(160)萬葉集古義六卷之上
 
雜歌《クサ/”\ノウタ》
 
養老七年癸亥夏五月《ヤウラウナヽトセトイフトシミヅノトヰサツキ》。幸《イデマセル》2于|芳野離宮《ヨシヌノトツミヤニ》1時《トキ》。笠朝臣金村作歌一首并短歌《カサノアソミカナムラガヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
幸2于芳野は、續紀に、元正天皇養老七年夏五月癸酉、行2幸芳野(ノ)宮(ニ)1丁丑、車駕還v宮(ニ)と見えたり、
 
907 瀧上之《タギノヘノ》。御舟乃山爾《ミフネノヤマニ》。水枝指《ミヅエサシ》。四時爾生有《シジニオヒタル》。刀我乃樹能《ツガノキノ》。彌繼嗣爾《イヤツギツギニ》。萬代《ヨロヅヨニ》。如是二二知三《カクシシラサム》。三芳野之《ミヨシヌノ》。蜻蛉乃宮者《アキヅノミヤハ》。神柄香《カムカラカ》。貴將有《タフトカルラム》。國柄鹿《クニカラカ》。見欲將有《ミガホシカラム》。山川乎《ヤマカハヲ》。清清《アツミサヤケミ》。大宮等〔三字各○で囲む〕《オホミヤト》。諾之神代從《ウベシカミヨユ》。定家良思母《サダメケラシモ》。
 
御舟乃山《ミフネノヤマ》は、三(ノ)卷九(ノ)卷にも、瀧上乃三船乃山《タキノヘノミフネノヤマ》とよめり、又三(ノ)卷に、三吉野之御船乃山爾《ミヨシヌノミフネノヤマニ》云々と見えたり、既く云り、十(ノ)卷(ノ)歌にも見ゆ、○水枝《ミヅエ》は、みづ/\とうるはしき稚枝を云り、水《ミヅ》は、美豆山《ミヅヤマ》、水穗《ミヅホ》、水茎《ミヅクキ》、水垣《ミヅカキ》、又古事記に、美豆能小佩《ミヅノヲヒモ》、書紀に、瑞殿《ミヅノミアラカ》などある美豆《ミヅ》に同じ、○四時爾生有《シジニオヒタル》は、四時《シジ》は繁《シヾ》なり、三(ノ)卷に、三諸乃神名備山爾《ミモロノカムナビヤマニ》、五百枝刺繁生有《イホエサシシヾニオヒタル》、都賀乃樹乃彌繼嗣爾《ツガノキノイヤツギツギニ》云々、四(ノ)卷に、打靡四時二生有莫告我《ウチナビキシジニオヒタルナノリソガ》云々などあり、○刀我乃樹能は、枕詞なり、さて集中皆|都賀乃樹《ツガノキ》と(161)のみあれば、刀は都(ノ)字の扁《カタハラ》の失たるが、刀となれるにや、と云説あり、誠にさることなり、ツガノキノ〔五字右○〕とあるべし、さて此までは繼嗣《ツギツギ》をいはむ料の序に、まのあたり目に矚《フレ》たる物もて云るなり、○如是二二知三《カクシシラサム》は、二二《シ》は、例の其(ノ)一(ト)すぢなることを、重く思はする助辭なり、二二と書るは、集中に、シヽ〔二字右○〕と云に十六、クヽ〔二字右○〕と云に八十一と書ると同じ例なり、萬代までに、如是知しめさむと云意なり、○神柄香《カミカラカ》は、柄《カラ》は故と云に同じ、神故《カミユヱ》にかと云意なり、次の國柄鹿《クニカラカ》もこれに同じ、さて神とは、即(チ)山をさしていへるなるべし、(略解に、此(ノ)山を敷坐神を云、と云るはあらじ、)○見欲將有《ミガホシカラム》(有(ノ)字拾穗本に見と作るは誤なり、)は、見まほしくあるらむの意なり、ミガホシカラム〔七字右○〕といふは、古言なり、○山川乎《ヤマカハヲ》は、山と川とをと云なり、○清清は、淳清の誤寫などにやあらむ、さらばアツミサヤケミ〔七字右○〕と訓べし、淳《アツミ》は山の高(ク)淳《アツ》きを謂《イヘ》り、十八賀2陸奥(ノ)國(ヨリ)出v金詔書(ヲ)1歌に、之伎麻世流四方國爾波《シキマセルヨモノクニニハ》、山河乎比呂美安都美等《ヤマカハヲヒロミアツミト》云々とあり、(これも安都美《アツミ》は、山へ係て云るにて、今と同じ、略解に、清水(ノ)濱臣が説をあげて、清清は※[山+青]清の誤なるべし、字鏡に、※[山+青]※[山+營](ハ)深冥也、保良《ホラ》、又谷と有(リ)、慧林一切經音義に、※[山+青]※[山+營](ハ)、深冥高峻也と有、さらばフカミサヤケミ〔七字右○〕とも、又高峻の意もて、タカミサヤケミ〔七字右○〕ともよむべしと云れど、さる目なれざる字を用ひしとはおもはれず、)さて此間に一句落たるなるべし、七言三句にて給《トヂ》めたるは、長歌に例多かれど、いかさまにも、此間は言足はねば、脱たるならむ、試(ミ)に云(ハ)ば、大宮等《オホミヤト》とか、常宮等《トツミヤト》とかありて、(常宮《トツミヤ》(162)は外津宮《トツミヤ》なり、此下に見ゆ、)諾之《ウべシ》云々と連きたるが、落たるにやあらむ、○諾之神代從《ウベシカミヨユ》は、諸《ウベ》は、げにもことわりなりと云意の辭なり、之《シ》は、例のその一(ト)すぢを、おもく思はする助辭なり、契冲、げにも神代より、此所に離(ツ)宮を定(メ)たまひけるほ、ことわりなりと云なり、神代は、まことの神代にはあらず、離宮《トツミヤ》は、いづれの御世にはじめられけむ、いまだかむがへずといへども神武天皇をはじめて、おほくのみかど、此(ノ)山にのばらせ給ひければ、そのはじめて、宮つくりせさせたまひたる時をさして云り、といへり、此(ノ)下赤人歌に、自神代芳野宮爾蟻通《カミヨヨリヨシヌノミヤニアリガヨヒ》、高所知者山河乎吉三《タカシラセルハヤマカハヲヨミ》、とあるを、思(ヒ)合(ス)べし、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
908 毎年《トシノハニ》。加是裳見牡鹿《カクモミテシカ》。三吉野乃《ミヨシヌノ》。清河内之《キヨキカフチノ》。多藝津白波《タギツシラナミ》。
 
毎年、トシノハニ〔五字右○〕と訓こと既《(ク)云り、(元暦本、類聚抄には、トシコトニ〔五字右○〕、と訓を付たれどわろし、)拾穗本左註に、毎年謂2乃|等之乃波《トシノハト》1、とあり、十九家持(ノ)卿(ノ)自註にも、かく見えたり、○如是裳見而牡鹿《カクモミテシカ》(而(ノ)字、舊本にはなし、類聚抄に從つ、)は、如v是(ノ)にも見たき哉と願ふなり、シカ〔二字右○〕のカ〔右○〕の言、清て唱ふべし、(略解に、カ〔右○〕を濁るべし、鹿の字を書たれど、かゝる所に、清濁にかゝはらず、字を借たる例多し、と云るはいみじきひがことなり、)此(ノ)下にも、去而見牡鹿《ユキテミテシカ》とあり、猶五(ノ)卷に、伊麻勿愛弖之可《イマモエテシカ》、十一に、天飛雲爾在而然《アマトブクモニアリテシカ》、十八に、伊麻婆衣天之可《イマハエテシカ》、廿(ノ)卷に、安我流比婆理爾奈里弖之可《アガルヒバリニナリテシカ》、な(163)ど見え、なほ多かれど可《カ》は皆清音(ノ)字をのみ用ひたり、○歌(ノ)意は、吉野河の、清く行廻れる地の激《タギ》り落る白浪の、得も云しらずおもしろきけしきを、年ごとに、かくの如くにも見たき哉となり、
 
909 山高三《ヤマタカミ》。白木綿花《シラユフハナニ》。落多藝追《オチタギツ》。瀧之河内者《タギノカフチハ》。雖見不飽香聞《ミレドアカヌカモ》。
 
白木綿花、(花(ノ)下、古寫一本に乃(ノ)字あるはわろし、)シラユフハナニ〔七字右○〕と訓べし、木綿もて製れる花の如くに、沸《タギ》り落るよしなり、九(ノ)卷式部大倭芳野(ニテ)作(ル)歌に、山高見白木綿花爾落多藝津《ヤマタカミシラユフハナニオチタギツ》、夏身之河門雖見不飽香門《ナツミノカハトミレドフカヌカモ》、とあり、○歌(ノ)意は、吉野山が高さに、木綿もて製れる花の如くに、白く沸《タギ》り落る瀧川のけしきは、見れど見あかず、面白く思はるゝ哉となり、
〔或本(ノ)反歌(ニ)曰。〕
此(ノ)五字、拾穗本には 一云と作り、
〔910 神柄加《カミカラカ》。見欲賀藍《ミガホシカラム》。三吉野乃《ミヨシヌノ》。瀧河内者《タギツカフチハ》。雖見不飽鴨《ミレドアカヌカモ》。〕
瀧河内者《タギツカフチハ》、瀧の下、類聚抄には、乃(ノ)字、拾穗本には之(ノ)字あり、其に依(ラ)ば、タギノカフチハ〔七字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は吉野の沸《タギ》り落る瀧川のけしきは、見れど見あかず、面白く思はるゝ哉、これは山の勝れてよろしき故に、かくまで見まほしくあるらむかとなり、
〔911 三吉野之《ミヨシヌノ》。秋津乃川之《アキヅノカハノ》。萬世爾《ヨロヅヨニ》。斷事無《タユルコトナク》。又還將見《マタカヘリミム》。〕
(164)吉(ノ)字、類聚抄、古寫本、拾穗本等には、芳と作り、○秋津乃川《アキヅノカハ》は、則(チ)蜻蛉《アキヅ》野を流れたる河なり、(靈異記に、大和(ノ)國吉野(ノ)郡桃花(ノ)里云々、同處(ニ)有v河、名曰2秋河(ト)1、とあるは、もしは秋津河《アキヅカハ》には、あらざるか、)○歌(ノ)意は、蜻蛉川の流の絶る事なきが如く、此(ノ)後も絶ず、このおもしろき勝地のけしきを、いくたびも、いくたびもかへり見むとなり、此(ノ)下に、石走多藝千流留泊瀬河《イハバシルタギチナガルルハツセガハ》、絶事無亦毛來而將見《タユルコトナクマタモキテミム》、とあるに似たる歌たなり、又一(ノ)卷に、雖見飽奴吉野乃河之常滑乃《ミレドアカヌヨシヌノカハノトコナメノ》、絶事無久復還見牟《タユルコトナクマタカヘリミム》、七(ノ)卷に、卷向之病足之川由往水之《マキムクノアナシノカハユユクミツノ》、絶事無又反將見《タユルコトナクマタカヘリミム》、などあるは、末(ノ)句全(ラ)同じ、又十七に、可多加比能可波能瀬伎欲久由久美豆能多由流許登奈久安里我欲比見牟《カタカヒノカハノセキヨクユクミヅノタユルコトナクアリガヨヒミム》、十八に物能乃布能夜蘇氏人毛與之努河波多由流許等奈久都可倍追通見牟《モノノフノヤソウヂヒトモヨシヌガハタユルコトナクツカヘツツミム》、などあるも大概似たり、
〔912 泊瀬女《ハツセメノ》。造木綿花《ツクルユフハナ》。三吉野《ミヨシヌノ》。瀧乃水沫《タギノミナワニ》。開來受屋《サキニケラズヤ》。〕
泊瀬女《ハツセメノ》云々と云るは、木綿花は、古(ヘ)專(ラ)泊瀬をとめの製(リ)出せる故に、かく云るならむ、白浪のたぎり落る水泡《ミナワ》の、木綿花の如くに見ゆるを云り、さてかの大瀧とて、大石の間を斜に落るが、實に木綿を散したるごとくに見ゆるとぞ、○開(ノ)字、拾穗抄に、異本には開と作るよし云り、誤なり、○歌(ノ)意は、泊瀬をとめが製り出せる、白木綿花の、吉野の大瀧の石間に、開出たるにあらずやはとなり、
 
車持朝臣千年作歌一首并短歌《クラモチノアソミチトセガヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
(165)千年(千(ノ)字、舊本に于と作るは誤なり、今は元暦本、類聚抄、古寫小本、拾穗本等に從つ、)傳未(タ)詳ならず、
 
913 味凍《ウマコリ》。綾丹乏敷《アヤニトモシキ》。鳴神乃《ナルカミノ》。音耳聞師《オトノミキヽシ》。三芳野之《ミヨシヌノ》。眞木立山湯《マキタツヤマユ》。見降者《ミクダセバ》。川之瀬毎《カハノセゴトニ》。開來者《アケクレバ》。朝霧立《アサギリタチ》。夕去者《ユフサレバ》。川津鳴奈利《カハヅナクナリ》。紐不解《ヒモトカヌ》。客爾之有者《タビニシアレバ》。吾耳爲而《アノミシテ》。清川原乎《キヨキカハラヲ》。見良久之惜蒙《ミラクシヲシモ》。
 
味凍は、枕詞なり、ウマコリ〔四字右○〕と四言に訓べし、既く二(ノ)卷に出(ツ)、○綾丹乏敷《アヤニトモシキ》は、あやしきまでに賞《メヅ》らしくおもふよしなり、吉野の勝地を賞《ホメ》ていへるなり、(鳴神と云には繋らず、)○鳴神乃《ナルカミノ》は、枕詞なり、七(ノ)卷に、動神之音耳聞卷向之《ナルカミノオトノミキヽシマキムクノ》、檜原山乎今日見鶴鴨《ヒバラノヤマヲケフミツルカモ》、とよめり、和名抄に、兼名苑云、雷公、一名(ハ)雷師、和名|伊加豆知《イカヅチ》、一(ハ)云|奈流加美《ナルカミ》、と見えて、神にしていみじく鳴ばいへる稱《ナ》なり、(伊加都知《イカツチ》と云言の意は、三(ノ)卷に云り契冲が、いかりて、槌をもて物をうつやうなれば、瞋(リ)槌といふ心にて、いかつちとは名付たりときこゆと云るは、あらぬことなり、○見降者《ミクダセバ》は、遊仙窟に、直下《ミクダセバ》則(チ)有2碧潭千仞1、とあり、○開來者《アケクレバ》は、夜の明ればと云なり、○夕去者《ユフサレバ》は、夕になればといふ意なり、○川津鳴泰利《カハヅナクナリ》、(利(ノ)字、舊本に辨と作、元暦本には拜と作り、皆誤なり、今は古葉略要集、類聚抄等に從つ、又舊本辨(ノ)下に、詳(ノ)字あるは衍なり、類聚抄、活字本、官本、拾穗本等になきぞよき、)十(ノ)卷に、詠v蝦(ヲ)、神名火之《カムナビノ》云々|河津鳴成《カハヅナクナリ》とあるに同じ、○紐不解《ヒモトカヌ》は、旅なれば、夜の紐だに解(キ)放(ケ)ずし(166)てあるを云り、九(ノ)卷※[手偏+僉]税使大伴(ノ)卿、登2筑波山(ニ)1時(ノ)歌に、歡登紐之溶解兩家如解而曾遊《ウレシミトヒモノヲトキテイヘノゴトトケテリアソブ》、とあるを思(ヒ)合(ス)べし、○客爾之有者《タビニシアレバ》は、かたがたに出たる詞なり、爾之《ニシ》は、さだかにしかりとする意の時に云辭なり、○見良久之惜蒙《ミラクシヲシモ》、(惜(ノ)字、舊本に情と作るは誤なり、今は元暦本、類聚抄、古寫本、古寫一本、官本、拾穗本等に依つ、)良久《ラク》は、留《ル》の延りたる言、之《シ》は、例の其(ノ)一(ト)ずぢをおもく思はする助辭、蒙《モ》は歎息(ノ)辭なり、家人に見せず、吾ばかりして見る事の、さても惜やとなり、
 
反歌一首《カヘシウタヒトツ》。
 
一首(ノ)二字、古寫小本には无(シ)、
 
914 瀧上乃《タキノヘノ》。三船之山者《ミフネノヤマハ》。雖畏《ミツレドモ》。思忘《オモヒワスル》。時毛日毛無《トキモヒモナシ》。
 
雖畏、本居氏、カシコケド〔五字右○〕にては、聞え難し、畏は見の誤にて、ミツレドモ〔五字右○〕なるべし、さて下(ノ)句は、故郷人を忘れぬなり、長歌の末の詞、又次なる反歌にて知べしと云り、○歌(ノ)意は、吉野の瀧の上の、三船山のおもしろきけしきを見てあれば、何事も忘るべきことわりなるに、深く慕ひ思ふ、家人の事をば、須臾も忘るゝ時も日も無(シ)となり、
〔或本(ノ)反歌(ニ)曰。〕
此(ノ)五字類聚抄、拾穗本等にはなし、
〔915 千鳥鳴《チドリナク》。三吉野川之《ミヨシヌガハノ》。川音成《カハトナス》。止時梨二《ヤムトキナシニ》。所思公《オモホユルキミ》。〕
(167)三吉野川《ミヨシヌガハ》とよめるは、七(ノ)卷にも、馬並而三芳野河乎欲見《ウマナメテミヨシヌガハヲミマクホリ》、とあり、○川音成(川(ノ)字、舊本に无(キ)は脱たるなり、それに付て、オトシナミ〔五字右○〕とよめるはよしなし、又古葉略要集、類聚抄等にも、川(ノ)字は无て、成を茂と作(キ)、元暦本にも、シゲミ〔三字右○〕と訓たれど非なり、今は活字本に從つ、)はカハトナス〔五字右○〕と訓べし、川音の止時無が如くに、常に家人のおもほゆるよしなり、○公(ノ)字、拾穗本には君と作り、○歌(ノ)意は、おもしろき勝地のけしきを、本郷人に見せたくて、中々になぐさまで、吉野の川音の止時無が如くに、常に君が戀しく思はれて、須臾も得忘れずとなり、
〔916 茜刺《アカネサス》。日不並二《ヒナラベナクニ》。吾戀《アガコヒハ》。吉野之河乃《ヨシヌノカハノ》。霧丹立乍《キリニタチツヽ》。〕
茜刺《アカネサス》は、枕詞なり、○日不並二(日(ノ)下、類聚抄に毛(ノ)字ありて、ヒヲモヘナクニ〔七字右○〕と訓るはわろし、)は、ヒナラベナクニ〔七字右○〕と訓べし、日を重ねぬことなるに、といはむが如し、八(ノ)卷に、足比奇乃山櫻花日並而《アシヒキノヤマサクラバナヒナラベテ》、如是開有者甚戀目夜裳《カクサキタラバイトコヒメヤモ》、とあり、○吾戀は、アガコヒハ〔五字右○〕と訓ぞ宜しき、(契冲はやくしか訓り、但し吾をワガ〔二字右○〕とせるは、例にたがへり、アガ〔二字右○〕なり、)○霧丹立乍《キリニタチツヽ》(乍(ノ)字、類聚抄には管と作り、)は、本郷を戀しく思ひて嘆く息の、霧に立を云り、○歌(ノ)意は、いまだ日をも重ねぬことなるに、吾本郷を戀しく思ふ嘆の息は、吉野河の霧になりて立つゝ、いとも苦しく思はるゝよとなり、
〔右年月不審。但以2歌類1載2於此次1焉。或本(ニ)云(ク)。養老七年五月。幸2于芳野離宮(ニ)1之時(ニ)作。〕
 
(168)神龜元年甲子冬十月五日《ジムキハジメノトシキノエネカミナツキノイツカノヒ》。幸《イデマセル》2于|紀伊國《キノクニニ》1時《トキ》。山部宿禰赤人作歌一首并短歌《ヤマベノスクネアカヒトガヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
幸2于紀伊(ノ)國(ニ)1は續紀に、聖武天皇神龜元年冬十月丁亥朔辛卯、天皇幸2紀伊(ノ)國(ニ)1、癸巳、行(テ)至2紀伊(ノ)國那賀(ノ)郡玉垣(ノ)勾《マガリノ》頓宮(ニ)1、甲午、至2海部《アマノ》郡玉津島(ノ)頓宮(ニ)1、留(ルコト)有餘日、戊戌、造2離宮(ヲ)於岡(ノ)東(ニ)1、是日從v駕百寮六位已下至2于使部(ニ)1、賜v禄各有v差、壬寅、云々又詔(ニ)曰、登v山望v海(ヲ)、此間最好、不(シテ)v勞2遠行(ヲ)1、足(レリ)2以遊覽(スルニ)1、故(ニ)改2弱《ワカノ》濱(ヲ)1、名爲2明光《アカノ》浦(ト)1、宜d置2守戸(ヲ)1勿uv令2荒穢1、春秋二時差2遣官人1、奠2祭玉津島之神明光浦之靈(ヲ)1、忍海(ノ)手人大海等兄弟六人除2手人(ノ)名(ヲ)1、從2外祖父外從五位上津守(ノ)連通(カ)姓(ニ)1、(姓(ノ)字、舊本姫に誤れり、今は類聚國史に從つ、)云々と見えたり、
 
917 安見知之《ヤスミシシ》。和期大王之《ワゴオホキミノ》。常宮等《トツミヤト》。仕奉流《ツカヘマツレル》。左日鹿野由《サヒカヌユ》。背上爾所見《ソガヒニミユル》。奧島《オキツシマ》。清波瀲爾《キヨキナギサニ》。風吹者《カゼフケバ》。白浪左和伎《シラナミサワキ》。潮干者《シホヒレバ》。玉藻苅管《タマモカリツヽ》。神代從《カミヨヨリ》。然曾尊吉《シカゾタフトキ》。玉津島夜麻《タマヅシマヤマ》。
 
常宮は、本居氏、トツミヤ〔四字右○〕と訓べし、常は借(リ)字にて、外津宮《トツミヤ》の意なりと云り、○左日鹿野《サヒカヌ》は、紀伊(ノ)國海士(ノ)郡に、雜賀《サヒカノ》庄とて、廣き地ある其野なり、七(ノ)卷に、木國之狹日鹿乃浦爾出見者《キノクニノサヒカノウラニイデミレバ》云々とあり、(若(ノ)浦の西(ノ)方に、雜賀埼と云所あり、そのわたり狹日鹿(ノ)浦なるべしと云り、)○背上《ソガヒ》は、集中に多き詞なり、他所には背向《ソガヒ》と書り、既く云り、○清波瀲《キヨキナギサ》は、十三に、紀伊國之《キノクニノ》云々、清瀲爾《キヨキナギサニ》云々、和名抄に、韓詩(ノ)註(ニ)云、一(ハ)溢(レ)一(ハ)否曰v渚(ト)、和名|奈木左《ナギサ》、古事記に、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合《アマツヒタカヒコナギサタケウカヤフキアヘズノ》命、(169)書紀には、波限《ナギサ》を波瀲《ナギサ》と書り、○然曾尊吉《シカゾタフトキ》とは、然曾《シカゾ》は、如是《カク》ぞといはむが如し、尊吉《タフトキ》は、賞《メデ》たきと云むが如し、○玉津島夜麻《タマヅシマヤマ》は、日本後紀三代實録等に、玉出島と書り、(此(レ)に依て津を濁るべし、うつぽ物語歌に、年をへて浪のよるてふ玉のをに、ぬきとゞめなむ玉いづる島とよめり、)さて此(ノ)島を愛賞《メデ》て作る歌、七(ノ)卷に三首、九(ノ)卷に一首見えたり、古今集上に、わたの原よせくる浪のしば/\も、見まくのほしき玉津島かも、後紀(古本)十二に、延暦廿三年冬十月壬子、幸2紀伊(ノ)國玉出島(ニ)1、癸丑、上御v船(ニ)遊覽、賀樂内親王、及參議從三位紀(ノ)朝臣勝長、國造紀(ノ)直豐成等奉獻詔曰、天皇|詔旨良萬止勅命乎《オホミコトラマトノリタマフオホミコトヲ》、紀伊(ノ)國(ノ)司郡(ノ)司公民陪從司々人等、諸聞食止宣《モロ/\キコシメセトノル》、此月|波閑時爾之弖國風御覽須時止奈毛《ハシヅカナルトキニシテクニブリミソナハストキトナモ》、常母聞所行須《ツネモキコシメス》、今御坐所乎|御覽爾《ミソナハスニ》、磯島毛|奇麗久《ウルハシク》、海瀲毛|清晏爾之弖《サヤカニシテ》、御意母於多比爾御座《ミコヽロモオダヒニオホマシマス》云々、と見えたり、契冲、玉津島を衣通姫といふは、推量るに、聖武天皇明光浦と名をあらためさせ給ひ、通姫などいふことあるにより、好事のものゝいひ出せることなるべし、姫は姓(ノ)字を誤れるなるべしと代匠記にしるせり、(上に引る續紀の文考(ヘ)合(ス)べし、)
 
反歌《カヘシウタ》。
 
918 奥島《オキツシマ》。荒磯之玉藻《アリソノタマモ》。潮干滿《シホミチテ》。伊隱去者《イカクロヒナバ》。所念武香聞《オモホエムカモ》。
 
奥の下、類聚抄に津(ノ)字あり、○潮干滿は、(契冲が、シホヒミチ〔五字右○〕》と訓て、今潮干なるが、後に滿むこ(170)とを云意に心得たるはあたらず、)按に、干は、天か手かの字なりけむが、畫の失たるより、遂に誤て干と書るなるべし、さてもとは潮滿天《シホミチテ》とありしを、字を誤れるよりして、又さがしらに潮干とのみ心得て、舊本の如くなせるなるべし、○伊隱去者《イカクロヒナバ》(伊(ノ)字、元暦本に位と作るは誤なり、)は、伊《イ》はそへことばなり、隱れなばと云を伸て、かくろひなばと云るなり、伊隱《イカクル》と云るは、一(ノ)卷に、山際伊隱萬代《ヤマノマユイカクルマデ》とあり、○歌(ノ)意は、磯に生る玉藻の、打なびくけしきの、あかず面白きが、潮の滿來て隱れ行なば、惜くて戀しく思はれむか、さても面白のけしきやとなり、
 
919 若浦爾《ワカノウラニ》。鹽滿來者《シホミチクレバ》。滷乎無美《カタヲナミ》。葦邊乎指天《アシヘヲサシテ》。多頭鳴渡《タヅナキワタル》。
 
若浦《ワカノウラ》は、七(ノ)卷にも、十二にもよめり、又十一には眞若之浦《マワカノウラ》ともよめり、此(ノ)上にも續紀を引たる如し、(しかるに弱(ノ)浦を改て、明光《アカノ》浦とせられしは、たゞ一時のことにて停《ヤミ》にしにや、後までも若之浦《ワカノウラ》とのみ云めり、)○滷乍無美《カタヲナミ》は、干潟《ヒカタ》が無(キ)故にと云なり、○葦(ノ)字、舊本〓と作るは誤なり、今は古寫本、古寫一本、官本、拾穗本等に從つ、○歌(ノ)意は、若の浦へ潮がみちて來れば、干潟が無(キ)故に、葦原の方を指て、鶴が鳴てわたるよとなり、此(ノ)歌、古今集の序、自註に出たり、同集雜上に作者不知、なにはかた鹽みちくらしあま衣、たみのゝ島にたつ鳴渡る、今の歌に似たり、
〔右年月不v記。但〓從2駕玉津島1也。因今檢2注行幸年月1。以載之焉。〕
記は詳(ノ)字の誤か、○※[人偏+稱の旁](ノ)字、舊本〓にと作るは誤なるべし、今は古寫小本に從つ、〓は※[人偏+稱の旁]に同じ、(171)〓は古(ノ)稱(ノ)字なり、古寫小本には稱と作り、
 
二年乙丑夏五月《フタトセト云トシキノトノウシサツキ》。幸《イデマセル》2于|芳野離宮《ヨシヌノトツミヤニ》1時《トキ》。笠朝臣金村作歌一首井短歌《カサノアソミカナムラガヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
二年の上、舊本神龜(ノ)二字あり、今は古寫小本になきに從つ、○此行幸の事、續記に見えず、
 
920 足引之《アシヒキノ》。御山毛清《ミヤマモサヤニ》。落多藝都《オチタギツ》。芳野河之《ヨシヌノカハノ》。河瀬乃《カハノセノ》。淨乎見者《キヨキヲミレバ》。上邊者《カミヘニハ》。千鳥數鳴《チドリシバナキ》。下邊者《シモヘニハ》。河津都麻喚《カハヅツマヨブ》。百磯城乃《モヽシキノ》。大宮人毛《オホミヤヒトモ》。越乞爾《ヲチコチニ》。思自仁思有者《シジニシアレバ》。毎見《ミルゴトニ》。文丹乏《アヤニトモシミ》。玉葛《タマカヅラ》。絶事無《タユルコトナク》。萬代爾《ヨロヅヨニ》。如是霜願跡《カクシモガモト》。天地之《アメツチノ》。神乎曾?《カミヲゾイノル》。恐有等毛《カシコカレドモ》。
 
御山毛清《ミヤマモサヤニ》は、二(ノ)卷に、小竹之葉者三山毛清爾亂友《ササガハハミヤマモサヤニサワケドモ》、とあるに同じ、御《ミ》は美稱にて、眞山《マヤマ》と云むが如し、清《サヤ》は、十(ノ)卷に、葦邊在荻之葉左夜藝秋風之《アシヘナルヲギノハサヤギアキカゼノ》云々、古事記中卷、伊須氣余理比賣《イスケヨリヒメノ》命(ノ)御歌に、加是布加牟登曾許能波佐夜牙流《カゼフカムトゾコノハサヤゲル》、古今集に小竹の葉のさやぐ霜夜を、又書紀に、聞喧擾之響、此云2左椰霓利氣離《サヤゲリケリト》1、(氣を本に奈に誤れり、)などある、佐夜具《サヤグ》の言の躰にて、物の音の喧《カマビスシ》く響《ナル》を云言なり、○芳野河《ヨシヌガハ》、河(ノ)字、拾穗本には川と作り、○上邊者《カミヘニハ》、下邊者《シモヘニハ》は、上(ツ)瀬には下(ツ)瀬にはと云むが如し、○越乞爾《チチコチニ》は、彼此《ヲチコチ》になり、○思自仁思《シジニシ》(自(ノ)字、類聚抄、活字本、異本等になきは、脱たるなり、)は、繁《シヾ》になり、仁思《ニシ》といへるは、そのさだかにしかりとする意を、思はせたる辭なり、もとより風趣《ケシキ》の面白きが上に、從駕《ミトモ》の宮人等も、彼方此方《カナタコナタ》に繁く有ば、見る毎にましてめづらしきよしなり、○文丹乏《アヤニトモシミ》(丹(ノ)字、舊本に舟と作るは誤なり、今は元暦本、古寫小本、古寫一本、拾穗本等に(172)從つ、)は、あやしきまでめでたきが故に、と云意なり、○萬代爾《ヨロヅヨニ》云々(代(ノ)字、拾穗本には世と作り、)は、此(ノ)離宮の萬世まで、かくの如くにもがなあれかし、と天神地祇《アマツカミクニツカミ》に祈願《コヒノム》よしなり、
 
反歌二首《カヘシウタフタツ》。
 
二首の二字、拾穗本、古寫小本等にはなし、
 
921 萬代《ヨロヅヨニ》。見友將飽八《ミトモアカメヤ》。三吉野乃《ミヨシヌノ》。多藝都河内之《タギツカフチノ》。大宮所《オホミヤトコロ》。
 
見友將飽八《ミトモアカメヤ》は、見るとも飽むやは、飽じの意なり、○吉(ノ)字、類聚抄、古寫本、拾穗本等には、芳と作り、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
922 人皆乃《ヒトミナノ》。壽毛吾母《イノチモアレモ》。三吉野乃《ミヨシヌノ》。多吉能床磐乃《タギノトキハノ》。常有沼鴨《ツネナラヌカモ》。
 
人皆、元暦本、官本等に、皆人とあるはわろし、○三吉野、吉(ノ)字、古寫本、拾穗本等には、芳と作り、○床磐《トキハ》(床は借(リ)字)は、常磐《トキハ》と書るに同じ、(トコハ〔三字右○〕と訓はわろし、トコイハ〔四字右○〕のコイ〔二字右○〕の切キ〔右○〕なればトキハ〔三字右○〕となれりリ、○常有沼鴨《ツネナラヌカモ》は、いかで常磐の如く、常にがなあれかしと希ふなり、一(ノ)卷吹黄(ノ)刀自が歌に、河上乃湯津磐村二草武左受常丹毛冀名常處女煮手《カハカミノユツイハムラニクサムサズツネニモガモナトコヲトメニテ》、とあるを、思(ヒ)合(ス)べし、○歌(ノ)意は、世(ノ)人皆の壽も、吾(ガ)命も、吉野の瀧の常磐の如く、いかで常にかはらずありて、いつも行幸の從駕《ミトモ》つかへまつりて、この勝地を今日の如く、めでうつくしむべくもがな、あれかしとなり、
 
山部宿禰赤人作歌二首并短歌《ヤマベノスクネアカヒトガヨメルウタフタツマタミジカウタ》。
 
(173)923 八隅知之《ヤスミシシ》。和期大王乃《ワゴオホキミノ》。高知爲《タカシラス》。芳野宮者《ヨシヌノミヤハ》。立名附《タヽナヅク》。青墻隱《アヲカキゴモリ》。河次乃《カハナミノ》。清河内曾《キヨキカフチソ》。春部者《ハルヘハ》。花咲乎遠里《ハナサキヲヲリ》。秋去者《アキサレバ》。霧立渡《キリタチワタル》。其山之《ソノヤマノ》。彌益益爾《イヤマスマスニ》。此河之《コノカハノ》。絶事無《タユルコトナク》。百石木能《モヽシキノ》。大宮人者《オホミヤヒトハ》。常將通《ツネニカヨハム》。
 
芳野宮《ヨシヌノミヤ》、宮(ノ)字、舊本には、離と作り、其は離宮とありけむを、宮(ノ)字を脱せるなり、今は類聚抄、活字本、拾穗本等に從つ、○立名附《タヽナヅク》は、一(ノ)卷に、疊有青垣山《タヽナヅクアヲカキヤマ》、とある歌に云り、○青墻隱《アヲカキゴモリ》(墻(ノ)字、類聚抄、古寫本、拾穗本等には、垣と作り、)は、古事記上卷に、伊2都岐奉(レ)于倭之青垣(ノ)東(ノ)山(ノ)上(ニ)1云々、中卷倭建(ノ)命(ノ)御歌に、多多豆豆久阿袁加岐夜麻碁母禮流夜麻登志宇流波斯《タタナヅクアヲカキヤマゴモレルヤマトシウルハシ》、神賀(ノ)詞(ニ)、出雲國乃青垣内爾《イヅモノクニノアヲカキノウチニ》、下津石根爾宮柱太敷立弖《シタツイハネニミヤハシラフトシキタテテ》云々、出雲風土記に、八雲立出雲國者我靜坐國青垣山廻賜而《ヤグモタツイヅモノクニハアガシヅマリマサムクニトアヲカキヤマモトホシタマヒテ》云云、など見えたるに同じ、なほこれも一(ノ)卷に委(ク)云り、○花咲乎遠里《ハナサキヲヲリ》(乎(ノ)字、元暦本類聚抄等に手と作て、タヲリ〔三字右○〕と訓るはひがことなり、)は、花の多く咲たる容なり、二(ノ)卷に出て具(ク)註《イヘ》り、○秋去、去(ノ)字、元暦本、活字本等には、部とあれどわろし、秋部《アキヘ》と云る例無ればなり、○常將通はツネニカヨハム〔七字右○〕と訓べし、(舊訓もしかり、略解に、トハニカヨハム〔七字右○〕とよめるは、いみしきひがことなり、そも/\常をトハ〔二字右○〕と云は、古語に、物の常に不變《カハラヌ》を稱て云(フ)とき、磐に比《タト》へて登許登波《トコトハ》と云なるを、古今集の比より、こなたの歌には、その登許《トコ》の言を略きて、登波《トハ》とのみも云ることあるなめり、されど古言には、ツネ〔二字右○〕と云べきを、トハ〔二字右○〕と云ることは、をさ/\なきことなれば、い(174)かでかさはよむべき、
 
反歌二首《カヘシウタフタツ》。
 
924 三吉野乃《ミヨシヌノ》。象山際乃《キサヤマノマノ》。木末爾波《コヌレニハ》。幾許毛散和口《コヽタモサワグ》。鳥之聲可聞《トリノコヱカモ》。
 
象山際《キサヤマノマノ》は、象山《キサヤマ》は、一(ノ)卷に、象乃中山《キサノナカヤマ》、三(ノ)卷に、象乃小河《キサノヲカハ》とよめり、皆同(シ)處なり、際《マ》は間と云に同じ、十(ノ)卷に足日木之山間照櫻花《アシヒキノヤマノマテラスサクラバナ》とあり、此下には島際《シマノマ》、十七には木際《コノマ》なども見えたり、○木末爾波《コヌレニハ》は、木末、コヌレ〔三字右○〕と訓は木之末《コノウレ》の縮れる言なり、後に、梢《コズヱ》と云に同じ、爾波《ニハ》は、他に對へて云辭なり、他所はしからず、と云意を思はせたるなり、○幾許毛散和口《コヽダモサワク》とは、幾許は、そこぱくと云むが如し、散和口《サワク》は、聲の多く繋きよしなり、五卷に伊母我陛邇由岐可母不流登彌流麻提爾《イモガヘニユキカモフルトミルマデニ》、許許陀母麻我不烏梅能波奈可毛《コヽダモマガフウメノハナカモ》、とあると、同じ語(ノ)勢なり、○歌(ノ)意は、吉野の地は、なべておもしろく興ある中にも、餘の所にも勝りて、とりわきなつかしく、そこばく多く、繁き鳥の聲にてもある哉となり、
 
925 烏玉之《ヌバタマノ》。夜乃深去者《ヨノフケヌレバ》。久木生留《ヒサキオフル》。清河原爾《キヨキカハラニ》。知鳥數鳴《チドリシバナク》。
 
久木《ヒキキ》は、木(ノ)名なり、品物解に云、○歌(ノ)意かくれたる所なし、(現存六帖に、幾秋も月にはあかしひさき生る、清き河原の在明の月、)
 
926 安見知之《ヤスミシシ》。和期大王波《ワゴオホキミハ》。見芳野乃《ミヨシヌノ》。飽津之小野笶《アキヅノヲヌノ》。野上者《ヌノヘニハ》。跡見居置而《トミスヱオキテ》。御山(175)者《ミヤマニハ》。射目立渡《イメタテワタシ》。朝獵爾《アサカリニ》。十六履起之《シシフミオコシ》。夕狩爾《ユフガリニ》。十里※[足+榻の旁]立《トリフミタテ》。馬並而《ウマナメテ》。御?曾立爲《ミカリゾタヽス》。春之茂野爾《ハルノシゲヌニ》。
 
芳(ノ)字、類聚抄、古寫本、拾穗本等には、吉と作り、○飽津之小野《アキヅノヲヌノ》は、則(チ)蜻蛉野《アキヅヌ》なり、○野上《ヌノヘ》は、二(ノ)卷に佐美乃山野上乃宇波疑《サミネヤマヌノヘノウハギ》、八(ノ)卷に霞立野上乃方爾《カスミタツヌノヘノカタニ》、などあり、只野のことなり、○跡見居置而《アトミスヱオキテ》は、鳥獣《トリケダモノ》の通ふ跡を、もとめ見る人を居置て、うかゞはしむるを云なり即(チ)鳥獣の通ふ跡を見るよしにて、跡見とは云なり、これ即|狩子《カリコ》の類にて、後(ノ)世にせこと云ものも同じ、(狩子は、和名抄に、文選(ニ)云、列卒滿v山(ニ)、和名|加利古《カリコ》、左右衛門式に、凡狩子五十人、冠并衣袴(ノ)布四十端三丈之中、紺布一端一丈五尺、冠(ノ)料桃染布二十五端、白布四十端一丈五尺、練絲十八兩三分、など見えたり、○射目立渡(《イメタテワタシ》(目(ノ)字、舊本に固と作るは誤なり、今は古葉略要集、元暦本、類聚抄に從つ、)は、鳥獣を射る人を、彼方《カナタ》此方《コナタ》に多く立渡らすを云なり、射目《イメ》は射部《イベ》にて、弓射る壯士《ヲトコ》の部《ムレ》を云なり、八(ノ)卷に、射自立而跡見乃丘邊之《イメタテテトミノヲカヘノ》云々、九(ノ)卷に射目入乃伏見何田井爾《イメヒトノフシミガタヰニ》云々、十三に、高山峯之手折丹射目立十六待如《タカヤマノミネノタヲリニイメタテヽシシマツゴトク》、など見えたり、○朝獵爾《アサガリニ》(獵(ノ)字、類聚砂には?と作り、干禄字書に、?獵上俗下正とあれば、?は獵の俗字なり、)云々四句は、三(ノ)卷安積(ノ)皇子(ノ)薨《ミウセ》たまへるをかなしめる歌に、朝獵爾鹿猪踐起暮獵爾鶉雉履立《アサガリニシシフミヲコシユフカリニトリフミタテ》、と見えて全(ラ)同じ、十六は四々《シヽ》の義に取て書り、○馬並而《ウマナメテ》は、駕從の人々多く馬を騎(リ)並ての意なり一(ノ)卷に王刻春内乃大野爾馬敷而《タマキハルウチノオホヌニウマナメテ》、朝布麻須等六其草(176)深野《アサフマスラムソノクサフカヌ》、とあり、○?(ノ)字、古寫本には獵、拾穗本には狩と搾り、
 
反歌一首《カヘシウタヒトツ》。
 
一首(ノ)二字、類聚抄、古寫小本、拾穗本等にはなし。
 
927 足引之《アシヒキノ》。山毛野毛《ヤマニモヌニモ》。御?人《ミカリヒト》。得物矢手挾《サツヤタハサミ》。散動而有所見《サワギタリミユ》。
 
?(ノ)字、古寫一本には獵、拾穗本には狩と作り、○得物矢手挾(挾(ノ)字、舊本に狹と作るは誤なり、今は古寫一本、拾穗本等に從つ、)は、サツヤダハサミ〔七字右○〕と訓べし、得物矢《サツヤ》は、一(ノ)卷に見えたり、手狹《タハサミ》は廿(ノ)卷に伊乎佐太波佐美《イヲサダハサミ》、とあるによりて、(太《ダ》を濁り波《ハ》を清て)訓べし、太《ダ》を濁るは多婆佐美《タバサミ》といふべきを、婆《バ》の濁音を上へうつして云、古語の一(ノ)例なり、これも既く委(ク)説り、○散動而有所見は、サワキタリミユ〔七字右○〕と訓べし、(ミダレタルミユ〔七字右○〕と訓はわろし、)此下に鮪釣等海人船散動《シビツルトアマブネサワギ》、とも見ゆ、さてサワギタル〔五字右○〕と訓(マ)ずして、タリ〔二字右○〕しも云|絶《キリ》たるは、古(ヘ)風なり、集中に恐海爾船出爲利所見《カシコキウミニフナデセリミユ》、また安麻能伊〓里波等毛之安敝里見由《アマノイザリハトモシアヘリミユ》、など假字書見えたり、古事記清寧天皇(ノ)條(ノ)歌に、志※[田+比]賀波多傳爾都麻多弖理美由《シビカハタデニツマタテリミユ》、ともあり、○歌(ノ)意かくれたる所なし、
〔右不v審2先後1。但以v便故載2於此次1。〕
以便云々、(便(ノ)字、舊本に、使と作るは誤なり、今は類聚抄、古寫本、古寫一本、活字本等に從つ、)契冲云(ク)、初(ノ)金村の歌は、夏五月と云り、後の赤人の歌は、春のしげ野とよみたれば、同時の歌にはあ(177)らず、赤人の歌は、年月のしれざるゆゑに、類をもてこゝに載て、かぐは註せられたり、
 
冬十月《カミナヅキ》。幸《イデマセル》2于|難波宮《ナニハノミヤニ》1時《トキ》。笠朝臣金村作歌一首并短歌《カサノアソミカナムラガヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
幸2于難波(ノ)宮1、は、續紀に、聖武天皇神龜二年冬十月庚申、天皇幸2難波(ノ)宮(ニ)1とあり、
 
928 忍照《オシテル》。難波乃國者《ナニハノクニハ》。葦垣乃《アシカキノ》。古郷跡《フリニシサトト》。人皆之《ヒトミナノ》。念息而《オモヒヤスミテ》。都禮母爲《ツレモナク》。有之間爾《アリシアヒダニ》。續麻成《ウミヲナス》。長柄之宮爾《ナガラノミヤニ》。眞木柱《マキバシラ》。太高敷而《フトタカシキテ》。食國乎《ヲスクニヲ》。收賜者《ヲサメタマヘバ》。奧鳥《オキツトリ》。味經乃原爾《アヂフノハラニ》。物部乃《モノヽフノ》。八十伴雄者《ヤソトモノヲハ》。廬爲而《イホリシテ》。都成有《ミヤコトナレリ》。旅者安禮十萬《タビニハアレドモ》。
 
忍照《オシテル》は、枕詞なり、既(ク)出づ、○難波乃國《ナニハノクニ》は、吉野(ノ)國泊瀬(ノ)國など云る類なり、○葦垣乃《アシカキノ》は、契冲云(ク)、葦は難波の名物なる上に、葦垣は、ふるさとめきたる物なれば、かくは續けたり、○念息而は、舊訓に、オモヒヤスミテ〔七字右○〕とあるぞよき、(略解に、オモヒイコヒテ〔七字右○〕、とよめるはわろし、)契冲が、念ひやすみてとは、繁華の念をやめてなりと云り、故郷となりたるうへは、今は二(タ)たび都とはならじ、と人小の思やすみたるよしなり、○都禮母無《ツレモナク》(無(ノ)字、舊本に爲と作るは誤なり、今は古寫本、古寫一本、拾穗本に從つ、)は都禮《ツレ》は連(ノ)字の意にて、ともなひよる人もなくと云意なり、三(ノ)卷坂上(ノ)郎女が新羅(ノ)尼理願を悲める歌に、何方爾念鷄目鴨都禮毛奈吉佐保乃山邊爾《イカサマニオモヒケメカモツレモナキサホノヤマベニ》、哭兒成慕來座而《ナクコナスシタヒキマシテ》、十三に、津禮毛無城上宮爾大殿乎都可倍奉而《ツレモナキキノヘノミヤニオホトノヲツカヘマツリテ》、また家人乃將待物矣津烈裳無荒磯矣卷而偃有公鴨《イヘヒトノマツラムモノヲツレモナキアリソヲマキテフセルキミカモ》、など見ゆ、既く註《イヘ》り、○續麻成《ウミヲナス》(續(ノ)字、拾穗本には績と作り、續は績に通(ハシ)書ること、(178)既く云り、)は、枕詞なり、績麻《ウミヲ》の如く、長とつゞきたるなり、十三に、續麻成長門之浦丹《ウミヲナスナガトノウラニ》云々、ともよめり、○長柄之宮《ナガラノミヤ》は、書紀に、孝徳天皇元年冬十二月乙未朔癸卯、天皇遷2都(ヲ)難波(ノ)長柄(ノ)豐碕(ニ)1、あり、○眞木柱《マキバシラ》云々は、契冲云、聖武天皇、又長柄に都をうつし給ふにはあらず、孝徳天皇の故宮を改造て、跡をうしなはせたまはず、折々行幸せさせ給へるなり、○收(ノ)字、元暦本、拾穗本等には治と作り、○奥鳥《オキツトリ》は、枕詞なり、契冲云(ク)、味村《アヂムラ》は、奥にすむ物なれば、奥つ鳥あぢふとつゞけたり、奥《オキ》と云は、海にかぎらず、河にも池にも田にも讀り、水面の岸の方よりはるかなるをいふなり、されども今おきつ鳥と云は、海につきてなり、第十六に、奥つとり鴨ともつゞけたり、○味經《アヂフ》は、和名抄に攝津(ノ)國東生(ノ)郡味原とあり、(アヂフ〔三字右○〕なり、)原をフ〔右○〕と訓は、麻原《ヲフ》、茅原《チフ》、室原《ムロフ》などの例なり、此(ノ)卷(ノ)未に、味原宮《アヂフノミヤ》と見ゆ、書紀に、白雉元年春正月辛丑朔、車駕幸2味經宮1、觀《ミソナハス》2賀正禮《ミカドヲガミノコトヲ》1、註に、味經此云2阿※[貝+貳]《アヂフト》1、(※[貝+貳](ノ)宇舊本に、賦と作るは誤なり、)二年冬十二月、於2味經(ノ)宮1、請2二千一百餘(ノ)僧尼(ヲ)1、使v讀2一切經(ヲ)1、續紀に、建暦四年正月丁酉朔庚戌、遣v使(ヲ)堀2攝津(ノ)國神下梓江鯵生野(ヲ)1、通2于三國川1、典藥寮式に、凡味原(ノ)牧、爲2寮牛牧(ト)1、民部省圖帳に、東生(ノ)郡|味原《アヂフノ》庄、(少僧都玄覺、たづの鳴あしへの浪に袖ぬれて味經の宮に月を見る哉、)など見えたり、契冲、此(ノ)味經といふ所、おのれすみ侍るも、同じ東生(ノ)郡なれば、土民などにとへど、いつくと知ものもなく、味經の宮有き、といひつたふるものもなしと云り、(攝津志に、味經(ノ)宮舊跡、島(ノ)下(ノ)郡|味舌《マシタ》郷、とあるは誤ならむか、一説(179)に、東生(ノ)郡小橋村に、宮跡ありと云り、)○物部乃《モノヽフノ》云々は、從駕《ミトモ》の官人等《ツカサヒトタチ》の、假廬に居るを云り、○都成有は、ミヤコトナレリ〔七字右○〕と訓べし、都と變成有《ナレリ》の謂《ヨシ》なり、反歌に、京師跡成宿《ミヤコトナリヌ》、とあると同じ、(しかるを、略解に、ミヤコナシタリ〔七字右○〕とよみて、旅とはいへども、幸によりて都の如し、と云なりと云るは、いみじきひがことなり、如の意の奈周《ナス》てふ言は、奈斯多理《ナシタリ》、奈勢理《ナセリ》など、はたらく言にはあらざるをや、この事既(ク)も云り、十九に皇者神爾之座者赤駒之《オホキミハカミニシマセバアカコマノ》、腹婆布田爲乎京師跡奈之都《ハラバフタヰヲミヤコトナシツ》、とあるも同じ、○旅者安禮十方《タビニハアレドモ》は、まことの京師にはあらず、行幸の從駕によりて、旅なるが故に、かくことわれり、
 
反歌二首《カヘシウタフタツ》。
 
二首(ノ)字、古寫小本、拾穗本等にはなし、
 
929 荒野等丹《アラヌラニ》。里者雖有《サトハアレドモ》。大王之《オホキミノ》。敷座時者《シキマストキハ》。京師跡成宿《ミヤコトナリヌ》。
 
荒野等《フラヌラ》は、和名抄に、私記(ニ)云(ク)、曠野(ハ)阿良乃良《アラノラ》とあり、○歌(ノ)意は、此里は、曠野《アラヌラ》にてはあれども、天皇の行幸《イデマシ》て敷座時は、京師と變成《ナリ》て、繁華に富さかえて、ありLにもあらぬさまにてありとなり、
 
930 海未通女《アマヲトメ》。棚無小舟《タナナシヲブネ》。※[手偏+旁]出良之《コギヅラシ》。客乃屋取爾《タビノヤドリニ》。梶音所聞《カヂノトキコユ》。
 
棚無小舟《タナナシヲブネ》は、既く出たり、○客乃屋取《タビノヤドリ》は、官人等の旅館を云う、○歌(ノ)意は、從駕の官人等の旅館(180)に、楫の音の聞ゆるは、今や海人のをとめどもが、棚無小舟を※[手偏+旁]出るにてあるらしとなり、
 
車持朝臣千年作歌一首并短歌《クラモチノアソミチトセガヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
931 鯨魚取《イサナトリ》。濱邊乎清三《ハマヘヲキヨミ》。打靡《ウチナビキ》。生玉藻爾《オフルタマモニ》。朝名寸二《アサナギニ》。千重浪縁《チヘナミヨリ》。夕菜寸二《ユフナギニ》。五百重波因《イホヘナミヨル》。奧津浪《オキツナミ》。伊夜益升爾《イヤマスマスニ》〔八字それぞれ○で囲む〕。邊津浪之《ヘツナミノ》。益敷布爾《イヤシクシクニ》。月二異二《ツキニケニ》。日日雖見《ヒビニミガホシ》。今耳二《イマノミニ》。秋足目八方《アキタラメヤモ》。四良名美乃《シラナミノ》。五十開回有《イサキモトヘル》。住吉能濱《スミノエノハマ》。
 
鯨魚取《イサナトリ》は、枕詞なり、○五百、舊本に百五とあるは、顛倒《カヘサマ》になれるなり、今は古寫一本に從つ、○奥津浪伊夜益升爾《オキツナミイヤマスマスニ》、この二句は必(ス)かくありしが、舊本は寫脱したること著し、さるは此(ノ)歌、朝名寸二千重液縁《アサナギニチヘナミヨリ》、と云と、夕菜寸二五百重浪因《ユフナギニイホヘナミヨル》と云と、二句づつをもて雙べ對へたれば、邊津浪之益敷布爾《ヘツナミノイヤシクシクニ》、と云る二句にも、必對へたる詞のあるべき、古(キ)歌の定格なればなり、故(レ)今は十三に、朝奈祇爾滿來鹽之《アサナギニミチクルシホノ》、夕奈祇爾依來波乃《ユフサナギニヨセクルナミノ》、彼鹽乃伊夜益升二《ソノシホノイヤマスマスニ》、彼波乃《ソノナミノ》、伊夜敷布二《イヤシクシクニ》云々、とあるをもて、姑(ク)補たり、奥津浪伊夜益升爾《オキツナミイヤマスマスニ》は、海(ノ)澳方《オキヘ》の浪の、彌益益《イヤマスマス》になり、○邊津浪《ヘツナミ》は、海邊《ウミヘタ》の浪なり、○益敷布爾《イヤシク/\ニ》は、彌重重《イヤシクシク》になり、○月二異二《ツキニケニ》は、月々に來經《ケ》ににて、月に日にの意なり、○日日雖見は、雖は欲の誤なるべし、と云る説ぞよき、ヒヒニミガホシ〔七字右○〕と訓べし、○五十開回有は、イサキモトヘル〔七字右○〕と訓べし、五十《イ》はをへ言なり、開《サキ》は、浪の立映《タチハエ》たるを云、神代紀に、秀起浪穗之上《サキダテルナミノホノヘニ》云々、註に秀起此云2左岐陀弖屡《サキダテルト》1、(弖(ノ)字本に豆と作るは誤なり、)此集十四に、阿遲可麻能可多(181)爾左久奈美《アヂカマノカタニサクナミ》云々、とよゆり、モトヘル〔四字右○〕は、モトホレル〔五字右○〕と云むがごとし、神武天皇(ノ)紀(ノ)御歌に、於費異之珥夜異波臂茂等倍屡《オホイシニヤイハヒモトヘル》云々|異波比茂等倍離《イハヒモトヘリ》、とあり、○住(ノ)字、舊本に往と作るは誤なり、今は元暦本、古寫一本、拾穗本等に從つ、
 
反歌一首《カヘシウタヒトツ》。
 
一首(ノ)二字、古寫小本、拾穗本等にはなし、
 
932 白浪之《シラナミノ》。千重來縁流《チヘニキヨスル》。住吉能《スミノエノ》。岸乃黄土粉《キシノハニフニ》。二寶比天由香名《ニホヒテユカナ》。
 
黄土粉《ハニフニ》とは、粉《フニ》はフム〔二字右○〕の音を轉(シ)用たる假字にて、(類聚抄に、粉の下二(ノ)字あれど、こはなくて可《ヨ》し、)黄土生《ハニフ》になり、○二寶比天由香名《ニホヒテユカナ》は、染《ニホヒ》て徃《ユカ》むと思ふよしなり、由香名《ユカナ》は、將《ム》v往《ユカ》を急にいへるにて、偏《ヒトヘ》に往むと思ふ意の詞なり、一(ノ)卷に、草枕客去君跡知麻世婆岸之埴布爾仁寶播散麻思乎《クサマクラタビユクキミトシラマセバキシノハニフニニホハサマシヲ》、此下に、馬之歩押止駐余住吉之岸乃黄土爾保比而將去《ウマノアユミオシテトヾメヨスミノエノキシノハニフニニホヒテユカム》、などあり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
山部宿禰赤人作歌一首并短歌《ヤマベノスクネアカヒトノヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
933 天地之《アメツチノ》。遠我如《トホキガゴトク》。日月之《ヒツキノ》。長我如《ナガキガゴトク》。臨照《オシテル》。難波乃宮爾《ナニハノミヤニ》。和期大王《ワゴオホキミ》。國所知良之《クニシラスラシ》。御食都國《ミケツクニ》。日日之御調等《ヒビノミツキト》。淡路乃《アハヂノ》。野島之海子乃《ヌシマノアマノ》。海底《ワタノソコ》。奧津伊久利二《オキツイクリニ》。鰒珠《アハビタマ》。左盤爾潜出《サハニカヅキデ》。船並而《フネナメテ》。仕奉之《ツカヘマツルカ》。貴見禮者《タフトシミレバ》。
 
(182)國所知良之《クニシラスラシ》、初句より此(レ)まで八句は、天地日月の、遠く長きが如くに、いつまでも盡る事なく、難波(ノ)宮に行幸て、繁華に御代しろしめすらし、と其|綱《オホムネ》をいひ、次の御食都國《ミケツクニ》より結句まで十一句は、その繁華にしろしめすさまの、目《コワリ》をいへるなり、○御食都國《ミケツクニ》は、御饌調國《ミケツククニ》にて、御贄《ミニヘ》を獻る國を云、こゝは淡路(ノ)國を云り、此(ノ)下に、御食國志麻乃海部有之《ミケツクニシマノアマナラシ》、十三に、御食都國神風之伊勢乃國《ミケツクニカムカゼノイセノクニ》、など見えたり、○日日之御調等《ヒヒノミツキト》(一(ツ)の日(ノ)字、舊本にはなし、今は古寫一本に從つ、)は、日次《ヒナミ》の御貢《ミツキ》とての意なり、(禁腋秘抄に、清涼殿云々、御物棚に、日つきの御贄を置く、)○野島之海子《ヌシマノアマ》は、履中天皇(ノ)紀に、自2龍田山1踰之時、有2數十人執v兵(ヲ)追來者1、太子遠望之曰、云々、近則遣2一人(ヲ)1問曰、曷人且何處往《ナニヒトソハタイヅチカユク》矣、對曰淡路(ノ)野島之海人也、阿曇(ノ)連濱子、爲2仲(ツ)皇子(ノ)1令(トイヘリ)v追2太子(ヲ)1、於是出2伏兵1圍(テ)v之、悉(ニ)捕得云々、亦d從2濱子1野島(ノ)海人等之罪(ヲ)u、役《ツカヒキ》2於倭(ノ)蒋代《コモシロノ》屯倉(ニ)1、とあり、思(ヒ)合(ス)べし、○海底《ワタノソコ》は、一(ノ)卷(ノ)未に、海底奥津白浪《ワタノソコオキツシラナミ》、と見えたり、○奥津伊久利《オキツイクリ》は、海底《ウナソコ》の石なり、伊久利《イクリ》は三(ノ)卷に、言佐敝久辛乃埼有伊久里爾曾深海松生流《コトサヘクカラノサキナルイクリニソフカミルオフル》、とある處に具(ク)註るが如し、○鰒珠《アハビタマ》は、鰒《アハビノ》眞珠なり、なほ十八(ノ)下に委(ク)云べし、○左盤《サハ》は、多《サハ》なり、○船並而《フネナメテ》は、船を乘(リ)並べての意なり、○貴見禮者は、タフトシミレバ〔七字右○〕と訓べし、見《ミレ》ば貴(ト)しの意なり、(略解に、タフトキミレバ〔七字右○〕と訓て、國しらすらしと云ひ返して、仕(ヘ)奉るを見れば、天地とともに久しく、御食國しらしめすらし、といふなりと云り、これもさることなり、いかさまにも、しか意得ざれば、國所知良之《クニシラスラシ》と云より、下へ連續《ツラヌカ》ざればなり、しかれど(183)もなほよく思ふに、長歌の句中にて歌ひ絶(リ)て、又次より發《オコ》し云ることも、古歌の體にはあることなれば、妨なし、そのうへたふときみればとよみては、今少し詞つき、しななくおとりて聞ゆるを、たふとしみればと訓ときは、調(ヘ)高くきこゆれば、なほ前のごと訓べきなり、)海子が、かくまでいたづきをいとはで、いそしみ仕(ヘ)奉るを見れば、貴くめでたしと云ふ意なり、
 
反歌一首《カヘシウタヒトツ》。
 
一首(ノ)字、古寫本、古寫小本、拾穗本等にはなし、
 
934 朝名寸二《アサナギニ》。梶音所聞《カヂノトキコユ》。三食津國《ミケツクニ》。野島乃海子乃《ヌシマノアマノ》。船二四有良信《フネニシアルラシ》。
 
歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
三年丙寅秋九月十五日《ミトセトイフトシヒノエトラナガツキトヲカマリイツカノヒ》。幸《イデマセル》2於|播磨國印南野《ハリマノクニイナミヌニ》1時《トキ》。笠朝臣金村作歌一首并短歌《カサノアソミカナムラガヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
幸2於播磨(ノ)國印南野(ニ)1(播(ノ)字、舊本には幡と作り、今は古寫一本に從つ、野(ノ)字、古寫一本には郡と作り)は、續紀に、聖武天皇神龜三年九月壬寅云々、爲v將v幸2播磨(ノ)國印南野(ニ)1也、冬十月辛酉、行幸從駕人、播磨(ノ)國郡(ノ)司百姓等、供2奉行在所(ニ)1者、授v位賜v禄各有v差云々、癸亥、行(テ)還2至難波(ノ)宮1と見ゆ、
 
935 名寸隅乃《ナキスミノ》。船瀬從所見《フナセユミユル》。淡路島《アハヂシマ》。松帆乃浦爾《マツホノウラニ》。朝名藝爾《アサナギニ》。玉藻苅管《タマモカリツヽ》。暮菜寸二《ユフナギニ》。藻鹽燒乍《モシホヤキツヽ》。海未通女《アマヲトメ》。有跡者雖聞《アリトハキケド》。見爾將去《ミニユカム》。餘四能無者《ヨシノナケレバ》。大夫之《マスラヲノ》。情者梨荷《コヽロハナシニ》。(184)手弱女乃《タワヤメノ》。念多和美手《オモヒタワミテ》。徘徊《タモトホリ》。吾者衣戀流《アレハソコフル》。船梶雄名三《フネカヂヲナミ》。
 
名寸隅《ナキスミ》は、荒木田氏播磨下向(ノ)日記に、赤石より別府に行道のほど、藤井(ノ)浦を經、この藤井の西に、西(ノ)岡と云村ありて、其處に天皇山と云あり、その北を天皇|裏《ウラ》といふ、是(レ)聖武天皇行宮の御跡なるべく、その邊をすべて魚住《ウヲスミノ》庄といふは、もと魚住はナスミ〔三字右○〕とよみて、名寸隅《ナキスミ》の訛なるべし、と早川(ノ)廣海云り、實に淡路島松帆(ノ)浦は、南に近く見わたさるる所なれば、この説よしありて、おぼゆと記せり、(契冲も、既(ク)名寸隅は、魚住にやと云りき、魚住は、本朝文粹三善(ノ)清行(ノ)意見封事に見えたり、織田氏の時に、魚住源吾と云人あり、此(ノ)地より出し人にや、)○船瀬《フナセ》も、所(ノ)名なるべし、續紀に、天應元年正月庚辰、授2播磨(ノ)國人大初位下佐伯(ノ)直諸成(ニ)外從五位下(ヲ)1、以(テ)v進(ルヲ)d於造2船瀬(ヲ)1所(ヲ)u也、延暦八年十二月乙亥、播磨(ノ)國美嚢郡(ノ)大領正六位下韓鍛(ノ)首廣富獻2稻六萬束(ヲ)於水兒(ノ)船瀬(ニ)1、授2外從五位下(ヲ)1、同十年十一月壬戌、授2播磨(ノ)人大初位下出雲(ノ)臣人麻呂(ニ)外從五位下(ヲ)1、以v獻(ルヲ)2於水兒(ノ)船瀬(ニ)1也、なこど見えたり、主税式上に、凡勘2租帳(ヲ)1者云々、船瀬功徳田、造2船瀬(ヲ)1料田(ハ)、並爲2不輪租田(ト)1云々、と見えたる船瀬も、是なるべし、かくて中山(ノ)嚴水、船瀬《フナセ》は、船居《フナスヱ》にや、スヱ〔二字右○〕はセ〔右○〕と約まれりと云り、遣唐使(ノ)時奉幣祝詞に、大唐爾使遣左牟止爲爾《モロコシニツカヒツカハサムトスルニ》、依《ヨリ》2船居無《フナスヱナキニ》1?《テ》、播磨國與理船乘止爲?《ハリマノクニヨリフネノラムトシテ》、使者遣佐牟止所念行間爾《ツカヒハツカハサムトオモホシメスホドニ》、皇神命以?《スメカミノミコトモチテ》、船居波吾作牟止教悟給比支《フナスヱハアガツクラムトヲシヘサトシタマヒキ》、教悟給比那我良《ヲシヘサトシタマヒナガラ》、船居作給部禮婆《フナスヱツクリタマヘレバ》云々、(吾下(ノ)作(ノ)字、本に佐と作るは誤なり、)また臨時祭式に、開2遣唐(ノ)船居(ヲ)1祭あり、(185)この船居《フナスヱ》をやがて、地(ノ)名に負せて、船瀕とぞ云ならむ、○松帆浦《マツホノウラ》は、淡路なり、新勅撰集に、來ぬ人を松帆の浦の夕なぎに燒や藻鹽の身もこがれつゝ、とあり、○手弱女乃は、タワヤメノ〔五字右○〕と訓べし、念手弱《オモヒタワミ》と云む料なり、○念多和美手《オモヒタワミテ》は、念手弱而《オモヒタワミテ》なり多和美《タワミ》は、たをやびと云むが如し、○舶梶雄名三《フネカヂヲナミ》(雄(ノ)字、元暦本には丈と作り、)は、船と梶が無(キ)故にの意なり、眞に船梶の無にはあらねど、從駕にて、播磨に在ゆゑに、淡路の海人等が、藻刈(リ)鹽燒(ク)業を、見にゆくよしのなければ、歎きて船梶の無に託言《コトヨセイヘ》り、
 
反歌二首《カヘシウタフタツ》。
 
二首(ノ)二字、古寫小本、拾穗本等にはなし。
 
936 玉藻苅《タマモカル》。海未通女等《アマヲトメドモ》。見爾將去《ミニユカム》。船梶毛欲得《フネカヂモガモ》。浪高友《ナミタカクトモ》。
 
歌(ノ)意は、よしや波は高く立とも、松帆(ノ)浦に、玉藻かる海をとめどもを見に行むに、いかで船梶もがなあれかしとなり、
 
937 往回《ユキカヘリ》。雖見將飽八《ミトモアカメヤ》。名寸隅乃《ナキスミノ》。船瀬之濱爾《フナセノハマニ》。四寸流思良名美《シキルシラナミ》。
 
往回はユキカヘリ〔五字右○〕とよむべし、此(ノ)下に、往還常爾我見之《ユキカヘリツネニアガミシ》、又|去還雖見不飽《ユキカヘリミレドモアカズ》などあり、七(ノ)卷に、若狹在三方之海之濱清美伊往變良比見跡不飽可聞《ワカサナルミカタノウミノハマキヨミイユキカヘラヒミレドアカヌカモ》、ともよめり、(又ユキメグリ〔五字右○〕とも訓べし、十七に、乎美奈敝乎左伎多流野邊乎由伎米具利《ヲミナヘシサキタルヌヘヲユキメグリ》、佛足石碑(ノ)歌に、舍加乃美阿止伊波爾宇都志於(186)伎由伎米具利宇夜麻比麻都利《サカノミアトイハニウツシオキユキメグリウヤマヒマツリ》、と見えたり、)○、四寸流四良名美《シキルシラナミ》は、重《シキ》る白浪なり、重重《シキシキ》にする浪を云り、○歌(ノ)意は、名寸隅の船瀬の濱に、重重によする白浪の、おもしろさは、行かへりゆきかへりしつゝ、いくたび見るとも、飽足時のあむらやはとなり、
 
山部宿禰赤人作歌一首并短歌《ヤマベノスクネアカヒトガヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
これも、右に同じ幸の時なり、
 
938 八隅知之《ヤスミシシ》。吾大王乃《ワガオホキミノ》。神隨《カムナガラ》。高所知流《タカシラセル》。稻見野能《イナミヌノ》。大海乃原笑《オホウミノハラノ》。荒妙《アラタヘノ》。藤井乃浦爾《フヂエノウラニ》。鮪釣等《シビツルト》。海人船散動《アマフネサワギ》。鹽燒等《シホヤクト》 人曾左波爾有《ヒトソサハナル》。浦乎吉美《ウラヲヨミ》。諾毛鹽燒《ウベモシホヤク》。蟻往來《アリカヨヒ》。御覽母知師《メサクモシルシ》。清白濱《キヨキシラハマ》。
 
高所知流(高知酢流、と作る本はわろし、又古寫一本に、流を須と作るもわろし、)は、タカシラセル〔六字右○〕と訓べし(タカク〔三字右○〕と訓むは、いとわろし、)此(ノ)下同人歌に、自神代芳野宮爾蟻通高所知者山河乎吉美《カミヨヨリヨシヌノミヤニアリガヨヒタカシラセルハヤマカハヲヨミ》、とあるに同じ、○稻見野《イナミヌ》は、既(ク)出づ、○大海乃原《オホウミノハラ》は地(ノ)名にあらず、たゞ海原をいへるなり、大祓(ノ)詞に、瀬織津比※[口+羊]止云神《セオリツヒメトイフカミ》、大海原爾持出奈武《オホウミノハラニモテイデナム》、とあるに同じ、○荒妙《アラタヘノ》は、枕詞なり、既(ク)云り、○藤井は、反歌に藤江とあれば、井は江(ノ)字の誤なることいちじるし、三(ノ)卷に、荒栲藤江之浦爾鈴寸釣《アラタヘノフヂエノウラニスヾキツル》、とありて、彼處に具(ク)註り、○鮪釣等《シビツルト》(鮪(ノ)字、活字本異本に、鰹と作るは誤なり、)は鮪《シビ》を釣とての意なり、鮪は品物解にいへり、○海人船散動はアマブネサワギ〔七字右○〕と訓べし、○鹽燒等《シホヤクト》(燒(ノ)字(187)元暦本に、〓と作るは、誤なり、)は、鹽を燒とての意なり、塩は〓の減畫なり、干禄字書に、〓鹽(上通下正)とあり、○佐波爾有《サハナル》は、多《サハ》に在《アル》なり、○浦乎吉美《ウラヲヨミ》は、浦が好(キ)故にの意なり、○濱乎吉美《ハマヲヨミ》は、濱がよき故にの意なり、○蟻往來《アリカヨヒ》は、あり/\通ひの意なり、さき/”\より、度々行幸のあるを云り、○御覽母知師は、メサクモシルシ〔七字右○〕と訓べし、メサク〔三字右○〕はメス〔二字右○〕と云言の伸りたるなり、續紀宣命に、所思行佐久《オモホシメサク》とあるも、於母保志賣須《オモホシメス》を延たる言にて、今と全(ラ)同じ例なり、此は申《マヲ》すをマヲサク〔四字右○〕と云と、同格の活用なり、(サク〔二字右○〕の切ス〔右○〕、)あり通ひ見したまふもいちじるく、尤清くて風趣《オモシロ》き白濱ぞとなり、○白濱《シラハマ》は、白浪のいちじるくよする濱を云、地(ノ)名には非ず、
 
反歌三首《カヘシウタミツ》。
 
三首(ノ)二字、古寫小本、拾穗本等にはなし、
 
939 奥浪《オキツナミ》。邊波安美《ヘナミシヅケミ》。射去爲登《イザリスト》。藤江乃浦爾《フヂエノウラニ》。船曾動流《フネソサワゲル》。
 
940 不欲見野乃《イナミヌノ》。淺茅押靡《アサヂオシナベ》。左宿夜之《サヌルヨノ》。氣長在者《ケナガクシアレバ》。家之小篠生《イヘシシヌハユ》。
 
不欲は、否《イナ》の義にとりてかけり、○淺茅押靡《アサヂオシナベ》は、淺茅《アサヂ》を押《オ》し令《ケ》v靡《ナビ》なり、七(ノ)卷に、家爾之?吾者將(188)戀名印南野乃《イヘニシテアレハコヒ
ムナイナミヌノ》、淺茅之上爾照之月夜乎《アサヂガウヘニテリシツクヨヲ》、とあり、○氣長在者《ケナガクシアレバ》(在(ノ)字、拾穗本には、有と作り)は、來經長《キヘナガク》あればなり、長の下に、之《シ》の助辭をよみ付べし、之《シ》は例のその一(ト)すぢなることを、おもく思はする辭なり、一すぢに日數の經たるよしなり、○家之小篠生《イヘシシヌハユ》は、(小篠生は借(リ)字、)家《イヘ》所《ル》v偲《シヌハ》なり、之《シ》は、例のその一(ト)すぢなることを、おもく思はする辭なること、上に同じ、家の一(ト)筋に、戀慕はるゝ意なり○歌(ノ)意は、稻見野の、淺茅を押し靡かせて、旅宿する夜の日數多く積りぬれば、いよいよ家人の一(ト)すぢに戀しく思はるゝとなり、
 
941 明方《アカシガタ》。潮干乃道乎《シホヒノミチヲ》。從明日者《アスヨリハ》。下味異六《シタヱマシケム》。家近附者《イヘチカヅケバ》。
 
潮干乃道乎《シホヒノミチヲ》(潮干、類聚抄に湖千と作て、ウミチと訓るは誤なり、)は、潮の干潟の道を行む、と云意に、云下したり、○下咲異六《シタヱマシケム》は、心(ノ)裏によろこばしくて、咲《ヱマ》はしからむとなり、下とは、表に顯はさぬよりいふことなり、○歌(ノ)意は、明日よりは還幸の供奉つかへまつりて、漸く、家の方近附ば、明石潟の道路を、心(ノ)裏によろこばしく、咲ほしくて行むぞとなり、大丈夫なれば表には、女々しく、家人を戀慕へる貌をせず、殊に從駕なれば、行幸をいとふやうにも見えて、いと恐こければ、心(ノ)裏にのみ咲はしからむとなり、
 
過《スグル》2辛荷島《カラニノシマヲ》1時《トキ》。山部宿禰赤人作歌一首并短歌《ヤマベノスクネアカヒトガヨメルウタヒトツマタミジカウタ》
 
辛荷島《カラニノシマ》は、播磨(ノ)國風土記に、韓荷(ノ)島(ハ)韓人破v船(ヲ)所v漂之物、漂(ヒ)2就(ク)於此(ノ)島(ニ)1、故(レ)云2韓荷(ノ)島(ト)1、と見えたり、契(189)冲、室の西にあたりて、からみ島と云小島あり、これにや、ミ〔右○〕とニ〔右○〕とは同韵にて、よく通ずる字なり、河貝子をも、ニナ〔二字右○〕ともミナ〔二字右○〕とも云り、三位なども音便なれば、サムニ〔三字右○〕とこそいふべけれど、猶いひにくきゆゑにや、サムミ〔三字右○〕といひならへり、和泉(ノ)國に、上神とかきて、ミワ〔二字右○〕と申所、和田とかきて、ニキダ〔三字右○〕と申所侍るを、土民はいひたがへて、ニワ、ミキダ〔五字右○〕とのみ云るも、よく通じてきこゆるなりと云り、(已上)ミ〔右○〕とハ〔右○〕と通はせる例は、〓〓《コホドリ》を古事記(ノ)歌に、美本杼理《ミホドリ》とも、邇本杼理《ニホドリ》ともよみ、韮《ニラ》を、古書に美良《ミラ》と、書(キ)蓑《ミノ》を、字鏡に爾乃《ニノ》と訓(ミ)、又神名の豐組野《トヨクミヌノ》尊を、豐國野《トヨクニヌノ》尊とも申し、安藝、遠江、安房などの國の郷(ノ)名壬生は、美布《ミフ》なるべきを、和名抄に、爾布《ニフ》と註し、さて土佐(ノ)國にては、水脉《ミヲ》をニヲ〔二字右○〕、また南を、ニナミ〔三字右○〕とも、右をニギ〔二字右○〕とも云者あり、かゝれば、からみは、韓荷にやあらむ、(但(シ)長歌に、伊奈美嬬辛荷乃島《イナミツマカラニノシマ》とつゞきたれば、印南(ノ)郡にあるべく、且十月辛酉稻見野まで幸ありて、癸亥難波(ノ)宮へ還御ありければ、從駕(ノ)人、室(ノ)西までは、至るまじきにや、さらばなほからみにはあらじか、猶考べし、○續後撰集に、參議雅經、みつしほのからかの島に玉藻かるあままも見えぬさみだれの頃、とよまれけるは、辛荷をそのかみよみ誤て、からかとぞいひけむ、)
 
942 味澤相《アヂサハフ》。妹目不數見而《イモガメカレテ》。敷細乃《シキタヘノ》。枕毛不卷《マクラモアカズ》。櫻皮纒《カニハマキ》。作流舟二《ツクレルフネニ》。眞梶貰《マカヂヌキ》。吾※[手偏+旁]來者《アガコギクレバ》。淡路乃《アハヂノ》。野島毛過《ヌシマモスギ》。伊奈美嬬《イナミツマ》。辛荷乃島之《カラニノシマノ》。島際從《シマノマユ》。吾宅乎見者《ワギヘヲミレバ》。青山乃《アヲヤマノ》。曾(190)許十方不見《ソコトモミエズ》。白雲毛《シラクモモ》。千重成來沼《チヘニナリキヌ》。許伎多武流《コギタムル》。浦乃盡《ウラノコト/”\》。往隱《ユキカクル》。島乃埼埼《シマノサキザキ》。隈毛不置《クマモオカズ》。憶曾吾來《オモヒソアガクル》。客乃気長彌《タビノケナガミ》。
 
味澤相《アヂサハフ》は、枕詞なり、既(ク)出づ、○妹目不數見而は、イモガメカレテ〔七字右○〕、と本居氏のよめるぞ宜しき、○敷細乃《シキタヘノ》(敷(ノ)字、舊本に數と作るは誤なり、今は拾穗本に從つ、)は、枕詞なり、既(ク)出づ、○櫻皮纒《カニハマキ》云云、カニハ〔三字右○〕とは、樺皮《カバ》とて、今の世にも、杓などとぢつくるものなり、和名抄木具(ノ)類に、玉篇(ニ)云、樺(ハ)木皮(ノ)名、可2以爲1v炬(ニ)者也、和名|加波《カバ》、又云加仁波、今櫻皮(ニ)有v之、と見ゆ、加仁波櫻《カニハザクラ》、加波櫻《カバザクラ》とて一種《ヒトクサ》あるは、あるが中に、專(ラ)この樺皮《カニハ》に用るゆゑの名にやあらむ、されどいづれの櫻の皮をも、用ふることなれば、櫻皮とかけり、(七十一番職人歌合に、檜物師、逢ことはそれそとぢめの櫻皮かばかりとこそ思はざりしか、)民部式、年料別貢雜物の中に、信濃(ノ)國(云々樺皮二圍、)上野(ノ)國(云々樺皮四張、)など見ゆ、(後徳大寺左大臣實定(ノ)公(ノ)庭槐抄に、治承二年三月廿三日云々、着2装束1唐綾皮櫻蒲※[草がんむり/陶]染打裏唐白丸文表袴云々、などあれば、後には加婆櫻を、皮櫻とも書しにや、)さて中山(ノ)嚴水云(ク)、櫻皮纒作流舟《カニハマキツクレルフネ》とは、板のつがひ/\を離れぬために、樺皮にてとぢつけたる舟なるべし、古(ヘ)の舟のさま、さもありつべくおぼゆと云り、(略解に、今舟の舳を蕨繩して卷如く、櫻の皮もて卷たるならむといへれど、舳の方をかざりに卷のみにはあらじ、嚴水説によるべし)〔頭註、【古今打聞、源氏物語に、かば櫻のうつくしき色あるよしに書る所々見えたり、それが中に、外の花はやへさく花咲さかり過て、かば櫻はひらけ、藤はおくれて色づきなどはすめるをと(191)書たれば、いとおそき花の色ある也、さてその皮の物に用ひてよければ、かには櫻とは云、一條院の御時、近江のみやす所の歌合に、かには櫻、ふかれくる香には櫻ぞそひて散春におくれぬにほひなるべし、】〕
○伊奈美嬬《イナミツマ》(美(ノ)字、舊本に〓と作るは誤なり、今は古寫本、拾穗本等に依つ、)は、既(ク)出づ、○青山《アヲヤマ》は、山(ノ)名にはあらず、木立の青々としたる山を云り、○曾許十方不見《ソコトモミエズ》は、吾(ガ)家の方は、彼處《ソコ》ぞとも見えわかぬ意なり、○許伎多武流《コギタムル》は、漕回《コギタムル》なり、回《タム》をたむると云は慰《ナグサム》をなぐさむる、乏《トモシ》ぶをともしふる、慕《シノ》ぶをしのぶる、など云例なり、廿(ノ)卷に、乎加之佐伎伊多牟流其等爾《ヲカノサキイタムルゴトニ》、とあり、○浦乃盡《ウラノコト/”\》は、三(ノ)卷伊豫(ノ)温泉(ノ)歌に、敷座國之盡《シキマスクニノコト/”\》、とよめる類なり、○往隱《ユキカクル》は、舟の泊て浦隱るを云、○島乃埼埼《シマノサキ/”\》、此(ノ)下に、付將賜島之埼前依將賜磯乃埼前《ツキタマハムシマノサキ/”\ヨリタマハムイソノサキ/”\》、十九に、佐之與良牟磯乃埼埼《サシヨラムイソノサキ/”\》、十三に、八十島之崎邪使《ヤソシマノサキザキ》、古事記須勢理毘賣(ノ)命(ノ)御歌に、宇知微流斯麻能佐伎邪伎《ウチミルシマノサキザキ》などあり、○隈毛不置《クマモオカズ》(隈(ノ)字、舊本には隅と作り、今は元暦本、拾穂本等に從つ、但し既(ク)云る如く、集中に隈隅通用(ヒ)たるか、とおもはるゝよしもあれど、なほ正しき方に從つるなり、)は、一(ノ)卷天武天皇御製歌に、隈毛不落《クマモオチズ》、とあるに同じ、○氣長彌《ケナガミ》は、日久しく經たる故にの意なり、氣《ク》は來經《キヘ》なり、
 
反歌三首《カヘシウタミツ》。
三首(ノ)二字、古寫小本にはなし、
 
943 玉藻苅《タマモカル》。辛荷乃島爾《カラニノシマニ》。島回爲流《シマミスル》。水烏二四毛有哉《ウニシモアレヤ》。家不念有六《イヘモハザラム》。
 
島回爲流は、シマミスル〔五字右○〕と訓べし、島めぐりして、食《ハミモノ》を求《モトム》るを云なり、七(ノ)卷に、島回爲等《シマミスト》、また同(192)卷に、磯回爲等霜《イソミスラシモ》、三(ノ)卷に、磯廻爲鴨《イソミスルカモ》、十九に、灣廻爲流《ウラミスル》、なども見えたり、○水烏二四毛有哉《ウニシモアレヤ》は、鵜にてもがなあれかしと云意なり、さて四《シ》の辭を、二四《ニシ》とつゞけたるは、さだかにしかあれかし、とおもく思はする意なり、かくてあれかしと希ふ意を、有哉《アレヤ》と云は、七(ノ)卷に石倉之小野從秋津爾發渡《イハクラノヲヌユアキツニタチワタル》、雲西裳在哉時乎思將待《クモニシモアレヤトキヲシマタム》、とある、これ雲にてもがなあれかしの意にて、同(シ)格なり、水烏とかけるは、十九に、贈2水烏《ウヲ》越前判官大伴(ノ)宿禰池主(ニ)1、歌云々、また爾雅註に、※[盧+鳥]※[茲+鳥]水烏也、とも見えたり、猶品物解に云、○歌(ノ)意は、なまなかに人とありて、家路戀しく、はかなき物思をせむよりは、辛荷(ノ)島にて求食《アザリ》する鵜にてもがなあれかし、さらば何の物思もなくてあらむをとなり、
 
944 島隱《シマガクリ》。吾※[手偏+旁]來者《アガコギクレバ》。乏毳《トモシカモ》。倭邊上《ヤマトヘノボル》。眞熊野之船《マクマヌノフネ》。
 
島隱《シマガクリ》とは、海島に隔てられて、船の隱るゝを云がもとにて、必しも島に隱れねども、海の沖遠く行て、陸の方より見えずなるをいへり、(沖の方より、陸の遠く見えずなるを云如くにも聞ゆれど、然らず、浦隱、磯隱など云も、皆船の浦磯などに隱るゝをいへるにても、相例すべし、)さればこゝは、播磨の方に漕下り、陸の方より隱れて見えずなるばかり、遠放りて、吾船を漕來れば、と云意につゞくなるべし、○乏毳《トモシカモ》は、うらやましき哉の意なり、乏《トモシ》と云詞を、うらやましき意によめるは、一(ノ)卷に、朝毛吉木人乏母《アサモヨシキヒトトモシモ》、とある歌に、具(ク)註《イヘ》るが如し、○眞熊野之船《マクマヌノフネ》、契冲云(ク)、播(193)磨にてよめる歌なれば、熊野(ノ)浦の舟を、此(ノ)海に※[手偏+旁]のぼるべきにあらず、神代紀下(ニ)云(ク)、故以2熊野諸手船(ヲ)1、(亦名天(ノ)鳩船、)載2使者稻背脛(ヲ)1云々、日本紀※[足+疏の旁](ニ)曰(ク)、熊野(ハ)船(ノ)名、伊與風土記(ニ)云、昔野間(ノ)郡有2一船1、名(ヲ)曰2熊野(ト)1、後化2爲《ナレリ》石(ト)1、蓋(シ)此類也云々、此(ノ)下に、家持の伊勢へ行幸の御供にて、よまれたる歌にも、みけつ國しまのあまならしみくまのゝをふねにのりておきへこぐみゆ、第十二に、うらわこぐ能〔左○〕野舟つきめづらしくかけておもはぬ月も日もなし、能は、熊の字の列火のうせたりと見ゆ、みくまぬの舟は、早船の類なるべし、○歌(ノ)意は、遙々播磨の方に漕下り、漸都の方の遠くなるほど、いよ/\家路戀しく思はるゝに、熊野船の、倭の都の方へ上り行なるは、さてもうらやましき事哉となり、
 
945 風吹者《カゼフケバ》。浪可將立跡《ナミカタヽムト》。伺候爾《サモラヒニ》。都多乃細江爾《ツタノホソエニ》。浦隱居《ウラガクリヲリ》。
 
風吹者《カゼフケバ》は、今現に、風發りて吹ばなり、(カゼフカバ〔五字右○〕、と訓てはたがへり、)○浪可將立跡《ナミカタヽムト》は、浪立むかとての意なり、○伺候爾は、サモラヒニ〔五字右○〕と訓べし、伺候《サモラヒ》に居《ヲリ》とつゞく意なり、伺候《サモラヒ》は三(ノ)卷※[覊の馬が奇]旅(ノ)歌に、淡路島磯隱居而《アハヂシマイソガクリヰテ》、何時鴨此夜乃將明跡侍從爾《イツシカモコノヨノアケムトサモラフニ》云々、とある處に具(ク)云り、案に、サモラフ〔四字右○〕は、サ〔右○〕は例の眞《マ》に通ふ辭にて、モラフ〔三字右○〕は、守《モル》の伸りたる言なるべし、七(ノ)卷に、大御舟竟而佐守布《オホミフネハテテサモラフ》とあるを、思(ヒ)合すべし、さてマモル〔三字右○〕と云も、眞守《マモル》にて佐《サ》と云|眞《マ》と云るのみの異にて、もと同言なるべし、集中をおしわたして考(フ)るに、マモル〔三字右○〕と、サモラフ〔四字右○〕とは、大方同じこゝろばえに用ひ(194)たり、(書紀に候風をカゼサモラフ〔六字右○〕と訓、集中七(ノ)卷に、風守《カゼマモリ》とある、これ同意なり、猶此(ノ)類集中に多し、)味(ヒ)見べし、○都多乃細江《ツタノホソエ》(多(ノ)字、類聚抄には太と作り、)は、契冲云(ク)、今飾磨津と云所に、つたのほそえといふ所ありときけど、まことにしからむや、いなやをしらず、○浦隱居(居(ノ)字、舊本に往と作るは、住の誤なるべし、今は元暦本、古寫本、古寫一本、拾穗本等に從つ、)は、ウラガクリヲリ〔七字右○〕と訓べし、さて(居は此は語の終なれば、ヲル〔二字右○〕とこそ訓べきに、ヲリ〔二字右○〕と訓むは、いかにぞやおもふ人もあるべけれど、しからず、)本居氏、居《ヲリ》は有《アリ》と同格に活(ク)用言にて、語の終にても、袁理《ヲリ》と云なり、十六に、波羅門乃《バラモムノ》云々|幡幢爾居《ハタホコニヲリ》、これも古言をよく辨へて、ヲリ〔二字右○〕とは訓たりと云り、古今集小町(カ)歌に、胸走火に心燒をり、土佐日記に、黒鳥と云鳥、岩のうへに集りをり、竹取物語に、女ぬり籠《コメ》の内に、かくや姫をいだかへてをり、翁も塗籠《ヌリコメ》の戸をさして戸口にをり云々、翁これをきゝて、たのもしがりをり云々、うるはしき姿したる使にも、さはらじとねたみをり云云、たゞさしあふぎてなきをり、伊勢物語に、男弓やなぐひを負て戸口にをり、さりともと云云と思ひをり、源氏物語玉葛(ノ)卷に、額に手をあてゝ念じて入てをり、又さらに手をはなたず、をがみ入てをり、大和物語に、くらまと云所にこもりて、いみしうおこなひをり云々、たれしておこせつらむとおもひをり、藤原(ノ)清正集題詞に、網代の上に翁をり、毛詩に維鵲有v巣、維鳩|居《ヲリ》v之、また爰及2姜女1※[肆の旁]來|胥宇《アヒサリ》など、此(ノ)餘にも多し、○歌意は、風がつよく吹ば、浪が荒く立むか(195)とて、都多の細江に舟泊て、浦隱つゝ、其(ノ)浪間をうかゞひてをりとなり、七(ノ)卷に淡海之海浪恐登風守《アフミノミナミカシコシトカゼマモリ》、年者也將經※[手偏+旁]者無二《トシハヤヘナムコグトハナシニ》、とあるに、今の心は似たり、
 
過《スグル》2敏馬浦《ミヌメノウラヲ》1時《トキ》。山部宿禰赤人作歌一首并短歌《ヤマベノスクネアカヒトガヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
敏馬浦《ミヌメノウラ》は、攝津(ノ)國にあり、三(ノ)卷にも往々《トコロ/\》見え、此(ノ)下にも、これかれよめり、
 
946 御食向《ミケムカフ》。淡路乃島二《アハヂノシマニ》。直向《タヾムカフ》。三犬女乃浦能《ミヌメノウラノ》。奥部庭《オキベニハ》。深海松採《フカミルツミ》。浦回庭《ウラミニハ》。名告藻苅《ナノリソ》。深見流乃《フカミルノ》。見卷欲跡《ミマクホシケド》。莫告藻之《ナノリソノ》。己名惜三《オノガナヲシミ》。間使裳《マツカヒモ》。不遣而吾者《ヤラズテアレハ》。生友奈重二《イケリトモナシ》。
 
フ御食向《ミケムカフ》(向(ノ)字、拾穗本に、合と作るは誤なり、)は、枕詞なり、冠辭考に、兩説出せる中、その一に、御食向は、御食に供るものゝ名に冠らせたるか、さるときは、淡路とつゞくは、粟とかゝりて、飯のよしなりといへり、○直向《タヾムカフ》は、淡路島に直樣《スグサマ》に向ふ意なり、○奥部庭《オキベニハ》は、奥は、海庭につきていへるなり、庭《ニハ》は、浦に對へていへる辭なり、○深海松採《フカミルツミ》は、見卷《ミマク》をいはむ料なり、宮内式、諸國例貢御贄(ノ)内に、志摩深海松、又長海松といふ物見えたり、猶品物解にいへり、○浦回庭は、ウラミニハ〔五字右○〕と訓べし、(ウラワ〔三字右○〕、又ウラマ〔三字右○〕など訓むはわろし、)既(ク)具(ク)解り、庭《ニハ》は、奥に對へていへる辭なり、○名告藻苅《ナノリソカリ》は、己名《オノガナ》をいはむ料なり、○見卷欲跡《ミマクホシケド》は、見ま欲き事なれどもの意なり、○間使《マツカヒ》は、字の如く、彼方此方《カナタコナタ》の間に、通ふ使の謂なり、(略解に、をり/\消息する使をいふべし、といへ(196)るはたがへるに似たり、)○生友奈重二《イケルトモナシ》は、生る利心《トコヽロ》も無(シ)と云むが如し、重二は、二二、また並二とかけると同じく、四の義にて、シ〔右○〕の假字とせり、○歌(ノ)意は、本郷人と相見まほしき事なれども、從駕なればさることも叶はず、せめて使をだにやらまほしくおもへど、人の見て、かにかくにいひさわがれむも、しかすがに名の惜ければ、とにもかくにも、心のまゝならずして、生る利心《トコヽロ》もなしとなり、
 
反歌一首《カヘシウタヒトツ》。
 
一首(ノ)二字、古寫小本、拾穗本等にはなし、
 
947 爲間乃海人之《スマノアマノ》。鹽燒衣乃《シホヤキキヌノ》。奈禮名者香《ナレナバカ》。一目母君乎《ヒトヒモキミヲ》。忘而將念《ワスレテオモハム》。
 
本(ノ)二句は、馴《ナレ》といはむとての序なり、○奈禮名者香《ナレナバカ》は近く向(ヒ)居て、馴(レ)たらばかとなり、三(ノ)卷に、須麻乃海人之鹽燒衣乃藤服《スマノアマノシホヤキキヌノフヂコロモ》、間遠之有者未着穢《マドホクシアレバイマダキナレズ》、十二に、大王之鹽燒海部乃藤衣穢者雖爲彌希將見毛《オホキミノシホヤクアマノフヂコロモナレハスレドモイヤメヅラシモ》、などあるに同じ、又十五に、伊毛我伎世弖思奈禮其呂母《†モガキセチシナレゴロモ》、とあるをも思(ヒ)合(ス)べし、○忘而將思《ワスレテオモハム》は忘れむと云意なり、將念《オモハム》は、輕く添たる辭なり、忘て念《オモヘ》やなどの念に同じ、○歌(ノ)意は、君に近く向居て馴(レ)たれば、もし一日ばかりにても、忘るゝ事のあらむかとなり、
〔右作歌。年月未v詳也。但以v類故載2於此次1。〕
 
四年丁卯春正月《ヨトセトイフトシヒノトノウムツキ》。 勅《ミコトノリシテ》2諸王諸臣子等《オホキミタチオミタチニ》1。散2禁《ハナチイマシメタマヘル》於授刀寮(ニ)1時作歌一首并(197)短歌《トキニヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
舊本には、春正月より下、行を放ち書るを、今は古寫本、拾穗本等に從て、直《タヾニ》續《ツヾ》け書り、○勅諸王云々は、續紀に、聖武天皇神龜四年三月甲午、天皇御2南苑1、參議從三位阿陪(ノ)朝臣廣庭宣v勅(ヲ)云、衛府人等、日夜宿2衛闕庭(ニ)1、不v得d輙離2其府1、散c使(スルコト)他處(ニ)u、因賜d五衛府、及授刀寮醫師已下、至2衛士1布u、人(コトニ)有v差、と見ゆ、さて今の正月の事は、續紀には見えざれども、右の制をそむきて、宮中を明て、他處に出遊しによりて、三月に此(ノ)勅ありけるならむ、○散禁は、契冲云、今の世禁足と云なるべし、獄令に、凡禁(セムコト)v囚(ヲ)、死罪(ハ)枷※[木+丑]、婦女及流罪以下(ハ)去《ステヨ》v※[木+丑](ヲ)、其杖罪(ハ)散禁(セヨ)、(謂不v關(ラ)2木索(ニ)1、唯禁(ス)2其出入(ヲ)1也、案(スルニ)2下條(ヲ)1、別(ニ)立(タリ)2不(ル)v脱v巾《カフリヲ》之文(ヲ)1、故(ニ)此條(ノ)散禁以上(ハ)、並皆脱(ク)v巾(ヲ)、)又云犯(セラハ)2徒以上、及除免官當(ヲ)1者※[木+告]禁(セヨ)、公罪(ノ)徒(ハ)並散禁(セヨ)、不(レ)v脱v巾(ヲ)、僧尼令に、如犯(セラハ)2百杖以下(ヲ)1、毎(ニ)2杖十1令v苦2使十日(ヲ)1、若罪不(ラム)v至(ラ)2還俗(ニ)1、及雖v應(シト)2還俗(セシム)1、未2判(リ)訖(ラ)1並散禁(セヨ)、(謂犯2苦使(ヲ)1、已斷(シ)訖(テ)、未(ハ)v付2三綱(ニ)1者散禁(ス)、若未(ハ)v經v斷者、付(ケテ)v寺(ニ)參對(ス)、其應(クシテ)2還俗(セシム)1、判斷已(ニ)訖(リナハ)者、一(ニ)同2俗人之禁法(ニ)1也、)東市司式に、凡市(ノ)裏(ニ)有2凌奪之輩1者、秦任已上(ハ)、准(シテ)v状(ニ)散禁(シテ)請(ヒ)v裁(ヲ)、判任已下(ハ)毎禁(シテ)隨(テ)v犯決罰(セヨ)など見えたり、○授刀寮は、續紀に、慶雲四年七月丙辰、始置2授刀舍人寮(ヲ)1、養老四年三月、加(フ)2右大臣正二位藤原(ノ)朝臣不比等(ニ)、授刀(ノ)資人三十人(ヲ)1、同五年十二月、授刀寮及五衛府云々、六年閏四月陸奥(ノ)按察使(ノ)管内(ノ)百姓云々、其國(ノ)授刀兵衛衛士云々、如v此之類悉皆放(チ)還(シテ)、各從(ハシム)2本色(ニ)1、神龜三年三月、云云及(ヒ)大舍人授刀(ノ)舍人兵衛等(ハ)云々、天平十八年二月、改(メテ)2騎舍人(ヲ)1爲2授刀舍人(ト)1、天平勝寶八歳五月、(198)左衛士(ノ)督坂上(ノ)忌寸犬養、右衛士(ノ)卒鴨(ノ)朝臣虫麻呂云々、其所(ノ)v從(フ)授刀舍人二十人、増2位四等(ヲ)1、秋七月、勅(ス)授刀舍人(ノ)考選賜禄名籍(ハ)者、悉屬中衛府1、其人數(ハ)者、以2四百1爲v限、闕(ケハ)即簡(ヒ)補(セヨ)、但名(ク)2授刀舍人(ト)1、勿(ルコト)v爲2中衛舍人(ト)1、其中衛舍人(モ)亦以2四百(ヲ)1爲(ヨ)限(ト)、天平寶字三年十二月、置2授刀衛(ヲ)1、其官員、督一人從四位上(ノ)官、佐一人正五位上(ノ)官、大尉一人、從六位上(ノ)官、少尉一人五七位上(ノ)官、大志二人從七位下(ノ)官、少志二人正八位下(ノ)官、四年十一月、遣(ハシテ)2授刀舍人春日部(ノ)三關、中衛舍人土師宿禰關成等六人(ヲ)於太宰府(ニ)1、就(テ)2大貳吉備(ノ)朝臣眞備(ニ)1、令v習(ハ)2諸葛亮(カ)八陣、孫子九地及結營向背(ヲ)1、天平神護元年二月甲子、改2授刀衛1爲2近衛府(ト)1、其官員、大將一人(ヲ)爲2正三位(ノ)官(ト)1、中將一人(ヲ)爲2從四位下(ノ)官(ト)1、少將一人(ヲ)爲2正五位下(ノ)官(ト)1、將監四人(ヲ)爲2從六位上(ノ)官(ト)1、將曹四人(ヲ)爲2從七位下(ノ)官(ト)1、左右近衛式に、凡擬2近衛1者、預擇d定(テ)便(ナル)習(ニ)2弓馬(ヲ)1者、入色三十人已下、白丁十人已上(ニ)1、修(シテ)v奏(ヲ)進(レ)2内侍(ニ)1、奏(シ)訖(ハ)即遣(テ)2勅使(ヲ)1試(ヨ)2其才藝(ヲ)1云々、など見ゆ、
 
948 眞葛延《マクズハフ》。春日之山者《カスガノヤマハ》。打靡《ウチナビク》。春去往跡《ハルサリユクト》。山下丹《ヤマノヘニ》。霞田名引《カスミタナビキ》。高圓爾《タカマトニ》。?鳴沼《ウグヒスナキヌ》。物部乃《モノヽフノ》。八十友能壯者《ヤソトモノヲハ》。折木四哭之《カリガネノ》。來繼皆《キツギコノコロ》。石此續《カクツキテ》。常丹有脊者《ツネニアリセバ》。友名目而《トモナメテ》。遊物尾《アソバムモノヲ》。馬名目而《ウマナメテ》。往益里乎《ユカマシサトヲ》。待難丹《マチガテニ》。吾爲春乎《アガセシハルヲ》。缺卷毛《カケマクモ》。綾爾恐《アヤニカシコシ》。言卷毛《イハマクモ》。湯湯敷有跡《ユユシカラムト》。豫《アラカジメ》。兼而知者《カネテシリセバ》。千鳥鳴《チドリナク》。其佐保川丹《ソノサホガハニ》。石二生《イソニオフル》。菅根取而《スガノネトリテ》。之努布草《シヌフクサ》。解除而益乎《ハラヒテマシヲ》。往水丹《ユクミヅニ》。潔而益乎《ミソギテマシヲ》。天皇之《オホキミノ》。御命恐《ミコトカシコミ》。百礒城之《モヽシキノ》。大宮人之《オホミヤヒトノ》。玉桙之《タマホコノ》。道毛不出《ミチニモイデズ》。戀比日《コフルコノゴロ》。
 
(199)眞葛延《マクズハフ》は、葛《クズ》は山野《ヤマヌ》に蔓《ハフ》ものなれはいへるなり、○打靡《ウチナビク》は、春の枕詞なり、○春去往跡《ハルサリユクト》(往(ノ)字舊本住と作るは誤なり、今は古寫本、拾穗本等に從つ、)は、春になり往(ク)とての意なり、去《サリ》と云言(ノ)意は既(ク)一(ノ)卷に具(ク)説り、○八十友能壯者《ヤソトモノヲハ》(壯(ノ)字、拾穗本に、牡と作るはわろし、)は、數々の伴緒《トモノヲ》はといふなり、○折木四哭之云々(折(ノ)字、古寫本には打、活字本には柳、木(ノ)字、拾穗本には不、哭(ノ)字、同本には喪と作り、)は、契冲云(ク)、此(ノ)三句をば、カリガネノキツギテミナシコヽニツギ〔カリ〜右○〕とよむべし、第十に、かりがね聞ゆといふに、切木四之泣所聞、とかけると、今と同じ、ともに四(ノ)字は意得がたけれど、祈木切木は、同じく苅と云ふ心に、鴈に用たるべし、惣じて鴈は友をしたしみこふるものなれば、そのごとく、おもふどちみなきたりつぎて、此の所につぎてたえせず、常にありせばとつゞけたり、ミナシ〔三字右○〕のシ〔右○〕は助辭なり、正月の歌なれば、鴈のかへるころなるに、わたりくる時の心は、かなはずやと難ずる人あらむ、これは只友だちのおもひあへるを、鴈によせていふなり、時分にかゝはるべからず、(已上契冲(ノ)説なり、カリガネノ〔五字右○〕と訓み出たるは、こよなく宜し、次の二句の訓は、なほあたらず、)さて略解に、或説を載て云るやう、折は斷(ノ)字の誤なり、孟莊子に、造v鋸截2斷木1器と有、四は器(ノ)字の誤なるべし、鋸の音かり/\ときこゆれば、斷木器を、カリ〔二字右○〕に用たるならむと云り、さもあらむ、かくて本居氏の説に、皆は、比(ノ)日二字を一字に誤、石は如の誤にて、來繼比日加此續はキツギコノゴロカクツギテ〔キツ〜右○〕と訓べし、さて意は、雁が音の(200)は、來繼といはむ料にて、來繼は、春の來繼て、此(ノ)比のごとく、かくつゞきて、常に、春なりせばといふなり、さて八十友能壯者《ヤソトモノヲハ》と云は、友名目而《トモナメテ》へかゝれりと云り、○友名目而《トモナメテ》は、數々の友を並(ヘ)てといふなり、○馬名目而《ウマナメテ》は、數々の馬を騎(リ)並べての意なり、此(ノ)上に見ゆ、○往益里乎《ユカマシサトヲ》は、往まし里なるものをの意なり、さて初(メ)より此までの意を、とりすべていはゞ、春になりゆくとて、春日山に霞立?鳴て、面白き時節《トキ》に至《ナ》りぬるを、春の來つぐ此ころのごとく、かくつゞきて常に春なりせば、數々の伴(ノ)緒は、思ふ其《ドチ》手をとりかはし、馬を乘並べて往つゝ、あそびあるかまし里なるものを、此(ノ)比のごとく、かくつゞきて、いつも常に春にあらず、春はたゞ一時にて、夏秋冬と移變《ウツリカハ》りゆくならひなれば、節《トキ》いたらむことを、偏に戀慕ひつゝ、待難丹吾爲春乎《マチガテニアガセシハルヲ》と謂《イフ》なり、されば此間に、此ごろのごとく、つゞきて、常にあらねばと云意を、假に加《ソヘ》て聞べきところなり、○吾爲春乎は、アガセシハルヲ〔七字右○〕と訓べし、○缺卷毛《カケマクモ》、(缺(ノ)字、舊本には决とあり、今は古寫小本に從つ、契冲も、决は缺の字の誤なるべしと云り、但和名抄に、毛詩(ノ)註(ニ)云、〓(ハ)抉也、訓|由美加介《ユミカケ》、と見え、字鏡には、〓(ハ)决也、弓加介《ユミカケ》、と見えて、この弓加介《ユミカケ》を、今も加介《カケ》とのみもいへば、その義にて加决《カケ》に决(ノ)字を用たるにもあらむか、又按に、家語に、孔子曰、夫自損者必有v益之、自益必者有v決之、これによれば、决決同字にて、カク〔二字右○〕と訓べきか、)决は、挂の借(リ)字なり、四(ノ)卷に鹿※[者/火]藻闕二毛《カニモカクニモ》、と書る類なり、一(ノ)卷に、挂文忌之伎鴨《カケマクモユヽシキカモ》、とあり、○湯湯敷有跡《ユユシカラムト》云々は、かく散禁にあひて、(201)忌憚《ユヽ》しき目を見む、と兼てより知てあらばの意なり、○豫兼而知者《アラカジメカネテシリセバ》は、俗に前かどに知たらば、と云意なり、豫《アラカジメ》は、上にあまた出たり、さて豫《アラカジメ》も兼《カネ》も、同意の言なるに、かく重ね云るは、後の物語書などに、いといたうなど重ね云る類なり、○千鳥鳴《チドリナク》は、佐保川は、千鳥の名所なれば云るなり、四(ノ)卷に、千鳥鳴佐保乃河瀬之小浪《チドリナクサホノカハセノサヾレナミ》、また千鳥鳴佐保乃河門乃《チドリナクサホノカハトノ》、また千鳥鳴佐保乃河門之清瀬乎《チドリナクサホノカハトノキヨキセヲ》、また三(ノ)卷に、飫海乃河原之乳鳥汝鳴者《オウノウミノカハラノチドリナガナケバ》、吾佐保河乃所念國《ワガサホカハノオモホユラクニ》、七(ノ)卷に、佐保河之清河原爾鳴千鳥《サホガハノキヨキカハラニナクチドリ》、また佐保河爾小驟千鳥《サホカハニサヲドルチドリ》、また佐保河爾鳴成智鳥《サホカハニナクナルチドリ》、廿(ノ)卷に、由布義理爾知杼里乃奈吉志佐保治乎婆《ユフギリニチドリノナキシサホヂヲバ》、など見えたり、○石二生《イソニオフル》云々は、河中の石に生着たる菅を云、七(ノ)卷に、橋立倉椅川河靜菅《ハシダテノクラハシガハノカハノシヅスゲ》、余刈笠裳不編川靜菅《アレカリテカサニモアマズカハノシヅスゲ》、とあるも、靜菅《シヅスゲ》は、靜は借(リ)字、石着《シヅ》菅にて、同じく水草の菅なるべし、○菅根取而《スゲノネトリテ》は、古(ヘ)の祓のわざなり、そも/\菅を祓に用るは其菅(ノ)葉を細に割て、塵を拂ひ穢を放る料なり、故(レ)須宜《スゲ》といふは、即|令《セ》v清《スガ》といふ義にて、負せたる名なり、(賀勢《ガセ》は、宜《ゲ》と切れり、)塵穢を拂放て、清清《スガスガ》しからしむるよしなり、清きことを須賀《スガ》と云は、古言なり、さて菅(ノ)葉を割て、祓に用ひしことは、大祓祝詞に、天津菅曾乎《アマツスガソヲ》、本苅斷末刈切?《モトカリタチスヱカリキリテ》、八※[金+土]爾取辟?《ヤハリニトリサキテ》、天津祝詞乃太祝詞事乎宣禮《アマツノリトノフトノリトコトヲノレ》、神樂歌に、奈加止美乃古須氣乎佐紀波良比《ナカトミノコスゲヲサキハラヒ》云々、などあるにて、そのさま明かなり、次に引三(ノ)卷に、七相菅云々とあるも同じ、さてこの菅《スゲ》を、菅根《スガノネ》、菅曾《スガソ》、菅原《スガハラ》などいふときは、須賀《スガ》と云は、天《アメ》を、天原《アメノハラ》、天津神《アマツカミ》など云ときは、阿麻《アマ》と同例にて、第四位の言を、第一位の言(202)に轉したるのみなり、故(レ)菅は令《セ》v清《スガ》の義にて、須宜《スゲ》といふが本なるをおもへ、○之努布草《シヌフクサ》は、草《クサ》は種《クサ》なり、春野を慕《シノ》ふ思ひ種《グサ》の意なり、初より其(ノ)思ひ種《グサ》を、解《ハヲ》ひ除《ステ》て有ましかば、かく慕《シノ》ふに堪かねて、宮中をみだりに退出《マカデ》たる罪によりて、この散禁にはあはざらましを、豫(シメ)さあらむとも知(ラ)ずて、かゝるゆゝしき目をみるよと悔る意と聞ゆ、○解除而益乎は、ハラヒテマシヲ〔七字右○〕と訓べし、(ハラヘ〔三字右○〕と訓はいとわろし、)○潔而益乎《ミソギテマシヲ》(潔(ノ)字、拾穗本には、禊と作り、)は、三(ノ)卷石田(ノ)王(ノ)卒之時、丹生(ノ)女王(ノ)作(ル)歌に、天有左佐羅能小野之《アメナルササラノヲヌノ》、七相菅手取持而《イハヒスゲテニトリモチテ》、久堅乃天川原爾出立而潔身而麻之乎《ヒサカタノアマノガハラニイデタチテミソギテマシヲ》云々、(七相は、石相の誤にて、イハヒ〔三字右○〕なり)と見えたり、潔《ミソギ》は、身滌《ミソヽギ》なり、猶彼處に具(ク)註り、四(ノ)卷にも、君爾因《キミニヨリ》云々|明日香乃河爾潔身爲爾去《アスカノカハニミソギシニユク》、とよめり、○天皇は、天(ノ)字は决《ウツナ》く、大の誤寫なりオホキミ〔四字右○〕と訓べし、なほこの事、一(ノ)卷(ノ)中に具(ク)辨おけり、披(キ)見て考(フ)べし、○玉桙之《タマホコノ》(桙(ノ)字、拾穗本には鉾と作り、)は、枕詞なり、既(ク)出づ、○道毛不出戀比日《ミチニモイデズコフルコノゴロ》は、散禁にあひて、妄(リ)に道路《ミチ》に出ることだに得ずして、野遊のさまをおもひやり、戀慕ひをるこの頃ぞと云るなり、
 
反歌一首《カヘシウタヒトツ》。
 
一首(ノ)二字、古寫小本、拾穗本等にはなし、
 
949 梅柳《ウメヤナギ》。過良久惜《スグラクヲシミ》。佐保乃内爾《サホノウチニ》。遊事乎《アソビシコトヲ》。宮動動爾《ミヤモトドロニ》。
 
佐保乃内《サホノウチ》は、大和(ノ)國佐保(ノ)地の内といふなり、十(ノ)卷に、猿帆之内敝《サホノウチヘ》、又|沙穗内之《サホノウチノ》、十一に、佐保乃内(203)從《サホノウチユ》、十七に、佐保能宇知乃里乎往過《サホノウチノサトヲユキスギ》、など見えたり、○宮動動爾《ミヤモトドロニ》(一(ツ)の動(ノ)字、元暦本にはなし、)は、十八に、左夫流兒我伊都伎之等能爾須受可氣奴《サブルコガイツキシトノニスズカケヌ》、波由麻久太禮利佐刀毛等騰呂爾《ハユマクダレリサトモトドロニ》、とよめるに同じ意なり、十一に、幾多毛《コヽダクモ》云々|三名乃幾許瀧毛動響二《ミナノコヽダクタギモトヾロニ》、ともよめり、○歌(ノ)意は、梅柳のをりの、いたづらに過なむことを惜みて、佐保の内へ出て遊びしことを、宮(ノ)中とよみていひさわがれつゝ、散禁の罸にあひてをるが、いぶせしとなり、
〔右神龜四年正月。數王子及諸臣子等。集2於春日野(ニ)1。而作2打毬之楽(ヲ)1。其日忽天陰雨 雷電。此時宮中無2侍從及侍衛1。勅行2刑罸1。皆散2禁於授刀寮(ニ)1。而妄不(シメタマフ)v得v出2道路(ニ)1。于v時悒憤即作2斯歌1。作者未詳〕
打毬は、和名抄に、唐韻(ニ)云(ク)、毬(ハ)毛(ヲ)丸(メテ)打者也、劉向(カ)別録(ニ)云、打毬(ハ)、昔黄帝(ノ)所v造、本因2兵勢(ニ)1而爲(ル)v之(ヲ)、打毬(ハ)、内典(ニ)、或(ハ)謂2之拍※[毛+菊](ト)1、師説(ニ)云(ク)、萬利宇知《マリウチ》、又云毬杖(ハ)、辨色立成(ニ)云(ク)、骨※[手偏+過](ハ)、打毬(ノ)曲杖也、(又云、傅玄(カ)彈棊(ノ)賦(ノ)序(ニ)云、漢(ノ)成帝好(ム)2蹴鞠(ヲ)1。公羊傳註(ニ)云、蹴鞠(ハ)以v足逆(ニ)蹈也、世間(ニ)云2末利古由《マリコユト》1、本居氏云、未刊古由《マリコユ》、とあるは、言の活用違へり、書紀に、蹴散此云2倶穢簸邏邏箇須《クヱハララカスト》1と有は、倶穢《クヱ》は、和葦宇惠《ワヰウヱ》にて活用言にて、久宇《クウ》とこそ云べけれ、)皇極天皇(ノ)紀に、中臣(ノ)鎌子(ノ)連云々、偶(ニ)預《マジリテ》2中(チ)大兄(ニ)於法興寺(ノ)槻(ノ)樹之下|打毬《クヱマリ》之侶1、而|候《マモリテ》2皮鞋《ミクツノ》隨《マヽニ》v※[毛+菊]脱落《マリノヌケオツルヲ》1、取(リ)2置(キ)掌中《タナウラニ》1前跪《スヽミヒザマヅキテ》、恭(テ)奉(ル)2中(チ)大兄(ニ)1、(契冲云、和名抄に云るは、打樋と蹴鞠
と異なり、曰本紀は、打※[毛+菊]がすなはち蹴鞠なれば、和名の説と違へり、いづれ是非なることをしらず、)○電(ノ)字、活字本には无(シ)、○侍從(ノ)侍(ノ)字、舊本に待と作るは誤なり、今は類聚抄、古寫本、古寫(204)一本、古寫小本、拾穗本等に從つ、○刀(ノ)字、舊本に力と作るは誤なり、今は古寫小本に從つ、
 
五年戊辰《イツトセトイフトシツチノエタツ》。幸《イデマセル》2于難波宮《ナニハノミヤニ》1時作歌四首《トキヨメルウタヨツ》。
 
舊本には、幸(ノ)字より下、行を放ちて書り、今は拾穗本に從て、續け書り、○幸2于難波(ノ)宮1時、(難(ノ)字、舊本には難と作り、今は拾穗本に從つ、時(ノ)字、舊本には脱たり、目録又類聚抄、古寫本、拾穗本等に從つ、)この幸の事續紀には見えず、○左(ノ)歌四首は相聞なり、このあたり錯亂あるにや、
 
950 大王之《オホキミノ》。界賜跡《サカヒタマフト》。山守居《ヤマモリスヱ》。守云山爾《モルチフヤマニ》。不入者不止《イラズハヤマジ》。
 
界賜跡《サカヒタマフト》は、山の界を立させ賜ふとて、と云意なり、界は、坂合《サカアヒ》の義にてサカフ〔三字右○〕ともサカヘ〔三字右○〕とも、活用(ク)言なれば、此には用言につかひたり、○歌(ノ)意は、大皇の界を立させ賜ふとて、山守を居置せ賜ひて、守と云山は、甚嚴重なれど、終に其(ノ)山に入ずしては止じとなり、此(ノ)歌は、母の守る女などを、戀てよめる譬喩《タトヘ》歌なり、
 
951 見渡者《ミワタセバ》。近物可良《チカキモノカラ》。石隱《イソガクリ》。加我欲布珠乎《カガヨフタマヲ》。不取不已《トラズハヤマジ》。
 
近物可良《チカキモノカラ》は、近き物なるをの意なり、(俗に、近きものぢやに、といふが如し、)○加我欲布球《カガヨフタマ》とは、
 
鰒珠を云べし、加我欲布《カガヨフ》は、光耀《カヾヤク》を云、十一に、燈之陰爾蚊峨欲布虚蝉之《トモシビノカゲニカガヨフウツセミノ》、妹蛾咲状思面影爾所見《イモガヱマヒシオモカゲニミユ》、とあるに同じ、○歌(ノ)意は、見わたせば、其(ノ)光は著《イチジル》く、目に近く耀《カヾヤ》くものを、たとひ石に隱れて其(ノ)形は見えずとも、終にその鰒珠を、手に取ずしては止じとなり、此は鰒珠の石に隱れて見(205)えねども、其(ノ)光は目に近く耀くを、近く居て逢がたき女に、譬喩《タトヘ》たる歌なり、
 
952 韓衣《カラコロモ》。服楢乃里之《キナラノサトノ》。島待爾《キミマツニ》。玉乎師付牟《タマヲシツケム》。好人欲得《ヨキヒトモガモ》。
 
第一二(ノ)句は、契冲が、衣《コロモ》を着ならすといふ心に、奈良の里とつゞけたるなり、いそのかみ袖ふる川、をとめらが袖ふる山、とのぐもり雨ふる川などつゞけたるに同じ、と云るがごとし、(夫木集に、松ならぬ柳の枝も玉付て着なれの里に春雨ぞふる、とあるは、今の歌に本づけるにて、着なれの里てふ地(ノ)名、とこゝろえし、ひがことなり、)十二に戀衣着楢乃山《カラコロモキナラノヤマ》、ともよめり、戀(ノ)字は、辛の誤にて、今と同じ、○島待爾、(契冲が、島は、奈良のあたりの所の名ときこゆ、第五に、ならぢなるしまのこだちもかむさびにけり、とよめる所なるべきよしいへれど、あらず、)島(ノ)字は、君の誤にて、キミマツニ〔五字右○〕と訓べしと云説、さもあるべし、待は借(リ)字松なり、此(ノ)下にも、吾屋戸乃君松樹爾《ワガヤドノキミマツノキニ》、とよめり、○師《シ》は、例のその一(ト)すぢなることを、おもく思はする助辭なり、○歌(ノ)意は、奈良の里なる、松(ノ)樹に玉をさへ貫《ツラヌ》き着《ツケ》て愛賞《メデ》む、よき人もがなあれかしと云るにて、奈良の里なる美麗女《クハシメ》を見て、其を良(キ)人に愛させまほしく、おもへる意にや、(本居氏は、好は取の誤にて、尾句は、トラムヒトモガ〔七字右○〕と訓べしといへれども、きこえがたし、)
 
953 竿牡鹿之《サヲシカノ》。鳴奈流山乎《ナクナルヤマヲ》。越將去《コエユカム》。日谷八君《ヒダニヤキミニ》。當不相將有《ハタアハザラム》。
 
當不相將有《ハタアハザラム》、(元暦本には、當(ノ)字なくてアハズシテアラム〔八字右○〕、とよみたれど、今案(フ)によろしからず、(206)當《ハタ》は、そのもと、心に欲《ネガ》ふことならねど、外にすべきすぢなくて、止ことなくするをいふ詞なり、なほ一(ノ)卷に、見吉野乃《ミヨシヌノ》云々|爲當也今夜毛我獨宿牟《ハタヤコヨヒモアガヒトリネム》、とある處に、具(ク)註るが如し、○歌(ノ)意は、常に相見まほしき君なれば、別(レ)に臨て、しばし相見て去《ユカ》むは、そのもと心に欲ふことならず、されど常に相見ること叶はざれば、止ことなく、別るゝ日になりとも相見たらば、すこしは心のなぐさむ方もあるべきに、牡鹿の鳴さびしき秋山を、越去む別れに臨て、その日にさへ得あはずして行むか、と云なるべし、此歌は、秋のころ旅行むとするに、あふべかる人に障《サハル》ことありて、得あふまじきにつきてよめるなるべし、
〔右笠朝臣金村之歌中出也。或云。車持朝臣千年作之也。〕
歌の下、集(ノ)字あるべきが脱たるなり、○右四首、金村(ノ)歌集に出たれば、金村(ガ)作か、千年とせるは、或説なるを、目録に、おして千年作と書せるは、後人の所爲《シワザ》なり、
 
膳王歌一首《カシハデノオホキミノウタヒトツ》。
 
膳王は、三(ノ)卷に膳部(ノ)王とあると、同王なるべし、此には部(ノ)字を落せるか、續紀には、勝夫(ノ)王とあり、勝夫(ノ)王は、長屋(ノ)王の子、高市(ノ)皇子(ノ)尊の孫にて、既(ク)三(ノ)卷に註せり、
 
954 朝波《アシタニハ》。海邊爾安左里爲《ウミヘニアサリシ》。暮去者《ユフサレバ》。倭部越《ヤマトヘコユル》。雁四乏母《カリシトモシモ》。
 
海邊は、ウミヘ〔三字右○〕訓べし、(ウナヒ〔三字右○〕と訓たるは、大《イミ》じき誤なり、凡て海邊を、ウナビ〔三字右○〕と云ること、古(ヘ)(207)あることなし、)既(ク)二(ノ)卷に具(ク)註せるが如し、○倭部越《ヤマトヘコユル》、(越(ノ)元暦本には、超と作り、)部は、邊の意にはあらず、物へ行など云(フ)ヘ〔右○〕なり、(但し略解に、部はエ〔右○〕の如く唱ふべし、と云るは、甚非なり、凡てハヒフヘホ〔五字右○〕の言を、ワヰイウヱエヲ〔七字右○〕の如く唱るは、後の音便にこそあれ、古(ヘ)は皆いづれも、正しき音に唱へしなり、古義に深く通《トホ》らずして、後の意もて、古書を註《トカ》むとするは、中々のものそこなひ守りけり、)十(ノ)卷に秋風爾山跡部越鴈鳴者《アキカゼニヤマトヘコユルカリガネハ》云々、とあるに同じ、○鴈四乏母《カリシトモシモ》は、鴈が一(ト)すぢに、さてもうらやましやの意なり、四《シ》は、例の其(ノ)一(ト)すぢなることを、おもくおもはする助辭なり、母《モ》は、歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、旅に在ほど、倭の方へ飛越る鴈を羨《ウラヤミ》て、よまれたる歌なり、
〔右作歌之年月不審也。但以2歌類1便載2此次1。〕
月(ノ)字、舊本に脱たり、今は或本に從つ、
 
太宰少貳石川朝臣足人歌一首《オホミコトモチノスナキスケイシカハノアソミタリヒトガウタヒトツ》
 
955 刺竹之《サスダケノ》。大宮人乃《オホミヤヒトノ》。家跡住《イヘトスム》。佐保能山乎者《サホノヤマヲバ》。思哉毛君《オモフヤモキミ》。
 
刺竹之《サスダケノ》は、枕詞なり、この詞は、まづ書紀聖徳太子(ノ)御歌に、佐須陀氣能枳彌波夜那祇《サスダケノキミハヤナキ》、とあるが、この枕詞の古く見えたるかぎりなれば、まづそれにつきていふべし、抑、佐須竹《サスダケ》といふこと、甚心得がてなるにつきて、(この佐須竹《サスタケ》を、立竹《タツタケ》の意とするは大《イミジキ》誤《ヒガゴト》なり、八雲立《ヤクモタツ》を、八雲刺《ヤクモサス》と(208)いへる例もあれば、立《タツ》を刺《サス》とも通(ハ)し云べきことぞ、と思ふ人もあるべけれど、もし其意ならば、竹《タケ》の多《タ》を清べきを、古書みな、陀太等の字を書て、太は濁音なれば、必立(ツ)竹の意ならぬを知べし、もし又|立竹《タチタケ》の意ならむとせば、佐斯竹《サシタケ》といふべし、しかならむには、太の言を濁らむも、謂あることなるをや、)つら/\按ふに、黍《キミ》の別名《マタノナ》にて、其|源《モト》は其|幹《カラ》を佐須竹《サスダケ》といひ、其實を黄實《キミ》と稱《イヒ》しより起《ハジマ》れる名にや、とおもはるゝなり、さるは黍の幹は、竹に能似たるものなれば、竹とはいふべし、今(ノ)俗にも、※[草がんむり/襄]荷《メガ》の幹を※[草がんむり/襄]荷竹《メウガダケ》、甘蔗を砂糖竹《サトウダケ》などいふめるをも思ふべし、さてつねの竹は、幹中の虚《ス》の廣きものなるに、黍は幹中に肉《ミ》ありて、虚《ス》の窄《セマ》り合たるによりて、狹虚竹《サスダケ》と云るにやとぞおもはるゝ、しか思ひよれるよしは、十一に刺竹齒隱有《サスダケノハゴモリテアレ》、とあるは、世のつねの竹としては、いさゝか心ゆかず、黍はこよなく葉長く、大やう其(ノ)幹の葉に隱るゝものなるによりて、狹虚竹《サスダケ》といへるは即(チ)黍の幹のことにして、其(ノ)幹の葉に隱るゝをもて、葉隱《ハゴモル》といひつゞけしにこそ、とおぼえたり、なほくはしきことは、十一にいたりて、彼(ノ)歌の下に云るを、考(ヘ)合(ス)べし、かくて狹虚竹《サスダケ》の黍《キミ》といふ謂《ヨシ》にて、君《キミ》の枕詞としたるより轉りて、佐須竹之《サスダケノ》とて、皇子《ミコ》とつゞけ、(二(ノ)卷長歌の一本に、刺竹之皇子《サスダケノミコ》といへること、二ところ見えたり、)再《マタ》轉りて、君の座(ス)大宮《オホミヤ》といふ意に、此《コヽ》には大宮《オホミヤ》とつゞけたり、(此《コヽ》の如く大宮《オホミヤ》とつゞけたること、此(ノ)下にも二首あり、又十五にも見えたり、)又さらに轉りて大宮《オホミヤ》の舍人《トネリ》といふ意に舍人《トネリ》ともつゞけ(209)たるなり、(十六に見ゆ、)足引之《アシヒキノ》は、山の枕詞なるが轉りて、石《イハ》とも木《キ》とも山下風《アラシ》ともつゞくると、同じ例なり、○家跡住《イヘトスム》は、家として住の意なり、○思哉毛君《オモフヤモキミ》は、毛《モ》は、歎の意をふくめる辭なり、君《キミ》は君《キミ》よといはむがごとし、思ひ給ふや、いかに君よ、といふ意なり、君とは、旅人(ノ)卿をさして云り、○歌(ノ)意かくれなじ、此は大伴(ノ)卿の家、佐保にありければ、かくよめるなり、三(ノ)卷防人(ノ)司(ノ)祐大伴(ノ)四繩が、旅人(ノ)卿へ贈れる歌に、藤浪之花者盛爾成來《フヂナミノハナハサカリニナリニケリ》、平城京乎御念八君《ナラノミヤコヲオモホスヤキミ》、とあるは、今と似たり、
 
帥大伴卿和歌一首《カミオホトモノマヘツキミノコタヘタマヘルウタヒトツ》。
 
956 八隅知之《ヤスミシシ》。吾大王乃《ワカオホキミノ》。御食國者《ヲスクニハ》。日本毛此間毛《ヤマトモココモ》。同登曾念《オヤジトソモフ》。
 
歌(ノ)意は、吾大王の所知食國中《シロシヲスクニウチ》のことなれば、大和(ノ)國も、此太宰府も同じことぞと思へば、さのみ本郷戀しくは思はずとなり、
 
冬十一月《シモツキ》。太宰官人等《オホミコトモチノツカサヒトラ》。奉《マツリ》v拜《ヲロガミ》香椎《カシヒノ》廟(ヲ)1訖退歸之時《ヲヘテマカレルトキ》。馬2駐《ウマトヾメテ》于|香椎浦《カシヒノウラニ》1。各述《オノモ/\ノベテ》v懷《オモヒヲ》作歌《ヨメルウタ》。
 
香椎(ノ)廟、(椎(ノ)字舊本に、推と作るは誤なり、今は拾穗本に從つ、次なるも同じ、香椎は和名抄に、筑前(ノ)國糟屋(ノ)郡香椎(ハ)加須比《ハカスヒ》とあり、(志《シ》を須《ス》と云るは、後の轉訛なり)古事記に、帶中日子(ノ)天皇、坐2穴門之豐浦(ノ)宮、及筑紫(ノ)※[言+可]志比(ノ)宮(ニ)1、治2天下1也、仲哀天皇紀に、八年春正月己卯朔己亥、到2儺(ノ)縣1、因以居(マス)2(210)橿日(ノ)宮(ニ)、神功皇后(ノ)紀卷初に、足仲彦(ノ)天皇九年春二月、足仲彦(ノ)天皇、崩2於筑紫(ノ)橿日(ノ)宮(ニ)1、三月壬申朔戊子、皇后欲v撃2熊鷲(ヲ)1、而自2橿日(ノ)宮1※[しんにょう+千]2于松峽(ノ)宮(ニ)1云々、後紀(古本)三十に、弘仁元年十二月壬午云々、奉2幣帛(ヲ)於八幡大神宮樫日(ノ)廟(ニ)1、賽2靜亂之?(ヲ)1也、筑前國風土記に、到2筑紫(ニ)1、例先參2謁于※[加/可]襲(ノ)宮(ニ)1、※[加/可]襲(ハ)可襲比《カシヒ》也、さて其(ノ)廟は、今も香椎(ノ)村にありと云り、續紀廿二に、遣(テ)2太宰(ノ)帥三品船(ノ)親王(ヲ)於香椎(ノ)廟(ニ)1、奏(サシム)d應v伐2新羅(ヲ)1之状(ヲ)u、廿四に、奉(シム)2幣(ヲ)于香椎(ノ)廟(ニ)1、以爲v征2新羅1也、とある趣によりて考(フ)るに、神功皇后をいはひ奉れるなるべし、兵範記にも、香椎大多羅志姫(ノ)宮とあり、式部式に、凡諸(ノ)神宮(ノ)司、并橿日(ノ)廟(ノ)司(ハ)、以2六年(ヲ)1爲2秩限(ト)1、また凡橿日(ノ)廟宮舍人一人、大臣武内(ノ)宿禰資人一人、預(レ)2得考之例(ニ)1、と見えたり、(さて香椎をば、神社と申さずして、古書に廟とのみ有て、神名帳にも載(セ)られざるを思ふに、神功皇后の新羅を征《コトム》け賜ひし後、三(ノ)韓固、ひたぶるに、服從ひ參來し御代に、彼(ノ)國より、此(ノ)皇后の御靈を奉齋《イハヒマツ》れる宮にやあらむ、されば皇國の凡ての神社の例に非ず、異國より奉齋れる宮なるが故に、其例を別むために、廟とは號け奉り賜へるにやあらむ、と本居氏いへり、)〔頭註、【通證、拾芥抄曰、承保四年、公卿宣曰、香椎社、或稱2神功皇后廟1、或稱2仲哀天皇廟1、無2一定1、今按、式部式曰、凡諸神宮司、并橿日廟司、以2六年1爲2秩限1、据v此則橿日稱v廟不v爲2神社1、故神名帳不v載v之、但豊前國宇佐郡、云2大帶姫廟神社1、蓋自2此廟1遷祭以爲2神社1也、兵範記曰、香椎大多羅志姫宮、貝原氏曰、式外香椎宮在2香椎村1、所v祭之神一座、神功皇后、相殿、左八幡大神、右住吉大神】〕○香椎(ノ)浦は、神宮皇后(ノ)紀に、橿日浦《カシヒノウラ》と見えたり、
 
帥大伴卿歌一首《カミオホトモノマヘツキミノウタヒトツ》。
 
(211)957 去來兒等《イザコドモ》。香椎乃滷爾《カシヒノカタニ》。白妙之《シロタヘノ》。袖左倍所沾而《ソデサヘヌレテ》。朝菜採手六《アサナツミテム》。
 
大貳小野老朝臣歌一首《オホキスケヲヌノオユノアソミガウタヒトツ》。
 
小野(ノ)老の傳は三(ノ)卷に委(ク)云り、
 
958 時風《トキツカゼ》。應吹成奴《フクベクナリヌ》。香椎滷《カシヒガタ》。潮干※[さんずい+内]爾《シホヒノウラニ》。玉藻苅而名《タマモカリテナ》。
 
豐前守宇奴首男人歌一首《トヨクニノミチノクチノカミウヌノオビトヲヒトガウタヒトツ》。
 
男人は、政事要略廿二に、舊記(ニ)云(ク)、養老四年、大隅日向、兩國隼人發v亂(ヲ)、勅(シテ)以2豐前(ノ)守宇努首男人(ヲ)1、爲2將軍(ト)1、祈2八幡大神(ニ)1伐v之、多殺2隼人(ヲ)1大勝之、於是爲2放生會(ヲ)1報2神恩(ニ)1、と見えたり、姓氏録に、宇努(ノ)首(ハ)、百濟(ノ)國君男、〓奈曾富意〓之《ミナソホオミノ》後也(〓は彌なるべし、)とあり、
 
(212)959 往還《ユキカヘリ》。常爾我見之《ツネニアガミシ》。香椎滷《カシヒガタ》。從明日後爾波《アスユノチニハ》。見縁母奈思《ミムヨシモナシ》。
 
歌(ノ)意は、いくたびも、往かへり往かへりしつゝ、見れども見足《ミアカ》ず、おもしろき香椎潟なるを、明日よりは、任國にかへりゆきて後は、見べき縁もなしと思ふが、殘多しとな、
 
帥大伴卿《カミオホトモノマヘツキミノ》。遙2思《シヌヒテ》芳野離宮《ヨシヌノトツミヤヲ》1作歌一首《ヨミタマヘルウタヒトツ》。
 
960 隼人乃《ハヤヒトノ》。湍門乃磐母《セトノイハホモ》。年魚走《アユハシル》。芳野之瀧爾《ヨシヌノタキニ》。尚不及家里《ナホシカズケリ》。
 
隼人《ハヤヒト》は、國(ノ)名なり、三(ノ)卷に、隼人乃薩摩乃迫門乎《ハヤヒトノサツマノセトヲ》云々、とある歌につきて具(ク)註《いへ》り、○湍門乃磐《ヤトノイハホ》、(磐(ノ)字、舊本には、盤と作り、康煕字典に、成公綏嘯賦(ニ)、坐2盤石1、註(ニ)盤(ハ)大石也、とあるからは、から國にても、後(ノ)世は、磐盤通(ハシ)用(ヒ)けるにや、今は類聚抄、古寫一本、古寫小本等に、磐とあるに從つ、)湍門《セト》は、薩摩(ノ)國出水(ノ)郡の郷(ノ)名なり、此(レ)も三(ノ)卷に註《イヘ》り、○尚不及家里《ナホシカズケリ》は、猶如ずありけり、と云むが如し、受家利《ズケリ》と云るは、古言なり、猶三(ノ)卷に既(ク)委(ク)云り、三(ノ)卷に、尚不如來《ナホシカズケリ》、七(ノ)卷に、尚不如家里《ナホシカズケリ》、八(ノ)卷に尚不如家里《ナホシカズケリ》、十二に、猶不如家利《ナホシカズケリ》、などあるみな同じ、○歌(ノ)意は、薩摩の湍門の磐のけしきは、いとおもしろけれども、本郷近き吉野の瀧のめでたきには、なほ如ずありけりとなり、薩摩は、太宰の所部《スブルウチ》の國なれば、香椎(ノ)廟より歸らるゝついでに、行て見られしなるべし、
 
帥大伴卿《カミオホトモノマヘツキミノ》。宿《ヤドリテ》2次田温泉《スキタノユニ》1。聞《キヽテ》2鶴喧《タツガネヲ》1作歌一首《ヨミタマヘルウタヒトツ》。
 
次田《スキタ》は、和名抄に、筑前(ノ)國御笠(ノ)郡|次田《スキタ》とあり、古今集詞書に、源のさねが、筑紫へ湯あみむとて(213)まかりける時に云々、竹取物語に、くらもちの御子は、心たばかりある人にて、おほやけには、筑紫の國に湯あみにまからむとて、いとま申して云々、などある、皆次田(ノ)温泉なるべし、散木集に、わざの事はてゝ歸りけるに、すい田の湯のむかひに着ければ、立よりてあみむとはなけれど、足などをすゝぎて、ついでによめる、悲しさの涙と共にわきかへるゆゝしきことをあみてこそくれ、とあり、
 
961 湯原爾《ユノハラニ》。鳴蘆多頭者《ナクアシタヅハ》。如吾《アガゴトク》。妹爾戀哉《イモニコフレヤ》。時不定鳴《トキワカズナク》。
 
天平二年庚午《テムヒヤウフタトセトイフトシカノエウマ》。勅《ミコトノリシテ》遣《ツカハセル》d擢《エラブ》2駿馬《トキウマヲ》1使大伴道足宿禰《ツカヒオホトモノチタリノスクネヲ》u時歌一首《トキノウタヒトツ》。
 
舊本には勅(ノ)字より下、行を放ちて書り、今は元暦本、古寫小本、拾穗本等に從て、續け書り、○擢駿馬使は、トキウマヲエラブツカヒ〔トキ〜右○〕と訓べし、臨時の勅使なり、駿は和名抄に、穆天子傳(ニ)云、駿(ハ)馬之美稱也、漢語抄(ニ)云、土岐宇萬《トキウマ》、日本紀私記(ニ)云、須久禮太留宇萬《スグレタルウマ》、とあり、○道足《チタリ》は、續紀に、文武天皇慶雲元年正月癸巳、授2從六位下大伴(ノ)宿補道足(ニ)從五位下(ヲ)1、元明天皇和銅元年三月丙午、從五位上大伴(ノ)宿禰道足爲2讃岐守(ト)1、五年正月戊子、授2正五位下(ヲ)1、六年八月丁巳、爲2弾正尹(カ)1、元正夫皇(214)養老四年正月甲子、授2正五位上(ヲ)1、同十月戊子爲2民部(ノ)大輔(ト)1、七月正月丙子、授2從四位下(ヲ)1、聖武天皇天平元年二月壬申、權(ニ)爲2參議(ト)1、三月甲午、授2正四位下(ヲ)1、九月乙卯、爲2石大辨三年八月丁亥、詔依2諸司擧(ニ)1、擢(テ)2云々右大辨正四位下大伴(ノ)宿禰道足等六人(ヲ)1、並爲2參議(ト)1、同十一月丁卯、爲2南海道(ノ)鎭撫使(ト)1、など見えたり、
 
962 奥山之《オクヤマノ》。磐爾蘿生《イハニコケムシ》。恐毛《カシコクモ》。問賜鴨《トヒタマフカモ》。念不堪國《オモヒアヘナクニ》。
 
磐(ノ)字、舊本には、盤と作り、(盤(ノ)字の事、此上に註り、)今は類聚抄、古寫小本等に從つ、○本(ノ)二句は序なり、深き山の磐石《イハホ》に苔|生《ムシ》たるは、物すごくおそろしげに見ゆるものなれば、恐とつゞけたるなり、七(ノ)卷|譬喩《タトヘ》歌に、奥山之於石蘿生恐常《オクヤマノイハニコケムシカシコミト》、思情乎何如裳勢武《オモフコヽロヲイカニカモセム》とある、今は其歌詞を少し換て、當時の便にまかせけるなるべし、○歌(ノ)意は、思ひかけず、恐くも歌作(シテ)とあるもの哉、それは思ひに堪ずあることなるにとなり、
 
右勅使大伴道足宿禰《ミギミカドツカヒオホトモノチタリノスクネヲ》饗《アヘス》2于|帥家《カミノイヘニ》1。此日《コノヒ》會2集衆諸(ヲ)1。相2誘|驛使葛井連康成《ハユマツカヒフヂヰノムラジヒロナリヲ》1。言v須v作2歌詞(ヲ)1。登時廣成《スナハチヒロナリ》應v聲(ニ)即|吟《ウタヘリキ》2此歌《コノウタヲ》1。
 
道足(ノ)宿禰、類聚抄には宿禰道足と作り、○葛井(ノ)連廣成は、續紀に、元正天皇養老三年閏七月丁卯、以2大外記從六位下白猪(ノ)史廣成(ヲ)1爲2遣新羅使(ト)1、八月癸巳、遣新羅使白猪(ノ)史廣成等拜辭、四年五月壬戊改2白猪(ノ)史氏(ヲ)1賜2葛井(ノ)連(ノ)姓(ヲ)1、聖武天皇天平三年正月丙子、正六位上葛井(ノ)連廣成(ニ)授2外從五(215)位下(ヲ)1、十五年三月乙巳、筑前(ノ)國(ノ)司言、新羅使等來朝(スト)、於是遣2云々葛井(ノ)連廣成(ヲ)於筑前(ニ)1、※[手偏+僉]2※[手偏+交]供宮(給歟)之(ヲ)事1、六月丁酉、爲2備後(ノ)守(ト)1、七月庚子、授2從五位下(ヲ)1、二十年二月乙丑、授2從五位上(ヲ)1、八月己未、車駕幸2散位從五位上葛井(ノ)連廣成之宅(ニ)1留宿(シタマフ)、明日授2廣成及其室從五位下縣犬養(ノ)宿禰八重(ニ)並(ニ)正五位上(ヲ)1、孝謙天皇勝寶元年八月辛未、爲2中務(ノ)少輔(ト)1、懷風藻に正五位下(上歟)中宮(ノ)(務歟)少輔葛井連廣成二首とあり、○登時、拾穗本に、之時と作るはわろし、
 
冬十一月《シモツキ》。大伴坂上郎女《オホトモノサカノヘノイラツメカ》。發2帥家1《カミノイヘヨリ》上道《ミチダチシテ》。超《コユル》2筑前國宗形部名兒山《ツクシノミチノクチノクニムナカタノコホリナコヤマヲ》1之時作歌一首《トキヨメルウタヒトツ》。
 
坂上(ノ)郎女は、上に云る如く、佐保大納言安麻呂卿の女、旅人(ノ)卿の妹なり、かれ兄君旅人(ノ)卿と太宰へ下りて、今度《コタミ》旅人(ノ)卿の、京へ上らるゝに從《ヅキ》て上るなり、○宗形(ノ)郡(郡(ノ)字舊本部と作るは誤なり、今は古寫本、古寫一本、拾穗本等に從つ、)は、和名抄に、筑前(ノ)國宗像(ノ)(牟奈加多《ムナカタ》)郡とあり、○名兒山は、宗像(ノ)郡田島村の西にあり、荒自より、田島へこゆる山なり、是いにしへ都へ上る大道なり、是より蘆屋へ通りしと云、山の東の麓に、名兒浦と云所もあり、と貝原氏名寄にいへり、
 
963 大汝《オホナムヂ》。小彦名能《スクナビコナノ》。神社者《カミコソハ》。名著始鷄目《ナヅケソメケメ》。名耳乎《ナノミヲ》。名兒山跡負而《ナゴヤマトオヒテ》。吾戀之《アガコヒノ》。千重之一重裳《チヘノヒトヘモ》。奈具佐米亡國《ナグサメナクニ》。
 
大汝《オホナムチ》、小彦名能《スクナビコナノ》云々、この二神《フタバシラノカミ》、天(ノ)下を經營《ツクラ》したまへるなれば、山岡などは云もさらなり、さ(216)てそのつくらしゝ山岡などに、各々名をも負せ賜へるならむ、故(レ)名づけそめけめとは云るなり、古事記に、大穴牟遲、與2少名毘古那1、二柱(ノ)神相並《アヒナラバシテ》、作(リ)2堅(メタマフ)此國(ヲ)1云々、書紀に、大己貴(ノ)命、與2少彦名(ノ)命1、戮力一心《ミコヽロアハセテ》經2營《ツクリタマヘリ》天下(ヲ)1云々、出雲風土記に、飯石郡多禰(ノ)郷、所2造《ツクラシヽ》天下《アメノシタ》1大神大穴持、與2須久奈比古命1、巡2行《メグラシヽ》天(ノ)下1時、稻種(ヲ)墮2此處(ニ)1、故(レ)云v種《タネト》、七(ノ)卷に、大穴道少御神作妹勢能山見吉《オホナムヂスクナミカミノツクラシヽイモセノヤマハミラクシヨシモ》、また十八に於保奈牟知須久奈比古奈野神代欲理伊比都藝家良志《オホナムヂスクナビコナノカミヨヨリイヒツギケラシ》云々、(これもこの二神の、天(ノ)下造らしゝ御功によりて、かく云博(ヘ)たるなり、)又續後紀十九興福寺(ノ)僧(ガ)長歌に、日本乃野馬臺能國遠賀美侶伎能宿那毘古那加葦菅遠殖生志津津國固米造介牟與理《ヒノモトノヤマトノクニヲガミロギノスクナビコナガアシスゲヲウヱオホシツツクニカタメツクリナムヨリ》云々、(これに大汝を略きて云ざるは、いかなるよしにか、)など見えたり、さて大汝《オホナムヂ》と申(ス)御名(ノ)義は、大《オホ》は例の美稱なり、那《ナ》も稱名にて、牟遲《ムヂ》は書紀に貴(ノ)字をかける其(ノ)字の意なり、猶委く三(ノ)中に釋り、小彦名《スクナビコナ》は、小《スクナ》は、御形の少きによりて申し、彦《ヒコ》は、日子にて尊稀、名《ナ》は稱名なること、大那牟遲《オホナムヂ》の那《ナ》に同じ、○奈具佐米亡國《ナグサメナクニ》(米(ノ)字、舊本に末と作るは誤り、今は古寫本、古寫一本、拾穗本等に從つ、舊本にも、訓はナグサメナクニ〔七字右○〕とあり、亡(ノ)字、舊本に、七と作るは誤なること著ければ今改つ、)は、不《ヌ》v令《シメ》v慰《ナグサマ》ことなるにと云意なり、○歌(ノ)意は、大汝少彦名(ノ)神こそは、此(ノ)山を作らし賜ひて、名兒山と云名を、名づけ始め賜ひけめ、さらば此山を越むには、和《ナゴ》と云山(ノ)名にしおひて、吾(ガ)心をも慰《ナグ》さましむべきに、さはなくて、わが都戀しく思ふ心の、千重の一重をも、なぐさましめぬことなるにとなり、(217)奈呉《ナゴ》、奈具《ナグ》、奈藝《ナギ》は、皆通ひて和《ナグ》る意なり、七(ノ)卷に、名草山事西在來吾戀《ナグサヤマコトニシアリケリアガコヒノ》、千重一重名草目名國《チヘノヒトヘモナグサメナクニ》、(○略解に、今の歌、大汝の句の上に、猶句のありしが脱しにや、又反歌もありしか傳(ハ)らぬなるべしと云るは大じき誤なり、こはもとのまゝにて、いとよく聞えたるを、何によりて、脱句あるべしとは疑へるにや、いとも心得ぬことなり、又長歌に反歌のなきは、集中にも甚多かるを、反歌の傳らぬにやと云るも、固陋《カタクナ》なる説ぞ、)
 
同坂上郎女《オヤジサカノヘノイラツメガ》。向《ノボル》v京《ミヤコニ》海路《ウミツヂニテ》見《ミテ》2濱貝《ハマノカヒヲ》1作歌一首《ヨメルウタヒトツ》。
 
向京(ノ)二字、舊本にはなし、今は元暦本、類聚抄、古寫一本、拾穗本等に從つ、○貝(ノ)字、舊本に具と作るは誤なり、今は類聚抄、古寫小本、拾穗本等に從つ、
 
964 吾背子爾《ワガセコニ》。戀者苦《コフレバクルシ》。暇有者《イトマアラバ》。拾而將去《ヒロヒテユカム》。戀忘貝《コヒワスレガヒ》。
 
冬十二月《シハス》。太宰帥大伴卿《オホミコトモチノカミオホトモノマヘツキミノ》上《ノボリタマフ》v京《ミヤコニ》之時《トキ》。娘子作歌二首《ヲトメガヨメルウタフタツ》。
 
之(ノ)字、舊本にはなし、今は目録に從つ、○娘子は、遊行女婦兒島なり、次下に見ゆ、
 
(218)965 凡有者《オホナラバ》。左毛右毛將爲乎《カモカモセムヲ》。恐跡《カシコミト》。振痛袖乎《フリタキソデヲ》。忍而有香聞《シヌヒテアルカモ》。
 
左毛右毛將爲乎は、カモカモセムヲ〔七字右○〕と訓べし、七(ノ)卷に、事痛者左右將爲乎《コチタクバカモカモセムヲ》云々とあり、○恐跡《カシコミト》(跡(ノ)字、元暦本に路と作るは、誤なり、)は、恐き故にと云意なり、すべて云々|美等《ミト》と云|等《ト》は、助辭にてことに意なし、十三に、雖思效乎無見《オモヘドモシルシヲナミ》云々、とあると、三(ノ)卷に、雖戀效矣無跡《コフレドモシルシヲナミト》、とあると、同意なるを合(セ)考(ヘ)て、其餘なるも、等《ト》の辭に、ことに意なきを知べし、○振痛袖乎《フリタキソデヲ》は、擧《フラ》まほしき袖をといはむがごとし、多伎《タキ》は、愛多伎《メデタキ》などいふ多伎《タキ》に同じ、○忍而有香聞《シヌヒテアルカモ》は、堪忍《シノビコタヘ》てある哉の意なり、○歌(ノ)意は凡(ノ)人ならば、ともかくもすべければ、思ふまゝに、袖をも擧《フル》べきに、貴《タフトキ》人なれば、恐き故に忌|憚《ハヾカ》りて、擧まほしき袖を堪忍《シノヒコタヘ》て振ず有我となり、
 
966 倭道者《ヤマトヂハ》。雲隱有《クモガクレタリ》。雖然《シカレドモ》。余振袖乎《アガフルソデヲ》。無禮尊母布奈《ナメシトモフナ》。
 
無禮登母布奈《ナメシトモフナ》とは、無禮《ナメシ》は、十二に、妹登曰者無視恐《イモトイハバナメクカシコシ》云々、繼體天皇(ノ)紀に、輕《ナメク》、安閑天皇(ノ)紀に輕《ナメシク》、續紀廿五(ノ)詔に無禮之弖不從奈賣久在牟人乎方《ヰヤナクシテマツロハズナメクアラムヒトヲバ》云々、(賣(ノ)字、本には壹に誤、本居氏の、かく改めたるぞよき、)枕册子に、郭公を、いとなめくうたふ聲ぞ、心うき云々、なほ中昔物語書にも、多くなめげなるといへり、母布奈《モフナ》は、勿《ナ》v念《オモフ》なり、○歌(ノ)意は君が行大和路は、甚遙かにして雲隱たり、されどもなほ見えずなるまでも、吾(ガ)袖を擧て慕ひ奉るを、無禮《ナメケ》なるわざなりと思ひ、とがめたまふことなかれ、一度は堪忍《シノヒコタ》へてありしかど、なほ戀慕ひ奉るに、得|堪忍《シノヒコタ》へずしてすること(219)なれば、さるかたにおもほしのどめたまへとなり、
 
右太宰帥大伴卿《ミキオホミコトモチノカミオホトモノマヘツキミノ》。兼2任《メサレ》大納言《オホキモノママスツカサニ》1。向《ノボラムトシテ》v京(ニ)上道《ミチダチシタマフ》。此日馬2駐水城(ニ)1。顧2望府家(ヲ)1。于時《トキニ》送《オクル》2卿《マヘツキミヲ》府吏之中《ツカサヒトノナカニ》。有《アリ》2遊行女婦《ウカレメ》1。其(ノ)字《ナヲ》曰《イフ》2兒島《コシマト》1也。於是娘子《コヽニヲトメ》。傷《イタミ》2此易《コノヤスキヲ》1v別《ワカレ》。嘆《ナゲキ》2彼《カノ》難《ガタキヲ》1v會《アヒ》。拭v涕(ヲ)自|吟《ウタフ》2振《フル》v袖《ソデヲ》之|歌《ウタヲ》1。
 
馬駐水城、拾穗本には、駐馬于水城と作り、水城は、左(ノ)歌(ノ)下に註すべし、○吏(ノ)字、古寫小本には、使と作り、○曰(ノ)字、舊本に、日と作るは誤なり、今は古寫本、古寫小本、拾穂本等に從つ、
 
大納言大伴卿和歌二首《オホキモノマヲスツカサオホトモノマヘツキミノコタヘタマヘルウタフタツ》。
 
967 日本道乃《ヤマトヂノ》。吉備乃兒島乎《キビノコジマヲ》。過而行者《スギテユカバ》。筑紫乃子島《ツクシノコシマ》。所念香裳《オモホエムカモ》。
 
日本道《ヤマトヂ》とは、吉備は、大和(ノ)國へ通ふ道なれば云り、景行天皇(ノ)紀に、既而從2海路1還v倭(ニ)、到2吉備(ニ)1以(テ)渡2穴(ノ)海(ヲ)1と見ゆ、○吉備兒島《キビノコシマ》は、古事記に、生2吉備(ノ)兒島(ヲ)1、亦名謂2建日方別(ト)1、とあり、同記仁徳天皇(ノ)條にも、兒島見ゆ、備前(ノ)國の海中にあり、本居氏、兒島は、吉備(ノ)國に、兒の如く附たる故の名なるべしと云り、後には、備前(ノ)國(ノ)郡(ノ)名になれり、欽明天皇(ノ)紀に、備前兒島(ノ)郡、和名抄に、備前(ノ)國兒島(ノ)郡|古之未《コシマ》とあり、○歌(ノ)意は、吉備の兒島を見つゝ過て行むほど、名の同じければ、娘子の兒島がことを思出て、いよ/\戀しく思はれむかとなり、
 
968 大夫跡《マスラヲト》。念在吾哉《オモヘルアレヤ》。水莖之《ミヅクキノ》。水城之上爾《ミヅキノウヘニ》。泣將拭《ナミダノゴハム》。
 
(220)第一二(ノ)句は、一(ノ)卷軍(ノ)王(ノ)歌、二(ノ)卷舍人(ノ)親王(ノ)御歌、四(ノ)卷家持(ノ)卿(ノ)歌などをはじめて、集中に多き詞なり、○水莖之《ミヅクキノ》は、本居氏云、みづ/\しき莖、といふことにて、草木の莖なり、さてくきといへば、即(チ)木のことにも草のことにもなれり、木(ノ)神を久々能知《クヽノチ》といふにて心得べし、水城《ミツキ》とつゞけたるは、やがてみづ/\しき莖のみづ木、と重ねたるなり、(なほ水莖の岡、とよめる歌など、玉勝間一(ノ)卷に委く説《イヘ》り、)○水城之上《ミヅキノウヘ》は、天智天皇(ノ)紀に、三年云々、此處云々、又於2筑紫1築2大堤(ヲ)1貯(ヘシム)v水(ヲ)、名曰2水城(ト)1、續紀に、天平神護元年二月辛丑云々、太宰少貳從五位下釆女(ノ)朝臣淨庭、爲2修理水城專知官(ト)1、(松下氏云、後宇多天皇弘安四年、高麗(ノ)賊船五百艘、與2蒙古十萬(ノ)軍船1、共至2八角島《ハカタニ》1、見2元史(ニ)1、時關東大軍及九國二島兵、悉集2于水城(ニ)1、更修2水城(ヲ)1、數十里間以2大石(ヲ)1築之、高一丈餘、其上平坦、乘馬直2下賊船(ヲ)1、)和名抄に、筑前(ノ)國|下座《シモツアサクラノ》郡三城(美都木《ミツキ》)城邊(木乃倍《キノヘ》)など見えたり、上《ウヘ》は邊《ホトリ》といはむが如し、○泣將拭《ナミダノゴハム》は、廿(ノ)卷に、麻蘇※[泥/土]毛知奈美太乎能其比牟世比都都《マソデモチナミダヲノゴヒムセビツツ》云々とあり、○歌(ノ)意は、かねては、何事にもたゆみなからむ、をゝしき丈夫と思へる吾なるものを、娘子が故に別(レ)を悲みて、水城の邊にて、めゝしく涙拭はむかとなり、
 
三年辛未《ミトセトイフトシカノトヒツジ》。大納言大伴卿《オホキモノマヲスツカサオホトモノマヘツキミノ》。在《アリテ》2寧樂家《ナラノイヘニ》1思《シヌヒテ》2故郷《フルサトヲ》1。歌二首《ヨミタマヘルウタフタツ》。
 
舊本、大納言より下、行をはなちて書り、今は元暦本、拾穗本等に、從て續け書り、○故郷は、神名火《カムナビ》の里なり、○作(ノ)字、舊本にはなし、目録にあるに從つ、
大伴卿の故さとは神名火と聞えたり
 
(221)969 須臾《シマシクモ》。去而見牡鹿《ユキテミテシカ》。神名火乃《カムナビノ》。淵者淺而《フチハアセニテ》。瀬二香成良武《セニカナルラム》。
 
須臾は、シマシクモ〔五字右○〕と訓べし、十五に、筑紫道能《ツチクシヂノ》云々|思末志久母見禰婆古非思吉《シマシクモミネバコヒシキ》云々、又|於毛布惠爾《オモフヱニ》云々|之末思久毛伊母我目可禮弖《シマシクモイモガメカレテ》云々、などあり、○神名火《カムナビ》は、高市(ノ)郡飛鳥のなり、○淺而は、アセニテ〔四字右○〕と訓べし、(略解に、アサビテ〔四字右○〕とよめれどいかゞ、)爾《ニ》は奴《ヌ》のかよへるなり、三(ノ)卷に、久方乃天之探女之石船乃泊師高津者淺爾家留香裳《ヒサカタノアマノサグメガイハブネノハテシタカツハアセニケルカモ》、(これアセニ〔三字右○〕とよむべき證なり、)こゝは淺の下に、爾か去かの字など脱しか、又|然《サラ》ずとも、アセニテ〔四字右○〕なり、○歌(ノ)意は、すべて淵は瀬にかはりゆく、世のならひなれば、故郷の神名火川の淵も、瀬に變りあせ行て、昔のさまは、ありしにもあらぬ形になりぬらむか、暇あらば、しばしだにも、行て見たき哉となり、
 
970 指進乃《ムラタマノ》。栗栖乃小野之《クルスノヲヌノ》。芽花《ハギガハナ》。將落時爾之《チラムトキニシ》。行而手向六《ユキテタムケム》。
 
指進乃は、枕詞ときこゆ、(説々あれど、皆あたらず、)按(フ)に、乃(ノ)字は、六か武かの寫誤なるべし、さらばサシスヽムと訓べし、指(シ)進むは、刺荒《サシスサ》むと云に同じ、スヽム〔三字右○〕とスサム〔三字右○〕とは音通ひて、同言なればなり、逆立刺《サカダツイガ》の刺(シ)荒《スサ》む栗と云意に、いひかけたるならむか、されど穩ならず、なほよく思ふに、廿(ノ)卷に、牟浪他麻乃久留爾久枳作之加多米等之《ムラタマノクルニクキサシカタメトシ》云々とある、久留《クル》は戸(ノ)枢《クル》にて、枕詞よりは、群玉之轉《ムラタマノクル》と云意にいひつゞけたるなり、さればこゝの指進も村玉の寫誤なるべきにや、(村玉を、草書にて、持進と書誤れるならむ、)されば數々|貫連《ツラヌキ》たる群玉《ムラタマ》の、轉々《クル/\》とくるめく意に(222)(神代紀に、〓2轤然《ヲモクルヽニ》解《トキテ》、其左(ノ)髻(ニ)所纒《マカセル》五百箇(ノ)流(ノ)之|瓊綸《タマノヲヲ》1、註に、〓轤然、此云2乎謀苦留留爾《ヲモクルルニト》1、とあるに同じ、)栗《クル》の言につゞけたる枕詞なるべし、なほ久留《クル》と云言は、大鏡五に、南殿に出させ給ふに、いとひろき殿のうちに、のこらずくるべきあるけば、いみじうけうせさせ給ひて云々、これも轉々《クル/\》とめぐるを云、※[車+參]車をクルベキ〔四字右○〕と云も意同じ、又目を眩《クルメカ》すなども、其(ノ)謂なり、又按に、書紀履中天皇(ノ)卷(ノ)初に、密(ニ)聚(メ)2精兵數百(ヲ)於|※[木+覺]食栗林《カキハミノクルスニ》1云々、とあるは、即(チ)今の栗栖と全(ラ)同地なり、これによりて竊(ニ)考(フ)るに、もしは指進は、掻食なりけむを、打とけ書に掻とかきしを、指に寫誤り、食とかきしを、進に寫誤りて、今の如くなれるものにもあらむか、さればカキハミノ〔五字右○〕と訓べし、○栗栖乃小野《クルスノヲヌ》は、和名抄に、大和(ノ)國忍海(ノ)郡|栗栖《クルス》、とある地の野なり、古本後紀十四に、大同元年六月癸巳朔、是日勅、池之爲v用、必由2灌漑(ニ)1、栗林之用、良爲v得v實、今諸國所v有蓮池井栗林等、或決2灌v田之水(ヲ)1、潤2彼芙蓉(ヲ)1、或占2无v實之林(ヲ)1、寄2言供御(ニ)1、如此之類心妨2百姓(ヲ)1、宜2遣v使(ヲ)子細(ニ)勘定(ヌ)1之、とあるを見れば、栗栖も、栗林より負る地名ならむ、(契冲云(ク)、大伴(ノ)卿の故郷は、第三にも、かぐ山のふりにし里とよみ、こゝにも、神なびの淵とよみて、飛鳥の邊なれば、此(ノ)栗栖ちかき所なり、古事記に、雄略天皇(ノ)御歌に、ひき田のわかくるす原とよませたまふは、泊瀬にて、城上(ノ)郡なれば、今少しへだたれるゆゑに、忍海(ノ)郡栗栖とこゝろうべし、)續古今集に、見渡せば若菜採べくなりにけり栗栖の小野の芽の燒原、新續古今集に、眞芽原千草の糸を栗栖野に日を經て織や錦なるらむ(223)などあり、○芽花《ハギガハナ》、芽(ノ)字、舊本に茅と作るは誤なり、今は古寫本、古寫一本、拾穗本等に從つ、類聚抄には、芽子と作り、○末(ノ)句は、行て手向むとする頃は、落《チリ》がたになりなむの意なり、手向六《タムケム》は、土地《ウブスナノ》神などへ、供養《タムケ》むの意にて、よまれしなるべし、○歌(ノ)意は、故郷の栗栖の小野の、はぎが花の盛なる内に、はやく行て、土地神へ手向奉りたく思へども、行べき暇のなければ、暇申請て、行て手向むとする頃は、早|落《チリ》がたになりなむをとなり、(契冲、此卿今年秋七月辛未に薨ぜられたる時、仕人金(ノ)明軍がいたみてよめる五首の歌の中に、かくしのみありけるものをはぎの花咲て有やととひし君はも、しかれば此歌は、いまだこゝちそこなはれぬほど、八月下旬の比は、御いとま申て、故郷へ歸りて休息せむと、心あてにおもはれけるなるべしと云り、
 
四年壬申《ヨトセトイフトシミヅノエサル》。藤原宇合卿《フヂハラノウマカヒノマヘツキミノ》。遣《ツカハサルヽ》2西海道《ニシノウミツヂ》節度使(ニ)1之時《ノトキ》。高橋連蟲麿作歌一首并短歌《タカハシノムラジムシマロガヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
舊本藤原より下、行をはなちて書り、今は元暦本、拾穗本等に從て、續け書り、○遣西海道云々は、續紀は天平四年八月丁亥、從三位藤原(ノ)朝臣宇合(ヲ)爲2西海道(ノ)節度使(ト)1、懷風藻に、五言奉2西海道節度使(ニ)1之作、往歳東山(ノ)役、今年西海(ノ)行、行人一生(ノ)裏、幾度倦2邊兵(ニ)1とあり、○高橋(ノ)連蟲麿は、傳未(タ)詳ならず、既(ク)三(ノ)卷左註に出たり、
 
971 白雲乃《シラクモノ》。龍田山乃《タツタノヤマノ》。露霜爾《ツユシモニ》。色附時丹《イロヅクトキニ》。打超而《ウチコエテ》。客行公者《タビユクキミハ》。五百隔山《イホヘヤマ》。伊去割見《イユキサクミ》。(224)賊守《アタマモル》。筑紫爾至《ツクシニイタリ》。山乃曾伎《ヤマノソキ》。野之衣寸見世常《ヌノソキメセト》。伴部乎《トモノベヲ》。班遣之《アガチツカハシ》。山彦乃《ヤマビコノ》。將應極《コタヘムキハミ》。谷潜乃《タニグヽノ》。狹渡極《サワタルキハミ》。國方乎《クニガタヲ》。見之賜而《メシタマヒテ》。冬木成《フユコモリ》。春去行者《ハルサリユカバ》。飛鳥乃《トブトリノ》。早御來《ハヤカヘリコネ》。龍田道之《タツタヂノ》。岳邊乃路爾《ヲカヘノミチニ》。丹管士乃《ニツヽヂノ》。將薫時能《ニホハムトキノ》。櫻花《サクラバナ》。將開時爾《サキナムトキニ》。山多頭能《ヤマタヅノ》。迎參出六《ムカヘマヰデム》。公之來盛者《キミガキマサバ》。
 
白雲乃《シラクモノ》は、發《タツ》とかゝれる枕詞なり、九(ノ)卷に、白雲之龍田山之《シラクモノタツタノヤマノ》、又|白雲之立田山乎《シラクモノタツタノヤマヲ》、などよめり、○露霜《ツユシモ》は、既(ク)具(ク)註(ヘ)り、○公(ノ)字、拾穗本には、君と作り、次なるも同じ、○五百隔山《イホヘヤマ》は、數多く重れる山を云、○伊去割見《イユキサクミ》は、伊《イ》は、發語なり、割見《サクミ》は、(ノ)二卷に、石根左久見手名積來之《イハネサクミテナヅミコシ》、祝詞式、に、磐根木根履佐久彌弖《イハネコノネフミサクミテ》など見ゆ、既(ク)二(ノ)卷に具(ク)註(ヘ)り、○賊守《アタマモル》は、筑紫には、異國《アダシクニ》の寇賊《アダ》を守る爲に、水城などをも築(キ)、防人をもすゑおかるれば、かくいへり、廿(ノ)卷追2痛防人悲v別之心(ヲ)1、家持(ノ)卿作(ル)歌に、之良奴日筑紫國波安多麻毛流於佐倍乃城曾等《シラヌヒツクシノクニハアタマモルオサヘノキソト》、ともよめり、書紀宣化天皇(ノ)卷に、元年夏五月辛丑朔、詔曰、夫筑紫(ノ)國者、遐邇之《クニ/\ノ》所2朝屆《マヰイタル》1、去來之《ユキキノ》所2關門1、云々、天武天皇(ノ)卷(ノ)上に、栗隈(ノ)王承v符對曰、筑紫(ノ)國者、元|戎《マモル》2邊賊之難1也などあるが如し、○山乃曾伎野之衣寸見世常《ヤマノソキヌノソキメセト》は、曾伎《ソキ》は、二(ツ)ながら、曾許《ソコ》に通(ヒ)て、山野の至極《キハミ》を云、三(ノ)卷石田(ノ)王卒之時、丹生(ノ)王(ノ)作(ル)歌に、天雲乃曾久敝能極《アマクモノソクヘノキハミ》、とある曾久敝《ソクヘ》も同じ、なほ彼處に具(ク)註り、見世常は、メセト〔三字右○〕と訓べし、見賜へとゝ云が如し、さて巡《メグ》り見よと伴(ノ)部に令《オホ》せるよしなれば、見賜へと云意にいはむは、いかゞなるやうなれど、天(ノ)下(ノ)公民に勅《ノリタマ》ふ(225)命に、聞召止宜《キコシメセトノル》、とある例に准べし、○伴部乎《トモノベヲ》は、節度使に從事《ツキシタガ》ふ伴部《トモノムレ》の人々をと云なり、○班遣之(遣(ノ)字、元暦本に迷と作るは誤なり、)は、アガチツカハシ〔七字右○〕と訓べし、彼處此處に、手を班《アガ》ちて遣しと云なり、アガツ〔三字右○〕の言は、神代紀に、廢渠槽、此云2秘波鵝都《ヒアガツト》1と見ゆ、波は阿(ノ)字の誤なり、二(ノ)卷に、天地之《アメツチノ》云々|神分々之時爾《カムアガチアガチシトキニ》、とあるも、分は、アガチ〔三字右○〕と訓べくおぼゆ、雄絡天皇(ノ)紀に、散2遷《アガチ》秦民1、使v獻2庸調(ヲ)1、かげろふの日記に、さべき所々にやりあがつめり云々、など見えたり、又後撰集題詞に、太政大臣の、左大臣にて、すまひのかへりあるじし侍ける日、中將にてまかりて、事をはりて、これかれまかりあがれけるに云々、とあるあがれも同じ言ながら、自他につきて、その活用のたがへるのみなり、○山彦乃將應極《ヤマビコノコタヘムキハミ》は、此方に發《タツル》聲の、彼方の山に響て應(フ)るを、山彦の應(フ)といふ、いはゆる木靈の答ると云是なり、十(ノ)卷にも、里人之聞戀麻田山彦乃答響萬田《サトビトノキヽコフルマデヤマビコノアヒトヨムマデ》、と霍公鳥の聲をよめるも同じ、此處は漏(ル)方なきをいへるなり、○谷潜乃狹渡極《タニグヽノサワタルキハミ》は、五(ノ)卷に、多爾具久能佐和多流伎波美《タニグクノサワタルキハミ》、とある處に具(ク)註(ヘ)り、以上四句は、漏る方、落る地なきよしを云るなり、○國方乎《クニカタヲ》は、出雲(ノ)國造(ノ)神賀詞に、出雲臣等我遠祖天穗日命乎國體見爾遣時爾《イヅモノオミラガトホツオヤアマノホヒノミコトヲクニカタミニツカハシヽトキニ》云々、とあるに同じ、國のありさまといふほどのことなり、○見之賜而は、メシタマヒテ〔六字右○〕と訓べし、(ミシ〔二字右○〕とよまむは、甚わろし、)既(ク)具(ク)註(ヘ)り、○冬木成《フユコモリ》は、春の枕詞なり、既(ク)出づ、○春去行者《ハルサリユカバ》は、春になりなばと云むが如し、○飛鳥乃《トブトリノ》は、早《ハヤ》を云む料なり、○早御來、御(ノ)字は、却の誤なるべし、ハヤカヘリコネ〔七字右○〕(226)と訓べし、○丹管士《ニツヽジ》は、紅躑躅《ニツヽジ》なり、三(ノ)卷に出づ、○山多頭能《ヤマタヅノ》は、枕詞なり、古事記下卷、衣通(ノ)王(ノ)御歌に、夜麻多豆能牟加閇袁由加牟《ヤマタヅノムカヘヲユカム》云々、(此云(ル)2山多豆《ヤマタヅト》1者、是今(ノ)造木者也《ミヤツコギナリ》、)と見えたり、(本居氏の古事記傳に、山多豆《ヤマタヅ》は、山釿《ヤマタヅ》にて釿《テヲノ》のことなり、造木の造は、建(ノ)字を誤れるにて、建木は、タヅケ〔三字右○〕の借(リ)字なり、タヅケ〔三字右○〕は、立削《タツケ》、※[金+番]《タヅケ》などある其(レ)なり、さて釿《テヲノ》は、刃を吾(ガ)方へ向へて、用《ツカ》ふ物なるによりて、山多豆乃《ヤマタヅノ》と云て迎《ムカヘ》の枕詞とせるなりといへり、この御歌集中二(ノ)卷(ノ)始、磐姫(ノ)皇后(ノ)御歌の古註にも引るに就て、余《オノレ》も、はじめ本居氏の説を、さることゝうべなへりしに依(リ)て、彼處《ソコ》にそのよし註し置つるを、近き頃加納(ノ)諸平、右の説をもどきて、記傳に、造木を、建木の誤なりとせるは中々に誤《ヒガコト》にて、造木はミヤツコギ〔五字右○〕といふ木なり、といへるに、おどろかされて、更らに熟(ク)考(フ)るに、信に諸平が説|是《アタ》れるによりて、なほ詳悉《ツバラ》に左にことわるべし、)をも/\山多豆《ヤマタヅ》といふは、今(ノ)世に云|多豆乃木《タヅノキ》のことなるが、其を上古《カミツヨ》には、山多豆《ヤマタヅ》と云けむを、かの古事記を記されたるほどは、はやく山多豆の稱《ナ》は、大かた失(セ)て、其(ノ)世に全《ナベテ》は造木《ミヤツコギ》と呼《イヘ》りしによりて、かの御歌に、山多豆《ヤマタヅ》と宣《ノタマ》へるは、今(ノ)世に云|造木《ミヤツコギ》なりと註《シル》したるなり、しかれども多豆《タヅ》の稱《ナ》も、むげには亡《ウセ》はてずして、今(ノ)世までも、多豆乃木《タヅノキ》と云稱《ナ》の遺《ノコ》れりしなり、かくて多豆乃木《タヅノキ》といふと造木《ミヤツコギ》といふと、やがて一(ツ)物なるよしは、和名本草に、女貞、和名|美也都古岐《ミヤツコギ》、一名|外都乃岐《タヅノキ》ともあるにてしるし(但(シ)漢名女貞といふものは、今(ノ)世にいふ、ねずみもちといふ木にて、多豆乃木《タヅノキ》に(227)はあらず、漢語抄等に、女貞を比女都波木《ヒメツバキ》とせるは、即(チ)ねずみもちの古名を然云りしならむか、猶尋ぬべし、多豆乃木《タヅノキ》は、漢名接骨木とも、續骨木ともいふこれなり、されど女貞と接骨木とは、其(ノ)形状の似たるところのあるより、古(ヘ)より女貞をも、多豆乃木《タヅノキ》に充來りたるなるべし、すべて古人の、草木鳥虫類の此方の古名に、漢名を當たるには、たゞ一(ツ)二(ツ)のみにはあらず、書によりて、彼と此とたがへること許多《ソコバク》なるは、人々の心々にて、大かたにものしたること多かるが故なれば、字に就て、とかく論ふまでもなきことなり、)又和名抄には、本草(ニ)云、接骨木、和名|美夜都古木《ミヤツコギ》、拾遺本草(ニ)云、太貞、和名|太豆乃木《タヅノキ》、楊氏漢語抄(ニ)云、比女都波木《ヒメツバキ》とあり、(かく抄に、美夜都古木《ミヤツコギ》に、漢名の接骨木を充たるはよけれども、多豆乃木《タヅノキ》を女貞《ヒメツバキ》のことゝして、造木《ミヤツコギ》とは別物のごと思へりげにきこえ、又字鏡には女貞實(ハ)比女豆波木《ヒメツバキ》、又|造木《ミヤツコギ》と見えて、女貞《ヒメツバキ》、造木《ミヤツコギ》、一(ツ)物と思へりげに聞えたる、共にいかゞなり、)今(ノ)世に多豆乃木《タヅノキ》とも木多豆《キタヅ》とも、爾波等許《ニハトコ》とも云は、皆一(ツ)物なるよしは、はやく小野(ノ)博も云るが如し、かくて爾波等許《ニハトコ》といふは、美夜都許《ミヤツコ》の訛《アヤマリ》なることはさらにて、爾波等許木《ニハトコギ》といふべきを、木《キ》と云をさへ後に除きて呼《イヒ》しこと決《ウツナ》し、さて此(ノ)木は、高さ一丈に餘れるが、深山《オクヤマ》には自《オ》に生たるも多く、又人(ノ)家に栽たるもまゝありて、折傷《ウチキズ》を治《イヤ》し、筋骨をつぐに功《シルシ》あるよし、(これによりて漢土にては、接骨木の名を負せたるなり、又多識篇に、接骨木、和名美也豆古幾《ミヤツコギ》、今云|加牟保久《カムボク》と見えたる、造木《ミヤツコギ》に、接骨木を當たる(228)はよけれども、其を今(ノ)世に、肝木《カンボク》といふよしいへるはたがへれど、肝木《カンボク》といふ木も、折傷を治《イヤ》す能ある木なるによりて、接骨木《ミヤツコギ》とまがへるなり、)なほ此(ノ)木のことは、品物解に詳悉《クハシ》く云べし、合(セ)見て考(フ)べし、かくて此(ノ)木、春の始(メ)諸木《キキ》に先立て、芽(ノ)を出すが、枝葉とも、他木の如く片違には出ずして、對《ムカ》ひ合て出るによりて、山多豆《ヤマタヅ》の對《ムカ》ふと云意に、云かけしものなるべし、と諸平がいへるは、さることなり、
 
反歌一首《カヘシウタヒトツ》。
 
一首(ノ)二字、古寫小本、拾穗本等にはなし、
 
972 千萬乃《チヨロヅノ》。軍奈利友《イクサナリトモ》。言擧不爲《コトアゲセズ》。取而可來《トリテキヌベキ》。男常曾念《ヲトコトゾモフ》。
 
千萬乃《チヨロヅノ》(千(ノ)字、舊本に、千と作るは誤なり、今は元暦本、古寫本、古寫一本、拾穗本等に從つ、)二(ノ)卷に、
 
千萬神之神集《チヨロヅカミノカムツドヒ》、とあり、數多くて、はかりなきを大方にいへり、○言擧不爲《コトアゲセズ》、十三に、蜻島倭之國者《アキヅシマヤマトノクニハ》、神柄跡言擧不爲國雖然吾者事上爲《カムカラトコトアゲセヌクニシカレドモアハコトアゲス》、とよめり、まづ言擧とは、言語《コトノハ》に擧て、とにかく云たつるよしの言なり、神代(ノ)紀に、遂(ニ)到2出雲(ノ)國(ニ)1、。乃|興言《コトアグシテ》曰云々、又|高言《コトアゲ》とも見えたり、○取而可來《トリテキヌベキ》は、本居氏云、討平げて歸來べきといふなり、捕へて率て來るには非ず、殺《コロス》を登流《トル》と云は、古事記景行天皇(ノ)條に、詔之《ノリタマハク》、西(ノ)方有2隈曾建二人1、是|不《ズ》v伏《マツロハ》无(キ)v禮人等(ナリ)、故(レ)取《トレトノタマヒ》2其(ノ)人等(ヲ)1、而|遣《ツカハシキ》、また取《トリ》2伊服岐能山之神(ヲ)1幸行《イデマシキ》、安康天皇(ノ)條に、人|取《トリマツレリ》2天皇(ヲ)1、延喜十四年、渡會(ノ)神主本系帳に、卷向(ノ)王紀(ノ)宮(ニ)御宇(シ)、天皇(ノ)(229)御代(ニ)、越(ノ)國(ニ)荒振(ル)兇賊阿彦在(リ)天《テ》、不v從2皇化(ニ)1、取平仁罷止詔天《トリムケニマカレトノリタマヒテ》、標(ノ)劔賜遣(シ)支《キ》、即幡上罷行、取平(ケ)天《テ》返事白(シヽ)時、天皇歡給(ヒ)天《テ》、大幡主(ト)名(ヲ)加(ヘ)給|支《キ》、などもあり、常に鷹の鳥を取(ル)、猫の鼠を取(ル)、鵜の魚を取(ル)など云類の取(ル)も、もと同意なり、○歌(ノ)意は、たとひ千萬と數多く、はかりなき大軍賊にてありとも、とにかく云たつることなく、安らかに討平(ケ)て、歸來ますべきますらたけをとぞ、たのもしくおもふとなり、
○舊本、此處に、右檢2補任文1、八月十七日、任2東山山陰西海節度使(ニ)1、と註せり、(東(ノ)下に海(ノ)字を脱し、山山の間に陽(ノ)字を脱せるか、)後人のしわざなり、
 
