すことなり、名は常に云、實名名乘のことなり、かゝれば此(ノ)説は、いはれたる如おもはるれど、なほ古言の趣にもとれり、其(ノ)由は、字《アザナ》の自《オノヅカ》ら交《アザナ》はる義ならば、さもあるべきを、人の呼交すを、やがて直に交名といはむごときは、古意ならず、又一説に、あだ名の義といへるも意得ず、異名《アダナ》の意ならば、直に阿陀志名《アダシナ》とこそいふべけれ、さてもなほさはいふべきにあらず、猶よく考(フ)べし)そも/\上古には、氏姓名の三(ツ)ありて、其(ノ)餘字號などいふものは、さらになかりしなり、(氏姓のことは、別にいはむ、)さてその名と云ものは、もと其(ノ)人の容貌功勞、其外なにくれの由縁ありて、其を賛美《ホメ》て負せたるものなり、されば名を呼は、其人を尊むかたなり、古天皇皇后皇子などにほ、御名代《ミナシロ》と云ことのありしにても、後に名を稀《イフ》を不敬とするとは、表裏のたがひにて、その尊稱なりしをしるべし、(清寧天皇は生《アレ》ましながら、御髪白(ク)おはしましける故、御諱を白髪(ノ)天皇と申しき、此天皇、御子おはしまさゞりけるが故に、御名の後世までのこるべきことをおもほしめして白髪部をおかせたまへる類なり、これ忌避るとは、反對《ウウウヘ》ならずや、さてしからば、其(ノ)名は自《ミヅカラ》は稱まじきことぞ、と思ふは漢意なり、其人の負持たらむうへは自《ミヅカラ》他《ヒトヨリ》の差別《ワカチ》は、いかでかあらむ、)かゝるを漢國には、姓氏名字號の五(ツ)ありて、自稱には、かならず名をいひ、人より呼には、必(ス)字を稱(ヒ)、また其(ノ)名と字との間に、人より權《カリ》に呼ぶ稱を(408)號と云り、さて人の名を呼、自字を稱(フ)をば、いたく不敬とせり、これによりて、世の漢學者は、御國にもとより字號のなかりしことを、缺典の如思ふめり、又かの字號のなきを、あかぬことにおもひて、自《ラ》私に字號をまうけてつくるは、近き世の儒者どもの常の風にて、めづらしからぬことなり、こはことにをかしきことぞ、人は氏姓名だにあれば、古今に貫通《ワタリ》て、ことたれるものなるをや、抑々萬の事、こまかにこちたく定むるは漢國の風俗にして、まづさしあたりては、正しくきはやかなるが如くなれども、凡て何事も、もとよりしかこまかにするは、よからぬことにて、たゞ萬づことずくなに、大らかなるこそ、世(ノ)中の眞のなりにて、天下も、おだひに治まるものにはありけれ、さるをかの漢國などは、もと人の心惡くさがなくて、やゝもすれば、事の亂のいと多かりしより、其を救むがためにこそ、萬(ツ)をこまかに定めつるものなれ、凡《オホヨ》そ人の世は、ことだに足ばあかぬことはなきを、強てなほこまかにこちたくさだめごとせむは、がへりて、混雜の基とはなるべきものぞ、近くたとへば人の身の、病に罹りたらむほどにこそ、藥を嘗てそを治むる方《ミチ》こそあれ、たゞに病無て健實ならむに、譯を服《ハマ》むは無益《イタヅラ》ならずや、そはたゞに無益のみにもあらず、かへりては其(ノ)身を傷ふこともあるものをや、世(ノ)中の萬の事、みなかくのごとし、さてやゝ此方にても諸の事、皆漢國風をうつし學ぶ世となりてより、名を呼を不敬とすることにはなれりしことよ、めでたくおむかしき古風を失へる、(409)大《イミ》しき時世の變《ウツロヒ》なりけり、(故(レ)天皇をば、某(ノ)宮御宇天皇と記して、かりにも、御諱をば書さず、歌詞にも、明日香能清御原乃宮爾天下所知食之八隅知之吾大王《アスカノキヨミハラミヤニアメノシタシロシメシヽヤスミシヽワガオホキミ》とやうに申し、さて又高位高官の人(ノ)名を避て、或は鎌足公を内大臣藤原(ノ)卿、諸兄公を左大臣橘(ノ)卿など、題詞にも記したり、しかれども、そはかの漢國風をうつしとられし世となりて、名を呼を不敬とすることになれる以降《コナタ》の事にて、其(ノ)風の行はれざりし、上(ツ)代の人名をば、漢國風のうつれる後の人のいふにも、忌避る事なくして、たとひやむごとなきかぎりなりしをも、上(ツ)代のまゝに申せしなるべし、されば足姫神《タラシヒメカミノ》尊なども、奈良人のよみたることありしと見えたり、さてついでにいはむ、かやうに名を避ることの、嚴しくなれる世の風となりても、なほ皇太子皇子諸王の御名をば、いさゝかつゝましげなく、題詞に高市(ノ)皇子(ノ)尊、或は舍人(ノ)皇子、或は軍(ノ)王などやうに多くしるし、まして歌詞にさへ、日並乃皇子(ノ)命、或は麻續(ノ)王三野(ノ)王などよみて、すべて忌避る事なきは、天皇(ノ)御諱にも、又臣下の名にも、各別なる理なること、一(ノ)卷(ノ)中に委(ク)辨(ヘ)たり、)さてしか名を呼を不敬とするより、其の名をば避て、官位姓氏職業などをよび、或は字《アザナ》をも負せて、呼しことゝ見えたり、(されば此(ノ)集などの頃はさらにもいはずその以降《ノチ》人の名を呼し例、かつてなし、古今集に、藤原(ノ)公利によみてやれる歌に、朝なけに見べき君とし、とよみて贈れるは、その名をさしあてゝいふことを憚りて、わざとかくしてよみ入たるを思(フ)べし、又後撰集に、在原(ノ)(410)利春が身まかりける時に、伊勢が來むとし春の花を見じとは、とよめる、此はその人を、外にていふさへはゞかりて、其(ノ)名をかくしたり、古今集壬生(ノ)忠岑が長歌に、あはれ昔邊《ムカシヘ》在《アリ》きてふ人麻呂こそはうれしけれとあるは、もとより賤官の人(ノ)名を、避しことありしならねど、それも其(ノ)人にさし對(ヒ)などしては、さいふべからず、遠昔の人なれば、なてふことなし、枕册子に、義嵬《ヨシチカ》中納言の名をしるしながら、上達部の御名書べきにあらねど、御ありさま常人にまさりておはする故に、他人にまがはじがために、わざと名をあらはせるよし、かたがたことわりたり、又同册子に、殿上人宰相などの名を、つゝましげならずいふは、いとかたわなることなり、といたくそしれり、かろからぬ人をば其(ノ)人のなき所にて、常のことどひにいふさへ、その名をいふをば、不敬とせること思ふべし、これ此(ノ)集に、高位高官の人(ノ)字を避て、書《シル》さゞると同理なり、大鏡三に、太政大臣小野(ノ)宮實頼公の御稚名を、牛飼と申しき、さればその御族は、牛飼をば牛つきとのたまひしなり、と見えたり、是(ノ)類多し、吾妻鏡に、平(ノ)時子が頼家を諌めたる語に、源氏等者幕下之一族、北條者我(カ)親戚也、仍先人頻(ニ)破v施2芳情(ヲ)1、常(ニ)令v招2座右(ニ)1給、而今於2彼輩等(ニ)1、無2優賞1、剰皆令v喚2實名(ヲ)1給之間、各以貽恨之由有2其(ノ)聞1、とあるを見れば、彼(ノ)頃もさし對(ヒ)て、その人(ノ)名を呼をば、こよなく不敬とせることにて、吾(カ)身より下ざまの輩をも、たやすくは呼ざりしこと知れたり、さはいへど、名を避ることは、漢風みさかりになりてより、このかたの事にこそ(411)あれ、上に辨へたる如く、その根源《モト》は其(ノ)人を賛美て、負せたる名なれば、いかで名を呼を、無禮とやはせむとて、千有數百年來《チトセヤホトセコナタ》の風にもとりて、今(ノ)世に物せむことは、かりにもあるまじきわざなれど、其(ノ)本義は、かやうにてありしと云ことを、辨(ヘ)知ざるときは、時世の變革を考(フ)べからずと知べし、さてかゝれば、今(ノ)世にては、天皇大臣の御名はさらなり、身のほど/”\につけて、君父等の名をば、かりにもいふまじき事なるに、近(キ)世には吾(カ)主君の實名をさして、いさゝかつゝましげなく、某公某君など、常に口にもいひ、物にも記しなどすめるは、其(ノ)本義を辨(ヘ)たるにもあらず、世風を考(ヘ)たるにも非ず、たゞ何心なく暗愚《オロカ》なるよりの事なり、いかに暗愚なればとて、自の主君の名をさしていふこと、今よりして思へば、あさましく、かたはらいたきわざならずや、)さてそは何(ノ)時より、しかるぞと云に、其は詳には知(リ)がたし、孝徳天皇の御代ばかりや、かつがつさることにはなれりけむ、(かの御代に、其(ノ)御名を輕々しく呼(フ)ことを、可畏《カシコ》しとして、御名代を置るゝことをやめられ、又|字《アザナ》云ことの見え始たるも、かの御時なり、凡て萬(ツ)漢風を學びとられたるも、其(ノ)時よりなればなり、)されど人の名をば、諱《ハヾカ》りて勿呼《ナヨビ》そ、又人毎に字つけよと云、うるはしき御制は、後までもなきことなれば、唯自然に漢風にうつれるものならむ、(但し人の名をば、避て勿呼そ、といふ御制のありしことは、聞及ばねども、そはたまたまその旨の史籍にもれたることもあらむか、光仁天皇の御名を、白壁《シラカベノ》王と申し、桓武天皇(412)の御名を、山部《ヤマベノ》王と申しけるが故に、白髪部の姓を、眞髪部に改め、山部の姓を、山と爲よ、と續紀延暦四年五月詔に見え、その後淳和天皇の御名を、大伴と申しける故、大伴の姓を、件と呼(ヒ)、後嵯峨天皇御名を、國人と申しける故、國人とあるをば、クニタミ〔四字右○〕と唱へ、後宇多天皇の御名を、世仁と申しける故に、世人とあるをば人とのみ呼せられたり、又平城天皇大同四年九月乙巳、改2伊豫(ノ)國神野(ノ)郡(ヲ)1、爲2新居(ノ)郡1、以v觸2上(ノ)諱(ニ)1也、と後紀に見え、仁明天皇天長十年、天下諸國、人民姓名、及郡郷山川等(ノ)號、有(ハ)2觸v諱(ニ)者1、皆令2改易(セ)1、とも類聚國史に見えたり、光仁天皇の御名を避しより以往《アナタ》、諱を避し制見えざれば、其(ノ)世よりのことかともいふべけれども、それより先にもありしことの、たま/\史籍に傳はらぬこともあるべし、さて是は、皆天皇の御諱の御うへの事にこそあれ、なべての人の名を呼をば、不敬とせよとの制は見えざれども、前にもいへる如く此(ノ)集前後よりこのかた、すべて人(ノ)名を憚りし旨なれば、さる詔のありしが、たま/\傳はらぬことも有べし、とはいふなり、さばれ人毎に、字つけよといふ御制は、まことに後までもありしことゝ思はねば、ことさらに字つくるは、自私のわざなりと知べし、)かゝれば、此方にて阿邪名《アザナ》と云しは、唯に名のかはりに、人より呼料にて、漢人の字とは異れども、亦其(ノ)樣大かたは似たるものなるゆゑに、字とは書るなり、(漢國にては、男子は二十歳になりて、冠し字つけて、それを表徳號とも云、女子は十五歳になりて、嫁を許して、笄し字つくと云て、定れ(413)る禮式なり、此方にて字と云は、制禮の外なれば、もとよりさることはさらになし、されど人より呼稱なるゆゑに、また大かたかの字に近し、)號は又ことに無用のものなれば古くは聞も及ばず、たま/\史籍どもの中に、某號(ヲ)曰v某(ト)と云ことはあれども、そはたゞいとかりそめに呼なせるものにて、ことさらに號と云名目の、定りたるものにはあらず、かくて字《アザナ》といふものゝ、古くものに見えたるを考るに、まづ書紀仁賢天皇(ノ)卷に、億計天皇、諱(ハ)大脚《オホシ》、字(ハ)島郎《シマノワクゴ》云々、細書云、更名(ハ)大爲《オホシ》、自餘諸天皇、不v言2諱字(ヲ)1、而至2此天皇(ニ)1、獨自書者、據2舊本(ニ)1耳、(こは顯宗天皇(ノ)卷細書に、譜第曰、市(ノ)邊(ノ)押磐(ノ)皇子、娶3蟻臣(ノ)女※[草がんむり/夷]媛(ヲ)1、遂生2三男二女(ヲ)1、云々、其二曰2億計王1、更名島(ノ)稚子《ワクコ》、更名大石(ノ)尊、云々とあるによりて、島郎はシマノワクゴ〔六字右○〕と訓べく、諱と云(ヒ)字と云るは漢文風に書れたるのみの事にて、實は大脚《オホシ》も島郎《シマノワクゴ》も、たゞ更名《マタノミナ》なるをも知べし、又大脚大爲大石と書るも、字面のかはれるのみにて、皆全同じ、然れば當昔《ソノカミ》、字《アザナ》と云し例證とは、すべくもあらねど、字といふものゝ、ものに見えたる始なれば、まづこゝに引つ、)孝徳天皇(ノ)卷に、大伴(ノ)長徳(ノ)連、字(ハ)馬飼、同卷に、蘇我(ノ)日向、字(ハ)身※[尖+立刀]《ムサシ》、(此等も上に同じく、たゞ更名を、漢文に字と書れたるものともいふべけれど、なほ此(ノ)ごろは、うけはりて字と云しにも有む、)集中には此下に、大伴(ノ)田主、字(ハ)曰2仲郎《ナカチイラツコト》、十六豐人(ノ)歌に、造駒土師乃志婢麻呂《コマツクルハシノシビマロ》云々とありて、右歌者傳云、大舍人土師(ノ)宿禰水道、字(ヲ)曰2志婢麻呂《シビマロト》1也、於時大舍人巨勢(ノ)朝臣豐人、字(ヲ)曰2正月麻呂《ムツキマロト》1、又同卷家持卿歌に、石麻呂爾吾物申《イハマロニアレモノマヲス》云々と(414)ありて、右有2吉田(ノ)連老1、字(ヲ)曰2石麻呂《イハマロト》1、云々など見えたり、(女の字《アザナ》は次に引べし、)現報靈異記に、大和國添上郡、有2一(ノ)凶人1也、其名未v詳、字(ヲ)曰2瞻保《ミヤスト》1、又奈良(ノ)古京藥師寺(ノ)僧顯惠禅師、字(ヲ)曰2依網《ヨサミノ》禅師(ト)1、俗姓依網(ノ)連、故以爲v字(ト)云々、彼(ノ)里(ニ)有2一(ノ)凶人1、姓(ハ)文(ノ)忌寸也、字(ヲ)曰2上田(ノ)三郎(ト)1、矣、又利苅(ノ)優婆夷者、河内(ノ)國人也、姓(ハ)利苅(ノ)村主、故以爲v字(ト)又彼(ノ)牛云々、而言我者在2櫻村1物部(ノ)麻呂也、字(ヲ)號《イフ》2鹽舂《シホツキト》1也、又牟婁沙彌者、榎(ノ)本氏也、自度无v名、紀伊(ノ)國牟婁(ノ)郡(ノ)人、故(ニ)字(ヲ)號《イヘリ》2牟婁抄彌《ムロサミト》1者、又丹治比(ノ)經師者、河内(ノ)國丹治比(ノ)郡(ノ)人、姓(ハ)丹治比、故以爲v字(ト)など見ゆ、又家傳(僧空海作、)上卷(ニ)云、内大臣、諱鎌足、字(ハ)中郎、云々(此(ノ)外にもなほ有べきを、今はおほかた記得《オホエ》たるのみを擧つ、又凡そ字を負りし人も多かりけむ、されど史籍などには、官位氏姓名のみを載られ、其外の古書にも、大かた字をば記さず、そは上にも云る如く、字は制禮の外にて、漢國の如く、氏姓名の列にはのせざるがゆゑなり、)などあるによれば、名の外に負せてよぶを、阿邪名《アザナ》といへるなり、さてそは、もはら人より呼名なるが故に、(右の依網(ノ)禅師、利苅(ノ)優婆夷、丹治比(ノ)經師などの類は、また正しく、字ともいふべきものゝ如くならねども、人よりしか呼なれたるうへは、字なり、)漢人の字といふものに、大かたは似たる故に、やがて其(ノ)字《モジ》を用ひ來しなり、(かくて右の大伴(ノ)田主の字、仲郎、また文(ノ)忌寸姓の人の字、上田三郎、鎌足大臣の字、仲郎といひし類によれば、彼の世に、某二郎某三郎などと云を、字と云も、それと同じことなり、又某左衛門某右衛門某兵衛某大夫某(ノ)助某(ノ)丞某(ノ)進などいふも、も(415)とは官名を犯せるわざにて、あたらざることは、さらなることながら、名の外によぶから、是等をも阿邪名《アザナ》といはむは、あたらぬことにはあらず、)素性法師集に、天暦の御獵せさせ給(ヒ)て、河内國にやすませ給に、まかり歸りなむと申しを惜ませ給(ヒ)て、素性が阿邪名《アザナ》を、よしよりとつけさせ給(フ)に云々、玉海(月輪禅定兼實公日記、)に、安元三年四月廿日宣旨、依v奉(ルニ)v射2神輿與(ヲ)1、給2獄所(ニ)1輩、平(ノ)利家、(字平次、)同家兼、(字平五、)田使(ノ)俊行、(字(ハ)難波五郎、)藤原(ノ)通人、(字(ハ)加藤田、)同成直、(字(ハ)早尾(ノ)十郎、)同光景、(字(ハ)新次郎、)また新猿樂記に、大(イ)君(ノ)夫云々、字(ハ)尾藤太、名(ノ)傳(疑傅)治《ハル》、また中(ノ)君(ノ)夫云々、不v知2姓名(ヲ)1、字(ハ)元(ト)名2勲藤次(ト)1、又五(ノ)君(ノ)夫云々、姓(ハ)菅原名(ハ)匡文、字(ハ)菅綾三、又七(ノ)御許者云々、件(ノ)夫(ノ)字(ハ)越方《チチカタ》部津五郎、名(ハ)津守(ノ)持行云々、吾妻鏡(一(ノ)卷)に、北條殿(ノ)雜色字(ハ)源藤太、また(二(ノ)卷(惡僧(ノ)張本、戒光字(ハ)大頭八郎房、また(四(ノ)卷)番匠一人字觀能(ト云)者、又内府(ノ)子息六歳童形字(ハ)副將、又(五(ノ)卷)中將惟盛(ノ)卿嫡男字(ハ)六代、また甘繩邊(ノ)土民字(ハ)所司二郎、又(六(ノ)卷)左馬(ノ)頭(ノ)御使字(ハ)藤内、又(八(ノ)卷)伊勢(ノ)國志禮石(ノ)御厨子字輪田右馬(ノ)允、また山賊(ノ)主字(ハ)王藤次、又(九(ノ)卷)季衡(カ)子息字(ハ)新田(ノ)冠者經衡、又(十(ノ)卷)犬丸菊松(ノ)地頭字(ハ)美濃(ノ)道上、又(十七)將軍家(ノ)若君字(ハ)善哉、又(十八)大將軍(ノ)二男若君字(ハ)千幡君、又(廿一)胤景(カ)舍弟小童字(ハ)江丸、又(卅一)左京兆(ノ)孫子小童字(ハ)戒壽、又(卅九)左親衛(ノ)妾男子平産云々、今日被v授2字(ヲ)寶壽(ト)1、元享釋書七(ノ)卷に、釋(ノ)辨圓、字(ハ)圓爾、以v字(ヲ)行、十一に、釋(ノ)眞興棲2子島(ニ)1、後人貫之不v字《アザナイハ》、呼2子島(ノ)先徳(ト)1、十三に、釋(ノ)俊※[草がんむり/仍]、字(ハ)不可棄、十七に、鎭守府將軍平(ノ)維茂者、前將軍貞盛之姪也、以v有2勇材1、養爲v子(ト)、字(シテ)之曰2餘五(ト)1、(今(416)昔物語に、丹波守平(ノ)貞盛と云ける兵の弟に、武藏(ノ)權頭重成と云が子、上總(ノ)守兼忠が太郎なり、其を曾祖伯父貞盛が甥が子などを、皆取り集て養子にしけるに、此(ノ)維茂は甥なるに、亦中に年若かりければ、十五郎に立て、養子にしければ、字を餘五君とは云けるなり、)また今昔物語に、備中の國□□の郡に、藤原の文時と云者有けり、字をば大藤大夫と云、又陸奧の前司平(ノ)朝臣孝義と云人あり、其(ノ)家に郎等に仕(フ)男有けり、實名は不v知、字をば藤二とぞ云ける、又藤原(ノ)諸任、字をば澤胯五郎と云、又上總守平(ノ)維時朝臣、云々、其郎等に家名はしらず、字は大紀と云者あり、又傅大納言と云人おはしき、名を道綱と云、云々、其家にひさしくつかはるゝ侍あり、字を内藤と云など見えたり、(大和物語に、藤原(ノ)忠文が男の事を、わらはにて殿上して、大七といひけるを、源氏物語玉蔓に、この三條にとはむ兵藤太といひし人もこれにこそあらめ、などあるも、皆所v謂あざななり、)かくて又其(ノ)除に、續紀(廿一)廢帝天平寶字二年、以2紫微(ノ)内相藤原(ノ)朝臣仲麻呂(ヲ)1任2大保(ニ)1、勅曰、云々、朕舅之中、汝卿良尚(シ)、故字(ヲ)稱2尚舅(ト)1云々、三代實録(十四)に、藤原(ノ)朝臣良繩卒、良繩字朝台、又(十七)春澄(ノ)朝臣善繩薨、善繩字(ハ)名v達(ト)、文徳天皇實録(五(ノ)卷)に、和氣(ノ)朝臣貞臣卒、貞臣(ハ)字和仁、(八(ノ)卷)氷宿禰繼麻呂卒、經麻呂字(ハ)宿榮、又(十(ノ)卷)文室(ノ)朝臣助雄卒、助雄者、云々、字(ハ)王明、又山田(ノ)連春城卒、春城字(ハ)連城、文粹八(ノ)卷に、延暦寺(ノ)尊敬上人、俗姓(ハ)橘氏、名(ハ)在列、字(ハ)郷、十(ノ)卷に、崇仁坊(ノ)北(ニ)有2一風亭1、姓(ハ)源字(ハ)文是(レ)其(ノ)主也、十二、藤原(ノ)有章(カ)讃に、字(ヲ)曰2藤群(ト)1、源(ノ)元忠(カ)讃(ニ)、字(ヲ)曰2源桂(ト)1など見(417)え(江談抄二(ノ)卷に、藤慶者、(道明大納言(ノ)字、云々、)藤文者、(右衛(ノ)字、云々、)藤賢者、(有國(ノ)字、云々、)式大者、(惟成(ノ)字、云々、)ともあり、又此(ノ)餘、文屋(ノ)康秀を文琳と云(ヒ)、菅家を菅三と云(ヒ)、三善(ノ)清行を三耀と云(ヒ)、紀(ノ)長谷雄を紀寛といひ、平(ノ)貞文を平仲といひ、曾根(ノ)好忠を曾丹といひし類、儒者のせしことにて、是は常に呼交す字にもあらず、もと漢人の字にならへる物にて、かの字とも亦自異なり、又源氏物語未通女(ノ)卷に、夕霧(ノ)君に、ひむがしの院にて、あざ名つけしことも見ゆ、(抄に、學生入學の時、文章院の堂監《ダウゲン》に書くだす名簿に、あざなを書なりと云り、中ごろ儒者たるものゝ、せしことありしにや但し此は、古昔は已冠而字(ツク)之、といふ禮式の、必(ス)行はれしことなるに、當時此(ノ)式の廢れて、行はれざりしから、人々もめづらしく、あやしきことに思へるさまに、書なせるなるべし、さるは、此(ノ)字《アザナ》つくと云、きはやかなる典式の、もとよりなかりしを、あかず口をしきことに、かねて思へるより、わざとその頃、廢れ居たる事のやうに云るならむ、)又|旅人《タビト》を淡等、(公卿補任に、大伴(ノ)宿禰旅人、天平二年十月朔、任2大納言(ニ)1改2名(ヲ)淡等(ト)1、とあるは誤なり、旅人を淡等とも、多比等とも書るなり、)史《フビト》を不比等、馬飼《ウマカヒ》を宇合、長谷雄《ハツセヲ》を發昭、清行《キヨツラ》を居逸、葛野《カドノ》を賀能、匡|房《フサ》を萬歳と書る類は、反名とかいひしものにて、字とも異れり、思ひ混ふべからず、(神鏡抄に、式部(ノ)大輔藤原(ノ)敦光曰、賀能(ハ)乃葛野之反名也、云々、匡房(ノ)反名萬歳、通憲(ノ)反名|民輪《ミワ》、猶3葛野稱2賀能(ト)1也、)かくて此女に字と記せるは、常の名(男の實名名乘と同じ、)のことを、字とも通(ハシ)云りと見え(418)たり、其(ノ)由は、女(ノ)名は古(ヘ)より後まで、男(ノ)名の如く、諱て人より呼ず、といふことはなかりし故、(其(ノ)證これかれあり、)自も稱(ヒ)人よりも呼しことなれば、名とも字とも記せるなるべし、さてその女(ノ)字の古くより見えたるは、此(ノ)下に、石川(ノ)女郎、(女郎、字(ハ)曰2山田(ノ)女郎(ト)1也、)六(ノ)卷に、送v卿(ヲ)府吏之中、有2遊行女婦1、其(ノ)字(ヲ)曰2兒島(ト)1也、又豐前(ノ)國娘子、(娘子字(ハ)曰2大宅(ト)1、姓氏未詳、)十六に、昔者有2娘子1、字(ヲ)曰2櫻兒(ト)1也、又昔有2三男1、同娉2一女(ヲ)1也、(娘子字(ハ)鬘兒、)十八(ノ)歌に、左夫流其兒爾《サブルソノコニ》云々、注に、言2左夫流(ト)1者、遊行女婦之字也、廿(ノ)卷に、藤原(ノ)夫人(ノ)歌、(淨原(ノ)宮(ニ)御宇天皇之夫人也、字(ヲ)曰2氷上(ノ)大刀自(ト)1也、)靈異記に、粟(ノ)國名東(ノ)郡埴村(ニ)有2女ヒト1、(字(ヲ)曰2多夜須古(ト)1、正姓名未v詳〔頭注【名東彰考、名方群書類聚】〕吾妻鏡(四(ノ)卷)に、伊豫(ノ)守義仲(ノ)朝臣妹公字(ハ)菊《キク》、又(五(ノ)卷)豫州(ノ)妾女字(ハ)靜《シヅカ》、又(十(ノ)卷)故左典厩(ノ)御乳母、字(ハ)摩々局《マヽノツボネ》、又(十六)故將軍(ノ)姫君、字(ハ)三幡、今昔物語に、姓は文の忌寸、字は上田の三郎と云、云々、其(ノ)人の妻あり、姓は上毛野の公、字は大橋乃女と云など見えたり、かくて又(なほついでにいはむとす、)此(ノ)餘に、田地の字《アザナ》、(これもやゝ古き代の文書に、字と書《シル》せり、)某(ノ)字といふことあり、(靈異記に、諾樂(ノ)京東山(ニ)有2一寺1。號曰2金熟(ト)1、金熟優婆塞住2此山(ニ)1、故以爲v字(ト)、また沙門信行者、紀伊(ノ)國那賀(ノ)郡彌氣(ノ)里人云々、其(ノ)里有2一道場1、號曰2彌氣山室堂1、其村(ノ)人等造2松之堂1、故以爲v字などある類なり、)是はたゞ名といふことを、字と書せるにや、(猶字のことは、別にも記せり、)
 
110 大名兒《オホナコヲ》。彼方野邊爾《ヲチカタヌヘニ》。苅草乃《カルカヤノ》。束間毛《ツカノアヒダモ》。吾忘目八《アレワスレメヤ》。
 
(419)大名兒《オホナコヲ》は、第四(ノ)句の次に置て心得べし、(略解に、岡部氏の説によりて、大名見は、其(ノ)女を崇めてのたまへるなり、とあれど、然る例なし、みだりごとなり、女郎(ノ)字とあるは、動かぬことなり、さてまた、名姉《ナネ》名兄《ナセ》、又|大名持《オホナモチ》など名《ナ》をもてほめごととせしは、古(ヘ)の常なりと云るも、おしあてなり、那姉《ナネ》那兄《ナセ》などいふ類の那《ナ》は、名の義にはあらず、大名持《オホナモチ》の名も同し、くはしくは別に考あり、○基俊家集に、大名兒が草刈岡のさゆりはのしめゆふまでは人にしらすなとある、此はこの御歌を、云々に大名兒が刈(ル)草の、といふ意に見てとれるものか、)○彼方野部爾《ヲチカタヌヘニ》は、あなたの野邊にといはむがごとし、大祓(ノ)詞に、彼方之繁木本乎《ヲチカタノシゲキガモトヲ》、集中にも、彼方《ヲチカタ》の埴生《ハニフ》の小屋などよめり、○刈草乃《カルカヤノ》(苅(ノ)字、拾穗本には刈と作り、)は、十二に、三吉野之蜻乃小野爾刈草之念亂而《ミヨシヌノアキヅノヲヌニカルカヤノオモヒミダレテ》ともよめり、をも/\加夜《カヤ》と云は、芭《スヽキ》のことにて、既く云る如し、(さるを後々は、苅萱《カルカヤ》といふを、加夜《カヤ》の一種の名と意得、矧《マシ》て野邊の苅萱などもよめるは、あまりに可笑《ヲカシ》さに堪がたきわざぞかし、)さて此(レ)までは、束間《ツカノマ》を云む料の序なり、〔頭註【新古今集に、坂上是則。うらかるゝ淺茅が原のかる萱の亂れて物を思ふ頃哉とあるは、原にと有しを後に寫し誤れるか、】〕○束間毛《ツカノアヒダモ》(束の下、拾穗本に之字あり、)は、一握《ヒトツカ》の間《マ》もにて、みじかくしばしのほども、といふことなり、十一に、紅之淺葉乃野良爾苅草乃束之間毛吾忘渚菜《クレナヰノアサハヌラニカルカヤノツカノアヒダモアヲワスラスナ》、四(ノ)卷に、夏野去小牡鹿之角乃束間毛妹之心乎忘而念哉《ナツヌユクヲジカノツヌノツカノマモイモガコヽロヲワスレテモヘヤ》、(金葉集に、朝日とも月とわかず束の間も君を忘るゝ時しなければ、新古今集延喜御製に東路に刈てふかやの亂れつゝ束の間もなく戀やわた(420)らむ、)○吾忘目八《アレワスレメヤ》は、吾忘れむやはの意なり、目《メ》は牟《ム》のかよへるなり、八《ヤ》は也波《ヤハ》の八なり、○御歌(ノ)意は、しばしばかりの間なりとも、忘るゝひまあらば、すこしは心の暢(フ)こともあるべきにそこのことを戀しく思ふこゝろは、ひとへにたゆみなき、そのくるしさをば、いかばかりとか思ふにや、とのたまへるなり、
 
幸《イデマセル》2于|吉野宮《ヨシヌノミヤニ》1時《トキ》。弓削皇子《ユゲノミコノ》。贈2與《オクリタマヘル》額田王《ヌカタノオホキミニ》1御歌一首《ウタヒトツ》。
 
幸2于吉野宮1云々、持統天皇吉野へ夏幸せること、一(ノ)卷に云る如く、四年庚寅五月、幸2吉野(ノ)宮1、五年幸卯四月、幸2吉野(ノ)宮(ニ)1と書紀に見えたれば、今はいつの年月とも分がたし、○弓削《ユゲノ》皇子は、天武天皇(ノ)紀に、次(ノ)妃大江(ノ)皇女、生3長(ノ)皇子(ト)與2弓削(ノ)皇子1、持統天皇(ノ)紀に、七年正月、授2淨廣貳(ヲ)1、續紀に、文武天皇三年七月薨、監2護喪事(ヲ)1、皇子(ハ)天武帝第六(ノ)皇子也、と見えたり、○與(ノ)字、拾穗本にはなし、○御(ノ)字、舊本脱せり、例によりて補つ、
 
111 古爾《イニシヘニ》。戀流鳥鴨《コフルトリカモ》。弓絃葉乃《ユヅルハノ》。三井能上從《ミヰノウヘヨリ》。鳴游遊久《ナキワタリユク》。
 
古爾《イニシヘニ》は、古(ヘ)をといはむが如し、○戀流鳥鴨《コフルトリカモ》は、嗚呼《アヽ》戀しく思ふ鳥にてあればにやの意なり、鴨《カモ》は疑ひて歎息く辭なり、鳥は奉和歌によるに、霍公鳥なり、○弓絃葉乃《ユヅルハノ》、(絃は弦と通し用ひしなり、上にも、弦作留《ヲハクル》とも、都良絃《ツラヲ》とも書たり、)十四に、安杼毛敝可阿自久麻夜末乃由豆流波乃布敷麻留等伎爾《アドモヘカアジクヤヤマノユヅルハノフヽマルトキニ》とありて、この木(ノ)名に依(レ)る地(ノ)名なるべし、○三井能上從《ミヰノウヘヨリ》とは、三は借(リ)字にて(421)御《ミ》なり、上《ウヘ》はそのあたりをいふ、從《ヨリ》は乎《ヲ》といはむが如し、御井のあたりをの意なり、さてこの三井は、秋津(ノ)離宮の邊に在なるべし、○渡(ノ)字、元暦本には濟と作り、○御歌(ノ)意は、霍公鳥の、今このところに鳴わたるは、昔(シ)御父天皇のいでましゝ其(ノ)時を、わが戀しく思(ヒ)奉るごとく、戀しく思へばにや、處しもあるに、此(ノ)御井のあたりを、心ありげに鳴わたりゆくよと、宣ひて、額田(ノ)王におどろかし聞し賜ふなり、今持統天皇の、行幸の從駕にありて、其(ノ)昔を戀しく思しめす御心より、鳥の聲に感を興して、告遣給へるのみか、又は先帝の行幸の度には、額田(ノ)王も共に從駕《ミトモツカ》へられしに、此(ノ)度は京に留られたれば、共に御供つかへし昔を、慕(ヒ)給ふにもあるべし、(古今集に、昔邊や今も戀しきほとゝぎす古郷にしも鳴て來つらむ、これも古(ヘ)を戀るよしに云り、思(ヒ)合(ス)べし、
 
額田王《ヌカタノオホキミノ》奉《マツレル》v和《コタヘ》歌一首《ウタヒトツ》。
 
元暦本官本古寫本拾穗本等に、從2倭京1進入とあり、
 
112 古爾《イニシヘニ》。戀良武鳥者《コフラムトリハ》。霍公鳥《ホトヽギス》。蓋哉鳴之《ケダシヤナキシ》。吾戀其騰《アガコフルゴト》。
 
古爾《イニシヘニ》は、上の如く、古(ヘ)をといはむが如し、○霍公鳥《ホトヽギス》は、品物解に云り、○蓋哉鳴之《ケダシヤナキシ》とは、蓋哉《ケダシヤ》は、もしやの意なり、新選字鏡に、儻(ハ)設也若也※[人偏+周]也、太止比《タトヒ》、又|介太志《ケダシ》とあり、鳴之《ナキシ》は其(ノ過去しことを云るなり、もしや吾(カ)古(ヘ)を戀しく思ふ如く、古(ヘ)を戀て鳴しならむの謂なり、蓋は戀流《コフル》へ關て見(422)べし、(岡部氏(ノ)考に、其(ノ)鳥は、けだしほとゝぎすならむ、とおしはかるなり、と云るはいさゝかたがへり、)本居氏、からふみに蓋と云る字は、おほかた物をおしはかりて、さだめたるところに、おけるやうに見ゆるを、それとは、意もいひざまもかはりて、集中には、もしかくもあらむか、と云(フ)ところにつかひたり、此(ノ)歌は、ほとゝぎすは、いにしへを戀る鳥といふなれば、今鳴つるも、もしわが如く、古(ヘ)をこひて、鳴たるにやあらむ、といふ意なり、三(ノ)卷に、山守はけだしありともとあるは、もし山守は有(リ)ともなり、同卷に、けだしあはむかもとあるは、もしあふこともあらむかなり、四(ノ)卷に、げだしくもといへるは、もしもなり、又けだし夢に見えきやとあるは、もしそれ故に夢に見えたるかなり、又けだし門よりかへしなむかもは、もし門よりかへしやせむなり、集の中なる、いづれもかくの如く見て聞ゆるなり、其(ノ)中に十九に、けだしあへむかもとあるひとつは、すこしたがへるごと聞ゆめれど、意はたへてあられむか、もしはえたへざらむかと云るなり、あへは堪なりと云り、(已上本居氏説、)なほ十五に、和我世故之氣太之麻可良婆思漏多部乃蘇低乎布良左禰見都追志努波牟《ワガセコシケダシマカラバシロタヘノソデヲフラサネミツヽシヌハム》、十七に、氣太之久毛安布許等安里也等《ケダシクモアフコトアリヤト》云々、十八に、安須能比能敷勢能宇良未能布治奈美爾氣太之伎奈可須知良之底牟可母《アスノヒノフセノウラミノフヂナミニケタシキナカズチラシテムカモ》、などあるも、皆件の意なり、又十一に、馬音之跡杼登毛爲者松陰爾出曾見鶴若君香跡《ウマノトノトヾトモスレバマツカゲニイデヽソミツルケダシキミカト》、十二に、夕々吾立待爾若雲君不思益者應辛苦《ヨヒ/\ニアガタチマツニケダシクモキミキマサズハクルシカルベシ》、又十六に、奧去哉赤羅小船爾裹遣者若人見而解披見鴨《オキユクヤアカラヲブネニツトヤラバケダシヒトミテトキアケミムカモ》と(423)あり、(この若も、右の歌どもを照(シ)見、また字鏡にも依て、氣太之《ケダシ》とよむべきなり、)吾戀流其騰《アガコフルゴト》は、吾(カ)古(ヘ)を戀しく思ふ如くの意なり、其騰《ゴト》は、(騰の濁音(ノ)字を書るは、正しからず、)如なり、○歌(ノ)意は、その御井のあたりを、心ありげに鳴わたり行つるは、古(ヘ)を戀しく思ふ鳥にてあればにや、と宣ふ、其(ノ)鳥は霍公鳥にてあるなるべし、ほとゝぎすは、古(ヘ)を戀慕ふ鳥といふなれば、吾(カ)むかしを戀しく思ふ如くに、其鳥ももしや、古(ヘ)を戀しく思ひて、心ありげに、鳴わたり行つるならむとなり、上にいへる如く、共に御供つかへし昔(シ)を、吾(カ)戀しく思ふ如く、霍公鳥ももしや、昔(シ)をしたひて鳴しならむ、といふ意に見れば、いよ/\あはれふかし、
 
從《ヨリ》2吉野《ヨシヌ》1折2取《ヲリテ》蘿生松柯《コケムセルマツガエヲ》1遣時《オクリタマヘルトキ》。額田王奉入歌一首《ヌカタノオホキミノタテマツレルウタヒトツ》。
 
從2吉野1云々は、弓削皇子の、吉野にて松(カ)枝を折て、京都にとゞまれる、額田(ノ)王のもとへ、御詞など副て遣はされたるたなり、(女君の公へ參らする文を、苔づいたる松の枝につけし事、かげろふの日記に見えたり、此類なり、)さて上の題詞をうけつぎたる故、弓削(ノ)皇子とはいはざれども其(レ)と知(ラ)れたり〔頭注【源氏物語若紫に、鞍馬寺の僧都より、五葉の枝に物つけて、源氏君に贈れること見え、松風に、鳥を萩の枝につけやるを、源氏君に奉り、行幸に、雉を木の枝に附て、おくれることも見え、伊勢物語にも、梅のつくり枝に雉をつけて、奉りしこと見えたり、凡て木(ノ)枝に物つけて、人におくる起本にや、〕○折(ノ)字、類聚抄にはなし、○蘿は、古計《コケ》なり、下に子松之未爾蘿生萬代爾《コマツガウレニコケムスマデニ》、三(ノ)卷に、梓※[木+昌]之本爾蘿生左右二《ホコスギノモトニコケムスマデニ》などあり、委くは品物解に出、(六帖に、逢ことをいつか其(ノ)日と松の木の苔の亂て物をこそ思へ、元輔集に、松の苔(424)千年を兼て生茂れ鶴のかひこの巣とも見るべく、)○遺(ノ)字、目録拾穗本等には遣とあり、又拾穗本には、此(ノ)字の下に、之字あり、○奉入は、古事記仁徳天皇(ノ)條に、天皇知2其情(ヲ)1、還2入於宮(ニ)1、とある處の其(ノ)傳に、還入(ノ)二字を、迦閇理坐伎《カヘリマシキ》と訓べし、こゝは人と云ことは、用なき處なれば、たゞ入(ノ)字は添て書るのみなり、かくざまに書る例もあり、朝倉(ノ)宮(ノ)段に、賜入とも見ゆ、萬葉二に、奉入歌《タテマツルウタ》、祝詞式に、齋内親王|奉入時《タテマツルトキ》などもあるが如し、これらも、入(ノ)字は讀べきにあらずと云り、止由氣(ノ)宮儀式帳に、大物忌、御炊物忌乎|奉入弖《タテマツリテ》云々、新宮遷奉時(ノ)用物云々、自2朝庭1進入《タテマツル》ともあり、
 
113 三吉野乃《ミヨシヌノ》。玉松之枝者《ヤママツガエハ》。波思吉香聞《ハシキカモ》。君之御言乎《キミガミコトヲ》。持而加欲波久《モチテカヨハク》。
 
玉松は、本居氏、玉は山を誤れることしるし、草書にては、山と玉とよく似たる故な、十五に、夜麻末都可氣爾《ヤママツカゲニ》ともあり、しかるを後の歌に、玉松とよめるは、此(ノ)歌によれるにて、みなひがことなり、玉松と云ことは、あることなしと云り、これに依て、ヤママツ〔四字右○〕と訓つ、(岡部氏が、老松の葉は、圓らかなるを、玉松といふべし、丸らかに繁き篠を、玉篠、まろき筐を、玉かたまなどいふ類なり、と云るは非なり、玉篠玉筐の玉は、賛(ル)辭にこそあれ、)なほ此(ノ)下に、玉※[草冠/縵]影爾所見乍《タマカヅラカゲニミエツヽ》、十三に、雲聚玉蔭見者乏文《ウズノタマカグミレバトモシモ》、十六に、足曳之玉※[草冠/縵]之兒《アシヒキノタマカヅラノコ》、などある玉も、山の誤なるよし、玉勝間(十三)に委く論へり、○波思吉香聞《ハシキカモ》は、愛《ハシ》き哉《カナ》といふなり、三(ノ)卷に、波志吉可聞皇子之命乃《ハシキカモミコノミコトノ》とあり、波思吉《ハシキ》は此(ノ)下に、早布屋師吾王乃《ハシキヤシアガオホキミノ》、四(ノ)卷に、波之家也思不遠里乎《ハシケヤシマヂカキサトヲ》、廿(ノ)卷に、波之伎余之家布能安路(425)自波《ハシキヨシケフノアロジハ》などありて、其(ノ)同じ詞を、處々に愛八師《ハシキヤシ》とも書たる、愛(ノ)字(ノ)義にて意得べし、(岡部氏が、波之伎《ハシキ》は、久波之伎《クハシキ》てふ言の略ぞ、と云るは當らぬことなり、波之伎《ハシキ》と久波之伎《クハシキ》とは、言の源里なるをや、)香聞《カモ》は、歎息辭なり、○君《キミ》とは、弓削(ノ)皇子をさして申せり、○持而加欲波久《モチテカヨハク》は、持而通布《モチテカヨフ》の伸(リ)たるにて、(波久《ハク》は布《フ》と切る、)持て通ふ事よといふ意なり、さて松(カ)柯にそへて、宣ひおこせし御言のありしを、持て通ふといひなし賜へるなり、八卷に、藤原(ノ)朝臣廣嗣、櫻花贈2娘子(ニ)1歌、此花乃一與能内爾百種乃言曾隱有於保呂可爾爲莫《コノハナノヒトヨノウチニモヽクサノコトソコモレルオホロカニスナ》、娘子和歌、此花乃一與能裏波百種乃言持不勝而所折家良受也《コノハナノヒトヨノウラハモヽクサノコトモチカネテヲラエケラズヤ》、(今とこゝろばえ似かよへり、)○歌(ノ)意は、うつくしき君の、御言の葉を持て通ひ來しことよ、其を思へば吉野の山松(カ)枝は、さても愛しくもあること哉となり、皇子の御志の、こよなくうれしきを、松(カ)枝に負せ給へるなり、
 
但馬皇女《タヂマノヒメミコノ》。在《イマセル》2高市皇子宮《タケチノミコノミヤニ》1時《トキ》。思《シヌヒテ》2穗積皇子《ホヅミノミコヲ》1御作歌一首《ヨミマセルミウタヒトツ》。
 
但馬(ノ)皇女は、天武天皇(ノ)紀に、夫人藤原(ノ)大臣(ノ)女、氷上(ノ)娘、生2但馬(ノ)皇女(ヲ)1、續紀に、和銅元年六月、三品但馬(ノ)内親王薨、天武帝之皇女也と見ゆ、○高市(ノ)皇子の下、尊(ノ)字を脱せしか、次の條なるも同し、さてこの皇子は、天武天皇(ノ)紀に、納2※[匈/月]形(ノ)君徳善(カ)女尼子(ノ)娘(ヲ)1、生2高市皇子(ノ)命(ヲ)1、また五年正月、高市(ノ)皇子以下、小錦以上、大夫等(ニ)、賜2衣袴|褶《ヒラオビ》腰帶、脚帶《アユヒ》、及机杖(ヲ)1、八月、給2食封(ヲ)1、十四年正月、授2淨廣貳(ノ)位(ヲ)1、朱鳥元年八月、加2封四百戸(ヲ)1、持統天皇(ノ)紀に、四年七月、以2皇子高市(ヲ)1、爲2太政大臣(ト)1、五年正月、増2封皇子高市(ニ)(426)二千戸(ヲ)1、通v前(ニ)三千戸、六年正月、増2封二千戸(ヲ)1、通v前(ニ)而五千戸、七年正月、以2淨廣壹(ヲ)1、授2皇子高市(ニ)1、十年七月、後(ノ)皇子(ノ)尊薨など見えて、壬申(ノ)の亂に、この皇子尊の、いみしく功を立ましゝことも、書紀に委(ク)見えたり、さて太子に立せ給ふよしは、紀文に漏たり、されど太子に立せ給ふことは、此(ノ)集後々に灼然《イチシル》し、懷風藻にも、高市(ノ)皇子薨後、皇太后、(持統)引2王公卿士(ヲ)於禁中(ニ)1、謀v立2日嗣(ヲ)1、云々と見ゆ、御墓は諸陵式に、三立(ノ)岡(ノ)墓(在大和(ノ)國廣瀬(ノ)郡(ニ)1、)とあり、○穗積(ノ)皇子は、天武天皇(ノ)紀に、次(ノ)夫人蘇我(ノ)赤兄(ノ)大臣(ノ)女、大〓《オホヌノ》娘、堕2一男二女(ヲ)1、其一曰2穗積(ノ)皇子(ト)1、云々、持統天皇(ノ)紀に、五年正月、増2封(ヲ)淨廣貳皇子穗積(ニ)五百戸(ヲ)1、續紀に、大寶二年十二月、以2二品穗積(ノ)親王(ヲ)1、爲d作2殯宮(ヲ)1司(ト)u、慶雲元年正月、益2封二百戸1、二年九月、詔2穗積(ノ)親王(ニ)1、爲2知太政官事(ト)1、三年二月、知太政官事穗積(ノ)親王、季禄准2右大臣(ニ)1給之、靈龜元年正月、授2二品穗積(ノ)親王(ニ)一品(ヲ)1、同七月、知太政官事一品穗積(ノ)親王薨、遣2石上(ノ)豐庭、小野馬養(ニ)1、監2護喪事(ヲ)1、天武帝第五(ノ)皇子也とあり、そも/\此(ノ)三人は、御母の異れる、御兄弟《ミオトトエ》になむましましける、○作(ノ)字、舊本にはなし、拾穗本にあるによりつ、
 
114 秋田之《アキノタノ》。穗向之所縁《ホムキノヨレル》。異所縁《カタヨリニ》。君爾因奈名《キミニヨリナヽ》。事痛有登母《コチタカリトモ》。
 
穗向乃所縁《ホムキノヨレル》は、稻の穗向は、一方へよりなびく物ゆゑ、片依《カタヨリ》と云む料の序とせり、穗向は、十七にも、秋田乃穗牟伎見我底利《アキノタノホムキミガテリ》云々とあり、○異所縁は、舊本にカタヨリニ〔五字右○〕と訓たる宜し、十(ノ)卷(ノ)歌見べし、さて片縁《カタヨリ》は、純一《ヒタムキ》に係をいふ、拾遺集に、まねくとて立もとまらぬ秋ゆゑにあはれ(427)かたよる花すゝき哉、後拾遺集に、夕日さすすそ野のすゝき片よりにまねくや秋を送るなるらむ、金葉集に、風吹ば柳の糸の片よりに靡くにつけて過る春哉、朝まだき吹來る風にまかすれば、片よりしける青柳の糸、詞花集に、風吹ば藻鹽の烟片よりに靡くを人の心ともがな、夫木集に、春風にしだり柳のかたよりに君になびけば國ぞ榮えむ、現存六帖に、鶉ふす小野の茅生は霜枯てをれば片より風さわぐなり、○君爾因奈名《キミニヨリナナ》は、君に因なむと、一(ト)すぢに思ひ入たることを、急にいへる古言なり、名《ナ》は許藝?菜《コギテナ》の菜に同じ、上に出(ツ)、(岡部氏が、與里奈《ヨリナ》の、里奈《リナ》の約|良《ラ》にて、與良《ヨラ》なるを延て、より奈《ナ》といふ、下の名《ナ》は、例の辭なりと云るは、いみじきひがことなり、)十四に、多可伎禰爾久毛能都久能須和禮左倍爾《タカキネニクモノツクノスワレサベニ》、伎美爾都吉奈那多可禰等毛比?《キミニツキナナタカネトモヒテ》とあり、(或人は因奈名はヨラナヽ〔四字右○〕と訓べし、といへれど、なほこの歌によりて、ヨリナヽ〔四字右○〕と訓べきこと著し、又云、伊勢物語に、鹽竈にいつか來にけむ朝なぎに釣する船はこゝによらなむと、あるは、船を主とたてゝ、彼方よりよらむことをねがひたるなり、後もなかなむ、吾にかさなむ、野にもあはなむ、心あらなむなど云るも、鳴(ケ)かし、借(セ)かし、逢(ヘ)かし、有(レ)かし、と云る意にて、彼方よりしかせよかし、と乞望《ネガ》ふよしなり、これらはみな、五十音の第一位の、阿韻より、那武《ナム》と連ねて、いづれも那武《ナム》はねがふ意なり、この御歌は、君爾とのたまひ、奈名《ナヽ》と承たまひて、此方よりしかせむ、と思ふ意にのたまひたれば、必(ス)因はヨリ〔二字右○〕と訓て、第二位の、伊韻よりつゞ(428)けいふぞ、古(ヘ)よりの定格なりける、奈々《ナヽ》は須武《ナム》といふに似て異なり、さる故は、奈武《ナム》は此(レ)にも彼(レ)にもひろく云(ヒ)、奈々《ナヽ》はみづからしかせむと、ひたぶるに、思ひいりたることにのみかぎりて、いふことなれば、某にと云て、ツカナヽ、アハナヽ、ヨラナヽ〔ツカ〜右○〕などつゞけ云ること、ひとつもなし、他よりしからむと思ふことに、奈々《ナヽ》と云る例なければなり、)○事痛有登母は、舊本に從て、コチタカリトモ〔七字右○〕と訓べし、事痛《コチタキ》は(事は借(リ)字、)言痛《コトイタキ》(トイ〔二字右○〕の切チ〔右○〕、)にて、人に言さわがるゝをいふなり、(源氏物語枕册子などに、たゞ事しげく、らうがはしきことに云るは、中昔よりうつれるものなり、)○御歌(ノ)意は、如此まで思就たる上は、いでひたむきに、君に依なむ、よしや人に、言痛くいひさわかるゝとも、それにはさはらじをとなり、十(ノ)卷秋(ノ)相聞に載たるには、秋田之穗向之所依片縁吾者物念都禮無物乎《アキノタノホムキノヨレルカタヨリニアレハモノモフツレナキモノヲ》とあり、
 
勅《ノリゴチテ》2穗積皇子《ホヅミノミコニ》1。遣《ツカハサルヽ》2近江志賀山寺《アフミノシガノヤマデラニ》1時《トキ》。但馬皇女御作歌一首《タヂマノヒメミコノヨミマセルミウタヒトツ》。
 
遣(ノ)字、舊本に遺と作るは誤なり、拾穗本に從つ、○志賀(ノ)山寺は、崇福寺なり、此(ノ)寺は、天智天皇の御願にて建立《タテ》させられたり、文武天皇(ノ)紀(ニ)云、大寶元年八月甲辰、太政官處分、近江(ノ)國志我(ノ)山寺(ノ)封、起2庚子年1、計滿2三十歳(ニ)1、云々、竝停止之、皆准v封(ニ)施v物(ヲ)、聖武天皇(ノ)紀(ニ)云、天平十二年十二月癸丑朔乙丑、幸2志賀(ノ)山寺(ニ)1禮v佛(ヲ)、なほ此(ノ)寺の事、菅家文草元亨釋書等に見ゆ、天智天皇御國忌は、此(ノ)寺にて行はるゝ由、延喜式に載られたり、
 
(429)115 遺居而《オクレヰテ》。戀管不有者《コヒツツアラズハ》。追及武《オヒシカム》。道之阿回爾《ミチノクマミニ》。標結吾勢《シメユヘワガセ》。
 
遺居而《オクレヰテ》は、遺《ノコ》され居(リ)ての意なり、八(ノ)卷に、難波邊爾人之行禮波後居而春奈採兒乎見之悲也《ナニハヘニヒトノユケレバオクレヰテハルナツムコヲミルガカナシサ》、九(ノ)卷に、後居而吾戀居者白雲棚引山乎今日香越濫《オクレヰテアガコヒヲレバシラクモノタナビクヤマヲケフカコユラム》、十七に、無良等理能安佐太知伊奈婆於久禮多流阿禮也可奈之伎《ムラトリノアサダチイナバオクレタルアレヤカナシキ》、古今集離別(ノ)歌に、限りなき雲居のよそに別るとも、人を心に後《オク》らさむやはなどあり、○戀管不有者《コヒツヽアラズハ》は、戀つゝあらむよりはの意なり、上に出(ツ)、○追及武《オヒシカム》は、追およばむの意なり、(俗におつゝかむ、又おひつかむ、といふに同じ、)古事記仁徳天皇(ノ)大后の、山代より上りいでましぬと聞しめして、御使舍人鳥山といふ人を、つかはされける時の大御歌に、夜麻期呂邇伊斯祁登理夜麻伊斯祁伊斯祁阿賀波斯豆摩邇伊斯岐阿波牟迦母《ヤマシロニイシケトリヤマイシケイシケアガハシヅマニイシキアハムカモ》、とあるも、伊《イ》は發音にて及《シキ》なり、○阿回(回(ノ)字、類聚抄拾穗本等には廻と作り、)は、クマミ〔三字右○〕と訓べし、(尾《ミ》は毛等保理《モトホリ》の約(リ)たるなり、岡部氏(カ)考にも賂解にも、クマワ〔三字右○〕とよめるは、いみじきひがことなり、入回れる處を云、五(ノ)卷に、道乃久麻尾爾《ミチノクマミニ》とあり、凡て某回《ナニミ》といふことの例、古義一(ノ)卷(ノ)中に詳(ク)云り、披(キ)考(フ)べし、○標結《シメユヘ》は、標を結給への意なり、標《シメ》は山道などに、先(ツ)ゆく人の柴を折てさしなど、なにゝても※[片+旁]示の物とするを云る中に、もとは繩を結(ヒ)付て、しるしとせし故に、何にまれ※[片+旁]示にする物を、凡て結と云、故|結《ユヘ》とはのたまへるなり、さて、凡て志米《シメ》といふ名(ノ)義は示《シメシ》なるべし、○御歌(ノ)意は、遺《ノコ》され居(リ)て、戀つゝあらんよりは、君の跡をしたひ行て、追付むぞ、其(ノ)通《トホリ》ませる道の隅(430)隅の、迷ぬべき所には、標繩結て、しるしをしおかせ給へとなり、
但馬皇女《タヂマノヒメミコノ》。在《イマセル》2高市皇子宮《タケチノミコノミヤニ》1時《トキ》。竊2接《シヌビアヒタマヒシ》穗積皇子《ホヅミノミコニ》1事既形而後御作歌一首《コトアラハレテノチニヨミマセルミウタヒトツ》。
 
形(ノ)字、拾穗本には露と作り、○而の下、舊本後(ノ)字脱たり、目録に依て加つ、
 
116 人事乎《ヒトゴトヲ》。繁美許知痛美《シゲミコチタミ》。己母世爾《イケルヨニ》。未渡《イマダワタラヌ》。朝川渡《アサカハワタル》。
 
人事乎《ヒトゴトヲ》は、(事は借(リ)字《リ》、)他言《ヒトゴト》をにて、他言《ヒトゴト》がの意なり、十四に、比登其等乃之氣吉爾余里?《ヒトゴトノシゲキニヨリテ》とあり、○繁美許知痛美《シゲミコチタミ》(下(ノ)美(ノ)字、拾穗本には無(シ)、)は、繁《シゲ》さに言痛《コトイタ》さににて、人言が繁くて、かにかくいひさわがるゝ故にの意なり、十二に人言乎繁三言痛三我妹子二去月從未相可母《ヒトゴトヲシゲミコチタミワギモコニイニシツキヨリイマダアハヌカモ》とあり、○己母世爾、(こはいと通《キコエ》難けれど、母(ノ)字、類聚抄古寫本幽齋本拾穗本等になきに從ば、オノガヨニ〔五字右○〕なるべきか、略解にも、母は我の誤にて、おのがよになりしかといへり、又飛鳥井本六條本等には、母の下に登(ノ)字ありて、イモトセニ〔五字右○〕と訓り、殊と夫になり、又契冲は、此(ノ)一句を、本のまゝにて、イモセニ〔四字右○〕と訓べしと云り、また略解に宣長云、爾は、川か河か水かの字のの誤にてイモセガハ〔五字右○〕ならむかと云りとあり、いづれも古風めかず、又|妹兄《イモヤ》を己母世《イモセ》と書むことも、此(ノ)御歌にてはいかゞ、又岡部氏が、己母世爾《オノモヨニ》は、己之世《オノガヨ》になり、此(ノ)母《モ》は之《ガ》に通ふ、すべて乃毛加《ノモカ》の三(ツ)は、言便のまに/\、何にもいふなりと云るは、いとをさなき考(ヘ)なり、さて、己世爾《オノガヨニ》とは、己が生來しこのかたの世にといふ意か、されどおぼつかなし、)今按に己母は、生有と書るを、草書より誤寫(431)せるにや、さらば生有世爾は、イケルヨニ〔五字右○〕と訓べし、四(ノ)卷に、生有代爾吾者未見事絶而如是※[立心偏+可]怜縫流嚢者《イケルヨニアハイマダミズコトタエテカクオモシロクヌヘルフクロハ》、また十二に、生代爾戀云物乎相不見者戀中爾毛吾曾苦寸《イケルヨニコヒチフモノヲアヒミネバコフルウチニモアレソクルシキ》、などあるに同じきを思ふべし、生有《イケル》は生てあるなり、來世《コムヨ》のことは知ず、わが生てある現世《ウツシヨ》には、未《タ》あはざりしとつゞく意なり、○朝川渡《アサカハワタル》、一(ノ)卷に船並弖旦川渡舟競夕河渡《フネナメテアサカハワタリフナギホヒユフカハワタル》とあり、こゝは苦瀬《ウキセ》に落て、くるしむことのたとへに、宜へるなるべし、朝の詞には、ことに意あるにはあらざるべし、○御歌(ノ)意は、密事を竊《シノ》ひあへず、つひに事露はされて、世(ノ)人に名をたてゝ、かにかくいひさわがれなどして、己が生たるこの現世に、いまだあはざりしうきめにあひて、くるしむことよ、とのたまへるにや、岡部氏が、卷(ノ)四に世の中のをとめにしあらば吾渡|瘡背《イモセ》のかはを渡かねめや、此(ノ)外にも、七夕に天河わたるになぞらへて、河を渡るを、男女の逢ことに譬へたる多ければ、こゝもおのが世にはじめたる、いもせの道なるに、人言によりて中たえ行は、よにも淺き吾(カ)中かな、となげき賜ふよしなるべし、かゝれば朝は淺の意なり、又事あらはれしにつけて、朝明に道行賜ふよし有て、皇女のなれぬわびしき事に、あひ給ふをのたまふか、然らば卷(ノ)十一に、人めもる君がまに/\われ共《サヘ》につとにおきつゝもすそぬらせる、てふ類なるべしと云るは、強解なり、又契冲が、妹背といふばかりにもあらぬ、はかなきことにより、まだわたらぬ川を、すでにわたれりといはむやうに、いひさわがるゝが、わびしさとよませたまへるなり、と云(432)るは、今一際わかき説なりけり、
 
舍人皇子《トネリノミコノ》。賜《タマヘル》2舍人娘子《トネリノイラツメニ》1〔五字○で囲む〕御歌一首《ミウタヒトツ》。
 
舍人(ノ)皇子は、舍人はトネリ〔三字右○〕と訓べし、(六帖に、假字にて、とねりのわうしとあり、)天武天皇(ノ)紀に、次(ノ)妃新田部(ノ)皇女、生2舍人皇子(ヲ)1、持統天皇(ノ)紀に、九年春正月庚辰朔甲申、以2淨廣貳(ヲ)1、授2皇子舍人(ニ)1、續紀に、慶雲元年正月、二品舍人(ノ)親王、益v封(ヲ)二百戸、和銅七年正月、益v封(ヲ)二百戸、養老二年正月、詔、授2二品舍人(ノ)親王(ニ)一品(ヲ)1、三年十月、詔曰、云々、其賜2一品舍人(ノ)親王(ニ)1、内舍人二人、大舍人四人、衛士三十人(ヲ)1、益v封八百戸、通v前(ニ)二千戸、四年五月、奉v勅(ヲ)修2日本紀1、至v是功成、奏2上紀三十卷、系圖一卷1、八月、詔、以2舍人(ノ)親王(ヲ)1爲2知太政官事(ト)1、云々、神龜元年二月、益v封(ヲ)五百戸、天平元年四月、詔、太政官處分(スラク)、舍人(ノ)親王、參2入朝廳(ニ)1之時、莫2爲之下1v座(ヲ)、七年十一月乙丑、知太政官事一品舍人親王薨、遣2云々等(ヲ)1、監2護喪事(ヲ)1、其(ノ)儀准2太政大臣(ニ)1、遣2云々等(ヲ)1、就v第(ニ)宣v詔(ヲ)、贈2太政大臣(ヲ)1、親王(ハ)、天武帝第三皇子也、寶字三年六月、詔曰、云々、自v今以後、追2皇《タヽヘマツリテ》舍人(ノ)親王(ヲ)1、宜v稱2崇道盡敬皇帝(ト)1、當麻(ノ)夫人(ヲ)稱2大夫人(ト)1、兄弟妹妹、悉稱2親王(ト)1止宣、云々とあり、○贈舍人娘子の五字は、必(ス)あるべきを、舊本には脱せしなるべし、
 
117 大夫哉《マスラヲヤ》。片戀將爲跡《カタコヒセムト》。嘆友《ナゲヽドモ》。鬼乃益卜雄《シコノマスラヲ》。尚戀二家里《ナホコヒニケリ》。
 
大夫我《マスラヲヤ》とは、哉《ヤ》は、將爲《セム》の下へうつして意得べし、大丈夫にして片戀せむやは、片戀はすべからぬことゝ思ふに、との意なり、○片戀將爲跡《カタコヒセムト》は、片戀《カタコヒ》とは、相思の反《ウラ》にて、雙方より相思はず、(433)此方よりのみ、戀しく思ふよしなり、さる片惠を爲むやは、と嘆息(キ)給ふよしなり、○鬼乃益卜雄《シコノマスラヲ》は、惡《ニク》き丈夫《マスラヲ》と、丈夫にありながら、事に堪ずたけからぬを、罵惡みてのたまへるなり、鬼《シコ》は、古事記に、伊邪那岐(ノ)大神の、豫美(ノ)國を、伊那志許米志許米岐穢國《イナシコメシコメキキタナキクニ》と詔ひ、又同記に、豫母都志許賣《ヨモツシコメ》とあるを、書記に、泉津醜女とかきて、醜女、此云2志許賣《シコメト》1と見え、和名抄に、日本紀(ニ)云、醜女、和名|志古女《シコメ》などあり、さて集中に、鬼乃志許草《シコノシコクサ》、志許霍公鳥《シコホトトギス》、鬼之四忌手《シコノシキテ》、之許都於吉奈《シコツオキナ》などあり、志許《シコ》は、皆其物を罵て云詞なり、本居氏云、鬼の字は、醜(ノ)字の偏を略るか、又醜女の意を得て、鬼とは書か、○尚戀二家里《ナホコヒニケリ》は、おもひかへせども、なほ得堪ずして、片戀に戀しく思ひけりとなり、(尚は、俗にや(ツ)はりといふに同し、)○御歌(ノ)意は、をゝしかるべき大夫にして、相も思はぬ人を、われのみ片戀せむやは、片戀はすまじさものぞ、と自はげまし嘆息《ナゲヽ》ども、惡《キタナ》き大夫にて、なほ片戀に戀けりとなり、十一に、石尚行應通建男戀云事後悔在《イハホスラユキトホルベキマスラヲモコヒチフコトハノチクイニケリ》、
 
舍人娘子《トネリノイラツメガ》奉《マツレル》v和《コタヘ》歌一首《ウタヒトツ》。
 
舍人(ノ)娘子は、傳未(タ)詳ならず、既く一(ノ)卷に出たり、
 
118 歎管《ナゲキツヽ》。大夫之《マスラヲノコノ》。戀禮許曾《コフレコソ》。吾髪結乃《ワガモトユヒノ》。漬而奴禮計禮《ヒヂテヌレケレ》。
 
大夫之はマスラヲノコノ〔七字右○〕と訓べし、十九にも、念度知大夫能《オモフドチマスラヲノコノ》とあり、○戀禮許曾《コフレコソ》(禮(ノ)字舊本亂と作るは誤なり、コフレコソ〔五字右○〕とよめるはよろし、今は古寫本拾穗本等によれり、)は、戀ればこ(434)そなり、凡て有(レ)ばこそ、云(ヘ)ばこそなどいふべきを、ばの言無(ク)して、有(レ)こそ、云(ヘ)こそなどいへる類、古歌には常多きことなり、古(ヘ)は、ばの言を云ても言(ハ)ずても、おのづから、同し意に通ひて聞えしなり、(さるを註者《フミトキヒト》、誰も皆、婆《バ》を省けるなりと云るは、ひがことなり、必(ス)あるべき言を、省きていふ類は、古人のしわざにはなきことぞかし、)○吾髪結乃《アガモトユヒノ》、契冲云、髪結は、長流が、本のごとく、もとゆひとよむべし、もとゆひとはいへども唯髪なりと云り、さればこゝは吾(カ)髪之といふことなり、○漬而奴禮計禮《ヒヂテヌレケレ》は、鼻ひ紐解(ケ)眉《マヨ》癢《カユ》みなどいへる類にて、人に戀らるれば、髪の漬《ヒツ》ち濕ると云(フ)諺の、當昔《ソノカミ》ありしなり、(契冲は、なきしをるゝ涙に、よもすがら打しきてぬる髪さへ、ひたりてぬるゝとなり、と云れど、さにはあらじ、又岡部氏が、ひぢは、※[泥/土]漬《ヒヂツキ》を約たる言にて、もとは、水につきてぬるゝを云、さてこゝには轉じて、あぶらづきて、ぬる/\としたる髪を云、ぬれとは、たがてゆひたる髪の、おのづから、ぬる/\ととけさがりたるをいふ、此(ノ)下に、多氣婆奴禮《タケバヌレ》とよめる是なり、と云れど、此(ノ)説はいかゞなり、抑(モ)たがね結たる髪の解るよしに見たるは、髪結とあるには、よく應ひてはあれども、さらば、解而《トケテ》云々、などこそあるべけれ、漬而《ヒヂテ》とあれば、解る意は無(キ)をや、されば髪結は、契冲が、唯髭なりといへるぞよき、且|漬而《ヒヂテ》とあるからは、奴禮《ヌレ》も濕《ヌレ》なり、と高橋(ノ)正元も、既くいへりき、又云、漬のこと、岡部氏(ノ)考(ノ)別記になほ論へり、其(ノ)説に、比豆知《ヒヅチ》を、集中に※[泥/土]打と書し多かれど、打は借(リ)字にて、此(ノ)卷の末に、※[泥/土]漬と書たるぞ正し(435)き、言の意は、物の※[泥/土]に漬てぬるゝを本にて、雨露泪などにぬるゝにもいへり、かくて比豆知《ヒヅチ》は、右の※[泥/土]漬の字の如く、比治都伎《ヒチツキ》なり、その比治都伎《ヒチツキ》の治《ヂ》と豆《ヅ》は、音通ひて都伎《ヅキ》の約は知《チ》なれば、比豆知《ヒヅチ》といふ、又其(ノ)豆知《ヅチ》を釣れば、冶《ヂ》となる故に、比治《ヒヂ》とばかりもいふめり、といへり、まづ※[泥/土]に漬てぬるゝを言の本義とするは、唯塗漬の字のみによりての、考(ヘ)にこそあれ、そをおきては、外に所據とすべき、よしあるべしやは、吾妹兒之赤裳※[泥/土]而殖之田乎《ワギモコガアカモヒヅチテウヱシタヲ》、などはあれども、其を即(チ)言の本義、といふべき證はなし、後(ノ)世は字に從て、古言を意得誤ることぞ多き、と常に自らいひながら、此(ノ)説を成せるはいかにぞや、抑(モ)比豆知《ヒヅチ》の比豆《ヒヅ》は、比太須《ヒタス》、比遲《ヒヂ》、比豆《ヒヅ》、比※[泥/土]《ヒデ》など、太遲豆※[泥/土]《ダヂヅデ》の活用言にて知《チ》は、緋知《モヽチ》、瀧知《タギチ》などいふ知《チ》に同しく、これも多知都弖《タチツテ》の活用言にて、其(ノ)形をいふときに、添る言なり、かれ比遲《ヒヂ》は、※[泥/土]にあらず、知《チ》は、都伎《ツキ》にあらざること明けし、古言のなりを、熟思見べし、凡て古人は、意も言も、大らかなりければ、其言の反切も、唯おのづからのことにしありければ、其(レ)に隨(ヒ)て、古言をも解べきことにこそあれ、)○歌(ノ)意は、君|大夫《マスラヲ》の歎息《ナゲキ》つゝ、我をしか戀しく思ひ給へればこそ、其(ノ)しるしに、我(カ)髪の、かく濕《ヌ》れ漬りてありけれとなり、
 
弓削皇子《ユゲノミコノ》。思《シヌヒテ》2紀皇女《キノヒメミコヲ》1御作歌四首《ヨミマセルミウタヨツ》。
 
弓削(ノ)皇子は、上に出づ、○紀(ノ)皇女は、天武天皇(ノ)紀に、次(ノ)夫人、蘇我(ノ)赤兄(ノ)大臣(ノ)女、大〓《オホヌノ》娘、生2一男二女(ヲ)1、(436)其(ノ)一(ヲ)曰2穗積(ノ)皇子(ト)1、其(ノ)二(ヲ)曰2紀(ノ)皇女(ト)1、云々とあり、弓削(ノ)皇子の異母御妹なり、○作(ノ)字、舊本なし、今は類聚抄に從(レ)り、
 
119 芳野河《ヨシヌガハ》。逝瀬之早見《ユクセノハヤミ》。須臾毛《シマシクモ》。不通事無《ヨドムコトナク》。有巨勢濃香毛《アリコセヌカモ》。
 
逝瀬之早見《ユクセノハヤミ》は、逝瀬《ユクセ》が早き故にの意なり、さてこの之は、必(ス)乎《ヲ》とあるべき處なるを、かくいへるは、甚めづらし、この例は、外に見當らず、(美《ミ》の辭(ノ)例、總論に云るを照(シ)見べし、)若(シ)は之は、乎(ノ)字を寫誤れるにはあらざるか、又は見は借(リ)字にて、早水《ハヤミ》の意にてもあらむか、また類聚抄には見(ノ)字なし、これによらば、ハヤク〔三字右○〕と訓べし、○須臾毛は、シマシクモ〔五字右○〕と訓べし、十五に、思未志久母見禰婆古非思吉《シマシクモミネバコヒシキ》、又|之末恩久母伊母我目可禮弖安禮乎良米也母《シマシクモイモガメカレテアレヲラメヤモ》などあり又シマラクモ〔五字右○〕とも訓べし、十四に、思麻良久波禰都追母安良牟乎《シマラクハネツヽモアラムヲ》、(志婆之《シバシ》、志婆良久《シバラク》など云(フ)は、後(ノ)世なり、)○不通事無《ヨドムコトナク》は、凝滯《トヾコホ》る事なくと云むが如し、余藤牟《ヨドム》は、水の淀むをいふが本にて、何にても物の滯るを云、不通とかきて、余藤牟《ヨドム》と訓べき處は、集中に甚多し、不行《ヨドム》、不逝《ヨドム》なども見えたり、○有巨勢濃香毛《アリコセヌカモ》、(濃(ノ)字、拾穗本に泥と作るは、沼の誤なるべし、毛(ノ)字、類聚抄古寫本等には聞と作り、拾穗本には問と作り、)巨勢《コセ》は、希望(ノ)辭にて、巨曾《コソ》の活轉《ウツロ》ひたるなり、巨曾は、一(ノ)卷(古義上)に、三山(ノ)御歌(ノ)反歌に、清明己曾《キヨクテリコソ》とありて、彼處に云り、さて此(ノ)辭、常は己曾《コソ》とのみ云るを、濃《ヌ》と禰《ネ》の言へ連け云ときは、曾《ソ》を勢《セ》に轉《ウツ》して、巨勢《コセ》と云例なり、濃《ヌ》もねがふ意の辭にて禰《ネ》の活轉《ウツロ》ひたるなり、さ(437)て此辭も、常は禰《ネ》とのみ云るを、可毛《カモ》といふへ連くときは、禰《ネ》をうつして、濃《ヌ》といふ例なり、禰《ネ》の言の例は、卷(ノ)初(メ)に、名告沙根《ナノラサネ》とある處に委(ク)云り、(しかるを注者等、これらの濃《ヌ》を不《ス》の意として解來れるは、古意ならず、)四(ノ)卷に、百夜乃長有與宿鴨《モヽヨノナガクアリコセヌカモ》、(與宿はコセヌ〔三字右○〕と訓べし、)五(ノ)卷に、和我覇態曾能爾阿利己世奴加毛《ワガヘノソノニアリコセヌカモ》、十(ノ)卷に、今之七夕續巨勢奴鴨《イマシナヽヨヲツギコセヌカモ》、九卷に、妻依來西尼《ツマヨシコセネ》、十四に、都麻余之許西禰《ツマヨシコセネ》、古事記八千矛(ノ)神(ノ)御歌に、宇知夜米許世禰《ウチヤメコセネ》などあり、○御歌(ノ)意は、芳野川の流れ行瀬の急き故に、滯《ヨド》むことなきが如くしばしの間も、障り泥むことなく、常に相見むよしもがな、あれかしとなり、
 
120 吾妹兒爾《ワギモコニ》。戀乍不有者《コヒツヽアラズハ》。秋芽之《アキハギノ》。咲而散去流《サキテチリヌル》。花爾有猿尾《ハナナラマシヲ》。
 
戀乍不有者《コヒツヽアラズハ》は、戀乍有《コヒツヽアラ》むよりはの意なり、上に出づ、○秋芽之《アキハギノ》、(芽(ノ)字、舊本には※[弟の二画目までが草がんむり]と作り、今は拾穗本に從(レ)り、)すべて波疑《ハギ》は、秋さくものなれば、いへるのみなり、芽(ノ)字、波疑《ハギ》に用たるよしは、品物解に云り、○咲而散去流《サキテチリヌル》とは、咲はたゞ輕く見べし、散ぬるなり、去流《ヌル》の去《ヌ》は、奈爾奴禰《ナニヌネ》の活動なり、(散ナム〔二字右○〕、散ニシ〔二字右○〕、散ネ〔右○〕なども云り、しかるを、去《ヌ》はイヌ〔二字右○〕の略なり、と思ふはいとわろし、)○花爾有猿尾《ハナナラマシヲ》は、花にて有ましものをの意なり、花にては、花でといふことなり、さて集中に、麻斯《マシ》といふ辭に、猿申などの字を書る處多し、其は古(ヘ)猿を麻斯《マシ》といひし故に、惜て書るなり、古今集に、麻斯《マシ》らな嶋そ、とよめる良《ラ》は、等《ラ》にて猿等《マシラ》なり、猿杼毛《マシドモ》と云むが如し、(然るを、後人古今(438)集の歌のみを見、ましらといふを、即(チ)猿のことゝ心得、はた麻自良《マジラ》と濁りてさへ唱ふるは、いみじきひがことなり、○御歌(ノ)意は、吾妹子を戀しくのみ思ふ、鬱悒き情の、せむかたなくてあらむよりは、跡形もなく落《チリ》失ぬる、芽の花にて、わが身のあらましものを、さらばもの思はむよしもあらじを、と嘆き宣へるなり、(岡部氏が、死なむものをといふを、はぎの散にそへて、且其(ノ)はぎは、一度の榮も有しを、うらやむなり、といへるは、いさゝか違へり、たゞにそのちる芽にてあらむことを、欲《ネガ》ひ給へるにて、よそへたまへるにはあらず、又芽の榮を、うらやみ賜へる意は、さらになし、
 
121 暮去者《ユフサラバ》。鹽滿來奈武《シホミチキナム》。住吉乃《スミノエノ》。淺香乃浦爾《アサカノウラニ》。玉藻苅手名《タマモカリテナ》。
 
暮去者《ユフサラバ》は、暮にならばの意なり、上に委く云り、○塩字、拾穗本には鹽《シホ》と作り、塩は塩の省文なるべし、干禄字書に、塩鹽(上通下正)とあり、○淺香乃浦《アサカノウラ》(香(ノ)字、類聚抄拾穗本等には、鹿と作り、)は、攝津志に、淺香|丘《ヤマ》、在2住吉(ノ)郡船堂村(ニ)1、林木緑茂、迎v春霞香、西臨2滄溟(ニ)1、遊賞之地とあり、此(ノ)海濱なり、十六に、安積香山《アサカヤマ》とあるは、陸奧なり、八(ノ)卷に、朝香山之將黄變《アサカノヤマノウツロヒヌラム》とあるは、陸奧の安積山か、知がたし、十四に、安齊可我多《アセカガタ》といふも見えたり、十一に、往而見而來戀敷朝香方山趣置代宿不勝鴨《ユキテミテクレバコホシキアサカガタヤマコシニオキテイネカテヌカモ》とあるは、もしは此の淺香と、同地にてもあるべし、○玉藻苅手名《タマモカリテナ》(苅(ノ)字、拾穗本には刈と作り、)は、玉藻を苅てむといふことを、ひたぶるに思ひ入て、急に云るなり、(岡部氏(ノ)考の説は、いふ(439)に足ぬことなり、)名《ナ》の言の例、上に委し、○御歌(ノ)意は夕(ヘ)になりなば、鹽滿來て、刈に得堪ずなりなむ、今鹽の干たるうちに、急く玉藻を刈てむ、とのたまへるにて、間經《ホドヘ》むうちには、さはる事出來て、娶《エ》がたきことのあらむ、事故なきほどに、皇女をえばや、とおもほす御意を、玉藻によせて、のたまへるなるべし、
 
 
122 大船之《オホブネノ》。泊流登麻里能《ハツルトマリノ》。絶多日二《タユタヒニ》。物念痩奴《モノモヒヤセヌ》。人能兒故爾《ヒトノコユヱニ》。
 
泊流登麻里能《ハツルトマリノ》とは、船の行(キ)到《ツキ》て泊る處を、登麻里《トマリ》といひて、さてその泊には、浪のゆた/\と動搖《タユタ》ふよしにて、絶多日《タユタヒ》をいはむ料の序とせるなり、泊《トマリ》は三(ノ)卷に、六兒乃泊從《ムコノトマリユ》、十五に、可良等麻里《カラトマリ》などあり、○絶多日二《タユタヒニ》は、物のゆた/\と動くを、由多布《ユタフ》とも、由多比《ユタヒ》とも(布《フ》比《ヒ》は活用、)いふ故、體言に、由多比《ユタヒ》ともいへり、又それに、多《タ》の言ををへて、多由多布《タユタフ》、多由多比《タユタヒ》と云るなり、さてこゝは、上よりの連は、船の泊《ハツ》るとまりの、浪のゆた/\と動く意にて、物念とうけたるは、心《ムネ》うち動《サワ》ぐよしなり、○物念痩奴《モノモヒヤセヌ》は、物念に勞れて、身の痩ぬよとなり、奴《ヌ》は、已成《オチヰ》の奴《ヌ》なり、○人能兒故爾《ヒトノコユヱニ》は、人の兒なるものをの意なり、(俗に、人の兒ぢやに、といはむがごとし、(人能兒《ヒトノコ》は、多く他妻をいへり、○御歌(ノ)意は、他妻なれば、いかに思ふとも益なきものを、なほ得堪ずして、むねうちさわぎつゝ、戀しく思ふものおもひに、このごろは、身もおとろへ痩ぬるよとなり、さてこの一首によれば、紀(ノ)皇女は、既く人に娶《エラ》れ賜ひしを、弓削(ノ)皇子の、思《シノ》ばしゝにや、(三(ノ)卷に(440)て見れば、紀(ノ)皇女は、石田(ノ)王に嫁賜ひしか、詳には知がたし、さらば右の、暮去者《ユフサラバ》云々の御歌を贈(リ)たまひしとは、別時にて、後に作ませるかとも思はるれども、すべて古(ヘ)、他妻《ヒトツマ》人之兒《ヒトノコ》など云るは、打はれて、他妻とさだまれるに、かぎりたることにはあらで、他人に心かよはすごときをも、なべて云ることなれば、此もまことに、皇女の他妻と、さだまれるを、のたまへるにはあらで、此方にうときは、他人に、心かよはし給ふ故ならむ、さる他人の妻なるものを、とわざとのたまひて、皇女を切《セマ》らせて、さて裏《シタ》には、はやく我(カ)方に、なびき賜はむことを、おもほせるにもあるべし、)
 
三方沙彌《ミカタノサミガ》。娶《アヒテ》2園臣生羽之女《ソノヽオミイクハノメニ》1。未經幾時《イクダモアラネバ》。臥病作歌三首《ヤミフセルトキノウタミツ》。
 
三方(ノ)沙彌は、山田(ノ)史御方が、僧にてありしほどを云なるべし、されば三方は名にて、沙彌は僧をいふなるべし、持統天皇(ノ)紀に、六年十月壬戌朔壬申、授2山田(ノ)史御形(ニ)務廣肆(ヲ)1、前(ニ)爲2沙門1、學2問《モノナラヘリ》新羅(ニ)1、續紀に、慶雲四年四月丙申、賜2正六位下山田(ノ)史御方(ニ)、布※[秋/金]鹽穀1、優2學士(ヲ)1也、和銅三年正月甲子、從五位下、同四月癸卯、爲2周防(ノ)守(ト)1、養老四年正月甲子、從五位上、同五年正月庚午、詔、云々、山田(ノ)史三方等、退朝之後、令v侍2東宮(ニ)1焉、甲戌詔曰、云々、因賜2文章從五位上山田(ノ)史御方(ニ)、※[糸+施の旁]十五疋、絲十五絢、布三十端、鍬二十口(ヲ)1、六年四月庚寅、詔曰、周防(ノ)國(ノ)前(ノ)守山田(ノ)史御方、※[斬/足]臨(テ)犯(セリ)v盗(ヲ)、理令2除免1、然依v法備(ルニ)v贓(ヲ)、家無2尺布1、朕念、御方負2笈(ヲ)遠方(ニ)1、遊2學蕃國1、云々、加2恩寵(ヲ)1、勿v使2徴贓(セ)1、焉とあり、○園(ノ)臣生羽之(441)女は、園(ノ)臣は氏姓なり、生羽(ノ)之女は、女(ノ)名なるべし。又生羽といふ人の、女《ムスメ》の由にもあるべし、六(ノ)卷に、或本云、三方沙彌、戀2妻苑臣(ヲ)1作歌也とあり、○作(ノ)字は、(類聚抄にはなし、)時を誤れるか、そのよしは、沙彌一人が作(ル)歌のみにあらざればなり、
 
123 多氣婆奴禮《タケバヌレ》。多香根者長寸《タカネバナガキ》。妹之髪《イモガカミ》。比來不見爾《コノゴロミヌニ》。掻入津良武香《カカゲツラムカ》。三方沙彌《ミカタノサミ》。
 
多氣婆奴禮《タケバヌレ》、そも/\多久《タク》といふ言の意を考(フ)るに、總束《スベツガヌ》るを云語にて、即(チ)今(ノ)世に、物を束ね寄るを、多久須禰留《タクスネル》、と云言の本なるべし、次下に、多計登雖言《タケトイヘド》、九(ノ)卷に、小放爾髪多久麻庭爾《ヲハナリニカミタクマテニ》、十一に、青草髪爾多久濫《ワカクサヲカミニタクラム》、また七(ノ)卷に、未通女等之織機上乎眞櫛用掻上栲島浪間從所見《ヲトメラガオルハタノヘヲマクシモチカヽゲタクシマナミノマヨミユ》、十(ノ)卷に、手寸十名相殖之名知久出見者屋前之早芽子咲爾家類香聞《タキソナヘウヱシモシルクイデミレバヤドノワサハギサキニケルカモ》などあり、皆同言なり、又頂髪を、多伎布佐《ヤキフサ》といふ(書紀應神天皇(ノ)卷に、髪中《タキフサノ》、景行天皇(ノ)卷に、頭髻《タキフサ》、崇峻天皇(ノ)卷に、頂髪《タキフサ》などあり、)多伎《タキ》も同し、布佐《フサ》は、總《フサ》なり、統集《フサネアツ》めたる由の名なり、(岡部氏が、多我奴禮婆《タガヌレバ》の、我奴《ガヌ》の約具にて、多具禮婆《ダグレバ》となるを、又その具禮《グレ》を約れば、牙《ゲ》となる故に、多氣波《タゲバ》といへりと云(ヒ)、既く契冲も、多氣婆《タケバ》は、たくればなりと云り、本居氏も、此説によりて、古事記八千矛(ノ)神(ノ)御歌に、奴婆多麻能久路岐美祁斯遠《ヌバタマノクロキミケシヲ》云々、波多多藝母許禮波布佐波受《ハタヽギモコレハフサハズ》、又集中に、駒多具《コマタグ》などあると、同言にて、たぐるを云といへりき、しかれども、髪|多久《タグ》の久《ク》は、いづれも清音(ノ)字を用ひ、たぐる意の多具《タグ》は、かの波(442)多多藝《ハタダギ》、又此(ノ)集十四に、古麻波多具等毛《コマハタグトモ》など見えて、いづれも濁音(ノ)字を用ひて、清濁の差別あることなれば、もとより別言なること、决《ウツナ》ければ、いかゞなり、十九に、馬太伎由吉弖《ウマダキユキテ》とあるは、多藝《タギ》といふべきを、藝《ギ》の濁音を、上へうつしていふ、古語の一(ツ)の例にて、古事記傳に委し、上にも云り、)奴禮《ヌレ》は、契冲、第十四に、ひかばぬるぬる、とよめるにおなじ、あぶらづきたる髪の、なめらかなるをいふ、俗に、ぬら/\といへり、すべ/\、又ぬめ/\、といふと似たる俗語なりといへり、十一に、夜干玉之吾黒髪乎引奴良思亂而反戀度鴨《ヌバタマノアガクロカミヲヒキヌラシミダリテアレハコヒワタルカモ》(反は、吾(ノ)字の誤か、)とあり、又同卷に、凡者誰將見鴨黒玉乃我玄髪乎靡而將居《オホナラバタガミムトカモヌバタマノアガクロカミヲヌラシテヲラム》、とある靡を、本居氏、ヌラシ〔三字右○〕とよめり、)この訓は、まことに能(ク)あたれり、)さてこゝは、※[糸+怱]《タカ》ね結《ユハ》むとすれば、なほいまだ短き髪まじりて、ぬら/\と靡く故に、うるはしくは、結《ユヒ》がたきよしなるべし、○多香根者長寸《タカネバナガキ》は、さりとて不《ネ》v總《タガ》ば、長きに過るにて、今はほとほど、※[糸+怱]《タク》べき際《サカヒ》にいたれるよしなり、○掻入津良武香、(掻(ノ)字、古寫本に、※[手偏+蜜]とかけるは、いかゞ、)入は上(ノ)字の誤にて、カヽゲツラムカ〔七字右○〕なるべし、と本居氏云り、信に然り、十六に、橘寺之長屋爾吾率宿之《タチバナノテラノナカヤニアガヰネシ》、童女波奈理波髪上都良武可《ウナヰハナリハカミアゲツラムカ》となり、○歌(ノ)意は、※[糸+怱]《タカ》ね結《ユハ》むとすれば、なほ短く、ぬら/\と靡きて結がたく、さりとて又|結《ユハ》ずにおけば、長きに過て、今はほと/\、結べきさかひにいたれる、娘子の髪を、このごろ病臥て、行て見ぬ間に、誰その男が、かゝげ結つらむか、とおほめきて、とひやれるなり、さて題詞によるに、生羽之女を婚娶《ヨハヒ》たれど、古(ヘ)は今(ノ)(443)世のごとく、その娶《エ》し女を、己が家には迎へとらずして、女の家に、夜々行て宿住《ネスミ》けるゆゑに、病に臥せる間などは行ことあたはずて、己が家にのみ居る故に、女の事をおぼつかなくおもへるなり、なほ古(ヘ)の婚姻のさまは、四(ノ)卷に、君家爾吾住坂乃家道乎毛《キミガイヘニアガスミサカノイヘヂヲモ》云々、とある歌につきて、委(ク)注(フ)べし、中山(ノ)嚴水、髪を上ると云ことは、後にびんそぎといふ事を、夫と定まりたる男の、すること有如く、古(ヘ)も夫と定めし男の、女の髪を上る風俗の、有しなるべし、然れば、掻上つらむかといへるも、此(ノ)ほど打絶し間に、他男をもちて髪上ぬらむか、と女の心を探り、おほめきて云やりしなり、さて娘子が和(ヘ)歌にも、他人は皆早く髪上よといへども、君が見し放の髪は、他人にあげしめじ、たとひ、みだれたりともと云て、やがてかはらぬ事を、云るなるべしと云り、今案(フ)に、源氏物語葵(ノ)卷に、光源氏(ノ)君の、紫(ノ)上の髪をそぎ給ふこと見たり、古(ヘ)妻と定まりし女の髪を、夫《ヲトコ》のあぐることのありし、風俗の轉變《ウツリ》たるにや、伊勢物語に、くらべ來し振分髪も肩過ぬ、君ならずして誰かあぐべき、とあるは、なほその頃までも、夫と定まれる男の、女の髪をあぐる風俗《ナラハシ》のありて、いへるにや、
 
124 人皆者《ヒトミナハ》。今波長跡《イマハナガミト》。多計登雖言《タケトイヘド》。君之見師髪《キミガミシカミ》。亂有等母《ミダリタリトモ》。 娘子《イラツメ》。
 
人皆者《ヒトミナハ》を、元暦本には、人者皆と作り、舊本の隨《マヽ》にて然るべし、○今波長跡は、イマハナガミト〔七字右○〕と訓べし、(ナガシ〔三字右○〕と訓《ヨメ》るは非なり、)長《ナガミ》は、俗に、長さにと云むが如し、跡《ト》は、助辭なり、凡て恐美等《カシコミト》、(444)賢美等《サカシミト》、難美等《カタミト》、無美等《ナミト》、忌々美等《ユヽシミト》、怪美等《アヤシミト》、歡美等《ウレシミト》、繁美等《シゲミト》、深美等《フカミト》、多美等《オホミト》、廣美等《ヒロミト》、乏美等《トモシミト》など、美《ミ》の辭の下にある等《ト》は、皆助辭の例なり三(ノ)卷に、雖戀效矣無跡辭不問物爾者在跡《コフレドモシルシヲナミトコトヽハヌモノニハアレド》とあるを、十三に、雖思印乎無見《オモヘドモシルシヲナミ》云々|言不問木雖在《コトトハヌキニハアレドモ》とあると、全同趣なるにて、跡《ト》の助辭に、ことに意なく、あるもなきも、大かた異なることなきを知べし、されど語(ノ)勢を、助けたもつ爲には、此《コゝ》のごとく、この助辭なくて叶はぬことなり、(たゞいたづらのものとのみは、思ふべからず、)なほ委きことは、總論に云り、披(キ)見て知(ル)べし、○多計登雖言《タケトイヘド》は、今は髪の餘りに長きに過たる故に、總《タゲ》よと人皆は云(ヘ)どもなり、さて古(ヘ)の女は、十四五歳と成(ル)までは、髪を垂てあるを、童放《ウナイハナリ》とも、童兒《ウナヰコ》ともいふを、十四五歳の頃より後には、髪いと長く成(レ)る故、男して髪を總揚《タキアグ》るを、髪揚《カミアゲ》といへり、○亂有等母《ミダリタリトモ》は、たとひ亂りてありとも、といふなり、○歌(ノ)意は、今は髪の、あまりに長きに過たる故に、はやく髪揚せよ、と人皆はすゝむれども、君が見し放の髪を、たとひ長きに過て、亂れてありとも、他夫には、あげしめむやは、なほ君のさはやぎ給ひて、さきの如く、通ひ來まさむほどを、何時までも待居るべきを、とこたへ贈りて、心がはりのせぬよしを、しめしたるなり、さて件の二首(ノ)歌は、沙彌が、娘子の家に、行通ひて婚接せしを、病に臥て、得行ざりし間に、贈答せるなること、上に云たるが如し、凡(ソ)天皇の餘に、婦を己が家に迎へ取ことは、多くはなかりしと見えたり、(今昔物語に、今はむかし、中務(ノ)大輔といふ人、男子はなく、女子一人あり、家まづし(445)けれども、兵衛(ノ)佐といふ人を、女子にあはせ、聟として、年を經けるに、中務失ければ、母一人を、たのみとして過しけるに、これもむなしくなりしかば、女子一人、のこり居て泣悲しめども、かひなし、家の内の人も、出をはりければ、女子、兵衛佐にむかひて、親のおはせし限は、これかれと、とりまかなひて過しつるに、かくたよりなくなりたれば、かくておはせむも心うし、宮仕にてもしたまひて、よからむやうに成(リ)賜へ、といひければ、男、今かくなりて、何とて見すてむずるぞといひて、なほすみけれども云々、とあれば、なほその頃までも、夫は、女の家に行て、住しことしるし、今(ノ)世は、婦は、がならず夫の家に、迎ふることに定りたれど、なは聟を取(ル)と常にいふなるは、古(ヘ)風の、名のみを遺せるにこそ、)○娘子(ノ)二字、舊本に無(キ)は脱たるなり、今は元暦本古寫本官本中御門本拾穗本等に從つ、
 
125 橘之《タチバナノ》。蔭履路乃《カゲフムミチノ》。八衢爾《ヤチマタニ》。物乎曾念《モノヲソオモフ》。妹爾不相而《イモニアハズテ》。  三方沙彌《ミカタノサミ》。
 
橘之蔭履路乃《タチバナノカゲフムミチノ》(路(ノ)字、拾穗本には跡に誤れり、)は、彌衢《ヤチマタ》をいはむためなり、殖木橘の蔭さす道路は、即(チ)蔭を履て、往來する故に云るなり、橘は、實を採がために、道(ノ)傍に多く殖しなり、書紀雄略天皇(ノ)卷にも餌香(ノ)市(ノ)邊(ノ)橘(ノ)本、とあるも是なり、さて類聚三代格七(ノ)卷、天平寶字三年六月廿二日官符に、應3畿内七道(ノ)諸國、驛路兩邊、遍種2菓樹1事、右東大寺普照法師奏状(ニ)※[人偏+稱の旁](ク)、道路、百姓來去不v絶、樹在2其傍(ニ)1、足息疲乏、夏(ハ)則就v蔭(ヲ)避v熱(ヲ)、飢則摘v子(ヲ)※[口+敢]之、伏願、城外道路(ノ)兩邊(ニ)、栽2種(セヨ)菓子樹木(ヲ)1者、奉v勅(ヲ)依(446)v奏(ニ)、(この事、元亨釋書廿卷にも見えたり、)雜式に、凡諾國驛路邊(ニハ)、植2菓(ノ)樹(ヲ)1令(メ・メヨ)3往還(ノ)人(ヲ)得2休息1、若無v水處、量v便(ヲ)掘v井(ヲ)、など見えたるを思へば、なべて菓樹を、道傍に殖られしは、此(ノ)歌よみし時より、はるかに後のことなれど、橘は、常世(ノ)國より渡り來しものなるが、菓樹の長上として、いみじく世にめではやされて、はやく市邊、又道傍などに多く殖て、往來の人を、たすけられしことをしるべし、三(ノ)卷に、東市之殖木乃木足左右《ヒムガシノイチノウヱキノコダルマデ》とあるも、橘とはなけれども、主とは、橘の殖木を云りしやうに、思はるゝなり、○八衢爾《ヤチマタニ》は、屋道股《ヤチマタ》になり、方々へ分るゝ道の筋多きを、屋道股《ヤチマタ》と云、道饗祭(ノ)祝詞に、大八衢爾《オホヤチマタニ》、湯津磐村之如久《ユツイハムラノゴトク》、塞坐皇神等之前爾申久《フサガリマススメミカミタチノマヘニマヲサク》、八衢比古《ヤチマタヒコ》、八衢比賣《ヤチマタヒメ》、久那斗止御名者中?《クナトトミナハマヲシテ》、辭竟奉《コトヲヘマツル》、字鏡に、阡(ハ)、知万太《チマタ》とあり、万多《マタ》は、手《タ》な股《マタ》、足の胯《マタ》、木の※[木+又]、水の派《マタ》等に准へて、凡て一條ならぬを、道岐《チマタ》といふ言なるを知るべし、○歌(ノ)意は、病臥《ヤミフシ》て、行て、宿住《ネスミ》がたければ、此(ノ)ごろ妹に不v會して、屋道股の如く、縱横に、物思ふことの、繁きによりて、あるまじきことをも、とかく考へ出し、娘子の心をまで探りて、もしはこのほど心がはりして、他男に、なびきなどもしつらむかと疑ひて、さきの如く、とひおくりしなり、とすこしさきの歌を、ことわれるやうに云るなるべし、六(ノ)卷に、橘本爾道履八衢爾物乎曾念人爾不所知《タチバナノモトニミチフミヤチマタニモノヲソオモフヒトニシラエズ》、右一首、右大辨高橋(ノ)安麻呂(ノ)卿語云、故豐島(ノ)采女(ノ)之作也、但或本云、三方沙彌、變2妻苑臣(ヲ)1作歌也、然則豐島(ノ)采女、當時當所口2吟此歌(ヲ)1歟、(一二の句は、今の歌を誦へ誤しなり、尾句は、わざと換《カヘ》て吟へしなるべし、)十一(447)に、橘本我立下枝取成哉君問子等《タチバナノモトニアレタチシヅヱトリナリヌヤキミトトヒシコラハモ》、ともあり、
 
石川女郎《イシカハノイラツメガ》。贈《オクレル》2大伴宿禰田主《オホトモノスクネタヌシニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
石川(ノ)女郎は、上に出(ツ)、山田(ノ)郎女なるべし、○田主は、安麻呂(ノ)卿の子なり、元磨本類聚抄官本古寫本等に、即(チ)佐保大納言大伴(ノ)卿之(之(ノ)字、元暦本類聚抄にはなし、)第二子、母曰2巨勢(ノ)朝臣1也、(也(ノ)字、元暦本にはなし、官本に、也(ノ)上に、女(ノ)字あり衍か、)と註せり、安麻呂卿の、巨勢(ノ)郎女を娶給へること、此(ノ)上に見えたり、
 
126 遊士跡《ミヤビヲト》。吾者聞流乎《アレハキケルヲ》。屋戸不借《ヤドカサズ》。吾乎還利《アレヲカヘセリ》。於曾能風流士《オソノミヤビヲ》。
 
遊士跡《ミヤビヲト》、本居氏云、遊士風流士を、師の、みやびとゝ訓れたるにつきて、猶思ふに、さては宮人と聞えて、まぎらはし、然ればみやびをと訓べし、此(ノ)稱は男に限れり、八卷に、をとめらがかざしのために遊士のかづらのためと云々、是をとめにむかへていへれば、必(ス)をといふべきなり、(舊本に、此(レ)をタハレヲ〔四字右○〕とよめるは、よしもなきひがことなり、岡部氏が、六(ノ)卷に、諸大夫等集2左少辨、云々家1宴歌とて、うなはらのとほき渡(リ)を遊士の遊ぶをみむとなづさひそ來し、てふ歌の左に、右一首云々、蓬莱仙媛所v作嚢縵爲2風流秀才之士1矣と書り、此(ノ)遊士風流秀才は、其(ノ)會集の、大夫たちをさすなるを、戯男といはゞ、客人になめし、かゝれば、何處にても、みやびとゝよむべし、といへり、)跡《ト》は常《ツネ》の語(リ)辭なり、○於曾能風流士《オソノミヤビヲ》は、於曾とは、波夜《ハヤ》の反對にて、世にさが(448)しく、すぐれたる人を、はやき人と云(ヒ)、おろかにおとれる人を、おそき人といへば、こゝは、愚鈍《オロカ》の風流士《ミヤビヲ》ぞと云るなり、九(ノ)卷浦島(ノ)子を作る歌に、常世邊可住物乎釼刃已之心柄於曾也是君《トコヨヘニスムベキモノヲツルギタチシガコヽロガラオソヤコノキミ》、また十二に、山代石田杜心鈍手向爲在妹相難《ヤマシロノイハタノモリニコヽロオソクタムケシタレバイモニアヒガタキ》、と活かしても云り、(源氏物語蓬生橋姫などの卷にも心おそくと云ることあり、)時節などに、遲速《オソハヤ》といふも、本同言なり、(十四の、可良須等布於保乎曾杼里《カラストフオホヲソドリ》、とある乎曾《ヲソ》、又|獺《ヲソ》のことなどを、思ひよせたる説は、於《オ》乎《ヲ》の假字の、異《カハリ》あることをだに、えしらねば、いふにも足ず)、○歌(ノ)意は、兼ては風流秀絶《ミヤビ》たる人と吾は聞るを、さらば昨夜、わか隱《シノビ》て火を乞申しに行しことの意趣をも、心はやくさとりてむを、さもなくて、なほざりにつれなく歸せしは、おろかの風流士ぞ、と謔戯《タハムレ》て云るなり、
〔大伴田主、字曰2仲郎《ナカチコト》1。容姿佳艶。風流秀絶。見人聞者。靡v不2歎息1也。時有2石川女郎1。自成2雙栖之感1。恒悲2獨守之難1。意欲v寄v書。未v逢2良信1。爰作2方便1。而似2賤嫗1、己提2鍋子1。而到寢側1。哽v音跼v足。叩v戸諮曰。東隣貧女。將v取v火來矣。於是仲郎。暗裏非v識2冐隱之形1。慮外不v堪2拘接之計1。任v念取v火。就v跡歸去也。明後女郎。既恥2自媒之可1v愧。復恨2心契之弗1v果。因作2斯歌1。以贈謔戯焉。〕
仲郎は、ナカチコ〔四字右○〕(またはナカツコ〔四字右○〕、)と訓べし、(十四に、等能乃奈加知師登我里須良思母《トノヽナカチシトガリスラシモ》、)欽明天皇(ノ)紀に、長(ヲ)曰2云々(ト)1、仲 《ナカチヲ》曰2譯語田(ノ)渟中倉太珠敷(ノ)尊(ト)1、少(ヲ)曰2云々(ト)1とありて、田主は、旅人卿の弟、安麻呂(ノ)卿の第二子なるが故に、仲《ナカチ》とは云るにて、後に二郎と云に、全同じことなり、總て古(ヘ)第二に(449)あたる子を仲と云ること、猶|往々《コレカレ》例あり、(韻會云、仲郎(ハ)、男子之稱、これはからごとにて、別なるべし、)中昔の物語書にも、第二(ノ)女子を、中の君といへり、既く上にも云り、鎌足大臣の字をも、中郎といへるよし、家傳に見えたり、彼(ノ)公は、御食子《ミケコノ》卿の長子なるに、しか云るは、何ぞ當時に所以ありしことにや、○見人、仙覺証本には、見者と作り、○時の上、類聚抄に子(ノ)字あり、○雙栖は、播安仁(カ)悼亡(ノ)詩に、如2彼翰林鳥(ノ)雙栖一朝(ニ)隻《ヒトリアルガ》1、と見えたり、○獨守之難は、文選古詩に、蕩子行(テ)不v歸、空牀難2獨(リ)守(リ)1、と見えたり、○鍋(ノ)字、類聚抄拾穗本等には、堝と作り、○哽音は、ほそ音《コヱ》に物いふことなり、集韻に、哽(ハ)、咽聲(ナリ)、○跼足(跼(ノ)字、類聚抄古寫本等には※[足+滴の旁]と作り、字書に、跼(ハ)促也曲也、又玉篇に、※[足+卷]跼(ハ)、不v伸也、又※[足+滴の旁]躅」(ハ)、行(テ)不(ナリ)v進也とあり、)は、足を曲めて、しのび/\に歩《アル》くことなり、○冐隱は、冐は、俗(ノ)冒字(ナリ)、と見えたり、續字彙補に、冐(ハ)、覆也、見2釋典(ニ)1、又眸(ハ)冒也、相|裹冒《ツヽミオホフ》也と見ゆ、○念(ノ)字古寫本には意と作り、○自媒之可愧、(愧(ノ)字、拾穗本には※[女+鬼]と作り、)曹植(カ)求2自試(ヲ)1表(ニ)云、夫自衒自媒者、士女之醜行也、○諺戯は、此の如く、諺戯とつらねて、たはぶるゝ意に用たること、他にもあり、共に、諺は謔(ノ)字の誤にや、袖中抄に引るには、謔とあり、玉篇は、謔(ハ)、戯言(ナリ)、字鏡に、謔(ハ)、太波夫留《タハブル》とあり、
 
大伴宿禰田主報贈歌一首《オホトモノスクネタヌシガコタフルウタヒトツ》。
 
贈(ノ)字、拾穗本にはなし、
 
127 遊士爾《ミヤビヲニ》。吾者有家里《アレハアリケリ》。屋戸不借《ヤドカサズ》。令還吾曾《カヘセシアレソ》。風流士者有《ミヤビヲニアル》。
 
(450)風流士者有を、舊訓タハレヲニアル〔七字右○〕、とあるを思へば、者は、※[者/火](ノ)字の誤にぞあるべき、○歌(ノ)意は、いやしき老女にまがへて、たばからるゝを、うちつけに宿かさむは、いとあさはかなる、あだものゝするわざにこそあれ、ただにかへせしは、風流士のさまなれば、吾ぞまことの、みやびをにある、とざれていへり、
 
石川女郎《イシカハノイラツメガ》。更《マタ》贈《オクレル》2大伴宿禰田主《オホトモノスクネタヌシニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
石川の上、舊本に同字あり、今は目録類聚抄拾穗本等に、無に從つ、○宿禰(ノ)二字、舊本脱たり、目録にあるぞよろしき、○田主の下、舊本中郎(ノ)二字あるは、まぎれて入しなるべし、目録に无ぞ宜しき、
 
128 吾聞之《アガキヽシ》。耳爾好似《ミヽニヨクニツ》。葦未乃《アシノウレノ》。足痛吾勢《アナヤムワガセ》。勤多扶倍思《ツトメタブペシ》。
 
吾聞之云々は、アガキヽシミヽニヨクニツ〔アガ〜右○〕と訓べし、(ヨクニバ〔四字右○〕とよめるは、甚わろし、)吾聞しが如くにありつ、といふことを、かく云るはおもしろし、吾(カ)耳に聞しに、好(ク)似つと云が如し、今の人ならば、兼てわが聞しに似たり、など云べきを古人ならでは、かくは得いはじ、耳《ミヽ》は、十一に、言云者三三二田八酢四《コトエイヘバミヽニタヤスシ》、と云る(耳に輙《タヤス》しなり、)に同し、○葦若未乃(未(ノ)字、類聚抄には生と作《ア》り、)は、足痛《アナヤム》の枕詞なり、本居氏、これは、若生とある本によらば、あしかびと訓べし、葦の若芽は、かたからず、なよ/\としたる物なるゆゑに、足痛《アナヤム》に、冠らせつらむ、又未は、未の誤にてもあ(451)るべし、十(ノ)卷に、小松之若末爾《コマツガウレニ》、ともあればなり、これによらば、葦のうれのとよむべし、又同卷に、芽之若末長とあるは、はぎのうれながし、とよむべし、若末長を、ワカナヘ〔四字右○〕と訓ては字にかなはず、なへを、末長と書べき由なきをや、右の如く、若末と云こと、二(ツ)例あれば、こゝもあしのうれの、なるべくやあらむ、冠辭考の説は、これかれ誤れりと云り、既く水戸侯の釋にも、アシノウレノ〔六字右○〕と訓たまへり、字も末と作り、○足痛は、アナヤム〔四字右○〕と訓べし、十四に、比登乃兒乃可奈思家之太波々麻渚杼里安奈由牟古麻能乎之家口母奈思《ヒトノコノカナシケシダハヽマスドリアナユムコマノヲシケクモナシ》とあり、(これに依ば、直に安奈由牟《アナユム》とも訓べけれども、此は東語なれば、定(マ)りたる古言のまゝに、今は安奈夜牟《アナヤム》、と訓むぞ宜しき、抑(モ)奈夜牟《ナヤム》と云言は奈與夜可《ナヨヤカ》、奈與奈與《ナヨナヨ》、奈由流《ナユル》、奈夜須《ナヤス》、など云と同くて、もと軟弱《ナヨヤカ》なるよしの言なれば、葦若末乃《アシノウレノ》、といふよりの屬《ツヾキ》に、よくかなへり、又舊本に、アナヘク〔四字右○〕とよめる、是もあしからじ、(史記呉(ノ)大伯世家に、公子光、佯《イツハリテ》爲《マネシテ》2足|疾《ナヘク》1、入2于窟室(ニ)1、左傳に、光僞(テ)足|族《ナヘク》と見ゆ、又官本に、アシヒク〔四字右○〕と訓り、枕詞の足引《アシヒキ》を、足病《アシヒキ》とも書たれば、さも訓べし、略解に、あしなへとよめるは、太《イミ》じく惡し、吾勢《ワガセ》と體言につゞきたれば、必(ス)用言に訓ずては、協はぬことなり、)和名抄に、説文(ニ)云、蹇(ハ)行(テ)不v正也、阿之奈閇《アシナヘ》、此云2那閇久《ナヘクト》1、靈異記に、攣(ハ)、?奈幣《テナヘ》、躄(ハ)、阿志那倍《アシナヘ》、字鏡に、癖(ハ)、腹内(ノ)癖病、足奈戸《アシナヘ》とあり、那閇久《ナヘク》も、上の那夜牟《ナヤム》と、本(ト)同言なり、但し然らば、那延久《ナエク》とあるべきに、假字違へるは、いかにといふに、(丹波康頼神遺方に、阿師奈衣《アシナエ》とあれど、假字亂れて後の書なれば、それは(452)たのみがたし、)凡て本は同言ながらも、夜伊由延《ヤイユエ》にも、波比布閇《ハヒフヘ》にも通はして、活用《ハタラケ》る言あり、萎をも、志那延《シナエ》とも、志那閇《シナヘ》とも、云るにて、意得べし、○動多扶倍思《ツトメタブベシ》(倍(ノ)字、類聚抄に、信とあるは誤なり、思字、拾穗本には、之と作り、)は、契冲、勤《ツトメ》は、日本紀に自愛とかきて、つとめとよめりといへり、(余云、舒明天皇(ノ)紀に、慎(テ)以|自愛《ツトメヨ》矣、)多扶《タブ》は、たまふなり、土佐日記に、我國には、かゝる歌をなむ、神代より神もよみたび云々、同書定家(ノ)卿本に、楫取又曰く、ぬさには御心のいかねば、御舟も行ぬなり、なほうれしと思ひたぶべきもの、たいまつりたべといふ、平家物語に、木曾が、皷判官にあひて、抑々わ殿を、皷判官と云は萬(ツ)の人にうたれたうたか、はられたうたかとぞ、問たりけるとあるも、たうたかは、賜《タ》びたかなり、なほ賜《タ》を、多婢《タビ》多扶《タブ》多婆流《タバル》多辨《タベ》、と云ること、これかれあり、四(ノ)巻に、幣者將賜《ヌサハタバラム》、十四に、伊低兒多婆里爾《イデコタバリニ》、十八に、己禮波多婆利奴《コレハタバリヌ》、書紀雄略天皇(ノ)卷に、凡河内(ノ)直香賜、と云人(ノ)名ありて、註に、香賜、此云2※[舟+可]※[手偏+施の旁]夫《カタブ》1とあり、さてつとめたふべしとは、保愛をくはへて、早く本復し給へ、といふなるべし、○歌(ノ)意は、兼てそこに、脚(ノ)氣《ケ》ありと我(カ)聞しが、げにも昨夜、火を乞に行て、親《チカ》く見たるに、聞し如くなりき、さぞな惱み給ふらむ、その足痛《アシナヤ》む吾兄よ、よく保愛して、はやく平復し給へとなり、○こゝに或人の考あり、云(ク)、此(ノ)歌も上のと同じく、たはぶれてよみしものにて、則(チ)上の傳にある如く、田主中郎の、石川(ノ)女郎たるを知ずて、乞まゝに火をとらせ、又其(ノ)跡につきて、おくりさらしめし事を、ざれて、足痛たまふ君には、あ(453)るまじきことながら、昨夜は、さる女を、送りたまふよし聞り、我(ガ)聞如くならば、足痛たまふ吾(カ)兄、さぞなしひつとめて、送りたまひぬらむ、さりとは/\御苦勞千萬なる、御事なりし、と云意なるべし、吾(カ)聞し耳に好似ば、と云るも、たはぶれ詞なればなり、しかるを、左註にまよひて、事實とのみ心得るは、ひがことなりと云り、此(ノ)考は、甚めづらしけれど、さらば、勤多婢氣牟《ツトメタビケム》、などあるべし、多扶倍思《タブベシ》は、今よりゆくさきをかけて、云言なれば、過去しことをいへるに叶はず、猶上の説によるべし、
〔右依2中郎足疾《アシノケニ》1、贈2此歌(ヲ)1問訊也。〕
足疾、倭名抄(ニ)云、醫家書(ニ)有2脚氣論語1、云、脚氣、一(ニ)云脚病、俗云、阿之乃介《アシノケ》、源(ノ)順集に、今は草の庵に、難波の海の、あしの氣《ケ》にのみ煩ひて、こもり侍れば云々、枕草紙に、病は、胸、物(ノ)氣、足の氣云々、うつほ物語源氏物語などに、亂脚病《ミダリカクビヤウ》と見えたり、
 
大津皇子宮侍石川女郎《オホツノミコノミヤノマカタチイシカハノイラツメガ》贈《オクレル》2大伴宿禰宿奈麿《オホトモノスクネスクナマロニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
大津(ノ)皇子(ノ)宮云々、契冲云、今按(フ)に、藤原(ノ)宮御宇となりては、大津(ノ)皇子、わづかに十月の初まで、世におはしまし、そのうへ、天武天皇諒闇のうちなれば、うたがふらくは、此(ノ)歌も、淨御原(ノ)御宇のほどの、事なるべくやと云り、さも有べし、○侍(舊本、待とあるは誤なり、今は元暦本類聚抄古寫本等によれり、)は、神代紀下に、侍者《マカタチ》、欽明天皇(ノ)紀に、從女《マカタチ》などあり、契冲云、まかたちは、今(ノ)俗、こ(454)しもとなどいふなるべし、遊仙窟には、婢とも侍婢ともかけり、侍兒とかきて、長恨歌に、おもとひとゝよめり、○石川(ノ)女郎は、上に出たり元暦本官古寫本等に、女郎字曰2山田女(ノ)郎(ト)1也、宿奈麻呂(ノ)宿禰者、大納言兼大將軍卿之第三之子也、と註せり、○宿奈麿は、續紀に、和銅元年正月乙巳、從六位下大伴(ノ)宿禰宿奈麻呂(ニ)授2從五位下(ヲ)1、五年正月戊子、從五位上、靈龜元年五月壬寅、爲2左衛士督1、養老元年正月乙巳、正五位下三月七月庚子、始置2按察使(ヲ)1、令3大伴(ノ)宿禰宿奈麻呂(ニ)、管2安藝周防二國1、四年正月甲子、正五位上、神龜元年二月壬子、從四位下とあり、
 
129 古之《フリニシ》。嫗爾爲而也《オミナニシテヤ》。如此許《カクバカリ》。戀爾將沈《コヒニシヅマム》。如手童兒《タワラハノゴト》。
 
古之は、フリニシ〔四字右○〕と訓べし、布里《フリ》は、古《フル》びといふに同じ、(即(チ)フルビ〔三字右○〕は、フリ〔二字右○〕と約(マ)るをもおもへ、)爾は、過爾之《スギニシ》、散爾家流《チリニケル》、老爾多流《オイニタル》、などいふ爾《ニ》と同じくて、那爾奴《ナニヌ》の活用辭なり、過《スギ》を、過那牟《スギナム》、過奴流《スギヌル》、ともいふにて、其活用の趣をしるべく、餘も是に准へて、さとるべし、(然るを註者等、是等の爾《ニ》の辭を、去《イニ》の意とこゝろえて、古爾之《フリニシ》は、古去《フリイニ》し、過奴流《スギヌル》は、過去《スギイヌ》るの略言ぞと云るは、甚しき誤なり、熟々古言の樣を、味ひてさとるべし、)之《シ》は、過去しことをいふ辭なり、○嫗爾爲而也《オミナニシテヤ》は、嫗を、オミナ〔三字右○〕と訓は、(舊本に、ヲウナ〔三字右○〕》と訓るは、論に足ず、略解にオムナ〔三字右○〕とよめるも、中古の音便言のまゝによめるなり、また岡部氏が、オヨナ〔三字右○〕とよめるは、理なし、况《マシ》て和名抄の於無奈《オムナ》を、無は與《ヨ》の誤にや、とさへ云るは、太《イミ》じき謾ごとなり、)字鏡に、※[女+長](ハ)於彌奈《オミナ》、(※[女+長](ノ)字は、字書に見あたらず、こ(455)は齡の長たる意もて、御國にて製れる字ならむ、)續紀十三に、紀(ノ)朝臣|意美那《オミナ》、(こは婦人の名なり、)など見えたるに從(レ)り、古事記傳に、抑々老女を、於彌那《オミナ》と云は、少《ワカ》きを、をみなと云と對(ヘ)て、大と小とを以て、老と少とを、別てる稱なり、又伊邪那岐伊邪邪美などの、御名の例を思ふに、おきなおみなは、伎《キ》と美《ミ》とを以て、男女を別てる稱なるべし、さて和名抄に、説文(ニ)云、嫗(ハ)、老女之稱也、和名|於無奈《オムナ》と見え、又靈異記に、嫗(ハ)、於于那《オウナ》など見えたるは、中古よりして、美《ミ》を、音便に、牟《ム》とも宇《ウ》とも、云なせるものなりと云り、(猶甚委く論へり、披(キ)考(フ)べし、○荒木田氏が、於無那《オムナ》は、於伊袁美那《オイヲミナ》なり、といへるは、用《トル》に足《タ》らず、)也《ヤ》は、將沈《シヅマム》の下に、移して意得べし、○許(ノ)字、拾穗本には計と作り、○如手童兒《タハラハノゴト》は、四(ノ)卷に、幼婦常言雲知久手小童人吠耳泣管《タワヤメトイハクモシルクタワラハノネノミナキツヽ》云々、契冲、手わらはとは、はゝめのとなどの、手をはなれぬをいふべしと云り、書紀に、童女《ワラハメ》、和名抄(ニ)云、禮記(ニ)云、童(ハ)、未v冠之稱也、和名|和良波《ワラハ》、文選東京賦(ノ)註(ニ)云、娠子、娠子(ノ)讀、師説、和良波部《ワラハベ》、字鏡(ニ)云、僮(ハ)、未v冠人也、和良波《ワラハ》、また※[女+兒](ハ)、和良波《ワラハ》、○歌(ノ)意は、齡《ヨハヒ》舊《フル》びにし老女《オミナ》の身なれば、物の理をもわきまへ知て、戀にも能堪忍ふべきことなるを、さはなくて、似氣なく、母や乳母の、手はなれぬ童兒などの如く、物も聞いれず、音にさへ泣つゝ、かほどまで戀に得堪ずして、臥沈み居むことかはとなり、十一に、小豆奈九何狂言今更小童言爲流老人二四手《アヂキナクナニノタハコトイマサラニワラハゴトスルオイヒトニシテ》とあり、○舊本に、一(ニ)云、戀乎太爾忍金手武多和良波乃如、と註り、(太(ノ)字、舊本に大に誤、拾穗本に從つ、忍(ノ)字、元暦本に思と作り、良は、舊本に郎に誤れるを、元(456)暦本類聚抄拾穗本等によれり、又類聚抄に、多(ノ)字はなくして、如を、也母(ノ)二字に作るは、亂れしものと見ゆ、
 
長皇子《ナガノミコノ》。與《オクリタマヘル》2皇弟《イロドノミコニ》1御歌一首《ウタヒトツ》。
 
皇弟は、弓削(ノ)皇子にて、長(ノ)皇子の御同腹の御弟なり、すべて同腹《ヒトツハラ》なるを、伊呂兄《イロセ》、伊呂妹《イロネ》、伊呂弟《イロド》、伊呂妹《イロモ》など云り、弓削(ノ)皇子は、上に出たり、
 
130 丹生乃河《ニフノカハ》。瀬者不渡而《セハワタラズテ》。由久遊久登《ユクユクト》。戀痛吾弟《コヒタムアオト》。乞通來禰《イデカヨヒコネ》。
 
丹生乃河《ニフノカハ》は、大和志に、宇智(ノ)郡丹生河、源出v自2吉野(ノ)郡|加名生《カナフノ》谷1、經2丹原《タンバラ》生子《ウブス》等(ヲ)1、至2靈安寺村(ニ)1、入2吉野川1とあり、其(ノ)河を隔て、彼方に皇弟は住給ひしなるべし、○瀬者不渡而《セハワタラズテ》は、恐き河瀬を渡らば、そこなひもや侍らむ、瀬は渡らずして、來ませといふなり、○由久遊久登《ユクユクト》(遊(ノ)字舊本※[竹/(しんにょう+夾)]に誤、今は元暦本類聚抄拾穗本等に從つ、)は、次の戀痛《コヒタム》へ、直につゞけては、聞べからず、尾句の上に、めぐらして意得べし、さて此言は、難《ナヅ》みとゞこほることなく、する/\と物する意を、いふことゝきこえたり、(これを集中に、海部之※[楫+戈]音湯鞍干《アマノカヂノトユクラカニ》、あるは、大船之由久羅由久羅《オホブネノユクラユクラ》などある、由久羅《ユクラ》と同言にて、物思ひたゆたふを、由久由久登戀《ユクユクトコフ》、といふよしに、心得たるは、うけがたし、其は言の似たるより、ふと同意ぞとおもひよれることなれど、よく味ふるときは、さては尾句、力(ラ)なくきこえたれば、必(ス)此(ノ)一句は、下にうつして聞べきことなり、拾遺集に、菅家大臣、君が住(457)宿のこずゑのゆく/\とかくるゝまでにかへり見しはや、とあるも、する/\と顧《カヘリミ》し、といふなるべし、源氏物語賢木に、おとゞは、おもひのまゝに、こめたる所おはせぬ本性に、いとゞ老の御ひがみさへ、そひ給(ヒ)にたれば、なにごとにかはとゞこほり給はむ、ゆく/\と宮にもうれへ聞え給ふ、とあるゆく/\も、ありのまゝに、する/\といふ意にきこえたれば、同言にやあらむ、)○戀痛吾弟は、コヒタムアオト〔七字右○〕と訓べし、(略解に、戀痛を、コヒタキ〔四字右○〕とよみて、めづるを、めで痛といふがごとく、いと戀しきを、強くいふ詞なり、と云るはわろし、戀多伎《コヒタキ》といふ詞、物に見えたることなし、)吾弟は、(岡部氏が、舊本に從て、ワガセ〔三字右○〕とよめるは、よしなし、)阿我於登《アガオト》、といふべきが如くなれども、吾(カ)君を、阿岐美《アギミ》、吾(カ)兄を、阿勢《アセ》、ともいふ例によりて訓べし、(かく訓ときは、調もよくとゝのへり、)十七に、波思伎余思奈弟乃美許等《ハシキヨシナオトノミコト》、(九(ノ)卷に、箸向弟乃命《ハシムカフオトノミコト》とあり、弟は、いづれもオト〔二字右○〕と訓べし、)とあり、(兄を、阿勢《アセ》とも奈勢《ナセ》とも云、弟を、阿於登《アオト》とも奈於登《ナオト》とも、云しなり)かくてこの於登《オト》と云言は、古事記上卷高比賣(ノ)命歌に、阿米那流夜淤登多邦婆多能《アメナルヤオトタナバタノ》云々と見えて、そのもとは、人を深く親睦《シタシ》む稱なりしと見えたり、さて人の季(ノ)子は、殊更に父母に親愛るゝから、於登兒《オトコ》と云より、後に兄弟の弟を、稱ことには定れるなるべし、(また催馬樂葦垣に、止々呂介留己乃以戸乃於止與女《トゞロケルコノイヘノオトヨメ》云々、我門に、美曾乃不乃安也女乃古保利乃大領乃末名牟須女止以戸於止牟須女止古曾伊波女《ミソノフノアヤメノコホリノタイリヤウノマナムスメトイヘオトムスメトコソイハメ》、などある、於止與女《オトヨメ》、於止牟須女《オトムスメ》は、婦また女(458)を、親睦みて云るか、さらばかの、淤登多那婆多《オトタナバタ》の淤登《オト》に同じ、されど此は、又實に弟婦《オトヨメ》弟女《オトムスメ》を云るにもあらむか、ともおもはるれども、何とやらむ、さも聞えざるなり、○古事記傳、右の淤登多那婆多能《オトタナバタノ》の歌の下に云(ク)、如此さまに云|淤登《オト》は、人の季子《スヱノコ》を、淤登子《オトコ》と云、其(ノ)淤登《オト》なり、さて季(ノ)子は、父母に殊《コトニ》愛《ウツクシ》まるゝ物なる故に、それより點りて、必(ス)しも季(ノ)子ならねども、賞愛まるる意にて、なべて美女などをも、淤登《オト》某とぞ云けむとあるは、本末をとりたがへたる説なるべし、又谷川(ノ)士清が、弟は、劣《オトリ》人の義ぞと云るは、例の末にのみつきていへる論なれば、云に足ぬひがことなり、)○乞通來禰《イデカヨヒコネ》、(乞(ノ)字、類聚抄には与とかけり、望辭の己曾《コソ》にも、與とも乞とも書れば、もとより通(ハシ)用たるか、)乞《イデ》は、物を乞ふ處に云り、七(ノ)卷に、吾勢子乎乞許世山登《ワガセコヲイデコセヤマト》云々、(これも吾(カ)夫子よ乞《イデ》來《コ》よ、と云(フ)意のつゞけなり、然るをコチコセ〔四字右○〕山とよみて、此處《コチ》へ來《コ》、と云意とするは非なり、)四(ノ)卷に、乞吾君人之中言聞超名湯目《イデアギミヒトノナカコトキヽコスナユメ》、十二に、乞吾駒早去欲《イデアガコマハヤクユキコソ》、十四に、伊低兒多婆里爾《イデコタバリニ》、書紀允恭天皇(ノ)巻に、謂2皇后1曰、云々、壓乞戸母、云々、註に、壓乞、此云2異提《イデト》1、戸母、此云2覩自《トジト》1とあり、來禰《コネ》は、來《コ》よと乞望《ネガ》へる辭なり、禰《ネ》の望辭(ノ)例、一(ノ)巻(ノ)初に委(ク)云り、○御歌(ノ)意は、戀しく思慕ふ吾(カ)弟よ、乞々《イデ/\)こゝに通ひ來給へ、但し丹生河の、危き急瀬を渡らずして、難《ナヅミ》とゞこほることなく、するすると通來たまへよとなり、
 
柿本朝臣人麻呂《カキノモトノアソミヒトマロガ》。從《ヨリ》2石見國《イハミノクニ》1。別《ワカレテ》v妻《メニ》上來時歌二首並短歌《マヰノボルトキノウタフタツマタミジカウタ》。
 
(459)從2石見國1云々は、考るところなしといへども、朱鳥三年に、日並(ノ)皇子(ノ)尊の薨賜ひしを、傷奉(リ)てよめる歌あれば、朱鳥二年より以往の、秋の末なるべし、時節のことは、謌詞に見えたり、さて此(ノ)後、石見(ノ)國へ下られしには、彼(ノ)國にてみまかられしと見えたり、○妻は、和名抄に、白虎通(ニ)云、妻者、齊也、與v夫齊(クスル)v體(ヲ)也、云々、和名米とあり、さてこゝなる妻は、嫡妻にあらじ、こが石見(ノ)國へまけられし間、彼(ノ)國にて、通《カヨ》ひ住《スミ》し妻なりけむ、猶岡部氏(カ)、考(ノ)別記に委(ク)論へり、(但し人まろの妻、始め後かけては四人か、其(ノ)始の二人の中に、一人は妻なり、後二人も、一人は妻なりと見ゆ、然るを總て妻と書しは、後に誤れるならむと云るは、中々に古意をそこなへるわざなり、そのよしは、古(ヘ)は凡て嫡妻をはじめて、妾またかりに通婚せしをも、總ては米《メ》と稱しことなれば、妻と書しこそ、古(ヘ)のさまなれ、後(ノ)世の風にのみ拘泥《ナヅミ》て、なあやまりそ、
 
131 石見乃海《イハミノミ》。角乃浦回乎《ツヌノウラミヲ》。浦無等《ウラナシト》。人社見良目《ヒトコソミラメ》。滷無等《カタナシト》。人社見良目《ヒトコソミラメ》。能咲八師《ヨシヱヤシ》。浦者無友《ウラハナクトモ》。縱畫屋師《ヨシヱヤシ》。滷者無鞆《カタハナクトモ》。鯨魚取《イサナトリ》。海邊乎指而《ウミヘヲサシテ》。和多豆乃《ワタヅノ》。荒磯乃上爾《アリソノウヘニ》。香青生《カアヲナル》。玉藻息津藻《タマモオキツモ》。朝羽振《アサハフル》。風社依米《カゼコソキヨセ》。夕羽振《ユフハフル》。流〔□で囲む〕浪社來縁《ナミコソキヨセ》。浪之共《ナミノムタ》。彼縁此依《カヨリカクヨル》。玉藻成《タマモナス》。依宿之妹乎《ヨリネシイモヲ》。露霜乃《ツユシモノ》。置而之來者《オキテシクレバ》。此道乃《コノミチノ》。八十隈毎《ヤソクマゴトニ》。萬段《ヨロヅタビ》。顧爲騰《カヘリミスレド》。彌遠爾《イヤトホニ》。里者放奴《サトハサカリヌ》。益高爾《イヤタカニ》。山毛越來奴《ヤマモコエキヌ》。夏草之《ナツクサノ》。念之奈要而《オモヒシナエテ》志怒布良武《シヌフラム》。妹之門將見靡此山《イモガカドミムナビケコノヤマ》。
 
(460)石見乃海は、イハミノミ〔五字右○〕と訓べし、書紀神功皇后(ノ)卷(ノ)歌に、阿布瀰能瀰齊多能和多利珥《アフミノミセタノワタリニ》(近江之海瀬田之渡爾なり、)とあり、石見の名(ノ)義は、字の如くなるか、又は石群《イハムレ》の約りたるにてもあらむか、すべて此(ノ)國、唐の崎なる、かの大汝少彦名(ノ)二神の、おはしたる志都(ノ)岩屋、殊に岩多く群たる故にしか名におへるか小篠《ヲサヽノ》御野は、この國の海邊、おしなべて岩なれば、石海《イハミノ》國ならむと云るよし、斎藤(ノ)彦麻呂(カ)諸國名義考に云り、○角乃浦回乎、(回(ノ)字、拾穗本には廻と作り、)ツヌノウラミヲ〔七字右○〕と訓べし、角は、和名抄に石見(ノ)國那賀(ノ)郡都農(都乃《ツノ》)郷あり、其(ノ)地の海邊なり、今も其(ノ)處を角津と呼よし、國人いへり、回をミ〔右○〕と訓こと、上(一卷)に委(ク)辨(ヘ)云り、(略解に、ウラマ〔三字右○〕とよめるはわろし、また舊本に、ウラワ〔三字右○〕とよめるなどは、云にも足ず)○浦無等《ウラナシト》(等(ノ)字拾穗本に登と作り、)は、よき浦なしと、といふなるべし、浦は、和名抄に四聲宇苑(ニ)云、浦(ハ)大川(ノ)旁曲渚、船隱v風(ニ)所也、和名|宇良《ウラ》とあり、○人社見良目《ヒトコソミラメ》は、他《ヨノ》人こそ、さは見らめ、よしやさはありともとの意なり、社《コソ》は、他にむかへて、その物をとりわきて、たしかにいふ時の詞なり、○滷無等《カタナシト》は、おもしろき潟なしと、と云なるべし、舊本に一(ニ)云、磯無登とあり、滷は、和名抄に、文選海賦(ニ)云、海溟廣潟、師説(ニ)加大《カタ》、字鏡に、灘(ハ)砂聚也、云々、又|加太《カタ》、また洲(ハ)洲渚(ナリ)、加太《カタ》とあり、滷(ノ)字は、玉篇(ニ)云、滷(ハ)鹹水也とあり、いかゞにや、源(ノ)嚴水云(ク)、この滷《カタ》は、鹽干潟にて、浦の※[さんずい+内]江《イリエ》など鹽干れば、深き處は、池などのやうに殘り、淺き處處、面白くあらはれ出て、めづらしければ、浦とむかへ云るなり、たひらかなるところの、唯一(461)つらに、鹽の干たるは、何の見處かあらむ、出羽(ノ)國象潟、八郎潟など云る處は、鹽干潟にはあらねど、大海ちかき湖水にて、海とは、たゞ帶ばかりの濱を、隔たるのみにて、小き嶋などありていとめでたき處なり、この潟、越後あたりにも、こゝかしこに有といへり、岡部氏は、北海には鹽の滿干なき故、潟なきよしいへれど、出羽越後、すでに潟あれば、石見(ノ)國にも、いにしへは、かかる處を、潟といひけむを、角の浦に、かゝる潟のなかりければ、かくよまれしなるべし、○人社見良目《ヒトコソミラメ》、上に云るが如し、○能咲八師《ヨシヱヤシ》(咲(ノ)字、舊本に嘆と作るは、誤なり、今は元暦本拾穂本等に從つ、古寫本に※[口+矣]とあるも、咲の誤ならむ、)は、假(リ)に縱《ユル》す辭とて、よしやさはあれ、といふ意の古言なり、又|四惠夜《シヱヤ》とも、惠夜《ヱヤ》とも云(ヘ)り、師《シ》は、助辭なり、(岡部氏が、咲をも、助辭といへるは、たがへり、)○浦者無友《ウラハナクトモ》は、よき浦は無とも、と云なり○縱畫屋師《ヨシヱヤシ》は、上に云るが如し、○滷者無鞆《カタハナクトモ》は、おもしろき潟は無とも、といふなり、舊本に、一(ニ)云、礒者とあり、さてこゝまでの意は、角の浦回を、よき浦も、おもしろき潟もなし、とよの人こそは見らめ、よしやよき浦はなく、よしやおもしろきひかたはなくともとなり、よしやさばれ、吾(カ)ためには、故郷にして、妻とたぐひてすめば、浦なし滷なしとも思はず、住よしとおもふなり、といふ意を、おもはせたるなり、十三に、隱來笑長谷之河者浦無蚊船之依不來磯無蚊海部之釣不爲吉咲八師浦者無友吉畫矢寺礒者無友《コモリクノハツセノカハハウラナミカフネノヨリコヌイソナミカアマノツリセヌヨシヱヤシウラハナクトモヨシヱヤシイソハナクトモ》、とよめる、今の歌に似たり、○鯨魚取《イサナトリ》は、海といはむ料《ガネ》の枕詞なり、書紀允恭天皇(ノ)卷(ノ)歌に、(462)等虚辭部邇枳彌母阿閇椰毛異舍儺等利宇彌能波摩毛能余留等枳等枳弘《トコシヘニキミモアヘヤモイサナトリウミノハマモノヨルトキトキヲ》とあり、集中には往々見えたり、鯨魚は、伊佐邪《イサナ》にて、即(チ)鯨《クヂラ》の事なり、壹岐(ノ)國風土記、鯨伏(ノ)郷といふ、名の由縁を云るところに、鮫走來(テ)隱伏(キ)、故云2ニ鯨伏《イサフシト》云々(俗云v鯨爲2伊佐《イサト》1、)と見えたり、なほ鯨の事、品物考に云り、さて鯨魚を漁《トル》海、とつゞけたり、鯨魚等留《イサナトル》といはずして、等利《トリ》としも云るは、歌ひ絶て、次の句を歌ふ枕詞の一(ツノ)格にて、其(ノ)こと上にも云り、○海邊乎指而は、ウミヘヲサシテ〔七字右○〕と訓べし、十八に、波萬部余里和我宇知由可波宇美邊欲利牟可倍母許奴可安麻能都里夫禰《ハマヘヨリワガウチエカバウミベヨリムカヘモコヌカアマノツリフネ》、とあるは、これ海邊を、ウミヘ〔三字右○〕と訓べき、明《サダ》かなる例證なり、又書紀竟宴(ノ)歌に、佐々奈美乃與須留宇美倍爾美夜波之女與與爾多江奴加支美加美乃知波《サヽナミノヨスルウミベニミヤハジメヨヽニタエヌカキミガミノリハ》、(知は、利の誤といへり、)古今集に、めいじうといふ宇美邊《ウミヘ》にて、土佐日記に、もし宇美弊《ウミへ》にてよまゝしかば、などもあり、(然るを、是を舊訓によりて、註書どもにも、ウナヒ〔三字右○〕とよみ、又本居氏も、然訓べきよし、既くいはれたりといへども、必(ス)さは訓まじき理あり、こはもしは、十四に、奈都蘇妣久宇奈比乎左之弖《ナツソビクウナヒヲサシテ》云々とある、宇奈比《ウナヒ》を、海邊と心得たるより、しかよめるにやあらむ、かゆ宇奈比《ウナヒ》は、攝津(ノ)國にも、兎原《ウナヒ》てふ地ある如く、地(ノ)名にてこそあらめ、彼(ノ)歌の前後の次《ナミ》も、皆地(ノ)名をよめるにても、しるべし、さて山備《ヤマビ》河備《カハビ》岡備《ヲカビ》濱備《ハマビ》などいふ言のあれば、宇奈備《ウナビ》ともいふべし、と思ふ人あるべけれども、もしその例によらば、宇美備《ウミビ》とこそいはめ、宇奈原《ウナバラ》などいふ奈《ナ》は、之《ノ》に通ふ言にて、海之《ウノ》の意、海原を、宇乃波(463)良《ウノハラ》とも、假字書せるにてしるべし、さらばいかでか、海乃備《ウノビ》、と乃《ノ》の言をおきては云べき、されば河乃備《カハノビ》、山刀傍《ヤマノビ》、など云ること、ひとつもなし、但し九(ノ)卷に、三諸之神邊山爾《ミモロノカミナビヤマニ》云々、とあれば、なほ邊を、ナビ〔二字右○〕と訓べからざるにあらず、と人皆思ふこともありなむ、余も、神邊と書ること、いと意得がてなりしを、よく思ふに、邊は、連(ノ)字の寫誤なるべく、おもひなりぬ、七(ノ)卷に、佐左浪乃連庫山爾《ササナミノナミクラヤマニ》云々、とも有を、考(ヘ)併(セ)てしるべし、邊(ノ)字にてはナビ〔二字右○〕と訓べき理、あるべくもあらずなむ、)指而《サシテ》は、玉藻奧津藻《タマモオキツモ》を、風浪の海邊を指て、來縁する意なり、(岡部氏が、作者の自ら指て行(ク)意に、解なせるは、大《イミ》しき非なり、)○和多豆乃、本居氏、石見(ノ)國那賀(ノ)郡の海邊に、渡津村とて今有(リ)、ここなるべし、されば和多豆乃《ワタヅノ》、四言の句なり、或本の歌に、柔田津と書るは、和多豆をニキタヅ〔四字右○〕とよみ誤れるにつきて、出來たる本なるべしと云り、(にきたづといふ地は、今もなしと國《クニ》人も云り、)○荒磯乃上爾《アリソノウヘニ》は、藻を風浪の礒の上によせ來るよしなり、荒磯《アリソ》は、(アライソ〔四字右○〕の、ライ〔二字右○〕を切れば、リ〔右○〕となる故に、アリソ〔三字右○〕と云、)荒《アラ》は、荒山《アラヤマ》荒野《アラヌ》などの荒《アラ》なり、礒は海濱《ウミヘタ》の石巖を云り、(玉篇云、※[山/欽]※[山/金]崎礒(ハ)、石巖也、とあり、)○香青生《カアヲナル》とは、香《カ》は、發言にて、集中に黒《クロ》きを可黒《カクロ》き、易きを可易《カヤス》き縁會《ヨリアヒ》を可縁《カヨリ》あひ、細《クハシ》きを可細《カクハシ》き、(但し可細《カクハシ》きの可《カ》は、香《カ》の細《クハシ》きを云と、たゞ發言に云ると、二(ツ)あり、)など云り、又よわきを、かよわきと云ることも、物語書に見えたり、みな同じことなり、生《ナル》は、借(リ)字にて、爾有《ナル》の意なり、○玉藻息津藻《タマモオキツモ》とは、息《イキ》は借(リ)字にて、澳《オキ》なり、玉藻は藻をほめていふ、澳(464)津藻《オキツモ》は、海(ノ)底に生たるをいふ、礒邊に生たるを、邊津藻といふに對ひたり、さてこれは、二(ツ)物にあらず、やがて澳津玉藻とも云るにてしるべし、一(ツ)物を、かく二樣にいひて、あやなしたるなり、○朝羽振《アサハフル》、夕羽振流《ユフハフル》、(流(ノ)字は、衍文なるべし、)羽《ハ》は扇《ハフ》る意の古言と見ゆ、(鳥の羽も、易《ハフ》る意もて、負(ヘ)る名なるべし、)振は、起(リ)觸るを云、風浪などの、物に扇《ハフ》り觸るを云なり、六(ノ)卷に、朝羽振浪之聲躁《アサハフルナミノトサワギ》、十九に、三更而羽振鳴志藝《サヨフケテハフリナクシギ》、又|打羽振鷄者嶋等母《ウチハフリカケハナクトモ》、古事記神武天皇(ノ)條に、爲釣乍羽擧來《ツリシツヽハフリクル》人、(これ等は、羽振といへる例なり、神代紀上に、素戔嗚(ノ)尊、云々、扇v天(ヲ)扇v國(ヲ)上2諸于天(ニ)1、とある扇をも、ハフリ〔三字右○〕とよめる人あり、)また集中十一に、風緒痛甚振浪能《カゼヲイタミイタフルナミノ》、十四に、奈美乃保能伊多夫良思毛與《ナミノホノイタブラシモヨ》、十七に、宇知久知夫利乃之良奈美乃安里蘇爾與須流《ウチクチブリノシラナミノアリソニヨスル》、相模(ノ)國風土記に、鎌倉(ノ)郡見越(ノ)崎、毎v有2速浪1崩(シキ)v石(ヲ)、國人名2號|伊曾布利《イソブリト》1、謂v振(ルヲ)v石(ニ)也、土佐日記に、磯振《イソブリ》の寄(ス)る磯には年月のいつとも分ぬ雪のみぞ零、(これら、浪に振と云る例なり、風には、常に布久《フク》といふも、布流《フル》に同し、をも/\布久《フク》と、布流《フル》と、同言なるよしは、神代紀に其(ノ)證見えたるよりはじめて、往々《コレカレ》例多し、)などあり、(しかるを岡部氏が、風浪のたつを、鳥の羽振に譬ふと云るは、本末を取失ひたる論なり、鳥の羽も、扇《ハフ》り飛《トブ》具なる故に、負る名にこそあれ、又十九に、打羽振《ウチハフリ》とあるも、羽を振よしにはあらず、羽|振《フリ》は、たゞ扇り振よしなるをや、もし羽を振(ル)意ならむには、羽打振《ハウチフリ》とこそ、いふべけれ、)古事記(天之日矛が持來し、玉津寶の中、)に、振浪比禮《ナミフルヒレ》、振風比禮《カゼフルヒレ》、とも見えたり、○風社依米《カゼコソキヨセ》、浪社來縁《ナミコソキヨセ》は、(465)次に載る或本のには、明來者浪己曾來依夕去者風己曾來依《アケクレバナミコソキヨセユフサレバカゼコソキヨセ》、とあるによりて思ふに、依米は、もと來依と有しを顛置《オキタガ》へ、また來を、米に誤りしなるべし、さらば來依來縁は、共にキヨセ〔三字右○〕と訓べし、伎與勢《キヨセ》は、來よすれの意なり、(即(チ)スレ〔二字右○〕の切、セ〔右○〕となるをも思(フ)べし、)こは風浪の玉藻奧津藻を、令《ス》2來依《キヨ》1を云なり、(然るを舊本をはじめ、略解にも何にも來縁を、キヨレ〔三字右○〕とよみたるは、いみじきひがことなり、さては風浪の、自ら來縁、といふ言となりて、玉藻息津藻といふこと、うきて聞ゆればなり、)十三に、奧浪來因白珠《オキツナミキヨスシラタマ》とあると同じ、(此をも、キヨル〔三字右○〕と訓るは、ひがことなり、かならずキヨス〔三字右○〕とよまでは、かなはぬことぞ、後撰集に、住吉の岸に來よする奧つなみ間なくかけてもおもほゆる哉、金葉集に、藻刈船今ぞ渚に來よすなる汀のたづの聲さわぐなり、これらも、來よすと云る例なり、)○浪之共《ナミノムタ》は、契冲、浪と共になり、牟多《ムタ》は、今の俗語に、めたと云にもかよひてきこゆることあり、ともにといふ詞の、古語なるべしと云り、十五に可是能牟多與世久流奈美爾《カゼノムタヨセクルナミニ》、又|君我牟多由可麻之毛能乎《キミガムタユカマシモノヲ》など、猶多し、○彼縁此依は、カヨリカクヨル〔7字右○〕と訓べし、(しばらく、此處にて、絶て心得べし、こをカヨリカクヨリ〔七字右○〕と訓て、妹がよることゝするは、ひがことなり、こは玉藻のよる事を云るなれば、必(ス)かよりかくよる、とよむべきことなり、浪之共玉藻成此縁此依《ナミノムタタマモナスカヨリカクヨリ》、と句を置かへて、聞べき處にもあらざればなり、と高橋(ノ)正元も云たりき、)さて此《コ》は、とよりかうよるにて彼方此方《カナタコナタ》に依る、といはむが如し、すべて、とにかく(466)といふことを、古言には、可爾迦久《カニカク》といへり、此下に、彼往此去《カユキカクユキ》、三(ノ)卷に、左右將爲《カモカクモセム》、四(ノ)卷に、云云意者不持《カニカクニコヽロハモタズ》、又|鹿※[者/火]藻闕二毛《カニモカクニモ》、五(ノ)卷に可爾迦久爾《カニカクニ》、十六に、左毛右毛《カニモカクニモ》などあり、又五(ノ)卷に、可由既婆比等爾伊等波延可久由既婆比等爾邇久麻延《カユケバヒトニイトハエカクユケバヒトニニクマエ》、古事記應神天皇(ノ)御歌に、迦母賀登和賀美斯古良迦久母賀登阿賀美斯古邇《カモガトワガミシコラカクモガトアガミシコラ》、續紀十(ノ)卷に、加久耶答賜《カクヤコタヘタマハム》、加耶答賜止《カヤコタヘタマハムト》など、加《か8》と加久《カク》と言を隔ても云り、但し續紀なるは、流布《ヨニアル》本に二(ツ)ながら、加久耶《カクヤ》とあるは、つたなく聞ゆれば、一(ツ)の久(ノ)字は、まぎれて入しなるべし、今は一本に從て引つ、○玉藻成《タマモナス》は、玉藻の如なり、如を成《ナス》と云こと、既く一(ノ)卷に出づ十一に、敷栲之衣手離而玉藻成靡可宿濫和乎待難爾《シキタヘノコロモテカレテタマモナスナビキカヌラムワヲマチカテニ》、○依宿之妹乎《ヨリネシイモヲ》の下に、舊本に、一(ニ)云、波之伎余思(波(ノ)字、舊本に※[さんずい+〓]とあるは誤なり、今は古寫本拾穗本等によりつ、)妹之手本乎、と註せり、(こは浪之共彼縁此依波之伎余思云々、と連くべくもなし、いかゞなり、かれ按(フ)に、こは一本には、波之伎余思の上に、靡吾宿之、など云句のありしを、校合の時、ゆくりなく脱せしものなり、さらば玉藻成靡吾宿之波之伎余思云々、と連くべし、次に載る或本に、浪之共彼依此依玉藻成靡吾宿之敷妙之妹之手本乎、とあるを以、考(ヘ)知(ル)べし、)○露霜乃《ツユシモノ》は、露《ツユ》と霜《シモ》となり、共におくものなれば、置てしくれば、といはむ料なり、と契冲は云り、本居氏は、露霜は、みなたゞ露のことなり、されば七(ノ)卷十(ノ)卷などには、詠v露(ヲ)といへる歌によめり、そも/\たゞ露を、露霜といはむことは、いかにぞや聞ゆめれども、此(ノ)名によりて思ふに、志毛《シモ》といふは、もと(467)は露をもかねたる總名にて、其(ノ)中に、氷らであるを、都由志毛《ツユシモ》といひ、省きて都由《ツユ》とのみもいへるなり、そは都由《ツユ》は、粒忌《ツブユ》のよしにて、忌《ユ》とは、清潔《キヨラ》なるを云、雪《ユキ》の由《ユ》も同し、されば露霜とは、粒《ツブ》たちて、清らなる志毛《シモ》、といふことなりといへり、○置而之來者《オキテシクレバ》は、とゞめ置て來れば、といふなり、置《オキ》はともに率て來ぬをいふ、倭乎置而《ヤマトヲオキテ》の置に同し、○此道乃《コノミチノ》云々は、一(ノ)卷に、川隈之八十隈不落萬段顧爲乍《カハクマノヤソクマオチズヨロヅタビカヘリミシツヽ》、とあるに同し、○彌遠爾《イヤトホニ》云々、廿(ノ)卷家持卿歌に、伊夜等保爾國乎伎波奈例伊夜多可爾山乎故要須疑《イヤトホニクニヲキハナレイヤタガニヤマヲコエスギ》云々とあり、○里者放奴《サトハサカリヌ》は、已く里は遠く放り來ぬとなり、奴《ヌ》は、已成《オチヰ》の奴《ヌ》なり、○益高爾は、イヤタカニ〔五字右○〕と訓べし、(本居氏、益は、すべてイヤ〔二字右○〕と訓べし、此(ノ)卷(ノ)に、あひみし妹は益年《イヤトシ》さかる、七(ノ)卷に、益河《イヤカハ》のぼる、十二に、こよひゆ戀の益《イヤ》まさりなむ、これらイヤ〔二字右○〕とよめり、と云り、略解にこの説をうけながら、此(ノ)益高は、ましたかとても有べしとて、しか訓たるは、いかにぞや、いみじきひがことゝ云べし、凡て益を、マシ〔二字右○〕と訓ときは必(ス)マシテ〔三字右○〕云々、と而《テ》の辭をおかずして、マシ〔二字右○〕云々といふ例は、さらになきことなるをや、)高とは、山の縁に云るにて、意は遠きよしなり、○山毛越來奴《ヤマモコエキヌ》とは、毛《モ》は上の者《ハ》にむかへて云り、山をも、已《ハヤ》く遠く越來りぬとなり、奴《ヌ》は、已成《オチヰ》の奴《ヌ》なり、○夏草之《ナツクサノ》は、之奈要《シナエ》といはむ料における枕詞なり、○念之奈要而《オモヒシナエテ》(之(ノ)字、拾穗本には思と作り、)は、念の切なるにつけて、うなだれしなえて、吾を慕ふらむ、と妹がさまを、おもひやりて云り、之奈要《シナエ》は、うなだれ萎《ナユ》るをいふ、次に載る或本には、思志(468)萎而《オモヒシナエテ》とあり、又集中に、夏草乃之奈要裏觸《ナツクサノシナエウラブレ》、君に戀之奈要裏觸《コヒシナエウラブレ》などもあり、又三(ノ)卷に、眞木葉乃志奈布勢能山《マキノハノシナフセノヤマ》、十(ノ)卷に、秋芽之四搓弖將有妹之光儀乎《アキハギノシナヒテアラムイモガスガタヲ》、十三に、春山之四名比盛而《ハルヤマノシナヒサカエテ》、廿(ノ)卷に、多知之奈布伎美我須我多乎《タチシナフキミガスガタヲ》、などありて、之奈由《シナユ》、之奈布《シナフ》、同言なるが、夜伊由延《ヤイユエ》にも、波比布幣《ハヒフヘ》にも、もとより二樣に活用(ク)言なり、此《コ》は上にも云り、(冠辭考の説は、これかれ誤多し、)○志怒布良武《シヌフラム》(怒(ノ)字拾穗本には奴と作り、)は、吾を慕ふらむ、と妹がさまを、推量りていへるなり、○妹之門將見《イモガカドミム》は妹が容儀を、直に見むことは、いかにおもふとも、協ふべからねばせめては、妹が家の門をなりとも見む、と思ふ情、いとあはれなり、○靡此山《ナビケコノヤマ》は、山の障(リ)て見せぬが、わびしければ、此(ノ)山靡けよ、と山に令せたるなり、これまことのこゝろなり、まことの歌なり、まことに山をも靡かしむる勢此(ノ)歌此(ノ)詞にあり、讀者かへす/”\味(ヒ)見べし、契冲、うごきなきものなるを、故郷の見えぬをわびて、せめての事にいふは、歌のならひおもしろきことなり、第十二に、あしき山木末こぞりてあすよりはなびきたれこそいもがあたり見む、第十三長歌の中に、わがかよひ道のおきそ山みのゝ山なびかすと人はふめどもかくよれと人はつけども、などもよめり云々、といへり、岡部氏云、古郷出て、かへりみるほどの旅情、誰もかくこそあれ、物の切なる時は、をさなき願ごとするを、それがまゝによめるは、まことのまこと也、後(ノ)世人は、此(ノ)心を忘れて、巧みてのみ歌はよむからに、皆そらごとゝ成ぬ、○歌(ノ)意は、石見(ノ)國角の海邊をば、よき(469)浦も、おもしろき潟もなくして、興なき所ぞとよの人こそは見らめ、よしやよき浦はなくとも、よしやおもしろき潟はなくとも、吾は己妻と二人すめば、たのしきことはそこばくにて、あくよなく思はるゝを、その愛しき己妻を、共に率て來ることも叶はずして、とゞめおきて、別れて京師のかたへ上來れば、こよなうわかれがたく、名殘をしくて、多くの道の隈々ごとに、かへり見はすれども、いつしか已《ハヤ》く、遠々に里は遠ざかり、山をもあまた越來ぬれば、今はせむかたなし、妻も吾戀しく思ふ如くに、うなだれ萎て、吾(カ)ことをのみ慕ふらむ、せめて其(ノ)妻が家の門をなりとも見むと思ふに、山の障(リ)て見せぬは、口をしく思ふに、いかで此(ノ)山の靡き伏て、かくれなく、妻が家の門を、明に見せてよとなり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
132 石見乃也《イハミノヤ》。高角山之《タカツヌヤマノ》。木際從《コノマヨリ》。我振袖乎《アガフルソデヲ》。妹見都良武香《イモミツラムカ》。
 
石見乃也《イハミノヤ》の也《ヤ》は、助辭にて、余《ヨ》といはむが如し、七(ノ)卷に、淡海之哉八橋乃小竹乎《アフミノヤヤハセノシヌヲ》、書紀繼體天皇(ノ)卷(ノ)歌に、阿符美能野※[立心偏+豈]那能倭倶吾何《アフフミノヤケナノワクゴガ》、古今集に、淡海のや鏡の山を、十四に、美那刀能也安之我奈可那流《ミナトノヤアシカナカナル》などあり、これら乃也《ノヤ》と云る例なり、(岡部氏が、此を、籠|母與《モヨ》、吾者|毛也《モヤ》、などいふに同じ、と云るは、いさゝかたがへり、)○高角山《タカツヌヤマ》は、石見(ノ)國美濃(ノ)郡の山(ノ)名なり、今(ノ)俗に、高津と呼《イフ》よし、國人いへり、此(ノ)地に、柿本大明神を鎭座《イハヘ》りとぞ、(この歌を、拾遺集に、石見なるたかまの山とて(470)あげしは、あまりかたはらいたくこそ、)○木際從《コノマヨリ》は從《ヨリ》2木間《コノマ》1なり、眞恒校本に、從、一本(ニ)、從文とあり、さらばコノマヨモ〔五字右○〕と訓べし、○我振袖乎《アガフルソデヲ》は、十一に袖振可見限吾雖有其松枝隱在《ソデフルガミユベキカギリアレハアレドソノマツガエニカクリタリケリ》とあり、○歌(ノ)意は、妻が見むために、わが袖ふる/\來しを、そのふる袖を、石見の高角山の木間よりして、妹はそれと見つらむかとなり、四一二三五、と句を次第て意得べし、(契冲、此(ノ)歌、人の心得あやまる歌なり、そのゆゑは、木(ノ)間より妹みつらむか、わがふる袖を、といふ意なれど、さいへば手つゝなれば、我ふる袖を、といふ句を、第四におかれたるゆゑに、第三の木のまより、といふに引つゞけて心得るゆゑに、かへざまになるなり、むかしもさりけるにや、後鳥羽(ノ)院の御製に、石見がた高角山に雪はれてひれふる峯を出る月影、今の人丸の歌は、わかれ來て、こなたより、わがふる袖を、故郷の高角山にのぼりて、見おこす妹が、木の間より見つらむか、とよまれたるを、さよひめならぬ人丸のひれを、高角山にふらせ賜へるは、袖とひれと物たがひて、男女たがひ所たがへり、いかめしき、御製なるにおどろきて、新後拾遺集に載られたれば、彼選者も、さこそこ心得られけめと云り、
〔或本反歌、石見爾有《イハミナル》。高角山乃《タカツヌヤマノ》、木間從文《コノマヨモ》、吾袂振乎《アガソデフルヲ》、妹見監鴨《イモミケムカモ》。〕
木間從文《コノマヨモ》は、古事記神武天皇(ノ)御歌に、多々那米弖伊那佐能夜麻能許麻能用母伊由岐麻毛良《タヽナメテイナサノヤマノコノマヨモイユキマモラ》比多々加閇婆《ヒタヽカヘバ》とあるに從て、コノマヨモ〔五字右○〕とよむべし、(廿(ノ)卷に、宇惠木之樹問乎《ウヱキノコマヲ》、源(ノ)頼政卿(ノ)集に(471)住吉の松の木間《コマ》よりながむれば、守覺法親王(ノ)御集に、つくばねのしげきこまより月もれば、などもあれば、許麻《コマ》ともいひしなり、さればコマヨリモ〔五字右○〕と訓べくも思へど、こゝはさはよむべからず、)○歌(ノ)意上のごとし、
 
133 小竹之葉者《サヽガハハ》。三山毛清爾《ミヤマモサヤニ》。亂友《ミダレドモ》。吾者妹思《アレハイモオモフ》。別來禮婆《ワカレキヌレバ》。
 
小竹之葉者は、サヽガハハ〔五字右○〕と訓べし、廿(ノ)卷に、佐左賀波乃佐也久思毛用爾《サヽガハノサヤクシモヨニ》とあり、なほ小竹を、佐々《サヽ》と云る例、十九に、和我屋度能伊佐左村竹《ワガヤドノイサヽムラタケ》、古事記允恭天皇(ノ)條(ノ)歌に、佐々婆爾宇都夜阿艮禮能《サヽバニウツヤアラレノ》など、いと多し、○三山毛清爾《ミヤヤモサヤニ》とは、三《ミ》は御《ミ》なり、美稱なり、清《サヤ》は、借(リ)字にて、佐夜佐夜《サヤサヤ》と喧しく鳴(リ)さわぐことなり、六(ノ)卷に、御山毛清落多藝都《ミヤマモサヤニオチタキツ》、(これも清は借(リ)字にて、上に同し、)又|曾與《ソヨ》ともいへり、(今の歌、新古今集には、そよにとて載たり、又同集に、君來ずば獨や宿なむ篠の葉の御山もそよにさやぐ霜夜を、ともあり、)十(ノ)卷に、旗荒木未葉裳曾世爾《ハタスヽキウラバモソヨニ》、(此ところ、舊本には、これかれ誤あり、)十二に、布妙之枕毛衣世二嘆鶴鴨《シキタヘノマクラモソヨニナゲキツルカモ》、新撰萬葉に、松葉牟曾與丹吹風者《マツバモソヨニフクカゼハ》などあり、また古事記上卷に、水穂(ノ)國者、伊多久佐夜藝弖有祁理《イタクサヤギテアリケリ》、また中卷神武天皇(ノ)條にも、此(ノ)詞あり、(其を書紀に、聞喧擾之響と書て此云2左椰霓利氣離《サヤケリケリト》1、氣を、舊本に奈に誤、)又伊須氣余理比賣命(ノ)御歌に、加是布加牟登曾許能波佐夜牙流《カゼフカムトソコノハサヤゲル》、古語拾遺に、阿那佐夜甜《アナサヤケ》、(竹葉之聲也とあり、竹葉の觸あひて、さや/\と鳴が、聲のさやけく聞ゆる、と云より出たるなるべし、)此(ノ)集十(ノ)卷に、荻之葉左夜(472)藝秋風之吹來苗丹《ヲギノハサヤギアキカゼノフキクルナベニ》、など用《ハタラ》かしても云り、曾與具《ソヨグ》と云ることは、後々彌多し、(新古今集に、篠の葉は御山もさやに打そよぎこぼれる霜を吹あらし哉、○亂友は、舊本に從て、ミダレドモ〔五字右○〕と訓べし、(新古今集にも、み山もそよにみだれどもとて載たり、サワゲドモ〔五字右○〕、とよめるはわろし、)今の心にていはゞ、みだるれども、といふべき如くなれども、如此《カク》云は、古言の格なり、古事記允恭天皇(ノ)條(ノ)歌に、加理許母能美陀禮嘆美陀禮《カリコモノミダレバミダレ》、十二に、松浦舟亂穿江之《マツラブネミダルホリエノ》、(岡部氏が、此(ノ)歌の亂をも、サワグ〔三字右○〕とよみて、今を、サワ》ゲドモ〔五字右○〕、とよむ證とせるは、大しき非なり、三(ノ)卷(ノ)歌を以ても、必(ス)ミダル〔三字右○〕とよむべきをしれ、)三(ノ)卷に、苅薦乃亂出所見海人釣船《カリコモノミダレイヅミユアマノツリブネ》などあり、○禮(ノ)字、類聚抄になきは、落しか、○歌(ノ)意は、狎々《ナレ/\》し愛しき妹をとゞめ置て、別て來る道のさぶ/\しきに、まして御山は、よろづ物靜なるに、小竹原に風吹わたりて、佐夜佐夜《サヤサヤ》と鳴さやげば、物おそろしくこゝろぼそくて、何事も忘るゝことわりなるに、吾はさらにまぎるゝ方なく、なほ妹を戀しくのみ、念ふとなり、源氏物語野分に、風さわざ村雲まよふ夕にも忘るゝまなくわすられぬ君、九(ノ)卷に、高島之阿渡河波者驟鞆吾者家思宿加奈之彌《タカシマノアドカハナミハサワゲドモアレハイヘモフヤドリカナシミ》、
〔或本歌一首并短歌。138 石見之海《イハミノミ》。津乃浦乎《ツヌノウラミヲ》。無美〔二字□で囲む〕浦無跡《ウラナシト》。人社見良目《ヒトコソミラメ》。滷無跡《カタナシト》。人社見良目《ヒトコソミラメ》。吉咲八師《ヨシヱヤシ》。浦者雖無《ウラハナクトモ》。縱惠夜思《ヨシヱヤシ》。滷者雖無《カタハナクトモ》。勇魚取《イサナトリ》。海邊乎指而《ウミヘヲサシテ》。柔田津乃《ニギタヅノ》。荒礒之上爾《アリソノウヘニ》。蚊青生《カアヲナル》。玉藻息都藻《タマモオキツモ》。明來者《アケクレバ》。浪己曾來依《ナミコソキヨセ》。夕去者《ユフサレバ》。風己曾來依《カゼコソキヨセ》。浪之共《ナミノムタ》。彼依此依《カヨリカクヨル》。玉藻成《タマモナス》。靡吾宿之《ナビキアガネシ》。敷妙之《シキタヘノ》。妹之手本乎《イモガタモトヲ》。(473)露霜乃《ツユシモノ》。置而之來者《オキテシクレバ》。此道之《コノミチノ》。八十隈毎《ヤソクマゴトニ》。萬段《ヨロヅタビ》。顧雖爲《カヘリミスレド》。彌遠爾《イヤトホニ》。里放來奴《サトサカリキヌ》。益高爾《イヤタカニ》。山毛越來奴《ヤマモコエキヌ》。早敷屋師《ハシキヤシ》。吾嬬乃兒我《アガツマノコガ》。夏草乃《ナツクサノ》。思志萎而《オモヒシナエテ》。將嘆《ナゲクラム》。角里將見《ツヌノサトミム》。靡此山《ナビケコノヤマ》。〕
津乃浦乎無美は、岡部氏、津能乃浦回乎《ツノノウラマヲ》の、能と回とを落し、無美は、まぎれてこゝに入たるなり、と云るが如し、但(シ)角は、古くは都努《ツヌ》とのみ云て、都乃《ツノ》と云ることなければ、津野《ツヌ》とか、(野も、努とのみ云り、〉津努《ツヌ》とか、有しなるべし、浦回も、ウラミ〔三字右○〕と訓べきこと、上に云る如し、○目(ノ)字上なるは、拾穂本には米と作り、○夜思の思(ノ)字拾穂本には之とあり、○越(ノ)字拾穂本には超と作り、
〔反歌。139 石見之海《イハミノミ》。打歌山乃《タカツヌヤマノ》。木際從《コノマヨリ》。吾振袖乎《アガフルソデヲ》。妹將見香《イモミツラムカ》。〕
石見之海と有はいかゞ、高角山とうけたれば、必(ス)海とはいふまじきをや、○打歌山は、按(フ)に、打歌は、竹綱の草書を見まがへて、寫し誤りたるにや、然有ば、タカツヌヤマ〔六字右○〕と訓べし、竹は、集中に高島《タカシマ》を、竹島《タカシマ》とも書(キ)、書紀神代下卷に、竹屋《タカヤ》てふ地(ノ)名を、高屋《タカヤ》とも書り、鋼を、都農《ツヌ》と訓(ム)由は、一(ノ)卷に、綱能浦《ツヌノウラ》とある、其註を考(ヘ)見て知べし、又岡部氏は、打歌は、タカ〔二字右○〕の假字にて、次に、角か津乃などの字、落しなるべしと云り、(津乃と云るはわろし、これも津野などゝこそありけめ、)猶考(フ)べし、(舊本に、ウツタノヤマ〔六字右○〕とよめるは、さらによしなし、○凡てこの或本(ノ)歌は長(キ)短(キ)ともに、甚く劣れり、
〔右歌體雖v同。句々相替。因v此重載。〕
(474)上(ノ)件、舊本は、或本(ノ)反歌、石見爾有《イハミナル》云々は、小竹之葉者《サヽガハハ》云々の歌の次に入(リ)、或本(ノ)歌一首并短歌、と云よりこゝまで、秋山爾《アキヤマニ》云々、の歌の次に入りて、共に本章の列に載たり、今改めつ、且或本(ノ)歌は、拾穗本にも細書とせるに從つ、但し彼本には、石見乃海角乃《イハミノミツヌノ》云々の歌の次に、一(ニ)云、石見之海津乃云々とありて、石見乃也云々の次に、一(ニ)云、石見爾有云々、又云、石見之海打歌云々、と次順《ツイデ》たり、
 
135 角※[章+おおざと]經《ツヌサハフ》。石見之海乃《イハミノミノ》。言佐敝久《コトサヘク》。辛乃埼有《カラノサキナル》。伊久里爾曾《イクリニソ》。深海松生流《フカミオルオフル》。荒礒爾曾《アリソニソ》。玉藻者生流《タマモハオフル》。玉藻成《タマモナス》。靡寐之兒乎《ナビキネシコヲ》。深海松乃《フカミルノ》。深目手思騰《フカメテモヘド》。左宿夜者《サネシヨハ》。幾毛不有《イクダモアラズ》。延都多乃《ハフツタノ》。別之來者《ワカレシクレバ》。肝向《キモムカフ》。心乎痛《コヽロヲイタミ》。念乍《オモヒツヽ》。顧爲騰《カヘリミスレド》。大舟之《オホブネノ》。渡乃山之《ワタリノヤマノ》。黄葉乃《モミチバノ》。散之亂爾《チリノミダリニ》。妹袖《イモガソデ》。清爾毛不見《サヤニモミエズ》。嬬隱有《ツマゴモル》。屋上乃山乃《ヤカミノヤマノ》。自雲間《クモマヨリ》。渡相月乃《ワタラフツキノ》。雖惜《ヲシケドモ》。隱比來者《カクロヒキツヽ》。天傳《アマツタフ》。入日刺奴禮《イリヒサシヌレ》。大夫跡《マスラヲト》。念有吾毛《オモヘルアレモ》。敷妙乃《シキタヘノ》。衣袖者《コロモノソデハ》。通而沾奴《トホリテヌレヌ》。
 
角※[章+おおざと]經《ツヌサハフ》は、石《イハ》といはむ料の枕詞なり、書紀仁徳天皇繼體天皇(ノ)卷(ノ)歌、此(ノ)集三(ノ)卷十三(ノ)卷、其餘にも猶あり、皆|石《イハ》とつゞきたり、(冠辭考に、つたはふ石とつゞきたるなり、さて奴佐《ヌサ》の反|奈《ナ》なれば、都奈《ツナ》を延て、都奴佐《ツヌサ》といひ、波布《ハフ》は蔓の這なりと云り、されどつたを、つぬさといへりとは、おもはれず、)荒木田氏が、絡石多蔓《ツヌサハフ》と云るなるべし、と云るぞよろしかるべき、古(ヘ)格石《ツタ》を、つなとも、つぬとも云たればなり、六(ノ)卷に、石綱《イハツナ》とあるは契冲が石絡石《イハツタ》なり、と云るを思(ヒ)合(ス)べし、佐波(475)波布《サハハフ》は、佐波布《サハフ》と切《ツヾマ》れり、○言佐敝久《コトサヘク》は、加羅《カラ》の枕詞なり、此(ノ)下に、言左敝久百済之原從《コトサヘククタラノハラヨ》とも見ゆ、此はすべて、異國人《アダシクニビト》の言語《モノイヒ》は、此方の人の耳には聞分がたく、喧響《サヤギ》て聞ゆれば、言語《コトバ》の喧響《サヤ》ぐ韓《カラ》、また百濟《クダラ》、といふ意につゞけたり、十六に、佐比豆留夜辛碓爾舂《サヒヅルヤカラウスニツキ》、とよめるも、言語《コトドヒ》の喧嘩《サヒヅル》や韓《カラ》といふにて、今と同意なり、さて左敝久《サヘク》とは、鳥の囀《サヘヅル》といふに同じくて、さわ/\と喧響《サヤメ》きて聞ゆるを云り、書紀に、韓婦《カラメ》用2韓語言《カラサヘヅリテ》1といひ、源氏物語赤石に、あやしき海土等《アマドモ》などの、高き人座する所とて、集り參りて、聞も知給はぬことゞもを、さへづりあへるも、いとめづらかなれど、得追もはらはず、玉葛に、いろあひこゝちよげに、聲いたうかれて、さへづり居たり、常夏に、御ゆるしだに侍らば、水をくみいたゞきても、つかうまつりなむ、といとよげに今少しさへづれば、浮船に、例のあらゝかなる、七八人をのこどもおほく、しな/\しからぬけはひさへづりつゝ、いりきたればなど、、邊鄙人などの、ことにかしがましく、物いひさわぐさまに、多くいへり、又常陸風土記に、茨城(ノ)郡、古老曰、昔在2國巣(俗語、都知久母《ツチグモ》、又云、夜都賀波岐《ヤツカハキ》、)山之佐伯《ヤマノサヘキ》野之佐伯《ヌノサヘキ》1あるも、喧響《サヤメ》く賊衆を謂りと見ゆ、又佐伯氏も、蝦夷の喧饗《サヘキ》より出たるならむ、○辛乃崎《カラノサキ》は、石見(ノ)國邇摩(ノ)郡|託農《タクノ》浦にありと國人云り、○伊久里《イクリ》は、海中の石をいふべし、(袖中抄に、船路には、石をいくりと云り、としるせり、)六(ノ)卷に海底奧津伊久利二鰒珠左盤爾潜出《ワタノソコオキツイクリニアハビタマサハニカヅキデ》、また古事記仁徳天皇(ノ)條(ノ)歌に、由良能斗能斗那加能伊久理爾布禮多都《ユラノトノトナカノイクリニフレタツ》云々、此(ノ)歌書紀には、應神(476)天皇(ノ)卷に出で、その釋に、異句離《イクリハ》句離《クリハ》謂v石(ヲ)也、異(ハ)助語也と見ゆ、(異(ハ)助語と云こといかゞ、)又十七に、伊毛我伊弊爾伊久理能母里乃《イモガイヘニイクリノモリノ》とあり、(これも、海石《イクリ》に由ありて負(ヘ)る地(ノ)名か、)○深海松《フカミル》は、宮内式、諸國例貢御贄の中に、深海松《フカミル》長海松《ナガミル》あり、猶品物解に云べし、○玉藻者生流《タマモハオフル》、此までは、玉藻成深海松乃《タマモナスフカミルノ》をいはむ料の序なり、○左宿夜者は、サネシヨハ〔五字右○〕と訓べし、(略解などに、舊本に從て、サヌルヨハ〔五字右○〕とよめるは、今少しわろし、)○幾毛不有は、イクダモアラズ〔七字右○〕と訓べし、五(ノ)卷に佐禰斯欲能伊久陀母阿羅禰婆《サネシヨノイクグモアラネバ》、十(ノ)卷に、左尼始而何太毛不在《サネソメテイクダモアラズ》、などあり、又十七に、年月毛伊久良母阿良奴爾《トシツキモイクラモアラヌニ》ともあり、(本居氏は、これによりて、今をも伊久良《イクラ》と訓し、それもさることながら、こは許々陀《コヽダ》を、後に許々良《コヽラ》と云如く、やゝ奈良(ノ)朝の季つかたよりの、詞とこそ聞えたれ、)これは、吾(カ)家に迎へて、すゑ置たる妻にはあらで、朝集使などにて、石見(ノ)國へ下り居られしほど、時々かよひ住れし娘子なれば、幾《イクダ》もあらずといへること、勿論《サラ》なり、○延都多乃《ハフツタノ》は、別《ワカレ》の枕詞なり、十三十七十九などにも見えたり、これは絡石《ツタ》の、かた/\へ蔓ひ別るゝを人の別にいひつゞけたり、○肝向《キモムカフ》は、心《コヽロ》の枕詞なり、九(ノ)卷に、肝向心摧而《キモムカフコヽロクダケテ》、古事記仁徳天皇(ノ)大御歌に、岐毛牟加布許々呂袁陀邇迦《キモムカフコヽロヲダニカ》、などあり、伎毛《キモ》とは、いはゆる五臓六腑の類を凡てみなしかいふ由、一(ノ)卷(ノ)上に委(ク)云るが如し、向《ムカフ》とは腹中に、多くの伎毛《キモ》の相對ひて、集り在(ル)をいふべし、心《コヽロ》とつゞくは、多くの伎毛《キモ》の凝々《コリ/\》し、といふ意にいひかけたり、許々呂《コヽロ》は、許呂許呂《コロコロ》にて、凝々《コリ/\》なり、海菜の(477)心太《コヽロフト》も、凝る意の名、神代紀に、田心《タゴリ》姫、此(ノ)集廿(ノ)卷に、妹之心《イモガコヽロ》を、以母加去々里《イモガコヽリ》、とあるなどを以て、曉るべしと本居氏云り、今按(フ)に、伎毛《キモ》といふも、凝物《コリモノ》の義なるべし、(許理《コリノ》切|伎《キ》、毛能《モノノ》切|毛《モ》、)○心乎痛《コヽロヲイタミ》は、心が痛さにの意なり、既く出(ツ)、○大舟之《オホブネノ》は渡《ワタリ》の枕詞なり、つゞけの意明らけし、○渡《ワタリ》乃山は、岡部氏、府より東北、今道八里の處に在(ル)よし云り、國人に聞に、邑知(ノ)郡今の渡(リ)村甘南寺の山、これなりと云り、○散之亂爾は、チリノミダリニ〔七字右○〕と訓べし、○妹袖《イモガソデ》は、妹が振(ル)袖なるべし、わかれ來て見えずなるまでは、猶門などに立て、妻が袖振しなるべし、さていとゞ遠放るまゝ、幽になれるに、まして黄葉の散亂などして、さやかに見えずなれるよしなり、○清爾母不見《サヤニモミエズ》は、明らかにも不v見の意なり、○嬬隱有《ツマゴモル》は、屋《ヤ》の枕詞なり、十卷にも、妻隱矢野神山《ツマゴモルヤヌノカミヤマ》とあり、さてこれは、妻隱と書る字(ノ)意にて、妻を率《ヰ》て隱《コモ》る屋、といふ意につゞけたり、古事記須佐之男(ノ)命(ノ)御歌に、夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都麻碁微爾夜幣賀岐都久流曾能夜幣賀岐袁《ヤクモタツイヅモヤヘガキツマゴミニヤヘガキツクルソノヤヘガキヲ》、とよみ給へるを、合(セ)思(フ)べし、又集中にも、妻屋《ツマヤ》と多く見えたるも、妻隱る屋をいふ意なるを併(セ)考(フ)べし、(契冲も、人のつまは、おくふかき屋にかくれゐて外の人にまみえぬものなれば、かくつゞくるなり、長流が、昔はつまやと云所を別に立置なり、今在郷にて、つのやと云は、遺風かと云り、と云たりき、今按(フ)に、新婦《ニヒヨメ》を、俗に新造《シンザウ》といふも、古(ヘ)妻の住べき家を、新に造れるが故に、その心ばえを以て、後世まで新造と云り、このこと、既く伊勢氏四季草にもさだせり、蜷川殿中日記にも、御(478)新造といふこと見えたりと云り、さてこの枕詞を、冠辭考に、手の端《ツマ》にこもる箭、といふ意につゞけたり、と云るはいかにぞや、そも/\たゞに端《ツマ》とのみにて、手の端《ツマ》のことゝは、きこゆまじきがうへ、矢は、手挾《タバサミ》と集中にも多くよみたる如く、手の端に隱る物に非ず、さて矢は物を射るこそ、其(ノ)主用にはありけれ、されば矢の意につゞけしならば、引放とか、何ぞさるべき詞の、あるべきことなるをや、書紀武烈天皇(ノ)卷影媛(カ)歌に、逗磨御暮屡嗚佐〓嗚須擬《ツマゴモルヲサホヲスギ》、とある嗚佐〓《ヲサホ》は、地(ノ)名(ノ)の方も、枕詞よりのつゞきの方も、嗚《ヲ》は、添たる詞のみにして、別に意なし、さてまくら詞よりつゞくよしは、佐〓《サホ》は、狹含《サホ》の意なり、佐《サ》は、狹《セマ》く迫りたる意なるべし、又たゞ眞《マ》といふに、通ふ言にてもあるぺし、凡(ノ)〓《ホ》と云詞は、含《フヽ》まる意あることなり、さればこゝは、含まり隱りたる隱所《カクレガ》の謂《ヨシ》にして、所謂《イハユル》膳所《クミド》、など云に同じ意ときこゆ、かれ妻を率て隱る、狹含《サホ》とはつゞくなり、そも/\この〓《ホ》の言は、集中に、保々麻流《ホヽマル》、書紀(ノ)歌に、府保語茂利《フホゴモリ》などある、保々《ホヽ》府保《フホ》に通ひ、又陰處を、保登《ホト》と云も、含處《ホト》の意にて、同言なり、さて隱れる所を、保《ホ》とのみ云るは、古事記倭建(ノ)命(ノ)御歌に、夜麻登波久爾能麻本呂波多々那豆久阿袁加伎夜麻碁母禮流夜麻登志宇流波斯《ヤマトハクニノマホロハたヽナヅクアヲカキヤマゴモレルヤマトシウルハシ》、書紀には、麻本呂波《マホロハ》を、摩倍羅摩《マホラマ》と作り、私記に云、師説(ニ)謂2鳥乃和支之之太乃毛乎《トリノワキノシタノケヲ》1、爲2倍羅摩《ホラマト》1也、摩(ハ)謂3眞寶《マホヲ》1也、言(ハ)鳥(ノ)腋羽|乃古止久《ノゴトク》掩藏之國也、案(ニ)》奧區也、と云るは、さることなり、又應神天皇(ノ)大御歌に、知婆能加豆怒乎美禮婆毛毛知※[こざと+施の旁]流夜邇波母美由久爾能富母美由《チバノカヅヌヲミレバモモチタルヤニハモミユクニノホモミユ》、などあ(479)る、久爾能麻本呂波《クニノマホロハ》、また久爾能富《クニノホ》も、國之含《クニノホ》と云にて、國中の含《フヽ》まり隱れる處を云ば、今と同じ、然るを、此等を國之秀《クニノホ》といふ説は、いかゞなり、凡(ソ)秀《ホ》と云詞は、物の灼《シル》く、あらはれ出たるを云言なれば、夜麻登波《ヤマトハ》云々の御歌、青垣山隱有《アヲカキヤヤゴモレル》、とあるにつゞきたれば、國の秀《ホ》とは云べからず、又|知婆能《チバノ》云々も、家庭《ヤニハ》も所見《ミユ》とあれば、國の秀出《ヒデ》たる所の見ゆるは、のたまふまでもなければ、國の秀《ホ》とはのたまふまじきなり、故(レ)これら、必(ス)國之含《クニノホ》なるを辨ふべし、冠辭考に、この嗚佐〓《ヲサホ》とかゝれるも、小箭《ヲサ》と云かけたるなるべし、といへるは、あらざること、上に云るが如し、)本居氏(ノ)玉(ノ)小琴(ニ)云、是をつまごもるとよむことは、假字書の例あれば動かず、然るに隱有と、有(ノ)字をそへて書るはいかゞ、有(ノ)字あれば、こもれるとよむ例なり、されば有は、留(ノ)字などの誤にや、○屋上乃山乃《ヤカミノヤマノ》、舊本一(ニ)云、室上山とあり、屋上《ヤカミ》も、渡《ワタリ》の山と同じほどの處に在(リ)と云り、今國人に聞(ク)に、渡(リ)の山八上山、いづれも邑知(ノ)郡にて、矢上村といふに、今原山と呼《イヘ》るがある、それ即(チ)八上山なり、かくてその原山の中に、布于山といふがありて、きはめたる高山なりといへり、それをおしこめて、古(ヘ)は屋上の山といへることさらなり、さればさる高山なるによりて、その雲間を、月の渡るよしに云るなるべし、(水戸侯釋に、或者に尋るに、備前赤坂(ノ)郡に、八上と云所ありと云り、此に依て和名抄を考(フ)るに、赤坂(ノ)郡に宅美あり、流布本には、註を失へる故に、えよまずありしを、或者の説に思ひ合すれば、宅美は、ヤカミ〔三字右○〕なりとさだめ、あげつらひ賜へり、し(480)かれども、ヤカミ〔三字右○〕に、宅美の訓音の字を、用ひたりとせむこといかゞ、なほ國人にも問ひて、委しく正すべきことなり、其《ソ》はいかにまれ、今の屋上山は、なほ渡(ノ)山に隣りたる、山なるべくこそ思はるれ、○玉(ノ)小琴(ニ)云、屋上の山の、と切て、隱ひ來れば、と下へつゞくなり、惜けども、屋上の山の隱れて見えぬよしなり、さて雲間より渡らふ月の、と云二句は、たゞ雖惜《ヲシケドモ》の序のみなり、わづかなる雲間を行間の月は、惜きよしの序なり、もし此(ノ)月を、此(ノ)時の實の景としては、入日刺《イリヒサシ》ぬれといふにかなはず、このわたりまぎらはし、よくわきまふべしといへり、此(ノ)説おもしろし、かく見る時は、山乃《ヤマノ》の詞を、姑く山我《ヤマガ》にかへてきく時は、意明なり、かく我《ガ》の意の所を、乃《ノ》といへること、古語に多し、八卷に、霍公鳥音聞小野乃秋風芽開禮也聲之乏寸《ホトヽギスコヱキクオヌノアキカゼニハギサキヌレヤコヱノトモシキ》、とあるも、小野我《ヲヌガ》といふ意なり、この類多し、准へ知べし、さて此(ノ)説によるときは、屋上山を、府のあたりにありとせるなるべし、しかれども、府のあたりに、屋上山ありといふ證を出さゞれば、おぼつかなし、かくてこの詞つゞきを、今一たびうちかへして、味(ヒ)見るに、大舟之渡乃山之黄葉乃散之亂爾妹袖清爾毛不見《オホブネノワタリノヤマノモミヂバノチリノミダリニイモガソデサヤニモミエズ》、とあるに對へて、嬬隱有屋上乃山乃自雲間渡相月乃雖惜隱比來者《ツマゴモルヤカミノヤマノクモマヨリワタラフツキノヲシケドモカクロヒクレバ》と云るにて、各々六句づゝいへるに、前の大舟之云々の六句は、聞えたるまゝなるに、後の嬬隱有《ツマゴモル》云々の六句を、自雲間渡相月乃雖惜嬬隱有屋上乃山乃隱比來者《クモマヨリワタラフツキノヲシケドモツマゴモルヤカミノヤマノカクロヒクレバ》、と句を置かへて、きかむこと快からず、すべて對句は、一(ツ)がなだらかなれば、一(ツ)もなだらかに云つらね、一(ツ)を句を置かへ(481)て、きくべく巧(ミ)たれば、一(ツ)をも句を置かへて、きくべく巧て云つらぬること、古(ヘ)の長歌のさだまりなればなり、さればなほ、嬬隱有《ツマゴモル》云々の六句も、聞えたるまゝにて、さて屋上山は、渡(ノ)山のあたりにありとせむこと、穩なるべし、さて其意は、なほ次々にいふべし、)○自雲間《クモマヨリ》は、雲間をと云むが如し、こゝの自《ヨリ》は、をと云に通へり、上に委(ク)云り、さて高き山は、常に雲居れば、その屋上山の雲間を、と云意なるべし、かくてわづがなる、雲の透間より見ゆる月影は、やがてまた雲に隱るれば、をしき謂《ヨシ》にいひつゞけたるなり、さて次に、入日刺奴禮《イリヒサシヌレ》とあれは、實にこの時、月を見ていへるにはあらじ、只|雖惜《ヲシケドモ》といはむ爲の序のみに、其(ノ)地の山の月のさまを云て、設いでたることばなるべし、前に渡(リ)の山の黄葉を云たれば、後には、屋上の山の月をやとひて、對偶《タグヒ》をとゝのへたるなり、○渡相月乃《ワタラフツキノ》は、渡る月之《ツキノ》にて、高山の雲間を、歴わたり行(ク)月のよしなり、(略解に、わたらふ月は、かたふく月を云、と云るは、いみじきひがことなり、)和多良布《ワタラフ》は、和多留《ワタル》の伸りたる言にて、霧相《キラフ》散相《チラフ》などの如し、伸ていふは、その歴わたり行さまの、緩なるをいへる詞なり、さて以上四句は、雖惜《ヲシケドモ》を云むための序なり、○雖惜は、ヲシケドモ〔五字右○〕と訓て、をしけれども、といふ意になるは古言なり、さて妹が家の、あたりの遠く放り隱れ來ぬることの、惜くはわれどもの意なり、十一に、二上爾隱經月之雖惜妹之田本乎加流類比來《フタガミニカクロフツキノヲシケドモイモガタモトヲカルルコノゴロ》とあり、○隱比來者は、按(フ)に、者(ノ)字は、乍の草書を誤寫せるなるべし、カクロヒキツヽ〔七字右○〕とあるべし、隱比《カクロヒ》は、加(482)久理《カクリ》の伸りたるにて、緩なるをいふ、その緩なるは、漸々に隱來るよしなり、○天傳《アマヅタフ》は、日の枕詞なり、これは天路をつたひ行(ク)日、とかゝれるなり、(入日は、夕日にて、枕詞よりは、入り言には關らず、)〇入日刺奴禮《イリヒサシヌレ》は、入日刺奴禮婆《イリヒサシヌレバ》の意なり、一(ノ)卷營2藤原宮1役民(ノ)歌に、浮倍流禮《ウカベナガセレ》とある下に委(ク)云り、入日《イリヒ》は、夕日なり、上に出づ、さらぬだに、夕暮は物がなしきものなるに、かゝる別をさへしければ、いとゞ堪がたきよしなり、○大夫登念有吾毛《マスラヲトオモヘルアレモ》は、かねて事なかりし時は、何事にもみやりあへぬ、たけき大丈夫とおもひほこりて有し、われさへもの意なり、一(ノ)卷軍(ノ)王(ノ)歌に、大夫登念有我母草枕客爾之有者思遣鶴寸乎白土《マスラヲトオモヘルアレモクサマククラタビニシアレバオモヒヤルタヅキヲシラニ》云々、とあるに同じ、又六(ノ)卷にも、大夫跡念有吾哉水莖之水城之上爾泣將拭《マスラヲトオモヘルアレヤミヅクキノミヅキノウヘニナミダノゴハム》とあり○敷妙乃《シキタヘノ》は、枕詞なり、既く出づ、○通而沾奴《トホリテヌレヌ》は、袖の表より裏まで、濕達《ヌレトホ》りぬとなり、十五に、命我袖波多毛登等保里弖奴禮奴等母《ワガソデハタモトトホリテヌレヌトモ》、十九に、服之《》襴毛等寶利弖濃禮奴《コロモノスソモトホリテヌレヌ》などあり、奴《ヌ》は已成《オチヰ》の奴《ヌ》なり、○歌(ノ)意は、石見の國府に在しほど、相馴し妻を、ふかく愛しくはおもへども、その心だらひに、年月久に相宿をもせず、しばしの間にわかれ來れば、名殘をしく、心の苦痛《クルシ》さに堪がたくて、道の隈々ごとに、しば/\かへり見をすれど、門に立て吾を見おくりしたふと、妻がふる袖も、やう/\かすかになれるに、まして渡の山の黄葉さへちりみだれて、いとゞあきらかに見えず、妻の家のあたりの、いよ/\遠ざかり、やう/\に隱れつゝ、いつしか日もかたぶきて、さらぬだに、物がなしき夕暮にさへな(483)りぬればいとゞ心ぼそくなりて、かねて事なかりし時には、何事にもさやりあへぬ、大丈夫ぞ、とおもひほこりて有し、吾さへも、戀しきこゝろの堪がたく、せむかたなくて、袖のうらまで、涙にぬれとほりぬとなり、岡部氏(ノ)考(ノ)別記(ニ)云、右の歌どもの、こゝろ言を見るに、山陰道を上るにぞ有ける、かくて石見(ノ)國に住て、國形知(レ)る人のいへらく、まづ今の濱田城の北に、上府村下府村といふあり是(レ)古(ヘ)の國府なり、こゝより安藝(ノ)國へ出ると、備後(ノ)國へ出ると、北國へ向ふと、、三(ツ)の大道あり、此北國と備後へ向ふ方、上府より八里に、屋上村あり、その近き北方に、渡村てふも在(リ)と、これにて右の二山もしらる、かゝれば、此(ノ)歌に、もみち葉の散の亂に妹が振袖も見えずといひ、又妹が附見むなびけ此(ノ)山といへるも、凡府をいでゝ、七八里までの間にていふべく、入日さすといひ、其(ノ)夜のこゝろを云るも、右のほどにかなへり、(今案(フ)るに、夜のこゝろを云りとあるは自雲間渡相月《クモマヨリワタラフツキ》とあるを、實の景にてよめりとおもへるか、但し入日刺奴禮《イリヒサシヌレ》云々とあれば、歌よめるは、夜へかけてのことにはあるべし、
 
反歌二首《カヘシウタフタツ》。
 
136 青駒之《アヲコマガ》。足掻乎速《アガキヲハヤミ》。雲居曾《クモヰニソ》。妹之當乎《イモガアタリヲ》。過而來計類《スギテキニケル》。
 
青駒《アヲコマ》は、略解に、躬弦云、青は赤の誤かと云り、是に依てなほ思ふに、七(ノ)卷に、赤駒足何久激《アカコマガアガクタギチニ》、十一に、赤駒之足我枳速者《アカコマアガキハヤケバ》、十四に、安可胡麻我安我伎乎波夜美《アカコマガアガキヲハヤミ》、また其(ノ)餘四(ノ)卷に、赤駒之越馬柵乃《アカコマノコユルウマセノ》、(484)五(ノ)卷に、阿迦胡麻爾志都久良宇知意伎《アカコマニシヅクラウチオキ》、十二に、赤駒射去羽計《アカコマノイユキハバカル》、十三に、赤駒厩立《アカコマノウマヤヲタテ》、十四に、安可胡麻我可度弖乎思都々《アカコマガカドデヲシツヽ》、又|安加胡麻乎宇知弖左乎妣吉《アカコマヲウチテサヲビキ》、十九に、赤駒之腹婆布田爲乎《アカコマノハラバフタヰヲ》、廿(ノ)卷に、阿加胡アカコ麻乎夜麻努爾マヲヤマヌニ》波賀志《ハカシ》など、赤駒《アカコマ》と云る甚多くして、青駒《アヲコマ》てふは集中に外に見えたることなく且青と赤とは、草書もやゝ似たれば、信に彼(ノ)説は、謂《イハ》れたることにこそ、しかれども、廿(ノ)卷家持卿、七日侍宴の爲に作る歌に、水鳥乃可毛能羽能伊呂乃青馬乎《ミヅトリノカモノハノイロノアヲウマヲ》ともありて、今のも、實に青毛の駒なりけむも知ねば、今は猶もとのまゝにて、アヲコマ〔四字右○〕と訓てありつ、和名抄(ニ)、説文(ニ)云、※[馬+總の旁](ハ)、漢語抄(ニ)云、※[馬+總の旁](ハ)、青馬也、○足掻乎速《アガキヲハヤミ》は、足掻《アガキ》が速さにの意なり、足掻《アガキ》は、古事記仁徳天皇(ノ)條に、大后石之日賣(ノ)命の、足母阿賀迦爾嫉妬《アシモアガカニネタミタマヒキ》、(足掻貌《アガクガニ》なり、)字鏡に、※[足+宛](ハ)、踝也踊也、馬奔走(スル)貌、阿加久《アガク》、また※[足+蝶の旁](ハ)、阿加久《アガク》などあり、續古事談に、この馬たかくあがりて、おちたつほどに、前の足二(ツ)をもて、この權(ノ)守が、左右の指貫のうへをふまへつ、權(ノ)守あわてさわぎて、西枕にたふれふして、足をあがけども、馬ふまへて、やゝ久しくのかず、などもあり、(足掻《アガク》は、足(ノ)字を書る如く、足に限りていひ、手してするを手搖と云しを、後には轉りて、手足にかぎらず、動搖《ウゴカ》しはたらかすをば、すべてあがくと云るなり、塵添埃嚢抄に、手足をアガク〔三字右○〕と云は、字には※[足+蝶の旁]とも※[足+宛]とも書(キ)、文選に、馬|※[足+宛]《アガク》2餘(ノ)足(ヲ)1とよめり、聖武天皇東大寺を建立して鎭守の爲八幡を勸請申されけるに、宇佐(ノ)宮より瑤の御輿にめし、儀衛を調へて御幸成けるが、已《スデ》に法會始まる時、御前《ミサキ》見えければ、行基(485)菩薩御幸遲しとて、門に立て、手を※[足+蝶の旁]《アガ》きて招かせ給ふ故に、彼(ノ)門を、手※[足+蝶の旁]《テガイ》門と云、前なる路を、手|※[足+蝶の旁]《ガイ》大路と云なりと見えたり、又うつほ物語國ゆづりの卷に、おほす、事平かにと、手をあがき祈り願立(テ)させ給ふなど、手をあがくといへること多き、皆それなり、)○過而來計類《スギテキニケル》、舊本に、一(ニ)云、當者隱來計留と註せり、○歌(ノ)意は、乘たる駒の足掻が速さ故に、駐《トヾ》め得ずして、妹があたりの雲居遙になるまで、過て來にけるが、名殘惜きことゝなり、
 
137 秋山爾《アキヤマニ》。落黄葉《チラフモミチバ》。須臾者《シマシクハ》。勿散亂曾《ナチリミダリソ》。妹之當將見《イモガアタリミム》。
 
秋山《アキヤマ》は、即(チ)渡の山の邊をいふなるべし、○落黄葉は、チラフモミチバ〔七字右○〕と訓べし、十五に、錢美知婆能知良布山邊由《モミチバノチラフヤマヘユ》と見えたり、さて知良布《チラフ》は、即(チ)知流《チル》の伸りたる言にて、伸云は、其(ノ)落ことの緩なるをいふ詞なり、さて落(ノ)字のみにて、知良布《チラフ》と訓むこと、もとより難《コト》はなけれども、集中に、知良布《チラフ》と訓べきところに、散相《チラフ》散合《チラフ》、などゝ書たるをおもへば、もしはこゝも落の下に、相(ノ)字合(ノ)字などの、脱しにもあるべし、(略解などに、舊本の訓のまゝにオツルモミチバ〔七字右○〕とよみたれども、花黄葉の類の散を、オツルと云は、古言にあらざるをや、〉○須臾者は、シマシクバ〔五字右○〕と訓べし、上に出づ、○勿散亂曾は、ナチリミダリソ〔七字右○〕と訓べし、舊本に、一(ニ)云、知里勿亂曾、と註せり、○歌(ノ)意は、せめての名殘に、妹が家の門のあたりをだに、見やりつゝ來むとおもふに、やう/\間遠くかすかになりゆくに、まして黄葉さへ、ちりみだれへだゝりて、あきらかに見えねば、(486)いとゞわびしさに、堪がたくおもふを、この黄葉だにちりみだれずは、なほかすかにだにも、妹があたりを、見やらむとおもふぞ、しばしその黄葉、ちりみだるゝことなかれとなり、
 
柿本朝臣人麿妻依羅娘子《カキノモトノアソミヒトマロガメヨサミノイラツメガ》。與《ト》2人麿《ヒトマロ》1相別歌一首《ワカルヽウタヒトツ》。
 
依羅(ノ)娘子は、傳詳ならず、依羅は、氏なるべし此(ノ)氏は姓氏録などにも見ゆ、この娘子は、人麿の嫡妻なるべし、但し嫡妻に、前後二人ありと見えたり、前妻は、人麿に先だちてみまかれること、此(ノ)卷(ノ)未に見えたり、その姓氏は知がたし、この依羅氏は後妻にて、人麿の死に後れたること、又末に見ゆ、○相別は、人麿の假に上りて、又石見へ下る時などや、京に遺(レ)居る妻のよめるならむ、
 
140 勿念跡《ナオモヒト》。君者雖言《キミハイヘドモ》。相時《アハムトキ》。何時跡知而加《イツトシリテカ》。吾不戀有牟《アガコヒザラム》。
 
勿念跡は、ナオモヒト〔五字右○〕と訓べし、(舊本に、オモフナト〔五字右○〕とよめるは、非なり、しかさまに云も、古言にあることなれど、さらば集中の例、念勿跡と書べきを、しからねば、さはよむべからず、又略解などに、ナモヒソト〔五字右○〕とよめる、此は又、大《イミ》じきひがことなり、其(ノ)故は、凡て念《オモフ》は、家念《イヘモフ》妹念《イモモフ》、などやうに云時こそ、母比《モヒ》母布《モフ》などもいへれ、かゝるところなどにて、念《オモヒ》の於《オ》を省きて、母比《モヒ》母布《モフ》といふことは、さらになきことなるをや、)さて那於毛比曾《ナオモヒソ》とあるべき處を、下の曾《ソ》の辭無は、古き代の歌には、常多し、(然るを後々の歌どもには、下の曾《ソ》は、なくてはあらぬことぞ、とのみ(487)意得て、かへりて上の那《ナ》をば、省きていはざるがまゝ聞ゆる、こはいみじきひがことぞかし、那《ナ》はかならずなくては、聞えぬことなるをや、)○牟(ノ)字、舊本には、乎に誤れり、古寫本并人麿勘文に引るに從つ、○歌(ノ)意は、はやかへり上り來て相見むぞ、さばかり吾を慕ひて、物念をすることなかれ、と君は妾《ワ》が心をなぐさめてはのたまへども、そのかへり上り來まさむ月日を、何時《イツ》のことゝ知てかは、戀しく思はずにあるべき、となり、(拾遺集に、題不知、人まろとて、此(ノ)歌を載られたるは、あまりしき誤なり、彼(ノ)集の撰者は、此(ノ)題詞をだに見ざりしにや、いとかたはらいたし、
 
萬葉集古義二卷之上 終
 
(488)萬葉集古義二卷之中
 
挽歌《カナシミウタ》
 
挽歌は、字には泥《ナヅマ》ずして、可那斯美《カナシミ》歌と稱《イ》ふ、其は相聞と書るを、シタシミウタ〔六字右○〕と稱《イヘ》る類なり、さてこの部は、中古已來の歌集に、哀傷歌と云るに全(ラ)同し、挽歌の字の出處、且寧樂人の、此(ノ)熟字をとり出て、歌(ノ)部の名目にしたる謂など、委しく首(ノ)卷に云り、(舊本、此(ノ)下山上(ノ)臣憶良(ノ)追和歌の左註に、右件(ノ)歌等、雖v不2挽柩之時1所1v作、唯擬2歌意1、故以戴2于挽歌類1焉といへるは、既く岡部氏もさだせし如く、徐にをさなき註にあらずや、此(ノ)集の挽歌と有(ル)部内には、いにしへの事をきき傳へしをも載つれば、たゞかなしみ歌てふことのみなるは著きを、挽歌の字に就て、今更に柩をひきひかぬなどいふべきことかは、
 
後崗本宮御宇天皇代《ノチノヲカモトノミヤニアメノシタシロシメシヽスメラミコトノミヨ》。
 
此標は、既く一(ノ)卷に出づ、齊明天皇の宮號なり、天皇代の下、舊本等に天豐財重日足姫(ノ)天皇とあるは、後人のしわざなること、既く云る如し、
 
(489)有間皇子自傷《アリマノミコノカナシミマシテ》結《ムスビタマヘル》2松枝《マツガエヲ》1御歌二首《ミウタフタツ》。
 
有間(ノ)皇子は、孝徳天皇(ノ)紀に、立2二(ノ)妃(ヲ)1、元妃阿倍(ノ)倉梯麻呂(ノ)大臣(ノ)女(ヲ)曰2小足媛《ヲタラシヒメト》1、生2有間(ノ)皇子(ヲ)1と見ゆ、さて齊明天皇四年十月、天皇紀伊(ノ)湯に幸ありしほど、此(ノ)皇子謀反の事あらはれしかば、十一月九日捕へられて、紀伊(ノ)國へ送り奉り、十一日に藤白にて絞《クビ》れ賜へば、此は十日に藤白に至ますほどに、彼(ノ)國岩代(ノ)濱を經まして、其(ノ)濱の松枝を結び、吾この度|幸《サキ》くてあらば、又かへりみむと、契り賜ひし御歌なり、齊明夫皇(ノ)紀(ニ)云、三年九月、有間(ノ)皇子、性|黠《サトク》、陽狂《イツハリタブル》云々、往2牟婁(ノ)温湯(ニ)1、僞《マネシテ》v療(ル)v病(ヲ)、來讃2國體勢《クニカタヲ》1曰、纔(ニ)觀(ニ)2彼(ノ)地(ヲ)1、病自(ラ)※[益+蜀]消《ノソコリヌ》云々、天皇聞(シ)悦(ヒタマヒ)、思2欲《オモホス》往觀《ミソナハサムト》1、四年冬十月庚戌朔甲子、幸2紀(ノ)温湯(ニ)1、十一月庚辰朔壬午、留守官蘇我(ノ)赤兄(ノ)臣、語(リテ)2有間(ノ)皇子(ニ)1曰、天皇(ノ)所治《ノシラス》政事有2三(ノ)失1矣、云々、有間(ノ)皇子、乃知2赤兄之|善《ウルハシキコトヲ》1v己(ニ)、而|欣然報答之曰《ヨロコビコタヘタマハク》、吾年始(テ)可v用v兵(ヲ)時(ナリ)矣、甲申、有間之皇子、向2赤兄(カ)家(ニ)1、登(テ)v樓(ニ)而謀、夾膝《オシマツキ》自(ラ)斷《ヲレキ》、於是知2相之|不祥《アシキヲ》1、倶(ニ)盟(テ)而止、皇子歸而宿之、是之夜半(ニ)赤兄、遺(テ)2物部之朴之井(ノ)連鮪(ヲ)1率(テ)2造v宮丁(ヲ)1、圍2有間(ノ)皇子(ヲ)於|市經《イチフノ》家(ニ)1、便遣2驛使(ヲ)1、奏(ス)2天皇所《オホミモトニ》1、戊子、捉(テ)3有間(ノ)皇子、與(ヲ)2守(ノ)君大石、坂部(ノ)連藥、鹽屋(ノ)連※[魚+制]魚1、送《オクリマヲス》2紀(ノ)温湯(ニ)1、舍人新田部(ノ)米麻呂|從《ミトモツカヘタリ》焉、於是皇太子 親《ミヅカラ》問2有間(ノ)皇子(ニ)1曰、何(ノ)故(ニカ)謀反《ミカドカタブケントセシ》答曰、天與2赤兄1知(レリ)、吾|全《カツテ》不解《シラズ》、庚寅、遣d丹比(ノ)小澤(ノ)連國襲(ヲシテ)、絞(ラ)c有馬(ノ)皇子(ヲ)、於藤白(ノ)坂(ニ)u、通證に、藤白(ノ)坂(ハ)、海部有田兩郡之堺也、今按(ニ)岩代屬2牟婁(ノ)郡(ニ)1、今有間(ノ)皇子(ノ)祠在(リ)焉とあり、○御(ノ)字、舊本に無は脱たるなり、例に依て補へり、
 
(490)141 磐白乃《イハシロノ》。濱松之枝乎《ハママツガエヲ》。引結《ヒキムスビ》。眞幸有者《マサキクアラバ》。亦還見武《マタカヘリミム》。
 
磐白《イハシロ》は既く一(ノ)卷に出づ、○引結《ヒキムスビ》は、結び合することなり、引は手して物することにそへ云辭にて、取撫《トリナテ》などいふ取に同じ、松(カ)枝を結びて契をかくること、一(ノ)卷中皇命(ノ)御歌に、君之齒母《キミガヨモ》云云、岡之草根乎去來結手名《ヲカノクサネヲイザムスビテナ》、とある下に云るを合(セ)見べし、○眞幸有者《マサキクアラバ》とは、眞《マ》は美稱にて平《サキ》くあらばなり、十三にも、樂浪乃志我能韓埼幸有者又反見《サヽナミノシガノカラサキサキクアラバマタカヘリミム》云々とあり、○御歌(ノ)意は、事の始終を申ひらき、それをきこしめしわけてなだめ給はゞ、この結び合せ置結松を、平安《サキ》くて又かへり見むとなり、いともかなしくあはれなる御歌なりけり、(拾遺集に、何せむに結び初けむ岩代の松は久しき物と知々、金葉集に、岩代の結へる松に降雪は春も解ずやあらむとすらむ、元可法師(カ)集に、岩代の松にむなしき中なれば結ぶやつらき契なるらむ、などあり、皆今の御歌によれるものなり、
 
142 家有者《イヘニアレバ》。笥爾盛飯乎《ケニモルイヒヲ》。草枕《クサマクラ》。旅爾之有者《タビニシアレバ》。椎之葉爾盛《シヒノハニモル》。
 
笥爾盛飯乎《ケニモルイヒヲ》とは、飯笥《イヒケ》に盛(リ)て食ふ飯をといふなり、和名抄に、禮記註(ニ)云、笥(ハ)盛v飯(ヲ)器也、和名|計《ケ》、字鏡に、箪(ハ)笥也、太加介《タカケ》、武烈天皇(ノ)紀影姫(ノ)歌に、多麻該※[人偏+爾]播伊比左倍母理《タマケニハイヒサヘモリ》、(玉笥には飯さへ盛なり、玉は例の美稱なり、岡部氏が、丸笥なりと云るは、いみじき非なり、)神祇式鎭魂祭(ノ)條に、供御|飯笥《イヒケ》.一合云々、右其(ノ)日、御巫於2宮齋院(ニ)1舂v稻(ヲ)云々、即盛2藺笥(ニ)1、齋宮式に、年料供物云々、飯笥藺笥各五(491)合云云、造傭雜物云々、銀飯笥一合云々、板飯笥二合云々、内匠寮式に、銀器|御飯笥《オモノケ》一合、(徑六寸深一寸七分、)夫木抄に、四方の海を一の笥《ケ》して汲干む時にや我(カ)有なりも出べきなど見ゆ、土佐(ノ)國朝峯(ノ)神社にて、酒をのむ器を、けさかづきといへり、笥盃《ケサカヅキ》なり、其(ノ)形今のもつさうの如くにして圓《マロ》し、○草枕《クサマクラ》は、まくら詞なり、既く出づ、○旅爾之有者《タビニシアレバ》は、一(ノ)卷軍(ノ)王(ノ)歌に、草枕客爾之有者《クサマクラタビニシアレバ》とあるに同じ、之《シ》はその一すぢをとりたてゝ、おもく思はすせ處におく助辭なること、彼處に云るが如し、○椎之葉爾盛《シヒノハニモル》は、旅にしあれば、其(ノ)地にありあふ椎(ノ)枝を折敷て、飯を盛しよしなり、椎は葉のこまかに繁くて平らかなれば、かりそめに飯など盛べきものなり、今も檜(ノ)葉を折敷て、強飯を盛事あるを思ふべし、さて尋常の旅ならば、皇子の御身として、さまでの事はあるべからぬを、此は謀反の事によりて捕はれて、物部の中に打圍まれておはする道なれば、萬(ツ)引かへたる樣、此(ノ)御一句にこもれり、○御歌(ノ)意は常さへあるに、いみじき御大事を、おもほしめしたち給ふ事あらはれて、趣かせ給ふ御旅中の、いともわびしく堪がたきさまをのたまへるにて、かくれたるすぢなし、契冲もいひし如く、此(ノ)二首の御歌に、その時《ヲリ》の御心たましひとなりてやどれるにや、いと身にしみてかなしきことかぎりなし、さてこの一首は、結2松枝(ヲ)1といふにはかなはねども、はじめの御歌につけて、同時の御作にもあれば、結2松枝(ヲ)1歌二首とはいへるなり、
 
(492)長忌寸意吉麻呂《ナガノイミキオキマロガ》。見《ミテ》2結松《ムスビマツヲ》1哀咽(作)歌二首《カナシミヨメルウタフタツ》。
 
意吉麻呂《オキマロ》は、傳|詳《サダカ》ならず、一(ノ)卷に奧麻呂とあると同人なり、さてこは、文武天皇の御時の人にて、いと後の歌なれど、事の次もて、こゝには載しなり、さる例集中にいと多し、考へわたすべし、○作(ノ)字、舊本には脱せり、今補○二(ノ)字、舊本には脱せり、今は拾穗本によりつ、
 
143 磐代乃《イハシロノ》。岸之松枝《キシノマツガエ》。將結《ムスビケム》。人者反而《ヒトハカヘリテ》。復將見鴨《マタミケムカモ》。
 
岸(ノ)字、元暦本には崖と作り、○歌(ノ)意は、皇子はじめこの松(カ)枝を結びつゝ、眞幸くあらばと契り給ひしを、又かへり見給ひけむか、とうたがひて、さていかさまにも、その皇子は、その時藤代にて、御命うしなはれ給ひしかば、ふたゝび反(リ)見し賜はずなりにけむを、その松のみ、今に枝の結ばれながら、その時の如くて有を見るがかなしき事となり、(略解に皇子の御魂の結(ヒ)松を又見給ひけむか、といふなりと云るはいみじき非なり、
〔柿本(ノ)朝臣人麻呂(ノ)歌集(ニ)云。大寶元年辛丑。幸2于紀伊(ノ)國(ニ)1時。見2結松(ヲ)1作歌一首。〕
柿本云々の十字、舊本にはなし、元暦本官本古寫本等には、一首の下に、柿本朝臣人麻呂(ノ)歌集中世也と註せり、(但し拾穗本に、柿本朝臣人麻呂とのみ有はわろし、)○寶(ノ)字、舊本實と作るは、誤なること著し、今は古寫本人麻呂勘文等に据つ、○幸2于紀伊(ノ)國1(于字、拾穗本にはなし、)は、續紀に、大寶元年九月丁亥、天皇幸2紀伊(ノ)國(ニ)1云々、とある度のことなるべし、なほ一(ノ)卷にも云り、○(493)作(ノ)字、舊本に無は脱たるなり、今は官本に從つ、
〔146 後將見跡《ノチミムト》。君之結有《キミガムスベル》。磐代乃《イハシロノ》。子松之宇禮乎《コマツガウレヲ》。又將見香聞《マタミケムカモ》。〕
君(ノ)字、舊本には若に誤、今は元暦本に從つ、○宇禮《ウレ》は、梢をいふ、集中に末(ノ)字をウレ〔二字右○〕ともウラ〔二字右○〕ともよめる、其(ノ)字(ノ)意なり、土佐日記にも、見渡せば松の宇禮毎《ウレゴト》に住鶴はとよめり、今も土佐國山里にては、木梢をウレ〔二字右○〕と云り、○この一首は、右の磐代之岸之松枝《イハシロノキシノマツガエ》云々の歌の、一本をしるせるなり、作者の名をことに載ざるも、歌主|意吉麻呂《オキマロ》なるがゆゑなるべし、一(ノ)卷に、大寶二年、幸2參河(ノ)國(ニ)1時歌、引馬野爾《ヒクマヌニ》云々、右一首、長(ノ)忌寸奧麻呂とある、今はその前年の歌なれば、時代相かなへるにて、意吉麻呂のなることもしるし、しかるを舊本、この歌を、鳥翔成《ヅバサナス》云々の歌の次に收《イレ》て、且《マタ》本章の列《ツラ》にせしは、紛れたることしるければ、今改めつ、
 
144 磐代乃《イハシロノ》。野中爾立有《ヌナカニタテル》。結松《ムスビマツ》。情毛不解《コヽロモトケズ》。古所念《イニシヘオモホユ》。
 
乃(ノ)字、拾穗本には之と作り、○情毛不解《コヽロモトケズ》は、結ぼほれたるよしなり、不解《トケズ》は結といふ縁によりて云るなり、此(ノ)松結ばれながら生立て、此時迄も有つらむ、○歌(ノ)意かくれなし、(現存六帖に岩代の野中の松を吾と見よつれなき色にむすぼほれつゝ、今の歌によれり、)○舊本此處に、未詳(ノ)二字あり、今は拾穗本になきによりつ、
 
山上臣憶良《ヤマノヘノオミオクラガ》。追和歌一首《オヒテナゾラフルウタヒトツ》。
 
(494)憶良が傳は、一(ノ)卷に委(ク)云り、こは意寸麻呂よりも、又後の人ながら、類以てこゝに載しこと、右と同し、○追和は、オヒテナゾラフ〔七字右○〕とよむべし、和は答の意にあらず、擬といはむが如し、故(レ)かく訓つ、此は意吉麻呂が二首の中の、初のに和《ナゾラ》へたりと見ゆ、
 
145 鳥翔成《ツバサナス》。有我欲比管《アリガヨヒツヽ》。見良目杼母《ミラメドモ》。人社不知《ヒトコソシラネ》。松者知良武《マツハシルラム》。
 
鳥翔成、(翔(ノ)字、拾穗本には羽と作り、)翔は翅(ノ)字の寫誤なるべし、ツバサ〔三字右○〕と訓べし、羽して飛ものをいふなり、鳥の如くといふが如し、成《ナス》は如なり、〔頭註【源氏、中宮の御事にても、いとうれしく忝となむ、天翔《アマカケリ》ても見奉れど、道ことに成ぬれば云々、】○有我欲比管《アリガヨヒツヽ》は、有々て絶ず通ひ乍《ツヽ》なり、有《アリ》は、有待《アリマツ》、有立《アリタツ》などもいへるに同し、既く委(ク)云り、○見良目杼母《ミラメドモ》は、皇子の御魂は、飛鳥の如く天がけりて、見給ふらめどもの意なり、履中天皇(ノ)紀に、五年九月乙酉朔癸卯、有v如2風之聲《カゼノト》1呼2于大虚(ニ)1曰(ク)、鳥往來羽田之汝妹者《トリガヨフハダノナニモハ》、羽狹丹葬立往《ハサニハフリイヌ》、源氏物語|水脉津籤《ミヲツクシ》に、ふりみだれひまなき空になき人のあまがけるらむやとぞ、かなしきなどあり、考(ヘ)合(ス)べし、そも/\人の現在《コノヨ》を過《サリ》て、その神魂は、いかになりゆくものぞと云に、既《ハヤ》く神代に、伊邪那美《イザナミノ》神神避(リ)坐て、黄泉(ノ)國にいでませるよし記されたれど、それをおきて、人の死て、魂の黄泉に住しと云こと、たしかなる事實も古傳も見えず、しかれどもこの故事にもとづきて、なべて黄泉にゆくことぞと、世(ノ)人心得ためれども、さる道理はなきものにて、これには委(キ)論あることなり、その後此集九(ノ)卷哀(テ)2弟死去(ヲ)1作(ル)歌に、云々|遠津國黄泉乃界丹蔓部多乃各(495)各向向天雲乃別石往者《トホツクニヨミノサカヒニハフツタノオノモオノモアマクモノワカレシユケバ》云々、(こはたゞその屍を、地に葬ることを何となくいへるのみにはあらず、其(ノ)魂をも、黄泉に往として作るなり、)又見2菟原處女墓(ヲ)1歌に、云々|丈夫之荒爭見者《マスラヲノアラソフミレバ》、雖生應合有哉《イケリトモアフベクアレヤ》、宍串呂黄泉爾將待跡《シヾクシロヨミニマタムト》、隱沼乃下延置而《コモリヌノシタハヘオキテ》、打嘆妹之去者《ウチナゲキイモガユケレバ》云々などあるは、佛籍《ホトケブミ》にいはゆる、那落《ナラク》の説を傅會《ヒキアハセ》たるものにて、中昔の物語|書《ブミ》に、よみぢのいそぎなどやうに多くいひ、今(ノ)俗にまで、よみぢかへりなどいひなれて、めづらしきことにあらず、ことに五(ノ)卷戀2男子名(ハ)古日(ヲ)1歌に、和可家禮婆道行之良士末比波世武之多敝乃使於比弖登保良世《ワカケレバミチユキシラジマヒハセムシタヘノツカヒオヒテトホラセ》とある、之多敝《シタヘ》の使は、冥途の使といふことなり、其歌(ノ)次に、布施於吉弖吾波《フセオキテアレハ》許比能武阿射無加受《》、多太爾率去《コヒノムアザムカズタヾニヰユキ》弖阿麻治思良之米《テアマヂシラシメ》とある、阿麻治《アマヂ》は、いはゆる六道の天上をいへるなり、又書紀雄路天皇(ノ)遺詔に、不《ザリキ》v謂《オモホエ》2※[しんにょう+構の旁]疾彌留《アツシレテ》、至(ムトハ)2於|大漸《コツクニヽ》1とある、大漸をトコツクニ〔五字右○〕とよめる、其(ノ)字義にはあたらねども、訓の意は、崩(リ)坐て、常世(ノ)國にまかりまさむと云ことにて、常世は即(チ)黄泉のことなりと云り、四(ノ)卷大伴(ノ)坂上(ノ)郎女(ノ)歌に、常呼二跡吾行莫國《トコヨニトアガユカナクニ》云々とあるも、遠津國《トホツクニ》とあるに同じく、死て黄泉にゆく意もていへりときこえたり、すべて上(ノ)件に引ることゞもは、みなまさしく、佛意をもとゝしてよめるなれば、いとも/\うるさくいとはしさに、いでその眞には、いかになりゆくものぞと尋るに、魂は天に歸《ユキ》、屍は地に葬《ヲサマ》るものと思はるゝよしかた/”\あり、(から國にも、及2其死1也、形體(ハ)則降(リ)、魂氣(ハ)即上(ル)、是(ヲ)謂2天(ニ)望而地(ニ)藏(ルト)1也と云り、續後紀九卷に、承和七年五月辛巳、(496)後太上天皇、顧2命皇太子(ニ)1、曰、云々、予聞人歿、精魂皈v天、而存2冢墓(ニ)1、鬼物憑v焉(ニ)、とあるも、天望地藏の説に本づきて、のたまへるなるべし、)其(ノ)謂は、此(ノ)下高市(ノ)皇子(ノ)尊城上(ノ)殯宮之時、柿本(ノ)朝臣人麻呂(ノ)作(ル)歌に、云々|言左徹久百濟之原從《コトサヘグクタラノハラヨ》、神葬葬伊座而《カムハフリハフリイマシテ》、朝毛吉木上宮乎《アサモヨシキノヘノミヤヲ》、常宮等定奉而《トコミヤトサダメマツリテ》、神隨安定座奴《カムナガラシヅマリマシヌ》云々とありて、其(ノ)反歌に、久堅之天所知流君故爾《ヒサカタノアメシラシヌルキミユヱニ》、日月毛不知戀渡鴨《ツキヒモシラニコヒワタルカモ》、(或書(ノ)反歌に、)哭澤之神社爾三輪須惠雖?祈《ナキサハノモリニミワスヱノマメドモ》、我王者高日所知奴《ワガオホキミハタカヒシラシヌ》、(天所知流とあるに同じ、)又三(ノ)卷安積(ノ)皇子(ノ)薨之時、大伴宿禰家持(ノ)作(ル)歌に、云々|和豆香山御輿立之而《ワヅカヤマミコシタヽシテ》、久堅乃天所知奴禮《ヒサカタノアメシラシヌレ》とありて、その反歌に、吾王天所知牟登不思者《ワガオホキミアメシラサムトオモハネバ》、於保爾曾見谿流和豆香蘇麻山《オホニソミケルワヅカソマヤマミ》とある、これまさしく御屍《ミカタチ》は地中に藏《ヲサマ》り、御魂《ミタマ》は天上にのぼりませる趣に云るなり、しかれば神魂は天に歸《イマ》して、陵墓はたゞ空しき御屍のみ藏《ヲサマ》れる地なり、と云べけれど、然らず、これらは崩薨をあらはに申すことを惶て、現御身の、天津宮にいでませるよしにいへるのみにて、實は陵墓は、その神魂を、其處に永く留めむとてかまへたること、下に引る、倭建(ノ)命の御故事を、思(ヒ)合せても曉るべし、さてその次に、陵墓のさだなくして、たゞ魄の天上に歸《ユキ》たることのみを云るは、此(ノ)下日並(ノ)皇子(ノ)尊殯宮之時、林本朝臣人麻呂(ノ)作(ル)歌に、天武天皇の明日香(ノ)清御原(ノ)宮に御宇し、つひに崩まし/\けることを、高照日之皇子波《タカヒカルヒノミコハ》、飛鳥之淨之宮爾《アスカノキ∃ミノミヤニ》、神隨太布座而《カムナガラフトシキマシテ》、天皇之敷座國等《スメロキノシキマスクニト》、天原石門乎開《アマノハライハトヲヒラキ》、神上上座奴《カムノボリノボリイマシヌ》と申し、又弓削(ノ)皇子(ノ)薨時、置始(ノ)東人(ノ)作歌に、安見知之吾王《ヤスミシヽワガオホキミ》、高光日之皇子《タカヒカルヒノミコ》、久堅乃天宮爾《ヒサカタノアマツミヤニ》、神隨(497)神等座者《カムナガラカミトイマセハ》云々、その反歌に、王者神西座者天雲之《オホキミハカミニシマセバアマクモノ》、五百重之下爾隱賜奴《イホヘガシタニカクリタマヒヌ》とあるは、薨まして、その御魂の天に上りませる趣に云るなり、又三(ノ)卷左大臣長屋(ノ)王賜v死之後、倉橋部女王(ノ)作(ル)歌に、太皇之命恐大荒城乃《オホキミノミコトカシコミオホアラギノ》、時爾波不有跡雲隱座《トキニハアラネドクモガクリマス》とあるも、魂の天に上りて、雲隱りませる意もていへりときこへたり、これらは只神魂の、天にのぼりませるよしのみ云たるは、詞の上のみのことにこそあれ、實にさることにはあらず、陵墓のさだを略けるは、歌なればと知べし、さて又|此《コヽ》に、皇子の御魂の、飛鳥の如く天翔りつゝ、此處に通ひ來まして、見給ふらむとよみ、此(ノ)下天智天皇崩御まし/\し時、大后の、青旗乃木旗能上乎賀欲布跡羽《アヲハタノコハタノウヘヲカヨフトハ》、目爾者雖見直爾不相香裳《メニハミユレドタヾニアハヌカモ》とよませ給へるも、大殯宮に立たる青旗の上を、大御魂の天がけりまして、かよひ來ますとは御面影は見ゆれども、直しく御正身《ミムザネ》を、相見奉ることは、ならぬ哉、とのたまへるなり、さてかく魂の天上にのぼり、あるは飛翔るよしいへるに、其は皇列の上にのみ云て、凡人の死るをば過《スグ》、あるは、消《キユ》、あるは去《ウス》などやうにのみ云て、天にあがるよしいひたること、をさをさなし、(但し此(ノ)下に、人麻呂(ノ)妻の死れるを、白妙之天領巾隱《シロタヘノアマヒレガクリ》とよめるも、只おぼろに、天に上るさまに、見なしたる如く聞ゆれども、たしかに天に上れるよしにはあらず、又三(ノ)卷、尼理願が死去るを、留不得壽爾之在者敷細乃《トヾメエヌイノチニシアレバシキタヘノ》、家從者出而雲隱去寸《イヘヨハイデテクモガクリニキ》とよめるも、現世をはなれて、屍の遠く離りたるを、いへるのみにて、天に歸《ユク》よしにはあらず、)されど皇列のかぎりは、亡魂の(498)天がけることありて、凡人はさらぬ理あるべくもあらねば、實には魂の天に歸てふことはなけれども、天皇皇子等の崩薨を、あらはに申すを憚りて、現御身の、やがて天に歸給ふよしに、いへるのみかとも思へど、然にはあらず、此は天皇皇子等の崩薨をば、天津宮にのぼり給ふよしに、多く云なれて、既(ク)天皇の、崩坐をば、往昔より神阿賀留《カムアガル》と申したる故に、(榮花物語、見はてぬ夢に、今年はまづしも人などはいといみじう、たゞこの頃のほどに、うせはてぬらんと見ゆ、四位五位などの、なくなるをばさらにもいはず、今は神にあがりぬべしなどいふは、いとおそろしき事かぎりなきに、三月ばかりに成ぬれば、關白殿の御なやみも、いとたのもしげなくおはしますに云々、これも神にあがるは、崩御を申せるにやあらむ、)をを惶れ憚りて、凡人の上に、さるさまに云たることは、白《オノヅラ》なきなるべし、さればその亡魂は、常は墓所に永く留りて、墓處より靈異を現せる事跡多く、又事として大虚を翔りめぐりて、いづれの地にも物せること、ためしすくなからず、古事記中卷に、倭建(ノ)命崩(リ)坐て、伊勢(ノ)國|能煩野《ノボヌ》に御陵作りて、葬りまつれるに、その御魂の化(テ)2八尋(ノ)白智鳥(ニ)1、翔(リ)v天(ニ)而向(テ)v濱(ニ)飛行《トビイマシヌ》、云々、留(リマシキ)2河内(ノ)國(ノ)之志幾(ニ)1、故(レ)於《ニ》2其地《ソコ》1作(リテ)2御陵1、鎭(リ)坐《マサシメキ》也、即號(テ)2其(ノ)御陵1、謂2白鳥(ノ)御陵(ト)1也、とあるを考(ヘ)合(ス)べし、故(レ)中昔の物語書などに、死たる人の魂の天がけりて、物せるよししるせるは、天に上り居たる靈の、翔り降りて物するよしにはあらで、常は墓處に安定《シヅマ》り居る魂の、事あるをりは、翔り飛行て物する謂《ヨシ》なるをも(499)思べし、○歌(ノ)意は、皇子の御靈魂は、御墓より飛鳥の如く天がけりつゝ、在々て絶ず此處に通ひ來まして、見賜ふらめど、現在《コノヨ》の人目には見え賜はねば、人こそ得知(ラ)ね、松はよく知(リ)て有ならむとなり、人者反而復將見鴨《ヒトハカヘリテマタミケムカモ》と、意吉麻呂がいへるに、和《ナズラ》へたるなり、
○舊本、此處に、右(ノ)件歌等云々、と註したるは用なく、いまだしき、後人のしわざなることしるければ、今は拾穗本になきによれり、(其文は、上に引てことわりつ、)
 
近江大津宮御宇天皇代《アフミノオホツノミヤニアメノシタシロシメシヽスメラミコトノミヨ》。
 
此標は、既く一(ノ)卷に出づ、○天皇代の下、舊本等には、天命開別(ノ)天皇と註し、類聚抄古寫本等には、謚曰2天智天皇1、といふ註もあり、共に後人のしわざなること、既く云る如し、
 
天皇《スメラミコトノ》。聖躬不豫之時《オホミヤマヒセストキ》。大后奉御歌一首《オホキサキノタテマツレルミウタヒトツ》。
 
躬(ノ)字、類聚抄には體と作り、○天皇不豫は、天智天皇(ノ)紀に、十年九月、天皇|寢疾不豫《オホミヤマヒシタマフ》、(或本、八月天皇疾病、)多十月甲子朔庚辰、天皇|疾病彌留《オホミヤマヒオモシ》と見えたり、かくてその十二月癸亥朔乙丑、天皇崩(リタマヘリ)2于近江(ノ)宮(ニ)1とあり、こは崩御の後より押て、挽歌に入しなり、○之(ノ)字、拾穗本にはなし、○大后(大(ノ)字、舊本には太と作り、今は類聚抄に從つ、)は、即(チ)皇后なり、天智天皇(ノ)紀に、七年二月、立(テ)2古人(ノ)大兄(ノ)皇子(ノ)女倭姫(ノ)王(ヲ)1爲(タマフ)2皇后(ト)1とあり、(古人(ノ)皇子は、天智天皇の御|庶兄《マヽセ》なり、)本居氏云、大后はオホキサキ〔五字右○〕と訓べし、後(ノ)世の皇后なり、先(ツ)古(ヘ)に、后とは一柱に限らず、後に妃夫人などゝ申す班《ツラ》までを、(500)幾柱にても申せり、さて其(ノ)后等の中の、最上なる一(ト)柱を、殊に尊みて、大后とは申せしなり、然るを萬(ツ)の御制《ミサダメ》、漢國のにならひ賜ふ、御代となりては、正しき文書などには、當代のをば皇后、先代のを皇太后と書《シルサ》るゝことゝなれり、されど口に言(フ)語、又うちとけたる文などには、奈良の頃までも、猶古(ヘ)の隨《マヽ》に、當代のを大后、先(ツ)御代のをば、大御祖と申せるを、其(ノ)後遂に常の語にも、當代の嫡后をば、ただ后と申し、大御母を、大后と申すことにはなれるぞかしと云り、此(ノ)卷(ノ)初、(二(ノ)上にも云り、)なほ古事記傳に詳に辨へたり、(然るを岡部氏が、此《コヽ》の大后を疑ひて、天皇いまだ崩(リ)坐(サ)ざるほどなれば、大后とあるは誤なりとて、おして皇后と書改めしは、中々のひがことにこそ、)○奉の下、獻字を脱せるか、
 
147 天原《アマノハラ》。振放見者《フリサケミレバ》。大王乃《オホキミノ》。御壽者長久《ミイノチハナガク》。天足有《アマタラシタリ》。
 
天足有《アマタラシタリ》は、天の長きが如く、つきしなく滿足ひてありと、御壽を祝奉り給ふなるべし、續後紀五(ノ)卷に、大中臣(ノ)朝臣天足、神名帳に陸奥(ノ)國黒川(ノ)郡鹿島天足別《カシマアマタラシワケノ》神社など見ゆ、○御歌(ノ)意、推古天皇(ノ)紀に、吾大きみの隱ます天の八十蔭、いでたゝすみ空を見れば、萬代にかくしもがも云々、てふ歌をむかへ思ふに、天を御室とします、天つ御孫命におはせば、御命も長《トコシ》へに天足しなむ、今御病ありとも事あらじと、天を仰(キ)てほぎ給ふなりと岡部氏云り、御惱の早くおこたりまし/\て、御命の天と共に、長く滿足ひ賜はむことを、祝奉賜へるなるべし、
(501)〔一書曰。近江天皇。聖體不豫。御病急時。大后奉獻御歌一首〕
曰(ノ)字、類聚抄には云と作り、○この一書は、右の御歌に附たる註なり、
 
天皇崩御之時《スメラミコトノカムアガリマセルトキ》。倭〔□で囲む〕大后御作歌二首《オホキサキノヨミマセルミウタフタツ》。
 
崩御(御(ノ)字、類聚抄には後と仰り、)のことは、上に云づ、○之(ノ)字、類聚抄拾穗本等にはなし、○倭大后(大(ノ)字、舊本には太と作り、今は類聚抄に依つ、)は、即(チ)上に見えたる大后なり、倭といふ御名をしるせること、例にそむけり、まがひて入しものか、○この題詞、舊本こゝに脱て、次の御歌の處に入(レ)るは、混亂《マギレ》たるものなり、今は岡部氏が、改てこゝに收《イレ》しに從(リ)つ、
 
148 青旗乃《アヲハタノ》。木旗能上乎《コハタノウヘヲ》。賀欲布跡者《カヨフトハ》。目爾者雖視《メニハミユレド》。直爾不相香裳《タヾニアハヌカモ》。
 
青旗乃云々、(岡部氏(ノ)考には、木旗を小旗に改めたり、其(ノ)説に、同じ言に小《コ》の發語を重ね置は、さがみ嶺の小嶺《ヲミネ》、玉さゝの小篠、などの類なりといへり、又云、青旗は白旗なり、大殯(ノ)宮に立たる白旗どもの上に、今もおはすが如、御面影は見えさせ賜へど、正面に相見奉る事なしと歎(キ)賜へり、此(ノ)青旗を、殯宮の白旗ぞといふよしは、孝徳天皇紀の葬制に、王以下小智以上、惟帳等に白布を用よとあり、十三挽歌に、大殿矣振放見者《オホトノヲフリサケミレバ》、白細布飾奉而《シロタヘニカザリマツリテ》、内日刺宮舍人者《ウチヒサスミヤノトネリハ》、雪穗麻衣服者《タヘノホニアサキヌケルハ》、また此(ノ)卷にも、皇子》之御門乎神宮爾装束奉而《ミコノミカドヲカムミヤニヨソヒマツリテ》云々、かくて喪葬令の錫紵は、細布なれば、大殯のよそひも、皆白布なるをしる、さて旗は右の書等に見えねど、喪葬令の太政大臣旗二百(502)竿と有に、こゝの青旗云々をむかへて、御葬、また大殯(ノ)宮の白旗多きをしるべし、且成務天皇(ノ)紀、神功皇后(ノ)紀に、降人は素幡《シラハタ》を立て參ること有も、死につくよしなれば、これをも思へと云り、こはまことにさるよしなるべくはおもはるれども、白旗を、青旗といふべき理なければ、いかゞなり、猶よく考(フ)べし、)仙覺抄に、常陸風土記を引て、葬具(ノ)儀、赤旗青旗交々雜(フ)云々とあれば、大殯宮の儀式に、青色の旗を立ることの有しか、青旗は、四(ノ)卷に、青旗乃葛木山爾《アヲハタノカヅラキヤマニ》、十三に、青幡之忍坂山者《アヲハタノオサカノヤマハ》なども見えたり、○木旗《コハタ》は、未《ダ》詳ならず、(おして木旗を、小旗に改めむ事も、おぼつかなし、)○賀欲布跡羽《カヨフハ》(賀(ノ)字、類聚抄には駕と作り、)は、通ふとはにて、大御魂の天翔りまして、往來《カヨヒ》ますとはといふなり、○御歌(ノ)意は、大殯宮に立たる青旗の上を天皇の大御魂の、天がけりまして、かよひ來ますとは、御面影は見ゆれども、直《タヾ》しく相見奉ることははならぬ哉と、歎賜へるなり、
 
149 人者縱《ヒトハヨシ》。念息登母《オモヒヤムトモ》。玉※[草冠/縵]《タマカヅラ》。影爾所見乍《カゲニミエツヽ》。不所忘鴨《ワスラエヌカモ》。
 
人者縱《ヒトハヨシ》は、よの人はよしやたとひといふ意にて、縱はかりに縱《ユル》す詞なり、延喜式十一に、縱(ハ)讀曰2與志《ヨシト》》1とあり、集中に多き詞なり、○玉※[草冠/縵]《タマカヅラ》(※[草冠/縵](ノ)字、拾穗本には※[髪の友が衆]と作り、)は、古(ヘ)頭の飾とせしものにて、多くの玉を貫て着たれば、しかいへるなり、古事記安康天皇の、大長谷(ノ)王子の爲に、大日下(ノ)王(ノ)妹、若日下(ノ)王をめし賜へる時に、即(チ)爲(テ)2其(ノ)妹(ノ)之|禮物《イヤジロト》1令v持2押木之玉縵《オシキノタマカヅラヲ》1而《テ》貢獻《タテマツリキ》、書紀に、押木(ノ)珠(503)縵、一(ハ)云2立縵《タチカヅラト》1、又(ハ)云2磐木縵《イハキカヅラト》1、此集十二に、玉縵、江家次第十二齋王群行(ノ)條に、着2羅地摺袷襠長袖、同目染裳(ヲ)1、着2玉鬘(ヲ)1、依v未2成人1、不v可2上v髪給(フ)1歟、云々などあり、さて其は、玉を貫て着しと云は、天照大御神の御鬘に、八尺勾※[王+總の旁]之五百津之美須麻流《ヤサカマガタマノイホツノミスマル》をまかし賜ひしこと、又貞觀儀式元日(ノ)禮服(ノ)制に、親王四品以上、冠(ハ)者漆也金装云々、以2白玉八顆(ヲ)1、立2櫛形(ノ)上(ニ)1、以2紺玉廿顆(ヲ)1、立2前後(ノ)押鬘(ノ)上(ニ)1と見ゆ、(又玉を以て、立2前(ノ)押鬘(ニ)1とも、立2後(ノ)押鬘(ノ)上(ニ)1とも見えたり、)これにて、鬘に玉を着しさま思ひやるべし、又十八に、白玉乎都々美?夜良波安夜女具佐《シラタマヲツヽミテヤラナアヤメグサ》、波奈多知婆奈爾安倍母奴久我禰《ハナタチバナニアヘモヌクガネ》とあるも、鬘にする料に、白玉を贈むと云るなり、(菖蒲橘を鬘にする由よめる歌、集中に甚多きにて、此(ノ)歌の意をしるべし、)かくて影《カゲ》としも屬く所由《ヨシ》は、玉縵は玉の光明《ヒカリ》の、きら/\と照映《テリカヾヨ》ふものなるゆゑに、玉縵|映《カゲ》とはいへるなり、すべて加岐《カギ》加具《カグ》加宜《カゲ》は皆同言にて、※[火+玄]映《カヾヨ》ふ意の言なればなり、(然るを岡部氏の、懸とつゞくよしいへるは非なり、十二に玉※[草冠/縵]不懸時無《タマカヅラカケヌトキナク》とあるは、異なることぞ、又本居氏は、玉は山(ノ)字の誤にて、山※[草冠/縵]なり、影は蘿なり、蘿を山かづらと云故に山かづら影とつゞけたりと云て、其(ノ)論委(シ)けれどあらず、○伊勢物語に、人はいざ思ひやすらむ玉かずら、おもかげにのみいとゞ見えつゝとあるは、今の歌をかへたるなり、貫之集に、かけて思ふ人もなければ夕碁は、面影たえぬ玉かづらかな、後撰集に、玉かづらかづらき山のもみち葉は、面影にのみ見えわたるかな、又日を經てもかげに見ゆるは玉かづら、つらきな(504)がらも絶ぬなりけり、伊勢集に、たびをへてかげに見ゆるは玉かづら、つら/\ながら見えぬなりけり、これらもみな、今の歌をふみてよめる物にて、影をいはむための縁に、玉※[草冠/縵]を云るなり、)○影爾所見乍《カケニミエツヽ》は、面影に所見乍《ミエツヽ》といふなり○御歌(ノ)意は縱《ヨシ》や設《タト》ひ、他《ヨ》の人は念(ヒ)息(ム)とも、それはとまれ、われは猶面影に見えつゝ忌られずして悲き哉となり、
 
天皇崩時《スメラミコトノカムアガリマセルトキ》。婦人作歌一首《ヲミナガヨメルウタヒトツ》。【姓氏未詳。】
 
崩の下、拾穗本には御(ノ)字あり、○婦人と書《シル》せること、いさゝか意得かてなれど、すべきやうなし、これは宮女の類をひろく云るなるべし、さればヲミナメ〔四字右○〕と訓べし、和名抄に、妾(ハ)、和名|乎無奈女《ヲムナメ》、安康天皇(ノ)紀に、※[草がんむり/行]葉《ヲムナメ》、孝徳天皇(ノ)紀に、妻妾《ヲムナメ》などあり、又天智天皇(ノ)紀に、宮人《メシヲムナ》とあれば、メシヲミナ〔五字右○〕とも訓べきか、(和名抄に、婦人は太乎夜米《タヲヤメ》とあれど、此處なるは宮女の類なれば、ひろく手弱女《タワヤメ》と訓むはいかゞ、)○氏(ノ)字、舊本に民と作るは、誤なることしるし、今は類聚抄古寫本等に据つ、但し拾穗本には名と作り、
 
150 空蝉師《ウツセミシ》。神爾不勝者《カミニタヘネバ》。離居而《サガリヰテ》。朝嘆君《アサナゲクキミ》。放居而《ハナレヰテ》。吾戀君《アガコフルキミ》。玉有者《タマナラバ》。手爾卷持而《テニマキモチテ》。衣有者《キヌナラバ》。脱時毛無《ヌクトキモナク》。吾戀《アガコヒム》。君曾仗賊乃夜《キミソキソノヨ》。夢所見鶴《イメニミエツル》。
 
空蝉師《ウツセミシ》は、空蝉は既く出つ、師《シ》はその一(ト)すぢをとりたてゝ、おもく思はする處におく助辭なり、○神爾不勝者《カミニタヘネバ》は、神となりて、天津宮にましませば、わが現在の身にして、したがひ奉るに(505)堪ざればの謂なり、(九(ノ)卷に、朝露のけやすき命神のむたあらそひかねて、とよめるに同じく、神爾不勝者《カミニタヘネバ》とは、天地と等しき、神の壽命のごとくならねば、といふ意にて、はやく崩り賜ふよしなり、といふ説は、いよわろし、)○朝嘆君《アサナゲクキミ》(嘆(ノ)字、類聚抄には歎と作り、)は、朝に嘆き悲むその君といふなり、下に昨夜夢に見えつるとあれば、其(ノ)つとめていへる故なり、(一説に、朝はマヰ〔二字右○〕と訓べし、崩(リ)給ひても、おはしましつるところへ朝參《マヰリ》て、嘆くよしなりといへれどいかゞ、)○玉有者《タマナラバ》云々、さいばらに、大宮のちひさこ舍人玉ならば、ひるは手にとりよるはさねてむとある、同し意なり、○脱時毛無吾戀は、本居氏云、ヌクトキモナクアガコヒム〔ヌク〜右○〕と訓べし、一處に居て思ふを、戀るといふ例多ければ、衣ならば脱時もなく、身をはなたずて、思ひ奉らむ君といふ意なり、(無(ノ)字をナミ〔二字右○〕と訓るはわろし、またワガコフル〔五字右○〕君と訓るもわろし、上にも、吾戀君《ワガコフルキミ》とあればなり、同じ言をふたゝびかへしていふは、古歌の常なれど、此(ノ)歌のさまにては、わが戀る君、と二度いひてはわろし、又無(ノ)字、師は、ナケムとよまれたれど、さてはいよ/\、下の詞づかひかなひがたしと云り、以上本居氏説、)今案に、この戀は、三(ノ)卷に、石竹之其花爾毛我朝且《ナデシコノソノハナニモガアサナサナ》、手取持而不戀日將無《テニトリモチテコヒヌヒナケム》、とある戀と同意にて、賞愛《メデウツクシ》む方に云り、玉ならば手に卷持、衣ならば脱時もなく、吾(カ)賞愛まむの謂なり、十七に、多麻久之氣敷多我美也麻爾鳴烏能《タマクシゲフタガミヤマニナクトリノ》、許惠乃孤悲思吉登岐波伎爾家里《コエノコヒシキトキハキニケリ》とあるも、聲の賞愛《メデウツクシ》まるゝ時といへるにて、戀の言同し、○伎賊乃夜《キソノヨ》は、昨夜(506)なり、(賊(ノ)字を書るは正しからず、清て唱(フ)べし、)十四に、伎曾毛己余必母《キソモコヨヒモ》。又|伎曾許曾波《キソコソハ》、書紀に、昨日昨夜などをキス〔二字右○〕とよめり、同言なり。、)四(ノ)卷に、雨障《アマツヽミ》云々|昨夜雨爾《キソノアメニ》云々、とある昨夜をも、キソ〔二字右○〕と訓べし、(舊本に、ヨムベ〔三字右○〕とよみ、又六帖にも、よむべとあれどわろし、土佐日記にも、よむべのとまりよりなどあれども、古言には未(タ)見ず、)○夢所見鶴《イメニミエツル》とは、夢は、集中其(ノ)餘の古書、假字には皆|伊米《イメ》とあり、由米《ユメ》といふは後のことぞ、書紀竟宴(ノ)歌にも、以婆禮比古美流伊米佐女弖《イハレヒコミルイメサメテ》とあり、抑々|伊米《イメ》は、寢所見《イミエ》なり、(ミエ〔二字右○〕の切メ〔右○〕なり、人の目といふも、所見《ミエ》なり、)寢て、所見《ミユル》よしなり、鶴《ツル》は、さきにまのあたり有しことを、今いふ詞なり、○歌(ノ)意は、吾(カ)大皇の神あがり、神靈となりまして、天つ宮におはしませば、わが現在の身にして、したがひ奉るに堪ざれば、遠ざかり居て、歎き悲み戀慕奉る、その君の世におはしましける時、もし玉にてあるならば、手に纏持て放さず、衣にてあるならば、脱ときもなく、常身をさらずに賞愛《メデウツクシ》まむと思ひ奉しものを、今はかく遠ざかり居て、歎きてもかひなきに、その君が昨夜、夢にさへ見えつれば、いとゞ今朝は、悲みに堪がたきよとなり、
 
天皇大殯之時歌四首《スメラミコトノオホアラキノトキノウタヨツ》。
 
天の上、類聚抄には同(ノ)字あり、○大殯は、オホアラキ〔五字右○〕と訓べし、其説、古事記傳三十(仲哀天皇(ノ)條、)に見えて、甚詳なり、此は天智天皇(ノ)紀に、十二月癸亥朔乙丑、天皇崩2于近江(ノ)宮(ニ)1、癸酉、殯2于新宮(ニ)1、と(507)ある、其間によめるなり、○之(ノ)字、拾穗本にはなし、○四(ノ)字、舊本には二と作り、拾穗本に四と作る、しかるべし、(これは、下の神樂浪乃《サヽナミノ》云々の歌までを、ひとつと敷(ヘ)て云るなり、)
 
151 如是有刀《カヽラムト》。豫知勢婆《カネテシリセバ》。大御船《オホミフネ》。泊之登萬里人《ハテシトマリニ》。標結麻思乎《シメユハマシヲ》。 額田王《ヌカタノオホキミ》。
 
刀字、舊本乃に誤れり、今改つ、○豫(ノ)字、類聚抄には懷と作り、それに從(ラ)ば、オモヒシリセバ〔七字右○〕なるべし、されど舊本のかたまさるべし、○里人、類聚抄には、理尓と作り、官本にも、人を尓と作り、○歌(ノ)意は、神靈となりまして、天津宮にのぼりおはしまさむと兼て知たりせば、辛崎の湖水に、御船を浮て御遊有(リ)て、その汀に大御船のつきし時、標繩引はへて、永く留め奉らましものを、とかなしみの餘(リ)に悔るなり、かしこけれども、古事記天(ノ)岩屋戸(ノ)條に、布刀玉(ノ)命、以《ヲ》2尻久米繩1、控2度《ヒキワタシテ》其(ノ)御後方(ニ)1、白言《マヲシタマハク》、從《ヨリ》v此《コヽ》以内不得還入《ウチニナカヘリイマシソ》とあるを思ひて、よみ賜へるにや、○額田(ノ)王の三字、舊本にはなし、類聚抄古寫本官本拾穗本等に依つ、
 
152 八隅知之《ヤスミシシ》。吾期大王乃《ワゴオホキミノ》。大御船《オホミフネ》。待可將戀《マチカコフラム》。四賀乃辛崎《シガノカラサキ》。 舎人《トネリ》吉年
 
待可將戀《マチカコフラム》は、戀しく思ひて、待奉るらむかといふなり、可の言は、將戀の下にうつして意得べし、一(ノ)卷人麻呂歌に、樂浪之思賀乃辛崎雖幸有《サヽナミノシガノカラサキサキクアレド》、大宮人之船麻知兼津《オホミヤヒトノフネマチカネツ》、○崎(ノ)字、類聚抄には埼と作り、○舍人吉年の四字、舊本にはなし、類聚妙古寫本官本紀州本拾穗本等によりつ、吉年は傳詳ならず、官女なるべし、四(ノ)卷田部(ノ)忌寸櫟子、任2太宰(ニ)1時に衣手爾《コロモテニ》云々とある歌の作者を、古(508)寫本拾穂本等に、舍人吉年と書せり、同人なるべし、○歌意かくれたるすぢなし、
 
大后御歌一首《オホキサキノミウタヒトツ》。
 
大(ノ)字拾穗本には太と作り、
 
153 鯨魚取《イサナトリ》。淡海乃海乎《アフミノウミヲ》。奧放而《オキサケテ》。榜來船《コギクルフネ》。邊附而《ヘツキテ》。榜來船《コギクルフネ》。奧津加伊《オキツカイ》。痛勿波禰曾《イタクナハネソ》。邊津加伊《ヘツカイ》。痛莫波禰曾《イタクナハネソ》。若草乃《ワカクサノ》。嬬之(命)(之)《ツマノミコトノ》。念鳥立《オモフトリタツ》。
 
鯨魚取《イサナトリ》は、海の枕詞なり、上に出づ、○奧放而《オキサケテ》は、奧方へ遠放てなり、(奧を放りて、此方に來ると云意には非ず、)○奧津加伊《オキツカイ》は、(奧放て、榜來船の櫂なりといふは、あまりに打まかせ過たるいひざまにて、いかゞなり、)古事記、伊弉那伎(ノ)命(ノ)禊祓(ノ)條に、次(ニ)於《ニ》2投棄(ル)左御手之手纏《タマキ》1、所成神《ナリマセルカミノ》名(ハ)奧踈《オキサガルノ》神、次(ニ)奧津那藝佐毘古《オキツナギサビコノ》神、次(ニ)奧津甲斐弁羅《オキツカヒベラノ》神、次(ニ)於2投棄右(ノ)御手之手纏1、所成神《ナリマセルカミノ》名(ハ)、邊踈《ヘザカルノ》神、次(ニ)邊津那藝佐毘古《ヘツナギサビコノ》神、次(ニ)邊津甲斐弁羅《ヘツカヒベラノ》神、此(ノ)集九(ノ)卷に、吾妹子者久志呂爾有奈武左手乃《ワギモコハクシロニアラナムヒタリテノ》、吾奧手爾纏而去麻師乎《アガオクノテニマキテイナマシヲ》、これらによるに、古(ヘ)左(ノ)手を奧(ノ)手といひ、右(ノ)手を邊手とぞ云けむ、さるは右の手は、事をなすによく、利《キヽ》て、はしかくあれば邊といひ、左の手は、事をなすにおそくして利《キ》かねば、いつも後ならでは出ぬ萬ゆゑ、奧と云るなるべし、されば奥津櫂《オキツカイ》は、舟の左にぬけるを云、邊津櫂《ヘツカイ》は、舟の右にぬけるを云べし、と中山(ノ)嚴水が云たる、眞にさも有べし、今も土佐(ノ)國高崗(ノ)郡の山里にて、物を荷ひ持などするに、左の肩におくを、澳《オキ》に荷《ニナフ》と云へり、古(ヘ)の遺風なるべし、さ(509)て、加伊《カイ》は、和名抄に、※[楫+戈](ハ)使2v舟捷疾1也、和名|加遲《カヂ》、在v旁(ニ)撥(ヲ)v水(ヲ)曰v櫂(ト)、字亦作v棹(ニ)、漢語抄(ニ)云、加伊《カイ》とあり、さて古(ヘ)加遲《カヂ》といひしは、今云|※[舟+虜]《ロ》なるべくおぼゆるなり、(岡部氏が、今の※[舟+虜]といふ物は、古(ヘ)はなしと云るはいかゞなり、呂《ロ》といふ稱《ナ》こそ古(ヘ)は聞えざれ、物はもとよりありしなり、)加伊《カイ》は今も※[舟+虜]に似て少《チヒサ》く造れる物を云り、古(ヘ)のまゝなるべし、古(ヘ)も加遲《カヂ》と加伊《カイ》とは異なりけむ、(岡部氏が、集中に眞梶繁貫《マカヂシヾヌキ》とあまたいへる同じ事を、卷廿(ノ)には、末加伊之自奴伎《マカイシヾヌキ》とあるによりて、加遲《カヂ》と加伊《カイ》とを同物なりと云るは、ひがことなり、眞梶とも眞加伊とも、よめるのみにこそあれ、これ同物ぞと云る證は、さらになきをや、)十七に、阿麻夫禰爾麻可治加伊奴吉《アマフネニマカヂカイヌキ》と見ゆ、(これ加遲《カヂ》と加伊《カイ》と、別物なる證なり、)○痛勿波禰曾《イタクナハネソ》は、甚く撥てこぐこと勿れといふなり、加伊《カイ》は波水をこぎ撥る物なれば、かくいへるなり、さて櫂《カイ》をつよくはねるときは、音に驚き、浪におぢなどして、鳥の立てさりゆかむことを、惜みてのたまへるなり、○邊津加伊《ヘツカイ》は、船の右に貫る櫂をいふべし、上に委し、○若草乃《ワカクサノ》は、嬬の枕詞なり、集中に多し、春野の弱草の如く、愛《メヅ》らしくうつくしきつま、とつゞけたるなり、仁賢天皇(ノ)紀に、弱草吾夫※[立心偏+可]怜《ワカクサノアガツマハヤ》(古者、以2弱草1喩2夫婦1、故以2弱草1爲v夫(ト)、)とあり、○嬬之の下、命之(ノ)二字ありしが脱たるにや、と本居氏云り、こはまことにさることなれば、今姑(ク)命之(ノ)二字加入て、調をとゝのへつ、さてこの嬬は、天皇を、さし奉れり、古(ヘ)は夫婦たがひに、都麻《ツマ》と云しことは、云も吏なり、都麻《ツマ》といふ名は、今の俗言に、都禮曾比《ツレソヒ》と云に(510)あたれり、と本居氏云り、古事記須勢理毘賣(ノ)命(ノ)御歌に、都麻波那斯《ツマハナシ》(夫者無《ツマハナシ》なり、)仁賢天皇(ノ)紀に、吾夫※[立心偏+可]怜矣、此云2阿我圖摩播耶《アガツマハヤト》1、九(ノ)卷に、若草之夫香有良武《ワカクサノツマカアルラム》とあり、かゝればこゝも、夫と書べきを、言さへ同じければ、字には泥ずして、いかさまにも書たること、古書の常なり、○念鳥立《オモフトリタツ》は、天皇の愛しみ念ほしゝ鳥の、立て行どとなり、この鳥は、下の日並(ノ)皇子(ノ)尊の殯の時、島宮上池有放鳥《シマノミヤマガリノイケノハナチトリ》、荒備勿行君不座十方《アラビナユキソキミマサストモ》、とよめるごとく、愛(ミ)て飼せ給ひし鳥を、崩(リ)まして後放たれしが、近江の湖水に猶居るを、いとせめて、御なごりに見賜ひて、しかの給ふにこそ、○御歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
石川夫人歌一首《イシカハノオホトジガウタヒトツ》。
 
石川(ノ)夫人は傳未(ダ)詳ならず、但し天智天皇紀に、七年、遂(ニ)納2四(ノ)殯(ヲ)1、有2蘇我山田(ノ)石川麻呂(ノ)大臣(ノ)女1、曰2遠智(ノ)娘1、云々、次有2遠智娘(ノ)弟|姪娘《メヒノイラツメ》1、生2御名部(ノ)皇女、與《トヲ》2阿部(ノ)皇女1、(元明天皇)とある、この姪(ノ)娘にて、遠智(ノ)娘(持統天皇の御母、)の妹なりとも云り、然れども、石川麻呂は大臣の諱なれば、夫人をもて、石川(ノ)夫人と呼べきに非ず、いかゞ、
 
154 神樂浪乃《サヽナミノ》。大山守者《オホヤマモリハ》。爲誰可《タガタメカ》。山爾標結《ヤマニシメユフ》。君毛不在國《キミモマサナクニ》。
 
神樂浪乃大山《サヽナミノオホヤマ》とは、孝徳天皇(ノ)紀に、畿内《ウチツクニ》を定賜ふ詔に、北自2近江(ノ)狹々浪《サヽナミノ》合坂山1以來、爲2畿内(ツ)國(ト)1といへり、大山守者《オホヤマモリハ》とは、大山は御山なり、朝廷より賜ふ物を、大御物《オホミモノ》とも、大物《オホモノ》とも、御物《ミモノ》とも(511)いふに准ふべし、さて大宮近き山なれば、ことに山守を置れしことさらなり、山守をおかるる事は、應神天皇(ノ)紀に、五年秋八月庚寅朔壬寅、令3諸國(ニ)定2海人、及山守部(ヲ)1とあり、○爲誰可《タガタメカ》云々(可字、古寫本拾穗本等になきはわろし、)は、誰が爲に、山爾標結《ヤマニシメユフ》にかといふなり、可《カ》は結(フ)の下にうつして意得べし、○君毛不在國《キミモマサナクニ》(在(ノ)字舊本には有と作り、今は拾穗本に從つ)、は、君もおはしまさぬものなるにといふなり、君とは天皇を指奉れり、不《ナク》は奴《ヌ》の伸りたるなり、○歌(ノ)意は、花紅葉を叡覽《ミソナハ》し給はむ爲に、雜人をみだりに入しめじとて、山守を置せ給へるに、崩御の後も猶堅く守れるを見て、誰が爲にとて、※[竹/修の彡なし]波《サヽナミ》の御山守は、山に標繩結ぞ、御爲にすべきその天皇も、今はおはしまさねば、山も用なき物をといへるなり、
 
從《ヨリ》2山科御陵《ヤマシナノミサヽギ》1退散之時《アガレルトキ》。額田王作歌一首《ヌカタノオホキミノヨミタマヘルウタヒトツ》。
 
山科(ノ)御陵は、諸陵式に、山科陵(近江(ノ)大津(ノ)宮(ニ)御宇(シ)天智天皇、在2山城(ノ)國宇治(ノ)郡(ニ)1、兆域東西十四丁南北十四丁、陵戸六烟、)とあり、今も山科の御廟とて、山上に杜ありと云り、書紀に、十年十二月乙丑、天皇崩2于近江宮1、癸酉、殯2于新宮1とみゆ、さて亂《ヨノサワギ》ありて、天武天皇三年に至て、此(ノ)陵は造らせ給へり、御葬(リ)御陵|奉仕《ツカヘ》も、此時にありしなるべし、○之(ノ)字、拾穗本にはなし、
 
155 八隅知之《ヤスミシヽ》。利期大王之《ワゴオホキミノ》。恐也《カシコキヤ》。御陵奉仕流《ミハカツカフル》。山科乃《ヤマシナノ》。鏡山爾《カヾミノヤマニ》。夜者毛《ヨルハモ》。夜之盡《ヨノコト/”\》。晝者母《ヒルハモ》。日之盡《ヒノコト/”\》。哭耳呼《ネノミヲ》。泣乍在而哉《ナキツヽアリテヤ》。百磯城乃《モヽシキノ》。大宮人者《オホミヤヒトハ》。去別南《ユキワカレナム》。
 
(512)八隅知之《ヤスミシヽ》は、枕詞なり、能く出づ、○恐也《カシコキヤ》の也《ヤ》は、助辭にて余《ヨ》と云むが如し、恐き御陵とつゞく意なり、廿(ノ)卷に、可之故伎也安來乃美加度乎《カシヨキヤアメノミカドヲ》となり、(この例なり、八(ノ)卷に、宇禮多伎也志許霍公鳥《ウレタキヤシコホトヽギス》、これらも其(ノ)の例なり、)○御陵奉仕流《ミハカツカフル》とは、御陵をミハカ〔三字右○〕と訓、(舊本訓のまゝなり、)さて古(ヘ)は、天皇のをも、なべては美波加《ミハカ》と云けむを、やゝ後に、天皇のをば美佐々伎《ミサヽキ》と申し、自餘《ホカ》のをば波可《ハカ》と稱て分てるなるべし、喪葬令義解に、帝王(ノ)墳墓、如v山(ノ)如v陵(ノ)、故謂2之山陵(ト)1、三秦記に、名2天子冢1曰2長山1、漢(ニハ)曰v陵、故通(シテ)名2山陵(ト)1、とあれど、そは字のうへのさだにこそあれ、詞には美波可《ミハカ》とぞいひけむ、四(ノ)卷に、吾背子爾復者不相香常思墓《ワガセコニマタハアハジカトオモヘハカ》、和名抄に、武藏(ノ)國|荒墓《アラハカノ》郷などあれば、波可《ハカ》と云も、古へよりの言なり、)さて波可《ハカ》といふ名(ノ)意は、葬處《ハフリカ》なり、ハフ〔二字右○〕の切フ〔右○〕となり、リ〔右○〕は活用言にて、連(ネ)言ときは、自(ラ)省かる常(ノ)例なれば、フカ〔二字右○〕となるを、フ〔右○〕とハ〔右○〕は親《チカ》く通ふまゝに、ハカ〔二字右○〕とはいへるなるべし、(新撰萬葉に、葬處無見湯留《ハカナクミユル》、また蝉之葬處無佐《セミノハカナサ》、また葬處無鴈介留《ハカナカリケル》、また五十人童葬處砥《イヅコヲハカト》、などあるも、義を得て、墓を葬處と書ることのありしを、借て用ひられしものなり、荒木因氏説に、墓は終處《ハテカ》なり、といへるはいかにぞや身命《イノチ》の終《シヌ》るをはつるといふは、もとよりのことなれど、その身命の終《ハテ》たる人(ノ)屍を、葬れる處を、終處《ハテカ》といふべき理あらざるをや、)奉仕流は、造(リ)奉るなり、凡て上の御爲に造り奉るを、つかふるといふ例、既く上に云、○山科《ヤマシナ》、九(ノ)卷十一十三の卷などにも見えたり、山品《ヤマシナ》とも書たり、和名抄に、山城國宇治(ノ)郡山科(也未之奈《ヤマシナ》とあり、(513)○鏡山《カヾミヤマ》は、山城(ノ)國山科なり、近江豐前にも同名の山あり、混《マガ》ふべからず、○夜之盡《ヨノコト/”\》は、終夜の謂なり、神代紀に、伊茂播和素邏珥譽能《據※[登+おおざと]馭※[登+おおざと]母《イモハワスラニヨノコトゴトモ》、(齡《ヨ》の盡《コト/”\》もなり、盡《コト/”\》の言同じ例ぞ、)○日之盡は、終日の謂なり、○呼(ノ)字、拾穗本には乎と作り、○泣乍在而哉《ナキツヽアリテヤ》、この哉《ヤ》は歟《カ》といはむがごとし、南《ナム》の下にうつして意得べし、○百磯城乃《モヽシキノ》は、枕詞なり、既く出づ、○去別南《ユキワカレナム》は、別々に散去なむかとなり、葬(リ)奉りて一周の間は、近習の臣《オミ》より舍人まで、御陵に侍宿する事なり、下の日並(ノ)皇子(ノ)尊の御墓づかへする、舍人の歌にてしらる、○歌(ノ)意は、恐き御陵造り仕へ奉る、山科の鑑(ノ)山に、日《ヒル》は終日夜は終夜、哭にのみ、泣ゝ、直宿して侍ふほどに、流るゝ年月とゞめがたく、はや一周に滿ぬるとて、人々別々に退《アガ》れ散《サリ》なむかと思(フ)が、いとど名殘多く悲しき事となり、七條(ノ)后のかくれ給へる時、伊勢がよめる長歌に、秋の紅葉と人々は己がちり/”\わかれなばと云るは、今の歌の面影をうつせるに似たり、
 
明日香清御原宮御宇天皇代《アスカノキヨミハラノミヤニアメノシタシロシメシヽスメラミコトノミヨ》
 
此標は、既く一(ノ)卷に出づ、天武天皇の宮號なり、○天皇代の下、舊本に、天渟中原瀛(ノ)眞人(ノ)天皇とあるは、後人のしわざなること、既くいへるごとし、
 
十市皇女薨時《トホチノヒメミコノスギマセルトキ》。高市皇子尊御作歌三首《タケチノミコノミコトノヨミマセルミウタミツ》。
 
十市(ノ)皇女は、既く出づ、薨賜ふことは、天武天皇(ノ)紀に、七年夏四月丁亥朔癸巳、云々、十市(ノ)皇女|卒(514)然《ニハカニ》病發(リテ)、薨(タマフ)2於宮(ノ)中(ニ)1、庚子、葬2十市(ノ)皇女(ヲ)於赤穂(ニ)1、天皇|臨之降恩以發哀《ミソナハシテミネナキシタマフ》とあり、さて此(ノ)皇女は、大友皇子の妃なりしを、左の御歌にて見れば、後に高市(ノ)皇子の心を通はされしにや、○高市(ノ)皇子(ノ)尊は、上に出づ、此(ノ)時はいまだ太子ならねど、はじめにめぐらして、尊と書り、
 
156 三諸之《ミモロノ》。神之神須疑《カミノカムスギ》。已具耳矣《カクノミニ》。自得見監乍《アリトシミツヽ》。共不寐夜叙多《イネヌヨゾオホキ》。
 
三諸は、三輪山なり、一(ノ)卷の奠器圓隣之《ミモロノ》の歌の下に云るを合(セ)見べし、○神之神須疑《カミノカムスギ》(之(ノ)字、類聚抄にはなし、)は、神木の※[木+温の旁]を尊みて云るなり、神之神と重ね云たるは、ふかくうやまひたまへるなり、さて神須疑《カムスギ》は、皇女の薨《スギ》賜ふをよそへ賜へり、凡て物をもて、事をよそへたる例多し、此次下に、短木綿《ミジカユフ》とあるも、皇女の御壽の短き意をよそへ賜ひ、四(ノ)卷に、眞野之浦乃與騰乃繼橋情由毛《マヌノウラノヨドノツギハシコヽロユモ》、思哉妹之伊目爾之所見《オモヘヤイモガイメニシミユル》とあるも、繼橋に繼て思ふ意をよそへ、十一に千早人宇治に、千早人宇治度速瀬《チハヤヒトウヂノワタリノハヤキセニ》、不相有後我?《アハズアリトモノチモアガツマ》とあるも、速(キ)瀬に、速くの時といふ意をよそへたるなど、古歌の一(ツ)の格なり、○第三四の御句、甚意得難し、誤(リ)字など多かるべし、(まづ舊本に、イクニヲシトミケムツツトモ〔イク〜右○〕と訓るは、いふにもたらず、岡部氏が、已免乃美耳將見管本無、とありしを誤れるものぞとて、イメノミニミエツヽモトナ〔イメ〜右○〕、とよみて解たれども、さらにうけられぬ謾(リ)説なり、かくて余もいと意得がてなるを、強て甞(ミ)にいはゞ、)已は如(ノ)字、具は拾穗本に眞、また一本に目とあるも誤にて、是(ノ)字なるべし、矣は一本に笑とあるも誤にて、荷(ノ)字なるべし、自は有(ノ)字、見は之(ノ)(515)字なるべし、監は、類聚抄には覽とあり、玉篇に、監(ハ)視也とあれば、何れにも有べし、共は宿(ノ)字の誤なるべし、さらば如是耳荷有得之監乍宿不寢夜叙多にて、カクノミニアリトシミツヽイネヌヨゾオホキ〔カク〜右○〕、とよむべし、○御歌意は、皇女の薨去しは、目(ノ)前に顯に見知たる事ながら、猶戀しく思ひて慕ひつゝ、寢ぬ夜の多きことよ、かく戀しく思ふとも、今はかひなきことなるものを、とのたまへるにや、(されど第三四の御句は、たゞ甞(ミ)にいふのみなり、猶よくかへさひ考(フ)べし、
 
157 神山之《カミヤマノ》。山邊眞蘇木綿《ヤマヘマソユフ》。短木綿《ミジカユフ》。如此耳故爾《カクノミユヱニ》。 長等思伎《ナガクトオモヒキ》。
 
神山之は、カミヤマノ〔五字右○〕なり、(舊本にミワヤマノ〔五字右○〕と訓るは、いふに足ず、)三諸も神山も、神岳と三輪とにわたりて聞ゆるが中に、集中をすべ考(フ)るに、三諸といふは、三輪ときこゆるかた多し、神なびの三室、又神祭備山といへるは、飛鳥の神岳なり、然ればこゝに云るは、二(ツ)ともに三輪かと岡部氏云り、○眞蘇木綿《マソユフ》は、眞佐苧木綿《マサヲユフ》なり、(佐苧《サヲ》は蘇《ソ》と切(マ)れり、)苧《ヲ》はもと麻《アサ》木綿《ユフ》にわたりていふ名なり、○短木綿《ミジカユフ》、およそ木綿は、長きも短きも有を、短きを設(ケ)出て、皇女の御壽の短きよしをよそへ賜へり、○如此耳故爾《カクノミユヱニ》(略解に、カクノミカラニ〔七字右○〕とよめる、意は異らねど、こゝはしかよみてはわろし、)は、如此ばかりなるものを、といはむがごとし、故《ユヱ》は人妻故爾《ヒトツマユヱニ》などいふ故と同じ、○長等思伎《ナガクトオモヒキ》は、長く坐まさむものと思けり、と.嗟歎《ナゲキ》賜ふなり、○御歌の意は、皇女(516)の御壽は、かほど短くましましけるものを、長くましまさむ物と耳《ノミ》、おもひたのみけり、あはれ悔く悲きことかなとなり、五(ノ)卷に、伴之伎與之加久乃未可良爾之多比己之《ハシキヨシカクノミカラニシタヒコシ》、伊毛我己許呂乃須別毛須別那左《イモガコヽロノスベモスベナサ》、また十六に、如是耳爾有家流物乎猪名川之《カクノミニアリケルモノヲヰナガハノ》、奥乎深目而吾念有來《オキヲフカメテアガモヘリケル》ともあり、
 
158 山振之《ヤマブキノ》。立儀足《タチシゲミタル》。山清水《ヤマシミヅ》。酌爾雖行《クミニユカメド》。道之白鳴《ミチノシラナク》。
 
山振《ヤマブキ》は、品物解に云り、○立儀足は、(タチヨソヒタル〔七字右○〕とよめるは、字には叶ひたれど猶いかゞ、故(レ)案に、)もと立茂足と有けむを、例の茂を義の草書と見誤まり、さて義儀は、音も義も相通(フ)字なるから、(字書にも儀(ハ)義也とあり、威義とも威儀とも書ること、から籍にもかた/”\に見ゆ、)又儀と書寫し誤れるなるべし、さらばタチシゲミタル〔七字右○〕とよむべし、十七に、夜麻扶枳能之氣美登※[田+比]久々鶯能《ヤマブキノシゲミトビクヽウグヒスノ》云々、とよめるを考(ヘ)合(ス)べし、(本居氏は、廿(ノ)卷に、多知之奈布《タチシナフ》きみがすがたをとあるによりて、儀は※[糸+麗]などの誤にて、立(チ)シナヒ〔三字右○〕なるべしと云れど、さる目なれぬ字を、用ひたらむことも、いかゞなり、)○山清水《ヤマシミヅ》は、山にある清水を云るにて、山邊の泉なるべし、○酌爾雖行《クミニユカメド》は、汲に行むと思へども、と云むが如し、米《メ》は牟《ム》の通へるなり、○道之白鳴《ミチノシラナク》(道(ノ)字、拾穗本に宜と作るは非じ、)白鳴は(借(リ)字)無《ナク》v知《シラ》にて、知(ラ)れぬ事よと云むが如し、奈久《ナク》は奴《ヌ》の伸りたるなり、○御歌(ノ)意は、山吹の立しげみて、盛に咲たる、おもしろき山邊の清水を、汲に行むと思へど(517)も、その行べき道路のしられぬ事よ、と宣へるにて、しかのたまへるよしは、源(ノ)嚴水、こは此(ノ)皇女の、おはしましゝ宮のほとりに、山振の生をゝれる清水の有(リ)て、皇女の常に往(キ)通(ハ)しつゝ、汲せ賜ひしを、この高市(ノ)皇子(ノ)尊、其(ノ)山清水を汲賜ふに託《コトヨセ》て、常々通ひ賜ひ、皇女に逢ませし事のありしを、皇女の薨賜ひて後は、宮もあれはて、ありしにもあらぬさまなるを見て、歎き悲み賜ふより、昔(シ)を思(ヒ)出賜ひ、かの山吹の立しなひたる山清水を、今も猶汲に行て、皇女に逢むと思へども、皇女の座さぬ世となりて、逢ことも絶はてぬれば、今はかよひし道のしられずて悲きと、をさなくよみなし賜へるなり、さてかく尊き皇子等の、御親(ラ)水など汲せ給ひし事は、いかゞとおもふらめど、夫《カノ》神代紀に、火火出見(ノ)尊の海(ノ)宮に出ましゝ時、玉依姫の玉※[木+完]もて、水くみに出賜ひしなど、又藤原(ノ)御井(ノ)歌、山邊の御井(ノ)歌など、おもひ合すべしと云り、(岡部氏が、葬し山邊には、皇女の今も山吹の如く、姿とをゝに立よそひて、おはすらむと思へど、とめゆかむ道ししらねば、かひなしとなり、といへれど聞えがたし、
 
天皇崩之時《スメラミコトノカムアガリマセルトキ》。大后御作歌一首《オホキサキノヨミマセルミウタヒトツ》。
 
天皇崩は、天武天皇御在位十六年九月九日に、淨御原(ノ)宮に崩ましゝなり、委しく書紀に見えて、上に引り、○大后は、持統天皇なり、○作(ノ)字、拾穗本にはなし、
 
159 八隅知之《ヤスミシシ》。我大王之《ワガオホキミノ》。暮去者《ユフサレバ》。召賜良之《メシタマフラシ》。明來者《アケクレバ》。問賜良志《トヒタマフラシ》。神岳乃《カミヲカノ》。山之黄葉(518)乎《ヤマノモミチヲ》。今日毛鴨《ケフモカモ》。問給麻思《トヒタマハマシ》。明日毛鴨《アスモカモ》。召賜萬旨《メシタマハマシ》。其山乎《ソノヤマヲ》。振放見乍《フリサケミツヽ》。暮去者《ユフサレバ》。綾哀《アヤニカナシミ》。明來者《アケクレバ》。裏佐備晩《ウラサビクラシ》。荒妙乃《アラタヘノ》。衣之袖者《コロモノソデハ》。乾時文無《ヒルトキモナシ》
 
八隅知之《ヤスミシヽ》は、まくら詞なり、上に出つ、○暮去者《ユフサレバ》は、夕(ヘ)になればといふ御意なり、これも上に委(ク)云り、○召賜良之《メシタマフラシ》とは、召は借(リ)字にて、見賜ふなり、見は、常には美《ミ》といふを、其(ノ)美《ミ》を延れば、賣之《メシ》となれば、自(ラ)尊みたるかたにもなれり、聞を伎可之《キカシ》といふと同例なり、(岡部氏、召は、めしよせて見賜ふなり、と云るは非なり、)これも既く上に云り、良之《ラシ》の意は、次に合せとく、○問賜良志《トヒタマフラシ》(志(ノ)字、拾穗本には之と作り、)とは、問賜は、盛なりやいかにと問賜ふなり、問は、三(ノ)卷に、如是耳有家類物乎芽子花《カクノミニアリケルモノヲハギガハナ》、咲而有哉跡問之君波母《サキテアリヤトトヒシキミハモ》、とある問に同じ、さて此(ノ)二(ツ)の良志《ラシ》は、常いふとは異(ハ)れり、めし賜へりし、問賜へりし、といはむが如し、十八に、美與之努能許乃於保美夜爾《ミヨシヌノコノオホミヤニ》、安里我欲比賣之多麻布良之《アリガヨヒメシタマフラシ》、毛能乃敷能《モノヽフノ》云々、廿(ノ)卷に、於保吉美乃都藝弖賣須良之多加麻刀能《オホキミノツギテメスラシタカマトノヌヘ》、努敝美流其等爾禰能未之奈加由《ミルゴトニネノミシナカユ》、此等の良之《ラシ》、今と同じ、過去し方をいふ、一(ツ)の格の詞なり、○神岳《カミヲカ》は、飛鳥の神名火の三諸山なり、雄略天皇の御時、三諸岳を改めて、雷《イカツチノ》岳と呼せ賜ひしよし、書紀に見えたり、古(ヘ)雷《イカツチ》をカミ〔二字右○〕といひしなれば、雷(ノ)岳を、カミヲカ〔四字右○〕とも云しなるべし、○今日毛鴨《ケフモカモ》、明月毛鴨《アスモカモ》は、今日も明日もといふなり、鴨《カモ》は二(ツ)ながら、次の麻思《マシ》の下に、しばらくうつして意得べし、○問給麻思《トヒタマハマシ》、召賜萬旨《メシタマハマシ》、(給(ノ)字、拾穗本には賜と作り、)世におはしまさば、今日も明日も問(519)賜はましか、見《メシ》賜はましか、しかばかり、めでうつくしみ給はむ山なるを、今は神あがりましましぬれば、問せ給ふこともあらず、見賜ふこともあらずとの御意なり、○振放見乍《フリサケミツヽ》は、大后の、獨のみ振放見賜ひつゝなり、○綾哀《アヤニカナシミ》は、あやしきまでに、哀しがりといはむが如し、○裏佐備晩《ウラサビクラシ》は、心不樂《ウラサビシ》く日を晩しの謂なり、(佐備《サビ》は樂《タヌシ》の反にて、苦むをいふ、)○荒妙乃《アラタヘノ》は、岡部氏云、麁布は、庶人《タヾビト》の服なれば、こゝは只冠辭といふべけれど、白たへとなくて、あらたへと有を思ふに、令(ノ)集解に、大御喪には、細布を奉るよしに云り、此(ノ)細布猶大御衣としては、あらたへとのたまふべきなり、仍てこゝは、御衣とせむ、○御歌(ノ)意は、大皇の世に大座しましゝほど、あるは御覽《ミソナハ》して、御心をはるかしまし、あるは近臣にいかにと問(ハ)せ給ひて、御心をなぐさめ給ひつゝ、日々夜々にめでうつくしみ給ひし、神岳山の黄葉なるを、今はかく崩御まし/\て、問せ給ふことも、御覽し給ふこともあらずなりぬれば、唯獨のみ、其(ノ)山を振あふぎ見つゝ、明ても暮ても、有しむかしを思ひ出て、心の苦しく哀しみに堪がたさに、その涙に、衣の乾く間もなしとなり、
〔一書(ニ)曰。天皇(ノ)崩之時《カムアガリマセルトキ》。太上天皇(ノ)御製歌《ミヨミマセルオホミウタ》二首。〕
太上天皇、契冲云、此(ノ)太上天皇おぼつかなし、天武(ノ)御時太上天皇なし、もし文武の朝の人のしるしをけるに、持統天皇の、御ことを申せる歟、それに打まかせて載たるにや、天皇に對する(520)太上天皇なれば、あやまれりときこゆ、たとひ持統の御事ならば、さきのごごとく大后とこそ申べけれ、○以下三首は、一書に載たることなれば、もとより、本章にはあらざるべし、故(レ)小字とす、
 
160 〔燃火物《モユルヒモ》。取而裹而《トリテツヽミテ》、福路庭《フクロニハ》。入澄不言八《イルトイハズヤ》。面智男雲。〕
 
澄(ノ)字、類聚抄官本拾穗本等には、登と作り、○智(ノ)字、拾穗本并一本には、知と作り、○御歌(ノ)意、解得難し、(岡部氏が云るは、福路庭《フクロニハ》は、袋に者なり、澄は騰か、智は知曰(ノ)二字なるべし、男雲は借(リ)字にて無毛《ナクモ》の意なり、されば第四五(ノ)句、イルトイハズヤモシルトイハナクモ〔イル〜右○〕と訓べし、後(ノ)世も、火をくひ、火を蹈わざを爲といへば、其(ノ)御時在し、役(ノ)小角がともがらの、火を袋に包みなどする、恠き術する事有けむ、さてさるあやしきわざをだにすめるに、崩(リ)ませし君に、逢奉らむ術を知といはぬがかひなしと、御なげさの餘(リ)に、のたまへるなりと云り、いかゞあらむ、契冲がいへりしは、智は知の字なるべし、イルトイハズヤオモシルナクモ〔イル〜右○〕と訓むか、おもしるは、常にあひみる顔をいふことなり、第十二に、おもしる君がみえぬ此(ノ)ごろとも、おもしるこらが見えぬ比かもともよめり、もゆる火だにも、方便をよくしつれば、ふくろに取いれてかくすを、寶壽かぎりまし/\て、とゞめ奉るべきよしなくて、見なれたてまつり給へる、御おもわの見えたまはぬを、こひ奉りたまへるなりと云り、これもいかゞなり、猶考(フ)べし、
 
(521)161 〔向南山《キタヤマニ》。陣雲之《タナビククモノ》。青雲之星離去《アヲクモノホシサカリユキ》。月毛離而《ツキモサカリテ》〕
 
向南山《キタヤマ》は、北山《キタヤマ》なり、意を得て書る字なり、西渡《カタブク》丸雪《アラレ》青頭鷄《カモ》など書る類なり、○陣雲之《タナビククモノ》は、青雲をいはむためなり、さて青雲は、た ゞ天《ソラ》のことにて、たなびくとはいふまじけれど、雲といへるちなみに、たなびく雲の云々、といひつらね給へるなり、○青雲之《アヲクモノ》云々、本居氏云、青雲之星は、青天にある星なり、雲と星とはなるゝにはあらず、二(ツ)の離は、さかりと訓て、月も星もうつり行をいふ、ほどふれば、星月も次弟にうつりゆくを見賜ひて、崩給ふ月日のほど遠く成行を、悲み給ふなりと云り、(岡部氏が、后をも臣をもおきて、神あがりませるを、月星にはなれて、よそに成行雲に譬賜へり、と云るはいかゞ、)○月毛離而《ツキモサカリテ》(毛(ノ)字、舊本には牟と作り、今は類聚抄に從つ、但し五(ノ)卷に、多布刀伎呂可※[人偏+舞]《タフトキロカモ》、貞觀儀式宣制に、在牟可止奈无《アラムカトナモ》、新撰萬葉に、郁子牟鳴濫《ウベモナクラム》、また老牟不死手《オイモシナズテ》、また音丹佐牟幡似重※[金+施の旁]《コヱニサモハタニタルカナ》、また風牟間南《カゼモトハナム》、また松葉牟曾譽丹吹風者《マツハモソヨニフクカゼハ》、延喜六年書紀竟宴(ノ)歌に、無止女佐理世波《モトメサリセバ》、また爾己禮留多見无《ニゴレルタミモ》などあれば、※[人偏+舞]無无牟を、毛に通用ることもありしなるべし、古代の平假名に、かならず毛なるべき所を、んとかける事多し、んは无のなだらかになれるにて、これも无を、毛に通(ハシ)用ひし、一(ツ)の例なり、)は、月も遠ざかりてなり、月とは、月次の月をいふ、○御歌意は、崩御《カムアガリ》ましゝは、きのふ今日のことゝ思ふに、いつしか星うつり、月日も遠ざかりて、次第《ツギ/\》に久しく成行めれど、なほ哀悲の心は、うすらぐよしもなくて、(522)いとゞ堪がたく思はるゝ、とのたまふにや、此(ノ)兩首、岡部氏もいへりし如く、口風いかさまにも、こち/\しく聞えたり、持統天皇の御製のふりにあらず、
〔天皇(ノ)崩之《カムアガリマシヽ》後。八年九月九日|奉2爲《ツカヘマツレル》御齊會《ヲガミ》1之|夜《ヨ》。夢裏習賜御歌一首《イメニヨミタマヘルミウタヒトツ》。〕
此(ノ)條も、即右の一書の中なり、○八年は、朱鳥八年なるべし、此次に、藤原(ノ)宮(ニ)御宇(シ)天皇代と標して、朱鳥元年十一月の歌を載、其(ノ)次に、同三年の歌あれば、こゝに同八年の歌、載べきにあらざれども、此は右の一書に連ね載たるを、やがて其まゝ、此間《コヽ》にあげたるなり、○御齊會(齊は、齋と通(ハシ)用ひたり、)は、持統天皇(ノ)紀に、朱鳥三年二月乙巳、詔曰、自v今以後、毎(ニ)v取《アタル》2國忌(ノ)日(ニ)1、要《カナラス》須(シ)v齋《ヲガミス》也と見ゆ、その行事は、大極殿にて、金光明經を讀誦《ヨマ》しめらるゝことゝ見えたり、金光明經は、即(チ)最勝王經なり、天武天皇(ノ)紀に、九年五月乙亥、勅云々、始(テ)設2金光明經(ヲ)于宮中(ニ)1と見えたる、是この會の起《ハジマリ》なり、又持統天皇(ノ)紀に、九年五月癸巳、以2金光明經一百部(ヲ)1、送2置諸国(ニ)1、必(ス)取(テ)2毎年正月上玄(ヲ)1讀之、其布施、以2當國(ノ)官物(ヲ)1宛之、とも見えたり、○習(ノ)字は、唱か誦かの誤か、又は唱の義にて古(ヘ)用ひし字にや、十六に、夢裡(ニ)作(ル)歌、荒城田乃《アラキダノ》云々、右(ノ)歌一首、忌部(ノ)首黒麻呂、夢(ノ)裡(ニ)作2此(ノ)戀歌(ヲ)1贈v友(ニ)覺(テ)而令2誦習1如v前(ノ)、と見えたればなり、○御歌とあるも、持統天皇のとせる、一書の説なるべし、○古寫本に、古歌集中に出とあり、
162 〔明日香能《アスカノ》。清御原乃宮爾《キヨミハラノミヤニ》。天下《アメノシタ》。所知食之《シロシメシシ》。八隅知之《ヤスミシシ》。吾大王《ワガオホキミ》。高照日之皇子《タカヒカルヒノミコ》。何方爾《イカサマニ》。所念食可《オモホシメセカ》。神風(523)乃《カムカゼノ》。伊勢能國者《イセノクニハ》。奧津藻毛《オキツモヽ》。靡足波爾《ナビカフナミニ》。鹽氣能味《シホケノミ》。香乎禮流國爾《カヲレルクニニ》。味凝《ウマコリ》。文爾乏寸《アヤニトモシキ》。高照日之御子《タカヒカルヒノミコ》。〕
奧津藻毛、とあるは疑はし、毛はもしは、之の誤などにはあらざるか、○靡足波爾は、足は合(ノ)字の誤なるべし、合の草書足と混易し、さらばナビカフナミニ〔七字右○〕と訓べし、ナビカフ〔四字右○〕は、ナビク〔三字右○〕の伸りたる言なり、下に、玉藻成彼依此依靡相之《タマモナスカヨリカクヨリナビカヒシ》、とあるに同じ、(ナビカヒ〔四字右○〕は、ナビキ〔三字右○〕の伸りたるなり、岡部氏が、ナミタル〔四字右○〕とよめるはわろし、又略解に、舊點にナビキシ〔四字右○〕とあるからは、足をシ〔右○〕の假字に用ひしか、又は之の誤かと云れど、こゝはナビキシ〔四字右○〕、といふべき所にあらざるをや、)○鹽氣能味《シホケノミ》(味(ノ)字拾穗本には美と作り、)は、九(ノ)卷に鹽氣立荒磯丹者雖在《シホケタツアリソニハアレド》、ともよめり、○香乎禮流《カヲレル》は、神代紀に、伊弉諾(ノ)尊曰、我(カ)所生之國《ウメリシクニ》、唯有朝霧而薫滿之哉《アサギリノミカヲリミテルカモ》、神樂歌弓立に、いせしまやあまのとねらがたくほのけをけ/\(本)たくほのけいそらがさきにかをりあふをけ/\(末、)十六に、香塗流《コリヌレル》云々、(皇極天皇(ノ)紀に、燒v香《コリヲ》、延喜式忌詞に、堂(ヲ)稱2香焼《コリタキト》1、)香をコリ〔二字右○〕とよめるも、カヲリ〔三字右○〕の切りたる言なり、○味凝《ウマコリ》は、まくら辭なり、六(ノ)卷にも、味凍綾丹乏敷《ウマコリアヤニトモシキ》と有(リ)、味凝味凍など書るは、皆借(リ)字にて、美織《ウマキオリ》の綾てふ語なり、と冠辭考に云るは、さることなり、宇麻《ウマ》とは、味飯《ウマイヒ》味酒《ウマサケ》など云る味なり、抑々|宇麻志《ウマシ》といふ言、後(ノ)世は、食(フ)物の味にのみかぎりて、いふ如なれゝど、古(ヘ)はしからず、耳にも目にも心にも、すべてよしと思ふものには宇麻志《ウマシ》とは云るなり、故(レ)美織物《ヨキオリモノ》の謂《ヨシ》にて、宇麻許里《ウマコリ》とは云なりけり、(宇麻許里《ウマコリ》は、宇麻伎於里《ウマキオリ》の約なり、伎於《キオノ》切|許《コ》、)○文爾乏寸《アヤニトモシキ》は、あ(524)やしきまでに、おむかしくめでたき謂なり、六(ノ)卷に、味凍《ウマコリ》云々、(上に引、)また芳野河之河瀬乃清乎見者《ヨシヌノカハノカハノセノキヨキヲミレバ》云々|毎見文丹乏《ミルゴトニアヤニトモシミ》、八(ノ)卷に、誰聞都從此間鳴渡鴈鳴乃《タレキヽツコヨナキワタルカリガネノ》、嬬呼音乃乏知左寸《ツマヨブコヱノトモシキマデニ》、九(ノ)卷に、妹當茂苅音夕霧《イモガアタリコロモカリガネユフギリニ》、來鳴而過去及乏《キナキテスギヌトモシキマデニ》、また、欲見來之久毛知久吉野川《ミマクホリコシクモシルクヨシヌガハ》、音清左見二友敷《オトノサヤケサミルニトモシキ》、十三に、五十串立神酒座奉神主部之《イクシタテミワスヱマツルカムヌシノ》、雲聚山蔭見者乏文《ウズノヤマカゲミレバトモシモ》、十七に伊美豆河泊美奈刀能須登利《イミヅカハミナトノストリ》云々|等母之伎爾美都追須疑由伎《トモシキニミツヽスギユキ》、また曾己乎之毛安夜爾登母志美之怒比都追安蘇夫佐香理乎《ソコヲシモアヤニトモシミシヌビツヽアソブサカリヲ》、廿(ノ)卷に、夜麻美禮婆見能等母之久《ヤマミレバミノトモシク》、可波美禮波見乃佐夜氣久《カハミレバミノサヤケク》などある、これら皆おむかしく、めでたく思ふを、等母志《トモシ》といへり、此外|乏《トモシ》と云言、集中に甚多し、その中に、或は羨き意、或は少き意などにも云り、本居氏云、乏(ノ)字を書は、不足《アカズ》思ふより轉れる、一(ツ)の意にして、登母志《トモシ》てふ言の、本義《モトノコヽロ》には非ず、此(ノ)字に勿《ナ》泥《ナヅ》みそ、○御歌(ノ)意|了解《サトリ》がたし、さきに天武天皇、吉野より伊勢(ノ)國に幸して、桑名におはしましゝことを、かたじけなみして宣へるか、未(タ)詳ならず、本居氏云、こは御夢に見賜へる御歌なれば、もとより通《キコ》えぬことなるべし、されど語のつゞきなどは、うるはしき故、そのまゝにて載つらむ、
 
藤原宮御宇天皇代《フヂハラノミヤニアメノシタシロシメシヽスメラミコトノミヨ》。
 
此(ノ)標、既く一卷に出づ、○天皇代の下、舊本等に、高天(ノ)原廣野姫(ノ)天皇とあるは、後人のしわざなり、こは持統天皇文武天皇兩朝の標なるを、一御代のみの標と意得たる僻ことなり、
 
(525)大津皇子薨之後《オホツノミコノスギマシシノチ》。大來皇女《オホクノヒメミコノ》。從《ヨリ》2伊勢齊宮《イセノイツキノミヤ》1上京之時《ノボリタマヘルトキ》。御作歌二首《ヨミマセルミウタフタツ》。
 
大津(ノ)皇子(ノ)薨は、朱鳥元年十月二日に、皇子御謀叛のこと覺《アラ》はれて、同三日に、譯語田舍にして、御年二十四にて賜死《ウシナハレ》まし/\しよし、書紀に見えて上に引り、○大來(ノ)皇女は、大津(ノ)皇子の御姉なり、この皇女の上京《ノボラ》せ給ふ事も、同じ元年十一月丁酉朔壬子、伊勢(ノ)神社に奉《ツカヘマツリ》しが、京師に還至しめ給ふよし、書紀を引て上に委(ク)云り、大來《オホク》、上には大伯《オホク》と作り、書紀にも二(タ)様に書たり、○伊勢(ノ)齊宮は、大御神につかへまつり給ふ皇女たちの、御身をさやめて、齋こもり給ふ宮をいふ、和名抄に、職員令(ニ)云、齋宮寮(ハ)、以豆岐乃美夜乃豆加佐《イツキノミヤノツカサ》とあり、下の歌に見えたる、齋宮《イハヒノミヤ》とは異なり、混ふべからず、猶委しくは、下にいふべし、
 
163 神風之《カムカゼノ》。伊勢能國爾母《イセノクニニモ》。有益乎《アラマシヲ》。奈何可来計武《ナニシカキケム》。君毛不在爾《キミモマサナクニ》。
 
之(ノ)字、類聚抄には乃と作り、○母(ノ)字、拾穗本には毛と作り、○有益乎《アラマシヲ》は、京師に還らずして、さてあらまし物をとなり、○君毛不在爾《キミモマサナクニ》(在(ノ)字、舊本には有と作り、今は拾穗本に從つ、)は、君もおはしまさぬことなるに、といふなり、君は大津(ノ)皇子をさし賜へり、○御歌(ノ)意かくれたるところなし、皇子のなほおはしますごとおもひていそぎ上り來しを、はや薨給ひぬるよ、とおどろきかなしみ給へるよしなり、
 
164 欲見《ミマクホリ》。吾爲君毛《アガスルキミモ》。不在爾《マサナクニ》。奈何可來計武《ナニシカキケム》。馬疲爾《ウマツカルヽニ》。
 
(526)不在爾《マサナクニ》(在(ノ)字、舊本には有と作り、今は拾穗本に從つ、)は、おはしまさぬことなるに、といふなり、○馬疲爾(疲(ノ)字、古寫本に痩と作るはわろし、)は、ウマツカルニ〔七字右○〕と訓べし、○御歌(ノ)意、これもかくれたる所なし、相見まく欲する皇子も、はや薨給ひて、おはしまさぬことなるに、何の故に、馬の苦み疲るゝをもいとはで、いそぎ上り來つらむとなり、右と同じ様の歌に、少し換てよみ賜へり、さる例古(ヘ)は多し、打連て誦ふるに、ことにあはれなるものなり、
 
移2葬《ウツシハフリマツレル》大津皇子屍《オホツノミコノミカバネヲ》。於葛城二上山《カヅラキノフタカミヤマニ》1之時《トキ》。大來皇女哀傷御作歌二首《オホクノヒメミコノカナシミテヨミマセルミウタフタツ》。
 
移葬は、初何處に葬りしといふこと、書紀に見えざれども、此によれば、初葬ける地より、二上山に移し葬られしと見ゆ、二上山は、大和志に、在2葛下(ノ)郡當麻村(ノ)西北(ニ)1、半跨2河州(ニ)1、兩峯對、一(ヲ)曰2男(ノ)嶽(ト)1、一(ヲ)曰2女(ノ)嶽(ト)1、北(ニ)有2小峯1、呼2銀(ノ)峯(ト)1、南(ニ)有2瀑布1、高丈餘、有2古歌1と見えたり、七(ノ)卷に、木道爾社妹山有云櫛上《キヂニコソイモヤマアリトイヘミクシゲノ》、二上山母妹許曾有來《フタガミヤマモイモコソアリケレ》、十(ノ)卷に、大坂乎吾越來者二上爾《オホサカヲアガコエクレバフタガミニ》、黄葉流志具禮零乍《モミチバナガルシグレフリツヽ》、十一に、二上爾隱經月之雖惜《フタガミニカクラフツキノヲシケドモ》云々などもあり、神名帳に、大和(ノ)國葛下(ノ)郡、葛木(ノ)二上(ノ)神社とあり、越中(ノ)國にも二上山ありて、集中に多くよめり、同名別地なり、
 
165 字都曾見乃《ウツソミノ》。人爾有吾哉《ヒトナルアレヤ》。從明日者《アスヨリハ》。二上山乎《フタガミヤマヲ》。弟世登吾將見《ワガセトアガミム》。
 
人爾有吾哉《ヒトナルアレヤ》は、人にてある吾哉よいふなり、哉《ヤ》は、將見《ミム》の下にうつして意得べし、○弟世は、吾世とありしを、寫し誤れるにや、(大津(ノ)皇子は、大來(ノ)皇女の御弟なれば、弟とあるべしとおもひ(527)て、後人の改めたるものか、)さらばワガセ〔三字右○〕と訓べし、(もとのまゝにて、イモセ〔三字右○〕と訓たれども理なし、)仁賢天皇(ノ)紀に、古者不v言2兄弟長幼1、女(ハ)以v男(ヲ)稱v兄(ト)、男(ハ)以v女(ヲ)稱v妹(ト)と云る如く、姉より弟をさして、兄《セ》と云ることも、古は常多かり○御歌(ノ)意は、現にて在吾(カ)身にして、明日より後は、言も通はぬ二上山を、吾(カ)兄と見つゝあらむ歟、と歎き賜ふなり、三(ノ)卷(高橋(ノ)朝臣の、死妻を悲傷る歌)に、打背見乃世之事爾在者外爾見之《ウツセミノヨノコトナレバヨソニミシ》、山矣耶今者因香跡思波牟《ヤマヲヤイマハヨスカトオモハム》、
 
166 磯之於爾《イソノウヘニ》。生流馬醉木乎《オフルアシビヲ》。手折目杼《タヲラメド》。令視倍吉君之《ミスベキキミガ》。在常不言爾《マストイハナクニ》。
 
磯之於爾《イソノウヘニ》は磯のあたりに、といふほどの意なり、於はウヘ〔二字右○〕なり、集中にも木末之於《コヌレガウヘ》など見え、續紀にも憶良が氏を、山|於《ノウヘ》と書り、○馬醉木《アシビ》は、今(ノ)世にあせぼといふ木なり、土左(ノ)國にては、今もあせびと云り、(岡部氏が、木瓜の事とせるは、いみじきしひほとなてり、)猶品物解に委しくいふ、○在常不言爾《マストイハナクニ》は、おはしまさぬことなるに、といふ意なり、言《イフ》の言は輕く見べし、○御歌(ノ)意は、磯のあたりに咲たる、馬醉木(ノ)花を、手折つべく思へども、今は見すべき君が、おはしまさぬことなるにとなり、移葬の日に、この皇女も、したひ行賜ふ道の川邊の磯などに、馬醉木の咲たるを見て、よみ給へるなり、
○舊本こゝに、右一首、今案(ニ)、不v似2移葬時之歌1、(時(ノ)字、舊本にはなし、官本にはあり、)蓋疑、從2伊勢神宮1還v京(ニ)之時、路上見2花盛1、傷哀咽作2此歌1乎、と註せるは、後(ノ)世のをこ人の書入(レ)なり、いかにとな(528)れば、かの皇女は、十一月京に還り給へれば、いかでか、馬醉木(ノ)花の、盛なるよしあらむやは、故(レ)削去《ステ》つ、
 
日並皇子尊殯宮之時《ヒナミノミコノミコトノアラキノミヤノトキ》。柿本朝臣人麿作歌一首并短歌《カキノモトノアソミヒトマロガヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
日並皇子(ノ)尊(ノ)殯宮云々は、持統天皇(ノ)紀に、三年夏四月癸未朔乙未、皇太子草壁(ノ)皇子(ノ)尊薨、とある時のことなり、此(ノ)皇子(ハ)、天智天皇元年に生(レ)賜ひて、薨(キ)賜へる時は、二十八歳なり、日並(ノ)皇子は、草壁(ノ)皇子の更名《マタノミナ》、日並所知《ヒナミシラスノ》皇子と申しゝを、略(キ)申せるなり、既く委(ク)註り、さて本居氏、師の考には、天皇の餘は、別に殯(ノ)宮は立られず、これらは一周まで、御墓づかへする間を、凡て殯と云しなり、とあり、今按(フ)に、天皇のほかは、殯(ノ)宮無き證も見えず、又|正《マサ》しく、殯(ノ)宮ありし證も見えねども、既に殯(ノ)宮之時とあるうへは、たとひ其(ノ)宮は立られずとも、殯(ノ)宮と云しことは、明らけし、孝徳天皇(ノ)紀の制に、凡王以下、及至2庶人(ニ)1、不v得v營v殯(ヲ)、とあるに依らば、皇子は殯せしなり、又此(ノ)制より前には、王以下も殯せしなるべし、さて右の如く、殯宮之時と云るは、御喪之時と云義にて、必(ス)しも、殯宮に坐ほどのみを云に非ず、故(レ)端に、右の如く標《アゲ》たる歌、いづれも、既に葬(リ)奉れる、後の事までをよめり、されば、師の一周までの間を云、といはれたるは、當れりと云り、皇子に殯(ノ)宮と云るは、此(ノ)下、高市(ノ)皇子(ノ)尊、城上(ノ)殯宮之時云々、明日香(ノ)皇女、木※[瓦+缶](ノ)殯宮之時、云々などもあり、○朝臣の二字、舊本に脱たり、目録并類聚抄官本古寫本拾穗本人麻呂勘文等に依つ、○短歌の(529)下、類聚抄に二首とあり
 
167 天地之《アメツチノ》。初時之《ハジメノトキシ》。久堅之《ヒサカタノ》。天河原爾《アマノガハラニ》。八百萬《ヤホヨロヅ》。千萬神之《チヨロヅカミノ》。神集《カムツドヒ》。集座而《ツドヒイマシテ》。神分《カムアガチ》。分之時爾《アガチシトキニ》。天照《アマテラス》。日女之命《ヒルメノミコト》。天乎波《アメヲバ》。所知食登《シロシメスト》。葦原乃《アシハラノ》。水穗之國乎《ミヅホノクニヲ》。天地之《アメツチノ》。依相之極《ヨリアヒノキハミ》。所知行《シロシメス》。神之命等《カミノミコトト》。天雲之《アマクモノ》。八重掻別而《ヤヘカキワケテ》。神下《カムクダリ》。座奉之《イマセマツリシ》。高照《タカヒカル》。日之皇子波《ヒノミコハ》。飛鳥之《アスカノ》。淨之宮爾《キヨミノミヤニ》。神髄《カムナガラ》。太布座而《フトシキマシテ》。天皇之《スメロギノ》。敷座國等《シキマスクニト》。天原《アマノハラ》。石門乎開《イハトヲヒラキ》。神上《カムノボリ》。上座奴《ノボリイマシヌ》。吾王《ワガオホキミ》。皇子之命乃《ミコノミコトノ》。天下《アメノシタ》。所知食世者《シロシメシセバ》。春花之《ハルハナノ》。貴在等《タフトカラムト》。望月乃《モチヅキノ》。滿波之計武跡《タヽハシケムト》。天下《アメノシタ》。四方之人乃《ヨモノヒトノ》。大船之《オホブネノ》。思憑而《オモヒタノミテ》。天水《アマツミヅ》。仰而待爾《アフギテマツニ》。何方爾《イカサマニ》。御念食可《オモホシメセカ》。由縁母無《ツレモナキ》。眞弓乃崗爾《マユミノヲカニ》。宮柱《ミヤバシラ》。太布座《フトシキイマシ》。御在香乎《ミアラカヲ》。高知座而《タカシリマシテ》。明言爾《アサゴトニ》。御言不御問《ミコトトハサズ》。日月之《ツキヒノ》。數多成塗《マネクナリヌレ》。其故《ソコユヱニ》。皇子之宮人《ミコノミヤヒト》。行方不知毛《ユクヘシラズモ》。
 
天地之初時之《アメツチノハジメノトキシ》は、古事記に、天地初發之時《アメツチノハジメノトキ》とあるは、實に天地初發の事を、いふことなるに、集中に、天地之初時《アメツチノハジメノトキ》とあるは、天地初發よりは、遙に後の事なれども、神代の上(ツ)世をば、大かたに天地之初、といへるなり、時之《トキシ》の之《シ》は、助辭なり、○久堅之《ヒサカタノ》は、枕詞なり、既く出づ、○天河原爾《アマノガハラニ》云云、古事記天降(ノ)條に、爾《コヽニ》高御座巣日(ノ)神、天照大御神之命以、於2天(ノ)安河之河原1、神2集(ヘ)八百萬神(ヲ)1集而、
 