天皇《スメラミコトノ》。賜2酒《オホミキタマヘル》節度使(ノ)卿等《マヘツキミタチニ》1。御歌一首并短歌《オホミウタヒトツマタミジカウタ》。
 
天皇は、聖武天皇なり、○賜酒は、右と同じ度なり、○節度使卿等は、續紀に、聖武天皇天平四年八月丁亥、正三位藤原(ノ)朝臣房前、爲2東海山陽二道(ノ)節度使(ト)1、從三位多治比(ノ)眞人縣守(ヲ)、爲2山陰道(ノ)節度使(ト)1、從三位藤原(ノ)朝臣宇合(ヲ)爲2南海道(ノ)節度使(ト)1、と有(ル)是なり、○御歌(略解に、御(ノ)下製(ノ)字有べしと云るは、甚《イミシキ》誤《ヒガコト》なり、賜2云々1御製歌と云(ヘ)る例一(ツ)も有事なし、既(ク)委しく云り、)は、オホミウタ〔五字右○〕と訓べし、)
 
973 食國《ウィオスクニノ》。遠乃御朝庭爾《トホノミカドニ》。汝等之《イマシラシ》。如是退去者《カクマカリナバ》。平久《タヒラケク》。吾者將遊《アレハアソバム》。手抱而《テウダキテ》。我者御在《アレハイマサム》。天皇朕《スメラワガ》。宇頭乃御手以《ウヅノミテモチ》。掻撫曾《カキナデソ》。禰宜賜《ネギタマフ》。打撫曾《ウチナデソ》。禰宜賜《ネギタマフ》。將還來日《カヘリコムヒ》。相飲酒曾《アヒノマムキソ》。此豐御酒者《コノトヨミキハ》。
 
(230)遠乃御朝庭爾《トホノミカドニ》、(庭(ノ)字、拾穗本には、廷と作り、)既(ク)委(ク)云り、太宰府鎭守府の類をいへる稱なり、○汝等之は、イマシラシ〔五字右○〕と訓べし、汝《イマシ》は十四に、伊麻思乎多能美《イマシヲタノミ》云々、續紀高野天皇(ノ)大命に、朕我天先帝乃御命以天《アガアマツサキノミカドノミコトモチテ》、朕仁勅之久《アレニノリシク》。天下方《アメノシタ》、朕子伊末之仁授給《ハアガコイマシニサヅケタマヒ》云々、など見えたり、之《シ》は、例の其一(ト)すぢなることを云助辭なり、(ナムタチシ〔五字右○〕とも訓べきにや、貞觀儀式、十二月大儺儀に、云々|與里乎知乃所乎《ヨリヲチノトコロヲ》、奈牟多知《ナムタチ》疫鬼|之住加登定賜比《ノスミカトサダメタマヒ》、行賜弖《ユキタマヒテ》云々とあり、ナムヂラガ〔五字右○〕と訓は、いさゝかよろしからず、)○如是退去者《カクマカリナバ》(退(ノ)字、古寫本に、追と作るはわろし、)は、如是節度使に罷なばとなり、○平久吾者將遊《タヒラケクアレハアソバム》は、かく東海山陽山陰西海と班《ワカ》りて、卿等が罷りなば、いかなる事ありとも、鎭め治めむ事はさらにて、いとたのもしければ、無事平安に、朕は月花に遊ばむぞ、と詔へるなり、○手抱而(抱(ノ)字、古寫本に把と作るは誤なり、)テウダキテ〔五字右○〕と訓べし、ウダク〔三字右○〕は、腕纒《ウデマク》と云言の約まれるにて、其説は、三(ノ)卷に具(ク)云りき、此《コヽ》は無事平安なる御形を詔へるなり、(からぶみ書(ノ)武成に、垂拱而天下治、と云る註に、垂v衣拱v手而天下自治(ル)、とある意なり、)○我者將御在《アレハイマサム》は、朕はおはしまさむぞ、と詔へるなり、かく御自の御うへの事を、御自詔ふに、尊て詔へること、天皇稜威の二(ツ)なく、ありがたくかたじけなき事、一(ノ)卷(ノ)初に委(ク)辨(ヘ)たるが如し、○天皇朕は、スメラワガ〔五字右○〕と訓べし、○宇頭乃御手以《ウヅノミテモチ》は、神代(ノ)紀一書に、吾欲v生2御宙之珍子(ヲ)1、とありて、訓註に、珍此云2于圖《ウヅト》1、神武天皇(ノ)紀にも、珍彦此云2于※[奴/石]毘古《ウヅビコト》1とあり、また大殿祭(ノ)祝詞に、皇我宇都御子《スメラガウヅノミコ》、皇御孫之《スメミマノ》(231)命、とあり、又諸(ノ)祝詞に、宇豆乃幣帛《ウヅノミテクラ》、などもあり、本居氏、宇豆《ウヅ》は、師説に、高く嚴きことなりとあり、今(ノ)言に、人の容貌《カホ》をうづ高きと云も、よくかなへりと云り、以は、モチ〔二字右○〕と訓べし、モテ〔二字右○〕と訓はわろし、○掻撫曾《カキナデソ》は、掻は、御手して物し賜ふことに添たる御詞にて、撫(テ)愛《ツツク》しみたまふ意なり、○禰宣賜《ネギタマフ》は、勞らひ賜ふと云なり、(俗言に、苦勞なることゝいひて、慰さむる意なり、廿(ノ)卷に、伊佐美多流多家吉軍卒等禰疑多麻比《イサミタルタケキイクサトネギタマヒ》云々、古事記に、泥疑教覺《》ネギオシヘサトシ、豐後風土記に、禰疑野《ホギヌハ》、在2柏原野之東(ニ)1云々、天皇親欲v伐2此賊(ヲ)1、在2茲野(ニ)1、勅(シテ)歴(ク)勞《ネギタマヒキ》2兵衆(ヲ)1、因謂2禰疑野《ネギヌト》1、などあるにて知べし、(本居氏云、勞《ネギタマフ》2兵衆(ヲ)1、は、其|勞《イタヅキ》を思ひて、俗に大義ながらと云こゝろばえを以て、稱慰《ホメナグサ》めて、兵衆の勤《イソ》しからむことを、希《コヒネガ》ふ意なり、)○打撫曾《ウチナデソ》は、打《ウチ》も掻《カキ》に同じ御詞にて、掻撫曾《カキナデソ》と詔へるに同じ、○將還來日《カヘリコムヒ》云々、十九孝謙天皇(ノ)賜2酒肴(ヲ)入唐使藤原朝臣清河等(ニ)1御歌に、四舶舶能倍奈良倍平安早渡來而《ヨツノフネフナノヘナラベヤヒラケクハヤワタリキテ》、還事奏日爾《カヘリコトマヲサムヒニ》、相飲酒曾《アヒノマムキソ》、斯豐御酒者《コノトヨミキハ》、とあるに同じ、○相飲酒曾《アヒノマムキソ》は、此時に賜へる大御酒は、事終り眞幸《マサキ》くて還來む時、又相共に飲む御酒ぞよと詔ふなり、○此《コノ》豐|御酒者《ミキハ》は、卿等に今賜ふ所の、此(ノ)豐御酒者と詔へるなり、豐とは、酒を祝ていふ稱なり、古事記上卷須勢理毘賣(ノ)命(ノ)御歌に、登與美岐多弖麻都良世《トヨミキタテマツラセ》、下卷雄略天皇(ノ)大后(ノ)卸歌に、登余美岐多弖麻都良勢《トヨミキタテマツラセ》、續紀十五、元正天皇(ノ)御歌に、等與美岐麻都流《トヨミキマツル》、此(ノ)卷に、大夫之?豐御酒爾《マスラヲノホクトヨミキニ》、などあり、
 
反歌一首《カヘシウタヒトツ》。
 
(232)一首(ノ)二字、古寫小本、拾穗本等にはなし、
 
974 大夫之《マスラヲノ》。去跡云道曾《ユクチフミチソ》。凡可爾《オホロカニ》。念而行勿《オモヒテユクナ》。大夫之伴《マスラヲノトモ》。
 
去跡云道曾《ユクチフミチソ》、本居氏、道《ミチ》とは行(ク)事を云、凡て物へ行く事を指て、道と云ること、古事記上、葦原(ノ)中國言向に遣むとて、天(ノ)尾羽張(ノ)神をめし給ふ時に、答白、恐之仕奉(ラム)、然(レトモ)於此道者《コノミチハ》、僕(ガ)子建御雷(ノ)神可v遇、中昔までも、古今集に、人遣の道ならなくに、と云るたぐひ、歌にも詞にも多かり、漢文に、此(ノ)行など云行(ノ)字にあたれりと云り、丈夫とある人の任《マケ》られて行と云なる、此度の道ぞと云なり、○凡可爾《オホロカニ》は、オロカニ〔四字右○〕と云に同じ、おほよそにと云が如し、十九に、知智乃實乃父能美許等波播蘇葉乃母能美己等《チチノミノチヽノミコトハハソバノハヽノミコト》、於保呂可爾情盡而《オホロカニコヽロツクシテ》、念良牟《オモフラム》、其子奈禮夜母《ソノコナレヤモ》、廿(ノ)卷に、於煩呂加爾己許
呂於母比弖《オホロカニココロオモヒテ》、牟奈許等母於夜乃名多都奈《ムナコトモオヤノナタツナ》、書紀仁徳天皇(ノ)細歌に、菟怒瑳破赴以破能臂謎餓《ツヌサハフイハノヒメガ》、飫朋呂伽珥枳許瑳怒《オホロカニキコサヌ》、また此(ノ)集十八に於呂可爾曾和禮波於母比之《オロカニソウレハオモヒシ》、とも見えたり、さて此(ノ)詞は、まづ於保《オホ》は、集中に於保爾見之《オホニミシ》、など云る於保《オホ》にて、呂可《ロカ》は、添たる辭なり、呂《ロ》は虚言《ヲソ》を、乎曾呂《ヲソロ》と云|呂《ロ》に同じ、可《カ》は、遙《ハルカ》幽《カスカ》などの可《カ》と同じ、かゝれば何にまれ、細《コマカ》に精《クハシク》明らかならぬを云詞なり、朧《オボロ》や本同言なり、(後(ノ)世|於煩呂《オボロ》と煩《ホ》を濁て唱(フ)は、非なり、)また鬱悒《オホヽシ》、於保束無《オホツカナシ》など云も、もと同言より出たり、愚をオロカ〔三字右○〕と云り、物に暗《クラ》くて、明らかならぬ意にて云へば、これも同言なり、さてこれを於呂可《オロカ》とも云は、於保呂可《オホロカ》の、保《ホ》を略けるごと思はるゝことなれど、略けるには(233)あらず、大(ノ)字の意なるをば、於《オ》とも於保《オホ》とも、古言にいへること多ければなり、さるは於保《オホ》は、もと大《オ》と太《ホ》と二言を、一(ツ)にあはせていひ初たる言なれば於《オ》とのみ云ても、大(ノ)字の意ある言となれり、なほその委しき説は、雅言成法にいへり、披(キ)見て考ふべし、されば於保呂可《オホロカ》と云も、於呂可《オロカ》と云も、實は具《クハシ》くいへると、否《シカラ》ぬとの差別のみにて、意は同じことなりと知べし、(但し智に對へる愚を、打まかせてオロカ〔三字右○〕と云は、やゝ後のことにて、古(ヘ)にはなし、さるは愚者《サカシカラヌヒト》は、なすわざいふ言などの、おろかなりと云(ハ)では言足はず、たゞに愚を、凡《オホ》ろかとは云べからねばなり、愚をばカタクナ〔四字右○〕と云ぞ古(ヘ)なる、皇極天皇(ノ)紀に、愚癡《カタクナ》、字鏡に※[馬+矣](ハ)癈也、加多久奈《カタクナ》又|也牟也牟志《ヤムヤムシ》、と見ゆ、癈(ハ)癡の誤か、また催馬樂夏引に、加太久名爾毛乃以不乎美名《カタクナニモノイフヲミナ》、榮花物語に志禮加多久那之幾《シレカタクナシキ》、など見えたり、九(ノ)卷詠2水江(ノ)浦島子(ヲ)1歌に、世間之《ヨノナカノ》愚人之、とあるをも、カタクナヒトノ〔七字右○〕と訓べきことなり、猶彼處に具(ク)説べし、しかるを古今集序に、さかしおろかなりとしろしめしけむとあれば彼頃はやゝ轉りて、愚を打まかせて、オロカ〔三字右○〕と云ことにはなれなり、)○大夫之伴《マスラヲノトモ》は、正荒雄《マスラヲ》のともがらよの御意なり、諸道の節度使をひろくさして詔へる故に、伴《トモ》と宣へるなり、○大御歌(ノ)意は、をゝしき丈夫にてある人の任られて行と云なる、此度の道ぞ、おほよそに、並々の道と思ひて行こと勿れ、ますらをの輩よとなり、
〔右御歌者。或云。太上天皇御製也。〕
(234)この註、古寫小本にはなし、元暦本には、小字に書入たり、元はなかりしなるべし、○太上天皇は、元正天皇なり、
 
中納言安部廣庭卿歌一首《ナカノモノマヲスツカサアベノヒロニハノマヘツキミノウタヒトツ》。
 
廣庭(ノ)御の傳は、三(ノ)上に、委(ク)云り。
 
975 如是爲菅《カクシツヽ》。在久乎好叙《アラクヲヨミゾ》。靈剋《タマキハル》。短命乎《ミジカキイノチヲ》。長欲爲流《ナガクホリスル》。
 
管(ノ)字、舊本に菅と作るは誤なり、類聚抄、古寫本、古寫小本、拾穗本等に從つ、○在久乎好敍《アラクヲヨミゾ》は、ある事がよき故にぞの意なり、在久《アラク》は、アル〔二字右○〕の延りたる言なり、(ラク〔二字右○〕の切ル〔右○〕)○靈剋《タマキハル》は、命の枕詞なり、とも多麻岐波流《タマキハ》は、現《ウチ》の枕詞にて、其を轉して、命《イノチ》とも世ともつゞくる事、既(ク)委く云るが如し、○歌(ノ)意は、ありながらへて、如此しつゝ、此(ノ)事の時にあへるが、よろこバしき故にこそ、はかなき露命の短きをも、いかで長くもがなあれかしと欲すれとなり、契冲云(ク)、此歌は、もし、酒を節度使にたまへる時、よまれたるか、さらずても、君臣あひよろこぶ時の歌なるべし、
 
五年癸酉《イツトセトイフトシミヅノトトリ》。超《コユル》2草香山《クサカヤマヲ》1時《トキ》。神社忌寸老麿作歌二首《カミコソノイミキオユマロガヨメルウタフタツ》。
 
舊本、超(ノ)字より下、行をはなちて書り、今は元暦本、拾穗本等に從て、續け書り、○草香山は、河内(ノ)國河内(ノ)郡に、今も日下村あり、伊駒山の西(ノ)方なり、神武天皇(ノ)紀に、三月遡流而上《カハヨリサカノボリテ》、徑(ニ)至(リマス)2河内(ノ)國草香(ノ)邑、青雲(ノ)白肩之津(ニ)1、とあり、○神社(ノ)忌寸老麿は傳未(タ)詳ならず、神社は氏なり、續紀に、神社忌(235)寸河内と云あり、書紀孝徳天皇(ノ)卷に、神社福草《カミコソノサキクサ》、といふも見えたり、(社(ノ)字をコソ〔二字右○〕と訓こと、契冲は、乞(ノ)字、コソ〔二字右○〕とよみて、こひねがふ心なり、しかれば神のまします所にて、さま/”\の事を、こひねがひたてまつるゆゑに、社(ノ)字を、コソ〔二字右○〕とはよむなるべLといへれど、其|意迂《モノトホ》し、もし社は杜(ノ)字にてもあらむか、杜は、字鏡にも、毛利《モリ》と訓たる字なれば、木苑《コソ》の義にてもあらむか、)
 
976 難波方《ナニハガタ》。潮干乃奈凝《シホヒノナゴリ》。委曲見《ヨクミテム》。在家妹之《イヘナルイモガ》。待將問多米《マチトハムタメ》。
 
潮干乃奈凝《シホヒノナゴリ》は、四(ノ)卷に具(ク)註(ヘ)り、○委曲見(活字本、見の下に君(ノ)字あり、名の誤なるべし、さればヨクミテナ〔五字右○〕と訓べし、)は、ヨクミテム〔五字右○〕とよむべし、與久《ヨク》は、此に委曲の字を書る如く、委曲《ツマビラカ》によくよくといふ意なり、十(ノ)卷に、朝戸出之君之儀乎曲不見而《アサトデノキミガスガタヲヨクミズテ》、長春日乎戀八九良三《ナガキハルヒヲコヒヤクラサム》、とある曲《ヨク》も同じ、○歌(ノ)意は、難波潟鹽干の除波《ナゴリ》のおもしろく、なつかしきけしきを、委曲によく/\見てゆかむ、家に留れる妹が、吾を待々て待つけて、難波の風景いかにやと問む、その日の爲にとなり、七(ノ)卷に、玉津島能見而伊座青丹吉平城有人之待問者如何《タマツシマヨクミテイマセアヲニヨシナラナルヒトノマチトハバイカニ》、とあるに似たり、此歌は奈良より難波へ來る道に草香山を超る時、難波(ノ)海を見やりてよめるなり、八(ノ)卷草香山(ノ)歌に、忍照難波乎過而《オシテルナニハヲスギテ》、打靡草香乃山乎《ウチナビククサカノヤマヲ》、暮晩爾吾越來者《ユウグレニアカコエクレバ》云々とあり、
 
977 直超乃《タヾコエノ》。此徑爾師弖《コノミチニシテ》。押照哉《オシテルヤ》。難波乃海跡《ナニハノウミト》。名附家良思裳《ナツケケラシモ》。
 
直超乃《タヽコエノ》云々、古事記に、大長谷若建(ノ)命、自2日下之直超(ノ)道1、幸2行河内(ニ)1云々、本居氏、此は倭の平群(ノ)郡(236)より、伊駒山の内、南(ノ)方を超て、河内(ノ)國に至り、若江(ノ)郡を經て、難波に下る道にして、今(ノ)世に暗峠《クラガリタウゲ》といふ是なり、さて今の日下村は、此道には非ず、やゝ北(ノ)方なれども、久佐加《クサカ》と云名は、此坂より出て、古(ヘ)は此坂のあたりをも、日下《クサカ》とぞ云りけむ、さて此(ノ)道近き故に直超《タヾコエ》とは云なり、書紀神武天皇(ノ)卷に、乃還(テ)更(ニ)欲(ス)d東(方)踰2膽駒山(ヲ)1而入c中州《ウチツクニニ》u、とあるも、此(ノ)道のことなり、直越と云ことは、十二に、磐城山直超來益《イハキヤマタヾコエキマセ》、十七に、之乎路可良多太古要久禮婆《シヲヂカラタダコエクレバ》、などもありと云り、○押照哉《オシテルヤ》云々、この押照は、もと難波の枕詞にて、其本(ノ)意は、三(ノ)卷に委(ク)説るが如し、(今の歌(ノ)意へかけて思ふはわろし、)さて此(ノ)歌にては、荒木田氏(ノ)説に、押照は、此(ノ)字(ノ)意の如く、海上の照光《ヒカ》るを云言なるべし、卷(ノ)七に、押而照有此月者《オシテテラセルコノツキハ》、卷(ノ)八に、月押照有《ツキオシテレリ》、などあり、今も船人の言に、風浪もなく、和《ナギ》たる海を、ひかると云り云々といへり、其意なり、押は押並る意にて、海上一面眞平らかに、押並て照よしなり、かげろふ日記に、さきにやけにしところ、こたみはおしなぶるなりけり、とある押並るに同意なり、(但し荒木田氏(ノ)説に、難波は、和庭《ナニハ》の意にて、海上の平らかなるを見て、和庭の海と名附そめけるなるべし、といふ意にて、よめるならむといへれど、難波を、和庭の意と云るはうべなびがたし、いかにとなれば、押照《オシテル》難波といふが、此歌|作《ヨメ》るほどは、やがて既く彼(ノ)地の名の如くなりて、難波(ノ)宮を押照宮ともいひしとおもはれて、廿(ノ)卷に、櫻花伊麻佐可里奈里難波乃海《サクラバナイマサカリナリナニハノウミ》、於之弖流宮爾伎許之賣須奈倍《オシテルミヤニキコシメスナバ》、とよめるを思ふべし、さればたゞ押照と云のみへ係(237)て、難波といふ迄は、かゝらぬなるべし、さて荒木田氏は、此枕詞の發りをも、此歌によりたれども、さにはあらじ、こは老麻呂も、號《ナ》の本義を思はざるにはあらざれども、たゞ當時の興に、海上の押照意にとりなしたるのみにて、たとへば古今集に、とゞめあへすうべもとしとはいはれけり、しかもつれなくすぐる齡か、拾遺集に、秋ふかみ戀する人の明しかね、夜を長月と云にや有らむ、などよめる類に、只その時の興にとりなしてよめるにて、此等は、言の本義にかけて解ときは、いたくたがふことの多からむ、これら作者の、言の本義をとりうしなへると云ものには非ず、只當時の興に應《マカ》せたるのみなり」○歌(ノ)意は、この難波の海を、古(キ)歌に押照とよめるに、今此(ノ)直越の道より見やれば、あの難波の海上の、押照て清白に見ゆるよ、されば昔人も、難波に押照てふ名を、此草香の直超の道より見やりて、名づけそめけらし、さてもよく相應《フサヒ》たる名を負せしものぞ、と當時の景色を興じてよめるなり、本居氏の云る如く、三四一二五、と句を次第《ツイデ》て見(ル)ときは、いとはやくきこゆ、
 
山上臣憶良沈痾之時歌一首《ヤマノヘノオミオクラガヤミコヤレルトキノウタヒトツ》。
 
沈痾は、既(ク)五(ノ)卷に、この人沈v痾(ニ)自哀文あり、又老身重病、經v年辛苦、及思2兒等1歌七首、とて載たり、
 
七首の歌の奥に、天平五年六月丙申朔三日戊戌作とあれば、此(ノ)歌も其(ノ)前後に作(メ)るなるべし、
 
978 士也母《ヲトコヤモ》。空應有《ムナシカルベキ》。萬代爾《ヨロヅヨニ》。語續可《カタリツグベキ》。名者不立之而《ナハタテズシテ》。
 
(238)士也母云々は、ヲトコヤモ〔五字右○〕云々と訓べし、也《ヤ》は、也波《ヤハ》の意の也《ヤ》なり、母《モ》は、歎息(ノ)辭なり、也母《ヤモ》は、有の下にめぐらして心得べし、第一二(ノ)句の意は、男にして、空く世を過すべきやはの意なり、○之而《シテ》は、其(ノ)事をうけばりて云意のときに云詞なり、○歌(ノ)意は、末世萬代に言傳へ語繼べき、よき名を立ずして、男にして徒に世を過すべしやは、必(ズ)いみじき功を立て、よき名を末世にかがやかすべきことなるに、かく沈痾《ヤミコヤリ》ては、何の功を立ることも、心に叶はずして、空しく世をすぐすべきことゝ思ふが、口《クチ》をしき事をとなり、十九に、家持、慕v振2勇士之名1歌一首并短歌ありて、左注に、右二首追2和山上(ノ)憶良1柞歌とあるは、此(ノ)歌をさして云り、彼(ノ)歌を相照して考(フ)べし、
〔右一首。山上憶良臣沈痾之時。藤原朝臣八束。使2河邊朝臣東人1、令v問2所v疾之状1。於是憶良臣報語已畢。有v須拭v涕悲嘆口2吟此歌1。〕
河邊(ノ)東人は、續紀に稱徳天皇神護景雲元年正月己巳、從六位上川邊(ノ)朝臣東人(ニ)授2從五位下(ヲ)1、光仁天皇寶龜元年十月己丑朔辛亥、爲2石見(ノ)守(ト)1、と見ゆ、○須(ノ)字、拾穗本には、頃と作り、契冲は、須の下、臾(ノ)字を脱せるかと云り、○嘆の下、元暦本に、歸(ノ)字あり、
 
大伴坂上郎女《オホトモノサカノヘノイラツメガ》。與《オクレル》d姪家持《ヲヒヤカモチガ》從《ヨリ》2佐保《サホ》1還c歸《カヘルトキニ》西宅《ニシノイヘニ》u。歌一首《ウタヒトツ》。
 
姪は、和名抄に、爾雅(ニ)云、兄弟之子爲v甥(ト)、和名|乎比《ヲヒ》、字鏡に甥(ハ)乎比《ヲヒ》とあり、甥は乎比《ヲヒ》、姪は米比《メヒ》なれど、玉篇に、姪は昆弟(ノ)子之稱とあれば、男女に通《ワタ》りて云るなり、坂上郎女は、旅人(ノ)卿の妹にて、家(239)持(ノ)卿は、兄の子なれば、姪《ヲヒ》といへり、
 
979 吾背子我《ワガセコガ》。著衣薄《ケルキヌウスシ》。佐保風者《サホカゼハ》。疾莫吹《イタクナフキソ》。及家左右イヘニイタルマデ《》。
 
著は、ケル〔二字右○〕と訓て、著《キ》ケル〔三字右○〕の約れるなり、十五に、許能安我家流《コノアガケル》、とあるに同じ、○佐保風《サホカゼ》は、飛鳥風《アスカカゼ》、泊瀬風《ハツセカゼ》、伊香保風《イカホカゼ》、など云類にて、其(ノ)地に吹(ク)風をいふ、(新三十六人撰に、故郷のかはらの千鳥うらぶれて佐保風寒し在明の月、)○歌(ノ)意は、吾(ガ)兄子が着賜へる衣の薄ければ、いとゞ風も身にしみて寒からむぞ、西(ノ)宅に還り至るまで、佐保道の風も心して、いたく吹ことなかれとなり、
 
安倍朝臣蟲麿月歌一首《アベノアソミムシマロガツキノウタヒトツ》。
 
安倍(ノ)朝臣蟲麻呂の傳は、四(ノ)下に委(ク)云り、
 
980 雨隱《アマゴモリ》。三笠乃山乎《ミカサノヤマヲ》。高御香裳《タカミカモ》。月乃不出來《ツキノイデコヌ》。夜者更降管《ヨハクダチツヽ》。
 
雨隱《アマゴモリ》は、枕詞なり、雨降ば、笠の下に隱るものなれば、雨に隱る御笠《ミカサ》と云係たるなり、○夜者更降管は、ヨハクダチツヽ〔七字右○〕ともヨハフケニツヽ〔七字右○〕とも訓べし、クダチ〔三字右○〕は降《クダ》りと云に同じ、十九に夜具多知爾寢覺而居者《ヨグタチニネサメテヲレバ》、又|夜降而鳴河波知登里《ヨクダチテナクカハチドリ》、など見ゆ、なほクダツ〔三字右○〕と云言は、五(ノ)卷に、和我佐可理伊多久久多知奴《ワガサカリイタククダチヌ》、古今集に、もとくだちゆく我さかりはも、などあり、フケニツヽ〔五字右○〕とよめるは三(ノ)卷に、角障經石村毛不過泊瀬山《ツヌサハフイハレモスギズハツセヤマ》、何時毛將超夜者深去通都《イツカモコエムヨハフケニツツ》、七(ノ)卷に、山末爾不知夜經(240)月乎何時母《ヤマノハニイザヨフツキヲイツトキモ》、吾待將座夜者深去乍《アガマチヲラムヨハフケニツヽ》、などあり、○歌(ノ)意は、夜は更行つゝ、出べき月の出來ずあるは三笠の山の高くて東(ノ)山に障られたるが、故にてあるらむか、さても待遠やとなり、(六帖に、あまがくれ三笠の山を高みかも月の出來ず夜は更にけり、とあるは、かた/”\吟誤れり、
大伴坂上郎女月歌三首《オホトモノサカノヘノイラツメガツキノウタミツ》。
 
981 ?高乃《カリタカノ》。高圓山乎《タカマトヤマヲ》。高彌鴨《タカミカモ》。出來月乃《イデコムツキノ》。遲將光《オソクテルラム》。
 
獨高《カリタカ》(?(ノ)字、拾穗本には、獵と作り、)は、地(ノ)名なり、七(ノ)卷にも、大夫之《マスラヲノ》、弓上振起借高之《ユスヱフリオコシカリタカノ》、野邊副清照月夜可聞《ヌヘサヘキヨクテルツルヨカモ》、とよめり、姓氏録右京諸番に、雁高(ノ)宿禰の氏あり、歴史にも、雁高氏の人これかれ見えたり、皆此(ノ)地に依(レ)る氏なるべし、○出來月乃遲將光《イテコムツキノオソクテルラム》は、出來べき月の出もやらずて、てることのおそかるらむといふ意なるべし、○歌(ノ)意は、高圓山の高きが故に、其(ノ)山に障られつゝ、出來べき月の出もやらずて、てることの遲かるらむか、さてもまち遠やとなり、右の蟲麻呂(ノ)歌と、此(ノ)歌と兩首は、三(ノ)卷に、間人(ノ)宿禰大浦初月(ノ)歌に、椋橋乃山乎高可《クラハシノヤマヲタカミカ》云々、とあるに大かた同じ、
 
982 烏玉乃《ヌバタマノ》。夜霧立而《ヨギリノタチテ》。不清《オホヽシク》。照有月夜乃《テレルツクヨノ》。見者悲沙《ミレバカナシサ》。
 
不清を、オホヽシク〔五字右○〕と訓は、十(ノ)卷に、不明公乎相見而《オホヽシクキミヲアヒミテ》、とあるに同じく、意を得て書る字なり、集中に、不穢《キヨク》、不樂《サブシ》、不怜《サブシ》、不遠《マヂカク》、不通《ヨドム》、不逝《ヨドム》、など書る類なり、○見者悲沙《ミレバカナシサ》は、見者《ミレバ》は、初句の上にめぐらして心得べし、見者《ミレバ》を隔て月夜の悲しさと續く意なり、沙《サ》は、高左《タカサ》、廣左《ヒロサ》など云|左《サ》なり、既(ク)いへ(241)り、○歌(ノ)意は、見れば夜霧の立隱《タチコメ》て、おぼろに照(レ)る月のあはれに悲しさ、いかばかりぞやとなり、
 
983 山葉《ヤマノハノ》。左佐良榎壯子《ササラエヲトコ》。天原《アマノハラ》。門度光《トワタルヒカリ》。見良久之好藻《ミラクシヨシモ》。
 
左佐良榎壯子《ササラエヲトコ》(子(ノ)字、拾穗本には、士と作り、)は、舊本、歌(ノ)左に、右一首歌或云、月(ノ)別名曰2佐散良衣壯士《ササラエヲトコト》1、也、縁2此辭(ニ)1、作2此歌(ヲ)1、と註せるは、もとより後人のしわざながら、月を美《ホメ》て、佐佐良衣壯士《ササラエヲトコ》と云ことなれば、別名《マタノナ》と云るはたがはず、さて左佐良《ササラ》と云ことは、物の細《クハシ》く鮮《アザヤ》かなるを云言にて、何にても、物を美ていふ稱となれるなり、書紀允恭天皇(ノ)御歌に佐瑳羅餓多邇之枳能臂毛弘《ササラガタニシキノヒモヲ》、また此(ノ)集十四に、都可布河泊豆乃佐左良乎疑《ツカフカハヅノササラヲギ》、などあるも佐左良《ササラ》の言は皆同じ、かの左佐羅能小野《ササラノヲヌ》てふも、さるよしの名にてぞあらむ、(佐射禮石《サザレイシ》、左射禮浪《サザレナミ》、など云|左射禮《サザレ》とは、清濁の差別《タガヒ》もあれば、もとより異言なり、左射禮《サザレ》の言(ノ)意は、前に具(ク)云り、)榎壯子《エヲトコ》は、美男《エヲトコ》なり、古事記に、阿那邇夜志愛袁登古袁《アナニヤシエヲトコヲ》、とあるに同じ、(廿(ノ)卷舊本奥書桑門寂印(カ)歌に、陰羅芝代玉松之枝緒吹風赤土《クモラジヨタママツガエヲフクカゼニ》、與路津葉分野佐佐良之光波《ヨロヅハワケノツキノヒカリハ》、この月の光と云に、佐佐良之光と書るは、今の歌に依(レ)るものなり、しかれども、佐佐良は假字書なるを、いかでかツキ〔二字右○〕とはよまむ、又こゝには、左佐良榎壯子、とこそあれ、たゞに佐佐良とのみ云ては、月のことゝはきこえざるをや、さることだにわきまへずして物せるは、いとあさましきわざになむ、○見良久之好藻《ミラクシヨシモ》は、良久《ラク》は、留《ル》の延り(242)たる言、之《シ》は、例の其(ノ)一(ト)すぢなることをいふ助辭、藻《モ》は、歎息(ノ)辭なり、見る夢のあかず、さても一(ト)すぢに面白やと云意なり、○歌(ノ)意は、山(ノ)端より出來し月の、彼(ノ)高天原の、石屋戸の前をわたるその光の見る事のあかず、一(ト)すぢにさても面白やとなり、
 
豐前國娘予月歌一首《トヨクニノミチノクチノヲトメガツキノウタヒトツ》。【娘子字曰2大宅1。姓氏未v詳也。】
 
大宅は、四(ノ)卷にも豐前(ノ)國娘子大宅女(ノ)歌とてあり、
 
984 雲隱《クモガクリ》。去方乎無跡《ユクヘヲナミト》。吾戀《アガコフル》。月哉君之《ツキヲヤキミガ》。欲見爲流《ミマクホリスル》。
 
去方乎無跡《ユクヘヲナミト》は、往方しれずなりぬる故に、といふ意なり、跡《ト》は、例の助辭なり、○歌(ノ)意は、雲に隱れて、往方しれずなりぬる故に、吾(ガ)戀しく思ふ月を、吾(ガ)慕ふ如(ク)、君が見まほしくおぼすにやとなり、此(ノ)歌、源(ノ)信明の、こひしさはおなじ心にあらずとも今夜の月を君見ざらめや、と云歌の心におなじく見べしと契冲云り、
 
湯原王月歌二首《ユハラノオホキミノツキノウタフタツ》。
 
985 天爾座《アメニマス》。月讀壯子《ツクヨミヲトコ》。幣者將爲《マヒハセム》。今夜乃長者《コヨヒノナガサ》。五百夜繼許増《イホヨツギコソ》。
 
天爾座《アメニマス》は、天照日女之命《アマテラスヒルメノミコト》、とある類なり、○月讀壯子《ツキヨミヲトコ》は、古事記に、次洗2左御目(ヲ)1時、所v成神名(ハ)月讃(ノ)命、神代紀に、次生2月神(ヲ)1、一書云、月弓《ツクユミノ》尊、月夜見《ツクヨミノ》尊、月讀《ツクヨミノ》尊、と見えたり、集中に、月人壯子《ツキヒトヲトコ》ともよめり、○幣者將爲《マヒハセム》は、種々の供物など奉らむといふ意なり、既(ク)五(ノ)卷に委(ク)云り、○今夜乃長者《コヨヒノナガサ》は、四(ノ)(243)卷笠(ノ)朝臣金村得(テ)2娘子(ヲ)1作(ル)歌に、自妻跡憑有今夜秋夜之百夜乃長有與宿鴨《オノヅマトタノメルコヨヒアキノヨノモヽヨノナガサアリコセヌカモ》、とある類なり、伊勢物語に、秋の夜の千夜を一夜になずらへて、八千夜し寐ばや飽時の有む、などある類なり、長者《ナガサ》は、者《サ》は、高左《タカサ》、深左《フカサ》の左《サ》に同じく、長き事といはむが如し、○五百夜繼許増《イホヨツギコソ》(増(ノ)字、拾穗本には、曾と作り、)は、いかで五百夜續けかしとなり、○歌(ノ)意は、今夜の月の、見るにあかずおもしろきに、程なく傾き隱れむとおもふは、殘多く口をし、いでその月讀(ノ)尊よ、種々の供物など奉て乞祈《コヒネガ》はむぞ、いかで今夜の長き事、五百夜の長さ、續きてあれかしとなり、(六帖に、天に座月よみをとこまひなはむ今夜の長さいほよつげそも、とて載たり、)
 
986 愛也思《ハシキヤシ》。不遠里乃《マヂカキサトノ》。君來跡《キミコムト》。大能備爾鴨《イフシルシニカモ》。月之照有《ツキノテラセル》。
 
愛也思《ハシキヤシ》は、君と云へ係て云るなり、○不遠里《マヂカキサト》は、四(ノ)卷にも、波之家也思不遠里乎《ハシケヤシマヂカキサトヲ》云々、とあり、○大能備爾鴨は、(契冲が大きにのびやかなる意と云るは、論《イフ》に足ず、又略解に大野方《オホノベ》の意かといへるは何事ぞや、大野を大能と書べくもなし、また野方を野備《ノビ》といへることもなきをや、本居氏は、第三四(ノ)句は、君來跡之我待爾鴨《キミコトシワガマツニカモ》、とありしが、誤れるなるべしと云れど、それも通えがたし、)今按(フ)に、大能備は、云知信の誤にて、イフシルシニカモ〔八字傍線〕なるべし、君が來むと云|表《シルシ》にかと云なるべし、○歌(ノ)意は、間近き里にまします君が、來まさむといふ表《シルシ》にか、今夜わきて明かに、月の照せるならむ、さても明かなる月影や、この月影に乘《ツレ》て、來まさぬことはよもあらじ、(244)と云なるべし、
 
藤原八束朝臣月歌一首《フヂハラノヤツカノアソミガツキノウタヒトツ》。
 
987 待難爾《マチガテニ》。余爲月者《アガスルツキハ》。妹之著《イモガケル》。三笠山爾《ミカサノヤマニ》。隱而有來《コモリタリケリ》。
 
妹之著は、イモガケル〔五字右○〕と訓べし、枕詞なり。歌(ノ)意かくれたるところなし、未(タ)出やらぬ月をよめり、
 
市原王宴《イチハラノオホキミノウタゲニ》?《ホキマセル》2父安貴王《チヽアキノオホキミヲ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
市原(ノ)王の御傳は、三(ノ)下に委(ク)云り、
 
988 春草者《ハルクサハ》。後波落易《ノチハチリヤスシ》。巖成《イハホナス》。常盤爾座《トキハニイマセ》。貴吾君《タフトキアキミ》。
 
後波落易(波(ノ)字、拾穗本には者と作り、)は、ノチハチリヤスシ〔八字右○〕と訓べし、此(ノ)下に、如是爲乍遊飲與草木尚《カクシツヽアソビノミコソクサキスラ》、春者生管秋者落去《ハルハサキツヽアキハチリヌル》、とある落去も、チリヌル〔四字右○〕とよむべければなり、○巖(ノ)字、舊本に嚴と作るは誤なり、今は古寫本、古寫小本、拾穗本等に從つ、○磐(ノ)字、舊本には、盤と作り、今は類聚抄、古寫本、古寫一本、古寫小本等に從つ、(盤(ノ)字の事は、此(ノ)上にいへり、)○歌(ノ)意は、およそ草は春萠出て、盛なる時あれど、秋にいたりて、露霜にはかなくちり失るものなれば、いつも不變《カハラズ》、巖の如くとこしなへにおはしませ、吾君よとなり、諸(ノ)祝詞に、堅磐爾常磐爾齋比奉《カキハニトキハニイハヒマツリ》、茂御世爾草閇奉給?《イカシミヨニサキハヘマツリタマヒテ》、と多くあるを思(ヒ)合(ス)べし、
 
(245)湯原王打酒歌一首《ユハラノオホキミノサカホカヒノウタヒトツ》。
 
打酒は、中山(ノ)嚴水、打(ノ)字は、折の誤なるべし、しか云故は、古事記に、八潮折之酒《ヤシリヲリノサケ》と有て、酒を釀(ム)事を、折ともいひしと見えたり、又甲斐(ノ)國に酒折(ノ)宮あり、又我(ガ)土佐(ノ)國長岡(ノ)郡の内に、祈年《トシコヒ》山と云處あり、古(ヘ)祈年祭せし所なりと云傳ふ、扨そこの宮を、酒折(ノ)宮と云り、おもふに、これも古(ヘ)祈年祭の時、酒を釀し宮なりしより、しか名は負しなるべしと云う、本居氏は、打(ノ)字は、祈の誤にて、サカホカヒ〔五字右○〕とよむべしと云り、大殿祭(ノ)祝詞に、言壽(ノ)註に、古語(ニ)云|許止保企《コトホキ》、言壽(ノ)詞、如2今(ノ)壽觴之詞《サカホカヒノコトノ》1、と見えたり、ホカヒ〔三字右○〕はホキ〔二字右○〕なり、宮内省式に、大殿祭、此云2於保登能保加比《オホトノホカヒト》1、とあり、右二説、何れ是《ヨ》けむ、なほ考(フ)べし、
 
989 燒刀之《ヤキタチノ》。加度打放《カドウチハナチ》。大夫之《マスラヲノ》。?豐御酒爾《ホクトヨミキニ》。吾醉爾家里《アレヱヒニケリ》。
 
加度打放は、カドウチハナチ〔七字右○〕と訓べし、(略解に、カドウチハナツ〔七字右○〕と訓しは、いみじきひがごとなり、しか訓ては、第一二(ノ)句の意、大夫と云のみに係りて、祝(キ)事の業にならざればなり、なほ次に云べし、)契冲も云し如く、加度《カド》は稜《シノギ》を云なり、常にも稜《シノギ》をけづりてたゝかふといへり、さて酒を釀時の祝(キ)事に、稜を打放(ツ)業のありし故、かくは云るなるべし、(又本居氏の説に、放は誤字にて、收《ヲサメ》なるべきかと云るも、よしとおもはれず、又加度は、もしは目釘などのことにやと云るもいかゞ、又古事記傳に此歌を引て、吾(ノ)字は甚の誤かといへるもあたらず、)○?豐御酒爾(246)(?(ノ)字、古寫一本に、擣と作るは誤なるべし、其は打酒とあるによりて、擣(ノ)字と思へるより、さかしらに改めたるにもあるべし、御(ノ)字、類聚抄、拾穗本には无、)は、ホクトヨミキニ〔七字右○〕と訓べし、さて?《ホク》は、今より前にありしことをいふなれば、後の歌ならば、?之《ホキシ》といふべきを、かくいへるは、媛女乃袖吹反明日香風《ヲトメノソデフキカヘスアスカカゼ》、とよませ賜へるが如し、(これも後ならば、袖吹反せし、といふべきなり、)○歌(ノ)意は、燒刀の稜《カド》を打放て、大夫の祝(キ)事して、いはひ釀るこの豐御酒に、吾醉にけりと云にて、即(チ)酒釀ときの壽辭《ホキコト》に、撃刀《タチカキ》の業を用ひ、且歌ひ舞はやせしなるべし、故(レ)題詞にも、件の如くしるせるならむ、さて酒釀には、必(ス)祝(キ)事ありて歌ひはやして釀しこと、息長帶日賣(ノ)命(ノ)御歌と、建内(ノ)宿禰(ノ)命(ノ)歌とに見えて、古事記、書紀に載たるが如し、
 
紀朝臣鹿人《キノアソミカヒトガ》。跡見茂崗之松樹歌一首《トミノシゲヲカノマツノキノウタヒトツ》。
 
鹿人は、續紀に、聖武天皇天平九年九月己亥、正六位上紀(ノ)朝臣鹿人等(ニ)、授2外從五位下(ヲ)1、十二月壬戌、爲2主殿(ノ)頭(ト)1、十二年十一月甲辰、外從五位上、十三年八月丁亥、大炊(ノ)頭、など見ゆ、○跡見(ノ)茂崗、〈跡(ノ)字、舊本にはなし、今は活字本、異本等に從つ、)跡見は、八(ノ)卷に、紀(ノ)朝臣鹿人(ガ)、至2大伴(ノ)宿禰稻公(ノ)跡見庄(ニ)1作(ル)歌、射目立而跡見乃岡邊之瞿麥花《イメタテテトミノヲカヘノナデシコガハナ》云々、又大伴坂上(ノ)郎女(ガ)、跡見(ノ)庄(ニテ)作(ル)歌、妹目乎跡見之埼乃秋芽子者《イモガメヲトミノサキナルアキハギハ》云々、十(ノ)卷にも、跡見山《トミヤマ》とよめり、大和(ノ)國城上(ノ)郡にありて、今|外山《トビ》村と云り、神武天皇(ノ)紀に、及3皇軍之得2鵄(ノ)瑞(ヲ)1也、時人仍號2鵄邑(ト)1、今云2鳥見(ト)1是訛也、とある所なり、茂岡は、其(ノ)地にある岡(247)にて、八(ノ)卷に、跡見乃岳邊《トミノヲカヘ》とある、即(チ)是なり、樹木の茂きによりて、負せたる名なるべし、
 
990 茂崗爾《シゲヲカニ》。神佐備立而《カムサビタチテ》。榮有《サカエタル》。千代松樹乃《チヨマツノキノ》。歳之不知久《トシノシラナク》。
 
千代松《チヨマツ》は、千代を待と云意にいひ係たり、○歌(ノ)意は、茂岡に神々しく物ふりて立榮えたる、千代繁昌を待と云松の木の、今幾年を經たりといふ、年の數のしられねことよとなり、
 
同鹿人《オヤジカヒトガ》。至《イタリテ》2泊瀬河邊《ハツセガハノホトリニ》1作歌一首《ヨメルウタヒトツ》。
 
991 石走《イハバシリ》。多藝千流留《タギチナガルル》。泊瀬河《ハツセガハ》。絶事無《タユルコトナク》。亦毛來而將見《マタモキテミム》。
 
石走は、イハバシリ〔五字右○〕と訓べし、走り激《タギ》ち流るゝといひつゞけたり、○歌(ノ)意は、泊瀬川の流の絶る事なきが如く、石上を走り激りながるゝ川の、あかず面白きけはひを、又還り來て見つゝ愛むとなり、
 
大伴坂上郎女《オホトモノサカノヘノイラツメガ》。詠《ヨメル》2元興寺之里《グワムコウジノサトヲ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
元興寺は、即(チ)飛鳥寺なり、次にいふ、
 
992 古郷之《フルサトノ》。飛鳥者雖有《アスカハアレド》。青丹吉《アヲニヨシ》。平城之明日香乎《ナラノアスカヲ》。見樂思好裳《ミラクシヨシモ》。
 
古郷之飛鳥《フルサトノアスカ》(古(ノ)字、拾穗本には故と作り、鳥(ノ)字、舊本烏と作るは誤なり、今は類聚抄、古寫小本、拾穗本等に從つ、)は、いはゆる遠(ツ)飛鳥にて、此は大和(ノ)國高市(ノ)郡にありて、かくれもなき地なり、さて後に、都を平城にうつされてより、故郷の飛鳥とは云るなり、かくて此(ノ)飛鳥(ノ)地に、はじめ飛(248)鳥寺(即(チ)元興寺なり、)を建らる、崇峻天皇(ノ)紀に、蘇我(ノ)馬子(ノ)宿禰、壞2飛鳥(ノ)衣縫(ノ)造(ガ)祖樹葉(ガ)家(ヲ)1、始作2法興寺(ヲ)1、此地名2飛鳥(ノ)眞神(ノ)原1、亦名2飛鳥苫田1、と見えて、その時この法興寺に、元興寺をもならべ營られしなるべし、大和志に、飛鳥廢寺、高市(ノ)郡飛鳥村、一名元興寺、靈龜二年、移2寺(ヲ)於平城左京(ニ)1、今安居院此其(ノ)遺址とあり、(今飛鳥村の北、田畑の中に礎石九十ばかりありといへり、これ法興元興兩寺の舊跡なるべし、さて元亨釋書に、元興寺者、上宮太子又誓營v寺、故(ニ)於2飛鳥地1創之、推古四年成、始曰2法興寺1と見ゆ、法興寺元興寺を、一寺にせることいかゞなり、法興寺と元興寺とは、後までも別なりと思はるればなり、○平城之明日香《ナラノアスカ》は、右の如く飛鳥の地にありし、本の飛鳥寺を平城に徙し建られてより其地を、平城の飛鳥とは稱《イヘ》るなり、貞觀四年官符に、此寺(ハ)佛法元興之場、聖教最初之地也、去和銅三年帝都遷2平城1之日、詣v寺隨移2件寺1、獨留2朝廷1、更造2新寺1、備2其不v移間1、所謂本元興寺是也、とある如く、和銅三年遷都の時平城に移され、其跡へ新に寺を造られける、是いはゆる本元興寺なり、玄蕃式に、興福、元興、大安、藥師、西大、法隆、新藥師、本元興、招提、西寺、四天王、崇福等、十二寺云々とある、本元興寺即(チ)これなり、さてかゝれば、はやく和銅三年に、元興寺をば徙されたるを、續紀に、元正天皇靈龜二年五月辛卯、始徙2建元興寺于左京六條四坊(ニ)1、とあるは、いかにと云に、此は既く、平城の地にうつされたるを、其(ノ)後左京六條に、寺地をえり定められて、靈龜二年に、造營《ツク》られけるなるべし、(拾芥抄に、靈龜元年に、飛鳥の(249)法興寺を、奈良六條の第四街に遷されて、元興寺と改めさせ給ふ、是を奈良のあすか寺と云なりとあるは、いかゞなり、)さて續紀に、養老二年八月甲寅、遷2法興寺(ヲ)於新京(ニ)1云々、とあれば、法興元興兩寺共に、新都に、うつされしなり、(これにて、法興寺と元興寺とは、もとより後まで別なるをさとるべし、これを一寺としては、靈龜二年、始て左京に徙すとありて三年ばかり經て後、又新京に遷と云ること、きこえざるをや、)○見樂思好裳《ミラクシヨシモ》(好(ノ)字、舊本に、奴と作るは誤なり、今は類聚抄、古寫本、古寫一本、古寫小本、拾穗本等に從つ、)は、樂《ラク》は留《ル》の伸りたる言、思《シ》は、例のその一(ト)すぢなることをいふ助辭、裳《モ》は歎息(ノ)辭にて、見ることの、さても心にかなひて、面白やといふ意なり、○歌(ノ)意は、古郷の飛鳥の地の、風趣のすぐれて、樂しくなつかしくあれども、なほ平城には及ず、今の平城の飛鳥は見にあかず、一(ト)すぢに心にかなひて、さても面白やとなり、
 
同坂上郎女《オヤジサカノヘノイラツメガ》。初月歌一首《ミカツキノウタヒトツ》。
 
左(ノ)歌は、相聞なり、しかるを、其(ノ)逢へるとき初月のころなりし故に、即(チ)其によりて言を興したれば、初月歌と題せるなるべし、
 
993 月立而《ツキタチテ》。直三日月之《タヾミカツキノ》。眉根掻《マヨネカキ》。氣長戀之《ケナガクコヒシ》。君爾相有鴨《キミニアヘルカモ》。
 
第一二(ノ)句は、三日月の眉に似たれば、眉といはむ序なり、○眉根掻《マヨネカキ》は、人に戀らるれば、眉皮の癢(キ)といふ諺のありしこと、四(ノ)上に既くいへり、さてこゝは、人に戀らるゝに依て、此方よりも(250)戀しよしにいへるなり、○氣長戀之《ケナガクコヒシ》は、來經長《キヘナガ》く、戀しく思ひしの意なり、來經は、月日といはむが如し、上にあまた出たり、○歌(ノ)意かくれたる所なし、
 
大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチガ》。初月歌一首《ミカツキノウタヒトツ》。
 
994 振仰而《フリサケテ》。若月見者《ミカツキミレバ》。一目見之《ヒトメミシ》。人之眉引《ヒトノマヨビキ》。所念可聞《オモホユルカモ》。
 
振仰而《フリサケテ》は、振《フリ》とは、頭を振向(ク)る意にて云、仰《サケ》は放《サケ》なり、天(ノ)原を見放るは仰向(ク)故に、仰(ノ)字を書り、(六帖に、此歌を、ふりあふぎてとせるは、字に泥みたるなり、〉集中に天原振放見者《アマノハラフリサケミレバ》、と多くよめり、○眉引《マヨビキ》は、五(ノ)卷に、惠麻比麻欲毘伎《ヱマヒマヨビキ》、(十四にも、假字書見ゆ、)仲哀天皇(ノ)紀に、譬2如《ナス》美女之〓《ヲトメノマヨビキ》1有2向津國1、註に、〓此云2麻用弭枳《マヨビキト》1、など見えたり、○歌(ノ)意は頭を打振り仰向きて、三日月を見れば、たゞ一目見し、愛しき女の眉引の思ひ出られて、戀しく思はるゝ哉となり、
 
大伴坂上郎女《オホトモノサカノヘノイラツメガ》。宴《ウタゲセル》2親族《ウガラト》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
995 如是爲乍《カクシツヽ》。遊飲與《アソビノミコソ》。草木尚《クサキスラ》。春者生管《ハルハサキツヽ》。秋者落去《アキハチリヌル》。
 
乍(ノ)字、類聚抄には、管と作り、○與《コソ》は、ねがふ意の辭なり、上にあまた出たり、○尚《スラ》は、俗に、さへもといふが如し、須良《スラ》は、そのもと、幹《モト》あるものゝ、その枝葉さへもといふ意の言なり、こゝは、人間はさるものにて、草木さへも、といふ意にていへるなり、尚(ノ)字は、加也といへる意をとりて、書るなるべし、なほ二(ノ)中に委(ク)云り、○生管、落去は、サキツヽ、チリヌル〔八字右○〕と訓べし、)略解の訓は、誤(251)れり、)生(ノ)字、サキと訓例は、十(ノ)卷に、石走間二生有貌花乃《イハバシノアヒダニサケルカホバナノ》、十六に、七重花佐久八重花生跡《ナヽヘハナサクヤヘハナサクト》、などあり、これら、生はみなサク〔二字右○〕と訓べきなり、さて七(ノ)卷に、姫押生澤邊之《ヲミナヘシサキサハノベノ》、とあるを古來《ムカシヨリ》オフルサハヘノ〔七字右○〕と訓たれども、よくおもふに、これも生はサキ〔二字右○〕の借字にして、サキサハノベノ〔二字右○〕なりけり、(其は姫押《ヲミナヘシ》は枕詞にて、四(ノ)卷に、娘子部四咲澤二生流《ヲミナヘシサキサハニオフル》、十二に、垣津旗開澤生《カキツハタサキサハニオフル》、などあると同じくして、佐紀《サキ》と云地の澤なり、なほ七(ノ)卷に至りて、彼(ノ)歌の下に具(ク)云べけれど、まづかつ/\おどろかしおくにこそ、)○歌(ノ)意は、春は花咲榮る草木さへも、秋ははや露霜にあへずて、落失るならひなれば、まして、無常《ハカナキ》人間としては、とこしへに榮むことは、おもひもよらざれば、生《イケ》らむほどはかくしつゝ、親族《ウガラ》と打集(ヒ)て、宴《ウタゲ》し遊び樂ばやとねがふ意なり、
 
萬葉集古義六卷之上 終
 
(252)萬葉集古義六卷之下
 
六年甲戌《ムトセトイフトシキノエイヌ》。海犬養宿禰岡麿《アマノイヌカヒノスクネヲカマロガ》。應《ウケタマハリテ》v詔《ミコトノリヲ》歌一首《ヨメルウタヒトツ》。
 
舊本、海(ノ)字より下、行を放ちて書り、今は元暦本、拾穗本等に從て、續け書り、○岡麿は、傳未(ダ)詳ならず、○歌の上、作(ノ)字あるべし、
 
996 御民吾《ミタミアレ》。生有驗在《イケルシルシアリ》。天地之《アメツチノ》。榮時爾《サカユルトキニ》。相樂念者《アヘラクオモヘバ》。
 
御民吾は、ミタミアレ〔五字右○〕と訓べし、一(ノ)卷に、散和久御民毛《サワクミタミモ》とあり、和名抄に、日本紀(ニ)云(ク)、人民、和名|比止久佐《ヒトクサ》、一云、於保太加良《オホタカラ》、(かくはあれども、此《コヽ》はヲホタカラアレ〔七字右○〕とも、ミタカラアレ〔六字右○〕とも訓てはよろしからず、)○驗在《シルシアリ》は、かひありといはむが如し、○相樂《アヘラク》は、あへるの延りたる言なり、相る事をといふ意なり、○歌(ノ)意は、海内安穩に、天地榮えて、普き御恩澤を蒙り奉る時に、遇る事を思へば、公民吾等が、生ながらへたる、かひあることぞとなり、
 
春三月《ヤヨヒ》。幸《イデマセル》2于|難波宮《ナニハノミヤニ》1之時歌六首《トキノウタムツ》。
 
幸2于難波(ノ)宮(ニ)1は、續紀に、聖武天皇天平六年春二月辛未、行2幸難波(ノ)宮(ニ)1、戊寅、車駕還v宮(ニ)、と見えたり、
 
(253)997 住吉乃《スミノエノ》。粉濱之四時美《コバマノシジミ》。開藻不見《アケモミズ》。隱耳哉《コモリノミヤモ》。戀度南《コヒワタリナム》。
 
粉濱之四時美《コバマノシジミ》は、粉濱《コバマ》は、住吉の内の地(ノ)名なり、四時見《シジミ》は貝(ノ)名にて、そは品物解に具(ク)云り、さて貝の海中にありて、鹽を吹時に口を開れば、開《アク》といひかけ、さて開藻不見《アケモミズ》と屬《ツヅケ》て、隱《コモリ》をいはむためり序とせり、(契冲が彼(ノ)小貝を食ものは、貝の口をあけて實を拔出せば、さもせぬによせて、あけもみずとは云り、と云るは、いさゝかたがへり、)さて口を開るものをもて、開も見ずと云は、布留《フル》の早田《ワサダ》の穗には出ず、とよめる類なり、○隱耳哉《コモリノミヤモ》は、隱とは色に顯さず、心(ノ)裏にのみ隱《コメ》て思ふ意なり、也《ヤ》は、也波《ヤハ》の意の也《ヤ》、母《モ》は歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、本郷の家にある妹を、色に顯はさずて、心の裏(チ)に隱(シテ)てのみ戀しく思ひて、月日を經渡るべしやは、嗚呼さても、今は人目をつゝむに堪忍かねたれば、色にあらはして、戀しく思はむとなり、(略解に、從駕の女房を戀るなるべし、と云るは、あらじ、)
 
右一首《ミキノヒトウタハ》。作者未詳《ヨミヒトシラズ》。
 
998 如眉《マヨノゴト》。雲居爾所見《クモヰニミユル》。阿波乃山《アハノヤマ》。懸而※[手偏+旁]舟《カケテコグフネ》。泊不知毛《トマリシラズモ》。
 
阿波乃山《アハノヤマ》は、此方より遙々《ハル/”\》と見放(ケ)たるまゝ、阿波(ノ)國の山をなべて云るなるべし、(今一(ツ)思ふには、山(ノ)字は、もしくは島(ノ)字の畫のうせたるにて、粟島《アハノシマ》にはあらざるべきにや、粟(ノ)島は、仙覺(ガ)註に、讃岐國屋島、北(ニ)去(ル)百歩許(ニ)有v島、名曰2阿波島(ト)1、とある是なり、なほ委く三(ノ)卷に註《イヘ》るを見て、合(セ)考(フ)べ(254)し、)○懸而※[手偏+旁]舟《カケテコグフネ》は、阿波の山を目に懸て、※[手偏+旁]行舟の意なり、○泊不知毛《トマリシラズモ》は、泊(リ)は、船の行著て泊《ハツ》る處をいふ、毛《モ》は歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、美女の眉引の如く、遙々と雲居に見ゆる、阿波の山を目に懸て漕行舟の、著處のしられず、嗚呼さても遙なりやとなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。船王作《フネノオホキミノヨミタマヘル》。
 
船(ノ)王は、舍人親王の御子、廢帝の御弟なり、續紀に、聖武天皇神龜四年正月甲戌朔庚子、無位船(ノ)王(ニ)授2從四位下(ヲ)1、天平十五年五月癸卯、從四位上、十八年四月壬辰、爲2弾正尹(ト)1、孝謙天皇寶字元年五月丁卯、正四位下、廢帝寶字二年八月庚子朔、正四位下船(ノ)王授2從三位(ヲ)1、三年六月庚戌、詔自今以後、追2皇舍人親王(ヲ)1、宜v稱2崇道盡敬皇帝(ト)1、《廢帝ノ》兄弟妹妹悉(ニ)稱2親王(ト)1止《ト》宣云々、從三位船(ノ)王授2三品(ヲ)1、四年正月丙寅、爲2信部卿(ト)1、(中務也、)六年正月癸未、二品、八年十月壬申、稱徳天皇詔(シテ)曰、船(ノ)親王波《ミコハ》、九月五日|爾《ニ》、仲麻呂止二人謀家良久《ナカマロトフタリハカリケラク》、書作弖《フミツクリテ》、朝廷乃咎計弖將進等謀家利《ミカドノトガカゾヘテタテマツラムトハカリケリ》云々、是以《コヽモチテ》、親王乃名波下?《ミコノナハクダシテ》、諸王|等成?《トナシテ》、隱岐國爾流賜布《オキノクニニハフリタマフ》、とあり、
 
999 從千沼回《チヌミヨリ》。雨曾零來《アメソフリクル》。四八津之泉郎《シハツノアマ》。網手《ツナテ》綱〔□で囲む〕乾有《ホシタリ》。沾將堪香聞《ヌレアヘムカモ》。
 
從千沼回は、チヌミヨリ〔五字右○〕と訓べし、千沼《チヌ》は、古事記に、五瀬(ノ)命云々、到2血沼(ノ)海(ニ)1、洗(タマヒキ)2其御手之血1、故謂2血沼(ノ)海(ト)1也云々、書紀に、河内(ノ)國泉(ノ)郡茅渟(ノ)海と有、續紀に、靈龜二年三月、割2河内(ノ)國和泉日根(ノ)兩郡(ヲ)1、令v供(セ)2珍努(ノ)官《宮歟》1云々とありて、今は和泉(ノ)國なり、集中に見えたるは、七(ノ)卷に、陳奴乃海《チヌノウミ》、十一に珍海《チヌノウミ》、(255)また血沼之海《チヌノウミ》などあり、回はミ〔右○〕と訓て、(ワ〔右○〕とよみ、マ〔右○〕と訓はいとわろし、)もとほりの約りたる言なり、即(チ)めぐりと云に同じ、浦回《ウラミ》、磯回《イソミ》、島回《シマミ》、里回《サトミ》、裾回《スソミ》など、集中に多く見えたるも同じ、地(ノ)名に附て、某|回《ミ》と云るは、十八に、可敝流未能美知《カヘルミノミチ》、とある是なり、(可敝流《カヘル》は、越前敦賀(ノ)郡(ノ)地(ノ)名にて、可敝流回之道《カヘルミノミチ》、とよめるなり、)○四八津之泉郎《シハツノアマ》、(泉(ノ)字、古寫本には、白水(ノ)二字に作り、)四八津《シハツ》は、三(ノ)卷に、四極山《シハツヤマ》と見えたると同處なり、具くは彼(ノ)卷に註《シル》せり、泉郎は白水郎とあるべきを、白水(ノ)二字を合て、一字とせり、麻呂を、麿と作る類なり、白水郎と書ことは、既く具(ク)云り、○網手綱乾有、(網字、活字本には細、類聚抄、拾穗本には※[糸+因]、網(ノ)字、拾穗本には繩と作り、)は、網は鋼(ノ)字の誤、下の綱は衍文にて、ツナデホシタ〔七字右○〕なるべしと大町(ノ)稻城云り、さもあるべし、綱手は、和名抄に、唐韵(ニ)云(ク)、牽※[糸+支](ハ)挽v船繩也、訓2豆奈天《ツナテト》1、此集十一に、人事繁吾妹繩手引《ヒトコトノシゲヽキワキモツナデヒク》、從海益深念《ウミヨマサリテフカクシオモホユ》、十八に、保里江欲里《ホリエヨリ》云々、奈都乃欲波《ナツノヨハ》云々の歌の左に註して、右件(ノ)歌者、御船以2綱手1泝v江遊宴之日作也、土佐日記に、御舟よりおほせたぶなり、朝北の出來ぬさきに、綱手はやひけ、など見えたり、○沾將堪香聞は、ヌレアヘムカモ〔七字右○〕と訓べし、香《カ》は、疑の辭、聞《モ》は歎息(ノ)辭なり、雨に堪べしやは、堪ずして沾む歟、さても早く取(リ)入(レ)よかしの意なり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
右一首《ミキノヒトウタハ》。遊2覽《アソビテ》住吉濱《スミノエノハマニ》1。還《カヘリタマヘル》v宮《ミヤニ》之時道上《トキノミチニテ》。守部王《モリベノオホキミノ》應《ウケタマハリテ》v詔《ミコトノリヲ》作歌《ヨミタマヘルウタ》。
 
守部(ノ)王(王の下、舊本に、今一(ツ)の王(ノ)字あるは衍なり、今は古寫小本に无に從つ、)は、舍人(ノ)親王の御(256)子のよし、皇胤紹運録に見ゆ、續紀に、聖武天皇天平十二年正月戊子朔庚子、無位守部(ノ)王(ニ)授2從四位下(ヲ)1、同十一月甲辰、從四位上、とあり、
 
1000 兒等之有者《コラガアラバ》。二人將聞乎《フタリキカムヲ》。奧渚爾《オキツスニ》。鳴成鶴乃《ナクナルタヅノ》。曉之聲《アカツキノコヱ》。
 
兒等《コラ》は、本郷の妻をいふなり、○鶴(ノ)字、拾穗本には、多頭と作り、○歌(ノ)意かくれなし、旅情まことにいとあはれなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。守部王作《モリベノオホキミノヨミタマヘル》。
 
1001 大夫者《マスラヲハ》。御?爾立之《ミカリニタヽシ》。未通女等者《ヲトメラハ》。赤裳須素引《アカモスソビク》。清濱備乎《キヨキハマビヲ》。
 
御?爾立之《ミカリニタヽシ》、(?(ノ)字拾穗本には獵と作り、)天皇の御遊獵なれば、御?《ミカリ》といふ、立之《タヽシ》は、立賜ひと云むが如し、○歌(ノ)意かくれなし、契冲云、此(ノ)歌は、御供の男女の、おの/\その所を得てたのしぶ、君臣相合心なり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。山部宿禰赤人作《ヤマベノスクネアカヒトガヨメル》。
 
1002 馬之歩《ウマノアユミ》。押止駐余《オサヘトヾメヨ》。住吉之《スミノエノ》。岸之黄土《キシノハニフニ》。爾保比而將去《ニホヒテユカム》。
 
押止駐余は、止(ノ)字は、(一本には、上と作り、其もわろし、)合の誤にや、さらばオサヘトヾメヨ〔七字右○〕と訓べし押合《オシアヘ》は、(シア〔二字右○〕の切サ〔右○〕、)於佐閇《オサヘ》と縮ればなり、散合《チラヒ》、霧合《キラヒ》、歎合《ナゲカヒ》、隱合《カクロヒ》、などある類なり、吾(ガ)乘る馬の歩を、押へて駐めよ、と口取に令《オホ》するなり、十九に、之夫多爾乎指而吾行此濱爾月夜安伎?(257)牟馬之末時停息《シブタニヲサシテワガユクコノハマニツクヨアキテムウマシマシトメ》、とあり、○岸乃黄土《キシノハニフ》は、既く具(ク)註り、○爾保比而將去《ニホヒテユカム》は、色どり染て行むとなり、爾保比《ニホヒ》は、染るをいふ、十(ノ)卷に、染始《ニホヒソメタリ》、|應染毛《ニホヒヌベクモ》、これら爾保布《ニホフ》といふに、染(ノ)字を書たるをも、考(ヘ)合(ス)べし、○歌(ノ)意かくれなし、末(ノ)句は、此(ノ)上車持(ノ)千年が歌に同じ、又一(ノ)卷清江娘子(カ)歌の未(ノ)句も似たり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。安倍朝臣豐繼作《アベノアソミトヨツグガヨメル》。
 
豐繼は、續紀に、聖武天皇天平九年二月戊午、外從五位下阿倍(ノ)朝臣豐繼(ニ)授2從五位下(ヲ)1、とあり、
 
筑後守外從五位下葛井連大成《ツクシノミチノシリノカミトノヒロキイツヽノクラヰノシモツシナフヂヰノムラジオホナリガ》。遙2見《ミサケテ》海人釣船《アマノツリブネヲ》1作歌一首《ヨメルウタヒトツ》。
 
位(ノ)字、舊本に、倍と作るは誤なり、今は類聚抄、古寫本、古寫小本、拾穗本に從つ、○葛井(ノ)連大成(井(ノ)字、舊本に、并と作るは誤なり、今は類聚抄、古寫本、古寫一本、拾穗本等に從つ、)は、傳四(ノ)上に委(ク)云り、
 
1003 海※[女+感]嬬《アマヲトメ》。玉求良之《タマモトムラシ》。奧浪《オキツナミ》。怨海爾《カシコキウミニ》。船出爲利所見《フナデセリミユ》。
 
玉求良之《タマモトムラシ》は、玉は鰒玉なり、良之《ラシ》は、さだかにしかりとは知(ラ)れねど、十に七八はそれならむ、とおぼゆるをいふ詞なり、○船出爲利所見《フナデセリミユ》は、爲利《セリ》と歌ひ絶て、さて其(ノ)貌の目前に見ゆと云るなり、爲留《セル》といはずて、如此樣《カクサマ》に云るは、古風《イニシヘサマ》の格《サダマリ》なり、上に足引之《アシヒキノ》云々、散動而有所見《サワギタリミユ》、とある歌の下に、例を具(ク)擧たるが如し、○歌(ノ)意かくれなし、
 
(258)※[木+安]作村主益人歌一首《クラツクリノスクリマスヒトガウタヒトツ》。
 
按(ノ)字、拾穗本には鞍と作り、次の左註なるも同じ、
 
1004 不所念《オモホエズ》。來座君乎《キマセルキミヲ》。佐保川乃《サホガハノ》。河蝦不令聞《カハヅキカセズ》。還都流香聞《カヘシツルカモ》。
 
第一二(ノ)句は、思ひがけなく、めづらしく來ませる君なるものをの意なり、(略解に、君をと云より、かへしつるかも、と隔てつゞくなりと云るは、いさゝか其(ノ)心を得ざりしにや、)○歌(ノ)意は、思ひかけなく、めづらしく來座る君なるものを、されば佐保川の、面白き河鹿の聲を聞せなど、さま/”\興を盡し、心だらひに饗應《モテナ》しまゐらせてこそ、還し申すべきにさもなくして、早く還し奉りつる哉、さても殘多しやとなり、
〔右内匠寮大屬※[木+安]作村主益人。聊設2飲饌1以饗2長官佐爲王1。未v及2日斜1王既還歸。於時益人怜2惜不厭之歸1。仍作2此歌1。〕
内匠寮大屬はウチノタクミノツカサノオホキフミヒト〔ウチ〜右○〕と訓べし、内匠寮は、和名抄に、職員令(ニ)云、内匠寮|宇知乃多久美乃豆加佐《ウチノタクミノツカサ》、とあり、(竹取物語に、その時ひとつのたからなりける、うちたくみ六人をのして云々、とあれば、宇知多久美《ウチタクミ》とも唱へしか、〉大屬は、和名抄に佑官、(佑は佐の誤なるべし、)本朝職員令、二方品員等所v載云々、職寮曰v屬(ト)云々(皆佐官)とあり、この佐官をなべて古(ヘ)は布美比等《フミヒト》と唱しなり、既く委く説り、○長官は、内匠寮(ノ)頭なるべし、和名抄に、長官、(259)本朝職員令、二方品員等所v載云々、寮(ニ)曰v頭(ト)云々(已上皆|加美《カミ》、)とあり、内匠(ノ)長官となられし事は、續紀に見えず、下に引るが如し、○佐爲(ノ)王は、橘(ノ)左大臣諸兄公の弟なり、十六に、佐爲(ノ)王を、スケタメ〔四字右○〕と訓るは、後人のしわざなり、サヰ〔二字右○〕と字音に唱べし、大和(ノ)國に佐爲《サヰ》と云所あれば、それに依(レ)る名なるべし、續紀に、元明天皇和銅七年正月、授2无位佐爲(ノ)王(ニ)從五位下(ヲ)1、元正天皇養老五年正月王子、授2從五位上1、同月庚午、詔2從五位上佐爲(ノ)王云々等(ニ)1、退v朝之後令v侍2東宮(ニ)1焉、聖武天皇神龜元年二月壬子、正五位下、四年正月庚子、從四位下、天平三年正月丙子、從四位上、八年十一月丙戌、從三位葛城(ノ)王、從四位上佐爲(ノ)王等上表曰云々、壬辰、詔曰云々、一依v表賜2橘(ノ)宿禰1云々、九年二月戊午、從四位上、橘(ノ)宿禰佐爲(ニ)授2正四位上(ヲ)1、八月壬寅、中宮(ノ)大夫兼右兵衛(ノ)率正四位上橘宿禰佐爲卒、此次下に八年の標ありて、冬十一月九日、從三位葛城(ノ)王、從四位上佐爲(ノ)王等云々、と見えたり、○既(ノ)字、舊本には、※[食+旡]と作り、今は古寫一本、拾穗本等に從つ、
 
八年丙子夏六月《ヤトセトイフトシヒノエネミナツキ》。幸《イデマセル》2于|芳野離宮《ヨシヌノトツミヤニ》1之時《トキ》。山部宿禰赤人《ヤマベノスクネアカヒトガ》。應《ウケタマハリテ》v詔《ミコトノリヲ》作歌一首并短歌《ヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
夏(ノ)字より下、舊本には、行をはなちて書り、今は元暦本、拾穗本等に從て、續け書り、○幸2于芳野1云々は、續紀に、聖武天皇天平八年六月乙亥、幸2于芳野(ニ)1、七月庚寅、車駕遷v宮(ニ)、とあり、
 
1005 八隅知之《ヤスミシシ》。我大王之《ワカオホキミノ》。見給《メシタマフ》。芳野宮者《ヨシヌノミヤハ》。山高《ヤマタカミ》。雲曾輕引《クモソタナビク》。河速彌《カハハヤミ》。湍之聲曾清寸《セノトゾキヨキ》。(260)神佐備而《カムサビテ》。見者貴久《ミレバタフトク》。宜名倍《ヨロシナベ》。見者清之《ミレバサヤケシ》。此山乃《コノヤマノ》。盡者耳社《ツキバノミコソ》。此河乃《コノカハノ》。絶者耳社《タエバノミコソ》。百師紀能《モヽシキノ》。大宮所《オホミヤトコロ》。止時裳有目《ヤムトキモアラメ》。
 
見給は、メシタマフ〔五字右○〕と訓べし、(メシタマフ〔五字右○〕と訓は甚わろし、)御覽じ給ふといふなり、○山高《ヤマダカミ》は、山が高き故にの意なり、○河速彌《カハハヤミ》は、河が速き故にの意なり、○神佐備而《カムサビテ》は、山へ係ていへり、神々しく物ふりたるを云、○宜名倍《ヨロシナベ》は、河へ係て云り、勝地に應《カナ》ひて、宜しく清きを云、○此山乃《コノヤマノ》云々、絶者耳社《タエバノミコソ》云々は、此(ノ)高く清き山河の盡絶なばこそ、其時に此(ノ)大宮所も止ことこあらめ、さらずは、止時あらじとなり、さて耳社《ノミコソ》とあるは、二ながら耳《ノミ》と云る意は、此(ノ)山河の盡絶なば、止時あらむ耳《ノミ》、といふ心得なるを、かく上へうつして云るは、古言なり、いかでか止時あらむといふ意を、強くたしかに云るなり、
 
 
反歌一首《カヘシウタヒトツ》。
 
一首(ノ)二字、古寫小本、類聚抄等にはなし、
 
1006 自神代《カミヨヨリ》。芳野営爾《ヨシヌノミヤニ》。蟻通《アリガヨヒ》。高所知者《タカシラセルハ》。山河乎吉三《ヤマカハヲヨミ》。
 
自神代《カミヨヨリ》は、いづれの御時にまれ、此離宮をはじめ給へる、遠天皇の御代よりといふなり、神代は、まことの神世には非ず、上に委(ク)云り、○山河乎吉三《ヤマカハヲヨミ》は、山と河とが好き故にの意なり、○歌(ノ)意は、遠天皇の御代より、此吉野(ノ)離宮に、あり/\往來《カヨヒ》て、しろしめし給へるは、山と河との、勝(261)れて好(キ)故にこそ、しかありしなれとなり、
 
市原王《イチハラノオホキミノ》悲《カナシミタマヘル》2獨子《ヒトリコヲ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
市原(ノ)王は、三(ノ)卷に出て、彼處に具(ク)註(ヘ)り、○獨子は、五百井(ノ)女王なるべし、續妃に、天應元年二月庚寅朔丙午三品能登(ノ)内親王薨云々、内親王(ハ)、天皇(光仁)之女也、適2正五位下市原(ノ)王(ニ)1、生d五百井(ノ)女王、五百枝(ノ)王(ヲ)u、と見えたり、かゝれば、五百枝(ノ)王の未(タ)生坐ざる前の事なるべし、〔頭註、【後紀に、延暦二十年五月己巳、從四位上五百枝(玉イ)上表請賜春原朝臣姓、勅許之、五百枝者、田原天皇四代正四位下春日王曾孫、從五位上安貴王孫、正五位下市原王子、】〕
 
1007 不言問《コトトハヌ》。木尚妹與兄《キスライモトセ》。有云乎《アリチフヲ》。直獨子爾《タヾヒトリコニ》。有之苦者《アルガクルシサ》。
 
不言問《コトトハヌ》(不言、類聚抄には言不と作り、)は、物言(ハ)ぬといふ意なり、上に委(ク)云り、○木尚妹與兄《キスライモトセ》は、契冲云(ク)、木すらと云るは、木さへなり、木に子と云は、木のもとより、後に二また三またにも、いくらにも別るゝといふ歟、又實などの落て、早くおふるが陰におひたるに、のち/\又おひつづくは、人の子のおほくはらから有に似たるを云歟、拾遺集に我のみや子もたるてへばたかさごのをのへにたてる松も子もたり、(以上)木に蘖《ヒコバエ》あるが、一本のみならず、幾本ともなく、生立るを云なるべし、さて妹與兄《イモトセ》と云るは、妹兄には限らず、兄弟姉妹《アニオトアネイモ》を帶《カネ》て云る詞なり、○直獨子爾《タヾヒトリコニ》云々、九(ノ)卷遣唐使の船出する時、母の子におくれ古歌に、秋芽子乎妻問鹿許曾《アキハギヲツマトフカコソ》、一子二子特有跡五十戸《ヒトリコヲモタリトイヘ》、鹿兒自物吾獨子之《カコジモノワガヒトリコノ》、草枕客二師往者《クサマクラタビニシユケバ》云々、伊勢物語に、ひとつ子にさへ有(リ)(262)ければ、甚《イト》かなしうしたまひけり、かげろふ日記に、例のかひなきひとつ子ともおぼえざりけり、云々、など見えたり、(ひとつ子と云るは、やゝ後のことにて、ひとり子と云ぞ古言なる、)さて獨子は、五百井(ノ)女王のことゝ思はるゝに、上に云るごとく、市原(ノ)王、能登(ノ)内親王に 娶《ミアヒマシ》て、五百井(ノ)女王、五百枝(ノ)王を生よし見えたるは、いかゞあらむ、と契冲も疑ひおきたるは、さることなれど、これは未(タ)五百枝(ノ)王の、生れたまはざりしほどのことにてもやあらむ猶考(フ)べし、○苦者《クルシサ》(者(ノ)字、類聚抄には左と作り、)は、苦しき事いかばかりぞやといふ意なり、者《サ》は、、深左《フカサ》、淺左《アササ》などいふ左《サ》わたり、○歌(ノ)意は、物言ぬ木にてさへも、數々の蘖ありて、兄弟の子あるが如しと云(ヘ)ば、まして人間にしては、數々の兄弟の子等有べき事なるに、たゞ獨子にあるが悲しく苦しき事、いかばかりなるぞとなり、
 
忌部首黒麿《イミベノオビトクロマロガ》。恨《ウラムル》2友※[貝+余]來《トモノクルコトオソキヲ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
黒麿は、續紀に、孝謙天皇寶字二年八月庚子朔、正六位上忌部(ノ)首黒麻呂(ニ)授2外從五位下(ヲ)1、廢帝寶字三年十二月壬寅、忌部(ノ)首黒麻呂等七十四人(ニ)賜2姓連(ヲ)1、六年正月戊子、爲2内史局(ノ)助(ト)1、(内史局(ハ)圖書也、)と見えたり、
 
1008 山之葉爾《ヤマノハニ》。不知世經月乃《イサヨフツキノ》。將出香常《イデムカト》。我待君之《アガマツキミガ》。夜者更降管《ヨハクダチツヽ》。
 
不知世經月《イサヨフツキ》は、出べくして出ぬ月を云(フ)、なほ不知世經《イサヨフ》の言、既く三(ノ)卷に出て註(ヘ)り、○末(ノ)句は、吾(ガ)(263)待居る君が、夜は更降《クダ》ちながら未(ダ)來らぬよ、と恨るよしのいひつゞけなり、○歌(ノ)意、本句は序にて、いさよふ月の出來むかと待如くに、友の來るを望待内に、夜は更ながら來らぬよと恨み云るなり、七(ノ)卷に、詠v月、山末爾不知與歴月乎將出香登《ヤマノハニイサヨフツキヲイデムカト》、待乍居爾與曾降家類《マチツヽヲルニヨソクダチケル》、山末爾不知夜經月乎何時母《ヤマノハニイサヨフツキヲイツトカモ》、吾待將座夜者深去乍《ワガマチヲラムヨハフケニツヽ》、などあるは、よく似たる歌なり、
 
冬十一月《シモツキ》。左大辨葛城王等《ヒダリノオホキオホトモヒカヅラキノオホキミタチニ》。賜《タマヘル》2姓橘氏《タチバナノウヂヲ》1之時御製歌一首《トキミヨミマセルオホミウタヒトツ》。
 
左大辨(辨(ノ)字、舊本に臣とあれど、今は古寫本、拾穗本等に從つるなり、此(ノ)時天平八年にて、いまだ左大辨なりければなり、次に引(ク)續紀の文を考て、一本の是《ヨキ》を知(ル)べし、)は、ヒダリノオホキオホトモヒ〔ヒダ〜右○〕と訓べし、和名抄に、職員令(ニ)云、左右大辨(ハ)於保伊於保止毛比《オホイオホトモヒ》、とあり、(伎を伊と云るは後の音便なり、上に委(ク)云り、)○葛城(ノ)王は、諸兄公なり、御傳次下に云べし、○賜2姓橘氏1は、天平八年までは葛城(ノ)王にておはしけるを、次に續紀を引如く、母の橘(ノ)三千代の姓をつがまくおもほして、こたみ表《マヲシブミ》をもてこはれけるゆゑに、橘(ノ)宿禰(ノ)姓を給ひ、後に改て朝臣の姓をたまへるなり、
 
1009 橘花者《タチバナハ》。實左倍花左倍《ミサヘハナサヘ》。其葉左倍《ソノハサヘ》。妓爾霜雖降《エニシモフレド》。益常葉之樹《イヤトコハノキ》。
 
橘花《タチバナ》(花(ノ)字、拾穗本にはなし、)は、品物解に具(ク)註(ヘ)り、○第二三(ノ)句は、俗に、實まで花まで其(ノ)葉まで、といふに同じ、左敝《サヘ》とは、もとよりある事のうへに、事の副《ソハ》りたるをいふ言なればなり、集中に、(264)副并等の字を書るも其(ノ)意なり、此は幹《モト》はさらにて、實花葉までのよしなり、○枝爾霜雖降は、エニシモフレド〔七字右○〕と、本居氏のよめるぞよろしき、(枝をエダ〔二字右○〕と訓ては、こゝはわろし、)枝をエ〔右○〕とのみ云る例は、(上枝《ホツエ》下枝《シヅエ》など云類はさらなり、)三(ノ)卷に、春霞春日里之殖子水葱《ハルカスミカスガノサトノウヱコナギ》、苗有跡三師柄者指爾家牟《ナヘナリトミシエハサシニケム》、かげろふ日記、卷(ノ)未に載たる歌に、かばかりもとひやはしつるほとゝぎす、花橘のえにこそありけれ、などあり、○益常葉之樹は、イヤトコハノキ〔七字右○〕と訓るよろし、常葉《トコハ》は、冬枯せぬを云り、(常磐と云とは異なり、)十八橘(ノ)歌に、霜於氣騰母其葉毛可禮受常磐奈須伊夜佐加波延爾《シモオケドモソノハモカレズトキハナスイヤサカハエニ》、とあるが如し、常葉《トコハ》と云る例は、十四に、志良登保布乎爾比多夜麻乃毛流夜麻能宇良賀禮勢那奈登許波爾毛我母《シラトホフヲニヒタヤマノモルヤマノウラガレセナナトコハニモガモ》(末(ノ)句(ノ)意は無《ナヽ》2末枯《ウラガレセ》1常葉《トコハ》にもがななり、)續紀に、元正天皇養老五年十月庚寅、太上天皇(元明)又詔曰(ク)云々、又其(ノ)他(ハ)者皆殖2常葉之樹(ヲ)1、(これはみやまひおもりまして、崩《カムアガリ》たまはむとおもほしめして、さま/”\の事遺勅せさせたまふ中に、御葬をかろくして、御さゞきのめぐりに、松杉のたぐひの冬枯せぬ木を殖よ、とおほせおかるゝよしなり、)○大御歌(ノ)意は契冲が、橘は、實も花も葉もめでたくて、霜はおけどもます/\さかゆる木なりとて、忠功ありて、子孫繁昌すべきことによせて、いはひて給はせたまふなりと云るが如し、
〔右冬十一月九日。從三位葛城王。從四位上佐爲王等。辭2皇族之高名1。賜2外家之橘姓1已訖。於時太上天皇。皇后。共在2于皇后宮1。以爲2肆宴1。而即御2製賀v橘之歌1。并賜2御酒宿禰等1也。或云、此歌一首。太(265)上天皇御歌。但天皇皇后御歌各有2一首1者。其歌遺落未v得2探求1焉。今檢2案内1。八年十一月九日。葛城王等。願2橘宿禰之姓1上v表。以2十七日1。依v表乞賜2橘宿禰1。〕
葛城(ノ)王は、續紀に、元明天皇和銅三年春正月壬子朔戊午、授2無位葛木(ノ)王(ニ)從五位下(ヲ)1、元正天皇養老元年正月乙巳、從五位上、五年正月壬子、正五位下、七年正月丙子、正五位上、聖武天皇神龜元年二月壬子、從四位下、天平元年三月甲午、正四位下、九月乙卯、爲2左大辨(ト)1二年九月丙子、任2催造司監(ニ)1、本官如v故、三年八月丁亥、詔依2諸司(ノ)擧(ニ)1、擢2左大辨正四位下葛城(ノ)王等六人(ヲ)1、並爲2參議1、四年正月乙巳朔甲子、從三位、八年十一月壬辰、詔曰、一依v表(ニ)賜2橘(ノ)宿禰(ヲ)1、九年九月己亥、從三位橘(ノ)宿禰諸兄(ヲ)爲2大納言(ト)1、十年正月庚午朔壬午、授2正三位(ヲ)1拜2右大臣(ニ)1、十二年正月甲午朔丙午、從二位、十二年十一月甲辰、正二位、十五年五月癸卯、從一位左大臣、十八年四月丙戌、兼|大《マ、》宰(ノ)帥、孝謙天皇勝寶元年四月甲午朔丁未、正一位、二年正月庚寅朔乙巳、賜2朝臣(ノ)姓(ヲ)1、同八歳(七年改v年爲v歳、三月丙戌、致仕、天平寶字元年正月庚戌朔乙卯、前左大臣正一位橘(ノ)朝臣諸兄薨(ス)、大臣(ハ)贈從二位栗隈(ノ)王之孫、從四位下美努(ノ)王之子也、と見えたり、(和泉志に、前左大臣橘朝臣諸兄墓、在2泉南(ノ)郡、久米田村(ニ)1、藤原植通公、詣v此詠2和歌1曰、橘の香をなつかしみ來て見れば實さへ花さへ跡さへもなし、)○賜2外家之橘姓1は、續紀に、天平八年十一月丙戌、從三位葛城王、從四位上佐爲(ノ)王等上v表曰(ク)、臣葛城等言云々、葛城(ガ)親母贈從一位縣犬養橘(ノ)宿禰、上歴2淨御原(ノ)朝廷(ヲ)1、下逮2藤原(ノ)大宮(ニ)1、事v君(ニ)致v命(ヲ)、移v孝(ヲ)(266)爲v忠(ト)、夙夜忘v勞(ヲ)、累代竭v力(ヲ)、和銅元年十一月二十一日、供2奉擧v國大甞(ニ)1、二十五日御宴、天皇譽2忠誠之至(ヲ)1、賜2浮杯之橘(ヲ)1、勅(シテ)曰、橘(ハ)者菓子(ノ)長、上人(ノ)所v好、柯凌2霜雪(ヲ)1而繁茂(シ)、葉經2寒暑(ヲ)1而不v彫(マ)、與2珠玉1共(ニ)競v光(ヲ)、交2金銀(ニ)1以逾美(ナリ)、是以汝姓者、賜(フ)2橘(ノ)宿禰(ヲ)1也、而今無2繼嗣1者、恐失2明詔(ヲ)1云々、是以臣葛城等願(ハ)賜2橘(ノ)宿禰之姓(ヲ)1、戴2先帝之原命(ヲ)1、流2橘氏之殊名(ヲ)1萬歳無v窮千葉相傳壬辰詔(シテ)曰、省2從三位葛城(ノ)王等(カ)表(ヲ)1、因《具水》知2意趣(ヲ)1、王等情深謙讓、志在v顯(ニ)v親(ヲ)、辭2皇族之高名(ヲ)1、請2外家(ノ)之橘(ノ)姓(ヲ)1、尋思(ニ)所v執誠(ニ)得(タリ)v時、宜d一依v表令c賜2橘宿禰(ヲ)1、千秋萬歳相繼無uv窮、さて此表を見るに、贈從一位縣犬養橘(ノ)宿禰は、三千代にて、淡海公の室なり、十九に歌あり、彼處に具(ク)註べし、さて契冲も云し如く、此三千代、初(メ)美努(ノ)王に娶《ア》ひ、葛城(ノ)王、佐爲(ノ)王を生て、美努(ノ)王のうせられける後、淡海公の室となられけるなるべし、○於時太上天皇皇后、(皇々の間、活字本に太上(ノ)二字あるはいかゞ、)天皇の下に、今一(ツ)天皇の二字をおとせり、或は下の皇后の二字、すなはち天皇を誤れるか、そのゆゑは、つ次に共(ニ)在2于皇后(ノ)宮(ニ)1といへば上に皇后といはずとも、共におはしますこと明かなればなり、と契冲云り、太上天皇は、元正天皇なり、天皇は、聖武天皇なり、皇后は、續紀に天平元年八月戊辰、詔立2正三位藤原(ノ)夫人(ヲ)1爲2皇后(ト)1、とあるこれなり、猶八(ノ)卷に云べし、(又思ふに、もしは活字本の太上は、天皇の誤にてもあるべきか、)○探求焉、(探(ノ)字、活字本に探、求(ノ)字、古寫本に來と作るはわろし、)焉(ノ)字、舊本に爲と作るは誤なり、今は古寫小本、拾穗本等に從つ、○案内、内(ノ)字、異本に同と作るは誤なり、〔頭註、【安齋隨筆四、秉燭譚(267)云、案と云は、公義の文書のひかへなり、今口宣と云是なり、格の内に、檢案内と云こと多し、ひかへの内を、吟味する事見えたり、貞丈按、案字は洪式正韻彙篇に、考驗也と註あり、公義の書きとめひかへは、後日に事を考べき爲に、書留置ものなるものゆゑ、案と云なり、】〕
 
橘宿禰奈良麿《タチバナノスクネナラマロガ》。應《ウケタマハリテ》v詔《ミコトノリヲ》歌一首《ヨメルウタヒトツ》。
 
奈良麻呂は、諸兄大臣の長男にて、母は淡海公の女、從三位多比能(ノ)朝臣なり、(公卿補任に出(ツ)、)續紀に、聖武天皇天平十二年五月乙未、天皇幸2右大臣(ノ)相樂(ノ)別業(ニ)1、宴飲酣暢、授2大臣(ノ)男無位奈良麻呂(ニ)從五位下(ヲ)1、同十一月甲辰、授2從五位上(ヲ)1、十三年七月辛亥、爲2大學(ノ)頭(ト)1、十五年五月癸卯、正五位上、十七年九月戊午、爲2攝津(ノ)大夫(ト)1、十八年三月壬戌、民部(ノ)大輔、十九年正月丁丑朔丙午、從四位下、孝謙天皇勝寶元年四月甲午朔、從四位上、同閏五月甲午朔、爲2侍從(ト)1、同七月甲午、爲2參議(ト)1、(二年正月庚寅朔乙巳、左大臣正一位橘(ノ)宿禰諸兄(ニ)賜2朝臣(ノ)姓(ヲ)1、とある、此(ノ)時より朝臣(ノ)姓となれるなり、)四年十一月乙巳以2參議從四位上橘(ノ)朝臣奈良麻呂(ヲ)1、爲2但馬因幡(ノ)按察使(ト)1、兼令v※[手偏+僉]2※[手偏+交]伯耆出雲石見等(ノ)國非違(ノ)事(ヲ)1、六年正月壬子、正四位下、寶字元年六月壬辰、爲2左大辨(ト)1、さて六月甲辰、山背(ノ)王密事を告らるゝによりて、流罪死刑等にあへる人多し、安宿(ノ)王、黄文(ノ)王、鹽燒(ノ)王、道祖(ノ)王、橘(ノ)奈良麻呂を張本《モトヰ》とするよし、具(シ)く續紀に見えたり、(本居氏云、奈良麻呂は、いかになられけむ、其(ノ)終(リ)の見えざるは漏たる歟、はたよし有て記されざる歟、いぶかし、公卿補任に、天平勝寶九年七月二日、謀反伏誅、或説遠流者如何、と有(リ)、まことに配流とはおぼえず、)續後紀に、承和十年八月辛未、詔(268)曰、无位橘(ノ)朝臣奈良麿云々、宜d寛(シテ)2典式(ヲ)1賁cv幽憤u、可v贈2從三位(ヲ)1、十四年十月丁酉、詔贈大納言從三位橘(ノ)朝臣奈良麻呂、更(ニ)贈2太政大臣正一位(ヲ)1、崇2帝戚(ヲ)1也、これは奈良麿(ノ)卿は、仁明天皇の御外曾祖父なりしがゆゑなり、
 
1010 奥山之《オクヤマノ》。眞木葉凌《マキノハシノギ》。零雪乃《フルユキノ》。零者雖益《フリハマストモ》。地爾落目八方《ツチニオチメヤモ》。
 
眞木葉凌《マキノハシノギ》、(眞(ノ)字、舊本に、直と作るは誤なり、今は類聚抄、古寫一本、古寫小本、拾穗本等に從つ、)眞木は檜なり、三(ノ)卷に、奥山之菅葉凌零雪乃《オクヤマノスガノハシヌギフルユキノ》云々、とあるに同じ、(夫木集に、いづみなるあら山櫻咲ぬらし眞木の葉凌かゝる白雲、)○零者《フリハ》は、舊者《フリハ》の意を兼たり、○歌(ノ)意は、表には、奥山の檜(ノ)葉を押なびけてふる雪の、甚くふりまさるとも、橘のなれる其(ノ)實は、地に落むやはと云るにて、裏には、上に引る如く、續紀(ノ)詔に、辭2皇族之高名(ヲ)請2外家之橘姓(ヲ)1云々、とあるを應《ウケ》て、もと皇族なれば、たとひ年經て舊(リ)は益るとも、御恩頼の薄くなる代はあるまじければ、さらに、零落《オチツ》ることはあらじ、さてもありがたくたのもしや、との意なるべし、
 
冬十二月十二日《シハスノトヲカマリフツカノヒ》。歌※[人偏+舞]所之諸王臣子等《ウタマヒドコロノオホキミマヘツキミタチ》。集《ツドヒテ》2葛井連廣成家《フヂヰノムラジヒロナリガイヘニ》1。宴歌二首《ウタゲセルウタフタツ》。
 
歌※[人偏+舞]所は、ウタマヒドコロ〔七字右○〕と訓べし、和名抄に、職員令云、雅樂寮(ハ)、宇多末比乃豆加左《ウタマヒノツカサ》、とあり、○子(ノ)字、類聚抄、拾穗本等にはなし、○廣成は、此(ノ)上に出たり、
 
比來古※[人偏+舞]盛興。古歳漸晩。理宜d共盡2古情1。同唱c此歌u。故擬2此趣1。輙獻2古曲二(269)節1。風流意氣之士。儻在2此集之中1。爭2發念1。心々和2古體1。
 
※[人偏+舞](ノ)字、拾穗本には、舞と作り、○與(ノ)字、舊本に、與と作るは誤なり、今は古寫本、古寫小本、拾穗本等に從つ、○輙(ノ)字一本にはなし、○在(ノ)字、舊本に有と作るは誤なり、今は古寫小本に從つ、○此集とは、即(チ)葛井(カ)家の集宴なり、○〔頭註、【玉勝間五、俗言に、何とぞして、どうぞなどいふを、物語ぶみ又歌にも、いかでといふはつね也、然るに大江匡衡爲2左大臣1、供2養淨妙寺1願文に、我若向後至2大位1、心事相諧者、爭於2此山脚1造2一堂1、云々とあり、漢文にはめづらし、按に、此處の爭發の爭と同じからむか、尋ぬべし、】〕
 
1011 我屋戸之《ワガヤドノ》。梅咲有跡《ウメサキタリト》。告遣者《ツゲヤラバ》。來云似有《コチフニニタリ》。散去十方吉《チリヌトモヨシ》。
 
來云似有《コチフニニタリ》は、來《コ》よと云に似たりなり、今ならば來よと云つべき處を、來《コ》とのみ云は、好見《ヨクミ》よと云意の處を、好見《ヨクミ》と云と同(シ)例なり、(かげろふの日記に、きむぢは喚《ヨバ》む時にことて、おはしましぬとて云々とあるも、來よとての意なり、枕册子に、少し遠き柱もとに居たるを御覽じつけて、こちこと仰られたれば云々、大和物語に、胸つぶれて、こちこといひて、文をとりて見れば云々、などあるも同じ、)古今集に、月夜《ツクヨ》よし夜よしと人に告遣(ラ)ば來《コ》てふに似たり待ずしも非ず、とあるも、今の歌を本歌《モト》として詠り、と覺ゆるなり、○散去十方吉《チリヌトモヨシ》は、雖《トモ》v散《チリヌ》縱《ヨシ》なり、吉《ヨシ》は、借字《カリモジ》なり、○歌(ノ)意は、梅(ノ)花盛に咲たり、と人の許《ガリ》告遣ば、それがやがて、見に來よと云と、同じやうの意なり、さて後散ぬとも、縱《ヨシ》や恨はあらじ、斯(ク)告やらば、さりとては見に來《キタ》るべしと云意なり、
 
1012 春去者《ハルサレバ》。乎呼理爾乎呼里《ヲヲリニヲヲリ》。?之《ウグヒスノ》。鳴吾島曾《ナクアガシマソ》。不息通爲《ヤマズカヨハセ》。
 
(270)乎呼理爾乎呼里《ヲヲリニヲヲリ》、此はわゝ/\と繁きを云詞にて、其は二(ノ)卷に、本居氏(ノ)説を引て、具(ク)註(ヘ)るが如し、さてこゝは、前栽《セサイ》の木立(チ)繁く、花の咲を云ならむ、花といはずても、花ときこゆるは、集中に、高槻の村ちりにけるかも三笠の山は咲にけるかも、などよめる如く、咲散とのみ云て、花黄葉を知らせたると同じ、乎呼理《ヲヲリ》と云に、其(ノ)意を含《フクマ》せたり、即(チ)他所に花咲乎呼理《ハナサキヲヲリ》、とよめるをも思ふべし、○吾島《アガシマ》と云るは、前栽作(リ)庭などの類を云べし、○歌(ノ)意は、今は冬の末にて、程なく春になりなば、木立繁く花の咲て、いとゞ面白き吾前栽のけしきなるぞ、今よりつゞきて、息ず通ひ來給へとなり、一(ノ)卷未に、長(ノ)皇子與2志意(ノ)皇子1於2佐紀(ノ)宮1倶(ニ)宴(スル)歌に、秋去者今毛見如妻戀爾《アキサラバイマモミルゴトツマコヒニ》、鹿將鳴山曾高野原之宇倍《カナカムヤマソタカヌハラノウヘ》、とあるは、春秋かはれるのみにて、其意ばえいとよく似たり、
 
九年丁丑春正月《コヽノトセトイフトシヒノトウシムツキ》。橘少卿并諸大夫等《タチバナノオトマヘツキミマタマヘツキミタチノ》。集《ツドヒテ》2彈正尹門部王家《タヾスツカサノカミカドベノオホキミノイヘニ》1。宴歌二首《ウタゲセルウタフタツ》。
 
舊本、春(ノ)字より下、行をはなちて書り、今は元暦本、拾穗本等に從て、續け書り、○橘(ノ)少卿は、橘(ノ)宿禰|佐爲《サヰ》なり、少卿は、オトマヘツキミ〔七字右○〕と訓べきにや、此は其世に、兄諸兄大臣を大卿と稱し、それに對へて、弟佐爲を少卿と稱せしなるべし、(兄を大といふことは、長女を、大い君とも、大い子とも云ること、中昔までもしかり、)さて諸兄大臣は、正一位までにのぼられ、殊に皇族なれば、卿と稱むこと勿論なり、されば常に弟王に封へて、大卿と稱し、それにひかれ對へて、佐爲(271)を少卿と稱しなり、(佐爲は四位にて卒られければ、公の定にていへば、卿をもて稱べき謂なきことなり、抑々卿とは、三位以上の人に、氏名の下に付て某(ノ)卿と稱こと、古(ヘ)よりの定なればなり、しかれども私には、貴むべきよしあるときは、四位五位の人をも、卿をもて呼しこと、かたがた例ありて、既《サキ》に具(ク)ことわれる如くなれば、疑ふべきに非す、)○集(ノ)字拾穗本には、會と作り、
 
1013 豫《アラカジメ》。公來座武跡《キミキマサムト》。知麻世婆《シラマセバ》。門爾屋戸爾毛《カドニヤドニモ》。珠敷益乎《タマシカマシヲ》。
 
歌(ノ)意は、かねてより、君來産むと知たりせば、門前にも屋前にも、玉を敷滿て待迎ましものを、思ひかけなく來座る故に、しかせざりし事の、口をしき事ぞ、と饗應《アルジマウケ》のすくなきを、謝《コトワ》り申し給へるなり、十一に、念人將來跡知者八重六倉《オモフヒトコムトシリセバヤヘムグラ》、覆庭爾珠布益乎《オホヘルニハニタマシカマシヲ》、十八に、保里江爾波多麻之可麻之乎大皇乎《ホリエニハタマシカマシヲオホキミノ》、美敷禰許我牟登可年弖之里勢婆《ミフネコガムトカネテシリセバ》、十九に、牟具良波布伊也之伎屋戸母大皇之《ムグラハフイヤシキヤドモオホキミノ》、座牟等知者玉之可麻思乎《マサムトシラバタマシカマシヲ》、などあるを思ひ會すべし、
 
右一首主人門部王《ミギノヒトウタハアロジカドベノオホキミ》。【後賜2姓大原眞人氏1也。】
 
註の九字、一本にはなし、
 
1014 前日毛《ヲトツヒモ》。昨日毛今日毛《キノフモケフモ》。雖見《ミツレドモ》。明日左倍見卷《アスサヘミマク》。欲寸君香聞《ホシキキミカモ》。
 
前日毛はヲトツヒモ〔五字右○〕と訓べし、(契冲が、第四に、前年とかきて、ヲトヽシとよめるに准ずれば、是をヲトヽヒ〔四字右○〕ともよむべしと云るはあらず、抑々ヲトツヒ〔四字右○〕のツ〔右○〕は助字にて、ヲト〔二字右○〕年と云とき(272)は、ツ〔右○〕の助字なきのみなれは、准《ナズラヘ》てヲトトヒ〔四字右○〕とよむべきよしなし、もし准て云ば、ヲトヒ〔三字右○〕とこを云べけれ、)十七に、山乃可比曾許登母見延受乎登都日毛《ヤマノカヒソコトモミエズ》、昨日毛今日毛由吉能布禮禮婆《ヲトツヒモキノフモケフモユキノフレレバ》、とあり、彼津日《ヲチツヒ》の謂《ヨシ》なり、ヲチ〔二字右○〕とヲト〔二字右○〕と親(ク)通へり、乎登年《ヲトトシ》と云も、彼年《ヲチトシ》の謂なり、○歌(ノ)意かくれたる所なし、心ある主人を美て云るなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。橘宿禰文成《タチバナノスクネアヤナリ》。【即少卿之子也。】
 
橘(ノ)文成、目録に橘文明と作るは誤か、文成は、アヤナリ〔四字右○〕と唱(ヘ)しならむ、(略解に、フミナリ〔四字右○〕とよめるはいかゞ、)此(ノ)人の傳未(タ)詳ならず、續紀に、孝謙天皇天平勝寶三年正月辛亥、賜2文成(ノ)王(ニ)甘南備眞人(ノ)姓(ヲ)1、と有は、同名異人か、若(シ)同人ならば、初橘(ノ)宿禰(ノ)姓を賜ひ、後に甘南備(ノ)眞人(ノ)姓を賜はれるよし有べきに、記し漏されたるか、されど橘氏を、甘南備に改め賜ひし事もいぶかし、猶考(フ)べし、○註の六字、此も一本にはなし、
 
榎并王《エノヰノオホキミノ》。後退和歌一首《ノチニオヒテコタヘタマヘルウタヒトツ》。
 
榎井(ノ)王は、續紀に、廢帝寶字六年正月庚辰朔癸未、授2无位榎井(ノ)王(ニ)從四位下(ヲ)1、六月戊辰、散位從四位下榎井(ノ)王卒(ス)、とあり、○古寫本、一首の下に、志貴(ノ)親王之子也と註《シル》せり、契冲云(ク)或書に、志貴(ノ)皇子の御子とす、光仁天皇の御弟にや、無位より從四位下に敍せられたれば、さもありぬべし、
 
1015 玉敷而《タマシキテ》。待益欲利者《マタエシヨリハ》。多鷄蘇香仁《タケソカニ》。來有今夜四《キタルコヨヒシ》。樂所念《タヌシクオモホユ》。
 
(273)待益欲利者、今按(フ)に、此歌は門部(ノ)王の、門に屋戸にも珠敷(カ)ましを、とよめるにこたへて、よまれたる意ときこゆるに、待益《マタエシ》とありては、主《アロジ》方の詞ときこえて、客方《マラヒト》の意とは聞えがたし、故(レ)思ふに、益は、衣四(ノ)二字なりけむを、寫し誤れるものならむか、さらばマタニエヨリハ〔七字右○〕と訓べし、マタエシ〔四字右○〕は、待《マタ》れしといふ意の古言なり、○多鷄蘇香仁《タケソカニ》、此詞、此處のみに見えて他に見えず、不意の謂と聞えたり、(略解に、たけは、集中かた/\と云るに同じ、そかは、おろそかの意なるを合せ云詞なりと云るは、聞とりがたし、又荒木田氏が、たけは、凌礫の意、七(ノ)卷に、八船多氣《ヤフネタケ》とあるは、荒海の波を凌ぎて、船を※[手偏+旁]出すをいふ、土佐日記にたけどもたけども、船はしぞきにしぞきてとあるも、波をしのぎても、しのぎても、船の退くなり、又十四に、可奈之伎我古麻波多具等毛和波素登毛波自《カナシキガコマタハタグトモワハソトモハジ》、又馬たぎゆきて、など云る類のたぎも、たぐも、凌ぐなり、又武をたけと云も、凌ぐ意なり、そかは、ひそか、みそか、かすかなど云、そか、すか同言にて、そはひそけき、みそけき、かそけき、と通ふ言なれば、たけそかは、たけしけきなり、然れば右の歌は、玉敷て待設る所にいたらむよりは、おもひかけぬところへ、おしかけて凌ぎ來れる今夜が、かへりて樂しくおぼゆると云意なり、と病床漫筆に記せり、しかれども、おしかけて凌ぎ來れる意とせむことは、いかゞなり、をは凌ぎ來らむは、風雨などのあらき時節《ヲリ》か、又は草木の生繁りて、通ひがたき處を、強て分(ケ)來るよしならば、さもあるべきを、さるこゝろにあらざればなり、又(274)駒は多具《タグ》とも、又馬たぎ行てなどは、手綱をたぐる意なるをや、をは鋼を手ぐるといはずても、たゞ馬をたぐと云(ヘ)ば、やがて鋼をたぐることゝ聞ゆるは、たとへば馬の口を取と云て、馬の口輪緒《クツワヅラ》を取ことゝ聞ゆるが如し、この馬たぐのたぐを、凌ぐ意と見ては、駒はたぐともは、駒を凌ぐ意、又馬たぎ行ては、馬を凌ぎ行ての意とこそ聞ゆれ、又武を凌ぐ意と云るも非なり、武は、たけき、たけくなど、活用《ハタラキ》て、たき、たくなどはたらく言にあらぬをや、此説は無用《イタヅラ》の穿鑿なるべし、たゞたけそかは、不意のよしと見てあらむこと、穩なるべし、)○歌(ノ)意は、門前にも屋前にも、玉しきみてゝ待設られしよりは、念ひかけなく來あひて、今日の宴にあへるが、中中に興ありて樂しく思はるゝとなり、
 
春二月《キサラキ》。諸大夫等《マヘツキミタチ》。集《ツドヒテ》2左少辨巨勢宿奈麻呂朝臣家《ヒダリノスナヰオホトモヒコセノスクナマロノアソミノイヘニ》1。宴歌一首《ウタゲセルウタヒトツ》。
 
宿奈麻呂は、續紀に、神龜五年五月丙辰、正六位下巨勢(ノ)朝臣少麻呂等(ニ)授2外從五位下(ヲ)1。天平元年二月壬申、少納言云々、三月甲午、從五位下、五年三月辛亥、從五位上、とあり、
 
1016 海原之《ウナハラノ》。遠渡乎《トホキワタリヲ》。遊士之《ミヤビヲノ》。遊乎將見登《アソブヲミムト》。莫津左比曾來之《ナヅサヒソコシ》。
 
遊士、(士(ノ)字、舊本に土と作るは誤なり、今は類聚抄、古寫一本、古寫小本、拾穗本等に從つ、)ミヤビヲ〔四字右○〕と訓(ム)こと既く云り、○莫津左比《ナヅサヒ》は、浪漬傍《ナヅサヒ》にて、海河などに浮ぶときいふ詞にて、既く具(ク)註るが如し、○歌意、左の文を見るに、主の方の女房などの、物の隙より、酒宴の席にある人をか(275)いま見て、時の興に遊士の遊ぶを見むとて、仙女の蓬莱よりぞ、遠き海路を渡り來しとよみて、壁に懸しなり、
〔右一首。書2白紙1懸2著屋壁1也。題云。蓬莱媛所嚢。※[草冠/縵]爲2風流秀才之士1矣。期凡客不v所2望見1哉。〕
莱(ノ)字、舊本に菜と作るは誤なり、今は類聚抄、古寫本、拾穗本等に從つ、○所嚢云々(所の下、類聚抄、活字本等に作(ノ)字あり、嚢(ノ)字古寫本には〓と作り、契冲は、嚢疑賚(ノ)字(ノ)訛(ナラン)と云り、されどいかゞ、)春海云、所の下、一本に作(ノ)字あれば、嚢は焉の誤、※[草冠/縵]は謾の誤にて、仙媛所v作焉謾(ニ)爲2風流秀才之士1矣、なるべし、○古寫小本に、見哉の下に、作者未詳と註せり、
 
夏四月《ウヅキ》。大伴坂上郎女《オホトモノサカノヘノイラツメガ》。奉《マツレル》v拜《ヲロガミ》2賀茂神社《カモノカミノヤシロヲ》1之時《トキ》。便|超《コエ》2相坂山《アフサカヤマヲ》1。望2見《ミサケ》近江海《アフミノウミヲ》1而《テ》。晩頭還來作歌一首《ユフヘニカヘリキタルトキヨメルウタヒトツ》。
 
賀茂(ノ)神社は神名帳に、山城(ノ)國愛宕(ノ)郡賀茂別雷(ノ)神社、(亦若雷、名神大、月次相甞新甞、)賀茂御祖(ノ)神社二座(並名神大、月次相嘗新嘗、)とあり、○便(ノ)字、舊本に、使と作るは誤なり、今は古寫本、古寫小本、拾穗本等に從つ、○相坂山は、古事記仲哀天皇(ノ)條に、故逃2退逢坂(ニ)1對立(チ)亦戰、爾追迫敗出2沙々那美(ニ)1、悉斬2其軍(ヲ)1、書記に、忽熊(ノ)王知v被v欺、謂2倉見別五十狹茅(ノ)宿禰(ニ)曰、吾既被v欺、今無2儲兵1、豈可v得v戰乎(ト)、曳v兵稍退、武内(ノ)宿禰出2精兵(ヲ)1而|追《オヒユキテ》之、適遇2于逢坂(ニ)1以|破《ヤブリツ》、故(レ)號《ヲ》2其處《ソコ》1曰《ナヅケキ》逢坂《アフサカト》1也、孝徳天皇(ノ)卷大化二年詔に、凡畿内、東(ハ)云々、南(ハ)云々、西(ハ)云々、北(ハ)自2近江(ノ)狹々波合坂山1以來《コナタ》、爲2畿内國《ウチツクニト》1、とあり、山城(276)と近江の堺にて、近江に屬《ツキ》たり、今大津の西なる坂路是なりと云り、集中相坂山をよめる歌十(ノ)卷、十三、十五などに見えたり、○望2見近江(ノ)海(ヲ)1、は、十三に、相坂乎打出而見者淡海之海白木綿花爾浪立渡《アフサカヲウチデテミレバアフミノミシラユフハナニナミタチワタル》、とあり、
 
1017 木綿疊《ユフタヽミ》。手向乃山乎《タムケノヤマヲ》。今日超而《ケフコエテ》。何野邊爾《イヅレノヌヘニ》。廬將爲吾等《イホリセムアレ》。
 
木綿疊《ユフタヽミ》は、枕詞なり、木綿して造れる疊をも神に祭供《タムク》る由にて、手向山に云係たり、三(ノ)卷大伴(ノ)坂上(ノ)郎女祭v神歌に、木綿疊手取持而如此谷母《ユフタヽミテニトリモチテカクダニモ》、吾波乞甞君爾不相鴨《アレハコヒナムキミニアハヌカモ》、とある處に云り、○手向乃山《タムケノヤマ》は、則(チ)相坂山の峠《タウゲ》を云なり、いづくにまれ、山坂の峠にては、神に手向をする故に、やがて手向山とも云なり、三(ノ)卷に、佐保過而寧樂乃手向爾置幣者《サホスギテナラノタムケニオクヌサハ》云々、十五に、加思故美等《カシコミト》云々|美故之治能多武氣爾多知弖《ミコシヂノタムケニタチテ》云々、十七に、刀奈美夜麻多牟氣能可味爾奴佐麻都里《トナミヤマタムケノカミニヌサマツリ》云々、など見えたるも、皆さるよしなり、古今集の序には、相坂山に至りて、手向を祈りとかけり、菅原(ノ)大臣の、此度は幣も取あへず手向山とよま等せ給へるは、寧樂なり、○越(ノ)字治穗本には超と作り、○度將爲吾《イホリセムアレ》は、(吾等舊本には子等とあり、子等《コラ》は、去來子等《イサコドモ》などよめる、子等《コドモ》に同じくて、從者などを云なり、されど今は、活字本に吾等と作るに從つ、)旅の假屋をつくるを云、さて必(ス)新に廬作らでも、凡て旅宿りするをも云なり、○歌意は、相坂の手向山を今日越暮て、いづれいかなる野邊に、假屋をつくりて、吾は旅宿せむぞ、さて/\苦しき旅路哉となり、
 
(277)十年戊寅《トヽセトイフトシツチノエトラ》。元興寺之僧《グワムコウジノホウシガ》。自嘆歌一首《ミヅカラナゲクウタヒトツ》。
 
舊本に、元(ノ)字より下、行をはなちて書り、今續け書ること、さき/”\の例の如し、○元興寺は、此上に出たり、僧は傳未(タ)詳ならず、○嘆(ノ)字、一本には讃と作り、
 
1018 白珠者《シラタマハ》。人爾不所知《ヒトニシラエズ》。不知友縱《シラズトモヨシ》。雖不知《シラズトモ》。吾之知有者《アレシシレラバ》。不知友任意《シラズトモヨシ》。
 
旋頭歌なり、○白珠《シラタマ》とは、自《ミ》我(カ)身をたとへたるなり、○縱《ヨシ》は假に縱《ユル》す詞とて、よしや設《タト》ひ然《サ》はありとも、それがまゝよといふ意なり、○任意は、縱とかけるに同じ、かくかきてヨシ〔二字右○〕と訓るは、人の意に任せて、それがまゝにする意なれば、縱の字をかけるとみな同じ理に落めり、○歌(ノ)意は、白珠の勝れたる寶の如き、我(ガ)身にてはあれども、其(ノ)徳にほこる事なければ、世人に知(ラ)れず、よしや設ひ世人はしらずとも、それがまゝよ、吾さへその勝れたる事を知たらば、人はしらずとて、嘆く事はあらじと、自《ミ》我身を玉に比たるなり、
〔右一首。或云。元興寺之僧。獨覺多智。未v有2顯聞1。衆諸狎侮、因v此僧作2此歌1。自嘆2身才1也。〕
狎(ノ)字、古寫本には※[言+甲]と作り、(※[言+甲](ノ)字はいかゞなり、字彙に、※[言+(合/羽)]※[言+甲](ハ)語聲(ナリ)とあればなり、)○嘆(ノ》字、一本には讃と作り、官本には賛と作り、
 
石上乙麿卿《イソノカミノオトマロノマヘツキミノ》。配《ハナタエシ》2士左國《トサノクニニ》1之時歌三首并短歌《トキノウタミツマタミジカウタ》。
 
乙磨(ノ)卿は、三(ノ)卷には、石上(ノ)卿とあり、傳後(ノ)卷に委(ク)云り、卿とは、三位以上の人にいふことなるに、(278)此(ノ)時いまだ乙麻呂四位なりけれど、後に三位にのぼられければ、後よりめぐらして、たふとみかけるなり三(ノ)卷なるも同じ、○配2土左國(ニ)1(左(ノ)字、類聚抄、活字本等には、佐と作り、)は、續紀に、天平十一年三月庚申、石上(ノ)朝臣乙麻呂、坐v※[(女/女)+干]2久米(ノ)連若賣(ニ)1、配2流土左(ノ)國(ニ)1、若賣配2下總(ノ)國(ニ)1焉、とある是なり、さて同十三年九月乙卯、大2赦天下(ニ)1、とあれば、此時に乙麻呂も罪ゆるされて、京にめしかへされしなるべし、さてこの續紀の文に依に、乙麻呂(ノ)卿の配《ハナタ》れしは、天平十一年なり、然るを此《コヽ》にかく十年の標中に載たるは、いかにぞや、○左の歌、石上《イソノカミ》云々の長歌と其次なるは、乙麻呂(ノ)卿(ノ)妻のよめる歌なり、
 
1019 石上《イソノカミ》。振乃尊者《フルノミコトハ》。弱女乃《タワヤメノ》。惑爾縁而《サドヒニヨリテ》。馬自物《ウマジモノ》。繩取附《ナハトリツケ》。肉自物《シヽジモノ》。弓笶圍而《ユミヤカクミテ》。王《オホキミノ》。命恐《ミコトカシコミ》。天離《アマザカル》。夷部爾退《ヒナヘニマカル》。古衣《フルコロモ》。又打山從《マツチノヤマユ》。還來奴香聞《カヘリコヌカモ》。
 
石上振乃尊者《イソノカミフルノミコトハ》、契冲、石(ノ)上はもと物部氏にて、饒速日(ノ)命の裔なり、物部氏、後に石(ノ)上と、朴《エノ》井との兩氏にわかれけるは、ともに居地によりてなるべし、山邊(ノ)郡石(ノ)上に布留の社もあれば、重代の家なる事をよせて、たふとびて振乃尊《フルノミコト》とは云りと云り、尊《ミコト》は崇詞にて、夫之命《ツマノミコト》、妹乃命《イモノミコト》など云に同じ、○弱女乃惑爾縁而《タワヤメノサドヒニヨリテ》は、上に續紀を引る如く、久米(ノ)連若女にしのびてかよはれけることを、おほやけにきこしめして、共に配《ハナタ》れしを云なり、惑をサドヒ〔三字右○〕と、訓は十八教2喩(ス)史生尾張(ノ)少咋(ヲ)1長歌に、那呉能宇美能於伎乎布可米天《ナゴノウミノオキヲフカメテ》、左度波世流《サドハセル》(惑有《サドハセル》なり、)伎美我許己呂能須敝母(279)須弊奈佐《キミガココロノスベモスベナサ》、反歌に、左刀妣等能見流目波豆可之左夫流兒爾《サトヒトノミルメハヅカシサブルコニ》、佐度波須伎美我美夜泥之理夫利《サドハスキミガミヤデシリブリ》、などあるに依たるなり、○馬自物《ウマジモノ》は、枕詞にて、馬の如くにと云意なり、鳥自物《トリジモノ》、狗自物《イヌジモノ》など云類なり、下の肉自物《シヽジモノ》も同意なり、○繩取掛《ナハトリツケ》は、馬に繩取付たる如くに、科ある人を縛りたるよしなり、十六に馬爾己曾布毛太志可久物《ウマニコソフモダシカクモノ》、ともよめり、さて契冲、從四位下右大辨なる人の、好色のあやまちのみにて、からむることはあるまじけれど、歌のいきほひに云なり、心を付べし、もしは乘物などをば、からみもすべければ、それにやと云り、○肉自物《シヽジモノ》は、枕詞にて、肉は借(リ)字、猪鹿《シシ》の如くにと云意なり、○弓笶圍而《ユミヤカクミテ》、笶(ノ)字は矢と同じ、和名抄に釋名(ニ)云、笶和名|夜《ヤ》、と見え、玉篇に、笶(ハ)俗(ノ)矢(ノ)字と見えたり、但し集中に笶(ノ)字をノ〔右○〕の借(リ)字とせること、三(ノ)卷、九(ノ)卷、十(ノ)卷、十一、十三の卷などに見えたり、(和名抄、讃岐(ノ)國郷(ノ)名にも見えたり、)されば古(ヘ)箆(ノ)とも通(ハシ)用ひたりけむ、其由は三(ノ)卷に具(ク)註(ヘ)り、今はたゞ矢なり、さて此《コヽ》は狩場《カリニハ》にて、列卒《カリコ》の猪鹿《シシ》を卷(キ)こめて、取にがさじとかまへたるごとくに、罪ある人を弓矢帶たる武士等の打圍みたるを云なり、○天離《アマザカル》は、枕詞なり、既く出づ、○夷部爾退《ヒナヘニマカル》は、配《ハナタ》れて土佐(ノ)國へ行を云、夷《ヒナ》のことは、一(ノ)卷に具(ク)註り、世(ノ)人の心得たるとは、いたく異《カハ》れり、披(キ)見て考(フ)べし、○古衣《フルコロモ》は、枕詞なり、かく屬《ツヾケ》たる意は、十二に、橡之衣解洗又打山《ツルハミノキヌトキアラヒマツチヤマ》、とよめる如く、古衣を洗ひて、又打《マタウチ》といふ意なり、多宇《タウノ》切|都《ツ》なれば、又打とかきて、マツチ〔三字右○〕とよみ、又打《マタウチ》と云意とはなるなり、○又打山《マツチヤマ》は、一(ノ)卷、三(ノ)卷、十二に、亦打山《マツチヤマ》、四(ノ)卷に、眞土(280)山《マツチヤマ》、七(ノ)卷に、信士《マツチ》九(ノ)卷に、信土山《マツチヤマ》、十二に、又打山《マツチヤマ》など見えたる、皆同じ地にて、大和(ノ)國の内にて、紀伊(ノ)國の堺にある山なり、既く具(ク)註り、奈良(ノ)京より、眞土山を起て紀伊に至り、それより舟に乘て土佐へわたれば、かくつゞけたり、○還來奴香聞《カヘリコヌカモ》は、いかで還り來よかし、さても名殘をしやの意なり、奴《ヌ》は(不(ノ)字の意には非ず、)希望辭の禰《ネ》のかよへるにて、香聞《カモ》は歎息(ノ)辭、後の哉《カナ》なり、さて有(レ)かしと希《ネガフ》を有奴可《アラヌカ》、鳴(ケ)かしと望《ネガ》ふを鳴奴可《ナカヌカ》など云と、同例の詞にて、既く具(ク)註(ヘ)るが如し、眞土山上り赦免を蒙りて、いかで還り來よかしとの謂なり(此(ノ)詞を、略解にも、何にも、不2還來1意と見たるは、甚非なり、)
 
1020・1021 王《オホキミノ》。命恐見《ミコトカシコミ》。刺並《サシナミノ》。國爾出座《クニニイデマス》。耶《ハシキヤシ》。吾背乃公矣《ワカセノキミヲ》。繋卷裳《カケマクモ》。湯湯石恐石《ユユシカシコシ》。住吉乃《スミノエノ》。荒人神《アラヒトカミ》。船舳爾《フネノヘニ》。牛吐賜《ウシハキタマヒ》。付賜將《ツキタマハム》。島之埼前《シマノサキザキ》。依賜將《ヨリタマハム》。磯乃埼前《イソノサキザキ》。荒浪《アラキナミ》。風爾不令遇《カゼニアハセズ》。草菅見《ツヽミナク》。身疾不有《ミヤマヒアラズ》。急《スムヤケク》。令變賜根《カヘシタマハネ》。本國部爾《モトノクニベニ》。
 
刺並之國《サシナミノクニ》(之(ノ)字、活字本にはなし、)とは、本居氏(ノ)古事記傳に、伊豫之二名島《イヨノフタナノシマ》は、四國を總たる名なり云々、此(ノ)島東より見れば、讃岐の飯依比古《イヒヨリヒコ》と、粟の大宜都比賣《オホゲツヒメ》と二並なり、西より見るも、土佐の建依別《タケヨリワケ》と、伊余《イヨ》の愛比賣《エヒメ》と二並なり、北より見るも、南より見るも同じ、故に男女の名を負せて、二並(ノ)島とは云ならむ、又萬葉六(ノ)卷に、土佐へ行ことを、刺並之國爾出座《サシナミノクニニイデマス》、とよめるは、別意か、若又これも二並の意にてもあらむか、今(ノ)俗に、二人相對ふを、さしむかひと云、又二人し(281)てすることを、さしと云を思ふべしと云り、(契冲は刺並之國《サシナミノクニ》とは、紀の國も南海にて、土佐の海にさしむかへばなり、といへれどいかゞ、○吉田正準(ガ)考に、並之の下に、土左の二字を脱せしなるべし、さて刺並之《サシナミノ》は、枕詞にて、戸《ト》と云意に云係たるならむ、九(ノ)卷に指並隣《サシナミノトナリ》とよめるも、同じ意の屬《ツヾキ》なり、さて指並之土左國爾出坐耶《サシナミノトサノクニニイデマスヤ》を、五言七言五言と句を絶てよみて、調をなすべしと云り、此(ノ)説面白きことなり、されどしかしては、出坐耶《イデマスヤ》の耶《ヤ》は助辭となるを、かゝる處に郡《ヤ》の助辭ある例なく、且《ソノウヘ》甚《イタク》耳立て聞ゆれば、今少しいかゞなり、近江之哉《アフミノヤ》、湊之哉《ミナトノヤ》、など云る例はあれども、其とは異なればなり、猶考(フ)べし、○出座《イヂマス》は、行(キ)給ふと云意の詞にて、俗に御出《オイデ》被《ル》v成《ナサ》と云に全(ラ)同じ、八(ノ)卷に、闇夜有者《ヤミナラバ》云々|伊而座左自常屋《イデマサジトヤ》、天智天皇紀|童謠《ワザウタ》に、于知波志能都梅能阿素弭爾伊提麻栖古《ウチハシノツメノアソビニイデマセコ》云々|伊提麻志能倶伊播《イデマシノクイハ》云々、土佐日記に、講師馬のはなむけしに出座《イデマセ》り、金葉集に、玉津島岸打浪《タマツシマキシウチナミ》の立歸りせないでましぬ名殘|さび《久イ》しも、などあり、○耶は、或(ル)説に、ハシキ〔三字右○〕耶シ〔一字右○〕と有て、五言一句なりけむが、其(ノ)字脱たるなるべしと云う、信にさることなり、○吾背乃公矣《ワガセノキミヲ》此下、次の繋卷裳《カケマクモ》云々と放ち書たるは、もと字の落たるより、右の長歌の反歌と意得誤たるものなり、○繋卷裳《カケマクモ》(繋(ノ)字舊本に繁と作るは誤なり、今は古寫本、古寫一本、古寫小本、拾穗本等に從つ、)は、言の端《ハ》に出して申さむも、忌憚《ユユ》し恐《カシコ》しとつゞく意なり、既くかたがた出たり、○住吉乃荒人神《スミノエノアラヒトカミ》は、古事記に、伊邪那岐(ノ)大神詔(ク)、吾者到(リ)2於|伊那志許米志許米岐穢(282)國《イナシコメシコメキキタナキクニニ》1而《テ》有祁理《アリケリ》、故(レ)吾者|爲《セムトノリタマヒ》御身之禊1而《テ》、到(リ)2坐(シ)筑紫(ノ)日向之橘(ノ)小門之|阿波岐《アハギガ》原(ニ)1而《テ》禊(キ)祓(ヒタマヒキ)也云々、次於2水底1滌時|所成神名《ナリマセルカミノナハ》、底津綿津見(ノ)神、次(ニ)底箇之男(ノ)命、於v中滌時所成(ル)神(ノ)名(ハ)、中津綿津見神、次(ニ)中筒之男(ノ)命、於2水上1滌時所成(ル)神(ノ)名(ハ)、上津綿津見(ノ)神、次(ニ)上筒之男(ノ)命、云々、其底箇之男(ノ)命、中筒之男(ノ)命、上箇之男(ノ)命、三柱(ノ)神者、墨江之三前(ノ)大神也、神功皇后紀に、亦表筒(ノ)男中筒(ノ)男底筒(ノ)男|三神誨之曰《ミハシラノカミヲシヘタマハク》、吾(カ)和魂《ニキミタマハ》、宜v居(マス)2大津(ノ)渟中倉之長峽《ヌナクラノナガヲニ》1、便因《カクテ》看2往來《ユキヽノ》船(ヲ)1於是《カレ》隨《マニ/\》2神(ノ)教(ノ)1以鎭坐(セ)焉《シメキ》、則|平得v度《タヒラゲマシキタリ》v海(ヲ)、續紀に延暦三年六月辛丑、敍2正三位住吉(ノ)神勲二等(ヲ)1、同十二月丙申、敍2住吉(ノ)神從二位(ヲ)1、など見え、集中十九遣唐使を餞する歌に、住吉爾伊都久祝之神言等行得毛來等毛舶波早家無《スミノエニイツクハフリガカムコトトユクトモクトモフネハハヤケム》、廿(ノ)卷防人別を悲む情を陳たる歌に、須美乃延能安我須賣可未爾奴佐麻都利伊能里麻宇之弖《スミノエノアガスメカミニヌサマツリイノリマウシテ》云々、なども見えたり、荒人《アラヒト》神とは、顯然《アラハ》に人と現出《アラハレイデ》給(フ)神と云謂なり、雄略天皇紀に、天皇(ノ)射2獵於葛城山(ニ)1、忽見2長人(ヲ)1云々、問曰、何處(ノ)公也、答曰、現人《アラヒト》之|神《カミ》先(ツ)稱(レ)2王諱《ミナヲ》1、景行天皇(ノ)紀に、日本式尊云々、吾是|現人神之子《アラヒトカミノミコ》也、續後紀十九興福寺(ノ)僧の、仁明天皇四十御※[竹/弄]を賀て奉れる長歌に、御世御世爾相承襲弖《ミヨミヨニアヒウケツギテ》、毎天爾現人神止成給御坐世波《キミゴトニアラヒトカミトナリタマヒオホマシマセバ》云々、和名抄に、日本紀(ニ)云(ク)、現人神、和名|安良比止加美《アラヒトカミ》、など見えたり、(拾遺集に、住吉のあら人神にちかひても忘るゝ君が心とぞ聞、後拾遺集に、素道法師、すべらぎもあら人神もなごむまで鳴ける杜のほとゝぎす哉、詞花集に大納言經信、住吉の顯人神の久しさに松もいく度生かはるらむ、現存六帖に、住吉のあら人神の友なれや世(283)世にかはらぬ岸の姫松、金玉集に、すみよしの社にて、安法法師、天降るあら人神のあひおひを思へば久し住吉の松、大鏡二に、やがてかしこにてうせ給へる、よのうちに、北野にそこらの松をおぼさしめ給ひて、わたりすみ給ふをこそは、たゞいまの北野(ノ)宮と申て、あら人神におはしますめれ、とある、此も事として、其神靈の現出賜事のありしによりていへるか、(さて住吉(ノ)大神は、事として現出給ひて、護(リ)幸へたまふ神にし坐(シ)ませば、かく云るなり、)しかるを略解に、岡部氏(ノ)説を引て、人は大の誤にて、あらおほみたまかと云るは、いみじき強説なり、〔頭註、【伊勢物語に、昔みかど住吉に幸行したまひけり云々、おほむ神現形したまひて、むつましと君はしらずや水垣の久しき世よりいはひそめてき、】〕○船舳爾《フナノヘニ》、五(ノ)卷好去好來歌に、神豆麻利宇志播吉伊麻須諸能大御神等船舶爾《カムヅマリウシハキイマスモロ/\ノオホミカミタチフナノヘニ》(反云2布奈能閇爾《フナノヘニト》1、)道引麻遠志《ミチビキマヲシ》、とあるに同じ、○牛吐賜《ウシハキタマヒ》は、右に引(ク)五(ノ)卷の歌に具(ク)註(ヘ)り、○付賜將《ツキタマハム》、依賜將《ヨリタマハム》は、船の行(キ)着賜はむ、船のさし依(リ)賜はむの意なり、さて賜將は、二(ツ)ながら將《ム》v賜《タマハ》とあるべきを、集中には、かくさまにも用たる例あり、十三には、在將《アラム》、また直渉異將《タヾワタリケム》とさへも書たり、○荒浪は、アラキナミ〔五字右○〕と訓べし、荒の言は、次句の風にも係れるなり、○令(ノ)字、拾穗本に合と作るは誤なり、○草管見(管(ノ)字、舊本に菅と作るは誤なり、今は官本、古寫小本等に從つ)は、草は莫の誤にてツヽミナク〔五字右○〕なりと、本居氏(ノ)玉勝間に云るは、信にさることなり、五(ノ)卷好去好來(ノ)歌に、都都美無久佐伎久伊麻志弖《ツツミナクサキクイマシテ》、續紀三十六(ノ)詔に、平幸久都都牟事無《タヒラケクサキクツツムコトナク》、などあり、○急は、十五に、須牟也氣久《スムヤケク》、と假字書あるに從て訓べし、字鏡にも(284)※[立心偏+総の旁]惚同2※[人偏+空]々1也、須牟也介志《スムヤケシ》、と見ゆ、本居氏云、須牟は進む意にて、也氣久《ヤケク》は附たる辭なり、○令變賜根《カヘシタマハネ》は、令《シ》v反《カヘ》賜《タマ》はねと、住吉(ノ)大神へ乞祈《コヒネガ》ふなり、變(ノ)字は反に通(ハシ)用(ヒ)たり、根《ネ》は乞望(ノ)辭なり、○本國部爾は、モトノクニヘニ〔七字右○〕と訓べし、本はモトツ〔三字右○〕とも訓べけれども、今は次に引十九(ノ)歌に從て、モトノ〔三字右○〕と訓つ、國部は國邊《クニヘ》なり、十九遣唐使に贈れる長歌に、虚見都山跡乃國《ソラミツヤマトノクニ》、青丹與之平
城京師由《アヲニヨシナラノミヤコユ》、忍照難波爾久太里《オシテルナニハニクダリ》、住吉乃三津爾舶能利《スミノエノミツニフネノリ》、直渡日入國爾《タヾワタリヒノイルクニニ》、所遣和我勢能君乎《ツカワサルワガセノキミヲ》、懸麻久乃由由志恐伎《カケマクノユユシカシコキ》、墨江乃吾大御神《スミノエノワガオホミカミ》、舶乃倍爾《フナノヘニ》、宇之波伎座《ウシワキイマシ》、舶騰毛爾《フナトモニ》、御立座而《ミタヽシマシテ》、佐之與良牟《サシヨラム》、磯乃崎崎許藝波底牟《イソノサキザキコギハテム》、泊泊爾《トマリ/\ニ》、荒風浪爾《アラキカゼナミニ》、安波世受《アハセズ》、平久率而《タヒラケクヰテ》、可敝里麻世《カヘリマセ》、毛等能國家爾《モトノクニヘニ》、とあり、(ことは異なれども、句次は、今(ノ)歌と、いとよく似たれば引つ、)
 
右二首《ミギノフタウタハ》。石上卿妻作《イソカミノマヘツキミノメガヨメル》。〔八字各○で囲む〕
 
此間に、右の如くあるべきが脱たるか、またもとより舊本のまゝにて有(リ)けむか、いかにまれ、右二首は、乙麻呂(ノ)卿(ノ)妻のよめるならむ、左の歌は、乙麻呂(ノ)卿の自作れたるなり、
 
1022 父公爾《チヽキミニ》。吾者眞名子叙《アレハマナゴゾ》。妣刀自爾《オモトジニ》。吾者愛兒叙《アレハマナゴゾ》。參昇《マヰノボリ》。八十氏人乃《ヤソウヂヒトノ》。手向爲《タムケスル》。恐乃坂爾《カシコノサカニ》。幣奉《ヌサマツリ》。吾者叙追《アレハゾマカル》。遠杵土左道矣《トホキトサヂヲ》。
 
父公爾吾者眞名子叙《チヽキミニアレハマナゴゾ》は、吾は父君は眞愛《マナ》とめで愛《ウツク》しまるゝ、其(ノ)子なるぞとの意なり、抑々|眞名子《マナゴ》と云は、眞《マ》は例の美稱《タヽヘナ》、名《ナ》はナルヽ、ナツク、ナツカシ、ナジム〔十三字右○〕、など云ナ〔右○〕にて、親む辭にて眞《マコト》に(285)懷《ナツ》かしき子と云意なり、(略解に、まな子は、實の子と云ことなり、と云るは誤《ヒガゴト》なり、さては次に引十四の歌の麻奈《マナ》をば何とか解《イハ》む、註者《フミトキヒト》の固陋《カタクナ》なる憐《アハレ》むべし、)十四に、安志比奇乃夜未佐波妣登乃比登佐波爾《アシヒキノヤマサハビトノヒトサハニ》、麻奈登伊布兒我《マナトイフコガ》、安夜爾可奈思佐《アヤニカナシサ》、とあるも、多くの人が、眞《マコト》に懷《ナツカシ》と云て憐《アハレ》み愛しむ兒と云意なり、七(ノ)卷に、人在者母之最愛子曾《ヒトナラバハヽガマナコソ》、十三挽歌に、母父爾眞名子爾可有六《オモチヽニマナコニカアラム》、また母父之愛子丹裳在將《オモチヽノマナゴニモアラム》、などあり、神賀詞に、伊射那伎乃日眞名子《イザナギノヒマナコ》、加夫呂伎《カブロギ》熊野(ノ)大神、櫛御氣野(ノ)命、とある日眞名子《ヒマナコ》も、日《ヒ》は尊稱にて、眞懷子《マナコ》なり、即(チ)風土記には、伊弉奈枳乃麻奈子《イザナギノマナコニ》坐、熊野加武呂乃命とあり、又催馬樂に末名牟春女《マナムスメ》とある、末名《マナ》も同意なり、○妣刀自爾は、オモトジニ〔五字右○〕と訓べし、廿(ノ)卷に、阿母刀自母多麻爾母賀母夜《アモトジモタマニモガモヤ》、曾根好忠(ガ)集長歌に、於母刃目《オモトジ》の乳房《チブサ》の報い云々、などあり、又廿(ノ)卷に、麻氣波之良寶米弖豆久禮留《マケバシラホメテツクレル》、等乃能其等已麻勢波波刀自《トノノゴトイマセハハトジ》、とあれば、ハヽトジニ〔五字右○〕とも訓べし、○吾者愛兒敍、(兒(ノ)字、拾穗本には子と作り、)此もアレハマナゴゾ〔七字右○〕と訓べし、(略解に愛子を、メヅコ〔三字右○〕と訓て、愛《メヅ》る子といふ意とせるは、甚誤なり、メヅコ〔三字右○〕と云こと、例もなきことなり、但し十六に、目豆兒乃負《メヅコノトジ》、身女兒乃負《ミメツコノトジ》、とあれど、其は女津子と云ことにて、愛兒とは甚|異《カハ》れり、マナ〔二字右○〕ゴを、愛兒、愛子、と書ることは例多し、集中に眞砂《マナゴ》の借(リ)字に、愛子《マナゴ》と書る、これも愛兒は、必(ス)マナゴ〔三字右○〕と訓べき、たしかなる一(ツ)の證なり)さて此(ノ)句(ノ)下に、猶句のあるべきが、脱しにやあらむ、○參昇はマヰノボリ〔五字右○〕と訓べし、參《マヰ》は十八に、麻爲泥許之《マヰテコシ》、古事記仁徳天皇(ノ)大御(286)歌に、麻韋久禮《マヰクレ》など見えたり、さてこゝは、次(ノ)句の八十氏人と云へ係て意得べし、乙麻呂(ノ)卿の自(ラ)登るを云には非ず、(本居氏の説に、まゐのぼるは、乙麻呂(ノ)卿ののぼるにて、恐乃坂《カシコノサカ》へつゞく詞なり、さて八十氏人云々の二句は、たゞ恐といはむ序なり、手向するとて恐むと云つゞけざまなりといへるは非ず、)○八十氏人は、八十と數多き、氏々の人と云なり、○手向爲《タムケスル》、(爲の下、舊本に等(ノ)字あり、今は活字本に无に從つ、)坂上にては、必(ス)手向して超ること、上に云るが如し、○恐乃坂《カシコノサカ》は、大和(ノ)國にて、河内へ越る所の坂なり、天武天皇紀に、坂本(ノ)巨財等、自2高安城1降以渡2衛我河(ヲ)1、與2韓國1戰2于河西1、財等衆少不v能v距、先v是遣2紀(ノ)臣大音1、令v守2懼《カシコノ》坂道(ヲ)1、於是財等退2懼坂(ニ)1、而居2大音之營1、と見ゆ、○幣奉《ヌサマツリ》は、乙麻呂(ノ)卿の帛幣《ヌサ》を奉《タテマツ》りなり、○吾者敍追は、追(ノ)字は、退の誤なりと本居氏云り、アレハゾマカル〔七字右○〕と訓べし、○遠杵土左道矣《トホキトサヂヲ》は、遠き土左道なる物をの意なり、
 
反歌一首《カヘシウタヒトツ》。
一首(ノ)二字、古寫小本、拾穗本等にはなし、
 
1023 大埼乃《オホサキノ》。神之小濱者《カミノヲハマハ》。雖小《セマケトモ》。百船純毛《モヽフナヒトモ》。過迹云莫國《スグトイハナクニ》。
 
大埼《オホサキ》(埼(ノ)字、拾穗本には、崎と作り、)は、十二にも、大埼之有礒乃渡延久受乃《オホサキノアリソノワタリハフクズノ》、往方無哉戀波南《ユクヘヲナミヤコヒワタリナム》、とよめり、共に紀伊(ノ)國海部郡にありて、よき湊なり、濱に人家ありて、遊女なども居(ミ)往來の船大方(287)此湊に着(キ)、今も土佐の舟の往來に常に泊る所なり、古(ヘ)も土佐へ通ふには、かならず、此(ノ)大埼を通りしならむ、(本居氏の、大埼は紀伊にあれど、土佐への道とはいたく違へりと云るは、異所の大埼にや、聞誤(ラ)れしなり、)と中山(ノ)嚴水云り、○神之小濱は、大埼の湊より、今道二里ばかり奥に、伊太岐曾《イダキソ》大權現の社と申すありて、今もはら海民の漁業をまもります神なりといへり、かれ此(ノ)神のまもりうしはきいますが故に、大埼のあたりを然云るならむか、かくて神名帳を考(フ)るに、紀伊(ノ)國名草(ノ)郡伊太祁曾(ノ)神社、(名神大、月次相甞新甞)、和名抄に、紀伊國名草郡伊太杵曾神戸などありて、伊太祁曾(ノ)神社の鎭座は、名草(ノ)郡なるを、其(ノ)神社は、海部(ノ)郡にも亙れるにや、名草と海部は、隣れる郡にて、昔(シ)名草(ノ)郡なりしが後に海部(ノ)郡に屬《ツケ》るもあれば、今は海部(ノ)郡になれるにもあらむ、かのあたりの地理しれらむ人に、猶よく尋て訂すべきことなり、さて伊太祁曾(ノ)神は、所謂五十猛(ノ)神の御事にて、主《ムネ》とは木種《コタネ》を分播《ホドコシ》たまふ御功《ミイサヲ》ましましゝ大神にまして、すべて民の利《クボサ》をなし給ふより、もはら漁民どもの幸利《サチ》を祈りしからに、漁業を主《ムネ》とまもります神のごと、俗間には意得たることになれるべし、かくて契冲は、七(ノ)卷に、神(ノ)前ありそも見えず浪立むとよめるも、此《コヽ》と同處にやと云り、猶考べし、(但し契冲が、神前をミワノサキ〔五字右○〕とよめるによりて、こゝの神をもミワ〔二字右○〕とよむべきかと云るは非ず、神前もカミノサキ〔五字右○〕なり、○雖小は、セマケドモ〔五字右○〕と訓べし、(チヒサケド〔五字右○〕、又セマケレド〔五字右○〕などよまむはわろし、)雖《ドモ》2狹有《セマケレ》1の意(288)なり、ケレドモ〔四字右○〕と云べきを、ケドモ〔三字右○〕と云は古言なり、遠《トホ》ケドモ〔三字右○〕、近ケドモ〔三字右○〕恐《カシコ》ケド〔二字右○〕など例多し、○百船純《モヽフナヒト》は、下にも同じく書り、契冲、純(ノ)字、人とよむべきこと未v考(ヘ)、もし人(ハ)純也など釋せることあるにや、人は純粹の氣を受(ケ)、物は駁雜の氣を受る意にて、かけるにやと云り、今安(フ)に、純(ノ)字、ヒタ〔二字右○〕と訓故に、人に轉(シ)用ひたるにもあるべし、神代(ノ)紀に純男《ヒタヲ》とあり、○過迹云莫國《スグトイハナクニ》は、莫《ヌ》v過《スギ》ことなるにの意なり、云《イフ》は思《オモフ》といふに同じく、例の輕く添たる辭なり、○歌(ノ)意は、大埼にある神の小濱は、狹き所なれども、見るにあかず、佳景《オモシロ》き地なれば、あまたの舟人も、此處に舟を泊て、外へ過て行ぬことなるに、我は罪ある身なれば、心を留ることも叶はずして、徒《タヾ》に過て行ことよとなり、下に、眞十鏡見宿女乃浦者百船《マソカヾミミヌメノウラハモヽブネノ》、過而可往濱有亡國《スギテユクベキハマナラナクニ》、とある歌(ノ)意をも、思ひ合すべし、(○略解に、此歌、妻君の長歌の反歌にもあるべし、と云るは、かなはず)
 
右二首《ミギノフタウタハ》。石上卿作《イソノカミノマヘツキミノヨメル》〔七字それぞれ○で囲む〕
 
秋八月二十日《ハツキハツカノヒ》。宴《ウタケセル》2右大臣橘家《ミギノオホマヘツキミタチバナノイヘニ》1歌四首《ウタヨツ》。
 
二十、古寫本には廿と作り、○右大臣は、諸兄公なり、續紀に聖武天皇天平十年正月庚午朔、授2正三位(ヲ)1、拜2右大臣1、とあれば、此(ノ)時右大臣なり、
 
1024 長門有《ナガトナル》。奥津借島《オキツカリシマ》。奥眞經而《オクマヘテ》。吾念君者《アガモフキミハ》。千歳爾母我毛《チトセニモガモ》。
 
奥津借島《オキツカリシマ》は、奥眞經而《オクマヘテ》をいはむ序なり、借島は、長門の海中にあるなるべし、國人に尋べし、此(289)歌は、對馬(ノ)朝臣の自(ラ)任られし國の名所をかりて、序とせるなり、○奥眞經而《オクマヘテ》は、奥めてと云むが如し、(マヘ〔二字右○〕の切メ〔右○〕なり、)深く思ふを、深めて思ふと云に同じく、奥に思ふを、奥めて思ふと云なり、(さて集中に、奥に思ふとよめるは、深く思ふと云に同じければ、奥眞經而《オクマヘテ》は、深めてと云に全(ラ)同意なり、(物語書に奥まりたる山住など云るも、奥まへと、奥まりとは、然爲《シカスル》と、自然《オノヅカラシカ》るとの差別《カハリ》あるのみにて、言は一なり、)十一に、淡海之海奥津島山奥間經而我念妹之言繁苦《アフミノミオキツシマヤマオクマヘテアガモフイモガコトノシゲヽク》、ともよめり、同卷の上つ方に、同歌を載たるには、第三(ノ)句|奥儲《オクマケテ》とあり、これも同言なり、(マケ〔二字右○〕の切メ〔右○〕なり、)○歌(ノ)意は、なみ/\ならず、吾(ガ)深く大切に思ひ奉る君は、いかで千歳にもがな繁昌《サカエ》ておはしませかしとなり、
 
右一歌《ミギノヒトウタハ》。長門守巨曾倍對馬朝臣《ナガトノカミコソベノツシマノアソミ》。
 
對馬は、續紀に、聖武天皇天平四年八月丁酉、山陰道節度使(ノ)判官巨曾部(ノ)津島(ニ)授2外從五位下(ヲ)1、とあり、
 
1025 奥眞經而《オクマヘテ》。吾乎念流《アレヲオモヘル》。吾背子者《ワガセコハ》。千年五百歳《チトセイホトセ》。有巨勢奴香聞《アリコセヌカモ》。
 
吾背子《ワガセコ》は、對馬(ノ)朝臣を指り、○有巨勢奴香繭《アリコセヌカモ》は、いかで有かし、さても愛しき吾(ガ)兄哉と云意なり、巨勢《コセ》は希望辭の巨曾《コソ》のかよへるなり、奴《ヌ》も、希望(ノ)辭の禰《ネ》のかよへるにて、香聞《カモ》は、歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、吾を深く思ふとのたまふ吾(ガ)兄子こそは、あはれいかで、千歳も五百歳も、榮てあ(290)れよかし、さてもうるはしく親しき、吾(ガ)兄にてある哉となり、
 
右一歌《ミギノヒトウタハ》。右大臣和歌《ミギノオホマヘツキミノコタヘタマヘルウタ》。
 
1026 百磯城乃《モヽシキノ》。大宮人者《オホミヤヒトハ》。今日毛鴨《ケフモカモ》。暇無跡《イトマヲナミト》。里爾不出將有《サトニイデザラム》。
 
百磯城乃《モヽシキノ》(磯(ノ)字、類聚抄には礒と作り、)は、枕詞なり、既く出づ、○暇無跡は、イトマヲナミト〔七字右○〕と訓べし、暇が無(キ)故にの意なり、跡《ト》は例の助辭なり、○里爾不出將有(出(ノ)字、舊本には去と作り、それもさることなるべけれど、今は類聚抄に出とあるがまされるに從つ、)は、サトニイデザラム〔八字右○〕と訓べし、里は、宮城の外を云なるべし、○歌(ノ)意は大宮人は、今日もまた公事の暇が無(キ)故に、宮城の外の里に、出遊ばずあるらむかとなり、此(ノ)歌、今日の宴に誦たる意をしらず、そのもと所由《ヨシ》ありてよめる歌なりけむを、所以ありて、此(ノ)宴席に誦けるならむ、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。右大臣傳云《ミギノオホマヘツキミツタヘノリタマハク》。故豐島采女歌《モトノテシマノウネベガウタ》。
 
右一首、これは此宴席に誦けるを、右大臣の、後に家持にかたられけるを、記したるなり、○豐島(ノ)采女は、傳未(タ)詳ならず、和名抄に、攝津(ノ)國豐島(ノ)(手島《テシマ》)郡豐島、(天之萬《テシマ》、)又和名抄に、武藏(ノ)國豐島(ノ)(止志未《トシマ》)郡、(兵部省式に、武藏(ノ)國驛馬云々豐島各十疋傳馬云々、豐島(ノ)郡各五疋、)此《コヽ》より出たるにもあらむ、
 
1027 橘《タチバナノ》。本爾道履《モトニミチフミ》。八衢爾《ヤチマタニ》。物乎曾念《モノヲソオモフ》。人爾不所知《ヒトニシラエズ》。
 
(291)歌(ノ)意は、つゝみかくして、色にあらはさねば、人にしられずして、橘の蔭ふむ道の、彌衢《ヤチマタ》あるごとく色々種々に、心(ノ)裏に、繁き物念をぞするとなり、此は二(ノ)卷三方(ノ)沙彌、娶《アヒテ》2園(ノ)臣生羽之女(ニ)1、未《ネバ》v經《アラ》2幾時《イクダモ》1臥《コヤリテ》v病《ヤマヒニ》作(ル)歌三首の中に、橘之蔭履路之八衢爾《タチバナノカゲフムミチノヤチマタニ》、物乎曾念妹爾不相而《モノヲソオモフイモニアハズシテ》、とあるを、暗《ソラ》に誦《ヨミ》たがへたるならむ、さて此(ノ)宴席に誦たるは、微意ありての所以《ユヱ》なるべし、
 
右一歌《ミギノヒトウタハ》。右大辨高橋安麿卿語云《ミギノオホキオホトモヒタカハシノヤスマロノマヘツキミカタリケラク》。故豐島釆女之作也《モトノテシマノウネベガヨメルナリ》。
【但或本云。三方沙彌。戀2妻苑臣1作歌也。然則豐島釆女。當時當所口2吟此歌1歟。】
 
此も家持卿の註なり、○安麿(ノ)卿は、續紀に、養老二年正月庚子、正六位上高橋朝臣安麻呂(ニ)授2從五位下(ヲ)1、四年十月戊子、爲2宮内(ノ)少輔(ト)1、神龜元年二月壬子、從五位上、四月内申、宮内(ノ)大輔從五位上高橋(ノ)朝臣安麻呂(ヲ)爲2副將軍(ト)1云々、爲v征2海道(ノ)蝦夷(ヲ)1也、二年閏正月丁未、授2正五位下勲五等(ヲ)1、天平四年九月乙巳、爲2右中辨(ト)1、九年九月己亥、正五位上、十年正月壬午、從四位下、十二月丁卯、爲2太宰(ノ)大貳(ト)1。とあり、かゝれば此(ノ)時右中辨なりけるを、此處に右大辨とあるは寫誤か、又は續紀に、大辨となれる事は漏たるか、いかにまれ、此(ノ)時四位なりければ、卿とあるに叶はざるごとくなれども、私の歌集記録の類には、貴みてかく書せる例往々あり、其(ノ)由四(ノ)卷(ノ)下に委(ク)辨(ヘ)たり、披(キ)考(フ)べし、○妻苑(ノ)臣、契冲云、苑臣の下、生羽女の三字を落せるか、むかしは女も氏をもてよびければ、其(ノ)例歟、○歌の下(ノ)也(ノ)字、活字本、異本等にはなし、
 
(292)十一年己卯《トヽセマリヒトヽセトイフトシツチノトウ》。天皇《スメラミコト》遊2?《ミカリシタマヘル》高圓野《タカマトノヌニ》1之時《トキ》。小獣《チヒサキケダモノ》泄2走《イデハシル》堵里之中《サトノウチニ》1。於是《コヽニ》適2値《アヒテ》2勇士《マスラヲニ》1生《イキナガラ》而|見《エヌ》v獲《エラ》。即《スナハチ》以《ヲ》2此獣《コノケダモノ》1獻2上《タテマツルトキ》御在所《ミモトニ》1。副歌一首《ソフルウタヒトツ》。【獣名。俗曰2牟射佐妣《ムササビト》1。】
 
舊本、天皇より下、行をはなち書るを、今續け書ること前々の例の如し、○高圓野は大和(ノ)國添上(ノ)郡にて、既く出づ、○泄(ノ)字、異本には遁と作り、拾穗本に池、活字本に迫と作るは並誤なり、○堵里之中(堵(ノ)字、古寫本、官本等には、都と作り、里之(ノ)二字、一本には无、)は、人家のある里中をいふべし、堵中とあるに從は、陪從の諸臣等の休息する爲に、かこへる處をいふべし、○俗曰とあるは、いかゞなれど、たゞ世にひろくいひなれたることを、かくしるせることおほし、雅俗の俗には非ず、○牟射佐妣《ムササビ》は、品物解に具(ク)云り、
 
1028 大夫之《マスラヲガ》。高圓山爾《タカマトヤマニ》。迫有者《セメタレバ》。里爾下來流《サトニオリケル》。牟射佐妣曾此《ムザサビソコレ》。
 
下來流は、オリケル〔四字右○〕と訓べし、ケル〔二字右○〕はキケル〔三字右○〕の切(リ)たるなり、(オリクル〔四字右○〕とよめるは叶はず、)○妣(ノ)字、拾穗本には※[田+比]と作り、○歌(ノ)意は、狩子丈夫等が、高圓山にせめ追たれば、里中に下(リ)來けるを、生ながらにして獲たる※[鼠+吾]鼠《ムサヽビ》ぞ、此にて侍る、叡覽せさせ賜へとなり、
 
右一歌大伴坂上郎女作之《ミギノヒトウタハオホトモノサカノヘノイラツメガヨメル》也。【但未v〓v奏而小獣死斃。因v此獻歌停之。】
 
〓(ノ)字、古寫本、古寫一本等には逕と作り、
 
十二年庚辰《トヽセマリフタトセトイフトシカノエタツ》。冬十月《カミナツキ》。依《ヨリテ》2太宰少貳藤原朝臣廣嗣《オホミコトモチノスナキスケフヂハラノアソミヒロツグガ》。反謀《ミカドカタブケムトシテ》發《オコセルニ》1v軍《イクサヲ》。幸《イデマセル》2(293)于|伊勢國《イセノクニニ》1之時《トキ》。河口行宮《カハクチノカリミヤニテ》。内舍人大伴宿禰家持作歌一首《ウチトネリオホトモノスクネヤカモチガヨメルウタヒトツ》。
 
舊本、冬十月より下、行をはなちて書るを、今續け書ること前々の例の如し、○廣嗣は、續紀に、聖武天皇天平九年九月己亥、從六位上藤原朝臣廣嗣(ニ)授2從五位下(ヲ)1、十年四月庚申、爲2大養徳《オホヤマトノ》守(ト)1、式部(ノ)少輔如v故、同十二月丁卯、爲2太宰(ノ)少貳(ト)1、十二年八月癸未、太宰(ノ)少貳從五位下藤原(ノ)朝臣廣嗣、上v表(ヲ)指2時政之得失(ヲ)1、陳2天地之災異(ヲ)1云々、九月丁亥、廣嗣遂起v兵(ヲ)反、勅以2從四位上大野(ノ)朝臣東人(ヲ)1爲2大將軍(ト)1、從五位上紀(ノ)朝臣飯麻呂(ヲ)爲2副將軍(ト)1、云々、丙戌、云々、是日大將軍東人等言、進士無位安倍(ノ)朝臣黒麻呂、以2今月二十三日丙子(ヲ)1、捕2獲逆賊廣嗣(ヲ)於肥前(ノ)國松浦(ノ)郡値嘉(ノ)島長野(ノ)村1云々、戊子、大將軍東人等言、以2今月一日(ヲ)1、於2肥前(ノ)國松浦(ノ)郡(ニ)1斬2廣嗣綱手(ヲ)1已訖云々、廣嗣(ハ)式部(ノ)卿馬養之第一(ノ)子也、云々、と見えたり、○幸2于伊勢(ノ)國は、續紀に、天平十二年冬十月壬午、行2幸伊勢(ノ)國(ニ)1、云々、是日到2山邊(ノ)郡竹谿(ノ)村堀越(ノ)頓宮(ニ)1、癸未、車駕到2伊賀(ノ)國名張(ノ)郡(ニ)1、十一月甲申朔、到2伊賀(ノ)郡安保(ノ)頓宮(ニ)1、宿云云、乙酉、到2伊勢(ノ)國壹志(ノ)郡河口(ノ)頓宮(ニ)1、謂2之(ヲ)關宮(ト)1也、丙戊、車駕停2御關宮(ニ)1十箇日、云々、丁亥、遊2獵于和遲野(ニ)1、云々、乙未、從2河口1發至2壹志(ノ)郡(ニ)1(郡の下、頓宮の地名を脱せり、)宿、云々、丁酉、進至2鈴鹿(ノ)郡赤坂(ノ)頓宮(ニ)1、云々、これより美濃近江山背の國々を經幸して、つひに十三年正月癸未朔、天皇始(テ)御2恭仁(ノ)宮(ニ)1受v朝(ヲ)、と見ゆ、この度伊勢に幸せるは、廣嗣が亂賊をさけまし、且大神宮に奉v幣(ヲ)賜ひて、祈請し賜はむが爲なり、
 
(294)1029 河口之《カハクチノ》。野邊爾廬而《ヌヘニイホリテ》。夜乃歴者《ヨノフレバ》。妹之手本師《イモガタモトシ》。所念鴨《》オモホユルカモ。
 
夜之歴者《ヨノフレバ》は、夜の重《カサナ》ればと云むが如し、右に續紀を引る如く、河口の關宮に、停御《トヾマリマシ》ましける間よめるなり、○歌(ノ)意は、此(ノ)度行幸の從駕によりて、河口の野邊に廬造りて、旅宿する夜の重なれば、いとゞ苦しく寒さにたへがたくて、本郷の家にある妻が袂(ト)の、一すぢに戀しく思はるる哉となり、
 
天皇御製歌一首《スメラミコトノミヨミマセルオホミウタヒトツ》。
 
1030 妹爾戀《イモニコヒ》。吾乃松原《アガマツバラヨ》。見渡者《ミワタセバ》。潮干乃潟爾《シホヒノガタニ》。多頭鳴渡《タヅナキワタル》。
 
妹爾戀《イモニコヒ》は、妹を戀《コヒ》と云むが如し、妹を戀しく思ひて待、とかゝれる枕詞なり、猶次に云、○吾乃松原は、本居氏、此は吾自松原《アガマツバラヨ》とありしが、自を乃に誤れるにて、初句は、待と云へかゝれる枕詞なり、いづくにまれ、たゞ松原よりといふなり、地(ノ)名にあらずと云り、(按に、續古今集に、伊勢島やわかの松原見わたせば夕潮かけて秋風ぞ吹、風雅集に、伊勢島や鹽干のかたの朝なぎに霞にまがふわかの松原、新古今集に、雪ふればわかの松原うづもれて鹽干のたづの聲ぞ寒けき、とあるは、皆今の大御歌を、わがの松原と云地と意得て、よめるなり、)十七卷(ノ)初に、和我勢兒乎安我松原欲見度婆《ワガセコヲアガマツバラヨミワタセバ》、安麻乎等女登母多麻藻可流美由《アマヲトメドモタマモカルミユ》、とあり、舊本歌(ノ)左に、右一首、今案、吾松原在2三重郡1、相2去河口行宮1遠矣、若疑御2在朝明(ノ)行宮1之時、所v製御歌、傳者誤之歟、とあるは、(295)最後人の註なり、(三重(ノ)郡なるは、赤(ノ)松原にて、其は天平の大安寺伽藍縁起流記資財帳に、伊勢國三重(ノ)郡赤(ノ)松原百町、と記せる是なり、赤を吾と書(ク)べき謂なければ、赤(ノ)松原ぞと思へるは、甚《イミジキ》誤《ヒガゴト》なり、且御2在朝明(ノ)行宮(ニ)1しことは、續紀に、十一月丙午、從2赤坂1發至2朝明(ノ)郡(ニ)1、とあるを云るなれど、此時家持(ノ)卿も從駕にて、面《マノアタ》り聞見て、記せるものなるに、さばかり傳へ誤るべき理なきをや、)但(シ)河口行宮作とあるは、初家持(ノ)卿のよめる、一首の題にこそあれ、此(ノ)大御歌より次下なるは、伊勢(ノ)國に行幸し時のを、ひろく云るにて、何處にての作といふことを、細に記さゞれば、所製《ミヨミ》ませし處をば、さだかにはしるべからず、(○岡部氏が、吾はアガ〔二字右○〕とよみて、吾(ノ)松原は、志摩|英處《アゴノ》郡の松原なりといへるは、論《イフ》にも足ず、)○潟(ノ)字、類聚抄、拾穗本等には滷と作、○大御歌(ノ)意は、此方の松原より、遙々と向(ヒ)の海を、朕(カ)見わたせば、潮の干潟に鶴鳴渡るよとなり、あなかしこ、此(ノ)大御歌、何となけれど、誦申度に、其(ノ)御時の風景、今も目(ノ)前に浮びて、見るやうなるは、御調の高きが故なるべし、
 
丹比屋主眞人歌一首《タヂヒノイヘヌシノマヒトガウタヒトツ》。
 
丹比屋主眞人は、今按(フ)に、屋主は、家主を寫し誤れるなるべし、さるは家主《イヘヌシ》といふ人も、屋主《ヤヌシ》といふ人も、同時にありて、官位も大かた同じほどに歴たれば、やうせずは、混るばかりなれば、註者等多くは、是を同人と意得ためれど、よく見れば決て別人にて、家主はイヘヌシ〔四字右○〕、屋主は(296)ヤヌシ〔三字右○〕、と唱へしなるべし、さてこれを同人と意得たるより、ゆくりなく、後に寫し傳る人の、家を屋と誤れるなるべし、殊に屋主は、集中にも、八(ノ)卷に、大藏(ノ)少輔丹比(ノ)屋主(ノ)眞人と見えたれば、同人と思ひ混ひしもうべなり、さてかくいふ所以《ユエ》は、次に續紀を引る如く、家主は、此度の行幸に、從駕《ミトモツカヘ》まつれるよし見えて、屋主は見えざれば、きはめて家主なるべし、家主は、續紀に、元正天皇養老七年九月己卯、出羽(ノ)國司五六位上多治比(ノ)眞人家主言、云々、聖武天皇天平九年二月戊子、正六位上多治比(ノ)眞人家主(ニ)授2從五位下(ヲ)1、十二年十月壬午、行2幸伊勢國(ニ)1十一月丁酉、進至2鈴鹿(ノ)郡赤坂(ノ)頓宮(ニ)1、甲辰詔2倍從云々等(ニ)1、賜2爵人一級(ヲ)1、從五位下多治比(ノ)眞人家主(ニ)授2從五位上(ヲ)1、十三年八月丁亥、從五位上多治比(ノ)眞人家主(ヲ)爲2鑄銭長官(ト)1、孝謙天皇天平勝寶三年正月己酉、從五位上多治比(ノ)眞人家主(ニ)授2正五位下(ヲ)1、六年正月癸卯、天皇御2東院1宴2五位已上(ヲ)1、有v勅、召(テ)2正五位下多治比(ノ)眞人家主云々(ヲ)1於2御前1即授2從四位下(ヲ)1、天平寶字四年三月癸亥、散位從四位下多治比(ノ)眞人家主卒(ス)、と見えたり、屋主《ヤヌシ》の傳は、八(ノ)卷に至りて委(ク)註(フ)べし、
 
1031 後爾之《オクレニシ》。人乎思久《ヒトヲシヌハク》。四泥能埼《シデノサキ》。木綿取之泥而《ユフトリシデテ》。將往跡其念《ユカムトソモフ》。
 
後爾之人乎思久《オクレニシヒトヲシヌハク》とは、奈良(ノ)京に留(リ)居る妻などを慕ふよしを云るなり、思久は、シヌハク〔四字右○〕と訓べし、(オモハク〔四字右○〕とよめるはいとわろし、)慕ふやうはといふ意なり、○四泥能埼《シデノサキ》(埼(ノ)字、拾穗本には、崎と作り、)は、神名帳に、伊勢(ノ)國朝明(ノ)郡志?(ノ)神社とある、其處なるべし、谷川氏、今朝明(ノ)郡羽津(297)の西に、しでの崎しで野の名あり、志?(ノ)神社を今しでのゝ社と云といへり、(岡部氏が、四泥《シデ》は、四(ノ)卷に、網兒《アコ》の山いほへかくせる佐堤《サデ》の崎さではへし子の夢にし見ゆる、と有と同じくて、志摩(ノ)國英虞郡にあるならむ、と云るはいかゞ、但朝明(ノ)郡志?(ノ)神社とせむことも、壹志(ノ)郡河口にてよめる歌ならば、いさゝか叶ひがたけれども、此(ノ)上の御製歌と、此(ノ)歌なるは、前にも云る如く、伊勢(ノ)國行幸の度を、ひろく云るなれば、たしかにいづれの處の作とは知べからず、十一月十二日に、河口をたゝせ賜ひて、同廿三日、朝明(ノ)郡に至り幸し賜へる間に、よめるなるべし、荒木田氏は、今志摩(ノ)國に志奴島あり、志賣の浦といふ所もあり、是(レ)志泥《シデ》の埼の轉れる名ならむ、また四泥《シデ》は、四沼《シヌ》の誤かとも云れど、志摩(ノ)國とせむことも、なほいかゞなり、そのうへ四沼と音訓の假字を用ひたりとせむことも、心行ず、)舊本歌の左に、右案、此歌者不d有2此行宮1之作u乎、所2以然言1之、勅2大夫1從2河口行宮1還v京、勿v令2從駕1焉、何有d詠2思泥埼1作歌u哉、とあるは、後人の註なり、(此(ノ)註の中、初の有は在(ノ)字なるべし、大夫は、家主眞人を指るならむ、泥(ノ)字、舊本に、沼と作るは誤にて、古寫一本、拾穗本等に泥と作るぞよき、かくて續紀を檢《ミ》るに、十一月二日に、河口(ノ)頓宮に着せたまひ、十二日に河口より發て、壹志郡某(ノ)頓宮に至りて、宿らせたまひ、十四日に、鈴鹿(ノ)郡赤坂(ノ)頓宮にいたりまし、廿一日に、丹比(ノ)眞人家主等に從五位上を授《タマ》ひ、廿三日、赤坂をたたせたまひて、朝明(ノ)郡に至りたまひ、廿五日、桑名(ノ)郡石占(ノ)頓宮に着せたまひ、廿六日、美濃(ノ)國當(298)伎(ノ)郡に至りたまへり、しかれば赤坂(ノ)頓宮まで、從駕《ミトモツカヘ》まつれることは、たしかにいちじるきを、從2川口行宮1還v京とは、何によりて言ることぞや、續紀をよく檢《ミ》ずして、後人の註せるなり、)○木綿取之泥而《ユフトリシデテ》、九(ノ)卷に、齋戸爾木綿取四手而忌日管《イハヒヘニユフトリシデテイハヒツヽ》、皇極天皇(ノ)紀に、折2取枝葉1懸掛《トリシデ》木綿《ユフ》1云々、(新古今集に、高陽院|木綿四手《ユフシデ》と云女(ノ)名も見えたり、)古事記に、於2下枝1取(リ)2垂《シテ》白丹寸手青丹寸手《シラニキテフヲニキテヲ》1而《テ》、延喜六年書記竟宴(ノ)歌に、比佐嘉多能阿麻弖流呵美乎伊能留度曾《ヒサカタノアマテルカミヲイノルトソ》、要多母須惠惠爾奴佐波志弖氣流《エダモスヱエニヌサハシテケル》、などあり、之泥《シテ》は、之太禮《シダレ》を縮《ツヾメ》たる言なり、(ダレ〔二字右○〕の切デ〔右○〕、)孝徳天皇(ノ)紀に、垂此云2之娜屡《シダルト》1、此、集十(ノ)卷に、垂柳《シダリヤナギ》、十一に、四垂尾《シダリヲ》、など見えたり、本居氏、之太留《シダル》は、繁垂《シヽタル》の意なり、竹玉乎繁爾貫垂《タカタマヲシヾニヌキタリ》とある以知べしと云り、○將往跡其念《ユカムトソモフ》、(將(ノ)字、活字本には、好とあり、好往は、好去と書るに同じくサキク〔三字右○〕と訓べきか、サキク〔三字右○〕を、好去と書る事は既く云り、往(ノ)字、舊本に住と作るは誤なり、)木綿取垂《ユフトリシデ》て、家なる妻に平安《サキ》く相見むことを、神に祈願《コヒネギ》て、行むとぞ思ふとなり、○歌(ノ)意は吾におくれて、京に留まれる妻を、明暮戀しく思へども、從駕なれば、急に相見べきすべなし、志?(ノ)神社の神靈を、ひとへにたのもしく思へば、神の御爲に、その志?(ノ)崎に木綿取しだれて、神慮を和めつゝ、いかで平安《サキク》在(リ)て、京にかへりて、有し日の如く妻に相見むことを、ねもころに祈願て、行むとぞ思ふとなり、
 
獨《ヒトリ》殘《オクレヰテ》2行宮《カリミヤニ》1大伴宿禰家持作歌二首《オホトモノスクネヤカモチガヨメルウタフタツ》。
 
(299)獨殘行宮、(舊本に、獨(ノ)字を狹と作り、されど狹殘行宮と云は、續紀にも見えず、荒木田氏は狹殘をサザム〔三字右○〕と訓て、神名帳に、伊勢(ノ)國多氣郡|佐佐夫江《ササフエノ》神社見え、倭姫(ノ)命(ノ)世記に、眞鶴佐佐牟江《マナヅルササムエノ》宮(ノ)前(ノ)葦原還行鳴《アシハラニカヘリユキテナク》、とあり、此の佐佐夫江《ササフエ》は、多氣郡大淀(ノ)村の西、根倉村行部村の間に入江ありて、そこに架《ワタ》せる橋を、今猶|篠笛《サヽブエ》の橋と云といへり、それぞ古(ヘ)の頓宮の地なるべきと云り、已上荒木田氏(ノ)説なり、佐佐夫江は、この篠笛にもやあらむ、しかれども今の狹殘を、佐佐牟《ササム》とせむことは心得ず、さるは狹(ノ)字の訓と、殘(ノ)字の音を取合て地(ノ)名に用ひしものとも、思はれねばなり、)此は石占(ノ)行宮なるべし、さるは續紀を見るに、十一月戊申、至2桑名(ノ)郡石占(ノ)頓宮(ニ)1、その明日己酉、到2美濃(ノ)國當伎(ノ)郡1、とありて、石占頓宮には、昨一夜宿らせ賜ふが故に、家持卿は、猶行宮に獨殘り居て、種々の御調度等取納め、其(ノ)餘にも所用ありしがゆゑに、とりまかなひける間、作るなるべし、
 
1032 天皇之《オホキミノ》。行幸之隨《イテマシノマニ》。吾妹子之《ワギモコガ》。手枕不卷《タマクラマカズ》。月曾歴去家留《ツキソヘニケル》。
 
天皇之は、天は決《キハメ》て大の寫し誤にて、オホキミノ〔五字右○〕なり、其(ノ)説既く首(ノ)卷に具(ク)辨(ヘ)置り、披(キ)見て考(フ)べし、○行幸之隨は、イデマシノマニ〔七字右○〕と訓べし、四(ノ)卷笠(ノ)朝臣金村(ガ)長歌に、天皇之行幸乃隨意《オホキミノイデマシノマニ》、とある處に具(ク)註(ヘ)り、○歌意は行幸の從駕によりて、家にある妹が手枕を纒ずして、月日を經てあれば、いよ/\戀しく思ふ心、たへがたしとなり、十月末に行幸て、十一月末に至りたれば、月(300)ぞ歴にけるとよめるなり、
 
1033 御食國《ミケツクニ》。志麻乃海部有之《シマノアマナラシ》。眞熊野之《マクマヌノ》。小船爾乘而《ヲブネニノリテ》。奧部※[手偏+旁]所見《オキヘコグミユ》。
 
御食國《ミケツクニ》は、此上にも見えたり、御饌調國《ミケツククニ》、といふなるべし、志摩(ノ)國の殊に御贄を獻れりし事は古事記に、島之速贄《シマノハヤニヘ》獻之時云々、此(ノ)集十三に、御食都國神風之伊勢乃國《ミケツクニカムカゼノイセノクニ》、と見えたり、志摩は、古(ヘ)は伊勢の内なり三代實録に、元慶六年十月廿五日、志摩(ノ)國年貢(ノ)御贄、四百三十一荷云々、宮内式諸國例貢(ノ)御贄(ノ)條に、伊勢(推子蛎、礒蛎、)志摩(深海松、)主計式に、志摩(ノ)國調、御取(ノ)鰒、雜(ノ)鰒、堅魚、熬海鼠、雜魚(ノ)楚割、雜魚(ノ)脯、雜※[月+昔]、雜(ノ)鮨、漬v鹽雜魚、紫菜《ノリ》、海松、鹿角菜《フノリ》、海藻《メ》、海藻根《マナカシ》、小凝菜、角俣菜《ツノマタノリ》、於期菜《ヲコノリ》、滑海藻《アラメ》、庸輸、鮑、堅魚、鯛楚割、中男作物、雜魚※[月+昔]、主税式に、凡志摩(ノ)國供2御贄(ニ)1、潜女卅人、歩女一人、仕丁八人、云々、内膳式に、諸國貢進御贄句料云々、志摩(ノ)國御厨、鮮鰒螺云々、味漬腸漬、蒸鰒、玉貫、御取夏鰒等云々、雜魚云々、年料云々、志摩(ノ)國(藻海松)とあり、○眞熊野之小船《マクマヌノヲフネ》は、此(ノ)上に具(ク)註(ヘ)りき、中山(ノ)嚴水云、羆野にて作りし舟は、うるはしきなるべし、今も土佐國の鯨取(ル)舟は、熊野より買取(ル)よしなり、古(ヘ)は志摩のあたりにも買取(リ)しなるべし、○奥部※[手偏+旁]所見《オキヘコグミユ》は、奥邊を※[手偏+旁]行が見ゆるとなり、○歌(ノ)意は、熊野の小船にのりて、沖の方に漕出て行ば、志摩の海人が、御贄の料に、漁する船にてあるらし、かくこのたび、天の下のさわぎによりて、行幸の從駕《ミトモツカヘ》まつりて、家人にわかれ、いろ/\苦しき旅をする事と思ふに、海人が徒は暇なきのみならず、荒き風浪をしのぎ(301)て、遙の海面に漕出て、天皇の御爲にあやふきわざすなるは、さてもあはれにいとほしき事かな、これにて思へば、天皇の御左右に仕へまつるは、旅とはいへど、遙に益りて有がたく貴くうれしく思はるゝ我、といいふなるべし、
 
美濃國多藝行宮《ミヌノクニタギノカリミヤニテ》。大伴宿禰東人作歌一首《オホトモノスクネアヅマヒトガヨメルウタヒトツ》。
 
多藝(ノ)行宮は、上にも引る如く、續紀に、天平十二年十一月己酉、到2美濃(ノ)國|當伎《タギノ》郡1、とありて、五日|停御《トヾマリマシマ》して、翌十二月朔に、不破(ノ)頓宮に到り幸せり、和名抄に、美濃(ノ)國多藝(ノ)郡(多岐《タギ》、)神名式に、同郡多伎(ノ)神社見えたり、古事記景行天皇(ノ)條に、(倭建(ノ)命)云々、到2當藝(ノ)野上(ニ)1之時、詔者、吾心恆念2自v虚翔行1、然今吾足不2得歩1、成2當藝斯(ノ)形(ト)1、故(レ)號《ヲ》2其地《ソコ》1、謂2當藝《タギト》1也、云々と見えたり、さてこの多藝《タギ》てふ地(ノ)名の由縁は、こゝの歌によれば、瀧によれる如聞えて、まぎらはしかるめれど、然には非ず、倭建(ノ)命の御言より起れるなり、と本居氏は云り、なほ次に云(フ)べし、○東人は、同紀に廢帝寶字五年十月朔、從五位下大伴宿禰東人(ヲ)爲2式部(ノ)少輔(ト)1(兵部、)七年正月甲辰朔壬子、以2從五位下大伴(ノ)宿禰東人(ヲ)1爲2少納言(ト)1、光仁天皇寶龜元年六月甲午、爲2散位(ノ)助(ト)1、八月辛亥、爲2周防(ノ)守(ト)1、五年三月甲辰、爲2彈正(ノ)弼(ト)1、と見えたり、
 
1034 從古《イニシヘヨ》。人之言來流《ヒトノイヒケル》。老人之《オイヒトノ》。變若云水曾《ヲツチフミヅソ》。名爾負瀧之瀬《ナニオフタキノセ》。
 
人之言來流は、ヒトノイヒケル〔七字右○〕と訓べし、人の云來ける、と云に同じ、(キケ〔二字右○〕(ノ)切ケ〔右○〕なり、)○變若云(302)水曾は、ヲツチフミヅソ〔七字右○〕と訓べし、(此は荒木田氏が訓るに從つ、ワカユチフミヅソ〔八字右○〕とよみては、調とゝのはず、凡て變若と書るは、いづれも必|乎知《ヲチ》と訓べきよし、荒木田氏の云るは、信にさることなりけり、なほ其(ノ)説三(ノ)卷槻(ノ)落葉別記に、甚《イト》詳《ツバラ》なり、但しそれには、こゝをヲチチフミヅソ〔七字右○〕とよみたれど、ヲチ〔二字右○〕と云ては、變若《オチ》よと令《オホ》する意に、きこゆることにて、今少し此處に叶ひがたし、此處は、必ヲツ〔二字右○〕とよむべき所なり、○名爾負瀧之瀬《ナニオフタキノセ》、續紀(ニ)云(ク)、元正天皇養老元年九月丁未、天皇行2幸美濃(ノ)國(ニ)1、甲寅、至2美濃(ニ)國(ニ)1丙辰、幸2當耆《タギノ》郡多度山(ノ)美泉(ニ)1云々、甲子、車駕還v宮、十一月癸丑、天皇臨v軒詔曰、朕以2今年九月1、到2美濃國不破行宮(ニ)1、留連數日、因覽2當耆(ノ)郡多度山(ノ)美泉(ヲ)1、自盥2手面(ヲ)1、皮膚如v滑、亦洗2痛處(ヲ)1、無v不(ルコト)2除愈1、在2朕之身(ニ)1其(ノ)驗(アリ)、又就而飲欲之者、或白髪反v黒(ニ)、或頽髪更(ニ)生、或闇目如v明、自餘痼疾減皆平愈云々、改2靈龜三年(ヲ)1爲2養老元年(ト)1、云々、十二月丁亥、令d美濃(ノ)國、立春曉※[手偏+邑]2醴泉1、而貢2於京都(ニ)1爲c醴酒(ヲ)u也、二年二月壬申、行2幸美濃醴泉(ニ)1、と見ゆ、後までもいはゆる養老の瀧なり、さて名爾負《ナニオフ》と云るは、此《コヽ》の地(ノ)名に負ると云ことにて、この美泉によりて、即地(ノ)名にも負持せたる、瀧の瀬と云こゝろばえなり、さて此歌の如く、多藝てふ地(ノ)名は、もとこの美泉によれるものか、又は上に引る、古事記の文の如く、倭建(ノ)命の御言に起れるものか、その本の由緒は、いづれにてもあるべし、もしまことに古事記の如くならむには、今の作者、その本縁をしらずして、よめるにもあるべく、よし又そをしれらむにも、かくとりなして、よむまじきにも(303)あらず、いづれにまれ、此(ノ)歌の意は、地(ノ)名に負持る瀧の瀬、と云なり、○歌(ノ)意は、古(ヘ)より今の現前《ウツヽ》に名高く云傳へ來てある如く、此(ノ)水を飲ば、老人の若時に立かへりて、若人になると云ぞ、瀧と地(ノ)名に負持てある、此(ノ)瀧の瀬はとなり、
 
大伴宿禰家持作歌一首《オホトモノスクネヤカモチガヨメルウタヒトツ》。
 
1035 田跡河之《タドカハノ》。瀧乎清美香《タギヲキヨミカ》。從古《イニシヘユ》。宮仕兼《ミヤツカヘケム》。多藝乃野之上爾《タギノヌノヘニ》。
 
田跡河《タドカハ》は、則(チ)多度《タド》山より流出れば呼《イヘ》り、○瀧乎清美香《タギヲキヨミカ》は、瀧の美泉の清きが故にか、と云意なり、香《カ》は兼《ケム》の下にめぐらして意得べし、○從古《イニシヘユ》は、元正天皇の古(ヘ)より、と云なり、○宮仕兼《ミヤツカヘケム》は、多藝(ノ)郡の野に、行宮を造り仕奉りけむ、と云なり、凡て宮仕《ミヤツカヘ》といふは、宮を造(リ)奉るを云なること、既く一(ノ)卷に具(ク)註るが如し、○歌(ノ)意は、多度山より流出る河の瀧の美水の清きが故に、それを賞美賜はむが爲とて、元正天皇の古より、多藝(ノ)郡の野の邊に行宮を造り仕へ奉りけむかとなり、
 
不破行宮《フハノカリミヤニテ》。大伴宿禰家持作歌一首《オホトモノスクネヤカモチガヨメルウタヒトツ》。
 
不破(ノ)行宮は、績紀に、天平十二年十二月癸丑朔、到2不破(ノ)郡不破(ノ)頓宮(ニ)1、とあり、
 
1036 關無者《セキナクバ》。還爾谷藻《カヘリニダニモ》。打行而《ウチユキテ》。妹之手枕《イモガタマクラ》。卷手宿益乎《マキテネマシヲ》。
 
關は、不破(ノ)關なり、廿(ノ)卷防人(ノ)歌に、阿志加良能美佐可多麻波理《アシガラノミサカタマハリ》云々|不破乃世伎久江弖和波由(304)久《フハノセキクエテワハユク》云々、とよめり、伊勢(ノ)國鈴鹿(ノ)關、美濃(ノ)國不破(ノ)關、越前(ノ)國|愛發《アラチノ》關を合て三關と云けるよし、績紀令(ノ)義解等に見えたり、後に近江の相坂(ノ)關を建られてより、不破(ノ)關は荒廢《アレ》にたり、○還爾谷藻《カヘリニダニモ》は、俗に、立歸りになりともと云意なり、行つきて、立ながら物など云て、其(ノ)まゝかへるを、還りに行て來ると云るなり、此《コヽ》は須臾《シバラク》なりとも、妻に相て來《キタ》らまく思ふを云るなり、十七同人述2戀緒(ヲ)1歌に、近在者加弊利爾太仁母《チカヽラバカヘリニダニモ》、宇知由吉底《ウチユキテ》、妹我多麻久良《イモガタマクラ》、佐之加倍底《サシカヘテ》、禰天蒙許萬思乎《ネテモコマシヲ》、多麻保己乃《タマホコノ》、路波之騰保久《ミチハシトホク》、關左閇爾《セキサヘニ》、弊奈里底安禮許曾《ヘナリテアレコソ》云々、と見えたり、○打行而《ウチユキテ》、打は、語(ノ)勢に添たる辭なり、○歌(ノ)意は、不破(ノ)關さへ無らましかば、立歸りになりとも行て、須臾妻が手枕相纒て、宿て歸り來ましものを、關守に、きびしくとがめ塞らるべければ、さる事も得爲ずて、いよ/\戀しく思ふ心に堪がたしとなり、
 
十五年癸未《トヽセマリイツトセトイフトシミヅノトヒツジ》。秋八月十六日《ハツキノトヲカマリムカノヒ》。内舍人大伴宿禰家持《ウチトネリオホトモノスクネヤカモチガ》。讃《タヽヘテ》2久邇京《クニノミヤコヲ》1作歌一首《ヨメルウタヒトツ》。
 
舊本秋八月より下、行をはなちて書り、今續け書ること、前々の例の如し、○久邇(ノ)京は、續紀に、聖武天皇天平十二年十二月戊午、從2不破1發至2坂田(ノ)郡横川(ノ)頓宮(ニ)1、是日右大臣橘(ノ)宿禰諸兄在v前(ニ)而發、經2略山背(ノ)國相樂(ノ)郡恭仁(ノ)郷(ヲ)1、以v擬2遷都《セムト》1故也、丁卯、皇帝在v前(ニ)幸2恭仁(ノ)宮(ニ)1、始(テ)作2京都(ヲ)1矣、太上天皇皇后在v後(ニ)而至、十三年正月癸未朔、天皇始(テ)御2恭仁(ノ)宮(ニ)1受v朝(ヲ)、宮垣未v就、繞(スニ)以2帷帳(ヲ)1、是日宴2五位已上(305)於内裏(ニ)1、賜(コト)v禄(ヲ)有v差、癸巳、遣2使(ヲ)伊勢大神宮、及七道諸社(ニ)1、奉v幣(ヲ)以告d遷2新京(ニ)2之状u也、閏三月己未、遣v使(ヲ)運2平城(ノ)宮(ノ)兵器(ヲ)於甕(ノ)原(ノ)宮(ニ)1、乙丑、詔曰云々、自今以後、五位以上不v待2任v意住2平城(ニ)1、云々、其(ノ)見在2平城1者、限2今|日《月歟》内(ヲ)1悉皆催發(セ)、七月戊午、太上天皇移2御新宮(ニ)1、天皇奉v迎2河頭1、八月丙午、繊2平城(ノ)二市於恭仁(ノ)京(ニ)1、九月乙卯、勅以2京都新遷(ヲ)1大2赦天下(ニ)1、己未、云々、班2引給京都(ノ)百姓(ニ)宅地(ヲ)1、從2賀世山西道1以東(ヲ)爲2左京(ト)1、以西(ヲ)爲2右京(ト)1、十一月戊辰、右大臣橘(ノ)宿禰諸兄奏、此間朝廷以2何(ノ)名號(ヲ)1傳2於萬代(ニ)1、天皇勅曰(ク)、號爲2大養徳恭仁大宮《オホヤマトクニノオホミヤト》1也、十四年二月庚辰、是日始開2恭仁(ノ)京(ノ)東北道(ヲ)1、通2近江(ノ)國甲賀(ノ)郡(ニ)1、八月乙酉、宮城(ヨリ)以南(ノ)大路《オホヂ》西(ノ)頭《ホトリ》、與2甕(ノ)原(ノ)宮(ノ)東1之間、令v造2大橋(ヲ)、など見えたり、歴代編年集成にも、天平十二年、遷2都(ヲ)瓶(ノ)原(ノ)宮(ニ)1、(山城(ノ)國相樂(ノ)郡、)十三年、改2瓶(ノ)原(ノ)宮(ヲ)1號2久仁(ノ)宮(ト)1、と見ゆ、
 
1037 今造《イマツクル》。久邇乃王都者《クニノミヤコハ》。山河之《ヤマカハノ》。清見者《サヤケキミレバ》。宇倍所知良之《ウベシラスラシ》。
 
今造《イマツクル》は、今新に造ると謂《イフ》なり、神代紀下に、又|汝應住天日隅宮者《ミマシガスムベキノヒスノミヤハ》、今當供造《イマツクルベシ》、枕册子に、小家などいふ物の、おほかりける所を、今作らせ給へれば、木立などの、見所あるはいまだなし、などあるに同じく、今《イマ》は新(ノ)字の意なり、新來《イマキ》、新參《イママヰリ》などの新《イマ》の如し、新熊野《イマクマノ》などいふも同じ、又|新日吉《イマヒエ》などもいへり、(平家物語に、新《イマ》八幡とも見ゆ、)又枕册子に、小一條院をば、今内裏とぞいふなる、とある今も同じ、榮花物語にも、堀川殿に、圓融院のおはせしを、今内裏と云る事見ゆ、八(ノ)卷同人の安倍(ノ)女郎に贈れる歌にも、本(ノ)二句全(ラ)同歌あり、また四(ノ)卷には、今所知久邇乃京爾《イマシラスクニノミヤコニ》、とよめ(306)り、七(ノ)卷に、今造斑衣服《イマツクルマダラノコロモ》云々、とも見ゆ、○山河《ヤマカハ》は、山と河となり、○清見者は、サヤケキミレバ〔七字右○〕と訓べし、○宇倍所知良之《ウベシラスラシ》は、げにも知しめすは、ことわりにて有らしの意なり、○歌(ノ)意は、今新に造り奉れる久邇(ノ)京の地は、山高く河の瀬清くして、見るにあかずおもしろく勝地なれば、げにも大宮造り仕(ヘ)奉りて、知しめし賜へるは、ことわりにてあるらし、となり、
 
高丘河内連歌二首《タカヲカノカフチノムラジガウタフタツ》。
 
高丘(ノ)河内(ノ)連は、高丘は氏、河内は名、連は尸《カバネ》なり、十七には、高丘(ノ)連河内とあり、續紀に、元明天皇和銅五年七月甲申、播磨國(ノ)大目從八位上樂浪(ノ)河内、云々、進2位一階1云々、元正天皇養老五年正月戊申朔庚午、詔云々、正六位下樂浪(ノ)河内云々等、退v朝之後令v侍2東宮(ニ)1焉、甲戊詔曰、云々、文章某某正六位下樂浪(ノ)河内、各賜2※[糸+施の旁]十五疋、絲十五※[糸+句]、布3十端、鍬二十口(ヲ)1、聖武天皇神龜元年五月辛未、正六位下樂浪(ノ)河内(ニ)賜2高丘(ノ)連(ヲ)1、天平三年正月丙子、正六位上高丘(ノ)連河内(ニ)授2外從五位下(ヲ)1、九月癸酉、外從五位下高丘(ノ)連河内(ヲ)爲2右京(ノ)亮(ト)1、十三年九月己未、遣2散位外從五位下高丘(ノ)連河内云々四人(ヲ)1班2給京都(ノ)百姓(ニ)宅地(ヲ)1、十四年八月癸未、詔曰、朕將v行2幸近江(ノ)國甲賀(ノ)郡紫香樂(ノ)村(ニ)1、即以2云々、造宮(ノ)輔外從五位下高岡(ノ)連河内等四人(ヲ)1、爲2造離宮司(ト)1、十七年正月乙丑、外從五位上、十八年五月戊午、從五位下、九月己巳、伯耆(ノ)守、孝謙天皇勝寶三年正月己酉、從五位上、六年正月王子、正五位下、と見ゆ、稱徳天皇神護景雲二年六月庚子、内藏頭兼大外記遠江(ノ)守從四位下高丘(ノ)宿禰比良麻(307)呂卒(ス)、云々、父樂浪(ノ)河内、正五位下大學(ノ)頭(タリ)、神龜元年改爲2高丘(ノ)連(ト)1、比良麻呂云々、景雲元年賜2姓宿禰(ト)1、とあり、かゝれば本は樂浪なりけるを、神龜元年に、高丘(ノ)連に改め賜はれるなり、
 
1038 故郷者《フルサトハ》。遠毛不有《トホクモアラズ》。一重山《ヒトヘヤマ》。越我可良爾《コユルガカラニ》。念曾吾世思《オモヒゾアガセシ》。
 
一重山《ヒトヘヤマ》は、唯|一隔《ヒトヘ》の山と云にて、山(ノ)名に非ず、四(ノ)卷に、一隔山《ヒトヘヤマ》とよめるに同じ、此《コヽ》は久邇(ノ)京より、奈良へ越る間の山を云、○越我可良爾《コユルガカラニ》は、可良《カラ》は、故《ユヱ》と云に同じく、越るばかりなるを、といふ意なり、隔れるばかりの事なるを、と云むが如し、○歌(ノ)意は、故郷といひて、甚く隔りて程遠き所にあらず、久邇より奈良へは、唯山一重を越るばかりなるを、幾重にも深く、吾物思ひをぞせし、となり、此(ノ)歌は、故郷奈良に遺居《オクレヲ》る友人の訪(ヒ)來れる時によめるか、又は自《ミ ラ》奈良なる友人(ノ)許へ行て、よめるにもあるべし、次の歌と合せて思ふべし、
 
1039 吾背子與《ワガセコト》。二人之居者《フタリシヲレバ》。山高《ヤマタカミ》。里爾者月波《サトニハツキハ》。不曜十方余思《テラズトモヨシ》。
 
吾背子は友人を指り、○歌(ノ)意は、かく友人と二人、共にだに居ば、山の高き故に障《サヘ》られて、月影の、家里のあたりに隈なく照ずとても、縱《ヨシ》やそれは、あかぬことには思はじ、となり、十一に、玉敷有家毛何將爲八重六倉覆小屋毛妹與居者《タマシケルイヘモナニセムヤヘムグラオホヘルヲヤモイモトスメレバ》、とあるに、心相似たり、
 
安積親王《アサカノミコノ》。宴《ウタゲシタマフ》2左少辨藤原八束朝臣家《ヒダリノスナキオホトモヒフヂハラノヤツカノアソミガイヘニ》1之日《ヒ》。内舍人大伴宿禰家持作歌一首《ウチトネリオホトモノスクネヤカモチガヨメルウタヒトツ》。
 
(308)安積(ノ)親王は三(ノ)卷に、安積(ノ)皇子とあり、御傳は彼處に委(ク)云り、
 
1040 久堅乃《ヒサカタノ》。雨者零敷《アメハフリシケ》。念子之《オモフコガ》。屋戸爾今夜者《ヤドニコヨヒハ》。明而將去《アカシテユカム》。
 
雨者零敷は、アメハフリシケ〔七字右○〕と訓べし、零(リ)重《シキ》れの意なり、○念子《オモフコ》は、主人八束(ノ)朝臣を指て云り、○屋戸《ヤド》とは、家のことなり、(屋の戸といふにはあらず、)八(ノ)卷に、青丹吉奈良乃山有黒木用造有室戸者雖居座不飽可聞《アヲニヨシナラノヤマナルクロキモチツクレルヤドハマセドアカヌカモ》、十五に青柳乃保都枝與治等理可豆良久波君之屋戸爾之千年保久等曾《アヲギノホツエヨヂトリカヅラクハキミガヤドニシチトセホクトソ》、などある屋戸《ヤド》も、たゞ家のことにて、今と同じ、此は人の宿《ヤド》る家の義にて、いへるなるべし、すべて夜度《ヤド》といふに、大抵四種あり、まづその一(ツ)には、家のことにて、件にいへる其(レ)なり、二(ツ)には、旅などにありて宿臥《ネフシ》する家をいへり、世に旅宿といふこれなり、これも宿《ヤド》るといふ義より、いでたることにて、右のたゞ家をいへる夜度《ヤド》にちかし、三(ツ)には、屋前《ヤド》、屋外《ヤド》など書る字(ノ)意にて、世に庭前、或は屋敷《ヤシキ》内などいふが如し、四(ツ)には、屋戸と書る字(ノ)意にて、家に闔《サス》戸なり、此(ノ)四種の差別を意得おきて、各々其(ノ)歌につきて聞分(ク)べし、其(ノ)内|屋外《ヤド》の意なるは、古(ヘ)の歌には殊に多し、次には旅宿をいへることも往々あり、たゞ家のことなると、屋(ノ)戸をいへるとはすくなし、後にはたゞ家を夜度《ヤド》といへること、こよなく多(キ)によりて、すなはち古(ヘ)の歌に、夜度《ヤド》といへるをも、多くはたゞ家のことゝ意得るは、麁《オロソカ》なり、さて右四種の内、屋(ノ)戸をいへる假字書見えざれば、清濁さだかならず、もしは屋(ノ)戸をいふをば、夜等《ヤト》と清て唱へしにもあらむか、○歌(ノ)意か(309)くれたる處なし、
 
十六年甲申《トヽセマリムトセトイフトシキノエサル》。春正月五日《ムツキノイツカノヒ》。諸卿大夫《マヘツキミタチ》。集《ツドヒテ》2安倍蟲麿朝臣家《アベノムシマロノアソミガイヘニ》1。宴歌一首《ウタゲセルウタヒトツ》。
 
舊本、春正月より下、行をはなちて書り、今續け書ること、前々の例の如し、○夫(ノ)下、拾穗本には、等(ノ)字あり、○舊本一首の下に、作者不審と註せり、(拾穗本には、不審を未詳と作り、)異本には无、
 
1041 吾屋戸乃《ワガヤドノ》。君松樹爾《キミマツノキニ》。零雪乃《フルユキノ》。行者不去《ユキニハユカジ》。待西將待《マチニシマタム》。
 
松樹《マツノキ》に待(ツ)意を帶《カネ》たり、○零雪乃《フルユキノ》(乃(ノ)字、拾穗本には之と作り、)は、行《ユキ》をいはむ料なり、三(ノ)卷に、白雪仕物往來乍《ユキジモノユキヴヨヒツヽ》、ともよめり、○西(ノ)字、舊本而と作るは誤なり、今は拾穗本に從つ、○歌(ノ)意は、吾方にも、此席にある人々を待得て宴せむ、他方に行(キ)には行じ、ひた待に吾(ガ)方に待得むと、此(ノ)宴にあづかれる人の云(ヘ)るなるべし、
 
同月十一日《オヤジツキノトヲカマリヒトヒ》。登《ノボリ》2活道岡《イクヂノヲカニ》1。集《ツドヒテ》2一株松下《ヒトツマツノモトニ》1。飲歌二首《ウタゲセルウタフタツ》。
 
活道(ノ)岡は、山城國和樂(ノ)郡にあり、三(ノ)卷(ノ)歌に、活道山《イクヂヤマ》とある處に註《シル》せりき、○集2一株松下1飲、すべて樹下にて宴飲《サケノミ》することは、廿(ノ)卷に、家持之莊門槻樹下宴飲、と見え、古事記(雄略天皇(ノ)條、)に、天皇|坐《マシ/\テ》2長谷之百枝槻下1、爲豐樂之時《トヨノアカリキコシメストキニ》云々、後紀に、弘仁四年七月丙寅、宴2于後庭(ノ)合歡樹(ノ)下(ニ)1、なども見えたり、
 
1042 一松《ヒトツマツ》。幾代可歴流《イクヨカヘヌル》。吹風乃《フクカゼノ》。聲之清者《コヱノスメルハ》。年深香聞《トシフカミカモ》。
 
(310)一松《ヒトツマツ》は、古事記に、倭建(ノ)命到2坐尾津(ノ)前一(ツ)松(ノ)之許1、先御食之時、所2忘其地1御刀不v失猶有、爾御歌曰、哀波理邇《ヲハリニ》、多陀邇牟迦幣流《タダニムカヘル》、袁都能佐岐那流《ヲヅノサキナル》、比登都麻都阿勢袁《ヒトツマツアセヲ》、比登都麻都《ヒトツマツ》、比登邇阿理勢婆《ヒトニアリセバ》、多知波氣麻斯袁《タチハケマシヲ》、岐奴岐勢麻斯袁《キヌキセマシヲ》、比登都麻都阿勢袁《ヒトツマツアセヲ》、とあり、○年深香聞《トシフカミカモ》は、年久しく經たる故にやあらむ、さても聲の清るよの意なり、年久きを深《フカキ》といふは古言なり、三(ノ)卷に、昔看之舊堤者年深池之瀲爾水草生家里《ムカシミシフルキツヽミハトシフカミイケノナギサニミクサオヒニケリ》、とあるに同じ、香《カ》は疑(ノ)辭、聞《モ》は歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、この孤松《ヒトツマツ》は、幾千代のよはひをか經たる、此樹に吹松風の音の、世に殊に清るを思へば、いかさまにも、年久しく經たる故にやあらむ、さても音の清しや、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。市原王作《イチハラノオホキミノヨミタマヘル》。
 
1043 靈剋《タマキハル》。壽者不知《イノチハシラズ》。松之枝《マツガエヲ》。結情者《ムスブコヽロハ》。長等曾念《ナガクトゾモフ》。
 
靈剋《タマキハル》は、枕詞なり、既く註(ヘ)り、○歌(ノ)意は、吾(ガ)命數のほどは知べからず、然れども、此(ノ)活道(ノ)岡の松が枝を結ひて、齡を契ることは、いかで命の長くもがなとぞ思ふ、となり、松が枝を結びて、齡を契ることは、既く二(ノ)卷に具(ク)註(ヘ)りき、後(ノ)世、命の長からまほしく思ふは、つたなくはづかしき事にすなるは、まことの心を、つゝみかくせるなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。大伴宿禰家持作《オホトモノスクネヤカモチガヨメル》。
 
傷2惜《ヲシミテ》寧樂京荒墟《ナラノミヤコノアレタルヲ》1作歌三首《ヨメルウタミツ》。【作者不審。】
 
(311)不審、拾穗本には未詳と作り、
 
1044 紅爾《クレナヰニ》。深染西《フカクシミニシ》。情可母《コヽロカモ》。寧樂乃京師爾《ナラノミヤコニ》。年之歴去倍吉《トシノヘヌベキ》。
 
紅爾《クレナヰニ》は、深く染にし、といはむためなり、○情可母《コヽロカモ》は、心からかもの意なり、可《カ》は疑(ノ)辭、母《モ》は歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、紅に染たる如く、吾(カ)心も、咲花の薫《ニホフ》が如く、盛なりし奈良の京に、深く染着(キ)たる故にや、かく古郷と荒はてゝも、猶此處に住て、吾(ガ)世經ぬべく思はる、さても此京(ノ)地の荒行は惜き事哉、となり、
 
1045 世間乎《ヨノナカヲ》。常無物跡《ツネナキモノト》。今曾知《イマゾシル》。平城京師之《ナラノミヤコノ》。移徙見者《ウツロフミレバ》。
 
歌(ノ)意は、さばかり盛なりし平城(ノ)京の、かく故郷と移ひ變《カハ》りぬるを見てぞ、世(ノ)間の無常道理《ツネナキコトウリ》を、今思ひ知ぬる、と云へり、
 
1046 石綱乃《イハツナノ》。又變若反《マタヲチカヘリ》。青丹吉《アヲニヨシ》。奈良乃都乎《ナラノミヤコヲ》。又將見鴨《マタミナムカモ》。
 
石綱乃《イハツナノ》は、枕詞なり、契冲が、石綱は、石にはふ蔦《ツタ》なりと云り、然なり、猶品物解に具(ク)云り、○變若反(若(ノ)字、舊本に著と作るは誤なり、今は古寫本、古寫一本、拾穗本等に從つ、)は、荒木田氏の、マタヲチカヘリ〔七字右○〕とよめるぞ宜しき、(マタワカガヘリ〔七字右○〕とよめるはわろし、ワカガヘリ〔五字右○〕にては、變反二字の中、いづれ一字はあやまれみをや、)さて枕詞より屬きたる義は、石に蔓(ヒ)たる絡石《ツタ》は、蔓(ヒ)ゆきて、又本の所へ蔓(ヒ)かへるものなれば、かくは屬けたるなり、凡て乎知《ヲチ》と云詞は、何にまれ、(312)本の所へかへるを云なるよしは、本居氏(ノ)玉勝間に、くはしく云るが如し、かくて石綱乃《イハツナノ》と云よりは、本の所へはひ歸る意にいひかけ、又變若反《マタヲチカヘリ》と受《ウケ》たるうへたては、齡の若がへる方なり、(かく見ざれば、枕詞の義通えがたし、今までの説は皆誤れり、)○歌(ノ)意は、あり/\て又我(ガ)齡の弱《ウカ》く壯なりし時に、立歸ることもあらば、あはれ平城の京の又立歸り盛ゆるを、見る世もあるべきを、わが齡もやゝくだちぬれば、再び平城(ノ)京の、もとの如くさかゆる世には得あはじ、となり、三(ノ)卷に、吾盛復將變八方殆寧樂京師乎不見歟將成《ワガサカリマタヲチメヤモホト/\ニナラノミヤコヲミズカナリナム》、とあるも似たり、
 
悲《カナシミ》2寧樂京故郷《ナラノミヤコノアレタルヲ》1作歌一首并短歌《ヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
京故郷、舊本には故京郷と作り、其は倒になれるなり、古寫本、古寫一本、異本、拾穗本等には、京(ノ)字なし、
 
1047 八隅知之《ヤスミシシ》。吾大王乃《ワガオホキミノ》。高敷爲《タカシカス》。日本國者《ヤマトノクニハ》。皇祖乃《スメロキノ》。神之御代自《カミノミヨヨリ》。敷座流《シキマセル》。國爾之有者。《クニニシアレバ》。阿禮將座《アレマサム》。御子之嗣繼《ミコノツギツギ》。天下《アメノシタ》。所知座跡《シロシメサムト》。八百萬《ヤホヨロヅ》。千年矣兼而《チトセヲカネテ》。定家牟《サダメケム》。平城京師者《ナラノミヤコハ》。炎乃《カギロヒノ》。春爾之成者《ハルニシナレバ》。春日山《カスガヤマ》。御笠之野邊爾《ミカサノヌヘニ》。櫻花《サクラバナ》。木晩牢《コノクレガクリ》。貌鳥者《カホトリハ》。間無數鳴《マナクシバナク》。露霜乃《ツユシモノ》。秋去來者《アキサリクレバ》。射鉤山《ハカヒヤマ》。飛火賀※[山/鬼]丹《トブヒガタケニ》。芽乃枝乎《ハギノエヲ》。石辛見散之《シガラミチラシ》。狹男牡鹿者《サヲシカハ》。妻呼令動《ツマヨビトヨメ》。山見者《ヤマミレバ》。山裳見貌石《ヤマモミガホシ》。里見者《サトミレバ》。里裳住吉《サトモスミヨシ》。物負之《モノヽフノ》。八十伴緒乃《ヤソトモヲノ》。打經而《ウチハヘテ》。思並敷者《サトナミシケバ》。天地乃《アメツチノ》。依會限《ヨリアヒノキハミ》。萬世丹《ヨロヅヨニ》。榮將往迹《サカエユカムト》。思煎石《オモヒニシ》。大宮尚矣《オホミヤスラヲ》。恃(313)有之《タノメリシ》。名良乃京矣《ナラノミヤコヲ》。新世乃《アラタヨノ》。事爾之有者《コトニシアレバ》。皇之《オホキミノ》。引乃眞爾眞荷《ヒキノマニマニ》。春花乃《ハルハナノ》。遷日易《ウツロヒカハリ》。村鳥乃《ムラトリノ》。旦立往者《アサタチユケバ》。刺竹之《サスタケノ》。大宮人能《オホミヤヒトノ》。蹈平之《フミナラシ》。通之道者《カヨヒシミチハ》。馬裳不行《ウマモユカズ》。人裳往莫者《ヒトモユカネバ》。荒爾異類香聞《アレニケルカモ》。
 
高敷爲《タカシカス》は、高く領知《シリ》賜ふといふ意なり、高《タカ》は、太敷爲《フトシカス》また廣知立《ヒロシリタテ》などいふ、太《フト》廣《ヒロ》に同じく稱辭なり、さて高《タカ》とは、唯其(ノ)宮の高き意のみに非ず、其(ノ)宮を知(リ)座皇威の、高く盛なるよしなり、續紀九(ノ)卷詔に、四方食國天下乃政乎《ヨモノヲスクニアメノシタノマツリゴトヲ》、彌高彌廣爾《イヤタカニイヤヒロニ》、天日嗣止高御座爾坐而《アマツヒツギトタカミクラニマシテ》、大八島所知《オホヤシマシロシメス》、卅六(ノ)詔に、親乃門不滅《オヤノカドホロボサズ》、彌高爾仕奉《イヤタカニツカヘマツル》、などある高に同じ、一(ノ)卷に、芳野川多藝津河内爾高殿乎高知座而《ヨシヌガハタギツカフチニタカトノヲタカシリマシテ》云々、此(ノ)上に、高所知流稻見野能《タカシラセルイナミヌノ》云々、また高所知者山河乎吉三《タカシラセルハヤマカハヲヨミ》、などある、高《タカ》皆同じ、此等にて、その皇威の高く盛なるを、祝奉れる稱辭なるを知べし、又此(ノ)上に、眞木柱太高敷而《マキハシラフトタカシキテ》、とあるは、太《フト》も高《タカ》も同じく稱辭にて、重云て、いよ/\厚く祝申せるなり、○日本國《ヤマトノクニ》は、大和(ノ)國なり、○皇祖乃は、スメロキノ〔五字右○〕と訓べし、此《コヽ》は神武天皇の初て大和國に、京都を建させたまへるを、さして云るなり、須賣呂岐《スメロキ》と申すことは、既く一(ノ)卷に具(ク)註(ヘ)るが如し、○國爾之有者《クニニシアレバ》とは、その國にてあると云ことを、さだかに云るなり、すべて爾之《ニシ》とつゞけたる詞は、さだかにしかりとする意のときにいへり、次の春爾之《ハルニシ》、事爾之《コトニシ》も同じ、○阿禮將座《アレマサム》(將座、活字本には座將と作り、かくざまに書るも例あり、上に見ゆ、)は、生繼座《アレツギマシ》まさむの意なり、○炎乃《カギロヒノ》は、枕詞なり、陽炎《カギロヒ》のもゆ(314)る春と云意に、屬《ツヾケ》云たるなり、○木晩牢《コノクレガクリ》、(牢(ノ)字、舊本に罕と作るは、※[穴/牛]を誤れるなるべし、今は拾穗本に從つ、牢同v※[穴/牛](ニ)とも、牢籠也、とも見えたり、)三(ノ)卷鴨(ノ)君足人(ガ)香具山(ノ)歌に、櫻花木晩茂爾《サクラバナコノクレシジニ》、とよめり、○貌鳥《カホトリ》は、三(ノ)卷、十(ノ)卷にも見えたり、品物解にいふ、○露霜乃《ツユシモノ》は、枕詞なり、露霜の降(ル)秋と云意に屬(ケ)云るなり、○射鉤山、(鉤(ノ)字、古寫本、古寫一本、拾穗本等には駒と作り、射駒《イコマ》にてはいかゞ、岡部氏は、近津飛鳥の八釣山なるべしといへれど、叶(ヒ)がたし、)本居氏、射鉤は羽飼の誤にて、ハカヒヤマ〔五字右○〕なるべし、十(ノ)卷に春日なる羽買の山とよめり、と云り、○飛火賀※[山/鬼]《トプヒガタケ》(※[山/鬼](ノ)字、舊本には塊と作り、玉篇(ニ)塊(ハ)〓也、と見えて、土塊《ツチクレ》のことなれば、こゝには叶ひがたし、今は、活字本、異本等に從つ、※[山/鬼]は玉篇に、高也、と見えたり、)は、續紀に、元明天皇和銅五年正月壬辰、廢2河内(ノ)國高安(ノ)烽(ヲ)1、始置2高見(ノ)烽、及大和(ノ)國春日(ノ)烽(ヲ)1、以痛2平城(ニ)1也、(延暦十五年、山城大和(ノ)兩國相共便所置2彼烽燧(ヲ)1、とも見ゆ、)其(ノ)烽を置れし山を、即(チ)烽之※[山/鬼]《トブヒガタケ》と名にも負せけるなるべし、※[山/鬼]はタケ〔二字右○〕と訓べし、高嶺《タカネ》の縮《ツゞマリ》たる言なり、カネ〔二字右○〕を切れば、ケ〔右○〕となれり、(集中に生駒が嵩《タケ》とも、生駒高嶺《イコマタケネ》ともよめるにて、同言なるをしるべし、)さて此(ノ)山は鹿野苑の東にありて、今鉢伏と云とて、飛火野と云も、此《コヽ》の野なるべし、古今集に、春日野の飛火の野守出て見よ今いくかありて若菜採てむ、(新古今集に、若菜採袖とぞ見ゆる春日野の飛火の野邊の雪の村消、)さて烽は、和名抄に接文(ニ)云、烽燧(ハ)邊有v警則擧之、度布比《トブヒ》、(谷川氏云、度布比《トブヒ》、盖飛火也、飛謂2速達(ヲ)1、如2飛脚之飛1也、袖中抄に、飛火といふ事は、軍(315)器の狼煙烽火なり、他國の軍襲ひ來る時、高き岡に登りて火を燒ぬれば、それを見つぎて次第に火をたく、是を印にて軍あつまり、皇居をかためけるなりと見えたり、)書紀に、繼體天皇八年三月伴跛築(キ)2城(ヲ)於于呑帶沙(ニ)1而連(ネ)2滿奚(ニ)1、置2烽候邸閣《トブヒウカミノヤヲ》1、以備2日本(ニ)1、天智天皇三年、是歳、於2對馬(ノ)島壹岐(ノ)島筑紫(ノ)國等(ニ)1、置2防《サキモリ》與(ヲ)1v烽《トブヒ》、なども見えたり、軍防令義解に、凡置(ハ)v烽(ヲ)、皆相去(コト)四十里、若有(ラハ)2山岡隔(リテ)絶《タエテ》須(キコト)2遂(テ)v便(ニ)安置(ス)1者、但使(メヨ)v得(セ)2相照見(ルコトヲ)1、不(レ)2必《カナラズシモ》要限(ラ)2四十里(ニ)1、凡烽(ハ)、晝夜分(テ)v時(ヲ)候(ヒ)望(メ)、若須(クハ)v放v烽者、晝(ハ)放(チ)v烟(ヲ)夜(ハ)放(テ)v火(ヲ)、其(レ)烟(ハ)盡(クシ)2一刻(ニ)1、火(ハ)盡(クセ)2一炬(ニ)1、(謂刻(ハ)者漏刻也、炬(ハ)者束薪也、文(ニ)云(ク)、烟(ハ)盡(クセ)2一刻(ニ)1、火(ハ)盡(クセ)2一炬(ニ)1、前烽不(ハトイヘリ)v應(ヘ)者、即知(ヌ)此外(ニ)亦不(ルコト)v可2更(ラニ)放(ツ)1也、)前烽不v應者、即差(シテ)2脚力(ヲ)1往(テ)告(ケヨ)2前烽(ニ)1、問(ヒ)2知(テ)失(スル)v候(ヲ)所由(ヲ)1、速(カニ)申(セ)2所在(ノ)官司(ニ)1、(謂前烽(ノ)所(ノ)v隷(スル)之國司(ヲ)イフ也、)凡有(テ)v賊入(ム)v境(ニ)、應2須《ベクハ》放1v烽者、其(ノ)賊衆(ノ)多少、烽(ノ)數(ノ)節級、並依(レ)2別武(ニ)1、凡烽(ハ)、置(テ)2長二人(ヲ)1、(謂縱(ハ)一國(ニ)有(ラハ)2一烽1者、猶置(ク)2長二人(ヲ)1、若有(ラハ)2二烽1者、亦置2四人(ヲ)1也、)※[手偏+僉]2※[手偏+交](セヨ)三烽以下(ヲ)1、唯(シ)不(レ)v得v越(ルコトヲ)v境(ヲ)、國司簡(テ)d所部(ノ)人(ノ)家口重大(ニシテ)堪(ラム)2※[手偏+僉]※[手偏+交](ニ)《人(ヲ)》者u充(テヨ)、若無(クハ)者、通(シテ)用(ヒヨ)2散位勲位(ヲ)1、(謂外六位、勲七等以下(ヲ)イフ也、)分番(シテ)上下(シ)、三年(ニ)一(タビ)替(ヘヨ)、交替之日(ハ)、令(メテ)v教(ヘ)2新人(ニ)1通解(シテ)然後(ニ)相代(ヘヨ)、其(レ)烽須(ハ)2修理(ス)1、皆役(セヨ)2烽子(ヲ)1、自(ハ)v非(ル)2公事(ニ)1、(謂除(テノ)2烽(ノ)事(ヲ)1以外(ヲ)、皆爲v非(ト)2公事(ニ)1也、)不(レ)得2輙(ク)離(ルヽコトヲ)1、所v守、凡烽(ニハ)、各配(テヨ)2烽子四人(ヲ)1、若無v丁處(ハ)通(ジテ)取(レ)2次丁(ヲ)1、(謂離2是次丁(ト)2同(セヨ)2正丁(ノ)法(ニ)1、不v可v取2八人(ヲ)1也、)以v近(ヲ)及(ヒ)v遠(ニ)、均分(シテ)配(テヨ)v番(ニ)、(謂以2二人(ヲ)1爲2一番(ト)1也、)以v次(ヲ)上下(セヨ)、凡置(ク)v烽(ヲ)之處(ハ)、火炬各相去(ルコト)二十五歩、(謂烟相去(ルコト)亦同(シ)也、必令(ルコトハ)2火炬(クノ)相去(ラ)1者、欲(シテ)2多少之數分明(ニ)易(キコトヲ)1v見也、)如有(ハ)d山嶮(ク)地狹(ク)、不(ラム)v可v得v充(ルコトヲ)2二十五歩(ニ)1之處u、但得(ヨ)2應(シ)照(サムコト)分明(ナルコトヲ1、不v須(カラ)3要(シモ)限(ル)2相去(レル)遠近(ヲ)1、凡火炬(ハ)、乾(タル)葦(ヲ)作(リ)v心(ニ)、葦(ノ)上(ニ)用(テ)2乾(タル)草(ヲ)1節《フシ》縛《ユヘ》、縛《ユヘル》處(ノ)周廻(ニ)挿(メ)2肥(タル)松明(ヲ)1、(謂松明(ハ)(316)是松之有v脂者也、)並所須v(キ)v貯(ク)十具以上(ナラハ)、於2舍(ノ)下(ニ)1作v架(ヲ)積著(ゲ)、(謂兼(テ)有2炬(ノ)貯1、故(ニ)云v並(ミト)也、架(ハ)猶(シ)v棚也、)不(レ)得2雨濕《ヌラシホスコトヲ》1、凡放(タン)v烟(ヲ)貯備(ハ)者、須(シ)d收(リ)2艾《ヨモギ》藁《ワラホトロ》生柴《ナマシキ》等(ヲ)1、(謂艾者、蓬也、藁者、草(ノ)※[手偏+総の旁]名也、)相|和《アハセテ》放(ツ)1v烟(ヲ)、其貯(ヘン)2藁柴等(ヲ)1、處(ニハ)、勿(レ)v令(ルコト)2浪(リニ)人(ヲシテ)放(チ)v火(ヲ)、及野火(ニ)延(ベ)燒(カ)1、(謂恐(ル)v燒(ンコトヲ)2藁柴等(ヲ)1、故(ニ)立(タリ)2此條(ヲ)1、其(レ)下(ノ)條(ニ)遶(レル)v烽(ヲ)二里、不(レトイフハ)v得3浪(ニ)放(ツコトヲ)2烟火(ヲ)1者、爲(ニ)v疑2誤(ランガ)烟烽(カト)1不(ルナリ)v聽(サ)2其浪(ニ)放(ツヲ)1、)凡應v火(ニ)筒、若向(ハヽ)v東(ニ)、應(セム)筒(ノ)口西(ニ)開(ケ)、若向(ハヽ)v西(ニ)、應(セム)筒(ノ)口東(ニ)開(ケ)、南北准(レ)v此(ニ)、凡|白日《ヒル》放v烟(ヲ)夜放(タム)v火(ヲ)、先須(シ)v看2筒(ノ)裏(ヲ)1、至(チ)2實《マコトニ》不(ルニ)1v錯(ラ)、然(テ)後(ニ)相應(セヨ)、若白日(ニ)天陰(リ)霧起(テ)、望(ムニ)v烟(ヲ)不(ハ)v見(エ)、即馳(セテ)2脚力(ヲ)1、遞(ニ)告(ケヨ)2前烽(ニ)1、霧開(ケム)之處(ハ)、依(テ)v式(ニ)放(テ)v烟(ヲ)、其置(ケラム)v烽(ヲ)之所、遶(レル)v烽(ヲ)二里(ハ)、不v得2浪(ニ)放(ツコトヲ)2烟火(ヲ)1、(謂縁(レル)v烽(ニ)四面二里之内(ニテ)、不(ル)v得2浪(ニ)放(ツコトヲ)2烟火(ヲ)1也、)凡放(ムニ)v烽(ヲ)有(ハ)2參差(スルコト)1者、(謂應(シテ)v放(ツ)2多烽(ヲ)1而放(テ)2少烽(ヲ)1、及誤因2人火野燒(ニ)1、遂乃放(テル)v烽之類(ヲイフ)也、)元(ノ)放(タム)之處、失v候(ヲ)之状(ヲ)、速(ニ)告《マウセ》2所在國司(ニ)1、勸(スルニ)知(ナハ)v實(ヲ)、發(テ)v驛(ヲ)奏聞(セヨ)、(謂上(ノ)條(ニ)、烟(ハ)盡(シ)2一刻(ニ)1、火(ハ)盡(セ)2一炬(ニ)1、前烽不(ハトイヘルハ)v應者、此(レ)應(クシテ)v應(フ)、而不(ルナリ)v應、於(ケル)v害(ニ)末2重大(ナラ)1、故(ニ)往告(ク)2前烽(ニ)1、不2更(ニ)發(セ)1v驛(ヲ)、此條(ハ)、應(シテ)v放(ツ)2多烽1、而放(チ)2少烽(ヲ)1、及誤(テ)以(テ)2人火野燒1、遂(ニ)乃放(ツ)v烽(ヲ)、既放(テ)之後(ニ)、知(レルナリ)2其誤(テ)擧(セリトイフコトヲ)1、機事一(ヒ)發(テ)、動害已(ニ)深(シ) 、故(ニ)矢v候(ヲ)之所、發(ニ)v譯奏聞(ス)也、)と見ゆ、○石辛見散之《シガラミチラシ》は、或はしがらみ、或は散しの意なり、(見の言は、愛《ウツクシ》み悲《カナシ》みなどのみと同じ、)石辛見と書るは借(リ)字にて、言意は、繁搦《シガラミ》と云なるべし、鹿の芽原に入立て、蹈(ミ)ふせて繁く搦むるよしなり、古今集に、秋芽をしがらみ伏て鳴鹿の目には見えずて音のさやけさ、六帖に、秋芽の花の流るゝ川瀬にはしがらみかくる鹿の音もせず、秋芽をしがらみかけて鳴鹿の聲聞つゝや山田もるらむ、拾遺集に、さをしかのしがらみふする秋芽は下葉や上に成反るらむ、など見ゆ、○妻呼令動は、ツマヨビト(317)ヨメ〔七字右○〕と訓みて、妻を呼動ませの縮《ツヅマ》りたるなり、マセ〔二字右○〕の切メ〔右○〕なり、○見貌石《ミガホシ》は、見之欲《ミガホシ》にて、見まく欲しと云に同じ、既く出て具(ク)云り、○里裳住吉《サトモスミヨシ》は、此下に、在杲石住吉里乃《アリガホシスミヨキサトノ》、ともよめり、○打經而は、ウチハヘテ〔五字右○〕と訓べし、打(チ)は添たる詞、經《ハヘ》は延《ハヘ》なり、今按(フ)に、經の上に、羽(ノ)字などの落たるにや、(經(ノ)字、ハヘ〔二字右○〕と訓まじきにも非ぬが如くなれど、心ゆかず、)經は、集中に多くへ〔右○〕の假字に用ひたれば、羽經《ハヘ》とありしにやとぞ思はる、○里並敷者《サトナミシケバ》(里(ノ)字、舊本に思と作るは誤なり、今は異本、拾穗本等に從つ、)は、家里を并べ布《シケ》ばの謂なり、敷《シク》は、知《シル》と云むが如し、○天地乃依會限《アメツチノヨリアヒノキハミ》は、本判れて成る天地の、又依合までと云にて、天地の有むかぎりといふが如し、既く二(ノ)卷に具(ク)云りき、○榮將往迹《サカエユカムト》、(往(ノ)字、拾穗本には去、迹(ノ)字、活字本、異本等には徳と作り、孰(レ)もト〔右○〕の假字なり、)は、いよ/\ます/\盛に豐饒《タラヒ》行むとの意なり、○新世乃事爾之有者は、新世はアラタヨ〔四字右○〕と訓べし、(アタラヨ〔四字右○〕とよめるは誤なり、)新々《アラタ/\》に經更《ヘカハ》る、世と云なり、(新京の謂にて、新世といへるにはあらず、)新々に經更る、世間のならひにてあればの意なり、○引乃眞爾眞荷《ヒキノマニマニ》は、天皇の引率て往たまふまゝに、と云なり、(京を引遷したまふまゝにと云には非ず、)十九に、宇都世美乃與能許等和利等麻須良乎能比伎能麻爾麻爾《ウツセミノヨノコトワリトマスラヲノヒキノマニマニ》、之奈謝可流古之地乎左之而《シナザカルコシヂヲサシテ》云々、とあると全(ラ)同じ、古事記八千矛(ノ)神(ノ)御歌に、比氣登理能和賀比氣伊那婆《ヒケトリノワガヒケイナバ》、とあるも、所《レ》2引率《ヒカ》往者《イナバ》の意なり、合(セ)思(フ)べし、○春花乃《ハルハナノ》は、遷《ウヅロヒ》をいはむ料の枕詞なり、○村鳥乃《ムラトリノ》も、枕詞なり、樹林に寢ぐらしめたる鳥(318)の、旦に立行(ク)意もてつゞけたり、○旦立往者《アサタチユケバ》は、朝夙く起て發(チ)行(ク)意にて、云るにてもあるべく、又旦は、鳥と云よりのつゞきの縁に云るのみにて、唯立往ばといふにてもあるべし、○刺竹之《サスダケノ》も、枕詞なり、此上に出づ、○蹈平之《フミナラシ》は、崇神天皇(ノ)紀に、官軍屯聚而※[足+滴の旁]2※[足+且]《フミナラシヽニ》草木(ヲ)1因以《ヨリテ》、號《ヲ》2其(ノ)山1曰2那羅《ナラ》山(ト)1、※[足+滴の旁]2※[足+且]此云2布瀰那羅須《フミナラスト》1、續記三十歌垣(ノ)歌に、乎止賣良爾乎止古多智蘇比布美奈良須爾詩乃美夜古波《ヲトメラニヲトコタチソヒフミナラスニシノミヤコハ》、與呂豆與乃美夜《ヨロヅヨノミヤ》、などあり、○荒爾異類香聞《アレニケルカモ》、二(ノ)卷(ノ)末に三笠山野邊從遊久道己伎太久母荒爾計類鴨久爾有名國《ミカサヤマヌヘユユクミチコキダクモアレニケルカモヒサニアラナクニ》、とあるに同じ、此(ノ)遷都は、上に續紀を引て云る如く、聖武天皇、天平十二年十二月、都を遷し賜ひ、十三年正月に、天皇始めて、恭仁(ノ)宮に御在して、朝賀を受賜ひ、さて同十五年十二月辛卯、初壞2平城(ノ)太極殿并歩廊(ヲ)1、遷2造於恭仁宮(ヲ)1、四2年於茲(ニ)1其功纔(ニ)畢、云云、と見えて、此(ノ)歌は、其翌十六年によめるなれば、既く其(ノ)比は、人も馬も通はずして、寧樂(ノ)京は漸荒(レ)たるなり、
 
反歌二首《カヘシウタフタツ》。
 
二首(ノ)二字拾穗本にはなし、
 
1048 立易《タチカハリ》。古京跡《フルキミヤコト》。成者《ナリヌレバ》。道之志婆草《ミチノシバクサ》。長生爾異梨《ナガクオヒニケリ》。
 
立易《タチカハリ》は、帝都《ミヤコ》の建替《タチカハリ》と云なり、(略解に、立易の立は詞にて、長歌に、春花のうつろひかはりと云に同じ、と云るは、いさゝか違へり、)○道之志婆草《ミチノシバクサ》(婆(ノ)字、古寫本に、波と作るはわろし、)は、十一に(319)も、疊薦隔編數通者道之柴草不生有申尾《タヽミコモヘダテアムカズカヨハサバミチノシバクサオヒザラマシヲ》、とよめり、之婆《シバ》は、草莱《シバ》なり、(常に芝(ノ)字を用ひ來れる、其なり、)四(ノ)卷に、大原之此市柴《オホハラノコノイツシバ》、八(ノ)卷に、此五柴《コノイツシバ》、十一に、道邊乃五柴原《ミチノベノイツシバハラ》、十四に、不自能之婆夜麻《フジノシバヤマ》、など見えたる、之婆《シバ》も皆同じ、なほ莱草《シバ》の事は、品物解に具(ク)云り、○歌(ノ)意は、帝都の建香りて、平城は舊京となりぬれば、人馬のかよひ絶て、道の莱草《シバクサ》誰ふみからす者もなければ、己が心まゝに、長く生繁(リ)にけりとなり、
 
1049 名付西《ナツキニシ》。奈良乃京之《ナラノミヤコノ》。荒行者《アレユケバ》。出立毎爾《イデタツゴトニ》。嘆思益《ナゲキシマサル》。
 
名付西《ナツキニシ》は、馴着《ナツキ》にしなり、上に、紅爾深染西情可母《クレナヰニフカクシミニシコヽロカモ》、ともよめる如く、年久しく心に染着《シミツキ》たる謂《ヨシ》なり、○出立毎爾《イデタツゴトニ》は、出立て見るたび毎にの謂なり、○歌(ノ)意は、年久しく心に染て、馴着にし平城の舊都となりて、いよ/\ます/\荒行ば、その荒るゝを出立て見る、たび毎に、昔(シ)のさまの戀しく思はれて、嗚呼《アハレ》さても悲しや、と一(ト)すぢに嘆き益る、となり、
 
讃《タヽフル》2久邇新京《クニノニヒミヤコヲ》1歌二首并短歌《ウタフタツマタミジカウタ》。
 
讃は、上にも、家持(ノ)卿の讃2久邇(ノ)京(ヲ)1作歌、また十七にも、讃(ル)2三香(ノ)原(ノ)新都(ヲ)1歌見えたり、布當(ノ)宮、三香(ノ)原(ノ)都と云も、みな是なり、
 
1050 明津神《アキツカミ》。吾皇之《ワガオホキミノ》。天下《アメノシタ》。八島之中爾《ヤシマノウチニ》。國者霜《クニハシモ》。多雖有《オホクアレドモ》。里者霜《サトハシモ》 澤尓雖有《サハニアレドモ》。山並之《ヤマナミノ》。宜國跡《ヨロシキクニト》。川次之《カハナミノ》。立合郷跡《タチアフサトト》。山代乃《ヤマシロノ》。鹿背山際爾《カセヤマノマニ》。宮柱《ミヤハシラ》。太敷奉《フトシキマツリ》。高知爲《タカシラス》。布當乃(320)宮者《フタギノミヤハ》。河近見《カハチカミ》。湍音敍清《セノトゾキヨキ》。山近見《ヤマチカミ》。鳥賀鳴慟《トリガネトヨム》。秋去者《アキサレバ》。山裳動響尓《ヤマモトヾロニ》。左男鹿者《サヲシカハ》。妻呼令響《ツマヨビトヨメ》。春去者《ハルサレバ》。岡邊裳繁尓《ヲカヘモシヾニ》。巖者《イハホニハ》。花開乎呼里《ハナサキヲヲリ》。痛※[立心偏+可]怜《アナオモシロ》。布當乃原《フタギノハラ》。甚貴《イトタフト》。大宮處《オホミヤトコロ》。諾己曾《ウベシコソ》。吾大王者《ワガオホキミハ》。君之隨《キミノマニ》。所賜而《キカシタマヒテ》。刺竹乃《サスダケノ》。大宮此跡《オホミヤコヽト》。定異等霜《サダメケラシモ》
 
明津神《アキツカミ》は、天皇を美《ホメ》奉りて申す稱《ナ》なり、孝徳天皇(ノ)紀に、詔2於高麗使1曰、明神御宇《アキツカミトシテアメノシタシロシメス》日本(ノ)天皇(ノ)詔旨、また現爲明神御八島國天皇《アキツカミトオホヤシマクニシロシメススメラミコト》、問2於臣1曰云々、天武天皇(ノ)紀に、詔曰、明神御大八洲日本根子天皇《アキツカミトオホヤシマシロシメスヤマトネコノスメラミコト》云々、續紀一(ノ)卷の詔に、現御神止大八島國所知天皇大命良麻止詔《アキツミカミトオホヤシマクニシロシメススメラミコトノオホミコトラマトノリタマフ》云々、など、詔詞には甚多し、抑々天皇を現御神《アキツミカミ》とも、現人神《アラヒトカミ》とも、遠津神《トホツカミ》とも申せることの、古(ヘ)に多きは、天皇は、世に現しく坐ます御神にして、人倫《ヒトノカギリ》とは、きはことにましますが故なり、しかるを後(ノ)世にいたりて、天皇を畏れ奉らざる徒も出來しは、あなかしこ、天皇はやがて御神にましますことを忘れたる事、あさましともあさまし、○吾皇之《ワガオホキミノ》は、吾大皇《ワガオホキミ》の御食《シロシメス》の意なり、○八島之中爾《ヤシマノウチニ》は、即(チ)天(ノ)下の域中《ウチ》にと云むが如し、八島とは、御國を統言號《スベイフナ》にて、かくいふ號の起《ハジマ》れる由縁は、古事記、書紀に見えて、人皆知たるが如し、猶本居氏國號考に委(ク)辨(ヘ)たるを見べし、さて件の史典等には、大八島國とある、その大は稱辭なれば、そを省きて八島とも云るなり、さて天(ノ)下といふべき所を、大八島と云るは、古事記倭建(ノ)命(ノ)御言に、吾者坐(テ)2纒向之日代宮(ニ)1、所2知(メス)大八島國1大帶日子淤期呂和氣(ノ)天皇之御子(ナリ)、とあるをはじめて、かくざまに詔(ヘ)ること多し、上に引孝徳天皇(ノ)(321)詔など其なり、さて此に天(ノ)下八島とつゞけたるによりて天(ノ)下にある、その一(ツ)の八島といふ義に意得むは、いと惡し、八島即(チ)天(ノ)下なれば、然云べくもなし、(但(シ)天(ノ)下は、諸蕃《モロ/\ノトツクニ》、すべて日月のてらす界隈をいふことなるべければ、御國の事のみに限るべからず、と思ふ人もあるべし、その人の爲に、なほくほしく、いはまほしけれども、わづらはしければもらしつ、いぶかりおもはむ人は、余が許に來り給ふべし、口づから説申すべし、)さればこゝは天皇の知しめす、天(ノ)下の中にといふ意なるを、かく歌へるなり、○國者霜《クニハシモ》は、之毛《シモ》は、多かる物の中に、その一(ツ)を取立て、いふ時の辭なること、一(ノ)卷に云たるが如し、こゝは、天(ノ)下四方八方に、國々の多かる、其(ノ)中に、山背(ノ)國久邇は、殊にすぐれてよき地ぞ、と思はせむがためなり、○里者霜《サトハシモ》は、上の國者霜《クニハシモ》と云るに意同じ、○山並之宜國跡《ヤマナミノヨロシキクニト》は、山々連り取具《トリヨロ》ひて、心にかなひて、宜(キ)國ぞとて、となり、國は、山背(ノ)國なり、上の國者霜に應《コタ》へたり三(ノ)卷伊豫(ノ)温泉をよめる長歌に、皇神祖之神乃御言乃《スメロキノカミノミコトノ》、敷座國之盡《シキマスクニノコト/”\》、湯者霜左波爾雖在《ユハシモサハニアレドモ》、島山之宜國跡《シマヤマノヨロシキクニト》云々、とあり、○川次之立合郷跡《カハナミノタチアフサトト》、(次(ノ)字、拾穗本には並と作り、郷(ノ)字、舊本に、卿と作るは誤なり、今は古寫一本、拾穗本等に從つ、)川々の續きて流れ合て、おもしろくさやかなる郷ぞとて、と云なり、立は、添たる辭なり、郷は久邇(ノ)郷なり、上の里者霜に應《コタ》へたり、以上四句は山も川も取集め、何一(ツ)不足《アカヌ》ところなきよしなり、○鹿脊山《カセヤマ》は、此も相樂(ノ)郡にあり、續紀に、天平十三年十月癸巳、駕世山《カセヤマ》東河(ニ)造v橋(ヲ)、始v自2七月1至2今月(ニ)1乃成、類(322)聚國史に、承和二年三月丁巳、山城國|※[手偏+峠の旁]《カセ》山一處、爲2内藏寮所v領之地(ト)1、續後紀に、天長十年十二月乙卯、宜(シ)3外祖父及外祖母(ニ)並(ニ)追2贈正一位(ヲ)1也、云々、勅2山城(ノ)國相樂(ノ)郡|※[手偏+峠の旁]《カセ》山(ノ)墓(ニ)1宜v置2守家一烟1、諸陵式に、加勢山(ノ)墓、贈太政大臣正一位橘(ノ)朝臣清友、仁明天皇外祖父、在2山城(ノ)國相樂郡(ニ)1、兆域東西四町、南北六町、守戸一烟、古今集に、都出て今日瓶(ノ)原泉河河風寒し衣かせ山、山城名勝志に、鹿脊山、在2木津(ノ)里(ノ)東一里半許(ニ)1、山(ノ)西南半里許(ニ)、有2鹿脊山村1、瓶(ノ)原、隔2木津川(ヲ)1南也、と見ゆ、○高知爲《タカシラス》は、上に云り、○布當乃宮《フタギノミヤ》は、則(チ)新京の大宮なり、さて此(ノ)地、瀧川の二筋落合所にて、布當《フタギ》は、二瀧《フタタキ》の意の名なるべしと云り、(藻塩草に、不替《フタイ》野、城州相樂(ノ)郡とあり、布多藝《フタギ》を、音便に布多伊《フタイ》と呼るなり、)○河近見《カハチカミ》は、河が近さ故にの意なり、○山近見《ヤマチカミ》は、山が近き故にの意なり、○鳥賀鳴慟《トリガネトヨム》(慟(ノ)字は、動の誤なるべし、)は、山が近き故に、諸鳥の彼方にて鳴音の、此方に響き聞ゆるよしなり、○山裳動響爾《ヤマモトヾロニ》、此上に宮動響爾《ミヤモトヾロニ》、十一に、馬音之跡杼登毛爲者《ウマノトノトドトモスレバ》、又|瀧毛響動二《タキモトヾロニ》、十四に、伊波毛等杼呂爾於都流美豆《イハモトドロニオツルミヅ》、古事記に、伏《フセ》2※[さんずい+于]氣《ウケ》1而《テ》蹈登杼呂許志《フミトドロコシ》、古今集に、天(ノ)原蹈とゞろかし鳴神も、源氏物語夕顔に、こほ/\と鳴神よりも、おどろ/\しくふみとゞろかすからうすの音も、書紀に、鼓《トヾロキ》など見えたり、○岡邊裳繁爾《ヲカヘモシヾニ》(岡(ノ)字、舊本に罔と作るは誤なり、)は、岡のあたりも繁うに、と云むが如し、○巖者《イハホニハ》云々は、花の重《シゲ》く咲るによりて、枝たわみて、巖にかゝりたるを云、爾者《ニハ》は、他に對へていふ詞なること、既く云る如し、○痛※[立心偏+可]怜は、アナオモシロ〔六字右○〕と訓べし、古語拾遺に、阿(323)波禮阿那於茂志呂《アハレアナオモシロ》、とあり、痛(ノ)字アナ〔二字右○〕と訓る例は、三(ノ)卷に具(ク)云り、○諾己曾《ウベシコソ》は、げにもことわりにこそといふ意なり、諾をウベシ〔三字右○〕と訓、シ〔右○〕は例の其(ノ)一(ト)すぢなることを、おもくおもはする助辭、己曾《コソ》は、他にむかへて、その物をとりわきて、たしかにいふときの詞なり、皆既く云り、○君之隨《キミノマニ》は、神ながらといはむが如し、○所聞賜而《キカシタマヒテ》は、かく山並《ヤマナミ》川次《カハナミ》のとりよろひて、宜しき國と聞しめし賜ひて、諾々しくも大宮處を、此(ノ)地に定賜ひけるらしとなり、○刺竹乃《サスダケノ》は、枕詞なり、此上にも出づ、○定異等霜《サダメケラシモ》は、良之《ラシ》は、さだかにしかりとは知(ラ)れねど、十に七八は、それならむとおぼゆるをいふ詞、母《モ》は、歎息(ノ)辭なり、皆既く云り、げにもことわりにこそ、大宮を此處に定めけるらし、嗚呼《アハレ》さても勝れて宜しき地哉、と嘆きたる意なり、
 
反歌二首《カヘシウタフタツ》。
 
二首(ノ)二字、拾穗本にはなし、
 
1051 三日原《ミカノハラ》。布當乃野邊《フタギノヌヘヲ》。清見社《キヨミコソ》。大宮處《オホミヤトコロ》。定異等霜《サダメケラシモ》。
 
三日原《ミカノハラ》は、山城名勝志に、瓶(ノ)原(ハ)、在2木津(ノ)渡東一里半許(ニ)1、郷内廣今有2九村1、賀茂郷隔2泉川1北也、按(ニ)、甕原(ノ)宮離宮、自2恭仁(ノ)宮以前1有之乎、續紀云、和銅六年六月乙卯、行2幸甕(ノ)原離宮1、とあり、現存六帖に、みかの原ふりにし久邇の都にも山と川とぞあとのこりける、○大宮處《オホミヤトコロ》(大(ノ)字、舊本には太と作り、今は類聚砂、古寫一本、拾穗本等に從つ、)の下、類聚抄、古寫本、古寫一本等には、此跡標刺と(324)註せり、其は尾句の一本なり、コヽトシメサセ〔七字右○〕と訓べし、セ〔右○〕は、上の社《コソ》の結(ヒ)なり、標刺は、※[片+旁]爾を刺(シ)立ることにて、標を立(ツ)れと云に同じ、○歌(ノ)意は、甕(ノ)原布當の野邊が、勝れて清き故にこそ、大宮處を此處に定めけるらし、さても宜しき地我、となり、
 
1052 弓高來《ヤマタカク》。川乃湍清石《カハノセキヨシ》。百世左右《モヽヨマデ》。神之味將往《カムシミユカム》。大宮所《オホミヤトコロ》。
 
弓(ノ)字は、加藤(ノ)枝直(ガ)考に、山の草書より誤りて、弓となれるなりと云り、○神之味《カムシミ》は、神佐備《セムサビ》と云に同じ、かげろふの日記に、ことわりやいはでなげきし年月もふるの社の神さみにけむ、とあり、佐備《サビ》、佐味《サミ》、之味《シミ》、皆通ひて同言なり、○歌(ノ)意は、此(ノ)地は、山並も高くて宜しく、川次も勝れて河瀬清く、何一(ツ)あかぬところなくよき地なれば、今より行さき百代まで、いよ/\ます/\、神々しく物ふり行む、此(ノ)大宮所ぞ、となり、
 
1053 吾皇《ワガオホキミ》。神乃命乃《カミノミコトノ》。高所知《タカシラス》。布當乃宮者《フタギノミヤハ》。百樹成《モヽキモル》。山者木高之《ヤマハコダカシ》。落多藝都《オチタギツ》。湍音毛清之《セノトモキヨシ》。?之《ウグヒスノ》。來鳴春部者《キナクハルヘハ》。巖者《イハホニハ》。山下耀《ヤマシタヒカリ》。錦成《ニシキナス》。花咲乎呼里《ハナサキヲヲリ》。左牡鹿乃《サヲシカノ》。妻呼秋者《ツマヨブアキハ》。天霧合《アマギラフ》。之具禮乎疾《シグレヲイタミ》。狹丹頬歴《サニヅラフ》。黄葉散乍《モミヂチリツヽ》。八千年爾《ヤチトセニ》。安禮衝之乍《アレツカシツヽ》。天下《アメノシタ》。所知食跡《シロシメサムト》。百代爾母《モヽヨニモ》。不可易《カハルベカラヌ》。大宮處《オホミヤトコロ》。
 
吾皇《ワガオホキミ》、かくざまに申せるは、天皇を尊み稱奉れる意を兼たる、古言なるべし、孝徳天皇(ノ)紀に、屬《アタリ》d天皇吾皇《スメラミコトワガオホキミ》、可v牧2萬民(ヲ)1之|運《ミヨニ》u、とあるも、天皇にてことたれるを、吾(ガ)皇と申せるは、尊み稱たる方(325)なるべし、○神乃命《カミノミコト》は、天皇命《スメラミコト》と申さむが如し、天皇をやがて神と申せること、上にたび/\出たり、○百樹成は、本居氏、成は盛《モル》の誤なり、モル〔二字右○〕は茂ることにて、森《モリ》の用言なりと云り、但し成は、盛の省畫なるべきこと、冬木成とあるにつきて、既く具(ク)云る如し、さて十三に、百不足|山田道乎《ヤマダノミチヲ》とあるも、今の説に依て考(フ)れば、不足は、木成の誤にて、モヽキモル〔五字右○〕なるべし、(百不足《モヽタラズ》と云こと、山には謂なければなり、)○山下耀《ヤマシタヒカリ》は、山映光《ヤマシタヒカリ》なり、さるは、花にも紅葉にも、色の映《テリ》にほふ事を、下照《シタテル》とも、下光《シタヒカル》ともいへり、花にいへるは、十九に春苑紅爾保布桃花《ハルノソノクレナヰニホフモヽノハナ》、下照道爾出立※[女+感]嬬《シタデルミチニイデタツヲトメ》、十八に、多知婆奈能之多泥流爾波爾等能多底天《タチバナノシタデルニハニトノタテテ》、佐可彌豆伎伊麻須和我於保伎美可母《サカミヅキイマスワガオホキミカモ》、など見え、紅葉に云るは、十五に、安之比奇能山下比可流毛美知葉能《アシヒキノヤマシタヒカルモミチバノ》、知里能麻河比波計布仁聞安留香母《チリノマカヒハケフニモアルカモ》、と見え、又三(ノ)卷に、客爲而物戀敷爾山下《タビシニテモノコヒシキニヤマシタノ》、赤刀曾保船奧※[手偏+旁]所見《アケノソホブネオキニコグミユ》、とあるは、紅葉《モミチ》とはいはざれども、山下《ヤマシタ》とのみいふに、山映光赤葉《ヤマシタヒカルモミチバ》のことゝしるければ、やがて山映光《ヤマシタヒカ》る赤葉《モミチバ》の赤《アケ》といふ意に、赤《フヲ》の枕詞にいへるなるべし、かくて下照姫《シタデルヒメ》といふも、映照姫《シタデルヒメ》の謂なるべく、古事記に、山下影日賣《ヤマシタカゲヒメ》といふがあるも、山映※[火+玄]姫《ヤマシタカゲヒメ》の謂、書紀に、眞舌媛《マシタヒメ》とあるも、眞映媛《マシタヒメ》の謂なるべく思はるれば、いづれも花紅葉に就たる名なるべし、但し十(ノ)卷に、金山舌日下《アキヤマノシタビガシタ》、とあるは、秋山の黄葉《モミチ》の映容《シタビ》が下といふ意、二(ノ)卷に秋山下部留妹《アキヤマノシタベルイモ》、とあるも、秋山の黄葉の映容《シタビ》てある妹といふ意、古事記に秋山之下氷壯夫《アキヤマノシタビヲトコ》、とあるも、秋山の黄葉の映容壯夫《シタビヲトコ》、といふ意なれど、映《シタ》とい(326)ふことは、紅葉にはかぎらざること、上に桃花、また橘花に、映光《シタデル》といへるにて知(ル)べし、(しかるを後々は、したでるといふ詞は、紅葉にかぎりていふことゝ意得たるにや、詞花集に、夕されば何かいそがむもみち葉のしたてる山はよるも越なむ、金葉集に、神無月しぐるゝまゝにくらぶ山したでるばかり紅葉しにけり、現存六帖に、枝をそめなみをも染つもみち葉のしたでる山の瀧の白絲など、紅葉にのみよみて、花にいへることなければなり、さて本居氏の説に、今の山下耀《ヤマシタヒカリ》は、錦成《ニシキナス》の序にて、秋山の錦の如くなる由のつゞけなり、其は春の花をよめる歌なれば、紅葉の序はいかゞ、と思ふ人もあるべけれど、凡て序は、歌の意にはかゝはらぬことなりといへるも、したでる、またしたひかるといふことは、紅葉ならでは、いふまじき詞なり、と思ひきはめたるよりの、ひがことなり、いかに序なればとて、春の花に、秋の紅葉のさまをやはいふべき、)されば山映光《ヤマシタヒカル》は、十(ノ)卷に足日木之山間照櫻花《アシヒキノヤマカヒテラスサクラバナ》、といへる如く、花の咲て映《テリ》たる容をいへるなり、〔頭註、【重考るに、後拾遺集に、日をさふると山のみねのつゝじ原したでるかげは花の色かも、金葉集に、入日さす夕くれなゐの色はえて山下てらすいはつゝじかな、弘安御百首に、松かげの下てりまさる夕づくひさすや岡へに咲つゝじかな、などあれば、後までも花紅葉にわたりて、いへる詞なり、】〕○錦成《ニシキナス》は、木々の若芽の中に、枝を交《カハ》して花の咲たるは、まことに如《ナス》v錦《ニシキ》といふべきさまなり、古今集に、見渡せば柳櫻をこきまぜて都ぞ春の錦なりける、○花咲乎呼里《ハナサキヲヲリ》は、枝の撓《タハ》むばかりにわゝけさがりて、盛に花の咲るさまなり、乎呼里《ヲヲリ》のこと、上にいへり、○牡(ノ)字、舊本に壯に作るは誤なり、今は(327)異本、拾穗本等に從つ、○天霧合《アマギラフ》は、大空に霧立を云言にて、集中に多き詞なり、○之具禮乎疾は、シグレヲイタミ〔七字右○〕と訓べし、※[雨/衆]雨がつよき故に、の意なり、○狹丹頬歴《サニヅラフ》は、三(ノ)卷に、狹丹頬相吾大王者《サニヅラフワガオホキミハ》、とある處に、具(ク)註りき、狹《サ》は美稱《ホメコトバ》、丹頬歴《ニヅラフ》は丹色《ニイロ》なるさまを云言なり、○安禮衝之乍《アレツカシツヽ》は、令《シ》2顯齋《アレツカ》1乍《ツヽ》、といふなり、朝廷に奉仕《ツカヘマツル》を、顯齋《アレツク》と云こと、一(ノ)卷(ノ)下、藤原之大宮都加倍安禮衝哉《フヂハラノオホミヤツカヘアレツクヤ》云云、とある歌に就て、委(ク)註たるが如し、(この安禮衝を、生繼《アレツグ》といふ説は、ひがことなり、繼《ツグ》と衝《ツク》とは、久の清濁異れるをや、さて本居氏(ノ)説に、安禮は、奉仕る意、衝は、伊都伎《イツキ》の伊《イ》を省ける言にて、安禮|衝《ツク》は、奉仕《ツカヘマツリ》いつきまつるを云るなりと云る、大方はよし、但し此《コヽ》は天下所知食《アメノシタシロシメサム》とつゞきたれば、此(ノ)詞、天皇の御うへのことを申せるさまなれども、天皇の御うへの事に、申すべき言にあらず、八千年までも、百官奉仕、いつきまつりて、天(ノ)下をしろしめさむ、といふ意に、よめるにこそ、衝之《ツカシ》は、都伎《ツキ》を延たるなり、又思ふに、之(ノ)字は、兄または衣などを誤れるにて、ツカエ〔三字右○〕にもやあらむ、ツカエ〔三字右○〕は、ツカレ〔三字右○〕なり、もし然らば、天皇の御うへにて、百官にあれいつかれ給ひてといふ意なり、と云るは、たがへり、かの一(ノ)卷なるは、自《ミラ》奉仕《ツカヘマツ》るを、安禮衝《アレツク》といひ、此は、百官に安禮衝令《アレツカシ》め乍と云意なるをや、一(ノ)卷の歌の註につきて見ば、このまどひははれぬべし、)○百代爾毛《モヽヨニモ》は、今より行さき、百代までにも、といふ意なり、
 
反歌五首《カヘシウタイツヽ》。
 
(328)五首(ノ)二字、拾穗本にはなし、
 
1054 泉川《イヅミガハ》。往瀬乃水之《ユクセノミヅノ》。絶者許曾《タエバコソ》。大宮地《オホミヤトコロ》。遷往目《ウツロヒユカメ》。
 
歌(ノ)意は、泉川の流れ逝瀬の水の絶たらばこそ、此(ノ)大宮處他處に遷ひ行め、さらずは、いつまでも遷(フ)時はあらじ、となり、七(ノ)卷に、泊瀬川流水泳之絶者許曾《ハツセガハナガルヽミヲノタエバコソ》、吾念心不遂登思齒目《アガモフコヽロトゲジトオモハメ》、とあるに似たる歌なり、
 
1055 布當山《フタギヤマ》。山並見者《ヤマナミミレバ》。百代爾毛《モヽヨニモ》。不可易《カハルベカラヌ》。大宮處《オホミヤトコロ》。
 
歌(ノ)意は、布當山の山並の、心にかなひて宜しきを見れば、げにも、此(ノ)地に、大宮地を遷させ給へるは理なり、かゝる勝地にてあるなれば、今より行さき、百代までにも遷替るべからぬ、大宮處にてあるぞ、となり、
 
1056 ※[女+感]嬬等之《ヲトメラガ》。續麻繋云《ウミヲカクチフ》。鹿背之山《カセノヤマ》。時之往者《トキシユケレバ》。京師跡成宿《ミヤコトナリヌ》。
 
續麻繋云《ウミヲカクチフ》、(續(ノ)字、拾穗本には、績と作り、)續《ウミ》たる苧《ヲ》をかくると云|※[手偏+峠の旁]《カセ》と云係たり、此まで二句は序なり、※[手偏+峠の旁]《カセ》は、延喜式大神宮へ奉る物の中の註文に、金銅(ノ)賀世比《カセヒ》二枚、龍田風(ノ)神祭(ノ)詞に、比賣神御服備金麻笥金揣金※[手偏+峠の旁]《ヒメカミニミソソナヘクガネノヲケクガネノタヽリクガネノカセヒ》、古語拾遺に、以2麻柄《アサカラヲ》1作(リ)v※[手偏+峠の旁]《カセキニ》云々、など見えたり、績苧《ウミヲ》を卷(キ)かくる具《モノ》なり、○時之往者《トキシユケレバ》は、之《シ》は、例のその一(ト)すぢなるを云助辭なり、シ〔右○〕とよむべし、時の往て至り來たればの意なり、○歌(ノ)意は、今までは、唯尋常の山にてありし鹿脊の山も、時に至り來たれ(329)ば、かゝるた帝都となりて、繁昌の地になりぬるよとなり、十九に、皇者神爾之座者赤駒之《オホキミハカミニシマセバアカコマノ》、腹婆布田爲乎京師跡奈之都《ハラバヒタヰヲミヤコトナシツ》、思(ヒ)合(ス)べし、
 
1057 鹿背之山《カセノヤマ》。樹立矣繁三《コダチヲシゲミ》。朝不去《アササラズ》。寸鳴響爲《キナキトヨモス》。?之音《ウグヒスノコヱ》。
 
朝不去《アササラズ》は、毎《ゴト》v朝《アサ》にといはむが如し、○寸鳴響爲《キナキトヨモス》は、寸《キ》は來《キ》なり、鶯の聲に、響爲《トヨモス》と云ること、甚めづらし、○歌(ノ)意かくれたるところなし、此(ノ)一首には、春の景色をいひ、次の一首には、夏の季物を述たり、
 
1058 狛山爾《コマヤマニ》。鳴霍公鳥《ナクホトヽギス》。泉河《イヅミガハ》。渡乎遠見《ワタリヲトホミ》。此間爾不通《ココニカヨハズ》。
 
狛山《コマヤマ》(狛(ノ)字、拾穗本には貊と作り、)は、相樂(ノ)郡にある山(ノ)名なり、和名抄に、山城(ノ)國相樂(ノ)郡大狛下狛、(之毛都古末《シモツコマ》、)など見えたり、(山城名勝志に、大狛山(ハ)、今(ノ)上狛村歟、在2平尾(ノ)南木津(ノ)渡(ノ)北山際(ニ)1、下狛郷(ハ)、木津川(ノ)西祝園村(ノ)西、飯岡(ノ)南(ニ)有2下狛村1、上狛隔v川と云り、)狛野《コマノ》と云も、こゝの地の野なり、書紀に、欽明天皇三十一年夏四月、詔曰、有司《ツカサ/”\》宜(シ)d於2山背(ノ)国相樂(ノ)郡1起(テ)v館《ムロツミヲ》淨治《キヨメハラヒ》厚相資(ケ)養(フ)u、云々、秋七月、遂引2入山背(ノ)高〓館《コマヒノムロツミニ》1、續紀に、天平神護元年八月庚申朔、從三位和氣(ノ)王坐(シテ)2謀反(ニ)1誅(セラル)云々、流2伊豆(ノ)國(ニ)1、到2山背(ノ)國相樂(ノ)郡(ニ)1絞(テ)之埋(キ)2狛野(ニ)1、永享年中寺社文書に、山城(ノ)國狛野(ノ)庄云々、靈異記中卷に、去天平年中、山背(ノ)國相樂(ノ)郡部内有2一白衣1、同郡高麗寺(ノ)僧榮常、常(ニ)誦2持法花經(ヲ)1云々、夫木集に、春ふかくなり行まゝに狛山に立のみわたる花の白雲、公任、山近み朝立雲と見えつるは狛野の里の(330)烟なりけり、此(ノ)歌は、春日より歸り侍けるに、山づらに烟の立けるを問(ヘ)ば、狛野の里といひければよめると見えたり、元良親王家集に、こま野の院にて、秋つとめておきたりけるに、涙のしのぶるひとりことにいひける、(異本應仁記に、文明二年大内(ノ)介は、上山城狛と云所を、城廓に拵へて云々、)さて名の由縁は、高麗《コマ》にて、高麗使人《コマノツカヒ》をすましめ、遂に高〓《コマヒノ》館を作り、高麗(ノ)使を饗(ヘ)給ひし事、書紀に見えて、上にかつ/”\引る如し、しかるに三代實録貞觀三年八月十九日、伴(ノ)宿禰善男等奏言に、狹手彦、宣化天皇(ノ)世、奉2使(ヲ)任那(ニ)1、征2新羅(ヲ)1、復2任那1、兼(テ)助2百濟(ヲ)1、欽明天皇(ノ)時、百濟以2高麗之寇(ヲ)1、遣v使乞v救(ヲ)、狹手彦復爲2大將軍(ト)1伐2高麗(ヲ)1、其(ノ)王踰v墻(ヲ)而遁、乘v勝(ニ)入v宮(ニ)、盡(ニ)得2珍寶貸賂《タカラモノヲ》1以獻(リキ)之、珠敷(ノ)天皇(ノ)世還來、獻2高麗之因(ヲ)1、今山城(ノ)國狛人是也、と見えたるによれば、高麗(ノ)囚を居《スマ》しめし地なるをもて云るなるべし、○此間爾不通《ココニカヨハズ》、舊本に、一云、渡遠哉不通有武《ワタリトホミヤカヨハザルラム》、(有(ノ)字拾穗本に者と作るはわろし、)と註せり、○歌(ノ)意は、狛山にて鳴ほとゝぎすの、泉川の渡瀬が遠く遙なる故に、此處に通はずとなり、今按に、長歌には、春秋のことをのみ云るを、反歌に霍公鳥をよめるは、いさゝか心得がたきにや、若や此(ノ)一首は、もと別時の歌なりけむが、混(レ)入たるにもあるべし、」
 
春日《ハルノコロ》。悲2傷《カナシミ》三香原荒墟《ミカノハラノミヤコノアレタルヲ》1作歌一首并短歌《ヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
悲傷荒墟は、續紀に、天平十五年十二月辛卯、初壞2平城(ノ)大極殿并歩廊(ヲ)1、遷2造(ル)於恭仁(ノ)宮(ヲ)1、四2年於茲(ニ)1其(ノ)功纔畢矣、用度所v費不v可2勝計(フ)1、至v是更造2紫香樂(ノ)宮(ヲ)1、仍停2恭仁(ノ)宮(ノ)造作(ヲ)1焉、と見えて、いまだ全(ラ)成(331)就《ナリヲヘ》ざる間に停られ、さて十六年閏正月乙丑朔、詔喚2會百官(ヲ)於朝堂(ニ)1問曰、恭仁難波二京、何(レヲ)定(テ)爲(ム)v都(ト)、各言(セ)2其(ノ)志(ヲ)1、於是陳(ル)2恭仁(ノ)京(ノ)便宜(ヲ)1者、五位已上二十三人、六位已下百五十七人、陳(ル)2難波(ノ)京(ノ)便宜(ヲ)1者、五位已上二十三人、六位已下一百三十人、二月庚申、左大臣宣(テ)v勅(ヲ)云、今以2難波(ノ)宮(ヲ)1定爲2皇都(ト)1、宜d知2此(ノ)状(ヲ)1京戸(ノ)百姓任v意往來(ス)u、と見えたれば、三香(ノ)原(ノ)京は、間なく荒墟となれるを悲傷めるなり、
 
1059 三香原《ミカノハラ》。久邇乃京師者《クニノミヤコハ》。山高《ヤマタカミ》。河之瀬清《カハノセキヨミ》。在吉迹《アリヨシト》。人者雖云《ヒトハイヘドモ》。在吉跡《スミヨシト》。吾者雖念《アレハオモヘド》。故去之《フリニシ》。里爾四有者《サトニシアレバ》。國見跡《クニミレド》。人毛不通《ヒトモカヨハズ》。里見者《サトミレバ》。家裳荒有《イヘモアレタリ》。波之異耶之《ハシケヤシ》。如此在家留可《カクアリケルカ》。三諸著《ミモロツク》。鹿脊山際爾《カセヤマノマニ》。開花之《サクハナノ》。色目列敷《イロメヅラシク》。百鳥之《モヽトリノ》。音名束敷《コヱナツカシキ》。在杲石《アリガホシ》。住吉里乃《スミヨキサトノ》。荒樂苦惜喪《アルラクヲシモ》。
 
山高は、ヤマダカミ〔五字右○〕と訓べし、山高きが故に、在吉とつゞく意なり、○河之瀬清は、カハノセキヨミ〔七字右○〕と訓べし、河の瀬が清き故に、住吉とつゞく意なり、○在吉迹人者雖云《アリヨシトヒトハイヘドモ》は、此處に住て在經るに好(シ)、と世人は云どもと云なり、上に引る如く、今年閏正月乙丑朔に、恭仁難波(ノ)二京を、何(レ)か都と定むべきと問せられたるに、恭仁(ノ)京の便宜を陳《イヘ》る者、難波(ノ)京の便宜を陳る者よりは、六位已下の者には差多く、同戊辰に、市人の志を問(ハ)せられたるに、市人皆願d以2恭仁(ノ)京(ヲ)1爲《センコトヲ》1v都(ト)、但有d願2難波1者一人、願2平城(ヲ)1者一人u、と見えたれば、民間の者は、多くは此(ノ)久邇(ノ)京に定めさせ賜はむ事を願へるなり、○在吉跡|吾者雖念《アレハオモヘド》は、在(ノ)字は、住の誤にて、スミヨシト〔五字右○〕なるべし、末に在(332)杲石住吉里乃《アリガホシスミヨキサトノ》、とあればなり、と或説に云るぞよき、源氏物語匂宮に、院の内を心につけて、住よく在よく思ふべくとのみ、わざとがましき御あつかひぐさに、おぼされ賜へり、云々とあるも、此(ノ)歌によりて、住よく在よくとかけりとおぼゆ、さて此處に在經て住居するに好(シ)、と作者の自我は思へどもとなり、かく世(ノ)人も自我も、此處に在經て住まほしく云(ヒ)もし思ひもすれど、つひに此(ノ)都を遷すに定めさせ賜ひぬれば、せむ方なし、との意なり、○波之異耶之《ハシケヤシ》、(下の之(ノ)字、舊本に无は脱たるなり、今は古寫小本、拾穗本等に從つ、)此(ノ)一句は、次(ノ)句を隔て、鹿脊山と云へかゝれるか、はた此下に、今二句許もありつらむが、落たるにもあらむかとも思へど、さにはあらじ、○三諸著《ミモロツク》(三(ノ)字、活字本に天と作るは誤なり、)は、契冲、三諸《ミモロ》は神社なり、鹿脊山の神のために、みもろを築けるなるべしと云り、(本居氏(ノ)説に、或人三諸は、生緒(ノ)字の誤なるべしと云り、著は繋(ノ)字の誤にて、うみをかくならむ、生緒は借(リ)字にて、續苧《ウミヲ》を繋《カク》る※[手偏+峠の旁]とつゞけたるなりと云り、上にも續麻繋云鹿脊之山《ウミヲカクチフカセノヤマ》、とよめれば、此(ノ)説も面白けれども、なほ本のまゝなるぞ穩なる、)七(ノ)卷に三諸就三輪山《ミモロツクミワヤマ》云々、とよめり、さて三諸は、(借(リ)字、)御室《ミムロ》にて、神を安置奉《イマセマツ》る御室《ミムロ》のことなり、三(ノ)卷に、吾屋戸爾御諸乎立而枕邊齋戸乎居《ワガヤドニミモロヲタテテマクラヘニイハヒヘヲスヱ》云々、なほ他(ノ)卷等にも見えたり、既く一(ノ)卷なる、奠器圖隣之《ミモロノ》云々の歌に、具(ク)註せりき、照(シ)見て考(フ)べし、さて著は、(借(リ)字)齋《イツク》を云なるべし、七(ノ)卷に、木綿懸而祭三諸乃神佐備而《ユフカケテイツクミモロノカムサビテ》、十九に、春日野爾伊都久三諸乃《カスガヌニイツクミモロノ》、など見えたるを合(セ)考(ヘ)て、其(ノ)(333)意なるをさとるべし、かくて齋《イツク》をツク〔二字右○〕と云るは、神功皇后(ノ)紀に、撞賢木嚴之御魂《ツキサカキイツノミタマ》云々、(撞《ツク》は借(リ)字、齋賢木《ツキサカキ》なり、)古事記雄略天皇(ノ)條(ノ)歌に、美母呂爾都久夜多麻加伎都岐阿麻斯《ミモロニツクヤタマカキツキアマシ》云々、(これも都久《ツク》は築《ツク》には非ず、齋哉玉垣齋餘《ツクヤタマカキツキアマシ》の意なり、)などある是なり、(伊都久《イツク》と云は、もと齋《ツク》に忌《イミ》の加はりたる言にて、忌齋《イツク》なり、神祇に敬て奉仕るを云より出たるなり、朝廷に敬て奉仕るを顯齋《アレツク》と云を思(ヒ)合(ス)べし、さるは神祇には忌《イム》ことを主とする故、忌齋と云、朝廷には、顯なる方につきて顯齋《アレツク》と云り、されば都久《ツク》と云が本なることを思(フ)べし、伊都久《イツク》の伊《イ》を略きたるものには非ず、)かくてこの鹿脊山に齋奉りけむは、何の神にか考(ヘ)知ねど、思ふに、三輪の大物主(ノ)命なるべし、さるは此(ノ)大神は、天皇の近き守護《マモリ》神にて、大和にてことに崇奉り齋奉れる神にあれば、久邇に都遷したまへる時も遷し奉りて、この鹿脊山(ノ)上に御室を仕(ヘ)奉り、齋奉りたまへるならむとぞ思はるゝ、(○荒木田氏(ノ)説に、三諸は糟交《カスゴメ》の酒の名、ミ〔右○〕は酒の實を云、モロ〔二字右○〕はもろ/\と濁れるを云なり、ツク〔二字右○〕は輕く添たる言か、又は造るか、さて鹿脊山にかゝれるは、食稻《ケシネ》の意、ケ〔右○〕とカ〔右○〕と通音、シネ〔二字右○〕(ノ)反セ〔右○〕なり、三輪山にかゝるは、實湧《ミワク》の意、酒の實の湧なりと云り、いかゞあらむ、)○在杲石《アリガホシ》は、在之欲《アリガホシ》にて、在(ラ)まくほしきと云むが如し、見まくほしきを見之欲《ミガホシ》といふが如し、さて杲(ノ)字は、カウ〔二字右○〕の音をカホ〔二字右○〕に轉(シ)借たるなり、三(ノ)卷に、見杲石《ミガホシ》、また集中に、杲鳥《カホトリ》など書り、○荒樂苦惜喪《アルラクヲシモ》(喪(ノ)字舊本には哭と作り、それも集中に例あれど、今は異本、拾穗本等に從つ、)は、樂(334)苦《ラク》は、留《ル》の延(リ)たるなり、喪《モ》は、歎息(ノ)辭なり、荒(レ)行事の、嗚呼さても悲しく惜やとなり、抑々平城(ノ)京の荒墟とならむ事は、悲傷しき事なれども、かしこき大御心より出たる事なれば、せむすべなくて、つひに久邇に都うつされしかば、平城(ノ)京の荒行ことを、ふかく惜みいたく歎きたる意を、初長短六首(ノ)歌にいひのべ、さてその次に、久邇(ノ)新京を讃美《タヽ》へたる意を、長短九首(ノ)歌にいひ擧たり、かくて又しも、程なく新京を遷し賜はむの、御あらましありて、六位已下民間に至るまでに、遷都の便否を問せ賜ひたるに、賤しき者は多くは、此(ノ)久邇に都定めさせ賜はむ事を願たるよし、志情を陳聞え、はた新京の造營いまだ成畢ざるに遷都ありては、いかに百姓の勞費いみじからむ、といとほしくおもふより、かへす/”\も、百代爾母不可易大宮殿《モヽヨニモカハルベカラヌオホミヤトユロ》、とうたひあげて、此(ノ)久邇(ノ)京に定めさせ賜はむ事を願へる民情に方人したるに、つひにそのかひなくて、程なく今年二月に、難波に都せさせ給へれば、せむかたなくて、久邇(ノ)京は荒墟となれゝば、在よしと願ひたる民情にもかなはず、住よしと思ひし吾素志にもたがひて、いとも悲しく傷ましく歎かしく惜き事ぞ、とおもへる微意より出て、此(ノ)長短三首(ノ)歌を陳たるにて、皆一人の作なるべし、
 
反歌二首《カヘシウタウフタツ》。
 
二首(ノ)二字、(二(ノ)字、舊本に三と作るは誤なり、古寫一本、古寫小本等に、二と作るぞよき、)拾穗本に(335)はなし、
 
1060 三香原《ミカノハラ》。久邇乃京者《クニノミヤコハ》。荒去家里《アレニケリ》。大宮人乃《オホミヤビトノ》。遷去禮者《ウツロヒヌレバ》。
 
遷去禮者は、ウツロヒヌレバ〔七字右○〕と訓べし、(ウツリイヌレバ〔七字右○〕、と訓はわろし、)難波(ノ)宮所へ遷りぬるを云、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
1061 咲花乃《サクハナノ》。色者不易《イロハカハラズ》。百石城乃《モヽシキノ》。大宮人叙《オホミヤビトゾ》。立易去流《タチカハリケル》。
 
立易去流《タチカハリヌル》は、發(チ)往て住處の變《カハ》りぬる、と云なるべし、○歌(ノ)意は、春になりて、咲花の色は有しにかはらず、その花を賞愛《アハレ》むべき大宮人のみぞ、他處に發往て住處の變《カハ》りぬれば、昔のまゝにさく花もかひなしとなり、古今集に、奈良(ノ)帝の御歌、ふるさとゝなりにしならの京にも色はかはらず花は咲けり、忠度歌に、さゝなみやしがのみやこはあれにしをむかしながらの山櫻かな、などあり、思(ヒ)合(ス)べし、
 
難波宮作歌一首并短歌《ナニハノミヤニテヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
難波(ノ)宮は、續紀に、天平十六年二月甲虎運2恭仁(ノ)宮(ノ)高御座《タカミクラ》、并《マタ》大楯(ヲ)於難波(ノ)宮(ニ)1、又遣v使(ヲ)取2水路(ヲ)1運(ヒ)漕(シム)兵庫(ノ)器仗(ヲ)1、乙卯、恭仁(ノ)宮(ノ)百姓情願(フ)v遷2難波(ノ)宮(ニ)1者、恣(ニ)聽(セ)之、とある是なり、
 
1062 安見知之《ヤスミシシ》。吾大王乃《ワガオホキミノ》。在通《アリガヨフ》。名庭乃宮者《ナニハノミヤハ》。不知魚取《イサナトリ》。海片就而《ウミカタツキテ》。玉拾《タマヒリフ》。濱邊乎近見《ハマヘヲチカミ》。朝羽振《アサハフル》。浪之聲※[足+參]《ナミノトサワキ》。夕薙丹《ユフナギニ》。櫂合之聲所聆《カヂノトキコユ》。曉之《アカツキノ》。寐覺尓聞者《ネサメニキケバ》。海石之《ウミチカミ》。鹽干(336)乃共《シホヒノムタ》。※[さんずい+内]渚爾波《ウラスニハ》。千鳥妻呼《チドリツマヨビ》。葭部爾波《アシヘニハ》。鶴鳴動《タヅガネトヨム》。視人乃《ミルヒトノ》。語丹爲者《カタリニスレバ》。聞人之《キクヒトノ》。視卷欲爲《ミマクホリスル》。御食向《ミケムカフ》。味原宮者《アヂフノミヤハ》。雖見不飽香聞《ミレドアカヌカモ》。
 
在通《アリガヨフ》は、有々《アリ/\》て通ひ幸《イデマ》す意なり、かく云るは、天平十六年正月庚戌、任(ス)2装束(ノ)次第司(ヲ)1、爲(ナリ)v幸(ム)2難波(ノ)宮(ニ)1也、閏正月乙亥、天皇行2幸(シタマフ)難波(ノ)宮(ニ)1、二月甲辰、幸2和泉(ノ)宮(ニ)1、丁未、車駕自2和泉宮1至、戊午、行2幸紫香樂宮(ニ)1、太上天皇、及左大臣橘(ノ)宿禰諸兄、留(テ)在2難波(ノ)宮(ニ)1焉、庚申、左大臣宣(テ)v勅(ヲ)云、今以2難波(ノ)宮(ヲ)1定(テ)爲2皇都(ト)云々、七月己巳、車駕還(リタマフ)2難波(ノ)宮(ニ)1、かくて十七年正月己未朔、廢朝、乍遷2新京(ニ)1云々、以造2宮室1、垣牆未v成、繞(スニ)以2帷帳(ヲ)1云々、とある如く、天平十七年正月、宮室を造らせ給はざりしさきは、度々行幸ありしなれば、かく云るなるべし、○海片就而《ウミカタヅキテ》は、海に片寄(リ)附ての意なり、十(ノ)卷に、山片就《ヤマカタヅキ》而、十九に、谷可多頭伎弖《タニカタヅキテ》、などあるに同じ、○濱邊《ハマヘ》、一本に濱徑と作り、ハマヂ〔三字右○〕と訓べし、○朝羽振《アサハフル》は、二(ノ)卷に、朝羽振風社依來夕羽振浪社來縁《アサハフルカゼコソキヨセユフハフルナミコソキヨセ》、とある處に具(ク)去り、○浪之聲※[足+參]《ナミノトサワキ》、(※[足+參](ノ)字、拾穗本には躁と作り、干禄字書に、※[足+參]躁上俗下正とあり、)浪の音のかしがましく立(ツ)を云、○櫂合之聲所聆(櫂を舊本に擢と作るは非なり、)は、カヂノトキコユ〔七字右○〕と訓べし、櫂は、和名抄に、釋名(ニ)云、在v旁(ニ)撥《ハラフヲ》v水(ヲ)曰v櫂(ト)、櫂(シテ)2水中(ニ)1且進(ムル)v櫂(ヲ)也、字亦作v棹(ニ)、漢語抄(ニ)云、加伊《カイ》と見えたり、さて加伊《カイ》と加遲《カヂ》とは、いさゝか異へる物なれど、櫂(ノ)字は、古(ヘ)加遲《カヂ》にも用ひけむなるべし、かくて船のつくへかけたる櫂《カヂ》の、つくにすれ合て、音するものなれば、此には其(ノ)義を得て、櫂合之聲とは書るならむ、(略解に、合(ノ)字は、衍なら(337)むと云るは、くはしく考へざりしなり、)○海石之は、海近三の誤なり、と本居氏の云るぞ宜しき、(略解に、石は、原の誤れるにて、ウナハラノ〔五字右○〕か、又は若の誤にて、ワタツミノ〔五字右○〕ならむか、と云るは叶ひがたし、)○鹽干乃共《シホヒノムタ》、(干(ノ)字、舊本に千と作るは誤なり、今は古寫小本、拾穗本等に從つ、)は、潮涸《シホヒ》と共にの意なり、共《ムタ》の言は、二(ノ)卷に委(ク)云り、○※[さんずい+内]渚爾波《ウラスニハ》、(※[さんずい+内](ノ)字、舊本に納、異本に滷に作るは誤なり、今は一本に從つ、)爾波《ニハ》は、他所にむかへていふ詞なり、次の葭部爾波《アシヘニハ》も同じ、○視人之《ミルヒトノ》云々、其(ノ)風趣《トコロノサマ》の最好《イトヨキ》を見て、其(ノ)人の語り繼ば、其を聞(ク)人は見たく思ふよしなり、廿(ノ)卷喩v族(ヲ)歌にも、美流比等乃可多里都藝弖弖伎久比等能可我見爾世武乎《ミルヒトノカタリツギテテキクヒトノカガミニセムヲ》、とあり、○御食向《ミケムカフ》は、枕詞なり、○味原宮《アヂフノミヤ》は上(ノ)卷に具(ク)註りき、○雖見不飽香聞《ミレドアカヌカモ》は、此(ノ)佳景のおもしろくて、見れども見れども、嗚呼《アハレ》さても不足《アカヌ》事哉、となり、
 
反歌二首《カヘシウタフタツ》。
 
二首(ノ)二字、拾穗本にはなし、
 
1063 有通《アリガヨフ》。難波乃宮者《ナニハノミヤハ》。海近見《ウミチカミ》。漁童女等者《アマヲトメラガ》。乘船所見《ノレツフネミユ》。
 
漁(ノ)字拾穗本には海と作り、○歌意かくれたるところなし、
 
1064 塩于者《シホヒレバ》。葦邊爾※[足+參]《アシヘニサワク》。白鶴乃《アシタヅノ》。妻呼音者《ツマヨブコヱハ》。宮毛動響二《ミヤモトヾロニ》。
 
※[足+參](ノ)字、異本、拾穗本、等には躁、類聚抄には〓と作り、○白蔓、シラタヅ〔四字右○〕とよめる例なければ、姑(ク)他(338)例によりて、アシタヅ〔四字右○〕と訓つ、猶考(フ)べし、○歌(ノ)意は、潮干になれば、葦原に來りて、鳴さわぐ鶴の妻呼音は、宮(ノ)内も動々《ヾロ/\》に響き聞えて、おもしろしとなり、
 
過《スグル》2敏馬浦《ミヌメノウラヲ》1時作歌一首并短歌《トキヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
敏馬(ノ)二字、舊本に驚と一字に作るは誤なり、今は類聚抄、古寫一本、拾穗本等
 
1065 八千桙之《ヤチホコノ》。神之御世自《カミノミヨヨリ》。百船之《モヽフネノ》。泊停跡《ハツルトマリト》。八島國《ヤシマクニ》。百船純乃《モヽフナヒトノ》。定而師《サダメテシ》。三犬女乃浦者《ミヌメノウラハ》。朝風爾《アサカゼニ》。浦浪左和寸《ウラナミサワキ》。夕浪爾《ユフナミニ》。玉藻者來依《タマモハキヨル》。白沙《シラマナゴ》。清濱部者《キヨキハマヘハ》。去還《ユキカヘリ》。雖見不飽《ミレドモアカズ》。諾石社《ウベシコソ》。見人毎爾《ミルヒトゴトニ》。語嗣《カタリツギ》。偲家良思吉《シヌヒケラシキ》。百世歴而《モヽヨヘテ》。所偲將往《シヌハエユカム》。清白濱《キヨキシラハマ》。
 
八千桙之神《ヤチホコノカミ》(桙(ノ)字、拾穗本には鉾と作り、)は、すなはち大穴牟遲《オホナムヂノ》命(ノ)更《マタノ》御名なり、さて上に云る如く、此(ノ)神少名毘古那(ノ)命と相並ばして、天(ノ)下を經營《ツクリカタ》め絵へれば、遠き神代をば、此(ノ)神にかけて云るなり、十(ノ)卷七夕(ノ)歌に、八千矛神自御世《ヤチホコノカミノミヨヨリ》云々、また十八に、於保奈牟知須久奈比古泰野神代欲理《オホナムチスクナビコナノカミヨヨリ》云々、とも見えたり、○百船純《モヽフナヒト》は、此(ノ)上に出たり、○白沙《シラマナゴ》、(拾穗本には、白砂と作り、)十一に、白細砂三津之食土色出而不云耳衣我戀樂者《シラマナゴミ ツノハニフノイロニデテイハナクノミソアガコフラクハ》、とあり、○諾石社《ウベシコソ》云々、此(ノ)上に見えたり、さて社《コソ》と云て、良思吉《ラシキ》と結《トヂ》めたるは、既く一(ノ)卷なる、天智天皇(ノ)三山(ノ)御歌に例ありて、彼處に具(ク)註《シル》せり、○所偲將往《シヌハエユカム》は、見ぬ人に語繼(カ)ば、其を聞人に、戀しく思はれ慕はれ行むとなり、○清白濱《キヨキシラハマ》は、濱(ノ)名に非ず、白砂敷はへて、清き濱のよしなり、○歌(ノ)意は、神代より百船の泊る、よき泊と定めたる、敏(339)馬の浦の風趣《アリサマ》は、行かへり行還り、幾回《イクタビ》見れども飽ず、此(ノ)風色をおもしろみして、見る人ごとに、未(タ)見ぬ人にかたりつたへて、聞人の慕ひ來にけるは、げにもことわりにてこそありけれ、となり、
 
反歌二首《カヘシウタフタツ》。
 
二首(ノ)二字、拾穗本にはなし、
 
1066 眞十鏡《マソカヾミ》。見宿女乃浦者《ミヌメノウラハ》。百船《モヽフネノ》。過而可往《スギテユクベキ》。船濱亡國《ハマナラナクニ》。
 
眞十鏡《マソカヾミ》は、枕詞なり、見《ミ》の一言にのみかゝれり、○百船《モヽフネノ》は、百の船人のと云が如し、○亡(ノ)字、舊本に七と作るは誤なり、今は古寫小本に從つ、○歌(ノ)意は、敏馬の浦の佳景の、見るにあかずおもしろさにつきて、是をむなしく外目に見すてゝ、他所に漕過て行べき濱にてはあらぬことなれば、百の船人も誰かは心を留めずあるべきとなり、上にも、大埼《オホサキノ》云々|百船純毛過亦云莫國《モヽフナヒトモスグトイハナクニ》、とよめるに同じ、
 
1067 濱清《ハマキヨミ》。浦愛見《ウラウルハシミ》。神世自《カミヨヨリ》。千船湊《チフネノハツル》。大和太乃濱《オホワダノハマ》。
 
大和太乃濱《オホワダノハマ》は、土佐日記に、二月六日、澪標《ミヲツクシ》のもとより出て、難波の津をきて河尻にいる云々、九日、心もとなきにあけぬ、から舟を引つゝのぼれども、川の水なければ、ゐざりにのみぞゐざる、このあひだに和田の泊の、あかれのところといふ所あり、とあり、和田の泊は、攝津(ノ)國西(340)成郡にて、今大和田といへば、此處なるべしといへり、夫木集廿五に、大和田の浦わに今宵舟とめて清き濱邊の月をいざ見む、とあり、大和太と名に負せたる故は、一(ノ)卷に、志賀能大和太《シガノオホワダ》とよめるに同じく、大曲《オホワダ》にて、入曲りたる浦なるべし、大は其(ノ)地の廣く大(キ)なるより、いふなるべし、神武天皇(ノ)紀に、曲浦《ワダノウラ》とも見ゆ、○歌(ノ)意は、濱清く浦がうつくしき故に、其を賞《メデ》て、神代の昔より、千船の泊てとまる、此(ノ)敏馬の大曲《オホワグ》の濱ぞ、となり、
〔右二十一首。田邊福磨之歌集中出也。〕
福麿は、傳未(タ)詳ならず、契冲、福麻呂は、續紀(ニ)云(ク)、天平十一年四月正六位上田邊史難波(ニ)、授2外從五位下(ヲ)1、此(ノ)難波が子などにもや有けむ、天平廿年、橘(ノ)左大臣の使として、家持越中(ノ)守たるが許へ、つかはされければ、左大臣の家禮なるべしと云り、此(ノ)人の歌集九(ノ)卷にも見え、十八には、此人の歌も載たり、○此(ノ)卷、養老七年夏より、神龜年中、次に、天平十六年春までのを擧たり、
 
萬葉集卷第六
 
六の下拾穗本には終字あり、
 
萬葉集古義六卷之下 終
 
(341)萬葉集古義七卷之上
 
雜謌《クサ/”\ノウタ》
 
詠《ヨメル》v天《アメヲ》。
 
1068 天海丹《アメノウミニ》。雲之波立《クモノナミタチ》。月船《ツキノフネ》。星之林丹《ホシノハヤシニ》。※[手偏+旁]隱所見《コギカクルミユ》。
 
歌(ノ)意は、大空のみどりにひろきを、海と見なせるより、雲を浪によそへ、半月を船になずらへ、里の繁きを林にたとへて、それを船の※[手偏+旁]隱るが見ゆる、と云なせり、十(ノ)卷に、天海月船浮桂梶懸而※[手偏+旁]所見月人壯子《アメノウミツキノフネウケカツラカヂカケテコグミユツキヒトヲトコ》、詞花集に、海上月と云ことを、行人も天の戸わたる心ちして雲の浪路に月を見る哉、金葉集に、水上月と云る心を、雲の浪かゝらぬさよの月かげを清瀧川に移してぞ見る、夫木集に、雲の浪あとなき方の月の船かつらが陰にこぎわたる見ゆ、此(ノ)下に、春日在三笠乃山二月船出《カスガナルミカサノヤマニツキノフネイヅ》云々、懷風藻、文武天皇御製、月(ノ)詩に、月舟移2霧渚(ニ)1、楓※[楫+戈]泛2霞濱(ニ)1、とあり、(今(ノ)歌の初句を、六帖に、天の川として載たるは、誤なるべし、)
 
(342)〔右一首。柿本朝臣人麿之歌集出。〕
 
詠《ヨメル》v月《ツキヲ》。
 
1069 常者曾《ツネハカツテ》。不念物乎《オモハヌモノヲ》。此月之《コノツキノ》。過匿卷《スギカクレマク》。惜夕香裳《ヲシキヨヒカモ》。
 
常者曾は、ツネハカツテと訓べし、(舊訓にツネハソモ〔五字右○〕とあるは誤なり、)曾《カツテ》は、十(ノ)卷に、木高者曾木不殖《コタカクハカツテキウヱジ》、十二に、繩乘乃名者曾不告《ナハノリノナハカツテノラジ》、十六に、吾待之代老曾無《アガマチシカヒハカツテナシ》、などあり、又四(ノ)卷に、都毛不知戀裳摺可聞《カツテモシラヌコヒモスルカモ》、十三に、戀云物者都不止來《コヒチフモノハカツテヤマズケリ》、古事記に、都《カツテ》不v得2一魚(ヲモ)1、皇極天皇(ノ)紀に、明日往見(ニ)都不在焉《カツテナシ》、などあるも皆同じ、(俗にすべて、露ほどもなどいふに、同意なり、)○歌(ノ)意は、常者|曾《カツ》て露ほども、何とも思はぬ、此(ノ)月なれど、今夜に限りて、殊に過隱れむ事の、さても惜き宵哉、と云にて、宴席などの興に乘てよめるか、又はめづらしき友などにあへる夜、よめるならむ、(略解に、常はをしとも思はぬ夜なれど、月の入故に此(ノ)夜のをしまるゝなり、と云るは、誤なり、
 
1070 大夫之《マスラヲノ》。弓上振起《ユズヱフリオコシ》。借高之《カリタカノ》。野邊副清《ヌヘサヘキヨク》。照月夜可聞《テルツキヨカモ》。
 
大夫は、丈夫とあるべきを、かく作ること例あり、既く云り、○弓上振起《ユズヱフリオコシ》は、十九に、梓弓須惠布理於許之《アヅサユミスヱフリオコシ》、とあり、神代紀に振2起《フリオコシ》弓※[糸+肅]1、又古事記にも、弓腹振立《ユハラフリタテ》とあり、(本居氏は、古事記によりて、こゝをもユズヱフリタテ〔七字右○〕と訓たれど、此《コヽ》は起(ノ)字を書れば、十九の假名書によりて、フリオコシ〔五字右○〕と訓むぞ宜しき、)以上二句は、借高をいはむとての序なり、弓末を振起(コ)して獵、と云かけ(343)たるなり、○借高《カリタカ》は、大和(ノ)國添上(ノ)郡にあり、六(ノ)卷に出づ、○野邊副清《ヌヘサヘキヨク》は、野邊までも清くと云意にて、遠く、借高野《カリタカヌ》を望てよめるさまなり、○歌(ノ)意は、遠く遙に望《ミヤ》れば、あの借高の野原の末までも、白晝の如く、殘るくまなく明かに見えて、さて/\清く照(レ)る今夜の月哉、となり、
 
1071 山末爾《ヤマノハニ》。不知與歴月乎《イサヨフツキヲ》。將出香登《イデムカト》。待乍居爾《マチツヽヲルニ》。夜曾降家類《ヨノクダチケル》。
 
歌(ノ)意は、山(ノ)端にいざよひためらひて、速に出やらぬ月を、今は出むか/\と待ながら端(シ)に出て居る内に、はや夜の降りて、更《フケ》にけるよとなり、六(ノ)卷忌部(ノ)黒麻呂が歌、又この下にも、よく似たる歌あり、
 
1072 明日之夕《アスノヨヒ》。將照月夜者《テラムツクヨハ》。片因爾《カタヨリニ》。今夜爾因而《コヨヒニヨリテ》。夜長有《ヨナガカラナム》。
 
明日之夕《アスノヨヒ》は、明夜《アスノヨ》と云に同じ、○歌(ノ)意は、明夜《アスノヨ》も明後夜《アサテノヨ》も夜並べて、かくの如く見たき月なれど、まづさしあたりては、明夜より後の事は思はず、いかで明夜の月も、今夜に片因(リ)一(ツ)になりて、夜長くあらなむ、となり、明夜をも片因(セ)合せて今夜の興に、あくまで月を見たきよしなり、六(ノ)卷には、天爾座月讀壯子幣者將爲今夜乃長者五百夜繼許曾《アメニマスツクヨミヲトコマヒハセムコヨヒノナガサイホヨツギコソ》、とさへもあり、
 
1073 玉垂之《タマタレノ》。小簾之間通《ヲスノマトホシ》。獨居而《ヒトリヰテ》。見驗無《ミルシルシナキ》。暮月夜鴨《ユフヅクヨカモ》。
 
玉垂之《タマタレノ》は、枕詞なり、既く出たり、○小簾之間通は、ヲスノマトホシ〔七字右○〕と訓べし、(此歌、六帖に載たるに、こすのまとほりとせるは、ひがことなり、)次(ノ)句を隔て、小簾の透間より見《ミル》と連《ツヾ》く心持な(344)り、(略解に、二の句より、結句へつゞくと云るは、誤なり、)○見驗無《ミルシルシナキ》は、見る甲斐無(キ)といふが如し、○歌(ノ)意は、思ふ人と、共に見たらばこそあれ、唯獨居て、小簾の透間より見通して見るは、さてもかひなき今夜の夕月哉、とあり、
 
1074 春日山《カスガヤマ》。押而照有《オシテテラセル》。此月者《コノツキハ》。妹之庭母《イモガニハニモ》。清有家里《サヤケカルラシ》。
 
押而照有は、オシテテラセル〔七字右○〕と訓べし、押而《オシテ》は、押並而《オシナベテ》と云が如し、八(ノ)卷に、我屋戸爾月押照有《ワガヤドニツキオシテレリ》、十一に、窓超爾月臨照而《マドコシニツキオシテリテ》、などよめり、○清有家里は中山(ノ)嚴水、家里は、良思などを誤れるにや、家里にては聞えず、と云り、信に然ることなり、サヤケカルラシ〔七字右○〕とあるべし、(略解に、妹が家にて、春日山を見やりて、よめるなるべしといへれど、さらば其(ノ)月者となくては、主客の詞違ふをや、)按(フ)に、家は、羅(ノ)字にてあるべし、家羅草書混ひぬぺければなり、○歌(ノ)意は、春日山を押並て、清《サヤカ》に照せる此(ノ)月は、きはめて妹(カ)家の庭にも、清けくあるらし、となり、此は春日山にて、月を見て、妹(ガ)庭を思ひやれるなり、
 
1075 海原之《ウナハラノ》。道遠鴨《ミチトホミカモ》。月讀《ツクヨミノ》。明少《ヒカリスクナキ》。夜者更下乍《ヨハクダチツヽ》
明は、義を得てヒカリ〔三字右○〕と訓べし、(略解に、アカリ〔三字右○〕と訓るは、字に泥みたることにて、例もなき誤字。)、○歌(ノ)意は、夜が更行ば、月もます/\、さやかなるべきに、然《サ》はなくて夜は更つゝ、月の光のすくなく朧なるは、海原の道が遠き故に、此《コヽ》に月の至るが遲きなるべし、となり、中山(ノ)嚴水、(345)此(ノ)歌は、海邊にて、朦なる月を見てよめるなるべし、月の朧なるとはいはずして、海原の遙なる故に、月の光すくなき、と云なしたりと云り、(略解に、遲く出たる月の、見るほどもなくて更過るは、路を出しほどの、道遠かりしにやと云なり、と云るはいかゞ、)
 
1076 百師木之《モヽシキノ》。大宮人之《オホミヤヒトノ》。退出而《マカリデテ》。遊今夜之《アソブコヨヒノ》。月清左《ツキノサヤケサ》。
 
月清左《ツキノサヤケサ》は、月の清《サヤケ》さいかばかりぞや、かぎりもなしと云意なり、左《サ》は、深左《フカサ》、淺左《アササ》など云|左《サ》なり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、三(ノ)卷鴨(ノ)君足人の、香具山の歌の中に、百磯城之大宮人乃退出而遊船爾波《モヽシキノオホミヤヒトノマカリデテアソブフネニハ》云々、とあり、
 
1077 夜干玉之《ヌバタマノ》。夜渡月乎《ヨワタルツキヲ》。將留爾《トヾメムニ》。西山邊爾《ニシノヤマヘニ》。塞毛有糠毛《セキモアラヌカモ》。
 
塞毛有糠毛《セキモアラヌカモ》は、いかで關も有(レ)かしの意なり、終の毛《モ》は、歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、入月を留めむ爲に、西の山邊に、いかで關も有(レ)かし、程なく此(ノ)月の入むは、さても惜き事哉、となり、此(ノ)歌、業平(ノ)朝臣の、山(ノ)未《ハ》にげて入ずもあらなむ、とよめる類なるべし、
 
1078 此月之《コノツキノ》。此間來者《コヽニキタレバ》。且今跡香毛《イマトカモ》。妹之出立《イモガイデタチ》。待乍將有《マチツヽアラム》。
 
且今跡香毛《イマトカモ》は、今や來む歟とての意、毛《モ》は歎息(ノ)辭なり、契冲云、第二に、けふ/\と吾(ガ)待君といふに、且今日且今日とかけり、こゝに今と云に、且今とかけるも、治定せざる心なれば、且の字を加へてかけるなり、○歌(ノ)意は、此(ノ)月影の、此處に來たるにて、見れば、もはや夜は更たり、され(346)ば今や來む今や來むと、妹が家(ノ)外に出立つゝ、吾を待つゝあるらむ、さても戀しく思はるゝ哉、となり、本居氏、おのが家にて月の影のさす所を見て、はやこゝまで月の影の來つれば、夜は更たり、妹が待らむと云意なり、と云る如し、
 
1079 眞十鏡《マソカヾミ》。可照月乎《テルベキツキヲ》。白妙乃《シロタヘノ》。雲香隱流《クモカカクセル》。天津霧鴨《アマツキリカモ》。
 
眞十鏡《マソカヾミ》は、枕詞なり、○歌(ノ)意は、照べき月(ノ)光なるを、かく朦朧《オボロ》なるは、雲の立隱せるか、霧の覆ひて幽《カス》かなるか、あはれさても、清《サヤカ》にてあれかし、と云なるべし、(略解に、いまだ月の出ぬを云なり、と云れどいかゞ、)
 
1080 久方乃《ヒサカタノ》。天照月者《アマテルツキハ》。神代爾加《カミヨニカ》。出反等六《イデカヘルラム》。年者經去乍《トシハヘニツヽ》。
 
歌(ノ)意は、人はいくほどなく、はかなきものなれば、未來のことはいかならむ、見知べき理ならぬを、月は幾萬世經てもかはらず、同じ光に照ものなれば、又あまた年經行つゝ、後遂には、昔(シ)の神代の如き世にも立かへりつゝ、出て照すらむかと、月をうらやむやうによめるなるべし、按(フ)に、第三(ノ)句、加(ノ)字は、若は母なりけむを、草書にて誤れるにもやあらむ、カミヨニモ〔五字右○〕とあるときは、いよ/\理たしかなるべくおぼゆればなり、(略解に年を經て、月の光のかはらぬは、神代へ立かへりては、出るならむと云なり、と云るは、いかにぞや、)
 
1081 烏玉之《ヌバタマノ》。夜渡月乎《ヨワタルツキヲ》。※[立心偏+可]怜《オモシロミ》。吾居袖爾《アガヲルソデニ》。露曾置爾鷄類《ツユゾオキニケル》。
(347)※[立心偏+可]怜《オモシロミ》は、字鏡に、※[立心偏+慈](ハ)※[立心偏+可]怜也、於毛志呂志《オモシロシ》、と見えたり、○吾居《アガヲル》は、吾(ガ)見つゝ居、と云ほどの意なり、○歌(ノ)意は、夜渡月の面白きが故に、うつら/\吾(ガ)見つゝ居るほどに、いつのまにやらむ夜も更行て、袖の上に、おぼえず露ぞ置にける、となり、
 
1082 水底之《ミナソコノ》。玉障清《タマサヘキヨク》。可見裳《ミツベクモ》。照月夜鴨《テルツクヨカモ》。夜之深去者《ヨノフケヌレバ》。
 
玉障清《タマサヘキヨク》は、玉までも清く、と云ほどの意なり、○可見裳はミツベクモ〔五字右○〕と訓べし、(略解に、ミユベクモ〔五字右○〕、とよめるはわろし、)○歌(ノ)意は、夜の更るにしたがひて、いよ/\ます/\さやかになりまさりて、水の底にある玉までも清く、あり/\と見つべくも、さて/\明(カ)に照す月哉、となり、
 
1083 霜雲入《シモグモリ》。爲登爾可將有《ストニカアラム》。久堅之《ヒサカタノ》。夜度月乃《ヨワタルツキノ》。不見念者《ミエナクモヘバ》。
 
霜雲入《シモグモリ》とは、霜降むとする夜、霧の如く天の陰《クモ》るを云なるべし、○不見念者《ミエナクモヘバ》は、見えぬ事を思へばの意なり、○歌意は、今までさやかなりける月の、にはかに見えずなりぬることを思へば、霜降むとて、天の陰り合たる故にやあるらむ、となり、
 
1084 山末爾《ヤマノハニ》。不知夜經月乎《イサヨフツキヲ》。何時母《イツトカモ》。吾待將座《アガマチヲラム》。夜者深去乍《ヨハフケニツヽ》。
 
歌(ノ)意は、もはや夜は更ながら、山(ノ)端にいざよひためらひて出やらぬ月を、いつ出來むとて、吾(ガ)待居むぞ、さても待遠なりや、となり、此(ノ)上にも、少し異れる歌あり、
 
(348)1085 妹之當《イモガアタリ》。吾袖將振《アガソデフラム》。木間從《コノマヨリ》。出來月爾《イデクルツキニ》。雲莫棚引《クモナタナビキ》。
 
歌(ノ)意は、妹が當(リ)へ向ひて袖ふらば、月影に妹がそれと見べきなれば、いざ吾(ガ)袖振むを、木間より出來る月に、雲棚引ことなかれ、となり、二(ノ)卷に、石見乃也高角山之木際從我振袖乎妹見都
良武香《イハミノヤタカツヌヤマノコノマヨリアガフルソデヲイモミツラムカ》、思(ヒ)合(ス)べし、
 
1086 靱懸流《ユキカクル》。伴雄廣伎《トモノヲヒロキ》。大伴爾《オホトモニ》。國將榮常《クニサカエムト》。月者照良思《ツキハテルラシ》。
 
靱懸流《ユキカクル》は、三(ノ)卷、安積(ノ)皇子(ノ)薨給へる時、家持(ノ)卿の内舍人にて悲める長歌に、梓弓靭取負而《アヅサユミユキトリオヒテ》、天地與彌遠長爾《アメツチトイヤトホナガニ》、萬代爾如此毛欲得跡《ヨロヅヨニカクシモガモト》、憑有之皇子乃御門乃《タノメリシミコノミカドノ》、五月蝿成驟騷舍人者《サバヘナスサワクトネリハ》云々、その反歌に、大伴之名負靭帶而萬代爾憑之心何所可將寄《オホトモノナニオフユキオビテヨロヅヨニタノミシコヽロイヅクカヨセム》、などあるを、考(ヘ)合(ス)べし、○伴雄廣伎《トモノヲヒロキ》は、大伴氏は、武官の名ある家にして、其(ノ)黨類多きを以て、かく云るなり、大祓(ノ)詞に、天皇朝廷爾仕奉留《スメラガミカドニツカヘマツル》、比禮挂伴男《ヒレカクトモノヲ》、手襁挂伴男《タスキカクトモノヲ》、靱負件男《ユキオフトモノヲ》、劔佩伴男《タチハクトモノヲ》、伴男能八十伴男始?《トモノヲノヤソトモノヲノハジメテ》云々、とあり、○大伴《オホトモ》と云は、衛門(ノ)府の陣をさして云るなるべし、○歌(ノ)意は、大伴氏の護れる此(ノ)衛門(ノ)府に、かく月の陰りなく、明かに照れるを見れば、彌々國は榮往むとなるべし、と祝てよめるなり、
 
詠《ヨメル》v雲《クモヲ》。
 
1087 痛足河《アナシカハ》。河浪立奴《カハナミタチヌ》。卷目之《マキムクノ》。由槻我高仁《ユツキガタケニ》。雲居立良志《クモヰタツラシ》。
 
痛足河《アナシカハ》は、四(ノ)卷に出て、彼處に註り、○卷目《マキムク》は、此(ノ)下にもあまた見え、又十(ノ)卷、十二(ノ)卷などにも見(349)えたり、卷向とも、纏向とも書り、(此に目(ノ)字を書るに依て、マキモク〔四字右○〕と訓は非なり、)神名帳に、大和(ノ)國城上(ノ)郡卷向(ニ)坐若御魂(ノ)神社、とある其處なり、古事記に、大帯日子淤斯呂和氣(ノ)天皇、坐(テ)2纏向之日代(ノ)宮(ニ)1、治(シキ)2天(ノ)下1也、又|麻岐牟久能比志呂能美夜波《マキムクノヒシロノミヤハ》云々、と云歌も見えたり、)○由槻我高《ユツキガタケ》は、則(チ)卷向山の高嶺を云なるべし、次に弓月高《ユツキガタケ》とあるも同じ、十(ノ)卷にも弓月我高荷霞霏※[雨/微]《ユツキガタケニカスミタナビク》、とよめり、高《タケ》は、高嶺《タカネ》の縮言なるよしは、既く云り、(たゞに高と云には非ず、)○雲居立良志(舊本立の下に、有(ノ)字あり、今は活字本に无に從つ、)は、クモヰタツラシ〔七字右○〕と訓べし、雲居《クモヰ》は、たゞ雲を云、古事記に、和岐幣能迦多由久毛韋多知久母《ワギヘノカタユクモヰタチクモ》、とあり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、此は雨降むとする時、風|發《オコ》りて浪の立さわぐものなれば、河浪の鳴動くを聞て、雲の立を思ひやれるなり、
 
1088 足引之《アシヒキノ》。山河之瀬之《ヤマガハノセノ》。響苗爾《ナルナベニ》。弓月高《ユツキガタケニ》。雲立渡《クモタチワタル》。
 
歌(ノ)意かくれなし、右のと同じ趣なり、
〔右二皆。柿本朝臣人麿之歌集出。〕
 
1089 大海爾《オホウミニ》。島毛不在爾《シマモアラナクニ》。海原《ウナハラノ》。絶塔浪爾《タユタフナミニ》。立有白雲《タテルシラクモ》。
 
島毛不在爾《シマモアラナクニ》は、島もあらぬことなるに、と云が如し、島にてもあらば、さもあるべきに、島もなきをの意なり、○絶塔《タユタフ》は、集中に、猶豫不定と書り、其(ノ)字(ノ)意なり、○歌(ノ)意かくれなし、雲は大かた、山によりかゝりて立ものなるに、此は大海原の島もなき處に、ねかるゝ處なく、浮雲の立る(350)を見てよめるなり、神代紀一書に、天地未v生之、時|譬2猶《ゴトクナリキ》海上(ノ)浮雲(ノ)無(カ)1v所2根係《ネカヽル》1、とあるを思(ヒ)合(ス)べし、
〔右一首。伊勢從駕作〕
かくまでしるせるに、名を出さゞるは、いかなるにか、
 
詠《ヨメル》v雨《アメヲ》。
 
1090 吾妹子之《ワギモコガ》。赤裳裙之《アカモノスソノ》。將染※[泥/土]《ヒヅツラム》。今日之※[雨/脉]※[雨/沐]爾《ケフノコサメニ》。吾共所沾名《アレサヘヌレナ》。
 
將染※[泥/土]は、ヒヅツラム〔五字右○〕と訓べし、染※[泥/土]は、物に濕《ヒヅ》つ中の、一方に就る書さまなり、此(ノ)字に依て、すべてヒヅツ〔三字右○〕は、※[泥/土]の染《ツク》ことぞと思ふは偏なり、(略解の説など、大(ジキ)誤なり、)○※[雨/脉]※[雨/沐]は、和名抄に、兼名苑(ニ)云、細雨、一名※[雨/脉]※[雨/沐]、小雨也、和名|古左女《コサメ》、此(ノ)集十六に、※[雨/沐]曾保零《コサメソボフル》などあり、○吾共所沾名《アレサヘヌレナ》(名(ノ)字、舊本には者と作り、それに依ば、アレモヌレテバ〔七字右○〕と訓べし、されど一本に、名と作るがまされるによりつ、)は、妹が濕《ヒ》づゝらむ小雨に、吾までもいざ沾むと云なり、所沾名《ヌレナ》は、沾むの意を、急に強く云詞なり、○歌(ノ)意かくれなし、此は所縁ありて、妹が雨に濕つゝ、物へ行などするをいとほしみて、妹が濕らむ小雨に、吾までもいざ沾む、といへるなり、(六帖に此(ノ)歌を、わぎもこがあかものすそやしみぬらむけふのこさめに我もぬれなば、とあるはわろし、)
 
1091 可融《トホルベク》。雨者莫零《アメハナフリソ》。吾妹子之《ワギモコガ》。形見之服《カタミノコロモ》。吾下爾著有《アレシタニケリ》。
 
可融《トホルベク》は、下に著たる衣まで、沾通るべくの意なり、○著有は、ケリ〔二字右○〕と訓べし、著けりと云に同じ、(351)○歌(ノ)意かくれなし、
 
詠《ヨメル》v山《ヤマヲ》。
 
1092 動神之《ナルカミノ》。音耳聞《オトノミキヽシ》。卷向之《マキムクノ》。檜原山乎《ヒハラノヤマヲ》。今日見鶴鳴《ケフミツルカモ》。
 
動神之《ナルカミノ》は、枕詞なり、○歌(ノ)意は、音傳ばかりに聞て過來にし、卷向の檜原の山を、今日始めて見つるが、聞しにもまさりて、さて/\おもしろき山哉、となり、此(ノ)下に、音聞目者未見吉野河六田與杼乎今日見鶴鴨《オトニキキメニハイマダミヌヨシヌカハムツタヨドヲケフミツルカモ》、五(ノ)卷に、於登爾吉岐目爾波伊麻太見受佐容比賣我必禮布理伎等敷吉民萬通良楊滿《オトニキキメニハイマダミズサヨヒメガヒレフリキトフキミマツラヤマ》、とあるを思(ヒ)合(ス)べし、
 
1093 三毛侶之《ミモロノ》。山奈美爾《ソノヤマナミニ》。兒等手乎《コラガテヲ》。卷向山者《マキムクヤマハ》。繼之宜霜《ツギノヨロシモ》。
 
三毛侶《ミモロ》は、三輪山なり、○其山奈美《ソノヤマナミ》は、其《ソノ》とは、人のしりたる物を、正しくさす詞なること、既く云るがごとし、されば上なる三毛侶《ミモロ》即(チ)其なり、山奈美《ヤマナミ》は山並《ヤマナミ》にて、山續《ヤマツゾ》きと云むがごとし、○兒等手乎《コラガテヲ》は、枕詞なり、十(ノ)卷に、子等我手乎卷向山丹《コラガテヲマキムクヤマニ》、又|妹之袖卷來乃〔二字左○〕山之《イモガソデマキムクヤマノ》、(來乃は、牟九の誤、)などあり、子等《コラ》が手を枕《マク》、と云意につゞけたり、○繼之宜霜《ツギノヨロシモ》は、山つゞきの宜しきをほめたるなり、宜とは、たゞ好《ヨキ》と云とは、いさゝかたがひて、打あひ、相應《カナヒ》たるを云よし、既く云るがごとし、母《モ》は、歎息(ノ)詞なり、(六帖には、此(ノ)歌を、つぎてよろしもとあり、されど見の宜しも、聞《キヽ》の宜しもなど、古言に云れば、繼之《ツギノ》と云るぞ宜しき、)○歌(ノ)意は、御室の其(ノ)山のつゞきに、卷向山は打あひ相(352)應《カナヒ》て、ほどよくつゞきて、見るにあかず、さてもおもしろや、となり、
 
1094 我衣《アガコロモ》。色服染《イロニシメナム》。味酒《ウマサケ》。三室山《ミムロノヤマハ》。黄葉爲在《モミチシニケリ》。
 
我衣は、アガコロモ〔五字右○〕と訓べし、○色服染、(本居氏(ノ)説に、色服は、服色とありしが、誤りて下上になれるなり、と云れど、猶思ふに、服は將(ノ)字の誤なるべし、)イロニシメナム〔七字右○〕と訓べし、染を、古言にシメ〔二字右○〕と云る例、既く云り、○味酒《ウマサケ》は、枕詞なり、十一に、味酒之三毛侶《ウマサケノミモロ》、と見えたり、此《コヽ》は、之(ノ)字なければ、ウマサケ〔四字右○〕と四言に訓べし、かくて三室に屬けたるは、美酒《ウマサケ》の實毛侶之《ミモロシ》と云意にて、實甘美《ミアマ》しといはむが如くなるべし、毛侶之《モロシ》は、甘美《アマシ》と云と同意の古言と見ゆ、(今按に、味甘《ウマ》き物を毛侶伎《モロキ》と云は、すべて味甘き物は、口中へ入ると、やがて露などの微《モロ》き如く、もろく解やすきより、いへる言なるべし、)濁醪を毛侶美《モロミ》と云も、(和名抄に、玉篇云、醪(ハ)汁滓酒也、漢語抄(ニ)云、濁醪(ハ)毛侶美《モロミ》、)甘美實《アマキミ》と云意の稱にて、毛侶《モロ》は、今と同言なるが、體言に毛侶實《モロミ》と云るなり、○黄葉爲在は、モミチシニケリ〔七字右○〕と訓べし、在有などの字、ケリ〔二字右○〕と訓べき例、集中に多し、此(ノ)下に、沾在哉《ヌレニケルカモ》、十(ノ)卷に、開有可毛《サキニケルカモ》、また月經在《ツキゾヘニケル》、また雪曾零有《ユキゾフリケル》、十一に、猶戀在《ナホコヒニケリ》、また塞耐在《セカヘタリケリ》、また後悔在《ノチクイニケリ》、また乘在鴨《ノリニケルカモ》などあり、○歌(ノ)意は三室の山は黄葉したり、いざ其(ノ)黄葉の中に入立て、我(ガ)衣に色を摺付染なむ、とあり、
〔右三首。柿本朝臣人麿之歌集出。〕
 
(353)1095 三諸就《ミモロツク》。三輪山見者《ミワヤマミレバ》。隱口乃《コモリクノ》。始瀬之檜原《ハツセノヒハラ》。所念鴨《オモホユルカモ》。
 
三諸就《ミモロツク》は、(借(リ)字にて)御室齋《ミモロツク》なり、大神の爲に、御室を齋《イツ》き造(リ)奉れる謂なり、猶六(ノ)卷に、三諸著鹿脊山《ミモロツクカセヤマ》、とある處に具(ク)註り、合(セ)考(フ)べし、(かゝるを略解に、就は能の誤にて、ミモロノ〔四字右○〕なるべしと云るは、何事ぞや、抑々近(キ)世古學(ノ)徒、おのが心得かてなる處をば、深く考(ヘ)むものともせず、心まかせに誤字ぞとて、文字を改めむとするは、甚く古書を損へるわざにして、いとも/\あさましく、口惜きわざにあらずや、舊本のまゝにて、よまれむ限はよみとくべく、さてもなほ心得かてなる處は、舊本の類を檢《カムガ》へ、且集中の例、或は古言等に、確《タシカ》なる證を探り得て、姑(ク)文字を改めむはさることなるを、なま/\の淺學の註者等が、己が心(ノ)まゝに文字を改(メ)むとするは、おぼろげならぬものそこなひにこそ、)○歌(ノ)意かくれたるところなし契冲云(ク)、三輪山は泊瀬山のいぬゐの方にて近ければ、三輪の檜原を見て、泊瀬の檜原もおもひやらるゝとは、ともに賞する心なり、
 
1096 昔者之《イニシヘノ》。事波不知乎《コトハシラヌヲ》。我見而毛《アレミテモ》。久成奴《ヒサシクナリヌ》。天之香具山《アメノカグヤマ》。
 
歌(ノ)意は、往昔の事は、いかにありけむ、吾(ガ)親(ク)見ぬことなれば知ぬを、あの天のかぐ山は、吾(ガ)見始てより以來も、年歴て久しく成ぬるよ、となり、吾(ガ)齡の間の久しく歴たることを、山に負せて云るなり、古今集に、我見ても久しく成ぬ住吉の岸の姫松幾代經ぬらむ、とあると同じこゝ(354)ろばえなり、
 
1097 吾勢子乎《ワガセコヲ》。乞許世山登《イデコセヤマト》。人者雖云《ヒトハイヘド》。君毛不來益《キミモキマサズ》。山之名爾有之《ヤマノナニアラシ》。
 
吾勢子乎《ワガセコヲ》は、吾兄子《ワガセコ》よといはむが如し、○乞許世山登は、イデコセヤマト〔七字右○〕と訓べし、(古來此(ノ)一句を、コチコセヤマト〔七字右○〕と訓るに就て、吾兄子を、こちへこせと云つゞけなりと心得たるは、いみじきひがことなり、六帖川(ノ)部に、忠岑、をちへ行こちこせ川に誰しかもいろどりがたきみどりなるらむ、とあるは、今の歌に依(リ)てよめりと思はるれば、こちこせと訓るは、最古訓にてはあるなり、大和物語に、胸つぶれて、こちこと云て、文をとりて見れば、枕册子うれしき物の條に、御前に、人々所もなく居たるに、今のぼりたれば、すこしとほき柱もとなどに居たるを、御覽じつけて、こちこと仰られたれば、道あけて近くめし入たるこそうれしけれ、などあるも、今の歌によりて、こちことかけたなるべし、されど乞は、必(ス)イデ〔二字右○〕と訓べきことなり、これ余が初て訓出たるなり、(許世山《コセヤマ》は二(ノ)卷に巨勢山《コセヤマ》とあると同くて、大和(ノ)國高市(ノ)郡にある山(ノ)名なり、さて其《ソ》に乞《イデ》の言ををへて、吾(ガ)兄子よ、いで/\來よと云意に云かけたり、乞《イデ》は二(ノ)卷に、丹生乃河瀬者不渡而由久遊久登戀痛吾弟乞通來禰《ニフノカハセハワタラズテユクユクトコヒタムアオトイデカヨヒコネ》、とあるに同じ、○君毛不來益は、キミモキマサズ〔七字右○〕と訓べし、(キミモキマサヌ〔七字右○〕と訓はわろし、)○歌(ノ)意は、吾(ガ)兄子よ、いで/\來よと云意の稱なる許世《コセ》山と、人はいへども、君も來座ず、乞來世《イデコセ》山と云は、たゞ徒なる山の名のみにてあ(355)るらし、となり、○(拾遺集に、吾せこを來ませの山と人はいへど君も來座ぬ山の名ならし、とてあげたるは、いかでさばかりよみ誤られけむ、
 
1098 木道爾社《キヂニコソ》。妹山在云《イモヤマアリトイヘ》。三櫛上《ミクシゲノ》。二上山母《フタガミヤマモ》。妹許曾有來《イモコソアリケレ》。
 
三櫛上《ミクシグ》は三(ノ)字、舊本には无(シ)、今は一本に從つ、上はアゲ〔二字右○〕をゲ〔右○〕の假字に用たるか、三《ミ》は、眞《マ》と同じくて、眞櫛笥《マクシゲ》の蓋《フタ》、と云係たる枕詞なり、又按(フ)に、三は、玉(ノ)字なりけむが、畫の滅失たるにてもあらむか、さらば玉櫛上《タマクシゲ》なるべし、十七に、多末久之氣敷多我美夜麻爾《タマクシゲフタガミヤマニ》、又|多麻久之氣布多我美山者《タマクシグフタガミヤマハ》、古今集に、夕月夜おぼつかなきを玉くしげ二見の浦は明てこそ見め、後撰集に、玉くしげ二年逢ぬ君が身をあけながらやは有むと思ひし、などいづれも二《フタ》の枕詞には、玉久之氣《タマクシゲ》と云るを思(ヒ)合(ス)すべし、○二上山《フタガミヤマ》は、二(ノ)卷移2葬大津(ノ)皇子(ノ)屍(ヲ)於葛城(ノ)二上山(ニ)1之時、大來(ノ)皇女御作歌、云々|二上山乎弟世登吾將見《フタガミヤマヲワガセトアガミム》、又十(ノ)卷、十一などにも見えたり、大和(ノ)國葛下(ノ)郡にあり、(貝原氏云、二上が嶽は、丸子山の上にあり、葛城山につゞけり、北にあるを雄嶽と云(ヒ)高し、南を雌嶽と云(ヒ)ひきし、兩山ならべりといへり、妹山と云るこれなり、)○歌(ノ)意は、紀伊道にこそ、夫《セ》に對ひたる妹山ありと名高く云なれ、今この葛城の二上山を見れば、紀伊道ならねど、夫に對ひたる妹山こそありけれ、となり、契冲云、妹山ありといへと云心、まことには、いもせ山有と云こゝろなり、此(ノ)いむせは夫婦なり、脊といふ物あるにより、妹といふこともあるなり、されば紀の國(356)にこそ、妹背の山あひたぐひてありといふを、此(ノ)二上山も、妹背こそ有けれとなり、山のふもとひとつにて、末ふたつにわかれて、相對したれば、二上とは云り、まことに夫婦相對したるやうなれば、いもせ山をば、取(リ)合(セ)ていへり、
 
詠《ヨメル》v岳《ヲカヲ》。
 
1099 片崗之《カタヲカノ》。此向峯《コノムカツヲニ》。椎蒔者《シヒマカバ》。今年夏之《コトシノナツノ》。陰爾將比疑《カゲニナミムカ》。
 
片崗《カタヲカ》は、神名帳に、大和(ノ)國葛下(ノ)郡片岡(ニ)坐神社、とある、其(ノ)地なり、○向峯《ムカツヲ》は、向ひの峯と云が如し、廿(ノ)卷に、見和多世婆牟可都乎能倍乃波奈爾保比《ミワタセバムカツヲノヘノハナニホヒ》、とよめり、○陰爾將比疑《カゲニナミムカ》は、陰は、日光を蔽《オフハ》むための陰を云、將比《ナミム》は、生並《オヒナミ》むと云か、又比は化の誤にて、ナラムカ〔四字右○〕にてもあらむか、疑《カ》は疑(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、この片崗山の向ひの峯に、椎子を種生したらば、其(ノ)木生のびて、今年の夏の夏陰にならむ歟、といへるなるべし、今年蒔たる椎子の生立て、其(ノ)年の陰になるほどまで、のびむことはあるべくもなし、此は何ぞ所縁ありて、椎になずらへたるにや、
 
詠《ヨメル》v河《カハヲ》。
 
1100 卷向之《マキムクノ》。痛足之川由《アナシノカハユ》。往水之《ユクミヅノ》。絶事無《タユルコトナク》。又反將見《マタカヘリミム》。
 
痛足之川由《アナシノカハユ》 い《無を》之(ノ)之(ノ)嘩
、(痛(ノ)字、病と作るは誤なり、今改めつ、)由《ユ》は從《ユ》にて、をといふが如し、○往水之《ユクミヅノ》は、絶事無をいはむ料なり、十七に、可多加比能可波能瀬伎欲久由久美豆能多由流許登奈久安里我(357)欲比見牟《カタカヒノカハノセキヨクユクミヅノタユルコトナクアリガヨヒミム》、とあり、○又反將見《マタカヘリミム》は、其(ノ)川の清にして風趣の最好を、又反來て見む、となり、○歌(ノ)意は、流れゆく水の、絶ることなきが如く、いつまでも又かへり來て、今の如く、痛足川の清にして、風趣の最《イト》おもしろきを、愛《メデ》つゝ遊ばむ、となり、一(ノ)卷に、雖見飽奴吉野乃河之常滑乃絶事无久復還將牟《ミレドアカヌヨシヌノカハノトコナメノタユルコトナクマタカヘリミム》、六(ノ)卷に、三吉野之秋津乃河之萬世爾斷事無又還將牟《ミヨシヌノアキヅノカハノヨロヅヨニタユルコトナクマタカヘリミム》、などあり、考(ヘ)合(ス)べし、
 
1101 黒玉之《ヌバタマノ》。夜去來者《ヨルサリクレバ》。卷向之《マキムクノ》。川音高之母《カハトタカシモ》。荒足鴨疾《アラシカモトキ》。
 
歌(ノ)意は、夜になれば、山の嵐のはやければにや、卷向川の川音の高く聞ゆるならむ、さても高きよ、となり、
〔右二首。柿本朝臣人麻呂之歌集出〕
 
1102 大王之《オホキミノ》。御笠山之《ミカサノヤマノ》。帶爾爲流《オビニセル》。細谷川之《ホソタニカハノ》。音乃清也《オトノサヤケサ》。
 
大王之《オホキミノ》は、枕詞なり、○御笠山《ミカサノヤマ》は、添上(ノ)郡春日にあり、既く云り、○帶爾爲流《オビニセル》は、山の腰を流れめぐれる故に云り、十三に、甘南備乃三諸乃神之帶爲明日香之河之《カムナビノミモロノカミノオビニセルアスカノカハノ》、また神名火山之帶丹爲留明日香之河乃《カムナビヤマノオビニセルアスカノカハノ》、九卷に、三諸乃神能於婆勢流泊瀬川《ミモロノカミノオバセルハツセガハ》などあり、(史記に、且夫秦地被v山帯v川、とあり、)○細谷川《ホソタニカハ》は、川(ノ)名にはあらず、たゞに細き谷川を云、○清也は、サヤケサ〔四字右○〕なり、也は、徒に添たるなり、左《サ》は深左《フカサ》、淺左《アササ》など云|左《サ》に同じ、○歌(ノ)意は、人の身に帶を結びたるごとく、御笠山の腰を流れめぐれる細き谷川の水音のさやけさよ、となり、古今集に、眞金吹吉備の山中とて、已(358)下三句、今と全(ラ)同歌を載たり、
 
1103 今敷者《イマシキハ》。見目屋跡念之《ミメヤトモヒシ》。三芳野之《ミヨシヌノ》。大川余杼乎《オホカハヨドヲ》。今日見鶴鴨《ケフミツルカモ》。
 
今敷者《イマシキハ》は、本居氏、今者《イマハ》の意なり、敷《シキ》は添たる辭ときこゆ、今之《イマシ》とも云り、續紀廿五(ノ)詔に、今之紀乃間方《イマシキノマハ》云々、とあるは、其(ノ)上に、今之間《イマノマ》とあるに同じ、ことはり、さて此《コヽノ》敷をシク〔二字右○〕と訓たれど、續紀と照して、シキ〔二字右○〕と訓べしと云り、(略解に、敷は此(ノ)下に玉拾之久《タマヒリヒシク》、又そがひに宿之久《ネシク》、と云る、之久《シク》とひとし、と云るは大誤なり、玉拾之久《タマヒリヒシク》など云、之去《シク》は、過去しことを云詞にて、固(ヨリ)異なるをや、)此によるべし、今按(フ)に、敷《シキ》は、たゞ添たるのみの辭とするときは、此(ノ)辭あるもなきも同じこときこえて、無用の長物なるべし、此はその事を、つよくたしかにいふときに添る辭にて、ここは今は見むや、とてもかくても見ることはあらじと、その事をつよくたしかにいふ意を、此辭一(ツ)にもたせたるなるべし、續紀(ノ)詔に、然|今乃間《イマノマ》、此太子乎定《コノヒツギノミコヲサダメ》不《ズ》v賜《タマハ》在故方《アルユヱハ》、人乃能良武止念天定流毛必能之毛《ヒトノヨカラムトオモヒテサダムルモカナラズヨクシモ》不《ズ》v在《アラ》、云々、今之紀乃間方《イマシキノマハ》、念見定牟仁《オモヒミサダメムニ》、天乃授賜方牟所方《アメノサヅケタマハムトコロハ》、漸漸現奈武止念天奈毛《ヤウ/\アラハレナムトオモヒテナモ》、定《サダメ》不《ズト》v賜《タマハ》勅《ノリタマフ》、とある、これ初には今乃間《イマノマ》、後には今之紀乃間《イマシキノマ》と、同じ詔の中に、かく分て詔へるは、徒に之紀《シキ》の辭をそへたるには非ず、再詔ふには、その事をつよくたしかに詔はむとて、之紀《シキ》の辭をそへたるものなり、○歌(ノ)意は、老たれば、今は又再見る事は有まじと、たしかに思ひ定しを、思ひかけなく、吉野の大河淀を、今日又見つるかな、と深くよろこべるなり、
 
(359)1104 馬並而《ウマナメテ》。三芳野川乎《ミヨシヌガハヲ》。欲見《ミマクホリ》。打越來而曾《ウチコエキテゾ》。瀧爾遊鶴《タキニアソビツル》。
 
歌(ノ)意、發句を第四句の上に置て心得べし、三芳野川を見まほしさに、馬なめて打越來て、瀧に遊びつるが、さて/\わざ/”\來しそのかひありて、あくよなくおもしろき勝景にてあるぞ、と云なり、
 
1105 音聞《オトニキヽ》。目者未見《メニハイマダミヌ》。吉野川《ヨシヌガハ》。六田之與杼乎《ムツタノヨドヲ》。今日見鶴鴨《ケフミツルカモ》。
 
初二句は、五(ノ)卷に、於登爾吉伎目爾波伊麻太見受佐容比賣我必禮布理伎等敷吉民萬通良楊滿《オトニキキメニイマダミズサヨヒメガヒレフリキトフキミマツラヤマ》、とあるに同じ、さてこゝは、くはしくは目には未(タ)見ざりしと云意なるを、かやうに云たること、古(ヘ)には多し、竹取物語に、神は落かゝるやうに、ひらめきかゝるに、大納言はまどひて、まだかゝるわびしき目見ず、いかならむとするぞとの玉ふ、かぢとりこたへてまうす、こゝら舟に乘てまかりありくに、まだかゝるわびしき目を見ず、などあるも、見ざりしと云べき所なり、○六田之與杼《ムツダノヨド》は、今吉野山(ノ)麓、川の南にある町を、柳の宿とも、むつだとも、むだとも云、其(ノ)少し川上に、六田の淀とてあり、と云り、九(ノ)卷に、河蝦鳴六田乃河乃川楊乃《カハヅナクムツダノカハノカハヤギノ》云々、千載集に、これを見よ六田の淀にさでさしてしをれし賤の麻衣かは、新古今集に、高瀬さす六田の淀の柳原みどりも深く霞(ム)春哉、などあり、○歌(ノ)意は、音傳にのみ聞て、目には未(タ)見ざりし六田の淀の風景を、今日始めて見つるに、聞しにまさりて、さて/\おもしろき所かな、となり、
 
(360)1106 河豆鳴《カハヅナク》。清川原乎《キヨキカハラヲ》。今日見而者《ケフミテバ》。何時可越來而《イツカコシキテ》。見乍偲食《ミツヽシヌハム》。
 
偲食《シヌハム》は、賞《メデ》むと云が如し、一(ノ)卷、額田(ノ)王の春秋の競を判《コトワ》れる歌に、黄葉乎者取而曾思奴布《モミチヲバトリテゾシヌフ》、とある處に云る如く、思奴布《シヌフ》は、想《オモヒヤ》るにも云ひ、目前に賞るをも云詞なり、此(ノ)下に、墨吉之《スミノエノ》云々|縁白浪見乍將思《ヨスルシラナミミツヽシヌハム》、又十七に、布勢能宇美能意枳都之良奈美安利我欲比《フセノウミノオキツシラナミアリガヨヒ》、伊夜登偲能波爾見都道思努播牟《イヤトシノハニミツツシヌハム》、十九に、安里我欲比見都追思努波米此布勢能海乎《アリガヨヒミツツシヌハメコノフセノウミヲ》、廿(ノ)卷に、八千種爾久佐奇乎宇惠弖等伎其等爾《ヤチクサニクサキヲウエテトシゴトニ》、左加牟波奈乎之見都追思努波奈《サカムハナヲシミツツシヌハナ》、などあるも、今と同じく賞る意なり、○歌(ノ)意は、河蝦の鳴く、此(ノ)吉野の清き河原を、今日見てあらば、又何時か吉野山を越來て、今日の如く見つゝ賞て遊ばむ、となり、
 
1107 泊瀬川《ハツセガハ》。白木綿花爾《シラユフハナニ》。墮多藝都《オチタギツ》。瀬清跡《セヲサヤケミト》。見爾來之吾乎《ミニコシアレヲ》。
 
瀬清跡《セヲサヤケミト》は、瀬が清き故にと云意なり、跡《ト》は、例の語(ノ)勢を助くるのみの辭にて、別に意なし、○歌(ノ)意は、泊瀬川白木綿花の如くに、落たぎる瀬が清《サヤ》けくて、おもしろき故に、其を愛て見に來し吾なるを、心だらひに賞遊はずして歸らめやは、となるべし、六(ノ)卷に、山高三白木綿花落多藝追瀧之河内者雖見不飽香聞《ヤマダカミシラユフハナニオチタギツタキノカフチハミレドアカヌカモ》、また泊瀬女造木綿花三吉野瀧乃水沫開來受屋《ハツセメノツクルユフハナミヨシヌノタギノミナワニサキニケラズヤ》、九(ノ)卷に、山高見白木綿花爾落多藝津夏身之河門雖見不飽香聞《ヤマタカミシラユフハナニオチタギツナツミノカハトミレドアカヌカモ》、などよめり、思(ヒ)合(ス)べし、
 
1108 泊瀬川《ハツセガハ》。流水尾之《ナガルヽミヲノ》。湍乎早《セヲハヤミ》。井堤越浪之《ヰテコスナミノ》。音之清久《オトノサヤケク》。
 
(361)水尾《ミヲ》は、河中に水の深く流るゝ筋を云、水脉と書り、此(ノ)下寄河に、泊瀬川《ハツセガハ》流水沫之|絶者許曾《タエバコソ》云云とあるも、沫は脉(ノ)字の誤にて、ナガルヽミヲノ〔七字右○〕なり、集中に多き詞なり、○井堤越浪之《ヰテコスナミノ》、十一に、朝東風爾井堤越浪之《アサコチニヰテコスナミノ》世蝶似裳云々、とも見えたり、さて井提《ヰテ》は、即|堰※[土+隶]《ヰセキ》のことなり、これ田に沃《マカ》する料に堰《セキ》留(メ)たる水を堰《ヰ》と云、※[木+戈]打《クヒウチ》て堰《セキ》たる處を、堰提《ヰテ》と云り、即(テ)井提《ヰテ》と云は、堰留《ヰトメ》の意なり、トメ〔二字右○〕の切テ〔右○〕なればなり、石原(ノ)正明が隨筆に、井と云は、田にまかす料の水の事なり、山のたり水、雨水などをためて池として、樋の口より水を通して田にそゝぐ、これを打まかせては、池沼とも云ど、肝に沃す料の水なる故、井とも、井どゝも、山井とも、田井ともいふなり、平なる地にては、大井川などやうの河をせきわけて、渠をほりて流の未よりまかす、其(ノ)堤を井手と云、手は畷《ナハテ》の手なり、今の土手も、その詞の遺れるか、飛鳥井も、せか井も、某井も、みな此(ノ)渠と池との事なるを、近き世の人は、井を、堀井戸のみのことゝ心得たるにや云々と、云るは、かたがたたがへることなり其はまづ、飛鳥井などの如く、人の飲料の水を井と云と、又田に沃す料の水を堰と云と、共に井と云名の同じきが故に、これをひとつ物ぞと心得たるは、まづ第一に大じき誤なり、人の飲料なると、田に沃する料なるとは、固(ヨリ)異物なるをや、飲料なる井のことは、下に云を見てしるべし、又山(ノ)井、田井など云を引たる、これも非なり、山の井は、人の飲料にのみ云、田井と云は、井は添たる詞にて、唯田のことにて、堰とは別なるをや、さて井提と(362)云を、堤のことゝ思へる、此は昔より、誰もしか心得來つめれど、余(レ)近頃考(フ)るに、然には非ず、さるは堤のことゝしては、井提越浪と有に合《カナ》はぬことなり、たとひまれには、堤を水の越こともこそあれ、もと堤は、水を堅く壅くを主とせるものなれば、打まかせて、井堤越浪など云べきにあらず、堰※[土+隶]を云とするときは、堰※[土+隶]も、水を壅く料にはあれども、そはかりそめに壅ぎて、よきほどに水を湛へて、水田などに沃せたる餘は、越て流れしむべくかまへたるものなれば、常にも水の越ることにて、浪音などいへるにもかなへることなり、又井手の手は、畷《ナハテ》の手にて、今の土手も、其(ノ)詞の遺れるか、と思へるも誤なり、畷の手は異なり、土手は、もと土堤の字音なるを、便宜にまかせて、土手とは書るなり、音訓まじへ呼は、後世の常とは云ながら、土手などゝはいふべくも思はれず、なほ正明が説には、かた/”\誤多して、世の人のまどひとなることゞもなれば、余が別に具(ク)辨へて、記しおきたるものあり、)堰の事は、古事記應神天皇(ノ)御歌に、美豆多麻流余佐美能伊氣能韋具比宇知《ミヅタマルヨサミノイケノヰグヒウチ》、(堰※[木+戈]打《ヰクヒウチ》なり、)大神宮儀式帳に、我(カ)朝(ノ)御饌《ミケ》夕(ノ)御饌《ミケ》稻乃御田作|家《我歟》田乃|堰水道田《ヰミヅヒクタ》爾波、田蛭波穢故爾、我田爾波不住止宣支、字鏡に、堰(ハ)井世久《ヰセク》、と見えたり、今田舍にて、田に沃す料の水をゆと云、ゆでと云、ゆみぞと云、皆ゆは井の訛りなり、又大堰川と云も、常に塞分て、田に沃する川なる故の名にやあらむ、又土佐(ノ)國高坂の西に、井口村といふありて、其(ノ)地に渠ありて、其(ノ)邊すべて田なれば、堰(ノ)口といふよしの名なり、(石原(ノ)正(363)明が、今尾張(ノ)國美濃(ノ)國などにて、一(ツ)水口より、七村八村ほどづゝ水を沃す、某村を井組と云、其(ノ)事につきたる雜費を賄ふ米を、井料米といふ、それを石高にわりつくるを、井高といふと云り、これらの井もみな同じ、)○音之清久《オトノサヤケク》は、清左《サヤケサ》とあるべきが如くなれども、かく云るも古言なるべし、此(ノ)下に、大海之《オホウミノ》云々|濱之淨矣久《ハマノサヤケク》、ともあればなり、○歌(ノ)意は、泊瀬川流るゝ水筋の急きが故に、堰※[土+隶]を動々《トドロ/\》と流れ越る浪音の、清くある事よ、となり、(元可法師集に、泊瀬川井手越浪の白木綿に光も清くやどる月影、これは件の二首をとり合せてよめるなり、)
 
1109 佐檜乃熊《サヒノクマ》。檜隈川之《ヒノクマガハノ》。瀬乎早《セヲハヤミ》。君之手取者《キミガテトラバ》。將縁言毳《コトヨセムカモ》。
 
佐檜乃熊《サヒノクマ》、(熊(ノ)字、舊本に能と作るは誤なり、)佐《サ》は、眞熊野《マクマヌ》、御芳野《ミヨシヌ》など云|眞《マ》御《ミ》の言と同じ、檜乃熊《ヒノクマ》は、大和國高市(ノ)郡|檜隈《ヒノクマ》にて、二(ノ)卷に、皇太子(ノ)舎人等(カ)歌に、夢爾谷不見在之物鬱悒宮出毛爲鹿作日之隈回乎《イメニダニミザリシモノヲオホヽシクミヤデモスルカサヒノクマミヲ》、とある處に具(ク)註り、十二に、左檜隈檜隈河爾駐馬馬爾水令飲吾外將見《サヒノクマヒノクマガハニウマトヾメウマニミヅカヘアレヨソニミム》、○將縁言毳は、中山(ノ)嚴水云、コトヨセムカモ〔七字右○〕と訓べし、人に云さわかれむかの意なり、言將縁と有しを誤しか、又本のまゝにても、害なかるべし、略解に、ヨセイハムカモ〔七字右○〕と訓るはなづめり、○歌(ノ)意は、檜(ノ)隈川を渡る時、瀬の早きが故に、危かればとて、もし君が手を取て渡らば、其を人の見て、とかくいひさわかむか、さりとて又人に助《タスカ》り依(ラ)ずして、獨わたらむは危し、さても瀬の急き事哉、となり、
 
(364)1110 湯種蒔《ユタネマク》。荒木之小田矣《アラキノヲタヲ》。求跡《モトメムト》。足結出所沾《アユヒハヌレヌ》。此水之湍爾《コノカハノセニ》。
 
湯種蒔《ユタネマク》は、十五にも、安乎楊疑能延太伎里於呂之湯種蒔《アヲヤギノエダキリオロシユタネマキ》云々、とよめり、契冲、湯種と云るは、五百種《イホタネ》といふ心なり、湯津磐村《ユツイハムラ》も、五百津《イホツ》磐村なり、稻種にも、わせ、なかて、おくて等、おの/\さま/”\あれば、五百種《イホタネ》と云るなり、湯小竹《ユササ》湯津桂《ユツカツラ》などに、思ひ合すべし、と云り、(本居氏は、凡て韋《ヰ》とは、物に用る水の在る處を云て、田に水を引く溝をも云、今の世に、此を由《ユ》とも云は、韋《ヰ》と通ひて同じ、湯種《ユタネ》と云も、此(ノ)韋《ヰ》に漬置たる稻種なり、と云り、いかゞあらむ、)一説には、湯種は、齋種《ユタネ》なり、水口祭などしてまけば、いふなりと云り、等由氣宮儀式帳に、二所大神、御饌處御田、下立、先菅裁物忌|湯鍬《ユスキ》持、東(ニ)向耕佃|湯草《ユクサ》湯種《ユタネ》下(シ)始云々、とあるを考(ヘ)合(ス)べし、○荒木之小田《アラキノヲダ》は、(契冲、大和なり、第十六に、あらき田のしゝ田の稻ともよめり、神名帳に、大和(ノ)國宇智(ノ)郡荒木(ノ)神社、大あらきといふもこれなり、荒城氏を、大荒城と云ることあり、此歌、前後皆大和の名所をよみたれば、此(ノ)歌の荒木の小田同國なり、と知べしと云り、)今按(フ)に、地(ノ)名には非じ、此は墾田を云て、荒木は新掻《アラカキ》にやあらむ、(カキ〔二字右○〕の切はキ〔右○〕なり、)常に墾(ノ)字を、アラキバリ〔五字右○〕と訓も、新掻治《アラカキバリ》の謂なるべし、さて中山(ノ)嚴水、凡て苗を生(ズ)るには、稗草の生るを憂とすれば、もとよりの水田《ミナタ》は、草生やすげれば、新墾田を求て、それに種を蒔なるべし、と云るが如し、○足結出所沾は、本居氏、出(ノ)字を者に改て、アユヒハヌレヌと訓り、足結《アユヒ》は、十一に、朝戸出公足結乎潤露原《アサトデノキミガアユヒヲヌラスツユハラ》、十七(365)に、和可久佐能安由比多豆久利《ワカクサノアユヒタヅクリ》、などあり、雄略天皇(ノ)紀卷初に、大臣出2立(テ)庭(ニ)1索《コフ》2脚帶《アユヒヲ》1、時(ニ)大臣(ノ)妻持2來(テ)脚帶《アユヒヲ》1、愴矣傷懷而歌曰《カナシミテウタヒケラク》、飫瀰能古簸多倍能婆伽摩嗚那那陛嗚※[糸+施の旁]※[人偏+爾]播※[人偏+爾]陀陀始諦阿遙比那陀須暮《オミノコハタヘノハカマヲナナヘヲシニハニタタシテアヨヒナダスモ》、皇極天皇(ノ)紀に、野麻騰能飫斯能毘稜栖嗚倭※[手偏+施の旁]羅務騰阿庸比※[手偏+施の旁]豆矩梨擧始豆矩羅符母《ヤマトノオシノヒロセヲワタラムトアヨヒタヅクリコシヅクラフモ》、など見えたり、本居氏、足結《アユヒ》は、袴をかゝげて、其を膝のあたりなどにて、結固むる帶と聞えたり、行縢《ムカバキ》、脛巾《ハヾキ》などゝは異なる物ならむ、と云り、○水は、川なり、水(ノ)字カハ〔二字右○〕とよめること、書紀、集中などに例多し、既く云たる如し、○歌(ノ)意は、稻の五百種を蒔べき、新墾田《アラキダ》を求めむとて、此(ノ)川の瀬に、足給は沾ぬるよ、となり、今按(フ)に、此は父母の守れる、いつき娘を得むとて、かにかくせしを、見顯はされて障られしを、足結を沾せしに、比《タト》へたるなどにや、
 
1111 古毛《イニシヘモ》。如斯聞乍哉《カクキヽツヽヤ》。偲兼《シヌヒケム》。此古川之《コノフルカハノ》。清瀬之音矣《キヨキセノトヲ》。
 
偲兼《シヌヒケム》は賞《メデ》けむと云が如し、賞《メヅ》るを偲《シヌフ》と云こと、此(ノ)上に委(ク)説るが如し、○古河《フルカハ》は、初瀬にもあれど、石上《イソノカミ》の布留《フル》川なるべし、十二に、登能雲入雨零河之左射禮浪《トノグモリアメフルカハノサザレナミ》、又其(ノ)次に、云々|石上袖振河之將絶跡念倍也《イソノカミソデフルカハノタエムトモヘヤ》、などあると、同河なるべし、○歌(ノ)意は、古(ヘ)人も、今吾(ガ)かく慕ひて賞る如く、此(ノ)布留川の瀬の音を聞つゝ、心を清して賞つらむか、となり、
 
1112 波禰※[草冠/縵]《ハネカヅラ》。今爲妹乎《イマスルイモヲ》。浦若三《ウラワカミ》。去來率去河之《イザイザガハノ》。音之清左《オトノサヤケサ》。
 
波禰※[草冠/縵]《ハネカヅラ》は、四(ノ)卷に、葉根※[草冠/縵]今爲妹乎夢見而《ハネカヅライマスルイモヲイメニミテ》云々、とある歌に、具(ク)註せり、○浦若三《ウラワカミ》は、少女のさま(366)なり、裏若《ウラワカ》きが故に、其を愛みて、去來《イザ》と誘《イザナ》ふ意に云係たる序なり、十一に、波禰※[草冠/縵]今爲妹之浦若見咲見慍見著四靱解《ハネカヅライマスルイモガウラワカミヱミミイカリミツケシヒモトク》、とあり、○去來率去河《イザイザガハ》は、去來《イザ》は、序よりの連きに云るのみにて、率去河《イザカハ》なり、神名帳に、大和(ノ)國添上(ノ)郡率川(ニ)坐大神御子(ノ)神社三座、率川河波(ノ)神社、左馬寮式に、大和(ノ)國京南庄、并率川(ノ)庄云々、とある、其(ノ)地の河なり、大和志に、率川、源自2春日山紀伊(ノ)社1、遶2猿澤(ノ)池(ノ)南(ヲ)1、過2率川(ノ)社前(ヲ)1、至2奈良(ノ)西(ニ)1入2奈良川(ニ)1、とあり、○歌(ノ)意、本(ノ)句は序にて、率川の音の清けさかぎりしられずと、川を愛みて云るなり、
 
1113 此小川《コノヲガハ》。白氣結《キリタナビケリ》。瀧至《オチタギツ》。八信井上爾《ハシヰノウヘニ》。事上不爲友《コトアゲセネドモ》。
 
白氣結は、キリタナビケリ〔七字右○〕と訓べし、霧は、詩《カラウタ》にも、白霧と作りたるごとく、白氣なれば、義を得て書るなり、火氣《ケブリ》、丸雪《アラレ》などの類なり、結は鬱結の意にて書り、言は、古言のまゝにたなびけりと訓べきことなり、(しかるを、これをムスベル〔四字右○〕と訓るは、字に拘泥《カヽハレ》ることにて、大誤なり、此方にて、雲霧の類に、牟須夫《ムスブ》と云ことあることなし、)十五に、和我由惠仁妹奈氣久良之風早能宇良能於伎敝爾奇里多奈妣家利《ワガユヱニイモナゲクラシカザハヤノウラノオキヘニキリタナビケリ》、とあり、○瀧至(瀧(ノ)字、元暦本に流と作るはいかゞなり、)は、誤字あるべし、(至(ノ)字、訓難ければなり、略解に、タギチユク〔五字右○〕と訓たれども、いかゞなり)、故(レ)按(フ)に、至(ノ)字は、もと落とか墮とかありけむを、草書にて至に誤り、また落瀧とか、墮瀧とかありしが、倒置《イリマガヒ》たるにやあらむ、さらばオチタギツ〔五字右○〕と訓べきなり、此(ノ)下に、隕田寸津走井水之《オチタギツハシヰノミヅノ》、とあるを合(セ)思(フ)べ(367)し、又思ふに、至は、足の誤にて、タギチタル〔五字右○〕とありしにもあらむか、十卷に、瀬乎速見落當知足白浪爾《セヲハヤミオチタギリタルシラナミニ》、とあればなり、○八信井上爾は、ハシヰノウヘニ〔七字右○〕と訓べし、(これを昔來、ハシリヰノウヘニ〔八字右○〕と訓たれども、信(ノ)字、シリ〔二字右○〕の假字に用ひし例なし、信は、皆シ〔右○〕の假字にのみ用(ヒ)たり、集中を考(ヘ)合(ス)べし、此は必(ス)ハシヰ〔三字右○〕ならでは叶はず、此はおのが發明せるなり、)上に引如く、此(ノ)下に、走井《ハシヰ》とあるも同じ、(これをも、今の歌によりて、ハシヰ〔三字右○〕と訓べし、但し走(ノ)字を書たれば、なほハシリヰ〔四字右○〕ならむかと思はむ人の爲に、必(ス)ハシヰ〔三字右○〕なる證を引べし、四(ノ)卷に、宇都蝉之人目乎繁見石走間近君爾戀渡可聞《ウツセミノヒトメヲシゲミイハバシノマチカキキミニコヒワタルカモ》、十(ノ)卷に、石足間間生有貌花乃《イハバシノママニサキタルカホハナノ》、十一に、明日香川明日文將渡右走遠心者不思鴨《アスカガハアスモワタラムイハバシノトホキコヽロハオモホエヌカモ》、此(ノ)下に、年月毛未輕爾明日香川湍瀬由渡之石走無《トシツキモイマタヘナクニアスカガハセノユワタシシイハバシモナシ》、また橋立倉椅川石走者裳壯子我度爲石走者裳《ハシタテノクラハシガハノイハノハシハモヲサカリニワガワタセリシイハノハシハモ》、などある、此等みな、走はハシ〔二字右○〕とよむ外なければ、走井は、必ハシヰ〔三字右○〕なること、ゆめ疑ふべからず、)さて此の八信井《ハシヰ》は何所にまれ、此(ノ)小川とある其(ノ)川の中にて、走り流る井と云なり、(走り井と呼もの、逢坂にも、伊勢にもあれど、此は定りたる井(ノ)名には非ず、)かくて古(ヘ)凡て井と云しは、流水《ナガレ》にても、また穿《ホリ》まうけたるにても、清冷にして、人の飲料に汲用る處の水をいへりし稱なり、其(ノ)中にまづ流水の方に云るは、古事記安河御盟約(ノ)段に、各中(ニ)2置天安(ノ)河(ヲ)1而、宇氣布時《ウケフトキ》云々、振(リ)滌(キ)天(ノ)眞名井《マナヰニ》1而云々、(これ安河の中にて、最清冷にて、常に飲料に用ひし處をさして、井と云るなり、)此(ノ)下詠v井(ヲ)歌に、走井水《ハシヰノミヅ》、(上に引り、今と同じ、)九(ノ)卷那賀(ノ)郡曝井(ノ)歌に、三栗乃中(368)爾回有曝井之不絶將通彼所爾妻毛我《ミツクリノナカニメグレルサラシヰノヤエズカヨハムソコニツマモガ》、十六に、安積香山影副所見山井之淺心乎吾念莫國《アサカヤマカゲサヘミユルヤマノヰノアサキコヽロヲアガオモハナクニ》、此も山川の中の井を云べし、十四に、須受我禰乃波由馬宇馬夜能都追美井乃美蔀乎多麻倍那伊毛我多太手欲《スズガネノハユマウマヤノツツミヰノミツヲタマヘナイモガタダテヨ》、(この都追美井《ツツミヰ》は、流を包みかこひて漏失《モラ》さぬやうにしたる井なり、つゝむと云は、三(ノ)卷不盡山(ノ)歌に、石花海跡名付而有毛《セノウミトナヅケテアルモ》、彼山之堤有海曾《ソノヤマノツヽメルウミソ》云々、とあるつゝみにて、つゝみかこふよしなり、堤と云も則(チ)其(ノ)意の稱なり、略解に、つゝみ井のみは、そへ云辭にて、筒井なりと云るはたがへり、)これら正しく流水の中にて、さるべき處をさして井と云る證なり、又肥前(ノ)國風土記、基肄郡(ノ)條に、酒殿(ノ)泉、此(ノ)泉(ハ)之、季秋九月、始攣2白色(ニ)1、味酸氣臭、不v能2喫飲1、孟春正月、變而清冷、人始飲喫、因曰2酒井泉1、後人曰2酒殿泉(ト)1、とある、此も自《オ》の泉流を井と云るなり、さて又今(ノ)世の、常の掘まうけし方に云るは、此(ノ)下に、詠v井、安志妣成榮之君之穿之井之石井之水者雖飲不飽鴨《アシビナスサカヘシキミガホリシヰノイハヰノミヅハノメドアカヌカモ》、古事記火遠理(ノ)命の、海神(ノ)宮に往至《イデマシ》し條に、到2其(ノ)神(ノ)御門(ニ)1者、傍之井(ノ)上(ニ)有2湯津香木1云々、(此は掘まうけたるを云と云證は見えねど、何とかや、今世(ノ)の堀井戸めきてきこゆ、書紀には、此(ノ)條を、門(ノ)前(ニ)有2一井1、又一書には、門(ノ)前(ニ)有2好井1、井(ノ)上(ニ)云々とあるなども、全(ク)其(ノ)さまなり、)同記神武天皇(ノ)條に、從2其地1幸行者、生v尾人自v井出來、其井(ニ)有v光、爾問2汝者誰也(ト)1、答曰、僕者國(ノ)神、名(ハ)曰2井氷鹿(ト)1云々、これら掘設しを云りと聞ゆ、又一(ノ)卷に見えたる、藤原《フヂハラ》の御井之|清水《マシミヅ》、又|山邊乃御井《ヤマヘノミヰ》、山邊乃五十師乃御井《ヤマヘノイシノミヰ》と見ゆ、)九(ノ)卷に、勝牡鹿之眞間之井見者立平之水※[手偏+邑]家牟手兒名之所念《カヅシカノママノヰミレバタチナラシミヅクマシケムテコナシオモホユ》、などある(369)は、いかならむ、(流水にや、掘井戸にや、)今考(ヘ)難し、(これらみな、人の飲料の水なることは、疑ふことなし、しかるを田に沃する水をも、堰《ヰ》と云によりて、田に沃する方を主と云稱と思ふは誤なり、井と堰とは、同名にして異なる物なり、既く上にもいへり、已上井の説なり、)上《ウヘ》とは、其(ノ)邊を云ことなり、六(ノ)卷に、水莖之水城之上爾泣將拭《ミヅクキノミヅキノウヘニナミダノゴハム》、とある上《ウヘ》と同じ、○事上《コトアゲ》は、言擧《コトアゲ》にて、言語《コトノハ》に擧て、かにかくに云立るを云詞なり、○歌(ノ)意は、言擧したらばこを、其(ノ)氣吹《イブキ》に霧の立べきことなるを、言擧せねども、言あげせしごとく、此(ノ)小川に、霧のたなびけるよと云るなり、(略解に、神代紀に、天照大神、素盞嗚尊の十握劍をこひとり、三きだに打折天の眞名井にふりすゝぎて、吹うつるいぶきの狹霧に生ませる神のみ名を、田心姫といふ、と云ることのあれば、今も井の上に霧立るを見て、其(ノ)古事を思ひてよめるなりと云れど、さることをまで思てよめるには非じ、)霧は、人の嘆息《ナゲキ》、言擧《コトアゲ》などの氣より出て、立たなびくよし、古へ多くよみたれば、今もその意なり、五(ノ)卷に、大野山紀利多知和多流和何那宜久《オホヌヤマキリタチワタルワガナゲク》、於伎蘇乃可是爾紀利多知和多流《オキソノカゼニキリタチワタル》、とある歌の下に具(ク)註せるを、合(セ)見て考(フ)べし。
 
1114 吾?乎《アガヒモヲ》。妹手以而《イモガテモツテ》。結八川《ユフヤガハ》。又還見《マタカヘリミム》。萬代左右荷《ヨロヅヨマデニ》。
 
本二句は、結八川《ユフヤガハ》をいはむ料の序なり、凡て夫の?をば、其(ノ)婦の結びもし解もせし事、古(ヘ)の常のならひにて、其(ノ)意なる歌、集中に往々見えたり、一(ツ)二(ツ)いはゞ、三(ノ)卷に、粟路之野島之前乃濱風(370)爾《アハヂノヌシマノサキノハマカゼニ》、妹之結?吹返《イモガムスベルヒモフキカヘス》、九(ノ)卷に、吾妹兒之結手師紐乎將解八方《》、絶者絶十方直二相左右二《ワギモコガユヒテシヒモヲトカメヤモタエバタユトモタヾニアフマデニ》、十四に、筑紫奈留爾抱布兒由惠爾美知能久乃《ツクシナルニホフコユヱニミチノクノ》、可刀利乎登女乃由比思比毛等久《カトリヲトメノユヒシヒモトク》、十五に、比等里能未伎奴流許呂毛能比毛等加婆《ヒトリノミキヌルコロモノヒモトカバ》、多禮可毛由波牟伊敝杼保久之弖《タレカモユハムイヘドホクシテ》、廿(ノ)卷に、海原乎等保久和多里弖等之布等母《ウナハラヲトホクワタリテトシフトモ》、兒良我牟須敝流比毛等久奈由米《コラガムスベルヒモトクナユメ》、など、なほかぞへがたし、○結八川は、吉野にある川(ノ)名なり、元暦本に、ユフヤガハ〔五字右○〕とよめる、是然るべし、夫木集に、月草の縹の帶のゆふは山たえぬるつまを鹿や戀らむ、ゆふはと云は、後に訓誤れるなるべし、○歌(ノ)意は、結八川の水清潔く、風景のおもしろくして見あかねば、萬代までに、又還り來て、見つゝ愛《ウツクシ》まむといふなり、
 
1115 妹之紐《イモガヒモ》。結八川内乎《ユウヤカフチヲ》。古之《イニシヘノ》。并人見等《ヒトサヘミツヽ》。此乎誰知《コヽヲシヌヒキ》。
 
妹之紐《イモガヒモ》は、枕詞なり、右の歌に同じく、紐を妹が結《ユフ》とつゞけたり、○末(ノ)句は解難し、誤字あるべし、(略解に并人を淑人の誤とし、ヨキヒトミキトコヲタレカシル〔ヨキ〜右○〕とよみて、よき人見きと云傳ふれど、其(ノ)人を誰かよく知といふ意ならむか、と云れど、穩ならず、)故(レ)せめて思ひめぐらすに并人は人并とありけむを、例の倒置《オキタガヘ》たるならむ、等は管(ノ)字の誤、誰知は、偲吉などありけむを、草書にて寫誤つらむ、さらば人并見管此乎偲吉にて、ヒトサヘミツヽコヽヲシヌヒキ〔ヒト〜右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は結八川のめぐれる地の、風景のおもしろきを愛《ウツクシ》むことは、今にはじまれる(371)ことにあらず、往古ありし人まで、此地を見つゝ賞《メデ》しことなれば、今見るにあかず思はるゝ
は、げにもことわりなりとなるべし、一(ノ)卷に、淑人乃良跡吉見而好常言師《ヨキヒトノヨシトヨクミテヨシトイヒシ》、芳野吉見與良人四來三《ヨシヌヨクミヨヨキヒトヨクミ》、九(ノ)卷に、古之賢人之遊兼《イニシヘノサカシキヒトノアソビケム》、吉野川原雖見不飽鴨《ヨシヌノカハラミレドアカヌカモ》、など見えて、すべて古人の、吉野の地を愛しよし、かた/”\あり、
 