思金神、令v思而詔(ク)、云々、大祓(ノ)詞に、高天原爾神留坐《タカマノハラニカムニツマリマス》、皇親神漏岐神漏美之命以?《スメラガムツカムロギカムロミノミコトモチテ》、八百萬神等乎《ヤホヨロヅノカムタチヲ》、神集集賜神講議賜?《カムツドヘツドヘタマヒカムハカリハカリタマヒテ》、我皇孫之命波《ワガスメミマノミコトハ》、豊葦原乃水穂之國乎《トヨアシハラノミヅホノクニヲ》、安國止平久知所食止《ヤスクニトタヒラケクシロシメセト》、事(530)依奉岐《コトヨザシマツリキ》などあり、○千萬神之《チヨロヅカミノ》、六(ノ)卷に、千萬乃軍《チヨロヅノイクサ》ともあり、○神集は、カムツドヒ〔五字右○〕と訓べし、古事記、及大祓(ノ)詞なるは、ツドヘ〔三字右○〕なり、其は大命以令v集給ふよしなればなり(ツドヘ〔三字右○〕は、ツドハセ〔四字右○〕のハセ〔二字右○〕を切(メ)て、ヘ〔右○〕と云るなり、)此は神等の、自(ラ)集ひ給ふよしなれば、ツドヘ〔三字右○〕とは訓べからず、○神分は、大祓(ノ)詞に、神議《カムハカリ》とあるによりて、むかしより、カムハカリ〔五字右○〕と訓來れども、分(ノ)字に、議と通ふ義あることを未(タ)見ず、字書にも、分(ハ)別(ツ)也判(ツ)也賦(ル)也、など註して、賦は、班賦ともつらね云字なり、故(レ)案(フ)に、神分、云々は、カムアガチアガチシトキニ〔カム〜右○〕、と訓べきか、某々の神は、某々の地を所知《シロシ》めせ、と差班《サシアガ》ち配《クマ》り賜へるこゝろなり、六(ノ)卷藤原(ノ)宇合卿(ヲ)、遣2西海道(ノ)節度使1之時の歌に、山乃曾伎野之衣寸見世常件部乎班遣之《ヤマノソキヌノソキミヨトトモノベヲアガチツカハシ》云々、とある班に同じ、繼體天皇紀に、散2置《アガチオク》諸縣(ニ)1、續紀廿五詔に、天(ノ)下乃|諸國仁《クニ/\ニ》、書乎散天《フミヲアガチテ》、告知之米《ツゲシラシメ》、なほアガツ〔三字右○〕の言は、神代紀に、廢渠槽、此云2秘波鵝都《ヒアガツト》1と見えたり、波は、阿(ノ)字の誤なり、(源氏物語澪標に、いとゞさびしく、こゝろぼそきことのみまさるに、さぶらふ人々も、やう/\あがれ行などして、とあるも、アガツ〔三字右○〕といふと、アガルといふと、自他の差別あるのみにて、全(ラ)同言なり、)○分之時爾《アガチシトキニ》、といふより、次の四句をおきて、葦原乃《アシハラノ》云云へかゝれり、そのゆゑは、これまでは、皇孫(ノ)命を、水穂(ノ)國に天降しまゐらせむとての、神議なればなり、○天照日女之命《アマテラスヒルメノミコト》云々、舊本に、一(ニ)云、指上日女之命《サシノボルヒルメノミコト》とあり、天照は、日といはむとての、枕詞におけるなるべし、指上とあるも、同じこゝろばえなり、神(ノ)等に枕詞をおくは、薦枕《コモマクラ》高御(531)産栖日《タカミムスビノ》神、など云るこれなり、日女は、神代紀に、於是共生2日(ノ)神(ヲ)1、號2大日〓《オホヒルメノムヂト》1、一書(ニ)云(ク)、天照(ス)大日〓《オホヒルメノ》尊、此(ノ)子|光華明彩《ヒカリウルハシクマシテ》、照2徹《テリワタラセリ》於六合之内《アメツチニ》1、故(レ)二(ノ)神喜(ヒ)曰《タマハク》、吾思|雖《ドモ》v多《サハナレ》、未2有《マサズ》若此靈異之兒《カクバカリクシビナルミコハ》1、不v宜v久(ク)2留(メマツル)此(ノ)國(ニ)1、自當(トノリタマヒテ)3早送(リマヲス)2于天(ニ)1、而|授3以《ヨサシマツリキ》天上之事《アメノコトヲ》1、故(レ)以2天(ノ)柱1擧(マツリキ)於天上《アメニ》1、古事記に、此(ノ)時伊邪那岐(ノ)命、大歡喜詔《イタクヨロコバシテノリタマハク》、云々、賜(ヒテ)2天照大御神(ニ)1而|詔云《ノリタマハク》、汝命者《ナガミコトハ》、知2所《シラセト》高天(ノ)原(ヲ)1矣、事依而賜《コトヨザシテタマヒキ》也などあり天乎婆《アメヲバ》、(婆(ノ)字、舊本に波と作るはわろし、今は拾穗本に依つ、)乎婆《ヲバ》の辭、妙《ヨク》もいはれたるかな、○所知食登《シロシメスト》は、知しめすとての意なり、これまで四句の意は、天をば、日女(ノ)命の知しめすとて、それゆゑにといふほどの意なり、登《ト》はとての意なり、○葦原乃水穗之國乎《アシハラノミヅホノクニヲ》、名(ノ)義は、本居氏(ノ)國號考に委し、こゝは天(ノ)下をといふ意なり、○天地之依相之極《アメツチノヨリアヒノキハミ》は、天地の初て判《ワカレ》しといふに、對《ムカ》へたることにて、又寄(リ)合む限までと云(ヒ)て、久しき間のためしとせり、天地のあらむかぎり、と云意なり、天地の依(リ)相と云理は、さらになきことなれども、假に儲て、かくいへるが、おもしろき事なり、(契冲が天地の依相之極は、極めはてなり、地のはては、天とひとつによりあふ心なり、と云るはたがへり、)六(ノ)卷に、天地乃依會限萬世丹榮將往迹思煎石大宮尚矣《アメツチノヨリアヒノカギリヨロヅヨニサカヱユカムトオモヒニシオホミヤスラヲ》十一に、天地之依相極玉緒之《アメツチノヨリアヒノキハミタマノヲノ》、不絶常念妹之當見津《タエジトオモフイモガアタリミツ》、また天雲依相遠不相異手枕吾轉哉《アマクモノヨリアヒトホミアハズトモアタシタマクラアレマカメヤモ》ともあり、(天雲と云るは、少しいかゞなり、猶彼處にいふべし、)○神之命等《カミノミコトヽ》は、即(チ)番能邇邇藝《ホノニヽギノ》命を指て申せるなり、等《ト》は、としての意なり、○天雲之八重掻別而《アマクモノヤヘカキワケテ》、舊本に、一(ニ)云、天雲之八重雲別而、と註《シル》せり、古事記に、故(レ)爾(ニ)(532)詔2天津日子番能邇邇藝《アマツヒコホノニヽギノ》命(ニ)1而、離(レ)2天(ノ)之石位《イハクラヲ》1、押2分天(ノ)之|八重多那《ヤヘタナ》雲(ヲ)1而、伊都能知和岐知和岐弖《イツノチワキチワキテ》、於2天(ノ)浮橋1、宇岐士摩理蘇理多々斯弖《ウキシマリソリタヽシテ》、天2降坐《アモリマシキ》、于筑紫(ノ)日向(ノ)之高千穗(ノ)之、久士布流多氣《クシフルタケニ》1、書紀に、皇孫《スメミマ》乃離(リ)2天(ノ)磐座1、且つ排2分(ケ)天(ノ)八重雲(ヲ)1、稜威之道別道別而《イツノチワキチワキテ》、天2降《アモリマシキ》於日向(ノ)襲之高千穗(ノ)峯(ニ)1矣などあり、○神下《カムクダリ》は降臨《アマクダリ》賜ふことなり、○座奉之は、イマセマツリシ〔七字右○〕と訓べし、奉v令v座しなり、(之《シ》は過去し方にいふ辭なり、)座《イマセ》は、五(ノ)卷に都加播佐禮麻加利伊麻勢《ツカハサレマカリイマセ》、十五に、比等久爾爾伎美乎伊麻勢弖《ヒトクニニキミヲイマセテ》、などある皆同し、さて發句より、此までの意を、つらねていはゞ天地の初發の時に天の河原に八百萬神等の集ひいまして神議し給ひし時に、既く天上をば、天照(ス)日女(ノ)命のしろしめす國ぞ、此(ノ)水穗(ノ)國を、皇孫(ノ)命の、天地と長(ク)久しく、しろしめすべき國ぞ、と定め賜ひて、天の八重雲を掻別て、天降し奉v令v座しなりと、まづ昔物語のごといひ置なり、かくて上に曾乃也何《ソノヤナニ》等の言無ければ、奉伎《マツリキ》といふこと、辭《テニヲハ》のとゝのひの正格《サダマリ》なれど、こゝは然《サ》云ては、宜しからざる所以《ユヱ》にわざと偏格《コトサマ》に、奉之《マツリシ》と云るなるべし、此(ノ)例、三(ノ)卷に、春霞春日里之殖子水葱《ハルカスミカスガノサトノウヱコナギ》、苗有跡云師柄者指爾家牟《ナヘナリトイヒシエハサシニケム》、(これも上に、曾乃也何《ソノヤナニ》等の言なければ、云伎《イヒキ》といふ、辭《テニヲハ》のとゝのひのさだまりなれど、さいひては宜しからぬゆゑに、云師《イヒシ》といへるならむ、)七(ノ)卷に、世間者信二代者不往有之《ヨノナカハマコトフタヨハユカザリシ》、過妹爾不相念者《スギニシイモニアハナクモヘバ》、〈これも上に、曾之也何《ソノヤナニ》等の言なければ、不有伎《ザリキ》といふ、辭のとゝのひのさだまりなれど、さいひては、宜しからぬゆゑに、不有之《ザリシ》といへるならむ、)十六に、家爾有之櫃爾※[金+巣]刺(533)藏師戀乃奴之束見懸而《イヘニアリシヒツニクギサシヲサメテシコヒノヤツコノツカミカヽリテ》、(これも上に、曾乃也何《ソノヤナニ》等の言なければ、而伎《テキ》といふこと、辭のとゝのひのさだまりなれど、さいひては宜しからぬゆゑに、而師《テシ》と云るならむ、)又八(ノ)卷に、去年之春相有之君爾戀爾手師《コゾノハルアヘリシキミニコヒニテシ》、櫻花者迎來良之母《サクラバナハムカヘケラシモ》、(これも上に、さるべき言なければ、手伎《テキ》といふべきを、手師《テシ》とかへていへるか、但しこれは手伎《テキ》とありしを、寫し誤りたるにもあらむ、)又|古郷之奈良思之岳能霍公鳥《フルサトノナラシノヲカノホトヽギス》、言告遣之何如告寸八《コトヅケヤリシイカニツゲキヤ》、(これも上に、さるべき言なければ、遣伎《ヤリキ》といふべきを、遣之《ヤリシ》とかへていへるか、但し此(ノ)歌を、拾遺集に載たるには、言つげやりき、とあるを思へば、もとは、寸《キ》などの字なりしを、之《シ》に寫し誤りたるにもあらむ、)なほ余が、鍼嚢歌詞偏格(ノ)條に、委(ク)云るを披き考(ヘ)合(ス)べし、○高照日之皇子波《タカヒカルヒノミコハ》、こは天武天皇を指(シ)奉れるなり、(略解に、日之皇子は、日並知(ノ)皇子(ノ)尊を申すなり、此(ノ)句にて暫(ク)絶て、天原云々と云へかゝる、此(ノ)國土は、天皇の敷座國ぞとして、日並(ノ)皇子(ノ)尊は、天へのぼり賜ふ、と云なしたり、と云るは、いみじきひがことなり、さては下に、眞弓の崗爾宮柱太布座云々と云るにたちまちかけ合ざるは、いかにぞや、)○淨之宮《キヨミノミヤ》は、明日香(ノ)清御原(ノ)宮なり、伎與美《キヨミ》とのみ云るは、三(ノ)卷に、妹毛吾毛清之河乃《イモヽアレモキヨミノカハノ》云々ともあり、○神隨《カムナガラ》は、神とましますが隨《マヽ》に、といふなり、既く出づ、○太布座而《フトシキマシテ》、これまで四句は、天武天皇の、御宇《アメノシタシロシメシ》し間を申せり、御徳澤《ミウツクシミ》の、またなく太く尊くまし/\て、天(ノ)下にしきほどこし給ふを、太布座《フトシキマス》といふ、○天皇之《スメロギノ》、これも天武天皇なり、(略解に、此(ノ)時天皇は、持統天皇にて、淨御原(ノ)(534)宮におはしませりと云るは、まぎらはし、)○敷座國等《シキマスクニト》は、崩(リ)ましては、又天(ノ)原を敷座國としてといふなり、崩(リ)ますを、天にのぼりますといふは、此(ノ)下、高市(ノ)皇子(ノ)命、城上の殯宮歌の、或書にも、我王者高日所知奴《ワガオホキミハタカヒシラシヌ》、ともありて、この現世《ウツシヨ》をすぎさり賜ふをば、皆天津宮にのぼり入せ給ふといへる事、此(ノ)上、結松の追和歌につきて、委(ク)論(ヒ)云り、○石門乎開《イハトヲヒラキ》は、天へ上り給ふとて、天の石門を開き、といひなしたり、(本居氏は、三(ノ)卷、豐國の鏡山之石戸立隱にけらし、とある歌によりて、開は、閇(ノ)字の誤とせられつれど、そは中々あしかりけり、いかにとなれば、こは此(ノ)國土より、高天(ノ)原にのぼり座といふから、石門を開(キ)と云るにて、猶常に、人の家に入にも、閇たる門を開(キ)て入て、さて後には、又開きし門を閇ると云如くなれば、彼(ノ)三(ノ)卷(ノ)歌とは、前後の違ありといふべし、故(レ)本居氏(ノ)説には、神上を、カムアガリ〔五字右○〕とよみて、直に崩(ル)意に見つらめど、さにはあらず、次に猶いふべし、)○神上上座奴、舊本に、一(ニ)云、神登座尓之可婆と註せり、こはわろし、神上は、カムノボリ〔五字右○〕と訓べし、こゝは上に、天雲之《アマクモノ》云々|神下《カムクダリ》、とあるに對へて、天原《アマノハラ》云々|神上《カムノボリ》、と云なしたるにて、あらはに崩御と申さず、正しく、天にのぼりませしごとく云り、ときこえたればなり、(カムアガリ〔五字右○〕、とよまむはわろし、ノボリ〔三字右○〕は、即(チ)クダリ〔三字右○〕の對語なるにても考(フ)べし、さて一(ニ)云、神登とあるは、訓は同じけれど、異本に字面のたがへるがありしを、載しのみぞ、神上をば、カムアガリ〔五字右○〕はとよむ故に、神登と一本にあるを、さらにあげしにはあらず、集中にさる例多し、ゆめまど(535)ふべからず、)奴《ヌ》は、已成《オチヰ》の奴《ヌ》なり、已く上り座しぬ、といふなり、さて上の高照《タカヒカル》云々、といふより、是までの意は、天武天皇は、淨御原(ノ)宮におはしまして、天下をしろしめしおはしましゝを、遂に天上をしろしめし、おはしますべき國ぞ、と御みづからおもほし立して、天の石門を押ひらきたまひて、神のぼりいましぬと云なり、さて吾王日並(ノ)皇子(ノ)尊の、天(ノ)下|所知食《シロシメシ》たらば云々、とつゞくなり、○吾王皇子之命乃《ワガオホキミミコノミコトノ》、これより初て、日並(ノ)皇子(ノ)尊を指奉れり、○天下知食世者《アメノシタシロシメセバ》は、御宇《アメノシタシロシメ》す代《ミヨ》になりせば、といふなり、○春花之《ハルハナノ》は、貴《タフト》といはむ料の枕詞なり、○貴在等《タフトカラムト》は、めでたからむとてといふ意なり、まづ多布等伎《タフトキ》といふ言は、めでたきことに云るなり、貴字の意にのみ見ては、こゝに春花之《ハルハナノ》と云るに叶はず、古事記上卷海宮(ノ)段に、豐玉毘賣(ノ)命の從婢の詞に、火遠理命をさして、甚麗壯夫《イトウルハシキヲトコマス》也、益(リ)2我(カ)王(ニモ)1而|甚貴《イトタフトシ》1と云る、其(ノ)傳に云(ク)、貴は、此(ノ)卷(ノ)末なる、豐玉毘賣(ノ)命(ノ)御歌に、期良多麻能伎美何余曾比斯多布斗久阿理祁理《シラタマノキミガヨソヒシタフトクアリケリ》、萬葉二に云々、催馬樂に安名多不止介不乃太不止左也《アナタフトケフノタフトサヤ》、などあると同じくて、美《メデタ》く好《ヨ》き意なり、是(レ)貴きの本義なり、太占《フトマニ》、太祝詞《フトノリト》、太幣《フトミテグラ》などの類の、太《フト》と同言にて、太布斗伎《タフトキ》は、太《フト》に多《タ》の添りたるなり後(ノ)世には音便に、多布斗《タフト》をば、とをとゝ呼《イフ》故に、異なるが如くなれども、古(ヘ)は、本(ノ)音のまゝに呼つれば、同しことなりと云り、今案(フ)に、三(ノ)卷大伴(ノ)卿讃v酒歌に、將言爲便將爲便不知極貴物者酒西有良之《イハムスベセムスベシラニキハマリテタフトキモノハサケニシアルラシ》、また倭姫(ノ)命(ノ)世記に、乙加豆知(ノ)命乎、汝國(ノ)名|何問賜《イカニトトヒタマヘバ》、白久《マヲサク》、意須比飯高《オスヒイヒタカノ》國止白而、進(リキ)2神田並神戸(ヲ)1、倭姫(ノ)命、飯(536)高志止《イヒタカシト》白(ス)事、貴止《タフトシト》悦(ヒ)賜(ヒ)支《キ》、などある貴も、みなめでたき意なり、後世のごとく、貴尊などの字(ノ)意にのみあてゝは、通えがたきところ多からむ、○望月乃《モチヅキノ》は、枕詞なり、○滿波之計武跡は、契冲云、これをば、たゝはしけむとゝ訓べし、第十三に、十五月之多田波思家武登《モチヅキノタタハシケムト》とよめり、堪の字の心なり、潮などの、みちたゝへたるごとく、十五夜の月の、圓滿なるによせて、のぞみのたりて、かける事あらじ、と皆人の思ふなり、と云るがごとし、(但し、のぞみのたりて、云々と云る事、少しむづかしく聞ゆるなり、)天(ノ)下に、大御惠《オホミメグミ》の、普くみち足はしからむとて、と云る意なり、跡《ト》は二句ながら、とての跡《ト》なり、○天下《アメノシタ》、舊本に、一云、食國と註り、○匹方《ヨモ》は、四面《ヨモ》なり、○大船之《オホブネノ》は、枕詞なり、契冲云、大船のおもひ憑みてとは、大船は、のれる心の、たのもしげなる物なればなり、此(ノ)集に多き詞なり、和名集云、唐韻(ニ)云、舶、(傍陌(ノ)反、楊氏漢語抄(ニ)云、都具能布禰《ツクノフネ》、)海中(ノ)大船也、○天水《アマツミツ》は、日でりに水かれて、雨を仰(キ)待(ツ)意にいひて、枕詞とせり、十八に、安麻都美豆安布藝弖曾麻都《アマツミヅアフギテゾマツ》、(これは、直《タヾ》に雨を待(ツ)意なり、)○御念食可《オモホシメセカ》は、御念《オモホ》しめせぼかの意なり、この句の下に、今一つ詞を加へて、何方爾御念食可云云《イカサマニオモホシメセカカク》ありけむ、と意得べし、(云云《カク》ありけむとは、薨まして、由縁母無眞弓乃崗爾《ツレモナキマユミノヲカニ》云々ありけむ、といふ意なり、御念食可由縁母無《オモホシメセカツレモナキ》、と直に續けては、可《カ》の言|結《トヂマ》らず)これ古歌の一(ノ)格なり、猶一(ノ)卷、近江(ノ)荒都(ノ)長歌の下に云るを、合(セ)考(フ)べし、さて吾王《ワカオホキミ》といふより、此(レ)までの意は、吾(ガ)王日並(ノ)皇子(ノ)尊の、天(ノ)下しろしめしたらば、國家も美《メデタ》く榮なむ、普き大御惠の、(537)天(ノ)下に滿足はしてあらむと、四方八方の人の、ふかく思ひたのみて、仰ぎ待ほどに、いかやうにおぼしめせばか、かやうにならせ賜ひけむとなり、○由縁母無は、三(ノ)卷に、都禮毛奈古佐保乃山邊爾《ツレモナキサホノヤマヘニ》、十三に、津禮毛無城上宮爾《ツレモナキキノヘノミヤニ》、などあるによりて、こゝもツレモナキ〔五字右○〕と訓べし、と本居氏云り、なほ三(ノ)卷、都禮毛奈吉《ツレモナキ》の註、考(ヘ)見べし、(源(ノ)嚴水云、略解に、ツレモナキ〔五字右○〕は、ゆゑよしもなき意とあるは、あかぬこゝちすれば、もと連(ノ)字の意にて、ツレナキ〔四字右○〕は、ともなひよる人もなき意なり、由縁の字も、よりたのむ意にて、書りとおぼゆ、)○眞弓乃崗爾《マユミノヲカニ》、(崗(ノ)字、拾穗本には岡と作り、)諸陵式(ニ)云、眞弓(ノ)丘(ノ)陵、(岡(ノ)宮(ニ)御宇(シ)天皇、在2大和(ノ)國高市(ノ)郡(ニ)1、兆域東西二町南北二町、陵戸六烟、)續紀廿一に、廢帝、天平寶字二年八月戊申、勅(スラク)、日並知《ヒナミシラスノ》皇子(ノ)命、天(ノ)下未v稱2天皇(ト)1、追2崇尊號(ヲ)1、古今恆典(ナリ)、自v今以後、宜v奉v稱2岡宮(ニ)御宇(シ)天皇1、稱徳天皇、天平神護元年冬十月辛未、行2幸紀伊(ノ)國(ニ)1、發酉、過2檀山(ノ)陵(ヲ)1詔2陪從百官(ニ)1、悉令3下v馬、儀衛卷2其旗幟(ヲ)1、とあり、味橿丘の西一里許に越村あり、其(ノ)南に眞弓村といふありとぞ、○御在香乎《ミアラカヲ》、古事記に、御舍、書紀神代卷に、殿、神武天皇(ノ)卷に、大莊、崇神天皇(ノ)卷に、大殿など、皆ミアラカ〔四字右○〕と訓り、古語拾遺に、瑞殿、古語|美豆能美阿良加《ミヅノミアラカ》、又建(テ)2都(ヲ)橿原(ニ)1、經2營帝宅1、仍令d天冨(ノ)命(ヲシテ)、率(テ)2手置帆負、彦狹知、二神之孫(ヲ)1、以2齋斧齋※[金+且]1、始採2山材(ヲ)1構c立《ツクラ》正殿(ヲ)u、故其裔、今在2紀伊(ノ)國名草(ノ)郡御木麁香二郷(ニ)1、古語(ニ)、正殿、謂2之麁香(ト)1、採v材(ヲ)齋部(ノ)所v居謂2之(ヲ)御木(ト)1、造v殿(ヲ)齋部(ノ)所v居、謂2之麁香(ト)1、是其證也、また大殿祭(ノ)祝詞に、皇御孫之命乃《スメミマノミコトノ》、天之御翳日之御翳止《アメノミカゲヒノミカゲト》、造奉仕禮流《ツクリツカヘマツレル》、瑞之御殿《ミヅノミアラカ》、古語(ニ)云、阿良(538)可《アラカ》、など見えたり、阿良《アラ》は、其(ノ)義いまだ考得ず、可《カ》は、所《カ》の意にても有べし、(唯し余が、一(ツ)の考あれば、こゝに擧(ク)、阿良可《アラカ》は、阿禮都伎所《アレツキカ》の約りたるにや、禮都伎《レツキ》を切(ム)れば、理《リ》となるを、その理《リ》を、良《ラ》に轉して、阿良可《アラカ》と云る歟、阿禮都伎《アレツキ》といふ言は、一(ノ)卷に、藤原之大宮都加倍安禮衝哉處女之友者《フヂハラノオホミヤツカヘアレツクヤヲトメガトモハ》、又六(ノ)卷長歌に、八千年爾安禮衝之乍天下所知食跡《ヤチトセニアレツカシツヽアメノシタシロシメサムト》云々とある、安禮都伎《アレツキ》にて、顯齋《アレツク》といふ古言なり、猶この言は、一(ノ)卷に委く註り、さらば、天皇を顯齋奉仕《アレツキツカヘマツ》る所の意にて、安良可《アラカ》とは云なるべし、但し阿良可《アラカ》は、常に御阿良可《ミアラカ》、と御の言をしもそへて云を、阿禮都久《アレツク》といふ時は、御阿禮都久《ミアレツク》、と御《ミ》の言を添ては、いふべからねば、猶別意ならむか、されども阿良可《アラカ》は、既く大殿の名目《ナ》となりたる上の事なれば、御《ミ》の言をそへむも、妨なかるべければ、右の意なるべくや、人考へ正してよ、岡部氏が、御在香《ミアラノカ》は、御在所《ミアリカ》なり、といへるは、いかにぞや、もし其(ノ)意ならむには、御麻斯可《ミマシカ》、とこそいふべけれ、あなかしこ、天皇の大坐坐大御舍《オホマシマスオホミヤ》をしも、皇威《イツ》を畏敬《カシコミ》し古(ヘ)人の意として、在所《アリカ》などゝは、いかでいはむや、又古事記傳に、阿良可《アラカ》は、在波可《アリハカ》にても有べし、波可《ハカ》は、いづこをはか、など云|波加《ハカ》にて、慥にそこと定まりたる處を云、理波《リハ》を切れば、良《ラ》なりとあるも、同じくあまなひがたき、ことにこそありけれ、)○高知座而《タカシリマシテ》は、言の意は、既く出たる處に云つ、さて陵に、大殿はよしなけれど、凡て薨《スギマ》せしをも、薨賜ひしさまにいはず、大かた現世に、在坐《オマシマシ》給ふさまにいへれば、かく云るぞ、○明言爾《アサゴトニ》は、(言は借(リ)字、)毎《ゴト》v朝《アサ》になり、こゝにては、毎(539)日といはむがごとし、○御言不御問《ミコトトハサズ》は、問《トフ》をとはす、告《ノル》をのらすといふは、あがめいふ時の詞なれば、トハサズ〔四字右○〕とよませむとて、不御問と書り、知《シラ》すを御知《シラス》、見《メ》すを御見《メス》、など書る類なり、さてこゝは、下に、束乃多藝能御門爾雖伺侍《ヒムガシノタキノミカドニサモラヘド》、昨日毛今日毛召言毛無《キノフモケフモメスコトモナシ》、と云ると、心同じくて、物をも仰られず、と云意なり、物いふことを、問(フ)といふは、古語の常なり、言不問木尚《コトトハヌキスラ》、などよめるも、物いはぬといふ意なり、崇神天皇(ノ)紀に、不言を、マコトトハズ〔六字右○〕とよめるをも思べし、○日月之は、ツキヒノ〔四字右○〕と訓べし、日月と書るは、から國の熟字の隨《マヽ》を、用たるなれば、それには拘はらずして、古言のまゝに、ツキヒ〔三字右○〕と訓は宇美可波《ウミカハ》を河海、欲流比流《ヨルヒル》を晝夜、と書たるが如し、此(ノ)下に、久堅之天所知流君故爾《ヒサカタノアメシラシヌルキミユヱニ》、日月毛不知戀渡鴨《ツキヒモシラニコヒワタルカモ》、とあるも同し、三(ノ)卷に、歳月日香《トシツキヒニカ》、四(ノ)卷に、白妙乃袖解更而遷來武《シロタヘノソデトキカヘテカヘリコム》、月日乎數而往而來猿尾《ツキヒヲヨミテユキテコマシヲ》、十(ノ)卷に、擇月日逢義之有者《ツキヒヱリアヒテシアレバ》、十五に、安良多麻能月日毛伎倍奴《アラタマノツキヒモキヘヌ》、十七に、草枕多妣伊爾之伎美我可敝里許武《クサマクラタビイニシキミガカヘリコム》、月日乎之良牟須邊能思良難久《ツキヒヲシラムスベノシラナク》、又|春花能宇都路布麻泥爾相見禰婆《ハルハナノウツロフマデニアヒミネバ》、月日餘美都追伊母麻都良牟曾《ツキヒヨミツヽイモマツラムソ》、十八に、月日余美都追《ツキヒヨミツヽ》、廿(ノ)卷に、月日餘美都々《ツキヒヨミツヽ》などあるは、みな古言のまゝに書たるなり、(これらは、月次《ツキナミ》日次《ヒナミ》の月日を云るなれば、から字《モシ》にはかゝはらず、都伎比《ツキヒ》といふが、定りたる言なること、古(ヘ)より後までもしかり、)又此(ノ)照す日月をば、なほ比都伎《ヒツキ》といひて、月次《ツキナミ》日次《ヒナミ》をいふ都伎比《ツキヒ》に分てるか、とおもふよしあり、(さるは月次日次をいふには、上に引ることく、月日と書たるが多きに、此てらす日月をい(540)へるには、此(ノ)下に、天地日月與共《アメツチヒツキトトモニ》、五(ノ)卷に、許能提羅周日月能斯多波《コノテラスヒツキノシタハ》、又|日月波安可之等伊倍騰安我多米波照哉多麻波奴《ヒツキハアカシトイヘドアガタメハテリヤタマハヌ》、六(ノ)卷に、天地之遠我如日月之長我如《アメツチノトホキガゴトクヒツキノナガキガゴトク》、十三に、天地與日月共萬代爾母我《アメツチトヒツキトトモニヨロヅヨニモガ》、十九に、天地日月等登聞仁《アメツチヒツキトトモニ》、廿之卷に、天地乎弖良須日月能極奈久《アメツチヲテラスヒツキノキハミナク》など、いづれも日月とのみ書たれば、古(ヘ)より、これをば都伎比《ヒツキ》といへるか、但(シ)十三に、天有哉月日如吾思有《アメナルヤツキヒノゴトクアガモヘル》とあれば、なほいつれをも、都伎比《ツキヒ》といへるか、又は此(ノ)てらす日月をいふに、月日と書るは、たゞ一首なれば、月日とあるは、月日を、下上に誤寫せるにもあるべし、)○數多成塗は、マネクナリヌレ〔七字右○〕と訓べし、ヌレ〔二字右○〕は、ヌレバ〔三字右○〕の意なり、○皇子之宮人《ミコノミヤヒト》は、大舍人等《オホトネリドモ》のことなり、○行方不知毛《ユクヘシラズモ》、舊本に、一(ニ)云、刺竹之皇子宮人歸邊不知爾爲と註せり、(此(レ)は用べからず、數多成塗、といふよりのつゞきも、必(ズ)其故《ソコユヱ》とあるべく、はた不知爾爲《シラニスル》といふも、てにをはとゝのひがたければなり、)行かたもしらず、退き散ぬるは、さても/\かなしき事となり、毛《モ》は、歎息(ノ)辭なり、さて由縁母無《ツレモナキ》といふより此(レ)までの意は、よりたのみ賜ふべき人もなき、眞弓の崗に安定《シヅマリ》いまして、日毎に物を仰せらるゝこともなくて、月日の數《カズ》多《オホ》く積りぬれば、それ故に、親くめしつかはしゝ、大舍人のともゝ、行方しらず退《アガ》れ散ぬるが、さても/\悲しやとなり、御墓づかへの日數終て、退散《アガル》さま、おもひやられ、あはれにかなし、下の高市(ノ)皇子(ノ)尊の殯宮の時、この朝臣の、長歌の反歌にも、去方乎不知舍人者迷惑《ユクヘヲシヲニトネリハマドウ》とあり、かくて其(ノ)長歌等を見るに、春宮(ノ)舍人にて、此時もよまれしな(541)るべし、○歌(ノ)意は、天地の判れ始めて、高天(ノ)原に、事始めし給ひし時に、天の安(ノ)河原に、八百萬の神等の、神集ひいまして、神分し給ひしほど、已く天上を、天照大御神の、しろしめす國ぞ、此(ノ)天(ノ)下水穗(ノ)國を、皇孫|番能邇々藝《ホノニヽギノ》尊の、天地と長(ク)久しく、しろしめすべき國ぞと定め給ひて、天の八重雲を掻別て、天くだし座《イマ》せ奉りし、その大御裔孫《オホミスヱ》天武天皇は、明日香(ノ)清御原(ノ)宮にして、御宇《アメノシタシロシメシ》しを、つひに高天(ノ)原を、敷座(ス)國として上りましぬ、されば天つ日嗣の皇子、日並所知《ヒナミシラスノ》皇子(ノ)尊の、大御位に上りまし、天下しろしめす御代になりせば、國家も美《メデ》たく榮え、普き大御恩澤《オホミウツクシミ》は、天(ノ)下に、落るくまなく、滿足はしてあらむぞ、と四方八方の人の、ふかく思ひたのみて仰ぎ待しかひもなく、いかやうにおぼしめせばか、此(ノ)世をはやくさり座けむ、さてしも、よりたのみ給ふべき人さへもなき、檀(ノ)岡に宮柱太高敷(カ)して、安定座《シヅマリマシ》ませば、もとより親くしたがひ奉れる輩は、のこらず慕ひ行てさぶらへど、侍ふかひもなく、日ごとに物仰せらるゝこともなくて、たゞ哀しみ歎きてのみある間に、いつしかはやき月日のとゞまらずして、御墓づかへの日數も竟ぬれば、退散《アガル》とて人々別々に、行方もしらずなりぬるは、いともあはれにかなしくあさましくなげかしき事どもにぞ、ありけるとなり、
 
反歌二首《カヘシウタフタツ》。
 
二首の字、拾穗本にはなし、
 
(542)168 久堅之《ヒサカタノ》。天見如久《アメミルゴトク》。仰見之《アフギミシ》。皇子乃御門之《ミコノミカドノ》。荒卷惜毛《アレマクヲシモ》。
 
久堅乃ヒサカタノ》(堅(ノ)字、類聚抄には、方と作り、)は、天の枕詞なり、既くかた/”\に見えたり、○天見如久《アメミルゴトク》云云は、三(ノ)卷長(ノ)皇子(ノ)遊2獵獵路(ノ)池(ニ)1之時、人麿(ノ)作歌に、久堅乃天見如久《ヒサカタノアメミルゴトク》、眞十鏡仰而雖見《マソカヾミアフギテミレド》、春草之益目頻四寸吾於冨吉美可聞《ハルクサノイヤメヅラシキワガオホキミカモ》、とあるに同し、○皇子乃御門之《ミコノミカドノ》、(之(ノ)字、拾穗本には、乃と作り、)岡部氏、こは高市(ノ)郡、橘の島(ノ)宮の御門なり、飛鳥の岡の里の東北五六町ばかりに、今も橘寺とてあり、ここぞ橘の島なるといへり、さて次下の、舍人等が歌どもにも、此(ノ)御門の事のみを、專らいひ、下の高市(ノ)皇子(ノ)尊の殯宮の時、此(ノ)朝臣の、御門の人とよまれしを、むかへ見るに、此(ノ)朝臣即(チ)舍人にて、その守りし御門を申せるなるべし、○荒卷惜毛《アレマクオシモ》は、荒行む事の、さても惜きよとなり、荒卷《アレマク》は、荒武《アレム》の伸りたる言なり、毛《モ》は、歎息の辭なり、○歌(ノ)意は、かくれたるところなし、
 
169 茜刺《アカネサス》。日者離照有《ヒハテラセレド》。烏玉之《ヌバタマノ》。夜渡月之《ヨワタルツキノ》。隱良久惜毛《カクラクヲシモ》。
 
茜刺《アカネサス》は、日の枕詞なり、既く出づ、○烏玉之《ヌバタマノ》は、夜の枕詞なり、これも既く出づ、○隱良久惜毛《カクラクヲシモ》は、隱るゝ事の、さても惜きよといふなり、隱良久《カクラク》は、隱流《カクル》の伸りたる言なり、毛《モ》は歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、日は常の如く照してあれども、月の雲隱れ行事の、さてもをしきよとなり、薨給ふを、月の雲隱るにたとへたり、按(フ)に、此(ノ)歌は、左註に云るごとく、まことに高市(ノ)皇子(ノ)尊の、殯宮(ノ)時の歌の、反歌にぞあるべき、されば日者雖照有《ヒハテラセレド》は、天皇の御うへをたとへ奉り、月之隱良久《ツキノカクラク》は、皇(543)子(ノ)尊をたとへ奉れるなり、さなくては、日者雖照有と云こと、無用言《イタヅラコト》になりて聞ゆるをや、高市(ノ)皇子(ノ)尊は、朱鳥三年四月、日並(ノ)皇子尊の薨たまひし後、皇太子に立たまひしを、持統天皇十年七月に、薨たまひしかば、日は持統天皇を、たとへ奉れることをもしりぬ、(岡部氏の説は聞えがたし、
〔或本以2件(ノ)歌1。爲2後(ノ)皇子(ノ)尊(ノ)殯宮之時(ノ)反歌(ト)1也」
或本の下、舊本に云(ノ)字あり、今は類聚抄に据つ、(但し彼抄には、右云々とあり、)○後皇子尊(後(ノ)字拾穗本に、彼と作るはわろし、尊(ノ)字、舊本貴に誤、今は類聚妙古寫本等に從、)は、高市(ノ)皇子(ノ)尊なり、○反歌、舊本下上に誤、今は拾穗本に從、○此(ノ)註なき本もあり、此は古(ヘ)、しかありし本の有しを、※[手偏+交]《カムガフ》る時に註《シル》せるものなり、(略解に、此(ノ)註を、つたなき書ざまにて、後人のわぎぞと云れど、たとひ後人のしわざにまれ、或本によりて、かき註《シル》したるなれば、何事かはあらむ、)
 
皇子尊宮舍人等慟傷作歌二十三首《ミコノミコトノミヤノトネリラガカナシミテヨメルウタハタチマリミツ》。
 
皇子(ノ)尊云々、こは右の長歌に續て、同じ御事をよめるなれば、題詞をば、上に譲りて、略き書《シル》せしなり、○宮(ノ)字、古寫本には無(シ)、これしかるべきにや、○舍人は、職員令に、春宮大舍人六百人、とあるこれなるべし、すべて舍人は、左右《アタリ》近く、親く仕奉る者を云、仁徳天皇(ノ)紀に、近習舍人、武烈天皇(ノ)紀に、近侍舍人、顯宗天皇(ノ)紀に、左右舍人などもあり、又書紀に、帳内《トネリ》、宮者《トネリ》、兵衛《トネリ》、なども見え(544)たり、等禰利《トネリ》といふは、和名抄に、職員令(ニ)、大舍人寮(ハ)於保止禰利乃豆加左《オホトネリノツカサ》とあり、名(ノ)義は、本居氏、殿侍《トノハベリ》かと云り、なほ古事記傳三十二に委し、さて皇子(ノ)尊の薨(マシヽ)後、島(ノ)宮の外(ノ)重を守ると、佐田(ノ)岡の御喪舍に、侍宿すると有故に、こゝかしこにての歌ども有なり、○拾穗本に、姓名未詳とあリ、
 
170 高光《タカヒカル》。我日皇子乃《ワガヒノミコノ》。萬代爾《ヨロヅヨニ》。國所知麻之《クニシラサマシ》。島宮波母《シマノミヤハモ》。
 
光(ノ)字、類聚抄には、照と作り、○我日皇子乃《ワガヒノミコノ》(乃字類聚抄に、なきはわろし、)は、皇子(ノ)皇と申す、○島宮波母《シマノミヤハ》、(波(ノ)字、舊本に婆と作るは、正しからず、今は類聚抄に依つ、)島(ノ)宮は、契冲、下に橘の島の宮とよめれば、橘等のあるあたりなるべし、又此(ノ)集に、橘の島にしをれば川遠みさらさでぬひしわが下衣、などもよめり、天武天皇(ノ)紀(ニ)云、十年秋九月丁酉朔辛丑、周芳國貢(ル)2赤龜(ヲ)1、乃放(チタマフ)2島(ノ)宮(ノ)池(ニ)1、これ即(チ)勾(ノ)池なりと云り、帝王編年に、飛鳥(ノ)岡本(ノ)宮(ハ)、島(ノ)東岡(ノ)地也、或物に、岡本(ノ)宮(ハ)、橘寺(ノ)東、逝廻《ユキキノ》岡、即(チ)今(ノ)岡寺(ノ)地也とあり、母《モ》は、歎きの意を帶たる助辭にて、島(ノ)宮|者《ハ》、と問もとむる意の詞なり、悲歎の餘(リ)に萬代に國を知らしめさまし、島(ノ)宮はいづらや、と物を失ひて、尋ねもとむるやうにいへり、書紀に、吾夫※[立心偏+可]怜《アガツマハヤ》矣、吾嬬者耶《アガツマハヤ》などあるも、ともに、也《ヤ》は、同意の助辭にて、者《ハ》の意は同じ、四(ノ)卷に、天地與共久住波牟等《アメツチトトモニヒサシクスマハムト》、念而有師家之庭羽裳《オモヒテアリシイヘノニハハモ》、○歌意は、かくれたるところなし、
 
(545)171 島宮《シマノミヤ》。上池有《マガリノイケノ》。放鳥《ハナチトリ》。荒傭勿行《アラビナユキソ》。君不座十方《キミマサズトモ》。
 
上池有、一本に、池上有とあり、是しかるべし、又思ふに、下に載る或本(ノ)歌に、勾乃池之とあれば、こゝももとは、然ありけむを、勾(ノ)字の※[句の口なし]の畫の氓《キエ》しより、ムを上に誤り、又さがしらに、之は有(ノ)字ぞとて、改めたるならむ、故(レ)まづ、マガリノイケノ〔七字右○〕、と訓をば附つ、○放鳥《ハナチトリ》は、飼せ賜ひし鳥どもを、薨まして後に放ちたるが、猶その池にをるなり、大鏡に云、(延喜帝)九《延長八年》月にうせたまひて、九日の節は、それよりとまりけるなり、その日左衛門(ノ)陣の前にて、御鷹どもはなたれしは、あはれなりし物かな、云々とあり、むかしよりかゝる時、はなちやる例と見えたり、續後紀にも、承和七年五月癸未、後太上天皇、崩2于淳和院(ニ)1、云々、是(ノ)日於2建禮門(ノ)南庭1、放2棄鷹鷂籠中(ノ)小鳥等(ヲ)1、九年七月丁未、太上天皇崩云々丁未、放2棄主鷹司(ノ)鷹犬、及籠中(ノ)小鳥(ヲ)1と見ゆ、放(チ)鳥とよめるは、六帖に、はなち鳥つばさのなきをとぶからに雲路をいかで思ひかくらむ、(此(ノ)歌、袖中抄には末(ノ)句、いかで雲居を思(ヒ)立らむとあり、さてこれは、飼などしたる鳥の、つばさのなきを放ちてよめるなり、としるせり、但しこれは、もとより翅を切て、遠く飛去(ル)まじくして、放ち養へる鳥にもあらむ、そはいかにまれ、今の放鳥は、薨まして後に、放棄たる鳥なり、)現存六帖に、籠の内を思ひや出る放ち鳥さらぬわたりの梢にぞ住、など見ゆ、○荒備勿行《アラビナユキソ》は、人疎く遠ざかりゆくことなかれ、といふ意なり、竹取物語に、くらつ丸がまうすやう、このつばくらめのこやすがひ(546)は、あしくたばかりてとらせ給ふなり、さては得取せ給はじ、あなゝひに、おどろ/\しく、廿人のぼりて侍れば、あれてよりまうでこずなり、とある意なり、遠ざかりてといふ事を、荒(レ)てと云り、○歌(ノ)意は、島(ノ)宮の池の放鳥よ、よしや皇子(ノ)尊は、おはしまさずとも、人疎く遠ざかりゆくことなかれ、汝をだに、御形見と見奉らむをとなり、
〔或本歌一首。170 島宮《シマノミヤ》。勾乃池之《マガリノイケノ》。放鳥《ハナチトリ》。人目爾戀而《ヒトメニコヒテ》。池爾不潜《イケニカヅカヌ》。〕
勾乃池《マガリノイケ》は、島(ノ)宮の池の名なり、繼體天皇(ノ)紀に、勾《マガリノ》大兄(ノ)皇子、安閑天皇(ノ)紀に、勾《マガリノ》金橋(ノ)宮などあり、勾《マガリ》といふ地名、相例すべし、○人目爾戀而《ヒトメニコヒテ》は、人目を戀てなり、○池爾不潜《イケニカヅカズ》は、放たれたる鳥すらも、今は物さびしくなれるから、人目をこひしたひて、水底に潜ずとなり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、此(ノ)歌、舊本、上の茜刺《アカネサス》云々の歌の下にあるは、混《マギ》れ亂れしなるべし、必(ズ)こゝにあるべき歌なり、故(レ)今改む、
 
173 高光《タカヒカル》。吾日皇子乃《ワガヒノミコノ》。伊座世者《イマシセバ》。島御門者《シマノミカドハ》。不荒有益乎《アレザラマシヲ》。
 
吾字、拾穗本には我と作り、○不荒有益乎《フレザラマシヲ》(益(ノ)字、舊本葢に誤れり、今は類聚妙古寫本拾穗本等に從つ、)は、荒(レ)ずに有ましものを、といふなり、古今集に、七條の后、うせ給ひにける後によみける、伊勢、おきつ浪荒のみ増る宮の内は年へて住し伊勢のあまも船ながしたるこゝちして云々とあり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
(547)174 外爾見之《ヨソニミシ》。檀乃岡毛《マユミノヲカモ》。君座者《キミマセバ》。常都御門跡《トコツミカドト》。侍宿爲鴨《トノヰスルカモ》。
 
外爾見之《ヨソニミシ》は、皇子(ノ)尊を、葬(リ)奉らざりしさきをいへり、○檀乃岡《マユミノヲカ》は、高市(ノ)郡檜隈(ノ)郷の内にありて、やがて皇子(ノ)尊を、葬奉れる地なり、上に委(ク)云り、○常都御門跡《トコツミカドト》は、葬(リ)奉りてよりは、萬歳までここにおはしませば、かく云り、跡は、としての意なり、○侍宿爲鴨《トノヰスルカモ》は、宿直《トノヰ》をする哉、と云が如し、(本居氏云、侍宿の假字を、師の考に、トノイ〔三字右○〕と定められたるはわろし、殿居の意にて、ヰ〔右○〕の假字なり、もし宿の字によりて、イ〔右○〕の假字なりとせば、トノネ〔三字右○〕とこそいふぺけれ、ネ〔右○〕とイ〔右○〕とは、いささか意異なり、ネ〔右○〕は、形につきていひ、イ〔右○〕は、睡眠の方にいふなり、侍宿は、形につきて、殿にてぬるとはいふべけれど、殿にて睡眠するとはいふべき事にあらず、集中にも、宿(ノ)字は、ヌ〔右○〕と書れども、イ〔右○〕には、宿(ノ)字はかゝず、トノヰ〔三字右○〕のヰ〔右○〕は、居にて、夜殿に居るといふことなり、晝を、トノヰ〔三字右○〕とはいはざるは、晝は務ることありて、たゞには居ぬ物なり、夜は務ることなくて、たゞに居る故に、夜をトノヰ〔三字右○〕とはいふなり、さて務ることなき故に、寐もすることなれども、寐るは、主とする事にはあらず、侍宿は、殿に居るを主とすることなる故にトノヰ〔三字右○〕とはいふなり、眠るを主として、トノイ〔三字右○〕といふべきよしなし、)○歌意は、他《ヨソ》にのみ見すぐして有し、檀(ノ)岡なれども、皇子かくて、長く安定《シヅ》まりおはしませば、今よりゆくさき、萬歳まで、かはるべからぬ御門と思ひて宿直《トノヰ》をする事哉、かゝらむとは、かねておもひもよらざりしことなるを、いともあはれ(548)に、かなしき世にもあるかなとなり、
 
175 夢爾谷《イメニダニ》。不見在之物乎《ミザリシモノヲ》。欝悒《オホヽシク》。宮出毛爲鹿《ミヤデモスルカ》。作日之隈回乎《サヒノクマミヲ》。
 
夢爾谷《イメニダニ》は、夢にさへと云むが如し、夢は、古(ヘ)はイメ〔二字右○〕とのみいへり(ユメ〔二字右○〕といふは、やゝ後のことなり)、かげろふの日記に、いぬる五日の夜のいめにとあり、(今も土佐幡多郡にては、イメ〔二字右○〕とのみいへり、)谷《タニ》は、俗にさへといふが如し、雅言に、佐敝《サヘ》といふは、俗に、までといふが如し、佐敝とは、もとよりある事のうへに、ことの副りたるを、いふ言なればなり、○欝悒《オホヽシク》は、五(ノ)卷に、國遠伎路乃長手遠意保々斯久《クニトホキミチノナガテヲオホヽシク》、許布夜須疑南己等騰比母奈久《コフヤスギナムコトドヒモナク》、十四に、於能豆麻乎比登乃左刀爾於吉於保々思久《オノヅマヲヒトノサトニオキオオホヽシク》、見都身曾伎奴流許能美知乃安比太《ミツヽソキヌルコノミチノアヒダ》、十一に、雲間從狹徑月乃於保々思久《クモマヨリサワタルツキノオホヽシク》、相見子等乎見因鴨《アヒミシコラヲミムヨシモカモ》など、假字にも書り、又六(ノ)卷に、不清照有月夜乃《オホヽシクテレルツクヨノ》、十卷に、不明公乎相見而《オホヽシクキミヲアヒミテ》とも見えて、不清不明など書たる如く、於保々思久《オホヽシク》は、明《サヤカ》ならぬをいふ言にて、何にてもそれと决《サダ》めがたく、おぼつかなきをいふ詞なり、源氏物語若菜に、いとあまりおほとき給へるげにこそは、あやしくおほ/\しかりけることなりや云々よしめきぞ(ン)して、ふるまふとはおぼゆれども、もう/\にみゝもおぼ/\しかりければ、浮舟に、雪やう/\つもり、星の光におほおほしきを、やみはあやなしとおぼゆる、にほひありさまにて、蜻蛉に、日ごろおほしなげきしさま、その夜なき給ひしさま、あやしきまでことずくなに、おほ/\とのみものし給ひて、な(549)どある、おほ/\、今と同言なるべし、(欝有の字は、から籍圖繪寶鑑に、常(ニ)欝悒不v樂、司馬遷報2任安(ニ)1書に、是以獨欝悒、而諱2與(ニ)語(ヲ)1など見えて、憂思ひて、樂しからぎるをいふから文字なるを、於保々之久《オホヽシク》といふは、何にまれ、决《サダ》かならず、おぼつかなきを、ひろくいふ言なれど、多くは、心のふさがり、むすぼほれたる事にいふから、其(ノ)一方につきて、此(ノ)熟字を用たるなり、)○宮出毛爲鹿《ミヤデモスルカ》は、宮出をもする哉、といふが如し、宮出は、宮門を出入するをいふ詞なり、十八に、美夜泥之理夫利《ミヤデシリブリ》、○昨日之隈回乎《サヒノクマミヲ》(作字、飛鳥井本類聚抄古寫本拾穗本等には、佐と作り、隈(ノ)字、舊本隅に誤れり、今は類聚抄拾穗本等に從つ、回(ノ)字、類聚抄拾穗本等には廻と作り)、は、作《サ》は、御吉野《ミヨシヌ》、眞熊野《マクマヌ》などいふ御《ミ》眞《マ》に通ふ發語にて、檜(ノ)隈なり、七(ノ)卷に、佐檜乃熊檜隈川之《サヒノクマヒノクマガハノ》、十三に、左檜隈檜隈河爾《サヒノクマヒノクマガハニ》、などよめり、和名抄に、高市(ノ)郡檜前(ハ)、比乃久末《ヒノクマ》、とある地にて、眞弓(ノ)岡は、やがて其(ノ)郷の内にあるなり、隈回はクマミ〔三字右○〕と訓べし、既く委云り、(略解に、舊本に從て(クマワ〔三字右○〕とよめるは誤なり、本居氏、昨日は、一本に、佐田と有をとるべしといへり、略解も此説に從(レ)り、今按(フ)に、此(ノ)歌の次《ナミ》、みな佐田とよめれば、實に一本の、勝れるに似たれども、佐田には、いつれも皆岡邊とこそいひたれば、こゝのみ隈回といはむも、いかゞとぞおぼゆる、されば一本は、中々のさがしらにて、猶舊本のまゝなるべし、佐田(ノ)岡眞弓(ノ)岡は、檜(ノ)隈の郷の中なれば、檜(ノ)隈とはよむべきことなり、)○歌(ノ)意は、夢にさへ見ざりしものを、いかなることにて、かくするぞ、といぶかりおほめきつゝ、(550)此(ノ)佐田(ノ)岡の御陵に侍宿して、思ひもかけぬ檜(ノ)隈を、宮出をもすることかなとなり、
 
176 天地與《アメツチト》。共將終登《トモニヲヘムト》。念乍《オモヒツヽ》。奉仕之《ツカヘマツリシ》。情違奴《コヽロタガヒヌ》。
 
歌(ノ)意かくれたるところなし、まことにあはれにかなしきこと、かぎりなし、四(ノ)卷大伴(ノ)三依悲v別(ヲ)歌に、天地與共久住波牟等《アメツチトトモニヒサシクスマハムト》、念而有師家之庭羽裳《オモヒテアリシイヘノニハハモ》とあり、
 
177 朝日弖流《アサヒテル》。佐太刀岡邊爾《サダノヲカヘニ》。羣居乍《ムレヰツヽ》。吾等哭涙《アガナクナミダ》。息時毛無《ヤムトキモナシ》。
 
朝日弖流《アサヒヲル》は、此(ノ)下にも、旦日照島乃御門爾《アサヒテルシマノミカドニ》とよめり、朝日夕日を以(テ)、山崗宮殿の景を云ること、古語に殊に多し、○佐太乃岡邊《サダノオカヘ》は、檜(ノ)隈(ノ)郷の内に、佐太《サダ》眞弓《マユミ》は、つゞきたる岡にて、眞弓村近く西南の方に佐太村ありとぞ、さて此(ノ)御陵の侍宿所は、右の二つの岡にわたりて在(ル)故に、いづれもいふなりと云り、○羣居乍《ムレヰツヽ》は、春宮舍人六百人、と令に見えたれば、その群多きこと思ひやるべし、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
178 御立爲之《ミタヽシシ》。島乎見時《シマヲミルトキ》。庭多泉《ニハタヅミ》。流涙《ナガルヽナミダ》。止曾金鶴《トメゾカネツル》。
 
御立爲之《ミタヽシヽ》。は、御立賜ひし、といふなり、用言の頭《ハジメ》にも、御《ミ》の言をおく例、既く云るが如し、立爲《タヽシ》は、多知《タチ》の伸りたるにて、尊みたる言なり、之《シ》は、過にし方をいふ辭なり、○島《シマ》は、宮(ノ)名には非ず、やがてかの勾(ノ)池の中島なり、○庭多泉《ニハタヅミ》は、十九に、爾波多豆美流涙等騰米可禰都母《ニハタヅミナガルヽナミダトドメカネツモ》、又|庭多豆水流涕留可禰都母《ニハタヅミナガルヽナミダトヾメカネツモ》とあり、和名抄に、唐韻(ニ)云、潦(ハ)、雨水也、和名|爾八太豆美《ニハタヅミ》とあり、(此(ノ)詞を、冠辭考に、(551)俄泉の流るゝといひかけたるなり、と云るはいかにぞや、まづニハタ〔三字右○〕を、ニハカ〔三字右○〕と云るは、韻の通ふまゝに、轉し云ることゝ心得たるにや、されどニハカ〔三字右○〕を、ニハタ〔三字右○〕と轉し云る如きことは、古語にあることなし、また泉とは、池中より、わき出る水をこそ、云ことなれ、雨水をば、云べきにあらざるをや、さきに大原(ノ)惠敏も、邊鄙の言に、夕立などのふりて、庭に水の流るゝを、たづみがはしると云り、しかればたづみと云る古言、片山里に殘れり、俄泉の義にあらずと簸冠辭考に云り、)今按に、庭漾水《ニハタヾヨフミ》と云なり、タヾヨフ〔四字右○〕のダヨ〔二字右○〕は、ド〔右○〕と切り、ドフ〔二字右○〕は、ヅ〔右○〕と切れば、タヅミ〔三字右○〕となれり、但したゞよひみ、といふが常格なれど、たゞよふみといふも、又一(ノ)格なり、そはタリミ〔三字右○〕と云べきを、タルミ〔三字右○〕(垂水なり、)と云るに、相類ふべし、庭に漾ふ雨水は、しほしほと流れ洽《ヒタ》るものなれば、涙の流るゝに、比(ヘ)たるなるべし、○歌意これもかくれたるところなし、
 
179 橘之《タチバナノ》。島宮爾者《シマノミヤニハ》。不飽鴨《アカネカモ》。佐田乃岡邊爾《サダノヲカベニ》。侍宿爲爾往《トノヰシニユク》。
 
橘《タチバナ》は、地(ノ)名なり、上に引る七(ノ)卷の歌に、橘の島とあるも、同處なるべし、橘寺といふも彼(ノ)地にあれば、やがて地(ノ)名を寺(ノ)名に負せたるなり、○不飽鴨《アカネカモ》は、不《ネ》v飽《アカ》者《バ》かといふに同じくて、あかねばにやの意なり、鴨《カモ》のモ〔右○〕は、歎息(ノ)辭なり、下にめぐらしてきくべし、○田(ノ)字、拾穗本に、多と作るはわろし、(田は、かならず濁りて唱ふべければなり、)○歌(ノ)意は橘の島(ノ)宮を、飽足はぬことに思へばにや、かく佐田の岡に、侍宿《トノヰ》爲《シ》に往なる、さても嗚呼《アハレ》や、と悲みのあまりに、をさなく云るが、(552)あはれなり、
 
180 御立爲之《ミタヽシシ》。島乎母家跡《シマヲモイヘト》。住鳥毛《スムトリモ》。荒備勿行《アラビナユキソ》。年替左右《トシカハルマデ》。
 
島乎母家跡《シマヲモイヘト》は、島をも、己が家としての意なり、○荒備勿行《アラビナユキソ》は、人疎く、よそに遠放り、飛行ことなかれとの意なり、荒備《アラビ》は、疎ぶるを謂て、既く前に云り、四(ノ)卷に、荒ぶる君と云るも、意同じ、土佐日記に、家に至りて門に入に、月明ければ、最《イト》能《ヨク》ありさま見ゆ、聞しよりもまして云がひなくて、墮破《コボレヤブ》れたる家に、預(ケ)たりつる人の心も、荒たるなりけり、など云る、荒に意同じ、上に竹取物語を引るも同し、○歌(ノ)意は、島をも、己が家として栖(ム)放(チ)鳥も、人疎く、よそに遠ざかり、飛行ことなかれ、來年の四月までかくて在(レ)、汝をだに見つゝ、御形見と慕ひ奉らむどとなり、
 
御立爲之《ミタヽシシ》。島之荒磯乎《シマノアリソヲ》。今見者《イマミレバ》。不生有之草《オヒザリシクサ》。生爾來鴨《オヒニケルカモ》。
 
181 島之荒磯《シマノアリソ》は、御庭の池に、磐をたて、瀧はしらせなどして、荒き磯のさま、造らし賜へるを、いふなるべし、○今見者《イマミレバ》、官本に、異本に、今の下、日(ノ)字あるよししるされたり、其(レ)に依ば、ケフミレバ〔五字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意かくれたるところなし、まことに御庭のあれ行たるさま、目のまへに見奉るがごとくにして、あはれにかなしきことなり、三(ノ)卷に、赤人、詠2故太政大臣藤原家之山池(ヲ)1歌、昔看之舊堤者年深《ムカシミシフルキツヽミハトシフカミ》、池之瀲爾水草生家里《イケノナギサニミクサオヒニケリ》、六(ノ)卷悲2寧樂(ノ)故京(ヲ)1作歌、立易古京跡成者《タチカハリフルキミヤコトナリシカバ》、道之志婆草長生爾異梨《ミチノシバクサナガクオヒニケリ》、などもあり、
 
(553)182 鳥塒立《トクラタテ》。飼之雁乃兒《カヒシカリノコ》。栖立去者《スダチナバ》。檀崗爾《マユミノヲカニ》。飛反來年《トビカヘリコネ》。
 
鳥塒立《トクラタテ》。(塒(ノ)字、舊本に〓と作るは、栖(ノ)字の誤なるべし、と契冲云り、又拾穗本に持と作るは、塒の誤なり、今は官本に從つ、)鳥座《トクラ》を造(リ)立(テ)といふなり、鳥座《トクラ》は、十九に枕附都麻屋之内爾鳥座由比《マクヲヅクツマヤノウチニトグラユヒ》、 須惠弖曾我飼眞白部乃多可《スヱテソアガカフマシラフノタカ》、和名抄に、孫※[立心偏+面](カ)切韻(ニ)云、穿v垣(ヲ)栖v?(ヲ)曰v塒(ト)、和名|止久良《トクラ》、拾遺集十八、元輔、松が枝のかよへる枝を鳥座《トクラ》にてすだてらるべき鶴のひなかな、などあり、○鴈乃兒《カリノコ》は、契冲二説を載て云、其一説に、鴈の子は、かもの子をいふ、かるのこともいふと源氏物語の抄に見えたり、されども、いかにして、かりの子といふよしは見えず、細流は逍遙院殿の御作なれど、只かものことゝのみのたまへり、源氏眞木柱に、かりこの、いとおほかるを御覽じて、かむしたちばななどやうに、まぎらはして、わざとならず奉れ賜ふ、同橋姫に、春のうらゝかなる日影に、水鳥どものはね打かはしつゝ、おのがじゝさへづるこゑなどを、つねははかなきことゝ見たまひしかども、つがひはなれぬを、うらやましくながめたまひて、君たちに、御琴ども、をしへきこえ給ふ、いとをかしげに、ちいさき御ほどに、とり/”\かきならし賜ふものゝねども、あはれにをかしく聞ゆれば、涙をうけ姶ひて、打すてゝつがひさりにし水鳥の、かりのこのよにたちおくれけむ、うつほ物語第二、ふぢはらのきみにいはく、宰相、めづらしくいできたる、かりのこにかきつく、かひの内にいのちこめたるかりのこは、君がやどにてかへ(554)さゞらなむ、兵衛たまはりて、あて宮にすもりになりはじむるかりのこ、御覽ぜよとてたてまつれば、あて宮、くるしげなる御物ねがひかな、とのたまふ、枕草子にうつくしき物、かりのこ、さりのつぼ、なでしこの花、同草子にあてなる物、かりのこもたりたるも、水精のずゞ〔頭註【枕草子、あでなるもの、かりのこ、けづりひのあまづらにいりて、あたらしきかなまりにいりたる、すいそうのずゞ云々】〕これらみなかもの子を云り、此(ノ)かもは、家にかふ鴨のたぐひの、鶩といふものにて、俗語にあひるといふなるべし、又一説に、これは鷹の兒を、雁乃兒とかきあやまれるにや、云々とあり、鶩《アヒル》の子を、かりの子と云るは、みなその卵を云りときこゆ、かげらふ日記に、六月つごもりがたに、かりのこの見ゆるを、これを十づゝかさぬるわざを、いかでせむとあるをも、考(ヘ)合(ス)べし、もし鶩の雛をいへるならば、唯島の宮の池をさらずて、すめとこそいふべきに、眞弓の崗に來よといへること、似つかはしからず、さればなほタカノコ〔四字右○〕とさだめむこと、然るべし、水戸侯釋にも、鷹を鴈に誤(リ)作るならむとのたまへり、(按(フ)に鴈雁は、共に五諫(ノ)切にて、同字なるを思ふに、もとは雁なりしを、雁とかき、又寫すとき鴈に作《カケ》るものなるべし、※[麻垂/雁の中]は、玉篇に、於陵(ノ)切、今作v鷹(ニ)と見え、續字彙補に、漢(ノ)霍去病(カ)傳(ニ)、卦2※[麻垂/雁の中]庇(ヲ)1爲2※[火+軍]渠侯(ト)1、史記(ニ)作2鷹庇(ニ)1とあるを見れば、※[麻垂/雁の中]乃兒は、鷹子《タカノコ》なり、一(ノ)卷に、日雙斯皇子命乃馬副而御獵立師斯時者來向《ヒナミノミコノミコトノウマナメテミカリタヽシシトキハキムカフ》とあるは、安騎野に御狩し賜ひし事をいひ、此下に、毛許呂裳遠春冬片設而幸之《ケコロモヲハルフユカタマケテイデマシヽ》、宇陀乃大野者夙念武鴨《ウダノオホヌハオモホエムカモ》とあるも、鷹狩にいでましゝを云りときこゆ、又上に引十(555)九の歌に、鳥座由比《トクラユヒ》とあるも、鷹のことなれば、此(ノ)歌に鳥塒立《トクラタテ》とあるにも、打あひてきこえたり、さて御狩の料に、鷹(ノ)子をかひおかせ賜ふ間に、薨賜ひたれば、その鷹(ノ)子の長《ナリ》いでゝ、羽もつよくなりな、他所へは飛行ずして此(ノ)眞弓の崗に來よ、と云るなるべし、催馬樂に、鷹の子はまろにたうばらむ手に居て、あはづのはらのみくるすのすくりの鶉とらせむとあり、)○崗(ノ)字、拾穗本には岡と作り○飛反來年《トビカヘリコネ》は、皇子(ノ)尊の安定《シヅマリ》まします、此(ノ)岡を慕ひて、幾度も幾度も飛かよひ來らね、といふなり、反《カヘル》は、幾度もといふことなり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
183 吾御門《ワガミカド》。千代常登婆爾《チヨトコトハニ》。將榮等《サカエムト》。念而有之《オモヒテアリシ》。吾志悲毛《アレシカナシモ》。
 
吾御門《ワガミカド》とは、吾は、親みていふ辭なり、御門は、島(ノ)宮の御門なり、吾親く仕へ奉る、宮の御門といふなり、○常登婆《トコトハ》は、(婆の濁音(ノ)字を書るは、正しからず、)當津磐《トコツイハ》の約なるべし、ツイ〔二字右○〕の切チ〔右○〕となれるをチ〔右○〕をト〔右○〕に轉して、トコトハ〔四字右○〕とはいへるなり、さてそれよりうつりては、いつも變《カハ》らず、常《トコ》しなへなることにいへり、常磐《トキハ》といふも同じ、(岡部氏がトコトハ〔四字右○〕は、とこしなへに、とこ磐にと言を、かさねて云ふなりと云るは、あたらず、)○吾志悲毛《アレシカナシモ》は、志《シ》は、その一(ト)すぢなることをいふ助辭なり、毛《モ》は、歎息(ノ)辭なり、○歌意かくれたるところなし、
 
184 東乃《ヒムガシノ》。多藝能御門爾《タギノミカドニ》。雖伺侍《サモラヘド》。昨日毛今日毛《キノフモケフモ》。召言毛無《メスコトモナシ》。
 
東乃多藝能御門《ヒムガシノタギノミカド》は、池に瀧ある方の御門を、かく名づけられたりけむ、さてそは東(ノ)方にあれ(556)ば、かくいへるなるべし、○召言毛無《メスコトモナシ》は、(言は借(リ)字、)召て使はす事もなし、といふなり、賣須《メス》は、もと御覽《ミソナハ》すことを御見《メス》といふ、そは見《ミ》の伸りたる言なること、既く云たるが如し、さてそれより轉(リ)ては、必(ス)御覽《ミソナハ》すことならでも、親く呼(ヒ)寄ることを、賣須《メス》といふなり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
185 水傳《ミヅツタフ》。礒乃涌回乃《イソノウラミノ》。石乍自《イソツヽジ》。木丘開道乎《モクサクミチヲ》。又將見鴨《マタミナムカモ》。
 
水傳《ミヅツタフ》は、御庭の池の、島のめぐりに走らせたる水の、礒間々々をつたひて、流るゝをいへり、(余さきには、水は、百(ノ)字の草書を誤れるにて、モヽヅタフ〔五字右○〕と有しか、さらば三(ノ)卷に、百傳磐余池爾《モヽツタフイハレノイケニ》云々、とよめるに同じく、百にかぞへ傳ふる五十《イ》てふ意にて、イ〔右○〕の一言にかゝれる、枕詞ならむとおもひしを、のちに思へば、ひがことなりけり、百傳《モヽツタフ》五十《イ》といふことぞ、中々にあらぬつづけざまにはありける、)○礒乃浦回《イソノウラミ》(回(ノ)字、拾穗本には廻と作り、)は、上に云る如く、磐たゝみ、瀧はしらせなどしたる、御庭の池の景をいへり。浦回は、ウラミ〔三字右○〕と訓べし、(ウラマ、ウラワ〔六字右○〕などよめるは非なり、既く云り、)○石乍自《イソツヽジ》は、礒邊に生たる茵《ツヽジ》なり、イソツヽジ〔五字右○〕と訓べし、礒松《イソマツ》などいふ類なり、)廿卷に、伊蘇麻都《イソマツ》、)七(ノ)卷に、山越而遠津之濱之石管自《ヤマコエテトホツノハマノイソツヽジ》、迄吾來含而有待《アガキタルマデフヽミテアリマテ》、とも見えたり、(此をむかしより、イハツヽジ〔五字右○〕とよみ來れども、さにあらず、いづれも礒濱によみ合(セ)たるにても、必イソ〔二字右○〕なるべきをしれ、和名抄に、羊躑躅、和名|以波豆々之《イハツヽジ》、一(ニ)云、毛知豆々之《モチツヽジ》、字鏡に、茵芋(ハ)、岡(557)豆々志《ヲカツヽジ》、又云、伊波豆々之《イハツヽジ》などあるは、一種(ノ)茵の名なり、さて和名抄によるに、以波都都自《イハツヽジ》、毛知都々自《モチツヽジ》は、全同種にて、其(ノ)毛知都々自《モチツヽジ》は、めづる色もなきものなれば、此(ノ)歌意にかなはず、こゝはそれとは別にて、たゞ礒邊に生たるを云るなり、猶品物解にも委く云るを考(ヘ)合(ス)へし、)○木丘開《モクサク》は、茂《シゲク》開《サク》なり、神代(ノ)紀に、枝葉|扶※[足+充]《シキモシ》、應神天皇(ノ)紀に、芳草|薈蔚《モクシグク》、顯宗天皇(ノ)の紀に、厥(ノ)功|茂焉《モシ》、尚書に厥(ノ)草(ハ)惟(レ)※[謠の旁+系]《モシ》、厥(ノ)木(ハ)惟(レ)條《ナガシ》、毛詩に、如2松(ノ)茂《モキガ》1矣、遊仙窟に、蓊茸《モクサカリ》、古文眞寶に豐草緑縟而爭(ヒ)v茂《モキコトヲ》などあり、本居氏云、續紀詔に、牟倶佐加爾《ムクサカニ》とあるは、茂榮《ムクサカ》にの意と聞ゆ、牟久《ムク》と、母久《モク》と同じ言なり、又|森《モリ》といふ名も、木の生茂りたるよしなり、六(ノ)卷に、百木盛山者木高之《モヽキモリヤマハコダカシ》、これも盛《モリ》は、しげりといふことなり、(夫木集九條殿、秋の日の礒のうらわのあま人はきくさく道にしぼやくむらむとあるは、木丘をキク〔二字右○〕とよめる點によりて、誤られたるか、)○又將見鴨《マタミナムカモ》は、今よりは、此(ノ)宮に參るまじければ、嗚呼《アハレ》又見なむやはとなり、○歌(ノ)意は水傳ひなど、よろづおもしろき、御池の礒の裏《ウ》なる、つゝじのしげく咲たる道を、又も參りて見まじきかとおもへば、嗚呼《アハレ》いとゞ名殘をしく、おもはるゝよとなり、
 
186 一日者《ヒトヒニハ》。千遍參入之《チタビマヰリシ》。東乃《ヒムガシノ》。太寸(能)御門乎《タギノミカドヲ》。入不勝鴨《イリカテヌカモ》、
 
太寸能御門《タギノミカド》(太(ノ)字、舊本大に誤、今は拾穗本に從、)は、舊本能(ノ)字を脱せり、タギノミカド〔六字右○〕とよめるはよし、故(レ)今能(ノ)字を補入つ、(略解にオホキミカド〔六字右○〕とよみたれども、上にも、多藝能御門《タギノミカド》とあれ(558)ば、然よまむはわろし、但し太の濁音字を用ひたるは、とりはづして書るにて正しからざるべし、清て唱べき所にも、太(ノ)字をとりはづして書ること、集中に多し、)○人不勝鴨《イリカテヌカモ》は、入むとおもへど、得入ざる哉といふなり、加?奴《カテヌ》は、(奴は、不の意にあらず、この事既上に委(ク)云り、混ふべからず、)加禰都《カネツ》に通ふ言にて、その加?《カテ》、加禰《ガネ》は、しかせむと心に欲《ネガ》ふことを、つひにしか得せざるを云(フ)詞なり、○歌(ノ)意は、一日の中に數遍あり通ひし、島の宮の御門を、尊のおはしまさねば閇《タテ》たる故、入むとおもへど、入ことを得せざるが悲しきこと哉となり、實は宮(ノ)内にとりもつ事もなければ、入て侍ふべき由もなきを、御門の閇たる故に、入むとおもへど、得入ぬよしにかこつけて云るは、上手の口つきにて、ことにあはれふかし、
 
187 所由無《ツレモナキ》。佐太乃岡邊爾《サダノヲカヘニ》。反居者《キミマセバ》。島御橋爾《シマノミハシニ》。誰加住舞無《タレカスマハム》。
 
所由無、ツレモナキ〔五字右○〕と訓るよしは、此(ノ)上の長歌に云るが如し、○反居者は、反は、君(ノ)字の寫誤なるべし、(草書は似たり、)キミマセバ〔五字右○〕と訓べし、居(ノ)字はマス〔二字右○〕と訓べき處|往々《ヲリ/\》あり、(三(ノ)卷に、神左備居賀と有も、カムサビマス〔六字右○〕カと訓べき所なり、)又は座(ノ)の寫誤にても有べし、(座の打とけ書、座居と能混ひやすし、)此上に、外爾見之檀乃岡毛君座者《ヨソニミシマユミノヲカモキミマセバ》、常都御門跡侍宿爲鴨《トコツミカドトトノヰスルカモ》、とあるにて、こゝも君座者《キミマセバ》なるべきをしれ、(岡部氏が、反居者《カヘリヰバ》は、分番交替してゐるをいふ、とあるはたがへり、もしさらば、カヘリヲレバ〔六字右○〕といはでは、かなはぬことなり、又度會(ノ)弘訓(カ)、海人のしわざといふ(559)ものに、反居者は、殿居者の誤にて、トノヰセバ〔五字右○〕なるべし、といへるもあたらず、トノヰセバ〔五字右○〕とては、いまだ侍宿せぬほどより、後をかけていふ詞なるに、この歌、既く佐田(ノ)岡の御墓所に、侍宿つかうまつる間に、舍人等のよめるなれば、こゝに叶はず、又上にも侍宿とのみ書るを、ここにのみ、殿居と書しとも思はれず、彼(ノ)海人のしわざといふもの、初一卷を近(キ)頃見しなり、無證論《アトナシゴト》の多き書なり、)○島御橋爾《シマノミハシニ》は、島(ノ)宮の御階になり、○誰加住舞無《タレカスマハム》は、誰ありてか住て居むとなり、住舞無《スマハム》は、須麻牟《スマム》の伸りたるにて、(麻波《マハノ》切|麻《マ》、)その伸云るは、緩なる意をいふことなれば、こゝは住て居む、と云ほどのことなり、○歌(ノ)意は、よりたのみ給ふべき人もなければ、思ひもかけざるに、今かく皇子のおはしますによりて、佐田(ノ)岡邊に宿直しつゝあれば、島(ノ)宮の御階のもとには、誰ありてか、侍らひて衛り申さむとなり、舍人等は、御門と御階のもとにさぶらへば、かくいへり、
 
188 旦覆《アカネサス》。日之入去者《ヒノイリヌレバ》。御立之《ミタヽシシ》。島爾下座而《シマニオリヰテ》。嘆鶴鴨《ナゲキツルカモ》。
 
旦覆は、茜指の誤なるべし、アカネサス〔五字右○〕と訓べし、こは茜指と打とけ書しを、旦覆と見て、誤寫《ヒガガキ》せしものなるべし、(契冲が、旦覆を、アサクモリ〔五字右○〕と訓るによりて、日のいるは夕(ヘ)にこそあれ、朝日の入とよめる心は、皇子の東宮にてましませしかば、朝の日の出のごとくおもひ奉れるを、俄かにしてかくれ賜へば、朝の間にくもりて、日の入と申心なりと云るは、古意ならず、又(560)岡部氏は、旦覆を、天靄と改めて、アマグモリ〔五字右○〕とよみたれども、みだりなり、)○日之入去者《ヒノイリヌレバ》は、日の暮ぬれば、といふ意なり、○御立之《ミタヽシシ》は、例によるに、立の下、爲(ノ)字を脱せるか、○島爾下座而《シマニオリヰテ》は、御池をのぞきて、つねに立せ給ひし、御かげを戀奉りて、舍人等が、島におりたちなげくなり、○歌(ノ)の意は、かくれたるところなし、
 
189 旦日照《アサヒテル》。島乃御門爾《シマノミカドニ》。欝悒《オホヽシク》。人音毛不爲者《ヒトトモセネバ》。眞浦悲毛《マウラカナシモ》。
 
欝悒《オホヽシク》は、上に出たり、いぶかしく、おぼつかなきよしなり、○眞浦悲毛《マウラカナシモ》は、眞心悲《マウラカナシ》にて、(眞《マ》は、悲といふまでにかけて心得べし、眞我那志《マガナシ》といへるをも、思(ヒ)合(ス)べし、眞《マ》は、僞(リ)の反にて、眞實に悲しきよしなり、又|眞我那志《マガナシ》を、心悲と書る所あるも、意を得たる書樣にて、その僞(リ)て、うはべに悲しきふうするよしならず、眞實に、心より悲しく思ふよしなり、)毛《モ》は、歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、島(ノ)宮の御門の、盛なりしに引かへて、今は參る人もなければ、人音もせず、何事もおぼつかなければ、見るに堪がたく、嗚呼《アハレ》たゞ心のみ、かなしくおもはるゝことよとなり、
 
190 眞木柱《マキバシラ》。太心者《フトキコヽロハ》。有之香杼《アリシカド》。此吾心《コノアガコヽロ》。鎭目金津毛《》シヅメカネツモ。
 
眞木柱《マキバシラ》は、太《フト》の枕辭なり、此は集中に大宮の事を、眞木柱太高敷而《マキバシラフトタカシキテ》、とよめるごとく、よき家の柱は、眞木もて、太くしたゝかに制造《ツクリ》立れば、かくつゞけたり、神代(ノ)紀に、造宮之者《ミヤツクルサマ》、制|柱者高太《ハシラハタカクフトク》、神武天皇(ノ)紀に、古語(ニ)稱之曰《タヽヘマヲサク》、於2畝傍之橿原1也、太2立宮柱《ミヤバシラフトシキタテ》於|底盤之根《ソコツイハネニ》1、などあるを思(ヒ)合(ス)べし、○鎭(561)目金津毛《シヅメカネツモ》は、鎭めむと思へども、鎭ることを得せずとなり、毛《モ》は、歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、太くしたゝかなる、大丈夫の男心なれば、いかなることにも動くべからずとかねて思ひしにたがひて、哀しく痛ましきに堪かねて、勒悸《サワ》ぐ心をしづめむと思へども、鎭る事を得せず、さても歎かしき世かなとなり、
 
191 毛許呂裳遠《ケコロモヲ》。春冬片設而《ハルフユカタマケテ》。幸之《イデマシシ》。宇陀乃大野者《ウダノオホヌハ》。所念武鴨《オモホエムカモ》。
 
毛許呂裳《ケコロモ》は、鳥獣の毛もておれる衣なり、和名抄に、※[敞/毛](ハ)介古呂毛《ケコロモ》とあり、古(ヘ)御狩には、專(ラ)毛衣を用ひしならむ、(嵯峨野物語にも、鷹飼の装束は、みなかは衣かは袴なりとあり、)故(レ)やがてその物もて、春の枕詞とせしなり、春と屬《カヽ》れる意は、衣を張といふなり、衣(ノ)類を張といへるは、十三に、山邊乃五十師乃御井者自然成錦乎張流山可母《ヤマヘノイシノミヰハオノヅカラナレルニシキヲハレルヤマカモ》、とある此なり、○春冬片設而《ハルフユカタマケテ》は、春と冬とを片設てなり、片設は、片附設《カタヅキマウク》るよしなり、片は、夕片設而《ユフカタマケテ》、山片附而《ヤマカタヅキテ》、なども多く云るごとく、中間を過て、其(ノ)方に偏倚《カタヨ》ることなり、さればこゝは、其(ノ)時に至れるをかた附設けてと謂《イヘ》り、(岡部氏が、片は、取の誤として取設《トリマウケ》とせるは、いかにぞや、片設といふことは、外にも多きをや、但し衣を春といひかくる事、今(ノ)京の言にて、古(ヘ)はなければ、此(ノ)歌にかなはず、春冬、その毛衣を設著て、と云なりと云れど、衣を張あざの、古(ヘ)よりあらむからには、いかで衣を春とも、いひかけざらむ、はた右に引十三の歌をも見よ、且《ソノウヘ》衣打なども多(ク)いひかけたれば、張ともなどかいひか(562)けざらむ、○幸之《イデマシヽ》は、一(ノ)卷に、日雙斯皇子命乃馬副而御獵立師斯時者來向《ヒナミノミコノミコトノウマナメテミカリタヽシヽトキハキムカフ》、とよみし、御獵のことを、こゝにもいふなり、○宇陀乃大野《ウダノオホヌ》は、即(チ)かの安騎(ノ)野なり、上に云り、○所念武鴨《オモホエムカモ》は、今よりゆくさき、常におもほえて、慕はれ奉らむかとなり、○歌(ノ)意は、春と冬の時節を待設けて、遊獵し給ひし、其(ノ)宇陀の野を見るごとに、ありし昔(シ)のおもはれて、あはれ今より行さきいつまでも、皇子の御事の、忘れがたからむかと歎くなり、
 
192 朝日照《アサヒテル》。佐太乃岡邊爾《サダノヲカヘニ》。鳴鳥之《ナクトリノ》。夜鳴變布《ヨナキカハラフ》。此年己呂乎《コノトシゴロヲ》。
 
鳴鳥之《ナクトリノ》は、此(レ)迄は序に云るにて、舍人等が啼を云る歟《カ》、又おもふに之(ノ)字は、毛の誤にて、ナクトリモ〔五字右○〕ならむ、若(シ)しからば、佐太の岡邊に鳴鳥すらも、此(ノ)年頃は、かなしみに堪かねて、夜々なきかへりなきかへりするよと、鳥の啼居るを聞て、作《ヨメ》るなるべし、○夜鳴變布は、舊訓に、ヨナキカヘラフ〔七字右○〕とある宜し、幾度も/\、鳴て居る意なり、(岡部氏がヨナキカハラフ〔七字右○〕とよめるは、いとわろし、)變布《カヘラフ》は、可敝留《カヘル》の伸りたるにて、その伸いふは、緩なるさまをいふことなれば、幾遍《イクカヘリ》も幾(ク)遍(リ)も、絶ず鳴て居るよしなり、○此年己呂乎《コノトシゴロヲ》は、一周の間、御墓づかへせしなれば、年比と云るなり、己(ノ)字は書たれども、多(ク)の例によりて、年期呂《トシゴロ》と濁りて唱(フ)べし、○歌(ノ)意は、晝はさすがに、人目をはぢて、かたへは大夫づくりてをるものから、夜々はなほ悲みに堪がたくて、幾囘《イクタビ》も、音にのみ哭つゝ、この一周の間、長き年頃を、御墓づかへしつゝ居るよとなり、又|鳴鳥毛《ナクトリモ》と(563)するときは、鳴鳥すらも、この年頃は、悲みに堪かねて夜々なきかへり、なきかへりしつゝ、皇子を慕(ヒ)奉りて、鳴き居るは鳥さへもかゝれば、まして親しく仕へ奉りし人の、歎き奉るは、げに理なることぞといふ意を、ふくみたるものなるべし、
 
193 八多籠良我《ヤタコラガ》。夜晝登不云《ヨルヒルトイハズ》。行路乎《ユクミチヲ》。吾者皆悉《アレハコト/”\》。宮道叙爲《ミヤヂニゾスル》。
 
八多籠良我《ヤタコラガ》(我(ノ)字、舊本家に誤、今は類聚抄拾穗本等に從つ、)は、奴等之《ヤツコラガ》なるべし、タツ〔二字右○〕同音なれば、通(ハ)し云るか、(但(シ)奴《ヤツコ》のコ〔右○〕に籠(ノ)字を用(ヒ)たるは、いさゝか疑はし、)水戸侯釋に、八多籠良、ハタコラ〔四字右○〕と訓べき歟、和名抄(ニ)云、唐韻(ニ)云、※[竹/〓]、(漢語抄(ニ)云、波太古《ハタコ》、俗用2旅籠二字(ヲ)1、)飼v馬(ヲ)籠也、かゝれば馬を追(フ)男を、彼が持ところの具によりて、はたこらと云歟、旅人に宿かす處を、俗にはたごやといふを思(フ)べし、八多籠と書る籠の字も、此(ノ)意にや、馬迫ふ男は、詞なめげにて、賤しき者の限なれば、それらのみ行道と云る歟、とあり、棚機女を、やがて棚機とのみ云ることも、常なれば、※[竹/〓]《ハタコ》を持(ツ)男を、やがて波多籠《ハタコ》とも、云べきことなり、本居氏、良は馬の誤にて、ハタコウマ〔五字右○〕なるべし、旅籠馬《ハタコウマ》といふ事、蜻蛉日記にもみゆ、宇治拾遺にも、はたご馬、皮子馬など來つぎたり、と有と云り、○歌(ノ)意は、宮路には、道守ありて、みだりに夜行など、ゆるさぬ事なるに、其(レ)とは異《カハ》りて、さるいやしき里民どもが、晝夜となくほしきまゝに常に通ふ道を盡くに、おもひもかけず、我等が宮づかへの道として、通ふことよとなり、○岡部氏云、右は六百人の舍人なれば、歌もいと多く(564)ありけむを、撰みて載られしなるべし、皆いとすぐれて、嘆を盡し事をつくせり、後にもかなしみの歌は、かくこそあらまほしけれ、
〔右日本紀曰。三年己丑夏四月癸末朔乙未薨。〕
 
河島皇子殯宮之時《〔八字○で囲む〕カハシマノミコノアラキノミヤノトキ》。柿本朝臣人麿《カキノモトアソンヒトマロガ》。獻《タテマツレル》2泊瀬部皇女《ハツセベノヒメミコト》1忍坂部皇子〔五字□で囲む〕歌一首并短歌《ウタヒトツマタミジカウタ》
 
河島(ノ)皇子は、天智天皇の皇子なり、一(ノ)卷に見えて、傳彼(ノ)所に委(ク)云り、持統天皇五年九月に薨賜ふよし、左註に書紀を引て云るが如し、○泊瀬部(ノ)皇女は、天武天皇(ノ)紀に、宍人(ノ)臣大麻呂(ガ)女、※[木+穀]《カヂ》媛(ノ)娘生2二男二女(ヲ)1云々、其(ノ)三(ヲ)曰2泊瀬部(ノ)皇女(ト)1、續紀に、靈龜元年甲午、四品長谷部(ノ)内親王(ニ)益2封一百戸(ヲ)1、天平九年二月戊午、四品長谷部(ノ)内親王(ニ)授2三品(ヲ)1十三年三月壬午朔己酉、三品長谷部(ノ)内親王薨、天武天皇之皇女也とあり、○此(ノ)題詞、舊本は亂れたるものと見ゆ、こは舊本歌(ノ)左に註して或本(ニ)曰、葬2河島(ノ)皇子(ヲ)越智野(ニ)1之時、獻2泊瀬部(ノ)皇女(ニ)1歌也、とあるに依べし、又皇女の御兄忍坂部(ノ)皇子へ、兼獻るべきよしなく、歌にもたゞ御夫婦の御うへをのみ云たれば、忍坂部(ノ)皇子の五字も、混入しものとこそおもはるれ、
 
194 飛鳥《トブトリノ》。明日香乃河之《アスカノカハノ》。上瀬爾《カミツセニ》。生玉藻者《オフルタマモハ》。下瀬爾《シモツセニ》。流觸經《ナガレフラフ》。玉藻成《タマモナス》。彼依此依《カヨリカクヨリ》。靡相之《ナビカヒシ》。嬬乃命乃《ツマノミコトノ》。多田名附《タタナヅク》。柔膚尚乎《ニキハダスラヲ》。釼刀《ツルギタチ》。於身副不寐者《ミニソヘネネバ》。烏玉乃《ヌバタマノ》。夜床母荒(565)良無《ヨトコモアルラム》。所虚故《ソコユヱニ》。名具鮫魚天《ナグサメカネテ》。氣留敷藻《ケダシクモ》。相屋常|御〔○で囲む〕念而《アフヤトトオモホシテ》。玉垂乃《タマタタレノ》。越乃大野之《ヲチノオホヌノ》。旦露爾《アサツユニ》。玉藻者※[泥/土]打《タマモハヒヅチ》。夕霧爾《ユフギリニ》。衣者沾而《コロモハヌレテ》。草枕《クサマクラ》。旅宿鴨爲留《タビネカモスル》。不相君故《アハヌキミユヱ》。
 
明日香乃河《フスカノカハ》は、大和(ノ)國高市(ノ)郡にある川(ノ)名なり、神名帳に、飛鳥川上(ニ)坐神社見えたり、明日香ハ、一(ノ)卷下にいへり、○上瀬爾、下瀬爾は、カミツセニ、シモツセニ〔十字右○〕と訓べし、(舊本に、ノボリセニ、クダリセニ〔十字右○〕と訓るはわろし、)古事記下卷允恭天皇(ノ)條(ノ)歌に、許母理久能波都勢能賀波能《コモリクノハツセノカハノ》、賀美都勢爾伊久比袁宇知《カミツセニイクヒヲウチ》、斯毛都勢爾麻久比袁宇知《シモツセニマクヒヲウチ》とあり、○流觸經は、ナガレフラフ〔六字右○〕と訓べし、フラフ〔三字右○〕は、フル〔二字右○〕の伸りたる言にて、その緩なるさまを云なること、上にたび/\云る如し、經をフ〔右○〕の借(リ)字に用ひたること、集中にいと多し、(これを、ナガレフレフル〔七字右○〕とよめるは、いふにもたらぬひがことなり、又岡部氏が、フラヘリ〔四字右○〕と訓るもいかにぞや、經(ノ)字は、ヘ〔右○〕とかフル〔二字右○〕とか訓べし、ヘリ、ヘル〔四字右○〕などは、よむべきよしなし、本居氏は、觸經は、フラバヘ〔四字右○〕と訓べし、古事記雄略天皇條(ノ)歌に、ほづえのえのうら葉は、中つ枝に淤知布良婆閇《オチフラバヘ》、とありといへり、是も然るべし、但し經を、ハヘ〔二字右○〕とよまむこともいかゞなれば、猶よく考(フ)べし、經は、集中に、皆ヘフ〔二字右○〕と訓べき所にのみ、用ひたればなり、たゞ六(ノ)卷に、打經而里並敷者《ウチハヘテサトナミシケバ》、とあるのみなり、これも經の上に、羽(ノ)字など落しにて、羽經《ハヘ》とありしにやともおもはるゝなり、さて古事記の淤知布良婆閇《オチフラバヘ》は、下へ聯《ツヾ》く處なれば、こゝとはいさゝか異《カハ》れり、されば古事記によりてよまむときには、こゝはフラバ(566)フ〔四字右○〕と訓べし、フラバフ〔四字右○〕としばらく絶《キリ》て、さて玉藻成《タマモナス》云々、と言を興して云格なればなり、源氏物語常夏に、この春のころほひ、夢がたりし給ひけるを、ほのきゝつたへける女の、我なむかこつべきあるとなのり出侍りけるを、中將(ノ)朝臣聞つけて、まことにさやうにも、ふればひぬべきしるしやあると、たづねとぶらひ侍ける、くはしきさまはえしり侍らず、野分に、吹くるおひ風は、しほにこと/”\ににほふらむ、かうのかをりも、ふればひ給へる御けはひにやと、いと思(ヒ)やりめでたく、心げさうせられて、たちいでにくけれど行幸に、ことさらにも、かの御あたりにふればゝせむに、などかおぼえのおとらむ、若菜に、まことにすこしもよづきてあらせむ、と思はむ女子もたらば、おなじくはかの人のあたりにこそは、ふればはせまほしけれ、などあるふればふも、かの布良婆布《フラバフ》と同言ときこゆ、故(レ)按に、こゝも羽(ノ)字の脱たるにて、流觸羽經《ナガレフラバフ》とありしにもやあらむ、)○彼依此依《カヨリカクヨリ》は、上にも、香青生玉藻息津藻浪之共彼縁此依《カアヲナルタマモオキツモナミノムタカヨリカクヨリ》とあり、○靡相之《ナビカヒシ》は、ナビキシ〔四字右○〕の伸りたるなり、カヒ〔二字右○〕は、キ〔右○〕と切まれり、その伸云は、絶ず引つゞきて、緩なる形を云るなり、(岡部氏が、ナビキアヒシ〔六字右○〕のキア〔二字右○〕》の約カ〔右○〕なれば、カヒ〔二字右○〕といふと云るは、まづはさるべくきこゆることなれど、古書の格にたがへた、靡相と書るは、延てナビカヒ〔四字右○〕と訓ぜむ料のみのことにこそあれ、)此(ノ)格は、ツギ〔二字右○〕をツガヒ、ナゲキ〔六字右○〕をナゲカヒ、ホキ〔六字右○〕をホカヒ、ムキ〔五字右○〕をムカヒ〔三字右○〕、などいふ古言の例なり、靡《ナピク》とは、此(ノ)下に、奧津藻之名延之妹者《オキツモノナビキシイモハ》、と云るに、もはら同(567)じく、馴親み賜ひしさまをいふ、之《シ》は、退去し方を云辭なり、○嬬之命《ツマノミコト》は、嬬は、借(リ)字にて夫《ツマ》なり、命《ミコト》は、尊稱なり、みな既く出(ツ)、○多田名附《タタナヅク》は、言(ノ)意は、疊靡附《タゝナハリナビキツク》にて、一(ノ)卷に、疊著青垣山《タヽナヅクアヲカキヤマ》とある下に、古事記傳を引て云るが如し、こゝは柔膚《ニキハダ》の身に疊《タヽ》まり靡附よしに云るなり、○柔膚尚乎は、ニキハダスラヲ〔七字右○〕と訓べし、ニキ〔二字右○〕は、一(ノ)卷に、桑備爾之家《ニキビニシイヘ》、(三(ノ)卷に、丹杵火爾之家《ニキビニシイヘ》、)又|和布《ニキタヘ》、和魂《ニキミタマ》、などいふニキ〔二字右○〕にて、にこやかにやはらかなるよしの稱《ナ》なり、尚乎《スラヲ》は、俗に、さへを、又までをなどいふが如し、尚《スラ》は、幹《モト》はさるものにて、その枝葉《スヱ》までもといふ意の言なり、九(ノ)卷に、春雨須良乎《ハルサメスラヲ》間使爾爲《マツカヒニスル》とあるも、人使はさるものにて、春雨までを使にするよしなり、十五に、可母須良母《カモスラモ》都麻等多具比弖《ツマトタグヒテ》とあるも、人はさるものにて、鳥(ノ)類までもといふよしなり、十(ノ)卷に、從蒼天往來吾等須良汝故《オホソラニカヨフアレスラナガユヱニ》、天漢道名積而叙來《アマノカハヂヲナヅミテゾコシ》、十七に、安良志乎須良爾奈氣枳布勢良武《アラシヲスラニナゲキフセラム》、などある類も、みなその意にて聞えたり、こゝはその意に見ては、すこしいかゞなるやうなれど、此はそのかみ、現世にましましゝほどをいへるにて、たゞに相宿し賜ひしはさるものにて、柔膚までを、御身に副て寐給ひけむを、今はさる事もなければ、夜床も荒らむといへるなり、尚(ノ)字は、猶也とも、加也とも云る意をとれるなるべし、(からぶみに、堯舜(スラ)其(レ)猶病(メリ)諸とあるも、堯舜までも、病にしたりといふ意にて、須良《スラ》と猶《ナホ》と、その意通へり、)○劍刀《ツルギタチ》は、此(ノ)下に、劍刀身二副寐價牟《ツルギタチミニソヘネケム》、十一に、劍刀身副妹之《ツルギタチミニソフイモガ》、十四に、都流伎多知身爾素布伊母乎《ツルギタチミニソフイモヲ》などありて、此は唯|刀《タチ》の身と云かけ(568)たる、枕詞とも云べけれども、四(ノ)卷に、劍太刀身爾取副當夢見津《ツルギタチミニトリソフトイメニミツ》、十一に、劍刀身爾佩副流大夫也《ツルギタチミニハキソフルマスラヲヤ》、などよめるを思(ヒ)合すれば、副《ソフ》といふまでにかゝれる詞なり、契冲も、刀《タチ》をば、をのことあるものゝ身をはなたず、よるもあたりをさけぬものなれば、此(ノ)集におほくかやうによめり、と云るがごとし、さて都流岐《ツルギ》と云名義は、鋭斷《スルガリ》なるべし、須《ス》と都《ツ》は、通はし云ること常多し、我利《ガリ》は、岐《ギ》と切る、我利《ガリ》は、多知《タチ》と云に同じ、多知《タチ》は、裁《タチ》にて、斷《カリ》と裁《タチ》とは、意異らねども、かく連ね云は、木末之上《コヌレノウヘ》など云如し、釼《ツルギ》の刀《タチ》と云るも同じ、分て云ば、都流岐《ツルギ》は、その鋭《スルドキ》を云(ヒ)、多知《タチ》は、廣き稱なり、○夜床母荒良無《ヨトコモアルラム》は、舊本に、一(ニ)云、何禮奈牟と註せり、(是はわろし、)○所虚故《ソコユヱニ》は、それ故にといふが如し、○名具鮫魚天氣留敷藻は、荒木田氏云、魚は兼の誤、留は田の誤にて、ナグサメカネテケダシクモ〔ナグ〜右○〕なりと云るは、實《マコト》に千載《チトセ》の發明《ミヒラキ》といふべし、慰不得而蓋毛《ナグサメカネテケタシクモ》なり、御心を慰めむとおぼしめせど、得なぐさめ賜はずして、若(シ)も相見ることのあらむかとおぼしめして、とつゞく意なり、蓋毛《ケダシクモ》は、もしもと云が如し、上に云り、○相屋常御念而《アフヤトオモホシテ》、(御(ノ)字舊本になきは、脱たるものなるべし、こゝは皇女の御うへを申せる語なれば、かならず御念《オモホシ》とあるべき所なり、念《オモヒ》とのみいはむは、いと不敬《ナメゲ》なり、)舊本に、一云、公毛相哉登と註せり、○玉垂乃《タマタレノ》は、枕詞なり、七(ノ)卷に、玉垂之小簾之間通《タマタレノヲスノマトホシ》、十一に、玉垂小簾之寸鷄吉仁《タマタレノヲスノスケキニ》、及|玉垂之小簀之垂簾乎《タマタレノヲスノタリスヲ》などあり、玉は渚《ヲ》に貫て、物に懸垂て飾とする物なる故、玉を垂る緒といふ意にいひかけたり、)按(フ)に、風俗歌(569)玉垂に、太萬多禮乃加女乎奈加仁須恵天《タマタレノカメヲナカニスヱテ》、阿流之者毛也《アルジハモヤ》、佐加奈末幾仁佐加難止利仁《サカナマキニサカナトリニ》、己由流木乃伊曾乃和加女加利阿介仁《コユルキノイソノワカメカリアゲニ》とあるも、元(ト)は乎加女《ヲカメ》とありけむを、やゝ後にうたひひがめたるか、古今集雜に、玉たれの小瓶《ヲカメ》やいつらこよろぎの磯の浪分おきにいでにけり、とあるは、右の風俗歌に本づきてよめるものこなり、これをこかめとかけるは、後に小瓶《ヲカメ》を唱へ誤りたることさらなり、又六帖に、我ならぬ人にや人に玉たれのみすれやみすれあらはなりとも、とあるは、玉垂之《タマタレノ》といふ枕詞を、あしく心得て、すべて簾に係《カヽ》る詞と思へるより、かくつゞけたるか、彼(ノ)頃はさる誤もすくなからず、)○越乃大野《ヲチノオホヌ》は、高市(ノ)郡|小市《ヲチノ》野なり、皇子の御墓、此處にありし事|明《サダカ》なり、天智天皇(ノ)紀に、小市岡上(ノ)陵、天武天皇(ノ)紀に、幸2越智(ニ)1、諸陵式に、越智(ノ)崗(ノ)上(ノ)陵、(皇極天皇、在2大和(ノ)國高市(ノ)郡1、)城上(ノ)郡に大市《オホチ》と云所もあれば、小市《オチ》は彼に對へたる名なりと水戸侯釋に見えたり、また七(ノ)卷に、眞珠付越能菅原《マタマツクヲチノスガハラ》とあるは、こゝと同處か、近江(ノ)國なるか、(十三に、息長之遠智能小菅《オキナガノヲチノコスゲ》とあるは、近江(ノ)國坂田郡なり、)○旦露爾《アサツユニ》云々、夕霧爾《ユフギリニ》云々は、旦夕に、衣裾の露霧に濕《ヌレ》てといふことを、旦夕にわかちて、言を文《カザ》れるなり、さて旦夕を云るは、旦となく夕となく、遍々《タビタビ》そこにおはしますよしなるべし、○玉藻者※[泥/土]打《タマモハヒヅチ》、(藻(ノ)字、拾穗本には裳、※[泥/土](ノ)字、同本に泥と作り、)玉藻《タマモ》は、(藻は借(リ)字、)玉裳なり、一(ノ)卷に、※[女+感]嬬等之珠裳乃須十二《ヲトメラガタマモノスソニ》、九(ノ)卷に、紅玉裾須蘇延《クレナヰノタマモスソビキ》、廿(ノ)卷に、乎等賣良我多麻毛須蘇婢久《ヲトメラガタマモスソビク》などあり、※[泥/土]打《ヒヅチ》は、皆借(リ)字にて、ヒヅチ〔三字右○〕と訓(マ)しめむ料に書(570)る字なり、假字には、十五に、安佐都由爾毛能須蘇比都知《アサツユニモノスソヒヅチ》、十七に、波流佐米爾爾保比比豆知底《ハルサメニニホヒヒヅチテ》とあり、さて比豆《ヒヅ》は、濕《ヌル》ることなり、(※[泥/土](ノ)字につきて、※[泥/土]に漬《ツキ》てぬるゝことゝ思ふことなかれ、比豆都《ヒヅツ》は、雨露涙などをはじめ、何にもぬるゝことに云り、)かくて此(ノ)言を、比豆《ヒヅ》とも、比治《ヒヂ》とも常にいふを、比豆知《ヒヅチ》とも、比豆追《ヒヅツ》とも活《ハタラ》く、知《チ》追《ツ》の言はいかにぞといふに、こはそのさまを云詞にて、多藝《タギ》を、多藝知《タギチ》、多藝追《タギツ》とも、毛美《モミ》を、毛美知《モミチ》、毛美追《モミツ》とも云がごとし、既く此(ノ)卷(ノ)上に委(ク)云り、○衣者沾而《コロモハヌレテ》、上とすこし詞をかへて、文《アヤ》に云つらねたるなり、○旅宿鴨爲留《タビネカモスル》、鴨《カモ》は、加《カ》は疑の辭、毛《モ》は、歎息(ノ)辭なり、此(ノ)辭は、爲留《スル》の下にうつして意得べし、按(フ)に、爲留は、爲須と元はありけむを、後に寫し誤れるものならむか、さらば、タビネカモセス〔七字右○〕と訓べし、(爲留《スル》は自(ラ)のうへにいひ、又たゞ人の事にいふことなり、こゝは皇女の御事を、申し、ことにその皇女に獻れる歌なれば、爲留《スル》と云むは、いと不敬《ナメゲ》ならずや、三卷に、皇者神二四座者天雲之《オホキミハカミニシマセバアマクモノ》、雷之上爾廬爲流鴨《イカヅチノウヘニイホリスルカモ》とあるも、天皇の御事を申せるなれば、爲流《スル》と云むはいと無敬《ナメゲ》なれば、流は須の誤にて、セス〔二字右○〕ならむとはやくいへる説あり、こゝもそれと同じことなり、さて爲須《セス》は、爲《シ》給ふといふ意なり、世須《セス》は、須《ス》の伸りたる言にて、その伸いへるは尊む方なれば、爲《シ》給ふといふ意になること、相《アフ》を伸て阿波須《アハス》と云は、相(ヒ)給ふといふ意になるがごとし、この事上にたび/\云たり、○不相君故《アハヌキミユヱ》は、不v逢君なるものをの意なり、(俗に、不v逢君ぢやにといはむがごとし、)○歌(ノ)意は年頃親し(571)く馴(レ)睦《シタシ》み給ひ、皇子と夜々相宿し給ひしはさるものにて、にこやかにやはらかなる御膚をさへに、御身にそへて寢給ひけむ、その皇子の薨ましてより、夜床も次第《ヤウ/\》に荒まさるらむ、其を見つゝ堪かね給ひて、御心を慰め給はむよしもなければ、もしも皇子を相見給ふこともあらむかとおぼしめして、越《ヲチ》の大野の露霧に御衣御裾を濕《ヌラ》して、旦夕におはしまして、やがてその野にたびねし給ふらむか、あはれ今は、とてもかくても相見給ふべくもあらぬ皇子なるものを、と云るなるべし、あはれにかなしきことかぎりなし、古(ヘ)は新喪に、墓地の傍に廬を作りて、一周の間人して守らせ、又自(ラ)》そこに行ても宿りしなるべし、舒明天皇(ノ)紀に、蘇我氏|諸族等悉集《ヤガラドモツトヒテ》、爲(ニ)2島(ノ)大臣(ノ)1造(テ)v墓(ヲ)而次(レリ)2于|墓所《ハカトコロニ》1、爰(ニ)摩理勢(ノ)臣|壞《コボチテ》2墓所之廬(ヲ)1、退(テ)2蘇我(ノ)田家《ナリトコロニ》1而不v仕、と見えたるを、考(ヘ)合(ス)べし、
 
反歌一首《カヘシウタヒトツ》。
 
一首の二字、拾穗本にはなし、
 
195 敷妙乃《シキタヘノ》。袖易之君《ソデカヘシキミ》。玉垂之《タマタレノ》。越野過去《ヲチヌニスギヌ》。亦毛將相八方《マタモアハメヤモ》。
 
袖易之君《ソデカヘシキミ》は、袖易《ソテカヘ》とは、袖指易《ソテサシカヘ》、玉手指易《タマテサシカヘ》などよめるに同じく、手枕をかはして、相宿し給ひし君と申すなり、○越野過去は、ヲチヌニスギヌ〔七字右○〕と訓べし、舊本に、一(ニ)云、乎知野爾過奴(奴(ノ)字、拾穗本に而と作るはわろし、)と註せり、同じことなり、去《ヌ》は、已成の奴《ヌ》なり、過去《スギヌ》は、既(ク)薨賜ひて、越野(572)に葬(リ)まつれることなり、○亦毛將相八方《マタモアハメヤモ》は、又も相給はむやは、といふなり、八《ヤ》は、後世の也波《ヤハ》に同じ、方《モ》は、歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意かくれたる所なし、長歌には、相《アフ》やとおもほして尋來賜へるよしいひ、こゝにいたりて、又あひ賜ふまじきよしを申せり、いとあはれふかし、
〔右日本紀曰。朱鳥五年辛卯秋九月己巳朔丁丑。淨大參皇子川島薨。〕
右の下、舊本に、或本曰云々の二十一字あり(但し其(ノ)中泊瀬部の部(ノ)字、舊本に無は脱たるなり、類聚抄にはあり、)此は仙覺なこどが異本を校(ヘ)たるとき、註入たるものなるべし、其(ノ)全文は上に出せり、まことに此(ノ)或本の説のごとくなるべし、○大(ノ)字、太と作るは誤なり、
 
高市皇子尊《タケチノミコノミコトノ》。城上殯宮之時《キノヘノアラキノミヤノトキ》。柿本朝臣人麿作歌一首《カキノモトノアソミヒトマロガヨメルウタヒトツ》并《マタ》短歌《ミジカウタ》。
 
高市(ノ)皇子(ノ)尊の御傳は、二(ノ)上に既く委く云り、壬申の御亂に御功を立(テ)ましゝことは、天武天皇(ノ)紀(ニ)云、元年六月辛酉朔甲申、先遣(シテ)2高市(ノ)皇子(ヲ)於不破(ニ)1、令v監2軍事(ヲ)1云々、丁亥、高市(ノ)皇子遣(シテ)2使(ヲ)於桑名(ノ)郡家(ニ)1以|奏言《マヲシケヲク》、遠2居(リ)御所(ニ)1、行(ニ)v政|不《ズ》v便《ヨカラ》、宜(シトマヲセリ)v御(ス)2近所(ニ)1、即日天皇留2皇后(ヲ)1而入2不破(ニ)1、云々、到(マスニ)2于野上(ニ)1、高市(ノ)皇子自2和暫1參迎(テ)以|便奏言《マヲサク》、云々、既而《カクテ》天皇謂2高市(ノ)皇子(ニ)1曰、其(ノ)近江(ノ)朝(ニハ)、左右(ノ)大臣及|智謀《サカシキ》群臣共(ニ)定議《ハカリゴテリ》、今朕無2與|計事《ハカリゴツ》者1、唯有2幼小孺子1耳、奈之何《イカニカスベキトノリタマヘレバ》、皇子|攘《カキナデ》v臂(ヲ)按《トリシバリテ》v釼《ツルギノタカミ》奏言《マヲサク》、近江(ノ)群臣雖v多、何敢|(キマツラム)2天皇(ノ)之靈(ニ)1哉、天皇雖v獨(ニマスト)、則臣高市、2神祇(ノ)之靈(ニ)1、請2天皇(ノ)之命(ヲ)1、引2卒諸將(ヲ)1而|征討《ウタムニ》豈有v距乎、爰(ニ)天皇譽之、携(ヘ)v手(ヲ)撫(テ)v背曰(テ)2慣不可怠《ユメナオコタリソト》1因賜2鞍馬(ヲ)1悉(ニ)授2軍事(ヲ)1皇子則還(リ)2和暫(ニ)1、天皇(ハ)於茲行宮(ヲ)興(テ)2野上(ニ)1而(573)居《マシ/\キ》焉、此夜|雷電雨甚《カミナリアメノイタタフレリキ》、天皇|祈之曰《ウケヒタマハク》、天神地祇扶v朕(ヲ)者雷雨息(ム)矣、言訖(テ)即雷(モ)雨(モ)止之、戊子、天皇往(テ)v於2和暫(ニ)1※[手偏+僉]2※[手偏+交]《カムカヘテ》軍事(ヲ)1而還(リマシキ)、己丑、天皇往(テ)2和暫(ニ)1命(テ)2高市皇子(ニ)1號2令《ノリゴタシム》軍衆(ニ)1、亦還(リテ)2于野上(ニ)1而|居之《マシ/\キ》とあり、此後太政大臣に爲(リ)賜ひ、淨廣壹の位を授りしなど、みなこの壬申の亂の御功によれるなり、(既く上に云、)さて此(ノ)皇子、皇太子に立たまへることは、書紀には見えざれども、後(ノ)皇子(ノ)尊と申し、又懷風藻にも其證見えて、上に引たるが如し、○城(ノ)上(ノ)殯宮之時は、此(ノ)皇子の御墓、大和(ノ)國廣瀬(ノ)郡三立(ノ)岡といふ處にあれば、城(ノ)上は其(ノ)地の大名なるべし、和名抄に、大和(ノ)國廣瀬(ノ)郡城(ノ)戸とあり、十三挽歌に、城於道《キノヘノミチ》とも、城上宮《キノヘノミヤ》とも見えたり、此(ノ)下に「明日香(ノ)皇女(ノ)城上(ノ)殯宮、とあるも同し、武烈天皇(ノ)紀に、三年十一月、詔2大伴(ノ)室屋(ノ)大連(ニ)1、發2信濃(ノ)國(ノ)男丁(ヲ)1、作(シム)2於城像(ヲ)水派邑《ミナマタノムラニ》1仍曰2城(ノ)上(ト)1、とある處なるべし、さて薨賜へる年月は、左註に書紀を引るがごとし、○契冲云、人麻呂の長歌おほき中にも、此(ノ)歌ことに長篇にて、つぶさに、壬申の亂をしづめ給へることを、しるされたれば、皇子の威名大功、此(ノ)歌により、不朽を日月に懸たりといふべし、千歳の英魂、皇子の精神にそひて、此(ノ)歌にとゞまれり、後の長歌を見るに只艶麗にして、當世にかなへるをのみいひて、これらの歌におよばぬは、人麻呂赤人とのみ聲にほ《本ノ》して、すこしもその心を知らぬなるべし、
 
199 挂文《カケマクモ》。忌之伎鴨《ユヽユシキカモ》。言久母《イハマクモ》。綾爾畏伎《アヤニカシコキ》。明日香乃《アスカノ》。眞神之原爾《マカミノハラニ》。久堅能《ヒサカタノ》。天都御門乎《アマツミカドヲ》。懼母《カシコクモ》。定賜而《サダメタマヒテ》。神佐扶跡《カムサブト》。磐隱座《イハガクリマス》。八隅知之《ヤスミシシ》。吾大王乃《ワガオホキミノ》。所聞見爲《キコシメス》。背友乃國之《ソトモノクニノ》。(574)眞木立《マキタツ》。不破山越而《フハヤマコエテ》。狛釼《コマツルギ》。和射見我原乃《ワザミガハラノ》。行宮爾《カリミヤニ》。安母理座而《アモリイマシテ》。天下《アメノシタ》。治賜《オサメタマヒ》。食國乎《ヲスクニヲ》。定賜等《サダメタマフト》。鳥之鳴《トリガナク》。吾妻乃國之《アヅマノクニノ》。御軍士乎《ミイクサヲ》。喚賜而《メシタマヒテ》。千磐破《チハヤブル》。人乎和爲跡《ヒトヲヤハセト》。不奉仕《マツロハヌ》。國乎治跡《クニヲヲサメト》。皇子隨《ミコナガラ》。任賜者《マキタマヘバ》。大御身爾《オホミミニ》。大刀取帶之《タチトリハカシ》。大御手爾《オホミテニ》。弓取持之《ユミトリモタシ》。御軍士乎《ミイクサヲ》。安騰毛比賜《アドモヒタマヒ》。齊流《トヽノフル》。皷之音者《ツヽミノオトハ》。雷之《イカツチノ》。聲登聞麻低《コヱトキクマデ》。吹響流《フキナセル》。小角乃音母《クダノオトモ》。敵見有《アタミタル》。虎可※[口+立刀]吼登《トラカホユルト》。諸人之《モロヒトノ》。※[立心偏+力三つ]流麻低爾《オビユルマデニ》。指擧有《サヽゲタル》。幡之靡者《ハタノナビキハ》。冬木成《フユコモリ》。春去來者《ハルサリクレバ》。野毎《ヌゴトニ》。著而有火之《ツキテアルヒノ》。風之共《カゼノムタ》。靡如久《ナビクガゴトク》。取持流《トリモテル》。弓波受乃驟《ユハズノサワギ》。三雪落《ミユキフル》。冬乃林爾《フユノハヤシニ》。飄可母《ツムシカモ》。伊卷渡等《イマキワタルト》。念麻低《オモフマデ》。聞之恐久《キヽノカシコク》。引放《ヒキハナツ》。箭之繁計久《ヤノシゲケク》。大雪乃《オホユキノ》。亂而來禮《ミダリテキタレ》。不奉仕《マツロハズ》。立向之毛《タチムカヒシモ》。露霜之《ツユシモノ》。消者消倍久《ケナバケヌベク》。去鳥乃《ユクトリノ》。相競端尓《アラソフハシニ》。渡會乃《ワタラヒノ》。齊宮從《イハヒノミヤユ》。神風爾《カムカゼニ》。伊吹或之《イブキマドハシ》。天雲乎《アマクモヲ》。日之目毛不令見《ヒノメモミセズ》。常闇爾《トコヤミニ》。覆賜而《オホヒタマヒテ》。定之《サダメテシ》。水穗之國乎《ミヅホノクニヲ》。神隨《カムナガラ》。太敷座《フトシキイマス》而〔□で囲む〕。八隅知之《ヤスミシシ》。吾大王之《ワガオホキミノ》。天下《アメノシタ》。申賜者《マヲシタマヘバ》。萬代爾《ヨロヅヨニ》。然之毛將有登《シカシモアラムト》。木綿花乃《ユフハナノ》。榮時爾《サカユルトキニ》。吾大王《ワガオホキミ》。皇子之御門乎《ミコノミカドヲ》。神宮爾《カムミヤニ》。装束奉而《ヨソヒマツリテ》。遣使《ツカハシヽ》。御門之人毛《ミカドノヒトモ》。白妙乃《シロタヘノ》。麻衣著《アサコロモキ》。埴安乃《ハニヤスノ》。御門之原爾《ミカドノハラニ》。赤根刺《アカネサス》。日之盡《ヒノコト/”\》。鹿自物《シヽジモノ》。伊波比伏管《イハヒフシツヽ》。烏玉能《ヌバタマノ》。暮爾至者《ユフベニナレバ》。大殿乎《オホトノヲ》。振放見乍《フリサケミツヽ》。鶉成《ウヅラナス》。伊波比廻《イハヒモトホリ》。雖侍候《サモラヘト》。佐母良比不得者《サモラヒカネテ》。春鳥之《ハルトリノ》。佐麻欲比奴禮者《サマヨヒヌレバ》。嘆毛《ナゲキモ》。未過爾《イマダスギヌニ》。憶毛《オモヒモ》。未盡者《イマダツキネバ》。言左敝久《コトサヘク》。百濟之原從《ククラノハラユ》。神葬《カムハフリ》。葬伊座而《ハフリイマシテ》。朝毛吉《アサモヨシ》。木上宮乎《キノヘノミヤヲ》。常宮等《トコミヤト》。高之奉而《サダメマツリテ》。神隨《カムナガラ》。安定座奴《シヅマリマシヌ》。雖然《シカレドモ》。吾大王(575)之《ワガオホキミノ》。萬代跡《ヨロヅヨト》。所念食而《オモホシメシテ》。作良志之《ツクラシシ》。香來山之宮《カグヤマノミヤ》。萬代爾《ヨロヅヨニ》。過牟登念哉《スギムトオモヘヤ》。天之如《アメノゴト》。振放見乍《フリサケミツヽ》。玉手次《タマタスキ》。懸而將偲《カケテシヌバム》。恐有騰文《カシコカレドモ》。
 
桂文《カケマクモ》(挂(ノ)字、拾穗本には掛と作り、)は、かけむもの伸りたるにて、(マク〔二字右○〕の切ム〔右○〕となる、)言(ノ)端にかけていはむ事もあり、(岡部氏考に、挂を心にかくことゝせるはわろし、そは次に、言久母《イハマクモ》とあるによりてなれど、同じ意のことをも、言を少しかへて、打かへしいふは、古歌の常ぞ、)○忌之伎鴨《ユヽシキカモ》は、(舊本に、一(ニ)云由遊志計禮杼母と註せり、こはわろし、志(ノ)字、拾穗本には之と作り、)恐多く忌憚《ユユ》しき哉となり、凡て由遊之《ユユシ》といふ言は、恐みて憚らるゝと、嫌《キラ》はしくて幅らるゝ)とありて、總て忌憚らるゝことをいへり、其(ノ)中に三(ノ)卷に、言卷毛齊忌志忌可物《イハマクモユユシキカモ》、六(ノ)卷に、言卷毛湯々敷有跡《イハマクモユヽシカラムト》、又|繋卷裳湯々石恐《カケマクモユヽシカシコシ》、十五に、湯種蒔忌々伎美爾故非和多流香母《ユタネマキユヽシキキミニコヒワタルカモ》、などあるは、こゝと同じく、恐みて忌憚らるゝ方なり、四(ノ)卷に、獨宿而絶西紐緒忌見跡《ヒトリネテタエニシヒモヲユヽシミト》、十(ノ)卷に言出而云忌染《コトニイデテイハヾユヽシミ》、十二に、忌々久毛吾者歎鶴鴨《ユヽシクモアハナゲキツルカモ》、十七に、許登爾伊泥底伊波婆由遊思美《コトニイデヽイハパユユシミ》、古事記雄略天皇(ノ)大御歌に、由々斯伎加母加志波良袁登賣《ユヽシキカモカシハラヲトメ》、などあるは、嫌はしくて忌憚らるゝ方なり、鴨《カモ》は歎息(ノ)辭なり、哉と云むが如し、○言久母《イハマクモ》は、言むもの伸りたるにて、言(ノ)端に出して云む事もなり、○綾爾畏伎《アヤニカシコキ》は、あやしきまでに恐《カシコ》き、といふなり、既く出づ、凡て天皇の御うへを申さむとしては、必(ス)上(ノ)件の言を、先(ツ)初に冠らしめたるは、古語の常なり、是にても、凡て古人の、天皇を深く畏み、厚く敬(ヒ)奉りし(576)ことを、おしはかるべし、古學せむ徒は、こゝに要《カナラ》ずまづ心を附べし、ゆめおほにな見すぐしそ、○眞神之原爾《マカミノハラニ》云々は、天武天皇の御陵を造(リ)奉れる事を云、眞神は、崇峻天皇(ノ)紀に、始作2法興寺(ヲ)此(ノ)地(ニ)1、名2飛鳥眞神(ノ)原(ト)1、亦名2飛鳥(ノ)苫田(ト)1とあり、岡部氏云、こゝには、明日香の眞神の原とよみたるを、紀には、大内てふ所と見え、式には、檜隈(ノ)大内(ノ)陵と有は、本明日香檜隈はつゞきてあり、大内は、その眞神(ノ)原の小名と聞ゆ、然ればともに同じ邊(リ)にて、違ふにはあらず、今見るに、飛鳥の岡(ノ)里の西北二十町ばかりに、五條野といふ所あり、そこに陵あり、是天武持統二天皇、合せ葬まつれる陵なりといへり、○天津御門乎《アマツミカドヲ》、(津(ノ)字、拾穗本には都と作り、)此は御陵を、皇居の御門に准へて、天津と云り、その皇居を天といふも、尊みて高天(ノ)原になぞらへたる稱なり、十三に、久堅之王都《ヒサカタノミヤコ》とあるにて、その高天(ノ)原に效《ナズラ》へたる趣をしるべし、○懼母《カシコクモ》は、恐多くもといふが如し、○定賜而《サダメタマイテ》は、萬代不變|常《トコ》の御門と定賜ひてなり、此上に、御食向木※[瓦+缶]之宮乎常宮跡定賜《ミケムカフキノヘノミヤヲトコミヤトサダメタマヒテ》とあり、○神佐扶跡《カムサブト》は、神さぶるとてといふなり、佐扶《サプ》の言は既く云り、跡《ト》はとての意なり、○磐隱座《イハガクリマス》は、御陵に永く鎭り座をいふ、三(ノ)卷河内(ノ)王を、豐前(ノ)國鏡山に葬れる時の歌に、豐國乃鏡山之石戸立《トヨクニノカヾミノヤマノイハトタテ》、隱爾計良思雖待不來座《カクリニケラシマテドキマサズ》、とよめるが如し、鎭火祭祝詞に、伊佐奈美乃命火結神生給?《イサナミノミコトホムスビノカミウミタマヒテ》、美保止被燒?《ミホトヤカエテ》、石隱坐?《イハガクリマシテ》、倭姫(ノ)命(ノ)世記に、倭姫(ノ)命、自(ラ)退(キテ)2尾上山峯《ヲノヘノヤマノミネニ》1石隱坐《イハカクリマシキ》などあり、さて御陵は、持統天皇(ノ)紀に、冬十月辛卯朔壬子、皇太子率2公卿百寮人等、并請國司國造、及百姓男女(ヲ)1始(テ)築2(577)大内(ノ)陵(ヲ)1諸陵式に、檜(ノ)隈(ノ)大内(ノ)陵、(飛鳥淨御原宮(ニ)御宇天武天皇、在2大和(ノ)國高市(ノ)郡(ニ)1、兆域東西五町南北四町、陵戸五烟、)と見えたり、○所聞見爲《キコシメス》は、廿(ノ)卷に、伎己之米須四方乃久爾《キコシメスヨモノクニ》、とあるに全同じ、凡て天皇の天(ノ)下を治め給ふことを、伎己之乎須《キコシヲス》とも、伎己之米須《キコシメス》とも、之呂志米須《シロシメス》とも云ること、なほ一(ノ)卷此(ノ)朝臣の吉野の長歌に、八隅知之吾大王之所聞食天下爾《ヤスミシシワガオホギミノキコシヲスアメノシタニ》、とある下に委(ク)注《イヒ》たるが如し、さて是よりは、天武天皇の天(ノ)下しろしめしゝ、そのかみのことを立かへりていふなり、○背友乃國之《ソトモノクニノ》は、背面《ソトモ》のことは、一(ノ)卷に委(ク)云り、こゝにては美濃(ノ)國をさす、東山道にて、大和よりは北艮の方にもあたるべければ、かくいへり、(必(ス)山陰道に限りていふにはあらず、宅地にても、後にあたる方を云にて知べし、)○眞木立《マキタツ》は、一(ノ)卷に、眞木立荒山道乎《マキタツアラヤマミチヲ》、三(ノ)卷に、眞木之立荒山中爾《マキノタツフラヤマナカニ》などあり、眞木の事は、既く云り、○不破山越而《フハヤマコエテ》は、美濃(ノ)國不破(ノ)郡の山を越てなり、前に書紀を引て云る如く、是は天皇初吉野を出まして、伊勢の桑名におはしましゝを、高市(ノ)皇子の奏給ふによりて、桑名より美濃の野上(ノ)行宮へ幸し時、此(ノ)山を越賜ひしなるべし、○狛釼《コマツルギ》(狛字、拾穗本に、狗と作るは誤なり、)は、枕詞なり、契冲|狛釼《コマツルギ》は高麗の釼なり、もろこしの釼には、※[木+覇]のかしらに鐶をつくれば、高麗にもつくるべし、鐶のたぐひをも、わといへば、わざみとつゞけむためにいへり、戰國策(ニ)云、軍之所v出、矛戟折鐶鉉絶、(鐶(ハ)刀鐶、補曰、鐶(ハ)姚、本作v弦、)古樂府曰、藁砧今何在、(藁砧(ハ)※[石+夫]也、※[石+夫]借(テ)爲v夫(ト)、)山上更有v山(山上(ノ)山(トハ)言(ハ)出也、)何(ノ)日(カ)大刀頭、(大刀頭有v鐶、鐶借(テ)爲(578)v還、)破鏡飛(テ)上v天(ニ)、(破鏡(ハ)月也、)第十一に、笠のかりてのわざみのにとよめるも、笠のうらにちひさきわをつけて、それよりををすべるを、かりてといふゆゑに、これもわとつゞくるためは、今とおなじ心なりと云り、伊勢大神宮武神寶の中にも、玉纏(ノ)横刀一柄云々、頭頂(ニ)著2仆環一勾(ヲ)1、(經一寸五分玉纏十三町、四面有2五色(ノ)玉1、)と見えたり、(これは古異國より獻りしを、神宮に奉りしなりといへり、谷川氏云、藻鹽草にも、狛釼は柄長くて、輪のあるなりと見えたり、)○和射見我原《ワザミガハラ》は、不破郡|和※[斬/足]野《ワザミヌ》の原なり、なほ次に云べし、十一に、和射見野爾吾者入跡妹爾告乞《ワザミヌニアレハイリヌトイモニツゲコソ》とあり、○行宮《カリミヤ》は、天皇のかりそめに、御座まし給ふ宮をいふ、○安母理座而《アモリイマシテ》は、安母理《アモリ》は、安麻於理《アマオリ》の約りたるなり、(麻於《マオ》の約|母《モ》、)三(ノ)卷に、天降付天之芳山《アモリツクアメノカグヤマ》、十三に、葦原乃水穗之國丹手向爲跡天降座兼《アシハラノミヅホノクニニタムケストアモリマシケム》、十九に、安母埋麻之《アモリマシ》とあり、さてこれは、天上より此(ノ)國土に降るをいふことなるを、こゝは天皇のいたりおはしますを尊みて、高天(ノ)原より降座になぞらへて云るなり、さて高市(ノ)皇子は和※[斬/足]におはしまし、天皇は野上(ノ)行宮におはしましゝを、その野上より、和射見へ度々幸して、御軍事を※[手偏+僉]※[手偏+交]《カムカヘ》賜ひしこと、書紀に見えて、上に引るごとし、○治賜《ヲサメタマヒ》は、舊本に、一(ニ)云、拂賜而《ハラヒタマヒテ》と註せり、(こを岡部氏考に、一云の方をとりて治賜とあるを、あしざまにいひたるはいかに、)續紀卅(ノ)卷(ノ)詔に、新城乃大宮爾《ニヒキノオホミヤニ》、天下治給之中都天皇《アメノシタヲサメタマヒシナカツスメラミコト》、靈異記に御宇を阿米乃志多乎左女多比之《アメノシタヲサメタビシ》と註り、○食國乎《ヲスクニヲ》は、所聞食《キコシヲシ》給ふ國をと云なり、○定賜等《サダメタマフト》は、皇化に歸服《マツロハ》ぬ賊徒を拂ひ平ら(579)げて、定(メ)賜(フ)とてといふなり、等《ト》はとての意なり、○鳥之鳴《トリガナク》(鳥(ノ)字、拾穂本には鷄と作り、)は東の枕詞にて、集中にこよなく多き詞なり、さてこのつゞけの意、昔來諸説あれど、論《イフ》に足ず、今按(フ)に、こはさは鷄が鳴ぞやよ起(キ)よ吾夫《アヅマ》と云意につゞくなるべし、(即(チ)東《アヅマ》といふも、吾妻《アヅマ》といふより興《オコ》れること、古事記書紀に見えて人皆知(レ)るが如し、都麻《ツマ》は、夫をいふも、妻をいふも同意なり、)神樂歌に、には鳥はかけろとなきぬおきよ/\わがかどよつま人もこそ見れ、此(ノ)集にも又、吾(カ)門に千鳥|數鳴《シバナク》起よ起よ、といへるなどを思(ヒ)合(ス)べし、○吾妻乃國之《アヅマノクニノ》云々は、上に書紀を引たる如く、先遣(シテ)2高市(ノ)皇子(ヲ)於不破(ニ)1令v監2軍事(ヲ)1云々、とある以下の事にて、東方諸國の官軍を召集め給ふことなり、(遣2山背部(ノ)小田、安斗(ノ)連阿加布(ヲ)1、發2東海(ノ)軍(ヲ)1、又遣2稚櫻部(ノ)臣五百瀬土師(ノ)連馬手(ヲ)1發2東山(ノ)軍(ヲ)1などあるをいふ、)さて阿豆麻《アヅマ》といふこと、古事記景行天皇(ノ)條に、倭建(ノ)命自v其(相模國燒津、)入幸(シテ)、渡(リマス)2走水(ノ)海(ヲ)1之時其(ノ)渡(リノ)神興v浪(ヲ)廻(シ)v船(ヲ)、不2得進渡(リ)1、爾《マサニ》其(ノ)后名(ハ)弟橘比賣(ノ)命|白之《マヲシタマハク》、妾易(リテ)2御子(ニ)1而入(ナム)2海中(ニ)1、云々、到2足柄(ノ)之坂本(ニ)1云々、故(レ)登2立(テ)其(ノ)坂(ニ)1三歎《ネモゴロニナゲカシテ》、詔2云《ノリタマヒキ》阿豆麻波夜《アヅマハヤト》1故(レ)號(ヲ)2其(ノ)國1謂(フ)2阿豆麻《アヅマト》也、書紀には、日本式(ノ)尊(ノ)曰(ク)、蝦夷(ノ)凶首《ヒトコノカミ》咸《ミナ》伏其辜《マツロヒヌ》、唯信濃國越國(ノミ)頗|未從化《ニキビタラズトノリタマヒテ》則自2甲斐1北轉2歴武藏上野(ヲ)1、西《方》逮(リマス)2于碓日(ノ)坂(ニ)1時、日本武(ノ)尊毎(ニ)有d顧《シヌビマス》2弟橘媛(ヲ)1之情u、、故(レ)登(リマシテ)碓日(ノ)嶺(ニ)1而東南(ノ方ヲ)望之《ミサケマシテ》、三歎《ネモゴロニナゲカシテ》曰(タマヒキ)2吾嬬者耶《アヅマハヤト》1、故(レ)因號(ヲ)2山之東(ノ)諸國1曰2吾嬬(ノ)國(ト)1也とあり、これ古事記と書紀と、傳の異なるが中に、彼(ノ)弟橘媛(ノ)命の亡坐しを、慕ひ歎給へる謂《ヨシ》なるは、共に違はず、さて古事記に依ときは、相模一國を(580)指て、阿豆麻《アツマ》と云る意なれど、廣く云ときは、足柄山より東(ノ)方なる、諸國に渉りて、書紀に、號2山(ノ)東諸國1、曰2吾嬬(ノ)國(ト)1、とあるにたがはず、今(ノ)世に人の心得たる如し、さて彼(ノ)御歎のありし地の、足柄と碓日と傳の異へるは、何れか正しからむ、决めがたし、上野(ノ)國に吾妻(ノ)(阿加豆末《アガツマ》)郡あるを以見れば、確日とせむこと正しからむか、然れども書紀の文の、次第にては、吾嬬の御歎時後れて似つかはしからず、かにかくに决めがたし、さて倭建(ノ)命の此(ノ)行《タビ》の路次《ミチナミ》の趣、古事記なるは皆よくかなへるを、書紀には、國の次第順はず、と本居氏、古事記傳に委(ク)論へり、○御軍士乎《ミイクサヲ》は、伊久佐《イクサ》はこゝに書る如く、軍士をいふ稱《ナ》なり、古事記に、黄泉軍《ヨモツイクサ》、書紀神武天皇(ノ)卷に、女軍《メイクサ》男軍《ヲイクサ》、六(ノ)卷に、千萬乃軍《チヨロヅノイクサ》、廿(ノ)卷に、多家吉軍卒《タケキイクサ》、また須米良美久佐《スメラミクサ》などあり、こゝは官軍なれば御軍士《ミイクサ》と云るなり、(本居氏云、凡て戰を伊久佐《イクサ》と云ることは、古書にはみえず、いと後のことなり、軍(ノ)字師(ノ)字などを書も、其(ノ)人衆を云故なり、然るにいくさは射合箭《イクサ》と云ことなり、と師のいはれつるはいかゞ、戰(ノ)字などを、いくさと訓る例もなきをや、)○喚賜而《メシタマヒテ》は、東海道東山道の軍士を、めし呼給ひてといふなり、○千磐破《チハヤブル》は、二(ノ)上に出て既く委(ク)云り、こゝは官軍に不奉仕《ソムキ》て、猛く烈き人を云り、○人乎和爲跡は、ヒトヲヤハセト〔七字右○〕と訓(ム)、廿(ノ)卷に、知波夜夫流神乎許等牟氣麻都呂倍奴比等乎母夜波志《チハヤプルカミヲコトムケマツロハヌヒトヲモヤハシ》、大殿祭祝詞に、言直志和志《コトナホシヤハシ》(古語(ニ)云|夜波志《ヤハシ》)坐弖《マシテ》、倭姫(ノ)命(ノ)世記に、夜波志志都米《ヤハシシヅメ》などあり、和爲《ヤハセ》は、和《ヤハ》せよといふ意なり、和せよと皇命もて任《ヨザ》し賜へばといふなり、(581)○不奉仕《マツロハヌ》は、不《ヌ》2從服《マツロハ》1なり、麻都呂布《マツロフ》といふ言(ノ)意は、奉《マツ》るの伸りたるなり(呂布《ロフ》は留《ル》と切る、)從服《ツキシタガフ》は、其(ノ)身を上へ奉る故にいふことぞ、既く一(ノ)卷に委(ク)云り、(岡部氏(ノ)考に、纏《マツ》ふことに解なせるは非なり、)○國乎治跡《クニヲヲサメト》は、(舊本に、一(ニ)云、掃部等と註せり)國を治めよとゝいふ意なり、治めよと皇命もて、任し賜へばといふなり、○皇子隨《ミコナガラ》は、神隨《カムナガラ》とあるにひとしきいひ樣にて、皇子とまします其(ノ)まゝに、任賜へる軍事を負持(チ)給ふよしなり、○任賜者《マキタマヘバ》は、任賜ふまゝに、軍事を負持(チ)賜(ヘ)者といふなり、さて元|麻氣《マケ》は令《セ》v罷《マカラ》の切りたる言にて、皇命以て、京外の國々の官事などに遣すをいひ、麻伎《マキ》は罷《マカリ》の切りたる言にて、皇命を奉《ウケ》て、京外の國々の官事などに罷《マカ》るを云ことなるを、それより轉りては、何事にまれ、命令《ミコトオホセ》て負持(タ)しむるを麻氣《マケ》といひ、承諾《ウケガヒ》て負持(ツ)を、麻久《マク》と云しとおぼえたり、されば下に、人麻呂(カ)妻(ノ)死之時作歌の或本に、緑兒之乞哭別取委物之無者《ミドリコノコヒナクゴトニトリマカスモノシナケレバ》とあるも、兒に與へて持する物を取|委《マカス》物と云りときこえたり、故(レ)こゝも任《ヨザ》し賜ふまゝに、負持(チ)賜へばといふ意を、任賜者《マキタマヘバ》と云るなるべし、かくて諸(ノ)皇子等多くましましける中にも、此(ノ)皇子にのみ、御大事を任し賜へることは、すぐれてさとくたけく、ををしくまし/\けるのみにはあらず、此(ノ)時草壁(ノ)皇子は纔に十一歳、大津(ノ)皇子は九歳なれば、其(ノ)餘は知(リ)ぬべし、此(ノ)皇子の御歳は物に見えねど、天武天皇六年に、嫡子長屋(ノ)王|出生《ウマレ》賜へるなどをもておもふに、此(ノ)皇子は長子にて、この御時二十歳にも及賜ひけるなるべし、○大御身爾《オホミミニ》は、皇子(ノ)尊の大御身(582)になり、大御《オホミ》と尊(ミ)稱(フ)こと既く云り、○大刀取帶之《タチトリオバシ》は、釼《タチ》取(リ)佩(キ)賜ひといふなり、多知《タチ》といふ名(ノ)義は、物を斷切《タチキル》よりの稱なり、取は、もはら手して爲る事にそへいふ稱なり、帶之《オバシ》は於妣《オビ》の伸りたる言にて、(婆之《バシノ》切|妣《ビ》、)佩(ハ)賜ひといふ意なり、○弓取持之《ユミトリモタシ》は、弓を取持賜ひといふ意なり、持之《モタシ》は毛知《モチ》の伸りたる言なること、帶之《オバシ》の如し、○安騰毛比賜《アドモヒタマヒ》は、誘《サソ》ひ率《ヒキ》ゐ給ひといふなり、九(ノ)卷に、足利思代榜行舟薄《アドモヒテコギユクフネハ》、又|三船子呼阿騰母比立而《ミフナコヲアドモヒタテヽ》、十(ノ)卷に、阿跡念登夜渡吾乎問人哉誰《アドモフトヨワタルアレヲトフヒトヤタレ》、廿(ノ)卷に、安騰母比弖許藝由久伎美波《アドモヒテコギユクキミハ》などあり、書紀に、誘(ノ)字をアドフ〔三字右○〕と訓るも同じ、誂《アツラフ》と云(フ)も、誘都良布《アドツラフ》なり、都良布《ツラフ》は、擧都良布《アゲツラフ》、引豆良布《ヒコヅラフ》、言豆良布《イヒヅラフ》、丹豆良布《ニヅラフ》など云(フ)都良布《ツラフ》なり、○齊流《トヽノフル》は、軍士を呼興し齊整《トヽノフ》ると云(フ)なり、字鏡に※[口+律](ハ)調v人(ヲ)率2下人(ヲ)1也、止々乃不《トヽノフ》とあるが如し、古事記中卷仲哀天皇(ノ)條に、整《トヽノヘ》v軍(ヲ)雙(ヘ)v船(ヲ)度幸之時、書紀舒明天皇(ノ)卷に、振放《イクサトヽノフ》、また同紀に、卯(ノ)始朝(リテ)之巳後退(テヨ)之、因以v鐘(ヲ)爲《セヨ》v節《トヽノヘト》とある、節をトヽノヘ〔四字右○〕とよめるも、人々を令《フル》v齊《トヽノ》謂なり、續紀廿五(ノ)詔に、又竊(ニ)六千乃兵乎發之等々乃比《ムチヽノイクサヲオコシトヽノヒ》とあるも同じ、三(ノ)卷に、網子調流海人之呼聲《アゴトヽノフルアマノヨビコヱ》、十(ノ)卷に、左男鹿之妻整登鳴音之《サヲシカノツマトヽノフトナクコヱノ》、十九に、物乃布能八十友之雄乎撫賜等登能倍賜《モノヽフノヤソトモノヲヲナデタマヒトヽノヘタマヒ》、廿(ノ)卷に、安之我知流難波能美津爾《アシガチルナニハノミツニ》、大船爾末加伊之自奴伎《オホブネニマカイシジヌキ》、安佐奈藝爾《アサナギニ》、可故等登能倍《カコトトノヘ》、由布思保爾可遲比伎乎里《ユフシホニカヂヒキヲリ》、安騰母比弖許藝由久伎美波《アドモヒテコギユクキミハ》、又奈爾波都爾舶乎宇氣須惠《ナニハヅニフネヲウケスヱ》、夜蘇加奴伎可古登々能倍弖《ヤソカヌキカコトヽノヘテ》、安佐婢良伎和波己藝※[泥/土]奴等《アサビラキワハコギテヌト》、續後紀十九興福寺(ノ)僧(ガ)長歌に、行布人乎調《オヨナフヒトヲトヽノヘ》などあり、(岡部氏(ノ)考に、齊流《トトノフル》を、皷吹調練のことにとき(583)なせるは、いみじきひがことなり、)○皷之音者《ツヽミノオトハ》(皷(ノ)字、拾穗本には鼓と作り、皷は鼓の俗字なりとあり、)は、谷川氏書紀通證に、皷(ヘ)都曇《ツヾミ》也、唐書禮樂志、天竺伎(ニ)有2都曇皷1、白孔六帖(ニ)、都曇※[塔の旁]臘《トウ/\タラリ》(ハ)本外夷(ノ)樂、都曇(ハ)似2腰皷(ニ)1而小、※[塔の旁]臘(ハ)即※[虫+昔]皷也とあり、古(ヘ)より皷を撃て軍卒の節《トヽノヘ》とせしこと、書紀等に見えたり、下に云、○雷之《イカツチノ》云々は、音の高く繁きをいふ、伊加都知《イカツチ》といふ名(ノ)義は、本居氏、伊加《イカ》は嚴《イカ》なり、豆《ツ》は例の之《ノ》に通ふ助辭、知《チ》は美稱なりと云り、(契冲が、瞋槌《イカリツチ》の義と云るはあたらず、)藥師寺佛足石碑(ノ)御歌に、伊加豆知乃比加利乃期止岐《イカツチノヒカリノゴトキ》とあり、今按に、豆(ノ)字は書たれども清て唱(フ)べし、(今(ノ)世に、濁て唱ふるは、よろしからず、)○吹響流《フキナセル》は、吹ならせるといふなり、凡て鳴《ナラ》すを那須《ナス》と古言に云ること多し、こは足《タ》らすを多須《タス》、借《カ》らすを可須《カス》、減《ヘ》らすを閇須《ヘス》、餘《アマ》らすを阿麻須《アマス》など云格なり、繼體天皇(ノ)紀に、筥母※[口+利]矩能發都細能※[加/可]婆※[まだれ/臾]《コモリクノハツセノカハユ》、那我例倶屡駄開能《ナガレクルタゲノ》、以矩美娜開余嚢開《イクミダケヨダケ》、謨等陛嗚麼筥等※[人偏+爾]都供※[口+利]《モトヘヲバコトニツクリ》、須衛陛嗚麼府曳※[人偏+爾]都供※[口+利]《スヱヘヲバフエニツクリ》、府企儺須美母盧我紆倍※[人偏+爾]《フキナスミモロガウヘニ》云々、古今集に、秋風にかきなすことなどある、儺須《ナス》は、皆|鳴《ナラ》すなり、○小角乃音母《クダノオトモ》は、舊本に、一(ニ)云、笛乃音波と記せり、天武天皇(ノ)紀に、十四年十一月癸卯朔丙午、詔2四方國(ニ)1曰、大角《ハラ》小角《クダ》皷《ツヾミ》吹《フエ》幡旗《ハタ》及|弩《オホユミ》抛《イシハジキ》之類、不v應v存《オク》2私家(ニ)1、咸收(ヨ)2于郡(ノ)家《ミヤケニ》1、和名抄に、兼名苑(ノ)註(ニ)云、角本出2胡中(ニ)1、或云、出2呉越(ニ)1以象2龍吟(ニ)1也、楊氏漢語抄(ニ)云、大角|波良乃布江《ハラノフエ》、小角|久太能布江《クダノフエ》、軍防令に、凡私家不v得v有2皷鉦弩矛※[弓+肖]具装大角小角及軍幡(ヲ)1、唯樂皷(ハ)不v在2禁限(ニ)1、民部式に、凡諸固、國別(ニ)置2皷生二人大角生五人小角生三人(ヲ)1、(584)並免2※[人偏+搖の旁]役(ヲ)1などあり、○敵見有《アタミタル》は、寇而有《アタミタル》なり、寇んだると云むが如し、(敵を見たると云(フ)にはあらず、)見《ミ》は、難見爲而《カタミシテ》など云(フ)見《ミ》に同じ、敵にはりあひむかひ、いかれるをいふなり、○虎可※[口+立刀]吼登《トラカホユルト》は、虎の吼るかといふ意なり、可《カ》は、吼の下にうつして意得べし、虎牛犬の類の鳴を保由流《ホユル》といふこと、今(ノ)世もしかり、※[口+立刀](ノ)字は、叫と古(ヘ)御國にて通(ハシ)書りと見ゆ、吼(ハ)牛鳴也と註せり、十三に、吾待公犬莫吠行年《アガマツキミヲイヌナホエソネ》、字鏡に、吠(ハ)犬乃保由留《イヌノホユル》などあり、○諸人《モロヒト》は、毛呂比等《モロヒト》と清て唱(フ)べし、○恊流麻低爾《オビユルマデニ》、(恊(ノ)字、拾穗本に脅と作るは非なり、)舊本に一(ニ)云、聞惑麻底と註せり、恊流《オビユル》は、字鏡に、恊※[立心偏+却](ハ)於比也須《オビヤス》、又愕然(ハ)驚愕也、於比由《オビユ》、又忙怕(ハ)於比由《オビユ》などあり、○指擧有は、佐々宜多流《サヽゲタル》と訓、(之阿《シア》の切|佐《サ》となる、)古事記雄略天皇(ノ)條(ノ)歌に、佐々賀世流美豆多麻宇岐爾《サヽガセルミヅタマウキニ》、藥師寺佛足石碑(ノ)御歌に、乃知乃保止氣爾由豆利麻都良牟佐々義麻宇佐牟《ノチノホトケニユヅリマツラムサヽゲマウサム》、廿(ノ)卷に、佐佐己弖由加牟《サヽゴテユカム》などあり、○冬木成《フユコモリ》は、春の枕詞なり、既く出づ、○野毎著而有火之《ヌゴトニツキテアルヒノ》、(之(ノ)字、拾穗本には乃と作り、)舊本に、一(ニ)云、冬木成春野燒火乃と註せり、春は白田《ハタ》作るとて野を燒こと、今(ノ)世も然り、下志貴(ノ)親王(ノ)薨時(ノ)歌に、春野燒野火登見左右《ハルヌヤクヌビトミルマデ》と見ゆ、日本紀略に、寛弘二年乙巳二月八日丙戌、野火及2大歌所(ニ)1、延(テ)及2大藏省(ニ)1、西倉一宇燒亡、○風之共《カゼノムタ》は、風の吹と共にといふ意なり、○靡如久《ナビクガゴトク》は、赤旗の靡が野火に似たるなり、○弓波受乃驟《ユハズノサワギ》とは、弓波受《ユハズ》は、和名抄に、釋名(ニ)云、弓末(ヲ)曰v※[弓+肅](ト)、和名|由美波數《ユミハズ》とあり、波受《ハズ》は弓末の端に在て、角また骨などを以(テ)造れる物なり、古事記に、弓端之調《ユハズノミツギ》、十六鹿の詞に、吾爪(585)者御弓之弓波受《アガツメハミユミノユハズ》とよめり、是を以(テ)見れば、鹿の爪にても造しなり、さて一(ノ)卷に、梓弓之奈利珥乃音爲奈利《アヅサノユミノナリハズノオトスナリ》とあると、こゝとを合(セ)考(フ)るに、古(ヘ)の弓に弭の音高く、ことに鳴べく製りしがありしなるべし、さていかなれば、弭の鳴やうにつくれるぞといふに、其(ノ)音以て威すが料なりけり、かの鳴鏑鞆《ナリカブラトモ》などにて、さるゆゑをさとるべし、○三雪落《ミユキフル》は、三《ミ》は借(リ)字にて、眞雪《マユキ》といふに同し、十三に、三雪零冬朝者《ミユキフルフユノアシタハ》、十八に、美由伎布流冬爾伊多禮波《ミユキフルフユニイタレバ》、廿(ノ)卷に、三雪布流布由波祁布能未《ミユキフルフユハケフノミ》などあり、○冬乃林爾《フユノハヤシニ》、舊本、一(ニ)云、由布乃林と註せり、由布は布由の倒置《タガヒ》たるなり、○飄可母《ツムシカモ》とは、飄は和名抄に、文選(ノ)詩(ニ)、回※[風+火三つ]卷2高樹(ヲ)1、和名|豆無之加世《ツムシカゼ》、字鏡に、※[風+火三つ]※[犬三つ+風]※[風+云]〓、四形作暴風(ナリ)、豆牟志加世《ツムシカゼ》、又※[風+具]夙※[風+重]の字をも、豆牟自加是《ツムシカゼ》とあり、神功皇后(ノ)紀に、飄風をツムシカゼ〔五字右○〕とよめり、又延喜式神名帳、出雲(ノ)國意宇郡|波夜都武自和氣《ハヤツムシワケノ》神社とあるを、文徳天皇(ノ)實録に、速飄別《ハヤツムシワケノ》命とあり、又神名帳に、出雲(ノ)郡|都武自《ツムシノ》神社、また出雲風土記に、島根(ノ)郡|波夜都武自《ハヤツムシノ》神社あり、後(ノ)世の歌に都之風《ツジカゼ》とよめるは、即(チ)都武之《ツムシ》の武《ム》の訛(リ)略(リ)たるにて、比武可之《ヒムカシ》を、比可之《ヒカシ》といふと同例なり、かくて都武《ツム》といふ義は、未(ダ)思ひ得ず、之《シ》は、嵐《アラシ》の之《シ》に同じくて、疾風《ハヤチ》東風《コチ》などいふ知《チ》に通ひて、風の古言なり、知《チ》と之《シ》とは、いと親(ク)通ふことにて、例多し、さて多く自(ノ)字は書たれども、必《ス》清て唱べき理なり、(濁(リ)て唱ふるは、ひがことなり、)可|毛《モ》は、卷渡の下にうつして意得べし、○伊卷渡等《イマキワタルト》は、伊《イ》は發語にて、卷渡るかと念ふよしなり、卷は木葉吹卷《コノハフキマク》などいふ卷なり、○聞之恐久《キヽノカシコク》、(586)舊本に、一(ニ)云、諸人見惑麻低爾と註せり、(この一本はわろし、用べからず、さて岡部氏(ノ)考に、聞(ノ)字を見に改て、こゝは聞之恐久といふべき處にあらず、見を誤れること明らけし、又一本には、諸人見惑麻低爾とあれど、上にも諸人云々とあるに、わざと對へいへるとも聞えず、且雷虎に聞恊、幡弓に見恐むと見ゆれば、彼(レ)此(レ)取捨たりとあるは、一(ト)わたりはまづ埋(リ)めきて聞ゆれども、よく思へば、こはいみじきみだり説にぞありける、さるは指擧有幡之靡《サヽゲタルハタノナビキ》と云詞は、風之共靡如久《カゼノムタナビクガゴトク》といふ句にていひ終たり、風の共なびくが如く、見まがふといふ意なればなり、さて取持有弓波受乃驟《トリモタルユハズノサワギ》云々は、飄可毛伊卷渡等念麻麻低聞之恐久《ツムシカモイマキワタルトオモフマデキヽノカシコク》といひ終たるにて、驟は弓弭の音の高くしば/\するを、聞恐む意なればなり、佐和久《サワグ》は形に就ても云、音につきても云詞なればなり、驟(ノ)字は、もはら形につきて云、佐和久《サワグ》なるべし、左傳に、驟《シバ/\》顧2諸朝(ニ)1などあれば、形につきて云る字なり、されど佐和久《サウグ》といふうへにては、字には拘はらず、こゝは音につきて云るなり、字鏡に、※[贅の貝が口](ハ)衆口也、佐和久《ザワグ》とあるは、音につきて云るなれば、其(ノ)意なり、三(ノ)卷に、旦雲二多頭羽亂夕霧丹河津者驟《アサクモニタヅハミダレユフギリニカハヅハサワグ》、七(ノ)卷に、鳥自物海二浮居而奧津浪※[足+參]乎聞者《トリジモノウミニウキヰテオキツナミサワグヲキケバ》、とよめるなども、皆字には拘はらず、音につきてのみ云るをもおもへ、)○箭繁計久《ヤノシゲケク》は、箭《ヤ》の繁き事はといふ意なり、○亂而來禮《ミダリテキタレ》は、(舊本に、一(ニ)云、霰成曾知余里久禮婆と註せり、彼方より來ればなり、されどこの一本はおとれり、岡部氏(ノ)考に、曾知は、そのみちのみを略けるにて、彼の方といはむがこと(587)し、をちこち、いづちなどのちと同じと云り、ソチ〔二字右○〕を彼方の意と見しはたがはねども、そのみちのみを略けりと云るは心得ず、みちのみは御《ミ》にて、もとよりそへたる詞なれば、略けりとはいふべからず、且|知《チ》は、道てふ言にもあらじをや、)亂《ミダレ》て來《キタ》ればといふなり、本居氏、きたればといふべきを略きて、きたれと云は、長歌の中に殊に一(ノ)格なり、すべて上と下と、事の轉ずる所の境には、如此いふ古の長歌の常なり、師(ノ)考に、者《バ》は補て、クレバ〔三字右○〕と訓れたるは、中々にわろしと云り、(但しきたればといふべきを略きて、云々と云るはいさゝかわろし、者《バ》はいはでも、もとよりしか聞ゆる古語なれば、ことさらに略きたるものにはあらず、)さてこは御方の箭の事をいへるなれば、亂而行《ミダリテユケ》れといふべきやうなれども、こゝは敵方になりて、しか云るなり、一(ノ)卷に、倭者鳴而歟來良武《ヤマトニハナキテカクラム》、と云る歌の來《ク》と、意味ひとし、相照(ス)べし、さてこゝは、引放つ矢の、雪の如く、繁く亂れちるさまを云、景行天皇(ノ)紀(ニ)云、時(ニ)賊虜之矢横《アタノヤヨコシマニ》、自v山|※[身+矢]《イル》之、流(ルコト)2於|官軍《ミイクサノ》前(ニ)1如v雨(ノ)とも見ゆ、○不奉仕《マツロハズ》、是より下六句は、敵方のことを云なり、○露霜之《ツユシモノ》は、消《ケ》の枕詞なり、十二に、露霜乃消安我身雖老《ツユシモノケヤスキワガミオイヌトモ》とあり、露箱の事は上に云り、○消者消部久《ケナバケヌベク》は、消なば消ぬべくにて、身命を捨て向へるよしなり、○去鳥乃《ユクトリノ》は、群り飛行鳥の、おのれさきだゝむと、進み競ふものなれば、相競《アラソフ》の枕詞とせり、○相競端爾《アラソフハシニ》(奮本に、一(ニ)云、朝霜之消者消言爾打蝉等安良蘇布波之爾と註せり、言は香の誤にて、ケナバケヌガニ〔七字右○〕、なるべし、)は、相(ノ)字は理もて添(ヘ)たるなり、端《ハシ》は、(588)契冲、あひだといふ詞なり、すなはち間(ノ)字をはしとよめり、用明天皇の后、聖徳太子の御母、穴太部(ノ)間人《ハシヒトノ》皇女と申、日本紀に見えたり、此(ノ)集にも、第一に間人《ハシヒトノ》連老、第三に間人《ハシヒトノ》宿禰大浦あり、みな間(ノ)字はしとよめり、古今集に、高津(ノ)内親王の御歌に、木にもあらず草にもあらぬ竹のよのはしにわが身はなりぬべらなり、とよませ給へり、竹は草木のあひだにて、よはまた兩節の間なれば、いづかたへもつかぬうきたる御身と、竹によそへ賜へるなれば、此(ノ)はしもあひだなり、又川にわたすをはしといふも,、兩岸の間なれば、間の字の心を、橋の體に付たる名なるべし、第十九に家持の、ほとゝぎすならびに時の花をよめる長歌に、また此(ノ)あらそふはしにといふ詞あり、そこはます/\あひだの心なりと云り、(本居氏、柱といふ名(ノ)義も、波斯《ハシ》は間なるべし、柱は屋と地との間に立る物なればなりと云り、)群鳥の飛立時、我先にといそぐごとく、互に先鋒を相爭ふあひだにといふなり、○度會乃《ワタラヒノ》、此(レ)より下八句は、御軍に神助のおはしましゝ事をいふなり、渡會は、十二に、度會大河邊若歴木《ワタラヒノオホカハノベノワカクヌギ》云々、和名抄に、伊勢(ノ)國度會(ノ)郡(和多良比《ワタラヒ》)とあり、○齋宮從は、イハヒノミヤユ〔七字右○〕と訓べし、(イツキノミヤ〔七字右○〕と訓るも難はなけれど、さては齋(ノ)王の坐(ス)宮を云にもまぎらはしければなほイハヒ〔三字右○〕と訓べし、)大御神(ノ)宮をも、齋(ノ)王の坐(ス)宮をも、倶に字には齋宮と書れども、大御神(ノ)宮なるを申すには、イハヒ〔三字右○〕といひ、齋(ノ)王の坐(ス)宮をば、後までも唱(ヘ)來れるごとく、もとよりイツキ〔三字右○〕といひて、別てりとおぼえて、雄略天皇(ノ)紀にも、(589)稚足姫(ノ)皇女(ハ)侍(リ)2伊勢(ノ)大神(ノ)祠《イハヒニ》1とある、この祠をイハヒ〔三字右○〕と訓來れるをも思ふべし、齋《イハヒノ》宮は、垂仁天皇(ノ)紀に、天照大神|誨《ヲシヘタマハク》2倭姫(ノ)命(ニ)1、曰(リタマヒキ)3是(ノ)神風(ノ)伊勢(ノ)國(ハ)、則常世之浪重浪|歸《ヨスル》國也、傍國※[立心偏+可]怜《カタクニノウマシ》國也、欲《ヲラムト》2居是(ノ)國(ニ)1、故(レ)隨《マニ/\》2大神(ノ)教《ミヲシヘノ》1、其(ノ)祠(ヲ)立2於伊勢(ノ)國(ニ)1、因興2齋《イハヒノ》宮(ヲ)于五十鈴(ノ)川上《カハラニ》1、云々と見えて、齋宮は即(チ)大御神(ノ)宮なると、古事記に、此二杜(ノ)神者拜2祭(ル)佐久久斯呂伊須受能《サククシロイスズノ》宮(ニ)1とある、二柱(ノ)神は、大御神の御靈と、思金(ノ)神の御靈とを指て申せるにて、五十鈴(ノ)川上とあるは、即(チ)大御神宮なることを、思(ヒ)定むべし、(然れば書紀に、祠(ヲ)立2於伊勢(ノ)國(ニ)1、とある立(ノ)字は定を誤れるにて、其(ノ)祠《イハヒドコロ》を伊勢(ノ)國に定めて、さて宮を五十鈴(ノ)川上に興といふなるべし、と本居氏のいへる、さることなり、)さて既《ハヤ》く一(ノ)卷題詞に、伊勢(ノ)齋《イツキノ》宮とあるは、延喜式に、齋宮(ハ)凡天皇即v位(ニ)者、定2伊勢大神(ノ)宮(ノ)齋(ノ)王(ヲ)1、仍簡(テ)2内親王未v嫁者(ヲ)1卜之、とあるごとく、御世御世《ミヨミヨ》の齋(ノ)王に立給ふ皇女の坐ます宮をいふことにて、此《コヽ》の齋《イハヒノ》宮とは異《カハ》れり、古語拾遺に、※[サンズイ+自](テ)2于卷向(ノ)玉城朝(ニ)1(垂仁天皇)令2皇女倭姫(ノ)命(ニ)1奉v齋2天照大神(ヲ)1、仍|隨《マニ/\》2神(ノ)教(ノ)1、立2其|祠《イハヒドコロヲ》於伊勢(ノ)國五十鈴(ノ)川上(ニ)1、因《カレ》興2齋《イツキノ》宮(ヲ)1、令2倭姫(ノ)命(ヲ)居《ハヘラ》1焉と見えたれば、即(チ)同じ御代に、大御神を齋(キ)奉り姶ふ皇女の坐(ス)宮を、齋宮《イツキノミヤ》と申すこともはじまれるなり、されば拾遺なる齋《イツキノ》宮の、書紀に見えたる齋《イハヒノ》宮とは異なる謂は、書紀には、齋《イハヒノ》宮を五十鈴(ノ)川上に興給へる趣にいひ、拾遺には、其(ノ)祠を伊勢(ノ)國五十鈴(ノ)川上に立て、さて皇女の居給ふために、齋《イツキノ》宮を興たるよしにいへる、五十鈴(ノ)川上といふことの、おきどころ別なるに、心をつけて思ひ辨《ワカ》つべし、よくせずは混《マガ》(590)ふべきことなり、從《ユ》は常の從《ヨリ》にて、齋宮より吹來るよしなり、○神風爾《カムカゼニ》は、風はもとより神の掌《シリ》給ふものなれど、ことに所以《ユヱ》ありて、神の興し給ふを神風といへり、○伊吹惑之《イブキマドハシ》は、息吹《イフキ》令《シ》v惑《マドハ》なり、風は神の御息(キ)よりおこるものなれば、かくいへり、○天雲乎《アマクモヲ》、此は常闇爾《トコヤミニ》の下にうつして、意得べし、天雲を覆賜ふよしなればなり、○日之目毛不令見《ヒノメモミセズ》は、日(ノ)光の所見《メ》も不《ズ》v令《シメ》v見《ミ》といふなり、目《メ》はそのもと所《エ》v見《ミ》の縮りたる詞にて、此方に所《ユ》v見《ミ》るを云て、君之目《キミガメ》妹之目《イモガメ》などいふ其(レ)なり、○常闇《トコヤミ》は、神代(ノ)紀、天(ノ)磐戸(ノ)條に、故(レ)六合之内常闇兩《クニウチノトコヤミニシテ》、不v知2晝夜《ヨルヒル》之|相代《ワキモ》1とあり、○定之《サダタメテシ》は、亂國を安《シヅ》め定めてしといふなり、之《シ》は過去《スギニ》し方のことをいふ之《シ》なり、此は七月辛亥、瀬田にての合戰のことなり、天武天皇(ノ)紀(ニ)云、元年秋七月庚寅朔辛亥、男依等到2瀬田(ニ)1時、大友(ノ)皇子、及群臣等共(ニ)營(リテ)2於橋(ノ)西(ニ)1、而|大《いたく》成(シ)v陣《ツラヲ》不v見2其後(ヘヲ)1、旗幟蔽(シ)v野(ヲ)埃塵《チリ》連(リ)v天(ニ)。鉦鼓之聲聞(ユ)2數十里《アマタサトニ》1、列弩《ユハズ》亂發《トリナベテ》矢(ノ)下(ルコト)如(シ)v雨(ノ)、其(ノ)將智尊率(テ)2精兵(ヲ)1以|先鋒距之《サキトシテフセギヽ》、仍《カレ》切2斷(コト)2橋中(ヲ)1須2容《バカリ》三丈《ミツヱ》1、置(キ)2一(ノ)長板(ヲ)1、設《モシ》有(バ)2※[足+搨ノ旁]v板度|者《ヒト》1、乃引(テ)v板(ヲ)將《ス》v墮(サムト)、是以|不《ザリキ》2得進(ミ)襲(ハ)1、於是有3勇敢士《タケキヒト》曰《イフ》2大分(ノ)君稚臣(ト)1、則棄2長矛(ヲ)1以重2※[手偏+環ノ旁]甲(ヲ)1拔(キ)v刀(ヲ)急(ケク)蹈(テ)v板(ヲ)度(ル)之、便斷2着(クル)v板(ニ)綱(ヲ)1以|被《イエツヽ》v矢入v陣(ニ)、衆悉(ニ)亂(テ)而|散走之《アガレニゲツヽ》不v可v禁《サヽフ》、將軍智尊拔(テ)v刀(ヲ)斬(リテ)2退者(ヲ)1而|不能止《ヤマズ》、因以《カレ》斬2智尊(ヲ)於橋(ノ)邊(ニ)1、則大友(ノ)皇子、左右(ノ)大臣等|僅身免以逃之《カラクシテノガレキ》、男依等即|軍《イクサダチズ》2于粟津(ノ)岡(ノ)下(ニ)1、是《ソノ》日。羽田(ノ)公矢國、出雲(ノ)臣狛、合共《トモニ》攻(テ)2三尾(ノ)城(ヲ)1降之《マツロヘヌ》、壬子、男依等斬(リツ)2近江(ノ)將犬養(ノ)連五十君、及|谷《ハサマノ》直塩手(ヲ)於粟津(ノ)市(ニ)1、於是大友(ノ)皇子|走無所入《ニゲマクシラニ》、乃還(リ)2隱(リテ)山前(ニ)1以|自縊《ワナキヌ》焉、時左右(ノ)大臣、及群臣皆|散亡《アガレキ》、唯物部(ノ)連麻呂、且|一二《ヒトリフタリノ》舍人|從《シタガヘリ》之と(591)見えたり、この瀬田の合戰の時、皇子何處におはしましけるとも、書紀には見えねど、此(ノ)歌にかくあれば、證明なり、かくて此(ノ)時伊勢より神風の息吹來て、急《ニハカ》に日(ノ)光を覆ひ、大友(ノ)皇子の軍士をまどはせしといふことも、書紀に見えざるは、傳《ツタヘノ》失《ウ》せしなるべし、此(ノ)歌にかくよまれたるからは、實説なり、さらにうきたることにはあらず、(事として神風を發し給ふこと、有がたしとは云(フ)もさらなり、大御神の冥助おそるべし/\、又三代實録三十四に、元慶二年八月四日丁卯、云々、是(ノ)日彼國正三位勲五等大物忌(ノ)神(ニ)進2勲三等、正二位勲六等月山(ノ)神(ニ)四等、從五位下勲九等小物忌(ノ)神(ニ)七等(ヲ)1、先v是右中辨兼權守藤原(ノ)朝臣保則奏言(ス)、此二神自2上古時1、方有2征戰1標2奇驗1、去五月賊徒襲來、誂2戰官軍1、當2此之時1、雲霧晦合、對坐不2相見1、營中擾亂、官軍敗績、求2之※[草がんむり/耆]龜1。神氣皈v賊、我祈无v感、増2其爵級1、必有2靈應1、國宰斎戒、祈請慇懃(ナリ)、望請加2進位階1、將v答2神望1、仍増2此等級1、と見えたるなどをも、因に考へ合(セ)て、神威を恐むべきことを思ふべし、)○神隨《カムナガラ》は、既く出づ、此より下五句は、天皇の御事を云なり、○太敷座而(太(ノ)字、舊本大に誤、今は拾穗本に從つ、)は、フトシキイマス〔七字右○〕にて、而は衍字なるべし、座而《マシテ》といひては、下の申賜者《マヲシタマヘバ》といふこと、天皇の申給ふことゝ聞ゆればなり、○申賜者《マヲシタマヘバ》は、天皇の敷坐(ス)天(ノ)下の大政を、皇子の執奏《トリマヲ》し給へばなり、五(ノ)卷に、神奈我良愛能盛爾《カムナガラメデノサカリニ》、天下奏多麻比志《アメノシタマヲシタマヒシ》、家子等撰多麻比天《イヘノコトエラビタマヒテ》とよめり、此は持統天皇(ノ)四年に、太政大臣となりて、天(ノ)下の政を執(リ)奏《マヲ》しけるを云り、(或人問(フ)、天武天皇は、朱鳥元年九月崩賜ひて、(592)日並(ノ)皇子(ノ)尊、大政を執奏し給ひしを、此(ノ)尊も、同三年に薨賜ひしに依て、高市(ノ)皇子(ノ)尊、同四年七月に、太政大臣とならせ給へり、然るをこゝは、天武天皇の御宇代の間に、此(ノ)皇子、大政奏し賜ふごとく聞ゆるはいかに、答(フ)、上より定之云々、といひ下したる、詞の表にては、もとより天武天皇の御ことのみなれども、吾大王と云ことは、持統天皇へもわたりて意得べし、さてしからば、此(ノ)間に、崩御即位のことをいはでは、語足はずといはむか、されど此(ノ)歌は、高市(ノ)皇子(ノ)尊のことを主《ムネ》とよめるなれば、さることまでを、猶こまかにいはむは、かへりてくだ/\しく聞ゆるをや、)○然之毛將有登《シカシモアヲムト》、舊本に、一(ニ)云、如是毛安良無等《カクシモアラムト》と註せり、いづれにても同じく聞ゆ、(然《シカ》は、俗に云、そうなり、そのやうになり、如是《カク》は俗に云、かうなり、このやうになり、しかれば、然《シカ》と如是《カク》とは、彼(レ)と此(レ)との差《タガヒ》あることなるを又相通はして、然《シカ》と如是《カク》と、同じ意に聞ゆる處もあれど、熟々見れば、彼方をいふと、此方を云とのたがひあることなり、されば然之毛將有登《シカシモアヲムト》は、そのやうにあらむとゝいへるにて、然《シカ》は、彼方を此方にむかへて、萬代の彼方までも治まりて、そうあらむとゝいへるなり、如是毛安良武等《カクシモアラムト》は、このやうにあらむとゝいへるにて、如是は、此方の今を云るにて、萬代の彼方までも治まりて、かうあらむとゝいへるなり、此は然《シカ》と如是《カク》との差別《ケヂメ》あることを云るのみなり、此處はいづれに云ても、落る處は同じ意なれば、難なかるべし、)○木綿花乃《ユフハナノ》は、枕詞なり、六(ノ)卷に、山高三白木綿花落多藝追《ヤマタカミシラユフハナニオチタギツ》、また泊瀬女造木綿花(593)三吉野瀧乃水沫開來受屋《ハツセメガツクルユフハナミヨシヌノタキノミナワニサキニケラズヤ》、十三に、淡海之海白木綿花爾浪立渡《アフミノミシラユフハナニナミタチワタル》などよめり、これら皆木綿にて製《ツク》れる花のことにて、古人のもはら愛翫《モテアソビ》つる物とぞおもはる、(木綿のことは、品物解にいふべし、)さて佐|迦由流《カユル》とは、繁榮の義のみならず、物のめでたくうるはしく、はえ/”\しきをいふ詞にて、酒見附榮流《サカミヅキサカユル》とも、咲榮流《ヱミサカユル》とも云るにて、其(ノ)意をさとるべし、さてこゝは、木綿花のうるはしくはえ/”\しきを、やがて皇子(ノ)尊の御世の榮にかけていへるなり、(冠辭考に、木綿花を、實に咲(キ)榮ゆる花のごとくにいひなしたり、といへるは、いさゝかたがへり、そは榮るを、繁榮の事にのみあてたる故にたがへり、)○榮時爾《サカユルトキニ》、みさかりに榮え給ふ時に、おもひかけぬにといふなり、いとあはれなり、○吾大王皇子之御門《ワガオホキミミコノミカド》乎、舊本に、一(ニ)云|刺竹皇子御門乎《サスダケノミコノミカドヲ》と註せり、いづれにてもあるべし刺竹之《サスダケノ》は枕詞なり、皇子《ミコ》と係《カヽ》れる謂《ヨシ》は、六(ノ)卷上に委(ク)註るを考(ヘ)合(ス)べし、刺竹之皇子宮人と云ること、此(ノ)上長歌一本にも見えたり、御門《ミカド》は殯宮の御門なるべし、○神宮爾《カムミヤニ》は、殯宮をいふ、薨錫ひては、ことに神と申ことにて、神葬《カムハフリ》神佐夫《カムサブ》など云るに同し、○装束奉而《ヨソヒマツリテ》は、十三に、大殿矣振放見者白細布飾奉而《オホトノヲフリサケミレバシロタヘニヨソヒマツリテ》とあり、殯宮に儀《ヨソヒ》奉るなり、○遣使《ツカハシヽ》(使(ノ)字、舊本便に誤、今は古寫本拾穗本等に從つ、)は、使ひ給ひしなり、都加波之々《ツカハシヽ》は、都加比之《ツカヒシ》の伸りたる言にて、(波之《ハシ》は比《ヒ》と切る、)遣ひ給ひといふ意になること、上にたび/\云り、下の之《シ》は、過去《スギニ》し方のことをいふ之《シ》なり、此は十三に、朝者召而使夕者召而使遣之舍人之子等者《アシタニハメシテツカハシユフベニハメシテツカハシツカハシヽトネリノコラハ》、とある(594)意なり、○御門之人毛《ミカドノヒトモ》は、御門守舍人等もと云(フ)なり、三(ノ)卷安積(ノ)皇子(ノ)薨時の歌に皇子乃御門乃五月蠅成騷舍人者白栲爾服収著而《ミコノミカドノサバヘナスサワグトネリハシロタヘニコロモトリキテ》とあり、○白妙乃麻衣著《シロタヘノアサコロモキテ》は、素服を服《キ》てと云(フ)なり、仁徳天皇(ノ)紀に、時大鷦鷯(ノ)尊聞2太子薨(マシヌト)1、云々、於是大鷦鷯(ノ)尊|素服爲之發哀《フヂコロモキテミネナキシタマフ》、允恭天皇(ノ)紀に、於是新羅(ノ)王聞2天皇既崩(マシヌト)1、云々、貢2上調船(ヲ)1云々、泊2于難波(ノ)津1、則皆|素服《シロキキヌキテ》之悉(ニ)捧2御調(ヲ)1、天智天皇(ノ)紀に、天萬豐日(ノ)天皇後五年十月崩(マス)、明年皇祖母(ノ)尊|即2天皇位《アマツヒツギシロシメス》1、七年七月丁巳崩(マス)、皇太子|素服《アサモノミソタテマツリテ》稱v制、(素服、フヂコロモ、シロキヽヌ、アサモノミソ〔フヂ〜右○〕など、訓(ミ)は處々にて異(レ)れども、いづれ白色の御服なることは、たがはざるべし、)類聚國史に、延暦廿五年三月辛巳、天皇崩、癸未、上著v服(ヲ)、眼用2遠江|※[此/貝]布《サヨミノヌノヲ》(頭巾用2皀(ノ)厚※[糸+曾](ヲ)1、百官初(テ)素服、和名抄に、※[糸+襄]衣(ハ)喪服也(不知古路毛《フヂコロモ》、)とあり、(※[糸+襄]衣《フヂコロモ》は白色の藤布なるべし、※[糸+襄]衣(ハ)、白色也、不v染之如2直衣1調物也、と園太暦に見えたり、)○埴安乃《ハニヤスノ》、埴(ノ)字、舊本垣に誤れり、今改つ、○御門之原《ミカドノハラ》は、下に香來山之宮《カグヤマノミヤ》とある、即(チ)その御門にて、其(ノ)前なる野原を云り、○赤|根刺《ネサス》は、枕詞なり、既く出づ、○日之盡《ヒノコト/”\》は、終日の謂なり、既く出づ、○鹿自物《シヽジモノ》は、枕詞なり、自物《ジモノ》のことは、既く一(ノ)卷|鴨自物《カモジモノ》とある所に云り、三(ノ)卷に、十六自物膝折伏《シヽジモノヒザヲリフセ》とある如く、猪鹿《シヽ》は膝を折て匍匐《ハフ》如くにして伏《フセ》ば、はひ伏といふ意につゞくなり、又同卷に、四自時物伊波比拜《シヽジモノイハヒヲロガミ》、續後記十九長歌に、狹牡鹿乃膝折反志《サヲシカノヒザヲリカヘシ》なども見ゆ、○伊波比伏管《イハヒフシツヽ》は、伊《イ》はそへ言にて、匍匐伏乍《ハヒフシシツヽ》なり、○鶉成《ウヅラナス》は、匍匐《ハヒ》の枕詞なり、鶉の如くはひ廻りとつゞく意なり、鶉は草根などをはひめぐる(595)ものなれば云り、○伊波比廻《イハヒモトホリ》、伊《イ》は發語にて、はひ廻ることなり三(ノ)卷に、鶉成伊波比毛等保理《ウヅラナスイハヒモトホリ》とあり、○佐母艮比不得者は、本居氏、者は天の誤にて、サモラヒカネテ〔七字右○〕なるべしと云り、(但し天(ノ)字は、此(ノ)處などには、用ふべくもおもはれず、)弖の誤なるべし、皇子(ノ)尊の御在《マシマ》せし時の如くに、侍候《サモラ》へど、侍候ふに得堪ずてといふなり、○春鳥之《ハルトリノ》は、枕詞なり、此は春の鳥の吟《サマヨ》ひ遊ぶを、人の泣(キ)吟ふにつゞけたり、○佐麻欲比奴禮者《サマヨヒヌレバ》は、泣(キ)吟ひぬればといふなり、佐麻欲布《サマヨフ》は、息づきするをいふ古言なり、廿(ノ)卷に、春鳥乃己惠乃佐麻欲比《ハルトリノコヱノサマヨヒ》、神代(ノ)紀(ノ)下に、弟|愁吟《サマヨヒテ》在2海濱(ニ)1、字鏡に、※[口+屎](ハ)出2氣息(ヲ)1、心坤吟也、惠奈久《ヱナク》、又|佐萬與不《サマヨフ》、又|奈介久《ナゲク》とあり、(こゝに或人のいひけらく、こは下の短歌に、去方乎不知舍人者迷惑《ユクヘヲシラニトネリハマドフ》と有によるに、佐《サ》は發語にて、迷ひぬればなり、岡部氏(ノ)考に、サマヨフ〔四字右○〕は、紀に吟(ノ)字を書て、なげきよぶ意なりといへれど、吟(ノ)字をサマヨフ〔四字右○〕とよみしはサニヨフ〔四字右○〕のニ〔右○〕とマ〔右○〕と形の近ければ誤たるにて、サニヨフ〔四字右○〕なるべし、今も土佐(ノ)國などにては、嘆きよぶを、ニヨフ〔三字右○〕とも、ニホフ〔三字右○〕ともいへりと云るは、あしかりけり、)○未盡者《イマダツキネバ》は、未(ダ)盡ぬにの意なり、盡ぬにといふ意の處を、盡ねばと云る、ごときこと、古歌にはいと多し、四(ノ)卷に、奉見而未時太爾不更者《ミマツリテイマダトキダニカハラネバ》、如年月所念君《トシツキノゴトオモホユルキミ》、八(ノ)卷に、秋立而幾月毛不有者此宿流《アキタチテイクカモアラネバコノネヌル》、朝開之風者手本寒母《アサケノカゼハタモトサムシモ》、十卷に、一年邇七夕耳相人之《ヒトトセニナヌカノヨノミアフヒトノ》、戀毛不遏者夜深往乏毛《コヒモツキネバヨノフケユクモ》、又|天河足沾渡君之手毛《アマノガハアヌラシワタルキミガテモ》、未枕者夜之深去良九《イマダマカネバヨノフケヌラク》、十二に、他國爾結婚爾行而太刀之緒毛《ヒトクニニヨバヒニユキテタチガヲモ》、未解者左夜曾明家流《イマダトカネバサヨソアケニケル》、古事記上卷八千矛(ノ)神(ノ)御歌に、多(596)知賀遠母伊麻陀登加受弖《タチガヲモイマダトカズテ》、淤須比遠母伊麻陀登加泥婆《オスヒヲモイマダトカネバ》、書紀天智天皇(ノ)卷(ノ)童謠に、於彌能古能野陛能比母騰倶比騰陛多爾《オミノコノヤヘノヒモトクヒトヘダニ》、伊麻姑藤柯禰波美古能比母騰矩《イマダトカネバミコノヒモトク》、これらみな、禰婆《ネバ》は奴爾《ヌニ》の意なり、)(古今集にもあり、)○言左徹久《コトサヘグ》(左(ノ)字、舊本右に誤、今改つ、)は、百濟《クダラ》の枕詞なり、既く云り、○百濟之原《クダラノハラ》は、大和志に、廣瀬(ノ)郡百濟村とあり、十市(ノ)郡香山の宮にやゝ近き處なるべし、八(ノ)卷にも、百濟野乃芽古枝爾待春跡《クダラヌノハギノフルエニハルマツト》云々とよめり、(舒明天皇(ノ)紀に、十一年秋七月、詔曰、今年造2作大宮及大寺(ヲ)1、則|以《ニ》2百濟《クダラ》川(ノ)側《ホトリ》1爲2宮處(ヲ)1、十二月、是(ノ)月(ニ)於2百濟《クダラ》川(ノ)側《ホトリニ》1建2九重《コヽノコシノ》塔(ヲ)1と見えて、この舊地は廣瀬(ノ)郡なるに、三代實録三十八に、昔日聖徳太子創(メテ)建2平群郡熊凝(ニ)道場(ヲ)1、飛鳥(ノ)岡本(ノ)天皇遷2建十市(ノ)郡百済川(ノ)邊(ニ)1、施2入封三百戸(ヲ)1、號曰2百濟大寺(ト)1云々、とあるに依は、十市(ノ)郡にも亘れるなるべし、)天武天皇(ノ)紀に、大伴吹負(ガ)百濟(ノ)家と有も、この處にや、○神葬《カムハフリ》は、神とは薨賜てよりは、神と申(ス)故、かくは云り、葬は凡(テ)柩を送りゆく儀式《ワザ》よりはじめて、土(ノ)中に埋(ミ)藏すまでにわたりていふことゝ見ゆ、さて上(ツ)代の喪葬《ハフリ》の式《ノリ》は、如何《イカニ》ありけむ、後(ノ)世に傳らねば、その委しき事は知べからねども、既《ハヤ》く神代に、天若日子《アメワカヒコ》が喪屋のさま、古事記書紀に見え、又武烈天皇(ノ)紀に、鮪(ノ)臣を葬りし時影媛がよめる歌、繼體天皇(ノ)紀に、毛野(ノ)臣を葬りし時其妻(ノ)がよめる歌、又天武天皇(ノ)紀に見えたる趣、常陸風土記に云る葬儀のこと、さては集中に載たる葬の時の歌など、これかれ考(ヘ)合せて、その大かたのさまは、思ひやらるゝことなり、伊勢物語に、崇子《タカイコ》と申す親王《ミコ》うせ賜ひて、御はふ(597)りの夜、其(ノ)宮の隣なりける男、御|葬《ハフリ》見むとて云々とあるも、親王の御葬儀《ミハフリノヨソヒ》を、人の吻見ることをいへるなり、喪葬令に、親王の御葬に轜事《モクルマ》をひき、鼓《ツヾミ》角《フエ》幡《ハタ》盾《タテ》などしたがへてゆくさま見えたり、しかれども凡て會の御制《ミサダメ》は、漢風をうつしまじへられたるより、上(ツ)代の式《ノリ》の亡《ウセ》たること多ければ、集中の頃なるも、漸々にはやくあり來し上(ツ)代ぎまの變《ウツロ》ひたるもあるべし、かくて綏靖天皇(ノ)紀に、哀葬《ミハフリ》之事、雄略天皇(ノ)紀に、視喪《ハフリノツカサ》者、持統天皇(ノ)紀に、賻物《ハフリモノ》など見え、神代紀に、葬《カクシマツル》於紀伊(ノ)國云々(ニ)1、神武天皇(ノ)紀に、葬《カクシマツル》2畝傍山云々(ニ)1、綏靖天皇(ノ)紀に、葬《カクス》2于畝傍山(ノ)北(ニ)1、垂仁天皇(ノ)紀に、葬《カクシマツル》2於山(ノ)邊(ノ)道(ノ)上(ノ)陵(ニ)1、又神代紀に、葬《ヲサメマツル》2日向(ノ)高屋(ノ)山(ノ)上(ノ)陵(ニ)1、又|葬《ヲサメマツル》2日向(ノ)吾平(ノ)山(ノ)上(ノ)陵(ニ)1(此はその一(ツ)二(ツ)を引るのみなり、)などある、其(レ)等の訓を思ふに、同じき葬(ノ)字にても、葬儀につきてはハフリ〔三字右○〕といひ、葬理のときにはカクス〔三字右○〕、あるはヲサム〔三字右○〕といひて、分てりげに見ゆ(本居氏なども大むね其(ノ)定によられたり、其こと古事記傳に見ゆ、)しかれどもなほ思ふに、この上に既く云る如く、新撰萬葉に、波可《ハカ》の借(リ)字に葬處とかゝれたるは、墓を葬處と書ることのありしを、借て用ひ賜へるものなり、されば墳墓を波可《ハカ》といふも、葬處《ハフリカ》の義なること著《イチジル》し、かゝればなほ柩を送り行より、土(ノ)中に埋(ミ)藏すまでをも、古(ヘ)より波布流《ハフル》と云りしによりて、收埋《カクシウヅ》める地を波可《ハカ》とはいへるなるべし、(今(ノ)俗にも、屍を埋るをハウムル〔四字右○〕と云(ヘ)り、)しかいふ言(ノ)義は、なほ考(フ)へし、(本居氏は、古事記允恭天皇(ノ)條(ノ)歌に、意冨岐美袁斯麻爾波夫良婆《オホキミヲシマニハブラバ》とある、波夫流《ハブル》と同言として、すべて(598)葬を波夫流《ハブル》と夫《ブ》を濁りて訓たる、其は住なれし家より出して、野山へ送り遣る意の似たるより、一(ト)わたりは其(ノ)理ありげにきこゆれども、かの大君を島に波夫良婆《ハブラバ》と、いへるは、逐《ヤラ》ひ放《ハナ》ち棄るをいひ、葬はあるが中にも重《イカシ》き儀《ワザ》なれば、野山へ送り遣ればとて、逐《ヤラ》ひ放《ハナ》つ意にいふべき謂なく、はた葬をば波布流《ハフル》と布《フ》を清て唱へて、古(ヘ)より濁りて呼《イヒ》しことをきかねば、もとより別言なりとしられたり、かの波夫流《ハブル》は、今の俗に物を投棄るをほうるといふこれにて、物語書だことに、はぶらかすと多く云る、同言なるはいふもさらなり、又|溢《ハフル》といふことあり、これは、滿(チ)溢《アフ》るゝことなり、又|屠《ハフル》といふことあり、これはホフル〔三字右○〕と云るも同じく、物を切分つことなり、又|扇《ハフル》といふことあり、これは鳥の羽觸《ハフリ》、また朝羽振《アサハフル》夕羽振《ユフハフル》などいふ皆同言なるべし、よくせずばこれら混ふことあるべし、その中放ち棄る意の波夫流《ハブル》は、もとより清濁異れゝば、まぎるべからぬ言なり、これらのこと、十四(ノ)下|久爾波布利《クニハフリ》とある下《トコロ》に、委しく辨へたり、)○葬伊座而《ハフリイマシテ》、伊《イ》はそへ言にて、葬座而《ハフリマシテ》と云に同じ、さて座《マシ》は行《ユク》ことにも、來《クル》ことにも、居《ヲル》ことにもいへり、伊《イ》の辭は、あるもなきも一(ツ)意なり、(しかるを岡部氏(ノ)考に伊座《イマシ》は、去《イニ》ましのにを略けるなりと云るは、例のいみじきひがことなり、)○朝毛吉《アサモヨシ》は、木《キ》の枕詞なり、既く云う、○木上宮《キノヘノミヤ》は、題詞に城(ノ)上(ノ)殯宮とある此(レ)なり、○常宮等《トコミヤト》は、上の長歌に註り、○高之奉而は、本居氏云、高之(ノ)二字は、定を誤れるならむ、上の長歌に、常宮跡定賜《トコミヤトサダメタマヒテ》とあり、(略解に、高之の之は久の誤にて、タカ(599)クマツリテ〔七字右○〕かといひしは、いかにぞや、○安定座奴は、シヅマリマシヌ〔七字右○〕と訓べし、(岡部氏(ノ)考に、シヅモリマシヌ〔七字右○〕とよめるはいかにぞや、大神宮儀式帳にも、志都眞利《シヅマリ》とありて、シヅマリ〔四字右○〕といふこそ、むかしより定まりたる正しきいひざまなれ、そも/\近(キ)世の古學者の徒、古書のうへにて、ことに耳なれぬ訓をし、また自己《ミヅカラ》の歌文などにも、いとあやしき詞を用ひて、ひたすらにふるめかして、人の耳を驚かさむとかまふるは、いともいともそこぎたなきわざにして、中々に識者のわらへとなるものぞかし、たゞ古書は古書の例もてこを訓べきことなれ、殊に歌などは、假字書をえりもとめて、相照すべきわざなるをや、もし假字書の見えざらむ限(リ)は、舊來のまゝに訓つべし、例にも據(ラ)ずして、異にあやしき訓をして、古言ぞとおもひをるこそ、かたはらいたきわざにはありけれ、)安定座《シヅマリマス》とは、他所に遷(リ)坐(サ)ず、長く定《ヾマ》り安《シヅマ》り給ふ意なり、古事記上卷に、其(ノ)日子遲(ノ)神|和備?《ワビテ》、自2出雲1將v上2坐倭(ノ)國(ニ)1而、束装立時云々、如此歌(ヒマシテ)即爲2宇伎由比《ウキユヒ》1而《テ》、宇那賀氣理?《ウナガケリテ》至《ニ》v今鎭(リ)坐(シキ)也、中卷に、倭建(ノ)命崩坐(シ)て、伊勢の能煩野に葬(リ)奉りしを、八尋白智鳥に化《ナリ》て、飛翔(リ)行て河内の志幾《シキ》に留(リ)賜ふ、故於2其地1作2御陵1鎭(リ)坐(シキ)也、出雲風土記に、所2造《ツクラシヽ》天下《アメノシタ》1大神大穴待(ノ)命詔(ク)、八雲立出雲八重國者《ヤクモタツイヅモノクニハ》我(カ)靜(マリ)坐(サム)國、又神賀詞に、大穴持(ノ)命|乃申給久《ノマヲシタマハク》、皇御孫(ノ)命乃靜(マリ)坐(サ)牟《ム》大倭(ノ)國(ト)申天《マヲシテ》云々、遷2却祟神(ヲ)1祝詞に、山川乃廣久清地爾遷出坐弖《ヤマカハノヒロクキヨキトコロニウツリイデマシテ》、奈我良鎭坐世止稱辭竟奉《カムナガラシヅマリマセトタヽヘコトヲヘマツル》、大神宮儀式帳に、大長谷(ノ)天皇(ノ)御夢爾誨覺賜天《ミイメニヲシヘサトシタマヒテ》、吾高天(ノ)原(ニ)坐弖(マシテ)、見之眞岐賜志處爾志(600)都眞利坐奴《メシマキタマヒシトコロニシヅマリマシヌ》、十九に、虚見都山跡乃國波大神乃鎭在國曾《ソラミツヤマトノクニハオホカミノシヅメルクニソ》、などあるを相照して、其(ノ)意をさとるべし、猶|志豆麻理《シヅマリ》と登杼麻理《トヾマリ》と通へる例など、古事記傳十一に委く辨へたり、○萬代跡《ヨロヅヨト》は、萬代にも易るべからぬ宮、とおもほしめしての意なり、六(ノ)卷に、百代爾毛不可易大宮處《モヽヨニモカハルベカラヌオホミヤドコロ》とあり、○作良志之《ツクラシシ》は、作り賜ひしなり、良之《ラシ》は里《リ》の伸りたる言にて、作り腸ひしといふ意になること、既に云たるが如し、○香來山之宮《カグヤマノミヤ》は、はやくの時に、皇子(ノ)尊の宮殿を造らせ腸へるなるべし、○過牟登念哉《ヌギムトモヘヤ》は、過失むやはといふ意なり、念は、例の輕く添たる詞なり、萬代にも易るべからぬ宮なれば、過失る代はあらじ、此(レ)をだに御形見と振仰見むとおもふなり、○天之如振放見乍《アメノゴトフリサケミツヽ》は、上に久堅乃天見如久仰見之皇子乃御門之《ヒサカタノアメミルゴトクアフギミシミコノミカドノ》とあり、○玉手次《タマタスギ》は、懸《カケ》の枕詞なり、○懸而將偲恐有騰文《カケテシヌバムカシコカレドモ》は、おそれおほくはあれども、心に懸て偲(ヒ)慕むと云るなり、十三に、御袖往觸之松矣《ミソデモチフリテシマツヲ》、言不問木雖在《コトトハヌキニハアレトモ》、荒玉之立月毎天原振放見管《アラタマノタツツキゴトニアマノハラフリサケミツゝ》、珠手次懸而思名雖恐有《タマタスキカケテシヌバナカシコカレドモ》とあり、○歌意は、言(ノ)端にかけて輕々しく申出すは、いと/\恐多くあれども、いはでは得あるまじければ申すべし、そも/\飛鳥の眞神(ノ)原の御陵に、鎭(リ)座(ス)天武天皇、そのむかし壬申(ノ)年の御亂の時、美濃(ノ)國不破山を越て和※[斬/足](ノ)行宮に臨降《アマクダリ》おはしまして、皇威に不歸《マツロハヌ》國々人々を治め和《ヤハ》せよ、と高市(ノ)皇子(ノ)尊におほせ給へば、皇子(ノ)尊は、おほせのまゝに、軍事を負持給ひて、御みづから釼とり佩(キ)、弓矢取持し給ひて、東國のあまたの軍衆《イクサビト》を率ゐ給ふに、その節《トヽノヘ》の鼓の音は、雷のくづれかゝ(601)るかとおどろき、小角《クダ》の音も、虎のあたみほゆるかとおびえられ、幡旗《ハタ》のしげくなびくさまは、風になびける野火かと見え、弓弭の音の高さは、飄風の林に卷渡るかときこえて、諸人のおそれおのゝくまでにて、かく服《ツキ》從ふ人の多きは、かの瀬田の亂に、引放つ矢のしげきことは、大雪の繁きが如くに亂れちれば、不歸《マツロハザリ》し朝敵も、今をかぎりに身命を捨て入亂れ合戰《タヽカヒ》しが、あやしやその時に、伊勢(ノ)齋《イハヒノ》宮の方より神風を興し、敷寓の朝敵をたゞ時の間に撥ひ平らげて、安く穩《オダヒ》にしづめさだめさせ給てし、この天(ノ)下の大政を、皇子(ノ)尊の執奏したまへば、萬代までにかくてあらむ、とたのもしくありがたくおもひしに事たがひて、その召使はれつかへまつりし舍人等も喪服着て、殯宮に終日終夜侍候へど、侍候ふに得堪ずて、哭吟《ナキサマヨ》ひつゝ、悲嘆《カナシミ》の情も未(タ)盡ざるに、神葬(リ)つかへまつりて、城(ノ)上(ノ)宮に永く鎭(リ)座せば、今はいかになげきてもせむすべなし、されども皇子(ノ)尊のいまそかりし時、萬代にかはるべからぬ宮地、とおほしめして造らせ給へりし、その香具山(ノ)宮は、萬代|經《フ》とも過失(ヌ)る代はあるまじければ、此(レ)をだに御形見とふり仰見つゝ、恐多くはあれども、皇子(ノ)尊の御事を、心にかけて慕ひ奉り行むとなり、〔頭注【怨有騰文云々以上百四十九句、集中第一の長篇なり、人丸の獨歩の英才を以て、皇子の大功を述て薨去を慟奉られしは、誠に不朽を月日に懸たる歌なり、水戸侯釋】
 
短歌二首《ミジカウタフタツ》。
 
200 久堅之《ヒサカタノ》。天所知流《アメシラシヌル》。君故爾《キミユヱニ》。日月不知《ツキヒモシラニ》。戀渡鴨《コヒワタルカモ》。
 
(602)天所知流《アメシラシヌル》は、前の長歌に、天皇之敷座國等天原石門乎開神上上座奴《スメロキノシキマスクニトアマノハライハトヲヒラキカムノボリノボリイマシヌ》、とあるに全(ラ)同し、○君故爾《キミユヱニ》は、君なるものをの意なり、(俗に君ぢやにといはむがごとし、○月日毛不知《ツキヒモシラニ》は、歳月日の經る分《ワキ》も知ずになり、恍惚《ホレ/”\》として、戀奉るよしなり、○戀渡鴨《コヒワタルカモ》は、戀しく思ひ奉りて、月日を經《ヘ》渡る哉となり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
201 埴安乃《ハニヤスノ》。池之堤之《イケノツヽミノ》。隱沼乃《コモリヌノ》。去方乎不知《ユクヘヲシラニ》。舍人者迷惑《トネリハマドフ》。
 
隱沼乃《コモリヌノ》は、隱沼とは、草などの多く生(ヒ)茂りて、隱れて水の流るゝ沼《ヌマ》なり、九十一十四十七の卷卷などにも見えたり、古事記仁徳天皇(ノ)條に、許母理豆能志多用波閇都々《コモリヅノシタヨハヘツヽ》、(隱水《コモリヅ》の下從延《シタヨハヘ》つゝなり、)とある許母理豆《コモリヅ》の類なり、さてその隱沼は、流れ行すゑの表《アラハ》にしられねば、去方乎不知《ユクヘヲシラニ》といはむ料の序とせるなり、○歌(ノ)意は、朝暮に親くつかへ奉りし舍人等も、此(ノ)頃は己がじゝあがれちりて、いづかたに身をよせなむ、その行方《ユクヘ》もしらずに、哭吟ひ悲み愁ひつゝ、迷ひあるよとなり、
〔或書反歌一首。202 哭澤之《ナキサハノ》。神社爾三輪須惠《モリニミワスヱ》。雖?祈《ノマメドモ》。我王者《ワガオホキミハ》。高日所知奴《タカヒシラシヌ》。〕
哭澤之神社爾《ナキサハノモリニ》、古事記に、伊邪那岐(ノ)命云々、哭(キタマフ)時|於《ニ》2御涙1所成神、坐2香山之畝尾(ノ)木本(ニ)1、名(ハ)泣澤女(ノ)神と見えたり、かゝれば此(ノ)社香山に坐して、皇子(ノ)尊香山(ノ)宮に坐せば、皇子(ノ)尊の御爲に、ことにいつき奉り、ねぎことなどすべき御社なり、(元享二年民部省圖帳、薦河(ノ)國廬波羅(ノ)郡のところに、(603)澤女神とあるは、同神ならむか、尋ぬべし、)○三輪須惠《ミワスヱ》は、神酒居《ミワスヱ》なり、十三に、五十串立神酒坐奉神主部之《イクシタテミワスヱマツルカムヌシノ》云々ともあり、(夫木集に、しらざりつ三輪すゑまつるみそぎ川、神さへうけぬ思ひせむとは、)神に供《タテマツ》る酒を美和《ミワ》といふことは、既く一(ノ)卷にいへり、(岡部氏(ノ)考に、三輪は、酒を釀る※[瓦+肆の左]をいふ、其乃美和《ミワ》の美《ミ》は釀《カミ》の略、和《ワ》は※[瓦+肆の左]の類を※[手偏+總の旁]いふ名なり、と云るは、いみじきひがことなり、此等のことも上に委く辨へつ、)○雖?祈新は、ノマメドモ〔五字右○〕と訓べし、?祈《ネギコト》せむとおもへども、今はその益なしとの意なり、(今までの人、これをイノレドモ〔五字右○〕と訓來れるは、いとつたなし、)上に、山振之立儀足山清水酌爾雖行道之白鳴《ヤマブキノタチシゲミタルヤマシミヅクミニユカメドミチノシラナク》、また磯之於爾生流馬醉木乎手折目杼《イソノウヘニオフルアシビヲタヲラメド》、令視部吉君之在常不言爾《ミスベキキミガアリトイハナクニ》、雖の言これらにひとし、○高日所知奴《タカヒシラシヌ》は、上に天所知流《アメシラシヌル》とあるに意同じ。奴《ヌ》は已成《オチヰ》の奴《ヌ》なり、○歌(ノ)意は、泣澤(ノ)神社に神酒座《ミワスヱ》幣帛《ヌサ》奉りなどして、?祈《イノリ》申さむとはおもへども、今はかく高天(ノ)原へ上りまして、現世《コノヨ》の人におはさねば、そのかひなし、はやく皇子(ノ)尊の御在《イマソ》かりしほど、慇懃に祈?《イノリ》申して、御壽《ミイノチ》の長くましまさむことを、願奉るべきことにてありしを、今は悔てもかひなきことぞとなり、三(ノ)卷石田(ノ)王卒之時丹生(ノ)王(ノ)作(ル)歌に、吾屋戸爾御諸《
乎立而《ワガヤドニミモロヲタテヽ》、枕邊爾齋戸乎居《マクラヘニイハヒヘヲスヱ》、竹玉乎無間貫垂《タカタマヲシジニヌキタリ》、木綿手次可比奈爾懸而《ユフタスキカヒナニカケテ》、天有左佐羅能小野之《アメナルサヽラノヲヌノ》、七相管手取特而《イハヒスゲテニトリモチテ》、久堅乃天州原爾《ヒサカタノアマノガハラニ》、出立而潔身而麻之乎《イデタチテミソギテマシヲ》、高山乃石穗乃上爾伊座都流香物《タカヤマノイハホノウヘニニイマセツルカモ》とある、御在《イマシ》かりしほど、神祇《カミ》を祈祭りし事のおろそかなりしを、後に悔賜へるさま今と似たり、さ(604)て本居氏云、昔かく人(ノ)命を、泣澤(ノ)神に祈りけむ由は、伊邪那美(ノ)神の崩坐るを、哀み賜へる御涙より成坐る神なればかといへり、
〔右一首。類聚歌林(ニ)曰。檜隈(ノ)女王。怨2泣澤(ノ)神社(ヲ)1之歌也、案日本紀(ニ)曰。持統天皇〔四字□で囲む〕十年丙申秋七月辛丑朔庚戌。後(ノ)皇子尊薨。〕
檜隈(ノ)女王は、續紀に、天平九年二月戊午、授2從四位下檜前(ノ)王(ニ)從四位上(ヲ)1と見ゆ、此(ノ)王の姉妹などにや、さてこの女王の歌とせしは、もとよりさる語傳もありしなり、但し怨2泣澤(ノ)神社(ヲ)1といへるは非なり、此(ノ)歌にさるよしは見えず、是(レ)は第三句を、はやくの時、イノレドモ〔五字右○〕とよみたるによりて、(イノレドモ〔五字右○〕と訓(ム)時は、神酒奉りなど、慇懃《ネモゴロ》に祈?《イノリ》申せども、その益なくして、つひに薨給ひぬといふ意になれば、泣澤(ノ)神を怨る歌ともいふべし、ノマメドモ〔五字右○〕と訓時は、上にいへるごとく祈?《イノリ》せむとおもへども、今はその益なし、はやくの時に慇懃に祈申して、御壽の長からむことを、願奉るべきことにてありしを、さることもせざりしは悔しき事、と自の心を後に悔る意のみにて、神を怨る意はさらになし、此(ノ)歌かならず、ノマメドモ〔五字右○〕と訓べきことなり、)誤て其(ノ)説をなせしものなり、(岡部氏(ノ)考に、こは必人麻呂の歌の體ならず、左註ぞ實なるべくおぼゆる、といへるは、かへりてひがことなり、抑々人麻呂の歌の體ならずとおもへるは、訓法のつたなき所爲《ワザ》にこそあれ、第三句ノマメドモ〔五字右○〕とよむときは、をさ/\人麻呂主の、自餘の(605)歌に立おくれたるすぢなし、はた左註も、打まかせてはよりがたきこと、既く云るがごとし、)○持統天皇の四字は、いと後人の加へたるなるべし、削去べし、古註にはあらず、
 
                  山田安榮
                  伊藤千可良    同校
                  文傳正興
 
萬葉集古義二卷之中 終
 
 
明治三十一年六月二十五日 印刷
明治三十一年七月  一日 發行
明治四十五年六月二十五日 再版印刷
明治四十五年六月 三十日 再版發行
(萬葉集古義奧付)
非賣品(不許複製)
  東京市京橋區南傳馬町一丁日十二番地
發行者 吉川半七
  東京市芝區愛宕町三丁目二番地
印刷者 吉岡益藏
  東京市芝區愛宕町三丁目二番地
印刷所 東洋印刷株式會社
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發行所 國書刊行曾
 
宮内省
御原本
 
(1)萬葉集古義二卷之下
 
 
弓削皇子薨時《ユゲノミコノスギマセルトキ》。置始東人作歌一首并短歌《オキソメノアヅマヒトガヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
弓削(ノ)皇子薨時云云、皇子の御傳は、二(ノ)上に委(ク)云り、薨は、續紀に、文武天皇三年秋七月(ノ)癸酉、淨廣貳弓削(ノ)皇子薨とあり、○置始東人は、既く一(ノ)下に出づ、○作(ノ)字、舊本脱たり、今は目録并定家卿(ノ)万時に從つ、
 
204 安見知之《ヤスミシシ》。吾王《ワガオホキミ》。高光《タカヒカル》。日之皇子《ヒノミコ》。久堅乃《ヒサカタノ》。天宮爾《アマツミヤニ》。神隨《カムナガラ》。神等座者《カミトイマセバ》。其乎霜《ソコヲシモ》。文爾恐美《アヤニカシコミ》。晝波毛《ヒルハモ》。日之盡《ヒノコト/”\》。夜羽毛《ヨルハモ》。夜之盡《ヨノコト/”\》。臥居雖嘆《フシヰナゲケド》。飽不足香裳《アキタラヌカモ》。
 
安見知之《ヤスミシシ》云々(四句)は、もはら天皇を申す言ながら、轉《ウツ》りては皇子をも申こと、例かた/”\にあり、されば此《コヽ》は、弓削(ノ)皇子をさして申せるなり、○天宮爾《アマツミヤニ》は、薨《スギ》賜ひては、神魂《ミタマ》高天(ノ)原に上りまして、天津宮《アマツミヤ》に御座《オハ》しますよしに云り、此(ノ)上に、天皇之敷座國等天原石門乎開神上上座奴《スメロギノシキマスクニトアマノハライハトヲヒラキカムノボリノボリイマシヌ》、と天武天皇の崩御《カムアガリ》ましませるを申せるも意同じ、○神等座者《カミトイマセバ》は、神となりて座《イマ》せばとなり、(岡部氏(ノ)考に、此(ノ)處を略に過て、俗に近きなりと云るは、中々に古言に細しからず、)等《ト》の言は、一(ノ)(2)卷に、栲乃穂爾夜之霜落磐床等川之氷凝《タヘノホニヨルノシモフリイハトコトカハノヒコホリ》とある等《ト》に同じく、此(ノ)物の彼(ノ)物に變り化《ナ》れるをいふ詞なり、古今集に、今日來ずは明日は雪とぞふりなまし、といへるも同じ、古言に多き詞なり、○文爾恐美《アヤニカシコミ》はあやしきまで恐《カシ》こさにといふにて、恐美《カシコミ》は恐多《オソレオホ》く悲しさに、と云むが如し、恐は、皇子《ミコ》の薨賜(ヘ)るを、下ざまの者よりして悲み奉るは、いともかたじけなく恐こき意にて、云るなるべし、○臥居雖嘆《フシヰナゲケド》は、臥《フシ》ても、嘆き、居《ヰ》ても嘆けどといふなり、(臥は夜の事、居は晝の事とまで、別《ワケ》て聞むはいとむつかし、)○飽不足香裳《アキタラヌカモ》は、さても盡ぬこと哉、といふ意なり、(飽足は、今(ノ)世には、よき事の心にかなひて、滿る事にのみ云へど、古(ヘ)はよき事にもあしき事にもいひて、滿盡るよしなり、されば不《ヌ》2飽足《アキタラ》1は、不《ヌ》v盡《ツキ》意なり、俗に十分になきといふ意なり、)字鏡に、※[女+周](ハ)、阿支太留《アキタル》とあり、(これも※[女+周](ハ)好貌とあれば、よき事の心に滿るよしにて云るか、されど字は證とすべきにあらず、)○歌(ノ)意は、皇子の薨賜へるを、いともかたじけなく恐《カシコ》くはあれど、哀《カナシ》み奉るとて、日は終日夜は終夜、臥ても悲《ナゲ》き居ても歎きすれども、なほ悲歎《カナシミ》の情はさても盡ぬこと哉、かく晝夜《ヨルヒル》臥居《オキフシ》につけて、間もなくかなしみ奉れば、悲歎《ウレヒ》の情の盡ることもあるべきにとの意なり、
 
反歌《カヘシウタヒトツ》
 
205 王者《オホキミハ》。神西座者《カミニシマセバ》。天雲之《アマクモノ》。五百重之下爾《イホヘガシタニ》。隱賜奴《カクリタマヒヌ》。
 
(3)王者神西座者《オホキミハカミニシマセバ》は、薨賜ひては、もとより天に上ると申すことながら、なほこゝには、薨給ふとあらはには申さずして、直《タヾ》に現御身《ウツシミミ》の、天に上り賜ふごといひなしたり、三(ノ)卷(ノ)初に、皇者神二四座者天雲之雷之上爾廬爲流鴨《オホキミハカミニシマセバアマクモノイカヅチノヘニイホリセスカモ》、十九に、皇者神爾之座者赤駒之腹婆布田爲乎京師跡奈之都《オホキミハカミニシマセバアカコマノハラバフタヰヲミヤコトナシツ》、また大王者神爾之座者水鳥乃須太久水奴麻乎皇都常成都《オホキミハカミニシマセバミヅトリノスダクミヌマヲミヤコトナシツ》などあり、○五百重之下爾《イホヘガシタニ》は、五百重《イホヘ》は、多くかさなれる意なり、千重《チヘ》とも百重《モヽヘ》とも、所に隨ていふが如し、下《シタ》は、本居氏、裏《シタ》にてうちといふに同じといへり、(岡部氏(ノ)、下を上と改めたるは、ものそこなひなり、)○歌(ノ)意は、大王はもとより現人神《フアラトガミ》にてましませば、さるあやしきことわりありて、五百重《イホヘ》かさなる天雲の裏に、雲隱(レ)腸ひぬるよ、あなかしこ下ざまの者の、議りしるべきことにあらずといひて、いたく哀傷《カナシミ》奉る意を含めたるなるべし、
 
又短歌一首〔五字□で囲む〕
 
右の反歌の一本ならば、或本歌と載べし、又と書たることいかゞ、かにかくに、右の五字は疑はしければ、姑(ク)削(リ)て有べし、(さて此(ノ)歌にのみ地《トコロ》をよめるは、右の反歌ならずとせむも、行過たることなり、岡部氏(ノ)考には、別に題詞のありけむを、脱せしなるべしといへれど、いかゞ、)
 
206 神樂波之《ササナミノ》。志賀左射禮浪《シガサザレナミ》。敷布爾《シクシクニ》。常丹跡君之《ツネニトキミガ》。所念有計類《オモホエタリケル》。
 
志賀左射禮波《シガサザレナミ》は、志賀の海の泊※[さんずい+狛]《サヾレナミ》を、直《タヾ》にかく云るは、古人ならではあるまじきなり、左射禮(4)浪《サザレナミ》は、和名抄に、泊※[さんずい+狛]、唐韻(ニ)云、淺水貌也、文選師説(ニ)、左々良奈三《サヽラナミ》、字鏡に、泊※[さんずい+百](ハ)、大(ヲ)曰2波濤(ト)1、小(ヲ)曰2泊※[さんずい+百](ト)1、佐佐奈彌《ササナミ》(良を脱せるか、)とあり、左々良《サヽラ》といふは後の轉言なり、古(ヘ)は左射禮《サザレ》とのみいへり、さて左射禮《サザレ》は、スヾル、セヾル、ソヾル〔九字右○〕と同言にして、俗にザラ/\、ズル/\、ゾロ/\〔十二字右○〕などもいひて、ゾロ/\〔四字右○〕とすずるゝをいふなり、(更科日記に、こゝちよげにさざらき流れし水もとあるも、ざら/\とすずれ流なゝ水をいへるなるべし、)左射禮石《サザレイシ》の左射禮も、同じ言なり、集中に、細浪《サヾレナミ》、小浪《サヾレナミ》、細石《サヾレイシ》、小石《サヾレイシ》など書るも、義を得て書るのみにて、左射《ササ》の言は、細小《サヽヤカ》なる意にはあらず、さて敷布爾《シク/\ニ》といはむ料の序に、左射禮浪《サザレナミ》と云るなり、浪の重るよしにて、敷布《シク/\》とつゞけたり、直《タヾ》に重浪《シキナミ》とも云るを思(ヒ)合(ス)べし、志賀をよめるは、何ぞ所縁《ヨシ》ありてのことなるべし、○敷布爾《シク/\ニ》は、重々《シキリ/\》になり、さて此(ノ)一句は、尾句の上へうつして意得べし、(岡部氏(ノ)考に、よする浪の數かぎり無を、よはひに願ふなりと云るは非なり、)○常丹跡君之《ツネニトキミガ》は、君が常にあらむの意なり、三(ノ)卷同皇子(ノ)御歌に、瀧上之三船乃山爾居雲乃常將有等和我不念久爾《タキノヘノミフネノヤマニヰルクモノツネニアラムトワガモハナクニ》とあり、今の意とは表裏なり、○歌(ノ)意は、(第一二の句は、序なれば意はなし、)いつも君が常にましまして、久しく仕へ奉らむものと、重々《シク/\》におもほえてありけることよ、かく御命は、常なくはかなくまし/\けるものを、と歎きたるなり、
 
明日香皇女《アスカノヒメミコノ》。木※[瓦+(丶/正)]殯宮之時《キノヘノアラキノミヤノトキ》。柿本朝臣人麿作歌一首并短歌《カキノモトノアソミヒトマロガヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
(5)明日香(ノ)皇女は、天智天皇紀に、次(ニ)有2阿倍(ノ)倉梯麻呂(ノ)大臣(ノ)女1、曰2橘(ノ)娘(ト)1、生3飛鳥(ノ)皇女(ト)與(ヲ)2新田部(ノ)皇女1、續紀に、文武天皇四年夏四月癸未、淨廣肆明日香皇女薨、遣v使(ヲ)弔賻(シタマフ)之、天智天皇(ノ)女也とあり、左の歌を合(セ)思ふに、此(ノ)皇女明日香の邊に御座ましけるなるべし、故(レ)御名にも負奉れるならむ、○木※[瓦+缶]《キノヘ》は、此(ノ)上に高市(ノ)皇子(ノ)尊城上(ノ)殯(ノ)宮とあるも同じ地にて、其(ノ)下に和名抄等を引て委(ク)註り、(○源(ノ)嚴水云、此(ノ)題詞を、岡部氏、河島(ノ)皇子をかなしみ奉れる歌の端作によりて、獻2忍坂部(ノ)皇子(ニ)1、といふことを補(ナ)はれたるは、さかしらといひつべし、此(ノ)歌のさまを考(フ)るに、此(ノ)明日香(ノ)皇女を吾王と稱《マヲ》し、忍壁(ノ)皇子をば、たゞ君とのみいへり、もし忍壁(ノ)皇子に戯れる歌ならば、此皇子を主として吾王と稱《マヲ》し、明日香(ノ)皇女を客として君とこそ申べきを、かへりて明日香(ノ)皇女を吾王といへるは、此(ノ)皇女の御爲によめる歌なること決《ウツナ》し、下に此(ノ)皇子の木(ノ)※[瓦+缶]の御墓へ通ひたまふ事を云れど、そは人麻呂の其(ノ)さまを見奉るより、悲みしぬび奉る心の、いや増るよしをいふのみにこそあれ、されば本のまゝにて、明日香(ノ)皇女の薨まして、木(ノ)※[瓦+缶]の殯宮におはします時の悲歌とすべし、)○今按(フ)に、此(ノ)題詞より以下三首、舊本河島(ノ)皇子(ノ)殯宮之時(ノ)歌の次下に入(レ)るは、錯亂《マギレ》たるものなり、その由は、此(ノ)皇女は、弓削(ノ)皇子より後に薨賜ひたれば、必(ス)こゝに收《イル》べきことなり、
 
196 飛鳥《トブトリノ》。明日香乃河之《アスカノカハノ》。上瀬《カミツセニ》。石橋渡《イシバシワタシ》。下瀬《シモツセニ》。打橋渡《ウチハシワタス》。石橋《イハバシニ》。生靡留《オヒナビケル》。玉藻毛叙《タマモモゾ》。絶者(6)生流《タユレバオフル》。打橋《ウチハシニ》。生乎爲禮流《オヒヲヲレル》。川藻毛叙《カハモモゾ》。干者波由流《カルレバハユル》。何然毛《ナニシカモ》。吾王乃《ワガオホキミノ》。立者《タヽセバ》。玉藻之如《タマモノゴトク》。許呂臥者《コロフセバ》。川藻之如久《カハモノゴトク》。靡相之《ナビカヒシ》。宣君之《ヨロシキキミガ》。朝宮乎《アサミヤヲ》。忘賜哉《ワスレタマフヤ》。夕宮乎《ユフミヤヲ》。背賜哉《ソムキタマフヤ》。宇都曾臣跡《ウツソミト》。念之時《オモヒシトキニ》。春部者《ハルヘハ》。花折挿頭《ハナヲリカザシ》。秋立者《アキタテバ》。黄葉挿頭《モミチバカザシ》。敷妙之《シキタヘノ》。袖携《ソデタツサハリ》。鏡成《カヾミナス》。雖見不※[厭の雁だれなし]《ミレドモアカニ》。三五月之《モチツキノ》。益目頬染《イヤメヅラシミ》。所念之《オモホシシ》。君與時々《キミトトキ/”\》。 幸而《イデマシテ》。遊賜之《アソビタマヒシ》。御食向《ミケムカフ》。木※[瓦+缶]之宮乎《キノヘノミヤヲ》。常宮跡《トコミヤト》。定賜《サダメタマヒテ》。味澤相《アヂサハフ》。目辭毛絶奴《メコトモタエヌ》。所己乎之毛《ソコヲシモ》。綾爾憐《アヤニカナシミ》。宿兄鳥之《ヌエトリノ》。片戀爲乍《カタコヒシツヽ》。朝鳥《アサトリノ》。往來爲君之《カヨハスキミガ》。夏草乃《ナツクサノ》。念之萎而《オモヒシナエテ》。夕星之《ユフヅツノ》。彼往此去《カユキカクユキ》。大船《オホブネノ》。猶預不定見者《タユタフミレバ》。遣悶流《ナグサムル》。情毛不在《コヽロモアラズ》。其故《ソコユヱニ》。爲便知之也《セムスベシラニ》。音耳母《オトノミモ》。名耳毛不絶《ナノミモタエズ》。天地之《アメツチノ》。彌遠長久《イヤトホナガク》。思將往《シヌヒユカム》。御名爾懸世流《ミナニカヽセル》。明日香河《アスカガハ》。及萬代《ヨロヅヨマデニ》。早布屋師《ハシキヤシ》。吾王乃《ワガオホキミノ》。形見何此焉《カタミニコヽヲ》。
 
明日河乃河《アスカノカハ》は、大和(ノ)國高市(ノ)郡にある川(ノ)名なり、神名帳に、飛鳥(ノ)川上(ニ)坐(ス)神社見えたり、明日香《アスカ》は、一(ノ)卷(ノ)下にいへり、さて此《コヽ》は、下に玉藻《タマモ》川藻《カハモ》を譬に取む料にいへり、藻は何(レ)の河にも有ぬべきを、歌の終にも、皇女の御名にかけて云たるをおもへば、即(チ)御座《イマシ》し地なるからいへるなり、○石橋渡《イハバシワタシ》は、石を數々並(ヘ)て、其(ノ)上を傳(ヒ)渡る料にしたるをいふ、七(ノ)卷に、明日香河湍瀬由渡之石走無《アスカガハセセユワタシシイハバシモナシ》、(走は橋の借字なり、)また橋立藏梯川石走者裳壯子我度爲石走者裳《ハシダテノクラハシガハノイハノハシハモヲサカリニアガワタセリシイハノハシハモ》などあり、石を伊波《イハ》と訓べきよしは、既く冠辭考に云る如し、(又イシバシ〔四字右○〕とも訓べきか、字鏡に、砌(ハ)、伊志波志《イシバシ》、磴(ハ)、伊(7)志波志《イシバシ》とあり、和名抄に、爾雅註(ニ)云、※[石+工](ハ)石橋也、和名|以之波之《イシバシ》とあるは、石をよく切(リ)立(テ)て、うるはしく造りてかけたるにて、今とはいさゝか異れり、)舊本に、一(ニ)云、石浪と註せり、こは伊之奈彌《イシナミ》と訓べし、石並《イシナミ》にて、並《ナミ》は用言なり、石を並べ渡しと云むが如し、廿(ノ)卷家持(ノ)卿(ノ)歌に、安麻能河伊之奈彌於可婆都藝弖見牟可母《アマノガハイシナミオカバツギテミムカモ》とあり、○打橋渡は、ウチハシワタス〔七字右○〕と訓べし、打橋は、神代紀下卷に、又於《ニモ》2天(ノ)安(ノ)河原1亦|造《ツクラム》2打橋《ウチハシ》1源氏物語桐壺に、まうのぼり給ふにも、あまりうちしきるをり/\は、うちはしわた殿、こゝかしこの道に、あやしきわざをしつゝ、夕顔に、うちはしだつものを道にてなむかよひ侍る、いそぎくるものは、きぬのすそを物に引かけて、よろぼひたふれて、はしよりもおちぬぺければ、いでこのかづらきの神こそ、さかしうしおきたれとむつかりて、物のぞきの心もさめぬめり、清少納言に、道のほども、殿の御さるがうことに、いみじくわらひて、ほと/\うちはしよりもおちぬべし、なほ集中四(ノ)卷、七(ノ)卷、十(ノ)卷にも見えたり、(江次第七日節會装束(ノ)條に、日華門内橋北頭(ニ)、立2左次將※[役の旁](ヲ)1、相撲召合装束(ノ)條に、春興安福兩殿(ノ)庇、自2北第一(ノ)間1云々、各第三間壇(ニ)置2打橋(ヲ)1、内侍所御神樂(ノ)事(ノ)條に、至2綾綺殿額(ノ)間(ニ)1造2打橋(ヲ)1云々、この内橋打橋みな同じかるべし、)本居氏、打橋は、打は借(リ)字にて、うつしの約りたるなり、こゝへもかしこへも遷しもてゆきて、時に臨て、かりそめに渡す橋なりといへり、さて渡《ワタス》にて暫|絶《キリ》て意得べし、初句より此(レ)までは、玉藻川藻をいはむ料なり、○石橋《イハバシ》は、その石橋にといふ意なり、舊(8)本に、一(ニ)云、石浪と註せり、これは浪は體言なり、○生靡留《オヒナビケル》云々、生乎烏禮流《オヒヲヲレル》と云るは、御夫婦の御中|親《シタ》しく睦《ムツマ》しくて、藻の如くに靡相之《ナビカヒシ》と云(フ)事をいひ起さむ料の、下形なり、○玉藻毛叙《タマモモゾ》云云、川藻毛叙《カハモモゾ》云々、玉藻《タマモ》は、海藻川藻にかぎらず、藻を稱《タヽヘ》ていふことなり、既く云へり、川藻は、水中の藻にて、品物解に云り、さて二(ツ)の毛叙《モゾ》の辭に、かへりてといふ意を含めり、玉藻川藻は心なき小草ぞとおもひおとしてありしかど、かへりてその藻は枯(レ)て絶れば、又其根より再(ビ)生出て榮ゆるを、吾(ガ)王|皇女《ヒメミコ》は、夫(ノ)君と御中をきよく絶《タチ》給ひて、又再(ビ)相見給ふことのなくなれるよとの意を、この二(ツ)の毛叙《モゾ》の辭にて、聞せたるなり、さて絶者《タユレバ》云々、干者《カルレバ》云々といふに、御中の絶(エ)給ひ、離《カレ》給ふ意をもたせたるなり、此(ノ)下同人の歌に、吉雲曾無寸《ヨケクモゾナキ》とあるも、毛曾《モゾ》の意|此《コヽ》に同じ、(此(レ)等は、古今集以降の歌に、志毛曾《シモゾ》と云る詞に似たり、古今集に、青柳の糸よりかくる春|志毛曾《シモゾ》亂れて花のほころびにける、拾遺集に、露にだにあてじと思ひし人|志毛曾《シモゾ》しぐれふるころ旅に行ける、などあるに通ひてきこえたり、さて又古今集のころよりこなた毛曾《モゾ》といへるは、行末をかねておしはかりて、あやぶむ意にのみ用ひたれど、此(ノ)集已前に、さる意なるは見えず、)さて又十一に、立念居毛曾念紅之赤裳下引去之儀乎《タチテオモヒヰテモゾオモフクレナヰノアカモスソヒキイニシスガタヲ》とあるは、たゞ毛《モ》と曾《ソ》とおのづから重りたるのみにて、今とは異《カハ》れりとおぼゆ、○絶者生流《タユレバオフル》は、枯て絶れば、其(ノ)根より又|新《アラタ》に生るといふなり、○打橋《ウチハシニ》は、その打橋にといふ意なり、○生乎爲禮流《オヒヲヲレル》は、岡部氏、六(ノ)卷に、春部者
(9)花咲乎遠里《ルヘハハナサキヲヲリ》、また春去者乎呼理爾乎呼里《ハルサレバヲヲリニヲヲリ》、十(ノ)卷に、芽子之花開之乎烏入緒《ハギノハナサキノヲヲリヲ》、十七に、春佐禮播咲花乎々理《ハルサレバハナサキヲヽリ》などあるに依て、爲を烏に改めてオヒヲヽレル〔六字右○〕と訓るがごとし、本居氏、此(ノ)言を、師の考にたわみなびく意として、とをとをを略きて、をゝりといふと有は、いとむつかし、今按(フ)に、此(ノ)言は、五(ノ)卷に、みるのごと和々氣《ワヽケ》さがれる、八(ノ)卷に、秋はぎのうれ和々良葉《ワヽラバ》になどよめる、此(ノ)わゝけ、わゝらばは、俗語に、髪がわゝ/\としてあるとも、髪がをわるともいふ、をわるは、わゝるの通音にて、わゝけわゝらばは是(レ)と同言なり、又木の枝のしげりてこぐらきを、うちをわるといふも、わゝると通音なり、然ればをゝりは、わゝりにて、わゝ/\としげく生(ヒ)たるをいふなり、花咲をゝりも、わゝ/\としげく花の咲るをいふといへり、○干者波由流《カルレバハユル》は、枯れば初生《ハユ》るにて、上の絶者生流《タユレバオフル》を、言をかへしのみにて、意は全(ラ)同じ、於布《オフ》と波由《ハユ》とを別て釋《イフ》ときは、於布《オフ》はひろく生殖《オヒタツ》をいひ、波由《ハユ》は芽《メ》の初(メ)て萌(エ)出ることに云り、十四に、楊奈疑許曾伎禮婆件要須禮《ヤナギコソキレバハエスレ》、顯宗天皇(ノ)紀に、※[草がんむり/夷]媛《ハエヒメ》、※[草がんむり/夷]此云2波曳《ハエト》1、(※[草がんむり/夷]は字書に、草木初生(ル)貌(ナリ)と云り、此(ノ)字よくあたれり、六(ノ)卷に、家之小篠生《イヘシシヌハユ》と見えて、生(ノ)字をハユ〔二字右○〕の假字にせるは、ハユ〔二字右○〕といふも生(フ)る中の一(ツ)なればぞかし、さればハユ〔二字右○〕と云には生(ノ)字をも借て書べし、オフ〔二字右○〕といふには、※[草がんむり/夷](ノ)字などは書べからぬ理なりとしるべし、)などあり、さて初句より此(レ)までは、御中の絶離《タエカレ》給ふことを、玉藻川藻の絶者《タユレバ》云々、干者《カルレバ》云々といふにてきかせ、又下の藻の如く靡相之《ナビカヒシ》といひ興さむ料にもした(10)るなり、かく比《ナゾ》へたる意と、下をいひ興す料と、此(レ)まで二(タ)しへの用を帶《カネ》て云るが故に、ようせずば此(ノ)處まがひぬべし、○何然毛《ナニシカモ》、此詞は、下の忘賜哉《ワスレタマフヤ》といふ句の上におきて意得べし、よろしき君が朝宮夕宮を、何しかも忌(レ)賜(フ)哉背(キ)賜(フ)哉の意なり、○吾王乃《ワガオホキミノ》は、皇女を指て申せり、○立者、タヽセバ〔四字右○〕と訓めるは、立者《タテバ》の伸りたる言にて、立賜者《タチタマヘバ》といふ意なり、○許呂臥者《コロフセバ》は、ころび伏(セ)ばといふにて、許呂《コロ》は臥す形容《サマ》をいふ言なり、下には自伏君之《コロフスキミガ》とあり、○靡相之《ナビカヒシ》は、ナビキシ〔四字右○〕の伸りたる言にて上に云り、○宜君之《ヨロシキキミガ》は、忍壁(ノ)皇子をさせり、(これを皇女の御ことゝせむはわろし、)さて宜(シ)とは、皇女と共に興《オク》とても臥《フス》とても、玉藻川藻の如く靡(キ)附(キ)給ひて、何事も御心のまゝに、打あひかなひたるよしなり、(岡部氏が、宜とは、貌などの足ひそなはれるを云なりと云るは、いさゝかたがへり、)○朝宮乎夕宮乎《アサミヤヲユフミヤヲ》は、たゞ朝夕の宮をなり、かく文《コトバ》を交《カタミ》にせること古語の常なり、何一(ツ)あかずおぼす御事はあるまじく思ふに、何によりてか、忘れ賜ひ背き賜ひて、朝夕の宮事を執賜はぬそといふ意なり、○忘賜哉背賜哉《ワスレタマフヤソムキタマフヤ》は、あさき御中ならば、ふとおぼし忘れ賜ふ事もあるべく、御心にかなはぬ事あらば、背き賜ふこともあるべきことわりなるに、さることはあるまじきを、何しにか忘(レ)背(キ)給ふぞといふなり、さて上に何然毛《ナニシカモ》とあるに、又こゝに至りて賜哉《タマフヤ》とあるは、たちまち(何《ナニ》し可《カ》もの可《カ》と賜哉《タマフヤ》の哉《ヤ》と、)疑(ヒ)の詞重りたるは、いかにぞといふに、(此(ノ)集をとり見る人こゝに心を付べきことなるに、今まで註者等も、(11)とかくさだしたることのきこえざるはおろそかなり、)こは一(ツ)の哉《ヤ》の言は輕く見る例にて、八(ノ)卷に、打蝉乃人有我哉如何爲跡可一日一夜毛離居而嘆戀良武《ウツセミノヒトナルアレヤナニストカヒトヒヒトヨモサカリヰテナゲキコフラム》、十一に相見者千歳八去流否乎鴨我哉然念待公難爾《アヒミテバチトセヤイヌルイナヲカモアレヤシカモフキミマチカテニ》、十二に、浦觸而可例西袖※[口+立刀]又卷者過西戀也亂今可聞《ウラブレテカレニシソテヲマタマカバスギニシコヒヤミダレコムカモ》、十三に、世間乎倦跡思而家出爲《ヨノナカヲウシトオモヒテイヘデセル》、吾哉難二加還而將成《アレヤナニニカカヘリテナラム》、十四に、比流等家波等家奈敝比毛乃和賀西奈爾阿比與流等可毛欲流等家也須流《ヒルトケバトケナヘヒモノワガセナニアヒヨルトカモヨルトケヤスル》、十七に、安麻射可流比奈毛乎佐牟流《アマザカルヒナモヲサムル》、麻須良袁夜奈爾可母能毛布《マスラヲヤナニカモノモフ》大和(ノ)國添下(ノ)郡藥師寺佛足石碑(ノ)御歌に、伊可奈留夜比止爾伊麻世可伊波《イカナルヤヒトニイマセカイハ》乃字閇乎《ノウヘヲ》、都知《ツチ》止布美奈志阿止乃祁留良牟《トフミナシアトノケルラム》(後ながら新續古今集に、君のみやあかずかも見むをのゝえの朽にし山の峯のもみち葉、とあるも此(ノ)格にり、今昔物語藤原(ノ)親孝(カ)子、爲2盗人1破v捕v質(ニ)、依2頼信朝臣(ノ)言(ニ)1免語に、後に此(ノ)奴をきりきざみたりとも何の益かあらむや、とあるも此(ノ)格か、)などありて、可《カ》と夜《ヤ》の言重るときは、いづれも夜《ヤ》の言輕く見る例なり、又四(ノ)卷に、如此爲而哉猶八將退不近《カクシテヤナホヤマカラムチカヽラヌ》、道之間乎煩參來而《ミチノアヒダヲナヅミマヰキテ》、七(ノ)卷に、如是爲而也尚哉將老三雪零《カクシテヤナホヤオイナム》、大荒木野之小竹爾不有九二《ミユキフルオホアラキヌノシヌニアラナクニ》など、哉《ヤ》の言を一(ツ)重ねても云り、これも一(ツ)の哉《ヤ》を輕く見ること、可《カ》と夜《ヤ》の言の重なれるに同じ、又十二に、寤香殊之來座有夢可毛《ウツヽニカイモガキマセルイメニカモ》、吾香惑流戀之繁爾《アレカマドヘルコヒノシゲキニ》、十四に筑波禰爾由伎可母布良留伊奈乎可母《ツクハネニユキカモフラルイナヲカモ》、加奈思吉兒呂我爾努保佐流可母《カナシキコロガニヌホサルカモ》、と可《カ》の言を二(ツ)重ても云り、これも一(ツ)の可《カ》を輕く見ること、上の例に同じ、(かゝるを右の十二なると十四なるとを、てにをはのとゝのはざるよ(12)し、本居氏詞(ノ)瓊綸に云るはいかゞなり、過にし戀也《コヒヤ》は、過にし戀のとあるべしと云るも中々に非なり、必(ス)戀也《コヒヤ》といはでは語(ノ)勢とゝのはざるなり、然《サ》るに古(ヘノ)歌の他の例格を、ひろく見集めて考(ヘ)わたせることもなく、たゞその一二首のみをとらへて後(ノ)世の歌の例どもに、引くらべ准へたるが故に、てにをはのとゝのはざる歌のやうに一(ト)わたり意得たるにて疎忽なり、すべて詞(ノ)瓊綸に古風(ノ)歌をのせしには、あかぬことのいと多かれば、おのれ別に鍼嚢といふ物を著して、委く論(ヒ)置り、)○宇都曾臣跡念之時《ウツソミトオモヒシトキ》は、現《ウツ》そみにてありし時にといふにて、現在の人にておはしませし時にと謂意なり念《オモヒ》の言は輕く添ていふ例なり、○春部者《ハルヘハ》は春方《ハルヘ》はなり、既く出(ツ)、○秋立者《アキタテバ》、(岡部氏が、立は去の誤にても有べし、と云るは何事ぞや、既く一(ノ)卷にも、秋立者《アキタテバ》とあるをや、)八(ノ)卷にも、秋立而幾日毛不有者《アキタチテイクカモアラネバ》とあり、○黄葉挿頭《モミチバカザシ》、これまで四句は現在のことの御遊のさまをいへり、一(ノ)卷同朝臣吉野の長歌に、春部者花挿頭持秋立者黄葉加射之《ハルヘハハナカザシモチアキタテバモミチバカザシ》とあるに全(ラ)同じ、○敷妙之袖携《シキタヘノソデタヅサハリ》、この二句は下の幸而《イデマシテ》の上へうつして意得べし、○鏡成《カヾミナス》は、枕詞なり、成《ナス》は如《ゴトク》といふ意にて、鏡の如く見と云係たるなり、四(ノ)卷に、鏡成見津乃濱邊爾《カヾミナスミツノハマベニ》、十五に、可我美奈須美津能波麻備爾《カガミナスミツノハマビニ》などあり、○雖見不※[厭のがんだれなし](※[厭のがんだれなし](ノ)字、拾穗本には厭と作り、)は、ミレドモアカニ〔七字右○〕と訓べし、○三五月之《モチツキノ》は、十五日夜《モチノヨ》の月は見に愛らしければ、めづらしといはむ料の枕詞とす、三五月《モチツキ》は、和名抄に、釋名(ニ)云、望(ハ)月(ノ)大(ハ)十六日、小(ハ)十五日、日在v東(ニ)》月在(テ)v西(ニ)遙相望也、和名|毛知(13)都岐《モチツキ》とあり、(釋名は、望といへる、から字の義をことわれるなり、さて釋名の説によるときは、望とさすもの月の大小によりて、十五日と十六日との異ありと見ゆ、しかるを後には望日とは、十五日をいふにかぎれることになれるなるべし、三五と書る則其(レ)なり、)名(ノ)義は、滿月《ミチツキ》なり、(毛《モ》と美《ミ》と音親(ク)通へり、)○益目頬染《イヤメヅラシミ》は、いよいよめづらしうといふが如し、めづらしは愛《メヅラ》しなり、三(ノ)中に委(ク)云り、この美《ミ》の辭は、此(ノ)下に、若草其嬬子者不怜彌可《ワカクサノソノツマノコハサブシミカ》(さぶしうかなり、)念而寢良武《オモヒテヌラム》、四(ノ)卷に、吾妹兒矣相令知人乎許曾戀之益者恨三念《ワギモコヲアヒシラシメシヒトヲコソコヒノマサレバウラメシミモヘ》、(うらめしう念へなり、)十一に、眉根掻下言借見《マヨネカキシタイブカシミ》(下いふかしうなり、)思有爾去家人乎相見鶴鴨《オモヘルニイニシヘヒトヲアヒミツルカモ》、十六に、春避而野邊尾囘者面白見《ハルサリテヌヘヲメグレバオモシロミ》(面白うなり、)我矣思經蚊《アレヲオモヘカ》などある皆同例なり、かやうに用たる事集中に甚多し、猶總論に云り、○所念之《オモホシシ》は、皇女のおもほしめしゝといふなり、○君與時時《キミトトキ/”\》とは、君は忍坂部皇子をさせり、時時は、舊本のまゝにトキ/”\〔四字右○〕と訓べし、(これを岡部氏(ノ)考にも千蔭(カ)略解にも、ヲリ/\〔四字右○〕とよめれどもヲリ/\〔四字右○〕てふ詞、古言にその例見えたることなし、)廿(ノ)卷に、等伎騰吉乃波奈波佐家登母《トキドキノハナハサケドモ》、允恭天皇(ノ)紀(ノ)歌に、守彌能波摩毛能余留等枳等枳弘《ウミノハマモノヨルトキドキヲ》などあり、時々は、こゝは花の時黄葉の時なり、その時々をたがへず、皇子と袖携へて御遊し給ふよしなり、○幸而《イヂマシテ》は、御座《オハシ》ましてと云むが如し、○御食向《ミケムカフ》は、枕詞なり、此(レ)を冠辭考に兩説出せる中、(一(ツ)には、御食《ミケ》の机に向ふが如く、直ちに前にむかはるゝ地をいふにや、と云るはうけがたし、)その一(ツ)に、御食に供《ソナフ》るものゝ(14)名に冠らせたるか、さる時は木(ノ)※[瓦+缶]は酒之※[瓦+缶]《キノヘ》なりと云り、今按(フ)に、此《コ》は木《キ》の一言にかゝれるにて、御食に供(フ)る葱《キ》といひかけたるか、又は葱《キ》の※[齋の下半が韮の下半]《アヘ》といふ意にも有べし、和名抄に、四聲字苑(ニ)云、※[齋の下半が韮の下半](ハ)擣2薑蒜(ヲ)1以v醋(ヲ)和之訓2安不《アフト》1、一(ニ)云2阿倍毛乃《アヘモノト》1、と見えたるを考(ヘ)合(ス)べし、○木※[瓦+缶]之宮乎《キノヘノミヤヲ》云々は、出座て遊び腸ひし所、やがて御墓となれるをいへり、もとより其(ノ)處に行宮などの有けむ、故(レ)城(ノ)上(ノ)宮と呼《イヘ》るなるべし、○常宮跡定賜《トコミヤトサダメタマヒテ》は、萬代に御魂の鎭り座(ス)常宮、と定め賜ひてといふなり、○味澤相《アヂサハフ》は、目の枕詞なり、六(ノ)卷に味澤相妹目不數見而《アヂサハフイモガメカレテ》、十一に、味澤相目之乏流君《アヂサハフメヅラシキミガ》、十二に、味澤相目者非不飽《アヂサハフメニハアケドモ》などあり冠辭考に、味多經《アヂサハフ》にて、味鳧《アヂカモ》の多《サハ》に經《ヘ》渡る意にて、目《メ》とつゞくは群《ムレ》の意なりと云り、〔頭註、【枕詞解、味澤相は、アヂサハフと訓來れどもその意解得がたし、冠辭考に、味多經にて、鰺鳧の多に經渡る意にて、目とつゞくは群の意なり、と云るはいかゞ、さらばたゞに村鳥之とか、味群之とかあるべし、多經と云ては、群と續きがたきをや、今按、これをばウマサハフと訓べきにや、さらば味粟田の義なるべし、味字ウマと訓るは、集中に、味酒、味飯、味寐などいと多かり、粟田は、神代紀に見え、又神武天皇大御歌にも阿波布とありて、今俗に粟畠と云に同じ、さてウマアハフといふべきを、サハフとしも云るは、雨を春雨、村雨など連言ときは、サメと云と同例にて、粟をサハと云か、又はウマシアハフと云を、そのシアを縮てサと云るにもあるべし、和名抄、甲斐國山梨郡石禾伊佐波、これ之阿を切て佐と云るなり、さて目と係るは、群生と云意なるべし、ムラの切マ、ハエの切へに、そのマヘを縮れげメとなり、粟はあるが中にも、群りて生殖ものなれば、かくつゞくるならむか、猶考べし、】〕○目辭毛絶奴《メコトモタエヌ》は、目《メ》と辭《コト》と二(ツ)ながら絶ぬといふなり、(米古等《メコト》と古《コ》を清て唱(フ)べし、)夫(ノ)君と相見給ひ相語《カタラヒ》賜ふことの絶たるをいへり、(米其等《メゴト》と古《ゴ》を濁りて、たゞ相見賜ふことゝするはたがへり、)四(ノ)卷に、奈何鴨目言乎谷裳幾許乏寸《ナニシカモメコトヲダニモコヽダトモシキ》とあり、奴《ヌ》は已成《オチヰ》の奴《ヌ》なり、○所己乎之毛《ソコヲシモ》、舊本に、然有鴨とあるはかなはず、一(ニ)云、所(15)己乎之毛と註《シル》せるに從つ、其(レ)をといふ意なり、之毛《シモ》は多かる物の中に、その一(ト)すぢをとりたてゝ云助辭なり、○綾爾憐《アヤニカナシミ》は、あやしきまで悲しき事におぼしめしてと云なり、○宿兄鳥之《ヌエトリノ》は、片戀をいはむ料の枕詞なり、此《コ》はたゞ※[空+鳥]《ヌエ》の妻戀するよりいひかけたるなり、三(ノ)卷に、容鳥《カホトリ》にも片戀とよめる同じ意なり、(宿兄鳥のことは、品物解にいふべし、)○片戀爲乍《カタコヒシツヽ》、舊本に、片戀嬬とあるは叶はず、一(ニ)云爲乍と註せるに從つ、片戀は相思の反にて、雙方《カナタコナタ》より相思はず、此方《コナタ》よりのみ戀しく思ふよしなり、實は皇女の薨賜ふを、あらはにそれとは申さず、相思はず忘(レ)背き賜ひて、此《ユヽ》を避(リ)賜ふよしに云れば、皇子の片戀し賜ふと云るがあはれなり、乍《ツヽ》は此(レ)をも爲ながら彼(レ)をもする言にて、此《コヽ》は片戀し賜ひながら、城(ノ)上(ノ)宮に往來《カヨヒ》賜ふよしなり、○朝鳥《アサトリノ》は、往來《カヨフ》の枕詞たなり、舊本に、一(ニ)云朝露と註せり(これはこゝに叶はず、露(ノ)字、古寫本給穗本等には霧と作り、それもあし、)朝は鳥の宿《ネ》ぐらを出て、遠く行かよふものなれば、かくいひつゞけたり、○往來爲君之《カヨハスキミガ》は、御墓所へ、忍坂部(ノ)皇子のかよひ給ふありさまをいへり、○夏草乃《ナツクサノ》は、萎《シナエ》の枕詞なり、此は夏草は※[車+(而/大)]《シナヤ》かに靡くものなれば、かくつゞけたり、此(ノ)上にも、石見乃海《イハミノミ》云々|夏草之念之奈要而《ナツクサノオモヒシナエテ》とあり、○念之萎而《オモヒシナエテ》は、御思(ヒ)の切《フカ》きによりて、うなだれしなえ賜ひてといふなり、○夕星之《ユフヅツノ》は、枕詞なり、夕星は、和名抄に、兼名苑云、太白星、一名長庚、暮(ニ)見2西方(ニ)1爲2長庚(ト)1、此間云|由不豆々《ユフヅヽ》と見えたり、さてその太白星《ユフヅヽ》は、或は東に見え、或は西に見えする故に、彼往此去《カユキカクユキ》と(16)つゞけたり、(毛詩に、東有2啓明《アカホシ》1西有2長庚《ユフヅヽ》1とありて、一(ツ)の太白星の、晨に東方に見ゆるを啓明といひ、昏に西方に見るを長庚と云(フ)といひ、或は啓明は金星、長庚は水星にて、二(ツ)の星の名なりとも云り、今の歌は、一(ツ)星とする説によりていふか、)○彼往此去《カユキカクユキ》は、或は彼方に往(キ)、或は此方《コナタ》に往(キ)と云なり、さるはあまりに御物思(ヒ)の繁く、御心の亂れ賜ふによりて、直行には得行賜はず、彼方此方千鳥がけに行賜ふよしなり、○大船《オホブネノ》は、枕詞なり、大船は海上に浮びて、ゆた/\と猶豫《タユタ》ひつゝ行ものなれば、かくつゞけたり、十一に大船乃絶多經海爾重石下《オホブネノタユタフウミニイカリオロシ》ともあり、○猶預不定見者《タユタフミレバ》、まづ多由多布《タユタフ》てふ言は、十一に、海原乃路爾乘哉吾戀居大舟之由多爾將有人兒由惠爾《ウナハラノミチニノレヽヤアガコヒヲリテオホフネノユタニアルラムヒトノコユヱニ》、十四に、安齊可我多志保悲乃由多爾於毛敝良婆《アセカガタシホヒノユタニオモヘラバ》云々などある、其(ノ)由多《ユタ》に多《タ》の語をそへ、多由多《タユタ》といひ、(由多《ユタ》に多由多《タユタ》にと云(フ)も、由多《ユタ》に由多《ユタ》に、と打(チ)重《カサ》ね云言なるを、下の由多《ユタ》に、多《タ》の語をそへて云たるなり、)其を活用《ハタラカ》して、多由多布《タユタフ》とも多由多比《タユタヒ》とも云るなり、さてこは上の枕詞よりは、船の浪に搖《ユラ》れてたゆたふとつゞき、受たる方にては、道すがら彼方此方にたどり行つゝ、いづくをはかと定まらず、猶豫《タユタ》ひおはしますを云るか、ときこゆれど、しからず、此(ノ)上に、大船之泊流登麻里能絶多日二物念痩奴人能兒放爾《オホブネノハツルトマリノタユタヒニモノモヒヤセヌヒトノコユヱニ》、七(ノ)卷に、吾情湯谷絶谷浮蓴邊爾毛奧毛依勝益士《アガコヽロユタニタユタニウキヌナハヘニモオキニモヨリカテマシヲ》、古今集に、いで吾を人勿《ヒトナ》とがめそ大船の由多《ユタ》の多由多《タユタ》に物思ふ頃ぞなど見え、又十三に、大舟之行良行羅二思乍《オホブネノユクラユクラニオモヒツヽ》、十七に、大船乃由久良由久良爾思多呉非爾伊都可聞(17)許武等麻多須良武《オホブネノユクラユクラニシタゴヒニイツカモコムトマタスラム》、などあるを考(ヘ)合すに、みな心の動搖《ウゴク》ことを、多由多布《タユタフ》とも由久良由久良《ユクラユクラ》とも云れば、此《コヽ》もその意にて、御心のゆた/\と動搖《ウゴ》きて、甚《イタ》く悲しみ物思ひし賜ふ御|形容《アリサマ》を見まゐらすればといふなり、されば彼往此去《カユキカクユキ》は御道に附ていひ、此《コヽ》は御心の惱《ナヤ》み賜ふことを云るなり、○遣悶流は、本居氏説によりて、ナグサ》ル〔五字右○〕と訓べし、(岡部氏(ノ)考には、舊本に從てオモヒヤル〔五字右○〕と訓れど、ナグサムル〔五字右○〕と訓む方猶穩なり、但し本居氏のナグサモル〔五字右○〕とよめるは意得ず、をは四(ノ)卷、九(ノ)卷、十一、十二等に名草漏、十一に、名草溢と書たるによりたりと見ゆれども、そは漏をムル〔二字右○〕に轉(シ)借(リ)たるにて、集中にカギロヒ〔四字右○〕を香切火、ミアラカ〔四字右○〕を御在香、高圓《タカマト》を高松、アヂキナク〔五字右○〕を小豆無、タラチネ〔四字右○〕を足常、マヨヒ〔三字右○〕を間結と書る類なれば、ナグサモル〔五字右○〕とよまむは字に泥める訓なり、假字に奈具佐毛流《ナグサモル》と書るは、一(ツ)もなきことなるをや」假字書は五(ノ)卷、十七に、奈具佐牟流《ナグサムル》、十三に、名草武類《ナグサムル》、十八に、奈具佐无流《ナグサムル》、同卷に、那具左牟流《ナグサムル》などあり、さて那具左牟流《グサムル》は、たゞに心を樂ましむるとは異にて、くさ/”\物思(ヒ)のある時、その物思(ヒ)をはるけやりて、心を和《ナグ》さむるをいふ言なり、(此《コヽ》に遣悶の字を書るも、その意なり、)さて那具左牟流情《ナグサムルコヽロ》の無(キ)は、いかでその物思(ヒ)をはらさむと思へども、はるけやるべきすべのなきよしなり、○情毛不在《コヽロモアヲズ》(在(ノ)字、拾穂本には有と作り、)は、作者のなぐさむる情《コヽロ》もあらずといふなり、○其故は、ソコユヱニ〔五字右○〕と訓て、それゆゑにといふ意なり、○爲便知之也は、本居氏、此(ノ)一句誤字あるべし、セ(18)ムスベヲナミ〔七字右○〕とか、又セムスベシラニ〔七字右○〕などあるべき處なりと云り、○音耳母名耳毛不絶《オトノミモナノミモタエズ》、(母(ノ)字、拾穗本には毛と作り、)音と名と同じことに落(ツ)めれども、疊《カサ》ねいふは古語の常なり、耳《ノミ》は二(ツ)ながら、せめて音のみなりとも、名のみなりとも絶ずといふ言なりと、本居氏云り、○天地之彌遠長久《アメツチノイヤトホナガク》は、天地の盡ることなく、絶る事なきが如くに、彌《イヨ/\》遠長くいつまでもといふなり、○思將往は、シヌヒユカム〔六字右○〕と訓べし、中御門本に、思を偲と作り、(集中シヌフ〔三字右○〕とよむには、多く偲(ノ)字を書たれども、また)思(ノ)字シヌフ〔三字右○〕と訓例も多し、その證をかづ/\擧むに、十一に、朝柏閏八河邊之小竹之眼笑思而宿者《アサカシハウルヤカハヘノシヌノメノシヌヒテヌレバ》とあるはさらにて、三(ノ)卷に、日本思櫃《ヤマトシヌヒツ》、同卷に、秋去者見乍思跡妹之殖之《アキサレバミツヽシヌヘトイモガウヘシ》、四(ノ)卷に、吾形見見管之努波世《ワガカタミミヽツシヌハセ》云々|吾毛將思《アレモシヌハム》、六(ノ)卷に、後爾之人乎思久四泥能埼《オクレニシヒトヲシヌハクシデノサキ》、七(ノ)卷に、墨吉之《スミノエノ》云々|縁白浪見乍將思《ヨスルシラナミミツヽシヌハム》、八(ノ)卷に、益而所思《マシテシヌハユ》、九(ノ)卷に、君乎將思《キミヲシヌハム》、十二に、猶戀久思不勝焉《ナホシコフラクシヌヒカネツモ》、十三に、夕庭入居而思《ユフヘニハイリヰテシヌヒ》、同卷に、君可將思《キミカシヌハム》、同卷に、懸而思名《カケテシヌハナ》、十六に、穗庭莫出思而有情者所知《ホニハナイダシトシヌヒタルコヽロハシレツ》、十九に、本郷思都追《クニシヌヒツヽ》などある思(ノ)字は、みなことごとく、シヌフ〔三字右○〕とよまずてはかなはぬ處なり、(しかるを、或人、思をシヌフ〔三字右○〕とよむは、偲の誤とおもへりしはくはしからず、これにても一(ノ)卷に、巨勢山乃云々見乍思奈とあるも、ミツヽシヌハナ〔七字右○〕なることをしれ、)○御名爾懸世流《ミナニカヽセル》は、明日香(ノ)皇女と申す御名に懸賜へるといふなり、懸世流《カヽセル》は懸有《カケル》の伸りたる言にて、(カセ〔二字右○〕(ノ)切ケ〔右○〕、)懸(ケ)賜へると云ことなり、さて十六に櫻兒を哀める歌に、妹之名爾繋有櫻花開者《イモガナニカヽセルサクラハナサカバ》ともありて、名に負持(テ)(19)ることを、名に懸(ク)るト云ること多し、○早布屋師《ハシキヤシ》は、早布は借字にて愛《ハシ》きなり、屋師は助辭なり、此(ノ)詞古事記、書紀、集中にかた/”\見えて、波之吉也思《ハシキヤシ》とも波之家也思《ハシケヤシ》とも波之吉與思《ハシキヨシ》ともいへり、皆同じことなり、波思吉《ハシキ》は既く出づ、(岡部氏(ノ)考の別記に、早布は細《クハシ》きてふ言の略きなり、屋《ヤ》は與《ヨ》に通ひて、細《クハシ》きよなり、下の師《シ》は助辭のみ、そのくはしとほむる言を轉じて、かゝる事にいふ時は、したしまれなつかしまるゝことゝなりぬ、仍て此(ノ)言に愛(ノ)字をも書たり、古事記倭建(ノ)命の思國御歌三首の一に、夜麻登志宇流波斯《ヤマトシウルハシ》とのたまへる宇流波斯《ウルハシ》は、宇良具波斯《ウラグハシ》の良具《ラグ》の約|流《ル》にて裏細《ウラクハシ》なり、その二に、波斯祁夜新和伎幣能迦多由久毛韋多知久母《ハシケヤシワギヘノカタユクモヰタチクモ》てふは、右の宇流波斯《ウルハシ》の宇流《ウル》を略きて、下に夜師《ヤシ》の言を添(ヘ)給ひしのみにて、同言なり、即(チ)ともに、やまとをなつかしみおぼす御ことばなるをおもへと云るは、かた/”\言の本をとり誤《ヒガ》めたる論なり、今その誤を辨むに、まづ波之伎《ハシキ》といへる詞のおもむきを考へわたすに、物の美麗《ウツクシキ》を、こなたより賞愛《ホメ》ていふ詞にて、俗に可愛《カアイ》らしさといふと全(ク)同じ、波《斯祁夜斯和伎幣能迦多用《ハシケヤシワギヘノカタヨ》とあるも、こなたより我家の方を賞愛《ホメ》ての給へり、此(ノ)上、三吉野乃山松之枝者波思吉香聞《ミヨシヌノヤママツガエハハシカモ》とあるも、こなたより松が枝を賞愛て云り、猶この類集中いくばくぞや多かれども、みな同じおもむきにして、其(ノ)物の自《オノヅカ》ら細精《クハシキ》を、波思吉《ハシキ》といへることはかつてなし、久波斯伎《クハシキ》は其(ノ)物の自ら細精《クハシキ》を云て、古事記八千矛(ノ)神(ノ)御歌に、登富登富斯故志能久邇邇久波志賣遠阿理登(20)伎許志弖《トホトホシコシノクニニクハシメヲアリトキコシテ》、とある久波志賣《クハシメ》は、其(ノ)女の容の固(リ)自(ラ)細精を云て、波之伎女《ハシキメ》と云とは、自他の異あることなり、十九に、青柳乃細眉根乎策麻我理《アヲヤギノクハシマヨネヲヱミマガリ》、といへる細眉根《クハシマヨネ》も、少女の眉の自《オノヅカラ》細精を云るにこそ、波之伎眉根《ハシキマヨネ》といはむとは、同じ意ならぬをもおもへ、猶此(ノ)詞どもいくばくぞや多かれども、皆其(ノ)意なるにて、久波志吉《クハシキ》と波思吉《ハシキ》とは、もとより異言なることをさとるべし、かくて又宇流波斯《ウルハシ》を、宇良具波斯《ウラグハシ》を約めたる言ぞといへるも、あたらぬことなり、其(ノ)よしは下に辨ふべし、)○形見何此焉(焉(ノ)字、古寫本には烏と作り、)は、本居氏云、何は荷の誤なり、カタミニコヽヲ〔七字右○〕と訓て、こゝを形見にしのびゆかむ、と上へ返る意なり、(按(フ)に、毛詩(ニ)百禄是|何《ニナフ》とありて、註に何(ハ)任也、春秋傳作v荷とあり、されば何荷は、彼方にても通(ハシ)用(ヒ)たりとおぼゆれば、本のまゝに、何とありてもニ〔右○〕と訓べし、されど何をニ〔右○〕と訓ること、此(ノ)集中に例なければ、荷の誤にてもありぬべし、)○歌(ノ)意は、明日香川の川藻は、情なき小草ぞとあなづりいやしめてはありしかど、かへりてその藻は枯(レ)て絶れば、又其(ノ)根より再(ビ)生(ヒ)出て榮ゆるを、吾(ガ)王明日香(ノ)皇女は、夫(ノ)君忍坂部(ノ)皇子と、御中をきよく絶(チ)給ひて、又再(ビ)相見給ふことなくなれるよ、そも/\吾(ガ)王皇女の、起(キ)給ふとても臥(シ)給ふとても、川藻の石に靡き附(ク)如く靡(キ)附(キ)給ひて、何事も打あひ御心にかなひ給へりと見ゆれば、忘れ給ふことも背きたまふこともあるまじきに、いかなればか、夫(ノ)君の朝夕の宮事《ミヤゴト》執(リ)持(チ)絵ふことをやめ給ひて、遠く避《サ》り行給ふぞや、さても皇女の現世にまし/\(21)し時に、その夫(ノ)君と、ことに御中親く睦しく愛《ウツク》しくて、春は花の時、秋は黄葉の時、その時々をたがへず、諸共に袖携はり給ひて、出おはしまして、遊び賜ひし城上《キノヘノ》宮を、萬代に不易常宮《カハラヌトコミヤ》と定め姶ひて、其(ノ)地に永く鎭り座《イ》ませば、今は現世の人に、相見給ふことも相語《カタラヒ》給ふことも絶はてぬれば、それをかなしみ給ひて、片戀しつゝかよひおはします夫(ノ)君が、御念(ヒ)うなだれしなえて、彼方此方《カナタコナタ》とたどりつゝ、御心をいたくいためくるしめておはしますを見まゐらすれば、吾(レ)も思(ヒ)のはるけむたよりもなくかなしくはあれど、せむすべなし、よしや御名にかけ給ふ明日香川を御形見に見つゝ、せめて吾のみなりとも、名のみなりとも、今より行さき天地と共に遠長く、世(ノ)人も慕ひ奉り行むぞとなり、此(ノ)歌にまづ明日香川をもていひおこしたるは、此(ノ)皇女そのあたりに御座《オハシ》まし給ひて、やがて御名にも負(ハ)したる故なり、さて初句より打橋渡《ウチハシワタス》まで六句は、玉藻川藻をいはむ下形なり、さて石橋《イハバシ》と云より干者波由流《カルレバハユル》まで八句は、皇女の薨《スギ》給ひて、夫(ノ)君と御中を絶(チ)給ひて、再(ビ)相見給はぬを、かへりて小草の藻は枯(レ)て絶れば、又再(ビ)生出て榮ゆるものを、と云意を含めて、絶者生流《タユレバオフル》云々|干者波由流《カルレバハユル》云々といひ、さて生靡留生乎烏禮流《オヒナビケルオヒヲヲレル》と云るは、下の藻の如く靡相之《ナビカヒシ》と云ことを、いひ起《オコ》さむ料の下形なり、此(ノ)處いと/\まぎらはしければ、ようせずばまがひぬべし、何然毛《ナニシカモ》と云ふより背賜哉《ソムキタマフヤ》まで十二句は、かくまで親しく睦しき御夫婦の御中を、いかなれば背き給ふにやと云るにて、なほ現(22)世に御座《オハシ》まして、御中を背き給ふごとくいひなして、さて次の宇都曾臣跡《ウツソミト》云々にて、薨去《スギサリ》賜へるよしをいひ顕したり、宇都曾臣跡《ウツソミト》と云より遊賜之《アソビタマヒシ》まで十六句は、現世に御座ましゝほど、御夫婦の御中睦しくて、春秋の御遊をも諸共にせさせ賜ふことを云り、御食向《ミケムカフ》といふより目辭毛絶奴《メコトモタエヌ》まで六句は、城上《キノヘ》の御墓所に永く安定《シヅマ》り給ふをいへり、所己乎之毛《ソコヲシモ》と云より猶預不定見者《タユタフミレバ》まで十二句は、夫(ノ)君忍坂部皇子の歎(キ)苦み賜ひて、御墓所におはしますさまを云、遣悶流《ナグサムル》と云より結尾まで十五句に、作者の意を述(ベ)て終《トヂ》めたり、あなかしこ明日香(ノ)皇女の御名も、此(ノ)朝臣の精神も、この歌にとゞまりて、天地の遠長く、千載の今に絶せず傳はれるは、又いみじきかたみになむ有ける、
 
短歌二首《ミジカウタフタツ》。
 
短(ノ)字、拾穗本には反と作り、○二首の字、拾穗本には無(シ)、
 
197 明日香川《アスカガハ》。四我良美渡之《シガラミワタシ》。塞益者《セカマセバ》。進留水母《ナガルヽミヅモ》。能杼尓賀有萬志《ノドニカアラマシ》。
 
四我良美渡之《シガラミワタシ》は、四我良美《シガラミ》は塞搦《セキガラミ》なり、(セキ〔二字右○〕の切シ〔右○〕、)渡之《ワタシ》は、彼(ノ)岸此(ノ)岸相渡しの意なり、七(ノ)卷に、明日香川湍瀬爾玉藻者雖生有四賀良美有者靡不相《アスカガハセセニタマモハオヒタレドシガラミアレバナビキアハナクニ》とあり、○塞益者《セカマセバ》は、塞《セキ》てあらばといふが如し、○進留水母は、義を以(テ)ナガルヽミヅモ〔七字右○〕とよめり、○能杼爾賀有萬思《ノドニカアラマシ》、(能(ノ)字、類聚抄には乃と作り、)舊本に、一云水乃與杼爾加有益と註せり、本章を用《トル》べし、能杼《ノド》は、のど/\と静(カ)に淀(23)める意なり、十三に、吹風裳母穗丹者不吹《フクカゼモオホニハフカズ》、立浪裳箆跡丹者不起《タツナミモノドニハタヽズ》、拾遺集に、涙川|能杼可爾《ノドカニ》だにもながれなむこひしき人の影やみゆるとなどあり、○歌(ノ)意は、いかに明日香川の早瀬なりとも、彼(ノ)岸此(ノ)岸|塞絡《シガラミ》を渡して塞《セキ》留めましかば、なほ流るゝ水も淀みてあらましものを、皇女の御命をとゞめまゐらせむすべのなきが、悲しき事となり、契冲、古今集に、あねの身まかりける時よめる忠岑がうたに、せをせけば淵となりてもよどみけりわかれをとむるしがらみそなき、この心におなじと云り、
 
 
198 明日香川《アスカガハ》。明日左倍將見等《アスサヘミムト》。念八方《オモヘヤモ》。吾王《ワガオホキミノ》。御名忘世奴《ミナワスレセヌ》。
 
明日左倍《アスサヘ》、舊本に、明日谷とありて、一云|左倍《サヘ》と註せるに從つ、○念八方《オモヘヤモ》、舊本に、一云|念香毛《オモヘカモ》と註せり、本章を用(ル)べし、八《ヤ》は後世の也波《ヤハ》と同じ、方《モ》は湍息(ノ)辭なり、○御名忘世奴《ミナワスレセヌ》、舊本に、一云|御名不所忘《ミナワスラエズ》と註せり、いづれにても有べし、○歌(ノ)意は、明日香川を、明日さへもまた見むとおもはむやは、又も見むとはおもはれぬことぞ、なぞといはゞ、明日香川をみると、皇女の明日香と申す御名がわすられねば、戀しき情《コヽロ》にいよ/\たへられぬ故にとなり、
 
柿本朝臣人麿《カキノモトノアソミヒトマロガ》。妻死之後《メノミマカリシノチ》。流血哀慟作歌二首并短歌《カナシミヨメルウタフタツマタミジカウタ》。
 
泣血哀慟は、例のうるさき漢文なり、この四字にて、カナシミ〔四字右○〕と訓べし、○此(ノ)二首の長歌、前一首は、假に通ひて婚《スミ》し妻《メ》の死《ミマカリ》たるをかなしみ、後なるは、子ありし嫡妻の死れるをかなしめ(24)る歌なり、さてかゝれば、前なるは妻とはいふべからぬが如くなれども、古(ヘ)は今(ノ)世と異にて、なべては女の家に往來《カヨ》ひつゝ婚《スミ》しなれば、嫡妻ならぬをも、妻といはむにたがはず、なほこの事、上に委(ク)註せるがごとし、また此(ノ)上に、人麻呂從2石見(ノ)國1別v妻上來時(ノ)歌に、左宿夜者幾毛不有《サネシヨハイクダモアラズ》とあれば、これもかりに通ひて婚《スミ》し妻なるを、考合せてしるべし、神代紀に、天稚彦|受《マニマニ》v勅《ミコトノ》來降(リテ)、則|多《サハニ》娶《メトリテ》國(ツ)神(ノ)女子(トモヲ)1、經《フルマデ》2八年(ヲ)1無2以報1v命《カヘリゴトマヲサザリキ》、とあるを始めて、妻を多く持し例、古(ヘ)よりいと多かり、古事記上(ツ)卷須勢理毘賣(ノ)命の、夫(ノ)君大國主(ノ)神に申し賜へる御歌に、夜知富許能加微能美許登夜《ヤチホコノカミノミコトヤ》、阿賀淤富久邇奴斯許曾波《アガオホクニヌシコソハ》、遠爾伊麻世婆《ヲニイマセバ》、宇知微流斯麻能佐岐邪岐《ウチミルシマノサキザキ》、加岐微流伊蘇能佐岐淤知受《カキミルイソノサキオチズ》、和加久佐能都麻母多勢良米《ワカクサノツマモタセラメ》、阿波母與賣邇期阿禮婆《アハモヨメニシアレバ》、那遠岐底遠婆那志《ナヲキテヲハナシ》、那遠岐?都麻波那斯《ナヲキテテツマハナシ》云々とあるも、男は妻を多くもち、女は夫をおきて、外につまをもたざりし上(ツ)代の風おもひやるべし、大和物語、良峯(ノ)宗貞遁世せし時の事を云る所に、妻は二人なむ有けるを、よろしく思ひけるには、猶世に經《へ》じとなむ思ふとふたりにはいひける、かぎりなく思ひてこどもなどある妻には、ちりばかりもさるけしきも見せざりけり、とあるを見れば、やゝ後までも其(ノ)風遺れるなり、さても猶こゝは、前なると後なるとは別の妻なれば、一(ツ)に引連ねて、かく作歌二首とは書《シル》すまじき理(リ)なれども、もとより題詞は、二ながら妻死之後とはありしなるべし、さて此(ノ)集は、もとより清撰《ウルハシクエラベ》る書ならねば、唯題詞に打まかせて、其(ノ)後此(ノ)集|編《アツ》めし(25)にも、なほかく一連に書せしものなるべし、(岡部氏(ノ)考に、前なるを、所2竊通1娘子死之時作歌と書《シル》し、後なるを、妻之死後悲傷作歌と書せるは、理(リ)はさることにあれども、なほ私説なり、且往通ひて婚をも妻といひしは、古(ヘ)のならはしなることをも、しらざりしなるべし、
 
207 天飛也《アマトブヤ》。輕路者《カルノミチハ》。吾妹兒之《ワギモコガ》。里爾思有者《サトニシアレバ》。懃《ネモコロニ》。欲見騰《ミマクホシケド》。不已行者《ヤマズユカバ》。人目乎多見《ヒトメヲオホミ》。眞根久往者《マネクユカバ》。人應知見《ヒトシリヌベミ》。狹根葛《サネカヅラ》。後毛將相等《ノチモアハムト》。大船之《オホブネノ》。思憑而《オモヒタノミテ》。玉蜻《カギロヒノ》。磐垣淵之《イハカキフチノ》。隱耳《コモリノミ》。戀管在尓《コヒツヽアルニ》。度日乃《ワタルヒノ》。晩去之如《クレユクガゴト》。照月乃《テルツキノ》。雲隱如《クモガクルゴト》。奧津藻之《オキツモノ》。名延之妹者《ナビキシイモハ》。黄葉乃《モミチバノ》。過伊去等《スギテイニシト》。玉梓之《タマヅサノ》。使乃言者《ツカヒノイヘバ》。梓弓《アヅサユミ》。聲耳聞而《オトノミキヽテ》。將言爲便《イハムスベ》。世武爲便不知爾《セムスベシラニ》。聲耳乎《オトノミヲ》。聞而有不得者《キヽテアリエネバ》。吾戀《アガコフル》。千重之一隔毛《チヘノヒトヘモ》。遣悶流《ナグサムル》。情毛有八等《コヽロモアリヤト》。吾妹子之《ワギモコガ》。不止出見之《ヤマズイデミシ》。輕市爾《カルノイチニ》。吾立聞者《アガタチキケバ》。玉手次《タマダスキ》。畝火乃山爾《ウネビノヤマニ》。喧鳥之《ナクトリノ》。音母不所聞《コヱモキコエズ》。玉桙《タマホコノ》。道行人毛《ミチユクヒトモ》。獨谷《ヒトリダニ》。似之不去者《ニテシユカネバ》。爲便乎無見《スベヲナミ》。妹之名喚而《イモガナヨビテ》。袖曾振鶴《ソデゾフリツル》。
 
天飛也《アマトブヤ》は、輕の枕詞なり、四(ノ)卷に、天翔哉輕路從《アマトブヤカルノミチヨリ》、十一に、天飛也輕乃社之《アマトブヤカルノヤシロノ》などもあり、契冲、天飛|鴈《カリ》とつゞけたり、木梨(ノ)輕(ノ)太子の御歌にも、阿麻陀牟加流袁登賣《アマダムカルヲトメ》とよみ給へり、第十に、天飛也鴈乃翅《アマトブヤカリノツバサ》云々とよめるにおなじ、五音通へば、いそのかみふるとつゞく心にて、石の上ふりにしさとゝもかり用ひ、栗はうごくまじきものなれど、くるすのをのといふとき、くるすともいはるゝたぐひなりと云り、なほ加里《カリ》と輕《カル》と親(ク)通ふことは、姓氏録に、雄略天皇(ノ)御世(ニ)獻2加里乃(26)郷(ヲ)1仍賜2姓輕部(ノ)君(ヲ)1、とあるを併(セ)考べし、また天飛《アマトブ》といふ詞は、集中八(ノ)卷に、天飛也領巾可多思吉《アマトブヤヒレカタシキ》、十一に、久堅之天飛雲爾《ヒサカタノアマトブクモニ》、十五に、安麻等夫也可里乎都可比爾《アマトブヤカリヲツカヒニ》、古事記輕(ノ)太子(ノ)御歌に、阿麻登夫登理母都加比曾《アマトブトリモツカヒソ》などあり、○輕路者《カルノミチハ》は、大和(ノ)國高市(ノ)郡輕といふ地の道路はなり、三(ノ)卷に、輕池《カルノイケ》とあるも此(ノ)地なり、應神天皇(ノ)紀に、十一年作2輕(ノ)池(ヲ)1とも見ゆ、輕《カル》は久米村の東北にして、村の東に大路今にありとぞ、○里爾思有者《サトニシアレバ》は、妹(ガ)家の里にあればといふなり、思《シ》はその一(ト)すぢなるを云助辭なり、里《サト》といふ名(ノ)義は、盛處《サカリト》にて、(サカ〔二字右○〕の切サ〔右○〕となれり、リ〔右○〕は活用言なれば自(ラ)省かる、)元(ト)は人家の盛繁《サカリ》に造並《タチナミ》たる處、といふことなるべし、三(ノ)卷に、青丹吉寧樂乃京師者咲花乃薫如今盛有《アヲニヨシナラノミヤコハサクハナノニホフガゴトクイマサカリナリ》これも人家の繁くにぎははしく造《タチ》ならびたるを、盛と云るなり、(こは佐刀《サト》といふ名の本義をいふなり、)さて人の家敷住處をば、凡て佐刀《サト》とぞ云る、○懃《ネモコロニ》は如《モコロ》v根《ネ》になり、根《ネ》とは、物の底の極をいふ稱にて、草木の根なども、土(ノ)底《ソコ》の極延入《キハミハヒイル》よしの稱《ナ》なり、如を母己呂《モコロ》といふことは例多し、かゝれば行至らぬ極なく、慇《コマカ》に懃《クハシ》く爲《ナ》し思ふことなどを、根母己呂《ネモコロ》とは云るなり、此(ノ)詞を、後々にねむごろと云は、もをむに轉したるなり、(かげろふの日記に、そのほどの心ばらしも、ねもころなるやうになりけり、太田道灌慕京集に、ねもころなる消息なればなどあるは、たま/\古言のまゝに云るなり、)○欲見騰《ミマクホシケド》は、見むことを欲《ホシ》く思へどもの意なり、○不止行者《ヤマズユカバ》は、常に不v止行ばの意なり、不止をヤマズ〔三字右○〕と訓こと、(岡部氏考に、ツネニ〔三字右○〕とよめるは非(27)なり、)四(ノ)卷に、常不止通之君我《ツネヤマズカヨヒシキミガ》とも見えたり、○人目乎多見《ヒトメヲオホミ》は、人目が多き故にの意なり、もし見あらはされて、いひさわがるゝ事もあらむか、と心おくよしなり、○眞根久往者《マネクユカバ》は、たびたび行ばの意なり、眞根久《マネク》は數多をいふ言にて、既く出づ、○人應知見《ヒトシリヌベミ》は、人が知(リ)ぬべき故にの意なり、○狹根葛《サネカヅラ》は、既く云つ、こゝは葛は、はひ別れて又末の行あふものなれば、後に相といはむ料の枕辭とせり、○大船之《オホブネノ》は、枕詞なり、既耽く出づ、○玉蜻《カギロヒノ》は、枕詞なり、契冲云、石の中に火を具するゆゑに、玉蜻の石ともいはともつゞくるなり、○磐垣淵之《イハカキフチノ》とは、隱《コモリ》をいはむ料なり、磐石の立圍みたる、山川の淵の隱りかなるよしなり、凡て垣といふ稱は圍《カクミ》なり、(クミ〔二字右○〕の切キ〔右○〕)青垣山《アヲガキヤマ》などの垣も同じ、(磐垣《イハカキ》青垣《アヲカキ》を、垣の如きよしとするは、語の本義を違れたる論なり、)○隱耳《コモリノミ》は、隱《コモ》りて耳《ノミ》の意なり、表にあらはさぬよしなり、妻とはあれど、かよひ婚《スミ》し女なれば、人目を憚りしなるべし、故(レ)隱耳戀《コモリノミコフ》とは云るなり、○度日乃《ワタルヒノ》、此より下四句は、名延之妹者《ナビキシイモハ》の次へうつして意得べし、○晩去之如は、クレユクガゴト〔七字右○〕と訓べし、日の暮て、西山に隱れ行が如くといふなり、(クレヌル〔四字右○〕とよめるは非じ、)さて度日照月と對へいひたるは、三(ノ)卷不盡(ノ)山歌に、度日之陰毛隱比照月乃光毛不見《ワタルヒノカゲモカクロヒテルツキノヒカリモミエズ》とある此なり、○照月乃雲隱如《テルツキノクモガクルゴト》は、今まで照し月の、ふと雲に隱るるが如くといふなり、○奧津藻之《オキツモノ》は、靡《ナビク》の枕詞なり、○黄葉乃《モミチバノ》は、過《スグ》のまくら詞なり、既く一(ノ)卷に出づ、十三にも、黄葉之過行跡《モミチバノスギテユキヌト》とあり、○過伊去之等《スギテイニシト》は、死去《スギニ》しとなり、須藝《スギ》の切|志《シ》にて、即(チ)死(28)なり、○玉梓之《タマヅサノ》は、本居氏、按(フ)に、上(ツ)代には、梓の木に玉を着たるを、使のしるしに持てあるきしなるべし、そは思ひかけたる人の門に、錦木を多くたてしと心ばえの似たることにて、すべて使を遣る音信の志をあらはすしるしに、玉つけたる梓を持て行しなるべし、さて後に文字渡り來て、書をかはす世になりて、消息文は使のもてくる物なる故に、かの玉梓に准へて、それをも同じく玉梓と云るなるべしと云り、(岡部氏、玉《タマ》はほむる詞、津《ツ》は助辭、佐《サ》は章の字の意にやとあるは、甚心得ぬ説なり、)○梓弓《アヅサユミ》は、音《オト》のまくら詞なり、此(レ)は古(ヘ)の弓には弭に音ありて、殊に鳴(リ)響くべく造りたりと見ゆれば、音《オト》といふにつゞけたるなるべし、○聲耳聞而《オトノミキヽテ》は、音づれのみ聞てといふなり、舊本に、耳を爾と作て、一(ニ)云聲耳聞而と註せるに從つ、○聲耳乎聞而有不得者《オトノミヲキヽテアリエネバ》は、音づれにのみ聞て得堪あらねばといふなり、○千重之一隔毛《チヘノノヒトヘモ》は、千が一(ツ)だにもといふ意なり、四(ノ)卷丹比(ノ)眞人笠麻呂下2筑紫(ニ)1時(ノ)歌に、吾戀流千重乃一隔母名草漏情毛有哉跡《ワガコフルチヘノヒトヘモナグサムルコヽロモアリヤト》、家當吾立見者《イヘノアタリアガタチミレバ》、七(ノ)卷に、名草山事西在來吾戀千重一重名草目名國《ナグサヤマコトニシアリケリアガコフルチヘノヒトヘモナグサメナクニ》、十三に、吾戀流千重乃一重母人不知本名也戀牟《アガコフルチヘノヒトヘモヒトシラズモトナヤコヒム》などあり、○遣悶流はナゲサムル〔五字右○〕と訓べし、既く此(ノ)上に出(ヅ)、○情毛有八等《コヽロモアリヤト》は、心もありやせむとといふ意なり、○不止出見之は、舊本に從て、ヤマズイデミシ〔七字右○〕と訓べし、(岡部氏(ノ)考に、ツネニデテミシ〔七字右○〕とよめるはわろし、)女の現世に、人麻呂の通ひ來るやと出見しを云るにや、○玉手次《タマタスキ》は、畝火《ウネビ》の枕詞なり、一(ノ)卷に出づ、此より下三句は、音といはむとて(29)の序なり、○畝火乃山《ウネビノヤマ》は、輕(ノ)里よりいと近ければ、その山の鳥が音を以ていひおこしたるなり、四(ノ)卷に、天翔哉輕路從玉田次畝火乎見管《アマトブヤカルノミチヨリタマタスキウネビヲミツヽ》とあり、○音母不所聞《コヱモキコエズ》は、妹が音だにも聞えずといふなり、音はオト〔二字右○〕とも訓べし、○玉桙《タマホコノ》は、枕詞なり、既く出づ、○道行人毛《ミチユクヒトモ》は、市路を群行人もなるべし、○獨谷《ヒトリダニ》は、谷《ダニ》は借(リ)字にて、獨さへといはむが如し、○似之不去者《ニテシユカネバ》は、群行人の中に、面形の妹に似たる人だに往來せば、をを見てもなぐさむべきに、似たる人だに獨さへ行ねばといふなり三(ノ)卷に、河風寒長谷乎歎乍公之阿流久爾似人母逢耶《カハカゼノサムキハツセヲナゲキツヽキミガアルクニニルヒトモアヘヤ》ともあり、○爲便乎無見《スベヲナミ》は、爲便《スベ》が爲《ナ》さにといふなり、○妹之名喚而袖曾振鶴《イモガナヨビテソデヅフリツル》、悲みの極まりて切《セマ》れるさま、まことにあはれともあはれなりけり、○舊本、此(ノ)末に、或本有謂之名耳聞而有不得者句とあるは、此(ノ)歌にかなはず、削(リ)去べし、○歌(ノ)意は、輕の路は妹が家里にてあれば、つね/”\やまず行て住まはしくはおもへども、もしたび/\行ば、人目が多き故に、見あらはされて、いひさわかれなば、中中に後あしかりなむ事もあるぺければ、打はれて夫婦とならむ時もあらむ、と末をたのみて、心(ノ)裏にのみ戀しく思ひて、月月を經わたりしあひだに、まことやおもはずも、その妹は身まかりぬと使の告來れば、いはむかたなくせむかたなく、あはれにかなしくて、音づれにのみ聞ては、あるにも得たへあられねば、吾(ガ)心の千が一(ツ)だに、なぐさむ方もやあらむ、と輕の市に出て聞ても、もとより妹が音もきこえず、市路行かふ諸人だに、獨さへ妹に似かよへる人(30)もなければ、今はせむ方なさに、さけび袖ふりなど、心まどひのせられつるよとなり、極めて物のかなしきをりも、うはべに丈夫づくりて、然《サ》あらぬ體にふるまふは、まことしくて中々に心はかなし、かく事の堪がたく情の切《セマ》れるに至りて、そのまことの、ありさまを、打あけてあらはす時は、心はかなく聞えてまことなり、かくまことを、そのまゝにつくろはず言に出せること、此(ノ)朝臣ならでは誰かは得いはむ、
 
短歌二首《ミジカウタフタツ》。
 
208 秋山之《アキヤマノ》。黄葉乎茂《モミチヲシゲミ》。迷流《マドハセル》。妹乎將求《イモヲモトメム》。山道不知母《ヤマヂシラズモ》。
 
迷流《マドハセル》は、麻杼敝流《マドヘル》の伸りたるにて、妹が迷《マド》ひ賜へると云意なり、(岡部氏(ノ)考に、妹を見失へるといふなりと云るは、令《セ》v迷《マドハ》るといふ意に見たるにや、まぎらはし、)○山道不知母《ヤマヂシラズモ》、舊本に、一(ニ)云路不知而とあるは、とるべからず、母《モ》は歎息辭なり、○歌(ノ)意は、秋山の黄葉の茂きに、其を賞るとて入て、其(ノ)茂さに迷はしたまへる妹を、とめ行べき道をしらぬことよとなり、死て入にし妹を、なほ現世にある如くにいひなしたり、七(ノ)卷に、秋山黄葉※[立心偏+可]怜浦觸而入西妹者待不來《アキヤマノモミチアハレミウラブレテイリニシイモハマテドキマサズ》といへるは、今に似たり、
 
209 黄葉之《モミチバノ》。落去奈倍爾《チリヌルナベニ》。玉梓之《タマヅサノ》。使乎見者《ツカヒヲミレバ》。相日所念《アヒシヒオモホユ》。
 
去奈倍爾《チリヌルナベニ》。は落《チリ》ぬる並《ナベ》になり、散るにつれてと云むが如し、○歌意は、黄葉の散るにつれて、(31)妹が家より使の來しを見れば、そのかみ相見し日の思ひ出られて、面影に立となり、現在にありし時、妹が使を待得て、行て逢(ヒ)たりし日に、もみち葉の散たりけむ、その日のやうに、けふも黄葉のちるに、使の來たるを見れば、かの逢(ヒ)し日の心持するよしなり、
 
210 打蝉等《ウツセミト》。念之時爾《オモヒシトキニ》。取持而《タヅサヘテ》。吾二人見之《アガフタリミシ》。※[走+多]出之《ワシリデノ》。堤爾立有《ツヽミニタテル》。槻木之《ツキノキノ》。己知碁智乃枝之《コチゴチノエノ》。春葉之《ハルノハノ》。茂之如久《シゲキガゴトク》。念有之《オモヘリシ》。妹者雖有《イモニハアレド》。憑有之《タノメリシ》。兒等爾者雖有《コラニハアレド》。世間乎《ヨノナカヲ》。背之不得者《ソムキシエネバ》。蜻火之《カギロヒノ》。燎流荒野爾《モユルアラヌニ》。白妙之《シロタヘノ》。天領巾隱《アマヒレカクリ》。鳥自物《トリジモノ》。朝立伊麻之弖《アサタチイマシテ》。入日成《イリヒナス》。隱去之鹿齒《カクリニシカバ》。吾妹子之《ワギモコガ》。形見爾置|有〔○で囲む〕《カタミニオケル》。若兒乃《ワカキコノ》。乞泣毎《コヒナクゴトニ》。取與《トリアタフ》。物之無者《モノシナケレバ》。鳥穗自物《ヲトコジモノ》。腋狹持《ワキハサミモチ》。吾妹子與《ワギモコト》。二人吾宿之《フタリアガネシ》。枕付《マクラツク》。嬬屋之内爾《ツマヤノウチニ》。晝羽裳《ヒルハモ》。浦不樂晩之《ウラサビクラシ》。夜者裳《ヨルハモ》。氣衝明之《イキヅキアカシ》。嘆友《ナゲケドモ》。世武爲便不知爾《セムスベシラニ》。戀友《コフレドモ》。相因乎無見《アフヨシヲナミ》。大鳥《オホトリノ》。羽易乃山爾《ハカヒノヤマニ》。吾戀流《アガコフル》。妹者伊座等《イモハイマスト》。人之云者《ヒトノイヘバ》。石根左久見手《イハネサクミテ》。名積來之《ナヅミコシ》。吉雲曾無寸《ヨケクモゾナキ》。打蝉跡《ウツセミト》。念之妹之《オモヒシイモガ》。珠蜻《カギロヒノ》。髣髴谷裳《ホノカニダニモ》。不見思者《ミエヌオモヘバ》。
 
打蝉等念之時爾《ウツセミトオモヒシトキニ》は、(舊本に、一(ニ)云|宇都曾臣等念之《ウツソミトオモヒシ》と註せり、)うつせみなりし時にといふなり、念《オモヒ》は、輕く添たる詞なり、○取持而は、次の或本に携手《テタヅサヒ》とあれば、タヅサヘテ〔五字右○〕と訓べし、○吾二人見之《アガフタリミシ》は、妻となり、○※[走+多]出之ハ、ワシリデノ〔五字右○〕と訓べし、(ハシリデノ〔五字右○〕とよめるはわろし、)門ちかき處をいふ、九(ノ)卷に、我背兒我使將來歟跡出立之此松原乎今日香過南《アガセコガツカヒコムカトイデタチノコノマツハラヲケフカスギナム》、とある出立の類なり、(32)雄略天皇(ノ)紀(ノ)御製歌に、擧暮利矩能播都制龍野磨播《コモリクノハツセノヤマハ》云々|和斯里底能與盧斯企野磨能《ワシリテノヨロシキヤマノ》と見ゆ、(但し、其は、山の自(ラ)成(リ)出たる禮勢《サマ》を詔へるにて、言は同じけれど、意は別なり、)○堤爾立有《ツヽミニタテル》、堤に木(ノ)類をうゝるは、營繕令(ニ)云、凡堤(ノ)内外、并堤上、多殖2楡柳雜樹(ヲ)1、宛2堤堰(ノ)用(ニ)1、○槻木《ツキノキ》は、品物解に云り、○己知碁智乃枝之《コチゴチノエノ》は、此方此方之枝之《コチコチノエノ》なり、本居氏、こは彼方此方《ヲチコチ》なるを、此方此方《コチコチ》としも云は、此方《コナタ》より彼方《カナタ》といふ處は、彼方《カナタ》にては又此方《コナタ》なれば、此方《コナタ》の此方《コチ》、彼方《カナタ》の此方《コチ》なり、各《オノ/\》と云言の如しと云り、三(ノ)卷に、奈麻余美乃甲斐乃國打縁流駿河國與己知碁智之國乃三中從出立
有不盡能高嶺者《ナマヨミノカヒノクニウチヨスルスルガノクニトコチゴチノクニノミナカユイデタテルフジノタカネハ》、九卷に、白雲乃立田山乎《シラクモノタツタノヤマヲ》云々|許智期智力花之盛爾《コチゴチノハナノサカリニ》などあり、古事記雄略天皇(ノ)條にも、此詞見えたり、○春葉之茂之如久《ハルノハノシゲキガゴトク》は、葉の數のかぎりなく茂が如く、しば/\に念ひ憑みしといふ意なり、○世間乎背之不得者《ヨノナカヲソムキシエネバ》は、常ならぬ世(ノ)間のことわりを、背きえざればといふなり三(ノ)卷に、坂上(ノ)郎女の、新羅の尼理願が死れるをかなしめる歌に、生者死云事爾不免物爾之有者《ウマルレバシヌチフコトニノガロエヌモノニシアレバ》とよめる、同じ意ばえなり、○蜻火之燎流荒野爾《カギロヒノモユルアラヌニ》は、契冲云、陽炎はとほく見ゆるものなり、ひろくはてなき野といはむとて、蜻火のもゆるとはいへり、○白妙之天領巾隱《シロタヘノアマヒレカクリ》は、本居氏、葬送の旗を云、柩の前後左右に、旗をたて持行さまなりと云り、今按(フ)に、旗を云といへることおぼつかなし、此は歩障を、領巾に見なして云るなるべし、柩の前後右左に、歩障を立圍て行さま、神祇(ノ)伯葬式の古圖に見えたり、古(ヘ)より然せしなるべし、和名抄にも葬送(ノ)具に(33)裳禮圖(ニ)云、白布帷、以障2婦人(ヲ)1、今按(ニ)、俗用2歩障1是(ナリ)とあり、さて天領巾とは、天人の天路を往來《カヨ》ふ領巾のよしなれば、こゝは葬を天に上ると見なして、白布之天領巾、《シロタヘノアマヒレ》とはいへるなるべし、〔頭注、【孝徳天皇紀、王以上之墓者、云々、其葬時帷帳等、用白布云々、凡王以下、小智以上之寡者、云々、其帷帳等、宜用白布、庶人亡時云々、其帷帳等、可用麁布云々、】○鳥自物《トリジモノ》は、枕詞なり、鳥のねぐらを朝立出て行を以て、いひつゞけたり、○朝立伊麻之弖《アサタチイマシテ》は、伊《イ》はそへ言にて、朝立座《アサタチマシ》てなり、(略解に、伊麻之《イマシ》は、いにましなりと云るは非なり、既《サキ》にも云り、)○入日成《イリヒナス》は、枕詞なり、成《ナス》は如《ナス》なり、此は入日の山(ノ)端に隱るゝ如く、隱れにしかばとつゞくなり、三(ノ)卷にも、入日成隱去可婆《イリヒナヌカクリニシカパ》とあり、○隱去之鹿齒《カクリニシカバ》、此まで葬送《ハフリ》し事をいへり、去之《ニシ》は過去し方のことをいふ辭なり、○形見爾置有《カタミニオケル》(有(ノ)字は、次の或本に從て補入つ、)は、表記《カタミ》に殘し置てあるといふなり、○若兒乃はワカキコノ〔五字右○〕とよむべし、齊明天皇(ノ)紀に、于都倶之枳阿餓倭柯枳古弘《ウツクシキアガワカキコヲ》、十七に、伊母毛勢母和可伎兒等毛波《イモモセモワカキコドモハ》と假字書もあり、三(ノ)卷に、若子乃匍匐多毛登保里《ワカキコノハヒタモトホリ》、又|若子乎置而《ワカキコヲオキテ》などあるをも、ともにワカキコ〔四字右○〕とよむべくおぼゆ、○取與物之無者《トリアタフモノシナケレバ》は、兒の泣をなぐさめむ料に、取て與ふる物の無ればといふなり、物《モノ》は若子の弄物なり、(岡部氏(ノ)考に、物は人なりと云るは、いかに心得たりしにや、いといぶかし、)之《シ》は例のその一(ト)すぢなるよしを、思はせたる助辭なり、○鳥穗自物《ヲトコジモノ》は、岡部氏(ノ)考に、鳥穗は、烏徳の誤なり、をとこじものと訓べしと云り、次の或本には男自物《ヲトコジモノ》と書り、三(ノ)卷に、腋挾兒乃泣毎雄自毛能負見抱見《ワキバサムコノナクゴトニヲトコジモノオヒミウダキミ》、十一に、面形之忘弖在者小豆鳴男士物屋(34)戀乍將居《オモカタノワスレテアラバアヂキナクヲトコシモノヤコヒツヽヲラム》などあり、さてこれらは、常に某|自物《ジモノ》といふとは、いさゝか異りて、男のすまじきわざをするをいふ意にいへり、○腋挾持《ワキバサミモチ》は、兒を、腋に抱く貌なり、○枕付《マクラヅク》は、枕詞なり、此は夫妻は閨房《ツマヤ》に枕を雙附て相寢する故にかく云り、五(ノ)卷に、摩久良豆久都摩夜佐夫斯久《マクラヅクツマヤサブシク》、十九に、枕附都麻屋之内爾《マクラヅクツマヤノウチニ》などあり、○嬬屋《ツマヤ》は、夫妻|率《ヰ》て隱る所の屋なり、上に嬬隱有屋上乃山乃《ツマコモルヤカミノヤマノ》とある處に既(ク)釋り、○浦不樂晩之は、ウラサビクラシ〔七字右○〕と訓べし、心を痛めて日を暮すよしなり、言(ノ)意は既く云つ、(本居氏は、師(ノ)考に、うらぶれとよまむはわろしとあれども、卷々に浦觸《ウラブレ》裏觸《ウラブレ》といへるいと多く、又五(ノ)卷十七(ノ)卷などに、假字にも宇良夫禮と書れば、わろからずといへれど、なほ浦不樂、浦不怜など書るは、ウラブレ〔四字右○〕とは異なるべし、)○氣衝明之《イキヅキアカシ》は、氣息《イキ》を衝て吟《ウメ》き嘆きて、夜を明すよしなり、○大鳥《オホトリ》は、羽《ハ》と係れる枕詞なり、大鳥は、和名抄に、鸛(ハ)水鳥(ナリ)、似v鵠(ニ)巣v樹(ニ)者也、於保止利《オホトサ》と見え、また鷲などをもいふべけれど、此《コヽ》は何となく、只大きなる鳥と云るなるべし、(冠辭考に、大鳥は鷲をいはゞ、羽を易るを待て矢に用るなれば、羽易の字(ノ)意とすべし、と云るは行過たり、たゞ此は羽と云(フ)のみへかゝれる言なるをや、)○羽易乃山《ハカヒノヤマ》は、十(ノ)卷に、春日有羽買之山《カスガナルハカヒノヤマ》とよめると同所なるべし、共にハカヒ〔三字右○〕と訓べし、買はカヒ〔二字右○〕、易はカヘ〔二字右○〕とよむことゝおもふは、誤なり、凡て買《カフ》といふも、物と物とを取易(フ)るを云て、別言にあらず、カヒ〔二字右○〕といふが本にて、カハル〔三字右○〕ともカフル〔三字右○〕とも活く言にて、皆一言なり、さてカヒ〔二字右○〕をカヘ〔二字右○〕といふは、もと令《セ》v易《カハ》てふ言(35)にいひしなり、されど第二位の音を、第四位の音にうつしいふことも、やゝ古(ヘ)よりの一(ツ)の例にて、カヒ〔二字右○〕もカヘ〔二字右○〕も又一言なり、易をカヒ〔二字右○〕とよむべき證は、十二に、浣衣取替河《フラヒギヌトリカヒガハ》とよめるは、和名抄に、大和(ノ)國添下(ノ)郡鳥見、止利加比《トリカヒ》、とある所の川を云るなれば、取替はトリカヒ〔四字右○〕なり、トリカヘ〔四字右○〕とはよむべからず、此(ノ)一(ツ)にて、カヘ〔二字右○〕を古(ヘ)カヒ〔二字右○〕と云し事知るべし、(又十四に、可良許呂毛須蘇乃宇知可倍《カラコロモスソノウチカヘ》と有を、その左にあぐる或本のには、須素能宇知可比《スソノウチカヒ》とあるにても、いよいよカヒ〔二字右○〕はカヘ〔二字右○》と同じきを知べし、又十六に、味飯乎《ウマイヒヲ》云々|代者曾無《カヒハカツテナシ》とある代を、カヒ〔二字右○〕とよむも同じ、後(ノ)世にも、かひある、かひ無などいふも是なり、)○吾戀流《アガコフル》は、次の或本に、汝戀《ナガコフル》とあり、これよろし、他人よりいふことなればなり、○石根左久見手《イハネサクミテ》(手(ノ)字、舊本に乎に誤、今は六條本に從つ、)は、磐根をあがりさがりなど、苦勞《イタヅ》きていふなり、延喜式祝詞に、磐根木根履佐久彌弖《イハネコノネフミサクミテ》、又此(ノ)集六(ノ)卷に、五百重山伊去割見《イホヘヤマイユキサクミ》、廿(ノ)卷に、奈美乃間乎伊由伎佐具久美《ナミノマヲイユキサグクミ》などあり、本居氏、或説に、人面のたくぼくあるを、しやくみづらと云に同くて、岩の凸凹ある上を通(リ)行(ク)を云なり、馬さくりと云も、能の面にさくみと云あるも、同詞なりと云り、此(ノ)意なるべし、源氏物語に、兒童のこざかしきを、さくじりおよすけたるとあるも、平穩《ナダラカ》ならぬ意にて同じと云り、(岩根を履裂て行なり、といふ説はあたらず、)○名積來之《ナヅミコシ》は、艱難苦勞《ワヅラヒイタヅキ》て來しといふなり、三(ノ)卷に、雪消爲山道尚矣名積叙吾來並二《ユキゲセルヤマミチスラヲナヅミゾアガコシ》、四(ノ)卷に如此而哉猶八將退不近道之間乎煩參來而《カクシテヤナホヤマカラムチカヽラヌミチノアヒダヲナヅミマヰキテ》、七(ノ)卷に、山川爾吾馬難《ヤマガハニアガウマナヅム》、(36)十三に、夏草乎腰爾莫積《ナツクサヲコシニナヅミ》、十九に、落雪乎腰爾奈都美底《フルユキヲコシニナヅミテ》、古事記上卷に、爾天照大御神|聞驚而《キヽオドロカシテ》、詔云々、堅庭者《カタニハハ》、於《ニ》2向股《ムカモヽ》1蹈那豆美《フミナヅミ》、中卷景行天皇(ノ)條(ノ)歌に、阿佐志怒波良許斯那豆瀰《アサシヌハラコシナヅミ》、書紀仁徳天皇(ノ)大御歌に、那珥波譬苫須儒赴泥苔羅齊許斯邪豆瀰《ナニハビトスズフネトラセコシナヅミ》など見ゆ、○吉雲曾無寸《ヨケクモゾナキ》(寸(ノ)字、舊本十に誤、今改つ、)は、吉《ヨキ》こともぞ無きにて、かへりてなづみ來し、そのかひなしといふ意なり、欲氣久《ヨケク》は、欲久《ヨク》の伸りたるにて、吉(キ)事といふ意なり、毛曾《モゾ》といふ辭に、かへりてといふ意を含めたるよし、上に、玉藻毛叙《タマモモゾ》川藻毛叙《カハモモゾ》、とあるに就て注るが如し、さてこゝは磐根を蹈さくみなど、かにかく苦勞《イタヅ》きて來しなれば、その益《シルシ》もあるべきに、かへりて吉(キ)こともなしといふ意なり、○珠蜻《カギロヒノ》は、髣髴《ホノカ》の枕詞なり、○髣髴谷裳《ホノカニダニモ》は、幽《ホノ》かにさへもといはむが如し、○不見思者《ミエヌオモヘバ》は、上の吉雲曾無寸《ヨケクモゾナキ》、といふへかへして意得べし、幽かにさへも妹が見えぬを思へば、苦勞きて來しかひもなく、吉(キ)こともぞなさといふ意なり、○歌(ノ)意は、年久しく相なれ睦びかはせし妹が、兒童を表記《カタミ》に殘し置て死しかば、その兒同の泣ごとに、取てあたへてなぐさめむ物もなければ、男のすまじき事なれども、他にせむ方なければ腋に抱きつゝ、いよ/\そのありし世を慕ひて、晝夜なげきかなしみつゝあるに、その汝が戀る妹は、今羽易の山におはすをと人の告つれば、もしやせめてよそながらにも、相見る事のあらむか、と石根ふみさくみなど、かにかくに苦勞きて來しを、その益《シルシ》もなく、ほのかにさへも見えずとなり、兒童の泣さまをいへるに、(37)妻のありしよを慕ひ歎きたる意、言外にあふれていともあはれふかし、
 
短歌二首《ミジカウタフタツ》。
 
211 去年見而之《コゾミテシ》。秋乃月夜者《アキノツクヨハ》。雖照《テラセレド》。相見之妹者《アヒミシイモハ》。彌年放《イヤトシサカル》。
 
歌(ノ)意は、去年の秋に月はかはらずてらせるを、別(レ)し妻は彌《イヨ/\》年遠放(リ)ぬるよとなり、いとかなしくあはれなり、さて此歌にてみれば、この長歌短歌は、妻の死て一周忌によまれしなり、此(ノ)歌拾遺集の詞書に、妻にまかりおくれて、又の年の秋月を見侍りてとあるは、さることなり、
 
212 衾道乎《フスマヂヲ》。引手乃山爾《ヒキテノヤマニ》。妹乎置而《イモヲオキテ》。山徑往者《ヤマヂヲユケバ》。生跡毛無《イケルトモナシ》。
 
衾道乎引手乃山爾《フスマヂヲヒキテノヤマニ》は契冲云、ふすまは所の名にて、そこに、往還《ユキカヒ》する道あるを、ふすまぢといふなるべし、延喜式第二十一諸陵式(ニ)云、衾田(ノ)墓、(手白香(ノ)皇女、在2大和(ノ)國山邊(ノ)郡(ニ)1、兆域東西二町南北二町、無2守戸1、令2山邊(ノ)道(ノ)勾(ノ)岡(ノ)上(ノ)陵戸(ニ)兼守1、)衾田とありて注の中に、山邊(ノ)郡といへれば、うたがふらくは、衾路といふはこゝなるべし、引手の山は、長歌に羽易の山とあり、春日に羽易の山ありて、引手の山は、また羽易の山の中の別所の名なるべし、春日は添上(ノ)郡、衾路は山邊(ノ)郡なれど、山邊と添上はとなりてちかければ、高市(ノ)郡より衾路をへて、引手の山には行なるべし、衾路乎《フスマヂヲ》、と云る乎の字、心得がたきやうなれど古歌のならひとかろく見るべし、此(ノ)集に此(ノ)類多し、みはかしをつるぎの池とつゞけたるも、みはかしの劔の池といふ心なれば、今も衾路(38)のといふべきを、ふすまぢをといへり、(此まで契冲の説なり、此(ノ)説に、いさゝか聞とりがたき處あり、さるはまづふすまは地名にて、其地にかよふ道を、布須麻道《フスマヂ》と云なるべしと云るは、理よく聞えたれど、式に衾田とあるを引たるは、其地を布須麻とも衾田とも、二(タ)しへに云りしものとせるか、しからば委(ク)その辨別《ワキダメ》あるべきことなるに、そのさだなき故に聞えがたし、又式を引て、後に衾道といふは、こゝなるべしと云るを思(ヘ)ば、衾田とあると衾道とあるとは、田《タ》道《チ》は音|親《チカ》く通ふが所以《エヱ》に、彼(レ)にも此(レ)にも云るにて、衾田衾道直に同地とせるか、衾路を經て、引手の山には行なるべし、とあるを思へば、しか心得たるものとおぼえたり、さらば布須麻《フスマ》といふ地にかよふ道を、衾道といふなるべし、といへるに協はざるか、式に衾田とある、其地を布須麻《フスマ》とのみも云るにて、其(ノ)地にかよふ道すぢを、ふすま道と云りしなるべしとあらば、其理明かに通《キコ》えたり、およそ某道《ナニヂ》といふは、たとひ他國他郡にまれ、某(ノ)地にかよふ道路をいふことにて、大和(ノ)國に往來《カヨ》ふ道路を大和道《ヤマトヂ》、紀伊(ノ)國にかよふ道すぢを紀道《キヂ》といへる類、古(ヘ)には多くあれば、こゝも引手山は春日にありて、春日は添上(ノ)郡なれど、添上と山邊はとなりてちかければ、山邊(ノ)郡|布須麻《フスマ》といふ地に往來ふ、添上(ノ)郡の布須麻道《フスマヂ》の引手山、といふ謂なりといはゞ、いさゝか難なし、さて又高市(ノ)郡より云々と云るは、前の長歌に、天飛也輕路者《アマトブヤカルノミチハ》とある、輕《カル》は高市(ノ)郡なれば、しか云るなれど、後の長歌は、上にことわれる如く別人なれば、何地に(39)住しと云ことは知べからず、此は前なると後へなるとを、もとより題詞に一連に書《しる》したる故、誰もまどへる事なれば、しか思へるも理なり、さて衾道のといふべきを、衾道乎《フスマヂヲ》と云ることを、ことわれるは、此説の如し、)又おもふに、衾道乎ほ、枕詞にてもあるべし、道《チ》は幕の乳《チ》などいふ乳にて、手して取料の物をいふなり、(塵添埃嚢抄にも、物に付るちといふは、耳の字を書なり、わらむぢのちなどには、必《ス》耳を用るなりといへり、枕册子に、南のやり戸のそばに、凡帳の手のさし出たるにさはりて、とある手も同じ、)さらばその乳をとりて、引《キ》よするよしにて、引といふに、かゝれるのみなり、猶よく考べし、(冠辭考に、式の神宮調度の中に、戸の引手二勾とあるを引て、引手といふまでかゝれるよしいへれど、手といふまではあづからず、引手は、和名抄にも辨色立成(ニ)云、鐶(ハ)門鈎也、斗乃比岐天《トノヒキテ》とあり、さてこの手も、幕の乳などいふ乳に同じ、)○引手乃山《ヒキテノヤマ》は、羽買山の中にあるなるべし、夫木集に、梓弓引手の山のほとゝぎす雲を宿とやおして入らむ、明玉集に、紅に深くぞ見ゆる衾道の引手の山の峯の紅葉、(大和(ノ)國の名處をしるせるものに、山邊(ノ)郡中村の東に、龍王と呼ぶ山を、引手山なりと云り、長歌によるに、添上(ノ)郡春日の羽買山の中にありとせずしては、叶ひがたし、但(シ)山邊添上兩郡に亘れる山なりしか、猶索ぬべし、)○山徑往者《ヤマヂヲユケバ》は、山路を來ればと云が如し、しかるを此に往としも云るは、山の方よりいひたるにて、山を内にしたる言なり、(たゞに往と來と、通はし云たるにはあらず、)(40)○生跡毛無は、本居氏云、次の或本に、生刀毛無、また下に、天離《アマザカル重云々生刀毛無、十一に、懃《ネモコロニ》云々を吾情利乃《ワガコヽロトノ》生戸裳名寸、十二に、萱草《ワスレグサ》云々生跡文奈思、また空蝉之《ウツセミ/》云々生跡毛奈思、また白銅鏡《マソカヾミ》云云生跡文無、十九に、白玉之《シラタマノ》云々|伊家流等毛奈之《イケルトモナシ》とあり、いづれもみな、十九なる假字書にならひて、イケルトモナシ〔七字右○〕と訓べし、本にイケリトモナシ〔七字右○〕と訓るは誤なり、生《イケ》る刀《ト》とは、刀《ト》は利心《トコヽロ》心利《コヽロド》などの利《ト》にて、生る利心もなく、心の空《ウツ》けたるよしなり、されば刀《ト》は辭《テニヲハ》の登《ト》にはあらず、これによりて伊家流等《イケルト》といへるなり、もし辭ならば、いけりともなしといふぞ、詞のさだまりなる、又刀(ノ)字などは、てにをはのとには、用ひざる假字なり、これらを以て、古(ヘ)假字づかひの嚴なりしほど、又詞つゞけのみだりならざりしほどを知べし、然るを本にいけりともなしと訓るは、これらのわきためなく、たゞ辭と心得たるひがごとなり、といへり、(これによるべし、但刀(ノ)字は、てにをはのとに用ひざる假字といへれど、この上に、如是有刀豫知勢婆《カヽラムトカネテシリセバ》とあれば、其は一概《ヒトムキ》には云がたからむ、)○歌(ノ)意は、引手山に妹を留め置て、山路をかへり來れば、かなしみに沈みて、生る利心もなしとなり、
〔或本(ノ)歌(ニ)曰。213 宇都曾臣等《ウツソミト》。念之時《オモヒシトキニ》。携手《テタヅサヒ》。吾二見之《アガフタリミシ》。出立《イデタチノ》。百兄槻木《モヽエツキノキ》。虚知期知爾《コチゴチニ》。枝刺有如《エダサセルゴト》。春葉《ハルノハノ》。茂如《シゲキガゴトク》。念有之《オモヘリシ》。妹庭雖在《イモニハアレド》。恃有之《タノメリシ》。妹庭雖有《イモニハアレド》。世中《ヨノナカヲ》。背不得者《ソムキシエネバ》。香切火之《カギロヒノ》。燎流荒野爾《モユルアラヌニ》。白栲《シロタヘノ》。天領巾隱《アマヒレカクリ》。鳥自物《トリジモノ》。朝立伊行而《アサタチイユキテ》。入日成《イリヒナス》。隱西加婆《カクリニシカバ》。吾妹子之《ワギモコガ》。形見爾置有《カタミニオケル》。緑兒之《ミドリコノ》。乞哭別《コヒナクゴトニ》。取委《トリマカス》。物之無者《モノシナケレバ》。男自物《ヲトコジモノ》。脅(41)挿持《ワキバサミモチ》。吾妹子與《アギモコト》。二吾宿之《フタリアガネシ》。枕附《マクラヅク》。嬬屋内爾《ツマヤノウチニ》。旦者《ヒルハ》。浦不怜晩之《ウラサビクラシ》。夜者《ヨルハ》。息衝明之《イキヅキアカシ》。雖嘆《ナゲヽドモ》。爲便不知《セムスベシラニ》。雖戀《コフレドモ》。相縁無《アフヨシヲナミ》。大鳥《オホトリノ》。羽易山爾《ハカヒノヤマニ》。汝戀《ナガコフル》。妹座等《イモハイマスト》。人云者《ヒトノイヘバ》。石根割見而《イハネサクミテ》。奈積來之《ナヅミコシ》。好雲叙無《ヨケクモゾナキ》。宇都曾臣《ウツソミト》。念之妹我《オモヒシイモガ》。灰而座者。〕
携手は、テタヅサヒ〔五字右○〕と訓べし、五(ノ)卷に、余知古良等手多豆佐波利提《ヨチコラトテタヅサハリテ》、又|手乎多豆佐波里《テヲタヅサハリ》(ハリ〔二字右○〕の切ヒ〔右○〕)などあり、○百兄槻木《モヽエツキノキ》は、兄《エ》は枝なり、古事記下に、天皇、坐(テ)2長谷之百枝槻(ノ)下1、爲2豐樂1之時云云、神代紀下卷に、井上(ニ)有2百枝杜樹《モヽエカツラノキ》1とも見ゆ、○緑兒《ミドリコ》は、和名抄に、蒼頡篇(ニ)云、女(ニ)曰v嬰(ト)、男(ニ)曰v兒、一(ニ)云、嬰孩兒、一(ニ)云、孩(ハ)始生小兒也、美止利古《ミドリコ》、字鏡に、阿孩兒(ハ)、彌止利子《ミドリコ》、十八に彌騰里兒能《ミドリコノ》などあり、○取委《トリマカス》は、小兒の啼をすかしこしらへて、止べき玩物を、彼(レ)に與へ持せて、其(レ)に委《マカ》するよしなり、○爲便不知は、常に爲便とかきて、スベ〔二字右○〕と訓例なれば、この上に、世武か將爲かの二字などの脱たるにや、とおもはるれど、三(ノ)卷に、將爲使不知《セムスベシラニ》、又|將爲便不知《セムスベシラニ》、十二に、爲便母奈之《セムスベモナシ》とあれば、便(ノ)字のみにてスベ〔二字右○〕とよむべし、○灰而座者は、解難し、誤字脱字などあるべし、(強て嘗にいはば、玉蜻仄谷母不見座者《カギロヒノホノカニダニモミエズマセバ》、などもとはありしを、後に火葬のことを思ひて、仄を灰に誤れるより亂(レ)たるものか、
〔短歌、214 去年見而之《コゾミテシ》。秋月夜者《アキノツクヨハ》。雖度《ワタレドモ》。相見之妹者《アヒミシイイモハ》。益年離《イヤトシサカル》。
雖度《ワタレドモ》は、雖《ドモ》2照度《テリワタレ》1の意なり、
(42)〔215 衾路《フスマヂヲ》。引出山《ヒキデノヤマニ》。妹置《イモヲオキテ》。山路念邇《ヤマヂオモフニ》。生刀毛無《イケルトモナシ》。〕
山路念邇《ヤマチオモフニ》は、いかゞなり、○上(ノ)件(長一首短二首)は、或本(ノ)歌なり、故(レ)上の本章(ノ)歌に大かた同じくて、いさゝか句々相かはれるのみなり、次の家來而《イヘニキテ》云々の歌も、舊本には、或本(ノ)歌の中にせれど、こはもとより本章に付たる歌なるべし、但しもとより本章には、脱たりしにもやあらむ、されど必あるべき歌なれば、今は本章の順に載、
 
216 家來而《イヘニキテ》。吾屋乎見者《ツマヤヲミレバ》。玉床之《タマトコノ》。外向來《トニムカヒケリ》。妹木枕《イモガコマクラ》。
 
吾屋乎見者は、吾は妻の誤にや、と岡部氏(ノ)考に云り、こは實に然《サ》も有べし、ツマヤヲミレバ〔七字右○〕と訓べし、○玉床《タマトコ》は、玉は美る詞にて妹が座し床なれば、稱《タヽヘ》云なり、十(ノ)卷七夕(ノ)歌に、明日從者吾玉床乎打拂《アスヨリハワガタマトコヲウチハラヒ》ともあり、(岡部氏(ノ)考に靈床なるべしと云るによりて、略解に、續後紀十四に見えたる、靈床を引たれども、こゝによしなし、)○歌(ノ)意は、羽買の山より歸來て見るに、妻屋の荒たりしさまを云るにて、まことにあはれにかなしくこそ、
 
吉備津采女死時《シガツノウネベガミマカレルトキ》。柿本朝臣人麿作歌一首并短歌《カキノモトノアソミヒトマロガヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
吉備津采女、本居氏云、吉備津を、師の考に、此(ノ)采女の姓なるよしあれど、凡て采女は、出たる地をもて呼例にて、姓氏をいふ例無く、其(ノ)上反歌に、志我津子《シガツノコ》とも、凡津子《オホツノコ》ともよめるをおもふに、近江の志我の津より出たる采女にて、こゝに吉備と書るは、志我の誤にて、志我津《シガツノ》采女な(43)るべし、○時(ノ)字、目録には後と作り、
 
217 秋山《アキヤマノ》。下部留妹《シタベルイモ》。奈用竹乃《ナヨタケノ》。騰遠依子等者《トヲヨルコラハ》。何方爾《イカサマニ》。念居可《オモヒマセカ》。栲紲之《タクナハノ》。長命乎《ナガキイノチヲ》。露己曾婆《ツユコソハ》。朝爾置而《アシタニオキテ》。夕者《ユフベハ》。消等言《ケヌトイヘ》。霧己曾婆《キリコソハ》。夕立而《ユフベニタチテ》。明者《アシタハ》。矢等言《ウストイヘ》。梓弓《アヅサユミ》。音聞吾母《オトキクアレモ》。髣髴見之《オホニミシ》。事悔敷乎《コトクヤシキヲ》。布栲乃《シキタヘノ》。手纏枕而《タマクラマキテ》。釼刀《ツルギタチ》。身二副寐價牟《ミニソヘネケム》。若草《ワカクサノ》。其嬬子者《ソノツマノコハ》。不怜弥可《サブシミカ》。念而寐良武《オモヒテヌラム》。悔弥可《クヤシミカ》。念戀良武《オモヒコフラム》。時不在《トキナラズ》。過去子等我《スギニシコラガ》。朝露乃如也《アサツユノゴト》。夕霧乃如也《ユフギリノゴト》。
 
秋山下部留妹《アキヤマノシタベルイモ》は、古事記に、秋山之下氷壯夫《アキヤマノシタヒヲトコ》とある其(ノ)傳に、名(ノ)義、下氷《シタヒ》は、諸木《キヾ》の變紅《モミチ》もたる秋山の色を云(フ)、そは萬葉二に、秋山下部留妹《アキヤマノシタベルイモ》、十に、金山舌日下《アキヤマノシタヒガシタ》などあるを、秋山の紅葉の色なり、と師の云れたる是なり、かくて此(ノ)言の本の意は朝備《アシタビ》と云ことにて、秋山の色の赤葉に丹穗《ニホ》へるが、赤根刺《アカネサス》朝《アシタ》の天《ソラ》の如くなる由なり、さて墳原(ノ)宮(ノ)段に、山下影日賣《ヤマシタカグヒメ》と云人(ノ)名、又萬葉十五に、安之比奇能山下比可流毛美知葉能《アシヒキノヤマシタヒカルモミヂバノ》、六に、鶯乃來鳴春部者《ウグヒスノキナクハルヘハ》、巖者山下耀錦成花咲乎呼里《イハホニハヤマシタヒカリニシキナスハナサキヲヲリ》、三に、客爲而物戀數爾山下《タビニシテモノコホシキニヤマシタノ》、赤乃曾保船奧榜所見《アケノソホフネオキニコグミユ》、これらの山下《ヤマシタ》も、皆|秋山之下氷《アキヤマノシタヒ》と同言にて、山朝備《ヤマアシタビ》なるを、備《ビ》を省きて云るなり、かくて右の下部留妹《シタベルイモ》、又|山下影日賣《ヤマシタカグヒメ》など、皆|紅顔《ニホヘルカホ》を稱美《ホメ》て云るなれば、此(ノ)下氷《シタヒ》壯夫も、秋山の色の美麗《ウルハシ》きを以て、稱へたる名なりと云り、(但し朝備《アシタビ》の略と云るはいかゞなり、古言に朝《アシタ》のア〔右○〕の言を省ける如き例なければなり、猶考(フ)へし、又冠(44)辭考に、志多備《シタビ》は、志那備《シナビ》なりと云るは非《ワロ》きよし、既く本居氏もことわれり、)○奈用竹乃《ナヨタケノ》は、枕詞なり、此は皮《カハ》竹のことにて、俗に女竹といふものなり、其はことになよゝかに※[木+堯]《タワ》み靡けば、登遠依《トヲヨル》とつゞけたり、なほ奈用竹《ナヨタケ》のことは品物解に云り、○騰遠依子等《トヲヨルヨラ》、(騰《ド》の濁音(ノ)字を用たるは、正しからず、)騰遠《トヲ》は、古事記大名持(ノ)命を祭る詞に拆竹之登遠々登遠々爾《サキタケノトヲヽトヲヽニ》獻《タテマツラム》2天之眞魚咋《アメノマナクヒヲ》1也と見え、集中八(ノ)卷に、秋芽子乃枝毛十尾二《アキハギノエダモトヲヲニ》、十(ノ)卷に、爲垂柳十緒《シダリヤナギノトヲヲニモ》、また白杜杙枝母等乎々爾《シラカシノエダモトヲヽニ》(或云|枝毛多和多和《エダモタワタワ》、)などありて、多和多和《タワタワ》と※[木+堯]む貌を云言にて、※[木+堯]《タワ》み依なびく子《コ》といふことにて、容貌のしなやかになよゝかなるよしなり、(源氏物語浮舟に、こめきおほとかにたをたをと見ゆれど、けたかう世の有さまをもしるかたすくなくて、おほしたてたる人にしあれば、とあるたを/\も、此の登遠依《トヲヨル》に似たり、同言なるべし、)三(ノ)卷に、名湯竹乃十縁皇子狹丹頬相吾大王者《ナユタケノトヲヨルミコサニツラフワガホオキミハ》ともあり、(夫木集に鴈がねのとをよるつばさ雲きえて村雨こゆる秋の山本、)○念居可はオモヒマセカ〔六字右○〕と訓べし、念ひ座ばかの意なり、采女の心の中のはかりがたきよしなり、さて此(ノ)句の下に、云々ありけむといふ詞を、含めて意得べし、○栲紲之《タクナハノ》は、枕詞なり、此を近(キ)世の學者、タクヅヌノ〔五字右○〕と訓改(メ)たれども、舊訓のまゝにタクナハノ〔五字右○〕なるべし、(紲(ハ)長繩也とあり、)栲綱《タクヅヌ》は、古事記沼河日賣(ノ)歌にも見え、此集三(ノ)卷廿(ノ)卷等にも見えて、皆白とのみ續き、栲繩《タクナハ》は、古事記上卷に栲繩之千尋繩打延《タクナハノチヒロナハウチハヘ》云々、書紀神代(ノ)卷下に、即以2千尋栲繩《チヒロタクナハヲ》1結2爲《セリ》百八十?《モヽヤソムスビト》1云々、五(ノ)(45)卷に栲繩能千尋爾母何等《タクナハノチヒロニモガト》とありて、綱といふ時は、白とつゞけ、繩といふ時は、皆長きよしにいひたるを思へば此《コヽ》も栲那波之長《タクナハノナガ》と續きたるならむとぞ思はる、(枕册子に、舟のみち云々、此たくなはを海にうけありていとあやふく、うしろべたくはあらぬにや、)○長命乎《ナガキイノチヲ》は、若くて末長き身命なるものをの意なり、○露己曾婆《ツユコソハ》、霧己曾婆《キリコソハ》、(二(ツ)ともに、婆《バ》の濁音(ノ)字を用たるは、正しからず清て唱(フ)べし)己曾《コソ》は、他にむかへて、その物をえりわきて、たしかにいふ時の詞なり、此(レ)も露こそは霧こそは、さるはかなさものなれ、人はしからぬ物をとの意なり、○夕者、明者は、ユフヘハアシタハ〔八字右○〕と訓べし、○梓弓《アヅサユミ》は、音の枕詞なり、此(ノ)上にいへり、○髣髴見之はオホニミシ〔五字右○〕と訓べし、反歌に、於保爾見敷者《ホホニミシカバ》とあり、見もしらぬ人のうへにても、かゝる事を聞ては、悲しまるゝ習なるに、ほのかにだにも見しことのありしを、悔しくおもふよしなり、(委曲《ヨク》見おかざりしを、悔しむ意にはあらず、)○劔刀《ツルギタチ》は身《ミ》に副《ソフ》の枕詞なり、此(ノ)上に出つ、○若草《ワカクサノ》は、嬬《ツマ》の、枕詞なり、此(レ)も上に出つ、○其嬬子者《ソノツマノコハ》は、嬬《ツマ》は、借(リ)字にて夫《ツマ》なり、子は親(ミ)辭なり、○不怜彌可《サブシミカ》云云は、不樂《サプ》しう念ひて寢《ヌ》らむかの意なり、不怜彌《サブシミ》は、不樂《サブ》しうと云むが如し、可《カ》の疑辭は、良武《ラム》の下にうつして意得べし、不樂《サブシ》のことは上に云り、悔彌可《クヤシミカ》云々の二句、舊本脱たり、飛鳥井本によりて補つ、悔しう念ひて戀らむかの意なり、悔彌《クヤシミ》は、悔しうと云むが如し、可《カ》の疑辭は、良武《ラム》の下にうつして意得べし、悔《クヤシ》は、ありし世に、とさまにすべきことにて有しに、かくさまに(46)すべき事にて有しに、と後に悔(シ)く思ふよしなり、○時不在《トキナラズ》は、若く盛にて、死去《シヌ》べき時にあらずとの意なり、○過去子等我《スギニシコラガ》は過《スギ》は、死なり、上に云り、我は、香(ノ)字などの誤にや、こゝは我といふべきところにあらず、死去《スギニ》し子等哉《コラカナ》といふにて、香は、歎息(ノ)辭なり、○朝露乃如也、夕霧乃如也は、アサツユノゴト、ユフギリノゴト〔十四字右○〕と訓べし、本居氏、也(ノ)字は、焉(ノ)字の如く、たゞ添て書るのみなり、ゴトヤ〔三字右○〕と訓ては、ヤ〔右○〕もじとゝのはず、さて此(ノ)終の四句は、子|等《ラ》が朝露の如(ク)夕霧の如(ク)、時ならず過ぬる、と次第する意なり、かくの如くみざれば、語とゝのはざるなり、朝露夕霧は、上におきたる、露と霧とを結べるものなり、と云り、○歌(ノ)意は下部留妹《シタベルイモ》とをよる子等《コラ》は、何《イカ》さまに念ひ居《マセ》か云々ありけむ、抑露霧こそは、よにはかなきものにて、夕に降ば朝は消、朝に發《タテ》ば夕は失るものにはあれ、その露霧にもあらぬ人身の、殊に若くて、末長く生存《イキナガラフ》べき命なるものを、其をたもち得ずして、露霧の如く、はかなく死去《スギヌ》る子等にもある哉、かゝることは、音づれにのみ聞る吾さへ、その面影を、念出すごとに、幽かにだに相見ざりせば、がゝる悲き事はあらじと今更悔しまるゝ事なるに、まして手枕安(ハ)して、身に副寐けむその夫は、いかばかりにかは、悔く悲く念戀て獨寐をばすらむことよといへるなり、そもそもこの朝臣の長歌は、句法の甚妙にしてまぎれやすきをことに此(ノ)歌などは最《モトモ》巧(ミ)に云るなれば、よく考へて、次弟をなして味(ヒ)見べし、(此(ノ)歌今まで、熟(ク)解得たる人なし、)
 
(47)短歌二首《ミジカウタフタツ》。
 
218 楽浪之《サヽナミノ》。志我津子等何《シガツノコラガ》。罷道之《マカリニシ》。川瀬道《カハセノミチヲ》。見者不怜毛《ミレバサブシモ》。
 
志我津子等何《シガツノコラガ》、舊本に、一(ニ)云志我津之子我と註せり、○罷道之は、本居氏、道は邇の誤にて、マカリニシ〔五字右○〕なるべしと云り、これによるべし、拾遺集廿(ノ)卷に此歌を載て、さゝなみやしがのてこらがまかりにしと書たり、まことに本は罷邇之《マカリニシ》にてぞありけむ、(岡部氏(ノ)考に、續紀詔を引て、罷道のことを云れど、こゝはさにあらじ、)○川瀬道《カハセノミチ》は、いづれの川ならむ知がたし、○歌(ノ)意は、妹が葬られ罷りにし、その川路を見てさへ、ありし面影の思ひ出られて、苦しき事となり、
 
219 天數《サヽナミノ》。凡津子之《オホツノコカ》。相日《アヒシヒニ》。於保爾見敷者《オホニミシカバ》。今叙悔《イマゾクヤシキ》。
天數を、アマカゾフ〔五字右○〕と訓たれど、さては釋べきやうなし、(冠辭考に、そらかぞふと訓て、そらかぞふとは、そら量するを、そらかぞへといふをもて、大津の大を、凡の意にとりなして、冠らせたりと云るは大誤《イミジキヒガコト》なり、そもそも蘇良《ソラ》と云言は、古(ヘ)は蒼天《オホソラ》をのみ云ことにて、暗推に物することを、蘇良《ソラ》某と云しことは、一(ツ)もあることなし、そら誦そら言など云類の蘇良《ソラ》は、古(ヘ)は牟那《ムナ》とのみ云しをや、さるを文字には、そらの方にもむなの方にも、共に空虚などの字を用ふるから、後(ノ)人字に惑ひて、そらとむなとを混誤《アヤマリ》しこと多きを、今は何とかせむ、古語は古語の趣(キ)をよくたづねわきまへて解べきものなるをや、)故(レ)考(ル)に、天は、左々か或は樂かの誤にて、左(48)左數《ササナミ》か樂數《サヽナミ》など有しにや、數(ノ)字をナミ〔二字右○〕とよむは、集中に馬數而《ウマナメテ》など書る例あり、又按(フ)に、數は雲の誤にて天雲《アマクモノ》鬱《オホ》とつゞきたるか、四(ノ)卷に、春日山朝居雲乃鬱不知人爾毛戀物香聞《カスガヤマアサヰルクモノオホヽシクシラヌヒトニモコフルモノカモ》とあり、猶考(フ)べし、○凡津子之《オホツノコガ》は、上の、歌に依るに、子の下等(ノ)字落しにもあらむ、さて子爾《コニ》といふべきやうの處を、かく子之《コガ》といへるは雅言の格なり、四(ノ)卷に、黄葉乃過哉君之不和夜多焉《モミヂバノスギヌヤキミガアハヌヨオホシ》、十六(ノ)末に、人魂乃佐青有公之但獨相有之雨夜葉《ヒトタマノサヲナルキミガタヾヒトリアヘリシアマヨハ》云々とあるに同じ、本居氏、十三に、裏觸而妻者會登人曾告鶴《ウラブレテツマハアヘリトヒトソツゲツル》、古今集春(ノ)部端詞に、志賀の山越に、女の多く遇りけるに、伊勢物語に、宇都の山に至りて云々、修行者遇たり、拾遺集又六帖に、散(リ)散らず聞まほしきを故郷の花見て還る人も遇はなむなどあり、凡て道などにして行遇たる事をば、皆如此云り、古事記中卷輕島(ノ)宮(ノ)段(ノ)大御歌に許波多能美知邇阿波志斯袁登賣《コハタノミチニアハシシヲトメ》、下卷若櫻(ノ)宮(ノ)段(ノ)大御歌に、於富佐迦邇阿布夜袁登賣《オホサカニアフヤヲトメ》、これらの遇も、袁登賣《ヲトメ》の方より遇にて同じと云り、つれづれ草に、高野證空上人京へのぼりけるに、ほそ道にて、馬に乘たる女の、ゆきあひたりけるが云々、とあるも同じ、○相日《アヒシヒニ》は道の行合などにて、見たる日になり、○歌(ノ)意は、幽かにだにも其(ノ)容(チ)を見ざらましかば、今かく死《ミマカ》れるを聞て其(ノ)面影の思(ヒ)出られて、忘れられず悲しくはあらじ、と思ふにも、そのかみ道の行あひにて、幽かに見てありしことさへ、今更悔しく思はるゝとなり、右の長歌短歌を思ふに、此(ノ)朝臣の、采女に親く交りたる事はあらぬを、その女よにすぐれたる美人にて、名ありしなる(49)べし、故その死を聞きて、こよなく惜みあはれみたる情、今も此歌等を誦たびにふかく悲し、
 
讃岐國〔○で囲む〕狹岑島《サヌキノクニサミネノシマニテ》視《ミテ》2石中死人《イソヘノシニヒトヲ》1。柿本朝臣人麿作歌一首并短歌《カキノモトノアソミヒトマロガヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
國(ノ)字は、例に依て補つ、○狹岑(ノ)島は、那珂(ノ)郡にあり、サミネ〔三字右○〕と訓べし、拾遺集二十に、讃岐のさみね一島にして、石屋《イハヤ》の中にて、なくなりたる人を見てとあり、(岡部氏(ノ)考に、狹岑は、反歌に、佐美乃山《サミノヤマ》とあるによりて、サミ〔二字右○〕とよむべしといへり、此(ノ)説ひがことなり、岑をミネ〔二字右○〕と訓は御岑《ミネ》の意なれば、御《ミ》を略きて、ネ〔右○〕とのみ云は常のことなり、ネ〔右○〕を略きて、ミ〔右○〕とのみ云べき理なし、反歌に佐美乃山《サミノヤマ》とあるは字の誤なるべし、猶下にいふべし、)○石中は、磯際などをいふべし、
 
220 玉藻吉《タマモヨシ》。讃岐國者《サヌキノクニハ》。國柄加《クニカラカ》。雖見不飽《ミレドモアカヌ》。神柄加《カミカラカ》。幾許貴寸《コヽダタフトキ》。天地《アメツチ》。日月與共《ヒツキトトモニ》。滿將行《タリユカム》。神乃御面跡《カミノミオモト》。云〔○で囲む〕次來《イヒツゲル》。中乃水門從《ナカノミナトユ》。船浮而《フネウケテ》。吾榜來者《アガコギクレバ》。時風《トキツカゼ》。雲居爾吹爾《クモヰニフクニ》。奧見者《オキミレバ》。跡位浪立《シキナミタチ》。邊見者《ヘミレバ》。白浪散動《シラナミサワグ》。鯨魚取《イサナトリ》。海乎恐《ウミヲカシコミ》。行船乃《ユクフネノ》。梶引柝而《カヂヒキヲリテ》。彼此之《ヲチコチノ》。島者雖多《シマハオホケド》。名細之《ナグハシ》。狹岑之島乃《サミネノシマノ》。荒礒面爾《アリソミニ》。廬作而見者《イホリテミレバ》。浪音乃《ナミノトノ》。茂濱邊乎《シゲキハマヘヲ》。敷妙乃《シキタヘノ》。枕爾爲而《マクラニナシテ》。荒床《アラトコニ》。自伏君之《コロフスキミガ》。家知者《イヘシラバ》。往而毛將告《ユキテモツゲム》。妻知者《ツマシラバ》。來毛問益乎《キモトハマシヲ》。玉桙之《タマホコノ》。道太爾不知《ミチダニシラス》。欝悒久《オホヽシク》。待加戀良武《マチカコフラム》。愛伎妻等者《ハシキツマラハ》。
 
玉藻吉《タマモヨシ》は、讃岐《サヌキ》の枕詞なり、これに二(ノ)説あるべし、まづ一(ツ)には、玉藻《タマモ》は例《レイ》の如く、藻を美《ホメ》て稱へるにて、吉《ヨシ》は(借(リ)字)麻裳余志《アサモヨシ》、眞菅余志《マスゲヨシ》など云、余志《ヨシ》にて、助辭なり、(吉(ノ)字の意とする説は、論に足(50)ず、)さて讃岐につゞくは、沈着《シヅキ》といふ意なるべし、藻類は水底に沈着《シヅキ》て生るものなればなり、さて佐《サ》と志《シ》は、音親(ク)通へり、又|奴《ヌ》と豆《ヅ》は、韻通ふうへに、垂仁天皇(ノ)紀に赤裸之伴《アカハダカトモ》といふ劍(ノ)名を、舊事紀に赤花と見え、又|金作《カナシ》を加太之《カタシ》ともいふ例を思(ヒ)合せて、奈(ノ)行と多(ノ)行の濁音とは、親(ク)通ふ例なるをも思ふべし、故(レ)讃岐を沈着《シヅキ》に通はして、つゞけしならむとは思はるゝなり、且《マタ》崇神天皇(ノ)紀に、六十年、丹波(ノ)氷上(ノ)人|水香戸邊《ヒカヾトベ》が小兒の神託《カムカヽリ》の辭に、玉※[草がんむり/妾]鎭石出雲人祭《タマモシヅカシイヅモヒトマツレ》云々とあるも、玉※[草がんむり/妾]沈着《タマモシヅカ》してふ意なれば、玉藻《タマモ》よ沈着《シヅキ》、とつゞくべきことなり、二(ツ)には、玉藻は上の如くて、これも吉は借(リ)字にて、所歸《ヨシ》なるべし、さてしからば余須《ヨス》とこそいふべきに、余斯《ヨシ》としも云るは、歌ひ絶(ル)枕詞の一(ツ)の格にて、鯨魚等利《イサナトリ》海《ウミ》、青丹余斯《アヲニヨシ》奈良《ナラ》など云る類なり、さて玉藻は、古(ヘ)讃岐(ノ)國の名産にぞありけむ、かれ玉藻所歸《タマモヨス》讃岐《サヌキ》とは云るなるべし、其|所由《ユヱ》は、三教指歸に彼(ノ)國のことを、然(ニ)頃日(ノ)間、刹那幻住2於南閻浮提陽谷輪王所化之下、玉藻所歸之嶋《タマモヨスルシマ》、※[木+豫]樟蔽日之浦《クスノヒカクスウラニ》1、(覺明が註に、今の歌をひけり、)延喜式に、讃岐(ノ)國中男作物云々、海藻などあるを思(ヒ)合すべし、右の二説の円いつれよけむ、人えらびとりてよ、(又余(レ)さきにおもひしは、藻吉は共に借(リ)字にて、毛與《モヨ》は籠毛與《コモヨ》、布久思毛與《フクシモヨ》の毛與《モヨ》と同言、志《シ》は、縱惠夜斯《ヨシヱヤシ》、愛伎余斯《ハシキヨシ》などの斯《シ》にて、共に皆助辭なり、さて讃岐にかゝれるは、玉を刺貫《サシヌキ》といふ意なり、刺《サシ》を佐《サ》とのみ云るは、五卷に、遠等※[口+羊]良何佐那周伊多斗《ヲトメラガサナスイタト》とあるも、令《ス》2閇鳴《サシナラ》1板戸なり、十七に、左奈良弊流多可波奈家牟等《サナラベルタカハナケムト》とあるも、指并《サシナラベ》(51)る鷹は無むの意ときこえたればなり、されどなほ上の二説の内ぞよかるべき、冠辭考の説はあたらず、)○讃岐國者《サヌキノクニハ》、上に出つ、岐の言清て唱べし、(本居氏の濁りて唱へしは、ひがことなり、凡て濁る字を書たること、古書どもに例なし、)○國柄加《クニカラカ》、神柄加《カミカラカ》は、國故歟《クニユヱカ》、神故歟《カミユヱカ》と云が如し、可良《カラ》は清て唱(フ)べし、なほ此詞集中に甚多けれども、皆其意なり、(岡部氏(ノ)考に、柄《カラ》は、隨《ナガラ》のなを省きたる言にして、上に出せる神隨《カムナガラ》のながらに同じくて、國のよろしきまゝか、國つ神の御心より、かくよろしきかと云なり、と云るはあたらず、但し後(ノ)世、人がら、身がら、世がら、日がら、事がら、家がら、手がら、所がらなど、我良《ガラ》と濁りて唱へたるは、隨《ナガラ》の略と意得たるか、又幹(ノ)字の意にて、いふことゝ意得たるにも有べし、されどこれらも、本は今の故《カラ》の意なるより、轉(リ)來れるなるべし、言語に云るは、みな故《カラ》の意なり、後言を以て、古(ヘ)の證とはすべきにあらず、折から、宿からなど云ときは、今も可良《カラ》を清て唱へ、且これらは、たゞに故《カラ》の意として通《キコ》えたり、)すべて柄と故と、同意に通(シ)云たること甚多し、七卷に、手取之柄二忘跡磯人之曰師戀忘貝言二師有來《テニトリシカラニワスルトアマガイヒシコヒワスレガヒコトニシアリケリ》とあるも、手に取し故にといふ意なり、さて加《カ》の疑辭は、上なるは不飽《アカヌ》にて結《トヂ》め、下なるは貴寸《タフトキ》にて結めたり、かくて國柄加《クニガラカ》は、勝れたる國ゆへにかと、いふ意、神柄加《カミガラカ》は、すぐれたる神故にかといふ意にて、神とは即(チ)國をいへるなり、(國に鎭(リ)座(ス)神をいふにはあらず、)この國土は、すべてそのもと神の生ませるによりて、山川國土を即(チ)神と云ること多し、故事を熟(ク)知ぬ(52)人は、疑ひ思ふことあるべし、○幾許貴寸《コヽダタフトキ》は、そこばく貴きと云むが如し、五(ノ)卷に、伊母我陛邇由岐可母不流登彌流麻提爾許々陀母麻我不烏梅能波奈可毛《イモガヘニユキカモフルトミルマテニコヽダモマガフウメノハナカモ》、十四に、奈仁曾許能兒乃己許太可奈之伎《ナニソコノコノココダカナシキ》などあり、○滿將行《タリユカム》は、漸々に滿足ひゆかむ、神の御面ぞ、と未來をかけて云るなり、神代紀に、面足尊あり、○神乃御面跡《カミノミオモト》は、古事記に、伊邪那岐(ノ)命、云々、生2伊豫之二名(ノ)島(ヲ)1、此島者、身一(ツニシテ)而有2面四1、毎(ニ)v面有v名、故(レ)伊豫(ノ)國(ヲ)、謂2云々(ト)1、讃岐(ノ)國(ヲ)、謂2飯依比古《イヒヨリヒコト》1、粟(ノ)國(ヲ)謂2云々(ト)1、土佐(ノ)國(ヲ)謂2云々(ト)1とて、伊豫讃岐阿波土佐の四國に名あり、今はその故事をいへるにて、次第《ヤウ/\》に足ひゆかむ神の御面と即(チ)國を神とは云るなり、本居氏云、昔はかくかりそめにも、古(ヘ)の傳言を物しけるに、後(ノ)世は只漢意をのみ思ひて、古(ヘ)の雅をわすれたるこそあさましけれ、○云次來は、云(ノ)字、舊本になし、こは必(ス)あるべき字なれば補入つイヒツゲル〔五字右○〕と訓べし、(契冲が、つぎて來る中のみなとにとは、上中下とも、始中終ともいふ時、上より中につぎ、始より中に次ゆゑに、中といはむとて、つぎて來るといふかといへるはこちたし、)こは云々《カク/\》言繼る其(ノ)國の那珂(ノ)湊、とつゞけて意得るなり、十八家持(ノ)卿賀2陸奧(ノ)國(ヨリ)出(セル)v金(ヲ)詔軍(ヲ)1歌に、大君爾麻都呂布物能等伊比都雅流許等能都可佐官《オホキミニマツロフモノトイヒツゲルコトノツカサソ》とあるを、思(ヒ)合(ス)べし、○中乃水門從《ナカノミナトユ》は、彼(ノ)國に那珂(ノ)郡あり、そこの水門なり、從《ユ》は爾《ニ》といはむが如し、既く云り、○時風《トキツカゼ》は、潮の滿來る時に發《タツ》風なり、六(ノ)卷に、時風應吹成奴香椎滷《トキツカゼフクベクナリヌカシヒガタ》、潮干※[さんずい+内]爾玉藻苅而名《シホヒノウラニタマモカリテナ》、七(ノ)卷に、時風吹麻久不知阿胡乃海之朝明之鹽爾玉藻刈奈《トキツカゼフカマクシラニアゴノウミノアサケノシホニタマモカリテナ》などあり、○跡(53)位浪立《シキナミタチ》は、重浪發《シキナミタチ》なり、字鏡に、※[さんずい+邑]※[さんずい+沓](ハ)波浪相重之貌、志支奈美《シキナミ》とあり、岡部氏(ノ)考に、跡位は、敷座てふ意の字なるを、重浪《シキナミ》の重《シキ》に借(リ)て書りと云り、十三に、跡座浪之立塞道麻《シキナミノタチサフミチヲ》とも見ゆ、○邊見者は、ヘミレバ〔四字右○〕とよむべし、又ヘタミレバ〔五字右○〕とも訓べし、十二に淡海之海邊多波人知《アフミノミヘタハヒトシル》、古今集に、おほかたは吾(カ)名もみなと榜出なむよを海邊多《ウミヘタ》にみるめすくなし、後撰集になにせむにへたのみるめを思ひけむおきつ玉藻をかづく身にして、などあればなり、○海乎恐《ウミヲカシコミ》は、海波の荒きが恐ろしき故にの意なり、○梶引折而《カヂヒキヲリテ》は、古(ヘ)梶といひしは、今の櫓の事なり、上に云り、引折は、横に引たをめて舟をやるさまの、折やうに見ゆるを云るなり、十七に、由布思保爾可治比伎乎里安等母比弖許藝由久伎美波《ユフシホニカヂヒキヲリアドモヒテコギユクキミハ》、とも見えたり、○島者雖多《シマハオホケド》は、島は多けれどもといふ意なり、○名細之《ナグハシ》は、めでたしといふ名の聞えし事をいへり、既く一(ノ)卷に出、○荒磯回爾(回(ノ)字、舊本面に誤今改、)は、アリソミニ〔五字右○〕と訓べし、(略解に、ありそわにと調たるは、いみじきひがことなり、)これも既く一(ノ)卷に委(ク)いへり、○廬作而見者《イホリテミレバ》は、廬作り宿りて、四方を見やればといふ意なり、さて廬を作爲《ツク》るをも、又即(チ)その廬に宿るをも、古(ヘ)は直に用言、にイホリ、イホル〔六字右○〕と云り、ここは廬を作るよしを云るにて、やがてそれに宿る意はおのづからこもれり、(岡部氏(ノ)考に、廬入而《イホリシテ》を略きいへるなり、といへるはひがことなり、十(ノ)卷に、秋田刈借廬作五百入爲而《アキタカリカリホツクラシイホラシテ》とあるは、直に宿るをイホラス〔四字右○〕といへり、イホラス〔四字右○〕は、イホル〔三字右○〕の伸りたるなり、)○荒床《アラトコ》は、荒き海邊を(54)寢床になしたるなり、荒礒を寢床として臥たるさま、まことにかなしくあはれなり、○自伏君之《コロフスキミガ》は、轉《マロ》び臥(ス)君がといふにて、轉《コロ》は臥さまをいふ言なり、こゝはおのづからころびふす意を以て、自伏と書たるなり、既く出、○道太爾不知《ミチダニシラズ》は、家の妻等が、尋來む道さへ知ずといふなり、還りのほどの遲きは、いかゞしたる事にか、と心つかふめれど、その尋來む道を知ぬよしなり、○欝悒久《オホヽシク》は、おぼつかなくいぶかしくといふ意なり、○待加戀良武《マチカコフラム》は、待て戀しく思ふらむかの意なり、加《カ》は、良武《ラム》の下にうつして意得べし、○愛伎妻等者《ハシキツマラハ》は、愛《ウルハ》しき妻どもはといふなり、愛伎《ハシキ》のことは既く云り、二十家持卿(ノ)長歌の尾に、麻知可母戀牟波之伎都麻艮波《マチカモコヒムハシキツマラハ》とあるは、今の歌をまなびたりと見ゆ、○歌(ノ)意は、浪の荒き海邊を寢床になして、死たる君がありさまを、早く行て告たくはおもへども、何の郷何の家の人といふことを知(ラ)ず、家の妻どもゝかゝる事を知(ラ)ば、速に尋來べきものを、さりとも、かゝるありさまになれることをば、露知ずして、今日かかへりこむ、明日か還り來む、還りのほどのいたう遲きは、いかゞしたる事かあるらむ、とおぼつかなくいぶかしく思ひて、立て待つゝ待遠におもふらむを、その尋て迎に來む道をさへ知ざるなるぺし、さてもあはれなる、世のありさまにて有けるよとなり、
 
反歌二首《カヘシウタフタツ》。
 
221 妻毛有者《ツマモアラバ》。採而多宜麻之《ツミテタゲマシ》。佐美乃山《サミネヤマ》。野上乃宇波疑《ヌノヘノウハギ》。過去計良受也《スギニケラズヤ》。
 
(55) 採而多宜麻之は、ツミテタゲマシ〔七字右○〕と訓べし、採《ツミ》は摘採《ツミトル》なり、多宜《タゲ》は、皇極天皇(ノ)紀(ノ)童謠に、伊波能杯※[人偏+爾]古佐婁許梅野倶渠梅多爾母多礙底騰〓雁栖歌麻之々能烏※[貝+貳]《イハノヘニコサルコメヤクコメタニモタゲテトホラセカマシヽノヲヂ》、(第四(ノ)句太子傳暦に、喫而今核《タゲテイマサネ》と作り、其意を得たり、)雄略天皇(ノ)紀に、十四年四月、天皇欲v設(ト)2呉人(ヲ)1、歴2問群臣(ヲ)1曰、其共食者誰好乎《ソノアヒタゲヒトタレカモヨケム》とあり、共食をアヒタゲ〔四字右○〕とよめる、食(ノ)字の意にて、食ふことなり、上宮聖徳法王帝説に、太子の嫡室膳(ノ)夫人の卒《ミマカラ》れたる時、太子の作賜へる御歌に、伊我留我乃止美能井乃美豆伊加奈久爾多義?麻之母之止美乃井能美豆《イカルガノトミノヰノミヅイカナクニタゲテマシモノトミノヰノミヅ》とあり、(義は、ゲ〔右○〕の假字に用たるなり、)常陸(ノ)國風土記(ノ)歌に、安良佐賀乃賀味能彌佐氣畢多義止《アラサカノカミノミサケヲタゲト》云々、これらみな同じ(顯昭説に、田舍人の物をくれと云には、多宜《タゲ》といふよしいへり、岡部氏(ノ)考に、多宜《タゲ》は給《タベ》なりといへるは、大誤《イミジキヒガコト》なり、)○左美乃山は、乃(ノ)字は、尼か年などの草書を誤れるなるべし、サミネヤマ〔五字右○〕と訓べし、○野上乃宇波疑《ヌノヘノウハギ》は、野上《ヌノヘ》は、野のあたりをいふ、上は、高野原之上《タカヌハラノウヘ》、藤原我上《フヂハウガウヘ》など云|上《ウヘ》に同じ、宇波疑《ウハギ》は草(ノ)名、品物解に云り、春の摘菜にして食ふ物なり、十(ノ)卷に、春日野爾煙立所見※[女+感]嬬等四春野之菟芽子採而※[者/火]良思文《カスガノニケブリタツミユヲトメラシハルヌノウハギツミテニラシモ》とあり、○過去計良受也《スギニケラズヤ》は、時過たるにあらずや、過にけりといふ意なり、○歌(ノ)意はこの人近きあたりに妻もあらば、この狹峯山の野上のうはぎを、採《ツミ》て食《タゲ》ましものを、今此(ノ)菟茅子をみれば、はやくつむべき時節の過たるにあらずや、かく時過たるにて思へば、いかさまにも、此(ノ)人の家は遠くして、妻も近きあたりになければ、來も問(ハ)ぬことにこそ、と云意なる(56)べし、(○略解に、採而多宜麻之を、トリテタゲマシ〔七字右○〕とよみ、さてとりは、死骸をとりあぐることなり、たげは、髪たくなどのたくと同言なり、此(ノ)死骸をうはぎにたとへて、うはぎの時過るまで、つみとる人もなきにたとへたるならむ、と云るは、いみじきひがことなり、)
 
222 奧波《オキツナミ》。來依荒礒乎《キヨルアリソヲ》。色妙乃《シキタヘノ》。枕等卷而《マクラトマキテ》。奈世流君香聞《ナセルキミカモ》。
 
色妙乃《シキタヘノ》は、枕のまくら詞なり、上に出づ、○枕等卷而《マクラトマキテ》は、枕と化(シ)て纏《マキ》てといふなり、等《ト》は、としての意の等《ト》にて、其ならぬものを、其にするを云、なほ一(ノ)卷(ノ)初(ノ)大御歌に委辨り、○奈世流君香聞《ナセルキミカモ》は、寢賜へる君哉といふなり、抑々|奈須《ナス》は、寢《ヌ》の伸りたる言にて、採《ツム》を都麻須《ツマス》、咲《ヱム》を惠麻須《ヱマス》、踏《フム》を布麻須《フマス》、立《タツ》を多々須《タヽス》、待《マツ》を麻多須《マタス》、持《モツ》を母多須《モタス》、作《ツクル》を都久良須《ツクラス》、取《トル》を等良須《トラス》、釣《ツル》を都良須《ツラス》、振《フル》を布良須《フラス》、忘《ワスル》を和須良須《ワスラス》、守《モル》を母良須《モラス》、刈《カル》を可良須《カラス》、嘆《ナゲク》を奈宜可須《ナゲカス》、置《オク》を於可須《オカス》、聞《キク》を伎可須《キカス》、通《カヨフ》を可與波須《カヨハス》、逢《アフ》を阿波須《アハス》、帶《オブ》を於婆須《オバス》など伸云と、全同例なり、さてかく伸云は、敬ひたる言にて、奈須《ナス》は寢賜《ネタマ》ふ、都麻須《ツマス》は採賜《ツミタマ》ふと云意なるに、餘は准へて知べし、されば奈之《ナシ》と云は寢賜ひ、都麻之《ツマシ》と云は採賜ひ、奈世《ナセ》と云は寢賜へ、都麻世《ツマセ》と云は採賜へ、奈世流《ナセル》と云は寢賜へる、都麻世流《ツマセル》と云は採賜へる、と云意になる類は、各々その活用《ハタラ》くさまに從《ヨリ》て、差別あることなれど、その伸云て、敬ひたる言となるは、皆一意なり、(しかるを、都麻須《ツマス》、多々須《タヽス》など云は、採賜ふ、立賜ふと云意に、敬ひていふ言なるよしは、古書よむ人は、おほかた意得ためれど、奈須《ナス》奈世流《ナセル》など云は、寢賜(57)ふ寢賜へると云意に、敬ひて云たる言なるをさまでわきだめたる人なしと見えて、今まで古書を註釋せる人の、敬ひたる言のよし、ことわれることをきかず、其(ノ)中本居氏(ノ)説に、那佐牟《ナサム》は將v寢なり、寢てふ言は、那奴泥《ナヌネ》と活くを、その奴泥《ヌネ》は、常に云故によく通ゆれども、那《ナ》は後(ノ)世には耳遠きから、那須《ナス》那佐牟《ナサム》などいへば、意得にくきが如くなり、と古事記傳にしるせり、この説のごとく、那須《ナス》那佐牟《ナサム》など云|那《ナ》は、寢《ヌ》の通へる言なり、とまではさとりたれど、そをたゞ那奴泥《ナヌネ》と活く言なりとのみ云て、敬ひて伸云ことを、ことわらざりしは、その敬ひたる意あることまで、深く考へ至らざりしがゆゑなり、又埃嚢抄に、人をねさするを、下臈はしなすといふ、宿をよめり古歌、ほとゝぎす夜啼をしつゝ我せなをやすくしなすなゆめ心あれ、みちのくのとふのすがこもなゝふには君をしなしてみふに我ねむ、と見えたり、後(ノ)人、君をねさしてとよめるは、非るべしとあり、これは安くし、君をし、などいふしは助辭にて、安くしなすなは、安く寢賜はすな、君をしなしては、君を寢《ナ》してにて、寢賜《ネタマ》はしての意なるを、あしく意得て、此(ノ)説をなせるものなるべし、混ふべからず、)されば此の奈世流《ナセル》は、寢賜へるといふ意なり、古事記沼河日賣(ノ)歌に、毛々那賀爾伊波那佐牟遠《モヽナガニイハナサムヲ》云々、(那佐牟《ナサム》は、寢《ネ》賜はむなり、)須世理毘賣(ノ)命(ノ)御歌に、伊遠斯那世《イヲシナセ》、(那世《ナセ》は、寢賜へなり、)集中五(ノ)卷に、夜周伊斯奈佐奴《ヤスイシナサヌ》、(奈佐奴《ナサヌ》は、寢賜はさぬなり、十一に、寐者不眠友《イハナサズトモ》、(不眠《ナサズ》は、寐《ネ》賜はずなり、)十四に、伊利伎弖奈佐禰《イリキテナサネ》、(奈佐禰《ナサネ》は、寢《ネ》賜はねなり、)(58)十七に、吾乎麻都等奈須良牟妹乎《アヲマツトナスラムイモヲ》、(奈須良牟《ナスラム》は、寢賜ふらむなり、十九に、安寢不令宿君乎奈夜麻勢《ヤスイシナサズキミヲナヤマセ》、また安寢勿令寢《アスイシナスナ》などあり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
柿本朝臣人麿《カキノモトノアソミヒトマロガ》。在《アリテ》2石見國《イハミノクニニ》1臨《スル》v死《ミマカラムト》時《トキ》。自傷作歌一首《カナシミヨメルウタヒトツ》。
 
臨死、喪葬令に、凡百官身亡(セ)者、親王、及三位以上(ハ)、稱(セ)v薨(ト)、五位以上、及皇親(ハ)稱(セ)v卒(ト)、六位以下、達(ルマテ)2於庶人1稱(セ)v死(ト)とあり、
 
223 鴨山之《カモヤマノ》。磐根之卷有《イハネシマケル》。吾乎鴨《アレヲカモ》。不知等妹之《シラニトイモシ》。待乍將有《マチツヽアラム》。
 
鴨山《カモヤマ》は、石見國美濃(ノ)郡高津浦の沖にありて、今は鴨島と呼《イヒ》て、そこに人丸大明神の社鎭座ありて、木像を安置《イマセ》たり、古代のものなりと國人云り、○吾乎鴨《アレヲカモ》云々は、吾を不v知とつゞく意なり、鴨《カモ》とは可《カ》は疑(ノ)辭、母《モ》は歎息(ノ)辭なり、此辭、將有《アラム》の下にうつして意得へし、○不知等妹之《シラニトイモガ》は、不v知に妹がといふ意なり、凡そ不知《シラニ》といふ言の下にある等《ト》は、みな助辭にて、語(ノ)勢を助けたるのみにて、意には關からねば、捨て聞べし、四(ノ)卷に、爲便乎不知跡立而爪衝《スベヲシラニトタチテツマヅク》、古事記祭神天皇(ノ)條(ノ)歌に、伊由岐多賀比宇迦々波久斯良爾等美麻紀伊理毘古波夜《イユキタガヒウカヽハクシラニトミマキイリビコハヤ》、(此(ノ)歌を、書紀に載たるには等(ノ)字なし、これあるも無も、意は同じきを知べし、)妹は京に留れる嫡妻をいふべし、○歌(ノ)意かくれたるところなし、(此歌を拾遺集に、いも山のいはねにおける我をかもしらずて妹が待つつあらむ、と載たるはいかにぞや、
 
(59)柿本朝臣人麻呂死時《カキノモトノアソミヒトマロガミマカレルトキ》。妻依羅娘子作歌二首《メヨサミノイラツメガヨメルウタフタツ》。
 
依羅(ノ)娘子は既《サキ》に出づ、これは人麻呂の嫡妻なるべし、
 
224 且今日且今日《ケフケフト》。吾待君者《アガマツキミハ》。石水《イシカハノ》。貝爾交而《カヒニマジリテ》。有登不言八方《アリトイハズヤモ》。
 
且今日且今日《ケフケフト》は今日《ケフ》や今日《ケフ》やと毎v日に待(ツ)意なり、十六に、今日今日跡飛鳥爾到《ケフケフトフスカニイタリ》ともあり、(契冲云、且今日とかける且は、苟且の義にて、かりそめなれば、たしかならぬこゝろなり、按(フ)に、且は不定辭也と註せり、たしかに其(ノ)日と定めず、今日か今日かとおもふよしにて、書る字なるべし、)○石水《イシカハ》は、石見(ノ)國美濃(ノ)郡高津にありて、即(チ)高津の川と呼《ヨフ》よし國人云り、水(ノ)字カハ〔二字右○〕とよむは、三卷に、水可良思清有師《カハカラシサヤケクアラシ》、七(ノ)卷に、此水之湍爾《コノカハノセニ》、書紀神武天皇(ノ)卷(ニ)云、縁《ソヒテ》v水《カハニ》西(ニ)行、雄略天皇(ノ)卷(ニ)云、於是日晩田罷(ミ)、神(一事主(ノ)神也、)侍2送天皇(ヲ)1、至2來目水《クメカハマデニ》1などあり、三代實録五(ノ)卷に、賀茂齋内親王、臨2鴨水《カモガハニ》1修v禊(ヲ)とも見ゆ、○貝爾交而《カヒニマジリテ》、舊本一(ニ)云谷爾と註せり、こはわろし、○有登不言八方《アリトイハズヤモ》は、嗚呼《アハレ》有(リ)と人の言ずやは、といふ意なり、言《イフ》は、使人の言などに云たるよしなり、やは、後(ノ)世の也波《ヤハ》の意、母《モ》は嘆息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、今日やかへり來む今日や還り來む、と吾待居るその夫(ノ)君は身まかりて、今は石川の貝の中に交りてあり、と嗚呼人のいひたるにあらずやはとなり、(仙覺註に、源氏(ノ)蜻蛉を引て、水の音の聞ゆる限は、心のみさわぎ給ひて、からをだに尋ず、あさましくてもやみぬる哉、いかなるさまにて、いづれの底のうつせにまじりにけむなど、やるかたな(60)くおぼす、)
 
225 直相者《タヾニアハバ》。相不勝《アヒモカネテム》。石川爾《イシカハニ》。雲立渡禮《クモタチワタレ》。見乍將偲《ミツヽシヌハム》。
 
直相者《タヽニアハバ》は、(略解に四(ノ)卷に、いめのあひはとあるによりて、こゝもタヾノアヒハ〔六字右○〕と訓べし、といへるは誤なり、こゝは四(ノ)卷のとは、つゞけざまかはれるをや、)直目《タヾメ》にあひ見む事はといふなり、上に目爾者雖視直爾不相香裳《メニハミレドモタヾニアハヌカモ》、とある直《タヾ》に同じ、○歌(ノ)意は、直目にあひ見む事を欲《ネガ》ふとも、今は直にあふ事は得有まじきなれば石川に雲立わたれよ、せめてそれをだに、形見に見つつ慕はむとなり、これは死を聞て、石見國に下りて作るにや、
 
丹比眞人《タヂヒノマヒトガ》擬《ナソラヘテ》2柿本朝臣人麿之意《カキノモトノアソミヒトマロガコヽロニ》1報歌《コタフルウタ》。
 
丹比(ノ)眞人は、八(ノ)卷九(ノ)卷にも、此處の如く氏姓のみ出たり、同人なるべきか、此(ノ)人の傳たしかには知(ラ)れねど、四(ノ)卷に、太宰大貳丹比(ノ)縣守(ノ)卿遷2任民部(ノ)卿(ニ)1、とある此(ノ)人にや、縣守は續紀に、慶雲二年十二月癸酉、從六位上多治比(ノ)眞人縣守(ニ)、授2從五位下(ヲ)1、和銅四年四月壬午、從五位上、靈龜元年正月癸巳、從四位下、五月壬寅、爲2造宮(ノ)卿(ト)1、二年八月癸亥、爲2遣唐押使(ト)1、養老元年三月己酉賜2節刀(ヲ)1、二年十二月壬申、多治比(ノ)眞人縣守等自2唐國1至、甲戌進(ル)2節刀(ヲ)1、三年正月壬寅、正四位下、七月庚子、始置2按察使(ヲ)1、武藏國守正四位下多治比(ノ)眞人縣守、管2相模上野下野三國(ヲ)1、四年九月戊寅、以2播磨(ノ)按察使、正四位下多治比眞人縣守1、爲2持節征夷將軍(ト)1、五年正月壬子、正四位上、四月丙申、鎭v狄(ヲ)、乙(61)酉還歸、六月辛丑、爲2中務卿(ト)1、天平元年二月壬申、以2太宰大貳正四位上多治比(ノ)眞人縣守(ヲ)1云々、權(ニ)爲2參議(ト)1、三月甲午、從三位、三年八月丁亥、擢2民部卿從三位多治比(ノ)眞人縣守(ヲ)1云々、爲2參議(ト)1、十一月丁卯、爲2山陽道(ノ)鎭撫使(ト)1、四年正月甲子、爲2中納言(ト)1、六月丁亥、爲2山陰道(ノ)節度使(ト)1、六年正月己卯、正三位、九年六月丙寅、中納言正三《二本》位多治比(ノ)眞人縣守薨、左大臣正二位島之子也と見えたり、(又三(ノ)卷八(ノ)卷廿(ノ)卷に、丹比(ノ)眞人國人、六(ノ)卷八(ノ)卷に、丹比(ノ)屋主眞人、十九に、多治比(ノ)眞人土作、多治比(ノ)眞人鷹主、また屋主の子に、乙磨といふありて八(ノ)卷に出(ツ)、これらの人々かともいふべけれど、皆神龜天平以來世に出たる人にて、時代すこしおくれたれば、此(ノ)人々にはあらじ、)又三(ノ)卷、四(ノ)卷などに、丹比(ノ)眞人笠麻呂といふありて、三(ノ)卷に、春日藏首老と贈答たる歌あり、老は大寶年間の人にて、笠麻呂同時と見ゆれば、もしは此人にも有べし、笠麻呂の傳は紀中に見えず、詳なることは知がたし、さて丹比は、多治比といふが本なること、姓氏録を見て知べし、後に省きて、丹比、丹治、丹遲なども書り、されど皆タヂヒ〔三字右○〕と訓ことなり、(岡部氏(ノ)考に、タヂミ〔三字右○〕とよめるはひがことなり、)○眞人の下に、舊本名闕とあり、名の知(レ)たる人にも、氏姓のみ書したる例、集中に多ければ、もとより闕(ケ)たるには非じ、後人の書入なるべし、
 
226 荒浪爾《アラナミニ》。縁來玉乎《ヨセクルタマヲ》。枕爾置《マクラニオキ》。吾此間有跡《アレココニアリト》。誰將告《タレカツゲケム》。
 
枕爾置《マクラニオキ》は、頭《マクラ》邊に置よしなり、○誰將告、タレカツゲケム〔七字右○〕と訓るに依ば、誰有てか、吾(カ)此(ノ)處にて(62)死りたることを告行て、妻を歎き下らしめけむといふ意なり、さらば丹比氏が、人麻呂の意に擬て、娘子が直相者《タヾニアハバ》と云るに、こたへたる謂なり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
或本歌曰《アルマキノウタニイハク》。
 
こは妻依羅(ノ)娘子が意に擬て、よめりとみえたり、
 
227 天離《アマサガル》。夷之荒野爾《ヒナノアラヌニ》。君乎置而《キミヲオキテ》。念乍有者《オモヒツヽアレバ》。生刀毛無《イケルトモナシ》。
 
生刀毛無《イケルトモナシ》は、上に委(ク)云う、○歌(ノ)意は、間遠き夷の荒野に、夫(ノ)君を永く留置て、戀しく思ひつゝあれば、生る利心《トゴヽロ》もなしとなり、○舊本、この處に註(シテ)云、右一首歌作者未詳、但古本以此歌載於此次也、
 
寧樂宮御宇天皇代〔五字○で囲む〕《ナラノミヤニアメノシタシロシメシヽスメラミコトノミヨ》
 
寧樂(ノ)宮(ニ)御宇は、元明天皇より光仁天皇まで、凡七御代なること、既く一(ノ)卷に云たる如し、さてこの標中には、元明天皇和銅元年より、靈龜元年九月、御位を元正天皇に禅らせ給へるまでの歌を載しと見ゆ、元明天皇は、御諱天津御代豐國成姫(ノ)天皇なり、御傳は一(ノ)卷に云り、
 
和銅元年《ワドウハジメノトシ》歳次|戊申《ツチノエサル》〔六字○で囲む〕。但馬皇女薨後《タヂマノヒメミコノスギタマヘルノチ》。穗穗皇子冬日雪落《ホヅミノミコノユキノフルヒ》遙2望《ミサケテ》御墓《ミハカヲ》1。悲傷流涕御作歌一首《カナシミヨミマセルミウタヒトツ》。
 
和銅の二字、舊本次下の四年の上にあるは、亂たりと見ゆ、○元年云々の六字、舊本に无は脱(63)たるならむ、故(レ)姑(ク)補入つ、○但馬(ノ)皇女の御傳は、二(ノ)上に委(ク)云り、○薨は、元明天皇(ノ)紀に、和銅元年六月丙戌、三品但馬(ノ)内親王薨、天武天皇之皇女也とあり、○穗積(ノ)皇子の御傳は、二(ノ)上に委(ク)云り、○此(ノ)題詞より以下一首、舊本上の弓削(ノ)皇子薨時作歌の次上に收たるは亂たるなり、かの弓削(ノ)皇子の薨賜ひしより、九年後に、この皇女の薨賜へるをも思ふべし、但し和銅三年に、寧樂へ都を遷されたるに、この皇女元年に薨賜へれば、なほ藤原(ノ)宮に繋て云べき事ぞ、といふ説もあれど、然してもなほかの弓削(ノ)皇子を、かなしみ奉れる歌より前にあるべき謂なければ、みだれしことしるし、さて總標は、某(ノ)宮(ニ)御宇天皇(ノ)代と云を主としていふことなれば、元明天皇(ノ)代をば即位元年より、寧樂(ノ)宮の標内に繋べき理にこそあれ、
 
203 零雪者《フルユキハ》。安幡爾勿落《アハニナフリソ》。吉隱之《ヨナバリノ》。猪養乃岡之《ヰカヒノヲカノ》、塞爲卷爾《セキナサマクニ》。
 
安幡爾勿落《アハニナフリソ》は、深くふることなかれ、といふなるべし、本居氏、近江(ノ)淺井(ノ)郡の人云(ク)、其あたりにては、淺き雪をば雲と云、深く一丈もつもるゆきをばあはといふとなり、こゝによく叶へり、古今集の雲のあはだつも、雲の深く立意なるべしといへり、又越の國に、あはといふものありて、そは雪のさかりに降頃、高山の木にふりかゝりたる雪の、梢より落下るまゝ、雪まろばしなどする如く、やう/\大に成もてゆきて、麓に至るほどは、山のごとくになりてまろび下るを、此にあたれば大木もたふれ、折あしく通りかゝれば、人馬などもよくる間を待ずし(64)て、そこなはるゝこと多しとぞ、これも雪の深くふるを、安幡《アハ》といふより負る稱《ナ》なるべし、〔頭注、【近江彦根人の云るは、或農夫に、其が家の後の山林を伐り開くべくさとしけるに、農夫の云けるは、これなくては、あはのふせぎいかにともすべきやうなしといひければ、あはとは何の言ぞと云けるに、あはとは雪の積て崩るゝを云、されば、林をもて其を防がざれば、家をうちたふすなりと、答へけるよしいへりと、閑田耕筆に云り、】〕○吉隱《ヨナバリ》は、十(ノ)卷に、吉魚張浪柴乃野之《ヨナバリノナミシバノヌノ》、又|吉魚張之夏身之上爾《ヨナハリノナツミノウヘニ》、書紀に、持統天皇九年、幸2兎田(ノ)吉隱1、諸陵式に、吉隱(ノ)陵(皇太后妃氏、在2大和(ノ)國城上(ノ)郡(ニ)1)などあり、さて書紀と式とは、郡相違ふ如くなれども宇陀《ウダ》と城(ノ)上とは隣郡にて、吉隱は兩郡へ渉れる地なるべし、(今も泊瀬山こえて宇陀の方に、よなばり村といふありとぞ、泊瀬は城上(ノ)郡なり、)もとより宇陀(ノ)郡に屬たりしが、後に陵のある地は、城上(ノ)郡に屬るにもあるべし、○猪養乃岡《ヰカヒノヲカ》は、大和志に、在2城上(ノ)郡吉隱村(ノ)上方(ニ)1、山(ニ)多2楓樹1と見ゆ、八(ノ)卷に、吉名張乃猪養山爾《ヨナバリノヰカヒノヤマニ》とあり、○塞爲卷爾は、セキナサマクニ〔七字右○〕と訓べし、勢伎《セキ》は塞城《サヘキ》の約れるなるべし、麻久《マク》は牟《ム》の伸りたるにて、塞《セキ》を爲《ナサ》むことなるにの意なり、○御歌(ノ)意は、雪の深く降積らば、御墓地へ通ふ道を塞留て、行ことあたはずなりなむが、いとわびしければ、雪も心して、さばかり深くふることなかれとなり、一周の間は御親族《ミウガラ》など、御墓所へ行宿り賜ふことなれば、雪深くならば、往還ひ賜ふ道も絶なむことを、うれたみよみたまへるなり、
 
四年《ヨトセト云トシ》歳次|辛亥《カノトノヰ》。河邊宮人《カハベノミヤヒトガ》。姫島松原《ヒメシマノマツバラニテ》見《ミテ》2孃子屍《ヲトメノシニカバネ》1。悲歎作歌二首《カナシミヨメルウタフタツ》。
 
河邊(ノ)宮人は、傳詳ならず、○姫島(ノ)松原は、古事記に、仁徳天皇幸2行日女島(ニ)1、書紀安閑天皇(ノ)卷に、別(65)勅2大連1云、宜v放3牛(ヲ)於難波大隅島與2媛島(ノ)松原(ニ)1、冀垂2名(ヲ)於後(ニ)1、敏達天皇(ノ)卷に、乃遣2使於葦北1、悉召2日羅(カ)眷属(ヲ)1、賜2徳爾等(ニ)1、任v情決v罪、是時葦北(ノ)君等、受而皆殺、投2彌賣島(ニ)1、(彌賣島蓋姫島也、)續紀に、元正天皇靈龜二年二月己酉、令3攝津(ノ)國罷2大隅媛島二牧(ヲ)1、聽2百姓佃食(ヲ)1之、攝津(ノ)國風土記に、比賣島(ノ)松原者、昔輕島豐阿伎雁(ノ)宮(ニ)御宇天皇之世、新羅(ノ)國有2女神1、遁2去其夫(ニ)1、來2住筑紫(ノ)國伊岐比賣島(ニ)1、乃曰、此(ノ)島者猶不v遠(ラ)、若居(ハ)2此島(ニ)1男神尋來、乃遷(テ)來2停此(ノ)島(ニ)1、故取2本所v住之地(ノ)名(ヲ)1、以爲2島(ノ)名(ト)1、と見ゆ、
 
228 妹之名者《イモガナハ》。千代爾將流《チヨニナガレム》。姫島之《ヒメシマノ》。子松之末爾《コマツノウレニ》。蘿生萬代爾《コケムスマデニ》。
 
千代爾將流《チヨニナガレム》は、千代に傳はらむと云むが如し、○蘿生萬代爾《コケムスマデニ》は、蘿(ノ)字は書たれども、たゞよのつねの苔なり、(岡部氏(ノ)考に、曰蔭かづらのことゝせしは、ひがことなり、)生《ムス》は、生るを古言に牟須《ムス》と云ばなり、既く云り、老木の枝には、苔のむすものなれば、年久しきにたとへたるなり、三(ノ)卷に、鉾椙之本爾薛生左右二《ホコスギガモトニコケムスマデニ》、とよめるに同じ、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
229 難波方《ナニハガタ》。鹽干勿有曾禰《シホヒナアリソネ》。沈之《シヅミニシ》。妹之光儀乎《イモガスガタヲ》。見卷苦流思母《ミマククルシモ》。
 
見卷苦流思母《ミマククルシモ》は、見む事の苦しさよといふなり、見卷《ミマク》は、見牟《ミム》の伸りたるにて、見む事のといふ意になる、古言の例なり、母《モ》は歎(ノ)息辭なり、○歌(ノ)意は、潮の干る毎に、海底に沈みて、身まかれる女の屍のあらはれ出て、其すがたを見るに、中々に悲しく堪がたければ、いつも潮滿て干ことなかれとなり、
 
(66)靈龜元年《リヤウキハジメノトシ》歳次|乙卯秋九月《キノトノウナガツキ》。志貴親王薨時《シキノミコノスギマセルトキ》。作歌一首《ヨメルウタヒトツ》并短歌〔三字□で囲む〕。
 
志貴(ノ)親王は、天武天皇の皇子磯城(ノ)皇子なるべし、天武天皇(ノ)紀に、朱鳥元年八月癸未、芝基(ノ)皇子磯城(ノ)皇子各封加2二百戸(ヲ)1と見えたり、此(ノ)磯城(ノ)皇子の薨賜へる年月、紀文に見えず、記し漏せるか、又後に脱したるにもあるべきなれば、此集をもて證とすべきか、(一(ノ)卷に志貴(ノ)皇子とあるは、右に見えたる芝基(ノ)皇子にて、施基《シキ》志紀《シキ》志貴《シキ》なども書り、其は天智天皇の皇子にて、光仁天皇の大御父にましませり、さて集中にも、其(ノ)皇子を志貴《シキ》と書《シル》し、續紀にも志貴《シキノ》親王とも志紀《シキノ》親王とも書るを思へば、此《コヽ》なるも其(ノ)同じ皇子ならむとも思はるれども、彼(ノ)皇子は、靈龜二年八月甲寅に薨賜へるよし、續紀にも見えて、今とは年も月もたがへるを、然《サ》ばかりやごとなき皇子の薨を、おぼえたがひて、選者のしるすべくもあらざめれば、なほ磯城の皇子なるべし、)十三に、磯城島《シキシマ》をも、志貴島《シキシマ》とも書たるを思へば、磯城《シキノ》皇子をも、志貴と通(ハシ)書るにこそ、○并短歌三字は削去べし、なほ下にいふべし、
 
230 梓弓《アツサユミ》。手取持而《テニトリモチテ》。丈夫之《マスラヲガ》。得物矢手挿《サツヤダハサミ》。立向《タチムカフ》。高圓山爾《タカマトヤマニ》。春野燒《ハルヌヤク》。野火登見左右《ヌヒトミルマデ》。燎火乎《モユルヒヲ》。何如問者《イカニトトヘバ》。玉桙之《タマホコノ》。道來人乃《ミチクルヒトノ》。泣涙《ナクナミダ》。※[雨/沛]霖爾落者《ヒサメニフレバ》。白妙之《シロタヘノ》。衣※[泥/土]漬而《コロモヒヅチテ》。立留《タチトマリ》。吾爾語久《アレニカタラク》。何鴨《ナニシカモ》。本名言《モトナイヘル》。聞者《キケバ》。泣耳師所哭《ネノミシナカユ》。語者《カタレバ》。心曾痛《コヽロソイタキ》。天皇之《スメロキノ》。神之御子之《カミノミコノ》。御駕之《イデマシノ》。手火之光曾《タビノヒカリソ》。幾許照而有《コヽダテリタル》。
 
(67)得物矢手挿は、佐都夜陀波佐美《サツヤダハサミ》と(陀を濁|波《ハ》を清て)訓べし、既《サキ》に云り、○立向《タチムカフ》、これまでは、的といはむ料の序なり、一(ノ)卷に、大夫之得物矢手挿立向《マスラヲガサツヤダハサミタチムカヒ》、射流圓方波見爾清潔之《イルマトカタハミルニサヤケシ》とあり、○高圓山《タカマトヤマ》は、春日の内にありて名高し、六(ノ)卷八(ノ)卷十(ノ)卷などにも、多く見えたり、其中に或は高松《タカマト》、或は多可麻刀《タカマト》など書り、○春野燒《ハルヌヤク》は、上に冬木成春野燒火乃《フユコモリハルヌヤクヒノ》ともよめり、○野火《ヌヒ》は、野間の畑に、物の種を播《マキ》つけむ料に、冬枯し草を、春の頃燒拂ふを云べし、續後紀に、承和七年九月乙未、伊豆(ノ)國言云々去承和五年七月五日夜出火、上津島左右(ノ)海中燒炎、如2野火(ノ)1云々、○燎火乎《モユルヒヲ》は、下に云る葬送の人々の手火なり、○※[雨/沛]霖爾落者は ヒサメニフレバ〔七字右○〕なり、涙の甚く落るさまなり、抑々|比左米《ヒサメ》といふに二(ツ)あり、まづ一(ツ)には比左《ヒサ》は比多《ヒタ》に通ひて、(左《サ》と多《タ》と通ふは例多し、)比多雨《ヒタアメ》なり、即(チ)書紀垂仁天皇(ノ)卷に、大雨を、ヒサメ〔三字右○〕ともヒタメ〔三字右○〕ともよめり、さて比多《ヒタ》は、ひたる、ひたす、ひたすら、ひたもの、ひたむき、其餘|比多《ヒタ》某といふ比多《ヒタ》にて、をやみなく、ひたすらにふる雨の意にて、大雨なり、(武烈天皇(ノ)卷に、甚雨《ヒサメ》とあるも同じ、)こゝの※[雨/沛]霖は、即(チ)それなり、※[雨/沛](ハ)大雨也と註せるが如し、一(ツ)には氷雨《ヒサメ》なり、そは古事記中卷景行天皇(ノ)條に、於是零2大|氷雨《ヒサメ》1、下卷允恭天皇(ノ)條にもみゆ、書紀神武天皇(ノ)卷に、雨氷《ヒサメ》、孝徳天皇卷に、淫雨《ヒサメ》などある是なり、こは天武天皇(ノ)卷に、氷零|大(サ)如2桃子(ノ)1とあるものにて、即(チ)今(ノ)世に、へうといふものなり、(源氏物語赤石に、いとかく地《ヂ》のそことほるばかりの氷《ヒ》降《フリ》、いかつちのしづまらぬことは侍らざりき、とあるもこれなり、)かくて(68)和名抄に、文字集略(ニ)云、※[雨/沛](ハ)大雨也、日本紀私記(ニ)云、火兩和名|比左米《ヒサメ》、冰雨同v上(ニ)、今按(ニ)俗云2比布留《ヒフルト》1とあるは、大雨《ヒサメ》と氷雨《ヒサメ》と、混《ヒトツ》におもひ誤れるものなり、(又火雨とあるは、もとは大雨なりけむを、ヒサメ〔三字右○〕といふを意得誤てより、大は火(ノ》字なるべくおもひて、さかしらに改めつるなるべし、推古天皇天智天皇(ノ)紀などに、火雨とあり、これも同じ、こはともに彼(ノ)私記のころよりは、後に誤りつるものなるべし、さて古事記傳に、比左米《ヒサメ》とは、もと氷の降るを云て、其より轉りて、尋常の雨の甚く零るをも云りと見えて、飛鳥(ノ)宮(ノ)段なる氷雨は、歌には阿米《アメ》とよめりと云るは、なほもとより大雨の意なると、氷雨の意なるとの異《ワカチ》あることをわきまへざるひがことなり、詞の轉るも、ものにこそよれ、氷の降るを、たゞに雨の甚くふることに、轉しいふごときことは、いかであらむ、又飛鳥(ノ)宮(ノ)段に、氷雨を歌に阿米《アメ》とよめるは、阿米《アメ》は總名《オホナ》なれば、氷雨をも何雨をも、此(ノ)類のものは皆|阿光《アメ》といはむに、何ぞたがへることのあらむ、)○吾爾語久《アレニカタラク》は、吾に語るやうはといふ意なり、語久《カタラク》は、可多留《カタル》の伸りたるにて、語るやうはといふことになる、古語の例なり、此句までは、道來人の悲みかたるさまなり、さてこれより姑(ク)句を隔て、下の天皇之《スメロキノ》云々といふへつゞけて意得べし、○何鴨《ナニシカモ》此(ノ)句より以下六句は、自己のうへを悔て云るなり、何しに物の分別《ワキタメ》もなく問つるぞ、その由縁を聞ば、いよ/\悲しくて、哭にのみ泣るゝをとの意なり、○本名言《モトナイヘル》は、本名《モトナ》は、めたにといはむがごとし、(俗にめつたに、むちやになどいふ(69)言の本なるべし、)黒白の分別《ワキダメ》もなく、物するやうの意なり、言《イヘル》は、燎火を、いかなる火ぞと問へることなり、何しにめたに問たることぞといへるなり、云々《シカ/\》と由縁を語るをきかずば、かくは悲歎《カナシ》からじを、と云|裏意《シタゴヽロ》なり、十一に、不聞而黙然有益乎何如文公之正香乎人之告鶴《キカズシテモダモアラマシヲナニシカモキミガタヾカヲヒトノツゲツル》、とあるを思(ヒ)合(ス)べし、○聞者《キケバ》、三言一句なり、語るをきけばなり、○語者《カタレバ》、四言一句なり、由縁をかたればなり、○天皇之神之御子之《スメロキノカミノミコノ》は神は、天皇之《スメロキノ》といふへつけて意得べし、大王《オホキミ》は神《カミ》にしませばと云るごとく、やがて天皇之神《スメロキノカミ》と申せるなり、御子《ミコ》は即(チ)皇子なり、○御駕之は、イデマシノ〔五字右○〕と訓、皇子にも出座《イデマス》といふは古(ヘ)なり、御葬送の縁《ヨシ》を、あらはにそれとは申さずて、常の御駕《イデマシ》のやうにいひたるなり、○手火之光曾《タビノヒカリソ》は、御葬送の御供に、火をともしつれて、つかへまつるを云るなり、手に取持義にて手火《タビ》と云り、神代紀に、伊弉册尊(ノ)曰(ク)、吾夫君尊何來之晩也《ワガナセノミコトナソオソクイデマシツル》、吾已※[にすい+食]泉之竈《アハハヤクヨモツヘグヒシツ》矣、雖然吾當寢息《シカレトモアレネヤスマム》、請勿視之《ナミマシソ》、伊弉諾尊不v聽、陰(ニ)取(テ)2湯津爪櫛《ユツツマクシヲ》1、牽2折《ヒキカキテ》其|雄柱《ヲハシラヲ》1、以|爲《シテ》2秉炬《タビト》1而|見之《ミソナハセバ》者、則|膿沸蟲流《ウミワキウジタカル》云々、秉炬此云2多妣《タビト》1、これ手火《タビ》といふことの見えたるはじめなり、字鏡に、炬苣(ハ)太比《タビ》と見ゆ、さて葬送に火をともすことは、仲哀天皇(ノ)紀に、殯2于豐浦宮(ニ)1、爲2無火殯斂(ヲ)1、(無火殯斂此謂2褒那之阿餓利《ホナシアガリト》1、)これ尋常の殯葬には火をともす故、ことにかく云るなり、(門火《カドビ》といふものも、此(ノ)たぐひなるべし、和名抄に、周禮(ニ)云、喪設2阿燎(ヲ)1、俗(ニ)云2門火《カドヒト》1、)○幾許照而有《コヽダテリタル》は、そこばく照てあるといふなり、幾許《コヽダ》は此(ノ)上に出づ、天皇之《スメロキノ》といふよりこれまで、道來人のかたれる言なり、○歌(ノ)(70)意は、時秋にして、野をやく頃にもあらざるを、野火と見ゆるまで、そこぱく火のもゆるは、いかなるゆゑぞと問(ヘ)ば、道來る人の立留りつゝ、甚く落る涙をおさへて、吾に語りきかするやうは、あれは志貴(ノ)親王の御葬《ミハフリ》の秉炬《タビ》の光なりと告つるよ、あはれ何しに容易《タハヤス》く問つる事ぞ、其由縁を聞(ケ)ば、いよ/\悲しくて堪がたきを、なまなかに、そのゆゑを人にとはずありせば、たゞ何事にやと、いふかりおもはむのみにて、かゝる愁傷《ウレヒ》はなからましをとのよしなり、
 
志貴親王薨後悲傷作〔九字○で囲む〕《シキノミコノスギマセルノチカナシミヨメル》短〔□で囲む〕歌二首《ウタフタツ》。
 
舊本に、短歌二首とあるは意得ず、左の二首ともに、右の反歌にはあらじ、こは薨まして、間經《ホドヘ》て後によめりとみゆればなり、目録にも、右の長歌の反歌を書《シルサ》ざるは、もとより反歌はなき故なるべし、されば後人の歌(ノ)反をもよく知ず、みだりに反歌と意得て、書《シル》したるなるべし、
 
231 高圓之《タカマトノ》。野邊秋芽子《ヌヘノアキハギ》。徒《イタヅラニ》。開香將散《サキカチルラム》。見人無爾《ミルヒトナシニ》。
 
開香將散《サキカチルラム》は、開散《サキチル》らむかの意なり、開散はたゞ散ことなり、香《カ》の疑辭は、將散《チルラム》の下にうつして意得べし、○歌(ノ)意は、今は皇子の世に御在《オハシ》まさねば、芽子(ノ)花咲たりとて、見愛る人もなければ、その益《シルシ》なく無用《イタヅラ》に散果(ツ)らむかとなり、此(ノ)皇子の宮、こゝにありし故に、かくよめるなるべし、
 
232 御笠山《ミカサヤマ》。野邊往道者《ヌヘユクミチハ》。己伎太雲《コキタクモ》。繁荒有可《シゲクアレタルカ》。久爾有勿國《ヒサニアラナクニ》。
 
御笠山《ミカサヤマ》は、大和(ノ)國添上(ノ)郡春日にあり、○己伎太雲《コキダクモ》は、己許太久毛《ココダクモ》といふに同じ、こゝだ、こゝだ(71)く、こゝば、こゝばく、こきばく、こゝら、そこば、そこばく、そこら、みなもと通(フ)言なり、(其中(ノ)に己許《ココ》といひ、曾己《ソコ》と云るは、もと此《コレ》と彼《カレ》との差《タガヒ》あることなるべし、されど用《ツカ》へる意は大かた異ならず、)○繁荒有可《シゲクアレタルカ》は、甚《イタ》く荒《アレ》て有哉《アルカナ》の意なり、繁《シゲク》は荒たることの繁きにて、甚の意なり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
〔右歌。笠朝臣金村歌集出〕
右の長歌短歌ともに作者をしるさゞるは、皆金村歌集に出て、よみ人知(レ)ざる歌なるべし、しかれども今長歌短歌の詞氣を味へ考(フ)るに、句法あやしくたへにすぐれたるは、上手の歌と見えたり、金村(ノ)朝臣の自作にもあるべし、
或本歌曰。233 高圓之《タカマトノ》。野邊乃秋芽子《ヌヘノアキハギ》。勿散祢《ナチリソネ》。君之形見爾《キミガカタミニ》。見管思奴播武《ミツヽシヌハム》。 234 三笠山《ミカサヤマ》。野邊從遊久道《ヌヘユユクミチ》。己伎太久母《コキダクモ》。荒爾計類鴨《アレニケルカモ》。久爾有名國《ヒサニアラナクニ》。
野邊從遊久道《ヌヘユユクミチ》は、野邊を行路と云が如し、從《ユ》は乎《ヲ》の意なり、
 
萬葉集古義二卷之下 終
 
(72)萬葉集古義三卷之上
 
雜歌《クサ/”\ノウタ》
 
天皇《スメラミコトノ》。御2遊《イデマセル》雷岳《イカツチノヲカニ》1之時《トキ》。柿本朝臣人麿呂作歌一首《カキノモトノアソミヒトマロガヨメルウタヒトツ》。
 
天皇は、持統天皇なり、○雷(ノ)岳は、大和(ノ)國高市郡(ノ)雷村にありて、即(チ)飛鳥の神奈備の三諸山のことなり、雷(ノ)岳といふ由は、書紀に、雄略天皇七年秋七月甲戌朔丙子、天皇詔2少子部(ノ)連|※[虫+果]羸《スガルニ》1曰、朕|欲《オモフ》v見(ムト)2三諸《ミモロノ》岳(ノ)神之形(ヲ)1、(或云、此(ノ)山之神爲2大物代主《オホモノシロヌシノ》神(ト)1也、或云2菟田墨坂《》神(ト)1也、)汝|膂力《チカラ》過v人(ニ)、自行(テ)捉來《トラヘヨ》、※[虫+果]羸答(テ)曰、試往(テ)捉《トラヘム》之、乃登2三諸(ノ)岳(ニ)1、捉2取《トラヘテ》大※[虫+也](ヲ)1、奉v示《ミセ》2天皇(ニ)1、天皇不2齋戒(シタマハ)1、其(ノ)雷|※[兀+虫]々目精赫々《ヒカリテマナコカヾヤキ》、天皇畏(テ)、蔽(ヒ)v目(ヲ)不(テ)v見(タマハ)、却2入(マシ)殿中(ニ)1、使(メタマヒキ)v放2於岳(ニ)1、仍(レ)改2賜《カヘテ》名(ヲ)1爲v雷《イカツチト》とあり、
 
235 皇者《オホキミハ》。神二四座者《カミニシマセバ》。天雲之《アマクモノ》。雷之上爾《イカツチノヘニ》。鷹爲流鴨《イホリセルカモ》。
 
皇者は、オホキミハ〔五字右○〕と訓べし、(スメロキ〔四字右○〕と訓は非なり、既く上にいへり、)○神二四座者《カミニシマセバ》は、天皇はやがて、現人神《アラヒトカミ》にておはしますが故にといふなり、四《シ》はその一すぢなることを、思はせたる助辭なり、この二句は、既く二(ノ)卷に出て其處に云り、○雷之上爾《イカツチノヘニ》(類聚抄に、上爾雷之とある(73)はわろし、)は、岳(ノ)名を、まことの雷のごといひなしたるなり、さて伊加都知《イカツチ》といふ名(ノ)義は、本居氏、伊加《イカ》は嚴《イカ》なり、都《ツ》は例の之《ノ》に通ふ助辭、知《チ》は美稱なりと云るが如し、既く二(ノ)卷に云り、さて雷の假字は、藥師寺佛足石碑(ノ)御歌に、伊加豆知《イカツチ》と見えたり、(これに豆(ノ)字を書、また今(ノ)世にも、都を濁りて唱ふれども清べし、凡て某|都知《ツチ》といふ皆清例なればなり、)此(ノ)歌を六帖には、みかつちがうへに廬すらしもと載たり、(健御雷《タケミカツチノ》神をも、健雷《タケイカツチ》とも云(ヘ)ば、雷《イカツチ》をも美加都知《ミカツチ》と云るなるべし、されど此(ノ)歌は、伊加都知《イカツチ》なるぞ宜しき、)○廬爲流鴨《イホリセルカモ》、廬《イホリ》とは假(リ)そめに造り設て、旅居する家をいふ稱なり、こゝは離宮を廬といひなしたるなり、爲流《スル》の流は、須(ノ)字の誤にて、セス〔二字右○〕なるぺしと或説に云り、さもあるべきことなり、○歌(ノ)意は、大皇は現人神とましますがゆゑに、いともあやしく、天上の雷の上に座して、やどり賜へることかなとなり、さてこの雷(カ)岳に、離宮のありけむことは、十三に、月日攝友久經流三諸之山礪津宮地《ツキモヒモアラタマレドモヒサニフルミモロノヤマノトツミヤトコロ》とあるにてしるべし、按(フ)に、外津御屋《トツミヤ》を廬と云ること、甚|不敬《ナメゲ》にて、おふけなくかたじけなし、或本に、宮敷座《ミヤシキイマス》とあるぞふさはしき、
〔右或本云。獻2忍壁(ノ)皇子1也。其歌曰。王《オホキミハ》。神座者《カミニシマセバ》。雲隱《クモカクル》。伊加土山爾《イカツチヤマニ》。宮敷座《ミヤシキイマス》。〕
忍壁(ノ)皇子は、天武天皇の皇子なり、御傳は九(ノ)卷に云べし、此(ノ)皇子の宮、此(ノ)山に有けるなるべし、○王《オホキミ》とは、天皇より始めて、皇子諸王までを申す事、上にたび/\出たり、字には大皇大王大(74)君、皇王など書て、みなひとつ事なり、(皇と書(キ)王と書に、差等あるにあらず、混ふべからず、)○宮敷座《ミヤシキイマス》は、宮造りて、其(ノ)地を知(リ)御在《イマス》よしなり、既く云り、
 
天皇《スメラミコトノ》。賜《タマヘル》2志斐嫗《シヒノオミナニ》1御歌一首《オホミウタヒトツ》。
 
天皇、これも持統天皇なるべし、○志斐(ノ)嫗は、志斐は氏なり、姓氏録左京神別に、中臣(ノ)志斐(ノ)連、又續紀八(ノ)卷に、※[竹/卞]術正八位上悉悲(ノ)連三田次といふ人見えたり、嫗は老女の稱、オミナ〔三字右○〕と訓べし、敏達天皇(ノ)紀に、老女《オムナ》君(ノ)夫人と見ゆ、(オムナ〔三字右○〕と訓はわろし、書紀の訓も、後(ノ)世にならへるが多ければ、むげにたのむべからず、)既く二(ノ)卷に委く云り、○御歌と書は、此(ノ)集の例なり、(製(ノ)字を補《クハフ》る説は、中々に集中をよく見ざる誤なり、御歌とあると御製歌とあるとは、事のさまたがふことにて、うるはしく別れたり、そのよし既く上に云り、)
 
236 不聽跡雖云《イナトイヘド》。強流志斐能我《シフルシビノガ》。強語《シヒカタリ》。比者不聞而《コノゴロキカズテ》。朕戀爾家里《アレコヒニケリ》。
 
不聽跡雖云《イナトイヘド》は、いな聞(カ)じ、今は莫語《ナカタ》りそと宣《ノタマ》へどもなり、不聽と書るは、不2聽許1の義なり、不許《イナ》と書るに同じ、○強流志斐能我《シフルシヒノガ》とは、強流《シフル》は強て語り聞え奉るなり、志斐能《シヒノ》といふ志斐は、嫗の氏、能《ノ》は助辭なり、十四に、勢奈能我素低母《セナノガソテモ》、又|伊母能良爾《イモノラニ》、十八に、故之能吉美能等《コシノキミノト》などあるに同じ、又十四に、勢奈那《セナヽ》とある、那《ナ》も同言と見えたり、(略解に、此(ノ)能(ノ)は貴む辭に云り、とあるはわろし、さるは勢奈能《セナノ》、また勢奈那《セナヽ》などいへる、一(ツ)の能(ノ)と那《ナ》は、助辭とせざれば、無用に言重り(75)てつたなし、是になずらへて、凡て此(ノ)類の能《ノ》の詞は、助辭なるをさとるべし、)○強語《シヒカタリ》、(元暦本に、語の下登(ノ)字あるは、次の歌の強話登とあるより、まがひ入たるにて、衍なるべし、シヒカタリ〔五字右○〕ならではよろしからず、)志斐氏に連ね縁《チナ》みて、強流《シフル》といひ、強語《シヒカタリ》とのたまへる甚のでたし、源(ノ)嚴水云、語《カタリ》は踐詐大嘗會式に、凡(ソ)物(ノ)部門部|語部《カタラヒベ》者、左右衛門(ノ)府、九月上旬(ニ)申v官(ニ)預令2量v程(ヲ)參集(ハ)1、物部左右吉各二十人、門部左右京各二人、大和(ノ)國八人、山城三人、伊勢二人、紀伊一人、語部、美濃八人、丹波二人、丹後二人、但馬七人、因幡三人、出雲四人、淡路二人、江家次第十五大嘗會(ノ)條に、伴佐伯、率2語部十五人(ヲ)1、入v自2東西(ノ)掖門1、各就v位(ニ)、云々、語部奏2古詞(ヲ)1、小註云、其音似v祝(ニ)、又渉2歌聲(ニ)1、出雲美濃但馬語《部脱歟》各奏之、又姓氏録語部氏あり、是らを合せ考ふるに、こゝの語《カタリ》も、たゞのむかし物語するにはあらず、おもしろくあるぺかしく、ほどよく拍子を合(セ)て、かたりしものにて、後(ノ)世の平家をかたるは、この名ごりなるべし、さてその語部の語りし事は、さま/”\の古ことなど、をかしくつくりなして、かたりけるものにて、かの古き物語書は、みなその語部のかたる物にならひてつくれるにて、猶今の淨瑠璃てふものゝごくなるべく、おぼゆといへり、さもあるべし、○比者不聞而(比(ノ)字、舊本此に誤れり、今は古寫本拾穗本等に從つ、而(ノ)字、略解に無は脱せるなり、)は、コノゴロキカズテ〔八字右○〕と訓べし、(キカデ〔三字右○〕と訓は非《ワロ》し、すべて聞ずてをきかで、見ずてを見でなどいふは、後のことにて、古書にはなきことぞ、)○大御歌(ノ)意は、しひて語るを、もどか(76)しくおもひて、いなきかじといひつるものから、久しく御前に出てかたらねば、更に戀しくおもふとなり、(源氏物語椎本に、問(ハ)ず語(リ)のふる人あり、強語の類なるべし、)
 
志斐嫗《シヒノオミナガ》奉《マツレル》v和《コタヘ》歌一首《ウタヒトツ》。
 
舊本此間に、嫗名未詳と註せり、
 
237 不聽雖謂《イナトイヘド》。話禮話禮常《カタレカタレト》。詔許曾《ノラセコソ》。志斐伊波奏《シヒイハマヲセ》。強話登言《シヒカタリトノル》。
 
不聽雖謂《イナトイヘド》は、いなかたらじと申せどもといふなり、○詔許曾《ノラセコソ》は、詔《ノラ》せばこそといふなり許曾《コソ》の上に、婆《バ》を加へて意得る詞の例なり、のたまへばこそと云むが如し、○志斐伊波奏《シヒイハマヲセ》とは、志斐は自の氏、伊《イ》は語の頭に、伊往《イユキ》伊還《イカヘル》なども多くいひて打出す言とし、また詞の尾にそへて助辭とせり、此(ノ)下に、不絶射妹跡《タエジイイモト》、七(ノ)卷に、花待伊間爾《ハナマツイマニ》、十(ノ)卷に、不亂伊間爾《ミダレヌイマニ》、續紀十七(ノ)詔に、治腸伊自《ヲサメタマフイシ》、また祖乃心成伊自子爾波在可《オヤノコヽロナスイシコニハアルベシ》、三十(ノ)詔に、此乎持伊波稱乎致之《コヲモツイハホマレヲイタシ》、捨伊波謗乎招都《スツルイハソシリヲマネキツ》など多し、(これ用言の下に、伊《イ》と云る例なり、)又|此《コヽ》のごとく、體言の下に云るも多し、四(ノ)卷に、木乃關守伊《キノセキモリイ》、九(ノ)卷に、菟原壯士伊《ウナヒヲトコイ》、十二に、家有妹伊《イヘナルイモイ》、書紀繼體天皇(ノ)卷(ノ)歌に、※[立心偏+豈]那能倭具吾伊《ケナノワクゴイ》、續紀(ノ)詔に、帝止立天在人伊《ミカドトタチテアルヒトイ》、また道鏡伊《ダウキヤウイ》、また二禅師等伊《フタリノゼムジタチイ》、また朕徳伊《ワガウツクシミイ》、續後紀(ノ)詔に、帶人舍人件健岑伊《タチハキトネリトモノタケミネイ》などなほ多し、又これを要《エ》ともいひしと見ゆ、廿(ノ)卷に、知々波々江《チヽハヽエ》とあり、(古事記(ノ)傳に、伊《イ》は余《ヨ》と云むがごとしと云り、しか見てよき處か多かれど、又|余《ヨ》として、きこえがたきところも多かれば、た(77)だ古の一の助辭と見べし、すべて助辭は、語勢をたすけたもつものなり、さて自(ラ)の氏の志斐に、強る意を帶《モタ》せて云るなるべし、)奏はマヲセ〔三字右○〕と訓て、許曾《コソ》の辭を結《トヂ》めたり、○強話登言《シヒカタリトノル》、(略解に話(ノ)字、荒木田氏がもたる古本に語に作る、さらば話は誤字なるべしと云るは、中々の非なり、話は説文に、會合善言也と見えて、はやく本(ノ)句にも、話禮話禮《カタレカタレ》とも書たれば、誤字なるべきよしなきをや、)言は、詔か告かの字の誤なるべし、ノル〔二字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、今はいな語らじと申せども、強て語れ語れと詔《ノタマ》へばこそ、いなと思ふを、強て語り聞え奉るにはあれ、それを強語と詔ふは何事ぞやと、とがめ奉るやうにいひたる、いとをかし、
 
長忌寸意吉麻呂《ナガノイミキオキマロガ》應《ウケタマハリテ》v詔《ミコトノリヲ》歌一首《ヨメルウタヒトツ》。
 
意吉麻呂は、一(ノ)卷に出、
 
238 大宮之《オホミヤノ》。内二手所聞《ウチマデキコユ》。網引爲跡《アビキスト》。網子調流《アコトヽノフル》。海人之呼聲《アマノヨビコヱ》。
 
内二手所聞《ウチマデキコユ》は、呼聲の繁く高きが、宮(ノ)裏に及《マデ》聞え來るにて、甚にぎはゝしきさまなり、二手は及《マデ》の借り字なり、さて二手の字は、左石、左右手、諸手、兩手など書て、マテ〔二字右○〕とよませたるに同じ、かくて左右、兩手を麻提《マテ》といふ意は、麻《マ》は美《ミ》に通ふ美稱なる故、凡て物の全備《トヽノヒ》たるを稱《ホメ》て、麻《マ》某とも美《ミ》某とも云こと多し、手は二(ツ)ある物なれば、そを全備《トヽノヘ》たるよしにて眞手と云り、※[楫+戈]《カヂ》も二(ツ)あるものなれば、そを全備たるよしにて、二※[楫+戈]と書て、眞※[楫+戈]《マカヂ》といふが如し、(荒木田氏(ノ)説に、兩(78)手をまでといふは、物ふたつあるを麻《マ》といふに似たり、眞※[楫+戈]も左右にあるによりていひ、間《マ》といふも、ものふたつあれば、間あるによりていふ言と聞え、俗に密夫をまをとこといふもさる意、亦《マタ》といふもふたつあるよりいふ言なれば、麻《マ》はふたつの意なるべし、故(レ)二手を迄の訓に假たるなりと云るは、甚偏れる論なりけり、さて密夫をまをとこといふことは、余(レ)別に考(ヘ)あり、)○網引爲跡《アビキスト》は、網引を爲るとてといふなり、御饌供《ミケツモノ》に奉る料に、魚をとるとて網引《アミヒク》なり、阿美引《アミヒキ》を阿毘伎《アビキ》といふは、弓波受《ユミハズ》を由波受《ユハズ》といふと同例なり、跡《ト》はとての意なり、細網は四(ノ)卷に、吾衣人莫著網引爲難波壯子乃手爾波雖觸《アカコロモヒトニナケセソアビキスルナニハヲトコノテニハフレヽド》、七(ノ)卷に網引爲海子哉見《アビキスルアマトヤミラム》云々、十一に、住吉乃津守網引之浮笑緒乃《スミノエノツモリアビキノウケノヲノ》云々など見えたり、○網子調流《アコトヽノフル》とは、網子は網引(ク)者をいふ、田作る者を田子《タゴ》、※[楫+戈]とる者を※[楫+戈]子《カコ》(水手なり、余(レ)別に論あり、)獵に立(ツ)者を獵子《カリコ》(和名抄に、文選(ニ)云、列卒滿v山(ニ)、和名|加利古《カリコ》、)といふ類なり、また舟子《フナコ》馬子《ウマコ》などいふも同じ、調流は呼集|整《ソロフ》るなり、二(ノ)卷挽歌に、齊流鼓之音者《トヽノフルツゾミノオトハ》、とある處に既く委(ク)云り、○歌(ノ)意かくれたるところなし、契冲云、此(ノ)歌のやうを案するに、難波(ノ)宮に、みゆきしたまひける時の歌なるべしといへり、
〔右一首。〕
この下に、難波(ノ)宮に幸のこと、註してありけむが、闕たるなるべし、
 
長皇子《ナガノミコノ》。遊2獵《ミカリシタマヘル》獵路野《カリヂヌニ》1之時《トキ》。柿本朝臣人麻呂作歌一首并短歌《カキノモトノアソミヒトマロガヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
(79)長(ノ)皇子は、天武天皇の皇子なり、既く一(ノ)卷に出づ、○遊獵の獵(ノ)字、類聚抄人麿勘文には?と作り、○獵賂野(獵(ノ)字、舊本に脱せり、今は活本に從つ、野(ノ)字、舊本に池とあれど、池に遊獵し賜ふべきよしなければ、歌詞に從て今改つ、)は、大和(ノ)國十市(ノ)郡鹿路村なるべしと云り、十二に、遠津人獵道之池爾住鳥之《トホツヒトカリヂノイケニスムトリノ》とよめり、
 
239 八隅知之《ヤスミシシ》。吾大王《ワガオホキミ》。高光《タカヒカル》。吾日乃皇子乃《ワガヒノミコノ》。馬並而《ウマナメテ》。三獵立流《ミカリタヽセル》。弱薦乎《ワカコモヲ》。獵路乃小野爾《カリヂノヲヌニ》。十六社者《シシコソハ》。伊波比拜目《イハヒヲロガメ》。鶉已曾《ウヅラコソ》。伊波比回禮《イハヒモトホレ》。四時自物《シシジモノ》。伊波比拜《イハヒヲロガミ》。鶉成《ウヅラナス》。伊波比毛等保理《イハヒモトホリ》。恐等《カシコミト》。仕奉而《ツカヘマツリテ》。久堅乃《ヒサカタノ》。天見如久《アメミルゴトク》。眞十鏡《マソカヾミ》。仰而雖見《アフギテミレド》。春草之《ハルクサノ》。益目頬四寸《イヤメヅラシキ》。吾於冨吉美可聞《ワガオホキミカモ》。
 
八隅知之《ヤスミシシ》、といふより以下四句は、一(ノ)卷に出て其處に委(ク)云り、こゝは長(ノ)皇子を申せるなり、○馬並而《ウマナメテ》、これも一(ノ)卷に出づ、○三獵立流《ミカリタヽセル》とは、三《ミ》は御《ミ》なり、立流《タヽセル》は多?流《タテル》の伸りたるにて、(多世《タセノ》切|?《テ》、)立《チ》賜へるといふ意なり、(されば立は、皇子のうへに限りて申せるなり、御列子《ミカリコ》を立せ賜へると云にはあらず、供奉の列卒《カリコ》の事はいふまでもなし、)六(ノ)卷に、朝獵爾十六履超之夕狩爾十里※[足+榻の旁]立馬並而御?曾立爲春之茂野爾《アサガリニシシフミオコシユフガリニトリフミタテウマナメテミカリソタヽスハルノシゲヌニ》、十九に、朝獵爾君者立之奴多奈久良能野爾《アサガリニキミハタヽシヌタナクラノヌニ》などよめり、○弱薦乎《ワカコモヲ》は、枕詞なり、弱菰を刈と云かけたるなり、○獵路《カリヂ》の獵(ノ)字、類聚抄には?と作り、(路(ノ)字、拾穗本に跡と作るは非、)○十六社者《シシコソハ》は、猪鹿《シシ》こそはなり、之々《シ、》は猪鹿《ヰカ》を惣いふ稱なり、十(80)六は四々の意に書るにて、しといふ言に二々、くゝといふ言に八十一とかける類なり、社《コソ》は他物にむかへて、其物をたしかにいふ言なり、上に云り、社(ノ)字を許曾《コソ》とよむ義は、未《タ》さだかならず、(荒木田氏は、社は木苑《コソ》の意、十六に、死者木苑《シナバコソ》とありといへり、社(ノ)字に木苑の義あることおぼつかなし、猶考(フ)べし、)○伊波比拜目《イハヒヲロガメ》は、伊《イ》はそへ言、匍匐拜《ハヒヲロガ》めといふなり、匍匐は、天武天皇(ノ)紀に、十一年九月幸卯朔壬辰、勅、自今以後|跪禮《ヒザマツクヰヤ》、匍匐禮《ハフヰヤ》並止(テ)之、更用2難波(ノ)朝廷《ミカド》之立禮(ヲ)1と見ゆ、拜目は、推古天皇(ノ)紀(ノ)歌に、烏呂餓瀰弖菟伽倍摩都羅武《ヲロガミテツカヘマツラム》とあり、私記に、謂(テ)v拜(ヲ)爲2乎加無《ヲガム》1、言(ヘルココロハ)乎禮加々無《ヲレカヾム》也とあるが如し、○鶉《ウヅラ》は、品物解に云う、○伊波比回禮《イハヒモトホレ》とは、伊《イ》は上に同じ、匍匐《ハヒ》めぐれといふなり、回禮《モトホレ》は、既く二卷に云り、○四時自物鶉成《シシジモノウヅラナス》は、共に枕詞なり、既く云り、下に、十六自物膝折伏手弱女之押日取懸《シシジモノヒザヲリフセタワヤメノオスヒトリカケ》、二(ノ)卷に、鹿自物伊波比伏管鶉成伊波比廻《シヽジモノイハヒフシツヽウヅラナスイハヒモトホリ》などあり、○恐等《カシコミト》は、等《ト》は助辭にて恐《カシコ》さにの意なり、六(ノ)卷に、恐跡振痛袖乎忍而有香聞《カシコミトフリタキソデヲシヌヒタルカモ》、十一に、皇祖乃神御門乎懼見等侍從時爾《スメロキノカミノミカドヲカシコミトサモラフトキニ》、十五に、可是布氣婆於吉都思艮奈美可之故美等《カゼフケバオキツシラナミカシコミト》、能許能等麻里爾安麻多欲曾奴流《ノコノトマリニアマタヨソヌル》、また加思政美等能良受安里思乎《カシコミトノラズアリシヲ》、(これらも皆|等《ト》は助辭、恐《カシコ》さにの意にて今と同じ、)○天見如久《アメミルゴトク》は、二(ノ)卷に、久堅乃天見如久仰見之皇子乃御門之《ヒサカタノアメミルゴトクアフギミシミコノミカドノ》とあるに同じ、○眞十鏡《マソカヾミ》は、見《ミ》の枕詞なり、○春草之《ハルクサノ》も枕詞にて、春野に芽《モエ》出る草は、みづ/”\しく愛《メヅ》らしきものなればつゞけたり、○益目頬四寸《イヤメヅラシキ》は、見る毎に禰愛《イヨ/\メヅ》らしきなり、五(ノ)卷に、伊夜米豆良之岐烏梅能波奈加母《イヤメヅラシキウメノハナカモ》とあり、(81)○吾於富吉美可聞《ワガオホキミカモ》は、長(ノ)皇子を申す、○歌(ノ)意は、吾皇子の數々の人馬をならべて、御獵におはします獵路の野に、獲賜はむ鳥獣の多く集居るが中にも、猪鹿こそはひをがめ、鶉こそはひめぐれ、その猪鹿にも鶉にもあらぬ吾なるを、皇子の恐こく貴さに、猪鹿の如く鶉の如く、はひをがみめぐりて仕へ奉りつゝ、天を仰ぎて見る如くに見奉れど、見毎にいよ/\愛らしく、貴き皇子にておはしますかとなり、
 
反歌一首《カヘシウタヒトツ》。
 
240 久堅乃《ヒサカタノ》。天歸月乎《アメユクツキヲ》。綱爾刺《ツナニサシ》。我大王者《ワガオホキミハ》。蓋爾爲有《キヌカサニセリ》。
 
天歸月乎、(月字拾穗本に日と作るは誤なり、)御輿の蓋を月に見なしたるなり、乎《ヲ》と云るは、即(チ)月を蓋にせりとつゞく意なり、○綱爾刺《ツナニサシ》、(綱(ノ)字、舊本には網と作り、今は古寫小本に從つ、)蓋の綱に刺といふなり、蓋の左右に綱を刺(シ)入て、その網を侍臣の執つゝ行を云るなり、綱爾《ツナニ》と云るは、君を戀る意を、君爾戀《キミニコヒ》と云ると同意なり、伊勢大神宮式に、蓋二枚、淺紫綾(ノ)表緋綾(ノ)裏、頂及角覆v錦(ヲ)、垂2淺紫組総(ヲ)1、緋綱四條、(二條蓋(ノ)料、二條菅笠(ノ)料、長各二丈、)踐祚大嘗祭式に、車持(ノ)朝臣一人執2菅蓋(ヲ)1、子部(ノ)宿禰一人笠取(ノ)直一人、並執2蓋(ノ)綱(ヲ)1膝行、各供2其職(ニ)1、中宮職式に、輿二具(白蓋二枚、綱四條、茵二枚、)などあり、貞觀儀式踐詐大嘗祭儀にも、同じさまに見ゆ、江家次第に、御齋會竟日云云、乘輿、有2執蓋|引綱《ツナヒキ》等1、また於2法勝寺(ニ)1、藥師堂供養丈六觀音次第(ノ)條に、次(ニ)大阿闍梨、(乘輿、在《有歟》2輿持(82)四人、駕丁八人、執蓋一人、綱取二人1、相從、)體源抄十に、八月十五日、放生會御行(ノ)次第云々、御綱曳神人七十二人云々なども見ゆ、御蓋の綱を取(ル)人を、綱引とも綱取とも云るにやあらむ、枕册子に、見る物は云々、行幸になずらふる物何かはあらむ云々、御綱のすけ中少將などいとをかしともあり、(此は乘輿の御綱を奉行する、大舍人(ノ)助にやと云り、或人(ノ)説に、舊本に網爾刺とある然るべし十七家持(ノ)卿の歌に、ほとゝぎす夜音なつかし網指ば花は過ともかれずか鳴む、橘のにはへる苑にほとゝぎす鳴と人つぐあみさゝましを、とよめるなどを思ふに、鳥を網して取如く、月をとりて蓋に爲給へるよと、よめるなるべし、魚にまれ鳥にまれ、網を設て獲るを、刺と云が古言と聞ゆ、小網指《サデサス》など、集中に見えたるを思ふべしといへり、此(ノ)説いかゞなり、いかに歌なればとて、月を魚鳥の列に、網に刺といふべくもあらず又網に刺て獲(ル)意ならば、網に刺て取てといはでは、言足はぬ事なるをや、)○蓋爾爲有《キヌガサニセリ》は、蓋に化《シ》けりと云が如し、蓋は和名抄に、兼名苑(ノ)註(ニ)云、華蓋(ハ)黄帝征(シ)2〓尤(ヲ)1時、當(テ)2帝(ノ)頭上(ニ)1有2五色(ノ)雲1、因(テ)2其(ノ)形(ニ)1所v造(ル)也(ト)、和名|岐奴加散《キヌカサ》、字鏡に、〓〓〓〓〓〓六形同、支奴加佐《キヌカサ》と見えたり、儀制令に、凡蓋(ハ)、皇太子紫表蘇芳裏、頂及四角覆v錦(ヲ)垂v總、親王紫大|纈《ユハタ》、一位|深緑《コキミドリ》、三位已上紺、四位|標《ハナダ》、四品以上及一位頂角覆v錦(ヲ)垂v總(ヲ)、二位以下覆v錦(ヲ)、大納言以上垂v總、並朱裏總用2同色(ヲ)1とあり、爲利《セリ》は爲家利《シケリ》の縮りたる辭なり、○歌(ノ)意は、天の如くに仰ぎみる、吾《カ》皇子の尊きは、げにことわりにて、天の月を即(チ)御輿の蓋に化《ナ》して(83)網を刺賜へるよとなり、右の長歌に、眞十鏡仰而雖見《マソカヾミアフギテミレド》といひし如く、皇子を天の如く仰ぎ見て、圓蓋を月に見なしたるなり、さて夕暮月の出るまで、御獵をせさせ賜ひたるによりて、かくよめるなるべし、
〔或本反歌一首。241 皇者《オホキミハ》。神爾之座者《カミニシマセバ》。眞木之立《マキノタツ》。荒山中爾《アラヤマナカニ》。海成可聞《ウミヲナスカモ》。〕
眞木之立《マキノタツ》は、一(ノ)卷に、眞木立荒山道乎《マキタツアラヤマミチヲ》とよめり、○海成可聞《ウミヲナスカモ》は、海を造《ナ》す哉といふにて、此は池を造らしゝをいふなるべし、池をも海といふこと、既く一(ノ)卷に委(ク)論へり、さて獵路(ノ)池は、この御代の間にやほらせ賜ひけむ、故(レ)此(ノ)度遊獵に御供奉(リ)て、此(ノ)池を見て、皇徳を稱(ヘ)奉りてよめるなるべし、さて此は、右の反歌には似ざるやうなれども同度によめる故にかく次でたるなり、さる例あり、一(ノ)卷三山(ノ)御長歌の反歌に渡津海乃豐旗雲爾伊理比沙之《ワタツミノトヨハタクモニイリヒサシ》云々の御歌を次て載しなど、この類なり、(略解に、こは別時の歌にて、ことに端詞ありしが落失しなるべし、と云るはあらず、又詞氣も人麻呂のなることしるし、さてはじめ題詞に獵路池と誤れるは、此歌によりてにやとおぼゆ、
 
弓削皇子《ユゲノミコノ》。遊《イデマセル》2吉野《ヨシヌニ》1時御歌一首《トキノミウタヒトツ》。
 
弓削(ノ)皇子は、天武天皇の皇子なり、既く出づ、
 
242 瀧上之《タギノヘノ》。三船乃山爾《ミフネノヤマニ》。居雲乃《ヰルクモノ》。常將有等《ツネニアラムト》。和我不念久爾《ワガモハナクニ》。
 
(84)瀧上之《タギノヘノ》は、吉野川の瀧の上方のといふなり、瀧は今宮瀧と云て、いにしへ行宮のありし跡なりと云り、○三船乃山《ミフネノヤマ》は、菜摘(ノ里の東南にありて、外より見れば、その形船の如しとぞ、六(ノ)卷に、瀧上之御船乃山爾水枝指四時爾生有刀我乃樹能《タギノヘノミフネノヤマニミヅエサシシシニオヒタルツガノキノ》、また瀧上乃三船之山者雖畏思忘時毛日毛無《タギノヘノミフネノヤマハカシコケドオモヒワスルヽトキモヒモナシ》九(ノ)卷に、瀧上乃三船山從秋津邊來鳴度者誰喚兒鳥《タギノヘノミフネノヤマユアキヅヘニキナキワタルハタレヨブコトリ》、十(ノ)卷に、喚子鳥三船山從喧渡所見《ヨブコトリミフネノヤマヨナキワタルミユ》(新後撰集に、瀧の上に落そふ波は嵐吹御船の山の櫻なりけり、續後拾遺集に、此(ノ)比は御船の山に立鹿の聲をほに上て、鳴ぬ日そ無、夫木集に白浪の立重れる瀧上の御船の山は花盛かも、瀧上の御船の上の山櫻風にうきてそ花もちりける、)などもよめり、○常將有等《ツネニアラムト》は、いつも常にかくあらむとゝいふなり、一(ノ)卷に、常丹毛冀名常處女※[者/火]手《ツネニモガモナトコヲトメニテ》、六(ノ)卷に、多吉能床磐乃常有沼鴨《タキノトキハノツネニアラヌカモ》、廿(ノ)卷に、都禰爾伊麻佐禰《》、伊麻母美流其等《ツネニイマサネイマモミルゴト》などある類なり、○和我不念久爾《ワガモハナクニ》は、吾が思はぬことなるものをといふなり奈久《ナク》は奴《ヌ》の伸りたる言なり、○御歌(ノ)意は、吉野の勝地にあそびますに、御心にあかずおもしろくおぼしめして、常にかよひ來て見まほしくおぼすにつきて、三船の山に居雲は、高山なれば、居ぬ時なく常さらずあるを、其(ノ)雲の如く吾(カ)身の常にあらむものと思はぬものをと、山のおもしろきあまりに、世(ノ)間の無常を歎き賜へるなり、(契冲が、雲の起滅さだめなきがごとくなれば、我も常あらむものとはおもはず、とよませたまへりと云るはたがへり、)四(ノ)卷に、春日山朝立雲之《カスガヤマアサタツクモノ》不居日|無《ナク》とよめる如く、高き山には、常に雲の居る(85)ものなればなり、(六帖に、瀧の上の御船の山に居雲の常なるべくもあらぬ我身をと載たり、)
〔或本歌一首。244 三吉野之《ミヨシヌノ》。御船乃山爾《ミフネノヤマニ》。立雲之《タツクモノ》。常將在跡《ツネニアラムト》。我思莫苦二《ワガモハナクニ》。右一首。柿本朝臣人麻呂之歌集出。〕
此或本歌、舊本には次の王者《オホキミハ》云々の下に、本文の列に載たり、今改めて此間に小書せり、
 
春日王《カスガノオホキミノ》奉《マツレル》v和《コタヘ》歌一首《ウタヒトツ》。
 
春日(ノ)王は、志貴(ノ)親王の子なり、續紀(ニ)云、文武天皇大寶三年六月庚戊、淨大肆春日(ノ)王卒、遣v使弔賻、
 
243 王者《オホキミハ》。千歳爾麻佐武《チトセニマサム》。白雲毛《シラクモモ》。三船乃山爾《ミフネノヤマニ》。絶日安良米也《タユルヒアラメヤ》。
 
千歳爾麻佐武《チトヤニマサム》は、千年に變らず座(シ)まさむとなり、本居氏云、年を常には、登志《トシ》と云を、其(ノ)數を云には、凡て三登世《ミトセ》八登世《ヤトセ》など登世《トセ》と云、登世《トセ》は年經《トシヘ》なり、志幣《シヘ》は世《セ》と切(マ)れり、○毛(ノ)字、類聚抄に之と作るは誤なり、○絶日安良米也《タユルヒアラメヤ》(日(ノ)字、類聚抄に無は落しものなり、)は、絶る日あらむやは、絶る日はあらじといふ意なり、米《メ》は牟《ム》の通へるなり、也《ヤ》は後(ノ)世の也波《ヤハ》の意なり、○歌(ノ)意は、皇のおもしろみし賜ふ、その三船の山の白雲も絶る日はあらじ、その雲のいつまでも絶ず居る如く、皇《オホキミ》は千歳に出まして御覽じ賜はむを、しかおもほし歎き賜ふ勿と、皇子を賀《ホキ》なぐさめ申(シ)賜へるなり、
 
長田王《ナガタノオホキミノ》。被《サレ》v遣《ツカハ》2筑紫《ツクシニ》1渡《ワタリタマフ》2水島《ミヅシマヲ》1之時歌二首《トキノウタフタツ》。
 
(86)長田(ノ)王は、栗田(ノ)王の子長(ノ)皇子の孫なり、既く出づ、筑紫に遣(ハ)され賜(ヘ)る事は、考(フ)るところなし、○水島は、景行天皇紀に、十八年夏四月壬戊朔壬申、自2海路《ウミツチ》1、泊(テ)2於葦北(ノ)小島(ニ)1而|進食《ミヲシス》、時(ニ)召(テ)2山部(ノ)阿弭古《アビコ》之祖|小左《ヲヒダリヲ》、令v進(ラ)2冷水《ミモヒヲ》、適(テ)2此時(ニ)1島(ノ)中(ニ)無v水、不《ニ》v知《シラ》2所爲《セムスベ》1、則仰之、祈《コヒノムニ》2于天(ツ)神地(ツ)祇(ヲ)1、忽|寒泉《シミヅ》從2崖(ノ)傍1涌(キ)出、乃酌(テ)、以|獻《タテマツリキ》焉、故(レ)號2其(ノ)島(ヲ)1、曰2水島(ト)1也、其(ノ)泉猶今(ニ)在2水島(ノ)崖(ニ)1也、仙覺抄に、風土記(ニ)云、球磨(ノ)乾、七里海中(ニ)有v島、稍|可《バカリ》2七十里1、名曰2水島(ト)1、島(ニ)出2寒水(ヲ)1、逐v潮(ヲ)高下、云々、枕雙紙に、島は云々水島などあり、和名抄にも出て次に引り、
 
245 如聞《キヽシゴト》。眞貴久《マコトタフトク》。奇母《クスシクモ》。神左備居賀《カムサビマスカ》。許禮能水島《コレノミヅシマ》。
 
如聞《キヽシゴト》は、豫て聞しが如くといふなり、廿(ノ)卷に武良等里乃安佐太如伊爾之伎美我宇倍波《ムラトリノアサダチイニシキミガウヘハ》、左夜加爾伎吉都於毛比之其等久《サヤカニキキツオモヒシゴトク》、(この思ひし如くと、そのさま同じ、)○眞貴久《マコトタフトク》は、豫て聞しにたがはず、眞に貴くといふにて、人のいひしも僞ならずとの意なり、眞は僞の反對《ウラ》にて、既往《サキ》の事に應る辭なり、後(ノ)世げにといふと同意なり、○奇母《クスシクモ》は、靈妙《アヤシククスシ》くもといふなり、十八に、許己乎之母安夜爾久須之彌《ココヲシモアヤニクスシミ》、十九に、久須波之伎事跡言繼《クスハシキコトトイヒツグ》など見えたり、猶この詞は、久志《クシ》、(奇魂《クシミタマ》、奇御玉《クシミタマ》、)久志毘《クシビ》、(靈其之兒《クシビナルミコ》、)久志夫流《クシブル》(奇觸峯《クシブルタケ》、)などもいへり、(紫式部日記に、我はとくすしく、くちもちけしきこと/"\しくなりぬる人は、枕雙紙に、物いみなどくすしうするものゝなど云るは、くすみて實法なる意にて、古(ヘ)に云る久須志伎《クスシキ》とは差異《カハ》りたれど、これも本は此(ノ)言の轉れる(87)ものなるべし、)○神左備居賀《カムサビマスカ》は、神左備は既く出(ツ)、此は神々《カウ/”\》しき意なり、十六に、伊夜彦於能禮神佐備青雲乃《イヤヒコオノレカムサビアヲクモノ》、由名引目須良霖曾保零《タナビクヒスラコサメソボフル》、とあるに同じ、居賀はマスカ〔三字右○〕と訓べし、(ヲルカ〔三字右○〕とよめるはよろしからず、)賀《カ》は哉《カナ》の意なり、○許禮能水島《コレノミヅシマ》は、此之水島なり禮《レ》はあるも無も同じことにて、其をソ〔右○〕ともソレ〔二字右○〕とも、誰をタ〔右○〕とも、タレ〔二字右○〕とも、彼をカ〔右○〕とも、カレ〔右○〕とも、吾をワ〔右○〕ともワレ〔二字右○〕とも、汝をナ〔右○〕ともナレ〔二字右○〕ともいふ類なり、許禮能《コレノ》と云る例は、廿(ノ)卷に、安我弖等都氣呂許禮乃波流母志《アガテトツケロコレノハルモシ》、(吾手と着《ツケ》よ此之針持《コレノハリモチ》なり、)藥師寺佛足石碑(ノ》御歌に、己禮乃與波《コレノヨハ》、また己禮乃微波《ユレノミハ》などあり、○歌(ノ)意は、かねて聞及びしに異ならず、げに良く靈《アヤシ》く妙《クスシ》くも、この水島の神々《カウ/”\》しく、神さびて座します哉となり、島をやがて神にあしらひて云るなり、此(ノ)下に、日本之山跡國乃鎭十方座神可聞寶十方成有山可聞《ヒノモトノヤマトノクニノシヅメトモイマスカミカモタカラトモナレルヤマカモ》とあるも、即(チ)富士山を神といへるにて、今と意同じ、
 
246 葦北乃《アシキタノ》。野坂乃浦從《ヌサカノウラユ》。船出爲而《フナデシテ》。水島爾將去《ミヅシマニユカム》。泡立莫勤《ナミタツナユメ》。
 
葦北《アシキタ》は、和名抄に、肥後(ノ)國葦北(ノ)郡|葦北《アシキタ》、菊地(ノ)郡水島と見えたり、かゝれば葦北より水島は、海上を隔てわたる處なるべし、さて水島は、かの泉のある島によりて、後に廣く郷(ノ)名になれるなり、○野坂乃浦從《ヌサカノウラユ》、(坂(ノ)字、拾穗本には阪と作り、)野坂は葦北(ノ)郡にありと見ゆ、その浦より船發するを云、○水島爾將去《ミヅシマニユカム》續後撰集に、みしまにゆかむとあるは誤なり、此(ノ)上の歌をば見られざりしにや、○浪立莫勤《ナミタツナユメ》は、浪發ことなかれ、努々《ユメ/\》といへるなり、勤《ユメ》の言は、一(ノ)卷|吾松椿不吹有勿(88)勤《アヲマツノキニフカザルナユメ》とある處に委く云り、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
石川大夫和歌一首《イシカハノマヘツキミガコタフルウタヒトツ》。
 
石川(ノ)大夫は、類聚抄には、從四位下石川(ノ)宮麻呂朝臣和歌と作り、これに從《ヨラ》ば宮麻呂なるべし、宮麻呂は、續紀に、慶雲二年十一月甲辰、以2大納言從三位大伴(ノ)宿禰安麻呂(ヲ)1爲2兼太宰帥(ト)1、從四位下石川(ノ)朝臣宮麻呂爲2大貳(ト)1、和銅元年三月丙午、爲2右(ノ)大辨(ト)1、四年四月壬午、從四位上石川(ノ)朝臣宮麻呂(ニ)授2正四位下(ヲ)1、六年正月丁亥、授2從三位(ヲ)1、十二月乙未、右(ノ)大辨石川(ノ)朝臣宮麻呂薨、近江(ノ)朝(ノ)大臣大紫連子之第五男也とあり、此(ノ)慶雲二年大貳となれる時に、長田(ノ)王も下り賜ひけるにや、但し長田(ノ)王は、和詞四年に始めて正五位下を授《タマ》へるよし、續紀にしるされて、それより前の事は見えず、されどゆゑありて、遣されたるも知べからず、又舊本左註には、右今案、從四位下石川(ノ)宮麻呂(ノ)朝臣(ハ)、慶雲年中任2大貳(ニ)1、又正五位下石川朝臣吉美侯(ハ)、神龜年中任2少貳(ニ)1、不v知3兩人誰作2此(ノ)歌(ヲ)1焉とあり、吉美侯の傳は、九(ノ)卷にlいふべし、但し吉美侯は少貳に任られたること、紀文に見えざるは漏たるか、おほつかなし、(又略解に、四(ノ)卷に、神龜五年戊辰、太宰(ノ)少貳石川(ノ)足人朝臣遷任、餞2于筑前(ノ)國芦城(ノ)驛家(ニ)1歌三首とあれば、此(ノ)足人なりと云り、此は元來宮麻呂は四位なれば、大夫と書(ス)べからず、吉美侯は少貳に任たる事見えざれば、此(ノ)人々にはあらずとの説なり、されど大夫は、四位五位の人を通(ハシ)稱ことにて、五位にかぎりたる稱にあらざれば、宮麻呂と(89)せむに難なきをや、四(ノ)卷に、京職(ノ)大夫藤原(ノ)大夫とあるは、藤原(ノ)麻呂(ノ)卿の事にて、養老五年六月辛丑、從四位上にて爲2右京(ノ)大夫(ト)1、續紀にも記されたるごとく、當時從四位上なるに、なほ大夫としるせり、これにて四位五位に通《ワタリ》て、大夫と稱ること、さらに疑ふべからず、)そも/\卿大夫と云は、三位以上の人を某卿、(藤原(ノ)卿、大伴(ノ)卿の類、)四位五位の人を某大夫(藤原(ノ)大夫、山上(ノ)大夫の類、)と字には別ち書《シル》して口語には共に麻弊都伎美《マヘツキミ》と稱ことなり、六位以下は卿大夫《マヘツキミ》の列にあらずとしるべし、○舊本、一首の下に、名闕とあれど、もとより名の知たる人にも、名を書《シル》さゞること多ければ、此は後人の書入たるものなるべし、
 
247 奧浪《オキツナミ》。邊波雖立《ヘナミタツトモ》。利我世故我《ワガセコガ》。三船乃登麻里《ミフネノトマリ》。瀾立目八方《ナミタヽメヤモ》。
 
奧浪邊波雖立《オキツナミヘナミタツトモ》は、たとひ沖の方の浪、邊(ツ)方の浪は發(ツ)ともといふなり、奧浪邊波と連ね云ること、集中に多し、六(ノ)卷に、奧浪邊波安美射去爲登《オキツナミヘツナミヤスミイザリスト》、藤江乃浦爾船曾動流《フヂエノウラニフネソサワゲル》ともあり、○和我世故我《ワガセコガ》、長田(ノ)王を申す、○三舶乃登麻里《ミフネノトマリ》は、御船之泊なり、○瀾立目八方《ナミタヽメヤモ》は、嗚呼《アハレ》浪發むやは、たゝじといふ意なり、目(ノ)は牟《ム》のかよへるへるなり、八《ヤ》は後(ノ)世の也波《ヤハ》の意、方《モ》は歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
又長王作歌一首《マタナガタノオホキミノヨミタマヘルウタヒトツ》。
 
248 隼人乃《ハヤヒトノ》。薩摩乃迫門乎《サツマノセトヲ》。雲居奈須《クモヰナス》。遠毛吾者《トホクモアレハ》。今日見鶴鴨《ケフミツルカモ》。
 
(90)隼人《ハヤヒト》は、本居氏、國(ノ)名なり、隼人(ノ)國は續紀に見ゆ、此(ノ)時は薩摩はいまだ國(ノ)名にあらず、隼人(ノ)國の内の地(ノ)名なりと云り、なほ古事記傳に委(ク)論(ヘ)り、○薩摩乃迫門乎《サツマノセトヲ》、(摩(ノ)字、類聚抄拾穗本等には麻と作り、)諸國名義考に薩摩(ノ)人皷川(ノ)白尾國柱云、薩摩とは幸島《サツシマ》の義なるべし、今の鹿兒島の内海《ウツミ》は、天孫の漁獵し給ひし故祉《アト》なるべし、といへりとあり、迫門《セト》は和名抄に、薩摩(ノ)國出水(ノ)郡|勢度《セトノ》郷あり、其處《ソコ》の入海なるべし、六(ノ)卷に、隼人乃湍門乃磐母年魚走芳野之瀧爾尚不及家里《ハヤヒトノセトノイハホモアユハシルヨシヌノタギニナホシカズケリ》とありて、甚《イト》おもしろき處なることしるし、○雲居奈須《クモヰナス》は、雲居の如くといふなり、○遠毛《トホクモ》、類聚抄には遠雲と作り、○歌(ノ)意は、其(ノ)境《トコロ》に至りて親《マノアタ》り見ば、いかばかりおもしろからむとおもふを、公の事の任《ヨザシ》のかしこさに、立よることをも得せずして、口をしく迫門の入海を、嗚呼《アハレ》雲居のよそにのみ、今日見すぐして行哉となり、此(ノ)王筑紫へ遣され賜へる時のことなれば、任をつゝしみて、薩摩(ノ)迫門あたりまでは、渡らずして、たゞ遠く雲居に見やりて、よみ賜ひしなり、下に、晝見騰不飽田兒浦大王之命恐夜見鶴鴨《ヒルミレドアカヌタゴノウラオホキミノミコトカシコミヨルミツルカモ》、とある類なり、
 
柿本朝臣人麻呂※[覊の馬が奇]旅歌八首《カキノモトノアソミヒトマロガタビノウタヤツ》
 
249 三津埼《ミツノサキ》。浪矣恐《ナミヲカシコミ》、隱江乃《コモリエノ》。船公宣《フネヨセカネツ》。放島爾《ヌシマノサキニ》。
 
三津埼《ミツノサキ》は、難波の御津の埼なり、一(ノ)卷に出づ、○浪矣恐《ナミヲカシコミ》は、浪がおそろしさにの意なり、○隱江乃《コモリエノ》は、浪をおそれて船出せず隱り居るを、即(チ)隱江にいひかけたり、○船公宣奴島爾は、字の甚(91)誤れるものと見えたり、(舊訓に、フネナコグキミガユクカヌシマニ〔フネ〜右○〕、とよめるなどは、論ふ限にあらず、)故(レ)案に、もとは舟寄金津奴島埼にとありしを、金を公に誤、寄を宣に誤、又そを顛例《トコロヲタガ》へ、また奴の上に、津(ノ)字を脱したるなるべし、また荒木田氏、古本には島の下に、一字の闕ありと云り、されば島の下に、埼(ノ)字脱たるなるべし、さらばフネヨセカネツヌシマノサキニ〔フネ〜右○〕と訓べし、七(ノ)卷に、水霧相奧津小島爾風乎疾見《ミナギラフオキツコシマニカゼヲイタミ》、船縁金津心者念杼《フネヨヤカネツコヽロハモヘド》とあり、思(ヒ)合(ス)べし、(荒木田氏(ノ)考に、公は八毛(ノ)二字の誤、宣は不通(ノ)二字の誤、島の下埼(ノ)字を脱せるにて、舟八毛不通奴島埼爾にて、フネハモユカズヌシマノサキニ〔フネ〜右○〕と訓べし、と云るはあらず、そは字も似よらず、調もつたなければなり、本居氏の、舟八毛何時寄奴島爾とありしを、八毛を公に誤、何時(ノ)二字を脱し、寄を宣に誤れるにて、フネハモイツカヨセムヌシマニ〔フネ〜右○〕と訓べし、と云るも心ゆかぬ説なり、さる手筒なる詞、此(ノ)朝臣の作《ウタ》にあるべくもなし、又略解に、舟令寄敏馬崎爾などありけむ、フネハヨセナムミヌメノサキニ〔フネ〜右○〕と訓べし、と云るは、いよ/\つたなし、そは浪を恐みといひながら忽(チ)舟をよせむと云べきことにあらざればなり、)奴島は淡路の野島なり、今もなほ淡路に奴島といふ島ありとぞ、(野をば後(ノ)世は能《ノ》とのみ呼《イフ》を、これをば後まで奴島《ヌシマ》と呼來れるはめでたし、)土佐日記にも、正月卅日夜半許に船を出して、阿波のみとを渡る云々、寅卯の時ばかりに奴島《ヌシマ》と云處を過て、田無川と云處を渡とあり、○歌(ノ)意は。野島の埼に、いかで船をよせむとは欲《オモ》(92)へども、御津埼の浪の荒くておそろしさに、風隱《カゼゴモ》り居る隱江《コモリエ》の舟を漕出して、なほよする事を得せずとなり、
 
250 珠藻苅《タマモカル》。敏馬乎過《ミヌメヲスギ》。夏草之《ナツクサノ》。野島之埼爾《ヌシマノサキニ》。舟近著奴《フネチカヅキヌ》。
 
珠藻苅《タマモカル》とは、敏馬(ノ)浦は、もはら海人の藻を苅(ル)處なれば云るにて、かくれたるところなし、一(ノ)卷に玉藻苅奧敝波不榜《タマモカルオキヘハコガジ》、六(ノ)卷に珠藻苅辛荷乃島爾《タマモカルカラニノシマニ》、十一に、玉藻苅井堤乃四賀良美《タマモカルヰデノシガラミ》などあり、○敏馬乎過はミヌメヲスギ〔六字右○〕と六言に訓べし、(而(ノ)字なければ、スギテ〔三字右○〕とは訓べからず、又十三に、橘之末枝乎須具里《タチバナノホツエヲスグリ》とある、具里《グリ》は藝《ギ》の延りたる言なれば、こゝもスグリ〔三字右○〕と訓べくおもひしは、あしかりけり、武烈天皇(ノ)紀(ノ)歌に、伊須能箇彌賦屡嗚須擬底擧慕摩矩羅※[手偏+施の旁]箇播志須擬暮能娑幡※[人偏+爾]於〓野該須擬播屡比能箇須我嗚須擬逗摩御慕屡嗚佐〓嗚須擬《イスノミフルヲスギテコモマクラタカハシスギモノサハニオホヤケスギハルヒノカスガヲスギツマコモルヲサホヲスギ》など、六言にいへる例多ければなり、)敏馬は攝津(ノ)國にありて、菟原八部二郡の海濱に亘れり、六(ノ)卷十五(ノ)卷などにも見ゆ、三犬女《ミヌメ》、見宿女《ミヌメ》、美奴面《ミヌメ》なども書たり、○夏草之《ナツクサノ》は、枕詞なり、此は夏草の萎《ナエ》とつゞけたり、ナユ〔二字右○〕の切ヌ〔右○〕となれり、夏草之思萎《ナツクサノオモヒシナエ》とよめる如く、夏の草は繁くて、ことに萎《ナ》え靡くものなればつゞけたり、古事記衣通(ノ)王(ノ)歌に、那都久佐能阿比泥能波麻能《ナツクサノアヒネノハマノ》とあるも、泥《ネ》の言にかゝれるにて、同意なり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、○舊本左註に、一本(ニ)云、處女乎過而夏草乃野島我埼爾伊保里爲吾等者とあり、處女は敏馬の誤なるべし、十五に、誦詠古歌とて多摩藻可(93)流乎等女乎須擬?《タマモカルヲトメヲスギテ》云々とあるは、又誤を傳へたるなり、
 
251 粟路之《アハヂノ》。野島之前乃《ヌシマノサキノ》。濱風爾《ハマカゼニ》。妹之結《イモガムスベル》。紐吹返《ヒモフキカヘス》。
 
粟路之《アハヂノ》、四言一句なり、國の淡路なり、名(ノ)義は、阿波(ノ)國へ渡る、海道になる島なるよしなりと云り、○妹之結は、イモガムスベル〔七字右○〕と訓べしムスベル〔四字右○〕は結有なり、(ムスビシ〔四字右○〕とよめるはわろし、)廿(ノ)卷に、海原乎等保久和多里弖等之布等母《ウナハラヲトホクワタリテトシフトモ》、兒良我牟須敝流比毛等久奈由米《コラガムスベルヒモトクナユメ》とあり、さてすべて男の紐は其(ノ)妻の結付る事にて、四(ノ)卷に、獨宿而絶西紐緒忌見跡《ヒトリネテタエニシヒモヲユヽシミト》、世武爲便不知哭耳之曾泣《セムスベシラニネノミシソナク》、九(ノ)卷に、吾妹兒之結手師紐乎將解八方《ワギモコガユヒテシヒモヲトカメヤモ》、絶者絶十於直二相左右二《タエバタユトモタヾニアフマデニ》、十一に、菅根惻隱君結爲《スガノネノネモコロキミガムスビタル》、我紐緒解人不有《アガヒモノヲヽトクヒトハアラジ》、十二に、二爲而結之紐乎一爲而吾者解不見直相及者《フタリシテユヒテシヒモヲヒトリシテフレハトキミジタヾニアフマデハ》、又|海石榴市之八十衢爾立平之《ツバイチノヤソノチマタニタチナラシ》、結紐乎解卷惜毛《ムスベルヒモヲトカマクヲシモ》、又|眞玉就越乞兼而結鶴言下紐之所解日有米也《マタマツクヲチコチカネテムスビツルアガシタヒモノトクルヒアラメヤ》、又|高麗錦紐之結毛解不放《コマニシキヒモノムスビモトキサケズ》、齊而待杼驗無可聞《イハヒテマテドシルシナキカモ》、又|針者有杼妹之無者將著哉跡《ハリハアレドイモガナケレバツケメヤト》、吾乎令煩絶紐之緒《アレヲナヤマシタユルヒモガヲ》、十四に、筑紫奈留爾抱布兒由惠爾美知能久乃《ツクシナルニホフコユヱニミチノクノ》、可刀利乎登女乃由比思比毛等久《カトリヲトメノユヒシヒモトク》、十五に、比等里能未伎奴流許呂毛能比毛等加婆《ヒトリノミキヌルコロモノヒモトカバ》、多禮可毛由波牟伊敝杼保久之弖《タレカモユハムイヘドホクシテ》、廿(ノ)卷に、奈爾波治乎由伎弖久麻弖等和義毛古賀都氣之非毛我乎多延爾氣流可母《ナニハヂヲユキテクマテトワギモコガツケシヒモガヲタエニケルカモ》、などなほ多し、此等にて心得べし、又古事記に、垂仁天皇の、問2其(ノ)后(ニ)1曰、汝(カ)所堅之美豆能小佩者《カタメシミヅノヲヒモハ》、誰解《タレカモトカム》とあるも、誰人を后として、納《メシ》賜はむと問給ふ意を、小佩によせて詔へるにて、凡て夫の紐は、其(ノ)妻の結(ヒ)もし解もせし、ならはしなる(94)ことしられたり、(六帖に、奧山のしげ入に立てまよふとも妹が結びしひもをとかめや、)○紐吹返《ヒモフキカヘス》は、紐を風の吹翻《フキウラカヘ》すよしなり、(十(ノ)卷に、立待爾吾衣手爾秋風之吹反者《タチマツニワガコロモテニアキカゼノフキシカヘレバ》とあるは、風の自《ミヅカ》ら、幾回も吹反るよしにて別なり、)○歌(ノ)意かくれたるところなし、はげしき濱風に吹れて、もの心ぼそく、いよ/\家(ノ)妹が戀しく思ひ出らるゝに、ましてその濱風が心もせずて、また逢までは解じと、妹が結びかためたる紐をさへに、うらめしく吹翻すとの旅情、いとあはれなり、(或人問(フ)尾(ノ)句、紐吹返《ヒモフキカヘス》とあるからは、第三(ノ)句は濱風之《ハマカゼノ》とあるべき理なるに、濱風爾《ハマカゼニ》と云るは、事たがひたるやうに聞ゆるは、いかにと云り、余答へけらく、上に云たる意を、よく/\味ふべし、もし濱風之《ハマカゼノ》といひたらむには、かいなでの歌よみの詞なるべし、爾《ニ》といひたるに深き味はあり、濱風に吹れて、もの心ぼそきだにあるを、その濱風が、妹が結べる紐を吹翻す、といへる深き情をもたせたるにあらずや、その深き情をもたせたるは、爾《ニ》の言にありて、あはれふかく、味かぎりなし、一(ト)わたりによみすぐしては、此(ノ)朝臣の歌の深情は、知(ラ)れじをや、〔頭注、【歌のしるべ、あはぢのぬしまのさきの云々とあるも、あはれなる情いみじうふかし、ぬしまの崎に船はてて、ならはぬ濱風の、ひもふきかへすばかり、はげしうふきたらむには、もの心ぼそくて、家なる妹を、いと/\戀しう思ひ出るよしを、妹がむすびしといひて、しらせたるは、これもたぐひなき、上手のしわざなりけり、又たちかへり、こまやかにとかむとす、五の句、吹かへすと有にかけて思へば、三の句、濱風のといふべきことわりなるに、にといへる事たがひたるやうなれど、左にあらず、いとゞあはれなる情をそへたり、はま風にかう/\の事ありと、四五句はことわれるなり、その事は、妹がむすびし紐吹かへすといひて、かゝるにつけても、家こひしさたへがたし、といふ餘意あらはれたり、此あはれなる餘意は、にのてにをはよりいできつるぞかし、妙なりとも妙なり、かくふかき情をいひえては、はじめ(95)の五文字の、四文字にて、しらべわろきは、さておかれたるにや、又おもふに、あはぢのやとありし、や文字をうつしおとせるにやあらむ、そはとまれかくまれ、情をもとゝして、詞もうるはしく、きく人のふかくあはれとおもふべくよまれしは、げに歌のひじりなりけりといへり、歌意をきゝ得たりと云べし、但しはじめの五文字の、四文字にて、しらべわろしと思へるは、後世(ノ)意なり、五言の處を 四言にいへるは、古へめづらしからぬことなるをや〕○千載集雜(ノ)下旋頭歌に、あづまぢの野島の崎の濱風にわが紐結し妹が顔のみ面影にみゆとあるは、あまりしく今の歌の誤られしものなり、
 
252 荒栲《アラタヘノ》。藤江之浦爾《フヂエノウラニ》。鈴寸釣《スヾキツル》。白水郎跡香將見《アマトカミラム》。旅去吾乎《タビユクワレヲ》。
 
荒栲《アラタヘノ》は、藤の枕詞なり、既く一(ノ)卷に、委(ク)云り、○藤江之浦《フヂエノウラ》は、和名抄に、播磨(ノ)國明石(ノ)郡葛江、布知衣《フヂエ》、六(ノ)卷に、稻見野能大海乃原笑荒妙藤井乃浦爾鮪釣等海人船散動《イナミヌノオホウミノハラノアラタヘノフヂエノウラニシビツルトアマブネサワグ》、(井は江(ノ)字の誤なるべし、)その反歌に、射去爲登藤江乃浦爾船曾動流《イザリストフヂエノウラニフネソサワゲル》とあり、今と同處なり(新古今集に、かもめ居る藤江の浦のおきつ洲に夜舟いざよふ月のさやけさ、)○鈴寸釣《スヾキツル》(釣(ノ)字、舊本鉤に誤(レ)り、今改つ、)は鱸《スヾキ》を釣なり、鱸は、品物解に云り、○白水郎跡香將見《アマトカミラム》は、海人と見らむ歟の意なり、白水郎の字のことは、既く一(ノ)卷に委(ク)云り、契冲が、此(ノ)集に、白水をひとつにして、泉邸にもつくれり、しからば、その、ふかく入こと、黄泉にもいたるばかりなる故に、もとは泉郎にて、白水は泉(ノ)字を引分たるなるべしと云るは、中々のひがことなり、泉郎と書るは、麻呂を麿と作し類にて、白水の二字を、ひとつにせるものなるをや、)香《カ》は、將見《ミラム》の下にうつして意得べし、○旅去吾乎《タビユクアレヲ》は、旅行(ク)吾なるものをのこゝろなり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、七(ノ)卷に、網引爲流海子哉見飽浦清荒(96)磯見來吾《アビキスルアマトヤミラムアクラノキヨキアリソヲミニコシアレヲ》、また濱清美磯爾吾居者《ハマキヨミイソニアガオレバ》、見者白水郎可將見釣不爲爾《ミムヒトハアマトカミラムツリモセナクニ》、又|鹽早三磯回荷居者入潮《シホハヤミイソミニヲレバアサリ》(朝入の誤、)爲海人鳥屋見濫多比由久和禮乎《スルアマトヤミラムタビユクワレヲ》などあるは、今とよく似たり、○舊本左註に、一本(ニ)云、白栲乃藤江能浦爾伊射利爲流とあり、これも十五、誦詠古歌の中に出たり、白栲とあるは誤なり、
 
253 稻日野毛《イナビヌモ》。去過勝爾《ユキスギカテニ》。思有者《オモヘレバ》。心戀敷《コヽロコホシキ》。可古能島所見《カコノシマミユ》。
 
稻日野毛《イナビヌモ》は、播磨(ノ)國印南(ノ)郡の野にて、其(ノ)野をもといふなり、稻日は、一(ノ)卷に伊奈美國波良《イナミクニハラ》とあると同所にて、彼處に委く云り、枕册子に、野は云々稻日野、○去過勝爾《ユキスギカテニ》は、行過難くといふ意なり、過行むと思へども、おもしろくして、過行難くおもふよしなり、○思有者《オモヘレバ》(有(ノ)字活本に省と作るはわろし、)は、思へるにの意なり、○心戀敷は、コヽロコホシキ〔七字右○〕と訓べし、五(ノ)卷に、毛々等利能己惠能古保志枳《モヽトリノコヱノコホシキ》、又|故保斯苦阿利家武《コホシクアリケム》、書紀齊明天皇(ノ)大御歌に、枳瀰我梅能姑褒之枳※[舟+可]羅※[人偏+爾]《キミガメノコホシキカラニ》などあり、○可古能島所見《カコノシマミユ》、舊本に、一(ニ)云、潮見と註せり、(潮(ノ)字は誤なり、古寫本に湖とこあるに從て、ミナト〔三字右○〕と訓べし、さて水門《ミナト》に、湖(ノ)字を書るは、此(ノ)下に、枚乃湖《ヒラノミナト》、また水風《ミナトカゼ》、また此(ノ)餘、七(ノ)卷十一(ノ)卷などにも例あり、其(ノ)外の古書にも見えたり、こは漢の字義にかゝはらず、古(ヘ)此方にて用ひし字なり、椋《クラ》、椅《ハシ》、俣《マタ》、前《クマ》などの類なり、此(ノ)外も猶多し、さて路解に、加古之島といふは他に見えず、是は加古とする時は、湖とあるかたをよしとすとあるは、例のいと偏なる論なり、島あら(97)むはには、たとひ他に見えずとて、加古之島といふべからざるにあらざるをや、さればいづれをよしとも定めがたし、)可古は播磨(ノ)國賀古(ノ)郡なり、應神天皇(ノ)紀に、一(ニ)云、日向(ノ)諸縣(ノ)君牛、云々、始(テ)至2播磨(ニ)1時(ニ)、天皇幸(シテ)2淡路島(ニ)1而|遊獵《ミカリシタマフ》之、於是天皇、西望之《ニシノカタヲミサケタマヘバ》、數十麋鹿《アマタノオホシカ》浮《ヨリ》v海《ウミ》來之《マヰキテ》、便入(ヌ)2于播磨(ノ)鹿子(ノ)水門(ニ)1、天皇謂2左右1曰、其何《カレイカナル》麋鹿也、泛《ヨリ》2巨海《オホウミ》1多(ニ)來、爰(ニ)左右共(ニ)視而奇(ム)、則遣v使(ヲ)令v察、使者至見(ニ)皆人也、唯以2著角《ツヌツケル》鹿(ノ)皮1爲《セルニ》2衣服《キモノト》1耳《コソ》、問曰誰人(ソ)也、對曰、諸縣(ノ)君牛、是年耆之|雖《ドモ》2致仕《マカリヌレ》1、不《ザルガ》v得2忘《エワスレ》朝(ヲ)1故(ニ)、以2己(カ)女髪長媛1而貢上(ルトマヲシキ)矣、天皇悦(テ)之、即|喚《メシテ》令v從2御《ツカヘマツラ》船(ニ)1、是以時(ノ)人、號(ヲ)2其着(シ)v岸(ニ)之處1、曰《ナヅケキ》2鹿子水門《カコノミナトヽ》1也と見えたり、印南賀古は比郡なり、(荒木田氏は、可古は、阿古の誤なりとして、攝津(ノ)國なるよし論へれども、そはいみじきしひがごとなり、さて、阿古は、吾兒の意によみなしたりと云れど此(ノ)歌に、しかよそへたる意はさらになし、はたこゝの前後の歌を見るに、西國へ下る時の歌にて、みな播磨の地(ノ)名のみよみたれば、加古は播磨(ノ)國とせざれば、かなはずなむ、)○歌(ノ)意は、契冲云、印南野もおもしろくて過うきに、又聞およびて、見ばやと心に戀し、かこの島もみゆれば、かれへ早くゆきて見ばやとおもへば、いやしきことわざにいへる、左右の手に、うまきものもたるといふやうにて、かなたこなたにひかるゝこゝろをよめりと云り、
 
254 留火之《トモシビノ》。明大門爾《アカシオホトニ》。入日哉《イラムヒヤ》。榜將別《コギワカレナム》。家當不見《イヘノアタリミズ》。
 
留火之は、枕詞なり、トモシビノ〔五字右○〕とよめり、島崎(ノ)直好、留は燭(ノ)字の偏を脱し、蜀を留に寫し誤れ(98)るにやと云り、(故(レ)按(フ)に、即(チ)十一に鈴寸釣海部之燭火《スヾキツルアマノトモシビ》と書たり、蜀を留に誤らむことは、眞に然るべし、蜀留草書似たればなり、さて偏を脱せしにはあらで、倭文《シツ》を委文、村主《スクリ》を寸主、他田《ヲサタ》を也田と作る類に、本より省きて、蜀火と作るにもあるべし、字畫を省く事、既《サキ》に云るが如し、荒木田氏が、留はとまりといふ訓をかりたるなりとて、ともり火とよめるはいかゞ、十五に安麻能等毛之備《アマノトモシビ》、十八に、登毛之備乎《トモシビヲ》、字鏡に、炬苣(ハ)同、止毛志火《トモシビ》などありて、ともり火といへるは、例なきことなるをや、)さて燭火《トモシビ》の明《アカ》しといふ意に係れるにて、かくれたるすぢなし、○門大門爾(大(ノ)字、大須本には水と作り、其に依ば、アカシノミトニ〔七字右○〕と訓べし、今になほ舊本に從つ、)は、荒木田氏の、アカシオホトニ〔七字右○〕とよめるによるべし、明は和名抄に、播磨(ノ)國明石(ノ)(安加志《アカシ》)郡明石(安加志《アカシ》)とあり、集中には、此(ノ)卷、又六七十五の卷々などにも見えて、明石《アカシ》、赤石《アカシ》、開《アカシ》、安可志《アカシ》なども書なり、アカシノ〔四字右○〕と、ノ〔右○〕の言をいはず、直につゞけいへるは、十四に、伊奈佐保曾江《イナサホソエ》、廿(ノ)卷に、伊古麻多可禰《イコマタカネ》、などよめる類なり、○入日哉は、本居氏の、イラムヒヤ〔五字右○〕とよめるに從べし、明石の門に入ぬほどは、大和のかたも見ゆるを、彼(ノ)門にいりては、見えずなりなむといふ意なり、○榜將別《コギワカレナム》は、今まで見えたる方の、見えずなりなむといふなり、見ゆるは、即逢こゝちなれば、見えずなるを、別(ル)と云るおもしろし、○家當不見《イヘノアタリミズ》は、大和の方を、おほかたに家のあたりと云るなり、本居氏、此(ノ)句は第四(ノ)句の上にうつして意得べしと云り、源(ノ)嚴水、不は所(ノ)字の草書の寫誤に(99)て、イヘノアタリミユ〔八字右○〕と訓べし、下の歌の一本に、家門當見由《イヘノアタリミユ》とあるをも、合(セ)考(フ)べしと云り、これも通ゆ、もしさらば、句順に意得べし、○歌(ノ)意は、明石の門に榜入む時には、今まで見えし我家のあたりも、見えずなりなむかとおもふが、いとゞ名殘多しといふなり、又|所見《ミユ》とする時は、明《アカシ》の門に入む其(ノ)日に、榜別れて見えずなりなむかと思ふ、我家のあたりが見ゆるは、さてさて名ごりをしきことかなと云るなり、
 
255 天離《アマザカル》。夷之長道從《ヒナノナガチユ》。戀來者《コヒクレバ》。自明門《アカシノトヨリ》。倭島所見《ヤマトシマミユ》。
 
天離《アマザカル》は、枕詞なり、既く一(ノ)卷に出づ、○夷之長道從《ヒナノナガチユ》は、夷の長道《ナガミチ》をと云が如し、夷の事は一(ノ)卷に委(ク)云り、長道は、四(ノ)卷に、野于玉能《ヌバタマノ》云々|路之長手呼《ミチノナガテヲ》、五(ノ)卷に、國遠伎路乃長手遠《クニトホキミチノナガテヲ》、また都禰斯良農道乃長手袁《ツネシラヌミチノナガテヲ》、十二に、莫去跡《ナユキソト》云々|道之長手矣《ミチノナガテヲ》、十五に、君我由久道乃奈我?乎《キミガユクミチノナガテヲ》、廿(ノ)卷に、道乃長道波《ミチノナガチハ》、(長道《ナガチ》といふも、長手《ナガテ》といふも、通ひて同じ事なり、)神代紀に、長道磐《ナガチハノ》神といふも見えたり、從《ユ》はをに通ふ、一(ノ)卷に委(ク)云り、○倭島所見《ヤマトシマミユ》、倭島《ヤマトシマ》は、大和(ノ)國なり、島は國と云に同じ、此(ノ)下|名細寸《ナグハシキ》云云|山跡島根者《ヤマトシマネハ》、の歌の條合(セ)考(フ)べし、舊本に、一本(ニ)云、家門當見由と註せり、門は乃(ノ)字の誤なり、十五に出せるには、伊敝乃安多里見由《イヘノアタリミユ》とあり、○歌の意は、夷の長道を、家路戀しく思ひつゝ來れば、明石の門の口よりその戀しく思ふ、倭の方の遙に見ゆるが、程なくそれも見えずなりなむか、とおもふが、いとゞ名殘惜き事となり、明石(ノ)門の奧に入ぬほどは、なほ倭の方の見や(100)らるゝよしなり、(或人問、藤井(ノ)高尚の、歌のしるべと云ものに、此(ノ)歌(ノ)意を、夷の長き道のあひだを、こひつゝ來れば、明石の門よりはじめて、我すむ方の倭島見ゆ、あはれうれしさいはむ方なし、といふ意なりといへり、さることにあらずやと云り、余答へけらく、詞のおもてにては、さる意にきこえたり、しかれども、長道從《ナガチユ》の從《ユ》は、いとかろくて、長道をといふ意なること、上に云る如し、從《ヨリ》v彼《カレ》、從《ヨリ》v此《コヽ》の從《ヨリ》とは異なれば、從《ユ》の言にさのみ泥むべきにあらず、さて此(ノ)次上に、明大門爾入日哉《アカシオホトニイラムヒヤ》、とあるに思ひ合すれば、これも西國のかたへ下るにつきてよめり、と思へるがゆゑに、なほその意にとけり、よく考(フ)べし、〔頭注、【歌のしるべ、よき歌の情と云は、柿本(ノ)の大人の歌に、あまさがる ひなの長ちゆ云々、とあるを見てもしるべし、萬葉集の諸註、みなよくとき得ねば、こゝに此歌の情をときあかして、くはしくさとしてむ、はやく家にかへりて、おもふ人々にもあひ見むと、ひなの長きみちのあひだ日數へて、夜晝こひつゝくれば、明石のとよりはじめて、我すむ方のやまと島見ゆ、あはれうれしさいはん方なし、といへる心なり、一うたの、おもての詞の、ことわりのかたにつきては、三の句、こひくるにといふべき事ぞ、その故は、こひつゝ來ずとも、あかしのとにいたりては、やまとしまは見ゆべければなり、さるをこひくればといひて、やまとしま見ゆといひとぢめたるは、あはれうれしさいはむかたなし、といふ餘情をしらせたるなり、かゝることたれかはおよぶべき、〕
 
256 飼飯海乃《ケヒノウミノ》。庭好有之《ニハヨクアラシ》。苅薦乃《カリコモノ》。亂出所見《ミダレイヅミユ》。海人釣船《アマノツリブネ》。
 
飼飯海乃は、ケヒノウミノ〔六字右○〕なり、度會(ノ)正柯云、淡路に飼飯野《ケヒノ》といふ地あり、といへりと荒木田氏云り、さらば其(ノ)處の海をいふなるべし、猶悉(ク)國人に問(フ)べし、(越前(ノ)國敦賀(ノ)郡|笥飯《ケヒ》はさらにここによしなし、)さて飼(ノ)字は、契冲が、笥の誤なるべしといひ、誰も然思ふことなれど、(越前なる(101)も笥飯と、書紀に書ればなり、)十二に、飼飼乃浦《ケヒノウラ》、四(ノ)卷に、得笥飯而雖宿《ウケヒテヌレド》など見えたれば、ことごとく誤字とはいひがたし、(されば古(ヘ)、笥飼通(ハシ)用ひしかとも思へど、さにもあらじ、)さていづれも、飼飯とのみ連ね書るによりて、つら/\考(フ)るに、畜類を飼(フ)料の飯米を、古へ飼飯《ケイヒ》とぞいひけむ、(カヒ〔二字右○〕の切キ〔右○〕なるを、ケ〔右○〕に轉して、ケヒと云るなるべし、)畜を氣毛能《ケモノ》といふも、飼物《カヒモノ》の義なるを思(ヒ)合すべし、さてしか、爾來《ムカシヨリ》書連ねし字なるから、地(ノ)名にも、何にも、其(ノ)まゝに用ひたるならむとこそ、おもはるれ、○庭好有之《ニハヨクアラシ》は、庭《ニハ》とは波濤《ナミ》の和《ナギ》て、海上の平かなるを、庭《ニハ》とも庭好《ニハヨシ》とも庭淨《ニハキヨシ》とも云り、(十一に、庭淨奧方榜出海舟乃《ニハキヨミオキヘコギヅルアマブネノ》、執梶間無戀爲鴨《カヂトルマナクコヒモスルカモ》、)有之《アラシ》は有良之《アルラシ》と云が如し、その良之《ラシ》は推(シ)量(リ)ていふ辭にて、(俗に、そうなといふにあたれり、)さだかにしかりとは知(ラ)れねど、十に七八はそれならむ、とおぼゆるをいへり、○苅薦乃《カリコモノ》は、枕詞なり、四(ノ)卷に、刈薦之亂而念《カリコモノミダレテオモフ》、十一に、苅薦之念亂而《カリコモノオモヒミダレテ》、十五に、可里許母能美太禮弖於毛布《カリコモノミダレテオモフ》など猶あり、古事記允恭天皇(ノ)條(ノ)歌に、加里許母能美陀禮婆美陀禮《カリコモノミダレバミダレ》、古今集十一に、刈蒋《カリコモ》の思(ヒ)亂(レ)て我(カ)戀と、妹知(ル)らめや人し告ずばとあり、此は刈たる蒋は、亂れ混ふものなれば、かくつゞけたるにて、かくれなし、又同集に、まめなれど何そはよけく苅草《カルカヤ》の、亂れてあれど惡けくもなし、ともよめり、○亂出所見《ミダレイヅミユ》(出(ノ)字、類聚抄に而と作るはわろし、)は、舟どもの散々に榜出るが見ゆとなり、亂《ミダレ》は十二に、松浦舟亂穿江之水尾早《マツラブネミダルホリエノミヲハヤミ》。ともよめり、○海人釣船《アマノツリブネ》(釣(ノ)字、舊本鉤に誤れり、)は、十八に、安麻能都里夫禰《アマノツリブネ》、和名抄に、(102)唐韻(ニ)云、※[舟+乍]※[舟+孟]、小漁舟也、和名|豆利布禰《ツリブネ》とあり、○歌(ノ)意は、明石の方より遙に見やるに、多くの釣舟どもの、散(リ)々に榜出るが見ゆるは、飼飯の海の波濤《ナミ》の和《ナギ》て、海上の平かなるらしとなり、ただ目に見たるけしきを、そのまゝに云るのみなるに、今も打誦に、そのさまおのづから、目(ノ)前にうかびつゝ、見るやうにおぼえて、且家路を戀しく思ひて、倭の方を見やりたる意、言外にあふれたり、
〔一本云。武庫乃海《ムコノウミノ》。舶爾波有之《フネニハアラシ》。伊射里爲流《イザリスル》。海部乃釣船《アマノツリブネ》。浪上從所見《ナミノヘユミユ》。〕
武庫乃海《ムコノウミ》は、攝津(ノ)國にあり、下に至りて註べし、○舶爾波有之《フネニハアラシ》(舶(ノ)字、類聚抄拾穗本等に、舳と作るはいかゞなり、)は、船にてあるらしの意なり、波上に浮びて見ゆるは、武庫の海人の釣船にて有らしと、おしはかりたるなり、爾波《ニハ》と云るは、他方の海人の、船にはあらじとの意なり、爾波《ニハ》は他方にむかへいふ辭なり、此(ノ)句十五に載たるに、爾波余久安良之《ニハヨクアラシ》とあるは、理たしかなるに似たり、(本居氏(ノ)説に、フナニハナラシ〔七字右○〕とよみて、ふなにはとは、舟を出すにはよきのどかなる時を云なり、今の言にて云(ハ)ば、ふなびよりと云むが如し、と云るは、例もなきひがことなり、はた有之も、こゝはナラシ〔三字右○〕とはよみがたきをや、○浪上從所見《ナミノヘユミユ》は、浪(ノ)上に見ゆるなり、從《ニ》は爾《ニ》といはむが如し、既く一(ノ)卷に委(ク)云り、
 
鴨君足人香具山歌一首并短歌《カモノキミタリヒトガカグヤマノウタヒトツマタミジカウタ》。
 
(103)鴨君足人は、傳詳ならず、○香具山歌、こは高市皇子尊薨賜ひて後、香具山(ノ)宮の荒たるさまを作るなり、
 
257 天降付《アモリツク》。天之芳來山《アメノカグヤマ》。霞立《カスミタツ》。春爾至婆《ハルニイタレバ》。松風爾《マツカゼニ》。池浪立而《イケナミタチテ》。櫻花《サクラバナ》。木晩茂爾《コノクレシゲミ》。奧邊波《オキヘニハ》。鴨妻喚《カモツマヨバヒ》。邊津方爾《ヘツヘニ》。味村左和伎《アヂムラサワキ》。百磯城之《モゝシキノ》。大宮人乃《オホミヤヒトノ》。退出而《マカリデテ》。遊船爾波《アソブフネニハ》。梶棹尾《カヂサヲモ》。無而不毛《ナクテサブシモ》。己具人奈四二《コグヒトナシニ》。
 
天降付《アモリツク》は、天より天降りて、此(ノ)國土に著たる由なり安母理《アモリ》の言は、二(ノ)卷に出づ、香具山の天降りし所由は、一(ノ)卷に風土記を引ていへり、○春爾至婆《ハルニイタレバ》は、春になればと云が如し、十七にも露霜乃安伎爾伊多禮波《ツユシモノアキニイタレバ》と見えたり、○池浪立而《イケナミタチテ》(浪(ノ)字、拾穗本に、津と作るはいかゞ、)は、埴安の池浪發てといふなり、○木晩茂爾、(木の下拾穗本に乃(ノ)字あり、)爾は彌(ノ)字の誤なり、コノクレシゲミ〔七字右○〕と訓べし、木晩は、櫻の花開(キ)、若葉|芽出《モエイデ》て、木闇《コグラ》きをいふ、十八に、多胡乃佐伎許能久禮之氣爾保登等藝須《タコノサキコノクレシゲニホトヽギス》、伎奈伎等余末婆波太古非米夜母《キナキトヨマバハタコヒメヤモ》、(この之氣爾《シゲニ》は、繁みにといふ意か、はたこれも、爾は彌の誤にて、霍公鳥の繁く鳴に、いひかけたるか、)十九に、許能久禮乃繁思乎《コノクレノシゲキオモヒヲ》、廿(ノ)卷に、許乃久禮能之氣伎乎乃倍乎《コノクレノシゲキヲノヘヲ》などあり、茂彌《シゲミ》は、俗に茂《シゲ》んでといはむが如し、(略解に、爾は彌の誤なることをしらで、此句の下、二句ばかり脱たるか、と云るはひがことなり、)猶この彌の辭の例は、首(ノ)卷に委(ク)云り、○奧邊波《オキヘニハ》は、池の奧方にはなり、古(ヘ)は海のみに限らず、河池などにも、岸より(104)遠く隔りたる方をば、奧と云るなり、此(ノ)下に、吉野川奧名豆颯《ヨシヌノカハノオキニナヅサフ》、十六に、猪名川之奧乎深目而《ヰナカハノオキヲフカメテ》などあり、古今集に、ながれ出る方だに見えぬ涙川沖ひむ時や底は知(ラ)れむ、とも見ゆ、(後ながら西行が、廣瀬川わたりの奧《オキ》の水脈つ串水かさそふらし五月雨の比、早瀬川綱手の岸を奧にみてのぼり煩ふ五月雨の比、とよめり、)○鴨妻喚は、カモツマヨバヒ〔七字右○〕と訓べし、(舊本にカモメヨバヒテ〔七字右○〕とよめるはわろし、又荒木田氏は、カモメツマヨビ〔七字右○〕とよみて、其(ノ)説に、燕を、つばとも、つばめとも云類にて、鴨にめの言をそへて、かものつまよびと訓べし、さて燕《ツバメ》鴎《カモメ》のめは群《ムレ》の約めにて、下に味村佐和伎《アヂムラサワキ》とある村《ムラ》も同言なり、一(ノ)卷の香山(ノ)歌にも加万目《カマメ》とあれば、かならずかもめなるべく、鴨は假字とすべしと云るは、いと/\まぎらはしき説なりけり、燕を、つばとも、つばめとも云類にて、鴨にめの言をそへて、云々と云るを見れば、鴨と鴎と、一種と心得しにやとおもへば、又下に、鴨は假字とすべしと云るも、其(ノ)意を得ず、且《マタ》古(ヘ)は、鴎は加万米《カマメ》とこそいひたれ、右の説は、かにかくに論(フ)にたらず、)○味村左和伎《アヂムラサワキ》は、阿遅鴨《アヂカモ》といふ鳥の群の散動《サワグ》といふなり、味鴨の事は品物解に委(カ)云り、○百磯城之《モヽシキノ》(磯(ノ)字、拾穗本には礒と作り、)は、枕詞なり、一(ノ)卷に出づ、○大宮人乃《オホミヤヒトノ》は、王卿百(ノ)官人等のと云なり、○退出而《マカリデテ》は、大宮(ノ)内より罷り出てといふなり、罷《マカル》といふことは參《マヰル》の反《ウラ》にて、宮内より外に出退くことに云り、○遊船爾波《アソブフネニハ》は、過去し時の事をいふなれば、遊びし船には、といふべきが如くなれども、かく云るぞ、かへりてお(105)もしろき、是は用言《ハタラキコト》の髄《ヰコト》にて、(俗にいはゞ、遊ぶべきあたりまへの船には、といふ意にきこゆる詞なり、)媛女乃袖吹反明日香風《ヲトメノソデフキカヘスアスカカゼ》といへると同例なり、爾波《ニハ》は他の方にむかへいふ詞なり、上に云り、○梶棹毛《カヂサヲモ》(梶(ノ)字、拾穗本には楫と作り、)は、梶棹さへもといふ意なり、梶棹《カヂサヲ》とも棹梶《サヲカヂ》とも連云たり、十(ノ)卷に、揖棹無而《カヂサヲナクテ》、古事記仲哀天皇(ノ)條に、不《ズ》v乾《ホサ》2船腹《フナバラ》1、不v乾2※[舟+施の旁]楫《サヲカヂ》1、書紀敏達天皇(ノ)卷に、※[楫+戈]櫂《カヂサヲ》、祈年祭(ノ)祝詞に、棹枚不干《サヲカヂホサズ》などあり、梶は既く云り、梶(ノ)字は樹※[木+少](ナリ)と注《イヒ》て、加遲《カヂ》にあたる義は、字書に見えず、椋※[]《クラ》、椅《ハシ》、俣マタ《》、前《クマ》などの類なるべし、棹は和名抄に、※[木+蒿](ハ)棹竿也、刺v船(ヲ)竹也、和名|佐乎《サヲ》とあり、○不樂毛《サブシモ》は、佐夫之《サブシ》は苦々《ニガ/\》しといふが如し、一(ノ)卷に云り、續紀に、寶龜二年、左大臣藤風(ノ)永手(ノ)朝臣、薨坐る時の詔詞に、佐夫之支事乃未之《サブシキコトノミシ》、彌可益加母《イヨヽマスベキカモ》とあり、毛《モ》は歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意かくれなし、香山(ノ)宮の荒たるを、ふかく歎きたるなり、
 
反歌二首《カヘシウタフタツ》。
 
258 人不榜《ヒトコガズ》。有雲知之《アラクモシルシ》。潜爲《カヅキスル》。鴦與高部共《ヲシトタカベト》。船上住《フネノヘニスム》。
 
有雲知之《アラクモシルシ》は、有(ル)も著(ル)しの伸りたるにて、(良久《ラク》は留《ル》と切る、)有やうも著《シル》しといふ意なり、○潜爲《カヅキスル》は、頭漬爲《カヅキスル》にて、既く二(ノ)卷に云り、○鴦與高部共《テシトタカベト》は鴛鴦《ヲシ》と※[爾+鳥]《タカベ》と、共にといふなり、共に鳥(ノ)名にて、品物解に云う、(赤染衛門(ノ)集に、水鳥は鴦も高部もかよひけり蘆鴨のみはすまぬなるべし、惠慶法師(ノ)集に、見る人はおきつ荒浪うとけれどわざとなれぬる鴦高部かも、)○船上住(住(ノ)字、活(106)字本異本等に位と作り、さらばヰル〔二字右○〕と訓べけれど、なほ住とあるぞ宜しき、)はフネノヘニスム〔七字右○〕と訓べし、(フナノヘ〔四字右○〕と訓(マ)むはわろし、)○歌(ノ)意かくれなし、
 
259 何時間毛《イツノマモ》。神左備祁留鹿《カムサビケルカ》。香山之《カグヤマノ》。鉾椙之本爾《ホコスギノモトニ》。薛生左右二《コケムスマデニ》。
 
何時問毛《イツノマモ》は、何《イツ》の間にものこゝろなり、毛《モ》は歎息(ノ)辭なり、此は鹿《カ》の下にうつして意得べし、○神左備祁留鹿《カムサビケルカ》は、神さびける事にかもといふ意なり、神左備《カムサビ》は、年経て神々《カウ/\》しくなれるさまを云、○香山之《カグヤマノ》、官本に香久山之とあれど、(清音の久(ノ)字を用ること、)例にもたがひたればわろし、○鉾椙之本爾《ホコスギノモトニ》は、鉾杉《ホコスギ》の木《キ》にと云が如し、鉾椙は、杉の若木の、梓の長さばかりあるが、且《マタ》桙の形にも似たれば、云なるべし、(略解に、杉の若木は、桙の如くなればいふと云、荒木田氏は、桙の如く立る杉なりと云れど、共に盡さず、)猶|須疑《スギ》といふ名(ノ)義、又椙(ノ)字を用ることなど品物解に甚委(ク)云り、十九にも椙野《スギノヌ)とあり、(二(ノ)卷に、子松之末爾蘿生萬代爾《コマツガウレニコケムスマデニ》とあれば、こゝも本は末の誤なり、と云説あれど、そは中々に偏りたることなり、)本は木と云に同じ、○説生左右二は、コケムスマデニ〔七字右○〕と訓べし、薛《コケ》は品物解に云り、生を牟須《ムス》と云ことも、既く云り、○歌(ノ)意は、高市(ノ)皇子(ノ)尊の薨ましゝは、きのふけふの事とおもふに、はやさきに見し、香山の若木の桙※[木+温の旁]に、薛の生までに、いつの間に年を經て、かく神々しく神さびけることにか、さてもかなしやとなり、上(ノ)件の歌どもは、皇子(ノ)尊の薨まして後、年經てこゝに來てよめるなり、
(107)〔或本歌云。260 天降就《アモリツク》。神乃香山《カミノカグヤマ》。打靡《ウチナビク》。春去來者《ハルサリクレバ》。櫻花《サクラバナ》。木晩茂《コノクレシゲミ》。松風丹《マツカゼニ》。池浪※[風+火三つ]《イケナミタチ》。邊津返者《ヘツヘハ》。阿遲村動《アヂムラサワギ》。奧邊者《オキヘニハ》。鴨妻喚《カモツマヨバヒ》。百式乃《モヽシキノ》。大宮人乃《オホミヤヒトノ》。去出《マカリイデヽ》。榜來舟者《コギニシフネハ》。竿梶母《サヲカヂモ》。無而佐夫之毛《ナクテサブシモ》。榜與雖思《コガムトモヘド》。〕
神乃香山《カミノカクヤマ》は、即(チ)香山を神と云るなり、信に香山は、神と云べき山にぞありける、○打靡は、ウチナビク〔五字右○〕と訓べし、廿(ノ)卷に、宇知奈婢久波流乎知可美可《ウチナビクハルヲチカミカ》、また打奈婢久波流等毛之流久《ウチナビクハルトモシルク》とあり、草木の若枝のしなやかに、打靡く、春と係りたる詞なり、○晩(ノ)字、拾穗本には暗と作り、○返(ノ)字、拾穗本には遍と作り、○動は、サワキ〔三字右○〕と訓べし、(略解に、とよみとよみたれど、味村に、とよみと云る例なきことぞ、)○榜來舟者は、來は去の誤にて、コギニシフネハ〔七字右○〕なるべし、と荒木田氏云り、○梶(ノ)字、拾穗本には楫と作り、○舊本此間に、右今案遷都寧樂之後怜舊作此歌歟、と註したるは、最後人のわざなれば削去つ、上に云る如く高市(ノ)皇子(ノ)尊薨後、香具山(ノ)宮の荒たるさまを云るなれば、遷都にはかゝはるべからず、
 
柿本朝臣人麻呂《カキノモトノアソミヒトマロガ》。獻《タテマツレル》2新田部皇子《ニヒタベノミコニ》1歌一首并短歌《ウタヒトツマタミジカウタ》。
 
新田部(ノ)皇子は、天武天皇紀に、藤原(鎌足)大臣(ノ)女、五百重(ノ)娘、生2新田部(ノ)皇子(ヲ)1、續紀に、文武天皇四年正月、授2新田部(ノ)皇子(ニ)淨廣貳(ヲ)1、慶喜元年正月、三品新田部(ノ)親王益2對百戸(ヲ)1、四年十月、二品新田部(ノ)親王爲2造御竈司(ト)1、元明天皇和銅七年正月、益2封二百戸(ヲ)1、元正天皇養老三年十月、詔曰、云々、其賜2新(108)田部(ノ)親王(ニ)、内舍人二人、大舍人四人、衛士二十人(ヲ)1、益2封五百戸(ヲ)1、通v前(ニ)一千五百戸、四年八月、詔、新田部(ノ)親王(ヲ)爲2知五衛及授刀舍人事(ト)1、聖武天皇神龜元年二月、二品新田部(ノ)親王(ニ)授2一品(ヲ)1、五年秋七月、勅、一品大將軍新田部(ノ)親王(ニ)授2明一品(ヲ)1、天平三年十一月丁卯、始置2畿内惣管、諸道鎭撫使(ヲ)1、以2一品新田部(ノ)親王(ヲ)1、爲2大惣官(ト)1、七年九月壬午、一品新田部(ノ)親王薨云々、親王(ハ)、天(ノ)渟中原瀛(ノ)眞人(ノ)天皇之第七皇子也とあり、
 
261 八隅知之《ヤスミシヽ》。吾大王《ワガオホキミ》。高輝《タカヒカル》。日之皇子《ヒノミコ》。茂座《シキマス》。大殿於《オホトノヽヘニ》。久方《ヒサカタノ》。天傳來《アマヅタヒクル》。白雪仕物《ユキジモノ》。往來乍《ユキカヨヒツヽ》。益及常世《イヤシキイマセ》。
 
日之皇子《ヒノミコ》は、新田部(ノ)皇子を申す、○茂座《シキマス》は、(茂は借(リ)字、)敷座なり、○久方《ヒサカタノ》は、枕詞なり、既く出づ、以下三句は、往《ユキ》をいはむ料の序なり、○天傳來《アマヅタヒクル》は、天をつたひて降(リ)來るよしなり、○白雪仕物(白(ノ)字、舊本に自と作るは誤なり、活字本異本等に從つ、)はユキジモノ〔五字右○〕と訓べし、たゞ雪のことなり、仕物《ジモノ》の例は、一(ノ)卷に委(ク)云り、こゝは往《ユキ》と疊いはむ序に云るなり、六(ノ)卷に、吾屋戸乃君松樹爾零雪乃行者不去待西將待《ワガヤドノキミマツノキニフルユキノユキニハユカジマチニシマタム》、十四に、可美都氣努伊可抱乃禰呂爾布路與伎能遊吉須宜可提奴伊毛賀伊敝乃安多里《カミツケヌイカホノネロニフロヨキノユキスギカテヌイモガイヘノアタリ》、などよめる類なり、○往來乍は、ユキカヨヒツヽ〔七字右○〕、と荒木田氏のよめるに從べし、○益及常世は、常は座の誤、にて、イヤシキイマセ〔七字右○〕と訓べし、と荒木田氏云り、按(フ)に、益及《イヤシキ》は(及《シキ》は、敷座《シキマス》の敷《シキ》にはあらず、)彌重《イヤシキ》にて、彌重《イヨ/\シキ》りにといふ意なり、彌重《イヤシキ》と云るは、四(ノ)卷に、春(109)之雨者彌布落爾《ハルノアメハイヤシキフルニ》、五(ノ)卷に、美也古彌婆伊夜之吉阿何微麻多越知奴倍之《ミヤコミガイヤシキアガミマタヲチヌベシ》、(彌重吾身《イヤシキアガミ》といふなり、これを、古來《ムカシヨリ》、賤き吾身といふ事に、意得たるは誤なり、猶彼處にいふべし、)十八に、都禰比登能伊布奈宜吉思毛伊夜之伎麻須毛《ツネヒトノイフナゲキシモイヤシキモスモ》、十九に、霍公鳥伊也之伎喧奴《ホトヽギスイヤシキナキヌ》、又|鳴鷄者彌及鳴杼《ナクカケハイヤシキナケド》、廿(ノ)卷に、家布敷流由伎能伊夜之家餘其騰《ケフフルユキノイヤシケヨゴト》などあり、さればこゝは、彌《イヨ/\》重《シキ》りに往來《カヨヒ》つゝ、此(ノ)殿におはしませといふ意なり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、此(ノ)皇子、飛鳥(ノ)八釣山に別荘のありて、藤原(ノ)都より、往かひましゝなるべし、さてその別荘にましますほど、人麻呂の參りあひたるに、折しも雪の降けるに、其(ノ)興に乘じて、皇子の年長く、往かひ領知座《シリオハシマサ》むことを、祝てよめるなり、(略解に、降しく雪のごとくに、年つもりて榮えませといふなり、といへれど、むつかし、白雪仕物《ユキジモノ》は、ただ往といはむために、目(ノ)前の景を云るのみなり、
 
反歌一首《カヘシウタヒトツ》。
 
262 矢釣山《ヤツリヤマ》。木立不見《コダチモミエズ》。落亂《フリミダル》。雪驪《ユキニサワキテ》。朝樂毛《マヰラクヨシモ》。
 
矢釣山《ヤツリヤマ》(矢釣、活字本には矣駒、仙覺抄には矢駒、人磨勘文には伊駒と作り、皆わろし、)は、大和(ノ)國高市(ノ)郡に八釣村あり、そこなるべし、顯宗天皇(ノ)紀に、召(テ)2公卿百寮(ヲ)於近(ツ)飛鳥(ノ)八釣(ノ)宮(ニ)1、即天皇位《アマツヒツギシロシメス》と見えたり、○雪驪は、解難し、字の誤などあるべし、(略解に、驪は、駁(ノ)字の誤か、しからばはだらと訓べし、といへれどいかゞ、抑々まだらは班、はだらは離にて、各別なる言なり、猶下に委く云む(110)を見て辨ふべし、また岡部氏は、驪は、※[足+麗]の誤なるべし、※[足+麗]は、字書に、履不v著v※[足+良](ヲ)、曳之而行、言2其遽(ヲ)1也とあれば、きほひてと訓べしと云れど、きほひといふ詞は、物に對ひて競《アラソ》ふ意の詞にて、ただに行《ユクコト》の、遽《トキ》をいふことならねば、※[足+麗](ノ)字も迂《トホク》やあらむ、又しか遠き字を用ひたりとせむことも、集中の例にたがひていかゞなり、さればこれは、かいなでの人の歌にもあらねば、角|矯《ナホ》さむとて、牛ころすといふ諺《コト》の恐もあるべければ、強たる説いはむよりは、中々にもだりてあるべきか、しかれども力(ラ)及ばじとて、黙《ナホ》あらむには、つひによき考(ヘ)も出來まじければ、打かへして、思ふべきことにはあるなり、)故(レ)案(フ)に、驪は、驟(ノ)字の誤なるべし、驪と驟とは、草書の體かりそめに見別がたく、甚まぎらはしければ、誤りたるものなるべし、驟(ノ)字(ハ)佐和久《サワク》と訓て、集中に甚多く用ひたり、されば雪驟は、ユキニサワキテ〔七字右○〕と訓べし上に云たる如く、養老三年に、此(ノ)皇子に、内舍人二人大舍人四人衛士二十人を賜へるよし見え、同じ四年に、知五衛及授刀舍人事とさへ爲賜ふとあれば、數多の舍人が類雪に驟《サワ》きて、八釣(ノ)宮に朝參侍《マヰリサモラ》ひしさま、思ひやるべし、又此(ノ)下に、皇子乃御門乃五月蠅成驟騷舍人者《ミコノミカドノサバヘナスサワクトネリハ》、とあるをも合(セ)見て、いよ/\驟《サワク》といふべきを思(フ)べし、○朝樂毛は、樂の下に、吉(ノ)字などの脱たるものなるべし、朝は十八に、朝參乃伎美我須我多乎《マヰリノキミガスガタヲ》とありて、朝參の意をもて書(キ)、樂は老樂《オユラク》、戀樂《コフラク》など、良久《ラク》の假字に多く用ひたれば、朝樂にて、マヰラク〔四字右○〕と訓べし、さてその良久《ラク》は、留《ル》の伸りたる言にて、(良久《ラク》は留《ル》と切る、)參る事(111)のといふ意なり、吉《ヨシ》は、皇子の御繁榮を稱へたるにて、毛《モ》は、歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、八釣山の木立も見えぬばかりに、雪の降みだるゝに、其|勞《イタツキ》をも忘れて、數多の舍人衛士がともがらの、驟《サワ》き立て、朝參《マヰ》り仕へ侍ふを見れば、眞に皇子の御繁榮は、めでたく貴くおはします事となり、
 
刑部垂麿《オサカベノタリマロガ》從《ヨリ》2近江國《アフミノクニ》1上來時作歌一首《マヰノボルトキヨメルウタヒトツ》。
 
刑部(ノ)垂磨、(此(ノ)四字、舊本時の下にあるは、此(ノ)卷の例にたがへり、いまは目録に從つ、)刑部は氏にて、忍坂部なり、和名抄に、大和(ノ)國城上(ノ)郡忍坂(於佐加《オサカ》、)とある、其(ノ)郷より出たる氏なるべし、刑部と書は、同抄に、伊勢(ノ)國三重(ノ)郡、遠江(ノ)國引佐(ノ)郡、備中(ノ)國賀夜(ノ)郡、英賀(ノ)郡などに、刑部と書る郷(ノ)名ありて、皆|於佐賀倍《オサカベ》と註せり、さて忍坂部を刑部と書故は、本居氏、忍坂(ノ)郷の人等の、刑部《ウタヘ》の職に仕奉りしことのありしより、やがて其(ノ)職の名の字を書ならへるなり、されば於佐加辨《オサカベ》と云名は、忍坂部にて、刑部《ウタヘノ》職には由あるに非ず、本は別なり、然るを於佐加辨《オサカベ》を、本より刑部の職(ノ)名と心得るは、非なりと云り、垂麻呂は、傳詳ならず、
 
263 馬莫疾《アガマイタク》。打莫行《ウチテナユキソ》。氣並而《ケナラベテ》。見?毛和我歸《ミテモアガユク》。志賀爾安良亡國《シガニアラナクニ》。
 
馬莫疾は、誤字あるべし、(馬莫疾《ウマナイタク》とては、莫行《ナユキソ》の莫《ナ》に重なりて、無用言となれば、決(メ)て非《ワロ》し、)故(レ)按(フ)に、吾馬疾とありしを、吾の草書、〓と作るを〓と見、且《マタ》次の莫行の莫にまがへなどして、つひ(112)に莫と寫し誤れるなるべし、さて莫馬とは云まじければとて、さかしらに倒置《イレカヘ》て、舊本の如くはなれるなるべし、かくて吾馬疾は、アガマイタク〔六字右○〕と訓べし、十七に、許乃安我馬乃安我枳乃美豆爾《コノアガマノアガキノミヅニ》、とあるをも思(ヒ)合(ス)べし、○打莫行《ウチテナユキソ》は、馬の口とれる者に令《オホ》するなり、○氣並而《ケナラベテ》は、氣《ケ》は氣長《ケナガク》の氣《ケ》に同じく、來經《キヘ》の約まれる言にて、日數を並重ねてといふことなり、○志賀爾安良亡國《シガニアラナクニ》(亡(ノ)字、舊本に七と作るは誤なり、今は一本に從つ、)は、志賀にてあらぬことなるをといふなり、志賀は近江(ノ)國にて、名高き志賀なり、○歌(ノ)意は、志賀の風景の、あかずおもしろきを、日數をならべて、見愛て行べき處にもあらざれば、馬をとゞめて、しばし見てゆかむとおもふぞ、馬をいたく打はやめて、ゆくことなかれと云るなり、
 
柿本朝臣人麻呂《カキノモトノアソミヒトマロガ》。從《ヨリ》2近江國《アフミノクニ》1上來時《マヰノボルトキ》。至《イタリテ》2宇治河邊《ウヂカハノホトリニ》1作歌一首《ヨメルウタヒトツ》。
 
宇治河は、山城(ノ)國宇治(ノ)郡の河なり、既く出つ、
 
264 物乃部能《モノノフノ》。八十氏河乃《ヤソウヂカハノ》。阿白木爾《アジロキニ》。不知代經浪乃《イサヨフナミノ》。去邊白不母《ユクヘシラズモ》。
 
物乃部能《モノノフノ》(乃(ノ)字、類聚抄には无、)は、枕詞なり、一(ノ)卷に委(ク)注り、○八十氏河乃《ヤソウヂカハノ》、既く一(ノ)卷に出つ、○阿《ア》
 
白木爾《アジロキニ》は、阿白は(借(リ)字、)氷魚《ヒヲ》取(ル)料の網代にて、代は壁代《カベシロ》垣代《カキシロ》など云る類にて、其(レ)ならぬものを、其(ノ)代《カハリ》にするをいふ、(壁ならぬものをもて、其代にするを壁代《カベシロ》といひ、垣ならぬものをもて、其(ノ)代にするを垣代《カキシロ》といふ如く、)此(レ)も網ならぬものを以て、其代にする意にて、網代木《アジロキ》とは云る(113)なり、さて網代木と云ものは、冬の節、急流の中に、水上を廣く下を狹く、網を引たる形に、左右に透間なく杙を打て、其(ノ)下に、あじろ簀《ス》とて、床を水に漬るほどに作りて、さてその網代なる杙木の内へ、せかれて流入浪の、床の簀(ノ)子に打よすれば、水は漏て入たる氷魚のみ殘るを、夜夜篝火を燃して守居る者の、居ながらに取とぞ、されば正しくは、網代木と云べきを、網代とのみ云ても、其(ノ)物と聞ゆる事になれるなるべし、田上宇治、もはらこの網代に名あるところなり、内膳式に、山城近江(ノ)國、氷魚網代各一所、其(ノ)氷魚、始2九月(ニ)1、迄2十二月三十日1、貢之とあり、七(ノ)卷に、氏河齒與杼湍無之阿自呂人舟召音越乞所聞《ウヂカハハヨドセナカラシアジロヒトフネヨバフコヱヲチコチキコユ》また氏人之譬之足白吾在者今齒王良増木積不來友《ウヂヒトノタトヒノアジロアレシアラバイマハヨラマシコヅナラズトモ》、○不知代經浪乃《イサヨフナミノ》は、猶豫浪之《イサヨフナミノ》なり、(不知代經は、皆借(リ)字なり、)流れ行むとする浪の、流れやらで、しばしやすらふを、いさよふ浪といふ、いさよふ月といふも、出むとする月の、出やらで、しばしやすらふをいふにて、其(ノ)意を得つべし、○歌(ノ)意かくれたるところなし、(新古今集に、網代木にいさよふ浪の音ふけて獨やねぬる宇治の橋姫、)此は打聽えたるまゝにて、他によそへたる意も何もなきを、今打誦に、其(ノ)處の景の目の前にうかびて、見るやうに思はるゝは、上手の作なればなるべし、(然るを契冲が、世(ノ)中の無常をたとへたる意に、解なせるより、誰もしか意得來れるは、作者の意にそむけり、(七(ノ)卷|攝津作歌《ツノクニウタ》に、大伴之三津之濱邊乎打曝《オホトモノミツノハマヘヲウチサラシ》、因來浪之逝方不知毛《ヨセクルナミノユクヘシラズモ》、とよめるも同じ、
 
(114)長忌寸奧麻呂歌一首《ナガノイミキオキマロガウタヒトツ》。
フリクルアメ
 
265 苦毛《クルシクモ》。零來雨可零來雨可《フリクルアメカ》。神之埼《カミノサキ》。狹野乃渡爾《サヌノワタリニ》。家裳不有國《イヘモアラナクニ》
カシ
 
苦毛《クルシクモ》の毛《モ》は、恐母《カシコクモ》奇母《クシクモ》などいふ母《モ》に同じ、○零來雨可《フリクルアメカ》は、降來雨哉《フリクルアメカナ》といふなり、今まで降ざりし雨の降來たるが、甚苦しきさまなり、○神之埼は、カミノサキ〔五字右○〕と訓べし、七(ノ)卷に、神前荒石毛不所見浪立奴《カミノサキアリソモミエズナミタチヌ》とあると同所と見ゆ、(これらをともに、ミワガサキ〔五字右○〕とよみたるはわろし、鎌倉(ノ)右大臣の歌に、みわの崎佐野の渡の雨の夕ぐれ、とよまれしを思へば、やゝ古くより、しかよめりと見ゆるを、凡て神(ノ)字をミワ〔二字右○〕とよむは大神《オホミワ》にかぎりたることゝこそおもほゆれ、)さて神(ノ)埼は、紀伊(ノ)國牟屡(ノ)郡熊野に在て、神武天皇(ノ)紀に、遂(ニ)越(テ)2狭野(ヲ)1、到2熊野神邑《クマヌノカミノムラニ》1、と見えたる、そこの埼をいふなるべし、(元亨釋書四(ノ)卷(ニ)云、釋(ノ)明算、姓(ハ)佐藤氏、紀州神(ノ)崎人、)通證(ニ)云、熊野(ノ)神(ノ)邑(ハ)、俗(ニ)名2神藏(ト)1處疑(ハ)是也、距2狹野(ヲ)1二里許、在2新宮(ノ)地方(ニ)1とあり、(續古今集に三熊野の神藏山の石疊登りはてゝも猶祈る哉とあり、平家物語熊野參詣の事の條に、明れば本宮より舟にのり、新宮へぞ參られける、神の藏を拜み云々、あすかのやしろふし拜み、狭野の松原さし過て、那智の御《オ》山に參り給ふ、○こゝに或人問けらく、本居氏(ノ)説に、今みわが崎と云は、紀伊(ノ)國牟婁(ノ)郡にて、新宮より、那智へ行道の海邊なり、新宮より、今の道一里半許ありて、其(ノ)つゞきに佐野村も有といへり、此(ノ)説略解にも載てあるを見給へ、今現にみわが崎と唱(フ)るからは、神之崎は、なほみわがさきな(115)るべきをといへり、答(フ)、今みわがさきといふ處、實に古(ヘ)の神(ノ)埼にても有むにや、そはたしかには定めず、されど今みわと唱ふるは、後人の神之埼を、みわがさきとよみ誤りたるを、その謬訓に依て、又出來たる名なるべし、後(ノ)世かゝる類甚多きことぞかし、一(ツ)二(ツ)いはゞ、八(ノ)卷に、明日香河逝回岳《アスカガハユキタムヲカ》、とある逝回岳《ユキタムヲカ》を、ゆきゝのをかとよみあやまりしを、やがて後(ノ)世さる地(ノ)名ありと意得、また七(ノ)卷に.人社者《ヒトコソハ》云々|我幾許師奴布川原乎《アガコヽグシヌフカハラヲ》とあるを、後(ノ)世心得|誤《タガ》へて、しのぶ河原といふ、地(ノ)名とせしたぐひさへあれば、後人のいふところ、打まかせては、たのみがたきことなり、唯古(ヘ)は古(ヘ)によりて、證すべきことにこそあれ、○狭野乃渡《サヌノワタリ》これも同じく牟婁(ノ)郡にありて、下に佐農能崗《サヌノヲカ》ともよめり、渡《ワタリ》は渡津をいふ、(すべてわたりは、海河につきていふことなり、邊《アタリ》をわたりといふことは、此(ノ)集の比はすべてなかりき、邊をわたりといへるは、字鏡に、※[鼻+虐](ハ)鼻(ノ)兩旁(ナリ)、波奈乃和太利《ハナノワタリ》とあるなどやはじめならむ、伊勢物語に、五條わたりとあるも、五條邊なり、遊仙窟にも、此|處《ワタリ》とあり、)○家裳不有國《イヘモアラナクニ》は、立やどるべき家も、あらぬことなるをといふなり、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、(久老云、こゝのわたりにて雨にあひて、しまし雨やどりせむとすれど、そこに家なきをくるしくおもふなり、これぞいにしへの眞意《マゴヽロ》なるを、後(ノ)世、駒とめて袖うちはらふかげもなしさのゝわたりの雪の夕ぐれ、とよめるは、そこのけしきを、おもしろくいひなしたり、是は僞言なりけり、かゝる言より、罪なくして配所の月を見むなど(116)いへる、ひが心も出くめり、とかしこくも、歌體約言にのたまへりと云り、
 
柿本朝臣人麻呂歌一首《カキノモトノアソミヒトマロガウタヒトツ》。
 
266 淡海乃海《アフミノミ》。夕波千鳥《ユフナミチドリ》。汝鳴者《ナガナケバ》。情毛思努爾《コヽロモシヌニ》。古所念《イニシヘオモホユ》。
 
淡海乃海《アフミノミ》は、神功皇后(ノ)紀(ノ)歌に、阿布瀰能彌《アフミノミ》、とあるに依て訓つ、○夕浪千鳥《ユフナミチドリ》は、夕浪の上に來鳴千鳥なり、そをやがて夕浪千鳥とは、眞にいはれたるかな、○情毛思努爾《コヽロモシヌニ》は、情も靡《シナ》やぎてといふ意なり、思努《シヌ》といふ言の意を按(フ)に、まづ十(ノ)卷に、秋穗乎之努爾押靡置露《アキノホヲシヌニオシナベオクツユノ》云々とあるは、發《オコ》り起たる稻穗を、裏《シタ》に押ふせ靡かせて、露の甚く置たる形容を云たるなり、されば思努《シヌ》は、靡《シナ》ふ意にて、發起《オコリタツ》の對《ウラ》なり、心にいふも、心の發起《オキタヽ》ず、裏に思ふよしなり、その裏に思ふは、眞の極まりたるよしにて、心の裏より思ふ意なり、惣てうはべをつくろひかざりて物する事は、心(ノ)裏の眞僞はしられぬを、心(ノ)裏より思ふ事は、うはべはともあれ、眞の極まりたるものなり、されば心も靡《シナ》やぎて、眞にしか思ふよしにて、心も思努《シヌ》に思ふとはいふなり、猶はやく、一(ノ)卷(ノ)中|旗須爲寸四能爾押靡《ハタススキシヌニオシナヘ》、とある處に、委(ク)註るを考(ヘ)合(ス)べし、(しとしと、しつぽり、しほ/\、などいふも、此(ノ)言より出たるなるべし、)偲《シヌ》ふといふも、やがて此(ノ)詞の用《ハタラ》きたるものなり、(心(ノ)裏より眞に思ふ事を、思努布《シヌフ》と云(ヘ)ばなり、)八(ノ)卷に、暮月夜心毛思努爾白露乃《ユフヅクヨコヽロモシヌニシラツユノ》、置此庭爾蟋蟀鳴毛《オクコノニハニコホロギナクモ》、十一に、海原之奧津繩乘打靡《ウナハラノオキツナハノリウチナビキ》、心裳四努爾所念鴨《コヽロモシヌニオモホユルカモ》、十三に、借薦之心文小竹荷人不知本名曾戀流《カリコモノコヽロモシヌニヒトシレズモトナソコフル》、(此(ノ)一首(117)にても心裏に思ふ意はしられたり)十七に、安良多麻乃登之可弊流麻泥安比見禰婆許己呂母之努爾於母保由流香聞《アラタマノトシカヘルマデアヒミネバコロモモシヌニオモホユルカモ》、また保登等藝須奈伎之等與米婆宇知奈妣久許己呂毛之努爾曾己乎之母宇良胡非之美等《ホトトギスナキシトヨメバウチナビクココロモシヌニソコヲシモウラコヒシミト》、また、久毛爲奈須己許呂毛之努爾多都奇理能於毛比須具佐受《クモヰナスココロモシヌニタツキリノオモヒスグサズ》、十九に、夜具多知爾寢覺而居者河瀬尋《ヨグタチニネサメテヲレバカハセトメ》、情毛之奴爾鳴知等理賀毛《コヽロモシヌニナクチドリカモ》、廿(ノ)卷に、宇梅能波奈香乎加具波之美等保家杼母《ウメノハナカヲカグハシミトホケドモ》、己許呂母之努爾伎美乎之曾於毛布《ココロモシヌニキミヲシソオモフ》などある、皆一意なり、○古所念《イニシヘオモホユ》は、古(ヘ)のおもはるゝとなり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、天智天皇の大宮敷(カ)しゝ、古(ヘ)のしのばしかりけむこゝろ、今此(ノ)歌を誦にも、あらはにうかびて、あはれ堪がたし、
 
志貴皇子御歌一首《シキノミコノミウタヒトツ》。
貴(ノ)字、異本に賀と作るは誤なり、
 
267 牟佐々婢波《ムサヽビハ》。木末求跡《コヌレモトムト》。足日木乃《アシヒキノ》。山能佐都雄爾《ヤマノサツヲニ》。相爾來鴨《アヒニケルカモ》。
 
牟佐々婢波《ムサヽビハ》は、※[鼠+吾]鼠者《ムサヽビハ》なり、品物解に云り、○木末求跡《コヌレモトムト》は、住(ム)べき木末を求むとてといふなり、木末を許奴禮《コヌレ》といふは、木之末《コノウレ》の切りたる詞なり、(後(ノ)世は、木(ノ)未をば許受惠《コズヱ》とのみ云て、許奴禮《コヌレ》と云ること、をさ/\見えず、夫木集に、うたかみや谷のこぬれにかくろへて風のよきたる花を見る哉、とあるは珍し、)跡《ト》はとての意なり、此(ノ)獣樹杪に住て鳥の飛來るを窺て、とりて食ふものなり、七(ノ)卷に、三國山木末爾住歴武佐左妣乃《ミクニヤマコヌレニスマフムササビノ》、待鳥如吾俟將痩《トリマツゴトクアレマチヤセム》とあり、○山能佐都雄(118)爾《ヤマノサツヲニ》は、山の獵師にといふなり、山能《ヤマノ》と云るは、山にて獵する意なり、(山幸彦《ヤマサツヒコ》といふを思(フ)べし、)佐都雄《サツヲ》と云るは、九(ノ)卷に、木國之昔弓雄之※[向/音]矢用《キノクニノムカシサツヲノカブラモチ》、鹿取靡坂上爾曾安留《カトリナビケシサカノヘニソアル》、(弓は、幸の字などの誤か、)十(ノ)卷に、山邊爾射去薩雄者雖大有山爾文野爾文沙小牡鹿鳴母《ヤマノベニイユクサツヲハオホカレドヤマニモヌニモサヲシカナクモ》、また山邊庭薩雄乃禰良比恐跡《ヤマヘニハサツヲノネラヒカシコケド》、小牡鹿鳴成妻之眼乎欲焉《ヲシカナクナリツマノメヲホリ》など見えたり、また佐豆人之弓月我高荷《サツヒトノユツキガタケニ》、神代紀に、海幸彦《ウミサツヒコ》、山幸彦《ヤマサツヒコ》など見えたり、又|佐都矢《サツヤ》、佐都弓《サツユミ》などいふ佐都《サツ》も同じ、言(ノ)意は、二(ノ)卷に、得物矢《サツヤ》とあるところに委(ク)云り、○御歌(ノ)意は、※[鼠+吾]鼠は鳥を獲むがために、住べき樹※[木+少]を求むるとて、獵師に見あらはされて、かへりて己が身を亡《コロ》されける哉、強て欲《ホシ》み望むことだになくば、かゝる目にはあはじをとの意なり、(略解に、此(ノ)御歌は、人の強たる物ほしみして、身を亡すに譬へたまへるにや、大友大津の皇子等の御事などを、御まのあたり見賜ひて、しかおぼすべきなりと云り、さも有べし、
 
長屋王故郷歌一首《ナガヤノオホキミノフルサトウタヒトツ》。
 
長屋(ノ)王は、佐保大臣と號せし是なり、既く出つ一(ノ)下御傳彼處に委(ク)云へり、○故郷(ノ)歌は舊本左註に、右今案、從2明日香1、遷2藤原宮1之後、作2此歌1歟とあり、(明日香は、天武天皇の宮處、藤原は、持統天皇の宮處なり、既《サキ》に云、)さもあるべし、
 
268 吾背子我《ワガセコガ》。古家乃里之《フルヘノサトノ》。明日香庭《アスカニハ》。乳鳥鳴成《チドリナクナリ》。島待不得而《キミマチカネテ》。
 
(119)吾背子《ワガセコ》は、親しき皇子《ミコ》、王等《オホキミタチ》などに、さし賜ふ人おはしましゝなり、○古家乃里之《フルヘノサトノ》
 
の、もと住居賜ひし宅地をいふなり、十一に、鶉鳴人之古家爾《ウヅラナクヒトノフルヘニ》とあり、(和名抄に、駿河(ノ)國駿河(ノ)郡古家(ハ)、布留以倍《フルイヘ》とも見ゆ、)○明日香庭《スカニハ》は、他方にむかへて云るなり、○乳鳥鳴成《チドリナクナリ》は、千鳥鳴にてありといふ意なり、乳鳥は、品物解にいへり、○島待不得而は、島(ノ)字(異本には師と作り、それも非、)は、君の誤なり、五(ノ)卷に、波流佐禮婆和伎覇能佐刀能加波度爾波《ハルサレバワギヘノサトノカハトニハ》、阿由故佐婆斯留吉美麻知我弖爾《アユコサバシルキミマチガテニ》、とあるに似たるを思(フ)べし、○歌(ノ)意は、遷都の後、吾見《ワガセ》が住すて賜ひし飛鳥の里の古家のほとりには、君がかへり來ますやと、待ど待得ずして、しきりに千鳥の鳴にてあるよとなり、飛鳥の里に、この長屋(ノ)王の住賜ひし地ありて、行賜ひたるに、そこに他(ノ)皇子王等の故郷もある故に、ををおもほして、作賜ひしなり、
 
阿倍女郎屋部坂歌一首《アベノイラツメガヤベサカノウタヒトツ》。
 
阿倍(ノ)女郎は、傳未(タ)詳ならず、阿倍氏の娘なるべし、阿倍は、姓氏録に、阿倍(ノ)朝臣(ハ)、孝元天皇(ノ)皇子、大彦(ノ)命之後也、日本紀續日本紀合と見えたり、○屋部坂は、本居氏云、三代實録三十八に、高市(ノ)郡夜部村とある、その坂なるべし、
 
269 人不見者《シヌヒナバ》。我袖用乎《ワガソデモチテ》。將隱乎《カクサムヲ》。所燒乍可將有《ヤケツヽカアラム》。不服而來來《キズテマシケリ》。
 
人不見者は、岡部氏、シヌヒナバ〔五字右○〕訓べしと云り、○不服而《キズテ》來々は、來々は坐來の誤にて、マシ(120)ケリ〔四字右○〕と訓べし、とこれも同人云り、山に草木生たゝざるは、人身に衣服を著ざるに同じければ、たとへ云るなるべし、○歌ノ)意は、此(ノ)山、あかはだか山なるを、もし耻て、しのびかくさむとおもはゞ、我袖を以てかくさむを、耻もせず、燒たるまゝにてあらむとにや、衣もきずてましけり、と戯れたるなりと岡部氏云り、
 
高市連黒人※[覊の馬が奇]旅歌八首《タケチノムラジクロヒトガタビノウタヤツ》。
 
270 客爲而《タビニシテ》。物戀敷爾《モノコホシキニ》。山下《ヤマシタノ》。赤乃曾保船《アケノソホブネ》。奧※[手偏+旁]所見《オキニコグミユ》。
 
客爲而《タビニシテ》は、(タビニヰテ〔五字右○〕と訓は、甚わろし、)一(ノ)卷に、旅爾師手衣應借《タビニシテコロモカスベキ》、十五に、多婢爾之弖毛能毛布等吉爾《タビニシテモノモフトキニ》などあり、○物戀敷爾《モノコホシキニ》は、一(ノ)卷に、旅爾之而物戀之伎爾《タビニシテモノコホシキニ》とありて、そこに云り、物とは一(ノ)物をさしていふ意ならず、ひろくいふ詞なり、十(ノ)卷に、物戀手弱女我者《モノコフルタワヤメアレハ》とも見えたり、○山下《ヤマシタノ》は、赤《アカ》の枕詞なり、委(ク)は二(ノ)卷に、秋山下部留妹《アキヤマノシタベルイモ》とある下《トコロ》に、古事記傳を引て云るが如し、○赤乃曾保船《アケノソホブネ》は、朱漆《アカヌリ》の船を云なり、赤をアケ〔二字右○〕といふは、(たゞアカ〔二字右○〕と通(ハシ)云るにはあらず、)朱映《アカハエ》の約れる言なり、(ハエ〔二字右○〕を切てヘ〔右○〕となりカヘ〔二字右○〕を切てケ〔右○〕となれり、)曾保《ソホ》は、十四に、麻可禰布久爾布能麻曾保乃《マカネフクニフノマソホノ》(丹生之眞赤土之《ニフノマソフノ》、)とも見えて、赤土のことなり、八(ノ)卷に、佐丹塗之小船毛賀茂《サニヌリノヲブネモガモ》、九(ノ)卷に、狹丹塗之小船儲《サニヌリノヲブネヲマケ》、十三に、左丹塗之小舟毛鴨《サニヌリノヲブネモガモ》、また忍照難波乃埼爾引登赤曾朋舟曾朋舟爾《オシテルナニハノサキニヒキノボルアケノソホブネソホブネニ》、十六に、奧去哉赤羅小船爾《オキユクヤアカラヲブネニ》などあり、さて朱漆の船は、官船なるべきよし、荒木田氏云り、其(ノ)説に、營繕(121)令(ニ)云、凡官私(ノ)船(ハ)、毎(ニ)v年、具(ニ)顯2色目勝受斛斗破除見在任不(ヲ)1、附(ケテ)2朝集使(ニ)1、申(セ)v省(ニ)、義解(ニ)云、謂椙樟之類、是(ヲ)爲v色也、舶艇之類、是(ヲ)爲v目(ト)也、云々とあるを、集解に、或人古記を引て、公船者、以v朱漆v之といへり、是は義解の説にもとりて、却(リ)て色目の解を誤れるものなるべけれど、官私の船|彩色《イロドリ》によりて、分別ある事、且官船は朱漆なる事、この古記にて知れたりと云り、(さて又八(ノ)卷九(ノ)卷十三(ノ)卷に、左丹塗之小船《サニヌリノヲブネ》とよめるは、官船に准へていへる、美言《ホメコトバ》なりと云り、)○奧※[手偏+旁]所見《オキニコグミユ》は、沖の方に、漕出るが見ゆるよしなり、○歌(ノ)意は、何事に付ても、ひたすら吾郷戀しくおもふ時しも、官船の奧に※[手偏+旁]出てゆくなるは、都方へ歸る船ならむ、と羨ましくおもはるゝとなり、
 
271 櫻田部《サクラダヘ》。鶴鳴渡《タヅナキワタル》。年魚市方《アユチガタ》。鹽干二家良進《シホヒニケラシ》。鳴鶴渡《ナキタヅワタル》。
 
櫻田部《サクラダヘ》は、和名抄に、尾張(ノ)國愛智(ノ)郡作良(ノ)郷とある、そこの田へなり、催馬樂に、さくら人其(ノ)船ちぢめとあるも、こゝの作良人《サクラヒト》なるべし、部《ヘ》は物へ行のへなり、○年魚市方《アユチガタ》は、和名抄に、尾張(ノ)國愛智(ノ)郡、阿伊智《アイチ》、(阿由智《アユチ》を後に訛て、阿伊智《アイチ》といへるなり、)神代紀に、尾張(ノ)國|吾湯市《アユチノ》村、景行天皇(ノ)紀に、尾張(ノ)國|年魚市《アユチノ》郡などありて、そこの海潟なり、七(ノ)卷に、年魚市方鹽干家良思知多乃浦爾朝※[手偏+旁]舟毛奧爾依所見《アユチガタシホヒニケラシチタノウラニアサコグフネモオキニヨルミユ》とあり、○鹽干二家良進《シホヒニケラシ》(進(ノ)字、類聚抄拾穗本等には之と作り、)は、推度(リ)て云るなり、(俗に、鹽が于たさうなといふに同じ、)○歌(ノ)意かくれたるところなし、此(ノ)歌、たゞに打いひたるまゝにて、事もなきを、今誦ふるに、其(ノ)風景《アリサマ》見るが如くおもはるゝは、風調の高きが(122)所以《ユヱ》なり、次々なるも然り、歌はかくこそよまゝほしけれ、
 
272 四極山《シハツヤマ》。打越見者《ウチコエミレバ》。笠縫之《カサヌヒノ》。島※[手偏+旁]隱《シマコギカクル》。棚無小舟《タナナシヲブネ》。
 
四極山《シハツヤマ》は、本居氏云、或人云、攝津(ノ)國なり、今(ノ)世住吉より東の方、喜連《キレ》といふところへゆく道の間に、岡山のひきゝ坂あり、是四極山なり、雄略天皇(ノ)紀に、十四年正月、呉(ノ)國人の參れるところに、云々、泊2於住吉(ノ)津(ニ)1、是月爲2呉(ノ)客(ノ)道(ヲ)1、通2磯齒津路(ヲ)1名2呉坂(ト)1とあり、今いふ喜連《キレ》は、久禮《クレ》を訛れるなり、此(ノ)ところ住吉(ノ)郡の東のはて、河内の堺にて、古(ヘ)は河内(ノ)國澁河(ノ)郡につきて、伎人《クレヒトノ》郷といひし所なり、今も此(ノ)道、西は往吉の東の門より、東は河内の柏原までとほりて、古(ヘ)に呉(ノ)國人のとほりし道なり、とかたりつたへたり、難波の古(ヘ)の圖を見るに、住吉(ノ)社の南の方に、細江とて沼江ありて、そこにしはつと記したり、六(ノ)卷に、從千沼廻雨曾零來四八津之泉郎《チヌミヨリアメソフリクルシハツノアマ》、綱手《ツナテ》網〔□で囲む〕乾有沾將堪香聞《ホシタリヌレアヘムカモ》、右一首、遊2覽住吉(ノ)濱(ヲ)1、還v宮(ニ)之時、道上(ニテ)守部(ノ)王應v詔作歌とあるにかなへり、○笠縫之島《カサヌヒノシマ》は、これも攝津(ノ)國なり、本居氏云、或人云、今東生(ノ)郡の、深江村といふところ是なるべし、此(ノ)所菅田多く有て、其(ノ)菅他所より勝《スグ》れたり、里人むかしより笠をぬふことを業として、名高く童謠にもうたへり、今も里(ノ)長《ヲサ》、幸田《カウダ》喜右衛門といふものゝ家より、御即位のをりは、内裏へ菅を獻る、又讃岐の殿へも、圓座の料の管にまゐらすとぞ、延喜内匠寮式に、伊勢齋王野(ノ)宮装束の中に、御輿(ノ)中子(ノ)菅(ノ)蓋一具(菅、并骨料材(ハ)、從2攝津(ノ)國1、笠縫(ノ)氏參來作(ル)、)とあり、笠縫氏は、此(ノ)所の人にて有け(123)む、さてこの深江村は、大坂(ノ)城より東にあたりて河内の堺に近し、此地いにしへは島なりしよし、里人いひ傳へたり、まことに此(ノ)わたり、古(ヘ)は、北の方は難波堀江につゞき東は大和川、南西は百濟川、そのほかも、小川ども多く流れあひて、廣き沼江にて有しとおぼしくて、難波の古(キ)圖のさまも、然見えたり、又今此(ノ)里人の語るをきくに、此(ノ)村のみ地高くて、ほとりはいづかたもいづかたも地ひきし、井などほれば、葦の根、貝のからなどいづといへり、かくて此(ノ)ところ、かのしはつ山の坂路より、北にあたりて、よきほどの見わたしなれば、島こぎかくるたななし小舟、とはよめるなりけり、○棚無小舟《タナナシヲブネ》(舟(ノ)字、拾穗本には船と作り、)は、船棚なき小舟なり、既く一卷に出つ、○歌(ノ)意、磯齒津山の坂路を越て、笠鍵の島を見やりたる風景を云るのみにて、かくれたるところなく、今も見る如くにおぼえて、いとおもしろし、此(ノ)歌、古今集大歌所の歌にあげて、かさゆひの島とせるは、うたひひがめたるものなり、
 
273 磯前《イソノサキ》。※[手偏+旁]手回行者《コギダミユケバ》。近江海《アフミノミ》。八十之湊爾《ヤソノミナトニ》。鵠佐波二鳴《タヅサハニナク》。
 
磯前は、イソノサキ〔五字右○〕と訓べし、(舊訓に、イソサキヲ〔五字右○〕とあるはわろし、)六(ノ)卷に、付將賜島之埼前依將賜磯乃埼前《ツキタマハムシマノサキザキヨリタマハムイソノサキザキ》、十九に、佐之與良牟磯乃埼々《サシヨラムイソノサキ/”\》、古事記上卷(ノ)歌に、加岐欲流伊蘇能佐岐淤知受《カキミルイソノサキオチズ》などあり、又神名帳に、因幡(ノ)國八上(ノ)郡|伊將蘇乃佐只《イソノサキノ》神社、と申も見えたり、(また近江(ノ)國坂田(ノ)都に、今磯崎村と云ありて、湊なりと云り、されどこゝに、磯前とあるは、地(ノ)名とはおもはれず、もしは(124)彼も、後(ノ)世好事の輩の、此(ノ)歌によりて、磯前と云はじめしより、しか村(ノ)名ともなれるも、しるべからず、)○※[手偏+旁]手回行者《コギタミユケバ》は、漕めぐり行ばの意なり、手《タ》はそへ言、回《ミ》は毛登保理《モトホリ》にて、集中に、※[手偏+旁]多毛登保理《コギタモトホリ》とよめるに同じ、即(チ)毛登保理《モトホリ》を切れば、美《ミ》となるなり、一(ノ)卷に委(ク)云り、○八十之湊爾《ヤソノミナトニ》は、數々の水門にといふなり、七(ノ)卷に、近江海湖者八十《アフミノミミナトヤソアリ》、(千賀(ノ)眞恒(カ)考に、者(ハ)疑有歟と云り、是まことに然り、十(ノ)卷に、天川河門八十有《アマノガハカハトヤソアリ》とあり、十三に、近江之海泊八十有《アフミノミトマリヤソアリ》、などあるにて意得べし、(所の名とおもふは誤なり、略解に、八十之湊は、今|八坂《ヤツサカ》村といふ所なりと云り、とあれど、此(ノ)歌の八十之湊は、決(メ)て地(ノ)名にはあらず、)○鶴佐波二鳴《タヅサハニナク》は、鶴《タヅ》多《サハ》に鳴なり、鵠は、(古本には鶴と作り、されど今は、なほ舊本に從つ)、和名抄に、久々比《クヾヒ》とあるを、そは本居氏の云し如く、上(ツ)代には、鶴《ツル》をも鵠《クヾヒ》をも鸛《オホトリ》をも、共に總て多豆《タヅ》といひしなれば、鵠(ノ)字をも鶴に通(ハシ)用ひしなり、(漢國にても、鶴鵠通(ハシ)云る例多し、契冲云五雜俎(ニ)、云、鵠(ハ)即(チ)是(レ)鶴、漢書、黄鵠下(ニ)、建v章(ヲ)而歌、則曰2黄鶴1是也、遊仙窟(ノ)註(ニ)引2琴操1曰、云々、援v琴而歌、爲2別鶴操(ト)1、鶴或作v鵠(ニ)、)なほ品物解にも委く云るを、考(ヘ)合(ス)べし、○歌(ノ)意かくれたるところなし、○舊本こゝに未詳(ノ)二字あるは、混(ヒ)入(リ)しものなれば削つ、
 
274 吾船者《ワガフネハ》。枚乃湖乃《ヒラノミナトノ》。※[手偏+旁]將泊《コギハテム》。奧部莫避《オキヘナサカリ》。左夜深爾來《サヨフケニケリ》。
 
枚乃湖爾《ヒラノミナトニ》(枚(ノ)字、舊本には牧と作り、凡て枚を牧と作ること、古書に例多し、されど今は、類聚抄古寫本拾穗本等に、枚と作る正しきに從つ、)は、近江(ノ)國滋賀(ノ)郡比良(ノ)湊になり、○奧部莫避《オキヘナサカリ》は、部《ヘ》(125)は物へ行のへにて、語(リ)辭なり、(方の意に非ず、)沖の方へ、遠避ること莫れといふなり、(多くは莫避曾《ナサカリソ》といふを、下の曾《ソ》てふ辭のなきは、古歌に例多し、然るを、後(ノ)世人の歌どもには、下の曾《ソ》の辭をば必(ス)云て、上の奈《ナ》を略けるが多きは、いみじきひがことなり、那《ナ》はかならずいはずては、きこえぬ言なるをや、)○歌(ノ)意かくれたるところなし、七(ノ)卷に、吾舟者明石之潮帶※[手偏+旁]泊牟《ワガフネハアカシノウラニコギハテム》、奧方莫放狹夜深去來《オキヘナサカリサヨフケニケリ》、(こは今の歌を、少しうたひかへたるなり、)またワガフネハオキヨナサカリムカヘフネカタマチガテリウラヨコギアハム
光從浦※[手偏+旁]將會《》、などよめり、
 
275 何處《イヅクニ》。吾將宿《アハヤドラナム》。高島乃《タカシマノ》。勝野原爾《カチヌノハラニ》。此日暮去者《コノヒクレナバ》。
 
何處は、イヅクニ〔四字右○〕と訓べし、(イヅクニカ〔五字右○〕とよめるはわろし、カ〔右○〕と訓べき字なければなり、)何處は假字書には、古事記此(ノ)集皆|伊豆久《イヅク》とのみありて、伊豆許《イヅコ》と云る事はなし、(伊豆許《イヅコ》といふは今(ノ)京以來の詞なり、)○吾將宿、アハヤドラナム〔七字右○〕と訓べし、○勝野原爾《カチヌノハラニ》は、和名抄に、近江(ノ)國高島(ノ)郡三尾(ノ)(美乎《ミヲ》)郷とある、そこにある、野にてと云なり、七(ノ)卷に、大御舟竟而佐守布高島之三尾勝野之奈伎左思所思《オホミフネハテテサモラフタカシマノミヲノカチヌノナギサシオモホユ》とあり、○此日暮去者《コノヒクレナバ》は、暮ぬさきよりいふ詞にて、ほと/\暮近くなりぬるよしなり、○歌(ノ)意は、もし勝野の原にて行暮なば、この曠き野原にやどるべき家もなければ、何處に行て、今夜は宿るべきぞとなり、旅行の艱苦《クル》しきさま、誠にあはれなり、
 
276 妹母我母《イモモアレモ》。一有加母《ヒトツナレカモ》。三河有《ミカハナル》。二見自道《フタミノミチユ》。別不勝鶴《ワカレカネツル》。
 
(126)一有加母《ヒトツナレカモ》(母(ノ)字、拾穗本には毛と作り、)は、一(ツ)の物にあればかにて、嗚呼《アハレ》妹も吾も、一體のものにてあればにやのよしなり、母《モ》も歎息(ノ)辭なり、一體のものにてはあらぬを何とてとの意なり、三河二見といへる因に、一《ヒトツ》と云るなり、○二見自道《フタミノミチユ》は、二見の路より双方《フタカタ》へといふなり、二見は三河にあるなるべし、尋ぬべし、○別不勝鶴《ワカレカネツル》は、相別《ワカレ》むと思へど、得別れがたしとなり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、此(ノ)歌は、黒人三河(ノ)國の任などにて、任はてゝ上るとき、よしありて、近江山城攝津などを廻りて、大和へ歸るに、妻は直に大和へ歸るとて別るゝ時、よめるなるべしと云り、
〔一本。黒人妻答歌〔五字それぞれ○で囲む〕云。水河乃《ミカハナル》。二見之自道《フタミノミチユ》。別者《ワカレナバ》。吾勢毛吾毛《ワガセモアレモ》。獨可毛將去《ヒトリカモユカム》。〕
一本云々、此(ノ)歌はもとなかりしを、一本によりてこゝに載しものなるに、たゞに一本(ニ)云とては、黒人歌とこそきこゆるに、こは妻(ノ)答る歌なることは著《アラハ》なれば、舊本には、黒人妻答歌の字落しことしるし、○水河乃は、乃は有(ノ)字の誤れるにて、ミカハナル〔五字右○〕とありしなるべし、乃有草書似たればなり、相誤れる例多し、右の黒人(ノ)歌に三河有《ミカハナル》とあるからは、忽(チ)こゝに、水河乃、と四句に換(ヘ)云べきにあらざればなり、○獨可毛將去《ヒトリカモユカム》(毛(ノ)字、類聚抄拾穗本等には母と作り、)は、獨行むか、さてもかなしやとの意なり、可毛《カモ》は、將去《ユカム》の下にうつして意得べし、可《カ》は疑(ノ)辭、毛《モ》は歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、二見の路より、ふた方にもし別れなば、吾(カ)夫も妾《ワレ》も、只獨行むか、吾(カ)夫はなほ(127)さても有べきを、妾が女(ノ)身にしては行に得堪じをとの下意なり、
 
277 速來而母《ハヤキテモ》。見手益物乎《ミテマシモノヲ》。山背《ヤマシロノ》。高槻村《タカツキノムラ》。散去奚留鴨《チリニケルカモ》。
 
速來而母(母(ノ)字、拾穗本には毛と作り、)は、ハヤキテモ〔五字右○〕と訓べし、(トクキテモ〔五字右○〕と訓むはわろし)、さて波夜《ハヤ》といふは、過去にも、また未來をかけても云り、その中に、十二に、櫻麻之麻原乃下草早生者《サクラヲノヲフノシタグサハヤオヒバ》、妹之下紐不解申尾《イモガシタヒモトケザラマシヲ》、十一に、吾背兒我濱行《ワガセコガハマユク》(行は吹の誤、)風彌急《カゼノイヤハヤニ》、急事益不相有《ハヤユトナサバイヤアハザラム》、などあるは、過去《スギニ》し方をいへるにて、今と同じ、(また一(ノ)》卷に、去來子等早日本邊《イザコドモハヤヤマトヘニ》、十五に、和伎毛故波伴也母許奴可登麻都良牟乎《ワギモモハハヤモコヌカトマツラムヲ》、などあるは、未來をかけていへり、等久《トク》といふは、利鎌《トカマ》利心《トコヽロ》など、するどき事にいふ詞にて、用(ヒ)樣いさゝか異れり、)○山背《ヤマシロ》(背(ノ)字、活字本に肖と作るは誤なり、)は、山城國なり、もとはこゝの如く、山背とかけりしを、延暦十三年七月に、山城とはあらためて、かゝれけるなり、○高槻村《タカツキノムラ》、兩説あるべし、一(ツ)には、タカツキノムラ〔七字右○〕とよみて、高槻は村(ノ)名にて、(攝津(ノ)國に、高槻と云地あり、山城にもあるなるべし、)さてその村の、黄葉の散れるをよめるなるべし、(集中に、春日の山は咲にけるかもなどよめる如く、花黄葉といはずて、咲散と云ること古風なり、)二(ツ)にはタカツキムラノ〔七字右○〕と訓て、高槻は、木高くたてる槻をいふべし、村は木群《コムラ》なり、攝津(ノ)國の高槻も、木高き槻のありし故に、負る地(ノ)名なるべし、)さらば、その槻の黄葉の、散れるをよめるなるべし、○歌(ノ)意はかくれたるところなし、散過たる後に至りて、速《ハヤ》く來らざりしを(128)悔たるなり、
 
石川女郎歌一首《イシカハノイラツメガウタヒトツ》。
 
石川(ノ)女郎(女(ノ)字、舊本、拾穗本、等には、少、古寫本には小、異本には水と作り、皆誤なり、今は類聚抄に從つ、)は、一卷よりはじめて、すき/\見えたり、
 
278 然之海人者《シカノアマハ》。軍布苅鹽燒《メカリシホヤキ》。無暇《イトマナミ》。髪梳乃小櫛《クシゲノヲクシ》。取毛不見久爾《トリモミナクニ》。
 
然《シカ》は、和名抄に、筑前(ノ)國糟屋(ノ)郡|志珂《シカ》、十六に、糟屋(ノ)郡|志賀《シカノ》村、神功后皇(ノ)紀に、遣2磯賀(ノ)海人名草(ヲ)1而令v覩、筑前(ノ)國風土記に、糟屋(ノ)郡資※[言+可](ノ)島、昔時氣長足姫(ノ)尊、幸2於新羅(ニ)1之時、御船夜時來2泊此(ノ)島(ニ)1、有d陪從(ニ)名(ハ)云2大濱小濱(ト)1者u、便勅2小濱(ニ)1、遣2此(ノ)島(ニ)1覓v火(ヲ)、得早來(レリ)、大濱問云、近有v家耶、小濱答云、此(ノ)島與2打昇濱1近(ク)相連接《ツヾキテ》、殆可(シトイヘリ)v謂2同地(ト)1、因《カレ》曰2近(ノ)島(ト)1、今訛(テ)謂2之|資※[言+可]《シカノ》島(ト)1とあり、此(ノ)地(ノ)名、集中に往々《トコロ/”\》出て、然《シカ》とも鹿《シカ》とも牡鹿《シカ》とも四可《シカ》とも之可《シカ》とも多く書り、(加を清て唱(フ)べし、今も清て呼といへり、)志可《シカノ》神社の事は、七(ノ)卷に至りて、牡鹿之須賣神《シカノスメカミ》とある處に註べし、三代實録に、貞觀十八年正月廿五日癸卯、先v是(ヨリ)貞觀十六年、太宰府言(ス)、香椎(ノ)廟宮、毎年春秋祭日、志賀(ノ)島(ノ)城水郎、男十人女十人、奏(ス)2風俗(ノ)樂(ヲ)1、所v著衣冠、去(シ)寶龜十一年、大貳正四位上佐伯(ノ)宿禰今毛人所v造也、年代久遠、不v中2服用(ニ)1、請以2府庫(ノ)物(ヲ)1、造(リ)充(タマヘ)之、至v是太政官處分、依v請焉、○軍布《メ》は、和海藻《ニギメ》稚海藻《ワカメ》滑海藻《アラメ》昆布《ヒロメ》などの總名なり、軍布は昆布に通(ハシ)書るなるべし、なほ品物解に委(ク)云るを併(セ)考べし、○無暇は、イトマナミ〔五字右○〕とよみ(129)て、暇がなさにの意なり、暇は、廿(ノ)卷に、欲流乃伊刀末仁都賣流芹子許禮《ヨルノイトマニツメルセリコレ》、また畫爾可伎等良無伊豆麻母加《ヱニカキトラムイツマモガ》とあり、伊等《イト》は字鏡に、〓〓(ハ)、伊止奈思《イトナシ》(無暇の意なり、)と見えて、(古今集にも、あはれとも憂とも物を思ふときなどか泪のいとなかるらむ、後撰集に、日ぐらしの聲もいとなく聞ゆるは秋夕碁になればなりけり、などありて、これより後々は、いよ/\多く見ゆ、)閑隙のことなり、さてその伊等《イト》に、間《マ》の言をそへて、伊等麻《イトマ》とはいふなりけり、(然るを、本居氏の、伊等麻《イトマ》はいとなみまなり、萬のいとなみの隙を云、と云るはいかゞ、)營《イトナ》むといふも、無《ナム》v暇《イト》の意ときこえたり、(いとなみ造るなどいふも、いとま無み造(ル)の意なり、)○髪梳乃小櫛《クシゲノヲクシ》、(小(ノ)字、舊本少と作り、それもさてあるべきなれど、今は古本活字本異本等によりつ、又拾穗本に勿と作るは誤なり、)髪梳は櫛笥《クシゲ》の借(リ)字なり、梳をケ〔右○〕とのみ云は、弓削《ユケ》などの削の如し、(田中(ノ)道麻呂がユスル〔三字右○〕とよみしは意得ず、)○歌(ノ)意は、海人のすぎはひの暇が無(キ)故に、匣の櫛を取出して、身よそひもせぬことなるものを、といへるにて、みづからを、海人に比《ナズラ》へて、ゆゑありて男に告たるなるべし、伊勢物語に、なだの鹽やきいとまなみとあるは、今の歌をとりたるなり、○舊本こゝに、右今案、石川朝臣君子、號曰2少郎子1也、とあるは、誤字につきて、後人の註せるひがことなり、こは歌も女(ノ)歌なることしるきをや、
 
高市連黒人歌二首《タケチノムラジクロヒトガウタフタツ》。
 
(130)市(ノ)字、舊本高に誤れり、類聚抄、古寫本、活字本、拾穗本等に從つ、
 
279 吾妹兒二《ワギモコニ》。猪名野者令見都《ヰナヌハミセツ》。名次山《ナスギヤマ》。角松原《ツヌノマツハラ》。何時可將示《イツカシメサム》。
 
猪名野者令見都《ヰナヌハミセツ》は、和名抄に、攝津(ノ)國河邊(ノ)郡|爲奈《ヰナ》とある、そこの野の風景をば、見せしめつといふなり、(また神名帳に、豐島(ノ)郡|爲那都《ヰナツ》比古(ノ)神社二座とあるは、こゝによしあるか、)七(ノ)卷に、志長鳥居名野乎來者《シナガトリヰナヌヲクレバ》、又|四長鳥居名之湖爾《シナガトリヰナノミナトニ》、十一に、四長鳥居名山響爾《シナガトリヰナヤマトヨミ》、十六に、猪名川之奧乎深目而《ヰナガハノオキヲフカメテ》なども見ゆ、○名次山《ナスギヤマ》は、神名帳に、攝津(ノ)國武庫(ノ)郡名次(ノ)神社と見ゆ、そこの山なるべし、(久老云、また有馬(ノ)郡神尾村に名次山ありといひ、また廣田の社の西にも、名次の岡ありと云り、猶考(フ)べし、)○角松原《ツヌノマツハラ》は、十七に、於煩保之久都努乃松原於母保由流可聞《オホホシクツヌノマツハラオモホユルカモ》とあり、和名抄に、武庫(ノ)郡津門(ハ)、都止《ツト》とあるところなるべしと云り、(略解に、一(ノ)卷に、綱乃浦《ツヌノウラ》とあるを、こゝに引たるはさらによしなし、)○何時可將示《イツカシメサム》は、何時|目《マ》のあたりに、見せしめむ事にかといふなり、其(ノ)見せしめむ事を、待遠に思へるよしなり、示は、下に、家妹之濱裹乞者何矣示《イヘノイモガハマツトコハバナニヲシメサム》、四乃卷に、君吾戀情示左禰《キミニアガコフコヽロシメサネ》、九(ノ)卷に、國之眞保良乎悉曲示賜者《クニノマホラチツバラカニシメシタマヘバ》など見えて、あらはに見することなり、○歌(ノ)意は、豫《カネ》て見せまほしく思ひし、猪名野の勝地をば、心だらひに、妹に見せしめつるを、猶角(ノ)松原のおもしろさを、末(ダ)目《マ》のあたり見せざるは、あかぬ事なれば、急く見せむと思ふを、其(ノ)地に至らむは、何時の事にか、と片時も急くと思ふより、待遠に思はるゝよしなり、
 
(131)280 去來兒等《イザコドモ》。倭部早《ヤマトヘハヤク》。白菅乃《シラスゲノ》。眞野乃榛原《マヌノハリハラ》。手折而將歸《タヲリテユカム》。
 
去來兒等《イザコドモ》は、妻女などを呼かけて云るなるべし、一(ノ)卷にも去來子等早日本邊《イザコドモハヤヤマトヘニ》と見ゆ、○白菅乃《シラスゲノ》は、七(ノ)卷にも、かく白管乃眞野之榛原《シラスゲノマヌノハリハラ》とつゞけよめり、契冲一説をあげて云(ク)、此(ノ)集に、わぎも子が袖をたのみて眞野の浦の小菅《コスゲ》の笠をきずて來にけり、眞野の池の小菅を笠にぬはずして人のとほ名を立べきものか、此(ノ)所菅のあるところにて、しら菅の萬野《マヌ》とつゞくるか、とも聞えたりと云り、是(ノ)説よろし、(契冲が、自(ラ)の考に、眞菅《マスゲ》といふゆゑに、眞《マ》の字につゞくるなり、と云るはいとわろし、)白管の生る眞野といふべきを、即(チ)白菅の眞野といふ古語の例、既く一(ノ)卷に委(ク)云り、併(セ)考(フ)べし、(略解に、白菅を、地(ノ)名なりと云るは、あらず、)白菅の事は、品物解に甚委(ク)云り、○眞野乃榛原《マヌノハリハラ》は、攝津(ノ)國八田部(ノ)郡にあり、榛は品物解に委(ク)云、七(ノ)卷に、古爾有監人之覓乍衣丹摺牟眞野之榛原《イニシヘニアリケムヒトノモトメツヽキヌニスリケムマヌノハリハラ》とありて、こゝの榛原、古(ヘ)より愛賞《メデ》こし事おもふべし、○歌(ノ)意かくれたるところなし、榛原のおもしろきに付て、手折て家づとに、持かへらむと云るなり、
 
黒人妻答歌一首《クロヒトガメノコタフルウタヒトツ》。
 
281 白菅乃《シラスゲノ》。眞野之榛原《マヌノハリハラ》。往左來左《ユクサクサ》。君社見良目《キミコソミラメ》。眞野之榛原《マヌノハリハラ》。
 
往左來左《ユクサクサ》は、往時來時なり、この左《サ》は、歸る左《サ》ともいふ左《サ》にて、時といふに同じ、古言に時といふことを、之太《シダ》とも左太《サダ》とも云るを、その之太《シダ》も左太《サダ》も、約ればともに左《サ》となれり、肥前風土(132)記(ノ)歌に、爲禰弖牟志太夜《ヰネテムシダヤ》、(率宿《ヰネ》てむ時哉《トキヤ》なり、)集中には、十一に、此左太過而《コノサダスギテ》、十四に、阿抱思太毛安波乃敝思太毛《アホシダモアハノヘシダモ》、廿(ノ)卷に、和須例母志太波《ワスレモシダハ》など、猶多かり、さて今も土左(ノ)國人は、行《ユキ》しだ來《キ》しだなどいふななは、おのづから古言の遺存《ノコレ》るなり、(京師わたりにては、往(キ)しな來《キ》しなといへり、)猶一(ノ)卷痲間人(ノ)連老が歌の下にも、委しく云るを併(セ)考(フ)べし、(かゝるを、今までこの意を、きよく得たる人なし、略解に、往さ來さのさは、さまなりといへり、されど、常にさまといふは、形容《アリサマ》をいふことなり、行形容《ユクサマ》來形容《クサマ》の意としては、通ゆべからず、但し、古今集離別に、したはれて來にし心の身にしあれば歸るさまには道も知(ラ)れず、かげろふの日記に、あるさまに得知(ラ)で云々とあり、これらのさまは、時と譯《ウツ》さずしては、きこえず、されどそれより古くは、聞もおよばず、又荒木田氏、この左《サ》は、もとせより轉れる言と見えて、古事記に、落2苦瀬《ウキセニ》1而、後の歌に逢瀬《アフセ》、こゝをせにせむ、などいへるせと、ひとしきよし云り、されどこれらの瀬は、時の意としては、いささか通えがたし、○君社見良目《キミコソミラメ》は、この榛原を、君こそは、旅の往來の度々に、見賜ふらめといふなり、社《コソ》は他にむかへて、その一すぢをたしかにいふ詞なり、君こそ見賜はめ、他《ヒト》はしからずとの意なり、○眞野之榛原《マヌノハリハラ》、と打かへして云るは、其(ノ)情の切《フカ》きを示したるなり、○歌(ノ)意は此(ノ)おもしろき榛原の風色を、夫(ノ)君こそは、往時にも還(ル)時にも、度々に見て賞賜ふらめど、吾は女の身なれば、又還見むこともはかりがたければ、よく見てゆかむをといへるなり、
 
(133)春日藏首老歌一首《カスガノクラビトオユガウタヒトツ》。
 
春日(ノ)藏首老が傳は、一(ノ)下に委(ク)云り、藏首をクラビト〔四字右○〕と訓べきよしも、古事記傳を引(キ)彼處に云り、
 
282 角障經《ツヌサハフ》。石村毛不過《イハレモスギズ》。泊瀬山《ハツセヤマ》。何時毛將超《イツカモコエム》。夜者深去通都《ヨハフケニツツ》。
 
角障經《ツヌサハフ》は、石《イハ》の枕詞なり、既く出づ、○石村毛不過《イハレモスギズ》は、石村さへも、未(ダ)過ずといふなり、石村は、大和(ノ)國十市(ノ)郡にあり、此(ノ)下に、磐余《イハレ》とも書たり、神名帳(ニ)云、大和(ノ)國十市(ノ)郡|石寸山口《イハレノヤマクチノ》神社(大月次新嘗)とあり、神武天皇(ノ)紀に、夫磐余之地舊名《カノイハレノトコロノモトノナハ》、片居《カタヰ》、亦曰(シヲ)2片立《カタタチト》1、逮(テ)2我(ガ)皇師之《ミイクサノ》破(ルニ)1v虜《アタヲ》也、大軍集而《イクサビトツドヒテ》、滿《イハメリ》2於|其地《ソコニ》1、因《カレ》改(テ)v號(ヲ)、爲《イヘリ》2磐余《イハレト》1、見ゆ、○泊瀬山《ハツセヤマ》は、城上(ノ)郡なり、既く出づ、○夜者深去通都《ヨハフケニツツ》(去(ノ)字、拾穗本には爾と作り、)は、夜は既《ハヤ》く深つ )といふなり、去《ニ》は已成《オチヰ》の奴《ヌ》のかよへるなり、○歌(ノ)意は、既く夜は深つることながら、いまだ磐余も行過ぎざれば、さても何時しか、長谷をば超むことぞ、と待遠に思はるゝよしなり、飛鳥藤原のあたりより、石村泊瀬と經行道にて、よめるなるべし、
 
高市連黒人歌一首《タケチノムラジクロヒトガウタヒトツ》。
 
283 墨吉乃《スミノエノ》。得名津爾立而《エナツニタチテ》。見渡者《ミワタセバ》。六兒乃泊從《ムコノトマリユ》。出流船人《イヅルフナヒト》。
 
得名津《エナツ》は、和名抄に、攝津(ノ)國住吉郡榎津(以奈豆《イナツ》、)とあり、榎津の字は、古(ヘ)のまゝなるを、和名抄には、訛言のまゝに、以奈豆《イナツ》と記せるなり、○六兒乃泊從《ムコノトマリユ》は、武庫(ノ)郡武庫の泊まりといふなり、六兒は今いふ兵庫なり、集中かた/”\に見えて、武庫《ムコ》、牟故《ムコ》なども書たり、(元亨釋書に、攝州有2室(134)山1、號2如意輪摩尼峯(ト)1、昔神功皇后、征2新羅(ヲ)1而還、埋2如意珠、及金甲冑弓箭寶剱衣服等(ヲ)1、故臼2武庫(ト)1、とあるは、後に武庫と書る字に就て、附會《ヒキヨセ》たる説にして、更にいふにも足ぬ、うつけごとなり、)○歌(ノ)意は、かくれたるところなし、
 
春日藏首老歌一首《カスガノクラビトオユガウタヒトツ》。
 
284 燒津邊《ヤキヅヘニ》。吾去鹿齒《アガユキシカバ》。駿河奈流《スルガナル》。阿倍乃市道爾《アベノイチヂニ》。相之兒等羽裳《アヒシコラハモ》。
 
燒津邊は、ヤキヅヘニ〔五字右○〕と訓るよろし、燒津は、景行天皇紀に、日本式(ノ)尊、初(メテ)至(リマス)2駿河(ニ)1、云々、悉《コト/”\ニ》焚(テ)2其(ノ)賊衆《アタドモヲ》1而滅之《ホロボシタマヒキ》、故(レ)號(テ)2其處《ソコ》1、曰2燒津《ヤキツト》1、神名帳に、駿河(ノ)國益頭(ノ)郡燒津《ヤキツノ》神社、和名抄に、駿河(ノ)國益頭(ノ)(未志豆《マシヅ》、)郡益頭(萬之都《マシツ》、)と見ゆ、益はヤク〔二字右○〕の音を、ヤキ〔二字右○〕に轉(シ)用ひたるなり、然るを後に燒といふことを忌て、益(ノ)字の訓に唱(ヘ)かへたるものなり、備後の安那(ノ)郡は、穴《アナ》なるを、安(ノ)字の訓にかへて、ヤスナ〔三字右○〕と唱(フ)、大和の十市(ノ)郡の郷(ノ)名|飫富《オフ》を、飯富と書かへて、イヒトミ〔四字右○〕と唱(フ)るなど、此(ノ)類なり、と本居氏云り、邊《ヘニ》は方《ヘ》になり、邊は假字ならねば、爾《ニ》の辭をそふるに害なし、(さきにはヤキツヘ〔四字右○〕と四言に訓て、邊は物へ行のへにて、語辭にやとおもへりしは、あしかりけり、又ヘム〔二字右○〕の音を、ヘニ〔二字右○〕に用ひたるにや、とおもひしも、あらぬことなりけり、)さてこの類のへを、凡て今は濁りて唱ふれども、必清べき例なり、既《サキ》にくはしく云り、〔頭註、【總國風土記、薦河國益頭、燒津神社、瑞齒別天皇四年己酉、所祭市杵島比※[口+羊]也、】〕○阿倍乃市道爾《アベノイチヂニ》は、安部(ノ)市に通ふ道路にと云なり、和名抄に、駿河(ノ)國國府、在2安部(ノ)郡(ニ)1、とあり、今の府(135)中なり、元亨二年民部省圖帳に、薦河(ノ)國阿兵(ノ)郡阿兵市(或阿部)云々、東西四里南北九里六十歩とあり、○相之兒等羽裳《アヒシコラハモ》は、兒等《コラ》は女を云り、羽裳《ハモ》は歎思《ナゲ》きて、いづらと尋ね慕ふ意の辭なり、此下に、如是耳有家類物乎芽子花咲而有哉跡問之君波母《カクノミニアリケルモノヲハギガハナサキテアリヤトトヒシキミハモ》、十一に、情中乃隱妻波母《コヽロノウチノコモリツマハモ》、又|不飽八妹登問師君羽裳《アカズヤイモトトヒシキミハモ》、十二に、消者共跡云師君者母《ケナバトモニトイヒシキミハモ》、十四に、安乎思努布良武伊敝乃兒呂波母《アヲシヌフラムイヘノコロハモ》、廿(ノ)卷に、伊都伎麻左牟等登比之古良波母《イツキマサムトトヒシコラハモ》、(此(ノ)外にも多く見えたり、)古事記中卷弟橘比賣(ノ)命(ノ)御歌に、佐泥佐斯佐賀牟能袁怒邇毛由流肥能本那迦邇多知弖斗比斯岐美波母《サネサシサガムノヲヌニモユルヒノホナカニタチテトヒシキミハモ》、古今集に、春日野の雪間を分て生出來る草の端《ハツ》かに見えし君|者毛《ハモ》、といへるなど皆同じ、(波夜《ハヤ》と云に似ていささか異りたる詞なり、)○歌(ノ)意は、燒津の方に行しかば、阿部(ノ)市に往來ふ道中にて、おもはず相見しその美女はも、さてもその光儀《スガタ》の麗美《ウルハ》しかりしが、目(ノ)前にかゝりて、忘れられぬよとなり、既く引たる如く、老は常陸(ノ)介なりけるよし、懷風藻に見えたれば、その任に下れる時の歌なるべし、
 
丹比眞人笠麻呂《タヂヒノマヒトカサマロガ》。往《ユキ》2紀伊國《キノクニニ》1。超《コユル》2勢能山《セノヤマヲ》1時作歌一首《トキヨメルウタヒトツ》。
 
笠麻呂は、傳未(ダ)詳ならず、四(ノ)卷にも、下2筑紫(ノ)國1時作歌あり、○勢能山は、孝徳天皇(ノ)紀に、紀伊(ノ)兄《セノ》山(兄、此云v制《セト》、)とあり、既く出づ、
 
285 栲領巾乃《タクヒレノ》。懸卷欲寸《カケマクホシキ》。妹名乎《イモノナヲ》。此勢龍山爾《コノセノヤマニ》。懸者奈何將有《カケバイカニアラム》。
 
(136)栲領巾乃《タクヒレノ》は、枕詞なり、領巾《ヒレ》は頸《ウナジ》にかくるものなれば、懸とつゞけたり、○懸卷欲寸《カケマクホシキ》は、懸む事の欲きといふ意にて、(懸卷は、かけむの伸りたるなり、)詞にかけて、言ま欲(シ)きよしなり、○妹名乎《イモノナヲ》は、荒木田氏云、妹の名をと訓べし、この山のうるはしきに、妹といふ名をかけたらば、せめて旅路の心なぐさに、見つゝしぬはむといふ意なり、○懸者奈何將有《カケバイカニアラム》は、負(ヒ)持せなば、奈何《イカニ》あらむと云むが如し、上に懸とはいさゝか異なり、名に負(ヒ)持(ツ)事を、懸と云ること多し、かの御名
爾懸世流明日香河《ミナニカヽセルアスカガハ》、又|妹之名爾繋有櫻《イモガナニカケタルサクラ》など云る類なり、舊本に、一(ニ)云、可倍波伊香爾安良牟《カヘバイカニアラム》と註せり、兄《セ》の山といふ名を改《カヘ》て、妹(ノ)山と呼はいかにあらむといふなり、(源(ノ)嚴水云、略解に、こは一本にはあらで、佛足石の御歌の如く、一句餘れるなるべし、といへるはいかゞ、集中にさる例なきうへに、かの佛足石の御歌は、音樂のしらべに合するが爲に、一句を剰《アマ》して、よませたまひしと見ゆ、神樂催馬樂の歌などの如く、もとは三十あまり一もじの歌なるを、句を多く添て、長くうたふ類なるべければ、こゝには例としがたしといふべし、)○歌(ノ)意は、かりにも、言の端にかけて、言まはしき妹といふ名を、この兄(ノ)山に負持せて、やがて妹(ノ)山と呼なしたらばいかゞあらむ、さらば戀しく思ふ妹と見つゝ、せめて旅路のなぐさめになりなむかとなり、
 
春日藏首老即和歌一首《カスガノクラビトオユガスナハチコタフルウタヒトツ》。
 
即(ノ)字、舊本郎に誤れり、類聚抄、古寫本、異本等に從つ、
 
(137)286 宜奈倍《ヨロシナベ》。吾背乃君之《アガセノキミガ》。負來爾之《オヒキニシ》。此勢能山乎《コノセノヤマヲ》。妹者不喚《イモトハヨバジ》。
 
宜奈倍《ヨロシナベ》は、宜並にて、心にかなひて、何事もあかぬ所なく、滿足《タリトヽノ》ひたる意の詞なり、既く一(ノ)下に註り、○歌(ノ)意は、うるはしき吾(ガ)兄《セ》の君が、兄《セ》といふ名に、宜しく打あひ、心にかなひて何一(ツ)あかぬ事なき、この兄の山なれば、なほたゞに、もとの兄の山にてこそあらめ、いかで妹といふ名を負せて、妹(ノ)山とは喚なすべきぞといひて、笠麻呂を愛慰《ナグサ》めたるなり、
 
幸《イデマセル》2志賀《シガニ》1時《トキ》。石上卿作歌一首《イソノカミノマヘツキミノヨミタマヘルウタヒトツ》。
 
幸2志賀(ニ)1は、續紀に、元正天皇養老元年九月戊申、行2至近江(ノ)國(ニ)1、觀2望(タマフ)淡海(ヲ)1、とあり、此(ノ)時のことなるべし、○石上(ノ)卿は、乙麻呂(ノ)卿なるべし、(乙麻呂(ノ)卿の父、麻呂(ノ)公は、養老元年三月に薨賜へれば、同年九月の行幸に、從駕すべき謂なし、)續紀に、神龜元年二月壬子、授2正六位下石上(ノ)朝臣乙麻呂(ニ)從五位下(ヲ)1、十一月己卯、大甞云々、石上(ノ)乙麻呂、云々等、率2内(ノ)物部(ヲ)1立2神楯(ヲ)1、云々、天平四年正月甲子從五位上、九月乙巳、爲2丹波(ノ)守(ト)1、八年正月辛丑、正五位下、九年九月己亥、正五位上、十年正月壬午、從四位下、乙未、爲2左(ノ)(右か)大辨(ト)1、十一年三月庚申、石上(ノ)朝臣乙麻呂、坐v※[(女/女)+干](タルニ)2久米(ノ)連若賣(ニ)1、配2流土佐(ノ)國(ニ)1、十三年九月乙卯、大赦、(此時に、乙麻呂も赦されて、京に入しなるべし、)十五年五月癸卯、從四位下石上(ノ)朝臣乙麻呂(ニ)授2從四位上(ヲ)1、十六年九月甲戌、爲2西海道巡察使(ト)1、十八年三月己未、治部(ノ)卿石上(ノ)朝臣乙麻呂等云々、四月己酉、爲2常陸(ノ)守(ト)1、癸卯、正四位下、九月己巳、爲2右(ノ)(左か)大辨(ト)1、二十二年己(138)未、從三位、勝寶元年四月甲午、勅云々、從三位中務(ノ)卿云々、七月甲午、爲2中納言(ト)1、三年九月朔、中納言從三位兼中務(ノ)卿石上(ノ)朝臣乙麻呂薨(ス)、左大臣贈從一位麻呂之子也、懷風藻に、從三位中納言兼中務(ノ)卿石上(ノ)朝臣乙麻呂四首、石(ノ)上中納言者、左大臣第三(ノ)子也とあり、この行幸の時は、未《タ》わかゝりければ、六位の官人にて、從駕《ミトモツカ》へしなるべし、卿とあるは、後に三位になられければ、前にめぐらして、たふとみ書るなり、六(ノ)卷に、石上(ノ)乙麻呂(ノ)卿、配2土左(ノ)國(ニ)1之時(ノ)歌とあるも、その時は四位なれば、卿とは云まじきことなれども、前にめぐらして、たふとみ書る事、今と全同じ、○舊本こゝに、名闕とあるは、後人の加筆なり、もとより名のしれたる人にも、名を書《シル》さゞるは、これかれ多きをや、
 
287 此間爲而《コヽニシテ》。家八方何處《イヘヤモイヅク》。白雲乃《シラクモノ》。棚引山乎《タナビクヤマヲ》。超而來二家里《コエテキニケリ》。
 
家八方何處《イヘヤモイヅク》は、家は何處ぞやといふ意なり、家とは奈良(ノ)都の己が家なり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、四(ノ)卷大伴(ノ)卿(ノ)歌に、此間在而筑紫也何處白雲乃棚引山之方西有良思《コヽニアリテツクシヤイヅクシラクモノタナビクヤマノカタニシアルラシ》とあるは、今のに似たり、六帖に、こゝやいづこあなおぼつかな白雲の八重立山を超て來にけりとあるは、今の歌を誤れるか、
 
穗積朝臣老歌一首《ホヅミノアソミオユガウタヒトツ》。
 
老は、續紀に、大寶三年正月甲子、遣2正八位上穗積(ノ》朝臣老(ヲ)于山陽道(ニ)1、》云々、和銅二年正月丙寅、授2(139)從五位下(ヲ)1、三年正月朔、受v朝(ヲ)、左副將軍穗積(ノ)朝臣老云々、六年四月乙卯、從五位上、養老元年正月乙巳、五五位下、三月癸卯、(石上(ノ)麻呂薨、)式部(ノ)少輔穗積朝臣老、爲2五位已上之誄(ヲ)1、二年正月庚子、正五位上、九月庚戌、爲2式部(ノ)大輔(ト)1、六年正月壬戌、穗積(ノ)朝臣老、坐v指2斥(ニ)乘與(ヲ)1、處2斬刑(ニ)1、》而2皇太子(ノ)奏1、降2死一等(ヲ)1、配2流於佐渡(ノ)島(ニ)1、天平十二年六月庚午、(大赦)流人大赦穗積(ノ)朝臣老等五人、召令v入v京(ニ)、十六年二月丙申、以2大藏(ノ)大輔穗積(ノ)朝臣老等五人(ヲ)1、爲2恭仁(ノ)宮(ノ)留守(ト)1、など見えたり、
 
288 吾命之《ワガイノチノ》。眞幸有者《マサキクアラバ》。亦毛將見《マタモミム》。志賀乃大津爾《シガノオホツニ》。縁流白浪《ヨスルシラナミ》。
 
吾命之は、ワガイノチノ〔六字右○〕と訓べし、(ワガイノチシ〔六字右○〕と訓るは、太《イミ》じきひがことなり、)凡て吾命と云ときは、必(ス)乃《ノ》、毛《モ》、乎《ヲ》、波《ハ》など云辭をそへて、六言にいふ古歌の一(ツ)の例なり、四(ノ)卷に、吾命之將全幸限《ワガイノチノマタケムカギリ》、十二に、我命之長欲家口《ワガイノチノナガクホシケク》、十三に、吾命乃生極《ワガイノチノイケラムキハミ》、雄略天皇(ノ)紀秦(ノ)酒(ノ)公(ノ)歌に、倭我伊能致謀那我具母鵝騰《ワガイノチモナガクモガト》、此(ノ)卷(ノ)下に、吾命毛常有奴可《ワガイノチモツネニアラヌカ》、十五に、和我伊能知乎奈我刀能之麻能《ワガイノチヲナガトノシマノ》、十六に、吾命者惜雲不有《ワガイノチハヲシクモアラズ》などあり、(たゞ十一に、吾命|妹相受日鶴鴨《イモニアハムトウケヒツルカモ》、また吾命|生日社《イケラムヒコソ》とあるのみは、乎《ヲ》乃《ノ》などいふ辭にあたれる字はなけれども、凡て此(ノ)歌の書法は、辭の字を省ける例なれば、猶これらをも、外の例によりて、吾命乎《ワガイノチヲ》、吾命乃《ワガイノチノ》と辭をそへて訓べきなり、しかるを略解などに、例にもよらずして、此(レ)等を、ワガイノチ〔五字右○〕と五言にょみたるは、きはめて誤なりけり、)○眞幸有者《マサキクアラバ》、十七に、麻佐吉久登伊比底之物能乎《マサキクトイヒテシモノヲ》とあり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、十三に、天地乎歎乞?幸(140)有者又反見思我能韓埼《アメツチヲナゲキコヒノミサキクアラバマタカヘリミムシガノカラサキ》とあるは、今の歌に似たり、○舊本こゝに,右今案不審幸行年月(幸行、古寫本には行幸と作り、)といふ註あり、後人のしるせるものなり、
 
間人宿禰大浦初月歌二首《ハシヒトノスクネオホウラガミカツキノウタフタツ》。
 
間人(ノ)宿禰大浦(浦(ノ)字、異本には輔と作り、)傳未(タ)詳ならず、九(ノ)卷に、間人(ノ)宿禰とあるは、同人なるべし、天武天皇(ノ)紀に、十三年十二月己卯、間人(ノ)連(ニ)賜2姓(ヲ)宿禰(ト)1、と見ゆ、間人は、ハシヒト〔四字右○〕と訓べし、(略解に、ハシウト〔四字右○〕とよみたるは、いみじきひがことなり、凡(ソ)客人《マラヒト》をマラウト〔四字右○〕、旅人《タビヒト》をタビウト〔四字右○〕、商人《アキヒト》をアキウト〔四字右○〕などいふ類は、すべて後(ノ)世の、音便にくづれたるなり、古(ヘ)はいづれも、たゞしくヒト〔二字右○〕とこそ、唱へたれ、)○舊本こゝに、大浦(ハ)紀氏見2六帖1と註せり、最後人のしわざなり、古寫本、拾穗本等になきぞよき、
 
289 天原《アマノハラ》。振離見者《フリサケミレバ》。白眞弓《シラマユミ》。張而懸有《ハリテカケタリ》。夜路者將去《ヨミチハユカム》。
 
第一二(ノ)句は、既く二卷に出づ、○日眞弓は、檀の木にて削《ケヅ》りたるにて、漆にてぬらず、白木のままにて用る弓を云、檀は木理《キメ》細かにして、生れつきねばくしなやかにて、古(ヘ)弓の上材《ヨキキ》とせし故に、やがて其(ノ)木(ノ)名をも、眞弓《マユミ》と負せたるなり、(此(ノ)木にて造れる故に、弓を眞弓と云にはあらず、本(ト)弓より出たるにて、木(ノ)名となれるは末なり、)檀の事は、猶品物解に委(ク)云、さてこゝは、初月を眞弓を張りたるに見なして云るなり、文粹に、初三夜(ノ)月似(レリ)2一張(ノ)弓(ニ)1、和名抄に、劉煕(カ)釋名(ニ)云、弦(141)月(ハ)、月之半名也、其形一旁曲一旁直、若v張2弓弦(ヲ)1也、絃(ハ)和名|由美八利《ユミハリ》、有2上弦下弦1、と云り(大和物語(ノ)歌に、てる月を弓張としもいふことは山邊をさして射ればなりけり、)○張而懸有は、ハリテカケタリ〔七字右○〕と訓て、暫こゝにて絶《キル》べし、(舊本に、カケタル〔四字右○〕とよめるはわろし、)○夜路者將去(去(ノ)字、舊本には吉と作り、今は異本に去と作るが勝れるによる、)は、ヨミチハユカム〔七字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、天(ノ)原に、白眞弓を張て懸たれば、いかなる夜路をゆくとも、賊徒妖物などのおそれはあらじ、いざ夜路は行むと云るなり、
 
290 椋橋乃《クラハシノ》。山乎高可《ヤマヲタカミカ》。夜隱爾《ヨコモリニ》。出來月乃《イデクルツキノ》。光乏寸《ヒカリトモシキ》。
 
椋橋乃山《クラハシノヤマ》は、大和(ノ)國十市(ノ)郡にあり、七(ノ)卷に、橋立倉椅山《ハシタテノクラハシヤマ》、また橋立倉椅川《ハシタテノクラハシカハ》、諸陵式に、倉梯(ノ)岡(ノ)陵、在2大和(ノ)國十市(ノ)郡(ニ)1、古事記に、倉椅山、(歌に、波斯多弖能久良波斯夜麻袁佐賀志美登《ハシタテノクラハシヤマヲサガシミト》、)書紀に、倉梯、續紀に、倉橋(ノ)離宮三代實録に、大和(ノ)國十市(ノ)郡椋橋山など見えたり、○山乎高可《ヤマヲタカミカ》は、山が高さにかの意なり、可《カ》の詞は、尾句の下にうつして意得べし、○夜隱爾《ヨコモリニ》は、九(ノ)卷には、夜牢爾《ヨコモリニ》とあり、四(ノ)卷に、月四有者夜波隱良武須臾羽蟻待《ツキシアレバヨハコモルラムシマシハアリマテ》とも見ゆ、本居氏云、夜隱とは、宵のかたよりもいひ、曉のかたよりもいふことばなり、いづかたよりも、深きかたをこもるとは云なり、たとへば山にこもると云に、東の麓の方よりこもるは、西へこもるなり、西の麓のかたよりこもるは、東へこもるなり、その如く、曉の方よりいふは、まだ夜の深きことをいふ、宵のかたよりいふは、夜(142)ふかくなることをいふなり、さればこの歌は、廿日以後、夜ふけて出る月をよめるなり、(此(ノ)句を六帖に、木がくれてとあるは、後に誦誤かたるものなるべし、)○光乏寸《ヒカリトモシキ》は、見る間の、少く乏きと云にて、不足《アカズ》おもふ意なるべけれど、いさゝか心ゆかぬいひざまなり、九(ノ)卷に、沙彌(ノ)女王(ノ)歌とて、全同歌を再出せるに、尾句を片待難《カタマチガタキ》とあるぞ、理よく聞えたる、○歌(ノ)意は、椋橋山が高さに、其(ノ)山に障(ヘ)られて、いたく夜深て出る月の遲くて、見る間の少く乏きかとよめるなり、片待難とする時は、待遠にして、待得難きよしなり、此(ノ)歌は、本居氏云、今一昔の、天原《アマノハラ》云々の歌とならびてのれるから、まぎれたるものにて、實は初月の歌にあらず、廿日以後の月の歌なり、
 
小田事|主〔○で囲む〕勢能山歌一首《ヲダノコトヌシガセノヤマノウタヒトツ》。
 
小田(ノ)事主は傳しれず、紀氏六帖に、此(ノ)歌の作者を、をだのことぬしとあり、舊本は主(ノ)字脱たるものなり、
 
291 眞木葉乃《マキノハノ》。之奈布勢能山《シナフセノヤマ》。之奴波受而《シヌハズテ》。吾超去者《アガコエユケバ》。木葉知家武《コノハシリケム》。
 
之奈布《シナフ》は、十(ノ)卷に、秋芽子之四搓二將有妹之光儀乎《アキハギノシナヒニアラムイモガスガタヲ》、十三に、春山之四名比盛而《ハルヤマノシナヒサカエテ》、廿(ノ)卷に、多知之奈布伎美我須我多乎《タチシナフキミガスガタヲ》、神代(ノ)紀に、其(ノ)秋|垂頴八握莫々然甚快《タリホヤツカホニシナヒテイトヨシ》也、などあり、○之奴波受而《シヌハズテ》は、家をこひしく思ふ心に、えたへしのばずしてといふなり、○木葉知家武《コノハシリケム》は、木(ノ)葉も、吾(ガ)心のうちを知けむといふなり、○歌(ノ)意は、家を戀しく思ふ心に、得堪忍ばずして、愁ひしなへて超ゆけば、(143)木の葉も吾(ガ)心のうちを知けるにや、眞木(ノ)葉の、うなだれしなひて見ゆらむとなり、三四五一二と句を次第《ツイデ》て意得べし、七(ノ)卷に、天雲棚引山隱在《アマクモノタナビクヤマノコモリタル》、吾忘木葉知《アガシタゴヽロコノハシリケム》、十一に、我背兒爾吾戀居者吾屋戸之草佐倍思浦乾來《アガセコニアガコヒヲレバワガヤドノクササヘオモヒウラガレニケリ》、などよめるも、此(ノ)類なり、(現存六帖に、よひのまに雪積るらし眞木の葉のしなふ勢山の風も音せず、全(ラ)今の歌によれり、
 
〓兄麻呂歌四首《ロクノエマロガウタヨツ》。
 
〓(ノ)兄麻呂(舊本、〓を角に誤、兄(ノ)字を脱せり、〓は古寫本に依、兄は續紀に依て補つ、字書に、〓音録とありて、〓録相通はして用たり、)は、續紀(ニ)云、文武天皇大寶元年八月壬寅、勅2僧惠耀云々(ニ)1、並還v俗(ニ)復(シム)2本姓(ニ)1、代度各々一人、惠耀姓(ハ)録名(ハ)兄麻呂、元正天皇養老三年正月壬寅、授2正六位上〓(ノ)兄麻呂(ニ)從五位下(ヲ)1、五年春正月甲戌、詔曰、文人武士(ハ)、國家所v重(スル)、醫卜方術、古今斯崇(シ)、宜d擢(乙)於百僚之内優2遊學業(ニ)1堪(タル)v爲(ルニ)2師範(ト)1者(甲)、特(ニ)加2賞賜(ヲ)1勸c勵(ス)後生(ヲ)u、因賜2云々、陰陽從五位下〓(ノ)兄麻呂等(ニ)、各※[糸+施の旁]十匹、絲十※[糸+句]、布二十端、鍬二十口(ヲ)1、聖武天皇神龜元年五月辛未、從五下能(ノ)(當作録)兄麻呂賜2姓(ヲ)羽林(ノ)連(ト)1、四年十二月丁亥、云々、其(ノ)犯v法尤甚者、丹後(ノ)守從五位下羽林(ノ)連兄麻呂、處v流(ニ)、などあり、
 
292 久方乃《ヒサカタノ》。天之探女之《アマノサグメガ》。石船乃《イハフネノ》。泊師高津者《ハテシタカツハ》。淺爾家留香裳《アセニケルカモ》。
 
天之探女《アマノサグメ》は、古事記に、爾天(ノ)佐具賣《サグメ》、聞2此鳥(ノ)言(ヲ)1而、語2天若日子(ニ)1言、云々、とありて、天若日子につかへし女なり、書紀に、天探女、此云2阿麻能左愚謎《アマノサグメト》1、和名抄に、日本紀(ニ)云、天(ノ)探女、和名|阿萬佐久女《アマサグメ》、一
 
 
      (144)云、安萬乃佐久女《アマノサグメ》とあり、○岩船之《イハフネノ》は、神武天皇(ノ)紀に、抑又聞2於鹽土(ノ)老多(ニ)1曰、東(ニ)有2美地1、青山四周《アオカキヤマコモレリ》、其(ノ)中(ニ)亦有d乘2天(ノ)磐船(ニ)1、飛降(レル)者《ヒト》u、云々、厥(ノ)飛降(レル)者《ヒトハ》、謂(フニ)是饒速日(ナラム)歟、また云、時(ニ)長髓彦、乃遣(シテ)2行人《ツカヒヲ》1、言《マヲシ》2於天皇(ニ)1曰《ケラク》、嘗《サキニ》有2天(ツ)神之子1、乘(テ)2天(ノ)磐船(ニ)1、自v天降(リ)止《マシキ》、號(ヲ)曰2櫛玉饒速日(ノ)命(ト)1、此(ノ)集十九に、蜻島山跡國乎天雲爾磐船浮《アキヅシマヤマトノクニヲアマクモニイハフネウカベ》云々|安母里麻之《アモリマシ》(これは、皇御孫(ノ)命の磐船に乘して、天降ませることを申せり、)などありて、天降る時には、大かたこの石船にのりて、降(リ)坐ことにぞありけむ、(近(キ)ころ平田(ノ)篤胤が、皇御孫(ノ)命の天降(ラ)しゝ天(ノ)浮橋と、この磐船と一(ツ)物ぞ、といへるはよく叶へり、其(ノ)説甚詳なり、)さて磐とは、其(ノ)物の堅固《カタキ》を稱《ホメ》て、しかいふか、又は實に磐にて造れる故に、しかいふか、今定めてはいひがたけれども、實に磐にて造れるものならむとおもふよしもあり、(さるは土佐(ノ)國香美(ノ)郡大里(ノ)莊東川村に、石舟明神(ノ)社あり、古老傳説に、石船に乘て天降賜ふ神なりと云り、今に社傍に石舟あり、長八尺許、亙三尺、四寸許ありて、いと神さぴたり、古代神造の物と見えたり、これ實に磐にて造りしものならむ、とおもふ據なり、)〔頭註、【朝野群載曰、攝津東方於2味原1有2石船1、往年下照姫神垂跡云々、其磐船四十尋餘、亘二十尋餘、石中有2凹凸1、置2中央寶珠一顆1、名曰2如意珠1、其船向2東北1、待2智者1搖動、其上有v祠、祭2祀石靈1、云々(右攝津名所圖會所引)〕○泊師高津者《ハテシタカツ》は、泊師《ハテシ》とは、船の至り著しを云、高津は難波(ノ)高津なり、攝津(ノ)國風土記(ニ)云、難波高津者、天稚彦天降時、屬《ツキソヘル》之神天(ノ)探女、乘2磐舟(ニ)1而至2于此(ニ)1、其(ノ)磐舟|所泊《ハテシガ》故(ニ)、號2高津(ト)1といへり、高は天と云が如し、津は船津なり、天(ノ)探女が船の、天より至り著し津なる故に、天の津といふ義にて、高津と號しといふ意なり、(145)高は高光《タカヒカル》、高徃《タカユク》などいふに同じく、天の意なること、此(ノ)風土記の説にて、いよ/\明かなり、さて今は、その故事をおもひてよめるなり、○淺爾家留香裳《アセニケルカモ》は、潮退て淺くなりける哉といふなり、さて高津は即(チ)難波津にて、津は岸の上なりけむによりて、高津と云なるべく、かくて難波の地形、今の大坂より南へ、住吉のあたりまで長くつゞきたる岸ありて、上古は、その岸まで潮來りしを、此(ノ)歌よめる頃は、既《ハヤ》く此(ノ)岸までは、潮來らざりし故に、かく云るなるべし、と本居氏いへり、此(ノ)説に依(ル)ときは、岸の上にて高き地なるによりて、高津と云しと聞えたり、されど風土記によるときは、高は天の意なること、前に云る如し、○歌(ノ)意かくれたるところなし、久しき代々を經し事を云るなり、
 
293 鹽于乃《シホヒノ》。三津之海女乃《ミツノアマノ》。久具都持《クグツモチ》。玉藻將苅《タマモカルラム》。率行見《イザユキテミム》。
 
鹽于乃《シホヒノ》は、四言一句なり、○三津之海女乃は、ミツノアマノ〔六字右○〕と訓て、六言一句とすべし、(舊本にアマメ〔三字右○〕とよめれど、アマメ〔三字右○〕と云る例なし、)海女と書るは、海夫、海子など書ると、同樣のこゝろなり、○久具都持《クグツモチ》は、久具都は、藁にてあみたる袋なり、(谷川氏、くゞつは、袖中抄に裹(ノ)字をよめり、※[草がんむり/沙]草《クグ》を編て、袋にしたるをいふなりといへり、猶考(フ)べし、)うつほ物語さがの院の卷に、きぬあやを、糸のくゞつにいれてと見ゆ、和名抄に、唐韻(ニ)云、傀儡(ハ)、樂人之所v弄也、和名|久々豆《クヾツ》とあり、持は美籠持《ミコモチ》の持なり、モチ〔二字右○〕と訓べし、(モテといふはわろし上に委(ク)云り、)〔頭注、【袖中抄、くゞつとは、わらにてふく(146)ろのやうにあみたるものなり、それに藻などをもいるゝなり、】〕○率行見《イザユキテミム》は、いざ/\はやく行て見むといふなり、伊射《イザ》は、いざなひたつる詞にて、既く出、○歌(ノ)意かくれなし、九(ノ)卷に、難波方鹽干爾出而玉藻刈《ナニハガタシホヒニイデテタマモカル》、海末女通女等汝名告左禰《アマヲトメドモナガナノラサネ》とあり、
 
294 風乎疾《カゼヲイタミ》。奧津白浪《オキツシラナミ》。高有之《タカヽラシ》。海人釣船《アマノツリブネ》。濱眷奴《ハマニカヘリヌ》。
 
風乎疾《カゼヲイタミ》は、風が疾《ツヨ》く吹(ク)故にの意なり、○高有之《タカカラシ》(有(ノ)字、拾穗本に无は脱たるなり、)は、高くあるらしといふなり、○濱眷奴《ハマニカヘリヌ》(眷(ノ)字、舊本〓に誤れり、今改つ、)は、濱に歸りぬ、といふなり、眷はかへり見といふ意の字なるを、かへるの借(リ)字とせり、奴《ヌ》は已成《オチヰ》の奴《ヌ》の辭なり、○歌(ノ)意かくれなし、
 
295 清江乃木志〔○で囲む〕笶松原《スミノエノキシノマツバラ》。遠神《トホツカミ》。我王之幸行處《ワガオホキミノイデマシトコロ》。
 
木志笶松原《キシノマツバラ》(志(ノ)字、舊本脱せり、今は十(ノ)卷に、木志乃子松《キシノコマツ》とあるに依て補つ、同卷に片山木之《カタヤマキシ》ともあり、笶は字書に、笶(ハ)俗(ノ)矢(ノ)字と註し、六(ノ)卷に、弓笶圍而《ユミヤカクミテ》、和名抄に、釋名(ニ)云、笶、和名|夜《ヤ》とあり、されど古(ヘ)は、※[竹/幹]《ノ》に通(ハシ)用ひけむと思はれて、九(ノ)卷に、蘆檜木笶《アシヒキノ》、又|絶等寸笶《タユラキノ》、十(ノ)卷に、足日木笶《アシヒキノ》、十一に、浮笶緒乃《ウケノヲノ》、また小竹之眼笶《シヌノメノ》、十三に、葦原笶《アシハラノ》、また帶乳根笶《タラチネノ》、また隱來笶《コモリクノ》、また石床笶《イハトコノ》、また衣袂笶《コロモテノ》、六(ノ)卷に、飽津之小野笶《アキツノヲヌノ》、また大海乃原笶《オホウミノハラノ》など、多く之《ノ》の假字に用ひたり、和名抄に、讃岐(ノ)國香川(ノ)郡笶原(ハ)、乃波良《ノハラ》ともあり、※[竹/幹]《ノ》は矢の體《クキ》なり、今も、のとも、のだけともいふものなり、)は、岸之松原《キシノマツバラ》なり、○遠神《トホツカミ》は、大王《オホキミ》の枕詞なり、既く一(ノ)卷に出て委(ク)註り、○幸行處はイデマシトコロ〔七字右○〕と訓、(ミユ(147)キシトコロ〔七字右○〕と訓はわろし、)難波に幸行しこと數度ありければ、住吉にいでましゝこと、いふまでもなし、○歌(ノ)意かくれなし、
 
田口益人大夫《タクチノマスヒトノマヘツキミガ》。任《マケラルヽ》2上野國司《カミツケヌノクニノミコトモチニ》1時《トキ》。至《イタリテ》2駿河國淨見埼《スルガノクニキヨミノサキニ》1作歌二首《ヨメルウタフタツ》。
 
田口(ノ)益人(ノ)大夫は、續紀に、文武天皇慶雲元年春正月丁亥朔癸巳、從六位下田口(ノ)朝巨益人(ニ)授2從五位下(ヲ)1、元明天皇和銅元年三月丙午、從五位上田口朝臣益人爲2上野守(ト)1、二年十一月甲寅、從五位上田口(ノ)朝臣益人爲2右(ノ)兵衛率(ト)1、元正天皇靈龜元年四月丙子、授2正五位下田口(ノ)朝臣益人(ニ)正五位上(ヲ)1などあり、大夫とは、四位五位の人に通《ワタリ》て云稱なるが中に、氏名の下に附て云るは、みな五位の人なり、藤原(ノ)宇合(ノ)大夫、山上(ノ)憶良(ノ)大夫などあるが如し、此(ノ)人當時、從五位上なりしが故なり、
 
296 廬原乃《イホハラノ》。清見之埼乃《キヨミガサキノ》。見穗乃浦乃《ミホノウラノ》。寛見乍《ユタケキミツヽ》。物念毛奈信《モノモヒモナシ》。
 
廬原乃《イホハラノ》、(乃(ノ)字、類聚抄には之と作り、)和名抄に、駿河(ノ)國廬原(ノ)郡廬原(ハ)、伊保波良《イホハラ》とあり、○清見之埼乃《キヨミガサキノ》、清(ノ)字、類聚抄拾穗本等には淨、之(ノ)字、拾穗本には乃と作り、○見穗乃浦乃《ミホノウラノ》、(上の乃(ノ)字、類聚抄には之と作り、)神名帳に、駿河(ノ)國廬原(ノ)郡御穗(ノ)神社、三代實録に、貞觀七年十二月廿一日戊辰、授2駿河(ノ)國從五位下御廬《ミホノ》神(ニ)從五位上(ヲ)1とあり、今三穗といふところは、清見が埼より、入海ごしに向(ヒ)にありといへり、○寛見乍《ユタケキミツヽ》は、浪のゆた/\とたゆたひつゝ、おもしろきを見つゝといふな(148)り、廿(ノ)卷に、海原乃由多氣伎見都々安之我知流《ウナハラノユタケキミツヽアシガチル》、奈爾波爾等之波倍努倍久於毛保由《ナニハニトシハヘヌベクオモホユ》、(八(ノ)卷に、大乃浦之其長濱爾縁流浪《オオノウラノソノナガハマニヨスルナミ》、寛公乎念比日《ユタケクキミヲオモフコノゴロ》、十一に、海原乃路爾乘哉吾戀居大舟之由多爾將有人兒由惠爾《ウナハラノミチニノレヽヤワガコヒヲリテオホフネノユタニアルラムヒトノコユヱニ》なども見ゆ、)○物念毛奈信《モノモヒモナシ》は、旅の憂を忘て、物思も無となり、○歌意かくれなし、
 
297 晝見騰《ヒルミレド》。不飽田兒浦《アカヌタコノウラ》。大王之《オホキミノ》。命恐《ミコトカシコミ》。夜見鶴鴨《ヨルミツルカモ》。
 
田兒浦《タコノウラ》は清見(ノ)埼より東へ行ば、今薩〓坂といふ山の下の渚に、昔(シ)の道ありて、そこより向ひの、伊豆の山の梺までの海、田兒なりと云り、○和大王之《オホキミノ》、王(ノ)字、拾穗本には君と作り、○歌意は、晝見てさへあかず、おもしろき、田兒の浦の佳景なるに、公役《オホヤケゴト》を恐みつゝしみて、夜道に、そこを見て、歴つゝ來つるが、口をしく、あかぬ事におもはるゝこと哉となり、古(ヘ)人の、王命を恐みつつしみて、公事をつとめいそしみ励める意、よく/\思ひやるべし、大かたに見すぐすべからず、
 
辨基歌一首《ベムキガウタヒトツ》。
 
辨基は、舊本左註に、或(人)云、辨基者、春日(ノ)藏首老之法師(時(ノ)字脱か、)名也、とあるが如し、なほその僧なりし事は、一(ノ)下春日(ノ)藏首老が傳に委(ク)云るが如し、續紀には辨紀と書り、基紀同音なれば、通(ハシ)書るなるべし、
 
298 亦打山《マツチヤマ》。暮越行而《ユフコエユキテ》。廬前乃《イホサキノ》。角太河原爾《スミダガハラニ》。獨可毛將宿《ヒトリカモネム》。
 
(149)亦打山《マツチヤマ》は、大和國の信土山《マツチヤマ》なり、紀伊(ノ)國の堺にあり、一(ノ)卷に出づ、○暮越行而《ユフコエユキテ》(越(ノ)字、類聚抄には超と作り、)は、暮方《ユフヘ》に越行てといふなり、○廬前乃角太河原爾《イホサキノスミダガハラニ》(太(ノ)字、拾穗本には田と作、河(ノ)字類聚抄には无(シ))は、河(ノ)字无(キ)本に依ば、原は眞神之原などいふ原にて、スミダノハラニ〔七字右○〕とも訓べく、又|河原《ガハラ》とあるも、河は借(リ)字、之《ガ》の意にて、角田之原《スミダガハラ》なるべし、(古來|河《カハ》とのみ心得來つれども、河にてはあらじとどおもはる、)さて角田は、眞土山の隣にありと云り、(本居氏、隅は須美《スミ》、角は都奴《ツヌ》にて、事違へりと云り、されど續紀廿八詔に、東南之角《タツミノスミ》云々、西北角《イヌヰノスミ》などあれば、なほ角田は、スミダ〔三字右○〕なるべき證とすべし、中世に至りて、北條(ノ)泰時に隨ふ人の中に、角田《スミダ》太郎といふ者あり、もしは此(ノ)地より出たる人にや、宮地(ノ)春樹(ノ)翁云、近江の海量僧、土佐に來て云、近(キ)頃紀伊(ノ)國に行、信土山にて里人に聞(ク)、紀伊の方信土山のほとりに、いほさきと云ところあり、其(ノ)處に隣りたる大和のかたにすみだの庄と云あり、そこに川あり、今はまつち川と云、是(レ)を即(チ)古(ヘ)すみだ川と云けらし、かゝれば信土山いほさき角太川は、みな紀伊大和の兩國にあること、疑なしと云り、但しすみだ川といふは、古(ヘ)よりありもしけむ、今の歌なるは、河によれるにはあらじ、と思はるゝこと、上に云る如し、)○獨可毛將宿《ヒトリカモネム》は、一人宿むか、さてもくるしやといふなり、可毛《カモ》は、將宿《ネム》の下にうつして意得べし、可《カ》は疑(ノ)辭、毛《モ》は歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、旅宿のくるしきさま、いとあはれなり、
 
(150)大納言大伴卿歌一首《オホキモノマヲスツカサオホトモノマヘツキミノウタヒトツ》。
 
大伴(ノ)卿は、旅人(ノ)卿なり、按(フ)に、類聚國史に、淳和天皇弘仁十四年、改2大伴(ノ)宿禰(ヲ)1、爲2伴(ノ)宿禰(ト)1と見ゆ、是は淳和天皇の御名を、大伴と申しけるが故に、其を忌(ミ)避て、大伴を伴と爲、また古き典籍どもに、大伴とあるをも、トモ〔三字右○〕とのみ唱へしなるべし、さてすべて御諱を避る事は、當代天皇と太上天皇との御名に、かぎれることなり、(其(ノ)旨、次に引續紀の詔にて、しられたり、しかるを天野(ノ)信景が、鹽尻と云物に、當代天皇より上(ミ)、五代の御名を諱(ム)を、古法とするよししるせる、其は異國の制によりていへるにて、此方にて、さる御さだめのありしことはあらず、)さればそれすぎて以降《ノチ》は、諱(ミ)避べきよしなければ、古き物に大伴とあるをば、舊に復りてオホトモ〔四字右○〕と唱へしなるべし、かくて淳和天皇より先に、御諱を避し事は、續紀に、延暦四年五月、詔日、先帝御名、及朕之諱、自v今以後、宜2並改避1、於是改2姓白髪部(ヲ)1爲2眞髪部(ト)1、山部(ヲ)、爲v山(ト)とあり、これ光仁天皇を初|白壁《シラカベノ》王と申し、桓武天皇を山部《ヤマベノ》王と申しける故なり、これより先(キ)、御諱を避しさだなければ、忌ざりしなるべし、まして清寧天皇は、生《アレ》ましながら、御髪白くおはしましける故、御名を白髪(ノ)天皇と申(シ)しを、此(ノ)天皇御子おはしまさゞりしから、御名の末(ノ)世まで貽るべき事を、おもほしめして、白髪部をおかせ給へることあり、これは忌避るとは反《カヘサマ》なり、さてこの後、後嵯峨天皇の御諱を、國仁《クニヒト》と申しけるが故に、古き物に國人とあるを、クニタミ〔四字右○〕と呼、後宇多天皇の御(151)諱を、世仁《ヨヒト》と申しけるが故に、世人とあるは、人とのみ唱へしとぞ、此(ノ)他後紀に大同元年秋七月戊戌、云々、改2紀伊(ノ)國安諦(ノ)郡(ヲ)1、爲2在田(ノ)郡(ト)1、以3詞渉(ルヲ)2天皇(ノ)諱(ニ)1也、大同四年九月乙巳、改2伊豫(ノ)國神野(ノ)郡(ヲ)1、爲2群居(ノ)郡(ト)1以v觸(ヲ)2上《嵯峨天皇》(ノ)諱(ニ)1也、また類聚國史避諱(ノ)部に、天長十年、天下諸國人民姓名、及郡郷山川等號、有2觸v諱者1、皆令2改易(ヘ)1、など見えたるを思へば、彼(ノ)頃は、殊に嚴く制《トヾメ》られし事と見えたり、大伴を伴とし、山部を山とせるは、そのかみの事にて、永く後(ノ)世までをかけて、制められし事ならねば、何(レ)も今は、避申べきよしなかるべし、(國人とあるをば、今もなほ、クニタミ〔四字右○〕と唱ふなるは、そのかみ諱(ミ)避て稱《イヒ》しまゝを、後までも舊きに復さずして、稱《トナヘ》來れるなるべし、永く避べき理にて、しかるにはあらざるなり、)さて大納言已上には、凡て名を記さゞること、此(ノ)集の法例なるうへ、此は家持(ノ)卿の父君なれば、名を憚て記さゞる事はさらなり、旅人(ノ)卿は、續紀に、和銅三年正月朔、受v朝(ヲ)、(云々、)左(ノ)將軍正五位上大伴(ノ)宿禰旅人、四年四月壬午、從四位下、七年十一月庚戌、爲2左將軍(ト)1、靈龜元年正月癸巳、從四位上、五月壬寅、中務(ノ)卿、養老二年三月乙巳、爲2中納言(ト)1、三年正月壬寅、正四位下、九月癸亥、爲2山背(ノ)國攝官(ト)1、四年三月丙辰、爲2征隼人持節大將軍(ト)1、六月戊戌、詔曰、蠻夷爲v害(ヲ)自v古有之、今西隅等(ノ)賊怡(ヒ)v亂(ヲ)、屡々害2良民(ヲ)1、因遣(テ)2持節將軍大伴(ノ)宿禰旅人(ヲ)1、誅2罰(ス)其罪(ヲ)1、云々、五年正月壬子、從三位、三月辛未、給2資人四人(ヲ)1、神龜元年二月甲午、授2大伴(ノ)宿禰多比等(ニ)從三位(ヲ)1、(此(ノ)卷の奧書に、天平二年十月一日、任2大納言1とあり、さも有べし、此(ノ)事紀文には漏たり、)天平三年正月(152)丙子、從二位、七月辛未、大納言從二位大伴(ノ)宿禰旅人薨(ス)、難波(ノ)朝、右大臣大紫長徳之孫、大納言贈從二位安麻呂之第一子也と有(リ)、○舊本こゝに、未詳(ノ)二字あるは、最後人の書入なり、
 
299 奧山之《オクヤマノ》。菅葉凌《スガノハシヌギ》。零雪乃《フルユキノ》。消者將惜《ケナバヲシケム》。雨莫零行年《アメナフリソネ》。
 
菅葉凌《スガノハシヌギ》は、菅は品物解に云り、凌は、荒水田氏、自|堪忍《タヘシノブ》を、しのび、しのぶと云、他のたへがたきを、是よりおしてするを、しのぎ、しのぐと云、神代(ノ)紀に、凌2奪《シノギウバフ吾(カ)高天(ノ)原(ヲ)1、とあるしぬぎ即(チ)是にて、凌礫の字(ノ)意なり、さればこゝも、菅の葉をおしなびけて、降雪と云意なりと云り、六(ノ)卷に奧山之眞木葉凌零雪乃《オクヤマノマキノハシヌギフルユキノ》、零者雖益地爾落目八方《フリハマストモツチニオチメヤモ》、十(ノ)卷に、木葉凌而霞霏※[雨/微]《コノハシヌギテカスミタナビク》、(霞は、木(ノ)葉をおしなびけて、立ものにはあらざれども、たゞ打見たるさまの、木(ノ)葉を押なびけて立る如く、多く霞のたなびけるを云るなり、)また白浪凌落沸速湍渉《シラナミシヌギオチタギツハヤセワタリテ》、また秋芽子凌左牡鹿鳴裳《アキハギシヌギサヲシカナクモ》などよめり、○雨莫零行年《アメナフリソネ》は、本居氏、行は所(ノ)字の誤にて、所年はソネ〔二字右○〕なりと云り、こゝは雨ふることなかれ、と希ふ意なり、莫零《ナフリ》そといふに、年《ネ》の希望辭をそへたるなり、十(ノ)卷に雨莫零行年《アメナフリソネ》、七(ノ)卷に、風莫吹行年《カゼナフキソネ》、又|言勿絶行年《コトナタエソネ》、十三に、犬莫吠行年《イヌナホエソネ》などあるも、皆所年の寫誤なるべし、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
長屋王《ナガヤノオホキミノ》。駐2馬《ウマトヾメテ》寧樂山《ナラヤマニ》1作歌二首《ヨミタマヘルウタフタツ》。
 
長屋(ノ)王は、一(ノ)下に、御傳委く云り、
 
(153)300 佐保過而《サホスギテ》。寧樂乃手祭爾《ナラノタムケニ》。置幣者《オクヌサハ》。妹乎目不離《イモヲメガレズ》。相見染跡衣《アヒミシメトソ》。
 
佐保過而《サホスギテ》は、七(ノ)卷に、足代過而絲鹿乃山之櫻花《アテスギテイトガノヤマノサクラバナ》とあると、同じいひ樣なり、佐保は寧樂に近き地なり、○寧樂乃手祭《ナラノタムケ》は、手向山と云是なり、古今集※[覊の馬が奇]旅に、朱雀院の、奈良におはしましける時に、手向山にてよめる、菅原(ノ)朝臣、此たびは幣もとりあへず手向山云々、素性法師、手向にはつゞりの袖もきるべきに云々、とあるところなり、本居氏、多牟氣《タムケ》とは、越行山の、坂路の登り極たる處を云、其所にては、神に手向をする故に云なり、今(ノ)俗に、此(レ)を峠《タウゲ》と云は、手向を訛れるなりと云り、十五に、美故之治能多武氣爾多知弖《ミコシヂノタムケニタチテ》、十七に、刀奈美夜麻多牟氣能可味爾奴佐麻都里《トナミヤマタムケノカミニヌサマツリ》などもよめり、(これらにて見れば、何(レ)の山にても、坂路の絶頂にて、手向する地を云りしなり、さるを寧樂の手向は、古(ヘ)よりことに名高く、誰も彼(ノ)地にて、手向するにきはまりたるがゆゑに、山(ノ)名ともなれるなるべし、)○置幣《オクヌサ》は、置《オク》とは、すべて神に奠《タムク》る物をば、置座などに居(ヱ)置て、獻る故に云、幣《ヌサ》とは、集中に幣帛《ヌサ》とも帛《ヌサ》とも書て、其は神に奉る方にいひて、もはらいはゆる、白和幣《シラニキテ》、青和幣《アヲニキテ》、木綿《ユフ》の類を云なるが、爾伎?《ニキテ》といふは、もと和布《ニキタヘ》の約れる言にて、なべて絹布の類を云稱なり、と云説の如し、其を神に獻る方に付ては、奴佐《ヌサ》といへるなり、其は麻の皮穀(ノ)木の皮などを、裂て織たる布をも用ひ、又未織ずて、たゞ緒《ヲ》にしたるまゝをも用ひたりと見ゆ、さてその緒を木綿《ユフ》といひて、賢木の枝などに取かけたれたるを、木綿《ユフ》取つけなど多く(154)云り、木綿とは、もはら穀にて製(レ)るを云ことなれど、又麻と穀と、二種なるを總ても、木綿《ユフ》とは云るなり、後(ノ)世に紙を用ふるは、木綿の代(リ)なり、かくて古く麻《ヌサ》とも書たれども、奴佐《ヌサ》は必しも、麻《アサ》にかぎりて云るには非ざること、件にいへる如し、しかれども、主と用ふる方に就て、しか書りと見ゆ、さてこの麻を、古くは布佐《フサ》ともいへりしは、古語拾遺に、好麻《ヨキアサ》所v生、故謂2之|總國《フサノクニト》1、古語(ニ)麻《アサ》謂《イヘリ》2之|總《フサト》1也、今爲2上總下總(ノ)二國(ト)1、とある如し、總とは麻を細に裂て、總《フサ》として垂るより、いへる稱なるべし、されば奴佐《ヌサ》といふ名(ノ)義は、本居氏の?布佐《ネギフサ》なり、?宜布《ネギフ》は奴《ヌ》と約れり、事を乞?とて、奉るよしなりと云る、さることなるべし、(されば、これも名の由縁は、主とある、麻の方に就て云るなり、さて幣(ノ)字は、説文に、幣(ハ)帛島也と注し、字彙に、幣(ハ)財也錢也とも注して、漢土にて、すべて絹帛より金玉の類、上(ヘ)獻る物を幣と稱《イフ》より此方にても、奴佐《ヌサ》にこの字を用ひ來れるなり、ミテクラ〔四字右○〕といふにも、幣帛の字を用ひ來れり、その時は、絹布の類はさらにて、何にまれ、神に奠る物を、ひろくいへる稱なり、また彼方にて、幣貢といへることありて、幣貢(ハ)、玉馬皮帛也と註せり、ミテクラ〔四字右○〕、といふには、よくあたれることなり、)○妹乎目不離《イモヲメカレズ》(離(ノ)字、舊本雖に誤れり、古寫本拾穗本等に從つ、)は、妹を見る事の絶ず、といふ意なり、目離《メカル》とは、見る事のかれ行よしなり、草木の枯《カル》といふも、生氣の離るよしにて、もと同言なり、(人目も草もかれぬとおもへば、など後にも云り、)○相見染跡衣《アヒミ、イシメトソ》は令《シメ》2相見《アヒミ》1よとてその意なり、染は令《シメ》の借(リ)字なり、六(ノ)卷に、深(155)染西情可母《フカクシミニシコヽロカモ》、四(ノ)卷に、情爾染而《コヽロニシミテ》。十一に、染心《シミニシコヽロ》などあり、○歌(ノ)意は、寧樂の手向山に、ねもころに幣帛奉るは、他の故にあらず、吾(カ)戀しく思ふ妹を、相見る事の絶ず、あらしめよとてぞとなり、十(ノ)卷に、天漢瀬毎《アマノガハワタリセゴトニ》(瀬の上に、度(ノ)字を脱せり、)幣奉情者君乎幸來座跡《ヌサマツルコヽロハキミヲサキクキマセト》、こゝろばえ似たり、
 
301 磐金之《イハガネノ》。凝敷山乎《コヾシクヤマヲ》。超不勝而《コエカネテ》。哭者泣友《ネニハナクトモ》。色爾將出八方《イロニイデメヤモ》。
 
磐金之《イハガネノ》は、(金は借(リ)字、)磐之根之《イハガネノ》なり、○凝敷山乎《コヾシクヤマヲ》は、凝《コヾ》り重る山をといふなり、七(ノ)卷に神左振磐根己凝敷三芳野之水分山乎《カムサブルイハネコヾシクミヨシヌノミクマリヤマヲ》、また石金之疑木敷山爾入始而《イハガネノコヾシクヤマニイリソメテ》、十二に、石根興凝敷道乎石床笶根延門呼《イハガネノコヾシクミチヲイハトコノネハヘルカドヲ》、此(ノ)下に、極此疑伊豫能高嶺乃《コヾシカモイヨノタカネノ》、十七に、許其志可毛伊波能可牟佐備《コゴシカモイハノカムサビ》などあり、○超不勝而《コエカネテ》は、山はさがしく、家に留れる妹に心は引れ、かた/”\超むと思へども、得超あへずして、といふなり、○色爾將出八方《イロニイデメヤモ》は、色に出むやはといふ意なり、米《メ》は牟《ム》のかよへるなり、八《ヤ》は後(ノ)世の也波《ヤハ》の意、方《モ》は歎息(ノ)辭なり、しのび/\に哭には泣とも、それと人の知まで色には出さじとなり、○歌(ノ)意かくれたる所なし、
 
中納言安部廣庭卿歌一首《ナカノモノマヲスツカサアベノヒロニハノマヘツキミノウタヒトツ》。
 
廣庭(ノ)卿は、續紀に、元明天皇和銅二年十一月甲寅、正五位下阿部(ノ)朝臣廣庭爲2伊豫守(ト)1、四年四月、壬午、正五位下安倍(ノ)朝臣廣庭(ニ)授2正五位上(ヲ)1、六年正月丁亥、正五位上阿倍(ノ)朝臣麻呂(ニ)(廣庭の誤なるべし、)授2從四位下(ヲ)1、元正天皇靈龜元年五月壬寅、從四位上(下の誤か、)阿部(ノ)朝臣廣庭爲2宮内卿1、(156)養老二年正月庚子、從四位下阿倍(ノ)朝臣廣庭(ニ)授2從四位上(ヲ)1、五年六月辛丑、以2正四位下阿部(ノ)朝臣廣庭1爲2左大辨(ト)1、六年二月壬申、參議朝政、同三月壬寅朔戊申知2河内和泉(ノ)事(ヲ)1、七年正月丙子、正四位上、聖武天皇神龜元年七月庚午、遣2從三位阿部(ノ)朝臣廣庭等1、監2護喪事(ヲ)1、(夫人石川大〓比賣薨、)四年十月甲戊、以2從三位阿陪(ノ)朝臣廣庭(ヲ)1爲2中納言(ト)1、天平四年二月甲戌朔乙未、中納言從三位兼催造宮(ノ)長官知2河内和泉等國(ノ)事1阿倍(ノ)朝臣廣庭薨(ス)、右大臣從二位御主人之子也、懷風藻に、從三位中納言兼催造宮(ノ)長官安倍(ノ)朝臣廣庭二首、年七十四、など見えたり、
 
302 兒等之家道《コラガイヘヂ》。差間遠烏《ヤヽマトホキヲ》。野干玉乃《ヌバタマノ》。夜渡月爾《ヨワタルツキニ》。競敢六鴨《キホヒアヘムカモ》。
 
兒等之家道《コラガイヘヂ》は、妹が家(ノ)當(リ)近き道をいふ、兒等《コラ》は妹が事なり、○差間遠烏《ヤヽマトホキヲ》は、差《ヤヽ》は彌々《ヤヽ》なり、未(タ)彌彌《ヤヤ》間遠なるをの謂なり、問遠《マトホキ》は間近《マチカキ》の反《ウラ》にて、間(ノ)字を書る如く、此《コヽ》と彼《カシコ》と、間《マ》の遠き謂なり、此(ノ)下にも、藤衣間遠之有者《フヂコロモマトホクシアレバ》ともあり、十四に、麻等保久能久毛爲《マトホクノクモヰ》、又|麻等保久能野《マトホクノヌ》、又|久毛能宇倍由奈伎由久多豆乃麻登保久於毛保由《クモノウヘユナキユクタヅノマトホクオモホユ》ともあり、皆同じ詞なり、かくてこれらの假字書によりて、等《ト》の言を清て唱(フ)べし、(濁りて唱ふるは非なり、龍麻呂が、古言清濁考に出せる如し、されどこれらを、眞遠と見たるは、たがへることなり)、○夜渡月爾《ヨワタルツキニ》は、夜中に、中天を渡ゆく月にと云なり、(契冲が、夜渡月は、夜一夜ある月なり、と云るは甚わろし、夜を渡る月、といふ意には、あらざればなり、)渡は中天を往(ク)ことなり、十二に、野干玉夜渡月之清者《ヌバタマノヨワタルツキノサヤケクハ》、十八に、奴婆多麻能欲和(157)多流都奇乎伊久欲布等《ヌバタマノヨワタルツキヲイクヨフト》などあり、○競敢六鴨は、キホヒアヘムカモ〔七字右○〕と訓るよろし、競《キホヒ》は、廿(ノ)卷に、和多流日能加氣爾伎保比弖多豆禰弖奈《ワタルヒノカゲニキホヒテタヅネテナ》とあり、(略解にも何にも、キソヒ〔三字右○〕と訓るは誤なり、凡てキソヒ〔三字右○〕といふ假字の、古(ヘ)あることなし、十七に、服曾比獵須流《キソヒカリスル》とあるは、服襲獵《キソヒカリ》するなり、競獵といふにはあらず、思ひまどふべからず、)新古今集雜上に、はやくより、わらは友だちにて侍ける人の、年ごろへて行あひたるが、ほのかにて、七月十餘日の月にきほひて歸侍ければ、紫式部、めぐりあひてみしやそれとも分ぬ間に雲かくれにし夜半の月哉、この月にきほひて、とあるに同じ、字書に、競(ハ)爭也とある意にて、まけじとすることなり、敢《アヘ》は爲《シ》がたきことを、しひてするをいふ詞なり、十八に爾奈比安倍牟加母《ニナヒアヘムカモ》、とあるに同じ、字書に、敢(ハ)忍(テ)爲也とあり、〔頭註、【字鏡に、語、競言、支曾比云、又支曾比加太利、と見えたれば、彼頃は、競を支曾比と云へるなるべし、それより古く見當らず、】〕○歌(ノ)意は、天往(ク)月の入ぬさきに、到らむと急げども、妹が家道差間遠なれば、月の早きには、敢て爭ひ得じ歟、さても心の落居ぬ車哉、といふなり、(契冲が、月にきはふは、月に乘じてといふがごとし、と云るはいかゞなり、)これは物へ行て、夜をかけてかへり來ますほどに、よまれしなるべし、
 
柿本朝臣人麻呂《カキノモトノアソミヒトマロガ》。下《クダレル》2筑紫國《ツクシノクニニ》1時《トキ》。海路作歌二首《ウミツヂニテヨメルウタフタツ》。
 
303 名細寸《ナグハシキ》。稻見乃海之《イナミノウミノ》。奧津浪《オキツナミ》。千重爾隱奴《チヘニカクリヌ》。山跡島根者《ヤマトシマネハ》。
 
名細寸《ナグハシキ》は、既く出、○稻見乃海之《イナミノウミノ》は、播磨(ノ)國|印南海之《イナミノウミノ》といふなり、○千重爾隱奴《チヘニカクリヌ》は、立へだつ沖(158)つ浪の、千隔に、大和島は隱りぬといふにて、甚間遠くなれるよしなり、奴《ヌ》は已成《オチヰ》の奴《ヌ》なり、○山跡島根者《ヤマトシマネハ》(跡(ノ)字、拾穗本に路と作るは誤なり、)は、大和(ノ)國者といふなり、上にかへして意得べし、根《ネ》はそへたる辭にて、唯島なり、草根《クサネ》の根《ネ》に同じ、さて島は、國と云に同じ、○歌(ノ)意は、此(ノ)印南の海邊にて、吾家の方をかへり見すれど見えず、沖津浪の、千隔に立へだてられて、大倭島根は隱れて、甚間遠くなりぬなり、
 
304 大王之《オホキミノ》。遠乃朝庭跡《トホノミカドト》。蟻通《アリカヨフ》。島門乎見者《シマトヲミレバ》。神代之所念《カミヨシオモホユ》。
 
遠乃朝庭跡《トホノミカドト》は、遠の朝廷とある、太宰府にの意なるべし、此(ノ)朝廷は太宰府を云、美加度《ミカド》は、もと宮城《オホミヤ》の御門《ミカド》をいふより起りていふ詞にて、朝政取行ふ處をば、凡ていふ稱なり、(伊勢物語に、わがみかど、六十餘州といへるは、後(ノ)世に、御國を吾(カ)朝といふ、其(ノ)こゝろにていへるにて、古意にあらず、)宰府は、皇都に隔遠きが故に、天皇《スメロギ》の遠の朝廷とも、大皇《オホキミ》の遠の朝廷ともいふなり、さて天皇《スメロギ》と申すと、大皇《オホキミ》と申すとは、差別《ケヂメ》ある、詞なること既く云るが如くなれども、此(ノ)遠の朝廷は、いづれに至ても妨なき故に、二樣に云たるなり、○蟻通《アリカヨフ》は、(蟻は借(リ)字、)在(リ)つゝ通ふよしなり、○島門乎見者《シマトヲミレバ》(島(ノ)字、拾穗本には※[こざと+烏]と作り、)門《ト》は海門《ウナト》河門《カハト》水門《ミナト》の門《ト》にて、太宰府に往來ふ海路の、島々の島門を見れば、といふなり、○神代之所念《カミヨシオモホユ》(念(ノ)字、拾穗本には思と作り、)は、源嚴水云、島門は、難波より筑紫までの間の、島々をすべ云なり、さてかの島々の、依(リ)合(ヒ)たる島門の、あ(159)やしくなりいでしを、見るにつけては、神の國造らしゝ時、いかにしてか、かくはつくり出給ひけむ、と神の御代の事まで、おもはるゝと云なるべし、(略解に、島門は二(ノ)卷に、讃岐の歌に、神の御面と次て來る中の水門由船浮て、とよみたるに同じ地と見ゆ、神代之所念は、右の神の御面といふに同じといへるは、いかに心得ていへることにか、彼(ノ)歌の神之御面は、やがて讃岐(ノ)國をさして云るにて、此(ノ)歌の神代とは同じからず、又荒木田氏が、十八家持(ノ)卿の吉野(ノ)行宮(ノ)歌に、可美乃《カミノ》みことのかしこくもはじめたまひて云々とよめるは、雄略の御代を申せるなるべく、橘(ノ)歌に、神乃大御世爾田道聞守《カミノオホミヨニタヂマモリ》云々とあるは、垂仁の御代をさせり、さればこゝの神代も、はじめて、太宰府を置れたる御代をいふなり、といへるもいかゞなり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
高市連黒人《タケチノムラジクロヒトノ》。近江舊都歌一首《アフミノフルキミヤコノウタヒトツ》。
 
舊都は、志賀(ノ)大津(ノ)都なり、
 
305 如是故爾《カクユヱニ》。不見跡云物乎《ミジトイフモノヲ》。樂浪乃《サヽナミノ》。舊都乎《フルキミヤコヲ》。令見乍本名《ミセツヽモトナ》。
如是故爾《カクユヱニ》は、如是|哀悲《カナシミ》に堪がたき故にの意なり、○令見乍本名《ミセツヽモトナ》は、本名令見乍といふ意なる
 
べし、本名《モトナ》は俗に、めたにといふ言のもとなるべし、既く云り、○歌意は、舊都を見ば、古(ヘ)をしのぶに堪ず、かなしからむ、とかねておもふ故に、いな見じといふ物を、なほめたに見せつゝ、お(160)もひしごとく、悲憐《カナシミ》にたへられぬ事となり、これは行路《ミチスヂ》に伴なふ人などの、舊都の地を、いざ立よりて見て行むと云るに、いなと云るを、強て誘はれ行てよめるさまなり、
○舊本こゝに、右謌、或本曰、小辨作也、未v審《サダカナラ》2此(ノ)小辨(トイフ)者1也、と註せり、
 
幸《イデマセル》2伊勢國《イセノクニニ》1之時《トキ》。安貴王作歌一首《アキノオホキミノヨミタマヘルウタヒトツ》。
 
幸2伊勢(ノ)國(ニ)1は、續紀に、天平十二年冬十月壬午、行2幸伊勢(ノ)國(ニ)1、云々、と見えたり、六(ノ)卷にも、天平十二年冬十月、依2太宰(ノ)少貳藤原(ノ)朝臣廣嗣、謀反發1v軍(ヲ)、幸2于伊勢(ノ)國1とあり、猶彼處にも云べし、○安貴(ノ)王は、拾穗本に、春日(ノ)皇子之子と註せり、續紀に、天平元年三月、無位阿紀(ノ)王(ニ)授2從五位下(ヲ)1、十七年正月乙丑、從五位上、後紀延暦二十五年五月條、五百枝(ノ)王(ノ)傳に、公者田原(ノ)天皇(ノ)(志貴)四代、正四位下春日(ノ)王(ノ)曾孫、從五位上安貴(ノ)王(ノ)孫、五五位下市原(ノ)王(ノ)子、云々、六(ノ)卷に、市原(ノ)王、宴(ニ)?2父安貴(ノ)王(ヲ)1歌ありて、市原(ノ)王の父なり、
 
306 伊勢海之《イセノミノ》。奧津白浪《オキツシラナミ》。花爾欲得《ハナニモガ》。裹而妹之《ツヽミテイモガ》。家裹爲《イヘヅトニセム》。
 
花爾欲得《ハナニモカ》は、花にてもがなあれかし、といふ意なり、我《ガ》は希望辭なり、○家裹爲《イヘヅトニセム》は、俗にいふ、みやげものにせむといふ意なり、十五に、伊敝豆刀爾可比乎比里布等《イヘヅトニカヒヲヒリフト》、此(ノ)下に、家妹之濱裹乞者《イヘノイモガハマヅトコハヾ》、八(ノ)卷に、道去裹跡《ミチユキヅトヽ》、廿(ノ)卷に、夜麻都刀曾許禮《ヤマヅトソコレ》、七(ノ)卷に、欲得裹登《ツトモガト》、字鏡に、※[貝+求](ハ)、豆止《ツト》などあり、抑々|都刀《ツト》と云名(ノ)義は、裹物《ツヽミモノ》と云ことの、つゞまれるものなり、(其はまづツミ〔二字右○〕を切ればチ〔右○〕となり、モノ〔二字右○〕を切(161)ればモ〔右○〕となり、さてチモ〔二字右○〕を切てト〔右○〕となれば、ツト〔二字右○〕と云るなり、)四(ノ)卷に、紀(ノ)女郎、裹物《ツヽミモノヲ》贈v友(ニ)、十六左註に、徒贈2裹物《ツヽミモノヲ》1、(東鑑にも、裹物往々に見えたり、)○歌(ノ)意は、此(ノ)伊勢(ノ)海の沖つ浪の、白く花の如くに見えて、いとおもしろきを、家なる妹に見せまほしく思へど、すべきやうなし、いかでこの浪が、まことの花にてもがなあれかし、さらばつゝみもて行て、みやげものにせむぞとなり、十三に、三芳野瀧動々落白浪留西妹見卷欲白浪《ミヨシヌノタキモトヾロニオツルシラナミトマリニシイモニミセマクホシキシラナミ》とあり、考(ヘ)合(ス)べし、
 