詠《ヨメル》v露《ツユヲ》。
 
1116 烏玉之《ヌバタマノ》。吾黒髪爾《アガクロカミニ》。落名積《フリナヅム》。天之露霜《アメノツユシモ》。取者消乍《トレバケニツヽ》。
 
落名積《フリナヅム》は、降滯る意にて、露霜の置積れるよしなり、○露霜のことは、二卷(ノ)上に云り、○取者消乍は、トレバケニツヽ〔七字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、吾(ガ)黒髪の上に降滯れる露霜の、玉にも似たるを、思ふ人に見せむと思ひて、手に取ば即(チ)消去つゝ、せむ方なしと云なるべし、
 
詠《ヨメル》v花《ハナヲ》。
 
1117 島廻爲等《シマミスト》。磯爾見之花《イソニミシハナ》。風吹而《カゼフキテ》。波者雖縁《ナミハヨストモ》。不取不止《トラズバヤマジ》。
 
島廻爲等《シマミスト》は、島廻りするとての意なり、島廻は、六(ノ)卷に、玉藻苅辛荷乃島爾島廻爲流水烏二四毛有哉家不念有六《タマモカルカラニノシマニシマミスルウニシモアレヤイヘモハザラム》、とある歌に具(ク)註せりき、○歌(ノ)意は、島廻するとて、ふと磯邊にある花のめでたきに(目の著たる、そのうるはしさに、たとひ風荒く吹て浪は高く縁(ス)とも、いかでか取ずしては止べきと云るにて、目につきたる女の、たとひさはり多くて、逢がたくとも、遂にあは(372)ずしては止まじき、と云意の譬喩歌なり、
 
詠《ヨメル》v葉《ハヲ》。
 
1118 古爾《イニシヘニ》。有險人母《アリケムヒトモ》。如吾等架《アガゴトカ》。彌和乃檜原爾《ミワノヒハラニ》。挿頭折兼《カザシヲリケム》。
 
折(ノ)字、舊本に※[手偏+刀]と作るは誤なり、○歌(ノ)意は、古人も、吾(ガ)今手折如くに、三輪の檜原に、挿頭を折けむかとなり、
 
1119 往川之《ユクカハノ》。過去人之《スギニシヒトノ》。手不折者《タヲラネバ》。裏觸立《ウラブレタテリ》。三和之檜原者《ミワノヒハラハ》。
 
往川之《ユクカハノ》は、過去しといはむための枕詞なり、○過去人《スギニシヒト》とは、過去し古人といふなり、○裏觸立《ウラブレタテリ》は、物思はしくしほたれてたてり、と云意なり、○歌(ノ)意は、前の歌に、わが如くに、挿領折けむかと問やうによみて、いかにもいにしへの心ある人は、挿頭に折て愛しならむ、しかるに、その古人は過去て、今はさる人なくなりしより、愛て手折ることもなし、されば物思はしく、しほたれてたてるも、うべなりと、自(ラ)答ふるやうによめるなり、
〔右二首。柿本朝臣人麿之歌集出。〕
 
詠《ヨメル》v蘿《コケヲ》。
 
1120 三芳野之《ミヨシヌノ》。青根峯之《アヲネガタケノ》。蘿席《コケムシロ》。誰將織《タレカオリケム》。經緯無二《タテヌキナシニ》。
 
青根我峯は、アヲネガガタケ〔六字右○〕と訓べし、吉野にありて、今も青根が嶽と呼《イフ》とぞ、○蘿席《コケムシロ》は、苔の生《ムシ》(373)延たるを、席に見なしてよめり、○經緯無二《タテヌキナシニ》、(ノ)八卷大津(ノ)皇子(ノ)御歌に、經毛無緯毛不定未通女等之《タテモナクヌキモサダメズヲトメラガ》、織黄葉爾霜莫零《オルモミチバニシモナフリソネ》、とあるに同じ、○歌(ノ)意は、吉野の青根が嶽の苔席《コケムシロ》の美麗《ウツク》しきを見れば、經も緯もなきに、誰かかやうにあやしく織なしけむぞとなり、
 
詠《ヨメル》v草《クサヲ》。
 
1121 妹所等《イモガリト》。我通路《アガユクミチノ》。細竹爲酢寸《シヌススキ》。我通《アレシカヨハヾ》。靡細竹原《ナビケシヌハラ》。
 
我通路は、アガユクミチノ〔七字右○〕と訓べし、八(ノ)卷に、妹許等吾去道乃河有者《イモガリトアガユクミチノカハナレバ》云々、とあり、(ワガカヨヒヂノ〔七字右○〕と訓ては、體言となれば、妹所等《イモガリト》と云よりの連わろし、字に泥ずして、訓べくおぼゆ、十三に、有登聞而《アリトキヽテ》吾通道之|奥十山《オキソヤマ》、とあるも、アガユクミチノ〔七字右○〕と訓べくおぼゆ、○細竹爲酎寸《シヌススキ》は、今云|篠芒《シノカヤ》のことなり、○細竹原《シヌハラ》と云るは、爲酎寸《ススキ》を上にゆづりて省けるなり、細竹芒原《シヌスキハラ》の意なり、○歌(ノ)意は、妹が許へと、我行通ふ道のしのすゝきよ、心あらば、我(ガ)通ふ時は靡き伏て、安く通らしめよとなり、
 
詠《ヨメル》v鳥《トリヲ》。
 
1122 山際爾《ヤマノマニ》。渡秋沙乃《ワタルアキサノ》。往將居《ユキテヰム》。其河瀬爾《ソノカハノセニ》。浪立勿湯目《ナミタツナユメ》。
 
秋沙《アキサ》は、鳥(ノ)名にて、品物解に云り、○歌(ノ)意は、常に山際にかよひ渡りて棲、その秋沙の往て著居て、求食《アサリ》せむとするに、もし浪荒く發《タヽ》ば、その河瀬に居(ル)に堪ずして飛去ば、興なからむと思ふ(374)ぞ、ゆめ/\浪荒く發ことなかれとなり、
 
1123 佐保河之《サホガハノ》。清河原爾《キヨキカハラニ》。鳴知鳥《ナクチドリ》。河津跡二《カハヅトフタツ》。忘金都毛《ワスレカネツモ》。
 
歌(ノ)意は、佐保川の清(キ)川原のけしきのおもしろきに、まして千鳥の聲も蝦《カハヅ》の音も、共に賞たくして、忘れむとしても忘られず、常に思はるゝとなり、千鳥も蝦も、殊に佐保河に名あるものなれば、かくよめり、(しかるを河津は、蝦に非ず、字の如く河津にて、千鳥の聲と其處のけしきと、二(ツ)なりと云説はたがへり、そは題詞に、詠鳥とあるに泥めるならむ、此(ノ)集などには、後(ノ)世の如く、題に就て歌よむやうのことはなし、題詞は、歌につきて後に記せるものなれば、こゝもその一方につきて、詠v鳥とは題《カケ》るにこそあれ、そのうへ六(ノ)卷にも、芳野河之上邊者千鳥數鳴下邊者河津都麻喚《ヨシヌノカハノカミヘニハチドリシバナキシモヘニハカハヅツマヨブ》云々、と見えて千鳥と蝦とを、一首の中によみ合せたる例あるをも思へ、)此(ノ)河に千鳥をよめるは、集中に、千鳥鳴佐保之河瀬《チドリナクサホノカハセ》、などゝよめるをはじめて、最多ぐ見え、蝦をよめるは、六(ノ)卷に、不所念來座君乎佐保川乃《オモホエズキマセルキミヲサホガハノ》、河蝦不令聞還都流香聞《カハヅキカセズカヘシツルカモ》、などあり、
 
1124 佐保河爾《サホガハニ》。小驟千鳥《サヲドルチドリ》。夜三更而《ヨグタチテ》。爾音聞者《ナガコヱキケバ》。宿不難爾《イネカテナクニ》。
 
小驟は、中山(ノ)嚴水、此をアソブ〔三字右○〕とよみたるはいかゞ、サヲドル〔四字右○〕と訓べきにや、サヲドル〔四字右○〕は雉《キヾシ》によみて、千鳥には例なけれど、しかよむまじきにもあらず、漢土にては、雀躍などいへることも有をや、字書に、小(シ)疾(ヲ)曰v驟(ト)、とあれば、躍(ノ)義にも近しといへり、(今按(フ)に、アソブ〔三字右○〕と訓むよりは、サ(375)ヲドル〔四字右○〕とよめるげに勝れり、但し小(ノ)字を、サ〔右○〕に當たりと思はむは、いと後(ノ)世意なり、小夜、小衣など書て、サヨ、サゴロモ〔六字右○〕など、訓こと、後(ノ)世にこそあれ、古(ヘ)にはかつてなきことなり、されば小驟と書るは、少《スコ》しく驟《サワ》ぐ意にて書る字か、大驟は奔る意なれば、小(シク)驟は躍る意なるべきか、いかにまれ小(ノ)字は、サ〔右○〕と訓せむが爲にはあらず、思ひ紛ふべからず、)○夜三更而は、ヨグタチテ〔五字右○〕と訓べし、十九に、夜裏聞2千鳥喧1歌とて、夜具多知爾寢覺而居者河瀬尋《ヨグタチニネサメテヲレバカハセトメ》、情毛之奴爾鳴千鳥賀毛《コヽロモシヌニナクチドリカモ》、夜降而鳴河波知登里宇倍之許曾《ヨクダチテナクカハチドリウベシコソ》、昔人母之奴比來爾家禮《ムカシノヒトモシヌヒキニケレ》、などあり、○宿不難爾《イネカテナクニ》は、不《ナク》は添たる辭にて難《カネ》v寐《イネ》にと云むが如し、得寐入ぬことなるに、と云が如し、○歌(ノ)意は、佐保川に鳴千鳥よ、夜更て汝が聲を聞ば、あはれをもよほされて、吾も寐入(ラ)れぬを、しかばかり、鳴ことなかれとなり、
 
思《シヌフ》2故郷《フルサトヲ》1。
 
1125 清湍爾《キヨキセニ》。千鳥妻喚《チドリツマヨビ》。山際爾《ヤマノマニ》。霞立良武《カスミタツラム》。甘南備乃里《カムナビノサト》
 
清湍《キヨキセ》は、飛鳥河のなり、○妻喚は、ツマヨビ〔四字右○〕と訓べし、(ツマヨブ〔四字右○〕、と絶てよむは、わろし、)清き河瀬には、千鳥の妻呼聲し、山(ノ)際には、霞の立らむと思ひやる意なり、○甘南備乃里《カムナビノサト》は、即(チ)飛鳥(ノ)里なるべし、○歌(ノ)意は、甘南備の里は、清き河瀬には、千鳥の妻呼聲し、山(ノ)際には、霞の立て、此(ノ)頃はいと興まさりて、おもしろからむ、と思ひやらるゝぞとなり、
 
(376)1126 年月毛《トシツキモ》。未經爾《イマダヘナクニ》。明日香河《アスカガハ》。湍瀬由渡之《セセユワタシシ》。石走無《イハバシモナシ》。
 
石走《イハバシ》は、石橋《イハハシ》にて、河瀬に蹈渡るべぐ石を並べ置るを云、○歌(ノ)意は、飛鳥の里の故郷となりてより此(ノ)かた、未(タ)幾許の年月も經ざるに、はやかの河瀬に渡せりし石橋もなく、今は荒はてゝ、たやすく通ふことも叶はねば、いとゞ彼地《ソノトコロ》のありし世のことの、思はるゝとなるべし、
 
詠《ヨメル》v井《ヰヲ》。
 
1127 隕田寸津《オチタギツ》。走井水之《ハシヰノミヅノ》。清有者《キヨクアレバ》。度者吾者《ワタラフアレハ》。去不勝可聞《ユキカテヌカモ》。
 
走井は、ハシヰ〔三字右○〕とよむべし、(ハシリヰ〔四字右○〕と訓はわろし、(此(ノ)上に八信井上爾《ハシヰノウヘニ》、とあるによるべし、猶其處に具(ク)註るを、合(セ)考(フ)べし、○度者吾者(度(ノ)字、元暦本に廢と作るは誤なり、)は、思ふに、度の下者(ノ)字は、布の誤にて、ワタラフアレハ〔七字右○〕なるべし、(ワタリハ〔四字右○〕とありては通《キコ》え難し、)ワタラフ〔四字右○〕は、ワタル〔三字右○〕の伸りたる言なり、(ラフ〔二字右○〕の切ル〔右○〕なり、)○歌(ノ)意は、落(チ)激《タギ》り行走井の水の、最|清冷《キヨ》かるが故に、其《ソコ》にめでゝ、其(ノ)流を渡居る吾は、渡りはつるが惜くて、過がてにする哉、さても清(キ)流やと云り、
 
1128 安志妣成《アシビナス》。榮之君之《サカエシキミガ》。穿之井之《ホリシヰノ》。石井之水者《イハヰノミヅハ》。雖飲不飽鴨《ノメドアカヌカモ》。
 
安志妣成《アシビナス》は、枕詞なり、馬醉(ノ)花の如く、榮えしとつゞくなり、○榮之君《サカエシキミ》とは、さす人ありていへるなるべし、榮とは、もと咲榮ゆるを云ことにて、常に莞爾《ニコ/\》と咲貌にてあるをいふことなり、繁く昌《サカリ》なる方を云(フ)も、もと繁昌なるは、人の歡て吠《ヱム》ことなれば云なり、さればこゝは、馬醉花(377)の開たる如くに、咲設て美しき君、といふなるべし、○歌(ノ)意は、水こそ多なる中に、咲榮えし君が穿設けし石井の水は、清冷にして、酌て飲ども/\、さても足ことのなき事哉となり、
 
詠《ヨメル》2和琴《ヤマトコトヲ》1。
 
和(ノ)字、古寫一本、目録には、倭と作り、
 
1129 琴取者《コトトレバ》。嘆先立《ナゲキサキダツ》。蓋毛《ケダシクモ》。琴之下樋爾《コトノシタヒニ》。嬬哉匿有《ツマヤコモレル》。
 
蓋毛《ケダシモ》は、若《モシ》もと云に同じ、○下樋《シタヒ》は、琴の腹なり、樋の如くに作れゝばかく云り、○匿有は、コモレル〔四字右○〕とよむべし、○歌(ノ)意は琴をとれば、先(ツ)嘆の先(キ)だつなるは、若(シ)や琴の下樋の中に、わが思ふ妻の隱れる故ならむとなり、琴の音に感て、嘆かるゝと云ことは、十八にも、和我勢古我許登等流奈倍爾都禰比登能《ワガセコガコトトルナベニツネヒトノ》、伊布奈宜吉思毛伊夜之伎麻須毛《イフナゲキシモイヤシキマスモ》、古今集に、わび人の住べきやどゝ見るなべに嘆きくはるゝ琴の音ぞする、などよめるに同じ、
 
芳野作《ヨシヌニテヨメル》。
 
1130 神左振《カムサブル》。磐根己凝敷《イハネコゴシキ》。三芳野之《ミヨシヌノ》。水分山乎《ミクマリヤマヲ》。見者悲毛《ミレバカナシモ》。
 
水分山《ミクマリヤマ》は、神名帳に、吉野水分(ノ)神社、(大、月次、新甞、)祈年祭祝詞に、水分(ニ)坐|皇神等能前爾白久《スメカミタチノマヘニマヲサク》、吉野宇陀都祁葛木登御名者白?《ヨシヌウダツゲカツラギトミナハマヲシテ》云々、とある、其(ノ)地の山なり、古事記に、天之水分(ノ)神(訓v分(ヲ)云2久麻里《クマリ》1、)と見ゆ、○悲毛《カナシモ》は、悲《カナシ》とは、哀傷《イタ》むにも、戀慕《コヒシタフ》るにも云詞なれど、こゝは憐愛《オモシロミ》して云るなり、六卷(378)に、烏玉乃夜霧立而不清《ヌバタマノヨギリノタチテオホヽシク》、照有月夜乃見者悲沙《テレルツクヨノミレバカナシサ》、古今集に、陸奥は何處はあれど鹽竈の浦※[手偏+旁]船の綱手悲も、などある、皆同じ、毛《モ》は歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、神々しく物ふりて、磐根の凝重る、吉野の水分山を見れば、見るが中にも、さても、おもしろやとなり、
 
1131 皆人之《ヒトミナノ》。戀三吉野《コフルミヨシヌ》。今日見者《ケフミレバ》。諾母戀來《ウベモコヒケリ》。山川清見《ヤマカハキヨミ》。
 
皆人は、人皆とありしを倒置《オキタガヘ》たるにこそ、其(ノ)説既く二(ノ)卷に具(ク)云り、○歌(ノ)意は、世(ノ)人皆の戀しがりて見まほしくする、吉野山を今日見れば、その山も川も、高く清くて、見るにあかずおもしろければ、げにも人皆の戀しかりけるは、ことわりなりとなり、
 
1132 夢乃和太《イメノワダ》。事西在來《コトニシアリケリ》。寤毛《ウツヽニモ》。見而來物乎《ミテコシモノヲ》。念四念者《オモヒシモヘバ》。
 
夢乃和多《イメノワダ》は、三(ノ)卷帥大伴(ノ)卿(ノ)歌に見えて、彼處に云り、○事西《コトニシ》は、言になり、西《ニシ》といへるは、そのさだかにしかる意をきかせたる辭なり、○歌(ノ)意は、夢の和太《ワダ》と云は、たゞ夢にのみ見る所かと思ひしに、かく現に行て見て來しものを、今つく/”\思ひかへせば、夢と云名は、たゞ詞のみの事にてこそありけれと云ならむ、(尾句は、今つく/”\思ひ思へば、と云なるべし、其に四《シ》の言をくはへて、一すぢに思ひかへす意をしめせるなり、舊説には、此を、夢の和太を見むとだに思ひし思へば、と云意にとれりいかゞ、)
 
1133 皇祖神之《スメロキノ》。神宮人《カミノミヤヒト》。冬薯預葛《トコロヅラ》。彌常數爾《イヤトコシクニ》。吾反將見《アレカヘリミム》。
 
(379)皇祖神は、スメロキ〔四字右○〕と訓べし、先《サキツ》御代の、天皇等を申す詞なり、○神宮人《カミノミヤヒト》は、則(チ)御代御代、仕(ヘ)來し宮人を云り、○冬薯蕷葛は、トコロヅラ〔五字右○〕と訓べし、田中(ノ)道麻呂、冬薯蕷をマサキヅラ〔五字右○〕とするは心得ず、マサキ〔三字右○〕は冬薯蕷と云べき由なし、六帖に、此(ノ)歌をマサキヅラ〔五字右○〕とあるは、冬薯蕷の訓をつくべきやうを知ざりしから、妄に然訓て取たるものなり、冬薯蕷は野老《トコロ》なり、其(ノ)故は、野老は、葉も葛《ツル》も薯蕷《ヤマツイモ》に甚よく似て、まぎるばかりの物なり、さて薯蕷は、十月の初ごろまで葛ありて、其(ノ)後は枯る物なるを、野老は、大方は薯蕷と同ころ枯るれども、物の陰などにあるは、冬も葉青くて、春までも殘るもある物なれば、まことに冬薯蕷と云つべし、イヤトコシクニ〔七字右○〕とつゞけたるは、登許《トコ》てふ言を重ねたるにもあるべく、又常葉なる故にもあるべし、九(ノ)卷に、冬薯蕷|尋去《トメユキ》とつゞけるは、此(ノ)物、葛を尋行て、根を掘ればなりと云り、(已上古事記傳廿九に引り、此(ノ)説によるべし、舊訓にサネカヅラ〔五字右○〕とあるは、さらに由なし、)猶品物解にも云り、○歌(ノ)意は、先《サキツ》御代御代の天皇等に、仕(ヘ)來し宮人に繼て、吾も彌常重《イヤトコシク》に絶ず、此(ノ)吉野に御供つかへまつりて、いくたびも反り來て、見つゝ愛まむとなるべし、
 
1134 能野川《ヨシヌガハ》。石迹柏等《イハトカシハト》。時齒成《トキハナス》。吾者通《アレハカヨハム》。萬世左右二《ヨロヅヨマデニ》。
 
石迹柏等《イハトカシハト》は、本居氏、石《イハ》、迹|柏《カシハ》は、石常磐《イハトコシハ》なり、堅磐をカタシハ〔四字右○〕と云例なり、イハ〔二字右○〕をシハ〔二字右○〕と云は、稻(ノ)をシネ〔二字右○〕と云に同じと云り、(舊説には、景行天皇(ノ)紀に、天皇初(メ)將v討v賊(ヲ)、次2于|柏峽《カシハヲノ》大野(ニ)1、其野有v石、長(380)六尺廣三尺厚一尺五寸、天皇|祈之曰《ウケヒタマハク》、朕(レ)得v滅2土蛛蜘(ヲ)1者、將2將蹶《フマムニ》茲(ノ)石(ヲ)1、如2柏葉(ノ)1而擧焉、因|蹶之則《フミタマヒシカバ》如v柏(ノ)上(リキ)2於大虚1、故(レ)號2其石1曰2蹶石1也、とあるを引て、石迹柏は、石の名なりと云れと非じ、)さればコ〔右○〕を通はして、カ〔右○〕といへるなり、然るに迹柏を常磐の意とせむに、上の石は無用にて、今の意よりおもへば、いかゞしきやうなれど、國乃八十國《クニノヤソクニ》、島乃八十島《シマノヤソシマ》など云る類に、石之常磐《イハノトコシハ》と云義にいへる、古言なるべし、等《ト》は與《ト》なり、さて石の常磐與共にの意なり、○時齒成《トキハナス》は、常磐の如に、常に吾は通はむと云意に、つゞけたるなるべし、さてこの常磐如《トキハナス》といへるは、たゞ常に吾は通はむ、と云につゞけむのみにて、上の迹柏と云るにはあづからざる言なるべし、されば石常磐《イハトカシハ》と共に、いつまでもかはらず、平安くて常に通はむ、と云意なるを、調(ヘ)のために云るのみなれば、たゞ此(ノ)言は、常にと云に心得てあるべし、十四に、於吉爾須毛乎加母乃母己呂《オキニスモヲカモノモコロ》、也左可杼利伊伎豆久伊毛乎《ヤサカドリイキヅクイモヲ》云々、とあるも、小鴨の如《モコロ》にて言足れるを、息衝をいはむためのみに、八尺鳥《ヤサカドリ》と云たる、似たることなり、○歌(ノ)意は、石の常磐と共に、いつもかはらず、平安《サキ》くて常に通ひ來て、此(ノ)吉野川の勝景を、吾は愛《ウツクシ》まむとなり、
 
山背作《ヤマシロニテヨメル》。
 
1135 氏河齒《ウヂカハハ》。與杼湍無之《ヨドセナカラシ》。阿自呂人《アジロヒト》。舟召音《フネヨバフコヱ》。越乞所聞《ヲチコチキコユ》。
 
與杼湍無之《ヨドセナカラシ》は、河瀬の中に、水の淀む處を、淀瀬と云なるべし網代かまふるに、宜き淀瀬のな(381)き故にあるらし、と思ひやれるなり、さて無の下に、有(ノ)字の落たるにやと契冲云り、さもあるべし、○阿自呂人《アジロヒト》は、網代をかまへおく人を云り、宇治にて氷魚を取む料に、河中に網代を構へて、よな/\かゞりを燒て、彼(ノ)網代を守りて、氷魚をよらせて、くみとることなり、大抵氷魚は、九月より十二月までとる物と見えたり、正親内膳式に、山城(ノ)國近江(ノ)國、氷魚(ノ)網代各一處、其(ノ)氷魚、始2九月(ヨリ)1迄2十二月三十日1貢之、と見ゆ、(山城(ノ)國とあるは、今の宇治河、近江(ノ)國とあるは、田上川なり、異所にもあれど、此(ノ)二所ぞ、ことに氷魚に名のある所なりける、)○歌(ノ)意は、網代を構ふる人の舟を呼(フ)音の、かなた此方に聞ゆるは、宇治川に網代かまふるに、宜き淀瀬のなきゆゑにやあるらしと云るなるべし、
 
1136 氏河爾《ウヂカハニ》。生菅藻乎《オフルスガモヲ》。河早《カハハヤミ》。不取來爾家里《トラズキニケリ》。裹爲益緒《ツトニセマシヲ》。
 
菅藻《スガモ》は、契冲、菅の葉に似て、宇治川に生るものなり、食ふ物なりと云り、○裹爲益緒《ツトニセマシヲ》、契冲、裹はつゝむ心なり、俗に、わらなどに物をつゝみて、上下をくゝりたるを、つとゝいふ、さるものを人におくるゆゑに、つとにせましをとは云り、(已上契冲説なり、つとは、つゝむ心なりと云るは言足はず、)都刀《ツト》は、裹物《ツヽミモノ》と云言の縮れるものなり、既く具(ク)云り、○歌(ノ)意は、氏河に生たる菅藻をとりて、裹物《ツト》にして、思ふ人の許に贈遣さましものを、河(ノ)流が急き故に、下(リ)たちて採ことを得せずして、空しく過來にけるが、口をしき事となり、
 
(382)1137 氏人之《ウヂヒトノ》。譬乃足白《タトヒノアジロ》。吾在者《キミシアラバ》。今齒王良増《イマハヨラマシ》。木積不來友《コツナラズトモ》。
 
初一二(ノ)句は、契冲、譬は、宇治にすむ人は、物の盛衰を、所につけたる網代にたとへて、云なるべしと云り、さらば宇治人の、常に物の譬喩《タトヘ》にとりていふ、その宇治川の網代と謂(フ)か、されど猶有べくもおぼゆ、○吾在者は、吾は君の誤りなるべし、と本居氏云り、さもあるべし、さて此《コヽ》をば、キミシアラバ〔六字右○〕と訓べし、○王良増は、王(ノ)字、(一本に生と作り、其も誤なり、)與の誤なりと云り、さらばヨラマシ〔四字右○〕と訓べし、○木積不來友は、來は成の誤なり、コツナラズトモ〔七字右○〕と訓べし、木積は木屑なり、十一に、冷風之千江之浦回乃木積成《アキカゼノチエノウラミノコツミナス》、心者依後者雖不知《コヽロハヨリヌノチハシラネド》、十九に、宇能花乎令腐霖雨之始水逝《ウノハナヲクタスナガメノミヅハナニ》、縁木積成將因兒毛我母《ヨルコツミナスヨラムコモガモ》、廿(ノ)卷に、獨見2江水(ニ)浮漂糞《ウカベルコツミヲ》1、怨2恨貝玉(ノ)不1v依作歌、(契冲云、糞の上に、木の字をおとせるなるべし、糞はあくたなり、木(ノ)字なくては通漫なり、)保理江欲利安佐之保美知爾與流許都美《ホリエヲリアサシホミチニヨルコツミ》、可比爾安里世婆都刀爾勢麻之乎《カヒニアリセバツトニセマシヲ》、などあり、許都《コツ》と云るは、十四に、奈流世呂爾木都能余須奈須伊等能伎提《ナルセロニコツノヨスナスイトノキテ》、可奈思家世呂爾比等佐敝余須母《カナシケセロニヒトサヘヨスモ》、とあり、○歌(ノ)意は、宇治の里人が、事とあるときは、動《ヤヽモ》すれば物の譬喩《タトヘ》にとりて、かにかくにいふなる、その宇治川の網代を守る人の中に、君が在そならば、木積ならぬ吾も、譬へば木積の如くに、その網代木を慕ひて、今は依かゝらましと、一(ト)すぢに思へる謂ならむ、
 
1138 氏河乎《ウヂカハヲ》。船令渡呼跡《フネワタセヲト》。雖喚《ヨバヘドモ》。不所聞有之《キコエザルラシ》。※[楫+戈]音毛不爲《カヂノトモセズ》。
 
(383)船令渡呼跡《フネフタセヲト》は、呼《ヲ》は呼(ブ)聲なり、余《ヨ》と云むが如し、十(ノ)卷に、渡守船度世乎跡呼音之《ワタリモリフネワタセヲトヨブコエノ》、不至者疑梶之聲不爲《イタラネバカモカヂノオトセヌ》、とあるに同じ、○歌(ノ)意は、宇治川の渡守、早く船を渡してよ渡してよと、聲を揚て呼べども、彼方の岸に至りて聞えずあるらし、船漕來る※[楫+戈]の音もせずとなり、
 
1139 千早人《チハヤビト》。氏川浪乎《ウヂカハナミヲ》。清可毛《キヨミカモ》。旅去人之《タビユクヒトノ》。立難爲《タチカテニスル》。
 
千早人《チハヤビト》は、枕詞なり、ちはやぶる宇治、とつゞくるに同じ、千早人は、激速《チハヤ》ぶる人といふ意なり、既く云り、○立難爲《タチカテニスル》は、其處を立去難くする意なり、古今集に、けふのみと春を思はぬ時だにもたつことやすき花の陰かは、此(ノ)立ことやすき花の陰かはと云るに、同じこゝろなり、と契冲云り、○歌(ノ)意は、宇治川浪の清きが故に、其(ノ)川のけはひに愛《メデ》てや、旅行人も、其(ノ)宇治川の邊を、立去難くするならしとなり、
   
攝津作《ツノクニニテヨメル》。
 
1140 志長鳥《シナガトリ》。居名野乎來者《ヰナヌヲクレバ》。有間山《アリマヤマ》。夕霧立《ユウギリタチヌ》。宿者無爲《ヤドハナクシテ》。
 
志長鳥《シナガトリ》は、枕詞なり、此(ノ)下にも又十一にも、此(ノ)つゞけ見えて、次に引る如し、拾遺集神樂歌にも、階香取《シナカトリ》ゐなの伏原飛渡るしぎの羽音面白さ哉、とあり、此はまづ志長《シナガ》鳥は、尻長《シナガ》鳥にて、鴨の種類《タグヒ》に尾の長きがあるを、今(ノ)世に尾長《ヲナガ》と呼《イヘ》り、其をいふにやあらむ、さて尾《ヲ》と尻《シリ》とは異物なれば、尾(ノ)長を、尻長《シナガ》とはいふべからぬごとくなれど、古事記上卷に、爲2神之|御尾前《ミヲサキト》1而仕奉者、と(384)ある尾前《ヲサキ》は、後前《シリヘマヘ》といふに同じければ、(後前《シリヘマヘ》は、尻方目方《シリヘマヘ》なり、)尾《ヲ》といふと、尻《シリ》といふと、通(ハ)しても云りと見ゆ、(尻《シリ》をシ〔右○〕とのみ云は、顯昭古今集註に、舟のともの方につけたる舟棚を、したなと云、尻棚なりとあり、又|尻鞘《シサヤ》、尻居《シスヱ》、尻切《シキレ》などいふ、此(レ)其(ノ)例なり、)さてその尾長《ヲナガ》の鴨は、雌雄《メヲ》いと親ましくして、かならず率《ヰ》て雙びゐるものなれば、率雙《ヰナミ》といふ意に、居名《ヰナ》てふ地に云繋たるなるべし、集中に、水鴨成二人雙居《ミカモナスフタリナラビヰ》、ともよめるを、思(ヒ)合(ス)べし、○居名野《ヰナヌ》は、契冲、神名帳に、攝津(ノ)國豐島(ノ)郡|爲那都比古《ヰナツヒコノ》神社二座、これによれば、豐島(ノ)郡の内と見えたり、和名抄に、河邊(ノ)郡|爲奈《ヰナ》、これは相違へり、兩郡相並びてわたれるかと云り、三(ノ)卷に、吾妹兒二猪名野者令見都名次山《ワギモコニヰナヌハミセツナスキヤマ》、角松原何時可將示《ツヌノマツバライツカシメサム》、此(ノ)下に四長鳥居名之湖《シナガトリヰナノミナト》、十一に、四長鳥居名山《シナガトリヰナヤマ》、十六に、猪名川《ヰナカハ》などよめる、みな同地なり、左馬寮式に、攝津(ノ)國爲奈野(ノ)牧(右寮)とあり、(○舊本に、一本云、猪名乃浦廻乎※[手偏+旁]來者と註せり、是は宿者無爲とあるに叶がたければ、用(フ)べからず、)○有間山《アリマヤマ》は、攝津(ノ)國有馬(ノ)郡の山なり、三(ノ)卷に出づ、○歌(ノ)意は、居名野を過て來れば、日も碁に及びて心ぼそきに、旅宿すべき家はなくして、有間山は夕霧さへいぶせく立覆て、いとゞわびしく思はるゝよとなり、
 
1141 武庫河《ムコノカハ》。水尾急嘉《ミヲヽハヤミト》。赤駒《アカコマノ》。足何久激《アガクタギチニ》。沾祁流鴨《ヌレニケルカモ》。
 
武庫河《ムコノカハ》は、攝津(ノ)國武庫(ノ)郡にある河なり、○水尾急嘉、(此(ノ)句本のまゝにてミヅヲハヤミカ〔七字右○〕とよみては、調ひがたし、)今按(フ)に、嘉は三等二字の草書を誤りたるか、草書は混ふまじきに非ず、さ(385)らばミヲヽハヤミト〔七字右○〕と訓べし、水脉の早きが故にの意なり、跡《ト》の言は、輕く添云例なり、恐見跡《カシコミト》など云|跡《ト》に同じ、○足何久激は、アガクタギチニ〔七字右○〕と訓べし、(激をソヽギ〔三字右○〕と訓は、大《イミ》じき非なり、九(ノ)卷に、河瀬激乎見者《カハノセノタギツヲミレバ》、ともあり、○歌(ノ)意は、武庫の河の、水脉《ミヅスヂ》の流の急《ハヤ》きが故に、吾(ガ)のれる赤駒の足掻(キ)渡る、その水の激《タギリ》に、衣の沾にける哉、さても急き流や、となり、
 
1142 命《イノチヲ》。幸久吉《サキクアラムト》。石流《イハバシル》。垂水水乎《タルミノミヅヲ》。結飲都《ムスビテノミツ》。
 
幸久吉は、本居氏、吉は在(ノ)字の誤なり、と云り、サキクアラムト〔七字右○〕と訓べし、○石流は、イハバシル〔五字右○〕と訓べし、次に引八(ノ)卷歌に依ば、流は激(ノ)字の誤か、○垂水《タルミ》は、神名帳に、攝津(ノ)國豐島(ノ)郡垂水(ノ)神社、(名神大、月次新甞、)とある、其(ノ)地なり、(姓氏録に、孝元天皇(ノ)御世(ニ)、天(ノ)下旱魃河井涸絶、于時阿利眞(ノ)公、造2作《ツクリ》高樋(ヲ)1、以垂2水四山1、基之令v通2水宮内1、供2奉御膳1、天皇美(テ)2其(ノ)功(ヲ)1、便賜(テ)2垂水(ノ)公(ノ)姓(ヲ)1、掌(シム)2垂水(ノ)神社(ヲ)1也、とあり、)名水なるゆゑ、古へ歌にもかた/”\よみ、又飲(メ)ば齡をも延(ブ)るよし云るは、ことに神の領賜ふ水なるが故にもあるべし、八(ノ)卷に、石激垂見之上乃左和良妣乃《イハバシルタルミノウヘノサワラビノ》云々、十二に、石走垂水之水之早數八《イハバシルタルミノミヅノハシキヤシシ》云々、などあり、○歌(ノ)意は、壽命の幸く長くあらむが爲にとて、垂水の名水を手に掬《ムスビ》て飲つ、となり、
 
1143 作夜深而《サヨフケテ》。穿江水手鳴《ホリエコグナル》。松浦船《マツラブネ》。梶音高之《カヂノトタカシ》。水尾早見鴨《ミヲハヤミカモ》。
 
穿江水手鳴《ホリエコグナル》は、廿(ノ)卷にも、蘆刈爾保里江許具奈流可治能於等波《アシカリニホリエコグナルカヂノオトハ》云々、とあり、穿江《ホリエ》は、難波穿江《ナニハホリエ》(386)にて、集中十(ノ)卷、十二(ノ)卷、十八卷、廿(ノ)卷などに、あまた見えたり、仁徳天皇(ノ)紀に、十一年冬十月、堀2宮北之郊原(ヲ)1、引2南(ノ)水(ヲ)1以入2西(ノ)海(ニ)1、因《カレ》以(テ)號2其水1曰2堀江1、と見えたり、※[手偏+旁]《コグ》を水手と書るは、水手は舟を※[手偏+旁]者の名なれば、義をもてかけるなり、○松浦船《マツラブネ》は、肥前の松浦の船の、行通へばよめり、十二に、松浦舟亂穿江之水尾早※[楫+戈]取間無所念鴨《マツラブネミダルホリエノミヲハヤミカヂトルマナクオモホユルカモ》、とあり、○水尾早見鴨《ミヲハヤミカモ》は、水脉《ミヲ》の急きが故にか、の意なり、毛《モ》は歎息(ノ)辭なり、廿(ノ)卷に、保利江己具伊豆手乃船乃可治都久米於等之婆多知奴美乎波也美加母《ホリエコグイヅテノフネノカヂツクメオトシバタチヌミヲハヤミカモ》、とも見えて、穿江の水脉の疾(キ)事しるべし、十八に、保里江欲里水乎妣吉之都追美布禰左須之津乎能登母波加波能瀬麻宇勢《ホリエヨリミヲビキシツツミフネサスシヅヲノトモハカハノセマウセ》、ともあり、○歌(ノ)意は、夜更て、難波堀江を漕行(ク)松浦船の※[楫+戈](ノ)音甚高し、水脉の流の急きに逆(ヒ)て、速にこぎ泝るが故にかあるらし、さても高き※[楫+戈]音哉、となり、
 
1144 悔毛《クヤシクモ》。滿奴流鹽鹿《ミチヌルシホカ》。墨江之《スミノエノ》。岸乃浦回從《キシノウラミヨ》。行益物乎《ユカマシモノヲ》。
 
歌(ノ)意は、嗚呼《アはレ》さても、悔しく滿ぬる汐哉、かくては岸の方に行がたし、汐の干たる内に、岸の裏めぐりに行て、岸の風景を愛《メヅ》べかりしものを、となり、汐の滿來て、面白き住吉(ノ)岸の方を行がたきを侮るなり、
 
1145 爲妹《イモガタメ》。貝乎拾等《カヒヲヒリフト》。陳奴乃海爾《チヌノウミニ》。所沾之袖者《ヌレニシソデハ》。雖凉常不干《ホセドカワカズ》。
 
陳奴乃海《チヌノウミ》は、和泉(ノ)國血沼(ノ)海にて、六(ノ)卷に、從千沼回《チヌミヨリ》云々、とある歌に具(ク)註り、さて契冲云く、今こ(387)こに攝津作と標して、陳奴《チヌ》と云を載られたるは、歌は必(ズ)※[片+旁]璽をよまねば、陳奴(ノ)海、津の國につらなりて、ひろければなるべし、○雖凉常不干(干(ノ)字、舊本に十と作るは誤なり、)は、ホセドカワカズ〔七字右○〕と訓べし、契冲云く、難凉とかけるは、令義解《考課令》第十四最(ノ)條云、慎(ミ)2於|曝涼《ホシサラスニ》1、(謂曝(ハ)者陽乾(ナリ)也、涼(ハ)者風涼(ナリ)也、)明(ナラバ)2於出(シ)納(ルヽニ)1、爲(ヨ)2兵庫之最(ト)1、兵庫式にも、曝涼を、ホシサラス〔五字右○〕と訓を付たり、さらすもほすなれば、今雖凉をホセド〔三字右○〕とはよめり、(已上)常(ノ)字は衍れる如くなれども、古(ヘ)如此樣の書體一(ツ)ありて、既く具(ク)云り、此(ノ)下にも、雖干跡不乾《ホセドカワカズ》と書り、(これを荒木田氏が、ホセレドトヒズ〔七字右○〕とよめるはわろし、)〔頭註、【軍防今云、凡軍器在v庫、皆造2棚閣1安置、色別異v所、以v時曝凉、】〕○歌(ノ)意は、妹が爲に貝を拾ふとて、血沼《チヌ》の海におりたちて、沾にし吾(ガ)袖は、ほせど甚く沾(レ)通りたれば、たはやすくかわかずとなり、
 
1146 目頬敷《メヅラシキ》。人乎吾家爾《ヒトヲワギヘニ》。住吉之《スミノエノ》。岸乃黄土《キシノハニフヲ》。將見因毛欲得《ミムヨシモガモ》。
 
初二句は、序なり、愛らしき妻を、吾(ガ)家に迎へて相住、といふ意につゞけたり、四(ノ)卷に、君家爾吾住坂乃《キミガヘニアガスミサカノ》云々、伊勢が歌に、吾ならぬ人すみの江のきしに出て難波のかたを恨みつる哉、とも見ゆ、○歌(ノ)意は、住吉の岸の黄土生《ハニフ》の風色を、いかで行て見むよしもがなあれかし、となり、
 
1147 暇有者《イトマアラバ》。拾爾將往《ヒリヒニユカム》。住吉之《スミノエノ》。岸因云《キシニヨルチフ》。戀忘貝《コヒワスレガヒ》。
 
戀忘貝《コヒワスレガヒ》とは、忘貝なるを、戀を忘るゝよしに云かけたり、契冲、忘貝は、うつくしき貝なるゆゑに、見ればうきことを忘るとて、名づくとぞ、と云り、六(ノ)卷に、吾背子爾戀者苦暇有者拾而將去(388)戀忘貝《ワガセコニコフレバクルシイトマアラバヒリヒテユカムコヒワスレガヒ》、とあり、又古今集貫之(ノ)歌に、道知ば摘(ミ)にも行む住吉《スミノエ》の岸に生てふ戀忘草、ともあり、○歌(ノ)意は、住吉の岸によると云なる戀忘貝を、行て拾たく思へど、さる暇なし、しばし公用の暇あらば、行て拾ひて、戀しく思ふ本郷の妻を忘れて、心をなぐさまむと思ふものを、となり、
 
1148 馬雙而《ウマナメテ》。今日吾見鶴《ケフアガミツル》。住吉之《スミノエノ》。岸之黄土《キシノハニフヲ》。於萬世見《ヨロヅヨニミム》。
 
馬雙而《ウマナメテ》は、馬を雙(ヘ)て、人々と共に來ての意なり、○歌(ノ)意は、人々と共に、數々の馬をのり雙て、わざ/\來て、今日初めて見つるに、住吉の岸の黄土のけしきの、聞しにまさりて、あかず面白ければ、今よりゆくさき、萬世までに來て見むと思ふ、となり、
 
1149 住吉爾《スミノエニ》。往云道爾《ユキニシミチニ》。昨日見之《キノフミシ》。戀忘貝《コヒワスレガヒ》。事二四有家里《コトニシアリケリ》。
 
往云道爾は、按に、云は去(ノ)字の誤なり、ユキニシミチニ〔七字右○〕と訓べし、(ユクチフミチニ〔七字右○〕とては、ことわり通《キコ》えがたし、)○歌(ノ)意は、旅路にはる/”\別れ來て、本郷の妻のいとゞ戀しく思はるゝ折から、住吉を行過にし道に、戀忘貝を昨日見ければ、其(ノ)貝の名にしおひて、戀の忘られぬべきことなるを、猶忘(レ)られず戀しく思はるゝは、戀忘貝と云は、たゞ言のみの事にて、實にはさることなかりけり、となり、(略解に忘貝と云は言のみにて、住吉のけしきのわすられぬとなり、と云るは、大《イミ》じき誤《ヒガコト》なり、)
 
1150 墨吉之《スミノエノ》。岸爾家欲得《キシニイヘモガ》。奧爾邊爾《オキニヘニ》。縁白浪《ヨスルシラナミ》。見乍將思《ミツヽシヌハム》。
 
(389)墨(ノ)字、舊本に黒と作るは誤なり、○見乍將思《ミツヽシヌハム》は、上に、河豆鳴清川原今日見而者何時可越來而見乍偲食《カハヅナクキヨキカハラヲケフミテハイツカコエキテミツヽシヌハム》、とあると同じく、目(ノ)前に見つゝ愛《メデ》む、と云意なり、○歌(ノ)意は、住吉の岸に、いかで吾(ガ)家もがなあれかし、さらば奥により邊による白浪のおもしろきけしきを、明暮常に、目前に見つゝ賞愛《ウツクシマ》むに、となり、
 
1151 大伴之《オホトモノ》。三津之渡邊乎《ミツノハマヘヲ》。打曝《ウチサラシ》。因來浪之《ヨセクルナミノ》。逝方不知毛《ユクヘシラズモ》。
 
大伴之《オホトモノ》、此(ノ)枕詞の義、昔來人皆思(ヒ)誤れり、今按は、一(ノ)卷に具(ク)云り、○打曝《ウチサラシ》は、打《ウチ》はそへたる詞、曝《サラシ》は洗《アラヒ》と云(ム)が如し、○歌(ノ)意は、三津の濱邊を、いよ/\白く清く洗ひ曝して、よせ來る浪の、又引去て、其(ノ)行方しられず、さても清なる浪哉、となり、三(ノ)卷に、物乃部能八十氏河乃阿白木爾不知代經浪乃去邊白不母《モノノフノヤソウヂカハノアジロキニイザヨフナミノユクヘシラズモ》、とあるに同じ、
 
1152 梶之音曾《カヂノトゾ》。髣髴爲鳴《ホノカニスナル》。海未通女《アマヲトメ》。奥藻苅爾《オキツモカリニ》。舟出爲等思母《フナデスラシモ》。
 
舊本に、一云暮去者梶之音爲奈利、と註せり、○歌(ノ)意は、船の※[楫+戈](ノ)音のほの/”\聞ゆなるは、海人の少女《ヲトメ》が、奥方に藻を刈に舟出するならし、さてもおもしろく和《ナギ》たる海面にてある哉、となり、
 
1153 住吉之《スミノエノ》。名兒之濱邊爾《ナゴノハマヘニ》。馬並而《ウマナメテ》。玉拾之久《タマヒリリヒシク》。常不所忘《ツネワスラエズ》。
 
名《兒《ナゴ》は、住吉(ノ)郡にあり、此(ノ)下に、奈呉乃海《ナゴノウミ》又|名兒乃海《ナゴノウミ》、とあり、みな同所なり、(新古今集に、名兒の(390)海の霞の間よりながむれば入日をあらふおきつしら浪、)○馬並而《ウマナメテ》(並(ノ)字、舊本に立と作るは誤なり、今は一本に從つ、)は、馬をのり並べて、人々と共にの意なり、○玉拾之久《タマヒリヒシク》は、之久《シク》とは、過し方の事にいふ言なり、集中に、宿之久《ネシク》、來之久《コシク》など見え、又古語に、勅之久《ノタマヒシク》、奏之久《マヲシシク》、謂之久《イヒシク》など云ること多し、既く四(ノ)卷に、夜之穗杼呂《ヨノホドロ》云々|念有四九四《オモヘリシクシ》、とある歌に具(ク)註せりき、(略解に、之久《シク》は、此(ノ)上に今敷者《イマシクハ》とあるに同じ、と云るはたがへり、今敷の敷は、しきにて別なり、)○歌(ノ)意は、住吉の名兒の濱邊に、數々の馬をのりならべて行て、人々と共に、貝玉など拾ひし事の面白さの、常に忘れられずおもはるゝ、となり、
 
1154 雨者零《アメハフリ》。借廬者作《カリホハツクル》。何暇爾《イツノマニ》。吾兒之塩干爾《アゴノシホヒニ》。玉者將拾《タマハヒリハム》。
 
吾兒《アゴ》は、右の歌の名兒《ナゴ》と同じくて、古(ヘ)吾兒《アゴ》とも名兒《ナゴ》とも云しならむ、此(ノ)下に、阿胡乃海《アゴノウミ》とあるも同じ、○歌(ノ)意は、旅の假廬を造る暇なきがうへに、雨はふるなり、雨ふるがうへに、旅の假廬は造るなり、かほど事繁きに、何の暇ありてか、吾兒の潮干の玉をば拾(フ)べきぞ、このけしき面白き吾兒の潮干に出て、玉ひろはず空しく過なむは、口をしき事にてある哉、となり、
 
1155 奈呉乃海之《ナゴノウミノ》。朝開之奈凝《アサケノナゴリ》。今日毛鴨《ケフモカモ》。磯之浦回爾《イソノウラミニ》。亂而將有《ミダレテアラム》。
 
朝開之奈凝《アサケノナゴリ》は、朝潮の引たる餘波《ナゴリ》なり、朝開は、朝の開(ケ)方なり、奈凝《ナゴリ》の事、四(ノ)卷に具(ク)註せり、○亂而將有《ミダレテアラム》は、餘波が亂(レ)散て有らむ、と云なり、(略解に玉藻海松の類の、亂れたる意とせるは、誤な(391)り、伊勢物語塗籠本に、其(ノ)夜南の風ふきて、なごりの波いと高し、つとめて、其(ノ)家のめの子どもいで、うきみるの、浪によせられたるひろひて、いへのうちにもてきぬ、とあるは、まことに餘波に、海松の類のよせられたるを云るにて、今とは異なることなり、)○歌(ノ)意は、名兒の海の、朝潮の引たるその餘波は、昨日のみならず、今日も磯の裏のめぐりに、亂(レ)散(リ)て有らむか、嗚呼《アハレ》急《イソ》がぬ旅路ならば、今日も行て、その餘波の面白きけしきを、あくまで見べきに、さることもえせずして過行は、口をしき事ぞ、となり、
 
1156 住吉之《スミノエノ》。遠里小野之《ヲリノヲヌノ》。眞榛以《マハリモチ》。須禮流衣乃《スレルコロモノ》。盛過去《サカリスギヌル》。
 
遠里小野之は、本居氏、ヲリノヲヌノ〔六字右○〕の六言に訓べきなり、トホサトヲノ〔六字右○〕と訓は誤なり、攝津(ノ)國住吉(ノ)郡に遠里小野村と云ありて、今現に乎理乎能《ヲリヲノ》と呼べばなり、と云り、十六竹取翁(カ)歌に、墨江之遠里小野之眞榛待丹穗之爲衣丹《スミノエノヲリノヲヌノマハリモチニホシシキヌニマハリモチ》、とも見ゆ、○眞榛以《マハリモチ》云々、以はモチ〔二字右○〕と訓べし、(モテ〔二字右○〕と訓はわろし、)十八に、夜保許毛知麻爲泥許之《ヤホコモチマヰデコシ》、廿(ノ)卷に麻蘇※[泥/土]毛如《マソデモチ》、十七に、美許登母知多知和可禮奈婆《ミコトモチタチワカレナバ》とあり、さて榛もて衣を染るよしよめるは、一(ノ)卷に、引馬野爾仁保布榛原入亂衣爾保波勢多鼻乃知師爾《ヒクマヌニニホフハリハライリミダリコロモニホハセタビノシルシニ》、とあるを初て、集中にあまた見えたり、今も土佐(ノ)國などにては、常に榛皮もて染具とせり、(荒木田氏は、遠江(ノ)國人云、秋に至りて、その實の熟するをもて、衣に染と云り、と云り、)天武天皇(ノ)紀に、(蓁摺《ハリスリノ》御衣三具、四時祭式に、官人以下装束料、伯已下史已上七人、宮主一(392)人、(已上眞摺(ノ)袍、)踐祚大甞祭式に、凡齋服(ハ)者、十一月中寅(ノ)日給之、神祇官(ノ)伯以下、彈琴《ミコトヒキ》以上十三人、各榛藍摺(ノ)錦袍一領云々、主計式に上野(ノ)國調云々、榛布三十五端、下野(ノ)國調云々、榛布十端、など見えたり、○盛過去《サカリスギヌル》は、著なれて色のさめたるよしなり、○歌(ノ)意は、住吉の遠里小野の眞榛にて、すりいろどり染たる衣の、花々《ハナ/”\》しくめでたかりしが、漸々に日を經て、色のさめ變ひゆくは、口をしき事ぞ、となり、
 
1157 時風《トキツカゼ》。吹麻久不知《フカマクシラニ》。阿胡乃海之《アゴノウミノ》。朝明之塩爾《アサケノシホニ》。玉藻苅奈《タマモカリテナ》。
 
歌(ノ)意は、潮時の風の吹むと云心がゝりもなしに、吾兒(ノ)海の、朝明の和《ノド》やかなる潮に出て、玉藻をいざ刈む、と急ぎいさめるなり、二(ノ)卷又十六にも、此(ノ)歌に似たるあり、
 
1158 住吉之《スミノエノ》。奥津白浪《オキツシラナミ》。風吹者《カゼフケバ》。來依留濱乎《キヨスルハマヲ》。見者淨霜《ミレバキヨシモ》。
 
歌(ノ)意は、風が吹ば、それにつれて、住吉の奥津白渦の來依(ル)濱を見れば、さても淨くて面白き、海邊のけしき哉、となり、
 
1159 住吉之《スミノエノ》。岸之松根《キシノマツガネ》。打曝《ウチサラシ》。緑來浪之《ヨセクルナミノ》。音之清霜《オトノキヨシモ》。
 
霜(ノ)字、舊本に羅と作るは誤ならむ、今は一本に從つ、○歌(ノ)意は、住吉の岸の松が根を洗ひさらして、よせくる浪の音の、さても清《キヨ》しや、となり、
 
1160 難波方《ナニハガタ》。塩千丹立而《シホヒニタチテ》。見波者《ミワタセバ》。淡路島爾《アハヂノシマニ》。多豆渡所見《タヅワタルミユ》。
 
(393)歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
羈旅作《タビニテヨメル》。
 
1161 離家《イヘサカリ》。旅西在者《タビニシアレバ》。秋風《アキカゼノ》。寒暮丹《サムキユフヘニ》。鴈喧渡《カリナキワタル》。
 
旅西《タビニシ》は、旅ににて、爾之《ニシ》とつゞくるは、そのさだかに、しかる意をきかする辭なり、○歌(ノ)意かくれなし、
 
1162 圓方之《マトガタノ》。湊之渚鳥《ミナトノスドリ》。浪立巴《ナミタテバ》。妻唱立而《ツマヨビタテテ》。邊近著毛《ヘニチカヅクモ》。
 
圓方《マトカタ》は、伊勢(ノ)國多氣(ノ)郡にあり、既く一(ノ)卷舍人(ノ)娘子の歌にありて、其處に具(ク)註りき、○渚鳥《スドリ》は、十一に、大海之荒磯之渚鳥《ホウミノアリソノスドリ》、十五に、武庫之浦乃伊里江能渚鳥《ムコノウラノイリエノスドリ》、十七に、美奈刀能須登利《ミナトノスドリ》、又|美奈刀爾波之良奈美多可彌都麻《ミナトニハシラナミタカミツマ》欲夫等須騰理波佐和久《ヨブトスドリハサクク》云々、などあり、又十四に、波麻渚杼里《ハマスドリ》ともよめり、これらの渚鳥《スドリ》は、鳥の名の如くにも聞ゆれど、しからず、渚に居(ル)鳥にて、鷺《サギ》鴎《カモメ》雎鳩《ミサゴ》千鳥《チトリ》などの類を、おし並て云べし、(或説に、みさごなりと云るは、美沙居渚《ミサゴヰルス》とよめる歌あるに依て、推量に云るのみなり、)古事記沼河日賣(ノ)歌に、字良須能登理敍《ウラスノトリゾ》、ともよめり、○浪立巴《ナミタテバ》は、(略解には、巴は也の誤なりと云り、)浪があらく發者《タテバ》、と云なり、○歌(ノ)意は、圓方の湊の渚に居て、求食《アサリ》する諸鳥の、海の浪があらく發ば、己が妻を呼(ビ)令立《タテ》て、邊方に近づくよ、となり、
 
1163 年魚市方《アユチガタ》。塩干家良思《シホヒニケラシ》。知多乃浦爾《チタノウラニ》。朝※[手偏+旁]舟毛《アサコグフネモ》。奥爾依所見《オキニヨルミユ》。
 
(394)年魚市方《アユチガタ》は、尾張(ノ)國智多(ノ)郡の海潟なり、三(ノ)卷高市(ノ)連黒人の歌にありて、其處に註せりき、○知多乃浦爾《チタノウラニ》は、和名抄に、尾張(ノ)國智多(ノ)郡あり、其(ノ)地の浦になり、年魚市潟《アユチガタ》に隣れるなるべし、按(フ)に、爾は、若は乎(ノ)字の誤にはあらざるか、○歌(ノ)意は、愛智潟《アユチガタ》潮干になりにけるらし、その所縁《ユヱ》は、その隣の智多の浦を朝漕舟も、潮干て漕難き故に、沖の方に出るが見ゆる、となり、
 
1164 塩干者《シホヒレバ》。共滷爾出《トモニカタニデ》。鳴鶴之《ナクタヅノ》。音遠放《コヱトヲザカル》。磯回爲等霜《イソミスラシモ》。
 
共滷爾出《トモカタニデ》は、鶴が己が友率ひて、共に潟に出て、と云ふなり、(略解に、潮ひれば、やがて共に干潟となるまゝに、鶴の出てあさるを云、と云るはいかゞ、)○歌(ノ)意は、鹽干になれば、即(チ)己が友率ひ連て、共に潟に出て鳴鶴の聲が、沖の方に遠放り行よ、あれは磯めぐりして、食を求るにてあるらし、さても面白のけしきや、となり、
 
1165 暮名寸爾《ユフナギニ》。求食爲鶴《アサリスルタヅ》。塩滿者《シホミテバ》。奥浪高三《オキナミタカミ》。己妻喚《オノヅマヨブモ》。
 
己妻喚は、オノヅマヨブモ〔七字右○〕と訓べし、此(ノ)下に、濱風寒彌自妻喚毛《ハマカゼサムミオノヅマヨブモ》、とあり、オノヅマ〔四字右○〕の假字は、十四に、於能豆麻《オノヅマ》と、見えたり、○歌(ノ)意は、風浪の和《ナギ》たる夕方になれば、干潟に出て、食を求る鶴が、汐が滿來れば、沖浪高くよする故に、自が妻をよびさそひつけて、磯の方に飛行よ、さてもあはれのけしき哉、となり、
 
1166 古爾《イニシヘニ》。有監人之《アリケムヒトノ》。覓乍《モトメツヽ》。衣丹摺監《キヌニスリケム》。眞野之榛原《マヌノハリハラ》。
 
(395)摺監、監(ノ)字、舊本には牟と作り、今は拾穗本に從つ、○眞野之榛原《マヌノハリハラ》は、攝津(ノ)國八田部(ノ)郡にあり、三(ノ)卷高市(ノ)連黒人(カ)歌に見えて、其處に註り、○歌(ノ)意かくれたるところなし、眞野の榛原を、古人のめでしと云故事ありて、いへるなるべし、
 
1167 朝入爲等《アサリスト》。磯爾吾見之《イソニアガミシ》。莫告藻乎《ナノリソヲ》。誰島之《イヅレノシマノ》。泉郎可將刈《アマカカルラム》。
 
朝人爲等《アサリスト》は、求食《アサリ》するとてと云意なり、朝入《アサリ》とは、此(ノ)上に、求食《アサリ》と書るに同じくて、何に限らず、魚菜の類を求《ト》るを云言なり、(略解に、朝入は、いざりなりと云るはたがへり、伊射里《イザリ》は、漁業に限て云言なるをや、)○泉郎は、白水郎なるを、麻呂を麿と作《カケ》る類に、白水を泉と作るなり、(かゝるを、略解に、推て白水と改めしは、さかしらなり、)白水郎の事は、既(ク)具(ク)註り、○歌(ノ)意は、魚菜の類を求るとて、磯にて吾(ガ)見て置しなのりそを、此(ノ)程いづれの島の海人か、刈とりて食ふらむ、となるべし、按(フ)に、此(ノ)歌は、上に島廻爲等磯爾見之花風吹而浪者雖縁不取不止《シマミストイソニミシハナカゼフキテナミハヨストモトラズハヤマジ》、とよめる類にて、物の便に吾(ガ)見初し女を、誰が己妻とすらむ、といふ意を、譬喩《タトヘ》たる歌なるを、混(レ)て羈旅の標内に入しにや、
 
1168 今日毛可母《ケフモカモ》。奥津玉藻者《オキツタマモハ》。白浪之《シラナミノ》。八重折之於丹《ヤヘヲルガウヘニ》。亂而將有《ミダレテアラム》。
 
八重折之於丹《ヤヘヲルガウヘニ》は、浪の彌重《ヤヘ》に折返すその上に、と云なり、廿(ノ)卷に、波麻爾伊泥弖海原見禮婆《ハマニイデテウナハラミレバ》、之良奈美乃夜敝乎流我宇倍爾《シラナミノヤヘヲルガウヘニ》、安麻乎夫禰波良良爾宇伎弖《アマヲブネハララニウキテ》云々、古今集大歌所の歌に、めざし(396)ぬらすな沖にをれ波、とあるも沖に折(リ)返せと云意なり、○歌(ノ)意は、昨日のみならず、今日も白浪の彌重に折返す其(ノ)海上に、奧つ玉藻はみだれておもしろかるらむ、あはれ急がぬ旅路ならば、今日も行て、さても見たしや、となり、
 
1169 近江之海《アフミノミ》。湖者八十《ミナトヤソアリ》。何爾加《イヅクニカ》。君之舟泊《キミガフネハテ》。草結兼《クサムスビケム》。
 
湖者八十、(十(ノ)字、舊本に千と作るは誤なり、今は一本に從つ、)千賀(ノ)眞恒、者(ノ)字は、有の誤歟と云り、此(ノ)説いはれたり、ミナトヤソアリ〔七字右○〕と訓べし、十三に、近江之海泊八十有《アフミノミトマリヤソフリ》云々、又十(ノ)卷に、天漢河門八十有何爾加君之三船乎吾待將居《アマノガハカハトヤソアリイヅクニカキミガミフネヲアガマチヲラム》、とあるを思(ヒ)合(ス)べし、三(ノ)卷に、近江海八十之湊爾鶴佐波二鳴《アフミノミヤソノミナトニタヅサハニナク》、ともよめり、○草結兼《クサムスビケム》は、旅行の道標《ミチシルシ》に、いづれの湊に船泊て、草を標に、結び置けむ、と旅人をおもひてよめるなり、(契冲が、草枕を結ぶ意とせるは、古義に非ず、)○歌(ノ)意は、近江の海の湊は、八十と數かぎりなく多くあり、その多(ク)の湊のうち、いづれの處にか君が舟泊て、※[片+旁]示《シルシ》に草を結び置けむぞ、となり、
 
1170 佐左浪乃《ササナミノ》。連庫山爾《ナミクラヤマニ》。雲居者《クモヰレバ》。雨曾零智否《アメソフルチフ》。反來吾背《カヘリコワガセ》。
 
佐左浪《ササナミ》は、近江(ノ)國の地名なり、前に往々見えて、既く具(ク)註り、○連庫山《ナミクラヤマ》は、佐左浪《ササナミ》にある山の名なり、○歌(ノ)意は、樂浪の連庫山に雲が居れば、かならず、雨がふるといふぞ、其(ノ)雨のふり來らぬ内に、はやく反り來たまへ吾(ガ)夫よ、となり、此(ノ)歌は、夫の旅行に、家に留れる妻の、おもひやりて(397)よめるなるべし、
 
1171 大御舟《オホミフネ》。竟而佐守布《ハテテサモラフ》。高島之《タカシマノ》。三尾勝野之《ミヲノカチヌノ》。奈伎左思所思《ナギサシオモホユ》。
 
大御舟《オホミフネ》は、天皇のなり、○竟而佐守布《ハテテサモラフ》は」湊に泊て浪間を伺《ウカヾ》ふよしなり、佐守布《サモラフ》の言は、既く往往見えて、伺ひ守る意なり、(こゝを從駕の人の、御前に祗候する意と云る説はわろし、)○三尾勝野《ミヲノカチヌ》は、近江(ノ)國高島(ノ)郡三尾(ノ)郷の勝野なり、三尾は、和名抄に、高島(ノ)郡三尾、(美乎《ミヲ》、)兵部省式に、近江(ノ)國驛馬、(三尾《ミヲ》七疋、)又繼體天皇(ノ)紀にも、近江(ノ)國高島(ノ)郡三尾之|別業《ナリトコロ》、と見え、九(ノ)卷碁師(カ)歌に、水尾崎《ミヲノサキ》とあるも同じ、勝野《カチヌ》は三(ノ)卷に、何處吾將宿高島乃勝野原爾此日暮去者《イヅクニカアガヤドリナムタカシマノカチヌノハラニコノヒクレナバ》、と見えたり、(略解に、和名抄に、高島(ノ)郡角野(ハ)津乃《ツノ》、とあるを、古(ヘ)かど野といひしにや、勝野はそこなるべし、と云るは、推當なり、勝野は三尾(ノ)郷の内なり、)主税式に、若狹(ノ)國海路(自2勝野(ノ)津1至2大津1、船賃米石別(ニ)一升云々、)○歌(ノ)意は、天皇の大御舟の泊させ給ひて、さて浪間を伺ふらむ、高島の三尾の勝野の渚が、一(ト)すぢにおもひやらるゝ、となり、此(ノ)歌は、近江(ノ)國へ行幸ありしほど、京にて思ひやりてよめるなるべし、(○宗祇集に、秋の日は勝野に暮てたづのとぶ三尾の御崎に霧たちわたる、今の歌によれるか、)
 
1172 何處可《イヅクニカ》。舟乘爲家牟《フナノリシケム》。高島之《タカシマノ》。香取乃浦從《カトリノウラユ》。己藝出來船《コギデコシフネ》。
 
香取乃浦《カトリノウラ》は、高島(ノ)郡にあり、十一に、大船香取海慍下《オホブネノカトリノウミニイカリオロシ》云々、とあるも同じ、○來はコシ〔二字右○〕と訓べ(398)し、(クル〔二字右○〕と訓ては叶はず、)○歌(ノ)意は、高島の香取の浦より、漕出て來にし其(ノ)船は、そも何處の湊にて船乘して、漕出せし船にやあらむ、となり、
 
1173 斐大人之《ヒダヒトノ》。眞木流云《マキナガスチフ》。爾布乃河《ニフノカハ》。事者雖通《コトハカヨヘド》。船曾不通《フネゾカヨハヌ》。
 
斐太人《ヒダヒト》は、杣人なり、三代實録三十一に、元慶元年夏四月九日庚辰、辰刻始(テ)構2造大極殿(ヲ)1云々、饗2行(フ)人夫以下飛騨工已上(ヲ)1云々、飛騨工六十人云々、賦役令に、斐陀(ノ)國(ハ)庸調倶(ニ)免(シテ)、毎(ニ)v里點(セ)2匠丁十人(ヲ)1云々、木工寮式に、凡飛騨(ノ)國匠丁三十七人、以2九月一日1、相其參2著寮家1、不v得2參差1、類聚三代格に、承和元年四月廿五日、太政官符に、應4捜3勘言2上飛騨工1事、など見えて、古(ヘ)飛騨(ノ)國より良匠の出たれば、木工をも杣人をも、飛騨人と云なり、(拾遺集に、宮つくる飛騨のたくみのてをのおとほと/\しかる目をも見し我、大和物語に、まがきする飛騨の工のたつきおとのあなかしがましなぞや世(ノ)中、職原抄大全云、木工寮(ハ)、大工之所v作皆掌之、古(ヘ)飛騨(ノ)國、多2大工1、參2京都(ニ)1、木工(ノ)頭奉行、曰2之飛騨工1也、日本後紀曰、延暦十五年十一月己酉、令3天下捜2捕諸國逃亡飛騨工等1、異稱日本傳云、飛騨(ノ)國多2匠民1、巧(ニ)造2宮殿寺院(ヲ)1、迄v今稱2飛騨工1、)十一に、云云物者不念斐太人刀打墨繩之直一道爾《カニカクニモノハオモハズヒダヒトノウツスミナハノタヾヒトミチニ》、○爾布乃河《ニフノカハ》は、大和(ノ)國にあり、二(ノ)卷に、丹生乃河瀬者不渡而《ニフノカハセハワタラズテ》云々、とある歌に、具(ク)註り、十三に、斧取而丹生檜山木折來而《ヲノトリテニフノヒヤマノキキリキテ》云々、○歌(ノ)意は、丹生の川は、杣人の眞木の大木を流すと云|急流《ハヤカハ》なれば、此岸《コナタ》より彼岸に物はいひかはせども、船の通ふことは叶はず、といへるにや、(399)眞木流云《マキナガスチフ》、と云るは今目(ノ)前に眞木流すを見たるには非ず、平常眞木の大木を流すと云|急流《ハヤカハ》なれば、と云意なり、但し此も譬喩歌にて、言ば使さして、此方彼方いひ通はせども、實には逢ことのなきを、云るにやあらむ、
 
1174 霰零《アラレフリ》。鹿島之崎乎《カシマノサキヲ》。浪高《ナミタカミ》。過而夜將行《スギテヤユカム》。戀敷物乎《コヒシキモノヲ》。
 
霰零《アラレフリ》は、枕詞なり、霰零《アラレフル》音のかしましきと云意につゞけたり、廿(ノ)卷に、阿良例布理可志麻能可美乎伊能利都都《アラレフリカシマノカミヲイノリツツ》云々、ともあり、○鹿島之崎《カシマノサキ》は、和名抄に、常陸(ノ)國鹿島(ノ)郡鹿島、神名帳に、常陸(ノ)國鹿島(ノ)郡鹿島(ノ)神社、(名神大、月次新甞、)常陸國風土記に、香島(ノ)郡、古老曰、難波(ノ)長柄豐前(ノ)大朝《御脱歟》宇天皇之世、己酉年、大乙上中|臣《如本恐脱字》子、大乙下中臣部兎子等、請2※[手偏+總の旁]領高向大夫(ニ)1、割2下總(ノ)國海上(ノ)國(ノ)造(カ)部内輕野以南一里、那賀(ノ)國(ノ)造(カ)部内寒田以北五里(ヲ)1、別(ニ)置2神郡(ヲ)1、其處(ニ)所有天之大神(ノ)社坂戸(ノ)社沼尾(ノ)社、合三處(ヲ)惣2稱香島天之大神(ト)1、因《カレ》名《ナトス》v郡(ノ)焉、(風俗(ノ)説云、霰零香島之國《アラレフリカシマノクニ》、)と見えたり、(鹿島(ノ)神のことは、廿(ノ)卷にいたりて、委(ク)云べし、)九(ノ)卷に、牡牛乃三宅之滷爾指向鹿島之崎爾《コトヒウシノミヤケノカタニサシムカフカシマノサキニ》云々、と見ゆ、新後撰集に、よし人も夜や寒からしあられふるかしまのさきの沖つ鹽風、○戀敷物乎《コヒシキモノヲ》は、愛《メデ》たき物をと云むが如し、戀とは賞愛《メデウツクシ》まるゝ方に云るなり二(ノ)卷に、衣有者脱時毛無吾戀君曾伎賊乃夜《キヌナラバヌグトキモナクアガコヒムキミゾキソノヨ》、三(ノ)卷に、石竹之其花爾毛我朝旦手取持而不戀日將無《ナデシコノソノハナニモガアサナサナテニトリモチテコヒヌヒナケム》、十七に、多麻久之氣敷多我美也麻爾鳴鳥能許惠能弘悲思吉登伎波伎爾家里《タマクシゲフタガミヤマニナクトリノコヱノコヒシキトキハキニケリ》、などあるに同じく、皆|愛《メデタ》きよしなり、○歌(ノ)意は、鹿島の崎(400)の、見れども飽ず、可怜《オモシロ》く愛《メデ》たき物を、浪の高きが故に、其(ノ)崎に留り居ること叶はずして、こぎ放れてや行む、となり、
 
1175 足柄乃《アシガラノ》。筥根飛超《ハコネトビコエ》。行鶴乃《ユクタヅノ》。乏見者《トモシキミレバ》。日本之所念《ヤマトシオモホユ》。
 
筥根は、相模(ノ)國足柄(ノ)郡にありて、かくれなし、○歌(ノ)意は、足柄の筥根山を飛超て、京の方へ行鶴を見れば、われもあのごとく、京の方へ行たきことぞと、うらやましくして、いとゞ大和(ノ)國の、一(ト)すぢに戀しく思はるゝ、となり、
 
1176 夏麻引《ナツソビク》。海上滷乃《ウナカミガタノ》。奥津州爾《オキツスニ》。鳥者簀竹跡《トリハスダケド》。君者音文不爲《キミハハオトモセズ》。
 
夏麻引《ナツソビク》は、枕詞なり、十四(ノ)初に、奈都素妣久宇奈加美我多能於伎都渚爾《ナツソビクウナカミガタノオキツスニ》、布禰波等杼米牟佐欲布氣爾家里《フネハトドメムサヨフケニケリ》、又武藏(ノ)國(ノ)歌に、奈都蘇妣久宇奈比乎左之弖《ナツソビクウナヒヲサシテ》云々、とあり、此(ノ)枕詞の屬《ツヾケ》の義は、まづ夏麻と作るは借(リ)字にて、(忠見集に、をさめ殿よりなつそ給へるに、空蝉はさもこそなかめ君ならでくるゝ夏ぞと誰か告まし、とありて、夏麻と云ものゝあるより、此《コヽ》にかく書たれども、字は借字なり、)魚釣緡挽《ナツソビク》なり、魚釣《ナツル》と云ことは、五(ノ)卷に、多良志比賣可尾能美許等能奈都良須等美多多志世利斯伊志遠多禮美吉《タラシヒメカミコトノナツラストミタタシセリシイシヲタレミキ》、とある、これなり、故(レ)釣緡《ツリソ》を魚釣緡《ナツリソ》と云(ヒ)、釣竿《ツリザヲ》を魚釣竿《ナツリザヲ》と云しなり、(字鏡に、〓〓同、菜豆利坐乎《ナツリザヲ》、と見えたるも、魚釣竿《ナツリザヲ》の謂なり、〓(ノ)字は〓なるべし、毛詩に、〓々竹竿以釣2于淇(ニ)1、とあるに本づきて、釣竿の義とせる歟、〓(ノ)字はいかならむ、未(ダ)考(ヘ)得ず、若(401)は櫂か、されど櫂も棹と同じけれど、釣竿の義に用ひたること見當らず、いぶかしけれど、さる類の字、字鏡には多く見えたり、)かくて魚都利《ナツリ》と云べきを、魚都《ナツ》と云るは、利《リ》は活用言にて、自(ラ)省かる例なり、作田《ツクダ》、井光《ヰビカ》など云る類を、合(セ)思ふべし、挽《ヒク》とは、古事記上卷に、栲繩之千尋繩打延爲釣海人之大口之尾翼鱸《タクナハノチヒロナハウチハヘツラセルアマガオホクチノヲハタスヾキ》、佐和佐和邇控依騰而《サワサワニヒキヨセアゲテ》、云々とある、控《ヒク》なり、さて大かた海上にて魚釣には、かの釣繩にて、いと長き繩に枝緡《エダイト》をあまたつけ、その緡《イト》へ鉤をつけて、遠くうち延(ヘ)おきて、その繩をひきよせあげて、鉤をくひたる魚をとることなれば、控(ク)といへり、古今集に、伊勢の海の海人の釣繩打延て、と云るも是なり、さて妣久《ビク》と濁るは、古(ヘ)の音便にて、かゝる所をも濁りしなり、五(ノ)卷に、久禮奈爲乃阿陽毛須蘇毘伎《クレナヰノアカモスソビキ》、廿(ノ)卷に、乎等賣良我多麻毛須蘇婢久許能爾緻爾《ヲトメラガタマモスソビクコノニハニ》、とあるに同じ、かくて海上《ウナカミ》とかゝれるは、まづ海上《ウナカミ》は地(ノ)名ながら、海際《ウミキハ》の意にとりて、魚釣緡を挽(ク)海上と云係たるなり、集中に、綱手引海《ツナデヒクウミ》とよめると同趣なり、さて海際を海上《ウナカミ》と云ることは、五(ノ)卷詠2鎭懷石(ヲ)1歌に、宇奈可美乃古布乃波良爾《ウナカミノコフノハラニ》云々、とあるは、海際にある子負《コフノ》原と云にて、其意(ノ)今と同じきを思ふべし、宇奈比泰《ウナヒ》と、つゞけたるは、海之合《ウナヒ》の意ときこえたり、十三に、夏麻引《ナツソビク》命號貯とあるのみは未(タ)考(ヘ)得ざれども、これは、引の下脱語あるべければ、今よく考へていふべし、抑々この枕詞、集中に夏麻と書たる字に拘りて、昔(シ)より其意を得たる人一人だになし、(冠辭考の説は、さらにあまなひがたし、)○海上滷《ウナカミガタ》、海上《ウナカミ》は、古事記に、上菟上《カミツウナカミノ》國(ノ)造、下(402)菟上《シモツウナカミノ》國(ノ)造、國造本紀に、上海上《カミツウナカミノ》國(ノ)造、下海上《シモツウナカミノ》國(ノ)造、とあり、和名抄に、上總(ノ)國にも下總(ノ)國にも、海上(ノ)郡ありて、宇奈加美《ウナカミ》と註《シル》せり、上海上《カミツウナカミ》は上總(ノ)國、下海上《シモツウナカミ》は下總(ノ)國なるをいへるなり、此《コヽ》にいへるも、右の内ながら、何(レ)の國なるをいへりとも定めがたし、滷《カタ》は干潟《ヒカタ》たり、○鳥者簀竹跡《トリハスダケド》は、鳥は集りさわけどゝ云が如し、○君者音文不爲は、キミハオトモセズ〔八字右○〕と訓べし、(セヌ〔二字右○〕と訓はわろし、)旅行し人の、音信もせずと云なり、十六に、吾門之榎實毛利喫百千鳥千鳥者雖來君曾不來座《ワガカドノエノミモリハムモヽチドリチドリハクレドキミゾキマサヌ》、意詞似たり、○歌(ノ)意は、海上潟の奥つ洲に、よしなき鳥は集りさわけども、旅行し君は、すべて音信もせず、いかゞなりけむおぼつかなし、となり、
 
1177 若狹在《ワカサナル》。三方之海之《ミカタノウミノ》。濱清美《ハマキヨミ》。伊往變良比《イユキカヘラヒ》。見跡不飽可聞《ミレドアカヌカモ》。
 
三方之海《ミカタノウミ》は、和名抄に、若狹(ノ)國三方(ノ)(美加太《ミカタ》)郡|三方《ミカタ》、とあり、そこの海なり、○伊往變良比《イユキカヘラヒ》は、伊《イ》はそへ言、往還《ユキカヘリ》の伸りたるなり、伸たるは、緩《ノドカ》に往反《ユキカヘリ》する容なり、○歌(ノ)意は、若狹にある三方の海の濱が清くて面白き故に、行かへり行かへりしつゝ、いくたびとなく見れども、さてもあきたらぬこと哉、となり、
 
1178 印南野者《イナミヌハ》。往過奴良之《ユキスギヌラシ》。天傳《アマヅタフ》。日笠浦《ヒカサノウラニ》。波立見《ナミタテリミユ》。
 
印南野《イナミヌ》は、既くあまた出たり、○天傳《アマヅタフ》は、日の枕詞なり、○日笠浦《ヒカサノウラ》は、播磨(ノ)國明石にあり、推古天皇(ノ)紀に、十一年秋七月丙午、當麻(ノ)皇子到2播磨(ニ)1時、從妻舍人(ノ)姫王薨2於赤石(ニ)1、仍葬2于赤石(ノ)槍笠(ノ)岡(ノ)上(ニ)1(403)云々、とあり、○波立見は、ナミタテリミユ〔七字右○〕と訓べし、(タテル〔三字右○〕と訓はわろし、)かゝる處を、タテル〔三字右○〕と云ずしてタテリ〔三字右○〕と云は、古歌の格なり、○舊本に、一(ニ)云思賀麻江者許藝須疑奴良思、と註せり、思賀麻江(賀の濁音の字を書るは、正しからず、)は、和名抄に、播磨(ノ)國餝磨(ノ)郡とあり、其地の江なり、十五に、和多都美乃宇美爾伊弖多流思可麻河泊《ワタツミノウミニイデタルシカマガハ》、とも見えたり、○歌(ノ)意は、吾(カ)行印南野は、もはや歴往過ぬるにてあるらし、その所由《ヨシ》は、檜笠の浦に、浪のたてるが見ゆ、となり、
 
1179 家爾之?《イヘニシテ》。吾者將戀名《アレハコヒムナ》。印南野乃《イナミヌノ》。淺茅之上爾《アサヂガウヘニ》。照之月夜乎《テリシツクヨヲ》。
 
歌(ノ)意は、印南野の淺茅が上に、照し月の面白さを、後に家にかへり行て、戀しく思はむなあ、となり、印南野を過るほど、月の興ありしを、家にかへりて後に、戀慕むことを、かねて思へるなり、」
 
1180 荒磯超《アリソコス》。浪乎恐見《ナミヲカシコミ》。淡路島《アハヂシマ》。不見哉將過《ミズヤスギナム》。幾許近乎《コヽダチカキヲ》。
 
不見哉將過《ミズヤスギナム》、元暦本に、過を去と作て、ミズテヤイナム〔七字右○〕とよめり、○歌(ノ)意は、淡路島は、そこばく間遠にあらず、甚近きを、荒磯を超す浪があらくて、おそろしき故に、船をよすることを得せずして、見まほしく思ふ淡路島を、見ずして過行なむ、となり、
 
1181 朝霞《アサカスミ》。不止輕引《ヤマズタナビク》。龍田山《タツタヤマ》。船出將爲日者《フナデセムヒハ》。吾將戀香聞《アレコヒムカモ》。
 
歌(ノ)意は、難波津より船發せむ日は、霞の常にたなびきて面白き、故郷の方の龍田山を、戀しく思はむか、嗚呼《アハレ》さても見あかぬ龍田山を、となり、龍田山は、西は河内(ノ)國、東は大和(ノ)國なればなり、
 
(404)1182 海人小船《アマヲブネ》。帆毳張流登《ホカモハレルト》。見左右荷《ミルマデニ》。鞆之浦回二《トモノウラミニ》。浪立有所見《ナミタテリミユ》。
 
鞆之浦《トモノウラ》は、備後國にあり、三(ノ)卷に、太宰帥大伴(ノ)卿(ノ)歌に見えて、そこに註しき、○浪立有所見は、ナミタテリミユ〔七字右○〕と訓べし、古歌の格なり、(略解などに、ナミタテルミユ〔七字右○〕と訓るは、古風を知ざるなり、)○歌(ノ)意は、あれは、海人小船に帆を張たるにや、と見るまでに、鞆の浦のめぐりに、高く浪の立るが見ゆ、となり
 
1183 好去而《マサキクテ》。亦還見六《マタカヘリミム》。大夫乃《マスラヲノ》。手二卷持在《テニマキモタル》。鞆之浦回乎《トモノウラミヲ》。
 
好去而を、マサキクテ〔五字右○〕と訓べき例、集中に多し、九(ノ)卷に、吾思吾子眞好去有欲得《アガオモフアゴマサキクアリコソ》、十三に、新夜乃好去通《アラタヨノサキクカヨハム》、十七に、好去而安禮可弊里許牟《マサキクテアレカヘリコム》、廿(ノ)卷に、好去而早還等《マサキクテハヤクカヘレト》など見えたり、書紀に、行矣をサキク〔三字右○〕とよめり、漢書の師古が註に、行矣猶3今言2好去(ト)1、とあり、○第三四(ノ)句は、鞆《トモ》をいはむ料の序なり、鞆は弓射る時、左の手に卷附るものなれば、かく云り、鞆の事は、一(ノ)卷に具(ク)註り、○歌(ノ)意は、この鞆の浦の面白きけしきを、今のみ見て止べきにあらねば、平安《サキク》ありて、又後にもかへり來て見む、となり、
 
1184 鳥自物《トリジモノ》。海二浮居而《ウミニウキヰテ》。奥津浪《オキツナミ》。驂乎聞者《サワクヲキケバ》。數悲哭《アマタカナシモ》。
 
鳥自物《トリジモノ》は、枕詞なり、○數悲哭《アマタカナシモ》は、數《アマタ》は、すぐれて甚しきをいへり、八(ノ)卷に、安麻多須辨奈吉《アマタスベナキ》、十二に、安萬田悔毛《アマタクヤシモ》、などあり、悲《カナシ》は、此《コヽ》は字の如し、哭《モ》は歎息(ノ)辭なり、哭(ノ)字、集中モ〔右○〕と訓べき處に、あま(405)た用(ヒ)たり、○歌(ノ)意は、船に乘て海上に浮居て、奥つ浪の立動く音を聞ば、すぐれて甚しく、心ぼそくさても悲憐《カナシ》き海路哉、となり、
 
1185 朝菜寸二《アサナギニ》。眞梶※[手偏+旁]出而《マカヂコギデテ》。見乍來之《ミツヽコシ》。三津乃松原《ミツノマツバラ》。浪起似所見《ナミコシニミユ》。
 
歌(ノ)意は、今朝風波の和《ナギ》たる間に、目のあたり見つゝ※[手偏+旁]來し三津の松原の、今は遙に浪越に見ゆ、となり、
 
1186 朝入爲流《アサリスル》。海未通女等之《アマヲトメラガ》。袖通《ソデトホリ》。沾西衣《ヌレニシコロモ》。雖干跡不乾《ホセドカワカズ》。
 
袖通《ソデトホリ》は、袖通りて、下著まで沾るゝよしなり、○雖干跡不乾《ホセドカワカズ》、上に雖凉常不干《ホセドカワカズ》とあり、雖(ノ)字は、ド〔右○〕とも、ドモ〔二字右○〕とも訓は、ド〔右○〕と訓(メ)しめむとて、跡(ノ)字常(ノ)字をそへて書り、○歌(ノ)意は、魚菜の類を求るとて、海人少女が袖通りて、下著までひた/\と沾にし衣は、ほせどたはやすくかわかず、となり、
 
1187 網引爲《アビキスル》。海子哉見《アマトヤミラン》。飽浦《アクラノ》。清荒磯《キヨキアリソヲ》。見來吾《ミニコシアレヲ》。
 
飽浦《アクラ》は、十一に、木國之飽等濱之忘貝《キノクニノアクラノハマノワスレガヒ》、とよめり、玉勝間に、飽等濱《アクラノハマ》は、紀伊(ノ)國海士(ノ)郡賀田(ノ)浦の南の方に、田倉崎《タクラサキ》といふ所ある是なり、と里人の云傳へたるとぞ、と云り、按(フ)に、此は、浦の下に、海(ノ)字などありしが、ふと寫し脱したるにもあるべし、さらばアクラノミ〔五字右○〕と訓べし、此(ノ)歌にては、アクラノ〔四字右○〕と四言によめりとも思はれねばなり、○歌(ノ)意は、紀伊(ノ)國|飽浦《アクラ》の海の、清き荒磯の面(406)白さに、わざ/\見に來し吾なるを、外目に見(ル)人は、網引する海人と見らむか、となり、此(ノ)下に、濱清美磯爾吾居者見者白水郎可將見釣不爲爾《ハマキヨミイソニアガヲレバミムヒトハアマトカミラムツリモセナクニ》、又|鹽早三磯回荷居者入潮爲海人鳥屋見濫多比由久和禮乎《シホハヤミイソミニヲレバアサリスルアマトヤミラムタビユクワレヲ》、三(ノ)卷に、荒栲藤江之浦爾鈴寸釣白水郎跡香將見旅去吾乎《アラタヘノフヂエノウラニスヾキツルアマトカミラムタビユクアレヲ》、みな似たる歌なり、
〔右一首。柿本朝臣人麿之歌集出。〕
 
1188 山越而《ヤマコエテ》。遠津之濱之《トホツノハマノ》。石管自《イソツヽジ》。迄吾來《カヘリユムマデ》。含而有待《フヽミテアリマテ》。
 
山越而《ヤマコエテ》は、第四(ノ)句の上に移して心得べし、(略解に、山越而《ヤマコエテ》は、遠《トホ》と云へかゝる枕詞なりと云るは、甚誤なり、なほ次に云を見て考ふべし、)○遠津之濱は、十一に、霰零遠津大浦爾縁浪《アラレフリトホツオホウラニヨスルナミ》(本居氏云、大(ノ)字は之の誤歟、)と見えて、其(ノ)歌(ノ)次に並びて、木海之名高之浦《キノウミノナタカノウラ》とよめれば、紀伊(ノ)國なるべし、古事記に、遠津年魚目目微此賣《トホツアユメマグハシヒメ》、とある遠津《トホツ》も、紀(ノ)國の地(ノ)名なるべし、と本居氏云り、○石管自は、イソツヽジ〔五字右○〕と訓べし、磯躑躅《イソツヽジ》なり、二(ノ)卷に、水傳磯乃浦回乃石乍目《ミヅツタフイソノウラミノイソツヽジ》、ともよめり、(昔來《ムカシヨリ》此(ノ)石管自、石乍目を、イハツヽジ〔五字右○〕とよみて、和名抄に、羊躑躅を和名|以波豆々之《イハツヽジ》とあるに依て、躑躅の一種の名と心得たるは、大《イミジ》き誤なり、石はかならずイソ〔二字右○〕にて、磯際に生たるつゝじなり、二首ながら、みな海邊によめるにても其(ノ)意なるをさとるべし、磯に生たる松を、磯松《イソマツ》など云と同じ例なり、此は余が發明せるなり、)なほ品物解に具(ク)云るを、照(シ)見て考(フ)べし、○迄吾來は、按(フ)に、吾(ノ)(407)字は返の誤なるべし、吾返草書は似たり、さらばカヘリコムマデ〔七字右○〕と訓べし、此下に足代過而絲鹿乃山之櫻花不散在南還來萬代《アテスギテイトカノヤマノサクラバナチラズアラナムカヘリコムマデ》、九(ノ)卷長歌に、櫻花者《サクラノハナハ》云々|落莫亂草枕客去君之及還來《チリナミダリソクサマクラタビユクキミガカヘリコムマデ》、などあるを考(ヘ)合(ス)べし、○歌(ノ)意は、遠津の濱なる磯つゝじよ、旅行(ク)余《オノ》が、山越て還り來む時まで、含てありあり待てよ、とく開出て返り來むとき、はや散失てあらむは、いと/\口(チ)をしきことなればなりと、つゝじにおほせたるなり、右に引く、足代過而《アテスギテ》云々も、絲鹿(ノ)山の櫻花よ、足代過てわが還り來むまで、散ずして有れと云意にて、同體の歌なり、
 
1189 大海爾《オホウミニ》。荒莫吹《アラシナフキソ》。四長鳥《シナガトリ》。居之名湖爾《ヰナノミナトニ》。舟泊左右手《フネハツルマデ》。
 
居之名湖《ヰナノミナト》は、攝津(ノ)國豐島(ノ)郡居名の海湊なり、上に出づ、○歌(ノ)意は、居名の湊に、船の行(キ)著(ク)まで大海に嵐吹て、浪荒く立しむることなかれ、となり、
 
1190 舟盡《フネハテゝ》。可志振立而《カシフリタテテ》。廬利爲名《イホリセナ》。子江乃濱邊《コガタノハマヘ》。過不勝鳧《スギカテヌカモ》。
 
可志振立而《カシフリタテテ》は、和名抄に、唐韻(ニ)云〓〓(ハ)所2以繋1v舟(ヲ)、漢語抄(ニ)云|加之《カシ》、と見えて、舟を繋く杙を、舟盡る所へ振立るなり、十五に、大船爾可之布里多弖天波麻藝欲伎麻里布能宇良爾也杼里可世麻之《オホフネニカシフリタテテハマギヨキマリフノウラニヤドリカセマシ》、廿(ノ)卷に、安乎奈美爾蘇弖佐閇奴禮弖許具布禰乃可之布流保刀爾左欲布氣奈武可《アヲナミニソデサヘヌレテコグフネノカシフルホトニサヨフケナムカ》、などもあり、○廬利爲名《イホリセナ》は、いほりせむと、一念《ヒトスヂ》に思ひ入たるよしを、急にいふ辭なり、○子江乃濱邊は、按(フ)に、江は潟(ノ)字なりけむを、草書《ウチトケガキ》より書誤れるなるべし、さらばコガタノハマヘ〔七字右○〕と訓べし、(408)子潟《コガタ》は、十六に、粉滷乃海《コガタノウミ》と見えて、清原(ノ)元輔(ノ)集に、浪問分見るかひしなし伊勢の海のいづれ粉潟《コガタ》の名殘なるらむ、とあれば、伊勢(ノ)國の名處なることしられたり、さて海とよめるからは、濱をもいふべきことさらなり、かくてこの羈旅作の第二章に、既く圓方之湊《マトカタノミナト》の歌あり、圓方《マトカタ》は、伊勢の名處なれば、こゝにも同國の子潟《コガタ》をよめるなり、(舊來名(ノ)字を、第四(ノ)句に、屬《ツケ》て、名子江乃濱邊《ナゴエノハマヘ》、とよめるにつきて、契冲、越中(ノ)國射水(ノ)郡に、名子江《ナゴエ》はあれども、此(ノ)歌は、前後のつゞきを、見るに、名兒の海にて、津(ノ)國の名所なるべし、といへり、しかれども、攝津(ノ)國なる名兒《ナゴ》は、此(ノ)上に、名兒之濱《ナゴノハマ》とも、奈呉乃海《ナゴノウミ》ともよみ、此(ノ)下には、名兒乃海《ナゴノウミ》と見え、又越中なるをも奈呉能海《ナゴノウミ》とも、奈吾之浦《ナゴノウラ》とも、奈呉乃江《ナゴノエ》とも、奈呉江《ナゴエ》ともよみて、奈呉江之濱《ナゴエノハマ》といへることはなし、又|江《エ》の濱とはいふべき理ならねば、津(ノ)國の名兒ならむとは、思はれずなむ、〉○歌(ノ)意は、子潟《コガタ》の濱の風景の、あかずおもしろきに、こぎ過るにたへず思はるゝ哉、いでや、今日はこの濱邊に、舟こぎ泊て〓〓《カシ》ふり立て、旅宿りしてなぐさまむ、となり、
 
1191 妹門《イモガカド》。出入乃河之《イリイヅミカハノ》。瀬速見《セヲハヤミ》。吾馬爪衝《アガウマツマヅク》。家思良下《イヘモフラシモ》。
 
妹門《イモガカド》は、枕詞なり、○出入乃河は、もし本のまゝならば、入野河《イリヌガハ》なるを、集中に、振山《フルヤマ》を、未通女等之袖振山《ヲトメラガソテフルヤマ》、とよめる類にて、枕詞の連によりて、かく云るなるべし、入野河は、此(ノ)下に、劔後鞘納野邇葛引吾妹《タチノシリサヤニイリヌニクズヒクワギモ》、十(ノ)卷に、左小牡鹿之入野乃爲酢寸《サヲシカノイリヌノススキ》、などよみて、神名帳に、山城(ノ)國乙訓(ノ)郡入野(ノ)神(409)社とあれば、其處の川を云ならむ、かくて古へは野をばヌ〔右○〕とのみ云れば、此ももとは、入野川とありけむを、後に野をノ〔右○〕と唱ふ世となりて、古(ヘ)を知らぬ人の、ふと野を乃と寫誤れるならむか、但(シ)入野河をよめる歌他に見えず、一説に、九(ノ)卷に、妹門入出見河乃床奈馬爾《イモガカドイリイヅミガハトコナメニ》、とあるに依て、此《コヽ》も入出氷《イリイヅミ》河とありしを、入出を倒置《オキタカヘ》、水を乃に誤れるなりと云り、是面白し、さらば山城(ノ)國相樂(ノ)郡(ノ)泉河なり、○家思良下《イヘモフラシモ》は、家人の吾を思ふらしと云なり、母《モ》は、歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、この渡る川の瀬が急き故に、吾(カ)乘(レ)る馬の爪衝てなづむにや、いや家人に戀しく思はるれば、のれる馬の爪づくことありといへば、家人の吾を戀しく思ふ故なるらし、さても家路戀しや、となり、三(ノ)卷笠(ノ)朝臣金村(カ)歌に、鹽津山打越去者我乘有馬曾爪突家戀良霜《シホツヤマウチコエユケバアガノレルウマソツマヅクイヘコフラシモ》、とあるに同じ、
 
1192 白栲爾《シロタヘニ》。丹保布信士之《ニホフマツチノ》。山川爾《ヤマガハニ》。吾馬難《アガウマナヅム》。家戀良下《イヘコフラシモ》。
 
白栲爾《シロタヘニ》云々は、白くうるはしくにほふ眞土、と山(ノ)名を白土になして云かけたり、丹保布《ニホフ》は、赤白にかぎらず、色の映々《ハエ/\》しきを云言なり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、末(ノ)句は、上の歌に全(ラ)同じ、
 
1193 勢能山爾《セノヤマニ》。直向《タヾニムカヘル》。妹之山《イモノヤマ》。事聽屋毛《コトユルセヤモ》。打橋渡《ウチハシワタス》。
 
歌(ノ)意は、夫《セ》の山に、直しくさし向へる妹《イモ》の山は、夫《セ》のいざ婚《アハ》むと云言を、妹の聽しうけ、引(ケ)ばにや、其(ノ)二(タ)山の間の川に、打橋を渡して、安く相通ふべく設なしたるとなり、○本居氏、妹山と云(410)は、兄山あるにつきて、たゞまうけて云る名にて、實に然いふ山あるにはあらじ、されば、兄山の事は、たしかによめれど、妹山の事とては、さしてよめる歌見えず、皆兄の山につきての詞のあやに、妹山とも云るごときこえて、兄山をいはずして、たゞ妹山をよめるはなし、此(ノ)歌も兄山をこゆる時に、谷川などに、かりそめなる橋をわたせる所を見て、そのあたりにならべる山を、かりに妹山として、かくはよめるなるべし、と云り、(なほ其(ノ)説、玉勝間九(ノ)卷に具(ク)見えたり、今は略して引つ、)兄の山妹山を連ねよめる歌は、四(ノ)卷に、後居而戀乍不有者木國乃妹背乃山爾有益物乎《オクレヰテコヒツヽアラズバキノクニノイモセノヤマニアラマシモノヲ》、此(ノ)下に、麻衣著者夏樫木國之妹背之山二麻蒔吾妹《アサコロモケレバナツカシキノクニノイモセノヤマニアサマクワギモ》、又|妹爾戀余越去者勢能山之妹爾不戀而有之乏左《イモニコヒアガコエユケバセノヤマイモニコヒズテアルガトモシサ》、又|人在者母之最愛子曾麻毛吉木川邊之妹與背之山《ヒトナラバハヽノマナコノゾアサモヨシキノカハノヘノイモトセノヤマ》、又|吾妹子爾吾戀行者乏雲並居鴨妹與勢能山《ワギモコニアガコヒユケバトモシクモナラビヲルカモイモトセノヤマ》、又、大穴道少御神作妹勢山見吉《オホアナミチスクナミカミノツクラシヽイモセノヤマミラクシヨシモ》、十三に木國之《キノクニノ》云々|妹乃山勢能山越而《イモノヤマセノヤマコエテ》云々、などあり、
 
1194 木國之《キノクニノ》。狹日鹿乃浦爾《サヒカノウラニ》。出見者《イデミレバ》。海人之燈火《アマノトモシビ》。浪間從所見《ナミノマユミユ》。
 
狹日鹿乃浦《ヒサカノウラ》は、本居氏、海士(ノ)郡にて、雜賀(ノ)庄とて廣き所なる、其(ノ)中に若(ノ)浦の西方に、雜賀崎と云所あり、此(ノ)わたり、雜賀(ノ)浦なるべし、と云り、六(ノ)卷長歌に、左日鹿野《サヒカヌ》とあるも、同地なり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、○元暦本並活字本、此歌より已下十四首、下の玉津島雖見不飽《タマツシマミレトモアカズ》云々の歌の次に入れり、
 
(411)1195 麻衣《アサゴロモ》。著者夏樫《ケレバナツカシ》。木國之《キノクニノ》。妹背之山二《イモセノヤマニ》。麻蒔吾妹《アサマクワギモ》
 
歌(ノ)意は、己がさきに、妹背の山を往しほど、其(ノ)山に麻蒔居し妹が、目につきてうるはしかりしが、今吾が麻衣を取著ぬれば、いとゞかの麻蒔居し妹が面影の、思ひ出られて、なつかしく慕はし、と云るなるべし、(略解に、吾も麻衣を著てあれば、麻まく妹よ、縁ありてむつましくおもはるゝと云なりと云り、とあるはたがへり、○或問、さきに妹背の山に麻蒔し妹を、今思ひ出る意ならば尾句|麻蒔之妹《アサマキシイモ》などあるべし、麻蒔吾妹《アサマクワギモ》とては、過去の辭なければ、なほ略解の説まされるが如し、如何、答しからず、此(ノ)歌は、麻蒔吾妹《アサマクワギモ》、その麻蒔居し容《スガタ》の、今なつかしと云ほどの意なり、一(ノ)卷に、綵女之袖吹反明日香風京都乎遠見無用爾布久《ヲトメノソデフキカヘスアスカカゼミヤコヲトホミイタヅラニフク》、とあるも、軸吹反《ソデフキカヘ》せしといふべきが如くなれども、袖吹反す明日香風、その吹反せし風が、今は無用にふくと云意なり、相例すべし、古言の樣をよくうかゞひ得たらば、疑ふべきことなし、己が麻衣をきてあるゆゑに、麻まく女を、なつかしく思ふ意としては、しなゝく情あさびてきこゆるをや、
〔右七首者。藤原卿作。未審年月。〕
七首とあれど、山越而《ヤマコエテ》云々の歌より已下八首なるべし、誤れるにや、○藤原(ノ)卿は、契冲云、藤原(ノ)北(ノ)卿にて、房前なるべきを、北の字おちたるにこそ、といへり、
 
1196 欲得※[果/衣]登《ツトモガト》。乞者令取《コハバトラセム》。貝拾《カヒヒリフ》。吾乎沾莫《ワレヲヌラスナ》。奧津白浪《オキツシラナミ》。
 
(412)貝拾は、カヒヒリフ〔五字右○〕と訓べし、(ヒロフ〔三字右○〕と云は、古言に非ず、)○歌(ノ)意は、己が濱邊に出て貝を拾へば、奥つ浪も、裹《ツト》もがな欲《ホシ》きとて、此(ノ)貝を取むと打縁(リ)來(タ)るらむ、若(シ)裹ほしくは汝にも取せむぞ、吾をば沾すことなかれ、奥つ白浪よ、と云るなるべし、(これ余が考(ヘ)なり、略解に、つともがなと乞ば、とらせむ爲に、貝拾ふと云意とせるは、しなゝくきこえてわろし、)
 
1197 手取之《テニトルガ》。柄二忘跡《カラニワスルト》。礒人之曰師《アマノイヒシ》。戀忘貝《コヒワスレガヒ》。言二師有來《コトニシアリケリ》。
手取之は、テニトルガ〔五字右○〕と訓べし、(テニトリシ〔五字右○〕とよみては、忘をワスレシ〔四字右○〕とか、ワスレヌ〔四字右○〕とか訓ては、調はざる故にわろし、)○歌(ノ)意は、戀忘貝を手に取れば、必思ふ事を忘ると海人が云しは、言のみにして實なし、いかにとなれば、戀忘貝を手に取たれば、家路をも忘るべきに、さはなくして、いとゞ家人の、戀しく思はるゝを、となり、
 
1198 求食爲跡《アサリスト》。磯二住鶴《イソニスムタヅ》。曉去者《アケユケバ》。濱風寒彌《ハマカゼサムミ》。自妻喚毛《オノツマヨブモ》。
 
歌(ノ)意は、食《ハミモノ》を求るとて、海の磯邊に下居たる鶴が、夜が明ゆくと、濱風が寒くふく故に、己が妻を呼よ、さてもあはれなる聲や、となり、上に暮名寸爾求食爲鶴鹽滿者奥浪高三己妻喚《ユフナギニアサリスルタヅシホミテバオキナミタカミオノツマヨブモ》、
 
1199 藻苅舟《モカリブネ》。奥※[手偏+旁]來良之《オキコギクラシ》。妹之島《イモガシマ》。形見之浦爾《カタミノウラニ》。鶴翔所見《タヅカケルミユ》。
 
妹之島形見之浦《イモガシマカタミノウラ》は、紀伊なるべし、神名帳に、紀伊(ノ)國名草(ノ)郡|堅眞《カタマノ》神社あり、形見《カタミ》は、若は其(ノ)地か、○歌(ノ)意は、海人が藻を刈舟の奥の方より漕來(タ)るらし、其(ノ)船に驚きたりと見えて、妹が島形見(413)の浦に、鶴の飛かけるが見ゆ、となり、
 
1200 吾舟者《ワガフネハ》。從奥莫離《オキヨナサカリ》。向舟《ムカヒブネ》。片待香光《カタマチガテリ》。從浦※[手偏+旁]將會《ウラユコギアハム》。
 
從奥莫離は、オキヨナサカリ〔七字右○〕と訓べし、(ナサカ〔四字右○〕はナサカリソ〔五字右○〕とあるべきやうの處なるを、ソ〔右○〕の辭は、かろくそへたる辭なれば、あるもなきも意は同じことなり、かゝるを近(キ)世の歌どもには、たとへばナサカリ〔四字右○〕と云べきナ〔右○〕の言をば略きて、下のソ〔右○〕を云て、サカリソ〔四字右○〕と云る類ままあるは、大《イミ》じき非なり、ナ〔右○〕は必(ス)なくて叶はぬことなるをや、)奥へ離る勿《ナ》と云意なり、從《ヨ》は、例の敝《ヘ》に通ふ從《ヨ》なろ、三(ノ)卷に、吾船者枚乃湖爾※[手偏+旁]將泊奧部莫離左夜深去來《アガフネハヒラノミナトニコギハテムオキヘナサカリサヨフケニケリ》、とあるに同じ、○向舟《ムカヒブネ》は、迎船《ムカヒブネ》なり、沖の方に出たる船の歸るを、迎(ヒ)に來る船なり、○片待香光は、カタマチガテリ〔七字右○〕とよむべし、(ガテラ〔三字右○〕と云ることも、集中にあれど、此は光(ノ)字を書たれば、ガテリ〔三字右○〕と訓べきなり、)片待《カタマチ》は、片《カタ》は、片就《カタヅク》、片設《カタマク》など云|片《カタ》にて、偏《カタ/”\》に待よしなり、香光《ガテリ》は、事を帶《カネ》たるに云言なり、一(ノ)卷に、山邊乃御井乎見我弖利神風乃伊勢處女等相見鶴鴨《ヤマヘノミヰヲミガテリカムカゼノイセヲトメドモアヒミツルカモ》、十七に、秋田乃穗牟伎見我底利和我勢古我布佐多乎里家流乎美奈敝之香物《アキノタノホムキミガテリワガセコガフサタヲリケルヲミナヘシカモ》、などあり、又十八に、伎美我都可比乎可多麻知我底良《キミガツカヒヲカタマチガテラ》、十九に、吾妹子我可多見我?良等《ワギモコガカタミガテラト》、なども見ゆ、○歌(ノ)意は、吾(ガ)舟は、沖の方へこぎ出遠放ることなかれ、もはや吾(ガ)船の歸るを、迎(ヒ)に來む時節なれば、その迎(ヒ)舶を偏《カタ/\》に待|加《ガテ》ら、浦のけしきを見はやして、その迎(ヒ)舟に漕あはむぞ、となり、
 
(414)1201 大海之《オホウミノ》。水底豐三《ミナソコトヨミ》。立浪之《タツナミノ》。將依思有《ヨセムトモヘル》。磯之清左《イソノサヤケサ》。
 
水底豐三《ミナソコトヨミ》は、浪(ノ)音は、海(ノ)底に鳴響て聞ゆれば云り、豐三《トヨミ》は、響《トヨミ》なり、○歌(ノ)意、まづ立浪之と云までは、序の如く云たるにて、浪の依と係りて、さて吾(カ)船を※[手偏+旁]依(セ)むと思へる磯の清くて、おもしろさいかばかりぞや、と云るなるべし、(略解に、吾いひよらむとすれば、人のいひさわぐといふ意の譬喩歌なり、とせるは非じ、)此(ノ)下にも、 大海之磯本由須理立波之將依念有濱之淨奚久《オホウミノイソモトユスリタツナミノヨセムトモヘルハマノサヤケク》、とあり、
 
1202 自荒磯毛《アリソユモ》。益而思哉《マシテオモヘヤ》。玉之浦《タマノウラ》。離小島《サカルコシマノ》。夢石見《イメニシミユル》。
 
玉之浦《タマノウラ》は、本居氏、那智山の下なる粉白《コシロ》浦といふところより、十町ばかり西南に有(リ)と云り、○離小島は、(此を、昔(シ)より、ハナレコシマ〔六字右○〕と訓て、島(ノ)名と心得たるは非なり、はなれ小島など云むは、古(ヘ)の地名のさまに非ず、忠度朝臣(ノ)集に、さよ吏て月影寒み玉の浦のはなれ小島に千鳥なくなり、とあれば、其(ノ)頃はこれを、ハナレ〔三字右○〕小島とよめるなるべし、)サカルコシマ〔六字右○〕と訓べし、玉の浦の奥つ方に、離りたる小島を云べし、(本居氏、玉の浦の南の海中に、ちり/”\に岩あれば、それを離《ハナレ》小島と云るなるべし、と云り、)○夢石見《イメニシミユル》、かやうに、ニシ〔二字右○〕と云るは、そのさだかにしかるよしをしめせるなり、○歌(ノ)意は、荒磯も面白くはあれど、その荒磯よりも、益りてめでたく思へばにや、玉の浦をさかれる小島が、なだかに夢にまで見ゆる、となり、
 
(415)1203 礒上爾《イソノヘニ》。爪木折燒《ツマキヲリタキ》。爲汝等《ナガタメト》。吾潜來之《アガカヅキコシ》。奧津白玉《オキツシラタマ》。
 
爪木《ツマキ》は、抓《ツミ》折たる薪の謂にて、凡て薪の小《ホソ》きを云なり、(詩註に、粗曰v薪、細曰v※[草がんむり/丞]《ツマギト》、)○歌(ノ)意は、磯(ノ)上に細薪《ツマキ》折たきて、海中より上りて、身をあたゝめ、又海中に入など、辛くして、汝が爲にとて、吾(ガ)かづき採得來し、この奥つ眞珠ぞ、おろかに思ふな、となり、鰒とる海人が海中より上れば、必(ス)燒火して身を暖むれば、かく云るなり、
 
1204 濱清美《ハマキヨミ》。礒爾吾居者《イソニアガヲレバ》。見者《ミムヒトハ》。白水郎可將見《アマトカミラム》。釣不爲爾《ツリモセナクニ》。
 
見者、見の下に人(ノ)字脱たるにて、ミムヒトハ〔五字右○〕とありしか、○歌(ノ)意は、濱が清き故に、其を賞《メデ》て磯に出て居れば、外目に見む人は、漁《イザリ》する海人と見らむか、吾は釣だにせぬことなるに、となり、此(ノ)上、又下、又三(ノ)卷等に能(ク)似たる歌あり、
 
1205 奥津梶《オキツカヂ》。漸漸志夫乎《ヤウヤウナコギ》。欲見《ミマクホリ》。吾爲里乃《アガスルサトノ》。隱久惜毛《カクラクヲシモ》。
 
奥津梶《オキツカヂ》は、船の左旁に貫たる※[楫+戈]なり、二(ノ)卷に委(ク)云り、○漸漸志夫乎、志夫乎は、莫水手の誤なるべし、さらばヤウ/\ナコギ〔七字右○〕と訓べし、(既く本居氏も、志夫乎を、爾水手と改めてヤヽヤヽニコゲ〔七字右○〕とよめり、水手は當れゝど、ヤヽヤヽ〔四字右○〕とよめると、爾に改めたるとは信《ウケ》がたし、元來ヤヽヤヽ〔四字右○〕てふ言はあることなし、そも/\稍をヤヽ〔二字右○〕と云は、本|彌《ヤ》の言を重ねて彌々《ヤヽ》と云るなれば、彌々彌々《ヤヽヤヽ》とまでは、重ねて云べきに非ざればなり、又漸々に云々成行とは、常にいへど、漸(416)漸に云々せよとは、云まじければなり、)漸々は、五(ノ)卷に、須臾毛余家久波奈志爾漸漸可多知都久保里《シマシクモヨケクハナシニヤウヤウニカタチツクホリ》、とありて、なは彼(ノ)卷に委(ク)云り、さてこゝの漸漸《ヤウヤウ》は、隱久《カクラク》の上にめぐらして意得べし、莫水手《ナコギ》と云(フ)へ、直に續ては聞べからず、○歌(ノ)意は、見れどもあかず、なほ見まほしく吾(カ)する里の漸々に隱れ行事はさても惜(シ)や、今しばらく見てゆかむと思ふを、奥つ※[楫+戈]をとゞめて、船を漕進むることなかれ、と※[楫+戈]取に令する謂なり、奥津梶莫水手欲見吾爲里乃漸漸隱久惜毛《オキツカヂナコギミマクホリアガスルサトノヤウヤクカクラクヲシモ》、と續て意得べし、
 
1206 奥津波《オキツナミ》。部都藻纒持《ヘツモマキモチ》。依來十方《ヨセクトモ》。君爾益有《キミニマサレル》。玉將縁八方《タマヨセメヤモ》。
 
部都藻《ヘツモ》は、海邊の藻なり、諸(ノ)祝詞に、奥津藻菜邊津藻菜《オキツモハヘツモハ》、と云り、○歌(ノ)意は、奥つ浪が、海邊の藻を纒ひ持來依(ス)るときには、それに比《タク》ひて、よき玉も依(ル)ことなり、たとひいかばかりよき玉をばよするとても、吾(ガ)思ふ君にまさりて、よき玉をよせむやは、げにも愛《メデ》たき君ぞ、となり、戀(ノ)歌なり、○舊本に、一云、奥津浪邊浪布敷縁來登母、と註せり、
 
1207 粟島爾《アハシマニ》。許枳將渡等《コギワタラムト》。思鞆《オモヘドモ》。赤石門浪《アカシノトナミ》。未佐和來《イマダサワケリ》。
 
粟島は三(ノ)卷に見えて具(ク)註り、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
1208 妹爾戀《イモニコヒ》。余越去者《アガコエユケバ》。勢能山之《セノヤマノ》。妹爾不戀而《イモニコヒズテ》。有之乏佐《アルガトモシサ》。
 
乏《トモシ》は、羨《ウラヤマ》しき意なり、○歌(ノ)意は、家の妹を戀しく思ひつゝ吾越行ば、兄(ノ)山の妹山に向(ヒ)居て、常に(417)戀しく思はずてあるが、うらやましさよ、となり、
 
1209 人在者《ヒトナラバ》。母之最愛子曾《ハヽノマナゴソ》。麻毛吉《アサモヨシ》。木川邊之《キノカハノベノ》。妹與背之山《イモトセノヤマ》。
 
母之最愛子《ハヽノマナゴ》は、六(ノ)卷長歌に、父公爾吾者眞名子敍母刀自爾吾者愛兒敍《チヽキミニアレハマナゴゾハヽトジニアレハマナゴゾ》、とある處に、具(ク)註り、(最愛子とあるは、言の意を得たる書樣なり、略解に、マナゴ〔三字右○〕は眞子なりと云るは、大《オホ》ろかなり、)○麻毛吉《アサモヨシ》は、枕詞なり、既く具(ク)註り、○歌(ノ)意は、紀(ノ)川の邊の妹と兄の山は、人にてあるならば、母の最愛《マナ》と云|兄弟《ハラカラ》の子ぞ、さても愛《ウツク》しき山、となり、
 
1210 吾妹子爾《ワギモコニ》。吾戀行者《アガコヒユケバ》。乏雲《トモシクモ》。並居鴨《ナラビヲルカモ》。妹與勢能山《イモトセノヤマ》。
 
歌(ノ)意は、上の妹爾戀《イモニコヒ》云々、とあるに同じ、
 
1211 妹當《イモガアタリ》。今曾吾行《イマゾアガユク》。目耳谷《メノミタニ》。吾耳見乞《アレニミセコソ》。事不問侶《コトトハズトモ》。
 
目耳谷《メノミタニ》は、目《メ》は所見《ミエ》の縮りたる言にて、こゝは妹が容顔なりともと云なり、目とは、人の容顔の、己が目に所見《ミユ》るよしもて云言なれば、所見《ミエ》の縮なるを知べし、(しかるを略解に、目ノミダニ〔四字右○〕は、目ニノミ〔三字右○〕のニ〔右○〕を略けり、と云るは大《イミジキ》誤なり、)君之目乎欲《キミガメヲホリ》など云目に同じ、(俗に、面ばかりでもと云に同じ、)○歌(ノ)意は、妹が家の邊を今ぞ吾(ガ)ゆく、たとひ物いひかはさずとも、その容貌ばかりなりとも見せよかし、となり、此(ノ)歌は戀(ノ)歌にて、其(ノ)意詳なるを、妹とあるを、大方に妹山の事と思ひ誤りて、此間に載しものなり、
 
(418)1212 足代過而《アテスギテ》。絲鹿乃山之《イトカノヤマノ》。櫻花《サクラバナ》。不散在南《チラズアラナム》。還來萬代《カヘリコムマデ》。
 
足代過而は、アテスギテ〔五字右○〕と訓べし、足代《アテ》は、紀伊(ノ)國在田(ノ)郡なり、持統天皇(ノ)紀、三年八月云々、紀伊(ノ)國阿提(ノ)郡云々、又續紀、大寶三年(ノ)條に、阿提、又天平三年(ノ)條に、阿?と見ゆ、かくて類聚國史に、大同元年、改2紀伊(ノ)國安諦(ノ)郡1、爲2在田郡(ト)1、以3詞渉2天皇(ノ)諱(ニ)1也、(平城天皇諱安殿、)と見えたり、さて此(レ)も本は一郷一邑の名なりけむが、後に廣く郡(ノ)名となれるなるべし、(さらずば絲鹿山も、今は在田(ノ)郡の内なれば、足代過而とは云べきに非ず、)○絲鹿乃山《イトカノヤマ》は、本居氏、熊野の道の坂にて、在田(ノ)郡なり、北の麓に、絲我《イトガ》の里、又絲我王子(ノ)社と云も有(リ)とぞ、と云り、金葉集に、絲鹿山くる人もなき夕晩に心ぼそくも喚子鳥哉、○還來萬代は、カヘリコムマデ〔七字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、一五二三四、と句を次第て見べし、足代過て還り來む迄、絲鹿《イトカ》の山の櫻花よ、散ずてあらなむ、と云なり、
 
1213 名草山《ナグサヤマ》。事西在來《コトニシアリケリ》。吾戀《アガコフル》。千重一重《チヘノヒトヘモ》。名草目名國《ナグサメナクニ》。
 
名草山《ナグサヤマ》は、紀伊(ノ)國名草(ノ)郡にある山なり、○歌(ノ)意は、名草山と名に負たれば、名のごとくに、人の心を慰さましむべきに、、さはなくて、なほ家路戀しく思ふ心の、千重の一重も、なぐさめしめぬをおもへば、名草と云は、只言のみにて、實にはさもなき事ぞ、となり、六(ノ)卷に、大汝小彦名能《オホナムヂスクナヒコナノ》、神社者名著始鷄目《カミコソハナヅケソメケメ》、名耳乎名兒山跡負而《ナノミヲナゴヤマトオヒテ》、吾戀之千重之一重裳奈具佐米亡國《アガコヒノチヘノヒトヘモナグサメナクニ》とあるに同じ、
 
1214 安太部去《アタヘユク》。小爲手乃山之《ヲステノヤマノ》。眞木葉毛《マキノハモ》。久不見者《ヒサシクミネバ》。蘿生爾家里《コケムシニケリ》。
 
(419)安太部去《アタヘユク》は、和名抄に、紀伊(ノ)國在田(ノ)郡|英多《アタ》、と見えて、その英多《アタ》へ行と云なり、部《ヘ》は、(方の意には非ず、)物へ〔右○〕行などいふへ〔右○〕なり、(但し略解に、ヘ〔右○〕はエ〔右○〕の如く讀べしと云るは、大《イミジキ》誤なり、凡てハヒフヘホ〔五字右○〕を、ワイウヱヲ〔五字右○〕の如く唱(フ)るは、最後(ノ)世の音便にこそあれ、古へはみな、本音のまゝに唱へしことなるをや、略解に又云、和名抄に、紀伊名草(ノ)郡誰戸とあり、安太部は是ならむか、さらば部を濁るべしと云り、是も非なり、誰戸アタヘ〔三字右○〕と訓べき謂《ヨシ》なし、又|安太部《アタベ》てふ地(ノ)名ならば、安太部敝去《アタベヘユク》、と云(ハ)では、詞たらはぬをや、)○小爲手乃山《ヲステノヤマ》は、本居氏、在田(ノ)郡山保田(ノ)庄に、推手《オシテ》村と云有(リ)これか、其(ノ)村は、伊都(ノ)郡の堺にて、山のおくなり、と云り、(略解に紀伊(ノ)國牟婁(ノ)都緒捨山、今も有(リ)と云るは、いかならむ、)現存六帖に、見ず久になりぞしにける小爲手《ヲステ》山眞木の古木の苔深きまで、夕去ば小爲手《ヲステ》の山の苔の上に眞木の葉凌ぎ積る白雪、○蘿生爾家里《コケムシニケリ》は、年經て舊めきたるさまを云なり、(蘿は苔なり、略解に、蘿は日蔭葛なりと云るは、眞木の葉には、苔の生べき理なしと思ひて、強て日かげ葛なり、と云るなり、此等はかならず、正しく苔の生たるをよめるには非ず、古へ凡て、年經て舊びたる物を、苔生と云なれたれば、たゞ苔生は舊(リ)たるさまを云詞と心得べし、神佐夫《カムサブ》と云詞の例の如し、其(レ)も年經て舊(ル)めきたるをすべ云て、神と云まじきものにも、神佐夫《カムサブ》と云が如し、)二(ノ)卷に、妹之名者千代爾將流姫島之小松之末爾蘿生萬代爾《イモガナハチヨニナガレムヒメシマノコマツノウレニコケムスマデニ》、三(ノ)卷に、何時間毛神左備祁留鹿香山之鉾椙之本爾蘿生左右二《イツノマモカムサビケルカカグヤマノホコスギノモトニコケムスマデニ》、十一に、敷細布枕人事問哉(420)其枕苔生負爲《シキタヘノマクラニヒトハコトトヘヤソノマクラニハコケムシニケリ》、十三に、明日香之河之水尾速生多米難《アスカノカハノミヲハヤミムシタメガタキ》、石根蘿生左右二《イハガネニコケムスマデニ》、新夜乃好去通牟《アラタヨノサキクカヨハム》云々、また神名備能三諸之山丹隱藏杉思過哉蘿生左右《カムナビノミモロノヤマニイハフスギオモヒスギメヤコケムスマデニ》、などよめるに同じ、眞木(ノ)葉には苔生まじけれども、たゞ久しく見ざる間に、甚く舊(ル)めきたるを云むとて、かく云るなり、子松が末《ウレ》に蘿生と云、又枕にさへ苔生と云るにて、皆唯舊(リ)たるためしを云るのみなるを知べし、○歌(ノ)意は、英多《アタ》へ行|小爲手《ヲステ》の山を久しく見ざりしあひだに、その山の眞木の葉にまでも、苔むしていと舊めきて、昔(シ)見しとはいたくさまかはれり、となり、
 
1215 玉津島《タマツシマ》。能見而伊座《ヨクミテイマセ》。青丹吉《アヲニヨシ》。平城有人之《ナラナルヒトノ》。待問者如何《マチトハバイカニ》。
 
玉津島《タマツシマ》は、六(ノ)卷に具(ク)註り、○能見而伊座《ヨクミテイマセ》は、委曲《ツマビラカ》に見て行給へ、と云に同じ、能《ヨク》は、芳野吉見與《ヨシヌヨクミヨ》の吉《ヨク》なり、(伊座《イマセ》は、俗に御出被v成といふが如し、)○青丹吉《アヲニヨシ》は、枕詞なり、一(ノ)卷に具(ク)註り、(諸説皆誤れり、)○待問者如何《マチトハバイカニ》、かく語の終に、如何《イカニ》と云は、此(ノ)下に、大海之波者畏然有十方神乎齋禮而船出爲者如何《オホウミノナミハカシコシシカレドモカミヲイハヒテフナデセバイカニ》、十六に、隱耳戀者辛苦山葉從出來月之顯者如何《コモリノミコフレバクルシヤマノハユイデクルツキノアラハサバイカニ》、古事記に、故(レ)以《ヲ》2吾(カ)身(ノ)成(リ)餘(レル)處1、刺(シ)d塞汝(カ)身(ノ)不2成(リ)合(ハ)1處(ニ)而、爲《オモフハ》2生2成《ウミナサムト》國土《クニ》1奈何《イカニ》、などある、みな同じ語(ノ)勢なり、待問《マチトフ》は、十七に、安我麻知刀敷爾《アガマチトフニ》、とあり、○歌(ノ)意は玉津島を、委曲によく/\見て行給へ、奈良なる家人の、君が歸るを待々て、この島のありかたを、委く問むときに、よく/\見て行給ずては、いかにかこたへ給はむ、となり、
 
(421)1216 塩滿者《シホミタバ》。如何將爲跡香《イカニセムトカ》。方便海之《ワタツミノ》。神我手渡《カミガトワタル》。海部未通女等《アマヲトメドモ》。
 
方便海《ワタツミ》と書るは、契冲、海龍王は、沙謁蘿龍王なり、沙謁蘿は梵語、譯して海といふ、およそ諸の善龍は、衆生を利益する方便にて、龍宮城をしめてすめば、そのこゝろにて、方便海とかけるにや、と云り、○神我手渡は、按に、手は戸(ノ)字の誤なり、さて戸は、借(リ)字にて、神我門《カミガト》なり、十六(ノ)末怕(シキ)物(ノ)歌に、奥國領君之染屋形黄染乃屋形神之門渡《オキツクニシラセルキミガシメヤカタキシメノヤカタカミガトワタル》、とよめる神之門《カミガト》に同じ、さて凡て神とは、何にまれ、いと恐惶《カシコ》きものを云名にて、こゝは海上の波荒くて、甚恐き所を云るなり、十八に、珠洲乃安麻能於伎都美可未爾伊和多利弖加都伎等流痛伊布《ススノアマノオキツミカミニイワタリテカヅキトルトイフ》云々、とあるも、海をかしこみて、御神《ミカミ》と云りと開ゆ、又十三に、惶八神之渡者吹風母和者不吹《カシコキヤカミノワタリハフクカゼモノドニハフカズ》、立浪母疎不立《タツナミモオホニハタヽズ》、跡座浪之立塞道麻《シキナミノタチサフミチヲ》云々、とあるをも考(ヘ)合(ス)べし、(この神之渡は、備中(ノ)國神島(ノ)濱をいへりと見ゆるに、神てふ名負る故は、彼處の海上のいと荒き故なるべきこと、歌の趣にて知られたり、さて荒木田氏(ノ)説に、三(ノ)卷に神之崎、此(ノ)卷に神前とあるは、カミノサキ〔五字右○〕と訓べし、この神之崎と云は、神武天皇(ノ)紀に、遂(ニ)越2狹野(ヲ)1到2熊野(ノ)神(ノ)邑1、と見えたる、そこの崎なり、こゝをしも神のさきと云は、即(チ)書紀に、海中|卒《タチマチ》遇《オコリテ》2暴風《アラシマカゼ》1、皇舟漂蕩時《ミフネタダヨヘルトキ》、稻飯(ノ)命|即歎《ウレタミテ》、曰d嗟乎吾祖《アハレアガミオヤハ》則天(ツ)神、母則海神、如何《イカナレカ》厄《タシナメ》2我(ヲ)於陸(ニ)1、復(タ)厄2我|於海《ウミカニ》1乎u、言訖乃《スナハチ》抜(テ)v剱(ヲ)入v海(ニ)化2爲《ナリタマヒキ》鋤持(ノ)神(ト)1、三毛入野命亦|恨之《ウレタミテ》、曰d我(カ)母及姨並是海神《ミハヽモミヲハモミナワタツミノカミナルニ》、何爲《ナニストカ》起《タテヽ》2波瀾《ナミヲ》1以灌溺乎《カクオボラシタマフラムトテ》u則、蹈《フミ》2波秀《ナミノホヲ》1而|往《イデマシキ》2于常世(ノ)郷1矣、とありて、こゝの海のかしこければ、やがて神(422)とは名におふしけむとあるにて、いよ/\神てふ名の由を合(セ)思(フ)べし、○略解に、十八に、沖つ御神とあるは、海底の神宮を云と見ゆ、されば神我《カミガ》手は、海(ノ)神の手と云なるべしと云るは、いみじきひがことなり、○歌(ノ)意は、さらぬだに波暴くて、甚危く見ゆるを、潮滿來なば、いかにしてのがれむとてか、海をとめどもが、かしこき海門をわたることぞ、となり、
 
1217 玉津島《タマツシマ》。見之善雲《ミテシヨケクモ》。吾無《アレハナシ》。京從而《ミヤコニユキテ》。戀幕思者《コヒマクモヘバ》。
 
戀幕思者《コヒマクモヘバ》は、戀しく思はむ事を、思へばの意なり、戀幕はコヒマク〔四字右○〕と訓べし、((略解に、コハマク〔四字右○〕と訓るはわろし、これは言の活動の法をしらきる訓なり、コヒム〔三字右○〕の伸れるなり、)○歌(ノ)意は、玉津島を見たし見たし、と常に思ひしが、今見れば、聞しにまさりて面白き地なり、しかれども此(ノ)島を見てしは、かへりてよきことにあらず、その故は、京にかへり行て、戀しく思はむ事を、かねて思へばとなり、契冲云(ク)、これは玉津島を、あまりに愛してほむるとて、かへりてよくもなしとはいふなり、大かたに見て、心のなぐさむばかりならば、よからむを、都へ歸りてもわすれず、こひおもはるべき玉津島なれば、なまじひに見たることゝいふ心によめり、第十五中臣(ノ)朝臣宅守が歌に、ひとよりは妹ぞもあしきこひもなくあらましものをおもはしめつつ、此(ノ)心に似なり、
 
1218 黒牛乃海《クロウシノミ》。紅丹穗經《クレナヰニホフ》。百磯城乃《モヽシキノ》。大宮人四《オホミヤヒトシ》。朝入爲良霜《アサリスラシモ》。
 
(423)黒牛乃海《クロウシノミ》は、本居氏、今は黒江と云て、若山の方より、熊野に物する大路にて、黒江、干潟名高と、つぎ/\にあひつらなりて、三里いづれも町づくりて、物うる家しげく立つゞき、にぎはゝしき里どもなり、皆入海のほとりにて、けしきよし、黒江などは、山にもかたかけたるところなり、此(ノ)わたり、むかしは名草(ノ)郡なりしを、今は、海士(ノ)郡と云り、此(ノ)紀(ノ)國の或書に、此(ノ)黒江の磯へに、昔(シ)いと大きにて、いろ黒き石の、牛のかたちしたるが有て、潮みつればかくれ、干ぬれば顯れけるを、いつの頃よりか、やう/\に土に埋れゆきて、見えずなりぬるを、一とせ里人どもあまたたちて、ほりあらはさむとせしかど、大きにして、つひにえほり出さでやみぬるを、今はそのあたりまで里つゞきて、かの石は、民の家の地の下に有よししるしたり、と云り、○紅丹穗經《クレナヰニホフ》は、女房等の装束の、海面に映るを云り、五(ノ)卷に、麻都良河波可波能世比可利阿由都流等《マツラガハカハノセヒカリアユツルト》、多多勢流伊毛河毛能須蘇奴例奴《タタセルイモガモノスソヌレヌ》、とあるに同じ、○歌(ノ)意は、黒牛の海面が、紅の色に映(リ)て、はえ/”\しく見ゆるよ、これは大宮人の女房等が、あまた舟にのりて、貝玉などを求るによりて、その装束の色の、うつろひて映(ル)ならし、さてもはえ/”\しく見ゆる事よ、となり、○九(ノ)卷、大寶元年辛巳冬十月、太上天皇、大行天皇、幸2紀伊(ノ)國(ニ)1時歌、十三首の中に、黒牛潟鹽干乃浦乎紅玉裙須蘇延往者誰妻《クロウシカタシホヒノウラヲクレナヰノタマモスソヒキユクハタガツマ》、と見えたり、今も同度の歌にて、大宮人は、從駕の女房等を云ならむ、此前後も、みな供奉人の歌と聞ゆ、又同卷紀伊(ノ)國作歌に、古家丹妹等吾見黒玉之久漏牛方乎見(424)佐府下《イニシヘニイモトアガミシヌバタマノクロウシガタヲミレバサブシモ》、その次に玉津島《タマツシマ》の歌もあり、
 
1219 若浦爾《ワカノウラニ》。白浪立而《シラナミタチテ》。奧風《オキツカゼ》。寒暮者《サムキユフヘハ》。山跡之所念《ヤマトシオモホユ》。
 
歌(ノ)意は、若の浦に浪あらく立て、沖つ風の寒き夕暮は、いとゞ心ぼそくて、一(ト)すぢに大和の家が、戀しく思はるゝ、となり、一(ノ)卷に、葦邊行鴨之羽我比爾霜零而寒暮夕和之所念《アシヘユクカモノハガヒニシモフリテサムキユフヘハヤマトシオモホユ》、
 
1220 爲妹《イモガタメ》。玉乎拾跡《タマヲヒリフト》。木國之《キノクニノ》。湯等乃三埼二《ユラノミサキニ》。此日鞍四通《コノヒクラシツ》。
 
湯等乃三埼《ユラノミサキ》は、九(ノ)卷、大寶元年、幸2紀伊(ノ)國(ニ)1時(ノ)歌の中に、湯等前《ユラノサキ》、湯等乃前《ユラノサキ》、など見えたり、(古事記仁徳天皇(ノ)條(ノ)歌に、由良能十能斗那加能伊久理爾《ユラノトノトナカノイクリニ》云々、とあるは、神名帳に、淡路(ノ)國津名(ノ)郡由良(ノ)湊(ノ)神社とある地にて、今とは異所なり、又曾根(ノ)好忠が歌によめる由良の門は、丹後(ノ)國與謝(ノ)郡なり、と本居氏云り、混(フ)べからず、)○歌(ノ)意は、妹が爲に、玉を拾ふとて、紀(ノ)國の湯等(ノ)埼に出て、他事なく、此(ノ)日の暮るまで、玉を求めつるよ、となり、
 
1221 吾舟乃《アガフネノ》。梶者莫引《カヂヲバナヒキ》。自山跡《ヤマトヨリ》。戀來之心《コヒコシコヽロ》。未飽九二《イマダアカナクニ》。
 
梶者莫引《カヂヲバナヒキ》は、※[楫+戈]をとりて船をこぐは、引(キ)撓むるやうなれば、引と云り、※[楫+戈]引折《カヂヒキヲリ》などよめるに同じ、さればこゝは、吾(ガ)船の※[楫+戈]をば取てこぐことなかれの意なり、此(ノ)上に、奥津梶漸漸志夫乎欲見吾爲里乃隱久惜毛《オキツカヂヤウヤウナコギミマクホリアガスルサトノカクラクヲシモ》、○戀來之心《コヒコシコヽロ》は、此(ノ)海邊のけしきのおもしろきを、見まほしく、戀しく思ひつゝ來し心、と云なり、○歌(ノ)意は、吾(ガ)のれる舟をば、こゝにとゞめよ、※[楫+戈]をとりて漕て異處に(425)行ことなかれ、此(ノ)海邊を、大かたに賞《メデ》思ふにあらず、大和の家にありしほどより、見まほしほしと、戀しく思ひつゝ來し、其(ノ)心に、未(タ)あき足ぬものを、となり、
 
1222 玉津島《タマツシマ》。雖見不飽《ミレドモアカズ》。何爲而《イカニシテ》。裹持將去《ツヽミモチユカム》。不見人之爲《ミヌヒトノタメ》。
 
裹持將去は、ツヽミモチユカム〔八字右○〕と訓べし、(ツトニモチユカム〔八字右○〕、と訓はわろし、)○歌(ノ)意かくれたるところなし、古今集に、をくろ埼みつの小島の人ならば都の裹にいざと云ましを、と云歌もあり、
 
1223 綿之底《ワタノソコ》。奧己具舟乎《オキコグフネヲ》。於邊將因《ヘニヨセム》。風毛吹額《カゼモフカヌカ》。波不立而《ナミタテズシテ》。
 
綿之底《ワタノソコ》は、枕詞なり、海の底をも、又岸より遠き方をも、奥と云ば、此《コヽ》は枕詞よりの屬《ツヅキ》は底の方に云係、承たる上にては、遠き方なり、○風毛吹額《カゼモフカヌカ》は、風も吹(ケ)かしの意なり、○歌(ノ)意は、海邊の風景の見まほしければ、いかで吾(ガ)沖の方に出たる舟を、邊方に依(セ)む風もがな吹(ケ)かし、但し波立てば、舟危ければ、浪をば立ることなかれ、となり、
 
1224 大葉山《オホハヤマ》。霞蒙《カスミタナビキ》。狹夜深而《サヨフケテ》。吾船將泊《アガフネハテム》。停不知文《トマリシラズモ》。
 
大葉山《オホハヤマ》は、八雲御抄に、紀伊とせさせたまへり、さもあらむ、九(ノ)卷碁師(カ)歌に、母山|霞棚引左夜深而吾舟將泊等萬里不知母《カスミタナビキサヨフケテアガフネハテムトマリシラズモ》、とあるは、全(ラ)同歌なり、此は母の上に大(ノ)字脱たるにて、大母山《オホハヤマ》ならむ、○歌(ノ)意は、大葉山には、一面に霞たなびきおほひ、そのうへ夜もふけたれば、いづれの湊に、(426)吾(ガ)舟を泊べしといふことをしらず、さてもおぼつかなしや、となり、
 
1225 狹夜深而《サヨフケテ》。夜中乃方爾《ヨナカノカタニ》。欝之苦《オホヽシク》。呼之舟人《ヨビシフナビト》。泊兼鴨《ハテニケムカモ》。
 
夜中乃方爾《ヨナカノカタニ》は、(本居氏、夜は度の誤にて、トナカノカタニ〔七字右○〕なり、古事記に、由良能斗能斗那加能伊久理爾《ユラノトノトナカノイクリニ》、とあり、といへれど、いかゞ、)近き頃、江戸人の説に、夜中《ヨナカ》は、九(ノ)卷に、客在者三更刺而照月高島山隱惜毛《タビナレバヨナカヲサシテテルツキノタカシマヤマニカクラクヲシモ》、とある三更《ヨナカ》に同じく、近江(ノ)國高島(ノ)郡(ノ)地(ノ)名なり、といへり、此(ノ)前に、羈旅作と標して、九十首を載たる中、此(ノ)歌の上に、高島之三尾勝野《タカシマノミヲノカチヌ》、高島之香取乃浦《タカシマノカトリノウラ》、など見え、下に、竹島之越磯浪《タカシマノイソコスナミ》、竹島乃阿戸河波《タカシマノアドカハナミ》など、近江の地(ノ)名をよみたるを思へば、此(ノ)説さもあらむ、なほ九(ノ)卷にいたりて三更刺而《ヨナカヲサシテ》とある下にいはむを、考(ヘ)合(ス)べし、○歌(ノ)意は、夜ふけてくらければ、方角も見えわかぬに、夜中潟のあたりにて、いづれ湊ならむ、と聲を揚て呼居し、その舟人は、いづれその湊に入て泊にけむか、さてもあはれや、となり、
 
1226 神前《カミノサキ》。荒石毛不所見《アリソモミエズ》。浪立奴《ナミタチヌ》。從何處將行《イヅクユユカム》。與寄道者無荷《ヨキヂハナシニ》。
 
神前《カミノサキ》は、三(ノ)卷に、苦毛零來雨可神之埼狹野乃渡爾家裳不有國《クルシクモフリクルアメカカミノサキサヌノワタリニイヘモアラナクニ》、とあるに同じ、そこに具(ク)註り、○與奇道者無荷《ヨキヂハナシニ》は、暴(キ)浪を避《ヨキ》て行道の無にとなり、落窪物語に、西東さい院もおちて、よきみちして、おはすべかなるはと、くちあしきをのこ又いへば云々、與奇《ヨキ》は、九(ノ)卷に、家人使在之春雨乃與久列杼吾乎沾念者《イヘヒトノツカヒニアラシハルサメノヨクレドアレヲヌラサクモヘバ》、又十五に、與久流日毛安良自《ヨクルヒモアラジ》、などあり、又春風は、花のあたりを(427)與奇《ヨキ》て吹(ケ)と云も同じ、(與奇《ヨキ》の奇《キ》は、集中にみな清音の字をのみ用ひ、つねにも清て唱れば、濁るは誤なり、しかるを春風はの歌を、後(ノ)世|與義《ヨギ》て吹(ケ)と濁りて唱へ來れるによりて、濁るを雅《タヾシ》と思(フ)は誤なり、)六帖に、わすれ川よく道なしと聞てこそいとふの神も立はよりけれ、とも見ゆ、○歌(ノ)意は、神の埼荒磯も、そこと見えわかぬまで、暴(キ)浪高く立來ぬるに、其を避て、他に行べき道のなきに、何方より行むぞ、となり、
 
1227 礒立《イソニタチ》。奧邊乎見者《オキヘヲミレバ》。海藻苅舟《メカリブネ》。海人※[手偏+旁]出良之《アマコギヅラシ》。鴨翔所見《カモカケルミユ》。
 
海藻苅舟は、メカリブネ〔五字右○〕とよむべし、○歌(ノ)意は、磯に立て、沖の方を遙に見やれば、鴨の飛翔るが見ゆるよ、あれは、海人が海藻《メ》を刈舟を、漕出るにつきて、其(レ)に驚きて、飛かけるなるらし、となり、鴨の驚き翔るを見て、海人船の出るを、知れるさまなり、
 
1228 風早之《カゼハヤノ》。三穗乃浦廻乎《ミホノウラミヲ》。※[手偏+旁]舟之《コグフネノ》。船人動《フナビトサワク》。浪立良下《ナミタツラシモ》。
 
風早《カザハヤ》、三穗《ミホ》、共に紀伊(ノ)國の地(ノ)名なり、三(ノ)卷三穗(ノ)石室(ノ)歌、又|加座※[白+番]夜能美保乃浦廻之白管仕《カザハヤノミホノウラミノシラツヽジ》、とある歌に具(ク)註り、○歌(ノ)意は、風早の三穗の浦のめぐりを、こぐ舟の船人の、聲を揚て、あわたゞしく呼(ヒ)さわぐなるは、浪が暴く立來たる故なるらし、さても危き海上哉、となり、○十四(ノ)初、下總(ノ)國(ノ)歌に、可豆思加乃《カヅシカノ》云々とありて、未(ノ)句、今と全(ラ)同歌あり、(玉葉集に、今の歌の初句を、風はやみとて載たるは、いかにぞや、)
 
(428)1229 吾舟者《アガフネハ》。明石之潮爾《アカシノウラニ》。※[手偏+旁]泊牟《コギハテム》。奥方莫放《オキヘナサカリ》。狹夜深去來《サヨフケニケリ》。
 
明石之潮爾、(明(ノ)字の下に、舊本且(ノ)字あるは衍なるべし、元暦本になきによりつ、)本居氏云、潮は浦の誤にて、アカシノウラニ〔七字右○〕なり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、三(ノ)卷に、吾船者牧乃湖爾※[手偏+旁]將泊奥部莫避左夜深去來《アガフネハヒラノミナトニコギハテムオキヘナサカリサヨフケニケリ》、
 
1230 千磐破《チハヤブル》。金之三埼乎《カネノミサキヲ》。過鞆《スギヌトモ》。吾者不忘《アヲバワスレジ》。牡鹿之須賣神《シカノスメカミ》。
 
千磐彼《ナハヤブル》と云る意は、次に云、○金之三崎《カネノミサキ》は、貝原氏名寄に、筑前(ノ)國宗像(ノ)郡鐘崎町の北、織幡《シキハム》の神社ある山の北の出崎にて、むかし三韓より、つきがねを渡せしとき、その鐘の沈めりしによりて、其處《ソコ》を鐘の御崎と云。鐘のある處は、織幡山の艮の方、五町ばかり沖中にありて、今もいちじるく、鐘のあるさま見ゆるよし、里人いへり、としるせり、三韓より渡せしと云ること、俗説めきたれど、金の御崎と名に負るは、げにも鐘によれることなるべし、續紀廿八に、稱徳天皇神護景雲元年八月辛巳、筑前(ノ)國宗形(ノ)郡(ノ)大領外從六位下宗形(ノ)朝臣深津(ニ)授2外從五位下、其(ノ)妻無位竹生(ノ)王(ニ)從五位下(ヲ)1、並《ミナ》以d被(レテ)2僧壽應(ニ)誘《スヽメ》1、造(レル)c金(ノ)埼(ノ)船瀬(ヲ)u也、とあり、かくて此(ノ)歌の樣を思ふに、金(ノ)埼は、浪いと暴くして、船人の危み恐るゝ處なるべし、さて上に註せるごとく、海上の暴くて、恐こき處を、神とも云を合(セ)思(フ)に、千磐破《チハヤブル》とおけるも、海の暴くして、神と云べく、されば浪荒くて強暴《チハヤブ》る神の金の埼、と云ほどの意に、つゞけたるならむ、されば神護景雲元年に、金(ノ)埼(ノ)船居《フナセ》を(429)造れるを、ことに賞《ホメ》たまへるも、海暴くて、船人の常に恐るゝ處なるによりてなるべし、○吾者不忘は、アヲバワスレジ〔七字右○〕と訓べし、なほ次に云、○牡鹿之須賣神《シカノスメカミ》は、神名帳に、筑前(ノ)國糟屋(ノ)郡|志加海《シカノワタツミノ》神社三座、(並名神大)景行天皇(ノ)紀に、志我(ノ)神、又三代實録に、貞觀元年に、此(ノ)神に從五位上を授奉たまへることも見ゆ、本居氏、志加(ノ)神社、志賀島と云に有て、今は那珂(ノ)郡に屬りとぞと云り、この地は、集中に三(ノ)卷、四(ノ)卷、十一(ノ)卷、十二(ノ)卷、十五(ノ)卷、十六(ノ)卷等に見えて、然《シカ》四鹿《カ》四可《シカ》之加《シカ》志賀《シカ》思香《シカ》之賀《シカ》思可《シカ》之可《シカ》、なども書り、十六に、糟屋(ノ)郡志賀(ノ)村、和名抄に、糟屋(ノ)郡|志加《シカ》、釋紀に風土記を引て、糟屋(ノ)郡資※[言+可](ノ)島、昔時氣長足姫(ノ)尊幸2於新羅(ニ)1之時、御船夜時來2泊此(ノ)島(ニ)1、有d陪從《ミトモニ》名(ハ)云2大濱小濱(ト)1者u、便勅2小濱(ニ)、遣2此(ノ)島(ニ)1覓v火(ヲ)得(レリ)2早來1、大濱問云、近(ク)有v家耶、小濱答云、此(ノ)島與2打昇濱1近相|連接《ツヾキテ》、殆可v謂2同地(ト)1、因(レ)云2近(ノ)島(ト)1、今訛(テ)謂《イヘリ》2之|資※[言+可]《シカノ》島(ト)1、とあり、○歌(ノ)意は、中山(ノ)嚴水、第四(ノ)句は、吾をば忘れじの意なり、たとひ浪暴くて、かしこき金の御埼を過行とも、吾(ガ)常に齋《イツキ》奉る、牡鹿の皇神の、吾を捨給ふまじければ、何の恐れもあらじと云意なるべし、さて此(ノ)歌は、牡鹿の神職などの歌なるべし、といへり、さもあるべし、但(シ)神職ならずとも、資※[言+可]《シカ》の地に居《スム》人は、常にその神力をたのむべきこと論なし、ことに牡鹿《シカノ》皇神は、海《ワタツミノ》神にましませば、いよ/\神徳を仰ぐべき理なり、舊事紀にも、底津少童《ソコツワタツミノ》神、中津少童《ナカツワタツミノ》神、表津少童《ウハツワタツミノ》神、此(ノ)三神者、阿曇(ノ)連等(カ)齋祠《イツキマツル》、筑紫(ノ)斯香(ノ)神、とあり、
 
1231 天霧相《アマギラヒ》。日方吹羅之《ヒカタフクラシ》。水莖之《ミヅクキノ》。崗水門爾《ヲカノミナトニ》。波立渡《ナミタチワタル》。
 
(430)日方吹《ヒカタフク》は、袖中抄に、顯昭云、日方は坤風《ヒツジサルノカゼ》なり、無名抄(ニ)云、ひかたは巽《タツミノ》風なり、晝は吹で夜ふく風なりと云り、今土佐人は、六月の頃日中に南風の吹を、日方吹と云り、いづれ是《ヨ》からむ、(蝦夷(ノ)國風土記蝦夷言(ノ)條に、南をひかたと云よししるせり、所由あらむか猶考(フ)べし、)○水莖之《ミヅクキノ》は、本居氏、岡の枕詞にして、地名にはあらず、しかるを昔(シ)より、或は筑前、或は近江の地(ノ)名と心得來つるは、ひがことなり、水莖は、みづ/\しき莖といふことにて、草木の莖なり、さて岡とつゞくるは、稚《ワカ》の意なり、和《ワ》と乎《ヲ》と通へり、さればみづ/\しき木の稚《ワカ》しと云意にて、みづくきの岡とはつゞくるなりと云り、なほ玉勝間一(ノ)卷に、其(ノ)説具(ク)見えたり、○崗水門《ヲカノミナト》は、和名抄に、筑前(ノ)國遠賀(ノ)郡、神武天皇(ノ)紀に、十有一月丙戌朔甲午、天皇至2筑紫(ノ)國崗(ノ)水門(ニ)1、仲哀天皇(ノ)紀に、八年春正月己卯朔壬午、幸2筑紫(ニ)1時、岡(ノ)縣主(ノ)祖熊鰐云々、入2岡(ノ)浦(ニ)1到2水門(ニ)1云々、即(チ)泊2于岡(ノ)津(ニ)1、仙覺、筑前(ノ)國風土記を引て云、塢※[舟+可](ノ)縣之東側近有2大江口1、名(ヲ)曰2鴇塢※[舟+可](ノ)水門(ト)1、云々、などあり、○歌(ノ)意は、虚空《ソラ》の方に霧が立渡りて、日方の風が吹らし、其(ノ)風に催されしと見えて、崗の湊に、浪が暴く立わたるよ、となり、
 
1232 大海之《オホウミノ》。波者畏《ナミハカシコシ》。然有十方《シカレドモ》。神乎齊禮而《カミヲイハヒテ》。船出爲者如何《フナデセバイカニ》。
 
歌(ノ)意は、大海の波あれて危くおそろし、これにては船發《フナダチ》すべきやうなし、然れども海神を拜祭《イハヒマツ》り、海(ノ)上|平安《サキカ》らむことを祈(リ)申て、船出したらば、如何にあらむ、と※[楫+戈]取などに問かくるよし(431)なり、
 
1233 未通女等之《ヲトメラガ》。織機上乎《オルハタノヘヲ》。眞櫛用《マクシモチ》。掻上栲島《カヽグタクシマ》。波間從所見《ナミノマユミユ》。
 
本(ノ)句は序にて、栲島《タクシマ》を云むためなり、機おるに、糸すぢのまよはぬために、櫛もて掻あげよせ整《トヽノフ》る意をもて、栲《タク》に云係たり、多久《タク》は、髪多久《カミタク》の多久《タク》にて、掻よせ整る意の古言と見えたればなり、(略解に、たくは、たぐるの約言にて、かゝげたぐるといひ下したり、と云るは非なり、たぐるは具《グ》を濁り、たくは久《ク》を清(ム)例にて、もとより別言なり、)○栲島《タクシマ》は、和名抄に、出雲(ノ)國島根(ノ)郡|多久《タク》、と見ゆ、其(ノ)地か、○歌の意かくれたるところなし、
 
1234 塩早三《シホハヤミ》。礒回荷居者《イソミニヲレバ》。入潮爲《アサリスル》。海人鳥屋見濫《アマトヤミラム》。多比由久和禮乎《タビユクワレヲ》。
 
鹽早三《シホハヤミ》云々は、海潮の急くて危きが故に、沖に、出ずして、磯回《イソノメグリ》に居(レ)ばの意なり、○入潮爲は、按(フ)に、入潮は、朝入とありしを誤れるなり、アサリスル〔五字右○〕と訓べし、此(ノ)上に、朝入爲等《アサリスト》、又|朝入爲流《アサリスル》、又|朝入爲良霜《アサリスラシモ》、九(ノ)卷に、朝入爲流《アサリスル》、などあるを、思(ヒ)合(ス)べし、○歌(ノ)意は、海潮の急くて危きが故に、沖に出さず、速に漕行ことあたはずして、磯のめぐりに居れば、外目に見む人は、漁業する海人と見らむか、さる者にはあらで、旅行する吾なるものを、となり、此(ノ)上、又三(ノ)卷にも、此(ノ)歌によく似たるあり、
 
1235 浪高之《ナミタカシ》。奈何梶取《イカニカヂトリ》。水鳥之《ミヅトリノ》。浮宿也應爲《ウキネヤスベキ》。猶哉可※[手偏+旁]《ナホヤコグベキ》。
 
(432)奈何梶取《イカニカヂトリ》は、奈何《イカニ》は、終にめぐらして聞べし、梶取《カヂトリ》は、※[楫+戈]師《カヂトリ》よといふ意なり、和名抄に、文選呉都(ノ)賦(ニ)云、〓工(ハ)※[楫+戈]師、和名|加知止利《カヂトリ》、とあり、○水鳥之《ミヅトリノ》は、浮宿《ウキネ》をいはむ料の枕詞なり、○歌(ノ)意は、海の浪暴く高くて危し、これにては、漕行べき謂なし、いざ※[楫+戈]師《カヂトリ》よ、此(ノ)處に留て、今夜はこゝに浮宿して明すべきか、又は猶この浪を凌ぎて漕行べきか、いかにすべきぞ、となり、此(ノ)歌は、※[楫+戈]師《カヂトリ》と相議る意なり、
 
1236 夢耳《イメノミニ》。繼而所見小《ツギテミエツヽ》。竹島之《タカシマノ》。越礒波之《イソコスナミノ》。敷布所念《シクシクオモホユ》。
 
夢耳《イメノミニ》は夢に本郷《クニ》の事のみ、つゞきて見えつゝの謂なり、耳《ノミ》は、他事は見えず、本郷耳の意なるベし、○繼而所見小、小は乍(ノ)字の誤なり、〈本居氏の、八の誤なりといへるは、あたらず、)ツギテミエツヽ〔七字右○〕と訓べし、九(ノ)卷に、曉之夢所見乍梶島乃石越浪乃敷弖志所念《アカツキノイメニミエツヽカヂシマノイソコスナミノシキテシオモホユ》、とあるを、思(ヒ)合(ス)べし、○竹島《タカシマ》は、近江の高島《タカシマ》なり、第三四(ノ)句は、敷布《シクシク》をいはむために、目(ノ)前に見たる處をいへるなり、○歌(ノ)意は、本郷《クニ》の事のみ、夜々つゞきて夢に見えつゝ、頻々《シキリ/\》にこひしく思はるゝこと、となり、
 
1237 靜母《シヅケクモ》。岸者波者《キシニハナミハ》。縁家留香《ヨセケルカ》。此屋通《コノイヘトホシ》。聞乍居者《キヽツヽヲレバ》。
 
歌(ノ)意は、家の内に居ながら聞つゝをれば、風雲もなく和《ノド》かになぎて、海(ノ)岸には、靜にも浪はよせける哉、となり、此屋通《コノイヘトホシ》云々は、家(ノ)内に居ながら波の音を聞よしなり
 
1238 竹島乃《タカシマノ》。阿戸白波者《アドカハナミハ》。動友《サワケドモ》。吾家思《アレハイヘモフ》。五百入※[金+施の旁]染《イホリカナシミ》。
 
(433)阿戸白波者、白は河(ノ)字の誤なり、アドガハナミハ〔七字右○〕なり、九(ノ)卷に、高島作歌、高島之阿渡河波者驟鞆吾者家思宿加奈之彌《タカシマノアドカハナミハサワケドモアレハイヘモフヤドリカナシミ》、とあり、阿戸《アド》は近江(ノ)國高島(ノ)郡なり、此(ノ)下旋頭歌に、丸雪降遠江吾跡川楊《アラレフリトホツアフミノアドガハヤナギ》云々、九(ノ)卷に、高島之足速之水門《タカシマノアドノミナト》、又|高島之足利湖《タカシマノアドノミナト》、など見ゆ、○歌(ノ)意は、旅の廬のいふせくかなしき故に、本郷を戀しくおもふ心は、阿戸河波《アドカハナミ》の、かしましくさわぐ音にもまぎれず、となり、二(ノ)卷人麻呂(ノ)歌に、小竹之葉者三山毛清爾亂友吾者妹思別來禮婆《ササガハハミヤマモサヤニミダレドモアレハイモモフワカレキヌレバ》、とあるに似たり、
 
1239 大海之《オホウミノ》。礒本由須理《イソモトユスリ》。立波之《タツナミノ》。將依念有《ヨセムトモヘル》。濱之淨奚久《ハマノサヤケク》。
 
礒本由須理《イソモトユスリ》は、石根をゆすり動かすばかり、大浪のたつを云り、由須理《ユスリ》は、動かすを云、古言なり、佛足石碑(ノ)歌に、美阿止都久留伊志乃比鼻伎波《ミアトツクルイシノヒビキハ》、阿米爾伊多利都知伎閇由須禮《アメニイタリツチサヘユスレ》云々、源氏物語葵に、所々の御とぶらひの使など立こみたれば、得聞えつかず、ゆすりみちて、いみじき御心まどひども、いとおそろしきまで見え給ふ、賢木に、宮の内ゆすりて、ゆゝしうなきみちたり、須磨に、世ゆすりてをしみきこえ、澪標に、その秋すみよしにまうで給ふ、願どもはたし給へれば、いかめしき御ありきにて、世(ノ)中ゆすりて、上達部殿上人、われも/\とつかうまつり給ふ、未通女に、おほかた世ゆすりて、所せき御いそぎのいきほひなり云々、その頃世にめでゆすりける、おとゞの御をばさらなり云々、世(ノ)中ひゞきゆすれる御いそぎなるを、若菜に、ここらの男女、上下ゆすりみちて、なきとよむに云々、院のうちゆすりみちて、思ひなげく人お(434)ほかり云々、殿のうちゆすりてのゝしる、枕冊子に、家ゆすりてとりたる聟のこず成ぬる、いとすさまじ、おちくぼ物語に、物見る人々に、ゆすりてわらはる云々、殿のうちゆすりみちてのゝしる、うつぼ物語に、山くづれ地われさけて、なゝ山ひとつにゆすりあふ云々、此(ノ)山川つねの心地せず、山ゆすり|て《衍歟》大空ひゞきて云々、又そのがくを上下ゆすりてすれば、榮花物語に、殿のうち今はつゝみあへず、ゆすりみちたり云々、ことしはつかひの君の御事を、世(ノ)中ゆすりていそがせ給ふ云々、かげろふ日記に、あめのしたゆすりて、にしの宮へ人はしりまどふ、などなほ物語書に多く見えたる言なり、袖中抄に、あさもよいきの川ゆすり行水のいつさやむさやいるさやむさや、とあり、○此(ノ)上に、第二(ノ)句、水底豐三《ミナソユトヨミ》とかはれるのみにて、全(ラ)同歌あり、歌(ノ)意はそこに具(ク)註り、
 
1240 珠〓《タマクシゲ》。見諸戸山矣《ミモロトヤマヲ》。行之鹿齒《ユキシカバ》。面白四手《オモシロクシテ》。古昔所念《イニシヘオモホユ》。
 
珠〓《タマクシゲ》(干禄字書に、〓匣上通下正、とあり、〓とも作ることは、古書に例ありて、首(ノ)卷に委(ク)云り、)は、枕詞なり、契冲云、箱に盖《フタ》と身《ミ》とあれば、玉くしげ身と云かけたり、○見諸戸山《ミモロトヤマ》は、契冲云、山城(ノ)國宇治(ノ)郡にあり、(略解に、備中なりといへり、いかゞ、)○歌(ノ)意は、見諸戸《ミモロト》山を行過しかば、其(ノ)山のけしきの面白くみゆるにつけて、其(ノ)山を過て後までも、猶ふりにし代の事をさへ、思ひ出られて慕はるゝ、となり、此(ノ)山につきたる故事などあるを、思ひてよめるならむ、
 
(435)1241 黒玉之《ヌバタマノ》。玄髪山乎《クロカミヤマヲ》。朝越而《アサコエテ》。山下露爾《ヤマシタツユニ》。沾來鴨《ヌレニケルカモ》。
 
玄髪山《クロカミヤマ》は、契冲、下野なり、今の日光山なりと聞は、しかりやいなやいまだしらず、と云り、日光は河内(ノ)郡なり、(類字集にも、黒髪山を下野とす、貝原氏日光名勝記に、黒髪山のことを委しく紀せり、しかれども今按(フ)に、前後のついでを思(ヒ)合するに、此歌は東國にはあらざるか、猶考(フ)べし)、十一に、烏玉黒髪山山草小雨零敷益益所思《ヌバタマノクロカミヤマノヤマスゲニコサメフリシキシクシクオモホユ》、ともあり、(新後拾遺集に、頼政、身の上にかゝらむ事ぞ遠からぬ黒髪山にふれる白雪、)○歌(ノ)意かくれたるところなし、(六帖に、此(ノ)歌を、うば玉の黒髪山を今日こえてしづくにいたくぬれにける哉、とて載たり、)
 
1242 足引之《アシヒキノ》。山行暮《ヤマユキクラシ》。宿借者《ヤドカラバ》。妹立待而《イモタチマチテ》。寄將借鴨《ヤドカサムカモ》。
 
歌(ノ)意は、山路行暮して旅宿を借(ラ)ば、妹が門に立待て宿借(サ)むか、かゝる山路には、さる妹もあらじか、さてもおぼつかなき山路ぞ、となり、(略解に、妹が待居て、宿かせかし、となり、此(ノ)妹は、くゞつなどいふ類、昔も有しかといへるは、いたくたがへり、)
 
1243 視渡者《ミワタセバ》。近里廻乎《チカキサトミヲ》。田本欲《タモトホリ》。今衣吾來《イマソアガコシ》。禮巾振之野爾《ヒレフリシヌニ》。
 
近里廻乎《チカキサトミヲ》は、近き里のあたりなる物をの意なり、廻はミ〔右○〕と訓べし、(ワ〔右○〕と訓は古言に非ず、)浦廻《ウラミ》、磯廻《イソミ》などの廻《ミ》なり、○今衣吾來は、イマソアガコシ〔七字右○〕と訓べし、○禮巾《ヒレ》、禮(ノ)字は、領の誤なるべし、領巾は既(ク)出づ、○歌(ノ)意は、本郷へ歸るに、見渡しは甚近さ里なるを、道の曲れる故に、そを遙か(436)に回りて、からくして、妹が領巾振(リ)て、別を慕ひし野に、今ぞ來りし、となり、契冲が、清少納言の、ちかくて遠きもの、くらまの山のつゞらをりと云る、おもひ合すべし、と云り、十一に、見渡近渡乎回今かな來座戀居《ミワタセバチカキワタリヲタマオトホリイマヤキマストコヒツヽゾヲル》、とあるは、本の句今と同じ、
 
1244 未通女等之《ヲトメラガ》。放髪乎《ハナリノカミヲ》。木綿山《ユフノヤマ》。雲莫蒙《クモナタナビキ》。家當將見《イヘノアタリミム》。
 
本(ノ)二句は、木綿《ユフ》といはむ料の序なり、放髪《ハナリノカミ》とは、うなゐはなりとて、女十四五のほどまでは、未(タ)結《ユヒ》あげざるを云て、其(ノ)放(ノ)髪を結《ユフ》と云係たり、○木綿山《ユフノヤマ》は、和名抄に、豐後(ノ)國速見(ノ)郡由布《ユフ》、(本に、由を田と作るは誤なり、)とある、其處の山なり、兵部省式に、豐後(ノ)國驛馬、由布《ユフ》五疋、(これも本には、由を田に誤、)豐後ノ)國風土記に、速水(ノ)郡柚富(ノ)郷、北郷之中、栲(ノ)樹多生、常取2栲(ノ)皮(ヲ)1以造2木綿(ヲ)1、因謂2柚富(ノ)郷(ト)1、とあり、十(ノ)卷に、思出時者爲便無豐國之木綿山雪之可消所念《オモヒイヅルトキハスベナミトヨクニノユフヤマユキノケヌベクオモホユ》、とあり、○歌(ノ)意は、遠く別れて來し、本郷の家のあたりを顧《カヘリミ》に見むぞ、木綿(ノ)山に雲たなびきて覆ひ隱すことなかれ、となり、
 
1245 四可能白水郎乃《シカノアマノ》。釣般之綱《ツリフネノツナ》。不勝〔○で囲む〕堪《タヘカテニ》。情念而《コヽロニモヒテ》。出而來家里《イデテキニケリ》。
 
釣船之鋼《ツリフネノツナ》(鋼(ノ)字、元暦本には※[糸+弗]と作り、)は堪《タヘ》をいはむためなり、釣船の綱は、かたくつくりたるものなれば、繋《ツナグ》によく堪れば、かく云係たり、(されば堪の一言にのみかゝれり、不勝堪《タヘカテ》の、不勝《カテ》の言へまではかゝらず、布留《フル》の早田の穗には出ずの例なり、この事は既く契冲も云り、)○不堪は、今按に、不の下に、勝(ノ)字脱たるなるべし、タヘカテニ〔五字右○〕と訓べし、(略解に、第二三(ノ)句を、ツリス(437)ルフネノツナタヘズ〔十二字右○〕とよめるは非ず、釣船をツリスルフネ〔六字右○〕とは訓難し、又綱は維の誤にて、ツナギアヘズ〔六字右○〕か、又は堪は絶の誤れるにてツナタエズ〔五字右○〕かと、云るは、みな非なり、)○歌(ノ)意は、本(ノ)二句は序にて、堪(ヘ)忍びて、此方に居むと思へども、深く思ふ心に、得堪(ヘ)忍びあへずして、出て來にけり、となるべし、此(ノ)歌は、相聞なるを、誤て此《コヽ》に載しなるべし、
 
1246 之加乃白水郎之《シカノアマノ》。燒塩煙《シホヤクケブリ》。風乎疾《カゼヲイタミ》。立者不上《タチハノボラズ》。山爾輕引《ヤマニタナビク》。
 
風乎疾《カゼヲイタミ》は、風がつよき故にの意なり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、三(ノ)卷日置(ノ)少老(カ)歌に、繩乃浦爾鹽燒火氣夕去者行過不得而山爾棚引《ナハノウラニシホヤクケブリユフサレバユキスギカネテヤマニタナビク》、とあると同意の歌なり、(此(ノ)歌六帖には、初句をすまの浦のとて載たり、)
〔右件歌者。古集中出。〕
古の下、歌(ノ)字脱せるか、
 
1247 大穴道《オホナムヂ》。少御神《スクナミカミノ》。作《ツクラシヽ》。妹勢能山《イモセノヤマハ》。見吉《ミラクシヨシモ》。
 
大穴道《オホナムチ》は、大穴は、於保那《オホナ》の借(リ)字なり、道は、美知《ミチ》を牟遲《ムヂ》に轉して借(リ)用たるか、若は穴の下に、六(ノ)字脱たるか、○少御神《スクナミカミ》は、少名毘古那《スクナビコナノ》神なり、(少名比古那を、少名とのみ申せるは、息長足姫《オキナガタラシヒメ》を足姫《タラシヒメ》とのみ申し、日並所知《ヒナミシラス》を、日並《ヒナミ》とのみ申せる類なるべし、赤染衛門(ノ)集に、すくな神といふ所になりにけりと云をきゝて、千早振すくな神てふ神代よりかみかへことはいふにやあ(438)るらむ、とあり、)此(ノ)二柱(ノ)神、天(ノ)下山川を經營《ツクラシ》しこと、六(ノ)卷に具(ク)註せりき、○歌(ノ)意は、大穴牟遲、少彦名(ノ)御神の造營《ツク》り賜へる、紀(ノ)國の妹兄山は、見るに見あかず、さても勝れて佳(キ)風景や、となり、
 
1248 吾妹子《ワギモコト》。見偲《ミツヽシヌハム》。奥藻《オキツモノ》。花開在《ハナサキタラバ》。我告與《アレニツゲコソ》。
 
吾妹子見偲《ワギモコトミツヽシヌハム》は、妹と共に見つゝ愛《シヌハ》むの意なり、(略解に、花をだに妹とおもひて、しのばむの意なり、と云るは、たがへり、)○奥藻花《オキツモノハナ》は、四(ノ)卷に、河上乃伊都藻之花乃何時何時《カハカミノイツモノハナノイツモイツモ》、又此(ノ)下、又十(ノ)卷に、莫告藻之花《ナノリソノハナ》、とよめり、○歌(ノ)意は、奥つ藻の花が咲たらば、速に吾に告知せよかし、さらば妹と共に行て、見つゝ愛《ウツクシ》まむぞ、となり、此(ノ)歌、※[覊の馬が奇]旅に入たるに依て説ば、吾妹子は、旅にあるほど、通ひすみける女をさして云るか、又は※[覊の馬が奇]旅ならぬが、混て此間に入たるか、
 
1249 君爲《キミガタメ》。浮沼池《ウキヌノイケノ》。菱採《ヒシツムト》。我染袖《アガシメコロモ》。沾在哉《ヌレニケルカモ》。
 
浮沼池《ウキヌノイケ》は、未(タ)考得ず、八雲御抄に、石見と載させたまへるは、いかゞあらむ、○菱採《ヒシツムト》は、菱を採(ミ)取とての意なり、十六に、豐國企玖乃池奈流菱乃宇禮乎採跡也妹之御袖所沾計武《トヨクニノキクノイケナルヒシノウレヲツムトヤイモガミソデヌレケム》、とあり、○我染袖は、若は袖は衣の誤にはあらざるか、さらばアガシメコロモ〔七字右○〕と訓べし、(ワガソメシソデ〔七字右○〕にては、今少穩ならざるやうなり、)古事記八千矛(ノ)神(ノ)御歌に、斯米許呂母《シメコロモ》、とあり、○沾在哉は、ヌレニケルカモ〔七字右○〕と訓べし、在(ノ)字、ケリ、ケル〔四字右○〕と訓例上に云り、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
1250 妹爲《イモガタメ》。菅實採《スガノミトリニ》。行吾《ユキシアレ》。山路惑《ヤマヂニマドヒ》。此日暮《コノヒクラシツ》。
(439)菅實《スゲノミは、麥門冬《ヤマスゲ》の實なり、○行吾は、ユキシアレ〔五字右○〕と訓べし、(略解に、ユクワレヲ〔五字右○〕と訓て、われなるをといふなりと云るは、ひがことなり、)○歌(ノ)意は、妹が爲にと、麥門冬《ヤマスゲ》の實を採に行しが、その山路にふみ迷ひて、かなたこなたたどるうちに、つひに、此(ノ)の日を暮しつるよ、となり、
〔右四首。柿本朝臣人麿之歌集出。〕
 
1417 名兒乃海乎《ナゴノウミヲ》。朝※[手偏+旁]來者《アサコギクレバ》。海中爾《ワタナカニ》。鹿子曾鳴成《カコゾヨブナル》。※[立心偏+可]怜其水手《アハレソノカコ》。
 
鹿子曾鳴成、鹿子《カコ》は借(リ)字|水手《カコ》なり、鳴は、呼(ノ)字の誤なり、集中に、水手《カコ》の聲よびと多くよめり、○※[立心偏+可]怜其水手《アハレソノカコ》とは、※[立心偏+可]怜《アハレ》は賞怜《オモシロミ》する意なり、こゝは九(ノ)卷ほとゝぎすの歌に、鳴て行なりあはれ其(ノ)鳥といへるに、同じ語(ノ)勢なり、と契冲云り、○歌(ノ)意は、名兒の浦を朝發《アサビラキ》して漕來れば、朝なぎして海面平かなるに、己が友船を誘ふとならし、沖中に水手が聲を揚てぞ呼なる、あはれ賞怜《オモシロ》の、その水手《カコ》のさまや、となり、○此(ノ)一首、舊本此間になくして、卷(ノ)末に再び※[覊の馬が奇]旅歌と標して載たり、其は古く傳寫《ウツ》せる人の、ふと此間に寫し脱《モラ》したるによりて、更に卷(ノ)末に標して載しならむ、故(レ)今改めて此間に收つ、
 
萬葉集古義七卷之上 終
 
(440)黄葉集古義七卷之下
 
問答《トヒコタヘノウタ》。
 
1251 佐保河爾《サホガハニ》。鳴成智鳥《ナクナルチドリ》。何師鴨《ナニシカモ》。川原乎思努比《カハラヲシヌヒ》。益河上《イヤカハノボル》。
 
歌(ノ)意かくれたるところなし、千鳥に問かけたるなり。
 
1252 人社者《ヒトコソハ》。意保爾毛言目《オホニモイハメ》。我幾許《アガコヽダ》。師奴布川原乎《シヌフカハラヲ》。※[手偏+票]結勿謹《シメユフナユメ》。
 
意保爾毛言目《オホニモイハメ》は、おほよそにも云めなり、意保《オホ》は集中に甚多き詞なり、○我幾許《アガコヽダ》は、我《アガ》は、千鳥の我《アガ》にて、自《ミ》らそこばくと云意なり、○師奴布河原《シヌフカハラ》は、戀慕ふ河原と云意なり、さて此(ノ)河原は、即(チ)佐保河なり、(然るを後に、これを、しのぶ河原といふ、みちのくの地(ノ)名と心得て、よみし歌などあるは、かたはらいたきことなり、)○歌(ノ)意は、よしや世(ノ)人こそは、おほよそのものにもいはめ、われはそこばく戀慕ふ河原なるを、努々其(ノ)河原に標結(フ)ことなかれ、吾(ガ)かく深く慕ふ河原なれば、吾(ガ)領《シメ》居むために、かならず縱《ユル》しおけよ、となり、
 
右二首《ミギノフタウタハ》。詠《ヨメル》v鳥《トリヲ》。
 
(441)1253 神樂浪之《ササナミノ》。思我津乃白水郎者《シガツノアマハ》。吾無二《アレナシニ》。潜者莫爲《カヅキハナセソ》。浪雖不立《ナミタヽズトモ》。
 
思我津《シガツ》は、志賀の大津なり、○歌(ノ)意は、志賀津の、海人の、かづきするわざのいと面白ければ、我(ガ)かく見るときならでは、たとひ浪は荒く立ずとも、かづきはすることなかれ、となり、
 
1254 大船爾《オホブネニ》。梶之母有奈牟《カヂシモアラナム》。君無爾《キミナシニ》。潜爲八方《カヅキセメヤモ》。波雖不起《ナミタヽズトモ》。
 
之母《シモ》は、數ある物の中を取出ていふ辭なり、上にたび/”\出づ、○歌(ノ)意は、いかで大船に楫もがなあれかし、さらば沖中に出て、よき貝玉をかづき出來て、心だらひに、みせ奉らむものを、大船に楫なければこそあれ、かく君の御爲をのみ、思奉る吾なれば、たとひ浪たゝずなぎたるときにもせよ、君がおはさずは、かづきはせじ、となり、
 
右二首《ミギノフタウタハ》。詠《ヨメル》2白水郎《アマヲ》1。
 
臨時《トキニツケテヨメル》。
 
これは時につけてよめる歌なれば、部類定らず、
 
1255 月草爾《ツキクサニ》。衣曾染流《コロモゾソメル》。君之爲《キミガタメ》。綵色衣《マダラノコロモ》。將摺跡念而《スラムトモヒテ》。
染流は、ソメル〔三字右○〕とよみて、染有《ソメル》なり、染《ソミ》たるといはむが如し、(俗に、ソムル〔三字右○〕をソメル〔三字右○〕といふとは異れり、)○綵色衣は、マダラノコロモ〔七字右○〕とよむべきか、綵は、玉篇に、五綵備也、字彙に、繪※[糸+曾]、とあり、此(ノ)次下に、不時斑衣服欲香《トキナラズマダラノコロモキホシキカ》、又|今造斑衣服面就《イマツクルマダラノコロモメニツキテ》、などあり、又十二に、紫綵《ムラサキノ》色之※[草冠/縵]|花八香爾《ハナヤカニ》云々、(442)とあるをも、マダラノカヅラ〔七字右○〕と訓べきか、十(ノ)卷にも、紅之綵色爾所見秋山可聞《クレナヰノマダラニミユルアキノヤマカモ》、とあり、○歌(ノ)意は、君が爲に、鴨頭草もて、綵色(ノ)衣を摺むとおもひて、草原に分入しに、ゆくりなく、我(ガ)衣ぞ色にそみたる、となり、
 
1256 春霞《ハルカスミ》。井上從直爾《ヰノヘヨタヾニ》。道者雖有《ミチハアレド》。君爾將相登《キミニアハムト》。他回來毛《タモトホリクモ》。
 
春霞《ハルカスミ》は、枕詞なり、霞の居《ヰ》ると云意に、井《ヰ》につゞけたり、○井上《ヰノヘ》は、契冲、地(ノ)名なり、大和に在(リ)、聖武天皇の皇女にて、光仁天皇の后となり給へる井(ノ)上(ノ)内親王も、この井(ノ)上を名におひ給へるなるべし、と云り、又河内にも井(ノ)上と云地あり、和名抄に、河内(ノ)國志紀(ノ)郡井於、(井乃倍《ヰノヘ》)とあり、(今の歌は、いづれにもあるべし、)○歌(ノ)意は、井(ノ)上よりゆく直道はあれども、君に行あはむとて、わざわざ道をまはりて、さてもからうしてくるよ、となり、
 
1257 道邊之《ミチノベノ》。草深由利乃《クサフカユリノ》。花※[口+笑]爾《ハナヱミニ》。※[口+笑]之柄二《ヱマシシカラニ》。妻常可云也《ツマトイフベシヤ》。
 
草深由利は、草深き地にさける百合を云、十一に、路邊草深百合之後云妹命我知《ミチノヘノクサブカユリノノチニチフイモガイノチヲアレシラメヤモ》、とあり、いづれもクサフカユリ〔六字右○〕と訓べし、(略解に、クサフケユリ〔六字右○〕と訓るはわろし、)○花※[口+笑]《ハナヱミ》は、十八に、夏野能佐由利能波奈能花咲爾爾布夫爾惠美天《ナツノヌノサユリノハナノハナヱミニニフブニヱミテ》云々、とあり、花のさくをゑむと云がゆゑなり、○※[口+笑]之柄二《ヱマシシカラニ》は、咲賜ひしものなるをの意なり、四(ノ)卷聖武天皇(ノ)大御歌に、道相而咲之柄爾零雪乃消者消香二戀云吾妹《ミチニアヒテヱマシシカラニフルユキノケナバケヌガニコヒモフワギモ》、又同卷に、青山乎横〓雲之灼然吾共咲爲而人二所知名《アヲヤマヲヨコギルクモノイチシロクアレトヱマシテヒトニシラユナ》、などあり、○妻常(443)可云也《ツマトイフベシヤ》は、(本居氏の、ツマトイフベシ〔七字右○〕と訓べし、也はたゞに添たる字なりと云るは、相咲し故に、心を許せることしるければ、即(チ)妻といふべしと云意に、見たるなるべけれど、しからず、)也《ヤ》は也波《ヤハ》の也《ヤ》なり、○歌(ノ)意は、唯一目相見し時、百合の花のさきたるゑまひの如く、うるはしく相ゑみしのみの事なるを、即(チ)我妻と云べしやは、女の下心をば、知べからねば、唯うはべに咲しのみを見て、我に心を許せりとして、妻とはたのむべきことにあらざるをや、となり、
 
1258 黙然不有跡《モダアラジト》。事之名種爾《コトノナグサニ》。云言乎《イフコトヲ》。聞知良久波《キヽシレラクハ》。少可者有來《カラクゾアリケル》。
 
黙然不有跡《モダアラジト》、契冲、古點には、ナホアラジト〔七字右○〕とよめるよし云れど、猶モダ〔二字右○〕とよむべし、と云り、○事之名種爾《コトノナグサニ》は、事のなぐさめにと云意なり、四(ノ)卷に、吾耳曾君爾者戀流吾背子之戀云事波言乃名具左曾《アレノミゾキミニハコフルワガセコガコフチフコトハコトノナグサゾ》、とあり、○少可者有來、(者(ノ)字、一本にはなし、)或人の考(ヘ)に、苛曾有來の誤にて、カラクソアリケル〔八字右○〕なるべし、十一の歌合(セ)見べしと云り、と中山(ノ)嚴水いへり、是よろし、十一に、大夫登《マスラヲト》云云|小可者在來《カラクゾアリケル》、とある、小可者在來は、小は不、者は曾の誤なるべし、不可は、義を得てカラク〔三字右○〕と訓べし、(不顔由《シヌフ》、不行《ヨド》、不通《ヨドム》、不樂《サブシ》、不明《オホヽシ》、不穢《キヨク》、不得《カネ》、などの類を思ふべし、岡部氏は、小可は苛の誤なるべしといへり、さることもあらむか、考(ヘ)合(ス)べし、本居氏(ノ)説には、少可は奇の誤にて、アヤシカリケリ〔七字右○〕なるべし、と云へれど、猶前の説にしかず、)○歌(ノ)意は、心より思ふにはあらざれども、ただに黙止してはあらじとて、たゞ我をなぐさめむがためのみに、うはべにいふ言を、それと(444)知て、又口(チ)ぐせにいふよと云ことを、聞|知《シレ》る事は、からくくるしくぞありける、たま/\の事ならば、うはべにいふ言をも、實意と思ひて、しばし心をなぐさむる事もあるべきを、となり、」
 