博通法師《ハクツウホウシガ》。往《ユキ》2紀伊國《キノクニニ》1。見《ミテ》2三穗石室《ミホノイハヤヲ》1作歌三首《ヨメルウタミツ》。
 
博通は、傳知ず、○三穗(ノ)石室は、紀伊(ノ)國日高(ノ)郡にあり、石室は、和名抄に、説文(ニ)云、窟(ハ)土屋也、一云、掘v地(ヲ)爲v之、和名|伊波夜《イハヤ》とあり、
 
307 皮爲酢寸《ハタススキ》。久米能若子我《クメノワクゴガ》。伊座家牟《イマシケム》。三穗乃石室者《ミホノイハヤハ》。安禮爾家留可毛《アレニケルカモ》。
 
皮爲酢寸《ハタススキ》は、枕詞なり、本居氏、こは第四(ノ)句の三穗と係れり、御穗の意なりと云り、さることなり、(冠辭考に、すゝきは、穗のこもれるが見えて、漸に開出る物なれば、こめといひかけしにやと云るは非なり、)かく二句を隔て、第一句を、第四句にいひかけたるは、十二に、波之寸八師志賀在戀爾毛有之鴨《ハシキヤシシカルコヒニモアリシカモ》、君所遺而戀敷念者《キミニオクレテコヒシクオモヘバ》、(是第一(ノ)句は、第四(ノ)句の、君といふへ係れり)十五に、多都我奈伎安之敝乎左之弖等妣和多類安奈多頭多頭志比等里佐奴禮婆《タヅガナキアシヘヲサシテトビワタルアナタヅタヅシヒトリサヌレバ》(是第一(ノ)句は、第四(ノ)句の多頭多頭志といふへ係れり、)などある、是その例なり、○久米能若子我《クメノワクゴガ》は、神武天皇の御時、大(162)伴氏(ノ)遠祖の率ませし、久米部の稚子なるべし、天皇紀伊(ノ)國を經て、内津國に入ましゝなれば、紀伊(ノ)國に、久米部の殘りをりしなるべしと云り、(こは荒木田氏の考(ヘ)なり、なほ槻(ノ)落葉(ノ)別記に、委(ク)論へり、(若子は壯子の通稱にて、來背若子《クセノワクゴ》、殿之稚子《トノヽワクゴ》、毛津之稚子《ケツノワクゴ》、毛野之稚子《ケヌノワクゴ》(また緑子之若子《ミドリコノワクゴ》とも云り、)など云り、○伊座家牟《イマシケム》は、舊本に、家留とありて、一云家牟と註せる方の理かなへるを用つ、一(ノ)卷に、樂浪乃大津宮爾天下所知兼天皇之神之御言能《サヽナミノオホツノミヤニアメノシタシロシメシケムスメロギノカミノミコトノ》、十三に、葦原笶水穗之國丹手向爲跡天降座兼五百萬千萬神之《アシハラノミヅホノクニニタムケストアモリマシケムイホヨロヅチヨロヅカミノ》、などある、家牟《ケム》に同じく、そのかみの事を、おしはかりていふ詞なり、○安禮爾家留可毛《アレニケルカモ》は、舊本には、雖見不飽鴨とあり、これも 一云とある方の勝れるを用つ、○歌(ノ)意は、久米部の稚子のおはしませし、といひ傳ふる、この三穗(ノ)石室はその世には、いと壯觀なる事なりけむを、あまたの年代を歴て、今見ればさてもいたく荒廢《アレ》にける事哉となり、
 
308 常磐成《トキハナス》。石室者今毛《イハヤハイマモ》。安里家禮騰《アリケレド》。住家類人曾常無里家留《スミケルヒトソツネナカリケル》。
 
常磐成《トキハナス》は、如2常磐1なり、五(ノ)卷に、等伎波奈周迦久斯母何母等《トキハナスカクシモカモト》とあり、○住家類人曾《スミケルヒトソ》は、久米部の若子を云なるべし、○常無里家留《ツネナカリケル》は、世間常無《ヨノナカノツネナキ》を悲歎《カナシミ》て、當昔《ソノカミ》を慕ふなり、○歌(ノ)意は久しき年代を經にたれど、三穗(ノ)石室は、常磐の如くに、猶|存《ノコ》りてありけれど、その住て座《イマ》せしといひ傳ふる、久米部の稚子は、たゞ名のみ殘りて、かげもかたちも、なくなりにけるよ、無常《ツネナキ》世のこと(163)わりは、せむ方なきものぞとなり、
 
309 石室戸爾《イハヤトニ》。立在松樹《タテルマツノキ》。汝乎見者《ナヲミレバ》。昔人乎《ムカシノヒトヲ》。相見如之《アヒミルゴトシ》。
 
室石室戸爾《イハヤトニ》は、(戸は借(リ)字にて、)石室外《イハヤト》になり、○立在松樹《タテルマツノキ》(在(ノ)字、拾穗本には有と作り、)は、樹《タテ》る松の木よ、といふが如し、○汝乎見者《ナヲミレバ》は、其方を見ればと云意にて、汝は松(ノ)樹をさして云るなり、○昔人乎《ムカシノヒトヲ》は、久米部(ノ)若子をと云なり、○相見如之は、アヒミルゴトシ〔七字右○〕と訓べし、(如之は、之如を顛倒せるにて、アヒミルガゴト〔七字右○〕なるべし、とはじめ思ひしは、あらざりけり、)如之《ゴトシ》と結《トヂ》めたる例は、十六に、然言君之鬚無如之《シカイフキミガヒゲナキゴトシ》、五(ノ)卷に、年月波奈河流々其等斯《トシツキハナガルヽゴトシ》とあり、此(ノ)下に、※[手偏+旁]去師船之跡無如《コギニシフネノアトナキゴトシ》、四(ノ)卷に餓鬼之後爾額衝如《ガキノシリヘニヌカヅクゴトシ》、又|成者吾※[匈/月]截燒如《ナレバアガムネキリヤクゴトシ》、十(ノ)卷に、苅掃友生布如《カリハラヘドモオヒシクゴトシ》、十一に、木葉隱有月待如《コノハガクレルツキマツゴトシ》、又|苅除十方生及如《カリソクレドモオヒシクゴトシ》、また眞毛君爾如相有《マコトモキミニアヘリシゴトシ》、(是(レ)等の如を昔よりガゴト〔三字右○〕と訓來れるも、皆誤なり、)などあるをも、皆上の例に依て、ゴトシ〔三字右○〕と訓べきことなり、(よくおもふに、凡之如《ソノゴト》といふときは、下に云々とうくる言なくては、首尾調ふらず、一(ツ)二(ツ)云ば、一(ノ)卷に、其雪乃時無如《ソノユキノトキナキガゴト》、其雨乃間無知隈毛不落思乍叙來《ソノアメノマナキガゴトクマモオチズオモヒツヽゾコシ》、二(ノ)卷に、度日之晩去之如《ワタルヒノクレヌルガゴト》云々|過伊去等《スギテイニシト》、九(ノ)卷に、夏虫乃入火之如《ナツムシノヒニイルガゴト》、水門入爾船己具如久歸香具禮《ミナトイリニフネコグゴトクユキカグレ》云々、などあるにて、餘は准(ヘ)知べし、)○歌(ノ)意は、石室外《イハヤト》に植《タテ》る松の木よ、其方《ソナタ》を見れば、昔の久米部の稚子に、直に相見るこゝちして、いとゞ當昔《ソノカミ》の慕はるゝよとなり、此歌(ノ)六帖には、石室戸に根延室樹汝《ネハフムロノキナヲ》見れば昔の人を相見るが如、とて載り、(第二(ノ)句(164)は、此(ノ)下に礒上丹根蔓室木見之人乎《イソノヘニネバフムロノキミシヒトヲ》、とある歌の、混《マギ》れたるなり、又が如とあるも、後のひがよみなり、
 
門部王《カドベノオホキミノ》詠《ヨミタマヘル》2東市之樹《ヒムガシノイチノキヲ》1作歌一首《ウタヒトツ》。
 
門部(ノ)王は、類聚抄古寫本等に、後賜2姓大原眞人氏(ヲ)1也、と註せり、(一本には、敏達天皇六代(ノ)孫、舒明天皇之後也、と註せり、)六(ノ)卷にも、此(ノ)王見えて、そこにもかく註せり、續紀に、和銅三年春正月壬子朔戊午、授2無位門部(ノ)王(ニ)從五位下(ヲ)1、六年正月丁亥、授2無位門部王從四位下〔授無〜右・〕(ヲ)1、(此(ノ)十字誤あるべし、他處の文の混(レ)入たるか、)養老元年正月乙巳、從五位下門部(ノ)王從五位上、三年七月庚子、始置2按察使(ヲ)1、令3伊勢(ノ)國(ノ)守門部(ノ)王(ニ)、管2伊賀志摩二國(ヲ)1五年正月王子、正五位下、神龜元年二月壬子、正五位上、五年五月丙辰、從四位下、天平三年正月丙子、從四位上十二月戊未、治部卿從四位上門部(ノ)王等、奏云々六年二月朔、從四位下門部(ノ)王等(ヲ)、(歌垣)爲v頭(ト)、九年十二月壬戌、從四位下門部(ノ)王爲2右京大夫(ト)1、十四年四月戊戌、授2從四位下大原(ノ)眞入門部(ニ)從四位上(ヲ)1、十七年四月戊子朔庚戌大藏(ノ)卿從四位上大原(ノ)眞人門部卒と見ゆ、位階の次第疑あり、(按に天平四年より十四年までの間、故ありて位一階を減(トラ)れけるにや、)位詠2東市之樹(ヲ)1作は、詠云々作と書る例は、六(ノ)卷に、詠2思泥(ノ)埼(ヲ)1作歌と云り、詠は咏吟(ノ)義、作は裁作(ノ)義なれども、たゞ詠作にて、ヨメル〔三字右○〕と訓べし、東市は、市に東西ありて、七(ノ)卷に、西市爾但獨出而《ニシノイチニタヾヒトリデテ》とあり、延喜式(ニ)云、東(ノ)市(ノ)司、(西(ノ)市(ノ)司、准v此(ニ)、)云々、凡毎月十五日以前、集2(165)東(ノ)市(ニ)、十六日以後、集2西(ノ)市(ニ)と見えたり、大和(ノ)國添上(ノ)郡に、古市村ありて、古(ヘ)の東市の趾なりと云り、
 
310 東《ヒムガシノ》。市之殖木乃《イチノウヱキノ》。木足左右《コダルマデ》。不相久美《アハズヒサシミ》。宇倍戀爾家利《ウベコヒニケリ》。
 
市之殖木乃《イチノウヱキノ》、(殖(ノ)字、拾穗本には植と作り、)古(ヘ)市の衢に、木を殖られし事ありしと見ゆ、そは木(ノ)實を採(リ)、又桑をも殖るは、葉をとりて、民用のたすけとせられしなり、雄略天皇(ノ)紀に、鉗香(ノ)市(ノ)邊橘(ノ)本、古事記同條(ノ)歌に、夜麻登能許能多氣知爾古陀加流伊知能都加佐爾比那閇夜爾淤斐陀?流波毘呂由都麻都婆岐《ヤマトノコノタケチニコダカルイチノツカサニヒナヘヤニオヒダテルハビロユツマツバキ》などあり、又大和の海柘榴市《ツバイチ》といふも、殖木によれる名なり、又敏達天皇(ノ)紀に、阿斗《アトノ》桑市とあるは、桑を生殖たるゆゑの名なり、猶二(ノ)卷、橘之蔭履路乃八衢爾《タチバナノカゲフムミチノヤチマタニ》、とある歌につきて、類聚三代格延喜式等を引て、委(ク)云るを合(セ)考(フ)べし、○木足左右《コダルマデ》は、(足は借(リ)字、)木垂及《コダルマデ》なり、年長《オヒノビ》て、枝葉の垂るまでといふ意なり、十四に、可麻久良夜麻能許太流木乎麻都等奈我伊波婆《カマクラヤマノコダルキヲマツトナガイハバ》とあり、○不相久美《アハズヒサシミ》は、相ずて、久しくなれる故にの意なり、○宇倍戀爾家利《ウベコヒニケリ》、(舊本に宇倍吾とあり、吾は衍なり、古本无に從、)宇倍は、承諾《ウベナ》ふ意の辭なり、戀しく思ひけるは、げにことわりなる事ぞ、と承諾ふよしなり、(本居氏の、久美《クミ》は茱萸《グミ》、宇倍《ウベ》は郁子《ウベ》なり、と云る説は用ず、)○歌(ノ)意は、東(ノ)市の殖木の、未(タ)若かりしが、生(ヒ)長《ノビ》て、枝葉の垂るまで、年月久しき間、相ざるが故に、戀しく思ひけるは、げにことわりなる事そとなり、
 
(166)※[木+安]作村主益人《クラツクリノスクリマスヒトガ》。從《ヨリ》2豐前國《トヨクニノミチノクニ》1。上《マヰノボル》v京《ミヤコニ》時作歌一首《トキヨメルウタヒトツ》。
 
※[木+安]作(ノ)村主益人は、傳未(タ)詳ならず、※[木+安]作は氏、村主は尸なり、和名抄に、伊勢國安濃郡村主、(須久利《スクリ》、)紀伊(ノ)國伊都(ノ)郡|村主《スクリ》など、地(ノ)名にも見えたり、此(ノ)人六(ノ)卷にも見えて、内匠寮(ノ)大屬※[木+安]作(ノ)主益人、聊設2飲饌(ヲ)1、以饗2長官佐爲(ノ)王(ヲ)1と註せり、※[木+安](ノ)字は、(拾穗本に鞍と作るは、さがしらに改めたるか、)久良《クラ》と訓べき義は、字書に見えざれども、此(ノ)集續紀などに見えたれば、古(ヘ)御國にて、鞍を※[木+安]とも作《カ》けるなるべし、鉾を桙と作したぐひなり、(略解に、※[木+安]は鞍(ノ)字の省文なるべし、といへれど、これらは、省文てふものには、あらずかし、)字鏡には、※[木+安](ハ)、乘久良《ノリクラ》と見えたり、
 
311 梓弓《アヅサユミ》。引豐國之《ヒキトヨクニノ》。鏡山《カヾミヤマ》。不見久有者《ミズヒサナラバ》。戀敷牟鴨《コホシケムカモ》。
 
梓弓引《フヅサユミヒキ》、と云までは、豐《トヨ》と云む料の詞なり、契冲、引音といふ心にて、引豐國《ヒキトヨクニ》とつゞけたりと云り、今按(フ)に、引響《ヒキトヨム》といふ意にて、屬《ツヾ》けたるなるべし、弓引に音のあることは、四(ノ)卷に、梓弓爪引夜音之遠音爾毛《アヅサユミツマヒクヨトノトホトニモ》、二(ノ)卷に、取持流弓波受乃驟《トリモタルユハズノサワキ》云々、聞之恐久《キヽノカシコク》、(一(ノ)卷に、梓弓之奈加珥乃音爲奈利《アヅサノユミノナリハズノオトスナリ》、)とあるにてしるべし(冠辭考に、引たをむるといふ意に、つゞけたりと云るは、いかゞ、)○鏡山《カヾミヤマ》は、荒木田氏云、豐前(ノ)國小倉にちかき處にあり、とその國人藤原(ノ)重名云り、此(ノ)下に、河内(ノ)王(ヲ)、葬2豐前(ノ)國鏡山(ニ)1之時、作歌二首あり、○不見久有者《ミズヒサナラバ》は、鏡山を見ずて、久しくあらばと云なり、(戀る人を、鏡山によせしとする説はあらず、)見は鏡の縁に云るなり、○歌(ノ)意は、今此(ノ)國を發て、京に上る(167)さへ、そこばく名殘をしきを、まして此(ノ)鏡山の佳景を見ずして、久しくなりなば、いよ/\戀しく思はれむか、さてものこり多しやとなり、
 
式部卿藤原宇合卿《ノリノツカサノカミフヂハラノウマカヒノマヘツキミニ》。被3使《シメタマヘル》改2造《アラタメツクラ》難波堵《ナニハノミヤコヲ》1之時作歌一首《トキヨメルウタヒトツ》。
 
藤原(ノ)宇合(ノ)卿は、續紀に、靈龜二年八月癸亥、多治比(ノ)眞人縣守爲2遣唐押使(ト)1、阿倍(ノ)安麻呂(ヲ)爲2大使(ト)1、正六位下藤原(ノ)朝臣馬養(ヲ)爲2副使(ト)1、同己巳、授2正六位下藤原(ノ)朝臣馬養(ニ)從五位下(ヲ)1、妻老三年正月壬寅、正五位下藤原(ノ)朝臣馬養(ニ)授2正五位上(ヲ)1、七月庚子、始置2按察使(ヲ)1、令3常陸(ノ)國(ノ)守正五位上藤原(ノ)朝臣宇合(ニ)管2安房上總下總三國(ヲ)1、五年正月壬子、正四位上、神龜元年四月丙申、以2武部卿正四位上藤原(ノ)朝臣宇合(ヲ)1、爲2持節大將軍(ト)1、十一月乙酉、征夷持節大使藤原(ノ)朝臣宇合等、來歸、二年閏正月丁未、勅、云々、授2正四位上藤原(ノ)朝臣宇合(ニ)從三位勲二等(ヲ)1、三年十月庚午以2式部卿從三位藤原(ノ)宇合(ヲ)1、爲2知造難波宮事(ト)1、天平三年八月丁亥、爲2參議(ト)1、十一月丁卯、始置2幾内總管(ヲ)1、云々、從三位藤原(ノ)朝臣宇合(ヲ)爲2副總管1、四年八月丁亥、爲2西海道節度使(ト)1、六年正月己卯、正三位、九年八月、參議式部(ノ)卿兼太宰(ノ)帥正三位藤原(ノ)朝臣宇合薨(ス)、贈太政太臣不比等(ノ)第三子也、懷風藻に、正三位式部(ノ)卿藤原(ノ)宇合六首、年三十四、と見えたり、さて宇合と書るも、馬養と書るも、同人なること、續紀にて著し、(聖武天皇(ノ)紀に、廣嗣(ハ)、式部(ノ)卿馬養之第一子也、とも見えたり、)されば宇合は、ウマカヒ〔四字右○〕の假字なり、(後人ノキアヒ〔四字右○〕と訓るは、かたはらいたし、宇摩《ウマ》と所べきを、摩《マ》を省き、(丹治比を丹比《タヂヒ》、安八磨を安(168)八《アハチマ》、と書る類なり、)さて合は、カフ〔二字右○〕の音なるを、フ〔右○〕をヒ〔右○〕に轉して、カヒ〔二字右○〕となれるなり、(地(ノ)名に、楫保《イヒホ》、給黎《キヒレ》、雜賀《サヒカ》、なと書る類なり、)こは旅人《タヒト》を淡等、葛野《カドノ》を賀能、長谷雄《ハセヲ》を發昭、とかける類なり、○被3使改2造難波(ノ)堵(ヲ)1は、(堵(ノ)字、拾穗本に、都と作るは、改めたるか、堵は都と通(ハシ)用たること、既く云り、)續紀に、聖武天皇神龜三年冬十月辛酉、行幸(アリ)、癸亥、行還(テ)至2藤波(ノ)宮(ニ)1、庚午、云々、(上に引、)陪從無位(ノ)諸王、六位已上、才藝長上、并雜色人、難波(ノ)宮(ノ)官人、郡司已上(ニ)、賜(コト)v禄(ヲ)各々有v差、四年二月壬子、造2難波(ノ)宮(ヲ)1、三月己巳、知造難波宮事從三位藤原(ノ)朝臣宇合等以下、仕丁已上、賜v物(ヲ)各々有v差、とある此(ノ)時なり、
 
312 昔者社《ムカシコソ》。難波居中跡《ナニハヰナカト》。所言奚米《イハレケメ》。今者京引《イマハミヤコト》。都備仁鷄里《ミヤコビニケリ》。
 
昔者社《ムカシコソ》(者(ノ)字、拾穗本には旡、)は、今にむかへて云り、社《コソ》は他にむかへて、その一(ト)すぢを、たしかにいふ詞なり、○難波居中跡《ナニハヰナカト》は、孝徳天皇、難波(ノ)豐埼《長柄》(ノ)宮の遷ひしより、この御代まで、久しく故郷となれりしかば、田舍といはれしなり、居中は雛國にて、都をはなれたる地をいふ、言(ノ)意は、未《タ》考(ヘ)得ず、(本居氏の、小雛所《ヲヒナカ》なり、といへりしはあたらず、比那《ヒナ》と爲那加《ヰナカ》とは各異《コト》なり、されば、凡て古(ヘ)難波などを、比那《ヒナ》といひしことの無をも、思ふべし比那《ヒナ》のことは、既く委(ク)云り、(○今者京引の引は、利(ノ)字の寫誤なるべし、イマハミヤコト〔七字右○〕と訓べし、利《ト》は、と化《ナリ》ての意なり、例は一(ノ)上の初に委(ク)云り、(契冲が、イマミヤコヒキ〔七字右○〕と訓るはあたらず、都を遷すことを引といふ如きことは、古語になし、六(ノ)卷に寧樂(ノ)都の、故郷となれるを、悲みよめる歌に、皇之引乃眞爾眞荷《オホキミノヒキノマニマニ》とある(169)は、引率のまゝにといふことにて、言異れり、都を引遷し給ふ、といふことにはあらず、○都備仁鷄里は、ミヤコビニケリ〔七字右○〕と訓べし、備《ビ》は、そのさまをいふ詞にて、夷備《ヒナビ》理備《サトビ》和備《ニキビ》荒備《アラビ》などいふ備《ビ》に同じ、契冲が、都備は、都めくといふ心なり、と云る其(ノ)意なり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
土理宣令歌一首《トリノセムリヤウガウタヒトツ》。
 
土理(ノ)宣令は、土理は氏、八(ノ)卷には、刀理《トリ》と作り、宣令は名なり、ミノリ〔三字右○〕と唱へしか、又は唐風にならひて、字音の隨《マヽ》に唱へしか詳ならず、續紀に、元正天皇養老五年正月戊申朔庚午詔、云々、從七位下刀利(ノ)宣令等、退朝之後、令v侍2東宮1焉、懷風藻に、正六位上刀利(ノ)宣令二首、(年五十九、)と見えたり
 
313 見吉野之《ミヨシヌノ》。瀧乃白浪《タギノシラナミ》。雖不知《シラネドモ》。語之告者《カタリシツゲバ》。古所念《イニシヘオモホユ》。
 
瀧乃白浪《タギノシラナミ》(瀧(ノ)字、拾穗本に、〓瀑と作るはいかゞ、)は、かの宮瀧なるべし、さて白浪不知《シヲナミシラズ》、と同言を疊て、連下したり、○雖不知《シラネドモ》は、盛なりし、古昔のことは、知ねどもと云なり、(吉野(ノ)瀧を見知ねども、といふには非ず、)○語之告者《カタリシツゲパ》は、之《シ》は、その一(ト)すぢなるよしを、思はせたる助辭にて、語繼者《カタリツゲバ》なり、(告を、能流《ノル》と訓ときは、言に述る事なり、都具《ツグ》と訓ときは、人に之を繼て述るよしなり、されば告《ツグ》も繼《ツグ》も、もとは同言なり、(○古所念《イニシヘオモホユ》は、此所の離宮のありし、往古の事の、おもはるゝと
 
                 (170)いふなり、○歌(ノ)意は、盛なりし古昔の事を、親《マノアタリ9》吾は見知たるにはあらねども、語り傳へたるをきけば、當昔のありさまの、見(ル)如くにおもはれて、慕はるゝとなり、此(ノ)離宮、雄略天皇の御代よりありて、世々の天皇、行幸ありしなれば、いづれの御代をさして、申せりとは知がたし、
 
波多朝臣少足歌一首《ハタノアソミヲタリガウタヒトツ》。
 
少足(少(ノ)字、類聚抄には小と作り)は、傳知(レ)ず、續紀に、大寶慶雲年間に、波多(ノ)朝臣廣足、天平寶字年間に、波多(ノ)朝臣足人、寶龜年間は、波多(ノ)朝臣百足、などいふ人見えたり、これら皆氏族にや、
 
小浪《サヾレナミ》。礒越道有《イソコセヂナル》。能登湍河《ノトセガハ》。音之清左《オトノサヤケサ》。多藝通瀬毎爾《タギツセゴトニ》。
 
小浪《サヾレナミ》は、二(ノ)卷に、志賀左射禮浪《シガサザレナミ》とあり、彼處に委(ク)云り、此は小浪の磯を越(ス)と云意に、大和の巨勢にいひかけたるなり、梓弓引豐國《アヅサユミヒキトヨクニ》、吾勢子乎乞許世山《ワガセコヲイデコセヤマ》、未通女等之振袖山《ヲトメラガソデフルヤマ》、などよめると、同じいひかけなり、○磯越道有《イソコセヂナル》は、磯は前に云る如く、上よりの連に云るのみにて、巨勢道にあると云るなり、巨勢は既《サキ》に云り、奈留《ナル》は爾在《ニアル》の縮りたるなり、○能登湍河《ノトセガハ》(拾穗本に、河の下に、典(ノ)字あるはいかゞ、)は、十二に、高湍爾有能登瀬乃河之《コセナルノトセノカハノ》とよめり、金槐集に、白浪の磯巨勢道《イソコセヂ》なる能登湍河後も相見む水脉し絶ずはとあり、○歌(ノ)意、巨勢道にある、能登湍の河の、激《タギ》り落るその河瀬毎に、水音のいさざよさ、たぐへむものなしとなり、
 
暮春之月《ヤヨヒバカリ》。幸《イデマセル》2芳野離宮《ヨシヌノトツミヤニ》1時《トキ》。中納言大伴卿《ナカノモノマヲスツカサオホトモノマヘツキミノ》。奉《ウケタマハリテ》v勅《ミコトノリヲ》作歌一首并(171)短歌《ヨミタマヘルウタヒトツマタミジカウタ》。【未※[しんにょう+至]奏上歌】
 
幸2芳野(ノ)離宮(ニ)1は、續記に、聖武天皇神龜元年三月庚申朔、天皇幸2芳野(ノ)宮(ニ)1、甲子、車駕還(リマス)v宮(ニ)とあり、○中納言大伴(ノ)卿は、旅人卿なり、傳此(ノ)上に委(ク)云り、元正天皇養老二年三月に、中納言と爲(リ)賜へり、○注の未※[しんにょう+至]云々の五字は、家持(ノ)卿の註なり、※[しんにょう+至]は(類聚抄には至、異本には逕と作り、)※[しんにょう+経の旁]なるべし、※[しんにょう+経の旁]は※[しんにょう+至]に同じ、經に通(シ)用る字なり、
 
314 見吉野之《ミヨシヌノ》。芳野乃宮者《ヨシヌノミヤハ》。山可良志《ヤマカラシ》。貴有師《タフトクアラシ》。水可良思《カハカラシ》。清有師《サヤケクアラシ》。天地與《アメツチト》。長久《ナガクヒサシク》。萬代爾《ヨロヅヨニ》。不改將有《カハラズアラム》。行幸之宮《イデマシノミヤ》。
 
山可良志《ヤマカラシ》、水可良思《カハカラシ》(水(ノ)字、舊本永に誤れり、今は類聚抄異本等に從つ、)は、志《シ》思《シ》は、共《ミナ》その一(ト)すぢなるを、思はせたる助辭にて、山故川故の意なり、(神隨と書て、隨をナガラ〔三字右○〕とよむ、そのナ〔右○》の省ける言ぞ、とおもふはわろし、既く委(ク)云り、凡て人がら、身がら、世がら、日がら、事がら、家がら、手がら、所がら、などいふがらも、みな故の意より轉れる言なり)水(ノ)字、カハ〔二字右○〕と訓例は、二(ノ)卷に委(ク)云り、○貴有師《タフトクアラシ》は、次の不盡(ノ)山の歌に、神左備手高貴寸《カムサビテタカクタフトキ》、とあるに同じ、有師《アラシ》は、有(ル)らしといふ意なり、○清有師《サヤケクアラシ》は、下の神岳の歌に、河四清之《カハシサヤケシ》、十(ノ)卷に、河乎淨《カハヲサヤケミ》などあるに同じ、有師《アラシ》は、上に同じ、○天地與云々は、神代紀、天照大御神大御詞に、寶祚之隆、《アマツヒツギノサカエマサムコト》、當《ナラムト》d與2天壤《アメツチ》1無窮《トコトハ》u者矣、とあるをはじめて、此(ノ)下に、天地與彌遠長爾萬代爾如此毛欲得跡《アメツチトイヤトホナカニヨロツヨニカクシモガモト》、十三に、天地與日月共萬代爾母我《アメツチトヒツキトトモニヨロヅヨニモガ》、などよ(172)める類にて、行末の久しからむことを賀祝《コトホギ》せるなり、○不改將有《カハラズフラム》、六(ノ)卷にも、百代爾毛不可易大宮處《モヽヨニモカハルベカラヌオホモヤトコロ》、と久邇(ノ)新京を讃てよめり、○行幸之宮《イデマシノミヤ》(宮(ノ)字、處と作る本もあり、それに依ば、イデマシトコロ〔七字右○〕と訓べし、されど宮と作《ア》る方宜し、)は、即(チ)離宮をいへり、○歌(ノ)意かくれたるところなし
 
反歌《カヘシウタ》。
 
315 昔見之《ムカシミシ》。象乃小河乎《キサノヲガハヲ》。今見者《イマミレバ》。彌清《イヨヽサヤケク》。成爾來鴨《ナリニケルカモ》。
昔之《ムカシミシ》は、當昔に、吉野の行幸に、從駕《ミトモツカヘ》給ひしことのありしをいふなるべし、○象乃小河《キサノヲガハ》は、蜻蛉《アキヅ》川のすぢにて、今喜佐谷村といふを、流るゝ川をいふなるべし、一(ノ)卷に、象乃中山《キサノナカヤマ》、六(ノ)卷に三吉野乃象山際乃木末爾波《ミヨシヌノキサヤマノマノコヌレニハ》とも見えたり、○彌清《イヨヽサヤケク》は、當昔よりも彌益りて、清淨くなりにけるといふなり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、下に、同卿太宰(ノ)帥になりて後よめる歌に、吾命毛常有奴可昔見之《ワガイノチモツネニアラヌカムカシミシ》、象小河乎行見爲《キサノヲガハヲユキテミムタメ》とあり、
 
山部宿禰赤人《ヤマベノスクネアカヒトガ》。望《ミテ》2不盡山《フジノヤマヲ》1作〔右○〕歌一首并短歌《ヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
山部(ノ)宿禰赤人、この人の傳未(タ)詳ならず、此(ノ)姓は、書記顯宗天皇(ノ)卷に、伊與の來目部(ノ)小楯といふ人に、初て山部(ノ)の連の姓を賜ひ、その後、天武天皇(ノ)卷に、十三年十二月己卯、山部(ノ)連賜2姓(ヲ)宿禰(ト)1と見えたり、さて此(ノ)上に、續紀を引て云たる如く、桓武天皇を、初(メ)山部(ノ)王と申しけるが故に、山部の姓を山に改めよと、延暦四年の詔に見えたれば、そのかみは、山部(ノ)宿禰を山(ノ)宿禰に改めけ(173)るなるべし、さて桓武天皇の諱に觸ぬ前の姓をば、避ざりし故に、古き物に、山部とあるをば、なほ其(ノ)まゝにておきしなるべし、但しそれも、字には山部と書て、語には、ヤマ〔二字右○〕とのみ唱へしなるべし、(これいはゆる、例のよみくせといふものなり、大伴と書て、トモ〔二字右○〕とのみ唱へし類なるべし、)さてそれは、そのかみのことにこそあれ、後まで永く諱避べきにあらざれば、古今集(ノ)序などにも、山部と書て、そのまゝにヤマベ〔三字右○〕と唱へしなるべし、(但(シ)古今集序舊本に、山の邊の赤人とかき漢文(ノ)序に、山邊(ノ)赤人としるせるなどは、かの集選べるよりは、後に書誤れるものか、山部と山(ノ)邊とは、もとより、別氏なり、混(フ)べからず、)かくて此(ノ)集十七、家持(ノ)卿書牘に、幼年未v逕2山柿之門(ヲ)1、裁歌之趣詞、失2乎※[草がんむり/聚]林(ニ)1、また山柿謌泉、比v此(ニ)如v蔑(カ)、古今集序に、又山部(ノ)赤人といふ人ありけり、歌に奇く妙なりけり、人麻呂は、赤人が上にたゝむことかたく、赤人は、人麻呂が下にたゝむ事かたくなむありける、など見えて、古(ヘ)より、人麻呂に亞《ツギ》たる、上手の稱ある事、かくれなし、○不盡(ノ)山は、都氏(ノ)富士山(ノ)記(ニ)云、富士山者、在2駿河(ノ)國(ニ)1峯如2削成(ガ)1、直(ニ)聳(テ)屬v天(ニ)、其高(コト)不v可v測(ル)、歴2覽史籍(ノ)所(ヲ)1v記、未有d高2於此山(ヨリ)1者u也、其聳峯鬱起(トシテ)、見(ニ)在2天際(ニ)1、臨2瞰海中(ヲ)1、觀2其靈基(ノ)所(ヲ)2盤連(スル)1、亘2數千里(ノ)間(ニ)1、行旅之人、經2歴數日(ヲ)1、乃過2其下(ヲ)1、去之顧望、猶在2山(ノ)下(ニ)1、盖神仙之所2遊萃(スル)1也、云々、古老傳云、山(ノ)名富士、取2郡(ノ)名(ニ)1也とあり、(郡(ノ)名に取たり、といふことは定(メ)がたし、もと山(ノ)名なるが、ひろく郡(ノ)名ともなれるにもあらむ、その本來は、今きはむべからず、但し竹取物語に不死山の義といへるは、ことさ(174)らに設けて、滑稽《タハブレ》に云るのみにて、不死は字音なれば本(ノ)義にはあらぬことさらなり、高田のなにがしが、棟梁集といふものに、富士はもと吹息穴《フキイキアナ》のつゞまりにて、巖の穴より、息吹おこれるがゆゑの名にや、と云り、此(ノ)説は非ず、もしさるよしの名ならば、息吹穴とこそいふべき理なれ、吹息は、倒なる言樣なるをや、○からふみ義楚六帖に、日本國都城、東北千餘里、有v山名2富士(ト)1、亦名2蓬莱(ト)1、其山峻、三面是海、一朶上聳、頂(ニ)有2火煙1、日中上、有2諸寶1流下、夜即却上、常聞2音樂(ヲ)1、徐福止v此(ニ)、謂2蓬莱(ト)1、至v今(ニ)子孫皆曰2秦氏(ト)1、此是後周世祖、顯徳中、日本僧弘順所v語(ル)也とあり、又焦氏筆乘といふ物に、日本國名2倭國(ト)1、東北敷千里、有v山名2富士(ト)1、又名2蓬莱(ト)1、國中最高山(ナリ)、三面皆海、一朶直(ニ)上(ル)、頂(ニ)有2火烟1、云々とも見えたり、もろこしまでも、名高き事知べし、)さて集中に、不盡布士布仕不自布時布自、など書たるは、みな假字なり、(富士と所る假字は、古(ヘ)見えず、)○作(ノ)字、舊本脱今補、
 
317 天地之《アメツチノ》。分時從《ワカレシトキユ》。神左備手《カムサビテ》。高貴寸《タカクタフトキ》。駿河有《スルガナル》。布士能高嶺乎《フジノタカネヲ》。天原《アマノハラ》。振放見者《フリサケミレバ》。度日之《ワタルヒノ》。陰毛隱比《カゲモカクロヒ》。照月乃《テルツキノ》。光毛不見《ヒカリモミエズ》。白雲母《シラクモモ》。伊去波伐加利《イユキハバカリ》。時自久曾《トキジクソ》。雪者落家留《ユキハフリケル》。語告《カタリツギ》。言繼將往《イヒツギユカム》。不盡能高嶺者《フジノタカネハ》。
 
天地之《アメツチノ》云々、谷川氏云、今按(ニ)、此(ノ)山、與2開闢1倶在、可2以見1、而世(ニ)、言2孝靈帝(ノ)時湧出(ト)1者、固(ヨリ)不v足v信(スルニ)耳、○天原振放見者《アマノハラフリサケミレバ》は、高聳えて天に屬(ケ)る故、高天(ノ)原まで遙々に仰ぎ見放るなり、十四には直に、安麻乃(175)波良不自能之婆夜麻《アマノハラフヂノシバヤマ》ともよめり、さてかく、二句を連けたる例は、二(ノ)卷に、天原振放見者大王乃御壽者長久天足有《アマノハラフリサケミレバオホキミノミイノチハナガクアマタラシタリ》、とあるをはじめて、かた/”\に見えたり、○度日之《ワタルヒノ》は、大虚を經度る日之、と云なり、○陰毛隱比《カゲモカクロヒ》は、山の甚高くて、日光さへも、障り隱《カクル》るよしなり、可久里《カクリ》を伸て、可久呂比《カクロヒ》といへるは、その緩なるをいふことにて、かりそめに、隱るゝさまにあらず、○光毛不見《ヒカリモミエズ》は、光さへも見えず、といふなり、○白雲母《シラクモモ》は、白雲さへも、といふが如し、○伊去波伐加利《イユキハバカリ》(伐(ノ)字、舊本に代とあるは誤、今は類聚抄拾穗本等に從つ、)は、伊《イ》はそへ言にて、この嶺の高きに憚(リ)恐れて、得行とゞかずて、雲も中空にあるを云、此(ノ)詞、次の歌にも見ゆ、又下釋(ノ)通觀(ノ)歌に見吉野之高城乃山爾白雲者行憚而棚引所見《ミヨシヌノタカキノヤマニシラクモハユキハヾカリテタナビケリミユ》、ともあり、○時自久曾《トキジクソ》は、何時といふ定まりもなく、時ならずその意なり、非時不時など書て、かくよめり、既く委(ク)云り、○雪者落家留《ユキハフリケル》は、富士山(ノ)記に、其(ノ)頂上(ニ)、宿雪春夏不v消、とあるが如し、○語告《カタリツギ》は、語繼なり、○言繼將往《イヒツギユカム》(往(ノ)字、拾穗本には、去と作り、)は、末の代にも、未(タ)見ぬ人にも、語(リ)傳言繼往むとなり、往は往向《ユクサキ》の往にて、經往ことなり、五(ノ)卷に、言靈能佐吉播布國等加多利繼伊比都賀比計理《コトタマノサキハフクニトカタリツギイヒツガヒケリ》とあり、○歌意かくれたるところなし、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
318 田兒之浦從《タコノウラユ》。打出而見者《ウチデテミレバ》。眞白衣《マシロクソ》。不盡能高嶺爾《フジノタカネニ》。雪者零家留《ユキハフリケル》。
 
田兒之浦從《タコノウラユ》は、田兒の浦より、沖の方へといふ意なり、田兒は、此(ノ)上に、晝見騰不飽田兒浦《ヒルミレドアカヌタコノウラ》と見(176)え、又十二に、後居而戀乍不有者田籠之浦乃海部有申尾珠藻苅苅《オクレヰテコヒツヽアラズバタコノウラノアマナラマシヲタマモカルカル》、とよめるも同處ならむ、駿河(ノ)國清見(ノ)埼より、東へ行は、今薩〓坂といふ、山の下の渚に、昔の道あり、そこより向(ヒ)の、伊豆《イヅ》の山の麓までの海、田兒(ノ)浦なり、右の岸陰の道を、東へ打出れば、其(ノ)入海越に、不盡見ゆると云り、從《ユ》は、此處より、彼處よりのよりにて、重き詞なり、(後(ノ)世此(ノ)歌を、田子の浦にといふは、誦(ヘ)誤りたるなり、しかれども、田子の浦よりも、やがて彼(ノ)高嶺は見やらるれば、にと云るなるべし、東關紀行に、田子の浦に打出て富士の高嶺を見れば、時分ぬ雪なれども、なべていまだ白妙にはあらずとしるせり、此(レ)も田子の浦にて、直に富士を見たるさまなり、されど今の歌は、田子の浦より打出て、沖の方より、隈なく見たるさまなれば、從《ヨリ》を爾《ニ》ときく例とは、たがへるなり、)○打出而見者《ウチヂテミレバ》は、打は、いひおこす詞にて、上に云り、田兒の浦より、海の沖の方へ船漕出て、不盡山を見れば、といふ意なり、○眞白衣は、マシロクゾ〔五字右○〕と訓べし、(マシロニゾ〔五字右○〕とよめるも、むげにあしとにはあらねど、なほかくよむぞ古(ヘ)なる、さるはマシロク〔四字右○〕といふときは、眞白の詞用言なり、マシロニといふときは、眞白の詞體言なり、この差異《ケヂメ》あることを辨(ヘ)て、猶よく考ふるに、こゝの如きは、體言に云むは、しばらく後の風とぞ思はるゝ、○歌(ノ)意、田兒の浦より、海の沖の方へ船漕出て、不盡(ノ)山を見れば、殘る處もなく、眞白に雪ぞふりけるとなり、打見たるけしきを、そのまゝによめるにて、何のむつかしき事もなきを、そのをりのけしき、目(ノ)前にうかぶや(177)うに思はるゝは、上手の歌なればなり、(しかるを、田兒の浦に打出て見れば白妙の不盡の高嶺に雪はふりつゝ、と改めて、人口に傳しめたるは、いともあさまし、)
 
詠《ヨメル》2不盡山《フジノヤマヲ》1歌一首并短歌《ウタヒトツマタミジカウタ》。
 
短歌の下に拾穗本に、笠(ノ)朝臣金村(ノ)五字あり、
 
319 奈麻余美乃《ナマヨミノ》。甲斐乃國《カヒノクニ》。打縁流《ウチヨスル》。駿河能國與《スルガノクニト》。己知其智乃《コチゴチノ》。國之三中從《クニノミナカユ》。出立有《イデタテル》。不盡能高嶺者《フジノタカネハ》。天雲毛《アマクモモ》。伊去波伐加利《イユキハバカリ》。飛鳥毛《トブトリモ》。翔毛不上《トビモノボラズ》。燎火乎《モユルヒヲ》。雪以滅《ユキモテケチ》。落雪乎《フルユキヲ》。火用消通都《ヒモテケチツツ》。言不得《イヒモカネ》。名|付〔○で囲む〕不知《ナヅケモシラニ》。靈母《クスシクモ》。座神香聞《イマスカミカモ》。石花海跡《セノウミト》。名付而有毛《ナヅケテアルモ》。彼山之《ソノヤマノ》。堤有海曾《ツヽメルウミゾ》。不盡河跡《フジカハト》。人乃渡毛《ヒトノワタルモ》。其山之《ソノヤマノ》。水之當|知〔○で囲む〕烏《ミヅノタギチゾ》。日本乃《ヒノモトノ》。山跡國乃《ヤマトノクニノ》。鎭十方《シヅメトモ》。座神可聞《イマスカミカモ》。寶十方《タカラトモ》。成有山可聞《ナレルヤマカモ》。駿河有《スルガナル》。不盡能高峯者《フジノタカネハ》。雖見不飽香聞《ミレドアカヌカモ》。
 
奈麻余美乃《ナマヨミノ》(余(ノ)字、類聚抄に全と作るは、誤なるべし、)は、枕詞なり、生善肉之《ナマヨミノ》なるべし、甲斐とかかるは、貝の意なり、貝とは、白蛤《ウムギ》、蝮貝《アハビ》などを、主と云ことにして、其は生《ナマ》の肉《ミ》を膾《ナマス》などにして食ふが、殊更に味(ヒ)善きものなれば、かく云り、(景行天皇(ノ)紀に、五十三年冬十月、至2上總(ノ)國1、從2海路1渡2淡(ノ)水門(ヲ)1、云々、仍得2白蛤《ウムギヲ》1、於是膳(ノ)臣《ノ)遠祖、名(ハ)磐鹿六鴈、以v蒲爲v繦、白蛤(ヲ)爲v膾(ニ)而進(リキ)之、云々、と有を思(ヒ)合(ス)べし、)善《ヨ》きものを、善《ヨ》某と云例は、善詞《ヨコト》、吉事《ヨコト》などいふ是なり、肉をみ〔右○〕と云(フ)は、いはゆる作肉《ツクリミ》、刺(178)肉《サシミ》など云るにて知べし、又神武天皇(ノ)紀(ノ)御歌に、多智曾麼能未廼那鷄句乎《タチソバノミノナケクヲ》とあるも、肉《ミ》の無《ナケ》くをの意にて、鯨の肉を云よし、荒木田氏いへり、又|鮪《シミ》といふ魚の名も、繁肉《シヾミ》なるべし、と、同人云り、(冠辭考の説は、云に足ず、)○打縁流《ウチヨスル》も、枕詞なり、大神(ノ)景井(ガ)云、まづ駿河と云國(ノ)號の、起《ハジマ》れる本義を、推て考(フ)るに、此(ノ)國大河ありて、甚|疾《トキ》水音の、四方に動《ユス》り轟《トヾロ》くより、動河《ユスリガハノ》國とぞ負けむを、後に須留河《スルガノ》國と訛《ヨコナマ》りつるにやとぞおもはるゝ、さて此(ノ)枕詞は、その本(ノ)義を得て、打動動河《ウチユスルユスリガハ》と疊ね續けつらむと云り、今按(フ)に、由須流《ユスル》てふ言は、七(ノ)卷に、大海之礒本由須理立波之《オホウミノイソモトユスリタツナミノ》云々、古事記に、高天(ノ)原|動而《ユスリテ》、八百萬(ノ)神共(ニ)咲《ワラヒキ》、藥師寺佛足石碑(ノ)歌に、美阿止都久留伊志乃比鼻伎波阿米爾伊多利都知佐閇由須禮《ミアトツクルイシノヒビキハアメニイタリツチサヘユスレ》云々、源氏物語(ノ)賢木に、宮(ノ)内ゆすりて、ゆゝしう泣(キ)滿たり、うつぼ物語に、山くづれ地われさけて、七山ひとつにゆすりあふ、など猶多し、さて駿河の名(ノ)義は、右の如く動河《ユスリガハ》か、又|薦河《スルガハ》の義にてもあらむか、(※[手偏+總の旁]國風土記に、薦河者、依2其(ノ)河流|薦々《スル/\ト》而不1v知2淀溜(コトヲ)1也、所v謂|志通波他河《シツハタガハ》、不二河《フジカハ》、大堰河《オホヰガハ》也、とあるが如し、但(シ)此※[手偏+總の旁]國風土記といふ物は、後人の手に出たるものにて、其(ノ)説には、信《ウク》るに足ざることもあれど、此薦河の説は、其(ノ)意を得たるに似たり、既く齋藤(ノ)彦麻呂が、諸國名義考にも、此(ノ)國に駿河(ノ)郡あり、もとは其(ノ)地より出し名なるべし、すべて此(ノ)國の川は、山より落て、海に入る水の、猛烈《ハゲ》しきによりて、尖河《スルトガハノ》國と云なるべし、といへり、其はいづれにまれ、大河に依(レ)る號にして、打動《ウチユス》る須留河《スルガ》とはつゞくべきものなり、○冠辭考、打(179)※[さんずい+甘]《ウチユス》るの説は、論の限にあらず、廿(ノ)卷に、和伎米故等不多利和我見之宇知江須流須流河乃禰良波苦不志久米阿流可《ワギメコトフタリワガミシウチエスルスルガノネラハクフシクメアルカ》、とあるも同じ、(打縁流《ウチヨスル》を、打江須流《ウチエスル》といへるは、東語の故なるべし、)○己知其智乃《コチゴチノ》(智(ノ)字、類聚抄には知と作り、)は、此方此方之《コチゴチノ》なり、こゝは荒木田氏、甲斐國の此方《コチ》、駿河(ノ)國の此方《コチ》と、ふたつに分る詞なり、と云る如し、此詞の例、既く委(ク)云り、○國之三中從《クニノミナカニ》は、國の眞中に、といはむがごとし、三《ミ》は眞《マ》に通ひ、從《ユ》は爾《ニ》に通ふ、)十四に、佐刀乃美奈可爾《サトノミナカニ》ともあり、○出立有《イデタテル》、立(ノ)字、舊本之に誤れり、類聚抄に從つ、○天雲毛《アマクモモ》は、天雲さへも、といふが如し、富士山(ノ)記に、此(ノ)山、高極2雲表(ヲ)1、不v知2幾丈(トイフコトヲ)1、○伊去波伐加利《イユキハバカリ》(伐(ノ)字、舊本に代に誤れり、類聚抄、拾穗本等に從つ、)は、上に出づ、○飛鳥母《トブトリモ》は、飛鳥さへも、といふが如し、○翔毛不上《トビモノボラズ》は、鳥も翔(ヒ)上ることを得ざるなり、○燎火乎《モユルヒヲ》(燎(ノ)字、類聚抄に燈と作るは、誤なるべし、)は、富士山(ノ)記に、頂上(ニ)有2平地1、廣一許里、其項(ノ)中央窪下、體如2炊甑(ノ)1、甑底(ニ)有2神池1、池中(ニ)有2大石1、石體驚奇、宛(モ)如2蹲虎(ノ)1、其甑中、常(ニ)有v氣蒸出、其色純青、窺2其甑底(ヲ)1、如v湯沸騰(ル)、其在v遠(ニ)望者、常(ニ)見2煙火(ヲ)1、後紀に、延暦十九年六月癸酉、駿河國言、自2去三月十四日1、迄(ルマデ)2四月十八日(ニ)1、富士山(ノ)嶺自燒、晝(ハ)則證氣暗瞑、夜則火光照v天(ヲ)、其聲若v雷(ノ)、灰下(ルコト)如v雨(ノ)山下川水、皆紅色也、日本紀略に、延暦廿一年、廢2相模(ノ)國足柄路(ヲ)1、開2筥荷途(ヲ)1、以2富士燒碎石塞1v道(ヲ)也、三代實録に、貞觀六年、駿河(ノ)國富士(ノ)郡大山、忽有2暴火1、燒2碎崗巒(ヲ)1、など見えたり、(から籍《ブミ》清異録に、呉越(ノ)孫總監承佑、富傾2覇朝(ヲ)1、用2千金(ヲ)1、市(ヒ)2得(タリ)石録一塊(ヲ)1、天質嵯峨如v山(ノ)、命v匠治(テ)爲2博山香爐(ト)1、峯尖上、作2一竅(ヲ)1、出(180)v煙(ヲ)則一聚、而且直穂凌v空(ヲ)、實(ニ)美2觀視1、親朋傚之、呼2不二山(ト)1云々、かゝれば、不盡の煙の事は、もろこしまでも名高かりしなり、さて上(ノ)件の如くに見えたれば、延暦貞觀の頃は、殊に甚しく燒しなり、さてその後までも、すぎ/\常に煙の立し事、富士山記に、常(ニ)見2煙火1、とあるにてしらる、都氏は、元慶三年に卒たればなり、然るを古今集(ノ)序に、今は富士の山も煙立ずなり、といへるは、延喜の頃には、煙立ざりしなるべし、されど其(ノ)後、承平七年丁酉十一月某日、甲斐(ノ)國言、駿河(ノ)國富士山、神火埋2水海(ヲ)1、と紀略に見え、長保元年三月七日、召2神祇官(并)陰陽寮(ヲ)1、仰云、駿河(ノ)國言上解文(ニ)云、日者不字御山燒、由2何(ノ)祟(ニ)1者、即(チ)卜申(シテ)云、若怪所、有2兵革疾事1歟者、と本朝世記に記し、又長元六年癸酉二月十日、駿河(ノ)國言上、去年十二月十六日、富士山火起、自v嶺至2山脚(ニ)1、と紀略にいへり、又天喜の頃の更科の記、永仁のいざよひの記等にも、燃し事見えたりと云り、)○雪以滅は、ユキモチケチ〔六字右○〕と訓べし、以をモチ〔二字右○〕と訓例は、上に云り、滅をケチ〔二字右○〕と訓は古言なり、字鏡に、謂2火滅(ヲ)1爲v※[火+替](ト)、火介知乎佐牟《ヒケチヲサム》、伊勢物語に、ともし氣知《ケチ》とあり、ケチ〔二字右○〕はケシ〔二字右○〕といふに同じ、立《タチ》をタシ〔二字右○〕、持《モチ》をモシ〔二字右○〕、放《ハナチ》をハナシ〔三字右○〕、地《ツチ》をツシ〔二字右○〕、歩《カチ》をカシ〔二字右○〕など云る如く、古言に、知《チ》と志《シ》と多く通はし云り、○言不得は、イヒモカネ〔五字右○〕と訓べし、(舊本に、イヒカネテ〔五字右○〕と訓るは、同じやうの事ながらわろし、又略解に、イヒモエズ〔五字右○〕とよめるは、非ず、○名不知《ナヅケモシラニ》は、名の下、附(ノ)字落たる歟、次(ノ)句にも、名付而有毛《ナヅケテアルモ》とあるを思(フ)べし、又此(ノ)下挽歌にも、言毛不得名付毛不知《イヒモカネナヅケモシラニ》と見えたり、契冲、こゝの心は、言語道斷(181)心行處滅、といふがごとく、かゝるあやしきことは、そのことわりをいふ事もあたはず、何となづくべき名をもしらず、と稱美する詞なりと云り、○靈母《クスシクモ》は、上に出たり、○座神香聞《イマスカミカモ》は、即(チ)此(ノ)山をさしていへり、此(ノ)山に、ことに神いませども、それを申せるにはあらず、(此(ノ)山に座神は、神名帳に、駿河(ノ)國富士(ノ)郡淺間(ノ)神社、名神大、富士山(ノ)記に、山(ニ)》有v神、名2淺間(ノ)大神(ト)1、など見ゆ、)香聞《カモ》は、歎息(ノ)辭にて、後(ノ)世の哉《カナ》に同じ、○石花海《セノウミ》は、契冲、仙覺抄に、富士の山の、乾の角に侍る水海なり、凡て富士の山の麓には、山をめぐりて、八(ツ)の海有となむ申す、石花(ノ)海と申は、かの八(ツ)の海の、其(ノ)一(ツ)なりと云り、今案(ニ)、此(ノ)集に云るは、世に富士蓮肉とて、常のよりはまろにおほきなるを、數珠《ズヽ》などにするを出す沼を云る歟、蓮肉と云るは、黄實とぞみゆる、さて今こゝに、その山のつゝめる海ぞといへるは、鳴澤の異名なるべきにや、さらでは、つゝめる海と云詞かなはず、海とはいかでいはむと難せば、澤ともいふべからず、さきに、あら山中に海を成かもとよめるも、池のひろく深きを云るに、准へて知べし、第十四東歌に、さぬらくは玉のをばかりこふらくはふじのたかねのなるさはのごと、とよめるこれなりと云り、(已上)按(フ)に、八(ツ)の海といふことは、おぼつかなけれど、もし海八(ツ)ありしならば、かの鳴澤も、其(ノ)中の一(ツ)か、但しかの八(ツ)の海は、麓の方にありと見ゆれば、鳴澤は、其(レ)とは又別なるにや、高嶺の鳴澤とよみたればなり、されば鳴澤は、上に引たる富士山(ノ)紀に、神池と云る其(レ)なるべし、いづれにまれ、石花《セノ》海は、※[錢の旁+立刀]《セノ》水海と云し(182)ものなり、その水海も、なほ四方に山のめぐりたれば、鳴澤ならでも、つゝめる海ぞと云むに難なし、三代實録に、貞觀六年五月廿五日、駿河(ノ)國富士(ノ)郡大山、其(ノ)勢甚熾燒v山、方一二許里、西北(ニ)有2木栖(ノ)水海1、所燒巖石、流埋2海中(ヲ)1、同年七月十七日、甲斐(ノ)國言、駿河(ノ)國富士大山、忽有2暴火1、木栖并※[錢の旁+立刀]《セノ》兩(ノ)水海、水熟如v湯(ノ)、魚鼈皆死、百姓居宅、與v海共埋、兩海以東、亦有2水海1、名曰2河口(口當作合、)海(ト)1、火※[火+餡の旁]赴2向河口(ノ)海、木栖、※[錢の旁+立刀]等(ノ)海(ニ)1、未2燒埋1之前、地大震動云々、七年十二月九日、兵火之變、于今未v止、遣2使者1※[手偏+僉]察、埋2※[錢の旁+立刀]海(ヲ)1千許町、日本紀略に、承へ平七年十一月、甲斐(ノ)國言、駿河(ノ)國富士山、神火埋2水海1、など見えたり、此(ノ)承平の火に、水海は絶しにや、石花をセ〔右○〕と訓は、和名抄に、兼名苑註(ニ)云、石花(花或作萃、)二三月、皆紫舒v花、附v石(ニ)而生、故(ニ)以名之、和名|勢《セ》、とあり、是をかりてかけるなり、○堤有海曾《ツヽメルウミゾ》は、此(ノ)山のめぐり包《ツヽ》める水海ぞ、といふなり、字鏡に、坡陂同作、以v土(ヲ)※[雍/土]v水(ヲ)也、豆々牟《ツヽム》、と見ゆ、堤といふも、水を包むよしの名ぞ、○不盡河跡《フジカハト》は、皇極天皇(ノ)紀に、束(ノ)國不盡河(ノ)邊(ノ)人、三代實録に、富士(ノ)郡蒲原(ノ)驛、遷2立於富士河(ノ)東(ノ)野(ニ)1、富士山(ノ)記に、有2大泉1、出v自2腹下1、遂(ニ)成2大河(ト)1、其(ノ)流寒暑水旱、無v有2盈縮1、六帖に、不盡河の世に清べくも不所念戀しき人の影し見えねば、躬恒家集に、逢むとは思ひ渡れど不盡河の遂にすまずば影も見えじを、續古今集に、流れてと思ひしものを不盡河の如何樣にしも澄ずなりけむ、など見えたり、跡《ト》はとての意なり、○水乃當知烏《ミヅノタギチゾ》、(知(ノ)字、舊本脱たり、十(ノ)卷に、瀬乎速見落當知足《ヤヲハヤミオチタギチタル》、とあるに依て補(フ)べし、烏(ノ)字、姶穗本には焉と作り、)焉烏ともに、集(183)中ヲ〔右○〕と訓ソ〔右○〕と訓べき處に、多く書り、○日本之《ヒノモトノ》は、枕詞なり、此は、御國は、天津日の大御神の生《アレ》ませる、本つ御國なる謂にて、日の本(ツ)國なる倭といふ義かとも聞ゆれど、しかにはあらじ、こは日本《ニホム》といふ字につきて、いひはじめたる詞ならむ、(藤原(ノ)良經公の、我(ガ)國ほ天照神の未なれば日(ノ)本としも云にぞ有ける、とよみ給ひしごとく、本居氏(ノ)國號考には、はじめにいへる意にとれり、そは古學者の心にとりては、誰もさもあらせまほしく、思ふ事なれど、古(ヘ)はたゞあるがまゝにて、後(ノ)世のごと、其國に對へて、皇朝のことに尊きよしを稱《タヽヘ》いひしやうの趣は、一(ツ)も見えたることなければ、なほしかにはあらじ、とぞおもはるゝ、)さて日本といふは、異國へ示さむために、孝徳天皇(ノ)御代に、新に建賜ひし號なりと、國號考に云るが如し、かくてその日本と云は、かの推古天皇の御世に、日出處(ノ)天子、とのたまひ遣はしゝと、同じ意ばえなれば、その意を得て、後に日本の字に、比能毛登《ヒノモト》といふ訓を、設けたるより、それやがて、御國の一名となれるから、あきづしま倭《ヤマト》と云る類に、日本之倭《ヒノモトノヤマト》といひつゞけたるなり、續後紀十九、興福寺(ノ)僧(ガ)長歌に、日本乃野馬臺能國遠《ヒノモトノヤマトノクニヲ》云々|日本之倭之國波《ヒノモトノヤマトノクニハ》云々、と有、○山跡國乃《ヤマトノクニノ》は、日本國之《ヤマトノクニノ》にて、天(ノ)下大八島をいふ、○鎭十方《シヅメトモ》云々、寶十方《タカラトモ》云々は、此(ノ)山の靈徳を、稱へたるなり、鎭は、書紀神功皇后(ノ)卷に、※[手偏+爲]《オギテ》2荒魂(ヲ)1爲2軍(ノ)先鋒(ト)1、請《オギテ》2和魂(ヲ)1爲2王船鎭《ミフネノシヅメト》1、續紀廿五(ノ)詔に、國乃鎭止方《クニノシヅメトモ》、皇太子乎置足|天之《テシ》、心|毛《モ》安|久於多比仁在止《クオダヒニアリト》、云々、など見えたり、○座神可聞《イマスカミカモ》、(神(ノ)字、類聚抄、活字本、拾穗本等には、祇と作(184)り、上に出たるに同じ、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
320 不義嶺爾《フジノネニ》。零置雪者《フリオケルユキハ》。六月《ミナヅキノ》。十五日消者《モチニケヌレバ》。其夜布里家利《ソノヨフリケリ》。
 
零置雪者(者(ノ)字、類聚抄には八と作り、)は、フリオケルユキ〔七字右○〕はと訓べし、十七(ノ)立山(ノ)歌に、多知夜麻爾布里於家流由伎能等許奈都爾《タチヤマニフリオケルユキノトコナツニ》と見ゆ、○十五日消者は、モチニケヌレバ〔七字右○〕と訓るよろし、十五日は、十五日(ノ)夜の月を、滿月《モチツキ》の義にて、毛知月《モチツキ》といふを、それより轉りて、十五日を、毛知乃日《モチノヒ》と云り、氣《ケ》は消《キエ》の縮りたるなり、○歌(ノ)意は、六月十五日は、暑の正中なれば、時ならずに降置る雪も、暑さに堪ずして、しばしは消ぬれども、やがて其(ノ)夜に降繼て、實には消る間もなし、と雪の甚くふるさまを云るなり、契冲云、駿河(ノ)國風土記に、此(ノ)山に積りてある雪の、六月(ノ)十五日に消て、子の時より下には、又降かはると古抄に見えたり、たしかに其(ノ)書を見ざれば、信(ヒ)がたし、此歌はふりつぐよしをいはむとて、その夜ふりけり、といふなるべし、(安景※[さんずい+廉](ガ)詩に、絶入層霄富士(ノ)山、蟠根直壓三州(ノ)間、六月雪花飜2素毳(ヲ)1、何處深林覓2白※[間+鳥](ヲ)1、とあり、六月に雪の降ことは、異國人までも知たり、)〔頭註、【藤井(ノ)高尚(ノ)歌のしるべ、山部(ノ)大人の歌に、ふじのねに云々、此歌は、ふじの雪の、とことはに消えぬことをいへるなり、それを、みな月のもちにも消ぬふじのしら雪、とよみたらむには、かいなでの歌よみなるべし、もちにけぬればといへるなむ、いひしらずをかしき、今此(ノ)歌の情を考るに、ふじの雪の、常にきえぬを見て、いみじき高山なれば寒くて、きえざることわりはしらぬをさなきこゝろになりて、なべての雪といふものは、ふりてはきえ、消てはふれば、ふじの雪も、かならずさやうならむに、きえしをりの見えぬはあやし、としばしながめやすらひて、思(185)ひえたり、ふじはいみじき高山なれば、雪の消がてにして、こと所とはことなるべし、此山にふりおける雪は、みな月のもちの、あつささかりのかぎりに消て、その夜ふりけり、さるからに、消しをりの見ぬにこそ、とあらぬ事をいへる歌にて、いと/\あはれふかきなり、まことに歌の情は、かくこそあらまほしけれ、さきなる、野をなつかしみの歌と、此歌とをあはせておもへば、赤人は、人麻呂のしもにたたむことかたしとも、歌にあやしくたへなりともいはれつる、貫之主は、歌のさまをよくしられたる人なりとぞ、おもひしられける、さるを萬葉集の、むかし今の註さくどもに、此もちにけぬればの歌を、ふじの雪は、まことにみな月のもちに消て、その夜ふるものゝやうにこゝろえて、こともなげにとけるは、むげに歌の情を見しらぬときごとなりけり、まことにさやうならむには、山部(ノ)大人のともおもはれぬつたなきたゞごと歌なり、雪のきゆばかりあつからむに、いかでかその夜ふるべき、さはあらぬ事をおもひいふが、あはれなる歌の情なり、それを見しらぬは、いにしへのよき歌のさまを、たふとびしたはざるゆゑに、心のおよばぬにぞありける、さやうに古歌をなほざりに見過しては、すべて柿本山部のふたりの大人の、歌のあはれなる情のふかきことは、さらにしられじ、」雅澄按に、此(ノ)歌は、舊本に作者の名を闕たれば、誰の歌とも定めがたし拾穗本には、笠(ノ)朝臣金村の歌とすること、上に註せるごとし、又赤人の歌につゞきたれば、同人の作ならむといふ説もあれど、決めがたし、然るをこの歌のしるべに、山部氏の歌と、推て定て論へるはいかに、もし山部氏のと定めむには、その證あるべきに、さもなきは見誤りて、赤人の歌とおもへるにや、をかし、〕○拾穗本に、此間に、詠2不盡山1歌一首高橋蟲麻呂の十三字あり、歌(ノ)左の註なし、(これは、蟲麻呂歌集中に出たれば、蟲麻呂の作とおもひ誤たるにや、)
 
321 布士能嶺乎《フジノネヲ》。高見恐見《タカミカシコミ》。天雲毛《アマクモモ》。伊去羽計《イユキハバカリ》。田菜引物緒《タナビクモノヲ》。
 
高見恐見《タカミカシコミ》は、高さに恐さに、といふ意なり、山の秀て高さによ、雲も得屆かず、貴く恐こさに、雲も恐れ憚るよしなり、○伊去羽計《イユキハバカリ》、(計(ノ)字、類聚抄、拾穗本等には、斤と作り、それもさも有べし、)上に出たり、十二に、赤駒之射去羽計眞田葛原《アカゴマノイユキハバカルマクズハラ》とあり、○田菜引物緒《タナビクモノヲ》、(菜(ノ)字、舊本莱に誤れり、類聚抄、古寫一本、拾穗本等に從つ、)物緒《モノヲ》は、言を含め餘したる辭なり、二(ノ)卷に、吾乎待跡君之沾計武足(186)日木能山之四附二成益物乎《アヲマツトキミガヌレケムアシヒキノヤマノシヅクニナラマシモノヲ》とある、物乎に同じ、(この緒《ヲ》を、会《ヨ》といふに同じく、よび捨たる詞なりといふは、甚あらぬことなり、)○歌(ノ)意は、不盡の嶺が秀て高さに、得屆かず、貴く恐さに、得たな引(カ)ず、天雲さへも、かほどまで、恐れ憚る山なるものを、誰かは、此(ノ)山の高く貴く靈異《クシビ》なるを恐まざらむ、とのよしなり、○右(ノ)歌等、(長一首、短二首、)宮地(ノ)春樹(ノ)翁云、この上下、皆赤人の歌にして、且《マタ》此(ノ)歌の調(ベ)も、赤人の口氣《クチツキ》なれば、同人の作なること、疑なかるべし、
〔右一首。高橋(ノ)連蟲麻呂之歌集〔○で囲む〕中出焉。以v類載v此。〕
集(ノ)字、舊本になきは、脱たるなるべし、
 
山部宿禰赤人《ヤマベノスクネアカヒトガ》。至《ユキテ》2伊豫温泉《イヨノユニ》1作歌一首并短歌《ヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
伊豫(ノ)温泉は、古事記允恭天皇(ノ)條に、故(レ)其(ノ)輕(ノ)太子者、流2於伊豫(ノ)湯(ニ)1也、書紀舒明天皇(ノ)卷に、十一年十二月己巳朔壬午、幸2于伊豫(ノ)温湯(ノ)宮(ニ)1、天武天皇(ノ)卷に、十三年冬十月、大地震云々、時(ニ)伊豫(ノ)温泉没而不出、和名抄に、伊豫(ノ)國温泉(ノ)(湯《ユ》郡、神名帳に、同郡湯(ノ)神社などあり、今(ノ)世、道後の湯と云て、名高くめでたき温泉なり、今其(ノ)地を、一萬村と呼り、伊豫(ノ)國風土記に、湯(ノ)郡(ハ)大穴持(ノ)命見2悔耻1而宿奈※[田+比]古那(ノ)命(ヲ)欲v活(サムト)、大分速見(ノ)湯(ヲ)、自2下樋1持度來(リ)、以2宿那※[田+比]古奈(ノ)命1而浴2涜者(ヲ)1、※[斬/足]間(ニ)有2活(テ)起居(スルコト)1、然(シテ)詠(シテ)曰、眞※[斬/足]寢哉(トノタマヒテ)、踐(ミ)健(ビタマヒシ)跡處、今在2湯(ノ)中(ノ)石(ノ)上(ニ)1也、凡湯之|貴奇《メデタキコト》、不2神世(ノ)時耳1、於(モ)2今世(ニ)1、染2※[病垂/火]痾《ヤマヒニ》1萬生《モロヒト》、爲2除v病存v身要藥(ト)1也、天皇等、於湯(ニ)幸行降坐五度也、以d大帶日子(ノ)天皇(ト)與2大后八坂入姫(ノ)命1二躯《フタハシラヲ》u爲2一度(ト)1也、以d(187)帶中日子(ノ)天皇與2大后息長帶媛(ノ)命1二躯u爲2一度(ト)1也、以2上宮聖徳(ノ)皇子1爲2一度(ト)1、及侍(ハ)高麗|惠總《慈通》僧、葛城(ノ)臣等也、于時立(テ)2湯(ノ)岡(ノ)側(ニ)碑文(ヲ)1記(シテ)云、法興六年十月歳在2丙辰1、我法王大王(ト)、與2惠總法師及葛城(ノ)臣1、逍2遥《アソビテ》〓與(ノ)村1、正(ニ)觀2神井(ヲ)1、歎2世(ノ)妙驗(ヲ)1、欲(シテ)v叙(マク)v意(ヲ)、聯(カ)作(リタマフ)2碑文一首(ヲ)1、云々、以2岡本(ノ)天皇并皇后二躯(ヲ)1爲2一度(ト)1、以2後岡本(ノ)天皇、近江(ノ)大津(ノ)宮(ニ)御宇天皇、淨御原(ノ)宮(ニ)御宇天皇三躯(ヲ)1爲2一度(ト)1、此(ヲ)謂《イフナル》2幸布五度《イツタビノイデマシトソ》1也、とあり、(今温泉(ノ)傍に、御足形の石と云あり、此は踐健跡處、今在2湯(ノ)中(ノ)石上(ニ)1也、とあればなり、されど其(ノ)石、古(ヘ)のならむことは、おぼつかなし、)○法興の年號の事、余が南京遺響に、委(ク)辨へおけり、
 
322 皇神祖之《スメロキノ》。神乃御言乃《カミノミコトノ》。敷座《シキマス》。國之盡《クニノコト/”\》。湯者霜《ユハシモ》。左波爾雖在《サハニアレドモ》。島山之《シマヤマノ》。宜國跡《ヨロシキクニト》。極此疑《コヾシカモ》。伊豫能高嶺乃《イヨノタカネノ》。射狹庭乃《イザニハノ》。岡爾立而《ヲカニタヽシテ》。歌思《ウタオモヒ》。辭思爲師《コトオモハシシ》。三湯之上乃《ミユノヘノ》。樹村乎見者《コムラヲミレバ》。臣木毛《オミノキモ》。生繼爾家里《オヒツギニケリ》。鳴鳥之《ナクトリノ》。音毛不更《コヱモカハラズ》。遐代爾《トホキヨニ》。神左備將往《カムサビユカム》。行幸處《イデマシトコロ》。
 
皇神祖之は、スメロキノ〔五字右○〕と訓べし、(略解に、カミロキ〔四字右○〕とよめるは、たがへり、)既く委(ク)云り、○神乃御言乃《カミノミコトノ》は、(御言は借(リ)字にて、)神(ノ)命之なり、遠祖の天皇より、御代々々の天皇の敷座(ス)よしなり、既く委(ク)云り、○國之盡《クニノコト/”\》は、諸國悉皆《クニ/”\コト/”\ク》なり、五(ノ)卷に、阿乎爾與斯久奴知許等其等《アヲニヨシクヌチコトゴト》、六(ノ)卷に、許伎多武流浦乃盡往隱島乃埼々隈毛不置《コギタムルウラノコト/”\ユキカクルシマノサキ/”\クマモオカズ》とあり、國といふ國に、悉皆温泉に類ふべきものは、多くあれども、中にもすぐれて、めでたき温泉、といふよしにつゞく意なり、○湯者霜《ユハシモ》は、四言一句な(188)り、霜《シモ》の辭は既く云り、○左波爾雖在《サパニアレドモ》は、多《サハ》に雖《ドモ》v有《アレ》なり、本居氏、佐波爾《サハニ》と云言の意は、俗言に、澤山にと云に、正しく當れり、故(レ)思ふに、萬葉に、やまさは人と云ことも見え、又俗に、物の甚多きを、山ほどゝも、山々とも云、又かの澤山と云俗言など、此(レ)彼(レ)を合せて思へば、多《サハ》にと云も、澤より出たる言にやあらむといへり、六(ノ)卷に、鰒珠左盤爾潜出《アハビタマサハニカヅキデ》、又|鹽燒等人曾左波爾有《シホヤクトヒトゾサハナル》、十四に、比登佐波爾麻奈登伊布兒我《ヒトサハニマナトイフコガ》、十七に、加波々之母佐波爾由氣等毛《カハヽシモサハニユケドモ》、古事記神武天皇(ノ)條(ノ)歌に、比登佐波爾伊理袁理登母《ヒトサハニイリヲリトモ》、景行天皇條(ノ)歌に、波祁流多知都豆良佐波麻岐《ハケルタチツヅラサハマキ》など、猶多し、○島山は、四國を總(ベ)云り、(和名抄に、伊豫(ノ)國新居郡|島山《シマヤマ》あれど、今はそれにはあらず、)伊豫は、四國の惣名にて、四國みな島國なれば、島山とは云るなり、古事記(ニ)云、生2伊豫之二名(ノ)島(ヲ)1、此島者、身一(ニシテ)而有2面四1、毎(ニ)v面有v名、云々、○宜國跡《ヨロシキクニト》は、島山の形状の足(リ)具《トヽノ》ひて、宜き國と云なり、跡《ト》は、とての意なり、○極此疑《コヾシカモ》(疑(ノ)字、拾穗本、古寫一本等に、凝と作るは誤なり、)は、伊豫の高嶺に係る詞なり、極此は、(假字にて、)凝々しなり、疑《カモ》は、(こゝは借(リ)字にて、)例の疑の可聞《カモ》には非ず、歎息きすて、歌ひ絶て、次へつづくる料の辭なり、下に、波之吉可聞皇子之命乃《ハシキカモミコノミコトノ》とあると、同格の辭なり、十七(ノ)立山(ノ)賦に、許其志可毛伊波能可牟佐備《コゴシカモイハノカムサビ》とも見ゆ、○伊豫乃高嶺《イヨノタカネ》は、荒木田氏云、今石鐵山といふと西村(ノ)重波云り、○射狹庭乃崗《イザニハノヲカ》は、神名帳に、伊與(ノ)國温泉(ノ)郡|伊佐爾波《イザニハノ》神社、湯(ノ)神社あり、其處なり、今|伊佐庭《イザニハ》といふ岡に、社ありて、伊佐庭(ノ)神、湯月八幡(ノ)神と申すを、相(ヒ)祭れりと云り、(湯月八幡は湯(ノ)神社な(189)るべし、)温泉の少し東(ノ)方にあり、名の由縁は、伊豫風土記に、立2湯(ノ)岡(ノ)側碑文(ヲ)1處(ヲ)、謂2伊社爾波《イザニハト》1者、當土諸人等、其(ノ)碑文(ヲ)欲v見(マク)而、伊社那比來《イザナヒキニケルニ》因(テ)、謂2伊社爾波《イザニハト》1也、と見えたり、○崗爾立之而《ヲカニタヽシテ》(拾穗本には、崗(ノ)字を岡と作、また之(ノ)字なし、)は、上宮皇太子の、岡に立給ひて、といふなり、立之《タヽシ》は、立《タチ》の伸りたるにて、立給ふといふ意になる言なり、○歌思辭思爲師は、ウタオモヒコトオモハシヽ〔ウタ〜右○〕と訓べし、歌を思ひめぐらし賜ひ、辭を思ひめぐらし賜ひし、といふ意なり、思爲師《オモハシシ》は、思師《オモヒシ》の伸りたる辭にて、思ひ賜ひし、といふ意になる言なり、さて歌をも辭をも、下の爲師に、て、一(ツ)に帶《カネ》て、給ひしといふ意に、崇め云るなり、(歌と辭を、別て聞べからず、)こは契冲が云る如く、風土記に云る、上宮(ノ)皇太子の、湯の碑文を立賜ふとて、文章の樣を、案《オモ》ひめぐらし賜ふを、辭思といひ、歌をもよませ賜ひけむなれば、歌思とは云るなり、發句より此までは、上宮(ノ)皇太子の、當昔の有し樣を云るなり、○三湯之上乃《ミユノヘノ》は、三《ミ》は美稱、眞湯《マユ》と云むがごとし、上《ヘ》は、其(ノ)邊をいふ、此(ノ)句より以下は、自《ミヅカラ》今まのあたり、見たる樣を云るなり、○樹村乎見者《コムラヲミレバ》は、木群《コムラ》を今見ればと云なり、(今思ふに、森《モリ》といふも、もと木群《コムラ》の切りたる詞か、コム〔二字右○〕の切モ〔右○〕なり、ラ〔右○〕とリ〔右○〕とは親(ク)通へり、鶯の來居て鳴べき森に早なれ、も木群になれの意なり、)字鏡に、柯(ハ)、己牟良《コムラ》、和名抄に、纂要(ニ)云、木枝相交下陰(ヲ)曰v※[木+越]、和名|古無良《コムラ》、など見ゆ、伊佐庭(ノ)岡の西(ノ)麓に、今|木下《キノシタ》といふ處あり、臣木《オミノキ》の下といふ意なるべし、○臣木《オミノキ》は、伊豫(ノ)風土記に、以2岡本(ノ)天皇并皇后二躯(ヲ)1爲2一度(ト)1、于時於2大殿戸1有v堪、云2臣(ノ)(190)木(ト)1、於其上集v鵤、云2此米鳥1、天皇爲2此(ノ)鳥1、繋v穗(ヲ)養賜《ヒキ》也、云々、(一(ノ)卷軍(ノ)王見v山(ヲ)作歌、の後註の中に、一書(ニ)云、是(ノ)時宮(ノ)前、在2二樹木1、此二樹、斑鳩《イカルガ》此米《シメ》二鳥大集、時勅、多掛2稻穗1而養之、乃作歌云々、)其(ノ)時の臣(ノ)木なり、臣(ノ)木は、品物解に委(ク)云り、○生繼爾家里《オヒツギニケリ》は、十九(ノ)處女墓《ヲトメハカノ》歌に、黄楊小櫛生更生而《ツゲヲクシオヒカハリオヒテ》と云る如く、そのもとの木は枯ても、又ひこばえなどの、更に生繼にけりと云なり、○鳴鳥之音毛不更《ナクトリノコヱモカハラズ》は、當昔の、斑鳩《イカルガ》と此米《シメ》とへかけて云るにて、其(ノ)鳥等の聲も、昔にかはらず鳴よしなり、○神佐備將往《カムサビユカム》は、今より往さき、遠き末の代までも、いよ/\神々しく、神さび往かむといふなり、神左備の事は、既く云り、○行幸處《イデマシトコロ》は、風土記に云るが如く、五度の行幸處なり、(今温泉の處より、廿丁計北に、御幸山といふあり、古の温湯(ノ)宮の趾なるべし、)今はその宮の跡には限らず、ひろく行幸せし地を云るなり、○歌(ノ)意は、海内《アメノシタ》大八島の内、國といふ國悉皆に、温泉に類ふべき湯は、多くあれども、中にも類なく、すぐれてめでたき温湯の出るうへ、島山の形状の具足《トヽノ》ひて、宜しくおむかしき國とて、上宮(ノ)皇太子の、伊豫國におはしまして、その温泉の邊の、射狹庭の崗に立賜ひて、歌を思ひめぐらしたまひ、文章を思ひめぐらし賜ひしといふ、當昔を慕ひて此に來て見れば、その温泉の邊に、群だちたる木群の中に、いにしへ岡本(ノ)天皇の行幸て、御覽《ミソナハ》せし時に、斑鳩と此米と、來集しといふ臣(ノ)木も、ひこばえなどの更に生繼て、なほかの二鳥の聲も、當時にかはらず來鳴て、いとゞむかしのおもほゆるよ、今より行さき、とほき末の代(191)までもいよ/\神々しく、神さびゆくべき、行幸の跡處ぞとなり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
323 百式紀乃《モヽシキノ》。大宮人之《オホミヤヒトノ》。飽田津爾《ニギタヅニ》。船乘將爲《フナノリシケム》。年之不知久《トシノシラナク》。
 
飽田津は、吾(ガ)黨大久保(ノ)秀浪、さきに彼(ノ)地に至りて、ところのさまをよく見て、土人にくはしく尋ねしに、温泉郡一萬村の西、今道一餘里に、杉繩手とて、小山の間に、十町ばかりの地あり、その廿町ばかり西に去て、南方に武田津《タケタヅ》、中間に秋田津《アキタヅ》、北方に成田津《ナリタヅ》とて、古(ヘ)の三(ツ)の津の跡ありて、今は潮退て由地となれるを、古三津《フルミツ》と今に呼なせり、その十四五町西に去て、新三津と呼あり、これ今の舟津なり、古(ヘ)の飽田津は、この古三津の地なり、と云傳たりと云り、○船乘將爲(乘(ノ)字、舊本垂に誤、今は類聚抄、拾穗本、異本等に從、)は、フナノリシケム〔七字右○〕と訓べし、(一卷に、嗚呼兒乃浦爾《アゴノウラニ》船乘爲良武、七(ノ)卷に、何處可《イヅクニカ》舟乘爲家牟、十七に、多奈波多之《タナハタシ》船乘須良之などあるは、フネノラスラム、フネノラシケム、フネノラスラシ〔フネ〜右○〕、とよむべくも思へば、こゝもフネノラシケム〔七字右○〕とよむべくおもへど、一(ノ)卷に、飽田津爾船乘世武登《ニギタヅニフナノリセムト》、七(ノ)卷に、船乘爾乘西意《フナノリニノリニシコヽロ》などありて、フナノリ〔四字右○〕てふ熟語のあれば、なほこゝも、然訓べきなり、)さて船乘は、多く發船《フナダチ》する事にいへば、こゝも飽田津より、發船せし時をいへるなり、○年之不知久《トシノシラナク》は、甚|舊《ヒサ》しきほどなれば、年歴の數の、知れぬ事となり、○歌(ノ)意は、古(ヘ)天皇等の行幸し時、從駕の大宮人の、飽田津より發船しけ(192)む、その年歴の數の、かぞへられず、いと舊しき代々を經ぬる事となり、
 
登《ノボリテ》2神岳《カミヲカニ》1。山部宿禰赤人作歌一首井短歌《ヤマベノスクネアカヒトガヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
登2神岳(ニ)1云々、按(フ)に、此卷の前後の例によるに、山部云々の六字、登の上にあるべし、神岳は、既く出づ、
 
324 三諸乃《ミモロノ》。神名備山爾《カムナビヤマニ》。五百枝刺《イホエサシ》。繁生有《シヾニオヒタル》。都賀乃樹乃《ツガノキノ》。彌継嗣爾《イヤツギツギニ》。玉葛《タマカヅラ》。絶事無《タユルコトナク》。在管裳《アリツヽモ》。不止將通《ヤマズカヨハム》。明日香能《アスカノ》。舊京師者《フルキミヤコハ》。山高三《ヤマタカミ》。河登保志呂之《カハトホシロシ》。春日者《ハルノヒハ》。山四見容之《ヤマシミガホシ》。秋夜者《アキノヨハ》。河四清之《カハシサヤケシ》。旦雲二《アサグモニ》。多頭羽亂《タヅハミダレ》。夕霧丹《ユフギリニ》。河津者驟《カハヅハサワグ》。毎見《ミルゴトニ》。哭耳所泣《ネノミシナカユ》。古思者《イニシヘオモヘバ》。
 
神名備山《カムナビヤマ》は、即(チ)神南なり、○繁生有《シヾニオヒタル》は、六(ノ)卷に、水枝指四時爾生有刀我乃樹能彌繼嗣爾《ミヅエサシシジニオヒタルツガノキノイヤツギ/\ニ》、四(ノ)卷に、四時二生有《シジニオヒタル》、催馬樂に、美乃也萬爾之々爾於比太留太萬加之波《ミノヤマニシヾニオヒタルタマカシハ》などあり、發句より此までは、目にふるゝ所の物をもて、都賀乃樹《ツガノキ》をいひおこさむための序とせるなり、○都賀乃樹乃《ツガノキノ》は、枕詞なり、既く一(ノ)卷に出づ、○玉葛《タマカヅラ》、これも枕詞なり、六(ノ)卷にも玉葛絶事無萬代爾如是霜願跡《タマカヅラタユルコトナクヨロヅヨニカクシモガモト》とあり、此は、葛は長く蔓(ヒ)ひろごりて絶(エ)しなさものなれば、かくはつゞけたるなり、○在管裳《アリツヽモ》は、在々乍《アリ/\ツヽ》もの意なり、在の事は、既く云り、○不止將通は、ヤマズカヨハム〔七字右○〕と訓べし、(略解などに、ツネニカヨハム〔七字右○〕とよめるは、わろし、)既く云り、○舊京師《フルキミヤコ》は、明日香(ノ)淨御原宮を云るなり、淨(193)御原(ノ)宮は神岳に近きあたりなり、今は奈良へ都を遷されしなれば、舊京師となれるなり、○山高三《ヤマタカミ》は、山高うといはむが如し、(常に山が高さに、と意得るとは、たがへり、)既く例を引て、首(ノ)卷に委(ク)辨(ヘ)り、○河登保志呂之《カハトホシロシ》は、河の清淨なるを云、本居氏、とほしろは、さやかなるをいふ、物語書に御火しろくたけ、續世繼に、その大納言の、御車のもむこそ、きららかに、とほしろく侍りけむ、とありと云り、荒木田氏、とほは、達《トホル》の意なり、白きは、あざやかなるを云(ヘ)ば、さやけしと云に同じ、といへり、十七にも山高美河登保之呂思《ヤマタカミカハトホシロシ》と見ゆ、(長明(ノ)無名抄、悛惠定2歌體(ヲ)1事を云る處に、すがたうるはしく、きよげにいひくだして、たけたかく、とほしろきなり云々、これははじめの歌のやうに、かぎりなく、とほしろくなどはあらねど、いうにたをやかなり云々、はじめの歌は、すがたきよげに、とほしろければ云々、など見えたり、)○山四見容之《ヤマシミガホシ》は、四《シ》は、その一すぢなるを、思はせたる助辭、見容之《ミガホシ》は、(借(リ)字、)見之欲《ミガホシ》なり、後に、見まほしといふに同じ、花などのさける、山のけしきのおもしろくて、常に見まほしく思ふよしなり、此(ノ)下に、儕立乃見※[日/木]石山跡《ナミタテノミガホシヤマト》、六(ノ)卷に、山見者山裳見貌石《ヤマミレバヤマモミガホシ》、十一に、見我欲君我《ミガホシキミガ》、十七に、夜麻可良夜見我保之加良武《ヤマカラヤミガホシカラム》、十八に、奈保之見我保之《ナホシミガホシ》、又|伊夜見我保之久《イヤミガホンク》、十九に、見我保之御面《ミガホシミオモワ》、古事記仁徳天皇(ノ)大后(ノ)御歌に、和賀美賀本斯久邇波《ワガミガホシクニハ》、顯宗天皇(ノ)紀(ノ)歌に、野麻登陛爾瀰我保指母能波《ヤマトヘニミガホシモノハ》などあり、○河四清之《カハシサヤケシ》は、四《シ》は、上の如し、河瀬の清くて、月のうつれるけしきなど、見るにあかれぬよしなり、春秋につけ(194)て、見處あるを、ほめたるおり、○多頭羽亂《タヅハミダレ》は、鶴者亂《タヅハミダレ》なり、亂は、騷《サワグ》といふに全(ラ)同じ二(ノ)卷に、小竹葉者三山毛清爾亂友《サヽガハハミヤマモサヤニミダレドモ》とあるも、さわぐことなり、○河津者驟《カハヅハサワグ》は、蝦者〓《カハヅハサワグ》なり、驟は、聲のさわさわと、さわがしく鳴ことなり、字鏡に、〓(ハ)、衆口也、佐和久《サワク》と見ゆ、春の朝雲居に鶴の飛翔り、秋の夕(ヘ)川瀬に蝦の鳴すだく形を云て、春秋朝夕の、景色を云あらはせり、○哭耳所泣《ネノミシナカユ》は、音にのみ泣るゝ、といふ意なり、十五に、欲流波須我良爾禰能未之奈加由《ヨルハスガラニネノミシナカユ》と見ゆ、共に之《シ》は、その一すぢなるを、思はせたる助辭なり、○古思者《イニシヘオモヘバ》は、古昔を懷ふが故にの意なり、淨御原(ノ)宮の全盛なりし當昔をおもふが故に、音にのみ泣るゝといふ意なり、九(ノ)卷處女墓(ノ)長歌に、見者悲裳古思者《ミレバカナシモイニシヘオモヘバ》、(一(ノ)卷に、阿騎乃野爾《アキノヌ》云々|古念爾《イニシヘオモフニ》など有、)○歌(ノ)意は、淨御原(ノ)宮の舊都は、神岳の山高く、明日香河の河瀬さやかにして、春(ノ)日は花をめで、秋(ノ)夜は月をおもしろみなどして、見るにあくよなく、しかのみにあらず、春の朝は、雲居に鶴の飛翔り、秋の夕(ヘ)は、川瀬に蝦の鳴すだく風景など、春秋朝暮に隨て、つねにかよひて、見まくのほしきところなれば、そこを慕ひて見に來しを、其(ノ)地のけしきの、いとゞ物あはれなるにつけても、中々に見聞もの毎に、なぐさむ心はなくして、淨御原(ノ)宮の全盛なりし當昔の事の、ひとへに慕はれて、音にのみ泣るゝとなり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
325 明日香河《アスカカハ》。川余藤不去《カハヨドサラズ》。立霧乃《タツキリノ》。念應過《オモヒスグベキ》。孤悲爾不有國《コヒニアラナクニ》。
 
(195)立霧乃《タツキリノ》といふ迄は、過を云む料の序なり、○念應過《オモヒスグベキ》は、念を遣(リ)失ふべきとなり、○孤悲爾不有國《コヒニアラナクニ》は、戀にてあらぬことなるものを、といふなり、孤悲《コヒ》は、古(ヘ)を慕ひ念ふ情の戀なり、○歌(ノ)意は、大かたに、古(ヘ)を慕ふこゝろならば、見《ミル》もの聞《キク》ものにつけて、物念(ヒ)を遣失ひて、なぐさむべきを、しか物おもひを、やり失ふべき、一(ト)わたりの戀にてはあらぬことなるものを、いかにしてましとなり、
 
門部王《カドベノオホキミノ》。在《イマシテ》2難波《ナニハニ》1。見《ミテ》2漁火燭光《アマノイザリヒヲ》1作歌一首《ヨミタマヘルウタヒトツ》。
 
門部王は、上に出づ、類聚抄に、一首の下、後賜2姓大原眞人氏1の八字あり、(古寫一本には、姓(ノ)字无(シ)、氏の下に也(ノ)字あり、)
 
326 見渡者《ミワタセバ》。明石之浦爾《アカシノウラニ》。燒火乃《トモスヒノ》。保爾曾出流《ホニゾイデヌル》。妹爾戀久《イモニコフラク》。
 
燒火乃は、トモスヒノ〔五字右○〕と訓べし、十五、十八に、等毛之備《トモシビ》、字鏡に、炬苣(ハ)、止毛志火《トモシビ》とあり、さて、此(ノ)句までは、保《ホ》をいはむために、目に觸る所の物をもて、序とし給へるなり、○保爾曾出流《ホニゾイデヌル》は、裏《シノ》べる思の堪かねて、それと表《アラハ》れ出ぬるといふなり、凡て保《ホ》は秀《ホ》にて、いちしろくあらはるゝをいふ、木草の穗も、それなり、○妹爾戀久《イモニコフラク》は、妹を戀しく思ふ事の、といふ意なり、○歌(ノ)意は、人目をつゝむに堪かねて、妹を戀しく念ふ心の、それと人の知までにぞ、色にあらはれけるとなり、
 
或娘子等《アルヲトメラ》。以《ヲ》2裹乾鰒《ツヽメルホシアハビ》1。贈《オクリテ》2通觀僧《ツグワムホウシニ》1。戯《タハレニ》請《コフ》2咒願《カシリヲ》1之時《トキ》。通觀作歌一首《ツグワムガヨメルウタヒトツ》。
 
(196)娘(ノ)字、古寫一本、妹と作るは誤なり、○通觀は、傳知ず、○咒(ノ)字、拾穗本に哭と作るは誤なり、○此(ノ)題詞、舊本には、或娘子等、賜裹乾鰒、戯請通觀僧之咒願時、云々とあり、今は目録に從つ、意は、或(ル)若き娘子《ヲトメ》どもの、乾鰒を裹て、通觀僧に贈り、咒願の力(ラ)にて、是をいのり生し給へといひて、僧の戒を彼らむとの戯なり、
 
327 海若之《ワタツミノ》。奧爾持行而《オキニモチユキテ》。雖放《ハナツトモ》。宇禮牟曾此之《ウレムゾコレガ》。將死還生《ヨミガヘリナム》。
 
海若之《ワタツミノ》は、海之《ウミノ》といふが如し、和多都美《ワタツミ》とは、海(ノ)神を申す稱なる由は、既く云り、こゝはやゝ轉りて、たゞ海をいへるなり、海若の字は、楚辭に、使2湘靈皷1v瑟(ヲ)兮、令3海若舞2憑夷(ヲ)1、註に海若(ハ)、海神(ノ)名也と見ゆ、○宇禮牟曾《ウレムゾ》は、本居氏云、十一に、平山《ヒラヤマ》の子松が末《ウレ》の有廉叙波《ウレムゾハ》わが思妹にあはずやみなめ、と云る有廉叙《ウレムゾ》に同じく、いかむぞの意なり、○將死還生は、ヨミガヘリナム〔七字右○〕と訓べし、と本居氏云り、ヨミガヘル〔五字右○〕は、黄泉還にて、死者の、生還るをいふ詞なり、字鏡に、※[禾+魚]※[魚+禾](ハ)、甦(ノ)字(ニ)同(シ)、更生也、與彌還《ヨミカヘル》とあり、○歌(ノ)意は、たとひ海に持行て放つとも、いかでか、これが生かへるべき、わが咒願の及ぶべき所にあらず、と女の戯に、とりあはずいへるにて、色々すかしのたまふとも、出離の心をば、ふたゝびおもひかへさじを、といふ意を含めたるなり、
 
萬葉集古義三卷之上 終
 
(197)萬葉集古義三卷之中
 
太宰少貳小野老朝臣歌一首《オホミコトモチノスナキスケヲヌノオユノアソミガウタヒトツ》。
 
太宰は、太宰(ノ)府なり、和名抄に、職員令(ニ)云、太宰府(ハ)於保美古止毛知乃司《ハオホミコトモチノツカサ》とあり、職員令に、太宰(ノ)府、帶2筑前(ノ)國(ヲ)1主神一人、掌(ル)2諸(ノ)祭祠(ノ)事(ヲ)1、帥一人、掌(ル)d祠社、戸口、簿帳、字2養(シ)百姓(ヲ)1、勸2課(セ)農桑(ヲ)1、糺2察(シ)所部(ヲ)1、貢2擧孝義1、田宅、良賤、訴訟、租調、倉廩、徭役、兵士、器仗、鼓吹、郵驛、傳馬、烽候、城牧、過所、公私(ノ)馬牛、闌遺(ノ)雜物、及寺僧尼(ノ)名籍、蕃客歸化、饗讌(ノ)事(ヲ)u、大貳一人、掌(ルコト)同(シ)v帥(ニ)、少貳二人、掌(ルコト)同(シ)2大貳(ニ)1、云々、と見ゆ、書紀推古天皇十七年夏四月丁酉朔庚子、筑紫(ノ)太宰奏上言云々とある、これ太宰(ノ)府のものに見えたるはじめなり、職原抄に、太宰(ノ)府(ハ)、聖武天皇天平十五年、始(テ)置2筑紫(ノ)鎭西(ノ)府(ヲ)1、先v是(ヨリ)有2太宰(ノ)府(ノ)號1云々、凡當府(ハ)都(テ)管2九國二島(ヲ)1、別帶2筑前(ヲ)1也とあり、天平十五年に、始めて鎭西府を置れたることは、續紀に委しく見えたり、先v是(ヨリ)太宰(ノ)府の號ある由いへるは、右に引る推古天皇(ノ)紀に出たるをいへるなり、文徳天皇實録四(ノ)卷、仁壽二年二月の處に、夫太宰(ノ)府者、西極之大壤、中國之領袖也、東(ハ)以2長門(ヲ)1爲v關(ト)、西(ハ)以2新羅(ヲ)1爲v拒(ト)、加(ニ)以2九國二島(ヲ)1、郡縣闊遠、自v古于v今以爲2重鎭(ト)1、云々、と見えたり、○少貳は(198)スナキスケ〔五字右○〕と訓べし、和名抄に、次官、本朝職員令、二方品員等所v載云々、太宰(ノ)府(ニ)曰v貳云々(已上皆|須介《スケ》)とあり、○小野(ノ)老朝臣は、續紀に、元正天皇養老三年正月壬寅、授2正六位下小野(ノ)朝臣老(ニ)從五位下(ヲ)1、四年十月戊子、爲2右(ノ)少辨(ト)1、聖武天皇天平元年三月甲午、從五位上、三年正月丙子、正五位下、五年三月辛亥、正五位上、六年正月己卯從四位下、九年六月甲寅、太宰(ノ)大貳從四位下小野(ノ)朝臣老卒と見えたり、
 
328 青丹吉《アヲニヨシ》。寧樂乃京師者《ナラノミヤコハ》。咲花乃《サクハナノ》。薫如《ニホフガゴトク》。今盛有《イマサカリナリ》。
 
寧樂乃京師者《ナヲノミヤコハ》、樂(ノ)字、活字本に〓と作るは誤なり、乃(ノ)字、姶穂本にはなし、○歌(ノ)意かくれたるところなし、元明天皇の奈良に京都を遷されしより、聖武天皇の御時に至りて、彌益(シ)隆盛なりしを讃美《ホメ》たるなり、
 
防人司佑大伴四繩歌二首《サキモリノツカサノマツリゴト人オホトモノヨツナガウタフタツ》。
 
防人司佑(佑(ノ)字、舊本祐に誤、古寫本、異本等に從、類聚抄には佐と作り、)は、サキモリノツカサノマツリゴト人〔サキ〜右○〕と訓べし、職員令に、太宰府、(帶2筑前(ノ)國1、)云々防人正一人、掌2防人(ノ)名帳、戎具、教閲、及食料(ノ)田(ノ)事(ヲ)1、佑一人、掌(ルコト)同v正(ニ)とあり、和名抄に、判官、本朝職員令二方品員等所v載(ル)云々、司(ニ)曰v佑(ト)云々、皆|萬豆利古止比止《マツリコトヒト》と見えたり、○大伴(ノ)四繩(繩(ノ)字、目録、古寫本、類聚抄、拾穂本等には綱と作り、)は、傳未(タ)詳ならず、古今六帖に、大伴のよつなと載たれば、四綱とある方正しかるべし、契沖云、(199)大伴の下に宿禰の字のおちたるなるべし、家持の歌など、末に至りて、つゞきて多き所には、大伴(ノ)家持とのみもあれど、さらでは皆姓をそへてかけり、
 
329 安見知之《ヤスミシシ》。吾王乃《ワガオホキミノ》。敷座在《シキマセル》。國中者《クニノナカナル》。京師所念《ミヤコシオモホユ》。
 
國中者は、いかにぞやおもはるゝにつきて、(略解に、舊本に依てクニノナカニハ〔七字右○〕と訓るは、天皇の敷座國の境内には、と云意と心得しにや、もしさらばクニノウチニハ〔七字右○〕とこそいふべけれ、されどしか訓むも穏ならず、)熟思ふに、者は在(ノ)字の寫誤なるべし、者と在と草書いと能(ク)似たり、さらばクニノナカナル〔七字右○〕と訓べし、然するときは、國中《クニノナカ》は國の中央といふことになりて、大祓(ノ)詞に、四方之國中登《ヨモノクニナカト》とあるに、全(ラ)同じこゝろばえなり、○京師祈念は、ミヤコシオモホユ〔八字右○〕と訓る宜し、(略解に、ミヤコオモホユ〔七字右○〕と訓たるはわろし、)シ〔右○〕と訓べき字はなけれども、之《シ》の助辭は、字の後によみ付る例多し、凡てこれらの助辭はあるも无も同じことゝ、誰もおもふことなるべけれど、助辭は語の勢を助るものなれば、あるべき所には必(ズ)なくては叶はず、こゝなどは、必(ス)シ〔右○〕の助辭なくてはつたなし、すべて之《シ》の助辭は、その一(ト)すぢをおもくおもはする處におく辭なり、三(ノ)卷に、日本師所念《ヤマトシオモホユ》、七(ノ)卷に、奈伎左思所念《ナギサシオモホユ》、又|日本之所念《ヤマトシオモホユ》、八(ノ)卷に、尾花之所念《ヲバナシオモホユ》又|繁之所念《シゲクシオモホユ》、又|平城京師所念可聞《ナラノミヤコシオモホユルカモ》などあるを、照(シ)考(フ)べし○歌(ノ)意は、旅にありて、種々に物おもひのせらるゝ事のおほき中に、國の中央なる京師の、一(ト)すぢに戀しくおもはるゝとなり、
 
(200)330 藤浪之《フヂナミノ》。花者盛爾《ハナハサカリニ》。成來《ナリニケリ》。平城京乎《ナラノミヤコヲ》。御念八君《オモホスヤキミ》。
浪字、類聚抄には波と作り、○御念八君《オモホスヤキミ》は、慕ひおぼしめすや君よと云るなり、君は旅人(ノ)卿を指り、六(ノ)卷太宰(ノ)少貳石川(ノ)朝臣足人(ノ)歌に、刺竹之大宮人乃家跡住佐保能山乎者思哉毛君《サスタケノオホミヤヒトノイヘトスムサホノヤマヲバオモフヤモキミ》とあるも、帥旅人(ノ)卿をさせり、今と似たり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
帥大伴卿歌五首《カミオホトモノマヘツキミノウタイツツ》。
 
帥大伴(ノ)卿は、旅人(ノ)卿なり、帥はカミ〔二字右○〕と訓べし、和名抄に、長官、本朝職員令二方品員所v載(ル)云々、太宰(ノ)府(ニ)曰v帥(ト)、(已上皆|加美《カミ》、)職員令に、太宰(ノ)府、(帶2筑前(ノ)國(ヲ)1)云々、帥一人、云々(上に委く引り、)と見えたり、太宰(ノ)府の管領職《スベシルツカサ》なり、(帥はカミ〔二字右○〕とのみいひしを、中ごろよりこなたのものには、字音にてソチ〔二字右○〕といへり、蟀《ソツ》の音なり一八《イツハツ》をイチハチ〔四字右○〕といふが如し、さて字彙に、毛氏曰、凡稱2主v兵者(ヲ)1爲2將帥(ト)1、則去聲、言2領v兵(ヲ)帥(ルヲ)1v帥(ヲ)、則入聲、故經典釋文、將帥(ノ)字(ハ)皆去聲、帥v師(ヲ)字(ハ)皆不v音(アラ)と見えて、將帥のときは去聲、山類(ノ)切音スイ〔二字右○〕、帥v師のときは入聲、山律(ノ)切音ソツ〔二字右○〕なり、されば、スイ〔二字右○〕と唱ふべきを、ソチ〔二字右○〕と唱(ヘ)來れるは所以《ユヱ》あることにこそ、)さて旅人(ノ)卿の太宰(ノ)帥に任られ給ひしは、神龜三年の間なるべし、その後五年を歴て、天平二年に京に上り給ひしなり、其(ノ)事は十七(ノ)卷(ノ)初に、天平二年庚午冬十一月、太宰(ノ)帥大伴(ノ)卿被v任2大納言(ニ)1(兼v帥(ヲ)如v故、)上v京(ニ)之時、云々、と見えたり、すべて此(ノ)卿の帥に任られ給ふ事、紀文に見えざるは漏たるなり、
 
(201)331 吾盛《アサカリ》。復將變八方《マタヲチメヤモ》。殆《ホト/\ニ》。寧樂京師乎《ナラノミヤコヲ》。不見歟將成《ミズカナリナム》。
 
復將變若八方は、マタヲチメヤモ〔七字右○〕と訓べし、又二(タ)たび、若く盛なる時に變らめやはといふ意なり、若(ノ)字は、荒木田氏の考に依て補つ、其(ノ)説(ニ)云、本居氏の説に、將變の二字を乎知《ヲチ》とよむべしといはれしは、古言に達《トホ》れる考なりけり、その説につきて熟考(フ)るに、集中變若と書る文字は、みな乎知《ヲチ》とよむべきなり、故(レ)今も變若とあるべきを、若の字を脱せる事のしるければ、補つと云り、猶槻落葉別記に委(ク)論へり、さて遠知《ヲチ》といふ言は、四(ノ)卷、五(ノ)卷、六(ノ)卷、十一、十七、二十の卷々にも見えて、若變《ヲチ》とも遠知《ヲチ》とも越知《ヲチ》とも乎知《ヲチ》とも書り、十三には越水《ヲナミヅ》といふこともあり、なほ本居氏(ノ)玉勝間八(ノ)卷に云るをも、合(セ)見て考べし、(事長ければ、今は略きて引つるなり、)八方《ヤモ》は、也《ヤ》は、後(ノ)世の也波《ヤハ》の意、方《モ》は歎息(ノ)辭なり、○殆はホト/\ニ〔五字右○〕と訓べし、古事記傳(ニ)云、富登富登《ホトホト》といふ言の意は、邊々《ホトリ/\》にて、其(ノ)近さ邊《ホトリ》まで至る意なりと云り、こゝは平城(ノ)京を得見ずに成なむに、殆《チカ》からむかといふ意なり、七(ノ)卷に、燎木伐殆之國手斧所取奴《タキギキリホト/\シクニテヲノトラエヌ》、八(ノ)卷に、不令見殆令散都類香聞《ミセズホト/\チラシツルカモ》、十(ノ)卷に、霍公鳥保等穗跡妹爾不相來爾來里《ホトヽギスホトホトイモニアハズキニケリ》、後撰集題詞に、人の許より、久しう心ちわづらひて、ほと/\死ぬべくなむ有つると云て侍ければ、拾遺集に、歎こる人いる山の斧の柄の保等保等《ホトホト》しくもなりにける哉、かげろふの日記に、我ならぬ人は、ほと/\泣ぬべく思ひたり、源氏物語に、翁もほと/\舞出ぬべきなどあり、○歌(ノ)意は、吾(ノ)齡の若く盛なる時に、また二(タ)(202)たび變るべしやは、又も若きにかへるまじければ、太宰(ノ)府に老果て、平城(ノ)京を得見ずに成なむに殆《チカ》からむかとおもふが、口をしき事となり、
 
332 吾命毛《ワガイノチモ》。常有奴可《ツネニアラヌカ》。昔見之《ムカシミシ》。象小河乎《キサノヲガハヲ》。行見爲《ユキテミムタメ》。
 
常有奴可《ツネニアラヌカ》は、常にかはらずもがな、あれかしといふ意なり、集中に、あれかしと願ふ意を、有奴可《アラヌカ》、ふれかしとねがふ意を、零奴可《フラヌカ》、鳴(ケ)かしとねがふ意を、鳴奴可《ナカヌカ》、など云ること甚多し、四(ノ)卷に、久堅乃雨毛落糠《ヒサカタノアメモフラヌカ》十八に、保等登藝須伊麻毛奈加奴香《ホトトギスイマモナカヌカ》、六(ノ)卷に、多吉能床磐乃常有沼鴨《タキノトキハノツネナラヌカモ》などある類なり、なほ本居氏(ノ)詞(ノ)玉(ノ)緒に、例どもを載られたり、さて有奴可《アラヌカ》は、有(レ)かしの意なるに准へて意得るときは、其(ノ)餘も、皆おほくたがふふしはなければ、總て世の學者等、おほかたの心は、思(ヒ)誤つことはなけれども、其(ノ)詞の本(ノ)意を、わきまへ知たる人今までなし、(契冲が常にあらぬかは、常にあられぬ物か、常あれかしとねがふ意なりと云ふは、元來|有奴《アラヌ》を不v有と見たるよりの説にて、ひがことなり、又久老が可《カ》を願の哉として、後(ノ)世某もがな、といふにおなじ義と聞たるもたがへり、又本居氏(ノ)玉勝間に、此(ノ)集七(ノ)卷に、青角髪依網原人相鴨《アヲミヅラヨサミガハラニヒトモアハヌカモ》、石走淡海縣物語《イハバシルアフミアガタノモノガタリセム》、十(ノ)卷に、霞立春永日戀暮《カスミタツハルノナガキヒコヒクラシ》、夜深去妹相鴨《ヨノフケヌレバイモニアハヌカモ》、同卷に、五月山宇能花月夜霍公鳥雖聞不飽又鳴鴨《サツキヤマウノハナツクヨホトヽギスキケドモアカズマタナカヌカモ》、十一に、我勢古波幸座遍來我告來人來鴨《ワガセコハサキクイマストタビマネクワレニツゲツヽヒトモコヌカモ》、同卷に、日低人可知今日如千歳有與鴨《ヒクレナバヒトシリヌベシケフノヒノチトセノゴトクアリコセヌカモ》、同卷に、如是爲乍吾待印有鴨世人皆乃常不在國《カクシツヽアガマツシルシアラヌカモヨノヒトミナノツネナラナクニ》、又同卷に、敷細枕動而宿不所寢物念此夕急明鴨《シキタヘノマクラウゴキテイネラエズモノモフコヨヒハヤモアケヌカモ》などあ(203)る、件の歌どもは、九(ノ)卷に、雲隱鴈鳴時秋山黄葉片待時者雖過《クモカクリカリナクトキニアキヤマノモミヂカタマツトキハスギネド》と有に同じく、みな不(ノ)字を省きて書るものなり、と云るも甚誤なり、此もなほ有奴可《アラヌカ》、鳴奴可《ナカヌカ》などいふ奴《ヌ》を、不の意に見たるより、不(ノ)字を省きて書るものとおもへるなり、よく思ひ見よ、不(ノ)字は有と無と、其(ノ)意|反《カヘサマ》なれば、不(ノ)字のあるべき處を、省きて書べき理のあるべきかは、すべて那爾奴禰《ナニヌネ》の辭は、字の後に訓付る事多ければ、此等も奴《ヌ》の言にあたる字はなくても、然訓るゝ事なれば、もとより省きたるにはあるざるを知べし、九(ノ)卷に、時者雖過《トキハスギネド》とあるは、不(ノ)字の脱たるものにて、其は右の例どもとは違へり、)抑々この奴《ヌ》は、名告佐禰《ナノラサネ》などいふ、禰《ネ》の言を轉し云るにて、希望(ノ)辭なり、かゝれば奴《ヌ》といふも、禰《ネ》といふも、意は全(ラ)同じ、(禰《ネ》の言の例は、上に委(ク)云り、)されば有奴可《アラヌカ》は、有禰《アラネ》とねがふ言なるを、下の可《カ》に連く故に、第四位の言を、第三位の言に轉しいへるものぞ、(可《カ》は哉にて、歎辭なり、)猶その例をいはゞ、有許勢奴可毛《アリコセヌカモ》、繼許勢奴可聞《ツギコセヌカモ》などあるも、有許勢禰《アリコセネ》、繼許勢禰《ツギコセネ》とねがふ意なるを、可毛《カモ》へ連く故、禰《ネ》を奴《ヌ》に轉しいへるを併(セ)考へて知べし、○象小河乎《キサノヲガハヲ》、(象(ノ)字、活字本に家と作るは誤なり、)此(ノ)河を賞怜《オモシロミ》せられし歌は、上にも見えたり、○歌(ノ)意は他の望《ネガヒ》ありて、壽の長からむことをねがふにあらず、その昔(シ)見し、吉野の象の小河の佳景を、行て見むが爲に、吾(ガ)命の常にかはらずもがな、あれかしとおもふとなり、
 
333 淺茅原《アサヂハラ》。曲曲二《ツバラツバラニ》。物念者《モノモヘバ》。故郷之《フリニシサトシ》。所念可聞《オモホユルカモ》。
 
(204)淺茅原《アサヂハラ》は、曲《ツバラ》の枕詞なり、遲波良《チハラ》と、都婆良《ツバラ》と、音の似通ひたれば、茅原《チハラ》曲《ツバラ》と疊(ネ)云たるなり、都賀乃木之嗣繼《ツガノキノツギツギ》などいふ如し、○曲曲二《ツバラ/\ニ》は、十八に、可治能於登乃都婆良都婆良爾《カヂノオトノツバラツバラニ》と見ゆ、なほ曲《ツバラ》と云事は、一(ノ)卷に、委曲毛見管行武雄《ツバラカニミツヽユカムヲ》、九(ノ)卷に、委曲爾示賜者《ツバラカニシメシタマヘバ》、十九に、都婆良可爾今日者久良佐禰《ツバラカニケフハクラサネ》などあり、都麻毘艮加《ツマビラカ》と同言なり、舒明天皇(ノ)紀に、曲擧《ツマビラケクス》と見えたり、さてかく同じ言を重ねて云るは、その曲《ツバラ》なる事の甚しきを云るにて、集中に、由久良由久良爾《ユクラユクラニ》と云る類なり、かくてこゝは、その物思ふことの多くて、落る處なく、委曲《ツマビラカ》にしげきよしなり、○故郷之はフリニシサトシ〔七字右○〕と訓べし、之《シ》は助辭にて、その一(ト)すぢをおもくおもはするがためなり、(略解に、之をノ〔右○〕と訓るは、いみじくわろし、)○歌(ノ)意は、旅にありて、物思ふことの多く、落る事なく、委曲にしげき中にも、故郷の一(ト)すぢに、戀しく思はるゝ哉となり、荒木田氏云、高市(ノ)郡のつき阪は、もと大伴氏の家地にて、藤原明日香に近ければ、殊さら舊都をしぬひ給へるにや、卷(ノ)六にこの卿の歌に、須臾《シマラク》も行て見ましか神南備の、淵は淺而瀬にか成らむ、とも見えたり、
 
334 萱草《ワスレグサ》。吾紐二付《ワガヒモニツク》。香具山乃《カグヤマノ》。故去之里乎《フリニシサトヲ》。不忘之爲《ワスレヌガタメ》。
 
萱草《ワスレグサ》のことは、品物解に委(ク)云り、○吾紐二付《ワガヒモニツク》は、萱草を紐に著れば、憂思を忘失ふといふ諺のある故に、しか爲るなり、四(ノ)卷に、萱草吾下紐爾著有跡鬼乃志許草事二思安利家理《ワスレグサワガシタヒモニツケタレドシコノシコグサコトニシアリケリ》、十二に、萱草吾紐爾著時常無念度者生跡文奈思《ワスレグサワガヒモニヅクトキトナクオモヒワタレバイクルトモナシ》などあり、(からくに陸士衡(カ)詩に、焉(ソ)得2忘歸草(ヲ)1言(ニ)樹(ン)2背與(ニ)1v(205)襟とあるは、毛詩に、焉(ソ)得2※[言+爰]草(ヲ)1言(ニ)樹(ン)2之背(ニ)1、といへるを思ひて作れるなり、※[言+爰]草は即(チ)萱草なりといへり、さてこの萱草を、忘歸草といひなせりと見ゆ、かくて背は北堂を云、襟は南庭を云と云(ヒ)、或は背を背上とし、襟を胸前とする説もありとぞ、琅邪代醉編四十に見えたり、かゝれば萱草を紐に著るといへるは、もと樹v襟(ニ)を胸前とする説を、思ひてよめるが如し、)○不忘之爲《ワスレヌガタメ》は、忘れむとすれども、得わすれぬ故に、いかで忘れむと思ふが爲にとなり、○歌(ノ)意は、故郷を戀しく思ふ心を、いかで忘れなむとおもへども、得忘れぬが故に、もしや萱草を帶たらば、忘るゝ事もあらむかとて、わすれ草をとりて、吾(ガ)衣(ノ)紐に結著となり、
 
335 吾行者《ワガユキハ》。久者不有《ヒサニハアラジ》。夢乃和太《イメノワダ》。湍者不成而《セトハナラズテ》。淵有毛《フチニアリコソ》。
 
吾行者《ワガユキハ》は、吾旅行はといふなり、既く出、○夢乃和太《イメノワダ》は、七(ノ)卷に、夢乃和太事西有來寤毛見而來物乎念四念者《イメノワダコトニシアリケリウツヽニモミテコシモノヲオモヒシモヘバ》、懷風藻に、吉田連宜、從2駕吉野(ノ)宮(ニ)1詩に、夢淵と見ゆ、大和志に、夢(ノ)回淵、在2吉野(ノ)郡御料(ノ)莊新住村(ニ)1、俗呼2梅(ノ)回(ト)1、淵中奇石多(シ)と見えたり、和太《ワダ》のことは、既く一(ノ)卷に云り、(夢の浮橋といふも、この夢の和太に渡せる浮橋なり、と玉勝間に云り、)○淵有毛は、毛は乞(ノ)字の誤なるべし、と大神(ノ)景井云り、是然るべし、フチニアリコソ〔七字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、われ旅に行て、太宰(ノ)府にあらむほどは、いと久しき間にはあらじ、やがて歸りて見にゆくべければ、それを待得るまでは、淺びて湍とならで、昔(シ)見しまゝの淵にてあれよとなり、
 
(206)沙彌滿誓《サミノマムゼイガ》詠《ヨメル》v綿《ワタヲ》歌一首《ウタヒトツ》。
 
沙彌(ノ)滿誓は、續紀に、養老七年二月丁酉、勅2僧滿誓(ニ)1、(俗名、從四位上笠(ノ)朝臣麻呂、〉於2筑紫1令v造2觀世音寺1と見ゆ、滿誓いまだ俗なりし時の昇進は、同紀に、慶雲元年春正月丁亥朔癸巳、五六位下笠(ノ)朝臣麻呂(ニ)授2從五位下(ヲ)1、三年秋七月辛酉、以2從五位下笠(ノ)朝臣麻呂(ヲ)1爲2美濃(ノ)守(ト)1和銅元年三月丙午、從五位上笠(ノ)朝臣麻呂爲2美濃(ノ)守(ト)1、(未審)二年九月己卯、遣2云々(ヲ)1、賜2云々美濃(ノ)守從五位上笠(ノ)朝臣麻呂(ニ)、當國(ノ)田各一十町、穀二百斛、衣一襲(ヲ)1、美2其(ノ)政蹟(ヲ)1也。四年四月丙子朔壬午、授2正五位上(ヲ)1、七年閏二月朔、賜2美濃(ノ)守從四位下笠(ノ)朝臣麻呂(ニ)封七十戸、田六町(ヲ)1、以v通2吉蘇路(ヲ)1也、靈龜元年六月甲子、美濃(ノ)守從四位下笠(ノ)朝臣麻呂爲2兼尾張(ノ)守(ト)1、養老元年十一月丁酉朔癸丑、授2美濃(ノ)守從四位下笠(ノ)朝臣麻呂(ニ)從四位上(ヲ)1、三年七月庚子、始置2按察使(ヲ)1、令3美濃(ノ)守笠(ノ)朝臣麻呂(ニ)管2尾張參河信濃三國(ヲ)1、四年冬十月戊子、從四位上笠(ノ)朝臣麻呂爲2右(ノ)大辨(ト)1、五年五月戊午、右大辨從四位上笠朝臣麻呂、請d奉2爲太上天皇1出家人道(セント)u勅許之、○首(ノ)字、舊本前に誤、古寫一本、古寫小本、拾穗本等に從、
 
336 白縫《シラヌヒ》。筑紫乃綿者《ツクシノワタハ》。身著而《ミニツケテ》。未者伎禰杼《イマダハキネド》。暖所見《アタヽケクミユ》。
 
白縫は、枕詞なり、シラヌヒ〔四字右○〕と四言に訓べし、(此枕詞、何處に出たるにも乃(ノ)字などを添て書ざれば、舊本をはじめシラヌヒヒノ〔五字右○〕と、ノ〔右○〕の言をそへて訓は誤なり、)五(ノ)卷に、斯良農比筑紫國《シラヌヒツクシノクニ》、廿(ノ)卷に、之良奴日筑紫國《シラヌヒツクシノクニ》とあり、このつゞけの意、未(タ)詳には思得ず、此を書紀景行天皇(ノ)卷、又肥後(ノ)國(ノ)(207)風土記に、肥(ノ)國といふことの起《ハジメ》を云るところに、其主を知ぬ、怪しき火の下れる地なる故に、火(ノ)國と號しよし見えたれ、○不知火《シラヌヒ》の意とおもふはさることなれど、さらば不知火《シラヌヒ》の光《テル》とか燎《モユ》とか、何ぞさるべき辭なくては、足はぬことなり、又肥(ノ)國の號は、八代(ノ)郡肥伊(ノ)郷より起《ハジマ》れることなるに、なべて筑紫の枕詞とはすべからず、故(レ)強て考(フ)るに、白《シラ》とは、御火白く燒《タケ》などいふ白にて、その明く灼《シル》き意なり、縫《ヌヒ》は(借(リ)字)野火《ヌヒ》にて、春野を燒(ク)野火なり、さて火には著《ツク》といふ縁語あれば、〈伊勢物語に、火著むとすればとあり、)野火の著といふ意に筑《ツク》の言にいひかけたるか、又神代に、筑紫(ノ)國を白日別《シラヒワケ》といひしによれば、斯良奴比《シラヌヒ》は即(チ)筑紫の古名にて、其を白日別《シラヒワケ》とも、帛瓊日別《シラヌヒワケ》とも語(リ)傳へつらむか、さらばやがて帛瓊日筑紫《シラヌヒツクシ》といひつゞけたるならむ、猶考(フ)べし、○筑紫乃綿《ツクシノワタ》は、續紀に、神護景雲三年三月乙未、始毎年、運2太宰府(ノ)綿二十萬屯(ヲ)1、輪2京庫(ニ)1、延喜雜式に、凡太宰府、貢2綿穀(ヲ)1船者、擇2買勝載二百五十石以上三百石以下(ヲ)1、不v著2※[木+施の旁]《カヂヲ》進上、便即、令v習v用v※[木+施の旁](ヲ)、其用度(ハ)充(ヨ)2正税(ヲ)1、江次第十二月補2次侍從(ヲ)1次第に、上古以v預2節會(ニ)1爲2大望(ト)1、多依v給2禄綿(ヲ)1也、件(ノ)綿本太宰府所v進(ル)也、而近代帥犬貳申2色代1、三百兩代絹一疋、仍无d望v預2節會(ニ)1人uなど見ゆ、○未者伎禰杼《イマダハキネド》、(伎(ノ)字、拾穗本には妓と作り、)者《ハ》の辭味ふべし、未(タ)著はせねどもといふ意なり、○暖所見は、本居氏、アタヽケクミユ〔七字右○〕と訓べし、あきらか、さやか、のどか、ゆたかなどの類、古言には、あきらけし、さやけし、のどけし、ゆたけしと云て、あきらか、さやか、のどか、ゆたかなどは云ぬ格な(208)る故に、アタヽカニ〔五字右○〕とは訓まじきなりと云り、字鏡に、※[火+需]※[火+需](ハ)同、※[火+媼の旁]也、阿太々介志《アタヽケシ》と見えたり、○歌(ノ)意は、筑紫の綿を親く身に著て、末(タ)著《キ》はせねども、その積おきたるを見てさへ、はや暖かげに見ゆるを、衣になして身に著たらば、いかばかりあたゝかならむ、とおもはるゝよしなり、
 
山上臣憶良《ヤマノヘノオミオクラガ》罷《マカルトキノ》v宴《ウタゲヨリ》歌一首《ウタヒトツ》。
 
臣(ノ)字、類聚抄拾穗本等には、憶良の下にあり、
 
337 憶良等者《オクララハ》。今者將罷《イマハマカラム》。子將哭《コナクラム》。其彼母毛《ソモソノハヽモ》。吾乎將待曾《アヲマツラムソ》。
 
憶良等者《オクララハ》は、等《ラ》は輕く添たる詞なり、者《ハ》の辭味ふべし、他人はとまれ、吾者といふ意なり、○今者將罷《イマハマカラム》は、俗に、今は最早退らむといふ意なり、者《ハ》の辭力(ラ)あり、○其彼母毛は、荒木田氏、ソモソノハヽモ〔七字右○〕と訓て、その子も其(ノ)母もといふを、上に子《コ》なくらむとあれば、今は子の言を省けりと云り、(舊本の訓は誤れり、)又類聚抄には、彼(ノ)字を子と作り、此(レ)に依ば、ソノコノハヽモ〔七字右○〕と訓べし、(袋册子に、此(ノ)歌を引るにも、その子のはゝもとあり、)○吾乎將待曾《アヲマツラムソ》は、十八に、奴波多麻能夜和多流都奇乎伊久欲布等《ヌバタマノヨワタルツキヲイクヨフト》、余美都追伊毛波和禮麻都良牟曾《ヨミツツイモハワレマツラムソ》とあり、○歌(ノ)意は、宴席に久しく時をうつして居たれば、子も吾(レ)を待戀て哭らむ、その母も吾を待戀らむを、他人はとまれ、憶良はあくまで長居したれば、今は退らむぞとなり、
 
(209)大宰帥大伴卿《オホミコトモチノカミオホトモノマヘツキミノ》讃《ホメタマフ》v酒《サケヲ》歌十三首《ウタトヲマリミツ》。
 
契冲云、此(ノ)卿酒をこのまれけることは、此(ノ)十三首の歌をもて知べし、又第四(ノ)卷に、丹生(ノ)女王、すなはちこの卿の帥なりける時、おくり給ふ歌に、古人乃令食有吉備能酒病者爲便無貫簀賜牟《フリニシヒトノタバセルキビノサケヤメバスベナシヌキスタバラム》云々、かくれなき上戸と見えたり、
 
338 驗無《シルシナキ》。物乎不念者《モノヲモハズハ》。一杯乃《ヒトツキノ》。濁酒乎《ニゴレルサケヲ》。可飲有良師《ノムベクアラシ》。
 
驗無《シルシナキ》は、契冲、さま/”\のことをおもひても、かひなきをいふ、たとへば千金を得ばやと、あけくれおもへども、つひに一錢の用なきがことしと云り、書紀に、益(ノ)字をシルシ〔三字右○〕と訓り、よくあたれり、○物乎不念者《モノヲモハズハ》は、物を思はむよりはの意なり、既く云り、○一坏乃は、(坏(ノ)字、酒器の義は字書に見えず、杯の木偏を土に代たるものなり、鉾を桙と作る類なり、)ヒトツキノ〔五字右○〕と訓べし、(荒木田氏は、坏をスキ〔二字右○〕とよめり、其(ノ)説に、四時祭式に、等呂須伎《トロスキ》と見えたれば、古くはスキ〔二字右○〕といひしと見えたりと云り、今按(フ)に、大甞祭式に、多加須伎《タカスキ》、比良須伎《ヒラスキ》など云も見え、且|都《ツ》と須《ス》とは、古言に通(シ)云ふ例にて、集中に、打日刺《ウチヒサス》てふ枕詞を、打久津《ウチヒサツ》ともかき、又次をスキ〔二字右○〕とも、ツキ〔二字右○〕とも云る例あれば、しかよまむこともとより難なきに似たれども、集中に酒杯を、五(ノ)卷に、佐加豆伎《サカヅキ》と書て、ツキ〔二字右○〕といふことのいと古ければ、猶もとのまゝにツキ〔二字右○〕とよまむぞよろしき、)○濁酒乎《ニゴレルサケヲ》、四時祭式に、清《スメル》酒五升、濁《ニゴレル》酒六斗五升と見ゆ、○可飲有良師は、ノムベクアラシ〔七字右○〕と訓べし、(210)有良師《アラシ》は、あるらしと云が如し、○歌(ノ)意は、わづかの酒にてさへ、憂を忘るれば、益《シルシ》無き物思ひをせむよりは、たゞ一杯の濁(レル)酒を飲て、憂忘るべく有らしとなり、數杯《アマタツキ》清酒を飲ば、甚醉ていよいよたのしかるべきなれど、たゞ一杯の濁酒にてさへ、物思(ヒ)はるゝけ失ふ物ぞと、酒の效あることを、いたく讃たるなり、
 
339 酒名乎《サケノナヲ》。聖跡負師《ヒジリトオホセシ》。古昔《イニシヘノ》。大聖之《オホキヒジリノ》。言乃宜左《コトノヨロシサ》。
 
聖跡負師《ヒジリトオホセシ》は、魏書に、太祖禁v酒(ヲ)、而人竊(ニ)飲(ム)、故難v言v酒(ト)、以2白酒(ヲ)1爲2賢者(ト)1、以2清酒(ヲ)1爲2聖人(ト)1、とあるによれり、廿(ノ)卷に、由伎登利於保世《ユキトリオホセ》とあれば、負は於保世《オホセ》の假字なり、○大聖之《オホキヒジリノ》、こは誰にてもあれ、はじのて酒を聖と名づけし人を稱《ホメ》て云り、○言乃宜左《コトノヨロシサ》は、言のふさはしく、相|應《カナヒ》て宜(シ)さといふなり、左《サ》は廣左《ヒロサ》、深左《フカサ》などいふ左《サ》なり、○歌(ノ)意は、酒をいたくめで貴みて、清酒に聖人といふ名を負せたるは、これつね人にあらず、大聖なり、その聖といふ名を負せし、いにしへの大聖の言の、相應て宜しさ、たとへむかたなしとなり、
 
340 古之《イニシヘノ》。七賢《ナヽノサカシキ》。人等毛《ヒトタチモ》。欲爲物者《ホリセシモノハ》。酒西有良師《サケニシアラシ》。
 
七賢は、※[禾+(尤/山)]康、阮籍、山濤、劉伶、阮咸、向秀、王戎なこどいひし徒《トモガラ》なり、爲2竹林之游(ヲ)1、世(ニ)所謂竹林(ノ)七賢也、と晋書列傳に見ゆ、さて七賢は、ナヽノサカシキ〔七字右○〕と訓べきなり、(或人ナヽノ〔三字右○〕と訓ことを難《トガメ》て云く、ナヽツノ〔四字右○〕云々といはではあたらず、たとへば一箇《ヒトツ》の山|二箇《フタツ》の岡など云如く、之《ノ》の言の(211)間にあるときは、必(ス)都《ツ》の助辭をおく例なりと云り、これ偏説なり、十六に、一二之目耳不有云々、これもヒトフタノ〔五字右○〕と訓てヒトツフタツノ〔七字右○〕とは訓べからず、同卷に、九兒等哉《コヽノヽコラヤ》とも見え、祝詞に、百官人《モヽノツカサヒト》などある、これ都《ツ》をいはざる例なり、後の歌に、近江の七社を、七《ナヽ》の社といひて、七《ナヽ》つの社とはいはず、これも後ながら、都《ツ》をいはざる一(ツ)の證なり、又|八十之健男《ヤソノタケヲ》、八十之乎等女《ヤソノヲトメ》、八十之心《ヤソノコヽロ》などいふときも、八十《ヤソ》ちのとはいはぬ例なり、これら之《ノ》の言を間におきて、都《ツ》の助辭なき例なるをおもふべし、)サカシキ〔四字右○〕てふ言の例は、古事記八千矛(ノ)神の御歌に、佐加志賣遠阿理登岐加志?《サカシメヲアリトキカシテ》、書紀仁徳天皇(ノ)卷に、賢遺此云2左柯之能苣里《サカシノコリト》1、神武天皇(ノ)卷に、明達《サカシ》、崇神天皇(ノ)卷に、叡智《サカシ》、欽明天皇(ノ)卷に、君子《サカシキヒト》、皇極天皇(ノ)卷に、哲主《サカシキヽミ》、肥前風土記に、此(ノ)婦如此實賢女《ヲミナカクマコトニサカシメナリキ》、故(レ)以《ヲ》2賢女《サカシメ》1、欲《オモヒテ》v爲《セマク》2國(ノ)名(ト)1、因曰(キ)2賢女《サカシメノ》郡(ト)1、今謂(ハ)2佐喜《サキノ》郡(ト)1訛也、書紀竟宴(ノ)歌に、以未乃散加之支見世爾安布加那《イマノサカシキミヨニアフカナ》、字鏡に、點慧了也、又慧也、佐加志《サカシ》、土佐日記に、こと人々のも有けれど、佐可之伎《サカシキ》もなかるべし、古今集序に、佐可之於呂可《サカシオロカ》なりとしろしめしけむ、榮花物語に御心のひがませ給へれば、物のあはれ有さまを知せ給はぬと、佐可之宇《サカシウ》ぞ聞えさせける、(又集中にも、他の古書にも、さかきを賢木と多く書り、)サカシキ〔四字右○〕は、(古今集(ノ)序に、於呂可《オロカ》と對へ云るごとく、)愚痴なる反にて、智深く賢きをいふ言なり、(常にはさかしらだちて、惡き方にも多く云めれど、そは一轉したるにて、これらは然にあらず、しかるを今までの人、この賢をカシコキ〔四字右○〕とよみたれどもカシコキ〔四字右○〕(212)てふ言は、恐懼の字(ノ)意にて、かしこき人などいふは、至尊《イトタフト》くして、恐懼《カシコ》き人をのみ云言なりしを、やゝ後に轉じて、智深く賢《サカシ》き者をば、人の恐懼《カシコ》むより、かしこきと云ことにはなりためれど、いと古(ク)は、賢きをカシコキ〔四字右○〕と云ること、一(ツ)もなくして、この差別いと分明《ワキ/\》しかりしを、今まで古學の徒も、さかしきと、かしこきとを、もとより一辭のごと相混へて、この明辨せし人こそ、一人も無りけれ、伊勢物語に、昔(シ)年頃おとづれざりける女、心かしこくやあらざりけむとあれば、彼(ノ)頃よりや、賢をかしこくといひ初けむ、)○人等毛は、ヒトタチモ〔五字右○〕と訓べし、(これをヒトヽモモ〔五字右○〕とよめるはわろし、其(ノ)故は、凡て某多知といふは、尊む言にて、神多知《カミタチ》皇子多知《ミコタチ》などいふ例なればなり、此歌も、此(ノ)卿の、かの七賢といひし徒等《モノドモ》を、崇め賞たまへる趣なればぞかし、)○欲爲物者は、ホリセシモノハ〔七字右○〕と訓べし、(略解にホリスルモノハ〔七字右○〕とよみたるは、過去のことをいふ言にならざれば、ひがことなり)○酒西有良師は、サケニシアラシ〔七字右○〕と訓べし、酒には、酒にてといふが如し、西《ニシ》の之《シ》は、その一(ト)すぢをつよくおもはする助辭なり、有之《アラシ》は上の如し、○歌(ノ)意は、いにしへ竹林の七賢ときこえし名たゝるすぐれ人たちも、賞て、一(ト)すぢに欲せし物は、酒にて有らしとなり、
 
341 賢跡《サカシミト》。物言從者《モノイハムヨハ》。酒飲而《サケノミテ》。醉哭爲師《ヱヒナキスルシ》。益有良之《マサリタルラシ》。
 
賢跡は、サカシミト〔五字右○〕と訓べし、(カシコシト〔五字右○〕と訓るは、いみじきひがことなり、上に辨(ヘ)云り、)さか(213)しうといはむがごとし、跡《ト》は例の語の勢をそへたる助辭の跡《ト》にて、あるもなきも、歌の意は同じ事なり、賢人ぶりて、物知がほに、こちたくいひほこるは、昔(シ)より人の惡み厭ふものなり、戸令義解に、惡疾癲狂、(謂云々、狂(トハ)者或(ハ)妄(ニ)觸(テ)欲v走(ムト)、或(ハ)白高賢(ナリトイヒテ)稱(ル)2聖神(ト)者1也、)二(ノ)支癈(レ)、兩目盲(ス)、如v此之類、皆爲2篤疾(ト)1、○物言從者は、モノイハムヨハ〔七字右○〕と訓べし(モノイフヨリハ〔七字右○〕と訓るはわろし、)○醉哭爲師《ヱヒナキスルシ》は、醉哭は、續後紀十三に、出雲(ノ)權(ノ)守正四位下文室(ノ)朝臣秋津卒、云々、但在2飲洒(ノ)席(ニ)1、似v非(ニ)2丈夫(ニ)1、毎v至2洒三四杯(ニ)1、必有2醉泣之癖1故也、榮花物語に、おとゞ醉泣し給ふ、大和物語に、人々もよく醉たるほどにて、醉なきいとになくす、源氏物語繪合に、打みだれ聞え給ひて、ゑひ哭にや、院の御こと聞え出て、打しをれ給ひぬ、松風に、かの、あはぢ島をおぼし出て、躬恒が、所がらかもとおほめきけむことなど、のたまひ出たるに、物哀なる醉哭ともあるべし、篝火に、ゑひ哭のついでに、しのばぬ事もこそとのたまへば、行幸に、をさをさ心よわくおはしまさぬ、六條殿も醉哭にや、打しをれたまふ、藤裏葉に、醉哭にや、をかしき程にけしきばみ給ふ、若菜に、御みきあまたたび參りて、物の面白さもとゞこほりなく、御醉男どもえとゞめ給はず、紫式部日記に、かゝりけることも侍りける物をと、ゑひ哭し賜ふ云々などあり、師《シ》は、例のその一(ト)すぢなるを、重く思はせたる助辭なり、○歌(ノ)意は、賢人ぶりて、物しりがほに、こちたく物いはむよりは、酒飲て、沈醉《イタクヱヒ》て、醉泣する方が、ひとすぢに益りて有らし、となり、
 
342 將言爲便《イハムスベ》。將爲便不知《セムスベシラニ》。極《キハマリテ》。貴物者《タフトキモノハ》。酒西有良之《サケニシアラシ》。
 
將爲便不知《セムスベシラニ》。將爲は、セム〔二字右○〕と云にあたれば、便(ノ)字は、スベ〔二字右○〕と云に當れり、便の一字スベ〔二字右○〕と訓例、既く二(ノ)卷(ノ)下に委(ク)云り、不知をシラニ〔三字右○〕と訓は、不v知(ラ)にといふ意の古言なり、既く出(ツ)、二(ノ)卷に、將言爲使世武爲便不知爾《イハムスベセムスベシラニ》と見えたり、○極は、キハマリテ〔五字右○〕と訓るよろし、(余(レ)さきにおもひしは、十一に、極太甚《ネモコロ/”\》、又に、極大戀《ネモコロコヒシ》などあるに依て、こゝも極はネモコロニ〔五字右○〕と訓べきにや、とおもひしかど、そはわろかりけり、)○歌(ノ)意は、いはむにもいふべきかたなく、せむにもすべき方しらず、至り極りて、ひとすぢにいとも貴くめでたきものは、酒にて有らしとなり、
 
343 中々二《ナカ/\ニ》。人跡不有者《ヒトトアラズハ》。酒壺二《サカツボニ》。成而師鴨《ナリテシカモ》。酒二染常《サケニシミナム》。
 
中々二《ナカ/\ニ》(二(ノ)字、類聚抄拾穗本等には爾と作り、)は、なまなかにとの意なり、○人跡不有者《ヒトトアラズハ》は、人とあらむよりはの意なり、○成而師鴨は、ナリテシカモ〔六字右○〕と六言に訓べし、可《カ》は希望(ノ)辭、母《モ》は歎息(ノ)辭なり、八(ノ)卷に、宿毛寐而師可聞《イモネテシカモ》、十五に、可里乎都可比爾衣?之可母《カリヲツカヒニエテシカモ》、廿(ノ)卷に、伊波非弖之加母《イハヒテシカモ》などあり、なほ?之可《テシカ》と云る例も多し、同(シ)希望(ノ)辭ながら、毛《モ》よりつゞきて、毛我《モガ》、毛我母《モガモ》などいふ我《ガ》は、皆濁音(ノ)字を用ひたるに、?之可《テシカ》、?之可母《テシカモ》などいふ可《カ》は、皆清音(ノ)字のみ用ひたるによりて、すべて、清て唱(フ)べし、さてこゝは、酒壺に成まほしく希望へる意なり、○歌意は、なまなかに人とあらむよりは、酒壺に成まほしくねがふなり、さらばいつも、酒にしみて有なむと思(325)ふぞとなり、
 
344 痛醜《アナミニク》。賢良乎爲跡《サカシラヲスト》。酒不飲《サケノマヌ》。人乎※[就/火]見者《ヒトヲヨクミバ》。猿二鴨似《サルニカモニム》。
 
痛醜《アナミニク》は、神武天皇(ノ)紀に、大醜、此云2鞅奈瀰爾句《アナミニクト》1とあり、痛をアナ〔二字右○〕と訓は、四(ノ)卷に、痛多豆多頭思《アナタヅタヅシ》六(ノ)卷に、痛※[立心偏+可]怜《アナアハレ》、十(ノ)卷に、痛情無《アナコヽロナシ》、また四(ノ)卷に、痛背乃河《アナセノカハ》、七(ノ)卷に、痛足河《アナシカハ》、十二に、痛足乃山《アナシノヤマ》なども見えたり、凡て物の痛ましき事には、阿那《アナ》となげかるゝ故に、痛(ノ)字をアナ〔二字右○〕とは訓るなり、さて阿那《アナ》てふ詞と、阿夜《アヤ》てふ詞とを近(キ)世の古學(ノ)徒は混雜《ヒトツ》に解る故、今つばらかに論はむとす、抑々|阿那《アナ》は、古語拾遺石屋戸(ノ)段に、阿波禮阿那於茂志呂《アハレアナオモシロ》、阿那多能志《アナタノシ》、阿那佐夜憩《アナサヤケ》とありて、註に、事之甚|切《セマレルヲ》、皆稱2阿那《アナト》1と見えたる其(ノ)意なり、いはゞ、阿那可畏《アナカシコ》などいふ時は、其(ノ)可畏に觸て、直に歎息く聲にて、今(ノ)俗に、阿々能《アヽノ》、また於々能《オヽノ》、或は夜禮夜禮《ヤレヤレ》などいふ聲と同じ、されば此(ノ)詞は、皆阿那《アナ》云々とのみ云て、阿那爾可畏《アナニカシコ》、阿那爾悲《アナニカナシ》など云類は凡てなし、八(ノ)卷に、櫻花能丹穗日波母安奈爾《サクラノハナノニホヒハモアナニ》、(この爾《ニ》は、語辭の爾《ニ》にあらず、歎聲に付る言なり、)又|穴氣衝之《アナイキヅカシ》、十四に、安奈伊伎豆加思《アナイキヅカシ》、又|安奈多頭多頭志《アナタヅタヅシ》、十六に、阿奈千稻干稻志《アナヒネヒネシ》などの類、猶甚多し、又古今集戀に、阿那《アナ》戀し、俳諧に、阿那《アナ》言(ヒ)知ず、六帖に、爰や、何處阿那《イヅコアナ》おぼつかな、又|阿那《アナ》めづらしといはましものを、伊勢物語に、鬼はや一(ト)口に喫てけり、阿那夜《アナヤ》といひけれど、(この一(ツ)にても、阿那《フナ》は歎の聲なるを、思ひ明らむべし、)後撰集雜に、女の阿那《アナ》寒の風やと申しければ云々など、猶後々にも甚多き詞なり、阿(216)夜《アヤ》てふ詞は、阿那《アナ》といさゝか似たることながら、猶別言にして、歎聲にあらず、阿夜《アヤ》は、奇《アヤ》しきまでにと云に同じ意の詞なり、阿夜爾可畏《アヤニカシコキ》は、あやしきまでに可畏きの意、阿夜《アヤ》に戀しきは、奇しきまでに戀しきの意なり、かれ阿夜可畏《アヤカシコ》き、阿夜《アヤ》戀しきなど云る類ひ、一(ツ)もなくして、皆|阿夜爾《アヤニ》云々と、爾《ニ》の言をそへてのみ云り、これ歎の聲にあらざるが故なり、(且々《カツ/”\》集中の例を云ば、二(ノ)卷に、綾哀《アヤニカナシミ》、又|文爾乏寸《アヤニトモシキ》、又|綾爾憐《アヤニカナシミ》、又|綾爾畏伎《アヤニカシコキ》、又|文爾恐美《アヤニカシコミ》、此(ノ)下に綾爾恐之《アヤニカシコシ》、五(ノ)卷に、阿夜爾可斯故斯《アヤニカシコシ》、六(ノ)卷に、綾爾乏敷《アヤニトモシキ》、又|文丹乏《アヤニトモシキ》、又|綾爾恐《アヤニカシコシ》、十三に、文爾恐《アヤニカシコミ》、又|文恐《アヤニカシコミ》、十四に、阿夜爾伎保思母《アヤニキホシモ》、又|安夜爾可奈思佐《アヤニカナシサ》、又|安夜爾可奈之伎《アヤニカナシキ》、又|安夜爾可奈之毛《アヤニカナシモ》、又|安夜爾可奈思母《アヤニカナシモ》、十七に、安夜爾登母志美《アヤニトモシミ》、十八に、安夜爾多敷刀美《アヤニタフトミ》、又|安夜爾可之古之《アヤニカシコシ》、又|安夜爾久須之彌《アヤニクスシミ》、廿(ノ)卷に、安夜爾可之古思《アヤニカシコシ》、又|阿夜爾加奈之美《アヤニカナシミ》、又|阿也爾加母禰毛《アヤニカモネモ》、又|阿夜爾可奈之毛《アヤニカナシモ》など猶多し、これらを考(ヘ)合せて、阿那《アナ》と阿夜《アヤ》と差別あることは、論を待ずして思ひ定むべし、しかるを、近世の古學徒の文章を見るに、阿夜爾可畏《アヤニカシコキ》、阿夜爾《アヤニ》戀しきなどいふべきを、阿那爾可畏《アナニカシコキ》、阿那爾《アナニ》戀しきなど云るがあるは、いかにぞや、凡て耳遠く異樣なる詞を用ひて、強て人の耳を驚かさむとかまふるは、ちかき世に、ふることまねびするともがらの常ながら、これらはあまりしき、古語をなまがみにしたるいひざまならずや、よく古語を明らめたらむには、この混亂はあるまじきことぞかし、さて古事記傳|阿夜※[言+可]志古泥《アヤカシコネノ》神の條下に云(ク)、阿夜《アヤ》は驚て歎(ク)聲なり、皇極紀に、(217)咄嗟を夜阿《ヤア》とも阿夜《アヤ》ともよめり、凡そ阿夜《アヤ》、阿波禮《アハレ》、波夜《ハヤ》、阿々《アヽ》などみな本は同じく歎(ノ)聲にて、少しづゝの異あり、抑々歎くとは、中昔よりしては、たゞ悲み愁ふることにのみ云へども、然にあらず、那宜伎《ナゲキ》は長息《ナガイキ》の約まりたる言にて、凡て何事にまれ、心に深く思はるゝことあれば、長き息をつく、是即(チ)那宜伎《ナゲキ》なり、されば喜き事にも何にも、歎はすることなり、さてその歎きは、阿夜《アヤ》とも阿波夜《アハヤ》とも波夜《ハヤ》とも、聲の出るなれば、歎(ク)聲とは云なり、又|阿夜《アヤ》と言て歎くべきことを、阿夜爾《アヤニ》云々とも云り、阿夜爾《アヤニ》かしこし、阿夜爾《アヤニ》戀し、阿夜爾《アヤニ》悲しなどの類なり、又|奇《アヤ》し危《アヤフ》しなども、歎て阿夜《アヤ》と云るより出たる言なり、又|阿那《アナ》も阿夜《アヤ》と通へり、阿那《アナ》たふと、阿那《アナ》こひしなどの阿那《アナ》なり、書紀應神(ノ)卷に、呉織《クレハトリ》穴織《アナハトリ》とあるを、雄略の卷には、漢織《アヤハトリ》呉織《クレハトリ》とあり、是(レ)阿夜《アヤ》阿那《アナ》同じき證なり、阿那可畏《アナカシコ》は、阿夜可畏《アヤカシコ》と全同じ、さて阿夜爾可畏《アヤニカシコ》しと云ときは、猶ゆるやかなるを阿夜可畏《アヤカシコ》と云は、其(ノ)可畏きに觸て、直に歎く言なれば、いよ/\切なりとあり、こはいと論あることにて、今ついでに、其(ノ)一つ二つを辨へおくべし、まづ皇極天皇(ノ)紀に、咄嗟とあるを、ヤア〔二字右○〕とよめるは歎(ノ)聲にて、俗言に、やあ待(テ)、やれ待(テ)など云類と同じ詞にて、古今集に、夜與夜《ヤヨヤ》待(テ)山霍公鳥言傳む、後拾遺集に、思ひ出る事も有ずと見えつれど、夜《ヤ》と云にこそ驚かれぬれ、などあるも皆同じ詞なるべし、アヤ〔二字右○〕と訓るはいかゞ、これはヤア〔二字右○〕とあるかたは正しくて、アヤ〔二字右○〕とあるは、古言のさまを會得《コヽロエ》知ぬ人の訓とおもはるゝなり、さるは書紀の訓は、いと(218)後人の手のまじれるから、たのみがたきこと多ければ、打まかせて證とすべきことにはあらず、又|阿夜《アヤ》といひて歎くべきことを、阿夜爾《アヤニ》云々とも云り云々、とあるは、いと心得がたきよしは、上に委く云るを見て知べし、凡|阿夜《アヤ》と云て歎きたる證例は、なきことなり、又|阿那《アナ》も阿夜《アヤ》と通へり、書紀に、穴織《アナハトリ》を漢織《アヤハトリ》ともありといへれど、そはたま/\然通(ハ)し云ることにも有つらめど、是は歎聲ならねば、打まかせて、是一(ツ)をたのみて阿夜爾《アヤニ》可畏しの阿夜《アヤ》と、阿那《アナ》戀しの阿那《アナ》と、一(ツ)辭とは定めがたし、さてかの阿夜河志古泥(ノ)神の御名は、阿夜爾※[言+可]志古泥《アヤニカシコネ》神と申すべきを爾《ニ》の言のなきはいかにぞといふに、凡て上(ツ)代の神(ノ)御名に、詞のしらべのあしきは無ことにて、この神の御名も、まづは阿夜爾《アヤニ》云々といふ意の御名なるを、さてはしらべのよからぬ故、爾《ニ》の辭を省きたるにこそあれ、たゞもとより阿夜《アヤ》云々、といふ意にはあらず、さるを猶|阿那可畏《アナカシコ》は阿夜可畏《アヤカシコ》と全同じ、阿夜爾《アヤニ》云々といふときは、猶ゆるやかなるを、阿夜《アヤ》云云と云は、其(ノ)可畏きに觸て、直に歎く言なれば、いよ/\切なりといはれしもいかにぞや、抑々|阿夜《アヤ》はもと文《アヤ》にて、阿夜爾可畏《アヤニカシコ》きといふは、とさまかくさま入ちがひて、とりきはめがたく、奇しきまでに可畏き意なること、上に云る如し綾《アヤ》といふも、文《アヤ》ある意、奇《アヤ》しといふも、とさまかくさまに入ちがひて、文あるよしにて、取|決《キハ》めがたき意の言なり、○賢良乎爲跡《サカシラヲスト》(賢(ノ)字、拾穗本には賢と作り、)は、突冲、賢良《サカシラ》は、俗に、こざかし、かしこだてなどいふほどのことなり、此(ノ)集第(219)十六に、情出《サカシラ》、情進《サカシラ》ともかきたれば、すゝどきもの、指出たるものなどもいふたぐひなりと云ち、古今集に、さかしらに夏は人まね篠の葉の、さやく霜夜を吾(カ)獨宿(ル)、伊勢物語に、昔(シ)若きをのこ、けしうはあらぬ女を思ひけり、さかしらするおやありて、おもひもそつくとて、此(ノ)女をほかへおひやらむとす、なども見ゆ、爲跡《スト》は、するとての意なり、○人乎※[就/火]見者(※[就/火](ノ)字は、熟に通(ハシ)書ること既く云り、拾穗本に熟と作り、)は、ヒトヲヨクミバ〔七字右○〕と訓べし、人を曲《ヨ》く見たらばの意なり、○猿二鴨似は、サルニカモニム〔七字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、かしこだてをするとて、醉しれたる人は、見ぐるしき事多しなど云て、飲まくほしき酒をも、敢て飲ずして居る人を、委曲《ツブサ》に熟《ク》見たらば、そのこざかしきことは、猿に似てかあらむ、あゝ見にくきことかなと云るなり、かしこだてする人を、いたくにくみそしれるなり、
 
345 價無《アタヒナキ》。寶跡言十方《タカラトイフトモ》。一坏乃《ヒトツキノ》。濁酒爾《ニゴレルサケニ》。豈益目八《アニマサラメヤ》。タ三テカヒ
 
價無寶《アタヒナキタカラ》は、法華經大般若經に、無價寶珠とあるに從(レ)り、と契冲云り、價《アタヒ》は當易《アテカヒ》の義、てか反たなりと谷川(ノ)士清云りき、さも有べし、○豈益目八《アニマサラメヤ》は、(類聚抄には、豈〓目八方と作て、アニシカメヤモ〔七字右○〕とよめり、さらば〓は若の寫誤にや、)豈《アニ》はもと何《ナニ》と通へる言、目《メ》は牟《ム》のかよへる言、八《ヤ》は也波《ヤハ》の八《ヤ》にて、何とて益らむやは、益らじといふ意なり、○歌(ノ)意はたとひ無價寶珠とても、ただ一杯の濁(レル)酒に劣れり、まして清酒をあくまで飲たらむには、くらべてもいふべからざる(220)をや、とのよしなり、
 
346 夜光《ヨルヒカル》。玉跡言十方《タマトイフトモ》。酒飲而《サケノミテ》。情乎遣爾《コヽロヲヤルニ》。豈若目八目《アニシカメヤモ》。
 
夜光玉《ヨルヒカルタマ》は、古史に隋公祝元陽、因之齊、道上、見一蛇將死、遂以水洒摩、傅之神藥而去、忽一夜中庭皎然、有意《有意之間恐有脱字》謂有賊、遂案劔視之、廼見d一蛇銜v珠在v地而往u、故知前蛇之感報也、以2光能照1v夜、故曰2
 
夜光1、とあるに從(レ)り、○情乎遣爾《コヽロヲヤルニ》は、思(ヒ)を遣(ル)にといふに同じ、十一に、戀事意遣不得《コフルコトコヽロヤリカネ》、又|意遣見乍爲《コヽロヤリミツヽシヲラム》、(爲は居(ノ)字の誤)十二に、忘哉語意遣《ワスルヤトモノガタリシテコヽロヤリ》、(是等舊訓は、皆誤れり、)十七に、於毛布度知許己呂也良武等《オモフドチココロヤラムト》、十九に、見明良米情也良牟等《ミアキラメコヽロヤラムト》などあり、十(ノ)卷に、春野爾意將述跡《ハルノヌニコヽロノベムト》とあるも、意將遣跡《コヽロヤラムト》とありしなるべし、とも云り〔頭註、【事文類聚續集廿五、隋侯行見2大蛇傷1、救而治v之、其後蛇銜v球以報v之、徑盈v寸、純白而夜光、可3以燭2百里1、故歴世稱焉、捜神記】〕○豈若目八目《アニシカメヤモ》は、(舊本に、一云八方と註せり、類聚抄、古寫本、古寫一本、拾穗本等にも、八方と書り、)嗚呼《アヽ》何とて及《シカ》むやは、及《シカ》じといふ意なり、八《ヤ》は也波《ヤハ》の也《ヤ》、目《ヤモ》は歎思(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、たとひ夜光玉を得たりとも、あはれ酒飲て、思(ヒ)を遣失ふには及《オヨ》ばじ、されば酒ほどの寶は、世に又もあらじとなり、
 
347 世間之《ヨノナカノ》。遊道爾《アソビノミチニ》。洽者《アマネキハ》。醉哭爲爾《ヱヒナキスルニ》。可有良師《アリヌベカラシ》。
 
遊道爾《アソビノミチニ》とは、たとへば、月見花見|管絃《コトフエ》など、種々《クサ/”\》の類にて、遊興の條々《スヂ/\》にといふ意なり、道とはすぢのことなり、○洽者はアマネキハ〔五字右○〕と訓べきにや、(洽(ノ)字舊本に冷と作るは誤なり、今は拾(221)穗本に從つ、又異本には怜と作り、それに依ばタヌシキハ〔五字右○〕とよむべし、それもおもしろし、又類聚抄に※[草がんむり/今]者と作て、マシラルヽ〔五字右○〕とよめるはいかゞ、)八(ノ)卷に、木末歴色附爾家里《コヌレアマネクイロヅキニケリ》とありて、阿麻禰久《アマネク》は、遺《ノコ》る事なきことをいふ古言なり、こゝの洽《アマネキ》は、たとへばから籍書大禹謨に、好生之徳、洽(シ)1于民(ノ)心(ニ)1、(正義に、洽(ハ)、謂沾漬優渥、洽2于民心(ニ)1、言(ハ)潤澤多也とあり、)とある洽の意にて、遺るくまなく、心だらひなるをいふなり、そは世間に、種々遊のすぢは多かる中にも、洽く心だらひなるはといふ意なり、○酵哭爲爾《ヱヒナキスルニ》(哭(ノ)字、類聚抄拾穗本等には、泣と作り、)は、上に云るが如し、○歌(ノ)意は、世(ノ)間に種々遊のすぢは多くありて、いづれもおもしろくはあれど、その遊びは、或はかたへはたのしくて、かたへは不足《アカヌ》ことありて、あまねからざるものなるに、酒に醉たるのみは、何事も遺るくまなく、心だらひにあまねくたのしければ、たゞ酒をのみて、醉泣するに有べくあるらしとなり、
 
348 今代爾之《コノヨニシ》。樂有者《タヌシクアラバ》。來生者《コムヨニハ》。蟲爾鳥爾毛《ムシニトリニモ》。吾羽成奈武《アレハナリナム》。
 
今代爾之(代(ノ)字、類聚抄拾穗本等には、世と作り)は、
コムヨニハコノヨニシ〔五字右○〕と訓たる宜し、之《シ》は例のその一(ト)すぢなるを、思はせたる助辭なり、○來生者《コムヨニハ》(生(ノ)字、拾穗抄に、異本に代とあるよし見ゆ、)は、死《シニ》ゆかむ未來《ノチ》の世にはといふなり、爾波《ニハ》は他方にむかへていふ詞なり、こゝは現世《コノヨ》にむかへて云るなり、四卷に、現世爾波人事繁來世爾毛《コノヨニハヒトゴトシゲシコムヨニモ》、將相吾背子今不有十方《アハムワガセコイマナラズトモ》とも見ゆ、○蟲爾鳥爾毛《ムシニトリニモ》(222)は、蟲にも鳥にもといふべきを、一(ツ)の毛《モ》の言に帶《モタ》せて云るなり、六(ノ)卷に、門爾屋戸爾毛珠敷益乎《カドニヤドニモタマシカマシ》、とあるも同例なり、○歌(ノ)意は、現世《コノヨ》に在ほど、心だらひに酒をのみて、一(ト)すぢにたのしくあれば、未來《ノチ》の世には、たとひいはゆる畜生道に墮て、蟲に生れかはるとも、鳥にうまれかはるとも、吾はいとはじとなり、
 
349 生者《ウマルレバ》。遂毛死《ツヒニモシヌル》。物爾有者《モノニアレバ》。今生在間者《コノヨナルマハ》。樂乎有名《タヌシクヲアラナ》。
 
生者、ウマルレバ〔五字右○〕とよみたるよろし、(或人、死に對へては、いけるといふ例なりとて、こゝをイケルヒト〔五字右○〕と訓しは、いと偏僻なり、こゝは必(ス)然訓ては、おもしろからず、)此(ノ)下悲2歎尼理願死去(ヲ)1歌にも、生者死云事爾不免物爾之有者《ウマルレバシヌテフコトニノガロエヌモノニシアレバ》とあり、○遂毛死《ツヒニモシヌル》云々は、遂に死る事もある物に有ば、といふ意なり、毛《モ》は下にめぐらして心得べし、者《バ》と云るに對へたるなり、○今生在間者《コノヨナルマハ》は、現世《コノヨ》に在間《アルホド》はの意なり、○樂乎有名《タヌシクヲアラナ》、(乎字、異本に毛と作るはわろし、)乎《ヲ》は事を重《オモ》くいふ助辭なり、有名《アラナ》は有むといふに似て、ひたすらにしからむと、急ぎすゝめる意の詞なり、既く委(ク)云り、○歌(ノ)意は、現世《コノヨ》に生(ル)れば、後遂には、ことわりの如く、死《シヌ》る事もある物にてあるなれば、ながらへてあるほどは、酒を心だらひに飲て、樂くあらむと、ひたすらにおもへるよしなり、
 
350 黙然居而《モダヲリテ》。賢良爲者《サカシラスルハ》。飲酒而《サケノミテ》。醉泣爲爾《ヱヒナキスルニ》。尚不如來《ナホシカズケリ》。
 
黙然居而は、本居氏云、十七に、母太毛安良牟《モダモアラム》とあれば、モダヲリテ〔五字右○〕と訓べし、母太《モダ》は、牟太《ムダ》と通(223)ひて、徒然《イタヅラ》なる意なり、徒の意、又空の意を、俗言に牟太《ムダ》と云り、(今案(フ)に、俗言の牟太《ムダ》は、空《ムナ》と正(シク)通へり、是に從ておもへば、空《ムナ》と母太《モダ》とは、固(リ)同言なり、)○尚不如來《ナホシカズケリ》は、猶不v及ありけり、といふ意の古言なり、(かくつゞけいへる事、今(ノ)京より此方には、絶てなき詞なり、)受家利《ズケリ》、受家牟《ズケム》など云る例は、六(ノ)卷に、尚不及家里《ナホシカズケリ》、七(ノ)卷に、尚不及家里《ナホシカズケリ》、八(ノ)卷に、尚不及家利《ナホシカズケリ》、十二に、猶不如家利《ナホシカズケリ》、十三に、都不止來《カツテヤマズケリ》、十七に、孤悲夜麻受家里《コヒヤマズケリ》、十八に、見禮度安可須介利《ミレドアカズケリ》、十七に、母等米安波受家牟《モトメアハズケム》、廿(ノ)卷に、佐吉低己受祁牟《サキテコズケム》などあり、○歌(ノ)意は、物いはず黙《モダ》り居て、かしこだてする人は、酒|嗜《コノム》人を、心におもひおとしめてあるならめど、そは中々酒飲て醉泣する人に、猶及ずおとりて見ゆるものぞとなり、
 
沙彌滿誓歌一首《サミノマムゼイガウタヒトツ》。
 
首(ノ)字、舊本前に誤、古寫本古寫一本給穗本等に從つ、
 
351 世間乎《ヨノナカヲ》。何物爾將譬《ナニニタトヘム》。旦開《アサビラキ》。※[手偏+旁]去師船之《コギニシフネノ》。跡無如《アトナキゴトシ》。
 
何物爾將譬《ナニニタトヘム》は、譬ふべき物なしといふ意なり、何物の二字にて、那爾《ナニ》とよめること、集中に例多し、○旦開《アサビラキ》は、旦(タ)に船發《フネダチ》するをいふなり、十五に、安佐妣良伎許藝弖天久禮婆《アサビラキコギデテクレパ》、十八に、安佐妣良伎伊里江許具奈流《アサビラキイリエコグナル》、廿(ノ)卷に、安佐婢良伎和波己藝※[泥/土]奴等《アサビラキワハコギデヌト》など見えたり、○跡無如は、アトナキゴトシ〔七字右○〕とよむべきこと、既く上に委(ク)云るが如し、○歌(ノ)意は、世間の無常を譬ふべきものな(224)し、湊に泊し船の、旦に船發して漕行し、その跡|状《カタ》も無が如しとなり、(此(ノ)歌拾遺集に、旦ぼらけ榜ゆく舟の跡の白浪とて載たり、)
 
若湯座王歌一首《ワカユヱノオホキミノウタヒトツ》。
 
若湯座(ノ)玉は傳知ず、若湯座は、ワカユヱ〔四字右○〕なり、書紀神代(ノ)卷下に、湯坐《ユヱヒト》、古事記下卷に、大湯坐《オホユヱ》、若湯坐《ワカユヱ》、書紀雄略天皇(ノ)卷に、湯人、此云2臾衛《ユヱト》1と註せり、續紀に、若湯坐(ノ)連家主若湯坐(ノ)宿禰小月、若湯坐(ノ)宿禰繼女、若湯坐(ノ)宿禰子人、若湯坐部(ノ)龍麻呂、若湯坐(ノ)宿禰子融などいふ人見えたり、みな坐(ノ)字を作(キ)たるを見れば、こゝも座は坐なりしか、
 
352 葦邊波《アシヘニハ》。鶴之哭鳴而《タヅガネナキテ》。湖風《ミナトカゼ》。寒吹良武《サムクフクラム》。津乎能埼羽毛《ツヲノサキハモ》。
 
葦邊波《アシヘニハ》は、他方にむかへて云るなり、○湖風《ミナトカゼ》(活字本に、潮風と作るは誤なり、)は、みなとに吹(ク)風なり、十七に、美奈刀可世佐牟久布久良之奈呉乃江爾都麻欲比可波之多豆左波爾奈久《ミナトカゼサムクフクラシナゴノエニツマヨビカハシタヅサハニナク》とあり、○津乎能埼羽毛《ツヲノサキハモ》は、契冲、津乎《ツヲ》は、和名抄に、近江(ノ)國淺井(ノ)郡に都宇《ツウノ》郷あり、この處にやと云り、)(久老云、和名抄の都宇《ツウ》は、蓋(シ)都乎《ツヲ》の誤か、)羽毛《ハモ》は、歎息きて尋ね慕ふ意の辭なり、二(ノ)卷に、高光我日皇子乃萬代爾國所知麻之島宮波母《タカヒカルワガヒノミコノヨロヅヨニクニシラサマシシマノミヤハモ》、此(ノ)上に、燒津邊吾去鹿齒駿河奈流阿部乃市道爾相之兒等羽裳《ヤキツヘニアガユキシカバスルガナルアベノイチヂニアヒシコラハモ》、古今集に、春日野の雪間を分て生出來る草のはつかに見えし君波母《キミハモ》、水茎の岡の屋|縣《カタ》に妹と吾と宿ての朝開の霜の零波母《フリハモ》などあるに同じ、既く委(ク)云り、○歌(ノ)意は、他方は知(225)ず、此(ノ)夕(ヘ)津乎《ツヲ》の埼の葦方には、鶴が音あはれに來鳴て、郷思《クニシノヒ》の心をまさらしめ、みなと風ことに身にしみて、寒く吹らむと、津乎の埼に泊し旅人などの、艱苦をおもひやり慕ひ給ひてよみ給へるなるべし、
 
釋通觀歌一首《ホウシツグワムガウタヒトツ》。
 
353 見吉野之《ミヨシヌノ》。高城乃山爾《タカキノヤマニ》。白雲者《シラクモハ》。行憚而《ユキハヾカリテ》。棚引所見《タナビケリミユ》。
 
高城乃山《タカキノヤマ》は、吉野の中にある高山なるべし、夫木集に、夕附日さすや高城の山櫻花のひかりぞ空にうつろふ、天の原見れば高城の山櫻空に棚引雲はこれかも、○行憚而《ユキハヾカリテ》、この上の不盡山歌に、天雲毛伊去波伐加利《アマクモモイユキハバカリ》とあるに同じ、○棚引所見は、タナビケリミユ〔七字右○〕と訓べし、棚引有《タナビケリ》、と姑《ク》歌ひ絶心持によむべし、後(ノ)世ならば、タナビケル〔五字右○〕といふべきを、かくいへるは、古歌(ノ)體なり、古事記清寧天皇(ノ)條(ノ)歌に、志毘賀波多傳爾都麻多弖理美由《シビガハタデニツマタテリミユ》、集中には、恐海爾船出爲利所見《カシコキウミニフナデセリミユ》、また安麻能伊射里波等毛之安敝里見由《アマノイザリハトモシアヘリミユ》などあり、○歌(ノ)意は、吉野の高城(ノ)山の、あまり高きに憚り恐れて、嶺に居行とゞかずして、雲は中空にのみ、棚引たるが見ゆるとなり、
 
日置少老歌一首《ヘキヲオユガウタヒトツ》。
 
日置(ノ)少老は、傳知ず、日置は氏なり、幣伎《ヘキ》と訓べし、古事記應神天皇(ノ)條に、大山守(ノ)命者云々、幣伎(ノ)君等之祖(ナリ)、と見えて、姓氏録に、日置(ノ)朝臣、應神天皇(ノ)皇子、大山守(ノ)王之後也とある、これ日置は、幣(226)伎《ヘキ》なる證なり、然るを和名抄に、伊勢(ノ)國一志(ノ)郡日置、比於木《ヒオキ》、能登(ノ)國珠洲(ノ)郡日置、比岐《ヒキ》、越後(ノ)國蒲原(ノ)郡日置、比於木《ヒオキ》、但馬(ノ)國氣多(ノ)郡日置、比於肢《ヒオキ》、この外にも猶多し、かく比伎《ヒキ》とも比於伎《ヒオキ》ともあるは、後に文字に就て、さかしらに、唱へたがへたるものなるべし、伊勢(ノ)國なるも、和名抄には、右の如く比於木《ヒオキ》とあれど、今は戸木《ヘキ》村と呼《イフ》とぞ、これ中々に古(ヘ)なるべし、
 
354 繩乃浦爾《ナハノウラニ》。鹽燒火氣《シホヤクケブリ》。夕去者《ユフサレバ》。行過不得而《ユキスギカネテ》。山爾棚引《ヤマニタナビク》。
 
繩乃浦は、和名抄に、土佐(ノ)國安藝(ノ)郡|奈半《ナハ》とあり、土佐日記に、九日のつとめて、大湊より那波《ナハ》の泊(リ)を追むとて、こぎ出けり云々、十日、今日は那波の泊にとまりぬとあり、今奈半利《ナハリ》といへり、南は海を帶、北東に山を負て、今の歌詞によく叶ひたれば、其(ノ)地にや、又風俗歌に、奈末不利《ナマブリ》、(袖中抄繩振、)奈波乃川不良衣乃波留奈禮波可須見天見由留奈波乃川不良衣《ナハノツブラヱノハルナレバカスミテミユルナハノツブラエ》、とあると、同處にてもあらむ、か、(略解(ニ)云、この奈波《ナハ》のつぶら江を、或人遠江にありと云れど、此(ノ)國によしなし、名寄に、顯昭、雪零ば葦の末葉も浪超て難波も分ぬ繩のつぶら江とよめれは、攝津にて、則この繩(ノ)浦にやと云り、)又今案あり、下赤人(ノ)歌の條にいふを見べし、○鹽燒火氣(火氣、拾穗抄には煙と作り、)は、シホヤクケブリ〔七字右○〕と訓べし、(ケムリ〔三字右○〕と訓はわろし、)氣夫利《ケブリ》を火氣と書ること、五(ノ)卷、十一十二(ノ)卷などにも見えたり、此(ノ)下には、鹽燒炎《シホヤクケブリ》とも書たり、○行過不得而《ユキスギカネテ》は、得消失ずしてといふ意なるべし、(行過とは、此(ノ)山を行過て、餘山にも霏※[雨/微]意と聞ゆれど、こゝは然らず、たゞ消(227)る事を。行過と云るなり、)○歌(ノ)意はたゞ打見たるさまをいへるのみにて、かくれたるところなし、七(ノ)卷に、之加乃白水郎乃燒鹽煙風乎疾立者不上山爾輕引《シカノアマノシホヤクケブリカゼヲイタミタチハノボラズヤマニタナビク》とあるは、今の歌を吟(ヘ)換たるにや、
 
生石村主眞人歌一首《オフシノスクリマヒトガウタヒトツ》。
 
生石は氏、村主は加婆禰、眞人は名なり、續紀に、天平勝寶二年正月乙巳、正六位上大石(ノ)村主《スクリ》眞人(ニ)授2外從五位下(ヲ)1と見えたり、
 
355 大汝《オホナムヂ》。少彦名乃《スクナビコナノ》。將座《イマシケム》。志都乃石室者《シツノイハヤハ》。幾代將經《イクヨヘヌラム》。
 
大汝《オホナムヂ》は、古事記上(ツ)卷に、天之冬衣(ノ)神、娶《ミアヒテ》2刺國大《サシクニオホノ》神之女名(ハ)刺國若比賣(ニ)1生子、大國主(ノ)神、亦名(ハ)謂《マヲス》2大穴牟遲(ノ)神(ト)1、云々、書紀神代上卷一書に、素戔(ノ)嗚(ノ)尊之六世(ノ)孫、是(ヲ)曰2大己貴(ノ)命(ト)1、とあり、御名(ノ)義は、大は、例の美稱なり、那牟遲《ナムチ》の那《ナ》も稱名にて、那兄《ナセ》、那弟《ナオト》、那姉《ナネ》、那妹《ナニモ》、又たゞ人に對ひて、那《ナ》(汝(ノ)字)とのみもいふが如し、牟遲《ムヂ》は書紀に、貴(ノ)字をかける、其(ノ)字の意なり、さて牟遲《ムヂ》てふ言もて、神(ノ)名《ミナ》をたゝへん例は、神代紀に、生2日(ノ)神(ヲ)1、號2大日〓(ノ)貴(ト)1、とある訓註に、大日〓貴、此(ニ)云2於保比屡※[口+羊]能武智《オホヒルメノムヂト》1、と見え、(私記に、蓋古者、謂2尊貴者(ヲ)1爲2武智《ムヂト》1歟、自餘(ノ)諸神、或(ハ)謂2之尊(ト)1、或謂2之命(ト)1、今天照大神(ハ)是諸神之最貴也、故云2武智(ト)1、とあるは、例の甚倚たる説ながら、牟遲《ムヂ》てふ言の尊稱なるよしは、失はざりしなり、)又同卷一書に、道主(ノ)貴《ムヂ》、古事記に、八島牟遲《ヤシマムヂノ)神、また布波能母遲久奴須奴《フハノモヂクヌスヌノ》神、(この神(ノ)名の義は、い(228)かなる所由とも、未(ダ)考(ヘ)知ざれども、母遲《モヂ》は、大穴牟遲《オホナムヂ》の牟遲《ムヂ》と、おなじことにこそ、牟《ム》と母《モ》と通(ハ)し云るは、文徳天皇實録に、於保奈母智《オホナモヂ》とあり、)また神(ノ)名ならでも、人をたふとみて、汝貴《ナムヂ》、君貴《キムヂ》などいひ、又崇神天皇(ノ)紀に、是夜(ノ)夢(ニ)有2一|貴人《ムヂ》1と見え、(源氏物語未通女に、伎牟遲等《キムヂラ》は同じ年なれど、いふかひなくはかなかめり、などほめて云々、空穗物語鶴(ノ)子に、ある時は、伎牟遲《キムヂ》がつたなく云々、とさへぞのたまふや、大和物語に、伎牟遽《キムヂ》も今はこゝに見えじかし、など云ければ云々、かげろふ日記に、此ありくひとすゑて、伎牟遲《キムチ》いと口(チ)をし云々、伎牟遲《キムヂ》はよばむ時にをことて、おはしましぬとて云々、大鏡一に、伎牟遲《キムヂ》が姓は、なにぞとおほせられしかば云々、)また和名抄に、大和(ノ)國郷(ノ)名大神(ハ)、於保無知《オホムヂ》とある、(其(ノ)外諸國にも同名あり、)この無知《ムヂ》に、神(ノ)字をしも書るなどを、併(セ)考ふるに、牟遲《ムヂ》てふことの、尊稱なることは定《ウツナ》し、(かゝるを岡部氏(ノ)説に、大汝は大名持《オホナモチ》なり、凡て古(ヘ)、名の弘く長く聞ゆるを、譽(レ)とすめれば、天皇の宮所を遷し賜ひ、御子おはしまさぬ后、又御子たちは、御名代の氏を定め、又|名背《ナセ》、名根《ナネ》、名妹《ナニモ》など云、萬葉二に、大名兒《オホナコ》などあるも、皆名高き由の美詞、人にむかひて那牟遲《ナムヂ》といふも、名持てふ言にて、美る稱なり、かくて此(ノ)命は、天(ノ)下を作り治め知たまへる御名の、世に勝れたれば、大名持と美稱へ申せるなりとあるを、古事記傳にも、取用ひられたれども、さらに甘心《アマナヒ》がたし、そは三代實録、また延喜式などに、大名持とあるによられつらめど、那《ナ》を名《ナ》の意とせむは、那勢《ナセ》、那邇母《ナニモ》、邪牟遲《ナムヂ》などと(229)いふときは、猶ゆるさるべきを、凡て古(ヘ)人にむかひて、那《ナ》とのみ、云るをば、いかにとせむ、名とのみ、人に對ひてよぶべきことかは、又|牟遲《ムヂ》を持の意とせるもたがへるよしは、たゞしく古事記に、牟遲《ムヂ》と濁音の字をのみ用ひたれば、かなひがたし、但し出雲(ノ)國(ノ)造(ノ)神賀詞、又三代實録、又神名帳、又出雲風土記などに、持(ノ)字をかけるは、いかにぞやおもはむ人も有べけれども、すべて借(リ)字には、清濁にかゝはらで、用ひたる例あること、既くいひしごとくなれば、持と書るをも、なほ古事記によりて、濁音と定むべきものなり、そのゆゑは、古事記は殊に、清濁の字を、正しくせる書なればぞかし、此は言長けれど、人の思ひまどふ事なれば、おどろかし置なり、)○少彦名乃《スクナヒコナノ》、古事記に、神産巣日(ノ)神之御子、少名毘古那《スクナビコナノ》神と見えたり、御名(ノ)義は、古事記傳に委し、さてこの二柱(ノ)神相竝して、國作(リ)堅(メ)坐しことは、古事記に、大穴牟遲、與2少名毘古那1、二柱(ノ)神、相竝《アヒナラバシテ》作(リ)2堅(メタマヒキ)此(ノ)國(ヲ)1、書紀に、大己貴(ノ)命、與2少産名(ノ)命1、戮力一心《アヒナラバシテ》、經2營《ツクリタマヒキ》天(ノ)下(ヲ)1、と見え、また集中にも、其(ノ)他の古書にも、往々其(ノ)趣見ゆ、(六(ノ)卷に、大汝少彦名能神社者《オホナムヂスクナビコナノカミコソハ》、名著始鷄名名耳乎《ナヅケソメケメナノミヲ》、名兒山跡負而《ナコヤマトオヒテ》、七(ノ)卷に、大穴道少御神作妹勢能山見吉《オホナムヂスクナミカミノツクラシヽイモセノヤマミラクシヨシモ》、十八に、於保奈牟遲須久奈比古奈野神代欲理伊比都藝家良思《オホナムヂスクナビコナノカミヨヨリイヒツギケラシ》云々、出雲風土記に、飯石(ノ)郡多禰(ノ)郷、所2造《ツクラシヽ》天(ノ)下1大神、大穴持(ノ)命、與2須久奈比古(ノ)命1巡2行《メグリイデマシヽ》天(ノ)下(ヲ)1時(ニ)、稻種(ヲ)墮(シヽニ)2此處(ニ)1故《ヨリテ》云v種《タネト》、續後紀十九興福寺(ノ)僧(ノ)長歌に、日本乃野馬臺能國遠賀美侶伎能宿那毘古那加葦菅遠殖生之津津國固米造介牟與理《ヒノモトノヤマトノクニヲカミロギノスクナビコナガアシスケヲウヱオホシツツクニカタメツクリケムヨリ》、なども見えたり、)○志都乃岩室者《シツノイハヤハ》、本(230)居氏、石見(ノ)國邑知(ノ)郡の山中に、岩屋村といふ有て、其山をしづの岩屋と云て、甚大なる穴屋あり、高さ三十五六間ばかり、内甚廣し、里人の云傳へに、大汝少彦名の神の隱れ賜へる岩屋なりといふ、祭神をしづ權現と申すなり、これ正しく其(ノ)里人の語所なり、此(ノ)歌を以て、附合《ヒキヨセゴト》するやうなる所にはあらず、いと深き山奧にてよそ人のしらぬ所なり、然ればしつの石室は是にて、もしは生石(ノ)村主石見國のつかさなどにて、彼(ノ)國にてよめるにやと云り、(なほ彼(ノ)國人に問に、邑知(ノ)郡出羽村の山の上に、岩屋あまたある、其(ノ)中に小社を齋《イツ》きて、大己貴少彦名の二神をまつれる、これ志都の石室なりと云り、)○幾代將經《イクヨヘヌラム》は幾代の久しき間を歴ぬらむ、かぞへ知がたしとなり、○歌意かくれたるところなし、
 
上古麻呂歌一首《カミノフルマロガウタヒトツ》。
 
上(ノ)古麻呂は、傳未(タ)詳ならず、按(フ)に、上の下、村主の二字を脱せしか、姓氏録に、上《カミノ》村主(ハ)廣階(ノ)連(ノ)同祖、陳思王植之後也、續紀に、慶雲元年正月癸巳、五六位上上(ノ)村主《スクリ》大石(ニ)授2從五位下(ヲ)1、靈龜元年四月癸酉、上(ノ)村主通政(ニ)賜2阿刀(ノ)連(ヲ)1、など見えたり、
 
356 今日可聞《ケフモカモ》。明日香河乃《アスカノカハノ》。夕不離《ユフサラズ》。川津鳴瀬之《カハヅナクセノ》。清有良武《サヤケカルラム》。
 
今日可聞《ケフモカモ》は、今日も歟といふなり、下の聞《モ》は助辭なり、今日もといへる毛《モ》は、前日を主とたてて、今日を客としたるいひざまなり、前の連日のとほりに、今日もまたといふなり、さて此(ノ)一(231)句は、第四句の下にめぐらして意得べきを、明日香《アスカ》といふに縁《チナミ》て、此《コヽ》に今日と云たるなり、(十六に、今日今日跡飛鳥爾到《ケフケフトアスカニイタリ》と見えたり、)○明日香《アスカ》、拾穗本には、香の下に、乃(ノ)字あり、○夕不離《ユフサラズ》は、毎夕と云むがごとし、十(ノ)卷に、暮不離蝦鳴成《ユフサラズカハヅナクナル》、此(ノ)下に、朝不離雲居多奈引《アササラズクモヰタナビキ》、十七に、安佐左良受安比底許登騰比《アササラズアヒテコトドヒ》などあり、○川津鳴瀬之《カハヅナクセノ》は、蝦の鳴(ク)川瀬之といふなり、蝦は虫(ノ)名、品物解に委(ク)云べし、○歌(ノ)意は、飛鳥河の夕(ヘ)夕(ヘ)毎に、蝦の鳴その河瀬の、今日も清くて見どころ多く、おもしろかるらむ、とゆゑありて、飛鳥河をおもひやりて云るなり、○舊本に、或本(ノ)歌發句(ニ)云、明日香川今毛可等奈《アスカカハイマモカトナ》と註せり、毛等奈《モトナ》は、俗言に、めたにと云むが如し、既く云り、
 
山部宿禰赤人歌六首《ヤマベノスクネアカヒトガウタムツ》。
 
357 繩浦從《ナハノウラユ》。背向爾所見《ソガヒニミユル》。奧島《オキツシマ》。※[手偏+旁]回舟者《コギタムフネハ》。釣爲良下《ツリシスラシモ》。
 
繩浦從《ナハノウラユ》は、上の日置少老がよめる、繩浦《ナハノウラ》と同處か、從《ユ》は常の從にて、上に田兒之浦從《タゴノウラユ》とあるに同じ、今按(フ)に、岡部氏(ノ)説に、繩は綱の誤なるべしと云り、(其(ノ)説に、攝津(ノ)國武庫(ノ)郡にありと云るは、この上黒人(ガ)歌に、名次山角乃松原《ナスギヤマツヌノマツハラ》とよめる、角と同所とせるにや、)是(ノ)説に因てなほ思ふに、綱ならば、一(ノ)卷讃岐(ノ)國の歌に、綱能浦之海處女等之《ツヌノウラノアマヲトメラガ》とよめるは、和名抄に、同國鵜足(ノ)郡津野(ハ)都乃《ツノ》とある、彼處《ソコ》の浦をよめるにて、同所なるべきにやと思はるゝなり、其(ノ)故は、まづこの初四首は、赤人宿禰、讃岐の方へ下る時の歌と見えて、次の武庫浦乎《ムコノウラヲ》云々の歌を考るに、粟島は仙覺(232)抄に、讃岐(ノ)國屋島北去百歩計有v島、名日2阿波島《アハシマト》1、と見えて、さてその粟島(ノ)邊にて、よみたりと思はるゝを、(其(ノ)由はなほ次にいふ、)此(ノ)歌に竝載たればなり、さてかく考へおきて猶思へば、此(ノ)上の少老が歌に繩の浦とあるも、もしは綱乃浦《ツヌノウラ》にはあらざるか、○脊向爾所見《ソガヒニミユル》は、うしろむきに見ゆるといふ意なり、今案(フ)に、背向《ソガヒ》は、背交《ソガヒ》、向《ムカヒ》は身交《ムカヒ》の謂なるべし、七(ノ)卷に、辟竹之背向爾宿之久《サキタケノソガヒニネシク》、十四に、夜麻須氣乃曾我比爾宿之久《ヤマスゲノソガヒニネシク》などあり、○奧島《オキツシマ》は、いづれにまれ、海の沖の方にある島をいへり、○釣爲良下は、ツリシスラシモ〔七字右○〕と訓べし、(釣爲をツリセス〔四字右○〕と訓ときは、釣爲給ふ、といふ意になること、上にたび/\云たる如し、此は釣し給ふ、と尊みいふべき所ならねば、ツリセス〔四字右○〕と訓はわろし、)之《シ》の助辭を訓付ること例多し、上にミヤコシオモホユ〔七字右○〕といふに、京師所念とかけるも同じ例なり、下《シモ》の毛《モ》は歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、見たるさまを云たるのみにて、かくれたるところなし、
 
358 武庫浦乎《ムコノウラヲ》。※[手偏+旁]轉小舟《コギタムヲブネ》。粟島矣《アハシマヲ》。背|向〔○で囲む〕爾見乍《ソガヒニミツヽ》。乏小舟《トモシキヲブネ》。
 
粟島《アハシマ》は、仙覺(ガ)註に見えて、上に引る如し、古事記に、次(ニ)生2淡島(ヲ)1、是亦不v入2子之例(ニ)1、四(ノ)卷に、粟島乎背爾見管《アハシマヲソガヒニミツヽ》、七(ノ)卷に、粟島爾許枳將渡等《アハシマヲコギワタラムト》、九(ノ)卷に、粟小島者雖見可足可聞《アハノコシマハミレドアカヌカモ》、十二に、浪間從雲位爾見粟島之《ナミノマユクモヰニミユルアハシマノ》、十五に、安波之麻乎與曾爾也故非無《アハシマヲヨソニハコヒム》などあり、○背向爾見乍《ソガヒニミツヽ》、(向(ノ)字、舊本に無は落たるなり、)は、うしろむきに見|乍《ナガラ》、漕行よしなり、○乏小舟《トモシキヲブネ》は、うらやましき小舟といふなり、乏《トモシ》は、朝毛(233)吉木人乏毛《アサモヨシキヒトトモシモ》といへる乏に同じく、うらやましき意なり、○歌(ノ)意は讃岐のかたへ下るほど、歴來《スギコ》し方の舟を、粟島の邊より見やりてよめるにて、この粟島をよそに見棄て、武庫浦を榜めぐりつゝ、倭の方へのぼりゆくは、うらやましき小舟ぞと云るなり、次の阿倍乃島《アベノシマ》の歌にても、倭をこひしたへる意の、切なるを思ふべし、(さるを略解に、乏きは賞る詞にて、このともしきは、粟島を舟より見る人の心なり、舟を云にはあらず、粟島をともしく思ふなり、こぎたむ小舟は、此(ノ)作者の乘(レ)る舟にて、結句の小舟も同じ、粟島をともしく見る小舟と云意なり、と云るは、いみしき非説《ヒガコト》なり、
 
359 阿倍乃島《アベノシマ》。宇乃住石爾《ウノスムイソニ》。依浪《ヨスルナミ》。間無比來《マナクコノゴロ》。日本師所念《ヤマトシオモホユ》。
 
阿倍乃島《アベノシマ》は、未《タ》詳ならず、十二に、玉勝間安倍島山之《タマカツマアベシマヤマノ》とあるは、同處にや、(八雲御抄に、攝津(ノ)國のよし註したまへり、猶考ふべし、)今按(フ)に、この倍は波(ノ)字の誤にて、是も粟島《アハノシマ》なるべきにや、粟の小島ともよみたれば、粟島《アハシマ》を粟之島《アハノシマ》と、之《ノ》の言をおきても云しなるべし、(又六(ノ)卷に、春三月、幸2于難波(ノ)宮(ニ)1之時(ノ)歌に、如眉雲居爾所見阿波乃山《マヨノゴトクモヰニミユルアハノヤマ》とあるも、山は嶋(ノ)字の鳥(ノ)旁《ツクリ》の脱たるにて粟の嶋なるべきにや、猶考(フ)べし、)○宇乃住石爾《ウノスムイソニ》(乃(ノ)字、類聚抄には能と作り、)は、鵜之住磯《ウノスムイソ》になり、鵜は品物解に云、○依浪は、ヨスルナミ〔五字右○〕と訓べし、(集中の例なり、ヨルナミノ〔五字右○〕とよめるはわろし、)これまでは、間無《マナク》といはむとての序なり、○日本師所念《ヤマトシオモホユ》は、日本《ヤマト》は、大和(ノ)國なり、師《シ》は、その一すぢ(234)を、おもく思はする處におく助辭なり、○歌(ノ)意は、他事なく、吾家の方なる大和(ノ)國のみ、一(ト)すぢに間も時もなく、戀しく思はるゝとなり、
 
360 鹽干去者《シホヒナバ》。玉藻苅藏《タマモカリコメ》。家妹之《イヘノモガ》。濱裹乞者《ハマツトコハバ》。何矣示《ナニヲシメサム》。
 
玉藻苅藏はタマモカリコメ〔七字右○〕と訓べきにや、(かりつめとよめるはいかゞ、伊勢物語に、くらにこめてしをりたまひければ、とあるは、事の樣異りたれど、こめと云る言はひとつなり、)玉藻を籠《コ》に苅こめよ、と從者などに命せて云るなるべし、○家妹之は、イヘノモガ〔五字右○〕と訓例は、廿(ノ)卷に、以幣乃母加枳世之己呂母爾《イヘノモガキセシコロモニ》とあり、○濱裹乞者《ハマツトコハバ》は、濱の裹物を得させよ、と乞たらばといふなり、濱裹は既く云る如し、(三(ノ)上)○歌(ノ)意は、海の鹽干になりなば、やがて其(ノ)干潟に出て、玉藻を籠に刈て入よ從者等よ、その玉藻を家づとにせむと思ふぞ、もし玉藻をとりて歸らずば、家(ノ)妻が、濱の裹物を得させよ、と乞たらむに、何物を裹物にして、與へ見せしめむぞとなり、
 
361 秋風乃《アキカゼノ》。寒朝開乎《サムキアサケヲ》。佐農能崗《サヌノヲカ》。將超公爾《コユラムキミニ》。衣借益矣《キヌカサマシヲ》。
 
寒朝開乎《サムキアサケヲ》は、寒き朝明なるものを、といふほどの意なり、(朝開にといふとは異なり、)○佐農能崗《サヌノヲカ》(崗(ノ)字類聚抄には〓、拾穗本には岡と作り、)は、紀伊(ノ)國牟漏(ノ)郡なり、上に狹野乃渡《サヌノワタリ》と見えて、其處に悉(ク)云り、○衣借益乎《キヌカサマシヲ》は、衣借ましものをの意なり、女の衣を男にかすことは、古(ヘ)めづらしからぬことなるを、また事とありて、男どちも假借《カシカリ》せしことありしなり、○歌(ノ)意は、然らでだ(235)に、旅路のくるしかるらむに、まして秋風の寒き此(ノ)朝明なるものを、衣さへ薄くて、狹野の崗を超行らむ君が、いかばかり寒さに堪がたく、わびしかるらむと思ひやらるれば、いかでわが衣をだに遣(リ)て、かさましものをとは思へど、其(レ)さへ道の間遠くて、心に協はねば、せむ方なくて、あはれにのみ思ひやらるゝとなり、こは紀伊(ノ)國へ從たる人を、想ひやりてよめるなり、新古今集に、陸奧《ミチノク》にくだり侍ける人に、装束贈るとてよみ侍りける、紀(ノ)貫之、玉桙の道の山風寒からばかたみがてらに著なむとぞ思(フ)、
 
362 美沙居《ミサゴヰル》。石轉爾生《イシミニオフル》。名乘藻乃《ナノリソノ》。名者告志弖余《ナハノラシテヨ》。親者知友《オヤハシルトモ》。
 
美沙居《ミサゴヰル》は、※[且+鳥]鳩集《ミサゴヰル》なり、※[且+鳥]鳩《ミサゴ》は鳥(ノ)名なり、品物解に委(ク)云、○石轉爾生《イソミニオフル》は、磯のめぐりに生るといふなり、石轉は磯廻と書るに同じ、十二にも、湖轉《ミナトミ》とあり、轉は回轉とつらぬる字なるによりて、轉は回と書るに同じきを知べし、(回《ミ》はもとほりの約れる言なるよし、既く委(ク)云るがごとし、荒木田氏が、回《ミ》は備《ピ》に通ふ言なり、と云るはいみじくたがへり、)○名乘藻乃《ナノリソノ》、といふまでは序なり、名乘藻は品物解に云、○名者告志弖余《ナハノラシテヨ》(弖(ノ)字、舊本五に誤、)は、名をば告賜ひてよといふ意なり、(告志《ノラシ》は告《ノリ》の伸りたるにて、告(リ)賜(ヒ)といふ意なり、)○歌(ノ)意は、名を告知せて、今は吾に心をゆるし賜ひてよ、たとひ父母は知てとがむとも、あしくははからはじ、と女をそゝのかしたてたるなり、此(ノ)歌は、竊に遇る女に、己妻と爲《セ》まほしく思ひて、名を告れと云るなり、古(ヘ)は人の(236)妻になることを許すには、必(ス)其(ノ)名を告知すならひなること、既く云るがごとし、
〔或本歌曰。363 美沙居《ミサゴヰル》。荒磯爾生《アリソニオフル》。名乘藻乃《ナノリソノ》。吉名者告世《ヨシナハノラセ》。父母者知友《オヤハシルトモ》。〕
吉名者告世《ヨシナハノラセ》、(吉(ノ)字、舊本告に誤、今改む、)吉《ヨシ》は縱《ヨシ》なり、縱《ヨシ》やたとひ、父母は知とも、名はのり賜へよと云るなり、十二に、三佐呉集荒磯爾生勿謂藻乃吉名者不告《ミサゴヰルアリソニオフルナノリソノヨシナハノラセ》(不は令の誤なり、)父母者知鞆《オヤハシルトモ》とあるは、全今と同歌なり、
 
笠朝臣金村鹽津山作歌二首《カサノアソミカナムラガシホツヤマニテヨメルウタフタツ》。
 
笠(ノ)朝臣金村は、傳未(ダ)詳ならず、○鹽津山は、和名抄に、近江(ノ)國淺井(ノ)郡鹽津(ハ)、之保津《シホツ》、神名帳に、同郡鹽津(ノ)神社とあり、
 
364 大夫之《マスラヲノ》。弓上振起《ユスヱフリオコシ》。射都流失乎《イツルヤヲ》。後將見人者《ノチミムヒトハ》。語繼金《カタリツグガネ》。
ユスヱフリオコシ
 
大(ノ)字、類聚抄には、丈と作り、○弓上振起《ユスヱフリオコシ》は、十三に、梓弓弓腹振起《アズサユミユハラフリオコシ》、十九に、梓弓須惠布理於許之《アズサユミスヱフリオコシ》、(この假字書に依て、起はいづれも、オコシ〔三字右○〕とよむべきことなり、)神代紀に、振2起《フリオコシ》弓※[弓+肅]《ユハズ》1、古事記には、弓腹振立《ユハラフリタテ》(立は、もし起の誤にはあらざるか、)とあり、○射都流失乎《イツルヤヲ》は、射つる矢なる物をの意なり、此(ノ)詞の下に、意を含《フク》め餘《ノコ》したるなり、○語繼金《カタリツグガネ》は、語繼之根《カタリツグガネ》の謂にて、落るところは、語り繼が爲にといふ意となれり、そも/\我禰《ガネ》は、いづれも左に引る十(ノ)卷の歌に、之根《ガネ》と書たる字(ノ)義にて、云々せむ、其(レ)が根《ネ》本と謂(フ)より起《ハジマ》れる言にて、其(レ)が爲にといふ意に落ることなれ(237)ば、中昔の言に、きさきがね、坊がね、むこがね、博士がね、など云るがねも同じく、后がねは、后になるべき、其(レ)が根ざしふるまひのこゝろにて、其(ノ)餘なるも准(フ)べし、さて之根《ガネ》とよ、える歌は、四(ノ)卷に、佐保河乃涯之官能小歴木莫刈烏在乍毛張之來者立隱金《サホガハノキシノツカサノシバナカリソネアリツヽモハルシキタラバタチカクルガネ》、五(ノ)卷に、余呂豆余爾伊比都具可禰等《ヨロヅヨニイヒツグガネト》、十(ノ)卷に、朝露爾染始秋山爾鐘禮莫禮在渡金《アサツユニニホヒソメタルアサツユニシグレナフリソアリワタルガネ》、又|梅花吾者不令落青丹吉平城在人來管見之根《ウメノハナアレハチラサジアヲニヨシナラナルヒトノキツヽミムガネ》、又|橘之林乎殖霍公鳥常爾冬及住度金《タチバナノハヤシヲウヱムホトヽギスツネニフユマデスミワタルガネ》、又|足曳之山田佃子不秀友繩谷延與守登知金《アシヒキノヤマダツクルコヒデズトモシメダニハヘヨモルトシルガネ》、又|秋都葉爾爾寶敝流衣吾者不服於君奉者夜毛着金《アキツハニニホヘルコロモアレハキジキミニマツラバヨルモケヌガネ》、又|雪寒三咲者不開梅花縱此來者然而毛有金《ユキサムミサキニハサカズウメノハナヨシコノゴロハサテモアルガネ》、十二に、里人毛謂告我禰縱咲也思戀而毛將死誰名將有哉《サトビトモカタリツグガネヨシヱヤシコヒテモシナムタガナノラメヤ》、十七に、伊未太見奴比等爾母都氣牟於登能未毛名能未母伎吉底登母之夫流我禰《イマダミヌヒトニモツゲムオトノミモナノミモキキテトモシフルガネ》、十八に、白玉乎都々美?夜良波安夜女具佐波奈多知婆奈爾安倍母奴久我禰《シラタマヲツヽミテヤラナアヤメグサハナタチバナニアヘモヌクガネ》、十九に、大丈者名乎之立倍之後代爾聞繼人毛可多里都具我禰《マスララハナヲシタツベシノチノヨニキヽツグヒトモカタリツグガネ》、又|霍公鳥雖聞不足網取爾獲而奈都氣那可禮受啼金《ホトヽギスキケドモナカズアミトリニトリテナツケナカレズナクガネ》、仁徳天皇(ノ)紀(ノ)歌に、比佐箇多能阿梅箇儺麼多迷廼利餓於瑠箇儺麼多波揶歩差和氣能瀰於須譬餓泥《ヒサカタノアメカナバタメドリガオルカナバタハヤフサワケノミオスヒガネ》、顯宗天皇(ノ)紀に、美飲喫裁、此云2于魔羅※[人偏+爾]烏野羅甫屡柯佞《ウマラニヲヤラフルガネト》1也、(也(ノ)字無(キ)本もありと云り、ありてもたゞ添て書るのみなり、)などある皆同じ、さて又|我爾《ガニ》と云るは、我禰《ガネ》と言の似たるのみにこそあれ、よく味(ヒ)見れば、用《ツカ》へる樣、きはやかに異れることなり、(その異れるゆゑは、我爾《ガニ》は之似《ハニ》、我禰《ガネ》は之根《ガネ》にてその詞のよりくるところもとより別なればなり、しかるを、本居氏の、我禰《ガネ》は豫《カネ》の意、我爾《ガニ》は(238)豫《カネ》にの意なるを、禰爾《ネニ》をつゞめて、我爾《ガニ》といひたるなりと説て、其(ノ)趣詞の玉緒にも、著はせるによりて、世の古學者、その説に委(ネ)て、強て心を費さむものともせざめれど、其はよく古言に用へる樣を、考へざりしが故なり、其(ノ)故は、古今集の頃より、我爾《ガニ》と我禰《ガネ》とを一(ツ)つにまぎらはし、我禰《ガネ》の辭は失て、必(ズ)我禰《ガネ》と云べきところをも、我爾《ガニ》とのみ云るは、いみじきひがことなり、しかるに古今集よりこのかたの歌に、古(ヘ)をあやまりまぎらはして云る趣を、軌則《ノリ》として解たるがゆゑに、今(ノ)京よりの歌をことはるには、さてきこゆることなるを、寧樂(ノ)朝よりあなたのに、引あてゝ考(フ)るには、むげにあたらぬことのみなること、右に擧る例どもを、こまかに考へわたしてさとるべし、なほ云ば、我禰《ガネ》てふ言は、古歌にあまたよみたれども、我禰爾《ガネニ》と云るは、一(ツ)もなくして、みな我禰《ガネ》とのみいへり、もし我爾《ガニ》は、我禰爾《ガネニ》の切ならむには、我禰爾《ガネニ》と云るところもあるべきことなるをや、さて十四に、於毛思路伎野乎婆奈夜吉曾布流久左爾仁比久佐麻自利於非波於布流我爾《オモシロキヌヲバナヤキソフルクサニニヒクサマジリオヒハオフルガニ》とあるのみは、生ば生るが爲にの意ときこえたれば、必(ズ)我禰《ガネ》とあるべきことなるに、我爾《ガニ》としもいへるは、東歌なるがゆゑなり、なべての雅言の證とすべきにあらず、かくて我爾《ガニ》は、之似《ガニ》の謂なること、四(ノ)卷に、吾屋戸之暮陰草乃白露之消蟹本名所念鴫《ワガヤドノユフカゲクサノシラツユノケヌガニモトナオモホユルカモ》、とある歌につきて、委(ク)註べし、)なほ我爾《ガニ》と我禰《ガネ》との差のことは、余が雅言成法の末に付て、委しく辨へたるを、披(キ)考(ヘ)て知べし、○歌(ノ)意は、この後に見む人の、末(ノ)世に語りつがむが爲(239)にとて、弓末を振おこし、心をこめて射立つる矢なる物を、この鹽津山を越て、往來《ユキカフ》人々の見て、吾(ガ)弓勢のほどを感ぜずはあらじとなり、四五一二三と句を次第《ツイデ》て聞べし、此は鹽津山を超過るほど、其山の樹などに矢を射立て置て、自が弓勢のほどを、末(ノ)世に示(シ)たるなるべし、古(ヘ)剛力《タケ》き男は、道路の大木などに、矢を射入て、弓勢を末代の者に示しけるなるべし、中昔に、崇徳天皇、白川殿を落させ賜ふときに、八郎爲朝、上矢の鏑一筋をとりて、末代の者に、弓勢のほどを示さむとて、寶莊嚴院の門の柱に射留置し事あり、此(ノ)類なり、又建久四年、曾我兄弟、親の敵を討む爲に、富士の狩倉へ行とて、箱根路の湯本の矢立の杉に、矢を射立置し事もあり、近く寶暦九年の比、日向(ノ)國の杣にて、伐(リ)出せる杉の大木を、船につみ運びて、備前(ノ)國岡山(ノ)府にて、船材に割けるに、鏃三枚木中より出けりと、備前(ノ)國人土肥經平(ガ)春湊浪話に記せり、これも昔健士の射入たるなるべし、
 
365 鹽津山《シホツヤマ》。打越去者《ウチコエユケバ》。我乘有《アガノレル》。馬曾爪突《ウマゾツマヅク》。家戀良霜《イヘコフラシモ》。
 
馬曾爪突《ウマソツマヅク》は、十三に、馬自物立而爪衝《ウマジモノタチテツマヅキ》、字鏡に※[走+堯](ハ)豆萬豆久《ツマツク》など見えたり、○歌(ノ)意、契冲云、旅行人を、家にてこふる妻のあれば、乘馬《ノレルウマ》のつまづきなづむと云り、しかれば、家人のわれをこふらしも、といふ心なりと云り、七(ノ)卷に、妹門出入見河之瀬速見吾馬爪衝家思良下《イモガカドイリイヅミカハノセヲハヤミアガマツマヅクイヘモフラシモ》、白栲爾丹保布《シロタヘニニホフ》信士之山川爾吾馬難家戀良下《マツチノヤマガハニアガウマナヅムイヘコフラシモ》、俊頼集に、くちぬらむ袖ぞゆかしき吾(ガ)駒の爪突度に身をし(240)碎けば、なども見えたり、
 
角鹿津《ツヌガノツニテ》乘《ノレル》v船《フネニ》時《トキ》。笠朝臣金村作謌一首并短歌《カサノアソミカナムラガヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
角鹿(ノ)津は、和名抄に、越前(ノ)國敦賀(ノ)郡、(都留我《ツルガ》、)とあり、(都留我《ツルガ》といふは、後に音の訛りたるなり、)古(ヘ)は都奴我《ツヌガ》と唱(ヘ)しなり、垂仁天皇紀に、一(ニ)云、御間城(ノ)天皇(ノ)世、額有v角人、乘(テ)2一船(ニ)1泊(シニ)2于越前(ノ)笥飯(ノ)浦(ヨリ)1、故《ヨリテ》號《ヲ》2其處《ソコ》1曰2角鹿《ツヌガト》1也、とあり、古事記に、建内(ノ)宿禰命、率(テ)2其(ノ)太子(ヲ)1(應神)云々、於2高志前之角鹿《コシノミチノクチノツヌガ》1造(テ)2假宮(ヲ)1而
ツトメテクサカリキ
坐(キ)、故(レ)其旦《ツトメテ》、幸2行(ル)于濱(ニ)1之時、毀《ヤブレル》v鼻入鹿魚既依2一浦(ニ)1、其(ノ)入鹿魚之鼻(ノ)血|※[自/死]《クサカリキ》、故|號《ヲ》2其(ノ)浦1謂(シヲ)2血浦《チウラト》1、今(ハ)謂2都奴賀《ツヌガト》1也、とあるは、異なる傳なり、此(ノ)二(ツ)の傳の中、應神天皇の大御歌に、既く都奴賀《ツヌガ》とのたまへれば、書紀の方や正しからむ、と古事記傳に云り、
 
366 越海之《コシノウミノ》。角鹿之濱從《ツヌガノハマユ》。大舟爾《オホブネニ》。眞梶貫下《マカヂヌキオロシ》。勇魚取《イサナトリ》。海路爾出而《ウミヂニイデテ》。阿倍寸管《アベキツヽ》。我※[手偏+旁]行者《ワガコギユケバ》。大夫之《マスラヲノ》。手結我浦爾《タユヒガウラニ》。海未通女《アマヲトメ》。鹽燒炎《シホヤクケブリ》。草枕《クサマクラ》。客之有者《タビシニシアレバ》。獨爲而《ヒトリシテ》。見知師無美《ミルシルシナミ》。綿津海乃《ワタツミノ》。手二卷四而有《テニマカシタル》。珠手次《タマタスキ》。懸而之努櫃《カケテシヌヒツ》。日本島根乎《ヤマトシマネヲ》。
 
眞梶貫下《マカヂヌキオロシ》(梶(ノ)字、拾穗本には※[木+堯]と作り、※[木+堯](ハ)小楫(ナリ)とあり、)は、左右の楫を懸て、海に下《オロ》すをいふ、○勇魚取《イサナトリ》は、海の枕詞なり、既く出づ、○阿倍寸管《アベキツヽ》は、喘乍《アヘギツヽ》なり、契冲が、舟子どもの息もつぎあへず、あへぎてこぐをいへり、と云るが如し、此(ノ)下には、安倍而※[手偏+旁]出牟《アベテコギデム》とあり、今案(フ)に、阿倍寸《アベキ》は※[口+斗]《ヲメキ》、呻《ウメキ》などいふに通(フ)言なるべし、しかれば字のまゝに、倍《ベ》を濁りて唱(フ)べし、九(ノ)卷に、敢而※[手偏+旁]動《アベテコギトヨム》とある(241)は、清音の敢《アヘテ》を濁音に借たるか、○大夫乃《マスラヲノ》は、枕詞なり、丈夫の手に著る手纏《タユヒ》といふ意に、手結《タユヒ》てふ地に云係たるなり、手結は、仁徳天皇(ノ)紀に、田道が蝦夷と戰て死し時、有2從者1、取2得田道之|手纏《タマキヲ》1與2其妻(ニ)1、乃抱2手纏(ヲ)1而縊(キヌ)、と見え、三代實録に、貞觀十二年正月十三日、勅、充2萱岐(ノ)島(ニ)冑《カブト》并|手纏《タマキ》各二百具(ヲ)1、和名抄には、射藝(ノ)具に、※[韋+溝の旁](ハ)和名|多末岐《タマキ》、一(ニ)云、小手也、とあり、この※[韋+溝の旁]《タマキ》を、手結《タユヒ》ともいひしならむと覺ゆ、又西宮抄五月六日(ノ)條にも、諸家出2馬乘人1、著2※[衣+兩]襠錦袴冑手纏足纏(ヲ)1、など見えて、射藝(ノ)具とおぼゆれば、今の小手のごときものとぞおもはる、さて又古事記に、於《ニ》2投棄(ル)左(ノ)御手之|手纏《タマキ》1、所v成神云々、とあると、此(ノ)集十五に、和多都美能多麻伎能多麻乎《ワタツミノタマキノタマヲ》云々とあるとは、名は同じくて、異物ならむとぞ思ふ、なほ下に云べし、○手結我浦《タユヒガウラ》(手(ノ)字、活字本に末と作るは誤、)は、神名帳に、越前(ノ)國敦賀(ノ)郡田結(ノ)神社とあり、そこの浦なり、○鹽燒炎《シホヤクケブリ》、此(ノ)上には、鹽燒火氣《シホヤクケブリ》と書り、炎は火氣とかけるに同じ、説文に、炎(ハ)火光上(ル)也、と見ゆ、○獨爲而は、ヒトリシテ〔五字右○〕と訓べし、(本居氏、契冲が、此(レ)をひとりゐてとよむべし、と云るは、中々に古言をしらざるなり、といへり、)十二に、二爲而結之紐乎一爲而吾者解不見直相及者《フタリシテムスビシヒモヲヒトリシテアレハトキミジタヾニアフマデハ》、十四に、兒良波安波奈毛此等理能未思?《コラハアハナモヒトリノミシテ》、廿(ノ)卷に、可胡自母乃多太比等里之?《カコジモノタダヒトリシテ》、古今集に、獨して物を思へば云々、此(ノ)餘もあり、(今(ノ)世にも、常|如此《カク》云なり、必(ズ)ヰテ〔二字右○〕と訓まじきを知べし、)○見知師無美《ミルシルシナミ》は、見るかひなさに、といはむが如し、七(ノ)卷に、獨居而見驗無暮月夜鴨《ヒトリヰテミルシルシナキユフツキヨカモ》とあり、○綿津見乃《ワタツミノ》は、海神之《ワタツミノ》なり、○手二卷四而有《テニマカシタル》は、手に纏(242)賜ひてあるといふなり、卷四《マカシ》は、卷《マキ》の伸りたるにて、纏賜ひといふ意なり、○珠手次《タマタスキ》、これまで三句は、懸といはむ料の序なり、さて手次は、懸といふこそ、定まりたる詞なるを、卷四《マカシ》と云るによりて、今よく詞(ノ)表を味見るに、上よりのつゞきは、手次へまでは關らず、珠といふにのみ係りて、海神の手に纏賜ひたる玉、とつゞきたる詞なり、(珠手次は、既くも云し如く、珠は借(リ)字にて、實は把手次《タバタスキ》てふことなれど、珠といふ詞の同じきから、たゞ珠にのみ云かけしのみ、これ古意なり、)玉を手に卷しことは、古(ヘ)の飾装のさだまりにて、其を手玉とも云り、天照大御神、於2左右(ノ)御手1、各纏2持八尺勾※[王+總の旁]之五百津之美須麻流之珠(ヲ)1、といふこと、古事記、書紀に見え、神代紀に、手玉玲瓏※[糸+籤の竹がんむりなし]※[糸+任]之少女《タタマモユラニハタオルヲトメ》、仁徳天皇(ノ)紀に、皇女(ノ)所賚之《マカセル》足玉手玉、集中には、此(ノ)下に、泊瀬越女我手二纏在玉《ハツセヲトメガテニマケルタマ》、十(ノ)卷に、足玉母手珠毛由良爾《アシタマモタタマモユラニ》、十三に、海部處女等手二卷流玉毛湯良羅爾《アマヲトメラガテニマケルタマモユララニ》など見えたり、さて玉を手に卷ことは、孰《タレ》しの人も爲しことなるを、こゝにとりわきて、海神の手に卷せると云るは、海宮には、殊に妙(ナル)珠も多くありて、海神の殊に賞弄《ウツクシミ》し賜ふことなれば、七(ノ)卷に、海神手纏持在玉故《ワタツミノテニマキモタルタマユヱニ》、又|海神持在白玉《ワタツミノモタルシラタマ》、十五に、和多都美能多麻伎能多麻《ワタツミノタマキノタマ》、十九に、和多都民能可味能美許等乃美久之宜爾多久波比於伎?伊都久等布多麻《ワタツミノカミノミコトノミクシゲニタクハヒオキテイツクトフタマ》なども作(ミ)、ことにこゝは、海路にてよめる歌なれば、かた/”\縁《チナミ》あることになむ、○懸而之努櫃《カケテシヌヒツ》は、心に懸て慕ひつといふなり、懸とは、言にいひ出すをも、心に思ふをもいふ中に、こゝは心に思ふよしなり、○日本島(243)根乎《ヤマトシマネヲ》は、大和(ノ)國をなり、既く云り、○歌(ノ)意かくれたるところなし、田結《タユヒガ》浦の佳景の、殊におもしろく、めづらしきにつきて、郷思の情、いよ/\まさりたるよしをいへるなり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
367 越海乃《コシノウミノ》。手結之浦矣《タユヒノウラヲ》。客爲而《タビニシテ》。見者乏見《ミレバトモシミ》。日本思櫃《ヤマトシヌヒツ》。
 
見者乏見《ミレバトモシミ》(乏、舊本之に誤、今は拾穗本に從、)は、見れば乏きが故にの意なり、この乏きは、めづらしくおもしろき意なり、○日本思櫃《ヤマトシヌヒツ》は、大和(ノ)國を慕ひつといふなり、思(ノ)字、之努布《シヌフ》と訓る例、既く云り、○歌(ノ)意かくれなし、
 
石上大夫歌一首《イソノカミノマヘツキミガウタヒトツ》。
 
石上(ノ)大夫は、乙麻呂なるべし、乙麻呂の傳は、上に云り、舊本左註に、右今案(ニ)、石上(ノ)朝臣乙麻呂、任2越前(ノ)國(ノ)守(ニ)1、蓋此大夫歟、と有(リ)、(但し越前(ノ)守に任られし事、續紀に見えず、疑ふべし、略解に、續紀に、天平十一年三月、石上(ノ)朝臣乙麻呂罪有て土佐(ノ)國へ配流、と見ゆ、此時の歌なるべしと云れど、然にはあらず、和歌の趣にても、任國の時なること、しられたり、)荒木田氏は、續紀に、天平十六年九月、石上(ノ)朝臣乙麻呂、爲2西海道(ノ)使(ト)1、と見えたる、此(ノ)時の歌なるべしと云り、(猶考(フ)べし、)
 
368 大船二《オホフネニ》。眞梶繁貫《マカヂシヾヌキ》。大王之《オホキミノ》。御命恐《ミコトカシコミ》。礒廻爲鴨《イソミスルカモ》。
 
大船二《オホフネニ》、(二(ノ)字、類聚抄には、爾と作り、)十五に、於保夫禰爾麻可治之自奴伎《オホフネニマカヂシジヌキ》とあり、○眞梶繁貫《マカヂシヾヌキ》(梶(ノ)(244)字、拾穗抄には※[木+堯]と作り、)左右の楫を、數々繁く貫くといふなり、○磯廻爲鴨《イソミスルカモ》は、磯めぐりをする哉と云なり、磯廻《イソミ》は、磯を廻りて漕行をいふ、(凡て磯回《イソミ》、島回《シマミ》、浦回《ウラミ》など云|回《ミ》は、毛登保理《モトホリ》の切(リ)たる言なる由は、既く云り、さて常に、磯回《イソミ》、島回《シマミ》、浦回《ウラミ》など云は、磯のめぐり、島のめぐり、浦のめぐりてふ意なるが、こゝは自(ラ)磯めぐりをするてふ意にて、言は同じけれど、自他の差別はあるなり、)六(ノ)卷に、玉藻苅辛荷乃島爾嶋回爲流水鳥二四毛有哉家不念有六《タマモカルカラニノシマニシマミスルウニシモアレヤイヘモハザラム》、七(ノ)卷に、嶋回爲等磯爾見之花風吹而波者雖縁不取不止《シマミストイソニミシハナカゼフキテナミハヨストモトラズハヤマジ》、又|鹽干者共滷爾出鳴鶴之音遠放島回爲等霜《シホヒレバトモニカタニデナクタヅノコヱトホザカルシマミスヲシモ》、十九に、藤奈美乎借廬爾造灣回爲流人等波不知爾海部等可見良牟《フヂナミヲカリホニツクリウラミスルヒトトハシラニアマトカミラム》などある、皆同じ意なり、但しこれらの、磯回、嶋回、灣回を、アサリ〔三字右○〕とよめる、それもひがことにはあらじか、(五(ノ)卷に、阿佐里須流阿麻能古等母等比得波伊倍騰《アサリスルアマノコドモトヒトハイヘド》、七(ノ)卷に、朝入爲等磯爾吾見之莫告藻乎誰嶋之泉郎可將刈《アサリストイソニアガミシナノリソヲイヅレノシマノアマカカルラム》、又|朝入爲流海未通女等之《アサリスルアマヲトメラノ》、又|求食爲跡磯二住鶴《アサリストイソニスムタヅ》、又|黒牛乃海紅丹穗經百磯城乃大宮人四朝入爲良霜《クロウシノウミクレナヰニホフモヽシキノオホミヤヒトシアサリスラシモ》、又|朝入爲海人鳥屋見濫《アサリスルアマトヤミラム》、九(ノ)卷に、朝入爲流人跡乎見座《アサリスルヒトトヲミマセ》などあるに、近く聞えたればなり、)されど此は、船に乘て漕行を、漁《アサリ》といはむはいかゞなれば、なほ伊蘇未《イソミ》なるべし、又十九に、藤奈美乎《フヂナミヲ》云々といへるも、浦めぐりをして、遊びあるくを、それとは知ずして外目《ヨソメ》には、漁する海人と見むか、と心づかひしたる意なれば、灣回はアサリ〔三字右○〕ならず、宇羅未《ウラミ》なることしるし、さればもとより、伊蘇未《イソミ》、宇羅未《ウラミ》などいふと、阿佐里《アサリ》とは異なれど、磯廻浦廻して漁するをば、い(245)づれに云ても通ゆれば、(島回《シマミ》などもいひ、阿佐里《アサリ》ともいひて、)難なし、磯廻浦廻して漕行をば、阿佐里《アサリ》とはいふまじきなり、○歌(ノ)意は、海路遙に別れて、旅に行はいとくるしけれど、王命のゆゝしくかしこさに、船に乘て、磯めぐりをしつゝ、漕行哉となり、
 
和歌一首《コタフルウタヒトツ》。
 
369 物部乃《モノヽフノ》。臣之壯士者《オミノオトコハ》。大王《オホキミノ》。任乃隨意《マケノマニマニ》。聞跡云物曾《キクトイフモノゾ》。
 
物部乃は、モノヽフノ〔五字右○〕なり、武勇士をいふ稱なること、既く云り、○臣之壯士者は、オミノヲトコハ〔七字右○〕と訓べし、臣《オミ》とは、朝廷に仕(ヘ)奉る人をいふ稱にて、臣之少女《オミノヲトメ》なども云り、壯士《ヲトコ》は、本居氏、袁登古《ヲトコ》は、古(ヘ)は袁登賣《ヲトメ》と對ふ名にて、古事記に、訓2壯夫(ヲ)1云2袁登古《ヲトコト》1、と見え、書紀には、少男、此云2烏等孤《ヲトコト》1、などあり、集中にも、壯士《ヲトコ》などと書て、若く壯なる男を云り、老たる若きを云はず、男をすべて袁登古《ヲトコ》と云は、後のことなりと云り、(中山(ノ)嚴水は、此壯士は、タケヲ〔三字右○〕と訓べし、此は石上(ノ)大夫をさしていへれば、上の物部も、物(ノ)部氏にて、さてその物(ノ)部氏は、武士をつかさどる職なれば、ものゝふとは云り、さればこの壯士を、タケヲ〔三字右○〕とよむべきことしるしと云り、しかれども、タケヲ〔三字右○〕と云むこと穩ならず、乎登古《ヲトコ》といふ名に、壯健《サカリニタケキ》意はあるなれば、なほヲトコ〔三字右○〕なり、壯士、壯子など書てヲトコ〔三字右○〕と訓べき例、集中に多し、)ヲトコ〔三字右○〕を、壯士、壯子など書る例、四(ノ)卷に、難波壯士乃《ナニハヲトコノ》、七(ノ)卷に、月讀壯士《ツクヨミヲトコ》、九(ノ)卷に、未通女壯士之《ヲトメヲトコノ》、又|智奴壯士宇奈比壯士乃《チヌヲトコウナヒヲトコノ》、又|血沼壯士《チヌヲトコ》云々|菟原壯(246)士《ウナヒヲトコ》云々|壯士墓《ヲトコハカ》、又|陳努壯士《チヌヲトコ》、十(ノ)卷に、月人壯《ツクヒトヲトコ》、十六に、左佐良榎壯士《ササラエヲトコ》、又|月讀壯子《ツクヨミヲトコ》、十(ノ)卷に、月人壯子《ツクヒトヲトコ》、また六(ノ)卷に、八十友能壯者《ヤソトモノヲハ》、十(ノ)卷に、月人壯《ツクヒトヲトユ》、又七(ノ)卷に、壯子《ヲサカリ》などもあり、○任乃隨意《マケノマニマニ》(任(ノ)字、古本には言と作り、そは其(ノ)上に、御(ノ)字のありしが脱たるにて、ミコトノマニマ〔七字右○〕ならむか、)は、十三に、天皇之遣之萬々《オホキミノマケノマニ/\》、十七に、大王能麻氣乃麻爾末爾《オホキミノマケノマニマニ》とあり、本居氏、麻氣《マケ》は、京より他國の官に令《スル》v罷《マカラ》意にて、即(チ)まからせを約めて、麻氣《マケ》とは云なり、史記南越博に、天子|罷《マク》v參(ヲ)、とあり、此(ノ)訓にて、マケ〔二字右○〕はマカラセ〔四字右○〕なることをさとるべしと云り、麻爾末爾《マニマニ》は、後(ノ)世まゝにといふことを、古(ヘ)は麻爾《マニ》と云り、(四(ノ)卷に、大皇之行幸乃隨意《オホキミノイデマシノマニ》、六(ノ)卷に、大皇之行幸之隨《オホキミノイデマシノマニ》、續紀廿五詔に、己可欲末仁《オノガホシキマニ》、字鏡に、態(ハ)、意心悉也、保志支麻爾《ホシキマニ》、などある類なり、)そを疊て、麻爾麻爾《マニマニ》とも、麻爾麻《マニマ》とも、古語に多く云り、○聞跡云物曾《キクトイフモノゾ》は、聽入(レ)從ふものぞとなり、聞《キク》とは、すべてしたしく身に受入るを云言なり、下よりして上に奏《マヲ》す事を、受入うべなひ給ふを、伎許須《キコス》といふは、聞賜ふといふことなり、(伎許須《キコス》は伎久《キク》の伸りたるにて、聞賜ふといふ意になること、既く云たるが如し、)上よりして下に宣(ル)事を、受入(レ)從ふをば、聞《キク》と云り、跡云《トイフ》は、輕く添たる辭のみなり、○歌(ノ)意は朝廷に仕(ヘ)奉る壯士は、何事にまれ、命のまゝに聽入(レ)從ふものぞ、されば任たまふ事を大切にして、かくからき海路をわたるとも、心に怠無(ク)、よく忠勤を勵まし給へとなり、此は官船に從へる人の、和へたるなるべし、
(247)〔右作者未審。但笠(ノ)朝臣金村之歌|集〔○で囲む〕中(ニ)出。也〕
集(ノ)字、舊本に无は脱たるなり、○拾穗本には、作者未詳、一(ニ)云、笠(ノ)朝臣金村之作也、とあるは、おぼつかなし、
 
安倍廣庭卿歌一首《アベノヒロニハノマヘツキミノウタヒトツ》。
 
370 雨不零《コサメフリ》。殿雲流夜之《トノグモルヨヲ》。潤濕跡《ヌレヒヅト》。戀乍居寸《コヒツヽヲリキ》。君待香光《キミマチガテリ》。
 
雨不零は、略解に、雨不(ノ)二字は、※[雨/沐]の誤にて、こさめふりならむ、卷(ノ)十六に、青雲のたな引日すら※[雨/沐]曾保零《コサメソボフル》とあり、と云り、さも有べし、和名抄に、兼名苑(ニ)云、細雨、一名※[雨/脉]※[雨/沐]、小雨也、和名|古左女《コサメ》、とあり、○殿雲流夜之《トノグモルヨヲ》は、殿《トノ》は多那《タナ》に通ひて、多那曇《タナグモ》るといふに同じく、雨雲の棚引合て、曇る夜の由なり、(棚引《タナビク》をも、登能引《トノビク》とも云り、)十三に、登能陰雨者落來奴《トノグモリアメハフリキヌ》、又|棚雲利雪者零來奴《タナグモリユキハフリキヌ》、十七に、等乃具母利安米能布流日乎《トノグモリアメノフルヒヲ》、十八に、等能具毛利安比弖安米母多麻波禰《トノグモリアヒテアアメモタマハネ》など見ゆ、之は乎(ノ)字の誤寫なるべし、之乎相誤れる例多し、と中山(ノ)嚴水云り、夜乎《ヨヲ》は、夜なるものを、といふほどの意なり、上の寒朝開乎《サムキアサケヲ》とある、乎《ヲ》に同じ、○潤濕跡《ヌレヒヅト》は、雨に潤(レ)濕たらば、心のまゝに、相見る事もかたからむとて、といふ意なり、跡《ト》はとての意なり、○戀乍居寸《コヒツヽヲリキ》は、君を戀しく思ひつゝ、家に居けりといふなり、○君待香光《キミマチガテリ》は、もしは君が來ましもせむか、と待がてらといふなり、香光《ガテリ》は、兼てする意、今の世にも、がてらといへり、(俗に、かた/”\といふに似たり、)一(ノ)卷(ノ)下、山邊乃(348)御井乎見我弖利《ヤマヘノミヰヲミガヲリ》、の歌の下に委(ク)云り、○歌意は、雨の甚く零出なば、潤濕《ヌレヒヂ》て、心のまゝに相見る事もかたからむとて、出て行もせずして、もしは君が來ましもせむか、と待がてら戀しく思ひつゝ、夜を徒に明して家に居けり、かくくもりあひて、細雨のみそぼ零し夜なりしを、かくあらむと知ませば、出て心のまゝに逢べかりしものを、さてもくやしき事、といへるなるべし、
 
出雲守門部王《イヅモノカミカドベノオホキミノ》思《シヌヒタマフ》v京《ミヤコヲ》歌一首《ウタヒトツ》。
 
門部(ノ)王は、上に出て、傳其處に云り、○一首の下に、古寫一本に、後賜2姓大原眞人氏1也、の九字あり、
 
371 〓|宇〔○で囲む〕海乃《オウノウミノ》。河原之乳鳥《カハラノチドリ》。汝鳴者《ナガナケバ》。吾佐保河乃《ワガサホカハノ》。所念國《オモホユラクニ》。
 
〓宇海乃《オウノウミノ》、(〓(ノ)字、拾穗本には飫と作り、)〓與v飫同(シ)、と字書に見ゆ、〓宇《オウ》、和名抄に、出雲(ノ)國意宇(ノ)(於宇《オウ》)郡(府)とあり、宇(ノ)字、舊本に無(キ)は落たること決《ウツナ》し、四(ノ)卷此(ノ)王(ノ)歌に、飫宇能海之鹽干乃滷之《オウノウミノシホヒノカタノ》云々、とあるによりて、補べし、又廿(ノ)卷讃岐(ノ)守安宿(ノ)王等、集2於出雲(ノ)掾安宿(ノ)奈杼磨之家(ニ)1宴歌に、於保吉美乃美許等加之古美於保乃宇良乎曾我比爾美都都美也古敝能保流《オホキミノミコトカシコミオホノウラヲソガヒニミツツミヤコヘノボル》、とある於保は、於宇を寫し誤れるにて、同處なるべし、名の由は、出雲風土記に、所3以號2意宇(ト)1義、國引(キ)坐八束臣津野(ノ)命詔(ハク)、八雲立(ツ)出雲(ノ)國者、狹布之稚國在哉《サヌノノワカクニナルカモ》、初國小所作《ハツクニチヒサクツクラセリ》、故(レ)將(ト)2作(リ)縫1詔《ノリタマヒテ》而云々、今者國引訖詔而意宇イマハクニヒキヲヘヌトノリタマヒテオウノ》(249)社|爾御杖衝立而《ニミツヱツキタテテ》、意惠登詔《オヱトノリタマヒキ》、故(レ)謂2意宇(ト)1、とあり、意惠《オヱ》は、事を勞きて苦きを息《イコ》ふ時の聲なり、さて惠《ヱ》は字延《ウエ》のつゞまりたる音にて、上に宇《ウ》を帶る故におのづから、後|意宇《オウ》とはなれるなるべし、と本居氏云り、○河原之乳鳥《カハラノチドリ》は、河原に住千鳥をいふ、千鳥は多く河邊によみ合(セ)たり、十九に、夜具多知爾寢覺而居者河瀬尋《ヨクダチニネサメテヲレバカハセトメ》、情毛之奴爾鳴知等理賀毛《コヽロモシヌニナクチトリカモ》ともよめり、さて河原とは、契冲も云し如く、意宇(ノ)海に流れ入川をいふなるべし、○吾佐保河乃《ワガサホカハノ》は、吾(カ)本郷の佐保河之といふなり、吾といへるは、本郷なれば親みてなり、○所念國《オモホユラクニ》は、おもはるゝことなるものを、といふ意なり、○歌(ノ)意は意宇の河原にすむ千鳥よ、汝が鳴ば、さらぬだに戀しき本郷の佐保河の、いよ/\こひしくおもはれて、堪がたきものを、心してさのみ鳴ことなかれ、といふ意を含めたるなり、
 
山部宿禰赤人《ヤマベノスクネアカヒトガ》。登《ノボリテ》2春日野《カスガヌニ》1作歌一首并短歌《ヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
登2春日野1は、山上にある野なれば、登といへり、(荒木田氏が野(ノ)字を、山に改めしは、中々に誤なるべし、)高圓の岑上《ヲノヘ》の宮とも、野上《ヌノヘ》の宮とも云る例にて、すべて山(ノ)上に、野あることを知べし、廿(ノ)卷題詞に、各提2壺酒(ヲ)1、登2高圓野(ニ)1、聊述2所心1作歌、とも見ゆ、○略解に、是は相聞歌なれば、かく端詞あらむともおぼえず、後人の書るならむ、と云るは、甚あさはかなり、すべて古(ヘ)は、相聞にも何にも、後世の如く、地(ノ)名にても何にても、わざと設て作(ム)ことはなく、目のあたり其(ノ)地其(ノ)物に(250)ふれて作けるなれば、これも春日野に登て、戀情を催して、やがて其(ノ)野のさまもて、思を發《ノベ》たるにこそあれ、なほ下にもいふ、
 
372 春日乎《ハルヒヲ》。春日山乃《カスガノヤマノ》。高座之《タカクラノ》。御笠乃山爾《ミカサノヤマニ》。朝不離《アササラズ》。雲居多奈引《クモヰタナビキ》。容鳥能《カホトリノ》。間無數鳴《マナクシバナク》。雲居奈須《クモヰナス》。心射左欲比《コヽロイサヨヒ》。其鳥乃《ソノトリノ》。片戀耳二《カタコヒノミニ》。畫者毛《ヒルハモ》。日之盡《ヒノコト/”\》。夜者毛《ヨルハモ》。夜之盡《ヨノコト/”\》。立而居而《タチテヰテ》。念會吾爲流《オモヒゾアガスル》。不相兒故荷《アハヌコユヱニ》。
 
春日乎《ハルヒヲ》は、枕詞なり、春日之霞《ハルヒノカスム》といふ意に、云係たるなり、武烈天皇(ノ)紀(ノ)歌に、播屡比能箇須我嗚須擬《ハルヒノカスガヲスギ》、繼體天皇(ノ)紀(ノ)歌に、播屡比能賀須我能倶爾々《ハルヒノカスノクニヽ》などあり、こゝは春日之《ハルヒノ》といふべきを、之《ノ》を乎《ヲ》に通(ハシ)云り、凡て之《ノ》といふべきを、乎《ヲ》と云る例、四(ノ)卷に、味酒呼《ウマサケヲ》(味酒之《ウマサケノ》なり、)三輪之祝我《ミワノハフリガ》、十三に、御佩乎《ミハカシヲ》(御佩之《ミハカシノ》なり、)劔池之《ツルギノイケノ》、十一に、處女等乎《ヲトメラヲ》(處女等之《ヲトメラガ》なり、)袖振山《ソデフルヤマ》、十四に、可麻久良夜麻爾許太流木乎《カマクラヤマニコダルキヲ》(木垂木之《コタルキノ》なり、)麻都等奈我伊波婆《マツトナガイハバ》、十五に、伊能知乎《イノチヲ》(命之《イノチノ》なり、)麻多久之安良婆《マタクシアラバ》、十八に、夜岐多知乎《ヤキタチヲ》(燒太刀之《ヤキタチノ》なり、)刀奈美能勢伎爾《トナミノセキニ》、などある類なり、(これらみな、之《ノ》と乎《ヲ》と通はし云り、さるゆゑをもしらで、世の人皆かにかくにまどふめり、)○春日山《カスガノヤマ》は、和名抄に、大和(ノ)國添上(ノ)郡春日(加須加《カスガ》、)とありて、名高き山なり、名の由縁は、姓氏録(ノ)左京皇別、大春日(ノ)朝臣(ノ)條(ニ)云、仲臣、令d家重2千金(ヲ)1委(テ)v糟(ヲ)爲uv堵《カキト》、于v時大鷦鷯(ノ)天皇、(謚仁徳、)臨2幸其(ノ)家(ニ)1、詔號2糟垣《カスカキノ》臣(ト)1、後改爲2春日(ノ)臣(ト)1、とあり、この氏人の住めりしより、地(ノ)名ともなれるにやあらむ、○高座之《タカクラノ》は、枕詞なり、契冲、天子の高御(251)座の上に、蓋をかけらるゝゆゑに、御笠の山といはむとて、高座《タカクラ》のとはいへるなり、と云り、本居氏、高御座は天の御座と云むが如し、高とは天をいふ、たゞ高きよしには非ず、天皇の御座は、即(チ)高天(ノ)原にして、天照大御神のまします御座を、受(ケ)傳へますよしをもて、高御座とは申すなり、と云るが如し、その高御座は、内匠寮式に、凡毎v年、元正前一日、官人、率2木工長上雜工等(ヲ)1、装2飾大極殿高御座(ヲ)1、(蓋作2八角(ニ)1、角別上立2小鳳像(ヲ)1、下懸(ニ)以2玉幡(ヲ)1、毎v面懸2鏡三面(ヲ)1、當v頂(ニ)著2大鏡一面(ヲ)1、蓋上立2大鳳像(ヲ)1總鳳像九隻、鏡二十五面云々、)と見えたる如し、○御笠乃山《ミカサノヤマ》は、既く二(ノ)卷に出たり、春日山の中に、社あるかたに、すこしひきゝ山をいふといへり、○朝不離《アササラズ》は、朝毎にといはむがごとし、夕不離《ユフサラズ》といへる類なり、○容鳥《カホトリ》は、鳥(ノ)名なり、此(ノ)鳥のこと、未(ダ)詳に考(ヘ)知ず、猶品物解にいふ、○間無數鳴《マナクシバナク》は、無間屡鳴《ナクマシバナク》なり、十九に、?波之婆奈吉爾之乎《ウグヒスハシバナキニシヲ》、(屡鳴《シバナキ》にしをなり、)廿(ノ)卷に、可治都久米於等之婆多知奴《カヂツクメオトシバタチヌ》、(※[楫+戈]著籠音屡立《カヂツクメオトシバタチ》ぬなり、)この之婆《シバ》てふ言を重ねて、之婆之婆《シバシバ》とも云り、(石塚氏が、之婆之婆《シバシバ》といふを略きて、之婆《シバ》とばかりもいふぞ、と云りしは、本末を取たがへたる、言ざまなり、)然るを之婆之婆《シバシバ》とは、常にもいふを、之婆《シバ》とばかりいふことは、今(ノ)世には耳遠くなれるが如し、さて初句より此までは、雲居奈須《クモヰナス》云々、其鳥乃云々を、いひ興さむ料の序なり、○雲居奈須《クモヰナス》は、如v雲の意なり、居の言に別に意なし、○心射左欲比《コヽロイサヨヒ》は、既く出づ、○片戀耳爾《カタコヒノミニ》は、倚偏《カタカタ》に獨戀るばかりにといふ意なり、集中に多し、獨戀《カタコヒ》ともかけり、○晝者毛《ヒルハモ》云々の四句は(252)既く二(ノ)卷に出づ、○立而居而《タチテヰテ》、これも集中に多き詞なり、立ても居てものこゝろなり、十一に、立念居毛曾念《タチテオモヒヰテモゾオモフ》とある意なり、舒明夫皇紀に、立思矣《タチテオモヒ》、居思矣《ヰテオモヒ》、未v得2其漣(ヲ)1、と見えたり、○不相兒故荷《アハヌコユヱニ》は、相ぬ兒なるものをの意なり、(本居氏云、俗言に、あはぬ兒ぢやにといふに同じ、)○歌(ノ)意かくれたるところなし、契冲云、この歌はおもひかけたる人ありて、よまれたりと見ゆる歌なれば、第四の相聞の部に入ぬべきを、春日野にして野望の次(デ)、物に感じてよまれければ、こゝには載たるなるべし、
 
反謌《カヘシウタ》。
 
373 高※[木+安]之《タカクラノ》。三笠乃山爾《ミカサノヤマニ》。鳴鳥之《ナクトリノ》。止者繼流《ヤメバツガルル》。戀哭爲鴨《コヒモスルカモ》。
 
高※[木+安]之《タカクラノ》は、枕詞なり、長歌に云る如し、※[木+安](ノ)字、クラ〔二字右○〕と訓ことも既く云り、(拾穗本には鞍と作り、)○鳴鳥《ナクトリ》は、長歌の容鳥《カホトリ》なり、○止者繼流《ヤメバツガルル》は、契冲云、鳴やむかときけば、又鳴つぐによせて、戀する人も、人のきくをはゞかりて、しばしなきやめども、堪ずしてなかるゝを、かの鳥にたとふるなり、第十一に、君がきる三笠の山に居雲の立ば繼るゝ戀もするかも、同じやうの作なり、○戀哭爲鴨《コヒモスルカモ》は、戀をもする事哉、といふ意なり、哭(ノ)字は、拾穗本には喪とかけり、然れどもモ〔右○〕といふ辭に、哭(ノ)字をかけること、集中に例多し、(哭(ノ)字を、モ〔右○〕とよめるは、喪には哭するゆゑにや、と契冲はいへり、)余(ガ)考あり、後に云ふべし、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
(253)石上乙麻呂朝臣歌一首《イソノカミノオトマロノアソミノウタヒトツ》。
 
乙麻呂(ノ)朝臣の傳は、上に委(ケ)云り、類聚抄に、右大臣從一位丸(ノ)子也とあり、
 
374 雨零者《アメフラバ》。將盖跡念有《キナムトモヘル》。笠乃山《カサノヤマ》。人爾莫令蓋《ヒトニナキシメ》。霑者漬跡裳《ヌレハヒヅトモ》。
 
將盖跡有念は、キナムトモヘル〔七字右○〕と訓べし、雨零ば、其(ノ)時に蓋《キ》なむと、豫《カネ》ておもへるよしなり、○笠乃山《カサノヤマ》は、契冲が云る如く、三笠山なるべし、○人爾莫令蓋は、ヒトニナキシメ〔七字右○〕と訓べし、後(ノ)世の、心ならば、莫《ナ》蓋《キ》しめ曾《ソ》、といふべきを、曾《ソ》をいはざるは、古歌に多し、上に云り、○歌(ノ)意は、雨零ば、其(ノ)時に自己《オノ》が蓋《キ》なむと、豫ておもへる笠の山ぞ、たとひ雨にぬれひづとも、他人に令《セシム》v蓋《キ》る事なかれ、と云るなり、宮地(ノ)春樹(ノ)翁云、此(ノ)歌は、譬喩にもあらず、唯三笠山の面白き景色なるを愛て、此(ノ)山は、吾ひとりの物と見むと、興じてよまれしなるべし、
 
湯原王芳野作歌一首《ユハラノオホキミノヨシヌニテヨミタマヘルウタヒトツ》。
 
湯原(ノ)王は、志貴(ノ)親王の御子にて、春日(ノ)王の弟などにや、後紀に、延暦廿四年十一月丁丑、壹志濃王薨(ス)、田原(ノ)天皇之孫、湯原(ノ)親王之第二子(ナリ)、と見ゆ、
 
375 吉野爾有《ヨシヌナル》。夏實之河乃《ナツミノカハノ》。川余杼爾《カハヨドニ》。鴨曾鳴成《カモゾナクナル》。山影爾之?《ヤマカゲニシテ》。
 
吉野爾有《ヨシヌナル》は、吉野に在(ル)なり、春日爾在御笠山《カスガナルミカサノヤマ》など云類なり、○夏實乃河《ナツミノカハ》は、九(ノ)卷に、落多藝津夏身之河門雖見不飽香聞《オチタギツナツミノカハトミレドアカヌカモ》、又|大瀧乎過而夏箕爾傍居而《オホタキヲスギテナツミニソヒヲリテ》、淨河瀬見河明沙《キヨキカハセヲミルガサヤケサ》などよめり、吉野にて(254)名高き河なり、○山影爾之底《ヤマカゲニシテ》は、唯山影にの意にて、之?《シテ》は、輕く添たる辭なり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
湯原王宴席歌二首《ユハラノオホキミノウタゲノトキノウタフタツ》。
 
376 秋津羽之《アキヅハノ》。袖振妹乎《ソデフルイモヲ》。珠※[しんにょう+更]《タマクシグ》。奧爾念乎《オクニオモフヲ》。見賜吾君《ミタマヘアギミ》。
 
秋津羽《アキヅハ》は、契冲、秋津《アキヅ》は、蜻蛉《アキヅ》なり、其(ノ)羽のうつくしきに、妹が袖をよせていふとなり、仁徳天皇(ノ)紀に、磐之媛(ノ)御歌に、夏蟲の火むしの衣、とよませたまふ類なり、と云り、十三に、蛾葉之衣浴不服爾とあるも、蜻葉之衣谷不服爾《アキヅハノキヌダニキズニ》の誤なるべくおぼゆ、なほ彼處に云べし、○玉※[しんにょう+更]《タマクシゲ》(匣を※[しんにょう+更]と作る例、外にもあり、)は、枕詞にて、櫛笥の底の方を奥《オク》と云(ヘ)ば、奥《オク》といはむ料なり、○奥爾念乎《オクニオモフヲ》は、奥設て、深く思ふ妹なるをのよしなり、○見賜吾君はミタマヘワギミ〔七字右○〕と訓、吾君余《ワギミヨ》といふ意なり、吾君は、こゝにては客人をさせり、今昔物語に、和君《ワギミ》行て、利口にいひきかせよ、又|和君《ワギミ》門を開きて、いひこしらへよなどあり、○歌(ノ)意は、奥設て、深く思ふ女なれば、常は奥深く秘《ヒメ》置て、たやすく人に見せしめずてあるを、今日のあるじ設(ケ)に出して、蜻蛉羽の袖を振て舞しむるを、おもしろく見たまへ吾君よ、といふ意なり、三四一二五、と句を次第て意得べし、契冲云、宴席の歌なれば、客をもてなさむがために、秘藏の妓女、あるひは妾などを出して、まはしめて、君がため何をがな、御なぐさみにと、此(ノ)妹が袖をふらしむれば、よく御覽ぜよとなり、
 
(255)377 青山之《アヲヤマノ》。嶺乃白雲《ミネノシラクモ》、朝爾食爾《アサニケニ》。恒見杼毛《ツネニミレドモ》。目頬四吾君《メヅラシワギミ》。
 
青山《アヲヤマ》は、名處にあらず、青葉之山とよゆるに同じく、何處にまれ、たゞ青く繁りたる山を云、神代紀に、青山《アヲヤマ》爲v枯《カラヤマト》、此(ノ)集、一(ノ)卷に、青香具山《アヲカグヤマ》と見え、七(ノ)卷には、青山葉茂山邊《アヲヤマノハシゲキヤマヘ》とよめり、○朝爾食爾《アサニケニ》は、朝に日にといふに同じ、食《ケ》は來經《キヘ》の切(リ)たる言にて、既く出、○目頻四吾君《メヅラシワギミ》は、愛《メヅラ》し吾君よ、といふ意なり、此は客人を愛てのたまへるなり、目頻四は、二(ノ)卷にも、此(ノ)上にも出たり、書紀神功皇后(ノ)卷に、皇后曰、希見物也《メヅラシキモノナリ》、希見、此云2梅豆邏志《メヅラシト》1、履中天皇(ノ)卷に、希有《メヅラシ》、崇峻天皇(ノ)卷に、爰有2萬(カ)養(ラ)白犬1、云々、此(ノ)犬世(ニ)所希聞《メヅラシ》、(萬は人(ノ)名なり、)靈異記に、奇(ハ)、メヅラシ〔四字右○〕、字鏡に、貨(ハ)女豆良志《メヅラシ》、※[人偏+困]儻(ハ)、女豆良之《メヅラシ》など見えたり、世に希なる物は、殊に人に愛《メヅラ》しまるゝより、多く希なる物をいふ事になれり、(希なるものをいふが本にて、それよりうつれるものと思ふは、あらぬ事なり、)○歌(ノ)意は、青山の嶺に、白雲のたなびける風景の、おもしろくて、常に見れども見あかぬが如く、朝夕となく、常住《ツネ》に見まゐらすれども、あくよなく、愛《メヅラ》しまるゝ吾君ぞ、と云るなり、
 
山部宿禰赤人《ヤマベノスクネアカヒトガ》。詠《ヨメル》2故太政大臣藤原家之山池《オヒテタマヘルオホモマツリゴトノオホマヘツキミノフヂハラノイヘノイケヲ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
故太政大臣は、淡海公なり、持統天皇紀に三年二月甲申朔己酉、直廣肆藤原(ノ)朝臣|史《フヒトヲ》爲2判事(ト)1、十年十月己巳朔庚寅、假2賜直廣貳藤原(ノ)朝臣不比等(ニ)資人五十人(ヲ)1、續紀に、文武天皇二年八月丙午、詔曰、藤原(ノ)朝臣(ノ)所v賜之姓、宜v令2其子不比等(ニ)承1之、四年六月甲午、勅2直廣壹藤原朝臣不比等(ニ)1、撰2定(256)律令1、大寶元年三月甲子、授2正三位1爲2大納言(ト)1、慶雲元年正月、大納言從二位藤原(ノ)不比等(ニ)益2封八百戸1、元明天皇和銅元年正月、正二位、三月丙午、爲2右大臣(ト)1、正天皇養老四年三月甲子、有v勅、特加2授刀資人三十人(ヲ)1、八月辛未朔、病賜2度三十人(ヲ)1、癸未、是日右大臣正二位藤原(ノ)朝臣不比等薨(ス)、云云、大臣(ハ)近江(ノ)朝、内大臣大織冠鎌足之第二子也、十月壬寅、就2右大臣(ノ)第(ニ)1、宣v詔、贈2太政大臣正一位(ヲ)1、廢帝寶字四年八月甲子、勅曰、其先朝(ノ)太政大臣藤原(ノ)朝臣者、非3唯功高(ノミニ)2於天下(ニ)1、是復皇家之外戚(ナリ)、是以先朝、贈2正一位太政大臣(ヲ)1、云々、追以2近江(ノ)國十二郡(ヲ)1、封(シテ)爲2淡海公(ト)1、餘官如v故(ノ)、云々、懷風藻に、贈太政大臣藤原(ノ)朝臣史五首、年六十三、諸陵式に、多武(ノ)岑(ノ)墓、(贈太政大臣正一位淡海公藤原(ノ)朝臣、在2大和(ノ)國十市(ノ)郡(ニ)1、)と見えたり、(大和志に、多武(ノ)峯巓(ノ)墓、南百歩許(ニ)、建2十三層石浮圖(ヲ)1、勒曰、永仁六年立、謂2之峯塔(ト)1、傳云、薦2公(ノ)冥福(ヲ)1也、と見ゆ、)按(フ)に、故は贈(ノ)字に改(ム)べし、贈はオヒテタマヘル〔七字右○〕と訓べし、天武天皇(ノ)紀(ノ)下に、大錦上坂本(ノ)財(ノ)臣卒、由2壬申(ノ)年之勞(ニ)1、贈《オヒテタマフ》2小紫位(ヲ)1、續後紀八(ノ)卷(ノ)詔に、在v唐(ニ)天身罷太留《テミマカリタル》、判官《マツリコトヒト》藤原(ノ)豐竝|乎毛《ヲモ》、哀愍賜比追天冠位賜久度詔不《アハレミタマヒオヒテカヾフリクラヒタマハクトノリタマフ》、云々、贈2在v唐身亡、判官正六位上藤原(ノ)朝臣豐竝(ニ)從五位上(ヲ)1、と見えたり、○藤原(ノ)家は、高市(ノ)郡藤原の別荘なるべし、
 
378 昔者之《ムカシミシ》。舊堤者《フルキツヽミハ》。年深《トシフカミ》。池之瀲爾《イケノナギサニ》。水草生家里《ミクサオヒニケリ》。
 
昔者之は、田中(ノ)道麻呂(ノ)説に、者は看(ノ)字の誤にて、ムカシミシ〔五字右○〕なるべし、と云るに從べし、○年深は、トシフカミ〔五字右○〕と訓べし、(トシフカク〔五字右○〕とよめるは誤なり、)年を深く經たる故にの意なり、○水(257)草生家里《ミクサオヒニケリ》は、君まさで、苅除《カリノク》る事もなければ、水草の繁く生にけりといふなり、水草は字の如く、何にまれ、水に生る草を云、(新古今集に、絶ぬるか影だに見えば問べきをかたみの水は水草居にけり、)○歌(ノ)意は、かくれたるところなし、(契冲云、河原(ノ)院にて、貫之の、煙たえにししほがまの、とよまれし心におなじ、)二(ノ)卷に、草壁(ノ)太子の薨たまへる時、舍人がよめる歌に、御立爲之島之荒磯乎今見者《ミタヽシシシマノアリソヲイマミレバ》、不生有之草生爾來鴨《オヒザリシクサオヒニケルカモ》とあると同類なり、
 
大伴坂上郎女祭神歌一首井短歌《オホトモノサカノヘノイラツメガカミマツリノウタヒトツマタミジカウタ》。 
 
大伴(ノ)坂上(ノ)郎女は、佐保大納言大伴(ノ)宿禰安麻呂(ノ)卿の女にて、旅人(ノ)卿の妹、稻公の妹、家持(ノ)卿の叔母にて、又姑なり、初一品穗積(ノ)皇子に娶《メサ》れ、皇子薨賜へる後、藤原(ノ)朝臣麻呂(ノ)(不比等(ノ)男、)妻となりて、幾程なく、麻呂薨られければ、大伴(ノ)宿禰宿奈麻呂に再嫁て、田村(ノ)大孃、坂上(ノ)大孃など生たり、此(ノ)郎女、坂上(ノ)里に、家造りて居れける故、坂上(ノ)郎女と呼なせり、
 
379 久堅之《ヒサカタノ》。天原從《アマノハラヨリ》。生來《アレコシ》。神之命《カミノミコト》。奧山乃《オクヤマノ》。賢木之枝爾《サカキノエダニ》。白香付《シラガツク》。木緜取付而《ユフトリツケテ》。齋戸乎《イハヒヘヲ》。忌穿居《イハヒホリスヱ》。竹玉乎《タカタマヲ》。繁爾貫垂《シヾニヌキタリ》。十六自物《シシジモノ》。膝折伏《ヒザヲリフセ》。手弱女之《タワヤメノ》。押日取懸《オスヒトリカケ》。如此谷裳《カクダニモ》。吾者祈奈牟《アレハコヒナム》。君爾不相可聞《キミニアハヌカモ》。
 
生來は、アレコシ〔四字右○〕と訓べし。アレ〔二字右○〕の言は、既く出づ、(生(ノ)字を書るは、所生《ウマレ》は、阿禮《アレ》と切れる故に、生を阿禮《アレ》と訓ばなり、されど阿禮《アレ》は、直に生《ウマル》る義には非ず、)阿禮《アレ》は、この世に現(レ)出るをいふ言に(258)て、現人神《アラヒトカミ》といふ、現《アラ》と同言なり、大伴氏(ノ)遠(ツ)祖天(ノ)忍日(ノ)命は、高皇産靈(ノ)尊の五世の孫にして、初(メ)邇邇藝(ノ)尊の日向(ノ)高千穗(ノ)峯に天降しゝ時に、御前に立して從駕《ツカヘマツリ》し神にて、其(ノ)かみ高天(ノ)原よりして名高く、世にいちしるかりければ、天(ノ)原より、現出來しといふなり、○神之命《カミノミコト》は、此は其(ノ)神に向ひて、白す言なれば、神之命《カミノミコト》よといふ意なり、さて此は、左註に、供2祭大伴氏(ノ)神(ヲ)1、とあれば、遠(ツ)祖天忍日(ノ)命なり、命は尊稱にて、古事記に、八千矛(ノ)神、自《ミヽヅカ》ら夜知富許能加微能美許登《ヤチホコノカミノミコト》と歌ひ給ひ、集中五(ノ)卷に、多良志比※[口+羊]可尾能彌許等《タラシヒメカミノミコト》、六(ノ)卷に、吾皇神乃命《ワガオホキミカミノミコト》、十九に、和多都民能可味能美許等《ワタツミノカミノミコト》などあり、凡て上代には、父命《チヽノミコト》、母命《ハヽノミコト》、名兄命《ナセノミコト》、妻命《ツマノミコト》、弟命《オトノミコト》なども云り、○賢木之枝爾《サカキノエダニ》は、榊(ノ)枝になり、賢木は、今(ノ)世にいふ榊なり、(岡部氏が、賢木は、一(ツ)の樹の名にはあらで、たゞ常葉なる木を、眞榮樹といひしなり、とあるを從《ウケ》て、古事記傳にもしるされたれど、しからず、佐可樹《サカキ》といふ名も、榮樹の義にはあらず、)賢木と書るは、賢は借(リ)字にて、狹清明樹《サアカキ》なるべし、狹《サ》は、例の眞《マ》に通ふ言にて、狹男牡鹿《サヲシカ》などの狹《サ》なり、さてこの樹は、いと清淨なる樹にて、往古より、もはら供神料に用ひしなり、なほ甚委く、品物解に云、○白香付《シラガツク》は、十二に、白香付木綿者花物《シラガツクユフハハナモノ》とあり、本居氏云、大平が考に、白香付《シラガツク》は、集中三所にありて、皆|白香《シラガ》とのみ書て、白髪《シラガ》とは書る所なし、されば白髪の意にはあらで、白紙なるべし、奈良の比より、木々に取そへて、白紙をも切かけて著たりけむ、されば白紙を添付る木綿、といふ意にて、白香付木綿《シラガツクユフ》とは云なるべし、さて(259)十九に、白香著朕裳裙爾鎭而將待《シラガツクワガモノスソニイハヒテマタム》とあるは、木綿にはあらで、たゞ白紙なるべし、白紙をしらがと云は、白髪の例に同じと云り、○木綿取付《ユフトリツケテ》は、木綿は、古語拾遺に、令d長白羽(ノ)神(ニ)、種v麻(ヲ)、以爲(ラ)c青和幣《アヲニギテヲ》u、令d天(ノ)日鷲(ノ)神(ニ)、以2律咋見(ノ)神(ヲ)1、穀木種殖《カヂノキヲウヱテ》之、以作(ラ)c白和幣《シラニキテヲ》u、(是木綿也、已上二(ノ)物、一夜(ニ)蕃茂《シゲレリ》也、)豐後(ノ)國(ノ)風土記に、速水(ノ)郡柚富(ノ)郷、云々、此(ノ)郷之中、栲樹多(ニ)生、常(ニ)取2栲(ノ)皮(ヲ)1、以造2木綿(ヲ)1、因曰2柚富(ノ)郷1、と見ゆ、栲(ノ)皮もて造るものなるをしるべし、取付《トリツケ》は、取とは、手して物する事にそへいふ言、付は、榊(ノ)枝に著るなり、十七に、之良奴里能鈴登里都氣底《シラヌリノスヾトリツケテ》ともよめり、さて賢木に木綿著ることは、古事記に、天(ノ)香山之五百津眞賢木矣、根許士爾許士而云々、於2下枝1取2垂白丹寸手青丹寸手(ヲ)1云々、とあるをはじめて、往々見えたり、○齊戸乎《イハヒヘヲ》は、(齊(ノ)字、拾穗本には齋と作り、但集中には、齊齋通(シ)用たり、小補韻會にも、齊(ハ)莊皆(ノ)切、同v齋、と見えたり、)齊忌瓮《イハヒヘ》をにて、清淨なる酒器をいふ、書紀に、嚴瓮《イツヘ》、忌瓮《イハヒヘ》など云る類なり、古事記孝靈天皇(ノ)條に、於2針間(ノ)氷河之前1、居2忌瓮《イハヒヘヲ》1而云々、崇神天皇(ノ)條に、於2丸邇坂1居2忌瓮《イハヒヘヲ》1而云々など見ゆ、瓮は、仁賢天皇(ノ)紀に、瓮、此云v倍《ヘト》、と見え、貞觀儀式大甞(ノ)用度に、淡路(ノ)國御原郡、瓮十口、(各受2一斗五升1、)など見ゆ、〇忌穿居《イハヒホリスヱ》は、古(ヘ)は地を齋清《イミキ∃》め穿(リ)て、瓮の下(ツ)方を埋みて、居置ながらに酒を造て、神に供進《マツ》れゝば、かくいへり、十三に、齊戸乎石相穿居竹珠乎無間貫垂天地之神祇乎曾吾祈《イハヒヘヲイハヒホリスヱタカタマヲマナクヌキタリアメツチノカミヲゾアガノム》、土佐(ノ)國の、神社のかたはらに、甕を穿居たるが、やゝ舊《ヒサシ》き年數を歴たりと見ゆるが、こゝかしこにあるは、齊穿居しものとおもはるゝなり、本居氏、今時も土(ノ)(260)中より、上(ツ)代の瓦器を、ほり出ることをり/\ありて、見るに、底圓くて、直に居れば傾きまろぶなりと云り、○竹玉《タカタマ》は、舊説に、竹をつぶ/\と切て、糸に貫て、神に奉るものなりといへり、本居氏云、もとは神代紀に云る、五百箇野篶八十玉籤《イホツヌスヽノヤソタマクシ》にて、玉を緒に貫て、小竹に著て、神を齋ふことに用ひたるならむを、やゝ後に成て、玉の代に、竹をくだの如く切て、緒を貫けるなるべし、竹玉を、八十玉籤のことゝして、其(ノ)竹に著たるを、竹玉を繁に貫垂とはいひがたし、○繁爾貫垂《シヾニヌキタリ》は、下(ノ)挽歌に、竹玉乎無間貫垂《タカタマヲマナクヌキタリ》、十三(或本歌)に、竹珠呼之自二貰垂《タカタマヲシジニヌキタリ》とあり、○十六自物《シシジモノ》は、枕詞なり、既く出づ、○膝折伏《ヒザヲリフセ》は、二(ノ)卷に、鹿自物伊波比伏管《シヽジモノイハヒフシツヽ》とあるに同じ、猪鹿の類は、膝を折て伏ものなれば云り、續後紀十九、興福寺(ノ)僧(カ)長歌に、狹牡鹿乃膝折反《サヲシカノヒザヲリカヘシ》とも見ゆ、此は敬伏《ウヤマヒ》のさまなり、○手弱女《タワヤメ》は、古事記にもかく書り、訓は、十五に、多和也女《タワヤメ》とあるに據べし、手《タ》は、(手(ノ)字の意ともいふべけれど、さにはあらじ、)唯添いふ辭、和也《ワヤ》は、弱なり、古事記倭建(ノ)命(ノ)御歌に、多和夜賀比那《タワヤガヒナ》とあるも、美夜受比賣《ミヤズヒメ》の、手弱肘《タワヤカヒナ》を云るなり、さて此(ノ)下に、手弱寸女有者《タワヤキメニシアレパ》とよめる如く、男を正荒男《マスラヲ》と云に、對(ヘ)て云る稱ぞ、和名抄に、手弱女人(ハ)、太乎夜米《タヲヤメ》、とあり、(これによりて、書紀、集中などにても、タヲヤメ〔四字右○〕と訓るは、やゝ後に、訛れる言によれる、ひがことぞ、)○押日取懸《オスヒトリカケ》は、押日は、意曾比《オソヒ》と通ひて、襲覆を約めたるなり、さて其(ノ)状は、後(ノ)世の婦人《ヲミナ》の被衣《カヅキヾヌ》などの如く、頭より被《カヾフリ》て、衣の上を掩ひ、下は襴《スソ》まで垂ると見ゆ、さて其は、上(ツ)代に、男女共に、人に誰と知れじと、(261)面貌を隱す料の服とは見えたり、さて女は、常にも人に見ゆることを恥て、貌を隱す物にしあれば、いつとても著たるなるべし、然るを、奈良の頃などになりては、男の著ることは、既く絶て、女の古の禮服の如くなりて、神を祭るときなどにのみ、著けるなるべし、となほ委く、古事記傳十一に見えたり、取《トリ》は、上の取付《トリツケ》の取に同じ、懸は被る事なり、○如此谷裳《カクダニモ》は、常にかくまでにも、といふが如し、十四に、可久太爾毛久爾乃登保可波奈我目保里勢牟《カクダニモクニノトホカバナガメホリセム》と見えたり、○吾者祈奈牟《アレハコヒナム》(祈(ノ)字、折に誤、今は異本に從、)は、吾者乞?《アレハコヒノム》なり、○君爾不相可聞《キミニアハヌカモ》は、いかで君に逢《アヒ》ねかし、と希望《ネガフ》意なり、不可聞《スカモ》(不は借(リ)字のみにて、字(ノ)意には非ず、奴《ヌ》は希望(ノ)辭の、禰《ネ》の通るなり、)といふ言の例、上に云り、十(ノ)卷に、霞發永春日戀暮夜深去妹相鴨《カスミタツナガキハルヒヲコヒクラシヨノフケユキテイモニアハヌカモ》とある、妹相鴨に、全同いひざまなり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、如此までに、敬禮をきはめ、心を著して、乞?白せば、その驗《シルシ》ありて、いかで君に逢ねかし、となり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
380 木綿疊《ユフタヽミ》。手取持而《テニトリモチテ》。如此谷母《カクダニモ》。吾波乞甞《アレハコヒナム》。君爾不相鴨《キミニアハヌカモ》。
 
木綿疊《ユフタヽミ》は、六(ノ)卷に、木綿疊手向乃山乎《ユフタヽミタムケノヤマヲ》、十二に、木綿牒手向乃山乎《ユフタヽミタムケノヤマヲ》などあり、疊《タヽミ》は、古事記海(ノ)宮(ノ)條に、美智皮之疊《ミチノカハノタヽミ》敷2八重(ヲ)1、亦|※[糸+施の旁]《キヌ》疊八重(ヲ)敷2其上(ニ)1、坐2真(ノ)上(ニ)1、云々、倭建(ノ)命(ノ)條、橘比賣(ノ)命の海に入座處に、以《ヲ》2菅疊《スガタヽミ》八重、皮疊《カハタヽミ》八重、※[糸+施の旁]疊《キヌタヽミ》八重1、敷2于波(ノ)上(ニ)1而、下2坐其上(ニ)1、云々、齋宮式に、祓料云々、短帖一枚云々大(262)甞祭式に、云々狹帖短帖、云々、掃部寮式に、寮宮人、授云々御帖等、云々、試2延暦寺年分度者1座科、云々、葛野席帖三枚、云々、集中に、薦疊などあり、(是等は、座に敷疊なり、)今は其にはあらで、木綿を重疊みたるを、神に捧て奉るを云るなるべし、主計式に、疊《タヽミ》綿二帖、云々、越中(ノ)國(ノ)調、白疊綿二百帖、大藏省式、賜2蕃客(ニ)1例に、疊綿二百帖、など見えたり、○吾波乞甞《アレハコヒナム》は、吾者乞?《アレハコヒノム》なり、○歌(ノ)意かくれなし、
〔右歌者。以2天平五年冬十一月1、供2祭大伴氏神1之時。聊作2此謌1。故曰2祭神歌1。〕
 
筑紫娘子《ツクシヲトメガ》。贈《オクレル》2行旅《タビユキヒトニ》1歌一首《ウタヒトツ》。【娘子。字曰2兒島1。】
 
註の六字は、古寫本、古寫一本に從つ、こは六(ノ)卷に、太宰(ノ)帥大伴(ノ)卿、上v京(ニ)時、娘子作歌二首ありて、其左註に、于時送v卿府吏之中、有2遊行女婦1、其(ノ)字曰2兒嶋1也、於v是娘子、云々、自吟2振袖之歌1、とある其(ノ)娘子なり、歌詞も、全(ラ)彼(ノ)兒島が口風なり、
 
381 思家登《イヘモフト》。情進莫《コヽロスヽムナ》。風候《カゼマモリ》。好爲而伊麻世《ヨクシテイマセ》。荒其路《アラキソノミチ》。
 
思家登《イヘモフト》は、家を思ふとてといふなり、登は、とての意なり、○情進莫《コヽロスヽムナ》は、本郷を思ふとて、歸らむいそぎに、情すさびして、強てあらき濤風を、凌礫《シノ》ぎ賜ふな、といふなり、進《スヽム》は、すさぶといふに同じ、○風候《カゼマモリ》(候(ノ)字、舊本侯に誤、古寫本、古寫一本、拾穗本等に從つ、)は、順風を伺候《マモリウカヾ》ひてと云なり、雄略天皇(ノ)紀に、候風《カゼサモロフ》とあり、○好爲而伊麻世《ヨクシテイマセ》は、(伊麻世《イマセ》は、既く云り、)俗に、御無難《ゴブナム》に御出被v成、と(263)いふに全同じ、○荒其道《アラキソノミチ》は、浪風の荒き、其(ノ)海路なり、四(ノ)卷、贈2驛使1歌に、周防在磐國山乎將超日者手向好爲與荒其道《スハウナルイハクニヤマヲコエムヒハタムケヨクセヨアラキソノミチ》、(こは山道を云り、)○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
登《ノボリテ》2筑波岳《ツクハネニ》1。丹比眞人國人作歌一首并短歌《タヂヒノクニヒトガヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
丹比(ノ)眞人國人は、續紀に、天平八年正月辛丑、正六位上多治比(ノ)眞人國人(ニ)授2從五位下(ヲ)1、十年閏七月癸卯、爲2民部(ノ)少輔(ト)1、と見ゆ、
 
382 ?之鳴《トリガナク》。東國爾《アヅマノクニニ》。高山者《タカヤマハ》。左波爾雖有《サハニアレドモ》。朋神之《フタカミノ》。貴山乃《タフトキヤマノ》。儕立乃《ナミタチノ》。見杲石山跡《ミガホシヤマト》。神代從《カミヨヨリ》。人之言嗣《ヒトノイヒツギ》。國見爲《クニミスル》。筑羽乃山矣《ツクハノヤマヲ》。冬木成《フユコモリ》。時敷時跡《トキジクトキト》。不見而往者《ミズテユカバ》。益而戀石見《マシテコヒシミ》。雪消爲《ユキケスル》。山道尚矣《ヤマミチスラヲ》。名積叙吾來並二《ナヅミゾアガコシ》。
 
?之嶋《トリガナク》は、枕詞なり、既く出づ、○束國《アヅマノクニ》といふ由は、既く二(ノ)卷に云り、○左波爾雖有《サハニアレドモ》は、多《サハ》に雖v在なり、○朋神《フタカミ》(朋(ノ)字、舊本明に誤、)は、二竝の峯は、やがて男女二柱(ノ)神にましますゆゑに、かく云り、(高きを男神と申し、短きを女神と申すとぞ、)九(ノ)卷、大伴(ノ)卿登2筑波山1時長歌に、男神毛許賜女神毛千羽日給而《ヲノカミモユルシタマヒメノカミモチハヒタマヒテ》、神名帳に、筑波山(ノ)神社二座、(一(ハ)名神大、一(ハ)小、)續後紀に、承和九年十月壬戌、奉v授2常陸(ノ)國旡位筑波女大神(ニ)從五位下(ヲ)1、三代實録に、貞觀十二年八月廿八日、授2常陸(ノ)國從四位上筑波男神(ニ)正四位下、從四位下筑波女神(ニ)從四位上1、(男(ノ)神女(ノ)神の事、なほ九(ノ)卷に、常陸風土記を引て、委(ク)云べし、)○儕立《ナミタチ》は、儕(ハ)等也、と見へたり、)九(ノ)卷長歌に、二並筑波乃山《フタナラブツクバノヤマ》とある、是なり、○見杲石山跡《ミガホシヤマト》(264)は、(杲は、カウ〔二字右○〕の音を轉じて、借(レ)るなり、)見之欲山《ミガホシヤマ》となり、見之欲は、上に委(ク)云り、跡《ト》は、常の語(リ)辭の跡《ト》なり、○冬木成《フユコモリ》、契冲、この下に、二句おちたるべし、今こゝろみに、二句をおぎなはゞ、春さりくれど白雪の、といふべしと云り、(今案(フ)に、冬木成《フユコモリ》は、集中の例、春の枕詞にのみ用ひたれば、實に二句のおちたりしこと決《ウツナ》し、さてこの契冲が補へる中、春去來は、さも有べし、白雪乃時敷時跡《シラユキノトキシクトキト》は、白雪の時敷零しく時とての意とは聞ゆれども、いさゝかいひたらはぬ詞なり、)猶熟考(フ)べし、○時敷時跡《トキジクトキト》は、時ならぬ時とての意なり、○不見而往者《ミズテユカバ》は見ずて過行ばの意なり、○益而戀石見《マシテコヒシミ》は、彌益りて戀しからむとての意なり、この戀石見《コヒシミ》の見の辭は、一(ノ)格にて、からむとてと意得る例なり、(古來この用格の意を、よく辨へたる人なくして、一首の大概を、誤(リ)しことも多かり、)この例は、此下に足日木能石根許其思美菅根乎《アシヒキノイハネコゴシミスガノネヲ》、引者難三等標耳曾結焉《ヒカバカタミトシメノミソユフ》、(引ば難からむとて、標のみゆふなり、)四(ノ)卷に、今夜之早開者爲便乎無美《コノヨラノハヤクアケナバスベヲナミ》、(爲便が无からむとてなり、)秋百夜乎願鶴鴨《アキノモヽヨヲネガヒツルカモ》、十五に、伊毛爾安波受安良婆須敝奈美《イモニアハズアラバスベナミ》(上に同じ)、伊波禰布牟《イハネフム》、伊故麻乃山乎故延弖曾安我久流《イコマノヤマヲコエテソアガクル》、廿(ノ)卷に、之良奈美乃與曾流波麻倍爾和可例奈波《シラナミノヨソルハマヘニワカレナバ》、伊刀毛須倍奈美《イトモスベナミ》(上に同じ、)夜多妣蘇弖布流《ヤタビソテフル》、など猶甚多し、委くは、既く總論に云り、(今は、其(ノ)一つ二つを擧つ、)○雪消爲《ユキケスル》は、雪きえするの約れるなり、此(ノ)詞にて思へば三月の頃登れるなるべし、○山道尚乎《ヤマミチスラヲ》は、つねに山道をさへといふ意なり、雪消して、登(リ)行がたき山道をさへ、といふなり、○名積敍吾來並二《ナツミゾアガコシ》(265)(並(ノ)字、舊本前に誤、今は古寫一本に從つ、二(ノ)字、古寫本拾穗本等に、一と作るは誤なり、)は、難《ナヅミ》てそ、吾來にしといふなり、名積は、既く云り、並二《シ》は、過去《スギニ》し方をいふ辭なり、並二を、シ〔右○〕の假字に用るは、重二《シ》二二《シ》など書るに同じ、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
383 筑羽根矣《ツクハネヲ》。四十耳見乍《ヨソノミミツヽ》。有金手《アリカネテ》。雪消乃道矣《ユキケノミチヲ》。名積來有鴨《ナヅミケルカモ》。
 
四十耳見乍《ヨソノミミツヽ》(四十、古寫本には※[縦線四つに横棒]とかけり、それもあしからねど、集中の例、四十を※[縦線四つに横棒]と作ること、外になし、)は外目《ヨソメ》にのみ見ながら、といふなり、よそにといふべきを、にをいはざるは、古語なり、○有金手《アリカネテ》は、不2得《カネ》在《アリ》1而《テ》にて、在に得堪ずての意なり、○名積來有鴨《ナヅミケルカモ》は、難來《ナヅミキ》ける哉なり、(キケ〔二字右○〕の切、ケ〔右○〕となるゆゑに、ケル〔二字右○〕といへり、)集中に、辭のケリケル〔四字右○〕に、來(ノ)字をかけるも、これを借(リ)たるなり、書紀に詣至來歸などを、マウケリ〔四字右○〕とよめるも、參來《マウキ》けりの意なり、(略解に、來《キタ》るを略きて、けるとは云り、と云るはいかゞ、)既く一(ノ)卷にも云り、○歌意は、筑波岳の勝景を、外目にのみ見ながら、過行むとすれど、さて在(ル)には得堪ずて、雪消して、通(ヒ)難き道を凌ぎて、難みて登り來にける哉となり、
 
山部宿禰赤人歌一首《ヤマベノスクネアカヒトガウタヒトツ》
 
384 吾屋戸爾《ワガヤドニ》。幹藍種生之《カラヰマキオホシ》。雖干《カレヌレド》。不懲而亦毛《コリステマタモ》。將蒔登曾念《マカムトソオモフ》。
 
(266)韓藍種生之(韓(ノ)字、舊本には幹と作り、今は拾穗本に從つ、種(ノ)字、拾穗本又異本に、蘇と作るはいかゞなり、)は、カラヰマキオホシ〔八字右○〕なり、韓藍は、品物解に委(ク)云、○歌(ノ)意は、韓藍を、女にたとへたるにて、はやくより思を懸し女の、こと成ざりしに懲(リ)ずして、又も思をかくるよしなり、此(ノ)歌譬喩歌なり、混れてこゝに入しものなるべし、
 
仙柘枝歌三首《ヒジリノツミノエノウタミツ》。
 
柘(ノ)枝は、仙女の名なり、下にいふ、さてこは柘(ノ)枝を詠る由にて、柘(ノ)枝が歌といふにはあらず、
 
385 霰零《アラレフリ》。吉志美我高嶺乎《キシミガタケヲ》。險跡《サガシミト》。草取可奈和《クサトリカネテ》。妹手乎取《イモガテヲトル》。
 
霰零《アラレフリ》は、枕詞なり、契冲云、霰零吉志美《アラレフリキシミ》、とつゞくることは、霰零音の、かしましきといふこゝろなり、かときと通じ、まとみと通ずるなり、第七第廿に、あられふりかしま、とつゞけたるは、やがてかしまし、といふ心につゞけたり、○吉志美我高嶺《キシミガタケ》(志(ノ)字、活字本に无は、落たるなり、)は、和名抄に、肥前(ノ)國杵島(ノ)郡杵島、木之萬《キシマ》、景行天皇(ノ)紀に、秋七月辛卯朔甲午、到2筑紫(ノ)後(ノ)國御木(ニ)1、居2於高田(ノ)行宮(ニ)1時(ニ)、有2僵樹《タフレキ》1、長九百七十丈焉、云々、有2老夫1曰、是樹者|歴木也《クヌキナリ》、嘗(テ)未(リシ)v僵薩之先、當(テハ)2朝日(ノ)暉(ニ)1、則隱(シ)2杵島(ノ)山(ヲ)1、當(テ)2夕日(ノ)暉(ニ)1、覆(シキ)2阿蘇山(ヲ)1也、天皇曰、是(ノ)樹者|神木《アヤシキキナリ》、故(レ)是(ノ)國(ヲ)、宜v號《》2御木《ミケノ》國(ト)1、と見えたり、○險跡《サガシミト》は、險さにの意にて、跡は助辭なり、○草取可奈和《クサトリカネテ》は、草取は、險阻《サガシキ》地を行に、落まじき料に、草を取(ル)ことなり、可奈和は、荒木田氏、可禰手を寫誤れるなり、と云り、○歌(ノ)意は、杵島(ノ)嶺の、甚く險阻が故(267)に、取草《トリクサ》に草を取て、登らむと思へど、草を取事をも得爲ずして、妹が手を取(ル)と云るなり、此(ノ)歌は、古事記に、速總別王、女鳥王と、倉椅山を越賜ふ時の御歌に、波斯多弖能久良は斯夜麻袁佐賀斯美登《ハシタテノクラハシヤマヲサガシミト》、伊波迦伎加泥弖和賀弖登良須母《イハカキカネテワガテトラスモ》、とあるを取て、所々詞を換て、杵島曲《キシマブリ》に用ひたるなり、杵島曲とは、肥前(ノ)國風土記に、杵島(ノ)郡(ニ)、有2一孤山1、名曰2杵島(ト)1、郷閭の女士、毎v歳春秋、登望樂飲歌舞(ス)、歌詞曰、阿羅禮符縷耆資麼加多※[立心偏+豈]塢嵯峨紫彌占《アラレフルキシマガタケヲサガシミト》、區縒刀理我泥底伊謀我堤塢刀縷《クサトリカネテイモガテヲトル》、是杵島曲とあり、今は全(ラ)此歌なり、
〔右一首。或云。吉野人味稻。與2柘妓仙媛1歌也。〕
舊本に歌也に引つゞきて、但見2柘枝傳1、無v有2此歌1と註せり、仙覺などが、しるせるものなるべし、味稻は、懷風藻には、美稻と作り、柘(ノ)枝(ノ)傳は、仙媛柘(ノ)枝が傳説を載たる、書(ノ)名なり、亡て世に傳はらず、さてこの一首は、柘(ノ)枝(ノ)仙女に、與《オク》りたる歌なるべき謂、さらになし、混れしものなるべし、
 
386 此暮《コノユフヘ》。柘之左枝乃《ツミノサエダノ》。流來者《ナガレコバ》。梁者不打而《ヤナハウタズテ》。不取香聞將有《トラズカモアラム》。
 
柘之左枝《ツミノサエダ》は、柘は、桑(ノ)類なり、委(ク)は品物解に云、左枝《サエダ》は、眞枝《マエダ》と云むが如し、○梁者不打而《ヤナハウタズテ》、(梁(ノ)字、類聚抄には〓と作り、)梁は、和名抄に、毛詩注(ニ)云、梁(ハ)魚梁也和名|夜奈《ヤナ》、唐韻(ニ)云、籍(ハ)、取v魚箔也、漢語抄(ニ)云|夜奈須《ヤナス》とあり、さてその魚梁《ヤナ》を、河湍に儲置を、打と云り、そはまづ、河湍を塞搦《シガヲミ》して塞て其(ノ)水の集り落る處に杙を立て、竹床を造り、それに留る魚をとる、その竹床を梁といひ、そは多く(269)杙を打て造る故に、染打とはいふふとぞ、十一に、安太人乃八名打度瀬速《アダヒトノヤナウチワタスセチハヤミ》、神式天皇(ノ)紀に、及2縁《ソヒテ》v水《カハニ》西(ニ)行1、亦有d作《ウチテ》v梁《ヤナ》取v魚者u(梁此云2揶奈《ヤナト》1、)とあり、○歌(ノ)意は、或人云、昔の人は、よくこそ梁を打て柘(ノ)枝を得たれ、今時は、染は打ずてあれば、たとひ柘の流れ來るとも、取得ざらむかとなり、
〔右一首。〕
一首の下に、舊本には、此(ノ)下無詞、諸本同、の七字あり、古寫本古寫一本等にはなし、こは仙覺などが、注せるものならむ、もとより詞の脱たるなるべし、
 
387 古爾《イニシヘニ》。梁打人乃《ヤナウツヒトノ》。無有世伐《ナカリセバ》。此間毛有益《コヽニモアラマシ》。柘之枝羽裳《ツミノエダハモ》。
 
染打人(梁(ノ)字、古寫本に〓、類聚抄に〓と作るは、いかならむ、)は、美稻《ウマシネ》をさせるなるべし、○無有世伐《ナカリセバ》》(伐字、類聚抄活字本等に、代と作るは誤なり、)は、無(ク)ありせばといふなり、○此間毛有益は、コヽニモアラマシ〔8字右○〕と訓べし、○柘之枝羽裳《ツミノヱダハモ》は、その柘(ノ)枝はも、と尋ね慕ふ意なり、羽裳《ハモ》の辭は、既く云り、○歌(ノ)意は、本居氏、古(ヘ)に川上に梁打て、とゞめし人のなかりせば、此(ノ)あたりまでも、其(ノ)柘は流(レ)來てあらましを、といふならむと云り、抑々この柘(ノ)枝(ノ)仙媛のこと、傳なければ、其(ノ)詳《ツバラカ》なることは、知べからず、大かたのありし樣をおしはかりていはゞ、むかし吉野の美稻といひしは、吉野川に梁を打て、鮎を取(リ)て、世のわたらひせし人なりけり、或時、この人、例の梁を打てありしに、柘の枝の流(レ)來て、その梁にかゝりしを、取歸て家に置たりしが、美麗《ウルハシ》き女になりて、遂(269)に夫妻《メヲ》のかたらひをなし、老ず死ずて共住《アヒスミ》しが、遂に常世(ノ)國に飛去にし、といふことの、ありしなりけり、この柘(ノ)枝と、美稻がこと端々《カツ/”\》ものに遺存《ノコレ》るをこゝにしるしおきて、考の備《タツキ》とす、懷風藻に、太宰(ノ)太貳正四位下紀(ノ)朝臣男人、七言、遊2吉野川(ニ)1、萬丈崇巖削成秀、千尋素濤逆折流、欲v訪2鍾池1越2潭跡1、留連美稻逢2槎洲1、從三位中納言丹※[土+穉の旁](ノ)眞人廣成、五言、遊2吉野山(ニ)1、山水隨v臨賞、巖谿逐v望新、朝看2度v峯翼1、夕亂2躍v潭鱗1、放曠多2幽趣1、超然少2俗塵1、栖2心佳野(ノ)域1、尋2問美稻津1、七言、吉野之作、高嶺嵯峨多2奇勢1、長河渺漫作2廻流1、鐘地超潭|豈《異イ》凡類、美稻逢v仙同洛洲、從五位下鑄餞長官高向(ノ)朝臣諸足、五言、從2駕吉野宮1、在昔釣魚士、方今留2鳳公1、彈v琴與v仙戯、投v江將v神通、柘歌泛2寒渚1、霞景飄2秋風1、誰謂姑射嶺、駐v蹕望2仙宮1、贈正一位太政大臣藤原(ノ)朝臣史、五言、遊2吉野1二首、飛v文山水地、命v爵薛蘿中、漆姫控v鶴擧、柘《洛イ》媛接莫v通、煙光巖上翠、日影浪前紅、翻知玄圃近、對翫入2松風1、夏身夏色古、秋津秋氣新、昔者同2汾《※[さんずい+后]イ皇・紛》后1、今之見2吉賓1、靈仙駕v鶴去、星客乘v査逡、渚性|杠※[臨イ]2流水1、素心聞2靜仁1、紀(ノ)朝臣男人、五言、扈2從吉野宮1、鳳蓋停2南岳1、追尋智與v仁、嘯v谷將孫語、攀v藤共許親、峯巌夏景變、泉石秋光新、此地仙靈宅、何須姑射倫、正五位下圖書(ノ)頭(ノ)吉田(ノ)連宜、五言、從2駕吉野宮1、神居深亦靜、勝地寂復幽、雲卷三舟谿、霞開八石洲、葉黄初送v夏、桂白早迎v秋、今日夢淵々、遺響千年流、大伴王、五言、從2駕吉野宮1應v詔、山幽仁趣遠、川淨智懷深、欲v訪2神仙迹1、追從吉野※[さんずい+尋]、(契冲云、諸足の詩に、在昔釣魚士、とあるにあはすれば、美稻は、梁など打て、わたらひせしものと見えたり、淡海公の御(270)詩に、漆姫とあるは、七姫にや、漆姫もし七姫ならば、第十六に、竹取(ノ)翁が、九箇の仙女にあへる類なるべし、)續後紀十九、興福寺(ノ)僧等(カ)、奉v賀2天皇四十寶算1長歌に、柘之枝乃由求禮波《ツミノエノヨシモトムレバ》、佛許曾願成志多倍《ホトケコソネガヒナシタベ》云々、常世島國成建天《トコヨシマクニナシタテテ》、到住美聞見人波《イタリスミキヽミルヒトハ》、萬世能壽遠延倍津《ヨロヅヨノイノチヲノベツ》、故事爾云語來留《フルコトニイヒツギキタル》、三吉野爾有志熊志禰《ミヨシヌニアリシクマシネ》、天女來通弖《アマツメノキタリカヨヒテ》、其後波蒙譴天《ソノノチハセメカヾフリテ》、毘禮衣著弖飛爾支度云《ヒレゴロモキテトビニキトイフ》、是亦此之島根乃《コレモマタコレノシマネノ》、人爾許曾有岐度云那禮《ヒトニコソアリキトイフナレ》云々、(熊志禰《クマシネ》は、即(チ)妹稻《ウマシネ》なり、宇《ウ》と久《ク》と韻通へり、)など見えたり、
〔右一首。若宮(ノ)年魚麻呂作。〕
 
若宮(ノ)年魚麻呂は、傳未(タ)詳ならず、八(ノ)卷にも見えたり、
※[覊の馬が奇]旅歌一首并短歌《タビノウタヒトツマタミジカウタ》。
 
388 海若者《ワタツミハ》。靈寸物香《アヤシキモノカ》。淡路島《アハヂシマ》。中爾立置而《ナカニタテオキテ》。白浪乎《シラナミヲ》。伊與爾囘之《イヨニモトホシ》。座待月《ヰマチツキ》。開乃門從者《アカシノトユハ》。暮去者《ユフサレバ》。鹽乎令滿《シホヲミタシメ》。明去者《アケサレバ》。鹽乎令干《シホヲヒシム》。鹽左爲能《シホサヰノ》。浪乎恐美《ナミヲカシコミ》。淡路島《アハヂシマ》。礒隱居而《イソガクリヰテ》。何時鴨《イツシカモ》。此夜乃將明《コノヨノアケム》。跡待從爾《トサモラフニ》。寢乃不勝宿者《イノネカテネバ》。瀧上乃《タギノヘノ》。淺野之雉《アサヌノキヾス》。開去歳《アケヌトシ》。立動良之《タチトヨムラシ》。率兒等《イザコドモ》。安俳而※[手偏+旁]出牟《アベテコギデム》。爾波母之頭氣師《ニハモシヅケシ》。
 
海若《ワタツミ》は、海神なり、(轉りては、海をも云ことなれど、こゝは直に、海神をさして云り、)○靈寸物香《アヤシキモノカ》は、靈妙《アヤシクタヘ》なるもの哉となり、○淡路島《アハヂシマ》は、上に見えたり、○中爾立置而《ナカニタテオキテ》は、海中に、令《セ》v立《タヽ》置てなり、○伊與爾囘之《イヨニモトホシ》は、伊與は、本居氏、こは四國を總て云りと聞ゆ、古事記に、伊豫之二名(ノ)島とある(271)は、阿波讃岐伊豫土佐の四國を總たる名なり、是(レ)本は、一國の名なるが、大名になれること、筑紫のごとしといへり、囘之は、モトホシと訓て、めぐらしといふに同、じ、既く出(ヅ)、○座待月《ヰマチツキ》は、枕詞なり、後のものに、十七夜月を、立待《タチマチ》月、十八夜月を、座待《ヰマチ》月、十九夜月を、宿待《ネマチ》月と云り、古(ヘ)もさぞ有けむ、さて契冲もいひし如く、此(ノ)門に到りて此歌よめるが、十八日などにもや、ありつらむ、○鹽乎令干は、シホヲヒシム〔六字右○〕、と本居氏の訓るに從べし、こゝにて、上の靈寸物香《アヤシキモノカ》の詞を結《トヂ》めり、さてはじめより、これまでのこゝろは、四國と、明石と相むかひ、其(ノ)海中に淡路島立り、さてその海邊の白浪は、四國の方に囘(リ)ゆくなり、かくて明石と流路との間、一里餘ありて、それを明石の迫門といふ、此(ノ)迫門を西に離て、播磨灘あり、この灘に、鹽の滿涸ありといへり、このゆゑに、明石の門より、鹽を令(メ)v滿令(ム)v干とは云るなり、○鹽左爲《シホサヰ》は、既く云り、〈荒木田氏が、鹽左爲は鹽先動《シホサキユリ》なり、と云りしは、いかにあらむ、)○浪乎恐美《ナミヲカシコミ》は、浪が高くて、恐き故にの意なり、○磯隱居而《イソガクリヰテ》は、島陰の磯邊に、船がゝりして、風浪を候ふさまなり、○何時鴨《イツシカモ》は、未來《ユクサキ》のことを、待遠に思ふ時にいふ詞なり、五(ノ)卷に、伊都斯可母京師乎美武等《イツシカモミヤコヲミムト》、意母比都々迦多良比袁禮騰《オモヒツヽカタラヒヲレド》云々、又|何時可毛比等々奈理伊弖天《イツシカモヒトヽナリイデテ》、安志家口毛與家久母見牟登《アシケクモヨケクモミムト》云々、十二に、客在而戀者苦辛何時毛京行而君之目乎將見《タビニアリテコフレバクルシイツシカモミヤコニユキテキミガメヲミム》、十八に、何時可毛都可比能許牟等《イツシカモツカヒノコムト》、末多須良無心左夫之苦《マタスラムコヽロサブシク》云々、などあるを(ヘ)合(ス)べし、○侍候爾(奮本、侍候を、待從に誤今改、)は、サモラフニ〔五字右○〕と訓べし、二(ノ)卷に、雖(272)侍候佐母良比不得者《サモラヘドサモラヒカネテ》、七(ノ)卷に、大御船竟而佐守布高島之《オホミフネハテテサモラフタカシマノ》、六(ノ)卷に、風吹者浪可將立跡伺候爾都多乃細江爾浦隱居《カゼフカバナミカタヽムトサモラフニツタノホソエニウラガクリヲリ》、八(ノ)卷に、伺候難之《サモラヒガタシ》、廿(ノ)卷に、安佐奈藝爾倍牟氣許我牟等佐毛良布等和我乎流等伎爾《アサナギニヘムケコガムトサモラフトワガヲルトキニ》、書紀に、候風《カゼサモラフ》、など見ゆ、○寢乃不勝宿者《イノネカテネバ》(寢(ノ)字、古寫本には〓、拾穗本には寐《イネ》と作り、)は、宿難《イネカテ》ぬればの意なり、カテヌ〔三字右○〕は、無《ナク》2不勝《カテ》1といふことのつゞまれるにて、不勝《カテ》の反なるが如く聞ゆれど、然らず、奴《ヌ》は、那爾禰《ナニネ》の通へる辭《テニヲハ》にて、畢竟は、難《カテ》v宿《イネ》ぬればてふ意なり、既く委(ク)云り、○瀧上《タキノヘ》は、瀧水の上《ホトリ》といふなるべし、瀧は、明石の近隣にあるなるべし、(契沖が、瀧の上《カミ》は、あさきものなれば、淺野とつゞけたりと云れど、さにはあらず、)○淺野之雉《アサヌノキヾシ》は、淺野は、地(ノ)名なるべし、國人に尋明《トヒワキダ》むべし、雉は、和名抄には、木々須《キヾス》、一(ニ)云、木之《キジ》とあれど、古くは、(古事記、書紀、)みな吉藝斯《キギシ》と云り、十四にも、吉藝志《キギシ》とあり、猶品物解に云、○開去歳《アケヌトシ》は、夜が明ぬるとてなり、歳は借(リ)字にて、ト〔右○〕は、とての意、シ〔右○〕は、例のその一(ト)すぢなるを思はせたる、助辭なり、○立動良之《タチトヨムラシ》は、飛立鳴動《トビタチナキサワ》ぐらし、といふなり、本居氏、動《トヨム》は、たゞ鳴聲の聞ゆるを云、集中、鳥獣の聲にも何の音にも、多くよめり、動(ノ)字、響(ノ)字などをよめりと云り、皇極天皇(ノ)紀(ノ)童謠に、阿婆努能枳々始騰余謀作儒《アバヌノキヾシトヨモサズ》とあり、さてこゝは、此(ノ)鳥の鳴を聞て、夜の明ぬることを知(レ)るなり、十三に、野鳥雉動左夜者明此夜者旭奴《ヌツトリキヾシハトヨムサヨハアケコノヨハアケヌ》、また古事記八千矛(ノ)神(ノ)御歌に、佐努都登理妓藝斯波登與牟《サヌツトリキギシハトヨム》とあるも、夜の明るを歎て宜へるなり、○率兒等《イザコドモ》は、舟人を率(ナ)ひ立るなり、○阿倍而傍出牟《アベテコギデム》は、九(ノ)卷に、湯羅乃前鹽乾(273)爾祁良志白神之磯浦箕乎敢而※[手偏+旁]動《ユラノサキシホヒニケラシシラカミノイソノウラミヲアベテコギトヨム》、とあるに同じ、安倍《アベ》の言は、此(ノ)上にも云り、○爾波母之頭氣師《ニハモシヅケシ》は、庭《ニハ》も靜《シヅ》けしにて、海上の平和なるをいふ、庭《ニハ》は、既く云り、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
389 島傳《シマヅタヒ》。敏馬乃埼乎《ミヌメノサキヲ》。許藝廻者《コギタメバ》。日本戀久《ヤマトコホシク》。鶴左波爾鳴《タヅサハニナク》。
シマヅタヒアヒダマカヂヌキイソコギタミツヽシマヅタヒミレドモアカズコギタメバ
島傳《》は、島々の際《》を經傳ふを云、十三に、二梶貫磯※[手偏+旁]回乍島傳雖見不飽《》とあり、○許藝廻者《》は、漕めぐればと云が如し、廻《タミ》は、既く云り、○日本戀久《ヤマトコホシク》は、大和の本郷の方の、戀しく思はれて、といふなり、○歌(ノ)意かくれなし、鶴(ガ)多《サハ》に鳴を聞て、本郷|思《シノ》べる旅情、最もあはれにこそ、
〔右歌。若宮年魚麿誦v之。但未v審2作者1。〕
 
萬葉集古義三卷之中 終
 
(274)萬葉集古義三卷之下
 
譬喩謌《タトヘウタ》
 
譬喩謌は、タトヘウタ〔五字右○〕と訓べし、古今集(ノ)序に、四(ツ)にはたとへ歌とあり、すべて物に喩て、思を陳たるを云るにて、此(ノ)集中なるは皆戀(ノ)歌なり、なほ首(ノ)卷に委(ク)云り、
    
紀皇女御歌一首《キノヒメミコノミウタヒトツ》。
 
紀(ノ)皇女は、天武天皇の皇女にて、御傳二(ノ)上に云り、
 
390 輕池之《カルノイケノ》。※[さんずい+内]回往轉留《ウラミモトホル》。鴨尚爾《カモスラモ》。玉藻乃於丹《タマモノウヘニ》。獨宿名久二《ヒトリネナクニ》。
 
輕池《カルノイケ》は、大和(ノ)國高市(ノ)郡にあり、書紀に、應神天皇十一年多十月、作2輕《カルノ》池(ヲ)1、とあり、○※[さんずい+内]回在轉留(※[さんずい+内](ノ)字、舊本納に誤、拾穗本に從、)は、ウラミモトホル〔七字右○〕と訓べし、※[さんずい+内]回は裏のめぐりを云、池に云るは、二(ノ)卷に、勾《マガリノ》池を、水傳磯乃浦回乃石乍自《ミヅツタフイソノウラミノイソツヽジ》とよめるに同じ、モトホル〔四字右○〕はめぐることなり、字鏡にも、〓(ハ)轉也、毛止保留《モトホル》、とあり、○鴨尚爾《カモスラモ》、爾は毛(ノ)字の誤なるべしと或説に云り、然るべし、(次に引十五(ノ)歌にも、可母須良母《カモスラモ》とあり、)こゝは常に、鴨さへもといふに同じ意なり、○獨宿名久二《ヒトリネナクニ》は、(275)雌雄配宿《メヲナラビネ》て、獨(リ)宿はせぬことなるものをといひて、自(ラ)が獨宿を歎給へるなり、十五に、可母須良母都麻等多具比弖和我尾爾波之毛奈布里曾等之路多倍乃波禰左之可倍?宇知波良比左宿等布毛能乎《カモスラモツマトタグヒテワガヲニハシモナフリソトシロタヘノハネサシカヘテウチハラヒサヌトフモノヲ》、(此(ノ)下に、水鴨成二人雙居《ミカモナスフタリナラビヰ》ともよめり、)○歌ノ意かくれたるところなし、六帖に、かるの池の入江めぐれる鴨だにも玉藻の上に獨宿なくに、と載たり、
 
造《ツクリノ》2筑紫觀世音寺《ツクシノクワンゼオムジ》1別當沙彌滿誓歌一首《カミサミノマムゼイガウタヒトツ》。
 
造2筑紫觀世音寺(ヲ)1は、續紀に、和銅二年二月戊子、詔曰、筑紫(ノ)觀世音寺(ハ)、淡海(ノ)大津(ノ)宮(ニ)御宇天皇、奉2爲後(ノ)岡本(ノ)宮御宇天皇1、誓願所v基也、雖v累2年代(ヲ)1、迄v今(ニ)未v了(ラ)、宜d太宰商量專加2※[手偏+僉]※[手偏+交](ヲ)1、早令c營作u、又云、養老七年二月丁酉、勅2僧滿誓(ニ)1、(俗名從四位上笠(ノ)朝臣麻呂、)於2筑紫(ニ)1令v造2觀世音寺(ヲ)1、と見ゆ、此(ノ)時の事なり、○別當は、カミ〔二字右○〕と訓べし、造寺使の長官なり、○沙彌滿誓が傳は、此(ノ)上に云り、
 
391 鳥※[糸+怱]立《トブサタテ》。足柄山爾《アシガラヤマニ》。船木伐《フナキキリ》。樹爾伐歸都《キニキリユキツ》。安多良船材乎《アタラフナキヲ》。
 
鳥※[糸+怱]立は、(上野(ノ)國神名峰といふ物に、多胡(ノ)郡鳥※[糸+怱](ノ)明神あり、此(ノ)神名、今の歌の鳥※[糸+怱]に由あることか、又夫木集七に、卯花も神のひぼろきときてけりとぶさもたわにゆふかけて見ゆ、と有、此(ノ)とぶさいかゞ尋ぬべし、十七にも、登夫佐多底船木伎流等伊有《トブサタテフナキキルトイフ》(有(ノ)字は、布の誤なり、)能登乃島山《ノトノシマヤマ》云々と見えたり、(鳥※[糸+怱]は、いと意得がてなれど、嘗《コヽロミ》に云ば、鳥※[糸+怱]と書るは借(リ)字にて、材を割拆《ワリサク》料の器(ノ)名にはあらざるにや、袖中抄にも、とぶさたてとは、たづきたてと云る詞なりと云(276)り、たづきは、※[金+番]《タヅキ》なり、土佐(ノ)國幡多(ノ)郡(ノ)方言に手斧を、とものと云り、この登《ト》は、敏謙《トカマ》の敏《ト》にて、敏物《トモノ》と云ことゝ聞えたれば、登夫佐《トブサ》は、敏物拆《トモサ》といふにて、材を拆(ク)器を、古(ヘ)しか稱《イヒ》し事の有しなどにもやあらむ、立(テ)とは其(ノ)器を振立る謂なり、さて此(ノ)一句は、次の足柄山と云(フ)へは直に續かず、船木伐といふへ係(レ)る詞なること、上に引る十七の歌を考(ヘ)て知べし、○足柄《アシガラ》山は、相模(ノ)國足柄(ノ)郡にある山なり、相模風土記に、足柄山の杉を伐て、船に造りけるに、その足のいと輕かりければ、山(ノ)名とせるよし見えたり、○樹爾伐歸都(伐(ノ)字、類聚抄に代と作るはわろし、)は、本居氏のキニキリユキツ〔七字右○〕と訓べし、舟材にといふべきを、上にゆづりて、舟の言を略けるなりと云り、按(フ)に、百千鳥千鳥者雖來《モヽチドリチドリハクレド》、茅草刈草刈婆可爾《チガヤカリカヤカリバカニ》など云る、皆同例なり、○安多良船材乎《アタラフナキヲ》(材(ノ)字、拾穗本には木と作り、)は、惜船材《アタラフナキ》なるものをの意なり、アタラ〔三字右○〕は、古書どもに、惜〓などの字をよめり、安多良《アタラ》某と云る例は、古事記仁徳天皇(ノ)御歌に、阿多良須賀波良《アタラスガハラ》、雄略天皇(ノ)紀(ノ)歌に、阿※[手偏+施の旁]羅陀具彌※[白+番]夜《アタラタクミハヤ》、また婀※[手偏+施の旁]雁須彌儺※[白+番]《アタラスミナハ》などあり、又古事記に、離田之阿埋溝者地矣阿多良斯登許曾我那勢之命爲如《ハナチタノアウムルミゾハトコロヲアタラシトコソワガナセノミコトハカクシツラメ》、此(ノ)集十(ノ)卷に、秋芽子戀不盡跡念雖思惠也安多良思又將相八方《アキハギニコヒツクサジトオモヘドモシヱヤアタラシマタアハメヤモ》、十三に、安多良思吉君之老落惜毛《アタラシキキミガオユラクヲシモ》、(此(レ)等皆、惜(ノ)字(ノ)意なり、)○歌(ノ)意は、吾(ガ)物にせむと思ひて心をつくせし女を、他人のものにしたるを、をしめる事を譬へたるにて、わが船材に爲む、と思へる材なる物を、他人の伐て去《ユキ》つるがいたくをしきことゝ云るなり、或説に、これは滿誓が俗にて在し時(277)の歌を、出家して後に聞て、造筑紫云々とは載しならむと云り、さも有べし、
 
太宰大監大伴宿禰百代梅歌一首《オホミコトモチノオホキマツリゴトヒトオホトモノスクネモヽヨガウメノウタヒトツ》。
 
太宰大藍は、オホミコトモチノオホキマツリゴトヒト〔オホミ〜右○〕と訓べし、和名抄に、判官本朝職員令二方員品等所v載云々、太宰府(ニ)曰v監(ト)、云々、(皆|萬豆利古止比止《マツリコトヒト》、)とあり、職員令に、大監二人、掌(ル)d糺2判(シ)府内(ヲ)1審2署文案(ヲ)1勾(ヘ)2稽失(ヲ)1察(スルコトヲ)c非違(ヲ)u、(義解(ニ)云、謂巡2察(ス)所部(ノ)非違(ヲ)1、其諸國(ノ)判官察(スルコト)2非違(ヲ)1、亦同2此義1也、)少監二人、掌(ルコト)同2大監(ニ)1、と見えたり、○大伴(ノ)宿禰百代は、續紀に、天平十年閏七月癸卯、外從五位下大伴(ノ)宿禰百世爲2兵部少輔(ト)1、十三年八月丁亥、爲2美作(ノ)守(ト)1、十五年十二月辛卯、始(テ)置2筑紫鎭西府(ヲ)1、云々、外從五位下大伴(ノ)宿禰百世(ヲ)爲2副將軍(ト)1、十八年四月癸卯、從五位下、九月己巳、爲2豐前(ノ)守(ト)1、十九年正月丙甲、正五位下と見えたり、
 
392 烏珠之《ヌバタマノ》。其夜乃梅乎《ソノヨノウメヲ》。手忘而《タワスレテ》。不折來歌里《ヲラズキニケリ》。思之物乎《オモヒシモノヲ》。
 
手忘而《タワスレテ》は、手《タ》は添たる辭にて、たゞ忘てといふなり、○歌(ノ)意は、女を梅に喩たるにて、かくれたるところなし、但し忘れて逢ず來しといはむは、あまり淺はかなる思にて、さは有まじき理なれば、實は障る事ありて、密遇事《ヒソカニアフコト》も得せざりしを、甚く悔るなれど、ふと忘れてあはず來し如く、さらぬ體にもてなして云るなるべし、
 
滿誓沙彌月歌一首《マムゼイサミガツキノウタヒトツ》。
 
(278)393 不所見十方《ミエズトモ》。孰不戀有米《タレコヒザラメ》。山之末爾《ヤマノハニ》。射狹夜歴月乎《イサヨフツキヲ》。外爾見而思香《ヨソニミテシカ》。
 
不戀有米は、米は牟(ノ)字の誤にて、コヒザラム〔五字右○〕なりと本居氏云り、月のいまだ出ぬほどは、誰か戀しく思はざらむ、誰も待戀るといふ意なり、○山之未《ヤマノハ》は、山の末端《ハシ》なり、(山際《ヤマノハ》といふとは、異れり、)四(ノ)卷に、山羽《ヤマノハ》、六(ノ)卷に、山之葉《ヤマノハ》、十一、十六に、山葉《ヤマハ》、十五に、山乃波《ヤマノハ》などあり、○射狹夜歴月乎《イサヨフツキヲ》(狹(ノ)字、舊本※[獣偏+來]に誤、古寫本に從、)は、既く云り、○外爾見而思香《ヨソニミテシカ》(爾(ノ)字、拾穗本には无(シ)、)は、香《カ》は希望(ノ)辭にて、いかで外にだにも見まほしといふなり、○歌ノ意は、女を月にたとへたるなり、本居氏、此(ノ)歌三四二一五と句を次第て見べし、山の端にいさよふ月を、誰戀ざらむ、見えずとも、外に見てしがなり、結句は、よそながらも見まほし、といふなりと云り、
 
金明軍歌一首《コムノミヤウグムガウタヒトツ》。
 
金明軍は、旅人卿の資人なること、下にいたりて見ゆ、本居氏云、新羅(ノ)國金氏多ければ、彼(ノ)國人なるべし、奈良の頃までは、西蕃歸化の人も多く、又その子孫なども、いまだ皇朝にて、姓を賜らぬ限は、本國にての姓を用ひ、名も蕃樣の、字音の名なるがありしなり、されば此(ノ)明軍も蕃人歟、又その子歟、孫歟、たしかにはしりがたし、
 
394 印結而《シメユヒテ》。我定義之《アガサダメテシ》。住吉乃《スミノエノ》。濱乃小松者《ハマノコマツハ》。後毛吾松《ノチモワガマツ》。
 
我定義之《ワガサダメテシ》は、吾(ガ)物と定めてしといふ意なり、六(ノ)卷に、百船純乃定而師《モヽフナヒトノサダメテシ》、十(ノ)卷に、天驗常定大王《アマツシルシトサダメテシ》な(279)どあり、義之は、集中テシ〔二字右○〕といふに、かく書る處多し、本居氏云、義之は、羲之の誤なり、七(ノ)卷、十(ノ)卷、十一(ノ)卷には、テシ〔二字右○〕の假字に、大王と書るを合(セ)見るに、から國の王羲之は、手の師といふことぞ、さて羲之を大王といひ、其子獻之を小王と云ることあれば、この大王も同意なり、○歌(ノ)意は、女を子松にたとへて、標結て吾(カ)物と定てしからは、行すゑいつまでも吾(ガ)松ぞといへるなり、
 
笠郎女《カサノイラツメガ》。贈《オクレル》2大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチニ》1歌三首《ウタミツ》。
 
笠(ノ)郎女は、未(ダ)詳ならず、金村が族なるべしと云り、○大伴(ノ)宿禰家持、此(ノ)人の作(ル)歌卷々に往々出たる中、八(ノ)卷秋(ノ)雜(ノ)歌に、大伴(ノ)家持秋(ノ)歌四首云々、とありて、左に註して、右四首、天平八年丙子秋九月作、と見えたる、これ當集に、此(ノ)人の歌作(メ)る年序を記したる事の、見えたるはじめなり、此(ノ)ほどは若年にして、未(ダ)官には任《メサ》れざりしなるべし、かくて五年を歴て、十七に、天平十三年四月三日の歌三首ありて、右内舍人大伴(ノ)宿禰家持、從2久邇(ノ)京1、報2送弟書持(ニ)1、と記し、又天平十六年甲申春二月、安積(ノ)皇子薨之時、内舍人大伴(ノ)宿禰家持作歌六首、と見えたれば、其(ノ)ほどは、内舍人にめされてありしなり、内舍人は、續紀に、文武天皇大寶元年六月、始(テ)補(ス)2内舍人九十人(ヲ)於太政官(ノ)列見(ニ)1、云々、とある、これ内舍人を補《メサ》れしはじめなり、職員令に、内舍人九十人、掌2帶(キ)v刀(ヲ)宿衛供奉雜使(ヲ)1、若(シ)駕行(ニハ)分2衛前後(ニ)1、とあり、さて三代實録貞觀十年正月十八日の處に、諸(ノ)内舍人(ハ)、皆是豪家(ノ)年少云々、と見え、軍防令に、凡五位以上(ノ)子孫、年廿一以上(ニシテ)、見(ニ)無2役任1者(ハ)、毎(ニ)v年京國官司、勘※[手偏+僉](シテ)知(レ)(280)v實(ヲ)、限(テ)2十二月一日(ヲ)1、并(ニ)身(サヘニ)送(リ)2式部(ニ)1、申(シテ)2太政官(ニ)1、簡2※[手偏+僉](シテ)性識聰敏儀容可(キヲ)1v取(ツ)、充(ヨ)2内舍人(ニ)1、三位以上(ノ)子(ハ)、不v在2簡限(ニ)1、以外式部、隨(テ)v状(ニ)充(テヨ)2大舍人、及東宮舍人(ニ)1、とあるにて、そのほどは年も廿一歳以上にて、且形容も端正《ウルハ》しかりしほども知れぬ、また集中に、娘子《ヲトメ》等に念はれて、贈(リ)答へたる歌、往々見えたるにて、その美貌を賞愛《ウツクシ》まれしことも、おもひやられたり、さて同じ十七年正月に、五位を授《タマ》はれる、それまでは、六位にて内舍人なりしと見えたり、かくて始終の履歴《リレキ》は、續紀に、天平十七年正月乙丑、五六位上大伴(ノ)宿禰家持授(フ)2從五位下(ヲ)1、十八年三月壬戌、爲2宮内(ノ)少輔(ト)1、六月壬寅、爲2越中(ノ)守(ト)1、天平勝寶元年四月甲午朔、授2從五位上(ヲ)1、(此(ノ)集十九に、勝寶三年七月十七日、遷2任少納言(ニ)1、とあり紀文には漏たり、)六年四月庚午爲2兵部(ノ)少輔(ト)1、十一月辛酉朔、爲2山陰道(ノ)巡察使(ト)1、天平寶字元年六月壬辰、爲2兵部(ノ)大輔(ト)1、(此(ノ)集廿(ノ)卷に、天平寶字元年十二月の歌ありて、左に右中辨大伴(ノ)宿禰家持、とあり、其(ノ)次に、同二年正月の歌ありて、右中辨大伴(ノ)宿禰家持作、但依2大藏(ノ)政(ニ)1、不v堪v奏之也、とあり、大藏(ノ)政は、右中辨の職なり、このほど右中辨になられてありしを、紀文には漏たるなり、三年六月丙辰、爲2因幡守(ト)1、六年正月戊子、爲2信部(ノ)(中務)大輔(ト)1、八年正月己未、爲2薩摩(ノ)守(ト)1、神護景雲元年八月丙午、爲2太宰(ノ)少貳(ト)1、寶龜元年六月丁未、爲2民部(ノ)少輔(ト)1、九月乙亥、爲2左中辨兼中務(ノ)大輔(ト)1、十月己丑朔、授2正五位下(ヲ)1、二年十一月丁未、授2從四位下(ヲ)1、三年二月丁卯、右中辨從四位下大伴(ノ)宿禰家持爲2兼式部員外(ノ)大輔(ト)1、五年三月甲辰、爲2相模(ノ)守(ト)1、九月庚子、爲2左京(ノ)大夫(ト)1、同日爲2兼上總(ノ)守(ト)1、六年(281)十一月丁巳、爲2衛門(ノ)守(ト)1、七年三月癸巳、爲2伊勢守(ト)1、八年正月庚申、授2從四位上(ヲ)1、九月丙寅、内大臣從二位藤原(ノ)朝臣良繼薨云々、與2云々大伴(ノ)宿禰家持等1、同謀(テ)欲v害(ムト)2大師(ヲ)1、於是云々、以告2大師(ニ)1、皆捕(ヘ)2其(ノ)身(ヲ)1、下(シテ)v吏(ニ)驗v之(ニ)、對曰、良繼獨爲2其(ノ)首1、他人曾(テ)不(トイフ)2預(リ)知1、於是強(テ)劾(シテ)2大不敬(ナリト)1、除v姓(ヲ)奪v位(ヲ)、居二歳、仲滿謀反云云、九年正月癸亥、授2正四位下(ヲ)1、十一年二月丙申朔、伊勢(ノ)守正四位下大伴(ノ)宿禰家持爲2參議1、甲辰、爲2右《兼舊本三卷未履歴》大辨(ト)1、天應元年四月壬寅、右〔右○〕京大夫〔右○〕(右大辨を誤れるか、)正四位下大伴宿禰《兼履歴》家持爲2春宮大夫(ト)1、癸卯、授2正四位上(ヲ)1、五月乙丑、爲2左〔右○〕大辨〔右○〕(ト)1、春宮(ノ)大夫如v故、八月甲午、正四位上大伴(ノ)宿禰家持爲2左大辨兼春宮(ノ)大夫(ト)1、先v是|連《遭イ》2母(ノ)憂(ニ)1解v任、至(テ)v是(ニ)復焉、〔頭註、【履歴、復任參議、大辨大夫如故、】十一月己巳、授2從三位(ヲ)1、延暦元年閏正月壬寅、左大辨從三位大伴(ノ)宿禰家持、云々等五人、職事者解2其見任(ヲ)1、散位(ハ)者移2京外1、並坐2川繼(カ)事(ニ)1也、(氷上(ノ)眞人川繼謀叛の事になり、川繼は鹽燒(ノ)王の子なり、)五月己亥、參議從三位大伴(ノ)家持爲2春宮(ノ)大夫(ト)1、六月戊辰、爲2兼陸奥(ノ)按察使鎭守將軍(ト)1、二年七月甲午、爲2中納言(ト)1、春宮(ノ)大夫如v故(ノ)、三年二月己丑、爲2持節征東將軍(ト)1、四年八月庚寅、中納言從三位大伴(ノ)宿禰家持死、(死(ノ)字、類聚國史并舊本三(ノ)卷末、大件氏履歴には薨と作り、薨後名を除かれたるによりて、紀には死と作るなるべし、)祖父(ハ)大納言贈從二位安麻呂、父(ハ)大納言從二位旅人(ナリ)云々、死後二十餘日(ニシテ)、其(ノ)屍未v葬、大伴(ノ)繼人竹良等、殺2種繼(ヲ)1、事發覺(シテ)下v獄(ニ)、案驗(スルニ)之、事連(レリ)2家持等(ニ)1、由v是(ニ)追除(キ)v名、其(ノ)息永主等、並處v流(ニ)焉、とあり、しかるに文粹二(ノ)卷、三善(ノ)清行(ノ)意見、請v加2給(ムコトヲ)大學生徒食料(ヲ)1事、とある處に、給(テ)2罪人伴(ノ)家持、越前(ノ)(282)國加賀(ノ)郡没官田一百餘丁云々(ヲ)1、以充(ツ)2生徒(ノ)食料(ニ)1、號(シテ)曰2勸學田(ト)1云々、承和年中、伴(ノ)善男、訴(フ)2家持(ノ)無(コトヲ)1v罪、返2給加賀(ノ)郡勸學田(ヲ)1、云々、これにても罪をかゞふられしことは、佞者の讒に出しこと知れたり、かくて類聚國史三十四に、建暦二十五年三月辛巳、勅、縁2延暦四年(ノ)事(ニ)1、配流之輩、先已放還、今有v所v思、不v論2存亡(ヲ)1、宜v叙2本位(ニ)1、復2大伴(ノ)宿禰家持(ヲ)從三位、大伴(ノ)宿禰永主(ヲ)從五位下(ニ)1、云々、と見えたり、さて此(ノ)集廿(ノ)卷(ノ)末に、天平寶字三年春正月一日、因幡(ノ)國廳にて、國郡司等を饗賜へる宴(ノ)時に、家持(ノ)卿の作る歌を載て、卷を終られたり、かくてその年より、延暦四年八月、彼(ノ)卿の薨られたるまで、凡廿六年の久しき間には、彼(ノ)卿の作《ヨマ》れし歌も、なほ多くありけむを、此(ノ)集に續て編集《アツメ》し人もなかりしに依て、失て世に傳はらずなりにけむは、まことにうらめしく、をしむべき事にぞ有ける、これを思ひても、いよ/\此(ノ)集の、又なく貴くめでたく、彼(ノ)主の勞功《イタヅキ》のいみじきほどをも思ふべし、もし此(ノ)集世に微《ナカ》りせば、何によりてか、上古の手ぶりをばうかゞふべき、かにもかくにも、仰ぎ慕ふべきは、彼(ノ)主の神靈《ミタマ》になむ、
 
395 託馬野爾《ツクマヌニ》。生流紫《オフルムラサキ》。衣染《コロモシメ》。未服而《マダキズシテ》。色爾出來《イロニイデニケリ》。
 
託馬野《ツクマヌ》は、近江(ノ)國坂田(ノ)郡にあり、十三に、師名立都久麻左重方《シナタツツクマサヌカタ》と見ゆ、文徳天皇實録に、仁壽二年二月、授2近江(ノ)國筑摩(ノ)神(ニ)從五位下(ヲ)1、式部式に、凡内膳司、近江(ノ)筑摩御厨(ノ)長、歴2六年(ヲ)1爲v限(ト)、後六々撰に、あふみにかありといふなるみくりくる人くるしめのつくま江の沼、など見えたり、○衣(283)染は、コロモシメ〔五字右○〕と訓べし、染をシメ〔二字右○〕と訓は、古事記八千矛(ノ)神(ノ)御歌に、斯米許呂母《シメコロモ》、(染衣なり、)齋宮式忌詞に、經稱2染紙(ト)1、とあるを、儀式帳に、志目加彌《シメカミ》とあり、又古典の中に、綵帛をシミノキヌ〔五字右○〕とよめるも、シミ〔二字右○〕は染なり、又集中、染を令《シメ》の借(リ)字にも、多く用ひたり、○未服而《イマダキズシテ》(未(ノ)字、類聚抄に主と作るはわろし、)は、契り置たるのみにて、未(タ)親く相婚《アハ》ざるを、比へたるなり、○歌(ノ)意は、紫(ノ)汁をとりて、未(ダ)衣を染て著ざるうちに、はや色に出にけりと云るにて、契り置たるのみにて、未(タ)親く逢ざるに、まだきにあらはれたるを、たとへたるなり、
 
396 陸奥之《ミチノクノ》。眞野乃草原《マヌノカヤハラ》。雖遠《トホケドモ》。面影爲而《オモカゲニシテ》。所見云物乎《ミユチフモノヲ》。
 
眞野乃草原《マヌノカヤハラ》は、和名抄に、陸奥(ノ)國行方(ノ)郡|眞野《マヌ》、とある地なり、草をカヤ〔二字右○〕と訓よしは、既く委(ク)云り、○雖遠は、トホケドモ〔五字右○〕と略解に訓る宜し、(奮本に、トホケレド〔五字右○〕と訓るは、つたなし、)とほけれどもを、とほけどもといふは、古語の例なり、四(ノ)卷に、遠鷄跡裳《トホケドモ》とあり、○面影爲而《オモカゲニシテ》の爲而《シテ》は、輕く添たる辭にて、面影に所見《ミユ》といふなり、かく輕く爲而《シテ》の辭を添たる例は、此(ノ)下に、君爾戀痛毛爲便奈美蘆鶴之哭耳所泣朝夕四天《キミニコヒイタモスベナミアシタヅノネノミシナカユアサヨヒニシテ》、八(ノ)卷に、雨晴而清照有此月夜又更而雲勿田奈引《アメハレテキヨクテリタルコノツクヨマタサラニシテクモナタナビキ》など、なほ多かり、○所見云物乎《ミユチフモノヲ》は、見ゆる物をといふ意なり、云《チフ》は輕く添たる辭なり、○歌(ノ)意は、草原《クサハラ》を宿禰にたとへたるにて、遠く隔りて座すほども、しばしもわするゝ間なく、常に其(ノ)面影の目(ノ)前にかゝりて、戀しく思はるゝ物を、まして近き間に在むをば、常に相見まほしく、戀しく(284)思はざらむやは、といふ意を含めたるなり、
 
397 奥山之《オクヤマノ》。磐本管乎《イハモトスゲヲ》。根深目手《ネフカメテ》。結之情《ムスビシコヽロ》。忘不得裳《ワスレカネツモ》。
 
磐本管乎《イハモトスゲヲ》は、磐根に生たる菅をといふなり、(現存六帖に、我(ガ)戀は人もかよはぬ奥山の磐本管のしげる頃かな、又戀わびぬ逢夜もかたし奥山の磐本管のねのみなかれて、菅は、品物解に委(ク)云、乎はもしは、之(ノ)字の誤にはあらざるか、此(レ)までは、根深をいはむ料の序なり、○根深目手《ネフカメテ》は、根深く懇到《ネモコロ》にの意なり、(元可法師集に、契りのみさもあさゝはのみわこ菅なに根ふかめて思ひ初けむ、)○歌ノ意は、根深く、ねもころにいつまでも、かたみにかはらじ、と結びかためし情は、忘れむと思へど、しばしもわするゝことを得ぬよとなり、
 
藤原朝臣八束梅歌二首《フヂハラノアソミヤツカガウメノウタフタツ》。
 
藤原(ノ)朝臣八束は、古寫本註に、八束後名2眞楯(ト)1、房前(ノ)第三子、とあり、續紀に、天平十二年正月庚子、正六位上藤原(ノ)朝臣八束(ニ)授2從五位下(ヲ)1、十一月甲辰、從五位上、十三年十二月己亥、爲2右衛士(ノ)督(ト)1、十五年五月癸卯、正五位上、十六年十一月庚辰、從四位下、十九年三月乙酉、治部(ノ)卿、二十年三月廿二日、參議兼式部大輔、勝寶四年四月辛卯、爲2攝津大夫(ト)1、六年正月王子、從四位上、寶字元年八月庚辰、正四位下、二年八月甲子、參議正四位下中務(ノ)卿藤原(ノ)朝臣眞楯等、奉v勅改2易官號(ヲ)1、三年六月庚戌、正四位上、四年正月丙寅、授2從三位(ヲ)1、同日、爲2太宰帥(ト)1、六年十二月乙巳朔、爲2中納言1、兼2信部(ノ)卿(ヲ)1、(285)(中務、)八年九月丙午、正三位、天平神護元年正月己亥、授2勲二等(ヲ)1、二年正月、爲2大納言(ト)1、三月丁卯、大納言正三位藤原(ノ)朝臣眞楯薨(ス)、平城(ノ)朝、贈正一位太政大臣房前之第三子也、眞楯度量弘深有2公輔之才1起v家、春宮大進稍遷、至2正五位下式部(ノ)大輔兼左衛門(ノ)督(ニ)1、云々、天平(ノ)未、出爲2大和(ノ)守(ト)1、勝寶(ノ)始、授2從四位下(ヲ)1拜2參議(ニ)1、累遷2信部(ノ)卿兼太宰(ノ)帥(ニ)1、寶字四年、授2從三位(ヲ)1、更賜2名眞楯(ト)1、本(ノ)名(ハ)八束、八年、至2正三位勲二等兼授刀大將(ニ)1、神護二年、拜2大納言兼式部(ノ)卿(ニ)1、薨年五十二、と見えたり、
 
398 妹家爾《イモガヘニ》。開有梅之《サキタルウメノ》。何時毛何時毛《イツモイツモ》。將成時爾《ナリナムトキニ》。事者將定《コトハサダメム》。
 
妹家爾を、イモガヘニ〔五字右○〕と訓は、五(ノ)卷に、伊母我陛爾《イモガヘニ》、十四に、伊毛我敝爾《イモガヘニ》などある、假字書の例に從つ、家をヘ〔右○〕とのみいふは、五(ノ)卷に、和我覇《ワガヘ》とあり、(我家なり、)○何時毛何時毛《イツモイツモ》は、契冲、こゝはいつなりとも/\、といふ心なり、此(ノ)集に、川上のいつ藻の花のいつも/\とよみ、六帖に、八雲立いづもの浦のいつも/\とよめるには、心たがへり、と云り、十一に道邊乃五柴原能何時毛何時毛人之將縱言乎思將待《ミチノヘノイツシバハラノイツモイツモヒトノユルサムコトヲシマタム》とあるに、こゝは同じ、○將成時爾《ナリナムトキニ》は、實の成なむ時にといふなり、女の信實に諾はむ時に、といふこゝろなり、○事者將定《コトハサダメム》は、夫婦の契《チギリ》を定めむとなり、○歌(ノ)意は、女を梅に譬へたるにて、かくれたるところなし、
 
399 妹家爾《イモガヘニ》。開有花之《サキタルハナノ》。梅花《ウメノハナ》。實之成名者《ミニシナリナバ》。左右將爲《カモカクモセム》。
 
之《シ》は、その一(ト)すぢなることを、おもく思はせたる助辭なり、○歌(ノ)意は、いかに心いられしても、(286)ようせずは事あやまちなむ、されば女の眞實に諾はむ時を、一(ト)すぢに待てこそ、ともかくも事定をせめと云るにて、上のと、詞を少し歌ひ換たるのみなり、
 
大伴宿禰駿河麻呂梅歌一首《オホトモノスクネスルガマロガウメノウタヒトツ》。
 
駿河麻呂は、續紀に、天平十五年五月癸卯、授2正六位上大伴(ノ)宿禰駿河麻呂(ニ)從五位下(ヲ)1、十八年九月癸亥、爲2越前(ノ)守(ト)1、寶龜元年五月庚午、從五位上大伴(ノ)宿禰駿河麻呂(ヲ)爲2出芸(ノ)守(ト)1、十月己丑朔、正五位下、甲寅、授2肥後(ノ)守正五位下大伴(ノ)宿禰駿河麻呂(ニ)正五位上1、二年十一月丁未、從四位下、三年九月丙午、爲2陸奥(ノ)按察使(ト)1、即日、授2正四位下(ヲ)1、四年七月甲午、以2正四位下大伴(ノ)宿禰駿河麻呂(ヲ)1、爲2陸奥(ノ)國鎭守將軍(ト)1、按察使及守如v故(ノ)、六年九月戊午、爲2參議(ト)1、十一月乙巳、授2正四位上勲三等(ヲ)1、七年七月壬辰、參議正四位上陸奥(ノ)按察使兼鎭守將軍勲三等大伴(ノ)宿禰駿河麻呂卒(ス)、贈2從三位(ヲ)1、賦2※[糸+施の旁]三十匹布一百端(ヲ)1、など見えたり、
 
400 梅花《ウメノハナ》。開而落去登《サキテチリヌト》。人者雖云《ヒトハイヘド》。吾標結之《ワガシメユヒシ》。枝將有八方《エダナラメヤモ》。
 
開而落去登《サキテチリヌト》は、心變《コヽロウツロ》ひしぬ、といふことを、たとへたり、○歌(ノ)意は、梅(ノ)花散ぬと世(ノ)人は云ど、吾(ガ)標結(ヒ)置し梅(カ)枝にてあらむやは、ほの梅には非じと云るにて、喩へたる裏の心は、女の心變《コヽロガハリ》せしと人は云ども、我(ガ)兼て深く契交せし女の、心のかはるべきよしなければ、それはわが契りし女のことにはあらじ、きはめて人たがひなるべしと云なり、此(ノ)人坂上(ノ)家の二娘と、婚娶《ツマドヒ》の約(287)を爲《ナセ》しに、今はた他(シ)女にあひて、かねてちぎりしにたがひて、彼(ノ)二娘をうとみざまになれるよなど、人けのふをきゝて、二娘も思ひたゆみたるけしきを見て、さることもあらむや、と母の郎女などの、宿禰に打かすめ云る時に、我(ガ)心變(リ)すべからねば、女の心のかはるべきよしなし、それはきはめて、他(シ)女のことなるべし、と作て告たるなるべし、八(ノ)卷大伴(ノ)家持贈2紀(ノ)郎女(ニ)1歌に、瞿麥者咲而落去常人者雖言吾標之野乃花爾有目八方《ナデシコハサキテチリヌトヒトハイヘドアガシメシヌノハナニアラメヤモ》とあるは、今とよく似たり、
 
大伴坂上郎女《オホトモノサカノヘノイラツメガ》。宴《ウタゲスル》2親族《ウガラト》1之日《ヒ》。吟歌一首《ウタヘルウタヒトツ》。
 
坂上(ノ)郎女は、此(ノ)上に云り、この郎女に二女あり、その弟娘を、駿河麻呂の懸想せるによりて、母もゆるさむとせしを、男更に他(シ)女に心をよすと聞て、宴日の席に、駿河麻呂もありければ、此(ノ)歌を作《ヨミ》て口吟《ウタヒ》しなり、下(ニ)云、大伴(ノ)宿禰駿河麻呂、娉2同坂上(ノ)家之二孃(ヲ)1歌、とあり、家持は兄娘を得、駿河麻呂は弟娘を得て、相聟なり、
 
401 山守之《ヤマモリノ》。有家留不知爾《アリケルシラニ》。其山爾《ソノヤマニ》。標結立而《シメユヒタテテ》。結之辱爲都《ユヒノハヂシツ》。
 
山守《ヤマモリ》は、駿河麻呂の、他方にて契れる女にたとふ、○其山《ソノヤマ》は、直に駿河麻呂をさせり、○標結立而《シメユヒタテテ》は、駿河麻呂を、吾(カ)聟ぞと、心にしめ結おきし意なり、○歌(ノ)意は、駿河麻呂の、他方にて約れる女の有とも知で駿河麻呂を、吾(ガ)聟ぞとしめ置し、そのしるしなくて、今更そのしめ結し辱を見つとなり。
 
(288)大伴宿禰駿河麻呂即和歌一首《オホトモノスクネスルガマロガスナハチコタフルウタヒトツ》。
 
402 山主者《ヤマモリハ》。蓋雖有《ケダシアリトモ》。吾妹子之《ワギモコガ》。將結標乎《ユヒケムシメヲ》。人將解八方《ヒトトカメヤモ》。
 
山主《ヤモモリ》(主(ノ)字、守と作る本もあり、)は、前の歌をうけていへるにて、意は同じ、○蓋雖有《ケダシアリトモ》は、蓋《ケダシ》は、若《モシ》といふに同じ、既く委(ク)云り、眞には山守はあるべくもなし、よしや、若《モシ》山守はありとも、といふなり、○我妹子《ワギモコ》は、母の郎女を云なり、○人將解八方《ヒトトカメヤモ》は、人解むやはと云むが如し、人解はせじといふ意なり、○歌(ノ)意は、縱《ヒ》人はいかにいふとも、我妹子(母娘女)が、吾を聟ぞとおもほして、結けむ標なれば、人はほどき隔つることはあらじを、と云るなり、
 
大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチガ》。贈《ヲクレル》2同坂上家之大孃《オナジサカノヘノイヘノオホイラツメニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
坂上(ノ)家之大孃は、大伴(ノ)宿禰宿奈麻呂の女にて、母は坂上(ノ)郎女なり、(四(ノ)卷に、坂上(ノ)大孃(ハ)、是右大辨大伴(ノ)宿奈麻呂(ノ)卿之女也、母居2坂上(ノ)里(ニ)1、仍曰2坂上(ノ)大孃(ト)1、と見えたり、)大孃といへるは、長女のよしなり、すべて長子を大と云は、中昔の物語書に、第一にあたる女を、大い君とも、大い子とも云るに同じ、かくてこれは、實は田村大孃の妹なれば、大孃と云ること、いかゞなれど、坂上(ノ)家に居《スマ》れし女子にては、第一の女《ムスメ》なりけるが故に、長女になずらへて、大孃と呼て、其(ノ)妹を、第二女になずらへて、坂上(ノ)二孃《オトイラツメ》と呼なせるなるべし、
 
403 朝爾食爾《アサニケニ》。欲見《ミマクホシケキ》。其玉乎《ソノタマヲ》。如何爲鴨《イカニシテカモ》。從手不離有牟《テユカレザラム》。
 
(289)朝爾食爾《アサニケニ》は、上に云り、俗に、不斷常住、といふ意におつる詞なり、○欲見は、ミマクホシケキ〔七字右○〕と訓べし、(ミマクホリスル〔七字右○〕とよめるは、いみじくわろし、)○其玉《ソノタマ》は、大孃をたとふ、○從手不離有牟は、テユカレザラム〔七字右○〕と訓べし、手をはなさずあらむといふ意なり、玉は手に纏て飾装《ヨソ》ふものなれば、かく云り、○歌(ノ)意は、不斷常住に、見まほしく思ふ其(ノ)玉を、いかにしてか、手をはなさずにあらむ、いかで常に手に纏て、弄びたきものなるを、と大孃を玉に比へて云たるなり、四(ノ)卷坂上(ノ)大孃贈2大伴(ノ)家持(ニ)1歌に、玉有者手二母將卷乎鬱瞻乃世人有者手二卷難石《タマナラバテニモマカムヲウツセミノヨノヒトナレバテニマキガタシ》とあり、○此間に、佐伯(ノ)宿禰赤麻呂贈2某(ノ)娘子(ニ)1歌と有て、其(ノ)歌も有つらむを、共に漏脱《モレ》しならむ、
 
娘子《ヲトメガ》報《コタフル》2佐伯宿禰赤麿《サヘキノスクネアカマロニ》1贈歌一首《ウタヒトツ》。
 
赤麿は、傳未(タ)詳ならず、(續紀に、天平年間以來、佐伯(ノ)宿禰淨麻呂といふ人見えて、清麻呂とも書たり、神代紀に、赤心《キヨキコヽロ》と見えたれば、赤麻呂をキヨマロ〔四字右○〕と訓て、淨麻呂と同人かといふ説あれど、おぼつかなし、)
 
404 千磐破《チハヤブル》。神之社四《カミノヤシロシ》。無有世伐《ナカリセバ》。春日之野邊《カスガノヌヘニ》。粟種益乎《アハマカマシヲ》。
 
神之社四《カミノヤシロシ》は、赤麻呂の心かよはす女に譬ふ、四《シ》は、その一(ト)すぢを、おもく思はする處におく助辭なり、○無有世伐《ナカリセバ》(伐(ノ)字、活字本に代と作るは誤なり、)は、無ありせばと云が如し、○粟種益乎《アハマカマシヲ》は、粟を種《マカ》まし物をと云るにて、粟といふに、會《アフ》意を相帶《アヒカネ》ていひたるなり、十六に、寸三二粟嗣《キミニアハツギ》(290)(寸三《キミ》は稷なるを、君に會嗣てふ意に帶云り、)とあり、さて粟は、神代紀にも、粟田《アハフ》見え、神式天皇(ノ)御歌にも、阿波布《アハフ》とよませ賜ひ、阿波(ノ)國も、粟《アハ》に縁(レ)る名、此(ノ)集十四に、左奈都良能乎可爾安波麻伎《サナツラノヲカニアハマ》とも見えて、古(ヒ)は世に多く作れりし物なる故、歌にも常に作ならはせり、なほ委きことは、品物解に云を見て考べし、○歌(ノ)意は、春日野に、粟を種《マカ》まほしく思へども、其を領給ふ神の社のましませば、おそれて粟を得まかずといひて、君にもしか/”\のたまへば、吾(ガ)夫とさだめてあらまほしけれども、はやくさきより、契り給ふらむ人のあれば、その人をおそれて、得うけひき侍らずといふなり、
佐伯宿禰赤麿更贈歌一首《サヘキノスクネアカマロガマタオクレルウタヒトツ》。
 
405 春日野爾《カスガヌニ》。粟種有世伐《アハマケリセバ》。待鹿爾《シヽマチニ》。繼而行益乎《ツギテユカマシヲ》。社師留烏《ヤシロシアリトモ》。
 
粟種有世伐《アハマケリセバ》は、粟を種《マキ》て有せばと云るにて、粟に會意を帶たる事、上の歌の如し、○待鹿爾は、シヽマチニ〔五字右○〕と訓べし、(略解に、まつしかにと訓て、そこの云る如くならば、粟を待はむ鹿の如く、頻に繼ても通はむものを、と云るなりと云るは、甚非じ、待鹿《マツシカ》とのみ云て、待はむ鹿とは、いかできこゆべき、)粟喫(ミ)に來る猪鹿を、待(チ)窺ひて繼て行む、といふ意なり、七(ノ)卷に、足病之山海石榴開八岑越鹿待君之伊波比嬬可聞《アシヒキノヤマツバキサクヤツヲコエシヽマツキミガイハヒツマカモ》、十三に、射目立十六待如床敷吾待公犬莫吠行年《イメタテヽシシマツゴトクトコシクニアガマツキミヲイヌナホヘソネ》などあるを考(ヘ)合(ス)べし、○社師留烏(烏(ノ)字を、拾穂本には乎と作り、又異本には、留烏(ノ)二字を、怨焉と作(291)り、共にいかゞなり、)は、甚意得難なるを、強て思ふに、留は怨とある本に依に、有(ノ)字の草書、〓を〓と寫誤れるなるべく、烏は侶(ノ)字の草書、〓を〓と寫誤れるなるべし、(七(ノ)卷に、事不問侶《コトトハズトモ》、十(ノ)卷に、夜目見侶《ヨメニミレドモ》、)さらばヤシロシアリトモ〔八字右○〕と訓べし、師《シ》は例のその一(ト)すぢなることにいふ助辭なり、此(ノ)上の歌の、山守者蓋雖有《ヤマモリハケダシアレドモ》と、心詞似通へるをも、合(セ)思(フ)べし、(本居氏の、烏は戸母の誤ならむと云れど、戸(ノ)字は、かくざまの辭に、用ひたるもめづらしく、はたよしやそれまでもなく、社知《ヤシロシル》ともといひては、こゝろゆかず、一首の意も味なし、又荒木田氏が、怨焉とある本に依て、ウラメシ〔四字右○〕とよめるは、彌わろし、なほ次にいふを味(ヒ)見て、その説々の協(ハ)ざるを知べし、)○歌(ノ)意は、神(ノ)社しなくば、春日野に粟種ましを、とのたまふが、其(ノ)社は、われはいざまだしらず、よL知はありとも、もし眞にしかおもほせるにて、粟を種(キ)給ひてあらば、その粟をもり喫猪鹿を、待うかゞひに、吾は朝夕繼て往つゝ、粟をそこなはしめず、大切にしてましものを、さはのたまへども、信には粟を種給ふ心はあらじ、たゞ言のなぐさに、のたまふことのみならむといひて、たとひ吾(ガ)心をかよはす女の、他にありとも、それにはさはらじ、君だにうけひきたまはゞ、吾は繼てまかましものをと云るなり、
 
娘子復報歌一首《ヲトメガマタコタフルウタヒトツ》。
 
406 吾祭《アハマツル》。神者不有《カミニハアラズ》。丈夫爾《マスラヲニ》。認有神曾《トメタルカミゾ》。好應祀《ヨクマツルベキ》。
 
(292)吾祭は、本居氏の、アハマツル〔五字右○〕とよまれし、信に然り、(略解に、神者の神は、社の誤にて、わがまつるやしろはあらず、とあらむかた、穩なりと云るは、いかにぞや、扨は一首の意、いかにとも聞べき樣なし、)○認有神曾は、ツキタルカミゾ〔七字右○〕と訓べきにや、さらば寄屬《ヨリツキ》たる神ぞの意なり、二(ノ)卷にも、神曾著常云《カミゾツクチフ》とあり、字書に、認(ハ)識(ス)v物也、と見えたり、常に物書識すを、書つくといひ、又ただつくるとのみも云ば、古もしかありけむか、さらば認(ノ)字を、ツク〔二字右○〕とよみつらむから、こゝにも借(リ)て書るにやあらむ、猶考(フ)べし、(略解に、齊明天皇(ノ)紀(ノ)歌に、いるしゝを都那遇《ツナグ》かはべのとあるを、卷(ノ)十六に、認河邊と書たり、これによれば、こゝもつなげるとよまむか、といへるは、かたはらいたし、いかでか、神をつなぐとは云む、)○歌の意は、上に、社し有とも繼て行ましを、と云るをも、なほうけがはずして、又ざれて云る女情なり、吾はそこの祭り給ふべき神にはあらず、もとより君に屬たる神を好して祭り給べきことぞと云て、われをそこの妻とは、いかでかなし給はむ、そこにはもとより、心かよはし給ふ女のあるなれば、それをよくして、かたらひ給へとなり、
 
大伴宿禰駿河麻呂《オホトモノスクネスルガマロガ》。娉《ツマドフ》2同坂上家之二孃《オヤジサカノヘノイヘノオトイラツメヲ》1歌一首《ウタヒトツ》。
二孃は、オトイラツメ〔六字右○〕と訓べし、大伴宿禰宿奈麻呂の女にて、母は坂上(ノ)郎女、上に出たる坂上(ノ)大孃の妹《オト》なり、實は第二女にはあらざれども、坂上(ノ)家にては、第二女になずらへて、二孃と呼(293)なせるなるべし、
 
407 春霞《ハルガスミ》。春日里之《カスガノサトノ》。殖子水葱《ウヱコナギ》。苗有跡云師《ナヘナリトイヒシ》。柄者指尓家牟《エハサシニケム》。
 
春霞は、枕詞なり、春霞霞むといふ意に、春日にいひかけたり、○之(ノ)字、(類聚抄には无、)舊本には爾とあり、今は古寫本、古寫一本、拾穗本等に從つ、○殖子水葱《ウヱコナギ》は、十四に、可美都氣努伊可保乃奴麻爾字惠古奈宜《カミツケヌイカホノヌマニウヱコナギ》とあり、品物解に委(ク)云、(現存六帖に、苗代の田づらのあぜの殖子水葱まくてふ種にとりやまぜけむ、)本居氏云、殖は、集中に、宇惠竹《ウヱタケ》、又古事記倭建(ノ)命(ノ)段(ノ)歌に、宇惠具佐《ウヱグサ》などある宇惠《ウヱ》と同じく、人の殖たる由にはあらで、植《ウワ》りたる意なり、古事記白檮原(ノ)宮(ノ)段(ノ)御歌に、多知曾婆能微能《タチソバノミノ》とある、多知《タチ》の言と同意なり、(夫木集に、里近き淀の河邊のうゑ柳ほつえよぢをりかづらせよ兒等、とあるうゑも同じ、)○苗有跡云師《ナヘナリトイヒシ》、云(ノ)字、異本には三と作り、此(レ)に依ば、ナヘナリトミシ〔七字右○〕と訓べし、(いづれにもあるべし、)契冲云、なへとは稻に限らず、草も木もおしなべて、少《チイサ》きほどをいへど、いつとなく稻にのみ云ならへり、此(ノ)集には、猶みしま菅未(ダ)苗なりともよめり、○柄者指爾家牟《エハサシニケム》(柄(ノ)字、異本には枝と作り、)は、枝さし長《ノビ》て、よきほどになりつらむ、と云る、なり、○歌(ノ)意は、春日(ノ)里の殖小水葱は、未(タ)稚くて、なほ苗のほどなりと人の云しを、此ほどはやゝ枝さし長《ノビ》て、よきほどに成つらむ、早く採て食ふべき時節至りぬ、と云るにて、二孃のまだ片生と云しを、此(ノ)ほどはやゝ長《ヒトヽナリ》つらむ、と思へば、今は相婚《アヒスマ》むのこゝろをたとへて、(294)よみておくれるなり、
 
大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチガ》。贈《オクレル》2同坂上家之大孃《オヤジサカノヘノイヘノオホイラツメニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
408 石竹之《ナデシコガ》。其花爾毛我《ソノハナニモガ》。朝旦《アサナサン》。手取持而《テニトリモチテ》。不戀日將無《コヒヌヒナケム》。
 
其花爾毛我《ソノハナニモガ》は、其(ノ)花にもがな、と希望《ネガ》へる意なり、○不戀日將無《コヒヌヒナケム》は、不《ヌ》v愛《ウツクシマ》日无からむの意なり、こゝの戀は、目(ノ)前に憂つゝ、愛著《ウツクシミ》する意なり、二(ノ)卷に、衣有者脱時毛無吾戀《キヌナラバヌグトキモナクアガコヒヌ》とある意に同じ、既く委(ク)云り、○歌(ノ)意は、大孃は、石竹の花にてもがな有(レ)かし、さらば常に手に取持て、日々に賞《メデ》愛《ウツクシ》むべきを、と云るなり、
 
大伴宿禰駿河麻呂《オホトモノスクネスルガマロガ》。贈〔○で囲〕《オクレル》2同坂上家之大孃〔七字○で囲む〕《オヤジサカノヘノイヘノオホイラツメニ》1歌一《ウタヒト》【◎二カ】首《ツ》。
 
贈同云々の八字あるべきが、諸本になきは、漏たるなるべし、
 
409 一日尓波《ヒトヒニハ》。千重浪敷爾《チヘナミシキニ》。雖念《オモヘドモ》。奈何其玉之《ナゾソノタマノ》。手二卷難寸《テニマキガタキ》。
 
千重浪敷爾《チヘナミシキニ》は、敷爾《シキニ》をいはむとて、千重浪《チヘナミ》を設云り、敷爾《シキニ》は、頻《シキリニ》になり、十三に、百重浪千重敷敷爾言上吾爲《モヽヘナミチヘナミシキニコトアゲゾアガスル》とあり、下に云る玉とは、海にかづきとる鰒玉の類にて、そのよせに浪を云るなるべし、(但し浪は借(リ)字にて、浪敷を、シク/\〔四字右○〕とも訓むか、十三に、浪雲乃愛妻跡《シキタヘノウツクシツマト》とあるも、浪雪《シキタヘ》の誤にて、浪をシキ〔二字右○〕に借(リ)て書りと見ゆればなり、されど此《コヽ》は、浪はなほナミ〔二字右○〕なるべし、)○歌(ノ)意は、たゞ一日の中に、千重浪のしきる如く、頻數《シキリ》に得まほしく思へども、何の故にか、其玉の手(295)に纏がたかるらむ、と女を玉に譬へて云るなり、
 
大伴坂上郎女橘歌一首《オホトモノサカノヘノイラツメガタチバナノウタヒトツ》。
 
410 橘乎《タチバナヲ》。屋前爾埴生《ヤドニウヱオホセ》。立而居而《タチテヰテ》。後雖悔《ノチニクユトモ》。驗將有八方《シルシアラメヤモ》。
 
橘は、二孃に譬へたり、○屋前爾殖生(拾穗本には、前を戸、殖を植と作り、)は、ヤドニウヱオホセ〔八字右○〕とよみて、そこの屋前に令2殖生1よ、と令せたる意なり、○立而居而《タチテヰテ》は、既く出づ、こゝは後に立て悔居て悔ともの意なり、○驗將有八方《シルシアラメヤモ》は、鳴呼《アハレ》かひあらむやはあらじ、といふ意なり、驗は既ぐ云り、こゝは契冲が、書紀に、何益を、ナニノシルシカアラム〔十字右○〕とよめるを引たる、其(ノ)意なり、八《ヤ》は、後(ノ)世の也波《ヤハ》の也《ヤ》、方《モ》は歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、はやくそなたの物と領給へ、嗚呼《アハレ》他人の手折行なば、後に悔給ふとも、益はあらじぞとて、駿河麻呂に、二孃を遇せむと、そゝのかしたてて、よめるなるべし、
 
大伴宿禰駿河麻呂〔八字右○〕和歌一首。《オホトモノスクネスルガマロガコタフルウタヒトツ》。
 
大伴云々の八字あるべきが、諸本になきは、漏たるなるべし、(拾穗本に、作者未詳とあれど、決(メ)て駿河麻呂なり、
 
411 吾妹兒之《ワギモコガ》。屋前之橘《ヤドノタチバナ》、甚近《イトチカク》。殖而師故二《ウヱテシユヱニ》。不成者不止《ナラズハヤマジ》。
 
吾妹兒《ワギモコ》は、母郎女をさせり、○屋前之橘《ヤドノタチバナ》(前(ノ)字、拾穗本には戸とあり、)は、二孃を譬へたるなり、○(296)甚近《イトチカク》は、兼て契りたる意をそへたり、○殖而師故二《ウヱテシユヱニ》(殖(ノ)字、拾穗本には穗と作り、)は、殖てし物をの意にて、我物に領《シメ》たるをそへたり、○不成者不止《ナラズハヤマジ》は、事成就せずしては止まじ、と云なり、成とは、此(ノ)上に、將成時爾《ナリナムトキニ》とある成におなじ、○歌(ノ)意は、郎女の二孃を、兼て吾が娶《エ》むと契り置たる物を、事成就せずしては止まじ、といふ意を、譬へたるなり、
 
市原王歌一首《イチハラノオホキミノウタヒトツ》。
 
市原(ノ)王は、安貴(ノ)王の子なり、六(ノ)卷に見ゆ、續紀に、天平十五年五月癸亥、無位市原(ノ)王(ニ)授2從五位下(ヲ)1、勝寶元年四月丁未、從五位上、二年十二月癸亥、正五位下、寶字七年正月壬子、攝津大夫、四月丁亥、爲2造東大寺長官(ト)1、と見えたり、
 
412 伊奈太吉爾《イナダキニ》。伎須賣流玉者《キスメルタマハ》。無二《フタツナシ》。此方彼方毛《カニモカクニモ》。君之隨意《キミガマニマニ》。
 
伊奈太吉《イナダキ》は、和名抄に、陸詞(カ)曰、顛(ハ)頂也、※[寧+頁](ハ)頭上也、訓|伊奈太肢《イナダキ》、字鏡に、〓〓〓(ハ)三同、結(ナリ)v髪(ヲ)、伊太々支《イタゞキ》、顛頂(ハ)、頂也※[桑+頁]也|伊太々支《イタヾキ》、などあれど、伊奈太吉《イナダキ》と、古(ク)は云るなるべし、(すべて、奈《ナ》と太《ダ》と通(ハシ)云る事、例多し、)神代紀に、髻鬘《ミイナダキ》、神名帳に、備後(ノ)國安那(ノ)|多祁伊奈太伎佐耶布都《タケイナダキサヤフツノ》神社など見(エ)たり、さて此は冠(ノ)頂《イナダキ》を云るなるべし、冠(ノ)頂に玉著る事は、貞觀儀式に、元正禮服(ノ)制、云々、親王四品已上冠者、漆地金装、以2水精三顆琥碧三顆青玉五顆(ヲ)1、交2居冠(ノ)頂1、云々、諸王諸臣一位冠者、漆地金装、以2琥碧三顆緑玉六顆(ヲ)1、交2居冠(ノ)頂(ニ)1、云々、臣一位云々、二位三位冠者、漆地金装、以2琥碧五顆緑玉五(297)顆白玉一顆(ヲ)1、交2居冠(ノ)頂(ニ)1、云々、四位云々、以2琥碧五顆緑玉六顆(ヲ)1、交2居冠(ノ)頂(ニ)1、云々など、猶其形くはしく見えたり、既く二(ノ)卷(ノ)下に、委(ク)云るを見て、考(ヘ)合(ス)べし、○伎須賣流《キスメル》は、本居氏云、伎《キ》は著にて、笠を著るなど云著に同じ、須賣流《スメル》は、統有《スベル》なり、神代紀に、御須麻流玉《ミスマルノタマ》といふに、統(ノ)字を書り、但すぶるを、俗言にすべると云とは、用樣異れり、統有《スベル》の意にて、統《スベ》て有なり、○無二《フタツナシ》は、本居氏、たぐひ無(シ)と云むが如し、統たる玉のたぐひなきよしなり、玉の數を云には非ずと云り、土佐日記に、皆人々|女少《ヲサナキ》者、額に手を當て喜ぶこと二(ツ)なし、落窪物語に、ねたういみじき事二(ツ)なし、などある皆同じ、源氏物語薄雲に、このおとゞの君の世にふたつなき御|形容《アリサマ》ながら、云々とも見えたり、○此方彼方毛は、此も本居氏の考に從て、カニモカクニモ〔七字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、たぐひなき、君一人を思ふからは、とまれかくまれ、君が意のまゝに隨ひなむ、といへるにやあらむ、
 
某歌二首《ソレノウタフタツ》
 
舊本左の二首、下挽歌の標中、和銅四年三穗浦にてよめる、二首の次に入たるは、混亂たるなるべし、且題詞も脱しものなり、
 
436 人言之《ヒトゴトノ》。繁比日《シゲキコノゴロ》。玉有者《タマナラバ》。手爾卷以而《テニマキモチテ》。不戀有益雄《コヒザラマシヲ》。
 
比(ノ)字、拾穗本に此と作るは誤なり、○玉有者《タマナラバ》は、二(ノ)卷に、吾戀君玉有手爾卷持而吾戀《アガコフルキミタマナラバテニマキモチテアガコフル》、四(ノ)卷に、玉有者手二母將卷乎鬱瞻乃《タマナラバテニモマカムヲ》、世人有者手爾卷難石《ウツセミノヨノヒトナレバテニマキガタシ》などあり、○歌(ノ)意は、玉の如く、めでたくうつ(298)くしき、其(ノ)妹が、眞の玉ならば、人のものいひのしげくて、逢難き頃者《コノゴロ》、手玉になして手に纏持て、外ながら戀しく思ひつゝのみは、あるまじきものをとなり、十二に、人言繁時吾妹《ヒトゴトノシゲヽキトキニワギモコシ》、衣有裏服矣《キヌニアリセバシタニキマシヲ》、とあるに意同じ、
 
437 妹毛吾毛《イモモアレモ》。清之河乃《キヨミノカハノ》。河岸之《カハキシノ》。妹我可悔《イモガクユベキ》。必者不持《コヽロハモタジ》。
 
妹毛吾毛《イモモアレモ》は、毛《モ》は三(ツ)ながら、物を相對へて云詞にて、妹も吾も、かたみに二心なく、底清きといふことを清之河《キヨミノカハ》にいひ續けたり、○清之河《キヨミノカハ》は、二(ノ)卷に、飛鳥之淨之宮《アスカノキヨミノミヤ》とも有て、飛鳥の清御原《キヨミハラ》の河にて、いはゆる飛鳥河なるべし、○河岸之《カハキシノ》は、悔《クユ》をいはむ料の序なり、岸よりのつゞきは崩る意、受たる意は悔《クユ》なり、十四に、可麻久良乃美胡之能佐吉能伊波久叡乃《カマクラノミコシノサキノイハクエノ》、伎美我久由倍伎己許呂波母多自《キミガクユベキココロハモタジ》、とあるも同じ、○心者不持《コヽロハモタジ》は、十(ノ)卷に、雨零者瀧都山川於石觸《アメフレバタキツヤマガハイハニフリ》、君之摧情者不持《キミガクダカムコヽロハモタジ》、十一に、左不宿夜者《サネヌヨハ》、千夜毛有十方我背子之《チヨモアリトモアガセコガ》、思可悔心者不持《オモヒクユベキコヽロハモタジ》、ともよめり、○歌(ノ)意は、吾のみならず、妹も妹のみならず、かたみに打あひて、二心なく底清ければ、後に悔べき心をば、更に持まじとなり、
 
大網公人主宴吟歌一首《オホアミノキミヒトヌシガウタゲニウタヘルウタヒトツ》。
 
大網(ノ)公人主(網(ノ)字、舊本には鋼と作り、今は古寫本類聚抄拾穗本等に從つ、)は、傳未詳ならず、大網(ノ)公(ノ)姓は、姓氏録左京皇別大網(ノ)公(ハ)、上毛野(ノ)朝臣同祖、豐城入彦(ノ)命(ノ)六世(ノ)孫、下(ツ)毛(ノ)君奈良(ノ)弟、眞若君(299)之後也と見ゆ、續紀にも此(ノ)氏見えたり、
 
413 須麻乃海人之《スマノアマノ》。鹽燒衣乃《シホヤキキヌノ》。藤服《フヂコロモ》。間遠之有者《マドホクシアレバ》。未著穢《イマダキナレズ》
 
須麻《スマ》は、攝津(ノ)國矢田部(ノ)郡にありて、かくれなし、○鹽燒衣《シホヤキキヌ》は、六(ノ)卷にも、爲間乃海人之鹽燒衣乃奈禮名者香《スマノアマノシホヤキキヌノナレナバカ》とあり、○藤服《フヂコロモ》は、藤もて織たる布にて、賤者の服なり、十二にも、大王之鹽燒海部乃藤衣《オホキミノシホヤクアマノフヂコロモ》云々と見えたり、(契冲、藤を布に織たるを、奥山の山がつなど、さきおりとも、藤こぎぬとも、いふめりといへり、)○間遠之有者は、マドホクシアレバ〔八字右○〕と訓べし、間遠は、上よりのかゝりは、古今集に、須麻の海人の鹽燒衣※[竹/成]を荒み、間遠にあれや君がきまさぬとある、※[竹/成]をあらみがよき注なり、と契冲云り、之《シ》は例のその一(ト)すぢなるを、思はせたる助辭なり、○未著穢《イマダキナレズ》は、間遠く隔り居て、未(タ)狎(レ)親《チカヅ》かぬと譬へたり、○歌(ノ)意は、問遠く隔り居る故に、未(タ)狎親かずて、逢難きよしを、藤服に譬へたるなり、此は當時宴席に吟へたるにて、古歌なるべし、新古今集に、なれ行ばうき世なればや須麻の海人の、鹽燒衣間遠なるらむ、此は古今集に本づけるなるべし、
 
大伴宿禰家持歌一首《オホトモノスクネヤカモチガウタヒトツ》。
 
414 足日木能《アシヒキノ》。石根許其思美《イハネコゴシミ》。菅根乎《スガノネヲ》。引者難三等《ヒカバカタミト》。標耳曾結烏《シメノミソユフ》。
 
足日木能《アシヒキノ》は、契冲云、足日木能といひても、山に用る故に、山乃石根《ヤマノイハネ》といふ心につゞけたり、○(300)石根許其思美《イハネコゴシミ》は、石根の凝々しき故にの意なり、許其思《ユゴシ》は既く云り、○引者難三等《ヒカバカタミト》は、引ば難からむとての意なり、難からむといふ意を、難三《カタミ》といふ例は、既く云り、○標耳曾結烏《シメノミソユフ》(烏(ノ)字、舊本鳥に誤れり、古寫本拾穗本等に從つ、異本には焉と作り、烏は焉と通(ハシ)て、徒に添て書るのみなり、例多し)は、引得る事は難からむとて、標ばかりを結て、他人に得させじとするよしなり、○歌(ノ)意は、石根凝々しさに、直に引得ることこそ難からめ、他人には得させじと、標結廻すと云て、得がたき女なれども、遂には我(ガ)物とせむと、かねて用意する意を譬へたるなり、
 
挽歌《カナシミウタ》。
 
 
上宮聖徳皇子《ウヘノミヤノシヤウトコノミコノ》。出2遊《イデマセル》竹原井《タカハラヰニ》1之時《トキ》。見《ミソナハシテ》2龍田山死人《タツタヤマニミマカレルヒトヲ》1悲傷御作歌一首《カナシミヨミマセルミウタヒトツ》。
 
上宮聖徳(ノ)皇子は、上宮はウヘノミヤ〔五字右○〕と訓べきよし、古事記傳に甚委く論へり、書紀に、推古天皇元年夏四月庚午朔己卯、立2厩戸(ノ)豐聽耳(ノ)皇子(ヲ)1爲2皇太子(ト)1、云々、橘(ノ)豐日(ノ)(用明)天皇(ノ)第二子也、母(ノ)皇后曰2穴穗部(ノ)間人(ノ)皇女(ト)1、皇后|懷姙開胎之日《ミコウミマサムトスルヒ》、巡2行《メグリイデマシ》禁中《ミヤノウチヲ》1、當(テ)2厩戸(ニ)1而|不《ズテ》v勞《ナヤミマサ》忽産之《ウミタマイキ》、云々、父(ノ)天皇愛之、令v居《マサ》2宮南上《オホミヤノウヘノ》殿(ニ)1、故(レ)稱《ヲ》2其(ノ)名《ミナ》1、謂2上(ノ)宮(ノ)厩戸(ノ)豐聡耳(ノ)太子(ト)1、三十九年春二月己丑朔癸巳、夜半《ヨナカニ》厩戸(ノ)豐聽耳(ノ)皇子(ノ)命、薨(タマフ)2于斑鳩(ノ)宮(ニ)1、是月葬2上(ノ)宮(ノ)太子(ヲ)於|磯長《シナガノ》陵(ニ)1、諸陵式に、磯長(ノ)墓(橘(ノ)豐日(ノ)天皇之皇太子、名云2聖徳(ト)1、在2河内國石川(ノ)郡兆域東西三町南北二町、守戸三烟、)と見えたり、○竹原(ノ)井は、河内(ノ)國大縣(ノ)郡なり、續紀に、養老元年二月壬午、天皇幸2難波(ノ)宮(ニ)1、丙戌、自2難波1至2和泉(ノ)宮(ニ)1庚寅、車駕至2竹原(ノ)井(ノ)(301)頓宮(ニ)1、天平十六年九月庚子、太上天皇行2幸珍努、及竹原(ノ)井(ノ)離宮(ニ)1、寶龜二年二月庚子、車駕幸2交野(ニ)1、辛丑、進至2難波(ノ)宮(ニ)1、戊申、車駕取2龍田道(ヲ)1、還2到竹原(ノ)井(ノ)行宮(ニ)1、など見えたり、○一首の下に、古寫本類聚抄等に、懇《ハリ》田(ノ)宮御宇天皇(ノ)代、墾田宮御宇者、豐御食飲屋姫(ノ)天皇也、諱額田、謚推古、といふ注あり、
 
415 家有者《イヘニアラバ》。妹之手將纏《イモガテマカム》。草枕《クサマクラ》。客爾臥有《タビニコヤセル》。此旅人※[立心偏+可]怜《コノタビトアハレ》。
 
家有者《イヘニアラバ》は、五(ノ)卷山上憶良、爲2熊凝1述2其志(ヲ)1歌に、國爾阿良波父刀利美麻之《クニニアラバチヽトリミマシ》、家爾阿良婆母刀利美麻志《イヘニアラバハヽトリミマシ》、と有に依て訓べし、○客爾臥有《タビニコヤセル》は、旅中《タビ》にて臥賜有《フシタマヘル》と云なり、そも/\臥(ス)ことを、古言に許夜留《コヤル》、許伊《コイ》、許由《コユ》、許要《コエ》と云(その許夜流《コヤル》は、古事記輕(ノ)太子(ノ)御歌に、見えたり、古今集東歌に、横ほりふせる、とあるふせるを、古き一本には、こせるとあるよし、そのこせるは、こやるを誤れるなり、又|許伊《コイ》は、許伊臥《コイフス》、許伊轉《コイマロブ》などいへること、古言にめづらしからず、許由《コユ》、許要《コエ》は、石久由《イハクユ》、石久要《イハクエ》など云、その久由《クユ》、久要《クエ》は、即(チ)許由《コユ》、許要《コエ》を、音を通はして云るなり、石の崩《クユ》るは、立たるものの、横たへ臥よりいへるなり、)さてかく夜伊由要《ヤイユエ》とはたらくは、映を波夜留《ハヤル》、波伊《ハイ》、波由《ハユ》、波要《ハエ》とはたらかしいふと、全(ラ)同例にして、立を多々留《タヽル》、多知《タチ》、多都《タツ》、多弖《タテ》と、多知都弖《タチツテ》にはたらかす類と、又同例なり、かくてその臥《フス》ことを、對《サキ》の人を敬《ウヤマ》ひて云とき、許夜佐牟《コヤサム》、許夜志《コヤシ》、許夜須《コヤス》、許夜世《コヤセ》と、佐志須世《サシスセ》に伸はたらかして云ことにて、其は臥賜《フシタマ》はむ、臥賜《フシタマ》ひ、臥賜《フシタマ》ふ、臥賜《フシタマ》へと云意になる(302)こと、立を多々佐牟《タヽサム》、多々志《タヽシ》、多々須《タヽス》、多々世《タヽセ》と云は、立賜《タチタマ》はむ、立賜《タチタマ》ひ、立賜《タチタマ》ふ、立賜《タチタマ》へと云意になると、全(ラ)同例なり、しかるに許夜志《コヤシ》、許夜須《コヤス》など云は、後(ノ)世には口(チ)づかず、神さびて聞ゆることなるを、布之《フシ》、布須《フス》など云は、今(ノ)俗にも常云ことなれば、古(ル)めかしからずおほゆるより、ひとへに許夜之《コヤシ》、許夜須《コヤス》など云を、臥ことの古言とのみ意得て、臥伏等の字の、布之《フシ》、布須《フス》とよみてよろしき所をも、許夜志《コヤシ》、許夜須《コヤス》とよむは、ひがことなり、さるは右に云ごとく、自《ミヅカラ》のうへに云ときは、そのはたらかしざまによりて、許夜留《コヤル》、許伊《コイ》など云(ヒ)、他のうへを敬ひて云ときは、許夜世流《コヤセル》、許夜之《コヤシ》など云て、その差別あることなるを、その許夜留《コヤル》、許伊《コイ》など云は、又後(ノ)世人には耳遠きから、その活用樣に、他のうへを敬ひて云と、しからざるとの、差別あることをさへわすれて、許夜里《コヤリ》、許夜留《コヤル》など云べき處をも、ひたすら、許夜志《コヤシ》、許夜須《コヤス》など云ことゝ思ふは、又あらぬことなり、必(ス)他のうへを敬ふときならでは、許夜志《コヤシ》、許夜須《コヤス》などは云まじきことなるを、さることにも心つかざるは、古言を味ふことの、おろそかなるがゆゑなり、かくてこの旅人は、書紀の文によるに、その死後まで、皇太子の切《ネモコロ》に爲《シ》たまふを思へば、たゞの賤者にはあらざりしと見えたり、されば布志多留《フシタル》とも、許夜禮留《コヤレル》とも詔《ノタマハ》ずして、慇懃《ネモコロ》に敬ひて、許夜世留《コヤセル》とはのたまふなり、と知べきことなり、○此旅人※[立心偏+可]怜(※[立心偏+可](ノ)字、拾穗本に可と作るは、さかしらに改めたるなり、又活字本に阿と作るは誤なり、)は、コノタビトアハレ〔八字右○〕と訓べし、(始には、仁賢天皇(ノ)紀に、(303)吾夫※[立心偏+可]怜《アガツマハヤ》とあるに依て、コノタビトハヤ〔七字右○〕と訓べくおもひしかども、なほ推古天皇(ノ)紀に依て、アハレ〔三字右○〕と訓べきなり、(※[立心偏+可]怜《アハレ》は歎息の御詞なり、)○御歌(ノ)意は、己が家に在ば、妻が手を取て死《マカ》るべきに、誰いとほしむべき人もなき、旅中にありて、死り臥たまへる、此(ノ)旅人あはれ悲傷《カナ》しや、と歎かし賜へるなり、抑々此(ノ)御歌は、書紀推古天皇(ノ)卷に、二十一年冬十二月庚午朔、皇太子|遊2行《イデマシヽ》於片岡(ニ)1時、飢者《ウヱヒト》臥2道(ノ)垂《ヘニ》1、仍《カレ》問《トハスレトモ》2姓名《ソノナヲ》1而不v言《マヲサ》、皇太子|視之《ミソナハシテ》與《タマヒ》2飲食《ヲシモノヲ》1、即脱(テ)2衣裳《ミケシヲ》1、覆(テ)2飢者(ニ)1而|言《ノリタマハク》、安臥也則歌之曰《ウマヰシタマヘリトノリタマヒテウタヒタマハク》、斯那提流箇多烏箇夜摩爾《シナテルカタヲカヤマニ》、伊比爾惠弖許夜勢屡《イヒニヱテコヤセル》、諸能多比等阿波禮《ソノタビトアハレ》、於夜那斯爾那禮奈理鷄迷夜《オヤナシニナレナリケメヤ》、佐須陀氣能枳彌波夜那祇《サスダケノキミハヤナキ》、伊比爾鷄弖許夜勢留《イヒニヱテコヤセル》、諸能多比等阿波禮《ソノタビトアハレ》、辛未、皇太子遣(テ)v使(ヲ)令v視(セ)2飢者(ヲ)1、使者還來之日《カヘリテマヲサク》、飢者|既死《ハヤクミマカリヌ》、爰(ニ)皇太子|大悲之則因《イタクカナシミマシテ》、以|葬2埋《ハフリテ》於|當處《ソコニ》1、墓固封《ハカヲツキカタメキ》也、とあると、もはら一事なるを、片岡とも、龍田山とも、くさ/”\に言傳(ヘ)しなり、但し書紀の正史の方に就て、片岡とあるを、正傳とし、龍田山とせるをば、誤傳とすべし、なほ此(ノ)後の物に記せるも、片岡とのみあり、(拾遺集に、聖徳太子片岡山(ノ)邊、道人の家におはしけるに、うゑたる人道のほとりにふせり、太子の乘給へる馬とゞまりて行ず、鞭をあげて打給ふに、退てとゞまる、太子則馬よりおりて、飢たる人のもとにあゆみすゝみ給ひて、紫のうへの御そをぬぎて、飢人のうへにおほひ給ふ、歌をよみてのたまはく、しなてるやかたをか山に飯にうゑて、ふせる旅人あはれおやなし、うゑ人かしらをもたげて、御返しな奉る、いかるがや富の小河(304)の絶ばこそ、吾(カ)大王の御名は忘れめ、太子傳暦に、太子命v駕(ヲ)巡2看山西科長山本墓處(ヲ)1、還向之時、即日申時、枉v道(ヲ)入2於片岡山(ノ)邊道人(ノ)家(ニ)1、即(チ)有2飢人1臥2道頭(ニ)1、去三丈許、驪駒屆v此(ニ)不v進、太子加v鞭、逡巡猶駐、太子自言哀々、即下v馬(ヨリ)、舍人調使磨、走進獻v杖、太子歩近2飢人之上(ニ)1、臨語之可怜可怜、何爲人耶、於此而臥、即(チ)脱2紫(ノ)御袍(ヲ)1、覆2飢人(ノ)身(ニ)1、賜v歌(ヲ)曰、支那照耶片岡山邇《シナテルヤカタヲカヤマニ》、飯飢而臥《イヒニヱテコヤセル》、其旅人可怜《ソノタビトアハレ》、祖無邇《オヤナシニ》、汝成介米耶《ナレナリケメヤ》、刺竹之君速無母《サスダケノキミハヤナキモ》、飯飢而臥其旅人可怜《イヒヱテコヤセルソノタビトアハレ》、是夷振(ノ)歌也、飢人起v首(ヲ)、進答歌(テ)曰、斑鳩之富小河之絶者社我王之御名者忘目《イカルカノトミノヲガハノタエバコソワガオホキミノミナハワスレメ》、太子傳補闕記には、尾句を、御名忘世米《ミナワスレセメ》とあり、〔頭注、【往生極樂記云、斯那提留夜云々、飢人起v首答歌曰、伊賀瑠賀能云々、彌奈須良禮女、】現報靈異記に、皇太子出v宮(ヨリ)、遊2觀片岡(ノ)村(ニ)1也、路側(ニ)有2乞※〓人1得v病、而太子見之從v輦下、倶語之問訊、脱2所v著衣(ヲ)1覆2於病人1、而言安臥(セ)也、遊觀既訖、返v輦幸行、脱覆之衣、挂2于木枝(ニ)1無2彼乞〓1太子取v衣著之、彼乞〓人他處而死、太子聞之、遣v使以殯2崗本村法林寺東北角1、有2山守部1作v墓、而收、名曰2人木墓1也、後遣v使掘v墓、而|不開《開之歟》無2乞人1、唯作v歌書以立2墓(ノ)戸(ニ)1、歌曰、イカルガノトミノヲガハ乃タエバコソワガオホキミ乃ミナヲワスレメなどあり、古今集(ノ)叙に至v如(ニ)d難波之什、獻2天皇(ニ)1、富(ノ)緒川之篇、報c太子(ニ)u、或事關2神異(ニ)1、或興入2幽玄(ニ)1、この富(ノ)緒川之篇は飢者の和(ヘ)歌、事關2神靈(ニ)1と云るも、飢人のことにかけて云り、この和歌は、後人の強て附會《ヒキヨセ》たるにて、飢者のことをくさ/”\云るも、みな虚説のみなり、信には、飢死者を見そなはして、悲みあはれみて、歌を作(ミ)ませるのみのことなり、又かの飢者を、達磨、或は文殊の化たるなりしなどい(305)ひて、いよ/\こちたき妄誕、例の僧徒がかまへ出たるに欺かれて、信(ク)し人も古くよりありしと見ゆ、本朝文粹に、藤後生作、奉v賀2村上天皇四十(ノ)御算(ヲ)1和歌(ノ)序に、達磨和尚、至2富(ノ)緒川(ニ)1、寄2於斑鳩(ノ)宮太子(ニ)1、元亨釋書に太子豐聽、過2和之片岡(ヲ)1、於時達磨作(ス)2飢人(ノ)貌(ヲ)1、太子作2和歌(ヲ)1問之、磨便以2和歌(ヲ)1酬之、其(ノ)歌詞、共在2國史之推古紀(ニ)1也、國史は類聚國史なるべし、なほ雜書等にもあり、皆論に足(ラ)ざることゞもなりけり、但し富の緒川の歌は、詞氣もいと古(ヘ)ぶりて聞ゆれば、もとより古歌にてはあるなり、故(レ)案(フ)に、此(ノ)歌は、彼(ノ)太子の御爲に、人の作出たる歌なりつらむを、かの片岡の事實に、附會たるものなり、上宮法王帝説といふものに、上宮薨時、巨勢(ノ)三杖(ノ)大夫(ガ)歌、伊加留我乃止美能乎河乃多叡波許曾和何於保支美乃彌奈和須良叡米《イカルガノトミノヲガハノタエバコソワガオホキミノミナワスラエメ》、美加彌乎須多婆佐美夜麻乃阿遲加氣爾比止乃麻乎之志和何於保支美波母《ミカミヲスタバサミヤマノアヂカケニヒトノマヲシシワガオホキミハモ》、伊加留我乃己能加支夜麻乃佐可留木乃蘇良奈留許等乎支美爾麻乎佐奈《イカルガノコノカキヤマノサガルキノソラナルコトヲキミニマヲサナ》、と見えたり、この三首は、みながらことさびて聞えたり、此(ノ)説のみは、白餘に異りたる傳説にて、いとおもしろし、こは信に、正傳に據て、ものせるなるべし、さてこの片岡の御事跡、又御贈和のことなど、余(レ)なほ委(キ)考あり、餘(リ)に事長くうるさければ、その大かたを、こゝにはしるせり、
 
大津皇子被死之時《オホツノミコノツミナハエタマヘルトキ》。磐余池陂流涕御作歌一首《イハレノイケノツヽミニテカナシミヨミマセルミウタヒトツ》。
 
大津(ノ)皇子被v死は、持統天皇元年十月二日に、御謀叛のこと覺《アラ》はれて、同三日に、譯語田(ノ)舍にし(306)て、賜死《ウシナハレ》まし/\しなり、猶委き事は、二(ノ)卷(ノ)上に既く云り、○磐余(ノ)池(ノ)陂、(陂(ノ)字は、舊本には般と作り、今は目録、古寫本、古寫小本、拾穗本等に從つ、前漢郊祀志に、鴻斬2于般(ニ)1と有て、註に、孟康(ガ)曰、般(ハ)水涯(ノ)堆也、とあれば、般(ノ)字義理なきにはあらねども、かくめなれぬ字、用ひけむこともいかゞなれば、陂とあるをや正とせむ、)履中天皇(ノ)紀(ニ)云、二年十一月、作2磐余(ノ)池(ヲ)1、枕册子に、池は云々、磐余の池とあり、磐余は、大和(ノ)國十市(ノ)郡なり、
 
416 百傳《ツヌサハフ》。磐余池爾《イハレノイケニ》。鳴鴨乎《ナクカモヲ》。今日耳見哉《ケフノミミテヤ》。雲隱去牟《クモガクリナム》。
 
百傳は、本居氏、角障を寫誤れるものなり、凡て磐余の枕詞は、書紀繼體(ノ)卷、又此(ノ)卷に、今二(ツ)、十三(ノ)卷に、二(ツ)見えたる、何れも皆角障經とありて、百傳と云るは、一もあることなきを以て、誤なることを知べし、但しいづれも、角障經と三字にのみ書るを、經(ノ)字は衍と心得て、後に削れるか、又此(ノ)字は、なくともあるべしと云り、○雲隱去牟《クモガクリナム》は、命終なむと宣へるなり、命の終るを、雲隱るといふこと、此(ノ)集殊に多し、二(ノ)卷上に、委(ク)云う、○御歌(ノ)意は、間近く常に覽馴て、おもしろみしこの池に、鴨などの水鳥のむれゐて遊ぶをも、唯けふばかり見て、命終なむか、とよませ給へるなり、此(ノ)御歌、唯打出給へるまゝながら、いとあはれにかなしく、身にしみて聞ゆるは、薨給ひなむとせる、まことの御心より、のたまへる故なるべし、今も誦見るごとに、流る涙は留ぞかねつる、
(307)〔右藤原宮。朱鳥元年冬十月。〕
 
河内王《カフチノオホキミヲ》。葬《ハフレル》2豐前國鏡山《トヨクニノミチノクチカヾミヤマニ》1之時《トキ》。手持女王作歌三首《タモチノオホキミノヨミタマヘルウタミツ》。
 
河内(ノ)王は、書紀天武天皇(ノ)卷に、朱鳥元年正月庚申、爲v饗2新羅(ノ)金智淨(ヲ)1、遣2淨廣肆川内(ノ)王等(ヲ)于筑紫(ニ)1、持統天皇三年閏八月辛亥朔丁丑、以2淨廣肆河内(ノ)王(ヲ)1、爲2筑紫(ノ)太宰(ノ)帥(ト)1、八年夏四月甲寅朔戊午、以2淨大肆(ヲ)1、贈2筑紫(ノ)太宰(ノ)帥河内(ノ)王(ニ)1、并賜2賻物(ヲ)1、と見ゆ、筑紫にて卒賜へる故、鏡山に葬申せるなるべし、○葬(ノ)字、拾穗本には、河の上にあり、○鏡山は、此(ノ)上にも出たり、○手持(ノ)女王(類聚抄には、手持を牛枝と作り、)は、傳未(タ)詳ならず、河内(ノ)王の妻なるべし、筑紫に率て下り賜ひつらむ、
 
417 王之《オホキミノ》。親魄相哉《ムツタマアヘヤ》。豐國乃《トヨクニノ》。鏡山乎《カヾミノヤマヲ》。宮登定流《ミヤトサダムル》。
 
王《オホキミ》は、河内(ノ)王を申す、○親魄相哉《ムツタマアヘヤ》は、親しき魄の相協へばにやなり、親は、祝詞に、皇我親神漏岐神漏美《スメラガムツカムロキカムロミ》とある親《ムツ》と同じ、相《アヘ》ばにやの意を、アヘヤ〔三字右○〕といふは古言なり、魄相《タマアフ》は、十二に、靈合者相宿物乎小山田之鹿猪田禁如母之守爲裳《タマアヘバアヒネシモノヲヲヤマダノシシダモルゴトハヽシモラスモ》、十三に、玉相者君來益八跡《タマアハバキミキマスヤト》、十四に、波播巴毛禮杼母多麻曾阿比爾家留《ハハハモレドモタマゾアヒニケル》などあり、○鏡山《カヾミノヤマ》、荒木田氏云、今猶此山に、古墓|存《ア》りと、その國人いへり、○歌(ノ)意は、鏡山を常宮と定め賜ひて、永く鎭坐るは、王の親魄の、相かなひ賜へばにやあらむとなり、
 
418 豐國乃《トヨクニノ》。鏡山之《カヾミノヤマノ》。石戸立《イハトタテ》。隱爾計良思《コモリニケラシ》。雖待不來座《マテドキマサヌ》。
 
(308)石戸立隱爾計良思《イハトタテコモリニナラシ》は、かしこくも天(ノ)石屋戸の故事に、なずらへてのたまへるなり、古事記に、天照大御神見畏(テ)、閇2天(ノ)石屋戸(ヲ)1而刺許母理坐《サシコモリマシキ》也、書紀に、入2于天(ノ)石窟(ニ)1、閇2磐戸(ヲ)1而|幽居《コモリマシキ》焉、とあり、二(ノ)卷高市(ノ)皇子(ノ)尊殯宮之時(ノ)歌に、神佐扶跡磐隱座《カムサブトイハガクリマス》、延喜式祝詞に、伊弉冊(ノ)尊、火結(ノ)神|生給弖石隱坐《ウミタマヒテイハガクリマシ》、倭姫(ノ)世記に、倭姫(ノ)命、自退2尾上山峯(ニ)1、石隱坐《イハガクリマス》、などあるも、皆右の御故事に依ていへるなり、本居氏、石戸立《イハトタテ》の立《タテ》は、闔を云り、今(ノ)世にも云ことなり、闔を立《タツ》と云|所以《ユヱ》は、師(ノ)説に、上(ツ)代には、戸を常は傍(ヘ)に取退(テ)置て、闔《タテ》むとては、其《ソ》を持來て、立塞《タテフサグ》ゆゑなり、と云れきと云り、隱はカクリ〔三字右○〕とも訓べけれど、古事記の假字によりて、コモリ〔三字右○〕と訓つ、○歌(ノ)意は、王の歸り來座やと、待ど來座ぬは、鏡山の石屋戸を閉て、永く隱り座《マシ》にけらしとなり、
 
419 石戸破《イハトワル》。手力毛欲得《タヂカラモガモ》。手弱寸《タワヤキ》。女有者《メニシアレバ》。爲便乃不知苦《スベノシラナク》。
 
手力毛欲得《タヂカラモガモ》は、あはれ手力もがなあれかしといふ意なり、手力は、七(ノ)卷に、君爲手力勞織在衣《キミガタメタヂカラツカレオリタルキヌヲ》、十七に、波流能波奈乎里底加射佐武多治可良毛我母《ハルノハナヲリテカザサムタヂカラモガモ》などあり、こゝはかしこくも、古事記に、天照大御神、稍自v戸出而臨坐之時、天(ノ)手力男神取2其(ノ)御手(ヲ)1引出《ヒキイダシマツリキ》、とあるを思ひよせられたるなり、○手弱寸は、多和夜賣多和夜賀比那《タハヤメタ(手)ワ(弱)ヤカヒ(肘)ナ》、(上に引り、)などある例によりてタワヤキ〔四字右○〕と訓つ、○女有者《メニシアレバ》は、古事記須世理毘賣(ノ)命(ノ)御歌に、阿波母與賣邇斯阿禮婆《アハモヨメニシアレバ》とあるに依て訓べし、四(ノ)卷に、世間之女爾思有者《ヨノナカノメニシアラバ》とも見ゆ、○歌(ノ)意は、あはれ鏡山の石屋戸を破手力もがなあれかし、さ(309)らば王の御手を取て、引出奉るべきに、手力弱き女にて、さる事も得せねば、外に爲べきやうもしられぬとなり、
 
石田王卒之時《イハタノオホキミノ》。丹生王作歌一首并短歌《ニフノオホキミノヨミタマヘルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
石田(ノ)王は、傳未(タ)詳ならず○丹生(ノ)王、(王(ノ)字舊本には脱たり、目録、古寫本、古寫小本、又古寫本、類聚抄、拾穗本等に從つ、)此(ノ)王も傳詳ならず、但し四(ノ)卷、八(ノ)卷に、丹生女王有は、同人にて、此も女王なるべきか、
 
420 名湯竹乃《ナユタケノ》。十縁皇子《トヲヨルミコ》。狹丹頬相《サニヅラフ》。吾大王者《ワガオホキミハ》。隱久乃《コモリクノ》。始瀬乃山爾《ハツセノヤマニ》。神左備爾《カムサビテ》。伊都伎座等《イツキイマスト》。玉梓乃《タマヅサノ》。人曾言鶴《ヒトゾイヒツル》。於余頭禮可《オヨヅレカ》。吾聞都流《アガキヽツル》。狂言加《タハコトカ》。我聞都流母《アガキキツルモ》。天地爾《アメツチニ》。悔事乃《クヤシキコトノ》。世間乃《ヨノナカノ》。悔言者《クヤシキコトハ》。天雲乃《アマクモノ》。曾久敝能極《ソクヘノキハミ》。天地乃《アメツチノ》。至流左右二《イタレルマデニ》。枚策毛《ツエツキモ》。不衝毛去而《ツカズモユキテ》。夕衢占問《ユフケトヒ》。石卜以而《イシウラモチテ》。吾屋戸爾《ワガヤドニ》。御諸乎立而《ミモロヲタテテ》。枕邊爾《マクラヘニ》。齋戸乎居《イハヒヘヲスヱ》。竹玉乎《タカタマヲ》。無間貫垂《シヾニヌキタリ》。木綿手次《ユフタスキ》。可此奈爾懸而《カヒナニカケテ》。天有《アメナル》。左佐羅能小野之《ササラノヲヌノ》。七相菅《イハヒスゲ》。手取持而《テニトリモチテ》。久堅乃《ヒサカタノ》。天川原爾《アメノカハラニ》。出立而《イデタチテ》。潔身而麻之乎《ミソギテマシヲ》。高山乃《タカヤマノ》。石穗乃上爾《イハホノウヘニ》。伊座都流香物《イマセツルカモ》。
 
名湯竹乃《ナユタケノ》は、枕詞なり、二(ノ)卷に出(ツ)、(名湯《ナユ》は奈用《ナヨ》と通ひて、弱軟《ナヨヨカ》なる由の名、竹は高生《タカハエ》の義なり、カハエ〔三字右○〕を切ればケ〔右○〕となれり、ハエ〔二字右○〕とは、草木の立延榮るを云言なり、本居氏の、竹は高なりと云(310)るは、こと足はず、猶品物解にも委(ク)云、)○十縁皇子《トヲヨルミコ》は、二(ノ)卷に、奈用竹乃騰遠依子等《ナヨタケノトヲヨルコラ》とある處に、委く云たるを、披(キ)考(フ)べし、○狹乃頻相《サニヅラフ》は、狹《サ》は美稱、丹《ニ》は字(ノ)意にて、少年の紅顔《ニホヘルカホ》を云、頬相は、(借(リ)字)引を引豆良布《ヒコヅラフ》、擧を擧都良布《アゲツラフ》などいふ、豆良布《ツラフ》に同じく、其(ノ)形容をいふ詞にて、こゝは顔面の紅光《ニホヘル》形容をいふ、(冠辭考に丹豆良布《ニヅラフ》は、丹著といふに同じきを、音を通はし延ていふか、と云るはあたらず、)七(ノ)卷に、雜豆臘漢女乎座而《サニヅラフヲトメヲマセテ》、十三に、散釣相君名曰者《サニヅラフキミガナイハバ》などあり、又六(ノ)卷に、狹丹頻歴黄葉散乍《サニヅラフモミチチリツヽ》とも見ゆ、○神左備爾、爾は手の誤にて、カムサビテ〔五字右○〕なるべし、七(ノ)卷に、木綿掛而祭三諸乃神佐備而齋爾波不在人目多許増《ユフカケテマツルミモロノカムサビテイムニハアラズヒトメオホミコソ》とあり、○伊都伎坐《イツキイマス》は、契冲、伊都伎《イツキ》は、いはふと同じ言なり、齋《イツキ》の宮を、いはひの宮ともよめり、たふとき人の死を、神あがりともいへば、かくはいふなりと云り、十九に、春日野爾伊都久三諸乃《カスガヌニイツクミモロノ》、又|住吉爾伊都久祝之《スミノエニイツクハフリガ》、古事記に、以伊都久《モチイツク》神、又|伊都伎奉《イツキマツル》、又|拜祭《イツキマツル》、書紀に、爲2天孫1所祭《イツカレヨ》、なども見えたるを、思(ヒ)合すに、齋清《イミキヨ》め所祭坐《イツカレマス》よしなり、○玉梓乃《タマヅサノ》は、既く云り、○於余頭禮可《オヨヅレカ》は、妖怪言歟《オヨヅレコトカ》の意なり、と契冲が云るごとし、天武天皇(ノ)紀に、妖言而《オヨヅレコトシテ》、自|刎死之《クビハネテシニキ》、と見ゆ、例はなほ次に引、○狂言可は、舊本に枉とあるは、狂の誤にて、タハコトカ〔五字右○〕と訓べし、と本居氏の云るに依て改めつ、(次に引ごとく、於余豆禮多波許等《オヨヅレタハコト》、と連云古語の例なれば、眞に本居氏の説はうごきなき的説なり、)十七、家持(ノ)卿遙聞1弟喪(ヲ)1作歌に、於餘豆禮能多婆許登可毛《オヨヅレノタハコトカモ》、天智天皇(ノ)紀に、復|禁2斷《イサメタマヘリ》※[女+巫]忘妖僞《タハコトオヨヅレコトヲ》1、續紀に、左大臣藤原(ノ)朝臣永手(ノ)薨時、光仁(311)(ノ)詔詞(ノ)中に、於與豆禮加母多波許止乎加母云《オヨヅレカモタハコトヲカモイフ》、字鏡に、※[言+匡](ハ)太波己止《タハコト》、訛(ハ)謂2詐僞1也、太波己止《タハコト》、などあり、○我聞都流母《アガキヽツルモ》の母《モ》は、歎息の辭にて、語辭《カタリコトバ》の母《モ》にはあらず、○天地爾《アメツチニ》は、天地の間になり、天地の間にあるが中に、ことにうへも無、悔事はの意のつゞきなり、○世間乃《ヨノナカノ》は、これは、世界の間にといふ意にて、上の天地にもはら同じ意なるを、詞を換て、打かへし云るなり、すべてあるが中に、ことに抽たるをいふには、世におそろしき、世にかなしき、などいふ類の世にも、世界の間にの意にて、こゝに世(ノ)間のとあるに全同じ、○曾久倣能極《ソクヘノキハミ》は、四(ノ)卷に、天雲乃遠隔乃極《アマクモノソキヘノキハミ》、九(ノ)卷に、天雲乃退部乃限《アマクモノソキヘノカギリ》、十七に、山河乃曾伎敝乎登保美《ヤマカハノソキヘヲトホミ》、十九に、曾伎敝能伎波美《ソキヘノキハミ》など有、曾久敝《ソクヘ》は、曾久《ソク》は、曾伎《ソキ》、曾許《ソコ》などに皆相通ひ、敝《ヘ》は方にて、底方の極なり、本居氏、底とは、上にまれ下にまれ横にまれ、至(リ)極る處を、何方にても云り、十五に、安米都知乃曾許比能宇良爾《アメツチノソコヒノウラニ》とあるを以て、天にも云べきことを知べし、又六(ノ)卷、藤原(ノ)宇合卿西海道節度使に罷らるゝときの、高橋(ノ)虫麻呂の長歌に、筑紫爾至山乃曾伎野之衣寸見世常伴部乎班遣之《ツクシニイタリヤマノソキヌノソキメセトトモノベヲアガチツカハシ》とあり、曾伎《ソキ》も、極みを云て同じことなり、又塞を曾許《ソコ》と訓も、境域《クニ》の極界の地なる謂ぞと云り、なほ古事記傳三(ノ)卷、天(ノ)常立(ノ)神の條下に、委(ク)論はれしを、併(セ)見て考(フ)べし、○枚策毛不衝毛去而《ツヱツキモツカズモユキテ》は、路行(ノ)貌を文に云るのみなり、十三に、杖衝毛不衝毛吾者行目友公之將來道之不知苦《ツエツキモツカズモアレハユカメドモキミガキマサムミチノシラナク》とも見ゆ、遠き路を行には、必(ス)杖つくものなれば、かくは云り、伊佐那岐(ノ)命身潔(ノ)條にも、御杖を投棄賜ふとあるも、黄泉(ノ)(312)國の遠(キ)境に、策て座る御杖なり、○夕衢占問《ユフケトヒ》は、衢(ノ)字は、夕占をば、衢にて爲ゆゑに、そへて書たるなり、契冲、夕けとふは、つじ占《ウラ》を問ことなり、占をきかむとするものは、夕さりつがた、ちまたに出て聞なり、因て夕占問とも、又夕うらともよめり、又此(ノ)集に、みちゆき占ともよめり、ゆふけは、此集末に多しと云り、後拾遺集に、男の來むと云侍りけるを、待わづらひて、夕けを問せけるに、よに來じと告げれば、心ぼそく思ひてよみ侍ける、來ぬまでもまたまし物を中々に頼む方なきこの夕け我、大鏡五(ノ)卷に、此御母いかにおぼしけるにか、いまだわかうおはしけるをり、二條の大路に出て、夕占問給ひければ、白髪いみじく白き女の、唯二人行が立|留《トヾマ》り給ひて、何業し給ふ人ぞ、もし夕占問給ふか、何事なりとも、おぼさむ事叶ひて云々、○石卜以而は、以は問(ノ)字の誤にて、イシウラトヒテ〔七字右○〕にてはあらぬにや、と景井云り、契冲、石卜は、石を蹈てうらなふなり、景行紀に、天皇初|將《シテ》v討(タマハムト)v賊(ヲ)、次《ヤドラシヽニ》2于|柏峽《カシハヲノ》大野(ニ)1、其(ノ)野(ニ)有v石、長(サ)六尺《ムサカ》、廣(サ)三尺《ミサカ》、厚(サ)一尺五寸《ヒトサカマリイツキ》、天皇|祈之曰《ウケヒタマハク》、朕得(ムト)v滅(シ)2土蜘蛛(ヲ)1者《ナラバ》、將|蹶(ムニ)2茲(ノ)石(ヲ)1、如(ク)2柏葉(ノ)1而擧(レトノリタマヒテ)焉、因|蹶《フマシタマフニ》之、則如v柏(ノ)上(リキ)2於|大虚《オホソラニ》1、故(レ)號2其(ノ)石1、曰2蹈石(ト)1也、是や石うらのはじめなるべき、又あし占してなどよめるは、何にても蹈こゝろみて、占ふをいふなりと云り、(荒木田氏云、拾芥抄に、問2夕食1歌とて、ふけとさやゆふけの神にものとへば道行人にうらまさにせよ、兒女子云、持2黄楊櫛1女三人、向2三辻1問之、といへり、)足占のことは、後に委(ク)云べし、○御諸乎立而《ミモロヲタテテ》は、御室を立て、神を奉請《マセ》て祈?するをいふ、御諸は、(313)一(ノ)卷、莫囂圓隣之の歌につきて、既く云り、○枕邊《マクラヘ》は、古事記に、御枕方《ミマクラヘ》、書紀に、頭邊、此云2摩苦羅陛《マクラヘト》1、とあり、○齊戸乎居《イハヒヘヲスヱ》(齊(ノ)字、拾穗本には齋と作り、)は、上に出(ツ)、○無間貫垂は、字の隨に、マナクヌキタリ〔七字右○〕とも訓べけれども、上に、竹玉乎繁爾貫垂《タカタマヲシヾニヌキタリ》とあるに依て、シヾニ〔三字右○〕と訓つるなり、○木綿手次《ユフタスキ》は、木綿もて造れる襷なり、(契冲が、木綿を著たるたすきなり、と云しは非なり、)十九悲2傷死妻(ヲ)1歌に、木綿手次肩爾取掛倭文幣乎手爾取持而勿離等和禮波雖?《ユフタスキカタニトリカケシヅヌサヲテニトリモチテナサケソトワレハノマメド》とあり、襷して袖をかゝげて、供神事《カミニツカフルワザ》をなすさまなり、神代紀に、乃使(メタマフ)d太玉(ノ)命(ヲ)、以|弱肩《ヨワガタニ》被《トリカケテ》2太手繦《フトタスキ》1、而|代御手《ミテシロトシテ》、以祭(ラ)c此(ノ)神(ヲ)u、とあり、○可比奈爾懸而《カヒナニカケテ》は、肘に掛而なり、古事記(ノ)歌に、多和夜賀比那《タワヤカヒナ》、字鏡に、肱(ハ)〓也肩也、加比那《カヒナ》、などあり、○左佐羅能小野《ササラノヲヌ》は、天上にある野(ノ)名なり、十六(ノ)未、怕物歌に、天爾有哉神樂良能小野爾茅草苅《アメナルヤササラノヲヌニチガヤカリ》とあり、また七(ノ)卷に、天在日賣菅原菅勿刈嫌《アメナルヒメスガハラノスゲナカリソネ》(是も天上に有(ル)野なり、)とあるをあはせ見て、天上に野あることを知べし、(契冲が、左々良能小野は、天上にあるにあらず、大和(ノ)國の地(ノ)名なるべし、月を左々良衣壯士《サヽラユオトコ》といふから、天にある月といふ心にて、いひかけたりと云るは、いみじき非なり、さらば久方之《ヒサカタノ》、また三空往《ミソラユク》などゝこそいふべけれ、且榎壯士《マタエヲトコ》といはずして、唯|左々良《サヽラ》とのみ云て、月のことゝいかで聞えむ、次に天(ノ)川原をもよみたれば、天上の野なること、何をか疑はむ、)○七相管は、説々あれども通難《キコエガタ》し、(岡部氏の、ナヽマスゲ〔五字右○〕と訓しはいかにぞや、相(ノ)字を、いかでマ〔右○〕とはよむべき、甚謾なり、又略解に、宣長云、こゝはナヽフ(314)スゲ〔五字右○〕と訓べし、集中、みちのくのとふのすがこも七ふには、とよめる七ふにて、七節の義なりとあるは、いかにぞや、まづ陸奥のゝ歌は、やゝ後の歌なるを、集中と云るは、あまりにおぼろげなり、又彼(ノ)歌の七ふは、菅薦の編たる節を云るにて、顯宗天皇(ノ)紀(ノ)御歌に、於彌能姑能耶賦能之魔柯枳《オミノコノヤフノシバカキ》、此(ノ)集十四に、麻乎其母能布能米知可久弖《マヲゴモノフノミチカクテ》、などある布《フ》に同じきを、いかでか、生《タチ》ながらある菅を、七ふ管、幾ふ菅とはいはむ、思はずといひつべし、)故(レ)按(フ)に、(十四に、美奈刀能也安之我奈可那流多麻古須氣《ミナトノヤアシガナカナルタマコスゲ》とあるに依て、七相は、玉兒の誤にて、玉兒菅《タマコスゲ》にや、とはじめおもひしは、あらざりけり、)七は石(ノ)字の寫誤にて、イハヒスゲ〔五字右○〕なり、十三に、齋戸乎石相穿居《イハヒヘヲイハヒホリスヱ》、とあるを併(セ)考(フ)べし、さて是は齋杉《イハヒスギ》、齋槻《イハヒツキ》など云る類にて、忌清まはれる菅の義なり、さてその齋菅を取(リ)持て、祓潔てましものを、といふなり、菅を祓に用ることは、大祓祝詞に、天津菅曾乎《アマツスガソヲ》、本刈斷末刈切?モトカリタチスヱカリキリテ》、八針爾取辟?《ヤハリニトリサキテ》、云々、神樂歌に、奈加止美乃古須氣乎佐紀波良比伊能利志古登波《ナカトミノコスゲヲサキハラヒイノリシコトハ》、また次に引、六(ノ)卷(ノ)歌にも見ゆ、○天川原爾出立而《アマノカハラニイデタチテ》と云は、往來《ユキカヒ》がたき、天上の菅をも取(リ)、天(ノ)河にも立出て、みそぎせましものをと思ふは、後悔《クイ》のあまり、せめてしかまでに思へるにて、かなふまじき限の事までを、思(ヒ)設けて云るなり、あまりに喜しきこと、悲しきことなどには、天(ノ)上にも上り、地(ノ)底にも入らむと思ふは、今常にもあることなり、(古今集に、もろこしの吉野の山にこもるとも、と云るも此(ノ)類なり、)さてこゝは、上に天雲乃《アマクモノ》云々|不衝毛去而《ツカズモユキテ》とあるを、相照して味(フ)べ(315)し、○潔身而麻之乎《ミソギテマシヲ》は、六(ノ)卷、勅2諸王諸臣子等1、散2禁於授刀寮(ニ)1時作歌に、缺卷毛綾爾恐言卷毛湯々敷有跡豫兼而知者千鳥鳴其佐保川丹石二生菅根取而之奴布草解除而益乎往水丹潔而益乎《カケマクモアヤニカシコクアマクモユヽシクアラムトアラカジメカネテシリセバチドリナクソノサホガハニィソニオフルスガノネトリテシヌブクサハラヒテマシヲユクミヅニミソギテマシヲ》とあり、大かたのさまも、今と似たり、業平(ノ)朝臣(ノ)歌に、戀せじとみたらし川にせし身潔神は受ずも成にけらしな、濱松中納言(ノ)物語に、戀しさを身そげど神の受ねばや心の中のすゞしげもなし、などよめり、本居氏、美曾伎《ミソキ》は身滌《ミソヽギ》なり、今も除服などに、海川邊に出て清まはり、又|許理《コリ》とて、水浴ることするは、みな禊《ミソギ》の意ばえなり、さてみそぎは、必(ズ)水邊に出てするに限りて云り、古書皆然りと云り、さて上に、天雲乃《フマクモノ》云々より、此(ノ)句までの意を、とりすべていはゞ、いかにも心を盡し力を極て、解除潔齋をして、身命の幸全《マタ》からむことを祈?《コヒノミ》てましものを、今は石穗の上に令坐《イマセ》つるからは、せむ爲使《スベ》なしといひて、侮言《クイゴト》する意なり、上の天地爾悔事乃世間乃侮言者《アメツチニクヤシキコトノヨノナカノクヤシキコトハ》といふ首尾、こゝに至りて相(ヒ)調へり、○高山《タカヤマ》は、こゝは泊瀬山なり、○石穗乃上爾《イハホノウヘニ》といへるは、二(ノ)卷(ノ)初に、如此許戀乍不有者高山之磐根四卷手死奈麻死物乎《カクバカリコヒツヽアラズハタカヤマノイハネシマキテシナマシモノヲ》とあるに、併(セ)思(フ)べし、○伊座都流香物《イマセツルカモ》は、令《セ》v坐《イマサ》つるかな、嗚呼悲乎《アヽカナシヤ》と歎息(ク)意なり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、抑々此(ノ)歌、詞味甚切にて、今唱ふるにも、身にしみて最あはれなり、丹生(ノ)王は、いみじき歌よみにぞありし、
    
反歌《カヘシウタ》。
 
(316)421 逆言之《オヨヅレノ》。狂言等可聞《タハコトトカモ》。高山之《タカヤマノ》。石乃上爾《イハホノウヘニ》。君之臥有《キミガコヤセル》。
 
狂言等可聞《タハコトトカモ》(狂(ノ)字、舊本枉に誤、今は類聚抄に從、)は、等《ト》は、(とての意の等にもあらず、としての意の等にも非ず、)別に一(ノ)格にて、輕く添たる辭とおぼえたり、此(ノ)下に、逆言之狂言登加聞白細爾舍人装束而《オヨヅレノタハコトトカモシロタヘニトネリヨソヒテ》云々、十七に、多婆許登等可毛《タハコトトカモ》、(上にも引り、)又十九に、玉桙之道爾出立往吾者公之事跡乎負而之將去《タマホコノミチニイデタチユクアレハキミガコトトヲオヒテシユカム》などある、これらは、たゞ言《コト》を言跡《コトト》と云りと思はれて、等《ト》の辭に、別に意なきが如し、(又十九に、住吉爾伊都久祝之神言等行得毛來等毛舶波早家無《スミノエニイツクハフリガカムコトトユクトモクトモフネハハヤケム》とある、神言等《カムコトト》の等も、今と同じきかと思へど、此は歌(ノ)意たがへれば、等は誤にて、神言爾《カムコトニ》なるべきかの疑あり、猶彼處に至りて委(ク)云べし、さて此《コヽ》は、狂言歟と疑ひたるにて、實言と信《ウケ》ざる意なり、)○歌(ノ)意は、高山の石穗の上に、王の臥賜へると使の云るは、實言にてはよもあらじ、妖言僞言なるらしとなり、契冲云、此(ノ)歌は、使のことばを、まことゝおもはれぬやうにいへるは、かならず常にもさあることなり、
 
422 石上《イソノカミ》。振乃山有《フルノヤマナル》。杉村乃《スギムラノ》。思過倍吉《オモヒスグベキ》。君爾有名國《キミニアラナクニ》。
 
振乃山有《フルノヤマナル》は、大和(ノ)國山邊(ノ)郡布留山に在(ル)と云なり、四(ノ)卷に、袖振山乃《ソデフルヤマノ》、九(ノ)卷に、振山從《フルヤマユ》など見え、又七(ノ)卷、九(ノ)卷、十(ノ)卷、十一(ノ)卷、十二(ノ)卷等にも、振《フル》の歌見えたり、○杉村乃《スギムラノ》は、過《スグ》といはむ料なり、○思過倍吉《オモヒスグベキ》(思(ノ)字、拾穗本に忠と作るは誤なり、)は、思(ヒ)を遣(リ)過し失ふべきの意なり、思は憂念なり、(又卒(317)給へるをきゝて、世のならひはさこそあるなれ、よしやのがれぬ道ぞ、と思ひ過べき君にはあらぬ、といふ意に見るは、古意にあらず、)十三に、神名備能三諸之山丹隱藏杉思將過哉蘿生左右《カムナビノミモロノヤマニイハフスギオモヒスギメヤコケムスマデニ》とも見ゆ、○歌(ノ)意は、大かたの思物ならば、遣失ふべき方も有べきなれど、王の卒賜ひぬときゝては、悲傷に堪がたくて、思を遣過し失ふべきにあらぬものを、と云るなり、
 
同《オナジ》石田王卒之〔五字□で囲む〕時《トキ》。山前王哀傷作歌一首《ヤマクマノオホキミノカナシミヨミマセルウタヒトツ》。
 
同(ノ)字、類聚抄、拾穗本等には无、○山前(ノ)王は、忍壁(ノ)親王の子にて、茅原(ノ)王の父なり、續紀に、文武天皇慶雲二年十二月癸酉、无位山前(ノ)王(ニ)授2從四位下(ヲ)1、元正天皇養老七年十二月辛亥、散位從四位下山前(ノ)王卒、と見え、又云、寶字五年三月己酉、茅原(ノ)王云々、流2多〓(ノ)島(ニ)1、茅原(ノ)王者、三品忍壁(ノ)親王之孫、從四位下山前(ノ)王之男(ナリ)、と見ゆ、懷風藻に、從四位下刑部(ノ)卿山前(ノ)王一首とあり、前(ノ)字、クマ〔二字右○〕と訓る例は、十三に、道前《ミチノクマ》、和名抄に、大和(ノ)國高市(ノ)郡、檜前、比乃久末《ヒノクマ》、但馬(ノ)國氣多(ノ)郡樂前、佐々乃久万《サヽノクマ》などあり、
 
423 角障經《ツヌサハフ》。石村之道乎《イハレノミチヲ》。朝不離《アササラズ》。將歸人乃《ユキケムヒトノ》。念乍《オモヒツヽ》。通計萬四波《カヨヒケマクハ》。霍公鳥《ホトヽギス》。來〔○で囲む〕鳴五月者《キナクサツキハ》。菖蒲《アヤメグサ》。花橘乎《ハナタチバナヲ》。玉爾貫《タマニヌキ》。※[草冠/縵]爾將爲登《カツラニセムト》。九月能《ナガツキノ》。四具禮能時者《シグレノトキハ》。黄葉乎《モミチバヲ》。折挿頭跡《ヲリカザヽムト》。延葛乃《ハフクズノ》。彌遠永《イヤトホナガク》。萬世爾《ヨロヅヨニ》。不絶等念而《タエジトオモヒテ》。將通《カヨヒケム》。君乎從明日者《キミヲアスヨハ》。外爾可聞見牟《ヨソニカモミム》。
 
角障經《ツヌサハフ》は、枕詞なり、既く出(ツ)、○石村之道乎《イハレノミチヲ》(石(ノ)字、活字本に、爾と作るは誤なり、)は、泊瀬に往通ふ(318)とて、石村を經過るなり、上に、角障經石村毛不過泊瀬山何時毛將超夜者深去通都《ツヌサハフイハレモスギズハツセヤマイツカモコエムヨハフケニツツ》とあるにて、其(ノ)路次《ミチナミ》を知べし、泊瀬へ通ひ賜ひけむは、物いひわたらしゝ女のある故なり、なほ下に見ゆ、○朝不離《アササラズ》は、上に出(ツ)、毎朝の意にて、やがて毎日といふ意に通《キコ》ゆ、○將歸人《ユキケムヒト》は、石田(ノ)王をさす、○通計萬口波《カヨヒケマクハ》(口(ノ)宇、舊本には四、拾穗本には石と作り、今は類聚抄に從つ、)は、通ひけむやうはの意なり、道すがら思惟しつゝ、通ひ賜ひけむやうはなり、○來鳴五月者《キナクサツキハ》、來(ノ)字、舊本に无は脱たるなり、他の例に依て、今|姑《シバラ》く補《クハヘ》つ、十(ノ)卷に、霍公鳥來鳴五月之短夜毛獨宿者明不得毛《ホトヽギスキナクサツキノミジカヨモヒトリシヌレバアカシカネツモ》、十八に、保登等藝須伎奈久五月能安夜女具佐波奈多知波奈爾奴吉麻自倍可頭良爾世餘等《ホトトギスキナクサツキノアヤメグサハナタチバナニヌキマジヘカヅラニセヨト》、又|保止々支須支奈久五月能安夜女具佐余母疑可豆良伎《ホトヽギスキナクサツキノアヤメグサヨモギカヅラキ》などあり、さて五月を佐都紀《サツキ》と云は、本居氏、佐《サ》と云は、田植る農業を、凡て佐《サ》と云(ヘ)ば、田植る月といふ意なりと云り、(猶古事記傳に委し、早苗月なり、と云は論に足ず、又谷川士清が、幸月なるべし、狩は五月を主とす、と云るも叶はず、)○玉爾貫《タマニヌキ》、舊本に、一(ニ)云貫交、と註せり、こはいづれにてもあるべし、菖蒲橘を、玉に貫よしよめる歌、集中に多し、八(ノ)卷に、五月之花橘乎爲君珠爾社貫零卷惜美《サツキノハナタチバナヲキミガタメタマニコソヌケチラマクヲシミ》、又|百枝刺於布流橘玉爾貫五月乎近美安要奴我爾花咲爾家里《モヽエサシオフルタチバナタマニヌクサツキヲチカミアエヌガニハナサキニケリ》、十(ノ)卷に、香細寸花橘乎玉貫將送妹者三禮而毛有香《カグハシキハナタチバナヲタマニヌキオクラムイモハミツレテモアルカ》、十八に、白玉乎都々美弖夜良波安夜女具佐波奈多知波奈爾安倍母奴久我禰《シラタマヲツヽミテヤラナアヤメグサハナタチバナニアヘモヌクガネ》、十九に、菖蒲花橘乎※[女+感]嬬良我珠貫麻泥爾《アヤメグサハナタチバナヲヲトメラガタマヌクマデニ》、又|霍公鳥今來喧曾無菖蒲可都良久麻泥爾加流々日安良米也《ホトヽギスイマヤナキソムアヤメグサカツラクマデニカルヽヒアラメヤ》、又|菖(319)蒲花橘乎貫交可頭良久麻而爾《アヤメグサハナタチバナヲヌキマジヘカツラクマデニ》、に、兵部省式に、凡五月五日節會、文武群官、著2菖蒲(ノ)※[草冠/縵](ヲ)1、〔頭註、【左近衛府式に、凡五月五日、藥玉料凡、菖蒲艾雜花十棒、】〕續紀に、聖武天皇天平十九年五月庚辰、是日太上天皇詔曰、昔者五日之節、常用2菖蒲(ヲ)1爲v縵(ト)、比來已停2此事1、從v今而後、非2菖蒲(ノ)縵(ニ)1者、勿v入2宮中(ニ)1、續後紀に、嘉祥二年五月戊午、詔に、五月五日爾樂玉乎佩天飲酒人波《サツキイツカノヒニクスタマヲオビテサケノムヒトハ》、命長久福在等奈毛聞食須《イノチナガクサキハヒアリトナモキコシメス》、故是以《カレコヽモチテ》、藥玉賜比《クスタマタマヒ》、御酒賜波久止宣《ミキタマハクトノリタマフ》など見ゆ、(儀式帳に、五月五日節、菖蒲並蓬等、神宮、並高(ノ)宮、及諸殿仕奉、拾芥抄に、此(ノ)日主殿寮、葺2菖蒲于内裏(ノ)殿舍(ニ)1、なども見えたり、漢土にては、この藥玉を長命縷とも續命縷とも號けて、是日この縷を帶れば、萬(ヅ)の病を辟る由、漢籍にかた/"\出たり、)さて橘(ノ)實をも、玉に貫ことなるに、こゝはそれにはあらで、橘花菖蒲などを、縷《イト》に取(リ)著て、其をかくるなり、(天智天皇(ノ)紀(ノ)童謡に、多致播那播於能我曳多曳多那例々騰母陀麻爾農矩騰岐於野兒弘※[人偏+爾]農倶《タチバナハオノガエダエダナレヽドモタマニヌクトキオヤジヲニヌク》とあるは、實を貫をいへるなり、)○※[草冠/縵]爾將爲登《カヅラニセムト》(※[草冠/縵](ノ)字、拾穗本に、蔓と作はわろし、)としばらく、此にて絶(リ)て意得べし、(直に下へは屬かず)※[草冠/縵]は、古事記傳云、葛《カヅラ》鬘《カヅラ》※[髪の友が皮]《カヅラ》三あれど、本は草の葛より出たり、其(ノ)葛の名、本はつらなり、さてつら草を以、頭のかざりにかくるを、髪葛《カヅラ》と云、是(レ)鬘《カヅラ》なり、※[髪の友が皮]も髪をかざるものなれば、同じ名を負つらむ、さて上(ツ)代、女男共かくるものなり、其(ノ)しな色々ありと云り、なほ委く見ゆ、○九月は那賀都奇《ナガツキ》と云、(都は清て唱ふべし、すべて月々の名の中、今(ノ)世にも、正月《ムツキ》五月《サツキ》八月《ハツキ》、十一月《シモツキ》は、都を清て唱(フ)れども、四月《ヨツキ》六月《ミナツキ》七月《フミツキ》九月《ナガツキ》十月《カムナツキ》の、都《ツ》を濁て唱(フ)るは、あらじ、正(320)月五月は、五(ノ)卷に、武都紀《ムツキ》、十七(ノ)卷に、佐都奇《サツキ》と假字書の見えたれば、古より清て唱へしことしるし、他《ホカ》のをも、これに依て清て唱ふべし、)然《カク》名けたる意は、熟饒月《ニギツキ》なるべし、爾藝《ニギ》と那賀《ナガ》とは、音通へり、凡て饒《ニギ》は、那藝《ナギ》、那胡《ナゴ》、爾胡《ナニゴ》などゝ通て、本同言なり、(又|藝《ギ》と賀《ガ》は、常通へり、)さて、これに兩説あるべし、まづ一(ツ)には、この月は、なべて稻穗の登熟《ミノリニギ》ふれば、其(ノ)意にて云なるべし、稻穗の熟《ウルヽ》を爾藝《ニギ》と云は、かしこけれども、番能邇爾藝《ホノニニギノ》命と申御名も、穗之丹熟《ホノニニギ》てふ義にて、稻に依(リ)たるものなるべきを思べし、(これに從ば、丹熟《ニニギ》月にてもあるべし、ニニ〔二字右○〕の切ニ〔右○〕、)又|熟田津《ニギタツ》といふも、もと穗の熟ふる田の謂の、地(ノ)名にもあるべし、二(ツ)には、此月はもはら熟稻を刈收て、天(ノ)下の人民ゆたに飽《タラ》ひて、相饒《アヒニギハ》ふ謂にもあるべし、崇神天皇(ノ)紀に、五穀既成百姓餞之《タナツモノスデニナリテオホミタカラニギハヒヌ》、字鏡に、※[人偏+如]は、豐也饒也、爾支波々志《ニギハヽシ》、と見えたり、(夜長月といふ説は、云(フ)に足ず、拾遺集に、夜を長月といふにやあるらむとよめるは、唯假に興じて云るのみなり、又岡部氏(ノ)語意考に、稻刈月と云るもあたらず、又本居氏の稻熟《イナアカリ》月にてもあるべしと云るもわろし、おほよそ月々の名ども、昔來諸説多かれど、當れるは甚少し、)なほ月々の名の考どもは、余が別に記せるものあり、○四具禮《シグレ》は、和名抄に、孫〓(ガ)曰、〓雨(ハ)小雨也、漢語抄(ニ)云、之久禮《シグレ》、とあり、○折挿頭跡《ヲリカザサムト》は、※[草冠/縵]爾將爲登《カヅヲニセムト》と云に、むかへて云るなり、八(ノ)卷に、※[女+感]嬬等之頭挿乃多米爾遊士之※[草冠/縵]之多米等《ヲトメラガカザシノタメニミヤビヲノカヅラノタメト》云々とある、此(レ)挿頭《カザシ》と※[草冠/縵]《カヅラ》と、對(ヘ)云(ヒ)たる例なり、○延葛乃《ハフクズノ》は、枕詞なり、葛は品物解に云、葛の蔓は、長く延わたるものなれ(321)ば、遠長といはむ料なり、○彌遠永《イヤトホナガク》の下、舊本に、一云、田葛根乃彌遠長爾《クズノネノイヤトホナガニ》と注せり、○不絶等念而《タエジトオモヒテ》の下、舊本に、一(ニ)云、大船之念憑而《オホブネノオモヒタノミテ》と註せり、○將通《カヨヒケム》、こゝにて、上に通計萬口波《カヨヒケマクハ》、とある首尾を、相調へたり夏は菖蒲橘を※[草冠/縵]に爲《ツク》り、秋は黄葉を挿頭にしつゝ、萬(ツ)世に絶ず、長く泊瀬の相思美人《オモヒビト》の許に通はむ、とおもほしてありしよしなり、その泊瀬に、美人のありしよしは、下の反歌にてしらる、○君乎從明日者《キミヲアスヨハ》は、舊本に、君乎婆明日從《キミヲバアスヨ》とありて、一(ニ)云、君乎從明日者、(者(ノ)字、香と作るは誤、一本又類聚抄に從、)と注せるを用つ、○外爾可聞見牟《ヨソニカモミム》は、高山の巖の中に葬りつれば、明日よりは、外の物に見つゝあらむか、嗚呼《アハレ》さても、思ひがけなき世哉、とおどろき歎きたるなり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
○舊本此間に、右一首、或云、柿本(ノ)朝臣人麻呂作とあるは、後人の注せるにて誤なり、さらに柿本(ノ)朝臣の、口氣にあらず、
〔或本反歌二首。424 隱口乃泊瀬越女我《コモリクノハツセヲトメガ》。手二纏在《テニマケル》。玉者亂而《タマハミダレテ》。有不言八方《アリトイハズヤモ》。〕
略解に、右の反歌にあらず、別に端詞ありしが、落しなるべし、と云るは誤なり、なほ次にいふべし、○泊瀬越女《ハツセヲトメ》は、(越は、ヲトの假字なり、十三に、爾太遙越賣《ニホエヲトメ》、佐可遙越賣《サカエヲトメ》など書り、)伊勢處女《イセヲトメ》、菟原處女《ウナヒヲトメ》など云類なり既く云り、さてこは、かの石田(ノ)王の、朝さらず通ひて、物いひわたり給ひし、泊瀬の美人《ヲトメ》なり、○手二纏在玉《テニマケルタマ》は、石田(ノ)王をさせり、上家持(ノ)卿(ノ)歌に、朝爾食爾欲見其玉(322)乎《アサニケニミマクノホシキソノタマヲ》、如何爲鴨從手不離有牟《イカニシテカモテヨカレザラム》とあるは、坂上家(ノ)大孃を親みして、玉に比《ナズラ》へていひ、こゝは泊瀬越女が、王を愛せしを、玉に比《ナズラ》へたり、○亂而有不言八方《ミダレテアリトイハズヤモ》は、言《イフ》は輕く添云辭、方《モ》は歎辭にて、嗚呼《アハレ》亂れてあらずやは、亂たりとかへる意なり、○歌(ノ)意は、泊瀬の美人が手に纏て、朝暮に愛弄せし玉は、緒絶して、亂れてあらずやは、あはれ悲しき事にてある哉、と云るなり、王の卒去《ミマカラ》せるを、手玉の緒絶して、散亂れたるになずらへ云り、(荒木田氏が、亂は、火葬せし骨を、散せるをいふなるべし、と云るはあらず、唯玉と云る縁に亂と云るのみなり、)凡て人を美愛して、玉と云ること、古きことなり、今(ノ)俗にも、物を稱美て、玉といふこと多し、五(ノ)卷に、白玉之膏子古日者《シラタマノワガコフルヒハ》、源氏物語に、玉のをの子御子、空穗物語俊蔭に、玉の光りかゞやく男(ノ)子を生つ、藏開に、わがくにに見え給はすすがたかほおはする玉のをとこの見え給へるは、なども見ゆ、
〔425 河風寒長谷乎歎乍《カハカゼノサムキハツセヲナゲキツヽ》。公之阿流久爾《キミガアルクニ》。似人母逢耶《ニルヒトモアヘヤ》。〕
歎乍《ナゲキツヽ》は、泊瀬處女が事を、かにかくに念ひ歎息て、長谷の道を、王の歩行《アリキ》通ひ給ひしをいふなり、○阿流久《アルク》は、字鏡に、蹊(ハ)、徂行也往來也、阿流久《アルク》と見ゆ、五(ノ)卷に、阿蘇比阿留伎斯《アソビアルキシ》、八(ノ)卷に、遊往杼《アソビアルケド》、(舊訓はわろし、五(ノ)卷に從て訓べし、)十六に、雖行往《アルケドモ》、十八に、安流氣騰《アルケド》、現報靈異記に、周(ハ)、安留支《アルキ》、三善爲康が、童蒙頌韻に、蹊《アルク》、小町壯衰書(ノ)序に、無v行《アルクコト》2傍門(ニ)1、古本枕册子に、高欄そりはしなど、あるきたるなどあり、(本居氏云、書紀に、歩行の訓、また中古の物語文などにも、阿理久《アリク》とのみ見えた(323)れば、阿理久《アリク》といふぞ、雅言のごとくきこゆめれど、其はかへりて後なり、)今(ノ)世にも然云り、これ古言なり、○似人母逢耶《ニルヒトアヘヤ》は、似る人だに逢(ヘ)かしの意なり、○歌(ノ)意は、泊瀬美人が事を、かにかくに念ひ歎息きて、泊瀬の道を、王の歩行《アルキ》通ひ賜ふに、似たる人だに逢かし、さらばせめては、それをだに見つゝ、なぐさまむをといふなり、二(ノ)卷人麻呂の、妻の死《ミマカ》れるを悲める歌に、玉桙道行人毛獨谷似之不去者《タマホコノミチユクヒトモヒトリダニニテシユカネバ》、爲便乎無見妹之名喚而袖曾振鶴《スベヲナミイモカナヨビテソテソフリツル》、とあるに、意味《コヽロバエ》同じ、
○舊本此處に、右二首者、或云、紀(ノ)皇女薨後、山前王、(王(ノ)字、舊本には脱せり、古寫本類聚抄等に從て引、)代2石田(ノ)王1作之也とあり、さてはいさゝか通難《キコエカテ》なれば用ず、古來是に依て、解る説々もあれど、皆いひたらず、又強て解ば、いふべきやうもあれども、右の長歌の反歌として、能|通《キコ》ゆれば、さておきつ、
 
柿本朝臣人麻呂《カキノモトノアソミヒトマロガ》。見《ミテ》2香具山屍《カグヤマニテミマカレルヒトヲ》1悲慟作歌一首《カナシミヨメルウタヒトツ》。
 
426 草枕《クサマクラ》。※[覊の馬が奇]宿爾《タビノヤドリニ》。誰嬬可《タガツマカ》。國忘有《クニワスレタル》。家待莫國《イヘマタナクニ》。
 
※[覊の馬が奇](ノ)字、類聚抄拾穗本等には、覊と作り、○誰嬬可《タガツマカ》は、嬬は、借(リ)字にて夫《ツマ》なり、可《カ》は忘有《ワスレタル》の下にめぐらして意得べし、誰が夫《ツマ》の、國忘たるにか、とつゞく意なり二(ノ)卷に、神樂浪乃大山守者爲誰可《ササナミノオホヤマモリハタカタメカ》、山爾標結君毛不有國《ヤマニシメユフキミモアラナクニ》とあるも、誰爲に、山に標結にか、といふ意にて、今と同じ例なり、○國忘有《クニワスレタル》は、本(ツ)國を忘れてあるといふなり、國とは本(ツ)國なり、十九に、鴈之鳴者本郷思都追雲隱喧《カリガネハクニシヌヒツツクモガクリナク》と(324)有に同じ、○待家莫國《イヘマタナクニ》は、(莫(ノ)字、異本又類聚抄には、眞と作り、さらばイヘマタマクニ〔七字右○〕、と訓べけれども、猶もとのまゝなるべし、)家人の待居むものをの意なり、家待まくにといふべきを、かく云るは、本居氏十四に、をつくばのしげき木の間ゆ立鳥の、めゆかなをみむさね射良奈久爾《ザラナクニ》、十五に、おもはずもまことありえむやさぬる夜の、夢にも妹が見え射良奈九爾《ザラナクニ》、十七に、庭にふる雪は千重しくしかのみに、おもひて君をあが麻多奈久爾《マタナクニ》、これらは、さねざるに、見えざるに、待むにといふ意なり、かてといふも、かてぬといふも、同じ意なるが如し、後(ノ)世の語にも、怪《ケ》しかるといふべきを、けしからぬ、はしたといふべきを、はしたなしと云に同じ、と云り、(余云、いづれも、右に引る證歌のごとく、麻久《マク》と云べきを、奈久《ナク》と云るなり、さて十四なる、さねざらなくには、今(ノ)意に譯しては、さねずに居るものを、と聞べきところなり十五なる、見えざらなくには、見えぬことなるものを、と聞べきことなり、十七なるは、今と全(ラ)同じ、又十(ノ)卷に今更吾者伊不往春雨之《イマサラニアレハイユカジハルサメノ》、情乎人之不知有名國《コヽロヲヒトノシラザラナクニ》とあるも、知ぬことなるものをの意にて、同格なるべし、)○歌(ノ)意は、誰(カ)女の夫《ツマ》の、本(ツ)國を忘れて、旅宿に死たるにかあらむ、かくともしらで、家人は、今日か明日かと歸り來む日を、待つゝ居らむものをとなり、
 
田口廣麿死之時《タクチノヒロマロガミマカレルトキ》。刑部垂麻呂作歌一首《オサカベノタリマロガヨメルウタヒトツ》。
 
田口廣麿は、傳未(タ)知ず、
 
(325)427 百不足《モヽタラズ》。八十隅坂爾《ヤソノクマヂニ》。手向爲者《タムケセバ》。過去人爾《スギニシヒトニ》。蓋相牟鴨《ケダシアハムカモ》。
 
百不足《モヽタラズ》は、枕詞なり、既く一(ノ)卷に出つ、此《コヽ》は十六に、百不足八十乃衢爾《モヽタラズヤソノチマタニ》、書紀仁徳天皇(ノ)皇后(ノ)御歌に、毛々多羅嬬椰素麼能紀波《モヽタラズヤソバノキハ》、などあるに同じ、○八十隅坂爾は。隅坂は隈路の誤にて、ヤソノクマヂニ〔七字右○〕と訓べし、と略解に云るが如し、今按(フ)に、隈隅は、古(ヘ)通(ハシ)用ひたりと見ゆ、二(ノ)卷に、作日之隅囘乎《サヒノクマミヲ》、十六に、川隅乃《カハクマノ》などあり、然れば改めがたし、(但し本は、みな隈なりけむを、字形の相似たる故、後に隅に誤寫せるより、遂に通(ハシ)用たるにもあるべし、)隅路は、古事記大國主(ノ)神(ノ)御詞に、僕者、於《ニ》2百不足八十※[土+向]手《モヽタラズヤソクマデ》1隱而侍、とある※[土+向]手《クマデ》に同じ、路《チ》を手《テ》とも云は、道之長道《ミチノナガチ》を道之長手《ミチノナガテ》とも云るが如し、○過去人《スギニシヒト》は、廣麻呂なり、○蓋相牟鴨《ケダシアハムカモ》は、もし逢事もあらむか、さてもかなしやとなり、○歌(ノ)意は、身死(リ)て、往にし、其(ノ)路の八十の數多の隈々に、幣帛《タムケ》して、慇懃に神に祈?《コヒノマ》ば、もし立還(リ)來て、逢見ることもあらむか、いかさま、又あふべきみちは、あらじと思へば、さてもいとゞ悲しき事、と歎きたる意を、思はせたるなり、
 
土形娘子《ヒヂカタノヲトメヲ》。火2葬《ヤキハフレル》泊瀬山《ハツセヤマニ》1時《トキ》。柿本朝臣人麻呂作歌一首《カキノモトノアソミヒトマロガヨメルウタヒトツ》。
 
土形(ノ)娘子は、傳未(タ)詳ならず、土形は娘子の氏なり、應神天皇(ノ)紀に、大山守(ノ)皇子、是土形君、榛原(ノ)君、凡二族之始祖(ナリ)、と見えたり、和名抄に、遠江(ノ)國城飼(ノ)郡土形(比知加多《ヒヂカタ》)とあり、此(ノ)郷(ノ)名によれる氏か、○火葬は、文武天皇四年三月、僧道昭を、火葬せしより始まれり、
 
(326)428 隱口能《コモリクノ》。泊瀬山之《ハツセノヤマノ》。山際爾《ヤマノマニ》。伊佐夜歴雲者《イサヨフクモハ》。妹鴨有牟《イモニカモアラム》。
 
伊佐夜歴雲《イサヨフクモ》は、火葬の煙を云り、伊佐夜歴《イサヨフ》の言は、既く出(ツ)、○歌(ノ)意かくれたるところなし、七(ノ)卷雜挽歌に、隱口乃泊瀬山爾霞立《コモリクノハツセノヤマニカスミタチ》、棚引雲者妹爾鴨在武《タナビククモハイモニカモアラム》とあり、今とおほかた似たり、
 
溺死出雲娘子《オボレシヌルイヅモヲトメヲ》。火2葬《ヤキハフレル》吉野《ヨシヌニ》1時《トキ》。柿本朝臣人麿作歌二首《カキノモトノアソンヒトマロガヨメルウタフタツ》。
 
出雲娘子は、傳未(タ)詳ならず、出雲は氏か、又は國(ノ)名か、
 
429 山際從《ヤマノマユ》。出雲兒等者《イヅモノコラハ》。霧有哉《キリナレヤ》。吉野山《ヨシヌノヤマノ》。嶺霏※[雨/微]《ミネニタナビク》。
 
山際從《ヤマノマユ》は、雲の山の際より、立出るものなれば、出雲娘子をいはむとて、山際從とはおけり、と契冲云り、○出雲兒等者《イヅモノコラハ》、(者(ノ)字、拾穗本には八と作り、)等《ラ》はその一人を云ことならねど、一人の事にも云るは、古人詞のせまらざるなり、○霧有哉《キリナレヤ》は、霧なればにやの意なり、○嶺霏※[雨/微]《ミネニタナビク》(※[雨/微](ノ)字、舊本〓と作り、今は一本に從つ、拾穗本には微と作り、省文なるべし、)は、火葬の煙の、嶺に棚引たるをいふ、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
430 八雲刺《ヤクモサス》。出雲子等《イヅモノコラガ》。黒髪者《クロカミハ》。吉野川《ヨシヌノカハノ》。奧名豆颯《オキニナヅサフ》。
 
八雲刺《ヤクモサス》(刺(ノ)字、拾穗本に立と作るは、さかしらに改めたるなるべし、)は、八雲立《ヤヲモタツ》といふに同じ、枕詞なり、この詞は、まづ古事記須佐之男命(ノ)御歌に、夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都麻碁微爾夜幣賀岐都久流曾能夜幣賀岐袁《ヤクモタツイヅモヤヘガキツマゴミニヤヘガキツヲルソノヤヘガキヲ》とありて、古事記傳に、夜久毛多都《ヤクモタツ》は、彌雲起《ヤクモタツ》にて、彼雲の立騰(327)るを、打見賜へるに隨《マヽ》に、詔へる御詞なり、伊豆毛《イヅモ》は、出雲《イデクモ》にて傳久《デク》を約て豆《ヅ》となれるなり、云々、又師説に、出雲は、本より國(ノ)名、夜久毛多都《ヤクモタツ》は、其(ノ)冠辭なり、その故は、八雲多知出(ツ)、と直につゞけずして、多都《タツ》と唱擧て、さて次の言をいふ、例の冠辭の樣なればなり、と云(ハ)れしも、一(ト)わたりはさることなれど、然には非じ、多知伊豆《タチイヅ》とつゞけずして、多都《タツ》と先(ツ)言切(リ)たるは、其(ノ)時見たまへるまゝに、八雲の立よと、先(ツ)言出給へるなり、と云り、(已上)誠にさることなるべし、かゝれば、右の須佐之男命の御歌なるは、枕詞ならぬを、同記倭建(ノ)命(ノ)御歌に、夜都米佐須伊豆毛多祁流賀波祁流多知都豆良佐波麻岐佐味那志爾阿波禮《ヤツメサスイヅモタケルガハケルタチツヅラサハマキサミナシニアハレ》、とあるは、八雲刺にて、やくもを、やつくもと云(ヒ)、そのやつくものもを、めと通はし、都久《ツク》は、都《ツ》と約(マ)り、立《タツ》を、刺《サス》とのたまへるなれば、(續紀十一に出たる、歌曲の名に、八裳刺曲《ヤツモサスブリ》と云も見えたり、)八雲立と同じことなるに、(書紀には、即(チ)此(ノ)御歌を、やくもたつとあれば論なし、)出雲建といふに冠らせたれば、其(ノ)時は、はやさきの、須佐之男(ノ)命の御歌に、よりもとづきて、枕詞となしたまへる趣なれば、此(ノ)集にては、枕詞なることはさらなり、(堀河院百首に、さりともとおもひしかども八雲立、手間の關にも秋はとまらずとあるは、又うつりて、八雲立を、やがて出雲(ノ)國のことゝせるにて、久方を、天のことゝすると同じ例なり、)なほこの詞古事記傳に委(ク)云り、○子(ノ)字、類聚抄には兒と作り、○奥名豆颯《オキニナヅサフ》は、奥《オキ》とは、岸側《キシギハ》より放りて、遠き方をいふ、古(ヘ)は川にも、奥《オキ》といひしこと、上に委(ク)云り、名豆颯《ナヅサフ》は浮ぶを云、(328)古事記傳四十二卷に、那豆佐比《ナヅサヒ》は、或は水に浮ぶをも云(ヒ)、或は底に沈むをも云(ヒ)或は渡るをも云て、何れも水に著ことに云り、と有が如し、四(ノ)卷に、鳥自物魚津佐比去者《トリジモノナヅサヒユケバ》、十二に、爾保鳥之奈津柴比來乎《ニホトリノナヅサヒコシヲ》、古事記雄略天皇(ノ)條(ノ)歌に、毛々陀流都紀賀延波《モヽダルツキガエハ》云々、斯豆延能延能宇良婆波《シヅエノエノウラバハ》、阿理岐奴能美幣能古賀《アリキヌノミヘノコガ》、佐々賀世流美豆多麻宇岐爾《サヽガセルミヅタマウキニ》、宇岐志阿夫良淤知那豆佐比《ウキシアブラオチナヅサヒ》、などある、これらは、皆浮ぶを云り、今按(フ)に、古事記(ノ)歌に、那豆能紀《ナヅノキ》とあるは、浪漬之木《ナヅノキ》といふ義と見ゆれば、那豆佐布《ナヅサフ》は、浪漬傍《ナヅサフ》なるべし、○歌(ノ)意は、溺死たるを見て云るにて、かくれたるところなし、○按(フ)に右二首は、紛れて後前になれるなるべし、前に溺死を見てよめる歌ありて、次に火葬を見てよめる歌あるべし、
 
過《トホレル》2勝鹿眞間娘子墓《カツシカノママヲトメガハカヲ》1時《トキ》。山部宿禰赤人作歌一首并短歌《ヤマベノスクネアカヒトガヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
眞間娘子は、むかし下總(ノ)國葛飾(ノ)郡眞間、といふ處にありし、美女なり、今も眞間といふところありとぞ、さてこの娘子は、賤民の家に生れながら、其(ノ)形容の、端正美麗《キラ/\シクウルハシ》かりしこと、良家《ウマヒト》の女《ムスメ》にもさらにならびなかりしかば、見人聞者《キヽミルヒト》、われおくれじと、妻どひ相競《アラソ》ふを見て、娘子うきことにおもひとりて、眞間(ノ)湊に身を投て、はかなくなりにければ、そこに墓つくりしとなむ、九(ノ)卷長歌に見えたり、又十四、下總(ノ)國相聞(ノ)歌の中にも、この娘子がことをよめる、二首あり、(又かの菟原處女《ウナヒヲトメ》、又十六に見えたる櫻兒《サクラノコ》、又|鬘兒《カヅラノコ》など、この眞間娘子が事跡に、似たることなり、)(329)○古寫本、拾穗本等註に云、東俗語(ニ)云|可豆思賀能麻末能弖胡《カヅシカノママノテコ》とあり
 
431 古昔《イニシヘニ》。有家武人之《アリケムヒトノ》。倭文幡乃《シヅハタノ》。帶解替而《オビトキカヘテ》。廬屋立《フセヤタテ》。妻問爲家武《ツマトヒシケム》。勝牡鹿乃《カツシカノ》。眞間之手兒名之《ママノテコナガ》。奧槨乎《オクツキヲ》。此間登波聞杼《ココトハキケド》。眞木葉哉《マキノハヤ》。茂有良武《シゲミタルラム》。松之根也《マツガネヤ》。遠久寸《トホクヒサシキ》。言耳毛《コトノミモ》。名耳母吾者《ナノミモワレハ》。不所忘《ワスラエナクニ》。
 
有家武人《アリケムヒト》とは、誰にもあれ、この娘子を娉せし人なり、七(ノ)卷に、古爾有監人之覓乍《イニシヘニアリケムヒトノトメツヽ》、衣丹摺牟眞野之榛原《キヌニスリケムヌノハリハラ》とあり、(初二句、同語の例なれば引つ、)契冲云、此(ノ)娘子、いつの頃ありけむと、考(フ)る所なし、第九の歌は、高橋(ノ)連虫麻呂之歌集中(ニ)出とありて、此(ノ)虫麻呂も、考(フ)る所なしといへども、赤人よりは、猶さきに出たるかとおぼしきに、其(ノ)歌にも、いにしへに有ける事と、今までに絶ず云くる、かづしかのまゝの手兒名が、よまれたれば、はるかに古代の事なり、○倭文幡《シツハタ》(文(ノ)字、父に誤、今改つ、)は、文ある布なり、冠辭考に見ゆ、帶とせしことは、武烈天皇(ノ)紀(ノ)歌に、於〓枳瀰能瀰於寐能之都波※[手偏+施の旁]夢須寐陀黎《オホキミノミオビノシツハタムスビタレ》、此(ノ)集十一に、古家之倭文旗帶乎結垂《イニシヘノシツハタオビヲムスビタレ》、など見えたり、○帶解替而《オビトキカヘテ》は、帶解|交《カハ》して、といふに同じ、互に帶解て、といはむが如し、○廬屋立は、フセヤタテ〔五字右○〕と訓べし、(冠辭考に、ふせやたつとよみて、屋のつまとつゞけたり、と云るは、甚わろし、)妻籠の料に、屋を立る謂なり、さて古(ヘ)は、妻問すとては、まづことに、屋を造設る風俗《ナラハシ》にて、其は古事記に、見2立八尋殿(ヲ)1とあるは、二柱(ノ)神の、御合坐む料《マケ》なるをはじめて、須佐之男(ノ)命の、都麻碁微爾夜幣賀岐都久(330)流《ツマゴミニヤヘガキツクル》と作ましゝも、妻と共に、籠坐む爲ぞ、(古事記傳の説も然り、)そは良人《ウマヒト》には限らず、賤者とても、必しかせしなるべし、かくて今も土佐(ノ)國にて、少し城府を離りたる里の風俗には微職者《イトイヤシキモノ》とても、妻迎せむとては、二人|宿《イネ》らるゝばかりの、甚ちひさき屋を造りかまへて、さて妻を迎て、其(ノ)屋に率寢るなり、これ上古の風習の、邊鄙に遺れるなるべし、〔頭註、【枕詞解四卷つまごもるの條、妻隱と書る字意にて、妻を率て隱る屋、といふ意につゞけりたり云々、又集中にも、妻屋と多く見えたるも、妻隱る屋をいふ意なるを、併考べし、(註)契冲も、人の妻は、おくふかきやにかくれゐて、外の人にまみえぬものなれば、かくつゞくるなり、長流が、昔は、つまやと云所を、別に立置なり、今、在郷にて、つのやと云は、遺風かと云り、と云たりき、今按に新婦を俗に新造といふも、古妻を迎るには、必妻の住べき家を、新に造れるが故に、その心ばえを以、後世まで新造と云り、是又一の證と云べし、この事、既に伊勢氏四季草にもさだせり、蜷川殿中日記にも御新造といふこと見えたり、と云り、】〕○婁問《ツマドヒ》は、夫婦相誂《ツマドチアヒトウ》を云詞なり、四(ノ)卷に、嬬問爾《ツマトヒニ》、八(ノ)卷に、嬬問爲云《ツマドヒスチフ》、十(ノ)卷七夕(ノ)歌に、狛錦紐解易之天人乃妻問夕叙《コマニシキヒモトキカハシアメヒトノツマドフヨヒゾ》、十六に、妻問跡《ツマドフト》、十八に、氣奈我伎古良何都麻度比能欲曾《ケナガキコラガツマドヒノヨソ》、十九|處女墓《ヲトメハカノ》歌に、相爭爾嬬問爲家留《アヒトモニツマドヒシケル》、古事記雄略天皇(ノ)條に、故(レ)都摩杼比之物云而賜入也《ツマドヒノモノトイヒテタマヒキ》、(娉物なり、)○勝牡鹿《カヅシカ》、牡(ノ)字、舊本壯に誤、拾穗本又一本に從、○手兒名《テコナ》(手(ノ)字、活字本に无は脱たるなり、)は、娘子の名、(契冲が手兒名は、人の妻のこゝろにて、名にはあるべからずといへるはおしあてなり、)手兒《テコ》は愛兒《アテコ》の謂にて、負せたる名にてもあらむか、(本居氏も、手兒名《テコナ》は、愛兒名《アテコナ》にて、名は美稱なりと云り、されどなべての女を、ひろく云ることゝせむことは、いかゞなり、)落窪物語にまろがをぢにて、治部(ノ)卿なる人のてこ、兵部(ノ)少輔、かたちいとよく、はないとをかしげなるを、むことり給へるとの給へば云(331)々とあり、(このてこも、愛兒の、謂にや、或説には、手兒は、手の兒の意といひ、又妙兒の意と云るもいかゞ、いづれ手兒名は、眞間娘子に限りて云れば、名なること疑無し、○好忠集に、うつき原手兒名が布を曝せ|る《り歟》と、見えしは花の咲るなりけり、とあるは、※[手偏+總の旁]て女をいふことゝ心得てよめるか、又この娘子にとりてよめるか、)女(ノ)名に、某名《ナニナ》といへるは、未之珠名《スヱノダマナ》などの類なり、○奥槨《オクツキ》は、九(ノ)卷處女墓(ノ)歌に、處女等賀奥城所《ヲトメラガオクツキトコロ》、又詠2眞間娘子(ヲ)1歌に、奥津城爾妹臥勢流《オクツキニイモガコヤセル》、十八に等保追可牟於夜能於久都奇波《トホツカムオヤノオクツキハ》、十九處女墓(ノ)歌に、奥墓乎此間定而《オクツキヲコヽトサダメテ》などあり、書紀に、墓とも丘墓とも書てオクツキ〔四字右○〕とよめり、奥津は、神代紀に、※[木+皮]《マキハ》可3以|爲《ス》2顯見蒼生奥津棄戸將臥之具《ウツシキアヲヒトクサノオクツスタベニフサムソナヘト》1、とある奥津なり、槨は、郭《キ》なり、和名抄(ニ)云、野王曰、槨(ハ)周v棺者也、與v郭同、和名|於保止古《ォホトコ》、と見えたり、○茂有良武は、シゲミタルラム〔七字右○〕と訓べし、木の葉の生茂みて、隱せる故にやあらむとなり、一(ノ)卷に、大殿者此間等雖云夏草香繁成奴留《ヲホトノハココトイヘドモナツクサカシゲクナリヌル》とよめり、今と似たり、○松根也《マツガネヤ》は、松根の遠く根延ふを云て、遠久寸《トホクヒサシキ》の言を興せり、也《ヤ》は、久寸《ヒサシキ》の下に轉して意得べし、(也は、之の誤にて、マツガネノ〔五字右○〕ならむと本居氏の云るは、熟考へざりしなり、)○遠久寸《トホクヒサシキ》は、此間《ココ》とは聞ど、其奥槨の、灼然《シルク》も見えやらぬは、娘子が時代の、遠(ク)久き故にやあらむとなり、眞木も松も、その墓地に生たるをもて、言をよせたるなるべし、○不所忘《ワスラエナクニ》は、今までに、絶ず言來る、言にのみも、名にのみも聞つゝ、昨日しも、見けむが如くおもほえて、暫も忘られぬことなるものを、といふ意なり、○歌(ノ)意かく(332)れたるところなし、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
432 吾毛見都《ワレモミツ》。人爾毛將告《ヒトニモツゲム》。勝牡鹿之《カツシカノ》。間々能手兒名之《マヽノテコナガ》。奧津城處《オクツキトコロ》。
 
人爾毛將告《ヒトニモツゲム》は、十七立山(ノ)賦に、伊末太見奴比等爾母都氣牟於登能未毛《イマダミヌヒトニモツゲムオトノミモ》、名能未母伎吉底登母之夫流我禰《ナノミモキキテトモシブルガネ》、とあるに、意同じ、○牡(ノ)字、(類聚抄には无、)舊本には壯に誤、拾穗本に從つ、○歌(ノ)意かくれなし、
 
433 勝牡鹿乃《カツシカノ》。眞々乃入江爾《マヽノイリエニ》。打靡《ウチナビク》。玉藻苅兼《タマモカリケム》。手兒名志所念《テコナシオモホユ》
牡(ノ)字、舊本壯に誤、拾穗本に從つ、○打靡はウチナビク〔五字右○〕と訓べし、こは玉藻のなびくを云詞なればなり、(略解に、うちなびきと訓て、手兒名が打靡きて、玉藻刈けむと云意に見たるはわろし、)○歌(ノ)意は、眞間の入江に、打なびく玉藻を、手名兒が(存在《ヨニアリ》し時、)刈けむ容貌の、いかにうるはしくめでたかりつらむ、と一すぢに思ひやらるゝよしなり(略解に、眞々の江に、身を沈めたるを云るなるべし、と云るは、いみじきひがことなり、
 
和銅四年辛亥《ワドウヨトセとイフトシカノトヰ》、過《スグル》2三穗浦《ミホノウラヲ》1時《トキ》。姓名(ガ)作歌二首《ヨメルウタフタツ》〔過三〜それぞれ○で囲む〕
 
此題詞を、舊本に和銅四年辛亥、河邊宮人、見2姫島松原美人屍1、哀慟作歌四首、と記して、左の二首を載、其次に、人言之《ヒトゴトノ》云々、妹毛吾毛《イモモアレモ》云々の二首を載たり、此は甚く混亂したるものなり、そ(333)の題詞《コトバカキ》は既く二(ノ)卷に全(ラ)出て、歌も二首あり、さて其(ノ)歌も孃子を悲める歌なるを、此處の歌は、さる意にしもあらねば、此歌の題詞にしかあるべき謂なし、亂れたること知べし、但し和銅云々は、此(ノ)歌より末まで、和銅神龜天平と、年歴の知(レ)たるを、次第て載たりと見ゆればこの和銅云云の六字は、もとよりありしことしるし、かくて辛亥の下、漏失たりけむを、歌(ノ)意をもわきまへしらぬ人の、二(ノ)卷の題詞をとりもち來て補入しものと見ゆ、かくて左の二首は、新喪の歌ならねど、久米(ノ)若子の、死去の古(ヘ)を悲みたるより、挽歌の標中に載しこと右の眞間娘子をよめる歌に、准べし、
 
434 加座※[白+番]夜能《カザハヤノ》。美保乃浦廻之《ミホノウラミノ》。白管仕《シラツヽジ》。見十方不怜《ミレドモサブシ》。無人念者《ナキヒトオモヘバ》。
 
加座※[白+番]夜能《カザハヤノ》(座(ノ)字、舊本麻と作るは誤なり、今は異本に從つ、但し麻は、アサ〔二字右○〕のア〔右○〕はカ〔右○〕の韻にこもれば、サ〔右○〕の假字に、用ひしものぞとも、いふべけれど、此歌の書樣にはあらず、又|加座《カザ》と濁る處なれば、まして、さらなり、)は、風速之《カザハヤノ》にて、地(ノ)名なるべし、(契冲が、備後にこそ風速(ノ)浦はあれ、是はつねに、風の早き浦なり、といふ心にて、つゞけたるなり、といへれど、地(ノ)名には、諸國に、同じきが多かるをや、)○美保乃浦廻《ミホノウラミ》は、七(ノ)卷※[羈の馬が奇]旅作とありて、紀伊(ノ)名所をよめる歌の中に、風早之三穗乃浦廻乎※[手偏+旁]舟之《カザハヤノミホノウラミヲコグフネノ》とあり、紀伊(ノ)國にあるなるべし、浦廻は、ウラミ〔三字右○〕と訓、(ウラワ、ウラマ〔六字右○〕などよむは、甚わろし、)既く委(ク)云り、○白管仕《シラツヽジ》は、品物解に云り、○見十方不怜《ミレドモサブシ》は、躑躅の盛なるを見(334)れども、心よからず、悲しく思はるゝよしなり、不怜は、不樂と書ると同意にて、既く一(ノ)卷に委(ク)云り、○無人念者《ナキヒトオモヘバ》、舊本に、或云、見者悲霜無人思丹《ミレバカナシモナキヒトオモニ》と註せり、さて次の歌に依て考るに、無人は、久米(ノ)若子を云なるべし、この歌と、次のと二首は、契冲も云し如く、此(ノ)上に、博通法師、往2紀伊國1、見2三穗(ノ)石室(ヲ)1作歌とあると、大かた同じ趣なれば、今も紀伊(ノ)國三穗にて、久米(ノ)若子を、しぬべる歌なり、○歌(ノ)意は、浦廻の風景、躑躅の花盛などを見れば、常はおもしろく興ありて、世の憂事をも忘るゝ事なるに、亡人のうへを思へば、花に心もなぐさまで、中々に悲しく思はるゝとなり、
 
435 見津見津四《ミツミツシ》。久米能若子我《クメノワカゴガ》。伊觸家武《イブリケム》。磯之草根乃《イソノクサネノ》。干卷惜裳《カレマクヲシモ》。
 
見津見津四《ミツミツシ》は、見津は、(借(リ)字、)書紀顯宗天皇(ノ)卷に、不才、仁徳天皇(ノ)卷に、不佞とあるを、美都那斯《ミツナシ》と訓たる美都《ミツ》にて、才徳《イキホヒ》勇威《カド》あるをいふ詞にて、既く一(ノ)卷、山上(ノ)臣憶良、在v唐時作歌に、大伴乃御津《オホトモノミツ》とあるに就て、委く註せり、照(シ)見て考(フ)べし、四《シ》は、清々斯《スガ/\シ》、多頭多頭四《タヅタヅシ》、忌々斯《ユヽシ》、雄々斯《ヲヽシ》、などの斯《シ》に同じ、さて美津美津斯《ミツミツシ》てふ言もて、米久《クメ》に冠らせたるは、まづ古事記中卷、神武天皇(ノ)條に、自2其地《ソコ》1幸行《イデマシテ》、到(リマセル)2忍坂(ノ)大室(ニ)1之時《トキ》、生尾土雲八十建《ヲアルツチクモヤソタケル》、在(リテ)2其(ノ)室(ニ)1待(チ)伊那流《イナル》、故(レ)爾天(ツ)神(ノ)御子之命|以《モチテ》、饗2賜《ミアヘタマヒキ》八十建(ヲ)1、於是宛(テ)2八十建(ニ)1、設(テ)2八十|膳夫《カシハデヲ》1、毎v人佩(セ)v刀、誨《ヲシヘテ》2其膳夫等(ニ)1曰、聞歌之一時共斬《ウタオキカバモロトモニキレトノリタマヒキ》、故(レ)明(セル)v將(ルコトヲ)v打(ムト)2其土雲(ヲ)1之歌《ウタ》曰、意佐加能意富牟廬夜爾《オサカノオホムロヤニ》、比登佐波爾岐伊理袁理《ヒトサハニキイリヲリ》、此登佐波爾伊理袁理登母《ヒトサハニイリヲリトモ》、美(335)都美都斯久米能古賀《ミツミツシクメノコガ》、久夫都々伊々斯都々伊母知《クブツヽイヽシツヽイモチ》、宇知弖斯夜麻牟《ウチテシヤマム》、美都美都斯久米能古良賀《ミツミツシクメノコラガ》、久夫都々伊々斯都々伊母知《クブツヽイヽシツヽイモチ》、伊麻宇多婆余良斯《イマウタバヨラシ》、如此《カク》歌(ヒ)、而拔(テ)v刀(ヲ)一時打殺《モロトモニウチコロシキ》也、(かく美都美都斯久米能古《ミツミツシクメノココ》、とつゞけし猶あり、)と見えたるぞ、其(ノ)始にて、さて凡て、久米《クメ》の枕詞の如くにも、なれるなるべし、抑々|久米《クメ》を、美都美都之《ミツミツシ》といふべきは、同記上卷天降(ノ)條に、天(ノ)忍日(ノ)命、天津久米(ノ)命|二人《フタリ》、取(リ)2負(ヒ)天之石靫(ヲ)1、取(リ)2佩(キ)頭椎《クブツチ》之大刀(ヲ)1、取(リ)2持(テ)天之波士弓(ヲ)1、手2挾《タバサミ》天之眞鹿兒矢(ヲ)1、立《タヽシテ》2御前(ニ)1而仕(ヘ)奉(リキ)、故(レ)其天(ノ)忍日(ノ)命、(此者大伴(ノ)連等之祖)天津久米(ノ)命、(此者久米(ノ)直等之祖也、)と見えたるをはじめて、また中卷神武天皇(ノ)條に、爾(ニ)大伴(ノ)連等之祖、道(ノ)臣(ノ)命、久米(ノ)直等之祖、大久米(ノ)命二人、召(テ)2兄宇迦斯《エウカシヲ》1罵詈云《ノリテイヒケラク》、伊賀所作《イガツクリ》仕(ヘ)奉(レル)、於2大殿(ノ)内1者、意禮《オレ》先(ツ)入(テ)、明d白(シマヲセトイフ)其(ノ)將2爲《スル》仕(ヘ)奉(ムト)1之状(ヲ)u而、即|握《トリシバリ》2横刀之手上《ツルギノタカミ》1、矛由氣矢刺而追入之時《ホコユケヤサシテオヒイルヽトキ》、乃己(カ)所作押《ハリヲケルオシニ》見(テ)v打|死《シニキ》、爾即控(キ)出(シテ)斬(リ)散《ハフリキ》など、猶往々に、此命の事見えて、凡て代代武(キ)事にて仕奉ひ、其(ノ)勇威《)カド》ありしから、かくつゞけ云り、はた其(ノ)下(ノ)文に、伊須氣余理比賣《イスケヨリヒメ》の、大久米(ノ)命の黥利目《サケルトメ》を見て、阿米都々知杼理麻斯登々那杼佐祁流斗米《アメツヽチドリマシトヽナドサケルトメ》、とよめるも、武《タケ》く畏《カシコ》く勇威《カドカド》しき眼《マナコ》ざしなりしを思ふべし、さて其(ノ)大久米(ノ)命の所部《スベ》し壯子《ヲトコ》どもゝ、其(レ)に傚(ヒ)て、甚《イト》武威《タケ》かりしほどをも、推て知べし、(されば、久米部の壯子等にも、この枕詞を、おくべきものぞ、)かゝるを今までこの詞の意を、解得たりし人一人もなし、(説々あれど皆叶はず、まづ契冲が、代匠記に云る説は、論に足ず、厚顔抄に、書紀(ノ)歌につきて、大久米(ノ)命の目をさけるが、にらまへるやう(336)なれば、大に見る意に、見津見津《ミツミツ》し、と云なるべしと云て、二の津《ツ》は、天津《アマツ》、國津《クニツ》などの津《ツ》に同じ、と云るはいかにぞや、さる都《ツ》の言のおきざま、あるべくもあらず、又冠辭考に、都《ツ》を濁りて、美豆垣《ミヅカキ》などの美豆《ミヅ》と同じく、若きをいふなるは、即(チ)久米(ノ)若子、と云るにてもしれ、今も萬(ツ)の物の、わかくうつくしきを、みづ/\しとは云めり、と云れど、物をほめて云みづは、古事記に、美豆能小佩《ミヅノヲトモ》、また水垣《ミヅガキ》、書紀に、瑞穗之地《ミヅホノクニ》、瑞比云2瀰圖《ミヅト》1、集中にも、水莖《ミツクキ》、水枝《ミヅエ》、美豆山《ミヅヤマ》など見えて、豆《ヅ》は、いづれも濁音なるを、此(ノ)美都美都斯《ミツミツシ》も、さる意ならむには、美豆美豆斯《ミヅミヅシ》、とこそ書べきに、書紀にも、瀰都瀰都志《ミツミツシ》と書て、皆清音なれば、决《ウツナ》く非なるをしるべし、また本居氏(ノ)古事記傳に、美都美都志斯《ミツミツシ》は、滿々しにて、圓々《マト/\》しといはむがごとし、此は目の大きなる貌を云るにて、久米の枕詞なり、大久米(ノ)命を、黥利目とありて、目の圓に大きにありし故に、久米てふ名を負給へる、其久米は、久流目《クルメ》の約りたる言なり、今(ノ)世にも、人の目の、圓く大きにて、利げなるを、目の久流久流《クルクル》としたると云是なり、故(レ)滿々し久流目、と續けたるなりとあり、久米てふ稱を、久流目の約りたる言とせるは、もしはさる由にもあるべけれども、美都《ミツ》を、滿なりと云るは、叶ひがたし、もし滿々しの意ならむには、美知美知斯《ミチミチシ》、とこそいふべきに、美都《ミツ》は、活用言《ハタラカシイフ》ときの例なれば、美都斯《ミツシ》と斯《シ》の言をそへ云べき、ことわりにあらざるをや、)○久米能若子《クメノワカゴ》は、荒木田氏(ノ)考に、神武天皇の率坐し、久米部の壯子なるべし、天皇紀伊(ノ)國を經て、内津國に入ましゝなれば、紀伊(ノ)國(337)に、久米部の殘り居しなるべしと云り、○伊觸家武《イフリケム》(武(ノ)字拾穗本には牟と作り、)は、伊《イ》は、發語なり、觸は、フリ〔二字右○〕と訓べし、廿(ノ)卷に、伊蘇爾布理宇乃波良和多流《イソニフリウノハラワタル》、(磯に觸(リ)海(ノ)原渡るなり、)とあり、○磯之草根《イソノクサネ》は、磯は三穂(ノ)浦の磯なり、草根は、クサネ〔三字右○〕と訓べし、(カヤネ〔三字右○〕と訓はわろし、)○干卷惜裳《カレマクヲシモ》(惜(ノ)字、舊本情に誤、類聚抄、古寫本、拾穂本等に從、)は、卷《マク》は、武《ム》の伸りたる言、裳《モ》は、歎(ノ)辭にて、枯む事の、さても惜(シ)や、といふ意なり、○歌(ノ)意は、武威《タケ》く雄健《ヲヲ》しかりし、むかしの久米部の壯子が、往觸けむと思へば、其(ノ)磯の草の枯む事だに、さても惜やとなり、
○舊本こゝに、436 人言之繁比日玉有者手爾毛以而不戀有益雄《ヒトコトノシゲキコノゴロタマナラバテニマキモチテコヒザラマシヲ》、437 妹毛吾毛清之河乃河岸之妹我可悔心者不持《イモモアレモキヨミノカハノカハキシノイモガクユベキコヽロハモタジ》、といふ二首を連載て、その左に、右案、年紀并所處乃娘子屍作歌人名已見上也、但歌辭相違、是非難別、因以累載於茲次焉、(乃は、及の誤、)とあるは、仙覺などが註せるにやあらむ、其は上にもいふ如く、三穗(ノ)浦にてよめるは、久米若子が古(ヘ)を、慕ひ悲しめる歌にて、無人念者などあれば、挽歌の標中に載つらむを、人言之云々、妹毛吾毛云々の二首は、全相聞なるを、混亂しにも心をつけずして、たゞにうたがひ註しつるなり、
 
神龜五年戊辰《ジムキイツトセトイフトシツチノエタツ》。太宰帥大伴卿《オホミコトモチノカミオホトモノマヘツキミノ》。思2戀《シヌヒタマフ》故人《スギニシヒト》1歌三首《ウタミツ》。
 
大伴(ノ)卿は、旅人(ノ)卿なり、○故人は、卿(ノ)妻大伴(ノ)郎女なり、五(ノ)卷にも、太宰府にて、太宰(ノ)帥大伴(ノ)卿報2凶問(ニ)1歌あり、八(ノ)卷、式部(ノ)大輔石上(ノ)堅魚(ノ)朝臣(ノ)歌に、霍公鳥《ホトヽギス》云々、その左註に、右神龜五年戊辰、太宰(ノ)帥(338)大伴(ノ)卿之妻大伴(ノ)郎女、遇v病(ニ)長逝焉、于時勅使式部(ノ)大輔石上(ノ)朝臣堅魚(ヲ)遣2太宰(ノ)府(ニ)1、弔v喪(ヲ)、并贈2物色(ヲ)1、其(ノ)事既(ニ)畢、驛使及府諸卿大夫等、共(ニ)登2記夷(ノ)城(ニ)1、而望遊之日、乃作2此(ノ)歌(ヲ)1、と見ゆ、○歌(ノ)字、舊本卿に誤、類聚抄、古寫本、拾穗本等に從つ、
 
438 愛《ウツクシキ》。人纏而師《ヒトノマキテシ》。敷細之《シキタヘノ》。吾手枕乎《アガタマクラヲ》。纏人將有哉《マクヒトアラメヤ》。
 
愛は、ウツクシキ〔五字右○〕と訓べし、(略解に、ウルハシキ〔五字右○〕とよみて、うらぐはしといふに同(ジ)語なり、と云るは誤なり、)廿(ノ)卷に、有都久之波々爾《ウツクシハヽニ》、書紀齊明天皇(ノ)大御歌に、宇都倶之枳阿餓倭柯枳古弘《ウツクシキアガワカキコヲ》、孝徳天皇(ノ)卷(ノ)歌に、宇都久之伊母我《ウツクシイモガ》、字鏡に娃(ハ)、美女(ノ)貌、宇豆久之乎美奈《ウツクシヲミナ》、などあり、(美貌《カホヨキ》を、ウツクシ〔四字右○〕といふは、美麗《カホヨケ》れば、人の愛賞《メデタヽフ》るがゆゑなり、しかるを今(ノ)世には、うつくしきといふを、美麗《カホヨ》き本義と意得たるは、非なり、食物の美味《アヂハヒヨキ》を、ウマシ〔三字右○〕といふが如し、うまきといふは、何にても、可愛《メデタ》きを賞美《ホメ》ていふことなるを、味美《アヂハヒヨキ》物は、人の可愛《メヅ》るゆゑに、やがてうましといふを、味美(キ)事の本義と意得るは、非なるが如し、此類多し、准(ヘ)て知るべし、○人纏而師《ヒトノマキテシ》、(纏の下に、古寫一本には、之字あり、)人の枕にしてし、といふ意なり、○纏人將有哉《マクヒトアラメヤ》は、枕にする人あらむやは、といふ意なり、○歌(ノ)意は、心の打あひかなひて、愛《ウツクシ》かりし妻の枕にせしを、今は其(ノ)妻の死去《サカ》れゝば、吾(カ)手枕を纏て、相宿る人もさらにあるまじきが、甚悲しと歎賜へるなり、(略解に、他人に又あはじといふ心なり、と云るは非なり、こゝは、しか設けこしらへたる意はさらに無(シ)、
(339)〔右一首。別去而經2數句(ヲ)1作歌。〕
別去は、死去《シニワカレ》なり、
 
439 應還《カヘルベキ》。時者成來《トキハキニケリ》。京師爾而《ミヤコニテ》。誰手本乎可《タガタモトヲカ》。吾將枕《アガマクラカム》。
 
應還《カヘルベキ》は、此(ノ)卿、天平二年十二月、京へ還り賜ひしなり、なほ次に云、○時者成來、成(ノ)字は、(類聚抄に无は、落たるなり、)來の誤寫なり、成來、草書|甚混易《イトマガヒヤス》し、トキハキニケリ〔七字右○〕と訓べし、(本居氏(ノ)説、に、來(ノ)字は、去の誤にて、ナリヌ〔三字右○〕なり、と云れど非ず、來と去は、字形も遠ければなり、)○吾將枕《アガマクラカム》は、五(ノ)卷に、和我摩久良可武《ワガマクラカム》とあり、こは枕を頭《カシラ》に著《ツクル》をいふ言にて、可武《カム》は、可伎久氣《カキクケ》の活轉にて、活動《ウゴカ》ぬ言を活用《ハタラ》かす辭なり、※[草冠/縵]《カヅラ》く、羂《ワナ》く、などとの久《ク》に同じ、(しかるを、枕《マクラ》くは、枕纏の約言ぞ、と誰も皆意得て、しか解來れるは、太《イミ、》じき非なり、)○歌(ノ)意は、京に還るべき時は、來にけり、然るを京に還行て、誰が袂を枕にして、吾は相宿せまし、妻に死別たれば、さらに相宿する人もなくて、いとど悲しからましとのよしなり、
 
440 在京師《ミヤコナル》。荒有家爾《アレタルイヘニ》。一宿者《ヒトリネバ》。益旅而《タビニマサリテ》。可辛苦《クルシカルベシ》。
 
荒有家《アレタルイヘ》は、頃年太宰(ノ)府におはせしなれば、京師(ノ)家は荒たるなり、○一宿者《ヒトリネバ》は、妻无(シ)に獨宿ばとなり、○可辛苦《クルシカルベシ》は、京に還向(フ)間、預《カネ》て辛苦《クルシ》かるべし、とおもほしやり賜ふなり、○歌(ノ)意かくれなし、下に還《カヘリ》2入故郷(ノ)家(ニ)1即作歌、人毛奈吉空家者草枕旅爾益而辛苦有家里《ヒトモナキムナシキイヘハクサマクラタビニマサリテクルシカリケリ》、とあるを併(セ)見るに、(340)切(チ)に哀(レ)に悲くなむ有ける、
〔右二首。臨近向京之時作歌。〕
此(ノ)下に、天平二年庚午冬十二月、太宰(ノ)帥大伴(ノ)卿、向v京上v道之時作歌と見え、此(ノ)卷(ノ)末に附記《ツケシルセ》るに、天平二年十月一日、任2大納言(ニ)1、(續紀には、漏脱せり、)とあるに依て思ふに、十月の末より、十二月の間に作れし歌なり、
 
神龜〔二字□で囲む〕六年己巳左大臣長屋王賜死之後《ムトセトイフトシツチノトミヒダリノオホマヘツキミナガヤノオホキミノツミナハエタマヘルノチ》、倉橋部女王作歌一首《クラハシベノオホキミノヨミタマヘルウタヒトツ》。
 
神龜(ノ)二字、此處は削べし、上に、神龜五年とあればなり。○長屋(ノ)王の傳は、一(ノ)卷(ノ)下に委(ク)云り、賜死《ウシナハレ》しことは、續紀に、天平元年二月辛未、云々等、告(テ)v密(ヲ)、左大臣五二位長屋(ノ)王、私(ニ)學2左道(ヲ)1、欲v傾2國家(ヲ)1、其夜云々、圍2長屋(ノ)王(ノ)宅(ヲ)1、癸酉、令2長屋(ノ)王(ヲ)自盡1、其(ノ)室二品吉備(ノ)内親王、男從四位下膳夫(ノ)王、无位桑田(ノ)王、葛木(ノ)王、釣取(ノ)王等、同亦自縊、甲戌、遣v使葬2長屋(ノ)王、吉備(ノ)内親王(ノ)、屍(ヲ)於生馬山(ニ)2、云々、長屋(ノ)王(ハ)天武天皇之孫、高市親王之子(ナリ)、と見ゆ、○倉橋部(ノ)女王は、傳知ず、八(ノ)卷に、椋橋部(ノ)女王とあるは、同人なるべし、
 
441 大皇之《オホキミノ》。命恐《ミコトカシコミ》。大荒城乃《オホアラキノ》。時爾波不有跡《トキニハアラネド》。雲隱座《クモガクリマス》。
 
大皇之(大(ノ)字、舊本太と作るは誤なり、今は類聚抄、拾穗本等に從つ、略解に、大を天に改めて、スメロキノ〔五字右○〕とよみしは、いみじきひがことなり、)は、オホキミノ〔五字右○〕と訓べし、○大荒城《オホアラキ》は、大《オホ》は、例の(341)美稱、荒城《アラキ》と云意は、本居氏云(ク)、荒は、〓《アラカネ》璞《アラタマ》などの阿羅《アラ》なり、其は新に死たるまゝにて、未(タ)何とも爲《シ》あへぬほどの意にて、今(ノ)世にも、其を阿羅《アラ》某と云こと多し、阿羅亡者《アラボトケ》、阿羅齋《アラトギ》、阿羅火《アラビ》などの如し、城《キ》は墓《オクツキ》の紀《キ》に同じ、されば新に死たるまゝにて、未(タ)葬りあへざるほどに、且《マヅ》姑《シバラ》く收(メ)置處を、阿羅紀《アラキ》と云て、天皇などのは、其(ノ)宮を、阿羅紀能宮《アラキノミヤ》と申せるなり、と云り、○時爾波不有跡《トキニハアラネド》は、大荒城仕奉るべき、時ならねどもの意にて、身命《ミイノチ》の限にて、薨賜《ミウセタマ》へるに非ざりしを云、次下に、丈部(ノ)龍麻呂が、自|經死《ワナキ》たるを、時爾不在之天《トキニアラズシテ》とあるに同じ、○雲隱座《クモガクリマス》は、薨(セ)坐るといふ、○歌(ノ)意は、大皇の御命の、かしこくゆゝしく、いなみがたき故に、御身命《ミイノチ》の限にあらずして、自盡《ミスギ》賜へるは、いとも悲しき事ぞとなり、
 
悲2傷《カナシメル》膳部王《カシハデベノオホキミ》1歌一首《ノウタヒトツ》。
 
膳部(ノ)王は、長屋(ノ)王の長子なり、上長屋(ノ)王の註に、續紀を引るが如し、續紀に、神龜元年二月丙申、無位膳夫(ノ)王(ニ)授2從四位下(ヲ)1、と見えたり、
 
442 世間者《ヨノナカハ》。空物跡《ムナシキモノト》。將有登曾《アラムトゾ》。此照月者《コノテルツキハ》。滿闕爲家流《ミチカケシケル》。
 
將有登曾《アラムトゾ》は、あらむ道理とてぞ、といふほどの意なり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、天照月の、滿則必缺《ミツレバスナハチカク》る理を思ひて、自(ラ)悲傷《カナシミ》の堪(ヘ)難きを、忍《シヌ》へるなり、七(ノ)卷に、隱口乃泊瀬之山丹照月者盈※[日/仄]無鳥人之常無《コモリクノハツセノヤマニテルツキハミチカケシケリヒトノツネナキ》、十九、悲2世間无常1歌に、天原振左氣見婆照月毛盈※[日/仄]之家里《アマノハラフリサケミレバテルツキモミチカケシケリ》云々とあり、
(342)〔右一首作者未詳《ミギノヒトウタハヨミヒトシラズ》。〕
 
天平元年己巳《テムビヤウハジメノトシツチノトミ》。攝津國班田史生丈部龍麻呂《ツノクニノアガチダノフミヒトハセツカベノタツマロガ》。自經死之時《ワナキシトキ》。判官大伴宿禰三中作歌一首并短歌《マツリゴトヒトオホトモノスクネミナカガヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
班田史生は、アガチダノフミヒト〔九字右○〕と訓べし、班田は、孝徳天皇(ノ)紀に、班田收授之法、持統天皇(ノ)紀には、班田《タマヒタノ》大夫等ともあり、續紀に、天平元年十一月癸巳、任2京及畿内(ノ)班田使(ヲ)1云々、阿波(ノ)國山背(ノ)國陸田者、不v問2高下(ヲ)1、皆悉還v公、即給2當土(ノ)百姓(ニ)1、但在2山背(ノ)國1、三位已上(ノ)陸田者、具(ニ)録2町段(ヲ)1、使v附(ニ)上奏、以外盡(ニ)牧、開v荒(ヲ)爲v熟、兩國並聽、と見ゆ、班田のことは、田令(ノ)義解に、凡田(ハ)六年(ニ)一(タビ)班(タマヘ)、(謂此(ハ)據(ニ)d未(ル)v給2口分(ノ)1人(ニ)u也、其先(ニ)已(ニ)給訖(ヲハ)者、不v可2更收(リ)授(フ)1也、若(シ)田、有(ハ)2崩埋侵食(セルコト)1、亦依(レ)2改(テ)班(フ)例1也、)神田寺田(ハ)、不v在2此(ノ)限(ニ)1、(謂此(ハ)即不税田也、縱有(トモ)2崩埋侵食(セルコト)1、不v可2更(ニ)復加授(フ)1也、)若(シ)以2身死(タルヲ)1、應(ハ)v退《カヘス》v田(ヲ)者、毎(ニ)v至(ラム)2班(ハム)年(ニ)1、即|從《ヨレ》2收授(フニ)1、と見えたり、史生は、官中の末々の事までを、書記す職なり、和名抄に、職員令(ニ)云、史生、(俗二音、如v賞、)今案(ニ)、官局以上、及諸國一分、皆謂2之史生(ト)1、一分者、蓋俸斷之分法(ニ)、長官五分、次官四分、判官三分、主典二分、史生一分之義也、とあり、後に史生を、賞の如く唱(フ)るは、主典《フミヒト》にまぎるゝ故なるべし、されど古(ク)は、主典、史生共に、フミヒト〔四字右○〕と唱へしなるべし、○丈部(ノ)龍麻呂は、傳知ず、丈部は、和名抄に、安房(ノ)國長狹(ノ)郡丈部(ハ)、波世豆加倍《ハセツカベ》、と見ゆ、此(ノ)地(ノ)名より出たる氏なるべし、廿(ノ)卷、防人等が姓氏に、安房上總に、丈部氏多し、龍麻呂も東國より出て、官仕せし人ならむ、○經死(經(ノ)字、類聚抄には(343)※[糸+至]と作り、經の誤か、楊雄方言に、經は縊也と見えたり、)は、垂仁天皇(ノ)紀に、自經、雄略天皇(ノ)紀に、經死とあるを、ともにワナキ〔三字右○〕とよめり、皇極天皇(ノ)紀には、ワダ》〔三字右○〕》とよめり、ダ〔右○〕とナ〔右○〕は、既く云る如く、親《チカク》通(フ)例にて、同言なり、さてワナ〔二字右○〕は羂《ワナ》なり、キ〔右○〕は枕《マクラ》き、※[草冠/縵]《カヅラ》きのキ〔右○〕と同言にて、體物を活轉す辭なり、(ワナキ〔三字右○〕は、羂絞《ワナクヽリ》の約、といふ説はわろし、○字鏡に、縊(ハ)、絞也、經也、久比留《クビル》、とも見ゆ、)○判官は、班田司の判官にて、長官次官の下知を得て、官中の大小の事を、正(シ)判る職なり、マツリゴトヒト〔七字右○〕と訓べし、和名抄に、本朝職員令、二方品員等所v載云々、勘解由曰2判官(ト)1、云々、(皆|万豆利古止比止《マツリコトヒト》、)とあり、(後(ノ)世に、なべて諸官の判官を、ジヨウ〔三字右○〕と呼は、八省の丞の字音よりうつれるなり、と本居氏いへり、)○大伴(ノ)宿禰三中は、類聚抄に、三中、或(ハ)作2御中(ニ)1、攝津國班田判官云々、續紀に、天平九年正月辛丑、遣2新羅1使副使從六位下大伴(ノ)宿禰三中、染v病(ニ)不v得v入v京、三月壬寅、副使正六位上大伴(ノ)宿禰三中等四十人、拜朝、十二年正月庚子、外從五位下、十五年六月丁酉、爲2兵部(ノ)少輔(ト)1、十六年九月甲戌、爲2山陽道(ノ)巡察使(ト)1、十七年六月辛卯、爲2少貳(ト)1、十八年四月壬辰、處2長門(ノ)守(ト)1、同月癸卯、從五位下、十九年三月乙酉、爲2刑部(ノ)大判事(ト)1、と見ゆ、此時は、班田司の判官たりしなるべし、
 
443 天雲之《アマクモノ》。向伏國《ムカフスクニノ》。武士登《マスラヲト》。所云人者《イハエシヒトハ》。皇祖《スメロキノ》。神之御門爾《カミノミカドニ》。外重爾《トノヘニ》。立候《タチサモラヒ》。内重爾《ウチノヘニ》。仕奉《ツカヘマツリ》。玉葛《タマカヅラ》。彌遠長《イヤトホナガク》。祖名文《オヤノナモ》。繼往物與《ツギユクモノト》。母父爾《オモチヽニ》。妻爾子等爾《ツマニコドモニ》。語而《カタラヒテ》。立西日從《タチニシヒヨリ》。帶乳根乃《タラチネノ》。母命者《ハヽノミコトハ》。齋忌戸乎《イハヒヘヲ》。前座置而《マヘニスヱオキテ》。一手者《ヒトテニハ》。木綿取持《ユフトリモチ》。一手者《ヒトテニハ》。和細布奉《ニキタヘマツリ》。平《タヒラケク》。間(343)幸座與《マサキクマセト》。天地乃《アメツチノ》。神祇乞?《カミニコヒノミ》。何在《イカニアラム》。歳月日香《トシツキヒニカ》。茵花《ツヽジバナ》。香君之《ニホヘルキミガ》。牛留鳥《ニホトリノ》。名津匝來與《ナヅサヒコムト》。立居而《タチテヰテ》。待監人者《マチケムヒトハ》。王之《オホキミノ》。命恐《ミコトカシコミ》。押光《オシテル》。難波國爾《ナニハノクニニ》。荒玉之《アラタマノ》。年經左右二《トシフルマデニ》。白栲《シロタヘノ》。衣不干《コロモテホサズ》。朝夕《アサヨヒニ》。在鶴公者《アリツルキミハ》。何方爾《イカサマニ》。念座可《オモヒマセカ》。鬱蝉乃《ウツセミノ》。惜此世乎《ヲシキコノヨヲ》。露霜《ツユシモノ》。置而往監《オキテイニケム》。時爾不在之天《トキナラズシテ》。
 
天雲之向伏國《アマクモノムカフスクニ》とは、國土の境界は、遠《ハルカ》に望《ミヤ》れば、雲の地に向ひ伏て見ゆるをいふ、こゝは、天(ノ)下國土の限といふにて、天地の間に、二(ツ)なき武士といふ意に、つゞきたり、(契冲が、遠國の心なり、丈部は、安房(ノ)國長狹(ノ)郡にある郷(ノ)名なれば、此(ノ)龍麻呂、そこより出て、みやづかへしたるゆゑに、かくはつゞけしなるべし、といへるは、甚非じ、次に引祝詞、五(ノ)卷十三(ノ)卷(ノ)歌をも併(セ)見て、國土の限をいふことなるは、疑なきを知べし、)祈年祭(ノ)祝詞に、皇神能見霽志坐《スメカミノミハルカシマス》、四方國者《ヨモノクニハ》、天能壁立極《アメノカベタツキハミ》、國能退立限《クニノソキタツカギリ》、青雲能靄極《アヲクモノタナビクキハミ》、白雲能墜坐向伏限《シラクモノヲリヰムカフスカギリ》、云々、五(ノ)卷令v反2惑情《マドヘルコヽロヲ》1歌に、許能提羅周日月能斯多波阿麻久牟能牟迦夫周伎波美《コノテラスヒツキノシタハアマクモノムカフスキハミ》、多爾具久能佐和多流伎波美《タニグクノサワタルキハミ》、十三に、白雲之棚曳國之青雲之向伏國乃天雲下有人者《シラクモノタナビククニノアヲクモノムカブスクニノアマクモノシタナルヒトハ》などあり、○武士登は、マスラヲト〔五字右○〕と訓べし、(モノヽフ〔四字右○〕とよめるはいかゞなり、)集中に、健男とも書たると、同義なり、天地の限、雙《ナラビ》なき武健《タケ》き士《ヲトコ》と所云《イハレ》しよしなり、今(ノ)世にていはゞ、日本一の剛(ノ)者、といはむが如し、(伊勢物語に、天(ノ)下の色ごのみ、源のいたるといふ人とあるも、天下一の好色者、といふ意なるに、准(ヘ)知べし、)こゝの詞にて思へば、此(ノ)龍麻(345)呂、當世、剛勇《タケヲ》の名を得し人にぞ有けむ、○皇祖はスメロキノ〔五字右○〕と訓べし、既く一(ノ)卷(ノ)中に、具(ク)説(ヘ)り、○神之御門《カミノミカド》は、皇朝廷《スメラミカド》を云、○外重爾はトノヘニ〔四字右○〕と訓べし、外重は、古今集、壬生(ノ)忠岑(ノ)長歌に、てるひかり近き衛の身なりしを、誰かは秋の來る方に、欺き出て御垣より、外重《トノヘ》守(ル)身の御垣守、をさ/\しくもおもほえず、とある是なり、猶次にいふ、○立候《タチサモラヒ》(候(ノ)字、舊本侯に誤、今は拾穗本に從、)は、令せ賜ふことあらば、仕奉(ラ)むと、立て伺候《ウカヾ》ふよしなり、○内重爾《ウチノヘニ》は、禁裏に、外(ノ)重中(ノ)重内(ノ)重ありて、これを三門と云り、宮衛令(ノ)義解に、凡理門至v夜(ニ)燃v火(ヲ)、(謂内及中外之三門皆衛士燃v火、也、)並大器(ニ)貯(テ)v水(ヲ)、監2察諸(ノ)出入(ノ)者(ヲ)1、とあり、天皇の大坐ます外の御門を宮城門といふ、左右衛門守れり、此を外(ノ)重と云、其(ノ)内の諸門を、中(ノ)重と云、(神祇式に、凡云々、若禰宜、給2五位位記(ヲ)1、於2中重1給之、左兵衛府式に、凡云々、行夜者《ヨメグリハ》中隔二人、)左右兵衛まもれり、其(ノ)内の御門を閤門《ウチツミカド》と云て、(舒明天皇紀に、閤門《ウチツミカド》とあり、)それより内には、御門なし、これ内重なり、九(ノ)卷詠2浦島(カ)子(ヲ)1歌に、海若神宮乃内隔之細有殿爾《ワタツミノカミノミヤノウチノヘノタヘナルトノニ》ともあり、○仕奉《ツカヘマツル》は、令せ賜ふことを、執行ひ仕奉といふなり、○玉葛《タマカヅラ》は、遠長の枕詞なり、○祖名毛《オヤノナモ》は、先祖の名をも、といふなり、祖とは、父母より、遠(ツ)祖をかけていふ稱なり、○繼往物與《ツギユクモノト》は、朝廷に仕奉り、且班田使に任られなど、身を立(テ)功を成(シ)て、先祖の家(ノ)名をも、彌遠長く、末(ノ)世までに、斷ず云繼むものぞ、と語らひしよしなり、○母父爾は、オモチヽニ〔五字右○〕と訓べし、廿(ノ)卷に、意毛知々我多米《オモチヽガタメ》、又|阿母志々《アモシヽ》とも見ゆ、(阿母志々《アモシヽ》は、母父《オモチヽ》の東語、)○妻爾子等爾《ツマニコドモニ》は、十(346)三に、母父母妻毛子等毛高々二來跡待異六人之悲沙《オモチヽモツマモコドモモタカ/\ニコムトマツラムヒトノカナシサ》、廿(ノ)卷に、若草之都麻母古騰母毛乎知己知爾左波爾可久美爲《ワカクサノツマモコドモモヲチコチニサハニカクミヰ》云々、多豆佐波里和可禮加弖爾等《タヅサハリワカレカテニト》、比伎等騰米之多比之毛能乎《ヒキトドメシタヒシモノヲ》などよめり、○帶乳根乃《タラチネノ》は、母の枕詞にて、集中ことに多し、垂乳根《タラチネ》、足常《タラチネ》など書たるは、借(リ)字にして、多良知《タラチ》は、知《チ》は之《シ》に通ひて、(知《チ》と之《シ》と通(ハシ)用たる例、集中これかれおほし、)足《タラシ》の意にて、賛辭なり、かしこけど、足日子《タラシヒコ》、足比賣《タラシヒメ》などの足《タラシ》の如し、根《ネ》も、例の尊稱なり、古事記に、垂根《タリネノ》王、また建忍山垂根《タケオシヤマタリネ》、島垂根《シマタリネ》など云人(ノ)名も見えたり、この垂《タリ》も足《タリ》にて、即(チ)足根《タラシネ》と云に同じ意の稱なり、母《ハヽ》は、ことに親く尊きものなる所以《ユヱ》に、足根之母《タラシネノハヽ》とは稱なりけり、(冠辭考に、赤子を育つゝ、日月を足しめ、ひとゝなすは、母のわざなり、よりて、日足根《ヒタラシネ》の母と云を、日を略きいふなり、と云るは、いみじきひがことなり、そも/\日足と云は、日の言おもければ、その重き言を略きては、何を足すよしとか聞えむ、凡てさばかり、言を省きて云ることなかりし古(ヘ)に、さる略言あるべきことかは、)又此を、多羅知斯《タラチシ》とも云り、其は五(ノ)卷に云べし、(又新撰萬葉に、足千種之祖裳都良芝那加此量思丹迷世丹駐低《タラチネノオヤモツラシナカクバカリオモヒニマヨフヨニトヾマリテ》とあるは、やゝ後なり、又父をたらちを、母をたらちめ、と分ちいふなどは、さらに古(ヘ)しらぬ、しれ人のわざなりかし、)○母命《ハヽミコト》は、母を尊て云るなり、父命《チヽノニコト》、夫命《ツマノミコト》、兄命《セノミコト》、弟命《オトノミコト》、妹命《イモノミコト》なども云たること、集中に多し、さてかゝるところに、母をいひて、父をいはざるは、古人の實なり、(父をたふとみて、母をいやしむは、漢國聖人といふものゝさかしらなり、皇(347)國の古(ヘ)は、父母ともに、同じつらにたふとめるが中に、母はことに親しきものなれば、母をことにいへるは、實のこゝろなり、○和細布奉《ニキタヘマツリ》は、和細布は、諸(ノ)祝詞に、御服波明多閇照多閇《ミソハアカルタヘテルタヘ》、和多閇荒多閇爾《ニキタヘアラタヘニ》、仕奉?《ツカヘマツリテ》、と見ゆ、奉は、神祇《カミ》に奉進《タテマツル》を云、○平(ノ)字、舊本乎、元暦本に手と作るは、皆誤、今改つ、○間幸座與《マサキクマセト》は、(間は借(リ)字、)眞幸く座《マサ》せよ、と神祇に?るなり、上に吾命之眞幸有者《ワガイノチノマサキクアラバ》、廿(ノ)卷爲2防人情1陣思作歌に、平久和禮波伊波々牟好去而早還來等麻蘇※[泥/土]毛知奈美太乎能其比《タヒラケクワレハイハヽハムマサキクテハヤカヘリコトマソデモチナミダヲノゴヒ》などあり、○神武乞?《カミニコヒノミ》は、十三に、天地乎歎乞?幸有者又反見《アメツチヲナゲキコヒノミサキクアラバマタカヘリミム》、又|天地之神祇乎曾吾祈《アメツチノカミヲゾワガノム》、また天地之神乎曾吾乞《アメツチノカミヲゾワガコフ》などあり、○何在《イカニアラム》は、五(ノ)卷に、伊可爾安良武日能等伎爾可母《イカニアラムヒノトキニカモ》とあり、○歳月日香は、トシツキヒニカ〔七字右○〕と訓べし、(トシノツキヒカ〔七字右○〕、と訓はたがへり、)何(レ)の歳にか、何の月日にか、といふ意なり、○茵花《ツヽジハナ》は、香《ニホヒ》の枕詞なり、茵は、品物解に具(ク)云、○香君之はニホヘルキミガ〔七字右○〕と訓べし、(本居氏の、カグハシキミガ〔七字右○〕とよまれし、そは十八に、香具波之君乎《カグハシキミヲ》とあるに據たるなるべけれど、もしこゝも、しか訓べきならば、香細《カグハシ》とか、香具播之《カグハシ》とか書べきを、香の一字のみにては、カグハシ〔四字右○〕とよまむこといかゞ、)十三に、茵花香未通女《ツヽジハナニホヘルヲトメ》とあるを、人麻呂(ノ)集(ノ)歌には、都追慈花爾太遙越賣《ツヽジハナニホエヲトメ》と見えたり、思(ヒ)合(ス)べし、一(ノ)卷に、紫草能爾保敝類妹乎《ムラサキノニホヘルイモヲ》、十一に、山振之爾保敝流妹之《ヤマブキノニホヘルイモガ》、字鏡に、※[女+軍]媛(ハ)、美麗之貌、爾保不《ニホフ》、など見ゆ、○牛留鳥は、荒木田氏、牛留は、尓富の誤にて、ニホドリノ〔五字右○〕なるべしと云り、十五にも、柔保等里能奈豆左比由氣婆《ニホドリノナヅサヒユケバ》とあれば、信に是(ノ)説は謂れたり、又(348)異本に、牛を牽と作るに依ば、ヒクアミノ〔五字右○〕なるべし、(留を、活字本に、死田(ノ)二字に作るは、留の異體※[死/田]と作る、其を誤て、二字とせるなり、)○名津匝《ナヅサヒ》は、上に出づ、○待監人者《マチケムヒトハ》は、母父妻子《オモチヽツマコ》の、いつしか還(リ)來坐む、と待けむ、其(ノ)人はといふなり、○押光《オシテル》は、難波の枕詞なり、古事記、書紀にも見え、集中には殊に多し、此はまづ、難波は、神武天皇(ノ)紀に、方到(リマス)2難波之埼(ニ)1、會有奔潮太急《ヲリシモミカシホオコリテイタクナミハヤカリキ》、因以《カレソコヲ》名爲《ナヅケタマヒキ》2浪速《ナミハヤノ》國(ト)1、亦曰2浪華《ナミハナトモ》1、今謂(ハ)2難波(ト)訛(レルナリ)、と見えたれば、本は浪速《ナミハヤ》とも、浪華とも呼し由傳へたるなり、今は其(ノ)中に、浪華《ナミハナ》とある方に就て、其(ノ)本(ツ)義に立かへりて、此(ノ)枕詞をおけるなり、華には、光《テル》といふが古(ヘ)の常なれば、押(シ)並て光《テル》浪の華、といふ意につゞけり、さて押は、十(ノ)卷に、忍並而高山部乎白妙丹令艶有者櫻花鴨《オシナベテタカキヤマヘヲシロタヘニニホハセタルハサクラバナカモ》とあるごとく、押並る意、光《テル》は、同卷に、能登河之水底并爾光及爾三笠之山者咲來鴨《ノトカハノミナソコサヘニテルマデニミカサノヤマハサキニケルカモ》、三(ノ)卷に、足檜木乃山左倍光咲花乃《アシヒキノヤマサヘヒカリサクハナノ》云々、六(ノ)卷に、巖者山下耀錦成花咲乎呼理《イハホニハヤマシタヒカリニシキナスハナサキヲヲリ》などよめり、さて押光《オシテル》と連言るは、集中月(ノ)歌に、七卷に、押而照有《オシテテラセル》、八(ノ)卷に、月押照有《ツキオシテレリ》などあり、さて六(ノ)卷、超2草香山(ヲ)1時神社忌寸老麻呂(ノ)作歌に、直超乃此徑爾師弖押照哉難波乃海跡名附家良思裳《タヾコエノコノミチニシテオシテルヤナニハノウミトナヅケケラシモ》とあるも、本(ツ)義を思ひて、押(シ)照(ル)や、浪華の海と名附けけらし、といふ意かとも思へど、然には非ず、其(ノ)頃は、既く此(ノ)枕詞、地(ノ)名の如くなりて、やがて、難波(ノ)宮を、押照宮ともいひしとおもはるれば、(廿(ノ)卷に、櫻花伊麻佐可里奈里難波乃海於之弖流宮爾伎許之賣須奈倍《サクラバナイマサカリナリナニハノウミオシテルミヤニキコシメスナベ》とあり、)この老麻呂が歌の意は、難波の言へは關らず、この難波の海を、古(キ)歌に、押(シ)照(ル)とよめるに、今(349)此(ノ)直超の道より見やれば、あの難波の海上の、押(シ)照て清白《サヤカ》に見ゆるよ、昔人も、此(ノ)草香の直超より見やりて、難波に、押照てふ名を負せけらしな、と當時の景色を興じて、よめるなり、さればこの老麻呂(ガ)歌は、此(ノ)枕詞の發りの意に係て見むは、甚惡し、○難波國《ナニハノクニ》は、泊瀬(ノ)國吉野(ノ)國など云る類なり、既く云り、○荒玉乃《アラタマノ》は、年の枕詞なり、集中に、此詞甚多くして、年とも月とも來經《キヘ》とも續きたり、古事記景行天皇(ノ)條(ノ)歌に、多迦比迦流《タカヒカル》云々、阿良多麻能登斯賀岐布禮波阿良多麻能都紀婆岐閇由久《アラタマノトシガキフレバアラタマノツキハキヘユク》と見えたり、此(ノ)枕詞種々の説あれど、皆あたらず、(其(ノ)中に、本居氏(ノ)古事記傳に、阿良多麻能《アラタマノ》は、阿多良阿多良麻《アタラアタラマ》の約りたる言なり、萬葉廿に、年月波安多良安多良爾安比美禮騰《トシツキハアタラアタラニアヒミレド》とあるは、安多良《アタラ》とは、年月日時の、移りもて行を云言にて、年月は、移(リ)往て環《メグ》る物なれば、又環り來る毎に、逢見るよしなり、さて阿良多麻《アラタマ》は、阿多良阿多良《アタラアタラ》の上の阿多良《アタタ》を切《ツヾ》めて阿良《アラ》と云、下を切めて、多《タ》と云るにて、麻《マ》は間《マ》にて、程《ホド》と云に同じ、と云るも、いさゝかたがへり、さるはまづ、間《マ》と云る言の趣を、よく考ふるに、アヒダ〔三字右○〕といふに、全(ラ)同意にして、物と物との空隙《スキマ》を云言なり、間(ノ)字を、字書に、隙也とも、暇也とも、又空隙也とも云る、其(ノ)意なり、又時日也とも註したれど、御國言に、麻《マ》と云るは、空隙の意ならぬは、一(ツ)もなし、言の趣を、よく考へて知べし、)大神(ノ)景井、阿良多麻能《アラタマノ》は、阿良多々麻能《アラタヽマノ》てふ言にて、阿良多《アラタ》は、新《アラタマ》る意、多麻能《タマノ》は、田物《タモノ》か田實之《タミノ》かの意にて、稻(ノ)實をいふならむ、今も稻(ノ)實の中に、赤きが有を、阿加太麻《アカダマ》と云は、たま/\古(350)言の殘れるにやとぞおもはる)、さて年《トシ》と云(フ)名は、田寄《タヨシ》にて、其《ソ》は神の御靈《ミタマ》もて、稻種を水に浸し、苗代に播《マキ》、田になして、天皇に寄奉賜ふ故に、田より寄(ス)てふ意にて、穀を登志《トシ》といふより、年を登志《トシ》といふ、と本居氏の云れしによりて思へば、阿良多麻能年《アラタマノトシ》といふは、新穀之田寄《アラタマノトシ》、といふつゞきなるべくおぼゆ、さて月とかゝるは、新穀之調《アラタマノツキ》、といふ意かともおもへど、さにはあらで月は、年の中のものなれば、つゞけたるなるべし、來經と續くるも、月とつゞけしに同じ、と云り、○白栲《シロタヘ》は、衣《コロモ》の枕詞なり、既く出づ、○衣不干は、下に、白細之衣袖之干《シロタヘノコロモテホサズ》とあるに依て思ふに、こゝも衣の下に、袖か、手かの字、脱たるなるべし、又衣は、袖(ノ)字の由の旁《ツクリ》の、減《ウセ》しものにもあるべし、故(レ)今はコロモテホサズ〔七字右○〕と訓(ミ)つ、旅館に年月を經て、雨露に沾し衣服をも、※[火三つ]乾《アブリホス》人だにもなくして、朝暮に、勤勞《イタヅキ》せる由なり、九(ノ)卷に、※[火三つ]干人母在八方沾衣乎家者夜良奈※[覊の馬が奇]印《アブリホスヒトモアレヤモヌレキヌヲイヘニハヤラナタビノシルシニ》、とよめり、○何方爾念座可《イカサマニオモヒマセカ》は、一(ノ)卷に、何方所念計米可《イカサマニオモホシケメカ》、二(ノ)卷に、何方爾念居可《イカサマニオモヒマセカ》、此(ノ)下に、何方爾念鷄目鴨《イカサマニオモヒケメカモ》などありて、集中に多き詞なり、○露霜《ツユシモ》は、置《オク》の枕詞なり、既く出づ、○置而往監《オキテイニケム》は、惜(キ)此(ノ)世間《ウツシヨ》を棄措《ステオキ》て、死去《スギニ》けむことゝいふなり、○時不在之天《トキナラズシテ》は、上に、大荒城時爾波不有跡《オホアラキノトキニハアラネド》とあるところに云る如く、身命《イノチ》の限にあらずして、といふなり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
(351)444 昨日社《キノフコソ》。公者在然《キミハアリシカ》。不思爾《オモハヌニ》。濱松之上於《ハママツノヘノ》。於雲棚引《クモニタナビク》。
 
不思爾《オモハヌニ》は、思ひがけもなきにの意なり、五(ノ)卷、悲2男子(ヲ)1歌に。大船乃於毛比多能无爾於毛波奴爾横風乃《オホブネノオモヒタノムニオモハヌニヨコシマカゼノ》云々、十(ノ)卷に、霜雪毛未過者不思爾春日里爾梅花見都《シモユキモイマダスギネバオモハヌニカスガノサトニウメノハナミツ》などあり、○於雲棚引《クモニタナビク》は、火葬《ヤキハフリ》の烟をいへり、○歌(ノ)意は、君が存世《ヨニアリ》て、公事を勤《イソシ》みしは、昨日の事にこそ有けれ、されば思ひがけもなきに、今日はその君を火葬して、濱松の上に、雲烟となりて、たなびきたるよ、さてもたのみがたき、人の身ぞとなり、
 
445 何時然跡《イツシカト》。待牟妹爾《マツラムイモニ》。玉梓乃《タマヅサノ》。事太爾不告《コトダニツゲズ》。往公鴨《イニシキミカモ》。
 
事太爾不告《コトダニツゲズ》は、事は(借(リ)字、)言なり、傳言《ツテコト》をさへせずしての意なり、○歌(ノ)意は、歸り來む日は、今日か明日かと、家(ノ)妻は待つゝあるらむに、その妻に使して、傳言をさへせずして、自經(キ)死(ニ)し君哉、さても情無のわざやとなり、
 
天平〔二字□で囲む〕二年庚午冬十二月《フタトセトイフトシカノエウマシハス》。太宰帥大伴卿《オホミコトモチノカミオホトモノマヘツキミノ》向《ムキテ》v京《ミヤコニ》上《ダチスル》v道《ミチ》之時作歌五首《トキニヨミタマヘルウウタイツヽ》。
 
天平(ノ)二字、此處は削べし、上に、天平元年とあればなり、○向京は、大納言に任《メサ》れて、京師に向(キ)上(リ)賜ふ時なり、上に具(ク)云り、
 
446 吾妹子之《ワギモコガ》。見師鞆浦之《ミシトモノウラノ》。天木香樹者《ムロノキハ》。常世有跡《トコヨニアレド》。見之人曾奈吉《ミシヒトゾナキ》。
 
鞆浦《トモノウラ》は、備後(ノ)國にありて名高し、七(ノ)卷に、海人船帆毳張流登見左右荷鞆之浦回三浪立有所(352)見《アマヲブネホカモハレルトミルマデニトモノウラミニナミタテリミユ》、好去而亦還見六大夫乃手二卷待在鞆之浦回乎《マサキクテマタカヘリミムマスラヲノテニマキモタルトモノウラミヲ》とよめると、同じ處なり、○天木香樹《ムロノキ》は、諸國にある木なり、讃岐(ノ)國にては、今|毛呂《モロ》と云り柏木《ビヤクシ》と云木に似て、根蔓ものなり、其(ノ)寶多く群りなるものなり、改(レ)實群《ミムラ》といふ義にて、(ミム〔二字右○〕を切ればム〔右○〕となる、)牟漏《ムロ》といふ名は、負せたるなり、なほ具(ク)は、品物解に云るを披(キ)見べし、(本居氏玉勝間にも見ゆ、)さてはやく、契冲も云し如く、この鞆(ノ)浦の室(ノ)樹は、大木にて、其(ノ)昔《コロ》甚名高くぞありつらむ、、十五に、波奈禮蘇爾多?流牟漏能木宇多我多毛比左之伎時毛須疑爾家流香母《ハナレソニタテルムロノキウタガタモヒサシキトキモスギニケルカモ》、之麻思久母比等利安里宇流毛能爾安禮也《シマシクモヒトリアリウルモノニアレヤ》、之麻能牟漏能木波奈禮弖安流良武《シマノムロノキハナレテアルラム》とよめるも、此(ノ)浦なり、(現存六帖に、鞆の浦や浪路遙に漕船のそがひになりぬ磯の室(ノ)木、)○常世有跡《トコヨニアレド》は、常世にて有ども、といふなり、常世は、常住不變《ツネカハラヌ》を云、○見之人曾奈吉《ミシヒトゾナキ》は、うせらせし帥(ノ)妻大伴(ノ)郎女をさせり、○歌(ノ)意は、筑紫に率て下りしほど、郎女の賞み見し、その鞆(ノ)浦の室の木は、當時に不變《カハラズ》てあれども、その見し郎女は、失せてなきが、悲しき事となり、
 
447 鞆浦之《トモノウラノ》。磯之室木《イソノムロノキ》。將見毎《ミムゴトニ》。相見之妹者《アヒミシイモハ》。將所忘八方《ワスラエメヤモ》。
 
歌(ノ)意は、今より將來《ユクサキ》、鞆(ノ)浦の磯にたてる室(ノ)樹を、見む度毎に、相共に此(ノ)樹を、賞み見し妹がことのおもひ出られて、いかで、得忘(レ)堪《アヘ》むやは、さても悲しき事ぞとなり、
 
448 磯上丹《イソノヘニ》。根蔓室木《ネハフムロノキ》。見之人乎《ミシヒトヲ》。何在登問者《イカナリトトハバ》。語將皆可《カタリツゲムカ》。
 
(353)歌(ノ)意は、相共に見し、妹がうへのことを、いかなりと室の木に問ば、もし語(リ)告ることもあるらむかとなり、過去《スギニ》し冥途《ノチ》の事をも、室の木に問見むとせめて思へるが、いとあはれなり、
〔右三首、過2鞆(ノ)浦(ヲ)1日作歌〕
 
449 與妹來之《イモトコシ》。敏馬能埼乎《ミヌメノサキヲ》。還左爾《カヘルサニ》。獨之見者《ヒトリシミレバ》。涕具末之毛《ナミダグマシモ》。
 
還左爾《カヘルサニ》は、還時《カヘルトキ》になり、左《サ》は、之太《シダ》の約れるにて、時の古語なり、往左《ユクサ》、來左《クサ》の左《サ》に同じ、上に具(ク)云り、○獨之見者、之(ノ)字、舊本に而と作るは誤なり、(四の誤なるべし、)今は類聚抄に從つ、ヒトリシミレバ〔七字右○〕と訓べし、之《シ》は、その一すぢなるをいふ助辭なり、○涕具末之毛《ナミダグマシモ》は、涕催《ナミダグマ》しもなり、具牟《グム》とは、草木に、芽具牟《メグム》、角具牟《ツノグム》などいふは、萠《キザ》す意にて、こゝも涕の落むと、催し萠す意なり、仁徳天皇(ノ)紀(ノ)歌に、椰莽辭呂能菟々紀能瀰椰珥茂能莽烏輸和餓齊烏瀰例麼那瀰多愚摩辭茂《ヤマシロノツヽキノミヤニモノマヲスワガセヲミレバナミダグマシモ》、後撰集に、古(ヘ)の野中の清水見るからに刺具牟《サシグム》物は涕なりけり、などあり、毛《モ》は、歎(ノ)辭なり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
450 去左爾波《ユクサニハ》。二吾見之《フタリワガミシ》。此埼乎《コノサキヲ》。獨過者《ヒトリスグレバ》。情悲喪《コヽロカナシモ》。
 
情悲喪《コヽロカナシモ》(喪(ノ)字、舊本に哀と作るはわろし、今は類聚抄拾穗本、又異本等に從つ、又古寫一本には、裳と作り、それもよろし、)喪《モ》は、歎(ノ)辭なり、舊本、一云、見毛左可受伎濃《ミモサカズキヌ》と註せり、見放る事もせずに來ぬ、といふなり、見放るといふは、一(ノ)卷に、數毛見放武八萬雄《シバ/\モミサカムヤマヲ》、とある下に解《イヒ》し如く、放《サク》は、振(354)放見《フリサケミル》の放《サク》に同じくて、望《ミヤ》り放つ意の詞なり、かくてこゝは、此(ノ)埼を見れば、二人見し妹が事の、おもひ出られて、彌悲しければ、望《ミヤ》りもあへず、悲に伏(シ)沈て過來ぬと云意なり、此(ノ)詞、古來《ムカシヨリ》意得誤れることなり、(契冲などが、目もはなたず見て、過ぐる意と云るは、太《イタ》く反《モト》れり、)○歌(ノ)意は、筑紫に、往(ク)時には、郎女と二人見し、此(ノ)敏馬の埼を、還る時に、たゞ一人見れば、むかしの事の思ひ出られて、さても悲しやとなり、
〔右二首。過(ル)2敏馬(ノ)埼(ヲ)1日作歌。〕
 
還2入《カヘリテ》故郷家《モトノイヘニ》1即作歌三首《スナハチヨミタマヘルウタミツ》。
 
451 人毛奈吉《ヒトモナキ》。空家者《ムナシキイヘハ》。草枕《クサマクラ》。旅爾益而《タビニマサリテ》。辛吉有家理《クルシカリケリ》。
 
歌(ノ)意かくれたるところなし、在京師荒有家爾一宿者益旅而可辛苦《ミヤコナルアレタルイヘニヒトリネバタビニマサリテクルシカルベシ》と預《カネ》て案ひし如く、まことに辛苦《クルシ》かりけり、とのたまへるが、甚《イト》あはれなり、
 
452 與妹爲而《イモトシテ》。二作之《フタリツクリシ》。吾山齋者《アガシマハ》。木高繁《コダカクシゲク》。成家留鴨《ナリニケルカモ》。
 
與妹爲而《イモトシテ》は、妹と二人しての意なり、爲而《シテ》は、一人爲而《ヒトリシテ》、二人爲而《フタリシテ》、旅爾爲而《タビニシテ》、家爾爲而《イヘニシテ》なども云る、爲而《シテ》と同言にて、他をまじへず、其(ノ)事をうけばりて、物することにいふ詞なり、さればこゝも、妹と二人、うけばりて作りし意なり、○吾山齋者は、アガシマハ〔五字右○〕と訓べし、廿(ノ)卷に屬(テ)2目(ヲ)山齋《シマニ》1作(ル)歌、乎之能須牟伎美我許乃之麻《ヲシノスムキミガコノシマ》云々とあり、之麻《シマ》とは、本居氏、俗にいはゆる、作(リ)庭築山の事(355)を、古(ヘ)には島と云り、二(ノ)卷に、御立爲之島乎見時《ミタヽシシシマヲミルトキ》云々、御立爲之島之荒磯乎《ミタヽシシシマノアリソヲ》云々、島御橋爾《シマノミハシニ》云々、島乃御門爾《シマノミカドニ》云々、六(ノ)卷に、鶯之鳴吾島曾《ウグヒスノナクアガシマソ》云々、十九に、雪島巖爾殖有奈泥之故波《ユキシマノイハオニタテルナデシコハ》、などある島これなり、又伊勢物語に、島このみ給ふ君なり、とあるも同じことにて、造(リ)庭を好みめで給ふを云りといへるが如し、(山齋と書るは、その作(リ)庭に、家の形など造れる所由《ユヱ》なるべし、)○歌(ノ)意は妹と二人、うけばりて作りし、吾(カ)家の島は、此(ノ)ほど、さても木高く繁くなりにける哉、木高くなりなば彌々見處もあるべければ、その時、二人相共に愛賞む、と思ひしにたがひて、いとゞ悲しさの、堪がたくおもはるゝよとなり、土佐日記に、京の家に、歸り著(キ)たることを書るところに、さて池めいて、くぼまり水つける處あり、邊(リ)に松もありき、いつとせむとせのうちに、千年や過(キ)にけむ、片枝はなくなりにけり、今生たるぞまじれる、大かた皆荒にたれば、あはれとぞ人人いふ、思ひ出ぬ事なくおもひ戀しきがうちに、此家にて生れし女兒の、もろともに歸らねば、いかゞはかなしき、舟人も皆子抱てのゝじる、かゝるうちに、猶かなしびにたへずして、ひそかに心しれる人のいへりける歌、うまれしもかへらぬものをわが屋外に、兒松のあるを見るがかなしさ、とぞいへる、なほあかずやあらむ、又なむ、見し人を松の千歳に見ましかば、遠く悲しき別せましや、とあり、妻にわかれしと、子を失へると、任國より、故郷(ノ)家に還入たる悲情、ともにあはれになむ、
 
(356)453 吾妹子之《ワギモコガ》。殖之梅樹《ウヱシウメノキ》。毎見《ミルゴトニ》。情咽都追《コヽロムセツツ》。涕之流《ナミダシナガル》。
 
殖(ノ)字、拾穗本には植と作り、○情咽都追《コヽロムセツツ》は、四(ノ)卷に、言將問縁乃無者情耳咽乍有爾《コトトハムヨシノナケレバコヽロノミムセツヽアルニ》、又|白妙乃袖可別日乎近見《シロタヘノソデワカルベキヒヲチカミ》、心爾咽飲哭耳四所泣《コヽロニムセビネノミシナカユ》、廿(ノ)卷に、麻蘇※[泥/土]毛知奈美太乎能其比牟世比都々言語須禮婆《マソデモチナミダヲノゴヒムセヒツヽコトヾヒスレバ》などあり、○歌(ノ)意は、妻がありせば、二人見まし物をと思へば、見(ル)毎に彌悲く、情咽つゝ、一(ト)すぢに涕流るゝとなり、此(ノ)下、家持(ノ)卿、悲2傷亡妾(ヲ)1歌に、秋去者見乍思跡妹之殖之《アキサラバミツヽシヌヘトイモガウヱシ》、屋前之石竹開家流香聞《ヤドノナデシコサキニケルカモ》、また吾屋前爾花曾咲有《ワガヤドニハナゾサキタル》、其乎見杼情毛不行《ソヲミレドコヽロモユカズ》、愛八師妹之有世婆《ハシキヤシイモガアリセバ》、水鴨成二人雙居《ミカモナスフタリナラビヰ》、手折而毛令見麻思物乎《タヲリテモミセマシモノヲ》云々、など見えて、ともにいとあはれなり、
 
天平〔二字□で囲む〕三年辛未秋七月《ミトセトイフトシカノトヒツジフミツキ》。大納言大伴卿薨之時謌六首《オホキモノマヲシノツカサオホトモノマヘツキミノウセタマヘルトキノウタムツ》。
 
天平(ノ)二字、削べし上に天平元年とあればなり、○三(ノ)字、古寫一本に、二と作るは誤なり、○大伴(ノ)卿薨は、續紀に、天平三年秋七月辛未、大納言從二從大伴(ノ)宿禰旅人薨(ヌ)、と見えたり、既く此(ノ)卷(ノ)上に委(ク)云り、
 
454 愛人師《ハシキヤシ》。榮之君乃《サカエシキミノ》。伊座勢波《イマシセバ》。昨日毛今日毛《キノフモケフモ》。吾乎召麻之乎《アヲメサマシヲ》。
 
榮之君《サカエシキミ》は、咲榮《ヱミサカエ》し、愛《ウツクシ》き君といふなり、七(ノ)卷に、安志妣成榮之君之穿之井之《アシビナスサカエシキミガホリシヰノ》云々とあるに同じ、○吾乎召麻之乎《アヲメサマシヲ》(乎(ノ)字、類聚抄に无はわろし、)は、二卷、日並(ノ)皇子(ノ)尊の薨賜(ヒ)し後、舍人がよめる歌(ノ)中に、東乃多藝能御門爾雖伺侍《ヒムガシノタギノミカドニサモラヘド》、昨日毛今日毛召言毛無《キノフモケフモメスコトモナシ》、とあるにこゝろばえ同じ、○歌(ノ)意か(357)くれたるところなし、
 
455 如是耳《カクノミニ》。有家類物乎《アリケルモノヲ》。芽子花《ハギガハナ》。咲而有哉跡《サキテアリヤト》。問之君波母《トヒシキミハモ》。
 
如是耳は、カクノミニ〔五字右○〕と訓べし、(カクシノミ〔五字右○〕とままむは、最《イト》惡《ワロ》し、又、カクノミシ〔五字右○〕とよまむも、ここはわろし、)十六に、如是耳爾有家流物乎猪名川之《カクノミニアリケルモノヲヰナガハノ》、奥乎深目而吾念有來《オキヲフカメテワガモヘリケル》とあり、○問之君波母《トヒシキミハモ》は、二(ノ)卷、天皇崩賜ひし時、大后の作(ミ)坐(セル)御歌に、明來者問賜良思《アケクレバトヒタマフラシ》、神岳乃山之黄葉乎《カミヲカノヤマノモミチヲ》、今日毛鴨問給麻思《ケフモカモトヒタマハマシシ》、とあるに同じく、芽子(カ)花開たりしやいかに、と問賜ひし君は、いづらやと云るなり、波母《ハモ》は、慕《モト》め問(フ)意の辭にて、上に云り、○歌(ノ)意は、芽子(カ)花開たりしやいかに、と問賜ひし君は、いづらいかなる處に、おはしますや、いかさま、かくはかなくのみなり賜へるものを、今はいかに慕ひ奉りても、かひなきことぞとなり、
 
456 君爾戀《キミニコヒ》。痛毛爲便奈美《イタモスベナミ》。蘆鶴之《アシタヅノ》。哭耳所泣《ネノミシナカユ》。朝夕四天《アサヨヒニシテ》。
 
痛毛爲便奈美《イタモスベナミ》は、最《イト》も爲便《スベ》が无(キ)故にといふなり、十三に、此九月之過莫乎伊多母爲便無見《コノナガツキノスギマクヲイタモスベナミ》云云、十五に、安我母布許己呂伊多母須敝奈之《アガモフココロイタモスベナシ》、などありて、伊多《イタ》は、最《モトモ》甚《ハナハダシキ》意の辭なり、○蘆鶴之《アシタヅノ》は、音鳴《ネナク》といはむ爲の枕詞なり、さて蘆鶴の蘆は、借(リ)字にて、求食鶴《アサリタヅ》なり、蘆鴨《アシカモ》、蘆蟹《アシガニ》などの蘆も同じ、と今村(ノ)樂云りき、○哭耳所泣《ネノミシナカユ》は、五(ノ)卷に、雲隱鳴往鳥乃禰能尾志奈可由《クモガクリナキユクトリノネノミシナカユ》とあり、○朝夕四天《アサヨヒニシテ》は、四天《シテ》は、輕く添たる辭にて、意なしと云り、今案(フ)に、此(ノ)四天《シテ》も、旅爾爲而《タビニシテ》、家爾爲而《イヘニシテ》などいふ(358)爲而《シテ》と、同言にて、其(ノ)事をうけはりて、他事なく物する意の詞なるべし、さればこゝも、朝夕に他事なく、一(ト)すぢに、哭にのみ泣るゝよしなるべし、○歌(ノ)意かくれなし、
 
457 遠長《トホナガク》。將仕物常《ツカヘムモノト》。念有之《オモヘリシ》。君師不座者《キミシマサネバ》。心神毛奈思《コヽロドモナシ》。
 
心神毛奈思《コヽロトモナシ》は、十七に、伎彌爾故布流爾許己呂度母奈思《キミニコフルニココロドモナシ》、十九に、妹乎不見越國敝爾經年婆《イモヲミズコシノクニヘニトシフレバ》、吾情度乃奈具流日毛無《ワガコヽロドノナグルヒモナシ》、などあり、心度《コヽロド》は、利心《トゴヽロ》といふに同じかるべし、○歌(ノ)意これもかくれなし、二(ノ)卷、舍人(ガ)歌に、天地與共將終登念乍《アメツチトトモニヲヘムトオモヒツヽ》、奉仕之情違奴《ツカヘマツリシコヽロタガヒヌ》、とあるに、やゝ似たり、
 
458 若子乃《ワカキコノ》。匍匐多毛登保里《ハヒタモトホリ》。朝夕《アサヨヒニ》。哭耳曾吾泣《ネノミソアガナク》。君無二四天《キミナシニシテ》。
 
若子乃(若(ノ)字、拾穗本には、弱と作り、)は、ワカキコノ〔五字右○〕と訓るよろし、匍匐俳回《ハヒタモトホリ》を、いはむ料の枕詞なり、十七に、伊母毛勢母和可伎兒等毛波《イモモセモワカキコドモハ》、(齊明天皇(ノ)紀(ノ)大御歌に、阿餓倭珂枳古弘《アガワカキコヲ》、)とあり、○匍匐多毛登保里《ハヒタモトホリ》は、續紀詔詞に、恐古士物《カシコジモノ》、進退詞匐廻保里《シヾマヒハヒタモトホリ》云々、と見ゆ、○君無二四天《キミナシニシテ》は、四(ノ)卷に友無二思手《トモナシニシテ》、ともあると同じ類(ヒノ)語なり、四天《シテ》の意、此(ノ)上に云り、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
右五首《ミギノイツウタハ》。資人金明軍《ツカヒビトコムノミヤウグムガ》。不《ズ》v勝《タヘ》2犬馬之慕心(ニ)1。中《ノベテ》2感緒《カナシミヲ》1作歌《ヨメルウタ》。
 
資人(資(ノ)字舊本には仕と作り、今は類聚抄古寫本給穗本又異本等に從つ、)は、朝《オホヤケ》より下されて、仕しむる人なり、軍防令に委く見えたり、續紀に、養老五年三月、勅、給2右大臣從二位長屋(ノ)王(ニ)、帶刀資人十人、中納言從三位巨勢(ノ)朝臣邑治、大伴(ノ)宿禰旅人、藤原(ノ)朝臣武智麻呂(ニ)、各四人(ヲ)1、云々(359)とあり、枕冊子に、つかひ人などはありて、わらはべの、きたなげなるこそ、あるまじく見ゆれ、落窪物語に、よきあごたちのつかひ人、と見おきたりつる物を、いかなるぬす人の、かゝるわざしいでつらむ云々などもあり、○金(ノ)字、類聚抄には余と作り、○犬馬之慕心は、犬馬の、己が主人を、戀慕(フ)に比《ナズラヘ》て云り、から籍文選史記等によれり、○中(ノ)字、荒木田氏が、申に改めたる、誠にさることなり、五(ノ)卷遊2於松浦河(ニ)1序にも、遂(ニ)申2懷抱1、因贈2詠歌(ヲ)1曰、とあるをも考(ヘ)合(ス)べし、
 
459 見禮杼不飽《ミレドアカズ》。伊座之君我《イマシシキミガ》。黄葉乃《モミチバノ》。移伊去者《ウツリイユケバ》。悲喪有香《カナシクモアルカ》。
 
見禮杼不飽《ミレドアカズ》は、四(ノ)卷に、照月乃不飽君乎《テルツキノアカザルキミヲ》ともある如く、見れども厭足《アキタラ》ず、愛《ウツク》しきよしなり、七(ノ)卷に、雖見不飽人國屬木葉《ミレドアカヌヒトクニヤマノコノハナシ》とあり、○移伊去者《ウツリイユケバ》は、薨坐(セ)るをいふ、伊《イ》は、待伊《マツイ》、不絶伊《タエジイ》、などの伊《イ》にて、移《ウツリ》の下に附たる助辭なり、去の上に附ては讀べからず、○悲喪有香《カナシクモアルカ》は、悲慟《カナシク》も有(ル)哉なり、○歌(ノ)意かくれなし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。勅《ノリゴチテ》2内禮正縣犬養宿禰人上《ウチノヰヤノカミアガタノイヌカヒノスクネヒトカミニ》1。使3檢2護|卿病《マヘツキミノヤマヒヲ》1。而醫樂無v驗。逝水|不《ズ》v留《トヾマラ》。因《ヨリテ》v斯《コレニ》悲慟《カナシミテ》。即《スナハチ》作《ヨメリ》2此歌《コノウタヲ》1。
 
内禮正は、ウチノヰヤノカミ〔八字右○〕と訓べし、内禮司の長官なり、職員令に、内禮司、正一人、掌2宮内(ノ)禮儀、禁2察(スルコトヲ)非違(ヲ)1、とあり、○縣犬養(ノ)宿禰人上は、傳未(タ)詳ならず、○逝水不v留は、薨坐(セ)るを云、から籍論語に出たる文字なり、
 
(360)七年乙亥《ナヽトセトイフトシキノトノヰ》。大伴坂上郎女《オホトモノサカノウヘノイラツメガ》。悲2嘆《カナシミ》尼理願死去《アマノリグワムノミマカレルヲ》1。作歌一首并短歌《ヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
大伴(ノ)坂上(ノ)郎女は、旅人(ノ)卿の妹なり、上に出づ、○尼理願は、新羅(ノ)國より、歸化《マヰキ》たるなり、左註に見ゆ、
 
460 栲角乃《タクツヌノ》。新羅國從《シラキノクニニ》。人事乎《ヒトゴトヲ》。吉跡所聞而《ヨシトキカシテ》。問放流《トヒサクル》。親族兄弟《ウガラハラガラ》。無國爾《ナキクニニ》。渡來座而《ワタリキマシテ》。大皇之《オホキミノ》。敷座國爾《シキマスクニニ》。内日指《ウチヒサス》。京思美彌爾《ミヤコシミミニ》。里家者《サトイヘハ》。左波爾雖在《サハニアレドモ》。何方爾《イカサマニ》。念鷄目鴨《オモヒケメカモ》。都禮毛奈吉《ツレモナキ》。佐保乃山邊爾《サホノヤマヘニ》。哭兒成《ナクコナス》。慕來座而《シタヒキマシテ》。布細乃《シキタヘノ》。宅乎毛造《イヘヲモツクリ》。荒玉乃《アラタマノ》。年緒長久《トシノヲナガク》。住乍《スマヒツヽ》。座之物乎《イマシシモノヲ》。生者《ウマルレバ》。死云事爾《シヌチフコトニ》。不免《ノガロエヌ》。物爾之有者《モノニシアレバ》。憑有之《タノメリシ》。人乃盡《ヒトノコト/”\》。草枕《クサマクラ》。客有間爾《タビナルホトニ》。佐保河乎《サホガハヲ》。朝河渡《アサカハワタリ》。春日野乎《カスガヌヲ》。背向爾見乍《ソカヒニミツヽ》。足氷木乃《アシヒキノ》。山邊乎指而《ヤマヘヲサシテ》。晩闇跡《クラヤミト》。隱益去禮《カクリマシヌレ》。將言爲便《イハムスベ》。將爲須敝不知爾《セムスベシラニ》。徘徊《タモトホリ》。直獨而《タヾヒトリシテ》。白細之《シロタヘノ》。衣袖不干《コロモテホサズ》。嘆乍《ナゲキツヽ》。吾泣涙《アガナクナミダ》。有間山《アリマヤマ》。雲居輕引《クモヰタナビキ》。雨爾零寸八《アメニフリキヤ》。
 
栲角乃《タクツヌノ》は、枕詞にて、栲綱之白《タクツヌノシロ》き、といひかけたるなり、角(ノ)字を書るは、借(リ)字なり、(又此(レ)を、栲《タク》つ布《ヌノ》といふ説は、わろし、されば、都《ツ》を持て唱ふべきを、古事紀集中共に、濁音の字を用たるをも、おもふべし、)古事記沼河日賣(ノ)歌に、多久豆怒能斯路岐多陀牟岐《タクヅヌノシロキタダムキ》、此(ノ)集廿(ノ)卷に、多久頭怒能之良比氣乃宇倍由《タクヅヌノシラヒゲノウヘユ》、とも見ゆ、仲哀天皇(ノ)紀に、栲衾新羅國《タクブスマシラキノクニ》、出雲國風土記に、栲衾志羅紀乃三埼《タクブスマシラキノミサキ》、此(ノ)集十五に、多久夫須麻新羅《タクブスマシラキ》、とも見えたり、○新羅國《シラキノクニ》は、古事記(ノ)傳三十卷に、具(シ)く見ゆ、○人事乎《ヒトゴトヲ》は、他|言《コト》をなり、○吉跡所聞而《ヨシトキカシテ》は、善(シ)と聞給ひての意なり、古事記八千矛(ノ)神(ノ)御歌に、佐加志賣遠阿理(361)登岐加志弖《サカシメヲアリトキカシテ》とあり、こゝは、皇朝のことを三寶を崇信《タフト》む、よき風俗《クニブリ》ぞ、と他人の語るを聞て、歸化《マヰキタ》れるよしなり、そも/\皇朝は、かけまくもかしこき、天照大御神の、大御裔とまし/\て、高御座皇統《タカミクラアマノヒツギ》の、天壤《アメツチ》のむだ動くことなく、無窮《トコシヘ》に傳り坐て、千萬御代まで、平けく安けく、天(ノ)下を統御《シロシメ》す御國なるが故に、神代より、五種のたなつものをはじめて、千《チヽ》の物も萬(ツ)の事も、みなたらひて、何ひとつあかぬことなき、萬(ノ)國の宗國《オヤクニ》にしあれば、其をかしこみ、したひ尊み仰ぎて、まつろひまゐで來べき理(リ)なるに、其(ノ)事をば得さとらずして、三寶《ホトケ》を崇信《タフト》む、よき風俗《クニブリ》ぞと聞て、渡りまゐ來れる、佛意《ホトケゴヽロ》こそ、あかず口をしけれ、○問放流《トヒサクル》は、問《トヒ》は、言問《コトドヒ》すること、放流《サクル》は、見放《ミサク》るの故《サク》にて、物言やる、といふに同じ、(契冲が言問をして、憂を遠放る意に、解なせるは誤なり、見放るといふも、たゞ見やり見はなつ意にて、憂を遠ざくる意はなきをも、合(セ)思(フ)べし、)五(ノ)卷|挽歌《カナシミウタ》に、石木乎母刀比佐氣斯良受《イハキヲモトヒサケシラズ》、十九詠2白大鷹1歌に、語左氣見左久流人眼乏等於毛比志繁《カタリサケミサクルヒトメトモシミトオモヒシシゲシ》、續紀卅一、左大臣藤原(ノ)永手(ノ)朝臣、薨坐(セ)る時の詔詞に、朕(カ)大臣、誰爾加母《タレニカモ》、我語比佐氣牟《ワガカタラヒサケム》、誰爾加母《タレニカモ》、我問比佐氣牟止《ワガトヒサケムト》云々、と見ゆ、○親族兄弟は、ウガラハラガラ〔七字右○〕と訓べし、親族は、神代紀に、不v負2於族1、此云2宇我邏磨概茸《ウガラマケジト》1、兄弟は、續紀(ノ)詔詞に、波良何良《ハラカヲ》と見ゆ、言(ノ)意は、未(タ)考(ヘ)得ず、(但し宇《ウ》は、生《ウム》の意、波良《ハラ》は、腹《ハラ》の意と云説は、さることもあらむか、)何良《ガラ》は、也何良《ヤガラ》、等母何良《トモガラ》、などいふ何良《ガラ》も、皆同言と見ゆ、○渡來座而《ワタリキマシテ》は、海路を渡りて、皇朝に歸化《マヰキ》坐ての謂なり、○大皇之(大(ノ)字、舊本に太(362)と作るは誤、今は拾穗本に從つ、)は、オホキミ〔四字右○〕ノと訓べし、(天皇に改めて、スメロキノ〔五字右○〕と訓説は、ひがことなり、)○内日指《ウチヒサス》は宮の枕詞なり、京《ミヤコ》といふも、宮處《ミヤコ》なれば、宮《ミヤ》と屬くに同じ、さて内日は、現《ウツシ》日にや、現《ウツシ》を、宇知《ウチ》といふは、靈剋内限《タマキハルウチノカギリ》、(現之限《ウツシノカギリ》なり、)などよめる是なり、さて高き宮殿《ミヤ》は、物の障なくて、現《ウツ》しく日光の指よしなるべし、(冠辭考(ノ)説は、これかれ誤あり、)○京思美彌爾《ミヤコシミミニ》は、京内繁く盛(リ)に、滿てあるよしなり、思美彌《シミミ》は、繁森《シミモリ》なり、(モリ〔二字右○〕の切ミ〔右○〕、)森は森に早成《ハヤナレ》とよめる如く、繁(ノ)盛(リ)なるをいふなり、十(ノ)卷に、秋芽子者枝毛思美三荷花開二家理《アキハギハエダモシミミニハナサキニケリ》、十二に、萱草垣毛繁森雖殖《ワスレグサカキモシミヽニウヱタレド》、十三に、藤原都志彌美爾人下滿雖有《フヂハラノミヤコシミミニヒトハシモミチテアレドモ》、などあり、○里家者《サトイヘハ》は、里と家とはなり、○左波爾雖有《サハニアレドモ》は、上筑波山(ノ)歌にも、高山者左波爾雖有《タカヤマハサハニアレドモ》とあり、○念鷄目鴨《オモヒケメカモ》は、一(ノ)卷近江(ノ)荒都(ノ)歌に、何方所念計米可《イカサマニオモホシケメカ》とあり、鴨《カモ》は、可《カ》は、疑(ノ)辭|母《モ》は、歎息(ノ)辭なり、さて此(ノ)句の下に、云々有けむと云詞を、假に加へて意得べし、さなくては、可《カ》の疑(ノ)辭の結詞なくて、いかゞなり、此事上に委(ク)云り、○都禮毛奈吉《ツレモナキ》は、二(ノ)卷に、由縁母无眞弓乃岡爾《ツレモナキマユミノヲカニ》、とある下に、具(ク)云り、都禮《ツレ》は、連《ツレ》にて、相(ヒ)連れ件ふ人も無(キ)、といふなり、今(ノ)世、物へ行などするに、相伴ふ人を、都禮《ツレ》といふもこれなり、○佐保乃山邊爾《サホノヤマヘニ》、安麻呂(ノ)卿より、此(ノ)山邊に家居《イヘヲラ》しゝなり、故(レ)安麻呂(ノ)卿を、佐保大納言と申しき、○哭兒成《ナクコナス》(兒(ノ)字、拾穗本には子と作り、)は哭兒の如といふ意の枕詞なり、乳兒の、其(ノ)母を慕ふ如くに、といふなり、○布細乃《シキタヘノ》も、枕詞なり、既く出づ、○年緒長久《トシノヲナガク》は、十九に、荒玉之年緒長吾念有《アラタマノトシノヲナガクアガモヘル》、兒等爾可戀月近附奴《コラニコフベキツキチカヅキヌ》、とも(363)見ゆ、緒《ヲ》は、連綿《ツラネツヽ》く意の言にて、生緒《イキノヲ》玉緒《タマノヲ》などいふ緒《ヲ》に同じ、續紀卅四(ノ)詔に、年緒不落《トシノヲオチズ》、間牟《カクル》【◎闕流カ】事無久《コトナク》、仕奉來流《ツカヘクル》、ともあり、○生者は、ウマルレバ〔五字右○〕と訓べし、(イケルヒト〔五字右○〕、と訓るはわろし、)○不免は、荒木田氏が、五(ノ)卷令v反2惑情(ヲ)1歌、古本に、遁路得奴兄弟親族遁路得奴老見幼見《ノガロエヌハラガラヤガラノガロエヌオヒミイトケミ》、とあるに依て、ノガロエヌ〔五字右○〕と訓り、○人乃盡《ヒトノコト/”\》は、石川(ノ)命婦をはじめて、奴婢に至るまで理願が憑めりし人の悉皆《コト/”\ク》といふなり、○旅有間爾《タビナルホトニ》は、有馬(ノ)温泉に往りし間《ホト》にとなり、間は、ホト〔二字右○〕と訓べし、(始には、十八に、比登欲能可良爾《ヒトヨノカラニ》、九(ノ)卷に、一夜耳宿有之柄二《ヒトヨノミネタリシカラニ》、續後紀(ノ)長歌に、七日經志加良《ナヌカヘシカラ》、などあるによりて、カラ〔二字右○〕と訓りしかど、非《アシ》かりけり、其由は、後にいふべし、)○佐保河乎《サホカハヲ》、といふよりは、葬送《ハフリ》の道次《ミチナミ》なり、○朝川渡《アサカハワタル》(川(ノ)字、拾穗本には河と作り、)は、二(ノ)卷に未渡朝川渡《イマダワタラヌアサカハワタル》とあり、朝に川を渡り行を云、○晩闇跡は、クラヤミト〔五字右○〕と、本居氏訓る宜し、拾遺集物(ノ)名、さくら花の色をあらはにめでばあだめきぬいざくらやみに成てかざさむ、又或歌に、くらやみの天の磐戸も開ぬべしさよすみ人のうたふ神樂に、榮花物語月宴に、宮はあはれにいみじとおぼしめしながら、くれやみにてすぐさせ賜ふにも云々、○隱益去禮《カクリマシヌレ》は、隱り座ぬればの意なり、○將爲須敝不知爾《セムスベシラニ》(敝(ノ)字、舊本には〓、拾穗本には敞、活字本には敏と作り、共に誤なり、今改つ、さて須辨とあるべきを、敝の清音字を書るは、とりはづしなり、)は爲べきやうも知ずに、といふ意なり、集中に多き詞なり、○白細之《シロタヘノ》は、衣《コロモ》の枕詞なり、(こゝは、素服《シロキヌ》にて、喪服をいふならむかとも思へど、こ(364)ゝは、袖干あへず泣貌を、主《ムネ》と云へるなれば、たゞ枕詞のみなり、)○有間山《アリマヤマ》は、攝津(ノ)國有馬(ノ)郡の山なり、七(ノ)卷に、志長鳥居名野乎來者有間山《シナガトリヰナヌヲクレバアリマヤマ》、夕霧立宿者無爲《ユフキリタチヌヤドハナクシテ》、とあるに同じ、○雨爾零寸八《アメニフリキヤ》は、袖干あへず、わが泣涙は、そなたの有間山に、雲と棚曳て、雨に零侍りけるにやとなり、涙を雨に云なせるは、古事記八千矛(ノ)神(ノ)御歌に、那賀那加佐麻久阿佐阿米能佐疑理邇多々牟敍《ナガナカサマクアサアメノサギリニタヽムゾ》とあり、甚古きいひならはしなり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、尼(ノ)理願が死去を、甚く悲嘆て、有馬(ノ)温泉に在(ル)、石川(ノ)命婦の許に、いひおくられたるなり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
461 留不得《トヾメエヌ》、壽爾之在者《イノチニシアレバ》。敷細乃《シキタヘノ》。家從者出而《イヘユハイデテ》。雲隱去寸《クモガクリニキ》。
 
留不得《トヾメエヌ》は、十九挽歌に、逝水之留不得常狂言哉人之云都流《ユクミヅノトヾメモエズトタハコトヤヒトノイヒツル》、とあるに同じ、○敷細乃《シキタヘノ》は、家《イヘ》の枕詞なり、長歌なるに同じ、○雲隱去寸《クモガクリニキ》は、死去を、雲隱といふことは、上に出づ、去寸《ニキ》は、去《ニ》は、(イニ〔二字右○〕の略といふは、いと/\わろし、)雲隱奈牟《クモガクリナム》、などいふ、奈《ナ》のかよへるにて、寸《キ》は、さきにありし事を、今かたる詞なり、散爾伎《チリニキ》、過爾伎《スギニキ》などいふ、爾伎《ニキ》に同じ、○歌(ノ)意かくれなし、
〔右新羅(ノ)國(ノ)尼。名(ヲ)曰2理願(ト)1也。遠感2王徳(ヲ)1。歸2化聖朝(ニ)1。於時寄2住大納言大將軍大伴(ノ)卿(ノ)家(ニ)1。既經2數紀(ヲ)1焉。惟以2天平七年乙亥1忽沈2運病(ニ)1既趣2泉界1。於是大家石川(ノ)命婦。依2餌藥(ノ)事(ニ)1。往2有間(ノ)温泉(ニ)1。而不v會2此(ノ)喪(ニ)1。但部女獨留(テ)。葬2送屍柩(ヲ)1既訖。仍作2此(ノ)歌(ヲ)1。贈2入温泉(ニ)1。〕
(365)尼の下名の字、舊本に脱せり、類聚抄古寫本古寫一本拾穗本又異本等に從つ、○大納言大將軍は、養老四年三月に、征隼人持節大將軍に爲(リ)賜ひ、天平二年十月に、大納言に任《メサ》れ賜へるなり、委(ク)上に云り、○大伴(ノ)卿(ノ)家は、旅人(ノ)卿の佐保の家なり、○既經2數紀(ヲ)1焉、(經(ノ)字、舊本には※[しんにょう+至]と作り、其(レ)も例あれど、今は古本古寫小本又一本拾穗本等に從つ、又異本には逕、類聚抄には至と作り、焉(ノ)字、拾穗本には也と作り、)紀は、字書に、十二年爲2一紀1とあり、○大家は、女之尊稱(ナリ)と云り、母を尊みて稱るなるべし、○石川(ノ)命婦は、内命婦石川(ノ)朝臣邑婆にて、安麻呂(ノ)卿の妻、郎女の母なり、四(ノ)卷に、大伴(ノ)坂上(ノ)郎女之母、石川(ノ)内命婦とあり、命婦は、ヒメトネ〔四字右○〕と訓り、書紀仁徳天皇(ノ)卷に、内外命婦《ウチトノヒメトネ》とあり、天武天皇(ノ)卷に、内命婦《ヒメマチキミ》とあるはいか ゞ、職員令(ノ)義解に、婦人、帶2五位以上(ヲ)1曰2内命婦(ト)1、五位以上(ノ)人(ノ)妻(ヲ)曰2外命婦(ト)1、とあり、谷川氏云、書言故事(ノ)註(ニ)、婦人、受(ヲ)2朝廷之誥命(ヲ)1、爲2命婦(ト)1、○喪(ノ)字、舊本哀に誤、古寫本古寫小本拾穗本等に從つ、○入(ノ)字、拾穗本に无(キ)は、さかしらに削けるか、
 
十一年己卯夏六月《トヽセマリヒトヽセトイフトシツチノトウミナツキ》。大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチガ》。悲2傷《カナシミ》亡妻《ミマカレルメヲ》1作歌一首《ヨメルウタヒトツ》。
 
亡妾(妾(ノ)字、古寫小本、拾穗本には、婦と作り、)は、未(タ)詳ならず、家持(ノ)卿の嫡妻、坂上(ノ)家之大孃には非ず、按に、六(ノ)卷天平十二年の條に、内舍人大伴(ノ)宿禰家持と見えて、内舍人は、廿一以上を補《メス》よし、軍防令に見えたれば、此(ノ)時廿(チ)ばかりの齡にて、めしつかへる妾女の、身まかれるなるべし、
 
462 從今者《イマヨリハ》。秋風寒《アキカゼサムク》。將吹烏《フキナムヲ》。如何獨《イカデカヒトリ》。長夜乎將宿《ナガキヨヲネム》。
 
(366)烏は、焉に通(ハシ)書り、上に云り、○歌(ノ)意かくれたることなし、
 
弟大伴宿禰書持即和歌一首《オトオホトモノスクネフミモチガスナハチコタフルウタヒトツ》。
 
書持は、紀中に見えざれば、其(ノ)傳委くは知べからず、此(ノ)集十七に、家持(ノ)卿、哀2傷長逝之弟(ノ)1歌ありて、自註に、斯人爲v性、好2愛花草花樹(ヲ)1。而多植2於寢院之庭(ニ)1云々、又云、佐保山(ニ)火葬云々、右天平十八年秋九月二十五日、越中(ノ)守大伴(ノ)宿禰家持、遙(ニ)聞2弟(ノ)喪(ヲ)1感傷作之也と見えたり、
 
463 長夜乎《ナガキヨヲ》。獨哉將宿跡《ヒトリヤネムト》。君之云者《キミガイヘバ》。過去人之《スギニシヒトノ》。所念久爾《オモホユラクニ》。
 
過去人《スギニシヒト》(拾穗本に、去の下に、之(ノ)字あり、)は、家持(ノ)卿の亡妾をいふ、○所念久爾《オモホユラクニ》は、念はるゝことなるものを、といふ意なり、○歌(ノ)意は、中々に黙止てあらば忘るゝひまも有べきに、君が云々のたまへば、吾もその亡婦《ナキヒト》の、存在《ヨニアリ》し時のこと、おもひ出られて、悲しさに堪がたきことなるものをとなり、(略解に、黄泉の人も、獨宿難にすらむ、といへるは、いかにぞや、)
 
又家持《マタヤカモチガ》見《ミテ》2砌上瞿麥花《ミギリノナデシコノハナヲ》1作歌一首《ヨメルウタヒトツ》。
 
作(ノ)字、古寫本に无はわろし、
 
464 秋去者《アキサラバ》。見乍思跡《ミツヽシヌヘト》。妹之殖之《イモガウヱシ》。屋前之石竹《ヤドノナデシコ》、開家流香聞《サキニケルカモ》。
 
見乍思跡《ミツヽシヌヘト》は、花開たらば、見つゝ賞愛《メヂウツクシ》み賜へとての意なり、次(ノ)歌に、思努妣都流可聞《シヌヒツルカモ》とある、思努妣《シヌヒ》とは、意|異《カハ》れり、○殖(ノ)字、拾穗本には植と作り、○前之、拾穗本には戸乃と作り、○歌の意は、(367)秋にしもなりなば、花開べきを、見つゝ賞愛み賜へ、吾も共に賞べしとて、妹が殖置し、屋前の石竹は、花開にたるを、開しかひもなく、殖し人ははや過去て、共に見むと思ひし心もたがひて、いとゞ悲しさに、堪がたき哉となり、
 
移朔而後《ツキカハリテノチ》。悲2嘆《カナシミテ》秋風《アキカゼヲ》1。家持作歌一首《ヤカモチガヨメルウタヒトツ》。
 
465 虚蝉之《ウツセミノ》。代者無常跡《ヨハツネナシト》。知物乎《シルモノヲ》。秋風寒《アキカゼサムク》。思努妣都流可聞《シヌヒツルカモ》。
 
歌(ノ)意は、生《ウマ》るれば、死《シヌ》ちふことに免《ノガレ》ぬ、世の理はかねて知れるものを、秋風の膚寒きに獨|宿《ヌ》れば、悲しさに堪がたくて、理を知れるかひもなく、亡人の戀しく思はるゝ哉となり、
 
又家持作歌一首并短歌《マタヤカモチガヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
466 吾屋前爾《ワガヤドニ》。花曾咲有《ハナゾサキタル》。其乎見杼《ソヲミレド》。情毛不行《コヽロモユカズ》。愛八師《ハシキヤシ》。妹之有世婆《イモガアリセバ》。水鴨成《ミカモナス》。二人雙居《フタリナラビヰ》。手折而毛《タヲリテモ》。令見麻思物乎《ミセマシモノヲ》。打蝉乃《ウツセミノ》。借有身在者《カレルミナレバ》。霜霜乃《ツユシモノ》。消去之如久《ケヌルガゴトク》。足日木乃《アシヒキノ》。山道乎指而《ヤマヂヲサシテ》。入日成《イリヒナス》。隱去可婆《カクリニシカバ》。曾許念爾《ソコモフニ》。※[匈/月]己所痛《ムネコソイタメ》。言毛不得《イヒモカネ》。名付毛不知《ナヅケモシラニ》。跡無《アトモナキ》。世間爾有者《ヨノナカナレバ》。將爲須辨毛奈思《セムスベモナシ》。
 
花曾吹有《ハナゾサキタル》は、その妹が殖し石竹のなり、○情毛不行《コヽロモユカズ》は、情の行とは、情念《モノモフコヽロ》の過失《スギウセ》て、物思(ヒ)なく、和《ナグ》さましきをいふ詞なり、情を遣(ル)といふも、情念をやり失ふ意の詞にて、心の行も、心を遣も、自然《オノヅカラシカ》ると、設て爲るとの、差別《ワキタメ》あるのみにて、本は同じ趣なり、こゝは花を見て、情をやれど(368)も、行ざるよしなり、○水鴨成は、枕詞にて、眞鴨《マカモ》の如く、といふ意なり、水鴨《ミカモ》は、字の如く、水に居(ル)鴨、といふことかとおもへど、十四に、於吉都麻可母《オキツマカモ》ともあるを思へば、猶水は借(リ)字にて、眞鴨《マカモ》といふに同じ、四(ノ)卷に、水空往《ミソラユク》と書るも、水は、御《ミ》の假字なり、〇二人雙居《フタリナラビヰ》は、五(ノ)卷に、爾保鳥能布多利那良※[田+比]爲《ニホドリノフタリナラビヰ》、此(ノ)餘にもあり、○手折而毛《タヲリテモ》(手(ノ)字、活字本に乎と作るは、誤なり、)は、折ずても見せ、折ても見せまし物なるを、といふ意なり、○借有身在者《カレルミナレバ》(借(ノ)字、舊本惜に誤、元暦本古寫一本拾穗本等に從つ、)は、廿(ノ)卷に、美都煩奈須可禮流身曾等波之禮々杼母《ミツホナスカレルミゾトハシレヽドモ》とあり、○露霜乃《ツユシモノ》、(露霜、舊本霜霑、拾穗本に霑霜に誤、今は異本に從つ、)二(ノ)卷に、露霜之消者消倍久《ツユシモノケナバケスベク》と有(リ)、○消去之如久《ケヌルガゴトク》は、十九挽歌に、置露之消去之如《オクツユノケヌルガゴトク》とも見ゆ、○入日成《イリヒナス》は、没日《イリヒ》の如くといふ意にて、隱《カクリ》の枕詞なり、○隱去可婆《カクリニシカバ》、此(レ)まで四句、上尼理願を悲める歌に、足氷木乃山邊乎指而晩闇跡隱益去禮《アシヒキノヤマヘヲサシテクラヤミトカクリマシヌレ》、とあるに、大かた似たり、○曾許念爾《ソコモフニ》は、それを念ふになり、集中に甚多き詞なり、○※[匈/月]己所痛《ムネコソイタメ》は、十三挽歌に、戀鴨※[匈/月]之病有念鴨意之痛《コフレカモムネノヤメルオモヘカモコヽロノイタキ》、とよめり、○言毛不得は、イヒモカネと訓べし、上不盡山歌に、言不得名不知靈母座神香聞《イヒモカネナヅケモシラニクスシクモイマスカミカモ》とあり、○跡無《アトモナキ》は、跡形《アトカタ》も無(キ)意なり、上沙彌(ノ)滿誓(ガ)歌に、※[手偏+旁]去師船之跡無如《コギニシフネノアトナキゴトシ》、とあるが如し、八(ノ)卷に、秋野乎旦往鹿乃跡毛奈久念之君爾《アキノヌヲアサユクシカノアトモナクオモヒシキミニ》、十一に吾戀跡無戀不止怪《アガコフルアトナキコヒノヤマヌアヤシモ》、ともあり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
(369)467 時者霜《トキハシモ》。何時毛將有乎《イツモアラムヲ》。情哀《コヽロイタク》。伊去吾味可《イユクワギモカ》。若子乎置而《ワカキコヲキテ》
 
時者霜《トキハシモ》は、霜《シモ》は其所乎之毛《ソコヲシモ》、湯者之毛《ユハシモ》、何時者之毛《イツハシモ》、など云る之毛《シモ》と同言にて、數ある物の中を取(リ)出ていふ辭とおぼえたり、されば此《コヽ》は、時こそは多けれ、死べき時もあらむをとの意なり、○何時毛將有乎《イツモアラムヲ》は、十七哀傷歌に、奈爾
 
之加毛時之波安良牟乎《ナニシカモトキシハアラムヲ》、十九挽歌に、何如可毛時之波
 
將有乎《イツシカモトキシハアラムヲ》、などある類なり、○情哀《コヽロイタク》は、十一に、心哀何深目念始《コヽロイタクナニヽフカメテオモヒソメケム》、十四に、許己呂伊多美安我毛布
 
伊毛我伊敝乃安多里可聞《ココロイタミアガモフイモガイヘノアタリカモ》、廿(ノ)卷に、許己呂伊多久牟可之能比等之於毛保由流加母《ココロイタクムカシノヒトシオモホユルカモ》、などあり、○伊去吾妹可はイユクワギモカ〔七字右○〕と訓べし、伊《イ》は、そへ言にて、去《ユク》は死去を云、可《カ》は、哉なり、○若子乎置而(若(ノ)字、古寫本に君と作るは誤なり、)は、ワカキコヲキテ〔七字右○〕と訓べし、若子《ワカキコ》と云ことは、上に云り、置き、キ〔右○〕といふは、除v汝(ヲ)而を、那乎伎弖《ナヲキテ》と云る例なり、○歌(ノ)意は、時こそは多けれ、死べき時もあらむを、情痛く若き嬰兒を留置て、死去《スギヌル》吾妹哉となり、
 
468 出行《イデユカス》。道知末世波《ミチシラマセバ》。豫《アラカジメ》。妹乎將留《イモヲトヾメム》。塞毛置末思乎《セキモオカマシヲ》。
 
出行は、イデユカス〔五字右○〕と訓べし、(イデヽユク〔五字右○〕とよめるは、手筒なり、)ユカス〔三字右○〕は、ユク〔二字右○〕の伸りたるにて、出行賜ふ、といふほどの意なり、(妾女の事を行賜ふなど云むは、崇むるに過て、いかゞなりと思ふは、古人の詞づかひをしらぶ人のならひなり、次に、離家伊麻須吾妹乎《イヘザカリイマスワギモヲ》、とあるをもおもへ、)○道知末世波《ミチシラマセバ》は、道路を知てあらば、と云が如し、○豫は、アラカジメ〔五字右○〕と訓べし、(カネテヨ(370)リ〔五字右○〕とよめるは、わろし、)四(ノ)卷に、豫荒振公乎《アラカジメアラブルキミ》、又|豫人事繁《アララカジメヒトゴトシゲシ》、六(ノ)卷に、豫兼而知者《アラカジメカネテシリセバ》、又|豫公來座武跡《フラカジメキミキマサムト》、などあり、(豫(ノ)字は、カネテ〔三字右○〕と訓べき用にも用ひたり、二(ノ)卷に、豫知勢波《カネテシリセバ》、十(ノ)卷に、豫寒毛《カネテサムシモ》などあり、されど此《コヽ》は、カネヲヨリ〔五字右○〕と訓ては、よろしからず、○塞毛置未思乎《セキモオカマシヲ》、七(ノ)卷に、夜干玉之夜渡月乎將留爾西山邊爾塞毛有糠毛《ヌバタマノヨワタルツキヲトヾメムニニシノヤマヘニセキモアラヌカモ》とあり、十八に、夜岐多知乎刀奈美能勢伎爾安須欲里波《ヤキタチヲトナミノセキニアスヨリハ》、毛利敝夜里蘇倍伎美乎等登米牟《モリベヤリソヘキミヲトドメム》、とも見えたり、塞(ノ)字、セキ〔二字右○〕とよめるは、二(ノ)卷にも、塞爲卷爾《セキナサマクニ》と見ゆ、(塞(ノ)字、つねにソコ〔二字右○〕と訓も、塞處《セキコ》の約り轉れるなり、)○歌(ノ)意は、妹が出行賜ふ道路を知てあらば、その道路を塞むが爲に、豫て關を置まし物を、いづち行らむ、その行方も知(ラ)れねば、せむ方なしとなり、現身の如くいひなしたるは、猶その死れる事を、信(ケ)ぬさまなり、
 
469 妹之見師《イモガミシ》。屋前爾花咲《ヤドニハナサク》。時者經去《トキハヘヌ》。吾泣涙《アガナクナミダ》。未干爾《イマダヒナクニ》。
 
師(ノ)字、類聚抄には之と作り、○花咲は、ハナサク〔四字右○〕と訓べし、花の咲(ク)時とづゞく意なり(荒木田氏の、ハナサク〔四字右○〕とよみしは、甚あしかりけり、)○歌(ノ)意は、吾《(カ)悲嘆の涙は、なほ新喪《ニヒモ》の時に同じく、未(タ)乾もせぬことなるに、早妹が見し其(ノ)屋前に、花の咲時節の、移り來ぬかよとなり、五(ノ)卷挽歌に、伊毛何美斯阿布知乃波那波知利奴倍斯《イモガミシアフチノハナハチリヌベシ》、和何那久那美多伊摩陀飛那久爾《アガナクナミダイマダヒナクニ》、とあるは、今と似たり、
 
悲緒未息更作歌五首《カナシミヤマズテマタヨメルウタイツツ》。
 
(371)470 如是耳《カクノミニ》。有家留物乎《アリケルモノヲ》。妹毛吾毛《イモモアレモ》。如千歳《チトセノゴトク》。憑有來《タノミタリケリ》。
 
歌(ノ)意はかくばかりはかなき、妹が命にてありける物を、然るべしとも知ずて、千歳も共にあらむが如く、思ひ憑めりし事の、悲しきとなり、上に、如是耳有家類物乎芽子花《カクノミニアリケルモノヲハギガハナ》、咲而有哉跡問之君波母《サキテアリヤトトヒシキミハモ》、とあるに、本二句は全(ク)同じ、
 
471 離家《イヘザカリ》。伊麻須吾妹乎《イマスワギモヲ》。停不得《トヾミカネ》。山隱都禮《ヤマガクリツレ》。情神毛奈思《コヽロドモナシ》。
 
離家《イヘザカリ》は、五(ノ)卷挽歌に、伊弊社可利伊摩須《イヘザカリイマス》と有(リ)、○伊麻須《イマス》は、行(キ)座(ス)といふが如し、○停不得《トヾミカネ》は、五(ノ)卷に、等登尾可禰都母《トドミカネツモ》、十九挽歌に。逝水之留不得常《ユクミヅノドヾミカネツト》など見ゆ、○山隱都禮《ヤマガクリツレ》は、山隱つればの意なり、佐保山に葬埋たるを云り、○情神毛奈思《コヽロドモナシ》は、上に云り、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
472 世間之《ヨノナカシ》。常如此耳跡《ツネカクノミト》。可都知跡《カツシレド》。痛情者《イタキコヽロハ》。不忍都毛《シヌヒカネツモ》。
 
世間之《ヨノナカシ》の之《シ》は、その一(ト)すぢなることをいふ助辭なり、(シ〔右○〕と訓べし、ノ〔右○〕とよまむはわろし、)○可都知跡《カツシレド》は、知(レ)ども且(ツ)の意なり、四(ノ)卷に、安蘇々二破且者雖知之加須我仁黙然得不在者《アソヽニハカツハシレドモシカスガニモダモエアラネバ》、とあるに同じ、○不忍都毛《シヌヒカネツモ》は、不忍は、契冲不得忍とありしが、字の脱たるなるべしと云り、毛《モ》は、歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、世(ノ)間は、如此ばかりにはかなきものぞとは、常に知たれども、かつ悲歎み痛む情には、得堪忍ひずして、さてもかなしやとなり、
 
473 佐保山爾《サホヤマニ》。多奈引霞《タナビクカスミ》。毎見《ミルゴトニ》。妹乎思出《イモヲオモヒデ》。不泣日者無《ナカヌヒハナシ》。
 
(372)霞は、秋にもよめること、二(ノ)卷初(メ)に云り、火葬の煙を思ひて、悲しむなるべし、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
474 昔許曾《ムカシコソ》。外爾毛見之加《ヨソニモミシカ》。吾妹子之《ワギモコガ》。奥槨常念者《オクツキトモヘバ》。波之吉佐寶山《ハシキサホヤマ》。
 
波之吉《ハシキ》は、愛《ハシキ》なり、既く出づ、○歌(ノ)意かくれなし、七(ノ)卷寄山相聞に、佐保山乎於凡爾見之鹿跡今見者《サホヤマヲオホニミシカドイマミレバ》、山夏香思母風吹莫動《ヤマナツカシモカゼフクナユメ》とあるに、趣似たり、
 
十六年甲申春二月《トヽセマリムトセトイフトシキノエサルキサラキ》。安積皇子薨之時《アサカノミコノスギタマヘルトキ》。内舍人大伴宿禰家持作歌六首《ウチトネリオホトモノスクネヤカモチガヨメルウタムツ》。
 
安積(ノ)皇子は、續紀に、天平十六年閏正月乙丑朔乙亥、天皇行2幸難波(ノ)宮(ニ)1、是(ノ)日安積(ノ)親王縁2脚病(ニ)1、從2櫻井(ノ)頓宮1還、丁丑薨、時年十七、親王(ハ)、天皇(聖武)之皇子也、母(ハ)夫人正三位縣(ノ)犬養(ノ)宿禰廣刀自、從五位下唐之女也、と見えたり、○内舍人は、職員令に、内舍人九十人、掌d帶v刀(ヲ)宿衛(シ)、供2奉(シ)雜(ノ)使(ヲ)1、若(シ)駕行(アレハ)分(レ)c衛(ルコトヲ)前後(ヲ)uと見ゆ、六(ノ)卷、天平十二年の標の下に、内舍人大伴(ノ)宿禰家持とありて、此(ノ)時未(タ)内舍人なりしと見ゆ、
 
475 掛卷母《カケマクモ》。綾爾恐之《アヤニカシコシ》。言卷毛《イハマクモ》。齋忌志伎可物《ユユシキカモ》。吾王《ワガオホキミ》。御子乃命《ミコノミコト》。萬代爾《ヨロヅヨニ》。食賜麻思《メシタマハマシ》。大日本《オホヤマト》。久邇乃京者《クニノミヤコハ》。打靡《ウチナビク》。春去奴禮婆《ハルサリヌレバ》。山邊爾波《ヤマヘニハ》。花咲乎烏里《ハナサキヲヲリ》。河湍爾波《カハセニハ》。年魚小狹走《アユコサバシリ》。彌日異《イヤヒケニ》。榮時爾《サカユルトキニ》。逆言之《オヨヅレノ》。狂言登加聞《タハコトトカモ》。白細爾《シロタヘニ》。舍人装束而《トネリヨソヒテ》。和豆香山《ワヅカヤマ》。御輿立之而《ミコシタヽシテ》。久堅乃《ヒサカタノ》。天所知奴禮《アメシラシヌレ》。展轉《コイマロビ》。泥土打雖泣《ヒヅチナケドモ》。將爲須便毛奈思《セムスベモナシ》。
 
(373)掛卷母《カケマクモ》は、言にいひ出むことも、といふ意也、○齋忌志伎可物《ユユシキカモ》は、二(ノ)卷高市(ノ)皇子(ノ)尊殯宮之時(ノ)歌に、挂文忌之伎鴨言久母綾爾畏伎《カケマクモユヽシキカモイハマクモアヤニカシコキ》とあり、○御子乃命《ミコノミコト》は、安積(ノ)皇子を申す、○食賜麻思《ヲシタマハマシ》は、食《ヲシ》は、所聞食《キコシヲス》の食《ヲス》なり、既く具(ク)云り、二(ノ)卷高市(ノ)皇子(ノ)尊の舍人等(ガ)作歌に、高光我日皇子萬代爾國所知麻之島宮婆母《タカヒカルワガヒノミコノヨロヅヨニクニシラサマシシマノミヤハモ》、と見えたり、さて此《コヽ》に、かくあるにて思へば、此(ノ)皇子、儲がねにておはしつらむ、○大日本《オホヤマト》は、此《コヽ》は、御國の總名とせり、久邇(ノ)京は、大和(ノ)國ならねば、例の大和一國を云事としてはたがへり、猶次に云、○久邇乃京《クニノミヤコ》は、山城(ノ)國相樂(ノ)郡恭仁(ノ)郷にあり、續紀(ニ)云、天平十三年十一月戊辰、右大臣橘(ノ)宿禰諸兄奏、此間朝廷、以2何(ノ)名號(ヲ)1傳2於萬代(ニ)1、天皇勅曰、號爲2大養徳恭仁大宮《オホヤマトクニノオホミヤト》1也、といへり、六(ノ)卷に、讃2久邇《クニノ》新京(ヲ)1歌あり、なほ彼處に具(ク)云べし、○花咲乎烏里《ハナサキヲヲリ》(烏(ノ)字、舊本爲に誤、異本に從つ、)は、花のしげく吹たる容を云、二(ノ)卷に具(ク)云り、○年魚小狹走《アユコサバシリ》は小《コ》は、(借(リ)字)子《コ》なり、狹《サ》は、そへ言にて、眞《マ》と云むが如し、十九|潜※[盧+鳥]《ウツカフ》歌に、河瀬爾年魚兒狹走《カハノセニアユコサバシリ》とあり、○彌日異《イヤヒケニ》は、彌《イヤ》日《ヒ》に異《ケ》には、などよめるに同じく、異《ケ》は、(借(リ)字)來經《キヘ》なり、既く云り、○榮時爾《サカユルトキニ》、二(ノ)卷に、木綿花乃榮時爾《ユフハナノサカユルトキニ》とあり、○逆言之狂言登加聞《オヨヅレノタハコトトカモ》、(狂(ノ)字、舊本に枉、活字本に任と作るは誤、今改つ、)此(ノ)上に委(ク)云り、さて此(ノ)句の下に、有らむといふ詞を、假(リ)に加へて意得べし、(逆言《オヨヅレ》の狂言《タハコト》にてかあるらむ、云々のことは、よもまことにてはあらじ、といふ意に見べし、)さなくては、加《カ》の疑(ノ)辭の結(ヒ)詞なくて、いかゞなり、此(ノ)事一(ノ)中に、既く委(ク)云り、○白細爾《シロタヘニ》は、喪服を云り、十三挽歌に、白細布飾奉而《シロタヘニカザリマツリテ》、内日刺宮舍(374)人方《ウチヒサスミヤノトネリハ》、雪穂麻衣服者《タヘノホノアサキヌケルハ》とあり、○舍人装束而は、トネリヨソヒテ〔七字右○〕と訓べし、喪服を装束《ヨソフ》を云り、一(ノ)卷に、神宮爾装束奉而《カムミヤニヨソヒマツリテ》云々と見えたり、○和豆香山《ワヅカヤマ》は、相樂(ノ)郡にありとぞ、○御輿立之而《ミコシタヽシテ》(御(ノ)字、活字本に爾と作るは誤、)は、御葬輿の出立(チ)賜ひて、と云なり、○天所知奴禮《アメシラシヌレ》は、薨坐るをいふ、上に出たり、奴禮《ヌレ》は、ぬればの意なり、○展轉《コイマロビ》は、九(ノ)卷に、反側足受利四管《コイマロビアシズリシツヽ》、と書り、許伊《コイ》は、自伏《コヤ》るを云、許夜理《コヤリ》の切りたる詞なり、○泥土打雖泣《ヒツチナケドモ》(土ノ字、拾穗本にはなし、)は、悲嘆の涙に、濡沾《ヌレヒヂ》て、泣どもといふなり、泥土打《ヒヅチ》の詞は、既くいへり、(泥土打の字にかけていへる説は用ず、)十三に、展轉土打哭杼母飽不足可聞《コイマロビヒヅチナケドモアキタラヌカモ》とあり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
476 吾王《ワガオホキミ》。天所知牟登《アメシラサムト》。不思者《オモハネバ》。於保爾曾見谿流《オホニソミケル》。和豆香蘇麻山《ワヅカソマヤマ》。
 
天所知牟登《アメシラサムト》は、薨座むとゝいふ意なり、○不思者《オモハネバ》は、豫《カネテ》しも思ひよらざればの意なり、○於保爾曾見谿流《オホニソミケル》は、上に外爾毛見之加《ヨソニモミシカ》、といへるに同じ意味にて、於保《オホ》は、凡疎などの字を書る、其(ノ)意にて、おほよその意なり、おほよそといふも、於保《オホ》は凡《オホ》、余所《ヨソ》は外《ヨソ》なるを、一(ツ)に連(ネ)言たる詞な
 
り、二(ノ)卷に、天敷凡津子之相日《サヽナミノオホツノコガアヒシヒニ》、於保爾見敷者今敍悔《オホニミシカバイマゾクヤシキ》、七卷に、人社者意保爾毛言目我幾許《ヒトコソハオホニモイハメワガコヽダ》、師奴布川原乎標結勿謹《シヌフカハラヲシメユフナユメ》、又|佐保山乎於凡爾見之鹿跡今見者山夏香思母風吹莫勤《サホヤマヲオホニミシカドイマミレバヤマナツカシモカゼフクナユメ》などあり、○蘇麻山《ソマヤマ》は、杣《ソマ》山なす、和名抄に、功程式(ニ)云、甲賀(ノ)杣、田上(ノ)杣、杣(ノ)讀|曾萬《ソマ》所v出未v詳、但功程式者、修理算師(375)
 
思ひよらざれば、和豆香杣山を、おほよそにのみ見過してありしが、今は愛しき山にてあるぞとなり、二(ノ)卷大津(ノ)皇子を、葛城(ノ)二上山に、移(シ)葬る時、大來(ノ)皇女の、よみませる御歌に、宇津曾見乃人爾有吾哉明明日二上山乎吾世登將見《ウツソミノヒトナルアレヤアスヨリハフタガミヤマヲワガセトミム》とあるに似たり、
 
477 足槍木乃《アシヒキノ》。山左倍光《ヤマサヘヒカリ》。咲花乃《サクハナノ》。散去如寸《チリヌルゴトキ》。吾王香聞《ワガオホキミカモ》。
 
山左倍光《ヤマサヘヒカリ》は、山も耀光《テリカヾヤ》くまでに、花の咲と云、六(ノ)卷に、巖者山下耀錦成花咲乎呼理《イハホニハヤマシタヒカリニシキナスハナサキヲヲリ》、十(ノ)卷に、能登河之水底并爾光及二《ノトガハノミナソコサヘニテルマデニ》、三笠之山者咲來鴨《ミカサノヤマハサキニケルカモ》、などよめり、○歌(ノ)意は、いとわかくおはしまして、山さへひかるばかりに、咲花の如く、榮え坐しを、思ひもかけず、その花の散ぬる如く、さてもはかなく薨坐(シ)し、吾(カ)皇にてある哉となり、
〔右三首。二月三日作歌〕
 
478 掛卷毛《カケマクモ》。文爾恐之《アヤニカシコシ》。吾王《ワガオホキミ》。皇子之命《ミコノミコト》。物乃負能《モノノフノ》。八十伴男乎《ヤソトモノヲヲ》。召集《メシツドヘ》。聚率比賜比《アドモヒタマヒ》。朝獵爾《アサガリニ》。鹿猪踐起《シシフミオコシ》。暮獵爾《ユフガリニ》。鶉雉履立《トリフミタテ》。大御馬之《オホミマノ》。口押駐《クチオサヘトメ》。御心乎《ミコヽロヲ》。見爲明米之《メシアキラメシ》。活道山《イクヂヤマ》。木立之繁爾《コダチノシヾニ》。咲花毛《サクハナモ》。移爾家里《ウツロヒニケリ》。世間者《ヨノナカハ》。如此耳奈良之《カクノミナラシ》。大夫之《マスラヲノ》。心振起《コヽロフリオコシ》。劔刀《ツルギタチ》。腰爾取佩《コシニトリハキ》。梓弓《アヅサユミ》。靱取負而《ユキトリオヒテ》。天地與《アメツチト》。彌遠長爾《イヤトホナガニ》。萬代爾《ヨロヅヨニ》。如此毛欲得跡《カクシモガモト》。憑有之《タノメリシ》。皇子之御門乃《ミコノミカドノ》。五月蠅成《サバヘナス》。驟騷舍人者《サワクトネリハ》。白栲爾《シロタヘニ》。服取着而《コロモトリキテ》。常有之《ツネナリシ》。咲(376)比振麻比《ヱマヒフルマヒ》。彌日異《イヤヒケニ》。更經見者《カハラフミレバ》。悲呂可毛《カナシキロカモ》。
 
皇子之命《ミコノミコト》は、安積(ノ)皇子を申す、○召集聚《メシツドヘ》(聚(ノ)字、拾穗本にはなし、)は、召《メシ》令《セ》2集聚《ツドハ》1なり、(波世《ハセノ》切、閇《ヘ》なり、)古事記に、訓v集(ヲ)云2都度比《ツドヒト》1、廿(ノ)卷に、夜蘇久爾波那爾波爾都度比《ヤソクニハナニハニツドヒ》、などあり、○率比賜比《アドモヒタマヒ》(下の比(ノ)字、拾穗本には无(シ)、)は、二(ノ)卷に、御軍士乎安騰毛比賜《ミイクサヲアドモヒタマヒ》、とあるに同じ、彼處に具(ク)註り、○朝獵《アサガリ》、暮獵《ユフガリ》は、既く一(ノ)卷に出づ、○度猪踐起《シシフミオコシ》、鶉雉履立《トリフミタテ》は、斯々《シヽ》は獣、等利《トリ》は鳥なるを、こゝは田獵《カリ》に主《ムネ》と獲《ウ》る物もて、鹿猪鶉雉と書て、しか訓せたるなり、六(ノ)卷に、朝獵爾十六履起之《アサガリニシシフミオコシ》、夕狩爾十里〓立《ユフガリニトリフミタテ》、馬並而御?曾立爲《ウマナメテミカリソタヽス》とあり、起(シ)立(テ)は、伏たる鳥獣を驚かし起し立しむるを云、○大御馬は、オホミマ〔四字右○〕と訓(ム)、馬《ウマ》を、麻《マ》といふは、五(ノ)卷に、多都乃麻《タツノマ》、(龍(ノ)麻なり、)和名抄に牡馬を乎萬《ヲマ》、牝馬を、米萬《メマ》、駒を古萬《コマ》、とある類なり、又五(ノ)卷に、美麻《ミマ》とも見ゆ、(御馬《ミマ》なり、)○口抑駐は、クチオサヘトメ〔七字右○〕と訓べし、六(ノ)卷に、馬之歩押上駐余《ウマノアユミオサヘトヾメヨ》とあり、(上は、ヘ〔右○〕の借(リ)字なり、舊本止に誤れり、)○見爲明米之《メシアキラメシ》は、見爲は、メシ〔二字右○〕と訓べし、(ミシ〔二字右○〕と訓は誤なり、)見賜ひし、といふなり、十九に見賜明光多麻比《メシタマヒアキラメタマヒ》、又|見之明良牟流《メシアキラムル》、廿(ノ)卷に、賣之多麻比安伎良米多麻比《メシタマヒアキラメタマヒ》、また賣之安伎良米晩《メシアキラメメ》、など見えたり、なほ一(ノ)卷(ノ)下藤原(ノ)御井(ノ)歌(ノ)下に、具(ク)註るを合(セ)考(フ)べし、○活道山《イクヂヤマ》は、相樂(ノ)郡にあり、六(ノ)卷に、天平十六年春正月十一日、登2活道(ノ)岡(ニ)1、集(テ)2ニテ》一株(ノ)松(ノ)下(ニ)1飲歌二首あり、○木立之繁爾咲花毛《コダチノシヾニサクハナモ》は、木立繁く咲花も、といふなり、繁爾《シヾニ》は、俗に、しげうに、といはむが如し、(木立の繁みに咲、といふには非ず、)○移爾家里《ウツロヒニケリ》は、世のはかなく、(377)變《ウツロ》ひ易きにかけて云り、○大夫之心振起《マスラヲノコヽロフリオコシ》は、廿(ノ)卷に、大夫情布里於許之《マスラヲノコヽロフリオコシ》と見ゆ、○劔刀腰爾取佩《ツルギタチコシニトリハキ》は、五(ノ)卷に、麻周羅遠乃遠刀古佐備周等《マスラヲノヲトコサビスト》、都流岐多智許志爾刀利波枳《ツルギタチコシニトリハキ》、十九慕v振2勇士之名(ヲ)1歌に、梓弓須惠振理於許之《アヅサユミスヱフリオコシ》、劔刀許思爾等利波伎《ツルギタチコシニトリハキ》など見えたり、○靱取負而《ユキトリオヒテ》は、廿(ノ)卷に、麻須良男能由伎等里於比弖《マスラヲノユキトリオヒテ》とあり、靱は箭室なり、和名抄(ニ)に、釋名(ニ)云、歩人所v帶曰v靱(ト)、以v箭(ヲ)叉2其(ノ)中(ニ)1、和名|由岐《ユキ》とあり、古事記に、千人之靫《チノリノユキ》、天石靫《アメノイハユキ》、書紀に、歩靫《カチユキ》、金靫《クガネノユキ》、大神宮式に、姫靫《ヒメユキ》、蒲靫《カヤユキ》、革靫《カハユキ》、など云も見ゆ、○天地與彌遠長爾《アメツチトイヤトホナガニ》は、天と遠く地と長く仕へ奉らむとの意なり、二(ノ)卷五(ノ)卷等にも見えたり、○萬代爾《》云々は、十三挽歌に、萬歳如是霜欲常得大船之憑有時爾《ヨロヅヨニヨロヅヨニカクシモカモトオホブネノタノメルトキニ》とあり、○皇子乃御門《ミコノミカド》は、安積(ノ)皇子の宮門をさして申せるなり、○五月蠅成《サバヘナス》は、驟騷《サワク》といはむ料の枕詞なり、五(ノ)卷に、五月蠅奈周佐和久兒等遠《サバヘナスサワクコドモヲ》云々、古事記に、萬神之聲者狹蠅那須皆滿《ヨロヅノカミノオトナヒハサバヘナスミナワキ》云々、本居氏云、五月蠅は、五月ころの蠅なり、然るを佐都伎《サツキ》といはで佐《サ》とのみ云は、田植る農業を凡て佐《サ》と云、その苗を佐苗《サナヘ》、植る女を佐少女《サヲトメ》、植始むるを佐聞《サビラキ》、植終るを佐登《サノボリ》など云が如し、又其(ノ)業する月を佐月《サツキ》、其頃の雨を佐亂《サミダレ》と云(フ)、かゝれば狹蠅も、田植るころの蠅と云意の稱なり、○驟騷舍人者《サワクトネリハ》は、十三に、朝者召而使《アシタニハメシテツカハシ》、夕者召而使《ユフベニハメシテツカハシ》、遣之舍人之子等者《ツカハシヽトネリノコラハ》と云る如く、朝夕に召て使はせば、騷ききほひて、仕奉る舍人等者といふなり、○白栲爾《シロタヘニ》云々は、喪服をいふ、十三挽歌に、大殿矣振放見者《オホトノヲフリサケミレバ》、白細布飾奉而《シロタヘニカザリマツリテ》、内日刺宮舍人方《ウチヒサスミヤノトネリハ》、雪穗麻衣服者《タヘノホノアサキヌケルハ》云々とおり、○常有之《ツネナリシ》は、五(ノ)卷にも、都禰奈利之惠(378)麻比麻欲毘伎《ツネナリシヱマヒマヨビキ》、散久伴奈能宇都呂比爾家里《サクハナノウツロヒニケリ》とあり、○咲比振麻比《ヱマヒフルマヒ》は、咲顔擧動《ヱマヒフルマヒ》なり、○更經見者《カハラフミレバ》は、そのさまの變易《カハル》ことを見ればと云なり、(ラフ〔二字右○〕の切ル〔右○〕)○悲呂可聞《カナシキロカモ》(呂(ノ)字、舊本に召、異本に有と作るは誤、今は元暦本に從つ、)は、悲きこと、哉《カナ》なり、呂可聞《ロカモ》と云る例、一(ノ)卷藤原(ノ)御井(ノ)歌の條下に具(ク)云り、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
479 波之吉可聞《ハシキカモ》。皇子之命乃《ミコノミコトノ》。安里我欲比《アリガヨヒ》。見之活道乃《メシシイクヂノ》。路波荒爾鷄里《ミチハアレニケリ》。
 
波之吉可聞《ハシキカモ》は、愛哉《ハシキカナ》なり、皇子に係れる詞なり愛哉《ハシキカナ》、その愛《ハシ》き皇子とつゞく意なり、さてこゝの可聞《カモ》は、歎きて歌ひ絶る句法にて、上の伊豫(ノ)温泉にて作る歌に、極此疑伊預能高嶺《コヾシカモイヨノタカネ》とある疑《カモ》と同格の詞なり、(契冲が、愛したまひければかも、といふ心なりと云るは、大しき誤なり、)○安里我欲比《アリガヨヒ》は、上に蟻通島門乎見者《アリガヨウシマトヲミレバ》とあり、既く云り、○見之活道乃(乃(ノ)字、拾穗本に无は落たるなり、)は、メシヽイクヂノ〔七字右○〕と訓べし、(ミシヽ〔三字右○〕と訓るは、いみじきひがことなり既く具(ク)註り、)賣之々《メシヽ》は、美之《ミシ》を伸たる詞にて、見賜ひしといふことなり、廿(ノ)卷に、於保吉美能賣之思野邊爾波《オホキミノメシシヌヘニハ》と見えたり、○路波荒爾鷄里《ミチハアレニケリ》は、六(ノ)卷悲2寧樂(ノ)故郷(ヲ)1歌に、踏平之通之道者馬裳不行人裳往莫者荒爾異類香聞《フミナラシカヨヒシミチハウマモユカズヒトモユカネバアレニケルカモ》、とあるに同じ、二(ノ)卷(ノ)末にも、三笠山野邊從遊久道己伎太久母《ミカサヤマヌヘユユクミチコキダクモ》、荒爾計類鴨久爾有名國《アレニケルカモヒサニアラナクニ》、と見えたり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
(379)480 大伴之《オホトモノ》。名負靱帶而《ナニオフユキオビテ》。萬代爾《ヨロヅヨニ》。憑之心《タノミシコヽロ》。何所可將寄《イヅクカヨセム》。
 
大伴之名負靱帶而《オホトモノナニオフユキオビテ》(靱(ノ)字類聚抄に、鞆と作て、ナニオフトモヲオビニシテ〔ナニ〜右○〕とよめるは、いとをかし)とは、靫負《ユケヒ》と名に負持る、をの靱を帶而といふなるべし、しかいふ所以《ユヱ》は、七(ノ)卷に、靱懸流伴雄廣伎大伴爾《ユキカクルトモノヲヒロキオホトモニ》云々とあるは、大祓(ノ)詞に、天皇朝廷爾仕事流《スメラガミカドノツカヘマツル》云々、靱負伴男劔佩伴男《ユキオフトモノヲタチハクトモノヲ》、伴男能八十伴男乎始?《トモノヲノヤソトモノヲヲハジメテ》云々とありて、その數々の靱負件男《ユキオフトモノヲ》を部《スベ》て、大伴氏の護れる大伴爾《オホトモニ》と云るなり、大伴は即(チ)衛門府《ユケヒノ》の陣をさして云りと聞えたり、さてその靱負(ヒ)て仕(ヘ)奉る、健男の伴の長なるから、大伴之名負靱《オホトモノナニオフユキ》とは云るなり、姓氏録大伴(ノ)宿禰(ノ)條に、然後以2大來目部(ヲ)1爲2靱負部(ト)1、天(ノ)靱負之號起2於此(ニ)1也と見ゆ、神代紀天降(ノ)條(ノ)一書に、大伴(ノ)連(ノ)遠祖天(ノ)忍日(ノ)命、帥2來目部(ノ)遠祖天(ノ)穗津大來目1、背(ニ)負2天(ノ)磐靭(ヲ)1云々、景行天皇(ノ)紀に、日本武(ノ)尊居2甲斐(ノ)國酒折(ノ)宮(ニ)1、以2靭負(ヲ)1賜2大伴(ノ)連(ノ)遠祖武日(ニ)1云云、孝徳天皇(ノ)紀に、大伴(ノ)長徳(ノ)連帶2金(ノ)靱(ヲ)1立2於壇右(ニ)1、云々など見えたり、○何所可將寄《イヅクカヨセム》は、今よりは何處に心を縁て、憑まむものぞとなり、○歌(ノ)意は、大伴の名に負靭負て、天地の遠長く萬代にいそしみ仕奉らむと、おもひ憑み奉りし、皇子(ノ)命の薨坐れば、今よりはいづくにか心をよせむ、今は憑むべき方もなしとなり、
〔右三首。三月二十四日作歌。〕
 
悲2傷《カナシミ》死妻《ウセタルメヲ》1高橋朝臣作歌一首并短歌《タカハシノアソミガヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
            (380)高橋(ノ)朝臣は、未(タ)詳ならず、六(ノ)卷天平十八年(ノ)條に、高橋(ノ)安麻呂(ノ)卿見え、十七天平十八年(ノ)條に、高橋(ノ)朝臣國足見えたり、これらの人を云にも有べし、猶左註の下にいふをも考(ヘ)合(ス)べし、
 
481 白細之《シロタヘノ》。袖指可倍?《ソデサシカヘテ》。靡寢《ナビキネシ》。吾黒髪乃《ワガクロカミノ》。眞白髪爾《マシラガニ》。成極《カハラムキハミ》。新世爾《アラタヨニ》。共將有跡《トモニアラムト》。玉緒乃《タマノヲノ》。不絶射妹跡《タエジイイモト》。結而石《ムスビテシ》。事者不果《コトハハタサズ》。思有之《オモヘリシ》。心者不遂《コヽロハトゲズ》。白妙之《シロタヘノ》。手本矣別《タモトヲワカレ》。丹杵火爾之《ニキビニシ》。家從裳出而《イヘユモイデテ》。緑兒乃《ミドリコノ》。哭乎毛置而《ナクヲモオキテ》。朝霧《アサギリノ》。髣髴爲乍《ホノニナリツヽ》。山代乃《ヤマシロノ》。相樂山乃《サガラカヤマノ》。山際《ヤマノマユ》。往過奴禮婆《ユキスギヌレバ》。將云爲便《イハムスベ》。將爲便不知《セムスベシラニ》。吾妹子跡《ワギモコト》。左宿之妻屋爾《サネシツマヤニ》。朝庭《アサニハニ》。出立偲《イデタチシヌヒ》。夕爾波《ユフベニハ》。入居嘆舍《イリヰナゲカヒ》。腋挾《ワキハサム》。兒乃泣母《コノナクゴトニ》。雄自毛能《ヲトコジモノ》。負見抱見《オヒミウダキミ》。朝鳥之《アサトリノ》。啼耳哭管《ネノミナキツヽ》。雖戀《コフレドモ》。効矣無跡《シルシヲナミト》。辭不問《コトトハヌ》。物爾波在跡《モノニハアレド》。吾妹子之《ワギモコガ》。入爾之山乎《イリニシヤマヲ》。因鹿跡叙念《ヨスカトゾオモフ》。
 
袖指可倍?《ソデサシカヘテ》は、袖|指交《サシカハ》してなり、八(ノ)卷に、白細乃袖指代而佐寢之夜也《シロタヘノゾデサシカヘテサネシヨヤ》とあり、眞玉手乃玉手指更《マタマデノタマデサシカヘ》ともよめり、○靡寢《ナビキネシ》(寢(ノ)字、古寫本拾穗本等には寐と作り、)は、二(ノ)卷に、玉藻成靡寐之兒乎《タマモナスナビキネシコヲ》と見えたり、○吾黒髪乃《ワガクロカミノ》云々は、七(ノ)卷に、福也何有人香黒髪之白成左右妹之音乎聞《サキハヒノイカナルヒトカクロカミノシロクナルマデイモガコヱヲキク》、四(ノ)卷に、野干玉之皇髪變白髪手裳《ヌバタマノクロカミカハリシラケテモ》(これをクロカミシロクカハリテモ〔クロ〜右○〕とよめるは、大き非なり、九(ノ)卷に、黒有之髪毛白斑奴《クロカリシカミモシラケヌ》と見ゆ、)なども見ゆ、○成極はカハラムキハミ〔七字右○〕と訓べし、成は變成の意もて書るなるべし、○新世《アラタヨ》は、既く一(ノ)卷に出づ、○玉緒乃《タマノヲノ》は、絶《タエ》の枕詞なり、○不絶射妹跡《タエジイイモト》は、不《ジ》v絶《タエ》妹よとといふ意なり、射《イ》は助辭なり、此(ノ)上にも見ゆ、○結而石《ムスビテシ》は、契約を結(ヒ)堅めてしといふなり、十(381)一に、黒髪白髪左右跡結大王《クロカミノシラクルマデトムスビテシ》、心一乎今解目八方《コヽロヒトツヲイマトカメヤモ》、十六に、死藻生藻同心跡結而爲《シニモイキモオナジコヽロトムスビテシ》、友八違我藻將依《トモヤタガハムアレモヨリナム》、九(ノ)卷に、加吉結常代爾至《カキムスビトコヨニイタリ》など見ゆ、○事者不果《コトハハタサズ》は、言をば果さずといふなり、○丹杵火爾之《ニキビニシ》(杵(ノ)字、活字本には析と作り)は、一(ノ)卷に柔備爾之家乎擇《ニキビニシイヘヲオキ》とあり、彼處に註り、○家從裳出而《イヘユモイデテ》は、家をも出ての意なり、從《ユ》は乎《ヲ》に通ふ、既く去り、○朝霧《アサギリ》は、髣髴《オホ》の枕詞なり、四(ノ)卷にも、朝霧之鬱相見之《アサギリノオホニアヒミシ》とあり、○髣髴爲乍《オホニナリツヽ》は、おぼろに成つゝなり、(髣髴は不2分明1貌と見ゆ、)二(ノ)卷に、髣髴見之事悔敷乎《オホニミシコトクヤシキヲ》、と見えたり、相樂山にはふり行が、漸遠くおぼろになりゆくさまなり、○相樂山《サガラカヤマ》は、和名抄に、山城(ノ)國相樂(ノ)郡相樂(ハ)、佐加良加《サガラカ》、古事記成務天皇(ノ)條に、圓野比賣到2山代(ノ)國之相良(ニ)1時、取2懸《トリサガリ》樹枝《キノエダニ》1而《テ》欲v死(ムト)、故號2其地(ヲ)1謂(シヲ)2懸木《サガリキト》1、今(ハ)云2相樂《サガラカト》1と見ゆ、○山際《ヤマノマユ》の下、從(ノ)字を脱せるか、從《ユ》は乎《ヲ》に通ふ從《ユ》なり、○將爲便不知は、セムスベシラニ〔七字右○〕にて、便の一字スベ〔二字右○〕とよめる例、既く具(ク)云り、○妻屋《ツマヤ》は妻籠《ツマゴメ》の料《タメ》に造れる屋なり、二(ノ)卷に、吾妹子與二人吾宿之枕付嬬屋之内爾《ワギモコトフタリワガネシマクラヅクツマヤノウチニ》とあり、集中に甚多くよめり、○朝庭は、アサニハニ〔五字右○〕と訓べし、妻屋の朝庭になり、庭《ニハ》は語辭にあらず、次の夕爾波《ユフベニハ》の爾波《ニハ》と異れり、十七に、芽子花爾保弊流屋戸乎《ハギガハナニホヘルヤドヲ》、安佐爾波爾伊泥多知奈良之《アサニハニイデタチナラシ》、暮庭爾敷美多比良氣受《ユウニハニフミタヒラゲズ》、と見えたるに同じ、○夕爾波《ユフベニハ》は、爾波《ニハ》は他に對へていふ語辭《カタリコトバ》なり、○入居嘆合《イリヰナゲカヒ》(合(ノ)字舊本舍に誤、今改、)は妻屋の内に入居て、嘆くよしなり、嘆合《ナゲカヒ》は、嘆《ナゲキ》の伸りたる詞なり、伸云は、そは絶ず歎くよしなり、十三に石床笶根延門呼朝庭丹出居而歎《イハトコノネバフカナドヲアサニハニイデヰテナゲキ》、夕庭入居而思《ユフベニハイヰテシヌヒ》とある(382)に同じ(これも根延門を出て、朝庭に立居て嘆き、夕には門の内に入居て思ふよしなり、故(レ)上には朝庭丹と書、下には夕庭と書て別ちたり、今も是と同じく、妻屋の朝庭に出立、夕には妻屋の内に入居て嘆くよしなり、しかるを此の庭を語辭として、アシタニハ〔五字右○〕と訓ては、朝には妻屋に出立といふことになりて、叶ひがたし、此(ノ)處ようせずばまがひぬべし、一(ノ)卷に朝庭取撫賜夕庭伊縁立之《アシタニハトリナデタマヒユフベニハイヨリタヽシヽ》、とある庭《ニハ》は皆借(リ)字、爾波《ニハ》の語辭にて、今と異なり、思ひまどふべからず、)○挾(ノ)字、舊本狹に誤、今改つ、○毎(ノ)字、舊本母に誤、今改つ、○雄自宅能《ヲトコジモノ》は、男《ヲトコ》の爲《ス》まじき行事《ウザ》を、男にてするをいふ詞と聞えたり、言(ノ)義は未思得ず、(既く古義一(ノ)卷(ノ)下にも云り、考合べし、荒木田氏が、自物《ジモノ》は、如物《シクモノ》といふ意と云るは、いかゞ、)十一に、面形之忘而在者小豆鳴《オモカタノワスレテアラバアヂキナク》、男士物屋戀乍將居《ヲトコジモノヤコヒツヽヲラム》、とあるに同じ、○負見抱見《オヒミウダキミ》は、負もし抱も爲《シ》の意なり、此(ノ)見《ミ》の辭は、十一に、咲見慍見《ヱミミイカリミ》、又|引見弛見《ヒキミユルベミ》、新撰萬葉に、浮杵見沈箕手《ウキミシヅミテ》、六帖に逢事はなにしの池の水なれや、絶み絶ずみ年の經ぬらむ、伊勢(ノ)集長歌に、うかびつゝ消み消ずみ、千載集に、滿潮の末葉を洗ふ流蘆の、君をぞ念(フ)浮み沈(ミ)み、榮花物語に、陸奥のをだえの橋や是ならむ、ふみみふまずみ心まどはす云々、またよろづになきみわらひみ、なぐさめ聞えさせ給へど云々、かげろふの日記になきみ、わらひみ、萬の事をいひあかして云々、夜深るまで、なきみわらひみして、皆寢ぬ云々、今日しもしぐれふりみふらずみ云々、さころものつまもむすばぬ玉のをの、たえみたえずみ、世をやつくさ(383)む、住吉物語に、泣み笑ひみ明し暮すなどある、皆同じ、猶具く總論に云(ヘ)り、抱は、ウダキ〔三字右○〕と訓べし、靈異記に、抱宇田伎《ハウダキ》と見えたり、(十四に、武太伎《ムダキ》とあるは、東語には、はやく訛れるなるべし、)そも/\ウダキ〔三字右○〕といふ言(ノ)意は、腕纏《ウデマキ》なり(デマ〔二字右○〕を切ればダ〔右○〕となれり、しかるを此(ノ)言、中昔の物語書などはは伊太久《イグク》とのみ云るによりて、宇太久《ウダク》といふは、却て俗言なりと思ふは、中々に古言を知ぬ故なり、西行が撰集抄に、身をたをやかになして、鞠を宇太伎《ウタキ》侍るべしと記せるは、古言を存せるなり、今も土佐人は、字太久《ウダキ》とのみ云り、)○朝鳥之《アサトリノ》は、音啼《ネナク》の枕詞なり、○效矣无跡《シルシヲナミト》は、跡《ト》は助辭なり、效驗《シルシ》が無さにの意なり、○辭不問《コトトハヌ》は、物言《モノイハ》ぬといふ意なり、物言(フ)を言問《コトトフ》と云ること、集中に甚多く見ゆ、六(ノ)卷に、不言問木尚妹與兄有云乎《コトトハヌキスライモトセアリチフヲ》、直獨子爾有之苦者《タヾヒトリコニアルガクルシサ》、四(ノ)卷に、暮去者物念益見之人乃《ユフサレバモノモヒマサルミシヒトノ》、言問爲形面景爲而《コトトフスガタオモカゲニシテ》、又|事不問木尚味狹藍《コトトハヌキスラアヂサヰ》、十二に、味澤相目者非不飽携《ウマサハフメニハアケドモタヅサハリ》、不問事毛苦勞有來《コトトハナクモクルシカリケリ》、十三に、言不問木雖在《コトトハヌキニハアレドモ》、十九に、言等波奴木尚春開秋都氣波《コトトハヌキスラハルサキアキツケバ》、毛美知遲良久波常乎奈美許曾《モミチチラクハツネヲナミコソ》、古事記垂仁天皇御子、本牟智和氣(ノ)御子のことを、八擧鬚《ヤツカヒゲ》至(ルまで)2于|心前《ムナサキニ》1眞事登波受《マコトトハズ》、祝詞に、語問志磐根樹立《コトトヒシイハネキネタチ》など見えたり、○入爾之山《イリニシヤマ》は、葬送《ハフレ》る相樂山をいふ、○因鹿《ヨスカ》は、所縁波可《ヨセハカ》なるべし、波可《ハカ》とは、何處《イツク》を波可《ハカ》となど云波可《ハカ》にて、慥に其處と指ていふ言なり、さてヨセハカ〔四字右○〕を釣(ム)れば(セハ〔二字右○〕の切サ〔右○〕、)ヨサカ〔三字右○〕となるを、サ〔右○〕をス〔右○〕に轉してヨスカ〔三字右○〕とはいふなり、故(レ)慥に其處を、所縁《ヨリドコロ》と心を寄定る意なり、十六に、志賀乃山痛勿伐荒雄良我《シカノヤマイタクナキリソアラヲラガ》、余須可乃山跡見管(384)將偲《ヨスカノヤマトミツヽシヌハム》、欽明天皇(ノ)紀に、修2出世業(ヲ)1爲v因《ヨスカト》、(常に與須我《ヨスガ》と濁るは誤なり、可《カ》は清音なり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
反歌《カヘシウタ》
 
482 打背見乃《ウツセミノ》。世之事爾在者《ヨノコトナレバ》。外爾見之《ヨソニミシ》。山矣耶今者《ヤマヲヤイマハ》。〓香跡思波牟《ヨスカトオモハム》。
 
背(ノ)字、類聚抄拾穗本には脊と作り、○世之事爾在者《ヨノコトナレバ》は、世(ノ)間の道理《コトワリ》なればといふなり、○外爾見之《ヨソニミシ》は、上に昔許曾外爾毛見之加《ムカシコソヨソニモミシカ》、とあるに同じ、○山矣耶今者《ヤマヲヤイマハ》(今(ノ)字、活字本に爾と作るは誤なり、)は、耶《ヤ》の疑辭は、思波牟《オモハム》の下にめぐらして意得べし、今者《イマハ》とは、其(ノ)時にさし切《セマ》りて至れるをいふ詞なり、今者許藝弖菜《イマハコギテナ》、今者京利《イマハミヤコト》、時者今者《トキハイマハ》など多く云る今者《イマハ》に同じ、○〓香跡思波牟《ヨスカトオモハム》(香(ノ)字、拾穗本には鹿と作り、跡(ノ)字、舊本には爾とあり、今は古寫小本拾穗本又異本等に從つ、)所縁波可《ヨセハカ》と思ひ定めむかとなり、○歌(ノ)意は、無常《ツネナキ》世(ノ)間の道理なれば、外目に見過(シ)て有し相樂山を、今は心を縁る處、と思ひ定めて有らむかとなり、
 
483 朝鳥之《アサトリノ》。啼耳鳴六《ネノミシナカム》。吾妹子爾《ワギモコニ》。今亦更《イママタサラニ》。逢〓矣無《アフヨシヲナミ》。
 
啼耳鳴六は、ネノミシナカム〔七字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、今又ふたゝび、妻に相見む爲方のなき故に、一(ト)すぢに哭にばかり泣て、戀しく思ひつゝあらむぞとなり、
〔右三首。七月廿日。高橋朝臣作歌也」
(385)七月廿日は、上に十六年甲申とあるは、天平十六年なり、今はそれにゆづりて、月日をのみ註せり、舊本に作歌也といふに引續きて、名字未v審、但云奉膳之男子焉、と註せり、仙覺などが書加へたるなるべし、奉膳は、内膳司の長官《カミ》なり、續紀に、廢帝寶字三年十一月丁卯、從五位下高橋(ノ)朝臣子老爲2内膳(ノ)奉膳《カミト》1、六年四月庚戌朔、從五位下高橋(ノ)朝臣老麻呂爲2内膳(ノ)奉膳《カミト》1、など見えたり、これらにや、但し子老等の男とせむには、いさゝか時代おくれたり、猶考(フ)べし、
 
萬葉集古義三卷之下 終
 
(386)萬葉集古義四卷之上
 
相聞《シタシミウタ》。
 
難波天皇妹《ナニハノスメラミコトノミイモノ》。奉d上《タテマツレル》在《マス》2山跡《ヤマトニ》1皇兄《スメラミコトノイロセノミコトニ》u御謌一首《ミウタヒトツ》。
 
天皇は、仁徳天皇なり、○妹とは、書紀に、應神天皇の皇女、九柱《コヽノハシラ》を擧《アゲ》たる其(ノ)中、荒田(ノ)皇女は御同母妹《ミイロネ》に坐ば、其(ノ)餘いづれの皇女を申せるにや、詳ならず、○皇兄は、仁徳天皇の御同母兄《ミイロセ》を申せり、ときこえたり、しかるに書紀を※[手偏+僉]《フ》るに、應神天皇の皇后仲(ノ)姫(ノ)命の御腹に、荒田(ノ)皇女、大鷦鷯(ノ)天皇、根(ノ)鳥皇子の三柱坐て、仁徳天皇の皇兄と指奉るべきはなし、古事記も同じ趣なり、庶《ミマ》兄には、額田(ノ)大中彦(ノ)皇子、大山守(ノ)皇子、去來(ノ)眞稚(ノ)皇子坐(セ)ど、其等にはあらじ、傳(ヘ)の混ひたるにや、猶考(フ)べし、さて是はいづれぞの皇子にまれ、所縁《ユヱ》ありて、大和(ノ)國に住坐せる間《ホド》、いづれぞの皇女の思ひまつりて、作て贈(リ)奉(リ)賜へる御歌なり、
 
484 一日社《ヒトヒコソ》。人母待告《ヒトヲモマチシ》。長氣乎《ナガキケヲ》。如此所待者《カクノミマテバ》。有不得勝《アリカテナクモ》。
                                
人母待告は、告は志(ノ)字の寫誤なるべし、眞志草書相似たり、故(レ)ヒトヲモマチシ〔七字右○〕と訓つ、さて上(387)に社《コソ》といひて、過坐《スギニ》し方をいふ志《シ》の辭にて、結《トヂ》めたる例《タメシ》は、後撰集八(ノ)卷に、黄葉《モミチバ》は惜《ヲシ》き錦《ニシキ》と見しかども※[雨/衆]雨《シグレ》と共に降てこそ來《コ》し、拾遺集九(ノ)卷長歌に、木高《コダカ》き蔭《カゲ》と仰がれむ物《モノ》とこそ見しなどあり、(此集の比より前には、外に見あたらぬことなれど、此は決(メ)て古(ヘ)よりある格なるべし、今昔物語に、きのふしか/”\の所へ行たりしに、かゝる事こそありし、と逢人ごとにかたれば云々、平家物語に、山門の滅亡、朝家の御大事とこそ見えし云々、又今生後生のけうやうにてあらむずるぞ、と宣ひけるこそ、いとゞ罪深うは聞えし、なども見ゆ、)又|良志《ラシ》と結《トヂ》めたるは、古くよりあり、(其は、六(ノ)卷長歌に、諾己曾吾大王者《》、君之隨所聞賜而《ウベシコソワガオホキミハキミノマニキコシタマヒテ》、刺竹乃大宮此跡定異等霜《サスタケノオホミヤコヽトサダメケラシモ》、同反歌に、三日原布當乃野邊清見社大宮處定異等霜《ミカノハラフタギノヌベヲキヨミコソオホミヤトコロサタメケラシモ》、古今集に、秋の夜は露こそ殊に寒からし草むら毎に蟲のわぶれば、霜の經露の緯こそよわからし山のにしきの織ばかつ散、忠峯集に、松のてに風のしらべをまかせては立田姫こそ秋はひくらし、爲忠朝臣集に、み山には雪こそはやくつもるらしみほの杣人冬やすみする、などあるこれなり、)○長氣《ナガキケ》は、長き日數と云むが如し、氣《ケ》は來經《キヘ》の約(リ)たる詞にて、上に往々《トコロ/”\》出づ、○如此所待者は、所は耳(ノ)字の誤にてカクノミマテバ〔七字右○〕なるべし、と本居氏云り、○有不待勝《アリカテナクモ》は、有に不《ズ》2得勝《エタヘ》1といふ義にて、書る字なり、)有かねつもといはむが如し、嗚呼《アハレ》有(リ)有て待に、さても得堪ぬ事哉と云意なり、奈久《ナク》は添たる辭なり、七(ノ)卷に、佐保河爾小驟千鳥夜三更而爾音聞者宿不難爾《サホガハニサヲドルチドリヨグダチテナガコエキケバイネカテナクニ 》、十(ノ)卷に、蟋蟀之吾床隔爾(388)鳴乍本名起居管君爾戀爾宿不勝爾《コホロギアガトコノヘニナキツヽモトナオキヰツヽキミニコフルニイネカテナクニ》、十二に、吾兄子爾戀跡二四有四小兒之夜哭乎爲乍宿不勝苦者《ワガセコニコフトニシアラシワカキコノヨナキヲシツヽイネカテナクハ》などある、みな同じ例なり、○歌(ノ)意は、一日許《ヒトヒバカリ》をこそ、人を待にも待堪《マチタヘ》にたれ、如此《カク》まで長(キ)日數を經ぬれば、有(リ)有て待(ツ)に、さても待堪《エタヘ》ぬ事哉、とのたまへるなり、(二(ノ)卷に出せる古事記(ノ)歌に、待爾者不待《マツニハマタジ》とあるは、待に待堪じの意なるにて、こゝの待志《マチシ》の意をもさとりつべし、
 
岳本天皇御製歌〔○で囲む〕一首并短歌《ヲカモトノスメラミコトノミヨミマセルオホミウタヒトツマタミジカウタ》。
 
岳本(ノ)天皇は、舊本大御歌の後に、註して云(ク)、右今案(ニ)、高市(ノ)岳本(ノ)宮、後(ノ)岡本(ノ)宮、二代二帝各|有《アリ》v異《カハリ》焉、但稱2岡本天皇(ト)1、未v審2其指(ヲ)1、とあり、高市(ノ)岳本(ノ)宮は舒明天皇、後(ノ)岡本(ノ)宮は齊明天皇なり、舊註に云る如く、二代の中、いづれの天皇にか審ならねど、今|御製詞《ミウタコトバ》に依て考(フ)るに、後(ノ)岡本(ノ)宮齊明天草の、皇后に立せ賜ひて後か、またはいまだ皇后に立せ賜はぬ前か、舒明天皇を思奉りて、御製《ミヨミ》坐(セ)るにやあらむ、○御製歌、歌(ノ)字舊本にはなし、例に依て補つ、
 
485 神代從《カミヨヨリ》。生繼來者《アレツギクレバ》。人多《ヒトサハニ》。國爾波滿而《クニニハミチテ》。味村乃《アヂムラノ》。去來者行跡《サワキハユケド》。吾戀流《アガコフル》。君爾之不有者《キミニシアラネバ》。晝波《ヒルハ》。日乃久流麻弖《ヒノクルルマデ》。夜者《ヨルハ》。夜之明流寸食《ヨノアクルキハミ》。念乍《オモヒツヽ》。寢宿難爾登《イネカテニノミ》。阿可思通良久茂《アカシツラクモ》。長此夜乎《ナガキコノヨヲ》。
 
生繼來者《アレツギクレバ》は、遠き神代より、天の益人益々に、繼て生出來(レ)ばといふなり、○人多《ヒトサハ》は、古事記中卷(ノ)歌に、意佐加能意當牟盧夜爾比登佐波爾岐伊理袁理《オサカノオホムロヤニヒトサハニキイリヲリ》とあり、○味村乃《アヂムラノ》(味(ノ)字、元暦本に、妹と作(389)るは誤まり、)は、枕詞なり阿遲《アヂ》といふ鳥の群なり、此(ノ)鳥のことは品物解に云、○去來者行跡は、反歌に、味村騷《アヂムラサワキ》とあれば、こゝもサワキハユケド〔七字右○〕と訓べし、去來の字は、味村の往(キ)反(ル)意にて書るなるべし、定家(ノ)卿の長歌短歌のよしの事にも、さわきと有(リ)、又一本にもしかよめり、是(レ)古訓なるべし、と源(ノ)嚴水云り、廿(ノ)卷にも、安治牟良能佐和伎伎保比弖《アヂムラノサワキキホヒテ》とあり、○吾戀流《アガコフル》云々は、十一に、打日刺宮道人雖滿行吾念公正一人《ウチヒサスミヤヂヲヒトハミチユケドアガモフキミハタヾヒトリノミ》、とよめる類なり、○君爾之不有者《キミニシアラネバ》、(有(ノ)字、元暦本に爪と作るは誤なり、)之《シ》は助辭にて、その一(ト)すぢをとりたてゝ、おもく思はする處におく辭なり、○晝波《ヒルハ》云々(晝(ノ)字、元暦本に盡と作るは誤なり、)の四句は、二(ノ)卷|挽歌《カナシミウタ》に、夜者毛夜之盡晝者母日之盡《ヨルハモヨノコト/”\ヒルハモヒノコト/”\》、哭耳呼泣乍在而哉《ネノミヲナキツヽアリテヤ》、十三相聞に、赤根刺晝者終爾野干玉之夜者須柄爾《アカネサスヒルハシミラニヌバタマノヨルハスガラニ》、此床乃比師跡鳴左右《コノトコノヒシトナルマテ》、嘆鶴鴨《ナゲキツルカモ》などよめる、同じこゝろなり、○寸食《キハミ》は、(借(リ)字)極《キハミ》にて、限《カギリ》と云むが如し、○寐宿難爾登、この登(ノ)字は乃三の二字の誤なるべし、草書にのみとかけるが、登と混誤《マガヒ》しなるべし、イネカテニノミ〔七字右○〕と訓べし、○阿可思通良久茂《アカシツラクモ》は、明しつるもの伸りたるなり、(良久《ラク》は、留《ル》の伸言なり、)明しつる事哉といふ如し、茂《モ》は、なげきの意をふくめる助辭なり、寐かてにのみ明しつることは、嗚呼《アハレ》さても悲しき事にてある哉、といふ意なり、○長此夜乎《ナガキコノヨヲ》は、十一に、念友念毛金津足檜之山鳥之尾之永此夜乎《オモヘドモオモヒモカネツアシヒキノヤマドリノヲノナガキコノヨヲ》とよめり、○大御歌(ノ)意、かくれたるところなし、十三相聞に、式島之山跡之土丹《シキシマノヤマトノクニニ》、人多爾滿而雖有《ヒトサハニミチテアレドモ》、藤浪乃思纏《フヂナミノオモヒマツハリ》、若草乃思就西君目二戀八將明《ワカクサノオモヒツキニシキミガメニコヒヤアカサム》、長此夜乎《ナガキコノヨヲ》、反歌、式(390)島乃山跡乃土丹人二有年念者難可將嗟《シキシマノヤマトノクニニヒトフタリアリトシモハバナニカナゲカム》とあるは、今の大御歌の意味に同じ、又同卷に、玉田次不懸時無《タマタスキカケヌトキナク》、吾念妹西不會波《アガオモフイモニシアハネバ》、赤根刺日者之彌良爾《アカネサスヒルハシミラニ》、烏玉之夜者酢辛二《ヌバタマノヨルハスガラニ》、眠不睡爾妹戀丹《イモネズニイモニコフルニ》、生流爲便無《イケルスベナシ》とあるも、詞義似通へり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
486 山羽爾《ヤマノハニ》。味村騷《アヂムラサワキ》。去奈禮騰《ユクナレド》。吾者左夫思惠《アレハサブシエ》。君二四不在者《キミニシアラネバ》。
 
山羽《ヤマノハ》は、山(ノ)端《ハ》なり、既く出づ、○味村騷去奈禮騰《アヂムラサワキユクナレド》(騷(ノ)字、仙覺抄、古寫一本、拾穗本等には驂、異本には躁と作り、奈(ノ)字、活字本に桑と作るは誤なり、)は、味村は、枕詞に味村乃《アヂムラノ》といへるに同じく、騷《サワク》をいはむ料にて、こゝはやがて其を引續てのたまへるなり、騷去は、人の騷(キ)行來なり、こを耳遠く解《イハ》ば、山(ノ)端に、味《アヂ》の群鳥《ムラトリ》の騷《サワ》きて行(ク)如く、國内道路《クニウチノミチミチ》、あまた人は滿(チ)騷ぎ行なれど、といはむが如し、(契冲が、味村を、人になしてのたまへるなり、と云るは、まぎらはし、)○左夫思惠《サブシヱ》は、左夫思《サブシ》は、既く一(ノ)卷に出づ、惠《ヱ》は歎息(ノ)辭なり、十一に、足千根乃母爾不所知吾持留心者吉惠君之隨意《タラチネノハヽニシラセズアガモタルコヽロハヨシヱキミガマニマニ》、十四に、可美都氣野左野乃九久多知乎里波夜志安禮波麻多牟惠許登之許受登母《カミツケヌサヌノククタチヲリハヤシアレハマタムヱコトシコズトモ》、天智天皇(ノ)紀(ノ)童謡に、愛倶流之衛《エグルシヱ》、阿例播倶流之衛《アレハクルシヱ》などあり、○君二四《キミニシ》は、四《シ》の助辭は、その一(ト)すぢをとりたてゝ、おもく思はする處におく辭なること、上に云るが如し、○大御歌(ノ)意は、山の端に、味の群島の騷ぎてゆく如く、國内道路を滿さわぎて人はおほく行なれど、一人だに吾(ガ)戀しく(391)思ふ君にあらねば、なぐさ意もなく、一(ト)すぢにさぶ/\しく、さてもかなしく思はるゝ事哉となり、
 
487 淡海路乃《アフミヂノ》。鳥籠之山有《トコノヤマナル》。不知哉川《イサヤガハ》。氣乃己呂其侶波《ケノコノゴロハ》。戀乍裳將有《コヒツヽモアラム》。
 
鳥籠之山《トコノヤマ》は、近江(ノ)國犬上(ノ)郡に在(リ)、十一に、狗上之鳥籠山爾有不知也河《イヌカミノトコノヤマナルイサヤガハ》、天武天皇(ノ)紀に、元年秋七月戊戌|男依等《ヲヨリラ》、討(テ)2近江(ノ)將秦(ノ)友足(ヲ)於|鳥籠山《トコノヤマニ》1斬之《キリツ》、など見ゆ、○不知哉川《イサヤガハ》は、鳥籠(ノ)山より流(レ)出る川なるべし、(源氏物語に、いさら川とし、後の物どもに、いさゝ川と書《カケ》るは、皆この不知哉川なり、いかでさばかり訛れりけむ、)天武天皇(ノ)紀に、將v襲(ムト)2不破(ニ)1、而軍(ス)2于|犬上川濱《イヌカミガハノホトリニ》1、とある犬上川は、則(チ)此(ノ)不知哉川にやと契冲云り、○氣乃己呂其侶波《ケノコノゴロハ》は、契冲が、いさや川といひて、氣《ケ》とつゞけさせたまふ心は、氣《ケ》は水の氣にて、川霧なりと云り、其(ノ)意なり、(つれ/”\草に、汀《ミギハ》の草に紅葉のちりとゞまりて、霜いとしろう置るあした、やり水より煙の立こそをかしけれとある、煙も水の氣なり、略解に、不知哉川といふを、やがて女の情をいさ不v知と云に、とりなし賜へりと云るは、通難《キコエガタ》し、)さて受たる下の意は、氣《ケ》は氣長《ケナガキ》の氣《ケ》、己呂其侶波は、本居氏の、呂は乃(ノ)字の誤と云る如くにて、來經《キヘ》の此頃者《コノゴロハ》なり、○大御歌意は、日の暮る迄、夜の明る限(リ)戀しく思へども、其しるしだになければ、縱《ヨシ》や此(ノ)日頃《ヒゴロ》は、戀つゝもさてあり得むよとなり、上には、御思のさかりなるを宣ひ、こゝには、いさゝかその切なるを設て、縱《ユル》べ賜へる御趣《ミオモムキ》なり、
 
(392)額田王《ヌカタノオホキミノ》。思《シヌヒマツリテ》2近江天皇《アフミノスメラミコトヲ》1作歌一首《ヨミタマヘルウタヒトツ》。
 
額田(ノ)王は、一(ノ)卷に出て具(ク)註り、○近江(ノ)天皇は、天智天皇なり、
 
488 君待登《キミマツト》。吾戀居者《アガコヒヲレバ》。我屋戸之《ワガヤドノ》。簾動之《スダレウゴカシ》。秋風吹《アキノカゼフク》。
 
簾《スダレ》は、字鏡に、箔須太禮《ハスダレ》、箔(ハ)簾也|須太禮《スダレ》、と見ゆ、名(ノ)意は簀垂《スダレ》なり、十一に、玉垂之小簀之垂簀乎《タマタレノヲスノタレスヲ》ともよめり、○秋風吹《アキノカゼフク》は、人を戀しく思ふをり、風の吹來るは、其(ノ)人の來らむとする前兆《シルシ》ぞ、といふ諺のありしをふみて、よみ給へるなるべし、其は八(ノ)卷宇合(ノ)卿(ノ)歌に、我背兒乎何時曾且今登待苗爾於毛也者將見秋風吹《ワガセコヲイツゾイマカトマツナベニオモヤハミエムアキノカゼフク》(於毛也は、面輪なるべし、)とあるも、いつしか來むと待居(ル)なべに、面輪の見え來むといふ前兆に、秋(ノ)風吹とよまれたるを思ふべし、(契冲が簾動かし秋の風吹は、もしやおはしますとおもふ心に、簾をうごかす秋風の音も、君かとおもひてはからるゝなり、と云る如くに、誰も一(ト)わたりは、しか、意得らるゝに、次(ノ)鏡(ノ)女王(ノ)歌は、やがて此(ノ)歌に答へて、よみ賜へりとおもはるゝに、さては風乎太爾戀流波乏之《カゼヲダニコフルハトモシ》といふこと相應《カナハ》ず、なほ次にいふを見て考(フ)べし、)○歌(ノ)意は、君を待て吾(ガ)戀しく思(ヒ)居れば、その人の來座べき前兆なるべし、簾をうごかして、風のそよ/\と吹來れるは、いとたのもしき事ぞとなり、(○六帖に君まつとこひつゝふればわがやどのすゝきうごきて秋風ぞ吹と有は、すだれを、すゝきと寫し誤れるなるべし、
 