1259 佐伯山《サツキヤマ》。于花以之《ウノハナモチシ》。哀我《カナシキガ》。子鴛取而者《コヲシトリテバ》。花散鞆《ハナハチルトモ》。
 
佐伯山は、契冲、安藝(ノ)國に佐伯(ノ)郡あり、そこなどにある山の名にや、と云り、又或説に、伯は、附(ノ)字の草書を誤れるにて、佐附《サツキ》山なるべきか、と云り、さらばたゞ五月頃の山を云とすべし、十(ノ)卷に、五月山宇能花月夜霍公鳥雖聞不飽又鳴鴨《サツキヤマウノハナツクヨホトヽギスキケドモアカズマタナカヌカモ》、又|五月山花橘爾霍公鳥隱合時爾逢有公鴨《サツキヤマハナタチバナニホトヽギスカクロフトキニアヘルキミカモ》、などあり、古今集にも、五月山梢を高みほとゝぎすなく音空なるこひもするかな、などある類なり、これらの例を合(セ)思ふに、或説しかるべし、○哀我は、カナシキガ〔五字右○〕とよみて、愛しく思ふ女がといふがごとし、契冲、かなしきは、うつくしみ愛する心なり、十四に、爾保杼里能可豆思加和世乎爾倍須登毛曾能可奈之伎乎刀爾多?米也母《ニホドリノカヅシカカヅシカワセヲニヘストモソノカナシキヲトニタテメヤモ》、古今集に、露をかなしぶと云ひ、つなでかなしもとよめる、これなり、伊勢物語に、ひとつこにさへありければ、いとかなしうしたまひけり、とも云り、と云るが如し、○子鴛取而者は契冲、子は、手の字をあやまれるなるべし、テヲシトリテバ〔七字右○〕とよむべし、と云り、愛(シ)み思ふ人の手をとるは、集中に、君之手取者將縁言毳《キミガテトラバヨセイハムカモ》、又|草取可禰手妹等乎取《クサトリカネテイモガテヲトル》、又|妹手取而引與治※[手偏+求]手折《イモガテヲトリテヒキヨヂウチタヲリ》、など多くよめるが如し、○歌(ノ)意は、卯(ノ)花を持てありし、愛しきその女の、手をだにとりたらば、よしや花はちりぬとも、それをばいとはじ、(445)となり。
 
1260 不時《トキジクニ》。斑衣《マダラノコロモ》。服欲香《キホシキカ》。島針原《シマノハリハラ》。時二不有鞆《トキニアラズトモ》。
 
不時は、トキジクニ〔五字右○〕とよむべし、又トキナラズ〔五字右○〕とよみてもよし。○斑衣《マダラノコロモ》は、いろ/\にそめ分たる衣なり、十四に、萬太良夫須麻《マダラブスマ》、ともよめり、○島針原《シマノハリハラ》、(舊本には、衣服針原《コロモハリハラ》とあり、それに依ば、衣をはると云かけたりとすべし、今は元暦本にかく有に從つ、袖中抄にも此(ノ)歌を引て、島の針原ときにはあらねど、とあり、)島《シマ》は、大和(ノ)國高市(ノ)郡にある地(ノ)名なり、十(ノ)卷に、島之榛原秋不立友《シマノハリハラアキタヽズトモ》、とあると、同所なり、○歌(ノ)意は、大和の島の榛原の榛をとりて、衣を染べき時節にはあらざれども、止ことを得ず、時ならずに斑(ノ)衣を染て、着まほしく思ふ哉、となり、此(ノ)歌は、まだうらわかき女を、たとへたるべし、
 
1261 山守之《ヤマモリノ》。里部通《サトヘカヨヒシ》。山道曾《ヤマミチゾ》。茂成來《シゲクナリケル》。忘來下《ワスレケラシモ》。
 
歌(ノ)意は、守山の久しく里へ通ひこぬほどに、通ひなれて踏からしゝ、山徑の草木の茂く生塞れるは、われを忘れにける故ならし、さても戀しく思はるゝよ、と云なり、山守は、女のもとに通ひなれし男を、たとへたるなるべし、
 
1262 足病之《アシヒキノ》。山海石榴開《ヤマツバキサク》。八岑起《ヤツヲコエ》。鹿待君之《シヽマツキミガ》。伊波比嬬可聞《イハヒヅマカモ》。
 
本(ノ)句は、十九にも、奥山之八峯乃海石榴《オクヤマノヤツヲノツバキ》とよみて、つばきは峯(ノ)上にさくよし、おほくよみなれ(446)たるがゆゑに、八岑《ヤツヲ》の形容を云るなり、○八岑《ヤツヲ》は、彌津岑《ヤツヲ》にて、疊れる峯を云、十九に、足引之八峯之※[矢+鳥]《アシヒキノヤツヲノキギシ》、ともよめり、又|八峯布美越《ヤツヲフミコエ》などもよみたり、六帖木(ノ)部ざくろに、此(ノ)歌を第二三の句を、山ざくろさくみねこしに、とて載たり、いかでさばかりには訓誤けむ、海石榴をツバキ〔三字右○〕と訓ることは、古書に證いと多きをや、)○歌(ノ)意、第三(ノ)句までは序にて、狩人の鹿をうかがひねらひて待如くに、大切にするいはひ妻かな、と云意なり、と本居氏云り、(但しシヽマチキミ〔六字右○〕とよむべしと云れど、なほシヽマツキミ〔六字右○〕とよみてよけむ、又岡部氏は、鹿待は、狩人を云て、其男の遠路通ひくるいたつきに譬へ、其君が、いつきかしづく妻かなと、人の上をよめるなり、といへり、
 
1263 曉跡《アカツキト》。夜烏雖鳴《ヨカラスナケド》。此山上之《コノヲカノ》。木未之於者《コヌレノウヘハ》。未靜《イマダシヅケシ》。
 
夜烏雖鳴《ヨカラフナケド》は、契冲が、遊仙窟に、誰知|可に病鵲《アナニクヤモメガラス》夜半(ニ)驚v人、薄媚《ナサケナキ》狂?三更唱v曉(ヲ)、と云るを、引るが如し、○山上は、舊訓にヲカ〔二字右○〕とあるによるべし、(略解に、ミネ〔二字右○〕とよみしはわろし、そも/\ヲカ〔二字右○〕には、後(ノ)世岡丘などの字をのみ書るに目なれて、ミネ〔二字右○〕と云とは異にして、たゞいさゝか高き土をいふとのみおもふは誤なり、)ヲカ〔二字右○〕のヲは峰上《ヲノヘ》、向峯《ムカツヲ》、八峯《ヤツヲ》などの峯にて、山の上を云ことなり、カ〔右○〕は所の意にて、階所《サカ》、在所《アリカ》、隱所《カクレガ》、奧所《オクガ》、などのカ〔右○〕の如し、既く一(ノ)卷にも云り、○木未之於《コヌレノウヘ》は、木未《コヌレ》は、コノウラエ〔五字右○〕の約りたるなり、ノウ〔二字右○〕の切ヌ、ラエ〔三字右○〕の切レ〔右○〕となれり、さて木末之於《コノウレノウヘ》といはむ(447)は、言重りていたづらなる如くなれども、集中に、奥邊之方《オキヘノカタ》とも、荒風之風《アラシノカゼ》ともよめる如く、言さへ異なれば、重ね云に妨(ゲ)なきことゝしるべし、○歌(ノ)意は、曉なりとて、夜烏はなきさわげども、此《コヽ》のをかに宿《ネ》ぐらしめたる異鳥は、まだなきたゝねば、いまだ夜の深きことしられたり、さばかりいそぎたまふな、と云るなり、男の別ていなむとするとき、女のよめるなるべし、
 
1264 西市爾《ニシノイチニ》。但獨出而《タヾヒトリデテ》。眼不並《メナラベズ》。買師絹之《カヘリシキヌノ》。商目許里鴨《アキジコリカモ》。
 
西市《ニシノイチ》は、市に東西あれば云り、大和(ノ)國添下(ノ)郡九條村に、その阯ありと云り、なほ三(ノ)卷に、門部(ノ)王詠2東(ノ)市中木(ヲ)1、とある所に具(ク)云り、○眼不並は、メナラベズ〔五字右○〕と訓べし、目並《メナラ》ぶは、古今集に、花かたみ目ならぶ人のあまたあれば、わすられぬらむ數ならぬ身はとよめり、但し今の歌は、それとはいさゝかかはりて、獨目利《ヒトリメキヽ》をしたるを云なるべし、但獨出而《タヾヒトリデテ》とあるにて知(ル)べし、(略解に、眼不並は、見くらぶるものゝなきなり、といへるは、いかに、)○商自許里鴨《アキジコリカモ》は、(略解に、シコル〔三字右○〕は、シミコル〔四字右○〕にて、物に執する意なるべし、と云るは、いかゞ、又契冲が、シコル〔三字右○〕はシキル〔三字右○〕なり、世に息もつぎあへずかたるを、しこりかゝりてかたるなど云これなり、と云るもいかゞ、)今按(フ)に、商《アキナヒ》のしそこなひを云なるべし、失計《シソコナ》ふことを、シコル〔三字右○〕と云は、源氏物語若紫に、しゝこらかしつる時はうたて侍るを、とくこそ心みさせ給はめ、とあり、(孟津に、しゝこらかしつるときはは、しそこなふてはなり、)梁塵秘抄口傳集に、左衛門督通季、おこりごゝちにわづらひて、しゝ(448)こらかしてけるに云々、とも見ゆ、十二に、我背子之將來跡語之夜者過去《ワガセコガコムトカタリシヨハスギヌ》、思咲八更更思許理來目八面《シヱヤサラサラシコリコメヤモ》とある思許理《シコリ》も同言なり、なは彼處に云るを、考(ヘ)合(ス)べし、○歌(ノ)意は、西(ノ)市に唯獨出て、目並べず一人目利して、買得し衣を、今よく見れば、商のしそこなひにてある哉、となり、此ははじめ思ひかけたる女を、中媒をも立ず、たゞわれひとりのはからひにて、はやまりて妻としたるに、後にあしきことなどありて、中たがひたるときに、悔てよめるか、又たゞこのまゝにて、譬喩歌にはあらざるか、
 
1265 今年去《コトシユク》。新島守之《ニヒサキモリガ》。麻衣《アサコロモ》。肩乃間亂者《カタノマヨヒハ》。許誰取見《タレカトリミム》。
 
新島守《ニヒサキモリ》は、契沖、異國の寇をふせがむために、東の兵をつくしにつかはして、かのさきを守らせらるゝを、島守《サキモリ》といふなり、國々の兵、相かはり/”\行ゆゑに、今年の役にて行者を、新島守《ニヒサキモリ》といふなり、天智天皇(ノ)紀(ニ)云、是歳(三年)於2對馬(ノ)島壹岐(ノ)島筑紫(ノ)國等1、置2防《サキモリト》與《トヲ》1v烽《スヽミ》、又於2筑紫1築2大堤(ヲ)1貯v水(ヲ)、名曰2水城(ノ)1、これさきもりをおかれし初なり、日本紀の和點に、セキモリ〔四字右○〕とあるは、かたかなのセ〔右○〕とサ〔右○〕と似たる故に、關守に聞なれて、サキモリ〔四字右○〕をかくまがへたるなるべし、サキモリ〔四字右○〕は埼守《サキモリ》なり、異國の賊などの、よせくべき埼々を守るゆゑの心なり、その中に、むねと守らせ給ひけるは、筑紫なりと云り、○肩之間亂《カタノマヨヒ》は、衣の、肩の行《クダリ》の※[糸+比]《ヨル》を云、集中に、袖はまよひぬとも、たもとのくだりまよひきにけり、などもよめり、和名抄(ニ)云、唐韻(ニ)云、※[糸+比](ハ)※[糸+曾]欲v壞(ムト)也、萬與布《マヨフ》、一(ニ)云|與流《ヨル》(449)とあり、○許誰取見《タレカトリミム》(許は阿(ノ)字の誤か、さらずば衍なるべし、と契冲云り、)は、誰ありてか取見て、穢垢《ケガレアカヅ》けば洗ひ、綻《ホコロ》び破るればぬひなどせむ、となり、○歌(ノ)意は、今年の役にかはりて行|新防人《ニヒサキモリ》が、麻衣の肩の※[糸+比]《マヨヒ》を、誰ありてか取見む、たびにして妹もなければ、ときあらひ、ぬひつゞりなどすべき人もあらじと、防守の功勞をねぎらふなるべし、
 
1266 大舟乎《オホブネヲ》。荒海爾※[手偏+旁]出《アルミニコギデ》。八船多氣《ヤフネタケ》。吾見之兒等之《アガミシコラガ》。目見者知之母《マミハシルシモ》。
 
荒海《アルミ》は、アラウミ〔四字右○〕なり、ラウ〔二字右○〕の切ル〔右○〕とれり、○八船多氣《ヤフネタケ》は、契冲、八船、こゝにてはおほかる數にはあらず、八度船をたくといふ心なり、舟たくは、海のあらき所にて、舟のあやふきを、ちからをくはへてしのぐ心なり、土佐日記に、ゆくりなく風ふきて、たけども/\しりへしぞきにしぞきて、ほと/\しくうちはめつべし、といへり、と云り、(按(フ)に、八船《ヤフネ》の八《ヤ》は、彌《ヤ》の意なるべし、船を彌度《ヤタビ》多久《タク》義なるべし、)○目見者知之母《マミハシルシモ》とは、目見《マミ》は目つきを云て、目もとにしるくあらはれてあるを云、まみと云こと、物語文にいと多し、(源氏物語若紫に、つらつきふくらかに、まみのほど、髪のうつくしげにそがれたるすゑも云々、)母《モ》は歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、父母などのまもりつよくして、たやすく見がたき女を、危く辛うして見しその女の、我に心をよせたりと云こと、その目もとにしるくあらはれて、嗚呼さても愛しく忘れがたしや、といふなるべし、父母などの常にきびしくまもるを、其をしのぎて、危く辛うして見たるを、舟を荒海に(450)出して、風波の難にあひて、危き目を見たるに、漸その難を凌ぎたるに譬へたるならむ、
 
就《ツケテ》v所《トコロニ》發《ノブ》v思《オモヒヲ》。
 
1267 百師木乃《モヽシキノ》。大宮人之《オホミヤヒトノ》。蹈跡所《フミシアトトコロ》。奥浪《オキツナミ》。來不依有勢婆《キヨラザリセバ》。不失有麻思乎《ウセザラマシヲ》。【旋頭歌。】
 
百師木乃《モヽシキノ》は、枕詞なり、既(ク)出(シ)つ、○蹈跡所《フミシアトトコロ》、藥師寺佛足石碑歌に、彌蘇知阿麻利布多都乃加加多知《ミソヂアマリフタツノカタチ》、夜蘇久佐等曾太禮留比止乃《ヤソクサトソダレルヒトノ》、布美志阿止々己呂麻禮爾母阿留可毛《フミシアトヽコロマレニモアルカモ》、とあり、○歌(ノ)意は、京(ノ)地となりて、大宮人の蹈平しゝ其(ノ)跡所に、奥つ浪の來よらずありせば、猶もとのまゝに在《アリ》て、失ずあらましを、奥つ浪の來よる海邊なれば、今は京都にてありしときの、跡形もなし、となり、此は、近江(ノ)大津(ノ)宮をうつされし後に、志賀辛埼などのさまをよめるならむ、
〔右十七首。古歌集出」
首(ノ)字、舊本に無(キ)は脱たるなり、
 
1268 兒等手乎《コラガテヲ》。卷向山者《マキムクヤマハ》。常在常《ツネニアレド》。過往人爾《スギニシヒトニ》。往卷目八方《ユキマカメヤモ》。
 
兒等手乎《コラガテヲ》は、枕詞なり、手を卷《マク》と云かけたり、古事記神武天皇(ノ)條(ノ)御歌に、延袁斯麻加牟《エヲシマカム》、とあるも將《ム》v卷《マカ》なり、十卷に、上瀬爾河津妻呼暮去者衣手寒三妻將枕跡香《カミツセニカハヅツマヨブユフサレバコロモテサムミツママカムトカ》、廿卷に、若草能都麻乎母麻可受《ワカクサノツマヲモマカズ》云々、とあるも同じ、(古今著聞集に、坊門院に、年比のしつかふ蒔繪師にいそぎ參れと仰遣(ハ)されける返書に、御物《ゴモチ》を蒔《マキ》かけて候へば、蒔はて候て參り候ふべし、といふことを、あさま(451)しき大假字に書て進らせければ、子|持《モチ》を娶《マキ》かけて候へば、娶《マキ》はて候て參り候べしと、あしざまに讀れて、いたくなめげなるよし、さだせられたることあり、この娶《マク》も卷(ノ)意なり、)○過往人爾《スキニシヒトニ》とは、むかしの人にといはむが如し、人は女をさせるなるべし、爾《ニ》は乎《ヲ》と云意なり、君を戀、妹を戀など云意なるをも、君爾戀《キミニコヒ》、妹爾戀《イモニコヒ》、と云たぐひなり、○往卷目八方《ユキマカメヤモ》は、いかにたづねゆくとも、嗚呼卷《アハレマキ》得むやは、卷得じとなり、方《モ》は歎息(ノ)辭なり、マク〔二字右○〕は、上に手乎卷《テヲマキ》と云かけたる卷《マク》にて、相宿するさまなり、宇治拾遺にも、人の妻まく者あり、と云り、○歌(ノ)意は、子等と手を卷(ク)と云卷向山は、昔(シ)京都にてありしときの如くに、常にかはらず立てあれども、時うつり人異りたれは、すぎにしむかしの人を慕ひて、いかにたづねゆくとも卷得むやは、さても口をしき事ぞ、となり、
 
1269 卷向之《マキムクノ》。山邊響而《ヤマヘトヨミテ》。往水之《ユクミヅノ》。三名沫如《ミナワノゴトシ》。世人吾等者《ヨノヒトワレハ》。
 
歌(ノ)意は、卷向の山邊にとゞろきて流行(ク)、穴師川の水の泡沫《ミナワ》の如く、有にかひなくはかなき世(ノ)間なれば、いかでか吾(ガ)身の行末を、たのみに思ふべき、といへるなり、無常の歌なり、
〔右二首。柿本朝臣人麿歌集出。〕
 
寄《ヨセテ》v物《モノニ》發《ノブ》v思《オモヒヲ》。【旋頭歌。】
 
1272 釼後《タチノシリ》。鞘納野爾《サヤニイリヌニ》。葛引吾妹《クズヒクワギモ》。眞袖以《マソデモチ》。著點等鴨《キセテムトカモ》。夏草苅母《ナツクズヒクモ》。
 
(452)釼後《タチノシリ》は、枕詞なり、釼の鋒《シリ》の鞘《サヤ》に入(ル)といひかけたり、○納野《イリヌ》は、神名式に、山城(ノ)國乙訓(ノ)郡入野(ノ)神社あり、そこか、(契冲は、和名抄に、丹後(ノ)國竹野(ノ)郡納野にや、と云り、)○夏草苅母は、草は、葛(ノ)字の誤なり、舊訓クズ〔二字右○〕とあり、これよろし、又苅は引の誤なり、と本居氏の云るが如し、下に、姫押生澤邊之眞田葛原何時鴨絡而我衣將服《ヲミナヘシサキサハノベノマクズハライツカモクリテアガキヌニキム》、とあり、母《モ》は歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、納野に葛引|婦女《ヲトメ》は、己が夫に令v著てむとてか兩袖《マソデ》もて引らむ、さてもあはれの婦女や、となり、此は婦女の葛引をみて、かれが夫に織て令v著てむとてか引らむと、よそよりみてよめるなるべし、(略解に、我に織てきせむとてか、眞手もて夏葛引と云なり、といへるは、吾妹とあるに泥めるなるべし、古へは人の妻《メ》をも女《ムスメ》をも、親みて吾妹といへること、常おほかるをや、)
 
1273 住吉《スミノエノ》。波豆麻君之《ナミヅマキミガ》。馬乘衣《ウマノリゴロモ》。雜豆臘《サニヅラフ》。漢女乎座而《ヲトメヲマセテ》。縫衣叙《ヌヘルコロモゾ》。
 
波豆麻君《ナミヅマキミ》は、未(ダ)詳ならず、もしは波豆麻《ナミヅマ》は、地名などにて、そこに住人を云か、本居氏は、豆麻君は里摩著の誤にて、波里摩著之《ハリスリツケシ》なるべし、と云り、なほ考(フ)べし、○馬乘衣、(舊訓に、マソコロモ〔五字右○〕とあるはよしなし、)契冲は、ウマノリキヌ〔六字右○〕とよむべきか、今の俗、雨衣のせぬひのすそをぬひあはせぬを、うまのりをあくるといひて、馬にのる時、たよりよからむためにすれば、むかしもさる體の衣などを、馬のりきぬとて、用意したることもや侍りけむ、と云り、本居氏は、乘は垂(ノ)字の誤にて、マダラノコロモ〔七字右○〕とよむべし、と云り、猶考(フ)べし、○雜豆臘《サニヅラフ》は既く云り、○漢女乎座(453)而は、漢女は、舊訓にヲトメ〔三字右○〕とあり、漢女と書る所由は、毛詩に、漢有2游女1、と云語によれるなり、と云り、(契冲は、漢は美女多き故に、漢女とかきてヲトメ〔三字右○〕とよめり、といへり、)〔頭註、【李周翰曰、漢女蜀之美女、三體詩註、】〕或説に、雄略天皇(ノ)紀に、十四年春正月、身狹(ノ)村主《スクリ》青等|共《ト》2呉(ノ)國(ノ)使1、將《ヰテ》2呉(ノ)所v獻手末才伎漢織呉織《タテマツレルテビトアヤハトリクレハトリ》、及衣縫兄媛弟媛等《マタキヌヌヒエヒメオトヒメラヲ》1、泊《ハテキ》2於住吉(ノ)津(ニ)1、とあるによりて、漢女はアヤメ〔三字右○〕と訓て、漢國の衣縫女を呼て、ぬはせたる衣ぞといひやるなり、と云り、座而は、マセテ〔三字右○〕と訓べし、俗に招待してと云むが如し、十六に、千磐破神爾毛莫負卜部座龜毛莫燒曾《チハヤブルカミニモナオホセウラベマセカメモナヤキソ》云々、十二に、十五日出之月乃高々爾君乎座而何物乎加將念《モチノヨニイデニシツキノタカ/\ニキミヲイマセテナニヲカオモハム》、などあり、○歌(ノ)意は、此は大方の衣ならず、愛しき漢女を招待してぬへる衣ぞと、衣をしたてゝ人に贈るとて、戯によみてやれるなるべし、
 
1274 住吉《スミノエノ》。出見濱《イデミノハマノ》。柴莫苅曾尼《ハマナカラサネ》。未通女等《ヲトメドモ》。赤裳下閏《アカモスソヒヂ》。將往見《》ユカマクモミム。
 
出見(ノ)濱は、地(ノ)名なるべし、イデミノハマ〔六字右○〕か、イヅミノハマ〔六字右○〕か、なは探索《タヅ》ぬべし、○柴莫苅曾尼は、柴の上に、今一つ濱(ノ)字を脱せるならむ、さて柴は菜の誤、曾は者の誤、莫は衍にて、濱菜苅者尼《ハマナカラサネ》とありしを、字を誤て、シバナカリソネ〔七字右○〕とよみたるより、莫(ノ)字を謾に補《クハ》へたるか、なほよく考(フ)べし、(略解に、尼(ノ)字をネ〔右○〕のかなに用ひたる例なし、と云れど、しからず、集中ネ〔右○〕のかなに用たる例、九(ノ)卷に、著而※[手偏+旁]尼《ツキテコガサネ》、同|吾爾尼保波尼《アレニニホハネ》、などあり、又第三(ノ)句、莫乘曾苅尼の誤にて、ナノリソカリニ〔七字右○〕と訓べしと云説も、うべなひがたし、)○第三(ノ)句已下は、ヲトメドモアカモスソヒヂユカマ(454)クモミム〔ヲト〜右○〕とよむべし、(略解に、四五の句を、アカモノスソノヌレテユカムミム〔アカ〜右○〕、とよめるも誤なり、)○歌(ノ)意は、住吉の出見(ノ)濱の濱菜を苅賜はね、さらば其(ノ)苅に行をとめどもが、赤裳の裾の濕《ヒヂ》て行(ク)容貌《サマ》をも見むぞ、となるべし、
 
1275 住吉《スミノエノ》。小田苅爲子《ヲダヲカラスコ》。賤鴨無《ヤツコカモナキ》。奴雖在《ヤツコアレド》。妹御爲《イモガミタメト》。私田苅《アキノタカルモ》。
 
小田苅爲子は、ヲダヲカラスコ〔七字右○〕と訓、カラス〔三字右○〕はカル〔二字右○〕の伸りたるにて、(ラス〔二字右○〕の切ル〔右○〕、)苅賜ふと云に同じ、○賤鴨無《ヤツコカモナキ》は、奴隷なくて、手自《テヅカ》ら田を刈賜らむかと云なり、○私田刈は、私は秋(ノ)字の誤ならむと云る説によるべし、さて此(ノ)句は、アキノタカルモ〔七字右○〕とよむべし、○歌(ノ)意、本(ノ)句は問にて、末(ノ)句は答なり、住吉の小田を刈賜ふ君は、令v刈べき奴隷なくて、手目刈(リ)賜ふらむかと問たるに、いなさにあらず、からすべき奴隷はあれども、奴隷に令せて刈しめば、麁忽《アシザマ》にもぞなる、親切《ネモコロ》におもふ妹が御爲の故にかる稻なれば、大切にとりまかなひて、手づから秋田をかるぞ、さてもからき業ぞ、とことめれるなり、
 
1276 池部《イケノベノ》。小槻下《ヲツキガモトノ》。細竹苅嫌《シヌナカリソネ》。其谷《ソレヲダニ》。君形見爾《キミガカタミニ》。監乍將偲《ミツヽシヌハム》。
 
細竹の下に、莫(ノ)字落たりと契冲云り、さもあらむ、又嫌は、きらひいさむる謂なれば、莫(ノ)字にあたる義あれば、もとのまゝにてもあるべし、さらば次の歌に、莫苅嫌とある莫(ノ)字は、かへりて衍とすべきか、○歌(ノ)意は、池(ノ)邊の小槻が下の、細竹を刈ことなかれ、其をなりとも、君が見しか(455)たみに見つゝ慕はむぞ、となり、
 
1277 天在《アメナル》。日賣菅原《ヒメスガハラノ》。草莫苅嫌《スゲナカリソネ》。弥那綿《ミナノワタ》。香烏髪《カグロキカミニ》。飽田志付勿《アクタシツクモ》。
 
天在《アメナル》云々は契冲、天にある日とつゞけて、姫菅原と云は、地(ノ)名なるべしと云り、然《サ》ることなるべし、又按(フ)に、在は傳の誤にてもあらむ、天傳日笠《アマヅタフヒカサ》の浦などもよめればなり、○日賣菅原《ヒメスガハラ》は、いづくにあるならむ、尋ぬべし、○草莫苅嫌は、草は菅の草書を誤れるなるべし、集中外にも例有(リ)、スゲナカリソネ〔七字右○〕と訓べし、○彌那綿《ミナノワタ》は、枕詞なり、既く委(ク)云り、こゝは那の下に、乃(ノ)字などの落しか、○歌(ノ)意は、菅原に立入て菅を刈女を見て、しか菅をかることなかれ、汝がうるはしき髪に、芥のつきて穢れむは、さてもをしき事ぞ、と云るなり、(略解に、本居氏(ノ)説を引て、天なるは、天上に、あるひめすが原なり、しからざれば、髪に芥のつくと云よしなし、これは天なるさゝらの小野の類に、たゞまうけて云のみなり、と云れどわろし、たゞ設て云も物にこそよれ、天上の野にて菅をからむに、此(ノ)國土の人の髪に、芥のつくなどいはむは、いとも/\うつけたることにあらずや、さゝらの小野は、天上にありもやせむ、此(ノ)ひめ菅原は、決《キハメ》て天上のにはあらざることしるし、
 
1278 夏影《ナツカゲノ》。房之下邇《ネヤノシタニ》。衣裁吾妹《キヌタツワギモ》。裏儲《ウラマケテ》。吾爲裁者《アガタメタヽバ》。差大裁《イヤヒロニタテ》。
 
夏影房之下邇《ナツカゲノネヤノシタニ》(邇(ノ)字、舊本に庭と作るは誤なり、今は元暦本に從つ、)は、契冲、夏のあつきころは、(456)木にもあれ何にてもあれ、陰の凉しき所にぬるゆゑに、夏かげのねやの下とはいふなり、今按(フ)に、女は北の方ふかくこもりてをるものなり、北窓の凉(ミ)も夏によろしければ、夏かげのねやとは云(ヘ)り、といへり、(已上契冲説、)下《シタ》は裏《ウラ》と云むが如くなるべし、○裏儲《ウラマケテ》は、衣の裡を設なしての意なり、○差大裁、(ヤヽオホニタテ〔七字右○〕とよめるは、いとつたなし、)こゝは義を得て、イヤヒロニタテ〔七字右○〕とよまむか、(ヤヽ〔二字右○〕と云も彌々《ヤヽ》にて彌《イヤ》と同言なり、イヤ〔二字右○〕は彌《ヤ》に伊《イ》の發語のそはりたるなればなり、)○歌(ノ)意は、房の裏に衣を裁(ツ)吾妹よ、吾に著せむが料に、裡を設なして裁ならば、彌廣にたちて腸へよ、となるべし、
 
1279 梓弓《アヅサユミ》。引津邊在《ヒキツノベナル》。莫謂花《ナノリソノハナ》。及採《ツムマデニ》。不相有目八方《アハザラメヤモ》。勿謂花《ナノリソノハナ》。
 
梓弓《アヅサユミ》は、引《ヒキ》といはむための枕詞なり、○引津邊在《ヒキツノベナル》は、引|津《ツ》のほとりにあるといふ意なり、引津《ヒキツ》は、筑前(ノ)國志摩(ノ)郡にあり、十五に、引津(ノ)亭舶泊之作、とありて、海邊の津なり、岐志といふ所の北にありて、昔(シ)は船入しを、今は田となれるよし、貝原氏名寄にいへり、○歌(ノ)意は、なのりその花の咲て、そを採取る時節まで、あはずてあらむやは、あはずにはえあらじと思ふを、その間よくしのびて、わが名を勿謂《ナノリ》そ、人に知られては、あふことかたからむぞ、と云意を、勿謂花《ナノリソノハナ》にいひかけたるなるべし、十(ノ)卷に、梓弓引津邊有莫告藻之《アヅサユミヒキツノベナルナノリソノ》 花咲及二不會君毳《ハナサクマデニアハヌキミカモ》、とて擧たり、
 
1280 撃日刺《ウチヒサス》。宮路行丹《ミヤヂヲユクニ》。宮路行丹《ミヤヂヲユクニ》。吾裳破《ワガモハヤレヌ》。玉緒《タマノヲノ》。念委《オモヒミダレテ》。家在矣《イヘニアラマシヲ》。
 
(457)撃日刺《ウチヒサス》は、宮《ミヤ》の枕詞なり、○玉緒《タマノヲ》は亂《ミダレ》の枕詞なり、○念委、(オモヒステヽモ〔七字右○〕にては、玉緒の言よりつゞきがたし、)元暦本に、オモヒミダレテ〔七字右○〕とあるからは、もと念亂とありけむを、念委と書誤りつらむ、○歌(ノ)意は、思ふ人に行あふこともやとて、みやづかへなどにことよせて、しげしげ宮路をかよふに、我(ガ)裳は破れぬ、さりとてあふこともなければ、中々に思ひみだれながら、それなりに家にありぬべかりけるものを、となり、
 
1281 君爲《キミガタメ》。手力勞《タヂカラツカレ》。織在衣服斜《オリタルキヌヲ》。春去《ハルサラバ》。何何《イカナルイロニ》。摺者吉《スリテバヨケム》。
 
衣服斜《キヌヲ》は、本居氏云、斜は料の誤なり、織たる絹は、衣服の料なれば、かく書てキヌ〔二字右○〕とよませたり、○何何は、同人|何色《イカナルイロニ》の誤なり、何色と書るを、何々と見て、書誤れるなり、と云り、○歌(ノ)意は、夫《セノ》君に著せむが料《タメ》に、女の手力《タチカラ》つからし、いたづきて織たる其(ノ)衣を、春の來らば、何色に摺そめて著せたらば、君が心にふさひてよからむぞ、となり、
 
1282 橋立《ハシタテノ》。倉橋山《クラハシヤマニ》。立白雲《タテルシラクモ》。見欲《ミマクホリ》。我爲苗《アガスルナヘニ》。立白雲《タテルシラクモ》。
 
橋立《ハシタテ》は、倉椅を云むとての枕詞なり、まづ橋立《ハシタテ》とは、垂仁天皇(ノ)紀に、八十七年、石上(ノ)神寶を、大中(ツ)姫(ノ)命に掌しめむとせらるゝ時、姫の言に、吾手弱女人也《アハタワヤメニシアレバ》、何能《イカデカモエ》登《ノボラム》2天神庫《アメノホクラニ》1邪、五十瓊敷(ノ)命(ノ)曰、神庫雖高《ホクラハタカケドモ》、我能爲神庫造梯《アレハシヲタテタラマシカバ》、豈煩登庫乎《ノボリカテタマハマシヤ》、故(レ)諺(ニ)、曰(フハ)2神之神庫隨樹梯《カミノホクラモハシタテノマニマト》1之、此|其縁也《コノヨシナリ》、(神之は天之の誤か、)とある梯樹《ハシタテ》これなり、さて樹梯《ハシタテ》は、何處にまれ、高(キ)所に登らむ料に造れるものなるを、其を庫に(458)登らむ料に造れる梯をば、庫梯《クラハシ》とぞ云けむ、(うつぼ物語に、樓にのぼり給ふべきほどのくれはしは、色々の木をまぜ/\につくりて、下より流るゝ水は、凉しく見ゆべく作る云々、枕册子に、泊瀬などにまうでゝ、つぼねするほどは、くれはしのもとに、車引よせてたてるに、おびばかりしたる、わかき法師ばらの、あしだといふ物をはきて、いさゝかつゝみもなく、おりのぼるとて、何ともなき經のはしうちよみ、倶舍《グサ》の誦《ズ》を、少(シ)いひつゞけありくこそ、所につけてをかしけれ、云々、又くれはしをのぼりこうじて、いつしか佛の御かほ拜み奉らむと、つぼねにいそぎ入たるに云々、など見えたるくれはしも、くらはしの轉語にて、梯庫《クラハシ》なるべくおぼゆ、又和名抄に、遊仙窟(ニ)云、六尺(ノ)象牙(ノ)床、楊氏漢語抄(ニ)云、牙床(ハ)久禮度古《クレトコ》、とあるも、今按(フ)に、これ座床《クラトコ》の義なるべきか、此は事のついでに、いへるのみなり、)かゝれば庫梯《クラハシ》は、やがて庫の梯立《ハシタテ》にてあるなれば、梯立《ハシタテ》の庫梯《クラハシ》とは續けしなり、)冠辭考の説は、言足はで、聞とりがたし、なほ梯立《ハシタテ》は、續後紀十九、興福寺(ノ)僧等(ガ)長歌に、瓠葛天能梯建踐歩美天降利座志々《ヒサカタノアマノハシタテフミアユミアモリイマシヽ》、云々、丹後風土記に、與謝(ノ)郡、郡東北隅方(ニ)有2速石(ノ)里1、此里之海(ニ)有2長大石1、前長二千二百廿九丈、廣或所九丈以下、或所十丈以上廿丈以下、先(ニ)名2天梯立《アマノハシタテト》1、後(ニ)名2久志濱(ト)1、云々、和名抄には、梯(ハ)、木階(ナリ)、所2以登1v高(ニ)也、和名|加介波之《カケハシ》、と見えたり、○倉梯山《クラハシヤマ》は、大和(ノ)國十市(ノ)郡にあり、崇峻天皇、倉梯(ノ)柴垣(ノ)宮に天(ノ)下しろしめされ、又諸陵式に、倉梯(ノ)岡(ノ)陵(ハ)、在2大和(ノ)國十市(ノ)郡(ニ)1、天武天皇(ノ)紀に、十二年十月、天皇狩2于倉梯(ニ)1、續紀に、慶雲二年(459)三月癸未、車駕幸2倉橋(ノ)離宮(ニ)1、などあり、古事記に、仁徳天皇(ノ)御弟速總別(ノ)王、女鳥(ノ)王をぬすみ、難波をにげて大和(ノ)國に至り、倉梯《クラハシ》山に上るとてよみ給ふ、波斯多弖能久良波斯夜麻袁佐賀志美登伊波迦伎加泥弖和賀弖登良須母《ハシタテノクラヤシヤマヲサガシミトトイハカキカネテワガテトラスモ》、又|波斯多弖能久良波斯夜麻波佐賀新祁杼伊毛登能煩禮波佐賀斯玖母阿良受《ハシタテノクラハシヤマハサガシケドイモトノボレバサガシクモフヲズ》、と見えたり、○立白雲《タテルシラクモ》は、契冲云、立る白雲みまくほりといへるは、女にたとへたり、よそにのみみてややみなむかづらきの高間の山のみねの白雲、と云歌も、同じ心なり、浪雲のうつくし妻とよめるやうに、はれたる山に白雲のかゝるも、見所あるものなれば、よせていへり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
1283 橋立《ハシタテノ》。倉椅川《クラハシガハノ》。石走者裳《イハノハシハモ》。壯子時《ヲサカリニ》。我度爲《アガワタセリシ》。石走者裳《イハノハシハモ》。
 
倉椅川《クラハシガハ》も、右と同地なり、河は、天武天皇(ノ)紀に、七年、是春云々、竪《タツ》2齋宮(ヲ)於倉梯(ノ)河上《カハラニ》1云々、三代實録、貞觀十一年七月八日、大和(ノ)國十市(ノ)郡椋橋山(ノ)河岸崩裂、高(サ)二丈深(サ)一丈二尺、其(ノ)中有2鏡一1、廣(サ)一尺七寸、採而獻(リキ)之、とあり、○石走者裳《イハノハシハモ》は、石の橋は、今いづくにあるぞと尋慕ふよしなり、石走のことは、既く云り、者裳《ハモ》は、歎息きて尋慕ふ意の辭なり、○壯子時《ヲサカリニ》は、をとこざかりの時にといふ意なり、○我度爲は、アガワタセリシ〔七字右○〕とよむべし、○後の石走者裳《イハノハシハモ》は、上の事を反復《カヘサ》ひいひて、尋慕ふ意の深切《ネモコロ》なるをあらはしたるなり、○歌(ノ)意は、をとこざかりの時に、倉椅川に、吾わたしてありし石の橋は、あとかたもなし、今いづくにあるぞと、たづねしたふよしなり、此(ノ)歌(460)は、むかし契りをかけし人の、今はたえぬるを、たとへたるならむ、
 
1284 橋立《ハシタテノ》。倉椅川《クラハシガハノ》。河靜菅《カハノシヅスゲ》。余苅《アガカリテ》。笠裳不編《カサニモアマズ》。川靜菅《カハノシヅスゲ》。
 
靜菅《シヅスグ》は、(略解に、下草の意にて、菅の小きを云か、又は一種の管の名かと云れど、ひがことなり、)靜は借(リ)字にて、石著菅《シヅキスゲ》なり、六(ノ)卷に、千鳥鳴其佐保川爾石二生菅根取而《チドリナクソノサホガハニイソニオフルスガノネトリテ》云々、とも見えたれば、石著菅《シヅキスゲ》とはいふべきものなり、○食苅笠裳不編《アガカリテカサニモアマズ》とは、契冲云、心ひとつにわが物とはしめても、まだことならぬにたとふるな、り、此(ノ)意なる歌多し、第十一に、各二首、第十三の長歌にもあり、すべて物によせてよめるは、菅ならねど同意あり、第三に、託馬野爾生流紫衣染未服而色爾出來《ツクマヌニオフルムラサキキヌニシメイマダキズシテイロニデニケリ》、およそ此(ノ)類なり、○川靜菅《カハノシヅスゲ》は、上の事をふたゝび反復《カヘサ》ひいひて、その深切なる意をのべたるなり、○歌(ノ)意は、倉椅川の石著菅《シヅスゲ》の愛しきを刈(リ)取(リ)來て、吾(ガ)物とは領《シメ》たれど、未(ダ)笠に編て著ずといへるにて、女の心にうけひきて、契をばかはしたれど、いまだ相宿せざるを、たとへたるなるべし、
 
1285 春日尚《ハルヒスラ》。田立※[瀛の旁]《タニタチツカル》。公哀《》キミハカナシモ。若草《ワカクサノ》。?無公《ツマナキキミガ》。田立※[瀛の旁]《タニタチツカル》。
 
歌(ノ)意は、長き春の日をさへ、終日田に立つかるゝ君は、妻なき人にて、業をたすくる人もなき故に、いとなみの間なきことよ、さてもかなしきさまや、と云なるべし、
 
1286 開木代《ヤマシロノ》。來背社《クセノヤシロノ》。草勿手折《クサナタヲリソ》。己時《シガトキト》。立雖榮《タチサカユトモ》。草勿手折《クサナタヲリソ》。
 
(461)開木代《ヤマシロ》、十一にもかく書り、契冲、山と云に、開木とかけるは、第六に、百木成《モヽキモル》山は木高しとよめるにて、諸木山より開(キ)出す故か、と云り、代をシロ〔二字右○〕とよむは、拾芥抄田籍(ノ)部に、凡田以2方六尺1爲2十歩(ト)1云々、積2七十二歩1爲2十|代《シロト》1、百四十歩爲2廿代(ト)1云々、五十代爲2一段(ト)1、式云、代(ハ)頭也云々、とあり、(今云、諸木山より開(キ)出すと云は、開は開發する意にて、材木を伐り薪を探る類を、開木と云といふことならむか、これは開木とかきて、ヤマ〔二字右○〕と訓せたる所以を解るなり、按(フ)に代《シロ》は、網代《アジロ》、苗代《ナハシロ》などの代《シロ》にて、その設《マウケ》にする地をいふことなれば、木を伐り出す設にする地を、ヤマシロ〔四字右○〕といひしより。開(ク)v木(ヲ)代と書るならむか、されば代(ノ)字に連ねて意をとるべきか、)○來背社《クセノヤシロ》は、契冲云、神名式に、山城(ノ)國久世(ノ)郡に、大社十一座、小社十三座、を載たり、大社十一座は、石田(ノ)神社一座水主(ノ)神社十座なり、石田(ノ)神社は、此(ノ)集にも異にして名を出したれば、久世(ノ)社は、さだめて水主(ノ)神社なるべし、式に、水主(ノ)神社十座の下に註して云、並(ニ)大、月次新甞、就中同水主(ニ)座天照御魂神|三座伴託《水主座本書》山背大國魂命神二座、預2相甞祭1、といへり、〔頭註、【三座伴託不審し、本書を檢するに、水主坐とあり、猶善本によりて訂すべし、】〕○己時は、シガトキト〔五字右○〕とよむべし、(舊訓に、オノガトキ〔五字右○〕とあるはわろし、)シガ〔二字右○〕は、それがと云意にも、又汝がと云意にもかよひて聞ゆる言なり。古事記歌に、波毘呂由都婆都婆岐斯賀波那能《ハビロユツバツバキシガハナノ》云々芝賀波能《シガハノ》云々、又|加良奴袁志本爾夜岐斯賀阿麻理《カラヌヲシホニヤキシガアマリ》云々、書記雄略天皇(ノ)卷(ノ)歌に、志我都矩屡麻泥爾《シガツクルマデニ》云々、又|柯該志須彌難波旨我那稽摩《カケシスミナハシガナケバ》云々、集中には、五(ノ)卷に、愛久志我可多良倍婆《ウツクシクシガカタラヘバ》云(462)云、十九に、※[盧+鳥]河立取左牟安由能之我婆多婆《ウカハタテトラサムアユノシガハタハ》、又|黄楊小櫛之賀左之家良之《ツゲヲクシシガサシケラシ》、又|秋花之我色々爾《アキノハナシガイロ/\ニ》、など見えたり、(略解に、サガトキト〔五字右○〕とよめるは、いみじきひがことなり、)○歌(ノ)意は、山城の來背(ノ)社の草は神の領《シリ》賜ふ地の草にて、その恐あれば、謾に手折ることなかれ、たとひ己(ガ)時と、時を待得て立榮(エ)のびて、折まほしく思ふとも、堪忍《シノ》びて手折ることなかれ、と反復《カヘサ》ひいひて戒たるなるべし、此は社をもていへるを思ふに、主ある女に思ひをかくる人あるに、しかけさうはするとも、あながちなるわざなせそ、たとひしがときと、女のみさかりの時を待得て榮ゆるを、愛しくは思ふとも、主ある女なれば、あながちなるわざをすることなかれ、と深く戒めたるか、
 
1287 青角髪《アヲミヅラ》。依桐原《ヨサミノハラニ》。人相鴨《ヒトモアハヌカモ》。石走《イハバシル》。淡海縣《アフミアガタノ》。物語爲《モノガタリセム》。
 
青角髪《アヲミヅラ》は、まづ角髪《ミヅラ》は、廿(ノ)卷に、阿母刀自母多麻爾母賀母夜伊多太伎弖美都良乃奈阿爾阿敝麻可麻久母《アモトジモタマニモガモヤイタダキテミヅラノナカニアヘマカマクモ》、と見えたる美豆良《ミヅラ》にて、上代男の装にて、髪を左右へ分て結綰《ユヒワガネ》たるものなり、古事記に、天照大御神の即(チ)解2御髪(ヲ)1纏2御美豆羅《ミミヅラニ》1、を見え、書紀に、息長足姫(ノ)尊の橿日(ノ)浦にして、結v髪(ヲ)爲v髻《ミツラニ》、とあるなども、假に男の貌に、化《ナリ》たまふを云りとぞ、又崇峻天皇(ノ)紀に、古《ヘノ》俗、年少兒年十五六間、束髪於額《ヒサゴハナニス》、十七八開、分(テ)爲2角子《ミヅラニ》1、今亦然之、と見ゆ、左右にあるが角の如くなる故に、角髪、角子など書るなり、(契冲が、角髪は鬘の義にて、カヅラ〔三字右○〕ともよむべければ、もしは、日本紀に見え(463)たる天(ノ)吉葛の心にて、アヲカヅラヨサミ〔八字右○〕とつゞけたるか、あをみづらにても、此(ノ)義難なしと云るは非ず、)さてこゝに角髪と書るは借(リ)字にて、依網《ヨサミ》は碧海(ノ)郡なれば、碧海面依網《アヲミヅラヨアミ》といへるなるべし、と門人南部(ノ)嚴男いへり、さもあるべし、面《ツラ》とは、海面を海豆良《ウミヅラ》といふ、その豆良《ヅラ》にて、碧海の地面にある依網《ヨサミ》といへるなるべし、○依網原《ヨサミノハラ》は、和名抄に、參河(ノ)國碧海(ノ)郡依網、與佐美《ヨサミ》、とある地なるべし、(他にも依網《ヨサミ》てふ地はあれど、此(ノ)歌にては、參河のよさみなり、)○人相鴨は、ヒトモアハヌカモ〔八字右○〕とよみて、いかで人もがなあへかしと願ふ意なり、○石走《イハバシル》は、淡海《アフミ》の枕詞なり、一(ノ)卷に出づ、○淡海縣《アフミアガタ》は、遠江の縣にて、淡海《アフミ》とは、近江を近津淡海《チカツアフミ》と稱《イヒ》、遠江を遠津淡海《トホツアフミ》と稱て、古はたゞ淡海《アフミ》といふときは、二國にわたれる故に、此は遠江をいへるなり、縣《アガタ》は官人の任國を云り、本居氏、此(ノ)歌遠江(ノ)國司の下《上歟》る道に、參河(ノ)國の依網(ノ)原にてよめるにて、淡海縣とは、任國の遠江をさして云るなり、古今集に、文屋康秀が參河(ノ)掾になりて、縣見には得出たゝじやと云やれりける云々、土佐日記に、或人縣の四年五年はてゝ云々などあるも、其(ノ)任國を指て縣と云るなり、又縣召と云ことも、諸國の官人を任《メス》よしの名なり、さて縣は、もと朝廷《ミカド》の御料《メシタマ》ふ陸田物《ハタツモノ》を貢進《タテマツ》る地を云ことにて、官人の任國を指て縣と云は、古(ヘ)に京より、國々の御料の縣に、官人などの往來《ユキカヒ》しころの、名目の遺れりしなり、と云り、なほ古事記傳廿九に、委曲《ツバラ》に見えたり、○歌(ノ)意は、京へ上る道中の、參河(ノ)國依網(ノ)原に、いかで思ふ人もがなあへかし、さら(464)ばわが任られてありし、遠江(ノ)國のありしやうを、物語してきかせむを、となるべし、此(ノ)歌は遠江(ノ)國の司、任はてゝ上る道、參河のよさみの原にてよめるにて、實は思ふ人に逢まほしきを、さとはいはで、たゞおほよそにいへるなり、
 
1288 水門《ミナトノ》。葦末葉《アシノウラハヲ》。誰手折《タレカタヲリシ》。吾背子《ワガセコガ》。振手見《ソデフルミムト》。我手折《アレゾタヲリシ》。
 
振手見は、或説に、振の下に、衣(ノ)字を脱せるか、ソテフルミムト〔七字右○〕、とあるべしと云り、○歌(ノ)意は、みなとのあしのうら葉を、そも誰が手折しぞと、とがめたるに、これは旅行君が、みなとこぎはなれてゆくとき、かへりみしつゝ、袖ふるをみむ爲にとて、わが手折のけしなり、とことわれるなり、一首の中に、問答の意あること、上の住吉小田苅爲子《スミノエノヲダヲカラスコ》云々の類なり、
 
1289 垣越《カキコユル》。犬召越《イヌヨビコセテ》。鳥獵爲公《トガリスルキミ》。青山《アヲヤマノ》。葉茂山邊《ハシゲキヤマヘ》。馬安君《ウマヤスメキミ》。
 
垣越《カキコユル》は、本居氏、犬と云む枕詞なり、歌(ノ)意にはかゝはらず、と云り、○犬召越はイヌヨビコセテ〔七字右○〕と訓べし、犬をよび令《セ》v來《コ》而《テ》なり、○歌(ノ)意は、犬をよび令v來て、率往て鳥獵したまふ公よ。青山の木ぐらく葉茂くしげりたる山邊は、きはめて、けはしくさがしかるべきなれば、その處には馬をとゞめやすめて、よくしてつゝみなく、おはしたまへ君よ、となり、これは夫(ノ)君をいとほしみて、女の告たるなるべし、
 
1290 海底《ワタノソコ》。奧玉藻之《オキツタマモノ》。名乘曾花《ナノリソノハナ》。妹與吾《イモトアレ》。此何有跡《コヽニアリト》。莫語之花《ナノリソノハナ》。
 
(465)此何有跡は、契冲、何は、荷の誤なるべし、と云り、コヽニアリト〔六字右○〕と六言によむべし、○歌(ノ)意は、本は莫語《ナノリソ》といはむための序に、設けいへるのみにて、妹と吾と、此處に率て密《シノ》び隱(レ)てあり、といふことをゆめ/\人に告ることなかれといふことを、莫語之花《ナノリソノハナ》に云つゞけたるにて、此(ノ)歌は、男女海邊の葦原などに、率て隱れ居るとき、其所のものに、令するやうにいへるなり、
 
1291 此崗《コノヲカニ》。草苅小子《クサカルコドモ》。然苅《シカナカリソネ》。有乍《アリツヽモ》。君來座《キミガキマサム》。御馬草爲《ミマクサニセム》。
 
小子は、コドモ〔三字右○〕と訓べし、(略解に、ワラハ〔三字右○〕ともヲノコ〔三字右○〕ともよみたるは、うべなひ難し、)○然苅、この兩字の間に、莫(ノ)字などの落しか、シカナカリソネ〔七字右○〕と訓べし、(職人歌合に、朝夕に君をばかれずみまくさのしかなかりそと人なとがめそ、)○歌(ノ)意は、此(ノ)岡にて草刈(ル)子等よ、然ばかり、ことごとく殘さず刈取てゆくことなかれ、わが思ふ君が、あり/\て、絶ず馬に乘て來りまさむ、其(ノ)馬を飼(フ)料の御秣《ミマクサ》にせむぞ、となり、
 
1292 江林《エハヤシニ》。次完也物《ヤドルシヽヤモ》。求吉《モトムルニヨキ》。白栲《シロタヘノ》。袖纏上《ソデマキアゲテ》。完待我背《シヽマツワガセ》。
 
江林《エハヤシ》は、契冲、名所なるべしといへり、中山(ノ)嚴水、我(ガ)土佐(ノ)國にて、麓は海にほとり、上は平にして畠など有(ル)、其涯けはしくて林となれる所を、俗にえみと云り、若(シ)古言ならば、江林の江は、このえみと同言にや、此(ノ)えみにやどるしゝは、取やすければ、求るによきと云か、と云り、按《オモ》ふに、江は、いへばえに、或はえならぬなどいふえは、淺き意なり、されば江林と云も、奥深からぬ林の(466)義なるべし、さる處にやどれる猪鹿《シシ》は、奥深く逃入方なければ、獲やすき謂なり、いはゆるえみのえも、さるよしにこそあらめ、猶考(フ)べし、○次完也物《ヤドルシヽヤモ》とは、完《シヽ》は猪鹿《シシ》なり、完は古書に宍と通(ハシ)用(ヒ)たり、猪鹿《シシ》に借(リ)てかけり、(本居氏、次は伏の誤、求吉は來告の誤にて、フセルシヽヤモキヌトツゲコシ〔フセ〜右○〕なるべし、といへれどいかゞ、)○袖纒上《ソデマキアゲテ》は、うでまくりをすることなり、後拾遺集に、袖ふれば露こぼれけり秋(ノ)野はまくり手にてぞゆくべかりける、とあり、○歌(ノ)意は、江林にやどる猪鹿の求るに易(キ)にや、うでまくりをして、猪鹿の出來むを吾(カ)兄の待居(ル)よ、といふが表にて、裏の意は、女のなびきより來むほどをうかゞひて、いまだ言出をもせずして、下待居る男を、かたはらより見ていへるにや、
 
1293 丸雪降《アラレフリ》。遠江《トホツアフミノ》。吾跡川楊《アドガハヤナギ》。雖苅《カレヽドモ》。亦生云《マタモオフチフ》。余跡川楊《アドガハヤナギ》。
 
九雪降《アラレフリ》は、遠の枕詞なり、十一にも、霰零遠津大浦爾縁浪《アラレフリトホツオホウラニヨスルナミ》と見えたり、丸雪とかけるは、戀水《ナミダ》、火氣《ケブリ》、白氣《キリ》、重石《イカリ》、青頭鷄《カモ》、などかけるに同じく、義を得て書たるなり、さて此(ノ)つゞけの意、いと心得かてなるを、(契冲が、あられふるおととつゞくなり、音を、とゝのみよむ、其(ノ)例、浪の音をなみのと、梓弓つまひく夜音《ヨト》など云り、と云るは、わろし、)強て考(フ)るに、霞零飛打《アラレフリトビウツ》といふ意につゞけたるなるべし、霰の降は、飛走り打附くるごとくなれば、かくいふならむ、(あられたばしるといふ意なるべく、又袖打とも云るを、思(ヒ)合(ス)べし、)さて飛打《トビウツ》の備宇《ビウノ》切|夫《ブ》なれば、等夫都《トブツ》となるを夫《ブ》(467)を保《ホ》に轉して、遠津《トホツ》と云に云かけたるなるべし、(但し夫《ブ》の濁音を、保《ホ》の清音に轉したりとせむこと、いさゝか心ゆかぬやうなれど、言を轉すときは、さることもあるべし、)○遠江《トホツアフミ》は、中山(ノ)嚴水が、近江(ノ)國にも遠江《トホツアフミ》と云地あり、そこなりと云るが如し、靈其記下卷に、近江(ノ)國坂田(ノ)郡遠江里、有2一富人1、姓名未詳也、と見えたり、(但し阿渡川は高島(ノ)郡なれば、遠江《トホツアフミ》と云地も、同郡なるは論なし、然るに靈異記に、坂田(ノ)郡としては、郡忽にたがへるは、いぶかしきことなり、もしは遠江(ノ)里といふは、高島坂田の兩郡に亘れる地ならむかとも思へど、いはゆる琵琶湖を隔て、西(ノ)方に高島(ノ)郡、東(ノ)方に坂田(ノ)郡あれば、兩郡にわたれらむこと、いかゞ、然れども遠江と云は、もとより湖水につきたる稱とおぼゆれば、高島(ノ)郡にも、坂田(ノ)郡にも、湖水にかたよれる地を、各々然呼し名にてもあらむか、もしは靈異記なるも、もとは高島(ノ)郡なりしを、傳聞の誤にて、坂田(ノ)郡と記せるにもあらむか、彼(ノ)國の地理知たらむ人に尋ねて、重《サラ》に正すべし、)○吾跡川楊《アドガハヤナギ》は、近江(ノ)國高島(ノ)郡|阿渡《アド》川の川柳なり、○歌(ノ)意は、遠江の地の阿渡川の川柳は、刈除(レ)ども、つひに除くことを遂ず、其(ノ)根より根ばえして、又も生と云なる、その阿渡川の川柳ぞとなるべし、これは詞の表なり、裏の意は契冲云、柳のかれども又おふるをいふは、下の心、おもひすてゝもまたおもはるゝにたとへたるか、しばしいひたゆれど、又おもひかねて云かはすにたとふるなるべし、柳はかりてもやがてねばえして、よくおふるものなれば、ことにたとふるなり、第十(468)四に、楊奈疑許曾伎禮婆伴要須禮余能比等乃古非爾思奈武乎伊可爾世余等曾《ヤナギコソキレバハエスレヨノヒトノコヒニシナムヲイカニセヨトゾ》、とあり、
 
1294 朝月日《アサヅクヒ》。向山《ムカヒノヤマニ》。月立所見《ツキタテリミユ》。遠妻《トホヅマヲ》。持在人《モタラムヒトシ》。看乍偲《ミツヽシヌハム》。
 
朝月日《アサヅクヒ》は、向《ムカヒ》といはむとての枕詞なり、○月立所見《ツキタテリミユ》は、古(ヘ)は月の出るを立《タツ》と云り、十一に、味酒之三毛侶乃山爾立月之《ウマサケノミモロノヤマニタツツキノ》云々、十四に、乎豆久波乃禰呂爾都久多思《ヲツイクハネロニ|ツクタシ《月立》》、などよめり、月數《ツキナミ》の歴るを、月の立といふも、又朔を月立《ツキタチ》といふも、もとこれより起れるなり、さてタテルミユ〔五字右○〕と云ずして、タテリ〔三字右○〕としばらく歌(ヒ)絶て、ミユ〔二字右○〕と云こと古風なり、上にたび/\例あり、○歌(ノ)意は、見渡さるゝむかひの山に月の立て、面白くてれるが見ゆる、あはれ遠き所に、思ふ女を持たらむ其人だに、今夜は必(ズ)その女の許に往て、共に見つゝ愛《ウツクシ》むらむと思ふを、吾は妻なしにして、獨見るには、そのしるしなければ、いよ/\かなし、といへるにや、
〔右二十三首。柿本朝臣人麿之歌集出。〕
 
1295 春日在《カスガナル》。三笠乃山二《ミカサノヤマニ》。月船出《ツキノフネイヅ》。遊士之《ミヤビヲノ》。欽酒杯爾《ノムサカヅキニ》。陰爾所見管《カゲニミエツヽ》。
 
歌(ノ)意、表は、きこえたるまゝにて、裏は愛《ウツク》しき女のかほの、ほのかに此方に見えたるのみにて、たとへば、酒杯に月影のうつたたるごとく、ものいひかはすこともかなはねば、いよ/\なつかしき心に堪がたき謂ならむか、
〔右一首。古歌集出。〕
 
(469)行路《ミチユキブリノウタ》。
 
1271 遠有而《トホクアリテ》。雲居爾所見《クモヰニミユル》。妹家爾《イモガヘニ》。早將至《ハヤクイタラム》。歩黒駒《アユメクロコマ》。
 
歌(ノ)意は、間遠く遙に在て、雲居の外に見やらるゝ妹が家に、早く至らむと思ふぞ、速(ク)に歩め吾(カ)のれる黒駒よ、となり、十四に、等保久之?久毛爲爾見由流伊毛我敝爾伊都可伊多良武安由賣久路口麻《トホクシテクモヰニミユルイモガヘニイツカイタラムアユメクロコマ》、とていだせり、
〔右一首。柿本朝臣人麿之歌集出〕
 
譬喩歌《タトヘウタ》。
 
寄《ヨス》v衣《コロモニ》。
 
1296 今造《イマツクル》。班衣服《マダラノコロモ》。面就《メニツキテ》。吾爾所念《アレハオモホユ》。未服友《イマダキネドモ》。
 
今造《イマツクル》は、今新に造るよしなり、今《イマ》の意既く委(ク)云り、平家物語に、新日吉《イマヒエ》、新熊野《イマクマノ》などいへる新《イマ》に同じ、○面就は、契冲が、メニツキテ〔五字右○〕とよめるよろし、目に就ての意なり、一(ノ)卷にも、衣爾著成目爾都久和我勢《キヌニツクナスメニツクワガセ》、とあり、(略解に、オモヅキテ〔五字右○〕とよめるは、非ず、)○吾爾所念は、もとのまゝにては通《キコエ》難し、爾は者の誤にて、アレハオモホユ〔七字右○〕なり、即一本に者とあり、と云り、もし又爾(ノ)字本のままならば、吾は常の誤にて、ツネニオモホユ〔七字右○〕にもあるべし、○歌意は、いまだ逢見ざれども、女のうるはしさの目につきて、われは、つねに、こひしくおもはるゝ、といふことを、衣に譬てい(470)へるなり、
 
1297 紅《クレナヰニ》。衣染《コロモシメマク》。雖欲《ホシケドモ》。著丹穗我《キテニホハヾヤ》。人可知《ヒトノシルベキ》。
 
著舟穗哉は、穗の下に字をおとせるなり、と契冲云り、さることなり、按(フ)に、羽者の二字などを脱せるか、さらばキテニホハヾヤ〔七字右○〕なり、又は瀬者の二字を脱せるにもあるべし、さらば、キテニホセバヤ〔七字右○〕と訓べし、ニホセ〔三字右○〕はニホハセ〔四字右○〕と云が如し、○歌(ノ)意は、紅はうるはしき色なれば、衣に染まほしくは思へども、著てにほはさば、それと人のしるべきか、さても染まはしき色哉、との謂なり、愛しき女を戀しくは思へども、それに逢見ば、早くあらはれむかと云を、たとへたるなり、
 
1298 干名《カニカクニ》。人雖云《ヒトハイフトモ》。織次《オリツガム》。我二十物《アガハタモノヽ》。白麻衣《シロアサゴロモ》。
 
干名は、集中は、千名《チナ》の五百名《イホナ》などよみたれど、こゝはチナニハモ〔五字右○〕とよみては、平穩ならず、こは古寫本の傍書に、名(ノ)字を各と書り、これによりて考(フ)るに、千は干(ノ)字の誤にて、干各《カニカクニ》なるべし、千干相誤れる例集中にあり、○歌(ノ)意は、人は色々にいひさわぐとも、よしやそれにもさはらずして、なほ織次て著むと思ふ、我(ガ)機物の白麻衣ぞ、となり、なほ思つぎて、つひにあはむと云意をたとへたり、(○拾遺集に、第三(ノ)句已下、おりてきむわがはたものにしろきあさぎぬ、とて載たり、)
(471)〔右三首。柿本朝臣人麿之歌集出〕
 
1311 橡《ツルハミノ》。衣人者《コロモハヒトノ》。事無跡《コトナシト》。曰師時從《イヒシトキヨリ》。欲服所念《キホシクオモホユ》。
 
第一二(ノ)句のこと、本居氏(ノ)説に、人者は、者人とありしが、下上になりたるにて、ツルハミノ〔五字右○〕衣《コロモ》はヒトノ〔四字右○〕と訓べし、といへり、(元暦本に、者(ノ)字皆と作り、いかゞ、)さてツルハミ〔四字右○〕は、和名抄染色(ノ)具に、唐韻(ニ)云、橡(ハ)櫟實也、和名|都流波美《ツルハミ》、とありて、橡(ノ)衣は、古(ヘ)賤者の服にて、さて賤者を其(ノ)服もて、やがて橡(ノ)衣といへるなり、○歌(ノ)意は、賤者は、何事も事なしと人の云しときより、賤者になりて、橡衣を著まほしく思ふ、となり、さてこの歌は、貴人は所せき身にて、いさゝかのことも、言しげくいひなされなどすれば、賤者の、中々に事なきを羨(ミ)て、賤者になりたきといふことを、橡(ノ)衣を服ほしきといふならむ、さてこれは、賤しき女などは心をかけたるに、人目はゞかることのありて、よめるなるべし、
 
1312 凡爾《オホヨソニ》。吾之念者《アレシオモハバ》。下服而《シタニキテ》。穢爾師衣乎《ナレニシキヌヲ》。取而將著八方《トリテキメヤモ》。
 
歌(ノ)意は、大かたのものにおもはゞ、下着にして穢(レ)垢(キ)し衣なるを、すてもせずして、又新に取あげて著むやは、嗚呼深く愛く思へばこそ、取あげて著(ル)なれ、といへるにて、これはいやしき婢などを、久しくなれうつくしみて、妻とするときよめるか、
 
1313 紅之《クレナヰノ》。深染之衣《コソメノコロモ》。下著而《シタニキテ》。上取著者《ウヘニトリキバ》。事將成鴨《コトナサムカモ》。
 
(472)歌(ノ)意は、しのびに心をかよはしたる人を、のちにあらはれてつまとせば、人の言痛《コチタク》いひさわがむか、さてもせむすべなしや、と云を、たとへたるなり、
 
1314 橡《ツルハミノ》。解濯衣之《トキアラヒキヌノ》。恠《アヤシクモ》。殊欲服《ケニキホシケキ》。此暮可聞《コノユフヘカモ》。
 
殊欲服は、ケニキホシケキ〔七字右○〕とよむべし、ケニ〔二字右○〕はことさらにと云が如し、他所に、勝異などの字をケ〔右○〕とよめり、同意なり、○歌(ノ)意は、一たび中絶たる人を、又おもひいだして、堪がたくあやしくも、ことさらに逢まほしくおもふ哉、と云をたとへたり、
 
1315 橘之《タチバナノ》。島爾之居者《シマニシヲレバ》。河遠《カハトホミ》。不曝縫之《サラサズヌヒシ》。吾下衣《アガシタゴロモ》。
 
橘之島《タチバナノシマ》は、契冲大和(ノ)國橘寺のある邊なり、第二は、橘之島の宮とよめると同地なり、と云り、○歌(ノ)意は、人遠くはなれたる地にゐたる故に、仲媒などをも立て、表立て婚娶の禮を、とゝのへたるにはあらで、其(ノ)儘妻とせるよしをたとへいへるか、(契冲は、種姓高貴の人をも、あひすまむとおもへど、よしのなければ、さらぬ人を、下におもふをたとふるにや、といへり、いかゞ、)
 
寄《ヨス》v絲《イトニ》。
 
1316 河内女之《カフチメノ》。手染之絲乎《テソメノイトヲ》。絡反《クリカヘシ》。片絲爾雖有《カタイトニアレド》。將絶跡念乎《タエムトモヘヤ》。
 
河内女《カフチメ》は、契冲云、河内(ノ)國の女なり、十四には大和女《ヤマトメ》ともよめり、そのほか難波女《ナニハメ》、泊瀬女《ハツセメ》、などの類なり、○歌(ノ)意は、片思にてはあれど、しかすがに思ひ絶果むと思はむやは、絶むとはおも(473)はず、くりかへし/\、え思ひわすれず、と云を、たとへたるなり、
 
寄《ヨス》2日本琴《ヤマトコトニ》1。
 
1328 伏膝《ヒザニフス》。玉之小琴之《タマノヲコトノ》。事無者《コトナクバ》。甚幾許《ハナハダコヽダ》。吾將戀也毛《アレコヒメヤモ》。
 
伏膝《ヒザニフス》は、五(ノ)卷琴(ノ)娘子(ガ)歌に、伊可爾安良武日能等伎爾可母許惠之良武比等能比射乃倍和我麻久良可武《イカニヤラムヒノトキニカモコヱシラムヒトノヒザノヘワガマクラカム》、とありて、そこに書紀を引て云る如し、○事無者《コトナクバ》は、さゝはることなからばの意なり、男女の中に障(ル)事ありて、え逢がたきときによめるなり、○甚幾許は、イトコヽダクニ〔七字右○〕と訓むもさることながら、十一に、伊田何極太甚利心及失念戀故《イデイカニコヽダハナハダトゴヽロノウスルマデモフコフラクノユヱ》、とあるによらば、こゝもハナハダコヽダ〔七字右○〕と訓べし、同じ意なる詞を重ね云て、其(ノ)深切《ネモコロ》なるを思はせたるなり、物語書に、いといたうといへる類なり、(さてかの極太甚を、ネモコロゴロニ〔七字右○〕とよむ説は、なほ彼(ノ)卷にいふべし、)○歌(ノ)意、第一二(ノ)句は、事をいはむ料の序なり、障(ル)事なくて、思ふ如く心だらひに相見ば、嗚呼そこばく甚《イタ》う戀しく思はむやは、となり、
 
寄《ヨス》v弓《ユミニ》。
 
1329 陸奥之《ミチノクノ》。吾田多良眞弓《アダタラマユミ》。著絃而《ツラハケテ》。引者香人之《ヒカバカヒトノ》。吾乎事將成《アヲコトナサム》。
 
吾田多良眞弓《アダタラマユミ》とは、安太多良《アダタラ》てふ地より、造り出せる眞弓《マユミ》にて、古(ヘ)の名物にぞありけむ、吾田多良《アダタラ》は、陸奥の地(ノ)名なり、按(フ)に、陸奥(ノ)國安達(ノ)郡ありて、安達山あり、安太多良《アダタラ》の嶺は、その山嶺を(474)云るにや、さて此(ノ)郡は、もと安太多良《アダタラ》を和銅の制にて、國郡の名を二字に定められしとき、安達と書て、即|安太多良《アダタラ》と唱へけむを、後に字によりて、安太知《アダチ》と呼ことになれりしならむ、安太多《アダタ》を安達とかきて、良《ラ》を省けること、牟射志《ムザシ》を武藏《ムサシ》とかきて、志《シ》を省きたる例なり、此(ノ)類多し、しからば、安太多良《アダタラ》は、後の安達なるべし、十四に、安太多良乃禰爾布須思之能《アダタラノネニフスシシノ》、又|美知乃久能安太多良末由美波自伎於伎?《ミチノクノアダタラマユミハジキオキテ》、などよめり、(詞花集に、關こゆる人に問ばや陸奥の安達の眞弓紅葉しにきや、とあるを思へば、吾田多良《アダタラ》を安達《アダチ》といへるはさらにて、後には眞弓をも檀木の事と思へるにこそ、〔頭註、【陸奥森岡の城下に、たゝら山と云小山あり、これ安太多良眞弓とよめる處にや、今獅子社と號くるがあるも、あだゝらの根にふす鹿とよめるを思ふに、よしありて聞ゆ、鹿をしゝともいへばなり、と語れる人あり、と閑田耕筆に云り、】〕○著絃而《ツラハケテ》、(絃、舊本には絲と作り、今は一本に從、)は、弓絃をかけてと云なり、○歌(ノ)意は、安太多良眞弓に弦をかけて引ごとく、思ふ女を、吾(カ)方に引依(セ)たくは思へども、もし引依(セ)たらば、世(ノ)人が、とにかく云たてさわがむ、となり、
 
1330 南淵之《ミナフチノ》。細川山《ホソカハヤマニ》。立檀《タツマユミ》。弓束級《ユツカマクマデ》。人二不所知《ヒトニシラエジ》。
 
南淵之細川山《ミナフチノホソカハヤマ》は、大和(ノ)國十市(ノ)郡なり、天武天皇(ノ)紀に、五年夏四月、是月、勅(シテ)禁2南淵山細川山1、並莫(シム)2蒭薪《クサカリキコルコト》1、契冲云、南淵は、ひろくて、其(ノ)中にわきて、みなふち山といふも、細川山と云もありて、みなふちの細川山とこゝによめるなるべし、弓束級は、弓束は、和名抄に、釋名(ニ)云、弓末(ヲ)曰v※[弓+肅](ト)、中央(ヲ)曰v※[弓+付](ト)、和名|由美都加《ユミツカ》、とあり、級(ノ)字、字書に、絲次第也、とありて、マク〔二字右○〕とよむべき義なし、又マテ〔二字右○〕と(475)よむべき字なし、或説に、級はもと纏及とありしを、纏の傍《ツクリ》滅て、及を上へつけて級となりしにやと云り、さもあるべし、兵庫寮式に、凡御梓弓一張云々、纏《マク》v※[弓+付]《ユツカ》料、緑(ノ)組一條(長四丈五尺、とあり、これは收置く料なるべし、こゝに弓束纏《ユツカマク》といへるは、引(ク)料に、にぎりに革を纏ことなり、同式に、造2※[弓+付]角《ユツカノヲ》1裁(テ)v革(ヲ)纏v※[弓+付](ヲ)、とあるこれなり、○歌(ノ)意は、細川山に、生立たる檀木を伐(リ)取(リ)來て、弓に造りて、そのにぎりに革を卷など、よろづとゝのへて、事|成就《ナル》べく思ふ女を、わがものとして、手に入て持までは、人にしられじ、となり、
 
寄《ヨス》v玉《タマニ》。
 
1299 安治村《アヂムラノ》。十依海《ムレヨルウミニ》。船浮《フネウケテ》。白玉採《シラタマトルト》。人所知勿《ヒトニシラユナ》。
 
十依海は、或人の考に、十は群(ノ)字の畫の滅失《キエ》たるにて、ムレヨルウミニ〔七字右○〕なるべし、といへり、(十縁《トヲヨル》と云詞はあれども、こゝには然いふべくもなし、)○白玉採は、シラタマトルト〔七字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、安治群《アヂムラ》の群て依來る海に船を浮て、かゆきかくゆき玉を求るごとく、人多く群れる中を、かゆきかくゆき、けさうのさまをなして、世にしらるゝことなかれと、外より見る人のいさむるなるべし、
 
1300 遠近《ヲチコチノ》。礒中在《イソノナカナル》。白玉《シラタマヲ》。人不知《ヒトニシラエズ》。見依鴨《ミムヨシモガモ》。
 
歌(ノ)意かくれたるところなし、女を玉に譬へたるなるべし、
 
(476)1301 海神《ワタツミノ》。手纒持在《テニマキモタル》。玉故《タマユヱニ》。石浦廻《イソノウラミニ》。潜爲鴨《カヅキスルカモ》。
 
手纏持在《テニマキニモタル》は、三(ノ)卷に、笠(ノ)朝臣金村(カ)、角鹿(ノ)津にてよめる長歌に、綿津海乃手二卷四而有珠手次懸而之努櫃《ワタツミノテニマカシタルタマタスキカケテシヌヒツ》、ともよめり、○玉故《タマユヱ》には、玉なるものを、といはむがごとし、(俗に玉ぢやにといふ意なり、)○歌(ノ)意は、海神の手に纏持賜ふ玉なれば、いかにしても、とり得ることは難きを、忍びあへず、なほいかにもしてとり得むとて、礒の浦のめぐりにて潜《カヅキ》するかな、となり、たとふる心は、ぬしある女なるを、それになほ思ひはなつことをえせずして、心をかけて、いかでとおもひをつくすよしなり、
 
1302 海神《ワタツミノ》。持在白玉《モタルシラタマ》。見欲《ミマクホリ》。千遍告《チタビソツゲ》。潜爲海子《カヅキスルアマ》。
 
千遍告は、チタビソツゲシ〔七字右○〕と訓べし、(告はツケシ〔三字右○〕なり、略解にノリシ〔三字右○〕とよみしは、いかゞ、)○潜爲海子《カヅキスルアマ》は、仲媒をたとへたるなるべし、○歌(ノ)意は、海神のもちたまへる玉の見まくほしさに、止ことを得ず、海子をたのみて千返告し、と云ならむ、○此(ノ)下に、第一二の句、底清沈有玉乎《ソコキヨミシヅケルタマヲ》とて、同歌を出せり、
 
1303 潜爲《カヅキスル》。海子雖告《アマハツグレド》。海神《ワタツミノ》。心不得《コヽロシエネバ》。所見不云《ミエムトモイハズ》。
 
歌(ノ)意は、仲媒《ナカビト》は、主《ヌシ》に千返告はしつれども、領したる主の心(ノ)底をしらねば、あひみえむともいはぬ、といへるにや、
(477)〔右五首。柿本朝臣人麿之歌集出。〕
 
1317 海底《ワタノソコ》。沈白玉《シヅクシラタマ》。風吹而《カゼフキテ》。海雖荒《ウミハアルトモ》。不取者不止《トラズバヤマジ》。
 
沈《シヅク》は、(略解に、シヅク〔三字右○〕は、しづけるを約云るにて、沈みてあるなりといへるは、いとわろし、)石著《シヅク》なり、次下の歌に、石著玉《シヅクタマ》と書たるが如し、此(ノ)次に、沈有玉乎《シヅケルタマヲ》、又|沈白玉《シヅクシラタマ》、又十一に、淡海海沈白玉《アフミノミシヅクシラタマ》、十九に、藤奈美能影成海之底清之都久石乎毛珠等曾吾見流《フヂナミノカゲナルウミノソコキヨミシツクイシヲモタマトゾアガミル》、などあり、海底の石に著てあるを、志豆久《シヅク》といへり、催馬樂に、かづらきの云々白玉しづくや云々を、靈異記には礒著と書り、思(ヒ)合(ス)べし、又廿(ノ)卷に、豆久志奈流美豆久白玉《ツクシナルミヅクシラタマ》、とよみたるは、水著《ミヅク》にて、志豆久《シヅク》の石著《シヅク》なることをも思ふべし、十八に、海行者美都久屍《ウミユカバミヅクカバネ》、とも見ゆ、(但し、古今集十六哀傷歌に、水の面に志豆久《シツク》花の色さやかにも君が御蔭の念ほゆるかな、とよめるは、志豆久《シヅク》は、蔭の移ることを云言と心得たるにや、此(ノ)歌のみにょりて、古(ヘ)志豆久《シヅク》といひし言の意を思ひ誤るべからず、)さて志豆久《シヅク》は、十九に、志都久《シツク》、濱成式に、旨都倶旨羅多麻《シツクシラタマ》、とあるなどによるときは、都《ツ》の言清べきがごとくなれども、多く沈(ノ)字を借(リ)用ひ、廿(ノ)卷にも、美豆久《ミヅク》とあるなどによりて、姑(ク)濁音と定つ、○歌(ノ)意は、父母などのいさめころびて、逢がたき女なれど、つひにあはずしては止じ、の心にたとへたり、
 
1318 底清《ソコキヨミ》。沈有玉乎《シヅケルタマヲ》。欲見《ミマクホリ》。千遍曾告之《チタビゾツゲシ》。潜爲白水郎《カヅキスルアマ》。
 
(478)此(ノ)上に、第一二(ノ)句かはれるのみにて、同歌を載、
 
1319 大海之《オホウミノ》。水底照之《ミナソコテラシ》。石著玉《シヅクタマ》。齋而將採《イハヒテトラム》。風莫吹行年《カゼナフキソネ》。
 
齋而將採《イハヒテトラム》は齋祈《イハヒゴト》して、疵つけず、全くたひらかに採得む、といふなるべし、○風莫吹行年は、本居氏云、行は所の誤にて、カゼナフキソネ〔七字右○〕なり、○歌(ノ)意は、わが思ふ女を大切にして、首尾よく事なくわがものにせむと思ふを、人のかにかくに、いひさわぎなどしてさふることなかれ、といふならむ、
 
1320 水底爾《ミナソコニ》。沈白玉《シヅクシラタマ》。誰故《タレユヱニ》。心盡而《コヽロツクシテ》。吾不念爾《アガモハナクニ》。
 
歌(ノ)意は、水底の玉に心をつくしてこそ、いたく思ひつきたるなれ、誰故に心をつくして、思ふべしやは、他に心をつくして、思ひはせぬことなるを、となり、吾不念爾《アガモハナクニ》の詞に、意を含めたるなり、古今集に、誰故に亂そめにしわれならなくに、とある類なり、(略解に、人のいひつげるをとめをこふるなり、といへるはいかゞ、)こは女を玉に譬へたるなり、○此(ノ)歌、仙覺抄に濱成武を引て美那曾己弊旨都倶旨羅他麻他我由惠爾己々呂都倶旨弖和我母波那倶爾《ミナソコヘシヅクシラタマタガユヱニコヽロツクシテワガモハナクニ》、と載たり、」
 
1321 世間《ヨノナカハ》。常如是月加《ツネカクノミカ》。結大王《ムスビテシ》。白玉之緒《シラタマノヲノ》。絶樂思者《タユラクモヘバ》。
 
緒(ノ)字、舊本に結と作るは誤なり、今は元暦本に從つ、○歌(ノ)意は、かたく結びてありし玉の緒なれば、いつまでも絶ることはあらじと思へるに、今かく絶ることをおもへば、世(ノ)間の人の約《チギリ》(479)も、常にかやうのことにのみあるらむか、それ故に、わがかたくちぎりしことも、絶たるならむ、となり、
 
1322 伊勢海之《イセノウミノ》。白水郎之島津我《アマノシマツガ》。鰒玉《アハビタマ》。取而後毛可《トリテノチモカ》。戀之將繁《コヒノシゲケム》。
 
白水郎之島津《アマノシマツ》は、契冲、島津《シマツ》は、むかしありけむ伊勢の海人の名にや、日本紀に、海人の名をも載られたり、鵜をしまつ鳥といへば、よくかづきするとて、鵜を名とせし海人なるべし、と云り、さて中山(ノ)嚴水、此は伊勢の島津てふ海人が、めづらしき真珠を、かづき得しと云傳(ヘ)の有しなるべし、さてその譬へたる意は、かの鰒玉を取て後、いよ/\めづらしき如く、逢見て後、戀る情の増らむと云意を、そへたるなり、と云り、(略解に、島津は、島は鳥の誤、我は流の草書より誤て、アマガトリツル〔七字右○〕なるべし、といへるは、いかゞ、)○歌(ノ)意は、海人の島津が、鰒玉を採得しごとく、女を吾(ガ)物に領《シメ》得たらば、心をなぐさむべきに、さはなくして、得て後に、いよ/\戀しく思はむか、といへるなり、逢見ての後の心にくらぶれば、昔(シ)は物を思はざりけり、の謂なり、
 
1323 海之底《ワタノソコ》。奥津白玉《オキツシラタマ》。縁乎無三《ヨシヲナミ》。常如此耳也《ツネカクノミヤ》。戀度味試《コヒワタリナム》。
 
縁乎無三《ヨシヲナミ》は、縁邊《ヨルヘ》のなき故にの意なり、いひよらむたづきのなきをたとふ、○歌(ノ)意は、奥つ白玉をとり得むとおもふに、とり得む縁邊《ヨルヘ》のなき如く、いひよらむ爲方のなき故に、常に如此ばかり戀しく思ひつゝ、月日を經度らむか、となり、
 
(480)1324 葦根之《アシノネノ》。※[動/心]念而《ネモコロモヒテ》。結義之《ムスビテシ》。玉緒云者《タマノヲトイハバ》。人將解八《ヒトトカメヤモ》。
 
※[動/心]は、懃の誤なり、○人將解八方《ヒトトカメヤモ》は、中をさくる人あらじ、といふ意にたとふ、○歌(ノ)意は、深切に思ひて、堅く結びてし玉(ノ)緒の如くに、深く約《チギ》りて、いつまでも變らじと、堅く結かはせしといはゞ、吾(カ)中をさまたげさくる人あらむやは、嗚呼さる人はあらじを、となるべし、
 
1325 白玉乎《シラタマヲ》。手者不纒爾《テニハマカズニ》。匣耳《ハコノミニ》。置有人曾《オケリシヒトゾ》。玉令泳流《タマオボラスル》。
 
手者不纒爾《テニハマカズニ》、(略解に、爾は底の誤なり、マカズシテ〔五字右○〕と云べきを、マカズニ〔四字右○〕と云は俗語なり、マカズテ〔四字右○〕と、あるべしと云るは、しひ言なり、もとのまゝに、マカズニなり、)かやうに不爾《ズニ》と云も古言なり、九(ノ)卷に、五十母不宿二吾齒曾戀流《イモネズニアレハゾコフル》、十二に、安河安寢毛不宿爾《ヤスノカハヤスイモネズニ》、十三に、眠不睡爾妹戀丹《イモネズニイモノコフルニ》、又|人寢味寢は不宿爾《ヒトノヌルウマイハネズニ》、十七に、伊母禰受爾今日毛之賣良爾《イモネズニケフモシメラニ》、十三に、蛾葉之衣浴不服爾《アキヅハノキヌダニキズニ》、(字の誤あり、彼(ノ)卷に云べし、)など見えたるを思ふべし、○歌(ノ)意は、白玉をとりあげはしつれど、手玉になしてまかずに、箱に入てのみ、大切に齋きおきて、つひにいたづらに、その玉を水中に捨ておぼらしめつると同じく、下には契置ながら、あふこともなく、あらはれて妻ともさだめず、つひにはいたづらになりて、わが物ともえせざる人を、かたへよりいとをしみて、よめるなるべし、
 
1326 照左豆我。手爾纒古須《テニマキフルス》。玉毛欲得《タマモガニ》。其緒者替而《ソノヲハカヘテ》。吾玉爾將爲《アガタマニセム》。
 
(481) 照左豆は、未(ダ)詳ならず、契冲、テル〔二字右○〕は、ものをほむることば、サツ〔二字右○〕は、薩男《サツヲ》なり、と云り、(又略解に、岡部氏の説をあげて、ヲルサヅ〔四字右○〕は、玉商人を云よしいへれど、うべなひがたし、)今按(フ)に、これは誤字あるべし、ワタツミノ〔五字右○〕などあるべき所なり、猶考(フ)べし、○歌(ノ)意は、某が手玉にして、久しく纏ふるしたりとて、今はその玉を、用なきものに思ひ、手をはなすこともがなあれかし、さらば其(ノ)緒を貫替て、わが手玉にせむを、となり、たとふる意は、手にまきふるすとは、女をもたる人あるに、いかで其(ノ)女をふるき物にして、思ひすてよかし、さらばわが妻にせむを、と云るなり、其(ノ)緒とは、先の夫をたとふるなり、十六に、ある人のむすめ、をとこに捨られて後、ある人にむかへられけるをしらずして、又ある人のえむとおもひて、女のおやのもとへ、よみておくれを歌に、眞玉者緒絶爲爾伎登聞之故爾其緒復貫吾玉爾將爲《シラタマハヲダエシニキトキヽシユヱニソノヲマタヌキアガタマニセム》、答歌、白玉之緒絶者信雖然其緒又貫人持去家里《シラタマノヲダエハマコトシカレドモソノヲマタヌキヒトモチイニケリ》、これにて、たとへの意あきらかなり、
 
1327 秋風者《アキカゼハ》。繼而莫吹《ツギテナフキソ》。海底《ワタノソコ》。奥在玉乎《オキナルタマヲ》。手纒左右二《テニマクマデニ》。
 
歌(ノ)意かくれたるところなし、得かてなる女を玉に比へ、父母などのころびを、風にたとへたるなるべし、
 
寄《ヨス》v山《ヤマニ》。
 
1331 磐疊《イハタヽム》。恐山常《カシコキヤマト》。知管毛《シリツヽモ》。吾者戀香《アレハコフルカ》。同等不有爾《ナソヘラナクニ》。
 
(482)磐疊はイハタヽム〔五字右○〕と訓べし、(イハダヽミ〔五字右○〕と訓るは、わろし」磐を疊《タヽ》み重ねたる山は、物おそろしく見ゆるものなれば、恐山《カシコキヤマ》とつゞけたり、六(ノ)卷に、奥山之磐爾蘿生恐毛問賜鴨念不堪國《オクヤマノイハニコケムシカシコクモトヒタマフカモオモヒアヘナクニ》、とあり、思(ヒ)合(ス)べし、○恐山《カシコキヤマ》は、さがしくて、物おそろしき山を、おふけなく、わが及ばれぬ品貴人《シナタカキヒト》に、たとへたり、○同等不有爾は、(舊本には、トモナラナクニ〔七字右○〕とよめり、)ナソヘラナクニ〔七字右○〕とよめるよろし、同等《ヒトシナミ》に、なぞらへいふべき品の人に、あらぬことなるをの意なり、伊勢物語に、おふなおふな思ひはすべしなぞへなく高き賤しきくるしかりけり、とあり、○歌(ノ)意は、多くの磐石を疊み重ねて、さがしく物おそろしき山の如く、品貴き人にて、吾儕と同等に、なぞらへいふべき人にあらず、されば恐れ憚りてあるべきことなるを、なほ思(ヒ)絶(ル)ことを得ずして、戀しく思ふ哉、となり、
 
1332 石金之《イハガネノ》。凝木敷山爾《コゴシクヤマニ》。入始而《イリソメテ》。山名付染《ヤマナツカシミ》。出不勝鴨《イデカテヌカモ》。
 
石金《イハガネ》は、磐之根《イハガネ》なり、○凝木敷《コゴシク》は、凝木は、木凝とありけむを、下上に誤れるか、コヾシク〔四字右○〕の言は、既く云り、○歌(ノ)意は、磐(ガ)根の疊量りて、凝々《コヾ》しく物おそろしき山に、入始てより、その山がものおそろしければ、出去むとは思へども、なほ山が馴著《ナツカ》しき故に、他所に出去るに得堪ぬ哉、となり、契冲云、此(ノ)歌も同等ならぬ人にいひそめて、人のため、身のため、よくもあらじなど思ふことあれど、えおもひやまぬを、山なつかしみ出かぬるとは、たとふるなり、
 
(483)1333 佐保山乎《サホヤマヲ》。於凡爾見之鹿跡《オホニミシカド》。今見者《イマミレバ》。山夏香思母《ヤマナツカシモ》。風吹莫勤《カゼフクナユメ》。
 
於凡爾見之鹿跡《オホニミシカド》は、おほよそに見てありしかどゝなり、(オホニ〔三字右○〕は、一通りにといふが如し、)○歌(ノ)意は、今までは、佐保(ノ)山を一(ト)通(リ)の山と思ひて、おほよそに見てありしかど、其(ノ)山に分入てよく見れば、花紅葉などもことにすぐれて、さてもなつかしや、ゆめ/\此(ノ)山に風吹荒て、花紅葉などを散し亂すな、となり、契冲云、これは人になるゝまゝに、いとゞふかくおもひまさるにたとへたり、かぜふくなゆめは、佐保山をなつかしむは、花紅葉によりてなれば、思ふ中をさくる人を、風にたとへて吹なと云は、さふることをすなと云なり、第三に、家持、昔許曾外爾毛見之加我妹子之奥槨常念者波之吉佐寶山《ムカシコソヨソニモミシカワギモコガオクツキトモヘバハシキサホヤマ》、吾王天所知牟登不思者於保爾曾見谿流和豆香蘇麻山《ワガオホキミアメシラサムトオモハネバオホニゾミケルワヅカソマヤマ》、とあり、
 
1334 奥山之《オクヤマノ》。於石蘿生《イハニコケムシ》。恐常《カシコケド》。思情乎《オモフコヽロヲ》。何如裳勢武《イカニカモセム》。
 
本(ノ)句は、此(ノ)上の歌に、六(ノ)卷の歌を引るが如し、○歌(ノ)意は、なつかしき人なれば、立入て親交《シタシマ》むとは思へど、品貴き人なれば、同等の人の如く、立交りて親《チカヅ》かむは恐あれば、憚り遠ざかりてあるべきなれど、え思ひ放さずて、かくなつかしく思ふ心を、いかにかせむ、さても爲む方なしや、となり、
 
1335 思勝《オモヒカテ》。痛文爲便無《イタモスベナミ》。玉手次《タマタスキ》。雲飛山仁《ウネビノヤマニ》。吾印結《アレシメユヒツ》。
 
(484)思勝は、(舊本には思〓とあり、それに從ば、オモヒアマリ〔六字右○〕と訓べし、字註に、〓餘也、と見えたり、)今は一本にかくあるに從つ、オモヒカテ〔五字右○〕と訓べし、思不得《オモヒカネ》といはむが如し、思に得堪ずの意なり、○雲飛山《ウネビノヤマ》は、畝傍山《ウネビヤマ》なり、後紀一(ノ)卷にも、雲飛《ウネビノ》宿禰淨永、とあり、○歌(ノ)意は、峻《タカ》く嶮《ケハ》しき山なれば、恐憚りてあるべしとは知ながらも、なほ思に得堪ず、甚《イタ》も爲む方のなき故に、畝傍の嶮しき山に分入て、標を結つる、となり、契冲云、うねび山にしめむすぶとは、およびなき人を、いかにしてがなとおもふを、高く大きなる山を膀璽さして、わが物と領せむとするによするなり、夫木集に、尋來て今ぞしめゆふ玉手すき雲居る山の初さくら花、とあるは、今の歌を、あしくよみてととりたるなるべし、
 
寄《ヨス》v木《キニ》。
 
1304 天雲《アマクモノ》。棚引山《タナビクヤマノ》。隱在《コモリタル》。吾忘《ワガシタゴヽロ》。木葉知《コノハシリケム》。
 
吾忘は、本居氏、忘は、下心(ノ)二字の誤て、一字になりたるなり、といへり、アガシタゴヽロ〔七字右○〕とよむべし、○木葉知《コノハシリケム》(知(ノ)の下、一本に良武の二字あれど、此(ノ)歌の書樣、いたく略きて書たれば、なきぞよろしき、)は、二(ノ)卷に、鳥翅成有我欲比見管良目杼母人社不知松者知良武《ツバサナスアリガヨヒミツヽラメドモヒトコソシラネマツハシルラム》、三(ノ)卷に、眞木葉乃之奈布勢能山之奴波受而吾超去者木葉知家武《マキノハノシナフセノヤマシヌハズテアガコエユケバコノハシリケム》、これらに合せて見べし、十一に、我背兒爾吾戀居者吾屋戸之草佐倍思浦乾來《ワガセコニアガコヒヲレバワガヤドノクササ》《ヘオモヒウラガレニケリ》、ともあり、○歌(ノ)意、第一二(ノ)句は序にて、山の雲に隱るといひか(485)けたるなり、さてかく人目をしのび隱れて、色にあらはさぬ心を、木(ノ)葉はそれと知けむにや、其(ノ)さまあらはれたり、となり、
 
1305 雖見不飽《ミレドアカヌ》。人國山《ヒトクニヤマノ》。木葉《コノハヲシ》。己心《シタノコヽロニ》。名著念《ナツカシミモフ》。
 
人國山《ヒトクニヤマ》は、契冲云、大和なり、下に、人くに山のあきづ野の、とよみたれば、吉野にあるなるべし、○己心は、これも下心の誤にて、シタノコロニ〔七字右○〕なるべし、と本居氏云り、○歌(ノ)意は、みれどもみれども見あかぬ、人國山の木(ノ)葉のうるはしきに見つきて、心の裏にのみ馴著《ナツカシ》く思ふぞ、といへるにて、女を木(ノ)葉にたとへたるなるべし、
〔右二首。柿本朝臣人磨之歌集出。〕
 
1354 白菅之《シラスゲノ》。眞野乃榛原《マヌノハリハラ》。心從毛《コヽロヨモ》。不念君之《オモハヌキミガ》。衣爾摺《》コロモニスリツ。
 
心從毛《コヽロヨモ》云々は、心(ノ)裏よりも云々、と云がごとし、毛《モ》は、表はさるものにて、裏よりも眞實に思ふをいふなり、されば此《コヽ》は自《ミ》我(ガ)心(ノ)裏よりも、といふなり、○歌(ノ)意は、自《ミ》我(ガ)心(ノ)裏よりも、眞實に、あの君が衣に摺(ラ)れむとは思はざりしに、思はずも、その君が衣に摺(ラ)れつる、となり、女の自(ラ)を榛にたとへたるなるべし、もとより思ひよらぬ人に、さりがたきよしありて、得られたる女のよめるにや、
 
1355 眞木柱《マキバシラ》。作蘇麻人《ツクルソマヒト》。伊左佐目丹《イササメニ》。借廬之爲跡《カリホノタメト》。造計米八方《ツクリケメヤモ》。
 
(486)伊左佐目丹《イササメニ》は、契冲云、いさゝかなり、かりそめにといふも、心は通ぜり、古今集にも、いさゝめに時まつまにぞ日はへぬる、こゝろばせをばみゆるものから、とあり、○歌(ノ)意は、そま人のつくれるまきばしらは、みや木のためにして、いさゝかなるかりほなどの柱のために、とおもひあてゝ、つくりけむやは、そのごとく、わがおもひそめていひ出しことも、ことのなぐさにいへる類にはあらず、嗚呼末とほく偕老のちぎりをとげむとてこそ、いひいでたるなれ、といふなるべし、
 
1356 向峯爾《ムカツヲニ》。立有桃樹《タテルモヽノキ》。成哉等《ナリヌヤト》。人曾耳言爲《ヒトゾサヽメキシ》。汝情勤《ナガコヽロユメ》。
 
成哉等《ナリヌヤト》の上、元暦本には將(ノ)字ありて、ナラムヤト〔五字右○〕とよめり、○耳言《サヽメキ》は、さゝやくことなり、(阿佛が乳母のふみに、心しれるどち目見あはせて、人のあまねくしらぬほどのことうちわらひ、そゝやなどゝさやいて、おのづからなぞやなどとふ人あれば云々、)土佐日記異本に、舟君のからく拈《ヒネ》り出して、ふと思へる事を、えしも誣《シヒ》へとて、さゝめきてやみぬ、(落窪物語に、四の君の御めのと、かのとのなりける人を、知たりけるをよろこび給て、さゝめきさわぎ給うて、ふみやらせ給ふめりといへば云々、とあるは、榮花物語に、そゝき立て、狹衣に、そゝきありき給ふ、などいへる、そゝくに同言にて、こゝとは別なるにや、)さゝめごとゝ云も、さゝめきごとなるべし、(長恨歌に私語《サ、メゴト》、)源氏物語若菜(ノ)上に、あやしくうちにのたまはする、御さゞめきごとど(487)もの、おのづからひろごりて云々、とあり、又靈異記に、〓(ハ)佐々支弖《サヽキテ》、とあるを見れば、佐々久《サヽク》ともいへるにや、もし佐々女支弖《サヽメキテ》とありしを脱せるか、○汝情動《ナガコヽロユメ》は、勤《ユメ》は忌《イメ》といふと同言にて、なむぢが心忌つゝしみて、人にしらるゝことなかれといふなり、○歌(ノ)意、第一二(ノ)句は、桃子《モヽノミ》の成《ナル》といひつゞけたる序なり、夫妻の約契《チギリ》成就《ナリ》ぬるやいかにと、世(ノ)人がさゝやきていひしぞ、よくせずばあらはれぬべし、汝が心忌(ミ)つゝしみて、人にしらるゝことなかれ、となり、
 
1357 足乳根乃《タラチネノ》。母之其業《ハヽガソノナル》。桑尚《クハコスラ》。願者衣爾《ネガヘバキヌニ》。著常云物乎《キルチフモノヲ》。
 
母之其業は、ハヽガソノナル〔七字右○〕と訓べし、ナル〔二字右○〕とは、何事《ナニフザ》にまれ、その産業《ナリハヒ》をするを云詞なり、業をナリ〔二字右○〕とよむ、即(チ)ナル〔二字右○〕の體言となれるなり、廿(ノ)卷に、佐伎牟理爾多々牟佐和伎爾伊敝能伊毛何奈流敝伎己等乎伊波須伎奴可母《サキムリニタヽムサワキニイヘノイモガナルベキコトヲイハズキヌカモ》、とあるにても知(ル)べし、(略解に、ハヽガソノワザノ〔八字右○〕とよむべし、と云るは、いみじきひがことなり、)○桑尚、契冲云、桑の下に、子の字の落たるなるべし、寄v木と云ことに叶はずと云べけれど、此(ノ)集の題は、のち/\に題をすゑてよむにはかはりて、おほやうなること集中を案ずべし、かふこの桑をはみてそだてば、桑子といふにて、寄v木と云心あり、といへり、さもあるべし、蠶をかふことは、女のわざなるが、中にも母親は、その夫その子などに、衣になして著せむがためにすることなれば、もはらとある方につきて、母之其業《ハヽガソノナル》とはいへるなり、十二に、垂乳根之母我養蚕乃眉隱馬聲蜂音石花蜘〓荒鹿異母二不相而《タラチネノハヽガカフコノマヨゴモリイフセクモアルカイモニアハズテ》、(488)とあるも同じ、○歌(ノ)意は、母親の、その夫やその子に、衣になして著せむがために、心をつくして、そのしわざにする蠶にてさへ、いかで吾(ガ)衣にして著せたまへとねがへば、ゆるして吾に著すれば、吾(ガ)物として著るといふものなるを、人の女子をも、いかで吾に得しめたまへと、ひたすらにねがふときには、ゆるすまじきにあらねば、その母親にねがひて見ばや、となるべし、
 
1358 波之吉也《はしきやし》。吾家乃毛桃《ワギヘノケモヽ》。本繁《モトシゲク》。花耳開而《ハナノミサキテ》。不成在目八方《ナラザラメヤモ》。
 
本繁《モトシゲク》は、木繁《コシゲク》といはむが如し、○歌(ノ)意、本(ノ)句は序にて、ただうはべに、花々しくうるはしく約《チギ》れるのみにて、嗚呼つひに實に成ずしてあらむやは、となり、契仲云、約することのみありて、實なからむやとたとふるなり、
 
1359 向岡之《ムカツヲノ》。若楓木《ワカカツラノキ》。下枝取《シヅエトリ》。花待伊間爾《ハナマツイマニ》。嘆鶴鴨《ナゲキツルカモ》。
 
若楓木《ワカカツラノキ》は、楓の若木なるべし、楓は加都良《カツラ》なり、(加敝流?《カヘルテ》にあらず、)品物解に委(ク)云り、○花待伊間爾《ハナマツイマニ》は、伊《イ》は助辭にて、花待間になり、さてこの伊《イ》の言は、待の下につく伊《イ》なり、故(レ)花待伊《ハナマツイ》と姑(ク)絶(ル)心持あるべし、(間につけて、伊間《イマ》と云にはあらず、)十(ノ)卷に、青柳之絲乃細紗春風爾不亂伊間爾令視子裳欲得《アヲヤギノイトノクハシサハルカゼニミダレヌイマニミセムコモガモ》、とあり、この類の伊《イ》の助辭、續紀宣命にことに多し、○歌(ノ)意は、むかひの岡の楓の若木の、いつか生(ヒ)樹《タチ》て花咲むと、下枝を取て待間の、嗚呼さても待遠やと、歎息きつる哉、(489)となり、
 
寄《ヨス》v草《クサニ》。
 
1336 冬隱《フユコモリ》。春乃大野乎《ハルノオホヌヲ》。燒人者《ヤクヒトハ》。燒不足香文《ヤキタラネカモ》。吾情燒《アガコヽロヤク》。
 
冬隱《フユコモリ》は、春の枕詞なり、既(ク)出づ、○歌(ノ)意は、春の野をやく人は、猶やきたらねばにや、わが心をまでやくらむ、さてもくるしや、と思ひにもゆる心をいへり、さま/”\に思ふことのしげき心も、野のくさのごとくなればなり、と契冲いへり、其(ノ)意もあるべし、遊仙窟に、未2曾飲1v炭、腹熱如v燒、とあり、
 
1337 葛城乃《カヅラキノ》。高間草野《タカマノカヤヌ》。早知而《ハヤシリテ》。標指益乎《シメサヽマシヲ》。今悔拭《イマシクヤシモ》。
 
早知而《ハヤシリテ》は、契冲、はやく領してなり、といへり、知は、領地《シルトコロ》の領《シル》にて、吾(ガ)物に領得《シリエ》たるをいふことなり、○今悔拭は、拭は音にて、シキ〔二字右○〕に用ひて、イマソクヤシキ〔七字右○〕かとも思へども、或説に、拭は茂の誤にて、イマシクヤシモ〔七字右○〕ならむ、と云るぞよろしき、○歌(ノ)意は、葛城の高間の野を、早く吾(ガ)物に領《シリ》得て、※[片+旁]示さして、人にとられぬやうにすべかりしを、しかせずして、人に得られて、今更一(ト)すぢにさても悔しく思(ハ)るゝよ、となり、此(ノ)歌は、わが手にいりぬべき人を、人にとられて、くいてよめるなり、
 
1338 吾屋前爾《ワガヤドニ》。生土針《オフルツチハリ》。從心毛《コヽロヨモ》。不想人之《オモハヌヒトノ》。衣爾須良由奈《キヌニスラユナ》。
 
(490)土針《ツチハリ》は、草(ノ)名、品物解に具(ク)云り、物を染る草なるべし、○從心毛《コヽロヨモ》は、心(ノ)裏よりもと云が如し、毛《モ》は、表《ウヘ》はさるものにて、裏《シタ》よりも、眞實に思ふよしなり、○歌(ノ)意は、吾(ガ)やどに生る土榛《ツチハリ》よ、汝が心(ノ)裏よりも、眞實に思ふ人は、他にあらじと思へば、ゆめ/\他人の衣に摺(ラ)るゝことなかれ、となり、吾屋前爾《ワガヤドニ》云々と云るは、わが手に入たる女にたとへたるなり、とかくいひかゝづらふ人ありとも、われをおきて、心の裏よりもおもはぬ人にうつるな、といましむるなり、
 
1339 鴨頭草丹《ツキクサニ》。服色取《コロモイロドリ》。摺目伴《スラメドモ》。移變色登《ウツロフイロト》。※[人偏+稱の旁]之苦沙《イフガクルシサ》。
 
歌(ノ)意は、鴨頭草《ツキクサ》に衣を彩《イロド》りて、摺まほしくは思へども、そのつき草は、當時はうつくしけれども、はやく變(ロ)ひて、色のかはりやすきものと、かねて聞たれば、たとひ摺とも、はやく變《ウツロ》はむと思ふが、苦しさや、となり、これはあだなる人のたのみがたきにたとへたり、
 
1340 紫《ムラサキノ》。絲乎曾吾搓《イトヲゾアガヨル》。足檜之《アシヒキノ》。山橘乎《ヤマタチバナヲ》。將貫跡念而《ヌカムトモヒテ》。
 
搓、舊本※[手偏+義]に誤、今は元暦本に從つ、○歌(ノ)意かくれたるところなし、これは、人をふかくおもひ入て、さま/”\にこゝろをつくすをたとへたり、
 
1341 眞珠付《マタマツク》。越能菅原《ヲチノスガハラ》。吾不苅《アレカラズ》。人之苅卷《ヒトノカラマク》。惜菅原《ヲシキスガハラ》。
 
眞珠付《マタマツク》は、枕詞なり、○越能菅原《ヲチノスガハラ》は、十三に、息長之遠智能小菅《オキナガノヲチノコスゲ》、とあると同處か、彼は近江(ノ)國坂田(ノ)郡なり、又は二(ノ)卷に、玉垂之越野《タマタレノヲチヌ》、とあると同地ならば、大和(ノ)國高市(ノ)郡なり、○歌(ノ)意かくれな(491)し、女を菅にたとへたるなり、
 
1342 山高《ヤマタカミ》。夕日隱奴《ユフヒカクリヌ》。淺茅原《アサヂハラ》。後見多米爾《ノチミムタメニ》。標結申尾《シメユハマシヲ》。
 
歌(ノ)意は、淺茅原のおもしろきを、日暮て後も、なほ見愛むが爲に、灼《イチシル》く標結て置べかりしものを、山が高き故に、それに夕日が隱れて、見えずなりぬるゆゑ、標結(フ)ことをえせざりしを悔るなり、契冲云、これは、淺茅原のおもしろきを、うるはしき人にたとへて、夕日かくれぬとは、たま/\あひみて、あかぬわかれせし後、又もみぬたとへなり、かゝらむとしらば、淺茅原にしめゆふごとく、人をもかたくちぎりて、のちもあひみましものを、と悔るなり、
 
1343 事痛者《コチタクバ》。左右將爲乎《カモカモセムヲ》。石代之《イハシロノ》。野邊之下草《ヌヘノシタクサ》。吾之刈而者《アレシカリテバ》。
 
左右將爲乎は、カモカモセムヲ〔七字右○〕と訓べし、(畧解に、トモカモセムヲ〔七字右○〕とよみたれども、トモカクモ〔五字右○〕などやうに云むは、古語には聞も及ばぬことなり、中比よりの語にこそあれ、)六(ノ)卷に、凡有者左毛右毛將爲乎恐跡振痛袖乎忍而有香聞《オホナラバカモカモセムヲカシコミトフリタキソデヲシヌヒタルカモ》、とあり、○歌(ノ)意は、石代の野べの下草を刈得るを、思ふ女を得るにたとへたるにて、思ふ女を得て後には、人の物いひのしげくとも、それはその時にあたりて、ともかうもせむものを、まづ得て、わがものとだにしたらばよからむ、とよせたるなり、○舊本、此(ノ)歌の下に註して曰、一云、紅之寫心哉於妹不和將有、これは右の歌とは別なり、一云とあるはあたらず、これは十一に、玉緒之島《タマノヲノウツシ》(寫の誤)意哉年月乃行易及妹爾不(492)逢將有《コヽロヤトシツキノユキカハルマデイモニアハズアラム》、とある歌の、亂れてこゝに入しものにやあらむ、
 
1344 眞鳥住《マトリスム》。卯名手之神社之《ウナテノモリノ》。菅根乎《スガノネヲ》。衣爾書付《キヌニカキツケ》。令服兒欲得《キセムコモガモ》。
 
眞鳥住《マトリスム》は、枕詞なり、(契冲、まとりは鵜なれば、うなてとつゞくといへども、住と云字心得がたし、鵜は海に住(ム)ものなれば、まとりすむ海《ウナ》、と云かけたるものなり、又按(フ)に、鵜ならずとも、木をまきと云如く、よろづの鳥を眞鳥《マトリ》と云べし、もりには諸鳥來てあつまるものなれば、かくもつゞくるか、といへり、今按(フ)に、宇奈原《ウナハラ》など云は、海之原《ウノハラ》と云ことなれば、海を宇奈《ウナ》とは云べからず、又萬(ツ)の鳥を、ひろく眞鳥《マトリ》と云むことも、いかゞなり、)仙覺註に、眞鳥は鷲《ワシ》なり、えびすは、鷲の羽をば、眞鳥《マトリ》の羽と云なりといへり、此(ノ)説によるに、眞鳥(ノ)大臣といふ名も、此(ノ)鳥によりたるものなるべく、又九(ノ)卷に、鷲住筑波乃山《ワシノスムツクバノヤマ》とよみ、又集中に、筑波嶺《ツクバネ》にかゝ鳴(ク)鷲ともよめるを、むかへ見るに、この雲梯《ウナテ》の社は、世に木深くて、鷲の常に來棲が故に、千鳥《チドリ》鳴(ク)佐保川《サホガハ》、味乃住渚沙之入江《アヂノスムスサノイリエ》、などやうによめる類につゞけたるならむ、十二にも此(ノ)つゞけの歌あり、(伊勢氏(ノ)四季草にも、眞鳥羽にて矢をはぐこと見えたり、これも鷲を云ならむ、)○卯名手之神社《ウナテノモリ》、卯名手《ウナテ》は、和名抄に、大和(ノ)國高市(ノ)郡雲梯、(宇奈天《ウナテ》)とあり、神社《モリ》は、出雲(ノ)國(ノ)造(ノ)神賀詞に、事代主命能御魂乎《コトシロヌシノミコトノミタマヲ》、宇奈捉爾坐《ウナテニマセ》云々、とあるこれなり、(契冲云、神社とかきてモリ〔二字右○〕とよめるは、木のしげき所には、神のまし/\てまもり玉へば、守と云心にて、森の名も負たるか、)なほこの神社の事、十二に、眞(493)鳥住卯名手乃杜之神思將御知《マトリスムウナテノモリノカミシシラサム》、とある歌につきて、委(ク)註(フ)べし、○菅根《スガノミ》は、根は、實字の誤歟、と云る説は、さることなり、(岡部氏の、根は、彌の誤ぞと云るは、やゝ字形は似たれども、菅彌《スガノミ》と書むこと、こゝはいかゞなり、)さて實と根とは、字形は甚|異《カハ》りたれども、常に菅根《スガノネ》てふ歌の多かるに目なれて、ふと暗《ソラ》に菅根とは寫誤れるなるべし、さて菅實《スガノミ》は、上に、妹爲管實採《イモガタメスガノミトリニ》、とよめり、○書付《カキツケ》は、摺著《スリツケ》と云むが如し、眉畫繪畫《マヨカキヱカキ》など云|畫《カキ》なり、○歌(ノ)意は、雲梯の神社の、菅(ノ)實のうつくしキを、衣に摺つけて、嗚呼吾に著せむ女もがなあれかし、となり、この歌は譬喩の體にあらず、きこえたるまゝなり、
 
1345 常不知《ツネシラヌ》。人國山乃《ヒトクニヤマノ》。秋津野乃《アキヅヌノ》。垣津幡鴛《カキツハタヲシ》。夢見鴨《イメニミシカモ》。
 
常不知《ツネシラヌ》は、舊本に知(ノ)字落たり、五(ノ)卷に、都禰斯良農道乃長手袁《ツネシラヌミチノナガテヲ》、とよめり、さてこの歌にては枕詞にて、常に經知(ラ)ぬ、他國《ヒトクニ》、とつゞきたり、○人國山《ヒトクニヤマ》は、此(ノ)上に出たり、○秋津野乃垣津幡鴛《アキヅヌノカキツハタヲシ》とは、契冲が、秋津野に澤ありて、それにおふるかきつばたなり、と云るがごとし、鴛《ヲシ》は借(リ)字、乎《ヲ》は語辭《カタリコトバ》、之《シ》は例のその一(ト)すぢなることをいふ助辭なり、○歌(ノ)意は、人國山の秋津野の、その澤にさきたる、かきつばたのうるはしき花を、現には見ることならずて、夢に見し哉、となり、契冲がきつばたを、夢にみるとよめる喩の心は、かきつばたは、紫にてうるはしければ、色ある人にたとへ、夢は、その人をうつゝともおぼえぬばかり、ほのかにみるによするなり、といへり、
 
(494)1346 姫押《ヲミナヘシ》。生澤邊之《サキサハノベノ》。眞田葛原《マクズハラ》。何時鴨絡而《イツカモクリテ》。我衣將服《アガキヌニキム》。
 
姫神は、ヲミナヘシ〔五字右○〕なり、かく書るは、いかなる所由《ヨシ》にか、未(ダ)詳ならず、(もしは誤字などにもあらむか、)さてこゝは枕詞なり、○生澤邊之は、サキサハノベノ〔七字右○〕と訓べし、(これを古來、オフルサハヘノ〔七字右○〕とよみたれども、ひがことなり、こは己がはじめて考(ヘ)得たるよみなり、)生を、サク〔二字右○〕と訓(ム)例は、六(ノ)卷に、春者生管《ハルハサキツヽ》、十六に、八重花生跡《ヤヘハナサクト》、などあるが如し、(又十(ノ)卷に石走間々生有※[貌の旁]花乃、とあるをも、マヽニサキタルカホバナノ〔マヽ〜右○〕ともよむべし、)さてこそ、姫押《ヲミナヘシ》は、さくと云にかゝれる枕詞にはありけれ、さて生澤《サキサハ》は、佐紀澤《サキサハ》にて、四(ノ)卷に、娘子部四咲澤二生流花勝見《ヲミナヘシサキサハニオフルハナカツミ》、十二に、垣津旗開澤生菅根之《カキツハタサキサハニオフルスガノネノ》、又十(ノ)卷に、姫部思咲野爾生白管自《ヲミナヘシサキヌニオフルシラツヽジ》、又|佳人部爲咲野之芽子爾《ヲミナヘシサキヌノハギニ》、十一に、垣津旗開沼之菅乎《カキツハタサキヌノスゲヲ》、などあると同じ、さて、佐紀《サキ》は、大和(ノ)國添上(ノ)郡の地(ノ)名にて、そこの澤を佐紀澤《サキサハ》と云ひ、そこの野を佐紀野《サキヌ》と云、そこの沼《ヌ》を佐紀沼《サキヌ》とよめり、又|佐紀山《サキヤマ》ともよめり、十(ノ)卷に、春日在三笠乃山爾月母出奴可母佐紀山爾開有櫻之花乃可見《カスガナルミカサノヤマニツキモイデヌカモサキヤマニサケルサクラノハナノミユベク》、とあり、)○歌(ノ)意、は、佐紀澤の邊の眞葛を絡(リ)依(セ)取來て、いつか衣に織て、吾(ガ)服《キ》むぞ、さても早く衣に織て著たしや、となり、女を田葛にたとへたるなり、
 
1347 於君似《キミニニル》。草登見從《クサトミシヨリ》。我標之《アガシメシ》。野山之淺茅《ヌノヘノアサヂ》。人莫苅根《ヒトナカリソネ》。
 
於君似《キミニニル》云々、十九に、妹爾似草等見之欲里吾標之野邊之山吹誰可手乎里之《イモニニルクサトミシヨリアカシメシヌヘノヤマブキタレカタヲリシ》、とあり、○野山之(495)淺茅《ヌヤマノアサヂ》、いかがなり、按(フ)に、山は上(ノ)字の誤にて、ヌノヘ〔三字右○〕歟、淺茅は女をたとへたるなり、○歌(ノ)意は、君に似て、うつくしき草と見しより、我(カ)標結置し野の淺茅を、ゆめ/\謾(リ)に刈てとることなかれ、となり、女を淺茅にたとふるは、秋になりて、露霜にあひて色づけるが、紅顔に似たるをいふなり、契冲云、淺茅を人にたとふるに、和漢の心あるべし、詩(ノ)衛風(ニ)云、手如2柔(ナル)※[草がんむり/夷]《チノ》1、鄭風(ニ)云、出2其〓闍(ヲ)1有v女如v荼(ノ)、註云、荼(ハ)茅華(ナリ)、詩にかくたとふるは、つばなの白くうるはしきを、女にたとふるなり、
 
1348 三島江之《ミシマエノ》。玉江之薦乎《タマエノコモヲ》。從標之《シメシヨリ》。己我跡曾念《オノガトゾモフ》。雖未苅《イマダカラネド》。
 
三島江之玉江《ミシマエノタマエ》は、攝津(ノ)國なり、十一に、三島江之入江之薦乎苅爾社吾乎婆公者念有來《ミシマエノイリエノコモヲカリニコソアレヲバキミハオモヒタリケレ》、又|三島菅未苗在時待者不著也將成三島菅笠《ミシマスゲイマダナヘナリトキマタバキズヤナリナムミシマスガカサ》、などあり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、たとへのさまあらはなり、
 
1349 如是爲而也《カクシテヤ》。尚哉將老《ナホヤオイナム》。三雪零《ミユキフル》。大荒木野之《オホアラキヌノ》。小竹爾不有九二《シヌニアラナクニ》。
 
如是爲而也《カクシテヤ》といひ、尚哉《ナホヤ》といひて、也《ヤ》の疑辭重りて、いかゞしきやうなれど、古歌にはその例多きことなり、既く委(ク)説るが如し、○尚哉將老《ナホヤオイナム》は、尚は借(リ)字にて、黙止《ナホ》ありて、老なむかと云なり、すべて、奈保《ナホ》は、事を起したつることなくして、たゞあるを云ことなり、續紀十(ノ)卷詔に、猶在倍伎物爾有禮夜止思行之弖《ナホアルベキモノニアレヤトオモホシメシテ》云々、とある猶《ナホ》も借(リ)字にて、此(ノ)歌なるに同じ、委くは五(ノ)上に、奈保(496)奈保爾伊弊爾可弊利提《ナホナホニイヘニカヘリテ》云々、とある歌の註に、例どもを載たり、考(ヘ)合(ス)べし、○三雪零《ミユキフル》には、さして用なし、たゞ枕詞の如く云たるなり、○大荒木野《オホアラキヌ》は、神名式に、大和(ノ)國宇智(ノ)郡荒木(ノ)神社、とある所なるべし、と契冲云り、古今集に、大あらきのもりの下草老ぬれば駒もすさめずかる人もなし、曾丹集にも、大あらきのをさゝが原、とよめり、○歌(ノ)意は、大あらき野の小竹の、人に刈のこされしこそ、つひにかる人もなくて、いたづらに年經るものなれ、その大あらき野のしぬにもあらぬことなるを、われは人にいざなはるゝこともなく、黙止《ナホ》ありて、このまゝに年の老はてなむか、と云なるべし、十一には、如是爲哉猶八成牛鳴大荒木之浮田之杜之標爾不有爾《カクシテヤナホヤナリナムオホアラキノウキタノモリノシメニアラナクニ》、とて載、
 
1350 淡海之哉《アフミノヤ》。八橋乃小竹乎《ヤバセノシヌヲ》。不造矢而《ヤハカズテ》。信有得哉《マコトアリエムヤ》。戀敷鬼乎《コホシキモノヲ》。
 
信有得哉は、マコトアリエムヤ〔八字右○〕と訓べし、十五に、於毛波受母麻許等安里衣牟也《オモハズモマコトアリエムヤ》、と假字書あり、又サネアリエムヤ〔七字右○〕とも訓べし、九(ノ)卷に、核不所忘面影思天《サネワスラエズオモカゲニシテ》、十四に、安志可流登我毛左禰見延奈久爾《アシカルトガモサネミエナクニ》、十五に、伎美爾故布良牟比等波左禰安良自《キミニコフラムヒトハサネアラジ》、又|夜須久奴流欲波佐禰奈伎母能乎《ヤスクヌルヨハサネナキモノヲ》、十
八に、由可牟登於毛倍騰與之母佐禰奈之《ユカムトオモヘドヨシモサネナシ》、廿(ノ)卷に、伎美乎安我毛布登伎波左禰奈之《キミヲアガモフトキハサネナシ》、などあればなり、○歌(ノ)意は、矢橋の小竹を取(リ)來て、矢に造る如く、わが思ふ人を、わが物と領得《シリエ》ずして、まことにありえられむものかは、かほどにこひしく思はるゝものを、と云るなり、(舊説、矢橋の(497)名におふ小竹なれば、矢に造るべきを、と云意なり、といへれど、これは必(ス)矢橋と云にはかゝはらぬなるべし、所はいづくにもあれ、たゞ、小竹を矢にするを云るならむ、)
 
1351 月草爾《ツキクサニ》。衣者將摺《コロモハスラム》。朝露爾《アサツユニ》。所沾而後者《ヌレテノチニハ》。徙去友《ウツロヒヌトモ》。
 
歌(ノ)意は、月草のうつくしき色にて、衣は摺て染む、よしや朝露にぬれて、後にはうつろひかはりはすとも、そこはいとはじ、となり、人の心のうつりかはりやすきを、月草にたとへ、朝露にぬれて後と云は、なにぞさはることあれば、やがて心のかはるによせたり、かはりやすき人の心は、すこしなにぞさはることあれば、やがてうつろふものにて、たのみになりがたけれど、後の事はとまれ、それまでは思はず、まづしばしなりとも、うつくしき人に相見む、となり、(現存六帖に、月草に衣はすらじうつろふを心の色と人もこそみれ、とあるは、今の歌に本《ヨリ》てよみながら、意はうらうへなり、契冲云、今の歌、古今集秋(ノ)上に載たるは、萬葉集にいらぬふるき歌をたてまつるといへども、かむがへもらして入たるなるべし、といへるは、さることなり、抑々古今集に、萬葉集の歌の入たる、これかれあるにつきて、かにかくいぶかしみいふ人あれど、さのみ疑ふべきにたらず、いかにと云に、かの延喜の頃は、既く古風はうせはてゝ、凡そ世の人、萬葉をよくよみわきだめしはなかりしと見ゆれば、此(ノ)集に出たるを、得見わきまへずして、七八首ばかり、彼(ノ)集に擧けむは、げにさも有べきことなり、既く古今集(ノ)序に、吉野の山(498)の櫻は、人麻呂が心には、雲かとのみなむおもほえける、とあるにても思ふべし、およそ人麻呂の歌に、花紅葉を、雲錦に見立たるたぐひのことは、一(ツ)もあることなきは、此(ノ)集を讀たらむ人は自(ラ)知べし、さばかり萬葉に暗き世なりければ、かばかりの事は、などかなかるべき、これにてとかく擧いふに及ばず、契冲が云しゴとく、檢へもらせるのみにて他の理なし、やゝ下りて、さばかり才識の聞ありし源(ノ)順なども、萬葉は得讀とかれざりしにて、そのかみを思ひやるべし、)
 
1352 吾情《ワガコヽロ》。湯谷絶谷《ユタニタユタニ》。浮蓴《ウキヌナハ》。邊毛奥毛《ヘニモオキニモ》。依勝益士《ヨリカテマシヲ》。
 
湯谷絶谷《ユタニタユタニ》は、ゆた/\と心の動搖《ユルグ》をいへり、古今集に、大舟のゆたのたゆたに、と云るに同じ、○浮蓴《ウキヌナハ》は、品物解にいへり、池沼などに生るものなり、○邊毛奥毛《ヘニモオキニモ》は、池沼などの邊方にも奧方にも、と云なり、池沼などにも奥とよむこと、三(ノ)卷に既く委く云りき、○歌(ノ)意は、浮蓴の池沼などの、水(ノ)上に浮びたゞよひて、邊方にも奥方にも依ぬが如くに、吾(ガ)心もゆた/\と搖《ユル》ぎ動《サワ》きて、つひに心を一方によせ定めて、鎭むる事を得ざらましを、となり、
 
寄《ヨス》v花《ハナニ》。
 
1306 是山《コノヤマノ》。黄葉下《モミチノシタニ》。花矣《サクハナヲ》。我小端《アレハツ/\ニ》。見反戀《ミツヽコフルモ》。
 
花矣は、本居氏云、矣は咲の誤にて、咲花《サクハナヲ》なりしが、下上になりたるなり、○見反戀は、反は、乍の(499)誤なり、と同人云り、さらば末(ノ)句は、アレハツハツニミツヽコフルモ〔アレ〜右○〕とよむべし、○歌(ノ)意かくれたるところなし、女を花にたとへたるなり、
〔右二首。柿本朝臣人磨之歌集出。〕
 
1360 氣緒爾《イキノヲニ》。念有吾乎《オモヘルアレヲ》。山治左能《ヤマヂサノ》。花爾香君之《ハナニカキミガ》。移奴良武《ウツロヒヌラム》。
 
山治左《ヤマヂサ》は、契冲、常もちさの木と云ものなり、十一にも、山ぢさの白露おもみ、とよみ、十八(ノ)長歌にも、ちさの花さけるさかりに、などよめり、和名抄に、本草(ニ)云、賣子木、和名|賀波知佐乃木《カハチサノキ》、とあるも、たゞ知佐《チサ》の木のことにや、と云り、なほ品物解に委(ク)云り、○歌(ノ)意は、われは命にかけておもふものを、君は山ぢさの花のうつろふやうに、はや心がはりしぬらむか、さてもうらめしき事ぞ、となり、
 
1361 墨吉之《スミノエノ》。淺澤小野之《アササハヲヌノ》。垣津幡《カキツハタ》。衣爾摺著《キヌニスリツケ》。將衣日不知毛《キムヒシラズモ》。
 
淺澤小野《アササハヲヌ》は、住吉(ノ)郡、今の大歳神社の東南の方にありて、今田圃となれる地なりとぞ、(風雅集、俊戚、いざや子等若菜採てむ根芹生る淺澤小野は里遠くとも、)○歌(ノ)意は、かきつばたのうつくしきを、衣に摺つけそめて著む、その日をいつとしらず、さても待遠や、となり、かきつばたは、紫にうるはしくにほふものなれば、それをうつくしき女にたとへて、その女と事のなるを、衣にすりつくるに、たとへたるなり、かきつばたを衣に摺ことは、十七に、加吉都播多衣爾(500)須里都氣麻須良雄乃服曾比獵須流月者伎爾家里《カキツタキヌニスリツケマスラヲノキソヒカリスルツキハキニケリ》、とよめり、
 
1362 秋去者《アキサラバ》。影毛將爲跡《ウツシモセムト》。吾蒔之《アガマキシ》。韓藍之花乎《カラヰノハナヲ》。誰採家牟《タレカツミケム》。
 
影毛將爲跡は、本居氏、影は移の誤にて、ウツシモセムト〔七字右○〕とよむべし、移《ウツ》すは、染るを云なり、と云り、今按(フ)に、毛も爾の誤にてウツシニセムトとありしにはあらずや、さらば移《ウツシ》と云こと體言になりて、移染《ウツシソメ》に爲むとゝ云ことになるなり、○歌(ノ)意は、秋になりて、花さきたらば、その花をとりて、移染《ウツシソメ》に染むと、深く思設けて、吾(カ)蒔生しゝ韓藍の花を、誰が他(シ)方に採(ミ)取(リ)て行けむぞ、となり、女を韓藍にたとへたり、
 
1363 春日野爾《カスガヌニ》。咲有芽子者《サキタルハギハ》。片枝者《カタエダハ》。未含有《イマダフヽメリ》。言勿絶行年《コトナタエソネ》。
 
未含有《イマダフヽメリ》は、契冲云、含《フヽム》は、花のつぼめるを云、萩は秋草の中にぬき出たる物にて、その片枝のまださかぬと云は、うるはしきうなゐに、行末をちぎる心なり、○言勿絶行年《コトナタエソネ》は、言の通ひは絶ることなかれ、と云なり、行年は、本居氏云、所年の誤にて、ソネ〔二字右○〕なり、○歌(ノ)意は、春日野の、うるはしき萩の、片枝は咲出で、片枝は未(タ)つぼめる如く、未(タ)人となりをへざる童女《ウナヰヲトメ》なれば、吾(カ)得て妻とすべき時にはあらず、されどこの愛《メデ》たき女を、他人に得さすべきにあらざれば、今より吾に、言の通は絶ことなかれ、と行末をちぎれるなり、
 
1364 欲見《ミマクホリ》。戀管待之《コヒツヽマチシ》。秋芽子者《アキハギハ》。花耳開而《ハナノミサキテ》。不成可毛將有《ナラズカモアラム》。
 
(501)歌(ノ)意は、人となりて、花の咲たる如く、うるはしき光儀を見まくほしさに、戀しく思ひつゝ待しその女なれば、たゞうはべの花々しき事のみにて、實《ミ》に成就《ナラ》ずては得あるまじきに、なほ實にならずしてあらむか、さても本意にかなはざることや、と女を芽子に比へたるなり、
 
1365 吾妹子之《ワギモコカ》。屋前之秋芽子《ヤドノアキハギ》。自花者《ハナヨリハ》。實成而許曾《ミニナリテコソ》。戀益家禮《コヒマサリケレ》。
 
歌(ノ)意、第一二句は、序の如くいひたるにて、女に花々しく、言のみいひかはしたる時には、實《マコト》に事《コト》成就《ナリ》たらば、かくまでは戀しくは思はじと思ひしを、中々にさはなくて、眞實になりてこそ、彌益に戀しく思ふ心は、まさりてあれ、となり、逢見ての後の心にくらぶればの意なるべし、契冲云、これは萩の實を賞して、たとふるにはあらず、第十にも、わがやどにさける秋はぎ散過て實になるまでに君にあはぬかも、とよみて、實ある物なれば、花やかに云(ヒ)わたりたるよりは、あひみて眞實をみるがまされり、といふに、たとふるなり、
 
寄《ヨス》v稻《イネニ》。
 
1353 石上《イソノカミ》。振之早田乎《フルノワサダヲ》。雖不秀《ヒデズトモ》。繩谷延與《シメダニハヘヨ》。守乍將居《モリツヽヲラム》。
 
振之早田乎《フルノワサダヲ》は、第五(ノ)句の、守乍《モリツヽ》と云へつゞく意なり、不v秀とも守つゝ居む、と云なり、第三(ノ)句へ直に續ては聞べからず、○雖不秀《ヒデズトモ》は、穗に出ずともと云意にて、まだいはけなき人にたとふ、○繩谷延與《シメダニハヘヨ》は、標繩《シメナハ》なりとも引延よ、となり、繩は、舊訓のまゝに、シメ〔二字右○〕と訓べし、繩はやがてし(502)めなればなり、(略解にナハ〔二字右○〕とよみしは、いたくなづめり、と中山(ノ)嚴水が云たるぞよき、)十(ノ)卷に、足曳之山田佃子不秀友繩谷延與守登知金《アシヒキノヤマダツクルコヒデズトモシメダニハヘヨモルトシルガネ》、同|打細爾鳥雖不喫繩延守卷欲寸梅花鴨《ウツタヘニトリハハマネドシメハヘテモラマクホシキウメガハナカモ》、など、皆シメ〔二字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、いまだ穗には出ざれば、刈取べき時にあらず、よしや刈取ずとも、標繩なりとも引はへよ、さらば吾(レ)それを他人に刈(ラ)しめず、守つゝ居らむ、となり、いまだいはけなき女なれば、取得べきにあらず、されどうつくしき少女なれば、他人には得させじ、つひに吾(カ)物とせむとおもへば、他人の得ぬやうにちぎりて置てよ、と仲媒にかたらふ意をたとへたるなるべし、
 
寄《ヨス》v鳥《トリニ》。
 
1366 明日香川《アスカガハ》。七瀬之不行爾《ナヽセノヨドニ》。住鳥毛《スムトリモ》。意有社《コヽロアレコソ》。波不立目《ナミタテザラメ》。
 
七瀬之不行《ナヽセノヨド》とは、七瀬は、ひろき川の瀬のおほかるを云り、五(ノ)卷に、麻都良我波奈奈勢能與騰波《マツラガハナナセノヨドハハ》、ともよめり、鈴鹿川に八十瀬とよめる類なり、不行《ヨド》は、義を得て書るなり、不通《ヨド》、不逝《ヨド》などの如し、○歌(ノ)意は、契冲、七瀬によどむ水は、水鳥の心にはかなふまじけれど、さりとて、いづくにうつりすむべきにもあらず、と思ふ心あればこそ、波を立て打さわぎても、立さらずすむらめ、七瀬のよどの、よどみがちなるやうに、さはることのみありて、あふことなき中も、さりとておもひすてゝ、誰にかはうつらむとなり、と云り、今按(フ)に、あすか川にすむ水鳥も、七瀬のよ(503)どのしづかなる處に、處得てすむなれば、心ありてこそ、波をはふり立などして、人にもしられず、ながくひそみて住なれ、されば吾(カ)中も、人にしられて、とにかく云さわがれぬべきことにあらず、といふにもあるべし、吉野爾有夏實之河乃川余杼爾鴨曾鳴成山陰爾之?《ヨシヌナルナツミノカハノカハヨドニカモノナクナルヤマカゲニシテ》、などいふごとく、しづかなる處得てすむを、淀に住と云るか、
 
寄《ヨス》v獣《ケダモノニ》。
 
1367 三國山《ミクニヤマ》。木末爾住歴《コヌレニスマフ》。武佐左妣乃《ムササビノ》。此〔□で囲む〕待鳥如《トリマツガゴト》。吾俟將痩《ワレマチヤセム》。
 
三國山《ミクニヤマ》は、契冲云、越前(ノ)國なるべきか、神名式(ニ)云、越前(ノ)國坂井(ノ)郡三國(ノ)神社、繼體天皇(ノ)紀云、男大迹《ヲホトノ》天皇(ハ)、譽田《ホムダノ》天皇(ノ)五世《イツヾキノ》孫、彦主人《ヒコウシノ》王(ノ)子也、母(ヲ)曰2振《フル》媛(ト)1うん々、天皇(ノ)父、聞《キカシテ》2振媛(ガ)顔容※[女+妙]妙甚有※[女+微の旁]色《カホキラ/\シキコトヲ》1、自2近江(ノ)國高島(ノ)郡三尾之|別業《ナリトコロ》1、遣v使(ヲ)聘(シテ)2于三國(ノ)坂中井《サカナヰニ》1、(中此云v那(ト)、)納以爲v妣《ミメト》云々、天皇|幼年《ワカクマシ/\テ》、父(ノ)王薨(タマヒキ)、振媛|廼歎曰《ナゲキケラク》、妾《ワレ》今|歸2寧《オヤトブラヒガテリニ》高向《タカムコニ》1、(高向者、越前(ノ)國(ノ)邑名(ナリ)、)奉v養《ヒタシ》2天皇(ヲ)1云々、日本紀によれば、三國《ミクニ》の内に、坂中井《サカナヰ》と云處も、高向《タカムコ》と云處もあるなり、延喜式和名抄によれば、坂井(ノ)郡に、三國高向あり、しかれば坂井(ノ)郡もとみな三國なり、此(ノ)所に三國山あるべし、(和名抄に、越前(ノ)國坂井(ノ)郡高向(ハ)多加無古《タカムコ》、これをいへり、○住歴《スマフ》は、任《スム》の伸りたる言にて、棲《スミ》て居ると云意なり、○武佐左妣《ムササビ》は、獣(ノ)名なり、物品解に具(ク)云り、○此待鳥如は、此は衍文にて、トリマツガゴト〔七字右○〕なり、※[鼠+吾]鼠《ムサヽビ》は木末に居て、鳥の飛來を待て捕(リ)食ふものなれば云り、○歌(ノ)意は、三國山の、梢に棲て居るむさゝびの、鳥の飛(504)來るをうかゞひ待居る如く、吾も人を待に、待久しく、いつと云かぎりもなくて、やせおとろへむぞ、となり、(略解に、終句を、ワヲマチヤセム〔七字右○〕とよみしはいかに、)
 
寄《ヨス》v雲《クモニ》。
 
1368 石倉之《イハクラノ》。小野從秋津爾《ヲヌヨアキヅニ》。發渡《タチワタル》。雲西裳在哉《クモニシモアレヤ》。時乎思將待《トキヲシマタム》。
 
石倉《イハクラ》は、契冲、秋津に立わたると云るにて見れば、石倉の小野といふも、大和(ノ)國なり、類字抄に、山城に屬したるは非なり、といへり、○秋津《アキヅ》は、吉野の秋津なり、○雲西裳在哉《クモニシモアレヤ》は、之裳《シモ》は、多かる物の中に、その一(ツ)をとり出でいふ助辭なり、さればこゝは、羨しき物の多かる中に、雲をひとへに羨しく思ふよしなり、在哉《アレヤ》は、あれかしの意なり、○歌(ノ)意は、石倉の野より、はる/”\と秋津の野まで、見るがうちに立わたる雲にてもがな、吾(ガ)身のあれかし、さらば通(ヒ)路遠き中をも、たはやすく通(ヒ)行て、逢ふことのなるべきを、さる雲にしもあらねば、あふべき時の來るを待居む、となげきたるなり、
 
寄《ヨス》v雷《イカツチニ》。
 
1369 天雲《アマクモニ》。近光而《チカクヒカリテ》。響神之《ナルカミノ》。見者恐《ミレバカシコシ》。不見者悲毛《ミネバカナシモ》。
 
歌(ノ)意は、高貴《シナタカ》き人をたとへたるなるべし、相見れば、しかすがにおそれはゞからしく、又さりとて相見ねば、こひしく思はれて、かなしく堪がたければ、二(タ)しへにわたりて、さても爲む方(505)なしや、となり、上は恐《カシコシ》といはむ料の序なり、
 
寄《ヨス》v雨《アメニ》。
 
1370 甚多毛《コヽダクモ》。不零雨故《フラヌアメユヱ》。庭立水《ニハタヅミ》。大莫逝《イタクナユキソ》。人之應知《ヒトノシルベク》。
 
不零雨故《フラヌアメユヱ》は、ふらぬ雨なるものをの意なり、○庭立水は、ニハタヅミ〔五字右○〕にて、ヅ〔右○〕を濁るべきに、此《コヽ》に、立(ノ)字を書るは、既くも云る如、凡て借字には、清濁かたみに通(ハシ)用ひたること、此(ノ)集の例なり、○大莫逝《イタクナユキソ》(大は、太(ノ)字の誤ならむか、と本居氏云り、されど大(ノ)字にてもイタク〔三字右○〕と訓(マ)るべし、)は、甚く流れゆくことなかれの意なり、○歌(ノ)意は、はなはだしくもふらぬ雨なるものを、潦水よ、しかばかり甚くながれゆきて、人に雨のふりたりと云ことを、しらるゝことなかれ、となり、契冲云、これは、しのびて思ふ思ひを、はなはだしくもふらぬ雨にたとへ、涙を、にはたづみにたとへて、戀すと人のしるばかりに、しのびなるおもびにこぼるゝ涙は、いたくなながれそ、といふ心なり、
 
1371 久堅之《ヒサカタノ》。雨爾波不著乎《アメニハキヌヲ》。恠毛《アヤシクモ》。吾袖者《ワガコロモデハ》。干時無香《ヒルトキナキカ》。
 
歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
寄《ヨス》v月《ツキニ》。
 
1372 三空往《ミソラユク》。月讀壯士《ツクヨミヲトコ》。夕不去《ユフサラズ》。目庭雖見《メニハミレドモ》。因縁毛無《ヨルヨシモナシ》。
 
(506)夕不去《ユフサラズ》は、契冲云、よひ/\なり、一夜もおちずの心なり、○歌(ノ)意は、月のおもしろくなつかしきを、よひ/\目には見はすれども、親くよりそひて、かたらふ爲方もなし、となり、高貴人を月に比へたるなるべし、四(ノ)卷に、目二破見而手二破不所取月内之楓如妹乎奈何責《メニハミテテニハトラエヌツキヌチノカツラノゴトキイモヲイカニセム》、
 
1373 春日山《カスガヤマ》。山高有良之《ヤマタカカラシ》。石上《イソノカミ》。菅根|將見爾《ミムニ》。月待難《ツキマチガタシ》。
 
菅根、おだやかならず、本居氏は、舊郷《フルサト》の誤かと云り、猶考(フ)べし、
 
1374 闇夜者《ヤミノヨハ》。辛苦物乎《クルシキモノヲ》。何時跡《イツシカト》。吾待月毛《ワガマツツキモ》。早毛照奴賀《ハヤモテラヌカ》。
 
歌(ノ)意は、闇夜は心もくもりて、いとゞ人の戀しく思はれて、爲む方なくくるしきものを、いつしか出むいつしか出むと、吾(ガ)待月だにも、早くもがな照出よかし、さらばその月を見て、なぐさむかたもあるべきなれば、今の如く苦しくは有まじきを、となり、月毛《ツキモ》は、月だにもせめての謂なり、毛《モ》の言味ふべし、(契冲は、夜は人待時にて、やがてまつ人のこぬほどは、夜のうちにも、やみの夜のやうなればくるし、といへり、わが待月は、人の光臨をまつによせたり、と云り、いかゞあらむ、闇(ノ)夜のやうなれば、くるしといへること、きゝとりがたきことなり、
 
1375 朝霜之《アサシモノ》。消安命《ケヤスキイノチ》、爲誰《タガタメニ》。千歳毛欲得跡《チトセモガモト》。吾念莫國《ワガモハナクニ》。
 
歌(ノ)意は、朝霜の如く、微《モロ》くはかなく消失易き身命を、千年にもがな、いきながらへよかしとねがふは、そも誰が爲にとか思ふ、其方故にこそ、壽の長からむことを欲へ、となり、
(507)〔右一首者。不有譬喩歌類也。但闇夜歌人。所心之故。並作此歌。因以此歌。載於此次。〕
所心、略解に、心は思の誤かといへるはわろし、所心と云こと、集中におほく見えたるをや、
 
寄《ヨス》2赤土《ハニニ》1。
 
1376 山跡之《ヤマトノ》。宇※[こざと+施の旁]乃眞赤土《ウダノマハニノ》。左丹著者《サニツカバ》。曾許裳香人之《ソコモカヒトノ》。吾乎言將成《アヲコトナサム》。
 
左丹著者《サニツカバ》、(者(ノ)字、舊本になきは、脱たるなり、一本に從(ツ)、)左《サ》は眞《マ》に通ひて美稱《ホメ》たるなり、丹《ニ》は赤土なり、もし眞赤土《マハニ》の衣に著たらば、と云なり、○曾許裳香《ソコモカ》は、それをもかの意なり、○歌(ノ)意は、もし宇陀の眞赤土の、衣にうつり著たらば、それをも人のとにかくいひたてさわがむか、となり、
 
寄《ヨス》v神《カミニ》。
 
1403 三幣帛取《ミヌサトリ》。神之祝我《カミノハフリガ》。鎭齋杉原《イハフスギハラ》。燎木伐《タキギキリ》。殆之國《ホト/\シクニ》。手斧所取奴《テヲノトラエヌ》。【旋頭歌】
 
三幣帛取は、ミヌサトリ〔五字右○〕と訓べし、(トル〔二字右○〕とよむはわろし、)御幣帛《ミヌサ》を取ていはふと云意につゞきたり、○神は、カミ〔二字右○〕と訓べし、(神をミワ〔二字右○〕とよむは、大神にかぎりたることゝおぼゆ、)○殆之國《ホト/\シクニ》は、殆《ホト/\》は、邊《ホト》りばむをいふ言にて、既く委(ク)云り、しくは戀之久《コヒシク》などいふ之久《シク》に同じ、○所取奴《トラエヌ》は、ほと/\に取《トラ》れむとせし、と云べきを、かく奴《ヌ》と云るは例なり、幾死《ホト/\シニキ》と云も、ほとむどしなむとしきと云意なるを、ほとむどしにきと云がごとし、○歌(ノ)意は、神(ノ)祝が御幣帛《ミヌサ》を取(リ)て、いつ(508)きいはふ杉原を犯して薪を伐、禁衛《マモリ》の人に見あらはされて、殆(ンド)、手斧をとられむとしつ、と云るにて、父母などのかたく守る女を、犯しいざなひて、ほとむどからき目を見むとせし、と云譬なるべし、又は、やむことなき人をおかして、ほとむど罪にかゝらむとせしを云にもあるべし、さて神木を、いみじく大切におそるゝことは、四(ノ)卷に、神樹爾毛手者觸云乎打細丹人妻跡云者不觸物香聞《カムキニモヲハフルチフヲウツタヘニヒトヅマトイヘバフレヌモノカモ》、とよみ、又|味酒乎三輪之祝我忌杉手觸之罪歟君二遇難寸《ウマサケヲミワノハフリガイハフスギテフリシツミニキミニアヒガタキ》、又景行天皇(ノ)紀に、五十一年八月、云々、所v獻2神宮(ニ)1蝦夷等云々、仍令v安2置御諸山(ノ)傍1、未《ネバ》v經《アラ》2幾時《イクダモ》1、悉伐(テ)2紙山(ノ)樹(ヲ)1、※[口+斗]2呼《サケビテ》隣里(ニ)1而脅《オビヤカセリ》2人民(ヲ)1、天皇聞之、詔2群卿(ニ)1曰、其|置《ヲラセシ》2神山(ノ)傍(ニ)1之蝦夷(ハ)、是本《モトヨリ》有2獣《アヤシキ》心1、難《カタケレバ》v住《ヲラシメ》2中國(ニ)1、故隨2其(ノ)情願《ネガヒノ》1、令《シメヨ》v班《ナラ》2邦畿之外《トツクニニ》1、とあるも、神木を伐しことを、いみじくかしこませたまひし故なるを思ふべし、」
 
1377 木綿懸而《ユフカケテ》。祭三諸乃《イハフミモロノ》。神佐備而《カムサビテ》。齋爾波不在《イムニハアラズ》。人目多見許増《ヒトメオホミコソ》。
 
祭三諸《イハフミモロ》、三諸のことは既く云り、十二に、祝部等之齋三諸乃犬馬鏡《ハフリラガイハフミモロノマソカヾミ》云々、十九に、春日野爾伊都久三諸乃梅花《カスガヌニイツクミモロノウメノハナ》云々、なども見えたり、○神佐備而《カムサビテ》は、御室《ミムロ》に祭拜《イツキマツ》る神の、神々《カウ/\》しきよしにいひ下して、ふるめきたるよしにいひつゞけたり、人をふるきものにして、と云意なり、○齋爾波不在《イムニハアラズ》とは、神をば齋敬《イミツヽシ》み畏避《オソレサク》れば云るにて、人をふるきものにして、神を畏避るごとく、遠離るにはあらず、と云なり、○歌(ノ)意は、人をふるき物にして、いとひ遠離るにはあらず、人目しげくて、得あはぬにこそあれ、となり、
 
(509)1378 木綿懸而《ユフカケテ》。齋此神社《イハフコノモリ》。可超《コエヌベク》。所念可毛《オモホユルカモ》。戀之繁爾《コヒノシゲキニ》。
 
歌意は、木綿を懸て祭拜《イツキマヅ》る神社なれば、常は尊敬《タフトミヰヤマヒ》畏(レ)避て、親づくことさへえせざりしに、今は、戀しく思ふことのしげく、心の亂れたれば、しかばかり尊き神社をも、敬ふべきわきまへもなく、をどり超《コエ》ぬべくおもはるゝ哉、となり、十一に、千葉破神之伊垣毛可越今者吾名之惜無《チハヤブルカミノイカキモコエヌベシイマハアガナノヲシケクモナシ》、(この歌、伊勢物語に、ちはやぶる神のいかきも越ぬべし大宮人の見まくほしさに、と改めて載たり、拾遺集にも出(ヅ)、)
 
寄《ヨス》v川《カハニ》。
 
1307 從此川《コノカハヨ》。船可行《フネハユクベク》。雖在《アリトイヘド》。渡瀬別《ワタリセゴトニ》。守人有《モルヒトアルヲ》。
 
歌(ノ)意は、川を舟にのりて、此方より彼方へ、かよふべき道はありといへども、その河(ノ)渡瀬ごとに、禁衛《マモリ》の人ありて、心まかせに通ふことのかなはぬものを、其をいかにとかせむ、といへるにて、父母兄弟などの目をしのびて、女のもとにかよひがたきを、ゆるしなき人をば、渡守のとがめて、みだりに渡瀬をわたさぬにたとへたり、
〔右一首。柿本朝臣人麿之歌集出。〕
 
1379 不絶逝《タエズユク》。明日香川之《アスカノカハノ》。不逝有者《ヨドメラバ》。故霜有如《ユヱシモアルゴト》。人之見國《ヒトノミマクニ》。
 
歌(ノ)意は、我(カ)思ふ人のもとへ、あすかの川の流れのたえぬ如く、たび/\かよふことなるに、も(510)しさはることのありて、川の中よどのやうに、しばしとゞこほりてゆかぬことあらば、なにぞ尋常ならぬ事故ありて、心にかなはぬすぢ出來しにつきて、ゆかぬやうに人の思はむことなるを、其をいかにかしてまし、となり、四(ノ)卷に、他辭乎繁言痛不相有寸心在如莫思吾背《ヒトコトヲシゲミコチタミアハザリキコヽロアルゴトナオモヒワガセ》、とある心在如《コヽロアルゴト》と、今の故霜有如《ユヱシモアルゴト》と、意味似たり、○此(ノ)歌、古今集四(ノ)卷に、たえず行あすかの川のよどみなば心あるとや人のおもはむ、とて載て、(あるは、ありを誤れるなり、)此(ノ)歌、或人の云、中臣(ノ)東人がうたなり、と註せり、
 
1380 明日香川《アスカガハ》。湍瀬爾玉藻者《セヽニタマモハ》。雖生有《オヒタレド》。四賀良美有者《シガラミアレバ》。靡不相《ナビキアハナクニ》。
 
歌(ノ)意は、あすか川の瀬々に生たる玉藻は、たがひによくなびきあふことなれど、しがらみあれば、そのしがらみにさへられて、心のまゝになびきあふことならぬことなるを、といへるにて、おもひあへる中も、さはる人あれば、思ふやうにえあはぬにたとへたり、二(ノ)卷の長歌に、明日香乃河之《アスカノカハノ》、上瀬爾生玉藻者《カミツセニオフルタマモハ》、下瀬爾流觸經《シモツセニナガレフラフ》、玉藻成彼依此依靡相之嬬乃命乃《タマモナスカヨリカクヨリナビカヒシツマノミコトノ》、多田名附柔膚尚乎《タタナヅクニキハダスラヲ》、劔刀於身副不寢者《ツルギタチミニソヘネネバ》、とあり、考(ヘ)あはすべし、
 
1381 廣瀬川《ヒロセガハ》。袖衝許《ソデツクバカリ》。淺乎也《アサキヲヤ》。心深目手《コヽロフカメテ》。吾念有良武《アハオモヘラム》。
 
廣瀬川《ヒロセガハ》は、大和(ノ)國廣瀬(ノ)郡に在(ル)川なり、(文徳天皇實録に、仁壽三年十月己卯、遠江(ノ)國奏言(ス)、廣瀬河《ヒロセガハ》、舊有2郵船二艘1、而今水濶流急、不v由2利渉1、公私行人、擁2滯岸上(ニ)1、請更加2置二艘(ヲ)1、以濟2※[覊の馬が奇]旅之難(ヲ)1、許之、(511)とあるは、同名異處なるべし、○袖衝許《ツデヅクバカリ》は、催馬樂に、さは田川袖つくばかり淺けれどくにの宮人高橋わたす、ともよめり、衝《ツク》は流る水に袖のつかるよしなり、契冲が、十七に、多知夜麻乃由吉之久良之毛波比都奇能可波能和多里瀬安夫美都加須毛《タチヤマノユキシクラシモハヒツキノカハノワタリセアブミツガスモ》、とある、このつくの心なり、と云るが如し、装束の袖は今も長ければ、その袖の漬《ツカ》るばかりなるは、いと淺きこと著し、○淺乎也《アサキヲヤ》は、人の我がうへを思ふ心の淺をや、と云なり、○歌(ノ)意は、人の我がうへを思ふ心はいと淺く、かりそめなるものを、吾はなほ心に深く思ひてあらむか、かくては末長くたのみに思ふとも、かひはあらじをや、となり、第一二(ノ)句は、淺《アサキ》をいはむとて設けたる詞なり、(元可法師(ノ)集に、廣瀬川袖つく水の流(レ)さへ淺くは見えぬ霧のうち哉、)
 
1382 泊瀬川《ハツセガハ》。流水沫之《ナガルヽミヲノ》。絶者許曾《タエバコソ》。吾念心《アガモフコヽロ》。不遂登思齒目《トゲジトオモハメ》。
 
流水抹之、これは今按(フ)に、沫は脉の誤なり、ナガルヽミヲノ〔七字右○〕と訓べし、上に、泊瀬川流水尾之《ハツセガハナガルヽミヲノ》云云、と見えたり、これは、わがはじめて考へ得たるなり、○歌(ノ)意は、泊瀬川の水は、絶る世はあらじなれど、もしその水の絶はてむ世もあらば、其(ノ)時にこそ、吾(ガ)思ふ人に逢遂ず止もせめ、さなくて、は、いつまでもとげじとは思はず、と云なり、(略解に、水沫を、水脉の誤なることを得しらずして、流る水の泡の絶るを、ながらふる命の限(リ)にたとへたるか、またさなくば、譬喩歌にはあらず、誓へる歌なるべし、といへるは、いみじきひがことなり)、さて此(ノ)歌は、正しく譬喩《タトヘ》たる(512)には非ず、こは六(ノ)卷久邇(ノ)新京(ノ)歌に、泉河往瀬乃水之絶者許曾大宮地遷往目《イヅミガハユクセノミヅノタエバコソオホミヤトコロウツロヒユカメ》、とよめる類なり、すべて譬喩の歌の標内に入たるに、吾(カ)身人(ノ)身の上のことを、萬(ツ)の草木鳥獣の類に譬喩たるは、こともなし、此(ノ)歌のごときは、正しく譬喩たるには非ざれども、萬の物に寄てよめるをば、なべて譬喩歌の標内に收《イレ》しは、譬喩歌は、其主とある一方につきたる名目なれば、疑ふべきに非ず、
 
1383 名毛伎世婆《ナゲキセバ》。人可知見《ヒトシリヌベミ》。山川之《ヤマガハノ》。瀧情乎《タギツコヽロヲ》。塞敢而有鴨《セカヘタルカモ》。
 
塞敢而有鴨《セカヘタルカモ》は、十一に、言出云忌々山川之當都心塞敢在《コトニデテイハヾユヽシミヤマガハノタギツコヽロヲセカヘタリケリ》、續後紀長歌に、堰加部留天《セカヘトヾメテ》などあり、○歌(ノ)意は、もし長き息をつきて、嗚呼嗚呼《アハレアハレ》と嗟《ナゲ》きたらば、他《ホカ》の故にあらずと、世(ノ)人が知べき故に、山川の瀧のごとく激《タギ》りて、やるせなき心を、しひてせきとゞめてある哉、さて/\くるしき心の内ぞ、となり、
 
1384 水隱爾《ミコモリニ》。氣衝餘《イキヅキアマリ》。早川之《ハヤカハノ》。瀬者立友《セニハタツトモ》。人二將言八方《ヒトニイハメヤモ》。
 
水隱《ミコモリ》は、しのびかくすにたとへたり、○歌(ノ)意は、しのびかくすに堪かねて、嗚呼《アハレ》やる瀬なやと氣衝あまり、急流《ハヤカハ》の瀬の如くたぎる心の、たとひわきかへるとも、人にそれといはむやは、人にはいはじ、嗚呼《アハレ》やる瀬なや、となり、古今集に、吉野川水の心は早くともたぎの音にはたてじとぞおもふ、
 
(513)寄《ヨス》2埋木《ウモレキニ》1。
 
1385 眞※[金+施の旁]持《マカナモチ》。弓削河原之《ユゲノカハラノ》。埋木之《ウモレキノ》。不可顯《アラハルマジキ》。事等不有君《コトトアラナクニ》。
 
眞※[金+施の旁]持《マカナモチ》は、枕詞なり、(持はモチ〔二字右○〕とよむべし、モテ〔二字右○〕とよむは、いみじくわろし、)○弓削河原《ユゲノカハラ》は、和名抄に、河内(ノ)國若江(ノ)郡弓削(ハ)由介《ユゲ》、とある所の河なり、神名式に、河内(ノ)國若江(ノ)郡弓削(ノ)神社二座、(並大、月次相甞新甞、)稱徳天皇の御時、由義《ユゲノ》宮を作らせ給ひて、行幸せさせたまへること、續紀に見ゆ、(義(ノ)字、多くは古書にゲ〔右○〕の假字に用ひし所以に、由義《ユゲノ》宮とかけるなり、その證、余が南京遺響に委しくいへり、)弓削(ノ)道鏡が本居《ウブスナ》なり、契冲云、今も弓削樫原などいひつゞけて、人のよくしれる所なり、○埋木之《ウモレキノ》は、たゞ不可顯《アラハルマジキ》と云む料なり、埋木は、水底の沙中に埋て、あらはるまじきものなればなり、古今集に、なとり川せゝの埋木あらはればいかにせむとかあひみそめけむ、とあり、○不可顯は、アラハルマジキ〔七字右○〕とよめるよろし、あらはるべからぬの意なり、(垂仁天皇紀に、忽(ニ)積v稻(ヲ)作v城(ヲ)、其堅(コト)不可破《ヤブルマジ》、とある、この不可破をヤブルマジ〔五字右○〕と訓せたるに同じ、)書紀仁徳天皇(ノ)御歌に、豫屡麻志枳箇破能區莽愚莽《ヨルマジキカハノクマグマ》、などもあり、(略解に、不可顯は、不可戀の誤にてシタニコフベキ〔七字右○〕とよむべし、と云るは、強説なり、)○事等不有君《コトトアラナクニ》、等(ノ)字、一本には爾と作り、いづれにてもよろし、○歌(ノ)意は、吾(ガ)しのびたる男女の中の、人に顯はるまじとは、手堅くいはるゝ事にあらぬことなるを、もしあらはれなば、其(ノ)時いかにかせむ、となり、(現存六帖に、年經ぬる(514)弓削の河原の埋木の浮び出べき行へしらせよ、)
 
寄《ヨス》v海《ウミニ》。
 
1308 大海《オホウミハ》。候水門《ミナトヲマモル》。事有《コトシアラバ》。從何方君《イヅヘヨキミガ》。吾率陵《アヲヰカクレム》。
 
第一二(ノ)句は、本居氏、オホウミハミナトヲマモル〔オホ〜右○〕、とよむべし、といへり、大海《オホウミ》は、大海(ノ)神をいふべし、即(チ)大綿津見《オホワタツミノ》神なり、○何方は、イヅヘ〔三字右○〕とよむべし、○吾率陵は、陵は、隱(ノ)字の誤と云説しかるべし、アヲヰカクレム〔七字右○〕なり、(本居氏は、率陵は、義を以てヰテユカム〔五字右○〕と訓べし、といへり、いかがあらむ、)○歌(ノ)意は、第一二(ノ)句は、大海(ノ)神は、水門《ミナト》ごとに、目を離したまはず、守護《マモ》りましまして、人の舶出をしらしたまへば、しのびて、みだりに船を出すことのならぬがごとく、父母などの心をつけて、起居《タチヰ》おきふしに、われをきびしく守りたまふことなれば、事ありとて、たやすくしのびて、門出せらるべきやうなし、さればもし吾(ガ)二人の中に、事あらば、いづくぞへ吾を竊《ヌス》み出て、率て行たまはむと、君はおぼしたまふなめれど、率て行(キ)たまふべきてだてなければ、其(ノ)時はいかなる方に、吾を率行て、かくれたまはむとにや、と云なるべし、
 
1309 風吹《カゼフキテ》。海荒《ウミハアルトモ》。明曰言《アストイハヾ》。應久《ヒサシカルベシ》。君隨《キミガマニ/\》。
 
歌(ノ)意は、風吹て海のあるゝ如く、父母などのころびは、おそろしけれども、それをいとひて、父母のゆるさむ時をまたば、明日にもあれ、いと待遠に覺ゆべし、されば、君にしもあはむとな(515)らば、よしやよし、君にしたがはむぞ、といふならむ、
 
1310 雲隱《クモガクル》。小島神之《コジマノカミノ》。恐者《カシコケバ》。目間《メハヘダツレド》。心間哉《コヽロヘダツヤ》。
 
雲隱《クモガクル》は、契冲、島ははるかの奥に、雲がくれてあるものなれば、かく云と云り、○小島神《コシマノカミ》とは、いづくの小島にもあれ、(集中に、吉備のこしまとよめる所にもあらむ、)其(ノ)島に座(ス)神なり、さて父母などの、きびしく守るにたとへたるなり、○歌(ノ)意は、父母などのきびしくまもれば、其(ノ)女に親(シク)相見ることかなはずて、小島(ノ)神の神威を恐るゝごとく、恐れ遠離て、目を隔(テ)はすれども、相思(フ)心まで隔(ツ)らむやは、心ばかりは、いつも女に比(ヒ)てあり、となり、○今按(フ)に、雲隱と云、小島(ノ)神といへること平穩ならず、故(レ)按(フ)るに、小は光(ノ)字の畫の滅《キ》え、島は鳴の誤にて、雲隱光鳴神之《クモガクリヒカリナルカミノ》、とありて、雷にたとへたる歌なりけむを、はやくより今の如く誤て、寄v海(ニ)歌の中に收たるか、
〔右三首。柿本朝臣人麿之歌集出。〕
 
1386 大船爾《オホブネニ》。眞梶繁貫《マカヂシヾヌキ》。水手出去之《コギデニシ》。奥者將深《オキハフカケム》。潮者干去友《シホハヒヌトモ》。
 
奥の下者(ノ)字、舊本にはなし、今は一本に從つ、○歌(ノ)意は、浪風の間《ヒマ》をうかゞひて、大船をこぎ出すとき、とにかくいたづく心を、人間《ヒトマ》をうかゞひて、からうして打出すにたとふるならむ、さて今かく打出して、相云て後には、いよ/\吾(ガ)中の深からむ、たとひ潮のひくとき來るとも、磯のかたにこそ、潮の滿干はあるなれ、奥は常にしほのひることもなきが如く、いつも深か(516)らむぞ、と云歟、猶考(フ)へし、
 
1387 伏超從《フシコエヨ》。去益物乎《ユカマシモノヲ》。間守爾《マモラフニ》。所打沾《ウチヌラサエヌ》。浪不數爲而《ナミヨマズシテ》。
 
伏超《フシコエ》は、中山(ノ)嚴水、我(ガ)土佐(ノ)國安藝(ノ)郡に、伏超《フシコエ》と云る坂あり、そは飛石はね石ころ/”\石など云て、名高き難所を行過て、此(ノ)坂を超ることなり、此(ノ)坂いとけはしくして、立てあゆみがたければ、伏超《フシコエ》と云なるべし、此(ノ)伏超の山の岬は、海に臨みて、今は行かよふべき處にあらず、いにしへは、浪間をうかゞひて、道行人もかよひしにやあらむ、扨此(ノ)歌によめるは、土佐(ノ)國とも定めてはいひがたし、總て地(ノ)名は、いづくにも同じきがあるものなればなり、されども伏超と云る處は、いづくにてもかゝる所なるべき據とはなりぬべし、と云り、○行益物乎《ユカマシモノヲ》は、行ましものにてあらしをの意なり、伏超の方を行ずして、浪にぬらされたるを、後に侮る謂《ヨシ》なり、○間守爾《マモラフニ》は、浪の打よせ引とる間をうかゞふにの意なり、打よせたる浪の、引たる間を候《ウカヾ》ひてゆかむとて、と謂《イフ》なり、○所打沾《ウチヌラサエヌ》は、打よする浪に沾されたるよしなり、尾にめぐらしてきくべし、○浪不數爲而《ナミヨマズシテ》は、打よする浪の數《カズ》を數計《カゾフ》るを、浪《ナミ》數《ヨム》といへば、浪《ナミ》數《ヨム》は、浪の數《カズ》をかぞへて、打よせたる浪の、引たる間をうかゞふことなり、さてこゝは、ふつに浪《ナミ》數《ヨマ》ざりし詞つきなれど、さにはあらず、浪を數《ヨミ》はしつれども、よくせずして、數《カゾヘ》そこねて、浪に沾されたるを謂(フ)なり、○歌(ノ)意は、伏こえのかたより行通ひなば、浪に沾されむおそれなければ、伏超の方より行まし(517)ものにてありしを、近道を行むとて、打よする浪の數をかぞへて、その浪の引たる間に、海際より通り行むと、浪間をうかゞひまもりしが、あまりに心いられして、浪の數をかぞへはしつれども、よくせずして、かぞへそこねて、浪に打ぬらされつる、と悔るよしにて、たとへたる意は、よくして、人目のなき間をうかゞひで、行べかりしものを、人目を守(リ)はしつれども、あまりに心あわたゞしかりしによりて、人目を守りそこなひて、見あらはされたれば、今は悔れどもそのかひなし、よくして、人間にのみ、しのびしのび通ふべかりしものにてありしを、となり、伊勢物語に、たびかさなりければ、あるじきゝつけて、夜ごとに人をすゑて、まもらせければ、とあるを思(ヒ)合(ス)べし、
 
1388 石灑《イソガクリ》。岸之浦廻爾《キシノウラミニ》。縁浪《ヨスルナミ》。邊爾來依者香《ヘニキヨラバカ》。言之將繁《コトノシゲケム》。
 
石灑は、灑は隱の誤にて、イソガクリ〔五字右○〕なるべしといへり、さもあるべし、岸の浦に磯隱《イソガクリ》てよする浪、とつゞく意なり、石隱は、たゞ浪のよするさまをいへるのみなり、(人目をしのぶ意を、よそへたるには非ず、)○歌(ノ)意は、思ふ人の邊《ホトリ》に、依(リ)近づきたくはあれども、もし依(リ)近づきたらば、世人が言しげく、とにかくいひさわがむか、となり、本(ノ)句は序なり、
 
1389 礒之浦爾《イソノウラニ》。來依白浪《キヨルシラナミ》。反乍《カヘリツヽ》。過不勝者《スギカテナクバ》。雉爾絶多倍《キシニタユタヘ》。
 
磯之浦《イソノウラ》は、いづくにまれ、たゞ海の磯べの浦なり、○雉《キシ》は、(四(ノ)卷に、涯とあるに依て、こゝも涯の(518)誤なるべし、と本居氏はいへれど、しかにはあらじ、)岸の借(リ)字なるべし、雉をも、古(ヘ)は吉斯《キシ》と斯《シ》を清て唱へしなるべし、と吾(ガ)徒南部(ノ)嚴男云り、(金葉集に雨ふればきしもしとゞに成にけりかさゝぎならばかゝらましやは、とあり、吉斯《キシ》の斯《シ》を清て唱へし故に、此(レ)も岸を雉によせたるにや、)和名抄に、雉を支々須《キヾス》とも、支之《キシ》とも云り、吉斯《キシ》と云も古名ならむ、○歌(ノ)意は、磯の浦に依《ヨスル》白浪よ、しかばかり、立かへり立かへり、此(ノ)所を過がてにのみするならば、なほ引行て異所にはよせずに、此(ノ)處の岸にゆた/\とゆらへてあれ、となり、此(ノ)歌は、思ひかはしたる男の、女の家のあたりに來て、人目はゞかりつゝ、えあふこともせず、そこを過行がてにするを見て、女のよめるなるべし、反乍過不勝者《カヘリツヽスギカテナクハ》は、古今集に、わがやどに咲る藤なみ立かへりすぎがてにのみ人のみるらむ、とある、立かへりすぎがてにと云ると同意にて、立かへり/\しつゝ、過がてにするをいふ、過不勝者《スギカテナクバ》は、過がてに無(ク)ばといふ意の詞つきなれど、さにはあらず、過がてにするならば、と云意なり、この詞のことは、既《サキ》にたび/\いへり、きしにたゆたへは、なほそのあたりにゆらへていませ、さらばひまもとめつゝ、あふこともかなひ侍らむぞ、といふならむ、
 
1390 淡海之海《アフミノミ》。浪恐登《ナミカシコミト》。風守《カゼマモリ》。年者也將經去《トシハヤヘナム》。※[手偏+旁]者無二《コグトハナシニ》。
 
歌(ノ)意は、浪風のおそろしきが故に、浪風の和《ナギ》む間を守りうかゞひて、船がゝりしてをること(519)なるに、浪風のよく靜まりて、今こそと思ふ日和なければ、漕も得出さずして、とかくするうちに、多くの年を經なむか、といへるにて、浪恐登風守《ナミカシコミトカゼマモリ》は、人目人言のおそろしき故に、それをまもるをそへ、※[手偏+旁]者無二《コグトハナシニ》は、近くよりて、相見ることをよせていへるにて、かくのみ人間をまもりつゝ、あふこともえせずして、多くの年を經なむことか、といふなるべし、
 
1391 朝奈藝爾《アサナギニ》。來依白浪《キヨルシラナミ》。欲見《ミマクホリ》。吾雖爲《アレハスレドモ》。風許増不令依《カゼコソヨセネ》。
 
朝奈藝爾《アサナギニ》は、第三(ノ)句の上にうつして聞べし、靜なるたとへにて、人目の間をいふなるべし、○歌(ノ)意は、來よる白浪を、靜なる間に見まほしくはすれども、風こそ心してよせきたらね、と云て、思ふ人を、人目のなき間に見まほしくすれど、さゝふる人ありて、よせ來させぬを譬たるなるべし、
 
寄《ヨス》2浦沙《マナゴニ》1。
 
1392 紫之《ムラサキノ》。名高浦之《ナタカノウラノ》。愛子地《マナゴツチ》。袖耳觸而《ソデノミフリテ》。不寐香將成《ネズカナリナム》。
 
紫之名高浦《ムラサキノナタカノウラ》は、本居氏(ノ)玉勝間に云、名高《ナタカ》の浦は、紀伊(ノ)國名草(ノ)郡にて、今はそのわたり海士(ノ)郡に入れり、今も名高《ナタカ》とも名方《ナカタ》とも云里にて、藤白のすこし北の方なり、あるとき若《ワカ》山にて、人に物語しけるついでに、一人が云やう、名高の里中に、むらさき川と云(フ)ちひさき川のあるなりと云、そほいとおかしきことなるを、もし萬葉の歌によりて、事好むものゝつけたる名には(520)あらじか、猶たしかにとひきかまほしきことなり、とおのれいひ、又一人、おのれかのあたりは、しば/\ゆきかよふところなれば、いまよくあないとひきゝてむ、と云るが、後に又きたりしをり、かたりけるは、一日名高のわたり物せしに、かの川のこと、里のわらはべのあそびゐたりしに、此(ノ)里にむらさき川と云(フ)川やあると問しかば、よくしりゐて、ちひさき流れに橋かけたる所を、これなむそれとをしへつ、とぞかたりける、しかわらはべまでよくしれるは、つくりごとにはあらざめるを、もしこれふるき名ならば、がの萬葉に、むらさきの名高とつづけたるは、いにしへこのわたりを村崎など云て、そこなる名高の浦と云るにはあらじか、されどかの川のこと、なほ人づてなれば、たしかには云がたきを、かしこに物せむ人、なほよくたづね給へ、としるせり、枕册子に、浦は云々、名高の浦とあり、さて此(ノ)地(ノ)名、此(ノ)次下、又十一にも見えたり、又十六に、紫乃粉滷乃海爾潜鳥《ムラサキノコカタノウミニカヅクトリ》、とよめるも、そのあたりならむか、○愛子地は、マナゴツチ〔五字右○〕とよむべし、繊沙《マナゴ》のある地を云、さて人の子を愛しみて最愛子《マナゴ》と云(ヘ)ば、即(チ)此を、うるはしき女にたとへたるにもあらむ、○歌(ノ)意は、うるはしき最愛女《マナムスメ》に、袖ばかり行觸たるのみにて、つひに相宿せずなりなむか、袖ばかり行觸たるのみにては、止まじき女なるを、となり、
 
1393 豐國之《トヨクニノ》。聞之濱邊之《キクノハマヘノ》。愛子地《マナゴツチ》。眞直之有者《マナホニシアラバ》。如何將嘆《イカデナゲカム》。
 
聞之濱《キクノハマ》(聞(ノ)字、舊本に間と作るは誤なり、今は一本に從つ、)は、和名抄に、豐前(ノ)國企救(ノ)郡|岐久《キク》、(一本(521)に、多岐とあるは誤なり、)令(ノ)義解には、規矩郡とかけり、雄略天皇(ノ)紀に、十八年秋八月、云々、物部(ノ)目連、自(ラ)執2太刀(ヲ)1、使2筑紫(ノ)聞《キクノ》物(ノ)部大斧手(ニ)執1v楯(ヲ)、叱《タケビテ》2於軍(ノ)中(ニ)1倶(ニ)進(シム)、とあり、十二に、豐州聞濱松《トヨクニノキクノハママツ》、又、豐國乃聞之長濱《トヨクニノキクノナガハマ》、豐國能聞乃高濱《トヨクニノキクノタカハマ》、十六に、豐國企玖乃池奈流《トヨクニノキクノイケナル》、など見ゆ、○愛子地《マナゴツチ》は、眞直《マナホ》と云むとての序なり、○眞直之有者《マナホニシアラバ》は、ますぐにめらばといふ意なり、爾之《ニシ》と連たるは、そのさだかにしかる意をきかせたる辭なり、いふ言のたがはず、さだかにその通りますぐならばの意なり、○歌(ノ)意は、いふ言のたがはず、そのいふ通(リ)にさだかに眞直にあるならば、何とて嘆かむなれども、言のみにては、たのみになりがたきによりて、嘆かるゝぞ、となり、
 
寄《ヨス》v藻《モニ》。
 
1394 塩滿者《シホミテバ》。入流礒之《イリヌルイソノ》。草有哉《クサナレヤ》。見良久少《ミラクスクナク》。戀良久乃太寸《コフラクノオホキ》。
 
歌(ノ)意は、わが思ふ人は、鹽が滿來れば、没《イリ》ぬる磯の草にてあればにや、見ることは、いとまれにすくなくして、えみずて戀しく思ふことの多き、となり、濱成式(ニ)云、雅體十種云々、十(ニハ)新意體、此(ノ)體非2古事(ニ)1、非2直語(ニ)1、或有2相對1、或無2相對1、故云2新意1、如2孫王鹽燒(ノ)戀(ノ)歌1、曰、しほみてばいりぬる磯の草ならし見る日すくなくこふる夜おほみ、譬如2潮關之磯1、盈時(ハ)不v見、落時(ハ)纔(ニ)見、故鹽(ヲ)爲v喩(ト)、遠古雅旨、故曰2新意1、下句是相對也、袖中抄に、萬葉は、見らくすくなくこふらくのおほき、とあるを、彼(ノ)式には、見る目すくなくこふる夜おほみ、と云り、されど大旨は同事なり、
 
(522)1395 奥海《オキツナミ》。依流荒礒之《ヨスルアリソノ》。名告藻者《ナノリソノ》。心中爾《コヽロノウチニ》。疾跡成有《ナビキアヒニケリ》。
 
名告藻者、者は、之を草書にて誤れるなるべし、ナノリソノ〔五字右○〕と訓べし、○疾跡成有は、通(エ)難し、誤字なるべし、中山(ノ)嚴水、次の歌によるに、疾跡の二字は、靡の一字を誤、成は、來とありけむを、草書にて誤り、さてもとは有來とありしを、下上に寫誤れるならむ、さらばナビキタリケリ〔七字右○〕なるべし、と云り、今按に、成は、相か合かの誤なるべし、靡相有《ナビキアヒニケリ》とありしならむか、○歌(ノ)意は、人こそしらね、心の中には、此方彼方互に靡相にけりといへるか、本(ノ)句は序なるべし、
 
1396 紫之《ムラサキノ》。名高浦乃《ナタカノウラノ》。名告藻之《ナノリソノ》。於礒將靡《イソニナビカム》。時待吾乎《トキマツアレヲ》。
 
歌(ノ)意は、本(ノ)句は、序にて、強《アナガチ》なるわざせば、人にとにかくいひさわがれむとて、自(ラ)靡(キ)依む時を待居る吾なれば、いさゝかの心に、踈くなれるにはあらざるものを、となり、
 
1397 荒礒超《アリソコス》。浪者怨《ナミハカシコシ》。然爲蟹《シカスガニ》。海之玉藻之《ウミノタマモノ》。僧者不有乎《ニクヽハアラヌヲ》。
 
然爲蟹《シカスガニ》は、集中に多き詞なり、然しながらにの意なり、新古今集にも、かくしつゝ暮ぬる秋と老ぬればしかすがになほ物ぞ悲しき、○乎、舊本には手と作り、今は一本に從つ、○歌(ノ)意は、玉藻を得まほしくは思へども、荒磯をこす浪荒く高ければ、そを凌ぎて、強(チ)に行て得むことは、危くおそろし、しかしながら、其(ノ)うるはしき玉藻のすがたの、なつかしくて憎からずあれば、つひには、浪間をうかゞひて行て得むとおもふを、となり、これは父母などのさゝへて、娶《エ》が(523)たき女をたとへたるなり、
 
寄《ヨス》船《フネニ》。
 
1398 神樂聲浪乃《ササナミノ》。四賀津之浦能《シガツノウラノ》。船乘爾《フナノリニ》。乘西意《ノリニシコヽロ》。常不所忘《ツネワスラエズ》。
 
乘西意《ノリニシコヽロ》とは、人のうへに、わが心をうつしおきたるをいふことなり、集中にこれかれ出たる詞なり、後撰集十九に、おくれずぞ心に乘てこがるべき浪に求よ船見えずとも、○歌(ノ)意、本(ノ)句は、序にて、人のうへに、わが心をうつしおきたるより、常にその人のうへのおもはれて、わすらるゝひまもさらになしとなり、さて此(ノ)歌は譬喩ともきこえず、
 
1399 百傳《モヽヅタフ》。八十之島廻乎《ヤソノシマミヲ》。※[手偏+旁]船爾《コグフネニ》。乘西情《ノリニシコヽロ》。忘不得裳《ワスレカネツモ》。
 
百傳《モヽヅタフ》のことは既くいへり、○歌(ノ)意、本(ノ)句は序にて、人のうへにうつしおきたるわが心を、しばし休息《ヤス》めむため、いかにぞして、わすれむとおもへども、つかのあひだも得わすれず、さても戀しくおもはるゝ事、となり、
 
1400 島傳《シマヅタフ》。足速乃小舟《アハヤノヲブネ》。風守《カゼマモリ》。年者也經南《トシハヤヘナム》。相常齒無二《アフトハナシニ》。
 
島傳《シマヅタフ》は、海の島々を歴傳(ヒ)て※[手偏+旁](グ)よしなり、八(ノ)卷に、難波方三津埼從《ナニハガタミツノサキヨリ》、大船爾二梶繁貫《オホブネニマカヂシヾヌキ》白浪乃高荒海乎《シラナミノタカキアルミヲ》、
、島傳伊別往者《シマヅタヒイワカレユカバ》、云々、十三に、斧取而丹生檜山《ヲノトリテニフノヒヤマノ》、木折來而※[木+筏]爾作《キキリキテイカダニツクリ》、二梶貫礒※[手偏+旁]回乍《マカヂヌキイソコギタミツヽ》、島傳雖見不飽《シマヅタヒミレドモアカズ》、三吉野乃瀧動々落白浪《ミヨシヌノタギモトヾロニオツルシラナミ》、とあり、濱傳《ハマヅタフ》、磯傳《イソヅタフ》などいへることもあり、足速乃小舟《アハヤノヲブネ》とは舟の(524)輕くてとくゆくを云、(元可法師(ノ)集に、島づたふあしはや小舟ながき夜に幾浦かけて月を見るらむ、とあり、今は乃(ノ)字あれば、あはやのをぶねと訓べきなり、文徳天皇實録に、嘉祥三年九月壬辰、授2播磨國足速手速(ノ)神(ニ)從五位下(ヲ)1、とあるは、因ある神(ノ)名か、)十四に、母毛豆思麻安之我良乎夫禰《モモヅシマアシガラヲブネ》、とあるも、足輕小舟《アシガラチブネ》にて、同意なり、又相模(ノ)國(ノ)風土記にも、足柄山の杉をきりて船に造れるに、その足のいと輕かりければ、山の名となれるよし見えたり、と云り、○歌(ノ)意は、上に、淡海海浪恐登風守《アフミノミナミカシコミトカゼマモリ》、といふ歌に、引合(セ)て考(フ)べし、
 
1401 水霧相《ミナギラフ》。奥津小島爾《オキツコシマニ》。風乎疾見《カゼヲイタミ》。船縁金都《フネヨセカネツ》。心者念杼《コヽロハモヘド》。
 
水霧相《ミナギラフ》は、齊明天皇(ノ)紀御歌に、阿須箇我播瀰儺蟻羅※[田+比]都々喩矩瀰都能阿比娜謨儺倶母於母保喩屡柯母《アスカガハミナギラヒツヽユクミヅノアヒダモナクモオモホユルカモ》、とあり、○歌(ノ)意は、心には依たくおもへども、風が疾く荒き故に、奥つ小島に、よすることを得せず、となり、五三一二四、と句を次第て心得べし、島をおもふ人にたとへ、さて父母などの嘖《コロビ》を恐れて、いひよりがたきよしをそへたり、
 
1402 殊放者《コトサカバ》。奥從酒甞《オキヨサカナム》。湊自《ミナトヨリ》。邊著經時爾《ヘツカフトキニ》。可放鬼香《サクベキモノカ》。
 
殊放者《コトサカバ》は、まづ殊《コト》は借字にて、如《コト》なり、かくの如《ゴト》く吾を遠離《トホザケ》むとならばの意なり、さて如《コト》は、常には、ナニノ〔三字右○〕碁登《ゴト》クレノ〔三字右○〕碁登《ゴト》の碁《ゴ》の言濁れども、其は上より連ぬる音便にて、本は清音にて、首に許登《コト》云々と云ときは、清(ム)例なり、允恭天皇紀御歌に、許等梅涅麼波椰區波梅涅孺《コトメデハハヤクハメデズ》、十(ノ)卷に、(525)殊落者袖副沾而可通將落雪之空爾消爾管《コトフラバソデサヘヌレテトホルベクフリナムユキノソラニケニツヽ》、十三に、琴酒者國丹放甞別避者宅仁雑南《コトサカバクニニサカナムコトサカバイヘニサカナム》、古今集春(ノ)下に、許等《コト》ならば吹ずやはあらぬ櫻花見る我さへにしづ心なし、離別に、ことならば君とまるべくにほはなむかへすは花のうきにやはあらぬ、かきくらしことはふらなむ春雨にぬれぎぬきせて君をとゞめむ、戀(ノ)五に、ことならば言の葉さへも消なゝむ見れば涙の瀧まさりけり、俳諧歌に、ことならば思はずとやは云はてぬ何ぞ世中の玉だすきなる、後撰集春に、許等《コト》ならば折盡してむ梅(ノ)花我(ガ)待人の來ても見なくに、などある許等《コト》皆同じ、(古今集の、ことならばの歌を、顯註密勘に、かくの如くならばの意とせるはあたれり、略解に、殊離者《コトサケバ》は、殊更に我をさけむとならば、と云意なり、といへるは、ひがことなり、凡この許等《コト》の言を、よくとき得たる人、むかしよりすくなし、源氏物語帚木に、なよびかに女しと見れば、餘りになさけに引こめられて取なせば、あだめく、此(レ)をはじめの難とすべし、ことが中になのめなるまじき人の、うしろみのかたは、物のあはれしりすぐし、はかなきついでのなさけある云々、とある、ことが中にも、如《コト》が中にて、如v此(ノ)中にと云意なり、)○湊自《ミナトヨリ》云々とは、湊は船のいり隱《コ》むところをひろく云、邊《ヘ》は岸側《キシギハ》をいへば、湊より邊著《ヘツク》よしにいへるなり、○邊著經《ヘツカフ》は、邊附《ヘツク》の伸《ノバリ》たるにて、邊の方に附むとして居る、と云意なり、○歌(ノ)意は、かくの如くに遠ざけむとならば、はじめ奥の方に居るほどに、邊の方によせつけず遠ざけなむ、舟を湊から程なく今は邊方につ(526)かむとして、居るときに至りて、遠ざけむものかは、と云にて、事ならむとするきはに至りて、事とげず、なかのさかれるを、たとへいふなるべし、
 
挽歌《カナシミウタ》。
 
1404 鏡成《カガミナス》。吾見之君乎《アガミシキミヲ》。阿婆乃野之《アバノヌノ》。花橘之《ハナタチバナノ》。珠爾拾都《タマニヒリヒツ》。
 
鏡成《カガミナス》云々は、は、鏡の如く大切にわが見し君、と云なり、○阿婆乃野《アバノヌ》は、大和(ノ)國添上郡なり、皇極天皇(ノ)紀(ノ)謠歌に、烏智可※[木+施の旁]能阿婆乃野枳々始騰余謀作儒倭例播禰始柯騰比騰曾騰余謀須《ヲチカタノアバヌノキヾシトヨモサズワレハネシカドヒトゾトヨモス》、延喜式神名帳に、大和(ノ)國添上(ノ)郡※[攣の手十]川阿波(ノ)神社、とあり、此(ノ)所なるべし、○珠爾拾都《タマニヒリヒツ》は、橘の玉を拾ふ如くに拾(ヒ)つと云て、火葬の骨を拾ふをいへり、○歌(ノ)意は、鏡の如く、大切に吾(カ)見し君なるを、思はずも、、阿婆《アバ》の野の橘の玉を取如くに、火葬の骨を拾ひつる、となり、
 
1405 蜻野※[口+立刀]《アキヅヌヲ》。人之懸者《ヒトノカクレバ》。朝蒔《アサマキシ》。君之所思而《キミガオモホエテ》。嗟齒不病《ナゲキハヤマズ》。
 
蜻野《アキヅヌ》は、吉野の秋津野《アキヅヌ》なり、○人之懸者《ヒトノカクレバ》は、人が言のはにかけて云出せばの意なり、○朝蒔《アサマキシ》は、火葬の灰を朝に蒔散せし、と云なり、○歌(ノ)意は、秋津野のことを人が言(ノ)端にかけて云出せば、其(ノ)野にて、火葬の灰を朝に蒔散せし其(ノ)君が、ありし世の時の思(ヒ)出されて、嗟乎《フハレ》さてもかなしや、と息づかるゝ歎息《ナゲキ》は止ず、となり、
 
1406 秋津野爾《アキヅヌニ》。朝居雲之《アサヰルクモノ》。失去者《ウセヌレバ》。前裳今裳《キノフモケフモ》。無人所念《ナキヒトオモホユ》。
 
(527)朝居雲《アサヰルクモ》は、火葬の煙をそへたり、○歌(ノ)意は、秋津野に朝居る、火葬の煙の雲の、立消て失行ば、今まで死《スギ》し人のかたみに見し煙も、ふたゝび相見ることならずと、いよ/\亡人《ナクナリシヒト》の戀しく思はれて、昨日も、今日もあはれに悲し、となり、
 
1407 隱口乃《コモリクノ》。泊瀬山爾《ハツセノヤマニ》。霞立《カスミタチ》。棚引雲者《タナビククモハ》。妹爾鴨在武《イモニカモアラム》。
 
これも、火葬の煙を、雲と見なしたり、○歌(ノ)意は、泊瀬山に、霞となりて立棚引たる雲は、火葬せし妹が煙にてあらむか、さてもかなしや、となり、
 
1408 枉語香《タハコトカ》。逆言哉《オヨヅレコトヤ》。隱口乃《コモリクノ》。泊瀬山爾《ハツセノヤマニ》。廬爲云《イホリセリチフ》。
 
枉は狂の誤、○廬爲云《イホリセリチフ》は、山に葬埋《ハフ》れるを云、○歌(ノ)意は、思ふ人が、泊瀬山に廬してありと云は、狂言《タハコト》にてあらむか、逆言《オヨヅレコト》にてあらむか、よもまことにてはあらじ、となり、
 
1270 隱口乃《コモリクノ》。泊瀬之山丹《ハツセノヤマニ》。照月者《テルツキハ》。盈〓爲烏《ミチカケシケリ》。人之常無《ヒトノツネナキ》。
 
盈〓爲烏は、(舊訓に、ミチカケシテヲ〔七字右○〕とあるは、いたくわろし、)烏は、集中に焉と通(ハシ)用(ヒ)たるところ甚多し、ミチカケシケリ〔七字右○〕とよむべし、○歌(ノ)意は、泊瀕山に照月さへも盈〓しけり、されば人(ノ)身の無常《ツネナキ》は道理ぞ、とあきらめたるなり、十九に、天地之遠始欲《アメツチノトホキハジメヨ》、俗中波常無毛能等《ヨノナカハツネナキモノト》、語續奈我良倍伎多禮《カタリツギナガラヘキタレ》、天原振左氣見婆《アマノハラフリサケミレバ》、照月毛盈〓之家利《テルツキモミチカケシケリ》、云々、とあるに同じ、(易(ニ)云、日中(スレバ)則〓(ク)月盈(レバ)則食(ス)、釋名(ニ)云、月(ハ)缺也、滿(レバ)則缺(ク)、)
 
(528)1409 秋山《アキヤマノ》。黄葉※[立心偏+可]怜《モミチアハレミ》。浦觸而《ウラブレテ》。入西妹者《イリニシイモハ》。待不來《マテドキマサズ》。
 
浦觸而《ウラブレテ》は、第四(ノ)句の下にめぐらしてきくべし、浦觸《ウラブレ》に、恍惚《ホレ/”\》として、愁ひ憐む形をいふ言なり、○歌(ノ)意は、秋山の黄葉を賞愛《メデウツクシ》みて入にし妹は、昨日やかへり來む、今日やかへり來むと、ほれぼれとしてうつら/\立待ど、いかに山道に迷ひ入ぬるにかあらむ、未(ダ)かへり來まさず、となり、秋の比、女の死《ミマカリ》たるを、山にはふりたるを、もみぢを賞愛みて入にし、と云なしたり、二(ノ)卷人麻呂の歌に、秋山之黄葉乎茂迷流妹乎將求山道不知母《アキヤマノモミチヲシゲミマドハセルイモヲモトメムヤマヂシラズモ》、とあるに似たり、
 
1410 世間者《ヨノナカハ》。信二代者《マコトフタヨハ》。不往有之《ユカザリシ》。過妹爾《スギニシイモニ》。不相念者《アハナクモヘバ》。
 
二代往《フタヨユク》とは、うまれかへりて、再び現在《ウツシヨ》を經るを云(フ)、往《ユク》は常世《トコヨ》ゆくの行《ユク》にて、經行ことなり、四(ノ)卷に、空蝉乃代也毛二行《ウツセミノヨヤモフタユク》、とある所に、はやく云り、○歌(ノ)意は、世(ノ)間は、二世《フタヨ》ゆくことはなきものなり、と人のいひけれど、さることはあるまじと、豫《カネ》ては信《ウケ》がはず居《ヲリ》しを、此(ノ)たび死去《スギニ》し妹に、ふたゝび相見ぬことをおもへば、げにも世(ノ)間は、二代行ものにはあらざりけり、となり、
 
1411 福《サキハヒノ》。何有人香《イカナルヒトカ》。黒髪之《クロカミノ》。白成左右《シロクナルマデ》。妹之音乎聞《イモガコヱヲキク》。
 
妹之音乎聞《イモガコヱヲキク》は、妹が物言(フ)を聞(ク)、と云なり、○歌(ノ)意は、いかなる福のある人か、黒髪の白くなりて、年の老はつるまで共に存命《ナガラヘ》て、妹が物言(フ)を聞物ぞ、となり、これは妻におくれたる人のよめるなり、
 
(529)1412 吾背子乎《ワガセコヲ》。何處行目跡《イヅクユカメト》。辟竹之《サキタケノ》。背向爾宿之久《ソガヒニネシク》。今思悔裳《イマシクヤシモ》。
 
何處行目跡《イヅクユカメト》とは、いづくへゆかむやは、いづくへも行はすまじと、と云意なり、○辟竹之《サキタケノ》は、枕詞なり、わりたる竹の、せなか合(セ)になる故に、背向《ソガヒ》とつゞきたり、○背向爾宿之久《ソガヒニネシク》は、そむきあひてねしと云なり、之久《シク》は、過去にし方にありし事を、今云辭なり、ノリシク、イヒシク、キヽシク〔ノリ〜右○〕など、古言に多し、既に云り、○歌(ノ)意は、あるときはありのすさみににくかりき、と云如く、現在《ウツシヨ》のときは、いさゝか、恨むることなどありしとき、死なむとは思ひもよらずして、相そむきてねしことのありしが、今更悔しく、さても悲しや、となり、あはれなる歌なり、十四に、可奈思伊毛乎伊都知由可米等夜麻須氣乃曾我比爾宿思久伊麻之久夜思母《カナシイモヲイヅチユカメトヤマスゲノソガヒニネシクイマシクヤシモ》、と載たり、
 
1413 庭津鳥《ニハツトリ》。可鷄乃垂尾乃《カケノタリヲノ》。亂尾乃《ミダリヲノ》。長心毛《ナガキコヽロモ》。不所念鴨《オモホエヌカモ》。
 
可鷄《カケ》は、契冲、此(ノ)鳥のなくこゑの、かけろときこゆるによりて、名とするなり、神樂歌に、庭鳥はかけろと鳴ぬなりおきよ/\わがひとよつま人もこそみれ、これ證なり、と云り、○歌(ノ)意、本(ノ)句は、長《ナガキ》といはむ料の序のみにて、長き心も云々は、長くゆたけき心もおもほえずして、なき人を戀しく思ふに堪がたく、かなしく思はるゝ哉、となり、
 
1414 薦枕《コモマクラ》。相卷之兒毛《アヒマキシコモ》。在者社《アラバコソ》。夜乃深良久毛《ヨノフクラクモ》。吾惜責《アガヲシミセメ》。
 
薦枕《コモマクラ》は、卷《マキ》の枕詞なり、○歌(ノ)意は、纏て相寢せし妻も、今に存命《ナガラヘ》てあらばこそ、嗚呼《アハレ》さても、相宿(530)する夜の更行(ク)に、惜《ヲシ》やとて、更行(ク)ことをもをしく思はめ、今は其(ノ)妻も亡《ナク》なりて、獨宿る夜の明るをのみ待なれば、何故にかは、ふくるををしまむ、となり、
 
1415 玉梓能《タマヅサノ》。妹者珠氈《イモハタマカモ》。足氷木乃《アシヒキノ》。清山邊《キヨキヤマヘニ》。蒔散漆《マケバチリヌル》。
 
玉梓能妹《タマヅサノイモ》とは、契冲、玉づさは弓なるべし、弓をあづさとのみ云證は、十三の挽歌に、みゆきふる冬のあしたは、さすやなぎねはるあづさを、おほみてにとらし給ひて、とよめり、これは、さすやなぎの根のはると云かけて、はるあづさは弓なり、玉は物をほむるときに云詞なれば、玉づさは、玉弓と云こゝろなり、しかれば、弓はをのこの秘藏して、手に取(ル)ものなれば、女を弓にたとふること、めづらしからぬことなり、此(ノ)心にて、玉梓の妹と云にや、と云り、猶考(フ)べし、○蒔散漆《マケバチリヌル》、(漆(ノ)字、舊本染と作、一本に〓と作り、今改つ、)本居氏、蒔《マク》は、上の朝蒔《アサマキ》しと同じくて、火葬して、其(ノ)灰をまき散すことなり、清き山邊と云るも此(ノ)故なり、さて火葬して骨をまきちらすことは、續後紀九(ノ)卷、承和七年五月辛巳、後(ノ)太上天皇、顧2命(シテ)皇太子(ニ)1、曰、云々、予聞、人没(シテ)精魂歸(ス)v天(ニ)、而空(ク)存(スレバ)2冢墓(ヲ)1、鬼物憑(テ)v焉、終(ニ)乃爲(シ)v祟(ヲ)、長(ク)貽(ス)2後累(ヲ)1、今宜3碎(キ)v骨(ヲ)爲(テ)v紛(ト)散(ス)2山中(ニ)1、於v是中納言藤原(ノ)朝臣吉野奏言(ク)、昔(シ)宇治(ノ)稚彦(ノ)皇子(ハ)者、我朝之賢明(ナリ)也、此(ノ)皇子遺教(シテ)、自使v散v骨(ヲ)、後世效(ヘリ)之、然(ドモ)是(ハ)親王之事(ニシテ)、而非2帝王(ノ)之迹(ニ)1、我(ガ)國自2上古1、不(ハ)v起2山陵(ヲ)1、所v未v聞也、山陵(ハ)猶2宗廟1也、縱《モシ》無2宗廟1者、臣子何(ノ)處(ニカ)仰、云々、これ火葬にあらずしては、骨を散すべきよしなし、然るに、宇治(ノ)皇子の比、火葬なきことなり、されば宇治(ノ)稚(531)彦(ノ)皇子云々は、世の誤り傳へなり、しかれどもかく云傳ふることは、世(ノ)中に、あまねく火葬することのひろまりて、骨を散すならはしの有によりて、古へ宇治(ノ)皇子の遺命より始れることぞ、と云傳へたるなるべし、しかれば後(ノ)世效之と云にて、骨を散すことの有しを知べきなり、と云り、○歌(ノ)意は、玉と云ものは、貫たる緒を斷《タテ》ば、亂散て行方《ユクヘ》もしれず、捨りはつるものなるに、愛《イツク》しき妹は、その玉にてあればにや、骸を火葬して、清き山邊に蒔ば、やがて亂(レ)散て行方もしらずなるらむ、さても悲しき事ぞ、となり、
〔或本歌曰。王梓之《タマヅサノ》。妹者花可毛《イモハハナカモ》。足日木乃《アシヒキノ》。此山影爾《コノヤマカゲニ》。麻氣者失留《マケバウセヌル》。〕
○舊本此(ノ)處に、羈放歌と標して、名兒乃海乎朝※[手偏+旁]來者海中爾《ナゴノウミヲアサコギクレバワタナカニ》、鹿子曾鳴成※[立心偏+可]怜其水子《カコゾヨブナルアハレソノカコ》、と云一首を載たり、其は既く上(ノ)羈旅作としるしたる標末に收て、註しつれば、こゝには略けり、
 
萬葉集古義七卷之下 終
 
(532)萬葉集古義八卷之上
 
春雜謌《ハルノクサ/”\ノウタ》。
 
志貴皇子懽御歌一首《シキノミコノヨロコビノミウタヒトツ》。
 
志貴(ノ)皇子は、天智天皇の皇子田原(ノ)天皇と謚奉れり、御傳一(ノ)卷(ノ)下に、委(ク)云り、
 
1418 石激《イハバシル》。垂見之上乃《タルミノウヘノ》。左和良妣乃《サワラビノ》。毛要出春爾《モエヅルハルニ》。成來鴨《ナリニケルカモ》。
 
石激《イハヾシル》は、枕詞なり、(舊本にイハソヽグ〔五字右○〕と訓たるはわろし、)七(ノ)卷に、石流垂水水乎結飲都《イハバシルタルミノミヅヲムスビテノミツ》、十二に、石走垂水之水能《イハバシルタルミノミヅノ》、などよめり、○垂水《タルミ》は、攝津(ノ)國豐島(ノ)郡にあり、袖中抄に、たるみのうへのさわらびとは、攝津と播磨とのさかひに、たるみと云處あり、岸よりえもいはぬ水出る故に、たる水と云なり、垂水の明神と申す神おはす、そのたるみのうへをば、たるみ野といへば、其(ノ)野にさわらびはもえ出るなり、とあり、垂水(ノ)明神とは、神名帳に、攝津(ノ)國豐島(ノ)郡垂水(ノ)神社、(名神大、月次、新甞、)とある是なり、姓氏録に、孝元天皇(ノ)御世(ニ)、天(ノ)下旱魃河井涸絶于時《ヒデリシテミツカレシトキ》、阿利眞(ノ)公|造2作《ツクリ》高樋《タカヒヲ》1、以垂水四山基之《タルミヲヨモノヤマヨリヒキテ》、令v通(ハ)2水(ヲ)宮(ノ)内(ニ)1供奉《ツカヘマツリキ》御膳《ミケニ》1、天皇美2其功(ヲ)1、便賜2垂水(ノ)公(トテ)姓(ヲ)1、掌(シメキ)2垂水(ノ)神社(ヲ)1とも見えた(533)り、○左和良妣《サワラビ》は、眞蕨《マワラビ》と云むが如く、左《サ》は美たる稱《ナ》なり、左小牡鹿《サヲシカ》など云|左《サ》に同じ、(しかるを、早蕨とかきて、左《サ》は、その早く先だちて萌出るをいふことなり、と思ふは、あらぬことなり、)○御歌(ノ)意は、垂見の野邊の蕨の、萌出榮ゆる時を得たた如く、まことに懽《ヨロコバ》しき時に至《ナリ》にける哉、となり、源氏物語蓬生(源氏(ノ)君の歸京を待思ふ事を云る處、)に、としごろあらぬさまなる御さまを、かなしういみじきことゝ思ひながらも、もえ出る春にあひ給はなむと、ねんじわたりつれど、たひしがはらなどまで、よろこび思ふなる、御くらゐあらたまりなどするを、よそにのみきくべきなりけり、云々、思(ヒ)合(ス)べし、契冲云、此(ノ)御歌、いかなる吉事にあはせ給へる時に、よませ給ふとはしらねども、さわらびの、根にこもりて、かゞまりをれるが、もえ出る春になるは、まことに時にあへるなり、天智天皇の皇子ながら、御位につかせ給はざりしかども、時におもむせられ給ひて、事にあたり給ふこともなくて、御子白壁(ノ)皇子、思ひかけぬ高御座にのぼらせ給ひて、光仁天皇と申奉り、皇子も田原(ノ)天皇の御おくり名を得給ひ、御子孫今にあひつゞきて、御位をつがせ給ふは、此(ノ)歌にもとゐせるなり、今うけ給はるもよろこばしき御歌なり、略解に、慶雲元年二百戸封ぜられ、和銅七年に二百戸、靈龜元年三品にならせ給ふと見ゆれば、是等の時の御歌か、此(ノ)地をよみ給へるは、封戸攝津などにありしか、と云り、(六帖に、此(ノ)御歌を、いはそゝぐたるひの上の、と載たるは誤れり、)
 
(534)鏡女王歌《カヾミノオホキミノウタ》。
 
女王、舊本には、王女に誤れり、
 
1419 神奈備乃《カムナビノ》。伊波瀬乃杜之《イハセノモリノ》。喚子鳥《ヨブコドリ》。痛莫鳴《イタクナナキソ》。吾戀益《アガコヒマサル》。
 
伊波瀬乃杜は、大和國平群郡にあり、此下にも二所によめり、按(フ)に、集中に、毛利《モリ》に杜(ノ)字を書、新撰字鏡にも、杜(ハ)毛利《モリ》、又|佐加木《サカキ》、と見えたり、さて此は木の土《トコロ》てふ意の國字なるべし、〔頭註、【名所圖會磐瀬社、神南の東、車瀬村にありと見ゆ、】〕(本居氏玉勝間(ノ)二に、史記の周本紀(ノ)賛に、所2謂《イヘル》周公(ノ)葬(レト)2我(ヲ)畢(ニ)1畢(ハ)、在2鏑(ノ)東南(ノ)杜中(ニ)1、註に杜一(ニ)作v社(ニ)、また秦本紀に、蕩社、註に、社一(ニ)作v杜(ニ)、といへり、これらは、杜と社とは、字の形の似たるによりて、かくたがひに誤れるもの歟、はた相通ふよし有(リ)てかゝるか、もし杜(ノ)字も社と通はゞ、毛利《モリ》に殊によし有(リ)、又かの社中とあるは、何とかや毛利《モリ》めきて聞ゆ、と云り、されどこれは、それまでもあらじ、又谷川(ノ)士清(ガ)神代紀通證に、湯津杜木《ユツカツラノキ》云々、杜又訓2毛利《モリト》1、蓋神地必植2杜《カツラノ》樹《ヲ》1、故指2神社(ノ)林叢(ヲ)1爲v杜也、萬葉集、訓2神社或社(ノ)字(ヲ)1爲2毛利《モリト》1亦同、といへり、いぶかしき説なり、)おむなを※[女+長]、さかきを榊、おものきを栂と作《カケ》るたぐひ多かるを、これも其(ノ)類と見てことたれり、さて毛利《モリ》は、毛流《モル》てふ言の體となりたるにて、木の高く繁りたる土《トコロ》を云、十(ノ)卷に、朝旦吾見柳?之來居而應鳴森爾早奈禮《アサナサナワガミルヤナギウグヒスノキヰテナクベキモリニハヤナレ》、(夫木集に、光俊朝臣、玉ぼこの道のなはてのさし柳はや森になれ立もやどらむ、とあるは、この十(ノ)卷の歌によりてよめり、)十六に、大野路者繁道森徑之氣久登(535)毛《オホヌヂハシゲヂノモリヂシゲクトモ》云々、とよめるにて知るべし、又、六(ノ)卷に、百木成山者木高之《モヽキモルヤマハコダカシ》、とあるも、成は盛の省文にて、もるは繁ることにて、森の用語なるを思(フ)べし、源氏物語蓬生に、かたもなくあれたる家の、木立しげくもりのやうなるをすぎ給云々、うつぼ物語俊蔭に、人の家のつくれる山のやうにて、木立をかしう、所々に松杉花の木ども、くだ物の木枝をつくしてなき物なく、椎栗もりをはやしたらむごとくめぐりて、おひつらなれり云々なども見ゆ、さて神社を毛利《モリ》と云も、神の座處は、必(ズ)木の繁りて有ものなればなるべし、又飯を毛流《モル》といひ、又物など高く積置を毛流《モル》といふも、毛流《モル》の言は一(ツ)なり、○喚子鳥《ヨブコドリ》は、いかなる鳥ならむ、詳ならず、なほ品物解に云、○痛莫鳴吾戀益《イタクナナキソアガコヒマサル》とは、鳴聲の感情を催さるゝにつけて、人を戀しく思ふ心のまさる、となり、古今集に、時鳥はつ聲きけばあぢきなくぬしさだまらぬ戀せらるはた、とあり、○歌(ノ)意は、石瀬の杜に居(ル)喚子鳥よ、しかばかり甚《イタ》く鳴ことなかれ、汝が音を聞ば感情の催されて、人を戀しくおもふこゝろの、いよ/\益るぞ、となり、
 
駿河采女歌一首《スルガノウネベガウタヒトツ》。
 
駿河(ノ)采女は、既く四(ノ)卷に出(シ)つ、傳未(タ)詳ならず、
 
1420 沫雪香《アワユキカ》。薄太禮爾零登《ハダレニフルト》。見左右二《ミルマデニ》。流倍散波《ナガラヘチルハ》。何物之花其毛《ナニノハナソモ》。
 
薄太禮《ハダレ》は、離《ハナレ》の意にて、既く四(ノ)卷(ノ)下|夜之穗杼呂《ヨノホドロ》、とあるところに具(ク)云りき、雪の離々《ハナレ/”\》に散(リ)て降(536)よしなり、○流倍散《ナガラヘチル》は、ながれちるの伸りたるなり、(ラヘ〔二字右○〕の切レ〔右○〕、)さてかく伸云は、その緩なる形をきかせたるなり、ながれも則(チ)ちることなり、五(ノ)卷に、和何則能爾宇米能波奈知流比佐可多能阿米欲里由吉能都何列久流加母《ワガソノニウメノハナチルヒサカタノアメヨリユキノナガレクルカモ》、十(ノ)卷に、卷向之檜原毛未雲居者子松之未由沫雪流《マキムクノヒバラモイマダクモヰネバコマツガウレユアワユキナガル》、などあり、○何物之花其毛《ナニノハナソモ》、(之(ノ)字舊本にはなし、今は一本に從つ)契冲云、梅のちるとは知(リ)ながら、ほむる心に、知ずしてとふよしによめり、今の世の人のいふにも、かくのごとくなること多し、古今集旋頭歌に、打わたすをちかた人に物申すわれそのそこに白くさけるはなにの花そも、とあり、其毛《ソモ》は、問かくる意の詞なり、十(ノ)卷に、我屋戸之田葛葉日殊色付奴不來座君者何情曾毛《ワガヤドノクズハヒニケニイロヅキヌキマサヌキミハナニゴヽロソモ》、古今集に、色よりも香こそあはれとおもほゆれたが袖ふれしやどの梅そも、などあり、又四(ノ)卷に、劔太刀身爾取副常夢見津何如之怪曾毛君爾相爲《ツルギタチミニトリソフトイメニミツナニノシルシソモキミニアハムタメ》、十八に、何可爾世流布勢能宇良曾毛許己太久爾吉民我彌世武等和禮乎等登牟流《イカニセルフセノウラソモココダクニキミガミセムトワレヲトドムル》、などあるも、皆同意なり、○歌(ノ)意は、沫雪の離々《ハナレ/”\》に散てふる歟と見るまでに、ちら/\と流れてちり來るは、そも何の花にてあるぞ、さても面白のけしきや、となり、初(ノ)二句は、沫雪のはだれにふる歟と、いふ意なり、
 
尾張連歌二首《ヲハリノムラジガウタフタツ》。
 
尾張(ノ)連は、傳未(ダ)詳ならず、首の下に、舊本名闕、と註せり、
 
1421 春山之《ハルヤマノ》。開乃乎爲黒爾《サキノタヲリニ》。春菜採《ハルナツム》。妹之白紐《イモガシラヒモ》。見九四與四門《ミラクシヨシモ》。
 
(537)開乃乎爲黒爾は、岡部氏、乎爲黒は手烏里《タヲリ》の誤なるべし、さて開《サキ》は岬《サキ》の意にて、山の岬のたわみたる所に、春菜つむとつゞくなり、をかのさきたみたる道などよめるを、思ふべし、と云り、十三に、高山峯之手折丹射目立《タカヤマノミネノタヲリニイメタテヽ》、とあるも同じ、○春菜は、ハルナ〔三字右○〕とよむべし、はる草、はる鳥、はる花なこど云例多し、止由氣宮儀式帳に、大神宮司、奉2進|春菜《ハルナ》漬(ル)料(ノ)鹽二斛(ヲ)1、と見ゆ、○歌(ノ)意は、春山の岬のたわみたる處に出て、春菜つむ女の、衣の白紐を見れば、見る事のあかず、さてもなつかしく心よしや。となり、
 
1422 打靡《ウチナビク》。春來良之《ハルキタルラシ》。山際《ヤマノマノ》。遠木末乃《トホキコヌレノ》。開往見者《サキユクミレハ》。
 
開往は、サキユク〔四字右○〕とよむべし、花の次第に開をいふ、○歌(ノ)意は、山(ノ)間の遠く見わたさるゝ處の花の木の、次第《ツギ/\》に開《サキ》ゆくを見れば、草木の弱くなよゝかに靡く、春になりけるならし、となり、」
 
中納言阿卿歌一首《ナカノモノマヲスツカサアベノヒロニハノマヘツキミノウタヒトツ》。
 
去年春《コゾノハル》。伊許自而植之《イコジテジテウヱシ》。吾屋外之《ワガヤドノ》。若樹梅者《ワカキノウメハ》。花咲爾家里《ハナサキニケリ》。
伊許自而植之《イコジテジテウヱシ》は、伊《イ》はそへ言にて、許自《コジ》は、根《ネ》こじにすることなり、根こじは、根ながらに掘(リ)取ることにて、俗に、根引して庭に植し、といふが如し、(本居氏云、俗語に、物をこじると云も、是よりぞ出つらむ、)古事記に、天(ノ)香山之、五百津眞賢木|矣根許士爾許士而《ヲネコジニコジテ》云々、書紀に、堀《ネコジ》とあり、又神武天皇(ノ)卷に、拔取《ネコジニコジテ》、景行天皇卷に、拔《コジトリ》なども見ゆ、古語拾遺に、古語|佐禰居自能彌居自《サネコジノネコジ》、六帖に、(538)秋(ノ)野は根こじにこじて持去とも巖の種は遺しやはせぬ、新後撰集に、さねこじてさか木にかけし鏡こそ君がときはの陰は見えけれ、現存六帖に、はるかにも思ひ來しかど吾(ガ)やどの根こじの梅は花咲にけり、などあり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、此(ノ)歌、拾遺集には、去し年根こじて植し、とて載たり、
 
山部宿禰赤人歌四首《ヤマベノスクネアカヒトガウタヨツ》。
 
1424 春野爾《ハルノヌニ》。須美禮採爾等《スミレツミニト》。來師吾曾《コシアレゾ》。野乎奈都可之美《ヌヲナツカシミ》。一夜宿二來《ヒトヨネニケル》。
 
須美禮採《スミレツム》は、衣を摺む料、又たゞ花を愛《ウツクシ》みてもつむなるべし、○野乎奈都可之美《ヌヲナツカシミ》は、野の景色のなつかしく面白き故にの意なり、○一夜宿二來《ヒトヨネニケル》は、十九に、伊佐左可爾念而來之乎多古乃浦爾開浦藤見而一夜可經《イササカニオモヒテコシヲタコノウラニサケルフヂミテヒトヨヘヌベシ》、とよめり、○歌(ノ)意は、春野にて衣を摺む料の、すみれを摘取にとて、かりそめに來しを、野の景色のなつかしく面白き故に、立歸りがたくて、一夜宿をとりてぞ寢にける、となり、
 
1425 足比奇乃《アシヒキノ》。山櫻花《ヤマサクラバナ》。日並而《ヒナラベテ》。如是開有者《カクサキタラバ》。甚戀目夜裳《イトコヒメヤモ》。
 
日並而《ヒナラベテ》は、日を重ての謂なり、六(ノ)卷にも、茜刺日不並二《アカネサスヒナラベナクニ》、とよめり、○歌(ノ)意は、山櫻花が、幾日も日を多く重ねて、かくのごとく咲てあるならば、かばかり甚々《イト/\》戀しく思はむやは、日を重ねては咲ず、盛と見れば、はや變ひ散が故にこそ、かく戀しく思ふなれ、さてもなつかしの花盛や、(539)となり、
 
1426 吾勢子爾《ワガセコニ》。令見常念之《ミセムトモヒシ》。梅花《ウメノハナ》。其十方不所見《ソレトモミエズ》。雪乃零有者《ユキノフレレバ》。
 
歌(ノ)意は、開たらば、吾(カ)兄子に見せむ見せむと、かねて思(ヒ)入し梅(ノ)花の咲たるに、雪の深くなべて降積みたれば、其(レ)ぞ花なると分ても知がたく、かくては見すべきよしもなし、となり、古今集序古註に、梅(ノ)花それともみえず久方の天ぎる雪のなべてふれゝば、とあり、
 
1427 從明日者《アスヨリハ》。春菜將採跡《ハルナツマムト》。標之野爾《シメシヌニ》。昨日毛今日《キノフモケフモ》。雪波布利管《ユキハフリツヽ》。
 
歌(ノ)意かくれたるところなし、(六帖には、春たゝばわかなつまむと、とて載、新古今集には、明日からは若菜つまむと、と載り、)
 
草香山歌一首《クサカヤマノウタヒトツ》。
 
草香山は、河内(ノ)國河内(ノ)郡なり、臨く出(シ)つ、
 
1428 忍照《オシテル》。難波乎過而《ナニハヲスギテ》。打靡《ウチナビク》。草香乃山乎《クサカノヤマヲ》。暮晩爾《ユフグレニ》。吾越來者《アガコエクレバ》。山毛世爾《ヤマモセニ》。咲有馬醉木乃《サケルアシビノ》。不惡《アシカラヌ》。君乎何時《キミヲイツシカ》。往而早將見《ユキテハヤミム》。
 
忍照《オシテル》は、難波の枕詞なり、既く出づ、○打靡《ウチナビク》は、草の枕詞なり、草は打しなひ靡くものなれば、かくつゞけたり、○山毛世爾《ヤマモセニ》は、山も狹爾《セニ》にて、山も狹《セバ》きまでと去ふが如し、(俗に、山一杯にあまりてさけるといふが如し、)國毛世爾《クニモセニ》、里毛世爾《サトモセニ》、野毛世爾《ヌモセニ》、濱毛世爾《ハマモセニ》、道毛世爾《ミチモセニ》などいへる、皆|其(540)地《ソノトコロ》に充滿《ミチ》たる謂なり、さて此と次なると二句は、不惡《アシカラヌ》をいはむ料に、目に觸たるものもて云る章中の序なり、○不惡は、アシカラヌ〔五字右○〕とよむべし、あしびのあしからぬとつゞくなり、十(ノ)卷に、春山之馬醉花之不惡公爾波思惠也所因友好《ハルヤマノアシビノハナノアシカラヌキミニハシヱヤヨセヌトモヨシ》、と見えたり、○歌(ノ)意は、難波を過て、草香山を越來るに、早日も夕暮に及びたるに、未(ダ)思ふ人の許には得至らず、早くその愛しき君を、行至りて相見むと思ふに、かくてはいつか、其處に至らむぞ、となり此(ノ)歌は、思ふ人のもとへゆくとき、草香山を夕暮にこゆるとて、やがてそこの物もて、序としてよめるなり、君とは思ふ人をさすなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。依《ヨリテ》2作者微《ヨミヒトノイヤシキニ》1不《ズ》v顯《アラハサ》2名字《ナヲ》1。
 
櫻花歌一首并短歌《サクラノハナノウタヒトツマタミジカウタ》。
 
1429 ※[女+感]嬬等之《ヲトメラガ》。頭插乃多米爾《カザシノタメニ》。遊士之《ミヤビヲノ》。※[草冠/縵]之多米等《カヅラノタメト》。敷座流《シキマセル》。國乃波多弖爾《クニノハタテニ》。開爾鷄類《サキニケル》。櫻花能《サクラノハナノ》。丹穗日波母安奈爾《ニホヒハモアナニ》。
 
國乃波多弖《クニノハタテ》は、契冲、國のはてにて、あらゆる國のかぎりに、さくはなをおもひやるなり、又しはつ山といふに、四極山とかきたれば、はてはきはみにて、大君のしきます國のあるかぎりと云こゝろなるべし、と云り、(但し、おもひやるなりと云るは、すこしいかゞ、鷄流《ケル》とあれば、親く見て云るやうにいへるなり、)今按(フ)に、國の中央《ミナカ》はいふまでもなし、極《ハテ》までもといふほどの(541)こゝろなるべし、○安奈爾《アナニ》(爾(ノ)字、舊本に何とあるは荷の誤なるべし、今は一本に從つ、)は、歎息の辭、あなにやしの、あなにに同じ、嗚呼《アハレ》さても賞怜《オモシロ》や、と歎きたるなり、
 
反謌《カヘシウタ》。
 
1430 去年之春《コゾノハル》。相有之君爾《アヘリシキミニ》。戀爾手師《コヒニテキ》。櫻花者《サクラノハナハ》。迎來良之母《ムカヘケラシモ》。
 
戀爾手師は、思ふに、師は、伎(ノ)字を草體より誤れるものにて、コヒニテキ〔五字右○〕なるべし、○迎來良之母は、ムカヘケラシモ〔七字右○〕と訓べし、待迎へけるらしの謂なり、母《モ》は歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、去年の春、花盛の時、花見がてらに逢てかたらひし、其(ノ)君にわかれて、戀しく思ひてのみ月日を經渡りしに、今日又櫻花の下にて、ゆくりなく其(ノ)君にあへるは、櫻花が其君を待迎へけるならし、さてもうれしき事ぞ、となり、花の下にて人に行逢たるを、懽(ビ)てよめるなるべし、
 
右二首《ミギノフタウタハ》。若宮年魚麻呂誦之《ワカミヤノアユマロウタヘリキ》。
 
年魚麻呂は、三(ノ)卷に出づ、
 
山部宿禰赤人歌一首《ヤマベノスクネアカヒトガウタヒトツ》。
 
1431 百濟野乃《クダラヌノ》。芽古妓爾《ハギノフルエニ》。待春跡《ハルマツト》。來〔○で囲む〕居之?《キヰシウグヒス》。鳴爾鷄鵡鴨《ナキニケムカモ》。
 
百濟野《クダラヌ》は、大和(ノ)國十市(ノ)郡にあり、既く出(ツ)、舒明天皇(ノ)紀に、十一年秋七月、詔曰、今年造2作大宮及大寺(ヲ)1、則|以《ヲ》2百濟《クダラ》川(ノ)側《ホトリ》1爲2宮處(ト)1、云々、十二月、云々、是(ノ)月|於《ニ》2百濟《クダラ》川(ノ)側《ホトリ》1建2九重《コヽノコシノ》塔(ヲ)1、十三年冬十月己巳朔丁(542)酉、天皇崩(マス)2于|百濟《クダラノ》宮(ニ)1、丙午、殯2於宮(ノ)北(ニ)1、是(ヲ)謂2百濟大殯《クダラノオホアラキト》1、天武天皇(ノ)紀に、元年六月辛酉朔己丑、是日大伴(ノ)連吹負、繕2兵(ヲ)於百濟《クダラノ》家(ニ)1、自2南門1出(ヅ)之、など見えたる地の野なるべし、○來居之?は、來(ノ)字、舊本になきは脱たること著し、故(レ)今補ひつ、(スミシウグヒス〔七字右○〕、又ヲリシウグヒス〔七字右○〕などよみては、平穩ならず、)必(ズ)キヰシウグヒス〔七字右○〕とあるべきところなり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、百濟野の春色をおもひやりてよめるなり、
 
大伴坂上郎女柳歌二首《オホトモノサカノヘノイラツメガヤナギノウタフタツ》。
 
1432 吾背兒我《ワガセコガ》。見良牟佐保道乃《ミラムサホヂノ》。青柳乎《アヲヤギヲ》。手折而谷裳《タヲリテダニモ》。見綵欲得《ミムヨシモガモ》。
 
綵は、契冲云、縁の誤、○歌(ノ)意は、吾(ガ)夫子が行て、親(シク)見給らむ佐保道の青柳を、吾は太宰府にありて、行て見る事もかなはざれば、うらやましくのみ思ふことなれど、京にありせば、すべきやうも有べきをと、いよ/\戀しく、いかで/\手折たる枝なりとも、見べきよしもがなあれかし、とねがへるなり、
 
1433 打上《ウチアグル》。佐保能河原之《サホノカハラノ》。青柳者《アヲヤギハ》。今者春部登《イマハハルヘト》。成爾鷄類鴨《ナリニケルカモ》。
 
打上は、枕詞なり、ウチアグル〔五字右○〕と訓べし、(舊本にも然訓り、)打《ウチ》は、いひおこす詞とて、手して物することに多くはそへていふ詞なり、さて打揚《ウチアグ》る眞帆《マホ》と云意に、いひつゞけたるなるべし、(此(ノ)地(ノ)名集中に、猿帆《サホ》とも書たるを思ふべし、)帆を揚るといふは常のことなり、佐は、佐衣《サゴロモ》、佐小牡(543)鹿《サヲシカ》などの佐《サ》にて、眞といふに通ふことなり、又はウチノボル〔五字右○〕とも訓べきにや、打《ウチ》は、前の如くいひおこす詞なり、手して物することより轉りて、さならぬことにも、そへいふこと多し、さらば打登《ウチノボ》る眞穗《マホ》といふ意に、いひかけたるなるべし、(此(ノ)地(ノ)名|狹穗《サホ》とも多く書たるを思(フ)べし、)登《ノボル》とは、穗《ホ》の發《ハリ》出るに隨て、すくすくと立(チ)登るよしなり、佐《サ》は、眞《マ》に通ふよしは前に云るが如し、(冠辭考に、佐保道は、打|上《ノボ》りつゝ行處ならむからに、冠らせしにや、と云るは、一(ト)わたりに思ひよれるまゝにして、論に足ず、)○今者《イマハ》とは、待々て、其(ノ)時を正しく待得たるよしなり、此(レ)までは、かたへは春に至りながら、かたへはいまだ冬の氣の殘りてありしを待々て、其(ノ)春の節を正しく待得たる今は、といふなり、すべて今者《イマハ》と連くは、二方にわたりし事の一方に決《サダマ》りたる時にいふ詞なり、○歌(ノ)意は、佐保川の邊の柳は、春の節を正しく待得て、青々と發《ハリ》出て、緑の絲の靡くらむ、今は其時節になりにける哉、さても京方の戀しく思はるゝ事ぞ、となり、已上二首は、太宰府にありしほどよめるならむ、此(ノ)歌六帖には、打のぼる佐保の川邊の青柳の萌ける春に成にける哉、と載たり、又玉葉集には、打わたす佐保の川原の青柳は今ははるへともえにけるかも、と改めて載られたり、
 
大伴宿禰三林梅歌一首《オホトモノスクネミヨリガウメノウタヒトツ》。
 
大伴(ノ)宿禰三依の傳は、四(ノ)卷(ノ)上に委(ク)云り、林は、依の誤なるべし、
 
(544)1434 霜雪毛《シモユキモ》。未過者《イマダスギネバ》。不思爾《オモハヌニ》。春日里爾《カスガノサトニ》。梅花見都《ウメノハナミツ》。
 
未過者《イマダスギネバ》は、未(タ)過ぬにの意なり、既く二(ノ)卷(ノ)下に委(ク)云り、○不思爾《オモハヌニ》は、思ひがけもなきにといふ意なり、三(ノ)卷に、昨日社公者在然不思爾濱松之上於雲棚引《キノフコソキミハアリシカオモハヌニハママツノヘノクモニタナビク》、四(ノ)卷に、不念爾妹之咲※[人偏+舞]乎夢見而心中二燎管曾呼留《オモハヌニイモガヱマヒヲイメニミテコヽロノウチニモエツヽヅヲル》、五(ノ)卷に、大船乃於毛比多能无爾於毛波奴爾横風乃《オホブネノオモヒタノムニオモハヌニヨコシマカゼノ》云々、などある皆同じ、○歌(ノ)意は、霜雪のふる節も未(ダ)過行ず、猶寒けくあれば、思ひがげもなきに、春日の里にて、梅花の早(ク)開出たるを見つるがめづらし、となり、
 
厚見王歌一首《アツミノオホキミノウタヒトツ》。
 
厚見(ノ)王の傳は、四(ノ)卷(ノ)下に委(ク)云り、
 
1435 河津鳴《カハヅナク》。甘南備河爾《カムナビガハニ》。陰所見《カゲミエテ》。今哉開良武《イマヤサクラム》。山振乃花《ヤマブキノハナ》。
 
甘南備河爾《カムナビガハニ》云々、集中に、高市(ノ)郡にも、平群(ノ)郡にも、神名火をよめり、此(ノ)歌なるは何(ノ)郡のにや、一説に、此《コヽ》なるは平群(ノ)郡なり、とも云り、○歌(ノ)意かくれたるところなし、(金葉集に、春深み神なび河に陰見えてうつろひにけり山吹花、)
 
大伴宿禰村上梅歌二首《オホトモノスクネムラカミガウメノウタフタツ》。
 
大伴(ノ)宿彌村上は、續紀に、神護景雲二年七月壬午、日向(ノ)國(ヨリ)獻(レリ)2白龜(ヲ)1、九月辛巳、勅、今年七月十一日得2肥後(ノ)國葦北(ノ)郡(ノ)人刑部(ノ)廣瀬女、日向(ノ)國宮崎(ノ)郡(ノ)人大伴(ノ)人益(カ)所v獻白龜(ノ)赤眼(アルト)、青馬(ノ)白髪尾(アルトヲ)1、云々、大(545)伴(ノ)人益刑部(ノ)廣瀬女(ニ)、並授2從八位下(ヲ)1、賜2※[糸+施の旁]各十匹、綿廿屯、布卅端、正税一千束(ヲ)1、云々、又父子之際同v心(ヲ)天性(ナリ)、恩賞(ノ)所v被、事須2同沐(ス)1、人益(カ)父村上(ニハ)者、恕(スルニ)以2縁黨(ヲ)1宜v赦2入京(ヲ)1、寶龜二年四月壬午、正六位上大伴(ノ)宿禰村上(ニ)、授2從五位下(ヲ)1、十一月辛丑、爲2肥後(ノ)介(ト)1、三年四月庚午、從五位上大伴(ノ)宿禰村上爲2阿波守(ト)1、と見えたり、
 
1436 含有常《フヽメリト》。言之梅我枝《イヒシウメガエ》。今旦零四《ケサフリシ》。沫雪二相而《アワユキニアヒテ》。將開可聞《サキヌラムカモ》。
 
含有常《フヽメリト》は、いまだつぼみてありと、といふ意なり、下に、十二月爾者沫雪零跡不知可毛梅花開含不有而《シハスニハアワユキフルトシラネカモウメガハナサクフヽメラズシテ》、とあり、此は雪ふる時に開出ては、いたみやすきを、さともしらず、つぼみて春節をも待ずに、さきたるをいひて、今の歌とは、意の表裏なるが如し、○歌(ノ)意は、昨日までいまだ花のつぼみてありと、人のいひしその梅(ガ)枝は、今朝降し沫雪にあひ、競ひて開出ぬらむか、さても美《ウツク》しからむを、早く見まほしや、となり、雪にあひて咲よしにいふは、下に、今日零之雪爾競而我屋前之冬木梅者花開二家里《ケフフリシユキニキホヒテワガヤドノフユキノウメハハナサキニケリ》、とあり、
 
1437 霞立《カスミタツ》。春日之里《カスガノサトノ》。梅花《ウメノハナ》。山下風爾《アラシノカゼニ》。落許須莫湯目《チリコスナユメ》。
 
霞立は、カスミタツ〔五字右○〕とよむべし、(略解に、カスミタチ〔五字右○〕とよめるはわろし、)○落許須莫湯目《チリコスナユメ》は、ゆめ/\ちることなかれと云意なり、下に、官爾毛縱賜有今夜耳將飲酒可毛散許須奈由米《ツカサニモユルイsタマヘリコヨヒノミノマムサケカモチリコスナユメ》、十一に、吾以後所生人如我戀爲道相與勿湯目《アレユノチウマレムヒトハアガゴトクコヒスルミチニアヒコスナユメ》、などあり、なほ集中に、ありこすなゆめ、きゝこす(546)なゆめ、などよめり、○歌(ノ)意は、春日の里の梅花よ、ゆめ/\あらしの風にさそはれて、散失ることなかれ、いつまでもかく賞愛《メデウツクシ》まむぞ、となり、
 
大伴宿禰駿河麻呂歌一首《オホトモノスクネスルガマロガウタヒトツ》。
 
1438 霞立《カスミタツ》。春日里之《カスガノサトノ》。梅花《ウメノハナ》。波奈爾將問常《ハナニトハムト》。吾念奈久爾《アガモハナクニ》。
 
波奈爾將問常《ハナニトハムト》は、あだに將v問《トハム》とゝ云
が如し、波奈《ハナ》は、集中に、しらがつく木綿《ユフ》は花物《ハナモノ》、又人ははな物どなどよめる花物《ハナモノ》も、はな/”\しくあだなる物をいへり、こゝもその花なり、廿(ノ)卷に、麻比之都々伎美我於保世流奈弖之故我波奈乃未等波無伎美奈良奈久爾《マヒシツヽキミガオホセルナデシコガハナノミトハムキミナラナクニ》、とあるも同じ、○歌(ノ)意は、春日の里の梅(ノ)花を深く賞愛《メデウツクシ》みて、問(ヒ)來しにこそあれ、かりそめにあだ/\しく思ひて、とひ來しにはあらぬことなるを、いかで此(ノ)花を、よそに見すてゝは行べきぞ、となり、(或人(ノ)説に、波奈爾將問常《ハナニトハムト》は、廿(ノ)卷に、波都乎婆奈波奈爾見牟登之安麻乃可波弊奈里爾家良之年緒奈我久《ハツヲバナハナニミムトシアマノカハヘナリニケラシトシノヲナガク》、とあるに同じく、花の咲る時に問れむと思はざりしに、はからずも花の時に問來しを、歡べるなるべし、と云るはわろし、廿(ノ)卷なるは、花やかにめづらしく相見むとて、と云意なり、凡て、花に問(フ)月に問(フ)、など云て、花の咲る時、月の照る時に訪(フ)意とするは、後(ノ)世のことにこそあれ、古言にさる云ざまなるは、かつてなきことぞかし、
 
中臣朝臣武良自歌一首《ナカトミノアソミムラジガウタヒトツ》。
 
(547)武良目は、傳未(ダ)詳ならず、
 
1439 時者今者《トキハイマハ》。春爾成跡《ハルニナリヌト》。三雪零《ミユキフル》。遠山邊爾《トホキヤマヘニ》。霞多奈婢久《カスミタナビク》。
 
時者今者《トキハイマハ》は、荒木田氏(ノ)説に、今年の二字、イマ〔二字右○〕と訓例なりとて、こゝもトキハイマ〔五字右○〕とよめり、されど、四(ノ)卷に、戀者今葉《コヒハイマハ》とあると、同じ語(ノ)勢なり、さればこゝも、トキハイマハ〔六字右○〕と六言に訓べし、さて今者とは、待々て、正しく其(ノ)時を待得て、春に至りぬ、といふ意なり、此(ノ)上に委(ク)云り、○歌(ノ)意は、今は兼て待々し、春の時節に既く至りぬるとて、雪のふりたりしかなたの遠き山邊に、のどかに霞の立たなびきて、げにうらゝかなる春のけしきぞ、となり、
 
河邊朝臣東人歌一首《カハヘノアソミアヅマヒトガウタヒトツ》。
 
東人は、續紀に、神護景雲元年正月己巳、正六位上川邊(ノ)朝臣東人(ニ)授2從五位下(ヲ)1、寶龜元年十月辛亥、爲2石見(ノ)守(ト)1、と見えたり、
 
1440 春雨乃《ハルサメノ》。敷布零爾《シクシクフルニ》。高圓《タカマトノ》。山能櫻者《ヤマノサクラハ》。何如有良武《イカニアルラム》。
 
歌(ノ)意は、春雨の日をかさねて、重々《シキリ/\》に降ば、草も木も萌出て、何處も春のけしきになりぬれば、高圓山の櫻花は、此(ノ)頃いかにかあるらむ、今は開出ぬらむと思ひやらるゝを、いかで早く行て行ばや、となり、
 
大伴宿禰家持?歌一首《オホトモノスクネヤカモチガウグヒスノウタヒトツ》。
 
(548)1441 打霧之《ウチキラシ》。雪者零乍《ユキハフリツヽ》。然爲我二《シカスガニ》。吾宅乃苑爾《ワギヘノソノニ》。?鳴裳《ウグヒスナクモ》。
 
打霧之《ウチキラシ》とは、打《ウチ》はいひおこす詞とて、掻《カキ》といふに同じ、其は多く手して物することにそへいふ詞なり、今も空に雲霧を、手して打散したる如くなるをいへり、霧之《キラシ》は、霧《キリ》の伸りたる詞なり、伎流《キル》とは、雲霧などの立覆ひ陰《クモ》りたるをいふ、さてその伎流《キル》樣《サマ》の絶ず緩なるを伸て、伎良須《キラス》とも、伎良布《キラフ》ともいへり、其(ノ)中に、伎良須《キラス》といふは、然|令《セシ》むる方にいひ、伎良布《キラフ》とは、自(ラ)然る方にいへるにて、いさゝか差別あることなり、此《コヽ》ほ雲霧の空に立覆ひ陰らせて、絶ず雪のふる樣なり、○歌(ノ)意は、雲霧の空に立覆ひ陰らせて、絶ず雪はふりつゝ、なほいと寒くはあれど、さすがに春の節に至《ナ》りぬとて、吾(ガ)家の苑に鶯の鳴よ、さてもめづらしの聲や、となり、後撰集に、かきくらし雪はふりつゝしかすがに我家のぞのに鶯ぞなく、と改めて載たり、
 
大藏少輔丹比屋主眞人歌一首《オホクラノスナキスケタヂヒノヤヌシノマヒトガウタヒトツ》。
 
屋主は、續紀に、神龜元年二月壬子、正六位上多治(ノ)眞人屋主(ニ)授2從五位下(ヲ)1、天平十七年正月乙丑、從五位下多治比(ノ)眞人屋主(ニ)授2從五位上(ヲ)1、十八年九月己巳、爲2備前(ノ)守(ト)1、二十年二月己未、授2正五位下(ヲ)1、天平勝寶元年閏五月甲午朔、爲2左(ノ)大舍人(ノ)頭(ト)1、とあり、既く六(ノ)卷にも丹比(ノ)屋主見えたり、其は屋主は、家主の誤なるべきよし、彼處に云り、披(キ)見て考(フ)べし、
 
1442 難波邊爾《ナニハヘニ》。人之行禮波《ヒトノユケレバ》。後居而《オクレヰテ》。春菜採兒乎《ハルナツムコヲ》。見之悲也《ミルガカナシサ》。
 
(549)人と云るは、夫なり、○歌(ノ)意は、公(ノ)任などにて、攝津(ノ)國に別れて夫の行てあれば、遺《ノコ》り居てわびしく物うさに、もしやむすぼゝる思ひのはるけむこともあらむかとて、しひて野邊に出て、若菜を採(ム)其(ノ)婦を見れば、いとほしくあはれにて、そのかなしさたとへむ方なし、となり、契冲云、せめての心やりにつめば、おもふことなき人の、野邊の興につむとかはりて、かなしきなり、
 
丹比眞人乙麻呂歌一首《タヂヒノマヒトオトマロガウタヒトツ》。
 
乙麻呂は、目録に、屋主(ノ)眞人第二之子也、と註せり、續紀に天平神護元年正月己亥、五六位上多治比(ノ)眞人乙麻呂(ニ)授2從五位下(ヲ)1、十月辛未、行2幸紀伊(ノ)國(ニ)1、以2云々從五位下多治比(ノ)眞人乙麻呂(ヲ)1爲2御前次第司(ノ)次官(ト)1、と見ゆ、
 
1443 霞立《カスミタツ》。野上乃方爾《ヌノヘノカタニ》。行之可波《ユキシカバ》。?鳴都《ウグヒスナキツ》。春爾成良思《ハルニナルラシ》。
 
野上は、ヌノヘ〔三字右○〕とよみて、たゞ野のことなり、上(ヘ)は、高圓の上《ウヘ》、藤原が上《ウヘ》など云|上《ウヘ》にて、たゞ輕くそへたる言なり、(これをノガミ〔三字右○〕とよみて、美濃(ノ)國の地(ノ)名と心得る説はわろし、)二(ノ)卷に佐美乃山野上乃宇波疑《サミネヤマヌノヘノウハギ》、六(ノ)卷に、飽津之小野笶野上者《アキヅノヲヌノヌノヘニハ》、などあるに同じ、○歌(ノ)意は、霞の立(ツ)野邊の方に出て行しかば、鶯の鳴初音を聞つるよ、これにて思へば、實にのどかなる春の節に至《ナ》れるにてあるらし、となり、
 
(550)高田女王歌一首《タカタノオホキミノウタヒトツ》。
 
高田(ノ)女王は、四(ノ)卷に出つ、舊本こゝに、高安之女也、と註せり、高安は、高安(ノ)王のことなるべし、一本には此(ノ)註なし、
 
1444 山振之《ヤマブキノ》。咲有野邊乃《サキタルヌヘノ》。都保須美禮《ツホスミレ》。此春之雨爾《コノハルノアメニ》。盛奈里鷄利《サカリナリケリ》。
 
都保須美禮《ツホスミレ》は、此(ノ)下田村(ノ)家(ノ)大孃(ガ)歌にも見ゆ、都保《ツホ》は、いかなる意にかあらむ、未(ダ)詳ならず、(含《ツボ》む意にてもあらむか、榮花物語に、おの/\屏風をつぼねつゝ、とあるも、開《ヒラク》の反なれば、同言ならむ、されど都保須美禮《ツホスミレ》は、二處まで保(ノ)字を書れば、保《ホ》は清音なることはしるし、契冲が考に、すみれの花には、下の方にまろくて、つぼのごとくなる所あれば、壺菫とは云なり、と云り、壺《ツホ》の保《ホ》も、古(ヘ)は清て唱へしか知ず、猶考(フ)べし、)○歌意かくれたるところなし、
 
大伴坂上郎女歌一首《オホトモノサカノヘノイラツメガウタヒトツ》。
 
1445 風交《カゼマジリ》。雪者雖零《ユキハフルトモ》。實爾不成《ミニナラヌ》。吾宅之梅乎《ワギヘノウメヲ》。花爾令落莫《ハナニチラスナ》。
 
譬喩歌なり、○風交《カゼマジリ》云々、五(ノ)卷に、風雜雨布流欲乃《カゼマジリアメフルヨノ》、雨雜雪布流欲波《アメマジリユキフルヨハ》、云々、十(ノ)卷に、風交雪者零乍然爲蟹霞田菜引春去爾來《カゼマジリユキハフリヽシカスガニカスミタナビキハルサリニケリ》、○歌(ノ)意は、たとひ風まじり雪はふるとも、まだ實《ミ》にならぬ吾(ガ)庭の梅を、花のみにてちらすことなかれ、となり、初(ノ)二句は、たとひ世(ノ)間の人は、とりどりさま/”\にいひたてさわくとも、と云意を、たとへたり、實爾不成《ミニナラヌ》は、まだ實《マコト》に夫婦となりえぬをいふ、(551)花爾令落莫《ハナニチラスナ》は、唯|風《ホノカ》に言かはしたるのみにて、止ことなかれの意なるべし、下に、吾妹子之形見乃合歡木者花耳爾咲而蓋實爾不成鴨《ワギモコガカタミノネブハハナノミニサキテケダシクミニナラヌカモ》、とよめる類なるべし、(略解に、花には、あだにと云意にて、いまだ逢も見ぬ男のうへを、云(ヒ)さわくことなかれと云譬喩歌か、又は譬にはあらで、梅を惜てよめるか、といへるはいかゞ、)
 
大伴宿禰家持春※[矢+鳥]歌一首《オホトモノスクネヤカモチガキヾシノウタヒトツ》。
 
春(ノ)字、舊本に養と作るは、誤なり、今は目録に從つ、
 
1446 春野爾《ハルノヌニ》。安佐留※[矢+鳥]乃《アサルキヾシノ》。妻戀爾《ツマゴヒニ》。己我當乎《オノガアタリヲ》。人爾令知管《ヒトニシレツヽ》。
 
令知管《シレツヽ》は、人に知(ラ)れつゝの意なり、さてこの管《ツヽ》の言に、歎の餘意を含ませたり、○歌(ノ)意は、春の野に食を求る雉の、己が妻の戀しく思はるゝ思ひに堪かねて、聲に出して、その隱所を、人にそこと知(ラ)れつゝ、つひに獵人などに獲れむは、さてもあはれなる事ぞ、となり、按(フ)に、此(ノ)歌も、ただに雉をよめるにはあらで、深くしのびてあひたる女を、思ふ思ひにあまりて、色に出て人にしられつゝ、親の嘖讓《コロビ》にあはむことを、悔(イ)歎きてよめる譬喩歌なるべきか、此(ノ)歌拾遺集には、おのがありかを、と改て入られたり、
 
大伴坂上郎女歌一首《オホトモノサカノヘノイラツメガウタヒトツ》。
 
1447 尋常《ヨノツネニ》。聞者苦寸《キクハクルシキ》。喚子鳥《ヨブコドリ》。音奈都炊《コヱナツカシキ》。時庭成奴《トキニハナリヌ》。
 
(552)聞者苦寸《キクハクルシキ》は、聞(カ)まうきといふ意なり、俗にきゝともないと云に同じ、○時庭成奴《トキニハナリヌ》は、庭とは、他時にむかへていふ詞なり、他時には、然らず、今の時節にはといふなり、奴《ヌ》は已戊《オチヰ》の奴《ヌ》にて、時には既く成ぬるを云、○歌(ノ)意は、喚子鳥は常にも鳴ども、他時には聞(カ)まうく、くるしき鳥の音なるに、其(ノ)音を馴著《ナツカ》しくおもしろく聞まほしき、春の時節には成ぬる、となり、鳥の聲の時にとりて、面白くも、くるしくも、聞なさるゝは常理なり、
〔右一首。天平四年三月一日。佐保宅作。〕
佐保宅とは、坂上(ノ)郎女の父、大伴(ノ)安麻呂(ノ)卿をば、四(ノ)卷に、佐保大納言といへれば、其(ノ)家なり、
 
春相聞《ハルノシタシミウタ》。
 
大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチガ》。贈《オクレル》2坂上家之大孃《サカノヘノイヘノオホイラツメニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
坂上(ノ)家之大孃は、大伴(ノ)宿奈麻呂(ノ)卿の女にして、田村(ノ)大孃の同母(ノ)妹なり、なほ次に云べし、既《サキ》にも云り、
 
1448 吾屋外爾《ワガヤドニ》。蒔之瞿麥《マキシナデシコ》。何時毛《イツシカモ》。花爾咲奈武《ハナニサキナム》。名蘇經乍見武《ナソヘツヽミム》。
 
何時毛《イツシカモ》は、之《シ》といふは助辭なり、この之《シ》の言に力あり、すべて之《シ》の助辭は、その一(ト)すぢをとりたてゝ、おもく思はする處におく辭なり、此《コヽ》は何時かと、その時を待遠に、一(ト)すぢにおもく思ふよしなり、加《カ》は、歟《カ》にて疑辭、毛《モ》は、歎息の意を含めたる助辭なり、○名蘇經乍見武《ナソヘツヽミム》は、大孃に(553)なぞらへつゝ見む、となり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、源氏物語紅葉(ノ)賀に、よそへつゝ見るに心はなぐさまで露けさまさるなでしこの花、形にさかなむと思給へしも、かひなき世に侍ればとあり、とあるは、今の歌によりて書るものなり、(但し是は、此(ノ)歌にても、咲奈武は必(ス)サキナム〔四字右○〕なるを、サカナム〔四字右○〕と改めて、とりなしたるものかとも思へど、なほ彼(ノ)物語よりは前に、サカナム〔四字右○〕とひがよみしたるによりて、書るものなるべし、此歌にては、サキナム〔四字右○〕ならでは協《カナ》はず奈武《ナム》は、常の奈武《ナム》の格なればなり、サカナム〔四字右○〕と云ときは、奈武《ナム》の詞、希ふ意となるが故に、上に何時毛《イツシカモ》とあるにかなはざるなり、すべて咲をサカナム〔四字右○〕、待をマタナム〔四字右○〕、逢をアハナム〔四字右○〕、摘をツマナム〔四字右○〕、有をアラナム〔四字右○〕など、五音の第一位の阿韻よりつゞけたる奈武《ナム》は、いづれも希ふ意の奈武《ナム》なる格なればなり、しかるを此(ノ)歌をも、いつしかもはやく花に咲(ケ)かしと希ふ意と心得て、サカナム〔四字右○〕と訓は、後世(ノ)意なり、すべて希ふ意の奈武《ナム》の上のかゝりは、曾也何《ソヤカ》等の辭をおくこと、古(ヘ)に例なきことなればなり、十七に、霍公鳥來鳴牟都奇爾伊都之加母波夜久奈里那牟《ホトヽギスキナカムツキニイツシカモハヤクナリナム》云々、とあるも、後(ノ)世ならば、奈良奈牟《ナラナム》といひて、いつしかもはやく成(レ)かしと希ふ意とすべけれど、上に伊都《イツ》とあれば、希ふ意の奈武《ナム》には云れぬ格なるが故に、常の奈武《ナム》の格に、奈里那牟《ナリナム》と云るをも思(ヒ)合すべし、しかるを後撰集に、松もひき若菜もつまずなりぬるをいつしかさくらはやもさかなむ、拾遺集に、いつしかもつくまのまつりとくせなむつれなき人(554)のなべのかず見む、など、上にいつしかといひて、希ふ意の奈武《ナム》にてうけたるは、古(ヘ)にたがへり、そも/\いつしかといふは、何時かと、その時を、待遠に思ふのみの意の詞なるより轉りて、いつの間にやらむはやくといふ意とせるより、希ふ意の祭武《ナム》にて、下をうくることになれるなり、さてそれより後には、いつしかといふ一(ツ)の詞の如くになりて、いつしかぬるゝ、などやうに云ることの多かるは、又|再《サラ》に轉りたるものなり、)
 
大伴田村家之大孃《オホトモノタムラノイヘノオホイラツメガ》。與《オクレル》2妹坂上大孃《イモサカノヘノオホイラツメニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
田村(ノ)家之大孃(之(ノ)字、舊本には毛に誤、)は、大伴(ノ)宿奈麻呂(ノ)卿の女にて、母は坂上(ノ)郎女なり、卿の田村(ノ)里にすまれけるにつきて居《ヲラ》れし故に、田村(ノ)大孃と呼り、大孃と云るは、長女のよしなり、○坂上(ノ)大孃は、母の坂上(ノ)里にすまれしに、つきて居れしによりて、坂上(ノ)大孃と呼り、かくて田村(ノ)大孃の同母(ノ)妹なれば、大孃と云ることいかゞなれど、坂上(ノ)家に居《スマ》れし女子にては、第一の女《ムスメ》なりけるが故に、長女になずらへて、大孃と呼て、其(ノ)妹を第二女になずらへて、坂上(ノ)二孃《オホイラツメ》と呼なせるなるべし、なほこの姉妹の傳は、三(ノ)卷(ノ)下、四(ノ)卷(ノ)上等に註るをも考(ヘ)合すべし、
 
1449 茅花拔《チバナヌク》。淺茅之原乃《アサヂガハラノ》。都保須美禮《ツホスミレ》。今盛有《イマサカリナリ》。吾戀苦波《アガコフラクハ》。
 
茅花は、チバナ〔三字右○〕と訓べし、○本(ノ)句に序にて、盛《サカリ》をいはむ料なり、○今盛有《イマサカリナリ》は、今盛の時にてありといふなり、盛《サカリ》は、妹を戀しく思ふ心の、盛りに甚しきをいへり、十(ノ)卷に、吾瀬子爾吾戀良久者(555)奥山之馬醉木花之今盛有《ワガセコニアガコフラクハオクヤマノアシビノハナノイマサカリナリ》とあるに同じ、○吾戀苦波《アガコフラクハ》は、吾戀しく思ふやうはと云意なり、○歌(ノ)意かくれなし、
 
大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチガ》。贈《オクレル》〔三字○で囲む〕2坂上郎女《サカノヘノイラツメニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
坂上(ノ)郎女は、大伴坂上(ノ)郎女にて、家持(ノ)卿の叔母、又姑なり、傳三(ノ)卷(ノ)下に委(ク)註り、
 
1450 情具伎《コヽログキ》。物爾曾有鷄類《モノニゾアリケル》。春霞《ハルカスミ》。多奈引時爾《タナビクトキニ》。戀乃繁者《コヒノシゲキハ》。
 
情具伎《コヽログキ》は、四(ノ)卷(ノ)下にに委(ク)説(ケ)り、此は愛憐《カナ》しく思ふ心の、いよ/\深切《フカキ》をいふなるべし、(岡部氏、神代(ノ)紀の初に、混沌をクヾモル〔四字右○〕と訓しを合せ思ふに、くもることゝ聞ゆ、然れば、おぼつかなくこゝろもとなきを云なり、と云れどいかゞ、)○歌(ノ)意は、春霞立たなびきて、けしきうらゝかに、いとおもしろくめでたき時に、二人居たらば、いかにたのしからむと思ふを、郎女に離れ居て、唯獨戀しく思ふ心の繁きは、いよ/\愛憐《カナ》しく思はるゝ心のまさりて、深切《フカ》き物にてぞありける、といふなるべし、(六帖に、初句を、心うきと改めたるはいかゞ、)
 
笠女郎《カサノイラツメガ》。贈《オクレル》2大伴家持《オホトモノヤカモチニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
1451 水鳥之《ミヅトリノ》。鴨乃羽色乃《カモノハノイロノ》。春山乃《ハルヤマノ》。於保束無毛《オホツカナクモ》。所念可聞《オモホユルカモ》。
 
本(ノ)二句は、春山《ハルヤマ》をいはむ料の序なり、廿(ノ)卷に、水鳥乃可毛能羽能伊呂乃青馬乎《ミヅトリノカモノハノイロノアヲウマヲ》、此(ノ)下に、水鳥乃青羽乃山《ミヅトリノアヲバノヤマ》、ともよめり、○於保束無毛《オホツカナクモ》は、契冲、鬱の字を、オホツカナキ〔六字右○〕とよめり、鬱の字の心は、(556)たとへば、さかりにもゆる木を、灰の下にさしいれたるが、さすがにもえ出ねど、下にふすぼるやうの心なり、春山の陽氣下にみちて、やゝもえ出れど、猶くゆるやうなるを、むねにおもひのふさがりたるやうに、たとへていふなり、といへり、十(ノ)卷に、今夜乃於保束無荷霍公鳥喧奈流聲之音乃遙左《コノヨラノオホツカナキニホトヽギスナクナルコヱノオトノハルケサ》、又|春去者紀之許能暮之夕月夜鬱束無裳山陰爾指天《ハルサレバキノコノクレノユフヅクヨオホツカナクモヤマカゲニシテ》、なども見えたり、○歌(ノ)意は、君を戀慕ふ心の、胸にみちふさがりて、せむ方なく、さしせまりても思はるゝ事哉、さてもくるしや、となり、
 
紀女郎歌一首《キノイラツメガウタヒトツ》。
 
紀(ノ)女郎は、四(ノ)卷(ノ)下に出(シ)つ、古本に、鹿人(ノ)大夫(カ)女、名(ヲ)曰2小鹿(ト)1、安貴(ノ)王之妻也、と註せり、
 
1452 闇夜有者《ヤミナラバ》。宇倍毛不來座《ウベモキマサジ》。梅花《ウメノハナ》。開月夜爾《サケルツクヨニ》。伊而麻左自常屋《イデマサジトヤ》。
 
伊而麻左自常屋《イデマサジトヤ》は、而は耐の省文なるべし、此(ノ)下に、令覩麻而爾波《ミセムマデニハ》、又|相時麻而波《フフトキマデハ》、十九に、可頭良久麻而爾《カツラクマデニ》、など書たり、(又而はテ〔右○〕の訓ある故に、借(リ)て書るかとも思ひしかど、濁音の處に用ひたるを思へば、さにはあらじ、又略解に、而は耐の誤歟といへれど、ひがことなり、集中右の如く、あまた所に而と書れば、誤字にはあらず、いかで省文なることをばおもはざりけむ、)さて伊而座《イデマス》は、古事記傳(ニ)云、記中に、天皇ならずても幸行《イデマス》と多く書り、此(ノ)語本は、出る意に云つるにも有べけれども、必(ズ)さらでも、たゞ行給ふにも、來給ふにも云り、今の俗語にも、御出なさる(557)と云を行(ク)ことにも、來(ル)ことにも用る、同じ意ばえなり、天智天皇(ノ)紀(ノ)童謠に、于知波志能都梅能阿素弭爾伊提麻栖古《ウチハシノツメノアソビニイデマセコ》云々、伊提麻志能供伊播阿屡珥茄《イデマシノクイハアラニゾ》云々、とあり、と云り、土佐日記に、講師馬の餞しにいでませり、○歌(ノ)意は、闇の夜ならば、來まさずとてもげにことわりなり、この梅の花も咲月もおもしろくてりつゝ、あひにあひて興あるこよひなるに、君は來まさじとやは、さりとも今宵は、來ますべきことにてあるを、となり、十(ノ)卷に、吾社葉憎毛有目吾屋前之花橘乎見爾波不來鳥屋《アレコソハニクヽモアラメワガヤドノハナタチバナヲミニハコジトヤ》、語(ノ)勢似たり、又同卷に、春雨爾衣甚將通哉七日四零者七夜不來哉《ハルサメニコロモハイタクトホラメヤナヌカシフラバナヽヨコジトヤ》又|霍公鳥來鳴動岡部有藤浪見者君者不來登夜《ホトトギスキナキトヨモスヲカヘナルフヂナミミニハキミハコジトヤ》、なども有(リ)、
 
天平五年癸酉《テムヒヤウイツトセトイフトシミヅノトトリ》春|閏三月《ノチノヤヨヒ》。笠朝臣金村《カサノアソミカナムラガ》。贈《オクレル》2入唐使《モロコシニツカハスツカヒニ》1歌一首并短歌《ウタヒトツマタミジカウタ》。
 
入唐使は、續紀に、天平四年八月、以2從四位下多治比(ノ)眞人廣成(ラ)1、爲2遣唐大使(ト)1、と見えたり、五(ノ)卷山上(ノ)臣好去好來(ノ)歌につきて註せり、九(ノ)卷、十九(ノ)卷、にも、同時の歌あり、
 
1453 玉手次《タマタスキ》。不懸時無《カケヌトキナク》。氣緒爾《イキノヲニ》。吾念公者《ワガモフキミハ》。虚蝉之《ウツセミノ》。代人有者《ヨノヒトナレバ》。大王之《オホキミノ》〔七字○で囲む〕。命恐《ミコトカシコミ》。夕去者《ユフサレバ》。鶴之妻喚《タヅガツマヨブ》。難波方《ナニハガタ》。三津埼從《ミツノサキヨリ》。大船爾《オホブネニ》。二梶繁貫《マカヂシヾヌキ》。白浪《シラナミノ》。高荒海乎《タカキアルミヲ》。島傳《シマヅタヒ》。伊別往者《イワカレユカバ》。留有《トヾマレル》。吾者幣引《アレハヌサトリ》。齋乍《イハヒツヽ》。公乎者將待《キミヲバマタム》。早還萬世《ハヤカヘリマセ》。
 
王手次《タマタスキ》は、懸をいはむ料の枕詞なり、○代人有者大王之《ヨノヒトナレバオホキミノ》、この二句、舊本になきは脱たるなり、契冲、九(ノ)卷長歌に、人と成ことはかたきを云々|虚蝉乃代人有者大王之御命恐美《ウツセミノヨノヒトナレバオホキミノミコトカシコミ》、また其(ノ)つ(558)きの長歌に、虚蝉乃世人有者大王之御命恐彌《ウツセミノヨノヒトナレバオホキミノミコトカシコミ》、とありて、こゝもかの例に依(ル)に、二句脱しなるべし、と云るは、信にいはれたることなりけり、○島傳《シマヅタヒ》は、島より島に轉《ウツ》り廻りて漕行を云、七(ノ)卷に、島傳足速乃小舟風守年者也經南相當齒無二《シマヅタフアハヤノヲブネカゼマモリトシハヤヘナムアフトハナシニ》、十三に、二梶貫礒※[手偏+旁]回乍《マカヂヌキイソコギタミツヽ》、島傳雖見不飽《シマヅタヒミレドモアカズ》、三吉野乃瀧動々落白浪《ミヨシヌノタキモトヾロニオツルシラナミ》、とあり、○幣引は、岡部氏云、幣引は祓《ハラヒ》にはあれど、この歌にはかなはず、引は取の誤にて、ヌサトリ〔四字右○〕なるべし、○待(ノ)字、舊本に往ると作は誤なり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
1454 波上從《ナミノヘヨ》。所見兒島之《ミユルコシマノ》。雲隱《クモガクリ》。穴氣衝之《アナイキヅカシ》。相別去者《アヒワカレナバ》。
 
兒島《コシマ》は、何地にある島とも定めがたし、難波より見放る海中の島をひろく云るにもあるべし、○相別去者は、アヒワカレナバ〔七字右○〕とよむべし、(略解に、イネバ〔三字右○〕とよめるはわろし、)相別とは、こぎゆくふねの見えずなるをいふ詞なり、こぎわかれなむ家のあたりみずとある、こぎわかれも見えずなるを云るにて同じ、○歌(ノ)意は、今君がこぎゆく舟の、波のあはひより見ゆる小島の雲隱れたるごとく、見えみ見えずみ、はるかになるにつきても、名殘をしくて、嗚呼いきづかしや、其(ノ)船のふつに見えずなりなば、又いかばかりにかかなしからむ、となり、(夫木集に、里わかず花咲ぬれば浪間より見ゆる兒島も雲隱れつゝ、今の歌によれり、)
 
1455 玉切《タマキハル》。命向《イノチニムカヒ》。戀從者《コヒムヨハ》。公之三舶乃《キミガミフネノ》。梶柄母我《カヂツカニモガ》。
 
(559)玉切《タマキハル》は、命《イノチ》の枕詞なり、○命向《イノチニムカヒ》は、戀しく思ふ心の甚しくて、命に對ふを云、(俗言にていはゞ、命を相手にして、戀しく思ふといふが如し、)○梶柄母我《カヂツカニモガ》は、梶柄を、カヂカラ〔四字右○〕とよむ時は、和名抄に、釋名(ニ)云笶(ハ)、其體(ヲ)曰v※[竹/幹](ト)、夜加良《ヤカラ》、とある、此(ノ)例によりて、梶の取(リ)木を、加治加良《カヂカラ》ともいふべきことなり、可良加治《カラカヂ》(十四に見ゆ、)といふも、柄楫《カラカヂ》の義ときこえたり、また弓|束《ツカ》と云例によらば、(和名抄にも、釋名(ニ)云、弓(ノ)末(ヲ)曰v※[弓+肅](ト)中央(ヲ)曰v※[弓+付]、由美都加《ユミヅカ》とあり、)加治都加《カヂツカ》ともいふべきものなり、又和名抄に、方言(ニ)云、刈※[句+立刀](ハ)野王按(ニ)、※[木+司](ハ)、鎌柄也、和名|加萬都加《カマツカ》、ともあり、母我《モガ》は、三(ノ)卷に、伊勢海之奥津白花爾欲得裹而妹之家裹爲《イセノウミノオキツシラナミハナニモガツヽミテイモガイヘヅトニセムム》、と見えて、集中に多き詞なり、冀ふ意なり〔頭註、【谷川氏云、明律考に、舵牙を、かぢからと譯sり、柁の取木なり、堀川百首には、かぢはしら、とよめり、】〕○歌(ノ)意は、命に對ひて、甚しく戀しく思はむよりは、中々に人とあらずて、君が御舟の梶柄にだになりて、そひゆかましものを、さらばかかるくるしき思ひはあるまじきに、となり、
 
藤原朝臣廣嗣《フヂハラノアソミヒロツグガ》。櫻花《サクラノハナヲ》贈《オクレル》2娘子《ヲトメニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
廣嗣の傳は、六(ノ)卷(ノ)下に委(ク)云り、式部(ノ)卿宇合の第一子なり、
 
1456 此花乃《コノハナノ》。一與能内爾《ヒトヨノウチニ》。百種乃《モヽクサノ》。言曾隱有《コトゾコモレル》。於保呂可爾爲莫《オホロカニスナ》。
 
一與《ヒトヨ》は、一瓣《ヒトヒラ》のことなり、と云り、○歌(ノ)意は、この折て參らする、櫻花の一ひらの内に、君にいはまほしき、百種の詞が隱りてあるぞ、おほ方の花と見てあるな、となり、
 
(560)娘子和歌一首《ヲトメガコタフルウタヒトツ》。
 
1457 此花乃《コノハナノ》。一與能内波《ヒトヨノウチハ》。百種乃《モヽクサノ》。言持不勝而《コトゾコモモチカネテ》。所折家良受也《ヲラエケラズヤ》。
 
歌(ノ)意は、のたまひおこせしごとく、この給はる花の一ひらの内に、百種の詞がこもりてあるらむ、そもこの花は、その百種の詞のおもさにたへずして、をられけるにあらずやは、となり、三吉野乃玉松之枝者波思吉香聞君之御言乎持而加欲波久《ミヨシヌノタママツガエハハシキカモキミガミコトヲモチテカヨハク》、思合(ス)べし、
 
厚見王《アツミノオホキミノ》。贈《オクリタマヘル》2久米女郎《クメノイラツメニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
厚見(ノ)王は、四(ノ)卷(ノ)下に出つ、○久米(ノ)女郎は、傳未(ダ)詳ならず、久米(ノ)連若賣にてもあるべきか、若賣は、續紀に、天平十一年三月庚申、石上(ノ)朝臣乙麻呂、坐v※[(女/女)+干](ニ)2久米(ノ)連若賣(ヲ)1、配2流土左(ノ)國(ニ)1、若賣配2下總(ノ)國(ニ)1焉、十二年六月庚午、大赦、久米(ノ)連若女、召(テ)令v入v京(ニ)、景雲元年十月甲午、無位久米(ノ)連若女(ニ)授2從五位下(ヲ)1、二年十月乙卯、從五位上、寶龜三年正月辛卯、五五位上、七年正月丙申、從四位下十一年六月己未、散位從四位下久米(ノ)連若女卒、贈右大臣從二位藤原(ノ)朝臣百川之母也、と見えたり、
 
1458 屋戸在《ヤドニアル》。櫻花者《サクラノハナハ》。今毛香聞《イマモカモ》。松風疾《マツカゼイタミ》。地爾落良武《ツチニチルラム》。
 
屋戸在《ヤドニアル》は、女郎が家(ノ)庭にあるなり、○今毛香聞《イマモカモ》は、今哉《イマカ》にて、二(ツ)の毛《モ》は、歎息の意を含めたる助辭なり、○松風疾《マツカゼイタミ》は、松風が甚《イタ》く吹故にの意なり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
久米女郎報贈歌一首《クメノイラツメガコタヘマツレルウタヒトツ》。
 
(561)1459 世間毛《ヨノナカモ》。常爾師不有者《ツネニシアラネバ》。屋戸爾有《ヤドニアル》。櫻花乃《サクラノハナノ》。不所比日可聞《チレルコロカモ》。
 
不所は、契冲云、これをチレル〔三字右○〕とよめるは、もとの所にあらぬは、花にてはちるなれば、義を以てかけるなり、○歌(ノ)意は、のたまふ如く、妾《ワ》が家(ノ)庭にある櫻(ノ)花は、風が甚く吹故に、地に落《チリ》てあり、人の世間《ヨノナカ》も常なきならひにしあるなれば、其(ノ)如く、花もたゞ一盛にて散失ぬるは、さてさてくちをしき事哉、これにて思へば、花も一時、我身も一時にて、君に訪れむも、今しばらくの間にて、ほどなく見苦しきものになり、老はてむとおもへば、あはれかなしき世(ノ)間にてあらずやは、との下心なり、
 
紀女郎《キノイラツメガ》。折2攀《ヲリヨヂテ》合歡木花并茅花《ネブノハナトチバナトヲ》1。贈《オクレル》2大件宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチニ》1歌二首《ウタフタツ》。
 
合歡木(ノ)花は、六月の比開(キ)、茅花は三月の物なれば、時異なり、是は藥にせむために、春拔てたくはへ置たるを、夏贈れるなるべし、と云り、○合歡木花の花(ノ)字、古寫本には華と作り、
 
1460 戯奴《ワケ》【變云和氣。】之爲《ガタメ》。吾手母須麻尓《アガテモスマニ》。春野爾《ハルノヌニ》。拔流茅花曾《ヌケルチバナゾ》。御食而肥座《ヲシテコエマセ》。
 
戯奴《ワケ》は、人を賤しめて云|稱《ナ》なり、四(ノ)卷大伴(ノ)三依(カ)歌に、吾君者和氣乎波死常念可聞《ワガキミハワケヲバシネトオモヘカモ》云々、とある歌の下に、具(ク)註せりき、さてこゝは、本居氏、これは家持(ノ)卿へ贈る歌なれば、賤しめて和氣《ワケ》とはいふべくもあらぬを、しかいへるは、たはぶれなり、故(レ)戯奴と書て、たはぶれなることを顯はせるなり、戯に奴の如しといやしのて云る意なり、といへるが如し、(○自註の變(ノ)字は、反に改(562)むべしと契冲云り、反は翻と通ひて、翻譯する意なり、)○吾手母須麻爾《アガテモスマニ》は、此(ノ)下にも、手母須麻爾殖之芽子爾也還者雖見不飽情將盡《テモスマニウヱシハギニヤカヘリテハミレドモアカズコヽロツクサム》、とよめり、須麻《スマ》は、本居氏、數《シバ》の意にや、と云り、○御食而肥座《メシテコエマセ》、契冲云、こゝに、めしてこえませといひ、返しに、茅花を喫どいやゝせにやす、とあれば、人をこやす功あるにや、本草綱目に、白茅根、有2補vレ中(ヲ)益v氣(ヲ)之功1、茅針及茅花、共(ニ)無2益v氣(ヲ)之功1、蘇頌曰、俗謂2之茅針(ト)1、甚益(アリ)2小兒(ニ)1、とあれど、他の醫書などにあることにこそ、○歌(ノ)意は、其方《ソナタ》の爲をひとへにおもひて、、他事なく、吾(ガ)手も數《シバ》に勞《イタヅ》きて春(ノ)野にてぬける茅花ぞよ、いかでこれを大切におぼして、きこしのして肥賜へ、と、なり、十六に、石麻呂爾書物申夏痩爾吉跡云物曾武奈伎取食《イハマロニワレモノマヲスナツヤセニヨシトイフモノゾムナギトリメセ》、思(ヒ)合(ス)べし、
 
1461 晝者咲《ヒルハサキ》。夜者戀宿《ヨルハコヒヌル》。合歡木花《ネブノハナ》。君耳將見哉《アレノミミメヤ》。和氣佐倍爾見代《ワケサヘニミヨ》。
 
夜者戀宿《ヨルハコヒヌル》は、夜ひとりぬる人の、人をこひしく思ひてぬるによそへて、戀宿《コヒヌル》と云り、○合歡木花《ネブノハナ》は、品物解に云り、(六帖に、かふかの題に、此(ノ)歌を載たるは、ねぶの花を、後にかふかの木と云故なり、かふかは、合歡の音をとれるなり、)○君は、吾の誤なりと本居氏云り、○歌(ノ)意は、晝は見事にさきたれど、夜になれば、獨宿する吾身の、人を戀しくのみ思ひて、戀|倦《ウン》じてうなたれ宿る如き、この合歡木の花を、嗚呼《アハレ》さてもいとほしやと、吾のみひとり見てあるべしやは、いかでひとりのみ見てはあらむ、と其方までに見せむがため、折てまゐらするなり、是を一目見(563)給ひて、あはれとおぼし給へ、となるべし、
 
大伴家持贈和歌二首《オホトモノヤカモチガコタフルウタフタツ》。
 
1462 吾君爾《ワガキミニ》。戯奴者戀良思《ワケハコフラシ》。給有《タバリタル》。茅花乎雖喫《チバナヲハメド》。彌痩爾夜須《イヤヤセニヤス》。
 
吾君爾《ワガキミニ》は、吾(ガ)君をと云むが如し、さてかけ歌に、戯れて和氣《ワケ》といひおこせたる故に、又戯れて、此方よりは、尊みて吾君と云るなり、○戯敷者戀良思《ワケハコフラシ》は、女郎が歌に、わけといひおこせたるを受て、此方のわけとのたまふ我は、吾(カ)君を戀しく思ふらし、と云なり、○茅花乎雖喫は、チバナヲハメド〔七字右○〕とよむべし、○歌(ノ)意は、君の給はせたる茅花を喫《ハミ》たるからは、肥べき理なるに、さはなくて、いよ/\まさりて痩に痩るは、吾(ガ)君を甚《イタ》く戀しく思ひて、心を惱ます故にてあるらし、となり、
 
1463 吾妹子之《ワギモコガ》。形見乃合歡木者《カタミノネブハ》。花耳爾《ハナノミニ》。咲而蓋《サキテケダシク》。實爾不成鴨《ミニナラジカモ》。
 
不成鴨《ナラジカモ》は、未來《ユクサキ》を疑ひて歎きたる詞なり、自可母《ジカモ》といへるは、十二にも、田立名付青垣山之隔者數君乎言不問可聞《タタナヅクアヲカキヤマノヘナリナバシバ/\キミヲコトトハジカモ》、とあり、○歌(ノ)意は、吾妹子が形見としたまはせたる合歡木は、のたまふ如く、いかにもいとはしき、花のさまにてはあれど、もし花のみ咲て、實にならずてあることもあらむか、さあらむには、あかずくちをしくかひなかるべきことなるを、嗚呼さてもうしろめたきわざ哉、と云て、吾妹子が言うるはしくのたまへども、たゞはな/”\しくのたまふ(564)ばかりに、あだなるものになりて、信實の心なくて、もし止むかと、未をいぶかりていふならむ、〔頭註、【六帖に、かたみのかふか花にのみといへり、】
 
大伴家持《オホトモノヤカモチガ》。贈《オクレル》2坂上大孃《サカノヘノオホイラツメニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
1464 春霞《ハルカスミ》。輕引山乃《タナビクヤマノ》。隔者《ヘナレヽバ》。妹爾不相而《イモニアハズテ》。月曾經爾來《ツキゾヘニケル》。
 
歌(ノ)意かくれたるところなし、
〔右從2久邇京1。贈2寧樂宅1。〕
 
夏雜歌《ナツノクサ/”\ノウタ》。
 
藤原夫人歌一首《》フヂハラノオホトジノウタヒトツ。
 
藤原(ノ)夫人は、二(ノ)卷に、天皇賜2藤原(ノ)夫人(ニ)1御歌一首云々、藤原(ノ)夫人奉v和歌一首云々、とあると同人なり、さて夫人はオホトジ〔四字右○〕とよむべし、かの二(ノ)卷なる藤原(ノ)夫人を、本居氏(ノ)説を引て、キサキ〔三字右○〕と訓たりしはたがへりき、(夫人は、キサキ〔三字右○〕なることはたがはず、そはたとへば、麻敝都君《マヘツキミ》と云は、公卿大夫にわたりていふ稱《ナ》なるが如く、キサキ〔三字右○〕と稱するも、皇后には限らず、ひろく妃夫人の列にまでわたりていふ稱なればなり、されど姓名の下に付て、某夫人とあるは、みなオホトジ〔四字右○〕と云ぞ、古言なる、)二(ノ)卷なるも、舊本の目録にオホトジ〔四字右○〕とよめるは宜し、其(ノ)證は、こゝの古註に、字(ヲ)曰2大原(ノ)大刀目《オホトジト》1、と見え、廿(ノ)卷に、藤原(ノ)夫人(ノ)歌とありて、註に、淨見原(ノ)宮(ニ)御宇(シ)天皇之夫人也、(565)字(ヲ)曰2氷上(ノ)大刀自《オホトジト》1也、欽明天皇(ノ)紀に、青海夫人《アヲミノオホトジ》、敏達天皇(ノ)紀に、老女君夫人《オムナキミノオホトジ》、天武天皇(ノ)紀(ノ)下に、阿部(ノ)夫人《オトジ》、石川(ノ)夫人《オトジ》(オトジ〔三字右○〕はオホトジ〔四字右○〕を略稱るなるべし、)なども見ゆ、又上宮聖徳法王帝説に、壬午正月廿二日、聖王枕v病(ニ)也、即同時、膳(ノ)大刀自《オホトジ》得v勞也、大刀自者二月廿一妃卒也、聖王(ハ)廿二日薨也、是以明知膳(ノ)夫人《オホトジ》先日卒也、聖王後日薨也、云々、(これに膳(ノ)大刀自とも、膳(ノ)夫人とも書るにて、夫人をオホトジ〔四字右○〕とよむべきを知れ、)さて夫人|某《ソレ》といふときには、キサキ〔三字右○〕と呼(ビ)、某《ソレノ》夫人と云ときには大刀自《オホトジ》と云は、たとへば皇太子は、日嗣御子《ヒツギノミコ》と申すことなれども、某(ノ)皇太子と申すときには、ひつぎの美古《ミコ》とは、申さずて、豐聰(ノ)皇子尊《ミコノミコト》、高市(ノ)皇子《ミコノ》尊など申すが如し、書紀の訓なども、大抵この差別を、わきまへてよめりと見ゆ、さるは夫人某とある所にては、大方キサキ〔三字右○〕とよみ、某(ノ)夫人とある所にては、オホトジ〔四字右○〕と訓たればなり、(其(ノ)中に、舒明天皇(ノ)紀に、夫人《オホトジ》蘇我(ノ)島(ノ)大臣(ノ)女、法提(ノ)郎媛、天武天皇(ノ)紀に、夫人《オホトジ》藤原(ノ)大臣(ノ)女、氷上(ノ)娘、などある訓はたがへり、これらの夫人をば、キサキ〔三字右○〕と訓べき理なるをや、)心をつくべし、(このわきだめをえしらずして、一わたりに思ふは、かたはらいたきわざなりけり」、)ばらく中昔の物言にたとへていはゞ、大臣は大麻敝都君《オホマヘツキミ》なることはたがはざれども、某(ノ)大臣と申すときには、たとへば融(ノ)大臣《オトヾ》などいふ如く、其(ノ)稱かはれる、其(ノ)類なり、さて大刀自《オホトジ》といふは、大《オホ》は、美稱なるべく、刀自《トジ》は、すべて女人の稱なり、(岡部氏(ノ)考(ノ)別記に、この夫人の訓を論へるは、わか/\しきことなり、又刀自の義を説るも(566)たがへり、刀自のことは、既く四(ノ)卷に具(ク)註りき、○舊本こゝに註て、明日香(ノ)清御原(ノ)宮(ニ)御宇(シ)天皇の夫人也、字(ヲ)曰2大原(ノ)大刀自(ト)1、即新田部(ノ)皇子之母也、とあり、活字本、異本等には此註なし、
 
1465 霍公鳥《ホトヽギス》。痛莫鳴《イタクナナキソ》。汝音乎《ナガコヱヲ》。五月玉爾《サツキノタマニ》。相貫左右二《アヘヌクマデニ》。
 
歌(ノ)意かくれたるところなし、霍公鳥は、五月に鳴を、主《ムネ》とするを、これは四月になくを聞て、未(ダ)時ならぬに、繁く啼を惜めるなり、さて五月玉《サツキノタマ》は、いはゆる續命縷《クスダマ》のことにて、汝が聲を、そのくす玉に相貫まじへむまでは、いたくなきふるすな、と云なり、ほとぎすの聲は、ぬきまじへらるゝ物にはあらざれども、賞翫のあまりに、さるはかなきことをもよむが、歌のらはしなり、〔頭注、【風俗通曰、五月五日、以2五綵絲1繋v臂者、辟2鬼及兵1、一名長命縷、一名續命縷、】〕
 
志貴皇子御歌一首《シキノミコノミウタヒトツ》。
 
1466 神名火乃《カムナビノ》。磐瀬乃杜之《イハセノモリノ》。霍公鳥《ホトヽギス》。毛無乃岳爾《ナラシノヲカニ》。何時來將鳴《イツカキナカム》。
 
磐瀬乃杜《イハセノモリ》は、上に出(シ)つ、○毛無乃岳《ナラシノヲカ》も、大和にあるなるべし、此(ノ)下にも、古郷之奈良思之岳能霍公鳥《フルサトノナラシノヲカノホトトギス》、とよめり、毛無とかけるは、契冲云、左傳(ニ)曰《昭七年》、食(ハ)2土之毛(ヲ)1誰(カ)非(ン)2君(ノ)臣(ニ)1、(毛(ハ)草也、)史記鄭世家曰、錫《タマハヽ》2不毛之地(ヲ)1、(何休曰、※[土+堯]※[土+角](ニシテ)不(ルヲ)v生2五穀(ヲ)1曰2不毛(ト)1、)人のふみならして、草のなき心にてかけり、○御歌(ノ)意かくれなし、御家近き、奈良思の岳に來鳴む事を、待遠におもはして、のたまへるなり、
 
(567)弓削皇子御歌一首《ユゲノミコノミウタヒトツ》。
 
1467 霍公鳥《ホトヽギス》。無流國爾毛《ナカルクニニモ》。去而師香《ユキテシカ》。其鳴音乎《ソノナクコヱヲ》。聞者辛苦母《キケバクルシモ》。
 
御歌(ノ)意は、霍公鳥の、むげに無てある國も、海表諸國《アタシクニ/”\》には在べし、さる遙なる國になりとも、此(ノ)鳥のなからむ方に行たくぞおもふ、其(ノ)なく音を聞ば、さてもいよ/\苦しや、となり、鳥の音なども、時にとりて哀樂の差別あること、人情の常なり、これはいと物むづかしきことのあるをり、ほとゝぎすの聲をきゝ給ひて、いよ/\辛苦のまさるにつき、いかでほとゝぎすのなき國に行(カ)まほしき、との給へるなるべし、
 
小治田廣瀬王霍公鳥歌一首《ヲハリダノヒロセノオホキミノホトヽギスノウタヒトツ》。
 
小治田は、王の居給へる地をもて稱《マヲ》せるなるべし、古事記推古天皇(ノ)條に、坐2小治田(ノ)宮(ニ)1治2天下1、書紀に、十一年冬十月、遷2于小墾田(ノ)宮(ニ)1、と見ゆ、大和(ノ)國高市(ノ)郡にあり、廣瀬(ノ)王は、天武天皇(ノ)紀に、十年三月丙戌、詔(シテ)2云々廣瀬(ノ)王云々(ニ)1、令v記2定帝紀及上古(ノ)諸事(ヲ)1、十三年二月庚辰、遣2淨廣肆廣瀬(ノ)王云云等於畿内(ニ)1、令v視2占應v都之地(ヲ)1、十四年九月甲寅、遣2云々廣瀬(ノ)王(ヲ)於京及畿内(ニ)1、各令v※[手偏+交]2人夫之兵(ヲ)1、持統天皇(ノ)紀に、六年二月丁酉朔丁未、詔2諸官(ニ)1曰、當以2三月三日1、將v幸2伊勢(ニ)1云々、三月丙寅朔戊辰、以2淨廣肆廣瀬(ノ)王云々等(ヲ)1爲2留守官(ト)1、續紀文武天皇大寶二年十二月乙卯、以2從五位下廣瀬(ノ)王(ヲ)1爲2造大殿垣司(ト)1、三年十月丁卯、任2太上天皇御葬司(ニ)1、云々、廣瀬(ノ)王云々爲2御装副1、元明天皇和銅元年三(568)月丙午、從四位上廣瀬(ノ)王(ヲ)爲2大藏(ノ)卿(ト)1、元正天皇養老二年正月庚子、正四位下、六年正月庚午、散位正四位下廣湍(ノ)王卒、と見えたり、
 
1468 霍公鳥《ホトヽギス》。音聞小野乃《コヱキクヲヌノ》。秋風《アキカゼニ》。芽開禮也《ハギサキヌレヤ》。聲之乏寸《コヱノトモシキ》。
 
芽、舊本に茅と作るは誤なり、○歌(ノ)意は、霍公鳥の聲聞なれし野邊に、はや秋風の吹て、芽の花の咲たればにや、そのほとゝぎすの聲の、ともしくまれになりたるならむ、となり、
 
沙彌霍公鳥謌一首《サミガホトヽギスノウタヒトツ》。
 
沙彌は、契冲も云し如く、三方(ノ)沙彌なるを、三方(ノ)二字をおとせるなるべし、沙彌(ノ)女王あれど、歌に、家なる妹とあれば、女王の歌にあらず、三方(ノ)沙彌は、持統天皇(ノ)紀に、六年冬十月、授2山田(ノ)史御形(ニ)務廣肆(ヲ)1、前(ニ)爲2沙門(ト)1、學2問新羅(ニ)1、此(ノ)集二(ノ)卷に、藤原(ノ)宮(ニ)御宇(シ)天皇(ノ)代とある標内に、三方(ノ)沙彌が歌あれば、此(ノ)御形が僧にてありしほどを三方(ノ)沙彌といへるならむ、御形を三方ともかけること、續紀に見ゆ、猶二(ノ)卷に云るを、考(ヘ)合(ス)べし、
 
1469 足引之《アシヒキノ》。山霍公鳥《ヤマホトヽギス》。汝鳴者《ナガナケバ》。家有妹《イヘナルイモシ》。常所思《ツネニオモホユ》。
 
歌(ノ)意は、山ほとゝぎすよ、汝が鳴ば、その聲にもよほされて、いよ/\、家に留れる妻が、一(ト)すぢに常に戀しく思はるゝ、となり、これは旅にありて、霍公鳥の音に、あはれをもよほして、家(ノ)妻をこひしくおもふよしなり、
 
(569)刀理宣令歌一首《トリノセムリヤウガウタヒトツ》。
 
1470 物部乃《モノヽフノ》。石瀬之杜乃《イハセノモリノ》。霍公鳥《ホトヽギス》。今毛鳴奴|香〔○で囲む〕《イマモナカヌカ》。山之常影爾《ヤマノトカゲニ》。
 
物部乃《モノノフノ》は、枕詞なり、契冲、ものゝふの屯聚《イハム》、といふ心に云かけたるなり、いはむは、陣を張(リ)居る心なり、神武天皇(ノ)紀に、夫《カノ》磐余之《イハレ》地(ノ)舊名(ハ)片居《カタヰ》、(片居此(ニハ)云2伽※[口+多]移萎《カタヰト》1、)亦(ハ)曰(キ)2片立《カタタチト》1、(片立此(ニハ)云2伽※[口+多]※[口+多]知《カタタチト》1、)逮(テ)2我(カ)皇師《ミイクサ》之破(ルニ)1v虜(ヲ)也、大軍集而《イクサビトツドヒテ》滿《イハメリ》2其地《ソコニ》1、因《カレ》改(テ)v號(ヲ)爲2磐余《イハレト》1、或(ヒハ)曰、天皇往(ニ)嘗(テ)2嚴瓮《イヅヘノ》粮1、出v軍而征、是時礒城(ノ)八十梟帥《ヤソタケル》、於《ニ》2彼處《ソコ》1屯聚居之《イハミヰツヽ》、(屯聚居此(ニハ)云2怡波瀰萎《イハミヰト》1、)果(シテ)與2天皇1大戰《イタクタヽカヒ》、遂(ニ)爲(ニ)2皇師《ミイクサ》1所滅故《ホロボサエヌルユヱニ》名之曰2磐余(ノ)邑(ト)1、これいはれといふも、八十梟帥がかたの兵ども、いはみ居たるゆゑなれば、今もいはといふを、いはむと云心にしてつゞくるなり、又いはむといふは、陣を張こゝろにもあらず、みちあふるゝ心なり、皇極天皇(ノ)紀(ニ)(四年六月)云、佐伯(ノ)連子麻呂、稚犬養(ノ)連綱田、斬(ツ)2入鹿(ノ)臣1、是日雨下潦《アメフリテ》水《ミヅ》溢《イハメリ》v庭(ニ)、以《ヲ》2席《ムシロ》障子《シトミ》1覆(ヘリ)2鞍作(カ)屍《シカバネニ》1、滿の字、溢の字をよめるにて、心得べし、と云り、○今毛鳴奴の下、香(ノ)字などの脱たるなるべし、と契冲云るはさることなり、十八に、敷多我美能夜麻爾許母禮流保等登藝須伊麻母奈加奴香伎美爾妓可勢牟《フタガミノヤマニコモレルホトトギスイマモナカヌカキミニキカセム》、とあり、考(ヘ)合(ス)べし、今毛《イマモ》と云るは、今は即(チ)今の今にて、毛《モ》は、他時を主と立て云る詞なり、今は時がいまだしければ、さかりに鳴節にはあらざれども、其(ノ)時の如くに音を出して、いかで即今も鳴(ケ)かし、との意なり、奴《ヌ》は、希望辭の禰《ネ》の活用きたるなり、香《カ》は、哉《カ》にて歎息(ノ)辭なり、三(ノ)卷に、吾命毛常有奴可昔見之象小河乎行(570)見爲《ワガイノチモツネニアラヌカムカシミシキサノヲガハヲユキテミミムタメ》、十一に、妹門去過不勝都久方乃雨毛零奴可其乎因將爲《イモガカドユキスギカネツヒサカタノアメモフラヌカソヲヨシニセム》、などある、皆|奴可《ヌカ》といへる例なり、○常影《トカゲ》は、本居氏云、たを陰なり、山のたわみたる所を云、たをとも、たわとも云、(松岡(ノ)成章が結※[目+毛]録に、大和に鳥越のたわと云處あり、江村氏物語に、肥後にて、山のたわみて長く連りたる處を、たわと云としるせり、)○歌(ノ)意は、石瀬の杜に棲(ム)ほとゝぎすよ、いまだ時には至《ナ》らずとも、今もこの山のたを陰に鳴て、いかで我にきかせよかし、汝がさかりに鳴べき時を待むは、甚久しきに、となり、
 
山部宿禰赤人歌一首《ヤマベノスクネアカヒトガウタヒトツ》。
 
1471 戀之家婆《コヒシケバ》。形見爾將爲跡《カタミニセムト》。吾屋戸爾《ワガヤドニ》。殖之藤浪《ウヱシフヂナミ》。今開爾家理《イマサキニケリ》。
 
戀之家婆《コヒシケバ》(家(ノ)字一本には久と作り、こひしくばにても意同じ、古今集に、我廬は三輪の山本戀しくば訪(ラ)ひ來ませ杉|樹《タテ》る門、)は、戀しからばの意なり、戀しく思はむ時にはと云むが如し、十四に、古非思家婆伎麻世和我勢古可伎都楊疑宇禮都美可良思和禮多知麻多牟《コヒシケバキマセワガセコカヤツヤギウレツミカラシワレタチマタム》、○形見《カタミ》は、女の形見を云るなるべし、(契冲が、古今集の、わがやどの池の藤浪さきにけり山ほとゝぎすいつかきかなむ、とある歌を引て、このこひしけばは、ほとゝぎすをいへり、と云るはあらじ、)○歌(ノ)意は、女を戀しく思はむ其(ノ)時には、さきに其(ノ)女と、二人見愛しことを思(ヒ)出して、其(ノ)形見にせむとて、殖置し庭の藤浪、今時至りて開にけり、まことに女の形見にせむと思ひしかひあり(571)て、美麗《ウツク》しき花ぞ、となり、
 
式部大輔石上竪魚朝臣歌一首《ノリノツカサノオホキスケイソノカミノカツヲノアソミガウタヒトツ》。
 
石上(ノ)堅魚は、續紀に、元正天皇養老三年正月壬寅、授2從六位下石上(ノ)朝臣堅魚從五位下(ヲ)1、聖武天皇神龜三年正月庚子、從五位上、天平三年正月丙子、正五位下、八年正月、正五位上、と見えたり、
 
1472 霍公鳥《ホトヽギス》。來鳴令響《キナキトヨモス》。宇乃花能《ウノハナノ》。共也來之登《ムタヤナリシト》。麻間思物乎《トハマシモノヲ》。
 
こは歌の左に註せる如く、三(ノ)卷、五(ノ)卷にも見えたるごとく、太宰(ノ)帥大伴(ノ)卿の妻、大伴(ノ)郎女の身まかられたるを、朝廷より、大伴(ノ)卿をとぶらはせ給ふ勅使に、堅魚(ノ)朝臣筑紫へ下られける時の歌なり、さて歌(ノ)意は、いかにかあらむ、(契冲は、なき人と共にや來しと、時鳥にとはましものをといふ意なり、ほとゝぎすを、此(ノ)國には冥途の鳥といひならはせり、むかしよりしかいひならはせることにや、しかよめる歌あり、と云り、さらばなき人と共にやと云るは、亡人の魂と共にやといふ意ならむ、又、卯花をいへるは、ほとゝぎすと、同時のものなるゆゑなるべし、されど平穩ならず、)本居氏は、この宇乃花能《ウノハナノ》の能《ノ》は、五(ノ)卷に、天地《アメツチ》の共《トモ》に久しくいひつげと、とよめる乃《ノ》に同じく、ト〔右○〕に通ひて聞ゆる一(ツ)の體なり、さて來は、成の誤にて、第四の句は、ムタヤナリシト〔七字右○〕とよみて、帥(ノ)卿の妻は、卯(ノ)花の散過たると共にうせて、行へもなく成しや、と郭公に問(ハ)ましものをと云意なり、と云り、(されどそれも、散過し卯(ノ)花と共にやとやうにいはずて、た(572)だ卯(ノ)花の共にやとては、いさゝか言足はぬやうなり、)なほ考べし、
〔右神龜五年戊辰太宰帥大伴卿之妻大伴郎女。遇v病長逝焉。于時勅使式部大輔石上朝臣堅魚。遣2太宰府1。聴喪并贈物也。其事既畢。驛使及府諸卿大夫等。共登2記夷城1而望遊之日。乃作2此歌1。〕
大伴(ノ)卿は、旅人(ノ)卿なり、○大伴(ノ)郎女遇v病長逝は、三(ノ)卷に、神龜五年戊辰、太宰(ノ)帥大伴(ノ)卿、思2戀故人1歌、ありて、故人はすなはちこゝにいへる、卿(ノ)妻大伴(ノ)郎女のことなり、五(ノ)卷にも、太宰府にて、帥大伴(ノ)卿報2凶問1歌、あり、○也(ノ)字、舊本には色と作り、今は一本に從(レ)り、○及(ノ)字、舊本には乃に誤、○記夷城は、和名抄に、筑前(ノ)國遠賀(ノ)郡木夜、とある、夜は夷の誤にて、其(ノ)地に造れる城郭をいふならむか、契冲、下座(ノ)都城邊(ハ)木乃倍《キノヘ》と見えたる、城山《キノヤマ》と云も、そこなるべし、さて天智天皇(ノ)紀に、又於2筑紫1築2大堤(ヲ)1貯v水(ヲ)、名曰2水城(ト)1、とありて、和名抄に、下座(ノ)郡三城|美都木《ミツキ》、と載られたるを見れば、城(ノ)邊も、此(ノ)三城のあたりにて、城(ノ)邊の名は負せたるべければ、記夷(ノ)城は、彼(ノ)水城なるべし、夷は、語の助にそへて云るにて、記は、城の心なるべし、五(ノ)卷に、此(ノ)きのやまにとよめる歌に、紀(ノ)字を書り、紀伊(ノ)國の例を思ふに、紀(ノ)字なるべきにや、と云り、(今案(フ)に、記の字にてもしかるべし、)
 
太宰帥大伴卿和歌一首《オホミコトモチノカミオホトモノマヘツキミノコタヘタマヘルウタヒトツ》。
 
1473 橘之《タチバナノ》。花散里乃《ハナチルサトノ》。霍公鳥《ホトヽギス》。片戀爲乍《カタコヒシツヽ》。鳴日四曾多寸《ナクヒシゾオホキ》
 
鳴日四曾多寸《ナクヒシソオホキ》は、四《シ》とは一(ト)すぢに重きよしをしらせたる言にて、こゝは一(ト)すぢに音に鳴(ク)日(573)の多きよしなり、十一に、内日左須宮道爾相之人妻※[女+后]玉緒之念亂而宿夜四曾多寸《ウチヒサスミヤヂニアヒシヒトヅマユヱニタマノヲノオモヒミダレテヌルヨシゾオホキ》、とあるも、一(ト)すぢに、念(ヒ)亂れて、宿る夜の多きよしなり、十二に、三吉野之蜻乃小野爾刈草之念亂而宿夜四曾多寸《ミヨシヌノアキヅノヲヌニカルカヤノオモヒミダレテヌルヨヨシゾオホキ》、十五に、多知可敝里奈氣杼毛安禮波之流思奈美於毛比和夫禮弖奴流欲之曾於保伎《タチカヘリナケドモアレハシルシナミオモヒワブレテヌルヨシゾオホキ》、などもあり、○歌(ノ)意は、橘の散里のほとゝぎず、今は相思ふべき花のなければ、片思にのみ戀しく思ひつゝ、一(ト)すぢに哭に泣(ク)日ぞことに多き、となり、鶯の梅を、鹿の芽を、親しみ愛しむごとく、霍公鳥は、橘を己が妻のごと、なれむつるゝことに、いひなれたるより、橘を妻にたとへ、ほとゝぎすを、やがてみづからに比へて、のたまへるなるべし、契冲云、橘の散(ル)をば、妻の身まかられたるにたとへ、ほとゝぎすのなくをば、戀したひてなくによせたり、おのが妻こひつゝなくやさつきやみ神なびやまの山ほとゝぎす、とよみて、ほとゝぎすも、妻戀する鳥なれば、ことによせたり、
 
大伴坂上部女《オホトモノサカノヘノイラツメガ》。思《シヌフ》2筑紫大城山《ツクシノオホキノヤマヲ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
坂上(ノ)郎女は、契冲云、旅人の妹なれば、旅人太宰(ノ)帥にておはしける時、彼(ノ)許へ下られけることあり、第六に、天平二年と表して、冬十一月、大伴(ノ)坂上(ノ)郎女、發2帥(ノ)家(ヲ)1上道、超2筑前(ノ)國宗形(ノ)郡名兒山(ヲ)1之時作歌、とて、載たれば、天平二年に旅人に逢(ヒ)、ついでにつくしをも見むとて、くだられけるなるべし、さてかへりて、みやこにてよまるゝうたなれば、天平三年の夏のうたなるべし、
 
(574)1474 今毛可聞《イマモカモ》。大城乃山爾《オホキノヤマニ》。霍公鳥《ホトヽギス》。鳴令響良武《ナキトヨムラム》。吾無禮杼毛《アレナケレドモ》。
 
今毛可聞《イマモカモ》は、今哉《イマカ》にて、二(ツ)の毛《モ》は、歎息の意を含める助辭なり、○大城乃山《オホキノヤマ》は、本居氏、筑前の國人のいへるは、大城の山は、御笠(ノ)郡今の四天王寺山のことなり、城(ノ)山とは、別なるよしいへり、と云り、○令響《トヨム》とかけるは、令《モス》v響《トヨ》意なり、○歌(ノ)意は、筑紫の大城の山にて、今この頃か、ほとゝぎすの鳴とよもすらむ、今は帥(ノ)卿も歸京し給ひ、吾も其(ノ)地に居ねば、昔(シ)の如く聞|賞《ハヤ》す人もあるまじけれど、ほとゝぎすは、なほ當時《ソノカミ》にはらず鳴らむと思へば、さても戀しや、となり、
大伴坂上郎女《オホトモノサカノヘノイラツメガ》。霍公鳥歌一首《ホトヽギスノウタヒトツ》。
 
1475 何哥毛《ナニシカモ》。幾許戀流《コヽダクコフル》。霍公鳥《ホトヽギス》。鳴音聞者《ナクコヱキケバ》。戀許曾益禮《コヒコソマサレ》。
 
何哥毛《ナニシカモ》は、何しにかの意にて、毛《モ》は、歎息を含めたる助辭なり、四(ノ)卷に、生而有者見卷毛不知何如毛將死與妹常夢所見鶴《イキテアラバミマクモシラニナニシカモシナムヨイモトイメニミエツル》、七(ノ)卷に、佐保河爾鳴成智鳥何師鴨川原乎思努比益河上《サホガハニナクナルチドリナニシカモカハラヲシヌヒイヤカハノボル》、十三に、不聞而黙然有益乎何如文公之正香乎人之告鶴《キカズシテモダモアラマシヲナニシカモキミガタヾカヲヒトノツゲツル》、などある、これら何師可聞《ナニシカモ》といひて、流《ル》とうけたる例なり、○幾許戀流《コヽダクコフル》は、ほとゝぎすのりなくを、殊(ノ)外に甚く戀しく思ふぞ、と云意なり、○戀許曾益禮《コヒコソマサレ》は、おのが夫を戀しく思ふ心こそ、まされの意なり、(ほとゝぎすをこふることの、まさるにはあらず、)素性法師、ほとゝぎすはつこゑきけばあぢきなくぬしさだまらぬこひせらるはた、思(ヒ)合(ス)べし、○歌(ノ)意は、何しにか、ほととぎすの鳴を、殊(ノ)外に甚しく戀しく思ふぞ、我な(575)がらさてもいぶかしや、其(ノ)故は、ほとゝぎすの鳴聲をきけば、なぐさみはせずて、其(ノ)聲にもよほされて、いよ/\己が夫を戀しく思ふ心のまさりこそすれ、となり、
 
小治田朝臣廣耳歌一首《ヲハリダノアソミヒロミヽガウタヒトツ》。
 
廣耳は、契冲、續日本紀を考(フ)るに、廣耳といふ人見えず、小治田廣千と云人あり、これにやあらむ、耳(ノ)字、草書千に似たる故に、紀の古本草書などにて、寫生の誤れるにや、今の印板の續日本紀、文字のあやまり、脱字錯簡等すくなからねばなり、と云り、續紀聖武天皇天平五年三月辛亥、正六位上小治田(ノ)廣千(ニ)授2外從五位下(ヲ)1、十一年正月丙午、從五位下、十三年八月丁亥、爲2尾張(ノ)守(ト)1、十五年六月丁酉、爲2讃岐(ノ)守(ト)1、とあり、
 
1476 獨居而《ヒトリヰテ》。物念夕爾《モノモフヨヒニ》。霍公鳥《ホトヽギス》。從此間鳴渡《コヨナキワタル》。心四有良思《コヽロシアルラシ》。
 
從此間鳴渡《コヨナキワタル》は、此間《コヽ》を鳴渡る、と云意なり、(此(レ)よりと云意にはあらず、)集中にいと多き詞なり、從《ヨ》は、例の乎《ヲ》の辭《テニヲハ》に通ふ從《ヨ》なり、古事記に、降2出雲(ノ)國之肥(ノ)川上|在《ナル》鳥髪(ノ)地(ニ)1、此(ノ)時箸從2其(ノ)河1流(レ)下(ル)、古今集題詞に、山川より花の流れけるをよめる、などあるよりも皆同じ、既く委(ク)云り、○歌(ノ)意は、唯一人居て、人戀しく物思ひをする夕(ヘ)に、ほとゝぎすのこゝを鳴てわたるは、彼も心ありて、妻など戀しく思ふは、己(レ)も同じさまなるぞと、我にしらせて鳴わたるならし、とほとゝぎすを一(ト)すぢにあはれみたるなり、
 
(576)大伴家持《オホトモノヤカモチガ》。霍公鳥歌一首《ホトヽギスノウタヒトツ》。
 
1477 宇能花毛《ウノハナモ》。未開者《イマダサカネバ》。霍公鳥《ホトヽギス》。佐保乃山邊《サホノヤマヘニ》。來鳴令響《キナキトヨモス》。
 
未開者《イマダサカネバ》は、未(タ)開(カ)ぬにといふ意に通ふ言なり、此(ノ)例既く委(ク)云り、○山邊は、ヤマヘニ〔四字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、卯花の盛ならばさもあるべきを、いまだ開ねば、思ひがけなきに、ほとゝぎすの、佐保の山邊に初音もらして、來鳴とよもすは、めづらしの聲ぞ、となり、
 
大伴家持《オホトモノヤカモチガ》。橘歌一首《タチバナノウタヒトツ》。
 
1478 吾屋前之《ワガヤドノ》。花橘乃《ハナタチバナノ》。何時毛《イツシカモ》。珠貫倍久《タマニヌクベク》。其實成奈武《ソノミナリナム》。
 
歌(ノ)意は、吾(ガ)庭の花橘の實の、いつか續命縷《クスタマ》に貫交ゆべく成なむ、さても待遠や、となり、
 
大伴家持《オホトモノヤカモチガ》。晩蝉歌一首《ヒグラシノウタヒトツ》。
 
晩蝉は、品物解にいへり、
 
1479 隱耳《コモリノミ》。居者欝悒《ヲレバイフセミ》。奈具左武登《ナグサムト》。出立聞者《イデタチキケバ》。來鳴日晩《キナクヒグラシ》。
 
欝悒《イフセミ》は、おぼつかなく、心のふさがる故にの意なり、○歌(ノ)意は、簾など垂て、内にこもりてばかり居れば、おぼつかなく、心のふさがる故に、其こゝろをなぐさめむとて、外に出立て聞ば、又ひぐらしの來鳴て、あはれをもよほすよ、となり、良暹法師の、さびしさにやどを立出てながむればいづこもおなじ秋の夕ぐれ、心ばえ似たり、
 
(577)大伴書持歌二首《オホトモノフミモチガウタフタツ》。
 
1480 我屋戸爾《ワガヤドニ》。月押照有《ツキオシテレリ》。霍公鳥《ホトヽギス》。心有今夜《コヽロアルコヨヒ》。來鳴會響《キナキトヨモセ》。
 
月押照有《ツキオシテレリ》は、おしなべて照みちたるをいふ、集中に、まどこしに月おしてれりとも、春日山おしててらせる此月は、などもよめり、○歌(ノ)意は、吾(ガ)やどをおしなべて月は照みちたり、又思ふ友人も訪ひ來たり、かく興ある今夜なれば、いかでほとゝぎすも心して、此處に來鳴とよもせよ、となり、
 
1481 我屋前乃《ワガヤドノ》。花橘爾《ハナタチバナニ》。霍公鳥《ホトヽギス》。今社鳴米《イマコソナカメ》。友爾相流時《トモニアヘルトキ》。
 
及爾相流時《トモニアヘルトキ》は、書持の、友人にあへるときなり、(契冲が、橘をほとゝぎすの友といへり、と云るは、あらず、)○歌(ノ)意は、今夜は、思ふ友人のとぶらひ來あひたる夜ぞ、今こそ吾(ガ)庭の花橘に來て、ほとゝぎすの鳴べきことなれ、他時には、いかに鳴ともかひなかるべきを、となり、
 
大伴清繩歌一首《オホトモノキヨナハガウタヒトツ》。
 
大伴(ノ)清繩は、傳未(ダ)詳ならず、一本には綱と作り、十九に、大伴(ノ)清繼といふも見えたり、もしは同人にして、字を誤れるものか、
 
1482 皆人之《ミナヒトノ》。待師宇能花《マチシウノハナ》。雖落《チリヌトモ》。奈久霍公鳥《ナクホトヽギス》。吾將忘哉《アレワスレメヤ》。
 
皆人は、人皆とありしを、下上に寫誤れるなるべし、○歌(ノ)意は、世(ノ)人皆の、いつか/\と待し卯(ノ)(578)花も開て、又散失、ほとゝぎすの鳴音も、それにつれて自然かれ行とも、此(ノ)ほとゝぎすの聲のおもしろさを忘れむやは、いつまでもわすれはすまじ、となり、
 
庵君諸立歌一首《イホリノキミモロタチガウタヒトツ》。
 
諸立は、傳未(ダ)詳ならず、
 
1483 吾背子之《ワガセコガ》。屋戸乃橘《ヤドノタチバナ》。花乎吉美《ハナヲヨミ》。鳴霍公鳥《ナクホトヽギス》。見曾吾來之《ミニゾアガコシ》。
 
花乎吉美《ハナヲヨミ》云々は、花がよき故に、ほとゝぎすの鳴、と云意なり、○歌(ノ)意は、吾(ガ)兄子が家の庭の花橘が、おもしろくうつくしく開てある故に、その花にめでゝほとゝぎすのなくさまを見むとて、わざ/\見にぞ來りし、となり、
 
大伴坂上部女歌一首《オホトモノサカノヘノイラツメガウタヒトツ》。
 
1484 霍公鳥《ホトヽギス》。痛莫鳴《イタクナキソ》。獨居而《ヒトリヰテ》。寐乃不所宿《イノネラエヌニ》。聞者苦毛《キケバクルシモ》。
 
歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
大伴家持《オホトモノヤカモチガ》。唐棣花歌一首《ハネズノウタヒトツ》。
 
唐棣花のことは、品物解に云(ヘリ)、
 
1485 夏儲而《ナツマケテ》。開有波禰受《サキタルハネズ》。久方乃《ヒサカタノ》。雨打零者《アメウチフラバ》。將移香《ウツロヒナムカ》
 
歌(ノ)意かくれなし、
 
(579)大伴家持《オホトモノヤカモチガ》。恨《ウラム》2霍公鳥晩喧《ホトヽギスオソキヲ》1歌二首《ウタフタツ》。
 
1486 吾屋之前《ワガヤドノ》。花橘乎《ハナタチバナヲ》。霍公鳥《ホトヽギス》。來不喧地爾《キナカズツチニ》。令落常香《チラシナムトカ》。
 
歌(ノ)意かくれなし、
 
1487 霍公鳥《ホトヽギス》。不念有寸《オモハズアリキ》。木晩乃《コノクレノ》。如此成左右爾《カクナルマデニ》。奈何不來喧《ナニカキナカヌ》。
 
木晩《コノクレ》は、葉のしげりあひて、こぐらくなるを云、木の下やみなど後に云も同じ、○歌(ノ)意は、我(ガ)待戀る霍公鳥は、かくまで木の葉も茂くなるまで、など來鳴ぬぞや、これにて見れば、ほとゝぎすは、わが思ふごとく、我を思はずありき、と云なるべし、と中山(ノ)嚴水云(ヘ)り、又かく木茂くなるまで、來鳴ざらむとはおもはざりき、といふ意と見てもよし、
 
大伴家持《オホトモノヤカモチガ》。懽《ヨロコブ》2霍公鳥《ホトヽギスヲ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
1488 何處者《イヅクニハ》。鳴思仁家武《ナキモシニケム》。霍公鳥《ホトヽギス》。吾家乃里爾《ワギヘノサトニ》。今日耳曾嶋《ケフノミゾナク》。
 
何處者は、イヅクニハ〔五字右○〕と訓べし、何處ぞにはと謂《イフ》なり、此は他を云何なり、十七に、宇梅能花伊都波乎良目等伊登波禰登佐吉乃盛波乎思吉物奈利《ウメノハナイチハヲラジトイトハネドサキノサカリハヲシキモノナリ》、とあると、同格なり、此も何《イツ》ぞの時は折まじと、取わきていとふにはあらねども、といふ意なり、○今日耳曾鳴《ケフノミゾナク》は、今日ばかりぞ、はじめて鳴といふ意なり、耳《ノミ》とは、すぎし日に對へて云るなり、○歌(ノ)意は、何方そには、初音もらして、鳴たる事もありぞしけむ、この吾里には、今日ばかりぞ、はじめて鳴なる、となり、
 
(580)大伴家持《オホトモヤカモチガ》。惜《ヲシム》2橘花《タチバナヲ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
1489 吾屋前之《ワガヤドノ》。花橘者《ハナタチバナハ》。落過而《チリスギテ》。珠爾可貫《タマニヌクベク》。實爾成二家利《ミニナリニケリ》。
 
歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
大伴家持《オホトモヤカモチガ》。霍公鳥歌一首《ホトヽギスノウタヒトツ》。
 
1490 霍公鳥《ホトヽギス》。雖待不來喧《マテドキナカズ》。菖蒲草《アヤメクサ》。玉爾貫日乎《タマニヌクヒヲ》。未遠美香《イマダトホミカ》。
 
菖蒲の菖(ノ)字、舊本に無は、脱たるなり、古寫本傍書に從つ、〔頭註、【菖古寫本傍書、昌類題萬葉、】〕○未遠美香《イマダトホミカ》は、いまだ遠き故にかの意なり、○歌(ノ)意かくれなし、
 
大伴家持《オホトモノヤカモチガ》。雨日《アメフルヒ》聞《キヽテヨメル》2霍公鳥喧《ホトヽギスノナクヲ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
1491 宇乃花能《ウノハナノ》。過者惜香《スギバヲシミカ》。霍公鳥《ホトヽギス》。雨間毛不置《アママモオカズ》。從此間喧渡《コヨナキワタル》。
 
過者惜香《スギバオシミカ》は、散過なば、惜(シ)からむとてかの意なり、惜からむとゝいふ意の所を惜美《ヲシミ》といふは、一(ノ)格なり、三(ノ)卷に、不見而往者益而戀石見《ミズテユカバマシテコヒシミ》云々|名積敍吾來並二《ナヅミゾアガコシ》、とあるは、見ずして往ば、益て戀しからむとて、云々を煩《ナヅミ》ぞ吾(ガ)來し、といふ意なり、又同卷に、足日木能石根許其思美菅根乎引者難三等標耳曾結焉《アシヒキノイハネコゴシミスガノネヲヒカバカタミトシメノミゾユフ》、とあるは、石根が凝々《コヾ》しさに、菅(ノ)根を引(カ)ば引難からむとて、標ばかりを結(フ)、といふ意なり、四(ノ)卷に、今夜之早開者爲使乎無三秋百夜乎願鶴鴨《コヨラノハヤクアケナバスベヲナミアキノモヽヨヲネガヒツルカモ》、とあるは、爲便《スベ》が無らむとて、秋の百夜を願ひつる哉、といふ意なり、十五に、伊毛爾安波受安良婆須敝奈美伊波禰(581)布牟伊故麻乃山乎故延弖曾安我久流《イモニアハズアラバスベナミイハネフムイコマノヤマヲコエテゾアガクル》、とあるは、妹に逢ずあらば、爲便《スベ》なからむとて、生駒の山を越て來る、といふ意なり、廿(ノ)卷に、之良奈美乃與曾流波麻倍爾和可例奈波伊刀毛須倍奈美夜多妣蘇弖布流《シラナミノヨソルハマヘニワカレナバイトモスベナミヤタビソデフル》、とあるは、白浪のよする遠き濱方に別れ往なば、爲便《スベ》なからむとて、彌度《ヤタビ》袖を振(ル)、といふ意なり、十(ノ)卷に、天漢湍瀬爾白浪雖高直渡來沼待者苦彌《アマノカハセセニシラナミタカケレドモタヾワタリキヌマタバクルシミ》、とあるは、此方に待居ば、待遠に思ひつゝ苦しからむとて、浪の高き天(ノ)漢の瀬を、直に渡り來ぬるといふ意なり、十七に、和我夜度能花橘乎波奈其米爾多麻爾曾安我奴久麻多婆苦流之美《ワガヤドノハナタチバナヲハナゴメニタマニゾアガヌクマタバクルシミ》、とある苦流之美《クルシミ》も同じ、十一に、此如耳戀者可死足乳根之母毛告都不止通爲《カクノミニコヒバシヌベシタラチネノハヽニモノリツヤマズカヨハセ》、とあるは、此如耳《カクノミ》に戀しく思はゞ、死ぬべからむとて、といふ意、又同卷に、妹之名毛吾名毛立者惜社布仕能高嶺之燒乍渡《イモガナモワガナモタヽバヲシミコソフジノタカネノモエツヽワタレ》、とあるは、妹(ガ)名も吾(ガ)名も立たらば、惜からむとて、といふ意、十一に、言出云忌々山川之當都心塞而在《コトニデテイハヾユヽシミヤマガハノタギツコヽロヲセカヘタリケリ》、とあるは、言に打出して云たらば、忌々《ユユ》しからむとてといふ意、十七に、安佐疑理能美太流流許己呂《アサギリノミダルルココロ》、許登爾伊泥底伊波婆由遊思美《コトニイデテイハバユユシミ》、刀奈美夜麻多牟氣能可未爾《ナミヤマタムケノカミニ》、奴佐麻都里安我許比能麻久《ヌサマツリアガコヒノマク》、とあるも同じ、十九に、吾屋戸之芽子開爾家理秋風之將吹乎待者伊等遠彌可母《ワガヤドノハギサキニケリアキカゼノフカムヲマタバイトトホミカモ》、とあるは、秋風の吹む時節を待ば、いと待遠ならむとてか、芽子の咲たる、といふ意なり、やゝ後にも此(ノ)格あり、古今集に、花すゝき穗に出て戀ば名を惜み下ゆふ紐の結ぼゝれつゝ、とあるも、名が惜からむとて、といふ意に用ひたり、後撰集に、しぐれふりふりなば人に見せもあへず(582)散なば惜みをれる秋はぎ、とあるも、散なば惜からむとて、といふ意にて、全(ラ)同じ、然るを、中古以來、此(ノ)用樣を辨へたる人なくして、一首の大概《オホムネ》を、解誤れること多きによりて、今わづらはしきをいとはずして、具(サ)にいへるなり、此(ノ)例なほ既くも委(ク)云り、○雨間毛不置《アママモオカズ》は、雨の零(ル)間も息(ハ)ずの意なり、こゝの雨間《アママ》は、雨《アメ》のふる間をいへるなり、此(ノ)下に、久堅之雨間毛不置雲隱鳴曾去奈流早田鴈之哭《ヒサカタノアママモオカズクモガクリナキゾユクナルワサダカリガネ》、とある、全(ラ)同じ、十二に、十月雨間毛不置零爾西者誰里之間宿可借益《カミナツキアママモオカズフリニセバタガサトノマニヤドカカラマシ》、とある雨間《アママ》は、雨の晴(レ)間をいへるなり、歌によりて意異れり、又十卷に、雨間開而國見毛將爲乎《アママアケテクニミモセムヲ》、とあるも、晴(レ)間をいへるなり、○歌(ノ)意は、時過て卯花の散失なば、いかにをしむとも、かひなからむとて、雨のふる間も息《イコハ》ずして、ほとゝぎすの、此處を鳴てわたらむか、となり、
 
橘歌一首《タチバナノウタヒトツ》。遊行女婦《ウカレメ》。
 
遊行女婦は、和名抄に、楊氏漢語抄(ニ)云、遊行女兒、和名|宇加禮女《ウカレメ》、又云|阿曾比《アソビ》、◎【女《メ》脱カ】とあり、
 
1492 君家乃《キミガヘノ》。花橘者《ハナタチバナハ》。成爾家利《チリニケリ》。花乃有時爾《ハナナルトキニ》。相益物乎《アハマシモノヲ》。
成爾家利《ナリニケリ》は、實《ミ》に成にけりなり、○花乃有時爾《ハナナルトキニ》は、花のあるときにの意なり、ノア〔二字右○〕の切ナ〔右○〕となれり、明月も來む野路の玉川はぎこえて色なる浪に月やどりけり、など云も、色之有浪《イロノアルナミ》にて、同意か、○歌(ノ)意は、君が家の庭の花橘は、悔しくも散失て實に成にけり、花のある時に早く訪來べかりしものを、遲く來しこそ本意なけれ、となり、末(ノ)句は、古今集に、かはづなくゐでの山(583)吹ちりにけり、といふ歌に同じ、
 
大伴村上《オホトモノムラカミガ》。橘歌一首《タチバナノウタヒトツ》。
 
1493 吾屋前乃《ワガヤドノ》。花橘乎《ハナタチバナヲ》。霍公鳥《ホトヽギス》。來鳴令動而《キナキトヨメテ》。本爾令散都《ツチニチラシツ》。
 
本爾令散都は、大町(ノ)稻城、本は地の誤にて、ツチニチラシツ〔七字右○〕なるべし、本と地と、草書相似たり、と云り、さもあるべし、此(ノ)下に、志許霍公鳥《シコホトヽギス》云々|徒地爾零散者《イタヅラニツチニチラセバ》、又|妹之見而後毛將鳴霍公鳥花橘乎地爾落津《イモガミテノチモナカナムホトヽギスハナタチバナヲツチニチラシツ》、又|如今心乎常爾念有者先咲花乃地爾將落八方《イマノゴトコヽロヲツネニオモヘラバマヅサクハナノツチニオチメヤモ》、十(ノ)卷に、去年咲之久木今開徒土哉將墮見人名四二《コゾサキシアシビイマサクイタヅラニツチニヤオチムモルヒトナシニ》、又|霍公鳥來居裳鳴香吾屋前乃花橘乃地二落六見牟《ホトヽギスキヰモナカヌカワガヤドノハナタチバナノツチニチルモミム》、又此(ノ)上にも、屋戸在櫻花者今毛香聞松風疾地爾落良武《ヤドニアルサクラノハナハイマモカモマツカゼイタミツチニチルラム》、などあり、○歌(ノ)意は、吾庭の花橘に、ほとゝぎすの來鳴とよもして、其(ノ)聲のひゞきにゆるがして、花を地に落《チラ》しつるは、をしき事ぞ、となり、
 
大伴家持《オホトモノヤカモチガ》。霍公鳥歌二首《ホトヽギスノウタフタツ》。
 
1494 夏山之《ナツヤマノ》。木末乃繁爾《コヌレノシヾニ》。霍公鳥《ホトヽギス》。鳴響奈流《ナキトヨムナル》。聲之遙佐《ユヱノハルケサ》。
 
繁《シヾ》は、しげみといふが如し、繁《シゲ》りてある間のことなり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
1495 足引乃《アシヒキノ》。許乃間立八十一《コノマタチクヽ》。霍公鳥《ホトヽギス》。加此聞始而《カクキヽソメテ》。後將戀可聞《ノチコヒムカモ》。
 
足引乃《アシヒキノ》の枕詞を、即(テ)山のことゝして、木とも、磐ともつゞけたるなり、(抑々足引といふことは、字は種々《サマ/”\》に書たれども、いづれも借(リ)字にして、其(ノ)中に、比紀《ヒキ》を檜木《ヒキ》と書るところ多き、そは正(キ)字(584)にして、安之比紀《アシヒキ》といふは、茂檜木《イカシヒキ》と、いふことのつゞまれる言なるよし、はやく云たる如し、されば、足引之許乃間《アシヒキノコノマ》とつゞけたるも、やがて茂檜木之木《アシヒキノコ》、とつゞけたるかとも思はれ、菅原(ノ)大臣の、足引の此方彼方《コナタカナタ》に道はあれど、とよみ給へるも、同じ意ならむとすべかめれど、彼(ノ)大臣のは、此(ノ)集十七に、安之比奇能乎底母許乃毛爾《アシヒキノヲテモコノモニ》、とあるを、本としてよみ給へるなるべく、此《コヽ》なるは、十(ノ)卷に、足檜木乃山下風波《アシヒキノアラシカゼハ》、十一に、足檜木乃山下風吹夜者《アシヒキノアラシフクヨハ》、などあるに同じく、足引《アシヒキ》といふを、やがて山のことゝしていへるなり、三(ノ)卷に、足日木能石根《アシヒキノイハネ》とあるは、さらなり、○許乃間立八十一《コノマタチクク》は、木間立潜《コノマタチクヾ》なり、くゞは、くゞることなり、神代(ノ)紀に、漏(ノ)字をクキ〔二字右○〕とよめり、八十一と書るは、九々の義なり、シヽ〔二字右○〕を十六と書る類なり、○後將戀可聞《ノチコヒムカモ》、十(ノ)卷に、秋芽子之下葉乃黄葉於花繼時過去者後將戀鴨《アキハギノシタバノモミヂハナニツギトキスギユカバノチコヒムカモ》、○歌(ノ)意は、聲を聞ざりしさきには、さのみには思はざりしかど、今日木(ノ)間をくゞりつたひて、鳴ほとゝぎすの音を聞そめて、今より後、常にほとゝぎすを戀しく思はむか、さてもなつかしの聲や、となり、
 
大伴家持《オホトモノヤカモチガ》。石竹花歌一首《ナデシコノウタヒトツ》。
 
1496 吾屋前之《ワガヤドノ》。瞿麥乃花《ナデシコノハナ》。盛有《サカリナリ》。手折而折而一目《タヲリテヒトメ》。令見兒毛我母《ミセムコモガモ》。
 
令見兒毛我母《ミセムコモガモ》は、此方より見すべき兒もがな、いかで來れかし、と冀ふよしなり、(此方に見すべき兒もがな、といふにはあらず、)十(ノ)卷にも、青柳之絲乃細紗春風爾不亂伊間爾令視子裳欲(585)得《アヲヤギノイトノクハシサハルカゼニミダレヌイマニニミセムコモガ》、とあり、同意なり、○歌(ノ)意は、吾(ガ)庭のなでしこの花は、この頃盛にてあり、この盛なる間、手折てたゞ一目見せまほしく思ふに、その見すべき女もがな、いかではやく來れかし、となり、
 
惜《ヲシム》v不《サリシヲ》v登《ノボラ》2筑波山《ツクバヤマニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
惜は、殘念におもふ意なり、又恨の誤にてもあらむ、
 
1497 筑波根爾《ツクバネニ》。吾行利世波《アガユケリセバ》。霍公鳥《ホトヽギス》。山妣兒令響《ヤマビコトヨメ》。鳴麻志也其《ナカマシヤソレ》。
 
鳴麻志也其《ナカマシヤソレ》は、其《ソレ》は、ほとゝぎすをさす、其(ノ)ほとゝぎすが鳴ましやは、なきはすまじ、といふ意なり、○歌(ノ)意、此は、つくばねに登りし人の返り來て、ほとゝぎすの云々鳴しとかたるを聞て、さて/\共に登りたらむには、きくべきことなるに、遺憾《ウラメシ》きことかな、さはいへど、かく物のふさはぬ身なれば、又我(ガ)登りたらむには、存外さやうに其(ン)鳴ましやは、鳴はすまじ、といふならむ、
〔右一首。高橋連蟲麻呂之歌集中出。〕
 
夏相聞《ナツノシタシミウタ》。
 
大伴坂上郎女歌一首《オホトモノサカノヘノイラツメガウタヒトツ》。
 
1498 無暇《イトマナミ》。不來中君爾《キマサヌキミニ》。霍公鳥《ホトヽギス》。吾如此戀常《アガカクコフト》。往而告社《ユキテツゲコソ》。
 
無暇《イトマナミ》、三(ノ)卷に、然之海人者軍布苅塩燒無暇髪梳乃小櫛取毛不見久爾《シカノアマハメガリシホヤキイトマナミクシゲノヲグシトリモミナクニ》、○不來之は、之は、坐か益(586)かの誤なりべし、この歌、新千載集戀二に、きまさぬきみに、とてのせたり、○社(ノ)字、コソ〔二字右○〕とよむこと、社は、物を乞所ゆゑに、しか訓と契冲は云り、○歌(ノ)意は、事繁(ク)暇無き故に、問來座ざる君を、吾はかほど戀しく思ふといふことを、いかで其(ノ)君に行て告よかし、ほとゝぎすよとなり、
 
大伴四繩宴吟歌一首《オホトモノヨツナハガウタゲニウタヘルウタヒトツ》。
 
1499 事繁《コトシゲミ》。君者不來益《キミハキマサズ》。霍公鳥《ホトヽギス》。汝太爾來鳴《ナレダニキナケ》。朝戸將開《アサトヒラカム》。
 
歌(ノ)意は、わが待戀る君は、事繁くて、暇なき故にきまさず、よしやほとゝぎすよ、汝なりともきなけ、さらば朝戸ひらきてきくべきに、汝だになかずば、われは朝戸ひらく力(ラ)なし、となり、
 
大伴坂上郎女歌一首《オホトモノサカノウヘノイラツメガウタヒトツ》。
 
1500 夏野乃《ナツノヌノ》。繁見丹開有《シゲミニサケル》。姫由理乃《ヒメユリノ》。不所知戀者《シラエヌコヒハ》。苦物乎《クルシキモノヲ》。
 
繋見丹開有《シゲミニサケル》は、繁りてある間に咲る意なり、七(ノ)卷に、道邊之草深由利《ミチノヘノクサフカユリ》、とよめるごとく、草のしげみにさくものなればなり、○姫由理《ヒメユリ》は、百合の一種なり、品物解に云(リ)、姫《ヒメ》は、後に姫松《ヒメマツ》、姫桃《ヒメモヽ》など云|姫《ヒメ》の如し、○歌(ノ)意、本は序にて、姫ゆりの、草深き野にさきたる如く、人にしられず戀しく思ふ心は、くるしきものなるを、などか人のおもひおこせぬぞ、とうらむるなり、(ものをは、ものなるをの意にて、餘意を含むる詞なり、)
 
(587)小治田朝臣廣耳歌一首《ヲハリダノアソミヒロミヽガウタヒトツ》。
 
1501 霍公鳥《ホトトギス》。鳴峯乃上能《ナクヲノウヘノ》。宇乃花之《ウノハナノ》。※[厭のがんだれなし]事有哉《ウキコトアレヤ》。君之不來益《キミガキマサヌ》。
 
※[厭のがんだれなし]事有哉《ウキコトアレヤ》(※[厭のがんだれなし]、玉篇(ニ)曰、足也飽也、)は、我につきて、なにぞ君が心に、つらき事のあればにやの意なり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、本(ノ)句は、※[厭のがんだれなし]《ウキ》をいはむ料の序なり、十(ノ)卷に、鶯之往來垣根乃宇能花之※[厭のがんだれなし]事有哉君之不來座《ウグヒスノカヨフカキネノウノハナノウキコトアレヤキミガキマサヌ》、後撰集に、白妙ににほふ垣根の卯花のうくも來てとふ人のなき哉、古今集に、水の面におふるさつきのうき草のうきことあれやねをたえてこぬ、などあり、思(ヒ)合(ス)べし、
 
大伴坂上郎女歌一首《オホトモノサカノヘノイラツメガウタヒトツ》。
 
1502 五月之《サツキヤマ》。花橘乎《ハナタチバナヲ》。爲君《キミガタメ》。珠爾社貫《タマニコソヌケ》。零卷惜美《チラマクヲシミ》。
 
五月之、之は、山(ノ)字の寫誤なり、サツキヤマ〔五字右○〕と訓べし、十(ノ)卷に、五月山花橘爾《サツキヤマハナタチバナニ》云々、又|五月山宇能花月夜《サツキヤマウノハナヅクヨ》云々、などあり、例すべし、○社(ノ)字、舊本になきは脱たるなり、今は一本に從つ、○歌(ノ)意は、五月山に咲たる花橘の、散む事の惜さに、君が爲に、玉に貫置て、貯ふるにこそあれ、といふなり、
 
紀朝臣豐河歌一首《キノアソミトヨカハガウタヒトツ》。
 
豐河は、續記に、天平十一年正月丙午、正六位上紀(ノ)朝臣豐河(ニ)授2外從五位下(ヲ)1、と見えたり、
 
(588)1503 吾妹兒之《ワギモコガ》。家乃垣内乃《イヘノカキツノ》。佐由理花《サユリバナ》。由利登云者《ユリトイヘレバ》。不謌云二似《イナチフニニツ》。
 
由利《ユリ》は、後と云むに同じ意の古言なリ、さればやがて、後(ノ)字を、由利《ユリ》と云べき所にも用たり、(現存六帖に、今はげに秋近からしさゆり花ゆりあふまでに置る白露、とあるは、今の歌によりてよメりと見ゆるに、由利《ユリ》を動《ユス》る意に心得てよメるか、又は後《ユリ》を動《ユリ》にうつして云るか、いづれにまれ、彼(ノ)歌は動合《ユリアフ》と云なるべし、)○不謌云二似は、謌(ノ)字は、許の誤にて、イナチフニニツ〔七字右○〕なるべし、と云る説によるべし、此(ノ)下にも、不許者不有《イナニハアラズ》、と見えたり、○歌(ノ)意、本は序にて、後《ノチ》にと妹がいへれば、いなあはじと云に、似つることなり、となり、
 
高安歌一首《タカヤスノウタヒトツ》。
 
高安は、一(ノ)卷に、高安(ノ)大島とあると同じきか、又は高安(ノ)王なるべきが王(ノ)字脱たるか、
 
1504 暇無《イトマナミ》。五月乎尚爾《サツキヲスラニ》。吾妹兒我《ワギモコガ》。花橘乎《ハナタチバナヲ》。不見可將過《ミズカスギナム》。
 
歌(ノ)意は、たとひ事繁くとも、五月には、妹が家の花橘を、行て見愛むと思ひしに、この五月をさへに、暇がなき故に、行て見ることかなはずして、いたづらにすぐしなむか、となり、
 
大神女郎《オホミワノイラツメガ》。贈《オクレル》2大伴家持《オホトモノヤカモチニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
1505 霍公鳥《ホトヽギス》。鳴之登時《ナキシスナハチ》。君之家爾《キミガヘニ》。往跡追者《ユケトオヒシハ》。將至鴨《イタリケムカモ》。
 
鳴之登時は、ナキシスナハチ〔七字右○〕と訓べし、神武天皇(ノ)紀に、登《スナハチ》、續紀に、登時《スナハチ》、捕亡令に、登(チ)共(ニ)追捕(フ)、さて(589)すなはちてふ言は、俗言にていはゞ、その時すぐさまなどいはむが如し、後(ノ)世に用たるとはいさゝかかはりあり、六帖、貫之、春たゝむすなはちごとに君がため千年つむべき若菜なりけり、竹取物語に、鋼を曳過して、綱たゆるすなはち|に《イナシ》、やしまのかなへの上に、のけざまにおち給へり、云々、たてこめたる所の戸、すなはちたゞあきにあきぬ、云々、宇津保物語鶴(ノ)子に、うまれ給ひしすなはちより、御ふところはなち奉り給はず、云々、さきゝて侍しすなはち、舞をなむし侍りし、俊蔭に、うまれおつるすなはち、女おのが布のふところにいだきて云々、濱松中納言物語に、御せうそこつたへ給ひつるを、かへりまうでこしすなはちも、えたづね出し奉らず、落窪物語に、この少將を、見いでぬるすなはち、北(ノ)方おとゞに申給ふ、云々、かむの君、さすがにあはれにて、こゝにはすなはちより、御夜中曉のこともしらでや、となげき待しかど云々、狹衣に、いとすなはちのやうなる、御心まどひは、おほしのどめてありつるを云々、蜻蛉日記に、此(ノ)除目《ヂモク》のとくにや、と思給へしかば、すなはちもきこえさすべかりしを云々、源氏物語寄生に、わざとめしとは侍らざりしかど、れいならず、ゆるさせ給へりしよろこびに、すなはちもまゐらまほしく侍りしを云々、枕冊子に、里にてもあるくすなはち、これを大事にして見せにやる、云々、しか/”\の人こもらせ給へりなど、いひきかせていぬるすなはち、火桶くだ物などもてきつゝ云々、大和物語に、みづから只今まゐりてとなむいひたりける、かく(590)てすなはちきにけり、云々、などあり、○歌(ノ)意は、ほとゝぎすの鳴やいなや、すぐさま、君が家に行てなけとて追やりしを、其處に至りて鳴けむか、嗚呼さてもはやくきかまほしや、となり、」
 
大伴田村大孃《オホトモタムラノイラツメガ》。與《オクレル》2妹坂上大孃《イモサカノヘノオホイラツメニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
1506 古郷之《フルサトノ》。奈良思之岳能《ナラシノヲカノ》。霍公鳥《ホトヽギス》。言告遣之《コトツゲヤリシ》。何如告寸八《イカニツゲキヤ》。
 
故(ノ)字、舊本に舌と書るは誤なり、今は拾穗本に從つ、○何如告寸八《イカニツゲキヤ》は、告しや如何にありしといふ意なり、何如の言を、下に置て心得べし、(いかやうに告しや、といふ意にきゝては、甚わろし、源氏物語眞木柱に、かきたれてのどけき頃の春雨に、ふる里人をいかにしのぶや、とあるも、しのぶやいかに、といふ意にて同じ、)告寸八《ツゲキヤ》は、告《ヅゲ》しやといふ意なり、かやうに、しやといふ意なる所を、きやと云は、古歌の格なり、三(ノ)卷に、雨爾零寸八《アメニフリキヤ》、四(ノ)卷に夢所見寸八《イメニミエキヤ》、十(ノ)卷に、妹等所見寸哉《イモトミエキヤ》などあるも、同じことなり、○歌(ノ)意は、奈良思《ナラシ》の岳のほとゝぎすに、云々言傳をあつらへて告やりしを、其處に至りて、我言の如く、告しやいかに、きかまほし、と問やりたるなり、
 
大伴家持《オホトモノヤカモチガ》。攀《ヨヂテ》2橘花《タチバナヲ》1贈《オクレル》2坂上大孃《サカノヘノオホイラツメニ》1歌一首并短歌《ウタヒトツマタミジカウタ》。
 
1507 伊加登《イツシ》伊|可等《カト》。有吾屋前爾《マツワガヤドニ》。百枝刺《モヽエサシ》。於布流橘《オフルタチバナ》。玉爾貫《タマニヌク》。五月乎近美《サツキヲチカミ》。安要奴我爾《アエヌガニ》。花咲爾家里《ハナサキニケリ》。朝爾食爾《アサニケニ》。出見毎《イデミルゴトニ》。氣緒爾《イキノヲニ》。吾念妹爾《アガモフイモニ》。銅鏡《マソカヾミ》。清月夜爾《キヨキツクヨニ》。直一眼《タヾヒトメ》。令覩麻而爾波《ミセムマデニハ》。落許須奈《チリコスナ》。由米登云管《ユメトイヒツヽ》。幾許《コヽダクモ》。吾守物乎《アガモルモノヲ》。宇禮多伎也《ウレタキヤ》。志許(591)霍公鳥《シコホトヽギス》。曉之《アカツキノ》。裏悲爾《ウラカナシキニ》。雖追雖追《オヘドオヘド》。尚來鳴而《ナホシキナキテ》。徒《イタヅラニ》。地爾令散者《ツチニチラセバ》。爲便乎奈美《スベヲナミ》。攀而手折都《ヨヂテタヲリツ》。見末世吾妹兒《ミマセワギモコ》。
 
伊加登伊可等云々は、稻掛(ノ)大平が考に、伊追之可等待吾屋前爾《イツシカトマツワガヤドニ》、とありしを、かやうに誤れるなるべしといへり、さもあるべし、○安要奴我爾《アエヌガニ》は、(本居氏、この安要奴《アエヌ》を、不v交と解たるは、誤なり、安は阿閇《アヘ》にて、假字も異なり、橘の玉に阿陪貫《アヘヌキ》などよめるあへと、思ひ混ふべからず、阿要《アエ》は、木草の實のなることにて、奴《ヌ》は、いはゆる畢ぬなり、我爾《ガニ》は、我禰爾《ガネニ》のつゞまりたるにて、むこがね、后がねなどいふがねと同言にて、言の意は、豫《カネ》て設くるよしなり、されば實《ミ》になるべき設(ケ)に、かねて花の咲るといへるなり、十(ノ)卷に、秋づけば水草《ミクサ》の花の阿要奴蟹《アエヌガニ》おもへどしらずたゞにあはざれば、とあるは、その設(ケ)にかねて咲たる花の、實になるべく思へど、といへるにて、戀の成(ル)をたとへたるなり、十八橘の長歌に、安由流實波多麻爾奴伎都追《アユルミハタマニヌキツツ》、ともあるを以て、安要《アエ》は、實になることをいへり、といふことを、しるべし、安要《アエ》、安由《アユ》と活用《ハタラ》く言なりといへり、安要《アエ》を交とする説の非なるよしを辨(ヘ)たるはよし、安要《アエ》を、木草の實《ミ》のなることといひ、我爾《ガニ》は、我禰爾《ガネニ》のつゞまりたる詞とせるは、ひがことなり、なほ次に云む、)荒木田氏、豐後(ノ)國佐伯の書生柴田(ノ)三滿がいひけるは、西國にて、菓の類の梢に在るを、落し取るをあやすといひ、おのづから落るをあゆるといふ、すべてものゝ落こぼるゝをいふ、といへり、是古言なり、今(592)血をあやすといふも、こぼるゝ意なり、安要奴《アエヌ》がに花咲にけり、とあるは、こぼるゝ程に花咲たるなり、十(ノ)卷に、水草《ミクサ》の花の阿要奴蟹《アエヌガニ》も同じ、十八に、阿由流實《アユルミ》は多麻《タマ》にぬきつゝ云々、とあるも、落たる實は、玉に貫つゝ手に纏なり、といへり、此説によりぬべくおぼゆ、さて我爾《ガニ》は、(本居氏の、我禰爾《ガネニ》の切りたるにて、豫《カネ》になりといへるは、いかゞなり、我爾《ガニ》と我禰《ガネ》とは、もとより異なる言なり、さるはまづ、我禰《ガネ》てふ言は、古歌にあまたよみたれども、我禰爾《ガネニ》といへるは一(ツ)もなくして、みな我禰《ガネ》とのみいへり、我禰爾《ガネニ》の切ならば、我禰爾《ガネニ》と云るもあるべきことなり、さて又|我爾《ガニ》と我禰《ガネ》とは、つかへる樣もかはりたり、なほ次に引(ク)歌どもを考へて、其差別を知べし、)ばかりにといふが如し、安要奴我爾《アエヌガニ》は、あえなむ許《バカリ》にの意なり、四卷に、吾屋戸之暮陰草乃白露之《ワガヤドノユフカググサノシラツユノ》、消蟹本名所念鴨《ケヌガニモトナオモホユルカモ》、又|道相而咲之柄爾零雪乃消者消音二戀云吾妹《ミチニアヒテヱマシシカラニフルユキノケナバケヌガニコヒモフワギモ》、此(ノ)卷に、秋田刈借廬毛未壞者雁鳴寒霜毛置奴我二《アキタカルカリホモイマダコボタネバカリガネサムシシモモオキヌガニ》、十(ノ)卷に、音之干蟹來喧※[向/音]目《コヱノカルガニキナキトヨマメ》、十三に、海處女等《アマヲトメラガウナガセル》、纓有領巾文光蟹手二卷流玉毛湯良羅爾《ヒレモテルガニテニマケルタマモユララニ》、十四に、武路我夜乃都留能都追美乃那利奴賀爾古呂波伊敝杼母伊末太年那久爾《ムロガヤノツルノツツミノナリヌガニコロハイヘドモイマダネナクニ》、(十(ノ)卷に、今朝去而明日者來牟等云《ケサユキテアスハコムトフ》子鹿丹、且妻山丹霞霏※[雨/微]《アサヅマヤマニカスミタナビク》、とある、鹿丹は誤字と見ゆ、)これら、けぬ我爾《ガニ》は、消《キエ》なむ許《バカリ》にの意、音のかるがには、音《コヱ》のかれなむ許《バカリ》にの意として、よくきこえたり、(餘もみな、此(ノ)定に心得てよくきこゆ、これらを豫《カネ》にの意として、けぬがにもとなおもほゆるかもは、けぬべき豫《カネ》ての設に念ゆる意とし、音のかるがには、聲のかるべ(593)き豫《カネ》ての設になく意としては、通ゆべからず、これにて、我爾《ガニ》と我禰《ガネ》とは、差別あること分明なるをや、)これらにて考(フ)るに、この安要奴我爾《アエヌガニ》を、落こぼれなむばかりにの意とせむこと、さもあるべし、花のあまりに繁く盛に咲たれば、枝に持かねて、落こぼれむとするばかりなるを、いふなるべし、さて因《チナミ》に、我禰《ガネ》の言をいはむ、我禰《ガネ》は、其(ノ)料にといふ意の言なり、この言の本は、之根《ガネ》てふ義(即(チ)十(ノ)卷には、之根《ガネ》とかけり、)にて、その根は、基の意にて、何にまれ、その基を開《ハジム》る謂にて、之根《ガネ》とは云なり、(かたりつぐがねは、後(ノ)世にかたりつぐべき、その基を開《ハジメ》おく意なり、故(レ)おつるところは、かたりつぐが料に、といふことにきこゆるなり、)三(ノ)卷に、丈夫之弓上振起射都流矢乎後將見人者語繼金《マスラヲノユズヱフリオユシイツルヤヲノチミムヒトハカタリツグガネ》、四(ノ)卷に、佐保河乃涯之官能小歴木莫刈烏在乍毛張之來者立隱金《サホガハノキシノツカサノシバナカリソネアリツヽモハルシキタラバタチカクルガネ》、五(ノ)卷に、余呂豆余爾伊比都具可禰等《ヨロヅヨニイヒツグガネト》、十(ノ)卷に、梅花吾者不令落青丹吉平城在人來管見之根《ウメノハナアレハチラサジアヲニヨシナラナルヒトノキツヽミルガネ》、又、橘之林乎殖霍公鳥常爾冬及住度金《タチバナノハヤシヲウヱツホトヽギスツネニフユマデスミワタルガネ》、又、朝露爾染始秋山爾鍾禮莫零在渡金《アサツユニニホヒソメタルアキヤマニシグレナフリソアリワタルガネ》、又、足曳之山田佃子不秀友繩谷延與守登知金《アシヒキノヤマダツクルコヒデズトモシメダニハヘヨモルトシルガネ》、又、秋戒都葉爾爾實敝流衣吾者不服於君奉者夜毛着金《アキツハニニホヘルコロモアレハキジキミニマツラバヨルモキルガネ》、又、雪寒三咲者不開梅花縱此來者然而毛有金《》ユキサムミサキニハサカズウメノハナヨシコノゴロハサテモアルガネ、十二に、里人毛謂告我禰縱咲也思戀而毛將死誰名將有我《サトビトモカタリツグガネヨシヱヤシコヒテモシナムタガナナラメヤ》、十七に、伊末太見奴比等爾母都氣牟於登能來毛名能未母伎吉底登母之夫流我禰《イマダミヌヒトニモツゲムオトノミモナノミモキキテトモシブルガネ》、十八に、白玉乎都々美?夜柁良那安夜女具佐波奈多知婆奈爾安倍母奴久我禰《シラタマヲツヽミテヤラナアヤメグサハナタチバナニアヘモヌクガネ》、十九に、大夫者名乎之立倍之後代爾聞繼人毛可多里都具我禰《マスラヲハナヲシタツベシノチノヨニキヽツグヒトモカタリツグガネ》、これらかたりつぐがねは、語り繼が料にの(594)意、立隱金は、立隱るゝ料にの意なり、(餘もみなこの定なり、)古事記仁徳天皇(ノ)條に、美淤須比賀泥《ミオスヒガネ》
 
、これも同じ、○氣緒爾吾念妹爾《イキノヲニアガモフイモニ》、十二に、氣緒爾吾念君者鷄鳴東方坂乎今日可越覽《イキノヲニアガモフキミハトリガナクアヅマノサカヲケフカコユラム》、○落許須奈由米登云管《チリコスナユメトイヒツツ》、上に、霞立春日之里梅花山下風爾落許須莫湯目《カスミタツカスガノヤマノウメノハナアラシノカゼニチリコスナユメ》、とある處に云るを、考(ヘ)合(ス)べし、○宇禮多伎也《ウレタキヤ》は、慨哉《ウレタキヤ》なり、十(ノ)卷に、慨哉四去霍公鳥《ウレタキヤシコホトヽギス》云々、古事記八千矛(ノ)神(ノ)御歌に、云々|宇禮多久母那久那留登理加《ウレタクモナタナルトリカ》云々、書紀神武天皇(ノ)卷に、慨哉此云2于黎多棄伽夜《ウレタキカヤト》1、神樂歌に、きりぎりすのねたさうれたさや云々、など見ゆ、○志許霍公鳥《シコホトヽギス》は、志許《シコ》は、罵(ル)辭なり、ほとゝぎすの、橘の花をふみちらすを、惡み罵(リ)ていへるなり、○地爾令散者《ツチニチラセバ》は、九(ノ)卷に、宇能花乃開有野邊從《ウノハナノサケルヌヘヨリ》、飛飜來鳴令響橘之花乎居令散《トビカヘリ》キナキトヨモシタチバナノハナヲヰチラシ》、云々とよめり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
1508 望降《モチクダチ》。清月夜爾《キヨキツクヨニ》。吾妹兒爾《ワギモコニ》。令覩常念之《ミセムトモヒシ》。屋前之橘《ヤドノタチバナ》。
 
望降《モチクダチ》とは、望《モチ》は十五夜なり、滿月をもち月といふより、十五日を、もちとも、もちのひとも云(ヒ)、十五日(ノ)夜をもちのよと云り、もちは滿《ミチ》なるべし、降《クダチ》はくだる意にて、十五夜より已後を云べし、○歌(ノ)意は、妹と共に居て、あくまで見愛ることはならずとも、十五夜已後の清月夜に、たゞ一目ばかりなりとも見せむと思ひしに、それさへかなはねば、せむ方なしに、攀(ヂ)折て參らする、この吾庭の橘ぞ、となり、
 
(595)1509 妹之見而《イモガミテ》。後毛將鳴《ノチモナカナム》。霍公鳥《ホトヽギス》。花橘乎《ハナタチバナヲ》。地爾落津《ツチニチラシツ》。
 
將鳴、ナカナム〔四字右○〕と訓て、奈武《ナム》は希ふ意なり、十(ノ)卷に、黙然毛將有時母鳴奈式日晩乃物念時爾鳴管本名《モダモアラムトキモナカナムヒグラシノモノモフトキニナキツヽモトナ》、とあるに同じ、○落津は、チラシツ〔四字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、妹が見て後に鳴(カ)ば鳴(カ)なむ、いまだ妹に見せもせぬ前に來鳴て、花橘をふみて地にちらしつるは、うれたき醜霍公鳥《シコホトヽギス》ぞ、となり、
 
 
大伴家持《オホトモノヤカモチガ》。贈《オクレル》2紀郎女《キノイラツメニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
紀(ノ)郎女は、紀(ノ)女郎なるべし、○歌の上、舊本に作(ノ)字あるはわろし、目録になきぞよき、
 
1510 瞿麥者《ナデシコハ》。咲而落去常《サキテチリヌト》。人者雖言《ヒトハイヘド》。吾標之野乃《アガシメシヌノ》。花爾有目八方《ハナニアラメヤモ》。
 
歌(ノ)意は、なこでしこは散失ぬ、さぞくやしく思ふらむ、と人はいへど、そのなでしこは、嗚呼《アハレ》わがしめゆひし花にてあらむやは、さらにわがものにてはあらぬをや、と云るにて、是は契りし女の、心がはりしたるよしいひたるに、吾はさは契らざりしと、郎女にことわなたる意をたとへたるか、三(ノ)卷に、大伴(ノ)駿河麻呂、梅花開而落去登人者雖云吾標結之枝將有八方《ウメノハナサキテチリヌトヒトハイヘドアガシメユヒシエダナラメヤモ》、大方おなじ歌なり、
 
(596)               山田安榮
                  伊藤千可良   同校
                  
 
萬葉集古義八卷之上 終
 
明治三十一年六月二十五日 印刷
明治三十一年七月  一日 發行
大正元年十月二十五日   再版印刷
大正元年十月三十日    再版發行
(萬葉集古義奧付)
非賣品(不許複製)
  東京市京橋區南傳馬町一丁日十二番地
發行者 吉川半七
  東京市芝區愛宕町三丁目二番地
印刷者 吉岡益藏
  東京市芝區愛宕町三丁目二番地
印刷所 東洋印刷株式會社
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發行所 國書刊行曾
 
宮内省
御原本
 
(1)萬葉集古義八卷之下
 
秋雜歌《アキノクサ/”\ノウタ》。
 
 
崗本天皇御製歌一首《ヲカモトノスメラミコトノミヨミマセルオホミウタヒトツ》。
 
崗本(ノ)天皇は、舒明天皇なり、
 
1511 暮去者《ユフサレバ》。小倉乃山爾《ヲクラノヤマニ》。鳴鹿之《ナクシカノ》。今夜波不鳴《コヨヒハナカズ》。寐宿家良思母《イネニケラシモ》。
 
小倉乃山《ヲクラノヤマ》は、九(ノ)卷に、龍田の山の瀧の上のをくらの嶺、とよめる、をくらの嶺や、この小倉の山にて侍らむ、と契冲云り、○大御歌(ノ)意は、暮《ユフ》べになれば、うつも小倉の山にて、妻戀しつゝ鳴鹿の今夜は鳴ず、妻を得て安く宿《ネ》にけるらし、嗚呼《アヽ》さても、これまで幾夜か辛苦して、妻を求けむ、となり、仁徳天皇(ノ)紀(ニ)云、三寸八年秋七月、天皇與2皇后1、居《マシ/\テ》2高臺《タカドノニ》1而|避暑《スヾミシタマフ》時、毎夜《ヨゴトニ》自2兎餓1有2聞《キコユ》鹿(ノ)鳴《ネ》1、其聲|寥亮《サヤカニシテ》而|悲《カナシク》之、共起《モヨホセリ》2可憐之情《アハレヲ》1。及《ナリテ》2月盡《ツゴモリニ》1以鹿(ノ)鳴《ネ》不v※[耳+今](エ)、爰(ニ)天皇|語《カタリ》2皇后(ニ)1曰《タマハク》、當最夕《コヨヒ》而|鹿不鳴共何由焉《シカノネキコエザルハイカナルユヱゾ》、云々、○此(ノ)大御歌、九(ノ)卷(ノ)初には、第三(ノ)句、臥鹿之《フスシカノ》として載《アゲ》たり、さてそこには、雄略天皇のとして、後に崗本(ノ)天皇(ノ)御製と註せり、
 
(2)大津皇子御歌一首《オホツノミコノミウタヒトツ》。
 
1512 經毛無《タテモナク》。緯毛不定《ヌキモサダメズ》。未通女等之《ヲトメラガ》。織黄葉爾《オレルモミチニ》。霜莫零《シモナフリソネ》。
 
織黄葉《オレルモミチ》とは、契冲云、錦といふべきを、その錦はもみちのことなれば、おしてのたまへるなり、懷風藻(ニ)云、七言述v志(ヲ)、(大津(ノ)皇子、四首之中第三、)天紙風筆畫2雲鶴(ヲ)1、山棧霜杼織2葉錦(ヲ)1、今の歌此(ノ)後の句とおなじ、いづれをかさきにつくらせ給ひけむ、第七、みよしぬのあをねがみねのこけむしろたれかおりけむたてぬきなしに、第十三に、山の邊のいそしの御井はおのづからなれるにしきをはれる山かも、古今集に、霜のたて露のぬきこそよわからし山のにしきのおればかつちる、立田川にしきおりかく神無月しぐれの雨をたてぬきにして、などあり、○御歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
穗積皇子御歌二首《ホヅミノミコノミウタフタツ》。
 
1513 今朝之旦開《ケサノアサケ》。雁之鳴聞都《カリガネキヽツ》。春日山《カスガヤマ》。黄葉家良思《モミチニケラシ》。吾情痛之《アガコヽロイタシ》。
 
吾情痛之《アガコヽロイタシ》、皇極天皇(ノ)紀に、四年六月、云々、古人(ノ)大兄、見(テ)走2入(テ)私(ノ)宮(ニ)1謂2於人(ニ)1曰、韓人《カラヒト》殺(セリ)2鞍作(ノ)臣(ヲ)1、吾心痛《アガコヽロイタシ》矣、即入2臥内《ヨトノニ》1杜《サシテ》v門(ヲ)不v出、○御歌(ノ)意は、今朝の旦開に、初鴈の鳴てわたる音を聞つ、又我(ガ)心も秋としるく、何となくかなしくいたし、これにて思へば、春日山も、この頃は色付にけるらし、となり、
 
(3)1514 秋芽者《アキハギハ》。可咲有良之《サキヌベカラシ》。吾屋戸之《ワガヤドノ》。淺茅之花乃《アサチガハナノ》。散去見者《チリヌルミレバ》。
 
淺茅之花《アサヂガハナ》は、契冲云、つばななり、つばなは、春の末に穗に出て、薄のやうに見え、夏(ノ)野にも猶ちらず有が、秋萩もやゝ咲ぬべき頃にちるを、かくはよませ給ふなり、心をつけて、つばなのやうをみたる人、この御歌にまことあることを知べし、○御歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
但馬皇女御歌一首《タヂマノヒメミコノミウタヒトツ》。【一書云。子部(ノ)王作。】
 
皇女を、舊本に皇子と作るは誤なり、○子部(ノ)王は、傳未(ダ)詳ならず、十六に、兒部(ノ)女王、とあるに同じきか、
 
1515 事繁《コトシゲキ》。里爾不住者《コトシゲキサトニスマズバ》。今朝鳴之《ケサナキシ》。鴈爾副而《カリニタグヒテ》。去益物乎《ユカマシモノヲ》。
 
不住者《スマズバ》(不(ノ)字、舊本には下に誤、今は活字本に從(ツ)、)は、住(マ)むよりはの意なり、○御歌(ノ)意、かくれなし、世間《ヨノナカ》の繁務をいとはせ給へるとき、よみ賜へるなるべし、
 
山部王《ヤマベノオホキミノ》惜《ヲシミタマヘル》2秋葉《モミチヲ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
山部(ノ)王は、契冲、山部(ノ)王にふたつあり、そのひとつは、天武天皇(ノ)紀(ノ)上(ニ)(元年七月)云、時近江命(テ)2山部(ノ)王、蘇我(ノ)臣果安、巨勢(ノ)臣比等等(ニ)1、率(ヰテ)2數萬(ノ)衆(ヲ)1將(テ)v襲(ムト)2不破(ヲ)1、而軍(ダチス)2于犬上川(ノ)濱《ホトリニ》1、山部(ノ)王、爲(ニ)2蘇我(ノ)臣果安、巨勢(ノ)臣比等1見(キ)v殺、由(テ)2是(ノ)亂(キミダレニ)1、以|軍《イクサ》不v進、乃蘇我(ノ)臣果安、自2犬上1返(テ)刺(テ)v頸(ヲ)而|死《シニキ》、此(ノ)山部(ノ)王は系圖を知ず、今ひとりは、桓武天皇いまだ諸王にておはしましける時の御名なり、續紀(ニ)云、延暦四年五月乙(4)未朔丁酉、詔曰、云々、又臣子(ノ)之禮(ハ)、必避2君(ノ)諱(ヲ)1、比者《コノゴロ》先帝(ノ)御名、及朕之諱、公私觸犯(ス)、猶不v忍《タヘ》v聞(ニ)、自今以後宜2並《ミナ》改(メ)避1、於v是(ニ)改2姓白髪部(ヲ)1、爲1眞髪部(ト)1、山部(ヲ)爲v山(ト)、此(ノ)中に今のつゞき、初の山部(ノ)王にあらず、桓武天皇の御歌なり、いまだ山部(ノ)王にて、經させ給へる位階は、稱徳天皇(ノ)紀(ニ)云、天平神護二年十一月、無位山邊(ノ)王(ニ)授2從五位下(ヲ)1、光仁天皇(ノ)紀云、寶龜五年三月、兼2駿河(ノ)守(ヲ)1、十年六月、從五位上山邊(ノ)王(ヲ)爲2大膳(ノ)大夫(ト)1、十一年正月、正五位下、三月任2備前守(ニ)1、天應元年十一月、五五位上、とありと云り、今按に、此集は、天平寶字三年までしるされたれば、桓武天皇とせむこと、時代いたく後れさせ賜へり、これを天平寶字の初年に製《ヨマ》せたまへる御歌としても、天平神護二年叙爵ありしより逆推するに、寶字元年まで凡十年におよべり、又|此《コヽ》は但馬(ノ)皇女(ノ)御歌の次、長屋(ノ)王(ノ)歌の上に入たるを見れば、此(ノ)歌も、和銅より天平年間に、よまれたる歌と見えたるをや、さればなほ二(ツ)の王にはあらで、同名別人なるべし、
 
1516 秋山爾《アキヤマニ》。黄反木葉乃《ニホフコノハノ》。移去者《ウツリナバ》。更哉秋乎《サラニヤアキヲ》。欲見世武《ミマクホリセム》。
 
黄反(反は、變と書るに同じ、反變集中に通(ハシ)用(ヒ)たり、略解に、反は變の省文か、と云れどあらず、)は、ニホフ〔三字右○〕と訓べし、○移去者は、ウツリナバ〔五字右○〕とよむべし、○歌(ノ)意かくれなし、
 
長屋王歌一首《ナガヤノオホキミノウタヒトツ》。
 
1517 味酒《ウマサケ》。三輪乃祝之《ミワノイハヒノ》。山照《ヤマテラス》。秋乃黄葉《アキノモミチバ》。散莫惜毛《チラマクヲシモ》。
 
(5)三輪乃祝之は、本居氏云、ミワノイハヒノ〔七字右○〕と訓べし、いはひの山とは、神を齋《イハヒ》まつる山といふことなり、○散莫惜毛《チラマクヲシモ》は、散むことの、さても惜(シ)や、といふ意なり、○歌(ノ)意かくれなし、
 