(393)鏡女王作歌一首《カヾミノオホキミノヨミタマヘルウタヒトツ》。
 
鏡(ノ)女王も、一卷に具(ク)註り、舊本女王を、王女と作るは、誤なり、今改めつ、
 
489 風乎太爾《カゼヲダニ》。戀流波乏之《コフルハトモシ》。風小谷《カゼヲダニ》。將來登時待者《コムトシマタバ》。何香將嘆《ナニカナゲカム》。
 
戀流波乏之《コフルハトモシ》は、戀流は愛《メヅ》る意、既く云り、乏《トモシ》は例のうらやましの意なり、○風小谷《ガゼヲダニ》は上なる詞を重ねたるのみなり、風乎谷戀流波乏之といふ二句を、重ね云意なり、と本居氏の説《イヘ》る如し、○何香將嘆《ナニカナゲカム》(將(ノ)字、活字本に時と作るは誤なり、)は、嘆くべき事にあらずとなり、十(ノ)卷に、金山舌日下鳴鳥音聞何嘆《アキヤマノシタヒガシタニナクトリノコヱダニキカバナニカナグカム》とあるに同じ、○歌(ノ)意は、簾動之秋風吹とて風を愛賞《メデウツクシミ》賜ふは、うらやましきことにぞ侍る、われは夫(ノ)君の來坐む前兆《シルシ》の風だに吹ねば、甚うき事なり、其(ノ)風をたのみにて、君の來坐むを待ば、何かは嘆くべきことのあらむとなり、(此(ノ)風を、使なりと云説は、うけがたし、又上(ノ)歌の秋風吹を、君かとおもひはからるゝ意に見ては、答へ賜へる意には、彌疎し、)○以上二首歌、八(ノ)卷秋(ノ)相聞に更(タ)出せり、
 
吹黄刀自歌二首《フキノトジガウタフタツ》。
 
吹黄(ノ)刀自は、一(ノ)卷に出(ヅ)、
 
490 眞野之浦乃《マヌノウラノ》。與騰乃繼橋《ヨドノツギハシ》。情由毛《コヽロユモ》。思哉妹之《オモヘヤイモガ》。伊目爾之所見《イメニシミユル》。
 
眞野之浦《マヌノウラ》は、攝津(ノ)國八田部(ノ)郡なり、十一に、眞野之浦之小菅之笠乎不着而來二有《マヌノウラノコスゲノカサヲキズテキニケリ》、また眞野池(394)之小菅乎笠爾不縫爲而《マヌノイケノコスゲヲカサニヌハズシテ》、また三(ノ)卷、七(ノ)卷に、白菅乃眞野乃榛原《シラスゲノマヌノハリハラ》とよめるも、皆同地なり、○與騰乃繼橋《ヨドノツギハシ》は、攝津志に、苅藻(ノ)橋在2矢田部(ノ)郡(ノ)東尻地村(ニ)1或曰、眞野(ノ)繼橋即(チ)此(レ)とあり、繼橋は、今の瀬田の橋の如く、中に島の如き處ありて、又懸渡せるを云なるべしと云り、(金葉集に、しるらめや與騰の繼橋よとともにつれなき人を戀渡るとは、)さて心から繼て思へばにや、妹が夢には見ゆらむといはむためなり、と契冲が云る如し三(ノ)卷高市(ノ)皇子(ノ)尊の、神之神須疑《カミノカムスギ》とよませ賜へるも、十市(ノ)皇女の薨《スギ》坐るを須疑《スギ》と云るにもたせ賜へると、同例なり、○惰由毛《コヽロユモ》は、情從《コヽロヨリ》もにて、情(ノ)裏よりもといふが如し、毛《モ》は、表《オモテ》はさるものにて、裏《ウチ》よりも、眞實に思ふよしなり、此(ノ)下に、從情毛我者不念寸《コヽロユモアハモハザリキ》、五(ノ)卷に、許々呂由母於母波奴阿比陀爾《コヽロユモオモハヌアヒダニ》、七(ノ)卷に、從心毛不想人之衣爾須良由奈《コヽロユモオモハヌヒトノキヌニスラユナ》、十一に、小野之淺茅乎自心毛人引目八面《ヲヌノアサヂヲコヽロユモヒトヒカメヤモ》など見ゆ、皆同じ、○思哉妹之《オモヘヤイモガ》は、思ばにや妹がといふ意なり、さて妹と云るにつきて、既く契冲が、吹黄(ノ)刀自が歌ならば、妹にてはなくて、君にてあるべし、もしもとより妹ならば、別人の歌なるべし、刀自と名におひて、第一(ノ)卷(ノ)歌には、常にもがもなとこをとめにて、とよみたれば、まぎれなく女なりと云り、こは誰も昔(シ)來《ヨリ》疑ふことなれど、此(ノ)下に、紀(ノ)女郎裹v物(ヲ)贈v友(ニ)歌に、爲妹袖左倍所沾而刈流玉藻烏《イモガタメソデサヘヌレテカレルタマモゾ》と見え、又十九に、家持(ノ)卿の妹の、其(ノ)妻の許に贈(レル)歌、其(ノ)答(ヘ)歌などにも皆妹と云れば、此(ノ)頃は、やゝ女どちの間にても、稱(フ)ことになれりしなり、かくて是は女どちの間にゆゑありて、情を告遣れるなるべし、さて(395)次の歌には我背子《ワガセコ》とよめれば、もとより別時の作にてありしなり、○伊目爾之所見《イメニシミユル》は、夢に所見《ユル》にて、之《シ》は、その一(ト)すぢなることを、おもく思はせたる助辭なり、○歌(ノ)意は打つゞきて絶ず戀しく、情(ノ)裏より眞實に思へばにや、夜々夢に見えて、一(ト)すぢに戀しく忘られぬとなり、
 
491 河上乃《カハカミノ》。伊都藻之花乃《イツモノハナノ》。何時何時《イツモイツモ》。來益我背子《キマセワガセコ》。時自異目八方《トキジケメヤマオ》。
 
河上乃は、カハカミノ〔五字右○〕と訓べし、(又カハノヘノ〔五字右○〕と訓ても宜し、)十四に、可波加美能禰自路多可我夜《カハカミノネジロタカガヤ》とあり、○伊都藻之花乃《イツモノハナノ》(藻(ノ)字、活字本に藤と作るは誤なり、)は、何時何時《イヅモイツモ》といはむ料の序なり、伊都藻は、(契冲が、藻の中の一種なるべし、と云るはあらじ、)五柴《イツシバ》五本柳《イツモトヤナギ》などの五《イツ》と同言なり、なほ此(ノ)下に具(ク)註べし、○何時何時《イツモイツモ》、(類聚抄に一(ツ)の何時の二字無は、脱たるなり、)廿(ノ)卷に、和加加都乃以都母等夜奈枳以都母以都母於母加古比須奈奈理麻之都之母《ワガカヅノイツモトヤナギイツモイツモオモガコヒスナナリマシツシモ》、六帖に、鹽の滿いつもの浦のいつも/\君をば深く思ふ我はや、などよめるに同じ、(俗に、不斷常住といふ意に落る詞なり、三(ノ)卷に、妹家爾開有梅之何時毛何時毛《イモガヘニサキタルウメノイツモイツモ》とあるは、詞同じくて、意少しかはれり、○時自異目八方《トキジケメヤモ》は、何時とても、時ならずと云ことあらむやは、嗚呼《アヽ》いつも乞々《イデ/\》來ませとの意なり、十八に、牟都奇多都波流能波自米爾可久之都追安比之惠美天婆等枳自家米也母《ムツキタツハルノハジメニカクシツツアヒシエミテバトキジケメヤモ》とあり、なほ時自久《トキジク》といふ詞の例は、一(ノ)卷(ノ)上に具(ク)云り、八《ヤ》は、後(ノ)世の也波《ヤハ》の意、方《モ》は、歎息を含める助辭なり、○歌意は、いつも/\常止ず繼て、乞々《イデ/\》來坐(セ)吾(ガ)夫子よ、嗚呼何時とても、此(レ)は來座べ(396)き時ならずと云こと有むやは、といふなり、○此(ノ)歌、十(ノ)卷春(ノ)相聞に重載たり、
 
田部忌寸櫟子《タベノイミキイチヒコガ》。任《マケラルヽ》2太宰《オホミコトモチノツカサニ》1時歌四首《トキノウタヨツ》。
 
櫟子は、傳知ず、
 
492 衣手爾《コロモテニ》。取等騰己保里《トリトドコホリ》。哭兒爾毛《ナクコニモ》。益有吾乎《マサレルアレヲ》。置而如何將爲《オキテイカニセム》。 舍人千年。
 
等騰己保里《トドコホリ》は、取《リ》著て留《トヾマ》るよしなり、本居氏云、等騰《トド》は留《トヾマル》なり、己保里《コホリ》は、凍《コホル》と同言なり、行水も凍れば止まればなり、○歌ノ意は、母が袖に取著(キ)留りて、哭慕ふ乳兒にも益りて、君を慕ふ吾なるを遺(シ)置て、いかにせむとかするとなり、廿(ノ)卷は、可良己呂茂須曾爾等里都伎奈苦古良乎意伎弖曾伎怒也意母奈之爾志弖《カラコロモスソニトリツキナクコラヲオキテソキヌヤオモナシニシテ》、又|島守爾和我多知久禮婆《サキモリニワガタチクレバ》云々、若草之都麻母古騰母毛乎知己知爾左波爾可久美爲《ワカクサノツマモコドモモヲチコチニサハニカクミヰ》、春鳥乃己惠乃佐麻次比之路多倍乃蘇※[泥/土]奈伎奴良之《ハルトリノコヱノサマヨヒシロタヘノソデナキヌラシ》、多豆佐波里和可禮加弖爾等《タヅサハリワカレカテニト》、比伎等騰米之多比之毛能乎《ヒキトドメシタヒシモノヲ》、などあるを考(ヘ)合(ス)べし、○舍人千年の四字は、舊本には無(シ)、元暦本に從り、又古寫本、拾穗本等には、舍人吉年とあり、吉年は、二(ノ)卷に既く出づ、千吉、一(ツ)は一(ツ)を誤れるにて同人なるべし、櫟子が相知れる女なるべし、傳未(タ)詳ならず、櫟子が太宰に任られてゆく時、この千年がよめる歌なり、
 
493 置而行者《オキテユカバ》。妹將戀可聞《イモコヒムカモ》。敷細乃《シキタヘノ》。黒髪布而《クロカミシキテ》。長此夜乎《ナガキコノヨヲ》。田部忌寸櫟子
 
黒髪布而《クロカミシキテ》は、黒髪を床にうち敷て寢てのよしなり、十一に、夜干玉之妹之黒髪今夜毛加吾無(397)床爾靡而宿良武《ヌバタマノイモガクロカミコヨヒモカアガナキトコニヌラシテヌラム》、又|夜干玉之吾黒髪乎引奴良思亂而反戀度鴨《ヌバタマノアガクロカミヲヒキヌラシミダレテアレバコヒワタルカモ》、などあるに意同じ、○歌(ノ)意は、妹を遺し置て旅に行ば、妹が黒髪を、吾なき床にうちしき靡して、長き此(ノ)夜を、吾を戀しく思ひつゝ寢らむか、さりとはいとはしき事となり、一五三四二、と句を次第て意得べし、此は千年は、櫟子が相しれる女なること、次下の歌にてしられたり、○田部云々の六字、舊本には无(シ)、元暦本、拾穗本等に從つ、
 
494 吾妹兒矣《ワギモコヲ》。相令知《アヒシラシメシ》。人乎許曾《ヒトヲコソ》。戀之益者《コヒノマサレバ》。恨三念《ウラメシミモヘ》。
 
相令知人《アヒシラシメシヒト》とは、はじめ女の媒して、相知せし人をいふなり、(契冲が、なかだちなどいふにはあらず、と云るはわろし、)○許曾《コソ》は、他にむかへて、その物をえり出て、たしかにいふときの詞なり、○恨三念《ウラメシミモヘ》は、恨しう念へといふ意なり、この三《ミ》の辭は一格《ヒトツノスガタ》なり、既く具(ク)云り、○歌(ノ)意は、あまりに妹と離るゝことのすべなく、かなしさのまさるにつきて、はじめより相知(ラ)ず、他《ヨソ》人にてあらましかば、かゝるつらさはあらじをとて、はじめ仲媒せし人をこそ、恨めしうおもへとなり、
 
495 朝日影《アサヒカゲ》。爾保敝流山爾《ニホヘルヤマニ》。照月乃《テルツキノ》。不※[厭のがんだれなし]君乎《アカザルキミヲ》。山越爾置手《ヤマコシニオキテ》。
 
本の三句は、朝日影の、かつ/”\さしはへて艶へる山に、在明(ノ)月の照(レ)る景色の、あかずおもしろきを云て、不厭をいはむ料の序とせり、○不※[厭のがんだれなし]君乎《アカザルキミヲ》(※[厭のがんだれなし](ノ)字、拾穗本には〓と作り、)は、相見る度(398)に愛くて、常厭ざる君なるものをといふなり、これも右の千年をさして云るなるべし、上には妹といひ、こゝには君と云れど、別人にはあらざるべし、又千年は、櫟子が本妻にてはあらざるべし、○山越爾置手《ヤマコシニオキテ》は、契冲、かくいひはてぬやうなるに、かぎりなき意こもりて、いはぬがいふにまさるなり、と云り、今(ノ)世の常の語にもあることなり、十一に、往而見而來者戀敷朝香方山越置代宿不勝鴨《ユキテミテクレバコヒシキアサカガタヤマコシニオキテイネカテヌカモ》とあり○歌(ノ)意は、相見る度に愛くて、常に厭ず思はるゝ君なるものを、山越に遺し置て、遠く別れ行むと思ふが、いと悲しき事となり、
 
柿本朝臣人麻呂歌四首《カキノモトノアソミヒトマロガウタヨツ》。
 
496 三熊野之《ミクマヌノ》。浦乃濱木綿《ウラノハマユフ》。百重成《モヽヘナス》。心者雖念《コヽロハモヘド》。直不相鴨《タヾニアハヌカモ》。
 
三熊野《ミクマヌ》は、紀伊國牟婁(ノ)郡熊野にて、名高し、三《ミ》は、御吉野《ミヨシヌ》の御《ミ》に同じく、美稱なり、眞熊野とも云り、○濱木綿《ハマユフ》は草(ノ)名、俗に濱おもとゝも、濱芭蕉とも云り、其(ノ)莖の皮、幾重も垂れるものなる故に、百重成《モヽヘナス》と云む料に設て云るなり、(契冲が、今案に、濱ゆふは浪をいふかと云るは、非ず、)なほこの草のこと、品物解に具(ク)云、六帖に、見くま野の浦の濱ゆふ幾重《イクカサネ》我をば君が思ひへだつるとあり、(忠見集に、三熊野の浦の濱ゆふたか舟の何かはいくへつみてかへらむ、)○百重成《モヽヘナス》(活字本に重の上に、二(ノ)字あるは非なり、)は、百垂の如くにと云むが如し、成《ナス》は、如くといふ意の辭なり、十二に、吾戀者夜畫不別百事成情之念者甚爲梗無《ワガコヒハヨルヒルワカズモヽヘナスコヽロシモヘバイトモスベナシ》ともあり○直不相鴨《タヾニアハヌカモ》は、二(ノ)卷に、賀欲(399)布跡羽目爾者雖観直爾不相香裳《カヨフトハメニハミレドモタヾニアハヌカモ》とあり、○歌(ノ)意は、濱木綿の皮の百重にも重れるが如く、いとしげくわづらはしく思へども、さばかり思ふかひもなく、直に相見る事もなくて、いとかなしく思はるゝ事哉となり、
 
497 古爾《イニシヘニ》。有兼人毛《アリケムヒトモ》。如吾歟《アガゴトカ》。妹爾戀乍《イモニコヒツヽ》。宿不勝家牟《イネカテニケム》。
 
如吾歟《アガゴトカ》は、吾が如くにやの意なり、七(ノ)卷に、詠v葉(ヲ)、古爾有險人母如吾等架彌和乃檜原爾挿頭折兼《イニシヘニアリケムヒトモアガゴトカミワノヒハラニカサシヲリケム》とあるに、本(ノ)句は全(ラ)同じ、○宿不勝家牟《イネカテニケム》は、寢難《イネカテ》にけむなり、難《カテ》を不勝《カテ》と書るは、タヘズ〔三字右○〕といふ意をとれるなれば、難きと同意におつめり、(契冲が、かてには、かたずといふことなり、不v知を、しらにといふがごとし、かたずは、あへず、たへずといふに同じ心なり、難の字をかきて、いねかてといふにはかはれり、と云るは、まぎらはし、既く具(ク)云り、)○歌(ノ)意は、古(ヘ)にありけむ人も吾(カ)妻戀する如くにや、夜も寐難にしけむ、されば今のみの行事《ワザ》にはあらで、古人もしかありしなるべければ、今生に妻戀するは、げにさることなめりと云て、自(ラ)我身をなぐさむるなるべし、こは古歌に、妻戀に宿難にせるよし、多くよめるなどを、おもひて云るなるべし、
 
498 今耳之《イマノミノ》。行事庭不有《ワザニハアラズ》。古《イニシヘノ》。人曾益而《ヒトゾマサリテ》。哭左倍鳴四《ネニサヘナキシ》。
 
哭左倍鳴四は、ネニサヘナキシ〔七字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、古(ノ)人ぞ、吾に益りて哭にさへ泣て妻戀せしなれば、今のみの行事にはあらず、されば今(ノ)人の、妻戀するは、げにうべなる事ぞとなり、上(400)には宿難にけむとおぼめかしでいひ、今は哭にさへ啼しとさだめ云て、いよ/\自《ミヅカラ》慰むるなり、
 
499 百重二物《モヽヘニモ》。來及毳常《キシカヌカモト》。念鴨《オモヘカモ》。公之使乃《キミガツカヒノ》。雖見不飽有武《ミレドアカザラム》。
 
百重二物《モヽヘニモ》は、使の間繁く百度にもの意なり、○來及毳常(常(ノ)字、活字本に無はわろし、)は、キシカヌカモト〔七字右○〕と訓べし、及《シク》は、彌頻々《イヤシク/\》に重る意なり、志加奴《シカヌ》といふは、奴は(不(ノ)字の意にあらず、)希望(ノ)辭の禰《ネ》の轉れるなり、有(レ)かし、逢(ヘ)かしと望《ネガ》ふ意を、有奴可毛《アラヌカモ》、逢奴可毛《アハヌカモ》など云る例にて、こゝの意をわきまへつべし、さて及の一字にては、シカヌ〔三字右○〕と訓べからねば、こゝは字の脱たるものかとも云べけれど、ねがふ意の奴《ヌ》の辭は、省きて書る例、集中に多し、七(ノ)卷に、青角髪《アヲミヅラ》云々人相鴨《ヒトモアハヌカモ》、十卷に、霞發《カスミタツ》云々|妹相鴨《イモニアハヌカモ》、又|五月山《サツキヤマ》云々|又鳴鴨《マタナカヌカモ》、また霍公鳥來居裳鳴香《ホトヽギスキヰモナカヌカ》、十一に、我勢古波《ワガセコハ》云々|人來鴨《ヒトモコヌカモ》、又|日低者《ヒクレナバ》云々|有與鴨《アリコセヌカモ》、又|如是爲乍《カクシツヽ》云々|有鴨《アラヌカモ》、又|敷細《シキタヘノ》云々|急明鴨《ハヤモアケヌカモ》、これら皆|奴《ヌ》の辭にあたる字を略きて書り、(古來この及毳をオヨベカモ〔五字右○〕とよめるは、古言に疎し、本居氏の、シケカモ〔四字右○〕とよめるは、及の訓はよろしけれども、有(レ)をアレカモ〔四字右○〕、逢(ヘ)をアヘカモ〔四字右○〕など云べき語格なければ、なほあしかりけり、)毳《カモ》は哉《カモ》の借(リ)字なり、和名抄に、野王曰、氈(ハ)毛席撚v毛(ヲ)爲v席(ト)也、和名|賀毛《カモ》、字鏡に、〓〓(ハ)加毛《カモ》、とあり、毳(ノ)字も毛席にて、件等の字皆同物にして、加毛《カモ》なれば、哉に借て書るなり、さて公が使の、頻屡《シキリ/\》に來よかしとの意なり、○念鴨《オモヘカモ》は、念へばかもといふなり、母《モ》は歎(401)息(ノ)辭なり、念へばにや、嗚呼《アハレ》云々の意なり、○雖見不飽有武(武(ノ)字、舊本哉に誤れり、類聚抄、古寫一本等に從つ、)は、ミレドアカザラム〔八字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、間繁く百遍にも、重々に繼て來よかしと思(ヘ)ばにや、公が使の愛しく、嗚呼《アハレ》見れどあかずあるらむとなり、
 
碁檀越《ゴノダムヲチガ》往《ユク》2伊勢國《イセノクニニ》1時《トキ》。留妻作歌一首《トゞマレルメガヨメルウタヒトツ》。
 
碁(ノ)檀越、(碁(ノ)字、目録また古本には基と作、拾穗本には※[其/木]と作り、)碁は氏、檀越は名なるべし、(按(フ)に、碁は、圍碁の業を善せるによりて、呼なせるか、中昔に、壹岐(ノ)判官知康を、皷判官と呼なせる類にてもあるべきか、傳未(ダ)詳ならず、此は俗人にて、久米(ノ)禅師などゝ同類の、うるさき名なり、
 
500 神風之《カムカゼノ》。伊勢乃濱荻《イセノハマヲギ》。折伏《ヲリフセテ》。客宿也將爲《タビネヤスラム》。荒濱邊爾《アラキハマヘニ》。
 
濱荻《ハマヲギ》は、即(チ)海濱に生たる荻にて、濱藻、濱松などいふ類にて、別種の荻を云にはあらざるべし、荻は品物解に云り、○歌(ノ)意かくれたるところなし、吾(カ)夫の旅宿をおもひやれるさま、最|可憐《アハレ》なる歌なり、(新古今集に、いくよかは月をあはれとながめ來て浪に折しく伊勢の濱荻、全(ク)今の歌によれり、
 
柿本朝臣人麻呂歌三首《カキノモトノアソミヒトマロガウタミツ》。
 
501 未通女等之《ヲトメラガ》。袖振山乃《ソデフルヤマノ》。水垣之《ミヅカキノ》。久時從《ヒサシキトキニ》。憶寸吾者《オモヒキワレハ》。
 
未通女等之袖《ヲトメラガソテ》といふまでは、振《フル》山をいはむ料なり、十二には、石上袖振河之《イソノカミソテフルカハノ》とあり、又|登能雲(402)入雨零河之《トノクモリアメフルカハノ》ともよめり、此(ノ)餘に、吾妹兒爾衣借香之《ワギモコニコロモカスガノ》、また吾妹子乎聞都賀野邊能《ワギモコヲキヽツガヌヘノ》、また梓弓引豐國之《アヅサユミヒキトヨクニノ》、また舊衣著楢之里之《フルコロモキナラノサトノ》、續後紀長歌に、旅人爾宿春日奈流《タビビトニヤドカスガナル》などある、みな此類の云つゞけなり、○振山《フルヤマ》は、大和(ノ)國山邊(ノ)郡石(ノ)上といふ地に、布留(ノ)御魂(ノ)社あり、其處なり、古事記中卷に、建御雷(ノ)神答(ヘ)曰(ク)、專(ラ)有《アレバ》d平《ムケシ》2其(ノ)國1之|横刀《タチ》u可《テム》v降《クダシ》、此刀(ノ)名(ヲ)云2佐士布都(ノ)神1、亦名(ハ)云2甕布都(ノ)神(ト)1、亦名(ハ)布都(ノ)御魂、此(ノ)刀者坐2石(ノ)上(ノ)神(ノ)宮(ニ)1也、神名帳に、大和國山邊(ノ)郡石上(ニ)坐布留(ノ)御魂(ノ)神社など見えたり、○水垣乃《ミヅカキノ》は、水は美稱にて、神社の御垣をほめて云り、神代紀に、瑞宮《ミヅノミアラカ》とある美豆《ミヅ》に同じ、さてこれまでは、久(シキ)時といはむ料の序なり、さてかく序をおける意は、契冲云、下河邊(ノ)長流が枕詞燭明抄に、みづかきの久しき世といふことは、舊事本紀云、磯城(ノ)瑞籬(ノ)宮天皇(ノ)御宇、布都(ノ)大神(ノ)社、大倭(ノ)國山邊(ノ)郡石上(ノ)邑(ニ)移建天璽瑞寶同共藏、號2石上(ノ)大神(ト)1、以爲2國家(ノ)1爲2氏神(ト)1云々、しかれば布留の社は、瑞籬の宮の御宇にたてられて、我(カ)國にては神社のはじめとす、依て布留の社は、ふるき事に別してよめり、ふるの社の神垣をもて、皇居の瑞籬の宮に兼相て、みづかきの久しき世とはよめるなりと云り、(已上)大かたの意は、まづかくの如し、(但し神社のはじめとすと云るも、皇居の瑞籬(ノ)宮に相兼たりと云るも、共にわろし、)さてしからば、振山の水垣に限りていふべきに、十三に、※[木+若]垣久時從戀爲者《ミヅカキノヒサシキトキユコヒスレバ》云々とあるは、いかゞぞやおもはるゝに從て、なほ熟《ヨク》考ふるに、彼(ノ)十三なるは、柿本朝臣人麻呂(ノ)歌集(ノ)歌(ニ)曰とて、長歌短歌ありて、其(ノ)次下に、小治田之《ヲハリタノ》云々の長(403)歌又反歌ありて、或本反歌(ニ)曰|※[木+若]垣《ミヅカキノ》云々とあれど、小治田之《ヲハリタノ》云々の反歌のさまならず、引混《ヒキマガヘ》て入(レ)しものと見ゆれば、これも本は、人麻呂(ノ)歌集中の歌にて、さて今の未通女等之《ヲトメラガ》云々の歌に次て、同時に人麻呂の作《ヨマ》れしものならむと、昔(シ)より混亂《オキタガヘ》しならむ、さてしかするときは、上は今の歌に委ね省(キ)て作(メ)るものとすべし、こは甚く強たることなるやうなれども、必(ス)しかありけむとおもはるゝなり、(冠辭考に、十三なる※[木+若]垣《ミヅガキ》云々を、崇神天皇の磯城(ノ)瑞籬(ノ)宮のことゝして解たれども、しからず、若(シ)此(ノ)宮號につきていはゞ、端籬(ノ)宮のといはでは言たらず、水垣とのみにては、宮號にはなりがたかるべしと本居氏云り、又同人(ノ)説に、今の歌は人麻呂(ノ)歌とはあれど、人麻呂よりは古く聞ゆれば、たゞ水垣の久しきとのみよむは、今の歌に委て省けるなりと云れど、今の歌は人麻呂のなることは、いかでか疑はむ、)○久時從《ヒサシキトキユ》、久の下、古寫一本に寸(ノ)字あり、(從(ノ)字、活字本に?と作るは誤なり、)○憶寸吾者《オモヒキワレハ》は、吾は思ひ染《シミ》てけりと云なり、寸《キ》は、さきにありしことを、今かたるてにをはなり、○歌(ノ)意は、今あらたにはじまれることにはあらず、遠く久しき時より、吾は思ひ染てけりとなり、十一寄v物(ニ)陳v思(ヲ)、處女等乎袖振山水垣《ヲトメラヲソデフルヤマノミヅカキノ》、久時由念來吾等者《ヒサシキトキユオモヒキワレハ》と載たり、伊勢物語に、むつましと君は知ずや水垣の久しき世よりいはひ始てき、金葉集に、水垣の久かるべき君が代を天照神や空に知らむ、なども見えたり、
 
502 夏野去《ナツヌユク》。小牡鹿之角乃《ヲシカノツヌノ》。束間毛《ツカノマモ》。妹之心乎《イモガコヽロヲ》。忘而念哉《ワスレテモヘヤ》。
 
(404)本(ノ)二句は、牡鹿の夏の初に角をおとして、其が生かはれるが、いまだたけ短くて、手|一握《ヒトツカ》ばかりなるをもて、いひかけたり、○束間毛《ツカノマモ》は、しばらくの間もといふ意なり、二(ノ)卷に、大名兒彼方野邊爾刈草乃《オホナコヲヲチカタヌヘニカルカヤノ》、束間毛吾忘目八《ツカノアヒダモアレワスレメヤ》、十一に、紅之淺葉乃野良爾刈草乃《クレナヰノアサハノヌラニカルカヤノ》、束之間毛吾忘渚菜《ツカノアヒダモアヲワスラスナ》、金葉集に、朝日とも月ともわかず束の間も君を忘るゝ時しなければ、現存六帖に、人をいかでおもひわすれむ大原やこの市柴の束の間ばかり、など見えたり、○妹之心乎《イモガコヽロヲ》は、妹がことを心にといふ意なり、○忘而念哉《ワスレテモヘヤ》は忘れむやは忘れずの意なり、念は輕く添たる辭なり、哉《ヤ》は後(ノ)世の也波《ヤハ》の也《ヤ》なり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
503 珠衣乃《アリキヌノ》。狹藍左謂沈《サヰサヰシヅミ》。家妹爾《イヘノモニ》。物不語來而《モノイハズキニテ》。思金津裳《オモヒカネツモ》。
 
珠衣は、大町(ノ)稻城云、此(ノ)歌十四に、安利伎奴乃佐惠佐惠之豆美《アリキヌノサヱサヱシヅミ》云々と出て、全(ラ)同歌なり、さて十六に、蟻衣之寶之子等之《アリキヌノタカラノコラガ》、とあるなどを合(セ)思へば、珠は蟻の字の誤にて、アリキヌ〔四字右○〕なるべし、珠と蟻と草書似たり、さて蟻は借(リ)字にて織衣《オリキヌ》なり、上つ代には織衣《オリキヌ》と皮衣とならべ用ひしかば、皮衣にむかへて、織衣とは云なり、鳥けだものゝ皮もて衣とせしは、古事記に、故(レ)大國主(ノ)神坐2出雲之|御大《ミホ》之御前(ニ)1時、自2波(ノ)穂1乘2天之|蘿摩《カヾミノ》船(ニ)1而、内2剥《ウツハギニ》鵝皮《ヒムシノカハヲ》1剥《ハギ》爲《シテ》2衣服《キモノト》1、有2歸來神《ヨリクルカミ》1云云、此者神産巣日(ノ)神(ノ)御子|少名毘古那《スクナビコナノ》神(ナリ)、書紀應神天皇(ノ)卷に、於是天皇|西望之《ニシノカタヲミサケタマヘバ》數十麋鹿《アマタノオホシカ》、浮《ヨリ》v海來(テ)、入(ヌ)2于播磨(ノ)鹿子(ノ)水門(ニ)1、天皇謂2左右(ニ)1曰、其《カノ》何2麋鹿也《イカナルオホシカゾトノリタマヘリ》泛巨海多來《ウミヨリムレクルハ》1、爰(ニ)左右共視而奇(シト)則《オモヒテ》(405)遣v使(ヲ)令v察、使者至(テ)見(ニ)皆人也、唯以2著角鹿皮《ツヌツキタルカノカハヲ》1爲2衣服《キモノト》1耳、問2曰《トヒシカバ》誰人(ゾト)1對2曰《コタヘマヲシキ》諸縣君牛云々(ト)1、集中二(ノ)卷に、毛許呂裳遠春冬片設而幸之《ケコロモヲハルフユカタマケテイデマシノ》云々、こはけだものゝ毛を織たる衣、と思ふ人もあるべけれど、さにあらず、今(ノ)世までも行縢《ムカバキ》などに、鹿の毛皮もて造るを思へば、書紀の如く毛著の皮衣なり、三代實録に、禁v著2用(ルコトヲ)貂(ノ)裘(ヲ)1、但參議已上非2制(ノ)限(ニ)1、(和名抄云、貂和名|天《テム》、四聲字苑(ニ)曰、似v鼠(ニ)黄色皮堪v作(ニ)v裘(ニ)、黒貂和名|布流木《フルキ》、)江次第に、昔尾張(ノ)兼時云々、小一條(ノ)大將爲v使、脱2黒貂(ノ)裘(ヲ)1給2兼時(ニ)1、後有2悔氣1、上代以2此(ノ)裘(ヲ)1爲2重物(ト)1之故也、昔(シ)蕃客參入時、重明(ノ)親王乘2鴨毛(ノ)車1、著2黒貂《フルキノ》裘八重(ヲ)1見物、此間蕃客纔(ニ)以2件(ノ)裘一領(ヲ)1持來爲2重物1、見2八重(ヲ)1大慙云々、拾遺集に、中宮ふるきの皮衣を、高光少將入道、横河に住侍りけるに、遣しけるなど見えたり、さてオリ〔二字右○〕》とアリ〔二字右○〕とかよふ據は、欽明天皇(ノ)紀に、〓〓をアリカモ〔四字右○〕とよみて、天武天皇(ノ)紀に、氈をオリカモ〔四字右○〕とよめるにてさとるべし、さて加毛《カモ》も、皮ながらにも用ふれば、織れるをオリカモ〔四字右○〕と云るなり、(これまで稻城(カ)考、既く袖中抄にも、ありきぬは織絹なりと云り、本居氏玉勝間にありきぬは、鮮《アザヤカ》なる衣なり、阿利とはあざやかなるを云と云り、いかゞあらむ、)なほ阿利衣《アリキヌ》は、古事記雄略天皇(ノ)條(ノ)歌に、阿理岐奴能美弊能古賀《アリキヌノミヘノコガ》云々と見え、集中十五に、安里伎奴能安里弖能知爾毛《アリキヌノアリテノチニモ》云々と見ゆ、皮衣のことは、西宮記、源氏物語、枕册子、忠見集、多武(ノ)峯少將物語、職人歌合等にも見えたり、(字鏡に、〓(ハ)加波己呂毛、)加藤(ノ)枝直が、珠衣は、珠は洗の誤なり、ラヒ〔二字右○〕の反リ〔右○〕にて、あらひ衣ならむといへれどわろし、○狹(406)藍左謂沈《サヰサヰシヅミ》(狹(ノ)字、類聚抄に使と作、沈(ノ)字、活字本に淡と作るは、共に誤なり、)は、舊説に、さゐ/\は、衣の音なひのきわ/\とする心なりと云り、佐惠佐惠《サヱサヱ》といふも同じ、衣の音を云るは、詞花集に、しのびたる男の鳴ける衣を、かしがましとておしのけゝればよめる、和泉式部、音せぬはくるしき物を身に近くなるとていとふ人も有けり、源氏物語初音に、光もなく黒きかいねりの、さゐ/\しくはりたる一(ト)かさね、さるおり物のうちきをき給へる、いと寒げに心くるしとある註に、さゐ/\しくは、さや/\と鳴(ル)意なりと見え、若菜に、人々おびえさわぎて、そよ/\とみしろきさまよふけはひども、衣の音なひ耳かしましき心ちすとも見えたり、(司馬相加(カ)子虚(ノ)賦に、萃蔡《サヤケク》、漢書音義に、萃蔡(ハ)衣(ノ)聲也とあり、)さて古事記上卷に、爲釣海人之口大之尾翼鱸《ツラセルアマノオホクチノヲハタスヾキ》、佐和佐和邇控依騰而《サワサウニヒキヨセアゲテ》云々、佐和佐和《サワサウ》は、狹藍左謂《サヰサヰ》と同音にて、舟を海人どもの挽寄すとて、呼ぶ聲の喧く噪しきを云、此(ノ)言下(ノ)卷高津(ノ)宮(ノ)段(ノ)大御歌にもあり、と本居氏云り、(ありきぬの清潔《サヤサヤ》といふ意につゞきて、其を喧擾《サワサワ》にうつし云るなりと云説はわろし、上よりのつゞきも、衣の聲のさわ/\となるよしなればなり、)沈《シヅミ》は、十四に、佐須和奈乃可奈流麻之豆美許呂安禮比毛等久《サスワナノカナルマシヅミコロフレヒモトク》とある、之豆美《シヅミ》に同じ、別(レ)を慕ひて、家(ノ)妹がさわさわといひさわぎあへるを、おししづめてといふ意なり、俗に鳴(リ)を鎭《シヅ》めてといふに同意なり、○物不語來而はモノイハズキニテ〔八字右○〕と訓べし、此(ノ)歌十四に出たるにも、毛乃伊波受伎爾弖《モノイハズキニテ》とあり、又同卷に、水都等利乃(407)多々武與曾比爾《ミヅトリノタヽムヨソヒニ》、伊母能良爾《イモノラニ》、毛乃伊波受伎爾弖於毛比可禰都毛《モノイハズキニテオモヒカネツモ》、廿(ノ)卷に、美豆等利乃多知能已蘇伎爾父母爾《ミヅトリノタチノイソキニチヽハヽニ》、毛能波須價爾弖已麻叙久夜志伎《モノハズケニテイマゾクヤシキ》などあるに同じ、○思金津裳《オモヒカネツモ》(裳(ノ)字、活字本に津と作るは誤なり、)は、思に堪かねつもといふなり、金は不得《カネ》なり、裳《モ》は歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、別(レ)を慕ひて、家(ノ)妹がさわ/\といひさわぎあへるを、おししづめて、いふべきことをもいはずわかれ來て、今更思ひに堪がたくて、さても悲しき事哉となり、此(ノ)歌十四相聞に出て、末(ノ)句、毛乃伊波受伎爾弖於宅比具流之母《モノイハズキニテヲモヒグルシモ》(本(ノ)句は上(ニ)引、)とあり、歌(ノ)左註に柿本(ノ)朝臣人麻呂(ノ)歌集中(ニ)出見v上(ニ)已記(セリ)也とあるは、こゝをさせり、彼(ノ)歌集には、自(ラ)のをも他のをも、聞にまかせて載たるものと見ゆれど、今の歌は、信に彼(ノ)朝臣の詞氣なれば、こゝに云る如く、自作なること、さらに疑なし、
 
柿本朝臣人麻呂妻歌一首《カキノモトノアソミヒトマロガメノウタヒトツ》。
 
此(ノ)歌、類聚抄に、異本に坂上(ノ)郎女とありと云り、
 
504 君家爾《キミガヘニ》。吾住坂乃《ワガスミサカノ》。家道乎毛《イヘヂヲモ》。吾者不忘《アレハワスラジ》。命不死者《イノチシナズハ》。
 
君家爾吾《キミガヘニワガ》といふまでは、住と云む料の序なるべし、古(ヘ)女の許に通ひて宿るを、住《スム》と云ること多し、業平の、有常が女に住しなど云る類なり、古今集戀(ノ)題詞に、右の大いまうち君住ず成にければ、かの昔(シ)おこせたりける文どもを、とりあつめてかへすとて、よみておくりける云々、(408)離別左註に、この歌はある人つかさ給はりて、あたらしき妻につきて、とし經て住ける人をすてゝ云々、枕册子に、たのもしき物、いみじうしたてゝ聟とりたるに、いくほどなく住ぬ聟のさるべき處などにて、しうとにあひたるいとほしとや思ふらむ、新古今集哀傷に、年ごろ住侍(リ)ける女の身まかりにける、四十九日はてゝ云々など、いと多く見ゆ、これらは皆夫の婦の家に通婚《カヨフ》をいへり、婦の夫(ノ)家に適たるをも、住と云事ありしにや、○住坂《スミサカ》は、神武天皇(ノ)紀に天皇|陟《ノボリマシテ》2彼(ノ)菟田(ノ)高倉山之巓(ニ)1瞻2望《クニミセス》域中《クニハラヲ》1時、國見(ノ)岳(ノ)上(ニ)則有2八十梟帥1、又|墨坂《スミサカニ》置2※[火+赤]炭《オコシスミヲ》1、其(ノ)墨坂(トイフ)之|號《ナハ》由v此(ニ)而起(レリ)也と見ゆ、(契冲、此(ノ)妻身まかられる時、人麻呂のなげきてよまれたる歌に、天とぶやかるのみちをばわぎも子が里にしあればといへり、輕の里は、高市(ノ)郡、墨坂は宇陀(ノ)郡にて高市(ノ)郡の凡東にあたりて、其(ノ)あひだすこし隔たるべしといへり、しかれども此(ノ)人を、かの天とぶやかるの路はとよまれたる女と定めむ事は、おぼつかなし、人麻呂の妻と云る人、既く辨へたる如く多くあれば、いづれとはきはめがたきをや、)本居氏、坂は誤字ならむか、とまれかくまれ宇陀《ウタ》の墨坂《スミサカ》とは思はれず、彼(ノ)地は大和の東の邊地にて、京人の常に行かよふべき所にはあらずと云り、(されど此(ノ)女|所由《ユエ》ありて、墨坂を過《トホリ》て、人麻呂の家に適《ユキ》たることをいへるも知(リ)がたし、すべて人麻呂(ノ)妻と云る一人にかぎらねば、何方の女とも定めがたし、又遠き古(ヘ)のことなれば、墨坂を通ひし由縁も、委くは知がたき事にこそ、)猶さらに委しく考(ヘ)、よく尋(409)ねさだめていふべし、○家道《イヘヂ》は、家の方にゆきかよふ道を云、(住坂の家にかよふ道と云には非ず、君が家にかよふ住坂の道路の謂なり、)○吾者不忘《アレハワスラジ》(者(ノ)字、活字本に无は落たるなり、)は、神代紀彦火々出見(ノ)尊(ノ)御歌に、伊茂播和素羅珥《イモハワスラニ》(古事記には、和須禮士《ワスレジ》とあり、禮《レ》と云ても良といひても、おなじことゼ、)とあり、○命不死者《イ/チシナズハ》は、生てあらむほどはといふ意なり、命死と云るは、雄略天皇(ノ)紀(ノ)歌に、伊能致志儺磨志《イノチシナマシ》とあり、○歌(ノ)意は、命終たらばしらず、生てあらむほどは君が家に吾(ガ)過て適《ユキ》し住坂の道をさへも、吾は忘れじといふなるべし、
 
安部女郎歌二首《アベノイラツメガウタフタツ》。
 
安部(ノ)女郎(目録には、阿部と作り、)は三(ノ)卷に、阿倍(ノ)女郎とあると、同人なるべし、
 
505 今更《イマサラニ》。何乎可將念《ナニヲカオモハム》。打靡《ウチナビキ》。情者君爾《コヽロハキミニ》。縁爾之物乎《ヨリニシモノヲ》。
 
本(ノ)二句は、十(ノ)卷に、道邊之乎花我下之思草《ミチノヘノヲバナガモトノオモヒグサ》、今更爾何物可將念《イマサラ/\ニナニヲカオモハム》、とあるに同じ、十一に、云々物者不念斐太八乃《カニカクニモノハオモハズヒダヒトノ》、打墨繩之直一道二《ウツスミナハノタヾヒトミチニ》、とよめるこゝろばえなり、○打靡《ウチナビキ》は、縁《ヨル》と云に繋れる詞なり、○縁爾之物乎《ヨリニシモノヲ》は、下に、天雲之外從見吾妹兒爾《アマクモノヨソニミシヨリワギモコニ》、心毛身副縁西鬼尾《コヽロモミサヘヨリニシモノヲ》、とあるに同じ、○歌(ノ)意は、心は、君に一(ト)すぢに打なびき縁にしものを、今更に何事をかは思はむとなり、
 
506 吾背子波《ワガセコハ》。物莫念《モノナオモヒソ》。事之有者《コトシアラバ》。火爾毛水爾毛《ヒニモミヅニモ》。吾莫亡國《アレナケナクニ》。
 
事之有者《コトシアラバ》、は十六女子贈2與其(ノ)夫(ニ)1歌に、事之有者小泊瀬山乃石城爾毛《コトシアラバヲハツセヤマノイシキニモ》、隱者共爾莫思吾背《コモラバトモニナオモヒワガセ》、とあ(410)るに同じ、之《シ》は、その一(ト)すぢにしかることを、おもく思はする助辭なり、○火爾毛水爾毛《ヒニモミヅニモ》は、契冲云、第九見2菟原處女墓(ヲ)1歌に、水《ミヅ》に入(リ)火にも入むと立向ひ云々、敏達紀(ニ)云、足v食(ヲ)足(シ)v兵(ヲ)以(テ)v悦(ヲ)使(ハヽ)v民(ヲ)、不v憚(ラ)2水火(ニモ)1同恤2國難(ヲ)1、延喜式廿八兵部式(ニ)云、凡武藝優長、性志耿介、不v問2水火(ヲ)1必達v所(ニ)v向(フ)、勿v顧2死生(ヲ)1、一以當v百(ニ)者、並給2別禄(ヲ)1と云るが如し、○吾莫亡國《アレナケナクニ》(亡、舊本七に誤、)は、吾無らなくにの意にて、吾なきにてはなく、吾有ものをの意に落著詞なり、既く一(ノ)下に出、○歌意かくれたるところなし、
駿河※[女+采]女歌一首《スルガノウネベカウタヒトツ》。
 
駿河(ノ)※[女+采]女、(※[女+采](ノ)字、活字本に妹と作るは誤なり、)傳未(タ)詳ならず、八(ノ)卷には、駿河(ノ)采女と書り、采※[女+采](ハ)通し書ること、古書に例多し、玉篇に、※[女+采](ハ)采女也とあり、
 
507 敷細乃《シキタヘノ》。枕從久々流《マクラユクヽル》。涙二曾《ナミタニソ》。浮宿乎思家類《ウキネヲシケル》。戀乃繁爾《コヒノシゲキニ》。
 
枕從久々流《マクラユクヽル》は、枕を泳《クヾ》るといふ意なり、從《ユ》は、例の乎《ヲ》の辭に通ふ從《ユ》なり、○歌(ノ)意かくれなし、古今集に、涙川枕流るゝ浮宿には、夢もさだかに見えずぞありける、とよめる類なり、
 
三方沙彌歌一首《ミカタノサミガウタヒトツ》。
 
508 衣手乃《コロモテノ》。別今夜從《ワカルコヨヒユ》。妹毛吾母《イモモアレモ》。甚戀名《イタクコヒムナ》。相因乎奈美《アフヨシヲナミ》。
 
衣手乃別《コロモテノワカル》とは、身を相副たるが別るれば、衣袖の相離るゝ故に云るなり、集中に多き詞なり、○姉毛吾母《イモモアレモ》(毛(ノ)字、活字本には母と作り、)は、物二(ツ)を比べて、同等にしかりとする時にいふ詞な(411)り、○戀名《コヒムナ》は、名《ナ》は歎の意をふくめる助辭なり、(俗になあと云に同じ、)下に君之去者吾者將戀名《キミガイナバワレハコヒムナ》、七(ノ)卷に、家爾之弖有者將戀名《イヘニシテアレバコヒムナ》、十(ノ)卷に、左牡鹿者和備鳴將爲名《サヲシカハワビナキセムナ》、十七に、花者知良牟奈《ハナハチラムナ》、古事記中卷(ノ)歌に蘇良波由賀受阿斯用由久那《ソラハユカズアシヨユクナ》、書紀仁徳天皇(ノ)卷(ノ)歌に、和例烏斗波輸儺《ワレヲトハスナ》などあるに同じ、○歌(ノ)意は、今までは身を副てありしが、遠く相別れては、相見べきよしのなき故に、妹も吾も同等に、いたく戀しく思ひつゝあらむなあとなり、
 
丹比眞人笠麻呂《ダヂヒノマヒトカサマロガ》下《クダル》2筑紫國《ツクシノクニニ》1時《トキ》。作歌一首并短歌《ヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
笠麻呂は、三(ノ)卷に出づ、傳未(タ)詳ならざれば、筑紫に下れるも、いつの時といふこと知べからず、
 
509 臣女乃《タワヤメノ》。匣爾乘有《クシゲニイツク》。鏡成《カヾミナス》。見津乃濱邊爾《ミツノハマヘニ》。狹丹頬相《サニヅラフ》。紐解不離《ヒモトキサケズ》。吾妹兒爾《ワギモコニ》。戀乍居者《コヒツヽヲレバ》。明晩乃《アケクレノ》。旦霧隱《アサギリガクリ》。鳴多頭乃《ナクタヅノ》。哭耳之所哭《ネノミシナカユ》。吾戀流《アガコフル》。千重乃一隔母《チヘノヒトヘモ》。名草漏《ナグサムル》。情毛有哉跡《コヽロモアレヤト》。家當《イヘノアタリ》。吾立見者《アガタチミレバ》。青※[弓+其]乃《アヲハタノ》。葛木山爾《カツラキヤマニ》。多奈引流《タナビケル》。白雲隱《シラクモガクリ》。天佐我留《アマザカル》。夷乃國邊爾《ヒナノクニヘニ》。直向《タヾムカフ》。淡路乎過《アハヂヲスギ》。粟島乎《アハシマヲ》。背|向〔○で囲む〕爾見管《ソガヒニミツヽ》。朝名寸二《アサナギニ》。水手之音喚《カコノコヱヨビ》。暮名寸二《ユフナギニ》。梶之聲爲乍《カヂノトシツヽ》。浪上乎《ナミノヘヲ》。五十行左具久美《イユキサグクミ》。磐間乎《イハノマヲ》。射往廻《イユキモトホリ》。稻日都麻《イナヒツマ》。浦箕乎過而《ウラミヲスギテ》。鳥自物《トリジモノ》。魚津左比去者《ナヅサヒユケバ》。家乃島《イヘノシマ》。荒礒之宇倍爾《アリソノウヘニ》。打靡《ウチナビキ》。四時二生有《シジニオヒタル》。莫告我《ナノリソノ》。奈騰可聞妹爾《ナドカモイモニ》。不告來二計謀《ノラズキニケム》。
 
臣女《オミノメ》(臣(ノ)字、古寫一本に巨と作るは誤なり、)は、官女の事なり、臣之少女《オミノヲトメ》といふに同じ、古事記雄(412)略天皇(ノ)條に、豐樂之日、亦春日之|袁杼比賣《ヲドヒメ》獻(ル)2大御酒(ヲ)1之時、天皇|歌曰《ウタヒタマハク》、美那曾々久淤美能袁登賣《ミナソヽクオミノヲトメ》云々、仁徳天皇(ノ)紀に、天皇以2宮人桑田(ノ)玖賀媛(ヲ)1、示(テ)2近習舎人(ニ)1曰(ク)、云々、即(チ)歌曰(ク)、瀰儺曾虚赴於瀰能烏苫※[口+羊]鳥多例椰始儺播務《ミナソコフオミノヲトメヲタレヤシナハム》と見ゆ、臣(ノ)子、臣之|壯子《ヲトコ》など云ふ同例なり、(雄略天皇(ノ)紀圓(ノ)大臣(ノ)妻(ノ)歌に、飫瀰能古簸《オミノコハ》云々、式烈天皇(ノ)紀鮪(ノ)臣(カ)歌に、飫瀰能古能《オミノコノ》云々、太子(ノ)御歌に、於彌能姑能《オミノコノ》云々)さてここは、※[女+感]嬬等之《オトメラガ》などいふべきことなるを、臣女《オミノメ》と云るは、所思由《オモフユヱ》ありてのことなるべし、(余が始臣は幼(ノ)字(ノ)誤にて、タワヤメ〔四字右○〕なるべきかとおもひしは、あしかりけり、又略解に、臣女は、みやびめと訓べしと云るは、論に足ず、又舊訓に、マウトメ〔四字右○〕とあるに依て、眞處女なるべしと契冲が云るは、まだしかりけり、)○匣爾乘有は意得難なるにつきて、(鏡は、匣(ノ)内にこそ納べきを、乘とはいかでいはむ、)按(フ)に、乘有は、齋の一字の誤れるにて、クシゲニイツク〔七字右○〕とありしにや、集中に、御匣に貯置て齋ちふ珠に益てともよめる如く、珠鏡は匣に納て、同等《オナジツラ》に齋《イツキ》置ものなればなり、神代紀に、天照大神、手2持《トラシテ》寶鏡(ヲ)1、授《タマヒ》2天(ノ)忍穂耳(ノ)尊(ニ)1而、祝之曰《ホキタマハク》云々、可2與《タマヘ》同床共殿以《ヒトツミアラカニマサシメテ》爲(シ)2齋《イツキ》鏡(ト)1、とあるがもとにて、すべて鏡は、これになぞらへて、古(ヘ)より厚く齋しことなり、○鏡成《カヾミナス》、此(レ)までは見津《ミツ》をいはむ料の序なり、成《ナス》は常には如くといふ意なれど、こゝはたゞ輕く添たるのみなり、○狹丹頬相《サニヅラフ》は、既く具(ク)云り、此は紅の赤紐を云り、○紐解不離《ヒモトキサケズ》は、十二に、客夜之久成者左丹頬合《タビノヨノヒサシクナレバサニヅラフ》、紐開不離戀流比日《ヒモアケサケズコフルコノゴロ》、とあるに同じ、婚合《アフ》ことのなき形を云るなり、○明晩《アケクレ》は、夜の明はて(413)むとして、かへりてくらくなる時をいふ、十(ノ)卷に、明闇之朝霧隱鳴而去《アケグレノアサギリガクリナキテユク》、鴈者吾戀於妹告社《カリハアガコフイモニツゲコソ》、拾遺集八(ノ)卷に、山寺にまかりける曉に、日ぐらしの鳴侍りければ、左大將濟時、朝朗《アサボラケ》日ぐらしの聲聞ゆなり、こやあけぐれと人の云らむとあり、毛詩に、味旦の字を、アケグレ〔四字右○〕と訓せたり、(朱熹(カ)註に、昧(ハ)晦、旦(ハ)明也、昧旦(ハ)天欲v旦晦明未v辨之際也とあり、世本、晦明を昧晦と誤れり、)○哭耳之所哭《ネノミシナカユ》は、哭にのみ泣るゝ意なり、之《シ》は、その一(ト)すぢなるをいふ助辭なり、五(ノ)卷に、雲隱鳴往鳥乃禰能尾志奈可由《クモガクリナキユクトリノネノミシナカユ》とあり、○千重乃一隔母《チヘノヒトヘモ》は、二(ノ)卷に、吾戀千重之一隔毛《アガコフルチヘノヒトヘモ》、遣悶流情毛有八等《ナグサムルコヽロモアリヤト》、輕市爾吾立聞者《カルノイチニアガタチキケバ》、七(ノ)卷に、名草山事西在來吾戀《ナグサヤマコトニシアリケリアガコヒノ》、千重一重名草目名國《チヘノヒトヘノナグサメナクニ》、などあり、○名草漏は、ナグサムル〔五字右○〕とよむべし、(ナグサモル〔五字右○〕と訓るは字に泥めり、)漏はムル〔二字右○〕に借て書るなり、集中に、高松《タカマト》、小豆無《アヂキナク》、足常《タラチネ》、間結《マヨヒ》など書ると同類なり、既く二(ノ)卷明日香(ノ)皇女大※[瓦+缶](ノ)殯宮之時(ノ)歌に具(ク)云り、○青※[弓+其]乃《アヲハタノ》は、葛木山の枕詞なり、(※[弓+其]は旗なるべし、)さるはまづ、青旗は、綾織《アヤハタ》の義にやと思はるゝなり、(和名抄に、豐前(ノ)國筑城(ノ)郡|綾幅《アヤハタ》郷見ゆ、)さて古(ヘ)綾《アヤ》を、青《アヲ》とも通(ハ)し云りしかとおもはるゝは、神代紀に、吾屋惶根《アヤカシコネノ》尊、亦曰2青橿城根《アヲカシキネノ》尊(ト)1とあればなり、さて葛木とうけたる意は、吾(カ)徒南部嚴男が、持統天皇(ノ)紀に華鰻《カヅラ》と見えて、その華鰻をば、古(ヘ)綾羅の類もて造れりしならむ、十二に、紫綵色之※[草冠/縵]花八香《ムラサキノマダラノカヅラハナヤカニ》、今日見人爾後將戀鴨《ケフミルヒトニノチコヒムカモ》、これも紫色の織(リ)物もて製れる、華縵《カヅラ》なるべし、故(レ)綾織之華縵《アヤハタノカヅラ》といふ意に、つゞけたるならむと云り、○天佐我留《アマザカル》は、既(ク)一(ノ)卷に出(ヅ)、(佐我と書るは正しか(414)らず、天射可留と書べし、五(ノ)卷、十八に假字書例あり、)○夷乃國邊《ヒナノクニヘ》は、四國邊をさして云り、夷のことは既く一(ノ)卷に具(ク)註り、○直向は、タヾムカフ〔五字右○〕と訓て、淡路といふへ屬《ツケ》て意得べし、(タヾムカヒ〔五字右○〕とよむはいとわろし、)夷の國方に直しく指(シ)向ひたる、淡路といふなり、十五に、多太牟可布美奴面乎左指天《タヾムカフミヌメヲサシテ》、(此は自《ミズカラ》指向ふを云り、)○背向爾見管《ソガヒニミツヽ》、向(ノ)字は必(ス)あるべきを、舊本には脱せり、三(ノ)卷に、繩浦從背向爾書見奧島《ナハノウラユソガヒニミユル》とある處に、例どもを引て云り、同卷に、武庫浦乎※[手偏+旁]轉小舟粟島矣《ムコノウラヲコギタムヲブネアハシマヲ》、背向爾見乍乏小舟《ソガヒニミツヽトモシキヲブネ》、(これも舊本は、向(ノ)字を脱せり」○朝名寸二《アサナギニ》より下四句は、十三にも、旦名伎爾水手之音爲乍夕名寸爾梶音爲乍《アサナギニカコノコヱヨビユフナギニカヂノトシツヽ》(上の爲乍は、誤字なるべし、)とあり、○梶(ノ)字、拾穗本には※[木+堯]と作り、○五十行左具久美《イユキサグクミ》は、五十《イ》はそへ言にて、物をいひ出す頭におく詞なり、左具久美《サグクミ》は、割見《サクミ》といふに同じ、既く云り、○射往廻《イユキモトホリ》は、射《イ》はこれもそへ言にて、往めぐりといふなり、○稻月日都麻《イナビツマ》は、播磨(ノ)國印南(ノ)郡の海邊なり、六(ノ)卷に、伊奈美嬬辛荷乃島之《イナミツマカラニノシマノ》、十五に、印南都麻之良奈美多加彌《イナミツマシラナミタカミ》とあり、都麻《ツマ》といへる意は、未(タ)思(ヒ)得ず、(或説(ニ)云、好忠集に、さゝきつまずかきさほせり春ごとに、えりさす民のしわざならしも、とよめるさゝきは、近江の地名なり、さればつまは、其あたりといふ事かと云り、好忠集一本には、さゝき津にとあり、猶考(フ)べし、)○浦箕《ウラミ》は、箕《ミ》は借(リ)字|回《ミ》なり、母登保理《モトホリ》を約めて尾《ミ》と云るにて、浦のめぐりといふに全(ラ)同じ、既く具(ク)云り、(略解に、本居氏(ノ)説を載てすべて浦回と書ても、うらわと訓はわろし、假字書皆うらまとあれば、(415)うらまとよむべし、こゝも其(ノ)まとみと通へば、則(チ)まなりと云りとあれど、うらまと云る例こそなけれ、)○鳥自物《トリジモノ》は、浪漬傍《ナヅサフ》の枕詞なり、七(ノ)卷に、鳥自物海二浮居而《トリジモノウミニウキヰテ》云々、自物《ジモノ》のことは、一卷に云り、○魚津左比《ナヅサヒ》(魚(ノ)字、拾穗本には莫と作り、)は、浪漬傍《ナヅサヒ》なり、既く云り、○家乃島《イヘノシマ》は、神名式に、播磨(ノ)國揖保(ノ)郡家島(ノ)神社、(名神大)續後紀に、承和七年六月甲子、播磨(ノ)國揖保(ノ)郡家島(ノ)神爲2官社(ト)1、左馬寮式に、凡放(テル)2播磨(ノ)國家島(ニ)1御馬(ハ)、寮直(ニ)移(テ)v國(ニ)放繋(ケ)云々、本朝世紀に、長保元年五月五日、云々、相次左右馬寮申請、家島(ノ)御牧駈|※[富+司]《如本》御馬、可v附2國宰(ニ)1事云々、此集十五に、伊敝之麻婆久毛爲爾美延奴《イヘシマハクモヰニミエヌ》などあり、○四時二生有《シジニオヒタル》は、繁《シヾ》に生たるなり、六(ノ)卷(ノ)初に、水枝指四時爾生有刀我乃樹能《ミヅエサシシシニオヒタルツガノキノ》とあり、○莫曽我は、我は、能(ノ)字の誤なるべし、能我草書混(ヒ)易し、ナノリソノ〔五字右○〕と訓べし、(略解に、本居氏(ノ)説を載て、我は茂(ノ)字の誤にて、なのりそもと訓べしと云りとあれど、いみじきひがことなり、但し允恭天皇(ノ)紀に、故時人、號2濱藻(ヲ)1謂2奈能利曾毛《ナノリソモト》1也とあるからは、なのりそもと云むこと、難なきに似たれども、もしこゝもさならむには、莫告藻などゝこそ書べけれ、茂の假字など書むものとしもおもはれず、そのうへ集中に、奈能利曾《ナノリソ》とはよみたるいと多かれど、奈能利曾毛《ナノリソモ》とよみたるは一(ツ)もなきにても、其(ノ)説はひがことなるをしるべし、)さて此(レ)まで五句は、不告《ノラズ》をいはむ料の序なり、○奈騰可聞《ナドカモ》は、何《ナニ》とてかといふ意にて、聞《モ》は歎息(ノ)料なり、○不告來二計謀《ノラズキニケム》は、告《ノル》は、情意を相語《カタラフ》意にて、發《タチ》の急《イソギ》して、家(ノ)妹に語(ル)べきことをも語(ラ)ず來にしを、今悔しみて、嗚(416)呼(アハレ)なにとてか、告ず來にけむことよといふなり、(契冲が、不告は、今筑紫へ出立とつげぬをくゆるなり、と云るは、いさゝかわろし、)廿(ノ)卷防人(カ)歌に、佐伎牟理爾多々牟佐和伎爾伊敝能伊毛何《サキムリニタヽムサワキニイヘノイモガ》、奈流敝伎己等乎伊波須伎奴可母《ナルヘキコトヲイハズキヌカモ》とあり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
510 白妙乃《シロタヘノ》。袖解更而《ソデトキカヘテ》。還來武《カヘリコム》。月日乎數而《ツキヒヲヨミテ》。往而來猿尾《ユキテコマシヲ》。
 
妙(ノ)字、類聚抄には細と作り、○袖解更而《ソデトキカヘテ》は、袖を解離て、男女互に形見として行なり、と本居氏云り、凡て身に著(ク)る物を取(リ)更《カヘ》て、形見とすることは、古(ヘ)のならはしなりけむ、十六に、音之少寸《オトノスクナキ》、道爾相奴鴨《ミチニアハヌカモ》、少寸四道爾相佐婆伊呂?世流菅笠《スクナキヨミチニアハサバイロケセルスガガサ》、小笠《ヲガサ》、吾宇奈雅流珠乃七條《アガウナゲルタマノナヽツヲ》、取替毛將申物乎《トリカヘモマヲサムモノヲ》云々ともあり、○月日乎數而《ツキヒヲヨミテ》は、月日を、いつ/\と數計《カゾヘ》てといふなり、十七に、月日餘美都追《ツキヒヨミツツ》とあり、抑《ソモ/\》餘牟《ヨム》は、もと呼と同言にて、幾許《イクツ》幾許《イクツ》と呼て算計《カゾフ》なり、七(ノ)卷に、浪不數爲而《ナミヨマズシテ》、十一に、時守之打鳴鼓數見者《トキモリノウチナスツヾミヨミミレバ、十三に、吾睡夜等呼讀文將敢鴨《アガヌルヨラヲヨミモアヘムカモ》、古事記上卷に、皆列(ミ)伏(シ)度(ル)、爾吾(レ)蹈(テ)2其(ノ)上(ヲ)1走(リ)乍讀度《ツヽヨミワタラム》など見ゆ、○歌(ノ)意は、袖解交(ハ)して別來しほど、筑紫に留らむ間程《ホド》、凡ていくほどの月日を歴たらば還り來むと、もろともに期《トキ》をちぎりかはして出往て、さて還り來ましものを、さることをもいはずして、急ぎ立にしを、今更悔しく思ふとなり、即(チ)何かも妹に告ず來にけむの意なり、
 
(417)幸《イデマセル》2伊勢國《イセノクニニ》1時《トキ》。當間麻呂大夫妻作一首《タギマノマロノマヘツキミガメノヨメルウタヒトツ》。
 
511 吾背子者《ワガセコハ》。何處將行《イヅクユクラム》。己津物《オキツモノ》。隱之山乎《ナバリノヤマヲ》。今日歟超良武《ケフカコユラム》。
 
此歌(ノ)、一(ノ)卷に出たり、此《コヽ》に重載り、
 
草孃歌一首《ウカレメガウタヒトツ》。
 
草孃は、別府(ノ)信榮云、娼婦《ウカレメ》なるべし、さるはから籍輟※[田+井]録に、娘子(ハ)俗書也、古無v之、當v作v孃云々、娼婦曰2花娘1、達旦又謂2草娘(ト)1、云々、と見えて、草孃は、草娘と書るに同しきを知べし、但しかの書は、明(ノ)陶九成と云し者の作《カケ》るものにて、いと後(ノ)世のことなれど、古(ヘ)から國にて、草孃といひしことのありしから、此にもかく見えたるなるべし、さてから國にても、なべてはかくいひしことの失たりしを、わづかに後まで、達旦に傳りていひし稱なるべし、
 
512 秋田之《アキノタノ》。穗田乃刈婆加《ホタノカリバカ》。香縁相者《カヨリアハバ》。役所毛加人之《ソコモカヒトノ》。吾乎事將成《アヲコトナサム》。
 
穂田乃刈婆加《ホタノカリバカ》は、穂田は、穗に出たる田を云、八(ノ)卷に、秋田乃穗田乎鴈之鳴《アキノタノホタヲカリガネ》、十(ノ)卷に、白露者置穗田無跡《シラツユハオクホタナシト》などあり、刈婆加《カリバカ》は、刈(ル)ころほひをいふ、十(ノ)卷に、秋田吾刈婆可能過去者《アキノタヲワガカリバカノスギヌレバ》、十六(ノ)末に、茅草刈草苅婆可爾鶉乎立毛《チガヤカリカヤカリバカニウヅラヲタツモ》とあり、(本居氏(ノ)説に、刈婆加とは、田を植るにも刈にも、其(ノ)外にも、一はか二はかなど云ことあり、男女相まじはりて、其(ノ)はかを分て植も刈もするなり、かよりあふとは、其(ノ)一はかの内のものは、よりあひ並びて物する故に、かくつゞけ云り、はかの事は、今(ノ)世にも(418)云ことにて、たとへば一(ツ)の田を三(ツ)にわけて、一はか二はか三はかと立て、一はかより植はじめ刈はじめて、二はか三はかと植をはり刈をはることなりと云り、此(ノ)説は、此(ノ)歌にはよくかなひて聞ゆれども、右に引る十(ノ)卷、十六(ノ)卷(ノ)歌には叶がたければ、いかゞなり、)○香縁相者《カヨリアハバ》は、香《カ》はそへ言なり、催馬樂角總に、安介萬支也比呂波加利也左加利禰太禮止毛萬呂比安比介利加與利安比介利《アゲマキヤヒロバカリヤサカリネタレドモマロビアヒケリカヨリアヒケリ》、源氏物語初音に、竹川うたひてかよれるすがた、又匂兵部卿に、もとめ子舞てかよれる袖どものなどあり、なほこのほかにも、香《カ》をそへ言とせる例多し、既く云り、○彼所毛加《ソコモカ》は、それをもかなり、加《カ》は、事將成《コトナサム》の下へめぐらして意得べし、○吾乎事將成《ワヲコトナサム》は、事《コト》は言《コト》にて、人の吾を、かにかくに言さわがむかの意なり、七(ノ)卷に、山跡之宇陀乃眞赤土左丹著曾許裳香人之吾乎言將成《ヤマトノウダノマハニノサニツカバソコモカヒトノアヲコトナサム》とあり、○歌(ノ)意は、打群て互に秋田を刈|間《コロ》ほひ、我(ガ)思ふ君に寄(リ)相ば、それをも、人のかにかくに、吾(レ)をいひさわがむの意なり、(契冲が、穂に出たる稻の、なびきあふごとく、よりあはゞとよせて云り、と云るはあらじ、刈婆加《カリバカ》と云れば、やがてまことに稻をかる間を云りとこそ、きこえたれ、)
 
志貴皇子御歌一首《シキノミコノミウタヒトツ》。
 
513 大原之《オホハラノ》。此市柴乃《コノイツシバノ》。何時鹿跡《イツシカト》。吾念妹爾《アガモフイモニ》。今夜相香裳《コヨヒアヘカモ》。
 
大原《オホハラ》は、二(ノ)卷に出て、彼處に云り、十一にも見ゆ、(現存六帖に、人をいかでおもひわすれむ大原(419)や此(ノ)いちしばのつかの間ばかり、)○市柴《イツシバ》(柴の下、類聚抄、活字本等に、原(ノ)字あるはいかゞ、)は、八(ノ)卷に、天霧之雪毛零奴可灼然此五柴爾零卷乎將見《アマギラシユキモフラヌカイチシロクコノイツシバニフラマクヲミム》、十一に、道邊乃五柴原能《ミチノベノイツシバハラノ》などもあり、さて柴《シバ》は(借(リ)字にて)類草《シバ》なるべし、(後《ノ)世の俗に、芝(ノ)字を用るものこれなり、和名抄に、莱草一名類草、和名|之波《シバ》、と見えたり、)そは六(ノ)卷に、道之志波草《ミチノシバクサ》(類草《シバクサ》なり、)長生爾異梨《ナガクオヒニケリ》とありて、十一に、道之柴草不生有申尾《ミチノシバクサオヒザラマシヲ》とあるをも併(セ)考(ヘ)て、柴は、類草に借(リ)て書ることを知べし、さて市も借字にて、伊都《イツ》なり、右の八(ノ)卷、十一(ノ)卷などに、五と書るにて知べし、さて市を伊都《イツ》に借(レ)るは、足乳根《タフチネ》を足常など書る類にて、轉(シ)用(ヒ)たるなり、なほ其(ノ)例は既《サキ》に具(ク)云り、かくて五と書るもなほ借(リ)字にて、實は五十津《イツ》なるべし、類草《シバ》の繁多《シゲ》く生並たるを五十津類草《イツシバ》といふべし、凡て物の繁く多きを、五と十との數にていふこと、古(ヘ)のつねと見ゆるなり、そは、五十槻《イツキ》、百枝《モヽエ》、五百枚《イホエ》、千枝《チエ》など云る類なり、これらは其(ノ)定(レル)數をいふときとはかはりて、たゞ繁く多きを云るにて、實は五十《イ》とも百《モヽ》とも五百《イホ》とも千《チ》とも云る、皆同じ意なり、五十津《イツ》と津《ツ》の助辭をおくは、百津鳥《モヽツトリ》、五百津楓《イホツカツラ》などの例なり、かくて五十津《イツ》某と云る例は、此(ノ)上に、河上乃伊都藻之花乃《カハカミノイツモノハナノ》、(これを五百津藻《イホツモ》と云説は甚わろし、五百津ならば、由都《ユツ》といふ例にこそあれ、)廿(ノ)卷に、和加加津乃以都母等夜奈枳《ワカカツノイツモトヤナギ》(吾門之五十津株柳《ワガカドノイツモトヤナギ》なり、これらの伊都《イツ》を、昔來《ムカシヨリ》人皆意得誤れり、)などあり、これらにておもへば、一(ノ)卷の五可新《イツカシ》も、五十津橿《イツカシ》にて、五百津椿などいふごとく、枝葉の繁茂《シゲ》くさかえたるを、い(420)ふかともおもはるゝなり、(但しかれは、書紀に嚴橿とあれば、其(ノ)字(ノ)意にてあるべくやあらむ、そは既く云り、抑々この五柴、古(ヘ)來(リ)くさ/”\の説どもあれど、皆論に足ず、其(ノ)中に契冲が、なら柴、栗柴などいふ如く、櫟柴《イチヒシバ》にて、いちひの木の柴をいふかと云るは、いさゝかよきに似たれど、伊知比を伊知とのみいふまじく、且道(ノ)邊また原などによめるも、類草ならでは心ゆかず、)○何時鹿跡《イツシカト》(鹿(ノ)字、舊本庶に誤れり、)は、何時か相むとの意なり、之《シ》の助辭は、その一(ト)すぢをおもく云る辭なり、八(ノ)卷七夕(ノ)歌に、秋風之吹爾之日從何時可登吾待戀之君曾來座流《アキカゼノフキニシヒヨリイツシカトアガマチコヒシキミゾキマセル》、と見えたり、○御歌(ノ)意は、何時しか相見む、と待遠に戀しく思ひし妹に、おもはずも今夜、うれしくあひたる哉となり、(契冲云、續古今集には、大原や此(ノ)いちしばのこよひあひぬる、と載られたり、)
 
阿倍女郎歌一首《アベノイラツメガウタヒトツ》。
 
514 吾背子之《ワガセコガ》。盖世流衣之《ケセルコロモノ》。針目不落《ハリメオチズ》。入爾家良之|奈〔○で囲む〕《イリニケラシナ》。我情副《ワガコヽロサヘ》。
 
吾背子《ワガセコ》は、中臣(ノ)東人をさすなるべし、次にも東人と、この女郎と、贈答たる歌あればなり、○盖世流《ケセル》は、著賜《キタマ》へると云が如し、著《キ》を蓋世流《ケセル》といふは、見《ミ》を賣世流《メセル》といふと同格なり、賣世流《メセル》は、見賜《ミタマ》へると云意なるが如し、これ古言伸縮の法なり、されば著世流《ケセル》、見世流《メセル》などいふは、みな他のうへを、敬ひていふときのことにかぎりて、自《ミヅカラ》のことにいひたることなし、(著世流《ケセル》といふと、著多流《キタル》といふと、見世流《メセル》といふと、見多流《ミタル》といふとの類は、みな自他につきて、敬ふと、し(421)からざるとの差別《ケジメ》あることなるを、混雜《ヒトツ》に意得來れるは、古言に麁忽《オロソカ》なるがゆゑなり、委しくは既くも云り、)古事記倭建(ノ)命(ノ)御歌に、那賀祁勢流意須比能須蘇爾《ナガケセルオスヒノスソニ》云々、此(ノ)集十六に、伊呂?世流菅笠小笠《イロケセルスガカサヲカサ》などあり、○針目不落《ハリメオチズ》は、契冲云、おちずは、一夜も落ずといふにおなじ、しげき針目ごとに、わが心の入なり、古今集に、あかざりし袖の中にや入にけむ吾(ガ)魂のなきこゝちする、又心は君が影となりにき、とよめるにおなじ、○家良之《ケラシ》の下に、奈《ナ》か那《ナ》かの字あるべきが、舊本には脱たるなり、この奈《ナ》は、歎息の意を含める助辭にて、俗になあと云が如し、集中に、まぎらはしも奈《ナ》、高音しも奈《ナ》、水をたまへ奈《ナ》、諸奈諾奈《ウベナウベナ》などよめる奈《ナ》なり、古今集に、老にけらし那《ナ》など、後々にも多し、○我情副《ワガコヽロサヘ》は、副《サヘ》とは、もとよりある事の上に、事の副りたるをいふ言なり、(俗にまでと云が如し、)下に、心毛身副縁西鬼尾《コヽロモミサヘヨリニシモノヲ》とあり、○歌(ノ)意は、吾(ガ)夫の君が著給へる衣の、しげき針目ことに漏ず、我(ガ)心までが入てあるらしなあ、されば身こそ此方にあれ、心は何時も君が身を放れず、たぐひてあるよ、となり、
 
中臣朝臣東人《ナカトミノアソミアヅマヒトガ》贈《オクレル》2阿倍女郎《アベノイラツメニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
東人は、續紀云、和銅四年四月壬午、正七位上中臣(ノ)朝臣東人(ニ)授2從五位下(ヲ)1、養老二年八月庚戌、爲2式部(ノ)少輔(ト)1、四年十月戊子、從五位上中臣(ノ)朝臣東人爲2右中辨(ト)1、神龜元年二月壬子、正五位下、三年正月庚子、正五位上、天平四年十月丁亥、兵部(ノ)大輔、五年三月辛亥、從四位下、三代實録九(ニ)云、故刑(422)部卿從四位下中臣(ノ)朝臣東人、
 
515 獨宿而《ヒトリネテ》。絶西紐緒《タエニシヒモヲ》。忌見跡《ユヽシミト》。世武爲便不知《セムスベシラニ》。哭耳之曾泣《ネノミシゾナク》。
 
絶西紐緒《タエニシヒモヲ》は、綻(ビ)裂て、斷(レ)離れし紐をといふなり、緒《ヲ》は、てにをはの乎《ヲ》なり、(紐之緒《ヒモノヲ》にはあらず、)廿(ノ)卷に、奈爾波治乎由伎弖久麻弖等和藝毛古賀都氣之非毛我乎多延爾氣流可母《ナニハヂヲユキテクマテトワギモコガツケシヒモガヲタエニケルカモ》、(これは紐之緒《ヒモガヲ》なり」○忌見跡《ユヽシミト》は、忌々《ユヽ》しからむとての意なり、この見《ミ》は、引者難三跡《ヒカバカタミト》など云る三《ミ》にて、既く云り、忌《ユヽシ》は、忌憚《イマ/\シクオソロ》しきをいふ、既《サキ》に具(ク)云り、○歌(ノ)意は、凡て紐は、わが遇配《アヒシレ》る嬬《ツマ》ならでは、結著《ムスビツケ》しむべきものならぬを、今は離(リ)居て、妹があらねば、もしや他人などをして著しめば忌憚しからむ、さりとてまた綻(ビ)裂て斷にし紐を、それながらにあらむもくるしければ、いかにともせむすべなくて、一(ト)すぢに哭のみを泣つゝぞ居る、となり、これは旅などにありて、女郎に離り居て、作て贈れるなるべし、十二に、針者有杼妹之無者將著哉跡吾乎令煩絶紐之緒《ハリハアレドイモガナケレバツケメヤトアレヲナヤマシタユルヒモノヲ》、とあり、考(ヘ)合(ス)べし、
 
阿倍女郎答歌一首《アベノイラツメガコタフルウタヒトツ》。
 
516 吾以在《アガモタル》。三相二搓流《ミツアヒニヨレル》。絲用而《イトモチテ》。附手益物《ツケテマシモノ》。今曾悔寸《イマゾクヤシキ》。
 
三相二搓流《ミツアヒニヨレル》は、絲三線《イトミスヂ》をより合せたるを云、孝徳天皇(ノ)紀(ニ)云、始我(ガ)遠皇祖之世《トホスメロキノミヨニ》、以《ヲ》2百濟(ノ)國1爲2内官家《ウチノミヤケト》1、譬2如《ゴトクナリキ》三絞之《ミセノ》綱(ノ)1、中間(ヲ)以2任那(ノ)國1屬2賜《ツケタマフ》百濟(ニ)1、○附手益物《ツケテマシモノ》は、堅く結(ビ)著てましものをの意なり、(423)物《モノ》は、物《モノ》をといふと同意なり、五(ノ)卷に、阿摩等夫夜等利爾母賀母夜美夜故摩提《アマトブヤトリニモガモヤミヤコマデ》、意久利摩遠志弖等比可弊流母能《オクリマヲシテトビカヘルモノ》、十三に、公奉而越得之牟物《キミニマツリテヲチエシムモノ》、古事記履中天皇(ノ)御歌に、多遲比怒邇泥牟登斯理勢婆多都碁母暮《タヂヒヌニネムトシリセバタツゴモモ》、母知弖許麻志母能泥牟登斯理勢波《モチテコマシモノネムトシリセバ》、雄略天皇(ノ)御歌に、加那須伎母伊本知母賀母須岐波《カナスキモイホチモガモスキハ》奴流母能《ヌルモノ》、これらの母能《モノ》、皆同じ、○歌(ノ)意は、君が別去て出立(ツ)時、三(ツ)あひにかたくよれる絲を以て、何時《イツ》までも綻(ビ)裂まじく、著てあらましものを、と今更悔しく思はるゝなり、
 
大納言《オホキモノマヲシノツカサ》兼《カケタル》2大將軍《オホキイクサノキミ》1大伴卿歌一首《オホトモノマヘツキミノウタヒトツ》。
 
兼は、カケタル〔四字右○〕と訓べし、伊勢物語に、今夜だに人しづめて、いととくあはむと思ふに、國の守、齋(ノ)宮のかみかけたる、かりの使ありときゝて、夜一(ト)夜酒飲しければ云々、大和物語に、童にて殿上して大七と云けるを、冠して藏人所におりて、かねの使かけて、親のもとにいくになむ有ける云々、おちくぼ物語に、かゝるほどに、右のおとゞのたまふ、老もてゆくまゝに、衛府つかさたへず、わかう花やかなる、わかをとこの職にてなむたへたりとて、かけ給ひつる大將、大納言にゆづり給ひぬ、云々、などあり、○大伴(ノ)卿は、安麻呂(ノ)卿なるべし、安麻呂(ノ)卿の傳は、既く二(ノ)卷(ノ)上に委(ク)云り、續紀に、和銅七年五月朔、大納言兼大將軍正三位大伴宿禰安麻呂薨(ス)、と見えたり
 
517 神樹爾毛《カムキニモ》。手者觸云乎《テハフルチフヲ》。打細丹《ウチタヘニ》。人妻跡云者《ヒトヅマトイヘバ》。不觸物可聞《フレヌモノカモ》。
 
(424)神樹《カムキ》は、何にまれ、神の領《シリ》賜ふ木なり、神杉《カムスギ》など云る類なり、(舊本に、サカキ〔三字右○〕とよめるはわろし、さかきとては、たゞ山にあるさかきにまがひて、此(ノ)歌に叶はずと、本居氏云り、)○打細丹《ウツタヘニ》は、うちつけにやがての意なり、又ひとへにといふ意にも通へり、此(ノ)下に、打細爾前垣乃酢堅欲見將行當云哉君乎見爾許曾《ウチタヘニマガキノスガタミマクホリユカムトイヘヤキミヲミニコソ》、十(ノ)卷に、打細爾鳥者雖不喫繩延守卷欲寸梅花鴨《ウチタヘニトリハハマネドシメハヘテモラマクホシキウメノハナカモ》、土佐日記に、楫取はうつたへに、我歌のやうなる事云にもあらず、云々、うつたへに忘れなむとにはあらで、こひしきこゝちしばしやすめて、又もこふるちからにせむとなるべし、蜻蛉日記に、うつたへに、秋の山へをたづね賜ふにはあらざりけり、忠見集に、春雨は零初にしか打細に山を緑になさむとや見し、歌林良材集に、うつたへにあまたの人はありと云どわきて我(レ)しも夜獨宿、源氏物語蘭卷に、うつたへに、思ひもよらでさり賜うたれば、御手をひきうごかしたり、云々、これら、うちつけにやがての心なりと云り、○可聞《カモ》、拾穗本には可波と作り、(これはわろし、)○歌(ノ)意は、神の領(リ)賜ふ樹は、甚も忌憚しきものながら、(下に、味酒三輪之祝我忌杉手觸之罪歟君二遭難寸《ウマサケミワノハフリガイハフスギテフリシツミカキミニアヒガタキ》、とよめるをも、考(ヘ)合(ス)べし、)それすら事にあたりては、手を觸ることもあるものなるを、人妻と云ば、うちつけに、手を觸ることさへ叶はぬものかな、と歎き賜へるなり、
 
石川郎女歌一首《イシカハノイラツメガウタヒトツ》。
 
石川郎女は、元暦本、類聚抄、古寫本等(ノ)註(ニ)云、即(チ)佐保大伴(ノ)大家也、とあり、安麻呂(ノ)卿(ノ)妻内命婦|邑婆《オホバ》(425)なり、大家は、夫におくれたる婦を、尊みて呼なせる名なるべし、家は姑と通(フ)なるべし、(もともろこしにて、後漢書を作る班固が妹を、皆大|家《コ》と呼びたり、家本音姑、或音加誤、と註したり、これよりはじまれるなるべし、)
 
518 春日野之《カスガヌノ》。山邊道乎《ヤマヘノミチヲ》。與曾理無《ヨソリナク》。通之君我《カヨヒシキミガ》。不所見許呂香裳《ミエヌコロカモ》。
 
興曾理無《ヨソリナク》(與(ノ)字、元暦本に於と作るは、いかゞ、)は、隨身もなく、唯獨通ふ意なるべし、與曾理《ヨソリ》は、依(リ)隨ふ者の意なるべし、十四に、和爾余曾利波之点流兒良師《ワニヨソリハシナルコラシ》、十三に、荒山毛人師依者余所留跡序云《アラヤマモヒトシヨスレバヨソルトゾイフ》などあるも、余曾留は同言なり、○歌意かくれたるところなし、
 
大伴女郎歌一首《オホトモノイラツメガウタヒトツ》。
 
大伴(ノ)女郎は、元暦本、古寫本等(ノ)註に、今城(ノ)王之母也、今城(ノ)王後賜2大原(ノ)眞人(ノ)氏(ヲ)1也、とあれば、今城(ノ)王の父君の妻なり、しかれども今城(ノ)王は、集中に見えたるのみにて、傳詳ならざれば、妻も某の女といふこと知がたし、但し旅人(ノ)卿(ノ)妻大伴(ノ)郎女と同人ならば、初今城(ノ)王の父君に嫁て、今城(ノ)王を生、夫(ノ)君におくれて後、旅人(ノ)卿に再嫁れしものか、
 
519 雨障《アマツヽミ》。常爲公者《ツネセスキミハ》。久堅乃《ヒサカタノ》。昨夜雨爾《キソノアメニ》。將懲鴨《コリニケムカモ》。
 
雨障《アマツヽミ》は、雨忌して、家内に隱り居るを云、障《ツヽミ》は、十八に、夜夫奈美能佐刀爾夜度可里波流佐米爾軒許母理都追牟等伊母爾都宜都夜《ヤブナミノサトニヤドカリハルサメニコモリツツムトイモニツゲツヤ》、(かげろふ日記に、かくて中々なる身のひまなきにつゝみ(426)て、)とあるつゝむなり、(雨サハリ〔三字右○〕とよめるはわろし、次(ノ)歌の雨乍見に同じければなり、)八(ノ)卷に、雨障出而不行者《アマツヽミイデテユカネバ》云々、十一に、雨乍見留之君我《アマツヽミトマリシキミガ》、此(ノ)下に石上零十方雨二將關哉《イソノカミフルトモアメニツヽマメヤ》、(これもツヽマメヤ〔五字右○〕と訓べきなり、)他處に多く無恙と書て、都々美無《ツヽミナク》とよめる都々美《ツヽミ》も同じ、(この都々美《ツヽミ》を、後(ノ)世はつゝがとのみ云り、さてつゝがといふことも、いと近(キ)世のことにはあらず、源氏物語東屋に、おやはたましてあたらしくをしければ、つゝがなくておもふととみなさへと思ふ、匂宮に、ことにふれて、我(ガ)身につゝがあるこゝちするもたゞならず、今昔物語に、わが身もおそれなく從者をもかくして、つゝがなく過にける、云々、醫師はつゝがなく京に上著しけりなど見ゆ、こは此に用なきことながら、ことのついでにいふのみなり、)○久堅乃《ヒサカタノ》は、下の雨《アメ》といふへ係る枕詞なり、○昨夜は、キソ〔二字右○〕と訓べし、伎曾《キソ》は二(ノ)卷に云り、六帖には、よむべの雨にとあり、(此(ノ)下に出たる歌をも、六帖には、うば玉のよむべは歸るとあり、よむべといふ詞は、土佐日記にも、よむべのとまりよりとあり、されどよむべといふは、今(ノ)京よりこなたの詞とおもはれたり、古言にはあらじ、)○歌(ノ)意は、常に雨障をし賜ふ君なれば、必《キハメ》て昨夜の雨に懲て、今夜は來座ぬならむ、嗚呼《アハレ》さてもつれなき事哉、となり、
 
後人追和歌一首《ノチノヒトノオヒテナゾラフルウタヒトツ》。
 
追和、(和(ノ)字、舊本には同と作り、今は古寫一本、拾穗本等に從つ、)こは右の歌の答(ヘ)の意にはあら(427)ずて、唯雨障といふことのみを、和《ナゾラヘ》よめるなるべし、
 
520 久堅乃《ヒサカタノ》。雨毛落糠《アメモフラヌカ》。雨乍見《アマツヽミ》。於君副而《キミニタグヒテ》。此日令晩《コノヒクラサム》。
 
落糠《フヲヌカ》は、ふらねかしとねがふ意なり、既く三(ノ)卷に具(ク)註り、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
藤原宇合大夫《フヂハラノウマカヒノマヘツキミガ》。遷任《メサレテ》上《ノボル》v京《ミヤコニ》時《トキ》。常陸娘子贈歌一首《ヒタチヲトメガオクレルウタヒトツ》。
 
宇合(ノ)大夫の傳は、三(ノ)上に、委(ク)註り、宇合は馬養の假名なり、旅人《タビト》を淡等《タビト》と書ると同例なり、しかれば宇合はウマカヒ〔四字右○〕と唱(フ)べきなり、さて宇はウマ〔二字右○〕と、は唱(フ)まじければ、宇摩《ウマ》と書べきを、摩《マ》を省けり、美作《ミマサカ》、丹比《タヂヒ》などの例なり、人(ノ)名には、葛野《カドノ》を賀能《カドノ》と書るなどなり、合はカフ〔二字右○〕の音なるを轉して、カヒ〔二字右○〕に用ひたるなり、フ〔右○〕の韻をヒ〔右○〕に轉(シ)用(ヒ)たるは、揖保《イヒホ》、雜賀《サヒガ》などの例なり、○遷任上v京は、續紀に、養老三年七月、始置2按察使(ヲ)1、常陸(ノ)國(ノ)守正五位上藤原(ノ)宇合、管2安房上總下總三國(ヲ)1、とありて、いにしへは一任四年にして交替ありければ、養老六年の間《ホド》にやありつらむ、○常陸(ノ)娘子は、常陸國の女なるべし、集中に、播磨娘子、對馬娘子など云る類なり、
 
521 庭立《ニハニタチ》。麻乎刈干《アサヲカリホシ》。布慕《シキシヌフ》。東女乎《アヅマヲミナヲ》。忘賜名《ワスレタマフナ》。
 
庭立は、ニハニタチ〔五字右○〕と訓べし、娘子が自(ラ)庭に立てなり、(庭に殖(ツ)といふには非ず、)○麻乎刈干《アサヲカリホシ》(乎、舊本手に誤、類聚抄に從つ、)は、娘子が自(ラ)なす業を云て、麻《アサ》は布(キ)並て干(ス)ものなれば、やがて、布慕《シキシヌフ》の序とせり、(千載集十三に、あさてほすあづまをとめのかやむしろ、しきしのひても過す頃(428)かなとあるは、今の歌にもとづけり、但しあさては、舊本の誤につきてよめるなり、)○布慕《シキシヌフ》は、重慕《シキシヌフ》なり、○東女《アヅマヲミナ》は、娘子が自(ラ)我を云るなり、東男などもいふ類なり、○歌(ノ)意は、今別れまゐらする君の御うえを、重々《シゲ/\》に思(ヒ)奉る東女の、我(カ)身はいやしけれども、情のまことをあはれとおぼして忘れ賜ふ事なかれとなり、
 
京職大夫藤原大夫《ミサトツカサノカミフヂハラノマヘツキミガ》。賜《オクレル》2大伴坂上〔二字それぞれ○で囲む〕郎女《オホトモノサカノヘノイラツメニ》1歌三首《ウタミツ》。
 
京職大夫(類聚抄古寫本等に、大夫(ノ)二字无はわろし、)は、ミサトツカサノカミ〔九字右○〕と訓べし、職員令に、左京職、(右京職准v左、)管(フ)2司一(ヲ)1、大夫一人、掌d左京(ノ)戸口名籍、字2養(シ)百姓(ヲ)1、糺す2察(シ)所部(ヲ)1、貢2擧孝義(ヲ)1、田宅、雜徭、良賤、訴訟、市※[廛+おおざと]、度量、倉廩、租調、兵士、器仗、道橋、過所、闌道(ノ)雜物、僧尼(ノ)名籍(ノ)事(ヲ)u、和名抄に、左京職(ハ)比多利乃美佐止豆加佐《ヒダリノミサトヅカサ》、右京職(ハ)美岐乃美佐止豆加佐《ミギノミサトヅカサ》、又云、長官(ハ)、本朝職員令所v載、職(ニ)曰2大夫(ト)1加美《カミ》とあり、○藤原(ノ)大夫は、拾穗抄に、或本に京職(ノ)大夫藤原(ノ)麻呂(ノ)大夫云々とあり、類聚妙古寫本等に、卿諱曰2麻呂(ト)1也とあり麻呂(ノ)卿は、京職(ノ)大夫たりしによりて、後に京家と呼なせる是なり、續紀に、養老元年十一月癸丑、授2正六位下藤原(ノ)朝臣麻呂(ニ)從五位下(ヲ)1、五年正月王子、從四位上、同年六月辛丑、從四位上藤原(ノ)朝臣麻呂(ヲ)爲2左右京(ノ)大夫(ト)1、神龜三年正月庚子、正四位上、天平元年三月甲午、從三位、同三年八月丁亥、兵部(ノ)卿從三位藤原(ノ)朝臣麻呂(ヲ)爲2參議(ト)1、十一月丁卯、始置2畿内(ニ)惣管、諸道(ニ)鎭撫使(ヲ)1、從三位藤原(ノ)麻呂(ヲ)爲2山陰道(ノ)鎭撫使(ト)1、同九年正月丙申、詔2時節大使兵部(ノ)卿從三位藤(429)原(ノ)麻呂等(ニ)1、發2遣(セシム)陸奧國(ニ)1、七月乙酉、參議兵部(ノ)卿從三位藤原(ノ)朝臣麻呂薨(ス)、贈太政大臣不比等之第四子也、懷風藻に、從三位兵部(ノ)卿兼左右京大夫藤原(ノ)朝臣麻里五首(一本麻呂、)と有(リ)、里は呂を誤れるなるべし、○賜は、集中の例、贈と通(ハシ)書り、古寫一本周穗本等には贈とあり、○大伴(ノ)郎女(郎(ノ)字、舊本には良に誤、類聚抄古寫本拾穗本等に從つ、)は、坂上(ノ)郎女なり、傳下に出(ツ)、舊本には、坂上(ノ)二字脱しなるべし、
 
522 ※[女+感]嬬等之《ヲトメラガ》。珠篋有《タマクシゲナル》。玉櫛乃《タマクシノ》。神家武毛《タマシヒケムモ》。妹爾阿波受有者《イモニアハズアレバ》。
 
神家武毛は、タマシヒケムモ〔七字右○〕と今村(ノ)樂が訓たりき、さらば玉櫛乃《タマクシノ》といふまでは序にて、神魂《タマシヒ》消《ケ》むもの意なり、毛《モ》は歎息(ノ)辭なり、(舊訓に、メヅラシケムモ〔七字右○〕とあるはいふに足ず、又契冲が、かみさびけむもとよめるも、通《キコ》えがたし、)○歌(ノ)意は、吾(カ)思ふ妹にあはずてあれば、そのくるしさに、たましひ消入むとするよ、さてもくちをしき事哉となり、此(ノ)歌六帖に、末(ノ)句いぶかし、今も妹にあはざれば、として入れり、又をとめらが玉匣なる玉櫛の、見るごといまはめづらしやきみとも見ゆ、
 
523 好渡《ヨクワタル》。人者年母《ヒトハトシニモ》。有云乎《アリチフヲ》。何時間曾毛《イツノホドソモ》。吾戀爾來《アガコヒニケル》。
 
歌(ノ)意は、妹に逢ずして、好堪て經渡る人は、一年の間《ホド》をも堪て在といふを、吾は妹に逢ざるは、いつばかりの間《ホド》ぞ、差《ヤヽ》近き間なるを、それにも得堪ずして、戀しくのみ思ふ事は嗚呼《アハレ》さても(430)辛しやとなり、十三に、念渡麻弖爾毛人者云乎《トシワタルマテニモヒトハチフヲ》とありて、末(ノ)は全(ラ)同歌あり、
 
524 ※[蒸の草がんむりなし]被《ムシブスマ》。奈胡也我下丹《ナコヤガシタニ》。雖臥《フセレドモ》。與妹下宿者《イモトシネネバ》。肌之寒霜《ハダシサムシモ》。
 
※[蒸の草がんむりなし]被《ムシブスマ》は、古事記須勢理比賣(ノ)命(ノ)御歌に、牟斯夫須麻爾古夜賀斯多爾《ムシブスマニコヤガシタニ》とあり、本居氏、此(ノ)※[蒸の草がんむりなし]被を、昔(シ)よりあつぶすまとよめるは、古事記の御歌に依に、誤なり、と契冲云り、さて爾《ニ》と奈《ナ》と通へば、二句今と全(ラ)同じ、※[蒸の草がんむりなし]被は、暖なるよしの稱なり、凡てむすと云言は、物をあたゝむるが本義にて、必しも甚熱くするをのみ云には非ず、然るを契冲が、むし被の稱は、暖なること※[蒸の草がんむりなし]が如くなる故に云、といへるは、似たることながら、言の本義をきはめずして、※[蒸の草がんむりなし](ノ)字にすがりたる末の意なり、又裁縫の樣に依(レ)る別名かとも云れど、さにはあらじと云り、○奈胡也我下爾《ナコヤガシタニ》は、柔之裏《ナコヤガシタ》になり、胡は清音なり、(濁るはわろし、)さて今ならば、奈胡也可我《ナコヤカガ》といふべきを、可《カ》を云ざるは古言なり、左夜可《サヤカ》を左夜《サヤ》、能杼可《ノドカ》を能杼《ノド》とのみいふに准ふべし、○雖臥は、フセレドモ〔五字右○〕と訓べし、(岡部翁の、コヤセレド〔五字右○〕と訓しは、甚あしかりけり、)○肌之寒霜《ハダシサムシモ》は、之《シ》は、その寒きことの一(ト)すぢなるを、おもく思はする助辭、母《モ》は歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、暖なる被の柔なるが裏に臥たれば、寒き事はあるまじきに、女の柔膚にはまさらずして、猶一(ト)すぢに肌寒くのみ思はるるは、さてもくるしやとなり、
 
大伴坂上〔二字それぞれ○で囲む〕郎女和歌四首《オホトモノサカノヘノイラツメガコタフルウタヨツ》。
 
(431)525 狹穗河乃《サホガハノ》。小石踐渡《サヾレフミワタリ》。夜干玉之《ヌバタマノ》。黒馬之來夜者《クロマノクヨハ》。年爾母有※[禾+康]《トシニモアラヌカ》。
 
小石《サヾレ》は、和名抄に、細石(ハ)、説文(ニ)云、礫也、水中(ノ)細石也、和名|佐々禮以之《サヾレイシ》、字鏡に、硝(ハ)佐々良石《サヾライシ》、又小石(ナリ)、書紀に、砂礫《サヾレイシ》、此(ノ)集十四に、左射禮思《サザレシ》、又|佐射禮伊思《サザレイシ》などあり、土佐人筑紫人は、ざれとも、じやれとも云り、佐射禮《サザレ》は、細小の義にはあらず、佐射禮浪《サザレナミ》の佐射禮《サザレ》に同じ、既く二(ノ)卷に註り、○黒馬之來夜者は、クロマノクヨハ〔七字右○〕と訓べし、(黒はコク〔二字右○〕の音を用たるにて、コマ〔二字右○〕なるべく、さて夜干玉之は、下の夜と云へかゝれるかともおもはるれども、なほ十三(ノ)歌に依に、クロマ〔三字右○〕なるべし)十三に、烏玉之黒馬爾乘而《ヌバタマノクロマニノリテ》、(これは夜といふ言もなければ、黒馬はクロマ〔三字右○〕なること疑なし、)又|川瀬之石迹渡野干玉之《カハノセノイシフミワタリヌバタマノ》、黒馬之《クロマノ》、來夜者常二有沼鴨《クヨハツネニアラヌカモ》、(今(ノ)歌は此(ノ)歌を少し取換たるにや、)○年爾母有※[禾+康]《トシニモアラヌカ》(※[禾+康](ノ)字、古寫本、拾穗本等には粳と作り、)は、年中いつも常にあらねかしと希ふ意なり、○歌(ノ)意は、佐保河の細石をふみわたりて、黒馬に、乘つゝ吾(カ)許通(ヒ)來座むことは、年中いつも常にあらねかしとなり、
 
526 千鳥鳴《チドリナク》。佐保乃河瀬之《サホノカハセノ》。小浪《サヾレナミ》。止時毛無《ヤムトキモナシ》。吾戀者《アガコフラクハ》。
 
本(ノ)句は、止時無《ヤムトキナシ》をいはむ料の序なり、○吾戀者、(者(ノ)字、舊本爾に誤、元暦本古寫本拾穗本等に從つ、)アガコフラクハ〔七字右○〕なり、吾(カ)戀しく思ふやうはと云意なり、○歌(ノ)意は、君を吾(カ)戀しく思ふやうは、晝夜しばらくも止息《ヤム》時なしとなり、
 
(432)527 將來云毛《コムトイフモ》。不來時有乎《コヌトキアルヲ》。不來云乎《コジトイフヲ》。將來常者不待《コムトハマタジ》。不來云物乎《コジトイフモノヲ》。
 
將來云毛《コムトイフモ》、云(ノ)字、拾穗本には言と作り、毛(ノ)字、古寫一本に乎と作るはわろし、○歌(ノ)意かくれたるところなし、疊句(ノ)體なり淑人乃良跡吉見而《ヨキヒトノヨシトヨクミテ》の類なり、又十一に、梓弓引見弛見不來者不來《アヅサユミヒキミユルベミコズハコズ》、來者其々乎奈何不來者來者其乎《コバソヽヲナドコズハコバソヲ》とあるをも、思(ヒ)合(ス)べし、
 
528 千鳥鳴《チドリナク》。佐保乃河門乃《サホノカハトノ》。瀬乎廣彌《セヲヒロミ》。打橋渡須《ウチハシワタス》。奈我來跡念者《ナガクトオモヘバ》。
 
瀬乎廣彌《セヲヒロミ》は、瀬が廣き故にの意なり、○打橋《ウチハシ》は、二(ノ)卷、に出て具(ク)云り、○奈我《ナガ》は、汝之《ナガ》なり、○歌(ノ)意かくれなし、
〔右郎女者。佐保大納言卿之女也。初嫁2一品《ヒトツノシナ》穗積(ノ)皇子(ニ)1。被(ルコト)v寵無(シ)v儔(ヒ)。而皇子薨之後時藤原(ノ)麻呂大夫
娉《ツマトフ》2之郎女1焉。郎女家2於坂(ノ)上(ノ)里(ニ)1、仍《カレ》族氏《ウヂヲ》號2曰《イフナリ》坂上(ノ)郎女(ト)1也。〕
佐保大納言は、安麻呂(ノ)卿なり、此(ノ)卿の傳は、二(ノ)上に云り、○郎女は、家持のをはにて、又姑なり、傳は三(ノ)中に云り、○一品は、ヒトツノシナ〔六字右○〕と訓べし、一品は一位の事なり、凡諸皇子の位階を、一品二品などいひ、諸王より以下を、一位二位など云こと、文武天皇の御時より制《サダマ》れることなり、和名抄に、官位令(ニ)云、(今案(ニ)、唐令(ニ)有2官品1、今本朝以v位代v品(ニ)、)一品二品三品四品(品(ノ)讀|之奈《シナ》、)已上爲2親王(ノ)位階(ト)1とあり、○穗積(ノ)皇子の御傳は、二(ノ)上に(ク)註り、○族(ノ)字、舊本には※[弓+矣]と作り、今は古寫本に從つ、但し偏の弓方は、通し書ること、古書に例多し、(433)
 
又大伴坂上郎女和歌一首《マタオホトモノサカノヘノイラツメガウタヒトツ》。
 
529 佐保河乃《サホガハノ》。涯之官能《キシノツカサノ》。小歴木莫刈烏《シバナカリソネ》。在乍毛《アリツヽモ》。張之來者《ハルシキタラバ》。立隱金《タチカクルガネ》。
 
旋頭歌なり、○涯之官《キシノツカサ》は、崖《キシ》の高き處を云、十(ノ)卷に、高松野山司之《タカマトノヌヤマツカサノ》、十七に、野豆可佐爾今者鳴良武宇具比須乃許惠《ヌヅカサニイマハナクラムウグヒスノコヱ》、古事記雄略天皇(ノ)大后(ノ)御歌に、夜麻登能許能多氣知爾古陀加流伊知能都加佐爾《ヤマトノコノタケチニコダカルイチノツカサニ》などあり、類聚抄には、官を度と作、キシノワタリ〔六字右○〕とよめるは、いかゞあらむ、○小歴木莫刈烏(小(ノ)字、類聚抄并異本には少と作り、)は、シバナカリソネ〔七字右○〕と訓べし、契冲云、小歴木を、しばと點したるは、ちひさきくぬ木は、柴にかるゆゑに、心を得て、しばとよめるか、管見抄に、わかくぬぎとあるも、心を得たれど、なかりそ、といふことのあまれば、あやまれり、日本紀にも、歴木とかきて、くぬぎとよめり、今の俗、くのぎといひて、つるばみのなる木なり、と云るが如し、(但し橡を、くぬぎの實とせるは、ひがことなり、其(ノ)由は品物解に具(ク)云り、現存六帖に、高瀬さす佐保の河原のくぬぎ原、色つく見れば、秋の暮かもとあるは、今の歌を、わかくぬぎとよめるによれるか、又は小歴木の字によりてよめるものか、)小(ノ)字を加(ヘ)て書るも、柴なるよしを知(ラ)せたるなり、なほ歴木は、十二に、度會大河邊若歴木《ワタラヒノオホカハノベノワカクヌギ》とありて、品物解に云り、烏は(拾穗本には无)焉に通(ハ)して書り、即(チ)古寫本には焉と作り、舊本には鳥に誤れり、今は類聚抄に從つ、曾禰《ソネ》といふ禰《ネ》は希望(ノ)辭なり、○在乍毛《アリツヽモ》は、在々《アリ/\》つゝもの意なり、三(ノ)卷に、在管裳不止將通《アリツヽモヤマズカヨハム》とあり、○張《ハル》は、(434)春の借(リ)字なり、○立隱金《タチカクルガネ》は、夫(ノ)君と立隱て、竊(ヒ)會(ハ)むが爲にとなり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
天皇《スメラミコトノ》。賜《タマヘル》2海上女王《ウナカミノオホキミニ》1御歌一首《オホミウタヒトツ》。
 
天皇は、聖武天皇なり、○海上(ノ)女王は、官本に、志貴(ノ)皇子之女也と註り、續紀に、養老七年正月丙子、授2海上(ノ)女王(ニ)從四位下(ヲ)1、神龜元年二月丙申、海上(ノ)女王(ニ)授2從三位(ヲ)1と見ゆ、
 
530 赤駒之《アカコマノ》。越馬柵乃《コユルウマセノ》。緘結師《シメユヒシ》。妹情者《イモガコヽロハ》。疑毛奈思《ウタガヒモナシ》。
 
本二句は、緘結《シメユヒ》といはむ料の序なり、○馬柵《ウマセ》は、馬塞《ウマセキ》なり、十四に、宇麻勢胡之《ウマセコシ》、十二に、※[木+巨]※[木+若]越爾《ウマセコシニ》と見ゆ、(字鏡に楯(ハ)馬夫世支《ウマフセギ》、)○緘結師《シメユヒシ》は、堅く契約《チギリ》をかはせし、と云意を、もたせたるなり、○大御歌(ノ)意かくれたるところなし、
〔右今案。此哥擬古之作也。但以往當便賜斯歌歟。〕
當の下、古寫一本に時(ノ)字有、○源(ノ)道別云、擬は疑の誤、往は時の誤にて、且(タ)當時とありしが、轉倒したるならむ、さらば疑(ラクハ)古之作也、但以2當時(ノ)便(ヲ)1云々、とありしなるべし、十八に、以2古人之跡1代2今日之意(ニ)1、また十五に、當所誦詠古歌など云る類なり、
 
海上女王《ウナカミノオホキミノ》奉《マツル》v和《コタヘ》歌一首《ウタヒトツ》。
 
海上(ノ)女王は、元暦本、類聚抄、古寫本、古寫一本等に註(シテ)云、志貴(ノ)皇子之女也、
 
(435)531 梓弓《アヅサユミ》。爪引夜音之《ツマヒクヨトノ》。遠音爾毛《トホトニモ》。君之御幸乎《キミガミコトヲ》。聞之好毛《キカクシヨシモ》。
 
爪引夜音之《ツマヒクヨトノ》は、隨身が夜の陣にて、弦を引鳴す音なり、その弦音の遠く聞ゆるを以、遠音《トホト》といはむ序とせり、十九挽歌に、梓弧爪引夜音之遠音爾毛聞者悲彌《アヅサユミツマヒクヨトノトホトニモキケバカナシミ》とあり、○遠音爾母《トホトニモ》は、遠き御音信にもといふなり、かげろふの日記に、帥殿の北の方尼に成給ひけり、とほとにもいとあはれに思そ奉るとあり、○君之御幸乎は、幸は事の寫誤にて、キミガミコトヲ〔七字右○〕なりと岡部氏云り、二(ノ)卷に、君之御言乎持而加欲波久《キミガミコトヲモチテカヨハク》とあり、○聞之好毛は、キカクシヨシモ〔七字右○〕と訓べし、(キクハシヨシモ〔七字右○〕とよめるは、甚つたなし、)キカク〔三字右○〕はキク〔二字右○〕》の伸りたる言にて、聞事はと云意なり、(古今集戀に、それをだに思ふ事とて吾やどを見きとないひそ人のきかくに、藤原(ノ)元眞集に、ほとゝぎす去年の一聲あかざりし人のきかくにまづぞなかなむ、などあるも、きかくには、きくにの伸りたるにて、聞事なるにの意なり、)之《シ》は、その一(ト)すぢなるを、おもくいふ助辭、毛《モ》は歎息(ノ)詞なり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
 
大伴宿奈麻呂宿禰歌二首《オホトモノスクナマロノスクネガウタフタツ》。
 
宿奈麻呂は、元暦本、類聚抄、古寫本等に、佐保大納言第三之子也と註せり、此(ノ)人の傳は、二(ノ)上に委(ク)註り、續紀に、養老三年七月、備後(ノ)國(ノ)守正五位下大伴(ノ)宿禰宿奈麻呂管2安藝周防(ノ)二國(ヲ)1とあれば、その管國より、女を宮づかへに出せし時に、よめるなるべし、
 
(436)532 打日指《ウチヒサス》。宮爾行兒乎《ミヤニユクコヲ》。眞悲見《マカナシミ》。留者苦《トヾムハクルシ》。聽去者爲便無《ヤルハスベナシ》。
 
眞悲見《マカナシミ》は、眞悲《マカナシ》さが故にの意なり、眞《マ》は美稱にて、心と云むが如し、悲てふ言は、悲傷《イタ》む意にも憐愛《ウツクシ》む意にも云を、こゝは愛憐《ウツクシ》むかたなり、七(ノ)卷に、于花以之哀我手鴛取而者花散鞆《ウノハナモチシカナシキガテヲシトリテバハナハチルトモ》、九(ノ)卷に、心悲久獨去兒爾屋戸借申尾《マカナシクヒトリユクコニヤドカサマシヲ》、十四に、加奈之伎世呂我和我利可欲波牟《カナシキセロガワガリカヨハム》、又|可奈思伊毛乎《カナシイモヲ》、十五に、伊毛我可奈思佐《イモガカナシサ》、廿(ノ)卷に、可奈之伎吾子《カナシキアゴ》、又|可奈之伊毛我多麻久良波奈禮阿夜爾可奈之毛《カナシイモガタマクラハナレアヤニカナシモ》、(燐愛妹《カナシイモ》が手枕離(レ)あやに悲傷《カナ》しもなり、)伊勢物語に、ひとり子にさへ有ければ、いとかなしう爲賜ひけりとある、かなしも同じ、○聽去者《ヤルハ》は、去(ル)ことを聽すといふ義をもて、ヤルハ〔三字右○〕と訓せたり、○歌(ノ)意は、宮づかへすとて、京の方に出發(ツ)女を、心憐愛しく思ふが故に、國に留たくはあれども、そを心まゝに留めむは、義《コトワリ》にそむけば苦し、さらぬふりにてやるは、いとゞすべなくて、いかにともせむかたなくて、心ひとつに思ひわづらふとなり、契冲云、古今集陸奥歌に、あふくまに霧立渡明ぬとも君をばやらじ待ばすべなし、下の句、心はかはれどまた似たり、
 
533 難波方《ナニハガタ》。塩干之名凝《シホヒノナゴリ》。飽左右二《アクマデニ》。人之見兒乎《ヒトノミムコヲ》。吾四乏毛《アレシトモシモ》。
 
難波方《ナニハガタ》は、難波潟なり、○塩干之名凝《シホヒノナゴリ》は、契冲、塩のひかたにのこれるたまり水を、なごりといふ、第六に、なにはがた塩干のなごりまぐはしみむいへなるいもが待とはむため、第七に、なごの海のあさけのなごりけふもかもいそのうらわにみだれてあらむ、武烈紀に、天皇いま(437)だ太子たりし時よませ賜ふ御歌に、しほせのなをりをみればとあるも、をとこと同韵の字なれば、なごりなるべし、陳鴻が長恨歌傳に、餘波をなごりとよめり、源氏物語あかしに、月さしいでゝ、鹽のちかくみちきける、あともあらはに、なごり猶よせかくる波のあらきを、柴の戸おしあけてながめおはします、飽左右二人之見《アクマデニヒトノミル》とつゞけるは、第六に、しほひのなごりまぐはし見むといへる心なり、今も此(ノ)わたりのをとこ女、しほひとて三月三日住吉にまうでがてら、ひがたにもをひろひ、はまぐりなどもとむめり、さらぬ時もひがたに立て、玉藻などひろひてあそぶは、おもしろきことなれば、その眺望によせて、人はあくまでみてもなぐさむ人を、われは見る事だにすくなしと云りといへり、(此(ノ)説の中に、書紀の之褒世能儺嗚理《シホセノナヲリ》、とあるをひけるは誤にや、かの儺嗚理《ナヲリ》は、波折《ナヲリ》なるべし、)今按(フ)に、名凝《ナゴリ》は浪凝《ナゴリ》にや、荒浪のよせて立歸れる後に、ひがたにのこれる浪泡の、凝々しきよしの稱にぞあらむ、後撰集に、徒に立歸にし白浪のなごりに袖のひるときも無(シ)とある、よく其(ノ)意にかなへり、(大和物語(ノ)歌に、おきつ風ふけゐの浦にたつ浪のなごりにさへや吾はしづまむ、これも同じ、中山(ノ)嚴水考あり、めづらしければこゝに擧(ク)、名凝は、伊勢物語に、南風吹て浪《ナ》ごろいと高しとある、なごろと同(シ)く、浪の立をいふ、鹽の引ときには必(ス)浪の立ものなれば、鹽干のなごりと云り、今も阿波讃岐の浦廻にては、浪のたつをなごらがたつと云り、土佐(ノ)國にても、大きなる浪を大らと云、是により(438)ておもへば、なごらは和浪《ナゴラ》の意にて、大浪《オホラ》にむかひたる言にや、さらばなごらは小浪の事にて、小浪の立を〓邊より見れば、いとなつかしくあかぬこゝちすれば、飽までにとは云るなるべし、七(ノ)卷のあさけのなごりも、和浪にてよく聞えたり、之褒世能儺嗚理《シホセノナヲリ》も、嗚は呼の誤にて、なごりなるべし、催馬樂紀伊(ノ)國に、きのくにのしらゝのはまにきてゐるかもめはれ、たまもさゝ風しも吹たれば、なごりしもたてればみなそこきりてはれ、そのたま見えじをとありと云(ヘ)り、此(ノ)考(ヘ)も理ありてきこゆ、但(シ)ラ〔右○〕は浪の字音なれば、浪《ナミ》を字音にはいふべからず、今おほらといふも、ラ〔右○〕は字音とはおもはれねば、自然に通へるならむ、此(ノ)説その辨なきが故に、音訓混れてきこえたり、さばれ鹽干之名凝とあるは、鹽干潟ときこえて、鹽の引ときをいふことゝはきこえがたければ、なほ前(ノ)説によるべくや、また伊勢物語の浪ごろも、塗籠本にはなごりの浪とあり、是よろし、)○二(ノ)字、類聚抄には爾と作り、○吾四乏毛《アレシトモシモ》は、四《シ》は、その一(ト)すぢなるをおもくいふ助辭、乏《トモシ》は少き意、毛《モ》は歎息(ノ)辭なり、○歌意は、かの愛しき女が宮づかへしてあれば、宮内に親く奉仕む人は、朝夕あくまでに相見べからむを、吾は別れてより、見ることだに少乏《トモシ》き事哉と云るにや、
 
安貴王謌一首并短歌《アキノオホキミノウタヒトツマタマタミジカウタ》。
 
534 遠嬬《トホヅマノ》。此間不在者《コヽニアラネバ》。
玉桙之《タマホコノ》。道乎多遠見《ミチヲタドホミ》。思空《オモフソラ》。安莫國《ヤスカラナクニ》。嘆虚《ナゲクソラ》。不安物乎《ヤスカラヌモノヲ》。水空往《ミソラユク》。(439)雲爾毛欲成《クモニモガモ》。高飛《タカトブ》。鳥爾毛欲成《トリニモガモ》。明日去而《アスユキテ》。於妹言問《イモニコトトヒ》。爲吾《アガタメニ》、妹毛事無《イモモコトナク》。爲妹《イモガタメ》。吾毛事無久《アレモコトナク》。今裳見如《イマモミシゴト》。副而毛欲得《タグヒテモガモ》。
 
遠嬬《トホヅマ》は、遠離りて居る嬬なり、八(ノ)卷七夕(ノ)歌に、風雲者二岸爾可欲倍杼母《カゼクモハフタツノキシニカヨヘドモ》、吾遠嬬之事曾不通《アガトホヅマノコトソカヨハヌ》、九(ノ)卷に、遠妻四高爾有世婆不知十方《トホヅマシソコニアリセバシラズトモ》、手綱乃濱能尋來名益《タヅナノハマノタヅネキナマシ》、十(ノ)卷七夕(ノ)歌に、遙※[女+莫]等手枕易寐夜《トホヅマトタマクラカワシネタルヨハ》、又|年有而今香將卷鳥玉之《トシニアリテイマカマクラムヌバタマノ》、夜霧隱遠妻手乎《ヨキリガクリニトホヅマガテヲ》、などあり、○道乎多遠見《ミチヲタドホミ》は、道が遠きゆゑにの意なり、多《タ》はをへ言なり、十七に、多麻保己能美知乎多騰保彌《タマホコノミチヲタドホミ》とあり、○思空《オモフソラ》、嘆虚《ナゲクソラ》、中山(ノ)嚴水、此空てふ言は、今(ノ)世に、こゝちといふことによくあたれり、九(ノ)卷に、吾念情安虚歟毛《アガモフコヽロヤスキソラカモ》と有も、こゝちと云てよく聞えたり、今(ノ)世に、空恐しといふも、こゝちおそろしといふ意なりと云り、竹取物語に、これを御門御覽じて、いかゞ還り賜はむ空もなくおぼさるとある、空もおなじ、榮花物語に、大藏(ノ)卿正光(ノ)朝臣、おひ奉りてかへらせ給ほどなど、いみじく悲し、かへらせ給ふ道の空もなし云々、出させ給道の空もなく、いみじうおぼさるべし、かげろふの日記に、ほとゝぎすのおとなひにも、やすき空なくおもふべかめれば、落窪物語に、はやう御てうづまゐれとのたまへば、たちてありく空もなし、源氏物語赤石に、家をはなれさかひをさりて、明くれやすき空なくなげき給ふに、かくかなしき目をさへ見給ふ、今昔物語に、女の事を思て云々、敏行更に歩む空なくしてゆくに云々、又若き女に云々、僧手など洗て經讀居たり、其(ノ)音極て貴し、然(440)れども心の内には、更に讀空なしなどあるも、皆意同じ、○安莫國は、ヤスカラナクニ〔七字右○〕と訓べし、八(ノ)卷に、伊奈牟之呂河向立《イナムシロカハニムキタチ》、意空不安久爾嘆空不安久爾《オモフソラヤスカラナクニナゲクソラヤスカラナクニ》、十七に、奈氣久蘇良夜須家奈久爾《ナゲクソラヤスカラナクニ》、於母布蘇良久流之伎母能乎《オモフソラクルシキモノヲ》、十八に、故敷流曾良夜須久之安良禰婆《コフルソラヤスクシアラネバ》、十九に、嘆蘇良夜須家久奈久爾《ナゲクソラヤスケクナクニ》、念蘇良苦伎毛能乎《オモフソラクルシキモノヲ》などあり、○水空《ミソラ》は、水《ミ》は(借(リ)字、)美稱にて、眞空といはむが如し、五(ノ)卷に、阿麻能見虚喩《アマノミソラユ》、十(ノ)卷に、天三空者《アマノミソラハ》などあり、○雲爾毛欲成《クモニモガモ》は、雲にてもがなあれかしと乞望ふよしなり、○高飛は、タカトブ〔四字右○〕と訓べし、(タカクトブ〔五字右○〕とよめるは、甚わろし、)空飛《ソラトブ》といはむが如し、古事記垂仁天皇(ノ)條に、今聞2高往《タカユク》鵠之音(ヲ)1、又仁徳天皇(ノ)條女鳥(ノ)王(ノ)歌に、多迦由久夜波夜夫佐和氣能《タカユクヤハヤブサワケノ》などある、高往《タカユク》と同じ、○鳥爾毛欲成《トリニモガモ》は、鳥にてもがなあれかしと乞望ふよしなり、○妹毛事無《イモモコトナク》事の下、舊本に今一(ツ)の事(ノ)字あるは、衍なり、拾穗本、古寫一本等に無による、)は妹も無v事|平安《タヒラカ》にと云なり、五(ノ)卷に、靈剋内限者《タマキハルウチノカギリハ》、平氣久安久母阿良牟遠《タヒラケクヤスクモアラムヲ》、事母無裳無母阿良牟遠《コトモナクモナクモアラムヲ》とあり、○吾毛車無久《アレモコトナク》の下に、一句五字のおちたるにやと契冲は云れど、おぼつかなし、(其は本のまゝにては、七言の三句重る故に、しかおもへるものなれど、七言三句にて結めたるは、長歌に甚多し、)○今毛見如は、本居氏云、イマモミシゴト〔七字右○〕と訓べし、京に在し時見し如く、今もと云意なり、○副而毛欲得《タグヒテモガモ》は、ならびそひてもがなあらまほしとなり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
(441)反歌《カヘシウタ》。
 
535 敷細乃《シキタヘノ》。手枕不纏《タマクラマカズ》。間置而《アヒダオキテ》。年曾經來《トシソヘニケル》。不相念者《アハナクモヘバ》。
 
歌(ノ)意は妹が手枕纏ずして、間を置て、逢見ぬことを、おもひめぐらせばはや一年をぞ經にける、さて/\久しくあはぬ事にてあるよとなり、
〔右安貴(ノ)王。娶2因幡(ノ)八上采女1。係念極甚。愛情尤盛(ナリ)。於v時勅斷2不敬之罪1。退2却本郷1焉。于v是王意悼怛。聊作2此歌1也。〕
八上(ノ)采女は、未(タ)詳ならず、和名抄に、因幡(ノ)國八上(ノ)(夜加美《ヤカミ》)郡、古事記上卷に、八千矛神(ノ)各有d欲v婚《エムト》2稲羽之八上比|賣《メ》1之心u。此(レ)八上(ノ)郡の女なるべし、
 
門部王戀歌一首《カドベノオホキミノコヒノウタヒトツ》。
 
536 飫宇能海之《オウノウミノ》。鹽干乃滷之《シホヒノカタノ》。片念爾《カタモヒニ》。思哉將去《オモヒヤユカム》。道之永手呼《ミチノナガテヲ》。
 
飫宇能海《オウノウミ》(飫(ノ)字、類聚抄には※[食+〓]と作り、)は、三(ノ)卷に、この同王(ノ)歌にあり、○鹽干乃滷之《シホヒノカタノ》は、片念《カタモヒ》を云むための序なり、○道之永手呼《ミチノナカテヲ》(呼(ノ)字、類聚抄には乎と作り、)は、道之長道《ミチノナガテ》をと云に同じ、既く具(ク)云り、○歌(ノ)意は、此(ノ)ほど妹は我(ガ)事を忘ぬらむを、我はさてもえあるまじければ、くれ/\と長き道を、かたおもひにおもひつゝやゆかむ、とのたまへるなり、これは往來を絶て後、出雲の任より京に歸り上る時、道にて娘子を更に思ひ出て、堪ずてよみて贈りたまへるなるべし、
(442)〔右門部(ノ)王。任2出雲守1時。娶2部内娘子1也。未v有2幾時1既絶2往來1。累月之後更起2愛心1。仍作2此歌1贈2致娘子1。〕
 
高田女王《タカタノオホキミノ》贈《オクリタマヘル》2今城王《イマキノオホキミニ》1歌六首《ウタムツ》。
 
高田(ノ)女王は、八(ノ)卷にも出て、高安(ノ)王之女也、(舊本に女(ノ)字を脱せり、)と註せり、高安(ノ)王の傳は、四(ノ)上に出せり、此(ノ)王は、天平十一年に姓を賜りて、大原(ノ)眞人高安といひける人のことなり、(續紀に、神護元年正月己亥、無位高向(ノ)女王(ニ)授2從五位下(ヲ)1、とあり、もし向(ノ)字は、田の誤にて、高田(ノ)女王にはあらざるかと云説あり、神護は、天平十四年に、大原(ノ)眞人高安の卒られてより、廿年あまり、經て後のことなれば、別人なるべし、)○今城(ノ)王は、元暦本、古寫本等(ノ)註に、今城(ノ)王後賜2大原(ノ)眞人(ノ)氏(ヲ)1也、とあれど、此(ノ)王は、集中に見えたるのみにて、傳未(タ)詳ならず、
 
537 事清《コトキヨク》。甚毛莫言《イトモナイヒソ》。一日太爾《ヒトヒダニ》。君伊之哭者《キミイシナクバ》。痛寸取物《シヌヒアヘヌモノ》。
 
事清《コトキヨク》は、事《コト》は(借(リ)字)言にて、然《サ》あらぬ體に言なすを、言清(ク)いふとは云なるべし、(住吉物語に、いかなる夜目にもこそはしるく侍なれ、御口きよさよ、とあるも似たることなり、)○君伊之哭者《キミイシナクバ》は、伊《イ》は、木關守伊《キノセキモリイ》の伊《イ》にて、添たる言、之《シ》も、例のその一(ト)すぢをおもくいふ助辭、哭《ナク》は(借(リ)字)無《ナク》にて、君無者《キミナクバ》といふことなるべし、○痛寸取物は、誤字あるべし、(舊訓に、イタキヽズソモ〔七字右○〕とあるは、いふに足ず、)今按(フ)に、痛寸取は、偲不敢などありしを、誤寫せるなるべし、さらば偲不敢物に(443)て、シヌヒアヘヌモノ〔八字右○〕と訓べし、物は、ものをといふ意なり、忍《シヌ》び堪《タヘ》むとすれども、得しぬび堪ぬ物をといふ意なるべし、○歌(ノ)意は、然《サ》あらぬ體にもてなして、甚言清くのたまふ事なかれ、たゞ一日ばかりだに、君がおはしまさずては、しぬびあへむとすれども、一すぢに深く思ふ情に得堪られぬ物を、と云なるべし、次の吾背子爾《ワガセコニ》云々、現世爾波《コノヨニハ》云々などあるによりて思ふに、かく人言の繁ければ、遂に末とぐべくもあらず、さらば互に、今朝を限におもひ止べし、妹も再び吾を思ふ事なかれなど、清くのたまへるにより、しか言清く情なく詔ふな、とよみ賜ふなるべし、
 
538 他辭乎《ヒトゴトヲ》。繁言痛《シゲミコチタミ》。不相有寸《アハザリキ》。心在如《コヽロアルゴト》。莫思吾背《ナオモヒワガセ》。
 
本(ノ)二句は、二(ノ)卷に出て、既く彼(ノ)卷に云り、○心在如《コヽロアルゴト》は、あだし心のある如くといふなり、古今集に、たえず往飛鳥の川の不通《ヨドメ》らば心あるとや人のおもはむ、とあるもおなじ、○莫思吾背《ナオモヒワガセ》(背の下、拾穗本に子(ノ)字あるはわろし、)は、思ひ賜ふ事なかれ、吾(ガ)夫子よ、といふ意なり、○歌(ノ)意は、人言の繁くこちたき故に、それを憚りて相見ずありき、あだし心のある如くに思ひ賜ふ事なかれ、吾(ガ)夫子よとなり、
 
539 吾常子師《ワガセコシ》。遂常云者《トゲムトイハバ》。人事者《ヒトゴトハ》。繁有登毛《シゲクアリトモ》。出而相麻志呼《イデテアハマシヲ》。
 
歌(ノ)意は、吾(ノ)夫子が、一(ト)すぢに末遂むとつよくのたまはゞ、よしや人言は繁くこちたくありと(444)も、それにもさはらずして、出て相見まゐらすべきをとなり、上の歌をふみてよまれたり、
 
540 吾背子爾《ワガセコニ》。復者不相香《マタハアハジカ》。常思墓《トオモヘバカ》。今朝別之《ケサノワカレノ》。爲便無有都流《スベナカリツル》。
 
復者不相香《マタハアハジカ》は、七言一句なり、常《ト》は、第三(ノ)句の頭頭につけて讀べし、○思墓《オモヘバカ》(墓、舊本基に誤、元暦本古寫本拾穗本、等に從つ、)は、思へばにやの意なり、歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
541 現世爾波《コノヨニハ》。人事繁《ヒトゴトシゲシ》。來生爾毛《コムヨニモ》。將相吾背子《アハムワガセコ》。今不有十方《イマナラズトモ》。
 
現世爾波《コノヨニハ》は、今の現在《ウツシヨ》にはといふなり、爾波《ニハ》は、他にむかへていふ詞なり、○來生爾毛《コムヨニモ》は、死ゆく未來《ノチ》の世にだにもといふ意なり、毛《モ》は、今(ノ)俗にせめてといふほどの意なり、來生は、佛説の來世なり、○今の下、古寫一本に爾(ノ)字あり、○歌(ノ)意は、今(ノ)現在に相見まほしく思へども、人言しげきによりて、あふことかなひがたし、よし今の世ならずとも、せかて死ゆく未來《ノチ》の世にだにも、相見むと思ふぞ吾(カ)夫子よ、といへるなり、
 
542 常不止《ツネヤマズ》。通之君我《カヨヒシキミガ》。使不來《ツカヒコズ》。今者不相跡《イマハアハジト》。絶多比奴良之《タユタヒヌラシ》。
 
今者不相跡《イマハアハジト》は、此(レ)まではあふべきかあふまじきか、と二方におもひまどひしが、今は一方にあはじと決《サダ》めぬらしの意なり、今者《イマハ》といふ詞皆同じ、(今者は、俗にもうはといふに同じ、もうはあふまいといふ意なり、(今者許藝弖菜《イマハコギテナ》といふも、此(レ)までは船出せらるべきか、せらるまじきか、と二方におもひまどひしが、潮もよきほどに叶ひぬれば、今は、一方に船出せむと決《サダ》め(445)たる意にて同じ○絶多比《タユタヒ》は猶豫不定をいふ言にて、既く具(ク)註り、常に止ず、つゞきて通ひ來し使の、絶間を置たるよしなり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
神龜元年甲子冬十月《ジムキハジメノトシキノエネカミナツキ》。幸《イデマセル》2紀伊國《キノクニニ》1之時《トキ》。爲《タメ》v贈《オクラム》2從駕人《ミトモノヒトニ》1所《ラエテ》v誂《アツラヘ》2娘子《ヲトメニ》1笠朝臣金村作歌一首并短歌《カサノアソミカナムラガヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
元(ノ)字、類聚抄に三と作るはわろし、○所誂は、八(ノ)卷に、尼作2頭句1、并大伴宿禰家持所v誂v尼(ニ)續2未句1、十九に、爲3家婦贈2在v京尊母1所v誂作歌、又所v誂2家婦1作也、などある類なり、
 
543 天皇之《オホキミノ》。行幸乃隨意《イデマシノマニ》。物部乃《モノヽフノ》。八十件雄與《ヤソトモノヲト》。出去之《イデユキシ》。愛夫者《ウツクシツマハ》。天翔哉《アマトブヤ》。輕路從《カルノミチヨリ》。玉田次《タマタスキ》。畝火乎見管《ウネビヲミツヽ》。麻裳吉《アサモヨシ》。木道爾入立《キヂニイリタチ》。眞土山《マツチヤマ》。越良武公者《コユラムキミハ》。黄葉乃《モミチバノ》。散飛見乍《チリトブミツヽ》。親《シタシクモ》。吾者不念《アヲバオモハズ》。草枕《クサマクラ》。客乎便宜常《タビヲヨロシト》。思乍《オモヒツヽ》。公將有跡《キミハアラムト》。安蘇蘇二破《アソソニハ》。且者雖知《カツハシレドモ》。之加須我仁《シカスガニ》。黙然得不在者《モダモエアラネバ》。吾背子之《ワガセコガ》。往乃萬萬《ユキノマンマニ》。將追跡者《オハムトハ》。千遍雖念《チタビオモヘドモ》。手嫋女《タワヤメノ》。吾身之有者《アガミニシアレバ》。道守之《ミチモリノ》。將問答乎《トハムコタヘヲ》。言將遣《イヒヤラム》。爲便乎不知跡《スベヲシラニト》。立而爪衝《タチテツマヅク》。
 
天皇之は、天は大の寫誤なるべし、オホキミノ〔五字右○〕と訓べし、天皇《スメロキ》と申と、大皇《オホキミ》と申との差別は、既く首(ノ)卷に具(ク)論(ヘ)り、○行幸之隨意はイデマシノマニ〔七字右○〕と訓べし、隨意は、今(ノ)世まゝにと云(フ)に同じ、マニ/\、マニマ〔七字右○〕などいふは、このマニを疊云るなり、マニ〔二字右○〕とのみ云るは、六(ノ)卷に、大皇之行幸之隨《オホキミノイデマシノマニ》、續紀廿五(ノ)宣命に、己可欲末仁行止念天《オノガホシキマニオコナハムトオモヒテ》、字鏡に、態(ハ)、保志支萬爾《ホシキマニ》、など見ゆ、○物部《モノヽフ》は、既く(446)一(ノ)卷に具(ク)云り、○八十伴雄與《ヤソトモノヲト》は、八十伴(ノ)緒と共にといふなり、○愛夫《ウツクシツマ》は、廿(ノ)卷防人(ノ)歌に、有都久之波々爾《ウツクシハヽニ》、孝徳天皇(ノ)紀(ノ)歌に、于都倶之伊母我《ウツクシイモガ》などあると、同類なり、こゝは從駕《ミトモツカヘマツ》れる夫(ノ)君を云り、○天翔哉《フマトブヤ》は、輕《カル》の枕詞なり、二(ノ)卷に出づ、○玉田次《タマタスキ》は、畝火《ウネビ》の枕詞なり、一(ノ)卷に出づ、○麻裳吉《アサモヨシ》は、木《キ》の枕詞なり、これも一(ノ)卷に出づ、○木道爾入立は、キヂニイリタチ〔七字右○〕と訓べし、眞土山は、紀伊(ノ)堺にありて、大和國に屬たれども、紀伊國へ往道路をば、紀伊路《キヂ》といふ例なれば、未(ダ)紀伊(ノ)堺に至らねども、木道《キヂ》とは云るなり、(契冲が、きぢにいりたつと訓べし、入たちとよめるはわろし、その故は、眞土山は大和なれば、入たちとよみては、すでに紀伊(ノ)國ときこゆればなりと云るは、某道と云道の心を、よくもわきまへざりしなり、○越良武公者《コユラムキミハ》は、九(ノ)卷に、朝裳吉木方往君我信士山越濫今日曾雨莫零根《アサモヨシキヘユクキミガマツチヤマコユラムケフゾアメナフリソネ》、三(ノ)卷に、佐農能崗將超公爾《サヌノヲカコユラムキミニ》などあり、○親はシタシケク〔五字右○〕と訓べし、シタ〔二字右○〕は、斯多布《シタフ》、斯努布《シヌフ》の、斯多《シタ》、斯努《シヌ》と同言にて、ケク〔二字右○〕は、愛《ハシ》くを、波斯氣久《ハシケク》と云と同辭にて、親《シタシ》けくと謂《イフ》なり、戀慕《シタハ》しけくといふ意なり、○吾者不念(念(ノ)字、拾穗本には思と作り、)は、アヲバオモハズ〔七字右○〕と訓て、吾をば親くおもはずの意なり、○安蘇蘇二破《アソソニハ》、(破(ノ)字、拾穗本には八と作り、)安蘇々は舊説に、もりを推し心得たる詞なり、と云り、(岡部氏は、淺々爾《アサ/\ニ》と云意と云へれど、叶はず、こは次の雖知《シレドモ》と云(フ)へ屬《ツヾ》く言なればなり、)○且者雖知《カツハシレドモ》は、雖《ドモ》v知《シレ》且者《カツハ》と云意に、且者《カツハ》の言を、下にめぐらして心得べし、古今集(ノ)序に、かつは人の耳におそり、かつは人の心にはぢ思へど、(447)棚引雲の起居、鳴しかの興臥は、貫之等が、此(ノ)世に同じく生れて、此(ノ)事の時にあへるをなむ、悦びぬる、とあるも、人の耳におそり、歌の心にはぢ思へど、かつは起居興臥に悦びぬる、と云意にて、同じ例なり、且《カツ》とは、然ありながら、又そのかたへより、如此《カク》あるやうのことをいふ詞なり、こゝは、吾をば親くおもはず、旅を宜しと思ひつゝ、君は有らむと知たれども、しかしながら、そのかたへより、黙然《モダ》も得あらねば云々、といふ意なり、○之加須我仁《シカスガニ》は、さすがにといふと同言なり、俗にしかしながらといふに同じ、五(ノ)卷に、鳥梅能波奈知良久波伊豆久志可須我爾許能紀能夜麻爾由企波布理都々《ウメノハナチラクハイヅクシカスガニコノキノヤマニユキハフリツヽ》、十(ノ)卷に、山際爾雪者零管然爲我二此河楊波毛延爾家留可聞《ヤマノマニユキハフリツヽシカスガニコノカハヤギハモエニケルカモ》、又|雪見者未冬有然爲蟹春霞立梅者散乍《ユキミレバイマダフユナリシカスガニハルガスミタチウメハチリツヽ》、十八に、美之麻野爾可須美多奈妣伎之可須我爾伎乃敷毛家布毛由伎波敷里都追《ミシマヌニカスミタナビキシカスガニキノフモケフモユキハフリツツ》、後撰集に、まどろまぬ物からうたてしかすがにうつゝにもあらぬ心ちのみする、新古今集に、能因法師、かくしつゝ暮ぬる秋と老ぬればしかすがになほものぞ悲しき、後拾遺集に、しかすがのわたりにてよめる、能因法師、思ふ人有となけれどふる里はしかすがにこそ戀しかりけれ、現存六帖に、かりがねは花をぞまたぬしかすがに鳴てわかれぬ春はなけれど、などあり、○黙然得不在者《モダモエアヲネバ》は、十七に、母太毛安良牟《モダモアラム》とあり、母太《モダ》は、空《ムナ》といふに同じ、空しく徒《タヾ》に得あらねばの意なり、○往乃萬萬《ユキノマニマニ》は、九(ノ)卷に、益荒夫乃去能進爾《マスラヲノユキノスヽミニ》、又|父母賀成乃任爾《チヽハヽガナシノマニマニ》、後撰集七(ノ)卷に、山風の吹の麻爾麻爾《マニマニ》紅葉はこのも彼面に散ぬべ(448)らなり、などあると、同格の詞なり、萬萬《マニマニ》は任《マヽ》にといふ意なり、十三に、遣之萬萬《マケノマニマニ》と有(リ)、○將追跡者《オハムトハ》は、追付むとは、といふなり、追は、二(ノ)卷に、遺居而戀管不有者追及武《オクレヰテコヒツヽアヲズバオヒシカム》とある、追に同じ、○手嫋女《タワヤメ》は、嫋(ノ)字は、弱女の二字を一字に作るなるべし、采女を※[女+采]女と作るに同(シ)、○道守《ミチモリ》、は、山守《ヤマモリ》野守《ヌモリ》などの類にて、道路《ミチ》を守る者を云、今(ノ)世の道番なり、(和名抄道路(ノ)具に、唐韻(ニ)云、遉邏、漢語抄(ニ)云、遉邏(ハ)知毛利《チモリ》、とあるものは、敵《カタキ》のありさまなどを候《ウカヾ》ひに、巡行《アリ》かする者を云て、こゝの道守とは別なりと云り、)又神代紀に、泉守道者《ヨモツチモリ》といふもあり、又古事記に、道守(ノ)臣、書紀天智天皇(ノ)卷に、道守(ノ)臣麻呂、又續紀にも、道守(ノ)臣見え、姓氏録にも、道守(ノ)臣、道守(ノ)朝臣の姓見えたり、令抄に、立舗(ハ)、古記(ニ)云、京路分街(ニ)立2守道屋(ヲ)1也、舗(ハ)肆也、○將問答乎《トハムコタヘヲ》は、いづくよりいづくへ、いかなることにて、行人ぞ、と問む時の答(ヘ)をなり、○言將遣《イヒヤラム》は、言放《イヒハナタ》むといふに同じ、遣《ヤル》は、見遣《ミヤル》などいふ遣なり、○不知跡《シラニト》は、跡《ト》は添たる辭にて、たゞ不知《シラニ》なり、斯良爾《シラニ》は、不《ズ》v知《シラ》にと云が如し、二(ノ)卷に、不知等妹之待乍將有《シラニトイモガマチツヽアラム》、とあるも同じ、又古事記中(ツ)卷崇神天皇(ノ)條(ノ)歌に、宇迦々波久斯良爾登美麻紀伊理毘古波夜《ウカヽハクシラニトミマキイリビコハヤ》、とあり、此(ノ)歌、書紀に載たるには、此(ノ)登《ト》てふ辭なし、これにて登《ト》は、あるも無きも、大かた同じきを知べし、○立而爪衝《タチテツマヅク》は、十三に、馬自物立而爪衝爲須部乃田付乎白粉《ウマジモノタテテツマヅキセムスベノタヅキヲシラニ》、字鏡に、蹴然(ハ)太知豆萬豆久《タチツマヅク》、跟※[足+將](ハ)立豆萬豆久《タチツマヅク》、躇躇太知豆萬豆久《ハタチツマヅク》、※[足+奇]※[足+區](ハ)豆萬豆久《ツマヅク》、などあり、既く三(ノ)卷に註せり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、契冲云、此(ノ)歌、娘子の誂《アツラヘ》にかなひて、あはれにはかなくよまれた(449)り、物にまかせて體を變ぜられけるなるべし、高橋(ノ)蟲まろ、山上(ノ)憶良 、田邊(ノ)福まろ、此(ノ)笠(ノ)金村、家持など、人麻呂、赤人につゞきて、おもしろき長歌などよめる人々なり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
544 後居而《オクレヰテ》。戀乍不有者《コヒツヽアラズバ》。木國乃《キノクニノ》。妹背乃山爾《イモセノヤマニ》。有益物乎《アラマシモノヲ》。
 
戀乍不有者《コヒツヽアラズバ》は、戀つゝあらむよりはの意なり、本二句は、既く二(ノ)卷に出づ、○歌(ノ)意かくれなし、
七(ノ)卷に、人在者母之最愛子曾麻毛吉《ヒトナラバハヽガマナゴソアサモヨシ》、木川邊之妹與背之山《キノカハノヘノイモトセノヤマ》、吾妹子爾吾戀行者乏雲並居鴨妹與勢能山《ワギモコニアガコヒユケバトモシクモナラビヲルカモイモトセノヤマ》、
 
545 吾背子之《アガセコガ》。跡履求《アトフミモトメ》。追去者《オヒユカバ》。木乃關守伊《キノセキモリイ》。將留鴨《トヾメナムカモ》。
 
木乃關守伊《キノセキモリイ》は、菟原壯士伊《ウナヒヲトコイ》など云如く、伊《イ》は添たる詞なり、既く云り、○歌(ノ)意かくれなし、
 
二年乙丑春三月《フタトセトイフトシキノトノウシヤヨヒ》。幸《イデマセル》2三香原離宮《ミカノハラノトツミヤニ》1之時《トキ》。得《エテ》2娘子《ヲトメヲ》1。笠朝臣金村作歌一首并短歌《カサノアソミカナムラガヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
幸2三香(ノ)原(ノ)離宮1は、神龜二年に此幸ありし事、續紀に見えず、同四年五月壬申朔乙亥、幸2甕原(ノ)離宮(ニ)1とあり、考(フ)べし、さてこの離宮は、和銅六年六月乙卯、行2幸甕原(ノ)離宮(ニ)1とも見えて、恭仁(ノ)宮より前にありしなり、○娘子は遊女なるべし、○笠朝臣金村の五字、舊本短歌の下にはなち書り、今は目録又古寫本に依て書り、例皆しかればなり、
 
(450)546 三香之原《ミカノハラ》。客之屋取爾《タビノヤドリニ》。珠桙乃《タマホコノ》。道能去相爾《ミチノユキアヒニ》。天雲之《アマクモノ》。外耳見管《ヨソノミミツヽ》。言將問《コトトハム》。縁乃無者《ヨシノナケレバ》。情耳《コヽロノミ》。咽乍有爾《ムセツヽアルニ》。天地《アメツチノ》。神祇辭因而《カミコトヨセテ》。敷細乃《シキタヘノ》。衣手易而《コロモテカヘテ》。自妻跡《オノツマト》。憑有今夜《タノメルコヨヒ》。秋夜之《アキノヨノ》。百夜乃長《モヽヨノナガク》。有與宿鴨《アリコセヌカモ》。
 
三香之原《ミカノハラ》は、山城(ノ)國相樂(ノ)郡なり、六(ノ)卷讃2久邇新京1歌に、三日原布當乃野邊《ミカノハラフタギノヌヘ》、又悲2傷三香原荒墟(ヲ)1歌に、三香原久邇乃京師者《ミカノハラクニノミヤコハ》など見ゆ、山城名勝志に、瓶原《ミカノハラハ》在2木津(ノ)渡東一里半許(ニ)1、郷内廣(シテ)今有2九村1とあり、○珠桙乃《タマホコノ》(桙(ノ)字、拾穗本には鉾と作り、)は、道《ミチ》の枕詞なり一卷に見ゆ、○外耳見管《ヨソノミミツヽ》は、外にのみ見つゝなり、三(ノ)卷に筑羽根矣〓耳見乍有金手《ツクハネヲヨソノミミツヽアリカネテ》とあり、○神祇辭因而《カミコトヨセテ》は、十八に、天地能可未許等余勢天《アメツチノカミコトヨセテ》、春花能佐可里裳安良多之家牟《ハルハナノサカリモアラムトマタシケム》ともあり、本居氏云、辭因《コトヨス》は、事依《コトヨサス》と同意にて、神のよせ賜ひてと云なり、○秋夜之《アキノヨノ》は、長き秋(ノ)夜のといふ意なり、○百夜乃長《モヽヨノナガク》は、伊勢物語に、秋の夜の千夜を一夜になずらへて八千夜し宿ばや飽(ク)時のあらむ、反し、秋の夜の千夜を一夜になせりとも詞のこりて鳥や鳴なむ、榮花物語に、いなや、昔をかしき人と打ふして物語せしに、千夜を一夜にと思ひしに、鳥のなきたりしは、いかゞつらかりしといへば云々、などある類なり、○有與宿鴨《アリユセヌカモ》は、云々もがなあれかし、とねがふ意なり、與宿《コセヌ》は、希望(ノ)辭、鴨《カモ》は歎息(ノ)辭なり、十(ノ)卷七夕(ノ)歌に、吾待今夜此川行瀬長有欲得鴨《アガマツコヨヒコノカハノユクセノナガクアリコセヌカモ》とあり、(舊本、この處脱字あり、補て引、)○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
(451)反歌《カヘシウタ》
 
547 天雲之《アマクモノ》。外從見《ヨソニミシヨリ》。吾妹兒爾《ワギモコニ》。心毛身副《コヽロモミサヘ》。縁西鬼尾《ヨリニシモノヲ》。
 
心毛身副《コヽロモミサヘ》は、心さへも、身さへもといふ意なり、○縁西鬼尾《ヨリニシモノヲ》は、何事をかは思はむといふ意の言を、含め餘したるなり、鬼(ノ)字、モノ〔二字右○〕とよめること、集中に多し、和名抄に、日本紀(ニ)云、邪鬼、和名|安之岐毛乃《アシキモノ》とあり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
548 今夜之《コノヨラノ》。早開者《ハヤクアケナバ》。爲便乎無三《スベヲナミ》。秋百夜乎《アキノモヽヨヲ》。願鶴鴨《ネガヒツルカモ》。
 
早開者は、ハヤクアケナバ〔七字右○〕と訓べし、(略解にハヤアケヌレバ〔七字右○〕とよみたるは、ひがことなり、)未來をかけて云る詞なり、○爲便乎無三《スベヲナミ》は、爲便《スベ》がなからむとての意なり、この例は既く首(ノ)卷に具(ク)云り、○歌(ノ)意は、今夜のぬるほどもなくて、早く明はてなば、せむかたなからむとて、百夜の長(ク)あれかし、と願ひつるかなとなり、長歌(ノ)未と照(シ)思(フ)べし、
 
五年戊辰《イツトセトイフトシツチノエタツ》。太宰少貳石川足人朝臣遷任《オホミコトモチノスナキスケイシカハノタリヒトノアソミガミヤコニメサルヽトキ》。餞《ウマノハナムケスル》2于筑前國蘆城驛家《ツクシノミチノクチノクニアシキノハユマヤニ》1歌三首《ウタミツ》。
 
太宰少貳は、オホミコトモチノスナキスケ〔オホ〜右○〕と訓べし、和名抄に、職員令(ニ)云、太宰府、於保美古止毛知乃司《オホミコトモチノツカサ》とあり、少貳は、三(ノ)卷に出づ、○石川(ノ)足人は、績紀に、和銅四年四月丙午朔壬午、授2正六位下石川(ノ)朝臣足人(ニ)從五位下(ヲ)1、神龜元年二月丙申、從五位下石川(ノ)朝臣足人(ニ)授2從五位上(ヲ)1とあり、(452)少貳になりし事は續紀に漏たり、○蘆城は、筑前(ノ)國御笠(ノ)郡にあり、太宰府の南にありて、米の山といふ處をこえ通りしよし、貝原篤信(ノ)名寄に見えたり、宗祇集に、筑前(ノ)國蘆城山を越侍りしに、たぐひなくさがしき道すがらつゞけ侍し、
 
549 天地之《アメツチノ》。神毛助與《カミモタスケヨ》。草枕《クサマクラ》。※[覊の馬が奇]行君之《タビユクキミガ》。至家左右《イヘニイタルマデ》。
 
※[覊の馬が奇](ノ)字、拾穗本には羈と作り、○至家左右《イヘニイタルマデ》は、還(リ)來りて、家に到(リ)着までといふなり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
550 大船之《オホブネノ》。念憑師《オモヒタノミシ》。君之去者《キミガイナバ》。吾者將戀名《アレハコヒムナ》。直相左右二《タヾニアフマデニ》。
 
將戀名《コヒムナ》は、歎の意を含める助辭にて、俗に那阿《ナア》と云に同じ、○歌(ノ)意かくれなし、
 
551 山跡道之《ヤマトヂノ》。島乃浦廻爾《シマノウラミニ》。縁浪《ヨスルナミ》。間無牟《アヒダモナケム》。吾戀卷者《アガコヒマクハ》。
 
山跡道《ヤマトヂ》(道(ノ)字、拾穗本には路と作り、)は、大和へ上下往來《ユキカフ》道なり、○島乃浦廻《シマノウラミニ》は、筑前國志麻(ノ)郡志摩(ノ)郷あれば、彼地《ソコ》の浦回なり、浦回は、ウラミ〔三字右○〕と訓なり、(略解に、ウラマ〔三字右○〕とよめるは非なり、既く云、)○縁浪は、ヨスルナミ〔五字右○〕と訓べし、(ヨルナミノ〔五字右○〕とよまむはわろし、)此(ノ)下に、伊勢海之磯毛動爾因流浪《イセノウミノイソモトヾロニヨスルナミ》、八(ノ)卷に、大乃浦之其長濱爾縁流浪《オホノウラノソノナガハマニヨスルナミ》などあり、これ然訓べき證なり、又十七に、之夫多爾能佐伎能安里蘇爾與須流奈美《シブタニノサキノアリソニヨスルナミ》、伊夜思久思久爾伊爾之弊於毛保由《イヤシクシクニイニシヘオモホユ》、十九に、安由乎疾美奈呉能浦廻爾與須流浪《アユヲイタミナゴノウラミニヨスルナミ》、伊夜千重之伎爾戀渡可母《イヤチヘシキニコヒワタルカモ》など、假字書もあり、考(ヘ)合(ス)べし、さて此(レ)までは、間(453)無《アヒダナク》をいはむ料の序なり、○間無牟は、アヒダモナケム〔七字右○〕と訓べし、○吾戀卷者《アガコヒマクハ》は、吾(ガ)戀しく思はむ事はといふ意なり、○歌(ノ)意これもかくれなし、
 
右三首《ミギノミウタハ》。作者未詳《ヨミヒトシラズ》。
 
大伴宿禰三依歌一首《オホトモノスクネミヨリガウタヒトツ》。
 
三依は、續紀に、天平二十年二月己未、授2正六位上大伴(ノ)宿禰御依(ニ)從五位下(ヲ)1、勝寶六年七月丙午爲2主税(ノ)頭(ト)1、寶字元年六月壬辰、爲2參州(ノ)守1、三年五月壬午、爲2仁部(ノ)(民部)少輔(ト)1、六月庚戌、從五位上、十一月丁卯、遠江(ノ)守、六年四月朔、義部(ノ)(刑部)大輔、神護元年此月己亥、正五位上、二年十月庚寅、出雲(ノ)守、寶龜元年十月朔、從四位下、五年五月癸亥、散位從四位下大伴(ノ)宿禰御依卒、と見えたり、
 
552 吾君者《ワガキミハ》。和氣乎波死常《ワケヲバシネト》。念可毛《オモヘカモ》。相夜不相夜《アフヨアハヌヨ》。二走良武《フタツユクラム》。
 
和氣乎波死常《ワケヲバシネト》は、本居氏、和氣《ワケ》は、己(レ)より下ざまの者をさしていふ稱《ナ》にて、汝などいふ類なり、是も本は吾君兄《ワギエ》の意にて、尊崇《アガ》めて云るが、世々に云なれて、後にはおのづから退(リ)て賤むる稱になれるなり、かの汝も名持《ナモチ》にて、本は稱崇《ホメアガ》めて云るが、後には賤むる稱となれると同じことなり、漢國にても、人を卿と云は、是も本は崇めて云るが、賤むる稱となれるも同じと云り、なほ玉勝間八(ノ)卷に具(ク)見えたり、さて此(ノ)下に、黒樹取草毛刈乍仕目利《クロギトリカヤモカリツヽツカヘメド》、勤和氣登將譽十方不在《イソシキワケトホメムトモアラズ》、八(ノ)卷紀(ノ)女郎贈2大伴(ノ)宿禰家持(ニ)1歌に、戯奴《ワケ》(反云和氣、)之爲吾手母麻須爾春野爾拔流茅花曾御(454)食而肥座《ガタメアガテモスマニハルノヌニヌケルチバナゾメシテコエマセ》、晝者咲夜者戀宿合歡木花《ヒルハサキヨルハコヒヌルネブノハナ》、吾耳將見哉和氣佐倍爾見代《ワレノミミメヤワケサヘニミヨ》、とあるなどは、やがて汝を和氣《ワケ》と云るなり、次に大伴家持贈和歌に、吾君爾戯奴者戀良思給有《ワガキミニワケハコフラシタマヒタル》、茅花乎雖喫彌痩爾夜須《チバナヲハメドイヤヤセニヤス》とあるは、其方《ソナタ》の和氣とのたまふ我者の意なり、こゝなるも、吾君は、汝をば死ねかし、と念(ヘ)ばかもの意にて、その和氣は、即(チ)我(カ)身のことなるに同じ、乎波《ヲバ》は、委ね任する辭なり、波の清音(ノ)字を書るは正しからず、濁りて唱べし、○念可宅《オモヘカモ》は、念ばかの意なるを、婆《バ》を云ざるは古言なり、毛《モ》は、歎息を含みたる辭なり、○二走良武は、走は(古寫本に夜《イ》とありいかゞ、)去の誤にやと云り、フタツユクラム〔七字右○〕と訓べし、此(ノ)下に、空蝉乃代也毛二行何爲跡鹿《ウツセミノヨヤモフタユクナニストカ》、妹爾不相而吾獨將宿《イモニアハズテアガヒトリネム》、七(ノ)卷に、世間者信二代者不徃有之《ヨノナカハマコトフタヨハユカザリシ》、十(ノ)卷に、一年二遍不行秋山乎《ヒトヽセニフタヽビユカヌアキヤマヲ》、などある類なり、相夜《アフヨ》と相《アハ》ぬ夜《ヨ》と、二(ツ)ながらに經行なり、去《ユカ》は、古事記に、葦原(ノ)中(ツ)國悉(ニ)闇(シ)、因v此(ニ)而|常夜往《トコヨユク》、九(ノ)卷に、常之倍爾夏冬往哉《トコシヘニナツフユユケヤ》、後撰集に、やよひに閏月ある年云々、貫之、餘さへ有て行(ク)べき年だにもなどある、此等の行に同じ、○歌(ノ)意は、吾(カ)君は、汝は死ねかし、と吾をおもへばにや、相夜と相ぬ夜と、二(ツ)ながらに經行て、戀しく思(ヒ)煩《ナヤ》ますならむ、さても苦しやとなり、古今集に、こひしねとするわざならしうば玉のよるはすがらに夢に見えつゝ、
 
丹生女王《ニフノオホキミノ》。贈《オクリタマヘル》2太宰帥大伴卿《オホミコトモチノカミオホトモノマヘツキミニ》1歌二首《ウタフタツ》。
 
丹生(ノ)女王は、續紀に、天平十一年正月丙午、從四位下丹生(ノ)女王(ニ)授2從四位上(ヲ)1、天平勝寶二年八月(455)庚申、從四位上丹生(ノ)女王(ニ)授2正四位上(ヲ)1と見ゆ、八(ノ)卷秋(ノ)相聞にも、此(ノ)女王、おなじ大伴(ノ)卿に贈られたる歌あり、
 
553 天雲乃《アマクモノ》。遠隔乃極《ソクヘノキハミ》。遠鷄跡裳《トホケドモ》。情志行者《コヽロシユケバ》。戀流物可聞《コフルモノカモ》。
 
遠隔乃極(遠の下、拾穗本に一(ノ)字あるは衍なり、)は、ソクヘノキハミ〔七字右○〕と訓べし、又遠隔は、ソキヘ〔三字右○〕とも訓べし、三(ノ)卷に、天雲乃曾久敝能極《アマクモノソクヘノキハミ》、十九に、天雲乃曾伎敝能伎波美《アマクモノソキヘノキハミ》などなほあり、三(ノ)卷に具(ク)註り、○遠鷄跡裳《トホケドモ》(跡字、拾穗本に路とあるは誤なり、)は、遠けれどもの意なり、○戀流物可聞《コフルモノカモ》は、戀る物にてある哉と謂《イフ》なり、戀流《コフル》は彼方の戀る意なり、雲居のよそに遠く隔りてはあれども、此方より戀しく思ふ情の行(キ)至れば、彼方にも此方を思ひて、志をいたされしと歡び給へるなり、次の歌を併(セ)思ふに、帥(ノ)卿のもとより、女王へ酒やなにど贈られしによりて、かくのたまひ遣(ク)り給へるなり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
554 古《フリニシ》。人乃令食有《ヒトノタバセル》。吉備能酒《キビノサケ》。病者爲便無《ヤメバスベナシ》。貫簀賜牟《ヌキスタバラム》。
 
古は、フリニシ〔四字右○〕と訓べし、古《フリ》にしとは、常には年經て老たるを云(ヘ)ど、此はそれとは異にて、古人は、舊縁の人といふにて、帥(ノ)卿をさせり、十一に、現毛夢毛吾者不思寸《ウツヽニモイメニモアレハオモハズキ》、振有公爾此間將會十羽《フリタルキミニコヽニアハムトハ》、この振有公《フリタルキミ》と云るに同じ、(此(ノ)十一(ノ)歌、六帖には、ふりにし公にとあり、)又イニシヘノ〔五字右○〕と訓むもあしからず、それも意は同じ、同卷に、眉根掻下言借見思有爾《マヨネカキシタイフカシミオモヘルニ》、去家人乎相見鶴鴨《イニシヘヒトヲアヒミツルカモ》とあり、○人(456)令食有は、ヒトノタバセル〔七字右○〕と訓べし、(舊訓に、ノマセル〔四字右○〕とあるは宜しからず、又ヲサセル〔四字右○〕と訓るも、あたらぬことなり、飲(ミ)食(フ)ことをヲス〔二字右○〕と云は、尊者の飲食するを、此方より敬ひていふことにて、キコシメス〔五字右○〕と云をキコシヲス〔五字右○〕ともいふ、ヲス〔二字右○〕なれば、自《ミヅカラ》に令《シメ》v飲《ノマ》たるといふことを、ヲサセル〔四字右○〕とは、宣ふまじき理なればなり、)タバセル〔四字右○〕は賜有《タバセル》なり、此《コヽ》は賜ひて飲しめたると云意なり、今(ノ)世の言にも、物を食ふこと酒を飲ことを、たべるといへり、催馬樂酒飲に、左介乎太宇戸天太戸惠宇天《サケヲタウベテタベヱウテ》とあるも、酒をたべて、たべ醉てといふことなり、酒を飲ことをたぶると云は、ふるきことなるぺし、酒食は、上より賜へる物を、身に受入るよりいへるにて、すなはち賜《タブ》るなり、さてタブル〔三字右○〕は受る方より云(ヒ)、タバス〔三字右○〕は賜ふ方より云言なれば、タバセル〔四字右○〕は、賜ふ方に就て宣へるなり、かくて食(ノ)字をタブ〔二字右○〕と訓べきよしは、續紀廿六(ノ)詔に、黒紀白紀能御酒乎赤丹乃保仁多未倍惠良伎《クロキシロキノミキヲアカニノホニタマヘヱラギ》とある、多末倍惠良伎《タマヘヱラギ》を、同紀三十(ノ)詔、又貞觀儀式午(ノ)日(ノ)儀、三代實録四十六(ノ)詔などに、食倍惠良伎《タマヘヱラギ》とあるを思ふべし、食倍《タマヘ》は、タヘ〔二字右○〕と云に同じければなり、即(チ)賜《タマ》ひを多妣《タビ》、賜《タマ》ふを多夫《タブ》とも云るにてもしるべし、○吉備能酒《キビノサケ》、これには兩説あるべし、一(ツ)には、吉備(ノ)國(ノ)酒にて、いにしへより彼(ノ)國の名物なりしにや、庭訓往來にも、備後酒見えたり、今(ノ)世にも備後三原酒とて、もてはやすめり、筑紫より、吉備はさばかり遠からねば吉備(ノ)國(ノ)酒を得て、女王の許に贈り賜ひしなるべし、二(ツ)には、黍《キビノ》酒なるべし、(黍を酒につくれること、袖中抄にも見えた(457)り、)今も土佐(ノ)國山里にては、もはら黍にて酒をかめり、其性|最《イト》醇厚《アツ》し、古(ヘ)も黍にて酒を造しならむ、(もろこしにて鬱鬯といふものは、釀v※[禾+巨]《キビヲ》爲v酒(ト)、和(スルニ)以2鬱金草(ヲ)1、芬香條2達於上下(ニ)1、故(ニ)謂2之鬱鬯(ト)1と云り、又陶淵明(カ)傳に、爲1彭澤(ノ)令(ト)1在v縣(ニ)、公田悉令v種2※[禾+朮]穀(ヲ)1、曰、令3吾常醉2於酒(ニ)1足矣、云々とありて、漢國にても、古(ヘ)は※[禾+朮]《キビ》にて酒造(リ)しこと知(ラ)れたり、但し※[禾+朮]は、和名抄には、木美乃毛知《キミノモチ》とあれど、本朝食鑑には、黍稷にあらずとも云り、猶考(フ)べし、)古今著聞集は、伊豆(ノ)國奥島にて、鬼に粟《アハノ》酒を飲せしことも見えたり、古(ヘ)より粟黍の類にて、酒を造(リ)しなるべし、○病者爲便無(病(ノ)字、舊本痛に誤、元暦本に從つ、)は、ヤメバスベナシ〔七字右○〕と訓べし、○貫簀賜牟《ヌキスタバラム》とは、酒に醉病て嘔吐《タグリ》する用意にせむとて、貫簀を乞(フ)なり、貫簀は、簀を編貫て、洗盤の上にかけて、手洗ふ時、其(ノ)水のちらぬ料にするものなり、主殿寮式に、三年(ニ)一(タビ)請2貫簀一枚(ヲ)1、伊勢物語に、女の手あらふ所に貫簀を打やりて、たらひのかげに見えけるを、空穗物語に、しろかねの御たらひを、ぢむをまろにけづりたる貫簀しろかねのはむざふ、しろかねのすきはこなどあり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、此は帥(ノ)卿のもとより、女王へ酒を贈られたるに答(ヘ)て、戯れよみ賜へるなり、
 
太宰帥大伴卿《オホミコトモチノカミオホトモノマヘツキミノ》贈《オクリタマヘル》3大貳丹比※[糸+貝]守卿《オホキスケタヂヒノアガタモリノマヘツキミノ》選2任《メサルヽニ》民部卿《タミノツカサノカミニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
丹比(ノ)※[糸+貝]守、(縣(ノ)字※[貝+系]とも比※[糸+貝]とも古書には作り、)續紀に、慶雲二年十二月癸酉、從六位上多治比(ノ)眞人縣守(ニ)授2從五位下(ヲ)1、和銅三年三月癸卯、爲2宮内(ノ)卿(ト)1、四年四月壬午、從五位上、靈龜元年正月癸巳、(458)從四位下、五月壬寅、爲2造宮(ノ)卿(ト)1、二年八月癸亥、爲2遣唐押使(ト)1、養老元年三月己酉、賜2節刀(ヲ)1、二年十月庚辰、太宰府言、遣唐使從四位下多治比(ノ)眞人縣守來歸、十二月壬申、多治比(ノ)眞人縣守等自2唐國1至、甲戌、進2節刀(ヲ)1、三年正月壬寅、正四位下、同年七月庚子、始置2按察使(ヲ)1、武藏(ノ)國(ノ)守正四位下多治比(ノ)眞人縣守、管2相模上野下野(ノ)三國1、四年九月戊寅、以2播磨(ノ)按察使正四位下多治比(ノ)眞人縣守(ヲ)1、爲2持節征夷將軍(ト)1、五年正月壬子、正四位上、四月丙申、鎭v狄(ヲ)、乙酉還歸、六月辛丑、爲2中務(ノ)卿(ト)1、天平元年二月壬申、以2太宰(ノ)大貳正四位上多治比(ノ)眞人縣守云々1、權(ニ)爲2參議(ト)1、三月甲午、從三位、三年八月丁亥、擢2民部(ノ)卿從三位多治比(ノ)眞人縣守1云々、並爲2參議(ト)1、十一月丁卯、爲2山陽道(ノ)鎭撫使(ト)1、四年正月甲子、爲2中納言(ト)1、八月丁亥、爲2山陰道(ノ)節度使(ト)1、六年正月己卯、正三位、九年六月丙寅、中納言正三位多治比(ノ)眞人縣守薨(ス)、左大臣正二位島之子也とあり、
 
555 爲君《キミガタメ》。釀之待酒《カミシマチサケ》。安野爾《ヤスノヌニ》。獨哉將飲《ヒトリヤノマム》。友無二思手《トモナシニシテ》。
 
釀之待酒《カミシマチサケ》(之(ノ)字、拾穗本に無は落たるなり、又古寫一本、異本等に?と作るはわろし、)は、酒を造(ル)を、加牟《カミ》といふは古言なり、字鏡に、釀(ハ)造v酒(ヲ)也、佐介加无《サケカム》、(後に釀をかもするといふも、加美須流《カミスル》といふべきを、訛れるなり、)言(ノ)義は未(タ)詳ならず、※[口+父]咀《カム》意とおもふはあらず、(或説に、古(ヘ)は※[口+父]咀《カミ》て酒を造ると云るは誤なり、但し日本|决《マヽ》釋に、應神天皇之代、百濟人|須曾己利《スソコリ》參來、始(テ)習2造v酒(ヲ)之事1、以往之世未v知2釀v酒(ヲ)之道(ヲ)1、但殊(ニ)有2造v酒(ヲ)之法1、上古之代、口中嚼v米(ヲ)、吐2納木櫃1、經v日(ヲ)酣酸、名v之爲v釀(ト)、(459)故今(ノ)世謂v釀(ヲ)v酒(ヲ)爲v嚼(ト)、是(レ)其(ノ)法也、今南島人所v爲如v此、又大隅(ノ)國風土記にも、口嚼酒と云ることあり、武備志に、琉球の事に、婦人嚼v米(ヲ)爲v酒(ト)と云ることもあれば、證とすべしと云べけれども、酒はもはら神に奉供るものなるに、いかで口に嚼て作れる、きたなきものをば、奉供るべきよしのあらむ、又嚼て造りしにもあれ、其(ノ)意ならむには、嚼て造るといはでは言たらず、嚼とのみにては、唯口にて嚼のみをいふになるをや、)待酒は、物より來らむ人に飲しめむ料に、釀儲て待つ酒なり、古事記に、其(ノ)御祖息長帶日賣(ノ)命、釀2待酒(ヲ)1以獻、此(ノ)集十六に、味飯乎水爾釀成吾待之《ウマイヒヲミヅニカミナシアガマチシ》云々とあるも、待酒なり、○安野《ヤスノヌ》は、筑前(ノ)國夜須(ノ)郡の野なり、神功皇后(ノ)紀に、元年三月壬申朔辛卯、至2層増岐野(ニ)1、即(チ)擧v兵(ヲ)撃2羽白熊鷲(ヲ)1、而滅之、謂2左右(ニ)1曰、取2得熊鷲(ヲ)1我(カ)心則安(シトノリタマヒキ)、故號其處《カレソコヲ》曰(ナル)v安(トソ)也とあり、○思手《シテ》は、其(ノ)事をうけばりて、他事なく物する意の時にいふ詞なり、○歌(ノ)意は、君が此(ノ)度別れて、京に上り賜ひなば、君が來座む日の爲にと思ひて、待酒を釀設けし、そのかひなければ、安(ノ)野にて、友なしに獨飲べきが、唯獨しては、飲つゝ得堪まじきなれば、いよ/\君を戀しく思ひ出さむぞとなり、
 
賀茂女王《カモノオホキミノ》。贈《オクリタマヘル》2大伴宿爾三依《オホトモノスクネミヨリニ》1謌一首《ウタヒトツ》。
 
賀茂(ノ)女王は、元暦本、古寫本等に、故左大臣長屋(ノ)王之女也と註り、八(ノ)卷に、賀茂(ノ)女王、註(シテ)云、長屋(ノ)王之女、母曰2阿部(ノ)朝臣(ト)1也、
 
(460)556 筑紫船《ツクシブネ》。未毛不來者《イマダモコネバ》。豫《アラカジメ》。荒振公乎《アラブルキミヲ》。見之悲左《ミムガカナシサ》。
 
筑紫船《ツクシブネ》は、筑紫より、三依の乘て來る船なり、松浦船、熊野船など云る類なり、後拾遺集に、筑紫船まだとも綱も解(カ)なくに指出るものは泪なりけり、東北院建保職人歌合に、こがるれどかけて心をつくし舟、ちぎりし事を思ひもぞするなどあり、○來毛不來者《イマダモコネバ》(未(ノ)字、古寫一本に來と作るは誤なり、)は、未(タ)來もせぬにの意なり、○豫は、アラカジメ〔五字右○〕と訓べし、(カネテヨリ〔五字右○〕とよめるはわろし、)既く三(ノ)卷に出(ツ)、○荒振《アラブル》は、踈《ウト》び荒びて、善愛《ウルハシ》からぬ意なり、二(ノ)卷に、放鳥荒備勿行君不座十方《ハナチトリアラビナユキソキミマサズトモ》とある、荒備《フラビ》に同じ、土佐日記に、家に至りて門に入に、月明ければ最《イト》よくありさまみゆ、聞しよりもまして云甲斐なくぞ堕《コボレ》破れたる、家を預《アヅケ》たりつる人の心も、荒たるなりけり、竹取物語に、このつばくらののこやす貝は、あしくたばかりてとらせ賜ふなり、さてはえとらせ賜はじ、あなゝひにおどろ/\しく、二十人のぼりて侍れば、荒《アレ》てまうでこずなり云云、などある、荒《アレ》に全(ラ)同(シ)、○見之悲左は、ミムガカナシサ〔七字右○〕と訓べし、(ミルガカナシサ〔七字右○〕、とよめるはわろし」○歌(ノ)意は、君が船はいまだ來もせぬに、心かはりて、我(ガ)方へはうとび荒びて、依附ぬ君を見むとおもふが、豫《カネ》て悲きこと、いふばかりなしとなり、三依の筑紫より上らむとするほとによみて、京より贈りたまひし歌なるべし、(本居氏の、三依が、筑紫船の來るを待て、下らむとするほどの歌なるべし、と云るはあらず、)
 
(461)土師宿禰水通《ハニシノスクネミミチガ》。從《ヨリ》2筑紫《ツクシ》1上《ノボル》v京《ミヤコニ》海路作歌二首《ウミツヂニテヨメルウタフタツ》。
 
水道(通(ノ)字、類聚抄には道と作り、)は、傳未(タ)詳ならず、五(ノ)卷に、土師氏御通、十六註(ニ)云、有2大舍人土師(ノ)宿禰水通1、字曰2志婢麻呂(ト)1也と見えたり、
 
557 大船乎《オホブネヲ》。※[手偏+旁]乃進爾《コギノスヽミニ》。磐爾觸《イハニフリ》。覆者覆《カヘラバカヘレ》。妹爾因而者《イモニヨリテバ》。
 
磐爾觸は、イハニフリ〔五字右○〕と訓べし、廿(ノ)卷防人(ノ)歌に、伊蘇爾布理宇乃波良和多流《イソニフリウノハラワタル》、(磯《イソ》に觸海原渡《フリウノハラワタル》、)○歌(ノ)意は、京にかへりて、はやく妹にあはゞやと思ふゆゑに、にはのよからぬにもこぎ行に、もしその漕のすゝみに磐に觸て、よしや船は摧け覆らばかへれ、それもいとはじ、吾(カ)思ふ妹に一日もはやく依ば、戀しく思ふ心の安からむぞとなり、契冲云、第三に、家おもふと心すゝむな風まちて、よくしていませあらきそのみち、これと表裏なる歌なり、第十一に、つるぎたちもろはのときに足をふみ、しにゝもしなむいもによりてば、此(ノ)心におなじ、
 
558 千磐破《チハヤブル》。神之社爾《カミノヤシロニ》。我掛師《アガカケシ》。幣者將賜《ヌサハタバラム》。妹爾不相國《イモニアハナクニ》。
 
將賜は、タバラム〔五字右○〕なり、たまひをたぶ、たまへをたべ、たまはるをたばる、たまはらむをたばらむと云ること、古言におほし、(俗に、たもる、たもらむなどいふも同じ、)續後紀十九(ノ)長歌に、佛許曾願成志多倍《ホトケコソネガヒナシタベ》とあり、二(ノ)卷に、勤多扶倍思《ツトメタブベシ》とある處に、既く具(ク)云り、○歌(ノ)意は、契冲、これは渡海のやすく、日を經ず、京にかへらむ祈して立出けるに、にはのあしくて、海路に日をふれば、妻(462)にあふことのおそきに、心いられして、さらばかのぬさを、かへしたまはらむ、と神をすこし恨み奉るやうによめり、と云り、此歌第四(ノ)句六帖に御幣《ミヌサ》に賜《タマ》へとて載たり、
 
太宰大監大伴宿禰百代《オホミコトモチノオホキマツリゴトヒトオホトモノスクネモヽヨガ》。戀歌四首《コヒノウタヨツ》。
 
559 事毛無《コトモナク》。生來之物乎《アレコシモノヲ》。老奈美爾《オイナミニ》。如此戀于毛《カヽルコヒニモ》。吾者遇流香聞《アレハアヘルカモ》。
 
生來之《アレコシ》は、生れ來しなり、(舊訓にアリコシ〔四字右○〕とあるは非なり、又生は在の誤かと本居氏の云るも、中々にわろし、)三(ノ)卷祭神(ノ)歌に、天原從生來神之命《アマノハラヨリアレコシカミノミコト》とあり、○老奈美《オイナミ》は、契冲云、管見抄に、老の身と云り、のとなと音通ずればなり、今案(ニ)年なみ月なみといふごとく、老次《オヒナミ》なるべし、○此(ノ)字、拾穗本には是と作り、○歌(ノ)意は、何事の罪咎もなく、生れ來し、吾(ガ)身なるものを、老後にかゝる苦しき戀にあへるは、何の祟《タヽリ》にかあらむ、さてもおもはぬ世哉となり、これは大伴(ノ)坂上(ノ)郎女の、太宰にあるにつきて、百代の戀てよめるなるべし、
 
560 孤悲死牟《コヒシナム》。後者何爲牟《ノチハナニセム》。生日之《イケルヒノ》。爲社妹乎《タメコソイモヲ》。欲見爲禮《ミマクホリスレ》。
 
後(ノ)字、元暦本には時と作り、十一に、戀死後何爲吾命生日社見幕欲爲禮《コヒシナムノチハナニセムワガイノチノイケラムヒコソミマクホリスレ》とあり、○歌(ノ)意は、戀死に死む後は、たとひ妹にあふ事ありとも、來世《コムヨ》の事はたのみに成がたし、只生てある現世の爲にこそ、相見まほしくすれとなり、
 
561 不念乎《オモハヌヲ》。思常云者《オモフトイハバ》。大野有《オホヌナル》。三笠杜之《ミカサノモリノ》。神思知三《カミシシラサム》。
 
(463)大野《オホヌ》は和名抄に、筑前(ノ)國御笠(ノ)郡大野とあるこれなり、五(ノ)卷に大野山《オホヌヤマ》とも見ゆ、六帖に、いちしるく時雨のふればつくしなる大野の山もうつろひにけり、とあり、○三笠杜《ミカサノモリ》は、和名抄に、同國御笠(ノ)郡御笠、とあ、るこれなり、名(ノ)義は、神功皇后(ノ)紀(ニ)云、皇后欲v撃(ムト)2熊襲(ヲ)1而、自2橿日(ノ)宮1遷(リマス)2于松峽(ノ)宮(ニ)1時、飄風忽起御笠隨風《ツムジイマキテミカサフキオトサエキ》、故(レ)時人《ヨノヒト》號《ヲ》2其處《ソコ》1曰2御笠(ト)1也、と見えたり、現在六帖にも、大野なる三笠の杜にしぐれふり染なす紅葉今盛なりとあり、さて和名抄によれば、大野と御笠とは、同郡ながら、別郷なれど、隣野にて、御笠(ノ)杜といふ地は、大野に屬たりし故に、大野在御笠杜《オホヌナルミカサノモリ》と云りしにぞあらむ、さるは貝原氏が筑前名寄に、大野山は、御笠(ノ)郡御笠(ノ)森の邊より東南の方、四王寺山の西のふもと、すべて大野といふよししるし、かくて御笠(ノ)森といふは、今の雜掌《ザツシヤウ》の隈の町の東北にありて、大道より二町ほどありて、山田村に屬す、今は昔(シ)の森の楠二株あり、其(ノ)しるしばかり殘れりとしるせり、これにてその隣近《ナミ》なるよし思ふべし、さてこの社に鎭座神は、未(タ)詳に考へず、神名帳に、筑前國御笠(ノ)郡竈門神社(名神大)とあるは、玉依姫を拜祭れるよし、即(チ)竈門山(ノ)上にありとぞ、しかれば別神ならむ、又帳に、同郡筑紫(ノ)神社(名神大)とあれど、それは原田村といふにあるよしなれば、別ならむか、なほ所のさまくはしくしれらむ人に尋て定むべし、かくて杜《モリ》は神社をいふ、さて毛利《モリ》とは、毛流《モル》の體言となりたるにて、木の高く繁りたる處を云、十(ノ)卷に、朝旦吾見柳《アサナサナアガミルヤナギ》云々|森爾早奈禮《モリニハヤナレ》、十六に、大野路者繁道森徑之氣久登毛《オホヌヂハシゲヂノモリヂシゲクトモ》、とよめる(464)にて知べし、又六(ノ)卷に、百木成山者木高之《モヽキモルヤマハコタカシ》とあるも、成は盛の省作にて、モル〔二字右○〕は繁ることにて、森の用《ハタラ》ける詞なるべし、(飯などを毛流《モル》といひ、又物など高く積置をも毛流《モル》といふも、モル〔二字右○〕の言は一(ツ)ぞ、)字鏡に、杜(ハ)毛利《モリ》とあり、杜(ノ)字は木の土《トコロ》てふ意の字なるべし、おむなを※[女+長]、さかきを榊、母木《オモノキ》を栂と作るたぐひに、御國にて製れる字なり、さて神社をしも毛利《モリ》といふは、神の社地は、必(ス)木の繁榮《シゲ》く生立てあるものなれば云か、又社(ノ)字をも、モリ〔二字右○〕と訓り、こは神社の意か、續紀十七に、尼大神(ノ)朝臣|社女《モリメ》とあり、同廿(ノ)卷には、毛理賣《モリメ》とかけり、(玉勝間二(ノ)卷に、史記の周本紀賛に、新3謂周公葬2我畢1、畢在2鎬東南杜中(ニ)1、註に杜一作v社(ニ)、また秦本紀に蕩社、註(ニ)社一作v杜(ニ)といへり、これらは杜と社は字の形の似たるによりて、かくたがひに誤れるものか、はた相通(フ)よし有て、かゝるか、もし杜(ノ)字も社と通はゞ、毛利《モリ》に殊によし有、又かの杜中とあるは、何とかや毛利《モリ》めきて聞ゆと云り、)○神思知三《カミシシラサム》は、齊明天皇(ノ)紀に、〓田(ノ)蝦夷|恩荷《オムカ》進(テ)而誓(テ)曰(ク)、云々、若爲(ニ)2官軍(ノ)1以|儲《マケタラバ》2弓矢(ヲ)1、〓田(ノ)浦(ノ)神知矣《カミシシラサム》とある意なり、此(ノ)下に、不念乎思常云者天地之《オモハヌヲオモフトイハバアメツチノ》、神祇毛知寒邑禮左變《カミモシラサムイブカルナユメ》、十二に、不想乎想常云者眞島住《オモハヌヲオモフトイハバマトリスム》、卯名手乃杜之神思御知《ウナテノモリノカミシシラサム》、(全※[さんずい+析]兵制録日本風土記に、搖乃那革那許多外南泥多木以外矢密辭《ヨノナカノコトハナニトモイハシミヅ》、四密尼過而和曰革密所矢而頼奴《スミニゴルヲバカミゾシルラム》、世中好歹人難2分別1、如3水混2清濁1、惟有v神知識、○歌(ノ)意は、情(ノ)裏より眞實に思はぬを、表にかざりて思ふといふと、おほすこともあらむか、もし、吾(カ)思ふといふことのいつはりならば、三笠(ノ)神社《モリ》の神ぞ、其(ノ)證になり賜はむと(465)なり、此(ノ)歌末(ノ)句、六帖には、三笠の山の神思ひしれとて入れり、(訓たがへしなるべし、)
 
562 無暇《イトマナク》。人之眉根乎《ヒトノマヨネヲ》。徒《イタヅラニ》。令掻乍《カヽシメツヽモ》。不相妹可聞《アハヌイモカモ》。
 
無暇は、イトマナク〔五字右○〕と訓べし、眉根を掻ことの暇が無意なり、○眉根は、マヨネ〔三字右○〕と訓べし、(マユネ〔三字右○〕とよめるはわろし、)凡て眉をマユ〔二字右○〕といふは、いと後の事なり、古(ヘ)はマヨ〔二字右○〕とのみ云り、集中古事紀書紀など皆然り、書紀の眉輪(ノ)王を、古事記に目弱(ノ)王と書り、字鏡にも、黛|萬與加支《マヨカキ》と見ゆ○歌(ノ)意は、吾(ガ)眉を、いとまなくしきりに掻《カヽ》しめつゝ、無用《イタヅラ》にたのみに思はせて、猫相見ぬ妹にても在哉となり、人に戀らるれば、眉皮の癢(キ)といふ諺によりてよめるなり、集中に、眉根掻《マヨネカキ》とも、眉|癢《カユ》みともよみて、其(ノ)趣なる歌多く見ゆ、十二に、五十殿寸天薄寸眉根乎徒《イトノキテウスキマヨネヲイタヅラニ》、令掻管不相人可母《カヽシメツヽアハヌヒトカモ》、とあるは、今と大かた同じ、
 
大伴坂上郎女歌二首《オホトモノサカノヘノイラツメガウタフタツ》。
 
こは右の百代(ノ)歌に、和(ヘ)たるなるべし、
 
563 黒髪二《クロカミニ》。白髪交《シロカミマジリ》。至耆《オユマデニ》。如是戀庭《カヽルコヒニハ》。未相國《イマダアハナクニ》。
 
白髪《シロカミ》は、十七に、布流由吉乃之路髪麻泥爾《フルユキノシロカミマデニ》とあり、(シラカミ〔四字右○〕とよまむはわろし、)○至耆は、オユマテニ〔五字右○〕と訓べし、郎女さばかりに耆たるにはあらざめれども、右の百代が、老奈美爾《オイナミニ》とよめるに答て、かく云るなるべし、○歌(ノ)意は、白髪の斑《マジ》り生るばかり老たれども、今までかゝるく(466)るしき戀には、あはざりしものを、何事の報によりて、かく物思(ヒ)をばする事ぞとなり、此下、沙彌滿誓(ガ)歌に、野于玉之黒髪變白髪手裳《ヌバタマノクロカミカハリシラケテモ》、痛戀庭相時有來《イタキコヒニハアフトキアリケリ》、と有(リ)考(ヘ)合(ス)べし、
 
564 山菅乃《ヤマスゲノ》、實不成事乎《ミナラヌコトヲ》。吾爾所依《ワレニヨセ》。言禮師君者《イハレシキミハ》。孰可宿良牟《タレトカヌラム》。
 
山菅乃《ヤマスゲノ》は、實《ミ》といはむ料の枕詞なり、山菅は麥門冬にて、多く實なるものなり、品物解に具(ク)注り、こゝは不成《ナラヌ》といふまでにはかゝらず、布留《フル》の早田《ワサダ》の穗には不v出など云る類なり、○歌(ノ)意は、實ならぬ中なるを、人のいひなしに、吾(レ)とゆゑのあるごとく、いひよせられにし其(ノ)君は、今程誰(レ)と契をかはして、相|宿《ネ》すらむぞとなり、
 
賀茂女王歌一首《カモノオホキミノウタヒトツ》。
 
565 大伴乃《オホトモノ》。見津跡者不云《ミツトハイハジ》。赤根指《アカネサシ》。照有月夜爾《テレルツクヨニ》、直相在登聞《タヾニアヘリトモ》。
 
大伴乃《オホトモノ》は、見津《ミツ》といはむ料の枕詞なり、この屬《ツヾ》けの意は、一(ノ)卷(ノ)下に具(ク)註り、こゝは、石上《イソノカミ》ふるとも雨にとつゞけたるに、同例なり、古今集に、君が名も吾名も立し難波なる見つとないひそ逢きともいはじ、とよめり、○赤根指は、これも既く一(ノ)卷に具(ク)云り、此《コヽ》はアカネサシ〔五字右○〕と訓べし、照有《テレル》とつゞきたればなり、十一に、長谷弓槻下吾隱在妻《ハツセノユツキカモトニアガカクセルツマ》、赤根刺所光月夜爾人見點鴨《アカネサシテレルツクヨニヒトミテムカモ》、とあるも同じ、續後紀十九(ノ)長歌に、茜刺志天照國乃日宮能《アカネサシアマテルクニノヒノミヤノ》云々ともあり、○歌(ノ)意は、たとひ清き月夜に、明《アキラカ》に直《タヾ》しく相見たりとも、一目だに見たりとも、人にはいはじとなり、
 
(467)太宰大監大伴宿禰百代等《オホミコトモチノオホキマツリゴトヒトオホトモノスクネモヽヨラガ》贈《オクレル》2驛使《ハユマツカヒニ》1歌二首《ウタフタツ》。
 
566 草枕《クサマクラ》。覊行君乎《タビユクキミヲ》。愛見《ウツクシミ》。副而曾來四《タグヒテゾコシ》。鹿乃濱邊乎《シカノハマベヲ》。
 
溝覊(ノ)字、拾穗本には※[羈の馬が奇]と作り、○愛見は、ウツクシミ〔五字右○〕とも、ウルハシミ〔五字右○〕とも訓べし、○四鹿《シカ》は、筑前(ノ)國糟屋(ノ)郡|資珂《シカ》なり、三(ノ)卷に、然之海人者《シカノアマハ》とある處に云り、○歌(ノ)意は、旅行(ク)君が愛憐《ウツク》しさに別れがたくて、資珂《シカ》の濱邊を、共に比ひてぞ來ぬるとなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。大監大伴宿禰百代《オホキマツリゴトヒトオホトモノスクネモヽヨ》。
 
567 周防在《スハフナル》。磐國山乎《イハクニヤマヲ》。將超日者《コエムヒハ》。手向好爲與《タムケヨクセヨ》。荒其道《アラキソノミチ》。
 
周防《スハウ》は、和名抄に、周防(ハ)須波字《スハウ》とあり、○磐國山《イハクニヤマ》は、和名抄に、周防(ノ)國玖珂(ノ)郡|石國《イハクニ》、沖冲、石國を超て、欽明寺といふ寺にいたるほど險難なりと、ある人申きといへり、幽齋道之記に、天正十五年七月十一日の曉、田島を出て、其日は上《カミ》の關と云所に舟をかけて、明行空をもまたで、鹽にひかれて、舟出をもよほし行に、いはくに山といへば見やりて、あらきその道なりとても、歸るさは、石國山もふみならしてむ、○歌(ノ)意は、いみじく險阻《ケハ》しき磐國山を越行む其(ノ)日は、神に手祭《タムケ》を好《ヨク》爲《シ》て、ねもころに祈(リ)申つゝ、ゆめ/\あやまちし給ふなとなり、契冲又云、第三(ノ)卷に、家おもふと心すゝむな風まちてよくしていませからきその道、海陸みちことなれど、心おなじ、
 
(468)右一首《ミギノヒトウタハ》。少典山口忌寸若麻呂《スナキフミヒトヤマクチノイミキヲカマロ》。
 
少典は、スナキフミヒト〔七字右○〕と訓べし、和名抄に、佐官(ハ)、本朝職員令二方品員所v載云々、太宰府(ニ)曰v典(ト)云々(皆佐官)とあり、佐官《サクワム》といふは、やゝ後なり、職員令に、大典二人、掌(ル)d受(ケテ)v事(ヲ)上(ニ)抄(シ)、勘(ヘ)2署文案(ヲ)1、檢(ヘ)2出稽失(ヲ)1、讀(ミ)c申(スコトヲ)公文(ヲ)u、少典二人、掌(ルコト)同(シ)2大典(ニ)1とあり、若麻呂は、傳未(タ)詳ならず、
〔以※[止/舟]天平二年庚午夏六月。帥大伴卿。忽生2瘡脚1。疾2苦〔右○〕枕席1。因v此馳v驛上奏。望3請庶弟稻公。姪胡麻呂。欲v語2遺言1者。勅2右兵庫助大伴宿禰稻公。治部少亟大伴宿禰胡麻呂兩人1。給v驛發遣。令v看2卿病1。而※[しんにょう+至]2數旬1。幸得2平復1。于v時稻公等以2病既療1。發v府上v京。於v是大監大伴宿禰百代。少典山口忌寸若麻呂。及卿男家持等。相2送驛使1。共到2夷守驛家1。聊飲悲v別。乃作2此歌1。〕
 
※[止/舟](ノ)字、拾穗本には前と作り、字書に※[止/舟]同v肯(ニ)と見えて玉篇に、肯(ハ)先也、今作v前(ニ)とあり、○稻公は、傳此(ノ)下に委(ク)云べし、○胡麻呂は、傳十九(ノ)下に委(ク)云べし、○看(ノ)字、元暦本には省とかけり、○療は、愈(ル)意にて書るなるべし、○夷守は、兵部式諸國驛傳馬(ノ)條に、筑前(ノ)國驛馬(席打、夷守、美野、各十五疋云々、)とあり、
 
太宰帥大伴卿《オホミコトモチノカミオホトモノマヘツキミノ》。被《レ》v任《メサ》2大納言《オホモノマヲシノツカサニ》1臨《スル》2入《イラムト》v京《ミヤコニ》之時《トキ》。府官人等《ツカサヒトラ》。餞《ウマノハナムケスル》2卿筑前國蘆城驛家《マヘツキミヲツクシノミチノクチノクニアシキノハユマヤニ》1歌四首《ウタヨツ》。
 
被v任2大納言1は、天平二年十月一日の事なり、三(ノ)卷(ノ)上に委(ク)云り、○蘆城は、八(ノ)卷(ノ)歌に見えて、葦木(469)と書たり、
 
568 三埼廻之《ミサキミノ》。荒磯爾縁《アリソニヨスル》。五百重浪《イホヘナミ》。立毛居毛《タチテモヰテモ》。我念流吉美《ワガモヘルキミ》。
 
三埼廻は、ミサキミ〔四字右○〕と訓べし、三《ミ》は美稱にて、眞《マ》と云が如し、廻《ミ》は毛登保里《モトホリ》の約言にて、めぐりといふに同じ、既く具(ク)云り、(ミサキワ〔四字右○〕とよめるは、大《イミ》じき非なり、)海の岬のめぐりといふ意なり、○五百重浪《イホヘナミ》、此(レ)までは、立居をいはむ料の序なり、○歌(ノ)意は、起ても居ても忘る>隙なく、深く愛しく思へる君にてましませば、別れまゐらせむは、いともせむすべなしとなり、(曾根好忠集に、かつまたの池のうら浪打はへて立ても居ても物をこそ思へ、)
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。筑前攘門部連石足《ツクシノミチノクチノマツリゴトヒトカドベノムラジイソタリ》。
 
掾は、マツリゴトヒト〔七字右○〕と訓べし、和名抄に、判官、本朝職員令二方品員等所v載云々、國(ニ)曰v掾(ト)云々、(皆|萬豆利古止比止《マツリコトヒト》、)とあり、○石足は、傳未(ダ)詳ならず、
 
569 辛人之《ミヤヒトノ》。衣染云《コロモシムトフ》。紫之《ムラサキノ》。情爾染而《コヽロニシミテ》。所念鴨《オモホユルカモ》。
 
辛人は、辛は、宮(ノ)字の寫誤なるべし、廿(ノ)卷に、宮人乃蘇泥都氣其呂母《ミヤヒトノソデツケゴロモ》とあり、宮人は大宮人と云るに同じ、(いはゆる宮人《メシヲミナ》のことには非ず、)○紫之《ムラサキノ》、此までは、染をいはむ料の序なり、紫《ムラサキ》は、彈正臺式は、凡無品親王諸王内親王女王等衣服(ノ)色、親王著v紫(ヲ)、以下孫王准2五位(ニ)1、諸王准2六位(ニ)(其服色者用※[糸+薫]、)凡大臣帶2二位1者、朝服著2深紫1、諸王二位已下五位以上、諸臣二位三位、並著2中紫1、とあり、(470)○歌(ノ)意は、さらぬだに愛しき君なるに、程なく別れまゐらせむと思へば、いよ/\深く心にしみとほりて、おもはるゝ哉となり、
 
570 山跡邊《ヤマトヘニ》。君之立日乃《キミガタツヒノ》。近付者《チカヅケバ》。野立鹿毛《ヌニタツシカモ》。動而曾鳴《ドヨミテゾナク》。
 
山跡邊は、ヤマトヘニ〔五字右○〕と訓べし、○付(ノ)字、舊本には脱せり、元暦本古寫本拾穗本等に從つ、○歌(ノ)意は、やまとの方に君が上りまさむ日の近付ぬれば、人とあるかぎりはいふもさらなり、野に立鹿さへも、君が別を惜みて鳴※[向/音]《ナキドヨム》となり、古今集に、おとは山のほとりにて、人を別るとて貫之、音羽山木高鳴て霍公鳥君が別を惜むべらなり、こゝろばえ相似たり、
 
右二首《ミギノフタウタハ》。大典麻田連陽春《オホキフミヒトアサダノムラジヤス》。
 
大典は、オホキフミヒト〔七字右○〕と訓べし、此(ノ)上に和名抄を引て云るが如し、○陽春は、續紀に、神龜元年五月辛未、正八位上答本(ノ)陽春賜2姓(ヲ)麻田(ノ)連(ト)1、天平十一年正月丙午、正六位上麻田(ノ)連陽春(ニ)授2外從五位下(ヲ)1、》懷風藻に、外從五位下石見守麻田(ノ)連陽春一首(年五十六)とあり、
 
571 月夜吉《ツクヨヨシ》。河音清之《カハトサヤケシ》。〓此間《イザコヽニ》。行毛不去毛《ユクモユカヌモ》。遊而將歸《アソビテユカム》。
 
河音消之は、カハトサヤケシ〔七字右○〕と訓べし、カハト〔三字右○〕と云るは、七(ノ)卷にも、卷向之川音高之母《マキムクノカハトタカシモ》とあり、○〓(拾穗本には率と作り、)は、〓の滅畫なり、字書に、〓(ハ)古(ノ)率(ノ)字とあり、字鏡に、〓(ハ)伊佐奈不《イザナフ》とあり、○行毛不去毛《ユクモユカヌモ》は、京に桁(ク)人も、去《ユカ》ずして筑紫に留る人もと謂なり、○歌(ノ)意かくれたるとこ(471)ろなし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。防人佑大伴四綱《サキモリノマツリゴトヒトオホトモノヨツナ》。
 
防人(ノ)佑(佑(ノ)字、舊本佐に誤れり、)は、三(ノ)卷に出づ、○大伴四綱(綱(ノ)字、古寫一本に繼と作るは誤なるべし)も三(ノ)卷に出づ、
 
太宰帥大伴卿《オホミコトモチノカミオホトモノマヘツキミノ》上《ノボリタマヘル》v京《ミヤコニ》之後《ノチ》。沙彌滿誓《サミノマムゼイガ》贈《オクレル》v卿《マヘツキミニ》歌二首《ウタフタツ》。
 
滿誓は、造2筑紫觀世音寺(ヲ)1別當にて、此ほど筑紫にありしなるべし、○贈(ノ)字、舊本には賜と作り、今は元暦本、類聚抄、古寫本、古寫一本、拾穗本等に從つ、
 
572 眞十鏡《マソカヾミ》。見不飽君爾《ミアカヌキミニ》。所贈哉《オクレテヤ》。旦夕爾《アシタユフベニ》。左備乍將居《サビツヽヲラム》。
 
所贈我《オクレテヤ》は、後《オク》れて哉《ヤ》なり、我は、終句の後にめぐらして意得べし、○左備乍《サビツヽ》は、心さぶしみながらの意なり、(新古今集に、長月もいく有明に成ぬらむ淺茅の月のいとゞさび行、)○歌(ノ)意かくれなし、
 
573 野于玉之《ヌバタマノ》。黒髪變《クロカミカハリ》。白髪手裳《シラケテモ》。痛戀庭《イタキコヒニハ》。相時有來《アフトキアリケリ》。
 
第二三(ノ)句は、クロカミカハリシラケテモ〔クロ〜右○〕と訓べし、(クロカミシロクカハリテモ〔クロ〜右○〕とよめるはいとわろし、)黒髪變は、十九に、紅能伊呂母宇都呂比《クレナヰノイロモウツロヒ》、奴婆多麻能黒髪變《ヌバタマノクロカミカハリ》と有(リ)、白く變《ナル》を、白《シラ》くるといふことは、九(ノ)卷浦島(ノ)子を詠る歌に、黒有之髪毛白斑奴《クロカリシカミモシラケヌ》、六帖に、黒髪の白くるまでといふ(472)君が、心の中を今しらめやも、忠見集に、年ごとにまつらむかずはきねそみむいたゞくかみのしらくるまでになどあり、○痛戀庭《イタキコヒニハ》は、痛《イタキ》は、甚しきを云、庭《ニハ》は、他に對へていふてにをはなり、此《コヽ》は苦しき戀にあふを、あはぬに對へて云るなり、○歌(ノ)意は、黒髪の白くなるまで老たれども、猶かゝる苦しき戀の思(ヒ)にあふ時はありけり、年老たれば、戀の思(ヒ)にあふことはなきものと思ひしにもたがひて、さても心ならぬ世ぞとなり、此(ノ)上坂上(ノ)郎女の歌にも、似たるあり、
 
大納言大伴卿和歌二首《オホキモノマヲシノツカサオホトモノマヘツキミノコタヘタマヘルウタフタツ》。
 
574 此間在而《コヽニアリテ》。筑紫也何處《ツクシヤイヅク》。白雲乃《シラクモノ》。棚引山之《タナビクヤマノ》。方西有良思《カタニシアルラシ》。
 
方西有良思《カタニシアルラシ》は、西《ニシ》の之《シ》は、その一(ト)すぢなる事をおもくいふ助辭、良思《ラシ》はさだかにしかりとは知(ラ)れねど、十に七八は、それならむとおぼゆるをいふ詞なり、上にたびたび出たり、○歌(ノ)意は、此(ノ)京に在て見やるに、筑紫の方や何處なるらむ、おもふにあの雲のたな引てある、あなたの方にあるらしとのみおぼゆるなり、さても遠く隔れる事哉となり、三(ノ)卷石上(ノ)卿の歌、これに
 よく似たり、又八(ノ)卷に、此間在而春日也何處雨障《コヽニアリテカスガヤイヅクアマヅヽミ》、出而不行者戀乍曾乎流《イデテユカネバコヒツヽゾヲル》、これも本(ノ)句は似たり、
 
575 草香江之《クサカエノ》。入江二求食《イリエニアサル》。蘆鶴乃《アシタヅノ》。痛多豆多頭思《アナタヅタヅシ》。友無二指天《トモナシニシテ》。
 
(473)草香江《クサカエ》は、河内(ノ)國河内(ノ)郡にて、今も日下村あり、生駒山の西方なりと云り、(この草香江を、八雲御抄藻鹽草等に、筑前としたまへるは、帥(ノ)卿の歌なるによりて、ふと筑前と思(ヒ)誤りたまへるなり、これは京にかへりのぼられて後の歌なれば、なほ筑前のにはあらじ、但し貝原氏名寄に、筑前(ノ)國早良(ノ)郡鳥飼村の東の入江を、草香江と云よししるせり、彼(ノ)國にも同名あるにや、)○蘆鶴乃《アシタヅノ》、此までは多豆多頭思《タヅタヅシ》をいはむ料の序なり、○痛多豆多頭思《アナタヅタヅシ》は、痛《アナ》は痛醜《アナミニク》など云|痛《アナ》なり、既く具(ク)云り、多豆多頭思《タヅタヅシ》は、契冲たど/\しきにておちつかぬやうのこゝろなりと云り、十一に、天雲爾翼打附而飛鶴乃《アマクモニハネウチツケテトブタヅノ》、多頭多頭思鴨君不座者《タヅタヅシカモキミシマサネバ》、十五に、多都我奈伎安之敝乎左之弖等妣和多類《タヅガナキアシヘヲサシテトビワタル》、安奈多頭多頭志比等里佐奴禮婆《アナタヅタヅシヒトリサヌレバ》、十八に、奈都乃欲波美知多豆多都之《ナツノヨハミチタヅタヅシ》などあり、○指天《シテ》は、其(ノ)事にのみかゝづらひて、他事なき意の時に云辭なり、此(ノ)上に云り、○歌(ノ)意は、其方《ソナタ》に別れ來て善友《ウルハシキトモ》はなし、唯獨のみして、あゝたど/\しくおちつかずに、其方をのみ戀しく思ふこと哉となり、
 
太宰帥大伴卿《オホミコトモチノカミオホトモノマヘツキミノ》。上《ノボリタマヒシ》v京《ミヤコニ》之後《ノチ》。筑後守葛井連大成悲嘆作歌一首《ツクシノミチノシリノカミフヂヰノムラジオホナリガナゲキテヨメルウタヒトツ》。
 
大成は、續紀に、神龜五年五月丙辰、正六位上葛井(ノ)連大成(ニ)授2外從五位下(ヲ)1とあり、
 
576 從今者《イマヨリハ》。城山道者《キノヤマミチハ》。不樂牟《サブシケム》。吾將通常《アガカヨハムト》。念之物乎《オモヒシモノヲ》。
 
城山《キノヤマ》は、和名抄に、筑前(ノ)國下(ツ)座《アサクラノ》郡三城、(美都木《ミツキ》、)城邊、(木乃倍《キノヘ》、)此(ノ)集五(ノ)卷に、志可須我爾許能紀能(474)夜麻爾由岐波布理都々《シカスガニコノキノヤマニユキハフリツヽ》、八(ノ)卷に、今毛可聞大城乃山爾《イマモカモオホキノヤマニ》、十(ノ)卷に、大城山者色付爾家里《オホキノヤマハイロヅキニケリ》、三代實録十二に、貞觀八年三月十四日云々、太宰府司、於2城(ノ)山四王院(ニ)1轉讀(ス)など見えたり、太宰府より、筑紫へ超る道の大山なりとぞ、天智天皇三年十二月、筑紫に大堤を築て水を貯へて、水城《ミヅキ》と名《ナヅ》けたるよし書紀に見ゆ、かゝればその水城の隣の郷を城邊《キノヘ》と號《イヒ》、山を城山《キノヤマ》と呼《イヘ》るなるべし、○不樂牟は、サブシケム〔五字右○〕と訓べし(サビシケム〔五字右○〕と訓はわるし、)○歌(ノ)意は、太宰府へ度々通(ヒ)行て、卿に相見奉らむと思ひしものを、今は卿の京に上りておはしまさねば、今より後は吾(ガ)通ふべきよしもなくて、城(ノ)山道はいよ/\さぶ/\しからむ、卿の太宰府におはして、吾(カ)つねに往來《カヨヒ》し時は、人馬の通行《ユキカヒ》絶ずて、にぎはしく、おもしろかりしをとなるべし、
 
大納言大伴卿《オホキモノマヲシノツカサオホトモノマヘツキミノ》。新袍《アタラシキウヘノキヌヲ》贈《オクリタマヘル》2攝津大夫高安王《ツスブルカミタカヤスノオホキミニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
新袍は、新しく織縫たる袍なるべし、袍は、和名抄に、楊氏(カ)漢語抄に、袍(ハ)著v襴之袷衣也、和名、宇倍乃岐奴《ウヘノキヌ》、一(ニ)云朝服、○賜(ノ)字、一本、拾穗本等には卿の下にあり、○攝津大夫は、職員令(ニ)云、攝津職、(帶2津(ノ)國1、)大夫一人、掌(ル)d祠社、戸口簿帳、字2養(シ)百姓(ヲ)1、勸(メ)2課(セ)農桑(ヲ)1、糺2察(シ)所部(ヲ)1、貢2擧(シ)孝義(ヲ)1、田宅、良賤、訴訟、市廛、度量(ノ)輕重、倉廩、租調、雜徭、兵士、器仗、道橋、津濟、過所、上下(ノ)公使、郵驛、傳馬、闌産(ノ)雜物、※[手偏+僉]2※[手偏+交](シ)舟具(ヲ)1、及寺僧尼(ノ)名籍(ノ)事(ヲ)u、とあり、○高安(ノ)王は、續紀に、和銅六年正月丁亥、無位高安(ノ)王(ニ)授2從五位下(ヲ)1、養老元年正月乙巳、從五位上、三年七月庚子、令d伊豫(ノ)國(ノ)守高安(ノ)王(ニ)管c阿波讃岐土佐三國(ヲ)u、五年正月王子正五(475)位下、神龜元年二月壬子、正五位上、四年正月庚子、從四位下、天平四年十月丁亥、爲2衛門(ノ)督(ト)1、九年九月己亥、從四位上、十一年四月甲子、詔曰云々、今依v所v請賜2大原(ノ)眞人之姓(ヲ)1、十二年十一月甲辰、從四位上大原(ノ)眞人高安(ニ)授2正四位下(ヲ)1、十四年十二月庚寅、正四位下大原(ノ)眞人高安卒(ス)、と見えたり、○今按(フ)に、此(ノ)題詞は混《ミダ》れて、大伴(ノ)卿と高安(ノ)王と、地《トコロ》をたがへたるなるべし、高安(ノ)王より、大伴(ノ)卿へ贈られたりと見ゆればなり、なほ歌の下に云を見て考(フ)べし、
 
577 吾衣《ワガコロモ》。人莫著曾《ヒトニナキセソ》。網引爲《アビキスル》。難波壯士乃《ナニハヲトコノ》。手爾者雖觸《テニハフレヽド》。
 
難波壯士《ナニハヲトコ》は、血沼壯士《チヌヲトコ》、菟原壯士《ウナヒヲトコ》、飛鳥壯士《アスカヲトコ》などいふ類なり、高安(ノ)王は攝津大夫《ツスブルカミ》なれば自(ラ)の事を戯に、卑下《クダリ》て、かくのたまへるなるべし、○手爾者雖觸は、テニハフレヽド〔七字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、この衣は、賤しき難波をとこの手には觸てあれども、わが切に志して贈れる衣なれば、心にかなはずとも、ゆめ他人などには、著せ賜ひそよとなり、女の男に衣を贈れることは常なり、男共《ヲトコドチ》も、贈りかはせることまれ/\あり、新古今集に、陸奥《ミチノク》にくだり侍ける人に、装束おくるとてよみ侍りける、紀(ノ)貫之、玉ほこの道の山風寒からば、かたみがてらに著むとぞ思、また三(ノ)卷赤人(ノ)歌に、秋風乃寒朝開乎佐農能崗《アキカゼノサムキアサケヲサヌノヲカ》、將超公爾衣借益矣《コユラムキミニキヌカサマシヲ》、ともあれば、男どち假(リ)借(シ)もせしなり、○此(ノ)歌舊本の題詞のまゝにてはきこえがたし、必(メ)て高安(ノ)王より贈られたるなり、(古來註者等、舊本のまゝにて解來れるゆゑ、みなしひたることのみにして、穩ならず、)
 
(476)大伴宿禰三依悲別歌一首《オホトモノスクネミヨリガワカレノウタヒトツ》。
 
578 天地與《アメツチト》。共久《トモニヒサシク》。住波牟等《スマハムト》。念而有師《オモヒテアリシ》。家之庭羽裳《イヘノニハハモ》。
 
家之庭羽裳《イヘノニハハモ》は、此(ノ)上にも、三依の筑紫より京にのぼらむとするほど、賀茂(ノ)女王の、よみて贈り賜へる歌あり、されば此(ノ)人太宰府の官人にて下り居けるが、京に上らむとするとき、その館の庭をいへるなるべし、羽裳《ハモ》は、尋したふ意の辭なり、既く云り、(五(ノ)卷天平二年太宰(ノ)帥(ノ)宅にてよめる、梅花(ノ)歌三十二首の中の作者に、豐後(ノ)守大伴(ノ)大夫とあるを、この三依なるべしと契冲云り、豐後(ノ)守なりしが、旅人(ノ)卿歸京の時、任はてゝ、隨ひ上られけるに、任國を發とて、別を惜みてよめるものとせむはさることなれど、三依はやう/\天平二十年に正六位上より從五位下になれるよし見えたるに、かの大伴(ノ)大夫は、はやく天平二年の頃、五位にて豐後(ノ)守なりしとおぼゆれば、なほ別人なるべし、)○歌(ノ)意は、天地の長きが如く、久しく住つきてあらむとおもひし家の庭はも、今よりはいかにか成はてむとなり、二(ノ)卷舍人等(ノ)歌に、天地與共將終登念乍《アメツチトトモニヲヘムトオモヒツヽ》、奉仕之情違奴《ツカヘマツリシコヽロタガヒヌ》とあるは、生死のたがひこそあれ、悲歎の情は、ともに相似てあはれなり、
 
金明軍《コムノミヤウグムガ》。與《タテマツレル》2大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチニ》1歌二首《ウタフタツ》。
 
金(ノ)明覺(金(ノ)字、古寫一本に余と作り、)は、傳未(タ)詳ならず、旅人(ノ)卿の資人なりけるよし、三(ノ)卷に見え(477)たり、元暦本、類聚抄、古寫本、古寫一本等に、明軍者、大納言卿之資人也と註せり、
 
579 奉見而《ミマツリテ》。未時太爾《イマダトキダニ》。不更者《カハラネバ》。如年月《トシツキノゴト》。所念君《オモホユルキミ》。
 
未時太爾《イマダトキダニ》は、俗に未《マダ》時さへと云が如し、又太爾《タニ》は、なりともと云意有(リ)、時は、四(ノ)時の時なり、○不更者《カハラネバ》は、例の変らぬにの意なり、○歌(ノ)意は、見奉りて別(レ)まゐらせて後、時なりとも移ひなば、久しき事におもふも理なるに、まだ時さへ更らぬに、はや年月を經し如く、久しく相見奉らぬ事とおもはるゝよとなり、
 
580 足引乃《アシビキノ》。山爾生有《ヤマニオヒタル》。菅根乃《スガノネノ》。懃見卷《ネモゴロミマク》。欲君可聞《ホシキキミカモ》。
 
歌(ノ)意、本(ノ)句は序にて、かくれたるところなし、
○此間に、大伴(ノ)宿禰家持より、大伴(ノ)坂上(ノ)家之大娘に、贈られたる歌のありしが、脱たるなるべし、
 
大伴坂上家之大娘《オホトモノサカノヘノイヘノオホイラツメガ》、報2贈《コタヘオクレル》大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチニ》1歌四首《ウタヨツ》。
 
娘(ノ)字、拾穗本には孃と作り、
 
581 生而有者《イキテアラバ》。見卷毛不知《ミマクモシラニ》。何如毛《ナニシカモ》。將死與妹常《シナムヨイモト》。夢所見鶴《イメニミエツル》。
 
歌(ノ)意は、生存《イキナガラ》へてありとも、現在にては相見むよしも知ず、來世にて逢べし、さあれば生てあらむは中々に物うし、いざ共に死むよ妹とのたまふ、と夢に見えつることよ、何しかもかく(478)は見えつるぞとなり、第三四(ノ)句をおきかへて意得べし、(契冲が、今こそあひがたけれ、かたみにながらへたらば、又あひみむもしれぬを、などかわが夢に君が入來て、かくあはであらむよりは、こひしなむと見えけむとなり、と云るはむつかしくて、さだかにもきこえがたし、又本居氏の、詞(ノ)瓊綸、てにをはたがへる歌の中に、此(ノ)歌をいれしはいかにぞや、)
 
582 丈夫毛《マスラヲモ》。如此戀家流乎《カクコヒケルヲ》。幼婦之《タワヤメノ》。戀情爾《コフルコヽロニ》。比有目八方《タグヘラメヤモ》。
 
如此戀家流乎《カクコヒケルヲ》は、其(ノ)如く戀けるものをの意なり、如此《カク》は、志可《シカ》といはむがごとし、抑々|可久《カク》は、我につきたること、又さし當りたることを、指て云言にて、志可《シカ》と表裏なること此《コレ》と彼《カレ》との差別の如し、しかれば志可《シカ》といふべきを、如此《カク》と云は、その對ふ人、又對ふ物の方の如此《カク》は、此方の志可《シカ》なれば、おのづから通ひてきこゆるが如し、こゝも男の如此如此《カクカク》戀けるといふを受て、即(チ)如此如此《カクカク》とのたまふ其(ノ)如くに、そなたも戀けるものをの意なり、此(ノ)下に、娘子の湯原(ノ)王の歌に報へて、吾背子我如此戀禮許曾夜干玉能《ワガセコガカクコフレコソヌバタマノ》、夢所見管寐不所宿家禮《イメニミエツヽイネラエズケレ》、とよめる、如是《カク》に同じ、○歌(ノ)意は、大夫さへも其(ノ)如く戀けるものを、しかれども、はかなき手弱女の心に、一(ト)すぢにこふるにくらべて見ば、あひならぴて、ひとしきことのあるべしやはとなり、此(ノ)歌、如此《カク》といふ言の意を心得ざる故、昔(シ)より解得たる人なし、此は家持の、大孃を戀るよしの歌をよみて贈(レ)るに、報へてよめるなるべし、
 
(479)583 月草之《ツキクサノ》。徙安久《ウツロヒヤスク》。念可母《オモヘカモ》。我念人之《アガオモフヒトノ》。事毛告不來《コトモツゲコヌ》。
 
月草之《ツキクサノ》は、徙《ウツロヒ》の枕詞なり、月草は品物解に云り、○徙安久念可母《ウツロヒヤスクオモヘカモ》(徙(ノ)字、舊本徒に誤、母(ノ)字、拾穗本には毛と作り、)は、念は輕く添たる辭にて、變易《ウツロヒヤス》ければかの意なり、(念可母を、常の如く念へばかの意に見ては、かなたのこなたを、うつろひやすきものにおもふ意に聞えて、まぎらはし、母《モ》は歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、人の心はうつろひやすければ、あだし人に心がはりして、此(ノ)頃はわが念人の、音づれもせぬにやあらむ、さても口をしやとなり、
 
584 春日山《カスガヤマ》。朝立雲之《アサタツクモノ》。不居日無《ヰヌヒナク》。見卷之欲寸《ミマクノホシキ》。君毛有鴨《キミニモアルカモ》。
 
歌(ノ)意、春日山に雲の居ぬ日なき如く、いつも/\常に相見まほしく思はるゝ、君にてもあるかなとなり、
 
大伴坂上郎女歌一首《オホトモノサカノヘノイラツメガウタヒトツ》。
 
585 出而將去《イデテイナム》。時之波將有乎《トキシハアラムヲ》。故《コトサラニ》。妻戀爲乍《ツマゴヒシツヽ》。立而可去哉《タチテイヌベシヤ》。
 
時之波《トキシハ》は、之《シ》は、その一(ト)すぢをおもくいふ助辭にて、時者《トキハ》なり、○故《コトサラニ》は、殊更《コトサラ》ににて、(玉篇に、故(ハ)説文(ニ)使v爲v之也とあり、)目に立てわざとするやうの意なり、十(ノ)卷に、事更爾衣者不摺佳人部爲《コトサラニコロモハスラジヲミナベシ》、咲野之芽子爾丹穗日而將居《サキヌノハギニニホヒテヲラム》、○歌(ノ)意、契冲云、これは夫(ノ)君の旅にゆく時などよめるにや、出てゆく時も時こそあらめ、われをこふるといふ時しも、わざとたちてゆくべきものか、實はこ(480)ふるといふは、ことばにて、さもあらねばこそ、立出て行らめとなり、
 
大伴宿禰稻公《オホトモノスクネイナキミガ》。贈《オクレル》2田村大孃《タムラノオホイラツメニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
稻公は、上にも、大伴(ノ)卿云々庶弟稻公と見ゆ、續紀に、天平十三年十二月己亥、從五位下大伴(ノ)宿禰稻君爲2因幡(ノ)守(ト)1、十五年五月癸卯、從五位上、勝寶元年四月、正五位下、八月辛未、爲2兵部(ノ)大輔(ト)1六年四月庚午、爲2上總(ノ)守(ト)1、寶字元年五月、正五位上、同八月戊寅、從四位下、二年二月己巳、勅曰、得2大和(ノ)國(ノ)守從四位下大伴(ノ)宿禰稻公等奏(ヲ)1、※[人偏+爾]而云々とあり、○田村(ノ)大孃は、元暦本、古寫本等には、大伴(ノ)宿奈麻呂(ノ)卿之女也と注り、此(ノ)下にも、田村(ノ)大孃(ハ)、右大辨大伴(ノ)宿奈麻呂(ノ)卿之女也、卿居2田村(ノ)里(ニ)1、號曰2田村(ノ)大孃(ト)1と註せり、
 
586 不相見者《アヒミズハ》。不戀有益乎《コヒザラマシヲ》。妹乎見而《イモヲミテ》。本名如此耳《モトナカクノミ》。戀者奈何將爲《コヒハイカニセム》。
 
本名如此耳《モトナカクノミ》は、如此《カク》ばかりにもとなの意なり、本名は、俗にむさ/\とゝいはむが如し、既く云り、○歌(ノ)意は、はじめより相見ずは、かくは戀しく思はざらまし物を、かやうにむさ/\戀しくものおもひをせば、はてはいかにせむぞとなり、
 
〔右一首《ミギアルハイフ》。姉坂上郎女作《アネサカノヘノイラツメガヨメル》。〕
 
首は、云の誤なるべし、
 
笠女郎《カサノイラツメガ》。贈《オクレル》2大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチニ》1歌廿四首《ウタハタチマリヨツ》。
 
(481)587 吾形見《ワガカタミ》。見管之努波世《ミツヽシヌハセ》。荒珠《アラタマノ》。年之緒長《トシノヲナガク》。吾毛將思《ワレモシヌハム》。
 
形見《カタミ》は、十六歌(ノ)傳註に、有2所v幸娘子1也、寵薄之後還2賜寄物1(俗(ニ)云|可多美《カタミ》、)と見えたり、遊仙窟には、記念をカタミ〔三字右○〕と訓たり、○吾毛將思は、ワレモシヌハム〔七字右○〕と訓べし、(オモハム〔四字右○〕とよめるはわろし、)吾も相共に、君をしぬはむと云なり、○歌(ノ)意は、吾(ガ)奉る形見の物を見つゝ、吾を慕はせ賜へ、年久しく得あふまじければ、吾も君を忘れず慕ひ申さむとなり、これは家持(ノ)卿に別れ行とき、女郎より何にもあれ、形見のものを贈りてそへたるなるべし、
 
588 白鳥能《シラトリノ》。飛羽山松之《トバヤママツノ》。待乍曾《マチツヽゾ》。吾戀度《アガコヒワタル》。此月比乎《コノツキゴロヲ》。
 
白鳥能《シラトリノ》は、飛羽《トバ》の枕詞にて、鳥の飛といふ意に、いひ繋たるなり、○飛羽山松之《トバヤママツノ》は、待をいはむ料の序なり、飛羽山は、十二(ノ)末に、愛十羽能松原《ウツクシキトハノマツバラ》とあるとは、別處なるべし、鳥羽といふ地(ノ)名、かた/”\にあれど、これは大和(ノ)國にあるなるべし、○歌(ノ)意は、此(ノ)月ごろを相見ずて、君を待つのみぞ、戀しく思ひて經度るとなり、
 
589 衣手乎《コロモテヲ》。打廻乃里爾《ヲリタムサトニ》。有吾乎《アルワレヲ》。不知曾人者《シラズゾヒトハ》。待跡不來家留《マテドコズケル》。
 
打廻乃里は、本居氏云、打は折の誤にて、オリタムサト〔六字右○〕と訓べし、乃(ノ)字は、訓を誤て傍につけたるが、本文になれるならむ、折廻《ヲリタム》とは、道を折まはれば至る里にて、いと近きよしなり、十一(ノ)卷の、神なびの打廻前乃とあるも同じく、打は折の誤にて、ヲリタムクマ〔六字右○〕なるべし、○歌(ノ)意は、道(482)一重折廻れば至るばかりの、いと近き里にあるわれなるを、おもふに、人はそれともしらずしてぞ、待居れども待かひもなく、來まさずありけるとなり、
 
590 荒玉《アラタマノ》。年之經去者《トシノヘヌレバ》。今師波登《イマシハト》。勤與吾背子《ユメヨワガセコ》。吾名告爲莫《ワガナノラスナ》。
 
今師波登《イマシハト》は、今師《イマシ》とは、その時に正しく至りたるをいふ詞なり、此《コヽ》はこれまでつとめまもりたる事を、時至りたりとて、心ゆるすやうの意なり、登《ト》は、とての意なり、今師《イマシ》と云るは、此(ノ)下に、今時者四名之惜雲吾者無《イマシハシナノヲシケクモアレハナシ》、土左日記に、今し羽根といふ處に來ぬなど有(リ)、皆同じ、○歌(ノ)意は、年の經にたれば、今はくるしからじと心ゆるして、吾(ガ)名を人に告知しめ賜ふな、努々吾(ガ)夫子よといふなり、
 
591 吾念乎《ワガオモヒヲ》。人爾令知哉《ヒトニシラセヤ》。玉匣《タマクシゲ》。聞阿氣津跡《ヒラキアケツト》。夢西所見《イメニシミユル》。
 
人爾令知哉《ヒトニシラセヤ》は、人にしらしむればにやの意なり、中山嚴水、上の歌に、吾名告爲莫《ワガナノラスナ》とあるによりて思ふに、我が君を思ふことを、君が人に知せ賜へばにや、といふこゝろなるべしと云り、○西《ニシ》は、之《シ》は、その一(ト)すぢなるをおもく思はする辭にて、此《コヽ》はそのさだかにしかるよしなり、○歌(ノ)意は、吾が君を思ふ心を、君が人に知しめ賜へばにや、匣をひらきつると、吾(ガ)夢にさだかに見えつるならむとなり、契冲が、箱をあくると夢にみれば、おもひを人にしらするといひならはしける、古語ありけるなるべしといひて、下にも、つるぎたち身に取副と夢に見つ何(483)の怪そも君にあはむため、とある歌を引るが如し、
 
592 闇夜爾《ヤミノヨニ》。鳴奈流鶴之《ナクナルタヅノ》。外耳《ヨソニノミ》。聞乍可將有《キヽツヽカアラム》。相跡羽奈之爾《アフトハナシニ》。
 
闇夜爾は、ヤミノヨニ〔五字右○〕と訓べし、(クラキヨニとよめるは、あしかりけり、)廿(ノ)卷に、夜未乃欲能《ヤミノヨノ》とあり、○歌(ノ)意は、吾(ガ)思ふ君に、相見るといふことなしに、たとへば、闇(ノ)夜に鳴なる鶴のすがたは見えず、音ばかり聞ゆる如く、外《ヨソ》にのみ君がうへの事を、聞つゝあらむかとなり、
 
593 君爾戀《キミニコヒ》。痛毛爲便無見《イタモスベナミ》。楢山之《ナラヤマノ》。小松下爾《コマツガモトニ》。立嘆鴨《タチナゲクカモ》。
 
楢山之小松《ナラヤマノコマツ》は、十一に、平山子松末有廉叙波《ナラヤマノコマツガウレノウレムゾハ》とあり、○鴨(ノ)字、古寫本には鶴と作り、拾穗本傍書にも、一に鶴と作るよし見ゆ、舊本を用べし、○歌(ノ)意は、君を戀しく思ひて、甚もせむかたなさに、楢山の小松が下に立て、嗚呼《アヽ》さても苦しや、と息づきて、嘆く哉となり、
 
594 吾屋戸之《ワガヤドノ》。暮陰草乃《ユフカゲクサノ》。白露之《シラツユノ》。消蟹本名《ケヌガニモトナ》。所念鴨《オモホユルカモ》。
 
暮陰草《ユフカゲクサ》は、契冲云、草(ノ)名にあらず、夕(ヘ)の陰草なり、あし引の山の陰草、天の河水かげ草などよめるたぐひなり、(新古今集に、庭に生る夕かげ草の下露やくれを待間の涙なるらむ、)○消蟹《ケヌガニ》は、心もきえうするばかりにといふなり、我爾《ガニ》は、之似《ガニ》といふが本義にて、消蟹《ケヌガニ》は、消ぬといふに似《ニ》る許にの謂にて、ばかりにといふ意になる例なり、此(ノ)下に、道相而咲之柄爾零雪乃《ミチニアヒテヱマシシカラニフルユキノ》、消者消香二戀云吾妹《ケナバケヌカニコヒモフワギモ》、八(ノ)卷に、於布流橘《オフルタチバナ》、玉爾貫五月乎近美《タマニヌクサツキヲチカミ》、安要奴我爾花咲爾家里《アエヌガニハナサキニケリ》、又|秋田刈借廬(484)毛未壞者《アキタカルカリホモイマダコボタネバ》、雁鳴寒霜毛置奴我二《カリガネサムシシモモオキヌガニ》、二十(ノ)卷に、音之于蟹來喧響目《コヱノカルガニキナキトヨマメ》、又|秋就者水草花乃阿要奴蟹《アキヅケバミクサノハナノアエヌガニ》、思跡不知直爾不相在者《オモヘドシラズタヾニアハザレバ》、十三に、海處女等纓有領巾文光蟹手二卷流玉毛湯良雁爾《アマヲトメラガウナガセルヒレモテルガニテニマケルタマモユララニ》、十四に、武路我夜乃都留能都追美乃那利奴賀爾《ムロガヤノツルノツツミノナリヌガニ》、古呂波伊敝杼母伊未太年那久爾《コロハイヘドモイマダネナクニ》、此等皆同意なり、(これを本居氏(ノ)詞(ノ)》玉緒に、これらの我爾《ガニ》は、かたりつぐがねなどいへるがねと同言にて、がには、がねにの、ねにをつゞめて、にと云たるなりといへるは、いみじきひがごとなり、我爾《ガニ》と我禰《ガネ》とは、もとより別言なり、いでその別なるよしをいはむに、我禰《ガネ》てふ言はあまたあれども、我禰爾《ガネニ》と云るは一(ツ)もなきにて知べし、そも/\我禰《ガネ》は、十(ノ)卷に梅花吾者不令落青丹吉《ウメノハナアレハチラサジアヲニヨシ》、平城在人來管見之根《ナラナルヒトノキツヽミルガネ》と書たる、之根《ガネ》の字(ノ)義にて、云々あらむ其(レ)が根本、といふ謂より起れる言にて、其が爲といふ意に云たるなり、中昔の詞に、きさきがね、坊がね、聟がね、博士がねなど云るがねも同じく、后がねは、后になるべき、其(レ)が根ざしふるまひのこゝろにて、其(ノ)餘も准(フ)べし、)我禰《ガネ》の言(ノ)意は、三(ノ)中|大夫之《マスラヲノ》云々|語繼金《カタリツグガネ》、とある歌に就て委(ク)註り、合(セ)考(フ)べし、(十四に、於毛思路伎野乎婆奈夜吉曾布流久爾《オモシロキヌヲバナヤキソフルクサニ》、仁比久佐麻自利於非波於布流我爾《ニヒクサマジリオヒハオフルガニ》とあるのみは、生之根《オフルガネ》にて、生るが爲の意ときこえたれば、必(ス)我禰《ガネ》とあるべきことなるに、我爾《ガニ》としもいへるは、東歌なるがゆゑなり、なべての雅言の證とすべきことに非ず、かくて古今集に、櫻花ち与かひくもれ老らくの來むといふなる道まがふ我爾《ガニ》とあるは、道まがふばかりに、と云意にて、よまれしか、道ま(485)がふが爲にといふ意にてよまれしかはしらねど、此(ノ)歌は、二(タ)しへにわたりて、きこゆることなれば、古(ヘ)の我爾《ガニ》の詞の定に、ばかりにの意と釋(ミ)て、難なければ、さてあるべし、又卷向の穴師の山の山人と人も見る我爾《ガニ》山かづらせよとあるも、人も見るばかりに、と云意にてよめるか、人も見るが爲に、といふ意にてよめるかはしらねど、此(ノ)歌も、二(タ)しへにわたりてきこゆることなれば、古(ヘ)の我爾《ガニ》の詞の定に、ばかりにの意と釋(ミ)て難なければ、さてあらむ、又なく涙雨とふらなむわたり川水まさりなばかへり來る我爾《ガニ》とあるも、作者は、かへり來るばかりにの意にて、よまれしかはしらねど、古(ヘ)の定にていはゞ、此(ノ)歌は、必|我禰《ガネ》と云て、かへり來るが爲に、といふ意に、見べきことなり、又拾遺集に、山里にしる人もがなほとゝぎす鳴(キ)ぬと聞ば告に來る我爾《ガニ》とあるは、告に來るが爲にの意ときこえたれば、古(ヘ)の定にていはゞ、これも必|我禰《ガネ》と云べきことなり、かく我爾《ガニ》とありてもきこゆるところを、我爾《ガニ》といへるはこともなきを、必(ス)我禰《ガネ》といふべきところを、我爾《ガニ》とのみいへるは、後に我禰《ガネ》の詞をば失ひて、その言の似たるによりて、意をも言をも、一(ツ)にまぎらはして、我爾《ガニ》とのみ云たるなり、)○歌(ノ)意は、夕の蔭草に置たる露の、はかなくもろきが如く、心もきえうするばかりに、君が戀しく、むさ/\とおもはるゝ哉となり、
 
595 吾命之《ワガイノチノ》。將全幸限《マタケムカギリ》。忘目八《ワスレメヤ》。彌日異者《イヤヒニケニハ》。念益十方《オモヒマストモ》。
 
(486)將全幸限(幸(ノ)字、元暦本には牟と作り、ム〔右○〕の假字なり、將(ノ)字にム〔右○〕の言はあれば、牟は餘れるに似たれども、かくさきに假字をそへて書ることも、往々あり、)は、マタケムカギリ〔七字右○〕と訓べし、十五に、伊能知乎麻多久之安良婆《イノチヲマタクシアラバ》、古事記倭建命(ノ)御歌に、伊能知能麻多祁牟比登波《イノチノマタケムヒトハ》など見えたり、○忘目八《ワスレメヤ》は、忘れむやはといふ意なり、○歌(ノ)意は、たとひ日ごと/\に、いよ/\まさりておもひはすとも、忘れはすまじ、生てあらむ限(リ)は、戀しく思ふ心の息《ヤム》ことはあらじとなり、
 
596 八百日往《ヤホカユク》。濱之沙毛《ハマノマナゴモ》。吾戀二《アガコヒニ》。豈不益歟《アニマサラジカ》。奥島守《オキツシマモリ》。
 
八百日往《ヤホカユク》は、(加萬目住《カマメスム》の誤といふ説は、しひ解なり、)彌百日《ヤホカ》を經て行にて、はかりなく廣きをいふ、(新古今集に、八百日往濱の眞砂を君が代の、數にとらなむおきつ島守)五(ノ)卷に、毛々可斯母由加奴麻都良遲《モヽカシモユカヌマツラヂ》とあり、○沙《マナゴ》は、和名抄に、繊砂、日本紀私記(ニ)曰、繊(ハ)細也、麻奈古《マナゴ》、聲類(ニ)云、砂(ハ)水中(ノ)細礫也、和名|以左古《イサゴ》、又|須奈古《スナゴ》、集中には、眞名兒《マナゴ》とも愛子《マナゴ》とも書り、○豈不益歟《アニマサラジカ》は、豈はナニ〔二字右○〕と通ひて、いかでといふ意なるべし、ナド〔二字右○〕をアド〔二字右○〕とも、ナゼ〔二字右○〕をアゼ〔二字右○〕ともいふと同じ、さて此詞は、つねの格にては、豈益むやといふべきを、(三(ノ)卷に、豈益目八《アニマサラメヤ》、豈若目八方《アニシカメヤモ》などある、それなり、)不《ジ》といへることも古言なり、(契冲が、こゝの不は衍文なりと云るは、古語にうとし、)仁徳天皇(ノ)紀(ノ)歌に、那菟務始能譬務始能虚呂望赴多弊耆?《ナツムシノヒムシノコロモフタヘキテ》、箇區瀰夜〓利波阿珥豫區望阿羅儒《カクミヤタリハアニヨクモアラズ》、續紀廿五詔に、豈障倍岐物仁方不在《アニサハルベキモノニハアラズ》、廿六詔に、豈障事波不在止念天奈毛《アニサハルコトハアラズトオモヒテナモ》、廿八詔に、豈敢朕徳伊《アニアヘテワガウツクシミイ》、天地乃(487)御心《アメツチノミコヽロ》令《シメ》2感動《カマケ》1末都流倍伎事波無止奈毛《マツルベキコトハナシトナモ》などあり、(いかでといふをも、いかでまさらむやとも、いかでまさらじともいふが如し、契冲が、文選阮元瑜爲2曹公(カ)1作v書(ヲ)與2孫權(ニ)1云、孤懷此心君豈同哉、註(ニ)呂延濟(カ)曰、豈同謂2豈不(ト)1v同也、とあるを引て、和漢共にかゝる例あるか、と厚顔抄に云たるはよし、)○奥島守《オキツシマモリ》(奥の下、類聚抄に津(ノ)字あり、)は、澳津島を守護《マモ》る人をいふことにて、こゝはただかりに設呼て問かくる意なり、(契冲が、神代紀を引て、瀛津島姫なりと云るは、もとめ過たり、)土左日記に、吾(ガ)髪の雪と磯邊の白浪と、いづれまされり奥津島守とあり、今の歌を拾遺集には、濱の眞砂と吾(ガ)戀といづれまされり、とかへて入(レ)り、(六帖に、終(ノ)句を、奥津白浪とせるは、誤りたるものなり、)○歌(ノ)意は、彌百日を經て行、はかりなき廣き海濱の眞砂の數も、吾(ガ)戀の數には、いかでまさるまじか、澳津島守よとなり、吾(ガ)戀は數《ヨム》とも盡じ荒磯海の、濱の沙は數《ヨミ》盡すとも、と云歌に似たり、
 
597 宇都蝉之《ウツセミノ》。人目乎繁見《ヒトメヲシゲミ》。石走《イシハシノ》。間近君爾《マヂカキキミニ》。戀度可聞《コヒワタルカモ》。
 
石走《イハバシ》は、石橋にて、間近をいはむ料なり、○歌(ノ)意は、世の人目の繁さに、間近き隣にある君に、相見る事も得せずして、長き月日を、戀しく思ひてのみ經渡る哉となり、古今集に、人しれぬおもひやな|そ《もノ誤》とあしかきの間近けれども逢よしのなき、
 
598 戀爾毛曾《コヒニモゾ》。人者死爲《ヒトハシニスル》。水瀬河《ミナセガハ》。下從吾痩《シタユワレヤス》。月日異《ツキニヒニケニ》。
 
(488)戀爾毛曾《コヒニモゾ》は、戀ゆゑにもぞといふなり、毛曾《モゾ》の辭に、かへりてといふ意を含めたるなり、戀といふものは、少《イサヽカ》のことぞとおもひおとしてありしが、中々に然らず、かへりておそろしきものなり、人の死《シニ》するものにしてあるぞとの意なり、○水瀬河《ミナセガハ》は、水無瀬《ミナセ》河なり、無(ノ)字は无ても、ミナセ〔三字右○〕とはよまるゝ故、略て書るなるべし、玉勝間(ニ)云、いにしへに、みなせ川といひしは、一つの川の名にはあらず、いづれにまれ、水のなき川といふことにて、あるは砂の下を水はとほりて、うはべに水なき川をも云り、萬葉四に、云々(此歌なり、)十一に、こちたくは中はよどませ水無河《ミナシカハ》、たゆとふことをありこすなゆめ、又うらぶれてものは思はじ、水無瀬《ミナセ》川、有ても水はゆくちふものを、古今集戀(ノ)二に、ことに出ていはぬばかりぞみなせ川下に通ひて戀しき物を、戀(ノ)五に、逢見ねば戀こそまされ水無瀬《ミナセ》川なにゝふかめて思ひそめけむ、又みなせ河有てゆく水なくばこそつひに我(ガ)身をたえぬと思はめなどある、皆其(ノ)意なり、萬葉十に、久かたの天のしるしと、水无《ミナシ》川、へだてゝおきし神代し恨めし、これは天の川を云るにて、まさしく水のなきよしなり、然るに右の歌どもを、皆河の名と心得たるはひがごとなり、(已上)右の歌どもによるときは、ミナセ〔三字右○〕、といふと、ミナシ〔三字右○〕といふと同じ事にて、セ〔右○〕はシ〔右○〕を通はし云るならむか○下從吾痩《シタユワレヤス》は、人しれず、裏にしのびて戀痩る意なり、○歌(ノ)意は、日々月々に、何故といふこと人しれず、裏にしのびて吾(ガ)身の衰(ヘ)痩行よ、かくては死(ヌ)より外のことなし、戀といふくせもの(489)は、少《》のことぞと、おもひおとしてありしかど、中々しからず、おそろしき物にてあるぞとなり、
 
599 朝霧之《アサギリノ》。鬱相見之《オホニアヒミシ》。人故爾《ヒトユヱニ》。命可死《イノチシヌベク》。戀渡鴨《コヒワタルカモ》。
 
朝霧之《アサギリノ》は、鬱《オホ》をいはむ料の枕詞なり、○人故爾《ヒトユヱニ》は、人なるものをの意なり、おぼろにのみ相見し人なるものをといふなり、○歌(ノ)意は、たゞおぼろにはつ/\相見し人なるものを、かゝればさほどのことはあらずと思ひしに、戀しく思ふ心に堪ずして、死ばかりに思はれて、月日を經渡ること哉となり、
 
600 伊勢海之《イセノウミノ》、磯毛動爾《イソモトヾロニ》。因流浪《ヨスルナミ》。恐人爾《カシコキヒトニ》。戀渡鴨《コヒワタルカモ》。
 
磯毛動爾《イソモトヾロニ》は、十四に、伊波毛等杼呂爾於都流美豆《イハモトドロニオツルミヅ》、六(ノ)卷に、佐保乃内爾遊事乎宮動動爾《サホノウチニアソビシコトヲミヤモトヾロニ》、又|山裳動※[向/音]爾左男鹿者妻呼令※[向/音]《ヤマモトヾロニサヲシカハツマヨビトヨメ》、十一に、瀧毛※[向/音]動二《タギモトヾロニ》、又|馬音之跡杼登毛爲者《ウマノトノトドトモスレバ》、十八に、佐刀毛等騰呂爾《サトモトドロニ》、古事記石屋戸(ノ)條に、伏《フセ》2※[さんずい+于]氣《ウケ》1而蹈登杼呂許志《テフミトドロコシ》、神代紀に、皷盪《トヾロキタヾヨヒ》など見ゆ、又催馬樂淺水に、安左牟川乃波之乃止々呂止々呂止不利之安女乃《アサムツノハシノトヾロトトヾロトフリシアメノ》、古今集に、天(ノ)原|蹈等杼呂可志《フミトドロカシ》鳴神も、源氏物語夕顔に、こほ/\と鳴神よりも、おどろ/\しく蹈とゞろかすから臼の音も、鴨(ノ)長明(ガ)海道記に、磯もとゞろによる浪は、水口かまびすしく、字鏡に、※[贅の貝が石](ハ)止々呂久《トヾロク》、閙※[門/丙]丙(ハ)三形同、止々呂久《トヾロク》、※[石+郎]※[石+盖](ハ)止々呂久《トヾロク》、※[馬三つ]|止々呂久《トヾロク》、吸※[石+我]|止々呂久《トヾロク》などあり、○因流浪《ヨスルナミ》、此までは序にて、磯も響《ヒヾ》き動き(490)てよする浪は、いとも恐きものなれば、恐《カシコキ》をいはむ料なり、○恐人《カシコキヒト》は、高貴人といふが如し、對ふ人を貴みて云るなり、七(ノ)卷に、寄v山、磐疊恐山常知管毛《イハタヽムカシコキヤマトシリツヽモ》、吾者戀香同等不有爾《アレハコフルカナソヘラナクニ》、これも高貴人を、恐(キ)山に寄たり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
601 從情毛《コヽロユモ》。吾者不念寸《アハモハザリキ》。山河毛《ヤマカハモ》。隔莫國《ヘダヽラナクニ》。如是戀常羽《カクコヒムトハ》。
 
山河毛《ヤマカハモ》は、山も河もなり、○寸《キ》は、さきにありしことを今かたるてにをはなり、○歌(ノ)意は、山も河も隔りて、遠き地にあらば、さもあるべきことなるに、さばかり遠く隔りたるにもあらねば、かくばかり戀しく思はむ物とは、心よりも思ひよらずどありけるとなり、此(ノ)下にも、上(ノ)二句おなじ歌あり、
 
602 暮去者《ユフサレバ》。物念益《モノモヒマサル》。見人乃《ミシヒトノ》。言問爲形《コトトフスガタ》。面景爲而《オモカゲニシテ》。
 
爲形《スガタ》は、容儀《スガタ》なり、○面景爲而《オモカゲニシテ》、(景(ノ)字、影と作る本もあり)爲而《シテ》は、其(ノ)事をうけはりて、他事なく物する意の時いふ詞なり、○歌(ノ)意は、相見し人の言問かはす容儀の面影に見えて、夕(ヘ)になれば、他事にまぎるゝすぢなく、いよ/\物思ひのまさるとなり、
 
603 念西《オモフニシ》。死爲物爾《シニスルモノニ》。有麻世波《アラマセバ》。千遍曾吾者《チタビゾワレハ》。死變益《シニカヘラマシ》。
 
死變益《シニカヘラマシ》は、いくたびも死々《シニ/\》せましとなり、變《カヘル》は、夢に夢にし見え還るらむなど云る、還るに同じくて、遍(ヒ)数の重ることなり、○歌(ノ)意は、もし物思をするに依て、死するものにてあるぞなら(491)ば、吾は千度も死々せましとなり、
 
604 釼太刀《ツルギタチ》。身爾取副常《ミニトリソフト》。夢見津《イメニミツ》。何如之怪曾毛《ナニノシルシソモ》。君爾相爲《キミニアハムタメ》。
 
怪は、シルシ〔三字右○〕と訓べし、いはゆる前表の義なり、十九に、從古昔无利之瑞多婢末禰久申多麻比奴《イニシヘヨナカリシシルシタビマネクマヲシタマヒヌ》、この瑞をシルシ〔三字右○〕とよめると同じ、又十七に、新年乃波自米爾豐乃登之《アラタシキトシノハジメニトヨノトシ》、思流須登奈良思雪思敷禮流波《シルストナラシユキシフレルハ》、允恭天皇(ノ)紀(ノ)歌に、和餓勢故餓句倍択豫臂奈利佐磋餓泥能《ワガセコガクベキヨヒナリササガネノ》、區茂能於虚奈比虚豫比辭流辭毛《クモノヲコナヒコヨヒシルシモ》、續紀九(ノ)卷詔に、大端物顯來理《オホキシルシノモノアラハレケリ》云々、今將嗣坐御世名乎記而《イマツギマサムミヨノナヲシルシテ》、應來顯來留物爾有良志止所念坐而《コタヘキタリアラハシキタルモノニアルラシトオモホシマシテ》云々、これらも、思流之《シルシ》てふ言の、はたらきたるものにて同じ、(舊本に、サトシ〔三字右○〕と訓しはたがへり、又略解に、さがとよみたるは、甚しきひがごとなり、さがは、前表をいふことにはあらざるをや)書紀には怪《シルマシ》ともあり、○歌(ノ)意は、契冲、さきに玉くしげひらきあけつと云るは、くしげ男女に通ずれども、まづは女の具なれば、わがおもひを人にしらするや、くしげを明るとゆめにみつと云り、太刀はをとこの具なれば、それを身にそふと見るは、まことにあふべきさとしなるべしと云り、下(ノ)句は、何の怪ぞと問を設て、君に逢むとてのしるしぞと自(ラ)答(ヘ)云なり、六帖に、打なびき獨し宿れば眞十鏡、取と夢見つ妹に逢むかも、
 
605 天地之《アメツチノ》。神理《カミシコトワリ》。無者社《ナクバコソ》。吾念君爾《ワガモフキミニ》。不相死爲目《アハズシニセメ》。
 
神理《カミシコトワリ》は、舒明天皇(ノ)紀に、天地神祇|共證之《コトワリタマヘ》、源氏物語明石に、今何のむくいにか、こゝらよこさま(492)なる浪風にはおぼれ賜はむ、天地ことわり賜へなどあり、神をカミシ〔三字右○〕と訓(ム)、そのシ〔右○〕は例のその一(ト)すぢなる意を思はせたる助辭なり、○歌(ノ)意は、天地の神祇の理なきものにてあらばこそ、吾(ガ)思ふ君にあふ事もなくして死(ニ)せめ、神祇の、ことわりなきものにしもあるべからねば、つひにはわが誠をつくして、祈るしるしありて、あふことのあらむぞ、と一(ト)すぢにたのもしく思ふぞとなり、
 
606 吾毛念《ワレモオモフ》。人毛莫忘《ヒトモナワスレ》。多奈利丹。浦吹風之《ウラフクカゼノ》。止時無有《ヤムトキナカレ》。
 
多奈和丹、(丹(ノ)字、拾穗本には爾と作り、契冲が、大繩なるべしと云るは叶ひがたし、假字もたがへり、)誤字なるべし、(本居氏は、旦爾祁丹の誤にて、アサニケニ〔五字右○〕ならむと云るは、字はしか混もしつべけれど、なほ浦吹風とあるをおもへば、地(ノ)名などにこそありつらめ、)此(ノ)歌六帖には、君もおもへ我も忘れじありそ海の、浦吹風の止時もなく、(後撰集には、吾も思ふ人も忘るな有磯海の云々とあり、)とあるを思へば、もと有曾海乃《アリソウミノ》などありしを、より/\に寫し誤れるにや、○歌(ノ)意は、吾も君を思ふぞ、人も吾を忘れ賜ふな、海の浦吹風のいつも/\止ざる如く、常に思ひ息(ミ)賜ふ事なかれとなり、
 
607 皆人乎《ヒトミナヲ》。宿與殿金者《ネヨトノカネハ》。打奈禮杼《ウツナレド》。君乎之念者《キミヲシモヘバ》。寐不勝鴨《イネガテヌカモ》。
 
皆人は、人皆とありしが、顛倒《イリチガヒ》たるなるべし、○宿與殿金《ネヨトノカネ》は、亥(ノ)刻の鐘にて、宿《ネ》よとての鐘《カネ》とい(493)ふなり、天武天皇(ノ)紀に、人定《ヰノトキ》とありて、亥の時には、人いね定《シヅ》まれば、かく云なり、陰陽式(ニ)云、諸時撃皷、子牛各九下、丑未八下、寅申七下、卯酉六下、辰戌五下、巳亥四下、並平聲鐘依2刻數1とあり、○打奈禮杼《ウツナレド》(奈(ノ)字、舊本には脱たり、類聚抄に從つ、)は、撃《ウチ》にてあれどと云如し、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
608 不相念《アヒオモハヌ》。人乎思者《ヒトヲオモフハ》。大寺之《オホテラノ》。餓鬼之後爾《ガキノシリヘニ》。額衝如《ヌカヅクゴトシ》。
 
念(ノ)字、拾穗本には思と作り、○餓鬼《ガキ》は、十六に、寺々之女餓鬼申久大神乃《テラ/”\ノメガキマヲサクオホミワノ》、男餓鬼被賜而其子將幡《ヲガキタバリテソノコウマハム》、仙覺(ガ)注(ニ)云、昔は大なる寺の堂舍には、餓鬼をつくりて、後戸の方なむどにおきけるなり、それを田舍人などは、堂舍巡禮してをがむとて、かの餓鬼をも、佛とおもひてをがみけるをば、はかなき事にしてわらひけるなり、さればあひ思はぬ人をおもふは、ゐなか人などの、彼(ノ)餓鬼のしりへにぬかづくがごとしとよめるなりと云り、○額衝如は、ヌカヅクゴトシ〔七字右○〕と訓べし、(ヌカヅクガゴト〔七字右○〕とよめるはわろし、)○歌(ノ)意は、佛を拜禮《ヲロガ》むこそ利益はあるべきに、よしなき餓鬼のしりへに至りて、額づきて恭敬《ウヤマハ》むは、なにの益なきが如く、相思はぬ人をおもふは、そのしるしなきことよといふ意なるべし、
 
609 從情毛《コヽロユモ》。我者不念寸《アハモハザリキ》。又更《マタサラニ》。吾故郷爾《ワガフルサトニ》。將還來者《カヘリコムトハ》。
 
故郷とは、左註に、相別後更來贈とあるに依て思ふに家特(ノ)卿の家に、女郎の近く來り住るが、(494)又故ありて、その舊地《モトノトコロ》へ別れかへりし後に、よみて贈れるなるべし、次の歌も其(ノ)心なり、故郷は、女郎が舊より住(ミ)し宅地《イヘトコロ》なり、(契冲が、さきの歌に、なら山の子松が下に立なげくとよめるをおもふに、そこにこひもしなずして、つれなく打廻の里の故郷まで、かへりこむとはおもはざりき、といふなるべしと云るは、まぎらはし、)○歌(ノ)意は、君のあたり近く來り住るが、又更に、故郷の方にわかれ行む物とは、心(ノ)裏よりも、誠にさはおもはず有けりとなり、
 
610 近有者《チカクアレバ》。雖不見在乎《ミネドモアルヲ》。彌遠《イヤトホニ》。君之伊座者《イキミガマサバ》。有不勝目《アリカテマシモ》。
 
雖不見在乎《ミネドモアルヲ》は、ちかしとおもふをたのみにて、あひみねども、さてもあらるゝをといふ意なり、○有不勝目(目、舊本自に誤、今改、)は、アリカテマシモ〔七字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、君が家に近くあれば、近しとおもふをたのみにて、相見ねども、さてもあらるゝを、故郷の方にわかれ行て、君に遠ざかりなば、一日片時もあるに得堪まじ、さても戀しやとなり、下、田村家之大孃(ノ)歌に、遠有者和備而毛有乎里近《トホカラバワビテモアラムヲサトチカク》、有常聞乍不見之爲便奈沙《アリトキヽツヽミヌガスベナサ》とあるは、今と表裏なり、
 
右二首《ミギノフタウタハ》。相別後更來贈《ワカレテノチマタオクレルナリ》。
 
大伴宿禰家持和歌二首《オホトモノスクネヤカモチガコタフルウタフタツ》。
 
611 今更《イマサラニ》。妹爾將相八《イモニアハメヤ》。跡念可聞《トオモヘカモ》。幾許吾※[匈/月]《コヽダワガムネ》。鬱悒將有《オホヽシカラム》。
 
歌(ノ)意は、かく相隔り居て、今更に逢べからじと念へばか、そこばくわが胸のいぶせくくるし(495)かるらむ、さてもせむすべなしやとなり、
 
612 中々爾《ナカ/\ニ》。黙毛有益呼《モダモアラマシヲ》。何爲跡香《ナニストカ》。相見始兼《アヒミソメケム》。不遂爾《トゲザラナクニ》。
 
中々爾《ナカ/\ニ》(爾(ノ)字、舊本者に誤れり、今は六條本に從つ、又拾穗本には煮と作り、)は、なまなかにと云が如し、○何爲跡香《ナニストカ》は、何とてかといふ意なり、○不遂爾(爾(ノ)字、舊本等に誤、古寫本拾穗本等に從つ、)は、トゲザラナクニ〔七字右○〕と訓べし、遂ぬことなるにの意なり、ナク〔二字右○〕は輕く添たる辭にて、家待莫國《イヘマタナクニ》など云る類なり、○歌(ノ)意は、なまなかに黙《モダ》して止べかりしを、未遂もせぬに、何とて相見そめけむ事を、はじめより相見ずあらば、かゝるくるしき物思ひはせざらましものをとなり、十二に中々黙然毛有申尾小豆無《ナカ/\ニモダモアラマシヲアヂキナク》、相見始而毛吾者戀香《アヒミソメテモアレハコフルカ》、
 
山口女王《ヤマクチノオホキミノ》贈《オクリタマヘル》2大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチニ》1歌五首《ウタイツヽ》。
 
山口(ノ)女王は、傳未(ダ)詳ならず、
 
613 物念跡《モノモフト》。人爾不見常《ヒトニミエジト》。奈麻強《ナマシヒニ》。常念弊利《ツネニオモヘド》。有曾金津流《アリソカネツル》。
 
奈麻強《ナマシヒ》は、なま/\に強てといふ意の言なり、奈麻《ナマ》は、後(ノ)世、生公達《ナマキムタチ》などいふ生なるべし、其(ノ)心はあれども、その眞の地に至らざるをいふことにて、強て爲る心はあれども、猶得|強《シヒ》遂(ゲ)ざるを、生強《ナマシヒ》と云るにて、草率《カリソメ》といふにも似たる詞なり、躬恒家集に、あらたまの年の四とせをなま強に、身をすてがたみわびつゝぞすむとあり、草率《カリソメ》に身を捨がたみ、といふ意に通ひて(496)聞ゆるなり、(からふみにて、〓(ノ)字をナマシヒ〔四字右○〕と訓り、〓(ハ)且也と註せり、且は苟且とつらねて、苟且(ハ)草率《カリソメ》也と註せるをも考べし、)○歌(ノ)意は、物念ふと人目には見えじ、と常々おもへども、なまなまに強たる事にては、さはありえがたしとなり、又|草率《カリソメ》にさはありえがたし、といふ意に見ても通ゆ、三四の句は、置倒《オキカヘ》て意得べし、
 
614 不相念《アヒオモハヌ》。人乎也本名《ヒトヲヤモトナ》。白細之《シロタヘノ》。袖漬左右二《ソデヒヅマデニ》。哭耳四泣裳《ネノミシナカモ》。
 
哭耳四泣裳《ネノミシナカモ》は、哭《ネ》にのみ沈むといふなり、四《シ》は、その一(ト)すぢをおもくいふ助辭、裳《モ》は牟《ム》と通(ヘ)り、八(ノ)卷に、高山之《タカヤマノ》云々|消跡可曰毛《ケヌトカイハモ》、十二に、人目多《ヒトメオホミ》云々|誰名將有裳《タガナニカアラモ》、十四に、可美都氣奴《カミツケヌ》云々|伊麻波伊可爾世母《イマハイカニセモ》、十九に、吾耳《ワレノミシ》云々|伊去鳴爾毛《イユキナケヤモ》、廿(ノ)卷に、余曾爾能美美弖夜和多良毛《ヨソニノミミテヤワタラモ》、千載集四に、人もがな見せもきかせも芽子花咲夕かげの日ぐらしの聲、などあり、○歌(ノ)意は、互に思はぬ人を、此方より片思(ヒ)にむざ/\思ひて、袖のひたるばかりに、一(ト)すぢにおもく、哭にのみ泣つつあらむかとなり、
 
615 吾背子者《ワガセコハ》。不相念跡裳《アヒモハズトモ》。敷細乃《シキタヘノ》。君之枕者《キミガマクラハ》。夢爾見乞《イメニミエコソ》。
 
爾見を、元暦本には所見と作り、こはいづれにもあるべし、○歌(ノ)意は、よしや吾(カ)夫子は、吾(ガ)思ふ如く、互に思はずとも、せめて君が枕を交(ハ)して宿るといふ事の、夢にだに見えよかしとなり、
 
616 釼太刀《ツルギタチ》。名惜雲《ナノヲシケクモ》。吾者無《アレハナシ》。君爾不相而《キミニアハズテ》。年之經去禮者《トシノヘヌレバ》。
 
(497)釼太刀《ツルギタチ》は、名《ナ》の枕詞なり、契冲云、かたなには、其(ノ)鍛冶の名をゑりつくるゆゑに、名といはむとて、つるぎたちと云り、今按(フ)に、刀(ノ)刃を、奈《ナ》といひけるにや、(奈《ナ》と云所由は、薙《ナグ》意にてもやあらむ、多知《タチ》といふも、斷《ダチ》の意、又|都留岐《ツルギ》の岐《ギ》も、刈《カリ》の意なるを思へ、)可多那《カタナ》といふも、片刃の義と聞えたり、※[金+斯]《カナ》、鉈《ナタ》ど云る如き奈《ナ》も、刃を云なるべし、(斧《ヲノ》、鑿《ノミ》など云(フ)も、通音なるべし、)さらば釼刀の刃といふ意に、名に、屬(ケ)たるなるべし、○惜雲《ヲシケクモ》は、惜き事もと云が如し、○歌(ノ)意は、君に得あはずして年の經にたれば、嗚呼くるしや、今は立名の惜きことなく、人目憚らしきこともなし、色に顯はして戀むぞとなり、
 
617 從蘆邊《アシヘヨリ》。滿來鹽乃《ミチクルシホノ》。彌益荷《イヤマシニ》。念歟君之《オモヘカキミガ》。忘金鶴《ワスレカネツル》。
 
從蘆邊《アシヘヨリ》は、蘆邊にといふが如し、從《ヨリ》は、例の爾《ニ》と通へる從《ヨリ》なり、○念歟君之《オモヘカキミガ》は、念へばにや、君をの意なり、君をといふこゝろを、君之《キミガ》と云は古言の例なり、○歌(ノ)意、本(ノ)二句は序にて、日々月々に、いよ/\心のまさりて思へばにや、君をしばしは、忘れむと思へども、得忘れぬとなり、十二に、湖轉爾滿來鹽能彌益二《ミナトミニミチクルシホノイヤマシニ》、戀者雖剰《コヒハマサレド》、不所忘鴨《ワスラエヌカモ》、十三に、朝奈祇爾滿來鹽之《アサナギニミチクルシホノ》云々|彼鹽乃伊夜益舛二《ソノシホノイヤマスマスニ》、新撰萬葉に、自葦間滿來潮之彌増丹《アシマヨリミチクルシホノイヤマシニ》、思増鞆不飽君※[金+色]《オモヒマセドモアカヌキミカナ》、六帖にも同じこと見えて、尾句あはぬ君かなとあり、伊勢物語には、あしへよりみちくる鹽のいやましに君に心をおもひますかな、とあり、
 
(498)大神郎女《オホミワノイラツメガ》。贈《オクレル》2大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
大神(ノ)郎女は、傳未(タ)詳ならず、續紀に、寶字四年正月癸未、大神(ノ)朝臣|妹《イモ》、神護元年正月己亥、大神(ノ)朝臣|伊毛《イモ》、また寶字五年三月戊申、賜2從六位下大神(ノ)東女等十六人(ニ)、播磨(ノ)國(ノ)稻人(コトニ)六百束(ヲ)1、優2高年(ヲ)1也とあり、此等の人ならむか、
 
618 狹夜中爾《サヨナカニ》。友喚千鳥《トモヨブチドリ》。物念跡《モノモフト》。和備居時二《ワビヲルトキニ》。鳴乍本名《ナキツヽモトナ》。
 
和備《ワビ》は、本居氏|爲方《セムカタ》なくして、さしせまりたる意なりと云り、此(ノ)下に、和備染責跡《ワビシミセムト》、又|今者吾羽和備曾四二結類《イマハアハワビソシニケル》、又|大夫之思和備乍《マスラヲノオモヒワビツヽ》、又|念絶和備西物尾《オモヒタエワビニシモノヲ》、又|遠有者和備而毛有乎《トホカラバワビテモアラム》、十(ノ)卷に、奈何牡鹿之和備鳴爲成《ナソシカノワビナキスナル》、十一に、里遠戀和備爾家里《サトトホミコヒワビニケリ》、十二に、我故爾痛勿和備曾《アガユヱニイタクナワビソ》、又|國遠見念勿和備曾《クニトホミオモヒナワビソ》、古事記上に、須勢理毘賣(ノ)命甚爲(タマヒキ)2嫉妬1、故(レ)其日子遲(ノ)神|和備弖《ワビテ》云々、續紀光仁天皇の、藤原(ノ)永手(ノ)大臣を悼(ミ)賜へる詔に、言牟須倍母無爲牟須倍母不知爾《イハムスベモナクセムスベモシラニ》、悔備賜比和備賜《クヤシビタマヒワビタマフ》、倭姫(ノ)世紀に、宮處覓侘賜比天《ミヤドコロマギワビタマヒテ》、其處乎《ソコヲ》、和比野止號支《ワビヌトナヅケキ》、新撰萬葉に、鶯之陬之花哉散沼濫《ウグヒスノスミカノハナヤチリヌラム》、侘敷音丹折蠅手鳴《ワビシキコヱニヲリハヘテナク》、蛻蝉之侘敷物者夏草之《ウツセミノワビシキモノハナツクサノ》、露丹懸禮留身丹許曾阿里藝禮《ツユニカヽレルミニコソアリケレ》などあり、○鳴乍本名《ナキツヽモトナ》は、本名鳴乍《モトナナキツヽ》と云が如し、○歌(ノ)意は、物思(ヒ)爲るとて、爲方なくさしせまりて、うか/\としてをる時、友よぶ千鳥の、心なくむさ/\鳴つゝ、あはれを催さしめて、いよ/\物を思はしむとなり、十(ノ)卷に、詠v蝉、黙然毛將有時母鳴奈式日晩乃物念時爾鳴乍本名《モダモアラムトキモナカナムヒグラシノモノモフトキニナキツヽモトナ》、とあるが如し、
 
(499)大伴坂上郎女《オホトモノサカノヘノイラツメガ》。怨恨歌一首并短歌《ウラミノウタヒトツマタミジカウタ》。
 
619 押照《オシテル》。難波乃菅之《ナニハノスゲノ》。根毛許呂爾《ネモコロニ》。君之聞四乎《キミガキコシテ》。年深《トシフカク》。長四云者《ナガクシイヘバ》。眞十鏡《マソカヾミ》。磨師情乎《トギシコヽロヲ》。縱手師《ユルシテシ》。其日之極《ソノヒノキハミ》。浪之共《ナミノムタ》。靡珠藻乃《ナビクタマモノ》。云云《カニカクニ》。意者不持《コヽロハモタズ》。大船乃《オホフネノ》。憑有時丹《タノメルトキニ》。千磐破《チハヤブル》。神哉將離《カミヤサケヽム》。空蝉乃《ウツセミノ》。人歟禁良武《ヒトカサフラム》。通爲《カヨハシヽ》。君毛不來座《キミモキマサズ》。玉梓之《タマヅサノ》。使母不所見《ツカヒモミエズ》。成奴禮婆《ナリヌレバ》。痛毛爲便無三《ウタモスベナミ》。夜干玉乃《ヌバタマノ》。夜者須我良爾《ヨルハスガラニ》。赤羅引《アカラビク》。日母至闇《ヒモクルヽマデ》。雖嘆《ナゲヽドモ》。知師乎無三《シルシヲナミ》。雖念《オモヘドモ》。田付乎白二《タツキヲシラニ》。幼婦當《タワヤメト》。言雲知久《イハクモシルク》。手小童之《タワラハノ》。哭耳泣管《ネノミナキツヽ》。俳※[人偏+回]《タモトホリ》。君之使乎《キミガツカヒヲ》。待八兼手六《マチヤカネテム》。
 
初二句は、根《ネ》をいはむ料の序なり、○根毛許呂爾《ネモコロニ》は、懇切《ネモコロ》になり、既く出て具(ク)云り、○君之聞四手《キミガキコシテ》(手を、舊本乎に誤、今改、)は、君が詔《ノタマヒ》てといふ意なり、十二に、空言毛將相跡令聞戀之名種爾《ムナコトモアハムトキコセコヒノナグサニ》、又不知二五寸許瀬余名告奈《イザトヲキコセワガナノラスナ》、十三に、莫寢等母寸巨勢友《ナイネソトハヽキコセドモ》、廿(ノ)卷に、和我勢故之可久志伎許散婆《ワガセコシカクシキコサバ》、古事記上沼河日賣(ノ)歌に、阿夜爾那古斐伎許志《アヤニナコヒキコシ》、下八田(ノ)若郎女(ノ)御歌に、意富伎美斯與斯登伎許佐婆《オホキミシヨシトキコサバ》、書紀仁徳天皇(ノ)大御歌に、飫朋呂伽珥枳許瑳怒《オホロカニキコサヌ》、これら伎許須《キコス》は、みな詔(ヒ)と云ことなり、本居氏云、伎許須《キコス》は、人の言て我に令v聞意より云るなり、然れども其(ノ)言(フ)人を、尊みて云ときならでは、いはぬ言なり、又中昔の物語文などに、申すと云べきを、聞ゆと云ること常多し、それは尊む人に申すをのみ云り、されば古言の伎許須《キコス》とは、つかひざま表裏のたがひなり、今の人は、古言(500)雅言のつかひざまをしらず、きこすと、きこゆとをも、一(ツ)にこゝろえ、又人の己(レ)にむかひて言(フ)ことをきこゆと云など、いたくひがことなり、○年深《トシフカク》は、三(ノ)卷に、昔見之舊堤者年深《ムカシミシフルキツヽミハトシフカミ》、池之瀲爾水草生家里《イケノナギサニミクサオヒニケリ》、十九に、磯上之都萬麻乎見者根乎延而《イソノヘノツママヲミレバネヲハヘテ》、年深有之神佐備爾家里《トシフカヽラシカミサビニケリ》、などあるに同じ、こゝは今より行さきの、久しく長きをかねていふなり、○眞十鏡《マソカヾミ》は、磨《トグ》の枕詞なり、○磨師情《トギシコヽロ》とは、磨すましたる赤心をいふ、○縱手師《ユルシテシ》は、契冲云、下にいたりて、おなじ郎女の歌に、まそかがみとぎし心をゆるしてば、後にいふともしるしあらめや、又此(ノ)集に、あづさ弓引てゆるさずあらませば、かゝる戀にはあはざらましを、所詮この心なり、今案に、縱《ユルス》とは、かにもかくにも君が縱《マヽ》に、と委《ユダ》ね任《マカ》す意なり、○其日之極《ソノヒノキハミ》は、其(ノ)目よりして已來《コノカタ》といはむが如し、○浪之共《ナミノムタ》は、浪と共にといふなり、既く二(ノ)卷に出て具(ク)注り、○靡玉藻乃《ナビクタマモノ》は、かにかくにといはむ料なり、○云云意者不特《カニカクニコヽロハモタズ》は、かにかくに物は思はずひだ人の、打墨繩の直一道に、と云る意なり、○神哉將離《カミヤサケケム》は、神の御所爲《ミシワザ》にて、吾(ガ)中を離しめけむかの意なり、相(フ)も離(ル)も、神の事依(シ)によることなれば、神にかけて恨る意なり、十九悲2傷死妻(ヲ)1歌に、天地之神者無可禮也愛吾妻離流《アメツチノカミハナカレヤウツクシキワガツマサカル》云々|倭文幣乎手爾取持而勿離等和禮波雖?《シツヌサヲテニトリモチテナサケソトワレハノマメド》、などあるをも、考(ヘ)合(ス)べし、○人歟禁良武《ヒトカサフラム》は、人のさゝふらむかといふなり、かにかくに讒言《ヨコシマゴト》などいひ、吾(ガ)中を離しむるを禁《サフ》といへり、禁《サフ》は、廿(ノ)卷に、佐弁奈弁奴美許登爾阿禮婆《サヘナヘヌミコトニアレバ》とある、佐弁《サヘ》に同じ、○通爲は、(拾穗本には爲の下に、之(ノ)字あり、)カヨハ(501)シヽ〔五字右○〕ゝと訓べし、(カヨハセル〔五字右○〕とよめるはわろし、)通給ひしと云むが如し、○夜者須我良爾《ヨルハスガラニ》は、終夜にといふなり、十三に、赤根刺晝者終爾《アカネサスヒルハシミラニ》、野干玉之夜者須柄爾《ヌバタマノヨルハスガラニ》、此床乃比師跡鳴左右嘆鶴鴨《コノトコノヒシトナルマデナゲキツルカモ》、又|赤根刺日者之彌良爾《アカネサスヒルハシミラニ》、烏玉之夜者酢辛二《ヌバタマノヨルハスガラニ》、眠不睡爾妹戀丹《イモネズニイモニコフルニ》、生流爲便無《イケルスベナシ》、十九に、赤根刺晝波之賣良爾《アカネサスヒルハシメラニ》云々|夜干玉之夜者須我良爾《ヌバタマノヨルハスガラニ》などあり、○赤羅引《アカラビク》は、赤根刺《アカネサス》といふに同じく、日の枕詞なり、羅《ラ》は徒《タヾ》に添たる辭なり、引《ヒク》は借(リ)字にて、光《ヒカル》なるべし、可流《カルノ》切|久《ク》なればなり、されば赤光《アカヒカル》日《ヒ》と云繋たるなり、十(ノ)卷に、赤羅引色妙子《アカラビクシキタヘノコ》、十一に、朱引朝行公待苦《アカラビクアサユクキミヲマタバクルシミ》、又|朱引秦不經雖寐《アカラビクハダモフレズテネタレドモ》などあり、○田付乎白二《タヅキヲシラニ》は、手著《タヅキ》を不知《シラズ》になり、○言雲知久《イハクモシルク》は、いふ事もいちじるくといふ意なり、○手小童之《タワラハノ》は、二(ノ)卷に、古之嫗爾爲而也如此許《フリニシオミナニシテヤカクバカリ》、戀爾將沈如手童兒《コヒニシヅマムタワラハノゴト》、こゝは三(ノ)卷に、若子之匍匐多毛登保里朝夕《ワカキコノハヒタモトホリアサヨヒニ》、哭耳吾泣君無二四天《ネノミゾアガナクキミナシニシテ》、とある意のいひつゞけなり、○俳※[人偏+回]《タモトホリ》は、たちもとほりといふに同じ、十一に、木間從移歴月之影惜《コノマヨリウツロフツキノカゲヲヲシミ》、徘※[人偏+回]爾左夜深去家里《タチモトホルニサヨフケニケリ》とあり、又|徘※[人偏+回]往箕之里爾《タモトホリユキミノサトニ》、字鏡に、※[人偏+回]穴(ハ)太知毛止保留《タチモトホル》などあり、○待八兼手六《マチヤカネテム》は、待(テ)ど待得ずてあらむかの意なり、○歌(ノ)意は、はじめ君が、いつまでもかはらじ、と懇切にのたまひしゆゑに、一(ト)すぢに思ひたのみて在(ル)ときに、神の御所爲《ミシウザ》によりてかくありしか、世(ノ)人の讒言によりてかくありしか、君も來座ず、使も見えずなりぬれば、せむすべなさに、晝夜思ひ歎けども、其(ノ)かひなくして、めゝしき女ぞといふ事の、人目にもいちしるきばかりに、哭にのみ泣つゝ立もとほり、使の來るを待(テ)(502)ど、待得ずてあらむかとなり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
620 從元《ハジメヨリ》。長謂管《ナガクイヒツヽ》。不令恃者《タノメズハ》。如是念二《カヽルオモヒニ》。相益物歟《アハマシモノカ》。
 
不令恃者《タノメズハ》(令(ノ)字、舊本に念と作るは誤、古寫一本に從つ、)は、たのましめずはといふ心なり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
西海道節度使判官佐伯宿禰東人妻《ニシノウミツヂノセドシノマツリゴトヒトサヘキノスクネアヅマヒトノメガ》。贈《オクレル》2夫君《セノキミニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
東人は、續紀に、天平四年八月丁酉、西海道節度使(ノ)判官佐伯(ノ)宿禰東人(ニ)授2外從五位下(ヲ)1、とあり、
 
621 無間《アヒダナク》。戀爾可有牟《コフレニカアラム》。草枕《クサマクラ》。客有公之《タビナルキミガ》。夢爾之所見《イメニシミユル》。
 
戀爾可有牟《コフレニカアラム》は、戀ればにやあらむの意なり、○歌(ノ)意は、旅におはします夫(ノ)君が、さだかに夢にまで見ゆるは、間なく一(ト)すぢに戀しく思へばにやあらむとなり、
 
佐伯宿禰東人和歌一首《サヘキノスクネアヅマヒトガコタフルウタヒトツ》。
 
622 草枕《クサマクラ》。客爾久《タビニヒサシク》。成宿者《ナリヌレバ》。汝乎社念《ナヲコソオモヘ》。莫戀吾妹《ナコヒソワギモ》。
 
汝乎社念《ナヲコソオモヘ》は、吾こそ汝をおもへといふなり、○歌(ノ)意は、旅にありて久しく相見ずあれは、吾こそ汝を思ふ事の甚しけれ、されば吾(ガ)思ふほど、汝は吾と思ふまじければ、汝のみ吾を戀しく思ふとはいふことなかれ、吾妹よとなり、
 
(503)池邊王宴誦歌一首《イケベノオホキミノウタゲニウタヒタマヘルウタヒトツ》。
池邊(ノ)王は、續紀に、神龜四年正月庚子、無位池邊(ノ)王(ニ)授2從五位下(ヲ)1、天平九年十二月壬戊、爲2内匠(ノ)頭(ト)1と有、又延暦四年七月庚戌、淡海(ノ)眞人三船卒、三船(ハ)、大友、(ノ)親王之曾孫也、祖(ハ)葛野(ノ)王正四位上式部(ノ)卿、父(ハ)池邊(ノ)王從五位上内匠(ノ)頭と見えたり、
 
623 松之葉爾《マツノハニ》。月者由移去《ツキハユツリヌ》。黄葉乃《モミチバノ》。過哉君之《スギシヤキミガ》。不相夜多烏《アハヌヨオホミ》。
 
由移去《ユツリヌ》は、十一に、眞素鏡清月夜之湯徙去者《マソカヾミキヨキツクヨノユツリナバ》、又|烏玉乃夜渡月之湯徙去者《ヌバタマノヨワタルツキノユツリナバ》、十四に、安麻乃波良不自能之婆夜麻己能久禮能《アマノハラフジノシバヤマコノクレノ》、等伎由都利奈波阿波受可母安良牟《トキユツリナバアハズカモアラム》などあり、言(ノ)意は、由《ユ》は依《ヨリ》にて、(ヨリ〔二字右○〕をユ〔右○〕といふは、從《ヨリ》をもユ〔右○〕といふと同例なり、)彼處《カシコ》のものゝ、此處《ココ》に依(リ)て移る由なり、○黄葉乃《モミチバノ》は、過《スギ》の枕詞なり、○過哉《スギシヤ》は、不v相夜の、多く過しやといふこゝろなり、多烏《オホミ》の下へうつして意得べし、○君之不相《キミガアハヌ》は、君にあはぬといふべきやうの處を、かく君之《キミガ》と云るは雅言の格なり、そは君と吾と相遇をいふときは、君がといひ、此方に設て遇を、君にといふなり、君之《キミガ》といふときは、君が方より遇意なればなり、既く二(ノ)卷に具(ク)注り、○多烏《オホミ》、(烏(ノ)字、元暦本、拾穗本等には焉と作り、舊本には鳥に誤、今は古寫本に從つ、)多《オホ》うと云むが如し、○歌(ノ)意は、月影にて時日の經來《ヘキタ》りしをはかるにて、月影のこゝの松(ノ)葉に移りぬ、これにてみれば、君と相見ぬ夜の、多く過にしにやあらむとなり、(たとへば、去し月相見たる時に、こゝの松の葉に月影のうつ(504)りてありしが、その後遠ざかりて居しに、又彼(ノ)相見し時の如く、月影のうつりたるを、見れば、その別れてよりこの方、久しくなれるよと驚くよしなり、契冲が、もみち葉にうつりし月影の、松の葉にのみうつるをみれば、君にあはぬ夜もおほく、もみち葉の散過る如く、過ぬとなりと云るは、むつかし、又略解に、松を待に云なせりと云るもわろし、さる意はさらになし、)
 
萬葉集古義四卷之上 終
 
(505)萬葉集古義四卷之下
 
天皇《スメラミコトノ》思《シヌハシテ》2酒人女王《サカヒトノオホキミヲ》1御製歌一首《ミヨミマセルオホミウタヒトツ》。
 
天皇は、聖武天皇なり、○酒人(ノ)女王は、元暦本古寫本給穗本等に、女王者穗積(ノ)皇子之孫女也と註せり、又續紀に、寶龜元年十一月己未朔甲子、授2從四位下酒人(ノ)内親王(ニ)三品(ヲ)1、三年十一月己丑、以2酒人(ノ)内親王(ヲ)1爲2伊勢(ノ)齋《イツキト》1、權(ニ)居2春日(ノ)齋(ノ)宮(ニ)1、と見ゆ、もしはこの皇女にてもやあらむ、此は光仁天皇の皇女なり、(併しこゝに女王と云るは、其(ノ)ころ光仁天皇、いまだ白壁(ノ)王と申(ス)にて、おはしましける故なるべし、)猶考(フ)べし、
 
624 道相而《ミチニアヒテ》。咲之柄爾《ヱマシシカラニ》。零雪乃《フルユキノ》。消者消香二《ケナバケヌガニ》。戀云吾妹《コヒモフワギモ》。
 
咲之柄爾《ヱマシシカラニ》は、咲《ヱマシ》し故にと云が如し、咲(ミ)賜ひし物をの意なり七(ノ)卷に、道邊之草深由利乃花咲爾咲之柄二妻常可云也《ミチノベノクサフカユリノハナヱミニヱマシシカラニツマトイフベシヤ》、とあるに同じ、○零雪乃《フルユキノ》は、消《キユ》の枕詞なり、八(ノ)卷に、零雪之消跡可曰毛戀乃繁鷄鳩《フルユキノケヌトカイハモコヒノシゲケク》、又|沫雪之可消物乎《アワユキノケヌベキモノヲ》、十(ノ)卷に、一眼見之人爾戀良久天霧之《ヒトメミシヒトニコフラクアマギラシ》、零來雪之可消所念《フリクルユキノケヌベクオモホユ》、又|天霧相零來雪之消友《アマギラヒフリクルユキノケナメドモ》、又|落雪之消長戀師《フルユキノケナガクコヒシ》などあり、○消者消香二《ケナバケヌガニ》は、身も消失なば、消失なむばか(506)りにといふなり、○戀云吾妹は、云は念の誤にて、コヒモフワギモ〔七字右○〕なるべし、と本居氏云り、吾妹は、吾妹よと云むが如し、○大御歌(ノ)意は、道に行あひて咲(ミ)賜ひしのみにて、女王の下心には、いかにおもほすらむも知ぬ物を吾(ガ)身も消失なば、消失なむばかりに、戀しく思ふぞ吾妹よとなり、
 
高安王《タカヤスノオホキミノ》。裹鮒《ツヽメルフナヲ》贈《オクリタマヘル》2娘子《ヲトメニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
高安(ノ)王は、上に出つ、元暦本古寫一本等に、高安(ノ)王者、後賜2姓大原(ノ)眞人氏(ヲ)1也と注《イヘ》り、
 
625 奥幣往《オキヘユキ》。邊去伊麻夜《ヘニユキイマヤ》。爲妹《イモガタメ》。吾漁有《ワガスナドレル》。藻臥束鮒《モフシツカフナ》。
 
奥幣往邊云《オキヘユキヘニユキ》(幣(ノ)字、拾穗本には※[敝/犬]と作り、幣《ヘ》は方《ヘ》なり)は、鮒を漁(リ)し勤勞《イタヅキ》を云なり、○伊麻夜《イマヤ》は、今哉《イマヤ》なり、哉《ヤ》は、疑の也《ヤ》にあらず、與《ヨ》といはむが如し、集中に、天知也《アメシルヤ》、高知也《タカシルヤ》、恐哉《カシコキヤ》、慨哉《ウレタキヤ》などいひ、古今集に、ほとゝぎす鳴や五月の菖蒲草、などある哉《ヤ》に同じかるべし、(又思ふに、夜は、叙(ノ)字の誤にてもあ、るべし、イマゾ〔三字右○〕とあらむは、なほ穩なり、)○藻臥束鮒《モフシツカフナ》は、契冲云、鮒《フナ》は藻にふす物なれば、もふしと云、手一(ト)つかねばかりあれば、つか鮒と云り、日本紀に、握の字をもつかとよめり、(但し手一束ばかりあればと云るは、いさゝかわろし、鮒はなほ大なるもあれど、その一(ト)握ばかりなるを云なるをや、本居氏云、田中(ノ)道麻呂云、藻臥束鮒は、誰もたゞ藻にかくれたる鮒、と心得たるめれども、若(シ)は河内國志紀(ノ)郡裳伏の地より、産《イヅ》るよしにはあらじか、)○歌(ノ)意は、或は(507)河の奥にゆき、或は邊にゆき、いろ/\にいたづきて、妹が爲に、からうして漁り得し此(ノ)鮒なれば、大かたに思ひて食ことなかれとなり、人に物を贈るに、吾(ガ)身の功勞をいひて、まことの情を示せるは、古人の心なり、後(ノ)世のならはしとは、表裏のたがひなり、
 
八代女王《ヤシロノオホキミノ》獻《タテマツラセル》2天皇《スメラミコトニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
八代(ノ)女王は、續紀に、天平九年二月戊午、授2无位矢代(ノ)女王(ニ)正五位下(ヲ)1寶字二年十二月丙午、毀2從四位下矢代(ノ)女王(ノ)位記(ヲ)1、以d被v幸2先帝(ニ)1而改uv志(ヲ)也とあり、
君爾因《キミニヨリ》。言之繁乎《コトノシゲキヲ》。古郷之《フルサトノ》。明日香乃河爾《アスカノカハニ》。潔身爲爾去《ミソギシニユク》。
 
626 古郷之《フルサトノ》と云るは、奈良へ都を遷されし後、明日香は古郷なればなり、六(ノ)卷に、古郷之飛鳥者雖有青丹吉《フルサトノフスカハアレドアヲニヨシ》、平城之明日香乎見樂思好裳《ナラノアスカヲミラクシヨシモ》、三(ノ)卷に、吾背子我古家乃里之明日香庭《ワガセコガフルヘノサトノアスカニハ》などあり、○潔身《ミソギ》は、三(ノ)卷に具(ク)註(ヘ)り、○歌(ノ)意は、君ゆゑに、人言の繁き穢に觸たるによりて、そを清め祓はむが爲に、飛鳥河に潔身しに行となり、○此(ノ)歌六帖には、第二(ノ)句、言のしげさにとて載たり、舊本に、一尾(ニ)云龍田超三津之濱邊爾潔身四二由久と注せり、(大和物語に、津(ノ)國の難波のわたりに、家してすむ人ありけり云々、いかで難波にはらへしがてら、まからむといひければ云々、)
 
佐伯宿禰赤麻呂《サヘキノスクネアカマロガ》。贈《オクレル》2娘子《ヲトメニ》1〔三字それぞれ○で囲む〕歌一首《ウタヒトツ》。
 
赤麻呂は、三(ノ)卷に出づ、○此一首題詞とも、舊本、下大伴(ノ)四綱(カ)宴席(ノ)歌の次に入(レ)るは、混亂《ミダ》れしな(508)り、今改て此間に收《イレ》つ、
 
630 初花之《ハツハナノ》。可散物乎《チルベキモノヲ》。人事乃《ヒトゴトノ》。繁爾因而《シゲキニヨリテ》。止息比者鴨《ヨドムコロカモ》。
 
歌(ノ)意は、うつくしき初花の、よそにちりぬべきものを、とはおもひながら、人のものいひのしげきをはゞかりて、行て手折も來ず、よどみて居るころかなと云て、思ふ女の、他方に依む事もやと思ふをよせて、惜(ミ)歎きてよめるなり、(契冲が、初花といへど、日をふればちるごとく、人のさかりもほどなきものを、といふをよせて云り、と云るはわろし、又略解に、女の家に花の木あるが、今は散らむとおもへど、人目の憚ありて、とゞまれるかと云れど、さにてもあらじ、)
 
娘子《ヲトメガ》報2贈《コタフル》佐伯宿禰赤麻呂《サヘキノスクネアカマロ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
627 吾手本《ワガタモト》。將卷跡念牟《マカトモハム》。大夫者《マスラヲハ》。戀水定《ナミダニシヅミ》。白髪生二有《シラガオヒニタリ》。
 
將卷《マカム》は、將v纏にて、身に親く著るを纏と云り、手を纏(ク)、枕を纏(ク)などいふ纏(ク)なり、○戀水定《ナミダニシヅミ》は、戀水は、今の歌の義を以て、ナミダ〔三字右○〕とよませたり、定《シヅミ》は沈《シヅミ》なり、安定《シヅマル》義の字を借(リ)て書な、○白髪生二有は、白髪は、字鏡に、※[髪の友が票]|志良加《シラガ》とあり、生二有は、オヒニケリ〔五字右○〕と訓べし、(オヒニタリ〔五字右○〕とよむはわろし、)有在などの字を、ケリ、ケル〔四字右○〕とよめること、七(ノ)卷に、我衣《ワガコロモ》云々|黄葉爲在《モミチシテケリ》、十(ノ)卷に、誰苑之《タガソノノ》云々開有可毛《サキニケルカモ》、又|零雪《フルユキノ》云々|月經在《ツキハヘニケリ》、又|暮去者《ユフサレバ》云々|雪曾零有《ユキゾフリケル》、十一に、世中《ヨノナカノ》云々|猶戀在《ナホコヒニケリ》、また石尚《イハホスラ》云々(509)後悔在《ノチクヒニケリ》、また言出《コトニデヽ》云々|塞耐在《セカヘタリケリ》、また行々《ユケド/\》云々|沾在哉《ヌレニケルカモ》、また是川《コノカハノ》云々|乘在鴨《ノリニケルカモ》、また大土《オホツチモ》云々|戀在《コヒニケリ》、また軸振《ソデフルガ》云々|隱在《カクレタリケリ》などあり、○歌(ノ)意は、君丈夫は、吾(ガ)身を初花によそへて、吾(ガ)袂を纏むとおもはすらむを、吾は君を思ふ涙にしづみ、白髪さへ生て、いたく老衰へにけり、花にたとへて云ば、萎《シホ》みはてゝ今は見所なければ、手折べき人もなきが如し、然あるものを、さおもほしめさむは、そのかひあらじとなり、本居氏云、此(ノ)歌は三一二四五、と句をついでゝ見るなり、さて四(ノ)句の頭へ、我はと云ことを添て心得べし、
 
佐伯宿禰赤麻呂和謌一首《サヘキノスクネアカマロガコタフルウタヒトツ》。
 
628 白髪生流《シラガオフル》。事者不念《コトハオモハジ》。戀水者《ナミダヲバ》。鹿煮藻闕二毛《カニモカクニモ》。求而將行《モトメテユカム》。
 
鹿煮藻闕二毛《カニモカクニモ》(二毛、拾穗本には煮藻と作り、)は、彼《カ》にも此《カク》にもなり、○求(ノ)字、拾穗本に定と作るはわろし、○歌(ノ)意は、よしそなたのいはるゝ如く、白髪は生たりともいとふべからねば、そこをばおもはじ、とにもかくにも、そのなみだを尋(ネ)求て、ゆきてあはむとなり、
 
大伴四綱宴席歌一首《オホトモノヨツナガウタゲノウタヒトツ》。
 
綱(ノ)字、類聚抄には繩と作り、
 
629 奈何鹿《ナニストカ》。使之來流《ツカヒノキタル》。君乎社《キミヲコソ》。左右裳《カニモカクニモ》。待難爲禮《マチカテニスレ》。
 
左右裳《カニモカクニモ》は、後に、とにもかくにもといふに同じ、其をカニモカクニモ〔七字右○〕といふは、古言なり、天平(510)勝寶年中東大寺奴婢籍帳に、何爾毛加久爾毛將用賜牟《カニモカクニモモチヒタマハム》とあり、○歌(ノ)意、何とて使の來れるぞ、とにもかくにも、君の正身の來座むを待々て、待居(ル)に得堪ずこそあれとなるべし、此宴席に來らむと期りし人の、故有て得來ぬよしの、使をおこせしに、よめるなるべし、
 
湯原王《ユハラノオホキミノ》贈《タマヘル》2娘子《ヲトメニ》1歌二首《ウタフタツ》。
 
湯原(ノ)王は、三(ノ)卷に出つ、元暦本、類聚抄、古寫本等に、志貴(ノ)皇子之子也と註り、
 
631 宇波弊無《ウハヘナキ》。物可聞人者《モノカモヒトハ》。然許《シカバカリ》。遠家路乎《トホキイヘヂヲ》。令還念者《カヘセシモヘバ》。
 
宇波弊無《ウハヘナキ》は、下、家持(ノ)歌にも、得羽重無妹二毛有鴨如此許人情乎令盡念者《ウハヘナキイモニモアルカモカクバカリヒトノコヽロヲツクセルモヘバ》とあり、(歌も今に大かた似たり、)本居氏云、此(ノ)詞は、俗にあいそなきといふ意にて、中昔の物語などに、あへなきと云る言は、此(ノ)宇波弊無《ウハヘナキ》の轉(リ)たるにて、同じ意に聞ゆ、○然許《シカバカリ》は、然《サ》ほどゝ云むが如し、此(ノ)一句は初句(ノ)上にうつして意得べし、○令還念者は、カヘセシモヘバ〔七字右○〕と訓べし、吾を令還《カヘセ》しをおもへばなり、○歌(ノ)意は、あひも見ずして、いたづらに、遠き家路を、すご/\と吾を還せしをおもへば、さても人の心は、さほどまであいそなきものにてやめるらむ、嗚呼うらめしやとなり、これは、娘子の許へ到り賜へるに、得遇(ハ)で還り賜へるを、恨てよみ賜へるなり、
 
632 目二破見而《メニハミテ》。手二破不所取《テニハトラエヌ》。月内之《ツキヌチノ》。楓如《カツラノゴトキ》。妹乎奈何責《イモヲイカニセム》。
 
月内之楓《ツキヌナノカツラ》は、和名抄に、兼名苑(ニ)云、月中(ニ)有v河、河上(ニ)有v桂、高(サ)五百丈、とあるによれる、から事なるべ(511)し、十(ノ)卷に、黄葉爲時爾成良之月人《モミチスルトキニナルラシツキヌチノ》、楓枝乃色付見者《カツラノエダノイロヅクミレバ》、(人は内の誤なるべし、)古今集に、久方の月の桂も秋はなほ、黄葉すればや照まさるらむ、楓は、和名抄に、楓(ハ)乎加豆良《ヲカツラ》、桂(ハ)女加豆良《メカツラ》とあり、品物解に具(ク)云、○歌(ノ)意は、月中(ノ)桂の、目には見て、手には取れぬごとく、妹を目には見れども、父母などに障られて、密《シノビ》遇(フ)事のかなはねば、その妹をいかにせむぞとなり、此は娘子の許へ到り賜へるに、見たるばかりにて、父母などの障《サヽヘ》によりて、密(ヒ)遇(フ)事のならねば、よみ賜へるなるべし、伊勢物語には、尾句を、君にもあるかなとかへて用ひたり、
 
娘子報贈歌二首《ヲトメガコタフルウタフタツ》。
 
633 幾許《イカバカリ》。思異目鴨《オモヒケメカモ》。敷細之《シキタヘノ》。枕片去《マクラカタサル》。夢所見來之《イメニミエコシ》。
 
幾計《イカバカリ》は、五(ノ)卷に、由久布禰遠布利等騰尾加禰伊加婆加利《ユクフネヲフリトドミカネイカバカリ》、故保斯苦阿利家武麻都良性欲比賣《コホシクアリケムマツラサホヒメ》とあり、○枕片去《マクラカタサル》は、本居氏、古(ヘ)夫もたる婦人は、夜獨寝るときは、床を半避て片寄て寝る、これ夫の寐べき處を明置なり、十八に夜床加多左里《ヨトコカタサリ》とある是なり、さて枕片去も、床避ることにて、枕を片寄せて寐るを云、片去夢とは片去て寐る夢と云ふことなりと云り、源氏物語若菜に、あまた物し給ふやうなれど、いづかたも皆こなたの御けはひには、かたさりはばかるさまにて、過したまへばこそ、ことなくなだらかにもあれとあるも、紫(ノ)上をはゞかりて、かたへへさくるよしにて、片去の言同じ、又枕册子に、山は云々、かたさり山こそ、誰に所おきけるに(512)かとをかしけれ、西行が選集抄に、よろづの罪をも、此(ノ)志の一(ツ)にかたさりて、草隱れなき跡までも、我をそばむるわざなかれとなり、などあり、熱田大神縁起日本武(ノ)尊(ノ)御歌に、阿由知何多比加彌阿禰古波和例許牟止《アユチガタヒカミアネコハワレコムト》、止許佐留良牟也阿波禮阿禰古乎《トコサルラムヤアハレアネコヲ》ともあり、○歌(ノ)意は、とてもかくても、相宿することは得じ、と枕片去て寐る夜の夢にさへ、君が入來て見えにしは、いかばかりか、深く君を思ひまゐらするによりてならむとなり、夫の旅などに往て居ぬほど、その妻の夜床を避て寐るは常なり、又男の入來むと思ふ時、をの男を座《イマセ》むが爲に、夜床を避居ることもあり、熱田縁起なる御歌即(チ)其(レ)なり、さて此は、夫の旅などに往て居ぬほど床避と同じく、とにかく相宿することをば得じ、と思ひ絶てぬる夜の夢にさへ、と云意なるべし、さるは湯原王に心かはせしなれど、父母などに障られて、心まゝに密(ヒ)遇(フ)事のかなはざりし故に、かくよみて答へたるにて、とほき家路を還しまゐらせしは、わが心にあらず、吾は深く君を思ひまゐらすれども、思ふ如くならねばこを、しかありしなれ、さればこそ枕かたさりて宿る夜の夢にさへ、君が見えしなれ、吾(ガ)思の淺からむには、いかでかかくあるべきぞ、といふ意を思はせたるにて、宇波弊無《ウハヘナキ》云々、と王ののりたまへるを、ことわれるなるべし、
 
634 家二四手《イヘニシテ》。雖見不飽乎《ミレドアカヌヲ》。草枕《クサマクラ》。客毛妻與《タビニモツマノ》。有之乏左《アルガトモシサ》。
 
客毛妻與は、客毛《タビニモ》は、旅にさへと云むが如し、妻《ツマ》は夫《ツマ》の借字にて、湯原(ノ)王をいふべし、與は、之と(513)ありしなるべし、されど王を夫《ツマ》と云むは、處にこそよれ、此(ノ)歌にては、甚|不敬《ナメゲ》にて穩ならず、今按(フ)に、君之などありしを、誤寫せるにはあらざるにや、○歌(ノ)意は、家にありて相見奉る時すら、こゝろのまゝに密遇事のかなはぬによりて、なほあきたらずおもふものを、まして君が客にさへ行賜(ヒ)てあれば、見まゐらすることだに絶て、いよ/\ともしくたらはずて、わびしといふにや、これによりて思ふに、前に目二破見而《メニハミテ》云々と王ののたまへるは、かくこのたび旅に出發(ツ)に、おもふ如くなるものならば、妹を携て率てゆくべきに、父母のゆるしなければ、さることも叶はずして、いかにともせむすべのなきよしを、月中(ノ)桂にたとへてのたまへるに、こたへたるにやあらむ、○この歌より已下四首、湯原(ノ)王の旅に去座賜へるほどの歌なるべし、
 
湯原王亦贈歌二首《ユハラノオホキミノマタタマヘルウタフタツ》。
 
635 草枕《クサマクラ》。客者嬬者《タビニハツマハ》。雖率有《ヰタラメド》。匣内之《クシゲノウチノ》。珠社所念《タマトコソオモヘ》。
 
雄率有は、或人、ヰタラメド〔五字右○〕。と訓り、さもあるべし、○歌(ノ)意は、獨旅にしあれば、すべなく戀しき故、嬬をもひきゐ來らまほしくおもへども、匣(ノ)中の珠の如く、深※[窗/心]《オクトコ》にいつける女なれば、いざなひ來りがたくて、いとゞ思ひに堪がたしといふにや、
 
636 余衣《ワガコロモ》。形見爾奉《カタミニマツル》。布細之《シキタヘノ》。枕不離《マクラカラサズ》。卷而左宿座《マキテサネマセ》。
 
(514)奉は、マツル〔三字右○〕と訓べし、既く具(ク)云り、(マタス〔三字右○〕とよめるはわろし、)○歌(ノ)意は、吾(ガ)表記《カタミ》に贈りまゐらする衣を、吾と思ひて、夜々枕もとを、はなさずして、まとひて、宿賜へとなり、これも旅にわかれいますとて、衣を表記《カタミ》に贈られしなるべし、下に、吾妹子之形見之服下著而《ワギモコガカタミノコロモシタニキテ》、直相左右者吾將脱八方《タヾニアフマデハアレヌカメヤモ》、七(ノ)卷に、可融雨者莫零吾妹子之《トホルベクアメハナフリソワギモコガ》、形見之服吾下爾著《カタミノコロモアレシタニケリ》、八(ノ)卷に、報(ル)d脱2著身衣(ヲ)1家持(ニ)u歌、秋風寒比日下爾將服《アキカゼノサムキコノゴロシタニキム》、妹之形見跡可都毛思努播武《イモガカタミトカツモシヌハム》、十五、遣2新羅(ニ)1使悲別贈答歌に、和可禮奈婆宇良我奈之家武安我許呂母《ワカレナバウラガナシケムアガコロモ》、之多爾乎伎麻勢多太爾安布麻弖爾《シタニオキマセタダニアフマデニ》、和伎母故我之多爾毛伎余等於久理多流《ワギモコガシタニモキヨトオクリタル》、許呂母能比毛乎安禮等可米也母《コロモノヒモヲアレトカメヤモ》、又中臣(ノ)宅守配2越前國1之時、贈2茅上娘子(ニ)1歌に、和伎毛故我可多美能許呂母奈可里世婆《ワキモコガカタミノコロモナカリセバ》、奈爾毛能母?加伊能知都我麻之《ナニモノモテカイノチツガマシ》、又娘子(ノ)和歌に、之呂多倍能安我之多其呂母宇思奈波受《シロタヘノアガシタゴロモウシナハズ》、毛弖禮和我世故多太爾安布麻低爾《モテレアガセコタダニアフマテニ》、安波牟旦能可多美爾世與等多和也女能《アハムヒノカタミニセヨトタワヤメノ》、於毛比美多禮弖奴敝流許呂母曾《オモヒタレテヌヘルコロモソ》、又|之路多倍乃阿我許呂毛弖乎登里母知弖《シロタヘノアガコロモテヲトリモチテ》、伊波敝和我勢古多太爾安布末低爾《イハヘワガセコタタニアフマテニ》、十六に、商變領為跡之御法有者許曾《アキカヘリシラセトノミノリアラバコソ》、吾下衣變賜米《アガシタゴロモカヘシタマハメ》、(右傳云、時有2所v幸娘子1也、寵薄之後還2賜寄物1、於是娘子怨恨、聊作2此歌1獻上、)十九に、吾妹子我可多見我弖良等《ワギモコガカタミガテラト》、紅之八鹽爾染而《クレナヰノヤシホニソメテ》、於己勢多流服之襴毛等寶利弖濃禮奴《オコセタルコロモノスソモトホリテヌレヌ》、これら衣を形見に贈れる例なり、
 
娘子復報贈歌一首《ヲトメガマタコタフルウタヒトツ》。
 
(515)637 吾背子之《ワガセコガ》。形見之衣《カタミノコロモ》。嬬問爾《ツマドヒニ》。余身者不離《ワガミハサケジ》。事不問友《コトトハズトモ》。
 
嬬問《ツマドヒ》は、夫婦のかたらひをすることなり、古事記雄略天皇(ノ)條に、故(レ)都摩杼比之《ツマドヒノ》物(ト)云而賜人也と見ゆ、集中には往々にあり、○歌(ノ)意は、君が表記《カタミ》の衣なれば、たとひものはいはずとても、君と夫婦《ツマ》どひすると思ひて、吾(ガ)身をはなしはすまじとなり、
 
湯原王亦贈歌一首《ユハラノオホキミノマタタマヘルウタヒトツ》。
 
638 直一夜《タヾヒトヨ》。隔之可良爾《ヘダテシカラニ》。荒玉乃《アラタマノ》。月歟經去跡《ツキカヘヌルト》。心遮《オモホユルカモ》。
 
隔之可良爾《ヘダテシカラニ》は、隔し故にと云に同じくて、直一夜のみ、隔しものなるをの意なり、(契冲が可良を間の意とせるはたがへり、)○月歟經去跡《ツキカヘヌルト》は、月を經ぬるやとの意なり、○心遮は、舊訓に、オモホユルカモ〔七字右○〕とあり、源(ノ)道別、所思毳などありしが、かく心遮(ノ)二字に、誤たるならむといへり、又按(フ)に、十二に、虚蝉之《ウツセミノ》云々|心遮焉《コヽロマドヒヌ》とあれば、此《コヽ》ももとのまゝにて、コヽロマドヒヌ〔七字右○〕にてもあるべきか、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
娘子復報贈歌一首《ヲトメガマタコタフルウタヒトツ》。
 
639 吾背子我《ワガセコガ》。如是戀禮許曾《カクコフレコソ》。夜干玉能《ヌバタマノ》。夢所見管《イメニミエツヽ》。寐不所宿家禮《イネラエズケレ》。
 
如是戀禮許曾《カクコフレコソ》は、夫(ノ)君が如是《カク》戀とのたまふ如く、しか戀ればこそのこゝろなり、如是戀とは即(チ)直一夜《タヾヒトヨ》云々とある是なり、○寐不所宿家禮《イネラエズケレ》は、ねいられざりけれといふなり、○歌(ノ)意は、吾(ガ)(516)夫子が、しか思ひ賜へればこそ、其(ノ)御心の此方に通ひ來て、夜の夢に見えつゝ、快寐せられざりけれとなり、二(ノ)卷に。歎管大夫之戀禮許曾《ナゲキツヽマスラヲノコノコフレコソ》、吾髪結乃漬而奴禮計禮《アガモトユヒノヒヂテヌレケレ》、今と似たり、
 
湯原王亦贈歌一首《ユハラノオホキミノマタオクリタマヘルウタヒトツ》。
 
640 波之家也思《ハシケヤシ》。不遠里乎《マヂカキサトヲ》。雲居爾也《クモヰニヤ》。戀管將居《コヒツヽヲラム》。月毛不經國《ツキモヘナクニ》。
 
波之家也思《ハシケヤシ》、こゝは里と云ふに係りて、妹が住里なれば、愛《ハシ》けくめでおもふよしなり、波之家也思《ハシケヤシ》は、集中に、波之吉也思《ハシキヤシ》とも、波之吉與之《ハシキヨシ》ともあり、皆同じ、○不遠里乎《マヂカキサトヲ》は、間近き里なるものをといふなり、○雲居爾也《クモヰニヤ》(居(ノ)字、拾穗本には井と作り、)也《ヤ》は、將居《ヲラム》の下にめぐらして心得べし、○歌(ノ)意は、間近き里なるものを、雲居を隔たるごとく、戀しく思ひつゝ居むか、遇て後未(タ)月も經ぬうちに、はやかくあれば、今より後あまたの月日を、いかにして經渡らむとなり、
 
娘子復報贈和歌一首《ヲトメガマタコタフルウタヒトツ》。
 
和(ノ)字、目録にはなし、
 
絶常云者《タユトイハバ》。和備染責跡《ワビシミセムト》。燒大刀乃《ヤキタチノ》。隔付經事者《ヘツカフコトハ》。幸也吾君《カラシヤワギミ》。
 
絶常云者《タユトイハバ》は、ひたすらに中絶(ユ)と云ばとなり、下に、中々爾絶年云者如此計《ナカ/\ニタユトシイハバカクバカリ》、氣緒爾四而吾將戀八方《イキノヲニシテアレコヒメヤモ》とも云り、○和備染責跡《ワビシミセムト》は、侘しき事に思はむとゝいはむが如し、責は將《ム》v爲《セ》の借(リ)字なり、今(ノ)世に、わびしんぜむといふに同じ、(後(ノ)世言に、重んずる、輕んずるなどいふと、同格の言なり、(517)その重んずる、輕んずると云ふ言の、音便に頽れたるなればなり、)この用樣は十二に、相見欲爲者從君毛《アヒミマクホリスルコトハキミヨリモ》、吾曾益而伊布可思美爲也《アレソマサリテイフカシミスル》、十三に、白妙乃袖之引乎難見爲而《シロタヘノソデノワカレヲカタミシテ》、荒津之濱屋取爲鴨《アラツノハマニヤドリスルカモ》、十八に、左由理波奈由利毛安波牟等於毛倍許曾《サユリハナユリモアハムトオモヘコソ》、伊末能麻左可毛宇流波之美須禮《イマノマサカモウルハシミスレ》、などある是なり、○燒大刀乃《ヤキタチノ》(大(ノ)字舊本には太と作り、今は拾穗本に從つ、)は、枕詞なり、大刀は鞘を隔て身に著はくものなれば、隔て著(ク)義にて、隔付經《ヘツカフ》をいはむ料とせるにて、受たる意はいさゝかかはれり、○隔付經《ヘツカフ》は、諂《ヘツラフ》といふと同音にて、うはべには、親く依たるごとくに見えて、信實に依(レ)るにあらぬを云言なり、付經《ツカフ》と都良布《ツラフ》と通へり、色の丹都良布《ニツラフ》を丹都可布《ニツカフ》ともいふと同例なり、七(ノ)卷に、殊放者奥從酒甞湊自《コトサカバオキユサカナムミナトヨリ》、邊著經時爾可放鬼香《ヘツカフトキニサクベキモノカ》、(これは言は同じことながら、たゞに邊に著をいひて、今とはいさゝかかはれり、)○幸也吾君は、幸は苛の誤にや、さらばカラシヤワギミ〔七字右○〕と訓べし、七(ノ)卷に、小可有來《カラクソアリケル》、十一に、小可者在來《カラクハアリケリ》(小可は、二首ながら、苛の誤なりと云り)とあり、又は辛の誤にてもあるべし、也《ヤ》は余《ヨ》と云むが如し、吾君《ワギミ》は、吾君《ワギミ》よといふ當なり、○歌(ノ)意は、一向に絶果て、更に逢見じと云(ハ)ば、中々に吾もおもひきるべきこともあらむを、さすがに中絶むとのたまはゞ、わびしき事に思はむ、と唯うはべにのみ親くおもほす如く、へつらひ賜ふは、甚苛きことぞ吾(ガ)君よ、といふなるべし、
 