山上臣憶良《ヤマノヘノオミオクラガ》。七夕歌十二首《ナヌカノヨノウタトヲマリフタツ》。
 
七夕の事、皇朝にて、孝謙天皇、天平勝寶七年にはじまれるよし、公事根源に見えたるは、乞巧奠の行はれし濫觴《ハジメ》をいはれしにや、牽牛織女の事は、それより、なほさきにさだせしなり、但(シ)集中に七夕の事を、天地之《アメツチノ》 別時由《ワカレシトキユ》云々、など多く云るは、その起《ハジマ》れることの舊《ヒサ》しきを、神代になぞらへていへるのみにて、實に神代よりあり來しことゝ思ふは、ひがことなり、(牽牛織女の事は、もはら漢國にならへることなるを、集中の歌によりて、神代より皇朝にあり來し事なり、といふ説もきこゆるは、さらにあらぬことなり、)その本はもろこしにて、桂陽(ノ)成武丁と云し人のいひそめしを、彼(ノ)國の詩人《フミツクリ》のともがら、言ぐさにして、かにかくつくり、又婦女の巧《タワザ》を乞《ネガフ》事などのあるを、皇朝にうつせるものなり、からふみ事物紀原に、呉均(ガ)續齊諧記(ニ)曰、桂陽(ノ)成武丁、有2仙道1、忽(チ)謂2其弟(ニ)1曰、七月七日、織女當3渡v河(ヲ)暫詣(ル)2牽牛(ニ)1、至v今(ニ)云3織女嫁2牽牛(ニ)1、周處(ガ)風土記(ニ)曰、七夕、灑2掃於庭(ヲ)1、施2几筵(ヲ)1、設2酒果(ヲ)於河鼓織女(ニ)1、言二星神會、乞2富壽及子(ヲ)1、歳時記(ニ)曰、七夕、婦人以2綵縷(ヲ)1穿2七孔針(ニ)1陳2瓜花(ヲ)1以乞v巧(ヲ)、則七夕之乞v巧(ヲ)、自2成武丁1始也、とあり、又一年に一度會と云ことは、荊楚歳時記に、天河之東(ニ)有2織女1、天帝之子也、年々、織杼勞役、織2成雲錦天衣1、天帝憐2其(ノ)獨處(ヲ)1、許v嫁(ヲ)2(6)河西牽牛(ニ)1、即嫁後遂(ニ)廢2織※[糸+任](ヲ)1、天帝怒責、令v歸2河東(ニ)1、但使2其(ニ)一年一度相會(ハ)1、ト見えたり、さて又烏鵲の羽をならべて、橋を成(ス)と云事も、もろこしの書に此(レ)かれ見えたれど、皇朝にて、古くはそのさだなし、獨七夕(ノ)祭の式は、公事根源、江家次第等に、委しく見えたり、
 
1518 天漢《アマノカハ》。相向立而《アヒムキタチテ》。吾戀之《アガコヒシ》。君來益奈利《キミキマスナリ》。紐解設奈《ヒモトキマケナ》。
 
歌(ノ)意は、天(ノ)漢の河門に立て、牽牛《ヒコホシ》の方に相向ひて、今か今かと戀待し、其(ノ)君が今來座なり、吾(ガ)下紐を解設けむ、いざさらば、と急ぎ進めるなり、十(ノ)卷には、天漢川門立吾戀君來奈里紐解待《アマノカハカハトニタチテアガコヒシキミキマスナリヒモトキマタム》、とてあげたり、
〔右養老八年七月七日。應令作之。〕
八年は、續紀を考るに、元正天皇養老七年九月に、神龜出(ツ)、八年二月、改2號(ヲ)神龜(ト)1、とあれば、こゝは七年を誤れるか、
 
1519 久方之《ヒサカタノ》。天漢瀬爾《アマノカハセニ》。船泛而《フネウケテ》。今夜可君之《コヨヒカキミガ》。我許來益武《アガリキマサム》。
 
我許《アガリ》は、わがもとなり、妹許《イモガリ》、君許《キミガリ》、又人の許《ガリ》などいふに同じ、○歌(ノ)意は、天の河瀬に船を泛べて、今夜ぞ吾(ガ)待戀し牽牛の君が、わが設に來座むとなり、
〔右神龜元年七月七日夜。左大臣宅作之。〕
左大臣は、長屋(ノ)王なり、
 
(7)1520 牽牛者《ヒコホシハ》。織女等《タナバタツメト》。天地之《アメツチノ》。別時由《ワカレシトキユ》。伊奈牟之呂《イナムシロ》。河向立《カハニムキタチ》。意空《オモフソラ》。不安久爾《ヤスカラナクニ》。嘆空《ナゲクソラ》。不安久爾《ヤスカラナクニ》。青浪爾《アヲナミニ》。望者多要奴《ノゾミハタエヌ》。白雲爾《シラクモニ》。※[さんずい+帝]者盡奴《ナミダハツキヌ》。如是耳也《カクノミヤ》。伊伎都枳乎良武《イキヅキヲラム》。如是耳也《カクノミヤ》。戀都追安良牟《コヒツツアラム》。佐丹塗之《サニヌリノ》。小船毛賀茂《ヲブネモガモ》。玉|纒〔○で囲む〕之《タママキノ》。眞可伊毛我母《マカイモガモ》。朝奈藝爾《アサナギニ》。伊可伎渡《イカキワタリ》。夕塩爾《ユフシホニ》。伊許藝渡《イコギワタリ》。久方之《ヒサカタノ》。天河原爾《アマノカハラニ》。天飛也《アマトブヤ》。領布可多思吉《ヒレカタシキ》。眞玉手乃《マタマデノ》。玉手指更《タマデサシカヘ》。餘|多〔○で囲む〕《アマタタビ》。宿毛寐而師可聞《イモネテシカモ》。秋爾安良受登母《アキニアラズトモ》。
 
牽牛織女の事は、前註にことわれるが如し、和名抄に、牽牛(ハ)、爾雅註(ニ)云、牽牛一名河鼓、和名|比古保之《ヒコホシ》、又|以奴加比保之《イヌカヒホシ》、織女(ハ)、兼名苑云、織女牽牛(ト)是也、和名|太奈八太豆女《タナバタツメ》、とあり、かくて彦星《ヒコホシ》といふは、漢國にならひて、二(ノ)屋の聚合《ヨリアヒ》の事を、此方《コナタ》にて歌に作《ヨム》ことゝなれる、其(ノ)時に新に設けて呼《イヘ》る稱《ナ》にして、固《モト》より皇朝にて、しかいひし星ありとせしことは聞えず、棚機津女《タナバタツメ》といふは、かの二(ノ)里のことに就《ツキ》て、新に設けて呼《イヒ》し稱《ナ》にはあらず、神代に、天棚機姫《アメノタナバタヒメノ》神といふあり、この神は、高皇産靈(ノ)大神の御子《ミムスメ》、萬幡豐秋津師比賣《ヨロヅハタトヨアキツシヒメノ》命、一(ノ)名《ミナ》を栲幡千々姫萬幡姫《タクハタチヾヒメヨロヅハタヒメノ》命と申すを、天棚機姫《アメノタナバタヒメノ》命とも稱《マヲ》したりと思ふよしあり、(前にいひたる如く、漢土の俗説に、織女を天帝の子といひつたへたるは、皇産靈(ノ)大神の御子、天(ノ)棚機姫(ノ)神を、ほゝゆがめて、いひつたへたることなるべくおもはるゝを、今(ノ)世の心狹き儒者などは、かゝることはとりあげぬことなれど、俗説なればとて、むげにゆゑなくしてはいふまじければ、古人は、かの國にて織女といへるは、(8)まさしく、天(ノ)棚機姫(ノ)神に符合《アヘ》るをしりて、タナバタツメ〔六字右○〕といへるなるべし、もしさらずして、新に設けて施《イヒ》し稱《ナ》ならむには、織女星なれが、ハタオリホシ〔六字右○〕などやうにこそ、いふべきことなれ、)なほ牽牛織女の事は、別に詳悉《ツバラ》に考へてしるせるものあれば、こゝには略きて、その大かたをいへるのみなり、○天也之別時由《アメツチノワカレシトキユ》は、其(ノ)はじまれる事の舊《ヒサ》しきを、神代になぞらへて云るのみにて、實に神代よりあり來し事にはあらざること、上に云るが如し、○伊奈牟之呂《イナムシロ》(牟(ノ)字、舊本に宇に誤、今改(ツ)、)は、枕詞なり、稻席《イナムシロ》なり、袖中抄に、田舍には、おのづから稻を敷こと有(レ)ば、田舍をば、稻敷《イナシキ》ともいひ、いなむしろともいふなり、公實(ノ)卿(ノ)詠(ニ)云、これにしく思ひはなきを草枕旅にかへすはいなむしろとや、と云るが如し、さて河《カハ》とつゞくは、門人南部(ノ)嚴男が強《コハ》といふ意にとりなして續(ケ)つらむ、稻席は、ことに強《コハ》ばれるものなればなり、と云り、さもあるべし、○意空嘆空《オモフソラナゲクソラ》は、思ふこゝち、嘆くこゝちと云むが如し、○不安久爾《ヤスカラナクニ》は、安からぬことなるをの意なり、かくばかりこゝち安からぬことなるに、何とかせむといふ義を含めたるなり、○青波爾望者多要奴《アヲナミニノゾミハタエヌ》は、遙々の蒼浪を望み見やるに、遠くして見屆かねば、目のつきたるをいふならむ、○白雲爾※[さんずい+帝]者盡奴《シラクモニナミダハツキヌ》も、天雲をふりさけ望むに、戀の涙のかぎりの盡ぬると云ならむ、○佐丹塗之小船毛賀茂《サニヌリノヲブネモガモ》は、佐《サ》は、眞《マ》に通ふ美稱にて、丹《ニ》にぬり色どりたる舟も願《ガモ》といふ、三(ノ)卷に、山下赤乃曾保船《ヤマシタノアケノソホブネ》、十三に、赤曾朋舟《アケノソホブネ》、とよみ、十九には、こゝの如くよみたり、又十六に、赤羅(9)小船《アカラヲブネ》、ともよめり、さていかで、さやうの舟もがなあれかし、となり、○玉纏之眞可伊毛我母《タマヽキノマカイモガモ》は、古(ヘ)は何によらず、玉をまきてかざりとせしこと多ければ、かい、かぢの類にも玉を纏(ケ)りしなるべし、さていかで、さやうの榜《カイ》もがなあれかし、さらば秋ならずとも、常に漕わたりて相見むをの意なり、舊本一云、小棹毛何毛、と註せり、いづれにもあるべし、〇伊可伎渡《イカキワタリ》は、伊《イ》は、そへ言、下の伊許藝《イコギ》の伊《イ》に同じ、可伎《カキ》は、掻《カキ》にて、水を掻ことなり、〇夕塩爾《ユフシホニ》(舊本註に、一云、夕倍爾毛とあるはわろし、)は、河に鹽は叶はざれども、この歌すべて、天(ノ)漢を海のごとくによみなして、青浪といひ、眞かいもがもといひ、あさなぎになどよみなしたり、素《モト》二星の天(ノ)漢をわたると云こと妄誕なれば、信《ウク》るにたらず、故(レ)歌によむ人も、自己が心まかせに、さま/”\によみなしたりと見えたり、〇天飛也領巾《フマトブヤヒレ》とは、天を飛(ビ)行(ク)料の領巾《ヒレ》といふなるべし、也《ヤ》は、天知也《アメシルヤ》、高知也《タカシルヤ》などいふ也《ヤ》に同じく、助辭なり、領巾《ヒレ》は、織女の領巾《ヒレ》なり、さて領巾《ヒレ》は、すべて、上(ツ)代の女の装束なるよし、既く五(ノ)卷に云るが如し、さて此に天飛といひ、十(ノ)卷に、織女之天津領巾毳《タナバタツメノアマツヒレカモ》、とよみ、續後紀十九、興福寺(ノ)僧等が長歌に、三吉野爾有志熊志禰《ミヨシヌニアリシクマシネ》、天女來通弖《アマツメニキタリカヨヒテ》、其後波蒙譴天《ソノノチハセメカヾフリテ》、毘禮衣着弖飛爾支度云《ヒレコロモキテトビニキトフ》云々、とあるなどを併(セ)思ふに、天女といふものゝ虚空《ソラ》飛(ビ)行には、必(ズ)この領巾《ヒレ》を着るよし云りとおぼえたり、○眞玉手乃《マタマデノ》云々、古事記八千矛(ノ)神(ノ)御歌詞をとれり、五(ノ)卷にもよめり、〇餘多、多(ノ)字、舊本になきは脱たるなり、今は岡部氏の考によりて補《クハ》へつ、アマタヽビ〔五字右○〕とよ(10)むべし、○宿毛寐而師可聞《イモネテシカモ》、舊本に、一云、伊毛左禰而師加、と註せり、いづれにもあるべし、○秋爾安良受登毛《アキニアラズトモ》、舊本、一云、秋不待登毛、と註せり、いづれにもあるべし、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
1521 風雲者《カゼクモハ》。二岸爾《フタツノキシニ》。可欲倍杼母《カヨヘドモ》。吾遠嬬之《アガトホヅマノ》。事曾不通《コトゾカヨハヌ》。
 
風雲者《カゼクモハ》云々は、たゞ風と雲とは、彼方此方の兩(ノ)岸に往來《カヨヘ》ども、といふなり、神代紀天孫降臨(ノ)條に、遣2疾風(ヲ)1擧v尸(ヲ)致v天(ニ)、と見えたり、其(ハ)即(チ)疾風を使に差たることゝきこゆ、(契冲、河圖帝通紀(ニ)云風者天地之使也、文選陸士衡(ノ)擬古(ノ)詩(ニ)、遊子眇2天末(ヲ)1、遠期不v可v尋(ヌ)、驚※[風+火三つ]※[塞の土が衣]2反信(ヲ)1、歸雲難v寄v音、第廿に、家風は月にけにふけどわぎもこがいへこともちてくる人もなし、みそら行雲も使と人はいへど家づとやらむたづきしらずも、などあり、といへり、風を使とせし事は、なほこれかれ見えたれど、此歌にては、たゞまことの風と雲とを云るのみにて、使のよしには非ず、使ならば、事曾不通《コトゾカヨハヌ》とはいふまじきなり、)○遠嬬之《トホヅマノ》、舊本に、一云、波之嬬乃、と註せり、遠嬬《トホヅマ》は遠方に在よしなり、波之嬬《ハシヅマ》は愛嬬《ハシヅマ》なり、○歌(ノ)意は、天(ノ)河の河一(ツ)隔れるのみにて、常に風と雲とは、彼方此方の兩(ノ)岸に往來《カヨ》へども、秋にあらねば、相見ることはさらにて、使を遣來すこともかなはねば、わが遠嬬の言傳ぞ、通ひ來ぬ、となり、
 
1522 多夫手二毛《タブテニモ》。投越都倍伎《ナゲコシツベキ》。天漢《アマノカハ》。敝太而禮婆可母《ヘダテレバカモ》。安麻多須辨奈吉《アマタスベナキ》。
(11)多夫手二毛《タブテニモ》、礫《タブテ》にてもと云むが如し、たぶては、つぶてと云に同じ、言(ノ)意は、手棄《タブテ》なるべしと云リ、これは天の川の渡の、いくばくもあらずて、近きよしにいへり、さて二(ノ)字はもと乎なりけむを、手と混へて多夫手々毛と書しを、つひに二に誤れるなるべし、と別府(ノ)信榮は云り、然する時は、タブテヲモ〔五字右○〕と訓べし、○安麻多須辨奈吉《アマタスベナキ》は、甚《イミ》じくすぐれて、爲む方のなきといふなり、安麻多《アマタ》は、甚じく殊にすぐれたるをいふ、かやうの處に用ひたるは、七(ノ)卷に、鳥自物海二浮居而奥津浪驂乎聞者數悲哭《トリジモノウミニウキヰテオキツナミサワクヲキケバアマタカナシモ》、十二に、草枕客去君乎人目多袖不振爲而安萬田悔毛《クサマクラタビユクキミヲヒトメオホミソデフラズシテアマタクヤシモ》、などある是なり、○歌(ノ)意は、天(ノ)河の渡は、いくばくの間もあらず、礫を投ても、彼方の岸に至り屆くべく、甚近くはあれども、容易《タワヤス》く渡り行事のかなはねばにや、かくへだゝり居て、甚じくすぐれて、爲む方なく思ふらむ、さても戀しく思はるゝ事哉、となり、
〔右天平元年七月七日夜。憶良。仰2觀天河1作。一云。帥家作。〕
河の下、舊本作(ノ)字を脱せり、○帥は旅人(ノ)卿なり、
 
1523 秋風之《アキカゼノ》。吹爾之日從《フキニシヒヨリ》。何時可登《イツシカト》。蓄待戀之《アガマチコヒシ》。吾曾來座流《キミゾキマセル》。
 
君《キミ》は牽牛《ヒコホシ》をさす、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
1524 天漢《アマノカハ》。伊刀河浪者《イトカハナミハ》。多多禰杼母《タタネドモ》。伺候難之《サモラヒガタシ》。近此瀬乎《チカキコノセヲ》。
 
伊刀《イト》は、甚《イト》なり、者《ハ》の下にめぐらして聞べし、河浪《カハナミ》は甚《イタク》は雖《ドモ》v不《ネ》v立《タヽ》、といふなり、○歌(ノ)意は、天(ノ)河の(12)河波は、いたくは立はせねども、たわやすくわたることを得ねば、牽牛のもとに侍從《サブラ》ひがたし、この近きわたり瀕なるモのを、といふならむ、
 
1525 袖振者《ソデフラバ》。見毛可波之都倍久《ミモカハシツベク》。雖近《チカケドモ》。度爲便無《ワタルスベナシ》。秋西安良禰波《アキニシアラネバ》
 
歌(ノ)意かクれたるところなし、さきにたぶてにも投こしつべき、といへるごとく、間近きわたり瀬をいへり、
 
1526 玉蜻※[虫+廷]《カギロヒノ》。髣髴所見而《ホノカニミエテ》。別去者《ワカレナバ》。毛等奈也戀牟《モトナヤコヒム》。相時麻而波《アフトキマデハ》。
 
毛等奈也戀牟《モトナヤコヒム》は、俗にむざ/\こひしう思はむ、といふ意なり、○歌(ノ)意は、たゞほのかに相見えたるばかりにて、心だらひに、こまやかに相語ふ間もなくて、こなたかなたに相別れなば、又の秋になりて相見む時までは、常にむざ/\戀しく思ひて過さむか、となり、
〔右天平二年七月八日夜。帥家集會。〕
 
1527 牽牛之《ヒコホシノ》。迎嬬船《ツマムカヘブネ》。己藝出良之《コキヅラシ》。漢原爾《アマノカハラニ》。霧之立波《キリノタテルハ》。
 
歌(ノ)意は、天河原にきりのたてるは、彦星の織女を迎る舟をこぎゆくさわきに、水霧立るならむ、といふなるべし、
 
1528 霞立《カスミタツ》。天河原爾《アマノカハラニ》。待君登《キミマツト》。伊往還程爾《イカヨフホトニ》。裳襴所沾《モノスソヌレヌ》。
 
伊《イ》は、そへ言なり、○歌(ノ)意は、天の河原に出居て、牽牛の君が來座むを待とて、此處に御船泊む(13)か、彼處に泊むかと、河上《カハカミ》に行(キ)、河下《カハシモ》に行など、かなたこなたに行かよひ待(ツ)間に、裳のすそぬれひたりぬる、となり、
 
1529 天河《アマノカハ》。浮津之浪音《ウキツノナミト》。佐和久奈里《サワクナリ》。吾待君思《アガマツキミシ》。舟出爲良之母《フナデスラシモ》。
 
浮津之浪音《ウキツノナミト》、岡部氏云、浮洲《ウキス》と云へば、浮津《ウキツ》ともいはむか、されどなみとゝいへるは、おぼつかなし、仍て思ふに、浮は御の誤にて、ミツノナミノト〔七字右○〕とよむべく覺ゆ、○歌(ノ)意は、天(ノ)河の河津の浪音が、常にまさりて、さわさわと動く音すなり、わが一(ト)すぢに待居る牽牛の君が、今|舟發《フナダチ》をして漕來賜ふ故に、かくさわくにてあるらし、さてもはやく、此方に泊《ハテ》賜へかし、となり、
 
太宰諸卿大夫《オホミコトモチノマヘツキミタチ》并|官人等《ツカサビトタチガ》。宴《ウタゲスル》2筑前國蘆城驛家《ツクシノミチノクチノクニアシキノウマヤニ》1歌二首《ウタフタツ》。
 
官人(官(ノ)字、舊本宮に誤れり、)は、大夫よりは下の官職の人ゆゑに、并官人と云り、岡部氏云、諸王諸臣百官など書も、諸臣は五位以上、百官は六位以下にあたれり、其官省にて官人と書は、かろきものを云例なり、○蘆城(ノ)驛家は、筑前(ノ)國御笠(ノ)郡にあり、十二に、、惡木山《アシキヤマ》とあるも同じ、〔頭註、【筑前名寄云、御笠郡蘆城、太宰府の南にあり、米の山といふ所をこえ通しとなむ、〕
 
歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
1531 珠〓《タマクシケ》。葦木乃河乎《アシキノカハヲ》。今日見者《ケフミテバ》。迄萬代《ヨロヅヨマデニ》。將忘八方《ワスラエメヤモ》。
 
(14)珠〓《タマクシケ》は、まくら詞なり、(契冲、玉くしげ明《アク》といふ心に、あといふひともじに云かけたり、あくとも、あけとも、あかむとも、あきとも、下はうごけば、上は主、下は伴なるゆゑに、主にかゝれば、おのづから伴を攝するなり、と云り、)按(フ)に、此は葦木《アシキ》を、淺笥《アサケ》の意にとりてつゞけたるなるべし、佐氣《サケ》と志伎《シキ》と音通へり、さて笥《ケ》は、古(ヘ)麻笥《ヲケ》、飯笥《イヒケ》、藺笥《ヰケ》、大笥《オホケ》、など云類の名あまた見えて、其(ノ)種々あるが中にも、櫛笥《クシケ》は殊に淺き器なるよしもて、櫛笥の淺笥《クシケ》と云意に、續けたるならむとは思はるゝなり、○今日見者はケフミテバ〔五字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、蘆城の川の勝景を今日見てあらば、今より行さき萬代の後までも、このおもしろきけしきのわすられむやは、忘るゝ世はいつまでもあるまじ、さてもおもしろのけしきや、となり、
 
右二首作者未詳《ミキノフタウタハヨミヒトシラズ》。
 
笠朝臣金村《カサノアソミカナムラガ》。伊香山作歌二首《イカゴヤマニヨメルウタフタツ》。
 
伊香山《イカゴヤマ》は、近江(ノ)國伊香(ノ)郡にあり、神名式に、伊香(ノ)郡|伊香具《イカグノ》神社みゆ、契冲云、第三に、金村の鹽津山のうたあり、角鹿の歌なり、越前へ下られける時、今の歌も道にてよまれたるか、もしは別時の歌歟、
 
1532 草枕《クサマクラ》。客行人毛《タビユクヒトモ》。住觸者《ユキフレバ》。爾保此奴倍久毛《ニホヒヌベクモ》。開流芽子香聞《サケルハギカモ》。
 
爾保此奴倍久毛《ニホヒヌベクモ》は、色に染《ソマル》べくも、といふが如し、○歌(ノ)意は、旅行人の、かりそめにも行觸たら(15)ば、衣に着て、其(ノ)色に染《ソマル》べくもさけるはぎの花哉、さてもさても見事に咲たる花や、となり、
 
1533 伊香山《イカゴヤマ》。野邊爾開有《ヌヘニサキタル》。芽子見者《ハギミレバ》。公之家有《キミガイヘナル》。尾花之所念《ヲバナシオモホユ》。
 
公《キミ》といへるは、本郷にさす人ありてよめるなり、○歌(ノ)意は、この伊香山の野邊に咲たる、はぎの花を見れば、本郷なる某公の家の庭にある、尾花のさまの思ひ出されて、一(ト)すぢに家の方戀しく思はるゝとなり、
 
石川朝臣老夫歌一首《イシカハノアソミオキナガウタヒトツ》。
 
老夫は、傳未(ダ)詳ならず、契冲云、續紀(ニ)云、文武天皇二年秋七月己未朔癸未、直廣肆石川(ノ)朝臣小老(ヲ)爲2美濃(ノ)守(ト)1、此(ノ)小老の子などにや、
 
1534 娘部志《ヲミナヘシ》。秋芽子折禮《アキハギヲラナ》。玉桙乃《タマホコノ》。道去※[果/衣]跡《ミチユキツトヲ》。爲乞兒《コハムコノタメ》。
 
折禮は、本居氏、折那を誤しと見ゆる、といへり、折那《ヲラナ》は、折武《ヲラム》を急に云るなり、○道去※[果/衣]跡《ミチユキツトト》は、道すがら得たる家づとなり、。歌(ノ)意は、道すがら得給へる家づとを賜へと乞む、其(ノ)女の爲に、女郎花、秋はぎを、折て行む、いざさらば、と急ぎ進めるなり、
 
藤原字合卿歌一首《フヂハラノウマカヒノマヘツキミノウタヒトツ》。
 
1535 我背兒乎《ワガセコヲ》。何時曾旦今登《イツゾイマカト》。待苗爾《マツナヘニ》。於毛也者將見《オモヤハミエム》。秋風吹《アキノカゼフク》。
 
何時曾旦今登《イツゾイマカト》は、何時か來座む今か來座むと、といふ意なり、何時曾《イツゾ》は、何時《イツ》かと云むが如し(16)○於毛也者將見《オモヤハミエム》は、略解に、両説擧たる中に、於毛也《オモヤ》は、面輪《オモワ》の意かといへるはしかるべし、(その一説に、於は聲の誤、也は世の誤にて、聲毛世者將見《オトモセバミム》あきかぜのふけなるべし、といへるは、いみじき謾言なり、いかにといふに、風音の人の問來にまがへるをば、厭ふこそ人の常情なれ、其を風の音もせば、思ふ人の來しかと見む、其がために秋の風ふけと、風にあつらへつくべきことかは、)さて和《ワ》と也《ヤ》と通ふ例多し、十一に、秋柏《アキカシハ》潤|和川邊《ワガハヘ》云々、とある歌を、其(ノ)下に、重出(シ)たるには、閏|八河邊《ヤカハヘ》云々、と書る、これ通ふ證なり、(又この閏八を、閏丸の誤として、ウルワ〔三字右○〕とよむもわろし、)又十三に、少子等率和出將見《ワクゴドモイザワイデミム》云々、神武天皇(ノ)紀に、頭八咫鳥鳴之曰《ヤタカラスナキケラク》、天神子《アマツカミノミコ》召《メスゾ》v汝(ヲ)、怡弉過怡弉過《イザワイザワ》(過音和)云々、などあるいざわは、全イザヤ〔三字右○〕と云に同じ、又十六能登(ノ)國(ノ)歌に、新羅斧墮入和之《シラキヲノオトシイレワシ》云々、浮出流夜登將見和之《ウキイヅルヤトミムワシ》云々、又|眞奴良留奴和之《マヌラルヤツコワシ》云々、などある和之《ワシ》は、愛也之《ハシキヤシ》、縱恵也之《ヨシヱヤシ》などの也之《ヤシ》と同言とおもはる)に、なほ正しく面輪《オモワ》を於竜也《オモヤ》と云るは、十八に、於毛夜目都良之美夜古可多比等《オモヤメヅラシミヤコカタヒト》、と云る是なり、(この於毛夜《オモヤ》を、面彌の意とするは非ず、)○歌(ノ)意は、わがせこは、いつか來まさむ、いまか來まさむ、と待につれて、秋風のそよ/\と吹來るは、もはや來まさむしるしなるべし、と云るなり、思ふ人の來むとする前表には、風のそよ/\と吹來ると云(フ)ならはしのありしならむ其(ノ)由は、四(ノ)卷、君待登吾戀居者我屋戸之簾動之秋風吹《キミマツトアガコヒヲレバワガヤドノスダレウゴカシアキノカゼフク》、といふ歌の註に云り、
 
(17)縁達師謌一首《エムタチシガウタヒトツ》。
 
縁達師は、傳未(ダ)詳ならず、契冲云、縁といふ僧にて、師は、法師の心なるべし、
 
1536 暮相而《ヨヒニアヒテ》。朝面羞《アシタオモナミ》。隱野乃《ナバリヌノ》。芽子者散去寸《ハギハチリニキ》。黄葉早續也《モミチハヤツゲ》。
 
本(ノ)二句は、隱野《ナバリヌ》を云む料の序なり、一(ノ)卷に、暮相而朝面無美隱爾加氣長妹之廬利爲里計武《ヨヒニアヒテアシタオモナミナバリニカケナガキイモガイホリセリケム》、とあるに全(ラ)同じ、○也は、徒に添て書るなり、○歌(ノ)意は、隱野《ナバリヌ》のはぎの花は散失にけり、早くその花に續きて、諸木の木(ノ)葉|黄變《モミチ》して、野邊の興を絶しむる事なかれ、となり、
 
山上臣憶良《ヤマノヘノオミオクラガ》。詠《ヨメル》2秋野花《アキヌノハナヲ》1歌二首《ウタフタツ》。
 
歌(ノ)字、舊本にはなし、目録にはあり、
 
1537 秋野爾《アキノヌニ》。咲有花乎《サキタルハナヲ》。指折《オヨビヲリ》。可伎數者《カキカゾフレバ》。七種花《ナヽクサノハナ》。【其一】
 
指《オヨビ》は、和名抄に、指手指也、和名|由比《ユビ》俗云、於與比《オヨビ》、とあり、(俗云とあるはいかゞ、)土佐日記に、今日いくか廿日《ハツカ》三十日《ミソカ》とかぞふれば、於與比《オヨビ》もそこなはれぬべし、源氏物語空蝉に、於與比《オヨビ》をかがめて、とをはたみそよそなどかぞふるさま、いよのゆげたもたど/\しかるまじう見ゆ、などあり、○可伎數《カキカゾフ》は、十七に、可伎加蘇布敷多我美夜麻《カキカゾフフタカミヤマ》、とあり、可伎《カキ》は添いふ言なり、打《ウチ》といふに同じ、古事記、須勢理毘賣(ノ)命の御歌に、宇知微流斯麻能佐伎邪伎《ウチミルシマノサキザキ》、加岐微流伊蘇能佐岐淤知受《カキミルイソノサキオチズ》、とある加岐《カキ》に同じ、(これに打見《ウチミル》、掻見《カキミル》と對(ヘ)言るにて、打《ウチ》と掻《カキ》と同じきことしるし、)本居氏(18)云、打は、常にひろく萬(ヅ)に云ひ、掻は、たゞ手して爲《スル》事にのみ云が如くなれども、打も本は手して爲(ル)事なれば、同じことなるべし、掻曇《カキクモリ》、掻絶《カキタユ》などは、手の事ならねど添いへり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、夫木集に、夏野をばおなじ緑に分しかど秋ぞ折つる七草の花、
 
1538 芽之花《ハギノハナ》。乎花葛花《ヲバナクズバナ》。瞿麥之花《ナデシコノハナ》。姫部志《ヲミナヘシ》。又藤袴《マタフヂバカマ》。朝貌之花《アサガホノハナ》。
 
旋頭歌なり、〔頭註、【契冲、薄は、鳥けだものゝ尾に似たれば、尾とは異名を付たる也、と云り、今云、これ異名に非ず、すゝきは體の名、尾花はその花を稱名なり、古今集打聞に、秋野には今こそ行めものゝふのをとこをみなの花にほひ見に、と云は、を花を男花とL、女郎花をなみな花とせし意とおぼゆ、尾花は葉など男々しげなる故に、男花と云べく、をみなべしのなよびたるは、女花とすべし、是によれば、尾と書は借字にて、男花なるべし、とあるはあたらず、かの廿(ノ)卷なる、秋野にはの歌は、さる意にあらず、猶彼所に委(ク)説べし、】〕○歌(ノ)意かくれなし、契冲云、此歌は、十六に詠2双六(ノ)頭(ヲ)1歌に、一二の目のみにあらず、五六、三四さへ有双六のさえ、此(ノ)歌とおなじ體なり、只數などのあるものを、ありのまゝによくいひのぶるなり、
 
天皇御製歌二首《スメラミコトノミヨミマセルオホミウタ》。
 
天皇は、契冲云、これは聖武天皇なり、第四にも、天皇思2酒人(ノ)女王(ヲ)1御製歌一首、八代(ノ)女王獻2天皇(ニ)1歌一首、此外獻2天皇(ニ)1、といふ歌三首あり、此(ノ)卷(ノ)下冬(ノ)歌(ノ)中にも、天皇御製歌あり、第六にもあり、是(レ)家持のえらばれたる中にも、その時のみかどなるゆゑに、かくはしるせり、孝謙天皇御治世にいたりて、えらびつがれたるには、太上天皇、といへり、心をつくべし、第三(ノ)卷に、天皇御2遊雷岳(ニ)1之時、柿本(ノ)朝臣人麿作歌、天皇賜2志悲(ノ)嫗(ニ)1御歌、これは古記にまかせたりと見えたり、
 
(19)1539 秋田乃《アキノタノ》。穗田乎雁之鳴《ホタヲカリガネ》。闇爾《クラケクニ》。夜之穗杼呂爾毛《ヨノホドロニモ》。鳴渡可聞《ナキワタルカモ》。
 
本(ノ)二(ノ)御句は、秋の穗に出たる田を刈、といひかけたり、田を刈時に來る鳥なる故に、つゞけさせ給へり、穗田は、穗に出たる田を云、四(ノ)卷、十(ノ)卷などにも見えたり、○闇爾は、クラケクニ〔五字右○〕と訓べし、闇くあるにといふほどの意なり、今の心にていはゞクラケキニ〔五字右○〕といふべき所を、かく云は古風の言(ノ)格なり、既く一(ノ)卷(ノ)下に委(ク)云り、○夜之穗杼呂《ヨノホドロ》は、夜の離《ハナレ》にて、未闇きと、明くなるとの間《アハヒ》を云、此(ノ)言のこと、既く四(ノ)卷に具(ク)云り、披見て考(フ)べし、○大御歌(ノ)意は、いまだ夜もあけはなれざれば、猶くらくあるに、田(ノ)面をさして初鴈の鳴て渡る哉、さてもなつかしの聲や、となり、
 
1540 今朝乃旦開《ケサノアサケ》。雁之鳴寒《カリガネサムク》。聞之奈倍《キヽシナベ》。野邊能淺茅曾《ヌヘノアサチソ》。色付丹來《イロヅキニケル》。
大御歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
太宰帥大伴卿歌二首《オホミコトモチノカミオホトモノマヘツキミノウタフタツ》。
 
1541 菩岳爾《ワガヲカニ》。棹牡鹿來鳴《サヲシカキナク》。先芽之《サキハギノ》。花嬬問爾《ハナツマトヒニ》。來鳴棹牡鹿《キナクサヲシカ》。
 
先芽《サキハギ》は、初《ハツ》はぎなり、榛《ハリ》を前榛《サイハリ》といふも同じ、(サイハリ〔四字右○〕はサキハリ〔四字右○〕なり、キ〔右○〕をイ〔右○〕といへるは、後の音便なり、)○花嬬問爾《ハナツマトヒニ》は、花を妻問にといふななり、ツマ〔二字右○〕をすみてよむべし、花妻《ハナツマ》をとひにと云にはあらず、(しかるを、後(ノ)世此(ノ)歌によりて、はぎをやがて、鹿の花妻といふものとこゝろ得(20)て、さる意によめる歌おほきは、わらふべし、現存六帖に、人はこぬ草葉のとこの露の上にかたしき宿たる萩が花妻、とある類なり、)鹿は芽子の咲ころ、その芽子原に、おきふしなどもするゑに、秋芽子を妻問と云ならはせり、はぎを、後に鹿鳴草と云も然り、〔頭註、【歌袋、寶治二年百首に、正三位知家卿、人は來ぬ草葉のつゆの床の上にかたしきねたる萩が花づま、と全く鹿をば、萩が花づまとし給へる、いといはれなし、備考、】○歌(ノ)意は、わがをる地《トコロ》の岳に牡鹿の來て鳴よ、これは初はぎのやゝ咲たれば、その花を妻問とて、來て鳴よ、となり、
 
1542 吾岳之《アガヲカノ》。秋芽花《アキハギノハナ》。風乎痛《カゼヲイタミ》。可落成《チルベクナリヌ》。將見人裳欲得《ミムヒトモガモ》。
 
歌(ノ)意は、わがをる處の岳の、秋はぎの花が、風がつよく吹故に散べくなりぬるよ、いかで今の間に來て、見て愛む人もがなあれかし、となり、
 
三原王歌一首《ミハラノオホキミノウタヒトツ》。
 
三原(ノ)王は、續紀に、元正天皇養老九年正月乙巳、授2无位御原(ノ)王(ニ)從四位下(ヲ)1、十月戊寅、益v封(ヲ)、聖武天皇天平元年三月甲午、從四位下三原(ノ)王(ニ)授2從四位上(ヲ)1、九年十二月壬戌、從四位上御原(ノ)王爲2彈正(ノ)尹(ト)1、十二年九月乙未、治部(ノ)卿從四位上三原(ノ)王云々、十八年三月戊辰、以2從四位上三原(ノ)王(ヲ)1爲2大藏卿(ト)1、四年癸卯、正四位下、十九年正月丙申、正四位上、二十年二月己未、從三位、孝謙天皇勝寶元年八月辛未、從三位三原(ノ)王(ヲ)爲2中務(ノ)卿(ト)1、同十一月丙辰、正三位、四年七月甲虎、中務(ノ)卿正三位三原(ノ)王薨、一品贈太政大臣舍人(ノ)親王之子也、と見えたり、續後紀に、承和四年十月丁酉、右大臣從二位(21)清原(ノ)朝臣夏野薨、御原(ノ)王(ノ)孫、正五位下小倉(ノ)王之第五子也、とあれば、夏野大臣の祖父なり、
 
1543 秋露者《アキノツユハ》。移爾有家里《ウツシナリケリ》。水鳥乃《ミヅトリノ》。青羽乃山能《アヲバノヤマノ》。色付見者《イロヅクミレバ》。
 
移《ウツシ》とは、草木の花を、先(ヅ)紙などに染置て、さていつにても、絹にうつし染る、それをうつしといへり、古(ヘ)よりしかするわざのありしならむ、○水鳥乃《ミヅトリノ》は、青羽《アヲパ》といはむ料なり、○青羽能山《アヲバノヤマ》は、青葉《アヲバ》の山といふなるべし、さて水鳥乃《ミツトリノ》と云よりのかゝりは、羽《ハ》とつゞき、うけたるうへにては、葉《ハ》なるべし、上に、水鳥之鴨乃羽色乃春山乃《ミヅトリノカモノハノイロノハルヤマノ》、とよみ、廿(ノ)卷に、水鳥乃可毛能羽能伊呂乃青馬乎《ミヅトリノカモノハノイロノアヲウマヲ》、ともよめり、古事記垂仁天皇(ノ)條に、爾《コヽニ》出雲(ノ)國造之|祖《オヤ》、名岐比佐郡美《ナハキヒサツミ》、餝《カザリ》2青葉山《アヲバノヤマヲ》1而《テ》云々、新古今集に、立よれば凉しかりけり水鳥の青葉の山の松の夕風、源氏物語若菜(ノ)上に、身に近く秋やきぬらむみるまゝにあをばの山もうつろひにけり、とある所に、めとゞめ給ひて、水鳥の青ばは色もかはらぬを萩の下こそけしきことなれ、同夢(ノ)浮橋に、をのには、いとふかくしげりたる、あをばの山にむかひて云々、などあり、みな青く茂りたる山を云、(地(ノ)名にはあらず、)○歌(ノ)意は、青く茂りたる山の、うつろひかはりて、色づくを見れば、秋(ノ)露は絹にうつし染る、いはゆるうつしにてありけり、となり、六帖に、しら露は、とて載(セツ)、
 
湯原王《ユハラノオホキミノ》。七夕歌二首《ナヌカノヨノウタフタツ》。
 
1544 牽牛之《ヒコホシノ》。念座良武《オモヒマスラム》。從情《コヽロヨモ》。見吾辛苦《ミルアレクルシ》。夜之更降去者《ヨノフケユケバ》。
 
(22)從情《コヽロヨモ》は、牽牛の心よりも、まさりての意なり、○歌(ノ)意は、夜の更ゆけば、今は程なく逢給(フ)らむ、と思ひやりて見るわがこゝろは、とにかく物思(ヒ)し給ふらむ彦星のこゝろよりも、まさりてくるしとなり、(六帖に、第三(ノ)句、ことよりも、として載たるは、誤なり、)
 
1545 織女之《タナバタノ》。袖續三更之《ソデマクヨヒノ》。五更者《アカトキハ》。河瀬之鶴者《カハセノタヅハ》。不鳴友吉《ナカズトモヨシ》。
 
袖續三更之は、(續にては、通難《キコエガタ》し、)續は纏(ノ)字の誤にて、ソテマクヨヒノ〔七字右○〕なるべし、○歌(ノ)意は、織女の衣の袖を纏て、相宿する夜の曉は、天(ノ)河の河瀬に住鶴の鳴て、夜の明るを告ずとも、縱《ヨシ》や今夜ばかりはさて有なむ、さらば曉に至るを知ずして、かく別(レ)のいそぎはすまじきに、となり、此(ノ)歌は、牽牛の心に擬《ナスラヘ》てのたまへるなり、
 
市原王《イチハラノオホキミノ》。七夕歌一首《ナヌカノヨノウタヒトツ》。
 
1546 妹許登《イモガリト》。吾去道乃《アガユクミチノ》。河有者《カハナレバ》。附固緘結跡《アユヒナダスト》。夜更降家類《ヨノフケニケル》。
 
附固緘結跡(固(ノ)字、舊本には、目と作り、結(ノ)字、一本にはなし、)は、附は脚の誤にて、脚固は、アユヒ〔三字右○〕なるべしといへり、さて緘結跡は、本居氏、ナダスト〔四字右○〕と訓べし、といへり、あゆひは足結《アユヒ》にて、袴をかゝげて、其を結固むる帶の類と見ゆ、七(ノ)上に委(ク)云り、なだすは、契冲、正《タヾ》す意なるべし、といへり、雄略天皇(ノ)紀(ノ)歌に、阿遙比邪陀須暮《アヨヒナダスモ》、とあり、○歌(ノ)意は、織女の許にと行道筋の、天(ノ)河の河道にてあるなれば、其(ノ)河を渉らむ用意して、足結をむすび正すとて、其(ノ)間に早夜ぞ更にける、織女(23)のいかに待わぶらむなり、此も牽牛の心に擬《ナズラ》へてのたまへるなり、
 
藤原朝臣八束歌一首《フヂハラノアソミヤツカガウタヒトツ》。
 
1547 棹四香能《サヲシカノ》。芽二貫置有《ハギニヌキオケル》。露之白珠《ツユノシラタマ》。相佐和仁《アフサワニ》。誰人可毛《タレノヒトカモ》。手爾將卷知布《テニマカムチフ》。
 
旋頭歌なり、○相佐和仁《アフサワニ》は、本居氏、物語書に、おほざふと云詞あり、これ此(ノ)あふさわの訛れるにて、其おほざふと云る詞の意と、あふさわと全(ラ)同じ、と云り、十一に、開木代來背若子欲云余相狹丸吾欲云開木代來背《ヤマシロノクセノワクゴガホシトイフアヲアフサワニアヲホシトイフヤマシロノクセ》、とあり、物語書に云へるおほざふは、源氏物語帚木に、やむごとなく、せちにかくし給ふべきなどは、かやうにおほざふなるみづしなどに、打置ちらし給ふべくも非ず、關山に、御心のうち、いとあはれに、おぼし出ること多かれど、おほざふにてかひなし、薄雲に、おほざふのすまひはせじとおもへる、おふけなしとはおぼすものから、未通女に、此(ノ)君たちの、すこし人數にもおぼしぬべからましかば、おほざふのみやづかへよりは、奉りてまし、玉※[髪の友が皮]に、おほざふなるは、こともおこたりぬべしとて、藤袴に、おほざふの宮づかへのすぢに、らうろうせむとおぼしおきつる、若菜(ノ)下に、今はかうおほざふのすまひならで、のどやかに行ひをもとなむ思ふ、柏木に、此(ノ)頃は何事もおぼされで、おほざふの御とふらひのみぞ有ける、幻に、御獨寐に成ては、いとおほざふにもてなし給ひて、東屋に、おほざふならぬところにてすぐして、又も參らせむと聞えていざなふ、云々、これかれあるつらにておほざふ(24)まじらはせむは、ほいなからむ、などやうに見えたり、大かた、又はなミ/\などいふ意の處に用ひたり、○知布《チフ》は、登伊布《トイフ》の約れる言なり、既く委(ク)云り、○歌(ノ)意は、牡鹿の入立て、妻問する野のはぎの糸に、その牡鹿が貫置たる、露の白玉の愛《メデ》たきを、誰人か、大かたなみ/\の事に思ひて、手に纏むといふぞ、誰も深く思ひ入てこそ、手にまかむといふなれ、さても愛たき露や、となり、
 
大伴坂上郎女《オホトモノサカノヘノイラツメガ》。晩芽子歌一首《オクテノハギノウタヒトツ》。
 
1548 咲花毛《サクハナモ》。宇都呂|布〔○で囲む〕波|※[厭のがんだれなし]〔○で囲む〕《ウツロフハウシ》。奥手有《オクテナル》。長意爾《ナガキコヽロニ》。尚不知家里《ナホシカズケリ》。
 
宇都呂の下、布字舊本になきは、脱たり、○奥手有《オクテナル》は、契冲云、いねのおそきをおくてといへば、よろづの草木も、おくれて花咲などするを、奥手《オクテ》といはむことさもあるべし、おもふに、おくてといふは、第九に、わぎもこはくしろにあらなむひだり手のあがおくの手にまきていなましを、此|奥《オク》の手とよめる心なり、肘の袂よりおくにかくれたる所を、おくの手といふ、ながき心とつゞくるも、袖より出るところはみじかく、袖にかくれたる所は長ければ、奥手なるながき心とはよめるとぞ聞えたる、世に秘藏する物を、常はかくしおきて、今はとあらむとき用むとするを、奥の手にたくはふるといふも、いにしへよりある詞殘れるなるべし、(已上)今按(フ)に、稻に限らず、萬(ヅ)の草木の、世におくれて花咲などするを、奥手といふよし云るは、さる(25)ことなれど、九(ノ)卷なる歌を引るは、すこしいかゞなり、彼は、左手《ヒダリテ》の吾奥手《アガオクノテ》といひたれば、左を主としていへりときこえたり、もし契冲|説《イヘ》るごとくならば、左右にかぎらず、袂よりおくにかくれたるところを、奥の手といふことゝきこえて、いかゞなり、そも/\古(ヘ)は、左(ノ)手を奥手《オクノテ》といひ、右(ノ)手を邊手《ヘノテ》とぞいひけむ、さるは右の手は、事をなすによく利《キヽ》て、はしちかなれば邊といひ、左の手は、事をなすにおそくて、利《キヽ》にくければ、いつも後ならでは出さぬゆゑに、奥といへるなるべし、されば左を奥といひ、右を邊といふは、人(ノ)手をいふがもとにて、それより何にても、左右を奥邊といひて、別てるにぞあるべき、二(ノ)卷に、奥津加伊邊津加伊《オキツカイヘツカイ》、とあるも、船の左にぬけるを奥津櫂《オキツカイ》、右に貫(ケ)るを邊津櫂《ヘツカイ》といへりときこえたるよし、既く彼(ノ)卷に註《イヒ》たる如し、古事記、伊佐那伎(ノ)命禊祓(ノ)條に、次(ニ)於2投棄(ル)左(ノ)御手之手纏1所v成神(ノ)名(ハ)奥疎(ノ)神、次奥津那藝佐毘古(ノ)神、次奥津甲斐辨羅(ノ)神、次(ニ)於2投棄(ル)右(ノ)御手之手纏1所v成神(ノ)名(ハ)、邊疎(ノ)神、次邊津那藝佐毘古(ノ)神、次(ニ)邊津甲斐辨羅(ノ)神、とあるにて、左を奥とし、右を邊とせしこと著明《アキラカ》なり、なほ九(ノ)卷に至りていふべきなれど、人のまどふことなれば、わづらはしけれど、こゝにも註るになむ、○歌(ノ)意は、すべてはやく人に愛《メデ》らるゝは、ふるされていとはるゝ事もはやし、花にても、其(ノ)如く四方にさきだちてはやく開(ケ)るは、すぐれて人にもてはやさるれども、又うつろひちることもはやければ、人にうきものに思はるゝもはやし、晩《オク》れて心長く開たるは、散(ル)事もおそければ、末久しく人(26)に愛《メデ》らるれば、早きは中々遲ふきには、なほ及ぼざるものにてありけり、さればわれは、この晩芽子《オクテノハギ》に心をよせて、よに愛たきものに思ふぞとなり、
 
典鑄正紀朝臣鹿人《イモノシノカミキノアソミカヒトガ》。至《イタリテ》2衛門大尉大伴宿禰稻公跡見庄《ユケヒノオホキマツリゴトヒトオホトモノスクネイナキミガトミノタドコロニ》1。作歌一首《ヨメルウタヒトツ》。
 
典鏡正は、イモノシノカミ〔七字右○〕と訓べし、職員令云、典鑄司正一人掌(ル)d造(リ)2鑄金銀銅鐵(ヲ)1、塗飾瑠璃(謂火齋珠也、)玉作、及工戸(ノ)戸口名籍(ノ)事(ヲ)u、佑一人、大令史一人、少令史一人、雜工部十人、使部十人、直丁一人、雜工戸、○衛門は、ユケヒ〔三字右○〕と訓べし、和名抄に、職員令(ニ)云、近衛府、兵衛府、衛門府(ハ)、由介比乃豆加佐《ユケヒノツカサ》、とあり、○大尉は、オホキマツリゴトヒト〔十字右○〕と訓べし、和名抄に、判官、本朝職員令、二方品員等所v載云々、兵衛、衛門、四府(ヲ)曰v尉(ト)云々、(皆|万豆利古止比止《マツリコトヒト》、とあり、○跡見(ノ)庄は、神名式に、大和(ノ)國添下(ノ)郡登彌(ノ)神社、神武天皇(ノ)紀に、乃(チ)有金色靈鵄飛來《クガネイロノトビナモトビキテ》止《ヰニケル》2于|皇弓之弭《ミユミノハヅニ》1。其鵄光曄※[火+(日/立)]状如流電《ソノトビイナビカリノゴトテリカヾヤキ》、由是《カレ》長髄彦(ガ)軍卒皆迷眩《イクサビトヾモミナマギエテ》不《ズナリヌ》2復力戰《エタヽカハ》1、長髄(ハ)是邑之本號焉因亦《ムラノモトノナナリシヲトリテ》以爲《シタルナリ》2人名《ヒトノナニ》1、及《ヨリ》3皇軍《ミイクサ》之|得《エテシ》2鵄瑞《トビノシルシヲ》1也、時人仍《ソノトキノヒトドモ》號《イヘルヲ》2鵄邑《トビノムラト》1、今《イマ》云《イフハ》2鳥見《トミト》1是訛也《ヨコナマレルナリ》、と見えたり、今|外《トビ》山村と云地なりとぞ、
 
1549 射目立而《イメタテテ》。跡見乃岳邊之《トミノヲカヘノ》。瞿麥花《ナデシコノハナ》。總手折《フサタヲリ》。吾者持將去《アレハモテイナム》。寧樂人之爲《ナラヒトノタメ》。
 
旋頭歌なり、○射目立而《イメタテテ》は、枕詞なり、此は射部《イメ》人の立わたりて、禽獣の跡を見ると云意につづけたるなり、射目《イメ》とは、射部《イベ》にて、狩獵に禽獣を射るともがらを云稱なり、六(ノ)卷に、見芳野乃飽津之小野笶笑《ミヨシヌノアキヅノヲヌノ》、野上者跡見居置而《ヌノヘニハトミスヱオキテ》、御山者射目立渡《ミヤマニハイメタテワタシ》、朝獵爾十六履起之《アサガリニシヽフミオコシ》、夕獵爾十里※[足+榻の旁]立《ユフガリニトリフミタテ》、九(ノ)卷(27)に、巨椋乃入江響奈利射目人乃伏見何田井爾鴈渡良之《オホクラノイリエトヨムナリイメヒトノフシミガタヰニカリワタルラシ》、十三に、高山峯之手折丹射目立十六待如《タカヤマノミネノタヲリニイメタテヽシヽマツゴトク》、などよめり、さて右の六(ノ)卷に、跡見居置而《トミスヱオキテ》、とある跡見《トミ》は跡見部《トミベ》なるを、今の跡見乃岳邊《トミノヲカヘ》とよめるは、跡を見るといふ意にて、用にとりなして、いひかけたるものなり、○總手折《フサタヲリ》は、ふさやかに手折なり、十七に、秋田乃穗牟伎見我底利和我勢古我布佐多乎里家流乎美奈敝之香物《アキノタノホムキミガテリワガセコガフサタヲリケルヲミナヘシカモ》、とよめり、又十四に、安左乎良乎遠家爾布須佐爾宇麻受登毛《》、安須伎西佐米也伊射西乎騰許爾《アサヲラヲヲケニフスサニウマズトモアスキセサメヤイザセヲドコニ》、とよめる布須左《フスサ》も、布佐《フサ》と同言なるべし、宇津保物語鶴(ノ)子に、父君にしとふさにかけつ、國讓に、どころどころより、をかしきものども、ふさにたてまつり給へり、初秋に、北のかた、きぬあやふさにとうでえさせ奉り給ふ、大和物語に、わだつみと人やみるらむあふことのなみだをふさになきつめつれば、かげろふの日記に、わらこや何やとふさにあり、云々、道すがらうちもわらひぬべきことゞも|を《の歟》ふさにあれど、ゆめぢかものもいはれぬ、枕冊子に、ゆづる葉のいみじうふさやかに、つやめきたるは云々、源氏物語空蝉に、かみはふさやかにて、ながくはあらねど云々、契冲云、田の穗に出るを、ふさなるといふも、是におなじ、又俗に、ふさふさと、ものもくはぬなどいふも、おなじ詞なり、○持(ノ)字、舊本にはなし、今は一本に從つ、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
湯原王《ユハラノオホキミノ》。鳴鹿歌一首《シカノウタヒトツ》。
 
(28)1550 秋芽之《アキハギノ》。落乃亂爾《チリノマガヒニ》。呼立而《ヨビタテテ》。鳴奈流鹿之《ナクナルシカノ》。音遙者《コヱノハルケサ》。
 
落乃亂爾《チリノマカヒニ》は、多くの芽の花の、ちりみだれ紛ふによりて、おのが妻を見失ひて、呼立るよしにのたまへり、○歌(ノ)意かくれなし、
 
市原王歌一首《イチハラノオホキミノウタヒトツ》。
 
1551 待時而《トキマチテ》。落〔□で囲む〕鐘禮能雨令《シグレノアメノ》。零收開《フリシクニ》。朝香山之《アサカノヤマノ》。將黄變《モミタヒヌラム》。
 
第二三(ノ)句、もとのまゝにては、平穩ならず、(舊本に、オツルシグレノアメヤミテ〔十二字右○〕と訓るは、ことにつたなし、〔頭注、【和名抄に、※[雨/衆]雨小雨也、之久禮、】〕且雨霜などをおつると云る事、古言に非ず、そはおつると云は、落(ノ)字につきたる訓にして、さらに雨霜の類に云べきにあらず、今(ノ)世にすら、雨ふる、箱ふるなどのみ云て、おつるとはいはざるをや、されどこゝは、ふるしぐれのと、六言に訓ても心ゆかず、)故(レ)按(フ)に、落は混《マガヒ》入たるにて、衍字なること、うつなし、さて令は之とありけむを、草書に※[之の草書]と書るを、※[令の草書]と見て誤り、收は敷なりけむを、これも草書にて※[敷の草書]と書るを、※[收の草書]と見て誤りしものならむ、開(ノ)字(此(ノ)字舊本にはなし、一本にはあり、)は、これも耳の草書※[耳の草書]を、※[開の草書]と見て誤れるものなるべし、さて鐘禮能雨之零敷耳《シグレノアメノフリシクニ》、とありしなるべし、(又岡部氏は、三の句已下は、雨霽將開朝者山之將黄變《アメハレテアケムアシタハヤマノモミナム》、などやありけむ、といへれど、いかゞなり、)下にも、沫雪保杼呂保杼呂爾零敷者《アワユキノホドロホドロニフリシケバ》、とあり、考(ヘ)合(ス)べし、○朝香山《アサカヤマ》は、攝津(ノ)國住吉(ノ)郡なる、淺香山《アサカヤマ》なるべし、難波の古き圖に、住吉(ノ)社(29)南の方に、細江とて沼ありて、その南の方に、淺香山《アサカヤマ》あり、浦はその西の方にあり、淺香(ノ)浦は二(ノ)卷に出(ツ)、又は此なるは、陸奥の安積山《アサカヤマ》にてもあらむか、さらば此(ノ)市原(ノ)王も、陸奥へ下り賜へることありしか、考(ヘ)なし、とまれ此(ノ)歌は、朝香山をおもひやりて、よみ給へるなり、○歌(ノ)意かくれなし、
 
湯原王《ユハラノオホキミノ》。蟋蟀歌一首《コホロギノウタヒトツ》。
 
蟋蟀は、虫(ノ)名、品物解に委(ク)云り、きり/”\の一類なり、しかるに、今(ノ)京より此方の歌などに、古保呂伎《コホロギ》といへること見えず、きり/”\すをのみよめるによりて、あやしむ人あれど、集中に見えたる蟋蟀は、みなこほろぎなり、(四季物語に、玉虫など云ていみじけれど、きりぎりすはたおりこほろぎにさへおとりて、聲たてぬもあれど云々、とあれば、きり/”\すの種類にて、きり/\すとは、いさゝか別物なり、擁書漫筆に猿源氏(ノ)冊子に、まきゑのばんに、こほろぎのさかづきすゑて、と見ゆ、うらみの介下(ノ)卷に、雪のうすやうに、こほろぎの墨すりながしなどあるを、思ひあはすれば、黒漆の盞を、こほろぎのさかづきとはいへるなるべし、こほろぎといふ虫も、その色黒ければよし有、)
 
1552 暮月夜《ユフヅクヨ》。心毛思努爾《コヽロモシヌニ》。白露乃《シラツユノ》。置此庭爾《オクコノニハニ》。蟋蟀鳴毛《コホロギナクモ》。
 
心毛思努爾《コヽロモシヌニ》は、心もしなゆるばかりに、といふが如し、既く委(ク)云り、○歌(ノ)意は、夕月の幽かにて(30)りて、心も靡《シナ》ゆるばかり、物あはれなる夕暮に、白露の置たる吾(ガ)家の庭にて、蟋蟀の鳴よ、さてもあはれなる聲ぞ、となり、
 
衛門大尉大伴宿禰稻公歌一首《ユケヒノオホキマツリゴトヒトオホトモノスクネイナキミガウタヒトツ》
 
1553 鐘禮能雨《シグレノアメ》。無間零者《マナクシフレバ》。三笠山《ミカサヤマ》。木末歴《コヌレアマネク》。色附爾家里《イロヅキニケリ》。
 
歌(ノ)意は、※[雨/衆]雨《シグレ》が一(ト)すぢにつよく隙なくふるゆゑに、御笠山の梢が、殘なしに色附にけり、となり、十(ノ)卷に、四具禮能雨無間之零者眞木葉毛爭不勝而色付爾家里《シグレノアメマナクシフレバマキノハモアラソヒカネテイロヅキニケリ》、
 
大伴家持和歌一首《オホトモノヤカモチガコタフルウタヒトツ》。
 
1554 皇之《オホキミノ》。御笠乃山能《ミカサノヤマノ》。黄葉|者〔○で囲む〕《モミチバハ》。今日之鐘禮爾《ケフノシグレニ》。散香過奈牟《チリカスギナム》。
 
皇之《オホキミノ》は、枕詞なり、○歌(ノ)意は、いでそよあまねく色付にけり、とのたまふ、その御笠山の黄葉は、かやうにつよくふる今日のしぐれにあひて、散失なむかとぞ思ふ、となり、
 
安貴王歌一首《アキノオホキミノウタヒトツ》。
 
1555 秋立而《アキタチテ》。幾日毛不有者《イクカモアラネバ》。此宿流《コノネヌル》。朝開之風者《アサケノカゼハ》。手本寒母《タモトサムシモ》。
 
幾日毛不有者《イクカモアラネバ》は、いく日もあらぬにの意に通《キコ》ゆる一(ノ)體なり、次の歌の、未壞者《イマダコボタネバ》も同じ、既く委(ク)云り、○此宿流朝開《コノネヌルアサケ》は、寐ぬる夜の明る、此(ノ)朝開《アサケ》の意なり、此は、朝開《アサケ》の上にうつして心得る言なり、(新古今集に、此宿ぬる夜の間に秋は來にけらし朝開の風の昨日にも似ぬ、)○歌(ノ)意は、秋(31)が立て、いまだいくばくの日數もあらぬに、はや此朝開の風は、袂寒しや、今より後は、いかに寒く堪がたからむ、となり、
 
忌部首黒麻呂歌一首《イミベノオビトクロマロガウタヒトツ》。
 
1556 秋田苅《アキタカル》。借廬毛未《カリホモイマダ》。壞者《コボタネバ》。雁鳴寒《カリガネサムシ》。霜毛置奴我二《シモモオキヌガニ》。
 
壞(ノ)字、舊本に壤と作るは誤なり、○霜毛置奴我二《シモモオキヌガニ》は、霜もおくべきばかりに、と云ほどの意なり、○歌(ノ)意は、稻刈しは、いつのことなるぞ、昨今のことにて、いまだその秋(ノ)田の借廬もこぼちあへぬに、はや霜もおくべきばかりに、鴈が寒く鳴わたるよ、となり、
 
故郷豐浦寺之尼私房宴歌三首《フルサトノトヨラノテラノアマガイヘニウタゲスルウタミツ》。
 
故郷(ノ)豐浦(ノ)寺は、大和(ノ)國高市(ノ)郡豐浦村にあり、又廣嚴寺とも、向原寺とも云り、欽明天皇十三年十月、百済(ノ)國聖明王、金銅(ノ)釋迦(ノ)像一躯、幡蓋經論等を奉りける時、物部(ノ)大連尾興、中臣(ノ)連鎌子、同《トモニ》奏すやう、我(ガ)國家の百八十神を祭拜をこそ、天皇の事とはせめ、何ぞも蕃國《ミヤツコクニ》の神をしも、崇め賜はむやと奏されける故、佛像を蘇我(ノ)稻目に賜はりければ、小墾田(ノ)家に安置《オキ》て、向原(ノ)家を淨捨《キヨメ》て、寺となしけるが、終に國内に疫氣行《エヤミオコリ》て、民こゝだくみうせける故、尾興(ノ)大連、鎌子(ノ)連、また同《トモニ》奏して、寺を燒はらひ、佛をば難波堀江に投けるよし、書紀欽明天皇(ノ)卷に見えたり、この向原寺、後に再興ありて、建興寺と改めけるなるべし、三代實録四十二に、元慶六年八月廿三日(32)壬戌、太政宮下2符(ヲ)大和(ノ)國(ノ)司(ニ)1※[人偏+稱の旁](ク)、散位從五位下宗岳(ノ)朝臣木村等言、建興寺(ハ)者、是先祖大臣宗我(ノ)稻目(ノ)宿禰之所v建也、本縁起文具(ニ)存(シテ)灼然(タリ)、望請宗岳氏※[手偏+僉]領(セム)、而彼(ノ)寺(ノ)別當、傳燈大法師位義濟確執(シテ)曰、太政官、仁壽四年九月十三日、下(ス)2當國(ニ)1符(ニ)※[人偏+稱の旁](ク)、彼寺(ハ)推古天皇之舊宮也、元(ト)號2豐浦(ト)1、故爲2寺(ノ)名(ト)1、凡(ソ)厥縁起具(ニ)、存(ス)2前志(ニ)1、佛法東流、※[うがんむり/取](モ)始(レリ)2於此(ニ)1云々、宗我(ノ)稻目(ノ)宿禰、以v家(ヲ)爲2佛殿(ト)1、天皇賜2其(ノ)代地(ヲ)1、遂(ニ)相移易(シテ)施2入皇宮(ヲ)1、稻目(ノ)宿廟、奉v詔造(レリ)v塔(ヲ)、然(レハ)則建興寺之建、出v自2御願1、不v可v爲2宗我氏(ノ)寺(ト)1明(シ)矣、官商量(シテ)宜d停2氏人※[手偏+僉]領之望(ヲ)1、不uv得2重致(スコトヲ)2寺家之愁(ヲ)1、と見えたり、持統天皇(ノ)紀に、朱鳥元年十二月丁卯朔乙酉、奉2爲《ミタメニ》天渟中原瀛(ノ)眞人(ノ)天皇(ノ)1、設2無遮(ノ)大會(ヲ)、於五寺大官飛鳥川原小墾田豐浦坂田(ニ)1、續紀卅一(ノ)童謠に、葛城寺乃前在也《カヅラキテラノマヘアルヤ》、豐浦寺乃西在也《トヨラノテラノニシナルヤ》、於志止度刀志止度《オシトヾトシトド》、櫻井爾白璧之豆久也《サクラヰニシラタマシヅクヤ》云々、續古今集に、かづらきや豐浦の寺の秋の月西に成まで影をこそみれ、玉葉集に、春を慕ふ名殘の花も色暮ぬ豐浦の寺の入相の鐘、などあり、推古天皇のあまつひつぎしろしめしゝ、豐浦(ノ)宮と申ける所なり、小墾田(ノ)宮《ミヤ》に遷都《ミヤコウツ》させ給ひしより、故郷と云るなり、
 
1557 明日香河《アスカガハ》。逝回岳之《ユキタムヲカノ》。秋芽子者《アキハギハ》。今日零雨爾《ケフフルアメニ》。落香過奈牟《チリカスギナム》。
 
逝回岳《ユキタムヲカ》は、明日香河(ノ)邊を、ゆきめぐれる所の岳なり、(後にゆきゝのをかと云て、地(ノ)名とするは、ひがことなり、)○歌(ノ)意は、飛鳥川を、ゆきめぐれるところの岳のはぎの花は、今日ふる雨にあひて散失なむか、このつよき雨にあひては、持《タモ》つことはあるまじ、をしきことならずやは、と(33)なり、
 
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。丹比眞人國人《タヂヒノマヒトクニヒト》。
 
1558 鶉鳴《ウヅラナク》。古郷之《フリニシサトノ》。秋芽子乎《アキハギヲ》。思人人共《オモフヒトドチ》。相見都流可聞《アヒミツルカモ》。
 
鶉鳴は、契冲云、野とならば鶉となりて鳴をらむ、とよみて、うづらは人目なき野にすむものなれば、此(ノ)集にも、第四、第十一、第十七などに、おなじ體によめり、故郷豐浦(ノ)寺なれば、うづらなくふりにしさとゝいへるなり、和漢朗詠集に、うづらなくいはれのをのゝ秋はぎを思ふ人どもみつるけふかな、などあるは、此(ノ)歌にこそ、○歌(ノ)意は、故郷なれば、人目稀にて、常は思ふ友どち會(フ)事もかたきを、今日はこのはぎの盛に愛て、心のあひかなふどち依(リ)會(ヒ)て、共にはぎを相見つる哉、さてもおもしろや、となり、
 
1559 秋芽子者《アキハギハ》。盛過乎《サカリスグルヲ》。徒爾《イタヅラニ》。頭剃不挿《カザシニサヽズ》。還去牟跡哉《カヘリナムトヤ》。
 
挿、舊本搖と作るは誤なり、今は拾穗本、古寫一本、異本等に從つ、○歌(ノ)意は、はぎの花は、今の盛も、程なく過行を見すてゝ、頭刺にもさゝず、唯しばしの間かたらひ給ふのみにて、罷りましなむとにや、さて/\薄き御情哉、と云て、客をとゞむるなり、
 
右二首《ミギノフタウタハ》。沙彌尼等《サミニドモ》。
 
大伴坂上郎女《オホトモノサカノヘノイラツメガ》。跡見田庄作歌二首《トミノタドコロニテヨメルウタフタツ》。
 
(34)1560 妹目乎《イモガメヲ》。始見之埼乃《トミノサキナル》。秋芽子者《アキハギハ》。此月其呂波《コノツキゴロハ》。落許須莫湯目《チリコスナユメ》。
 
妹目乎《イモガメヲ》は、枕詞なり、次に云、○始見之埼乃は、岡部氏、此(ノ)歌の端に、跡見(ノ)田庄作歌と書つれば、他所を思ひてよめる歌ともいふべからず、はた此(ノ)上に、紀(ノ)朝臣鹿人(ガ)至2大伴(ノ)宿禰稻公(ガ)跡見庄(ニ)1作歌とて、射目立而跡見乃岳邊之《イメタテテトミノヲカヘノ》、とよみたるも、端の詞、今とひとしくて、即(チ)跡見の岳邊をよめるを思ふに、今も跡見之岳邊とありしを、例の草書にて、跡を始に誤りて、みそめと訓たれば、その下の訓がたき故に、さかしらに、※[山+丘]邊を埼の一字よとて、字も訓も改めて、みそめのさきとはしけむかし、さて妹目乎跡見《イモガメヲトミ》とは、妹が目を速《ト》く見むと、こひいそぐ意にいひかけたるなり、卷(ノ)一に、我妹子乎早見濱風《ワギモコヲハヤミハマカゼ》、とよめるがごとし、と云り、(冠辭考に見ゆ、)此(ノ)説信によくいはれたり、これに依てなほよく考(フ)るに、埼を※[山+丘]邊の二字の誤ぞと云るは、此上に、跡見乃岳邊《トミノヲカヘ》とあるには、よく叶へることなれど、字形もいと遠く、其(ノ)うへ上に岳邊とあればとて、こゝも必《キハメ》て然有べきことぞと思ふは、甚《イト》偏《カタオチ》ならずや、かれ思ふに、埼はもとのまゝにて、乃は有(ノ)字の誤なるべし、乃有草書混易ければなり、さらば跡見之埼有《トミノサキナル》と訓べし、埼といふこと海邊ならずてはいかゞ、と思ふ人もあるべけれど、上に、春山之開乃乎烏里《ハルヤマノサキノヲヲリ》、とあるも、開《サキ》とあるは借(リ)字にて、山の岬《サキ》を云るなれば、いづくにもいふべきを知べし、○月(ノ)字、舊本に目と作るは誤なり、今は古本に從つ、○落許須莫湯目《チリコスナユメ》、上に霞立春日之里梅花山下風爾落許須莫湯目《カスミタツカスガノサトノウメノハナアラシノカゼニチリコスナユメ》、橘の長歌に、(35)直一眼令覩麻而爾波《タヾヒトメミセムマデニハ》、落許須奈由米登云管《チリコスナユメトイヒツヽ》云々、などあり、○歌意は、跡見の埼に、おもしろく咲てある、このはぎの花は、この月ばかりは、ゆめゆめちる事なかれ、となり、
 
1561 吉名張乃《ヨナバリノ》。猪養山爾《ヰカヒノヤマニ》。伏鹿之《フスシカノ》。嬬呼音乎《ツマヨブコヱヲ》。聞之登聞思佐《キクガトモシサ》。
 
吉(ノ)字、舊本古に誤、○猪養《ヰカヒ》の山は、二(ノ)卷に出(シ)て註す、○登聞思佐《トモシサ》は、面白さと云むが如し、その面白さ、いふかぎりなし、といふ意なり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
巫部麻蘇娘子《カムコベノマソヲトメガ》。雁歌一首《カリノウタヒトツ》。
 
1562 誰聞都《タレキヽツ》。從此間鳴渡《コヨナキワタル》。雁鳴乃《カリガネノ》。嬬呼音乃《ツマヨブコヱノ》。乏知左寸《トモシキマデニ》。
 
誰聞都《タレキヽツ》は、誰が聞つらむと云むが如し、都《ツ》の下に、良武《ラム》の言を、假に加へて聞べし、さて上に、誰《タレ》とあるからは、聞都良武《キヽツラム》、或は聞都留《キヽツル》など云こと、?爾乎波《テニヲハ》のとゝのひの定(リ)なれど、此(ノ)歌は偏格にとゝのへて、良武《ラム》の言を、都《ツ》の下に假に加へて、聞べくいひたるものなり、此(ノ)例は、伊勢物語塗籠本に、いづこまでおくりはしつと人とはゞあかぬ別れの涙川まで、とあるに同じ、これもおくりはしつらむ、といふべきを、つととゝのへて、らむの言は、假に加へてきくべくいひたるものなり、くはしくは、余が歌詞三格例といふものを見て考ふべし、(しかるを、岡部氏が都は跡(ノ)字の誤にて、タレキケト〔五字右○〕とありしなるべし、といへるは、ひがことなり、さるは誰《タレ》といひて、都《ツ》と結《トヂ》むべからぬことなり、と思へるより、しか云るなるべけれど、其は常格のみを(36)思ひて、偏格の例をまで、ふかくたどらざりしかたおちなり、そも/\此(ノ)歌は、鴈の妻呼を主として鳴る趣にて、人に聞するを主として、鳴よしにはならず、人の聞はおのづからのことにこそあれ、設て聞するよしは、さらになきことなり、しかるを誰聞跡《タレキケト》とありては、人に聞(カ)するを主として、鳴るよしにきこゆるを、末にいたりては、妻呼を主として、鳴る趣なれば、しかするときは、たちまち本末|支離《クダケ》てきこゆるをや、)されば和《コタ》へたる歌にも、聞津哉登妹之問勢流《キヽツヤトイモガトハセル》、とはいへるなり、(誰聞跡《タレキケト》にては、和歌にもかけあはぬことなるをや、)十(ノ》卷に、宇能花乃咲落岳從霍公鳥鳴而沙渡公者聞津八《ウノハナノサキチルヲカユホトヽギスナキテサワタルキミハキヽツヤ》、とありて、聞津八跡君之問世流霍公鳥小竹野爾所沾而從此鳴綿流《キヽツヤトキミガトガハセルホトヽギスシヌヌニヌレテコヨナキワタル》と云る、考(ヘ)合(ス)べし、○從此間鳴渡《コヨナキワタル》は、こゝを鳴わたると云意なり、上に出つ、○乏知左寸は、誤字なり、(岡部氏は、去方不令知《ユクヘシラセズ》とありしを、誤脱せるものなり、と云れど非ず、)本居氏の、乏蜘在可《トモシクモアルカ》の誤ぞといへりしは、さることながら、猶考(フ)るに、知は右の草書を知と見て誤り、寸は爾の草書を寸と見て誤り、さて左右を又下上に誤れるにて、乏左右爾《トモシキマデニ》とありしなり、九(ノ)卷に、妹當衣刈音夕霧《イモガアタリコロモカリガネユフキリニ》、來鳴而過去及乏《キナキテスギヌトモシキマデニ》、十(ノ)卷に、久方之天漢原丹奴延鳥之裏歎座津乏諸手二《ヒサカタノアマノカハラニヌエトリノウラナゲマシツトモシキマデニ》、などあるを、考(ヘ)合(ス)べし、○歌(ノ)意は、鴈が音の、嬬呼聲のはる/”\きこえて、此間の空を鳴渡るが、感を催さるゝまでおもしろきを、誰か聞つらむ、さだめて心ある君こそ、先(ヅ)聞給ふなるらめ、いかできかせ給へ、といひたるよしなり、さてこそ和歌に、聞津哉登《キヽツヤト》云々とは、いはれたるなれ、
 
(37)大伴家持和歌一首《オホトモノヤカモチガコタフルウタヒトツ》。
 
1563 聞津哉登《キヽツヤト》。妹之問勢流《イモガトハセル》。雁嶋者《カリガネハ》。眞毛遠《マコトモトホク》。雲隱奈利《クモガクルナリ》。
 
歌(ノ)意は、吾(ガ)聞つるやいかに、さだめて聞しならむと、わざ/\妹が問給ふ鴈が音は、げにも雲居はるかに鳴ひゞきて、感を催せしぞ、となり、枕冊子に、鴈の聲は、遠く聞えたるあはれなり、とあり、思(ヒ)合(ス)べし、
 
日置長枝娘子歌一首《ヘキノナガエヲトメガウタヒトツ》。
 
日置(ノ)長妓娘子は、傳未(ダ)詳ならず、日置はヘキ〔二字右○〕と唱(ヘ)しが、後(ノ)世にも、日置とかく氏ありて、ヘキ〔二字右○〕と唱ふるなり、和名抄に、伊勢國一志(ノ)郡日置、(比於木《ヒオキ》、越後(ノ)國蒲原(ノ)郡日置、(比於木《ヒオキ》、)但馬(ノ)國氣多(ノ)郡日置(比於木《ヒオキ》、)などあるは、後に字に就たる唱(ヘ)か、又能登(ノ)國珠洲(ノ)郡日置、(比伎《ヒキ》)とあり、弊伎《ヘキ》にても比伎《ヒキ》にても、置(ノ)字は伎《キ》なり、置を伎《キ》と云は、稻置《イナキ》など云如く、古(キ)唱(ヘ)なるべし、本居氏も、古事記應仁天皇(ノ)條に、是(ノ)大山守(ノ)命者、土形(ノ)君、弊伎《ヘキノ》君、榛原(ノ)君等之祖也、とあるに依(リ)て、弊伎《ヘキ》と云ぞ、正しき唱(ヘ)なるべき、と云り、(但し弊伎《ヘキ》と云が本ならば、日置と書こと、いかなるよしにか、所由《ユヱ》ある文字なるべし、)
 
1564 秋付者《アキヅケバ》。尾花我上爾《ヲバナガウヘニ》。置露乃《オクツユノ》。應消毛吾者《ケヌベクモアハ》。所念香聞《オモホユルカモ》。
 
歌(ノ)意は、身も消失(ヌ)べきばかりに物思(ヒ)をする事哉、さてもくるしや、となり、本(ノ)三句は全(ラ)序なり、
 
(38)大伴家持《オホトモノヤカモチカ》和〔□で囲む〕|歌一首《ウタヒトツ》。
 
和(ノ)字は、衍なり、
 
1565 吾屋戸乃《ワガヤドノ》。一村芽子乎《ヒトムラハギヲ》。念兒爾《オモフコニ》。不令見殆《ミセズホト/\》。令散都類香聞《チラシツルカモ》。
 
殆《ホト/\》は、本居氏、言(ノ)意は、邊々《ホトリ/\》にて、其(ノ)近き邊《ホトリ》まで至る意なり、と云う、此は散す邊《ホトリ》まで至りつる、といふ意なり、(俗語にしていはゞあぶないことちらしをつた、と云意なり、)さてこの殆《ホト/\》と云言は、物を爲畢ぬ内のことにいふことなれば、殆散しぬべき、あるは殆散しなむ、などやうに、いふべきことゝおもはるゝに、(三(ノ)卷に、吾盛復將變八方殆寧樂京師乎不見歟將成《ワガサカリマタヲチメヤモホト/\ニナラノミヤコヲミズカナリナム》、源氏物語は、翁もほと/\舞出ぬべき、などいへる類なり、)七(ノ)卷に、三幣取神之祝我鎭齋杉原燎木
 伐殆之國手斧所取奴《ミヌサトリカミノハフリガイハフスギハラタキギキリホト/\シクニテヲノトラエヌ》、十(ノ)卷に、春之在者酢輕成野之霍公鳥保等穂跡妹爾不相來爾家里《ハルサレバスガルナスヌノホトヽギスホトホトイモニアハズキニケリ》、十五に、可敝里家流比等伎多禮里等伊比之可婆保等保登之爾吉君香登於毛比弖《カヘリケルヒトキタレリトイヒシカバホトホトシニキキミカトオモヒテ》、などあれば、殆《ホト/\》散しつる、殆《ホト/\》とらえぬ、殆《ホト/\》來にけりとやうにいふも、古言なり、(殆所取奴《ホト/\トラエヌ》は、あぶないこととられをつた、殆來爾家里《ホト/\キニケリ》は、あぶないこと來をつた、といふこゝろなり、)○歌(ノ)意は、吾(ガ)庭の一群はぎの、おもしろく咲るを、思ふその女に得見せずして、あたら危《アヤ》ふきこと散失らしつる哉、今日見に來ずば、明日は地に散はてぬべきを、よくこそ見に來つ、とよろこべるなり、
 
大伴家持秋歌四首《オホトモノヤカモチガアキノウタヨツ》。
 
(39)1566 久竪之《ヒサカタノ》。雨間毛不置《アママモオカズ》。雲隱《クモガクリ》。鳴曾去奈流《ナキゾユクナル》。早田雁之哭《ワサダカリガネ》。
 
雨間毛不置《アママモオカズ》は、雨の零(ル)間も息(メ)ずの意なり、此(ノ)上霍公鳥(ノ)歌に、既く委(ク)云り、○早田鴈之哭《ワサダカリガネ》は、田を刈といひかけたるのみなり、此(ノ)上にもよめり、○歌(ノ)意は、雨のふる間は息ふべきに、時節と云(ヘ)ば、雨のふるをもいとはずて、雲居はるかに、鴈が鳴てぞ行なる、となり、
 
1567 雲隠《クモガクリ》。鳴奈流雁乃《ナクナルカリノ》。去而將居《ユキテヰム》。秋田之穗立《アキタノホダチ》。繁之所念《シゲクシオモホユ》。
 
歌(ノ)意は、繁く透間もなく一(ト)すぢに人の戀しくおもはるゝ、となり、第四(ノ)句までは全(ラ)序なり.
 
1568 雨隱《アマゴモリ》。情欝悒《コヽロイフセミ》。出見者《イデミレバ》。春日山者《カスガノヤマハ》。色付二家利《イロヅキニケリ》。
 
歌(ノ)意は、雨の晴間なくて、家の内にのみ隱りてをれば、心がふさがりむすぼゝれたる故に、もし心をなぐさむこともあらむかと、家を出てみれば、物あはれに、かなしき秋としられて、春日(ノ)山は色付にけり、となり、上に、隱耳居者欝悒奈具左武登出立聞者來鳴日晩《コモリノミヲレバイフセミナグサムトイデタチキケバキナクヒグラシ》、
 
1569 雨晴而《アメハレテ》。清照有《キヨクテリタル》。此月夜《コノツクヨ》。又更而《マタサラニシテ》。雲勿田菜引《クモナタナビキ》。
 
歌(ノ)意かくれたるところなし、雨晴のきて清く照たる月に、又再び雨雲の覆ひ來むことを、恐れていへるなり、
〔右四首。天平八年丙子秋九月作。〕
 
藤原朝臣八束歌二首《フヂハラノアソミヤツカヾウタフタツ》。
 
(40)1570 此間在而《コヽニアリテ》。春日也何處《カスガヤイヅク》。雨障《アマツヽミ》。出而不行者《イデテユカネバ》。戀乍曾乎流《コヒツヽゾヲル》。
 
歌(ノ)意は、此間にありて、春日山やいづくなるらむ、遠き方にあるなるべし、雨に障られて出て行て其(ノ)山を見ることかなはねば、唯其(ノ)山の黄葉のけしきをのみ、戀しく思ひつゝをる、となり、三(ノ)卷に、此間爲而家八方何處白雲乃棚引山乎超而來二家里《コヽニシテイヘヤモイヅクシラクモノタナビクヤマヲコエテキニケリ》、四(ノ)卷に、此間有而筑紫也何處白雲乃棚引山之方西有良思《コヽニアリテツクシヤイヅクシラクモノタナビクヤマノカタニシアルラシ》、
 
1571 春日野爾《カスガヌニ》。鐘禮零所見《シグレフルミユ》。明日從者《アスヨリハ》。黄葉頭刺牟《モミチカザヽム》。高圓乃山《タカマトノヤマ》。
 
者(ノ)字、一本に夜と作り、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
大伴家持白露歌一首《オホトモノヤカモチガシラツユノウタヒトツ》。
 
1572 吾屋戸乃《ワガヤドノ》。草花上之《ヲバナガウヘノ》。白露乎《シラツユヲ》。不令消而玉爾《ケタズテタマニ》。貫物爾毛我《ヌクモノニモガ》。
 
草花は、ヲバナ〔三字右○〕なり、十卷、十六にもかく書り、集中に、草(ノ)字をカヤ〔二字右○〕と訓り、カヤ〔二字右○〕は薄《スヽキ》をいふ、されば、草《カヤ》の花てふ意にて、ヲバナ〔三字右○〕とは訓ことなり、(さる意をも得しらずて、岡部氏の、草は葛に誤にて、クズバナガウヘノ〔八字右○〕なるべきか、といひ、又或人は、草は尾の草書より、寫誤れるものなるべし、といへるは、大《イミ》じき非《ヒガコト》なり、)○歌(ノ)意は、吾(ガ)庭のをばながうへにおきたる、白露のおもしろさを、其(ノ)まゝ消《キヤ》さずして、まことの玉にして、貫べきものにもがなあれかし、となり、枕冊子に、あはれなるもの、云々、秋ふかき庭のあさぢに、露の色々玉のやうにひかりたる、云々、此(ノ)歌後(41)撰集に出(ツ)、
 
大伴利上歌一首《オホトモノムラカミガウタヒトツ》。
 
大伴(ノ)利上、契冲云、利は村の誤なるべし、村上が傳は、上(ノ)卷に云う、
 
1573 秋之雨爾《アキノアメニ》。所沾乍居者《ヌレツヽヲレバ》。雖賤《イヤシケド》。吾妹之屋戸志《ワギモガヤドシ》。所念香聞《オモホユルカモ》。
 
雖賤《イヤシケド》は、此(ノ)歌、旅にありてよめるなるべし、故(レ)吾(ガ)郷の家を云なるべし、○歌(ノ)意は、旅にありて、秋(ノ)雨にあひて、くるしきめをみれば、いやしくはあれど吾(ガ)妹がすむ吾(ガ)宅の、一(ト)すぢに戀しくおもはるゝ事哉、となり、
 
右大臣橘家宴歌七首《ミギノオホマヘツキミタチバナノイヘニテウタゲスルウタナヽツ》。
右大臣は、諸兄公なり、御傳は六(ノ)卷(ノ)下に委(ク)云り、
 
1574 雲上爾《クモノヘニ》。鳴奈流雁之《ナクナルカリノ》。雖遠《トホケドモ》。君將相跡《キミニアハムト》。手回來津《タモトホリキツ》。
 
歌(ノ)意は、道の間遠くはあれども、偏(ヘ)に君に相見奉らむと思へばこそ、此處彼處《ココカシコ》曲り廻りて、辛苦《カラク》して來つるなれ、となり、本は序なり、
 
1575 雲上爾《クモノヘニ》。鳴都流雁乃《ナキツルカリノ》。寒苗《サムキナベ》。芽子乃下葉者《ハギノシタバハ》。黄變可毛《モミチツルカモ》。
 
歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
(42)此(ノ)下に作者の名を脱せるならむ、
 
1576 此岳爾《コノヲカニ》。小牡鹿履起《ヲシカフミオコシ》。宇加※[泥/土]良比《ウカネラヒ》。可聞可開爲良久《カモカモスラク》。君故爾許曾《キミユヱニユソ》。
 
宇加※[泥/土]良比《ウカネラヒ》は、うかゞひねらふ意なり、十(ノ)卷に、窺良布跡見山雪之《ウカネラフトミヤマユキノ》、とよめり、推古天皇(ノ)紀に、間諜者《ウカミヒト》、天武天皇(ノ)紀に、處々置v候《ウカミヲ》などあり、これらのうかみもうかゞふ意なり、此(レ)までは、次(ノ)句を云む料の序なり、○可聞可開爲良久は、楫取(ノ)彦魚云(ク)、開は聞の誤なり、カモカモスラク〔七字右○〕と訓べし、と云り、可聞可聞《カモカモ》は左右《カモカモ》なり、かもかくもと云が如し、かもかくもといふべき處を、カモカモ〔四字右○〕といへること、集中にあり、おほならば左右《カモカモ》せむを、などもよめり、(可聞可閇居良久《カモカヘヲラク》の誤とし、又|萬智乍居良久《マチツヽヲラク》の誤とする説は、みなしひ言なり、)かもかくもは、後にともかうもといふに同じ、こゝはともかうもする事は、と云むが如し、○君故爾許曾《キミユエニコソ》は、君がゆゑによりてこそ、といはむが如し、○歌(ノ)意は、色々に心をいたつきて、ともかうもする事は、深く思ひ奉れる君がゆゑによりてこそ、かくはすなれ、となり、契冲云、此(ノ)對馬(ノ)朝臣は、ことに右大臣を頼みける人にや、第六に、天平十年秋八月二十日、右大臣の宴席にてよまれたる歌あり、大帳などをもちて、のぼられける時なるべし、今も七首の終の註をみるに、第六にあると、同日の歌なり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。長門守巨曾倍朝臣津島《ナガトノカミコソベノアソミツシマ》。
 
巨曾倍(ノ)朝臣津島(巨、舊本に臣に誤、津、六(ノ)卷には對と作り、)の傳は、六(ノ)卷(ノ)下に云(ヘ)り、
 
(43)1577 秋野之《アキノヌノ》。草花我末乎《ヲバナガウレヲ》。押靡而《オシナベテ》。來之久毛知久《コシクモシルク》。相流君可聞《アヘルキミカモ》。
 
來之久毛知久《コシタモシルク》は、九(ノ)卷に、欲見來之久毛知久《ミマクホリコシクモシルク》、とあり、來し事のかひありて、といはむが如し、之久《シク》は、過にし方の事をいふ言なり、四(ノ)卷(ノ)下に委(ク)云り、知久《シルク》は驗《シル》くにて、かひありての意なり、○歌(ノ)意は、秋の野の草花《ヲバナ》が末《ウレ》を押靡かせ、辛苦《カラ》く艱難《ナヅミ》て來し事のかひありて、相へる君我、さてさてよろこばしき今日ぞ、となり、
 
1578 今朝鳴而《ケサナキテ》。行之雁鳴《ユキシカリガネ》。寒可聞《サムミカモ》。此野乃淺茅《コノヌノアサヂ》。色付爾家類《イロヅキニケル》。
 
歌(ノ)意は、今朝鳴て行し鴈が音の寒くて、霜などもふれる故にや、此(ノ)野の淺茅の色付にけるならむ、さても見事なるけしきや、となり、
 
右二首《ミギノフタウタハ》。阿部朝臣蟲麻呂《アベノアソミムシマロ》。
 
阿部(ノ)朝臣蟲麻呂(阿(ノ)字、四卷には安と作り、)の傳は、四(ノ)卷(ノ)下にいへり、
 
1579 朝扉開而《アサトアケテ》。物念時爾《モノモフトキニ》。白露乃《シラツユノ》。置有秋芽子《オケルアキハギ》。所見喚鷄本名《ミエツツモトナ》。
 
喚鷄《ツツ》は、にはとりを呼に、今はとゝといへど、むかしはつゝといひけむ故にかけり、○歌(ノ)意は朝戸開て、興(キ)出てほれ/”\と物思をする時に、心なくむざ/\と、白露のおける秋はぎの、見るとなけれど見えつゝ、秋のあはれのもよほされて、いとゞ物を思はする、となり、
 
1580 棹牡鹿之《サヲシカノ》。來立鳴野之《キタチナクヌノ》。秋芽子者《アキハギハ》。露霜負而《ツユシモオヒテ》。落去之物乎《チリニシモノヲ》。
 
(44)落去之物乎《チリニシモノヲ》は、例の意の含めたる詞なり、秋芽子は散すぎにしものを、なにをか今よりは愛賞《メデ》にせむ、といふほどの意なり、(略解に、このものをの詞、輕く心得べし、と云るは、非なり、)○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
右二首《ミギノフタウタハ》。文忌寸馬養《アヤノイミキウマカヒ》。
 
馬養は、續紀に元正天皇、靈龜二年四月癸丑詔、壬申(ノ)年(ノ)功臣、贈正四位上文(ノ)忌寸|彌麻呂《イヤマロノ》息、正七位下馬養等一拾人(ニ)賜(コト)v田(ヲ)各有v差、聖武天皇、天平九年九月己亥、正六位上文(ノ)忌寸馬養等(ニ)授2外從五位下1、十二月丙寅、授2外從五位上(ヲ)1、十年閏七月發卯、爲2主税(ノ)頭(ト)1、十七年九月戊午、爲2筑後(ノ)守(ト)1、孝謙天皇、寶字元年六月壬辰、爲2鑄餞(ノ)長官(ト)1、二年八月庚子朔、授2從五位下(ヲ)1、と見えたり、
〔天平十年戊寅秋八月二十日。〕
これは上につくべし、六(ノ)卷に、天平十年秋八月二十日宴2右大臣橘家1歌四首、とあると全(ラ)同日なり、
 
橘朝臣奈良麻呂《タチバナノアソミナラマロガ》。結集宴歌十一首《ウタゲスルトキノウタトヲマリヒトツ》。
 
橘(ノ)朝臣奈良麻呂の傳は、六(ノ)卷(ノ)下橘宿禰奈良磨、とある處に、委(ク)云り、續紀に、天平勝寶二年、橘(ノ)宿禰諸兄(ニ)賜2朝臣(ノ)姓(ヲ)1、と見ゆ、是はそれよりも前のことなれば、朝臣とせるは、後にめぐらして、記せるものなり、
 
(45)1581 不手折而《タヲラズテ》。落者惜常《チラバオシミト》。我念之《アガモヒシ》。秋黄葉乎《アキノモミチヲ》。挿頭鶴鴨《カザシツルカモ》。
 
落者惜常は、チラバヲシミト〔七字右○〕と訓べし、(チリナバヲシト〔七字右○〕とよめるはわろし、)散ばをかしからむとの意なり、○歌(ノ)意は、折取ぬ内に散失なば、いかに後悔しく惜からむ、と思ひし黄葉を、今日の宴席にかざしつる哉、さても見事の黄葉や、となり、
 
1582 希將見《メヅラシキ》。人爾令見跡《ヒトニミセムト》。黄葉乎《モミチバヲ》。手折曾我來師《タヲリソアガコシ》。雨零久仁《アメノフラクニ》。
 
希將見(希(ノ)字、舊本布と作るは誤なり、今改(ツ)、)は、メヅラシキ〔五字右○〕なり、十(ノ)卷、十二にも如此《カク》あり、米豆良志《メヅラシ》は愛《ウツク》しき意なり、希に見る物は、殊に愛《ウツク》しまるゝより、かく書るなり、神功皇后(ノ)紀に、云々皇后|曰《ノリタマヘリ》2奇見物(ナリト)1也、希見此云2毎豆邏志《メヅラシト》1、履中天皇(ノ)紀に、希有《メヅラシ》、崇峻天皇紀に、此犬世(ニ)希見聞《メヅラシ》、靈記に、奇(ハ)メヅラシク、又|阿也《アヤ》シ支《キ》、字鏡に、貨(ハ)女豆良志《メヅラシ》、などあり、又佛足石碑(ノ)歌には、米太志《メダシ》などあり、(メダシ〔三字右○〕は、メヅラシ〔四字右○〕の約れるなり、ヅラ〔二字右○〕の切はダ〔右○〕となれり、)○零久仁《フラクニ》は、布留仁《フルニ》の伸りたる詞なり、布留《フル》を布良久と伸云(ル)は、その物の緩なるを云り、緩なるは、その物の絶間なく、引つゞきて物するよしなり、○歌(ノ)意は、愛《メヅラ》しき人に見せむが爲にとて、雨の絶間なくふるに、からうして、この黄葉を折取て來しぞ、となり、
 
右二首《ミギノフタウタハ》。橘朝臣奈良麻呂《タチバナノアソミナラマロ》。
 
1583 黄葉乎《モミチバヲ》。令落鐘禮爾《チラスシグレニ》。所沾而來而《ヌレテキテ》。君之黄葉乎《キミガモミチヲ》。挿頭鶴鴨《カザシツルカモ》。
 
(46)君之黄葉《キミガモミチ》は、君が家の黄葉と云むが如し、○歌(ノ)意かくれたるところなし、しぐれにぬれてきて、かざすとのたまふは、心ある君の家のもみぢを、賞翫《メヅ》る意の深切《フカ》きよしなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。久米女王《クメノオホキミ》。
 
久米女王は、續紀に、聖武天皇天平十七年正月乙丑、無位久米(ノ)女王(ニ)授2從五位下(ヲ)1、を見ゆ、
 
1584 希將見跡《メヅラシト》。吾念君者《アガモフキミハ》。秋山《アキヤマノ》。始黄葉爾《ハツモミチバニ》。似許曾有家禮《ニテコソアリケレ》。
 
歌(ノ)意は、愛《メヅラ》しと吾(ガ)思ふ君を、何にかはなぞらへむ、たとへば、今見る秋山の初紅葉に似て、みれどもあかず、うるはしくこそありけれ、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。長忌寸娘《ナガノイミキガムスメ》。
 
長(ノ)忌寸(カ)娘は、傳未(ダ)詳ならず、
 
1585 平山乃《ナラヤマノ》。峰之黄葉《ミネノモミチバ》。取者落《トレバチル》。鐘禮能雨師《シグレノアメシ》。無間零良志《マナクフルラシ》。
 
取者落《トレバチル》は、甚《イト》微《モロ》きをいへり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。内舍人縣犬養宿禰吉男《ウチトネリアガタノイヌカヒノスクネヨシヲ》。
 
吉男は、續紀に、孝謙天皇寶字二年八月庚子朔、正六位上縣(ノ)犬養(ノ)宿禰吉男(ニ)授2從五位下(ヲ)1、五月壬午、爲2肥前(ノ)守(ト)1、廢帝寶字八年十月己丑、爲2伊豫(ノ)介(ト)1、と見えたり、
 
1586 黄葉乎《モミチバヲ》。落卷惜見《チラマクヲシミ》。手折來而《タヲリキテ》。今夜挿頭津《コヨヒカザシツ》。何物可將念《ナニカオモハム》。
 
(47)歌(ノ)意は、黄葉の散失なむ事の惜さに、折(リ)取(リ)來て、今夜の宴席にてかざしつれば、今は何か思はむ、かく心だらひなれば、他に物思(ヒ)はなし、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。縣犬養宿禰持男《アガタノイヌカヒノスクネモチヲ》。
 
持男は、傳未(ダ)詳ならず、吉男が近族なるべし、
 
1587 足引乃《アシヒキノ》。山之黄葉《ヤマノモミチバ》。今夜毛加《コヨヒモカ》。浮去良武《ウカビユクラム》。山河之瀬爾《ヤマガハノセニ》。
 
歌(ノ)意は、契冲云、山のもみぢを賞翫すべき人は、この宿にあつまりて、こゝに賞すれば、山のもみぢは、見る人なしに、谷川の水にちりうきてやいぬらむ、とおもひやるなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。大伴宿禰書持《オホトモノスクネフミモチ》。
 
1588 平山乎《ナラヤマヲ》。令丹黄葉《ニホフモミチバ》。手折來而《タヲリキテ》。今夜挿頭都《コヨヒカザシツ》。落者雖落《チラバチルトモ》。
 
令丹は、ニホフ〔三字右○〕と訓べし、ニホフ〔三字右○〕と訓て、令《ハス》v丹《ニホ》意となるは、令v響をトヨム〔三字右○〕、令v靡をナビク〔三字右○〕といふと、全(ラ)同例なり、(舊訓には、ニホス〔三字右○〕とあり、これも古言か、十六に、墨江之遠里小野之眞榛持丹穗之爲衣丹《スミノエノヲリノヲヌノマハリモチニホシシキヌニ》、とよめり、)○落者雖落《チラバチルトト》は、よしや今はちらばちりぬとも、うらめしくはあらじ、といふなり、古今集に、ひと目みし君もやくると櫻花けふは待見てちらばちらなむ、とあり、)○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。三手代人名《ミテシロノヒトナ》。
 
(48)三手代(ノ)人名(三、舊本に之に誤、今は一本に從(ツ)、)は、傳未(ダ)詳ならず、續紀に、聖武天皇天平二十年七月丙戌、從五位下大倭(ノ)御手代(ノ)連麻呂女(ニ)賜2宿禰(ノ)姓(ヲ)1、と見ゆ、一族か、
 
1589 露霜爾《ツユシモニ》。逢有黄葉乎《アヘルモミチヲ》。手折來而《タヲリキテ》。妹挿頭都《イモトカザシツ》。後者落十方《ノチハチルトモ》。
 
妹《イモ》とは、宴席に出あひたる、侍女などをいふならむ、○歌(ノ)意かくれなし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。秦許遍麻呂《ハタノコベマロ》。
 
許遍麻呂(遍(ノ)字、官本、水戸本等には、部と作り、)は、傳未(タ)詳ならず、續紀に、勝寶二年正月乙巳、正六位上秦(ノ)忌寸首麻呂(ニ)授2外從五位下(ヲ)1、と見えたり、一族か、
 
1590 十月《カミナツキ》。鐘禮爾相有《シグレニアヘル》。黄葉乃《モミチバノ》。吹者將落《フカバチリナム》。風之隨《カゼノマニ/\》。
 
十月、可美那月《カミナツキ》といふこと、むかしより種々の説あれども、みな理に泥みて、ひとつも詳《サダカ》なるはなし、(詞花集に、曾禰(ノ)好忠、何事も行て祈らむと思ひしに神無月にも成にける哉、とあるは、興にまうけて云るなるべし、下學集に、十月(ニ)諸神皆集(ル)2出雲(ノ)大社(ニ)1、故云2神無月(ト)1也、出雲(ノ)國(ニハ)神有月(ト)云也、とある如く、其(ノ)謂にて云ことゝ、後(ノ)世はなべて思へることなれど、諸國に一日も神|在《イマサ》ずしては、あり經ることならぬ理なるをや、しかれども此説は、中昔に、人の妄に作出たることにはあらじ、所以あることゝは思はるゝことなり、別に委(ク)論へり、)大神(ノ)景井は、稻は九月にもはら刈(リ)收(レ)て、十月に酒に造る故に、釀成《カミナシ》月といふならむ、釀成は、十六に、味飯を水に釀成吾(カ)待(49)しかひはかつてなし、とよめる、釀成《カミナシ》は、酒に造ることなれば、さる所由《ヨシ》ならむ、と云り、○歌(ノ)意は、十月の驟雨《シグレ》にあひて、甚《イト》微《モロ》くなれるもみぢなれば、風吹來らば、その風のまゝに散失なむぞ、となり、(契冲云、下(ノ)句は、ともかくも君にしたがはむの意なり、げにも奈良麻呂、寶字元年に謀反のやうのことありしときに、此(ノ)歌ぬしも方人をせられける、倭歌も詩文も兼たる人とみゆるを、惜むべきことなり、)
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。大伴宿禰池主《オホトモノスクネイケヌシ》。
 
1591 黄葉乃《モミチバノ》。過麻久惜美《スギマクヲシミ》。思共《オモフドチ》。遊今夜者《アソブコヨヒハ》。不開毛有奴香《アケズモアラヌカ》。
 
過麻久惜美《スギマクヲシミ》は、散過む事の惜き故にの意なり、○不開毛有奴香《アケズモアラヌカ》は、いかで不v開もあれかし、と願ふ心なり、(後の歌の格にていはゞ、あけずもあらなむと云に似て、詞強し、)この言のこと、既く具(ク)云り、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。内舍人大伴宿禰家持《ウチトネリオホトモノスクネヤカモチ》。
〔以前冬十月十七日。集2於右大臣橘卿之舊宅1宴飲也。〕
冬十月は、天平十年なり、
 
大伴坂上郎女《オホトモノサカノヘノイラツメガ》。竹田庄作歌二首《タケタノタドコロニテヨメルウタフタツ》。
 
1592 然不有《モダアラズ》。五百代小田乎《イホシロヲタヲ》。苅亂《カリミダリ》。田廬爾居者《タフセニヲレバ》。京都所念《ミヤコシオモホユ》。
 
(50)然不有は、然は黙(ノ)字の誤なり、と岡部氏云り、モダアラズ〔五字右○〕とよむべし、黙止《モダシ》てあらずと云意なり、(俗に、だまつてをらずといふが如シ、)さてこれは枕詞なり、五百《イホ》とつゞくは黙止《モダリ》て在ず云といふ意ナり、いふをいほに轉して連ねしなり、ふ〔右○〕とほ〔右○〕とは、親(ク)通ふ例なり、集中に、延《ハフ》を波保《ハホ》、負《オフス》を於保須《オホス》、逢《アフ》を阿保《アホ》、思《オモフ》を於母抱《オモホ》、戀《コフ》を許保《コホ》と云る類なり、又和名抄に、※[木+力](ハ)和名|阿布古《アフコ》、とあるを、字鏡には、阿保己《アホコ》とあるをも、考(ヘ)合すべし、○五百代小田《イホシロヲダ》は、かぎりなくひろき田のよしなり、代《シロ》は、七十二歩を十代とすと云り、書紀には、頃(ノ)字をもシロ〔二字右○〕とよめり、拾芥抄に、方六尺(ヲ)爲2一歩(ト)1云々、積2七十二歩(ヲ)1爲2十代《ソシロト》1、百四十歩(ヲ)爲2二十代(ト)1云々、五十代(ヲ)爲2一段(ト)1、と見えたり、○苅亂は、稻穗を刈(リ)干(ス)とて、縱横に亂るを、業の繁きにそへたり、○田廬《タブセ》は、十六に、可流羽須波田廬乃毛等爾《カルウスハタブセノモトニ》、とある歌の註に、田廬者(ハ)多夫世也、とあり、五(ノ)卷に、布勢伊保能麻宜伊保乃内爾《フセイホノマゲイホノウチニ》、とよめり、田ぶせは、田をまもるふせやなり、○歌意は、五百代《イホシロ》と廣き田の稻を、刈干業はふとて、月日久しく竹田の田庄のふせ屋に居れば、一(ト)すぢに京師が戀しく思はるゝ、となり、
 
1593 隱口乃《コモリクノ》。始瀬山者《ハツセノヤマハ》。色附奴《イロヅキヌ》。鐘禮乃雨者《シクレノアメハ》。零爾家良思母《フリニケラシモ》。
 
歌意かくれたるところなし、
〔右天平十一年己卯秋九月作。〕
 
佛前唱歌一首《ホトケノマヘニテウタフウタヒトツ》。
 
(51)1594 思具禮能雨《シグレノアメ》。無間莫零《マナクナフリソ》。紅爾《クレナヰニ》。丹保敝流山之《ニホヘルヤマノ》。落卷惜毛《チラマクヲシモ》。
 
歌(ノ)意は、紅ににほへる山の紅葉の、散失なむ事のさても惜や、※[雨/衆]雨の雨は、いかで隙なくしげくふることなかれ、となり、
 
右冬十月《ミギカミナツキ》。皇后宮之維摩講《キサキノミヤノユヰマコウニ》。終日《ヒネモス》供2養《ツカヘマツリ》大唐高麗等種種音樂《モロコシコマラノクサグサノウタマヒヲ》1。爾乃《スナハチ》唱《ウタフ》2此謌詞《コノウタヲ》1。彈琴者《コトヒキハ》。市原王《イチハラノオホキミ》。忍坂王《オサカノオホキミ》。【後賜2姓大原眞人赤麻呂1也。】 歌子者《ウタヒトハ》。田口朝臣家守《タクチノアソミヤカモリ》。河邊朝臣東人《カハベノアソミアヅマヒト》。置始連長谷等十數人也《オキソメノムラジハツセラトタリマリノヒトナリ》。
 
皇后は、光明皇后なり、○維摩講は、契冲云、大織冠のはじめ給ひて、後まで名高き大會なり、孝謙天皇(ノ)紀(ニ)云、寶字元年閏八月壬戊、紫微内相藤原(ノ)朝臣仲麻呂等言(ス)、臣聞(ク)云々、緬《ハルカニ》尋(ルニ)2古記《ヲ》1、淡海(ノ)大津(ノ)宮御宇皇帝、功田一百町、賜2臣(カ)曾祖藤原(ノ)内大臣(ニ)1、云々、今有2山階寺(ニ)維摩會1者、是(レ)内大臣之所v起(ル)也、願主乘v化(ニ)三十年間、無3人紹2興此會(ヲ)1中(ゴロ)廢(セリ)、乃至2藤原(ノ)朝廷(ニ)1、胤子太政大臣、更(ニ)發2弘誓(ヲ)1、追(テ)繼2先行(ヲ)1、則以2毎年冬十月十日(ヲ)1始(テ)闢2勝筵(ヲ)1、至(テ)2於内大臣(ノ)忌辰(ニ)1終(ニ)爲v講(ヲ)了、云々、伏(テ)願以2此功田(ヲ)1、永(ク)施2其(ノ)寺(ニ)1、助2維摩會(ヲ)1、彌々令(テ)2興隆(セ)1、遂(ニ)使(ム)d内大臣之洪業(ヲ)、與2天地1而長(ク)傳(ヘ)1、皇太后之英聲(ヲ)倶2日月1而遠(ク)照u云々、勅報(シテ)曰、備(ニ)省(ルニ)2來表(ヲ)1、報徳惟深(シ)、勸學(ノ)津梁1、崇法(ノ)師範、朕與2卿等1共(ニ)植2茲(ノ)因(ヲ)1、宜(シ)d告2所司(ニ)1令c施行(セ)u、(元亨釋書二十(ニ)云、齊明天皇三年十月、鎌子於2山州陶原(ノ)家(ニ)1、創2山階(ノ)精舍(ヲ)1、設2維摩齋會(ヲ)1、維摩會自v此始、)内藏省式(ニ)云、凡興福寺維摩會施料、調(ノ)綿六百屯、寮毎(ニ)v年送2彼(ノ)寺(ニ)1、玄蕃式(ニ)云、凡毎v年起2正月八日1、迄2于十四日(ニ)1、於2大極(52)殿(ニ)1設v齋(ヲ)、講2説金光明最勝王經(ヲ)1云々、其講師者、經2興福寺維摩會講師(ヲ)1者使v請之、凡興福寺維摩會、十月十曰始十六日終云々、凡興福藥師兩寺、維摩最勝會、竪義及第僧等叙2滿位1者、寺別惣録交名連2載一紙(ニ)1、僧綱共署(シテ)申v官(ニ)、〔頭註、【年中行事秘抄に、式部丞和抄云、上宣云、不参維摩會、藤氏六位、須v奪2春夏季禄1、戊子舊誤2戊午1、從2古寫本1、】〕○彈琴は、音樂の時に琴を彈人なり、四時祭式に、官人以下装束(ノ)料云々、彈琴《ミコトヒキ》二人、云々、各賜2青摺(ノ)袍一領袴一腰(ヲ)1、大甞祭式に、凡齋服者云々、神祇官(ノ)伯以下、彈琴以上十三人、各榛藍摺(ノ)錦(ノ)袍一領伯袴一腰、と見えたり、十六爲v蟹(ノ)述v痛歌に、忍照八難波乃小江爾《オシテルヤナニハノヲエニ》、廬作難麻理弖居《イホツクリナマリテヲル》、葦河爾乎王召跡《アシガニヲオホキミメスト》、何爲牟爾吾乎召良米夜《ナニセムニアヲメスラメヤ》、明久吾知事乎《アキラケクアハシルコトヲ》、歌人跡和乎召良米夜《ウタヒトトワヲメスラメヤ》、笛吹跡和乎召良米夜《フエフキトワヲメスラメヤ》、琴引跡和乎召良米夜《コトヒキトワヲメスラメヤ》云々、と見ゆ、○市原(ノ)王は、三(ノ)卷下に見えて、傳彼處に委(ク)云り、○忍坂(ノ)王は、續紀に、寶字五年正月戊子、授2無位忍坂(ノ)王(ニ)從五位下(ヲ)1、○後賜2姓大原(ノ)眞人赤麻呂1也は、考(フ)るところなし、○歌子、は、音樂の時に歌を謡ふ人なり、天武天皇(ノ)紀に、十四年九月、詔(シテ)曰、凡諸(ノ)歌男歌女笛吹者、即傳2己(ガ)子孫1令v習2歌笛(ヲ)1、また朱鳥元年正月、歌人等賜2袍袴(ヲ)1、三代實録に、元慶元年十一月二十五日、悠紀主基(ノ)國宰郡司歌女百姓(ニ)賜v録有v差、四年三月二十七日、伊勢大神宮(ニ)始(テ)置2歌長一人(ヲ)1、貞觀儀式一卷、園并韓神祭儀に、率2雅樂寮并歌人歌女等(ヲ)1就v座(ニ)、江家次第、國并韓神祭(ノ)條に、云々上宣(ル)、歌人|將來《ヰテマウコ》、少丞稱唯退出、率2歌人歌女等(ヲ)1着2南座(ニ)1、大甞祭式に、歌人二十人、歌女二十人、また悠紀國司引2歌人(ヲ)1、入v自2同門1、就v位(ニ)奏2國風(ヲ)1、四時祭式に、云々坐定(テ)大臣命2召使(ニ)1、令v喚2治部(ヲ)1、令2歌女參入1云々、歌者《ウタヒト》(53)始(テ)奏(ス)云々、大神宮式に、歌長《ウタヲサ》三人、政事要略に、歌者彈琴笛吹、本朝世記に、天慶五年閏三月二十七日、石清水、被v奉v遣2神財并※[人偏+舞]人歌人等(ヲ)1云々、なども見えたり、(すべて古(ヘ)に宇多《ウタ》人と云るは、歌を謠ふ人なり、歌を作《ヨム》人を、宇多《ウタ》人と云ることはめづらし、其多くは宇多與美《ウタヨミ》とこそいひたれ、)以上|歌長《ウタヲサ》、歌人《ウタヒト》、歌男《ウタヲ》、歌女《ウタメ》、などいひて、いさゝか差別あることなれど、みな曲折を調へて歌うたふ人なり、歌子と書るは、歌人といへるに同じかるべし、○田口(ノ)朝臣家守は、傳未(タ)詳ならず、續紀に、神龜三年正月庚子、授2正六位上田口(ノ)朝臣家主(ニ)從五位下1、とある、此(ノ)家主の子などにや、○河邊(ノ)朝臣東人の傳は、六(ノ)卷(ノ)上に云り、○置始(ノ)連長谷は、傳未(ダ)詳ならず、
大伴宿禰像見歌一首《オホトモノスクネカタミハウタヒトツ》。
 
1595 秋芽子乃《アキハギノ》。枝毛十尾二《エダモトヲヲニ》。降露乃《フルツユノ》。消者雖消《ケナバケヌトモ》。色出目八方《イロニイデメヤモ》。
 
十尾《トヲヲ》は、十(ノ)卷に、爲垂柳十緒《シダリヤナギノトヲヽニモヲ》、また白杜※[木+戈]枝母等乎々爾《シラカシノエダモトヲヽニ》、とありて、或云、枝毛多和多和、とあるなどを、合(セ)思ふに、多和多和《タワタワ》と撓《ラワ》み靡くを云詞なり、源氏物語竹川に、今一所は、うす紅梅に御くしいろにて、柳の絲のやうにたを/\と見ゆ、浮舟に、こめきおほどかに、たを/\と見ゆれど、けだがう世の有さまをもしる方すくなくて、おぼしたてたる人にしあれば、などある、たを/\も同言にて、登遠《トヲ》、多遠《タヲ》、多和《タワ》、と通(ハシ)云りしなるべし、○降露は、フルツユ〔四字右○〕と訓べし、古(ヘ)は露をも布流《フル》といひしなるべし、(略解に、オクツユ〔四字右○〕とよめるはわろし、)○歌(ノ)意は、縱《ヨシ》や設《タト》ひ、身は(54)消失るとても、其に障りて、嗚呼色に出て人にあらはさむやは、顯はしはすまじとなり本(ノ)句は全(ラ)序なり、
 
大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチガ》。到《イタリテ》2娘子門《ヲトメガカドニ》1作歌一首《ヨメルウタヒトツ》。
 
1596 妹家之《イモガヘノ》。門田乎見跡《カドタヲミムト》。打出來之《ウチデコシ》。情毛知久《コヽロモシルク》。照月夜鴨《テルツクヨカモ》。
 
情毛知久《コヽロモシルク》は、心もかひありて、といはむが如し、○歌(ノ)意は、妹が家の門田のさまを見むとて、わざ/\馬に鞭打て、出て來し心もそのかひありて、照月哉、さてもおもしろのけしきや、となり、
 
大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチガ》。秋歌三首《アキノウタミツ》。
 
1597 秋野爾《アキノヌニ》。開流秋芽子《サケルアキハギ》。秋風爾《アキカゼニ》。靡流上爾《ナビケルウヘニ》。秋露置有《アキノツユオケリ》。
 
歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
1598 棹牡鹿之《サヲシカノ》。朝立野邊乃《アサタツノヘノ》。秋芽子爾《アキハギニ》。玉跡見左右《タマトミルマデ》。置有白露《オケルシラツユ》。
 
歌意かくれなし、
 
1599 狹尾牡鹿乃《サヲシカノ》。※[匈/月]別爾可毛《ムナワケニカモ》。秋芽子乃《アキハギノ》。散過鷄類《チリスギニケル》。盛可毛行流《サカリカモイヌル》。
 
※[匈/月]別《ムナワケ》は、萩原を、鹿の※[匈/月]にておしわくるを云、二十(ノ)卷に、麻須良男乃欲妣多天思加婆
《左乎之加能牟奈和氣由加牟安伎野波疑波良《マスラヲノヨビタテマセバサヲシカノムナワケユカムアキノハギハラ》(思加は、萬世を寫誤れるなるべし、)とよめり、又九(ノ)卷に、胸別之廣吾妹《ムナワケノヒロキワギモ》、とあるは、たゞ胸合のひろきをいへれば異なり、○歌(ノ)意は、芽子(ノ)花の散過にける(55)は、鹿の※[匈/月]にて押分たるゆゑか、又はおのづから盛の過て散たるか、いかさまにも、盛の過たる故にてあるらし、さてもをしき事ぞ、となり、
〔右天平十五癸未秋八月。見物色作。〕
内舍人石川朝臣廣成歌二首《ウチトネリイシカハノアソミヒロナリガウタフタツ》。
 
1600 妻戀爾《ツマコヒニ》。鹿鳴山邊之《カナクヤマヘノ》。秋芽子者《アキハギハ》。露霜寒《ツユシモサムク》。盛須凝由君《サカリスギユク》。
 
鹿鳴は、カナク〔三字右○〕とよむべし、一(ノ)卷に、鹿將鳴山曾《カナカマヤマゾ》、と有、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
1601 目頬布《メヅラシキ》。君之家有《キミガイヘナル》。波奈須爲寸《ハタススキ》。穂出秋乃《ホニヅルアキノ》。過良久惜母《スグラクヲシモ》。
 
波奈須爲寸は、奈は太(ノ)字の誤なるべし、神功皇后(ノ)紀神託の詞に、幡荻穗出吾也《ハタスヽキホニイヅルアレヤ》、とあり、○歌(ノ)意は、愛《メヅラ》しき君が家の庭にある芒《スヽキ》の穗に出て、おもしろき盛の時節のうつり過行事の、さても惜や、となり、
 
大伴宿禰家持鹿鳴歌二首《オホトモノスクネヤカモチガシカノウタフタツ》。
 
1602 山妣姑乃《ヤマビコノ》。相響左右《アヒトヨムマデ》。妻戀爾《ツマコヒニ》。鹿鳴山邊爾《カナクヤマヘニ》。獨耳爲手《ヒトリノミシテ》。
 
相響左右《アヒトヨムマデ》は、十(ノ)卷長歌に、山彦乃答響萬田霍公鳥都麻戀爲良思左夜中爾鳴《ヤマビコノアヒトヨムマデホトヽギスツマコヒスラシサヨナカニナク》、とあり、○獨耳爲手《ヒトリノミシテ》は、餘意を含めたるなり、爲手《シテ》は、うけはりて他事なく物する意の詞なり、此《コヽ》は觸のみにて、あかずくちをしき事を、つよくおもはせむがためにいへるなり、○歌意は、其(ノ)聲のひゞきわ(56)たれば、それにこたへて、山彦のとよむまで、妻戀に鹿の鳴山邊に、唯一人のみ居て聞ば、あかずくちをしき事なり、これをいかで、思ふ人にきかせぼや、となり、
 
1603 頃者之《コノゴロノ》。朝開爾聞者《アサケニキケバ》。足日木※[竹/昆]《アシヒキノ》。山乎令響《ヤマヲトヨモシ》。狹尾牡鹿鳴哭《サヲシカナクモ》。
 
哭は、集中モ〔右○〕の借(リ)字に多く用《ツカ》へり、哭《モ》は歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意かくれたるとろなし、
〔右二首。天平十五年癸未八月十六日作。〕
 
大原眞人今城《オホハラノマヒトイマキガ》。傷2惜《ヲシム》寧樂故郷《ナラノフルサトヲ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
今城は、續紀に、孝謙天皇寶字元年五月乙卯、正六位上大原(ノ)眞人今木(ニ)授2從五位下(ヲ)1、六月壬辰、爲2治部(ノ)少輔(ト)1、廢帝同七年正月壬子、左少辨、四月丁亥、爲2上野(ノ)守(ト)1、八年正月乙巳、從五位上、光仁天皇寶龜二年閏三月戊子朔乙卯、無位大原(ノ)眞人今城、復2本位從五位上(ニ)1、七月丁未、爲2兵部(ノ)少輔1、三年九月庚子、爲2駿河(ノ)守(ト)1、と見えたり、
 
1604 秋去者《アキサレバ》。春日山之《カスガノヤマノ》。黄葉見流《モミチミル》。寧樂乃京師乃《ナラノミヤコノ》。荒良久惜毛《アルラクヲシモ》。
 
歌(ノ)意は、いつも秋になれば、春日山の黄葉を見て興ある、寧樂の京師の、次第々々に荒ゆく事の、さても惜や、となり、
 
大伴宿禰家持歌一首《オホトモノスクネヤカモチガウタヒトツ》。
 
1605 高圓之《タカマトノ》。野邊乃秋芽子《ヌへノアキハギ》。比日之《コノゴロノ》。曉露爾《アカツキツユニ》。開兼可聞《サキニケムカモ》。
 
(57)兼(ノ)字、舊本葉に誤、一本に從つ、○歌(ノ)意は、かくれたるところなし、高圓野をおもひやりたるなり、
 
秋相聞《アキノシタシミウタ》。
 
額田王《ヌカタノオホキミノ》。思《シヌヒテ》2近江天皇《アフミノスメラミコトヲ》1作歌一首《ヨミタマヘルウタヒトツ》。
 
1606 君待跡《キミマツト》。吾戀居者《あガコヒヲレバ》。我屋戸乃《ワガヤドノ》。簾令動《スダレウゴカシ》。秋之風吹《アキノカゼフク》。
 
此歌|并《マタ》次の歌と二首は、既く四(ノ)卷に出て註しつ、
 
鏡王女作歌一首《カヾミノオホキミノヨミタマヘルウタヒトツ》。
 
1607 風乎谷《カゼヲダニ》。戀者乏《コフルハトモシ》。風乎谷《カゼヲダニ》。將來常思待者《コムトシマタバ》。何如將嘆《ナニカナゲカム》。
 
弓削皇子御歌一首《ユゲノミコノミウタヒトツ》。
 
1608 秋芽子之《アキハギノ》。上爾置有《ウヘニオキタル》。白露乃《シラツユノ》。消可毛思奈萬思《ケカモシナマシ》。戀管不有者《コヒツヽアラズハ》。
 
戀管不有者《コヒツヽアラズハ》は、戀つゝあらむよりはの意なり、○御歌(ノ)意は、戀しく思ひつゝ心をいたましめむよりは、中々に身も消失なましか、さらばかへりて安かるべきにとぞ思ふ、嗚呼さてもくるしや、となり、本(ノ)御句は全(ラ)序なり、
 
丹比眞人歌一首《タヂヒノマヒトガウタヒトツ》。
 
丹比(ノ)眞人は、傳未(ダ)詳ならず、この氏姓なる人多し、舊本に名闕と註せり、二(ノ)卷、九(ノ)卷等にも、かく(58)氏姓のみ見えたり、同人歟、
 
1609 宇陀乃野之《ウダノヌノ》。秋芽子師弩藝《アキハギシヌギ》。鳴鹿毛《ナクシカモ》。妻爾戀樂苦《ツマニコフラク》。我者不益《アレニハマサジ》。
 
歌(ノ)意は、宇陀の野のはぎを、押分凌ぎて、妻戀故に鳴鹿も、その妻を戀しく思ふ事の、我にはよも益りはすまじ、となり、
 
丹生女王《ニフノオホキミノ》。贈《オクリタマヘル》2太宰帥大伴卿《オホミコトモチノカミオホトモノマヘツキミニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
丹生(ノ)女王の傳は、四(ノ)卷(ノ)上に委(ク)云り、彼(ノ)卷にも、此(ノ)女王の、太宰(ノ)帥へ贈られたる歌二首あり、
 
1610 高圓之《タカマトノ》。秋野上乃《アキヌノウヘノ》。瞿麥之花《ナデシコノハナ》。于壯香見《ウラワカミ》。人之挿頭師《ヒトノカザシシ》。瞿麥之花《ナデシコノハナ》。
 
旋頭歌なり、○于牡香見、于は、末の畫の滅失たるなるべし、契冲は、于の下に、良の字脱たるか、と云り、(一本には下と作り、シタハカミ〔五字右○〕とよむか、)○歌(ノ)意は、高圓の野のなでしこの花の、まだうらわかく盛なりしほどは、人の愛て折て挿頭にせしを、今はそのなでしこも盛過たれば、折人もなし、との意をこめてのたまへり、契冲、なでしこは吾(ガ)身をたとふ、人は大伴(ノ)卿をさしていふ、さしもめでられし折もありしものをのこゝろなり、と云り、此(ノ)時大伴(ノ)卿も、いと老たりしなり、
 
笠經女王歌一首《カサヌヒノオホキミノウタヒトツ》。
 
笠縫(ノ)女王は、目録に、六人部(ノ)親王之女、母(ヲ)曰2田形(ノ)皇女(ト)1、と註せり、(親王とあるは誤なり、一(ノ)卷に、六(59)人部(ノ)王とあり、)田形(ノ)皇女は、天武天皇の皇女なり、天武(ノ)紀云、次の夫人、蘇我赤兄(ノ)大臣(ノ)女大〓娘、生2一男二女(ヲ)1云々、其三曰2田形(ノ)皇女(ト)1、續紀に、文武天皇慶雲三年八月庚子、遣2三品田形(ノ)内親王(ヲ)1、侍(シメタマフ)于伊勢(ノ)大神宮(ニ)1、神龜元年二月、授2三品田形(ノ)内親王(ニ)二品(ヲ)1、五年三月丁酉朔辛巳、二品田形(ノ)内親王薨(ヌ)、天(ノ)渟中原瀛(ノ)眞人(ノ)天皇之皇女也、と見えたり、
 
1611 足日木乃《アシヒキノ》。山下響《ヤマシタトヨミ》。鳴鹿之《ナクシカノ》。事乏可母《コヱトモシカモ》。吾情都末《アガコヽロツマ》。
 
事乏可母、もとのまゝにては解《キコエ》難し、今按(フ)に、事は聲の誤か、さらばコヱモシカモ〔七字右○〕とよみて、聲|愛《ウツク》しき哉の意とすべし、さらば鳴鹿之《ナクシカノ》と云までは、聲といはむ 料の序なり、○吾情都末《アガコヽロツマ》とは、契冲云、わが心につまとさだめて思ふ人なり、○歌(ノ)意は、心に夫《ツマ》とさだめて思ふ人の、物いふをきけば、聲愛しき哉、嗚呼さてもなつかしや、となり、吾(ガ)心に夫と思(ヒ)定めたまへる人の聲を聞て、よみ給へるなるべし、四(ノ)卷に、佐穗度吾家之上二鳴鳥之音夏可思吉愛妻之兒《サホワタリワギヘノウヘニナクトリノコヱナツカシキハシキツマノコ》、とよめる類なり、
 
石川賀係女郎歌一首《イシカハノカケノイラツメガウタヒトツ》。
 
賀係(ノ)女郎は、傳未(タ)詳ならず、
 
1612 神佐夫等《カムサブト》。不許者不有《イナニハアラズ》。秋草乃《アキクサノ》。結之?乎《ムスビシヒモヲ》。解者悲哭《トクハカナシモ》。
 
本(ノ)二句は、四(ノ)卷紀(ノ)女郎(ノ)歌に、神左夫跡不欲者不有八也多八是如爲而後二佐夫之家牟可聞《カムサブトイナニハアラズハタヤハタカクシテノチニサブシケムカモ》、(八(60)也多八は、八多也八多を誤れるなり、)とあるに全(ラ)同じ、歌(ノ)意は、契冲云、我身嫗に老なりて神さびたれど、君が逢むといふを、いなと思ふにはあらず、されど霜おく頃の秋草のごとく、むすぼほれたるひもを、今更とかむがやさしくてかなしき、とよめるなるべし、秋は草も老ゆけば、身をたとふるなり、(已上契冲説、)今按(フ)に、秋草乃《アキクサノ》は、枕詞なるべし、草結《クサムスビ》といふことあれば、秋草乃《アキクサノ》は、結《ムスビ》といふにかゝれるのみの言なり、さてむすびし紐といふは、今は身もさだすぎたれば、人に交接《アフコト》もせじと、かたく結びし紐なれば、今更にとかむは、やさしくかなしや、と云ならむ、
 
賀茂女王歌一首《カモノオホキミノウタヒトツ》。
 
賀茂(ノ)女王は、四(ノ)卷に出(シ)つ、舊本に、長屋(ノ)王之女、母(ヲ)曰2阿倍朝臣(ト)1也、と註せり、
 
1613 秋野乎《アキノヌヲ》。旦往鹿乃《アサユクシカノ》。跡毛奈久《アトモナク》。念之君爾《オモヒシキミニ》。相有今夜香《アヘルコヨヒカ》。
 
跡毛奈久《アトモナク》は、一(ト)たび中絶て、あとかたもなく思ひし、といふなり、○歌(ノ)意かくれたる所なし、本(ノ)二句は序なり、
〔右歌。或云椋橋部女王。或云笠縫女王作。〕
椋橋部(ノ)女王は、傳未(ダ)詳ならず、三(ノ)卷に、倉橋部(ノ)女王とあると、同人なるべし、
 
遠江守櫻井王《トホツアフミノカミサクラヰノオホキミノ》奉《タテマツラセル》2 天皇《スメラミコトニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
(61)櫻井(ノ)王は、續紀に、元明天皇和銅七年正月甲子、授2無位櫻井(ノ)王(ニ)從五位下(ヲ)1、元正天皇養老五年正月壬子、從五位上、聖武天皇神龜元年二月壬子、正五位下、天平元年三月甲午、正五位上、三年正月丙子、從四位下、契冲云、二十に、大原(ノ)櫻井(ノ)眞人、行2佐保邊(ヲ)1之時作歌、續紀十五《天平十六年二月丙寅ノ條》に、大藏(ノ)卿從四位下大原(ノ)眞人櫻井(ノ)大輔、かくあれば、後に大原(ノ)眞人の氏姓を賜へりと見えたり、〔頭註、【大原櫻井眞人とあるは、大原は氏か櫻井は名、眞人は姓なり、大伴家持宿禰と云むが如し、大原眞人櫻井と云ときは大伴宿禰家持と云むが如し、大輔とあるは疑はし、櫻井大輔と名のりたるにや、尋ぬべし、】〕
 
1614 九月之《ナガツキノ》。其始鴈乃《ソノハツカリノ》。使爾毛《ツカヒニモ》。念心者《オモフコヽロハ》。可聞來奴鴨《キコエコヌカモ》。
 
九月、ナガツキ〔四字右○〕といふこと、昔來《ムカシヨリ》くさ/”\あれど、みなあたらず、此は饒月《ニギツキ》の義なり、このこと既く三(ノ)下に、委(ク)註りき、○使、一本には、便と作れど宜しからず、○可は、所の誤なり、と契冲云り、○歌(ノ)意は、委曲《ツバラ》に承る事はかなはずとも、九月の其(ノ)初鴈の使になりとも、おもほしめす御心の御消息《ミアリサマ》の片端ばかりは、いかできこえ來よかし、と願ふなり、これは遠江の任國にありて、御音つれを希ひ給へるなり、鴈乃使《カリノツカヒ》のこと、漢國の故事なり、前漢(ノ)蘇武といひしものを、匈奴に使はされたりけるに、匈奴本國に歸ることを得せしめざりしかば、鴈の足に書を係て放しけるに、漢國にとび行たりしといふこと、漢書に見えたり、その故事をとりて、鴈の使と云こと、多くよむことゝなれり、
 
(62)天皇賜報和御歌一首《スメラミコトノコタヘマセルオホミウタヒトツ》。
 
天皇は、聖武天皇なり、
 
1615 大乃浦之《オホノウラノ》。其長濱爾《ソノナガハマニ》。縁流浪《ヨスルナミ》。寛公乎《ユタケクキミヲ》。念比日《オモフコノゴロ》。
 
大乃浦《オホノウラ》は、契冲云、八雲御抄に、遠江と註せさせたまへり、遠江(ノ)守への御かへしなれば、しかるべきにや、○寛公乎《ユタケクキミヲ》は、契冲云、日本紀に、富寛とかきて、とみゆたひて、とよめれば、ゆたけくも、たゆたひとおなじこゝろなり、一旦におもふにはあらで、ゆる/"\と思ふ心なり、と云り、今按(フ)に、ゆたけくを、たゆたひと同じといへるは、さることなり、ゆる/\と思ふ心といへるは、いかゞなり、寛(ノ)字は借(リ)字にて、ゆたけくは御心の動搖《ユタ/\》として安からず、深切《ネモコロ》におぼしめす御意なり、○大御歌(ノ)意は、消息《アリサマ》の聞え來よかしと云(ハ)るれど、聞ゆべき消息は他になし、たとへばそこの任國の、大の浦の長き濱邊によする浪の如く、心は動搖《ユタ/\》とうごきて安からず、其方《ソナメ》をのみ戀しく思ふ此(ノ)頃ぞと、なり、
 
笠女郎《カサノイラツメガ》。贈《オクレル》2大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
贈(ノ)字、舊本には賜と作り、今は目録并一本に從つ、
 
1616 毎朝《アサゴトニ》。吾見屋戸乃《ミルワガヤドノ》。瞿麥之《ナデシコガ》。花爾毛君波《ハナニモキミハ》。有許世奴香裳《アリコセヌカモ》。
 
蕃見屋戸乃は、吾見とあるは、下上に誤れるものにて、ミルワガヤドノ〔七字右○〕か、○歌(ノ)意は、毎朝々々(63)見愛る、吾(ガ)庭のなでしこの花にてなりとも、いかで君はあれかし、さらば朝夕に撫つかざしつして愛べきに、嗚呼さてもなつかしや、となり、
 
山口女王《ヤマクチノオホキミノ》。贈《オクリタマヘル》2大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
山口(ノ)女王は四(ノ)卷(ノ)上に出(シ)つ、○贈(ノ)字、右に同じ、
 
1617 秋芽子爾《アキハギニ》。置有露乃《オキタルツユノ》。風吹而《カゼフキテ》。落涙者《オツルナミダハ》。留不勝都毛《トヾミカネツモ》。
 
歌(ノ)意は、其方《ソナタ》の戀しく思はるゝあまりに、はら/\と落る涙は、人目をはゞかりて、留めむとしても、得とゞめあへず、さてもせむ方なしや、となり、本(ノ)句は全(ラ)序なり、(六帖に、第三(ノ)句を、かげろふは、とせるは誤なり、)
 
湯原王《ユハラノオホキミノ》。贈《オクリタマヘル》2娘子《ヲトメニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
贈(ノ)字、右に同じ、
 
1618 玉爾貫《タマニヌキ》。不令消賜良牟《ケタズタバラム》。秋芽子乃《アキハギノ》。字禮和和良葉爾《ウレワワラバニ》。置有白露《オケルシラツユ》。
 
宇禮和和良葉《ウレワワラバ》は、末のわゝけたる葉をいふ、五(ノ)卷に、美留乃其等和和氣佐我禮流《ミルノゴトワワケサガレル》、とあり、○歌(ノ)意は、秋はぎの末のわゝける葉に、おもしろく置る白露を消(タ)ずて、其(ノ)まゝ玉に貫きて賜らむ、となり、
 
大伴家持《オホトモノヤカモチガ》。至《イタリテ》2姑坂上郎女竹田庄《ヲバサカノヘノイラツメノタケタノタドコロニ》1作歌一首《ヨメルウタヒトツ》。
 
(64)姑は、契冲云、坂上(ノ)郎女は家持のをばにして、しうとめなり、姑の字もまた兩方によめば、いづかたにつきてもよむべし、
 
1619 玉桙乃《タマホコノ》。道者雖遠《ミチハトホケド》。愛哉師《ハシキヤシ》。妹乎相見爾《イモヲアヒミニ》。出而曾吾來之《イデテゾアガコシ》。
 
妹は、直に坂上(ノ)郎女を戯れてさしたるか、又は郎女の女をいふにもあらむ、○歌(ノ)意は、道の間は遠くあれども、愛《ウツク》しき妹を相見むが爲にとて、出て辛苦《カラウ》してぞ來しとなり、
 
大伴坂上郎女和歌一首《オホトモノサカノヘノイラツメガコタフルウタヒトツ》。
 
1620 荒玉之《アラタマノ》。月立左右二《ツキタツマデニ》。來不益者《キマサネバ》。夢西見乍《イメニシミツヽ》。思曾吾勢思《オモヒゾワガセシ》。
 
歌(ノ)意は、一月の日の立まで、久しく來座ねば、夢にのみ見つゝ、一(ト)すぢに君を戀しく思ひて、物思(ヒ)をぞ吾(ガ)爲し、となり、
〔右二首。天平十一年己卯秋八月作。〕
 
巫部麻蘇娘子歌一首《カムコベノマソヲトメガウタヒトツ》。
 
1621 吾屋前乃《ワガヤドノ》。芽子花咲有《ハギがハナサケリ》。見來益《ミニキマセ》。今二日許《イマフツカバカリ》。有者將落《アラバチリナム》。
 
今二日許《イマフツカバカリ》は、十三に、吾妹兒哉汝待君者《ワギモコヤナガマツキミハ》、奥浪來因白珠《オキツナミキヨルシラタマ》、邊浪之縁流白玉《ヘツナミノヨスルシラタマ》、求跡曾君之不來益《モトムトゾキミガキマサヌ》、拾登曾公者不來益《ヒリフトゾキミハキマサヌ》、久有今七日許《ヒサニアラバイマナヌカバカリ》、早有者今二日許《ハヤクアラバイマフツカバカリ》、將有等曾君者聞之二二勿戀吾妹《アラムトゾキミハキコシシナコヒワギモ》、十七に、知加久安良波伊麻布都可太未《チカクアラバイマフツカダミ》、等保久安良婆奈奴可乃宇知波《トホクアラバナヌカノウチハ》、須疑米也母《スギメヤモ》、云々九(ノ)卷に、吾去者(65)七日不過龍田彦勤此花乎風爾莫落《ワガユキハナヌカハスギジタツタヒコユメコノハナヲカゼニチラスナ》、などあり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
大伴田村大孃《オホトモノタムラノオホイラツメガ》。與《オクレル》2妹坂上大孃《イモサカノヘノオホイラツメニ》1歌二首《ウタフタツ》。
 
1622 吾屋戸乃《ワガヤドノ》。秋之芽子開《アキノハギサク》。夕影爾《ユフカゲニ》。今毛見師香《イマモミテシカ》。妹之光儀乎《イモガスガタヲ》。
 
妹《イモ》は、坂上(ノ)大孃にて、實の妹なり、○歌(ノ)意は、吾庭のはぎの花の咲て、おもしろき此(ノ)夕影にて、さきに相見し時の如く、今も妹がうるはしき容儀を、見たくおもはるゝ哉、となり、
 
1623 吾屋戸爾《ワガヤドニ》。黄變蝦手《ニホフカヘルデ》。毎見《ミルゴトニ》。妹乎懸管《イモヲカケツヽ》。不戀日者無《コヒヌヒハナシ》。
 
黄變蝦手は、(モミツルカヘデ〔七字右○〕》、とよみきたれるはわろし、)ニホフカヘルデ〔七字右○〕とよむべし、蝦手は、鷄冠木なり、これを可閉天《カヘデ》といふは、やゝ後の稱にして、古(ヘ)は加|閉留提《ヘルデ》とのみ云り、なは委く品物解に云、○歌(ノ)意は、吾(ガ)庭のかへるでのよく色付て、うるはしきを見るごとに、見せばやと心にかけて、妹をこひしく思はぬ日はさらになし、となり、
 
坂上大娘《サカノヘノオホイラツメガ》。秋稻蘰《イナカヅラヲ》贈《オクレル》2大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
1624 吾之蒔有《アガマケル》。早田之穗立《ワサダノホダチ》。造有《ツクリタル》。蘰曾見乍《カヅラソミツヽ》。師弩波世吾背《シヌハセワガセ》。
 
吾之蒔有は、アガマケル〔五字右○〕と訓べし、これは初め田に種《タネ》を播《マク》につきていへるなり、又一本に、蒔(ノ)字業と作り、此も然ることなり、さらばアガナレル〔五字右○〕と訓べし、これは種を播《マク》より分(リ)收るまでにわたりて云るなり、○歌(ノ)意は、吾業と種を播て生したる早田の稲穗にて、心を盡して造り(66)たる※[草冠/縵]にてあるぞよ、これを見そなはしつゝ、吾を慕ひ來し給へ、吾(ガ)兄子よ、となり、
 
大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチガ》。報贈歌一首《コタフルウタヒトツ》。
 
1625 吾妹兒之《ワギモコガ》。業跡造有《ナリトツクレル》。秋田《アキノタノ》。早穗乃※[草冠/縵]《ワサホノカヅラ》。雖見不飽可聞《ミレドアカヌカモ》。
 
業跡は、ナリト〔三字右○〕と訓べし、産業《ナリハヒ》として造有《ツクレル》の意なり、(略解に、なりはひにするとての意なれば、ナルト〔三字右○〕と訓べし、といへるは誤なり、)業《ナリ》は、田を作るに係れり、※[草冠/縵]を造るにはあらず、○歌(ノ)意は吾妹子が業《ナリハヒ》として作りたる田の、その早穗にて、心盡して造りたるとのたまへる、この※[草冠/縵]は見れど/\あきたらぬ哉、さても/\心にかなひて、うつくしの※[草冠/縵]や、となり、
 
又《マタ》報《コタフル》d脱2著身衣《ヌキテキナラセルコロモヲ》1。贈《オクレルニ》c家持《ヤカモチニ》u歌一首《ウタヒトツ》。
 
衣、舊本には夜に誤、一本に從(ツ)、
 
1626 秋風之《アキカゼノ》。寒比日《サムキコノゴロ》。下爾將服《シタニキム》。妹之形見跡《イモガカタミト》。可都毛思努播武《カツモシヌハム》。
 
歌(ノ)意は、秋風の此(ノ)頃身にしみて寒ければ、下に服むその片方《カタヘ》に、妹が形見ともしのばむぞ、妹があさからぬ情をば、とにかくわするゝ時はあらじ、となり、
〔右三首。天平十一年己卯九月往來。〕
 
大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチガ》。攀《ヲリテ》2非時藤花并芽子黄葉二物《トキジクノフヂノハナマタハギノモミチノフタクサヲ》1。贈《オクレル》2坂上大孃《サカノヘノオホイラツメニ》1歌二首《ウタフタツ》。
 
契冲云(ク)、下の註に、六月往來とあれば、此(ノ)二首は、夏(ノ)相聞に載らるべきを、あやまりて秋(ノ)相聞に(67)は載たるか、芽子黄葉もあるうへに、右のうたどもに類して、こゝに載たる歟、又云、非時藤とは、小藤とか、いは藤とか俗になづくる《が歟》、かづらもみじかく、しなひもみじかきが、夏咲あり、それにや、芽子(ノ)黄葉は、俗に、宮木野と名付る一種あり、その花は、入梅の比よりさきそめて、みな月より秋をかけて、よのつねの萩さく比は、いとゞ錦とみゆれば、此(ノ)萩にや、下葉のもみぢしたるは、日をいためるにや、○孃(ノ)字、舊本嫌に誤れり、
 
1627 吾屋戸之《ワガヤドノ》。非時藤之《トキジクフヂノ》。目頬布《メヅラシク》。今毛見牡鹿《イマモミテシカ》。妹之咲容乎《イモガヱマヒヲ》。
 
目頬布《メヅラシク》は、もと愛《メヅ》らしくの意にて、其は何にても心にかなひて、美しと思はるゝ事に云言なるを、つひに希《マレ》なる事にのみいふ言の如くなれる、其は美き物は、世《ヨ》にたぐひすくなく、希なる意にて云るなれば、おつるところは一(ツ)なり、(後(ノ)世もはら珍(ノ)字を、メヅラシ〔四字右○〕とよむ、その珍(ノ)字は、八珍珍物などつらぬる字なるに、美也、善也など字書に註したれば、漢國にても通(ハシ)云るなるべし)さて此は、非時藤の希なる方にも、愛《メデ》たき方にも、二(タ)しへにわたりて聞ゆれば、いづれに見ても通《キコ》ゆることなり、○歌(ノ)意は、吾(ガ)庭に、時ならず咲たる藤の、世に希《マレ》にめでたきを、誰にか見すべき、まづそこにこそ見すべきなれと、折てまゐらするなり、同じくはこの藤の愛《メデ》たき如く、美《ウルハ》しき妹が笑顔《ヱガホ》を、さきに相見し時の如くに、今も見たくおもはるゝ哉、となり、
 
1628 吾屋前之《ワガヤドノ》。芽子乃下葉者《ハギノシタバハ》。秋風毛《アキカゼモ》。未吹者《イマダフカネバ》。如此曾毛美照《カクゾモミテル》。
 
(68)未吹者《イマダフカネバ》は、未(ダ)吹ぬにの意なり、この言の格、上にも出たり、○毛美照《モミテル》は、常にもみづるといふとは、いさゝか異にして、黄變而有《モミチテアル》の意なり、散有《チリテアル》をちれる、咲有《サキテアル》をさける、持有《モチテアル》をもてるなど云と同(シ)格なり。〔頭註、【契冲、紅はふり出る吻なれば、もみちとは、揉出すといふ心に名付たるにや、と云り、此説誤なり、一巻に具(ク)註り、】〕○歌(ノ)意は、時は今六月なれば、秋風も未(ダ)吹ぬに、吾(カ)庭のはぎの下葉は、かくのごとく色附てぞある、是(ノ)見物《ミモノ》を誰にか見すべき、まづ其方《ソコ》にこそ見すべきなれと、折てまゐらするなり、となり、十九に、吾屋戸之芽子開爾家理秋風之將吹乎待者伊等遠彌可母《ワガヤドノハギサキニケリアキカゼノフカムヲマタバイトトホミカモ》、註云、右一首、六月十五日、見芽子早花作之、といへり、是も俗に宮城野と呼(フ)一種なるべし、此(ノ)類の早芽子《ワサハギ》の、下葉の色附そめたるなり、
〔右二首。天平十二年庚辰夏六月往來。〕
 
大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチガ》。贈《オクレル》2坂上大孃《サカノヘノオホイラツメニ》1歌一首并短歌《ウタヒトツマタミジカウタ》。
 
1629 叩叩《ネモゴロニ》。物乎念者《モノヲオモヘバ》。將言爲便《イハムスベ》。將爲爲便毛奈之《セムスベモナシ》。妹與吾《イモトアガ》。手携拂而《テタヅサハリテ》。旦者《アシタニハ》。庭爾出立《ニハニイデタチ》。夕者《ユフヘニハ》。床打拂《トコウチハラヒ》。白細乃《シロタヘノ》。袖指代而《ソデサシカヘテ》。佐寐之夜也《サネシヨヤ》。常爾有家類《ツネニアリケル》。足日木能《アシヒキノ》。山鳥許曾婆《ヤマドリコソハ》。峯向爾《ヲムカヒニ》。嬬問爲云《ツマトヒストイヘ》。打蝉乃《ウツセミノ》。人有我哉《ヒトナルアレヤ》。如何爲跡可《ナニストカ》。一日一夜毛《ヒトヒヒトヨモ》。離居而《サカリヰテ》。嘆戀良武《ナゲキコフラム》。許己念者《ココモヘバ》。胸許曾痛《ムネコソイタメ》。其故爾《ソコユヱニ》。情奈具夜登《コヽロナグヤト》。高圓乃《タカマトノ》。山爾毛野爾母《ヤマニモヌニモ》。打行而《ウチユキテ》。遊往杼《アソビアルケド》。花耳《ハナノミシ》。丹穂日手有者《ニホヒテアレバ》。毎見《ミルゴトニ》。益而所思《マシテシヌハユ》。奈何爲而《イカニシテ》。忘物曾《ワスレムモノゾ》。戀云物乎《コヒチフモノヲ》。
 
(69)叩々(叩(ノ)字、一本に町と作り、それもわろし、)は、岡部氏、叮々の誤なるべし、叮嚀の意にて、ネモコロニ〔五字右○〕に訓べし、と云り、(字彙に、叮嚀(ハ)囑(スル)詞也、亦作2丁寧1、とありて、續後紀、興福寺(ノ)僧が長歌に、丁寧度聞許志食弖牟《ネモコロトキコシメシチム》、とあれば、右の説は信にさることなり、ネモコロ〔四字右○〕は、如《モコロ》v根《ネ》の謂にて、草木の根などの、土の底石の下にもはひ入たる如く、物の深く極りたるをいふ、此は深く極りて、物思をすればの意なり、)○手携拂而(拂(ノ)字、一本にはなし、なくてもよろし、)は、テタヅサハリテ〔七字右○〕と訓べし、拂はハリ〔二字右○〕に借(リ)用たるなり、ハラヒ〔三字右○〕と云も、ラヒ〔二字右○〕はリ〔右○〕に切れば、ハラヒ〔三字右○〕もハリ〔二字右○〕も同じことなり、○佐寐之夜也常爾有家類《サネシヨヤツネニアリケル》は、さねしよの常にありけるやは、常にはなかりし、といふなり、○山鳥許曾婆《ヤマドリコソハ》云々は、山鳥は、晝は雌雄一(ト)所にありて、夜は峯を隔て宿る故に、かく云り、十一にも、足日木乃山鳥尾乃一峯越一目見之兒爾應戀鬼香《アシヒキノヤマドリノヲノヒトヲコエヒトメミシコニアフベキモノカ》とよめり、枕冊子に、山鳥は友をこひてなくに、かゞみをみせたれば、なぐさむらむ、いとあはれなり、谷へだてたるほどなど、いと心ぐるし、又六帖に、秋風のふくよるごとに山鳥のひとりしぬればものぞ悲しき、ひるはきてよるは別るゝ山鳥の影見る時ぞ音になかれける、夕されば君をまつちの山鳥のなくなくぬるを立もきかなむ、などあり、猶山鳥のことは、品物解に云(リ)、○如何爲跡可《ナニストカ》は、何《ナニ》とてかといふ意なり、さて上に、我哉《アレヤ》とありて、こゝに又|可《カ》と云るは、也《ヤ》と可《カ》の疑辭、徒に重りていかがなるごとくなれど、古歌にをり/\例あることなり、一(ト)種の格と見ゆ、かく重るときは、上(70)の也《ヤ》の言はかろく心得るなり、この事既く委く云たれば、こゝに略く、○許己念者《ココモヘバ》は、これをおもへばと云が如し、それを思へばといふ意の處を、そこもへばといふに同じ、○山爾毛野爾母《ヤマニモヌニモ》云々(母(ノ)字、舊本には毎に誤、活字本に從(ツ)、)は、山にも野にも、なつかしげに、花のみにほひてあれば、見るにつけて、ます/\妹がおもはるゝ、と云意なり、略解に、花のみにほひて、妹もあらねば、まして思ふと有(ル)は、少しく意たがへり、反歌を照して、こゝの意をもしるべし、と中山嚴水がいへるぞ宜しき、○打行而《ウチユキテ》は、馬に鞭を打て、出て行てといふなるべし、○遊往杼は、(アソバヒユケド〔七字右○〕とよむはわろし、)アソビアルケド〔七字右○〕と訓べし、五(ノ)卷は、阿迦胡麻爾志都久良宇知意伎波比能利提阿蘇比阿留伎斯《アカコマニシヅクラウチオキハヒノリテアソビアルキシ》云々、十六に、雖行往安久毛不有《アルケドモヤスクモアラズ》、天武天皇(ノ)紀に、巡行《アルク》などあり、(但しアリク〔三字右○〕といふは後なり、古くはアルク〔三字右○〕とのみいへり、)
 
反歌《カヘシウタ》。
 
1630 高圓之《タカマトノ》。野邊乃容花《ヌヘノカホバナ》。面影爾《オモカゲニ》。所見乍妹者《ミエツヽイモハ》。忘不勝裳《ワスレカネツモ》。
 
容花《カホバナ》は、花(ノ)名なり、品物解に云、(契冲が、容花は、その花とさしてさだめず、只秋の花のうつくしくさけるを、いふなり、と云るは非ず、)○歌(ノ)意は、うつくしき容花を見につけても、吾(カ)うつくしみ思ふ花の貌の妹が、面影に見えつゝ、いかに忘むと思ひても得忘れず、さても戀しく思はるゝ事哉、となり、
 
(71)大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチガ》。贈《オクレル》2安倍女郎《アベノイラツメニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
1631 今造《イマツクル》。久邇能京爾《クニノミヤコニ》。秋夜乃《アキノヨノ》。長爾獨《ナガキニヒトリ》。宿之苦左《ヌルガクルシサ》。
 
今造《イマツクル》は、今新に造るといふ意なり、既く出たり、○久邇能京《クニノミヤコ》は、續紀に、天平十二年十二月戊午、經2畧(ス)山背(ノ)國相樂(ノ)郡恭仁(ノ)郷(ヲ)1、以v擬(スルヲ)2遷都(セント)1故也、丁卯、皇帝在v前(ニ)幸(ス)2恭仁(ノ)宮(ニ)1、始(テ)作2京都(ヲ)1矣、と見えたり、既く六(ノ)卷に委(ク)註せり、さてこの歌は、遷都の後、安倍(ノ)女郎は、いまだならの故京にとゞまれるに、よみておくられしなり、○歌(ノ)意は、久邇の新京《ニヒモヤコ》の地に、女郎に別(レ)來て、秋の長夜に、獨宿をする事の苦しさ、いふばかりなし、となり、
 
大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチガ》。從《ヨリ》2久邇京《クニノミヤコ》1。贈《オクレル》d留《トヾマレル》2寧樂宅《ナラノイヘニ》1。坂上大娘《サカノヘノオホイラツメニ》u歌一首《ウタヒトツ》。
 
1632 足日木乃《アシヒキノ》。山邊爾居而《ヤマヘニヲリテ》。秋風之《アキカゼノ》。日異吹者《ヒニケニフケバ》。妹乎之曾念《イモヲシゾモフ》。
 
歌(ノ)意は、久邇の新京に遷り來て、鹿脊山の邊に獨居れば、秋風の月ごと日毎に寒く吹來て堪がたきに、妹があらば、かくまでくるしくはあるまじきにと思ふにも、いよ/\其方《ソナタ》を、一(ト)すぢに戀しく思ふぞ、となり、
 
或者《アルヒト》。贈《オクレル》v尼《アマニ》歌二首《ウタフタツ》。
 
1633 手母須麻爾《テモスマニ》。殖之芽子爾也《ウヱシハギニヤ》。還者《カヘリテハ》。雖見不飽《ミレドモアカズ》。惰將盡《コヽロツクサム》。
 
手母須麻爾《テモスマニ》は、上に出(ツ)、○歌(ノ)意は、花さきたらば、撫つかざしつして愛《ウツクシ》まむと、手も數《シバ》にいとま(72)なく勞《イタヅ》きて、殖生しゝはぎなるに、其(ノ)花の咲たるが、見れどあきたらず、うつくしきに、なぐさみはせずて、其方《ソナタ》の來て見むまではと、風をいとひ雨におそれなど、かへりて色々に心盡をせむか、中々にはじめより殖ざらましかば、かゝる心づくしはあるまじきを、となり、
 
1634 衣手爾《コロモデニ》。水澁付左右《ミシブツクマデ》。殖之田乎《ウヱシタヲ》。引板吾波倍《ヒキタアガハヘ》。眞守有栗子《マモレルクルシ》。
 
水澁付左右《ミシブツクマデ》、契冲云、水澁《ミシブ》は、みさびなり、きたなき水のうへに、刀のさびのごとくなるものゝ、うかびてみゆるをいふ、新古今集俊成の歌に、水澁つきうゑし山田にひたはへてまた袖ぬらす秋は來にけり、(已上)これは田を作る勞《イタヅキ》をいへるなり、祈年祭(ノ)祝詞に、皇神等能依左志奉牟奥津御年乎《スメカミタチノヨサシマツラムオキツミトシヲ》、手肱爾水沫畫垂《タナヒヂニミナワカキタリ》、向股爾泥畫寄?《ムカモヽニヒヂカキヨセテ》、取作牟奥津御年乎《トリツクラムオキツミトシヲ》、八束穗能伊加志穗爾《ヤツカホノイカシホニ》、皇神等能依左志奉者《スメカミタチノヨサシマツラバ》云々、とあり、考(ヘ)合(ス)べし、○引田吾波倍《ヒキタアガハヘ》は、契冲、引田《ヒキタ》は、今山田などに、鹿をおどろかさむと、板二枚をならべて、ひとつに繩をつけて、引ならして鹿をおふなり、それをひたといふに同じ、ひたは、ひきたの略なり、と云り、波倍《ハヘ》は、繩を引延ることなり、後撰集に、小山田のおどろかしにも來ざりしをいとひたぶるににげし君哉、曾根好忠(ノ)集に、ねたるまも露やおきつゝしほるらむ引田うちたへて守る山田を、○栗子《クルシ》は、苦しなり、○歌(ノ)意は、衣手に水澁の漬まで、辛《カラ》く勞《イタヅ》きて苗を殖し田は、もと秋の實を、其方《ソナタ》にさゝげむと思ひてのわざなるに、まだその稻を刈収(リ)は得爲ずて、猪鹿などがはまむかと、引板引延などして、朝夕に守て居(73)は、苦しきぞ、となり、契冲、此(ノ)尼のいとけなかりし時、親にはあらでそだてたる人の、尼になりて後、容儀のうるはしきに、心まどひてよめるにや、田をうゑて、却て又くるしきと、世上の苦を訴へいひて、下心あると見えたり、次上の手もすまにといへる歌と思ひ合すべし、と云り、此(ノ)説のごとくならば、はじめに云るとは、歌(ノ)意いさゝかたがへり、芽子にも稻にも、はじめ殖しほどよりの勞苦《イタヅキ》をいへるは、げにも幼稚《イトクナ》かりしより養育《ソダテ》たりしことを、なぞらへていへるなるべし、
 
尼《アマガ》作《ヨミ》2頭句《モトノツガヒコトバヲ》1。并《マタ》大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチガ》所《テ》v誂《アツラヘ》v尼《アマニ》。續《ツギテ》2末句《スヱノツガヒコトバヲ》1等|和歌一首《コタフルウタヒトツ》。
 
右の或者の稻の歌にこたふる歌を、尼と家持と二人してよめるなり、○等(ノ)字、目録にはなし、
 
1635 佐保河之《サホガハノ》。水乎塞上而《ミヅヲセキアゲテ》。殖之田乎《ウヱシタヲ》。作尼。苅流早飯者《カルワサイヒハ》。獨奈流倍思《ヒトリナムベシ》。家持續。
 
佐保、舊本保佐に誤、古本に從(ツ)、○水乎塞上而《ミヅヲセキアゲテ》は、川水を塞(キ)留(メ)湛て、側の方へ引遣るを云、さるは下につきて流るゝ水を、逆に湛て引まかする故に、塞(キ)上ると云なり、古事記上に、天(ノ)尾羽張(ノ)神者、逆2塞上《サカシマニセキアゲテ》天(ノ)安河之水(ヲ)1而塞(キ)v道(ヲ)居(ル)、故他神(ハ)不2得行《エユカ》1云々、とあり、考(ヘ)合すべし、○早飯は、ワサイヒ〔四字右○〕と訓べし、(略解に、ハツイヒ〔四字右○〕とよめるは意得ぬことなり、)契冲、今もわせといへるは早きをいへば、文字の如し、第十四に、かづしかわせをにへす、とよめるは、初て刈田の稻をとりはむなり、それと同意なるべし、といへり、○獨奈流倍思、といへる詞平穩ならず、そも/\奈流《ナル》とい(74)ふ言に(成(ノ)字の意の外、)兩樣の差別あり、その由をいはゞ、たとへば京師奈流《ミヤコナル》、吉野奈流《ヨシヌナル》などいふは、其(ノ)處に在(ル)をいふ詞にて、在(ル)2於|京師《ミヤコニ》1、在(ル)2於|吉野《ヨシヌニ》1の意なり、盛奈流《サカリナル》、物奈流《モノナル》などいはゞ、直に其(ノ)物をさして、にてあると云意にて、盛にて有(ル)、物にて有(ル)の意なり、(俗言にしていはゞ、盛である物であるといふが如し、又盛ぢや物ぢや、といふにも同じ、京師奈流、吉野奈流を、京師ぢや、吉野ぢやと云てはきこえず、これにて、その差別あるを心得べし、)これら奈流《ナル》は、みな爾阿流《ニアル》の約れる言ながら、かく兩樣に別りて聞ゆるは、言靈の自ら妙なる理なり、さてこゝはまづ、獨にてあるべし、といふ意とは聞ゆれども、さては然る所由《ユヱ》をいへる言なければ、足はぬことなり、故(レ)考るに、流(ノ)字は、武の誤なるべし、さらば、獨《ヒトリ》可《ベシ》v甞《ナム》の意なるべし、○歌(ノ)意は、衣手に水澁漬まで勞《イタヅ》きて殖し田を、又まもれるが苦しとのたまへども、さばかり佐保川の水塞上など、さまざま辛苦して作れる田をば、其(ノ)稻を刈取て、早飯にかしぎて甞るにも、たゞ其身ひとりしてこそ、甞給ふべきなれ、吾に賜はらむとて、勞き給へるよしなるは、いとうれしくはあれども、吾何の勞苦をもせずして、其(ノ)賜《タマ》ものを受むは、おふけなく辱《カタジケナ》き事にこそ侍れ、となり、かくて右の或者のかけ歌は二首なれど、答歌は、初の手母須麻爾《テモスマニ》云々の歌はおきて、後の衣手爾《コロモテニ》云々の一首にこたへたるなり、かくてさきに契冲(ノ)説をあげたる如く、或者の尼に下心ありての歌ならば、あるまじきことを、あらはには打あけて云べくもあらざれば、打かすめて、そ(75)の下心を尼にきかせたるものなり、その打かすめたるは、さま/”\辛勞《イタヅ》きて愛育《ウツクシミソダテ》しは、後つひに吾物に領むがためにこそあれ、さるをいまだ吾物にも得せずして、とにかく心をなやますは、いと苦しき事ぞと云意を、田になぞらへて訴へたるなり、かく下心のあることを、尼はさとりたれど、その下心をば、ふつに知ぬさまにもてなして、田事の勞をのたまへども、其(ノ)稻を刈て、飯に炊きたるほどにも、其(ノ)人の甞べきにこそあれ、他の人のしりたることにあらず、殖ず守らず何も辛勞せぬ人は、甞る事も得すまじきをやと、さはらぬやうにわざと云て、深く出離のこゝろを告知せたるならむか、○かやうに一首の歌を、二人して造ること、倭建(ノ)命よりはじまれり、
 
冬雜歌《フユノクサ/”\ノウタ》。
 
舍人娘子《トネリノイラツメガ》。雪歌一首《ユキノウタヒトツ》。
 
1636 大口能《オホクチノ》。眞神之原爾《マカミノハラニ》。零雪者《フルユキハ》。甚莫零《イタクナフリソ》。家母不有國《イヘモアラナクニ》。
 
大口能《オホクチノ》は、枕詞か、契冲、むかし明日香の池に老狼ありて、おほく人を食ふ、土民おそれて大口の神といふ、名(テ)2其(ノ)住處(ヲ)1、號《イフ》2大口(ノ)眞神(ノ)原(ト)1、と風土記に見えたり、狼は口のおほきなるものなれば、大口の眞神が原とはつゞくるなり、虎をも狼をも、日本紀には神といへり、と云り、(欽明天皇(ノ)紀に、秦(ノ)大津父が狼にむかひて、汝(ハ)是|貴神《カシコキカミナリ》といひ、また巴提使《ハスヒ》が韓國にて虎にむかひて、汝(ハ)(76)威神《カシコキカミナリ》といひしこと見え、神代紀には、素盞嗚(ノ)尊、蛇をも可畏之神《カシコキカミ》とのたまひ、常陸風土記には、大蛇の多く在し處を大神と名けしこと見え、此(ノ)集十六に、韓國乃虎云神乎《カラクニノトラチフカミヲ》、なども見えたり、)今按に、風土記の説の如くならば、もとより地(ノ)名を、大口能眞神原《オホクチノマカミノハラ》と云るなれば、大口之《オホクチノ》は枕詞にあらず、然れども書紀に、唯眞神(ノ)原とあれば、狼は口の大きなるものなれば、大口の神と云、眞神は即(チ)其物なれば、大口之と云枕詞をおきたるを、風土記(ノ)説には、其を一(ツ)に合せて、もとよりの地(ノ)名に、しかおへる如く、語り傳へたるにもあるべし、○眞神之原《マカミノハラ》は、高市(ノ)郡にあり、二(ノ)卷(ノ)下に、委(ク)註り、○家母不有國《イヘモアラナクニ》は、家もあらぬことなるをの意なり、三(ノ)卷に、苦毛零來雨可神埼狹野乃渡爾家裳不有國《クルシクモフリクルアメカカミノサキサヌノワタリニイヘモアラナクニ》、とあるに同じ、○歌(ノ)意は、此(ノ)眞神の原にやどるべき家だにあらば、立よりて、この寒さも凌がるべきに、さやうの家もあらぬことなるを、ふる雪は、そのやうに、つよくふることなかれ、となり、
 
太上天皇御製歌一首《オホキスメラミコトノミヨミマセルオホミウタヒトツ》。
 
太上天皇は、元正天皇なり、御小名《ミヲサナナ》は、氷高(ノ)皇女と申せり、文字は日高とも書り、更(ノ)御名は、新家(ノ)皇女と申しさ、草壁(ノ)皇子(ノ)尊の皇女にて、元明天皇の御妹にまし/\き、續紀に、日本根子高瑞淨足姫(ノ)天皇(ハ)、(元正)天(ノ)渟中原瀛(ノ)眞人(ノ)天皇(天武)之孫、日並知皇子(ノ)尊之皇女也、靈龜元年九月庚辰、受v禅(ヲ)即位《アマツヒツギシロシメス》于大極殿(ニ)1、(元明天皇(ノ)紀に、九月庚辰、天皇禅(ル)2位(ヲ)于氷高(ノ)内親王(ニ)1、詔曰、云々、一品氷高(ノ)(77)内親王、早叶2祥符(ニ)1、夙彰2徳音(ヲ)1、天縱寛仁、沈靜婉變、華夏載佇、謳訟知v歸、云々、)神龜元年二月甲午、天皇禅2位(ヲ)於皇太子(ニ)1(聖武皇帝)天平二十年四月庚申、太上天皇崩2於寢殿(ニ)1、春秋六十有九、丁卯、火2葬於佐保山(ノ)陵(ニ)1、勝寶二年十月癸酉、改2葬於奈保山(ノ)陵(ニ)1、諸陵式に、奈保山(ノ)西(ノ)陵、(平城(ノ)宮(ニ)御宇淨足姫(ノ)天皇、在2大和(ノ)國添上(ノ)郡(ニ)1、兆域東西三丁南北五丁、守戸四烟、)と見えたり、
 
1637 波太須珠寸《ハタススキ》。尾花逆葺《ヲバナサカフキ》。黒木用《クロキモチ》。造有室|戸〔○で囲む〕者《ツクレルヤドハ》。迄萬代《ヨロヅヨマデニ》。
 
尾花逆葺《ヲバナサカフキ》(葺(ノ)字、舊本※[耳/耳]に誤、)は尾花の穗の方を下にして葺をいふ、なほ次に云べし、○黒木用は、クロキモチ〔五字右○〕と訓べし、(モテ〔二字右○〕と訓はわろし、)黒木《クロキ》は、皮つきたる木をいへり、既く四(ノ)卷に釋り、貞觀儀式踐詐大甞祭(ノ)儀條に、物部女宿屋云々、並以2黒木(ヲ)1構作(リ)倒葺云々、神座殿者、構以2黒木(ヲ)1用2萱(ノ)倒葺(ヲ)1、内構2※[木+若]棚(ヲ)1云々、など見えたり、○造有室者(室、一本家と作り、)は、室の下に、戸(ノ)字を脱せるにて、ツクレルヤドハ〔七字右○〕なるべし、次の御製歌に、造有室戸者《ツクレルヤドハ》とあるにてしるべし、さて室戸《ヤド》とは、家のことなり、(室の戸といふにはあらず、)六(ノ)卷に、久堅乃雨者零敷念子之屋戸爾今夜者明而將去《ヒサカタノアメハフリシケオモフコガヤドニコヨヒハアカシテユカム》、十九に、青柳乃保都枝與治等理可豆良久波君之屋戸爾之千年保久等曾《アヲヤギノホツエヨヂトリカヅラクハキミガヤドニシチトセホクトゾ》、などある屋戸《ヤド》も、たゞ家のことにて今と同じ、これは人の宿る家の義にていへるなるべし、集中他處に、和我夜度《ワガヤド》などいへる夜度《ヤド》は、多く夜外《ヤド》、戸前《ヤド》など書る、其(ノ)字(ノ)意にて、世に庭前、或は屋敷《ヤシキ》内などいふ意にて、今と異なり、委くは既く六(ノ)卷に云るを考(ヘ)合すべし、○大御歌(ノ)意は、奈良山なる皮(78)つきの黒木を用て、尾花を倒葺に葺など、ことに古風に清淨《キヨラ》に、髪座めきて作(リ)構へたる此(ノ)家は、萬代の後までも、廢絶《タユ》ることあるまじと思へば、朕も又今日の如く入來て、肆宴《トヨノアカリ》きこしめさむぞ、となり、此(ノ)大御歌と次の大御歌とは、後註によるに、長屋(ノ)王佐保(ノ)宅にて、とよのあかりし給ふ時に御製《ミヨミマセ》るなり、(略解に、長屋(ノ)王の家作り、古(ヘ)ざまなるを、ほめたまへるなり、とあれど、王の家、すべて黒木もて作れるにはあるべからず、天皇の行幸あれば、常の家の外に、假に黒木をもて、御座をつくりしなるべし、いにしへ天皇の行幸には、凡てかゝる例なりしなるべしと、中山(ノ)嚴水云り、)
 
天皇御製歌一首《スメラミコトノミヨミマセルオホミウタヒトツ》。
 
天皇は、聖武天皇なり、
 
1638 青丹吉《アヲニヨシ》。奈良乃山有《ナラノヤマナル》。黒木用《クロキモチ》。造有室者《ツクレルヤドハ》。雖居座不飽可聞《マセドアカヌカモ》。
 
大御歌(ノ)意は、奈良山なる、皮つきの黒木をもて、おもしろく作(リ)構へたる此(ノ)家は、終日|御座《オハ》し座《マセ》どもあきたらぬ哉、さても心にかなひて、興ある家居ぞ、となり、
〔右聞之。御在左大臣長屋王佐保宅。肆宴。御製。〕
 
太宰帥大伴卿《オホミコトモチノカミオホトモノマヘツキミノ》。冬日《フユノヒ》見《ミテ》v雪《ユキヲ》憶《シヌヒタマフ》v京《ミヤコヲ》歌一首《ウタヒトツ》。
 
1639 沫雪《アワユキノ》。保杼呂保杼呂爾《ホドロホドロニ》。零敷者《フリシケバ》。平城京師《ナラノミヤコシ》。所念可聞《オモホルカモ》。
 
(79)沫雪《アワユキ》は、和名抄に、日本紀(ニ)云、沫雪、(阿和由岐《アワユキ》、)其(ノ)弱如2水沫(ノ)1、とありて、雪は弱くて水(ノ)沫の如く、消易きが故にいふならむ、後々の歌に、淡由岐《アハユキ》と心得て、春ふるをのみいふと思へるはたがへり、○保杼呂保杼呂《ホドロホドロ》は、離々にて、はら/\切(レ)離れてふるをいふ言なり、此(ノ)言、むかしより、まだらにふることゝ心得來れるは誤なり、既く委(ク)釋(キ)つ、○歌(ノ)意は、泡雪の離々《ハナレ/”\》に、はら/\とふり重れば、京はいかにおもしろからむと、常に勝りて、平城の京都が一(ト)すぢに戀しく思はるゝ哉、となり、
 
太宰帥大伴卿《オホミコトモチノカミオホトモノマヘツキミノ》。梅歌一首《ウメノウタヒトツ》。
 
1640 吾岳爾《アガヲカニ》。盛開有《サカリニサケル》。梅花《ウメノハナ》。遺有雪乎《ノコレルユキヲ》。亂鶴鴨《マガヘツルカモ》。
 
歌(ノ)意は、吾すむ地《トコロ》の岳に、盛に咲滿たる梅(ノ)花が、おびたゞしく眞白くて、これは冬ふりし雪の消殘れるかと、ふと見まがふまで、人に見まがはせつる花哉、さても見事の花や、となり、○按に、此(ノ)歌は春(ノ)部に收べし、雪とあるにまがひて、冬(ノ)雜歌にいりたるなるべし、
 
角朝臣廣辨《ツヌノアソミヒロベガ》。雪梅歌一首《ユキノウチノウメノウタヒトツ》。
 
角(ノ)朝臣廣辨は傳未(ダ)詳ならず、角(ノ)朝臣は、雄略天皇(ノ)紀に、九年三月、勅《ノリ》2紀(ノ)小弓(ノ)宿禰、蘇我(ノ)韓子(ノ)宿禰、大伴(ノ)談(ノ)連、小鹿火(ノ)宿禰等(ニ)1曰《タマハク》新羅自(ラ)居(テ)2西(ノ)土(ニ)1、累葉《ヨヽ》稱v臣《シタガヘリ》云々、紀(ノ)小弓(ノ)宿禰等即入2新羅(ニ)1行《ユク/\》屠《ハフリトル》2傍郡(ヲ)1云々、大將軍《オホキイクサノキミ》紀(ノ)小弓(ノ)宿禰、値病而薨《ヤミテミウセキ》云々、五月、、別(ニ)小鹿火(ノ)宿禰從(テ)2紀(ノ)小弓(ノ)宿禰(ノ)喪(ニ)1來(ル)時、獨留(リ)2角(80)國《ツヌノクニヽ》1、使3倭子(ノ)連(ヲシテ)奉(ラ)2八咫鏡《ヤタカヾミヲ》於大伴(ノ)大連(ニ)1而|祈請曰《コヒノミケラク》、僕《アレ》不《ジ》v堪(エ)d共2紀(ノ)卿1奉c事《ツカヘマツルコト》天朝《ミカドニ》1、故(レ)請2留住《トヾマリスマムトマヲセリ》角(ノ)國(ニ)1、是以(テ)大連|爲2奏《マヲシテ》於天皇(ニ)1、使v留2居(リマス)于角(ノ)國(ニ)1、是角(ノ)臣等、初《ムカシ》居(テ)2角(ノ)國(ニ)1而|名《イフコト》2角(ノ)臣(ト)1、自(リ)v此始(マレルナリ)也、天武天皇(ノ)紀十三年十一月朔、角(ノ)臣(ニ)賜レ姓(ヲ)曰2朝臣(ト)1、と見えたり、角(ノ)國は、和名抄に、周防(ノ)國都濃(ノ)郡、とあるこれなり、廣辨(辨、目録には辯と作り、)は、本居氏云、ヒロベ〔三字右○〕と訓べし、辨は假字書なり、
 
1641 沫雪爾《アワユキニ》。所落開有《フラエテサケル》。梅花《ウメノハナ》。君之許遣者《キミガリヤラバ》。與曾倍弖牟可聞《ヨソヘテムカモ》。
 
所落《フラエテ》は、降に催されての意なり、○與曾倍《ヨソヘ》は、(契冲、雪と梅とのあひにあひたるごとくに、友だちのあひ思ふ心をよそへて、君が見むか、との心なり、と云るはいかゞ、)古今集俳諧|題詞《ハシツクリ》に、從弟《イトコ》なりける男によそへて、人のいひければ、とあるに同じく、然《サ》もあらぬことを、然《サ》なりといひよする意なり、十(ノ)卷に、梅花先開枝手折而者※[果/衣]常名付而與副手六香聞《ウメノハナマヅサクエダヲタヲリテバツトトナヅケテヨソヘテムカモ》、とあるに同じ、これも梅の初花を、折てまゐらせたくは思へども、人の見て、彼方へ※[果/衣]《ツト》をさへ贈りたりと名付て、吾(カ)中に事のあるやうにいひよせむかと、心しらひしたるよしなり、)○歌(ノ)意は、雪に催されて咲る、このおもしろき梅の花を、君が許に贈りて、見せまほしくは思へども、もし君が許に贈らば、君と吾(ガ)中に、事のありしやうに、人のいひよせさわがむか、さてもせむ方なしや、となり、
 
安倍朝臣奧道《アベノアソミオキミチガ》。雪歌一首《ユキノウタヒトツ》。
 
奥道は、續紀に、廢帝、天平寶字六年正月癸未、五六位上阿倍(ノ)朝臣息道(ニ)授2從五位下(ヲ)1、戊子、爲2若狹(ノ)(81)守(ト)1、七年正月壬子、爲2大和(ノ)介(ト)1、八年九月丁未、授2正五位上(ヲ)1、十月壬申、爲2攝津(ノ)大夫(ト)1、高野天皇天平神護元年正月己亥、授2動六等(ヲ)1、二月己巳、爲2左衛士(ノ)督(ト)1、二年十一月丁巳、正五位上安倍(ノ)朝臣息長(ニ)(道(ノ)誤、)授2從四位下1、神護景雲元年三月己巳、爲2中務(ノ)大輔(ト)1、二年十一月癸未、爲2左兵衛(ノ)督(ト)1、光仁天皇寶龜二年閏三月乙卯、無位安倍(ノ)朝臣奥道(ヲ)復2本位從四位下(ニ)1、九月己亥、爲2内藏(ノ)頭(ト)1、三年四月庚午、爲2但馬(ノ)守(ト)1、八月甲子、復2息部(ノ)息道(ヲ)本姓阿倍(ノ)朝臣(ニ)1、五年三月癸卯、從四位下安倍(ノ)朝臣息道卒、と見えたり、
 
1642 棚霧合《タナギラヒ》。雪毛零奴可《ユキモフラヌカ》。梅花《ウメノハナ》。不開之代爾《サカヌガシロニ》。曾倍而谷將見《ソヘテダニミム》。
 
棚霧合《タナギラヒ》は、棚引て霧ふ意なり、たなの言は、既く三(ノ)卷に釋(ケ)り、霧合《キラヒ》は、伎利《キリ》の伸りたる詞なり、伸ていふは、その緩なるさまをいふなるよし、既くたび/\云たる如し、○雪毛零奴可《ユキモフラヌカ》は、雪もがなふれかしの意なり、○代《シロ》は、かはりにといふが如し、拾遺集に、物(ノ)名ながむしろ、鶯のながむしろには吾ぞ鳴花のにほひやしばしとまると、○曾倍《ソヘ》は、よそへの意なり、○歌(ノ)意は、空かきくもりあひて、いかで雪もがなふれかし、されば吾(ガ)待(ツ)梅(ノ)花の、まだ咲ぬその代に、雪をよそへてなりとも見むに、となり、
 
若櫻部朝臣君足《ワカサクラベノアソミキミタリガ》。雪歌一首《ユキノウタヒトツ》。
 
1643 若櫻部(ノ)朝臣君足は、傳未(ダ)詳ならず、履中夫皇(ノ)紀に、三年冬十一月丙寅朔辛未、是日改2長眞膽(ノ)連(82)之本姓(ヲ)1、曰2稚櫻部(ノ)造(ト)1、と見ゆ、その氏か、
 
天霧之《アマギラシ》。雪毛零奴可《ユキモフラヌカ》。灼然《イチシロク》。此五柴爾《コノイツシバニ》。零卷乎將見《フラマクヲミム》。
 
灼然《イチシロク》(灼(ノ)字、舊本炊に誤、古本に從(ツ)、)は、伊知《イチ》は、甚《イト》の通へるか、甚《イト》は、古言に伊多《イタ》とも云たれば、伊知《イチ》とも通(ハ)し云べきなり、之路久《シロク》は白くにて、いと/\白く分明《アキラカ》に、誰が目にも着て、其と知(ラ)るゝをいふ言なり、○五柴《イツシバ》は、五十津莱草《イツシバ》にて、繁き莱草原《シバハラ》をいへり、既く四(ノ)卷にいへり、(大原之此市柴乃何時鹿跡《オホハラノコノイツシバノイツシカト》、といふ歌に註す、)○歌(ノ)意は、空かきくもりて、いかで雪もがなふれかし、さらば此(ノ)目(ノ)前に多く繁りたる莱草原《シバハラ》に眞白く、誰が目にもつくやうに降積て、おもしろからむ、そのけしきを見むに、となり、
 
三野連石守《ミヌノムラジイソモリガ》。梅歌一首《ウメノウタヒトツ》。
 
三野(ノ)連石守は、傳未(タ)詳ならず、(續紀に、延暦五年十二月乙卯、陰陽(ノ)介正六位上路(ノ)三野(ノ)眞人石守言(ス)、亡父馬養姓無2路(ノ)字1、而今石守獨著2路(ノ)字(ヲ)1、請除(ム)v之、許(シタマフ)焉、とみゆ、加婆禰《カバネ》のたがへるうへ、時代も後れたれば、同人に非るべし、)七にも見ゆ、
 