湯原王歌一首《ユハラノオホキミノウタヒトツ》。
 
(518)642 吾妹兒爾《ワギモコニ》。戀而亂在《コヒテミダレバ》。久流部寸二《クルベキニ》。懸而縁與《カケテヨセムト》。余戀始《アガコヒソメシ》。
 
戀而亂在は、在は者の誤なるべしと云り、コヒテミダレバ〔七字右○〕と訓べし、○久流部寸《クルベキ》は、和名抄蠶絲(ノ)具(ノ)部に、辨色立成云、反轉(ハ)久流閇枳《クルベキ》、漢語抄説同とあり、神祇式四に、金銅|※[金+專]《クルベキ》、(莖九寸八分輪徑一寸八分、)銀銅※[金+專]、(莖一尺八分輪徑二寸八分、)と見えたり、其(ノ)圖形は、外宮神寶圖に見ゆ、枕册子にも、見も知ぬ久流部伎《クルベキ》物二人して引せ、歌うたはせなどするを、めづらしくてわらふに云云とあり、名(ノ)義は、絡經木《クリヘキ》なるべし、絲を絡經る料の器なり、和名抄に、唐韵(ニ)云、※[糸+參](ハ)絡v絲(ヲ)取也、訓|久流《クル》とあり、○此(ノ)歌は、戀の情を絲によせてよみ賜へるにて、戀々て思ひ亂れなば、其(ノ)時|反轉《クルべキ》にかけて、妹が方へくりよせむとて、吾(ガ)戀始しとなるべし、
 
紀郎女怨恨歌三首《キノイラツメガウラミノウタミツ》。
 
紀(ノ)郎女は、元暦本、類聚抄、古寫本等に、鹿人(ノ)大夫之女、名曰2小鹿(ト)1、安貴(ノ)王之妻也、と註せり、此(ノ)下にも、また八(ノ)卷にも、紀(ノ)女郎名曰2小鹿(ト)1とあり、安貴(ノ)王の傳は、三(ノ)卷に云り、
 
643 世間之《ヨノナカノ》。女爾思有者《メニシアラバ》。吾渡《タヾワタリ》。痛背乃河乎《アナシノカハヲ》。渡金目八《ワタリカネメヤ》。
 
女爾思有者は、メニシアラバと訓べし、(女をヲトメヲミナ〔六字右○〕などよめるはわろし、)三(ノ)卷に、石戸
破手力毛欲得手弱寸《イハトワルタチカラモガモタワヤキ》、女有者爲便乃不知苦《メニシアレバスベノシラナク》、古事記須勢理毘賣(ノ)命(ノ)御歌に、阿波母與賣邇斯阿禮婆《アハモヨメニシアレバ》などあり、○吾渡、とありては、通《キコ》えがたし、按(フ)に、吾は直(ノ)字などの誤にやあらむ、十三に、直(519)渡川往渡《タヾワタリカハユキワタリ》、とあるを思(フ)べし、○痛背は、背は足の誤にて、アナシ〔三字右○〕なるべし、七(ノ)卷に、痛足河《アナシガハ》、又|卷向之病足之川由《マキムクノアナシノカハユ》、十二に、纏向之痛足乃山爾《マキムクノアナシノヤマニ》などあり、痛足《アナシ》は、大和(ノ)國城上(ノ)郡にあり、○歌(ノ)意は、よのつねの女にしあらば、痛足の河を、直渡りに安くわたりて、君に後れず配《タグヒ》てもゆかましものを、渡らむと思へど得渡らずて、おくれたるが怨恨《クチヲ》しきとなり、さて此歌は、契冲が怨恨といふは離別のうらみなり、つらきを恨む歌どもとは見えず、夫(ノ)君はたれにもあれ、任所などに赴く時の歌なるべし、と云るが如し、今按(フ)に、天平十二年十月、太宰(ノ)少貳藤原(ノ)廣嗣が、謀反《ミカドカタブケ》むとせるに依て、伊勢(ノ)國に幸ありし時、安貴(ノ)王の從駕にて、伊勢海之奥津白浪花爾欲得《イセノウミノオキツシラナミハナニモガ》、裹而妹之家裹爲《ツヽミテイモガイヘヅトニセム》、と作賜へる事、三(ノ)卷に見えたり、此(ノ)時に安貴(ノ)王に遺《オク》らされたるを恨て、娘子のよめるにやあらむ、○此(ノ)歌、古寫本、次の今者吾羽云々の歌と、地を換たり、
 
644 今者吾羽《イマハアハ》。和備曾四二結類《ワビソシニケル》。氣乃緒爾《イキノヲニ》。念師君乎《オモヒシキミヲ》。縱左久思者《ユルサクモヘバ》。
 
今者《イマハ》といふは、此(レ)まで二(タ)方にわたりて思ひし事の、一(ト)方に決《キハ》まれるをいふことなり、此(ノ)歌にては、別れなむか、又留めば、留まるべきか、とかつは悲しみ、かつは樂しみて、二方にわたりて思ひしに、君を縱して別去しめしうへは、今はせむかたなし、と一方にわぶるよしなり、今者《イマハ》と云る言は、いつくにありても皆其(ノ)義なり、○氣乃緒爾《イキノヲニ》は、古事記傳(ノ)崇神天皇(ノ)條(ノ)歌に、意能賀袁々奴須美斯勢牟登《オノガヲヽヌスミシセムト》、とあるところに云(ク)、袁《ヲ》は命と云むが如し、凡て物を續け持て、不v絶らし(520)むる物を、袁《ヲ》と云|緒《ヲ》も此(ノ)意の名なり、命も生(キ)の續きて絶ざる間を云なれば、是を緒《ヲ》とも云なるべし、又多麻能袁《タマノヲ》とも云るも、魂を放《ハフ》らさず、持續くるより云なるべし、年(ノ)緒長くと云も、年の長く續くことなり、又萬葉(ノ)歌に、多く氣緒《イキノヲ》に思ふと云るも、氣《イキ》は借(リ)字にて、生(キ)の緒の意にて、命にかけておもふと云ことにもあるべし、命は生(キ)の緒なればなり、十一に、生緒《イキノヲ》と書るや正字ならむ、又十四には、いきにわが爲(ル)とあるも生にて、命にすると言ことか、十二に、氣緒爾言氣築之《イキノヲニアガイキヅキシ》、ともあれば、氣(ノ)緒は、息のことには非じとぞ思ふと云り、○縱左久思者《ユルサクモヘバ》(久(ノ)字、舊本には、无(シ)、今は異本に從つ、)は、縱して別去しめぬる事を思へば、といふ意なり、○歌(ノ)意は、命にかけて深く思ひし君を、縱して別去賜はしめし事を思へば、今はせむ方なしに、一方にのみわびしく思ふことなり、
 
645 白妙乃《シロタヘノ》。袖可別《ソデワカルベキ》。日乎近見《ヒヲチカミ》。心爾咽飲《コヽロニムセビ》。哭耳四所泣《ネノミシナカユ》。
 
袖可別《ソデワカルベキ》は、親く交《カハ》しなれし袖の、双方へ相別るればいふ、十二にも、白妙乃袖之別乎難見爲而《シロタヘノソデノワカレヲカタミシテ》とあり、○心爾咽飲《コヽロニムセビ》、(飲、元暦本に飯と作るは誤なり、)此(ノ)上に、情耳咽乍有爾《コヽロノミムセツヽアルニ》と見ゆ、○哭耳四所泣(泣舊本流に誤、古寫本、拾穗本等に從つ、)は、ネノミシナカユ〔七字右○〕と訓べし、四《シ》は、その一(ト)すぢなることを、おもく思はする辭なり、既く多出(ツ)、○歌(ノ)意かくれたるところなし、此(ノ)六帖に、末(ノ)句こゝろにむせてなきのみぞ泣(ク)とて入れり、
 
(521)大伴宿禰駿河麻呂歌一首《オホトモノスクネスルガマロガウタヒトツ》。
 
646 大夫之《マスラヲノ》。思和備乍《オモヒワビツヽ》。遍多《タビマネク》。嘆久嘆乎《ナゲクナゲキヲ》。不負物可聞《オハヌモノカモ》。
 
遍多《タビマネク》(遍の下、古寫一本に數(ノ)字あり、)は、度々繁くと云意なり、此下にも見ゆ、十九に、從古皆無利之瑞多婢末禰久申多麻比奴《イニシヘヨナカリシシルシタビマネクマヲシタマヒヌ》、續紀宣命に、遍數久《タビマネク》とも見ゆ、なほ末禰久《マネク》と云ことは、一(ノ)卷(ノ)下に、既《ハヤ》くいひたるをも、考(ヘ)合(ス)べし、○不負物可聞《オハヌモノカモ》は、妹が負ぬ物かなの意なり、負は、身に負持を云、契冲が、伊勢物語に、むくつけき事、人ののろひごとは、おふものにやあらむ、おはぬものにやあらむ、今こそは見めとぞいふなる云々、源氏物語に、うらみをおふと云るを、引るにて心得つべし、○歌(ノ)意かくれなし、
 
大伴坂上郎女歌一首《オホトモノサカノヘノイラツメガウタヒトツ》。
 
647 心者《コヽロニハ》。忘日無久《ワスルヽヒナク》。雖念《オモヘドモ》。人之事社《ヒトノコトコソ》。繁君爾阿禮《シゲキキミニアレ》。
 
久(ノ)字、拾穗本には无(シ)、○念(ノ)字、拾穗本には思と作り、○事は、借(リ)字にて言なり、○歌(ノ)意、心のうちには、一日一夜も忘るゝ間なく、戀しく思へども、人言の繁きによりて、おもふ如く得あはぬ君にこそあれとなり、
 
大伴宿禰駿河麻呂歌一首《オホトモノスクネスルガマロガウタヒトツ》。
 
648 不相見而《アヒミズテ》。氣長久成奴《ケナガクナリヌ》。比日者《コノゴロハ》。奈何好去哉《イカニサキクヤ》。言借吾妹《イフカシワギモ》。
 
(522)氣長久成奴《ケナガクナリヌ》は、二(ノ)卷初に出たり、○奈何好去哉《イカニサキクヤ》は、平安哉如何《サキクヤイカニ》といふが如し、平安なり哉否やと問なり、九(ノ)卷に、眞好去有欲得《マサキクアリコソ》、十三に、好去通牟《サキクカヨハム》、廿(ノ)卷に、好去而早還來等《マサキクテハヤカヘリコト》、又五(ノ)卷に、好去好來歌あり、(書紀に、行矣をサキク〔三字右○〕と訓り、漢書註に、師古(ガ)曰(ク)、行矣(ハ)猶3今言2好去(ト)1、とあり、好去と書るは、旅などへ往人を、好去《ヨクユケ》といふ意にて、書る字なるべし、さて好去をサキク〔三字右○〕とよみなれて後は、さらぬ所へも用ひしと見えたり、)○言借吾妹《イフカシワギモ》は、言借は(借(リ)字にて)鬱悒《イフカシ》なり、おぼつかなしといはむが如し、九(ノ)卷に、言借石國之眞保良乎委曲爾示賜者《イフカリシクニノマホラヲツバラカニシメシタマヘバ》云々となり、吾妹、かく云て、語の終を結べるは、妹よと呼かくる意にて、古歌の一體なり、此(ノ)上に、絶常云者和備染責跡燒大刀乃隔付經事者幸也吾君《タユトイハバワビシミセムトヤキタチノヘツカフコトハカラシヤワギミ》、三(ノ)卷に、秋津羽之袖振妹乎珠匣奥爾念乎見賜吾君《アキヅハノソデフルイモヲタマクシゲオクニオモフヲミタマヘワギミ》、青山之嶺乃白雲朝爾食爾恒見杼毛目頬四吾君《アヲヤマノミネノシラクモアサニケニツネニミレドモメヅラシワギミ》、八(ノ)卷に、吾之蒔有早田之穂立造有※[草冠/縵]曾見乍師努波世吾背《アガマケルワサダノホダチツクリタルカヅラゾミツヽシヌハワガセ》、又|眞木乃於上零置有雪乃敷布毛所念可聞佐夜問吾背《マキノヘニフリオケルユキノシク/\モオモホユルカモサヨトヘワガセ》、十一に、眉根削鼻鳴紐解待哉何時見念吾君《マヨネカキハナヒビモトキマテリヤモイツカモミムトオモヒシワギミ》、又|赤駒之足我枳速者雲井爾毛隱往序袖卷吾妹《アカコマノアガキハヤケバクモヰニモカクリユカムゾソデフレワギモ》、又|小墾田之阪田乃橋之壞者從桁將去莫戀吾妹《ヲハリダノサカタノハシノクヅレナバケタヨリユカムナコヒソワギモ》、又|彼方之赤土小屋爾※[雨/脉]霖零床共所沾於身副吾妹《ヲチカタノハニフノヲヤニコサメフリトコサヘヌレヌミニソヘワギモ》、十九(ノ)初に、春苑紅爾保布桃花下照道爾出立※[女+感]嬬《ハルノソノクレナヰにほふモヽノハナシタテルミチニイデタツヲトメ》、又|松柏乃佐賀延伊麻佐禰尊安我吉美《マツカヘノサガエイマサネタフトキアガキミ》などある、皆同じ體の歌なり、○歌(ノ)意は、相見ずて月日久しく成ぬなり、此ごろは平安《サキ》かりや否(ヤ)、心にかゝりて、おぼつかなくおもふぞ、吾妹よ、となり、
 
(523)大伴坂上郎女歌一首《オホトモノサカノヘノイラツメガウタヒトツ》。
 
649 夏葛之《ナツクズノ》。不絶使乃《タエヌツカヒノ》。不通有者《ヨドメレバ》。言下有如《コトシモアルゴト》。念鶴鴨《オモヒツルカモ》。
 
夏葛之は、夏は蔓の誤なり、と本居氏云り、三(ノ)卷に、延葛乃彌遠永《ハフクズノイヤトホナガク》、廿(ノ)卷に、波布久受能多要受之努波牟《ハフクズノタエズシヌハム》、十(ノ)卷に、蔓葛下夜之戀者《ハフクズノシタヨシコヒバ》、○言下有如《コトシモアルゴト》は、(言は借(リ)字、)事故しもある如くにといふなり、事は喪《モ》なく事なくの事なり、下《シモ》は、(これも借(リ)字、)多かる物の中に、その一(ト)すぢをとりたてゝいふ辭なり、こゝは、こなたかなた、事の多かる中にも、故障《サハリ》とある事のあるならむ、と心にかゝるよしなり、○歌(ノ)意は、絶ず通ひし使のよどみて來らねば、事故しもある如くに、おぼつかなくおもひつる哉、となり、
〔右坂上郎女者。佐保大納言卿女也。駿河麻呂(ハ)。此高市大卿之孫也。兩卿兄弟之家女孫|姑《ヲバ》姪《ヲヒ》之族。是以題v歌送答相2問起居1。〕
佐保(ノ)大納言は、安麻呂(ノ)卿なり、○麻呂の下(ノ)此は、者の誤なるべし、○高市大卿は、安麻呂(ノ)卿の兄御行(ノ)卿なり、○女孫姑姪とは、坂上(ノ)郎女は安麻呂(ノ)卿の女、駿河麻呂は、御行(ノ)卿の孫なれば、女孫といひ、さて坂上(ノ)郎女は、父の從父姉妹《イトコ》なれば、駿河麻呂より姑《ヲハ》といひ、駿河麻呂は從父兄弟《イトコ》の子なれば、坂上郎女より姪と云るが故に、姑姪とあるならむ、
 
大伴宿彌三依《オホトモノスクネミヨリガ》。離復相歡歌一首《ワカレテマタアヘルヲヨロコブウタヒトツ》。
 
(524)歡、舊本歎に誤、元暦本に從つ、目録にもかくあり、
 
650 吾妹兒者《ワギモコハ》。常世國爾《トコヨノクニニ》。住家良思《スミケラシ》。昔見從《ムカシミシヨリ》。變若益爾家利《ヲチマシニケリ》。
 
吾妹兒《ワギモコ》は、坂上(ノ)郎女をさす、○常世國《トコヨノクニ》は、本居氏云、此處《ココ》に云る常世は、人も何も、とことはにして變らず死ず、よろづにめでたき國を云るなり、是は漢籍ごとに依こと多き世になりて、彼(ノ)いはゆる蓬莱山などの説によりて、此方に云來れる遙き國を云、其(ノ)名を借れるものなり、かの蓬莱など云る所も、海路はるかに隔りて、至りがたき所を云なれば、此方にいはゆる常世(ノ)國、是に似たるうへに、又とことはにかはらぬことをも、登許余《トコヨ》と云ことさへありて、其(ノ)名まであひかなへる故に、かれこれを以(テ)附會《ヒキヨセ》たるものなり、然るを後人は、たゞ常世と書る字に泥み、又漢の蓬莱などのことをのみ思ひて、上(ツ)代の意を、深く考へざるゆゑに、不變不死を、常世(ノ)國の本義と心得居るは、ひがことなり、上代に常世(ノ)國と云るは、何方《イヅカタ》にまれ、此(ノ)皇國を遙に隔り、離れて、たやすく往還《ユキカヒ》がたき處をひろく云ことにて、名(ノ)義|底依《ソコヨリ》國の由なり、上代に云るは、皆此(ノ)意の外なし、不變不死の意に云るは、此處《ココ》なると、五(ノ)卷に、等己與能久爾能阿麻越等賣可毛《トコヨノクニノアマヲトメカ》、九(ノ)卷に、常世爾至《トコヨニイタリ》云々|老目不爲死不爲而永世爾有家留物乎《オイメセズシニモセズシテトコシヘニアリケルモノヲ》、これらなり、書紀雄略(ノ)卷に、浦島(ノ)子が事を記されたるは、疑はしきがうへに、到2蓬莱山(ニ)1、と書れたるは、彼(ノ)紀の癖として、よろづに漢をまねられしなれば、ゆめ此文などに迷ひて、常世(ノ)國を、蓬莱のことゝな思ひ誤りそ、(525)と云り、なほ古事記傳に詳《クハ》し、此(ノ)説の如く、常世(ノ)國を、かの蓬莱山のことゝするは、そのもと附曾たる説なれば、此(ノ)歌の頃などは、既《ハヤ》く其(ノ)本を失《ワス》れて、附會説に依て、蓬莱の事を云ことゝ意得たり、ときこえたり、○變若益爾家利《ヲチマシニケリ》は、若がへり座(シ)にけりといふなり、變若《ヲチ》は、既く三(ノ)卷に具(ク)云り、益《マシ》は座《マシ》の借(リ)字なり、○歌(ノ)意は、吾妹子は、不變不死、めでたき常世(ノ)國に往て、住居《スマヒ》けるならし、そのゆゑは、この昔相見し時よりはまさりて、若がへり座にけり、となり、
 
大伴坂上郎女歌二首《オホトモノサカノヘノイラツメガウタフタツ》。
 
651 久堅乃《ヒサカタノ》。天露霜《アメノツユシモ》。置二家里《オキニケリ》。宅有人毛《イヘナルヒトモ》。待戀奴濫《マチコヒヌラム》。
 
天露霜《アメノツユシモ》は、天とは、天より降ものなればいふ、天《アメ》のしぐれなど云が如し、露霜は、たゞ霜をいふなるよし、既く云るが如し、○宅有人毛《イヘナルヒトモ》は、京の家にある人もといふにて、駿河麻呂の妻をいふなるべし、毛《モ》は自(ラ)に對へていふ、これは兄旅人(ノ)卿にしたがひ往て、太宰府にてよめるにや、○歌(ノ)意は、秋の露霜の置て、時久しくなりにけり、これにて思へば、京の家に留りてある人も、吾(ガ)京を戀しく思ふ如くに、さぞや吾を待て、戀しく思ふらむとなり、
 
652 玉主爾《タマモリニ》。珠者授而《タマハサヅケテ》。勝且毛《カツガツモ》、枕與吾者《マクラトワレハ》。〓二將宿《イザフタリネム》。
 
玉主は、タマモリ〔四字右○〕と訓るよろし、神名帳に、土佐(ノ)國吾川郡、天(ノ)石門別安國|玉主《タマモリノ》天神社、とあり、○勝且毛《カツガツモ》は、古事記神武天皇(ノ)條に、加都賀都母伊夜佐伎陀弖流延袁斯麻加牟《カツカツモイヤサキダテルエヲシマカム》と見ゆ、本居氏(ノ)傳(ニ)(526)云、加都賀都母《カツガツモ》は、且々もなり、こは事の未(ダ)慥(カ)ならず、はつ/\なるをいふ辭なり、假令ば、且々見ゆとは、未(タ)さだかには見えず、はつ/\に見え初るをいふ、其は慥に見ゆると、未(タ)見えざるとの中間なる故に、且見え且未(ダ)見えずと云意にて、且々と重ね云なるべし、萬葉四に、玉主爾《タマモリニ》云々|勝且毛《カツ/”\モ》を、玉主爾の上へ移して見べし、こは且々も玉主に玉をば授てと云るにて、未(タ)うけはりて授(ケ)畢ぬるにはあらざれども、先はつ/\に授(ケ)初たる意なり、此(ノ)餘中昔の物語文などにも多かる、皆同意なりと云り、○〓《イザ》は、率と通(ハシ)用(フ)、既く其(ノ)例あり、字鏡に、〓(ハ)伊佐奈不《イザナフ》、と見ゆ、○歌(ノ)意は、駿河麻呂を玉主にたとへ、吾(カ)女を珠になぞらへ云るにて、吾(ガ)女をば、駿河麻呂へ、先はつ/\授(ケ)置て、いざ/\吾は枕と唯二人宿むとなり、今までは女《ムスメ》と共に宿しを、駿河麻呂へ授けたれば、かく云へるなり、
 
大伴宿禰駿河麻呂歌三首《オホトモノスクネスルガマロガウタミツ》。
 
653 情者《コヽロニハ》。不忘物乎《ワスレヌモノヲ》。黨《タマ/\モ》。不見日數多《ミヌヒサマネク》。月曾經去來《ツキゾヘニケル》。
 
黨《タマ/\》は、多麻《タマ》とは、邂逅《タマサカ》などいふ多麻《タマ》なり、本は多麻《タマ》といふを疊ね云るには數《シバ》を志婆志婆《シバシバ》といふと同(シ)例なり、今も土佐(ノ)國幡多(ノ)郡にては、めづらしくまれに思ひがけなきことを、多麻《タマ》と云り、(思ひかけずまれに來る人を、多麻《タマ》に來ると云類なり、)○不見日數多は、ミヌヒサマネク〔七字右○〕と訓べし、(ミザルヒマネク〔七字右○〕と訓はわろし、)十八に、月可佐禰美奴日佐末禰美《ツキカサネミヌヒサマネミ》とあり、○歌(ノ)意は、心(527)のうちにはしばしも得忘れぬ物を、たまたまにさへ、相見(ル)といふことのなき日數、多く積りて、月ぞ經にけるとなり、
 
654 相見者《アヒミテハ》。月毛不經爾《ツキモヘナクニ》。戀云者《コフトイハバ》。乎曾呂登吾乎《ヲソロトアレヲ》。於毛保寒毳《オモホサムカモ》。
 
乎曾呂《ヲソロ》とは、呂《ロ》は添たる辭にて、虚言《ヲソ》なり、清輔朝臣の奥義抄に、或人云、ひむがしの國の者は、そらごとをば、をそごとゝ云なりとあり、乎曾《ヲソ》は即(チ)今の世にいふ、うそといふ言これなり、(乎《ヲ》と宇《ウ》は親《チカク》通へり、)十四に哥良須等布於保乎曾杼里能麻佐低爾毛伎麻佐奴伎美乎許呂久等曾奈久《カラストフオホヲソドリノマサテニモキマサヌキミヲコロクトソソナク》、(烏と云、大虚言鳥《オホチソドリ》の、眞實にも不2來座1君を、子等來《コロク》とぞ鳴なり、)靈異記に、加良酒等伊布於保乎蘇等利能《カラストイフオホヲソドリノ》などあり、○於毛保寒毳《オモホサムカモ》は、將《ム》2御念《オモホサ》1歟《カ》にて、毳《カモ》の毛《モ》は歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、見相て別れては、まだ月も經ぬことなるに、吾(ガ)戀しく思ふと云ば、虚言とおもほしめさむか、さても悲しや、となり、
 
655 不念乎《オモハヌヲ》。思常云者《オモフトイハバ》。天地之《アメツチノ》。神祇毛知寒《カミモシラサム》。邑禮左變。
 
邑禮左變は、誤字なるべし、(契冲が、管見抄(ノ)説を引て、さとれさがはり、とよめるは理なし、又楫取(ノ)魚産は、歌飼名齋の字にて、ウタガフナユメ〔七字右○〕とよむべきかと云り、こは岡部氏の考のよしなり、いかゞなり、)若(シ)は言借名齋なぞありしを、寫誤れるにて、イフカルナユメ〔七字右○〕ならむか、(但(シ)齋(ノ)字はユメ〔二字右○〕といふ處に、用ひたることめづらしければ、いかゞならむか、こはせめていふのみ、)(528)○歌(ノ)意は、情(ノ)裏より眞實に思はぬを、表にかざりて思ふといふ、とおぼすこともあらむか、もし吾(ガ)思ふといふ事の、いつはりならば、天地の神祇も其(ノ)證に立賜はむゼ、努々《ユメ/\》おぼつかなくおぼしめすことなかれ、となり、此(ノ)上また十二にも、大かた同じ歌ありて、既く具(ク)云り、
 
大伴坂上郎女歌六首《オホトモノサカノヘノイラツメガウタムツ》。
 
656 吾耳曾《アレノミゾ》。君爾者戀流《キミニハコフル》。吾背子之《ワガセコガ》。戀云事波《コフトフコトハ》。言乃名具左曾《コトノナグサゾ》。
 
言乃名具左《コトノナグサ》は、言の令《サ》v慰《ナグ》といふ意なり、言のみを、うはべにうるはしく云なして、人を令《シムル》v慰《ナグサマ》を云言なり、契冲が、俗に、口なぐさみといふが如し、と言るは、言足はず、)七(ノ)卷に、黙然不有跡事之名種爾云言乎聞知良久波少可有來《モダアラジトコトノナグサニイフコトヲキヽシレラクハカラクゾアリケル》とあるに同じ、○歌(ノ)意は、吾ばかり、君をば片思(ヒ)に戀しく思ふぞ、君がわれを戀しく思ふといふことは、たゞ表《ウハヘ》に人を慰ましむるためのみにて、眞實に思ふにはあらじをや、となり、
 
657 不念常《オモハジト》。曰手師物乎《イヒテシモノヲ》。翼酢色之《ハネズイロノ》。變安寸《ウツロヒヤスキ》。吾意可聞《ワガコヽロカモ》。
 
念(ノ)字、拾穗本に思と作り、○翼詐色之《ハネズイロノ》は、枕詞なり、翼酢《ハネズ》は、木(ノ)名、品物解に具(ク)云、○變安寸《ウツロヒヤスキ》は、かねて念はじものと堅く云さだめて置し心の、また變ひかはりて人を念をいふ、○歌(ノ)意は、かねて念ふまじと堅く云さだめて置し物を、然さだめしかひもなく、またかはりて人を念ふは、さても變ひやすき吾(ガ)こゝろかな、となり、
 
(529)658 雖念《オモヘドモ》。知僧裳無跡《シルシモナシト》。知物乎《シルモノヲ》。奈何幾許《イカデコヽダク》。吾戀渡《アガコヒワタル》。
 
僧は信(ノ)字の誤なり、○歌(ノ)意は、思へども、そのかひなしといふことは、知て居る物を、何故にそこばく戀しく思ひて、月日を經渡ることぞとなり、
 
659 豫《アラカジメ》。人事繁《ヒトゴトシゲシ》。如是有者《カクシアラバ》。四惠也吾背子《シヱヤワガセコ》。奧裳何如荒海藻《オクモイカニアラメ》。
 
四惠也吾背子《シヱヤワガセコ》とは、四惠也《シヱヤ》は、假に縱《ユル》す辭にて、縱哉《ヨシヤ》といふに同じ、吾背子は、吾(ガ)夫子よといふ意なり、○奥裳何如荒海藻《オクモイカニアラメ》は、契冲、奥は、行末のことなり、おくかなし、おくかしらずとよめり、皆行末のことなりと云り、荒海藻《アラメ》は借(リ)字にて、有《アラ》めなり、あらむといふに同じ、さて上に許曾《コソ》などいふ辭なく、また下に受る辭なくして、牟《ム》といふべきを米《メ》と云るはいとめづらしけれど、古歌の偏格の一(ツ)なり、二(ノ)卷に、玉葛花耳開而不成有者《タマカヅラハナノミサキテナラザルハ》、誰戀爾有目吾孤悲念乎《タガコヒナラメアハコヒモフヲ》、三(ノ)卷に、不所見十方孰不戀有米山之末爾《ミエズトモタレコヒザラメヤマノハニ》、射狹夜歴月乎外爾見而思香《イザヨフツキヲヨソニミテシカ》、十四に、斯太能宇良乎阿佐許求布禰波與志奈之爾《シタノウラヲアサコグフネハヨシナシニ》、許求良米可毛與余志許佐流良米《コグラメカモヨヨシコザルラメ》などある、此(レ)等|牟《ム》と云べきを米《メ》と云たるなり、又七(ノ)卷に、吾背子乎何處行目跡《ワガセコキイヅクユカメト》、十四に、可奈思伊毛乎伊都知由可米等《カナシイモヲイヅチユカメト》などあるも、牟《ム》といふべきを、米《メ》と云るにて同じ、此(ノ)餘下に續く辭あるとき、牟《ム》と云べきを、米《メ》と云ることは甚多し、委くは余が歌詞三格例に云り、披(キ)考(フ)べし、○歌(ノ)意ははつ/\いひ初めたるのみにて、いまだ事成(リ)しともなきに、豫《カネ》て人言繁くいひさわがるゝことよ、かゝらば行末もいかゞあら(530)む、いとおぼつかなし、よしや吾(ガ)夫子よ、たとひ人言はしげくとも、そこにはさはらずして、相見むとなり、
 
660 汝乎與吾乎《ナヲトアヲ》。人曾離奈流《ヒトソサクナル》。乞吾君《イデワギミ》。人之中言《ヒトノナカゴト》。聞越名湯目《キヽコスナユメ》。
 
汝乎與吾乎《ナヲトアヲ》は、汝と吾とをといふなり、汝乎の乎《ヲ》は助辭なり、○乞吾君《イデワギミ》は、いで/\吾が君よといふ意なり、乞《イデ》は、既く云つ、○中言《ナカゴト》は、吾と人との中をいひよこす言なり、けだしくも人の中言《ナカゴト》聞るかも、などゝよめり、○聞越名湯目《キヽコスナユメ》、(越(ノ)字、舊本には起と作り、今は異本に從つ、)十二にも有超名湯目《アリコスナユメ》とあると、同(シ)語(ノ)例なり、越《コス》は、有許曾《アリコソ》、行許曾《ユキコソ》などいふ、乞望辭の許曾《コソ》と同じきを、莫《ナ》と云に續くに引れて、許曾《コソ》を轉じて許須《コス》といへるなり、名《ナ》は莫《ナ》の借(リ)字なり、○歌(ノ)意は、汝と吾との中を、人の邪《ヨコシマ》をいれて、さゝへ離さむとぞすなる、いで/\吾(ガ)君は人の讒言いかにあらむとも、努々聞入給ふ事なかれとなり、
 
661 戀戀而《コヒ/\テ》。相有時谷《アヘルトキダニ》。愛寸《ウルハシキ》。事盡手四《コトツクシテヨ》。長常念者《ナガシトモハバ》。
 
○歌(ノ)意は、末長く相見むとおぼし賜はゞ、吾(ガ)戀しく思ひ/\て、からうじて、かくあひたる時なりとも、愛しき言の限を盡して、かたらひ賜ひてよとなり、
 
市原王歌《イチハラノオホキミノウタ》
 
662 網兒之山《アゴノヤマ》。五百重隱有《イホヘガクセル》。佐堤乃埼《サデノサキ》。左手蠅師子之《サデハヘシコガ》。夢二四所見《イメニシミユル》。
 
(531)網兒山《アゴノヤマ》は、志摩(ノ)國英虞(ノ)郡の山なり、一(ノ)卷に、嗚呼兒乃浦《アゴノウラ》、六(ノ)卷に、吾乃松原《アゴノマツバラ》、(吾(ノ)下、兒(ノ)字脱、)七(ノ)卷に、吾兒之鹽干《アゴノシホヒ》、又|阿胡乃海《アゴノウミ》などある、皆同(シ)地なるべし、○五百重隱有《イホヘカクセル》は、外より見れば、網兒(ノ)山の幾重も疊りて、佐堤(ノ)埼を立隱せる故に云なるべし、○佐堤乃埼《サテノサキ》は、八雲御抄に、伊勢(ノ)國の名所ともるし賜へるは、いかゞあらむ、本居氏云、神名帳に、伊勢(ノ)國朝明(ノ)郡志?(ノ)神社あり、今もしで崎といふ、さてこ)の佐堤の佐は、信か詩の誤にて志?《シテ》の埼なるべし、○左手《サデ》は、小網《サデ》なり、一(ノ)卷に見えて、そこに具(ク)註つ、○二四《ニシ》は、さだかにしかるときにいふ辭なり、上にたび/\出たり、○歌(ノ)意は、佐堤の埼にて小網さし延《ハヘ》て、漁業せし女のうるはしかりしが、忘れられずして、夢にさへさだかに見ゆるとなり、(契冲が、序歌とせるはあらず、)
 
安都宿禰年足歌一首《アトノスクネトシタリガウタヒトツ》。
 
安都(ノ)宿禰年足、(都(ノ)字、舊本に部と作るは誤なり、今は目録に從つ、其(ノ)故は、安部氏は加婆禰朝臣、安都氏は加婆禰宿禰なればなり、)都は、古(ヘ)ツ〔右○〕の借字にのみ用ひしこと、集中など皆然り、然るにこの安都は、阿刀とも書たればアト〔二字右○〕と唱しなり、紀伊國伊都(ノ)郡、土佐國土佐(ノ)郡|都佐《トサニ》坐(ス)神社などは古(ヘ)より都を、ト〔右○〕の假字とせるなるべし、年足は傳未(タ)詳ならず、續紀に、養老三年五月乙丑朔癸卯、正八位下阿刀(ノ)連人足等(ニ)賜2宿禰(ノ)姓(ヲ)1、寶龜二年十一月丁未、正六位上阿刀(ノ)宿禰眞足(ニ)授2外從五位下(ヲ)1、三年四月庚午、外從五位下安都(ノ)宿禰眞足(ヲ)爲2大學(ノ)助(ト)1、又阿都(ノ)宿禰長人と云も見ゆ、(532)契冲云、年足は人足が子にて、眞足が父などにや、
 
663 佐穗度《サホワタリ》。吾家之上二《ワギヘノウヘニ》。鳴鳥之《ナクトリノ》。音夏可思吉《コヱナツカシキ》。愛妻之兒《ハシキツマノコ》。
 
佐穗度《サホワタリ》は、佐保河を渡りての意なり、河をいはねど、度(リ)と云れば、河なることしるし、(契冲が、佐保川のあたりなり、と云るはわろし、今(ノ)京よりこのかた、五條わたりなどいひ、遊仙窟に、此(ノ)處《ワタリ》などあるは、古言にあらず、)○吾家之上二《ワギヘノウヘニ》は、吾が家の邊にの意なり、(上《ウヘ》は、ほとり、あたりなどいふがごとし、)吾家を和藝弊《ワギヘ》といふこと、古事記書紀集中五(ノ)卷十八(ノ)卷などに、假字書見えたり、(我伊《ガイ》の切|藝《ギ》にて、吾之家《ワガイヘ》なり、)又五(ノ)卷に、和我覇《ワガヘ》、又|和何弊《ワガヘ》ともあれば、かくも訓べし、○鳴鳥之《ナクトリノ》といふまでは、音なつかしきといはむ序なり、八(ノ)卷に、足日木乃山下響鳴鹿之《アシヒキノヤマシタトヨミナクシカノ》、事乏可母吾情都末《ココヱトモシカモアガヽロツマ》、(事は聲の誤か、)○音夏可思吉《コヱナツカシキ》は、聲馴著《コヱナツカ》しきなり、(略解に、コヱナツカシエ〔七字右○〕とよまむか、エ〔右○〕はヨ〔右○〕と云に同じとあるは、わろし)七(ノ)卷にも、麻衣著者夏樫《アサコロモケレバナツカシ》、十九に、喧雀公鳥聞者夏借《ナクホトヽギスキケバナツカシ》など見ゆ、集中に多き詞なり、○妻之兒《ツマノコ》(兒(ノ)字、古寫本には子と作り、)と云るは、兒は親(ミ)辭なり、十(ノ)卷に、其夫乃子我《ソノツマノコガ》、十八に、波之吉余之曾能都未能古等《ハシキヨシソノツマノコト》などもあり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
大伴宿禰像見歌一首《オホトモノスクネカタミガウタヒトツ》。
 
像見は、續紀に、寶字八年十月庚午、正六位上大伴(ノ)宿禰形見(ニ)授2從五位下(ヲ)1、景雲三年三月戊寅、爲2左(ノ)大舍人(ノ)助(ト)1、寶龜三年正月甲申、從五位上など見ゆ、
 
(533)664 石上《イソノカミ》。零十方雨二《フルトモアメニ》。將關哉《ツヽマメヤ》。妹似相武登《イモニアハムト》。言義之鬼尾《イヒテシモノヲ》。
 
石上《イソノカミ》は、零《フル》をいはむとての枕詞なり、貫之集に、紅にもみちすればや石(ノ)上、零らむ毎に野べを染らむ、此は大和に石(ノ)上の布留《フル》てふ地ありて、武烈天皇(ノ)紀(ノ)歌に、伊須能箇瀰賦婁嗚須擬底《イスノカミフルヲスギテ》、と見えたるをはじめて、集中に、石(ノ)上|振之神※[木+温の旁]《フルノカムスギ》、石(ノ)上ふるの早田《ワサタ》などやうに多くよめるを、その石(ノ)上を即(チ)枕詞にとりなして、雨の零《フル》にいひかけたるなり、津(ノ)國の何者《ナニハ》思はず、山背《ヤマシロ》の常《トハ》に相見む、などよめる類なり、○將聞哉(將(ノ)字、古寫一本に、明と作るはわろし、)は、ツヽマメヤ〔五字右○〕と訓べし、雨障《アマツヽミ》とも云る障《ツヽミ》なり、關(ノ)字は、塞《サヽ》はる義もて書り、(關は、閉也塞也と見ゆ、)○義之は、羲之の誤にて、テシ〔二字右○〕の假字なるよし、はやく云る如し、○歌(ノ)意は、妹にあはむと契りしものを、たとひ今夜雨の降とも、それに塞らむやは、いとはずして行むとなり、
 
安倍朝臣蟲麻呂歌一首《アベノアソミムシマロガウタヒトツ》。
 
安倍(ノ)朝臣蟲麻呂(倍(ノ)字、拾穗本には部と作り、)は、續紀に、天平九年九月己亥、正七位上阿倍(ノ)朝臣蟲麻呂等(ニ)授2外從五位下(ヲ)1、同十二月壬戌、爲2皇后宮(ノ)亮(ト)1、同月丙寅、少進從五位下、十年秋閏七月癸卯、爲2中務(ノ)少輔(ト)1、十二年九月丁亥、太宰(ノ)少貳藤原朝臣廣嗣反(ク)云々、己丑、勅2阿倍(ノ)朝臣蟲麻呂等(ニ)1、亦發遭(シテ)任2用軍事(ニ)1、同年十一月甲辰、從五位上、十三年閏三月乙卯、正五位下、八月丁亥、爲2播磨(ノ)守(ト)1、十五年五月癸卯、正五位上、勝寶元年八月辛未、爲2兼紫微(ノ)大忠(ト)1、三年正月己酉、從四位下、四年三月(534)甲午、中務(ノ)大輔從四位下安倍(ノ)朝臣蟲麻呂卒と見えたり、
 
665 向座而《ムカヒヰテ》。雖見不飽《ミレドモアカヌ》。吾妹子二《ワギモコニ》。立離住六《タチワカレユカム》。田付不知毛《タヅキシラズモ》。
 
向座而《ムカヒヰテ》(座(ノ)字、拾穗本には居と作り、)は、十五中臣(ノ)朝臣宅守、與2狹野(ノ)茅上娘子1贈答歌(ノ)中に、牟可比爲弖一日毛於知受見之可杼母《ムカヒヰテヒトヒモオチズミシカドモ》、伊等波奴伊毛乎都奇和多流麻弖《イトハヌイモヲツキワタルマデ》とあり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、按(フ)に此は廣嗣が事によりて、いでたちし時によめるか、又播磨(ノ)守なりしほど、任國に赴むとするときなどに、よめるにもあるべし、
 
大伴坂上郎女歌二首《オホトモノサカノヘノイラツメガウタフタツ》。
 
666 不相見者《アヒミズテ》。幾久毛《イクバクヒサモ》。不有國《アラナクニ》。幾許吾者《コヽダクアレハ》。戀乍裳荒鹿《コヒツヽモアルカ》。
 
不相見者は、者は而字の誤か、アヒミズテ〔五字右○〕とあるべし、上に、不相見而氣長久成奴《アヒミズテケナガクナリヌ》とあるを、思(ヒ)合(ス)べし、○歌(ノ)意かくれなし、
 
667 戀戀而《コヒコヒテ》。相有物乎《アヒタルモノヲ》。月四有者《ツキシアレバ》。夜波隱良武《ヨハコモルラム》。須臾羽蟻待《シマシハアリマテ》。
 
夜波隱良武《ヨハコモルラム》は、夜は明ずてあるらむの意なり、隱(ル)とは、夜隱(リ)といふ時の意得なり、既く三(ノ)卷に云り、○蟻待《アリマテ》は、在待《アリマテ》なり、○歌(ノ)意は、戀しく思ひ/\て、からうじて相見てある物を、月のあるにておもへば、未(タ)夜は明ずてあるらむ、しばしは待賜へとなり、
〔右大伴(ノ)坂上(ノ)郎女(ノ)母石川(ノ)内命婦。與2安倍(ノ)朝臣蟲滿之母安曇(ノ)外命婦1。同居姉妹同氣之親焉。縁v此(ニ)(535)郎女蟲滿。相見不v踈。相談既密。聊作2戯歌(ヲ)1以爲2問答(ヲ)1也。〕
石川(ノ)内命婦は、安麻呂(ノ)卿の妻|邑婆《オホバ》の事なり、此(ノ)上に云つ、○安曇(ノ)外命婦は、邑婆の姉妹なるべし、○焉(ノ)字、拾穗本には也と作り、○也(ノ)字、拾穗本には而已と作り、
 
厚見王謌一首《アツミノオホキミノウタヒトツ》。
 
厚見(ノ)王は、續紀に、勝寶元年四月丁未、授2無位厚見(ノ)王(ニ)從五位下(ヲ)1、七年十一月丁巳、遣2少納言厚見(ノ)王(ヲ)1、奉2幣帛(ヲ)于伊勢太神宮(ニ)1、寶字元年五月丁卯、授2厚見(ノ)王(ニ)從五位上(ヲ)1と見ゆ、
 
668 朝爾日爾《アサニヒニ》。色付山乃《イロヅクヤマノ》。白雲之《シラクモノ》。可思過《オモヒスグベキ》。君爾不有國《キミニアラナクニ》。
 
朝爾、日爾は、アサニヒニ〔五字右○〕と訓べし、(日をケ〔右○〕とよまむは、こゝはわろし、)朝毎に日毎にの意なり、○白雲之《シラクモノ》、此までは序にて、過をいはむ料なり、雲の餘所《アダシトコロ》に過行をもて、いひつゞけたり、(契冲が、もみちと雲とまじりて、見もあかぬごとく、一往に見て、おもひをやり過すべき君にあらずとなり、と云れど、さる意はなし、)○歌(ノ)意は思ひをよそに遣(リ)失ひて、止べき君にてあらぬことなるにとなり、
 
春日王歌一首《カスガノオホキミノウタヒトツ》。
 
春日(ノ)王は、三(ノ)卷に出づ、元暦本、古寫一本等に、志貴(ノ)皇子之子、母(ヲ)曰2多紀(ノ)皇女(ト)1也と註せり、
 
669 足引之《アシヒキノ》。山橘乃《ヤマタチバナノ》。色丹出而《イロニイデテ》。語言繼而《カタラバツギテ》。相事毛將有《アフコトモアラム》。
 
(536)山橘《ヤマタチバナ》は、品物解に具(ク)云り、古今集に、吾戀を忍ひかねてば足引の山橘の色に出ぬべし、現存六帖に、あし引の山橘の木がくれて身はいたづらになる世なりけり、又いはがねはみどりもあけもはえ色の山橘のときはかきはに、○語言繼而は、本居氏、此(ノ)まゝにては、結局にかなはず、言は者の誤にて、カタラバツギテ〔七字右○〕ならむと云り、○歌(ノ)意、本二句は序なり、色に顯はして、人目を憚らず、吾(ガ)思を語らば、繼てあふ事もあらむ、さなくては、繼てあふことはあるまじければ、今は人目をはゞからずして、色に出むとなり、
 
娘子〔二字各○で囲む〕《ヲトメガ》贈《オクレル》2湯原王《ユハラノオホキミニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
670 月讀之《ツクヨミノ》。光二來益《ヒカリニキマセ》。足疾乃《アシヒキノ》。山乎隔而《ヤマヲヘダテテ》。不遠國《トホカラナクニ》。
 
月讀は、ツクヨミ〔四字右○〕と訓べし、月夜《ツクヨ》、月讀《ツクヨミ》などいふときは、月をツク〔二字右○〕といふ例なり、(ツキヨ、ツキヨミ〔七字右○〕、といふはわろし、)古事記に、次(ニ)洗(タマフ)2右(ノ)御目(ヲ)1時、所成《マリマセル》神(ノ)名(ハ)月讀《ツクヨミノ》命、書紀に、次(ニ)生2月(ノ)神(ヲ)1、(一書(ニ)云、月弓《ツクユミノ》尊|月夜見《ツクヨミノ》尊、月讀《ツクヨミノ》尊、)○山乎隔而《ヤマヲヘダテテ》、乎(ノ)字、古寫一本には寸と作り、これに依ば、ヤマキヘナリテ〔七字右○〕と訓べけれどわろし、なほ舊本に從べし、○歌(ノ)意は、山を隔て遠き方にあらば、力《チカラ》なかるべし、さる山を隔て、遠きにあるにはあらぬことなるを、月の光をたよりにて、夜々通ひ來ませとなり、
ユハラノオホキミノコタヘタマヘルウタヒトツ
 
湯原王〔三字各○で囲む〕《ユハラノオホキミノ》和歌一首《コタヘタマヘルウタヒトツ》。
 
元暦本、古寫本等に、不v審2作者1と註《シル》し、古寫一本、拾穗本等には、作者未v詳としるせるは、皆舊本(537)の亂れたるによりて云るなり、此は決《キハメ》て湯原(ノ)王の和賜へる歌なるべし、
 
671 月讀之《ツクヨミノ》。光者清《ヒカリハキヨク》。雖照有《テラセレド》。惑情《マドヘルコヽロ》。不堪念《タヘジトゾモフ》。
 
歌(ノ)意は、いはるゝ如く、月の光は清明《キヨク》照してあれども、妹を思ふ心の闇にまどひてあれば、往て相見るには、得堪じとぞ思ふとなり、
 
安倍朝臣蟲麻呂歌一首《アベノアソミムシマロガウタヒトツ》。
 
672 倭文手纏《シヅタマキ》。數二毛不有《カズニモアラヌ》。壽持《ワガミモテ》。奈何幾許《イカデコヽダク》。吾戀渡《アガコヒワタル》。
 
倭文手纏《シヅタマキ》(文、舊本父に誤、今改、)は枕詞なり、倭文は借(リ)字にて、賤手纏《シヅタマキ》と云なるべし、賤と云るは、やゝ後ながら、今昔物語に、賤の鞍、賤の水干、賤の弓胡※[竹/録]など云る類の賤にて、其(ノ)品の賤しく下れるをいふ稱なるべし、手纏は、(苧《ヲ》だまき、卷子《ヘソ》の類を、いふには非ず、)古事記に左(ノ)御手之|手纏《タマキ》、集中十五に、多麻伎能多麻乎《タマキノタマヲ》などあるこれなり、さてその賤の手纏は、品下りて物數ならぬ由にて、數にも不v有とはつゞけたるならむ、(冠辭考に、倭文(ノ)布を織(ル)料の苧だまきは、數多き物故に、數とつゞけたり、と云るは當らず、いかにといふに、數多き物こそ多かるに、殊に倭文の苧だまきを、取出でいふべき所にもあらず、はた直《タヾ》に數てふ言|耳《ノミ》にかゝれる語(ノ)勢に非ず、かならず數にも不v有といふまでに、あづかるべき言にこそあれ、)○壽持は、略解に云、壽は、吾身二字の誤にて、ワガミモテ〔五字右○〕なるべし、卷(ノ)五に、しづたまき數にもあらぬ身二波あれどゝあ(538)ると、おなじつゞけさまなりと云り、持はモチ〔二字右○〕と訓べき例なり、(モテ〔二字右○〕とよめるは、いとわろし、)○歌(ノ)意は、物數にもあらぬ、賤しき吾(ガ)身なれば、吾をあはれとおもふ人もあらじ、さる賤しき身にして、何故に、そこばく人を戀しく思ひて、月日を經渡ぞ、かく戀しく思ひても、そのかひなき事なるをとなり、
 
大伴坂上郎女歌二首《オホトモノサカノヘノイラツメガウタフタツ》。
 
673 眞十鏡《マソカヾミ》。磨師心乎《トギシコヽロヲ》。縱者《ユルシテバ》。後爾雖云《ノチニイフトモ》。驗將在八方《シルシアラメヤモ》。
本(ノ)句は、上此(ノ)同郎女怨恨(ノ)長歌にもありて、其處に云り、かにもかくにも君が縱《マヽ》に、と委《ユダ》ね任《マカ》す意なり、○後爾雖云《ノチニイフトモ》は、後に悔て、とにかくいふともの意なり、○在(ノ)字、拾穗本には有と作り、○歌(ノ)意は、とぎみがきて曇りなき清心を、かにもかくにも、君が縱《マヽ》にと委ね任せてあらむに、もし後に君がこゝろがはりして、契をたがへたらむその時に、悔てとにかくいふとも、そのかひあるまじきなれば、はじめより委ね任せて、たのむべきにあらずとなり、
 
674 眞玉付《マタマツク》。彼此兼手《ヲチコチカネテ》。言齒五十戸常《イヒハイヘド》。相而後社《アヒテノチコソ》。悔|二〔□で囲む〕破有跡五十戸《クイニハアリトイヘ》。
 
眞玉付《マタマツク》は、緒といふ意につゞく枕詞なり、十二に、眞玉服遠兼念《マタマツクヲチコチカネテオモヘレバ》、一重衣一人服寢《ヒトヘコロモヲヒトリキテネヌ》、又|眞玉就越乞兼而結鶴《マタマツクヲチコチカネテムスビツル》、言下紐之所解日有米也《ワガシタヒモノトクルヒアラメヤ》などあり、○彼此兼手《ヲチコチカネテ》(手(ノ)字、拾穗本には而と作り、)は、今と行さきのことを、兼帶《カネ》て云意なり、○言齒五十戸常は、イヒハイヘド〔六字右○〕と訓べし、かへす(539)がへす云よしなり、○二(ノ)字は衍なるべし、○歌(ノ)意は、今も行さきも心は變らじ、と君はかへすがへすのたまへども、逢ての後にこそ、侮ることはありといふなれとなり、
 
中臣女郎《ナカトミノイラツメガ》。贈《オクレル》2大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチニ》1歌五首《ウタイツツ》。
 
中臣(ノ)女郎は、傳未(タ)詳ならず、
 
675 娘子部四《ヲミナヘシ》。咲澤二生流《サキサハニオフル》。花勝見《ハナカツミ》。都毛不知《カツテモシラヌ》。戀裳摺可聞《コヒモスルカモ》。
 
娘子部四《ヲミナヘシ》は、品物解に云、こゝは咲澤といはむ料の枕詞なり、十(ノ)卷に、姫部思咲野爾生白管自《ヲミナヘシサキヌニオフルシラツヽジ》、又、佳人部思咲野之芽子爾《ヲミナヘシサキヌノハギニ》などあり、又十一に、垣津旗開沼之菅乎《カキツバタサキヌノスゲヲ》、十二に、垣津旗開澤生菅根之《カキツバタサキザハニオフルスガノネノ》などあるも、同じさまのつゞけなり、これらに依て思ふに、七(ノ)卷に、姫押《ヲミナヘシ》生澤|邊之眞田葛原《ヘノマクズハラ》とあるも、生澤はサキサハ〔四字右○〕》なり、(古來此歌を、オフルサハヘノ〔七字右○〕と訓來しは誤なり、)生をサキ〔二字右○〕と訓ことは考證あり、彼(ノ)歌(ノ)下に具(ク)註べし、○咲澤《サキサハ》は、一(ノ)卷(ノ)未に、長(ノ)皇子與2志貴(ノ)皇子1、於2佐紀(ノ)宮1倶(ニ)宴(ス)とある佐紀なり、彼處に具(ク)云り、こゝは彼(ノ)地にある澤なり、○花勝見《ハナカツミ》は、花草(ノ)名、品物解に具(ク)註り、此までは都《カツテ》をいはむ料の序なり、○都毛不知《カツテモシラヌ》は、契冲、かつてと云ふに二(ツ)あり、曾(ノ)字、甞(ノ)字などを用ふるは、むかしといふ心なり、今都(ノ)字をかけるは、すべてといふ心なり、常に夢にもしらず、かつてしらずといふこれなり、日本紀に、此(ノ)都(ノ)字を、ふつにともよめり、世にひたすらみずきかずなどを、ふつにみずきかず、かつてみずきかずといふに同じ心なりと云り、其なり、(540)(但し曾甞などの字を、カツテ〔三字右○〕と訓て、むかしといふ心とするは、後(ノ)世漢籍訓には多けれども、古言にはなし、古言には、こゝの意のみに云り、)古事記に、火遠理(ノ)命以2海佐知1釣魚《ナツラスニ》、都《カツテ》不v得2一(ノ)魚(ヲモ)1、皇極天皇(ノ)紀に、都《カツテ》、績紀二十七詔に、此乃世間乃位乎婆《コノヨノナカノクラヰヲバ》、樂求多布事波都天無《ネガヒモトメタブコトハカツテナク》、此(ノ)集七(ノ)卷に、常者曾不念物乎《ツネハカツテオモハヌモノヲ》、十(ノ)卷に、木高者曾木不殖《コタカクハカツテキウヱジ》、十二に、繩乘乃名者曾不告《ナハノリノナハカツテノラジ》、十三に、戀云物者都不止來《コヒチフモノハカツテヤマズケリ》、十六に、吾待之代者曾無《アガマチシカヒハカツテナシ》などあり、○歌(ノ)意は、今までは、夢にもかつてしらざりし、くるしき戀をもする事哉となり、古今集に、陸奥の淺香の沼の花勝見且見る人に戀や渡らむとあるは、心|異《カハ》りたれど、序のさまは相似たり、現存六帖に、花勝見かつ見るからに物ぞ思ふつらき心のしげり増れば、又よしやたゞかりにもよらじ花勝見、かつ見なれなば亂れもぞする、
 
676 海底《ワタノソコ》。奥乎探目手《オキヲフカメテ》。吾念有《ワガモヘル》。君二波將相《キミニハアハム》。年者經十《トシハヘヌトモ》。
 
歌(ノ)意、かくれたるところなし、
 
677 春日山《カスガヤマ》。朝居雲乃《アサヰルクモノ》。鬱《オホヽシク》。不知人爾毛《シラヌヒトニモ》。戀物香聞《コフルモノカモ》。
 
歌(ノ)意、本(ノ)二句は序にて、かくれたるところなし、
 
678 直相而《タヾニアヒテ》。見而者耳社《ミテバノミコソ》。靈剋《タマキハル》。命向《イノチニムカフ》。吾戀止眼《アガコヒヤマメ》。
 
見而者耳社《ミテバノミコソ》は、見たらばこそ吾(ガ)戀止め、さらずは止じとつゞく意なり、耳《ノミ》と云るは、見たらば止(マ)む耳《ノミ》といふ心もて云るなり、さらでは、外に止べき爲方のなきよしなり、○命向《イノチニムカフ》は、(契冲(541)が、命にあたる心なり、命ばかり捨がたきものなきに、戀も思ひ捨がたきは、命に同じきなりと云り、誰も其(ノ)意に意得來つめれど、なほよくおもふに、さにはあらず、)向は、敵對の意に云るにて、俗言に、云ば、命を相手にしてといはむが如し、身命も失(セ)ば失(ス)ばかりに、つよくせめて戀る義なり、八(ノ)卷に玉切命向戀從者《タマキハルイノチニムカヒコヒムヨハ》、公之三舶乃梶柄母我《キミガミフネノカヂツカニモガ》、十二に、眞十鏡直目爾君乎見者許曾命對吾戀止目《マソカヾミタヾメニキミヲミテバコソイノチニムカフアガコヒヤマメ》などあり、○歌(ノ)意は直に見たらばこそ、命を相手にして、つよく戀しく思ふ吾(ガ)戀の止ことあらめ、さらずは外に止べき爲方はあらじとなり、〈さらずは外にと云に、耳《ノミ》の言の意こもれり、心を付べし、)
 
679 不欲常云者《イナトイハバ》。將強哉吾背《シヒメヤワガセ》。菅根之《スガノネノ》。念亂而《オモヒミダレテ》。戀管母將有《コヒツヽモアラム》。
                      
菅根之《スガノネノ》は、枕詞なり、十二に、玉葛無怠行核山菅乃《タマカヅラタエズユカサネヤマスゲノ》、思亂而戀乍將待《オモヒミダレテコヒツヽマタム》、十一に、山菅亂戀耳令爲乍《ヤマスゲノミダレコヒノミセシノツヽ》などあり、○母(ノ)字、拾穗本には毛と作り、○歌(ノ)意は、中々にはじめより、いなあはじといひはなちてあらば、いかでしひてはいはむ、吾夫《ワガセ》よ、吾もおもひ亂れながらにさても有なむをとなり、
 
大伴宿爾家持《オホトモノスクネヤカモチガ》。與《ト》2交遊《トモ》1久別歌三首《ヒサシクワカルヽウタミツ》。
 
久(ノ)字、舊本は脱たり、目録に從つ、
 
680 蓋毛《ケダシクモ》。人之中言《ヒトノナカゴト》。聞可毛《キカセカモ》。幾許雖待《コヽタクマテド》。君之不來益《キミガキマサヌ》。
 
(542)聞可毛《キカセカモ》は、聞賜へればか、さても待遠やの意なり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
681 中々爾《ナカ/\ニ》。絶年云者《タユトシイハバ》。如此許《カクバカリ》。氣緒爾四而《イキノヲニシテ》。吾將戀八方《アガコヒメヤモ》。
 
氣緒爾四而《イキノヲニシテ》は、氣緒《イキノヲ》は、生緒《イキノヲ》なるべし、四而《シテ》と云るは、生(ノ)緒にすることを、他事なくつよく物する意よりいふ言なり、○歌(ノ)意、なまなかに中絶むとのたまはゞ、かくまで命にかけて、戀しくは思ふまじきを、さても人を苦しましむることやとなり、
 
682 將念《オモフラム》。人爾有莫國《ヒトニアラナクニ》。懃《ネモゴロニ》。情盡而《コヽロツクシテ》。戀流吾毳《コフルワレカモ》。
 
將念《オモフラム》、一本には相念《アヒオモフ》とあり、いづれにてもあるべし、十一に、將念其人有哉烏玉之《オモフラムソノヒトナレヤヌバタマノ》、毎夜君夢西見所《ヨゴトニキミガイメニシミユル》とあり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
大伴坂上郎女歌七首《オホトモノサカノヘノイラツメガウタナヽツ》。
 
683 謂言之《モノイヒノ》。恐國曾《カシコキクニゾ》。紅之《クレナヰノ》。色莫出曾《イロニナイデソ》。念死友《オモヒシヌトモ》。
 
謂言之はモノイヒノ〔五字右○〕と訓べし、(イフコトノ〔五字右○〕とよめるはわろし、)拾遺集にも、こゝにしも何匂ふらむをみなへし人の物言さがにきく世に、とあり、○紅之は、古今集に、紅の色には出じ隱(レ)沼の、下に通ひて戀しき物を、十(ノ)卷に、外耳見筒戀牟紅乃《ヨソノミニミツヽヲコヒムクレナヰノ》、末採花乃色不出友《ウレツムハナノイロニイデズトモ》とあり、○歌(ノ)意は、人のものと言(ヒ)のおそろしき世ぞ、たとひ戀しくて、思ひ死に死ぬとても、色にあらはし賜ふことなかれとなり、(國は、世と聞べし、)
 
(543)684 今者吾波《イマハアハ》。將死與吾背《シナムヨワガセ》。生十方《イケリトモ》。吾二可縁跡《ワレニヨルベシト》。言跡云莫苦荷《イフトイハナクニ》。
 
言跡云莫苦荷《イフトイハナクニ》は、云ぬことなるにの意なり、上の言跡《イフト》は例の唯輕く添たる辭にて、云莫國《イハナクニ》といふに同じ、○歌(ノ)意は、今は死なむ、吾(ガ)夫よ、たとひ生ながらへてありとも、吾によるべしとは云(ハ)ぬとなるにとなり、
 
685 人事《ヒトゴトヲ》。繁哉君乎《シゲミヤキミヲ》。二鞘之《フタサヤノ》。家乎隔而《イヘヲヘダテテ》。戀乍將座《コヒツヽヲラム》。
 
二鞘之《フタサヤノ》は、通《キコ》え難し、(契冲は、二鞘は、先(ツ)表はかたなの鞘にて、其を喩にかりてよめるなり、日本紀第九に、七|枝《ザヤノ》刀一口七子(ノ)鏡一面などあり、なゝつさやならば、七鞘と有べきに七枝としもかけるは、鞘の惣體はひとつにて、刀七口をさせりとみゆ、たとへば一もとの木より、なゝつの枝わかれ出たるやうなれば、七枝と有なり、同じ日本紀に、兩枝船とかきて、ふたまたのふねとよめるを、准じて心得べし、紀氏六帖かたなの歌に、あふことのかたなさしたるなゝつこのさやかに人のこひらるゝかな、鞘の歌に、なゝつこのさやのくち/\つどひつゝ我をかたなにさして行なり、此(ノ)二首、日本紀の七枝刀といへるに同じ、かやうの鞘、今は聞えず、又ひとりして、刀七つさゝむものなし、これは今の世、かたな筥とて入おくを、むかしは七つこの鞘有て、さしおきけるにや、これに准ぜば、七口にかぎらず、おほくもすくなくもさすべし、さればこそ、此(ノ)歌ふたさやとよめるは、刀二腰をひとつさやに、口をかけごのやうにへだて(544)て、さしおくにたとへて、家をへだてゝとはよみけめ、此歌も、又六帖に、人ことをしげしや君にふたさやの家をへだてゝ戀しかるらむとて、さやの歌とせり、惣の心は、人の物いひのしげくてさがなき故にや、君をわれふたつさやの刀の、かけごのへだてられて、面々に身の有ごとくとなり、まぢかく有ながら逢こともえせで、よそにのみ戀つゝをらむの意なり、鞘を刀室といふは、人の家にあるにたとへたれば、家を鞘に喩へん事、勿論なりと云り、)今按(フ)に、書紀に、七枝《ナヽサヤノ》刀とあるによりて、つら/\思ふに今(ノ)世には聞えねど、古(ヘ)は刀釼をたくはへおくには、幹《カラ》をひとつ立て、それに刀室《サヤ》を多くも少くも附て、刀ををさめ置けるにや、(こは身に帶ときの事にはあらず、常に家にたくはへおくときのことなり、)そは下におけば、濕《シメリ》などにあたりて、いたむことのあるゆゑに、かくせしなるべし、さてその刀室《サヤ》の數によりて、七(ツ)あれば七佐夜《ナヽサヤ》といひ、二あれば、二佐夜《フタサヤ》といひて、三(ツ)四(ツ)幾筒にても、その數にしたがひて、幾|佐夜《サヤ》と云るならむ、かくてその刀室《サヤ》を幹《カラ》に附たるさまの、木の枝に似たる故に、書紀に、枝(ノ)字を書れしなるべし、さてその刀はいくつにても、一刀一刀各別に、刀室《サヤ》を隔て納れば、家を隔といはむとて、二鞘之とは云るにやあらむ、○歌(ノ)意は、君と一家に相住まほしくは思へども、人言の繁さに、家を隔て居て、戀しく思つゝのみあらむ歟となり、
 
686 比者《コノゴロハ》。千歳八往裳《チトセヤユキモ》。過與《スギニシト》。吾哉然念《ワレヤシカモフ》。欲見鴨《ミマクホリカモ》。
 
(545)比(ノ)字、古寫本に此と作るはわろし、○欲見鴨は、ミマクホリカモ〔七字右○〕と訓べし、(ミマクホシカモ〔七字右○〕、とよめるはわろし、)廿(ノ)卷に、見麻久保里香聞《ミマクホリカモ》とあり、○歌(ノ)意は、このごろ君に相見ずして、千歳の長さ間の過來にしや、と思ふは、さにはあらで、ひとへに相見まほしく思へばか、吾おもひなしにて、しか長き間を經しと思ふならむ、嗚呼さても戀しや、となり、
 
687 愛常《ウルハシト》。吾念情《ワガモフコヽロ》。速河之《ハヤカハノ》。雖塞塞友《セキハセクトモ》。猶哉將崩《ナホヤクエナム》。
 
雖塞々友は、セキハセクトモ〔七字右○〕と訓べし、おもふに、本は塞雖塞友とありけむが、顛倒《イリチガヒ》たるか、されど猶友(ノ)字は、餘れるに似たれど、雖干常《ホセド》と書ると同(シ)例なり、○歌(ノ)意は、深く愛しと吾(ガ)思ふ心は、たとへば速河の塞てもせかれぬ如く、やるせなき胸(ノ)中を、一(ト)たびは塞とゞめても、猶止まらずして、つひには思の溢れあまりて崩なむか、となり、
 
688 青山乎《アヲヤマヲ》。横〓雲之《ヨコギルクモノ》。灼然《イチシロク》。吾共咲爲而《ワレトヱマシテ》。人二所知名《ヒトニシラユナ》。
 
横〓雲之《ヨコギルクモノ》(〓(ノ)字、拾穂本には殺と作り、)は、灼然《イチシロク》といはむ料なり、○歌(ノ)意、契冲云、青山のいたく青みわたれるに、帶の如くよこぎれる白雲の、まぎれなきやうに、いちしろく、われに向ひてゑみて、さればよと、ひとにしらるな、となり、
 
689 海山毛《ウミヤマモ》。隔莫國《ヘダヽラナクニ》。奈何鴨《ナニシカモ》。目言乎谷裳《メコトダニモ》。幾許乏寸《コヽダトモシキ》。
 
目言《メコト》(目(ノ)字、古寫本に自と作るは誤、)は、既く二(ノ)卷に出づ、見ると言(フ)と二(ツ)なり、○歌(ノ)意は、海も山も、(546)隔りたるにはあらぬことなるに、何故なれば、見る事さへも、言をかはす事さへも、そこばく乏き事ぞ、せめてたゞしばしだに、見る事なりとも、いふことなりとも、かなふものならば、かくは苦しかるまじきを、といふなり、
 
大伴宿禰三依悲別歌一首《オホトモノスクネミヨリガワカレノウタヒトツ》。
 
690 照日乎《テラスヒヲ》。闇爾見成而《ヤミニミナシテ》。哭涙《ナクナミダ》。衣沾津《コロモヌラシツ》。干人無二《ホスヒトナシニ》。
 
照日乎は、テラスヒヲ〔五字右○〕と訓べし、本居氏は、日は月の誤にて、テルツキヲ〔五字右○〕なりと云り、○闇爾見成而《ヤミニミナシテ》は、成とは、變成にて、明なるものを、闇に見變《ミナス》よしなり、十二に、久將在君念爾久方乃清月夜毛闇夜耳見《ヒサニアラムキミヲオモフニキヨキツクヨモヤミノミニミツ》とあり、○干人無二《ホスヒトナシニ》は、九(ノ)卷に、三河之淵瀬物不落左堤刺爾衣手濕干兒波爾《ミツカハノフチセモオチズサデサスニコロモテヌレヌホスコハナシニ》ともあり、○歌(ノ)意は、照日の明なるをも闇に見|變《ナ》してなく、おびたゞしき涙に衣を沾しつるを、妹にわかれては、外に干(ス)べき人もあらねば、いかにとかせまし、となり、
 
大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチガ》。贈《オクレル》2娘子《ヲトメニ》1歌二首《ウタフタツ》。
 
691 百磯城之《モヽシキノ》。大宮人者《オホミヤヒトハ》。雖多有《オホケドモ》。情爾乘而《コヽロニノリテ》。所念妹《オモホユルイモ》。
 
歌(ノ)意は、大宮人の數々多くある中に、その容儀の常に吾(ガ)心の上にうかびて、愛しく思はるゝ妹ぞとなり、十一に、打日刺宮
道人雖滿行吾念公正一人《ウチヒサスミヤヂヲヒトハミチユケドアガモフキミハタヾヒトリノミ》、
 
692 得羽重無《ウハヘナキ》。妹二毛有鴨《イモニモアルカモ》。如此許《カクバカリ》。人情乎《ヒトノコヽロヲ》。令盡念者《ツクセルモヘバ》。
 
(547)令盡念者《ツクセルモヘバ》は、盡さしめたるを念へばの意なり、○歌(ノ)意は、かくばかり情をつくして、戀しく思はしめたるを念へば、さてもあいそなく、心づよき妹にてもある哉、となり、上の湯原(ノ)王(ノ)歌、これに大かた同じ、
 
大伴宿禰千室歌一首《オホトモノスクネチムロガウタヒトツ》。
 
千室は、傳未(タ)詳なちず、○首の下、舊本に未詳(ノ)二字あるは、後人の加筆なるべし、
 
693 如此耳《カクノミニ》。戀哉將度《コヒヤワタラム》。秋津野爾《アキヅヌニ》。多奈引雲能《タナビククモノ》。過跡者無二《スグトハナシニ》。
 
度(ノ)字、拾穗本には渡と作り、○秋津野は大和(ノ)國吉野(ノ)郡下市といふ地なりと云り、一(ノ)卷幸2于吉野宮1之時、人麻呂長歌に、花散相秋津乃野邊爾《ハナチラフアキヅノヌヘニ》とよめり、○歌(ノ)意は、思ひの過失るといふことはなしに、かくばかりに戀しく思ひつゝ、長き月日を渡らむか、となり、第三四(ノ)句は序のみなり、
 
廣河女王歌二首《ヒロカハノオホキミノウタフタツ》。
 
廣河(ノ)女王は、類聚抄、古寫本等に、穗積(ノ)皇子之孫女、上道(ノ)王之女也、と註せり、續紀に、寶字七年正月甲辰朔壬子、無位廣河(ノ)王(ニ)授2從五位下(ヲ)1とあるは、この女王なるべし、
 
694 戀草呼《コヒクサヲ》。力車二《チカラクルマニ》。七車《ナヽクルマ》。積而戀良苦《ツミテコフラク》。吾心柄《ワガコヽロカラ》。
 
戀草《コヒクサ》は、契冲云、只戀なり、草は、さま/”\の事につけていふ詞なり、此(ノ)集にも、目さまし草など(548)よめり、戀路のしげきをいふなり、○力車は、物を多く積て、力(ラ)人の引車なり、榮化物語に、又おほぢのかたを見れば、力(ラ)車にえもいはぬおほ木どもに、鋼をつけて、さけびのゝしりひきもてのぼる、○七車《ナヽクルマ》は、七《ナヽ》は數多きをいふ言にて、戀る心の多かるを、車に積ば、七車ばかりあるこゝろなり、狹衣に、七車積とも盡じ思ふにもいふにもあまるわが戀草は、鳥部山物語に、戀草は積とも盡ぬ七車の又めぐりあふこともやと、などあり、○吾心柄《ワガコヽロカラ》は、自2吾心1といふに同じくて、心(ノ)裏より眞實に思ふよしなり、○歌(ノ)意は、吾(ガ)心(ノ)裏より、眞實に戀しく思ふことの、繁く重き事をたとへていはゞ、物を力(ラ)人の引車、七軸《ナヽクルマ》に積たらむが如し、となり、此(ノ)歌六帖に、末(ノ)句を、積てもあまる吾(ガ)心かな、と改めて載たり、
 
695 戀者今葉《コヒハイマハ》。不有常吾羽《アラジトアレハ》。念乎《オモヘルヲ》。何處戀其《イヅクノコヒゾ》。附見繋有《ツカミカヽレル》。
 
戀者今葉《コヒハイマハ》は、八(ノ)卷に、時者今者春爾成跡《トキハイマハハルニナリヌト》とあると、同じ語勢なり、○念乎《オモヘルヲ》は、念ひつるにの意なり、○戀其《コヒゾ》は、戀歟《コヒカ》と云むが如し、○歌(ノ)意は、契冲云、月日を經しものおもひに、戀といふべきほどの意を盡しつれば、今は戀といふものはあらじとおもひしを、いづくのくまにかくれたる戀のありて、かくおそろしく、熊狼鷲くまだかなどの、つかみつく如くなるぞ、と俳諧によみたまへり、第十六穗積(ノ)親王の御歌に、家にありしひつにさうさしをさめてし戀の奴のつかみかゝりて、これも同じ心なり、つかむは、※[爪+國]攫などなり、
 
(549)石川朝臣廣成歌一首《イシカハノアソミヒロナリガウタヒトツ》。
石川(ノ)朝臣廣成、(川(ノ)字、拾穗本には河と作り、)類聚抄、古寫本、等に、後(ニ)賜2姓高圓(ノ)朝臣(ノ)氏(ヲ)1也、と註せり、(但類聚抄には、圓を岡と作り、袋册子に引るには向と作り、皆わろし、)續紀に、寶字二年八月朔、從六位上石川(ノ)朝臣廣成(ニ)授2從五位下(ヲ)1、四年二月壬寅、從五位下石川(ノ)朝臣廣成(ニ)賜2姓高圓(ノ)朝臣(ヲ)1、辛亥、從五位下高圓(ノ)朝臣廣成(ヲ)爲2文部少輔(ト)1、年五月壬辰、從五位下高圓(ノ)朝臣廣世(ヲ)爲2攝津(ノ)亮(ト)1、八年正月乙巳、從五位下高圓(ノ)朝臣廣世(ニ)授2從五位上(ヲ)1、己未、從五位上高圓(ノ)朝臣廣世(ヲ)爲2播磨(ノ)守(ト)1、景雲二年二月癸巳、從五位上高圓(ノ)朝臣廣世(ヲ)爲2周防(ノ)守(ト)1、六月乙巳、從五位上高圓(ノ)朝臣廣世(ヲ)爲2伊豫(ノ)守(ト)1、寶龜元年十月甲寅、伊豫(ノ)守從五位上高圓(ノ)朝臣廣世(ニ)授2正五位下(ヲ)1、とあり、廣世は後に廣成を改めしなるべし、
 
696 家人爾《イヘヒトニ》。戀過目八方《コヒスギメヤモ》。河津鳴《カハヅナク》。泉之里爾《イヅミノサトニ》。年之歴去者《トシノヘヌレバ》。
 
泉之里《イヅミノサト》は、山城(ノ)國相樂(ノ)郡泉川のあたりなり、○歌(ノ)意は、家人を戀しく思ふ思ひを、遺失はむと思へども、泉(ノ)里に別れ來て、年を久しく歴ぬれば、たやすく思ひ過し失はるゝ事にてなし、さても苦しやとなり、此は天平十二年の冬、奈良の京より、久邇の都へうつらせ賜ひて後、年を超て、奈良の故郷にとゞまれる妻をおもひて、よめるなるべし、
 
大伴宿禰像見謌三首《オホトモノスクネカタミガウタミツ》。
 
(550)697 吾聞爾《ワガキヽニ》。繋莫言《カケテナイヒソ》。刈薦之《カリコモノ》。亂而念《ミダレテオモフ》。君之直香曾《キミガタヾカゾ》。
 
吾聞爾は、アガキヽニ〔五字右○〕と訓るよろし、(ワガキクニ〔五字右○〕と訓むはわろし、)○刈薦之《カリコモノ》は、亂の枕詞なり、○直香曾《タヾカソ》、(曾(ノ)字、拾穗本には乎と作り、)直香は、すべて人のうへの實事を、此方にて聞ことに云り、本居氏、集中に見えたる多太加《タダカ》といふ詞と、麻佐加《マサカ》といふ詞と、まぎらはしきが如し、そは、まづ多太加《タダカ》の方は、君之直香《キミガタヾカ》、公之正香《キミガタヾカ》、吉美賀多太可《キミガタダカ》、妹之直香《イモガタヾカ》、妹之正香《イモガタヾカ》などありて、此(ノ)外のいひざまはなし、麻佐加《マサカ》の方は、直坂者君爾縁西物乎《マサカハキミニヨリニシモノヲ》、また何時之眞坂毛常不所忘《イツノマサカモツネワスラエズ》、また麻左香毛可奈思《マサカモカナシ》、また麻左可思余加婆《マサカシヨカバ》、また伊未能麻左可母《イマノマサカモ》などありて、多太加とはいひざまいたく異なり、さて多太加とは、君また妹を、直にさしあてゝ云る言にて、君妹とのみいふも、同じことに聞ゆるなり、麻佐加とは、行末に對へて、今さしあたりたる時を云り、と云り、(猶玉勝間八(ノ)卷に具し、)○歌(ノ)意は、君がうへの事を、とありしかくありしなど、吾(ガ)聞時に、言葉にかけて、ゆめゆめ言出ることなかれ、思亂れてあるをりなれば、君がうへの事をきゝては、いよいよ堪がたければぞ、となり、
 
698 春日野爾《カスガヌニ》。朝居雲之《アサヰルクモノ》。敷布二《シクシクニ》。吾者戀益《アハコヒマサル》。月二日二異二《ツキニヒニケニ》。
 
本(ノ)二句は序にて、雲の幾重ともなく重なるをもて、重々《シク/\》にといひつゞけたり、○吾者戀益は、
アハコヒマサル〔七字右○〕と訓べし、○異の下二(ノ)字、舊本一に誤、古寫本、拾穗本等に從つ、○歌(ノ)意かくれ(551)たるところなし、
 
699 一瀬二波《ヒトセニハ》。千遍障良比《チタビサヤラヒ》。逝水之《ユクミヅノ》。後毛將相《ノチニモアハム》。今爾不有十方《イマナラズトモ》。
 
後毛將相は、ノチニモアハム〔七字右○〕と訓べし、十二に、高湍爾有能登瀬乃河之後將合妹者吾者今爾不十方《コセナルノトセノカハノノチモアハムイモニハアレハイマナラズトモ》、此(ノ)下に、云云人者雖云若狹道後瀬山之後毛將合妹《カニカクニヒトハイフトモワカサヂノノチセノヤマノノチモアハムイモ》とあり、○歌(ノ)意は、岩などに塞れて、一瀬のうちに千度も障りつゝ逝水の、此方彼方に別れても、末は一(ツ)に流れあふごとく、今ならずとも、後つひにはよりあはむぞ、となり、崇徳天皇(ノ)御製に、瀬を速み岩に塞るゝ瀧河の分《ワレ》ても末に逢むとぞ思ふ、とある心なり、
 
大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチガ》。到《イタリテ》2娘子之門《ヲトメノカドニ》1作歌一首《ヨメルウタヒトツ》。
 
700 如此爲而哉《カクシテヤ》。猶八將退《ナホヤマカラム》。不近《チカヽラヌ》。道之間乎《ミチノアヒダヲ》。煩參來而《ナツミマヰキテ》。
 
如此爲而哉《カクシテヤ》は、爲而《シテ》は、うけはりて物する意の詞、哉《ヤ》は、輕く添たる辭なり、しからざれば、猶八《ナホヤ》の八《ヤ》に重りて、まぎらはしきなり、例は二(ノ)卷に具(ク)云り、○猶八將退《ナホヤマカラム》は、猶は借(リ)字にて、五(ノ)卷令v反2惑情(ヲ)1長歌の反歌に、比佐迦多能阿麻遲波等保斯奈保奈保爾伊弊爾可弊利提奈利乎斯麻佐爾《ヒサカタノアマヂハトホシナホナホニイヘニカヘリテナリヲシマサニ》、とある奈保《ナホ》と同言にて、云々せむと思ふことを黙止《モダ》りて、徒《タヾ》に打過ることをいふ言なり、○歌(ノ)意は、遠き道の間をからうじて、かにかく苦惱《ナヅミ》まぬり來てあるなれば、思ふ如く妹にあひ見てあらば、そのかひあるべきに、かくの如くして、妹にあふことをも得爲ず、黙止りて空(552)しく徒に罷りかへらむ、となり、
 
河内百枝娘子《カフチノモヽエヲトメガ》。贈《オクレル》2大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチニ》1歌二首《ウタフタツ》。
 
河内(ノ)百枝娘子は、傳未(タ)詳ならず、河内は氏、百枝は字か、
 
701 波都波都爾《ハツハツニ》。人乎相見而《ヒトヲアヒミテ》。何將有《イカニアラム》。何日二箇《イヅレノヒニカ》。又外二將見《マタヨソニミム》。
 
波都波都爾《ハツハツニ》は、小端《ハツ/\》になり、七(ノ)卷に、是山黄葉下花矣我小端見反戀《コノヤマノモミチノシタニサクハナヲアレハハツ/\ミツヽコフルモ》、十四に、久敝故之爾武藝波武古馬能波都波都爾安比見之兒良之安夜爾句奈思母《クヘコシニムギハムコマノハツハツニアヒミシコラシアヤニカナシモ》などあり、○何將有《イカニアラム》は、五(ノ)卷琴(ノ)娘子(ノ)歌に、伊可爾安良武日能等伎爾可母《イカニアラムヒノトキニカモ》とあり、○歌(ノ)意は、小端《ハツ/\》に相見てし其(ノ)人を、いづれいかならむ日にか、又更に外《ヨソ》ながらにも見む、となり、(契冲が、又いづれの日にか、よそ人に見なさむ、とおぼつかなく思ふなり、と云るは、甚わろし、)
 
702 夜干玉之《ヌバタマノ》。其夜乃月夜《ソノヨノツクヨ》。至于今日《ケフマデニ》。吾者不忘《アレハワスレズ》。無間苦思念者《マナクシモヘバ》。
 
其夜乃月夜《ソノヨノツクヨ》は、相見し其(ノ)夜の月夜より、といふなり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、六帖に、うば玉のその夜の月は今までも我は忘れず君によそへて、と載たり、
 
巫部麻蘇娘子歌二首《カムコベノマソヲトメガウタフタツ》。
 
巫部麻蘇娘子は、傳未(タ)詳ならず、巫部は氏、麻蘇は字ならむ、續紀、姓氏録等に、巫部(ノ)宿禰の姓あり、
 
(553)703 吾背子乎《ワガセコヲ》。相見之其日《アヒミシソノヒ》。至于今日《ケフマデニ》。吾衣手者《ワガコロモテハ》。乾時毛奈志《ヒルトキモナシ》。
 
其日《ソノヒ》は、其日《ソノヒ》より、と云むが如し、○歌(ノ)意かくれなし、
 
704 栲繩之《タクナハノ》。永命乎《ナガキイノチヲ》。欲苦波《ホシケクハ》。不絶而人乎《タエズテヒトヲ》。欲見社《ミマクホリコソ》。
 
栲繩之《タクナハノ》は、永の枕詞なり、○欲見社は、ミマクホリコソ〔七字右○〕と訓べし、(ミマクホシミコソ〔八字右○〕とよめるはわろし、)○歌(ノ)意は、身命の長からむことを、欲(リ)することは、絶ずして、いつまでも吾背子を、相見まく欲してにこそあれ、となり、(契冲(カ)説は、むつかしくてまぎらはし、)
 
大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチガ》。贈《オクレル》2童女《ヲトメニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
類聚抄に、童の下に、郎(ノ)字あり、
 
705 葉根※[草冠/縵]《ハネカヅラ》。今爲妹乎《イマセスイモヲ》。夢見而《イメニミテ》。情内二《コヽロノウチニ》。戀度鴨《コヒワタルカモ》。
 
葉根※[草冠/縵]《ハネカヅラ》(※[草冠/縵](ノ)》字、拾穗本には蔓と作り、)は、古(ヘ)女の髪(ノ)飾にせしものなり、其はいと幼稚《ヲサナ》きほどにはすることなくて、漸く長《ヒトヽナ》るほどより、せしものと見えたり、其(ノ)製の詳なることは知がたし、(契冲が、花※[草冠/縵]なりと云るは、推當なり、)七(ノ)卷に、波禰※[草冠/縵]今爲妹乎酒若三去率來河之音之清左《ハネカヅライマスルイモヲウラワカミイザイザカハノオトノサヤケサ》、十一に、波禰※[草冠/縵]今爲妹之浦若見咲見慍見著四紐解《ハネカヅライマスルイモガウラワカミヱミミイカリミツケシヒモトク》、源平盛衰記十(ノ)卷(鬼界島の事を云る所、)に、さる程に、島の住人と覺しくて、木の皮をはねかづらとして額に卷、赤裸にてむつきをかき、身には毛太く長く生て、長は六七尺許なる者ぞ遇たりけるとあり、彼(ノ)頃までは其(ノ)製も傳り、を(554)り/\はせし人もありしとおぼゆ、○今爲妹乎はイマセスイモヲ〔七字右○〕と訓べし、今は今新に爲出たる義なり、此(ノ)下に、今所知久邇乃京爾《イマシラスクニノミヤコニ》、六(ノ)卷に、今造久邇乃王都者《イマツクルクニノミヤコハ》、七(ノ)卷に、今造斑衣服《イマツクルマダラノコロモ》、八(ノ)卷に、今造久邇能京爾《イマツクルクニノミヤコニ》、十二に、新治今作路《ニヒバリノイマツクルミチ》、十四に、信濃道者伊麻能波里美知《シナヌヂハイマノハリミチ》、廿(ノ)卷に、今替爾比佐伎母利我《イマカハルニヒサキモリガ》などある、今に同じ、後までも新熊野《イマクマヌ》、今參《イママヰリ》など云り、爲《セス》は、爲賜ふと云むが如し、童女なれど其(ノ)人に贈れる故に、敬ひて云るなり、漸く人と成て、今新に葉根※[草冠/縵]したまふ妹をとなり、○歌(ノ)意は、髪(ノ)飾に葉根※[草冠/縵]を、今新に爲賜ふばかりの其方を、夢にさへ見て、情の中に戀しく思ひて、月日を經渡る哉、となり
 
童女來報歌一首《ヲトメガコタフルウタヒトツ》。
 
706 葉根※[草冠/縵]《ハネカヅラ》。今爲妹者《イマセルイモハ》。無四乎《ナキモノヲ》。何妹其《イヅレノイモゾ》。幾許戀多類《コヽダコヒタル》。
 
無四乎、(乎(ノ)字、拾穗本には呼と作り、)四は物の誤にてナキモノヲ〔五字右○〕ならむ、と本居氏云り、○歌(ノ)意は、我は未(タ)童女なれば、葉根※[草冠/縵]する年比には至らざるなり、さればこゝには、いまだ葉根※[草冠/縵]する妹は無ものを、しかのたまふは、何れの妹をぞこらく戀給ふことぞ、吾(ガ)ことにはあらじをと云るなり、(略解の説は、いとわろし、)
 
粟田娘子《アハタノヲトメガ》。贈《オクレル》2大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチニ》1歌二首《ウタフタツ》。
 
粟田(ノ)娘子は、傳未(タ)詳ならず、娘の下、類聚抄に女(ノ)字あり、
 
(555)707 思遣《オモヒヤル》。爲便乃不知者《スベノシレネバ》。片※[土+完]之《カタモヒノ》。底曾吾者《ソコニゾアレハ》。戀成爾家類《コヒナリニケル》。
 
片※[土+完]《カタモヒ》は、合子などの如く、蓋ある※[土+完]《モヒ》に對へて、蓋なきをいふなるべし、片盤といふも、片の意は同じ、神祇式に、供2神今食(ニ)1料、土片枕廿口、大膳式に、松尾神祭雜給料、片※[土+完]八十七口、大原野祭雜給料、片※[土+完]四十八口、など見ゆ、※[土+完]は和名抄に、説文(ニ)云、※[怨の心が皿](ハ)小孟也、字亦作v椀辨色立成云、末里《マリ》俗(ニ)云(ク)毛比《モヒ》、(毛比といふは、いと古(キ)名なるを、俗云としも云るは、甚非なり、)古事記に、玉器《タマモヒ》、書紀神代(ノ)卷に、玉※[金+宛]《タマモヒ》、玉壺《タマモヒ》、玉瓶《タマモヒ》、武烈天皇(ノ)卷(ノ)歌に、※[木+施の旁]摩暮比《タマモヒ》、等由氣(ノ)宮儀式帳に、御水|四毛比《ヨモヒ》、御水|六毛比《ムモヒ》、などあり、※[土+完](ノ)字は、椀に同じ、古(ヘ)もはら土にて製《ツク》りしゆゑに、字多くは土に從《ヨレ》り、又※[金+宛]碗なども作り、これらも皆其(ノ)製れる物によりて作《カケ》る字なり、鉾を桙、鞍を※[木+安]と作るなども、其(ノ)例なり、又宛と完と通(シ)作ることも古(ヘ)多かり、院を宛とも書るなど其(レ)なり、(然るを略解に、こゝの※[土+完]は椀の誤也と云るは、中々にわろし、)さて本居氏、片※[土+完]は、たゞ底といはむ料のみなり、さて底になるとは、戀の至り極れると云なり、書紀に、底寶とあるも、寶の至極と云なりといへり、○歌(ノ)意は、思(ヒ)を遺失ふすべの知れねば、日(ニ)月(ニ)に思増て、このほどは戀の至り極りて、いともせむ方なく、苦しき物にぞなれりける、となり、
 
708 復毛將相《マタモアハム》。因毛有奴可《ヨシモアラヌカ》。白細之《シロタヘノ》。我衣手二《ワガコロテニ》。齋留目六《イハヒトヾメム》。
 
因毛有奴可《ヨシモアラヌカ》は、因もあらねかしとねがふ意なり、○齋留目六《イハヒトヾメム》は、衣手に夫(ノ)君をいはひまじな(556)ひ留めて、いつまでも放ち遣じとなり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
豐前國娘子大宅女歌一首《トヨクニノミチノクチノヲトメオホヤケメガウタヒトツ》。
 
大宅女は、傳未(タ)詳ならず、大宅は娘子(ノ)字《ナ》なり、(略解に、大宅は氏なるべしと云るは、ひがことなり、)古寫一本に、未v審(セ)2姓氏(ヲ)1、と註《イヘ》り、此(ノ)娘子(ノ)歌、六(ノ)卷にも出たり、其處にも、娘子字曰2大宅(ト)1姓氏未v詳也と註《イヘ》り、(これにて字なることしるし、)九(ノ)卷に、豐前(ノ)國娘子紐(ノ)兒などある類なり、
 
709 夕闇者《ユフヤミハ》。路多豆多頭四《ミチタヅタヅシ》。待月而《ツキマチテ》。行吾背子《イマセワガセコ》。其間爾母將見《ソノマニモミム》。
 
行吾背子は、イマセワガセコ〔七字右○〕と訓べし、行《イマセ》は、、行(キ)坐(セ)といふに同じ、吾背子は、吾(ガ)夫子よと云むが如し、さて行ことをも、來ことをも、居ことをも、古言にはいますと云り、俗言《ツネコト》に御出被v成といふに全同じ、(俗に崇《アガ》めて云ときは、某處へ行(ケ)といふことを、某處に御出被v成、某處へ來れといふことを、某處に御出被v成某處に居(レ)といふことを、其處に御出被v成といふと、全(ラ)同(シ)例なり、)行ことに云るは、三(ノ)卷に、好爲而伊麻世荒其路《ヨクシテイマセアラキソノミチ》、此(ノ)上に、彌遠君之伊座者《イヤトホクキミガイマサバ》、十五に、大船乎安流美爾伊太須伊麻須君《オホフネヲアルミニイダシイマスキミ》、又|多久夫須麻新羅邊伊麻須《タクブスマシラギヘイマス》、廿(ノ)卷に、安之我良乃夜敝也麻故要且伊麻志奈婆《アシガラノヤヘヤマコエテイマシナバ》などある是なり、猶甚多し、(略解に、いませは、いにませなりと云るは、例のいと偏れる説なり、)○歌(ノ)意は、夕闇は道くらくてたど/\しければ、月の出るを待て行坐(セ)吾(ガ)夫子よ、しばしその留まれる間になりとも、見まゐらせむぞ、となり、此(ノ)歌新勅選集に、四(ノ)句をかへれ吾背子と(557)て載たり、
 
安都靡娘子歌一首《アトノトビラヲトメガウタヒトツ》。
 
安都(ノ)靡娘子は、傳未(タ)詳ならず、安都は氏なり、此(ノ)上に安都《アトノ》宿禰年足とも見えたり、扉は字《ナ》なるべし、上に巫部《氏》(ノ)麻蘇《字》娘子などある類なり、扉は、トビラ〔三字右○〕と訓べきか、(玉篇に、扉(ハ)扇《トビラ》也、とあり、)女の字にはめづらし、故(レ)強て考(フ)るに、雄略天皇(ノ)紀に、倭(ノ)國吾礪(ノ)廣津(ノ)邑(廣津此(ニ)云2比廬岐頭《ヒロキヅト》1、)とあれば、安都廣津《アトノヒロキヅノ》娘子なりけむが、廣を扉に誤り、津を脱したるにはあらざるか、さらば坂上(ノ)郎女など云る類に、住處の地(ノ)名をもて、女(ノ)字に呼なせるものとすべし、されどこれは試にいふのみなり、
 
710 三空去《ミソラユク》。月之光二《ツキノヒカリニ》。直一目《タヾヒトメ》。相三師人之《アヒミシヒトノ》。夢西所見《イメニシミユル》
 
三空去《ミソラユク》は、御空往なり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
丹波大女娘子歌三首《タニハノオホメヲトメガウタミツ》。
 
丹波(ノ)大女娘子は、傳未(タ)詳ならず、丹波は氏、大女(女(ノ)字、舊本に脱、目録、又古寫本、拾穗本等に從つ、)は、字《ナ》なるべし、
 
711 鴨鳥之《カモトリノ》。遊此池爾《アソブコノイケニ》。木葉落而《コノハチリテ》。浮心《ウカベルコヽロ》。吾不念國《アガモハナクニ》。       、
 
本(ノ)句は、浮をいはむ科の序なり、○浮心《ウカベルコヽロ》は、浮たゞよひて、眞のなき心を云、○歌(ノ)意かくれなし、
 
(558)712 味酒呼《ウマサケヲ》。三輪之祝我《ミワノハフリガ》。忌杉《イハフスギ》。手觸之罪歟《テフリシツミカ》。君二遇難寸《キミニアヒガタキ》。
 
味酒呼《ウマサケヲ》(呼(ノ)字、拾穗本、官本等には乎と作り、)は、三輪の枕詞なり、○三輪之祝《ミワノハフリ》は三輪(ノ)大神の祭祀《マツリ》を掌《トリ》つかへ奉る職の人を云、神代紀に、草薙(ノ)御釼のことを、熱田祝部所掌之神是《アツタノハフリガイツキマツルカミナリ》也、(熱田(ノ)大神の祭祀につかへ奉る職の人なり、)古事記垂仁天皇(ノ)條に、座2出雲之石※[土+回]之|曾《ソノ》宮(ニ)1、葦原色許男(ノ)大神(ヲ)以伊都玖祝之《モチイツクハフリガ》云々、(葦原色許男(ノ)大神の祭祀につかへ奉る職の人なり、)書紀神功皇后(ノ)卷に、小竹祝《シヌノハフリ》、天野祝《アマヌノハフリ》なども見ゆ、欽明天皇(ノ)卷に、天皇命2神祇(ノ)伯(ニ)1、敬(テ)愛(シム)2策(ヲ)於神祇(ニ)1、祝者《ハフリ》廼(チ)託《ヨリテ》2神語《カムコトニ》1報曰《マヲサク》云云、ともあり、職員令義解に、祝部《ハフリハ》、謂爲(メニ)2祭主(ノ)1賛辭(スル)者也、とありて、その祭主は職掌にはあらず、祭をなす主人のことなとりと本居氏の云る如し、賛辭は祝詞の類なり、かくて神主《カムヌシ》祝部《ハフリ》とならべいふときは、神主《カムヌシ》は、其(ノ)神に親《チカ》く仕(ヘ)奉る人を云(ヒ)、祝部《ハフリ》は、其(ノ)社の事執(ル)人を云ことなれど、上(ツ)代にいへるは、後に神主《カムヌシ》祝部《ハフリ》禰宜《ネギ》内人《ウチヒト》など云類をおしこめて、すべて祭祝《マツリ》のこと掌《トル》人を云りときこえたり、集中に、祝部等之齋三諸乃住吉爾伊都久祝之《ハフリラガイハフミモロノスミノエニイツクハフリガ》などいへる、みな其(レ)なり、(俗に社人社家などいふ如く、總號と見てあるべし、さて祝部《ハフリ》といふを、氏《ウヂ》とし姓《カバネ》としたることも、ややふるく見えたれど、もとは然らず、神職《カムヅカサ》の人を總《ナベ》ていへりしなり、)さて波布利《ハフリ》てふ假字の正しく見えたるは、山城(ノ)國相樂(ノ)郡祝園郷を、古事記に、波布理曾能《ハフリソノ》、和名抄に、上野(ノ)國新田(ノ)郡祝人(ノ)郷、波布利《ハフリ》、などある是なり、名(ノ)義はいかならむ、詳に思得ず、(谷川氏、はふりは、羽振《ハフリ》の義なる(559)べし、羽は衣袖のことなり、立まふ袖などいふ意ならむ、と云れど、いかゞならむ、)祝《ハフリ》の事、なほ古事記傳二十二に云るをも、合(セ)見て考(フ)べし、○忌杉《イハフスギ》は、神杉にて、人の手など觸しめざらむ爲に、標繩引延などして、神主部が齋おける杉なり、七(ノ)卷旋頭歌に、三幣取神之祝之鎭齋杉原燎木伐殆之國手斧取奴《ミヌサトリカミノハフリガイハフスギハラタキギキリホト/\シクニテヲノトラエヌ》、十三に、神名備能三諸之山丹隱藏杉《カムナビノミモロノヤマニイハフスギ》なども見えたり、○手觸之は、テフリシ〔四字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、三輪の神官等がいはひおける、ゆゝしき、其(ノ)神杉に、誤て手觸しことのありし、其(ノ)祟を蒙ふれる故にや、吾(ガ)?るかひなくして、君に逢ことの難きよ、となり、
 
713 垣穗成《カキホナス》。人辭聞而《ヒトゴトキヽテ》。吾脊子之《ワガセコガ》。情多由多比《コヽロタユタヒ》。不合頃者《アハヌコノゴロ》。
 
垣穗成《カキホナス》は、契冲云、垣穗は物をへだつるものなり、成《ナス》は、日本紀に、如の字をなすとよめれば、垣ほのごとき人ごとなり、おもひ合せむとする男女の中を、とかくいひ隔て遠ざくるを、垣穗なす人辭と云り、(已上)九(ノ)卷に、垣保成人之横辭繋香裳不遭日數多月乃經良武《カキホナスヒトノヨコゴトシゲミカモアハヌヒマネクツキノヘヌラム》、又|垣廬成人之誂時《カキホナスヒトノトフトキ》、十一に、垣塵成人雖云《カキホナスヒトハイヘドモ》などあり、○歌(ノ)意は、垣穗の如くいひ隔て、男女の中を遠ざけむとする人の讒言《ヨコゴト》を聞て、吾(ガ)夫子が心を、豫贈不定《ユタユタ》とあやぶみうたがひて、頃者相見ず、となり、
 
大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチガ》。贈《オクレル》2娘子《ヲトメニ》1歌七首《ウタナヽツ》。
 
714 情爾者《コヽロニハ》。思渡跡《オモヒワタレド》。縁乎無三《ヨシヲナミ》。外耳爲而《ヨソノミニシテ》。嘆曾吾爲《ナゲキゾアガスル》。
 
思渡跡《オモヒフタレド》は、戀しく思ひて、月日を經渡れどもの意なり、○縁乎無三《ヨシヲナミ》は、遇べき所縁が無(キ)故にの(560)意なり、○爲而《シテ》は、うけはりて物する詞なり、上にたびたび出、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
715 千鳥鳴《チドリナク》。佐保乃河門之《サホノカハトノ》。清瀬乎《キヨキセヲ》。馬打和多思《ウマウチワタシ》。何時將通《イツカカヨハム》。
 
馬打和多思《ウマウチワタシ》は、馬を鞭にて打て令《シ》v渡といふなり、○何時將通《イツカカヨハム》は、娘子の心とけて、何時か、吾(ガ)通ふべくならむの意なり、○歌(ノ)意かくれなし、
 
716 夜晝《ヨルヒルト》。云別不知《イフワキシラニ》。吾戀《アガコフル》。情蓋《コヽロハケダシ》。夢所見寸八《イメニミエキヤ》。
 
歌(ノ)意は、晝夜といふわかちもしらずに、ひとへに(ガ)戀しく思ふ心は、もし其方の夢に見えけりやと、娘子に問なり、
 
717 都禮毛無《ツレモナク》。將有人乎《アルラムヒトヲ》。獨念爾《カタモヒニ》。吾念者《アレハオモヘバ》。惑毛安流香《メグシクモアルカ》。
 
都禮毛無《ツレモナク》とは、情おくれていとほしむべきことをも、よく堪しのびて、さりげなくするを云ことばなり、俗に氣づよくと云が如し、十(ノ)卷に、秋田之穗向之所依片縁吾者物念都禮無物乎《アキノタノホムキノヨレルカタヨリニアレハモノモフツレナキモノヲ》、十三に、※[さんずい+内]浪來依濱丹津烈裳無偃有公賀家道不知裳《ウラナミノキヨスルハマニツレモナクコヤセルキミガイヘヂシラズモ》、十九に、山吹乃花執持而都禮毛奈久可禮爾之妹乎之努比都流可毛《ヤマブキノハナトリモチテツレモナクカレニシイモヲシヌヒツルカモ》、又|都禮母奈久可禮爾之毛能登人者雖云不相日麻禰美念曾吾爲流《ツレモナクカレニシモノトヒトハイヘドアハヌヒマネミオモヒゾアガスル》などあり、○獨念爾(獨(ノ)字、舊本狩に誤、古寫一本、拾穗本、古寫本等に從つ、)は、カタモヒニ〔五字右○〕なり、○惑毛受流香は、惑は愍(ノ)字の寫誤にてメグシクモアルカ〔八字右○〕か、めぐしくといふは俗にむごらしくといふに同じ、十一に、人毛無古郷爾有人乎愍久也君之戀爾令死《ヒトモナキフリニシサトニフルヒトヲメグクヤキミガコヒニシナセム》とあり、○歌(ノ)意は、吾(561)をば何ともおもはず、つれなくてあるらむ其(ノ)人を、吾は片思に、ひとへに嬉しくのみ思ひてあるを、しかつれなくて、かやうに思はしむるは、さてもむごらしくもある哉、となり、
 
718 不念爾《オモハヌニ》。妹之咲※[人偏+舞]乎《イモガヱマヒヲ》。夢見而《イメニミテ》。心中二《コヽロノウチニ》。燎管曾呼留《モエツヽゾヲル》。
 
不念爾《オモハヌニ》は、念ひがけなきになり、○燎管曾呼留《モエツヽゾヲル》は、十七思2放逸鷹(ヲ)1夢(ニ)見(テ)感悦(ヒテ)作歌に、心爾波火佐倍毛要都追《コヽロニハヒサエモエツツ》、新撰萬葉に、人緒念心之熾者身緒曾燒烟立砥者不見沼物※[韓の旁が誇の旁]《ヒトヲオモフコヽロノオキハミヲゾヤクケブリタツトハミエヌモノカラ》などあり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
719 丈夫跡《マスラヲト》。念流吾乎《オモヘルアレヲ》。加此許《カクバカリ》。三禮二見津禮《ミツレニミツレ》。片思男責《カタモヒヲセム》。
 
吾乎《アレヲ》は、吾なるものをの意なり(俗に、吾ぢやにといはむが如し、三禮二見津禮《ミツレニミツレ》は羸《ミツ》るゝ事の絶ず甚しきをいふなり、三禮《ミツレ》は、やつれつかるゝを云、十(ノ)卷に、香細寸花橘乎玉貫將送妹者三禮而毛有香《カグハシキハナタチバナヲタマニヌキオクラムイモハミツレテモアルカ》、書紀に、羸《ミツレ》とあり、○歌(ノ)意は、かねては、いみじくしたゝかなる大丈夫《マスラタケヲ》ぞと、我身ながらも、ものだのもしく、思ひほこりてありし吾なるものを、そのかひもなく、かくばかりめめしく甚《イタ》くやつれて、片思をしつゝあらむ、となり、
 
720 村肝之《ムラキモノ》。情摧而《コヽロクダケテ》。却此許《カクバカリ》。余戀良苦乎《アガコフラクヲ》。不知香安類良武《シラズカアルラム》。
 
情摧而《コヽロクダケテ》(情(ノ)字舊本於に誤、古寫本、拾穗本、等に從つ、)は、十(ノ)卷に、雨零者瀧津山川於石觸君之摧情者不持《アメフレバタギツヤマガハイハニフリキミガクダカムコヽロハモタジ》、十二に、從聞物乎念者我胸者《キヽシヨリモノヲオモヘバ》、破而摧而鋒心無《ワガムネハワレテクダケテトコヽロモナシ》などよめり、、(遊仙窟に、心肝恰(モ)欲v摧、)(562)○苦(ノ)字、拾穗本には久と作り、○歌(ノ)意は、心肝も破て摧けて、かくばかり吾(ガ)戀しく思ふ事を、妹はそれともしらずてあるらむか、となり、
 
獻《タテマツレル》2天皇《スメラミコトニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
獻歌は、拾穗本に、大伴(ノ)坂上(ノ)郎女、とあり、又古寫本に、大伴(ノ)坂上(ノ)郎女在2佐保(ノ)宅(ニ)1作也、と註せり、契冲云、下にまた獻2天皇(ニ)1歌とて二首あり、ともに作者を出さず、又註もなし、昔(シ)より此(ノ)まゝになりけるにや、○天皇は、聖武天皇なり、
 
721 足引乃《アシヒキノ》。山二四居者《ヤマニシヲレバ》。風流無三《ミサヲナミ》。吾爲類和射乎《ワガセルワザヲ》。害目賜名《トガメタマフナ》。
 
二四《ニシ》は、さだかにしかる意を思はせたる詞なり、○風流無三(三(ノ)字、拾穗本にはなし、)は、ミサヲナミ〔五字右○〕と訓べし、靈異記に、風流(ハ)三左乎《ミサヲ》、また氣調(ハ)彌佐乎《ミサヲ》、などあり、字書に、操(ハ)節操(ナリ)、又風調(ヲ)曰v操、とあり、拾遺集雜(ノ)下に、三(ツ)瀬川渡る美佐乎《ミサヲ》もなかりけり云々、○害目《トガメ》は、十二に、人見而事害目不爲夢爾吾《ヒトノミテコトトガメセヌイメニワレ》云々、十八に、比等毛登賀米授《ヒトモトガメズ》、古事記に、天照大御神者|登加米受而《トガメズテ》、倭姫(ノ)命(ノ)世記に、何(ソ)是《カク》問(ヒ)給(フ)止々可賣白支《トヽガメマヲシキ》、其處乎止鹿乃淵上號支《ソコヲトガノフチトナヅケキ》、などあり、其(ノ)事を難《トガ》として問意なり、○歌(ノ)意は、山邊に居れば、何のおもしろき風調《ミサヲ》もなきが故に、わがかくせし事《ワザ》を、難《トガ》め賜ふことなくして、をかしと見そなはして、御心をなぐさめ賜へ、といふなるべし、此(ノ)歌は、山邊より何物にまれ、天皇に獻るとて、よめるなるべし、
 
(563)大伴宿禰家持歌一首《オホトモノスクネヤカモチガウタヒトツ》。
 
722 如如是許《カクバカリ》。戀乍不有者《コヒツヽアラズハ》。石木二毛《イハキニモ》。成益物乎《ナラマシモノヲ》。物不思四手《モノオモハズシテ》。
 
戀乍不有者《コヒツヽアラズハ》は、戀つゝあらむよりはの意なり、○四手《シテ》は、其(ノ)事をうけばりて物する意を思はせたる詞なり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
大伴坂上郎女《オホトモサカノヘノイラツメガ》從《ヨリ》2跡見庄《トミノタドコロ》1。贈2賜《オクレル》留《トヾマレル》v宅《イヘニ》女子大孃《ムスメノオホイラツメニ》1歌一首并短歌《ウタヒトツマタミジカウタ》。
 
跡見(ノ)庄は、神名帳に、大和(ノ)國添下(ノ)郡登彌(ノ)神社、神武天皇(ノ)紀に、及3皇軍之得(ニ)2鵄(ノ)瑞(ヲ)1也、時人仍號2鵄邑(ト)1、今云2鳥見(ト)1是訛也、とある地の庄《タドコロ》なり、庄は、用明天皇(ノ)紀に、田庄《タドコロ》、孝徳天皇(ノ)紀に、田庄《タドコロ》と見ゆ、田處《タドコロ》の義にて、知云《シルトコロ》の田地《タドコロ》なり、かくて即(チ)其(ノ)地にある宅舍《イヘ》をあはせて、然云るなり、通證に、後世所v謂庄園也、唐韻(ニ)、庄(ハ)莊(ノ)俗字、字典(ニ)、莊(ハ)田舍也、通鑑(ニ)、史※[火+召]釋文(ニ)、唐置2莊宅使1、胡三省註(ニ)、蓋主2莊田外舍之事1、とあり、又これを、なりどころともいへり、仁徳天皇(ノ)紀に、田宅《ナリドコロ》、舒明天皇(ノ)紀に、田家《ナリドコロ》、繼體天皇(ノ)紀に、別業《ナリドコロ》と見えたり、なりは、何にまれ、生業《ナリハヒ》をひろく云が中にも、農業《タツクルワザ》を主と云に依て、安閑天皇(ノ)紀に、稼穡《ナリハヒ》、欽明天皇(ノ)紀に、作田《ナリハヒ》、又|耕種《ナリハヒ》、なども見えたり、故(レ)稼穡《ナリハヒ》をする地の謂なり、○大孃は、坂上(ノ)大孃にて、家持(ノ)卿の妻なり、
 
723 常呼二跡《トコヨニト》。吾行莫國《アガユカナクニ》。小金門爾《ヲカナトニ》。物悲良爾《モノカナシラニ》。念有之《オモヘリシ》。吾兒乃刀自緒《ワガコノトジヲ》。野干玉之《ヌバタマノ》。夜晝跡不言《ヨルヒルトイハズ》。念二思《オモフニシ》。吾身者痩奴《ワガミハヤセヌ》。嘆丹師《ナゲクニシ》。袖左倍沾奴《ソデサヘヌレヌ》。如是許《カクバカリ》。本名四戀者《モトナシコヒバ》。(564)古郷爾《フルサトニ》。此月期呂毛《コノツキゴロモ》。有勝益士《アリカテマシヲ》。
 
常呼二跡《トコヨニト》云々は、本居氏、こは人の死るを、常世(ノ)國にゆくと云るなり、そは極めて遠き所にて、便もなく、往通ふこともかなはぬ意にて、いへるなり、九(ノ)卷に、遠津國黄泉乃界丹《トホツクニヨミノサカヒニ》云々、書紀大長谷天皇(ノ)遺詔に、不(リキ)v謂(ハ)2遘疾彌留《ヤマヒアツシレテ》至(ムトハ)2於|大漸《トコツクニヽ》1、これら其(ノ)意なり、大漸をよめるは、字義はあたらねども、訓の意は、崩(リ)坐て、常世(ノ)國にまかりまさむ、と云ことなり、と云り、猶委しくは古事記傳に就て考(フ)べし、○吾行莫國《アガユカナクニ》は、吾(ガ)行はせぬことなるにの意なり、黄泉に行は、まことに悲しき事なれば、さもあるべきに、吾はさる事にもあらぬことなるにとのよしなり、奈久爾《ナクニ》と云ることは、いづくにありても其(ノ)意なりと知べし、○小金門爾《ヲカナトニ》は、小《ヲ》は添たる辭なり、金門《カナト》は、古事記允恭天皇(ノ)條歌に、意當麻幣袁麻幣須久泥賀加那斗加宜《オホマヘヲマヘスクネガカナトカゲ》、此集九(ノ)卷に、金門爾之人乃來立者《カナトニシヒトノキタテバ》、十四に、兒呂我可那門欲《コロガカナトヨ》、又、佐伎母理爾多知之安佐氣乃可奈刀低爾《サキモリニタチシアサケノカナトデニ》などあり、本居氏、金門とは、金物を稠《シゲ》く打て、堅くする故に云か、又古(ヘ)はみながら金を押たるにもあるべし、加度《カド》と云は、加那斗《カナト》の略きなりと云り、さてこれは、自(ラ)の跡見の別庄に別れ來しほど、吾を見送ると、宅の門外に立出て、互に別を悲みし其(ノ)時より、物悲しらにおもへりしといふなるべし、○物悲良爾《モノカナシラニ》は、物は、物戀し物憂しなど多くいふ物なり、かなしらには、契冲云、かなしげになり、わびしらに、こひしらになどいふたぐひなり”○刀自《トジ》は、婦人の稱なり、戸主《トジ》の謂なり、戸は屋室(565)の戸にて、婦人は屋室(ノ)具をすべ領《シル》ものなるが中に、主《ムネ》と戸の開閉をしる義もて云り、主は、神祇官の京主《ミヤジ》、又|連《ムラジ》(村主の義なり、)又神武天皇(ノ)紀に、高倉下《タカクラジ》、高倉主の義なり、)又|阿留自《アルジ》など云(阿留自は、阿留の義は未(タ)考ざれども、自は必(ズ)主なり、)自《ジ》なり、(岡部氏も、戸主《トジ》の意なりと云るはよけれども、戸をやがて家のことゝして、後にいへぬしといふ是なり、と云るは、いさゝかわろし、戸(ノ)字家の意なるときはへ〔右○〕と云(ヒ)、開閇する戸のときはト〔右○〕と云て、いさゝか異《カハ》れり、又自はアルジ〔三字右○〕の略と云るも心得ず、アルジ〔三字右○〕も、ジ〔右○〕は主《ジ》にて、アル〔二字右○〕の言には必(ス)意あるべし、)和名抄に、劉向(カ)列女傳(ニ)云、古語(ニ)老母(ヲ)爲v負(ト)、漢書(ニ)、王媼武負位引之、今按(ニ)、俗人謂2老女(ヲ)1爲v※[刀/目](ト)、字從v目也、今訛以v貝(ト)爲v自歟、今按(ニ)、和名|度之《トジ》、(今按、俗人といふより下廿字、大須本にはなくて、度之の下に、俗用2刀自《トジノ》二字1者訛也、とあり、俗人といふより下は、もとは俗人謂2老女(ヲ)1爲2刀自《トジ》1、負(ノ)字從v貝也云々、とありしを、字を脱し誤りなどせるものならむか、今按の意は、負(ノ)字は貝に從ふ字なり、しかるを貝を自に訛りて※[刀/自]と作るより、二字に引分て刀自《トジ》と訓、つひに俗人の老女を、刀自《トジ》といふことゝ意得るやうになれるなり、といふ意なるべし、此は古(ヘ)より、此方に刀自《トジ》といふことのありしを、考へざりし順朝臣の誤なり、又老女を謂ことゝせるも非なり、さてはこゝなどに叶はざるをや、)允恭天皇(ノ)紀に、厭乞戸母《イデトジ》其(ノ)蘭一莖《アヽラギヒトモト》焉、戸母此云2覩自《トジト》1、十六に、母爾奉都也目豆兒乃負父爾獻都也身女兒乃負《ハヽニマツリツヤメヅコノトジチヽニマツリツヤミメツコノトジ》(負は二(ツ)ながら刀自の誤なり、古(ヘ)麻呂を麿、白水郎を泉郎と書る例に、刀(566)自を引合て※[刀/自]と書るを、似たるから、さかしらに負とかけるなり、)などあり、(枕册子に、御つかひにいきたりけるをにわらはゝ、だいばむ所の刀自《トジ》といふものゝともなりけるを、榮花物語に、うへより此(ノ)人々おそくまゐり給とあるおほせごと、さぶらひの人々、あるは刀自《トジ》などいろ/\にいひわたす、遊仙窟に、主人母《イヘトジ》なども見えたり、)古(ヘ)女(ノ)名に多し、集中に、吹黄(ノ)刀自《トジ》、續紀に、刀自女《トジメ》、家刀自《イヘトジ》など云る類多し、天平勝寶年中東大寺奴婢籍帳に、婢|白刀自賣《シラトジメ》、古刀自女《フルトジメ》、濱刀自女《ハマトジメ》、新刀自女《ニヒトジメ》などあり、又催馬樂眉止目女に、美萬久佐止利加戸萬由止自女《ミマクサトリカヘマユトジメ》、(平家物語に、岐王が母の名も刀自《トジ》とあり、後撰集に、今來むといひし計を命にて待に消ぬべしさくさめの刀自などあり、)○本名四戀者《モトナシコヒバ》は、本名《モトナ》は、むざと云意なり、四《シ》はその一(ト)すぢなるをいふ助辭にて、かくばかりむざと、一(ト)すぢに戀しく思はゞといふ意なり、○古郷《フルサト》は、跡見(ノ)庄なり、跡見は、大伴家のもとよりの別庄ながら、久しく任居《スマ》ずてありし所なれば、古郷と云るなるべし、○歌(ノ)意は、家に留め置て、別れ來し女子《ムスメ》の事を、夜晝を云(ハ)ず思ふに、身も痩、涙に袖の乾間もなくて、かくばかり一(ト)すぢに戀しくては、今はこの月ごろばかりも、此方にあるに得堪じよ、と云るなり、此は坂上(ノ)郎女は、其(ノ)女と共に、坂上(ノ)里(ノ)家に在りしを、其(ノ)女(ノ)大孃をば、家に留めて、自(ラ)は跡見の別庄へ移り居るべきよしありて、別れ居しほどによみて贈れる歌なり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
(567)724 朝髪之《アサカミノ》。念亂而《オモヒミダレテ》。如是許《カクバカリ》。名姉之戀曾《ナネガコフレゾ》。夢爾所見家留《イメニミエケル》。
 
朝髪之《アサカミノ》は、亂の枕詞なり、待賢門院掘河(ノ)歌に、長からむ心もしらず黒髪の亂て今朝は物をこそおもへ、とあり、○名姉之戀曾《ナネガコフレゾ》は、本居氏|戀曾名姉之《コフレゾナネガ》と打返して心得べし、吾(ガ)こふればぞ、名姉が吾(カ)夢に見えけると云なり、しからざれば、如是許と云に協はずと云り、名姉《ナネ》は、名《ナ》は親辭、姉《ネ》は字の如くあねなり、こゝは吾(ガ)子をさせる言ながら、あがめ親みて云は、古(ヘ)の常なり、(今按に、今(ノ)世のいと俗間に、自(ラ)の長男をさして、兄《アニ》と呼、自(ラ)の長女をさして姉《アネ》と呼り、中昔の物にても見ず、又今も雅言には云ぬ事なれど、これ中々に古風なるべし、)戀曾《コフレゾ》は、戀ればぞといふ意なり、○歌(ノ)意は、おもひ亂れて、此如許に戀しく思へばこそ、名姉が吾(ガ)夢に入來て相見えつれ、となり、
○舊本こゝに、右歌報2賜大孃(ニ)1歌也、とあるは何ともなし、(按(フ)に、これは此(ノ)一首反歌を、母郎女より、女の大孃へ報へたる歌と見たるなるべし、さるは此(ノ)歌の第四句の言を、あしく心得て、名姉が戀ればぞ、といふ意に見たるよりの説なるべし、名姉が戀ればぞ、といふ意に見るときは、郎女を戀るよしよみておこせる、大孃の歌ありて、さてそれに答へて、思ひ亂れて如此戀と云る如く、然ばかり汝が戀ればぞ、吾(ガ)夢に汝が見えけるといふ意に見ざれば、いかにも聞えがたし、されどしか云むは、唯打聞えたるまゝにて、古語にくらく、公(ケ)ならぬ論なり、)一本に(568)无ぞよろしき、
 
獻《タテマツレル》2天皇《スメラミコトニ》1歌二首《ウタフタツ》。
 
725 二寶鳥乃《ニホトリノ》。潜池水《カヅクイケミヅ》。情有者《コヽロアラバ》。君爾吾戀《キミニアガコフ》。情示左禰《コヽロシメサネ》。
 
歌(ノ)意は、池水よ、汝もし心あるならば、吾(ガ)戀を表《アラ》はして君に深き心をしめし奉らね、となり、
 
726 外居而《ヨソニヰテ》。戀乍不有者《コヒツヽアラズバ》。君之家乃《キミガヘノ》。池爾住云《イケニスムトフ》。鴨二有益雄《カモニアラマシヲ》。
 
戀乍不有者《コヒツヽフラズバ》は、戀乍あらむよりはといふなり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、今案(ニ)、此(ノ)歌、天皇へ獻れる歌とせむには、君之家乃《キミガイヘノ》と云ること、甚|無禮《ナメ》し、別時の歌なりしが、類を以並載たるか、
 
大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチガ》。贈《オクレル》2坂上家大孃《サカノヘノイヘノオホイラツメニ》1歌二首《ウタフタツ》。【雖絶數年後會相聞往來】
 
註の後(ノ)字、拾穗本、又一本には、復と作り、
 
727 萱草《ワスレグサ》。吾下紐爾《アガシタヒモニ》。著有跡《ツケタレド》。鬼乃志許草《シコノシコクサ》。事二思安利家理《コトニシアリケリ》。
 
歌(ノ)意は、萱草を身に帶る時は、よく物念を忘るといふ故に、下紐に著たれども、そは言のみにて、著しかひもなく、得忘れねば、醜《シコ》の醜草《シコクサ》ぞと、惡み罵て云るなり、三(ノ)卷に、萱草吾紐二付香具山乃故去之里乎不忘之爲《ワスレグサワガヒモニツクカグヤマノフリニシサトヲワスレヌガタメ》、十二は、萱草吾紐爾著時常無念度者生跡文奈思《ワスレグサワガヒモニツクトキトナクオモヒワタレバイケルトモナシ》、又|萱草垣毛繁森雖殖有《ワスレグサカキモシミミニウヱタレド》、鬼之志許草猶戀爾家利《シコノシコクサナホコヒニケリ》、
 
(569)728 人毛無《ヒトモナキ》。國母有粳《クニモアラヌカ》。吾妹兒與《ワギモコト》。携行而《タヅサヒユキテ》。副而將座《タグヒテヲラム》。
 
有粳《アラヌカ》(粳(ノ)字、官本、拾穗本等には糠と作り、)は、あらねかしとねがふ言なり、粳は、新撰字鏡に、※[禾+亢]俗(ニ)作v粳、奴可《ヌカ》、とあり、十(ノ)卷に、不晩毛荒粳《クレズモアラヌカ》、續紀卅八に、阿倍(ノ)粳虫《ヌカムシ》、古本後紀に、刑部(ノ)粳虫《ヌカムシ》、天平勝寶年中東大寺奴婢籍帳に、粳虫女《ヌカムシメ》など見えたり、(略解に、粳は糠の誤なり、と云るは、ひがことなり、粳(ノ)字は、字書にはヌカ〔二字右○〕といふ義は見えざれども、前《クマ》椋《クラ》湖《ミナト》などの類にて、古(ヘ)より此方にて用ひし字なり、)○歌(ノ)意は、人も何もなき國もあれかし、さらば吾妹子と手を携へ行て、唯二人比ひて居むものを、となり、〔頭註、【粳(ハ)俗(ノ)※[禾+亢]字(韻會補)※[禾+亢]或作v〓俗作v粳(字典)※[米+亢]同v糠(集韻)古事談一續日本紀云、云々道鏡法師、竊挾2舐v粳之心1爲v日久矣、】〕
 
大伴坂上大孃《オホトモノサカノヘノオホイラツメガ》贈《オクレル》2大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチニ》1歌三首《ウタミツ》。
 
729 玉有者《タマナラバ》。手二母將卷乎《テニモマカムヲ》。鬱瞻乃《ウツセミノ》。世人有者《ヨノヒトナレバ》。手二卷難石《テニマキガタシ》。
 
玉有者《タマナラバ》、二(ノ)卷に、玉有者手爾卷持而《タマナラバテニマキモチテ》、三(ノ)卷に、人言之繁比日玉有者手爾卷以而不戀有益雄《ヒトコトノシゲキコノコロタマナラバテニマキモチテコヒズアラマシヲ》、とあり、催馬樂大宮に、大宮のちひさことねり玉ならばひるは手にとりよるはさねてむ、○手二母將卷乎《テニモマカムヲ》は、手に纏ても愛むものをの意なり、○瞻(ノ)字、舊本膽に誤、古寫一本に從つ、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
730 將相夜者《アハムヨハ》。何時將有乎《イツモアラムヲ》。何如爲常香《ナニストカ》。彼夕相而《ソノヨヒアヒテ》。事之繁裳《コトノシゲキモ》。
 
何時將有乎《イツモアラムヲ》は、いつにてもあらむものをの意なり、○彼(ノ)下、拾穗本に乃(ノ)字あり、○歌(ノ)意は、相見(570)む夜は、いつにてもあるべきなれば、しばし思ひのどめて、時を待べかりし事なるを、何とてか人目をも憚らずに、その夕相見つらむ、さても人言の繁く、わびしき事や、となり、
 
731 吾名者毛《アガナハモ》。千名之五百名爾《チナノイホナニ》。雖立《タチヌトモ》。君之名立者《キミガナタテバ》。惜社泣《ヲシミコソナケ》。
 
千名之五百名爾《チナノイホナニ》は、いろ/\にいひさわがれて、千遍五百遍《チタビイホタビ》名の甚しく立よしなり、十二に、百爾千爾人者際言《モヽニチニヒトハイフトモ》ともよめる類なり、○歌(ノ)意は、吾(ト)名のみは千名の五百名にしげく立ぬとも、よしやそれはさばかり惜(シ)ともおもはじを、君が名の立たるからには、をしみてこそなけとなり、(略解に、きみが名たゝばとよめるは、未來を云る言なれば、をしみこそなけと云るにかけ合ず、)
 
又大伴宿禰家持和歌三首《マタオホトモノスクネヤカモチガコタフルウタミツ》。
 
732 今時者四《イマシハシ》。名之惜雲《ナノヲシケクモ》。吾者無《アレハナシ》。妹丹因者《イモニヨリテバ》。千遍立十方《チタビタツトモ》。
 
今時者四《イマシハシ》(者(ノ)字、舊本有に誤、古寫本、拾穗本、等に從つ、)は、今時《イマシ》とは、正しく其時に至りたるをいふ詞、四《シ》は、その一(ト)すぢをいふ助辭にて、正しく其(ノ)時に至れる今者《イマハ》なり、今者《イマハ》といふは、その一(ト)方に思ひ決めたるをいふ言なること、上に度々説たるが如し、○妹丹因者《イモニヨリテバ》は、上土師(ノ)宿禰水通(ノ)歌に、覆者覆妹爾因而者《カヘラバカヘレイモニヨリテバ》とあるに同じ、(君爾因言之繁乎《キミニヨリコトノシゲキヲ》の因《ヨリ》とは、いさゝかかはれり、)○歌(ノ)意は、正しく今と至《ナリ》ては、名の惜き事も何もなし、と一(ト)方につよく思ひ決めたれば、たとひ千(571)度五百度名の立とても、それはいとはじ、妹にさへよりそひたらば、吾心安からむぞ、となり、
 
733 空蝉乃《ウツセミノ》。代也毛二行《ヨヤモフタユク》。何爲跡鹿《ナニストカ》。妹爾不相而《イモニアハズテ》。吾獨將宿《アガヒトリネム》。
代也毛二行《ヨヤモフタユク》は、也は後世の也波《ヤハ》の意、毛《モ》は歎息(ノ)辭なり、二行《フタユク》は、上三依(ノ)歌に、相夜不相夜二走良武《アフヨアハヌヨフタツユクラム》とある處に云り、七(ノ)卷|挽《カナシミ》歌に、世間者信二代者不往有之過妹爾不相念者《ヨノナカハマコトフタヨハユカザリシスギニシイモニアハヌオモヘバ》とあるに、こゝは同じ、○歌意は、現世は、二度經行(ク)やは、嗚呼《アヽ》さても二度(ヒ)經行(キ)はせぬものぞ、されば又の世にあふべしといふたのみはなし、何とてか思ふ妹にあはずして獨(リ)宿をすべきぞ、となり、
 
734 吾念《アガオモヒ》。如此而不有者《カクテアラズバ》。玉二毛我《タマニモガ》。眞毛妹之《マコトモイモガ》。手二所纏牟《テニマカレナム》。
 
如此而不有者《カクテアラズバ》は、如此てあらむよりはの意なり、○所纏牟《マカレナム》は、牟(ノ)字、古寫一本には乎と作り、これに依ば、マカレムヲ〔五字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、吾戀しく思ふ思(ヒ)の、かくてあらむよりは、玉にてもあれかし、さらばのたまふ如く、まことに其方の手に纏れて、愛られなましものをとなり、上の玉有者《タマナラバ》の歌に答へたるなり、
 
同坂上大孃《オヤジサカノヘノオホイラツメガ》。贈《オクレル》2家持《ヤカモチニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
735 春日山《カスガヤマ》。霞多奈引《カスミタナビキ》。情具久《コヽログク》。照月夜爾《テレルツキヨニ》。獨鴨念《ヒトリカモネム》。
 
情具久《コヽログク》は、下に、情八十一所念可聞春霞輕引時二事之通者《コヽログクオモホユルカモハルカスミタナビクトキニコトノカヨフハ》、八(ノ)卷に、情具伎物爾曾有鷄類春霞《コヽログキモノニソアリケルハルカスミ》、多奈引時爾戀乃繁者《タナビクトキニコヒノシゲキハ》、十二に、意具美吾念兒等之《コヽログミアガモフコラシ》、十七に、己許呂具志伊謝美爾由可奈《ココログシイザミニユカナ》、又|相見(572)婆登許波郡波奈爾情具之眼具之毛奈之爾《アヒミレバトコハツハナニコヽログシメグシモナシニ》などあり、中山(ノ)嚴水、情具之《コヽログシ》は、めでなつかしむ意の言なり、此(ノ)歌は、霞たな引月てりて、いとうらなつかしき夜に、獨かもねむなり、情八十一《コヽログク》の歌も、霞たな引てうらかなしき時に、君が言の通へば、いよ/\うらなつかしく戀しき意なり、八(ノ)卷なるも同じ、又十七の、情具之眼具之毛奈之爾《コヽログシメグシモナシニ》の奈之《ナシ》は、かてをかてぬと云て、同じ意になる例にて、心ぐゝ眼ぐゝあることを云て、奈之《ナシ》は無の字(ノ)意にはあらざるべし、この心|具久《グク》を、古來くゞもる意にて、おぼつかなきことゝせるは、誤なりと云り、○歌(ノ)意は、春日山に霞棚引月おもしろくてりて、いとめでたき夜なるに、君と二人居らば、いかにたのしからむと思ふを、君は來まさねば、唯獨宿をせむか、さてもさぶ/\しや、となり、
 
又家持《マタヤカモチガ》。和《コタフル》2坂上大孃《サカノヘノオホイラツメニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
736 月夜爾波《ツクヨニハ》。門爾出立《カドニイデタチ》。夕占問《ユフケトヒ》。足卜乎曾爲之《アウラヲゾセシ》。行乎欲焉《ユカマクヲホリ》。
 
夕占問《ユフケトヒ》は、三(ノ)卷石田(ノ)王卒時(ノ)歌に、夕衢占問石卜以而《ユフケトヒイシウラトヒテ》とある處に具(ク)註り、○足卜《アウラ》は、何にても足にて蹈こゝろみて卜《ウラ》ふことあるを云、神代(ノ)紀海宮(ノ)條に、告2其(ノ)弟(ニ)1曰、吾|永《ヒタブルニ》爲(ム)2汝(ノ)俳優者《ワザヲキヒト》1、乃擧(テ)v足(ヲ)蹈行(ハ)、學(ナリ)2其(ノ)溺苦之状《オボレタシナメルアリサマヲ》1、初潮漬(ク)v足(ニ)時、則爲2足占《アウラ》1、(此は足占する時の體を學び爲《ナス》を云、)中納言定頼(ノ)歌に、行(キ)行(カ)ず聞まほしきは何方に蹈定むらむあしうらの山、などあり、○歌(ノ)意は、今夜行ば、よからむか、あしからむか、あはむか、あはじかといふことを知むが爲に、月の夜には、門の外に(573)出立て夕占問(ヒ)足卜を爲て、かにかくに心をくだきしは、ひとへに妹許に行まほしく思ひての事ぞ、となり、
 
同大孃《オヤジオホイラツメガ》。贈《オクレル》2家持《ヤカモチニ》1歌二首《ウタフタツ》。
 
737 云云《カニカクニ》。人者雖云《ヒトハイフトモ》。若狹道乃《ワカサヂノ》。後瀬山之《ノチセノヤマノ》。後毛將合君《ノチモアハムキミ》。
 
本(ノ)二句は、七(ノ)卷に、寄v衣(ニ)、干各人雖云織次我二十物白麻衣《カニカクニヒトハイフトモオリツガムワガハタモノヽシロアサコロモ》、とあるに同じ、○後瀬山《ノチセノヤマ》は、若狹(ノ)國遠敷(ノ)郡にあり、○第三四の句は、後といはむ料に設けたる序なり、十二に、高湍爾有能登瀬乃河之後將合《コセナルノトセノカハノノチモアハム》とあり、此に同じ、○合(ノ)字、舊本念に誤、今改、古寫本傍書には會と書り、○歌(ノ)意は、かにかくに人はいひさわぐとも、それもいとはじ、後つひにあひまゐらせむ君ぞ、となり、
 
738 世間之《ヨノナカノ》。苦物爾《クルシキモノニ》。有家良久《アリケラク》。戀二不勝而《コヒニタヘズテ》。可死念者《シヌベキモヘバ》。
 
歌(ノ)意は、戀に得堪ずして死べきを思へば、戀といふ物は、あるが中にも、世(ノ)間のなぞへなく、苦しき物にて有ける事とよ、となり、
 
同大孃《オヤジオホイラツメガ》。贈《オクレル》2家持《ヤカモチニ》1歌二首《ウタフタツ》。
 
又家持《マタヤカモチガ》。和《コタフル》2坂上大孃《サカノヘノオホイラツメニ》1歌二首《ウタフタツ》。
 
739 後瀬山《ノチセヤマ》。後毛將相常《ノチモアハムト》。念社《オモヘコソ》。可死物乎《シヌベキモノヲ》。至今曰毛生有《ケフマデモイケレ》。
 
念社《オモヘコソ》は、念へば社の意なり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、云云《カニカク》の歌を、やがて應(ケ)て答へたるなり、
 
(574)740 事耳乎《コトノミヲ》。後毛相跡《ノチモアハムト》。懃《ネモコロニ》。吾乎令憑而《アレヲタノメテ》。不相可聞《アハヌイモカモ》。
 
事耳乎《コトノミヲ》は、事は借(リ)字、)言耳《コトノミ》をなり、○毛(ノ)字、舊本手に誤、拾穗本に從つ、○令憑而《タノメテ》は、憑ましめての意なり、○不相可聞は、相(ノ)下、妹(ノ)字脱たるにて、アハヌイモカモ〔七字右○〕とあるべし、と本居氏云り、○歌(ノ)意かくれなし、
 
更大伴宿禰家持《マタオホトモノスクネヤカモチガ》。贈《オクレル》2坂上大孃《サカノヘノオホラツメニ》1歌十五首《ウタトヲマリイツツ》。
 
741 夢之相者《イメノアヒハ》。苦有家里《クルシカリケリ》。覺而《オドロキテ》。掻探友《カキサグレドモ》。手二毛不所觸者《テニモフレネバ》。
 
覺而《オドロキテ》は、こゝは物の音などに驚懼《オヂオドロク》意にはあらで、たゞ睡れるが目の寤るを云なり、今も土佐(ノ)國などにて、は常に然云り、これ古言の存《ノコ》れるなり、古事記に、天(ノ)詔琴拂v樹(ニ)而地|動鳴《トヾロキ》、故(レ)其(ノ)所寢《ミネマセル》大神|聞驚《キヽオドロカシテ》而云々、靈異記に、從2夢醒驚1而思恠之、源氏若紫(ノ)卷に、まだおどろい賜はじな、いで御目さましきこえむ、花宴(ノ)卷に、人々多くさぶらひて、おどろきたるもあれば、枕草子に、あかつき方に、いさゝかうちわすれてねいりたるに、烏のいと近う啼聲に、うちおどろきて見あげたれば、又月の頃は、ねおどろきてみいだすも、いとをかし、古今著聞集(和歌第六)に、思ふ事なげにねたまへるうたてさよと、くどきければ、女《ムスメ》驚《オドロ》きて、今昔物語(亡妻(ノ)霊値2舊夫(ニ)1語)に、間もなく夜明て、日のさし入たるに、男おどろきて妻を見るに、枯々としたる死人なりなどあり、○歌(ノ)意かくれなし、十二に、愛等念吾妹乎夢見而起而探爾無之不怜《ウツクシトアガモフイモヲイメニミテオキテサグルニナキガサブシサ》とあるに同じ、十六戀2夫(ノ)(575)君(ヲ)1歌の傳に、當宿之夜夢裡(ニ)相見、覺寢(テ)探抱(ニ)曾(テ)無v觸v手(ニ)、爾乃哽咽歔欷(テ)高聲(ニ)吟2咏此(ノ)歌(ヲ)1、(遊仙窟に、少時坐睡、則夢(ニ)見2十娘(ヲ)1、驚覺攪之、忽然空v手、と見えたり、)
 
742 一重耳《ヒトヘノミ》。妹所將結《イモガムスバム》。帶乎尚《オビヲスラ》。三重可結《ミヘムスブベク》。吾身者成《アガミハナリヌ》。
 
歌(ノ)意かくれなし、身の痩ほそりたるさまを云るなり、九(ノ)卷過2足柄(ノ)坂(ヲ)1見2死人(ヲ)1作歌に、白細乃紐
緒毛不解一重結帶矣三重結《シロタヘノヒモヲモトカズヒトヘユフオビヲミヘユフ》、十三に、二無戀乎思爲者常帶乎三重可結我身者成《フタツナキコヒヲシスレバツネノオビヲミヘムスブベクアガミハナリヌ》、又|※[木+若]垣久時從戀爲者《ミヅカキノヒサシキトキユコヒスレバ》、吾帶緩朝夕毎《アガオビユルブアサヨヒゴトニ》、(遊仙窟に、日々依寛(ヒ)、朝々帶緩と見えたり、)
 
743 吾戀者《アガコヒハ》。千引乃石乎《チビキノイハヲ》。七許《ナヽバカリ》。頸二將繋母《クビニカケムモ》。神之諸伏《カミノマニ/\》。
 
千引乃石《チビキノイハ》は、千人ばかりして、綱著(ケ)引ほどの磐なり、古事記に、千引石とあり、さて和名抄には、知比木乃以之《チビキノイシ》とありて、書紀(ノ)私記にもしかあれば、石は以之《イシ》と訓べけれども、(赤染衛門集に、まつとせしほどにいしとは成にしを、又は千引に見せ分てとや、)書紀に、千人所引磐石《チビキイハ》とあれば、以波《イハ》といふぞ古語なるべき、○神之諸伏は、(契冲が、管見抄に依て云る説は、むつかしくてわろし、)通《キコヱ》難きを熟《ヨク》思ふに、若は諸伏は、隨似の誤寫にてカミノマニマニ〔七字右○〕などにてもあらむか、○歌(ノ)意は、吾(ガ)戀のくるしさをいはゞ、たとへば千人引《チビキ》の石を、頸《クビ》に繋むほどの事にて、さてもくるしさいふばかりなしや、よしや遇も遇(ハ)ぬも、生(ク)も死(ヌ)も、神の御依しなれば、今は神の隨意《マニマ》に任せおかむ、とわびのあまりに、いふ意なるべし、猶考(フ)べし、
 
(576)744 暮去者《ユフサラバ》。屋戸開設而《ヤトアケマケテ》。吾將待《アレマタム》。夢爾相見二《イメニアヒミニ》。將來云比登乎《コムトイフヒトヲ》。
 
屋戸開設而《ヤトアケマケテ》は、夢に、入來むといふ設に、屋の戸を開き置てといふなり、凡て古(ヘ)に夜度《ヤド》といふに、三種あり、一(ツ)には屋外《ヤド》にて、舍屋の外側なり、二(ツ)には宿《ヤドリ》にて、旅などにて宿寢《ネフシ》する屋を云、三(ツ)には、屋戸《ヤト》にて、舍屋に闔戸《サスト》なり、屋戸を云るは、古事記に、天照大御神見畏(テ)閇2天(ノ)石屋戸(ヲ)1而|刺許母理坐《サシコモリマシキ》也、又次に引十二(ノ)歌にもあり、かくて屋外《ヤド》の意なるも宿《ヤドリ》の意なるも、多く假字書見えて、いづれも夜度《ヤド》と度《ド》を濁りて唱へしなり、屋戸の意なるは、假字書見えざれども、右の二種なると同じく、度を濁りて、唱へしにや、されど定めがたければ、本文をば、姑く清て唱ふべし、凡て清濁の假字の見えざるかぎりは、清て唱ふ例と定めつればぞかし、○登(ノ)字、拾穗本には等と作り、○歌(ノ)意かくれたるところなし、十二に、人見而事害目不爲夢爾吾今夜將至屋戸閇勿勤《ヒトノミテコトトガメセヌイメニアレコヨヒイタラムヤトサスナユメ》、(今の歌は、此(ノ)歌の答(ヘ)の意に自叶へり、)又|人見而言害目不爲夢谷不止見與我戀將息《ヒトノミテコトトガメセヌイメニダニヤマズミエコソアガコヒヤマム》、又|門立而戸毛閇而有乎何處從鹿妹之入來而夢所見鶴《カドタテテトモサシタルヲイヅクヨカイモガイリキテイメニミエツル》、門立而戸者雖闔盗人之穿穴從入而所見牟《カドタテテトハサシタレドヌスヒトノヱレルアナヨリイリテミエテム》、(遊仙窟に、今宵莫v閇v戸(ヲ)、夢裏(ニ)向2渠邊(ニ)1、)などある類なり、
 
745 朝夕二《アサヨヒニ》。將見時左倍也《ミムトキサヘヤ》。吾妹之《ワギモコガ》。雖見如不見《ミトモミヌゴト》。由戀四家武《ナホコヒシケム》。
 
歌(ノ)意は、朝夕に親しく相見む其(ノ)時にてさへ、逢ても逢こゝちせず、見あかずして、見ぬ時の如く、猶戀しく思ふべきなれば、況て遠さかり居て相見ぬ時、戀しく思ふは、げにもことわりぞ(577)となり、
生有代爾《イケルヨニ》。吾者未見《アハイマダミズ》。事絶而《コトタエテ》。如是※[立心偏+可]怜《カクオモシロク》。縫流嚢者《ヌヘルフクロハ》。
 
746 事絶而《コトタエテ》は、事は言なり、絶(テ)2言語(ニ)1、といふ意なり、言《イヒ》も不得《カネ》名附《ナツク》も不知《シラニ》など云る類なり、○※[立心偏+可]怜はオモシロク〔五字右○〕と訓べし、七(ノ)卷(四丁)に、烏玉之夜渡月乎※[立心偏+可]怜《ヌバタマノヨワタルツキヲオモシロミ》、字鏡に、※[言+慈](ハ)※[立心偏+可]怜也、於毛志呂志《オモシロシ》、などあり、○歌(ノ)意は、首むやうもしらず、かほどおもしろく縫(ヘ)る嚢は、來世《コムヨ》にはしらず、生る現世《コノヨ》には未(タ)見及び侍らずとなや、次の歌に形見の衣をよめり、大孃が衣を贈り、又嚢をも縫ておこせしなるべし、十八池主來2贈家持(ニ)1歌に、波里夫久路己禮波多婆利奴須理夫久路伊麻波衣天之可於吉奈左備勢牟《ハリフクロコレハタバリヌスリフクロイマハヱテシカオキナサビセム》、(これ嚢を得たる報(ヘ)の歌なり)これは嚢を贈れる例なり、
 
747 吾妹兒之《ワギモコガ》。形見乃服《カタミノコロモ》。下著而《シタニキテ》。直相左右者《タヾニアフマデハ》。吾將脱八方《アレヌカメヤモ》。
 
形見乃服《カタミノコロモ》は、上湯原(ノ)王(ノ)歌にあり、彼處に具(ク)云り、○將脱八方《ヌカメヤモ》は、脱むやは脱はせじ、嗚呼うれしのかたみの衣服《コロモ》やと云意なり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
748 戀死六《コヒシナム》。其毛同曾《ソコモオヤジゾ》。奈何爲二《ナニセムニ》。人目他言《ヒトメヒトゴト》。辭痛吾將爲《コチタミアガセム》。
 
其毛同曾《ソコモオヤジゾ》は、戀て死むも、人目人言しげく云さわがれむも、はかりたくらべて見れば、何れも辛苦《クルシ》さは全同じことぞとなり、同をオヤジ〔三字右○〕と訓は古言なり、十四に、於夜自麻久良波《オヤジマクラハ》、十七に、許己呂波於夜自《ココロハオヤジ》、又|於夜自得伎波爾《オヤジトキハニ》、十九に、此間毛於夜自等《ココモオヤジト》などあり、○辭痛吾將爲《コチタミアガセム》は、何故(578)に辭痛しとて、いとふ事を吾爲むといふ意なり、○歌(ノ)意は、戀死に死むも、人目人言しげく云さわがれむも、くらべみれば、辛苦《クルシ》さは全(ラ)同じことなれば、今は何故に人言の辭痛しとて、厭ふ事をば爲む、人目をも人言をもはゞからじ、となり、
 
749 夢二谷《イメニダニ》。所見者社有《ミエバコソアレ》。如此許《カクバカリ》。不所見有者《ミエズテアルハ》。戀而死跡香《コヒテシネトカ》。
 
夢二谷《イメニダニ》は、夢になりともといふ意なり、○不所見の下、而(ノ)字脱たる歟、○歌(ノ)意は、夢になりとも見えばこそ、すこしは心のなぐさむ、方もあるべきに夢にさへ見えずて、かくばかり戀しく思はしむるは、戀死に死ねとての事かとなり、
 
750 念絶《オモヒタエ》。和備西物尾《ワビニシモノヲ》。中中爾《ナカナカニ》。奈何辛苦《イカデクルシク》。相見始兼《アヒミソメケム》。
 
和備西物尾《ワビニシモノヲ》は、此(ノ)下に、遠有者和備而毛有乎《トホクアラバワビテモアラム》、古今集に、今しはとわびにしものをなどある、和備《ワビ》に同じくて、苦しさの餘(リ)に、よしやさもあらばあれと念ひ放ちて、わびつゝありし物をといふ意なり、○歌(ノ)意は、苦さの餘に、よしやさもあらばあれと念ひ放ちて、わびつゝありし物を、なまなかに相見をめて、いかでかく、くるしき目をみることぞとなり、
 
751 相見而者《アヒミテハ》。幾日毛不經乎《イクカモヘヌヲ》。幾許久毛《コヽダクモ》。久流比爾久流必《クルヒニクルヒ》。所念鴨《オモホユルカモ》。
 
久流比爾久流必《クルヒニクルヒ》は、狂に狂ひなり、狂ふ事の絶ず甚しきよしなり、○歌(ノ)意は、相見て別ては、まだいくばくの日數も經ざる物を、そこばく狂ふ事の絶ず甚しく、さけび袖ふりなどして、戀(579)しく思はるゝ哉となり、
 
752 如是許《カクバカリ》。面影耳《オモカゲノミニ》。所念者《オモホエバ》。何如將爲《イカニカモセム》。人目繁而《ヒトメシゲクテ》。
 
歌(ノ)意は、人目繁くて、逢べきたづきなければ、かくばかり、面影にのみ妹がおもほえつゝ、はてはてはいかにかせむことよとなり、
 
753 相見者《アヒミテバ》。須臾戀者《シマシクコヒハ》。奈木六香登《ナギムカト》。雖念彌《オモヘドイヨヽ》。戀益來《コヒマサリケリ》。
 
相見者《アヒミテバ》
は、相見たらばといふ意なり、○奈木六《ナギム》は、和《ナギ》むなり、十九に、毎見情奈疑牟等繁山之豁敝爾生流《ミルゴトニコヽロナギムトシゲヤマノタニヘニオフル》、山振乎屋戸爾引植而《ヤマブキヲヤドニヒキウヱテ》、又|妹乎不見越國敝爾經年婆《イモヲミズコシノクニヘニトシフレバ》、吾情度乃奈具流日毛無《アガコヽロドノナグルヒモナシ》、又|念暢見奈疑之山爾《オモヒノベミナギシヤマニ》などあり、(かげろふの日記に、たゞ今はなごこゝろもなき、けがらひの心もとなきこと云々、なごこゝろは、和心《ナゴコヽロ》なり、)○歌(ノ)意は、相見たらば、しばしは戀しき心の、なぐさむ事もあらむかとおもひしかど、あひては、いよ/\戀しき心のまさりて、苦しかりけりとなり、あひ見ての後の心にくらぶれば昔は物をおもはざりけり、此(ノ)心なり、
 
754 夜之穗杼呂《ヨノホドロ》。吾出而出而來者《アガデテクレバ》。吾妹子之《ワギモコガ》。念有四九四《オモヘリシクシ》。面影二三湯《オモカゲニミユ》。
 
夜之保杼呂《ヨノホドロ》は、夜之分離《ヨノハナレ》なり、穗杼呂《ホドロ》と波那禮《ハナレ》と通ひて同言なり、集中雪(ノ)歌に、保杼呂《ホドロ》とも波太禮《ハダレ》とも通(ハ)しよめる、太《ダ》は那《ナ》と又殊に親(ク)通へば、保杼呂《ホドロ》、波太禮《ハダレ》、波奈禮《ハナレ》は、皆全(ラ)同言なり、(八(ノ)卷に、沫雪保杼呂保杼呂爾零敷者《アハユキノホドロホドロニフリシカバ》、十(ノ)卷に、庭裳保杼呂爾雪曾零而有《ニハモホドロニユキゾフリタル》、(八(ノ)卷に、沫雪香薄太禮爾零(580)登《アワユキカハダレニフルト》、九(ノ)卷に、落波太列可消遺有《フレルハダレカキエノコリタル》などあり、)さて夜の分離《ハナレ》とは、夜の明なむと臨《ス》る極(ミ)を云なり、其は夜の最極《カギリ》のはなれなればかく云り、雪に云るも、分離分離《ハナレハナレ》に零るを云なり、なほ其(ノ)ことは、八(ノ)卷に至りて具(ク)註べし、(又余がはじめおもひしは、穗杼呂《ホドロ》は麻陀良《マダラ》と同言にして、曉方のまだ明もせず暗きにもあらず、明と暗と打|斑《マジ》りたるほどを、夜之斑《ヨノマダラ》と云なるべし、さて雪の歌によめるをも、斑《マダラ》に零たるよしと、おもひしかど、なほ初の説によるべし、此(ノ)言古來説々多かれども、解得たる人一人もなし、(まづ契冲が、夜の程といふに、呂の言は助辭にくはゝれるにや、と云るは、いふに足ず、又本居氏の、ほどゝ、ほのと同言にて、ほのくらき時なりと云るもわろし、夜のほどろは、しか云(ヒ)もすべし、雪によめるは、いとおぼつかなし、)八(ノ)卷に、秋田乃穗田乎鴈之鳴闇爾《アキノタノホタヲカリガネクラケクニ》、夜之穗杼呂爾毛鳴渡可聞《ヨノホドロニモナキワタルカモ》、とあるも同じ、○念有四九四《オモヘリシクシ》は、念有《オモヘリ》は、契冲云、日本紀に、色の字をおもへりとよめるは、心におもはくの色にあらはるゝを、おもへりといふ、明てもゆかで夜をこめていぬるは、いかなる故にかとうたがひながら、さもいはで、我を出したつとて、何とやらむ、おもへりの見えつるが、おもかげに見えて、わすられぬとなり、(已上)應神天皇(ノ)紀に、天皇有2不悦之|色《オモヘリ》1、云々、察2天皇之|イロ《ミオモヘリヲ1、允恭天皇(ノ)紀に、皇后之|色《ミオモヘリ》不v平、雄略天皇(ノ)紀に、大樹(ノ)臣|神色《タマシヒオモヘラヒ》不v變、武烈天皇(ノ)紀に、忍不發顔《シノヒテミオモヘリニイダシタマハズ》、敏達天皇(ノ)紀に、現2嚴猛|色《オモヘリ》1、天武天皇(ノ)紀に、有2不服色《マツロハヌオモヘリ》1、これを續紀三十(ノ)詔に、無禮岐面幣利無久《ヰヤナキオモヘリナク》とあり、(本居氏詔詞解に、顔《カホ》ぶり顔《カホ》色なり(581)と云るが如し、)今按に、書紀の訓、又續紀(ノ)詔の如きは、念幣利《オモヘリ》を、皆體語にすゑて云るを、此(ノ)歌なるは用語に活して、四九四《シクシ》と連けたるなり、四九四は、四九《シク》は、過し方の事にいふ言なり、下の四《シ》は、例の其一(ト)すぢなる意を、思はせたる助辭なり、七(ノ)卷に、住吉之名兒之濱邊爾馬並而《スミノエノナゴノハマヘニウマナメテ》、玉拾之久常不所忘《タマヒリヒシクツネワスラエズ》、又|吾背子乎何處行目跡辟竹之《アガセコヲイヅクユカメトサキタケノ》、背向爾宿之久今思悔裳《ソガヒニネシクイマシクヤシモ》、八(ノ)卷に、秋野之草花我未乎押靡而《アキノヌノヲバナガウレヲオシナベテ》、來之久毛知久相流君可聞《コシクモシルクアヘルキミカモ》、九(ノ)卷に、欲見來之久毛知久吉野川《ミマクホリコシクモシルクヨシヌカハ》、音清左見二友敷《オトノサヤケサミルニトモシキ》、十(ノ)卷に、天漢渡湍毎思乍《アマノガハワタリセゴトニオモヒツヽ》、來之雲知師逢有久念者《コシクモシルシアヘラクモヘバ》、古事記應神天皇(ノ)條歌に、泥斯久袁斯叙母《ネシクヲシゾモ》などあり、これらの斯久《シク》も皆同じ、又神武天皇(ノ)紀に、抑又聞《ハタキヽシク》2於鹽土(ノ)老翁(ニ)1、曰《イヒシク》云々、この聞曰を、キヽシク、イヒシク〔八字右○〕とよめるシク〔二字右○〕も同じ、允恭天皇(ノ)紀に、臣既|被《ウケタマハリシク》2天皇(ノ)命《オホミコトヲ》1、云々、必罪(セムトノタマヒキ)之、又續紀十七(ノ)詔に、朕(ニ)宣自久《ノリタマヒシク》、云々|止宣比之《トノリタマヒシ》、廿(ノ)詔に、屡詔志久《シバ/\ノリタマヒシク》、云々|止詔伎《トノリタマヒキ》、廿四(ノ)詔に、朕爾|告之久《ノリタマヒシク》、云々|止宣弖《トニリタマヒテ》、此政行給岐《コノマツリゴトオコナヒタマヒキ》、廿五(ノ)詔に、然之我奏之久《サテシガマヲシク》、云々|止奏之可止毛《トマヲシシカドモ》、また朕爾|勅之久《ノリタマヒシク》、云々|止勅岐《トノリタマヒキ》、卅(ノ)詔に、朕我天乃御門帝皇我御命以天勅之久《ワガアメノミカドスメラガミコトモチテノリタマヒシク》、云々|止命天朕爾勅之久《トノリタマヒテワレニノリタマヒシク》、云々|復勅之久《マタノリタマヒシク》、云々|止命伎《トニリタマヒキ》、復勅之久《マタノリタマヒシク》、云々|止勅比之御命乎不忘《トノリタマヒシミコトヲワスレズ》など見ゆ、皆同格なり、(又十(ノ)卷に、戀敷者氣長物《コヒシクバケナガキモノ》乎、七(ノ)卷に、今敷者見目屋跡念之《イマシキハミメヤトモヒシ》などある敷は、又各々別なり、其は其(ノ)歌どもの下にいふべし、)○歌(ノ)意は、夜の明はなれに、吾(ノ)立出て來し其(ノ)時に、妹が名殘をしがりけむ、心の、色にあらはれ出し、其貌の一(ト)すぢにわすれられず面影に見えて、戀しく思はるゝとなり、
 
(582)755 夜之穂杼呂《ヨノホドロ》。出都追來良久《イデツツクラク》。遍多數《タビマネク》。成者吾※[匈/月]《ナレバアガムネ》。截燒如《タチヤクゴトシ》。
 
歌(ノ)意は、人目を憚りて、のどやかにかたらふ事をも得せず、夜の明はなるゝやいなやに、急ぎて吾(ガ)立出來し事の、名殘惜さの積々りて苦しさは、たとへば胸を刀にて截、火にて燒が如しとなり、(遊仙窟に、未(タ)2曾(テ)飲1v炭(ヲ)腹熱(コト)如v燒、不v憶v呑v刃(ヲ)、腸穿(ツ)似v割(ニ)、とあり、)
 
大伴田村家之大孃《オホトモノタムラノイヘノオホイラツメガ》贈《オクレル》2妹坂上大孃《イモサカノヘノオホイラツメニ》1歌四首《ウタヨツ》。
 
田村家之大孃は、大伴(ノ)宿奈麻呂の女なり、左に見ゆ、
 
756 外居而《ヨソニヰテ》。戀者苦《コフレバクルシ》。吾妹子乎《ワギモコヲ》。次相見六《ツギテアヒミム》。事計爲與《コトハカリセヨ》。
 
事計爲與《コトハカリセヨ》は、事の思ひはかりを爲よ、と妹に令せたるなり、事計は、十二に、獨居而戀者辛苦玉手次《ヒトリヰテコフレバクルシタマタスキ》、不懸將忘言量欲《カケズワスレムコトハカリモガ》、又|常如是戀者辛苦暫毛《ツネカクシコフレバクルシシマラクモ》、心安目六事計爲與《コヽロヤスメムコトバカリセヨ》、又|得田價異心欝悒事計《ウタテケニコヽロイフセシコトハカリ》、吉爲吾兄子相有時谷《ヨクセワガセコアヘルトキダニ》、十三に、新夜乃好去通牟事計夢爾令見社《アラタヨノサキクカヨハムコトハカリイメニミセコソ》などあり、○歌(ノ)意は、外に離て居て、戀しく思へば、いとも苦しければ、つゞきても相見むと思ふぞ、其(ノ)事の思ひはかりを爲よとなり、
 
757 遠有者《トホカラバ》。和備而毛有乎《ワビテモアラム》。里近《サトチカク》。有常聞乍《アリトキヽツヽ》。不見之爲便奈沙《ミヌガスベナサ》。
 
和備而毛有乎は、乎は、若は牟(ノ)字にやあらむ、さらばワビテモアラム〔七字右○〕と訓べし、遠ざかりてあらば、よしやと思ひ放ちて、わびつゝもあらむをの意なり、○歌(ノ)意は、遠方に離り居ば、いかに(583)おもひても、たやすく相見る事のかなはねば、よしやさもあらばあれと思ひ放ちて、わびつつもあらむを、近き方にありと聞ながら、得あひ見ぬ事の爲方なさは、さてもいふばかりなしやとなり、
 
758 白雲之《シラクモノ》。多奈引山之《タナビクヤマノ》。高々二《タカ/\ニ》。吾念妹乎《アガモフイモヲ》。將見因毛我母《ミムヨシモガモ》。
 
本(ノ)二句は、高々をいはむ料の序なり、○高々二《タカ/\ニ》は、宮地(ノ)春樹(ノ)翁、高々は、居長高《ヰタケタガ》に延あがる義にて、遠く望む意なるべしと云り、本居氏、此(ノ)言は、仰ぎ望む意にて、今の俗にも、頸《クビ》を長うして待つと云ひ、待事の遲きを、くびが長うなると云意なりと云り、こゝは仰ぎ望みおもふ妹といふ意なるべし、十二に、十五日出之月乃高々爾《モチノヒニイデニシツキノタカ/\ニ》、君座而何物乎加將念《キミガイマセテナニヲカオモハム》、(此(ノ)歌は、望み願ひたる心の如く、君を待つけたるなり、と本居氏云り、)又|豐國能聞乃高濱高々二《トヨクニノキクノタカハマタカ/\ニ》、君待夜等者左夜深爾來《キミマツヨラハサヨフケニケリ》、十三に、母父毛妻毛子等毛高々二《オモチヽモツマモコドモモタカ/\ニ》、來跡待羅六人之悲沙《コムトマツラムヒトノカナシサ》、十五に、波之家也思都麻毛古杼毛母多可多加爾《ハシケヤシツマモコドモモタカタカニ》、麻都良牟伎美也之麻我久禮奴流《マツラムキミヤシマガクレヌル》、などあるに同じ○將見因毛我母《ミムヨシモカモ》は、見む爲方《シカタ》もがなあれかしの意なり、○歌(ノ)意は、相見まほしくて、仰ぎ望みおもふ妹をいかで相見む爲方もがなあれかしとなり、
 
759 何《イカニアラム》。時爾加妹乎《トキニカイモヲ》。牟具良布能《ムグラフノ》。穢屋戸爾《イヤシキヤドニ》。入將座《イリイマセナム》。
 
何時爾加《イカニアラムトキニカ》は、五(ノ)卷に、伊可爾安良武日能等伎爾可母《イカニアラムヒノトキニカモ》とあり、牟具良布能《ムグラフノ》は、葎生之《ムグラフノ》なり、茅(584)生《チフ》、芝生《シバフ》、蓬生《ヨモギフ》など云る類なり、葎は品物解に云、十一に、八重六倉覆庭爾《ヤヘムグラオホヘルニハニ》とも見えたり、○穢屋戸爾《イヤシキヤドニ》は、十九に、牟見良波布伊夜之伎屋戸母《ムグラハフイヤシキヤドモ》とあるに依て訓つ、又、キタナキヤドニ〔七字右○〕とも訓べし、神代(ノ)紀に、不須也凶目汚穢、此云2伊儺之居梅枳々多儺枳《イナシコメキヽタナキト》1とあり、○入將座は、イリイマセナム〔七字右○〕と訓べし、令2入座1なむなり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
〔右田村大孃。坂上大孃。并是右大辨大伴宿奈麻呂卿之女也。卿居2田村里1、號2曰田村大孃1。但妹坂上大孃者。母居2坂上里1。仍曰2坂上大孃1。于v時姉妹諮問以v歌贈答。〕
并は、並(ノ)字の誤なるべし、○宿奈麻呂(ノ)卿の傳は、二(ノ)上に委云り、右大辨に任《メサ》れしこと、紀文に見えざるは、漏たるなるべし、さて此(ノ)人は、神龜元年に、從四位下にまで至《ナ》れるよし、續紀に見えたるうへ、當時右大辨なれば四位相當れり、しかれば卿と云べき人にあらず、そも/\卿とは、三位以上の人を云稱にて、(其(ノ)制《サタメ》公式令、過所式、續紀養老四年(ノ)條、及職原抄等に詳なり、)集中にも藤原(ノ)卿、(鎌足大臣、)橘(ノ)卿、(諸兄大臣、)或は、藤原(ノ)宇合(ノ)卿、安倍(ノ)廣庭(ノ)卿などあるが如し、(みな三位以上の人なり、しかるにこゝにかく卿とあると、六(ノ)卷左註に、右大辨高橋(ノ)安麻呂(ノ)卿(此人も、天平十年に、從四位下にまで至れる由、續紀に見ゆ、)とある、此等はみな三位に昇られたる人と見えねば、上に云る制《サダメ》にはたがへり、(もし後に三位に昇られたる人ならば、前にめぐらして書りとも云べけれども、然とは見えず、)さて又五(ノ)卷太宰(ノ)府梅花(ノ)歌の作者に、大貳紀(ノ)卿とある、(585)此(ノ)人の傳はしられねど、太宰(ノ)大貳なるからは四位なり、しかるに卿とあるは、上に云る制にはこれもたがへり、(これはその當時《トキ》にしるされたるまゝなれば、たとひ後に三位に至れる人なりとも、前にめぐらして書りとは云べからず、)雅澄考(フ)るに、三位以上ならでは、卿とは云べからずと云ことは、官制《オホヤケノサダメ》にて、そは公廳《オホヤケ》のはれやかなる所にてこそあれ、私家の歌集記録及墓碑の類には、或は其(ノ)人の徳を貴み、或は其(ノ)人の齒《ヨハヒ》を稱《ホメ》て、さらぬ位階の人等をも、某(ノ)卿某(ノ)卿と古くは云りしことありとおぼえたり、宿奈麻呂は、大伴(ノ)安麻呂(ノ)卿の第三子にて、家持(ノ)卿の爲には小父《ヲチ》なれば、家持(ノ)卿より貴みて書《シル》されたること理なり、其(ノ)餘も此(ノ)類と知べし、(大和物語に、源大納言たゞふさを、おとゞとしるせり、おとゞは大殿の義にて、大臣を尊みていふこと常なるに、たま/\は其(ノ)人を尊むべき由あるときは、大納言の列《ツラ》なるをも云りしと見ゆ、これ卿といふべき位階ならぬ人を、某(ノ)卿と云るにひとし、源氏物語朝貌に、桐壺(ノ)帝の源内侍をさして、おばおとゞとのたまへることあり、これはわざとことに戯れさせ給ひて、老女大臣《オバオトヾ》と嘲らせ給へるなれば、證にはなりがたきことなり、)かく思ひ定めて、人にも教《サト》しをりしに、近頃又一證を得たり、慶雲年中威奈(ノ)大村が古碑に題《シルシ》て、少納言正五位下威奈(ノ)卿(ノ)墓誌銘并序とあり、(國史略に載、)これにて四位五位の人をも、私には貴みて卿と稱せしことありしを知べし、又六(ノ)卷に、佐爲を橘(ノ)少卿としるせり、この佐爲は四位にて卒《ヲハ》られたれば、卿と稱(586)べき位階の人にあらざれども、兄の諸兄(ノ)大臣を、大卿と稱したるにひかれ、對へて少卿と稱しなり、さればこの卿も、右に云ると同じこゝろばえなり、
 
大伴坂上郎女《オホトモノサカノヘノイラツメガ》從《ヨリ》2竹田庄《タケダノタドコロ》1贈2賜《オクレル》女子大孃《ムスメノオホイラツメニ》1歌二首《ウタフタツ》
 
竹田《タケダノ》庄は、神名帳に、大和(ノ)國十市(ノ)郡竹田神社、神武天皇(ノ)紀に、又皇師|立誥《タチタケビシ》之處(ヲ)是謂2猛田《タケタト》1とある處の庄なり、○賜(ノ)字、類聚抄には无、
 
760 打渡《ウチワタス》。竹田之原爾《タケタノハラニ》。鳴鶴之《ナクタヅノ》。間無時無《マナクトキナシ》。吾戀良久波《アガコフラクハ》。
 
打渡《ウチワタス》は、古事記仁徳天皇(ノ)大御歌に、宇知和多須夜賀波延那須《ウチウタスヤガハエナス》、古今集に、打渡す彼方人になどあり、本居氏、打渡は、向(ヒ)を見渡すことなり、中昔(シ)までも皆見渡すことに云り、後撰集に、打渡し長き心は八(ツ)橋の、蜘手に思ふことは絶せじ、是は橋の縁を云て、即(チ)其(ノ)橋を見渡す意の云なしなり、橋の長きを見渡したるよしなり、拾遺集に、舟岡の野中に立る女郎花、渡さぬ人はあらじとぞ思ふ、舟の縁に云て、見渡さぬ人はあらじと云るなり、又古歌に、世中は夢の渡の浮橋か打渡しつゝ物をこそ思へ、此(ノ)二三の句は、萬葉の歌によめる、吉野の夢のわだと云處にて、そこに渡せる浮橋なるを、打渡しと云むために云るなり、さて歌の意は、世中の憂きまゝに、ながめして物思ふと云るなり、物思(ヒ)のあるときは、物をつく/”\と見渡してながむる、其を打渡しつゝと云るなり、又俊成卿(ノ)歌に、都出で伏見をこゆる明方は先(ツ)打渡す櫃川の橋、これ(587)も先は見渡すなり、夫木集に、堀川のせきの井ぐひの打渡しあはでも人に戀わたるかな、こは人をたゞよそに見渡すのみにて、逢がたきよしなり、かくの如くなれば、此(ノ)詞中昔(シ)までは、人皆其(ノ)意をよく知れりと見ゆるを、近(キ)世となりて知れる人なく、皆ひがこゝろえして、遠きことぞ、長きことぞなど云りといへり、○歌意、本句は序にて其(ノ)方を戀しく思ふ事は、晝夜ひまもなくいつといふ時のさだまりもなしとなり、○契冲、此(ノ)歌を玉葉集に戀(ノ)部に、載られたるは誤なり、此(ノ)集(ノ)相聞はひろく、彼戀(ノ)部はせばくかぎりたるゆゑなり、此(ノ)歌は、むすめにおくれるものをと云り、
 
761 早河之《ハヤカハノ》。湍爾居鳥之《セニヰルトリノ》。縁乎奈彌《ヨシヲナミ》。念而有師《オモヒテアリシ》。吾兒羽裳※[立心偏+可]怜《アガコハモアハレ》。
 
縁乎奈彌《ヨシヲナミ》は、縁が無さにの意なり、契冲云、縁はよりどころなり、早河の瀬に鳥の居ては、草にもあれ木にもあれ、よりどころとすべき物なし、竹田の庄に在て、坂上里に遠くむすめにおくれば、われをはなれて、彼(ノ)早河の湍に居る鳥のやうに、よりどころなくおもはむはかなしきを、か好子はもあはれと云り、古歌の體なり、(已上)今按に、上よりいひかけたる意は、此(ノ)説の如く、よりたのむところなきよしなり、承たる上にては、此(ノ)上に、情爾者思渡跡縁乎無三《コヽロニハオモヒワタレドヨシヲナミ》とあるに同じく、爲方《シカタ》が無さにといふ意なり、別るゝはつらけれど、外に爲方がなさにといふなり、○念而有師《オモヒテアリシ》は、女子が物憂く思ひてありしといふなり、上に此(ノ)女子の別がてにせしこと、(588)長歌に見えたり、考(ヘ)合(ス)べし、○吾兒羽裳※[立心偏+可]怜《ワガコハモアハレ》は、羽裳《ハモ》は尋慕ふ意の辭、※[立心偏+可]怜は歎息の聲なり、○歌(ノ)意は、別るゝは互につらけれど、外にすべきやうのなき故に、吾を慕ひて、女子が物うく思ひてありし、其(ノ)吾(ガ)女子はも、嗚呼《アハレ》いかにして居るらむ、きはめて吾(ガ)女子を思ふ如く、吾を戀しく思ひつゝあらむ、と尋慕ひて歎思《ナゲキ》たるなり、
 
紀女郎《キノイラツメガ》贈《オクレル》2大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチニ》1歌二首《ウタフタツ》【女郎名曰2小鹿1也。】
 
紀(ノ)女郎は、此(ノ)上に出づ、
 
762 神左夫跡《カムサブト》。不欲者不有《イナニハアラズ》。八也多八《ハタヤハタ》。加是爲而後二《カクシテノチニ》。佐夫之家牟可聞《サブシケムカモ》。
 
神左夫跡《カムサブト》は、神さぶるとての意なり、年老ねびたりとてといふなり、源氏物語朝貌に、源氏(ノ)君の老たることを、みづからのたまふ處に、かみさびにける年月のらう、かぞへられ侍るに云云とあり、○八也多八(拾穂本に、一(ニ)云八也八多とあり、)は、本居氏、八多也八多とありしが、文字の脱(チ)あるひは下上して誤れるなり、十六に、痩々《ヤス/\》もいけらばあらむを波多也波多《ハタヤハタ》、とよめるを合(セ)見べしと云り、也《ヤ》は余《ヨ》と云ふが如し、將余將《ハタヨハタ》の意なり、波多《ハタ》は、そのもと心に欲《ネガ》ふ事ならねど、外にすべきすぢなくて、止ことなくするやうの詞なり、既く一(ノ)下に、委(ク)説り、波多《ハタ》をかへして二(ツ)いへるは、波多《ハタ》かゝらむか、波多《ハタ》かゝらむか、と其(ノ)事を甚切《フカ》く疑ひたる意なり、○歌(ノ)意は、わが年老ねびたれば、さることは心に欲ふ事ならねど、年老たりとて、君の宣ふ事にもと(589)りて、いな遇ふ事はせじといふにはあらず、さらば止ことなくして、あひまゐらすべきなれど、遇て後君が心の轉變《ウツロ》ひて、わが年老たりとていとはれなむとき、苦く不樂《サブシ》からむか、と後を切《フカ》く疑へるなり、八(ノ)卷に、神佐夫等不許者不有秋草之《カムサブトイナニハアラズアキクサノ》、結之紐乎解者悲哭《ムスビシヒモヲトクハカナシモ》、本(ノ)句は此れに同じ、
 
763 玉緒乎《タマノヲヲ》。沫緒二搓而《アワヲニヨリテ》。結有者《ムスベレバ》。在手後二毛《アリテノチニモ》。不相在目八方《アハザラメヤモ》。
 
沫緒二搓而《アワヲニヨリテ》は、契冲云、伊勢物語に、むかし心にもあらで、たえたる人のもとにとて、此(ノ)歌を、玉の緒をあわをによりてむすべれば絶ての後もあはむとぞ思ふ、と引なほしてかけり、拾遺集弟十六貫之(ノ)歌に、春くれば瀧の白絲いかなれやむすべども猶あわにみゆらむ、枕草子に、清少納言(ノ)歌に、薄氷あわにむすべるひもなればかざす日蔭にゆるふばかりぞ、此(ノ)歌は、あわは結べる紐とよめり、もしみな結び、あげまきなどいふたぐひに、結ぶやう有名にや、あるものに、よろひの事をかけるを、昔(シ)見侍しに、何絲かわすれ侍し、それを淡路結にせよ、とかきて侍るばかりおぼえぬ、それを見し時、ふと此(ノ)あわの事思ひ出し故に、今に忘れず侍り、用べき事には有まじけれど、次(テ)に書付侍り、搓は、集中に、よるといふにも、なふといふにも用ひたりと云り、江家次第に、紙搓《カウヨリ》とも紙縒《カウヨリ》とも書り、略解に、陸游翁が詩に、柳細搓難v似、花新染未v乾、と有て、搓と染と對(ヘ)たれば、搓は絲をよる事に用たたりと見ゆ、○歌(ノ)意は、玉(ノ)緒を沫緒に搓て、かた(590)く結びてあれば、いつまでも斷まじければ、嗚呼《アハレ》あり/\ての後にも、遇ずして止(ム)べしやは、必(ス)後にも遇はむぞ、とたとへ云るにて、とかく契約をかためたれば、後々も必(ス)遇むとなり、玉(ノ)緒は、兩の端をくゝりあはすれば、かく云り、
 
大伴宿禰家持和歌一首《オホトモノスクネヤカモチガコタフルウタヒトツ》。
 
764 百年爾《モヽトセニ》。老舌出而《オイシタイデテ》。與余牟友《ヨヨムトモ》。吾者不厭《アレハイトハジ》。戀者益友《コヒハマストモ》。
 
老舌出而《オイシタイデテ》は、老たる人は、齒おちて舌の出れば云り、○與余牟《ヨヨム》は、契冲云、どもるやうの心なり、よゝとなくといふは、さくりあげて、なくをいふ、よゝむも同じ詞なり(又云、此(ノ)歌を六帖翁(ノ)題に、おいくちひそみなりぬとも我はわすれじとて載たり、源氏はゝき木に、女のをとこを恨て、心みじかく尼になる事を云る所に、みづからひたひがみをかきさぐりて、あへなく心ぼそければ、うちひそみぬかしとかけるに、抄に、此(ノ)歌を引とて、老くちひそみよゝむともと云り、すべて彼抄和漢の書を引に、たしかならぬ事おほし、六帖はあらためて載たりとみゆ、此(ノ)集にては、老舌出而とあるを、いかでおいくちひそみとはよむべき、)○歌(ノ)意は、たとひ妹がさき/”\老はてぬとも、その時彌戀のまさりはすべし、さらにいとひはせじと云て、神左夫跡《カムサブト》云々、と云るにこたへたり、
 
在《アリテ》2久邇京《クニノミヤコニ》1。思《シヌヒテ》d留《トヾマレル》2寧樂宅《ナラノイヘニ》1坂上大孃《サカノヘノオホイラツメヲ》u。大件宿禰家持作歌一首《オホトモノスクネヤカモチガヨメルウタヒトツ》。
 
(591)765 一隔山《ヒトヘヤマ》。重成物乎《ヘナレルモノヲ》。月夜好見《ツクヨヨミ》。門爾出立《カドニイデタチ》。妹可將待《イモカマツラム》。
 
一隔山《ヒトヘヤマ》は、山(ノ)名にあらず、久邇と寧樂は、山一重隔てればかく云り、六(ノ)卷に、故郷者遠毛不有一重山《フルサトハトホクモアラズヒトヘヤマ》、越我可良爾念曾吾世思《コユルガカラニオモヒソアガセシ》とよめり、(これも久邇(ノ)京にて、奈良をよめるなり、)百重山《モヽヘヤマ》、五百重山《イホヘヤマ》など云類なり、○重成物乎《ヘナレルモノヲ》は、十一に石根蹈重成山雖不有《イハネフミヘナレルヤマハアラネドモ》とあり、○妹可將待《イモカマツラム》は、妹待らむ歟といふなり、○歌(ノ)意は、妹があたりとは、山さへ一重へだゝりて、甚《イト》間近からぬ物を、今夜の月のさやけさに、吾を今か/\と家(ノ)門に出立て、妹が待つゝあるらむかとなり、
 
藤原郎女《フヂハラノイラツメガ》聞《キヽ》v之《コノウタヲ》。即和歌一首《コタフルウタヒトツ》。
 
藤原(ノ)郎女は藤原(ノ)朝臣麻呂の子にて、母は坂上(ノ)郎女なるべし、さて藤原(ノ)郎女と呼なせるならむといへり、さらば坂上(ノ)大孃には異父姉なり、さて此(ノ)ほど、久邇(ノ)京へ宮づかへなどしてありしなるべし、こは右の歌を、坂上(ノ)大孃におくられけるをきゝて、坂(ノ)上大孃の心を、おもひはかりてよめるなり、
 
766 路遠《ミチトホミ》。不來常波知有《コジトハシレル》。物可良爾《モノカラニ》。然曾將待《シカゾマツラム》。君之目乎保利《キミガメヲホリ》。
 
物可良爾《モノカラニ》は、物故爾《モノユエニ》と、云に同じくて、物なるをの意なり、○君之目乎保利《キミガメヲホリ》は、書紀齊明天皇崩後、天智天皇の大御歌に、枳瀰我梅能姑褒之枳※[舟+可]羅※[人偏+爾]婆底底威底《》、※[舟+可]矩野姑悲武謀枳瀰我梅弘報梨《ヲキミガメノコホシキカラニハテテヰテカクヤコヒムモキミガメホリ》、とあるに同じ、見ゆることを、目《メ》と云るにて、目《メ》は所見《ミエ》なり、(ミエ〔二字右○〕の切メ〔右○〕)容儀《スガタ》と云が如(592)し、○歌(ノ)意は、いかにも路が遠さに、輙く來座はせじとしれるものゝ、なほ戀しさに堪ずて、もしは今夜の月のさやけさに、さそはれ出て、來ますことも有むかと、ひとへに君の戀しさに、門に出立など、さやうにぞ待らむとなり、
 
大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチガ》。更《マタ》贈《オクレル》2大孃《オホイラツメニ》1歌二首《ウタフタツ》。
 
首(ノ)字、舊本には無(シ)、古寫本拾穗本等に從つ、
 
767 都路乎《ミヤコヂヲ》。遠哉妹之《トホミヤイモガ》。比來者《コノゴロハ》。得飼飯而雖宿《ウケヒテヌレド》。夢爾不所見來《イメニミエコヌ》。
 
都路《ミヤコヂ》は、久邇の京路なり、○得飼飯而雖宿《ウケヒテヌレド》は、神に誓約《ウケヒ》て寢れどもなり、神武天皇(ノ)紀に、天皇是夜自|祈《ウケヒテ》而寢、夢有2天神1訓之曰云々、飼飯と連(ネ)書時にかぎりては、飼(ノ)字をケ〔右○〕の假借に用ること、由縁あり、三(ノ)卷に具(ク)云り、(本居氏の、飼は笥の誤なるべしと云るは、なまじひなり、〔頭注、【現報靈異記に、祈?|有介比《ウケヒ》、四季物語に、昔より松の尾の宮居に、此みやしろ(賀茂)深き御うけひおはして、】〕○歌(ノ)意は、妹があたりよりは、久邇の京路に遠き故にや、このごろは神に祈誓て宿れども、妹が夢に見え來ぬとなり、
 
768 今所知《イマシラス》。久邇乃京爾《クニノミヤコニ》。妹二不相《イモニアハズ》。久成《ヒサシクナリヌ》。行而早見奈《ユキテハヤミナ》。
 
今所知《イマシラス》は、今新に所知《シラス》にて、新京の義なり、六(ノ)卷に、今造久爾乃王都者《イマツクルクニノミヤコハ》、八(ノ)卷に、今造久邇能京者《イマツクルクニノミヤコハ》などあり、今の義は、猶此(ノ)上に委く云り、○歌(ノ)意は、今新にしろしめす新京の地へ、妹にわかれ來て已《ハヤ》く月日久しく成ぬ、今はかくては得堪まじきなれば、早く行て相見む、と急ぎ進める(593)なり、續紀に、天平十三年閏三月乙丑、詔云々、自今以後、五位以上、不v得2任(ニ)v意(ノ)住2於平城(ニ)1、如有2事故1、應2須退歸1、被2賜官符(ヲ)1然後聽之、其見(ニ)在2平城(ニ)1者、限2今日内(ヲ)1悉皆催發、自餘散2在他所(ニ)1者、亦宜2急追1とあり、久邇に都遷されて後、かく詔ありければ、五位以上の人は、一日も奈良(ノ)都に住(ム)事は得ざりしを、其(ノ)妻子の類は、なほ舊都に留置たれば、戀慕(ヘ)るなり、○此間に、紀(ノ)女郎より、大伴(ノ)宿禰家持に贈れる歌のありしが、脱たるなるべし、
 
大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチガ》報2贈《コタフル》紀女郎《キノイラツメニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
769 久堅之《ヒサカタノ》。雨之落日乎《アメノフルヒヲ》。直獨《タヾヒトリ》。山邊爾居者《ヤマベニヲレバ》。鬱有來《イフセカリケリ》。第廿五號
 
鬱有來はイフセカリケリ〔七字右○〕と訓る宜し、(但し布を濁りて唱(フ)はわろし、古言には皆清り、鬱《イフセキ》は、物思に、心のふさがりたるやうのことなり)八(ノ)卷に、隱耳居者鬱悒奈具左武登《コモリノミヲレバイフセミナグサムト》、出立聞者來鳴日晩《イデタチキケバキナクヒグラシ》、又|雨隱情鬱悒出見者《アマゴモリコヽロイフセミイデミレバ》、春日山者色付二家利《カスガノヤマハイロヅキニケリ》、九(ノ)卷に、牢而座在者《コモリテヲレバ》、見而師香跡恨情時之垣廬成人之誂時《ミテシカトイフセムトキノカキホナスヒトノトフトキ》、十一に、水鳥乃鴨之住池之下樋無《ミヅトリノカモノスムイケノシタヒナミ》、鬱悒君今日見鶴鴨《イフセキキミヲケフミツルカモ》、十二に、荷田價異心鬱悒事計《ウタテケニコヽロイフセシコトハカリ》、吉爲吾兄子相有時谷《ヨクセワガセコアヘルトキダニ》、又|垂乳根之母我養蠶乃眉隱《タラチネノハヽガカフコノマヨゴモリ》、馬聲蜂音石花蜘※[虫+厨]荒鹿異母二不相而《イフセクモアルカイモニアハズテ》、などある皆意同じ、(鬱有の字(ノ)義は、二(ノ)中に委(ク)辨へたり、本居氏云、大かた、イフセシ、イフカシ、オホツカナシ〔十四字右○〕、又オホヽシ〔四字右○〕、此(ノ)四(ツ)は、本一(ツ)言と聞えて意も同じ、故(レ)集中に通はして、共に鬱悒と書り、其(ノ)訓は上下の語に隨ひて、右の四(ツ)の異あるべし、右の四(ツ)、後(ノ)世には、各少しづゝ意異なるが(594)如くなるは、後におのづから然分れたるなり、〉○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチガ》從《ヨリ》2久邇京《クニノミヤコ》1贈《オクレル》2坂上大孃《サカノヘノオホイラツメニ》1歌五首《ウタイツツ》。
 
770 人眼多見《ヒトメオホミ》。不相耳曾《アハナクノミソ》。情左倍《コヽロサヘ》。妹乎忘而《イモヲワスレテ》。吾念莫國《アガモハナクニ》。
 
末(ノ)句は、妹を吾(ガ)忘ぬことなるものをの意なり、念は、例の輕く添たる詞なり、○歌(ノ)意は、心には忘るゝ間なく戀しけれど、人目が多きゆゑに、そを忌憚りて、相見ざるのみの事にこそあれ、心にまで吾(ガ)忘れはせぬことなるものを、ゆめ/\なみ/\の思(ヒ)とおもふことなかれとなり、
 
771 僞毛《イツハリモ》。似付而曾爲流《ニツキテソスル》。打布裳《ウツシクモ》。眞吾妹兒《マコトワギモコ》。吾爾戀目八《アレニコヒメヤ》。
 
本(ノ)二句は、契冲、僞をいふにも、似つかはしき事をするなり、たとへば、春山にかゝる白雲を、花なり、とはいふべし、鷺をさして、烏なりとはいふまじきが如しと云り、十一に、僞毛似付曾爲何時從鹿《イツハリモニツキテソスルイツヨリカ》、不見入戀爾人之死爲《ミヌヒトコフニヒトノシニスル》、とあるに同じ、今按(フ)に、これは、さても似も付ぬ僞をする妹にてもある哉、といふべきを、倒語に、似付たる僞をする妹ぞ、とわざと嘲るやうにいへるなり、神代紀下卷に、天孫|幸《メシタマフ》2吾田鹿葦津姫(ヲ)1、則|一夜有身《ヒトヨニハラマシテ》、遂生2四子(ヲ)1、故吾田鹿葦津姫抱v子(ヲ)、而來進《マヰキテミセマツリテ》曰、天(ツ)神(ノ)之|子《ミコ》、寧可2以私養1乎、故告v状知聞、是時天孫見2其子等1嘲之曰、妍哉吾皇子者、聞喜《キヽヨクモ》而生之歟、故吾田鹿葦津姫乃慍之曰、何爲嘲v妾乎、天孫曰、心之疑矣故嘲之、何則雖2復吾天神之子1、豈能一(595)夜之間、使v人有2身者1哉、固非2我子1矣、云々、とある聞喜《キヽヨク》も、聞惡《キヽニク》の倒《ウラ》をのたまへるにて、今と似たることなり、○打布裳《ウツシクモ》は、顯《ウツ》しくもなり、げに/\しく眞實にの意なり、○歌(ノ)意は、たとへば、花をさして雲なりといひ、紅葉をさして錦なりと云むは、僞ながらも猶ゆるすべし、妹は雪をさして炭なりと云むが如く、さても似付たる僞をする事ぞ、うべ/\しく眞實に吾を戀しく思はむやは、さやうにわれを戀しく思ふといふは、たとへば、雪をさして炭といはむが如く、よく似付たる僞ぞと、わざと嘲笑やうに云るなり、
 
772 夢爾谷《イメニダニ》。將所見常吾者《エムトアレハ》。保杼毛友《ウケヘドモ》。不相志思《アヒモハザレバ》。諾不所見有武《ウベミエザラム》。
 
夢爾谷《イメニダニ》、夢になりともの意なり、(俗に夢にでもと云むが如し、)○保杼毛友は、誤字なるべし、(岡部氏の、保杼毛友《ホドケドモ》は、紐解どもの略なりと云るはわろし、又本居氏の、杼は邪の誤にて、ホザケドモ〔五字右○〕ならむか、と云るもあらず、)按(フ)に、得毛經友とありしを、得を保に、經を杼に誤り、はた字の顛倒《イリマガ》へるにやあらむ、さらばウケヘドモ〔五字右○〕と訓べし、上に、得飼飯而雖宿夢爾不所見來《ウケヒテヌレドイメニミエコヌ》とあり、○不相志思は、志は者の誤にて、不相思者とありしを、又下上に誤れるなるべしと云り、アヒモハザレバ〔七字右○〕と訓べし、○有(ノ)字は、舊本には無(シ)、元暦本に從つ、○歌(ノ)意は、直に相見事は協がたし、せめては夢になりとも見え來よ、と神に祈誓て寢れども、相思はずあれば、夢にさへ見えずあるは、諸なる事ぞとなり、
 
(596)773 事不問《コトトハヌ》。木尚味狹藍《キスラアヂサヰ》。諸弟等之《モロチラガ》。練乃村戸二《ネリノムラドニ》。所詐來《アザムカエケリ》。
 
事不問《コトトハヌ》は、物云(ハ)ぬといふに同じ六(ノ)卷に、不言問木尚妹與兄《コトトハヌキスライモトセ》、十三に、言不問木雖在《コトトハヌキニハアレドモ》、十九に、言等波奴木尚春開《コトトハヌキスラハルサキ》などあり、既(ク)三(ノ)卷(ノ)末のかたに云り、○木尚味狹藍《キスラアヂサヰ》は、尚《スラ》は俗にさへ、又までなどいふが如し、幹《モト》はさるものにて、その枝葉までもといふ意の詞なり、猶この詞の事、二(ノ)中に、委(ク)云り、考(ヘ)合(ス)べし、味狹藍は、品物解に具(ク)云り、○第三四(ノ)句は解難し、契冲、これは昔(シ)味狹藍を、諸茅等があざむきたる故事あるか、或は世にいひつたふる、物がたり有けることなるべし、何事ともわきまへがたしと云り、○歌(ノ)意は、物云はぬ木にてさへ、云々に詐かれけり、されば現(シキ)身の吾が、妹がうはべの僞を眞と心得て、今まで詐かれて、たのみにおもひしは、うべなりけりとなり、
 
774 百千遍《モヽチタビ》。戀跡云友《コフトイフトモ》。諸茅等之《モロチラガ》。練乃言羽志《ネリノコトバシ》。吾波不信《アレハタノマジ》。
 
第三四(ノ)句の解難き事、右に云るが如し、○言羽志《コトバシ》は、言羽《コトバ》は詞なり、志《シ》は、その一(ト)すぢなるをいふ助辭なり、元暦本には、志を者と作り、こはいづれにもあるべし、○歌(ノ)意は、百遍千遍《モヽタビチタビ》吾を戀しく思ふといふとも、云々と恰《アタカ》も同じ事の詐僞《イツハリゴト》をば、さら/\吾はたのみに思はじとなり、契冲云、此(ノ)二首は、さきのいつはりもにつきてぞする、といふ歌に、あはせてみれば、大孃をうらむる事ありて、よまれたる歌と見えたり、今按(フ)に、人の心の深きを淺しといひ、眞を僞とい(597)ひ、すべて此方の心にたくらべて、人を不足《アカズ》おもふは、戀情のつねなれば、さのみ心のそこよりは、怨る事のありしにはなけれど、吾(ガ)思(ヒ)の深さを、人に示さむが爲に、そのことのかぎりをいひて、わざとざれて怨るやうに云は、歌のならひなるべし、
 
大伴宿爾家持《オホトモノスクネヤカモチガ》贈《オクレル》2紀女郎《キノイラツメニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
775 鶉鳴《ウヅラナク》。故郷從《フリニシサトユ》。念友《オモヘドモ》。何如裳妹爾《ナニソモイモニ》。相縁毛無寸《アフヨシモナキ》。
 
鶉鳴《ウヅラナク》は、草深くあれて人目なき處には、鶉の住て鳴ものなれば、故郷をいはむために云るな
 
り、八(ノ)卷故郷豐浦(ノ)寺尼宴(ノ)歌に、鶉鳴古郷之《ウヅラナクフリニシサトノ》、十一に、鶉鳴人之古家爾《ウヅラナクヒトノフルヘニ》、又十七に、鶉鳴布流之登比等波於毛弊禮騰《ウヅラナクフルシトヒトハオモヘレド》ともよめり、六帖に、我屋戸は鶉伏(ス)迄拂はせじ小鷹手に居來む人の爲、伊勢物語に、野とならば鶉と成て鳴居むなどよめり、○故郷從《フリニシサトユ》は、久邇(ノ)京より、坂上(ノ)大孃がもとへおくりたる歌のつゞきにあれば、故郷は寧樂の家をさして、そこに、有しより、おもひそめつれど、と久邇(ノ)京にて云るなり、○歌(ノ)意は、今に始めたる事には非ず、寧絡の故郷にありしほどより、久しく戀しく思へども、何故にか、妹にあふ爲方のなきぞとなり、
 
紀女郎《キイイラツメガ》報2贈《コタフル》家持《ヤカモチニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
776 事出之者《コトデシハ》。誰言爾有鹿《タガコトナルカ》。小山田之《ヲヤマダノ》。苗代水乃《ナハシロミヅノ》。中與杼爾四手《ナカヨドニシテ》。
 
事出之者《コトデシハ》は、懸想せるよしを、先(ツ)詞に打出でいひそめしを云、神代(ノ)紀上に、如何婦人反先v言乎、(598)私記(ニ)、一説唱讀曰2古登弖志弖《コトデシテト》1、東舞歌に、今朝の言出は、集中十(ノ)卷に、春去者先鳴鳥乃?之《ハルサレバマヅナクトリノ ヒコノ》、事先立之君乎之將待《コトサキダチシキミヲシマタム》、などあるに同じ、○誰言爾有鹿《タガコトナルカ》は、誰(カ)言なるぞの意なり、古語に、誰《タレ》歟といふべきを曾誰《タレソ》といひ、奈留曾《ナルソ》といふべきを奈留可《ナルカ》といひて、すべて可《カ》と曾《ソ》は、こなたかなた通はしていへること多し、とおぼえたり、伊呂波歌に、我(カ)世|誰《タレ》そ常ならむとあるは誰歟の意なり、○苗代水乃《ナハシロミヅノ》は、中與杼《ナカヨド》をいはむためなり、苗代にまかせたる水は、塞留て他へもれず、よどめるものなればなり、○中與杼《ナカヨド》は、十二に、梓弓末中一伏三起不通有之《アヅサユミスヱノナカゴロヨドメリシ》、とある意なり、○歌(ノ)意は、はじめ詞に出して、まづいひそめしは、誰なるぞ、君にあらずや、されば君こそ絶ずいでまして、相見給ふべきことなるを、かへりて中ごろ絶間をおきて、妹に相よしもなきなどのたまふはいかなることぞとなり、
 
大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチガ》更《マタ》贈《オクレル》2紀女郎《キノイラツメニ》1歌五首《ウタイツツ》。
 
777 吾妹子之《ワギモコガ》。屋戸乃笆乎《ヤドノマガキヲ》。見爾從者《ミニユカバ》。蓋從門《ケダシカドヨリ》。將返却可聞《カヘシナムカモ》。
 
笆(類聚抄、古寫本、官本、拾穗本等には、籬と作り、)は、(字彙に、笆(ハ)竹籬、編v竹圍v之、)和名抄に、釋名(ニ)云、籬(ハ)以v柴(ヲ)作v之、和名|末加岐《マガキ》、一(ニ)云|末世《マセ》(字鏡に、籬(ハ)志波加支《シバカキ》、又|竹加支《タカカキ》とあり、間垣《マガキ》の義なり、間々《マヽ》を圍《カコ》み隔(ツ)る謂なり、(末世《マセ》は、間塞《マセ》なるべし、)○歌(ノ)意は、間垣のすがたを見むといふに言よせて、妹許ゆかば、心づよき妹なれば、内へは入(レ)ずて、もし門より追ひ還しなむか、さてもうらめしやと、(599)ざれて云るなり、
 
778 打妙爾《ウツタヘニ》。前垣乃酢堅《マガキノスガタ》。欲見《ミマクホリ》。將行常云哉《ユカムトイヘヤ》。君乎見爾許曾《キミヲミニコソ》。
 
打妙爾《ウツタヘニ》は、打つけにやがての意なり、上に出て具(ク)云り、(四上)、○歌(ノ)意は、打つけにやがて、笆の草木のすがたを、見まくほしさに行むといはむやは、君を見にこそゆかめとなり、初には、打つけに笆のすがたを見に行ばといひて、こゝには、言にこそ笆のすがたを見まほしくてゆかむと云へ、實には君を見にこそゆかめと、初(ノ)歌を自(ラ)釋(ク)やうに云るなり、是(レ)古歌(ノ)體なり、古事記仁徳天皇(ノ)御歌に、夜多能比登母登須宜波《ヤタノヒトモトスゲハ》、古母多受多知迦阿禮那牟《コモタズタチカアレナム》、阿多良須賀波良《アタラスカハラ》、許登袁許曾須宜波良登伊波米《コトヲコソスゲハラトイハメ》、阿多良須加志賣《アタラスカシメ》、又輕(ノ)太子御歌に、意富岐美袁斯麻爾波夫良婆《オホキミヲシマニハフラバ》、布那阿麻里伊賀弊理許牟叙《フナアマリイガヘリコムゾ》、和賀多多彌由米《ワガタタミユメ》、許登袁許曾多々美登伊波米《コトヲコソタタミトイハメ》、和賀都麻波由米《ワガツマハユメ》とある類なり、
 
779 板蓋之《イタフキノ》。黒木乃屋根者《クロキノヤネハ》。山近之《ヤマチカシ》。明日取而《アスノヒトリテ》。持將參來《モチマヰリコム》。
 
板蓋《イタフキ》は、續紀に、神龜元年十一月甲子、太政官奉言、云々、其(ノ)板屋草舍(ハ)、中古(ノ)遺制(ナリ)、難v營(ト)易v破(レ)、空(ク)殫2民財(ヲ)1、請d仰(テ)2五位已上及庶人堪v營(ニ)者(ニ)1、構2立瓦舍(ヲ)1、塗爲(ムト)u3赤白(ト)1、奏可之とあれば、其(ノ)頃までは、おほくは板屋根なりしことしられたり、○黒木《クロキ》は、皮著たる木を、其(ノ)まゝ用たるを云、弘仁式、貞觀儀式、延喜式等に、多く見えたり、源氏物語賢木に、(野(ノ)宮のさまを、)黒木のとりゐどもは、さすがにかう(600)かうしく見えわたされて、とあるも同じ、削りたる木を白木といふ、其(ノ)對なり、(延喜式左衛門(ノ)府大舍人などの條に、卯杖の事に黒木と見えたるは、今の黒もじにやと云り、)八(ノ)卷に、黒木用造有室者《クロキモチツクレルイヘハ》とあり、〔頭註、【貞觀儀式踐祚大嘗祭儀に、物部女宿屋云々、並以黒木構作云々、神座殿、構以黒木云々、高萱御倉者、以四枝黒木爲柱云々、東爲悠紀院、西爲主基院、其宮垣云々、構以黒木云々、弘仁式正月上卯日、御杖供進式、其杖曾波木、(二束)、比比良木、棗、牟保許、桃梅、(各六束、以二株爲束)皮椿、(四束)、黒木、(八束、以爲四束)】〕○明日は、アスノヒ〔四字右○〕と訓べし、十八に、安須能比《アスノヒ》とあり、○歌(ノ)意、これは遷都のちかき時なれば、紀(ノ)女郎、此時家造せしことありしなるべし、さて山近ければ、其(ノ)屋根ふかむ料の黒木は、はや明日のこと、取て持て參來むといひて、次の將譽十方不在《ホメムトモアラジ》をいはむしたがたなり、
 
780 黒樹取《クロキトリ》。草毛刈乍《クサモカリツヽ》。仕目利《ツカヘメド》。勤知氣登《イソシキワケト》。將譽十方不在《ホメムトモアラジ》。
 
樹(ノ)字、拾穗本には木と作り、○草毛刈乍《クサモカリツヽ》は、黒木のみならず、草さへも刈つゝといふなり、草は、板蓋なれば、屋根葺(ク)料にはあらじ、蔀あるひは壁代などに、すべて草を用ひしこと、古書にあまた見えたれば、其(ノ)料なるべし、(さればこゝにては、草をカヤ〔二字右○〕と訓むはわろし、)十一に、新室壁草刈邇御座給根《ニヒムロノカベクサカリニイマシタマハネ》、とも見えたり、○仕目利《ツカヘメド》、舊本に、一(ニ)云仕登母とあり、○知氣は、本居氏、知は和の誤なりと云り、和氣《ワケ》のことは上に具(ク)云り、○在(ノ)字、類聚抄、拾穗本等には有と作り、○歌(ノ)意は、黒木を山より伐(リ)取(リ)來、壁代などの草をも、野より刈(リ)持(チ)來て、仕むものとおもへども、そこの愛しみおもへる吾にもあらねば、いそしくつとめたる汝哉《ワケカナ》、と譽むともあらじとなり、
 
(601)781 野干玉能《ヌバタマノ》。昨夜者令還《キソハカヘシツ》。今夜左倍《コヨヒサヘ》。吾乎還莫《アレヲカヘスナ》。路之長手呼《ミチノナガテヲ》。
 
昨夜は、キソ〔二字右○〕と訓べし、二(ノ)卷に、君曾伎賊乃夜《キミソキソノヨ》、十四に、伎曾母許余比母《キソモコヨヒモ》、又|伎曾許曾波《キソコソハ》、又|伎曾比登里宿而《キソヒトリネテ》、又|伎曾毛己余必母《キソモコヨヒモ》などあり、(ヨベヨムベ〔五字右○〕などよまむはわろし、ヨベ〔二字右○〕は、日本紀私記に、去※[金+尊]古曾《コソコソ》如v謂2與倍古曾《ヨベコソト》1也とあれど、そはなほやゝ後の言と見えたり、)○路之長手呼《ミチノナガテヲ》(呼(ノ)字、拾穗本には乎と作り、)は、上に出て、彼處《ソコ》に具(ク)云り、○歌(ノ)意は、昨夜參りしには、つれなくてむなしくかへせれば、せむかたなくてかへりつ、又今夜も、路の長道をからうして來(タ)れゝば、それをあはれみて、いかで今夜までも心づよくかへし給ふことなかれとなり、
 
紀女郎《キノイラツメガ》※[果/衣]物《ツトヲ》贈《オクレル》v友《トモニ》歌一首《ウタヒトツ》【女郎名曰2小鹿1、】
 
友は、女どちの友なり、
 
782 風高《カゼタカク》。邊者雖吹《ヘニハフケレド》。爲妹《イモガタメ》。袖左倍所沾而《ソデサヘヌレテ》。刈流玉藻烏《カレルタマモソ》。
 
烏は、焉に通(シ)書る字にて、添たるのみなり、既く云り、(契冲が、烏は、大をそ鳥といふを、をそを上略して、そといふ假字に用るなり、と云るはひがことなり、)○歌(ノ)意は、海邊には風高く吹荒て、難澁《クルシ》かりけれど、妹が爲にとおもひて、袖まで沾して、からうして刈て來し玉藻なれば、おほろか思ひて、きこしめし給ふ事なかれとなり、
 
大伴宿禰家持《オホトモノヤカモチガ》贈《オクレル》2娘子《ヲトメニ》1歌三首《ウタミツ》。
 
(602)783 前年之《ヲトヽシノ》。先年從《サキツトシヨリ》。至今年《コトシマデ》。戀跡奈何毛《コフレドナソモ》。妹爾相難《イモニアヒガタキ》。
前年《ヲトヽシ》は、遠津年《ヲチツトシ》にて、去々年なり、(遠《オチ》は、貞觀儀式、十二月大儺儀祭文に、東方|陸奥《ミチノク》、西方|遠値嘉《トホツチカ》、南方|土佐《トサ》、北方|佐渡與里乎知能所乎《サドヨリヲチノトコロヲ》、奈牟多知《ナムタチ》疫鬼之|住加登定賜比《スミカトサダメタマヒ》、行賜弖《ユキタマヒテ》云々、貫之の、昨日よりをちをばしらず、とよめるをちなり、さてヲチツトシ〔五字右○〕のチツ〔二字右○〕を切れば、ヲツトシ〔四字右○〕なるを、ツをト〔右○〕に轉して、ヲトヽシ〔四字右○〕とは云り」○先年《サキツトシ》は、去々年の今一(ツ)前年なり、常にさをと年といふ是なり、(竹取物語に、さをとゝしのきさらぎの十日ごろに、なにはより舟に乘て云々、)こゝも前遠年從《サキヲトトシヨリ》といふべきを、上に前年之《ヲトトシノ》と云れば、唯|先年從《サキツトシヨリ》とは云り、さをと年といふも、前遠津年《サキヲチツトシ》なり、○歌(ノ)意は、遠年《ヲトトシ》の今一(ツ)前年より、今年まで長き年月を、戀しく思ひて經渡(リ)しかども、何故にか、妹にあふことのなり難きぞとなり、
 
784 打乍二波《ウツヽニハ》。更毛不得言《サラニモエイハジ》。夢谷《イメニダニ》。妹之手本乎《イモガタモトヲ》。纏宿常思見者《マキヌトシミバ》。
 
歌(ノ)意は、現にあひ見むことは、所詮かなふまじければ、さらにも得言(ハ)じ、せめて夢になりとも、妹が手本を纏て寢ると見たらば、すこしはなぐさまむとおもふに、夢にさへ見えねば、甚苦しき事ぞとなり、
 
785 吾屋戸之《ワガヤドノ》。草上白久《クサノヘシロク》。置露乃《オクツユノ》。壽母不有惜《イノチモヲシカラズ》。妹不相有者《イモニアハザレバ》。
 
惜、舊本情に誤、元暦本、古寫本、古寫一本、拾穗本等に從つ、○歌(ノ)意は、本(ノ)二句は、露(ノ)命といはむ料(603)の序にて、妹が爲にこそ、生ながらへむと思ひて、壽もをしくはあれ、妹に得あはずてあれば、はかなき露(ノ)命も、さらに惜からずとなり、
 
大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチガ》。報〔□で囲む〕贈《オクレル》2藤原朝臣久須麻呂《フヂハラノアソミクスマロニ》1歌三首《ウタミツ》。
 
久須麻呂は、續紀に、寶字二年八月庚子朔、正六位下藤原朝臣久須麻呂(ニ)授2從五位下(ヲ)1、三年五月壬午、從五位下惠美(ノ)朝臣久須麻呂爲2美濃(ノ)守(ト)1、六月庚戌、從四位下、五年正月壬寅、爲2大和(ノ)守(ト)1、六年八月丁巳、令d左右京尹從四位下藤原(ノ)惠美朝臣訓儒麻呂云々等、侍2于中宮院1、宣c傳勅旨u、七年四月丁亥、參議從四位下藤原(ノ)惠美(ノ)朝臣久須麻呂爲2兼丹波守(ト)1、左右京尹如v故、八年九月乙巳、大師藤原惠美朝臣押勝逆謀頗(ル)泄(ル)、高野天皇、遣2少納言山村(ノ)王(ヲ)1、授2中宮院(ノ)鈴印(ヲ)1、押勝聞之、令2其男訓儒麻呂等(ヲ)1※[しんにょう+激の旁]而奪之、天皇、遣2授刀(ノ)小尉坂上(ノ)刈田麻呂、將曹牡鹿(ノ)島足等(ヲ)1、射而殺之、云々とあり、押勝の第二男なり、
 
786 春之雨者《ハルノアメハ》。彌布落爾《イヤシキフルニ》。梅花《ウメノハナ》。未咲久《イマタサカナク》。伊等若美可聞《イトワカミカモ》。
 
歌(ノ)意は、春雨は繼て彌《イヨ/\》重《シキリ》に降ば、大方の花も開べきに、君(ガ)家の梅の未(タ)咲ずてある事は、甚稚くて、咲出るに猶間のある故なればか、さても待遠やとなり、女を梅に譬へたり、末の答歌に、吾屋戸之若木乃梅毛《ワガヤドノワカキノウメモ》とあるを思へば、久須麻呂の家にある童女などに思ひかけて、よみておくられけるなるべし、
 
(604)787 如夢《イメノゴト》。所念鴨《オモオユルカモ》。愛八師《ハシキヤシ》。君之使乃《キミガツカヒノ》。麻禰久通者《マネクカヨヘバ》。
 
麻禰久《マネク》は、遍數なり、二(ノ)卷人麻呂(ノ)歌にありて、彼處に具(ク)云り、○歌(ノ)意は、君が使のしきりに通ひ來る事は、さらに現の事とはおもはれず、夢のやうにおもはるゝ哉となり、
 
788 浦若見《ウラワカミ》。花咲難寸《ハナサキガタキ》。梅乎殖而《ウメヲウヱテ》。人之事重三《ヒトノコトシゲミ》。念曾吾爲類《オモヒソアガスル》。
 
浦若見《ウラワカミ》は、浦《ウラ》は末《ウラ》なり、末稚《ウラウカ》さにの意なり、○歌(ノ)意、未(タ)うらわかさに、花の咲がたき梅を殖たる如く、まだ情實《∃ゴヽロ》ひらけず、片生なる童女を思ひかけて、人のとにかく云さわぐ故に、吾は物うくおもふぞとなり、
 
又家持《マタヤカモチガ》贈《オクレル》2藤原朝臣久須麻呂《フヂハラノアソミクスマロニ》1歌二首《ウタフタツ》。
 
789 情八十一《コヽログク》。所念可聞《オモオユルカモ》。春霞《ハルカスミ》。輕引時二《タナビクトキニ》。事之通者《コトノカヨヘバ》。
 
情八十一《コヽログク》は、上に具(ク)云り、○事は、借字にて言なり、○歌(ノ)意、春霞のおもしろくたな引て、甚興あるときに、君が言の通へば、いよ/\心なつかしくおもはるゝ哉となり、此は久須麻呂の言信を、愛しみてよまれしなるべし、
 
790 春風之《ハルカゼノ》。聲爾四出名者《オトニシデナバ》。有去而《アリサリテ》。不有今友《イマナラズトモ》。君之隨意《キミガマニマニ》。
 
春風之《ハルカゼノ》は、聲《オト》をいはむ料の枕詞なり、○聲爾四出名者《オトニシデナバ》、(四(ノ)字、類聚抄にはなし、)四《シ》は、その一(ト)すぢなる意を思はせたる詞なり、諾《ウベ》なへる由をさへ、聲に打出して、君がいはゞなるべし、○有去(6050)而《アリサリテ》は、有之有而《アリシアリテ》なり、之《シ》は例の助辭なり(シア〔二字右○〕の切サ〔右○〕となれば、アリサリテ〔五字右○〕と云り、)十二に、在去之毛不今有十方《アリサリテシモイマナラズトモ》、十七に、阿利佐利底能知毛相牟等《アリサリテノチモアハムト》などあり、なほ一(ノ)卷(古義一(ノ)上)冬木成春去來者《フユコモリハルサリクレバ》、とある歌の下に云るを、考(ヘ)合(ス)べし、○歌(ノ)意は、つひにはその女を、吾にゆるさむと、聲に出してさへ君が宣はゞ、たとひ今ならずとも、急く事にはあらざれば、あり/\て後、君が心のまゝに、任せおかむとなるべし、此はその童女を、つひに吾にあはせむと、ゆるさむことを、欲《ネガ》へるなるべし、
 
藤原朝臣久須麻呂來報歌二首《フヂハラノアソミクスマロガコタフルウタフタツ》。
 
791 奥山之《オクヤマノ》。磐影爾生流《イハカゲニオフル》。菅根乃《スガノネノ》。懃吾毛《ネモゴロワレモ》。不相念有哉《アヒモハザレヤ》。
 
流(ノ)字、類聚抄には無(シ)、○本(ノ)句は、懃《ネモゴロ》をいはむ料の序なり、○歌(ノ)意は、吾もねもごろに、君を相思はずあらむやはとなり、これは童女の心にかはりて、よめるなるべし、
 
792 春雨乎《ハルサメヲ》。待常二師有四《マツトニシアラシ》。吾屋戸之《ワガヤドノ》。若木乃梅毛《ワカキノウメモ》。未含有《イマダフヽメリ》。
 
乃(ノ)字、類聚抄にはなし、○含有《フヽメリ》は、ふくめりといふに同じ、花の將開《サカム》として、未(タ)開ざるを云、廿(ノ)卷に、布敷賣理之波奈乃波自米爾《フフメリシハナノハジメニ》、(十四にも、布敷麻留《フフマル》と書り、又|保々麻留《ホヽマル》とも云り、同言なり、)○歌(ノ)意は、吾屋外の若木の梅も未(タ)花咲ずはあれど、程なく咲出む下形に含みてあり、おもふに、春雨のふらむ時節を、一(ト)すぢに待居とにてあるらしとなり、これは久須麻呂の家にある童(606)女を、若木の梅にたとへたるなり
 
                   山田安榮
                  伊藤千可良    同校
                  文傳正興
 
 
萬葉集古義四卷之下 終
 
明治三十一年六月二十五日 印刷
明治三十一年七月  一日 發行
明治四十五年七月二十五日 再版印刷
明治四十五年七月 三十日 再版發行
(萬葉集古義奧付)
非賣品(不許複製)
  東京市京橋區南傳馬町一丁日十二番地
發行者 吉川半七
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印刷者 吉岡益藏
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發行所 國書刊行曾
 
宮内省
御原本
      〔2011年2月11日(金)午前9時55分了、巻五以下の入力開始未定〕
 
(1)萬葉集古義五卷之上
                 土佐國 藤 原 雅 澄 撰
 
雜歌《クサ/”\ノウタ》
 
太宰帥大伴卿《オホミコトモチノカミオホトモノマヘツキミノ》。報《コタヘタマフ》2凶問(ニ)1歌一首并《ウタヒトツマタ》序。
 
大伴(ノ)卿は、旅人(ノ)卿なり、傳三(ノ)上に委(ク)云り、○報2凶間1は、契冲云、是は旅人の妻大伴(ノ)郎女、身まかられける後、都より、時の公卿の間、兩人の許より、とぶらひつかはされける時、それにこたへて、よまれたる歌なり、第三に、神龜五年戊辰、太宰(ノ)帥大伴(ノ)卿、思2戀故人(ヲ)1歌三首とて載、天平二年の冬、大納言に任ぜられて、のぼらるゝ時、海路にての五首の歌、故郷にかへり來ての三首の歌、みな此(ノ)なげきをよまれたり、第八(ノ)卷に、式部(ノ)大輔石上朝臣堅魚を勅使として、喪をとぶらはせたまひ、賻物など賜ひける時、勅使記夷(ノ)城にのぼりて、望遊せられし時、ほとゝぎす來鳴とよもす卯の花のともにや來しと問まし物を、と堅魚(ノ)朝臣のよまれし返しに、橘の花ちる里のほとゝぎす片戀しつゝ鳴日しぞ多き、と大伴(ノ)卿の、よまれたるをおもふに、大伴(ノ)郎女の逝去は、春の末なるべし、今此歌のおくに、六月二十三日とあるは、私のとぶらひは、勅使よりも(2)おそく、酬報も、たよりにしたがひて、おそかるべし、○并序(ノ)二字、舊本には无(シ)、今は古寫小本に從つ、
 
※[衣+固]故重疊(リ)。凶問|累《シキリニ》集(ル)。永《ヒタブルニ》懷(キ)2崩(ス)v心(ヲ)之悲(ヲ)1。獨流(ス)2斷腸之|泣(ヲ)1。但依(テ)2兩君(ノ)大助(ニ)1。傾命纔(ニ)繼耳。筆不v盡v言(ヲ)。古今所v歎(ク)。
 
※[衣+固]故(※[衣+固](ノ)字、舊本福に誤、今は類聚抄、古寫本、古寫一本、古寫小本等に從つ、)は、喪事をいふ、文選に出たる字なり、〔頭註、【字書禍又作※[衣+固]】〕○崩心斷腸は、心をいたましむるをいふ、○永(ノ)字、一本に求と作るは誤なり、○泣の上、活字本、又一本に、涙(ノ)字あれどわろし、○兩君(ノ)大助は、時の公卿の間兩人の許より、とぶらひおこせしを云、次の言によるに、妻(ノ)君の喪の後、又自(ラ)病のあつかりしによりて、かた/”\とぶらはれしなるべし、兩君は、誰とも知がたし、○傾命纔繼は、老て齡の傾きたるを、傾命と云、大伴(ノ)卿の病の愈たるを、纔繼と云り、○筆不v盡v言、は、易(ノ)繋解に、書(ハ)不v盡v言、言(ハ)不v盡v意、とあるにょれり、
 
793 余能奈可波《ヨノナカハ》。牟奈之伎母乃等《ムナシキモノト》。志流等伎子《シルトキシ》。伊興余麻須萬須《イヨヨマスマス》。加奈之可利家理《カナシカリケリ》。
 
志流等伎子《シルトキシ》は、知時《シルトキ》なり、子《シ》は、その一(ト)すぢなる事を、おもく思はする助辭にて、甚力(ラ)あり、○伊興余麻須萬須《イヨヨマスマス》は、彌益《イヨヽマス/\》なり、○歌(ノ)意は、かねて世(ノ)間は、はかなきものぞとは聞しかど、正しく今(3)身に引うけて、そのむなしきことわりを、思ひしれる時ぞ、いよ/\まさりて、一(ト)すぢに悲しくありけるとなり、
 
 
神龜五年六月二十三日《ジムキイツトセトイフトシミナヅキノハツカマリミカノヒ》
 
筑前守山上臣憶良《ツクシノミチノクチノカミヤマノヘノオミオクラガ》悲2傷《カナシメル》亡妻《ミマカレルメヲ》1詩一首并《カラウタヒトツマタ》序〔筑前〜各字○で囲む〕
 
こゝに、右の如く標題のあるべきが、舊本は脱たるなるべし、故(レ)姑(ク)補ひつ、さて憶良大夫の、筑前(ノ)守となりて、任國に下られし、そのたしかなることは、しられずといへども、天平二年によまれたる歌に、天離夷《フマザカルヒナ》に五年住ひつゝ、とあるによれば、契冲云し如く、神龜三年のほどなりけむ、されば家妻は、後に慕ひて下られしにぞあらむ、又たゞに率て下られしならむには、下りて間《ホド》もなく病に臥て、同五年五月の頃、つひに身まかられければ、任國にやすみせし間《ホド》のなきによりて、其を長途の勞を、未(タ)やすむるばかりの間もなく、うせられしよしに、歌にはいひなせるにや、いかにまれ、身まかられし年月のことは、挽歌の詞、及その左にしるされたる文など、これかれ考へ合せてしられぬ、かくてこの大夫、任國にありて、天平二年正月、太宰(ノ)帥(ノ)宅の梅花(ノ)宴席に出會て歌よまれ、又同年に、松浦河贈答歌、及領巾麾嶺歌など、よまれたるよし、かた/”\見ゆ、さて天平二年十二月、帥大伴(ノ)卿大納言に任《メサ》れて、京に上られしほど、春さらば寧樂の都に召上《メサゲ》賜はねといひて、大伴(ノ)卿の吹擧を、あふがれたる如く、同四年春は、歸京せ(4)らるべかりしを、なほとゞまりしと見えて、大伴(ノ)熊凝が、天平三年六月相撲使某の從人にて、京へ上る道にて、死《ウセ》たるをいたみてよまれし歌も、いまだ任國にありしほどのことなり、さて其(ノ)年つひに上られしにや、なほ下に云を考べし、
 
盖聞四生(ノ)起滅。方《アタリテ》v夢(ニ)皆空。 三界(ノ)漂流。喩2環(ノ)不(ニ)1v息。所以(ニ)維摩大士在2乎方丈(ニ)1。有v懐(クコト)2染v疾之患(ヲ)1。釋迦能仁坐2於雙林(ニ)1。無v免2泥※[さんずい+亘]之苦(ヲ)1。故知(ル)二聖至極。不v能v拂(コト)2力負之|尋《ツギテ》至(ルヲ)1。三千世界。誰能逃(ム)2黒闇之|捜《サグリ》來(ルヲ)1。二鼠競走(テ)。而度v目之鳥旦(ニ)飛。四蛇爭侵(テ)。而過v隙(ヲ)之駒夕(ニ)走。嵯乎痛哉 紅顏共2三從1長逝。素質與2四徳1永滅。何(ソ)圖(ム)偕老違(ヒ)2於要期(ニ)1、獨飛生(セムトハ)2於半路(ニ)1。蘭室(ノ)屏風徒(ニ)張。斷腸之哀彌痛。枕頭(ノ)明鏡空(ク)懸。染※[竹/均]之涙逾落。泉門一掩。無v由2再見(ニ)1。嗚呼哀哉。
 
流(ノ)字、活字本に無はわろし、○在2乎方丈1、乎(ノ)字、拾穗本には于と作る丈(ノ)字、舊本に大と作るは誤なり、今は古寫本、古寫一本、拾穗本等に從つ、○無v免2泥※[さんずい+亘]之苦1、免(ノ)字、舊本兎と作るは誤なり、今は古寫一本に從、苦(ノ)字、一本に无はわろし、○黒闇之捜來、黒を里、捜を〓、と活字本に作るは誤なり、○目(ノ)字、活字本に无はわろし、○偕(ノ)字、舊本に階と作るは誤なり、今は古寫本、拾穗本等に從つ、○室(ノ)字、舊本に空と作るは誤なり、今は古寫本、古寫一本、活字本等に從つ、○※[竹/均](ノ)字、活字本には※[竹/功]と作り、いづれにても有べしと云り、
 
(5)愛河(ノ)波浪已(ク)先(ツ)滅。苦海(ノ)煩惱亦無v結(コト)。從來厭2離(ス)此穢土(ヲ)1。本願※[言+宅](セム)2生(ヲ)彼淨刹(ニ)1。
 
亦無、活字本に作元と作るは誤なり、○凡(ソ)此(ノ)卷(ノ)中にて、右(ノ)件の序と詩、また下に出たる沈痾自哀文、また悲2歎俗道1云々詩并序などは、たゞ異本を校へたるのみみにて、其(ノ)語(ノ)義を註さゞる所以は、うるさくこちたき、儒佛の語のみにして、吾(ガ)古學のすじには、いさゝかあづかる所なく、はたおのれ、もとより儒佛の説には、こよなくくらければ、ひがめる註解《トキゴト》せむは、中々のいたづらわざとも、なるべければぞかし、なほ強て其(ノ)語(ノ)義を、知まくおもはむ人は、契冲(ガ)代匠記をはじめ、其除の註どもをも考(ヘ)見、はた其(ノ)道をよくしれらむ人にも問て辨(フ)べし、但(シ)此(ノ)集中にて、歌詞の意にあづかれるをば漢文をも、止(ム)ことを得ざれば、いさゝか其義を釋つるなり、
日本挽歌一首并短歌《カナシミノヤマトウタヒトツマタミジカウタ》
 
日本挽歌とは、右の詩《カラウタ》にならべ載たる故、日本とことわれるなり、下に、書殿餞酒日(ノ)倭歌とあるも、今と同意なり、すべての歌を、夜麻登《ヤマト》歌といふことは、此ころまでは、都《カツ》てなかりしなり、
 
794 大王能《オホキミノ》。等保乃朝廷等《トホノミカドト》。斯良農比《シラヌヒ》。筑紫國爾《ツクシノクニニ》。泣子那須《ナクコナス》。斯多比枳摩斯提《シタヒキマシテ》。伊企陀爾母《イキダニモ》。伊摩陀夜周米受《イマダヤスメズ》。年月母《トシツキモ》。伊摩他阿良禰婆《イマダモアラネバ》。許許呂由母《ココロユモ》。於母波奴阿比陀爾《オモハヌアヒダニ》。宇知那毘枳《ウチナビキ》。許夜斯努亂《コヤシヌレ》。伊波牟須弊《イハムスベ》。世武須弊期良示《セムスベシラニ》。石木乎母《イハキヲモ》。刀此佐氣斯良受《トヒサケシラズ》。伊弊那良婆《イヘナラバ》。迦多知波阿良牟乎《カタチハアラムヲ》。宇良賣斯企《ウラメシキ》。伊毛(6)乃美許等能《イモノミコトノ》。阿禮乎婆母《アレヲバモ》。伊可爾世與等可《イカニセヨトカ》。爾保鳥能《ニホドリノ》。布多利那良毘爲《フタリナラビヰ》。加多良比斯《カタラヒシ》。許許呂曾牟企弖《ココロソムキテ》。伊弊社可利伊摩須《イヘサカリイマス》。
 
等保乃朝庭《トホノミカド》(庭(ノ)字、拾穗本には廷と作り、)は、三(ノ)卷人麻呂(ノ)歌に具(ク)云り、此は太宰府を云り、憶良筑前(ノ)守にて、その國府も、同郡にあれば云るなり、○斯良農比《シラヌヒ》(斯(ノ)字、舊本期に誤、今は古寫本、古寫一本、拾穗本等に從つ、)は、枕詞なり、これも三(ノ)卷に出づ、○泣子那須《ナクコス》は、泣子の母をしたふごとくに、慕來ましてとつゞくなり、○伊企陀爾毛《イキダニモ》(企(ノ)字、拾穗本には※[足+支]と作り、爾(ノ)字、活字本に余と作るは誤なり、)云々は、道をいそぎて行ば、息のせはしくなるものなり、これは妻の都より來て、いまだ息をやすむる間もなく、死去《ミマカレ》るよしなり、○伊摩陀阿良禰婆(陀(ノ)字、舊本には他と作り、拾穗本には此(ノ)字を作り、)は、かくては言たらはず、故(レ)案(フ)に、もとは伊久陀毛阿良禰婆《イクダモアラネバ》、とありしなるべきを、上の伊摩陀夜周米受《イマダヤスメズ》の、伊摩陀に見まがへて、寫(シ)誤れるなるべし、此(ノ)下、哀2世間難1v住歌に、佐禰斯欲能伊久陀母阿羅禰婆《サネシヨノイクダモアラネバ》とあるを併(セ)思(フ)べし、必(ズ)かくあるべきところなればなり、又二(ノ)卷に、左宿夜者幾毛不有《サネシヨハイクダモアラズ》、十(ノ)卷に、左尼始而何太毛不在《サネソメテイクダモアラズ》、十七に、年月毛伊久良母阿良奴爾《トシツキモイクラモアラヌニ》、なども見えたり、○許許呂由母《ココロユモ》は、從v心もなり、心(ノ)裏よりも、といはむが如し、○宇知那毘枳《ウチナビキ》(毘(ノ)字、舊本には比と作り、今は拾穗本に從つ、)は、臥る容を云るなり、○許夜斯努禮《コヤシヌレ》は、臥《コヤシ》ぬればの意なり、臥賜《フシタマ》ひぬればと云如し、こゝは、身まかりたる形を云るなり、(略解に、禮の下に、婆(ノ)(7)字脱たるか、と云るは、いみじき非なり、かゝる處に、婆の言をいはぬは古格なり、)さて許夜斯《コヤシ》は、推古天皇(ノ)紀、聖徳(ノ)太子(ノ)御歌に、許夜勢屡諸能多比等阿波禮《コヤセルソノタビトアハレ》とあり、臥《フス》ことを、許夜留《コヤル》と云は、古言なり、古事記允恭天皇(ノ)條、輕(ノ)太子(ノ)御歌に、都久由美能許夜流許夜理母《ツクユミノコヤルコヤリモ》、とある其なり、(契冲、束俗に、こやせるを、くやるともいふとかや、と云り、)かくて自(ラ)臥《フス》ことを許夜理《コヤリ》、許夜流《コヤル》と云、(古今集東歌に、横ほりふせるとあるを、古き一本に、くせるとあるも、くやるを、誤寫したるものなり、)他の臥ことを、敬ひて云ときは、許夜志《コヤシ》、許夜須《コヤス》と云は、古言の用樣の格《サダマリ》なり、この用格は、持《モツ》て自(ラ)のうへには、母多理《モタリ》、母多流《モタル》と云、他のうへを敬ひて云には、母多志《モタシ》、母多須《モタス》と云と、同例なり、さて、許夜志《コヤシ》、許夜須《コヤス》と云は、臥賜《フシタマ》ひ、臥賜《フシタマ》ふと云意になること、母多志《モタシ》、母多須《モタス》と云は、持賜《モチタマ》ひ、持賜《モチタマ》ふと云意になると、全(ラ)同じ、されば聖徳(ノ)太子の、許夜勢屡《コヤセル》と詔ふも、臥賜《フシタマ》ひて有(ル)、と云意なること、即(チ)三(ノ)卷挽歌(ノ)部、彼(ノ)皇太子(ノ)御歌に、既く委しく辨へたるが如し、しかるを、許夜志《コヤシ》、許夜須《コヤス》など云は、古書のうへにては、をり/\人も見當る詞なるを、許夜理《コヤリ》、許夜流《コヤル》、と云るは、めづらしくて、いたく耳遠きによりて、自のうへにいふと、他のうへを敬ひて云と、差別あることを辨へずして、許夜志《コヤシ》、許夜須《コヤス》と云は、ひとへに臥《フス》ことの古言とのみ意得たるは、甚麁なり、すべて敬ひて云べきときならずしては、許夜志《コヤシ》、許夜須《コヤス》とは、云まじきこと、既《サキ》にわきだめたるがごとし、さてこゝは、自(ラノ)妻のうへのことなれば、臥賜《フシタマ》ひぬればと云むは敬へるに過て、いか(8)がなりと思はむは、今(ノ)世の俗意なり、此歌の前後に、斯多比枳摩斯提《シタヒキマシテ》とも伊弊社可利伊摩須《イヘザカリイマス》ともあるをおもへ、すべて臣妾の類に至るまで、敬ひて云こと、古人の常なり、かくて許伊臥《コイフス》、許伊轉《コイマロブ》など云|許伊《コイ》も、許夜理《コヤリ》の約れるにて、(夜理《ヤリノ》切|伊《イ》、)許夜理臥《コヤリフス》、許夜理轉《コヤリマロブ》、といふことなり、○石木乎母《イハキヲモ》は、石木にもの意なり、爾《ニ》といふべきを、乎《ヲ》と云は古言なり、我に問を、我を問、人に問を、人を問、などいふ例なり、○刀比佐氣斯良受《トヒサケシラズ》は、石木は、物言(ハ)ぬものなれば、え問放むよしをしらぬ謂なり、問放は、三(ノ)卷に、坂上(ノ)郎女が、新羅(ノ)尼理願が、身まかれるを、かなしめる歌の下に具(ク)云り、以上二句は、慕ひ來にし妻の身まかりぬれば、こと問(フ)人も餘《ホカ》になきに、せめて石木だに、物いふものならば、世(ノ)中のとありかゝりを、かたらひかはして、思ひをなぐさむるかたもあらましを、さることもかなはねば、いとゞすべなきを、ふかくかなしめるなり、○迦多知波阿良牟乎《カタチハアラムヲ》は、葬送をせずして、家に置てあらば、屍體はからむものをとせめていふなり、○宇良賣斯企《ウラメシキ》(企(ノ)字、拾穗本には※[足+支]と作り、活字本に尓と作るは誤なり、)は、かねて夫妻|※[藕の草がんむりなし]居《ナラビヰ》て、いつまでもかはるな、かはらじ、といひかはせしかひもなく、約《チギリ》を變《カヘ》て別れしが、恨めしきとなり、かく恨むるやうに云(ヘ)るぞ、中々に實に悲歎《カナシミ》のいとゞ深き謂なる、○伊毛乃美許等《イモノミコト》は、妹之命《イモノミコト》なり、夫命《セノミコト》、父(ノ)命、母(ノ)命、など云に同じ、○阿禮乎婆母《アレヲバモ》は、吾をばなり、母《モ》は、なげきの意をふくめる助辭なり、○爾保鳥能《ニホドリノ》は、枕詞なり、此は※[辟+鳥]※[〓+鳥]《ニホドリ》は、雌雄ひきゐてならび居るもの故、夫と妻と二(9)人雙居るにつゞけたり、十八にも、爾保騰里能布多理雙坐《ニホドリノフタリナラビヰ》とあり、○布多利那良※[田+比]爲《フタリナラビヰ》は、三(ノ)卷にも、水鴨成二人雙居《ミカモナスフタリナラビヰ》、とよめり、○許許呂曾牟企巨《ココロソムキテ》(企(ノ)字、拾穗本には※[足+支]と作り、)は、預《カネ》ていつまでも、共に匹《タグ》ひ居む、と相語《カタラ》ひし心を背きて、といふなり、上の詩(ノ)序文に、何圖(ム)偕老違2於要期1云云、とある意なり、○伊弊社可利伊摩須《イヘザカリイマス》は、家離座《イヘザカリイマス》にて、則(チ)山野に葬れるをいぷ、○歌(ノ)意は、かくれたるところなし、
反歌《カヘシウタ》。
 
795 伊弊爾由伎弖《イヘニユキテ》。伊可爾可阿我世武《イカニカアガセム》。摩久良豆久《マクラヅク》。都摩夜佐夫斯久《ツマヤサブシク》。於母保由倍斯母《オモホユベシモ》。
 
伊弊爾由伎弖《イヘニユキチ》は、家に歸り來てのこゝろなり、葬送に行て、かへるほどよめるなるべし、○摩久良豆久《マクラヅク》(摩(ノ)字、類聚抄には麻と作り、)は、二(ノ)卷に、枕付嬬屋之内爾《マクラツクツマヤノウチニ》、十九に、枕附都麻屋之内爾《マクラツクツマヤノウチニ》などあり、此は夫妻は、閨房《ツマヤ》に枕を並附て寢る故に云るなり、○歌(ノ)意は、家に歸り來て、如何して夜を明すべき、夫妻枕を並附て、相寢せし閨房《ツマヤ》の内は、いかにさぶさぶしく、くるしく思はれむ、さても悲しやとなり、
 
796 伴之伎與之《ハシキヨシ》。加久乃未可良爾《カクノミカラニ》。之多比己之《シタヒコシ》。伊毛我己許呂乃《イモガココロノ》。須別毛須別那左《スベモスベナサ》。
 
(10)伴之伎與之《ハシキヨシ》(伎(ノ)字、舊本枝に誤、今は古寫本、拾穗本、又一本等に從つ、)は、第四句へかゝれるなり、與之《ヨシ》は、也思《ヤシ》とあるに同じ、此(ノ)詞の事、二(ノ)卷(ノ)下に、委(ク)云り、○加久乃未可良爾《カクノミカヲニ》は、如此許《カクバカリ》のことなるをの意なり、○歌(ノ)意は、かくばかり短き命なるものを、さることをも知(ラ)で、筑紫に慕ひ來し、そのかひなき、愛(ク)しき妹が心の、爲む方もなさよ、と悔しめるなり、(契冲が、かくばかりしたひ來ても、年月も經ぬのみなるに、といはむが如し、と云るはいかゞ、)
 
797 久夜斯可母《クヤシカモ》。可久斯良摩世婆《カクシラマセバ》。阿乎爾與斯《アヲニヨシ》。久奴知許等其等《クヌチコトゴト》。美世摩斯母乃乎《ミセマシモノヲ》。
 
阿乎爾與斯《アヲニヨシ》は、もと奈良の枕詞にて、一(ノ)卷に余(ガ)考をあげて、具(ク)云り、さてこゝは、即(チ)此(ノ)枕詞を、奈良のことにして云るなり、押照《オシテル》を、即(チ)難波《ナニハ》のことゝして云ると、同例なり、〈荒木田氏が、此(ノ)歌に依て、あをによしは、阿那爾夜志《アナニヤシ》と云ふと、同言と云るはいかゞ、)○久奴知許等其等《クヌチコトゴト》は、國内盡《クヌチコト/\》なり、久邇宇知《クニウチ》を約めて、久奴知《クヌチ》と云り、(ニウ〔二字右○〕の切ヌ〔右○〕なり、)十七立山(ノ)賦に、古思能奈可久奴知許登其等《コシノナカクヌチコトゴト》とよめり、奈良の京地のかぎり盡《コト/”\》といふなり、奈良を國といふは、泊瀬(ノ)國、吉野(ノ)國などいふ類なり、既く一(ノ)卷に云り、○歌(ノ)意は、契冲、くやしいかな、かくあらむとかねて知たらば、都にありし時、此(ノ)世のおもひ出に、みやこの内をこと/”\く、見すべかりしものをとなり、女は物見をこのめども、さはり有て出がたきものなれば、實なる歌なり、第十七に、家持の、舍弟書(11)持、みまかりけるよし聞て、越中にてよまれたる歌の反歌にも、かゝらむとかねてしりせば越の海のありその浪も見せまし物を、これはいざなひ來て、かゝる風景を、見すべかりしものをとなり、おなじ心なりと云り、
 
798 伊毛何美斯《イモガミシ》。阿布知乃波那波《アフチノハナハ》。知利奴倍斯《チリヌベシ》。和何那久那美多《ワガナクナミダ》。伊摩陀飛邪久爾《イマダヒナクニ》。
 
阿布知《アフチ》は、木(ノ)名、品物解に出す、○歌(ノ)意は筑紫に慕《シタ》ひ下り來て、國府にて、阿布知の花のさかりを、妹が賞て見しを、その花今は散ぬべく間經たれど、悲の涙は、いまだ干(シ)あへぬことなるをとなり、(契冲が、この阿布知は、奈良の家の木なるべし、と云るはいかゞ、さては聞えがたし、)三(ノ)卷に、家持(ノ)悲2傷亡妾(ヲ)1歌に、妹之見師屋前爾花咲時者經去《イモガミシヤドハナサクトキハヘヌ》、吾拉涙未干爾《ワガナクナミダイマダヒナクニ》、とあると、意ばえ同じ、
 
799 大野山《オホヌヤマ》。紀利多知和多流《キリタチワタル》。和何那宜久《ワガナゲク》。於伎蘇乃可是爾《オキソノカゼニ》。紀利多知和多流《キリタチワタル》。
 
大野山《オホヌヤマ》は、筑前(ノ)國御笠(ノ)郡にあり、四(ノ)卷に、大野有三笠杜之《オホヌナルミカサノモリノ》、とある處に云り、類聚國史に、延暦二十年正月癸丑、停3太宰(ノ)府大野(ノ)山寺(ニ)、行2四天王(ノ)法(ヲ)1、其(ノ)四天王(ノ)像、及堂舍法物等(ハ)、並遷(ス)2便近(ノ)寺(ニ)1、大同二年十二月甲寅朔、太宰(ノ)府言(ス)、於2大野城鼓(ノ)峯(ニ)1、興2建堂宇(ヲ)1、安2置四天王(ノ)像(ヲ)1、令2僧四人(ニ)如法修行(セ)1、而依(リ)2制(ノ)旨(ニ)1既從(フ)2停止(ニ)1、云々、遷像以來、疫病尤甚(シ)、伏請、奉v遷2本處(ニ)1者(ハ)許(ス)v之、四年九月乙卯、復令2太宰(ノ)府大野城(12)鼓峰(ニ)、行2四天王(ノ)法(ヲ)1、と見ゆ、國府も此(ノ)郡にあれば、憶良筑前守にて、近く見向はれし山なるべし、〔頭注、貝原氏筑前名寄に、御笠郡御笠森の邊より、東南の方四王子山の西のふもと、すべて大野といふ、山は東にありと云り、】〕○於伎蘇乃可是《オキソノカゼ》は本居氏、息嘯《オキウソ》の風なり、神代紀に、嘯之時《ウソムクトキ》、迅風《ハヤチ》忽(ニ)起、とありと云り、○終句、打かへして云るは、事の深切《フカサ》を、あらはさむとてなり、○歌(ノ)意は、あの大野山に、霧が立渡るよ、わが嘆く息嘯の風のつよさに、霧となりて、立渡るよとなり、古(ヘ)に、息を霧と云る例多しまづ古事記に、吹棄氣吹之狹霧《フキウツルイブキノサギリ》云々、又八千矛(ノ)神(ノ)御歌に、那賀那加佐麻久阿佐阿米能佐疑理邇多多牟叙《ナガナカサマクアサアメノサギリニタタムゾ》、(これも、汝が泣給む其(ノ)涙は、朝雨の如く、歎息は、狹霧に立む物ぞ、と云意なり、)書紀雄略天皇(ノ)卷に、猪鹿多(ニ)有云々、呼吸氣息《イブクイキ》、似2朝霧(ニ)1、などもあり、集中には、六(ノ)卷に、茜刺日不並二吾戀《アカネサスヒナラベナクニアガコヒハ》、吉野之河乃霧丹立乍《ヨシヌノカハノキリニタチツヽ》、七(ノ)卷に、此小川白氣結瀧至《コノヲカハキリタナビケリオチタギツ》、八信井上爾事上不爲友《ハシヰノウヘニコトアゲセネドモ》、十二に、吾妹兒爾戀爲便名雁胸乎熱《ワギモコニコヒスベナカリムネヲアツミ》、旦戸開者所見霧可毛《アサトアクレバミユルキリカモ》、十五に、君之由久海邊乃夜杼爾奇里多多波《キミガユクウミヘノヤドニキリタタバ》、安我多知奈氣久伊伎等之理麻勢《アガタチナゲクイキトシリマセ》、又|和我由惠仁妹奈氣久良之風早能《ワガユヱニイモナゲクラシカゼハヤノ》、宇良能於伎敝爾奇里多奈比家利《ウラノオキヘニキリタナビケリ》などよめり、又源氏物語明石に、嘆き乍《ツヽ》明石の浦に朝霧の立やと人を思はるゝ哉、ともあり、
 
神龜五年七月二十一日《ジムキイツトセトイフトシフミツキノハツカマリヒトヒ》。筑前國守山上憶良上《ツクシノミチノクチノクニノカミヤマノヘノオクラタテマツル》。
 
契冲云、これはよく思ふに、さきの歌に、妹が見しあふちの花は散ぬべし、とあれば、五月の比よまれたるを、後に七月二十一日に、人に見せらるゝ時の後批なるべし、
 
(13)令《シムル》v反《カヘサ》2惑情《マドヘルコヽロ》1歌一首弁《ウタヒトツマタ》序。
 
令v反2惑情1(情(ノ)字、拾穗本にはなし、)は、道に惑へるをさとして、本情に反らしむるよしなり、
 
 或(ル)有人《ヒト》。知《ズシテ》v敬(ハ)2父母1。忘(レ)2於侍養(ヲ)。不(ルコト)v〓(ミ)2妻子(ヲ)1輕(シ)2於脱履(ヨリモ)1。自稱(ル)2異俗|先生《セムジヤウト》1。意氣雖v揚(ルト)2青雲之上(ニ)1。身體(ハ)猶在(リ)2塵俗之中(ニ)1。未《ズ》v驗《シラ》2修行得道之聖(ヲ)1。蓋是亡2命(スル)山澤(ニ)1之民(ナリ)。所以《カレ》指2示《シメシテ》三綱(ヲ)1、更(ニ)開2五教(ヲ)1。遺(ルニ)之以(テ)v歌。令(ム)v反(サ)2其惑(ヲ)1。歌曰《ソノウタニイハク》。
 
或有人知敬、拾穗本には、人或知有と作り、舊本に從ば、知は、不(ノ)字に改作べし、次の文に對て考(フ)べし、○侍(ノ)字、拾穗本には、孝と作り、○〓2妻子(ヲ)1、拾穗本には、顧2人倫(ヲ)1と作り、○輕2於腹履1(履(ノ)字、古寫本、拾穗本等には、※[尸/徙]と作り、)は、履を脱すつるよりも輕しとの意なり、史記孝武本紀に吾誠得(ハ)v如(コトヲ)2黄帝(ノ)1、吾視(コト)v去2妻子(ヲ)1、如2脱※[足+徙](ノ)1耳、とあるによれり、○異俗、(異(ノ)字、舊本畏に誤、今改、拾穗本には離と作り、)莊子に、此有道者、所v異2乎俗(ニ)1者也、とあるによれり、○揚2青雲之上(ニ)1は、心の高きをいふ、史記文選などの文に依(レ)り、○身體、拾穗本には、心志と作り、○塵俗の俗(ノ)字、拾穗本には泥と作り、○蓋(ノ)字、舊本に盍と作るは誤なり、今は古寫一本、拾穗本等に從つ、○亡2命山澤(ニ)1之民は、亡命とは、今俗にいふ、欠落《カケオチ》なり、亡(ハ)無也、命(ハ)名也とありて、逃れ匿るゝときは、名籍を削除かるゝより云、史記張耳(カ)傳の註に見ゆ、又文選等に出たる字なり、山澤(ノ)二字、拾穗本にはなくして、民の下に、也(ノ)字あり、○三(ノ)綱(鋼字、拾穗本に、徳と作るは誤ならむ、)は、君臣、父子、夫婦を云、○五教は、書(ノ)大禹(14)謨に出たり、父義(アリ)、母慈(アリ)、兄友(アリ)、弟恭(アリ)、子孝(アリ)を云、
 
800 父母乎《チヽハヽヲ》。美禮婆多布斗斯《ミレバタフトシ》。妻子美禮婆《メコミレバ》。米具斯宇都久志《メグシウツクシ》。遁路得奴《ノガロエヌ》。兄弟親族《ハラカラウガラ》。遁路得奴《ノガロエヌ》。老見幼見《オイミイトケミ》。朋友乃《トモカキノ》。言問交《コトトヒカハス》。余能奈迦波《ヨノナカハ》。加久叙許等和理《カクゾコトワリ》。母智騰利乃《モチドリノ》。可可良波志母與《カカラハシモヨ》。波夜可波乃〔五字○各○で囲む〕《ハヤカハノ》。由久弊斯良禰婆《ユクヘシラネバ》。宇既具都遠《ウケグツヲ》。奴伎都流其等久《ヌキツルゴトク》。布美奴伎提《フミヌキテ》。由久智布比等波《ユクチフヒトハ》。伊波紀欲利《イハキヨリ》。奈利提志比等迦《ナリテシヒトカ》。奈何名能良佐禰《ナガナノラサネ》。阿米弊由迦婆《アメヘユカバ》。奈何麻爾麻爾《ナガマニマニ》。都智奈良婆《ツチナラバ》。大王伊麻周《オホキミイマス》。許能提羅周《コノテラス》。日月能斯多波《ヒツキノシタハ》。阿麻久毛能《アマクモノ》。牟迦夫周伎波美《ムカフスキハミ》。多爾具久能《タニグクノ》。佐和多流伎波美《サワタルキハミ》。企許斯遠周《キコシヲス》。久爾能麻保良叙《クニノマホラゾ》。可爾迦久爾《カニカクニ》。保志伎麻爾麻爾《ホシキマニマニ》。斯可爾波阿羅慈迦《シカニハアラジカ》。
 
米具斯宇都久志《メグシウツクシ》は、愍愛《メグシウツクシ》なり、十一に、人母无古郷爾有人乎愍久哉君之戀爾令死《ヒトモナキフリニシサトニアルヒトヲメグクヤキミガコヒニシナセム》、神代紀下に特鍾憐愛以《メグシトオモフミコヽロモチテ》、崇養焉《ヒタシタマフ》、などあり、さて初句より此まで、父母妻子のことをいひて、序の不v敬2父母(ヲ)1、不v顧2妻子(ヲ)1、といふに對へり、○遁路得奴《ノカロエヌ》(已下|言問交《コトトヒカハス》以上、六句二十二字、舊本にはなし、水戸本、拾穗本等に從つ、さて此(ノ)六句の書樣、此(ノ)歌の書ざまに異《カハ》りたれば、いかにぞやといふ人もあれどしからず、凡て此(ノ)集の字は、こと/”\く、その作者の手にのみ書たるが、そのまゝ傳(リ)たるにもあらず、そのとき假字書なるを、後に正字に改めたるも多し、と見えたり、そは舊本に、(15)往々一本を校(ヘ)たるさまを見て知べし、かゝれば此(ノ)歌も、もとは今の如く、大かたは假字なりけむを、やゝありて、正字に書改めたるがありしなるべし、さておほくの本どもは、此(ノ)六句の落たりけむを、異本にはありつるを、自除は、書樣のかはれるのみにて、詞は異ならねば校(ヘ)ず、此(ノ)六句のみを、その本のまゝに、書|補《クハ》へたりしものなり、)は、不《ヌ》v所《エ》v遁《ノガロ》なり、世(ノ)間の道理にて、遁れられぬといふなり、○老見幼見《オイミイトケミ》は、老たるも幼きも、そのほど/\に朋友乃《トモカキノ》云々、とつゞく意なり、見《ミ》は負見《オヒミ》、抱見《ウダキミ》、咲見《ヱミミ》、慍見《イカリミ》、などいふ見《ミ》なり、○言問交は、コトトヒカハス〔七字右○〕と訓べし、此(レ)まで六句に、兄弟親族老幼朋友をいひて、序に開2五教(ヲ)1、といふに應《コタ》へたり、○母智騰利乃《モチドリノ》、枕詞なり、契冲云、母智《モチ》は、木の枝などに引て、鳥をとる物なり、もちといふ木の皮をもちて、こしらふればいふ、和名抄に、唐韵(ニ)云、黐(ハ)、(丑知(ノ)反、和名|毛知《モチ》、)所2以黏1v鳥(ヲ)也、このもちに、鳥のかゝるものなれば、かゝらはしも、とつゞけむがためなり、第十三に、あふみの海とまり八十あり、八十島の島さき/”\、ありたてる花橘を、ほつえにもち引かけとあり、○可可良波志母與《カカラハシモヨ》(志(ノ)字、拾穗本には之と作り、)は、母《モ》は、歎息(ノ)辭、與《ヨ》は、助辭なり、さても拘泥《カヽラハ》しやとなり、○波夜可波乃《ハヤカハノ》、此(ノ)一句は、必(ス)あるべきが、舊本には脱たるなり、(はやく契冲も、此(ノ)集の長歌、句體さだまらぬ事ありといへども、こゝは一句おちたりと見ゆと云り)故(レ)姑(ク)かく補つるなり、さてかくつゞけ云るは、十三に速川之往文不知《ハヤカハノユクヘモシラズ》、とあるに同じ、○由久弊斯良禰婆《ユクヘシラネバ》(拾穗本に此(ノ)一句无は、上に一句落たるに(16)依て、調わろきから、さがしらに省きたるならむ、)は、世(ノ)間の行方いかならむ、その行著を知らねばとなり、○、宇既具都《ウケグツ》(宇(ノ)字、一本に乎と作るは、非なり、)は、穿沓《ウケグツ》なり、穿《ウガタ》れ破れたるをいふ、沓の破れたるを、うけたると云ること、中昔の日記册子などのうちにても、見しとおぼゆ、○奴伎都流其等久《ヌキツルゴトク》(都(ノ)字、活字本に提と作るは誤なり、)は、本居氏云、脱棄如《ヌキウツルゴト》くなり、○布美奴伎提《フミヌキテ》云云は、踏腹而《フミヌキテ》云々なり、三鋼玉教を棄て、自(ラ)慾に放《ハフ》れ行をいふ、○等の下波(ノ)字、古寫本に婆と作るは誤なり、○伊波紀欲利《イハキヨリ》云々は、父母もなくて、石木の中より、自然に生出たる人かとなり、○奈何名能良佐禰《ナガナノラサネ》(奈何(ノ)二字、拾穗本になきはわろし、)は、そもいかなるよしにて、人間界には生れ來たるぞや、いで汝が名を名のらさね、とせむなり、八(ノ)卷にも、汝名告左禰《ナガナノラサネ》とあり、さてついでに云べし、云々|奈利提志比等迦奈何名能良佐禰《ナリテシヒトカナガナノラサネ》、かく長歌の詞の半間《ナカラ》に、七言七言の二句を並(ヘ)連ねて、問かくるやうにいふこと、古(ヘ)の長歌の一體にて、これを問答體とぞいひけむ、さるは十三長歌の端に、問答と標して、物不念《モノモハズ》云々、人師依者余所留跡序云汝心勤《ヒトシヨスレバヨソルトゾイフナガコヽロユメ》、とありて、柿本朝臣人麻呂之集歌(ニ)、物不念《モノモハズ》云々|吾乎叙物汝爾依云《アレヲゾモナニヨストフ》、汝者如何念也《ナハイカニモフヤ》、念社《オモヘコソ》云々とある、これ下に、其(ノ)和(ヘ)歌なければ、問答と標したるは、體格の名目のみなること明(カ)なり、又此(ノ)下に、貧窮問答歌とありて、此時者伊可爾之都都可汝代者和多流《コノトキハイカニシツツカナガヨハワタル》、天地者《アメツチハ》云々、とある故に、端に問答と題《シル》せしにて、同じ事なり、なほ此(ノ)體なるは、十三に、打久津《ウチヒサツ》云々、如何有哉人手故曾通簀文吾手諾(17)諾名《イカナルヤヒトノコユヱソカヨハスモアゴウベナウベナ》云々、十六に、琴酒乎《コトサケヲ》云々|音之少寸道爾相奴鴨少寸四《オトノスクナキミチニアハヌカモスクナキヨ》云々、十九に、大殿之此回之雪莫蹈禰數毛《オホトノノコノモトホリノユキナフミソネシバ/\モ》云々、などある、皆同じ體なり、○阿米弊由迦婆奈何麻爾麻爾《アメヘユカバナガマニマニ》(水戸本に、弊由迦を、奈良と作、奈何を、阿米乃と作り、天ならば、天のまに/\なり、共によからず、)は、此(ノ)土をはなれて、身自在に天上へのぼらば、汝が自|縱《マヽ》にもすべし、さることあたはずして、此(ノ)國土にあらむからは、常道をおこなへ、といはむした形なり、○都智奈良婆《ツチナラバ》は、土にならばなり、○伊麻周《イマス》(麻(ノ)字、古寫本、官本、拾穗本等には摩と作り、)は、おはしますといふ意なり、○日月能斯多波《ヒツキノシタハ》は、普天の下は、と云むが如し、さて此(ノ)照す日月を云時には、比都奇《ヒツキ》といひ、年月日時を云時の日月は、都奇比《ツキヒ》といひて、分てりとおぼえたり、その所由《ヨシ》は、此(ノ)照す方に云るには、二(ノ)卷に、天地日月與共《アメツチヒツキトトモニ》、此(ノ)下に、日月波安可之等伊倍騰安我多米波照哉多麻波奴《ヒツキハフアカシトイヘドアガタメハテリヤタマハヌ》、六(ノ)卷に、天地之遠我如日月之長我如《アメツチノトホキガゴトヒツキノナガキガゴト》、十三に、天地與日月共萬代爾母我《アメツチトヒツキトヽモニヨロヅヨニモガ》、十九に、天地日月等登聞仁《アメツチヒツキトトモニ》、廿(ノ)卷に、天地乎弖良須日月能極奈久《アメツチヲテラスヒツキノキハミナク》など見え、年月日時を云る方には、三(ノ)卷に、歳月日香《トシツキヒニカ》、四(ノ)卷に、白妙乃袖解更而還來武月日乎數而往而來猿尾《シロタヘノソデトキカヘテカヘリコムツキヒヲヨミテユキテコマシヲ》、十(ノ)卷に、擇月日逢義之有者《ツキヒエリアヒテシアレバ》、十五に、安良多麻能月日毛伎倍奴《アラタマノツキヒモキヘヌ》、十七に、月日乎之良牟須邊能思良難久《ツキヒヲシラムスベノシラナク》、又|月日餘美都追伊母爾津良牟曾《ツキヒヨミツツイモマツラムゾ》、十八に、月日余美都追《ツキヒヨミツツ》、廿(ノ)卷に、月日餘美都都《ツキヒヨミツツ》などありて、此(ノ)照す方には、いづれも日月と書(キ)、年月日時をいふ方には、多くは月日と書たるにて、其(ノ)わかちを思(フ)べし、但し、十三に、唯一(ト)處、天有哉月日如害思有《アメナルヤツキヒノゴトアガモヘル》とある、これ(18)は此(ノ)照す方に云るに、月日とあれば、なべて兩方にわたりて、(此(ノ)照す方と、年月日時を云方と、都奇比《ツキヒ》と唱《イヒ》しかと思へど、右に引る如く、多(ク)の例、此(ノ)照す方には日月と書たれば、おぼつかなし、此(ノ)十三なるは、元は日月とありけむを、後に下上に寫誤れるものにあるべし、さて又二(ノ)卷に、久堅之天所知流君故爾日月毛不知戀渡鴨《ヒサカタノアメシラシヌルキミユヱニツキヒモシラニコヒワタルカモ》、又|日月之數多成塗《ツキヒノマネクナリヌレ》などある、これは年月日時の方に云るに、日月と書たれど多の例によりて、都奇比《ツキヒ》と訓べく、後(ノ)世までも、年月日時の方には、然云るをも思(フ)べし、都奇比《ツキヒ》を、日月と書るは、欲流比流《ヨルヒル》を、晝夜、宇美可波《ウミカハ》を、河海と書ると同例なれば、諭なし、○阿麻久毛能《アマクモノ》云々は、三(ノ)卷丈部(ノ)龍麻呂をかなしめる歌に、天雲之向伏國《アマクモノムカブスクニ》とある下に具(ク)云り、合(セ)考(フ)べし、○多爾具久《タニグク》は、蟾※[虫+余]のことにて、品物解に云り、六(ノ)卷に、谷潜乃狹渡極《タニグクノサワタルキハミ》祈年祭(ノ)詞に、谷蟆能狹度極《タニグクノサワタルキハミ》云々、月次祭(ノ)詞にも見えたり、○佐和多流伎波美《サワタルキハミ》、佐《サ》は、眞《マ》といふに同じくて、眞渡限《マワタルキハミ》なり、かの蟾※[虫+余]は、深谷の草木の間をも、よく潜りて、安く行|屆《イタ》るもの故に、山谷の底《キハミ》まで、殘《モル》る處なきよしにとりて云り○、企許斯遠周《キコシヲス》(企(ノ)字、拾穗本には※[足+支]と作り、)は、所聞食《キコシヲス》なり、既く具(ク)云り、○久爾能麻保良叙《クニノマホラゾ》は、國之眞含等《クニノマホラ》ぞの謂ながら、こゝはたゞ輕く、國ぞといふことを、いひなれたる古語によりて、かく文《フヤ》なしたるなり、眞含等《マホラ》と云るは、古事記倭建(ノ)命(ノ)御歌に、夜麻登波久爾能麻本呂波多多邪豆久阿袁加伎夜麻碁母禮流夜麻登志宇流波斯《ヤマトハクニノマホロバタタナヅクアヲカキヤマゴモレルヤマトシウルハシ》とありて、この麻本呂波《マホロバ》を、書紀には、摩倍羅摩《マホラマ》と作り、(私記に、師説、謂2鳥乃和支之之太(19)乃毛乎1、爲2倍羅摩1也、摩謂2眞寶1也、言(ハ)鳥(ノ)腋羽乃古止久掩藏之國也、案(ニ)奥區也とあり、)この御古語に本づきたるなり、さて保《ホ》とは、保保麻流《ホホマル》、(集中に見ゆ、)府保語茂利《フホゴモリ》、(書紀(ノ)歌に見ゆ)など云、保保《ホホ》、府保《フホ》に通ひ、又陰處を、保登《ホト》と云も、含處《ホト》の意にて、古事記應神天皇(ノ)大御歌に、知婆能加豆怒袁美禮婆毛毛知多流夜邇波毛美由久爾能富母美由と《チバノカヅヌヲミレバモモチタルヤニハモミユクニノホモミユ》とあるは、則|國之含《クニノホ》、とのたまへるなり、(然るを此(レ)等を國之秀といふ説は、いかゞなり、凡(ソ)秀《ホ》といふは、物の灼くあらはれ出たるを云言なれば、夜麻登波云々の御歌、青垣山隱有《アヲカキヤマゴモレル》、とあるにつゞきたれば、國の秀とは詔ふべからず、又知波能云々も、家庭《ヤニハ》も所見《ミユ》とあれば、國の秀出たる處の見ゆるは、のたまふまでもなければ、國の秀とはのたまふまじきなり、故(レ)これら、必(ズ)國之含《クニノホ》なるを辨ふべし、そはいかにまれ、今の歌は、唯國ぞといふ意なるを、いひなれたる古語によりて、國之眞含等ぞ、と云るのみなること、上に云るが如し、)○斯可爾波阿雁慈迦《シカニハフラジカ》(慈(ノ)字、活字本に悉と作るはわろし、)は、然欲(キ)隨にはあるまじき事かとなり、迦《カ》は、疑(ノ)辭なり、かく疑ふやうにいひて、したには、さはあるまじきことぞと、つよくいひ詰《ナジ》る意あり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
801 比佐迦多能《ヒサカタノ》。阿麻遲波等保斯《アマヂハトホシ》。奈保奈保爾《ナホナホニ》。伊弊爾可弊利提《イヘニカヘリテ》。奈利乎斯麻佐爾《ナリヲシマサニ》。
 
(20)阿麻遲波等保斯《アマヂハトホシ》とは、天上へのぼらむとしても、その天道ははるかに程遠と謂なり、○奈保奈保《ナホナホ》は、黙々《ナホ/\》なり、十四に、波布久受能比可利與利己禰思多奈保邪保爾《ハフクズノヒカリヨリコネシタナホナホニナホ》とあり、すべて奈保《ナホ》は、事を起《オコ》したつることなくして、たゞにあるを云ことなり、拾遺集雜、春に咲し時|奈保《ナホ》こそ見しか桃(ノ)花ちればをしくもおもひなりぬる、土佐日記に、かうやうの物もてくる人に、奈保《ナホ》しもえあらで、いさゝけわざせさす物もなし、伊勢物語に、宮づかへのはじめに、たゞ奈保《ナホ》やは有べき云々、天(ノ)下の色好の歌にては、奈保《ナホ》ぞ有ける、源氏物語花(ノ)宴に、奈保《ナホ》あらじに、弘徽殿のほそどのに、立よりたまへれば云々、又續紀十(ノ)卷詔に、猶在倍伎物爾有禮夜止思行之弖《ナホアルベキモノニアレヤトオモホシメシテ》、大御物賜久止宣《オホミ モノタマハクトノル》、十七詔に、猶止事不得爲天《ナホヤムコトエズシテ》、恐家禮登毛《カシコケレドモ》、御冠獻事乎《ミカヾフリタテマツルコトヲ》云々、などある猶《ナホ》は、借字にて、黙止《ナホ》なりと、本居氏の云る如く、皆同言なり、又源氏物語箒木に、なほ人の上達部などまでなりのぼりたる、とある奈保《ナホ》も、もと同言なり、○伊弊、類聚抄には、家(ノ)一字に作り、○奈利乎斯麻佐爾《ナリヲシマサニ》は、業《ナリ》を爲坐《シマサ》ね、といふなり、爾《ニ》は禰《ネ》といふに同じく、希ふ詞なり、類聚抄にはすなはち禰《ネ》と作り、○歌(ノ)意は、天上へのぼらば、汝がこゝろのまゝにすべけれど、天道ははるかに程遠ければ、とにかくのぼり得じ、いでしかほしきまゝに、うかれ行ことをば、なほ/\と黙止《モダ》りて家にかへりて、ことわりのまゝに、父母妻子を養ふべき、業《ナリ》を爲賜《シタマ》はねとなり、
 
思《シヌフ》2子等《コラヲ》1歌一首并《ウタヒトツマタ》序。
 
(21)拾穗本には、思v子歌一首并短歌、山上(ノ)臣憶良、とかけり、
 
釋迦如來金口正(ニ)説(タマヘラク)。等(ク)思(フコト)2衆生(ヲ)1如(シトノタマヘリ)2羅※[目+侯]羅(ノ)1。又説(タマヘラク)愛(ハフ)無(シトノタマヘリ)v過(ルコト)v子(ニ)。至極(ノ)大聖(スラ)尚有2愛(シム)v子(ヲ)之心1。况乎《マシテ》世間(ノ)蒼生《アヲヒトグサ》。誰(カ)不(ル)v愛(マ)v子(ヲ)乎。
 
金口は、釋迦はすべて金身なりと云ればいへるなるべし、○如2羅※[目+侯]羅1は、契冲云、最勝王經(ニ)曰、普觀2衆生(ヲ)1、愛無2偏黨1、如2羅※[目+侯]羅1、と云り、羅※[目+侯]羅は、釋迦が子なり、○又の下説字、拾穗本になきはわろし、○愛無v過v子、最勝王經に、愛無v過v子(ニ)、誰不v愛v子(ヲ)乎、○不愛の下、尚書(ニ)云、海隅(ノ)蒼生の七字、分註せる本なり、
 
802 宇利波米婆《ウリハメバ》。胡藤母意母保由《コドモオモホユ》。久利波米婆《クリハメバ》。麻斯提斯農波由《マシテシヌハユ》。伊豆久欲利《イヅクヨリ》。枳多利斯物能曾《キタリシモノゾ》。麻奈迦比尓《マナカヒニ》。母等奈可可利提《モトナカカリテ》。夜周伊斯奈佐農《ヤスイシナサヌ》。
 
斯農波由《シヌハユ》は、所《ル》v慕《シヌハ》なり、○伊豆久欲利《イヅクヨリ》云々は、子といふものは、いかなる宿世の因縁にて、何くよ人ソ年れ來りしものぞとなり、(又は都に留めおきたる子の面影の、筑紫には何處より來りしものぞ、瓜栗など喰とき、限界に見ゆる、といふ意かともきこゆれど、なほさにはあらず、〉○麻奈迦比《マナカヒ》は、眼之交《マナカヒ》なり、眼の間といはむが如し、○夜周伊斯奈佐農《ヤスイシナサヌ》は、斯《シ》は、例のその一(ト)すぢをおもくいふ助辭にて、安寢|不《ヌ》v令《セ》v宿《ネサ》なり、奈《ナ》は禰佐《ネサ》の縮りたる言なり、○歌(ノ)意は、さなきだにあるを、瓜栗など喰ば、いよ/\まさりて、子のことの戀しく思はれ慕はれつゝ、眼の間に、そ(22)の面影のむざ/\とかゝりて、安く眠る事をもせしめず、そも/\子といふものは、いかなる宿世の因縁にて、何くより生れ來しものにて、かくまで愛情の、深きものにてあるぞとなり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
803 銀母《シロカネモ》。金母《クガネモ》。玉母《タマモ》。奈爾世武爾《ナニセムニ》。麻佐禮留多可良《マサレルタカラ》。古爾斯迦米夜母《コシニカメヤモ》。
 
金は、クガネ〔三字右○〕と訓べし、十八賀2陸奥(ノ)國出v金詔書(ヲ)1歌に、久我禰《クガネ》と假字にて書り、これたしかなる據なり、和名抄に、和名|古加禰《コカネ》、とありて、他書にも然のみいへれど、そは漸(ク)後の轉なるべし、(久《ク》を古《コ》と轉せるは、久我殿をもコガ〔二字右○〕と呼り、伊勢(ノ)國鈴鹿(ノ)郡に、久我村ありて、こがと呼とぞ、)名の謂は、黄金《キガネ》なり、○奈爾世武爾《ナニセムニ》は、何故にと云むが如し、○麻佐禮留多可良《マサレルタカラ》は、上の玉の下にめぐらして意得べし、此まで四句の意を、とりすべていはゞ、銀や金や玉の勝れる寶も、何故にといふが如し、○歌(ノ)意は、金銀珠玉は、うへもなきよき寶にてはあれども、そのまされるよき寶も、子に及《オヨバ》むやは、子にはまさるまじければ、何故に寶を愛まむぞ、となるべし、此(ノ)卷(ノ)下に、世人之貴慕七種之寶毛我波何爲和我中能産禮出有白玉之吾子古日者《ヨノヒトノタフトミネガフナヽクサノタカラモアレハナニセムニワガナカノウマレイデタルシラタマノワガコフルヒハ》云々、とあり、
 
哀《カナシメル》2世間《ヨノナカノ》難《ガタキヲ》1v住《トヾマリ》歌一首并《ウタヒトツマタ》序。
 
易(ク)v集難(シ)v排。八大辛苦。難(ク)v遂易(シ)v盡。百年(ノ)賞樂。古人(ノ)所v歎(キシ)。今亦及之。所以因《カレ》作(テ)2一(23)章之歌(ヲ)1。以撥(ク)2二毛之歎(ヲ)1。其(ノ)歌(ニ)曰(ク)。
 
排は、おしひらき除るよしなり、○八大辛苦は、契冲云、生、老、病、死、愛別離、怨憎會、求不得、五陰盛、○賞樂は、賞心樂事とて、心をなぐさめ、事を樂しむを云、○因の下、一本に、山上憶良(ノ)四字あり、○二毛之歎は、左傳に、宋(ノ)襄公曰、不v禽2二毛1(杜預曰、二毛、頭白有2二色1也、)とあり、又潘岳が秋興(ノ)賦(ノ)序にも、晋十有四年、餘春秋三十有二、始見2二毛1、とあり、契冲云、憶良は天平五年に、七十四歳にて卒せらる、此(ノ)歌の左に、神龜五年、と有によりて、逆推するに六十九歳の作なれば、秋興賦の意には叶はず、左傳によりて、老を歎く心に作りとすべし、たゞ二毛之歎と云るは、秋興賦のおもかげなり、
 
804 世間能《ヨノナカノ》。周弊奈伎物能波《スベナキモノハ》。年月波《トシツキハ》。奈何流流其等斯《ナガルルゴトシ》。等利都都伎《トリツヅキ》。意比久留母能波《オヒクルモノハ》。毛毛久佐爾《モモクサニ》。勢米余利伎多流《セメヨリキタル》。遠等※[口+羊]良何《ヲトメラガ》。遠等※[口+羊]佐備周等《ヲトメサビスト》。可羅多麻乎《カラタマヲ》。多母等爾麻可志《タモトニマカシ》。之路多倍乃《シロタヘノ》。袖布利可伴之《ソデフリカハシ》。久禮奈爲乃《クレナヰノ》。阿可毛須蘇毘伎《アカモスソビキ》。余知古良等《ヨチコラト》。手多豆佐波利提《テタヅサハリテ》。阿蘇比家武《アソビケム》。等伎能佐迦利乎《トキノサカリヲ》。等等尾迦禰《トドミカネ》。周具斯野利都禮《スグシヤリツレ》。美奈乃和多《ミナノワタ》。迦具漏伎可美爾《カグロキカミニ》。伊都乃麻可《イツノマカ》。斯毛乃布利家武《シモノフリケム》。爾能保奈須《ニノホナス》。意母提乃宇倍《オモテノウヘニ》。爾伊豆久由可《イヅクユカ》。斯和何伎多利斯《シワカキタリシ》。麻周羅遠乃《マスラヲノ》。遠刀古佐備周等《ヲトコサビスト》。都流伎多智《ツルギタチ》。許志爾刀利波枳《コシニトリハキ》。佐都由美(24)乎《サツユミヲ》。多爾伎利物知提《タニギリモチテ》。阿迦胡麻爾《アカコマニ》。志都久良宇知意伎《シツクラウチオキ》。波比能利提《ハヒノリテ》。阿蘇比阿留伎斯《アソビアルキシ》。余乃奈迦野《ヨノナカヤ》。都禰爾阿利家留《ツネニアリケル》。遠等※[口+羊]良何《ヲトメラガ》。佐那周伊多斗乎《サナスイタトヲ》。意斯比良伎《オシヒラキ》。伊多度利與利提《イタドリヨリテ》。麻多麻提乃《マタマデノ》。多麻提佐斯迦閉《タマデサシカヘ》。佐禰斯欲能《サネシヨノ》。伊久※[こざと+施の旁]母阿羅禰婆《イクダモアラネバ》。多都可豆惠《タツカヅヱ》。許志爾多何禰提《コシニタガネテ》。可由既婆《カユケバ》。比等爾伊等波延《ヒトニイトハエ》。可久由既婆《カクユケバ》。比等爾邇久麻延《ヒトニニクマエ》。意余斯遠波《オヨシヲハ》。迦久能尾奈良志《カクノミナラシ》。多麻枳波流《タマキハル》。伊能知遠志家騰《イノチヲシケド》。世武周弊母奈斯《セムスベモナシ》。
 
等利都都伎《トリツヅキ》は、取連《トリツヾキ》定り、取はいひおこす詞なり、打撫《ウチナデ》、掻撫《カキナデ》などいふ打掻《ウチカキ》に同じ、既く委(ク)云り、○意比久留母能波《オヒクルモノハ》は、追來物者《オヒクルモノハ》なり、我(ガ)身の上に、追連追連責依來物《オヒツギオヒツギセメヨリクルモノ》は、といふなり、○毛毛久佐《モモクサ》は、百種《モヽクサ》にて、百色といふに同じ、○勢米余利伎多流《セメヨリキタル》は、責依來有《セメヨリキタル》なり、八大辛苦の類、皆身の上に迫り來たるよしなり、さて此(ノ)句にて、しばらく絶べし、已上一首の大旨を云(ヒ)をへたり、次(ノ)句より已下は弱《ワカ》く壯《サカリ》なりし時のことどもをいへり、○遠等※[口+羊]良何《ヲトメラガ》(※[口+羊](ノ)字、舊本呼に誤、今は古寫小本、古寫一本等に從つ、)は、少女等之《ヲトメラガ》なり、○遠等※[口+羊]佐備周等《ヲトメサビスト》(※[口+羊](ノ)字、舊本呼に誤、今は古寫一本に從つ、)は、少女ぶりをするとてとなり、女だてをすることなり、佐備《サビ》は、もと然振《シカブリ》と云言にて、既く具註り、○可雁多麻《カラタマ》は唐玉なり、○多母等爾麻可志《タモトニマカシ》は、手本《タモト》に纏《マカ》しなり、麻可志《マカシ》は、纏《マキ》の伸りたるにて、纏(キ)賜ひと云むが如し、さて古(ヘ)は、男女共に統たる玉を手に纏て、餝装《カザリ》とせしこ(25)とは、前にも見えたり、なほ後にもいふべし、さて本朝月令(年中行事秘抄所v引、)云、五節(ノ)舞姫者、淨御原(ノ)天皇之所v製(リタマフ)也、和傳(テ)云(ク)、天皇御2吉野(ノ)宮(ニ)1、日暮彈v琴(ヲ)有v興、試樂之間、前岫之下雲氣忽起、疑2如《ゴトシ》高唐(ノ)神女(ノ)1、髣髴應v曲面舞、獨入2天瞻(ニ)1他人無v見(コト)、擧v袖(ヲ)五變(シキ)、故(レ)謂2之五節(ト)1、云々、其歌曰、乎度綿度茂遠度綿左備須茂可良多萬乎多茂度邇麻岐底乎度綿左備須茂《ヲトメドモヲトメサビスハモカラタマヲタモトニマキテヲトメサビスモ》、(政事要略、江次第裏書、河海抄などにも見ゆ、)とあるは、今の歌を取て、尾《ハテ》の一句を制《ツク》りそへたるなり、(又事跡は、古事記に、雄略天皇(ノ)幸2行吉野(ノ)宮(ニ)1之時、云々、と見えたる、御故事にとりあはせて、造れるものなり、と本居氏古事記傳にも、具(ク)論へり、)なほ余が、南京道響といふ物に、具(ク)註せり、○之路多倍乃已下《シロタヘノヨリ》(四句廿三字、)須蘇毘伎已上《スソビキマデ》、舊本に、本章には无て、註に、或有2此句1云、云々、とあり、今は拾穗本に、本章とせるに從つ、こは必ある方よければなり、○何伴之《カハシ》(伴(ノ)字、舊本佯に誤、今は古寫本、拾穗本、活字本等に從つ、)は、交《カハ》しなり、○阿可毛須蘇毘伎《アカモスソビキ》は、十一にも、立念居毛曾念紅之赤裳下引去之儀乎《タチテオモヒヰテモゾオモフクレナヰノアカモスソビキイニシスガタヲ》と見ゆ、○余知古良《ヨチコラ》は、本居氏云、同じ比はひの子等《コドモ》をいふ、十四に、此(ノ)川に朝菜洗ふ子、汝も吾も余知乎曾母弖流《ヨチヲゾモテル》、十六長歌に、四千庭《ヨチニハ》などあるも、同じ意なり、○手多豆佐波利提《テタヅサハリテ》は、八(ノ)卷に、妹與吾手携拂而旦者庭爾出立夕者床打拂《イモトアレトテタヅサハリテアシタニハニハニイデタチユフヘニハトコウチハラヒ》云々とあり、○等等尾迦禰《トドミカネ》は、不2得《カネ》留《トヽミ》1なり、○周具新野利都禮《スグシヤリツレ》(具(ノ)字、活字本に其と作るはわろし、凡て過すを、スゴス〔三字右○〕と云は、古言にあらざればなり、)は過し遣(リ)つればの意なり、婆《バ》の言のなきは、例の古風なり、○美奈乃和多《ミナノワタ》は、蜷(26)之腸《ミナノワタ》にて、黒の枕詞なり、七(ノ)卷、十三、十五、十六(ノ)卷などにも見ゆ、蜷は、品物解に云り、かくて和名抄に、河貝子(ハ)、穀上皇小狹長、似2人身(ニ)1者也、和名|美奈《ミナ》、俗用2蜷(ノ)字(ヲ)1非也、とありて、其(ノ)腸も、いと黒きものなれば、つゞけの意あきらけし、○迦具漏伎可美《カグロキカミ》は、迦《カ》は、そへ言にて、二(ノ)卷人麻呂(ノ)歌に、香青《カアヲ》とあるにつきて註るが如し、黒き髪なり、○爾能保奈酒《ニノホナス》(酒(ノ)字、官本には須と作り、)は、舊本には、久禮奈爲能《クレナヰノ》とありて、一(ニ)云、爾能保奈酒と註せり、今は拾穗本に、本章とせるに從つ、如《ナス》2丹之秀《ニノホ》1なり、秀《ホ》とは物のいちしるく、それとあらはれ出たるをいふ言なり、十(ノ)卷には、吾等戀丹穗面《アガコフルニノホノオモワ》ともよめり、○意母提乃宇倍爾《オモテノウヘニ》とは、意母提《オモテ》は、皇極天皇(ノ)紀(ノ)歌にも、於謀堤《オモテ》と見ゆ、本居氏|意母提《オモテ》は、後《ウシロ》を宇志呂傳《ウシロデ》と云とこ同じくて、提《テ》は其(ノ)状貌《サマ》をいふ言なりと云り、今按に、象《カタ》を、カタチ〔三字右○〕と云も、チ〔右○〕はテ〔右○〕と通ひて、オモテ〔三字右○〕のテ〔右○〕に同じ、宇倍《ウヘ》は表《ウヘ》なり、○伊豆久由可《イヅクユカ》は、從《ヨリ》2何處《イヅク》1歟《カ》なり、○斯和何伎多利斯《シワカキタリシ》は、皺掻垂《シワカキタリ》しなり、舊本此(ノ)間に、一(ニ)云(ク)、都禰奈利之惠麻比麻欲毘伎散久伴奈能宇都呂比爾家里余乃奈可伴可久乃未奈良之、と註せり、(惠麻比麻欲毘伎は、咲眉引《エマヒマヨビキ》なり、)これは、此(ノ)上の美奈乃和多《ミナノワタ》已下(八句)此(レ)まで、一本にはかくありしなり、(拾穗本には、此(ノ)六句を、即(チ)斯和何伎多刑斯《シワキタリシ》の下に引續て、本章とせれど、其はあしからむ、)○遠刀古佐備周等《ヲトコサビスト》は、壯士《ヲトコ》だてをするとて、といふ意なり、少女《ヲトメ》さびといふに同じ、○都流の下岐(ノ)字、拾穗本には伎と作り、○許志爾刀利波枳《コシニトリハキ》は、腰に収佩にて、取は、上に云るが如し、○佐都由美《サツユミ》は、一(ノ)卷に、得物矢《サツヤ》とあるにつ(27)きて註るが如し、○多爾伎利物知提《タニギリモチテ》は、手握持而《タニギリモチテ》なり、○志都久良《シツクラ》、は、倭文鞍《シツクラ》なるべし、倭文鞍《シツクラ》てふものは、外には未(ダ)見あたらざれども、雄略天皇(ノ)紀(ノ)大御歌に、※[手偏+施の旁]磨磨枳能阿娯羅爾陀陀伺《タママキノアグラニタタシ》、施都魔枳能阿娯羅※[人偏+爾]陀陀伺《シツマキノアグラニタタシ》云々、とあるは、玉纏之胡床《タママキノアグラ》に立し、倭文纏之胡床《シツマキノアグラ》に立《タヽ》しなり、此(レ)に因て思へば、古(ヘ)は鞍をも、倭文もて纏しことにこそ、とおもはるゝなり、又延喜式にも、倭文纏刀形《シツマキノカタナカタ》、※[糸+施の旁]纏刀形《キヌマキノカタナカタ》、布纏刀形《ヌノマキノカタナカタ》、などいふものも見えたり、(契冲は、下鞍なるべしといへり、そは雄略天皇(ノ)紀に、鞍尾後橋《クラボネノシヅクラボネ》、和名抄に、※[革+薦](ハ)、鞍※[革+薦]也和名|之太久良《シタクラ》、字鏡に、※[革+薦](ハ)之太久良《シタクラ》、拾遺集に、實方(ノ)朝臣陸奥(ノ)國へ下り侍りけるに、下鞍遣はすとて右衛門(ノ)督公任、東路の木の下くらく成行ば都の月を戀ざらめやは、とも見えて、誰も皆、然思ひよれることなれども、下をは、之多《シタ》とのみいふことにて、之都《シツ》と云る例なく、そのうへこゝは、本の鞍をさし措《オキ》て、下鞍を云べき理にもあらざれば、右の説は、決(メ)てひがことなり、又源(ノ)嚴水は、今昔(ノ)物語に、頼信馬盗人を射る條に、起けるまゝに、衣を引壺打て、胡※[竹/録]を掻負て、賤の鞍の有けるを云々、又藤(ノ)親孝云々の條に、厩に有草刈馬の中に、強からむ馬に、賤の鞍置て云々、又參議長谷男云々の條に云々、本の樣に成ぬれば、人の家に引入て、布一反を以て、賤の鞍に替て此(レ)に乘云々、又賤の樣なる弓胡箙、といふことも見えたり、是等を合せ考(フ)るに、こゝも此(ノ)賤鞍なるべし、されど上に、男さびすとあれば、賤の鞍の、見にくゝいやしげなるを云むは、いかゞと思ふ人あるべけれど、上にさつ(28)弓ともありて、狩の時の事なれば、晴の儀仗などの如(ク)にはあらで、賤の鞍を用ひしならはしなるべし、と云れどいかゞ、〔頭註、【今昔物語lこ、源頼義朝臣、射殺馬盗、語に、頼信ほのかに是を聞て、頼義にもきかせず起出て、胡※[竹/録]をかき負て、厩にはしり行、馬ひき出して、賤の鞍ありしを置て打乘つゝ云々、」貞道季武公時紫 野見物語に、三人の兵賤紺水于袴を着ながら云々、】〕○波比能利提《ハヒノリテ》は、匍乘而《ハヒノリテ》なり、かげろふの日記に、むかしならましかば、馬にはひ乘ても物しなまし、大鏡八(ノ)卷に駄一疋を給はせよ、はひ乘てまゐり侍らむ、などあり、○阿蘇比阿留伎斯《アソビアルキシ》は、八(ノ)卷に、高圓乃山爾毛野爾母打行而遊往杼《タカマドノヤマニモヌニモウチユキテアソビアルケド》云々、とよめり、阿留久《アルク》の言は、三(ノ)卷に出て、そこに具(ク)註り、○余乃奈迦野《ヨノナカヤ》は、野《ヤ》は、反語なり、次(ノ)句の、阿利家留《アリケル》の下に轉《メグラ》して心得べし、壯士《ヲトコザカリ》に云々して、遊び往《アル》きし、世中の常にありけりやは、世(ノ)間は常なく、弱《ワカ》く壯なりし間は、わづかのことにて、はやかく老はてぬることよ、といふ意なり、契冲が、野を、ノとよたて、さかりなるほどは、いつあひみても、紅顔のかはらねば、常にありけるとはいふなり、と云るはわろし、)○遠等の下※[口+羊](ノ)字、舊本には呼、古寫一本には※[口+羊]と作り、みな※[口+半]の誤な一り、○佐那周伊多斗《サナスイタト》は、閇《サシ》令《ス》v鳴《ナラ》坂戸《イタト》なり、(本居氏、は佐《サ》は、例の眞《マ》に通ふ辭なり、と云れど、いかゞあらむ、又契冲がさなすは、さすなりといへるは、わろし、)古(ヘ)の戸は、多く開(キ)戸にして、開閇《アケタテ》するに音ある故に、かくいへり、閇《サス》は、源氏物語虚蝉に、此(ノ)御かうしは閇《サシ》てむとて鳴(ラ)すなり、とあるに同じ、さて佐志《サシ》を、佐《サ》とのみ云は、十七放鷹歌に、左奈良弊流流多可波奈家牟等《サナラベタカハハナケムト》とあるも、指並有鷹《サシナラベルタカ》は无《ナケ》むとの意なり、(又|久方之天《ヒサカタノアマ》といふも、日指方之天《ヒサスカタノアメ》といふこと(29)なり、と荒木田氏は云り、)○意斯比良伎《オシヒラキ》は、押開《オシヒラキ》なり、○伊多度利與利提《イタドリヨリテ》は、伊《イ》は、そへ言なり、索《タド》り依てなり、○摩多麻提乃《マタマデノ》は眞玉手之《マタマテノ》なり、○多麻提佐斯迦閇《タマデサシカヘ》は、玉手指交《タマデサシカヘ》なり、玉《タマ》は美稱にて、手を愛《ホメ》ていふ、八(ノ)卷に、天飛也領巾可多思吉眞玉手乃玉手指更餘多宿毛寐而師可聞《アマトブヤヒレカタシキマタマデノタマデサシカヘタビマネクイモネテシカモ》、ともよめり、さて遠等※[口+羊]良河佐那周《ヲトメラガサナス》云々より此(レ)までは、古事記八千矛(ノ)神(ノ)、沼河比賣(ノ)家に到(リ)て、よみませる御歌に、遠等賣能那須夜伊多斗遠淤曾夫良比和何多多勢禮婆《ヲトメノナスヤイタトヲオソブラヒワガタタセレバ》云々|麻多麻傳多麻傳佐斯麻岐毛毛那賀爾伊波那佐牟遠《マタマデタマデサシマキモモナガニイハナサムヲ》云々、とあるを取てよめるなり、○佐禰斯欲能《サネシヨノ》は、狹宿《サネ》し夜之《ヨノ》なり、狹《サ》は、眞《マ》といふに同じ、○伊久※[こざと+施の旁]母阿羅禰婆《イクダモアラネバ》は、幾許《イクグ》も不《ネ》v有《アラ》者《バ》なり、二(ノ)卷に、左宿夜者幾毛不有《サネシヨハイクダモアラズ》、十(ノ)卷に、左尼始而何太毛不在者《サネソメテイクダモアラネバ》、などあり、不v有者は、有ぬにといふ意に心得る例なり、○多都可豆惠《タツガヅヱ》は、手束杖《タツカヅヱ》なり、弓を手束弓《タツカユミ》といふが如し、杖は、和名抄行旅具に、杖、和名|都惠《ツヱ》、とあり、○許志爾多何禰堤《コシニタガネテ》は、腰《コシ》に束而《タガネデ》なり、○可由既婆《カユケバ》舊本には、可久由既婆と作り、一本には、和可由既婆、又一本には、我由既婆、活字本には、和可久由既婆とあり、仙覺、二條院の御本には、トユキハ〔四字右○〕人ニイトハエ〔五字右○〕、とありと云り、並に叶ひがたし、古寫本裏書に、可久由既婆比等爾伊等波延、諸本皆以如v此、一條院御本流、可由既婆比等爾伊等波延、義理尤相叶、殊勝殊勝、とあり、下に、可久由既婆とあれば、こゝは必|可由既婆《カユケバ》とあるべきなり、集中に、可爾母可久爾母《カニモカクニモ》とも、可爾可久爾《カニカクニ》とも、可母可久母《カモカクモ》ともある例なればなり、既く二(ノ)卷に、具(ク)云るをも、考(ヘ)合(ス)べし、)は、(30)彼行者《カユケバ》なり、○比等爾伊等波延《ヒトニイトハエ》は、人に所《レ》v厭《イトハ》なり、源氏物語常夏、光源氏(ノ)君、三十六歳の時の詞に、心やすくうちすゞまむや、やう/\かやうの中にも、いとはれぬべき齡にもなりにけりやとて、にしの對にわたり給へば云々、○可久由既婆《カクユケバ》は、如此行者《カクユケバ》なり、○邇久麻延《ニクマエ》は、所《レ》v惡《ニクマ》なり、○意余斯遠波《オヨシヲハ》は、凡者《オヨソハ》なり、斯遠《シヲ》の約|曾《ソ》なれば、意余期遠《オヨシヲ》は、意余曾《オヨソ》といふに同じと源(ノ)嚴水云り、(老し人をばといふなり、と岡部氏の云るは、あらず、)○迦久能尾奈良志《カクノミナラシ》は、およそ世(ノ)間はかくばかり、はかなきものならしの意なり、○多摩枳波流《タマキハル》は、枕詞なり、既く出づ、○伊能知遠志家騰《イノチヲシケド》は、身命《イノチ》雖《ド》v惜《ヲシケレ》なり、○世武周弊母奈新《セムスベモナシ》は、爲《ス》べきやうもなしとなり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
805 等伎波奈周《トキハナス》。迦久斯母何母等《カクシモガモト》。意母閉騰母《オモヘドモ》。余能許等奈禮婆《ヨノコトナレバ》。等登尾可禰都母《トドミカネツモ》。
 
等伎波奈周《トキハナス》(周(ノ)字、類聚抄には須と作り、)は、如《ナス》2常磐《トキハ》なり、○迦久斯母何母等《カクシモガモト》(何母(ノ)二字、舊本には脱なり、一本には、都寧迦久斯母等と作り、此もよろしからず、今は類聚抄、古寫本、拾穗本、官本等に從つ、但し何母を、官本には我母と作り、又古寫小本に、可名と作るはわろし、又異本には、何(ノ)字ありて、母(ノ)字なし、)は、斯《シ》は、例のその一(ト)すぢなる意の助辭にて、如此もがなあれかしとい(31)ふなり、○等登、古寫小本には、等々と作り、○歌(ノ)意は、常磐の如く、常にかく弱《ワカ》く壯(リ)にて、いつまでもがなあれかし、、と一(ト)すぢに思へども、無常の世の事なれば、流る年を、留めまほしくても留め得ず、さても爲べきやうなしや、となり、
 
神龜五年七月二十一日《ジムキイツトセトイフトシフミツキノハツカマリヒトヒ》。於《ニテ》2嘉摩郡《カマノコホリ》1撰定《エラブ》。筑前國守山上憶良《ツクシノミチノクチノクニノカミヤマノヘノオクラ》。
 
嘉摩(ノ)郡は、和名抄に、筑前國嘉麻(ノ)(加萬《カマ》)郡とあり、
 
太宰帥大伴卿相聞歌二首《オホミコトモチノカミオホトモノマヘツキミノシタシミウタフタツ》。
 
此(ノ)題詞、舊本には无(シ)、目録又拾穗本に從つ、
 
脱文〔二字□で囲む〕
 
此間に、旅人(ノ)卿より、京に在人の許へ、贈られける書牘あるべきが、脱たるなるべし、舊本に、次の伏辱云々の書牘、此處にあるは、甚く錯亂《ミダレ》たるものなり、
 
歌詞兩首【太宰帥大伴卿】
 
歌の上、拾穗本には、相聞(ノ)二字あり、○註の伴(ノ)字、舊本に佯に誤れり、今は類聚抄、古寫本等に從つ、
 
806 多都能馬母《タツノマモ》。伊麻勿愛弖之可《イマモエテシカ》。阿遠爾與志《アヲニヨシ》。奈良乃美夜古爾《ナラノミヤコニ》。由吉帝己牟丹米《ユキテコムタメ》。
 
多都能馬《タツノマ》は、龍馬《タツノマ》なり、周禮に、凡(ソ)馬八尺以上(ヲ)爲v龍(ト)、六帖に、十つゑ餘(リ)八つゑをこゆる龍の駒君(32)すさめずは老はてぬべし、とあり、○歌(ノ)意は、京に行て、思ふ其方に相見まほしく思へども、爲む方なし、いで京に行て、思ふ人に相見て、やがて筑紫に還り來むが爲に、龍馬といふ馬をなりとも、いかで、今早も、得まほしく思はるゝこと哉、となり、
 
807 字豆都仁波《ウツツニハ》。安布余志勿奈子《アフヨシモナシ》。奴婆多麻能《ヌバタマノ》。用流能伊昧仁越《ヨルノイメニヲ》。都伎提美延許曾《ツギテミエコソ》。
 
宇豆都《ウツツ》は、(豆(ノ)字を用たるは正しからず、)現々《ウツ/\》なり、宇都宇都《ウツウツ》といふべきを、下の宇《ウ》をいはざるは、彌《イヨ/\》を、伊與々《イヨヽ》といふ例の如し、十三に、卯管庭君爾波不相夢谷相跡所見社《ウツヽニハキミニハアハズイメニダニアフトミエコソ》とあり、○婆(ノ)字、舊本には波と作り、今は類聚抄に從つ、○伊昧仁越《イメニヲ》は、夢にゝて、越《ヲ》は、事をおもく思はせたる助辭なり、○都伎提美延許曾《ツギテミエコソ》は、繼《ツヾ》きて見えよかし、といふなり、十二に、空蝉之人目繁者夜干玉之夜夢乎次而所見欲《ウツセミノヒトメシゲクハヌバタマノヨルノイメニヲツギテミエコソ》、とよめり、許曾《コソ》は、希望の辭にて既く云り、○歌(ノ)意は、現には、とてもかくても、相見べき爲方もなし、夜の夢になりとも、繼て見えよかしとなり、
 
大伴淡等《オホトモノタビト》謹状。
 
此(ノ)大字、舊本に、下の多陀爾阿波須《タダニアハズ》云々の歌の次にあるは、錯亂《ミダレ》しものなり、さて此六字、舊本錯亂て、下に收(レ)るに依て、拾穗本には、下の梧桐云々と云(フ)へ、直續に書て、書牘の初の詞とせり、其は面白きやうなれども、もししからば、淡等謹啓とか、淡等啓とかあるべきに、姓を書《シル》せる(33)こと、例にたがへり、又謹状とあるも、書牘の終の詞と見えたるをや、○淡等は、タビト〔三字右○〕訓べし、旅人(ノ)卿なり、旅人を、淡等とも、多比等とも、古(キ)書《モノ》に書たるは、史《フヒト》を不比等、馬飼《ウマカヒ》を宇合、長谷雄《ハセヲ》を發昭、清行《キヨツラ》を眉逸、葛野《カドノ》を賀能、匡房《マサフサ》を萬歳と書る類なり、(後の物に、反名と云るはこの事なり、)しかるを公卿補任に、大伴(ノ)宿禰旅人、天平二年十月朔、任2大納言(ニ)1、改2名(ヲ)淡等(ト)1、とあるは、此謂を得知ぬ誤なり、
 
官氏|報歌二首〔六字各○で囲む〕《コタフルウタフタツ》。
 
伏辱(ス)2來書(ヲ)1。具(ニ)承(ル)2芳旨(ヲ)1。忽(チ)成(シ)2隔(ル)v漢之戀(ヲ)1。復傷(ム)2抱(ク)v梁(ヲ)之意(ヲ)1。唯羨(クハ)去留無(ク)v恙。遂(ニ)待v披(ムコトヲ)v雲(ヲ)耳。
 
隔漢之戀は、牽牛織女の、天河を隔て、夫妻戀《ツマゴヒ》するを比《タトヘ》ていふ、○抱梁之意は、荘子盗跖篇に、尾生與2女子(ト)1期2於梁下(ニ)1、女子不v來(ラ)、水至不v去(ラ)、抱2梁柱1而死、とあり、旅人(ノ)卿の歸京を待て、待得ざる意を比て云り、○羨は、冀と書るに同じかるべし、字彙に、羨(ハ)欲也、とあり、○去留無恙は、太宰に去《サレ》ると、京に留れると、共に恙なくと云なるべし、○披雲は、人に逢事を尊みていへり、晋書に、衛※[王+懽の旁]見2樂廣(ニ)1而奇之、嘆曰、若d披2雲霧1而覩c青天(ヲ)u、と云るによれり、○此(ノ)書牘は、必(ズ)此間にあるべきを、舊本には甚く錯亂たり、そのゆゑは、まづ初二首は、旅人(ノ)卿より、都の朋友の許へ贈られし歌なり、さてそれに書牘も有つらむを、そは漏たるなり、かくてその旅人(ノ)卿の書牘并歌詞に答(34)へられて、京の人の、此(ノ)書牘と、次の答歌とある二首とを、旅人(ノ)卿の許へ贈られけるものなり、さて上に大伴淡等謹状とあるも、舊本には錯れしこと、前に云る如し、
 
答歌二首《コタフルウタフタツ》。
 
この答歌を、類聚抄に憶良と録し、拾穗本に大伴淡とあるは、並誤なり、作者詳に傳はらざるをや、
 
808 多都乃麻乎《タツノマヲ》。阿禮波毛等米牟《アレハモトメム》。阿遠爾與志《アヲニヨシ》。奈良乃美夜古邇《ナラノミヤコニ》。許牟比等乃多仁《コムヒトノタニ》。
 
阿禮波毛等米牟《アレハモトメム》は、旅人(ノ)卿の爲に、吾者將求《アレハモトメム》となり、○許牟比等乃多仁《コムヒトノタニ》(仁(ノ)字、官本、拾穗本等には、米と作り、)は、將來人《コムヒト》の爲《タメ》になり、爲《タメ》にを多仁《タニ》といへる例、續紀十七(ノ)詔に、種種法中爾波《クサ/”\ノノリノウチニハ》、佛大御言之《ホトケノオホミコトシ》、國家護我多仁波《ミカドマモルガタニハ》、勝在止聞召《スグレタリトキコシメシテ》云々、又佛足石碑(ノ)御歌にも見えたり、(但し仁を、米と作る本に從ば、即(チ)爲《タメ》なり、されどそれは、多仁《》と云ることのめづらしければ、うたがひて、後に書改めしもしるべからずなむ、〔頭註、  〕○歌(ノ)意は、奈良の都に來むといふ其人の爲に、龍馬を吾は求めむ、となり、
 
809多陀爾阿波須《タダニアハズ》。阿良久毛於保久《アラクモオホシ》。志岐多閉乃《シキタヘノ》。麻久良佐良受提《マクラサラズテ》。伊米爾之美延牟《イメニシミエム》。
 
(35)多陀爾阿波須《タダニアハズ》、直《タヾ》に不《ズ》v逢《アハ》なり、○於保久の久(ノ)字は、之の誤ならむと、本居氏云り、○岐(ノ)字、類聚抄には伎と作り、○麻久良佐良受堤《マクラサヲズテ》は、不《ズ》v離《サラ》v枕《マクラ》而《テ》なり、○歌(ノ)意は、のたまひおこせし如く、此方にも相見まほしけれど、直に相見る事は叫ばずて、戀しく思ひて、經渡る年月多し、枕を離ずて夢になりとも、見えまゐらせむ、となり、
 
姓名謹状〔四字各○で囲む〕
 
帥大伴卿《カミオホトモノマヘツキミノ》。梧桐日本琴《キリノヤマトコトヲ》。贈《オクリタマヘル》2中衛大將藤原卿《ナカノマモリノツカサノカミフヂハラノマヘツキミニ》1歌二首《ウタフタツ》。
 
此(ノ)題詞も、舊本にはなし、目録に從て録しつ、(古寫小本、拾穗本にも、かくざまにしるして、歌の上、書并(ノ)二字あり、)○中衛大將は、ナカノマモリノツカサノカミ〔ナカ〜右○〕と訓べし、本居氏云、中衛は、續紀に、神龜五年八月、勅始置2内匠寮(ヲ)1、云々、又置2中衛府(ヲ)1、大將一人、(從四位上、)少將一人、(正五位上、)將監四人、(從六位上、)將曹四人、(從七位上、)府生六人、番長六人、中衛三百人、(號2日來舍人1、)使部已下亦有v數、其(ノ)職掌、常(ニ)在2大内(ニ)1以備2周衛(ニ)1、事並在v格、と見えたる、これ中衛府の始なり、中衛三百人とある、これこの舍人なるべし、號日來舍人とある、日來は誤字と見ゆ、さて中衛府の訓は、物に見えざれども、ナカノマモリノツカサ〔ナカ〜右○〕と訓べし、天平勝寶八歳七月、勅授2刀舍人1、云々、其(ノ)中衛舍人亦以2四百1爲v限(ト)、さて紀略に、大同二年四月、詔近衛府者、爲2左近衛(ト)1、中衛府者、爲2右近衛(ト)1、と見ゆ、これより中衛の名は停《ヤミ》て、左右近衛府となれり、大將をカミ〔二字右○〕と訓は、和名抄に、長官、本朝(36)職員令、二方品員等所v載云々、近衛府曰2大將(ト)云々、已上皆|加美カ《ミ》、○藤原(ノ)卿は、房前(ノ)卿なり、續紀に、大寶三年正月甲子、遣2正六位下藤原(ノ)朝臣房前(ヲ)于東海道(ニ)1、巡2l省政績(ヲ)1申2理冤狂(ヲ)1、慶雲三年十二月癸酉、從五位下、和銅四年四月壬午、從五位上、靈龜元年正月癸巳、從四位下、養老元年十月丁亥參2議朝政(ヲ)1、三年正月壬寅、從四位上、五年正月壬子、從三位、神龜元年二月甲午、正三位、天平元年九月乙卯、爲2中務(ノ)卿(ト)1、四年八月丁亥、爲2東海東〔右□で囲む〕山二道節度使(ト)1、九年四月辛酉、參議民部(ノ)卿正三位藤原(ノ)朝臣房前薨(ス)、房前(ハ)贈太政大臣正一位不比等之第二子也、十月丁未、贈2民部(ノ)卿正三位藤原(ノ)朝臣房前(ニ)正一位左大臣(ヲ)1、并賜2食封二千戸(ヲ)於其家(ニ)1、限以2二十年(ヲ)1、實字四年八月甲子、云々、又得2大師(ノ)奏(ヲ)1、※[人偏+稱の旁]云々、宜d依v所v請南卿(ニ)(武智麻呂)贈2太政大臣(ヲ)1、北卿(ニ)(房前)轉c贈太臥大臣(ヲ)u、と見えたり、武智麻呂(ノ)卿は、其(ノ)家南にありし故、南卿と稱し、房前(ノ)卿は、其(ノ)家北にありし故に、北卿と稱り、懷風藻に、贈正一位左大臣藤原(ノ)朝臣總前三首、(年五十七)
 
梧桐(ノ)日本琴|一面《ヒトツ》。【對馬結石山桐孫枝也、】
 
梧桐は、和名抄に、陶隱居(ガ)本草(ノ)註(ニ)云(ク)、桐(ニ)有2四種1、青桐梧桐崗桐椅桐、(和名皆|木里《キリ》、)梧桐(ハ)者、色白(シテ)有v子者、(今按(ニ)、俗(ニ)訛(リ)呼(テ)爲2青桐(ト)1是也、)椅桐(ハ)者、白桐也、三月(ニ)花(サク)紫(ナリ)、亦堪(ル)v作(ルニ)2琴瑟(ニ)1者是也、枕册子に、きりの花紫に咲たるは、猶をかしきを、葉の廣ごりやう、うたてあれども、又別木どもと、ひとしういふべきにあらず、もろこしにこと/”\しき名なり、まして琴につくりて、さま/”\になる音の出(37)來るなど、をかしとは、よの常にいふべくやはある、いみじうこそはめでたけれ、とあり、○日本琴は、和名抄に、萬葉集(ニ)云(ク)、梧桐(ノ)日本琴一面、(天平元年十月七日、大伴淡等附1使監(ニ)1、贈2中將衛督房前(ノ)卿(ニ)1之書所v記(ス)也、躰似v筝(ニ)而短小有2六弦1、俗(ニ)用2倭琴(ノ)二字(ヲ)1、夜萬止古止《ヤマトコト》、大歌所(ニ)有2鴟(ノ)尾琴1、止比乃乎古止《トビノヲコト》、倭琴首(メ)造2鴟(ノ)尾之形(ニ)1也、とあり、中將衛督は、即(チ)中衛大將のことなるべし、)雅(ノ)樂式に、和琴一面、長(サ)六尺二寸、枕册子に、御前に候ふ物どもは、琴も笛も皆めづらしき名つきてこそあれ、琵琶は云々、和琴なども、朽目《クチメ》鹽竈《シホガマ》二貫《フタヌキ》などど聞ゆる、とあり、此(ノ)頃よりは、字音のまゝにワゴム〔三字右○〕と唱なれたり、つれ/”\草に、常にきゝたきは琵琶《ビハ》和琴《ワゴム》、(无名抄に、或人(ノ)云(ク)、和琴の起(リ)は、弓六張を引鳴して、此を神樂に用ひけるを、煩らはしとて、後の人殊に造りうつせる、と申(シ)傳へたるを、上總(ノ)國の濟物の古き註し文の中に、弓六張と書て、註に御神樂料と書りとぞ、いみじきことなり、)○結石山《ユフシヤマ》は、對馬にある山(ノ)名なり、○桐(ノ)孫枝也、桐(ノ)字、舊本にはなし、歌林良材に引るには、此(ノ)字あり、也(ノ)字、舊本には无(シ)、古寫小本、拾穗本等に從つ、孫妓は、十八橘(ノ)歌に、波流左禮婆孫枝毛伊都追《ハルサレバヒコエモイツツ》、字鏡に、※[木+少](ハ)木(ノ)細枝也、比古江《ヒコエ》、※[禾+(尤/山)]康(ガ)琴(ノ)賦に、乃劉2孫枝(ヲ)1准(ヘ)量(ハ)所(ニ)1v任、などある、(體源抄十に、笋の|こう《甲》の木舊記に云、鹽風にふかれたる、日あたりの孫枝をもちいるべきなり、絲は、山城國の糸をもち|い《ふか》るなり、伊勢(ノ)國、美濃などもよし、甲は、對馬(ノ)國桐第一なり、)
 
此(ノ)琴夢(ニ)化《ナリテ》2娘子(ニ)1曰(ケラク)。余|託《ヨセ》2根(ヲ)遙島之崇※[亦/山](ニ)1。※[日+希]《サラス》2〓《カラヲ》九陽之休光(ニ)1。長(ク)帶(テ)2烟霞(ヲ)1。逍2遥(ス)山(38)川之阿(ニ)1。遠(ク)望(テ)2風波(ヲ)1。出2入(ス)鴈木之間(ニ)1。唯恐(レキ)3百年之後。空(シク)朽(ナムコトヲ)2溝壑(ニ)1。偶々遭(テ)2長匠(ニ)1散(テ)爲(リキ)2小琴(ト)1。不v顧(ミ)2質麁(ク)音少(ヲ)1。恒(ニ)希(フトイヒテ)2君子《ウマヒトノ》左琴(トナラムコトヲ)1。即(チ)歌曰《ウタヒケラク》。
 
託2根遙島之崇※[亦/山]1とは、遙島は對馬をいふ、崇※[亦/山]は結石山なり、崇は、字彙に、高也、※[亦/山]は、玉篇に、山峯也、とあり、○※[日+希]2〓九陽之休光1とは、琴賦に、旦※[日+希]2幹(ヲ)於九陽(ニ)1、又いはく、惟椅梧之所v生、今託2峻嶽崇岡(ニ)1、云々、吸2日月之休光(ヲ)1、とあるに依(レ)り、九(ハ)陽(ノ)數也、陽(ハ)日也、と註せり、休光は、体(ハ)善也と註して、よき光といふ意なり、○出2入鴈木之間1とは、莊子に、莊周山に入て、大樹の茂りたるが下を、杣人の過ながら伐ねば、其(ノ)故を問(フ)に、用なき木なりと云り、かくて莊周、此(ノ)木の不材なるをもて、天年を終る事を知ぬ、さて山を出て、人(ノ)家に宿りしに、鴈をころして烹けるが、聲のよきをばころさで、わろきをころせり、かくて又わろきものとても、天年を終ざる事有を知(レ)り、といふ故事によりて、不材なりとて、人にとらるまじきや、又人にとらるべしや、の間に出入すといふ意なり、と云り、○溝壑(壑(ノ)字、舊本に〓、活字本に額と作るは誤なり、古寫本に〓、類聚抄に〓、拾穗本に〓と作るは、皆壑の通字にや、)は、孟子、史記等に出たる字なり、溝谷のことなり、○散は、敢(ノ)字ならむと云説あり、さもあるべし、○左琴、契冲云(ク)、古列女傳(ニ)云(ク)、君子左v琴(ヲ)右v書(ヲ)、樂在2其(ノ)中(ニ)1、
 