1644 引攀而《ヒキヨヂテ》。折者可落《ヲラバチルベミ》。梅花《ウメノハナ》。袖爾古寸入津《ソデニコキレツ》。染者雖染《シマバシムトモ》。
 
折者可落は、ヲラバチルベミ〔七字右○〕と訓べし、折ばちるべからむとての意なり、○古寸入津《コキレツ》は、扱入《コキイレ》つなり、古寸《コキ》は、扱(キ)取ことなり、十八に、或云、多麻古伎之伎弖《タマコキシキテ》、又|蘇泥爾毛古伎禮《ソテニモコキレ》、十九に、袖爾古(83)伎禮都《ソデニコキレツ》、廿(ノ)卷に、布伎古吉之家流《フキコキシケル》、又|蘇弖爾古伎禮奈《ソデニコキレナ》、雄略天皇(ノ)紀に、使3后妃(ニ)親|桑《クハコカシメテ》以勸2蠶事(ヲ)1、古今集戀(ノ)三、あけぬとてかへる道には古伎《コキ》たれて雨も涙もふりそぼちつゝ、秋(ノ)下、黄葉は袖に古伎《コキ》入(レ)てもていなむ秋はかぎりと見む人の爲、雜(ノ)上、古伎《コキ》散(ラ)す瀧の白玉拾ひ置て世の憂(キ)時の涙にぞかる、かりてほす山田の稻の古伎《コキ》たれて鳴こそわたれ秋のうければ、長歌に、玉の緒解て古伎《コキ》ちらし云々、伊勢物語に、いにしへの匂(ヒ)はいづら櫻花|古氣流《コケル》からともなりにけるかな、拾遺集十六題詞に、ひげこに花を古伎《コキ》入(レ)て云々、こきれと云は、いれのいは、きの餘韻に含める故に、自ら省る例なり、書紀皇極天皇(ノ)卷(ノ)歌に、烏麼野始爾倭例烏比岐例底《ヲバヤシニワレヲヒキレテ》、(引《ヒキ》入(レ)てなり)、蜻蛉日記に、たゝうがみの中に、さしれてありしが云々、(指入《サシイリ》てなり、)○染者雖染《シマバシムトモ》は、染ばしむともよしやの意なり、○歌(ノ)意は、引(キ)攀て、折(リ)取(ラ)まほしくはあれとも、然せばちるべからむ、よしや人の見てとがむるばかり、花の色に衣の染(ミ)はすとも、それもいとはじとて、この梅(ノ)花を袖に扱(キ)入つる、となり、
 
巨勢朝臣宿奈麻呂《コセノアソミスクナマロガ》。雪歌一首《ユキノウタヒトツ》。
 
1645 吾屋前之《ワガヤドノ》。冬木乃上爾《フユキノウヘニ》。零雪乎《フルユキヲ》。梅花香常《ウメノハナカト》。打見都流香裳《ウチミツルカモ》。
 
歌の意は、吾(ガ)庭の冬木のうへに降たる雪を、ふと打見《ウチミ》に、あれは、梅(ノ)花が咲たるかと見誤りつる哉、さても花によく似たる、見事の雪や、となり、
 
(84)小治田朝臣東麻呂《ヲハリダノアソミアヅママロガ》。雪歌一首《ユキノウタヒトツ》。
 
東麻呂は、傳未(タ)詳ならず、
 
1646 夜干玉乃《ヌバタマノ》。今夜之雪爾《コヨヒノユキニ》。卒所沾名《イザヌレナ》。將開朝爾《アケムアシタニ》。消者惜家牟《ケナバヲシケム》。
 
率所沾名《イザヌレナ》は、率《イザ》とは、いざなひたつる詞なり、家(ノ)内の人を、率々《イザ/\》といざなふよしなり、名《ナ》は、牟《ム》を急《ハヤク》云るなり、率々《イザ/\》沾む、いでさらばと急ぎ進めるよしなり、○消者は、ケナバ〔三字右○〕と訓べし、(略解に、きえばとよみしは、よろしからず、)消なばの義なり、○歌(ノ)意は、率々出て、今夜の雲に沾て愛む、いざさらば妻や子よ急出む、明日さへふらばあるべきに、夜のほどに止て、明(ケ)む朝に消去てありなば、いかにをしからむ、悔(ユ)ともかひはあるまじきぞ、となり、
 
忌部首黒麻呂《イミベノオビトクロマロガ》。雪歌一首《ユキノウタヒトツ》。
 
1647 梅花《ウメノハナ》。枝爾可散登《エダニカチルト》。見左右二《ミルマデニ》。風爾亂而《カゼニミダレテ》。雪曾落久類《ユキゾフリクル》。
 
枝爾可散登《エダニカチルト》は、枝に散かとの意なり、○歌(ノ)意、あれは梅の花が枝に散飛かと、ふと見誤るばかりに、風に亂れて、ちら/\と雪ぞふり來る、となり、
 
紀少鹿女郎《キノヲシカノイラツメガ》。梅歌一首《ウメノウタヒトツ》。
 
少鹿(ノ)女郎は、四(ノ)卷の下に云り。
 
1648 十二月爾者《シハスニハ》。沫雪零跡《アワユキフルト》。不知可毛《シラネカモ》。梅花開《ウメノハナサク》。含不有而《フフメラズシテ》。
 
(85)不知可毛は、シラネカモ〔五字右○〕と訓べし、しらねばかといふ意になる、古言の例格なり、略解に、しらぬかもとよみしは、太《イミ》じき非《ヒガコト》なり、)毛《モ》は、歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、次下に、沫雪乃比日續而如此落者梅始花散香過南《アワユキノコノゴロツギテカクフラバウメノハツハナチリカスギナム》、とよめるがごとく、雪のふるときに咲ては散易きを、それとも不《ネ》v知(ラ)ばか、含(ミ)て居て、春をも待ずして、十二月の内に開らむ、さてもいとほしの花や、となり、
 
大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチガ》。雪梅歌一首《ユキノウチノウメノウタヒトツ》。
 
1649 今日零之《ケフフリシ》、雪爾競而《ユキニキホヒテ》。我屋前之《ワガヤドノ》。冬木梅者《フユキノウメハ》。花開二家里《ハナサキニケリ》。
 
競而《キホヒテ》は、爭而《アラソヒテ》といふが如し、雲はまづふらむとし、花はまづ咲むと、互に先を爭ふを云、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
御2在《イマシテ》西池邊《ニシノイケノホトリニ》1。肆宴歌一首《トヨノアカリキコシメスウタヒトツ》。
 
御2在西池邊(ニ)1は、續紀に、天平十年秋七月癸酉、天皇御2大藏(ノ)省(ニ)1、覽(ス)2相撲(ヲ)1、晩頭御2西(ノ)池(ノ)宮(ニ)1、云々、と見えたり、
 
1650 池邊乃《イケノベノ》。松之末葉爾《マツノウラバニ》。零雪者《フルユキハ》。五百重零敷《イホヘフリシケ》。明日左倍母將見《アスサヘモミム》。
 
歌(ノ)意は、此(ノ)池(ノ)宮の池邊の松の上に、おもしろく降る雪は、五百重に厚く降積りて消失ずあれ、今日のみならず、明日迄も見て愛むぞ、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。作者未詳《ヨミビトシラズ》。【但竪子阿倍朝臣蟲麻呂傳誦之。】
 
(86)竪子(竪(ノ)字、一本堅に誤れリ、)はワラハ〔三字右○〕と訓べし、干禄字書に、竪豎上(ハ)通下(ハ)正、とあり、本居氏云、からぶみ周禮に、内豎といふ官(ノ)名有(リ)て、註に、豎(ハ)未v冠者之官(ノ)名、とあり、故(レ)皇朝にても、童にて仕(ヘ)奉る人を豎子といひて、ワラハ〔三字右○〕と訓り、安閑天皇(ノ)紀に、僮竪《シモベワラハ》なども有(リ)、和名抄に、内竪三百人、俗云、知比佐和良波《チヒサワラハ》、(本に竪を監に、和を利に誤れり、)廿(ノ)卷に、寶字二年春正月三日、召2侍從堅子王臣等(ヲ)1、云々、など見ゆ、大御許近く仕(ヘ)奉る者なり、
 
大伴坂上郎女歌一首《オホトモノサカノヘノイラツメガウタヒトツ》。
 
1651 淡雪乃《アワユキノ》。比日續而《コノゴロツギテ》。如此落者《カクフラバ》。梅始花《ウメノハツハナ》。散香過南《チリカスギナム》。
 
歌(ノ)意は、此(ノ)頃のならひに、日數つゞきて、かくの如く雪の降ならば、あたら此(ノ)梅の初花が、散失るにてあらむか、得|持《タモチ》はすまじ、となり、
 
池田廣津娘子《イケダノヒロキヅヲトメガ》。梅歌一首《ウメノウタヒトツ》。
 
池田(ノ)廣津娘子は、傳未(ダ)詳ならず、池田は氏、廣津は字なるべし、雄略天皇(ノ)紀に、倭(ノ)國五礪(ノ)廣津(ノ)邑、(廣津、此云2比盧岐頭《ヒロキヅト》1、)とあるに從て、ヒロキヅ〔四字右○〕と訓べし、
 
1652 梅花《ウメノハナ》。折毛不折毛《ヲリモヲラズモ》。見都禮杼母《ミツレドモ》。今夜能花爾《コヨヒノハナニ》。尚不如家利《ナホシカズケリ》。
 
歌(ノ)意は、さきに梅(ノ)花を折取ても見たり、折ずに置て枝ながらも見たり、色々として賞愛《ウツクシミ》つれども、今夜の興により、花のおもしろきには、なほおよばずありけり、となり、
 
(87)縣犬養娘子《アガタノイヌカヒノイラツメガ》。依《ヨセテ》v梅《ウメニ》發《ノブル》v思《オモヒヲ》歌一首《ウタヒトツ》。
 
縣(ノ)犬養(ノ)娘子は、傳未(ダ)詳ならず、
 
1653 如今《イマノゴト》。心乎常爾《コヽロヲツネニ》。念有者《オモヘラバ》。先咲花乃《マヅサクハナノ》。地爾將落八方《ツチニオチメヤモ》。
 
歌(ノ)意は、今のやうにいつまでも常に心を深めて、我を思ほし賜ふならば、まづさきがけて早く咲花の、四方に先だちて、地に落る如く、早く見捨らるゝ事あらむやは、あはれよもさることはあらじ、となり、本居氏、これは新に夫《ヲトコ》に逢へる比の歌にて、男の心の、今の如く常にかはらずば、後まですてらるゝこともあるまじきを、人の心は變りやすき習なれば、今ねもごろなるも、後は頼みがたし、とよめるならむ、と云り、實に未おぼつかなく思ふことを、餘意にきかせたるなるべし、
 
大伴坂上郎女《オホトモノサカノヘノイラツメガ》。雪歌一首《ユキノウタヒトツ》。
 
1654 松影乃《マツカゲノ》。淺茅之上乃《アサヂノウヘノ》。白雪乎《シラユキヲ》。不令消將置《ケタズテオカム》。言者可聞奈吉《コトハカモナキ》。
 
言は、吉の誤にて、由《ヨシ》の借(リ)字なるべし、ヨシハカモナキ〔七字右○〕とあるべし、と本居氏云り、○歌(ノ)意は、此(ノ)松影の淺茅が上に、けしき面白くふりたる白雪を、いつまでも此(ノ)まゝに消《キヤ》さずて置べき爲方はあるまじきか、嗚呼さても、面白の雪のけしきや、となり、
 
冬相聞《フユノシタシミウタ》。
 
(88)三國眞人人足歌一首《ミクニノマヒトヒトタリガウタヒトツ》。
 
人足は、續紀に、慶雲二年十二月癸酉、授2從六位上三國(ノ)眞人人足(ニ)從五位下(ヲ)1、靈龜元年四月丙子、從五位上、養老四年正月甲子、正五位下、と見えたり、
 
1655 高山之《タカヤマノ》。菅葉之努藝《スガノハシヌギ》。零雪之《フルユキノ》。消跡可曰毛《ケヌトカイハモ》。戀乃繁鷄鳩《コヒノシゲケク》。
 
消跡可曰毛《ケヌトカイハモ》は、けヌといはむか、といはむが如し、毛《モ》は、牟《ム》と云に同じ、二(ノ)卷に、誰戀爾有目《タガコヒナラモ》、とあるに同じ、後ながら和泉式部(ガ)歌に、人もがなみせもきかせも萩(ノ)花さく夕かげのひぐらしの聲、とあるも、見せむ聞せむをかく云るか、(但しこれは、見せもせむ聞せもせむ、といふを、省きていへるにもあるべし、さらばこゝの例にはあらす、)○歌(ノ)意は、戀しく思ふ思のしげきやうは、たとへて云むやうなし、直《タヾ》に打つけに、消失ると云て遣(ラ)むか、となり、本(ノ)句は全(ラ)序ナり、三(ノ)卷に、奥山之菅葉凌零雪乃消者將惜雨莫零所年《オクヤマノスガノハシヌギフルユキノケナバヲシケムアメナフリソネ》、(行は、所を誤れるなり、)古今集戀一に、おくやまのすがの根しのぎふる雪のけぬとかいはむこひのしげきに、とあるは、即(チ)今の歌なり、すがのねは、誤て傳へけるならむ、さて古今集には、萬葉集に入ぬ歌をえらべるよし、序に見えたれども、ふとわすれて載たるなり、
 
大伴坂上郎女雪歌一首《オホトモノサカノヘノイラツメガウタヒトツ》。
 
1656 酒杯爾《サカヅキニ》。梅花浮《ウメノハナウカベ》。念共《オモフドチ》。飲而後者《ノミテノチニハ》。落去登母與之《チリヌトモヨシ》。
(89)浮は、ウカベ〔三字右○〕と訓べし、(略解に、うけてとよめるは、いさゝか心ゆかず、)五(ノ)卷に、波流楊奈宜可豆良爾乎利志烏梅能波奈多禮可有可倍思佐加豆岐能倍爾《ハルヤナギカヅラニヲリシウメノハナタレカウカベシサカヅキノヘニ》、とあり、又|烏梅能波奈伊米爾加多良久美也備多流波奈等阿例母布左氣爾于可倍許曾《ウメノハナイメニカタラクミヤビタルハナトアレモフサケニウカベコソ》、などあり、(七(ノ)卷に、春日在三笠乃山二月船出遊士之飲酒杯爾陰爾所見管《カスガナルミカサノヤマニツキノフネイヅミヤビヲノノムサカヅキニカゲニミエツヽ》、とあるは、影の移るをいひ、今はやがて、花の散浮べるを云るなり、)○歌意は、梅(ノ)花の散(ル)を盃に浮(ベ)入て、心の相思ふ友だち、心だらひに飲て樂て、其後には散失るとも、縱《ヨシ》やそれをばいとはじ、となり、五卷に、阿乎夜奈義烏梅等能波奈乎遠理可射之能彌弖能能知波知利奴得母與斯《アヲヤナギウメトノハナヲヲリカザシノミテノノチハチリヌトモヨシ》、
 
姓名〔二字○で囲む〕|和歌一首《コタフルウタヒトツ》。
 
1657 官爾毛《ツカサニモ》。縱賜有《ユルシタマヘリ》。今夜耳《コヨヒノミ》。將飲酒可毛《ノマムサケカモ》。散許須奈由米《チリコスナユメ》。
 
官爾毛縱賜有《ツカサニモユルシタマヘリ》とは、多く集りて酒宴《サケノミ》することをば、制《トヾ》め給へれども、親族の一人二人よりあひて飲ことをば、ともかくもせよと、官省《ツカサ》にもゆるし給ひてあるよしなり、○歌(ノ)意、契冲云、したしき人ひとりふたりよりあひて飲ことをば、おほやけにもゆるし給へば、たゞこよひのみのまむ酒かは、又ものむべければ、ゆめ/\散(リ)過なと、梅をいさむるなり、のみてのちには、ちりぬともよしといへるを、おさへたるかへしなり、
〔右酒者。官禁制※[人偏+稱の旁]。京中閭里不得集宴。但親親一二飲樂聽許者。縁此和人作此發句焉。〕
 
(90)藤原|皇〔○で囲む〕后《フヂハラノオホキサキノ》。奉《タテマツラセル》2 天皇《スメラミコトニ》1御歌一首《ミウタヒトツ》。〔頭注、【藤皇后目録、】〕
 
皇后(皇(ノ)字、舊本に脱せり、)は、光明皇后にて、不比等大臣の女なり、續紀に、廢帝、天平寶字四年六月乙丑、天平應眞仁正皇太后崩(ス)、姓(ハ)藤原氏、近江乃朝《ミカドノ》大織冠内大臣鎌足之孫、平城朝《ナラノミカドノ》贈正一位太政大臣不比等之女也、母(ヲ)曰2贈正一位縣(ノ)犬養(ノ)橘(ノ)宿禰三千代(ト)1、聖武皇帝儲|貳之《トナリタマヒシ》日、納(テ)以爲v妃(ト)、時年十六、神龜元年、聖武皇帝|即位《アマツヒツギシロシメス》、授2正一位(ヲ)1爲2大夫人(ト)1、生2高野(ノ)天皇及皇太子(ヲ)1、天平元年、尊(テ)2大夫人(ヲ)1爲2皇后(ト)1、勝寶元年、高野(ノ)天皇受v禅(ヲ)、改(テ)2皇后宮(ノ)職(ヲ)1曰2紫微中臺(ト)1、妙《抄歟》2選勲賢1、並2列(セリ)臺司(ニ)1、寶字二年、上(テ)2尊號(ヲ)1曰2天平應眞皇太后(ト)1、改(テ)2中臺(ヲ)1、曰2坤宮官(ト)1、崩(シタマフ)時|春秋《トシ》六十、と見えたり、續紀(ノ)上文を按(フ)るに、神龜四年十一月戊午、賜2從三位藤原(ノ)夫人(ニ)食對一千戸(ヲ)1、天平元年八月戊辰、詔立2正三位藤原(ノ)夫人(ヲ)1爲2皇后(ト)1、と見えて、神龜元年に、正一位を授(タマ)へる事なし、又大夫人の稱なし、神龜元年二月丙申、勅尊2正一位藤原(ノ)夫人(ヲ)1稱2大夫人(ト)1、とあるは、土左(ノ)朝臣宮子の事なり、されば天平元年、正三位夫人にて皇后に立給へるを、續紀の傳文には、宮子(ノ)夫人の事磧と、混(ヒ)誤れるものなり、○天皇は、聖武天皇なり、
 
1658 吾背兒與《ワガセコト》。二有見麻世波《フタリミマセバ》。幾許香《イクバクカ》。此零雪之《コノフルユキノ》。懽有麻思《ウレシカラマシ》。
 
御歌(ノ)意は、唯一人見てさへ興なきにはあらぬを、吾(ガ)夫子と二人居て見ましかば、此(ノ)降雪の面白く、いかばかりか樂しく懽しく有まし、となり、
 
(91)池田廣津娘子歌一首《イケダノヒロキツヲトメガウタヒトツ》。
 
1659 眞木乃於上《マキノウヘニ》。零置有雪乃《フリオケルユキノ》。敷布毛《シクシクモ》。所念可聞《オモホユルカモ》。佐夜問吾背《サヨトヘワガセ》。
 
佐夜問吾背《サヨトヘワガセ》は、佐《サ》は例の眞《マ》に通ふ美稱にて、夜《ヨル》訪《トヒ》來れ吾(ガ)夫よ、といふ意か、されどいさゝか平穩ならぬ詞なり、もしは誤字などもあらむか、なほ考(フ)べし、○歌(ノ)意は、重重《シクシク》に戀しく思はるゝ哉、かくては得堪まじきを、いかにまれ、今夜は訪來り給へ、吾夫《ワガヤ》よ、といふか、本(ノ)二句は序なり、
 
大伴宿禰駿河麻呂歌一首《オホトモノスクネスルガマロガウタヒトツ》。
 
1660 梅花《ウメノハナ》。令落冬風《チラスアラシノ》。音耳《オトノミニ》。聞之吾妹乎《キヽシワガモヲ》。見良久士吉裳《ミラクシヨシモ》。
 
歌(ノ)意は、うつくしうつくしと、つてにのみ聞わたりし吾妹を、今目(ノ)前に親く見れば、まことに聞し如く、さても愛《ウルハ》しや、となり、本(ノ)句は全(ラ)序なり、契冲云、此(ノ)わぎもは、坂上(ノ)郎女が、山もりのありけるしらにとほのめかされし坂上(ノ)二娘をいへるなるべし、
 
紀少鹿女郎歌一首《キノヲシカノイラツメガウタヒトツ》。
 
1661 久方乃《ヒサカタノ》。月夜乎清美《ツクヨヲキヨミ》。梅花《ウメノハナ》。心開而《コヽロニサキテ》。吾念有公《アガモヘルキミ》。
 
心開而は、コヽロニサキテ〔七字右○〕と訓べくおぼゆ、(花にヒラク〔三字右○〕といふは、古言にあることなし、後に開(ノ)字に就ていへることなり、)○歌(ノ)意は、折しも月は清く照て興ある故に、一入喜しくて、梅の花の開《サキ》たるごとく、心(ノ)中に咲《サキ》榮えて思へる君ぞ、といへるか、月の夜人の訪來しを歡べる歌(92)なるべし、
 
大伴田村大娘《オホトモノタムラノオホイラツメガ》。與《オクレル》2妹坂上大娘《イモサカノヘノオホイイラツメニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
1662 沫雪之《アワユキノ》。可消物乎《ケヌベキモノヲ》。至今《イママデニ》。流經者《ナガラヘフルハ》。妹爾相曾《イモニアハムトゾ》。
 
沫雪之《アワユキノ》は、可消《ケヌベキ》といはむ料にのみおきたる、枕詞の如し、○流經《ナガラヘフル》とかけるは、雪のふるを流經《ナガラフ》といふことのある縁《チナミ》に書るのみにて、言(ノ)意は、長經《ナガラヘフル》なり、存命《ナガラヘ》て世を經《フ》るはの意なり、○相曾《アハムトゾ》は、相む爲とてぞの意なり、○歌(ノ)意は、はやく消失べきものを、さもせずして、今までに 命存《イノチナガラ》へてあるは、他の故に非ず、妹にあはむ爲とてぞ、となり、契冲云、此田村(ノ)大娘と坂上(ノ)大娘とは、贈答あまた見えたり、むつましきあねいもうとなり、今の嫗まさにしか|ら《衍歟》むや、
 
大伴宿禰家持歌一首《オホトモノスクネヤカモチガウタヒトツ》。
 
1663 沫雪乃《アワユキノ》。庭爾零敷《ニハニフリシキ》。寒夜乎《サムキヨヲ》。手枕不纏《タマクラマカズ》。一香聞將宿《ヒトリカモネム》。
 
歌(ノ)意は、沫雪の庭に降積りて、甚寒き此(ノ)夜を、妻が手枕纏ずして、唯一人(リ)宿むが、さても堪がたしや、となり、
 
萬葉集古義八卷之下 終
 
(93)萬葉集古義九卷之上
 
雜歌《クサ/”\ノウタ》。
 
泊瀬朝倉宮御宇天皇御製歌一首《ハツセノアサクラノミヤニアメノシタシロシメシヽスメラミコトノミヨミマセルオホミウタヒトツ》。
 
天皇は、雄略天皇なり、一(ノ)卷(ノ)初に出(シツ)、○御宇の下、舊本に大泊瀬幼武天皇、と註せり、後人のしわざなり、
 
1664 暮去者《ユフサレバ》。小椋山爾《ヲクラノヤマニ》。臥鹿之《フスシカノ》。今夜者不鳴《コヨヒハナカズ》。寐家良霜《イネニケラシモ》。
 
此(ノ)大御歌、既《ハヤ》く八(ノ)卷に出て、第三(ノ)句、鳴鹿之《ナクシカノ》として、崗本(ノ)天皇御製歌とす、○舊本こゝに註して云(ク)、右或本云、崗本(ノ)天皇御製、不v審2正指1、因以累載、とあり、げにも此(ノ)大御歌の御風體は、舒明天皇のにぞあるべき、
 
崗本宮御宇天皇《ヲカモトノミヤアメノシタシロシメシヽスメラミコトノ》。幸《イデマセル》2紀伊國《キノクニニ》1時歌二首《トキノウタフタツ》。
 
天皇は、舒明天皇なり、契冲云、日本紀の舒明天皇(ノ)卷を考(フ)るに、紀伊(ノ)國にみゆきし給へる事見えず、しかはあれど、紀にもれたることなかるべきに非ず、たゞし此(ノ)卷は、撰者すでに卷の中(94)に云るごとく、古記簡略なるゆゑに、作者をなせるにも、あるひは氏をのみ記し、或は名をのみ記して、分明ならぬ事おほければ、是も若は後(ノ)岡本(ノ)宮にや、齊明天皇の紀(ノ)温湯へみゆきせさせ給へることは、第二(ノ)卷にも紀にも見ゆ、
 
1665 爲妹《イモガタメ》。吾玉拾《アガタマヒリフ》。奧邊有《オキヘナル》。玉縁持來《タマヨセモチコ》。奧津白浪《オキツシラナアミ》。
 
爲妹《イモガタメ》は、家(ノ)妻が爲《タメ》と云なるべし、○玉縁持來は、タマヨセモチコ〔七字右○〕と訓べし、玉を縁て持來よと、奥津浪に令《オホ》するなり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
1666 朝霧爾《アサギリニ》。沾爾之衣《ヌレニシコロモ》。不干而《ホサズシテ》。一哉君之《ヒトリヤキミガ》。山道將越《ヤマヂコユラム》。
 
歌(ノ)意は、朝霧に沾にし旅衣を、乾す妻もなく暇もなければ、其(ノ)まゝ沾ながらに、唯一人夫(ノ)君が山道を越行給(フ)らむか、いかに苦しくわびしかるらむとなり、これは從駕の人の妻の、京に留れるがよめる歌なり、伊勢物語に、風吹ば奥津白浪立田山よはにや君が一人こゆらむ、思(ヒ)合(ス)べし、此(ノ)歌新古今集に入、
〔右二首《ミギノフタウタ》。作者未詳《ヨミビトシラズ》。〕
 
大寶元年辛丑冬十月《ダイハウノハジメノトシカノトウシカミナナヅキ》。太上天皇《オホキスメラミコト》。大行天皇《サキノスメラミコト》。幸《イデマセル》2紀伊國《キノクニニ》1時歌《トキノウタ》十三首。
 
大寶元年云々は、一(ノ)卷(ニ)云、大寶元年辛丑秋九月、太上天皇幸2于紀伊(ノ)國(ニ)1時(ノ)歌、續紀に、文武天皇大寶元年九月丁亥、天皇幸2紀伊(ノ)國(ニ)1、冬十月丁未、事駕至2武漏(ノ)温泉(ニ)1、戊午、車駕自2紀伊1至、とあり、○太(95)上天皇大行天皇の八字、目録にはなし、契冲云、第一(ノ)卷に九月とあるは、紀伊(ノ)國に御幸せさせ給ふ道にてのうたなり、今こゝに載たるは、すでに紀の國にいたらせ給ひての歌なれば、冬十月と云るはたがはず、第一に秋九月とありて、日は見えざれども、下旬の末なるべし、續紀には九月丁亥、天皇幸2紀伊(ノ)國(ニ)1、とありて、太上天皇の御幸は載ず、但印本に脱誤おほければ、太上天皇幸2紀伊(ノ)國(ニ)1なりけるが、太上の二字おちたるにや、此(ノ)集に、兩所に太上天皇は、御幸と見えたれば、これをも證とすべし、此(ノ)太上天皇は持統天皇なり、太上天皇にてことたれるを、太上天皇大行天皇とあるは、元明天皇の御治世の時、これをしるすとて、持統天皇を太上天皇といひ、文武天皇を、いまだみおくり名奉らぬほどなれば、大行天皇と申すにや、しからば持統天皇と、文武天皇と共にみゆきせさせ給へるを、紀に行幸をのみ記して、御幸をもらし、此(ノ)集には御幸をのみしるして、行幸をもらせりと心得べきにや、
 
1667 爲妹《イモガタメ》。我玉求《アガタマモトム》。於伎邊有《オキヘナル》。白玉依來《シラタマヨセコ》。於岐都白浪《オキツシラナミ》。
〔右一首上見既畢。但歌辭少換。年代相違。因以累載。〕
上見既は、既見上とありしを、誤れるなるべし、
 
1668 白崎者《シラサキハ》。幸在待《サキクアリマテ》。大船爾《オホフネニ》。眞梶繁貫《マカヂシヾヌキ》。又將顧《マタカヘリミム》。
 
白崎《シラサキ》は、本居氏、日高(ノ)郡|衣奈《エナノ》莊衣奈浦の東南の方に、衣奈八幡といふある、其(ノ)社の縁起に、白崎《シラサキ》(96)といふこと見えたりと云り、白良《シララノ》濱とは別處なり、○幸有待《サキクアリマテ》は、此(ノ)後面がはりせず平安《サキク》ありて、又來む間を在(リ)々(リ)て待(テ)と云なり、人にむかひていふごとく、地にいひつくるは、歌のならひなり、一(ノ)卷人麻呂の近江の荒都をかなしめる歌に、樂浪之思賀乃辛碕雖幸有《サヽナミノシガノカラサキサキクアレド》、大宮人之船麻知兼津《オホミヤヒトノフネマチカネツ》、思(ヒ)合(ス)べし、樂浪乃志我能韓崎幸有者又反見《サヽナミノシガノカラサキサキクアラバマタカヘリミム》、とあるは、自《ミ》の平安《サキク》てあらばといふことを、詞の響によりて、韓埼幸《カラサキサキク》とつゞけ下したるのみにて、今とはいさゝか異《カハ》れり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
1669 三名部乃浦《ミナベノウラ》。塩莫滿《シホナミチソネ》。鹿島在《カジマナル》。釣爲海人乎《ツリスルアマヲ》。見變來六《ミテカヘリコム》。
 
三名部乃浦《ミナベノウラ》は、和名抄に、紀伊(ノ)國日高(ノ)郡|南部《ミナベ》とあり、日高(ノ)郡岩代の南なり、三名部村みなべ浦ありと、本居氏云り、(契冲云、天智天皇の皇女の御名を、御名部《ミナベ》と負せ給ふは、所由ありて、此(ノ)浦にかたどり給へることにや、)○塩莫滿はシホナミチソネ〔七字右○〕と訓べし、○鹿島《カシマ》は、本居氏云、南部《ミナベ》浦より、十町ばかりへだゝりたる海中に島有(リ)、これなり、○變《カヘリ》は、還《カヘリ》なり、集中變反通(ハシ)用(ヒ)たり、○歌(ノ)意は、鹿島の海人の、釣するけしきを見て還り來むと思ふぞ、南部《ミナベ》の浦に塩滿來て、吾(カ)行道を障ることなかれとなり、
 
1670 朝開《アサビラキ》。※[手偏+旁]出而我者《コギデテアレハ》。湯羅前《ユラノサキ》。釣爲海人乎《ツリスルアマヲ》。見變將來《ミテカヘリコム》。
朝開《アサビラキ》ハ、朝に湊を發船《フナダチ》するを云古言なり、既く出づ、○湯羅前《ユラノサキ》は、七(ノ)卷に、爲妹玉乎拾跡木國之《イモガタメタマヲヒリフトキノクニノ》、(97)湯等乃三崎二此日鞍四通《ユラノミサキニコノヒクラシツ》、とあり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
1671 湯羅乃前《ユラノサキ》。塩乾爾祁良志《シホヒニケラシ》。白神之《シラサカミノ》。礒浦箕乎《イソノウラミヲ》。敢而※[手偏+旁]動《アベテコギトヨム》。
 
白神《シラカミ》は、紀伊(ノ)國にありと云り、土人に尋ぬべし、○敢而※[手偏+旁]動《アベテコギトヨム》は、喘《アヘギ》て漕(キ)響むといふなるべし、敢《アベ》は、三(ノ)卷に、海路爾出而阿倍寸管我※[手偏+旁]行者《ウミヂニイデテアベキツヽアガコギユケバ》、また安倍而※[手偏+旁]出牟爾波母之頭氣師《アベテコギデムニハモシヅケシ》、などある阿倍《アベ》と同じかるべし、さて假字書には、いづれも倍の濁音(ノ)字を用ひたれば、濁て唱へしなるべし、敢(ノ)字を書るは、清音を濁音に借(リ)たるならむ、さる例多し、既くいへり、宇治拾遺五に、そこら集りたる大衆、異口同音にあめきて、扇をひらきつかひたり、とある、阿米伎《アメキ》も同言なり、(濁音の婆尾夫倍煩《バビブベボ》を、麻美牟米母《マミムメモ》と轉(シ)云ことは例多し、さて中昔の物語書に、打うめきといふ詞あるも、阿米伎《アメキ》の轉れるにて、もと同言なり、)○歌(ノ)意は、白神の磯の裏のめぐりを、喘《アベ》きて急に船を漕響むなり、あれは湯羅の前の潮干潟に行て、玉など拾はむとてのわざならむ、されば湯羅の前は、今潮涸になりにけるらし、となり、
 
1672 黒牛方《クロウシガタ》。塩干之浦乎《シホヒノウラヲ》。紅《クレナヰノ》。玉裙須蘇延《タマモスソビキ》。往者誰妻《ユクハタガツマ》。
 
黒牛方《クロウシガタ》、方は潟なリ、黒牛《クロウシ》、今は黒江《クロエ》といひて、若山の方より、熊野に物する大路にて、黒江《クロエ》、干潟《ヒタカ》、名高《ナタカ》、とつぎ/\にあひつらなりて、三里いづれも町つくりて、物うる家しげく立つゞき、にぎはゝしき里どもにて、此(ノ)わたり、むかしは名草(ノ)郡なりしを、今は海士(ノ)郡につけりと云り、既(98)く七(ノ)上に、本居氏の説を載て委(ク)云り、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
1673 風莫乃《カザハヤノ》。濱之白浪《ハマノシラナミ》。徒《イタヅラニ》。於斯依來藻《コヽニヨセクモ》。見人無《ミルヒトナシニ》。
 
風莫乃は、莫は早の誤なるべし、カザハヤノ〔五字右○〕と訓べし、三(ノ)卷に、加麻※[白+番]夜能美保乃浦廻之白管自《カザハヤノミホノウラミノシラツヽジ》、七(ノ)卷に、風早之三穗乃浦廻乎※[手偏+旁]舟之《カザハヤノミホノウラミヲコグフネノ》、などよめり、三穗《ミホ》は、紀伊(ノ)國日高(ノ)郡なり、既く三(ノ)卷に委(ク)云り、○於斯依來藻《コヽニヨセクモ》は、舊本に、來藻を久流と作て、一(ニ)云、於斯依來藻と註せるに從つ、久流《クル》にては、てにをは調はず、○歌(ノ)意は、風早の濱の白浪の、此間《ココ》に依來るけしきの、こよなく面白きけしきを、家(ノ)妻など率て來て、共に見はやさば、いかに樂しからむと思ふを、さる人もなきによせくるは嗚呼惜や、いたづらの白浪にてあるぞ、となり、
〔右一首、山上臣憶良類聚歌林曰。長忌寸意吉麻呂、應v詔作2此歌1。〕歌林の歌(ノ)字、舊本には脱たり、古寫本、拾穗本等に從つ、
 
1674 我背兒我《ワガセコガ》使將來歟跡《ツカヒコムカト》。出立之《イデタチノ》。此松原乎《コノマツバラヲ》。今日香過南《ケフカスギナム》。
 
本(ノ)二句は、出立《イデタチ》を云む料の序なり、夫(ノ)君の使の來むかとて、迎(ヘ)に門に出(テ)立(ツ)謂にいひかけたり、○出立《イデタチ》は、十三に、大舟乃思恃而出立之清瀲爾《オホブネノオモヒタノミテイデタチノキヨキナギサニ 》、とよめる出立《イデタチ》に同じ、走出《ワシリデ》などいへる類とは、いさゝか異にて、これは其(ノ)地の體勢の、海濱などに自(ラ)出立たる如く見ゆるを云るなり、○松原《マツバラ》、紀伊に今も松原と云ところありといへり、それ歟、○歌意は、出立の體勢の面白き、此(ノ)松原(99)のけしきを見捨て、今日よそに行過なむかとなり、
 
1675 藤白之《フヂシロノ》。三坂乎越跡《ミサカヲコユト》。白栲之《シロタヘノ》。我衣手者《ワガコロモデハ》。所沾香裳《ヌレニケルカモ》。
 
藤白之三坂《フヂシロノミサカ》、本居氏、海部(ノ)郡なり、名高の里をはなれて、南ざますこしゆけば、その坂のふもとにて、ふぢしろ村といふ有て、そこは藤白(ノ)王子と申て、御社も道のほとりに立給へり、さて十八町がほど、藤白の御坂をのぼりて、たむげに寺あり、そのすこし西の方に、御所芝といふあり、いと見わたしのけしきよき所なりと云り、通證に、藤白(ノ)坂、海部有田兩郡之堺也、播磨風土記(ニ)言、奉v鎭2爾保都比賣(ノ)命(ヲ)、於紀伊(ノ)國管川藤白之峯(ニ)1云々、續後撰集云、藤白也御坂乎越弖見渡世婆、霞毛|不《ヌ》v遣吹上乃濱、とあり、三坂《ミサカ》は、眞坂の憾なり、あしがらの三坂などもよめり、○歌(ノ)意は、藤白の眞坂《ミサカ》を越るとて、本郷戀しく思はるゝに、まして有馬(ノ)皇子の御事をさへ思ひ出つゝ、いよ/\涙を深く落して、衣手はひさ/\と沾にける哉となり、契冲云、此(ノ)歌は、二(ツ)の意あるべし、先(ツ)は此(ノ)御坂をこゆれば、故郷ことにはるかになればなり、又は有馬(ノ)皇子御謀叛のことあらはれて、こゝにしてうしなひまゐらせしことも、大寶の頃までは、まだ近ければ、それを感じて、涙のこぼるゝにもあるべし、
 
1676 勢能山爾《セノヤマニ》。黄葉常數《モミチチリシク》。神岳之《カミヲカノ》。山黄葉者《ヤマノモミチハ》。今日散濫《ケフカチルラム》。
 
常敷は本居氏、常は、落か、又は散の誤なるべしと云り、(十九に、十月之具禮能《カミナヅキシグレノ》常可とあるも、常(100)可は、落者《フレバ》を草書にて誤れりとおもはるれば、落の誤なるべし、草書|混《マガ》ひやすし、)○神岳《カミヲカ》は、飛鳥の神南備《カムナビ》山なり、文武天皇の藤原(ノ)都より、神岳は間近ければ、藤原(ノ)の都人のおもひやれるなり、○歌(ノ)意は、此(ノ)紀伊(ノ)國の兄《セノ》山に、黄葉が重《シキリ》に散よ、これにておもへば、吾(カ)本郷の神岳山のもみちは、今日この頃か散らむ、されば吾(カ)還りなむ時は、早|惜《アタラ》あとかたなくなりてあらむぞ、と思ひやれるなり、
 
1677 山跡庭《ヤマトニハ》。聞往歟《キコエモユクカ》。大我野之《オホヤヌノ》。小竹葉苅敷《サヽバカリシキ》。廬爲有跡者《イホリセリトハ》。
 
大我野《オホヤヌ》は、本居氏、我は家の誤なるべしと云り、和名抄に、紀伊(ノ)國名草(ノ)郡|大屋《オホヤ》とある、その野をいふならむ、○小竹葉(小(ノ)字、舊本にはなし、官本に從つ、)はサヽバ〔三字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、此(ノ)大屋野に廬作りて、小竹葉を苅敷て、わびしき旅宿すると云ことは、大和の吾《》郷には、聞え行事もあらむか、おぼつかなし、此くるしき旅宿の事をば、家人はよもしるまじとなり、
 
1678 木國之《キノクニノ》。昔弓雄之《ムカシサツヲノ》。響矢用《カブラモチ》。鹿取靡《カトリナビケシ》。坂上爾曾安留《サカノヘニソアル》。
 
弓雄、ユミヲ〔三字右○〕と訓たれども いかゞなり、(人(ノ)名ならばさもあるべし、もし後(ノ)世弓取と云如く、弓を善(ク)射る者をいふことゝせば、甚いかゞなり、刀雄《タチヲ》、矛雄《ホコヲ》などやうに云る例、古(ヘ)なきをも思へ)、さればこゝは義を得て、タケヲ〔三字右○〕と訓むかとおもへど、猶心ゆかず、故(レ)つら/\考(フ)るに、もしは弓は幸の誤なるべきか、草書は混もすべし、さらばサツヲ〔三字右○〕と訓べし、古事記海宮(ノ)條に、火照(ノ)命(101)者、爲2海佐知毘古(ト)1、而取2鰭(ノ)廣物、鰭(ノ)狹物(ヲ)1、火遠理(ノ)命者、爲2山佐知毘古(ト)1、而取2毛(ノ)※[鹿三つ](ノ)物、毛(ノ)柔物(ヲ)1云々、と云るを、書紀に、兄火闌降(ノ)命自有2海幸1、(幸此云2佐知《サヂト》1)弟彦火々出見(ノ)尊自有2山幸1云々、とあるを、考(ヘ)合すべし、さて佐都乎《サツヲ》と云るは、三(ノ)卷に、牟佐々婢波木末求跡足日木乃《ムサヽビハコヌレモトムトアシヒキノ》、山能佐都雄爾相爾來鴨《ヤマノサツヲニアヒニケルカモ》、又十(ノ)卷にも薩雄《サツヲ》とあり、又同卷に、佐豆人《サツヒト》ともあり、○響矢は、舊訓にカブラ〔三字右○〕とあり、(袖中抄には、ナルヤ〔三字右○〕とよめり、拾穗抄にも、類聚にナルヤ〔三字右○〕とよめりとあり、)和名抄に、鳴箭、漢書音義(ニ)云、鳴鏑(ハ)如2今之鳴箭(ノ)1也、日本紀私記(ニ)云、八目鏑(ハ)夜豆女加布良《ヤツメカブラ》。とあり、字鏡に、鏑(ハ)奈利加夫良《ナリカブラ》、と見ゆ、(莊子に、※[口+蒿]矢註に、矢之鳴者、俗(ニ)曰2響箭(ト)1、とあり、かぶら矢なり、中山(ノ)嚴水云、或人、字鏡に奈利加夫良《ナリカブラ》とあるによりて、響矢をナリヤ〔三字右○〕とよみたれど、奈利夜《ナリヤ》てふ物、凡てものに見えたることなければ、いかゞなり、古(ヘ)は鳴鏑とは書たれども、多くは加夫良《カブラ》とのみ云しなり、古事記神武天皇(ノ)條に、兄宇迦斯、以2鳴鏑(ヲ)1待2射返其使(ヲ)1、故其(ノ)鏑所v落(シ)之地、謂2※[言+可]夫良前《カブラサキト》1也、と有(リ)て、鳴鏑の落し所、※[言+可]夫良前《カブラサキ》と云地(ノ)名になりしにて、いよ/\鳴鏑をば、たゞ加夫良《カブラ》と云しを云べし、されば此(ノ)響矢も、舊訓のまゝに、加夫良《カブラ》とよまむぞよろしかるべきと云り、)十六乞食者(ノ)詠に、梓弓八多婆佐彌比米加夫良八多婆佐彌《アヅサユミヤツタバサミヒメカブラヤツタバサミ》云々、○歌(ノ)意は、昔時紀伊(ノ)國に名だたる幸雄《サツヲ》の、響箭を以て、鹿を獲《トリ》靡しと云坂(ノ)上ぞ、即(チ)此處《ココ》なるとなり、此(ノ)歌は、昔時この坂の上にて、幸雄《サツヲ》の鹿を獲(リ)靡しと云故事ありてよめるならむ、今考(フ)るものなし、古き歌に、あさも吉紀の關守が手束弓ゆるす時な(102)くあがもへる君、とあるは、昔(シ)彼(ノ)關守に、名高き弓の上手のありていへるか、されどその者の故事とせむは、こゝにはおぼつかなし、
 
1679 城國爾《キノクニニ》。不止將往來《ヤマズカヨハム》。妻社《ツマノモリ》。妻依來西尼《ツマヨシコセネ》。妻常言長柄《ツマトイヒナガラ》。
 
妻社《ツマノモリ》は、神名式に、紀伊(ノ)國名草(ノ)郡伊太祁曾《イダケソノ》神社、)名神大、月次相甞新甞、)大屋都比賣《オホヤツヒメノ》神社、(名神大、月次新甞、)都麻都比賣《ツマツヒメノ》神社、(名神大、月次新甞、)とある其處なり、この三社|都麻《ツマノ》郷にましますによりて、都麻《ヅマ》の神社《モリ》と云るなるべし、和名抄に、紀伊(ノ)國名草(ノ)郡|津麻《ツマ》、とあり、郷(ノ)名も、神(ノ)號より負るなるべし、神代紀に、素戔嗚(ノ)尊之子、號2曰《マヲス》五十猛(ノ)命、妹大屋津姫(ノ)命、次(ニ)抓津姫(ノ)命(ト)1、凡此(ノ)三神亦能分2布木種(ヲ)1、即奉v渡2於紀伊(ノ)國(ニ)1、とありて、この三柱(ノ)神、木種を播生《マキオホ》し賜ひしより、木(ノ)國とも名に負るなり、○妻常言長柄《ツマトイヒナガラ》とは、ナガラ〔三字右○〕は、神在隨《カムナガラ》のナガラ〔三字右○〕に同じく、妻の社といふ名のまゝにと云なり、○歌(ノ)意は、此紀伊(ノ)國に、止時なく常に通ひ來らむぞ、妻の社と云名のまゝに、吾(カ)思ふ妻を倚(セ)來させ賜へかし、と神に祈るよしなり、十四に、爾波爾多都安佐提古夫須麻許余比太爾《ニハニタツアサテコブスマコヨヒダニ》、都麻余之許西禰安佐提古夫須麻《ツマヨシコセネアサテコブスマ》、とあり、○舊本に、一云、嬬賜爾毛嬬云長柄、とあり、爾は南の誤なり、ツマタマハナモ〔七字右○〕にて、妻を賜へと神に祈なり、
〔右一首。或云坂上忌寸人長作。〕
人長は、傳未(タ)詳ならず、
 
(103)後人歌二首《オクレタルヒトノウタフタツ》。
 
後人は、從駕の人の妻なるべし、留守を後《オクレタル》といへり、後(ノ)世人のよしにはあらず、
 
1680 朝裳吉《アサモヨシ》。木方往君我《キヘユクキミガ》。信土山《マツチヤマ》。越濫今日曾《コユラムケフソ》。雨莫零根《アメナフリソネ》。
 
朝裳吉《アサモヨシ》は、枕詞なり、既く出づ、○木方《キヘ》は、紀伊《キ》へなり、へは此《コヽ》へ彼《カシコ》へのへなり、紀伊邊《キヘ》と云にはあらず、○信土《マツチ》山は、既く出づ、○歌(ノ)意は、大御供仕へ奉りて、紀伊へ行賜ふ夫(ノ)君が、眞土山を越賜ふらむ、今日なるぞ、雨ふることなかれ、さらぬだに家人に別れ行て、山道を越賜ふらむは、さぶ/\しく苦しかるべきを、雨さへふらば、いかばかりか、堪がたく坐しますらむ、と思へばなりとなり、
 
1681 後居而《オクレヰテ》。吾戀居者《ワガコヒヲレバ》。白雲《シラクモノ》。棚引山乎《タナビクヤマヲ》。今日香越濫《ケフカコユラム》。
 
吾戀居者《アガコヒサレバ》は吾(カ)戀(ヒ)居(ル)にの意なり、この詞の例、既く二(ノ)卷に委(ク)註り、又十(ノ)卷上にもいへるを、考(ヘ)合(ス)べし、○歌(ノ)意は、夫(ノ)君に遺《ノコ》され居て、戀しくのみ思ひをるに夫(ノ)君は、かくばかり戀しく思ふとも知(ラ)で白雲のたな引|遠《ヲチ》の山を、今日越行給(フ)らむかとなり、此(ノ)歌、拾遺集、金葉集に入、
 
獻《タテマツレル》2忍壁皇子《オサカベノミコニ》歌一首《ウタヒトツ》。【詠仙人形。】
 
忍壁(ノ)皇子は、書紀に、天武天皇二年、云々、次(ニ)完人(ノ)臣大麻呂(カ)女、〓《カチ》媛(ノ)娘、生2二男二女(ヲ)1、其一(ヲ)曰2忍壁(ノ)皇子1、十年三月庚子朔丙戌、詔2云々忍壁皇子云々(ニ)1、令v記2定帝紀及上古(ノ)諸事(ヲ)1、十四年正月丁未朔丁(104)卯、授2淨大參(ノ)位(ヲ)1、朱鳥元年八月己巳朔辛巳、忍壁(ノ)皇子(ニ)加2封百戸(ヲ)1、續紀に、文武天皇三年甲午、勅2淨大參刑部(ノ)親王云々(ニ)1、撰2定律令(ヲ)1、大寶元年八月癸卯、三品刑部親王云々、待令始成、三年正月壬午、詔知2太政官事(ヲ)1、慶雲元年正月丁酉、益2封二百戸(ヲ)1、二年四月庚申、賜2越前(ノ)國野一百町(ヲ)1、五月丙戊、三品忍壁(ノ)親王薨、天武天皇第九(ノ)皇子也、○仙人形の下、拾穗本には容(ノ)字あれど、なきがよし、契冲云、これは忍壁(ノ)皇子家の屏風の繪、あるひは只繪にかける仙人を見て、それによせて、皇子をいはひ奉りてよめるなるべし、
 
1682 常之陪爾《トコシヘニ》。夏冬往哉《ナツフユユケヤ》。裘《カハコロモ》。扇不放《アフギハナタヌ》。山住人《ヤマニスムヒト》。
 
常之陪《トコシヘ》は、とこしなへと云が如し、書紀衣通郎姫(ノ)歌に、等虚辭陪邇枳彌母阿閇椰毛《トコシヘニキミモアヘヤモ》、とあり、○夏冬往哉《ナツフユユケヤ》は、夏冬往ばにやの意なり、往《ユク》は經行《ヘユク》ことにて、常《トコ》しなへに、夏と冬と互に經行(ケ)ばにやの義なり、○裘《カハコロモ》は、和名抄に、説文(ニ)云、裘(ハ)皮衣也、和名|加波古路毛《カハコロモ》、俗(ニ)云|加波岐沼《カハキヌ》、とあり、○歌(ノ)意は、裘は冬の服《キモノ》、扇は夏の物なるを、其を共に服《キ》もし持《モチ》もしたるは、彼(ノ)仙境には、平生夏も冬も互に經行ばにや、其(ノ)境に住人もかくあるらむ、しか寒暖常行《ナツフユトコシナヘニユキ》て、世はなれたる佳境なれば、住人の常住不變《トコシナヘ》なるも、ことわりぞとの意を、もたせたるなるべし、
 
獻《タテマツレル》2舍人皇子《トネリノミコニ》1歌二首《ウタフタツ》。
 
1683 妹手《イモカテヲ》。取而引與治《トリテヒキヨヂ》。※[手偏+求]手折《ウチタヲリ》。吾刺可《キミガサスベキ》。花開鴨《ハナサケルカモ》。
 
(105)妹手《イモガテヲ》は、取《トリ》と云む料の枕詞なり、妹が手を取石《トロシ》の池などもよめり、三(ノ)卷に、霰零吉志美我高嶺乎險跡《アラレフリキシミガタケヲサガシミト》、草取可奈和妹手乎取《クサトリカネテイモガテヲトル》、とあり、(奈和は、禰手の誤なり、)思(ヒ)合(ス)べし、○※[手偏+求]手折《ウチタヲリ》とは、※[手偏+求]《ウチ》はいひおこす詞なり、此(ノ)下にも見ゆ、十三に、※[手偏+求]手折吾者持而往公之頭刺荷《ウチタヲリアハモチテユクキミガカザシニ》、とあり、○吾は、君の誤なり、と本居氏云り、○歌(ノ)意は、取て引擧(チ)折(リ)賜ひて、君が頭刺に刺(シ)賜ふべき花のさける哉、さてもうつくしの花やとなり、
 
1684 春山者《ハルヤマハ》。散過去鞆《チリスギヌレドモ》。三和山者《ミワヤマハ》。未含《イマダフヽメリ》。君待勝爾《キミマチカテニ》。
 
散過去鞆は、チリスギヌレドモ〔八字右○〕と訓ぺし、なべての春山の花は、散過ぬれどもの意なり、○君待勝爾《キミマチカテニ》は、五(ノ)卷に、阿由故佐婆斯留吉美麻知我弖爾《アユコサバシルキミマチカテニ》、三(ノ)卷に、乳鳥鳴成君待不得而《チドリナクナリキミマチカネテ》、など見ゆ、○歌(ノ)意は、君の來て、御覺ぜむことを待ど、未(タ)待得ぬ故に、なべての春山は散過ぬれども、三輪山は未(タ)つぼみてありといふなるべし、契冲云、君まちかてにとは、君が恩光のいたるをまちかぬるなり、みわ氏などの人の、舍人(ノ)皇子の、御蔭をたのみ居たるがよめるか、さらずば三輪山とは、わきていふまじくや、春山は散過れどもは、皆人の榮花の盛の、身にあまるまでなるにたとへ、三輪山は未(タ)含りは、わが身のしづみ居たるによせてよめりと聞ゆ、さて皇子にうれへ申て吹擧をあふぐなるべし、
 
泉河邊《イヅミガハノホトリニテ》。間人宿禰作歌二首《ハシヒトノスクネガヨメルウタフタツ》。
 
(106)間人(ノ)宿禰は、傳未(タ)詳ならず、三(ノ)卷に見えたる、大浦と同人か、
 
1685 河瀬《カハノセノ》。激乎見者《タギツヲミレバ》。玉藻鴨《タマモカモ》。散亂而在《チリミダレタル》。此河常鴨《コノカハドカモ》。
 
激は、タギツ〔三字右○〕と訓べし、○玉藻鴨《タマモカモ》は、玉歟《タマカ》なり、藻《モ》も(草の藻にはあらず、)鴨《カモ》の母《モ》も共に歎息の意を含める助辭なり、○河常《カハド》は、河門《カハト》にて、門《ト》は、水門《ミナト》、海門《ウナト》、迫門《セト》の門《ト》なり、○歌(ノ)意は、河(ノ)瀬の激《タギ》り落るは、玉の散亂れてあるか、もしは此(ノ)河門の水か、さてもいふかしやと、兩方にうたがひてよめるなり、上は先(ツ)河(ノ)瀬の水玉の、たぎりなることを、治定しておきて、さてふたゝびうたがひて、これはいかさま眞の玉にてあらむか、水にてあらむかと、あやしめるけしきにいひなしたり、拾遺集八に、藻をよめる、人麻呂、川の瀬のうづまくみれば玉もかもちりみだれたる川の舟かも、とあるは、此(ノ)歌を誤(リ)傳へたるか、
 
1686 彦星《ヒコホシノ》。頭刺玉之《カザシノタマノ》。嬬戀《ツマゴヒニ》。亂祁良志《ミダレニケラシ》。此河瀬爾《コノカハノセニ》。
 
歌(ノ)意は、これは天上《アマ》の彦星の挿頭の玉の、妻戀故に狂ひ亂れて、此(ノ)河瀬に散(リ)落にけるならしとなり、此(レ)も河(ノ)瀬の水玉をよめるなり、上の歌には兩方に疑ひ、これは又いよ/\奇みて、彦星のかざしの玉ならしと云り、彦星を云るは、此(ノ)歌よめる時、七夕などにやありつらむ、十(ノ)卷に、此夕零來雨者男星之《コノユフヘフリクルアメハヒコホシノ》、早※[手偏+旁]船之賀伊乃散鴨《ハヤコグフネノカイノチリカモ》、清輔朝臣、立田姫かざしの玉のをゝよわみみだれにけりとみゆる白露、これは今の歌によりてよめりと見ゆ、
 
(107)鷺坂作歌一首《サギサカニテヨメルウタヒトツ》。
 
鷺坂は、山城(ノ)國久世(ノ)郡にあり、此下に、山代久世乃鷺坂《ヤマシロノクセノサギサカ》、とよめり、
 
1687 白鳥《シラトリノ》。鷺坂山《サギサカヤマノ》。松影《マツカゲニ》。宿而往奈《ヤドリテユカナ》。夜毛深往乎《ヨモフケユクヲ》。
 
白鳥《シラトリ》は、枕詞なり、○深往乎は、フケユクヲ〔五字右○〕と訓べし。歌(ノ)意は、いでさらば、此(ノ)鷺坂山の松影に旅宿して、夜を明して往む、今は夜も更行ぬるものを、とてもかくても、これよりさきへ行むことは、かなはじとなり、
 
名木河作歌二首《ナギガハニテヨメルウタフタツ》。
 
名木河、和名抄に、山城(ノ)國久世(ノ)郡|那紀《ナキ》、とある所の河なり、○本居氏云、左に載る歌に、在衣邊《アリソヘニ》云云とあるは、海邊にてよめりと見ゆ、これに依て考(フ)るに、下にも、名木河(ノ)歌三首ある中に、※[火三つ]干《アブリホス》云々の歌、こゝの歌と似たるゆゑに、こゝのは二首共に、他所の歌なるを、誤て名木河と題せるにや、
 
1688 ※[火三つ]干《アブリホス》。人母有八方《ヒトモアレヤモ》。沾衣乎《ヌレキヌヲ》。家者夜良奈《イヘニハヤラナ》。※[覊の馬が奇]印《タビノシルシニ》。
 
※[火三つ]干《アブリホス》は、火にて※[火三つ]《アブ》り乾すを云、拾遺集物(ノ)名に、松茸、足引の山下水にぬれにけりその火まづたけ衣あぶらむ、とあり、○沾衣《ヌレキヌ》は、雨露などに沾たるを云なるべし、(略解に、名木河と云名に依て、涙に沾るを云、と云るは非ず、)○歌(ノ)意は、ぬれたる衣を、いかであぶり乾す人もがなあれか(108)しとおもふに、旅中なれば、さる人だになくて苦しきに、いでこのぬれ衣を、そのまゝ家に贈遣て、旅の苦患《クルシミ》を示《シメ》さむ、いでさらばと云て、急ぎ進めるなるべし、
 
1689 在衣邊《アリソヘニ》。著而※[手偏+旁]尼《ツキテコガサネ》。杏人《ミヤコヒト》。濱過者《ハマヲスグレバ》。戀布在奈利《コホシクアルナリ》。
 
在衣《アリソ》は、借(リ)字にて荒磯《アリソ》なり、○杏人は、本居氏、杏は京の誤なるべし、さて二三(ノ)句は、ツキテコガサネミヤコヒト〔十二字右○〕と訓べしと云り、これにて理明けし、○歌(ノ)意は京人が、濱を通り過れば戀しくて、その人に相見まほしく思はるゝなり、沖の方へは漕出さずして、荒磯の方に著て船を漕てよと、※[楫+戈]取などに令《オホ》するなり、
 
高島作歌二首《タカシマニテヨメルウタフタツ》。
 
高島は、和名抄に、近江(ノ)國高島(ノ)郡|高島《タカシマ》とあり、既く三(ノ)卷七(ノ)卷等に出づ、
 
1690 高島之《タカシマノ》。阿渡河波者《アドカハナミハ》。驟鞆《サワゲドモ》。吾者家思《アレハイヘモフ》。宿加奈之彌《ヤドリカナシミ》。
 
宿加奈之彌、舊訓にタビネカナシミ〔七字右○〕とあるによらば、宿の上に、旅(ノ)字脱たるにもあらむ、又ヤドリ〔三字右○〕にても難なし、七(ノ)卷に、竹島乃阿戸白波者動友《》、吾家思五百入※[金+色]染《タカシマノアドカハナミハサワゲドモアレハイヘモフイホリカナシミ》、とて載たるは、同歌なり、○歌(ノ)意は、愛しき妻を家に留め置て、遠く別れ來ぬれば、此(ノ)高島の阿渡河波は、喧《カマビス》しく鳴さわげども、物まぎれして忘るゝことなく、旅宿のかなしく心ぼそきに、吾はなほ家をのみ戀しく思ふとなり、二(ノ)卷、に、小竹之、葉者三山毛清爾亂友《ハハミヤマモサヤニミダレドモ》、吾者妹思別來禮婆《アレハイモモフワカレキヌレバ》、といふ人麻呂の歌(109)に似たり、
 
1691 客在者《タビナレバ》。三更刺而《ヨナカヲサシテ》。照月《テルツキノ》。高島山《タカシマヤマニ》。隱惜毛《カクラクヲシモ》。
 
三更刺而《ヨナカヲサシテ》は、夜半《ヨナカ》の刻《トキ》に向(ヒ)て、と云意とはきこゆれども、凡て指而《サシテ》と云ことは、下に證歌を載たるごとく、某(ノ)地をさしてと云事にいふことなれば、快からず思ひしに、近き頃江戸人の説に、夜中《ヨナカ》は、近江(ノ)國高島(ノ)郡にある地名にて、七(ノ)卷に、狹夜深而夜中乃方爾鬱之苦《サヨフケテヨナカノカタニオホヽシク》、呼之舟人泊兼鴨《ヨビシフナヒトハテニケムカモ》、とあるも同じく、共に、夜中潟《ヨナカガタ》と云處なりといへり、今の歌は、高島(ニテ)作(ル)歌二首の中なれば、此(ノ)説さもあらむ、さらば照月の、夜中潟の方をさして、傾き行意なるべし、三(ノ)卷に、足氷木乃山邊乎指而晩闇跡隱益去禮《アシヒキノヤマヘヲサシテクラヤミトカクリマシヌレ》云々、十(ノ)卷に、雨霽之雲爾副而霍公鳥《アメハレシクモニタグヒテホトヽギス》、指春日而從此鳴度《カスガヲサシテコヨナキワタル》、十七に、香島欲里久麻吉乎左之底許具禰能能可治等流間奈久京師之於母保由《カシマヨリクマキヲサシテコグフネノカヂトルマナクミヤコシオモホユ》、十九に、之夫多爾乎指而吾行此濱爾《シフタニヲサシテワガユクコノハマニ》、月夜安伎底牟馬之未時停息《ツクヨアキテムムマシマシトメ》、廿(ノ)卷に、比多知散思由可牟加里母我阿我古比乎《ヒタチサシユカムカリモガアガコヒヲ》、志留志弖都祁弖伊母爾志良世牟《シルシテツケテイモニシラセム》、これらの歌どもを思(ヒ)合(ス)るに、三更《ヨナカ》を地(ノ)名とするときは、刺而《サシテ》と云ことこそ、ふさはしく思はるれ、夜中潟の方をさしてゆく月の、ほどなく高島山に隱れなむとするを云るにこそ、○歌(ノ)意は、夜道を行はいと苦しけれど、旅なればせむ方なし、されど月あれば道も明く、又四方を見やりなどもして、少しは心をなぐさむる方もあるに、夜中潟の方をさして、照行月の程なく、高島山に隱れなむとする事は、さても惜やとなり、旅行道(110)すがら、月の入を見てよめるなり、(六帖に、旅なれば宵に立出ててる月の高島山に隱るゝをしも、として載たるは誤れり、
 
紀伊國作歌二首《キノクニニテヨメルウタフタツ》。
 
1692 吾戀《アガコフル》。妹相佐受《イモハアハサズ》。玉浦丹《タマノウラニ》。衣片敷《コロモカタシキ》。一鴨將寢《ヒトリカモネム》。
 
妹相佐受は、イモハアハサズ〔七字右○〕と訓べし、相佐受《アハサズ》は、不《ズ》v相《アハ》の伸りたるにて、(佐受《サズ》は受《ズ》と切(ル)、)妹は逢賜はずと云意になる古語の例なり、(あれば妹をイモハ〔三字右○〕と訓て、妹の方より逢賜はずと云意なり、イモニ〔三字右○〕と訓ときは、自(ラ)妹に逢ことになれは、相佐受《アハサゾ》とあるに、かなはざることなり、)○玉浦《タマノウラ》は、本居氏、那智山の下なる、粉白浦と云所より、十町ばかり西南にありと云り、七(ノ)卷に出づ、○衣片敷《コロモカタシキ》は、丸寢する事なり、後京極殿、きり/”\すなくや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかもねむ、とあるに同じ、○歌(ノ)意はかゝるすさまじき荒海の邊にても、妻と相宿するならば、すこしはなぐさむ方もあるべきに、戀しく思ふ妻には、得あはずして、此(ノ)の玉の浦の海邊に、獨宿をせむか、さても堪がたしやとなり、
 
玉〓《タマクシゲ》。開卷惜《アケマクヲシキ》。〓夜矣《アタラヨヲ》。袖可禮而《コロモテカレテ》。一鴨將寐《ヒトリノカモネム》。
 
袖可禮而《コロモテカレテ》は、妻が袖を離れてと云なり、○歌(ノ)意は、家にありて、妹と二人ぬるときは、あけむ事のをしく、長くあれかしと思ふ惜《アタラ》夜なるを、かく遠く別れ來て、妹が袖を離れて獨宿をせば、(111)さてもこの夜の長く、いかにか明がたからむ、嗚呼《アヽ》くるしやとなり、
 
鷺坂作歌一首《サギサカニテヨメルウタヒトツ》。
1694 細比禮乃《ホソヒレノ》。鷺坂山《サギサカヤマノ》。白管自《シラツヽジ》。吾爾尼保波尼《アレニニホハネ》。妹爾示《イモニシメサム》。
 
細比禮乃(拾穗抄には、ホソヒレノ〔五字右○〕と訓り、舊本には、タクヒレノ〔五字右○〕と訓り、曾根(ノ)好忠集に、たくひれの鷺坂岡のつゝじ原色てるまでに、花さきにけり。)は、舊説(拾穗抄)には、鷺の頭に、細き領巾《ヒレ》に似たる物あれば、云るなりと云り、(タクヒレノ〔五字右○〕白《シロ》とはつゞけたれども、鷺てふ言に、白と云意はなければ、タクヒレノ〔五字右○〕とて、鷺とつゞけむはいかゞなり、)契沖云、鷺の頭に、細き毛のながくうしろざまに生たるが、女の領巾といふ物かけたるに似たれば、ホソヒレノ〔五字右○〕鷺坂とはつづけたり、此(ノ)細ヒレ〔二字右○〕を、タクヒレ〔四字右○〕ともよめり、其(ノ)時は白きと云心なれど、細(ノ)字を、タク〔二字右○〕とよまむ所に用たること此(ノ)外いまだ見ず、しかればホソヒレ〔四字右○〕とよむを、よしとすべし、○吾爾尼保波尼は、波の下尼(ノ)字、舊本に?と作るは誤なり、今は官本に從(ヒ)、アレニニホハネ〔七字右○〕と訓べし、六帖にも、ニホハネ〔四字右○〕とあり、○歌(ノ)意は、鷺坂山の此(ノ)面白き白躑躅《シラツヽジ》の花の、いかで吾(カ)衣に染著《ソミツキ》てよ、それをだに、家に還り行たらむほど、妹に見せむぞ、となり、
 
泉河作歌一首《イヅミガハニテヨメルウタ》。
 
1695 妹門《イモガカド》。入出見河乃《イリイヅミカハノ》。床奈馬爾《トコナメニ》。三雪遺《ミユキノコレリ》。未冬鴨《イマダフユカモ》。
 
(112)妹門《イモガカド》は、枕詞なり、妹が家の門を入(リ)出、とつゞきたり、入出見河《イリイヅミガハ》は、泉川《イヅミガハ》なるを、上よりのつゞきによりて、入《イリ》の詞をいへるは、處女等之袖振山《ヲトメラガソデフルヤマノ》といへる類なり、七(ノ)卷にも、妹門入出水河之瀬速《イモガカドイリイヅミガハノセヲハヤミ》、吾馬爪衝家思良下《アガウマツマヅクイヘモフラシモ》、とあり、○床奈馬《トコナメ》は、底滑《ソコナメ》なり、一(ノ)卷に出て、委(ク)釋《イヒ》つ、○三雪遺《ミユキノコレリ》は底滑《ソコナメ》の生(エ)著たる砂石に、白沫などの溜《タマ》れるを見て、春まで雪の殘たりと思へる意ならむ、此(ノ)下に、御食向南淵山之巖者《ミケムカフミナフチヤマノイハホニハ》、落波太列可消遺有《フレルハダレカキエノコリタル》、とあり、思(ヒ)合すべし、○歌(ノ)意は、泉河の底滑に、見れば、春ながら、なほ雪の消殘りてあるよ、いやとよ、これにて思へば、いまだ冬にてあるか、さても寒き事かな、旅宿の床の夜ごとに冱《サユ》るは、げにもことわりぞ、となり、
 
名木河作歌三首《ナキガハニテヨメルウタミツ》。
 
1696 衣手乃《コロモテノ》。名木之河邊乎《ナキノカハヘヲ》。春雨《ハルサメニ》。吾立沾等《アレタチヌルト》。家念良武可《イヘフラムカ》。
 
衣手乃《コロモテノ》は、名木《ナキ》と云(ヘ)は直《タヾ》に續かず、第四句の上にうつして心得べし、(冠辭考に、衣手《コロモテ》の長《ナガ》きとつゞく冠辭なり、と云るは、誤なり、)○名木之河邊乎《ナキノカハヘヲ》は、那紀《ナキ》の河邊を通(ヒ)つゝと云意なり、(略解に、本居氏(ノ)説を引て、乎は之(ノ)字の誤なるべしといへるは、わろし、)○沾(ノ)字、舊本沽に誤れり、下なるも同じ、○歌(ノ)意は、春雨の降に、名木河の邊を、衣手の沾つゝ吾(カ)立行ことを、家人は、さもと思らむか、よもこの患苦《クルシサ》は得知まじと云るなり、
 
1697 家人《イヘヒトノ》。使在之《ツカヒナルラシ》。春雨乃《ハルサメノ》。與久列杼吾乎《ヨクレドアレヲ》。沾念者《ヌラスオモヘバ》。
 
(113)歌(ノ)意、契冲云、使は、よくこなたかなたの心を通ずるをよしとすれば、吾が雨をよきてぬれじとすれど、しひてぬらすは、故郷の人の、使におこせたるならむとなり、風と雲とは、もろこしにも、こゝにも、つかひといふを、雨を使と云は、時にあたりて、心にまかせていへるにや、
 
1698 ※[火三つ]干《アブリホス》。人母在八方《ヒトモアレヤモ》。家人《イヘヒトノ》。春雨須良乎《ハルサメスラヲ》。間使爾爲《マツカヒニスル》。
 
本(ノ)二句は、上にもあり、○間使《マツカヒ》は、六(ノ)卷赤人(ノ)歌にもよめり、契冲云、間使は、こなたかなたの間をいひかよはすものなれば、間使とは云う、○歌(ノ)意は、家人の吾を思ふあまりに、春雨をさへ間使におこせて、吾をぬらせば、中々にくるしきを、そのぬれ衣を※[火三つ]り干(ス)人もがな、いかであれかし、嗚呼わびしやとなり、○契冲云、此(ノ)集には、かくおなじことを二首よむに、初は大體をいひて、次の歌に、その事を委(ク)よのる事おほし、心をつくべし、
 
宇治河作歌二首《ウヂガハニテヨメルウタフタツ》。
 
1699 巨椋乃《オホクラノ》。入江響奈理《イリエトヨムナリ》。射目人乃《イメヒトノ》。伏見何田井爾《フシミガタヰニ》。鴈渡良之《カリワタルラシ》。
 
巨椋《オホクラ》は、神名式に、山城(ノ)國紀伊(ノ)郡大椋(ノ)神社、又云、久世(ノ)郡巨椋(ノ)神社とあり、契冲、紀伊(ノ)郡久世(ノ)郡ともに、宇治(ノ)郡にならびたる歟、おほくらの入江も、此(ノ)兩郡の内にあるなるべしと云り、後(ノ)世豐臣氏、豐後橋をかけられ、小倉堤をつかせられ、直に長池にゆきて、宇治橋を經ずして、奈良に通ふに便よくせられしと云、小倉は即|巨椋《チオホクラ》を訛れるなり、長池と云は入江なり、○射目人乃《イメヒトノ》(114)は、枕詞なり、射目人《イメヒト》は、射部人《イベヒト》なり、委くは既く云り、さてつゞけたる意は、契冲が、いめ人がまぶしさして、ぬはれふして鹿をうかゝへば、いめ人のふしてみる、と云心に、つゞけたり、と云るによるべし、○伏見何田井《フシミガタヰ》、伏見《フシミ》は、雄略天皇(ノ)紀にも見え、紀伊(ノ)郡にありて、今も名高き伏見なり、田井《タヰ》は、たゞ田《タ》なり、田《タ》を田井《タヰ》といへる、井《ヰ》はそへいふ辭にて、雲《クモ》を雲井《クモヰ》といふに同じ例なるべし、又|本《モト》を本《モト》ゐといふも、これに同例にもあるべし、此(ノ)下に、尾花落師付之田井爾鴈泣毛寒來喧奴《ヲバナチルシヅクノタヰニカリガネモサムクキナキヌ》云々、また筑波嶺乃須蘇廻乃田井爾秋田苅《ツクハネノスソミノタヰニアキタカル》云々、十(ノ)卷に、鶴鳴之所聞田井爾五百入爲而《タヅガネノキコユルタヰニイホリシテ》云々、また春霞多奈引田居爾廬付而《ハルカスミタナビクタヰニイホリシテ》云々、十九に、朝霧之多奈引田爲爾鳴鴈乎《アサギリノタナビクタヰニナクカリヲ》云々、又|皇者神爾之座者赤駒之《オホキミハカミニシマセバアカコマノ》、腹婆布田爲乎京師跡奈之都《ハラバフタヰヲミヤコトナシツ》、廿(ノ)卷に、麻須良乎等於毛敝流母能乎多知波吉?可爾波乃多爲爾世埋曾都美家流《マスラヲトオモヘルモノヲタチハキテカニハノタヰニセリゾツミケル》、などある、みな同じ、續千載集に、あし引の山下水を引分しすそわの田ゐにさなへとるなり、新拾遺集に、つくはねのしづくの田ゐの秋の廬このもかのもにけぶり立なり、新千載集に、くれ竹の伏見の田ゐのかりの世におもひしられてもりあかすらむ、なども見えたり、(なほ田ゐと云こと、まぎらはしき説どもあれば、余が隨筆邊海松布に委(ク)辨云り、)○歌(ノ)意は、巨椋の入江の浪が響みわたるなり、今や伏見の田面に、鴈が渡るらし、その鴈の聲の響《ヒヾキ》に、その入江が鳴ならむとなり、
 
1700 金風《アキカゼノ》。山吹瀬乃《ヤマブキノセノ》。響苗《トヨムナベ》。天雲翔《アマクモカケリ》。鴈相鴨《カリワタルカモ》。
 
(115)金風《アキカゼノ》は、枕詞なり、契冲云、金風とかけるは、五方を五行に配する時、秋は金なればかけり、又梁(ノ)元帝纂要(ニ)云、秋風(ヲ)曰2金風(ト)1、しかれば撰者義をもてかゝざれども、本よりの名にもあるなり、さてつゞくるやうは、秋風の山にふくと云意なり、○山吹瀬《ヤマブキノセ》は、宇治(ノ)郡にて、宇治橋の下にありしが、今は其處たしかにしれずとぞ、○相は、亘の誤なり、と本居氏云り、○歌(ノ)意は、秋風の山に吹音のはげしさに、この山吹の瀬の響鳴につれて、時をたがへず、天雲を翔りて、鴈が渡り來る哉、さても寒しやとなり、
 
獻《タテマツレル》2弓削皇子《ユゲノミコニ》1歌三首《ウタミツ》。
 
1701 佐宵中等《サヨナカト》。夜者深去良斯《ヨハフケヌラシ》。鴈音《カリガネノ》。所聞空《キコユルソラニ》。月渡見《ツキワタルミユ》。
 
歌(ノ)意は、今は夜半と云に更てなりぬらし、その故は、鴈が音の聞ゆる空に、月の澄渡るが見ゆるは夜半に及ばずして、あの空まで月は登るまじければなりとなり、十(ノ)卷に、此夜等者沙夜深去良之鴈鳴乃《コノヨラハサヨフケヌラシカリガネノ》、所聞從空月立渡《キコユルソラヨツキタチワタル》、とあると、大方同じくて、少異れるのみなり、此(ノ)歌古今集秋上にも載たり、○契冲、此(ノ)三皆、弓削(ノ)皇子にたてまつれる歌なれば、おの/\ふくめる心あるべしと云り、今按(フ)に、今は其(ノ)時節に至りたりと覺えて、皇子の御蔭をたのみにしたる世(ノ)人の、多くなり登れるが見ゆるに、吾(カ)身ばかりは、なほしづみ居て、いまだなにのさだもなきに、かくては空しく時節過なむを、いかで早く御恩澤を下したまへかし、と身のほどを、下心に訴《ウタフ》(116)るならむ、あはれ今年の秋も去《イヌ》めりの意あるなるべし、
 
1702 妹當《イモガアタリ》。茂苅音《コロモカリガネ》。夕霧《ユウギリニ》。來鳴而過去《キナキテスギヌ》。及乏《トモシキマデニ》。
 
茂苅音は、茂は衣の誤なり、と本居氏の云るによるべし、苅は鴈の借(リ)字なり、妹が家の當にて衣を借(ル)と云いひかけにて、鴈之音《カリガネ》とつゞけ下したるなるべし、○歌(ノ)意は、夕霧の立て寒き空に、鴈が來鳴よ、あの鴈は、借《カリ》と云名のとほりに、此《コヽ》を過て、妹があたりに飛行て衣を借て、この寒さをしのぐらむ、うらやましきまでに鳴鴈ぞ、と云なるべし、八(ノ)卷に、誰聞都《タレキヽツ》從此間鳴渡鴈鳴乃《コヨナキウタルカリガネノ》、嬬呼音乃乏左右二《ツマヨブコヱノトモシキマデニ》、(舊本には、之知左寸に誤れり、)十(ノ)卷に、久方之天漢原丹奴延鳥之《ヒサカタノアマノガハラニヌエトリノ》、裏歎座津乏諸手二《ウラナゲマシツトモシキマデニ》、など、考(ヘ)合(ス)べし、さてこれも下心あるべし、其は寒き時には、妹をたのみにして、妹が衣をかりて、寒さを凌ぐ如くに、皇子の御蔭をたのみて、身のなり出べき時にはなり出登るを、吾ひとりのこされてあらむは、いと羨しきに、いかではやく御恩惠を下したまはれかし、と思ふ心を、あらはには訴へがたければ、ほのめかして、其(ノ)心を聞え擧たるならむ、
 
1703 雲隱《クモガクリ》。鴈鳴時《カリナクトキニ》。秋山《アキヤマノ》。黄葉片待《モミチカタマツ》。時者雖過《トキハスグレド》。
 
片待《カタマツ》は、片就待《カタヅキマツ》の意にて、偏《ヒトヘ》に待よしなり、○雖過(雖(ノ)の下、不(ノ)字脱たるにて、トキハスギネド〔七字右○〕なり、と本居氏云るはわろし、)は、スグレド〔四字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、雲居がくりて鴈の鳴渡る時は、木(ノ)葉も盛に色付(ク)節《トキ》なれども、いまだ心だらひに黄葉せぬ故に、時は過行ども、なほその盛に色(117)付(ク)を、偏に待て居るぞとなり、下心は、今は身のなり出べき時なれども、いまだなにのさだもなければ、設《タト》ひその時は過行とも、御恩澤の下りてなり出むを、偏に待つゝ居るそといふなるべし、
 
獻《タテマツレル》2舍人皇子《トネリノミコニ》1歌二首《ウタフタツ》。
 
1704 ※[手偏+求]手折《ウチタヲリ》。多武山霧《タムノヤマギリ》。茂鴨《シゲミカモ》。細川瀬《ホソカハノセニ》。波驟祁留《ナミノサワケル》。
 
※[手偏+求]手折《ウチタチリ》は、枕詞なり、(契冲が、うちたをる手とつゞけたり、手はひぢを屈伸するものなれば、それを打たをるとは云り、といへるは、わろし、)※[手偏+求]《ウチ》は事をいひおこす詞、手《タ》も例のそへいふ言なれば、用《ワザ》は折《ヲリ》と云にあり折《ヲリ》とは、道の前を折(リ)曲るをいふ言なり、さて多武《タム》とは手廻《タモトホ》る意にて、折手廻《ヲリタモトホ》るといふ詞に云かけたるなり、集中に折廻里《ヲリタムサト》などよめるをも、思(ヒ)合べし、此詞、この上にも、十三にも見えたり、其はたゞに花黄葉を手折ことなり、今とはいさゝかつゞけのさま異《カハ》りたり、○多武山《タムノヤマ》は、大和(ノ)國十市(ノ)郡にあり、齊明天皇(ノ)紀に、二年九月、云々、於2田身嶺《タムノタケ》1冠《《カヾフラシム》以|周垣《メグレルカキヲ》1、(田身(ハ)山(ノ)名、此云2太務《タムト》1、)と見え、後には談《タムノ》峯ともかけり、今はたうの嶺と云り、○細川《ホソカハ》は、多武(ノ)峰の麓にあるなるべし、細川山と云るも同じきか、○歌(ノ)意は、霧は水の性なる故に、山のきりのしげゝれば、そのうるほひのあつまりて、川水のまさる故に、波のさわげるか、さても喧しぎ浪(ノ)音ぞと云なり、此も下心あるべし、多武(ノ)山霧の潤のしたゞりあつまる如くに、皇子の御恩(118)澤の普くしげき故に、細微《ホソヤカナル》身の上にまで及びて、ほど/\になり出さわげるならむ、吾ひとりのこさるべき由なければ、いかで御心したまへかしとなるべし、
 
1705 冬木成《フユコモリ》。春部戀而《ハルヘヲコヒテ》。殖木《ウヱシキノ》。實成時《ミニナルトキヲ》。片待吾等叙《カタマツアレゾ》。
 
歌(ノ)意は、花開む春方を待戀て、殖し木の、花は開たれども、つひには其が實にならむ時を、偏に待吾ぞやとなり、此(ノ)歌も、身の榮花を仰ぎてよみて奉れるならむ、下心あらはなり、
 
舍人皇子御歌一首《トネリノミコノミウタヒトツ》。
 
舍人(ノ)皇子の御傳は、二(ノ)卷(ノ)上に委(ク)云り、藤(ノ)森の明神は、此(ノ)親王にてましますよし申す、
 
1706 黒玉《ヌバタマノ》。夜霧立《ヨキリゾタテル》。衣手《コロモテノ》。高屋於《タカヤノウヘニ》。霏※[雨/微]麻天爾《タナビクマテニ》。
 
衣手《コロモテノ》は、枕詞なり、此つゞきは、いと/\意得かてなるを、強て考れば、袖之布明《コロモテノタヘアカ》といふ意に、高《タカ》の言に云係たる枕詞か、布《タヘ》は?《テ》と約り、(即(チ)白和布《シラニギテ》青和布《アヲニギテ》など云り、)その?阿可《テアカ》を約れば、(?阿《テア》の切|多《タ》、)多可《タカ》となればなり、さて布明《タヘアカ》とは、古語に明妙《アカルタヘ》照妙《テルタヘ》など云る、明妙《アカルタヘ》を倒《カヘザマ》に云るにて、布明《タヘアカ》ると云にて、明布之袖《アカルタヘノンデ》といふ意を、(即(チ)白布之袖《シロタヘノソデ》と云る、同こゝろばえなり、)言を置かへて、云かけたる詞なるべし、○高屋《タカヤ》は、神名式に、大和(ノ)國城上(ノ)郡高屋安倍(ノ)神社とある、其(ノ)地なるべし、〔頭註、【大和國正於四位下高屋安倍神、紀略〕○御歌(ノ)意は、高屋の地のあたりに、空にたなびきわたるまで、おびたゞしく夜霧を立たる、いかでこのいふせき霧の、夜の間に清く晴ゆきて、あけむ朝は、明らけき(119)空になれかしとの御心なるべし、此は今、もやと云ものを、よませ賜へるならむ、
 
鷺坂作歌一首《サギサカニテヨメルウタヒトツ》。
 
1707 山代《ヤマシロノ》。久世乃鷺坂《クセノサギサカ》。自神代《カミヨヨリ》。春者張乍《ハルハハリツヽ》。秋者散來《アキハチリケリ》。
 
歌(ノ)意は、契冲云、春者張乍《ハルハハリツヽ》は、このめの張を云、春はこのめはりて花咲、秋はこの葉もみちて散(ル)、かくのごとく神代より、四時のおこなはるゝにつけても、見所ある山ぞとほむるなるべし、第十に、春者毛要夏者緑丹紅之《ハルハモエナツハミドリニクレナヰノ》、綵色爾所見秋山可聞《マダラニミユルアキノヤマカモ》、第十三の長歌にも、春山之四名比盛而《ハルヤマノシナヒサカエテ》、秋山之色名付思吉《アキヤマノイロナツカシキ》、などよめり、拾遺集に、元輔が筑紫へまかりける時に、かまと山のもとにやどりて侍けるに、みちつらに侍りける木に、ふかくかきつけて侍る、春はもえ秋はこがるるかまと山霞も霧も烟とど見る、とあり、
 
泉河邊作歌一首《イヅミガハノホトリニテヨメルウタヒトツ》。
 
1708 春草《ハルクサヲ》。馬咋山自《ウマクヒヤマヨ》。越來奈流《コエクナル》。鴈使者《カリガツカヒハ》。宿過奈利《ヤドリスグナリ》。
 
春草《ハルクサヲ》は、枕詞にて、春草を馬が咋《クフ》と、つゞけたり、○鳥咋山《ウマクヒヤマ》は、神名式に、山城(ノ)國綴喜郡咋岡(ノ)神社あり、そこなるべし、と岡部氏云り、さて咋山を、上よりのつゞきに、馬咋といひ下したるにて處女等《ヲトメラ》が袖布留山《ソデフルヤマ》、辛衣著奈良《カラコロモキナラ》の山など云る類なるべし、○歌(ノ)意は、咋山の方より、鴈のなきくるを待つけて、本郷のたよりをきかむとすれば、本郷の人の使にはあらで、鴈もおのが本(120)郷へいそぐ心に、それさへとく、たびのやどりをよそに見て過るよ、といふなるべし、
 
獻《タテマツレル》2弓削皇子《ユゲノミコニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
1709 御食向《ミケムカフ》。南淵山之《ミナフチヤマノ》。巖者《イハホニハ》。落波太列可《フレルハダレカ》。削遺有《キエノコリタル》。
 
御食向《ミケムカフ》は、枕詞なり、契冲は、たゞ食にむかふごとく、まじかく打むかひて、みわたすをいひて、木※[瓦+缶]《コカメ》の宮にも、あはぢのしまにも、今のみなふち山にも、さだまれる枕詞にはあらぬなるべしといへり、)御食向《ミケムカフ》は、御食《ミケ》奉る謂なるべし、さて南淵《ミナフチ》とつゞくは、ミ〔右○〕の一言にかゝりて、ミ〔右○〕は肉《ミ》の意なるにや、肉をミ〔右○〕と云は、刺肉《サシミ》作肉《ツクリミ》など、云是なり、又|御魚菜《ミナ》と云にてもあるべし、○南淵山《ミナフチヤマ》は、大和(ノ)國十市(ノ)郡にあり、七(ノ)卷に出て、そこに云り、十(ノ)卷には見名淵山《ミナフチヤマ》とも見えたり、○巖《イハホ》は、和名抄に巖(ハ)以八保《イハホ》、とあり、石秀《イハホ》の意なり、○落波太列可《フレルハダレカ》は、降《フレ》る雪歟と云ことなり、雪をはだれと云ること、十(ノ)卷に、寄v雪、小竹葉爾薄太禮零覆消名羽鴨《サヽガハニハダレフリオホヒケナバカモ》、將忘云者益所念《ワスレヌトイヘバマシテオモホユ》、十九に、吾園之李花可庭爾落《ワガソノノスモヽノハナカニハニチル》、波太禮能未遣在可母《ハダレノイマダノコリタルカモ》、などあり、可《カ》は、遺有《ノコリタル》の下にうつして意得べし、○削遺有は、削は消の誤にて、キエノコリタル〔七字右○〕なり、と略解に云るぞよき、○歌(ノ)意は、南淵山の石秀《イハホ》には、去冬ふれる雪のはだれの、春まで消遺りたるならむかとなり、これは浪の白く散を、雪と見なしてよめる表の意なり、さてこれも、弓削(ノ)皇子に獻れる歌なれば、下心あるべし、普き春日の光にもれし地もなしと見ゆるに、なほ南淵山の巖にのみは、去冬の雪のそのまゝ遺れり(121)と見ゆるは、いかなるゆゑならむと、皇子の御恩光にもれしを、訴るやうによみて獻れるにや、さてこの作者、南淵氏の人などにてありしにや、
〔右柿本朝臣人麻呂之歌集所出」
 
題闕〔二字□で囲む〕
 
此(ノ)間に、題詞《ハシツクリ》のあるべきが、落失たるなり、
 
1710 吾妹兒之《ワギモコガ》。赤裳泥塗而《アカモヒヅチテ》。殖之田乎《ウヱシタヲ》。苅將藏《カリテヲサメム》。倉無之濱《クラナシノハマ》。
 
倉無之濱《クラナシノハマ》は、契冲云、豐前なりとかや、○歌(ノ)意かくれたるところなし、契冲云、これはくらなしの濱と云むとて、かくはつゞけ來たるなり、物の妙にいたる時、言もたえおもひもたゆれば、たゞくらなしの濱とよめるが、あはれくらなしの濱やとほむる心なり、拾遺集十七に、わぎもこが衣ぬらして殖し田を、かりてをさめむくらなしのはま、とて載たり、今按(フ)に、此は倉無之濱《クラナシノハマ》を、をかしくつゞけなしてよみて見せよなど、人のいひたる時の興に、よめるにもあるべし、さなくては、倉無《クラナシ》の濱と云こと、その濱の用なければ、何の爲によめりとも知がたし、
 
1711 百傳之《モヽヅタフ》。八十之島廻乎《ヤソノシマミヲ》。※[手偏+旁]雖來《コギキケド》。粟小島者《アハノコシマハ》。雖見不足可聞《ミレドアカヌカモ》。
 
百傳之は、之は布(ノ)字の誤なるべし、又は衍文にてもあるべし、七(ノ)卷に、百傳八十之島廻乎※[手偏+旁]船爾《モヽヅタフヤソノシマミヲコグフネニ》云々、とあり、○八十之島廻《ヤソノシマミ》は、數多の島々を云なり、○※[手偏+旁]雖來は、ゴギキケド〔五字右○〕と訓べし、こぎ(122)來けれどもといふが如し、(コギクレド〔五字右○〕と訓たるは、甚わろし、)○粟小島《アハノコシマ》は、粟島とよめる所に同じ、○歌(ノ)意は、百と數多の島々を經傳來し中に、見所ある島山も多くありけれども、此(ノ)島に勝れておもしろき處なし、さても見れども見れども見あかず、おもしろき風景したる、粟の小島哉となり、
〔右二首。或云。柿本朝臣人麻呂作。〕
 
登《ノボリテ》2筑波山《ツクハヤマニ》1。詠《ヨメル》v月《ツキヲ》一首《ウタヒトツ》。
 
月の下、歌(ノ)字脱たるなるべし、
 
1712 天原《アマノハラ》。雲無夕爾《クモナキヨヒニ》。烏玉乃《ヌバタマノ》。宵度月乃《ヨワタルツキノ》。入卷〓毛《》イラマクヲシモ。
 
歌(ノ)意は、此(ノ)山に登て見れば、天(ノ)原には、隈となるべき一むらの雲だになく、いと晴たる夜なるに、かゝる夜に、終夜照てあらば面白かるべきに、空を經渡りゆく月の、程なく山の端に入むとする事の、さてもをしやとなり、(六帖に終句、かくらくをしもとて載たり、)
 
幸《イデマセル》2芳野離宮《ヨシヌノトツミヤニ》1時歌二首《トキノウタフタツ》。
 
1713 瀧上乃《タキノヘノ》。三船山從《ミフネノヤマヨ》。秋津邊《アキツヘニ》。來鳴度者《キナキワタルハ》。誰喚兒鳥《タレヨブコトリ》。
 
歌(ノ)意は、三船の山より、秋津の邊に飛渡りて鳴は、そも誰を呼とて、あのやうに鳴わたる呼兒鳥ぞとなり、
 
(123)1714 落多藝知《オチタギチ》。流水之《ナガルヽミヅノ》。磐觸《イハニフリ》。與抒賣類與杼爾《ヨドメルヨドニ》。月影所見《ツキノカゲミユ》。
 
歌(ノ)意かくれたるところなし、見るやうなる歌なり、
〔右三首。作者未詳。〕
三(ノ)字は、二の誤なるべし、
 
槐本歌一首《ヱニスノモトガウタヒトツ》。
 
槐(ノ)本は、人(ノ)名なるべし、考(フ)るところなし、槐(ハ)、和名抄に、槐(ハ)惠爾須《ヱニス》、とあり、
 
1715 樂浪之《サヽナミノ》。平山風之《ヒラヤマカゼノ》。海吹者《ウミフケバ》。釣爲海人之《ツリスルアマノ》。袂變所見《ソデカヘルミユ》。
 
歌(ノ)意かくれなし、此(ノ)歌一(ト)度誦擧れば、今も目(ノ)前に浮ぶやうなり、
 
山上(ノ)歌歌一首《ヤマノウヘガウタヒトツ》。
 
山上は山上(ノ)臣憶良なり、此(ノ)歌、一(ノ)卷には、幸2于紀伊(ノ)國(ニ)1時、川島(ノ)皇子御作歌、或云山上(ノ)臣憶良作、とあり、
 
1716 白那彌之《シラナミノ》。濱松之木乃《ハママツノキノ》。手酬草《タムケグサ》。幾世左右二箇《イクヨマデニカ》。年薄經濫《トシハヘヌラム》。
 
濱松之木乃は、舊本のまゝならば、ハママツノキノ〔七字右○〕なるべし、又は木は枝(ノ)字なりけむを、旁《ツクリ》の滅たるにもあるべし、(略解に、一本によりて、本とせるは誤なり、既く一(ノ)卷にいへるを考(ヘ)見べし、)
(124)〔右一首。或云、河島皇子御作歌。〕
 
春日歌一首《カスガヾタヒトツ》。
 
春日は、春日(ノ)藏首老なるべし、
 
1717 三河之《ミツガハノ》。淵瀬物不落《フチセモオチズ》。左提刺爾《サデサスニ》。衣手濕《コロモテヌレヌ》。干兒波無爾《ホスコハナシニ》。
 
三河《ミツガハ》は、地(ノ)名なるべし、(略解(ニ)云、ある人近江(ノ)國滋賀(ノ)郡にありといへり、土人にとふべし、)○淵瀬物不落《フチセモオチズ》は、瀬淵をも漏さずと云むが如し、一夜《ヒトヨ》も落《オチ》ずと云は、一夜も漏さずと云意なるに、例すべし、○左提《サデ》は、※[糸+麗]《サデ》なり、一(ノ)卷に具(ク)釋り、○濕(ノ)字、舊本には湖に誤、官本に從(ツ)、又古本に温と作るも濕の誤なり、○歌(ノ)意は、三河の淵瀬をも漏さず、※[糸+麗]《サデ》を刺(シ)延て魚漁(ル)とて、衣手はひた/\と濕ぬるよ、これを取擧て乾べき女はなきを、いかにかしてましとなり、
 
高市歌一首《タケチガウタヒトツ》。
 
高市は、高市(ノ)連黒人なるべし、
 
1718 足利思代《アドモヒテ》。※[手偏+旁]行舟薄《コギニシフネハ》。高島之《タカシマノ》。足速之水門爾《アドノミナトニ》。極爾濫鴨《ハテニケムカモ》。
 
足別思代《アドモヒテ》は、(思は、オモヒ〔三字右○〕のオ〔右○〕は利《ト》の餘韻にこもる故、自省て、モヒ〔二字右○〕となるゆゑに、モヒ〔二字右○〕に借(リ)たり、)率而《アトモヒテ》なり、いざなひてと云が如し、○※[手偏+旁]行舟薄は、コギニシフネハ〔七字右○〕と訓べし、行は往の誤にもあらむか、○濫は、監(ノ)字の誤なるべし、(又は濫は本のまゝにて、爾は去の誤ならむか、さらば(125) ハテヌラムカモ〔七字右○〕とよむべし、)○歌(ノ)意は、友船をいざなひ連ねて、漕出にし舟は、このころ高島の阿波の湊に、平安《タヒラカ》に泊にけむか、さてもその舟の心がゝりやとなり、
 
春日歌一首《カスガガタヒトツ》。
 
春日藏は、これも老なるべし、藏の下首(ノ)字脱たるにもあらむ、しかれども此(ノ)前後、みな姓名を省きて書《シル》せるを思へば、藏(ノ)字は、中々に衍なるべし、
 
1719 照月遠《テルツキヲ》。雲莫隱《クモナカクシソ》。島陰爾《シマカゲニ》。吾船將極《アガフネハテム》。留不知毛《トマリシラズモ》。
 
歌(ノ)意は、島陰に舟を泊むと思へども、夜なれば、その湊を知ず、されど月影をたよりにて、何方ぞに泊むと思ふに、月さへ曇りたらば、いとゞせむ方なからむぞ、嗚呼いかでこの照月を、心なく雲の隱すことなかれとなり、
〔右一首。或本云。小|辯《マヽ》作也。或記2姓氏1。無v記2名字1。或※[人偏+稱の旁]2名號1。不v※[人偏+稱の旁]2姓氏1。禅依2古記1。便以次載。凡如v此類。下皆效v焉。〕
小|辯《マヽ》は、傳未(タ)詳ならず、○これは、後人の裏書なるべし、
 
元仁(ガ)歌三首《ウタミツ》。
 
元仁は、人(ノ)名なるべし、考(フ)るものなし、
 
1720 馬屯而《ウマナメテ》。打集越來《ウチムレコエキ》。今月見鶴《ケフミツル》。芳野之川乎《ヨシヌノカハヲ》。何時將顧《イツカヘリミム》。
 
(126)歌(ノ)意は、數々の馬を乘ならべて、鞭を打て、友人と集て山坂を越て來て、今日見愛つる此(ノ)吉野の川を、又いつかへり來て見て遊ばむと思へば、大かたに見て歸るべきにあらざるをやとなり、
 
1721 辛苦《クルシクモ》。晩去日鴨《クレヌルヒカモ》。吉野川《ヨシヌガハ》。清河原乎《キヨキカハラヲ》。雖見不飽君《ミレドアカナクニ》。
 
辛苦は、クルシクモ〔五字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、吉野川の清き河原の勝景を、見れども、見れども、あきたらぬことなるを、さてもくるしくも晩ぬる日哉、今しばし晩ざらましかば、心だらひに見て遊ぶべきにとなり、
 
1722 吉野川《ヨシヌガハ》。河娘高見《カハナミタカミ》。多寸能浦乎《タギノウラヲ》。不視歟成甞《ミズカナリナム》。戀布眞國《コホシケマクニ》。
 
河浪高見《カハナミタカミ》は、河浪が高き故にの意なり、○多寸能浦《タギノウラ》は、瀧《タギ》の裏《ウラ》なり、大瀧の裏なり、○戀布眞國《コホシケマクニ》は、戀しからむことなるをの意なり、戀しきは、人皆のこふるみよしぬとよめる如く、川の風景を賞て、戀慕ふよしなり、○歌(ノ)意は、見ずていなば、後にこひしく思はむことなるを、吉野川の浪の高きが故に、瀧の裏を、行て得見ずに成なむかとなり、
 
絹歌一首《キヌガウタヒトツ》。
 
絹は、女(ノ)名などか考(フ)るものなし、
 
1723 河蝦鳴《カハヅナク》。六田乃河之《ムツダノカハノ》。川楊乃《カハヤギノ》。根居侶雖見毛《ネモコロミレド》。不飽君鴨《アカヌキミカモ》。
 
(127)六田《ムツタ》は、吉野にあり、今の人|牟駄《ムダ》といふとぞ、○歌(ノ)意は、ねもころにかへす/\見れども、飽(キ)足ぬ君哉、さても善《ウルハ》しの君やとなり、本(ノ)句は全(ラ)序なり、
 
島足歌一首《シマタリガウタヒトツ》。
 
島足は、人(ノ)名ならむ、考(フ)るものなし、
 
1724 欲見《ミマクホリ》。來之久毛知久《コシクモシルク》。吉野川《ヨシヌガハ》。音清左《オトノサヤケサ》。見二友敷《ミルニトモシキ》。
 
來之久毛知久《コシクモシルク》は、來しかひもありて、といはむがごとし、○歌(ノ)意は、かねて見まほしく戀しく思ひて、來しかひもありて、吉野川の川音の、その清《サヤ》けさが見にあかず、めでたく面白しとなり、
 
麻呂歌一首《マロガウタヒトツ》。
 
麻呂は、人(ノ)名なるべし、考(フ)るものなし、
 
1725 古之《イニシヘノ》。賢人之《サカシキヒトノ》。遊兼《アソビケム》。吉野川原《ヨシヌノカハラ》。雖見不飽鴨《ミレドアカヌカモ》。
 
賢人は、サカシキヒト〔六字右○〕と訓べし、(略解に、カシコキヒト〔六字右○〕と訓たるは、いみじきひがことなり、凡(ソ)サカシキ〔四字右○〕と云言とカシコキ〔四字右○〕と云言とを、中昔のかしらより混雜《ヒトツ》に誤れり、心をつけて考(フ)べし、)委曲くは、三卷大伴(ノ)卿(ノ)讃v酒歌に古之七賢人等毛《イニシヘノナヽノサカシキヒトタチモ》云々、とある條下に云るを併(セ)考(フ)べし、○歌(ノ)意は、古(ヘ)の賢人の、遊びて賞しと云傳へたる此(ノ)吉野の川原の勝景は、見れども見れども、さ(128)ても飽足ず、面白き事哉、これを思へば、古(ヘ)より此(ノ)勝地を愛て、賢人の遊けむは、げにもことわりぞ、となり、一(ノ)卷に、淑人乃良跡吉見而好當言師《ヨキヒトノヨシトヨクミテヨシトイヒシ》、芳野吉見與良人四來三《ヨシヌヨクミヨヨキヒトヨクミ》、思(ヒ)合(ス)べし、
〔右柿本朝臣人麻呂之歌集出。〕
 
丹比眞人歌一首《タヂヒノマヒトガウタヒトツ》。
 
丹比(ノ)眞人は、屋主歟、麻呂歟なるべし、
 
1726 難波方《ナニハガタ》。鹽干爾出而《シホヒニイデテ》。玉藻苅《タマモカル》。海未通女等《アマヲトメドモ》。汝名告左禰《ナガナノラサネ》。
 
海未通女等《アマヲトメドモ》(女(ノ)字、舊本に脱、一本に從つ、)は海女《アマヲトメ》の中に、容儀のすぐれたるに、心うつりていへるよしなり、等《ドモ》は、そのもと數あるものにいふ言なれど、一人のうへにもいふこと、妹等《イモラ》、子等《コラ》などいふ良《ラ》の言に同じ、これ古(ヘ)人の語のせまらざるなり、さて等《ドモ》は、等《ドモ》よといふ意なり、○歌(ノ)意は、難波潟の汐涸《シホヒ》に出て、玉藻を苅(ル)そのをとめよ、汝が名を、吾に告知して、吾(カ)妻とならむことを許してよと、心のうつれるあまりに、戯れて云やりたるなり、さて此(ノ)歌贈れるは、むげなる海女にてはあるべからず、旅中にて心のよれる女に、實《ウチ》めきて、ものいはむもさすがなれば、戯(レ)に海女と見なして、その心をとれるなるべし、
 
某娘子〔三字それぞれ○で囲む〕和歌《ソレノヲトメガコタフルウタ》。
 
某(ノ)娘子の、戯(レ)に海女といひかけられたるゆゑ、海女になりて、答へたるならむ、
 
(129)1727 朝入爲《アサリスル》。流人跡乎見座《アマトヲミマセ》。草枕《クサマクラ》。客去人爾《タビユクヒトニ》。妻者不敷《ツマトハノラジ》。
流人跡乎見座《アマトヲミマセ》は、流(ノ)字は、海の誤か、又は流は上につきたるにて、人の上に海字脱たるにもあらむ、乎《ヲ》は、其(ノ)事をつよくいふ時の助辭なり、海人と見ませ、他の人とは決て見給ふな、といふ謂なり、○客(ノ)字、舊本には容に誤れり、○妻者不敷《ツマトハノラジ》とは、敷は教の誤り、妻となりて、名を告知らしはすまじとなり、○歌(ノ)意は、たゞ漁業する、おしなみの海人と見過しておはしませ、君は旅人なれば、其(ノ)人に妻となりて、心かろく名を告知すことはせじとなり、
 
石河卿歌一首《イシカハノマヘツキミノウタヒトツ》。
 
石河(ノ)卿は、石河(ノ)朝臣年足か、年足の傳は、十九に至りて云べし、
 
名草目而《ナグサメテ》。今夜者寐南《コヨヒハネナム》。從明日波《アスヨリハ》。戀鴨行武《コヒカモユカム》。從此間別者《コヨワカレナバ》。
 
從此間別者《コヨワカレナパ》は、こゝより別なばの意なり、○歌(ノ)意は、明日は早別れなむと思へば、悲しくはあれど、いまだ別れぬうちなれば、とかくなぐさめて今夜は寢なむを、明日こゝより別れなば、其(ノ)後は一向に、家の方を戀しくのみ思ひつゝ、遠き海山を越行むか、さてもせむ方なしやとなり、
 
宇合卿歌三首《ウマカヒノマヘツキミノウタミツ》。
 
1729 曉之《アカトキノ》。夢所見乍《イメニミエツヽ》。梶島乃《カヂシマノ》。石越浪乃《イソコスナミノ》。敷弖志所念《シキテシオモホユ》。
 
(130)梶島は、契冲云、八雲御抄に、丹後と註せさせ給へり、此(ノ)宇合(ノ)卿は、行役にくるしめる人にて、詩にも歌にも、そのよしをよまる、されども丹後の方へは、おもむかれたる事は見えず、西海道節度使にて下られけることあれば、もし筑紫にや、(已上契冲説、)今按(フ)に、七(ノ)卷に、夢耳繼而所見小竹島之《イメノミニツギテミエツヽタカシマノ》、越磯波之敷布所念《イソコスナミノシク/\オモホユ》(小は、乍(ノ)字の誤寫なり、)とあるは、句の少異りたるのみにて全(ラ)同歌なり、されば近江(ノ)國高島にて作賜へる歌なるを、誤り傳て、梶島《カヂシマ》とせるなるべし、○歌(ノ)意は、旅なれば、夜ごとに早く眠ることあたはず、やう/\曉にいたりて、すこし眠をもよほすれば、はやその夢にさへ、家人の見えつゝ、一(ト)すぢに頻りて、家の方が戀しく思はるゝとなり、○第三四(ノ)句は、句中の序なり、
 
1730 山品之《ヤマシナノ》。石田乃小野之《イハタノヲヌノ》。母蘇原《ハヽソハラ》。見乍哉公之《ミツヽヤキミガ》。山道越良武《ヤマヂコユラム》。
 
山品之石田《ヤマシナノイハタ》は、契冲云、神名式(ニ)云、宇治(ノ)郡山科(ノ)神社二座、久世(ノ)郡石田(ノ)神社、(大、月次新嘗、)和名抄云、宇治(ノ)郡山科、(也末之奈、)延喜式にも和名抄にも、山科は宇治(ノ)郡なるに此(ノ)集第十三にも、山科之石田之森之須馬神爾奴左取向而《ヤマシナノイハタノモリノスメカミニヌサトリムケテ》、とよみたれば、延喜式に、石田(ノ)神社を、久世(ノ)郡に載られたるにたがへり、しかれば山科は、まづは宇治(ノ)郡なれど、久世(ノ)郡にもかゝりて、そこに石田(ノ)神社はあるにや、例をいはゞ、吉隱《ヨナバリ》を日本紀には兎田(ノ)郡といひ、延喜式には城上(ノ)郡に載たるがごとし、○歌(ノ)意は、石田の小野の、柞原の面白き風景を見つゝ、今日このごろ君が山道を越行給ふ(131)らむかとなり、これは旅行人を、おぼしやりて、よみ給へるなるべし、
 
1731 山科之《ヤマシナノ》。石田社爾《イハタノモリニ》。布靡越者《タムケセバ》。蓋吾妹爾《ケダシワギモニ》。直相鴨《タヾニアハムカモ》。
 
社、官本には杜とかけり、○布靡越者は、中山(ノ)嚴水云、或人(ノ)考に、布靡越は幣帛獻の誤にや、さればタムケセバ〔五字右○〕と訓べしと云り、今按(フ)に、幣帛を帛幣に誤しを、又布靡に誤寫せしにや、但しは本のまゝにて、手向は布を掛靡してたむくれば、その義にてかけるにもあるべし、(已上嚴水(ガ)説、)○略解に、布麻勢者の誤ならむと云るよりは、幣帛獻者と云るぞ、理ありて聞ゆる、〔頭註、
、】〕○歌(ノ)意は、石田の神社《モリ》に奉幣《タムケ》して、慇懃に祈白《ノミマヲ》しなば、若(シ)戀しく思ふ妹にあふ事あらむか、さてもゆかしやとなり、十二に、山代石田杜心鈍《ヤマシロノイハタノモリニコヽロオソク》、手向爲在妹相難《タムケシタレヤイモニアヒガタキ》、思(ヒ)合(ス)べし、
 
碁師歌二首《ゴシガウタフタツ》。
 
碁師は、傳未(タ)詳ならず、圍碁をよく爲し故に負たる、人(ノ)異名などならむ、中昔のすゑに、壹岐(ノ)判官知康を、皷判官と呼なせる類か、碁師と云ことは、三代實録十三紀(ノ)夏井(ノ)傳に、伴(ノ)宿禰少勝雄、以v善2※[亦/弊の下半]碁(ヲ)1、延暦聘唐之日、備2於使員(ニ)1、以2碁師1也、と見えたり、
 
1732 母山《オホハヤマ》。霞棚引《カスミタナビキ》。左夜深而《サヨフケテ》。吾舟將泊《アガフネハテム》。等萬里不知母《トマリシラズモ》。
 
母山は、本居氏云、七(ノ)卷に、大葉山霞蒙《オホハヤマカスミタナビキ》の歌、此と全(ラ)同じ、されば此(ノ)歌、母の上に祖(ノ)字脱たるにて、(132)オホハヤマ〔五字右○〕なり、山の下に爾(ノ)字なきをも思ふべし、○歌(ノ)意七(ノ)卷(ノ)上に既く云り、
 
1733 思乍《シヌヒツヽ》。雖來來不勝而《クレドキカネテ》。水尾崎《ミヲガサキ》。眞長乃浦乎《マナガノウラヲ》。又顧津《マタカヘリミツ》。
 
思乍《シヌヒツヽ》は、眞長の浦を愛思《メデシヌ》ひつゝの謂なり、思《シヌフ》は愛賞《メデウツクシ》むをいへり、○雖來來不勝而《クレドキカネテ》は、眞長の浦の、おもしろきによりてこぎつゝ過來れど、得來ずしての意なり、○水尾崎《ミヲガサキ》は、和名抄に、近江(ノ)國高島(ノ)郡|三尾《ミヲ》、繼體天皇(ノ)紀にも見ゆ、枕冊子に、崎は、云々水尾が崎、○眞長乃浦《マナガノウラ》も三尾(ノ)郷にあるなるべし、○歌(ノ)意は、三尾が崎眞長の浦の風景の、おもしろさに愛つゝ、そこを過來むとすれど、得過來ずして、又漕還りて見つるよとなり、
 
小《スナキ》辯《オホトモヒガ・マヽ》歌一首《ウタヒトツ》。
          
小辯《マヽ》は、傳未(タ)詳ならず、春日(ノ)藏首老が、僧にてありし時の名を辨基と呼《イヘ》り、委(ク)三(ノ)卷に見えたり、これはその辨基が、男などにもあらむか、もし僧(ノ)名ならば、字音に讀べし、又下文に、式部兵部などあるによらば、左右少辨の官なる人を略書るか、官名ならば、スナキオホトモヒ〔八字右○〕と訓べし、(略解に、コトモヒ〔四字右○〕と訓るは謂なし、)和名抄に、職員令(ニ)云、左右少辨(ハ)須奈於保止毛比《スナイホトモヒ》、とあり、
 
1734 高島之《タカシマノ》。足利湖乎《アドノミナトヲ》。※[手偏+旁]過而《コギスギテ》。鹽津菅浦《シホツスガウラ》。今者將※[手偏+旁]《イマハコガナム》。
 
湖(ノ)字、一本には浦とかけり、猶舊本に從べし、○鹽津菅浦《シホツスガウラ》は、近江(ノ)國淺井(ノ)郡に鹽津《シホツ》あれば、菅浦もそこなるべし、○今者將※[手偏+旁]、(者(ノ)字は、舊本のまゝにて、)イマハコガナム〔七字右○〕と訓べし、こは自《ミ ラ》船に(133)てよめるなり、(略解に、元暦本によりて、者を香とあらためしは、中々の誤なり、)○歌(ノ)意は、阿渡の湖を漕過來つれば、今はかねて見まほしくなつかしく思ひし、鹽津菅浦を漕なむぞとなり、
 
伊保麻呂歌一首《イホマロガウタヒトツ》。
 
伊保麻呂は、傳未(タ)詳ならず、
 
1735 吾疊《アガタヽミ》。三重乃河原之《ミヘノカハラノ》。礒裏爾《イソノウラニ》。如是鴨跡《カクシモガモト》。鳴河蝦可物《ナクカハヅカモ》。
 
吾疊《アガタヽミ》は、枕詞なり、本居氏、疊《タヽミ》は、幣《ヘ》てふ言に係たる序にて、幾重も重ぬる物なる故に、然つゞけたるなり、物を重ぬるを多々牟《タヽム》と云(ヘ)ば、疊と云名も重ぬるよしなり、三重《ミヘ》とつゞくるは三《ミ》にはかゝはらず、たゞ重《ヘ》にかゝれり、然るを三重は、表中裏を云など云は、後(ノ)世意なりと云り、今云、吾はたゞ輕くそへたるにて、たれのにもあれ、たゞ疊なり、○三重乃河原《ミヘノカハラ》は、和名抄に、伊勢(ノ)國三重(ノ)郡、古事記に、伊勢(ノ)國之三重(ノ)采女、とあり、そこの河なるべし、○礒裏《イソノウラ》は、礒は川にも池にもよめり、水邊の巌をいふ、裏《ウラ》はうちと云に同じ、○如是鴨跡《カクシモガモト》は、いつまでも、かくしもがな住まほしとて、といふならむ、○歌(ノ)意は、此(ノ)三重の河原の、面白き礒の裏に處得て、いつまでもかくしもがな住まほしとて、鳴河蝦歟、さても處得がほの河蝦の聲やとなり、
 
式部大倭芳野作歌一首《ノリノツカサオホヤマトガヨシヌニテヨメルウタヒトツ》。
 
(134)式部大倭とは、式部は、式部省の官職の人なるべし、大倭は、氏ならむ、國(ノ)名にはあらじ、(略解に、大丞の誤ならむかといへれど、さにはあらじ、)
 
1736 山高見《ヤマタカミ》。白木綿花爾《シラユフハナニ》。落多藝津《オチタギツ》。夏身之河門《ナツミノカハド》。雖見不飽香聞《ミレドアカヌカモ》。
 
本(ノ)句、六(ノ)卷にもありき、○歌(ノ)意は、山が高き故に、あたかも白木綿花を散したる如く、落たぎりたる夏身の河門は、見れど/\飽足ず、さてもおもしろのけしき哉となり、
 
兵部川原歌一首《ツハモノヽツカサカハラガウタヒトツ》。
 
兵部川原とは、兵部は、兵部省の官職の人なるべし、川原は、氏ならむ、一本川(ノ)字なし、(路解に、川原は小丞などの誤かと云れど、さにはあらじ、)
 
1737 大瀧乎《オホタギヲ》。過而夏箕爾《スギテナツミニ》。傍爲而《ソヒヲリテ》。淨河瀬《キヨキカハセヲ》。見河明抄《ミルガサヤケサ》。
 
傍爲而は、爲は居の誤にて、ソヒヲリテ〔五字右○〕なるべし、と本居氏云り、○歌(ノ)意は、吉野の大瀧を過來て、此(ノ)夏身川に傍居て、清き河瀬を見が、淨けく面白しさたとふるに詞なしとなり、岡部氏云、此所のさま、實に此(ノ)歌の如し、古歌は徒に聞ゆるも、其(ノ)地に到て見るに感あり、
 
詠《ヨメル》2上總末珠名娘子《カミツフサノスヱノタマナヲトメヲ》1歌一首并短歌《ウタヒトツマタミジカウタ》。
 
上總は、和名抄に、上總(ハ)加三豆不佐《カミツフサ》、とあり、古語拾遺に、好麻所v生、故謂2之總(ノ)國(ト)1、古語麻(ヲ)謂2之總(ト)1也、今爲2上總下總二國(ト)1、續紀に、元正天皇養老二年五月乙未、割2上總(ノ)國之平群、安房、朝夷、長狹、四郡(ヲ)1、(135)置2安房國(ヲ)1、とあり、○未《スヱ》は、和名抄に、上總國周准(ノ)郡|季《スヱ》とあるそこなり、さて歌に、安房につぎたる末《スヱ》とよめるは、右の如くに、未(タ)國を割ざりし前なれば、安房(ノ)郡に繼たる、周准(ノ)郡といふなり、○珠名《タマナ》は、娘子(ノ)名なり、○子の下歌(ノ)字舊本脱、
 
1738 水長鳥《シナガトリ》。安房爾繼有《アハニツギタル》。梓弓《アヅサユミ》。末乃珠名者《スヱノタマナハ》。胸別之《ムナワケノ》。廣吾妹《ヒロケキワギモ》。腰細之《コシホソノ》。須輕娘子之《スガルヲトメノ》。其姿之《ソノカホノ》。端正爾《キラ/\シキニ》。如花《ハナノゴト》。咲而立者《ヱミテタテレバ》。玉桙乃《タマホコノ》。道行人者《ミチユクヒトハ》。己行《オノガユク》。道者不去而《ミチハユカズテ》。不召爾《ヨバナクニ》。門至奴《カドニイタリヌ》。指並《サシナラブ》。隣之君者《トナリノキミハ》。預《タチマチニ》。己妻離而《オノヅマカレテ》。不乞爾《コハナクニ》。鎰左倍奉《カギサヘマツル》。人乃皆《ヒトノミナ》。如是迷有者《カクマドヘレバ》。容艶《ウチシナヒ》。縁而曾妹者《ヨリテゾイモハ》。多波禮弖有家留《タハレテアリケル》。
 
水長鳥《シナガトリ》は、枕詞なり、水長《シナガ》は、尻長《シナガ》なるべきよし既く云り、さて安房《アハ》とかゝるは、甚意得難なるを強て考(フ)れば、尻長鳥表羽《シナガトリウハハ》、といふ意にいひかけたるか、(表《ウハ》は安《ア》と縮れり、)さて表羽裏羽《ウハハシタハ》は、何(レ)の鳥にもありて、其(ノ)鳥とかぎりたることにはあらざれども、多く枕詞にいひなれたる鳥もて、尻長鳥《シナガトリ》を云るにやあらむ、○梓弓《アヅサユミ》も、枕詞なり、契冲云、第十四に、安豆左由美須惠爾多麻末吉《アヅサユミスヱニタママキ》、とよめるは、角弓などの如く、弓のかざりを云ば、今も末《スヱ》と云字のみならず、珠《タマ》といふにもわたるべし、○胸別之廣吾妹《ムナワケノヒロケキアギモ》とは、胸別《ムナワケ》は、胸間と云むが如し、(鹿に胸別《ムナワケ》と云とは別なり、)女は胸の廣きを美麗とせしなり、出雲風土記に、國之餘有詔而《クニノアマリアリトノリタマヒテ》、童女胸※[金+且]所取而《ヲトメノムナスキトラシテ》、大魚之支太衡別而《オホヲノキダツキワケテ》云々、とある、童女胸※[金+且]《ヲトメノムナスキ》も、※[金+且]の形の、美女の胸の如くに、廣らなるを云るなるべし、と本居(136)氏云り、(契冲云、胸のせばくて高きを、俗に鳩胸とてわろき相に云り、楚辭景差(カ)大招(ニ)曰、滂|心《ムネ》綽(ナル)態※[女+交]麗(ニシテ)、只|小《ホソキ》腰秀(タル)頭、若2鮮卑(ノ)1只、)○腰細之須輕娘子之《コシホソノスガルヲトメノ》とは、※[虫+果]羸《スガル》は、ことに腰細き蟲なれば、娘子の腰の細きを譬云り、十六竹取(ノ)翁(カ)歌に、飛翔爲輕如來腰細爾取餝氷《トビカケルスガルノゴトキコシホソニトリカザラヒ》、とあり、(漢籍遊仙窟にも、細細腰支《サヽヤカナルコシバセ》、參差《タヲヤカニシテ》疑2勤斷《イダカバタヱナント》1、と見えたり、)須輕《スカル》のことは、品物解に具(ク)釋り、○其姿之は、ソノカホノ〔五字右○〕なりカホ〔二字右○〕は、集中に姿貌容などの字を然訓り、書紀にも、容姿形容形姿貌容容止面貌顔色顔貌姿色相貌、などをも、皆然訓り、さてカホ〔二字右○〕は、先(ツ)は一體の形樣を總て云なるを、(容姿などの字を訓るしかり、)身體の長とあるものは顔面なる故に、即(チ)カホ〔二字右○〕といふぞ、顔面の形樣を云ことの如くはなれる、(面貌などの字を訓るしかり、後拾遺集に、人しれずかほには袖を覆ひつゝ泣ばかりをぞなぐさめにする、とあるも、其(レ)なり、されどこれは後なり、)この故に顔面の形樣のみを、しかいふことゝ意得ては、甚くたがへること多し、(しかるを古事記傳にかほは、先は面の形樣を云名にて、惣ての身體の形樣を兼たりと云は、元末を取たがへたる説なりけり、)○端正爾は、キラキラシキニ〔七字右○〕と訓べし、書紀にも、端正佳麗端麗閑麗妹妙分明、などを然訓り、又文選に瀏を然訓り、靈異記に、端正(ハ)岐良岐良之《キラキラシ》、新撰字鏡に、微※[女+美](ハ)支良支良志《キラキラシ》、と見えたり、(今昔物語、貞道季武公時紫野見物語に、皆見る目きら/\しく、手きゝ魂太く、思量ありて、いかめしく、何につけても、おろかなることなかりけり、とあるは、目のきゝたるをいふに(137)て、いさゝかかはれり、)枕草子に、ゆづる葉のいみじうつやめきふさやぎたる葉は、いとあをくきよげなるに、思ひかけずにるべくもあらぬ、くきのあかうきらきらしう見えたるこそ、あやしけれどをかしけれ云々、(これは光うるはしく、目に立方にいへり、)みあかし常灯にはあらで、うちに又人の奉りたる、おそろしきまでもえたるに、佛のきら/\と見えたまへるいみじくたふとげにて云々、(これも上に同じ、)きら/\しき物、大將の御さきおひたる云々、(これは威儀正しく、目に立かたにいへるなり、)源氏物語明石に、月のかほのみきら/\として云々、未通女(ノ)卷に、人がらいとすくよかにきら/\しくて、心もちひなどもかしこくて物し給ふ、落窪物語に、少將おちくぼの君とはきかざりければ、なにの名ぞ云々、きら/\しからぬ人の名なり云々、又平家物語に、きらをみがく、(谷川氏は、きらは奇麗の轉音にやと云り、)神皇正統記に、鳥羽(ノ)院は、御容儀めでたくましませば、きらをこのませ給ひける、などもあり、○如花咲而立者《ハナノゴトヱミテタテレバ》、七(ノ)卷に道邊之草深由利乃花咲爾《ミチノベノクサフカユリノハナヱミニ》、咲之柄二妻常可云也《エマシシカラニツマトイフベシヤ》、十八に夏野能佐由利能波奈能花咲爾《ナツノヌノサユリノハナノハナヱミニ》、爾布夫爾惠美天《ニフブニヱミテ》、などあり、(遊仙窟に、眉(ノ)間(ニ)月出(テ)疑(ヒ)v爭(フカト)v夜(ヲ)、頬(ノ)上(ニ)華開(テ)似(ヌ)v闘(フニ)v春(ヲ)、)○指並は、サシナラブ〔五字右○〕と訓べし、指(ハ)對《ムカ》へるを云、對並《ムカヒナラ》べる、隣のよしなり六(ノ)卷に、刺並之國爾出座耶《サシナミノクニニイデマスヤ》云々とあるは、サシナミノ〔五字右○〕なり、○隣之君《トナリノキミ》は、(隣《トナリ》は、戸並《トナリ》の義なり、)近隣の男をさす、○預は、(古寫本、拾穗本等には豫と作り、)頓(ノ)字の誤にて、タチマチニ〔五字右○〕と訓べし、と岡部氏説り、これ宜し、此(ノ)(138)下に、頓情消失奴《タチマチニコヽロケウセヌ》、十六に、頓爾吾可死《タチマチニアレハシヌベシ》、などあり、安康天皇(ノ)記に、〓忽《タチマチ》、舒明天皇(ノ)紀に、當時《タチマチ》などあり、○己妻離而《オノヅマカレテ》、竹取物語に、もとのめどもは、かぐやひめを、がならずあはせむまうけして、ひとりあかしくらし給ふ、又云、家にすこしのこりてありけるものどもは、たつのたまをとらぬものどもにたびつ、是をきゝて、はなれたまひしもとのうへは、はらをきりてしわらひ給ふとあり、思合べし、○不乞爾鎰左倍奉《コハナクニカギサヘマツル》(鎰(ノ)字、拾穗本には鑰と作り、)は、鎰《カギ》は、人の家にむねと大切にするものなり、それをさへ、珠名娘子が乞もせぬに打あたへて、家の内のことを、まかせむとするよしなり、と契冲云るが如し、鎰は、和名抄に、四聲字苑(ニ)云、鑰關具也、楊氏漢語抄(ニ)云、鑰匙|門乃加岐《カドノカギ》、今案(ニ)俗人印鑰之處用2鎰(ノ)字(ヲ)1非也、また楊氏漢語抄云、鉤匙(ハ)戸乃加岐《トノカギ》、一(ニ)云|加良加岐《カラカギ》、※[金+巣]子|藏乃賀岐《クラノカギ》、などあり、奉は、マツル〔三字右○〕とよみて、たてまつることなり、マツル〔三字右○〕とのみ云るは、一(ノ)卷に、山神乃奉調等《ヤマツミノマツルミツギト》、三(ノ)卷に、一手者和細布奉《ヒトテニハニギタヘマツリ》、四(ノ)卷に、余衣形見爾奉《アガコロモカタミニマツル》、十(ノ)卷に、於君奉者夜爾毛著金《キミニマツラバヨニモキルガネ》、十一に、情左倍奉有君爾《コヽロサヘマツレルキミニ》、又|君爾奉跡《キミニマツルト》、十二に、吾幣奉《アガヌサマツル》、十三に、公奉而《キミニマツリテ》、十六に、父爾獻都也《チヽニマツリツヤ》、十八に、萬調麻都流都可佐等《ヨロヅツツキマツルツカサト》、などあり、皆マツル〔三字右○〕と訓べし、(右の奉をマタス〔三字右○〕と訓は、いみじきひがことなり、物を奉獻するをマタス〔三字右○〕と云ことなし、右の十八に、假字にて麻都流《マツル》とあるを、證とすべし、)○人乃皆《ヒトノミナ》は、もしは人皆乃《ヒトミナノ》とありしか、○容艶は、本居氏云、ウチシナヒ〔五字右○〕と訓べし、十(ノ)卷に、四搓二將有妹之光儀乎《シナヒニアラムイモガスガタヲ》、廿(ノ)卷に、多知之奈布伎美我須我多乎《タチシナフキミガスガタヲ》、とあり、(中山嚴水は、容艶は、か(139)たちつくろひする意なれば、トリヨソヒ〔五字右○〕と訓べきか、古事記八千矛(ノ)神(ノ)御歌に、とりよそひとありといへり、)○縁而曾妹者《ヨリテゾイモハ》云々は、妹が其(ノ)男に縁りてぞ、たはれてありけるとなり、反歌に、そのたはるゝさまをくはしく云り、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
1739 金門爾之《カナドニシ》。人之來立者《ヒトノキタテバ》。夜中母《ヨナカニモ》。身者田菜不知《ミハタナシラズ》。出曾相來《イデヽゾアヒケル》。
 
金門爾之《カナドニシ》は、門《カド》にと云が如し、金門《カナド》は門《カド》のことなり、四(ノ)卷に具(ク)釋り、之《シ》は、その一(ト)すぢなるを、おもく云助辭なり、○田菜不知《タナシラズ》は、一卷に委(ク)釋り、○出曾相來《イテヽゾアヒケル》は、くる男に出會よしなり、○歌(ノ)意は、その娘子の門に、男が來立ば、たとひ夜中にても、その身のならむやうを心得しらずに、出てぞあひけるとなり、
 
詠《ヨメル》2水江浦島子《ミヅノエノウラシマノコヲ》1歌〔○で囲む〕一首《ウタヒトツ》并|短歌《ミジカウタ》。
 
水江(ノ)浦島(ノ)子は、水江《ミヅノエ》は氏、(水江をスミノエ〔四字右○〕とよみて、墨吉とひとつと心得て、地(ノ)名とするはわろし、猶次に云べし、〉浦島《ウラシマ》は名、子は男子の通稱《スベナ》とて、某子《ナニノコ》某子《ソレノコ》と云ること、古語に多し、(浦島と云ものありて、それが子と云にはあらず、雄略天皇(ノ)紀に、吉備(ノ)臣|尾代《ヲシロ》と云人を、屋代子《テシロコ》と歌によめること見えて、其(ノ)後往々例あり、)さてこの浦島(ノ)子の事、まづ書紀雄賂天皇(ノ)卷に、二十二年秋七月、丹波(ノ)國|餘社《ヨザノ》郡|管川《ツヽカハノ》人、水江(ノ)浦島(ノ)子、乘(テ)v船(ニ)而釣(ス)、遂(ニ)得(タリ)2大龜(ヲ)1、便|化《ナリキ》2爲女(ト)1、於是浦島(ノ)子感(テ)以爲v婦(ト)、(140)相逐《シタガヒテ》入(レリ)v海、到(テ)2蓬莱山《トコヨノクニニ》、暦2覩(ル)仙家(ヲ)1、語(ハ)在2別卷《コトマキニ》1、とあり、(丹波(ノ)國とあれども、和銅六年に、丹波(ノ)國五郡を割て、丹後を置れて後、與射(ノ)郡は丹後(ノ)國に屬《ツキ》たり、)丹後(ノ)國風土記に、與射(ノ)郡日量(ノ)里、此(ノ)里(ニ)有2筒川(ノ)村1、此(ノ)人、(此の下に、村(ノ)字などの脱せるか、)夫日下部首等(カ)先祖、名(ヲ)云2筒川(ノ)嶼子(ト)1、爲v人(ト)姿客秀美、風流無v類、斯(レ)所v謂水(ノ)江(ノ)浦嶼(ノ)子(トイフ)者也、是舊宰伊類部(類は福の誤か、)馬養(ノ)連(カ)所v記無2相乖1、故(レ)略陳2所由之旨(ヲ)1、長谷(ノ)朝倉(ノ)宮(ニ)御宇《アメノシタシロシメシヽ》天皇(ノ)御世(ニ)、所子獨乘2小船(ニ)1、汎2出海中(ニ)1爲v釣(ヲ)、經2三日三夜(ヲ)1、不v得2一魚(タモ)1、乃得2五色(ノ)龜(ヲ)1、心(ニ)思2奇異《アヤシト》1、置2于船(ノ)中(ニ)1即寐(ヌ)、忽爲2婦人《ヲミナト》1、其(ノ)容美麗1、更(ニ)不v可v比、嶼子問(テ)曰(ク)、人宅遙(ニ)遠(シテ)海庭人乏(シ)、※[言+巨](レ)人(カ)忽(ニ)來(レル)、女娘微咲對(テ)曰、風流之士、獨汎2蒼海(ニ)1、不v勝2近談(ニ)1、就2風雲(ニ)1來、嶼子復問(テ)曰、風雲何(ノ)處(ヨリ)來(レル)、女娘答(テ)曰(ク)、天上(ノ)仙家之人也、請(フ)君勿v疑(フコト)、乘2相談之愛(ニ)1、爰(ニ)嶼子知(テ)2神女(ナルコトヲ)1、慎懼疑心、女娘語(テ)曰(ク)、賤妾之意、共《ト》2天地1畢(リ)、倶《ト》2日月1極(ル)、但君奈何早告2許不之意(ヲ)1、嶼子答(テ)曰(ク)、更(ニ)無v所v言何觸乎、女娘曰、君宜2廻(シテ)v棹(ヲ)赴2于蓬山(ニ)1、嶼子從(テ)往(ヌ)、女娘教(テ)令v眠v目(ヲ)、即不意之間、至2海中博大之島(ニ)1、其地如v敷v玉(ヲ)、闕臺※[月+奄]映、樓堂玲瓏、目所v不v見、耳所v不v聞、携v手(ヲ)徐(ニ)行(テ)、到2一大宅之門(ニ)1、女娘曰(ク)、君且(ク)立2此(ノ)處(ニ)1、開v門(ヲ)入v内(ニ)、即七竪子來(レリ)、相語(テ)曰、是|龜比賣之夫《カメヒメノヲ》也、亦八竪子來(レリ)、相語(テ)曰(ク)、是龜比賣之夫《カメヒメノヲ》也、茲(ニ)知2女娘之名龜比賣(ノナルコトヲ)1、乃女娘出來(レリ)、所子語2竪子等(カ)事(ヲ)1、女娘曰、其(ノ)七竪子者昂星也、其八竪子者畢星也、君莫v恠(ムコト)焉、即立v前(ニ)引導、進2入于内(ニ)1、女娘父母共(ニ)相迎揖而定v坐(ヲ)、于斯稱2説人間仙都之別(ヲ)1、談2議人神偶會之嘉(ヲ)1、乃雪(ラス)2百品(ノ)芳味(ヲ)1、兄弟妹妹等、擧v坏(ヲ)獻酬、隣里幼女等、紅顔戯接、仙歌寥亮、神※[人偏+舞]逶※[しんにょう+施の旁]、其爲2歡宴1、萬2倍人間1、於茲不v知2日暮(ルコトヲ)1、但黄昏之時、群(141)仙侶等漸々退散、即女娘獨留、雙v眉(ヲ)接v袖(ヲ)、成2夫婦之理(ヲ)1、于時嶼子|遺《ワスレ》2舊俗(ヲ)1、遊2仙都(ニ)1、既《ハヤク》經《ナリヌ》2三歳(ニ)1、忽起(ス)2懷v土之心(ヲ)1、獨戀2二親(ヲ)1、故(ニ)吟哀繁發、嗟歎日益(レリ)、女娘問(テ)曰(ク)、比來觀(ルニ)2君夫之貌(ヲ)1、異(レリ)2於常時(ニ)1、願《イカデ》聞2其(ノ)志(ヲ)1、嶼子對(テ)曰(ク)、古人言、少人壞v土(ヲ)、死狐首v岳(ヲ)、僕以(ヘリ)2虚談(ト)1、今斯(ニ)信(ス)v然(ルコトヲ)也、女娘問(テ)曰(ク)、君欲v歸(マク)乎、嶼子答(テ)曰、僕近離2親故之俗(ヲ)1、遠入2神仙之堺(ニ)1、不v忍2戀眷(ニ)1、輒(チ)申2輕慮(ヲ)1、所v望《ネカフ》※[斬/足](ク)還2本俗(ニ)1、奉(ム)v拜(ミ)2二親(ヲ)1、女娘拭v涙(ヲ)歎(テ)曰(ク)、意等2金石(ニ)1、共期2萬歳(ヲ)1、何眷2郷里(ヲ)1、棄2遺一時(ヲ)1、即相携俳※[人+回]、相談慟哀、遂(ニ)接v袂(ヲ)退去(テ)、就2于岐路(ニ)1、於是女娘父母親族、但悲v別(ヲ)送v之(ヲ)、女娘取(テ)2玉匣(ヲ)1授2嶼子(ニ)1謂曰《イヘラク》、君終(ニ)不v遺2賤妾(ヲ)1有2眷尋(コト)1者、堅握(テ)v匣(ヲ)慎(ミテ)莫(レ)2開見(コト)1、即相分(レテ)乘v船(ニ)、仍教(テ)令v眠v目(ヲ)、忽到2本土筒川(ノ)郷(ニ)1、即瞻2眺村邑(ヲ)1、人物遷易(テ)、更(ニ)無(シ)v所v由、爰(テ)問(テ)2郷人(ニ)2曰、水江(ノ)浦嶼(ノ)子之家人、今在(リテ)2何處(ニ)1、郷人答(テ)曰(ク)、君何處(ノ)人、問2舊遠(ノ)人(ヲ)1乎、吾聞古老等相傳曰(ク)、先(ノ)世(ニ)有2水江(ノ)浦嶼(ノ)子(トイフヒト)1、獨遊2蒼海(ニ)1、復不2還來1、今經2三百餘歳(ヲ)1者《トイヘリ》、何(ソ)忽(ニ)問v此(ヲ)乎《ヤ》、即※[行の中に令]2棄心1雖v廻2郷里(ヲ)1、不v會2一親(ニ)1、既送2旬日(ヲ)1、乃撫2玉匣(ヲ)1、而感2思神女(ヲ)1、於嶼子忘2前日(ノ)期(ヲ)1、忽開2玉匣(ヲ)1、即未v瞻之間、芳蘭之體|〓《乘歟》2于風雲(ニ)1翩2飛蒼天(ニ)1、嶼子即乖2違期要(ニ)1、還知2復難(コトヲ)1v會、廻v首踟〓、咽(テ)v涙(ヲ)俳※[人偏+回]、于v斯拭v涙(ヲ)哥曰、等許余弊爾久母多智和多留美頭能叡能宇良志麻能古賀《トコヨヘニクモタチワタルミヅノエノウラシマノコガ》計等母知多留、(久母を、本に父母と作るは、誤なること著ければ、今改めて引り、終句聞難し、誤字脱字など有べし、甞《コヽロミ》に按(フ)に、計は許(ノ)字を誤れるならむ、母知は、那和とありしを誤れるならむか、多留は、須禮曾などありけむを、字を落しもし、誤りもせしなどにて、元は許等那和須禮曾《コトナワスレソ》、とありしにもあらむか、なほ此(ノ)歌のこと、南京遺響にいへるを併(セ)考ふべし、)又神女遙(ニ)(142)飛2芳音(ヲ)1歌(テ)曰、夜麻等弊爾加是布企阿義天久母婆奈禮《ヤマトヘニカゼフキアゲテクモバナレ》、所企遠理等母與和遠和須良須奈《ソキヲリトモヨワヲワスラスナ》、嶼子更不v勝2戀望(ニ)歌曰、古良爾古非阿佐刀遠比良企和我遠禮波《コラニコヒアサトヲヒラキワガヲレバ》、等許與能波麻能奈美能等企許由《トコヨノハマノナミノトキコユ》、後時《ノチノヨノ》人追加(ル)歌(ニ)曰(ク)、美頭能叡能宇良志麻能古我多麻久志義《ミヅノエノウラシマノコガタマクシゲ》、阿氣受阿理世波麻多母阿波麻志《アケズアリセバマタモアハマシ》、等許與弊爾久母多知和多留《トコヨヘニクモタチワタル》多由女久女波都賀未等|和禮曾加奈志企《ワレソカナシキ》、(第三四(ノ)句は、誤字脱字あるべし、例の甞《コヽロミ》に云は、第三(ノ)句女久女は、萬奈久とありしが、字を誤り、又|顛倒《オキタガ》へたるならむか、さらば無《ナク》2絶間《タエマ》1なり、絶間《タエマ》をタユマ〔三字右○〕とい へることは、書紀の歌に例あり、第四(ノ)句、初に伊比(ノ)二字を脱し、未は、米(ノ)字を誤れるにて、伊比波都賀米等《イヒハツガメド》とありしならむか、なほこの歌のことも、南京遺響にくはしく云たるを、併(セ)見て考ふべし、この風土記の文の趣にて、水江《ミヅノエ》は氏なること著く、又歌に美頭能叡《ミヅノエ》とあるにて、訓もミヅノエ〔四字右○〕なること、疑ことなし、伊勢集に、水の江のかたみとおもへば鶯の花のくしげを明てだに見ず、後撰集に、あけてだに何にかはせむ水の江のうら島の子を思ひやりつゝ、)そも/\此(ノ)浦島(ノ)子の、故郷へ還來れりしといふ談《モノガタリ》は、舍人(ノ)親王の、書紀を撰れしよりは、前の事と覺ゆるを、此(ノ)風土記に、雄略天皇(ノ)御世より、三百餘歳を經て、還來れるよし云るは、いとみだりなり、浦島(ノ)子(カ)傳に、雄略天皇廿二年、水江(ノ)浦島(ノ)子、獨乘2釣船(ニ)、曳得v龜(ヲ)、浮2於波上(ニ)1、眠2於舟中(ニ)1之間、靈龜反(テ)忽作2美女(ト)1、玉顔之艶、布威障v袂(ヲ)而失v魂、素質之閑、西施撩v面(ヲ)、無《以歟》v色、眉如3初月(ノ)出2娥《於歟》眉山1、靨似3落星(ノ)流2於天漢水(ニ)1、繊躯雲(ノゴトク)聳、尚當v散暫留(リ)、輕體鶴(ノゴトク)立、《脱字歟》將v飛未(143)v翔、島子問曰、神女有2何因縁1而他來哉、何處(ヲ)爲v居(ト)、誰人(ヲ)爲v祖、神女云、妾是蓬莱山之女也、不死之金庭、長生之玉殿、妾之居處、父母兄弟在2彼金闕(ニ)1、妾在2昔世(ニ)1結2夫婦之儀(ヲ)1、而我成2天仙(ト)1、生2蓬《於歟》莱宮之中(ニ)1、子作2地仙(ト)1遊2於澄江之波《之歟》上(ニ)1、今感2故昔之因(ニ)1來随2俗境之縁(ニ)1也、宜v向2蓬莱宮1、將v遂2曩時之志(ヲ)1、願合(セヨ)v眼(ヲ)、島子唯諾、隨2神女(ノ)語(ニ)1、須曳之間、向2於蓬莱山(ニ)1、於是神女與2島子1携到2蓬莱宮(ニ)1、而令3島子(ヲシテ)立2於門外(ニ)1、神女先入告2於父母(ニ)1、而後共入2仙宮(ニ)1、神女衣香馥々似2春風之送(ルニ)2百和香(ヲ)1、珮聲鏘々如3秋調之韻2萬籟響(ヲ)1、島子已爲2漁父(ト)1亦爲2釣翁(ト)1、然而志成v高當v陵云v雲、彌新v心存2強弱1、得v仙因v※[行人偏+建]、其宮(ノ)爲v體金精玉英敷2於丹※[土+穉の榜]之内(ニ)1、瑤珠珊瑚滿2於立圃之表(ニ)1、清池之浪心、芙蓉開v唇而發v榮、玄泉之淮頭、蘭菊含v咲《脱字歟》、不稠、島子與2神女1共入2玉房(ニ)1、薫風吹2寶帳(ヲ)1而羅帳添v香(ヲ)、翡翠簾塞、而翠嵐卷v蓬(ヲ)、芙蓉帷開、而素月射v幌(ヲ)、朝服2金丹石髓(ヲ)1、暮飲2玉酒環漿(ヲ)1、凡先芝草駐老之方、百節菖蒲延齡《脱字歟》術、妾漸見2島子之容顔1、累年枯稿、逐v日骨立、定(テ)知(ヌ)外雖v成2仙宮之遊宴(ヲ)1、而内生2舊郷之戀慕(ヲ)1、宜d還2故郷(ニ)1尋c訪舊里u、島子答曰、久侍2仙洞之筵(ニ)1、常甞2靈藥之味(ヲ)1、何非v樂(ニ)哉忽非v幸(ニ)哉、抑神女爲2天仙(ト)1余爲2地仙(ト)1隨v命進退當v得v逆v旨哉、神女與2送玉匣(ヲ)1、※[果/衣](ニ)以2五綵之錦繍(ヲ)1、緘以2萬端之金玉(ヲ)1、誡2島子(ニ)1曰、若欲v見2再逢之期1、莫v開2玉匣之緘(ヲ)1、言了約成、分v手辭去(レリ)、島子乘舟(ニ)眼自歸去、忽以致2故郷澄江(ノ)浦(ニ)1云々、(これにも水江(ノ)浦島(ノ)子といひ、又澄江波上、又澄江(ノ)浦などゝ書るにて、氏と地(ノ)名と、ひとつならぬ一證とすべし、)又釋日本紀に、天書第八曰、(雄略天皇)廿二年秋七月、丹波(ノ)人水江(ノ)浦島、入2海龍宮(ニ)1得2神仙(ヲ)1、(丹波とあるは、書紀の文によれ(144)るか、丹後を誤れるかなるべし、)本朝神仙傳(ニ)曰、浦島(ノ)子者、丹後(ノ)國水江(ノ)浦人也、昔釣2于濱1得2大龜(ヲ)1、變成2婦人(ト)1、閑色無v双、即爲2夫婦(ト)1、被2婦(ニ)引級1到2蓬莱(ニ)1通得2長生(ヲ)1、銀臺金闕、錦帳繍屏、仙藥隨v風(ニ)綺饌彌v日(ニ)、居v之二年、春月初暖、羣鳥和鳴、烟霞※[さんずい+養]蕩、花樹競開、問2歸歟之許(ヲ)1、婦曰列仙之陬、一去難2再來1、縱歸2故郷(ニ)1定非2日往(ニ)1、浦島子爲v訪2親舊(ヲ)1強歸v駕(ヲ)、婦與2一筥(ヲ)1曰慎莫v開v此(ヲ)、若不v開者自再相逢(マ)、浦島子到2本郷(ニ)1、林園零落、親舊悉亡(フ)、逢v人(ニ)問之、曰昔聞浦島(ノ)子仙化而去(レリト)、漸過2百年(ヲ)1、爰(ニ)帳然如v失2歩於邯鄲(ニ)1、心中大恠開v匣(ヲ)見之、於是浦島(ノ)子忽變2衰老皓白之人(ニ)1、不v去而死、(居之三年は、此集の長歌に、三とせのほどにいへもなく、とよめるによれり、)これに水江(ノ)浦人とあるは誤なり、(水江は地(ノ)名ならぬこと、上に云る如し、次に引日本後紀も、亦同じく誤れり、)さて又此(ノ)浦島(ノ)子が故郷へ歸來しと云こと、俗本日本後紀に、天長二年乙巳云々、今年浦島(ノ)子歸v郷(ニ)、雄略天皇御宇入v海(ニ)、至v今(ニ)三百四十七年也、浦島(ノ)子者、丹後(ノ)國水江(ノ)浦人也、昔釣得2大龜(ヲ)1變成2婦人(ト)1云々、この事古事談にも載たり、(又元亨釋書に、如意尼者、天長帝之次妃也、丹州余佐(ノ)郷人云々、又云、妃之同閭(ニ)有2水江(ノ)浦島(ノ)子者1、先v妃(ニ)數百年、久棲2仙郷(ニ)1、所v謂蓬莱者也、天長二年還2故里1、浦島(ノ)子曰、妃所v持篋、曰2紫雲篋1、海刻2櫻像1時、妃藏2篋像中1、とあるは、例の佛説(ノ)妾誕なり、紫雲篋と云るは、續後紀の長歌に、紫の雲のたなびけてとあるを據として、付たる物なり、)これらは上に引(ク)風土記の文に、故郷に歸りしことを、經2三百餘歳1とあるみだりごとを據として、雄略天皇廿二年よりこのかた、三百餘年を推※[竹/弄](145)へて作れる説にして、いよ/\妄僞なり、此(ノ)集の歌にさへ、古(ヘ)の事とよめるを、いかでさばかりの事をだに、考へいたらざりけむ、(又或説に、天長に還(リ)しは、同名異人なるべしと云るは、強て妄説をたすくるわざにして、さらに論にもたらぬことなり、)さて又上(ノ)件(ノ)書どもに云る趣は、みな外(ノ)國の、かの蓬莱山の説どもに云る故事に傚へるものにて、浮たる説のみにして、さらに信用るに足れるものなし、なほこの後も、浦島(ノ)子のことを佛家道家の妄誕をとりまじへて、文《カザ》れる書どもゝあれど、うるさければひかず、さて長明が無名抄に、丹後(ノ)國與謝(ノ)郡に、あさもがはの明神と申す神います、これはむかし浦島の翁の神になれるとなむ云々としるせり、さて又浦島子のことを、此(ノ)集の後歌によめるは、續日本後紀十九、興福寺僧等、奉v賀2天皇(ノ)四十(ノ)寶算(ヲ)1長歌に、故事爾云語來留《フルコトニイヒカタリクル》、澄江能淵爾釣世志皇之民浦島子加《スミノエノオキニツリセシキミノタミウラシマノコガ》、天女釣良禮來弖《アマツメツラレキタリテ》、紫雲泛引弖《ムラサキノクモタナビケテ》、片時爾將弖飛往而《トキノマニヰテトビユキテ》、是曾此乃常世之國度《コレソコノトコヨノクニト》、語良比弖《カタラヒテ》、七日經志加良无限久命有志波《ナヌカヘシカラカギリナクイノチアリシハ》、此島爾許曾有介良志《コノシマニコソアリケラシ》云々、と見え、中古の歌に夏の夜は浦島が子の筥なれやはかなくあけてくやしかるらむ、などよみて、悔しきことに、多くよみならへり、又この筥を、歌林良材集には、玉手筥と物せられたり、
 
1740 春日之《ハルノヒノ》。霞時爾《カスメルトキニ》。墨吉之《スミノエノ》。岸爾出居而《キシニイデヰテ》。釣船之《ツリブネノ》。得乎良布見者《タユタフミレバ》。古之《イニシヘノ》。事曾所念《コトソオモホユル》。水江之《ミヅノエノ》。浦島兒之《ウラシマノコガ》。竪魚釣《カツヲツリ》。鯛釣矜《タヒツリホコリ》。及七日《ナヌカマデ》。家爾毛不來而《イヘニモコズテ》。海界乎《ウナサカヲ》。過而※[手偏+旁]行(146)爾《スギテコギユクニ》。海若《ワタツミノ》。神之女爾《カミノヲトメニ》。邂爾《タマサカニ》。伊許藝※[走+多]《イコギムカヒ》。相誂良比《アヒカタラヒ》。言成之賀婆《コトナリシカバ》。加吉結《カキムスビ》。常代爾至《トコヨニイタリ》。海若《ワタツミノ》。神之宮乃《カミノミヤノ》。内隔之《ウチノヘノ》。細有殿爾《タヘナルトノニ》。携《タヅサハリ》。二人入居而《フタリイリヰテ》。老目不爲《オイモセズ》。死不爲而《シニモセズシテ》。永世爾《トコシヘニ》。有家留物乎《アリケルモノヲ》。 世間之《ヨノナカノ》。愚人之《カタクナヒトノ》。吾妹兒爾《ワギモコニ》。告而語久《ノリテカタラク》。須臾者《シマシクハ》。家歸而《イヘニカヘリテ》。父母爾《チヽハヽニ》。事毛告良比《コトヲモノラヒ》。如明日《アスノゴト》。吾者來南登《ワレハキナムト》。言家禮婆《イヒケレバ》。妹之答久《イモガイヘラク》。常世邊爾《トコヨヘニ》。復變來而《マタカヘリキテ》。如今《イマノゴト》。將相跡奈良婆《アハムトナラバ》。此篋《コノクシゲ》。開勿勤常《ヒラクナユメト》。曾己良久爾《ソコラクニ》。堅目師事乎《カタメシコトヲ》。墨吉爾《スミノエニ》。還來而《カヘリキタリテ》。家見跡《イヘミレド》。宅毛見金手《イヘモミカネテ》。里見跡《サトミレド》。里毛見金手《サトモミカネテ》。恠常《アヤシミト》。所許爾念久《ソコニオモハク》。從家出而《イヘヨイデテ》。三歳之間爾《ミトセノホドニ》。墻毛無《カキモナク》。家毛滅目八跡《イヘウセメヤト》。此筥乎《コノハコヲ》。開而見手齒《ヒラキテミテバ》。如本來《モトノゴト》。家者將有登《イヘハアラムト》。玉篋《タマクシゲ》。小披爾《スコシヒラクニ》。白雲之《シラクモノ》。自箱出而《ハコヨリイデテ》。常世邊《トコヨヘニ》。棚引去者《タナビキヌレバ》。立走《タチワシリ》。叫袖振《サケビソデフリ》。反側《コイマロビ》。足受利四管《アシズリシツヽ》。頓《タチマチニ》。情消失奴《コヽロケウセヌ》。若有之《ワカヽリシ》。皮毛皺奴《ハダモシワミヌ》。黒有之《クロカリシ》。髪毛白班奴《カミモシラケヌ》。由奈由奈波《ユナユナハ》。氣左倍絶而《イキサヘタエテ》。後遂《ノチツヒニ》。壽死祁流《イノチシニケル》。水江之《ミヅノエノ》。浦島子之《ウラシマノコガ》。家地見《イヘトコロミユ》。
 
墨吉《スミノエ》は、澄江とも書り、丹後(ノ)國與謝(ノ)郡にある地(ノ)名なるべし、○得乎良布見者は、得乎良布は、稻掛(ノ)大平が、手湯多布の誤なるべしと云り、タユタフミレバ〔七字右○〕と訓べし、釣船の、浪(ノ)上に猶豫《タユタ》ふさまを見れば、と云なり、○古之事曾所念《イニシヘノコトソオモホユル》は浦島(ノ)子が故事が、思ひ出さるゝと云なり、○堅魚釣《カツヲツリ》は、竪魚《カツヲ》を釣矜《ツリホコリ》と云意なり、矜の言は次(ノ)句にて帶《カネ》たり、さて堅魚《カツヲ》と云る名の意は、此(ノ)魚の肉を、長く裂《ワリ》て、煎《ニ》て乾し堅めて、いはゆる鰹節といふものにしたるよりの稱にて、堅魚《カタウヲ》の謂なれ(147)ど、今(ノ)世にも京などにてこそ、鰹節を常に加都乎《カツヲ》といふなれ、海ある國々にては、生魚を直に加都乎《カツヲ》と云ことめづらしからず、なほ此(ノ)魚の事、品物解に委(ク)云り、考(ヘ)合(ス)べし、○鯛鈎矜《タヒツリホコリ》は、契冲、釣の利《カヾ》あるゆゑにほこりて、七日まで家に歸らぬなり、惠慶法師(ノ)歌に、わかめよるよざのあま人ほこるらしうら風ゆるく霞わたれり、源氏物語明石に、をやみなかりしそらのけしき、なごりなくすみわたりて、いざりするあまどもほこらしげなり、とありと云り、矜の假字、十七に、情爾波於毛比保許里底《コヽロニハオモヒホコリテ》云々、とあり、土佐日記に、みやこぼこりにもやあらむ、からくしてあやしき歌ひねり出せりとあるも、京の近くなれるを、悦び矜る意にて同じ、さて此《コヽ》は堅魚《カツヲ》を釣矜り、鯛を釣矜りと云意なるを、一(ツ)の矜の言にて、二(ツ)を兼帶たること、上に云る如し、○及七日《ナヌカマデ》云々は、海上の和《ナギ》たるに魚釣ほこりて、歸るさを忘れたるよしなり、○海界《ウナサカ》は、古事記に塞2海坂《ウナサカヲ》1而返(リ)入、とあるをもて、ウナサカ〔四字右○〕と訓べし、と本居氏云り、○海若《ワタツミ》は、海神なり、海若の字のことは、既く云り、○伊許藝※[走+多]とは、伊《イ》はそへ言、※[走+多]は趣にてイコギムカヒ〔六字右○〕と訓べし、と岡部氏云り、○相誂良比は、舊本のまゝに、アヒカタラヒ〔六字右○〕と訓べし、カタラヒ〔四字右○〕は、今も夫婦の語《カタラ》ひをするなど云が如し、カタラフ〔四字右○〕はトフ〔二字右○〕と云と、もはら同じ詞なり、誂(ノ)字は、説文に相呼(ヒ)誘也、と云り、(夫婦のかたらひには、よく叶へる字なり、)此(ノ)下に、垣廬成人之誂時《カキホナスヒトノトフトキ》、とあり、又十六開卷(ノ)歌の序に、昔者有2娘子1、于時有2二壯子1、共|誂《カタラヒ》2此娘(ヲ)1而捐2生(ヲ)格競《アラソヒキ》云々、又|美麗吻《ウマシモノ》云々の歌の左註に、時(148)有2娘子1、此(ノ)娘子不v聽2高姓美人之所(ヲ)1v誂《カタラフ》、應2許《ユルシキ》下姓※[女+鬼]士之所1v誂也、なども見えたり、(畧解に、此(ノ)末眞間娘子をよめる長歌に、水門入爾船己具如久《ミナトイリニフネコグゴトク》、歸香久禮人乃言時《ユキカグレヒトノイフトキ》云々、又筑波(ノ)※[女+燿の旁]歌會の歌に、未通女壯士之往集加賀布※[女+燿の旁]歌爾《ヲトメヲトコノユキツドヒカヾフカヾヒニ》云々、とあるに依て、アヒカヾラヒ〔六字右○〕とよめれども、加賀良比《カガラヒ》と云る例なければ、これも例のひがことなり、舊訓に、アヒカタラヒ〔六字右○〕とあるを、いかでひがことゝは思ひたりけむ、)○言成之賀婆《コトナリシカバ》は、言《コト》は借(リ)字にて、事の成就したればといふなり、○加吉結《カキムスビ》とは、加吉《カキ》は添いふ辭、結《ムスビ》は夫婦の約《チギリ》をなすを云り、欽明天皇(ノ)紀に、始(テ)約《ムスブ》2和親(ヲ)1、又自v古以來|約《ムスベリ》v爲(コトヲ)2兄弟1、續紀廿九(ノ)詔に、惡奴止母止相結弖謀家良久《アシキヤツコドモトアヒムスビテハカリケラク》云々、などあり、○常代爾至《トコヨニイタリ》は、到《イタリ》2蓬莱山《トコヨニ》1と云なり、○海若神之宮《ワタツミノカミノミヤ》は、神代紀に、乃作(テ)2無目龍《マナシカツマヲ》1内《イレテ》2彦火火出見(ノ)尊(ヲ)於|籠中《カツマノウチニ》1、沈2之《シヅメキ》于|海《ウミニ》1、即|自然《オノヅカラニ》有《アリ》2可怜小汀《ウマシヲハマ》1、於是《コヽニ》棄《ステヽ》v籠《カツマヲ》遊行《イデマセバ》、忽|至《イタリマセリ》2海神之《ワタツミノ》宮(ニ)1、其|宮《ミヤ》也|雉※[土+牒の旁]整頓《タカキヒメガキトヽノホリ》、臺宇玲瓏《タカトノヤカズテリカヾヤケリ》云々、海神於是《コヽニワタツミ》鋪2設《シキ》八重席薦《ヤヘタヽミヲ》1以|廷内之《ヰテイレマツリ》云々、因娶2海神女豐玉姫《ワタツミノムスメトヨタマヒメヲ》1、仍留2住|海宮《ワタツミノミヤニ》1已2經《ナリヌ》三年《ミトセニ》1、彼處雖復安樂《ソコタヌシトオモホセレド》、猶《ナホ》有《マセリ》2憶郷之情《クニシヌヒノミコヽロ》1、故(レ)時後太息《ヲリ/\ナゲキタマヒキ》、豐玉姫聞之《トヨタマヒメキヽテ》、謂《カタリ》2其父《チヽノミコトニ》1曰《テ》、天孫悽然數歎《アマツカミノミコウラブレツヽシバシバナゲキマシヌ》、蓋懷土之憂乎《クニシヌヒタマフナラシトマヲシキ》、海神《ワタツミ》乃|延《ヒキマツリ》2彦火火出見(ノ)尊(ヲ)1、從容語曰《オモフルニカタラヒタマハク》、天孫若欲還郷者《アマツカミノミコクニヽカヘラマクオモホサバ》、吾當奉送《オクリマツルベシ》云々、これを思へるなるべし、○内隔《ウチノヘ》は、禁裏の内重《ウチノヘ》になずらへて云るなり、凡そ天皇のおはします、外の御門を宮城門と云、左右衛門守れり、此を外重《トノヘ》と云、其(ノ)内の諸門を中重《ナカノヘ》と云、左右兵衛守れり、其(ノ)内の御門を閤門《ウチツミカド》と云て、それより内には御門なし、これ内重《ウチノヘ》なり、舒明天皇(ノ)紀に閤門《ウチツミカド》(149)とあり、なは既く三(ノ)卷に云るを、併(セ)考(フ)べし、○世間《ヨノナカ》之愚人之は、世(ノ)間にあらゆる第一の愚癡なる人のと云意なり、愚はカタクナ〔四字右○〕と訓べし、皇極天皇(ノ)紀に、愚癡《カタクナ》、催馬樂夏引に、加太久名爾毛乃以不乎美名《カタクナニモノイフヲミナ》、榮花物語に此(ノ)宮たち五六人おはするに、すべてしれかたくなしきがなきなり、字鏡は、※[人偏+登](ハ)不v明貌、加太久奈《カタクナ》、又※[馬+矣](ハ)癈也、加太久奈《カタクナ》、とあり、(癈は癡の誤なり、)又靈異記に、陋をカタナク〔四字右○〕とよめるは、クナ〔二字右○〕の倒置なり、紫式部日記に、あいなくかたはらいたきぞ、かたくなしきや、枕冊子に、人のなぞ/\あはせしける所に、かたくなにはあらで、さやうの事に、らう/\しかりけるが、云々、天智天皇(ノ)紀に、癡奴《カタクナヤツコ》、續紀廿に、狂迷遍流頑奈留奴心乎波《タブレマドヘルカタクナナルヤツコノコヽロヲバ》、三十に、頑爾無禮伎心乎念弖横乃謀乎構《カタクナニヰヤナキコヽロヲオモヒテヨコシマノハカリゴトヲカマヘ》、とあり、廿六に、志《コヽロザシ》愚|仁《ニ》心不善之天《コヽロヨカラズシテ》、(これもカタクナ〔四字右○〕とよむべし、)加多《カタ》は、偏倚《カタヨリカタオチ》なる意なり、久那《クナ》は、續紀廿(ノ)卷の大命に、惡逆在奴《キタナクサカシマナルヤツコ》、久奈多夫禮麻度比《クナタブレマドヒ》某某|伊《イ》、逆黨乎伊射奈比率而《マツロハヌトモガラヲイザナヒヒキヰテ》云々又|久奈多夫禮麻度比良爾所※[言+佳の旁]誤百姓波《》云々、などありて、無智なるを云古言なり、さればカタクナ〔四字右○〕と云ふは、愚(ノ)字の古言にぞありける、(又一(ツ)思ふに、十六に、端寸八爲老夫之歌丹大欲寸《ハシキヤシオキナノウタニオホホシキ》、九兒等哉蚊間毛而將居《コヽノコラヤモカマケテヲラム》、とある大欲寸《オホホシキ》は、愚(ノ)字の意に近き言と聞ゆれば、こゝもオホヽシヒト〔六字右○〕とよまむかとも思ひしかども、猶前に云るに據べし、又略解に、神代紀に、愚をウルケキ〔四字右○〕と訓れば、しか訓むかと云れど、それは當らず、又舊訓に、シレタル〔四字右○〕とよめるもなほあらず、)○如明日《アスノゴト》云々は、けふゆきてあす歸る如く、はやくかへらむとなり、(150)○開勿勤常《ヒラクナユメト》は、ゆめ/\開くことなかれと云なり、○曾己良久爾《ソコラクニ》は、そこばくにと云なり、○堅目師事乎《カタメシコトヲ》は、堅《カタ》く約《チギ》り交《カハ》したる事なるをの意なり、○家見跡宅毛見金手《イヘミレドイヘモミカネテ》云々、家を見むと欲《オモ》へども見ることを得ずしてなり、加泥《カネ》は、しかせむと心に欲《ネガ》ふことの、つひにその本意を得ざるを云言なり、既く委(ク)云り、大和物語に、本の夫をたづねて、難波に來たる女のことを云る所に、をとこにいひけるよう、津の國と云所のいとおかしげなるに、いかでなにはに、はらへしがてらまからむと云ければ、いとよき事、我ももろともにといひければ、そこにはな物し給ひそ、おのれひとりまからむといひて、いでたちていにけり、難波にはらへして、歸りなむとする時に、このわたりに見るべき事なむあるとて、今すこしとやれかくやれと云つゝ、此(ノ)車をやらせつゝ、家の有しわたりを見るに、屋もなし、人もなし、いづかたへいにけむと、かなしう思ひけりとあるは、こゝのおもかげをまねべるにや、○恠常はアヤシミト〔五字右○〕と訓べし、恠きに因ての意なり、常《ト》の辭に意なし、○所許爾念久《ソコニオモハク》は、契冲が、そこにも思ふやう、と云むが如しと云り、○三歳之間爾は、ミトセノホトニ〔七字右○〕と訓べし(間はカラ〔二字右○〕とも訓べし、神代紀に、一夜之間《ヒトヨノカラニ》、崇峻天皇(ノ)紀に間《カラハ》、此(ノ)下に、一夜耳宿有之柄二《ヒトヨノミネタリシカラニ》、十八に、安須余里波都藝弖伎許要牟保登等藝須比登欲能可良爾古非和多流加母《アスヨリハツギテキコエムホトトギスヒトヨノカラニコヒワタルカモ》、續後紀長歌に、七日經志加良《ナヌカヘシカラ》などあり、されどこれらのカラ〔二字右○〕は、故の意にて、たゞ間の意にはあらじと覺ゆ、なほ續後紀歌(ノ)註に委(ク)辨(ヘ)おけり、披(キ)考ふ(151)べし、續後紀(ノ)歌(ノ)註は、余が著せる南京遺響と云ものに載たり、)○家滅目八跡は、按に跡は誤字なるべし、イヘウセメヤモ〔七字右○〕と有べし、ト〔右○〕にては、下に家者將有登《イヘハアラムト》とあるにかさなりてわづらはし、故(レ)考るに、跡は裳と有けむを、常に誤りて、さてイヘウセメヤト〔七字右○〕とよめるより、又誤りて、跡とはかけるなるべし、○此筥乎《コノハコヲ》、(筥(ノ)字舊本には※[草がんむり/呂]に誤、)本居氏云、波古《ハコ》は、蓋籠《フタコ》の切(リ)たるにて、蓋《フタ》のある籠《コ》を云名なりと云り、さてクシゲ〔三字右○〕と云は、もとは櫛納る筥を云稱なるを、轉りては、惣て筥をいふことゝなれる故に、此(ノ)歌はハコ〔二字右○〕ともクシゲ〔三字右○〕ともよめり、○本來、舊本に來本に誤れり、○玉篋《タマクシゲ》とは、玉は美稱にて、たゞ、筥なり、○足受利四管《アシズリシツヽ》、此(ノ)下又十五にもよめり、伊勢物語に、率て來し女もなし、足ずりをしてなけどもかひなし、源氏物語かげろふにも、あしずりと云ことをしてなくさま、わかきこどものやうなり、などあり、○消(ノ)字、舊本清に誤、拾穗本に從つ、○皮毛皺奴《ハダモシワミヌ》は、字鏡に、※[面+乍](ハ)測板(ノ)反、※[面+奈]面※[交+皮]|於毛?志和牟《オモテシワム》、とあり、○黒有之髪毛白斑奴《クロカリシカミモシラケヌ》は、竹取物語に、此(ノ)ことをみかどきこしめして、竹取が家に御使つかはせ給ふ、御使に竹取出あひて、なくことかぎりなし、此(ノ)ことをなげくに、ひげもしろく、こしもかゞまり、めもたゞれにけり、おきなことしは、いそちばかりなり|けれ《しかイ》ども、物おもひには、かたときになむ、おいになりにけり、土佐日記に、舟君なる人浪を見て、國よりはじめて、海賊むくいせむと云なる事を思ふうへに、海のまたおそろしければ、頭も皆しらけぬ、七十八十は、海にあるものなりけり、十(152)訓抄に、顯光左大臣は、小一條(ノ)院の女御あらそひによりて、御堂(ノ)關白を恨(ミ)奉りて、惡靈と成て、一夜の内に、ことごとく白髪になりたまひけむこそ、いとおそろしけれ、などみゆ、○由奈由奈波は、或人(ノ)考に、由李々々波《ユリユリハ》の誤なるべしと云るぞよき、ユリユリ〔四字右○〕は後々《ノチ/\》と云に同じ、○家地見《イヘトコロミユ》、是は家の跡と語傳へし地のありて、そこを見てよめるなれば、ミユ〔二字右○〕と訓べし、さて初にタユタフ〔四字右○〕見者《ミレバ》といふを、此《こヽ》にて結びたるなり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
1741 常世邊《トコヨヘニ》。可住物乎《スムベキモノヲ》。釼刀《ツルギタチ》。己之心柄《シガコヽロカラ》。於曾也是君《ヲソヤコノキミ》。
 
本(ノ)二句は、契冲云、歸らでそのまゝ住べきものをと、評しいふなり、浦島が後悔にはあらず、また歸るとも箱をあけざらましかば、ふたゝび常世に行て住べき物を、と云心とも聞ゆ、○釼刀《ツルギタチ》は、枕詞なり、契冲、釼刀《ツルギタチ》の心《コヽロ》とつゞけたり、柄のかたにさしいるゝなかごを、心《コヽロ》といふなり、」第十二に、高麗釼己之景迹故外耳《コマツルギシガコヽロユヱヨソノミニ》、見乍哉君乎戀渡奈牟《ミツヽヤキミヲコヒワタリナム》、これも同じつゞけやうなり、禮記(ニ)云、禮(ハ)其(レ)在(リ)v人(ニ)也、如2竹箭之有1v※[竹/均]也、如2松栢之有1v心《ナカゴ》也、周易(ニ)云、其於v木也爲2堅多1v心《ナカゴ》也、などある心に同じと云り、○己之心柄《シガコヽロカラ》は、汝《ナ》が心故《コヽロユヱ》と云が如し、○於曾也是君《オソヤコノキミ》とは、於曾《オソ》は、心おそきにて、にぶきなり、十二に、山代石田杜心鈍手向爲在妹相難《ヤマシロノイハタノモリニコヽロオソクタムケシタレヤイモニアヒガタキ》、此(ノ)心おそくと云に、心鈍とかける字の意なり、源氏物語よもぎふに、はかなきふる歌、ものがたりなどやうの、すさびごとにてこそ、(153)つれ/”\をもまぎらはし、かゝるすまゐをも、思ひなぐさむるわざなめれ、さやうのことにも、心おそく物し給ふ、橋姫には、あやしく、かうばしくにほふ風の吹つるを、思ひかけぬはどなれば、おどろかざりける、心おそさよと、心もまどひてはぢおはさうずと云り、此二(ツ)の心おそき、今に同じ、也《ヤ》は歎息(ノ)辭なり、世の中のかたくな人のと云る心を、再び云て、あゝ心鈍《コヽロオソ》やと歎き罵《ノリ》たるなり、是君《コノキミ》とは、浦島(ノ)子をさしていへり、○歌(ノ)意は、たとひ本郷に還り來るとも、期《チギリ》しごとく、箱をひらかずして、ふたゝび、常世に行て永く住べきものを、期《チギリ》をたがへて、かくはかなくなれるは、嗚呼《アヽ》さても心鈍き愚人や、この君となり、
 
見《ミテ》2河内大橋獨去娘子《カフチノオホハシヲヒトリユクヲトメヲ》1作〔○で囲む〕歌一首并短歌《ヨメルウタヒトルマタミジカウタ》。
河内(ノ)大橋は、歌に見えたる、河内(ノ)國|片足羽《カタアスハ》に懸れる大橋なり、
 
1742 級照《シナテル》。片足羽河之《カタアスハカハノ》。左丹塗《サニヌリノ》。大橋之上從《オホハシノウヘヨ》。紅《クレナヰノ》。赤裳數十引《アカモスソビキ》。山藍用《ヤマヰモチ》。摺衣服而《スレルキヌキテ》。直獨《タヾヒトリ》。伊渡爲兒者《イワタラスコハ》。若草之《ワカクサノ》。夫香有良武《ツマカアルラム》。橿實之《カシノミノ》。獨歟將宿《ヒトリカヌラム》。問卷乃《トハマクノ》。欲我妹之《ホシキワギモガ》。家乃不知《イヘノシラナク》。
 
級照《シナテル》は、枕詞なり、契冲、級《シナ》はきざはしの等級なり、照《テル》は階をほむる詞なり、片《カタ》につゞけたるは、階は、かたたがひにあるものなればなり、遊仙窟(ニ)曰、碧玉|縁《メグラシ》v階(ニ)、參2差《カタヽガヒニス》於|雁齒《キザメルコトヲ》1、(雁齒(ハ)者、刻v木(ヲ)亦刻v石(ヲ)爲(ル)v之(ヲ)、其(ノ)形一(ハ)前一(ハ)後、如2雁之行列、人馬牙齒之形(ノ)1、今人(ノ)作2牀脚(ニ)1、又作2階砌(ニ)1、皆累縛作(ル)v之(ヲ)、)とあり(154)と云り、今按(フ)に、此つゞけは、既《ハヤ》く書紀聖徳太子(ノ)御歌に、斯那提流箇多烏箇夜摩爾《シナデルカタヲカヤマニ》とあり、さてこゝに級《シナ》と書ればとて、階(ノ)級とせむは、あまりに字に泥みたる事とおぼゆ、又照を美《ホム》る詞なりとせむも、心ゆかず、故(レ)考るに、斯那《シナ》は、嫋《シナ》の意、提流《テル》は、佐比豆流《サヒヅル》など云|豆流《ヅル》と同言にて、然ある形容《サマ》をいふとき、附ていふ言なるべし、さて片《カタ》とつゞくは、肩《カタ》の義にて、弱々《ナヨ/\》と嫋《シナ》やぐ肩といふ意に、いひ係たるなるべし、人の肩《カタ》は屈伸《ノビカヾミ》の縱由《コヽロマヽ》なるもの故、嫋《シナ》やぐよしもて、古語に嫋肩《ヨワカタ》とも云るを、併(セ)思ふべし、○片足羽河は、本居氏、河内志に、志紀(ノ)郡と安宿(ノ)郡との堺なる、石川の舊名なりと云、或人も、此(ノ)河なりとして、彼(ノ)大橋は、今國府(ノ)渡と云處に掛れりしなりと云る、是ら古く語(リ)傳へたる説にやあらむといへり、さて和名抄に越前(ノ)國足羽(ノ)郡足羽、越後(ノ)國沼垂(ノ)郡足羽、などあるを、みな安須波《アスハ》と註したれば、片足羽は、もとよりカタアスハ〔五字右○〕なり、又もし古事記安寧天皇(ノ)條に、師木津日子玉手見(ノ)命、坐2片鹽浮穴宮《カタシハノウキアナノミヤニ》1、治2天下1也《アメノシタシロシメシキ》、とあると同地ならば、片足羽は、即(チ)カタシハ〔四字右○〕と訓べし、(片鹽も河内(ノ)國なり、)○左丹塗《サニヌリ》とは、左《サ》は例の眞《マ》に通ふ美稱なり、丹塗《ニヌリ》は、ゆきげたを丹にぬりて色どり飾れるを云なるべし、○山藍用摺衣《ヤマヰモチスレルキヌ》は、山藍染《ヤマヰソメ》の衣なり、貫之集に、やまゐもてすれる衣の赤紐のながくぞ吾は神につかへむ、新古今集に、衣手のやまゐの水に影見えし猶そのかみの春ぞこひしき、いにしへのやまゐの衣なかりせばわすらるゝ身となりやしなまし、民部式に、凡神祇官(ノ)卜竹、及《マタ》諾祭諸節等(ニ)所v須、箸竹柏生蒋山(155)藍等(ノ)類(モ)、亦仰2畿内(ニ)1令(ヨ)v進(ラ)、とあり、山藍のことは、猶品物解に云り、○伊渡爲兒《イワタラスコ》とは、伊《イ》はそへ言、渡爲《ワタラス》は、渡《ワタル》を延(ヘ)言るにて、渡り賜ふ兒といふほどの意なり、兒《コ》は娘子を云り、○若草乃《ワカクサノ》は、枕詞なり、○夫香有良武《ツマカアルラム》は、夫《ツマ》は字の如く男夫《ヲトコ》をさす、夫《ヲトコ》があるらむかと云なり、○橿實之《カシノミノ》は、枕詞なり、此は栗などの實は、一房《ヒトナリ》の内に二(ツ)も三(ツ)も※[果/衣]《ツヽ》まれたるを、橿(ノ)實は、一(ト)※[木+求]《カサ》の内に 二(ツ)づゝ實のなるものなれば、獨といはむとて、かく續けたるなり、(冠辭考に、椎(ノ)子などは聚りて結ぶを、橿の子は、疎く一(ツ)づゝなる物故に、しか冠らせたりと云るは、いさゝかたがへり、橿(ノ)實と云は、さのみ聚り聚らざるにはかゝはらず、一(ト)※[木+求]の内に放れて實なるをこそ、燭とはいふべけれ、)○問卷乃《トハマクノ》は、問(ハ)む事のといふ意なり、○家乃不知《イヘノシラナク》は、家の知(ラ)れぬ事となり、問まほしくは思へども、打つけに問べきよしのなければ、問ことも得せず、いかにもして、家の知たき事ぞと、深く慕へるなり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
1743 大橋之《オホハシノ》。頭爾家有者《ツメニイヘアラバ》。心悲久《マガナシク》。獨去兒爾《ヒトリユクコニ》。屋戸借申尾《ヤドカサマシヲ》。
 
頭はツメ〔二字右○〕なり、天智天皇(ノ)紀に、于知波志能都梅能阿素弭爾伊提麻栖古《ウチハシノツメノアソビニイデマセコ》、催馬樂にも、橋のつめと云り、○心悲久は、マガナク〔五字右○〕とよむべし、マ〔右○〕は、うはべをかざりて、しか思ふにはあらず、心の裏より信實に愛憐《カナシ》く思ふよしなり、心(ノ)字をかける即(チ)其(ノ)意なり、悲久《カナシク》は、物語書に多く、かな(156)しくしたまふ子など云るに同じ、愛憐の意なり、さて此(ノ)一句は、終句の上にめぐらして心得べし、○歌(ノ)意は、あの大橋の頭《ツメ》に、吾家のあるならば、唯獨往(ク)愛しき娘子に、今夜は此(ノ)處にやどりて、ゆきたまへとて留めて、心よりかなしくめで思ふとほりに、宿を借(シ)て、共に寢べきものをとなり、
 
見《ミテ》2武藏小埼沼鴨《ムザシノヲサキノヌマノカモヲ》1作歌一首《ヨメルウタヒトツ》。
 
1744 前玉之《サキタマノ》。小埼乃沼爾《ヲサキノヌマニ》。鴨曾翼霧《カモソハネキル》。己尾爾《オノガヲニ》。零置流霜乎《フリオケルシモヲ》。掃等爾有斯《ハラフトナラシ》。
 
旋頭歌なり、○前玉《サキタマ》は、和名抄に、武藏(ノ)國埼玉(ノ)郡|佐伊太末《サイタマ》、とあり、(伎《キ》を伊《イ》といへるは、後の音便なり、)○翼霧《ハネキル》は、羽だゝきすることなり、○己尾はヲノガヲ〔四字右○〕なり、(尾はミ〔右○〕には非ず、)十五に、可母須良母都麻等多具比弖和我見爾波之毛奈布里曾等《カモスラモツマトタグヒテワガヲニハシモナフリソト》、とあり、鴨は尾を大切にするよしにて、かく云り、○掃等爾有斯は、ハラフトナラシ〔七字右○〕と訓べし、清少納言草子に、かもは、はねの霜打はらふらむ、とおもふに、をかし、とあり○歌(ノ)意は此(ノ)小埼の沼にて、しきりに鴨が羽だゝきするよ、あれは己が大切にするその尾に、霜が降おく故に、その霜をいとひて、はらふとにてあるらしとなり、
 
那賀郡曝井歌一首《ナカノコホリサラシヰノウタヒトツ》。
 
那賀(ノ)郡曝井は、(略解に、武藏(ノ)國那珂なるべし、といへるはあらず、右の小埼(ノ)沼は武藏(ノ)國なれど、(157)これは武藏にあらず、(和名抄に、常陸(ノ)國那珂(ノ)郡、國造本紀に、仲(ノ)國(ノ)造、志賀(ノ)高穴穂朝御世、伊豫(ノ)國造同祖、建借馬(ノ)命定2賜國造1、常陸風土記に、那賀(ノ)郡、自v郡東北|挾《ナカニオキ》2栗河(ヲ)1而《テ》オ2驛家(ヲ)1、當2其以南(ニ)1、泉出2坂中(ニ)1、多流尤清(ケシ)、謂2之|曝井《サラシヰト》1、縁《ソヒテ》v泉(ニ)所居村落《ヲルムラ》婦女、夏月會集浣(ヒテ)v布(ヲ)曝乾《サラセリ》、(契冲、さらし井の名は、布などさらすに、この水にては、よくしろむこゝろにて、つゞけたるなるべし、といへるごとし、)又此郡内に、大井《オホヰ》、河内《カフチ》、川邊《カハヘ》、洗井《アラヒヰ》、など云郷あるは、みな此(ノ)曝井によれる名にや、
 
1745 三栗乃《ミツクリノ》。中爾向有《ナカニメグレル》。曝井之《サラシヰノ》。不絶將通《タエズカヨハム》。彼所爾妻毛我《ソコニツマモガ》。