810 伊可爾安良武《イカニアラム》。日能等伎爾可母《ヒノトキニカモ》。許惠之良武《コヱシラム》。比等能比射乃倍《ヒトノヒザノヘ》。利我摩久良可武《ワガマクラカム》。
 
(39)伊可爾安良武《イカニアラム》は、四(ノ)卷に、何時爾加妹乎牟具良布能穢屋戸爾入將座《イカニアラムトキニカイモヲムグラフノキタナキヤドニイリイマセナム》、とあり、○許惠之良武《コヱシラム》は、(列子に、伯牙善鼓v琴(ヲ)、鐘子期善聽、)續後紀十六に、承和十三年夏四月辛末朔、天皇御2紫宸殿(ニ)1云
シラムコヱヒトニヲナ
云、殊(ニ)召2從四位下藤原朝臣雄敏(ヲ)1、令v彈2琵琶(ヲ)1、後《復類》令d諸大夫|知《シラム》v音《コヱ》者《ヒト》、〓(ニ)吹2笙笛(ヲ)1、更奏c歌謠(ヲ)u、六帖に、琴の音をきゝしる人のあるなべに今ぞたちはてし緒をもつぐべき、枕册子に、吹(キ)物は、横笛いみじうをかし、云々、まして聞知たるてうしなどは、いみじうめでたし、源氏物語末摘花に、御琴の音、いかにまさり侍らむ、と思ひたまへらるゝ、云々といへば、あはれ聞知人こそあなれ、紅梅に、そのかみさかりなりし世に、あそび侍りしちからにや、聞知ばかりのわきまへは、なにごとにも、いとつきなくは侍らざりしを、うちとけてもあそばさねと、時々うけ給はる御琵琶の音なむ、昔(シ)覺え侍る云々、紫式部(ノ)日記に、風の凉しき夕ぐれ、きゝよからぬひとりことを、かきならしては、なげきくはゝると、きゝしる人やあらむと云々、讃岐典侍(ガ)日記に、御神樂はじまりぬれば、もと末のはうしの音、さばかりおほきに、たかき所にひゞきあひたり、聲聞知ぬ耳にもめでたし、つれ/”\草に、笛をえならず吹すさびたる、あはれときゝ知べき人もあらじ、と思ふに云々、などあり、○和我摩久良可武《ワガマクラカム》、(摩(ノ)字、拾穗本には麻と作り、可(ノ)字、類聚抄、拾穗本に、世と作るはわろし、)枕にするを、古(ヘ)に枕久《マクラク》といへること、既く註るが如し、七(ノ)卷寄2日本琴(ニ)1歌に、伏膝玉之小琴之《ヒザニフスタマノヲコトノ》ともよめり、此は娘子に化て云る詞なれば、膝に伏を枕《マクラ》くとはいへり、(40)垂仁天皇(ノ)紀に、天皇|枕《マクラキ》2皇后(ノ)膝(ヲ)1而晝|寢《ミネマセリ》、仁徳天皇(ノ)紀に、隼別(ノ)皇子|枕《マクラキタマヒテ》2皇女之膝(ヲ)1以臥(タマフ)、などあり、○歌(ノ)意は、いかならむいつの時にか、聲聞知る人の膝の上を、枕にして伏む、いかではやく、君子《ウマヒト》の手に觸まほしとなり、
 
僕|報《コタヘ》2詩詠《ソノウタニ》1曰《ケラク》。
 
詩、(一本には謌、古寫小本、拾穗本には、歌と作り、)歌を詩と書ること、此(ノ)卷(ノ)未、又十七にも見えたり、
 
811 許等等波奴《コトトハヌ》。樹爾波安里等母《キニハアリトモ》。宇流波之吉《ウルハシキ》。伎美我手奈禮能《キミガタナレノ》。許等爾之安流倍志《コトニシアルベシ》。
 
許等等波奴《コトトハヌ》は、四(ノ)卷に、事不問木尚味狹監《コトトハヌキスラアヂサヰ》云々、とあり、○手奈禮《タナレ》、手(ノ)字、舊本に〓、類聚抄に千と作るは誤なり、今は古寫本、古寫小本、古寫一本、官本、拾穗本等に從つ、○歌(ノ)意は、物言(ハ)ぬ木にてはありとも、さのみなげき思ふことなかれ、うるはしき君子《ウマヒト》のもとに捧ぐぺければ、やがてその君子《ウマヒト》の手にならす、琴にてこそあるべけれ、心やすかれ、となり、
 
琴(ノ)娘子(ガ)答曰《イヘラク》。敬(テ)奉(ハル)2徳音(ヲ)1。幸甚幸甚(トイヘリ)。片時(ニシテ)覺(タリ)。即(チ)感《カマケ》2於夢(ノ)言(ニ)1。概然(トシテ)不v得2黙止(リ)1。故《カレ》附《ツケテ》2公使《オホヤケツカヒニ》1。聊以進御耳。謹状不具。
 
徳音は、毛詩に出たる字なり、○幸甚幸甚は、文選に出たり、此までは、琴(ノ)娘子の答なり、○黙止(41)古寫本に止黙と作るはわろし、
 
天平元年十月七日《テムヒヤウハジメノトシカミナツキノナヌカノヒ》。附《ツケテ》v使《ツカヒニ》進上《タテマツル》。
 
十月、類聚抄には、十一月と作り、上に引和名抄に從に、なほ十月なるべし、
 
謹《ツヽシミテ》通《タテマツル》2中衛高明閣下(ニ)1謹空。
 
閣、舊本閤に誤、今は類聚抄、古寫小本、拾穗本等に從つ、○謹空は、略解(ニ)云、敬ふ時書事なり、後(ノ)世白なども書て、書牘の末を白くあまし置を、敬とするなり、東寺にある空海の書牘などにも、ずべてかく書り、と云り、本朝文粹七(ノ)卷に、後(ノ)江相公、爲2清慎公(ノ)1、報2呉越王(ニ)1書の終に、呉越殿下謹堂と見ゆ、堂は空(ノ)字の誤なり、此(ノ)二字、古寫小本には、記室と作り、(記室といふことは、此(ノ)下に見ゆ、拾穗本に謹言と作て、次の書牘の初に、連書るは誤なり、
 
中衛大將藤原卿報歌一首《ナカノマモリノツカサノカミフヂハラノマヘツキミノコタヘタマフウタヒトツ》。
 
此(ノ)標題も、舊本にはなし、目録に依て録つ、歌報一首、古寫小本、拾穗本等には、答書并歌一首と作り、
 
跪(テ)承(ハル)2芳音(ヲ)1。嘉懽交々深(シ)。乃知(ヌ)3龍門之恩復厚(キコトヲ)2蓬身之上(ニ)1。戀望殊念。常心(ニ)百倍(ス)。謹(テ)和(ヘテ)2白雲之什(ニ)1。以(テ)奏《タテマツル》2野鄙之歌(ヲ)1。房前謹状。
 
龍門之恩は、大伴(ノ)卿の、恩の厚きをさして云るなり、後漢の李膺が門に入がたきを、龍門に登(42)る事のか.たきにたとへ、其(ノ)門に入を、榮とする事に云るによれり、○蓬身は、吾(カ)身を謙下りて云るなり、毛詩に、自2伯之東1首如2飛蓬(ノ)1、と云(ヘ)るに依て、蓬頭と常にいへば、此は蓬頭の身といふ義にて云るにや、○白雲之什は、雲は雪の誤なるべしと略解に云り、然なり、文選、宋玉が楚王に答る文に、白雪之什と見えたり、
 
812 許等騰波奴《コトトハヌ》。紀爾茂安理等毛《キニモアリトモ》。和何世古我《ワガセコガ》。多那禮乃美巨騰《タナレノミコト》。都地爾意加米移母《ツチニオカメヤモ》。
 
和何世古《ワガセコ》は、旅人(ノ)卿を親(ミ)ていへり、○美巨騰《ミコト》は、(騰(ノ)字を用たるは、正しからず、)御琴《ミコト》なり、○都地爾意加米移母《ツチニオカメヤモ》は、嗚呼地に置むやは、といふ意なり、移《ヤ》は、後(ノ)世の也波《ヤハ》の也《ヤ》なり、母《モ》は、歎息を含めたる辭なり、移《ヤ》をヤ〔右○〕の假字に用たるは、書紀神功皇后(ノ)卷に、爾波移《ニハヤ》、(人(ノ)名なり、)繼禮天皇(ノ)卷に、穗積(ノ)臣押山、註に、百濟本記云、委意斯移麻岐彌《ヰオシヤマキミ》、欽明天皇(ノ)卷に、彌移居《ミヤケノ》國などあり、○歌(ノ)意は、たとひ物言(ハ)ぬ木にてもありとも、愛しき吾(ガ)兄子が、手にならしゝ御琴なれば、嗚呼かりそめにも、下にはおかじ、となり
 
十一月八日《シモツキノヤカノヒ》。附《ツケテ》2還使大監《カヘルツカヒオホキマツリゴトヒトニ》1。
 
大監は、大伴(ノ)宿禰百代なり、三(ノ)卷、四(ノ)卷等に見えたり
 
謹《ツヽシミテ》通《タテマツル》2尊門記室(ニ)1。
 
(43)尊門は、其(ノ)人の家を尊みて稱るなり、○記室(室(ノ)字、古寫一本に空と作るは誤なり、)は、直に其(ノ)人をさしあてゝ贈るを憚りて、筆とりの人にまで通《オク》ると云るなり、事物紀原に、漢書百官志(ニ)曰、王公大將軍幕府、皆有2記室1、掌v草2表書記1、とあり、
 
山上臣憶良《ヤマノヘノオミオクラガ》。詠《ヨメル》2鎭懐石(ヲ)1歌一首并短歌《ウタヒトツマタミジカウタ》。
 
此(ノ)棲題も、舊本にはなし、目録に從て録つ、古寫小本、拾穗本等にも、かくざまにしるして、短歌の下に并序(ノ)二字あり、
 
筑前國怡土《ツクシノミチノクニイトノ》郡|深江《フカエノ》村|子負《コフノ》原。臨《ソヒタル》v海(ニ)丘(ノ)上(ニ)有(リ)2二(ノ)石1。大(ナル)者(ハ)長(サ)一尺二寸六分《ヒトサカマリフタキムキダ》。圍《ウダキ》一尺八寸六分《ヒトサカマリヤキムキダ》、重(サ)十八斤五兩《トヲマリヤハカリイツコロ》、小(キ)者(ハ)長(サ)一尺一寸《ヒトサカマリヒトキ》、圍(キ)一尺八寸《ヒトサカマリヤキ》、重(サ)十六斤十兩《トヲマリムハカリトコロ》、並皆《ミナ》楕圓(ニシテ)状如2鷄子《トリノコノ》1。其美好(キコト)者不v可2勝(テ)論(ズルニ)1。所謂《イハユル》徑尺璧是(ナリ)也【或云。此二石者肥前國彼杵郡平敷之石。當v占而取之、】去(ルコト)2深江(ノ)驛家《ウマヤヲ》1二十許里《ハタサトバカリ》。近(ク)在(リ)2路頭1。公私(ノ)往來、莫v不(ハ)2下(テ)v馬(ヨリ)跪拜《ヲロガマ》1。古老相傳曰(ク)。往者《イニシヘ》息長足日女《オキナガタラシヒメノ》命。征2討《コトムケタマヒシ》新羅《シラキノ》國(ヲ)1之時《トキ》。用《モチテ》)2茲(ノ)兩(ノ)石(ヲ)1挿2著《サシハサミタマヒテ》御袖之中(ニ)1。以爲2鎮懷(ト)1。【實是御裳中矣。】所以《カレ》行《ミチユキ》人敬2拜(ストイヘリ)此(ノ)石(ヲ)1。乃《スナハチ》作歌曰《ウタヨミスラク》。
 
怡土(ノ)郡は、和名抄に、筑前(ノ)國怡士(以止《イト》)郡、仲哀天皇(ノ)紀に、筑紫(ノ)伊覩(ノ)縣主(ノ)祖|五十迹手《イトテ》、聞2天皇之行(ヲ)1云々、天皇即美2五十迹手(ヲ)1曰2伊蘇志《イソシ》1、故時人號2五十迹手之本土(ヲ)1、曰2さ伊蘇國(ト)1今謂2伊親(ト)1者訛也、云々、とあり、○深江(ノ)村は、兵部省式に、筑前(ノ)國驛馬、(云々深江、云々各五疋、)今も怡土郡にかくいふ村(44)ありて、肥前の唐津へ通ふ道の驛なりと云り、○子負(ノ)原は、深江(ノ)村の西方にありて、今は己夫《コブ》と、夫《ブ》を濁りて呼《イフ》といへり、(古(ヘ)は布を清しなり、)○二石、本居氏云、石は二(ツ)ながら、盗人のぬすみ持去て、今は无しと彼(ノ)國人云り、○長一尺二寸六分、雜令義解に、凡(ソ)度、十分(ヲ)爲v寸(ト)、(謂度者、分寸尺丈引也、所3以度2長短(ヲ)1也、分者、以2北方矩黍中者一之廣(ヲ)1爲v分(ト)、矩者黒黍也、)十寸(ヲ)爲v尺(ト)、一尺二寸爲2大尺一尺(ト)1、十尺(ヲ)爲v丈(ト)、云々、とあり、尺はサカ〔二字右○〕、(集中十四にも、八尺鳥を、也左可杼利《ヤサカドリ》と書り、)寸はキ〔右○〕、(寸を伎《キ》と云は、刻の意なり、集中に、玉刻春《タマキハル》、眞刻持《マキモタル》など、伎《キ》に刻(ノ)字を書るも、其(ノ)意なり、伎陀《キダ》、伎邪牟《キザム》、などの本語なり、と本居氏云り、さて寸《キ》を、刻の意とするときは、分《キダ》と同じくて、別なきに似たれども、凡てかゝる類の、名と意と同じくても、いさゝか言の異《カハ》れるを以て、別ち云こと例あることなり、と同人云り、)分はキダ〔二字右○〕、(分をキダ〔二字右○〕と訓は、景行天皇(ノ)紀に、碩田と云國(ノ)名見えて、此云2於保岐陀《オホキダ》1、とあるは、和名抄に、豐後(ノ)國大分郡(ハ)於保伊多《オホイタ》、とある地なり、岐《キ》を伊《イ》と云るは、後の音便にて、是(レ)分をキダ〔二字右○〕と云る證なり、)なり、重十八斤五兩、雜令義解に、權衡、廿四※[金+朱](ヲ)爲v兩(ト)、(謂以2※[禾+巨]黍中者百黍重(ヲ)1爲v※[金+朱](ト)、廿四※[金+朱](ヲ)爲v兩、)三兩(ヲ)爲2大兩一兩(ト)1、十六兩(ヲ)爲v斤(ト)、とあり、斤はハカリ〔三字右○〕、(天智天皇(ノ)紀に、絲五百斤とありて、斤をハカリ〔三字右○〕と訓り、谷川氏通證に、舊事紀、大小|量《ハカリ》、古語拾遺、作2大小斤(ニ)1、と云り、兩はコロ〔二字右○〕(推古天皇(ノ)紀に、黄金三百兩、持統天皇(ノ)紀に、白銀三斤八兩などある、これらの兩を皆コロ〔二字右○〕と訓り、)なり、○小者云々、圍一の下、舊本に寸(ノ)字あるは衍なり、○橢圓、橢(ノ)字、舊本(45)に墮と作るは誤なり、字書に、墮(ハ)狹(シテ)長(キ)也、謂3長(シテ)而去(ヲ)2四角(ヲ)1也、など見えたり、○状(ノ)字、類聚抄には形と作り、○徑尺璧(璧(ノ)字舊本に、壁と作るは誤なり、古寫小本、古寫一本、拾穗本等に從つ、)は、大なる玉といふ事なり、淮南子に、聖人不v貴2尺之璧(ヲ)1而重2寸之陰(ヲ)1、時難v得而易v失(ヒ)也、とあるより出たり、○彼杵(ノ)郡(註文)は、和名抄に、肥前(ノ)國彼杵(ノ)(曾乃岐《ソノキ》)郡とあり、○平敷之石(註文)は、本居氏云(ク)、或人(ノ)云(ク)、平敷と云は、今長崎に近き浦上村平野(ノ)宿と云處にて、今も赤石白石の美好《ウルハシ》きが多く出るを、火打石にも、又|磨《スリ》て緒結《ヲジメ》と云物にもするなり、と云り、○古老相傳曰、往者、(者(ノ)字、拾穗本には、昔と作り、)云々、古事記中卷仲哀天皇(ノ)條に、故其政未v竟之間、其懷姙臨v産、即爲v鎭2御腹(ヲ)1、取v石(ヲ)以纏2御裳之腰(ニ)1、而渡2筑紫(ノ)國(ニ)1、其(ノ)御子者阿禮坐、云々、亦所v纏2其御裳(ニ)1之石者、在2筑紫(ノ)國之伊斗(ノ)村(ニ)也、書紀神功皇后(ノ)卷に、于時也適當2皇后之開胎(ニ)1、皇后則取v石(ヲ)挿v腰(ニ)而祈3之曰事竟還日産2於茲土(ニ)1、其(ノ)石今在2于伊覩(ノ)縣(ノ)道(ノ)邊(ニ)1、筑紫風土記に、逸都(ノ)郡|子饗《コフノ》原、有2石兩顆1、一者片長一尺二寸周一尺八寸、一者長一尺一寸周一尺八寸、色白而便圓如2磨成1、俗《ヨニ》傳(ヘ)云(ク)、息長足比賣(ノ)命欲v伐2新羅(ノ)國1、軍之際懷娠漸動時、取2兩石(ヲ)1挿2著裙腰(ニ)1、遂襲2新羅(ヲ)1、凱旋之日至2芋〓(ニ)1太子誕生、有2此(ノ)因縁1曰2芋〓野(ト)1、(謂v産(ヲ)爲2芋〓(ト)1者、風俗(ノ)言詞耳、)俗間婦人忽然娠動、裙腰挿v石(ヲ)厭(テ)令v延v時、蓋由v此乎、筑前風土記に、恰土(ノ)郡兒饗野、(在2郡西(ニ)1、此(ノ)野之西(ニ)有2白石二顆1、(一顆長一尺二寸太一尺、重卅一斤、一顆長一尺一寸、太一尺、重四十九丁《斤歟》、)曩者《ムカシ》氣長足姫(ノ)尊、欲3征2伐新羅(ヲ)1到2於此(ノ)村(ニ)1、御身有v姙、忽當2誕生(ニ)1、登時取2此二顆石(ヲ)1、挿2於御腰(ニ)1祈(46)曰、朕欲2西堺(ヲ)1來2著此野1、所姙皇子若此神者、凱旋之後誕生、其可3遂定2西堺(ヲ)1、還來即産也、所謂譽田(ノ)天皇是也、時(ノ)人號2其(ノ)石1、曰2皇子産石(ト)1、今訛謂2兒饗(ノ)石(ト)1、(朕欲の下、伐定等の字脱たるか、)後拾遺和歌集(ノ)賀に、後朱雀院うまれさせ賜ひて、七夜によみ侍ける、前大納言公任、いとけなき衣の袖は狹くとも子負の石をば撫つくしてむと、見ゆ、○朕懷とは、懷姙《ミコハラマセ》る御腹を齋鎭賜《イハヒシヅメタマ》ふなり、歌に、御心を鎭《シヅ》め賜ふとゝあるは、大かたによめるものなり、(本居氏云、此(ノ)子負(ノ)石は、長一尺餘もありけるを、御腰には、いかで著賜ひけむ、と疑ふ人もあるべけれど、彼(ノ)大后の御世より、奈良(ノ)宮のころまでは、五百年あまりも、經つる時なれば、小さかりしが、然大になりけむこと何か疑はむ、石も多くの年を經れば、漸に大になること、今もつねしかるをや、
 
813 可既麻久波《カケマクハ》。阿夜爾可斯故斯《アヤニカシコシ》。多良志比※[口+羊]《タラシヒメ》。可尾能弥許等《カミノミコト》。可良久爾遠《カラクニヲ》。武氣多比良宜弖《ムケタヒラゲテ》。弥許許呂遠《ミココロヲ》。斯豆迷多麻布等《シヅメタマフト》。伊刀良斯弖《イトラシテ》。伊波比多麻比斯《イハヒタマヒシ》。麻多麻奈須《マタマナス》。布多都能伊斯乎《フタツノイシヲ》。世人爾《ヨノヒトニ》。斯※[口+羊]斯多麻比弖《シメシタマヒテ》。余呂豆余爾《ヨロヅヨニ》。伊比都具可禰等《イヒツグガネト》。和多能曾許《ワタノソコ》。意枳都布可延乃《オキツフカエノ》。宇奈可美乃《ウナカミノ》。故布乃波良爾《コフノハラニ》。美弖豆可良《ミテヅカラ》。意可志多麻比弖《オカシタマヒテ》。可武奈何良《カムナガラ》。可武佐備伊麻須《カムサビイマス》。久志美多麻《クシミタマ》。伊麻能遠都豆爾《イマノヲツツニ》。多布刀伎呂可※[人偏+舞]《タフトキロカモ》。
 
多良志比※[口+羊]《タラシヒメ》は、息長足姫を省きては、かくも申せしなり、十五にも、多良思比賣御舶波弖家牟(47)松浦乃宇美《タラシヒメミフネハテケムマツラノウミ》、とあり、少彦名《スクナヒコナノ》神を少御《スクナミ》神と申し、日並所知《ヒナミシラスノ》尊を、日並《ヒナミノ》尊と申せる類なり、○可良久爾遠《カラクニヲ》、此(レ)より下、(八句)布多都能伊斯乎《フタツノイシヲ》といふ迄は、下の故布乃波良爾《コフノハラニ》の次にうつして心得べし、世(ノ)人に示《シメ》し、萬世に云繼がためにと鎭懷石を、子負(ノ)原に御手|自《ヅカラ》置賜而、の意なり、さて可良久爾《カラクニ》は、韓國なり、繼體天皇(ノ)紀に、二十四年冬十月、目頬子初到2任那(ニ)1時、在v彼(ニ)卿家等贈歌曰、河羅〓※[人偏+爾]嗚以柯※[人偏+爾]輔居等所《カラクニヲイカニフコトゾ》、欽明天皇(ノ)紀に、二十三年秋七月、云々、調(ノ)吉士|伊企儺《イキナ》、爲v人(ト)勇烈《ハゲシ》、終不2降伏《シタガハ》1、新羅(ノ)闘將、拔(テ)v刀(ヲ)欲v斬(ムト)、云々、由是見v殺云々、其(ノ)妻¥大葉子《オホハコ》亦《モ》並|見《ラエヌ》v禽《トラヘ》、愴然而《イタミテ》歌曰、柯羅倶※[人偏+爾]能基能倍※[人偏+爾]陀致底《カラクニノキノヘニタチテ》、此(ノ)集十五遣新羅使(ノ)歌に、可良久爾爾和多理由加武等《カラクニニワタリユカムト》などあり、此等皆三韓と云るあたりを、可良《カラ》と云るなり、十九に、三月三日、大伴(ノ)家持(ノ)卿の、漢人毛〓浮而遊云《カラヒトモフネヰウカベテアソブチフ》云々、又同卷、藤原(ノ)大后、賜2入唐大使藤原(ノ)朝臣清河(ニ)1御歌に、云々|此吾子乎韓國邊遣《コノアコヲカラクニヘヤル》云々、また餞2之入唐副使大伴(ノ)胡麻呂(ノ)宿禰等(ヲ)1歌に、韓國爾由伎多良波之底《カラクニニユキタラハシテ》云々、これらは、もろこしを可良《カラ》と云るなり、すべて、皇朝より、西方にあたれる外(ツ)國をば、なべて、可良《カラ》といひしなり、さて可良《カラ》といふにつきて、昔來種々の説ある中に、松下見林(ガ)説に、我(ガ)朝人呼2外國(ヲ)1、稱曰2伽羅《カラト》1者、蓋(シ)外國(ノ)人始來者、都怒我阿羅新等《ツヌガアラシト》也、乃|意富伽羅國《オホカラクニノ》王之子也、爾來以2外國(ヲ)1、總稱2伽羅《カラト》1、とある、さる事なるべし、○武氣多比良宜弖《ムケタヒラゲテ》は、言向平《コトムケタヒラ》げての意なり、武氣《ムケ》は言向《コトムケ》の向《ムケ》にて、令《セ》v向《ムカ》なり、十八に、毛能乃布能八十伴雄乎麻都呂倍乃牟氣乃麻爾麻爾《モノノフノヤソトモノヲヲマツロヘノムケノマニマニ》云々、とあるも同じ、言向のことは、廿(ノ)卷に、知波夜夫流(48)神乎許等牟氣《チハヤブルカミヲコトムケ》、とある下に具(ク)註べし、○斯豆迷多麻布等《シヅメタマフト》は、鎭賜《シヅメタマフ》とての意なり、○伊刀良斯弖《イトラシテ》は、取賜而《トリタマヒテ》、といふなり、伊はそへ言なり、○麻多麻奈須《マタマナス》は、如《ナス》2眞珠《マタマ》1なり、○伊比都具可禰等《イヒツグガネト》は、言傳繼《イヒツタヘツグ》が爲にとての意なり、可禰《ガネ》の言の例は、既く具(ク)註り、○和多能曾許意枳都《ワタノソコオキツ》は、深江をいはむ料なり、意枳《オキ》は、奥《オキ》にて、海(ノ)底の至極と云ば、深と屬くなり、○宇那可美《ウナカミ》は海之上《ウノカミ》なり、海邊といふに同じ、地(ノ)名には非ず、序に、臨v海(ニ)丘上とある是なり、○意可志多麻比弖《オカシタマヒテ》は、置腸而《オキタマヒテ》なり、○可武佐備伊麻須《カムサビイマヌ》は、石の神さび座(ス)なり、○久志美多麻《クシミタマ》は、契冲、久志《クシ》は、奇の字なり、美多麻《ミタマ》は、眞玉とかきて、ほむる心にて、二の石をいへり、久志《クシ》は、あやしき心なり、又靈の字をもよめりといへり、(略解に、神功皇后(ノ)紀に、和魂は玉身にしたがひ、荒魂は先鉾としてといふことあるを、此(ノ)二の石のことにいひかけたり、と云るは、ひがことなり、)○伊麻能遠都豆《イマノヲツツ》は、(豆(ノ)字を用たるは、正しからず、)今之現《イマノウツヽ》なり、遠都豆《ヲツツ》は、宇都都《ウツツ》といふに同じ、現々《ウツ/\》なり、)○多布刀伎呂可※[人偏+舞]《タフトキロカモ》は、貴き哉なり、呂《ロ》の助辭のことは、はやく一(ノ)卷に云り、可※[人偏+舞]《カモ》は歎息(ノ)辭なり、(※[人偏+舞](ノ)字を、モ〔右○〕の假字に用たる例、二(ノ)下に委(ク)云り、○歌(ノ)意は、かくれたるところなし、
 
814 阿米都知能《アメツチノ》。等母爾比佐斯久《トモニヒサシク》。伊比都夏等《イヒツゲト》。許能久斯美多麻《コノクシミタマ》。志可志家良斯母《シカシケラシモ》。
 
阿米都知能《アメツチノ》は、天地與《アメツチト》の意なり、能《ノ》は、等《ト》といふに通ひてきこゆる一(ノ)格なり、○志可志家良斯(49)母《シカシケラシモ》は、敷《シキ》賜ひけらしもの意なり、母《モ》は、歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、天地と共に長く久しく、世に語繼(グ)とて、此(ノ)奇異《クシビ》なる御玉を敷置し賜ひけらし、さても尊とや、有難や、となり、
 
右(ノ)事傳(ヘ)言(ハ)。那珂郡《ナカノコホリ》伊知(ノ)郷|蓑島《ミノシマノ》人。建部牛麻呂《タテベノウシマロ》是也。
 
那珂(ノ)郡は和名抄に、筑前(ノ)國|那珂《ナカノ》(東西)郡とあり、○伊知(ノ)郷は、未(ダ)詳ならず、國人に問(フ)べし、○蓑島(蓑(ノ)字、類聚抄には※[草がんむり/衣]と作り、)は、島(ノ)名なるべし、これも國人に問べし、○建部(ノ)牛麻呂は傳未(ダ)詳ならず、○是也、拾穗本には傳之と作り、○此は序に云る如く、石の所在《アリドコロ》、また長(サ)重(サ)、また古老(ノ)傳説などのことを、憶良へ傳(ヘ)言たる故に、かく記せるなり、
 
宴《ウタゲシテヨメル》2太宰帥大伴卿宅《オホミコトモチノカミオホトモノマヘツキミノイヘニ》1梅花歌三十二首并《ウメノハナノウタミソヂマリフタツマタ》序。
 
宴太宰帥大伴卿宅(ノ)八字、舊本にはなし。今は古寫小本、拾穗本等に從つ、
 
天平二年正月十三日《テムピヤウフタトセトイフトシムツキノトヲカマリミカノヒ》。萃《ツドヒテ》2于|帥老之宅《カミノオキナノイヘニ》1。申2宴會1也。于v時初春令月。氣淑風和。梅披2鏡前之粉(ヲ)1。蘭薫2珮後之香1。加以《シカノミニアラズ》曙嶺移v雲(ヲ)。松掛(テ)v羅(ヲ)而傾v蓋(ヲ)。夕岫結v霧(ヲ)。鳥封v※[穀の左の禾が米+炎](ニ)而迷v林(ニ)。庭(ニハ)舞(フ)新蝶(アリ)。空(ニハ)歸(ル)故鴈(アリ)。於是《コヽニ》盖《キヌカサニシ》v天(ヲ)坐《シキヰニシ》v地(ヲ)。促(シテ)v膝(ヲ)飛(シ)v觴(ヲ)。忘(レ)2言(ヲ)一室(ノ)之裏(ニ)1。開(キ)2衿(ヲ)煙霞之外(ニ)1。淡然(トシテ)自放(ニ)。快然(トシテ)自足(レリ)。若(シ)非(ハ)2翰苑(ニ)1。何以(カ)※[手偏+慮](ム)v情(ヲ)。請紀(ムト)2落梅之篇(ヲ)1。古今夫何異(ナラム)矣。宜(シ)d賦2園梅(ヲ)1聊(カ)成《ヨム》c短詠《ミジカウタヲ》u。
 
萃は、玉篇に、集也といへり、○帥老(帥、舊本師に誤、今は古寫本、古寫小本、拾穗本等に從つ、)は、旅(50)人(ノ)卿をさせり、○鏡前之粉は、宋書に武帝(ガ)女壽陽公主、臥2含章檐下(ニ)1、梅花落2公主(ノ)顔上(ニ)1、成2五出花(ヲ)1拂(トモ)之不v去、皇后留v之、自v是後有2梅花(ノ)※[爿+女]1、とあるによれるなるべし、○珮後之香は、楚詞に、紐(ニシ)2秋蘭(ヲ)1以爲v珮(ト)、とあるによれり、○松掛v蘿而傾v蓋(蘿而、舊本羅勿に誤、蘿は今改、而は古寫小本、拾穗本等に從つ、)は、隋(ノ)煬帝(ガ)老松(ノ)詩(ニ)、獨留2〓尾(ノ)影(ニ)1、猶横2偃蓋陰(ニ)1、とあるによれるなるべし、○岫は、和名抄に、陸詞(カ)云、岫(ハ)穴似v袖(ニ)、和名|久木《クキ》、とあり、○鳥封v〓而迷v林(ニ)、(ニ(ノ)字、舊本には對と作り、今は拾穗本に從つ、〓(ノ)字、舊本〓に誤、古寫本、古寫小本、活字本等には穀に誤れり、今は拾穗本に從つ、)玉篇に〓、細纏也、妙〓也、と見ゆ、こめおりのうすものなり、こゝは霧をたとへて云るなるべし、宋玉(ガ)神女(ノ)賦に、動2霧〓1以徐歩兮、拂v〓聲之珊々、とあるによれるならむ、といへり、今按に、〓は〓の誤にてもあるべきか、〓は、雀(ノ)子鷄(ノ)雛也、と字註にあり、鳥の雛をひきゐてゆくを、封《ハグクミ》v〓《ヒナヲ》といへるにはあらざるか、(夕岫結v霧(ヲ)といへるに、霧のことはいひをへたれば、さらに煩らしく、霧を〓にたとへていへりとせむも、いかゞなればなり、)猶考(フ)べし、○蓋v天坐v地(契冲云(ク)、坐恐(ハ)是座(ナラン)、)は、文選劉伶(ガ)酒徳(ノ)頌に、幕v天(ヲ)席v地(ヲ)、と見えたり、此によれるなるべし、○促膝は、梁(ノ)陸〓(ガ)詩に、促v膝豈異(ナラム)v人、とあるによれり、註に、促(ハ)近v膝坐也、とあり、○飛v觴は、西京(ノ)賦に、羽觴|行《メグリ》而舞v〓、とあるによれり、註に、羽觴作2生爵形1、とあり、○忘2言一室之裏1(忘(ノ)字、舊本忌に誤、今は古寫小本、拾穗本等に從つ、)は、莊子に、得v意(ヲ)而忘v言(ヲ)、蘭亭記に、悟2言(ヲ)一室之内(ニ)1、などもあり、此等をとり合せてかける(51)なり、こゝには打とけて物語などする事をいへり、○開衿は、心をひらく事なり、胸襟を開などいふに同じ、○翰苑(翰(ノ)字、舊本輸に誤、古寫小本には輪に誤れり、今は古寫本、拾穗本等に從つ、)は、筆をとりて、文や歌をかきしるす事をいふ、○請紀、(請(ノ)字、古寫本に詩と作るは誤なり、)契冲云、紀疑記(ナラム)、○落梅之篇は、古樂府に、念爾零落逐v風〓、徒有2霜華1無2霜實1、とあり、○此(ノ)序は、王羲之が蘭亭記をまねびて、憶良の作れるなるべし、
 
815 武都紀多知《ムツキタチ》。波流能書多良婆《ハルノキタラバ》。可久斯許曾《カクシコソ》。烏梅乎乎利都都《ウメヲヲリツツ》。多努之岐乎倍米《タヌシキヲヘメ》。 大貳紀卿《オホキスケキノマヘツキミ》。
 
武都紀多知《ムツキタチ》は、正月立《ムツキタチ》なり、武都紀《ムツキ》といふ言(ノ)義は、身月《ムツキ》なり、身《ミ》を牟《ム》と云は、(胸《ムネ》と云も身根《ムネ》なり、武藏《ムサシ》をも、古書どもには多く身刺《ムサシ》と書り、)屋の中に主《ムネ》とある處を、身屋《ムヤ》と云が如し、(これを後には訛りて、母屋《モヤ》とも云るに就て、表屋《オモヤ》の略語ぞと思ふは誤なり、古くは身屋《ムヤ》とのみ云り、)かくて正月は、十有二月《トヲアマリフタツキ》の中の本元《モトヰ》なれば、身月《ムツキ》とは云なり、人にとりて云(ハ)ば、身ありて後に、言も業もあるが如し、(草木の實《ミ》と云も同じこゝろなり、然るを古(ヘ)より、此(ノ)意を得たる人なくして、睦月《ムツキ》の意なりなど云るは、古義に疎《トホ》くして云にも足ず、又岡部氏が、本《モト》つ月の約言なりと云るも、あたらぬことなり、凡て月々の名どものこと、普來《ムカシヨリ》説々《コトドモ》あれど、多くは叶はぬことなり、)○可久斯許曾《カクシコソ》は、斯《シ》は、その一(ト)すじをおもく思はする助辭にて、如此《カク》こそなり、○多努之伎(52)乎倍米《タヌシキヲヘメ》は、樂竟《タヌシキヲヘ》めなり、竟《ヲフ》とは、極《キハ》め盡《ツク》す意の言なり、諸(ノ)祝詞に、稱辭竟奉《タヽヘコトヲヘマツル》とある竟《ヲヘ》に同じ、樂きことの至極《キハミ》を盡すなり、十九に、春裏之樂終者梅花手折毛致都追遊爾可有《ハルノウチノタヌシキヲヘバウメノハナタヲリモチツツアソブニアルベシ》、とあるも同じ意なり、又古今集大歌所(ノ)御歌に、新しき年の始にかくしこそ千年をかねて樂きをつめ、とあるも、つめは、へめを誤寫せるなるべし、と契冲云り、(今昔物語に、しかりとて遁れ竟《ヲハ》らじ、土のそこをほりてもさぐり出すべし、とあるも同じ、)○歌(ノ)意は、今よりゆくさき春の來たらば、いや年のはに、かやうにこそ、梅を手折挿頭て、一(ト)すぢに樂き遊を極め盡さめ、となり、○紀(ノ)卿は、傳未(タ)詳ならず、紀は氏、卿は敬ひて添たるなり、さて此(ノ)人太宰(ノ)大貳なりけむからは、四位なりしことしるし、すべて三位以上の人ならでは、卿《マヘツキミ》をそへて稱《イハ》ざりしことは、古(ヘ)よりしかりしなり、しかれども、其《ソ》は官廳などへ上《タテマツ》るときなどこそあれ、私家の歌集、或は記録の類には、所以ありて、其(ノ)人の徳を貴み、齒《ヨハヒ》を稱へなどして、位階にかゝはらず、四位五位の列の人をも、卿をもて稱へし例、委しく四(ノ)下に辨(ヘ)たり、披(キ)考(フ)べし、
 
816 烏梅能波奈《ウメノハナ》。伊麻佐家留期等《イマサケルゴト》。知利須義受《チリスギズ》。利我覇能曾能爾《ワガヘノソノニ》。阿利己世奴加毛《アリコセヌカモ》。 少貳小野大夫《スナキスケヲヌノマヘツキミ》。
 
伊麻佐家留期等《イマサケルゴト》は、今咲たる如く、いつまでもの意なり、○義、舊本蒙に誤、今は古寫本、官本等に從つ、○和我覇《ワガヘ》は、我家《ワガイヘ》なり、家をへ〔右○〕とのみ云る例は、既く云り、○阿利己世奴加毛《アリコセヌカモ》は己世《コセ》は、(53)希望(ノ)辭、己曾《コソ》の活轉《ウツロ》ひたるなり、奴《ヌ》も、ねがふ意の辭にて、禰《ネ》の活轉ひたるなり、猶委しき説は、二(ノ)上に云り、○歌(ノ)意は、梅花よ、今汝が咲たる如く、いつまでも過失ずして、吾(ガ)家の苑に、常にもがなあれかし、となり、○小野(ノ)大夫は、三(ノ)卷に、太宰少貳小野(ノ)老(ノ)朝臣とある人なり、
 
817 烏梅能波奈《ウメノハナ》。佐吉多流僧能能《サキタルソノノ》。阿遠也疑波《アヲヤギハ》。可豆良爾須倍久《カヅラニスベク》。奈利爾家良受夜《ナリニケラズヤ》。少貳粟田大夫《スナキスケアハタノマヘツキミ》。
 
歌(ノ)意は、梅花の咲たる苑の柳は、※[草冠/縵]に造べくもえにけらずやは、今は※[草冠/縵]に造るべくなりてあれば、人々と諸共に、折て※[草冠/縵]につくらむぞとなり、柳を※[草冠/縵]にするよしよめる歌、集中に多く見えたり、○粟田(ノ)大夫は、續紀に、和銅七年正月甲子、從六位下粟田(ノ)朝臣人上(ニ)授2從五位下(ヲ)1、神龜元年二月壬子、從五位上粟田(ノ)朝臣人上(ニ)、授2正五位下(ヲ)1、天平元年三月甲子、正五位上、四年十月丁亥、爲2造藥師寺大夫(ト)1、七年四月戊申、從四位下、十月六日戊戌、武藏(ノ)守從四位下粟田(ノ)朝臣人上卒、とある人なるべし、
 
818 波流佐禮婆《ハルサレバ》。麻豆佐久耶登能《マヅサクヤドノ》。烏梅能波奈《ウメノハナ》。比等利美都都夜《ヒトリミツツヤ》。波流比久良佐武《ハルヒクラサム》。 筑前守山上大夫《ツクシノミチノクチノカミヤマノヘノマヘツキミ》。
 
麻豆佐久《マヅサク》は、八(ノ)卷依v梅(ニ)發v思(ヲ)歌に、如今心乎常爾念有者先咲花乃地爾將落八方《イマノゴトコヽロヲツネニオモヘラバマヅサクハナノツチニオチメヤモ》、古今集に、春くれば屋戸に先(ヅ)咲梅(ノ)花、旋頭歌に、春されば野邊にまづ咲見れどあかぬ花などあり、○歌(ノ)意は、(54)春になれば、やがて四方のさかりをも待で、めづらしく、まづ先だちてさく、屋外の梅(ノ)花を、唯獨見つゝ永き春日を暮すべしやは、獨見むはあかぬ事なれば、思ふどち集ひて、今日の如く諸共に賞愛つゝ、日を暮さむぞとなり、○山上(ノ)大夫は、憶良なり、
 
819 余能奈可波《ヨノナカハ》。古飛斯宜志惠夜《コヒシゲシヱヤ》。加久之阿良婆《カクシアラバ》。烏梅能波奈爾母《ウメノハナニモ》。奈良麻之勿能※[死/心]《ナラマシモノヲ》。 豐後守大伴大夫《トヨクニノミチノシリノカミオホトモノマヘツキミ》。
 
古飛斯宜志惠夜《ユヒシゲシヱヤ》は、契冲、二説を出せる中に、こひしげし、と五字にて切て惠夜《ヱヤ》と訓べし、惠夜《ヱヤ》は、よしやなりと云り、此(ノ)説よろし、惠夜《ヱヤ》は、縱惠夜志《ヨシヱヤシ》、阿那爾惠夜《アナニヱヤ》などの惠夜《ヱヤ》にて、歎(ク)辭ながら、よしやといふにも通ひてきこゆる處多し、○歌(ノ)意は、世(ノ)間の戀の思(ヒ)繁し、よしやかやうに煩(ハ)しき物思をして、人とあらむよりは、梅(ノ)花にも成て、春來るごとに、咲《ヱミ》つゝあらまほしき物なるを、となり、○大伴(ノ)大夫(伴(ノ)字、舊本佯に誤、今は拾穗本に從つ、)は、契冲云、第四(ノ)卷に、大伴(ノ)宿禰三依悲別歌に、天地とともに久しく住はむとおもひてありし家の庭はも、とよめるは、大伴(ノ)卿歸洛の時の歌なれば、此(ノ)人なるべし、但し三依は、天平二十年に、正六位上より從五位下になれるよし見えたるに、當時《コノトキ》天平二年にて、五位にて豐後(ノ)守なりしとおぼゆれば、なほ別人なるべきか、
 
820 烏梅能波奈《ウメノハナ》。伊麻佐可利奈理《イマサカリナリ》。意母布度知《オモフドチ》。加射之爾斯弖奈《カザシニシテナ》。伊麻佐可利(55)奈埋《イマサカリナリ》。筑後守葛井大夫《ツクシノミチノシリノカミフヂヰノマヘツキミ》。
 
意母布度知《オモフドチ》は、此(ノ)集他所に、思共《オモフドチ》と多く書り、度知《ドチ》は、俗にどうしといふに同じ、十七に、春花乃佐家流左加里爾於毛敷度知多乎里加射佐受《ハルハナノサケルサカリニオモフドチタヲリカザサズ》、十九に、君之家爾殖有芽子之始花乎折而挿頭奈客別度知《キミガヘニウヱタルハギノハツハナヲヲリテカザサナタビワカルドチ》、神功皇后紀歌に、宇摩比等破于摩臂苔奴知《ウマヒトハウマヒトドチ》、野伊徒姑幡茂伊徒姑奴池《ヤイツコハヤイツコドチ》、土佐日記(ノ)歌に、見わたせば松の末毎に棲鶴《スムツル》は千世の度知《ドチ》とぞ思ふべらなる、又立ば立(チ)居(レ)は又居る吹風と浪とは思ふ度知《ドチ》にや有らむ、などあり、○伊麻佐可利奈理《イマサカリナリ》、と反覆《カヘサ》ひいへるは、その深切《ネモコロ》なる心をあらはさむとてなり、○歌(ノ)意は、かくれたるところなし、○葛井(ノ)大夫は、大成なり、四(ノ)卷に見ゆ、
 
821 阿乎夜奈義《アヲヤナギ》。烏梅等能波奈乎《ウメトノハナヲ》。遠理可射之《ヲリカサシ》。能彌弖能能知波《ノミテテノノチハ》。知利奴得母與斯《チリヌトモヨシ》。某官〔二字各○で囲む〕笠《カサ》氏〔○で囲む〕沙彌《サミ》。
 
烏梅等能波奈乎《ウメトノハナヲ》は、梅(ノ)花とをと云ふが如し、○歌(ノ)意は、青柳と梅花とを折て挿頭し興じて、かかる酒宴に飲て醉たらむ後は、よしや花は散失ぬとも、不足《アカヌ》事はあらじ、となり、(續後紀に、承和十一年十二月戊寅朔、天皇御2紫宸殿(ニ)1賜2侍臣(ニ)酒(ヲ)1、於是攀2殿前之梅花(ヲ)1、挿2皇太子及侍臣等頭1、以爲2宴樂(ヲ)1、)○氏名の上に、某官と云字のありしが脱しなるべし、○笠(ノ)沙彌は、傳未(ダ)考へず、沙彌は俗人の名なるべし、
 
(56)822 和何則能爾《ワガソノニ》。宇米能波奈知流《ウメノハナチル》。比佐可多能《ヒサカタノ》。阿米欲里由吉能《アメヨリユキノ》。那何列久流加母《ナガレクルカモ》。 主人《アルジ》。
 
那何列久流加母《ナガレクルカモ》は、降《フ》り來るかもと云むが如し、○歌(ノ)意は、吾(ガ)苑に梅(ノ)花が、ちら/\と散(ル)よ、いなさはなくて、空より雪の降來るにてあるか、さても見ごとや、となり、○主人は、旅人(ノ)卿なり、
 
823 烏梅能波奈《ウメノハナ》。知良久波伊豆久《チラクハイヅク》。志可須我爾《シカスガニ》。許能紀能夜麻爾《コノキノヤマニ》。由企波布理都都《ユキハフリツツ》。 大監大伴氏百代《オホキマツリゴトヒトオホトモウヂモモヨ》。
 
許能紀能夜麻《コノキノヤマ》は、此之城山《コノキノヤマ》なり、城(ノ)山は、四(ノ)卷に、從今者城山道者不樂牟《イマヨリハキノヤマミチハサブシケム》、とあると同じ山なり、彼處に具(ク)註り、○歌(ノ)意は、梅(ノ)花の盛過て散(ル)事は何處にあるぞ、未(ダ)散花はいづくにも有まじ、梅(ノ)花の咲たるながらに、此(ノ)城(ノ)山に雪は降つゝ、猶甚寒ければ未(ダ)散時には至らじ、心しづかに賞愛しつゝ、遊宴せむぞとなり、古今集に、春霞立るやいづこ三吉野の吉野の山に雪はふりつつ、とある歌に似たり、○大伴氏百代(大(ノ)字、古寫本、拾穗本、活字本等にはなし、)は、三(ノ)卷に見えたり、
 
824 烏梅乃波奈《ウメノハナ》。知良麻久怨之美《チラマクヲシミ》。和我曾乃乃《ワガソノノ》。多氣乃波也之爾《タケノハヤシニ》。于具比須奈久母《ウグヒスナクモ》。 少監《スナキマツリゴトヒト》阿氏|奥島《オキシマ》。
 
我(ノ)字、舊本家と作るは誤なり、(此(ノ)下に二處、和家夜度能、十四に、麻萬能手兒奈家、又和家於毛波(57)奈久爾、又和家世、又多家波自、又兒呂家可奈門欲、これら舊本に家とあるは、皆我の誤なり、)今は古寫一本に從つ、○于(ノ)字、拾穗本には宇と作り、○歌(ノ)意は、梅(ノ)花の散む事の惜さに、吾(ガ)苑の竹(ノ)林に鶯の鳴よ、さても惜氣なる聲や、となり、○阿氏奥島(阿(ノ)字、古寫本に、何と作るは誤か、)は、傳未(ダ)考得ず、阿部氏にや、
 
825 烏梅能波奈《ウメノハナ》。佐岐多流曾能能《サキタルソノノ》。阿乎夜疑遠《アヲヤギヲ》。加豆良爾志都都《カヅラニシツツ》。阿素※[田+比]久良佐奈《アソビクラサナ》。 少監《スナキマツリゴトヒト》土氏|百村《モヽムラ》。
 
歌(ノ)意かくれたるところなし、○土氏百村(土(ノ)字、舊本士に誤、活字本には古氏と作り、)は、土師氏なるべし、(古と作るに依ば古市氏か、古志氏かにてもあるべし、)百村は、傳未(ダ)考得ず、官本、活字本等には、古村と作り、
 
826 有知奈※[田+比]久《ウチナビク》。波流能也奈宜等《ハルノヤナギト》。和我夜度能《ワガヤドノ》。烏梅能波奈等遠《ウメノハナトヲ》。伊可爾可和可武《イカニカワカム》。大典《オホキフミヒト》史氏|大原《オホハラ》。
 
我(ノ)字、舊本に家と作るは誤なり、今は古寫本、古寫一本、異本等に從つ、○歌(ノ)意は、春(ノ)柳と梅(ノ)花と、いづれまさるといふことを、いかでか別たむ、いづれおとらずおもしろし、となり、○史氏大原(原(ノ)字、拾穗本又異本には魚、官本には奥と作り、)は、傳未(ダ)詳ならず、史部氏なるべし、
 
827 波流佐禮婆《ハルサレバ》。許奴禮我久利弖《コヌレガクリテ》。宇具比須曾《ウグヒスゾ》。奈岐弖伊奴奈流《ナキテイヌナル》。烏梅我志豆(58)延爾《ウメガシヅヱニ》。 少典《スナキフミヒト》山氏|若麻呂《ワカマロ》。
 
許奴禮我久利弖《コヌレガクリテ》(利(ノ)字、拾穗本には〓と作り、)は、木末隱而《コヌレガクリテ》なり、今按(フ)に、中山(ノ)嚴水(ガ)説に、弖は之(ノ)字の寫誤なるべし、草書似たり、冬の程は木にかくれて見えざりし、と云なりといへり、さも有べし、さて許奴禮《コヌレ》は、木之末《コノウレ》の約りたるにて、木の末をいふが本なれど、此《コヽ》はたゞ木の事に云るにて、木隱《コガクリ》しといふことなるべし、○奈岐弖伊奴奈流《ナキテイヌナル》は、鳴て寐《イヌ》なるなるべし、晝の間は鳴(キ)囀りて、夜は宿りて寢《イヌ》なる、といふなるべし、常に馴て、晝夜梅(ノ)木を離れぬをいふなるべし、(略解に、奈岐弖伊奴奈流《ナキテイヌナル》は、鳴て往なるなり、許奴禮《コヌレ》は他の木の梢にて、梅の下枝《シヅエ》に居たる鷺の、他の梢へかくれて往るを云なり、と云れど、聞え難し、いかにとなれば、他の梢へ往よしならば、梅が下枚をとこそいふべきに、志豆延爾《シヅエニ》とあるからは、其(ノ)意に非ず、)○志豆延《シヅエ》は、下枝《シヅエ》なり、言(ノ)意は、沈枝《シヅエ》なり、○歌(ノ)意は、冬の間は、木隱れて見えざりし鶯ぞ、春になれば、梅の枝に晝の間は鳴囀(リ)て、夜はその下枝に宿《ヤド》しめて、常に梅(ノ)木を離れず、晝夜なれ親びて居る、となり、二三一五四、と句を次第て意得べし、○山氏若麻呂は、山口(ノ)忌寸若麻呂なり、四(ノ)卷に見えたり、
 
828 比等期等爾《ヒトゴトニ》。乎理加射之都都《ヲリカザシツツ》。阿蘇倍等母《アソベドモ》。伊夜米豆良之岐《イヤメヅラシキ》。烏梅能波奈加母《ウメノハナカモ》。 大判事《オホキコトコトワルツカサ》舟氏|麻呂《マロ》。
 
岐(ノ)字、舊本波に誤、古寫小本、古寫一本等に從つ、○歌(ノ)意かくれたるところなし、○大判事は、オ(59)ホキコトコトワルツカサ〔オホ〜右○〕と訓べし、持統天皇(ノ)紀に、判事《コトコトワル司人》とあり、令(ノ)義解、大宰府職員令に、大判事一人、掌d案2覆犯状(ヲ)1、(謂案2覆管國所v申犯状(ヲ)1也、)斷2定刑名1判(ルコトヲ)c諸爭訟u、少判事一人、掌同2大判事1、とあり、○舟氏麻呂は、傳未(ダ)詳ならず、船子氏か、又は船氏か、舟(ノ)字、一本丹と作るに從ば、丹治比氏か、
 
829 烏梅能波奈《ウメノハナ》。佐企弖知理奈婆《サキテチリナバ》。佐久良婆那《サクラバナ》。都伎弖佐久倍久《ツギテサクベク》。奈利爾弖阿良受也《ナリニテアラズヤ》。 藥師《クスリシ》張氏|福子《サキコ》。
 
佐久良の佐(ノ)字、舊本に脱たり、古寫本、古寫一本、官本、拾穗本等に從つ、○歌(ノ)意かくれたるところなし、○藥師は、クスリシ〔四字右○〕と訓べし、拾穗本には醫師と作り、和名抄職名(ノ)條に、諸國醫師云々、俗云、醫(ハ)久須之《クスシ》、工商類(ノ)條に、説文(ニ)云、醫(ハ)治v病(ヲ)工也、和名|久須之《クスシ》、などあれど、久須理師《クスリシ》といふぞ古(キ)稱なる、佛足石碑(ノ)歌に、藥師佛のことを、久須理師波郡禰乃母阿禮等《クスリシハツネノモアレド》云々とある、これによるベし、職員令に、醫師二人、掌2診候(シ)療(コトヲ)1v病(ヲ)、と見えたり、○張氏福子は、傳未(ダ)詳ならず、尾張氏にや、
 
830 萬世爾《ヨロヅヨニ》。得之波岐布得母《トシハキフトモ》。烏梅能波奈《ウメノハナ》。多由流己等奈久《タユルコトナク》。佐吉君多流倍子《サキワタルベシ》。 筑前介《ツクシノミチノクチノスケ》佐氏|子首《コビト》。
 
得之波岐布得母《トシハキフトモ》は、年は雖《トモ》2來經《キフ》1なり、○波奈の波(ノ)字、舊本に婆とあるはわろし、一本に從つ、○歌(ノ)意は、たとひ萬代の久しき年を來り經るとも、梅(ノ)花絶る事なくして、今日の如く、毎年々々、(60)咲て經渡るべし、となり、○筑前介は、ツクシノミチノクチノスケ〔ツク〜右○〕と訓べし、和名抄に、次官、本朝職員令二方品員等所v載云々、國(ニ)曰v介(ト)云々、已上皆|須介《スケ》、とあり、○佐氏子首(佐(ノ)字、古寫本に无は、脱たるならむ、)は、傳未(ダ)詳ならず、佐伯氏なるべし、
 
831 波流奈例婆《ハルナレバ》。字倍母佐枳多流《ウベモサキタル》。烏梅能波奈《ウメノハナ》。岐美乎於母布得《キミヲオモフト》。用伊母禰奈久爾《ヨイモネナクニ》。 壹岐守《ユキノカミ》板氏|安麻呂《ヤスマロ》。
 
岐美乎於母布得《キミヲオモフト》は、岐美《キミ》とは、梅をさして云るなり、と契冲が云るぞよき、○歌(ノ)意は、春になれば、うべも理の如く、咲匂ひたる梅(ノ)花よ、汝がかく咲たるは、こよなくめでたけれども、雨風に、あたら盛の散過むか、と心をなやましつゝ、汝を思ふとて、夜も寐《イネ》ずして、中々にのどけき心も、あらぬことなるを、となり、世(ノ)中に絶て櫻のなかりせば、とよめる意なり、(契冲が、春になれば、ことはりにもさけるかな、君を待おもふと待わびて、夜もいねざりしかども、時ならぬほどは、さかざりしをと云るなり、と云るはいかゞ、)○板氏安麻鑪(板字、拾穗本に榎と作るは、誤なるべし、)は、板持(ノ)連安麻呂なるべし、續紀に、天平七年九月庚辰、先v是美作(ノ)守從五位下阿倍(ノ)朝臣帶麻呂等、故2殺四人(ヲ)1、其族人詣v官(ニ)申訴而云々、從六位下板茂(ノ)連安麻呂云々等六人、坐v理2訴人事(ヲ)1、於是下2所司1科斷、承伏既訖、有v詔並宥之、とあり、
 
832 烏梅能波奈《ウメノハナ》。乎利弖加射世留《ヲリテカザセル》。母呂比得波《モロヒトハ》。家布能阿比太波《ケフノアヒダハ》。多努斯久阿(61)流倍斯《タヌシクアルベシ》。神司《カムツカサ》荒氏|稻布《イナフ》。
 
母呂比得《モロヒト》、十八にも、毛呂比登《モロヒト》とあり、比《ヒ》の音清て唱(フ)べし、○歌(ノ)意かくれたるところなし、○神司は、カムツカサ〔五字右○〕と訓べし、職員令に、主神《カムツカサ》一人、掌2諸(ノ)祭祠(ノ)事(ヲ)1、(太宰府、)和名抄司(ノ)條に、職員令(ニ)云、主神司、以豆岐乃美夜乃加美官《イツキノミヤノカミツカサ》、とあり、○荒氏稻布(布(ノ)字、古寫一本には本と作り、)は、傳未(タ)詳ならず、荒氏なるべし、
 
833 得志能波爾《トシノハニ》。波流能伎多良婆《ハルノキタラバ》。可久斯己曾《カクシコソ》。烏梅乎加射之弖《ウメヲカザシテ》。多努志久能麻米《タヌシクノマメ》。 大令史《オホキフミヒト》野氏|宿奈麻呂《スクナマロ》。
 
得志能波《トシノハ》は、十九家持(ノ)卿歌自註に、毎年謂2之等之乃波《トシノハト》1、とあり、集中に多き詞なり、○歌(ノ)意は、年毎に春の來らば、如v此こそ梅を挿頭に挿て、一(ト)すぢに樂しく酒を飲て遊ばめ、となり、○大令史は、オホキフミヒト〔七字右○〕と訓べし、太宰府職員令に、大令史一人、掌v抄2寫判文1、小令史一人、掌同2大令史(ニ)1、とあり、○野氏宿奈麻呂は、傳未(ダ)詳ならず、小野氏か、野上氏かなるべし、
 
834 烏梅能波奈《ウメノハナ》。伊麻佐加利奈利《イマサカリナリ》。毛毛等利能《モモトリノ》。己惠能古保志枳《コヱノコホシキ》。波流岐多流良斯《ハルキタルラシ》。 少令史《スナキフミヒト》田氏|肥人《ウマヒト》。
 
毛々等利能《モヽトリノ》は、百鳥之《モヽトリノ》なり、古今集に、百ち鳥囀る春はとある、百ち鳥も同じ、○己惠能古保志枳《コヱノコホシキ》は、聲の戀しきなり、戀《コヒ》しきといふべきを、古言に古保志枳《コホシキ》といへること、既く三(ノ)卷に具(ク)云(62)るが如し、こゝは百島の聲の愛《メヅ》らしき謂なり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、○少令史は、スナキフミヒト〔七字右○〕と訓べし、○田氏肥人は、傳未(ダ)詳ならず、田口氏か田部氏かなるべし、肥人は、契冲云(ク)、まひとゝ訓べし、第十一歌に、肥人とかきて、うまひとゝよめり、と云り、
 
835 波流佐良婆《ハルサラバ》。阿波武等母比之《アハムトモヒシ》。烏梅能波奈《ウメノハナ》。家布能阿素※[田+比]爾《ケフノアソビニ》。阿比美都流可母《アヒミツルカモ》。 藥師《クスリシ》高氏義通。
 
阿波武等母比之《アハムトモヒシ》は、逢むと思ひしなり、思《オモフ》を母布《モフ》といへること、此(ノ)集殊に多し、既く一(ノ)卷に具(ク)云たりき、○歌(ノ)意は、春にならば、相見む相見むと待戀し梅(ノ)花を、今日の宴遊に相見て、甚も樂しく思はるゝ哉、となり、○藥(ノ)字、拾穗本には醫と作り、○高氏義通は、傳未(ダ)詳ならず、高橋氏にや、
 
836 烏梅能波奈《ウメノハナ》。多乎利加射志弖《タヲリカザシテ》。阿蘇倍等母《アソベドモ》。阿岐太良奴比波《アキダラヌヒハ》。家布爾志阿利家利《ケフニシアリケリ》。陰陽師《ウラノシ》磯氏|法麻呂《ノリマロ》。
 
爾志《ニシ》は、さだかにしかる意の時にいふ辭なり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、○陰陽師は、ウラノシ〔四字右○〕と訓べし、太宰府職員令に、陰陽師一人、掌(ル)2占筮(シ)相《ミルコトヲ》1v地(ヲ)、とあり、○磯氏|法麻呂《ノリマロ》は、傳未(ダ)詳ならず、磯部氏にや、
 
837 波流能努爾《ハルノヌニ》。奈久夜※[さんずい+于]隅比須《ナクヤウグヒス》。奈都気牟得《ナツケムト》。和何弊能曾能爾《ワガヘノソノニ》。※[さんずい+于]米何波奈(63)佐久《ウメノハナサク》。 ※[竹/下]師《カゾヘノシ》志氏|大道《オホミチ》。
 
奈久夜《ナクヤ》は、鳴余《ナクヨ》と云むが如し、古今集に、霍公鳥鳴や五月の菖蒲草、とあるに同じ、○歌(ノ)意かくれなし、○※[竹/下]師(※[竹/下](ノ)字、舊本竿に誤、拾穗本には※[竹/弄]と作り、)太宰府職員令に、※[竹/弄]師一人、掌v勘2計物數(ヲ)1、とあり、○志氏大道は、傳未(ダ)詳ならず、志斐氏か志紀氏かなるべし、
 
838 烏梅能波奈《ウメノハナ》。知利麻我比多流《チリマガヒタル》。乎加肥爾波《ヲカビニハ》。宇具比須奈久母《ウグヒスナクモ》。波流加多麻気弖《ハルカタマケテ》。大隅目《オホスミノフミヒト》榎氏|鉢麻呂《モヒマロ》
 
知利麻我比多流《チリマガヒタル》は、散亂有《チリマガヒタル》なり、○乎加肥爾波《ヲカビニハ》は、岡傍《ヲカビ》にはなり、岡邊といふに同じ、傍をビ〔右○〕といふは、畝傍《ウネビ》など是なり、傍《ビ》は、常に縁《ハタ》といふほどのことなり、十七に、乎加備《ヲカビ》とあり、又此(ノ)下又六(ノ)卷に、濱傍《ハマビ》、十卷、十七に、夜麻備《ヤマビ》、十五に二所、文中七に、波麻傍《ハマビ》、廿(ノ)卷に、可波備《カハビ》などある備《ビ》皆同じ、爾波《ニハ》は、他所に對へて云詞なり、他所はしからじといふ意にて、云るなり、○波流加多麻氣弖《ハルカタマケテ》は、春片設而《ハルカタマケテ》なり、片《カタ》は、片就《カタヅク》、片倚《カタヨル》の片《カタ》にて、春に片倚設ての意なり、(略解に、かたまけは、方向なりと云るは、いさゝかたがへり、)○歌(ノ)意は今は春の節を、片倚まうけたるしるしに、梅(ノ)花の散亂ひたる岡邊には、鶯の鳴よ、さてもなつかしや、となり、○目は、フミヒト〔四字右○〕と訓べし、和名抄に、佐官、本朝職員令、二方品員等所v載云々、國(ニ)曰v目(ト)云々、皆|佐客《サクワム》、とあり、(佐官といふは、後の唱(ヘ)なり、既く云たるが如し、)○榎氏鉢麻呂は、傳未(ダ)詳ならず、榎本氏か榎室氏かなるべし、
 
(64)839 波流能能爾《ハルノノニ》。紀利多知和多利《キリタチワタリ》。布流由岐得《フルユキト》。比等能美流麻提《ヒトノミルマデ》。烏梅能波奈知流《ウメノハナチル》。 筑前目《ツクシノミチノクチノフミヒト》田氏|眞人《マヒト》。
 
紀利の利(ノ)字、拾穗本には理と作り、○歌(ノ)意かくれたるところなし、○筑(ノ)字、舊本〓に誤、今は拾穗本に從つ、○田氏眞人は、傳未(ダ)詳ならず、眞人は人(ノ)名なり、人(ノ)字、古寫本、古寫一本、拾穗本等には、上と作り、此に依て思ふに、續紀に、天平十四年庚申、外從五位下田中(ノ)朝臣三上爲2肥後(ノ)守(ト)1、とあり、この三上を、眞上とも云るにて、此(ノ)人なるべきか、
 
840 波流楊奈宜《ハルヤナギ》。可豆良爾乎利志《カヅラニヲリシ》。烏梅能波奈《ウメノハナ》。多禮可有可倍志《タレカウカベシ》。佐加豆岐能倍爾《サカヅキノヘニ》。 壹岐目《ユキノフミヒト》村氏|彼方《ヲチカタ》。
 
波流楊奈宜《ハルヤナギ》(奈の下、舊本に、那(ノ)字あるは衍なり、今は古寫小本、拾穗本等に從つ、異本には、楊那宜と作り、)は、可豆良《カヅラ》をいはむ料の枕詞なり、○多禮可有可倍志《タレカウカベシ》(有の下可(ノ)字、舊本には脱たり、今は古寫本、古寫一本、官本拾穗本活字本等に從つ、)は、誰か浮《ウカベ》しなり、八(ノ)卷に、酒杯爾梅花浮念共飲而後者落去登母與之《サカヅキニウメノハナウカベオモフドチノミテノチニハチリヌトモヨシ》、此(ノ)下後追和梅歌の中にも、佐氣爾于可倍許曾《サケニウカベコソ》とあり、○佐加豆岐能倍爾《サカヅキノヘニ》は、酒盃《サカヅキ》の上《ウヘ》になり、○歌(ノ)意は、※[草冠/縵]の爲に、折て來し梅(ノ)花を、誰か酒盃の上に浮べしぞ、と興じて怨るやうに云るなり、○村氏彼方(彼(ノ)字、活字本には波と作り、)は、傳未(ダ)詳ならず、村國氏か、村山氏か、彼方は、ヲチカタ〔四字右○〕と訓べし、(新猿樂記に、越方《ヲチカタノ》邊津五郎、)
 
(65)841 于遇比須能《ウグヒスノ》。於登企久奈倍爾《オトキクナベニ》。烏梅能波奈《ウメノハナ》。和企弊能曾能爾《ワギヘノソノニ》。佐伎弖知留美由《サキテシルミユ》。 對馬目《ツシマノフミヒト》高氏|老《オユ》。
 
於登企久奈倍爾《オトキクナベニ》は、聲聞並《オトキクナベ》になり、鳥獣の聲を、於登《オト》と云ること、十七に、奴婆多麻能都奇爾牟加比底保登等藝須奈久於登波流氣之佐刀騰保美可聞《ヌバタマノツキニムカヒテホトトギスナクオトハルケシサトドホミカモ》、古今集秋(ノ)上に、秋芽子をしがらみ伏(セ)て鳴鹿の目には見えねど於登《オト》の亮《サヤケ》さ、源氏物語初音に、年月を松に引れてふる人に今日鶯の初音聞せよ、おとせぬ里のと聞え給へるを云々、とある註に、今日だにも初音聞せよ鶯のおとせぬ里は住かひもなし、といふ歌を引たり、○和金弊《ワギヘ》は、吾家《ワガイヘ》なり、我伊《ガイ》の切|宜《ギ》となれり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、○高氏老は、傳未(ダ)詳ならず、
 
842 和我夜度能《ワガヤドノ》。烏梅能之豆延爾《ウメノシヅエニ》。阿蘇※[田+比]都都《アソビツツ》。宇具比須奈久毛《ウグヒスナクモ》。知良麻久乎之美《チラマクヲシミ》。 薩摩目《サツマノフミヒト》高氏|海人《アマ》
 
我(ノ)字、舊本に家と作るは誤なり、今は古寫一本又異本等に從つ、○阿蘇※[田+比]都都《アソビツツ》は、續後紀十九、興福寺(ノ)僧等(ガ)長歌に、鶯波妓爾遊天飛舞弖囀歌比《ウグヒスハエダニアソビテトビマヒテサヘヅリウタヒ》、とあるに同じ、○歌意かくれなし、○高氏海人は、未(ダ)詳ならず、海人は、アマと訓べし、
 
843 宇梅能波奈《ウメノハナ》。乎理加射之都都《ヲリカザシツツ》。毛呂比登能《モロヒトノ》。阿蘇夫遠美禮婆《アソブヲミレバ》。彌夜古之叙毛布《ミヤコシゾモフ》。 土師《ハニシ》氏|御通《ミミチ》。
 
(66)彌夜古之叙毛布《ミヤコシゾモフ》は、都をぞ思ふなり、之《シ》は、その都を慕ふ事の、一すぢなるをいふ助辭なり、○歌(ノ)意これもかくれなし、○土師氏御通(活字本に、大道と作るは誤なり、)は、四(ノ)卷、十六(ノ)卷に、水通とある人なり、
 
844 伊母我陛邇《イモガヘニ》。由岐可母不流登《ユキカモフルト》。彌流麻提爾《ミルマデニ》。許許陀母麻我不《ココダモマガフ》。烏梅能波奈可毛《ウメノハナカモ》。 小野《ヲヌ》氏|國堅《クニカタ》。
 
伊母我陛《イモガヘ》は、妹之家《イモガヘ》なり、家《イヘ》を陛《ヘ》といふは、和我陛《ワガヘ》の例に同じ、○許々陀母麻可不《コヽダモマガフ》は、幾許《コヽダ》も混《マガフ》なり、許々陀《コヽダ》は、そこぱくと云むが如し、六(ノ)卷に、三吉野乃象山際乃木未爾波幾許毛散和久鳥之聲可聞《ミヨシヌノキサヤマノマノコヌレニハコヽダモサワクトリノコヱカモ》、とあるに同じ、○歌(ノ)意これもかくれなし、○小野氏國堅は、傳未(ダ)詳ならず、
 
845 宇具比須能《ウグヒスノ》。麻知迦弖爾勢斯《マチガテニセシ》。宇米我波奈《ウメガハナ》。知良須阿利許曾《チラズアリコソ》。意母布故我多米《オモフコガタメ》。 筑前椽《ツクシノミチノクチノマツリゴトヒト》門氏|石足《イソタリ》。
 
麻知迦弖爾勢斯《マチカテニセシ》は、待難《マチカテ》に爲《セ》しなり、待に堪かねたりし謂なり、○知良須阿利許曾《チラズアリコソ》は、散ずしてあれかしの意なり、許曾《コソ》は希望(ノ)辭なり、既く云り、○意母布故《オモフコ》は、朋友の中に、さす人ありてよめるなるべし、故ありて、今日の宴會に漏たりし人なるべし、六(ノ)卷家持(ノ)卿(ノ)歌に、久堅乃雨者零敷念子之屋戸爾今夜者明而將去《ヒサカタノアメハフリシケオモフコガヤドニコヨヒハアカシテユカム》、とよまれしは、藤原(ノ)八束(ノ)朝臣(ノ)家にて、宴する日の事にて、念子《オモフコ》は、即(チ)八束(ノ)朝臣をさしたるなり、(こゝも女をさせるにてはあらじ、)○歌意は、早もさけか(67)しと鶯の待戀て、待に堪かねたりし、その梅(ノ)花の、今日の盛の猶過ずて、思ふ人の來らむ日まで、いかでちらずしてあれかし、となり、○門氏石足は、四(ノ)卷に、筑前(ノ)掾門部(ノ)連石足とあり、
 
846 可須美多都《カスミタツ》。那我岐波流卑乎《ナガキハルヒヲ》。可謝勢例杼《カザセレド》。伊野那都可子岐《イヤナツカシキ》。烏梅能波奈可毛《ウメノハナカモ》。 小野氏《ヲヌウジ》淡理。
 
那我岐波流卑乎《ナガキハルヒヲ》(我の下、舊本比(ノ)字あるは衍なり、拾穗本になきぞよき、又活字本に、比(ノ)字ありて岐(ノ)字なきは、わろし、)は、一(ノ)卷にも、霞立長春日乃《カスミタツナガキハルヒノ》云々、とよめり、○歌(ノ)意は、永き春日を、終日挿頭て遊びたれば、飽足べきに猶あかずして、いよ/\なつかしくおもはるゝ梅(ノ)花哉、となり、小野氏淡理は、傳未(タ)詳ならず、
 
 
員外《カズヨリホカ》思《シヌフ》2故郷《クニ》1歌雨首《ウタフタツ》。
 
員外は、(カズヨリホカ〔六字右○〕と訓べし、物は異れども、源氏物語赤石に、程もなく本の御位あらたまりて、かずよりほかの權大納言になり給ふ、とあるに言は同じ、)右の三十二首の、員數の外の歌なる故、前をうけて云り、憶良の作なり、○思故郷は、久しく筑紫に在て、京を戀しく思(ヒ)てよまれけるなり、
 
847 和我佐可理《ワガサカリ》。伊多久久多知奴《イタククダチヌ》。久毛爾得夫《クモニトブ》。久須利波武等母《クスリハムトモ》。麻多遠知米也母《マタヲチメヤモ》。
 
(68)伊多久久多知奴《イタククダチヌ》は、(久多知、と多(ノ)字を書るは正しからず、濁りて唱(フ)べし、)甚降《イタククダチ》ぬなり、降は、齡のかたぶき衰ふるをいふ、古今集に、篠の葉に降積雪の未《ウレ》を重み本|降《クダ》ち行吾(ガ)盛はも、とあるに同じ、十九に、夜具多知《ヨグタチ》とも、夜降《ヨグタヂ》ともあり、(これは夜久太知《ヨクタチ》といふべきを、清濁を、下上に轉換《オキカヘ》たるなり、)○久毛爾得夫久須利《クモニトブクスリ》は、いはゆる仙藥なり、列仙全傳二に、劉安(ハ)、鷹帝孫(ナリ)、封2淮南王(ニ)1、好2儒術方技(ヲ)1、有2八公1往(テ)詣v之(ニ)、遂(ニ)授2丹經及三十六(ノ)水銀等(ノ)方(ヲ)1、云々、八公告v安(ニ)曰、可2以去1矣、於是與v安登v山(ニ)大祭(シテ)埋(テ)2金(ヲ)於地(ニ)1、白日昇v天(ニ)焉、所2棄置1藥鼎、鶏犬舐(レハ)v之(ヲ)並得2輕擧(ルコトヲ)1、鷄鳴2雲中(ニ)1、犬吠2天上(ニ)1、この事なり、古今集忠岑長歌に、これをおもへばけだ物の雲にほえけむこゝちしてひとつ心ぞほこらしき、とよめるもこれなり、羽化の仙人なれば、これならでもいふべし、又靈異記に、大和(ノ)國宇太(ノ)郡漆部(ノ)里、漆部(ノ)造麻呂之妾、春野(ニ)採v菜(ヲ)、食2於仙草(ヲ)1而飛2於天1、と云こと見えたり、○麻多遠知米也母《マタヲチメヤモ》は、本居氏、遠知《ヲチ》は何事にても、又もとへかへる意にて、此(ノ)歌なるは、身の又わかゝりしむかしにかへるを云るなり、十七(ノ)卷家持(ノ)主の鷹の長歌に、手ばなれも乎知《ヲチ》もかやすき云々、こは鷹をほめたるにて、この乎知《ヲチ》は、本の手へかへりくるを云るなり、廿(ノ)卷に、わが屋戸に咲るなでしこまひはせむゆめ花ちるないや乎知《ヲチ》にさけ、是も又はじめへかへり/\して、いよいよ久しく咲けと云るなり、又つねに、郭公の歌にをちかへり鳴(ク)とよむも、本のところへ、又かへり來てなくをいふなり、此(ノ)詞の意、右の歌共を引合せて、たがひにあひてらしてしるべ(69)しと云り、猶既く三(ノ)中に、委(ク)註り、○歌(ノ)意はわが齡のさかりくだちて、いたくおとろへたり、今はたとひ、かの淮南王の仙藥を服《ハム》とも、又|弱《ワカ》く壯《サカリ》なりし昔(シ)に、わかがへることのあらむやは、さてもくちをしきことぞとなり、
 
848 久毛爾得夫《クモニトブ》。久須利波牟用波《クスリハムヨハ》。美也古彌婆《ミヤコミバ》。伊夜之吉阿何微《イヤシキアガミ》。麻多越知奴倍之《マタヲチヌベシ》。
 
久須利波牟用波《クスリハムヨハ》は、藥を服《ハ》む從《ヨリ》はなり、○伊夜之吉阿何微《イヤシキアガミ》、これを古來|卑賤吾身《イヤシキアガミ》てふことに、心得たれども非《シカラ》ず、(こゝは吾(ガ)身を卑下《クダリ》ていふべき所にもあらねばなり、中昔に、假字《カナ》は訓做《ヨミナシ》といふことあり、かゝる類なるべし、古今著聞集に、坊門院に、年比めしつかふ蒔繪師のありけるに、いそぎ參れ、と仰せ遣(ハ)されたりける返書に、御物《ゴモチ》を蒔かけて候へば、蒔はて候て參り候ふべし、といふことを、あさましき大假字に書て進らせければ、子持《コモチ》を娶《マキ》かけて候へば、娶《マキ》はて候(ヒ)て參り候べし、とあしざまに讀れて、いたく不敬《ナメゲ》なるよしさたせられけるに、やがて蒔繪師參出て、事の由を具(サ)にことわりければ、假字はよみなしと云事、誠にをかしき事なりとて、わらはれけるよし見えたり、今もその類なり、)今按(フ)に、伊夜之吉《イヤシキ》は、彌重《イヤシキ》なるべし、さらば吾(ガ)身|彌重々《イヤシキ/\》に、又|變若《ヲチ》ぬべしといふ意なり、彌重乎知《イヤシキヲチ》と連ね云るは、彌乎知《イヤヲチ》といふに同じ、(彌乎知《イヤヲチ》とよめるは、廿(ノ)卷に例あり、)伊夜之吉《イヤシキ》といふ言は、四(ノ)卷に、春之雨者彌布落爾《ハルノアメハイヤシキフルニ》、十八に、都禰(70)比登能伊布奈宜吉思毛伊夜之伎麻須毛《ツネヒトノイフナゲキシモイヤシキマスモ》、十九に、霍公鳥伊也之伎喧奴《ホトヽギスイヤシキナキヌ》、又|鳴鷄者彌及鳴杼《ナクトリハイヤシキナケド》、などあり、○歌(ノ)意は、今はたとひ、准南王の仙藥を服《ハム》とも、わかゞへりはすまじ、とはいひたれども、大奇藥なれば、もし若がへらむこともあるまじきにあらねども、その藥をはまむよりは、朝暮見たし見たしと、戀しく思ひ、勞《イタヅ》きをる京なれば、その京を見たらば、うれしさに勞を忘れて、かく齡のかたぶき衰へたる吾(ガ)身も、又弱く壯なりし昔(シ)に彌重々にわかがへる事も、あるべしとなり、
 
後追和梅歌四首《ノチニオヒテヨメルウメノハナノウタヨツ》。
 
拾穗本、梅の下に花(ノ)字あり、○この四首も憶良の作なり、
 
849 能許利多流《ノコリタル》。由棄仁末自列留《ユキニマジレル》。烏梅能半奈《ウメノハナ》。半也久奈知利曾《ハヤクナチリソ》。由岐波氣奴等勿《ユキハケヌトモ》。
 
烏(ノ)字、拾穗本には宇に作り、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
850 由吉能伊呂遠《ユキノイロヲ》。有婆比弖佐家流《ウバヒテサケル》。有米能波奈《ウメノハナ》。伊麻佐加利奈利《イマサカリナリ》。彌牟必登母我聞《ミムヒトモガモ》。
 
歌(ノ)意かくれなし、金葉集に、雪の色を奪ひて咲る卯花に小野の里人冬ごもりすな、詞花集に、雪の色をぬすみてさける卯花はさえてや人にうたがはるらむ、
 
(71)851 和我夜度爾《ワガヤドニ》。左加里爾散家留《サカリニサケル》。宇梅能波奈《ウメノハナ》。知流倍久奈里奴《チルベクナリヌ》。美牟必登聞我母《ミムヒトモガモ》。
 
宇(ノ)字、舊本牟に誤、今は古寫一本又一本等に從つ、○歌(ノ)意これもかくれなし、
 
852 烏梅能波奈《ウメノハナ》。伊米爾加多良久《イメニカタラク》。美也備多流《ミヤビタル》。波奈等阿例母布《ハナトアレモフ》。左氣爾于可倍許曾《サケニウカベコソ》。
 
美也備多流《ミヤビタル》は、風流《ミヤビ》たるなり、○阿例母布《アレモフ》は、吾思《アレオモ》ふなり、○左氣爾于可倍許曾《サケニウカベコソ》は、酒に浮べて、いかで賞愛《ウツクシミ》賜へと、梅の自《ミ》(ラ)希ふ謂なり、許曾《コソ》は、希望(ノ)辭なり、上の彼方が歌を、引合(セ)て考べし、○舊本に、一云伊多豆良爾阿例乎知良須奈左氣爾于可倍己曾、とあり、○歌(ノ)意は、梅(ノ)花の、吾(ガ)夢に入來て語れるやうは、風流たる花ぞと吾思ふ、さればいかで吾(ガ)花びらを取て、風流士の酒盃に浮べて賞興し賜へかし、となり、契冲云(ク)、是は梅(ノ)花の精靈の、娘子などに化して、入てかく告たるやうなれど、あたらしくいはむとて、まうけていへるなるべし、
 
萬葉集古義五卷之上 終
 
(72)萬葉集古義五卷之下
 
遊《アソビテ》2於|松浦河《マツラガハニ》1贈答歌八首并《オクリコタフルウタヤツマタ》序。
 
於(ノ)字、古寫本、拾穗本等にはなし、○贈答歌八首并(ノ)六字、舊本には無(シ)、今は古寫小本、拾穗本等に從つ、
 
余以暫往(テ)2松浦之縣《マツラガタニ》1逍遥。聊臨(テ)2玉島之《タマシマノ》潭(ニ)1遊覽。忽値(リ)2釣v魚女子等1也、花容無(ク)v雙。光儀無(シ)v匹。開(キ)2柳葉(ヲ)於眉中(ニ)1。發(ク)2桃花(ヲ)於頬上(ニ)1。意氣凌(キ)v雲(ヲ)、風流絶(タリ)v世(ニ)、僕問(ヒ)曰《ケラク》。誰郷誰家(ノ)兒等(ゾ)。若疑《ケダシ》神仙者乎。娘等《ヲトメラ》皆《ミナ》咲(テ)答(ヘ)曰《ケラク》。兒等者漁夫之舍兒。草菴之微者。無v郷(モ)無v家(モ)。何《ナゾモ》足《タラム》2稱云《ナヲノルニ》1。唯性便(リ)v水(ニ)。復心(ニ)樂(フ)v山(ヲ)。或臨(テ)2洛浦(ニ)1。而徒羨2王魚(ヲ)1。乍臥2巫峡(ニ)1。以空望2煙霞(ヲ)1。今以|邂逅《ワクラバニ》相2遇《アヒ》貴客《ウマヒトニ》1。不v勝2感應(ニ)1。輙(チ)陳(ブ)2歎曲(ヲ)1。而今而後《イマヨリノチ》、豈可v非2偕老(ナラ)1哉《ヤ》。下官《オノレ》對曰。唯唯《ヲヲ》。敬(テ)奉《ウケタマハリキ》2芳命(ヲ)1。于時《トキニ》日落2山西(ニ)1。驪馬將v去(ト)。遂(ニ)申2懷抱(ヲ)1。因|贈詠歌《ヨミテオクレルウタニ》曰。
 
松浦之縣、和名抄に、肥前(ノ)國松浦(ノ)郡|萬豆良《マツラ》、とあり、神功皇后(ノ)紀の初に、夏四月、北(ノ方)到2火前(ノ)松浦(ノ)縣(ニ)1、(73)而|進2食《ミヲシセス》於玉島(ノ)里小河之側(ニ)1、云々、擧(テ)v竿(ヲ)乃獲(タマヒキ)2細鱗魚《アユヲ》1、時(ニ)皇后|曰《ノリタマヒキ》2希見物《メヅラシキモノナリト》1也、(希見、此云2梅豆邏志《メヅラシト》1、)故(レ)時人《ヨノヒト》、號《ヲ》2其處《ソコヲ》曰(シヲ)2梅豆羅國《メヅラノクニト》1、今謂(ハ)2松浦《マツラト》1訛(レルナル)焉、是以其(ノ)國(ノ)女人、毎(ニ)v當《イタル》2四月(ノ)上旬《ジャジメノコロニ》1、以v釣(ヲ)投2河中(ニ)1、捕(コト)2年魚(ヲ)1於今《イマニ》不v絶、云々、古事記に、亦|到2坐《イタリマシ》筑紫(ノ)末羅縣《マツラカタ》之玉島(ノ)里(ニ)1而|御食《ミオシセス》其(ノ)河(ノ)邊(ニ)1之時、當2四月之|上旬《ハジメノコロニ》1、爾坐(シテ)2其(ノ)河中之磯(ニ)1、拔(キ)2取(リ)御裳之糸(ヲ)1、以2飯粒《イヒホ》1爲《シテ》v餌《ヱニ》、釣(タマフ)2其(ノ)河之|年魚《アユヲ》1、故(レ)四月|上旬之時《ツキタチノコロ》、女人《ヲミナドモ》拔2裳(ノ)糸(ヲ)1、以粒《イヒボヲ》爲《シテ》v餌《ヱニ》釣(ルコト)2年魚《アユ》2、至(ルマデ)2于今(ニ)1不v絶也、(これに肥(ノ)國といはずして、筑紫と云る、此(ノ)筑紫は、西海九國の總名と見れば、事もなけれど、なほ然には非じ、肥前の域は、もとは筑紫(ノ)國の内にて、肥國に屬たるは、やゝ後かとおぼしきことあるなり、と古事記傳にいへり、)縣《アガタ》の事は、古事記傳廿九に、具(ク)註(ヘ)り、それにつきて考(フ)べし、○逍遥、(逍(ノ)字、舊本趙に誤、古寫本、古寫小本、拾穗本等に從つ、毛詩に、伊人於焉逍遥(ス)、古今集詞書に、秋立日、うへのをの子ども、加茂の河原に河逍遥しける、ともにまかりてよめる、書紀に、逍遥を、タノシム〔四字右○〕とよめり、○玉島、本居氏云、土佐風土記に、吾川(ノ)郡玉島、或説云、神功皇后|巡國之時《クニメグラシシトキ》、御船泊之、皇后下(テ)v島(ニ)休息、磯際得(タマフ)2一白石(ヲ)1、圓如2鷄卵(ノ)1、皇后安2于御掌(ニ)1、光明四出《ヨモニカヾヤキヌ》、皇后|大喜《イタクヨロコバシテ》詔2左右(ニ)1曰、是海神(ノ)所v賜、白眞珠(ナリトノタマヒキ)也、故以爲2島(ノ)名(ト)1、とあるに准へて思ふに、此(ノ)松浦の玉島も、さるたぐひの由縁《ユヱヨシ》などありてや、名けゝむ、〔頭註、【土佐國玉島考余が隨筆に載たり、】〕○開2柳葉(ヲ)於眉中(ニ)1、發(ク)2桃花(ヲ)於頬上(ニ)1は、契冲云、弘法大師撰文鏡秘府論六言句例云、訝(リ)2桃花之似(ヲ)1v頬(ニ)笑2柳葉之如(ヲ)1v眉(ノ)、とあり、○意氣雲v雲は、心の高さをいふ、史記司馬相如列傳に依て書り、○誰郷、郷(ノ)字、舊(74)本卿に誤、今は古寫本、拾穗本等に從つ、○漁夫、夫(ノ)字、拾穗本には父と作り、和名抄に、漁父、一(ニ)云、漁翁、無良岐美《ムラキミ》、とあり、○何足2稱云1は、東征賦に、訖2于今1而稱云、とあるによれり、○唯性便(リ)v水(ニ)、復心樂v山(ヲ)は、論語に、知者|樂《ネガフ》v水(ヲ)、仁者|樂《ネガフ》v山(ヲ)、とあるによれり、○或臨2洛浦(ニ)1は、曹植洛神賦に、洛浦の神女のことを云るに依てかけり、○徒羨2王魚1、(契冲、王疑(ラクハ)他字(ノ)鴉焉(ナラム)、或(ハ)王鮪、王餘魚之類(ナラム)邪、と云り、略解には、王は、巨(ノ)字の寫誤かといへり、猶考(フ)べし、)淮南子に、臨v淵而羨(ンヨリハ)v魚(ヲ)、不v如2退而結(ニ)1v網(ヲ)、とあり、此によれり、○乍臥2巫峽(ニ)1は、宋玉(ガ)巫山神女(ノ)賦に依て、此(ノ)魚釣(ル)女子を、神女の如くいひなせるなり、〔頭註、【王鮪《シヒ》王餘魚(和名抄《カレヒ》)】〕○邂逅相2遇貴客(ニ)1は、毛詩鄭に、邂逅相遇適2我願(ニ)1兮、とあるによれり、○陳2款曲1、(款(ノ)字、舊本に歎、活字本に疑、古寫一本に〓(ト)と作るは、みな誤なり、今は拾穗本に從つ、)は、心のまことを、のべつくす事なるべし、○而今而後は、論語泰伯(ノ)篇に出たる字なり、○下官は、自身のことなり、遊仙窟に、下官是客觸v事卑微、とあり、○于時日落2山西1、驪馬將v去は、文選應休連書に、徒(ニ)恨(ム)宴樂始酣(シテ)白日傾v夕(ニ)、驪駒就v駕意不2宣展1、と見ゆ、毛詩註に、驪(ハ)純黒馬也、とあり、○懷抱は、心に思ふことをいふ、○此(ノ)序と歌とは、憶良の作なるべし、次下に憶良のいまだ、松浦縣を見ざる趣なる歌あるは、後に記したれど、事實は此より前に有し事、なほ彼處に云り、
 
853 阿佐里須流《アサリスル》。阿末能古等母等《アマノコドモト》。比得波伊倍騰《ヒトハイヘド》。美流爾之良延奴《ミルニシラエヌ》。有麻必等能古等《ウマヒトノコト》。
 
(75)里(ノ)字、拾穗本には利と作り、○美流爾之良延奴《ミルニシラエヌ》は、見に所《レ》v知《シラ》畢《ヌ》なり、(不《ヌ》v所《エ》v知《シラ》、といふにはあらず、)奴《ヌ》は、已成《オチヰ》の奴《ヌ》にて、已く良人の子とは、いちしるく知(ラ)れぬ、といふなり、○有麻必等能古等《ウマヒトノコト》は、良人《ウマヒト》の子となり、有麻必等《ウマヒト》は、二(ノ)卷久米(ノ)禅師(ガ)歌に、宇眞人佐備而《ウマヒトサビテ》とある處に具(ク)云り、○歌(ノ)意は、魚夫の舍兒、草菴の微者とはいへど、見るにつけて、良人の子ぞといふことは、已くいちしるく知られぬるを、となり、
 
答詩曰《コタフルウタニイハク》。
 
詩(ノ)字、舊本待に誤れり、今は類聚抄、古寫一本等に從つ、古寫本には謌、古寫小本、拾穗本等には歌と作り、
 
854 多麻之末能《タマシマノ》。許能可波加美爾《コノカハカミニ》。伊返波阿禮騰《イヘハアレド》。吉美乎夜佐之美《キミヲヤサシミ》。阿良波佐受阿利吉《アラハサズアリキ》。
 
吉美乎夜佐之美《キミヲヤサシミ》は、君が耻かしき故にの意なり、契冲、やさしは、はづかしきなり、此(ノ)卷下にも、世の中をうしとやさしと、とよめり、古今集に、何をして身のいたづらに老ぬらむ年のおもはむことぞやさしき、竹取物語に、あまたの人のこゝろざし、おろかならざりしを、むなしくなしてしことこそあれ、きのふけふ、みかどのたまはむことにつかむ、人きゝやさしといへば云々、源氏物語眞木柱に、今はしか、いまめかしき人をわたして、もてかしづかむ、かたすみ(76)に人わろくて、そひものし給はむも人きゝやさしかるべし、俗にこゝろある人を、やさしき人などいふは、はづかしき人、といふととなるを、何となくいひなるゝまゝに、風流なることをすなはちやさし、といふやうにのみおもひあへり、といへり、○阿良波佐受阿利吉《アラハサズアリキ》は、顯《アラ》はさず有けり、といふなり、吉《キ》は、さきにありしことを、今かたるてにをはなり、○歌(ノ)意は、無v郷無v家何足2稱云1、とは云れど、實はこの玉島川の川上に、いさゝかなる家はあれど、君が耻かしき故に顯はさずありけり、となり、
 
蓬客等更贈歌三首《ヲノレマタオクレルウタミツ》。
 
蓬客(客(ノ)字、舊本容に誤、今は類聚抄、古寫本、古寫小本、拾穗本等に從つ、)は、吾(ガ)身を謙下《ヘリクダ》りて、あちこちありく客人《タビヒト》、と云るなるべし、契冲云、轉蓬の旅客といふ心なるべし、文選播安仁(ガ)西征賦曰、飄(トシテ)萍(ノゴトク)浮而蓬(ノゴトク)轉(ル)、註(ニ)張銑曰、言(ハ)竟(ニ)如2浮萍轉蓬(ノ)無1v所2止託1也、
 
855 麻都良河波《マツラガハ》。可波能世比可利《カハノセヒカリ》。阿由都流等《アユツルト》。多多勢流伊毛河《タタセルイモガ》。毛能須蘇奴例奴《モノスソヌレヌ》。
 
可波能世比可利《カハノセヒカリ》は、娘等の美容紅顔の、河瀬に耀《ヒカ》るを云う、○阿由都流等《アユツルト》は、年魚釣《アユツル》とての意なり、○多多勢流《タタセル》は、立有《タヽセル》なり、立(ツ)を多多須《タタス》といふと同格なり、立賜へると云むが如し、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
(77)856 麻都良奈流《マツラナル》。多麻之麻河波爾《タマシマガハニ》。阿由都流等《アユツルト》。多多世流古良何《タタセルコラガ》。伊弊遲斯良受毛《イヘヂシラズモ》。
 
伊弊遲《イヘヂ》は、家に到る道路の謂なり、一○歌(ノ)意かくれなし、娘子のすみかを、尋ね行むの心なり、
 
857 等冨都比等《トホツヒト》。末都良能加波爾《マツラノカハニ》。和可由都流《ワカユツル》。伊毛我多毛等乎《イモガタモトヲ》。和禮許曾末加米《ワレコソマカメ》。
 
等冨都比等《トホツヒト》は、枕詞なり、契冲、遠き所にある旅人をば、家人のまつ習なれば、待といふ心につづけむとて、遠津《トホツ》人といへり、下にも、遠津人まつらさよ姫、君をまつ松浦のうらなどよめる、これにおなじと云り、○和可由《ワカユ》は、若年魚《ワカアユ》なり、○歌(ノ)意これもかくれなし、他人には遇(ハ)しめじ、の意なり、
 
 
娘等更報歌三首《ヲトメラマタコタフルウタミツ》。
 
858 和可由都流《ワカユツル》。麻都良能可波能《マツラノカハノ》。可波奈美能《カハナミノ》。奈美邇之母波婆《ナミニシモハバ》。和禮故飛米夜母《ワレコヒメヤモ》。
 
奈美邇之母波婆《ナミニシモハバ》は、並に思はゞなり、之《シ》は、例のその一(ト)すぢを、おもく思はする助辭なり、並々の人をおもふごとくに、君をおもはゞの意なり、古今集十四に、三吉野の大河の邊の藤浪のなみにおもはゞわが戀めやも、とあるに同じ、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
(78)859 波流佐禮婆《ハルサレバ》。和伎覇能佐刀能《ワギヘノサトノ》。加波度爾波《カハドニハ》。阿由故佐婆斯留《アユコサバシル》。吉美麻知我弖爾《キミマチガテニ》。
 
和伎覇能佐刀能《ワギヘノサトノ》は、吾家之里之《ワギヘノサトノ》なり、○加波度《カハド》は、河門《カハド》なり、○阿由故佐婆斯留《アユコサバシル》は、年魚兒狹走《アユコサバシル》なり、佐《サ》は、美稱にて、眞《マ》と云むが如し、三(ノ)卷に、河湍爾波年魚小狹走《カハセニハアユコサバシリ》とあり、(小は借(リ)字にて兒《コ》なり、契冲が、此(ノ)三(ノ)卷歌に依て、上二字、下五字によみて、さは助辭なれば、あゆの石川の瀬を小走、と心得られたり、と云るは非ず、)○吉美麻知我弖爾《キミマチガテニ》(弖(ノ)字、古寫本には※[人偏+弖]、拾穗本には低と作り、)は、年魚が君を待難《マチガテ》にする意にて、待難は、待に得堪ずといふなり、○歌(ノ)意は、年ごとの春になれば、吾(ガ)郷の玉島川の勝景を、見せまほしくて、心ある君を待はさらにも云ず、河門の年魚兒すら、愛(グ)しき君を待に待得たへずして、かゆきかくゆきさばしるよといひて、良人《ウマヒト》をめづる意を、甚《イミ》じく云なせるなり、(契冲が、あゆの、きよき川瀬をさばしるを見て、心ある君がとくこよかし、見せましものを、つらせましものを、と仙女が待かぬるなり、と云るは、あらず、)三(ノ)卷長屋(ノ)王(ノ)故郷(ノ)歌に、吾背子我古家乃里之明日香庭乳鳥鳴成君待不得而《ワガセコガフルヘノサトノアスカニハチドリナクナリキミマチカネテ》、とあると、同じこゝろばえなり、
 
860 麻都良我波《マツラガハ》。奈奈勢能與騰波《ナナセノヨドハ》。與等武等毛《ヨドムトモ》。和禮波與騰麻受《ワレハヨドマズ》。吉美遠志麻多武《キミヲシマタム》。
 
(79)奈奈勢能與騰《ナナセノヨド》は、七(ノ)卷に、明目香川七瀬之不行爾住鳥毛意有社波不立目《アスカガハナヽセノヨドニスムトリモコヽロアレコソナミタテザラメ》、とよめり、七瀬は、數多の瀬あるをいふなり、鈴鹿河八十瀬《スヾカガハヤソセ》などもよめるたぐひなり、○和禮波與騰麻受《ワレハヨドマズ》は、我者《ワレハ》不《ズ》v淀《ヨドマ》なり、不v淀は、不《ズ》v懈《タユマ》といはむが如し、○吉美遠志麻多武《キミヲシマタム》は、君を將《ム》v待《マタ》なり、志《シ》は、例の其(ノ)一(ト)すぢなるをいふ助辭なり、○歌(ノ)意は、川(ノ)流の滯《トヾコホ》るをも、心ざしの懈《タユ》むをも、與杼武《ヨドム》といへば、川の瀬の與杼武《ヨドム》といへば、何とやらむ、心ざしの懈《タユ》むに紛らはしけれど、吾はしからず、川淀は、もとより淀むことわりなればよどむとも、それには拘はらず、吾(ガ)心ざしは懈まずに、一(ト)すぢに君を待居むとなり、爾保鳥《ニホトリ》の奥長河は絶ぬとも、とやうにいへるは、もとより、絶まじきものをとり出て、それは絶(ユ)とも、吾は絶(エ)じと云るにて、今の歌とはいひざま似てかはれり、
 
後人追和之詩三首《オクリタルヒトノオヒテヨメルウタミツ》。都帥老。
 
後人は、常の例の如く、後生《ノチノヨノヒト》と意得ては、たがふなるべし、これはオクレタルヒト〔七字右○〕と訓べし、憶良大夫が、松浦河(ノ)遊に遺(レ)居たる人のよしなり、○之詩、之(ノ)字、拾穗本にはなし、詩(ノ)字、古寫小本、古寫一本、拾穗本等には歌、官本には謌と作り、○都帥老(都(ノ)字、古字本、官本、活字本、拾穗本等にはなし、)は、大伴(ノ)卿なり、都とは、太宰府は、西海九國の都會なればいへり、(都と云ることは、菅家後草に、都府樓、また古事談、太平記等に、西都といへるなど、皆太宰府なり、又中昔に、鎌倉を、東都(80)といひしことも、往々《コレカレ》見えたり、都は、人の都會《サカリニツド》へる處のよしにていへるなり、字書に、小(ヲ)曰v邑大(ヲ)曰v都(ト)、といへるが如し、但(シ)美夜古《ミヤコ》といふは異《カワ》れり、そのときは、天子所(ヲ)v居而曰v都(ト)、といへるこゝろにて、今と同じからず、しかるを、都(ノ)字を書るに依て、太宰府などを、夷乃美夜古《ヒナノミヤコ》といふべきことゝ意得るは、いみじきひがことなり、抑々|美夜古《ミヤコ》とは、かりそめにも、天皇命の御座す處ならでは、いはざりしことぞかし、近(キ)頃江戸人高田某とかいふが、東都稱呼辨といふをかきて、江戸を、東のみやこ、諸國(ノ)府を、ひなのみやこといふべきことぞといひて、こと/”\しく論へるも、みながらみだりごとなり、此等は人まどへのわざにて、吾(ガ)古學の妨ともなれば、余別に具(ク)論(ヒ)おけり、言長ければ、今はかつ/”\いふなり、)
 
861 麻都良河波《マツラガハ》。河波能波夜美《カハノセハヤミ》。久禮奈爲能《クレナヰノ》。母能須蘇奴例弖《モノスソヌレテ》。阿由可都流良武《アユカツルラム》。
 
阿由可都流良武《アユカツルラム》(都(ノ)字、舊本には脱たり、官本、古寫一本、活字本等に從つ、)は、年魚《アユ》釣《ツ》らむ歟《カ》の意なり、可《カ》の言は、武《ム》の下にめぐらして意得べし、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
862 比等未奈能《ヒトミナノ》。美良武麻都良能《ミラムマツラノ》。多末志麻乎《タマシマヲ》。美受弖夜和禮波《ミズテヤワレハ》。故飛都都遠良武《コヒツツヲラム》。
 
美良武《ミラム》は、後の言に、見るらむといふに同じ、(凡て見らむを見るらむ、見べきを見るべきなど(81)いふ類は、やゝ後のことにして、此(ノ)集などより以前には、なき詞なり、貫之集(ノ)歌に、櫻花千年見るとも鶯もわれもあくよもあらしとぞ思ふ、とあれば、其比は、はやく古格を失ひしなり、)素性法師が、春たてば花とや見らむ、貫之の、打見らむ面影毎になどよめる、(これらはよろし、)古(ヘ)にかなへり、○美受弖夜《ミズテヤ》は、不《ズv見《ミ》して哉《ヤ》の意なり、夜《ヤ》の言は、終の良武《ラム》の下にめぐらして意得べし、○歌(ノ)意は、人皆の逍遙して遊び見るらむ、松浦縣玉島(ノ)潭を見ずして、戀しく思ひつゝ、此方に遺居て居らむやとなり、此(ノ)歌に美良武《ミラム》といひ、次の歌にも美良牟《ミラム》とあるにて思へば、憶良等の逍遙せし跡にて、よまれしさまなり、還りて後によまれしものならば、見氣武《ミケム》とあるべきものなり、
 
863 麻都良河波《マツラガハ》。多麻斯麻能有良爾《タマシマノウラニ》。和可由都流《ワカユツル》。伊毛良遠美良牟《イモラヲミラム》。比等能等母斯佐《ヒトノトモシサ》。
 
伊毛良《イモラ》は、妹等《イモラ》なり、等《ラ》は、一人の上にもいへど、序に釣魚女子等といひ、題にも娘等とあれば、そのともがらをいふべし、十三にも、妹等者立志《イモラハタヽシ》とよめり、(九卷に、妹等許今木乃嶺《イモラガリイマキノミネニ》云々、此は妹許等《イモガリト》とありしを、顛倒《オキタガヘ》たるにもあるべし、)○比等能等母斯佐《ヒトノトモシサ》は、人の、羨《ウラヤマシ》さといふが如し、等母斯《トモシ》は、木人乏毛《キヒトトモシモ》の乏《トモシ》と同じ、既く具(ク)云り、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
吉田連宜答和之歌四首《ヨシダノムラジヨロシガコタフルウタヨツ》。
 
(82)此(ノ)題詞、舊本にはなし、古寫小本、拾穗本等には、答和人歌書并歌四首吉田(ノ)連宜とあり、今改(メ)て記せり、此は太宰梅花篇、松浦贈答篇などとり集めて、書牘にそへて、四月六日に、京の吉田(ノ)連におくれるに、吉田(ノ)連より憶良へ、左の書牘にそへて、答和《コタヘ》たる歌なり、宜は、懷風藻に、正五位下圖書(ノ)頭吉田(ノ)連宜二首、(年七十、)續紀に、文武天皇四年八月乙丑、勅2僧通徳惠俊(ニ)1、并還俗(セシム)、云々、賜2惠俊(ニ)姓(ハ)吉名(ハ)宜(ト)1授2務廣肆(ヲ)1、爲v用2其藝(ヲ)1也、和銅七年正月甲子、授2吉(ノ)宜(ニ)從五位下1、養老五年正月甲戌、醫術從五位上吉(ノ)宜(ニ)、賜2※[糸+施の旁]十疋絲十※[糸+句]布二十端鍬二十口(ヲ)1、神龜元年五月辛未、從五位上吉(ノ)宜、云云、並(ニ)賜2姓吉田(ノ)連(ヲ)1、天平二年三月辛亥、太政官奏※[人偏+稱の旁]云々、望仰吉田(ノ)連宜云々等七人、各取2弟子(ヲ)1將v令v習v業(ヲ)、五年十二月庚申、從五位上吉田(ノ)連宜(ヲ)爲2圖書(ノ)頭(ト)1、九年九月己亥、正五位下、十年閏七月癸卯、爲2典藥(ノ)頭(ト)1、など見たり、
 
宜《ヨロシ》啓《マヲス》。伏(テ)奉《ウケタマハリ》2四月六日《ウツキノムカノヒノ》賜書(ヲ)1。跪(テ)開(キ)2對凾(ヲ)1。拜2讀(ニ)芳藻(ヲ)1。心神開朗。似v懷《ウダキシニ》2泰初(ガ)之月(ヲ)1。鄙懷除※[衣+去]。若(シ)v披《ヒラキシガ》2樂廣(ガ)之天(ヲ)1。至v若《シカノミニアラズ》※[覊の馬が奇]2旅邊城(ニ)1。懷(テ)2古舊(ヲ)1而傷(シム)v志。年矢不v停(ラ)。憶2平生(ヲ)1而|落《ナガス》v涙(ヲ)。但達人|安《ヤスミシ》v排(ニ)。君子無v悶(リ)。伏冀(クハ)。朝(ニ)宣(ベ)2懷《ナツクル》v※[擢の旁]《キヾシヲ》之化(ヲ)1。暮(ニ)存2放《ハナツ》v龜(ヲ)之術(ヲ)1。架(シ)2張趙(ヲ)於百代(ニ)1。追(ム)2松喬(ヲ)於千齡(ニ)1耳。兼(テ)奉(ハル)2垂示(ヲ)1。梅花(ノ)芳席。群英|※[手偏+離の旁]《ノベ》v藻(ヲ)。松浦(ノ)玉潭。仙暖(ノ)贈答。類《タグヘ》2杏檀各言之作(ニ)1。疑《ナソラフ》2衡皐税駕之篇(ニ)1。耽讀吟諷(シ)。戚謝歡怡(ス)。宜《ヨロシ》戀《シヌフ》v主(ヲ)之誠。誠逾(ユ)2犬馬(ニ)1。仰(グ)v徳之心。心同(シ)2葵※[草がんむり/霍](ニ)1。而碧海分(チ)v地(ヲ)。白雲隔(テ)v天(ヲ)。徒(ニ)積(ム)2傾延(ヲ)1。何《ナゾモ》慰(メム)2勞緒(ヲ)1。孟秋(83)膺節。伏(テ)願(クハ)萬祐日新(ムコトヲ)。今因(テ)2相撲部領使《スマヒコトリツカヒニ》1。謹付(ク)2片紙(ヲ)1。宜《ヨロシ》謹(ミテ)啓《マヲス》。不次。
 
啓(ノ)字、字書に同v〓とあり、舊本に〓と作るは寫誤なり、古本一本、拾穗本等には、啓と作り、○封(ノ)字、舊本對と作るは誤なり、古寫本、古寫小本、拾穗本又異本等に從つ、○芳藻は、憶良の文章を賞て云り、※[禾+去]心神開朗、似v懷2泰初之月1は、世説に、曹與v玄共(ニ)坐、時人謂蒹葭倚2玉樹(ニ)1、又云、朗々如2日月之入1v懷、といへるによれり、魏志に、夏〓玄字(ハ)太初とあり、太初は、即(チ)泰初なり、○鄙懷除※[衣+去]、(※[衣+去](ノ)字、舊本に私、活字本に※[禾+去]に誤、今は一本に從、拾穗本には拂と作り、)○若v披2樂廣之天(ヲ)1は、晋書に、衛〓見2樂廣(ヲ)1而奇之、嘆曰、若d披2雲霧(ヲ)1而覩c青天(ヲ)u、と云るによれり、樂廣字(ハ)彦輔とあり、今按(フ)に、朗々如2月日之入1v懷《フトコロニ》とは、毛曹と云者と、太初が對坐《ナラビヰ》たるを、傍より評《サダ》して云る詞なり、月日を、太初が心の明なるにたとへ、懷《フトコロ》を、毛曹が器《ヒトヽナリ》の、ちひさく狹きにたとへたりと聞ゆ、たとへていはゞ、明かなる月日の、ちひささ懷(ノ)中に入たるが如しとなり、若d披2雲霧(ヲ)1而覩v音青天(ヲ)uとは、衛〓と云者、樂廣を見て、其(ノ)器の大なるに驚き奇しみ、嘆息して云るやうは、樂廣にむかへば、たとへば、目にさゝふる雲霧をおしひらきのけて、はる/”\と青天を見るこゝちするなりとなり、これらにもとづきて云ることながら、今は少し本の意をかへて、きはめて明なるを、直に泰初が月と云(ヒ)、さてその泰初が月を懷にしたる如く、心神《コヽロ》の開朗《アキラカ》になるよしにいひ、きはめて大なるを、直に樂廣が天といひ、さてその樂廣が、天を雲霧を披《ハラヒ》て見る如くに、鄙懷《オモヒ》の除※[衣+去]《ハルケノキ》たるよ(84)しに云るにや、○邊域(域(ノ)字、舊本には城と作り、古寫小本に從つ、)は、太宰府をさしていへり、○古(ノ)字、拾穗本には故と作り、○年矢は、年の過往事の早きを、矢にたとへて云り、○停(ノ)字、拾穗本に倚と作るはわろし、○安v排は、莊子太宗師に、安v排(ニ)而去化(シテ)、乃入2於寥天(ニ)1、とあり、排(ハ)推移也、と註せり、物とともにおしうつりて、安むじ居るといふ意なるべし、○無悶は、物思のなきよしなり、○懷※[擢の旁]之化は、玉篇に、※[擢の旁]山雉、蒙求に、後漢の魯恭といへる人、民を治て徳化の聞え有しを、袁安といへる人疑ひて、肥親といふ人をして見せしめしに、魯恭が領る所の阡陌に、雉の過けるを、童子の在けるが、其(ノ)雉を見て、とらむともせざりしかば、肥親が、などとらざるといひしに、雉の雛を養ふ時なればとらず、とこたへしにて、其(ノ)徳化の至れるを知(レ)り、とあるによれり、○放龜之術(放(ノ)字、官本に〓と作り、)は、蒙求に、晋の孔愉といへる人道を行しに、人の龜を籠に入てもたるを見て、買て水に放ちやりしかば、龜あまた度かへり見て行けり、其(ノ)後〓に封ぜられて印を鑄しに、其(ノ)印紐の龜の頭、かへり見たるやうにいできしを、改鑄れども、なほらざりしかば、孔愉、かの放たる龜の報にて、〓に封ぜられし事を知(リ)ぬ、とあるによれり、○架2張趙(ヲ)於百代(ニ)1とは、張は張安世、趙は趙克なり、この二人前漢の名臣にて、班固(ガ)公孫弘傳(ノ)賛に、將相(ニハ)則張安世、趙充云々、と見えたり、さて此(ノ)人等が事を、とこしなへに絶ず取はやすを、百代に※[加/衣]《ワタス》とはいへるなるべし、○追2松喬於千齡1、(千(ノ)字、舊本には十と作り、官本、活字本等に從つ、)とは、(85)松は赤松子、喬は王子喬なり、この二人仙人にて、列仙全傳に、赤松子、神農(ノ)時雨師云々、王子喬(ハ)、周(ノ)靈王(ノ)太子晋也、云々、と見えたり、さて此(ノ)人等があとを遠長くしたふことを、千齡に追(フ)とはいへるなるべし、○花(ノ)字、一本には苑、又一本には宴と作り、○群英は群集の英才なり、○擒藻は、文選に出(ヅ)、文章などを作ることなり、○玉潭は、玉島の潭なり、○仙媛、六(ノ)卷に蓬莱(ノ)仙媛とも見えたり、字鏡に、媛、美女(ヲ)爲v媛、とあり、○杏〓各言、(〓(ノ)字、舊本壇と作るは誤なり、今は古寫小本、拾穗本等に從つ、)杏〓は荘子漁父篇に、孔子休坐2于杏〓之上(ニ)1、弟子讀v書(ヲ)、夫子鼓v瑟(ヲ)奏v曲(ヲ)、とあり、杏〓は、杏樹のある〓なり、各言は、論語に、顔淵季路侍、子曰、盍各言2爾(カ)志(ヲ)1、とあり、今はこれらを取まじへて云るなり、○疑(ノ)字、或語に、擬の誤なりと云り、類に對ればさもあるべし、○衡皐税駕は、曹子建(ガ)洛神賦に、爾廼税2駕乎〓皐(ニ)1、秣2駟乎芝田(ニ)1、とあり、〓皐(ハ)香草之澤也、と註せり、○感謝歡怡、感(ノ)字、舊本には戚と作り、今は拾穗本に從、歡(ノ)字、古寫小本には歎と作り、○戀v主(ヲ)之誠、誠逾2犬馬(ニ)1、仰v徳(ヲ)之心、心同2葵※[草がんむり/霍](ニ)1は、曹子建求v通v親v親表に、犬馬之誠不v能v動v人(ヲ)、又云、若2葵※[草がんむり/霍]之傾1v葉(ヲ)、太陽雖v不2爲(ニ)之廻1v光、終向(ノ)之者誠也、臣竊(ニ)自比2葵※[草がんむり/霍]1、とあり、日にしたがひて、葵※[草がんむり/霍]の花のめぐるを、人に心の從ふにたとへたり、○傾延は、傾v首(ヲ)延v領(ヲ)の字を、切(リ)用たるにやと云り、○相撲は、垂仁天皇(ノ)紀に、七年秋七月己巳朔乙亥、云々、則當麻蹶速、與2野見(ノ)宿禰1令《シム》2※[手偏+角]力《スマヒトラ》2、二人|相對立《アヒムキタチ》、各《オノモ/\》擧v足(ヲ)相|蹶《フム》、則|蹶2拆《フミサク》蹶速(ガ)之|脇骨《ワキホネヲ》1、亦|蹶2折《フミクジキテ》其腰(ヲ)1而殺(ツ)、皇極天皇(ノ)紀に、元年七月甲寅朔乙亥、云々、乃命(テ)2健兒《チカラヒトニ》1、(86)相2撲《スマヒトラシム》於翹岐(ガ)前(ニ)1、續紀に、天平六年秋七月丙寅、天皇觀2相撲戯1、類聚國史七十三に、大同五年秋七月乙巳、幸2神泉苑(ニ)1觀2相撲(ヲ)1、丁未、勅進2膂力人(ヲ)1者、常限2六月二十日以前(ヲ)1、自今以後隨v得(ニ)則進、莫(レ)v限(ルコト)2期月(ヲ)1、又雖2力不(ト)1v超v衆(ニ)、而解2相撲(ヲ)1者兼令(ヨ)v進之云々、年中行事秘抄に、延喜格(ニ)云、以2七月廿五日(ヲ)1爲2節日1、相撲人入v京(ニ)、改2五月下旬(ヲ)1、以2六月廿五日(ヲ)1、云々、同抄に、神龜三年、令2諸國(ニ)1、始召2乎相撲人(ヲ)1、中務省式に、凡相撲(ノ)司(ハ)、前節一月(ニ)任2堪v事(ニ)者(ヲ)1、云々、掃部式に、七月二十五日、相撲、神泉苑(ノ)殿上(ニ)供2御座(ヲ)1、及設2參議已上(ノ)座(ヲ)1、又設2左右相撲司、并諸大夫等(ノ)座(ヲ)1、和名抄に、漢武故事(ニ)云、角觝(ハ)、今(ノ)相撲也、王隱(カ)晋書(ニ)云、相撲(ハ)下伎也、和名|須未比《スマヒ》、契冲云、すまひは、すまふといふ用(ノ)詞を、體になして名付たるべし、遊仙窟に、推の字、禁の字、共にすまふとよめり、すまふといふは、たふさむとするを、たふれじとするやうなるを云り、伊勢物語に女もいやしければ、すまふちからなし、後拾遺集に、前律師慶邏、秋風にをれじとすまふをみなへしいくたびのべにおきふしぬらむ、などあり、○部領使は、推古天皇(ノ)紀に、十九年夏五月五日、粟田(ノ)細目(ノ)臣、爲2前部領《サキノコトリト》1、額田部(ノ)比羅夫(ノ)連、爲2後部領(ト)1、云々、谷川(ノ)士清云、部領訓2古止利《コトリト》1、蓋執v事之義也、
 
奉《マツル》v和《ナゾラヘ》2諸人梅花歌《モロヒトノウメノハナノウタニ》1一首《ヒトウタ》。
 
奉(ノ)字、古寫小本、拾穗本等にはなし、
 
864 於久禮爲天《オクレヰテ》。那我古飛世殊波《ナガコヒセズハ》。彌曾能不乃《ミソノフノ》。于梅能波奈爾母《ウメノハナニモ》。奈良麻之母(87)能乎《ナラマシモノヲ》。
 
那我古飛世殊波《ナガコヒセズハ》は、長戀《ナガコヒ》せむよりはの意なり、長戀とは、長《ナガ》は氣長《ケナガク》の長《ナガ》にて、年月程經て戀るよしなり、(汝之戀《ナガコヒ》といふにはあらず、)十二(ノ)一本にも、玉勝間島熊山之暮霧爾長戀爲乍寢不勝可母《タマカツマシマクマヤマノユフギリニナガコヒシツイネガテヌカモ》、とあり、○歌(ノ)意は、梅花の會集に遺《オクラ》され居て、年月程久しく戀しく思はむよりは、彼處の苑の梅(ノ)花になりともなりてあらまし物なるを、となり、木草は賤しきものなれど、彼處の苑の梅にてあらば、かくおくれ居て、遺恨《ウラメ》しき物思ひをして、苦しむことはあらじ、との心なり、
 
和《ナゾラフル》2松浦仙媛歌《マツラヲトメノウタニ》1一首《ヒトウタ》。
 
865 伎彌乎麻都《キミヲマツ》。麻都良乃于良能《マツラノウラノ》。越等賣良波《ヲトメラハ》。等己與能久爾能《トコヨノクニノ》。阿麻越等賣可忘《アマヲトメカモ》。
 
等己與能久爾能《トコヨノクニノ》は、常世國之《トコヨノクニノ》なり、この歌の常世(ノ)國は、いほゆる蓬莱山の事なり、四(ノ)卷に、吾妹兒者常世國爾住家良思昔見從變若益爾家利《ワギモコハトコヨノクニニスミケラシムカシミシヨリヲチマシニケリ》、九(ノ)卷詠2浦島子(ヲ)1歌に、加吉結常世爾至《カキムスビトコヨニイタリ》、などよめるに同じ、既く四(ノ)卷に具(ク)註《イヘ》るを見て知べし、六(ノ)卷天平九年春二月、諸大夫等集宴歌、海原之《ウナハラノ》云云、右一首、書2白紙(ニ)1、懸2著屋壁(ニ)1也、題云、蓬莱仙媛《トコヨノクニノヲトメ》所作嚢※[草冠/縵]〔二字右○〕爲2風流秀才之士(ノ)1矣云々、とあるをも思(ヒ)合(ス)べし、○歌(ノ)意は、君を待といふ松浦美女等は、蓋彼(ノ)蓬莱山の美女ならむか、さてもうらや(88)ましやとなり、
 
思《オモフコト》v君《キミヲ》未《ズ》v盡《ツキ》重題二首《マタシルセルウタフタツ》。
 
拾穗本、題の下に、歌(ノ)字あり。
 
866 波漏婆漏爾《ハロバロニ》。於忘方由流可母《オモホユルカモ》。志良久毛能《シラクモノ》。智弊仁邊多天留《チヘニヘダテル》。都久紫能君仁波《ツクシノクニハ》。
 
波漏婆漏爾《ハロバロニ》は、皇極天皇(ノ)紀(ノ)謠歌に、波魯波魯爾渠騰曾枳擧喩屡《ハロバロニコトゾキコユル》、とあり、○於忘方由流可母《オモハユルカモ》は、所《ユル》v思《オモハ》哉《カモ》なり、後におもはるゝかなと云に同じ、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
867 枳美可由伎《キミガユキ》。氣那我久奈埋努《ケナガクナリヌ》。奈良遲那留《ナラヂナル》。志滿乃己太知母《シマノコダチモ》。可牟佐備仁家理《カムサビニケリ》。
 
氣那我久奈理努《ケナガクナリヌ》(我(ノ)字、拾穗本に家と作るは誤なり、)は、來經長《キヘナガ》く成ぬなり、月日間久(シ)くなりぬと云むが如し、○志滿乃己太知母《シマノコダチモ》、契冲云、志滿《シマ》は所の名なり、第九に、難波(ニ)經宿明日還來之時(ノ)歌に、島山をいゆきもとほる川ぞひのをかへの道にきのふこそわがこえこしか、などありて、はてに、名におへるもりにかざまつりせなといへり、此(ノ)歌の前にも同時の歌ありて、白雲のたつたの山の瀧の上のをぐらのみねに、などよめれば、立田のあたりなるべし、長流は、立田にうまれて、かのあたりをよくし|れ《り歟》たるが申けるは、川ぞひのをかへの道今もしかりと、(89)又第十九にも、島山にあかる橘うずにさしなどよめり、奈良にかよふ道なれば、ならぢなるといへり、第九の歌符合せり、憶良の家、そのわたりに有けりとしられたりと云り、○可牟佐備仁家理《カムサビニケリ》(備(ノ)字、舊本には飛と作り、今は拾穗本に從つ、)は、年月經ぬる間に、島の木立も神さび物ふりにけり、となり、○歌(ノ)意は、志滿《シマ》の木立の稚かりしも、神さび物ふりにけり、これにて見れば、君が旅行も久しく年月經ぬるぞ、となり、
 
天平二年七月十日《テムピヤウフタトセトイフトシフミツキノトヲカノヒ》。
 
或説に、此(ノ)月日は、恐らくは右の二首計の一自註ならむ、こゝの七月十日にては、以相撲部領使と有にたがへり、上の書牘并歌を贈し其(ノ)後、又々此(ノ)二首をよみて贈られしならむ、中務省式に、前節一月云々、(七月二十五日相撲節日なり、)などあるにかなはずと云り、さも有べし、
 
山上臣憶良松浦歌三首《ヤマノヘノオミオクラガマツラノウタミツ》。
 
此(ノ)題詞、舊本には無(シ)、目録に從て録(シ)つ、此は三首歌を、人のもとへ見せに贈れる時の、書牘のままを載たるなり、古寫小本、拾穗本等には、與(フル)2松浦(ノ)歌(ヲ)1書并歌三首とあれど、いかゞ、
 
憶良誠惶頓首謹啓(ス)。憶良聞(ク)。方岳(ノ)諸侯。都督刺史。並《ミナ》依(テ)2典法(ニ)1。巡2行(シ)部下(ヲ)1。察(ル)2其風俗(ヲ)1。意内多v端。口外難(シ)v出(シ)。謹(テ)以(テ)2三首之鄙(ヲ)1。欲(ス)v寫(ムト)2正藏之鬱結(ヲ)1。其(ノ)歌(ニ)曰(ク)。
 
啓(ノ)字、類聚抄には言と作り、○方岳諸侯は、文選于令升晋紀總論に、方岳無2鉤石之鎭1、關門無2結(90)草之固1、とあり、○刺字、舊本に判と作るは誤なり、古寫本、拾穗本又異本等に從つ、類聚抄には〓と作り、刺の異體なり、○欲(ノ)字、類聚抄活字本にはなし、○藏(ノ)字、類聚抄には臓と作り、
 
868 麻都良我多《マツラガタ》。佐欲比賣能故何《サヨヒメノコガ》。比列布利斯《ヒレフリシ》。夜麻能名乃美夜《ヤマノナノミヤ》。伎伎都都遠良武《キキツツヲラム》。
 
麻都良我多《マツラガタ》は、松浦縣《マツラガタ》なり、上遊2於松浦河1歌(ノ)序に、松浦之縣とありて、そこに云う、十六にも、肥前(ノ)國松浦縣とあり、我多《ガタ》は潟にはあらず、(本居氏、我多を潟と心得るはひがことなり、佐用比賣《サヨヒメ》が郷里を云りとしても、又下なる山へ係ても、潟は何の由もなし、縣なることしるし、と云り、)○佐欲比賣能故《サヨヒメノコ》は、佐用姫《サヨヒメ》の子《コ》なり、子《コ》とは親(ミ)て稱るなり、(佐用姫のその子といふには非ず、)この故事は次に見えたり、そこにいふべし、○比列布利斯《ヒレフリシ》は、領巾振《ヒレフリ》しなり、領巾は次にいふ、○名乃美也《ナノミヤ》、(名乃美、活字本には多能尾と作り、多は名の誤なり、)也《ヤ》は終の良武《ラム》の下にめぐらして意得べし、○歌(ノ)意は、松浦縣にて、佐用姫の子が領巾振しより、名に負持る領巾麾《ヒレフリノ》嶺の山名ばかり聞つゝ、親《マノアタリ》見ずして、戀しく思ひつゝ居むや、となり、
 
869 多良志比賣《タラシヒメ》。可尾能美許等能《カミノミコトノ》。奈都良須等《ナツラスト》。美多多志世利斯《ミタタシセリシ》。伊志遠多禮美吉《イシヲタレミキ》。
 
奈都良須等《ナツラスト》、舊本に、一云|阿由都流等《アユツルト》とあり、(こはいづれにもあるべし、)魚釣等《ナツルト》の伸りたるに(91)て、魚釣《ナツリ》賜ふとてと云むが如し、持統天皇(ノ)紀に、蝦夷(ノ)名に八釣魚《ヤツリナ》てふがありて、其(ノ)訓註に、魚此云v讎《ナト》、とあり、さて魚を那《ナ》と云は、饌に用る時の稱《ナ》なり、今の歌なるも、饌の料に釣(ラ)したまへる故にかくいへり、(只に河海にすみをるをば、宇乎《ウヲ》とのみ云て、奈《ナ》といへることはさらになし、土佐の海邊にて漁民の詞に、魚のあつまりたるをナムラ〔三字右○〕と云り、これ只に海にすみをる魚をいふに似たれども、もと食ふ料に、漁《スナド》りあげむとするより云るなるべし、)又古事記上(ツ)卷に見えたる、櫛八玉(ノ)神(ノ)詞の未に、獻2天之|眞魚咋《マナクヒ》1也、と見え、又常に眞魚板《マナイタ》、眞名箸《マナバシ》などもいひ、又鮓にする魚を須志奈《スシナ》、魚を納る屋を奈夜《ナヤ》といへり、(皆饌に用ふるよしの名なり、尾張(ノ)國横須賀といふ地に、先年やどりたりしに、其(ノ)地の者、川魚、の小きを水菜《ミヅナ》といへりしよし、秋齊間語にしるせり、)さて本は何にまれ、飯に附て食ふ物をいふ名にて、そはもはら魚と菜とを用ふるなれば、魚菜を共に奈《ナ》と呼り、(魚をも菜をも奈《ナ》といふは、もとより同言なり、)故(レ)此(ノ)集十一に、朝魚夕菜《アサナユフナ》と見えたり、(かく字を換て書たるは、奈《ナ》といふは、魚にも菜にもわたれるが故ぞ、)○美多多志世利斯《ミタタシセリシ》は、御立《ミタチ》賜ひしと云むが如し、御立は二(ノ)卷に、御立爲之島乎見時《ミタヽシシシマヲミルトキ》、十九に、舶騰毛爾御立座而《フナドモニミタヽシマシテ》、古事記下(ツ)卷仁徳天皇(ノ)條に、爾天皇|御2立《ミタヽシテ》其大后所坐殿戸(ニ)1、歌曰云々、などあり、○伊志遠多禮美吉《イシヲタレミキ》は、石を見し人や誰といふが如し、石を見し人や誰といふ意にいひて、をの見し人を羨む意を含ませたるなり、さて常の例に見吉《ミキ》といふときは、吉《キ》は、さきにありしことを、(92)今かたるてにをはにて、家利《ケリ》といふに近き詞(即|家利《ケリノ》切|吉《キ》、)なるを、こゝは誰といひて、見吉《ミキ》といへるは、常の例に違ひて、甚いかゞなり、(故(レ)本居氏は、吉は志を誤れるにて、タレミシ〔四字右○〕なるべしと云り、しかするときはこともなけれども、猶よく思ふに、こゝはたれ見しとては、今少し詞つきよわく聞えて、おだやかならざるなり、)故考(フ)るに、此は古風の一格にて、見しといふ意なる處を、見きといひしことありしなるべし、三(ノ)卷に、雨爾零寸八《アメニフリキヤ》、四(ノ)卷に、夢所見寸八《イメニミエキヤ》、八(ノ)卷に、如何告寸八《イカニツゲキヤ》、十(ノ)卷に、妹等所見寸我哉《イモトミエキヤ》などあるも、雨に零しや、夢に見えしやの意と聞えて、其(ノ)餘なるもみな同じ、(雨に零しや、夢に見えしやと云ては、おだやかならず、)さればこれらの吉《キ》は、志《シ》といふに自ら相通ふ言にて、今の歌も誰《タレ》見《ミ》し哉《ヤ》といふ意にて、全《モハラ》右の例共と同じ、(こゝに美吉夜《ミキヤ》、と夜《ヤ》の言をいはざるは、しかいひては詞のあまれる故、略きてもいひしことありしなるべし、)さて其(ノ)御立給ひし石は、雲根志に、肥前(ノ)國松浦(ノ)郡浮島と、玉島川の間の松原に大石あり、其(ノ)石方七尺ばかり、むらさき石と俗によべり、此(ノ)石の上に女鉤をたるゝ時は、鮎魚《アユ》を多く得、男釣すれば、かつて得ずといへり、昔(シ)神功皇后三韓退治の時、此(ノ)石上に立て、うけひて釣し給ひしよし云傳へたりとしるせり、〔頭註、【新古今集十一、みかの原わきて流るゝ泉川いつみきとてかこひしかるらむ、全同例なり、源有房集、故郷のなはのつぶら江こととはむ昔もかゝる月はすみきと、】〕○歌(ノ)意は、息長帯姫(ノ)尊の、御饌料の魚釣賜ふとて、御立し賜ひしといふ、松浦河の磯を見し人や誰そ、さて/\うらやましき事哉、となり、此(ノ)歌の御故事は、上遊2(93)於松浦河1歌(ノ)序に、古事記、書紀を引るが如し、
 
870 毛毛可斯母《モモカシモ》。由加奴麻都良遲《ユカヌマツラヂ》。家布由伎弖《ケフユキテ》。阿須波吉奈武遠《アスハキナムヲ》。奈爾可佐夜禮留《ナニカサヤレル》。
 
毛毛可斯母《モモカシモ》は、百日《モヽカ》もなり、斯《シ》は例の、其一(ト)すぢを重くいふ助辭なり、百日を經て行べき松浦道ならず、今日行たらば、はや明日は、歸來むほどの近き間のよしなり、八百日往濱《ヤホカユクハマ》などもいひて、道路の遠きことを、百日往《モヽカユク》とはいふなり、○奈爾可佐夜禮留《ナニカサヤレル》は、何《ナニ》か障有《サヤレル》なり、○歌(ノ)意は、百日を經て行べき遠き松浦道ならば、いかに思ふとも力(ラ)に及がたし、今日行たらば、明日は歸來むほどの近き處なるを、何事の障(リ)に依てか、得行ずてあらむ、となり、
 
天平二年七月十一日《テンピヤウフタトセトイフトシフミツキノトヲカマリヒトヒ》。筑前國司山上憶良謹上《ツクシノミチノクチノクニノミコトモチヤマノヘノオクラツヽシミテタテマツル》。
 
按に、已上三首歌は、事實は前に載たる、遊2於松浦河1歌より上に有べし、其(ノ)所由《ヨシ》は、此(ノ)三首は、未(ダ)松浦の地に到らざりし時の作と見ゆればなり、さてその歌に書牘をそへて、人の許へ贈れるは、此に記せる如く、天平二年七月の事なるべし、さてその人におくれる年月の次によりて、こゝには載たるならむ、
 
詠《ヨメル》2領巾麾嶺《ヒレフリノネヲ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
此題詞も、舊本にはなし、目録又古寫小本、拾穗本等に從つ、
 
(94)大伴佐提比古郎子《オホトモノサデヒコノイラツコ》。特《ヒトリ》被《カヾブリ》2朝命《オホミコトヲ》1。奉2使《マケラル》藩國《ミヤツコクニニ》1。艤棹言歸《フナヨソヒシテユキ》。稍赴(ム)2蒼波(ヲ)1。妾也松浦佐用嬪面《ソノメサヨヒメ》嗟(キ)2此(ノ)別(ノ)易(ヲ)1。歎(ク)2彼(ノ)會(ノ)難(ヲ)1。即登(テ)2高山之嶺(ニ)1。遥(ニ)望2離去之船(ヲ)1。悵然(トシテ)斷(チ)v腸(ヲ)。黯然(トシテ)銷(ツ)v魂(ヲ)。遂(ニ)脱(テ)2領巾《ヒレヲ》1麾《フル》之。傍者莫(リキ)v不(ハ)2流涕《カナシマ》1。因《カレ》號(ヲ)2此山《コノヤマヲ》1曰《ナヅクトイヘリ》2領巾麾之嶺《ヒレフリノネト》1也。乃(チ)作歌曰《ウタヨミスラク》。
 
大伴(ノ)佐提比古は、宣化天皇(ノ)紀に、二年冬十月壬辰朔、天皇|以《ヨリテ》3新羅《シラキノ》寇《アタナフ》2於任那(ニ)1、詔2大伴(ノ)金村(ノ)大連(ニ)1、遣(テ)2其(ノ)子磐(ト)與(ヲ)2狹手彦《サテヒコ》1以助(シム)2任那(ヲ)1、是時磐留2筑紫(ニ)1、執(テ)2其(ノ)國(ノ)政(ヲ)1以備(フ)2三(ノ)韓《カラクニヽ》1、狹手彦往(テ)鎭《シヅメ》2任那(ヲ)1、加《マタ》救(フ)2百濟(ヲ)1、欽明天皇(ノ)紀に三十三年八月、天皇遣(テ)2大將軍《オホキイクサノキミ》大伴(ノ)連《ムラジ》狹手彦(ヲ)1、領《ヰテ》2兵敷萬《チヨロヅノイクサヲ》1伐《ウタシム》2于高麗(ヲ)1、狹手彦乃用(テ)2百濟(ノ)計《タバカリヲ》1打2破《ウチヤブリキ》高麗(ヲ)1、其(ノ)王|踰《コエテ》v墻(ヲ)而|逃《ニゲヌ》、狹手彦逐(ニ)乘(テ)v勝(ニ)以入(テ)v宮(ニ)、盡《コト/”\ニ》得(テ)2珍寶※[貝+化]賂七繊鐵《タカラモノナヽヘノオリモノヽトバリノ》屋(ヲ)1還來《マヰケリ》、と見えたり、○特(ノ)字、類聚抄には時と作り、○藩國(類聚抄、古寫本、人麻呂勘文等には、漢國と作り、)は、藩は蕃と同じ、清寧天皇(ノ)紀に、三年十一月、是月海表(ノ)諸藩《クニグニ》竝遣v使(ヲ)進調《ミツギタテマツル》、繼體天皇(ノ)紀に、六年冬十二月、云々、夫住吉(ノ)神初以2海表金銀之國、高麗百濟新羅任那等(ヲ)1、授2託《サヅケタマヘリ》胎中譽田(ノ)天皇(ニ)1、故(レ)大后氣長足姫(ノ)尊、與2大臣武内(ノ)宿禰1、毎(ニ)v國初(テ)置2宮家《ミヤケヲ》1、爲2海表《トツクニ》之蕃屏《マガキト》1、其來(ルコト)尚(シ)矣、抑々有v由焉、欽明天皇(ノ)紀に、西(ノ)蕃《クニ》、又海表(ノ)諸蕃《クニ/”\》、又海西(ノ)蕃國《トナリノクニ》など見ゆ、姓氏録に、諸蕃とあるは、外國歸化の姓氏なり、○艤は、字書に整v舟(ヲ)也、といへり、○佐用嬪面(ノ)四字、舊本に細書にせるはわろし、今は類聚抄、人麻呂勘文、拾穗抄等に從つ、○嗟此別易、歎彼會難は、遊仙窟に、所v恨(ル)別易(ク)會難(キ)去留乖隔、とあるによれり、○悵然斷v腸、悵(ノ)字、類聚砂には忙と作り、腸(ノ)字、舊本には肝と作り、今は異本に從(95)つ、○黯然銷魂、(黯(ノ)字、舊本に黙、類聚抄、古寫小本に點と作るは誤なり、今は拾穗本に從つ、)文選江淹(カ)別賦に、黯然銷v魂者唯別而已矣、とあるによれり、○領巾は、和名抄に、領巾(ハ)婦人頂上(ノ)錺也、日本紀私記(ニ)云、比禮《ヒレ》、天武天皇(ノ)紀に、十一年、云々、亦|膳夫《カシハデ》采女等之|手襁《タスキ》肩巾《ヒレ》(肩巾、此云2比例《ヒレイ》1、)並莫v服、續紀に、文武天皇慶雲二年夏四月丙寅、先v是諸國采女肩巾田依v令(ニ)停之、至v是復v舊(ニ)焉、枕册子に、五月の節のあやめの藏人、さうふのかづら、あかひもの色にはあらぬを、領巾《ヒレ》裙帯《クタイ》などして、藥玉を、みこたち上達部などの、立なみ給へるに奉るも、いみじうなまめかし、又采女八人馬にのせてひき出めり青すそ濃の裳|裙帶《クタイ》領巾《ヒレ》などの、風に吹やられたるいとをかし、(紀略に、天禄三年乙亥四月五日未時雨降、雨中色赤如2火桶1、又如2比禮(ノ)1物見、又雨水、とある比禮も、領巾なるべし、〉○此(ノ)狹手彦《サデヒコ》、佐用比賣《サヨヒメ》の事、肥前風土記に、松浦縣、縣東三十里有2〓搖岑1、(〓搖、此云2比禮府離《ヒレフリト》1、)最項有v沼|計2可《バカリ》半町1、俗傳云、昔者|檜前《宣化》(ノ)天皇之世、遣2大伴紗手比古(ヲ)1鎭2任那(ノ)國(ヲ)1、于v時奉v命(ヲ)經2過此處(ヲ)1、於是篠原(ノ)村(ニ)(篠(ハ)資農《シヌ》也、)有2娘子1、名曰2乙等《オト》比賣(ト)1、容貌端正孤爲2國色1、紗手比古|便娉《ヨバヒテ》成v婚《メヲト》、離別之日、乙等比賣登2此(ノ)岑(ニ)擧v〓(ヲ)招、因以爲v名(ト)、と見え、又袖中抄に、童蒙抄を引て云るやう、肥前(ノ)國風土記(ニ)曰、昔(シ)武《宣化》小廣國押楯(ノ)天皇之世、大伴(ノ)狹手彦(ノ)連任那(ノ)國をしづめ、かねて百濟の國をすくはむがために、みことのりをうけ給はりて、此(ノ)村に至りぬ、すなはち篠原(ノ)村弟日姫子を娉しつ、其(ノ)形人に勝れたり、別去(ル)日鏡をとりて婦にあたふ、婦わかれのかなしびをいたきて、く(96)りかはをわたり、あたふるところのかゞみをだいて、かはに沈みぬ、こゝをかゞみのわたりといふ、狹手彦船を出してさるとき、弟日姫子こゝにのぼりて、袖をもちてふりまねく、この故に、そでふるみねといふ、云々、又筑前(ノ)國風土記うちあげ濱の所に云く、狹手彦(ノ)連、舟にのりて海にとゞまりて、わたることをえがたし、爰に石勝推ていはく、此(ノ)舟のゆかざることは海神の心なり、其(ノ)神はなはだ、狹手彦連がゐてゆくところの妾|那古《ナコ》君をしたふ、これをとゞめばわたるべし、于時彦(ノ)連妾とあひなげく、皇命をかゝむことをおそれて、うつくしびをたちて、こものうへにのせて、浪にはなちうかぶと云々、とあり、かれ肥前(ノ)風土記なるは、皆佐用比賣を乙等比賣とも、語傳しなるべし、又筑前(ノ)國風土記にある那古君は、別妾を率て往けるなるべし、
 
871 得保都必等《トホツヒト》。麻通良佐用比米《マツラサヨヒメ》。都麻胡非爾《ツマコヒニ》。比例布利之用利《ヒレフリシヨリ》。於返流夜麻能奈《オヘルヤマノナ》。
 
非(ノ)字、拾穂本には比と作り、○比例布利之用利《ヒレフリシヨリ》は、欽明天皇(ノ)紀に、二十三年秋七月、云々、調吉士伊企儺《ツキノキシイキナ》、爲人勇烈終《ヒトヽナリハゲシクテツヒニ》不《ズ》2降伏《シタガハ》1、云々、由(テ)v是(ニ)見《エヌ》v殺《コロサ》、云々、其(ノ)妻《メ》大葉子亦《オホバコマタ》見《ラエ》v禽《トラヘ》愴然而歌曰《カナシミテウタヘラク》、柯羅倶爾能基能陪爾陀致底於譜磨故幡比例甫羅須母耶魔等陛武岐底《カラクニノキノヘニタチテオホバコハヒレフラスモヤマトヘムキテ》、或有和曰《アルヒトコタヘイヘラク》、柯羅倶爾能基能陪※[人偏+爾]陀致底於譜磨故幡比例甫羅須彌喩那※[人偏+爾]婆陛武岐底《カラクニノキノヘニタチテオホバコハヒレフラスミユナニハヘムキテ》、源氏物語澪標花鳥餘情に、おちくぼ物語(97)の歌を引て云、いまはとて島こぎはなれ行舟もひれふる袖と見るぞかなしき、新古今集に、顯昭法師、萩が花眞袖にかけて高圓のをのへの宮に比禮振《ヒレフル》やたれ、などあり、○歌(ノ)意は、松浦佐用姫が、夫(ノ)君狹手彦に夫戀《ツマコヒ》するとて、領巾麾《ヒレフリ》し、其(ノ)時より名に負持せたる山(ノ)名ぞ、となり、
 
後人追和歌一首《ノチノヒトガオヒテナゾラフルウタヒトツ》。
 
歌一首(ノ)三字、舊本にはなし、今は拾穗本に從つ、○古寫小本、拾穗本等に、姓名未詳とあり、
 
872 夜麻能奈等《ヤマノナト》。伊賓都夏等可母《イヒツゲトカモ》。佐用比賣何《サヨヒメガ》。許能野麻能閉仁《コノヤマノヘニ》。必例遠布利家無《ヒレヲフリケム》。
 
許能野麻能閉仁《コノヤマノヘニ》は、此(ノ)山之上《ヤマノヘ》になり、○歌(ノ)意は、山(ノ)名に負持せて、末代に云繼(ゲ)とてか、佐用姫が此(ノ)山の上にて、領巾を麾《フリ》けむ、となり、
 
最後人追和歌一首《イトノチノヒトガオヒテナゾラフルウタヒトツ》。
 
歌一首三字、舊本にはなし、給穗本に從つ、○古寫小本、拾穗本等に、姓名未詳とあり、
 
873 余呂豆余爾《ヨロヅヨニ》。可多利都夏等之《カタリツゲトシ》。許能多氣仁《コノタケニ》。比例布利家良之《ヒレフリケラシ》。麻通羅佐用嬪面《マツラサヨヒメ》。
 
許能多氣仁《コノタケニ》は、此嶽《コノタケ》になり、多氣《タケ》は、和名抄に、蒋魴(ガ)切韻(ニ)曰、嶽(ハ)高山(ノ)名也、漢語抄云、美太介《ミタケ》、とあり、(眞嶽の義なり、)古事記に、筑紫日向之高千穗之|久士布流多氣《クジフルタケ》、雄略天皇大御歌に、美延斯怒能(98)袁牟漏賀多氣爾《ミエシヌノヲムロガタケニ》、書紀雄略天皇(ノ)大御歌に、野磨等能嗚武羅能陀該爾《ヤマトノヲムラノタケニ》、などあり、さて名(ノ)義は、契冲が、多氣は多加にて、高しと云(フ)ことをもて、名付たりと聞ゆ、と云り、(十(ノ)卷に、弓月我高《ユヅキガタケ》、十三に、御金高《ミカネノタケ》、吉野之高《ヨシヌノタケ》などもあれば、さもあるべし、されどたゞ多加《タカ》といふは、山に限るべきことならねば、いかゞなり、)今案(フ)に、多氣《タケ》は多加禰《タカネ》の約れる言にて、高嶺《タカネ》の義なりけり、(加禰《カネ》は氣《ケ》と切れり、)故(レ)多氣《タケ》といふ處に、高嶺ともかけり、三(ノ)卷に、霰零吉志美我高嶺乎《アラレフリキシミガタケヲ》云々とあり、思合(ス)べし、○歌(ノ)意は、萬代の末までに、吾(ガ)故事を一(ト)すぢに語りつげとて、佐用姫が此嶽に領巾を麾《フリ》けらし、となり、
 
最最後人追和歌二首《イトイトノチノヒトガオヒテナゾラフルウタフタツ》。
 
人(ノ)字、舊本には脱、目録又古寫一本、拾穗本等に從つ、○歌(ノ)字、舊本にはなし、拾穗本に從つ、○古寫小本、拾穗本等に、姓名未詳とあり、
 
874 宇奈波良能《ウナハラノ》。意吉由久布禰遠《オキユクフネヲ》。可弊禮等加《カヘレトカ》。比禮布良斯家武《ヒレフラシケム》。麻都良佐欲比賣《マツラサヨヒメ》。
 
宇奈波良《ウナハラ》は、海之原《ウノハラ》なり、即廿(ノ)卷には、宇乃波良《ウノハラ》ともよめり、(和名抄には、阿乎宇三波良《アヲウミハラ》、とあり、)○歌(ノ)意は、海原の沖遙に漕別れて、三韓|言向《コトムケ》の爲に行(ク)夫(ノ)君狹手彦を戀慕ひて、かへれとてか、佐用姫が領巾を麾賜ひけむ、となり、
 
(99)875 由久布禰遠《ユクフネヲ》。布利等騰尾加禰《フリトドミカネ》。伊加婆加利《イカバカリ》。故保斯苦阿利家武《コホシクアリケム》。麻都良佐欲比賣《マツラサヨヒメ》。
 
布利等騰尾加禰《フリトドミネ》は、領巾を振て、夫(ノ)君の船を留かねの謂なり、加禰《カネ》は、しかせむと心に欲《ネガ》ふ事の、つひにその本意を得ざるをいふ辭なり、○故保斯苦《コホシク》(故(ノ)字、拾穗本には古と作り、)は、戀しくなり、此(ノ)上の梅(ノ)歌の中に見えたり、○歌(ノ)意は、夫(ノ)君の行船を呼かへさむとて、領巾を麾けむが、つひにその本意を得ずして、漸々に船の遠ざかりゆくにつきては、いかばかりか、佐用姫が戀しく思ひけむぞとなり、
 
書殿餞酒日倭歌四首《フミトノニテウマノハナムケセルヒノヤマトウタヨツ》。
 
書殿は、フミトノ〔四字右○〕と訓べし、後(ノ)世の書院の事なり、和名抄に、校書殿(ハ)、二方品員(ニ)云、累代(ノ)書籍在2此(ノ)殿(ニ)1、置2局當人(ヲ)1以典2校書殿(ヲ)1、俗(ニ)云、布美止乃《フミトノ》、江次第に、文殿(ノ)官人、依2官宣(ニ)1注2東西北僧數(ヲ)1、此等は公の文殿なり、今は私の書院なるべし、源氏物語賢木に、殿にも文殿《フドノ》あけさせ給ひて、まだひらかぬみづしどもの、めづらしき古集のゆゑなからぬ、すこしえりいでさせ給ひて云々、玉葛に、うしとらのまちの西の對、文殿《フドノ》にてあるを、ことかたへうつしてとおぼす云々、紫式部日記に、遍昭等の僧都は、文殿などにうちつれたる云々、十訓抄に、史大夫朝親といふもの有けり、學生なりければ、爰かしこに文師にてありきけり云々、我は文殿《フドノ》の衆にて、おのづから御書(100)沙汰の時は參ればとて、大路にうずくまり居たり、なども見えて、文殿は、公《オホヤケ》にも、私にも、さるべき家には必(ズ)ありしなり、○餞酒は、玉篇に、餞(ハ)送行設宴也、字鏡に、餞(ハ)酒食(シテ)送v人(ヲ)也、馬乃波奈牟介《ウマノハナムケ》、土佐日記に、講師馬のはなむけしにいでませり、とあり、江次第に、馬鼻向と書り、○倭歌、すべて歌を、後にいふごとく、倭歌と書ること古(ヘ)はなし、こゝは送別の詩有し故に、それに對(ヘ)てことに倭歌とことわれるなるべし、上にも詩にならべて、日本挽歌と書せり、○此は天平二年十二月、帥大伴(ノ)旅人(ノ)卿、大納言に任《メ》されて、京にのぼりたまふ時、憶良の書院にて、餞する時の歌なり、
 
876 阿摩等夫夜《アマトブヤ》。等利爾母賀母夜《トリニモガモヤ》。美夜故摩提《ミヤコマデ》。意久利摩遠志弖《オクリマヲシテ》。等比可弊流母能《トビカヘルモノノ》。
 
阿摩等夫夜《アマトブヤ》(摩(ノ)字、拾穗本には麻と作り、)は、空飛《ソラト》ぶ余《ヨ》といはむが如し、也《ヤ》は助辭なり、二(ノ)卷に、天飛也輕路者《アマトブヤカルノミチニ》、四(ノ)卷に、天翔哉輕路從《アマトブヤカルノミチヨリ》、十一に、天飛也輕乃社之《アマトブヤカルノヤシロノ》、八(ノ)卷に、天飛也領巾《アマトブヤヒレ》、十五に、安麻等夫也可里乎都可比爾《アマトブヤカリヲツカヒニ》、古事記輕(ノ)太子御歌に、阿麻登夫登理母都加比曾《アマトブトリモツカヒソ》、などあり、○等利爾母賀母夜《トリニモガモヤ》は、鳥にもがななり、夜《ヤ》は助辭、余《ヨ》といふに同じ、既く一(ノ)卷(ノ)初に云り、四(ノ)卷安貴(ノ)王(ノ)長歌に、高飛鳥爾毛欲成明日去而於妹言問《タカトブトリニモガモアスユキテイモニコトトヒ》、とあり、○意久利摩遠志弖《オクリマヲシテ》は、送(リ)申してなり、申はあがめていふ時の辭なり、おくりまゐらせてと云むが如し、さて申は、古(ヘ)は此處の假字の如く、麻遠(101)須《マヲス》とのみいへり、古事記、書紀、此(ノ)集皆然り、(麻宇須《マウス》といふは、やゝ後に音便に頽れたるものなり、しかるを契冲が、遠《ヲ》と宇《ウ》と五音通ぜり、芭蕉を、古今集にはせをとよみ、紅梅を、拾遺集にこをばいとよめる、これに同じといへるはわろし、麻遠須《マヲス》を麻宇須《マウス》といふ如きは、よのつねの通音の例とはたがへるをや、さて集中にも、十五、十八、廿の卷には、麻宇須《マウス》ともいへれば、やゝ奈良(ノ)朝の末つかたよりは、さもいひけるなるべし、式部式に、任申(ハ)、麻宇世留麻麻爾《マウセルママニ》、とあり、)○等比可弊流母能《トビカヘルモノ》は、飛歸るべきものをの意なり、母能乎《モノヲ》と云べきを、母能《モノ》とのみ云る例は、四(ノ)卷に、附手益物《ツケテマシモノ》、古事記履中天皇(ノ)御歌に、母知底許麻志母能《モチテコマシモノ》、雄略天皇(ノ)御歌に、韋泥弖麻斯母能《ヰネテマシモノ》、書紀應神天皇(ノ)御歌に、阿比瀰菟流莫能《アヒミツルモノ》、などある此(レ)なり、さて云々《シカ》るべき物を、といふ意の類の處を、かくさまに云る例は、十三に、公奉而越得之牟物《キミニマツリテヲチエシムモノ》、とある此(レ)なり、(令《シム》v得《エ》2變若《ヲチ》1べきものゝ意なり、)古事記雄略天皇(ノ)御歌に、袁登賣能伊加久流袁加袁《ヲトメノイカクルヲカヲ》、加那須岐母伊本知母賀母《カナスキモイホチモガモ》、須岐婆奴流母能《スキハヌルモノ》、ともあり、○歌(ノ)意は、空飛鳥にてもがなあれかし、さらば京まで送りまゐらせて、やがて飛歸るべきものをとなり、
 
877 比等母禰能《ヒトミナノ》。宇良夫禮遠留爾《ウラブレヲルニ》。多都多夜麻《タツタヤマ》。美麻知可豆加婆《ミマチカヅカバ》。和周良志奈牟迦《ワスラシナムカ》。
 
比等母禰能は、本居氏、母禰は彌那を下上に誤、また彌を禰に、那を母に誤れるなるべしとい(102)へり、さも有べし、人皆之《ヒトミナノ》なり、○宇良夫禮遠留爾《ウラブレヲルニ》は、裏觸居《ウラブレヲル》になり、心(ノ)裏にうれひうなだれをるよしなり、○多都多夜麻《タツタヤマ》(夜の上、舊本に、都(ノ)字あるは衍なり、古寫一本、古寫小本、活字本等になきに從つ、拾穗抄にも古本無としるせり、)は、立田山にの意なり、○美麻知可豆加婆《ミマチカヅカバ》は、御馬近就者《ミマチカヅカバ》なり、御馬《ミウマ》を美麻《ミマ》といふは、和名抄に、牡馬を乎萬《ヲマ》、牝馬を米萬《メマ》、駒を古萬《コマ》とある例に同じ、○和周良志奈牟迦《ワスラシナムカ》は忘《ワスレ》賜ひなむ歟《カ》の意なり、○歌(ノ)意は、君にけふ別れてば、後は此方にて、人皆共にうれひうなだれをるに、君が御馬が立田山に近付なば、其程は故郷の近くなるよろこびにのみ、はや我等が事をば忘れ賜ひなむかといふなり、(舊説は誤れり、〉
 
878 伊比都都母《イヒツツモ》。能知許曾斯良米《ノチコソシラメ》。等乃斯久母《シマシクモ》。佐夫志計米夜母《サブシケメヤモ》。吉美伊麻佐受斯弖《キミイマサズシテ》。
 
能知許曾斯良米等乃斯久母(知(ノ)字拾穗本には智と作り、)本居氏云、或人説に、斯良米の斯は、阿の誤、等乃は志萬の誤にてノチコソアラメシマシクモ〔ノチ〜右○〕と訓べし(又云、一首の意は、戀しなどいひつゝも、後にはさも有べけれど、此しばらくのほども、君いまさでさびしからむかなり、けむといふべきを、けめといへるは、推古紀におやなしになれなり鷄米夜《ケメヤ》と有、なりけむやなりといへり、此(ノ)歌意の説はわろし、次にいふべし)といへり、余云、此(ノ)中に、斯は阿の誤といへるは非じ、本のまゝにてよろし、等乃は志萬の誤といへる、さもあるべし、○歌(ノ)意は、戀しきな(103)どいひつゝも、まのあたりはさしもなきを、後にこそおもひしるべきなれ、たゞしばしばかりさぶしくあらむやは、君いまさずして後、いよ/\さぶ/\しからむぞ、といふなるべし、」
 
879 余呂豆余爾《ヨロヅヨニ》。伊麻志多麻比提《イマシタマヒテ》。阿米能志多《アメノシタ》。麻乎志多麻波禰《マヲシタマハネ》。美加度佐良受弖《ミカドサラズテ》。
 
麻乎志多麻波禰《マヲシタマハネ》(乎(ノ)字、活字本には于と作り、なほ舊本に從べし、)は、天(ノ)下の政を執奏《マヲ》し給はねといふなり、此(ノ)下好去好來(ノ)歌に、神奈我良愛能盛爾《カムナガラメデノサカリニ》、天下奏多麻比志《アメノシタマヲシタマヒシ》、家子等選多麻比弖《イヘノコトエラビタマヒテ》云々、
 
二(ノ)卷高市(ノ)皇子(ノ)尊の薨(セ)賜ひし時、人麻呂のかなしみよめる歌に、八隅知之吾大王之《ヤスミシシワガオホキミノ》、天下申賜者《アメノシタマヲシタマヘバ》、萬代然之毛將有登《ヨロヅヨニシカシモアラムト》云々などあり、○美加度佐良受弖《ミカドサラズテ》は、不《ズ》v離《サラ》2庭朝《ミカド》1而《テ》なり、(天(ノ)下をさして、わがみかどといふがごときは、もろこしにて、本朝、我朝など云よりうつれる、いと後の事《コト》にして、古義にはもとれり、)○歌(ノ)意は、萬代におはしまして、朝廷を離れずに、天(ノ)下の政を執|奏《マヲ》し給へ、わ大伴(ノ)卿の壽長くて、忠勤を勵まし給はむことを、視て願へるなり、
 
散《アヘテ》布《ノブル》2私懷《オモヒヲ》1歌三首《ウタミツ》。
 
敢(ノ)字、舊本には聊と作り、今は拾穗本、又人麻呂勘文等に從つ、○契冲云、これも同じ時、憶良のよまれたれども、さきの歌は、離別の情をのべ、此(ノ)歌どもは、七十にあまるまで、外任にをることをうれへて、大伴(ノ)卿の吹擧をあふぐなり、
 
(104)880 阿麻社迦留《アマサカル》。比奈爾伊都等世《ヒナニイツトセ》。周麻比都都《スマヒツツ》。美夜故能提夫利《ミヤコノテブリ》。利周良延爾家利《ワスラエニケリ》。
 
伊都等世《イツトセ》、本居氏、年を常には登志《トシ》と云を、其(ノ)數を云には、凡て三登世《ミトセ》、八登世《ヤトセ》など登世《トセ》と云、登世《トセ》は年經《トシヘ》なり、志弊《シヘ》は世《セ》と切れりと云り、憶良の任國の事、契冲云(ク)、神龜三年に、筑前(ノ)守を拜せられたるなるべし、續紀廢帝寶字二年冬十月甲子、勅(ニ)云、頃年國司交替(スルコト)皆以2四年(ヲ)1爲v限(ト)、斯則適(ニ)足(テ)v勞v民(ヲ)未v可2以化(ス)1、自v今以後、宜d以2六歳(ヲ)1爲(テ)v限(ト)、省c送v故(ヲ)迎(ル)v新(ヲ)之費(ヲ)u、或記(ニ)云、仁明天皇承和元年七月(ノ)勅(ニ)諸國守介者以2四年(ヲ)1可v爲v限(ト)、但陸奥出羽太宰府謂2之官國1、僻在2千里(ニ)1、以2五年(ヲ)1可v爲2任限1云々、寶字二年の勅には、頃年國司の交替、皆四年を限とせるよしあれども、天平の初までは、それより久しかりけるなるべし、頃年とは、天平の未よりの事にこそあらめ、全四年を經れば、始終は五年にわたることわりなれども、憶良は今年も任はてずして、春さらば奈良の都にめさげたまはねとよみ、下に大伴(ノ)熊凝が、天平三年六月相撲使某の從人にて、肥前より(前は後に改作べし、)都へ上る時、安藝(ノ)國佐伯(ノ)郡にて、煩(ヒ)出して、死ける事をいたみてよまれたる歌も、猶筑前(ノ)守たる時なれば、其(ノ)年歸京せられたりとも、六年にわたれば、全は五年の任なり、承和元年の勅に、太宰府等、五年を任限と爲べきよし、定させ賜ひけるは、六年の長きと、尋常の國の短きとの間を取(リ)、昔にかへりて、五年にかぎらせたまへるか、今の心は、任の限の期を過るには(105)あるまじけれど、餘命かぎりあれば、歸京をいそがるゝなり、〔頭註、【承和元年云々、檢續後紀、承和元年條無所見、更可尋」土佐日記抄、或記云、仁明天皇承和元年七月勅、諸國守介者以四年可爲限、但陸奥出羽太宰府謂之官國、始自筑前等僻在千里、以五年可爲任限、云々、」濫觴抄、嵯峨天皇弘仁六年乙未、定諸國司以四年爲任限。仁明天皇承和二年乙卯七月三日勅、諸國守介四年爲限、但陸奥出羽太宰府等僻在千里、書來多煩、不可更改、】〕○美夜故能堤夫利《ミヤコノテブリ》は、京の風俗《フルマヒ》といはむが如し、袖中抄左京兆(ノ)歌に、うき身には都のてぶりわすられてひなへさそはむ東づもがな、と有(リ)、○歌(ノ)意は、五年の久しき間、夷《ヒナ》の住居になれ/\つゝ、此(ノ)ほどは、京のみやびたるふるまひも、いつとなくわすられにけりとなり、
 
881 加久能未夜《カクノミヤ》。伊吉豆伎遠良牟《イキヅキヲラム》。阿良多麻能《アラタマノ》。吉倍由久等志乃《キヘユクトシノ》。可伎利斯良受提《カギリシラズテ》。
 
伊吉豆伎《イキヅキ》は、息衝《イキヅキ》なり、良き息を衝ことなり、(息繼《イキツギ》といふにはあらず、)此(ノ)下にも、夜波母息豆伎阿可志《ヨルハモイキヅキアカシ》と見ゆ、集中往々見えたる詞なり、古事記應神天皇(ノ)大御歌にも、美本杼埋能迦豆伎伊岐豆岐《ミホドリノカヅキイキヅキ》とあり、○吉倍由久等之能《キヘユクトシノ》は、來經往年之《キヘユクトシノ》なり、古事記尾張(ノ)國美夜受比賣(ノ)歌に、阿良多麻能登期賀岐布禮婆阿良多麻能都紀波岐閇由久《アラタマノトシガキフレバアラタマノツキハキヘユク》云々とあり、○歌(ノ)意は、任國に來り、經往(ク)年の限を知ずして、嗚呼《アヽ》京戀しや、京戀しやと、かくばかり長さ息をつきつゝ、いつまで夷の任にあらむことぞとなり、
 
882 阿我農斯能《アガヌシノ》。美多麻多麻比弖《ミタマタマヒテ》。波流佐良婆《ハルサラバ》。奈良能美夜故爾《ナラノミヤコニ》。※[口+羊]佐宜多麻(106)波禰《メサゲタマハネ》。
 
阿我農斯能《アガヌシノ》は、吾主之《アガヌシノ》なり、(後に和主《ワヌシ》といふに同じ、和主も吾主《ワヌシ》なればなり、今昔物語に、たゞし和主のときにはじまるなり云々、又某(ノ)少將の和主が出もせず云々、など見えたり、但し後に和主といふは、いさゝかかろしめていふやうにきこえたれど、古(ヘ)のはしからず、)農斯《ヌシ》といふは、本は、某能宇斯《ナニノシ》といふを初めて、其農斯《ナニヌシ》と云(能宇《ノウ》は、農《ヌ》と切れり、)より出たる言なり、かれ古言には、宇斯《ウシ》は、必(ス)某之宇斯《ナニノウシ》と之(ノ)を加へて云り、農斯《ヌシ》は某農斯《ナニヌシ》と直に連て、之(ノ)の言を加へぬ
 
なり、(たとへば神の御名に、飽咋之宇斯能神《アキクヒノウシノカミ》、大背飯之三熊之大人《オホセイヒノミクマノウシ》、和豆良比能宇斯神《ワヅラヒノウシノカミ》、天之御中主神《アメノミナカヌシノカミ》、大國主《オホクニヌシノ》神、事代主《コトシロヌシノ》神、經津主神《フツヌシノカミ》などあるが如し、又古事記に、丹波美知能宇斯《タニハノミチノウシノ》王とあるを、書紀には道主《ミチヌシノ》王とある、是にて農斯《ヌシ》は、能宇斯《ノウシ》の約れる言なるよしは明なり、)農斯《ヌシ》に之《ノ》をそへて、某|之農斯《ノヌシ》といひ又言(ノ)首に農斯《ヌシ》と云ることなどは、上古には曾て聞えざることなるを、此處に初て阿我農斯《アガヌシ》とあるは、阿我《アガ》は吾之《アガ》なれば、此(ノ)頃よりは、やゝかく云けむなるべし、(しかるを略解に、奴《ヌ》と宇《ウ》と通ひて、奴之《ヌシ》は則(チ)宇斯《ウシ》と同語なりと云るは、例の言の本をたどらざる非なり、)此より降《クダ》ちては猶多し、(土佐日記に、阿倍(ノ)仲麻呂のぬし、貫之集に、肥後守藤原のときすけといふぬし云々、又云、秋立日殿上のぬしたちの、川原に逍遥し給ふ云々、宇津穗物語俊蔭(ノ)卷に、しうのぬしたちもまうけたまへ云々、左大將わがぬしを醉し奉るも心ありや、(107)山家集に、泉のぬしかくれて云々、藤原基俊家集に、此ぬしのかへしを云々、今昔物語に、此(ノ)鬢たゝらといふは、守のぬしの鬢の落たるなり云々、此(ノ)ぬしたちはかならず《事歟》あるべし云々、又云、此(ノ)現しのしたりがほに云々、古今著聞集に、或夜このぬし妻と合宿したりけるが云々、慕景集に、敵北條(ノ)憲定のぬしつひに自害し云々、)又首に云るは、十八に、多多佐爾毛《タタサニモ》云々|奴之能等能度爾《ヌシノトノドニ》、とあり、(更科日記に、ぬしたち、てうどと卜おはさうせよや、今昔物語に、興あるわざし給ふぬしかな云々、又いでぬしたちかれ治し給へ云々、又あやしき死し給ひたるぬしかな云々、又此(ノ)參りたるぬしたちに、おとるべき身かは云々、又ながく人いたづらになしつるぬしかな、などあり、)○美多麻多麻比弖《ミタマタマヒテ》は、御靈賜而《ミタマタマヒテ》なり、(御恩頼《ミタマノフユ》を賜てといはむが如し、書紀に、恩頼《ミタマノフユ》と見ゆ、○※[口+羊]佐宜多麻波禰《メサゲタマハネ》は、召上賜《メシアゲタマ》はねなり、(之阿《シア》は佐《サ》と切れり、持上《モチアゲ》をモタゲ〔三字右○〕掻上《カキアゲ》を、カヽゲ〔三字右○〕などいふ類なり、徒然草に、古(ヘ)は車もたげよ、火かゝげよとこそいひしを、今やうの人は、もてあげよ、かきあげよといふとかけり、)續紀廿六(ノ)詔に、尊靈乃子孫乃遠流天在乎方《タフトキミタマノコドモノトホクハブリテアルヲバ》、京都仁召上天臣止成無止云利《ミヤコニメサゲテオミトナサムトイヘリ》、とあるに同じ、禰《ネ》は希望(ノ)辭なり、既く具(ク)註り、○歌(ノ)意は、吾(ガ)主の御恩頼《ミタマノフユ》を賜ひて、來年の春にならば、いかで京都に召上賜はねとなり、
 
天平二年十二月六日《テンヒヤウフタトセトイフトシシハスノムカノヒ》。筑前國司山上憶良謹上《ツクシノミチノクチノクニノミコトモチヤマノヘノオクラツヽシミテタテマツル》。
 
二年、古寫一本に、七年と作るは誤なり、
 
(108)三島王《ミシマノオホキミノ》。後追和松浦佐用殯面歌一首《ノチニオヒテナソラヘタマフマツラサヨヒメノウタヒトツ》。
 
三島(ノ)王は、續紀に、養老七年正月内子、無位三島(ノ)王(ニ)授2從四位下(ヲ)1、寶龜二年七月乙未、故從四位下三島(ノ)王之女、河邊(ノ)王葛王(ヲ)配2伊豆(ノ)國(ニ)1、至v是皆復屬v籍(ニ)と見ゆ、○後(ノ)字、古寫小本には無(シ)、○嬪面、目録には媛と作り、
 
883 於登爾吉岐《オトニキキ》。目爾波伊麻太見受《メニハイマダミズ》。佐容比賣我《サヨヒメガ》。必禮布理伎等敷《ヒレフリキトフ》。吉民萬通良楊滿《キミマツラヤマ》。
 
必禮布理伎等敷《ヒレフリキトフ》は、領巾振《ヒレフリ》きといふなり、伎《キ》は志《シ》といふに近くて、上に伊志遠多禮美吉《イシヲタレミキ》とある吉《キ》に同じ、○吉民萬通良楊滿《キミマツラヤマ》は、吉民《キミ》は、萬通良《マツラ》を云む料に云るのみなり、松(ノ)木を、君松《キミマツ》嬬松《ツママツ》など云る如く、君を待といふ意にいへる詞なり、(新三十六人選に、秋風に妻まつ山の夜を寒みなこそ尾上の鹿はなくらめ、)萬通良楊滿《マツラヤマ》は、松浦山なり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
大典麻田連陽春《オホキフミヒトアサタノムラジヤスガ》。爲《カハリテ》2大伴君熊凝《オホトモノキミクマコリニ》1。述《ノブル》v志《コヽロザシヲ》歌二首《ウタフタツ》。
 
舊本には、大伴君熊凝歌二首(大典麻田陽春作、)とあり、今は目録に從つ、古寫小本、又拾穗本にも、爲また述志(ノ)字あるなり、○麻田連陽春は、既く四(ノ)卷に見えたり、○大伴(ノ)君熊凝が事は、下にくはしく見ゆ、
 
884 國遠伎《クニトホキ》。路乃長手遠《ミチノナカテヲ》。意保保斯久《イホホシク》。許布夜須疑南《コフヤスギナム》。己等騰比母奈久《コトドヒモナク》。
 
(109)路乃長手遠《ミチノナガテヲ》(遠(ノ)字、類聚抄には乎と作り、)は、下に、都禰斯良農道乃長手袁《ツネシラヌミチノナガテヲ》、十二に、莫去跡《ナユキソト》云々|道之長手矣《ミチノナガテヲ》、十五に、君我由久道乃奈我弖乎《キミガユクミチノナガテヲ》などあり、長手《ナガテ》は長路なり、廿卷に、道乃長道波《ミチノナガチハ》、三(ノ)卷に、天離夷之長道從戀來者《アマザカルヒナノナガチニコヒクレバ》とあるに同じ、(本居氏が、手は繩《ナワ》手、又物に鎰之手《カギノテ》など云|手《テ》なり、と云るはいかゞあらむ、)按(フ)に、下の憶良大夫(ノ)歌を併(セ)考るに、此は佛家のいはゆる冥路を、路の長道と云るなるべし、○許布夜須疑南《コフヤスギナム》(許(ノ)字、古寫本、古寫一本、拾穗本には計と作り、其に依ば、今日や過なむなり、)は、戀《コフ》や過《スギ》なむなり、戀しく思ひつゝ、冥路をはる/”\と過行なむかと云なり、○己等騰比母奈久《コトドヒモナク》は、父母に物言(ヒ)かはすこともなくといふなり、○歌(ノ)意は、家なる父母に物言(ヒ)かはすこともなくて、いぶせく戀しく思ひつゝ、わが本國に遠き冥路を、はる/”\と過行なむか、過行(カ)るべきことには非ぬをと云なり、
 
885 朝露乃《アサツユノ》。既夜須伎我身《ケヤスキアガミ》。比等國爾《ヒトクニニ》。須疑加弖奴可母《スギカテヌカモ》。意夜能目遠保利《オヤノメヲホリ》。
 
朝露乃《アサツユノ》、(露(ノ)字、活字本には霧と作り、類聚抄にもアサギリノ〔五字右○〕とあれどなほ舊本に從ぞ宜き、)十一に、朝露之消安吾身雖老又若反君乎思將待《アサツユノケヤスキアガミオイヌトモマタヲチカヘリキミヲシマタム》、七(ノ)卷に、朝霜之消安命爲誰《アサシモノケヤスキイノチタカタメニ》、千歳毛欲得跡吾念莫國《チトセニモガトワガモハナクニ》などあるに同じ、○既夜須伎《ケヤスキ》は、消易《ケヤスキ》なり、○比等國爾《ヒトクニニ》は、他國《ヒトクニ》になり、十二に、他國爾結婚爾行而《ヒトクニニヨバヒニユキテ》云々とあり、契冲が、此《コヽ》に比等《ヒト》國といへるは、此(ノ)娑婆に對へて、黄泉を云るなるべしと云る、さもあるべし、○須疑加弖奴可母《スギカテヌカモ》は、過難《スギカテ》ぬ哉なり、黄泉に過行難にする謂なり、○意夜(110)能目遠保利《オヤノメヲホリ》は、父母を見まく欲《ホリ》しての謂なり、目遠保利《メヲホリ》といふことは、既く四(ノ)卷に具(ク)註(ヘ)り、○歌(ノ)意は、さらぬだに、朝露のごとき消安き吾(ガ)身のうへに、病さへおもりて、いまか/\となれるを、かく旅路にありて、父母の目を見まく欲してあれば、いよ/\冥路の客《タビ》に趣き難《カネ》つる哉といふなり、
 
筑前國司守山上憶良《ツクシノミチノクチノミコトモチノカミヤマノヘノオクラガ》。敬d和《ツヽシミテナゾラフルウタ》爲《カハリテ》2熊凝《クマコリニ》1。述《ノブル》2其志《ソノコヽロザシヲ》1歌《ウタニ》u六首井《ムツマタ》序。
 
國司守、(司(ノ)字、古寫本にはなし、)司は、掾目までひろく云ことなれば、司守と書り、○敬和已下九字、一本序(ノ)字の下にあり、敬和とは、陽春が歌に和《ナゾラ》へてよめるなり、
 
大伴(ノ)君熊凝者。肥後國益城《ヒノミチノシリノクニマシキノ》郡(ノ)人也。年|十八歳《トヲマリヤツ》。以(テ)2天平三年六月十七日《テムヒヤウミトセトイフトシミナツキノトヲカマリナヌカノヒヲ》1。爲(リ)2相撲使《スマヒノツカヒ》某(ノ)國(ノ)司《ミコトモチ》官位姓名(ノ)從人《トモビトヽ》1。參2向《マヰノボル》京都《ミヤコニ》1。爲《ナルカモ》v天不幸。在(テ)v路(ニ)獲v疾(ヲ)。即於2安藝國佐伯《アギノクニサイキノ》郡|高庭驛家《タカニハノウマヤニテ》1身故也《ミマカリヌ》。臨終《マカラムトスル》之時。長歎息(テ)曰(ク)。傳聞(ク)假合之身易v滅。泡沫之命難(シ)v駐(メ)。所以(ニ)千聖已(ク)去(リ)。百賢不v留(ラ)、况乎《マシテ》凡愚(ノ)微者。何(ソモ)能(ク)逃避(ム)。但我老親。並《ミナ》在(テ)2菴室(ニ)1。待(コト)v我(ヲ)過(シ)v日(ヲ)。自有(ラム)2傷v心(ヲ)之恨1。望(コト)v我違(ヘリ)v時(ヲ)。必致(ム)2喪(フ)v明(ヲ)之泣(ヲ)1。哀哉我父。痛哉我母。不v患2一身向v死之途(ヲ)1。唯悲(ム)2二親在生之苦(ヲ)1。今日長別(レ)。何世(カモ)得(ム)v覲(コトヲ)。乃|作《ヨミテ》2歌六首《ウタムツヲ》1而|死《ミマカリヌ》。其(ノ)歌(ニ)曰(ク)。
肥後、舊本に、肥前とあるは誤なり、古寫本、古寫一本、拾穗本、又異本等に從つ、○益城(ノ)郡は、和名(111)抄に、肥後(ノ)國益城(ノ)(萬志岐《マシキ》國府、)郡とあり、○佐伯(ノ)郡は、和名抄に、安藝(ノ)國佐伯(ノ)(佐倍木《サヘキ》、)郡とあり、○高庭(ノ)驛家は、和名抄に、佐伯(ノ)郡驛家とあり、高庭は、もし是にてはあるまじくや、○身故也、契冲案ずるに、身の下に、物の字をおとせるなるべし、物(ハ)無也、故(ハ)事也、死すれば又事を能する所なければ、物故といふといへり、○假名、(合(ノ)字、舊本には令と作り、古寫本、古寫一本、官本、拾穗本等に從つ、)佛書に、四大假合といふ事見えて、地水火風を假に合せたる身といふなり、○泡沫之命は、金剛般若經に、一切有爲(ノ)法(ハ)、如2夢幻泡影1、如v露亦如v電、應v作2如v是觀1とあり、此下に、水沫奈須微命母《ミナワナスモロキイノチモ》、とも見ゆ、○望我は、戰國策に、王孫賈之母曰、汝朝(ニ)出晩(ニ)來、吾則倚v門(ニ)而望v汝(ヲ)、とあるによれり、○喪v明は、檀弓に、予夏喪2其子(ヲ)1而喪2其明(ヲ)1、とあるによれり、○二親、親(ノ)字舊本説に誤れり、古寫本、古寫一本、古寫小本、官本、拾穗本等に從つ、○覲は、父母の安否を問(フ)をいふ、
 
886 宇知比佐受《ウチヒサス》。宮弊能保留等《ミヤヘノボルト》。多羅知斯能《タラチシノ》。波波何手波奈例《ハハガテハナレ》。常斯良奴《ツネシラヌ》。國乃意久迦袁《クニノオクカヲ》。百重山《モヽヘヤマ》。越弖須疑由伎《コエテスギユキ》。伊都斯可母《イツシカモ》。京師乎美武等《ミヤコヲミムト》。意母比都都《オモヒツツ》。迦多良比袁禮騰《カタラヒヲレド》。意乃何身志《オノガミシ》。伊多波斯計禮婆《イタハシケレバ》。玉桙乃《タマホコノ》。道乃久麻尾爾《ミチノクマミニ》。久佐太袁利《クサタヲリ》。志婆刀利志伎提《シバトリシキテ》。等許自母能《トコジモノ》。宇知許伊布志提《ウチコイフシテ》。意母比都都《オモヒツツ》。奈宜伎布勢良久《ナゲキフセラク》。國爾阿良婆《クニニアラバ》。父刀利美麻之《チヽトリミマシ》。家爾阿良婆《イヘニアラバ》。母刀利美麻志《ハヽトリミマシ》。世間波《ヨノナカハ》。迦久乃尾奈良志《カクノミナラシ》。伊奴時母能《イヌジモノ》。道爾布斯弖夜《ミチニフシテヤ》。伊能知周疑南《イノチスギナム》。
 
(112)宇知比佐受《ウチヒサス》(受の濁音の字を用《ツカヘ》るは、正しからず、ゆくりなくとりはづして書るか、又は清濁の混雜《マガヘ》る世となりて、寫すとき書誤れるにもあるべし、)は、枕詞なり、既く出づ、○宮弊能保留等《ミヤヘノボルト》は、京《ミヤコ》へ上《ノボ》るとてといふなり、美夜故《ミヤコ》といふも宮所《ミヤコ》の義なれば、京《ミヤコ》を宮《ミヤ》とのみも云り、○多羅知斯能《タラチシノ》(能(ノ)字、舊本には夜と作り、今は一本に從つ、)は、枕詞なり、垂乳根之《タラチネノ》と云に同じ、次の反歌に、多良知斯能波波《タラチシノハハ》とよみ、十六に、垂乳爲母所懷《タラチシハヽニウダカエ》などあり、荒木田氏、垂乳爲《タラチシ》は、爲《シ》は知《チ》に通ふ言にて、手摩乳《テナヅチ》足摩乳《アシナヅチ》の乳《チ》に同じく、したしみあがまへること、垂乳根《タラチネ》は、根《ネ》は汝根《ナネ》彦根《ヒヒネ》の根《ネ》にて、あがまへる言なれば、同意なりといへり、(岡部氏が、斯は禰の誤かと云るは非なり、)○波波何手波奈例《ハハガテハナレ》は契冲云(ク)、俗におやの手をはなるゝ、おやのふところをはなるゝなどいへり、熊凝十八歳なれば、似合たる詞なり、第十一に、たらちねのはゝが手そきてかくばかりすべなきことはいまだせなくに、とよめり、○常斯良奴《ツネシラヌ》は、常に經知らぬと云なり、○國乃意久迦《クニノオクカ》は國の奥處《オクカ》なり、國の至極《ユキハテ》の意なり、○迦多良比袁禮騰《カタラヒヲレド》は、旅行の傍輩《トモドチ》と相語りて、なぐさみ居れどの謂なり、○伊多波斯計禮婆《イタハシケレレナ》は、勞|痛《イタハシ》く有ばなり、○玉桙乃《タマホコノ》(桙(ノ)字、拾穗本には鉾と作り、)は、枕詞なり、既く出づ、○道乃久麻尾《ミチノクマミ》(久(ノ)字、舊本には脱たり、古寫小本、拾穩本等に從つ、)は、道之隈回《ミチノクマミ》なり、隈回は既く云り、○久佐太袁利《クサタヲリ》は、草手折《クサタヲリ》なり、○志婆刀利志伎弖《シバトリシキテ》(婆(ノ)字、拾穗本に波と作るは、わろし」は、柴取敷而《シバトリシキテ》なり、書紀に、藉《マクラトシ》v草《カヤヲ》班《シキヰトス》v荊(ヲ)とあり、○等許自母能《トコジモノ》(許(ノ)字、舊本計(113)に誤、)は、床自物《トコジモノ》なり、草柴などを手折(リ)取(リ)敷て、床の如くに打(チ)臥伏《フス》なり、白物《ジモノ》といふ言は、既く一(ノ)卷に具(ク)註(ヘ)り、○奈宜伎布勢良久《ナゲキフセラク》は、歎息(キ)て臥(セ)るやうはといふ意なり、序に、長歎息曰とある意なり、○國爾阿良婆《クニニアラバ》(婆(ノ)字、舊本に波と作るはわろし、古寫本、拾穗本等に從つ、)云々は、三(ノ)卷に、家有者妹之手將纒草枕客爾臥有此旅人※[立心偏+可]怜《イヘナラバイモガテマカムクサマクラタビニコヤセルコノタビトアハレ》、とあるに同じ意ばえなり、○世間波迦久乃尾奈良志《ヨノナカハカクノミナラシ》は、生者必滅の世間のことわりは、かくの如き物にのみあるらしとなり、二卷人麻呂の妻の死《ウセ》ぬるを悲める歌にも、世間乎背之不得者《ヨノナカヲソムキシエネバ》、とよめり、○伊奴自母能《イヌジモノ》は、狗自物《イヌジモノ》なり、道に臥といはむ料なり○伊能如周疑南《イノチスギナム》、舊本に、一云|和何余須疑奈牟《ワガヨスギナム》。
 
887 多良知新能《タラチシノ》。波波何目美受提《ハハガメミズテ》。意保保斯久《オホホシク》。伊豆知武伎提可《イヅチムキテカ》。阿我和可留良武《アガワカルラム》。
 
多良知斯能《タラチシノ》(斯(ノ)字、舊本に遲と作るは、進の誤か、今は古寫小本に從つ、類聚抄、拾穗本等には子と作り、官本には良遲子と作り、)は、上の長歌に見えたり、○歌(ノ)意は、家なる母親に相見る事を得ずして、何方へ向ひて、冥途へいぶせく別れ去らむぞ、となり、
 
888 都禰斯良農《ツネシラヌ》。道乃長手袁《ミチノナガテヲ》。久禮久禮等《クレクレト》。伊可爾可由迦牟《イカニカユカム》。可利弖汲奈斯爾《カリテハナシニ》。
 
久禮久禮等《クレクレト》は、本居氏、齊明天皇(ノ)紀(ノ)歌に、于之盧母倶例尼《ウシロモクレニ》、とある倶例《クレ》なり、久禮《クレ》は、闇き意にて、おぼつかなきさまなり、今(ノ)俗にも、うしろぐらきなどいふに同じ、と云り、○可利弖波奈斯爾《カリテハナシニ》、(114)舊本に、一云|可例比波奈之爾《カレヒハナシニ》、とあり、本居氏、可利弖《カリテ》は加禮比弖《カレヒテ》の約りたるなり、禮比《レヒ》は利《リ》と切る加禮比弖《カレヒテ》とは、加禮比《カレヒ》の料と云意なり、加禮比《カレヒ》にする料の米と云ことなり、加禮比《カレヒ》の價と云意にはあらず、加禮比《カレヒ》は乾飯《カレイヒ》にて、旅には飯を乾《ホシ》て齎《モチユ》くなり、其(レ)より、轉りて、必しも乾(シ)たるならざれども、旅にて食ふ飯をば、加禮比《カレヒ》と云なり、と云り、字鏡に、※[米+長](ハ)加禮比《カレヒ》、和名抄に、四聲字苑(ニ)云、餉(ハ)以v食(ヲ)遺v人(ニ)也、訓|加禮比於久留《カレヒオクル》、俗(ニ)云、加禮比《カレヒ》、また考聲切韻(ニ)云、糧(ハ)(字亦作v粮、)行所v齎米也、又儲v食也、和名|加弖《カテ》、(加弖《カテ》は、加利弖《カリテ》の訛略れるものなり、)神武天皇(ノ)紀に、兵食《カテ》などあり、(加利弖《カリテ》は、旅に宿借て其(ノ)代に、宿主にとらする直をいふ、と云説は、よろしからず、)○歌(ノ)意は、糧は持ずして、常に經知ぬ、遙に遠き道の長き間を、おぼつかなく、いかにして冥路をば行むぞ、となり、
 
889 家爾阿利弖《イヘニアリテ》。波波何刀利美婆《ハハガトリミバ》。奈具佐牟流《ナグサムル》。許許呂波阿良麻志《ココロハアラマシ》。斯奈婆斯農等母《シナバシヌトモ》。
 
斯奈婆斯農等母《シナバシヌトモ》、舊本に、一云、能知波志奴等母《ノチハシヌトモ》、とあり、○歌(ノ)意は、命の限にて死むはせむ方なし、さればたとひ死(ナ)ば死ぬとても、家にありて、母親がいかにぞと云て、吾を取見ば、慰むる意はあらましものを、家遠く別れ來ぬれば、さる事もなくして、いよ/\苦しく悲しきこと、となり、
 
(115)890 出弖由伎斯《イデテユキシ》。日乎可俗閉都都《ヒヲカゾヘツツ》。家布家布等《ケフケフト》。阿袁麻多周良武《アヲマタスラム》。知知汲波良波母《チチハハラハモ》。
 
家布家布等《ケフケフト》、十三に、※[さんずい+内]潭偃有公矣今日今日跡《ウラスニコヤセルキミヲケフケフト》、將來跡將待妻之可奈思母《コムトマツラムツマシカナシモ》、とあり、○阿袁麻多周良武《アヲマタスラム》は、吾《ア》を待《マチ》賜ふらむの意なり、○知知波波良波母《チチハハラハモ》、舊本に、一云|波波我迦奈斯佐《ハハガカナシサ》、とあり、波母《ハモ》は、尋慕ふ意の辭なり、既く往々見えたり、○歌(ノ)意は、旅行に吾出で來し日より、今日まで幾日になりぬと日を數へつゝ、もはや今日はかへり來む、今日はかへり來むとて、吾を待賜ふらむ其(ノ)父母等はいづらや、と尋慕ひたるよしなり、
 
891 一世爾波《ヒトヨニハ》。二遍美延農《フタタビミエヌ》。知知波波袁《チチハハヲ》。意伎弖夜奈何久《オキテヤナガク》。阿我和加禮南《アガワカレナム》。
 
阿我和加禮南《アガワカレナム》、舊本に、一云、相別南《アヒワカレナム》、とあり、(或説に、一云已上、ともに尾句のかはりなり、佛足石の歌こと/”\くかくの如し、古風の體なりと見ゆ、毛詩など思ひ合(ス)べし、日本紀、古事記等の歌にまゝあり、神樂、催馬樂などは、うたへば現にしかり、源氏にかへり聲にうたふと云り、又一本とあるは、異本、或本の事にて、一云は、よめる時よりありと見えたり、と云り、此説に依(ラ)ば、上の長歌の終に、和我余須疑奈牟《ワガヨスギナム》、と有は、次の多良知斯能《タラチシノ》云々の反歌の尾句のかはりなりけむが、誤て長歌の末に入しなるべし、)○歌(ノ)意は、一世には二遍相見る事のならぬ父母を、留置て、永く冥途に別れ行なむか、となり、契冲云(ク)、六首ながら、熊凝が本意をよく得て、孝の心ふ(116)かく、あはれによまれたり、
 
貧窮問答(ノ)歌一首并短歌《ウタヒトツマタミジカウタ》。
 
拾穗本には問答(ノ)二字なし、さて、此(ノ)歌、貧困に窮れるさまをよめれば、貧窮と題《シル》せるなり、さて問答といへるは、此(ノ)歌問答せるにあらず、歌(ノ)中に、伊可爾之都都可汝代者和多流《イカニシツツカナガヨハワタル》、天地者《アメツチハ》云々、と云て、七々の句を並べたるに、問答のすがたあれば、一首の體格の名なり、(自問自答たるにはあらず、たゞ體格の名のみなり、)此(ノ)上に云り、
 
892 風雜《カゼマジリ》。雨布流欲乃《アメフルヨノ》。雨雜《アメマジリ》。雪布流欲波《ユキフルヨハ》。爲部母奈久《スベモナク》。寒之安禮婆《サムクシアレバ》。堅鹽乎《カタシホヲ》。取都豆之呂比《トリツヅシロヒ》。糟湯酒《カスユサケ》。宇知須須呂比弖《ウチススロヒテ》。之可夫可比《シハブカヒ》。鼻※[田+比]之※[田+比]之爾《ハナビシビシニ》。志可登阿良農《シカトアラヌ》。比宜可伎撫而《ヒゲカキナデテ》。安禮乎於伎弖《アレヲオキテ》。人者安良自等《ヒトハアラジト》。富己呂陪騰《ホコロヘド》。寒之安禮婆《サムクシアレバ》。麻被《アサフスマ》。引可賀布利《ヒキカガフリ》。布可多衣《ヌノカタキヌ》。安里能許等其等《アリノコトゴト》。伎曾倍騰毛《キソヘドモ》。寒夜須良乎《サムキヨスラヲ》。和禮欲利母《ワレヨリモ》。貧人乃《マヅシキヒトノ》。父母波《チヽハヽハ》。飢寒良牟《ウヱサムカラム》。妻子等波《メコドモハ》。乞乞泣良牟《コヒテナクラム》。此時者《コノトキハ》。伊可爾之都都可《イカニシツツカ》。汝代者和多流《ナガヨハワタル》。天地者《アメツチハ》。比呂之等伊倍杼《ヒロシトイヘド》。安我多米波《アガタメハ》。狹也奈理奴流《サクヤナリヌル》。日月波《ヒツキハ》。安可之等伊倍騰《アカシトイヘド》。安我多米波《アガタメハ》。照哉多麻波奴《テリヤタマハヌ》。人皆可《ヒトミナカ》。吾耳也之可流《アノミヤシカル》。和久良婆爾《ワクラバニ》。比等等波安流乎《ヒトトハアルヲ》。比等奈美爾《ヒトナミニ》。安禮母作乎《アレモツクルヲ》。綿毛奈伎《ワタモナキ》。布可多衣乃《ヌノカタキヌノ》。美留乃其等《ミルノゴト》。和和氣佐我禮流《ワワケサガレル》。可可布能尾《カカフノミ》。肩爾打懸《カタニウチカケ》。布勢(117)伊保能《フセイホノ》。麻宜伊保乃内爾《マゲイホノウチニ》。直土爾《ヒタツチニ》。藁解敷而《ワラトキシキテ》。父母波《チヽハヽハ》。枕乃可多爾《マクラノカタニ》。妻子等母波《メコドモハ》。足乃方爾《アトノカタニ》。圍居而《カコミヰテ》。憂吟《ウレヒサマヨヒ》。可麻度柔播《カマドニハ》。火氣布伎多弖受《ケブリフキタテズ》。許之伎爾波《コシキニハ》。久毛能須可伎弖《クモノスカキテ》。飯炊《イヒカシグ》。事毛和須禮提《コトモワスレテ》。奴延鳥乃《ヌエトリノ》。能杼與比居爾《ノドヨビヲルニ》。伊等乃伎提《イトノキテ》。短物乎《ミジカキモノヲ》。端伎流等《ハシキルト》。云之如《イヘルガゴトク》。楚取《シモトトル》。五十戸良我許惠波《サトヲサガコヱハ》。寝屋度麻※[人偏+弖]《ネヤドマデ》。來立呼比奴《キタチヨバヒヌ》。可久婆可里《カクバカリ》。須部奈伎物能可《スベナキモノカ》。世間乃道《ヨノナカノミチ》。
 
風雜《カゼマジリ》(雜(ノ)字、舊本離に誤、古寫一本、古寫小本、拾穗本等に從つ、)は、八(ノ)卷にも、風交雪者雖零《カゼマジリユキハフレドモ》、とよめり、○堅鹽《カタシホ》は、和名抄に、崔禹錫(ガ)食經(ニ)云、石鹽、一名白鹽、又有2黒鹽1、今按(ニ)、俗(ニ)呼2黒鹽(ヲ)1爲2堅鹽(ト)1、日本紀私記云、堅鹽(ハ)、木多師《キタシ》是也、大膳式に、釋奠料|石鹽《カタシホ》一顆、書紀欽明天皇(ノ)卷に、蘇我大臣稻目(ノ)宿禰(ノ)女、曰2堅鹽媛(ト)1、(堅鹽、此云2岐※[手偏+施の旁]志《キタシト》1、これ用明天皇の御母なり、)又孝徳天皇(ノ)卷に、五年三月、云々、皇太子(ノ)妃《ミメ》蘇我(ノ)造媛《ミヤツコヒメ》、聞(テ)2父大臣爲(ニ)v鹽所1v斬、傷心痛※[立心偏+宛]《カナシミツヽ》惡(ミキ)聞(コトヲ)2鹽(ノ)名(ヲ)1、所以《カレ》近2侍《ツカフル》於造媛(ニ)1者、忌(テ)v稱(ヲ)2鹽(ノ)名(ヲ)1改2曰堅鹽(ト)1、などなり、(或説に、大和物語に、かたいしほさかなにして、酒をのませてと、おちぶれたる人の事をかけり、此(ノ)かたいしほは、堅鹽の文字なりけむを、たゞしほとあるべきかなを、あしくつけたりけむまゝに、あやまり來つらむ歟、)○取都豆之呂比《トリツヅシロヒ》は、取は、手して物する事にそへいふ詞なり、都豆之呂比《ツヅシロヒ》は、つゞしりといふ言の伸りたるにて、誇を保己呂比《ホコロヒ》と云に同じ、つゞしるは、物を小く嚼(ミ)切て、口中に含みて喰ふやうのことを云、(司馬相如(ガ)大人(ノ)賦に、※[口+幾]《ツヾシル》2瓊華(ヲ)1、註に、※[口+幾](ハ)(118)食也、説文(ニ)、※[口+幾](ハ)、小食也、)今俗に、つじるといふも、つゞしるを訛れる言なるべし、字鏡に、※[酉+音](ハ)、左加奈豆豆志留《サカナツヅシル》、今昔物語に、此|鮭《サケ》、鯛《タヒ》、※[魚+逐]※[魚+夷]《シホカラ》などをつゞしるほどに云々、又源氏物語箒木(ノ)卷、末摘花(ノ)卷などに、つゞしり歌といふがあるも、物を嚼つゞしる如く、口(ノ)中に唱へて、實にはうたはぬよしの歌なるべし、(契冲が、つゞしろひは、つきしろふなり、面々箸取てつゝきあふことなり、といへるはいかゞ、)○糟湯酒《カスユサケ》は、酒の糟を水に漬て煮たるをいへり、(契冲云、越後(ノ)國に冬鮭をとる漁翁ども、酒をのめばこゞえてたへず、さむくなれば、いくたびとなく、此かす湯酒打すゝりて、わざをなすに、こゞえずとかや、)○宇知須須呂比《ウチススロヒ》は、宇知《ウチ》は、いひおこす詞なり、須須呂比《ススロヒ》は、〓《スヽリ》の伸りたる由なり、(呂比《ロヒ》は、利《リ》と切れり、)○之波夫可比《シハブカヒ》(波(ノ)字、舊本可に誤、拾穗本に從、)は、しはぶきの伸りたるなり、(可比《カヒ》は、伎《キ》と切れり、)和名抄に、病源論(ニ)云、〓嗽(〓(ノ)字亦作咳、)肺寒則成也、之波不岐《シハブキ》、遊仙窟に、十娘曰、兒近來|患癩《シハブキヤミヌ》などあり、○鼻※[田+比]之※[田+比]之爾《ハナビシビシニ》は、和名抄に、釋名云、鼻塞(ヲ)曰v〓(ト)、洟《シル》久不v通、遂(ニ)至2窒塞(ニ)1也、和名|波奈比世《ハナヒセ》、とある是にて、糟湯酒にむせびて、鼻の塞るをいふなり、鼻※[田+比]之鼻※[田+比]之《ハナビシハナビシ》、といふべきを後の鼻を省けるか、然れども爾《ニ》の言穩ならず、鼻※[田+比]鼻※[田+比]之《ハナビハナビシ》とありしが、亂れ誤りたるにはあらざるか、○志可登阿良農《シカトアラヌ》(志(ノ)字、活字本になきはわろし、)は、俗に、しかともなきといふ詞なり、と契冲云り、今世に、はか/”\しからぬといふ意なるべし、○比宜可伎撫而《ヒゲカキナデテ》は、可伎《カキ》は宇知《ウチ》に同じく、いひおこす詞なり、鬚を撫て、自(ラ)慢る貌なり、和名抄(119)に、説文(ニ)云、髭、口上(ノ)鬚也、和名|加美豆比介《カミツヒゲ》、鬚髯(ハ)頤下(ノ)毛也、和名|之毛豆比介《シモツヒゲ》、枕册子に、また酒のみて、あかき口をさぐり、ひげあるものは、それをなでゝ云々、とあり、○安禮乎於伎弖《アレヲオキテ》云々は、吾を除きて、外に人たる人はあらじとなり、○富己呂倍騰《ホコロヘド》は、雖《ド》v誇《ホコレ》の伸りたるなり、(呂倍《ロヘ》は禮《レ》と切れり、)○寒之安禮婆《サムクシアレバ》、(婆(ノ)字、舊本には波と作り、拾穗本に從つ、)之《シ》は、その一(ト)すぢなることを重くいふ詞なり、○引可賀布利《ヒキカガフリ》は、今(ノ)俗に、ひつかぶるといふに同じ、被《カフムル》を、古言には可賀布流《カガフル》とのみ云り、廿(ノ)卷に、美許登加我布理《ミコトカガフリ》とあり、○布可多衣《ヌノカタキヌ》は、十六竹取(ノ)翁(ノ)歌に、結經方衣《ユフカタキヌ》ともあり、袖なく肩計に著る衣なり、つれ/”\草にも見ゆ、(後(ノ)世、武家の禮服に肩衣といふ物も、この遺制なるべし、武家の肩衣の始を、さま/”\に云れど、何(ノ)代にはじまれりといふ事、慥なる説なし、其禮服となれるは後の事なれど、肩衣といふ名はいと古くて、上代より有し服と見えたり、今川大雙紙に、袖付ざる直垂と云るは、肩衣の事なるべし、と春湊浪話にしるせり、)○安里能許等其等《アリノコトゴト》は、有之盡《アリノコト/”\》なり、俗に有だけといふに同じ、許等其等《コトゴト》は、古事記火遠理(ノ)命(ノ)大御歌に、伊毛波和須禮士余能許登碁登邇《イモハワスレジヨノコトゴトニ》、とあるに同じ、○伎曾倍騰毛《キソヘドモ》は、雖《ドモ》2服襲《キソヘ》なり、十七に、加吉都播多衣爾須里都氣麻須良雄乃服曾比獵須流月若伎爾家里《カキツバタキヌニスリツケマスラヲノキソヒカリスルツキハキニケリ》、とあるに同じ、○乞弖泣良牟《コヒテナクラム》、(弖(ノ)字、舊本乞に誤、拾穗本にはなし、今は古寫小本に從つ、)衣食《キモノクヒモノ》などを乞て、泣らむといふなり、○此時者《コノトキハ》は、彼時者《ソノトキハ》と云むが如し、○汝代者和多流《ナガヨハワタル》は吾よりも勝(リ)て貧き人は、いかにしつゝ(120)汝が世をば渡るぞ、と問すつるやうにいひたるなり、此(レ)問答體なり、次(ノ)句も自のうへの事をいひて、答たるにはあらず、(岡部氏、こゝにて先自問畢て、此次(ノ)句よりは自答ふるなり、と云るは非ず、答へたる意は、さらになし、)○狹也は、サクヤ〔三字右○〕と訓べし、(セバクヤ〔四字右○〕と訓はわろし、)○日月波《ヒツキハ》、(日の下、拾穗本に波(ノ)字あるは、衍なり、)日月の事、此(ノ)上に云り、○人皆可《ヒトミナカ》は、人皆然るかの意なり、○吾耳也之可流は、アノミヤシカル〔七字右○〕と訓べし、(ワレノミヤ〔五字右○〕と訓はわろし、十三に、妾耳鴨君爾戀監《アノミカモキミコフラム》、吾耳鴨夫君爾戀禮薄《アノミカモキミニコフレバ》、)吾ばかり然るかの意なり、契冲が、古今集に、世の中は昔よりやはうかりけむ我(ガ)身一(ツ)のためになれるか、といふ歌をこゝに引り、○和久良婆爾《ワクラバニ》は、邂逅《ワクラバ》になり、九(ノ)卷にも見えて次に引り、古今集にも、和久良婆《ワクラバ》に問人あらば、とよめり、○比等等波安流乎《ヒトトハアルヲ》は、邂逅《ワクラバ》に、得難き人界に生得てあるを、といふなり、得(ルコト)v爲(ヲ)v人難(シ)、といふ佛語にもとづけり、九(ノ)卷に、人跡成事者難乎和久良婆爾成吾身者《ヒトトナルコトハカタキヲワクラバニナレルアガミハ》、とよめり、○安禮母作乎《アレモツクルヲ》は、吾も人なみ/\に、田畠を作るをなり、今(ノ)世にも、田畠を造業するを、つくりをするといへり、古(ヘ)よりしか云るなるべし、○美留乃其等《ミルノゴト》は、如《ゴト》2海松《ミルノ》1なり、海松は品物解に云、海松の枝は、弊垂《ワヽケサガ》りたるものなれば、たとへて云、○和和氣佐我禮流《ワワケサガレル》(和和、拾穗本に、私私と作るは誤なり、)は、弊垂有《ワヽケサガレル》なり、和和氣《ワワケ》は、芽子の歌に宇禮和和良葉《ウレワワラバ》、とよめる、和和《ワワ》の言は、知和加流《ワワカル》、和和久《ワワク》、和和氣《ワワケ》、など活《ハタラ》く言にて、ほつれ弊《ミダ》れたるやうなるを云なり、空穗物語にも、かたびらのわゝけたるを著て、と云り、○可可(121)布能尾《カカフノミ》は、※[巾+祭]耳《カヽフノミ》なり、本居氏、字鏡に、※[巾+祭](ハ)殘帛也、也不禮加加不《ヤブレカカフ》、とあるこれなりと云り、袖中抄に、秋風にほころびぬらし藤はかまつゞりさせてふきり/”\すなく、顯昭云、つゞりさせてふきり/”\すなくとは、世俗に、きり/”\すは、つゞりさせかゝはひろはむ、となくといへり、かかはとは、きぬ布のやれて、何にもすべくもなきを云なり、それらは、わらうづ作るに、くはへてつくりたればつよきなり、かゝはわらうづといふ、又足など物に觸(リ)きりたるには其(ノ)さいでのはしを、繩のやうになひて、火を付て其(ノ)疵をあたゝむるをば、かゝは火といふなりとしるせり、○布勢伊保《フセイホ》は、九(ノ)卷に、廬八燎須酒師競《フセヤタキススシキホヒ》、十六河村(ノ)王(ノ)歌(ノ)註に、田廬者|多夫世《タブセノ》反などあり、○麻宜伊保《マゲイホ》は、曲廬《マゲイホ》なり、よろぼひゆがみて甚|微《イヤシ》き廬なり、○直土《ヒタツチ》は、頓《ヒタスラ》の土といふにて、俗に云|平地《ヒラチ》なり、十三に、當土足迹貫《ヒタツチニアシフミツラネ》、神代紀に、頓丘《ヒタヲ》ともあり、○藁解敷而《ワラトキシキテ》は、簀子《スノコ》などもなく、直に土に藁を解敷てといふなり、○枕乃可多爾《マクラノカタニ》云々、足乃方爾《アトノカタニ》、(足乃、拾穗本に足爲と、作るはわろし、古事記に、乃|匍2匐《ハラバヒ》御枕方《ミマクラヘニ》1、匍2匐《ハラバヒ》御足方《ミアトヘニ》1而哭時、書紀に、則匍2匐頭邊1、匍2匐脚邊1、而哭泣流涕焉、頭邊此云2摩苦羅陛《マクラヘト》1、脚邊此云2阿度陛《アトヘト》1、などあり、これ皆|枕《マクラ》と足《アト》と對(ヘ)る例なり、古今集にも、枕よりあとより戀の責來ればとあり、○圍居而《カコミヰテ》・廿(ノ)卷に、若草之都麻母古騰母毛乎知己知爾左波爾可久美爲《ワカクサノツマコドモモヲチコチニサハニカクミヰ》、とあるが如し、○憂吟は、ウレヒサマヨヒ〔七字右○〕と訓べし、(ウレヘ〔三字右○〕と訓はわろし、)廿(ノ)卷右の歌の、次(ノ)句に、春鳥乃己惠乃佐麻欲比《ハルトリノコヱノサマヨヒ》とあり、○可麻度柔播《カマドニハ》は、竈處《カマド》にはなり、竈は、和名抄に、四(122)聲字苑(ニ)云、竈(ハ)炊〓(ノ)處也、和名|加萬《カマ》、又唐韻(ニ)云、窯(ハ)燒v瓦竈也、漢語抄云、加波良加萬《カハラカマ》、字鏡に、窯(ハ)須惠加萬《スヱカマ》とあり、(本居氏云、今(ノ)俗に、釜をも加麻《カマ》と云(ヘ)ば、釜より出たる名と思ふ人あれど、さに非ず、古(ヘ)釜を加麻《カマ》と云ることなし、釜は賀奈閉《カナヘ》、また末路賀奈倍《マロガナヘ》と和名抄に見えたり、思ひまがふべからず、或人、釜を加麻《カマ》と云は、朝鮮言なりと云り、さもあらむか、又竈より轉りたる名にてもあらむと云り、)○許之伎爾波《コシキニハ》は、甑《コシヰ》にはなり、和名抄に、蒋魴(ガ)切韻(ニ)云、甑(ハ)炊v飯(ヲ)器也、和名|古之伎《コシキ》、本草(ニ)云、甑帶(ハ)和名|古之伎和良《コシキワラ》、辨色立成(ニ)云、炊單和名同v上(ニ)、字鏡に、※[火+敞](ハ)炊v飯之具、己志支和良《コシキワラ》、などあり、○久毛能須可伎弖《クモノスカキテ》は、蜘之巣掻而《クモノスカキテ》なり、掻《カキ》は巣を造るをいふ、拾遺集に、秋風は吹なやぶりそ我やどのあばらかくせる蜘のすかきを、これは掻に垣をそへたるならむ、○飯炊《イヒカシク》は、字鏡に、※[火+單](ハ)炊也、伊比加志久《イヒカシク》、又〓(ハ)炊2五穀(ヲ)1也、可志久《カシク》などあり、○奴延鳥乃《ヌエトリノ》は咽喚《ノドヨビ》といはむ料の枕詞なり、○能杼與比居爾《ノドヨビヲルニ》は、奴延鳥の鳴如く、咽聲に吟ひ嘆きつゝ居にのよしなり、○伊等乃伎提《イトノキテ》は、後にいとゞしくといふに同じ、(契冲が、いと云のきては、いとぬけてなるべし、もつともぬきむでの心なり、のきとぬけと、五音通ずればなり、と云れどいかゞ、一説には、甚除而《イトノキテ》なりと云り、)此(ノ)末に、伊等能伎提痛伎瘡爾波鹹鹽遠灌知布其等久《イトノキテイタキキズニハカラシホヲスヽグチフゴトク》、十四に、伊等能伎提可奈思家世呂爾《イトノキテカナシケセロニ》、十二に、五十殿寸太薄寸眉根乎徒《》、令掻管不相人可母《イトノキテウスキマヨネヲイタヅラニカヽシメニツヽアハヌヒトカモ》、などあり、○短物乎端伎流等《ミジカキモノヲハシキルト》は、下の沈痾自哀文に、諺(ニ)曰、痛瘡(ニ)灌v鹽(ヲ)、短材截v端、とある、そのこゝろなり、○楚取《シモトトル》は、和名抄に、唐令(ニ)(123)云、笞(ハ)、大頭二分、小頭一分半、和名|之毛度《シモト》とある、この笞杖を取持て、刑を行ふなり、拾遺集に老はてゝ雪の山をば戴けどしもとみるにぞ身はひえにける、なほ楚は、一(ノ)卷人麻呂(ノ)歌に、石根禁樹押靡《イハガネノシモトオシナベ》とある下に具(ク)註(ヘ)り、〔頭註、【孝徳天皇紀、二年三月詔に、若違v所v誨、次官以上降2其爵位1、主典以下決2其笞杖1、】〕○五十戸良我許惠波、(良(ノ)字、姶穗本に等と作るはわろし、)或説に、五十戸良はサトヲサ〔四字右○〕なり、孝徳天皇(ノ)紀又戸令に、凡(ソ)五十戸(ヲ)爲v里(ト)、十(ノ)卷に、橘乎守部乃五十戸之門田早稻《タチバナヲモリベノサトノカドタワセ》とあるも、守部(ノ)郷なるべし、又五十戸に居る民に、良民賤民あり、良民を、をさとすれば、里の長《ヲサ》を良と書るなりと云り、しかれども、なほ良は長(ノ)字を誤れるなり、といふ説によるべし、戸令に、毎(ニ)v里置2長一人1、と見えたり、貪くて勞《イタヅカハ》しきうへに、まして里長が來て、田租賦役など徴て呼なり、○寢屋度麻※[人偏+弖]《ネヤトマテ》(※[人偏+弖](ノ)字、古寫本には弖と作り、)は、寢屋處迄《ネヤドマデ》なり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
893 世間乎《ヨノナカヲ》。宇之等夜佐之等《ウシトヤサシト》。於母倍杼母《オモヘドモ》。飛立可禰都《トビタチカネツ》。鳥爾之阿良禰婆《トリニシアラネバ》。
 
宇之等夜佐之等《ウシトヤサシト》は、厭《ウルサ》しと思ひ、耻《ハヅカ》しと思へどもの意なり、○飛立可禰都《トビタチカネツ》は、飛立て此《コヽ》を退たくは思へども、鳥にてあらねば、さる事をも得爲ずとなり、源氏物語末摘花に、故宮おはしましゝ世を、などてからしと思ひけむ、かくたのみなくても、すぐるものなりけりとて、飛立ぬべくふるまふもあり云々、とあるを思(ヒ)合(ス)べし、○歌(ノ)意はかく貧しく窮て世(ノ)間に住むは、厭《ウルサ》しと思ひ、耻かしと思へども、鳥にてあらねば、飛て去む事も叶はずして、いと苦しとなり、
 
(124)900、富人能《トミヒトノ》。家能子等能《イヘノコドモノ》。伎留身奈美《キルミナミ》。久多志須都良牟《クタシスツラム》。絹綿良波母《キヌワタラハモ》。
 
此(ノ)歌と、次の麁妙能《アラタヘノ》云々の歌、諸本共に、下老身重病云々(ノ)長歌の反歌の、周弊母奈久《スベモナク》云々の歌の次に收《イレ》るは、混ひしものなるべし、故(レ)今改て此間に收《イレ》つ、○久多志須都良牟《クタシスツラム》は、令《シ》v腐《クタ》棄《スツ》らむなり、○絹綿良波母《キヌワタラハモ》、(絹(ノ)字、舊本※[糸+包]と作るは、※[糸+施の旁]の寫誤なるべし、今は類聚抄、拾穗本、官本等に從つ、)良《ラ》は等《ラ》にて、後に那杼《ナド》と云が如くにて、其(ノ)物と限らず、なほ餘もある事をいふ辭なり、古事記應神天皇(ノ)條に、令《セ》v服《キ》2其(ノ)衣褌等《キヌハカマラヲ》1、とあるに同じ、波母《ハモ》は、尋慕ふ意の詞なり、既く往々見えたり、○歌(ノ)意は、富豐なる家の人の子等の、持餘りて著(ル)身の無さに、腐し棄らむ絹綿などはも、あはれそれ一(ツ)、ほしやといふなり、
 
901、麁妙能《アラタヘノ》。布衣遠陀爾《ヌノキヌヲダニ》。伎世難爾《キセカテニ》。可久夜歎敢《カクヤナゲカム》。世牟周弊遠奈美《セムスベヲナミ》。
 
麁妙《アラタヘ》は、古語に、和布《ニキタヘ》と對へ云て、麁は字(ノ)意の如く、麁きよし、妙は、絹布の類をすべいふ名なること、白布《シロタヘ》の布《タヘ》の如し、さて古(ヘ)は、同じ麻布にても、細にしてよきを和布《ニキタヘ》といひ、麁くてあしきを麁布《アラタヘ》といひ、(絹を和布とし、布を荒布とするは、やゝ後のことなり、)また藤皮して織たるは、なべて麁くあしきものなれば、集中に麁妙之藤《アラタヘノフヂ》と續けよめる事多し、されば麻にまれ藤にまれ麁くてあしきを、麁妙之布衣とは云るなり、書紀に、麁布《アラタヘ》、古語拾遺に、織布、古語|阿良多倍《アラタヘ》、祝詞式に、荒多閇《アラタヘ》など見えたり、○歌(ノ)意は、麁くてあしき布衣をなりとも、著せまほしく思へ(125)ども、それさへ著することを得ず、爲方のなき故に、かくの如く歎き苦みてあらむかとなり、
 
山上憶良《ヤマノヘノオクラ》頓首|證上《ツヽシミテタテマツル》。
 
好去好來(ノ)歌一首并短歌《ウタヒトツマタミジカウタ》。
 
好去好來は、幸《サキ》く去《ユキ》て幸《サキ》く來《コ》よといふ義なり、これは續紀に、天平五年三月戊午、遣唐大使從四位上多治比(ノ)眞人廣成等拜朝、閏三月癸巳、遣唐大使多治比(ノ)眞人廣成辭見授2節刀(ヲ)1、夏四月己亥、遣唐四船、自2難波津1進發、と見えて、同七年に歸朝あり、さてこの廣成が出立むとする時、憶良のよみておくられたるなり、○并短歌、舊本には反歌二首とあり、古寫小本に從つ、目録も同じ、
 
894 神代欲理《カミヨヨリ》。云傳久良久《イヒツテケラク》。虚見通《ソラミツ》。倭國者《ヤマトノクニハ》。皇神能《スメカミノ》。伊都久志吉國《イツクシキクニ》。言靈能《コトタマノ》。佐吉播布國等《サキハフクニト》。加多利繼《カタリツギ》。伊比都賀比計理《イヒツガヒケリ》。今世能《イマノヨノ》。人母許等期等《ヒトモコトゴト》。目前爾《メノマヘニ》。見在知在《ミタリシリタリ》。人佐播爾《ヒトサハニ》。滿弖播阿禮等母《ミチテハアレドモ》。高光《タカヒカル》。日御朝廷《ヒノミカド》。神奈我良《カムナガラ》。愛能盛爾《メデノサカリニ》。天下《アメノシタ》。奏多麻比志《マヲシタマヒシ》。家子等《イヘノコト》。撰多麻比天《エラビタマヒテ》。勅旨《オホミコト》。【反云大命、】戴持弖《イタヾキモチテ》。唐能《モロコシノ》。遠境爾《トホキサカヒニ》。都加播佐禮《ツカハサレ》。麻加利伊麻勢《マカリイマセ》。宇奈原能《ウナハラノ》。邊爾母奧爾母《ヘニモオクニモ》。神豆麻利《カムヅマリ》。宇志播吉伊麻須《ウシハキイマス》。諸能《モロ/\ノ》。大御神等《オホミカミタチ》。船舳爾《フナノヘニ》。【反云布奈能閇爾、】道引麻遠志《ミチビキマヲシ。天地能《アメツチノ》。大御神等《オホミカミタチ》。倭《ヤマトノ》。大國靈《オホクニミタマ》。久堅能《ヒサカタノ》。阿麻能見虚喩《アマノミソラユ》。阿麻賀氣利《アマカケリ》。見渡多麻比《ミワタシタマヒ》。事了《コトヲハリ》。還日者《カヘラムヒニハ》。又更《マタサラニ》。大御神等《オホミカミタチ》。(126)船舳爾《フナノヘニ》。御手打掛弖《ミテウチカケテ》。墨繩袁《スミナハヲ》。播倍多留期等久《ハヘタルゴトク》。阿庭可遠志。智可能岬欲利《チカノサキヨリ》。大伴《オホトモノ》。御津濱備爾《ミツノハマビニ》。多太泊爾《タダハテニ》。美船播將泊《ミフネハハテム》。都都美無久《ツツミナク》。佐伎久伊麻志弖《サキクイマシテ》。速歸坐勢《ハヤカヘリマセ》。
 
云傳介良久《イヒツテケラク》(介(ノ)字、拾穗本には久と作り、さらばイヒツテクラク〔七字右○〕と訓べけれど、なほ舊本のままにて、、ケラク〔三字右○〕与るべし、)は、言傳へけるやうはといふ意なり、○虚見通《ソラミツ》(通(ノ)字、拾穗本にはなし、)は、枕詞なり、一(ノ)卷に具(ク)註り、○倭國《ヤマトノクニ》は、こゝは日本(ノ)國にて、大御國を總て云り、○伊都久志吉《イツクシキ》は、嚴威《イツクシキ》なり、○言靈《コトタマ》は、言の神靈を云て、いひ出る言のはに、自然|微妙靈徳《クシビナルミタマ》あるをいふ、十三に、志貴島倭國者事靈之《シキシマノヤマトノクニハコトタマノ》、所佐國叙眞福在與具《タスクルクニゾマサキクアリコソ》とよめるが如し、又十一に」事靈八十衢夕占問《コトタマヲヤソノチマタニユフケトフ》ともよめり、續後紀十九、興福寺(ノ)僧等(カ)長歌に、此國乃云傳布良牟《コノクニノイヒツタフラム》、日本乃倭之國波《ヒノモトノヤマトノクニハ》、言玉乃當國度曾《コトタマノサキハフクニトゾ》、古語爾流來禮留《フルコトニナガレキタレル》云々、玉葉集に、いはひつることたまならば百年の後もつきせぬ月をこそみめ、○佐吉播布《サキハフ》は、凡て物の幸《ヨキ》事を、古言に佐吉《サキ》といふを、その幸《ヨキ》事の出來るやうの時に、幸播布《サキハフ》、幸播比《サキハヒ》などいふなり、(後にさいはひといふは、后をきさいといふ類にて、音便にくづれしなり、)播布《ハフ》は、活用《ハタラカ》すときにいふ言にて、饒波布《ニギハフ》などいふ波布《ハフ》と同じ、こゝは言靈の徳によりて、萬の幸事のある國ぞ、といふなり、○伊比都賀比計理《イヒツガヒケリ》は、言繼《イヒツギ》けりの伸りたるなり、賀比《ガヒ》の切|宜《ギ》、○人母許等期等《ヒトモコトゴト》は、人も悉皆《コト/”\》なり、○見在知在は、ミタリシリタリ〔七字右○〕なり、見知てあ(127)りといふが如し、以上十四句の意を、とりすべて云ときは、吾(ガ)大皇の統御《シロシメ》す、この虚御津日本《ソラミツヤマトノ》國は、皇神の嚴威《イツク》しき國、言靈の徳用《サキハ》ふ國と云ことなるが、そも/\これは、今(ノ)世の人の俗諺《コトワザ》に、いひふるさしめたる類の、浮虚《ウキ》たる言には非ず、神代より、幾千年幾萬年《イクチトセイクヨロヅトセ》を歴《ヘ》たりともしられず、世(ノ)人の語り繼、言つぎ來たれる正實言《マサコト》なり、さればその神祇の靈徳《ミタマ》の、至《イト》も尊重《タフトク》嚴威《イツク》しくまします謂も、言語《コトヾヒ》の神靈《ミタマ》の、最《イト》も微妙《クシク》不測《アヤシ》き理も、われらが今事新しく、精細《コマカ》に申すまでもなく、こと/”\く皆世(ノ)間の人の、眼(ノ)前に正しく見及び、知得たることゞもなりとの謂なり、さてかゝれば、この度廣成(ノ)眞人の遣唐使にまけられて、出立むとするほど、好去《サキクユキ》て好來《サキクカヘリコ》よとの謂を述むとするに、いはゆる言靈のさきはひによりて、凶事無《ツヽミナ》く平安《サキ》くありて、速《ハヤ》く歸朝《マヰカヘリ》ませといふことを、言祝《コトホギ》せずしては得あられず、その言祝するに、皇神のいつくしき謂を敷《ノベ》ずしては、得あるべからぬによりて、其(ノ)謂をかへす/”\詳悉《ツバラ》にうたひて、左の條々《ヲヂ/\》の如くには、白《マヲ》せるぞと云ことを、いはずして思はせたるなり、○人佐播爾《ヒトサハニ》は、四(ノ)卷に、人多國爾波滿而味村乃去來者行跡《ヒトサハニクニニハミチテアヂムラノサワキハユケド》、とあり、○日御朝庭《ヒノミカド》(庭(ノ)字拾穗本には廷と作り、)は、一(ノ)卷藤原(ノ)宮之役民(ノ)歌に、吾作日之御門爾《アガツクルヒノミカドニ》とよめるに同じ、○愛能盛爾《メデノサカリニ》は、續紀廿(ノ)卷、天平寶字元年七月庚辰詔に、云々、又|愛盛爾《メデノサカリニ》、一二人等爾《ヒトリフタリラニ》、冠位上賜治賜久止宣《カヽブリクラヰアゲタマヒヲサメタマハクトノル》、類聚國史、天長四年の詔にも、御意乃愛盛爾《ミコヽロノメデノサカリニ》、治賜人毛亦在《ヲサメタマフヒトモアリ》、文徳實録三(ノ)卷にも、又|御意乃愛盛爾《ミコヽロノメデノサカリニ》、治賜人毛一二在《ヲサメタマフヒトモヒトリフタリアリ》、と見えた(128)り、さて愛(ノ)盛とは、その人の功徳などを賞愛《メデ》られて、撰び擧用らることの盛なる事に云り、かくて、此《コヽ》なる、愛能盛《メデノサカリ》は、撰たまひへ係れり、天(ノ)下云々へ係ていへるにはあらず、と本居氏云るごとし、○天下奏多麻比志《アメノシタマヲシタマヒシ》は、天(ノ)下の太政を執持て、仕(ヘ)奉しをいふなり、此(ノ)上にも、余呂豆余爾伊麻志多麻比提阿米能志多《ヨロヅヨニイマシタマヒテアメノシタ》、麻乎志多麻波禰美加度佐良受弖《マヲシタマハネミカドサラズテ》とあり、二(ノ)卷に、吾大王之天下申賜者《ワガオホキミノアメノシタマヲシタマハバ》、十九に、古昔爾君之三代經仕家利《イニシヘニキミガミヨヘテツカヘケリ》、吾大王波七世申禰《ワガオホキミハナヽヨマヲサネ》、續紀十七に、御世御世爾當天《ミヨミヨニアタリテ》、天下奏賜比《アメノシタマヲシタマヒ》、廿二に、明久淨岐心以弖《アキラケクキヨキコヽロモチテ》、御世累弖天下申給比《ミヨカサネテアメノシタマヲシタマヒ》、朝廷助仕奉利《ミカドヲタスケツカヘマツリ》、卅一に、自今日者大臣之奏之政者《ケフヨリハオホマヘツキミノマヲシシマツリゴトハ》、不聞看夜成牟《キコシメサズヤナリナム》などあり、○家子等《イヘノコト》、契冲云、續紀(ニ)云、大寶元年七月壬辰、左大臣正二位多治比(ノ)眞人島薨云々、大臣(ハ)、宣化天皇之玄孫、多治比(ノ)王之子也、かゝれば廣成は、左大臣の子か孫か、もしは甥などにも有ければ天(ノ)下奏(シ)給ひし家の子とはいへるなるべし、懷風藻(ニ)云、從三位中納言丹※[土+穉の旁](ノ)眞人廣成三首、此(ノ)人の極官これなり、○勅旨《オホミコト》(旨(ノ)字、舊本肯と作るは誤、又拾穗本に言と作るもわろし、)は、大御言《オホミコト》にて、詔勅を尊て云るなり、○註、反云2大命(ト)1、集中に、かく反云2云々(ト)1、また云々者云々(ノ)反也、など云ること次下にも見え、又八(ノ)卷十六(ノ)卷等にも見えたり、此は古事記に、訓v天(ヲ)云2阿麻《アマト》1、また書紀に、可美、此云2于麻時《ウマシト》1、などもありて、この反云といへるも、訓云、また此といへること、もはら同(ジ)意味なれば、何事もなきやうなれど、今まで註者等、此(ノ)反云といへることの由をことわらぬは、いかゞ心得來たりけむ、いとおぼつかなし、故(レ)(129)今余が考(ヘ)を擧て、具《ツバラ》に解べし、そも/\まづ古事記の如く或云と云むは、聞えたるまゝにて事もなし、書紀に此云と書れしは、いかにぞや、されば漢籍の中に、梵語を譯《ウツ》して釋《トク》とき、云々此(ニハ)云2云々(ト)1とあるは、彼方《カシコ》にて云々といへるは、此方《ココ》にては、云々《カク/\》いふ、ぞ、といふ義なり、此云をコヽニハイフ〔六字右○〕とよみ來れるは、即(チ)意を得たる訓なり、たとへば、梵(ニ)云2佛陀(ト)1、此(ニハ)云v覺(ト)、とある、是にてしるべし、しかればもとよりの漢籍を、今|此方《コナタ》にて譯《ウツサ》むには、たとへば天地此(ニハ)云2阿米都知《アメツチト》1、などやうにはかくべし、そは彼方にては、もとより字音に天地《テムチ》といふを、此方にて阿米都知《アメツチ》といへばなり、しかるを此方にて成《ツク》れる丈は、いかに漢文にならひたりとて、此云とはいかで書べき理のあらむ、(さらでは書紀の文、もとより天地日月《テムチニチゲツ》などやうに、音讀にすべきための文になるを、さることにはあらで、實はもとよりの古語に、字を填《ウメ》たるにこそあれ、)まして葉木國、此云2播擧矩爾《ハコクニト》1、などいへる類は、殊にいと/\意得かてなり、もとより葉木國といふ漢語のあらばこそ、なほ姑(ク)さてもあるべきを、こはたゞ播擧矩爾《ハコクニ》といふに、葉木國といふ字を、借(リ)用たるものにこそあれ、此等はひたすらに漢めかさむとして、大《イミ》じく物そこなひをなせる物なりけり、(正しく云ば、阿米都知《アメツチニ》用2天地(ノ)字(ヲ)1などいふべき理にはあらめど、もとより漢文にならひて作(レ)る書なれば、さまでいはむは、中々にこと/\しかるべければ、たゞ訓云とはいふべし、いかさまにも、此云とては、もとよりの漢籍を、此方にて譯すときのいひざまに(130)て、いと/\まぎらはし、今なほたとへていはゞ、古語を今俗言に譯していふ時、あるひは伊泥麻須《イデマス》とあるを、今は御出被v成といふなりとはいふべし、もとより今(ノ)世の俗文の如く、一筆致啓上候などやうに書たらむ文は、今は云々といふとは、いふまじき理ならずや、)次に反云といふこと、いよ/\いかゞなり、そも/\まづこの反(ノ)字は、(八(ノ)卷に、變云とも書たり、そは集中に、他所にも反變は、通(シ)用ひたれば、全同じことなり」)飜と通(ハシ)用たりと見えたり、(字書に、翻或(ハ)作v飜、又通作v反(ト)、と見ゆ、)此も漢國にて梵語を飜譯《ウツ》すとき云々飜(シテ)云々、といへるに教《ナラ》へるひがことなり、これも、もとよりの梵語を、漢にて譯《ウツ》す故、此方にては、かくいふことぞといふこころなり、たとへば南無飜(シテ)云2歸命(ト)1、とあるにて知べし、かくあり來りて後、續後紀十九(ノ)長歌に、此國乃日本詞爾逐倚天唐乃詞遠不假良須《コノクニノヤマトコトバニオヒヨリテモロコシノコトバヲカラズ》云々|歌語爾詠反志天《ウタコトニヨミカヘシテ》云々、とさへよめるぞ、かたはらいたきや、(歌に外(ツ)國の語を假べき理のなきは、勿論《モトヨリ》なれば、飜などゝはいかでいふべきなれど、これは彼(ノ)僧等が、己が心をよする梵國ならでは、何事も飽ず、足はぬことゝのみおもへるより、今歌に、彼(ノ)國の語を直には用ひずして、皆此方にて、昔より云來れる詞に飜してよめるぞ、と自慢貌《ホコサガ》に云るなり、)○戴持弖《《イタヾキモチテ》、(戴(ノ)字、舊本載に誤、)戴《イタヾキ》は大命を承賜り、大切に頂戴する意なり、持《モチ》は、宰をミコトモチ〔五字右○〕といふ持にて、大命を持行て、其(ノ)國の政事を執行ふなり、十七に、須賣呂伎能乎須久爾奈禮婆美許登母知多知和可體奈婆《スメロキノヲスクニナレバミコトモチタチワカレナバ》とあり、又二(ノ)卷に、君之御言乎持(131)而加欲波久《キミガミコトヲモチテカヨハク》、とある特《モチ》も同じ、續紀詔に、祖名乎戴持而《オヤノナヲイタヾキモチテ》とも見ゆ、○麻加利伊麻勢《マカリイマセ》(異本に、伊の下に、弖(ノ)字あり、さらばイデマセ〔四字右○〕と訓べけれど、猶舊本に從べし、)は、罷坐者《マカリイマヤバ》の意なり、者《バ》を云ざるは古風なり、○神豆麻利《カムヅマリ》は、神留《カムヅマリ》なり、祝詞等《ノリトドモ》に、高天原爾神留坐《タカマノハラニカムヅマリマス》、皇睦神漏伎神漏彌《スメラガムツカムロキカムロミノ》命以云々、とあるに同じ、都麻留《ツマル》は、留住《トヾマ》る意なるが故に、留(ノ)字を書るなり、これを續紀(ノ)詔には、神積坐《カムヅマリマス》、と書る、積は、借(リ)字なり、(これにても留はツマリ〔三字右○〕と訓べく、トヾマリ〔四字右○〕と訓は、ひがことなるを知べし、物の咽《ノド》につまるといふも、留るよしなり、又行つめ、或は行つまるなどいふも同じ、)廿(ノ)卷に、都久志能佐伎爾知麻利爲弖《ツクシノサキニチマリヰテ》とあるも、都麻利《ツマリ》を、東語に、知麻利《チマリ》といへるなり、さて神留坐《カムヅマリマス》とは、皇御孫(ノ)命の天降り賜ふに對へて、降りまさずして、天に留《トヾマ》り坐よしなり、かくて此は、海邊あるひは奥なる島などに、鎭り留り坐神等を、海原の邊にも奥にも神留《カムヅマ》りとは云るなり、と本居氏|説《イヘ》る如し、○宇志播吉伊麻須《ウシハキイマス》は、其(ノ)處の主《ウシ》として、我(ガ)物と領坐《シリイマス》を云、本居氏云、言の意は、宇志《ウシ》は主《ウシ》、波久《ハク》は、佩《ハク》v刀《タチヲ》著《ハク》v沓《クツヲ》などの波久《ハク》と同じくて、身に著て持《意カ》ならむか、といへり、又云、天皇の天(ノ)下所知食ことなどを、宇志波伎《ウシハキ》坐と申せる例は、さらに無れば、似たることながら、所知食などゝいふとは、差別あることゝ聞えたりと云り、九(ノ)卷登2筑波嶺(ニ)1爲2※[女+燿の旁]歌會1日作(ル)歌に、此山乎牛掃神之從來不禁行事叙《コノヤマヲウシハクカミノムカシヨリイサメヌワザゾ》、古事記に、汝之宇志波祁流葦原中國者《ナガウシハケルアシハラノナカツクニハ》、我御子之所知國言依賜《アガミコノシラサムクニトコトヨサシタマヒ》、遷2却祟神(ヲ)1、祝詞に、山川能清地爾遷出坐?《ヤマカハノサヤケキトコロニウツリイデマシテ》、吾地止宇須波伎坐世止進幣帛者《ワガトコロトウスハキイマセトタテマツルミテクラハ》(132)云々、など見えて、皆|神祇等《カミタチ》の所知食事にのみいへり、○大御神等《オホミカミタチ》は、契冲、いはゆる住吉《スミノエ》、志加《シカ》、豐浦《トヨラ》、市杵島姫《イチキシマヒメ》、田心姫《タゴリヒメ》、湍津姫《タギツヒメ》、こられの神等なり、と云り、さて凡て大御神と申すことは、天照大御神の如く、最尊(キ)神ならでは、如何ぞや思はるゝを、古事記に、阿遲※[金+且]高日子根神者《アヂスキタカヒコネノカミハ》、今《イマ》謂2迦毛大御神《カモノオホミカミト》1者也、と見え、此(ノ)集十九に、墨吉乃吾大御神《スミノエノワガオホミカミ》などよみ、春日祭などの祝詞にも、皇大御神等《スメオホミカミタチ》とあれば、古(ヘ)は何(レノ)神をも、尊みては申けるにこそ、と本居氏云り、○船舳爾《フナノヘニ》は、和名抄に、兼名苑(ノ)註云、船(ノ)前頭謂2之舳(ト)1、漢語抄(ニ)云、舟頭制v水(ヲ)處也、和語(ニ)云v閇《ヘト》、(舳(ノ)字は、詳校篇海に、舳(ハ)舟(ノ)首也とあるは、今と同じく閇《ヘ》なり、字彙に、舳(ハ)船(ノ)後持v舵(ヲ)處とあるは、登母《トモ》なり、又艫(ノ)字は、和名抄に、兼名苑(ノ)註(ニ)云、船(ノ)後頭謂2之艫(ト)1、楊氏(カ)曰、舟(ノ)後刺v櫂(ヲ)處也、和語云|度毛《トモ》、又玉篇に艫(ハ)在2船後(ニ)1者、とあるは、登母《トモ》なり、字彙に、李斐(ガ)曰、艫(ハ)船頭v櫂(ヲ)處、とあるは、閇《ヘ》なり、そも/\舳艫は、首と尾との差別あることにて、今(ノ)世人は、此(ノ)集又和名抄などの如く、舳(ノ)字は閇《ヘ》、艫(ノ)字は登母《トモ》と意得て、をさ/\まがふ事はなきを、漢國にては中々にまぎらはしく、舳艫の首尾を、尾首とも心得られて分がたきが如し、)此(ノ)集十九天平五年贈2入唐使(ニ)1歌に、懸麻久乃由々志恐伎《カケマクノユヽシカシコキ》、墨吉乃吾大御神《スミノエノワガオホミカミ》、船乃倍爾宇之波伎座《フナノヘニウシハキイマシ》、舶騰毛爾御立座而《フナドモニミタヽシマシテ》、佐之與良牟磯乃崎崎《サシヨラムイソノサキサキ》、許藝波底牟泊々爾《コギハテムトマリ/\ニ》、荒風浪爾安波世受《アラキカゼナミニアハセズ》、平久率而可敝理麻世《タヒラケクヰテカヘリマセ》、毛等能國家爾《モトノクニヘニ》、と見えたり、○道引麻遠志《ミチビキマヲシ》(遠志(ノ)、二字舊本顛倒、活字本又一本に從つ、)は、導申《ミチビキマヲシ》なり、申は、さす人を敬ひて云詞なり、上に意久利摩遠志弖《オクリマヲシチ》、とあると同じ、○(133)天地能大御神等《アメツチノオホミカミタチ》は、天神地祇等を申なり、○倭大國靈《ヤマトノオホクニミタマ》、倭《ヤマトノ》は、四言一句なり、此(ノ)神は、神名帳に、大和(ノ)國山邊(ノ)郡大和(ニ)坐大國魂(ノ)神社三座、(並名神大、月次相甞新甞、)とあるこれなり、(今在2新泉村(ニ)1、と谷川士清(ガ)通證にいへり、)古事記上卷に、速須佐之男(ノ)命、娶(テ)2大山津見(ノ)神之女、名(ハ)神大市比賣(ニ)1、生子《マセルミコ》大年(ノ)神、大年(ノ)神娶(テ)2神活須毘(ノ)神之女、伊怒比賣(ニ)1、生子《マセルミコ》大國御魂(ノ)神、とあり、(神代紀の一書に、大國主(ノ)神の亦(ノ)名をも、大國玉(ノ)神と申せるよし見えたれど、こゝは倭(ノ)大國靈とあれば、其にはあらず、混ふべからず、)さて此(ノ)神をかく申されたるは、もしは此(ノ)度の遣唐使等の、産土(ノ)神にてもおはしませるにもあらむ、さらずとも、これは大和(ノ)國にては、殊にいみじく重《イカ》しく、いつきまつれる神にませば、とりわきて申せるなり、山邊(ノ)郡大和といふ地に、鎭り坐るによりて、倭(ノ)大國魂(ノ)神とも、直に倭(ノ)大神とも申して、上古より朝廷にても、殊にいつかせたまへるよしは、書紀崇神天皇(ノ)卷に、六年、先v是天照大神、倭(ノ)大國魂二神(ヲ)、並2祭(リタマヒキ)於天皇(ノ)大殿之内(ニ)1、然畏(マシテ)2其神勢(ヲ)1、共(ニ)住(タマフコト)不v安、故|以《ヲ》2天照大神1、託2豐鍬入姫(ノ)命(ニ)1、以《ヲ》2日本(ノ)大國魂(ノ)神1、託2渟名城(ノ)入姫(ノ)命(ニ)1祭(リタマヒキ)云々、七年、以《ヲ》2大田々根子1、爲d祭2大物主(ノ)大神(ヲ)1之|主《カムヌシト》1、以《ヲ》2市磯(ノ)長尾市1爲d祭2倭(ノ)大國魂(ノ)神(ヲ)1之|主《カムヌシト》u、云々、と見えたるを、思ひ奉るべし、又垂仁天皇(ノ)卷に三十五年、云々、一云倭(ノ)大神、著(タマヒテ)2穗積(ノ)臣(ノ)遠祖大水口(ノ)宿禰(ニ)1而|誨之曰《ヲシヘタマハク》、大初之時期曰《カミヨノトキチギリタマハク》、天照大神(ハ)、悉(ニ)2治(メサム)天(ノ)原(ヲ)1、皇御孫(ノ)尊(ハ)、專(ラ)2治(メサム)葦原(ノ)中國之八十魂(ノ)神(ヲ)1、我(ハ)親(ラ)2治(メサム)大地(ノ)官(ヲ)1者言已訖《トハヤクコトサダメタリ》焉、云々、是以今汝御孫(ノ)尊、悔(テ)2先(ノ)皇之|不及《イマダシカリシヲ》1而慎祭、則汝尊(ノ)壽命|延長《ナガク》、復天(ノ)下(モ)太平《タヒラギナム》矣、(134)時天皇聞(シメシテ)2是言(ヲ)1、則仰(セテ)2中臣(ノ)連(ノ)祖|探湯主《クガヌシニ》1、而卜(シムルニ)2之|誰人以《タレニ》令(ムト)1v祭2大倭大神(ヲ)1、即渟名城(ノ)稚姫(ノ)命|食《アヘリ》v卜(ニ)焉、因以《カレ》命2渟名城(ノ)稚姫(ノ)命(ニ)1、定2神地(ヲ)於穴磯(ノ)邑(ニ)1、祠《イハヒマツリキ》2大市(ノ)長岡(ノ)岬(ニ)1、然|是《コノ》渟名城(ノ)稚姫(ノ)命、既身體悉痩弱《ヤサカミテ》以不v能v祭、是以命2大倭(ノ)直(ノ)祖長尾市(ノ)宿禰(ニ)1令《シメタマヒキ》v祭矣、と見えて、大國魂(ノ)神の大地(ノ)官の神にましますことは、書紀の本章には闕たれど、この一書にて徴《アキラカ》なり、かく重《イカ》しく尊き神にましませば、とり分て申せるも理なり、をも/\1寧樂人は、神(ノ)道の尊くくすしき理を知(ラ)ぬ人なければ、事とあるときは、いつも天神地祇、さるべき神等、また産土(ノ)神を、ふかくたのみまつること常なるを、後(ノ)世人は、かゝる故實《フルコト》をわすれて、あらぬ儒佛の事故など、ともすれば引よせて、とかくいひしらふこそあさましけれ、○阿麻能見虚喩《アマノミソラユ》は、天之御空從《アマノミソラユ》なり、十(ノ)卷にも、天三空者陰細管《アマノミソラハクモリアヒツヽ》とあり、○阿麻賀氣利《アマガケリ》は、出雲(ノ)國造(ノ)神賀詞に天穗比《アメノホヒノ》命|乎《ヲ》、國體見爾遣時爾《クニカタミニツカハシヽトキニ》、天能八重雲乎押別?《アメノヤヘクモヲオシワケテ》、天翔國翔?《アマガケリクニガケリテ》、天下乎見廻?《アメノシタヲミメグラシテ》、古事記景行天皇(ノ)條に、倭建(ノ)命の御魂の事を、然亦|自《ヨリ》2其地《ソコ》1更翔天以飛行《サラニアマカケリテトビイマシヌ》、とあり、中昔の物語書などに、亡靈《スギニシ人ノタマ》の、此(ノ)世に物することをば、なべて天がけると云り、續紀三十(ノ)詔に、如是在牟人等乎波朕必翔鎗天見行之《カクアラムヒトドモヲバワレカナラズアマガケリタマヒテミソナハシ》、退給比捨給比《シリゾケタマヒステタマヒ》、岐良比給牟物曾《キラヒタマハムモノゾ》、と有(リ)、これも先(ノ)天皇の御塊の、天翔給天《アマガケリタマヒテ》と詔へるものなり、○墨繩《スミナハ》は、和名抄に、内典(ニ)云、端直不v曲猶如2墨繩(ノ)1、和名|須美奈波《スミナハ》、十一に、云々物者不念斐太人乃打墨繩之直一道二《カニカクニモノハオモハズヒダヒトノウツスミナハノタヾヒトミチニ》、雄略天皇(ノ)紀に、婀※[手偏+施の旁]羅斯枳偉儺繼能陀惧瀰柯該志須彌儺〓《アタラシキイナベノタクミカケシスミナハ》、旨我那稽麼※[手偏+施の旁]例柯柯該武預婀※[手偏+施の旁](153)羅須瀰儺〓《シガナケバタレカカケムヨアタラスミナハ》などあり、○播倍多留期等久《ハヘタルゴトク》は、如《コトク》2延而有《ハヘタル》1なり、血鹿(ノ)岬より三津(ノ)濱へ、墨繩引延たる如く、一道にの意なり、○阿庭可遠志は、未(タ)考(ヘ)得ず、(説どもあれど、皆うけがたし、)庭(ノ)字、阿野家本、飛鳥井家本、活字本、拾穗本、又異本等には遲と作り、これに依(ラ)ば、もしや阿遲《アヂ》のすむなど云詞なりけむを、誤れるにはあらざるか、十一に、味乃住渚沙乃入江之《アヂノスムスサノイリエノ》、十四に、阿遲乃須牟須沙能伊利江乃《アヂノスムスサノイリエノ》などあり、猶考(フ)べし、○智可能岬《チカノサキ》(岬(ノ)字、舊本岫に誤、)は、和名抄に、肥前(ノ)國松浦(ノ)郡値嘉(ハ)、知加《チカ》とある地なり、古事記に、次(ニ)生2知訶島《チカノシマヲ1、亦名(ハ)謂2天(ノ)之忍男(ト)1、書紀敬達天皇(ノ)卷に、十二年冬十月、百濟(ノ)參官等、遂(ニ)發2途於|血鹿《チカニ》1、天武天皇(ノ)卷に三年夏四月、三位麻續(ノ)王、有v罪流2于因幡(ニ)1、一子流2血鹿《チカノ》島(ニ)1、續紀聖武天皇(ノ)紀に、捕2獲廣嗣(ヲ)於松浦(ノ)郡値嘉(ノ)島長野(ノ)村(ニ)1、また廣嗣之船從2知駕(ノ)島1發、三代實録に、貞覿十八年三月、參議太宰(ノ)權帥在原(ノ)朝臣行平起請(フ)、分(テ)2肥前(ノ)國松浦(ノ)郡|庇羅《ヒラ》値嘉《チカノ》兩郷(ヲ)1更建2二郡(ヲ)1、號2上近《カミツチカ》下近《シモツチカト》1、置2値嘉(ノ)島(ヲ)1云々、貞觀儀式追儺祭文に、穢久惡伎疫鬼能《キタナクアシキエヤミノカミノ》、所々村々爾藏里隱布流乎波《トコロ/\ムラ/\ニカクリシヌフルヲバ》、千里之外四方之堺《チサトノホカヨモノサカヒ》、東方陸奥《ヒムカシハミチノク》、西方遠値嘉《ニシハトホチカ》、南方土佐《ミナミハトサ》、北方佐渡與里乎知能所乎《キタハサドヨリヲチノトコロヲ》、奈牟多知疫鬼之《ナムタチエヤミノカミノ》、住加登定賜比行賜弖《スミカトサダメタマヒイマシタマヒテ》云々、などあり、釋紀に、風土記を引て、更(ニ)勅《ノリタマヒキ》2云此(ノ)島|雖《ド》v遠《トホケ》猶見《ミユ》v如《ゴト》v近《チカキ》、可(ド)1v謂2近《チカノ》島(ト)1、因《カレ》曰2値嘉《チカノ》島(ト)1、或(ハ)有2一百餘(ノ)近(ノ)島1、或(ハ)有2八十餘(ノ)近(ノ)島1と見えたり、後拾遺集に、ちかの浦に浪よせかくる心ちしてひるまなくても暮しつるかな、本居氏云、此(ノ)島は、今の五島《ゴタウ》平戸《ヒラド》などの島々を、總|稱《イヘ》るなるべし五島平戸は、肥前(ノ)國の西北(ノ)方の海より、西(ノ)方へ遙に聯《ツラ》な(136)りて、多くの島々ありて、今も松浦(ノ)郡に屬《ツケ》り、歴史に見えたる趣も大なる島と聞え、風土記に、數多くあるよし云るにも、叶ひたればなり、(類字集といふ物に、筑前にあるよしいへるは非なり、)岬《サキ》は、和名抄に、唐堰iニ)云、岬(ハ)山側也、日本紀私記云、三佐木《ミサキ》とあり、○大伴《オホトモ》は、御津の枕詞なり、既く云り、○濱備《ハマビ》は、濱傍《ハマビ》なり、濱邊《ハマベ》と云むが如し、此(ノ)上に云り、○多太泊爾《タヾハテニ》(太(ノ)字、舊本大に誤、拾穗本に從つ、)は直泊《タヾハテ》になり、血鹿(ノ)岬より御津の濱傍に、直樣に來泊(ル)よしなり、○都都無美久《ツツミナク》云云は、十三に、恙無福座者荒磯浪有毛見登《ツヽミナクサキクイマサバアリソナミアリテモミムト》、とあるに同じ、郡都美《ツツミ》は凶事なり、その凶事無く、幸《サキ》く座《オハ》し坐て、といふなり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
895 大伴《オホトモノ》。御津松原《ミツノマツバラ》。可吉掃弖《カキハキテ》。和禮立待《ワレタチマタム》。速歸坐勢《ハヤカヘリマセ》。
 
可吉掃弖《カキハキテ》は、掻掃而《カキハラヒテ》と云が如し、すべて掻《カキ》とは、手して物する事にそへていふ詞なり、十六に、玉掃苅來鎌麻呂室乃樹與棗本可吉將掃爲《タマバヽキカリコカママロムロノキトナツメガモトヲカキハカムタメ》、とよめり、源氏物語椎(カ)本に、あじろのびやうぶなどの、ことさらにことそきてみどころあるを、さる心してかきはらひ、いたうしなしたまへりなどあり、○歌(ノ)意は、君が御船の泊て、上(リ)著坐む料に、御津の松原の塵芥を清く掻掃ひて、其濱(ノ)に出立て待居むぞ、幸く座て早く還り來賜へ、となり、
 
896 難波津爾《ナニハヅニ》。美船泊農等《ミフネハテヌト》。吉許延許婆《キコエコバ》。紐解佐氣弖《ヒモトキサケテ》。多知婆志利勢武《タチバシリセム》。
 
(135)紐解佐氣弖《ヒモトキサケテ》は、よろこびのあまりに、紐を結ふまでもなく、いそぎて立走らむといふなり、佐氣《サケ》は放《サケ》なり、○多知婆志利勢武《タチバシリセム》、景行天皇(ノ)紀に、日本武(ノ)尊望v海(ヲ)|高言曰《コトアゲシタマハク》、是小海耳、可2立跳渡《タチバシリニモワタリツ》1、とあり、○歌(ノ)意は、還ります君が御船の、難波の御津に泊ぬといふことの、家に聞え來ば、歡のあまりに、紐を結ぶまでもなく、いそぎ立走行て、迎へまゐらせむ、となり、
 
天平五年三月一日《テムヒヤウイツトセトイフトシヤヨヒノツキタチノヒ》【良宅對面獻(ハ)三日(ナリ)、】山上憶良《ヤマノヘノオクラ》 謹上《ツヽシミテタテマツル》
 
大唐大使卿《モロコシニツカハスツカヒノカミノマヘツキミノ》記室。
 
良宅とは、憶良が宅なり、良は名を省(キ)書るなり、○獻三日とは、朔日に右の歌を作て、それを三日に、大使に獻りたるなり、○記室は上に出たり、
 
沈痾自哀文 山上憶良作。
 
痾(ノ)字、舊本〓と作るは誤、類聚抄、古寫本、拾穗本等に從つ、
 
竊(ニ)以(ミルニ)朝佃2食山野(ニ)1者。猶無2※[うがんむり/火]災害1而得v度(ルコトヲ)v世(ヲ)。【謂d常執2弓箭1不v避2六齋1。所v値禽獣不v論2大小1。孕及2不孕1。並皆〓食。以v此爲v業者也。】晝夜釣2漁河海1者。尚有2慶福1而全經v俗(ヲ)。【謂漁夫潜女各有v所v勤。男者手把2竹竿1。能釣2波浪之上1。女者腰帶2鑿籠1。潜採2深潭之底1者也。】況乎我從2胎生1迄2于今日(ニ)1。自有2修善之志1。曾無2作惡之心1。【謂聞2諸惡莫作諸善奉行之教1也。】所以禮2拜三寶(ヲ)1。無2日(トシテ)不1v勤。【毎日誦經發露懺悔也。】敬2重百神(ヲ)1。鮮2夜(トシテ)有1v闕。【謂敬2拜天(138)地諸神等1也。】嗟乎※[女+鬼]哉。我犯2何罪(ヲ)1。遭2此重疾(ニ)1。【謂未v知2過去所v造之罪1。若是現前所v犯之過。無v犯v罪何過。獲2此病1乎。】初沈v痾(ニ)已來。年月稍多。【謂經2十餘年1也。】是時年七十有四。鬢髪斑白。筋力※[兀+王]羸。不2但年老(ノミニ)1。復加2斯病(ヲ)1。諺曰。痛瘡灌v鹽(ヲ)。短材截v端(ヲ)。此之謂也。四支不v動(カ)。百節皆疼。身體太重。猶v負2鈞石(ヲ)1。【二十四銖爲2一兩1。十六兩爲2一斤1。三十斤爲2一鈞1。四鈞爲2一石1。合一百二十斤也。】懸v布欲v立(ムト)。如2折v翼之鳥(ノ)1。倚v杖(ニ)且歩。比2跛足之驢(ニ)1。吾以身已(ニ)穿俗。心亦累塵。欲v知(ムト)2禍之所v伏。祟之所(ヲ)1v隱(ル)。龜卜之門。巫祝之室。無v不2往問(ハ)1。若實若妄。隨2其所1v教(ル)。奉2幣帛(ヲ)1無v不2祈?1。然而彌有v増v苦(ヲ)。曾無2減差1。吾聞前代多有2良醫1。救2療蒼生病患(ヲ)1。至v若2楡樹扁鵲華他秦(ノ)和緩葛稚川陶隱居張仲景等1。皆是在v世(ニ)良醫。無v不2除愈(セ)1也。【扁鵲。姓秦。字越人。勃海郡人也。割v※[匈/月]採2心腸1而置v之。投以2神藥1。即寤如2平也1。華他字元化。沛國※[言+焦]人也。若有2病結積沈重者1。在v内者刳v腸取v病。縫復摩v膏。四五日差v之。】追2望件醫(ヲ)1。非2敢所1v及。若逢2聖醫神藥者1。仰願割2刳五藏(ヲ)1。抄2探百病(ヲ)1。尋2達膏肓之※[こざと+奥]處(ニ)1。【肓※[隔の旁]也。心下爲v膏。改v之不v可。達v之不v及。藥不v至焉。】欲v顯2二竪之逃匿(ヲ)1【謂晉景公疾。秦醫緩視而還者可v謂2爲v鬼所1v〓也。】命根既(ク)盡終2其天年(ヲ)1。尚爲v哀(ト)。【聖人賢者一切含靈。誰免2此道1乎。】何况生録未v半。爲(ラル)2鬼(ニ)枉殺(セ)1。顔色壯年。爲((ラル)2病(ニ)横困(セ)者乎。在(ノ)v世大患。孰(カ)甚(ラム)2于此(ヨリ)1。【志恠記云。廣平前太守。北海徐玄方之女。年十八歳而死。其靈謂2馮馬子1曰。案2我生(139)録(ヲ)1。當2壽八十餘歳1。今爲2妖鬼1所2枉殺1。已經2四年1。此遇2馮馬子1。乃得2更活1是也。内教云。膽浮洲人。壽百二十歳。謹案2此數1。非2必不1v得v過v此。故壽延經云。有2比丘1。名曰2難達1。臨2命終時1詣v佛請v壽。則延2十八年1。但爲v善者。天地相畢。其壽夭者。業報所v招。隨2其脩短1而爲v半也。未v盈2斯※[竹/卞]1而|※[しんにょう+端の旁]死去。故曰v未v半也。任徴君曰。病從v口入。故君子節2其飲食1。由v斯言之。人遇2疾病1。不2必妖鬼1。夫醫方諸家之廣説。飲食禁忌之厚訓。知易行難之鈍情。三者盈v目滿v耳。由來久矣。抱朴子曰。人但不v知2其當v死之日1。故不v憂耳。若誠知2羽※[隔の旁+羽]可v得v延v期者。必將v爲v之。以v此而觀。乃知我病蓋斯飲食所v招。而不v能2自治1者乎。】帛公畧説(ニ)曰。伏思自※[蠣の旁](ニ)。以2斯長生1。生可v貪也。死可v畏(ル)也。天地之大徳(ヲ)曰v生(ト)。故死人不v及2生鼠(ニ)1。雖v爲2王侯1。一日絶v氣(ヲ)。積v金(ヲ)如v山(ノ)。誰(カ)爲v富(ト)哉。威勢如v海(ノ)。誰(カ)爲v貴(ト)哉。遊仙窟(ニ)曰。九泉下(ノ)人。一錢不v直(セ)。孔子(ノ)曰。受2之於天(ニ)1。不v可2變易1者形也。受2之於命(ニ)1。不v可v請益(ス)者(ハ)壽也。【見2鬼谷先生相人書1。】故知2生之極貴。命之至重(ヲ)1。欲v言(ムト)言窮(ル)。何以言v之。欲v慮(ムト)慮絶(ユ)。何(ニ)由(テカ)慮v之。惟以人無2賢愚(ト)1。世無2古今(ト)1。咸(ク)悉(ナ)嗟歎。歳月競流。晝夜不v息(ハ)。【曾子曰往而不v反者年也。宣尼臨v川之嘆亦是矣也。】老疾相催(シ)。朝夕侵動(ク)。一代(ノ)歡樂。未v盡2席前(ニ)1。【魏文惜2時賢1詩曰。未v盡2西|花〔左○〕夜1。劇作2北※[亡+おおざと]塵1也。】千年愁苦更繼2座後(ヲ)1。【古詩云。人生不v滿v百。何懷2千年憂1矣。】若夫群生品類莫v不d皆以2有v盡(ルコト)之身1。並求c無v窮之命(ヲ)u。所以道人方士自負2丹經(ヲ)1。入2於名山(ニ)1。而合藥之者。養v性(ヲ)怡v神(ヲ)。以求2長生(ヲ)1。抱朴子(ニ)曰。神農云。百病不v愈(エ)。安(ソ)得2長生(ヲ)1。帛公又曰。生(ハ)好物也。死(ハ)惡物也。若不幸而不v得2(140)長生(ヲ)1者。猶以d生涯無2病患1者u爲2福大(ト)1哉。今吾爲v病見v惱。不v得2臥坐(ヲ)1。向v東(ニ)向v西(ニ)。莫v知(ルコト)v所v爲。無福至甚。※[手偏+總の旁]集2于我(ニ)1。人願天從(フ)。如有v實者。仰顧(クハ)頓(ニ)除2此病(ヲ)1。頼《サキハヒニ》得v如v平。以v鼠(ヲ)爲v喩(ト)。豈不v愧乎。【已見v上也。】
 
拾穗本には、發端の竊以より下、分註の謂經十餘年也まで、本行分註とも、凡て二百二十一字なくして、惟時云々を發端とし、二十四銖より二十斤也まで、三十一字の分註なく、龜卜より神樂者仰まで、本行分註とも、凡て百六十二字なく、二竪之逃匿と云を結末として、謂晉景公の分註より下は、凡てなし、故(レ)其(ノ)舊本に合たる處々の、文字異同を下に※[手偏+交]つ、○朝夕、夕(ノ)字、舊本には脱、官本に徒、○※[うがんむり/火]害、※[うがんむり/火](ノ)字活字本になきは、脱たるなり、○所値、(分註)値(ノ)字、舊本〓に誤、古寫本、官本等に從つ、活字本に位と作るも誤、〓は、有の誤ならむ、と云る説もあり、○爲業、(分註)業(ノ)字、舊本には葉に誤、今は古寫小本に從、○鑿籠、(分註)籠(ノ)字、舊本に龕と作るは誤なるべし、古寫小本に從、○潜採深潭、(分註)活字本には、採を澤と作、潭(ノ)字なし、皆わろし、○何過、(分註)舊本には過何とあり、今は活字本に從、○是時年、拾穗本には是を惟と作て、年(ノ)字なし、○鬢髪斑白、活字本には鬢斑(ノ)二字なし、わろし、○〓羸、〓字、舊本には〓と作り、拾穗本に從、字彙に、〓(ハ)烏光(ノ)切音〓、曲頸也僂也弱也、韓文(ニ)固(ニ)有2〓羸(ニシテ)壽考(ナルコト)1、○二十四銖、(分註)二十、古寫本には〓と作り、下なるも同じ、○心亦、亦(ノ)字舊本には思と作り、官本、由阿本、拾穗本等に從、○楡※[木+付]、舊本楡樹に誤、今改、○(141)心腸、(分註)腸(ノ)字、古寫本には易と作り、○即寤、(分註)寤(ノ)字、古寫小本には寐と作り、わろし、○元化、(分註)舊本に无他に誤、元は一本に從、化は活字本に從、○在内者、(分註)者(ノ)字、一本にはなし、○四五針差之、(分註)之(ノ)字、活字本には定と作り、異本に、五字みながら無はわろし、○抄探、探(ノ)字、拾穗本には採と作、○志恠記云より、不能自治者也乎まで、二百五十三字、舊本には、大字に書て一行を低せり、今は古寫本又一本に從て分註とす、○今爲〓鬼、(分註)〓(ノ)字、古寫小本には妖と作り、下なるも同じ、○此遇、(分註)遇一本に過と作り、○百二十歳、(分註〉百の上に、古寫一本に一(ノ)字あり、○得過、(分註)契冲、過は遇の誤なるべし、と云り、○請壽(分註)の下に、古寫本に今一(ツ)の壽(ノ)字あり、○爲善、舊本に善爲と作るは、倒置たるなり、今は契冲(ノ)説によりて改、○壽〓(分註)〓(ノ)字古寫小本には夭と作り、○※[竹/卞]は、算の古字なり、○任徴、(分註)徴(ノ)字、舊本には微と作り、今は一本に從、○從口、(分註〉從(ノ)字、舊本徒に誤、古寫小本に從、○不必〓鬼、(分註)〓(ノ)字、古寫小本には妖と作り、○厚訓、(分註)厚(ノ)字、活字本には原と作り、○自治、(分註)治(ノ)字、古寫本には活と作り、○者乎(分註)の下、古寫本には也(ノ)字あり、○魚谷先生、(分註)谷(ノ)字、舊本各に誤、古寫本、古寫小本等に從、○晝夜、晝(ノ)字舊本書に誤、古寫一本に從、○歡樂、歡(ノ)字、古寫本には懽と作り、○西花、(分註)花(ノ)字、古寫本には※[草がんむり/宛]と作り、○※[亡+おおざと]塵、(分註)※[亡+おおざと](ノ)字、舊本望に誤、古寫小本に從、○皆以、皆(ノ)字、古寫本に比と作るはわろし、○合藥、藥(ノ)字、舊本樂に誤、古寫本に從、○神農の下云(ノ)字、古寫本には曰と作り、○帛公又、公(ノ)(142)字、舊本出に誤、古寫本、古寫小本、異本等に從、○※[手偏+總の旁]集于我の上、脱語あるべし、○已見上也(分註)四字、活字本にはなし、
 
悲2歎(スル)俗道假合即離易1v去(リ)難1v留(リ)詩一首井序。
 
悲(ノ)字、また俗道(ノ)二字、拾穗本にはなし、○序の下、古寫小本、拾穗本等に、山上(ノ)臣億良(ノ)五字あり、
 
竊(ニ)以《オモヒミルニ》釋慈之示教。【謂2釋氏慈氏1。】先(ニ)開2三歸【謂v歸2依佛法僧1。】五戒1。【謂一不〓生。二不偸盗。三|不〔○で囲む〕邪淫。四不妄語。五不飲酒也。】而|遍〔○で囲む〕化2法界(ヲ)1。周孔之垂訓。前張2三綱【謂君臣父子夫婦。】五教1。【謂父義。母慈。兄友。弟順。子孝。】以齊(ク)濟(フ)2邦國(ヲ)1。故知(ル)引導雖v二(ナリト)。得v悟惟一也。但以世無2恒質1。所以陵谷更(ニ)變。人無2定期1。所以壽〓不v同(カラ)。撃目之間。百齡已盡。申臂之頃。千代亦空(シ)。旦(タニハ)作2席上之主(ト)1。夕(ニハ)爲2泉下之客(ト)1。白馬走來(ル)。黄泉何及。隴上(ノ)青松。空(ク)懸2信釼(ヲ)1。野中(ノ)白楊。但吹(ル)2悲風(ニ)1。是(ニ)知(ル)世俗本無2隱遁之室1。原野唯有2長夜之臺1。先聖已去。後賢不v留(ラ)。如有2贖而可(コト)1v免者。古人誰無2價金1乎。未v聞d獨存遂(ニ)見(ル)2世(ノ)終(ヲ)1者u。所以維摩大士疾2玉體于方丈1。釋迦能仁掩2金容(ヲ)乎雙樹(ニ)1。内教曰。不(ハ)v欲2黒闇之後(ニ)來(ヲ)1。莫v入2徳天之先至に1。【徳天者生也。黒闇者死也。】故知(ル)生必有v死。死若不(ムハ)v欲。不v如《シカ》v不(ニハ)v生(レ)。况乎縱覺2始終之恒數(ヲ)1。何慮2存亡之大期(ヲ)1者也。
 
(143)拾穗本には、發端の竊以より、但以まで、本行分註とも、凡て九十五字なくて、世無恒質云々を發端とし、遂見世終者と云を結末として、所以維摩大士より下凡てなし、○謂一云々(分註)の數字、舊本には法界の下にあり、今改、○不邪婬、(分註)不(ノ)字、舊本には脱たり、○化の上、普あるひは遍なぞの字落たるべし、と契冲云り、下の齊(ノ)字なき本に從ば、なくてもあるべし、○謂父云云(分註)の十一字、舊本には邦國の下にあり、今改、○齊濟邦國濟(ノ)字、古寫本、古寫一本、官本等には無、邦(ノ)字、舊本には郡と作り、今は古寫一本に從、○無恒質、無(ノ)字、舊本に元と作るは、无の誤なり、古寫本、古寫小本、拾穗本等に從、○陵谷、谷(ノ)字、舊本各に誤、古寫本、拾穗本等に從、○無定期、無(ノ)字、舊本元に誤、古寫本、古寫小本、拾穗本等に從、○壽、〓、〓(ノ)字、古寫小本、拾穗本等には夭と作り、○之頃、頃(ノ)字、舊本に項に誤、○亦空、亦(ノ)字、活字本には且と作り、○泉下之客、客(ノ)字、舊本容に誤、古寫本、古寫小本、拾穗本等に從、○白馬、馬(ノ)字、拾穗本には駒と作り、○空懸、懸(ノ)字、拾穗本には掛と作り、○于方、于(ノ)字、舊本千に誤、古寫本に從、○不如、如(ノ)字、舊本知に誤、古寫本、官本等に從、○大期者也、大(ノ)字、活字本には不と作り、也(ノ)字、拾穗本にはなし、
 
俗道(ノ)變化猶2撃目(ノ)1。人事經紀如2申臂(ノ)1。空(ク)與1浮雲1行2大虚(ヲ)1。心力共盡無v所v寄。
 
俗(ノ)字、古寫小本、拾穗本等には世と作り、
 
老身重病|經《ヘテ》v年《トシヲ》辛苦《クルシミ》。及《マタ》思《オモフ》2兒等《コラヲ》1歌五首《ウタイツヽ》【長一首。短四首。】
 
(144)五(ノ)字、舊本には七と作り、註の四(ノ)字、舊本には六と作り、(其は富人能云々、麁妙能云々の二首を混入たるにより、數へたる非なり、)今改つ、
 
897 靈剋《タマキハル》。内限者《ウチノカギリハ》。平氣久《タヒラケク》。安久母阿良牟遠《ヤスクモアラムヲ》。事母無《コトモナク》。裳無母阿良牟遠《モナクモアラムヲ》。世間能《ヨノナカノ》。宇計久都良計久《ウケクツラケク》。伊等能伎提《イトノキテ》。痛伎瘡爾波《イタキキズニハ》。鹹鹽遠《カラシホヲ》。灌知布何其等久《ソヽグチフゴトク》。益益母《マスマスモ》。重馬荷爾《オモキウマニニ》。表荷打等《ウハニウツト》。伊布許等能其等《イフコトノゴト》。老爾弖阿留《オイニテアル》。我身上爾《アガミノウヘニ》。病遠等《ヤマヒヲラ》。加弖之阿禮婆《クハヘテシアレバ》。晝波母《ヒルハモ》。歎加比久良思《ナゲカヒクラシ》。夜波母《ヨルハモ》。息豆伎阿可志《イキヅキアカシ》。年長久《トシナガク》。夜美志渡禮婆《ヤミシワタレバ》。月累《ツキカサネ》。憂吟比《ウレヒサマヨヒ》。許等許等波《コトゴトハ》。斯奈奈等思騰《シナナトモヘド》。五月蠅奈周《サバヘナス》。佐和久兒等遠《サワクコドモヲ》。宇都弖弖波《ウツテテハ》。死波不知《シニハシラズ》。見乍阿禮婆《ミツヽアレバ》。心波母延農《コヽロハモエヌ》。可爾可久爾《カニカクニ》。思和豆良比《オモヒワヅラヒ》。禰能尾志奈可由《ネノミシナカユ》。
 
靈剋《タマキハル》は、枕詞なり、既く出づ、○内限者《ウチノカギリハ》(舊本此下に、謂瞻浮州人壽一百二十年也、と註せるは、後世人のしわざにて、此(ノ)上の文に、内教云とて、此(ノ)語のあるを取持來て、此に書入たるなり、是を自註と思ふはひがことなり、と本居氏の云るが如し、拾穗本に此(ノ)註なきは、いと宜し、)は、現之限者《ウチノカギリハ》にて、生てある世の間はといふ意なり、○事母無《コトモナク》は、何事も無(ク)の意にて、即(チ)平安なるよしなり、○裳無母阿良牟遠《モナクモアラムヲ》は、裳《モ》は、(借(リ)字)凶事《マガコト》にて、他所に、喪(ノ)字を書る其(レ)なり、本居氏、喪《モ》てふ言は麻賀事《マガコト》の切《ツマ》りたるにて、死たることのみにも非ず、何事にまれ凶事をいふなり、麻賀《マガ》を切れ(145)ば麻《マ》、許等《コト》を切れば許《コ》にて、その麻許《マコ》を切れば、母《モ》となるなりと云り、十五に、伊麻太爾母毛奈久由可牟登《イマダニモモナクユカムト》、又|多婢爾弖毛母奈久波夜許登《タビニテモモナクハヤコト》、六帖又伊勢物語に、我さへ裳《モ》なくなりぬべきかな、かげろふの日記に、身の上をのみする日記には、入まじき事なれど、もなしとおもひたりしも、たれならぬはしるしおくなり、などあり、○宇計久都良計久《ウケクツラケク》は、厭惡《ウケクツラケ》くなり、古今集に、世間《ヨノナカ》のうけくにあきぬ奧山の木(ノ)葉に零(レ)る雪や消なまし、神代紀に、其(ノ)中一兒|※[日/厭]《イト》惡《ツラク》、不v須2教養(ヲ)1などあり、○伊等能伎提《イトノキテ》は、いとゞしくと云が如し上に出(ツ)、○痛伎瘡爾波《イタキキズニハ》、上の沈痾自哀文に、諺(ニ)曰、痛瘡(ニ)灌v鹽(ヲ)、短材截v端(ヲ)、とある是なり、谷川氏、諺に、いたきが上の針といふは、萬葉に、いたき瘡にはから鹽を灌と云るに同じと云り、和名抄瘡類に、釋名(ニ)云、痛(ハ)通也、通(シテ)在2膚脉(ノ)中(ニ)1也、和名|伊太之《イタシ》、また唐堰iニ)云、瘡(ハ)痍也、(和名|加佐《カサ》、)痍(ハ)瘡也(和名|岐須《キズ》、)とあり、○鹹鹽《カラシホ》は、十六に、小螺乎伊拾持來而《シタヾミヲイヒロヒモチキテ》云々|辛鹽爾古胡登毛美《カラシホニココトモミ》とあり、甘鹽《アマシホ》、味鹽《アヂシホ》、煮鹽《ニシホ》、などいへることもあり、延喜式に見えたり、○灌知布其等久《ソヽグチフゴトク》(布の下、舊本に何字あるは衍なり、)は、灌《ソヽグ》といふ如くなり、灌は、古事記雄略天皇(ノ)御歌に、美那曾曾久游美能表登賣《ミナソソグオミノヲトメ》、云々、靈異記に、洒所々岐弖《ハソヽキテ》とあり、書紀に、灌滌盪滌などの字を、ソヽグ〔三字右○〕と訓り、(本居氏云、つねには、沃又注(ノ)字などをソヽグ〔三字右○〕と訓て、そゝぐと、すゝぐとは、少し異なるが如く聞ゆめれど、同言なり、すゞろとも、そゞろとも通はし云が如し、倭比賣(ノ)命の、御裳《ミモ》長くて穢れしを、洗(ヒ)給ひしに因て、御裳濯《ミモス》川と號けしを思へば、須曾具《スソグ》とも云しにや、)(146)○重馬荷爾《オモキウマニニ》は、諺に、重荷に小付といふが如し、後撰集に、御製、年の數積むとすなる重荷にはいとゞ小付をこりもそへなむ、と見ゆ、○老爾弖阿留《オイニテアル》は、老にたるの意なり、爾《ニ》は、過爾志《スギニシ》、舊爾志《フリニシ》などいふ爾《ニ》におなじ、○病遠等《ヤマヒヲラ》は、等《ラ》とは、そのもと數あるものを、ひとつに擧ていふ時、妹等《イモら》子等《コラ》、あるひは絹綿等《キヌワタラ》、衣褌等《キヌハカマラ》などいふ等《ラ》に同じく、後(ノ)世|那杼《ナド》と云に近し、さればこゝは、老てある身の苦しき上に、病などをさへ加へてあれば、といふ意につゞけたり、○加弖之阿禮婆《クハヘテシアレバ》、(之(ノ)字、舊本には无、なくてもよろしけれども、今は拾穗本に從つ、)之《シ》は、例の其一(ト)すぢなることを、おもく思はする助辭なり、○歎加比久良志《ナゲカヒクラシ》は、歎《ナグ》き暮《クラ》しの伸りたるなり、○憂吟(吟(ノ)字、舊本今に誤、古寫本、古寫小本、拾穗本等に從つ、)は、ウレヒサマヨヒ〔七字右○〕と訓べし(ウレヘ〔三字右○〕といふはわろし、)上の貧窮問答歌にもあり、○許等許等波《コトコトハ》は、契冲云、異事者《コトコトハ》なり、悉にはあらず、いときなき子をのこしおくほかの事は、辛苦のあまりに、死なむとおもへどの心なり、○斯奈奈等思騰《シナナトモヘド》は、いざ將《ム》v死《シナ》と一向に思へどもの意なり、斯奈奈《シナナ》は、將《ム》v死《シナ》を急《ハヤ》く云る詞なり、卑《ム》と奈《ナ》とは、緩急の差別ある言なり、既く委しく云り、○五月蠅奈周《サバヘナス》は、枕詞なり、既く三(ノ)卷に出(ツ)、○宇都弖弖波《ウツテテハ》(波(ノ)字、拾穗本にはなし、)は、棄而者《ウツテヽハ》なり、十一に、靈治波布神毛吾者打棄乞四惠也壽之〓無《タマチハフカミモアレヲバウツテコフシヱヤイノチノヲシケクモナシ》とあり、さて宇都弖《ウツテ》は、宇弖《ウテ》と云に同じ詞と聞ゆ、故(レ)宇知宇弖《ウチウテ》の切れる言、(知《チ》字は、都《ツ》と切れり、)とまづはおもはるれど、なほさにはあらで、本より宇都弖《ウツテ》とも、宇弖《ウテ》とも云しにこそ、○死波(147)不知《シニハシラズ》は、死むことは知ずの意にて、得死(ナ)ずといふことに落る詞なり、(死て後思ふ事ありや、思ふ事なしや、それはかねてしらず、といふにはあらず、)○見乍阿禮婆《ミツヽアレバ》は、老身重病、さま/”\のうけくつらけき事を、見つゝ有ばといふなり、○心波母延農《コヽロハモエヌ》は、心者所燎《コヽロハモエヌ》なり、十七に、心爾波火佐倍毛要都追《コヽロニハヒサヘモエツツ》、十三に、我意燒毛吾有《ワガコヽロヤクモアレナリ》、新撰萬葉に、人緒念心之熾者身緒曾燒烟立砥者不見沼物韓《ヒトヲオモフコヽロノオキハミヲソヤクケブリタツトハミエヌモノカラ》、古今集に、胸はしり火に心やけをり、と云る類なり、○思和豆良比《オモヒワヅラヒ》は、思煩《オモヒワヅラヒ》なり、和豆良布《ワヅラフ》は、物に拘り泥む意なり、辛苦《クルシサ》のあまりに、死むと思へども得死ず、さりとて、さま/”\のうけくつらけき事を、見つゝあれば、心に火さへ燎て患《ウレハ》し、此方彼方に拘り泥みて、せむすべをしらざるよしなり、古事記に、和豆良比能宇斯《ワヅラヒノウシノ》神、書記に、煩(ノ)神などあるは、其(ノ)義にて負せたる神號なり、○禰能尾志奈可由《ネノミシナカユ》は、哭耳所泣《ネノミシナカユ》にて、哭《ネ》にばかり泣るゝといふよしなり、志《シ》は、例の其一(ト)すぢなる事を、おもく思はする助辭なり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
898 奈具佐牟留《ナグサムル》。心波奈之爾《コヽロハナシニ》。雲隱《クモガクレ》。鳴往鳥乃《ナキユクトリノ》。禰能尾志奈可由《ネノミシナカユ》。
 
第三四(ノ)句は、序のみなり、○歌(ノ)意は、心を慰むる事は露無して、唯一(ト)すぢに苦しく、哭にばかり泣るゝとなり、
 
899 周弊母奈久《スベモナク》。苦志久阿禮婆《クルシクアレバ》。出波之利《イデハシリ》。伊奈奈等思騰《イナナトモヘド》。許良爾佐夜利奴《コラニサヤリヌ》。
 
(148)伊奈奈《イナナ》は、將《ム》v去《イナ》を急く云る詞なり、○歌(ノ)意は、あまりにせむかたもなく、くるしくあれば、走り出て、一向にいづかたへも、いざ去むと思へども、さすがに又兒等に障りて、さも得爲ぬよとなり、
○此間に、舊本、上(ノ)貧窮問答歌の反歌に載たる、富人能《トミヒトノ》云々、麁妙能《アラタヘノ》云々、二首の短歌を收たるは、混(ヒ)入しものなるべし、故(レ)今改て上に入(レ)つ、
 
902 水沫奈須《ミナワナス》。微命母《モロキイノチモ》。栲繩能《タグナハノ》。千尋爾母何等《チヒロニモガト》。慕久良志都《ネガヒクラシツ》。
 
水沫奈須《ミナハナス》は、水の沫の如くといふにて、微(キ)命をいはむとてなり、上の爲2熊凝1述2其志(ヲ)1歌(ノ)序に、泡沫之命難v駐、廿(ノ)卷願v壽歌に、美都煩奈須可禮流身曾等波之禮禮杼母《ミツボナスカレルミゾトハシレレドモ》、奈保之禰我比都知等世能伊乃知乎《ナホシネガヒツチトセノイノチヲ》、續古今集に、思川逢瀬までとや水沫奈須微命《ミナワナスモロキイノチ》も消殘るらむ、などあり、○歌(ノ)意は、水(ノ)沫の如く、微《モロ》くはかなき命にて、のがれぬ理なれば、なまなかに早く死ば、辛苦をわすれて安からむ、とは思へども、子故に障り泥みて、繩の千尋に長きが如く、いかでいつまでもがな、生ながらへよかし、と日ごと/\に願ひ暮しつるなり、
 
903 倭文手纒《シヅタマキ》。數母不在《カズニモアラヌ》。身爾波在等《ミニハアレド》。千年爾母何等《チトセニモガト》。意母保由留加母《オモホユルカモ》。【去神龜二年作之。但以v類故更載2於茲1、】
 
倭文手纒《シヅタマキ》(文(ノ)字、舊本父に誤)は、枕詞なり、四(ノ)卷に出づ、○歌(ノ)意は物數にもあらぬ、貧賤《マヅ》しき身に(149)てはあれども、早く死ねがしとは思はず、いかで千年にもがな、生ながらへよかし、と思はるる哉となり、○註の、去神龜云々は、此(ノ)歌一首は、去《サキ》の神龜二年によみたれども、水沫奈須《ミナワナス》云々の歌に類へる故に、茲に載といふ憶良の自註なり、
 
天平五年六月丙申朔三日戊戌作《テムヒヤウイツトセトイフトシミナツキノヒノエサルノツキタチミカノヒツチノエイヌヨメリ》。
 
戀《コフル》2男子名古日《ヲノコナハフルヒヲ》1歌三首《ウタミツ》。【長一首、短一首、】
 
拾穗本には、男子名(ノ)三字無して、日の下に、男兒之名(ノ)四字、分註せり、
 
904 世人之《ヨノヒトノ》。貴慕《タフトミネガフ》。七種之《ナヽクサノ》。寶母我波《タカラモアレハ》。何爲《ナニセムニ》。慕欲世武〔四字各○で囲む〕《ネガヒホリセム》。和我中能《ワガナカノ》。産禮出有《ウマレイデタル》。白玉之《シラタマノ》。吾子古日者《ワガコフルヒハ》。明星之《アカボシノ》。開朝者《アクルアシタハ》。敷多倍乃《シキタヘノ》。登許能邊佐良受《トコノベサラズ》。立禮杼毛《タテレドモ》。居禮杼毛登母爾《ヲレドモトモニ》。可伎奈※[泥/土]弖〔五字各○で囲む〕《カキナデテ》。言問〔二字各○で囲む〕戯禮《コトトヒタハレ》。夕星乃《ユフツヽノ》。由布弊爾奈禮婆《ユフベニナレバ》。伊射禰余登《イザネヨト》。手乎多豆佐波里《テヲタヅサハリ》。父母毛《チヽハヽモ》。表者奈佐我利《ウヘハナサカリ》。三枝之《サキクサノ》。中爾乎禰牟登《ナカニヲネムト》。愛久《ウルハシク》。志我可多良倍婆《シガカタラヘバ》。何時可毛《イツシカモ》。比等等奈理伊弖天《ヒトトナリイデテ》。安志家口毛《アシケクモ》。與家久母見牟登《ヨケクモミムト》。大船乃《オホブネノ》。於毛比多能無爾《オモヒタノムニ》。於毛波奴爾《オモハヌニ》。横風乃《ヨコシマカゼノ》。爾母布敷可爾《ニハカニモ》。覆來禮婆《オホヒキタレバ》。世武須便乃《セムスベノ》。多杼伎乎之良爾《タドキヲシラニ》。志路多倍乃《シロタヘノ》。多須吉乎可氣《タスキヲカケ》。麻蘇鏡《マソカヾミ》。弖爾登利毛知弖《テニトリモチテ》。天神《アマツカミ》。阿布藝許比乃美《アフギコヒノミ》。地祇《クニツカミ》。布之弖額拜《フシテヌカヅキ》。可加良受毛《カカラズモ》。可賀利毛吉惠〔二字各○で囲む〕《カカリモヨシヱ》。天地乃〔三字各○で囲む〕《アメツチノ》。神乃末爾麻《カミノマニマ》仁〔□で囲む〕等《ト》。立阿射里《タテアザリ》。我乞能米登《ワガコヒノメド》。須曳毛《シマシクモ》。余家久波奈之爾《ヨケクハナシニ》。(150)漸漸《ヤウヤウニ》。可多知都久保里《カタチツクホリ》。朝朝《アサナアサ》。伊布許登夜美《イフコトヤミ》。靈剋《タマキハル》。伊乃知多延奴禮《イノチタエヌレ》。立乎杼利《タチヲドリ》。足須里佐家婢《アシスリサケビ》。伏仰《フシアフギ》。武禰宇知奈氣吉《ムネウチナゲキ》。手爾持流《テニモタル》。安我古登婆之都《アガコトバシツ》。世間之道《ヨノナカノミチ》。
 
貴慕《タフトミネガフ》は、貴《タフト》み重みして、得まほしく願ふよしなり、○七種之寶《ナヽクサノタカラ》は、戎《カラ》國にて、金銀瑠璃※[石+俥]※[石+渠]瑪瑙珊瑚琥珀を七寶とする、其を云るなり、○何爲《ナニセムニ》は、何故にと云むが如し、此(ノ)上思2子等(ヲ)1歌(ノ)反歌に、銀母金時玉母奈爾世武爾《シロカネモクガネモタマモナニセムニ》、麻佐禮留多可良古爾斯迦米夜母《マサレルタカラコニシカメヤモ》、とあるに同じ、竹取物語に、あの書おきし文を、よみてきかせけれど、何せむにか、命もをしからむ、たがためにか、何事もようもなしとて云々、今は此(ノ)處の下に、七言一句脱たるなるべし嘗(ミ)に云(ハ)ば厶、慕欲世武《ネガヒホリセム》などあるべし、此(レ)までの意は、世(ノ)人の貴(ミ)慕ふ七種の寶は誠に貴く得まほしけれど、子ほどの寶に勝れることなければ、何故にか、それを慕ひ欲(リ)せむぞとなり、○和我中能《ワガナカノ》は、吾(ガ)子といふへ續けて意得べし、爾《ニ》と云(ハ)ずして能《ノ》と云るは、此(ノ)故なり、中とは夫婦の中《ナカ》のよしなり、○白玉之《シラタマノ》は、九(ノ)卷に、白玉之人之其名矣《シラタマノヒトノソノコヲ》、(名は兒か)十九に眞珠乃見我保之御面《シラタマノミガホシミオモ》、源氏物語桐壺に、世になくきよらなる、玉のをのこ御子さへうまれ給ひぬ、紅葉賀に、后腹の御子、玉の光かゞやきて、たぐひなき御おぼえにさへ物し給へば、うつぼ物語俊蔭に、玉の光かゞやくをのこを生つ、などあるを思(ヒ)合(ス)べし、又なく貴み愛まるゝを、玉に比《タト》へて云るなり、白玉は、和名抄に、日本紀私記(ニ)云、(151)眞琢(ハ)之良太麻《シラタマ》と見えたり、抑々玉は、石より出たるも、月より出たるも、又|作《スリ》て造《ナ》せるも自然《オノヅカラ》になれるも、さま/”\ありて、白玉《シラタマ》、赤玉《アカタマ》、青玉《アヲタマ》、麁玉《アラタマ》など云る、其(ノ)中に白色なるを白玉と云り、集中に作《ヨメ》るは、多くは鰻眞珠《アハビシラタマ》なり、されど此《コヽ》に云る類は、何の玉といふこともなくひろくわたりていへることさらなら、新撰萬葉に、誠之玉《マコトノタマ》といへることあるは、露を白玉《シラタマ》と見なしていへることある、それに對《ムカ》へて云るのみなり、○明星之《アカホシノ》は、朝《アシタ》の枕詞なり、此は開《アク》といふにはかゝらず、朝《アシタ》とつゞきたるにて、明里の照《テ》る朝といふ意なるべし、夕星之夕《ユフヅヽノユフベ》と云るに同じきを思(ヒ)合(ス)べし、さてその照るといふ意を含めたるは炎《カギロヒ》のもゆる春といふ意なるを、炎之春《カギロヒノハル》と云ると同體なり、明星は、和名抄に、兼名苑(ニ)云、歳屋一名明星、此間云|阿加保之《アカホシ》、六帖に、月影にみがくれにけり明星のあかぬ心に出てくやしく、などあり、○登許能邊佐良受《トコノベサラズ》は、不《ズ》v離《サラ》2床方《トコノヘ》1なり、古事記倭建(ノ)命(ノ)御歌に、袁登賣能登許能辨爾和賀淤岐新都流岐能多知《ヲトメノトコノベニワガオキシツルギノタチ》とあり、○居禮杼毛登母爾《ヲレドモトモニ》の下脱句有べし、試に云ば、可伎奈※[泥/土]弖言問戯禮《カキナデテコトトヒタハレ》、などありしが落しにや、さらば立ても居ても父母と諸共に、子の頭などを掻(キ)撫(テ)愛《ウツクシ》みて、言問たはぶれの意なり、可伎奈※[泥/土]《カキナデ》は、六(ノ)卷聖武天皇(ノ)大御歌に、天皇朕宇頭乃御手以掻撫曾禰宜賜打撫曾禰宜賜《スメラワガウヅノミテモチカキナデソネギタマフウチナデソネギタマフ》云々、廿(ノ)卷に、知々波々我可之良加伎奈弖佐久安禮天《チヽハヽガカシラカキナデサクアレテ》云々、又|波々蘇婆能《ハヽソバノ》、波々能美許等波美母乃須蘇都美安氣可伎奈※[泥/土]《ハヽノミコトハミモノスソツミアゲカキナデ》云々などあり、合(セ)考(フ)べし、さて明星之《アカホシノ》云々より、此(ノ)句まで八句にて、次の夕星之《ユフヅヽノ》云々より、(152)中爾乎禰牟登《ナカニヲネムト》と云まで、八句に對へたり、しかるを舊本のまゝにては、明星之《アカホシノ》云々より、此(ノ)句まで七句となれるがうへに、句調もとゝのはざるにて、その脱字のありしを知べし、すべて雙句は、對偶《カタヘ》が八句なれば八句、六句なれば六句なること定格にて、かたゝがひなるはなきことなり、○夕星乃《ユフヅヽノ》は、夕《ユフベ》の枕詞なり、十(ノ)卷に、夕星毛往來天道《ユフヅヽモカヨフアマヂヲ》云々、和名抄に兼名苑(ニ)云、大白星一名長庚、暮見2於西方(ニ)1、爲2長庚(ト)1、此間云|由不豆々《ユフヅヽ》、六帖に、日くるれば山の端に出る夕づゝの星とは見れどあかぬ君哉、よひごとに立も出なむ夕星《ユフヅヽ》の月なき空の光とおもはむ、既く二(ノ)卷人麻呂(ノ)歌に見えたり、○伊射禰余登《イザネヨト》は、古日《フルヒ》が、父母に率《イザ》寢給へよといふなり、兒童は早く寢て、遲く起る事常も然り、○手乎多豆佐波里《テヲタヅサハリ》は、手を携ひの伸りたるなり、○表者奈佐我利《ウヘハナサカリ》は、表《ウヘ》は、契冲(ガ)云る如く、其ほとりにて、古日が、こなたかなたなり、奈佐我利《ナサカリ》は、(我(ノ)字を書たるは正しからず、清て唱(フ)べし、)莫放《ナサカリ》なり、吾(ガ)側をば遠放(カ)ることなかれ、と古日がいふなり、○三枝之《サキクサノ》は、中《ナカ》の枕詞なり、三枝《サキクサ》てふものは、莖三(ツ)ある草にて、凡(ソ)三(ツ)あるものは、中あることわりなれば、三栗之中《ミツクリノナカ》とつゞけたるに同意なり、なほ三枝は品物解に云り、○愛久は、ウルハシク〔五字右○〕と訓べし、○志我可多良倍婆《シガカタラヘバ》は、其之語者《シガカタラヘバ》なり、志我《シガ》は、其(レ)がといふに同じ、十八に、之我願心太良比爾《シガネガフコヽロダラヒニ》、十九に、※[盧+鳥]河立取左牟安由能之我波多波《ウガハタテトラサムアユノシガハタハ》、又|黄楊小櫛之賀左志家良之《ツゲヲグシシガサシケラシ》、又|秋花之我色々爾《アキノハナシガイロ/\ニ》、古事記仁徳天皇(ノ)條大后(ノ)御歌に、佐斯夫能紀《サシブノキ》、期賀斯多邇淤斐陀弖流《シガシタニオヒダテル》、波毘呂由都麻都婆岐《ハビロユツマツバキ》、斯賀(153)波那能弖理伊麻斯《シガハナノテリイマシ》、芝賀波能比呂理伊麻須波《シガハノヒロリイマスハ》、又同條(ノ)歌に、加良奴袁志本爾夜岐斯賀阿麻理《カラヌヲシホニヤキシガアマリ》、清寧天皇(ノ)條(ノ)歌に、斯毘郡久阿麻余斯賀阿禮婆《シビツクアマヨシガアレバ》、書紀雄略天皇(ノ)卷(ノ)歌に、志我都矩屡麻泥爾《シガツクルマデニ》、また旨我那稽摩《シガナケバ》、續紀廿一(ノ)詔に、仕奉人等中爾《ツカヘマツルヒトドモノウチニ》、自何仕奉状隨弖《シガツカヘマツルサマニヨリテ》、廿五(ノ)詔に、先仁之我奏之事方《サキニシガマヲシノコトハ》、などある皆同じ、○安志家口毛與家久母見牟登《アシケクモヨケクモミルト》は、惡《アシ》くならむ事も、善《ヨ》くならむ事も、生さきを見む、と末をたのしむ意なり、○大船乃《オホブネノ》云々は、二(ノ)卷人麻呂(ノ)歌に見えたり、○於毛波奴爾《オモハヌニ》は、思ひかけもなきにの意なり、三(ノ)卷に、昨日社公者在然不思爾《キノフコソキミハアリシカオモハヌニ》、濱松之上於雲棚引《ハママツノヘノクモニタナビキ》とあるに同じ、○横風乃はヨコシマカゼノ〔七字右○〕と訓て、横樣風之《ヨコシマカゼノ》なり、○爾母布敷可爾(舊本可爾の下に、布敷可爾(ノ)四字あり、古寫一本、官本、拾穗本等にはなし、)は、本居氏、布敷は爾波の誤、爾母は亂て上に入たり、横風乃爾波可爾母覆來禮婆《ヨコシマカゼノニハカニモオホヒキタレバ》、と有しなるべしと云り、さらば下の爾(ノ)字も衍なり、風邪《カゼノワザハヒ》に感《フレ》て病《ヤマヒ》つく心なり、○多須吉乎可氣《タスキヲカケ》は、手襁《タスキ》を掛にて、神祇に仕へ奉る時の容なり、さるは神供の御膳の類を取まかなふ爲に、手襁して袖をかゝげて物する事なり、諸の祝詞などを見て、其容を知べし、(しかるを後(ノ)世、神を拜む人、よしもなくて木綿襁《ユフタスキ》を掛るは、いかにぞや)○麻蘇鏡《マソカヾミ》は、此は神祇に供《ソナ》へ奉る爲なり、鏡を神に供ること、古書に多く見えたり、○阿布藝許比乃美《アフギコヒノミ》は、仰乞?《アフギコヒノミ》なり、○布之弖額拜《フシテヌカヅキ》は、伏而額衝《フシテヌカヅキ》たなり、○可加良受毛《カカラズモ》云々は、契冲云(ク)、惠にかからむもかゝらざらむも、神の御心にまかせていのるなり、源氏物語須磨に、海に座神のめ(154)ぐみにかゝらずは、鹽の八百會にさすらへなましとあり、○可賀利毛《カカリモ》の下、落句あるべし、例の試に云(ハ)ば、吉惠天地乃(ノ)五字を脱し、仁(拾穗本には、爾と作り、)は衍文にて、可賀利毛吉惠天地乃神乃未爾麻等《カカリモヨシヱアメツチノカミノマニマニト》、とありしなるべし、吉惠《ヨシヱ》は十一に、足千根乃母爾不所知吾持留《タラチネノハヽニシラエズアガモタル》、心者吉惠君之隨意《コヽロハヨシヱキミガマニ/\》、とあるに同じく、縦やと假に縦す意の辭なり、天地乃《アメツチノ》は、上に天神《アマツカミ》云々、地祇《クニツカミ》云々とあるを、ひとつに云て應《コタ》へたるなり、さて惠にかゝらざらむもかゝらむも、縦や天神地祇の御心のまゝに、まかせ奉らむの意にて、かく吾(ガ)丹誠を致《キハ》めつくして祈りしからは、よもや神祇も、納受《ウケ》賜はぬ事はあらじとの下心なり、○立阿射里《タチアザリ》は、俗に、心いられして、いかにせむとさわぐを、あせるといふ、これなるべしと契冲云り、今按に、土佐日記に、上中下醉過て、いとあやしく、しほ海のほとりにて、あざれあへりとある、あざれと同言にて、とりみだしさわぐさまをいふことなるべし、源氏物語花宴に、あきれたる大君すがたとある、あざれも同じ、〔頭註、【土佐日記上中下云々あざれあへり』考證、あざれは、人のたはぶるゝに、※[魚+委]をかねたり』書紀仁徳紀云、有2海人1、賚2鮮魚之苞苴1、獻2于菟道宮1也、太子令2海人1曰、我非2天皇1、乃返之、令v進2難波1、大鷦鷯尊、亦返以令v獻2菟道1、於是海人之苞苴、※[魚+委]2於往還1」和名抄云、野王按、※[魚+委]、(和語云阿佐留)魚肉爛也、」源氏花宴云、みな人、はうへのきぬなるに、あざれたるおほきみすがたの、なまめきたるにて云々」春海翁云、あざれば、肉のあざれたるなどいふと同じことばにて、人のうへにいふは、みだれたるさまをいふなるべし、こゝにしほうみのほとり、とことさらにかけるは、鹽のあるうみべにても、人はあざれあへり、とたはぶれかけるなり、そは魚の肉は、鹽をくはふれば、あざれぬものなればなり、〕○我乞能米登《ワガコヒノメド》(我の下、舊本に例(ノ)字あるは衍なり、一本に無ぞよき、)は我《ワガ》雖《ド》2乞?《コヒノメ》1なり、○余家久波奈之爾《ヨケクハナシニ》は、快《ヨケ》くは無(シ)ににて、快方の氣は見えぬよしなり、○漸漸は(155)ヤウヤウニ〔五字右○〕と訓べし、(シバシバニ〔五字右○〕と訓るはひがことなり、漸(ノ)字は、字書にも稍也と註したれば、シバシバ〔四字右○〕と訓ては、意表裏になればなり、七(ノ)卷に奥津梶漸々莫水手《オキツカヂヤウ/\ナコギ》とあるも同じ、(真水手を、舊本に志夫乎と作るは誤なり、)さて夜宇夜宇《ヤウヤウ》と云は、今俗に艱難《カラク》して物するをいふとは異《カハ》りて、前《サキ》に進《スヽ》む事の急《ニハカ》ならず、緩《ユルヤカ》に物する謂なり、玉篇に、漸(ハ)進也とも註したるを考(ヘ)合(セ)》て、俗に云とは異なるを知べし、さて漸は、古今集より此方の書にこそ、夜宇夜宇《ヤウヤウ》とも、夜宇也久《ヤウヤク》とも云る事多けれ、古言に、常には夜々《ヤヽ》とのみ云るを、既《ハヤ》く奈良人は、夜宇夜宇《ヤウヤウ》とも延(ヘ)言たるなるべし、此は八日《ヤカ》を夜宇可《ヤウカ》、賜《タブ》を多宇夫《タウブ》、葬《ハフル》を波宇夫流《ハウブル》と云に同じ、又字音にても、牡丹《ボタム》を煩宇多武《ボウタム》、(女院、女御、女官、女房、などの女《ニヨ》を、ニヨウ〔三字右○〕と云るも同じ、)など云るも同じ、但し其は、今(ノ)京此方の事にこそあれ、此(ノ)集などの證には、たのみがたき事、と思ふ人もあるべけども、古書に、設をば、春設《ハルマケ》、夏設《ナツマケ》、夕片設《ユフガタマケ》、小舟設《ヲブネマケ》などの類皆|麻氣《マケ》とのみ云るを、十八に、布禰毛麻宇氣受《フネモマウケズ》と見えたれば、既く此(ノ)頃は、然《サ》も云し事しるければ、夜々《ヤヽ》をも夜宇夜宇《ヤウヤウ》と延(ヘ)いひし事、疑ふべきに非ずなむ、(本居氏は、漸々ば、ヤヽヤヽニ〔五字右○〕と訓べし、漸は、常に夜宇也久《ヤウヤク》と訓れども、此言古書に正しく書る例なければ、さだかに知がたきを、よく考ふれば、夜宇也久《ヤウヤク》は、夜々夜々《ヤヽヤヽ》の、音便に轉り訛れるなりけり、と云れど非なり、夜々《ヤヽ》は、もと彌《ヤ》を重ねて、彌々《ヤヽ》と云るなれば、そを再び重ねて、彌々彌々《ヤヽヤヽ》とまでは、云べからざればなり、)○可多知都久保里《カタチツクホリ》は、やせすぼる心ときこ(156)ゆと契冲云り、今按(フ)に、容貌の衰へて、折(レ)屈(ム)やうのさまを、都久保流《ツクホル》といふにや、今の世に、人の膝を立て居るを、都久婆武《ツクバム》といふも、もと同言なるべし、都久婆武《ツクバム》は、都久保武《ツクホム》の訛《ヨコナマレ》る言にて、自《オ》然るを都久保留《ツクホル》と云、然|爲《ス》るをば都久保武《ツクホム》と云なるべし、又拾穗本、異本等には久都保里《クツホリ》とあり、これもさることなるべくや、宇鏡に、降背(ハ)皆《背歟》病也、世久豆《セクヅ》と見ゆ、くゞまるやうの事を久都保流《クツホル》といふなるべし、源氏物語紅葉(ノ)賀に、例のことなれば、しるしあらじかし、とくつをれてながめふしたまへるに、枕册子に、色このみの老くつをれたるとあり、思(ヒ)合(ス)べし、くつをれと書るも、くつほれの誤ならむにや、○伊乃知多延奴禮《イノチタエヌレ》は、命《イノチ》絶《タエ》ぬればの意なり、婆《バ》をいはざるは、例の古詞なり、○立乎杼利《タチヲドリ》は、蹉※[足+它]《タチヲドリ》なり、字鏡に、※[足+闌](ハ)乎止留《ヲドル》、※[足+滴の旁](ハ)乎止留《ヲドル》、〓跨(ハ)乎止留《ヲドル》、蹉※[足+它](ハ)乎止留《ヲドル》、踉〓(ハ)乎止留《ヲドル》、などあり、愁歎する時の貌なり、○足須里佐家婢《アシスリサケビ》は、足摩叫《アシスリサケビ》なり、須里《スリ》は用言なり、清て訓べし、常には足受里《アシズリ》と體言に云を、今は足を摩(リ)といふ意なり、(此《コヽ》を足受里《アシズリ》と體言にいふ時は、足受里志《アシズリシ》と云(ハ)では、次の佐家婢《サケビ》といふも、用言なれば連(カ)ず、しかるを石塚氏が古言清濁考に、此の須を、九(ノ)卷によりて、受の誤なるべきよし論へるは、ひがことなり、よく詞の
つゞきを思ひ見べし、九(ノ)卷浦島子をよめる歌に、立走叫袖振反側見受利四管《タテハシリサケビソデフリコイマロビアシズリシツヽ》、伊勢物語に、率て來し女もなし、足ずりをして泣どもかひなし、源氏物語蜻蛉に、足ずりといふことをしてなくさま、わかき子どものやうなり、字鏡に、躑※[足+屬](ハ)足須留《アシスル》、※[足+滴の旁]※[足+蜀](ハ)蜘※[足+厨]也、足須留《アシスル》など、見ゆ、(土佐(ノ)國(157)幡多(ノ)郡に、足摺《アシズリ》といふ地あり、これは法師の弟子が足摩《アシズリ》して、師を慕ひしより、地(ノ)名となれよしいへる説あれど、彼はもと佐太《サグ》なるを、借(リ)字に蹉※[足+它]《サダ》と書るより、其(ノ)字によりて、アシズリ〔四字右○〕と呼び、つひに俗説をなしたるものなるべし、)○伏仰《フシアフギ》は、或は天を仰(キ)或は地に伏(シ)などして、歎き悲しむ貌なり、九(ノ)卷菟原處女をよめる歌に後有菟原壯士伊《オクレタルウナヒヲトコイ》、仰天叫於良妣《》、※[足+昆]地牙喫建怒而《アメアフギサケビオラビツチニフシキカミタケビテ》、とあるを思(ヒ)合(ス)べし、○武禰宇知奈氣吉《ムネウチナゲキ》は、胸打歎《ムネウチナゲキ》なり、按(フ)に、吉は苦の誤にはあらざるにや、ムネウチナゲク〔七字右○〕とあらまほし、○手爾持流《テニモタル》は、嬰兒を、古言に手兒と云るを思ふべし、○安我古登婆之都《アガコトバシツ》は、吾子《アガコ》令《シ》v飛《トバ》つなり、契冲云、いづくとも、ゆくさきしらずなるをば、手にすゑ《た歟》らむ鷹などを、あやまりてそらしやらむに似たり、○世間之通《ヨノナカノミチ》は、世間無常の道理は爲方もなく、さても悲しきものにてある哉、と深く歎きたる意なり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
905 利可家禮婆《ワカケレバ》。道行之良士《ミチユキシラジ》。末比波世武《マヒハセム》。之多敝乃使《シタヘノツカヒ》。於比弖登保良世《オヒテトホラセ》。
 
和可家禮婆《ワカケレバ》は、幼稚《ヲサナ》ければと云むが如し、和可志《ワカシ》とは、後(ノ)世は多く壯《サカリ》なるほどを云(ヘ)ど、古言には、すべて未(タ)成立(タ)ざるほどを、多くは和可志《ワカシ》といへり、○未比波世武《マヒハセム》は、幣《マヒ》は爲《セ》むなり、幣は末比奈比《マヒナヒ》なり、(賄賂をのみいふは後なり、)六(ノ)卷に、天爾座月讀壯子幣者將爲《アメニマスツクヨミヲトコマヒハセム》、今夜乃長者五夜繼許曾《コヨヒノナガサイホヨツギコソ》、九(ノ)卷霍公鳥(ノ)歌に、幣者將爲遐莫去《マヒハセムトホクナユキソ》、十七に、多麻保許能美知能可未多知麻比波勢牟《タマホコノミチノカミタチマヒハセム》、(158)安賀於毛布伎美乎奈都可之美勢余《アガオモフキミヲナツカシミセヨ》、廿(ノ)卷に、和我夜度爾佐家流奈弖之故摩比波勢牟《ワガヤドニサケルナデシコマヒハセム》、由米波奈知流奈伊也乎知爾左家《ユメハナチルナイヤヲチニサケ》、古今集旋頭歌に、末比なしにたゞ名のるべき花の名なれや、古事記應神天皇(ノ)條に、解《トキテ》2其腰之玉《ソノコシノタマヲ》1、幣《マヒシツ》2其國主之子《ソノクニヌシノコニ》1、などあるを併(セ)考(フ)べし、○之多倣乃便《シタヘノツカヒ》は、下方乃使《シタヘノツカヒ》なり、冥官の使をいふ、○於比弖登保良世《オヒテトホラセ》は、背に負て、古日が心《コヽロ》も安らに、罷《マカ》り通り賜ひてよといふなり、續紀に、藤原(ノ)永手(ノ)大臣の薨給へる時、光仁天皇(ノ)詔に、美麻之《ミマシ》大臣乃乃|罷道母《マカリヅモ》、宇之呂輕久《ウシロカルク》、心も意太比爾念而平久幸久罷止富良須倍之《コヽロモオダヒニオモヒテタヒラケクサキクマカリトホラスベシ》とあり、○歌(ノ)意は、未(タ)いとをさなけゝれば、天道にいたらむ道すぢをわきまへ知じ、冥官の使に、物捧げ奉らむを、背に負て、吾子の心も安く通り行て、惡道にまよはしめ賜ふ事なかれよとなり、
 
906 布施於吉弖《フセオキテ》。吾波許比能武《アレハコヒノム》。阿射無加受《アザムカズ》。多太爾率去弖《タダニヰユキテ》。阿麻治思良之米《アマヂシラシメ》。
 
布施於吉弖《フセオキテ》は、常に幣置而《ヌサオキテ》といふべき處なれど、こゝは佛に乞?《コヒノム》なれば、布施《フセ》と云り、布施《フセ》とは佛に奉る物を云り、○阿射無加受《アザムカズ》は、不《ズ》v欺《アザムカ》なり、○阿麻治思良之米《アマヂシラシメ》は、令《シメ》v知《シラ》2天道《アマヂ》1よなり、○歌(ノ)意は、種々の布施《フセ》を座《クラ》に積置て、吾は佛に乞祈ぞ、欺くことなく、直(チ)にひき率《ヰ》行て、天道をしらしめ賜へよとなり、天道は佛籍にいはゆる六道の内、三善道の一(ツ)なる故にかく云り、(佛説に、修羅人間天上の三善道に、地嶽餓鬼畜生の三惡道を合せて、六道と云り、)總て此(ノ)憶良は、歌には名人なりけれど、多く儒佛の宗《ムネ》を信《ウケ》たること、上の文辭にもあまた見えて、歌詞《ウタ》にもさる(159)意を宗《ムネ》と作《ヨミ》て、いとうるさくいとはしき事多くなむ、
○舊本、此處に、右一首作者未詳。但以裁歌之體似於山上之操。載此次焉。とあるは、例の後人の書加へしなり、此(ノ)卷、憶良の家集と見ゆれば、自(ラ)の名書ざりし處もありしなるをや、
 
萬葉集古義五卷之下 終